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3,956 | 天体観望 | 天体観望(てんたいかんぼう)あるいは天体観賞(てんたいかんしょう)とは、星や星空、夜空などを見て楽しむことである。
学問的な観点や特定の目的を持たず、ただ「星を見て楽しむこと」を目的として星空を見る点で、天体観測とは異なる。天体観望の場合には、晴れた夜、家の外に出て空を見上げただけというのも含まれるためである。
用語の定義としては、天体観望が「見て楽しむ」、天体観測が「見て観察や研究対象とする」というニュアンスの違いがある。
天体観望は、ただ楽しむことを目的としているため、必ずしも天文学の知識や機器を用いる必要はない。ただし、ある程度の夜空の地図になっている星座を知っていたり、星図を知っていたりすると、様々な天体について夜空で確認がしやすくなる。
近隣に科学館や天文台、高等学校以上の学校がある場合には、天体観測機材を保有・運用している団体が主催して、専門知識のある人を講師にした天体観望会が開かれることがある。日時などは、施設毎によって違うが、夜間の場合には、主に金曜日の夜・土曜日の夜の場合が多い。そのような施設では双眼鏡や天体望遠鏡による観察方法などのレクチャーを行っている。また、都会の場合には空が明るいため、日食や月食などの天体現象の場合には、天文同好会(天文研究会)などでも天体観望会などが行われる。
そのような会では、普通、天の川の所在や、季節ごとの星座、惑星、それからさらに細かい星団などを見ていけるように、説明を行い、実際に天体観測機材を用いて、天体観望を体験できる。
北側では北斗七星とカシオペヤ座からポラリス(現在の北極星)を探す話、夏の大三角、冬の大三角など、星座を見つける手がかりになる図形の話もよく取り上げられる。この目的は、6等級相当では、数千以上の星が輝く星空を観察するときに、手がかりとなる星を探すためである。特に、明るい1等星は、明るい空でも探しやすいため、天体観望を行う際の手がかりになるからである。これらの図形的な説明によって、恒星や惑星の区別がしやすくなる。
また、「スター・ウィーク 〜星空に親しむ週間〜」では、夜空の特定領域の天体の個数を数えることなどによって、肉眼を用いた測光観測を行うことで、大気観測を行うことを目的に行っている。なお、同時に天体観測機器を運用している団体では、天体観望会を同時開催している。
周囲が開けており、夜空の暗いところならば観察が可能である。しかしながら、空が明るい場所でも小さな望遠鏡や双眼鏡などを保有していれば、理科の教科書などで紹介している天体を観察することは十分に可能である。
天の川や暗い天体の観望は、月明かりや人工光による光害を避けて行われる。大都市の街明かりは、数十km離れていても影響が残る場合がある。加えて、大気による光の吸収の影響が少ないため、より標高の高い場所が適している。
暗い場所で目を慣らす(暗順応)と、より多くの星が見えてくるようになる。暗順応には10分 - 30分程度を要する。明るい光が少しでも目に入ると、一瞬で暗順応前の状態に戻ってしまい、再び暗順応するにはまたしばらく目を慣らす必要が生じる。天体観望中は、街灯などの光がなるべく目に入らないように注意する。懐中電灯を使う場合は、赤いセロファンなどを貼って光量を最小限に絞って使うことが多い。
天体観望は夜間に行われるため、観望者は安全面の注意、近隣住民への配慮、寒さ対策を行う。また、山中で観望する場合は、熊その他の野生動物に気をつける必要がある。
天体現象のスケッチや天体現象の撮影なども科学的観測の記録として十分に有効である。天文雑誌などには、特に天体現象としての資料的価値のあるものが採用される例が多いため、ある程度の科学的もしくは美学的見地から検討を行った撮像データ及び撮像した機材のデータなどを添えると、科学研究としての評価を得やすい。また、新天体の発見などにつながるため、継続観測も重要である。 | [
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] | 天体観望(てんたいかんぼう)あるいは天体観賞(てんたいかんしょう)とは、星や星空、夜空などを見て楽しむことである。 | {{No footnotes|date=2023年3月}}
[[ファイル:Staring at the Milkyway galaxy in Trysil,Norway.jpg|サムネイル|ノルウェーで天体観望をする親子]]
'''天体観望'''(てんたいかんぼう)あるいは'''天体観賞'''(てんたいかんしょう)とは、[[天体|星]]や[[星空]]、夜空などを見て楽しむことである。
==概要==
[[学問]]的な観点や特定の目的を持たず、ただ「星を見て楽しむこと」を[[目的]]として星空を見る点で、[[天体観測]]とは異なる。天体観望の場合には、晴れた夜、家の外に出て空を見上げただけというのも含まれるためである。
用語の定義としては、天体観望が「見て楽しむ」、天体観測が「見て[[観察]]や[[研究]]対象とする」というニュアンスの違いがある。
天体観望は、ただ楽しむことを目的としているため、必ずしも[[天文学]]の知識や[[機器]]を用いる必要はない。ただし、ある程度の夜空の地図になっている[[星座]]を知っていたり、[[星図]]を知っていたりすると、様々な[[天体]]について夜空で確認がしやすくなる。
== 天体観望会 ==
近隣に[[科学館]]や[[天文台]]、[[高等学校]]以上の[[学校]]がある場合には、天体観測機材を保有・運用している[[団体]]が主催して、専門知識のある人を[[講師 (教育)|講師]]にした天体観望会が開かれることがある。日時などは、施設毎によって違うが、夜間の場合には、主に[[金曜日]]の夜・[[土曜日]]の夜の場合が多い。そのような施設では[[双眼鏡]]や[[天体望遠鏡]]による観察方法などの[[レクチャー]]を行っている。また、都会の場合には空が明るいため、[[日食]]や[[月食]]などの天体現象の場合には、天文[[同好会]](天文[[研究会]])などでも天体観望会などが行われる。
そのような会では、普通、[[天の川]]の所在や、[[季節]]ごとの星座、[[惑星]]、それからさらに細かい[[星団]]などを見ていけるように、説明を行い、実際に天体観測機材を用いて、天体観望を体験できる。
北側では[[北斗七星]]と[[カシオペヤ座]]から[[ポラリス (恒星)|ポラリス]](現在の[[北極星]])を探す話、[[夏の大三角]]、[[冬の大三角]]など、星座を見つける手がかりになる図形の話もよく取り上げられる。この目的は、6[[等級 (天文)|等級]]相当では、数千以上の星が輝く星空を観察するときに、手がかりとなる星を探すためである。特に、明るい1等星<ref group="注釈">正確には、0等やマイナス等級という天体もある。実際に、[[満月]]の場合には-17等相当、[[太陽]]は-27等に相当する。ただし、これは地上からの相対等級であり、天文学(天体観測)では、ある一定位置に天体が存在すると仮定して、そこからの明るさを測定した[[絶対等級]]が使われる</ref>は、明るい空でも探しやすいため、天体観望を行う際の手がかりになるからである。これらの図形的な説明によって、[[恒星]]や惑星の区別がしやすくなる。
また、「[[スター・ウィーク 〜星空に親しむ週間〜]]」では、夜空の特定領域の天体の個数を数えることなどによって、[[肉眼]]を用いた[[測光 (天文)|測光観測]]を行うことで、[[大気観測]]を行うことを目的に行っている。なお、同時に天体観測機器を運用している団体では、天体観望会を同時開催している。
== 天体観望の主な対象 ==
; [[太陽]]
: 太陽観望を行う際には、目を傷める可能性があるため、天文教具などの活用が必要である。過去には、[[すりガラス]]に[[ロウソク]]の[[煤]]を付けることで観望する方法が推奨されてきたが、作るためにはある程度の熟練が必要なため、[[遮光]]用の[[レンズフィルター|フィルター]]などを用いることが望ましい。遮光用のフィルターを用いることで、日食の観望がしやすくなる。また、稀に[[肉眼黒点]]と呼ばれる大きな[[黒点]]が、太陽表面に現れることがある。天体望遠鏡などで観望する際には、直接接眼部を覗かず、[[太陽投影板]]のような機材を用いて観望することが推奨される。小型天体望遠鏡の場合でも、連続的には観望しないようにして、[[対物レンズ]]の前などに取り付けた専用のフィルターなどを用いて観望する。
; [[日食]]
: 月の影に[[地球]]の一部が入ることで起こる天体現象。月は地球に比べて小さいため、その影の大きさも小さい。そのため、地球上でも限られた箇所でしか観測ができない。月が太陽の一部を隠すことによって生じる部分日食と全体を隠すことで生じる皆既日食および金環日食がある。太陽全体を完全に隠す皆既日食と、太陽の縁を残して月が隠す金環日食とがあるが、これは太陽の周囲を回る地球が僅かであるが[[楕円軌道]]を描いていることと、地球の周囲を回る月が楕円軌道を描いていることによって結果が違ってきている。
; [[月]]
: 昔から、昼間にも観望がしやすいため、過去から多くの記録が残されてきている。月見や月の表面の模様などで親しまれてきた天体観望の対象。肉眼でも、観望がしやすい。小さな望遠鏡や双眼鏡があれば、大きな[[クレーター]]が観望できる。
; [[月食]]
: 地球の影に月軌道が交差することによって起こる天体現象。地球が太陽の周囲を回る[[黄道面]]と月が地球の周りを回る[[白道面]]との間には僅かであるが角度が付いている。そのため、普段は[[満月]]として観測される月が地球の影に入ることで、月の一部が欠ける部分月食や月の全体が影に隠れる皆既月食が生じる。
; [[星座]]
: 星空を88の区分で分けて様々な星座が夜空に定められている。星座が定められたのは、ある天体が発見されたときに、どの場所で発見されたのかが分かるようにであり、現在はあまり大きな意味を持たない。しかし、星座を構成する恒星の位置を確認することができるようになると、以下のような天体を簡単に見つけたり、確認することができるようになる。
; [[惑星]]
: 肉眼などでは、[[水星]]・[[金星]](明けの明星・宵の明星)・[[火星]]・[[木星]]・[[土星]]などを確認することができる。水星は、太陽の近くを回っているため、日没後または日出前の僅かな時間で探さないと中々見つからない。金星は、大きさも地球に近いため非常に明るい。火星は、約2.2年毎の会合周期を持つため、その時期には観望がしやすい。また、木星や土星は、地球の10倍以上もある巨大な[[ガス惑星]]のため、明るく観望がしやすい。天体観望会などではこれらの天体を観望できる機会が多い。
; [[流星群]]
: [[彗星]]が太陽に近づくと、彗星のコアからは、[[水]]を主成分とする[[ガス・プラズマ]]と[[ケイ素]]や[[炭素]]を主成分とする[[ダスト・プラズマ]]が放出される。このうち、ダスト成分は、彗星の軌道に沿って残り太陽の周囲を回る。この軌道と地球の軌道が交差する箇所では、そのダストが地球の[[引力]]に引かれたり、地球がダスト成分の軌道に衝突することによって、[[大気圏]]に突入して、[[大気]]の断熱圧縮によって明るく輝く。流星群には、群流星と散在流星がある。群流星の多くは彗星を起源に持つ天体現象であるが、散在流星は、時々[[スペースデブリ]]や小さな[[隕石]]のかけらなどの場合もある。特に明るく輝く流星を「[[火球]]」と呼び区別している。
; [[彗星]]
: 太陽に近づいてきた彗星は、大きなコアを持つものならば、ある程度の明るさになる。そのような場合には、小さな天体望遠鏡や肉眼などでもはっきりと確認できるため、不定期の天体観望会などが開かれる。
; [[銀河]]
: 南半球では[[大マゼラン雲]]や[[小マゼラン雲]]が観望しやすく、肉眼でも確認できる。一方北半球では、秋の夜空にある[[アンドロメダ座]]の[[アンドロメダ銀河]](M31)が比較的観望しやすいが、[[光害]]のない空でないと肉眼では見つける事さえ難しい。肉眼で観望可能な銀河は他には少数しかなく、どれも非常に淡く見える。
; [[星雲]]
: 冬の夜空に見える[[オリオン座]]の[[オリオン大星雲]](M42)などが比較的観望しやすい。大半の星雲は、微かな光を放っているため、天体望遠鏡や双眼鏡を活用しないと観望はしづらい。
; [[星団]]
: 肉眼で観望しやすいのは、冬の夜空にある[[おうし座]]の[[プレアデス星団]](和名:[[プレアデス星団#名称・神話|すばる]])や同星座の[[ヒアデス星団]]などがある。大半の星団は、小さな箇所に集まっているため、天体望遠鏡や双眼鏡での観望に適している。
; [[連星]]・[[二重星]]
: 肉眼で観望しやすいのは、[[おおぐま座]]([[北斗七星]])の二重星[[ミザール]]と[[アルコル]]であり、両眼の[[視力]]が約0.5以上あれば観望ができる。これを天体望遠鏡等を用いて観望すると、3つの星からなっていることが分かる。連星は、[[おおいぬ座]]の[[シリウス]]などがあるが、これはある程度の口径の大型望遠鏡がないと分離は難しい。[[はくちょう座]]β星([[アルビレオ]])など、明るく色の対比の美しい連星・二重星は特に観望対象として好まれる。
== 天体観望をする道具 ==
; [[肉眼]]
: 星座、[[天の川]]など、大きな範囲を見ることができる。流星を見るのも主に肉眼で行われる。
; [[双眼鏡]]
: 比較的明るい天体などを見るのに適する。地球に接近した彗星等は、望遠鏡では倍率が大きくなりすぎ、全体像を把握できない。このような天体には双眼鏡が適する。そのほかに、月、プレアデス星団のような明るく比較的見た目の大きな星団を見るのによい。
; [[天体望遠鏡]]
: 手頃な天体望遠鏡があれば、双眼鏡で見られるような天体を、より美しい姿で観察することができる。[[木星の衛星]]や[[土星の輪]]、連星なども比較的楽に見られる。
== 天体観望に適した場所 ==
周囲が開けており、夜空の暗いところならば観察が可能である。しかしながら、空が明るい場所でも小さな望遠鏡や双眼鏡などを保有していれば、[[理科]]の[[教科書]]などで紹介している天体を観察することは十分に可能である。
天の川や暗い天体の観望は、月明かりや人工光による[[光害]]を避けて行われる。大都市の街明かりは、数十km離れていても影響が残る場合がある。加えて、大気による光の吸収の影響が少ないため、より[[標高]]の高い場所が適している。
== 天体観望の注意点 ==
暗い場所で目を慣らす([[暗順応]])と、より多くの星が見えてくるようになる。暗順応には10分 - 30分程度を要する。明るい光が少しでも目に入ると、一瞬で暗順応前の状態に戻ってしまい、再び暗順応するにはまたしばらく目を慣らす必要が生じる。天体観望中は、[[街灯]]などの光がなるべく目に入らないように注意する。[[懐中電灯]]を使う場合は、赤い[[セロファン]]などを貼って光量を最小限に絞って使うことが多い。
天体観望は夜間に行われるため、観望者は安全面の注意、近隣住民への配慮、寒さ対策を行う。また、山中で観望する場合は、[[熊]]その他の[[野生動物]]に気をつける必要がある。
== 天体観望の発展 ==
天体現象の[[スケッチ]]や天体現象の[[撮影]]なども科学的[[観測]]の記録として十分に有効である。[[天文雑誌]]などには、特に天体現象としての資料的価値のあるものが採用される例が多いため、ある程度の科学的もしくは美学的見地から検討を行った撮像データ及び撮像した機材のデータなどを添えると、科学研究としての評価を得やすい。また、新天体の発見などにつながるため、継続観測も重要である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
== 参考文献 == <!-- {{Cite book}} --> <!-- {{Cite journal}} -->
* {{Cite book|和書
|author = [[柴田晋平]]ほか
|title = 星空案内人(星のソムリエ)になろう! : 夜空が教室。やさしい天文学入門
|year = 2007
|publisher = [[技術評論社]]
|series = 知りたい!サイエンス
|isbn = 978-4-7741-3197-9
|page =
}}
== 関連項目 ==
<!-- {{Commonscat|}} -->
* [[野外活動]]
* [[天体写真]]
* [[アマチュア天文学]] <!-- :en:Stargazingが:en:Amateur astronomyに転送されていることに留意 -->
* [[天体観測]]
* [[星空保護区]]
* [[月見]]
* [[世界天文年2009]]
* [[スター・ウィーク 〜星空に親しむ週間〜]]
== 外部リンク == <!-- {{Cite web}} -->
* {{Cite web|和書
|author = [[国立天文台]]
|date =
|url = http://www.nao.ac.jp/hoshizora/
|title = ほしぞら情報
|work =
|publisher =
|accessdate = 2011-10-30
}}
* {{Cite web|和書
|author = [[アストロアーツ|AstroArts]]
|date =
|url = https://www.astroarts.co.jp/alacarte/
|title = 星空ガイド
|work =
|publisher =
|accessdate = 2011-10-30
}}
<!-- * [http://www.seibundo.net/tenmon/sky/sky.htm 月刊天文ガイド] {{リンク切れ|date=2011年10月}} -->
* {{Cite web|和書
|author = [[大日本図書]]
|date =
|url = http://www.dainippon-tosho.co.jp/star/#
|title = 星や月INDEX
|work =
|publisher =
|accessdate = 2011-10-30
}}
{{デフォルトソート:てんたいかんほう}}
[[Category:野外活動]]
[[Category:天文学]]
[[Category:天文学に関する記事]]
<!-- [[en:]] --> | 2003-03-13T19:36:44Z | 2023-11-18T04:45:07Z | false | false | false | [
"Template:No footnotes",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Notelist",
"Template:Cite book",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%93%E8%A6%B3%E6%9C%9B |
3,957 | 宇宙 | 宇宙(うちゅう)について、本項では漢語(およびその借用語)としての「宇宙」と、「宇宙」と漢語訳される様々な概念を扱う。
「宇宙」という語は一般には、cosmos, universe, (outer) space の訳語として用いられる。 英語の cosmos は古代ギリシア語の κόσμος に由来する。κόσμος は原義では秩序だった状態を指すが、ピタゴラスによって世界そのものを指す言葉としても用いられるようになった。「宇宙」は後者の意味に対してあてられる。一般には universe と同義だが cosmos は原義より秩序と調和のあることを含意する。「時間、空間内に秩序をもって存在する『こと』や『もの』の総体」としての宇宙 (cosmos) に関してはコスモスの項も参照。
英語 universe はラテン語 universum に由来し、すべての物と事象の総体を意味する。接頭辞 uni- は数詞の “1” を表すが、universe から派生して multiverse, omniverse などが造語されている。詳細はそれぞれ多元宇宙およびオムニバースの項を参照。
英語 outer space あるいは単に space は、地球の大気圏外の空間や、地球を含む各天体の大気圏外の空間を指し、日本語では「宇宙空間」ないし「外宇宙」の訳があてられ、また日本語においても単に「宇宙」と呼ぶことが一般的である。地球の大気に関して、宇宙空間と大気圏内の境界として(便宜的に)カーマン・ラインが定義されている。詳細は宇宙空間の項を参照。
「宇宙」という言葉の確定した起源や意味は不明だが、次のような説がある。
それぞれの観点から見た場合の「宇宙」の定義には、以下のようなものがある。
哲学的・宗教的観点から見た場合、宇宙全体の一部でありながら全体と類似したものを「小宇宙」と呼ぶのに対して、宇宙全体のことを「大宇宙」と呼ぶ。
天文学的観点から見た場合、「宇宙」はすべての天体・空間を含む領域をいう。銀河のことを「小宇宙」と呼ぶのに対して「大宇宙」ともいう。
「地球の大気圏外の空間」という意味では、国際航空連盟 (FAI) の規定によると空気抵抗がほぼ無視できる真空である高度 100 km 以上のことを指す。この基準はカーマン・ラインと呼ばれる。
その他の宇宙と地球大気圏を分ける基準として、アメリカ合衆国における宇宙飛行士の認定プログラムの規定がある。1950年ごろ、アメリカ空軍(USAF)では高度 50 測量マイル(50 ✕ 6336/3937 km ≒ 80.47 km[1959年以前当時])以上に到達した飛行士を宇宙飛行士と認定する規定を設けていた。連邦航空局(FAA)は USAF の基準を踏襲し 50 測量マイル以上に到達した飛行士を民間宇宙飛行士と認定している。
宇宙について説明するにあたり、まず人類がどのように宇宙の理解を深めてきたか、おおまかな流れを解説する。
宇宙がいかに始まったかについての議論は宗教や哲学上の問題として語られて続けている。宇宙に関する説・研究などは宇宙論と呼ばれている。 古代インドのヴェーダでは無からの発生、原初の原人の犠牲による創造、苦行の熱からの創造、といった宇宙生成論があった。古代ギリシャではヘシオドスの『神統記』に宇宙の根源のカオスがあったとする記述があったが、ピタゴラス学派は宇宙をコスモスと見なし、天文現象の背後にひそむ数的な秩序を説明することを追究した。秩序の説明の追究は、やがてエウドクソスによる、地球を27の層からなる天球が囲んでいる、とする説へとつながり、それはまたアリストテレスへの説へと継承された。
2世紀ころのクラウディオス・プトレマイオスは『アルマゲスト』において、天球上における天体の動き(軌道)の数学的な分析を解説した。これによって天動説は大成され、ヨーロッパ中世においてもアリストテレスの説に基づいて宇宙は説明された。しかし天球を用いた天体の説明は、その精緻化とともに、そこにおける天球の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていった。こうした状況に対し、ニコラウス・コペルニクスは従来の地球を中心とする説(地球中心説)に対して、太陽中心説を唱えた。この太陽中心説(地動説)は、当初は惑星軌道が楕円を描いていることが知られていなかったために周転円を用いた天動説よりも精度が低いものであったが、やがてヨハネス・ケプラーによる楕円軌道の発見などにより地動説の精度が増していき、天動説に代わって中心的な学説となった。 宇宙は始まりも終わりも無い同じ状態であるものとアイザック・ニュートンは考え、『自然哲学の数学的諸原理』の第3巻「世界の体系について」において、宇宙の数学的な構造を提示し、地球上の物体の運動も天体の運動も万有引力を導入すれば統一的に説明できることを示した。 ニュートンがこうした理論体系を構築した背景には神学的な意図があったとも指摘されている。ニュートンはまた同著でユークリッド幾何学に基づいて時空を定義し、絶対空間および絶対時間という概念を導入した。
科学的な分析が始まった20世紀初頭でも科学者も含めてほとんどの人は宇宙は静的だと見なしていた。20世紀になりアルベルト・アインシュタインにより絶対時間・絶対空間を否定し、宇宙の不安定なモデル(宇宙方程式)が提示され、1927年にジョルジュ・ルメートルが今日ビッグバン理論として知られる説を提唱した。ルメートルの説は1929年にエドウィン・ハッブルが観測した銀河の赤方偏移によって支持された。「ビッグバン」の名称は、ルメートルの非定常な宇宙説に反対の立場を取ったフレッド・ホイルの発言に由来する。今日ではビッグバン理論は多くの宇宙論の研究者によって支持され「標準的宇宙論モデル」を構成する要素になっている。
一般相対性理論のアインシュタイン方程式は厳密解がいくつか知られており、その中に宇宙の膨張を示す解が存在する。この非定常宇宙モデルは、宇宙が過去のある時点に誕生したことを示唆している。この宇宙の誕生と初期宇宙を説明する理論として、ビッグバン宇宙論がある。ビッグバン理論において、宇宙は誕生直後に指数関数的な膨張(宇宙のインフレーション)を経験したと推定される。
現在、4つの基本相互作用が存在することが知られているが、統一場理論に基づき、これらの基本相互作用は初期宇宙では区別なく統一されていたと考えられている。例えばワインバーグ=サラム理論により、電磁相互作用と弱い相互作用が統一されることが知られている。基本相互作用は宇宙が膨張し冷却されるにつれて分離されたと考えられている。
亜原子粒子や原子や分子は宇宙が膨張し冷却される過程で生まれたと考えられている。また恒星や銀河などの天体は、水素およびヘリウムからなる分子雲からが生まれたと考えられている(宇宙の誕生と進化の項を参照)。
ビッグバン理論を構成する宇宙論的パラメータに関する仮説はΛ-CDMモデル(Lambda-CDM model)としてまとめられている。だが、これについては異論もある。もしこのモデルを採用するならば、宇宙は原子(バリオン)からなる通常の物質(matter)、ダークマター(dark matter)、そしてダークエネルギー(dark energy)から構成される、とされる。現代の物理学で記述できる通常の物質が占める割合は5%程度であり、ダークマター・ダークエネルギーからなる残りの95%は現在も正体がわかっていない。各成分の構成比率は時間とともに変化しており、現在はダークエネルギー優勢時代(dark energy-dominated era)と推定され、ダークエネルギーの影響により宇宙の膨張が以前より加速している(宇宙の加速膨張)、とされている。
宇宙の誕生から現在までの経過時間は様々な方法やモデルに基づいて計算されている。
2003年、NASAの宇宙探査機WMAPによる宇宙マイクロ波背景放射の観測値を根拠に計算したものによると、約137億歳(正確には、13.772 ± 0.059 Gyr)と推算された。この値は、他の放射年代測定を根拠に計算された110–200億歳や130–150億歳とする大雑把な推定値とも矛盾しない。
2013年3月21日、欧州宇宙機関(ESA)は「宇宙の誕生時期がこれまでの通説より1億年古い、約138億年前(正確には、13.798 ± 0.037 Gyr)である」と発表した。
宇宙は何でできているか、またその占める割合については、かつては光を含む電磁波による観測から求められていた。ところが、様々な研究を通じて必ずしも観測できるものだけが宇宙を構成しているとは考えられなくなった。やがて宇宙の成分は原子である物質ではなく、エネルギーの比で表されるようになり、むしろ未だ正体が判明しないダークマターとダークエネルギーとの割合が多数を占めるようになった。宇宙マイクロ波背景放射の観測で得た宇宙初期のむらから当初試算されたエネルギー比は、ダークエネルギー72.8%・ダークマター22.7%・物質(原子)4.5%だったが、宇宙探査機WMAPや人工衛星プランクの観測によって、2003年以降、精度が高められ、以下の数値になった。
人類はその目に映る物質の根源や力の法則を明らかにする研究を続け素粒子物理学を構築している。それは宇宙開闢の様子さえ理論化に成功した。ところが、宇宙の研究においてこれらの考察が宇宙全エネルギーの4.9%程度にしかならず、残りの95%は、そのようなものがあるという程度しか理解が及んでいない。この分野への科学的探究が求められている。
宇宙にある元素は、水素原子が93.3%を、ヘリウム原子が6.49%を占める。また、観測可能宇宙内の原子の総数は、足し合わせると10の80乗個程度となる。
20世紀に入り行われた観測から、宇宙は膨張をしていると見なされている。だが過去には様々な考えがあった。アイザック・ニュートンは絶対時間・絶対空間の前提から導かれたニュートン力学が支持され、人々は宇宙は静的で定常であると見なしていた。
1915年にアルベルト・アインシュタインが発表した一般相対性理論では、エネルギーと時空の曲率の間の関係を記述する重力場方程式(アインシュタイン方程式)があった。この方程式が導き出す宇宙の未来は、星々の重力によって宇宙は収縮に転じ、やがて一点に潰れるというものだった。この解は、アインシュタイン自身やウィレム・ド・ジッター、アレクサンドル・フリードマン、ジョルジュ・ルメートルらによって導かれた。当初アインシュタインは、宇宙は定常であると考えていたため自分が見つけた解に定数(宇宙定数)を加えることで宇宙が定常になるように式に手直しを加えた。
1929年にエドウィン・ハッブルが、すべての銀河が遠ざかっている事を発見し、さらに距離が遠い銀河ほど遠ざかる速度が早いことを見出した(ハッブルの法則)。この観測結果から「膨張する宇宙」という概念が生じ、アインシュタインも「人生最大の誤り」と述べ重力場方程式から宇宙定数を外した。
すべての天体を含む宇宙全体が膨張しているため、無数の銀河がほぼ一様に分布していて、その距離に比例した速度で遠ざかっている。そのため、いずれかの銀河から見たとしても、同じ速度に見える(膨張宇宙論)。「宇宙原理を採用すれば、宇宙には果てがない」と言うため、これを信じれば宇宙膨張の中心は存在しない。銀河の後退速度が光速に等しくなる距離は、宇宙論的固有距離において地球から約150億光年のところとなる。宇宙年齢に光速をかけた距離とこの距離が近似するのは偶然である。これはハッブルが発見したため、ここまでの距離はハッブル距離、あるいはハッブル半径と呼ばれるが、これは宇宙の地平面(宇宙の事象の地平面、あるいは粒子的地平面)ではない。光速を超えて遠ざかる天体は赤方偏移Z=1.6程度の天体と考えられるが、この値を超える天体はすでに1000個程度観測されている。
ビッグバン理論(ビッグバン仮説)では、宇宙の始まりはビッグバンと呼ばれる大爆発であったとされている。ハッブルの法則によると、地球から遠ざかる天体の速さは地球からの距離に比例している。そのため、逆に時間を遡れば、過去のある時点ではすべての天体は1点に集まっていた、つまり宇宙全体が非常に小さく高温・高密度の状態にあった、と推定される。このような初期宇宙のモデルは「ビッグバン・モデル」と呼ばれ、1940年代にジョージ・ガモフが物理学の理論へ纏め上げた。
ガモフはビッグバンの時に発せられた光がマイクロ波として観測されるはずと予言した。その後、1965年にアーノ・ペンジアスとロバート・W・ウィルソンによって、宇宙のあらゆる方角から放射される絶対温度3度の黒体放射に相当するマイクロ波(宇宙背景放射)が発見された。これは宇宙初期の高温な時代に放たれた熱放射の名残とみなされ、予言の正しさを裏付ける証拠とされた。
ビッグバン・モデルの研究は進み、例えばその温度についてガモフは100億度程度と考えたが、後に10度と試算されている。ビッグバン直後の宇宙には物質は存在せず、エネルギーのみが満ちた世界だったと考えられている。理論によると、物質の基礎になる素粒子は100万分の1秒が経過した頃に生じ、その時には温度が10兆度程度まで下がった。1万分の1秒後に温度は1兆度になり、陽子や中性子が出来上がった。宇宙は膨張しながらさらに冷え、3分後には水素・ヘリウム・リチウムなどの原子核や電子が生じ、温度は10億度になった。38万年が経過すると温度は3800度程度になり、電子が原子核に囚われて原子となって、ビッグバンが起こった時に生じた光子が素粒子に邪魔されずに真っ直ぐ進めるようになった。これは「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれ、この光が宇宙背景放射である。原子は電気的に中性で反発しないため、やがて重力で纏まり始めて、約1~1.5億年後にはファーストスターが、約9億年後には星や銀河を形成するようになった。
しかしその後、宇宙の地平線問題や平坦性問題といった、初期の単純なビッグバン理論では説明できない問題が出てきた。これらを解決する理論として1980年代にインフレーション理論が提唱され、ビッグバン以前に急激な膨張(インフレーション)が起こった、とされるようになった。この理論では宇宙の真の誕生はビッグバンの前に無から生じ、急激な膨張(インフレーション)を経てからビッグバンが起こったという。インフレーション時に内包するエネルギーにはわずかなムラがあり、このムラが原子の集積を呼び込んだ事、またムラが一様だったため宇宙が平坦になったとしている。提唱当時のインフレーション理論には観測結果が伴っていなかったが、後に精密な宇宙背景放射の測定が理論と一致する事が判明し、信頼性が高まった。
宇宙定数を取り除いたアインシュタイン方程式の解が示す宇宙の未来は、膨張がやがて収縮し、最終的に一点につぶれるビッグクランチと呼ばれるモデルであった。地球表面でボールを空に投げると高く上がるが、やがて勢いが無くなり落ちて来る。同様に、膨張の原動力である熱や光の放出の力が低下し、重力が優勢になると宇宙は膨張速度を落とし、収縮に転じる。ほとんどの科学者はこのモデルを支持していた。
ところが1998年に膨張速度を観測した2つのグループが、宇宙誕生後70億年頃から加速膨張が始まったと発表し、未来モデルは書き換えられた。宇宙を加速膨張させる原動力は謎のままダークエネルギーと名付けられ、将来的にこの量がどのように推移するかによって2つのモデルが作られた。ダークエネルギーの増加が続き膨張が加速され続けてやがて無限大になると、宇宙は素粒子レベルまでばらばらに引き裂かれて終焉を迎える。これはビッグリップと呼ばれる。ダークエネルギーによる膨張が無限大に達しなければ、宇宙は緩やかに膨張を続けながらも破綻しない可能性もある。
天文的な距離を表すのには光年がよく用いられるが、銀河団間の距離や宇宙の構造を取り扱う場合にはメガパーセク (Mpc) が使われることがある。1メガパーセクは326万光年。
おとめ座超銀河団の隣の超銀河団は、うみへび座ケンタウルス座超銀河団であるが、両者は非常に近い関係にある。
クエーサーは、天体の中でも最も明るいものであるが、宇宙が若い頃(20億〜30億歳の頃)に多く形成された天体であるため、遠くに見えている。(遠くの天体は過去の事象が見えている)
ヘルクレス座かんむり座グレートウォールは、今までに観測された中で最も大きな宇宙の大規模構造。
かみのけ座銀河団を核とするかみのけ座超銀河団も、おとめ座超銀河団の隣の超銀河団であるが、所属するフィラメントは異なる。かみのけ座超銀河団はかみのけ座ウォールの中心部である。
ハッブルの法則をおとめ座銀河団に当てはめてみると、20 Mpc × 67 km/s/Mpc = 1340 km/s となり、おとめ座銀河団は、1340 km/s という速度で、我々から遠ざかっている。ここから、おとめ座銀河団の重力による銀河系がおとめ座方向へ近づく速度 185 km/s を引くことにより、実際の相対速度1155km/sが導かれる。
シャプレー超銀河団は、ラニアケア超銀河団の隣の超銀河団。
地球は惑星のひとつであり、周囲に月が回っている。いくつかの惑星が太陽の周りを回っている。太陽とその周りを回る惑星、その周りを回る衛星、そして準惑星、小惑星や彗星が太陽系を構成している。
太陽のように自ら光っている星を恒星という。恒星が集まって星団を形成し、恒星や星団が集まって銀河を形成している。銀河に含まれる恒星の数は、小さい銀河で1000万程度、巨大な銀河では100兆個に達するものもあると見られている。
銀河は単独で存在することもあるし、集団で存在することもある。銀河の集団は、銀河群、銀河団と呼ばれる。それらがさらに集まったものは超銀河団と呼ばれる。さらに巨視的には、いくつもの超銀河団が壁状あるいは柱状に連なったようになっていて、これを銀河フィラメントと呼ぶ。壁状のものは特に銀河ウォールもしくはグレートウォールなどとも呼ぶ。銀河ウォールや銀河フィラメントの周囲には銀河がほとんど存在しないような空虚な大空間が広がっていて、この空間を超空洞(ボイド)と呼ぶ。現在の科学で観測されうる最大の宇宙の構造がこの超空洞と銀河フィラメントの重層構造であり、これを宇宙の大規模構造と呼ぶ。この構造は面と空洞から成ることから「宇宙の泡構造」としてよく表現される。
我々の住む銀河は、銀河系あるいは天の川銀河と呼ばれ、2000億~4000億個の恒星が存在している。天の川銀河は直径10万光年ほどの大きさで、地球から見ると文字通り天の川となって見える。星座を形づくるような明るい星は地球の近傍にある星であり、ほとんどは数光年から千数百光年ほどの距離にある。
天の川銀河の所属する銀河群は局所銀河群と呼ばれ、局所銀河群はおとめ座超銀河団の一員である。また、おとめ座超銀河団は、「うお座・くじら座超銀河団Complex」という名の長さ10億光年の銀河フィラメントの一部である。 なお、超銀河団の枠組みとしては、おとめ座超銀河団より大きな範囲となるラニアケア超銀河団を設定すべきとの考えもある。ラニアケア超銀河団の中心には、グレートアトラクターと呼ばれる巨大な重力源が存在し、おとめ座超銀河団も、それにより引きつけられている。ただし、宇宙膨張によって引き離される力のほうが大きいので近づいているわけではない。
地球から観測可能な範囲(光が届く範囲)には、少なくとも1700億個の銀河が存在すると考えられている。
上で説明したように、本当の宇宙全体の大きさは全然分かっていないが、現時点での観測可能な限界ライン(宇宙の地平線)の算出というのは、全然別の簡単な問題であり、簡単に算出できる。地球から理論上観測可能な領域(観測可能な宇宙)は、半径約450億光年の球状の範囲である。ただしこの大きさは赤方偏移から計算された理論上の値であり、直接の観測によって正確に分かっているわけではない。
なお現代の自然科学では宇宙に特別な中心があるとは考えられておらず、宇宙全体について考察するとき、人類や地球を特別扱いして中心として扱うなどという考え方はそもそも根本的に間違っている、もってのほかだ、と考えられている、ということは強調しておかなければならない。
「天体から放たれた光が地球にたどり着くまでの時間に光速をかけたもの」は光路距離(英語版)(あるいは光行距離)と呼ばれている。これは光が地球に届くまでの間に、光の旅した道のりを表す。光路距離では、電磁波により観測される宇宙の果てから地球までの光の旅した道のりは約138億光年と推定されている。これは光速に宇宙の年齢をかけたものだが、この値は先に述べた2つの距離(450億光年、4100万光年)と値が異なっている。光が地球に届く間に宇宙が膨張し、そのため光の道のりが延び、また光を放った空間が遠ざかるからである。つまり、光路距離はある時刻における空間上の2点間の距離を指し示すものではない。天文学では光路距離を天体までの距離とみなすことが多いが、それは我々に届く光が旅した道のりであり、現在の天体までの距離や、天体が光を放ったときの天体までの距離を示すものではない。
現在(21世紀初頭)の地球上の人類が観測することができる最も古い時代に放たれた光は、約138億年前に約4100万光年離れた空間から放たれた光だ、などと、最近数十年は考えられており、「その光源がある空間は、現在450億光年の彼方にあり、光は138億年かけて138億光年の道のりを旅してきた。わずか4100万光年の距離を光が進むのに138億年もの時間を費やしたのは宇宙の膨張が地球への接近を阻んだためだ」などと、ここ数十年の物理学者・天文学者などによって考えられている。(なおこれを分かりやすく喩えると、流れの速い川を上流へ向かう船がなかなか前に進めないという状況に似ている。「宇宙空間の膨張」という仮定はそもそも一般相対性理論を原理に据えて導き出しているわけだが、電磁波の媒質である空間の膨張により地球を基点としたときの、地球から離れた場所にある光の速度が変化しても特殊相対性理論における「光速度不変の法則」とは矛盾しない)。
《地球上から見ることができる宇宙の大きさ》とは、人間が物理的に観測可能な宇宙の時空の最大範囲を指す表現である。宇宙は膨張し続けているため、宇宙の大きさをと言うと、観測できる光のなかでも、最も古い時代に光が放たれた空間のことを指している。この空間から光が放たれたとき、つまり約138億年前(宇宙の晴れ上がり直後)、この空間(観測可能な宇宙の果て)は地球がある位置から(地球を中心とする全方向に宇宙論的固有距離において)約4100万光年離れたところにあった。そしてこの空間は、地球の位置から、光の約60倍の速度で遠ざかっていた、とされる。この空間までの現在の距離である共動距離(英語版)は、約450億光年と推定されている。
なお典型的な銀河の直径でも3万光年であり、隣どうしの銀河の間の典型的な距離は300万光年にすぎない。例えば、我々人類が属している天の川銀河はざっと10万光年の直径であり、我々の銀河に最も近い銀河のアンドロメダ銀河はおよそ250万光年離れている。観測可能な宇宙の範囲内だけでもおそらく1000億個(10個)の銀河が存在している。
人類の宇宙観は、ここ百年ほどの間で大きく進展してきた。学問的には、静的な宇宙観から動的な宇宙観へと移行し、科学技術的には、人類は有人宇宙飛行を実現し、地球以外の天体である月に降り立ち、国際宇宙ステーションも建造した。宇宙に関するSFや映画などの創作物も啓蒙的な意義を持っていた。
中でも物理学上の時空間に関する観念の変革は、大きな意味を持っている。学問上の大きな起点となったばかりではなく、我々の生活上の常識からの類推が、宇宙の本質を考察するためには全く不適合であることを示した意味合いも持っている。
そのように、物理学に大改革がもたらされた当初、この宇宙に存在する各物理定数がどうしてそのような値になったのかも次第に解明されていくものと思われていた。しかし、超ひも理論などによれば、今の宇宙に見られる物理定数は、宇宙創世時にたまたまそうなっただけで、実はどんな値でも採り得たというのである。そのパターンは実に10の500乗通りにも及ぶという。そしてこれらの値は、人間の存在のために都合良く出来過ぎている。つまり、我々の住む宇宙は奇蹟的な宇宙なのである。この宇宙の不思議さに対して、これを紐解こうとする試みもある。人間原理によれば、生成される宇宙は無数にあるため、その中のひとつがたまたま人間に都合がよくても驚くに当たらない、という。例えば、10の500乗個の宇宙があれば、10の500乗のパターンのうちの特別なひとつが現れたとしても不思議ではなく、我々がたまたまそこに居るだけということになる。
「宇宙は何故あるのか」のような問いは存在論と呼ばれ、認識論と並ぶ形而上学の主要テーマのひとつである。
ライプニッツは、存在論において「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という形でこれを定式化し、カントやショーペンハウアー、ベルクソンらが取り組み、ハイデガーもまたこの問題の重要性を説いた。
これに対し、ウィトゲンシュタインをはじめとする不可知論の立場からは、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」との論がある。
地球が宇宙において典型的な天体であると仮定すると、宇宙には数多くの地球外生命が存在することになる。しかし現在に至るまで地球外生命の存在が確認されたことはなく、この問題は天文学上の未解決問題の一つとされている。
星に人が住んでいるという着想は古来より見られる。日本最古の物語とされる竹取物語においても、かぐや姫は月の住人であり、ローマ帝国時代の作家の作品には太陽の住人や金星の住人の話が出てくるという。
人工衛星や宇宙ステーションなど、地球の軌道上の人工天体が開発されている。これらの人工天体は例えば、GPSなどの衛星測位システムや微小重力実験などの科学実験のために利用されている。
宇宙開発やその周辺技術について、現時点で実現されていないが実現のための研究開発が行われている、あるいは概念として提案されているものとして、宇宙太陽光発電や軌道エレベータなどがある。
宇宙太陽光発電は、宇宙空間での太陽光発電と無線による送電を組み合わせたシステムである。宇宙空間での太陽光発電は、大気による減衰がなく、また天候の変化や昼夜の移り変わりに左右されないため、地上における太陽光発電に比べて大きな電力が安定して得られることが見込まれている。
軌道エレベータは、静止衛星軌道上の宇宙基地と地上とを結ぶケーブル上を往復する乗り物である。軌道エレベータは、従来のロケットによる輸送に比べて、安定的に大容量の貨物を輸送できると見込まれている。
理論物理学において、並行宇宙の存在を議論することがあり、多元宇宙論として知られる。 | [
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"text": "宇宙(うちゅう)について、本項では漢語(およびその借用語)としての「宇宙」と、「宇宙」と漢語訳される様々な概念を扱う。",
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"text": "「宇宙」という語は一般には、cosmos, universe, (outer) space の訳語として用いられる。 英語の cosmos は古代ギリシア語の κόσμος に由来する。κόσμος は原義では秩序だった状態を指すが、ピタゴラスによって世界そのものを指す言葉としても用いられるようになった。「宇宙」は後者の意味に対してあてられる。一般には universe と同義だが cosmos は原義より秩序と調和のあることを含意する。「時間、空間内に秩序をもって存在する『こと』や『もの』の総体」としての宇宙 (cosmos) に関してはコスモスの項も参照。",
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"text": "英語 universe はラテン語 universum に由来し、すべての物と事象の総体を意味する。接頭辞 uni- は数詞の “1” を表すが、universe から派生して multiverse, omniverse などが造語されている。詳細はそれぞれ多元宇宙およびオムニバースの項を参照。",
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"text": "英語 outer space あるいは単に space は、地球の大気圏外の空間や、地球を含む各天体の大気圏外の空間を指し、日本語では「宇宙空間」ないし「外宇宙」の訳があてられ、また日本語においても単に「宇宙」と呼ぶことが一般的である。地球の大気に関して、宇宙空間と大気圏内の境界として(便宜的に)カーマン・ラインが定義されている。詳細は宇宙空間の項を参照。",
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"text": "「宇宙」という言葉の確定した起源や意味は不明だが、次のような説がある。",
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"text": "それぞれの観点から見た場合の「宇宙」の定義には、以下のようなものがある。",
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"text": "天文学的観点から見た場合、「宇宙」はすべての天体・空間を含む領域をいう。銀河のことを「小宇宙」と呼ぶのに対して「大宇宙」ともいう。",
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"text": "「地球の大気圏外の空間」という意味では、国際航空連盟 (FAI) の規定によると空気抵抗がほぼ無視できる真空である高度 100 km 以上のことを指す。この基準はカーマン・ラインと呼ばれる。",
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"text": "その他の宇宙と地球大気圏を分ける基準として、アメリカ合衆国における宇宙飛行士の認定プログラムの規定がある。1950年ごろ、アメリカ空軍(USAF)では高度 50 測量マイル(50 ✕ 6336/3937 km ≒ 80.47 km[1959年以前当時])以上に到達した飛行士を宇宙飛行士と認定する規定を設けていた。連邦航空局(FAA)は USAF の基準を踏襲し 50 測量マイル以上に到達した飛行士を民間宇宙飛行士と認定している。",
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"text": "宇宙について説明するにあたり、まず人類がどのように宇宙の理解を深めてきたか、おおまかな流れを解説する。",
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"text": "宇宙がいかに始まったかについての議論は宗教や哲学上の問題として語られて続けている。宇宙に関する説・研究などは宇宙論と呼ばれている。 古代インドのヴェーダでは無からの発生、原初の原人の犠牲による創造、苦行の熱からの創造、といった宇宙生成論があった。古代ギリシャではヘシオドスの『神統記』に宇宙の根源のカオスがあったとする記述があったが、ピタゴラス学派は宇宙をコスモスと見なし、天文現象の背後にひそむ数的な秩序を説明することを追究した。秩序の説明の追究は、やがてエウドクソスによる、地球を27の層からなる天球が囲んでいる、とする説へとつながり、それはまたアリストテレスへの説へと継承された。",
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"text": "2世紀ころのクラウディオス・プトレマイオスは『アルマゲスト』において、天球上における天体の動き(軌道)の数学的な分析を解説した。これによって天動説は大成され、ヨーロッパ中世においてもアリストテレスの説に基づいて宇宙は説明された。しかし天球を用いた天体の説明は、その精緻化とともに、そこにおける天球の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていった。こうした状況に対し、ニコラウス・コペルニクスは従来の地球を中心とする説(地球中心説)に対して、太陽中心説を唱えた。この太陽中心説(地動説)は、当初は惑星軌道が楕円を描いていることが知られていなかったために周転円を用いた天動説よりも精度が低いものであったが、やがてヨハネス・ケプラーによる楕円軌道の発見などにより地動説の精度が増していき、天動説に代わって中心的な学説となった。 宇宙は始まりも終わりも無い同じ状態であるものとアイザック・ニュートンは考え、『自然哲学の数学的諸原理』の第3巻「世界の体系について」において、宇宙の数学的な構造を提示し、地球上の物体の運動も天体の運動も万有引力を導入すれば統一的に説明できることを示した。 ニュートンがこうした理論体系を構築した背景には神学的な意図があったとも指摘されている。ニュートンはまた同著でユークリッド幾何学に基づいて時空を定義し、絶対空間および絶対時間という概念を導入した。",
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"text": "科学的な分析が始まった20世紀初頭でも科学者も含めてほとんどの人は宇宙は静的だと見なしていた。20世紀になりアルベルト・アインシュタインにより絶対時間・絶対空間を否定し、宇宙の不安定なモデル(宇宙方程式)が提示され、1927年にジョルジュ・ルメートルが今日ビッグバン理論として知られる説を提唱した。ルメートルの説は1929年にエドウィン・ハッブルが観測した銀河の赤方偏移によって支持された。「ビッグバン」の名称は、ルメートルの非定常な宇宙説に反対の立場を取ったフレッド・ホイルの発言に由来する。今日ではビッグバン理論は多くの宇宙論の研究者によって支持され「標準的宇宙論モデル」を構成する要素になっている。",
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"tag": "p",
"text": "人類はその目に映る物質の根源や力の法則を明らかにする研究を続け素粒子物理学を構築している。それは宇宙開闢の様子さえ理論化に成功した。ところが、宇宙の研究においてこれらの考察が宇宙全エネルギーの4.9%程度にしかならず、残りの95%は、そのようなものがあるという程度しか理解が及んでいない。この分野への科学的探究が求められている。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "宇宙にある元素は、水素原子が93.3%を、ヘリウム原子が6.49%を占める。また、観測可能宇宙内の原子の総数は、足し合わせると10の80乗個程度となる。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "20世紀に入り行われた観測から、宇宙は膨張をしていると見なされている。だが過去には様々な考えがあった。アイザック・ニュートンは絶対時間・絶対空間の前提から導かれたニュートン力学が支持され、人々は宇宙は静的で定常であると見なしていた。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1915年にアルベルト・アインシュタインが発表した一般相対性理論では、エネルギーと時空の曲率の間の関係を記述する重力場方程式(アインシュタイン方程式)があった。この方程式が導き出す宇宙の未来は、星々の重力によって宇宙は収縮に転じ、やがて一点に潰れるというものだった。この解は、アインシュタイン自身やウィレム・ド・ジッター、アレクサンドル・フリードマン、ジョルジュ・ルメートルらによって導かれた。当初アインシュタインは、宇宙は定常であると考えていたため自分が見つけた解に定数(宇宙定数)を加えることで宇宙が定常になるように式に手直しを加えた。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1929年にエドウィン・ハッブルが、すべての銀河が遠ざかっている事を発見し、さらに距離が遠い銀河ほど遠ざかる速度が早いことを見出した(ハッブルの法則)。この観測結果から「膨張する宇宙」という概念が生じ、アインシュタインも「人生最大の誤り」と述べ重力場方程式から宇宙定数を外した。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "すべての天体を含む宇宙全体が膨張しているため、無数の銀河がほぼ一様に分布していて、その距離に比例した速度で遠ざかっている。そのため、いずれかの銀河から見たとしても、同じ速度に見える(膨張宇宙論)。「宇宙原理を採用すれば、宇宙には果てがない」と言うため、これを信じれば宇宙膨張の中心は存在しない。銀河の後退速度が光速に等しくなる距離は、宇宙論的固有距離において地球から約150億光年のところとなる。宇宙年齢に光速をかけた距離とこの距離が近似するのは偶然である。これはハッブルが発見したため、ここまでの距離はハッブル距離、あるいはハッブル半径と呼ばれるが、これは宇宙の地平面(宇宙の事象の地平面、あるいは粒子的地平面)ではない。光速を超えて遠ざかる天体は赤方偏移Z=1.6程度の天体と考えられるが、この値を超える天体はすでに1000個程度観測されている。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "ビッグバン理論(ビッグバン仮説)では、宇宙の始まりはビッグバンと呼ばれる大爆発であったとされている。ハッブルの法則によると、地球から遠ざかる天体の速さは地球からの距離に比例している。そのため、逆に時間を遡れば、過去のある時点ではすべての天体は1点に集まっていた、つまり宇宙全体が非常に小さく高温・高密度の状態にあった、と推定される。このような初期宇宙のモデルは「ビッグバン・モデル」と呼ばれ、1940年代にジョージ・ガモフが物理学の理論へ纏め上げた。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ガモフはビッグバンの時に発せられた光がマイクロ波として観測されるはずと予言した。その後、1965年にアーノ・ペンジアスとロバート・W・ウィルソンによって、宇宙のあらゆる方角から放射される絶対温度3度の黒体放射に相当するマイクロ波(宇宙背景放射)が発見された。これは宇宙初期の高温な時代に放たれた熱放射の名残とみなされ、予言の正しさを裏付ける証拠とされた。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ビッグバン・モデルの研究は進み、例えばその温度についてガモフは100億度程度と考えたが、後に10度と試算されている。ビッグバン直後の宇宙には物質は存在せず、エネルギーのみが満ちた世界だったと考えられている。理論によると、物質の基礎になる素粒子は100万分の1秒が経過した頃に生じ、その時には温度が10兆度程度まで下がった。1万分の1秒後に温度は1兆度になり、陽子や中性子が出来上がった。宇宙は膨張しながらさらに冷え、3分後には水素・ヘリウム・リチウムなどの原子核や電子が生じ、温度は10億度になった。38万年が経過すると温度は3800度程度になり、電子が原子核に囚われて原子となって、ビッグバンが起こった時に生じた光子が素粒子に邪魔されずに真っ直ぐ進めるようになった。これは「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれ、この光が宇宙背景放射である。原子は電気的に中性で反発しないため、やがて重力で纏まり始めて、約1~1.5億年後にはファーストスターが、約9億年後には星や銀河を形成するようになった。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "しかしその後、宇宙の地平線問題や平坦性問題といった、初期の単純なビッグバン理論では説明できない問題が出てきた。これらを解決する理論として1980年代にインフレーション理論が提唱され、ビッグバン以前に急激な膨張(インフレーション)が起こった、とされるようになった。この理論では宇宙の真の誕生はビッグバンの前に無から生じ、急激な膨張(インフレーション)を経てからビッグバンが起こったという。インフレーション時に内包するエネルギーにはわずかなムラがあり、このムラが原子の集積を呼び込んだ事、またムラが一様だったため宇宙が平坦になったとしている。提唱当時のインフレーション理論には観測結果が伴っていなかったが、後に精密な宇宙背景放射の測定が理論と一致する事が判明し、信頼性が高まった。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "宇宙定数を取り除いたアインシュタイン方程式の解が示す宇宙の未来は、膨張がやがて収縮し、最終的に一点につぶれるビッグクランチと呼ばれるモデルであった。地球表面でボールを空に投げると高く上がるが、やがて勢いが無くなり落ちて来る。同様に、膨張の原動力である熱や光の放出の力が低下し、重力が優勢になると宇宙は膨張速度を落とし、収縮に転じる。ほとんどの科学者はこのモデルを支持していた。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ところが1998年に膨張速度を観測した2つのグループが、宇宙誕生後70億年頃から加速膨張が始まったと発表し、未来モデルは書き換えられた。宇宙を加速膨張させる原動力は謎のままダークエネルギーと名付けられ、将来的にこの量がどのように推移するかによって2つのモデルが作られた。ダークエネルギーの増加が続き膨張が加速され続けてやがて無限大になると、宇宙は素粒子レベルまでばらばらに引き裂かれて終焉を迎える。これはビッグリップと呼ばれる。ダークエネルギーによる膨張が無限大に達しなければ、宇宙は緩やかに膨張を続けながらも破綻しない可能性もある。",
"title": "現代宇宙論"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "天文的な距離を表すのには光年がよく用いられるが、銀河団間の距離や宇宙の構造を取り扱う場合にはメガパーセク (Mpc) が使われることがある。1メガパーセクは326万光年。",
"title": "宇宙における距離"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "おとめ座超銀河団の隣の超銀河団は、うみへび座ケンタウルス座超銀河団であるが、両者は非常に近い関係にある。",
"title": "宇宙における距離"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "クエーサーは、天体の中でも最も明るいものであるが、宇宙が若い頃(20億〜30億歳の頃)に多く形成された天体であるため、遠くに見えている。(遠くの天体は過去の事象が見えている)",
"title": "宇宙における距離"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ヘルクレス座かんむり座グレートウォールは、今までに観測された中で最も大きな宇宙の大規模構造。",
"title": "宇宙における距離"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "かみのけ座銀河団を核とするかみのけ座超銀河団も、おとめ座超銀河団の隣の超銀河団であるが、所属するフィラメントは異なる。かみのけ座超銀河団はかみのけ座ウォールの中心部である。",
"title": "宇宙における距離"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "ハッブルの法則をおとめ座銀河団に当てはめてみると、20 Mpc × 67 km/s/Mpc = 1340 km/s となり、おとめ座銀河団は、1340 km/s という速度で、我々から遠ざかっている。ここから、おとめ座銀河団の重力による銀河系がおとめ座方向へ近づく速度 185 km/s を引くことにより、実際の相対速度1155km/sが導かれる。",
"title": "宇宙における距離"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "シャプレー超銀河団は、ラニアケア超銀河団の隣の超銀河団。",
"title": "宇宙における距離"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "地球は惑星のひとつであり、周囲に月が回っている。いくつかの惑星が太陽の周りを回っている。太陽とその周りを回る惑星、その周りを回る衛星、そして準惑星、小惑星や彗星が太陽系を構成している。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "太陽のように自ら光っている星を恒星という。恒星が集まって星団を形成し、恒星や星団が集まって銀河を形成している。銀河に含まれる恒星の数は、小さい銀河で1000万程度、巨大な銀河では100兆個に達するものもあると見られている。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "銀河は単独で存在することもあるし、集団で存在することもある。銀河の集団は、銀河群、銀河団と呼ばれる。それらがさらに集まったものは超銀河団と呼ばれる。さらに巨視的には、いくつもの超銀河団が壁状あるいは柱状に連なったようになっていて、これを銀河フィラメントと呼ぶ。壁状のものは特に銀河ウォールもしくはグレートウォールなどとも呼ぶ。銀河ウォールや銀河フィラメントの周囲には銀河がほとんど存在しないような空虚な大空間が広がっていて、この空間を超空洞(ボイド)と呼ぶ。現在の科学で観測されうる最大の宇宙の構造がこの超空洞と銀河フィラメントの重層構造であり、これを宇宙の大規模構造と呼ぶ。この構造は面と空洞から成ることから「宇宙の泡構造」としてよく表現される。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "我々の住む銀河は、銀河系あるいは天の川銀河と呼ばれ、2000億~4000億個の恒星が存在している。天の川銀河は直径10万光年ほどの大きさで、地球から見ると文字通り天の川となって見える。星座を形づくるような明るい星は地球の近傍にある星であり、ほとんどは数光年から千数百光年ほどの距離にある。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "天の川銀河の所属する銀河群は局所銀河群と呼ばれ、局所銀河群はおとめ座超銀河団の一員である。また、おとめ座超銀河団は、「うお座・くじら座超銀河団Complex」という名の長さ10億光年の銀河フィラメントの一部である。 なお、超銀河団の枠組みとしては、おとめ座超銀河団より大きな範囲となるラニアケア超銀河団を設定すべきとの考えもある。ラニアケア超銀河団の中心には、グレートアトラクターと呼ばれる巨大な重力源が存在し、おとめ座超銀河団も、それにより引きつけられている。ただし、宇宙膨張によって引き離される力のほうが大きいので近づいているわけではない。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "地球から観測可能な範囲(光が届く範囲)には、少なくとも1700億個の銀河が存在すると考えられている。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "上で説明したように、本当の宇宙全体の大きさは全然分かっていないが、現時点での観測可能な限界ライン(宇宙の地平線)の算出というのは、全然別の簡単な問題であり、簡単に算出できる。地球から理論上観測可能な領域(観測可能な宇宙)は、半径約450億光年の球状の範囲である。ただしこの大きさは赤方偏移から計算された理論上の値であり、直接の観測によって正確に分かっているわけではない。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "なお現代の自然科学では宇宙に特別な中心があるとは考えられておらず、宇宙全体について考察するとき、人類や地球を特別扱いして中心として扱うなどという考え方はそもそも根本的に間違っている、もってのほかだ、と考えられている、ということは強調しておかなければならない。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "「天体から放たれた光が地球にたどり着くまでの時間に光速をかけたもの」は光路距離(英語版)(あるいは光行距離)と呼ばれている。これは光が地球に届くまでの間に、光の旅した道のりを表す。光路距離では、電磁波により観測される宇宙の果てから地球までの光の旅した道のりは約138億光年と推定されている。これは光速に宇宙の年齢をかけたものだが、この値は先に述べた2つの距離(450億光年、4100万光年)と値が異なっている。光が地球に届く間に宇宙が膨張し、そのため光の道のりが延び、また光を放った空間が遠ざかるからである。つまり、光路距離はある時刻における空間上の2点間の距離を指し示すものではない。天文学では光路距離を天体までの距離とみなすことが多いが、それは我々に届く光が旅した道のりであり、現在の天体までの距離や、天体が光を放ったときの天体までの距離を示すものではない。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "現在(21世紀初頭)の地球上の人類が観測することができる最も古い時代に放たれた光は、約138億年前に約4100万光年離れた空間から放たれた光だ、などと、最近数十年は考えられており、「その光源がある空間は、現在450億光年の彼方にあり、光は138億年かけて138億光年の道のりを旅してきた。わずか4100万光年の距離を光が進むのに138億年もの時間を費やしたのは宇宙の膨張が地球への接近を阻んだためだ」などと、ここ数十年の物理学者・天文学者などによって考えられている。(なおこれを分かりやすく喩えると、流れの速い川を上流へ向かう船がなかなか前に進めないという状況に似ている。「宇宙空間の膨張」という仮定はそもそも一般相対性理論を原理に据えて導き出しているわけだが、電磁波の媒質である空間の膨張により地球を基点としたときの、地球から離れた場所にある光の速度が変化しても特殊相対性理論における「光速度不変の法則」とは矛盾しない)。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "《地球上から見ることができる宇宙の大きさ》とは、人間が物理的に観測可能な宇宙の時空の最大範囲を指す表現である。宇宙は膨張し続けているため、宇宙の大きさをと言うと、観測できる光のなかでも、最も古い時代に光が放たれた空間のことを指している。この空間から光が放たれたとき、つまり約138億年前(宇宙の晴れ上がり直後)、この空間(観測可能な宇宙の果て)は地球がある位置から(地球を中心とする全方向に宇宙論的固有距離において)約4100万光年離れたところにあった。そしてこの空間は、地球の位置から、光の約60倍の速度で遠ざかっていた、とされる。この空間までの現在の距離である共動距離(英語版)は、約450億光年と推定されている。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "なお典型的な銀河の直径でも3万光年であり、隣どうしの銀河の間の典型的な距離は300万光年にすぎない。例えば、我々人類が属している天の川銀河はざっと10万光年の直径であり、我々の銀河に最も近い銀河のアンドロメダ銀河はおよそ250万光年離れている。観測可能な宇宙の範囲内だけでもおそらく1000億個(10個)の銀河が存在している。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "人類の宇宙観は、ここ百年ほどの間で大きく進展してきた。学問的には、静的な宇宙観から動的な宇宙観へと移行し、科学技術的には、人類は有人宇宙飛行を実現し、地球以外の天体である月に降り立ち、国際宇宙ステーションも建造した。宇宙に関するSFや映画などの創作物も啓蒙的な意義を持っていた。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "中でも物理学上の時空間に関する観念の変革は、大きな意味を持っている。学問上の大きな起点となったばかりではなく、我々の生活上の常識からの類推が、宇宙の本質を考察するためには全く不適合であることを示した意味合いも持っている。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "そのように、物理学に大改革がもたらされた当初、この宇宙に存在する各物理定数がどうしてそのような値になったのかも次第に解明されていくものと思われていた。しかし、超ひも理論などによれば、今の宇宙に見られる物理定数は、宇宙創世時にたまたまそうなっただけで、実はどんな値でも採り得たというのである。そのパターンは実に10の500乗通りにも及ぶという。そしてこれらの値は、人間の存在のために都合良く出来過ぎている。つまり、我々の住む宇宙は奇蹟的な宇宙なのである。この宇宙の不思議さに対して、これを紐解こうとする試みもある。人間原理によれば、生成される宇宙は無数にあるため、その中のひとつがたまたま人間に都合がよくても驚くに当たらない、という。例えば、10の500乗個の宇宙があれば、10の500乗のパターンのうちの特別なひとつが現れたとしても不思議ではなく、我々がたまたまそこに居るだけということになる。",
"title": "人類の宇宙観"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "「宇宙は何故あるのか」のような問いは存在論と呼ばれ、認識論と並ぶ形而上学の主要テーマのひとつである。",
"title": "宇宙と哲学"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "ライプニッツは、存在論において「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という形でこれを定式化し、カントやショーペンハウアー、ベルクソンらが取り組み、ハイデガーもまたこの問題の重要性を説いた。",
"title": "宇宙と哲学"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "これに対し、ウィトゲンシュタインをはじめとする不可知論の立場からは、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」との論がある。",
"title": "宇宙と哲学"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "地球が宇宙において典型的な天体であると仮定すると、宇宙には数多くの地球外生命が存在することになる。しかし現在に至るまで地球外生命の存在が確認されたことはなく、この問題は天文学上の未解決問題の一つとされている。",
"title": "地球外生命の存在"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "星に人が住んでいるという着想は古来より見られる。日本最古の物語とされる竹取物語においても、かぐや姫は月の住人であり、ローマ帝国時代の作家の作品には太陽の住人や金星の住人の話が出てくるという。",
"title": "地球外生命の存在"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "人工衛星や宇宙ステーションなど、地球の軌道上の人工天体が開発されている。これらの人工天体は例えば、GPSなどの衛星測位システムや微小重力実験などの科学実験のために利用されている。",
"title": "宇宙開発"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "宇宙開発やその周辺技術について、現時点で実現されていないが実現のための研究開発が行われている、あるいは概念として提案されているものとして、宇宙太陽光発電や軌道エレベータなどがある。",
"title": "宇宙開発"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "宇宙太陽光発電は、宇宙空間での太陽光発電と無線による送電を組み合わせたシステムである。宇宙空間での太陽光発電は、大気による減衰がなく、また天候の変化や昼夜の移り変わりに左右されないため、地上における太陽光発電に比べて大きな電力が安定して得られることが見込まれている。",
"title": "宇宙開発"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "軌道エレベータは、静止衛星軌道上の宇宙基地と地上とを結ぶケーブル上を往復する乗り物である。軌道エレベータは、従来のロケットによる輸送に比べて、安定的に大容量の貨物を輸送できると見込まれている。",
"title": "宇宙開発"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "理論物理学において、並行宇宙の存在を議論することがあり、多元宇宙論として知られる。",
"title": "並行宇宙"
}
] | 宇宙(うちゅう)について、本項では漢語(およびその借用語)としての「宇宙」と、「宇宙」と漢語訳される様々な概念を扱う。 | {{Redirect4|ユニバース|その他の「宇宙」と呼ばれる事項|ユニバース (曖昧さ回避)|宇宙 (曖昧さ回避)}}
{{Expand English|date=2023年4月}}
{{Infobox
| title = 宇宙
| image = [[File:Hubble ultra deep field.jpg|300px]]
| caption = [[ハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールド]]。130億年前([[ビッグバン]]から4億–8億年後)と推定されている宇宙の画像。現在(2004年)までに撮影された中で最も深い宇宙の画像である<ref name="press_release">{{cite press|publisher = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]|date = March 9, 2004|title = Hubble's Deepest View Ever of the Universe Unveils Earliest Galaxies|url = http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/2004/07/|accessdate = 2008-12-27}}</ref>。これには誕生後4–5億年の[[銀河]]が1万個以上も映し出されていて、また通常の渦巻銀河や楕円銀河に混じるようにして奇妙な形の銀河も多数映し出されているため、宇宙初期の混沌の中で銀河同士が影響しあっていた状態が映っていると考えられている。(2003年9月24日–2004年1月に[[ハッブル宇宙望遠鏡]]のデータを集めるかたちで撮影)。高解像度画像を選択し [http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2f/Hubble_ultra_deep_field.jpg]、(PCのブラウザで閲覧なら)最後に + 印の虫眼鏡ポインタで画像を押せば特大写真になり、ひとつひとつの銀河をはっきりと見ることができる。
| label1 = [[宇宙の年齢|年齢]] <ref group="注釈">[[Λ-CDMモデル]]
</ref>| data1 = 137.87 ± 0.20 億年<ref name="Planck 2015">{{cite journal|author=Planck Collaboration|year=2016|title=Planck 2015 results. XIII. Cosmological parameters|journal=Astronomy & Astrophysics|volume=594|page=A13, Table 4|arxiv=1502.01589|bibcode=2016A&A...594A..13P|doi=10.1051/0004-6361/201525830|s2cid=119262962}}</ref>
| label2 = 直径
| data2 = 不明<ref name="Brian Greene 2011">{{cite book |first=Brian |last=Greene |author-link=Brian Greene |title=The Hidden Reality |publisher=[[Alfred A. Knopf]] |date=2011|title-link=The Hidden Reality }}</ref> [[観測可能な宇宙]]: {{val|8.8|e=26|u=m}} {{nowrap|(28.5 G[[パーセク]] or 930憶[[光年]])}}<ref>{{cite book |first1=Itzhak|last1=Bars|first2=John|last2=Terning|title=Extra Dimensions in Space and Time |url=https://books.google.com/books?id=fFSMatekilIC&pg=PA27|access-date=May 1, 2011|date=2009 |publisher=Springer|isbn=978-0-387-77637-8|pages=27–}}</ref>
| label3 = 質量
| data3 = 少なくとも {{val|e=53|u=kg}}<ref name="Paul Davies 2006 43">{{cite book|first=Paul|last=Davies|date=2006|title=The Goldilocks Enigma|pages=43ff|publisher=First Mariner Books|isbn=978-0-618-59226-5|url=https://archive.org/details/cosmicjackpotwhy0000davi|url-access=registration}}</ref>
| label4 = 平均密度
| data4 = {{val|9.9|e=-27|u=kg/m3}}<ref name="wmap_universe_made_of">{{cite web|author=NASA/WMAP Science Team|date=January 24, 2014|title=Universe 101: What is the Universe Made Of?|url=http://map.gsfc.nasa.gov/universe/uni_matter.html|publisher=NASA|access-date=February 17, 2015|archive-date=March 10, 2008|archive-url=https://web.archive.org/web/20080310235855/http://map.gsfc.nasa.gov/universe/uni_matter.html|url-status=live}}</ref>
| label5 = 平均温度
| data5 = {{val|2.72548|ul=K}} ({{val|-270.4|ul=°C}}, {{val|-454.8|ul=°F}})<ref name=Fixsen>{{Cite journal |last1=Fixsen |first1=D.J. |date=2009 |title=The Temperature of the Cosmic Microwave Background |journal=[[The Astrophysical Journal]]|volume=707 |issue=2|pages=916–920 |arxiv=0911.1955 |bibcode=2009ApJ...707..916F |doi=10.1088/0004-637X/707/2/916|s2cid=119217397 }}</ref>
| label6 = 中身
| data6 = [[物質]] (4.9%)<br />[[ダークマター]] (26.8%)<br />[[ダークエネルギー]] (68.3%)<ref name="planck2013parameters">{{cite web|title=First Planck results: the universe is still weird and interesting|url=https://arstechnica.com/science/2013/03/first-planck-results-the-universe-is-still-weird-and-interesting/|work=Matthew Francis|publisher=Ars technica|date=March 21, 2013|access-date=August 21, 2015|archive-date=May 2, 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190502143413/https://arstechnica.com/science/2013/03/first-planck-results-the-universe-is-still-weird-and-interesting/|url-status=live}}</ref>
}}
[[File:Large-scale structure of light distribution in the universe.jpg|thumb|350px|[[宇宙の大規模構造]](コンピュータシミュレーション)]]
'''宇宙'''(うちゅう)について、本項では[[漢語]](およびその[[借用語]])としての「宇宙」と、「宇宙」と漢語訳される様々な[[概念]]を扱う。
== 定義 ==
「宇宙」という語は一般には、{{en|cosmos}}, {{en|universe}}, {{en|(outer) space}} の訳語として用いられる。
[[英語]]の {{en|cosmos}} は[[古代ギリシア語]]の {{lang|grc|κόσμος}} に由来する。{{lang|grc|κόσμος}} は原義では[[秩序]]だった状態を指すが、[[ピタゴラス]]によって[[世界]]そのものを指す言葉としても用いられるようになった<ref name="MerriamWebster_cosmos">[https://www.merriam-webster.com/dictionary/cosmos Merriam-Webster, definition of cosmos.]</ref>。「宇宙」は後者の意味に対してあてられる。一般には {{en|universe}} と同義だが {{en|cosmos}} は原義より秩序と調和のあることを含意する。「[[時間]]、[[空間]]内に秩序をもって存在する『こと』や『もの』の総体」<ref name="koujien">広辞苑第六版【宇宙】</ref>としての宇宙 ({{en|cosmos}}) に関しては[[コスモス (宇宙観)|コスモス]]の項も参照。
英語 {{en|universe}} は[[ラテン語]] {{lang|lat|universum}} に由来し、すべての物と事象の総体を意味する<ref name="MerriamWebster_universe">[https://www.merriam-webster.com/dictionary/universe Merriam-Webster, definition of universe.]</ref>。[[接頭辞]] {{en|uni-}} は[[数詞]]の “1” を表すが、{{en|universe}} から派生して {{en|multiverse}}, {{en|omniverse}} などが[[造語]]されている。詳細はそれぞれ[[多元宇宙]]および[[オムニバース]]の項を参照。
英語 {{en|outer space}} あるいは単に {{en|space}} は、[[地球]]の[[大気圏]]外の空間や、地球を含む各天体の大気圏外の空間を指し、日本語では「宇宙空間」ないし「外宇宙」の訳があてられ、また日本語においても単に「宇宙」と呼ぶことが一般的である。[[地球の大気]]に関して、宇宙空間と大気圏内の境界として(便宜的に)[[カーマン・ライン]]が定義されている。詳細は[[宇宙空間]]の項を参照。
== 語源 ==
「宇宙」という[[言葉]]の[[確定]]した[[起源]]や[[意味]]は不明だが、次のような説がある。
* 「宇」は「天地四方上下」(つまり上下前後左右、三次元[[空間]]全体)、「宙」は「往古来今」(つまり[[過去]]・[[現在]]・[[未来]]、[[時間]]全体)を意味し([[戦国時代 (中国)|中国の戦国時代]]の書物・「[[尸子]]巻下」)、「宇宙」で[[時空]](時間と空間)の全体を意味する([[漢]]代の書物・「[[淮南子]]斉俗訓」)<ref>{{Cite web|和書|date=2014-09-24 |url=http://www.nhk.or.jp/kininaru-blog/198022.html |title=宇宙 |work=トクする日本語 |publisher=日本放送協会 |accessdate=2014-09-25}}</ref>。
* 「宇」は「天」、「宙」は「地」を意味し、「宇宙」で「[[天地]]」のことを表す。古代中国の漢字文化で、「宇」と「宙」を組み合わせて生まれた言葉であると言われている。
== 分野ごとの定義 ==
それぞれの観点から見た場合の「宇宙」の定義には、以下のようなものがある。
=== 宗教哲学 ===
{{出典の明記|section=1|date=2022-01-22}}
[[哲学]]的・[[宗教]]的観点から見た場合、宇宙全体の一部でありながら全体と類似したものを「小宇宙」と呼ぶのに対して、宇宙全体のことを「大宇宙」と呼ぶ。
=== 天文学および現代宇宙論 ===
{{出典の明記|section=1|date=2022-01-22}}
[[天文学]]的観点から見た場合、「宇宙」はすべての[[天体]]・空間を含む領域をいう。[[銀河]]のことを「小宇宙」と呼ぶのに対して「大宇宙」ともいう。
=== 航空宇宙および宇宙工学 ===
「地球の[[大気圏]]外の空間」という意味では、[[国際航空連盟]] (FAI) の規定によると空気抵抗がほぼ無視できる真空である高度 {{val|100|u=km}} 以上のことを指す<ref>
{{Cite book|和書
|author=フジテレビトリビア普及委員会 |year=2004
|title=トリビアの泉〜へぇの本〜 5 |publisher=講談社
}}</ref><ref>
{{cite web
|last=Sanz Fernández de Córdoba
|first=S.
|title=100km altitude boundary for astronautics
|publisher=FAI
|date=2004-06-21
|url=https://www.fai.org/page/icare-boundary
|website=www.fai.org
|accessdate=2022-01-28
|ref={{sfnref|Sanz Fernández de Córdoba|2004}}
}}
</ref>。この基準は[[カーマン・ライン]]と呼ばれる{{sfn|Sanz Fernández de Córdoba|2004|loc=The Karman separation line: Scientific significance}}。
その他の宇宙と地球大気圏を分ける基準として、アメリカ合衆国における宇宙飛行士の認定プログラムの規定がある。1950年ごろ、[[アメリカ空軍]](USAF)では高度 50 測量マイル(50 ✕ {{sfrac|6336|3937}} km ≒ 80.47 km[1959年以前当時])以上に到達した飛行士を宇宙飛行士と認定する規定を設けていた<ref>
{{cite web
|last=de Gouyon Matignon
|first=Louis
|title=Why does the FAA uses 50 miles for defining outer space?
|publisher=Space Legal Issues
|date=2019-12-24
|url=https://www.spacelegalissues.com/why-does-the-faa-uses-50-miles-for-defining-outer-space/
|website=www.spacelegalissues.com
|accessdate=2022-01-28
|ref={{sfnref|de Gouyon Matignon|2019}}
}}
</ref>。[[連邦航空局]](FAA)は USAF の基準を踏襲し 50 測量マイル以上に到達した飛行士を民間宇宙飛行士と認定している<ref>
{{cite web
|title=Commercial Space Transportation Activities
|publisher=FAA
|date=2020-06-19
|url=https://www.faa.gov/newsroom/commercial-space-transportation-activities?newsId=19074
|website=www.faa.gov
|accessdate=2022-01-28
|ref={{sfnref|FAA|2020}}
}}
</ref>。
== 宇宙論の歴史 ==
{{main|宇宙論}}
{{see also|地球平面説|天動説|地動説|蓋天説|渾天説|宣夜説|現代宇宙論}}
{{右|
[[ファイル:Cellarius ptolemaic system.jpg|thumb|150px|[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]の説にもとづいて作られた宇宙モデル]]
[[ファイル:Astrolabium.jpg|thumb|150px|1208年のアラビアの[[アストロラーベ]] ]]
}}
[[Image:Ptolemaicsystem-small.png|thumb|right|200px|[[ペトルス・アピアヌス]] ([[:en:Petrus Apianus]]) による ''Cosmographia ''。アリストテレスの説に沿ったコスモス像。地球を中心とした[[天球]]の多層構造の図。西洋中世の人々は、地球を宇宙の中心だと考えた。([[アントワープ]]、1539年)]]
宇宙について説明するにあたり、まず人類がどのように宇宙の理解を深めてきたか、おおまかな流れを解説する。
宇宙がいかに始まったかについての議論は[[宗教]]や[[哲学]]上の問題として語られて続けている<ref name=Ara8>[[#荒舩|荒舩、pp. 8-13、ビッグバンからはじまった宇宙]]</ref>。宇宙に関する説・研究などは[[宇宙論]]と呼ばれている。
古代インドの[[ヴェーダ]]では無からの発生、原初の[[原人]]の犠牲による創造、苦行の熱からの創造、といった宇宙生成論があった。[[古代ギリシャ]]では[[ヘシオドス]]の『神統記』に宇宙の根源の[[カオス]]があったとする記述があったが、[[ピタゴラス学派]]は宇宙を[[コスモス (宇宙観)|コスモス]]と見なし、[[天文現象]]の背後にひそむ[[数]]的な秩序を説明することを追究した。秩序の説明の追究は、やがて[[エウドクソス]]による、地球を27の層からなる天球が囲んでいる、とする説へとつながり、それはまた[[アリストテレス]]への説へと継承された。
[[Image:Almagest 1.jpeg|right|thumb|160px|『[[アルマゲスト]]』(George of Trebizond による[[ラテン語]]版、1451年頃)]]
2世紀ころの[[クラウディオス・プトレマイオス]]は『[[アルマゲスト]]』において、天球上における天体の動き([[軌道 (力学)|軌道]])の数学的な分析を解説した。これによって天動説は大成され、ヨーロッパ[[中世]]においてもアリストテレスの説に基づいて宇宙は説明された。しかし天球を用いた天体の説明は、その精緻化とともに、そこにおける[[天球]]の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていった。こうした状況に対し、[[ニコラウス・コペルニクス]]は従来の地球を中心とする説([[地球中心説]])に対して、[[太陽中心説]]を唱えた。この太陽中心説([[地動説]])は、当初は惑星軌道が楕円を描いていることが知られていなかったために[[周転円]]を用いた天動説よりも精度が低いものであったが、やがて[[ヨハネス・ケプラー]]による楕円軌道の発見などにより地動説の精度が増していき、天動説に代わって中心的な学説となった。
宇宙は始まりも終わりも無い同じ状態であるものと[[アイザック・ニュートン]]は考え<ref name=Ara8 />、『[[自然哲学の数学的諸原理]]』の第3巻「世界の体系について」において、宇宙の[[数学]]的な構造を提示し、地球上の物体の運動も天体の運動も[[万有引力]]を導入すれば統一的に説明できることを示した。
ニュートンがこうした理論体系を構築した背景には[[神学]]的な意図があったとも指摘されている。ニュートンはまた同著で[[ユークリッド幾何学]]に基づいて時空を定義し、[[絶対時間と絶対空間|絶対空間および絶対時間]]という概念を導入した。
科学的な分析が始まった<ref name=Ara8 />20世紀初頭でも科学者も含めてほとんどの人は宇宙は静的だと見なしていた。20世紀になり[[アルベルト・アインシュタイン]]により絶対時間・絶対空間を否定し、宇宙の不安定なモデル(宇宙方程式)が提示され<ref name=Ara8 />、1927年に[[ジョルジュ・ルメートル]]が今日[[ビッグバン]]理論として知られる説を提唱した。ルメートルの説は1929年に[[エドウィン・ハッブル]]が観測した銀河の[[赤方偏移]]によって支持された。「ビッグバン」の名称は、ルメートルの非定常な宇宙説に反対の立場を取った[[フレッド・ホイル]]の発言に由来する。今日ではビッグバン理論は多くの宇宙論の研究者によって支持され「標準的宇宙論モデル」を構成する要素になっている。
== 現代宇宙論 ==
{{main|現代宇宙論}}
[[一般相対性理論]]の[[アインシュタイン方程式]]は厳密解がいくつか知られており、その中に宇宙の膨張を示す解が存在する。この非定常宇宙モデルは、宇宙が過去のある時点に誕生したことを示唆している。この宇宙の誕生と初期宇宙を説明する理論として、[[ビッグバン]]宇宙論がある。ビッグバン理論において、宇宙は誕生直後に[[指数関数]]的な膨張([[宇宙のインフレーション]])を経験したと推定される。
現在、4つの[[基本相互作用]]が存在することが知られているが、[[統一場理論]]に基づき、これらの基本相互作用は初期宇宙では区別なく統一されていたと考えられている。例えば[[ワインバーグ=サラム理論]]により、[[電磁相互作用]]と[[弱い相互作用]]が統一されることが知られている。基本相互作用は宇宙が膨張し冷却されるにつれて分離されたと考えられている。
[[亜原子粒子]]や[[原子]]や[[分子]]は宇宙が膨張し冷却される過程で生まれたと考えられている。また[[恒星]]や[[銀河]]などの[[天体]]は、[[水素]]および[[ヘリウム]]からなる[[分子雲]]からが生まれたと考えられている([[#宇宙の誕生と進化|宇宙の誕生と進化]]の項を参照)。
ビッグバン理論を構成する宇宙論的パラメータに関する仮説は[[Λ-CDMモデル]](Lambda-CDM model)としてまとめられている。だが、これについては異論もある。もしこのモデルを採用するならば、宇宙は[[原子]]([[バリオン]])からなる通常の物質(matter)、[[暗黒物質|ダークマター]](dark matter)、そして[[ダークエネルギー]](dark energy)から構成される、とされる。現代の物理学で記述できる通常の物質が占める割合は5%程度であり、[[ダークマター]]・[[ダークエネルギー]]からなる残りの95%は現在も正体がわかっていない。各成分の構成比率は時間とともに変化しており、現在はダークエネルギー優勢時代(dark energy-dominated era)と推定され、ダークエネルギーの影響により宇宙の膨張が以前より加速している([[宇宙の加速膨張]])、とされている<ref>{{Cite journal|last=Frieman|first=Joshua A.|last2=Turner|first2=Michael S.|last3=Huterer|first3=Dragan|date=2008-09-01|title=Dark Energy and the Accelerating Universe|url=https://www.annualreviews.org/doi/10.1146/annurev.astro.46.060407.145243|journal=Annual Review of Astronomy and Astrophysics|volume=46|issue=1|pages=385–432|language=en|doi=10.1146/annurev.astro.46.060407.145243|issn=0066-4146}}</ref>。
=== 宇宙の大きさ ===
{{節スタブ|date=2022年1月}}
=== 宇宙の年齢 ===
宇宙の誕生から現在までの経過時間は様々な方法やモデルに基づいて計算されている。
2003年、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の宇宙探査機[[WMAP]]による[[宇宙マイクロ波背景放射]]の観測値を根拠に計算したものによると、約137億歳(正確には、13.772 ± 0.059 Gyr)と推算された<ref>{{cite web | title = Nine-Year Wilkinson Microwave Anisotropy Probe (WMAP) Observations: Final Maps and Results | url=http://arxiv.org/pdf/1212.5225v1.pdf|format=PDF|accessdate=2013-01-29}}</ref>。この値は、他の[[放射年代測定]]を根拠に計算された110–200億歳<ref>{{cite web | author =Britt RR | title =Age of Universe Revised, Again | publisher =[[space.com]] | date = 2003-01-03
| url = http://www.space.com/scienceastronomy/age_universe_030103.html | accessdate = 2007-01-08}}</ref>や130–150億歳<ref>{{cite web
| author = Wright EL | title =Age of the Universe | publisher =[[UCLA]] | year = 2005 | url = http://www.astro.ucla.edu/~wright/age.html | accessdate = 2007-01-08}}<br />{{cite journal | author = Krauss LM, Chaboyer B | title =Age Estimates of Globular Clusters in the Milky Way: Constraints on Cosmology | journal =[[Science (journal)|Science]] | volume = 299 | issue = 5603 | pages = 65–69 | publisher =American Association for the Advancement of Science | date = 3 January 2003 | url = http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/299/5603/65?ijkey=3D7y0Qonz=GO7ig.&keytype=3Dref&siteid=3Dsci | accessdate = 2007-01-08 | doi =10.1126/science.1075631 | pmid =12511641}}</ref>とする大雑把な推定値とも矛盾しない。
2013年[[3月21日]]、[[欧州宇宙機関]](ESA)は「宇宙の誕生時期がこれまでの通説より1億年古い、約138億年前(正確には、13.798 ± 0.037 Gyr)である<ref>{{cite web | title = Planck 2013 results. XVI. Cosmological parameters | url=http://arxiv.org/pdf/1303.5076v1.pdf|format=PDF|accessdate=2013-06-08}}</ref>」と発表した。
=== 宇宙の成分 ===
[[File:DMPie 2013.svg|thumb|right|250px|原子でできている通常の物質は宇宙全体の5%にも満たない。]]
宇宙は何でできているか、またその占める割合については、かつては光を含む電磁波による観測から求められていた。ところが、様々な研究を通じて必ずしも観測できるものだけが宇宙を構成しているとは考えられなくなった。やがて宇宙の成分は原子である物質ではなく、エネルギーの比で表されるようになり、むしろ未だ正体が判明しないダークマターとダークエネルギーとの割合が多数を占めるようになった<ref name=Ara22>[[#荒舩|荒舩、pp. 22-23、星や銀河は宇宙のわずか5%にすぎない]]</ref>。[[宇宙マイクロ波背景放射]]の観測で得た宇宙初期のむらから当初試算されたエネルギー比は、ダークエネルギー72.8%・ダークマター22.7%・物質(原子)4.5%だったが<ref name=Ara22 />、[[宇宙探査機]][[WMAP]]や[[人工衛星]][[プランク (人工衛星)|プランク]]の観測によって、2003年以降、精度が高められ、以下の数値になった<ref name=Ara22 /><ref>{{cite web
| publisher = [[欧州宇宙機関|ESA]]
| title = Planck reveals an almost perfect Universe
| date = 2013-03-21
| url = http://www.esa.int/Our_Activities/Space_Science/Planck/Planck_reveals_an_almost_perfect_Universe
| accessdate = 2013-07-07
}}</ref>。
* [[ダークエネルギー]]: 68.3%
* [[暗黒物質]](ダークマター): 26.8%
* [[原子]]: 4.9%
人類はその目に映る物質の根源や力の法則を明らかにする研究を続け[[素粒子物理学]]を構築している。それは宇宙開闢の様子さえ理論化に成功した。ところが、宇宙の研究においてこれらの考察が宇宙全エネルギーの4.9%程度にしかならず、残りの95%は、そのようなものがあるという程度しか理解が及んでいない。この分野への科学的探究が求められている<ref name=Ara22 />。
宇宙にある元素は、[[水素原子]]が93.3%を、[[ヘリウム]]原子が6.49%を占める<ref>「徹底図解 宇宙のしくみ」、[[新星出版社]]、2006年、p39</ref>。また、観測可能宇宙内の原子の総数は、足し合わせると10の80乗個程度となる。
=== 宇宙の膨張 ===
20世紀に入り行われた[[観測]]から、宇宙は[[膨張]]をしていると見なされている。だが過去には様々な考えがあった。[[アイザック・ニュートン]]は[[絶対時間]]・[[絶対空間]]の前提から導かれた[[ニュートン力学]]が支持され、人々は宇宙は[[静的]]で[[定常]]であると見なしていた<ref name=Ara8 />。
[[1915年]]に[[アルベルト・アインシュタイン]]が発表した[[一般相対性理論]]では、[[エネルギー]]と[[時空]]の[[曲率]]の間の関係を記述する[[重力場方程式]]([[アインシュタイン方程式]])があった。この方程式が導き出す宇宙の未来は、星々の[[重力]]によって宇宙は[[収縮]]に転じ、やがて一点に潰れるというものだった<ref name=Ara8 />。この解は、アインシュタイン自身や[[ウィレム・ド・ジッター]]、[[アレクサンドル・フリードマン]]、[[ジョルジュ・ルメートル]]らによって導かれた。当初アインシュタインは、宇宙は定常であると考えていたため自分が見つけた解に[[定数]]([[宇宙定数]])を加えることで宇宙が定常になるように式に手直しを加えた<ref name=Ara8 />。
[[1929年]]に[[エドウィン・ハッブル]]が、すべての銀河が遠ざかっている事を発見し、さらに[[距離]]が遠い銀河ほど遠ざかる速度が早いことを見出した([[ハッブルの法則]])。この[[観測]]結果から「膨張する宇宙」という概念が生じ、アインシュタインも「人生最大の誤り」と述べ重力場方程式から宇宙定数を外した<ref name=Ara8 />。
==== 膨張の中心 ====
すべての天体を含む宇宙全体が膨張しているため、無数の銀河がほぼ一様に分布していて、その距離に[[比例]]した[[速度]]で遠ざかっている。そのため、いずれかの銀河から見たとしても、同じ速度に見える(膨張宇宙論)。「[[宇宙原理]]を採用すれば、宇宙には果てがない」と言うため、これを信じれば宇宙膨張の中心は存在しない。銀河の後退速度が[[光速]]に等しくなる距離は、宇宙論的固有距離において地球から約150億光年のところとなる。宇宙年齢に光速をかけた距離とこの距離が近似するのは偶然である。これはハッブルが発見したため、ここまでの距離は[[ハッブル距離]]、あるいは[[ハッブル半径]]と呼ばれるが、これは宇宙の[[地平面]](宇宙の事象の地平面、あるいは粒子的地平面)ではない。[[光速]]を超えて遠ざかる天体は赤方偏移Z=1.6程度の天体と考えられるが、この値を超える天体はすでに1000個程度観測されている。
=== 宇宙の誕生 ===
[[ファイル:Universe expansion-en.svg|thumb|220px|left|[[ビッグバン]]理論では、宇宙は極端な高温高密度の状態で生まれたとされる(下)。その後、[[空間]]自体が時間の経過とともに膨張し、[[銀河]]はそれに乗って互いに離れていく(中、上)]]
[[ビッグバン理論]](ビッグバン仮説)では、宇宙の始まりは[[ビッグバン]]と呼ばれる大爆発であったとされている。[[ハッブルの法則]]によると、地球から遠ざかる天体の速さは地球からの距離に比例している。そのため、逆に時間を遡れば、過去のある時点ではすべての天体は1点に集まっていた、つまり宇宙全体が非常に小さく高温・高密度の状態にあった、と推定される。このような初期宇宙のモデルは「ビッグバン・モデル」と呼ばれ、1940年代に[[ジョージ・ガモフ]]が物理学の理論へ纏め上げた<ref name=Ara8 />。
ガモフはビッグバンの時に発せられた光がマイクロ波として観測されるはずと予言した<ref name=Ara8 />。その後、[[1965年]]に[[アーノ・ペンジアス]]と[[ロバート・ウッドロウ・ウィルソン|ロバート・W・ウィルソン]]によって、宇宙のあらゆる方角から放射される絶対温度3度の黒体放射に相当するマイクロ波([[宇宙背景放射]])が発見された。これは宇宙初期の高温な時代に放たれた[[熱放射]]の名残とみなされ、予言の正しさを裏付ける証拠とされた<ref name=Ara8 />。
ビッグバン・モデルの研究は進み、例えばその温度についてガモフは100億度程度と考えたが、後に10<sup>31</sup>度と試算されている。ビッグバン直後の宇宙には物質は存在せず、エネルギーのみが満ちた世界だったと考えられている。理論によると、物質の基礎になる[[素粒子]]は100万分の1秒が経過した頃に生じ、その時には温度が10兆度程度まで下がった。1万分の1秒後に温度は1兆度になり、[[陽子]]や[[中性子]]が出来上がった。宇宙は膨張しながらさらに冷え、3分後には水素・ヘリウム・リチウムなどの原子核や電子が生じ、温度は10億度になった。38万年が経過すると温度は3800度程度になり、電子が[[原子核]]に囚われて[[原子]]となって、ビッグバンが起こった時に生じた[[光子]]が素粒子に邪魔されずに真っ直ぐ進めるようになった。これは「宇宙の晴れ上がり」と呼ばれ、この光が宇宙背景放射である<ref name=Ara8 />。原子は電気的に中性で反発しないため、やがて重力で纏まり始めて、約1~1.5億年後には[[ファーストスター]]が<ref name=Ara16-17>[[#荒舩|荒舩、pp. 16-17、ビッグバンで膨張した宇宙の成長]]</ref>、約9億年後には<ref name=Ara14>[[#荒舩|荒舩、pp. 14-15、ビッグバンの前にも宇宙はあった]]</ref>星や銀河を形成するようになった<ref name=Ara8 />。
しかしその後、宇宙の[[地平線問題]]や[[平坦性問題]]といった、初期の単純なビッグバン理論では説明できない問題が出てきた。これらを解決する理論として1980年代に[[インフレーション理論]]が提唱され、ビッグバン以前に急激な膨張(インフレーション)が起こった、とされるようになった<ref>[https://www.nao.ac.jp/study/uchuzu/univ01.html 「宇宙はどのように生まれたのか?」](国立天文台)</ref>。この理論では宇宙の真の誕生はビッグバンの前に無から生じ、急激な膨張(インフレーション)を経てからビッグバンが起こったという。インフレーション時に内包するエネルギーにはわずかなムラがあり、このムラが原子の集積を呼び込んだ事、またムラが一様だったため宇宙が平坦になったとしている<ref name=Ara14 />。提唱当時のインフレーション理論には観測結果が伴っていなかったが、後に精密な宇宙背景放射の測定が理論と一致する事が判明し、信頼性が高まった<ref name=Ara14 />。
=== 宇宙の未来 ===
{{main|宇宙の終焉}}
宇宙定数を取り除いた[[アインシュタイン方程式]]の解が示す宇宙の未来は、膨張がやがて収縮し、最終的に一点につぶれる[[ビッグクランチ]]と呼ばれるモデルであった。地球表面でボールを空に投げると高く上がるが、やがて勢いが無くなり落ちて来る。同様に、膨張の原動力である熱や光の放出の力が低下し、重力が優勢になると宇宙は膨張速度を落とし、収縮に転じる。ほとんどの科学者はこのモデルを支持していた<ref name=Ara18>[[#荒舩|荒舩、pp. 18-19、宇宙が辿る運命は3つの可能性]]</ref>。
ところが1998年に膨張速度を観測した2つのグループ<ref group="注釈">この2つのグループはライバル関係にあり、それらが同じ結論に至った事が観測の信ぴょう性を高めた。[[#荒舩|荒舩、p. 19]]</ref>が、宇宙誕生後70億年頃から加速膨張が始まったと発表し、未来モデルは書き換えられた。宇宙を加速膨張させる原動力は謎のままダークエネルギーと名付けられ、将来的にこの量がどのように推移するかによって2つのモデルが作られた。ダークエネルギーの増加が続き膨張が加速され続けてやがて無限大になると、宇宙は素粒子レベルまでばらばらに引き裂かれて終焉を迎える。これは[[ビッグリップ]]と呼ばれる。ダークエネルギーによる膨張が無限大に達しなければ、宇宙は緩やかに膨張を続けながらも破綻しない可能性もある<ref name=Ara18 />。
=== 宇宙の歴史 ===
{{main|宇宙の年表}}
== 宇宙における距離 ==
天文的な距離を表すのには[[光年]]がよく用いられるが、銀河団間の距離や宇宙の構造を取り扱う場合には[[メガパーセク]] (Mpc) が使われることがある。1メガパーセクは326万光年。
* 宇宙膨張を考慮した最大観測可能距離([[共動距離]]):14000 Mpc
* 見かけ上の最大観測可能距離:4200 Mpc
* 各[[クエーサー]]までの距離:600〜4000 Mpc
* [[ヘルクレス座・かんむり座グレートウォール]]の大きさ:3000 Mpc
* [[うお座・くじら座超銀河団Complex]]の全長:300 Mpc
* [[シャプレー超銀河団]]までの距離:200 Mpc
* [[かみのけ座銀河団]]までの距離:90 Mpc
* [[グレートアトラクター]]までの距離:68 Mpc
* [[ケンタウルス座銀河団]]までの距離:48 Mpc
* [[宇宙の晴れ上がり|晴れ上がり]]時の宇宙の大きさ(観測可能宇宙の直径):25Mpc
* [[おとめ座銀河団]]までの平均距離:20 Mpc
* [[アンドロメダ銀河]]までの距離:0.7 Mpc
* [[銀河系]]の直径:0.03 Mpc
* [[ハッブル定数]]:67 km/s/Mpc
おとめ座超銀河団の隣の超銀河団は、うみへび座ケンタウルス座超銀河団であるが、両者は非常に近い関係にある。
クエーサーは、天体の中でも最も明るいものであるが、宇宙が若い頃(20億〜30億歳の頃)に多く形成された天体であるため、遠くに見えている。(遠くの天体は過去の事象が見えている)
ヘルクレス座かんむり座グレートウォールは、今までに観測された中で最も大きな宇宙の大規模構造。
かみのけ座銀河団を核とする[[かみのけ座超銀河団]]も、おとめ座超銀河団の隣の超銀河団であるが、所属するフィラメントは異なる。かみのけ座超銀河団はかみのけ座ウォールの中心部である。
[[ハッブルの法則]]をおとめ座銀河団に当てはめてみると、{{val|20|u=Mpc}} × {{val|67|u=km/s/Mpc}} = {{val|1340|u=km/s}} となり、おとめ座銀河団は、{{val|1340|u=km/s}} という速度で、我々から遠ざかっている。ここから、おとめ座銀河団の重力による銀河系がおとめ座方向へ近づく速度 {{val|185|u=km/s}} を引くことにより、実際の相対速度1155km/sが導かれる。
シャプレー超銀河団は、ラニアケア超銀河団の隣の超銀河団。
== 人類の宇宙観 ==
=== 宇宙の階層構造 ===
{{ external media
| width = 300px
| align = right
| video1 = [http://www.youtube.com/watch?v=17jymDn0W6U 人間に知られている範囲の宇宙] - 2009年時点の科学的知識に基づいて、恣意的ではあるが地球を中心に設定しておいて、宇宙背景放射が放射された面までの宇宙全体を光行距離で描いた架空的な動画 (2009年12月、[[アメリカ自然史博物館]])
}}
[[地球]]は[[惑星]]のひとつであり、周囲に[[月]]が回っている。いくつかの惑星が[[太陽]]の周りを回っている。太陽とその周りを回る惑星、その周りを回る[[衛星]]、そして[[準惑星]]、[[小惑星]]や[[彗星]]が[[太陽系]]を構成している。
太陽のように自ら光っている星を[[恒星]]という。恒星が集まって[[星団]]を形成し、恒星や星団が集まって[[銀河]]を形成している。銀河に含まれる恒星の数は、小さい銀河で1000万程度、巨大な銀河では100兆個に達するものもあると見られている。
銀河は単独で存在することもあるし、集団で存在することもある。銀河の集団は、[[銀河群]]、[[銀河団]]と呼ばれる。それらがさらに集まったものは[[超銀河団]]と呼ばれる。さらに巨視的には、いくつもの超銀河団が壁状あるいは柱状に連なったようになっていて、これを[[銀河フィラメント]]と呼ぶ。壁状のものは特に銀河ウォールもしくは[[グレートウォール]]などとも呼ぶ。銀河ウォールや銀河フィラメントの周囲には銀河がほとんど存在しないような空虚な大空間が広がっていて、この空間を[[超空洞]](ボイド)と呼ぶ。現在の科学で観測されうる最大の宇宙の構造がこの超空洞と銀河フィラメントの重層構造であり、これを[[宇宙の大規模構造]]と呼ぶ。この構造は面と空洞から成ることから「宇宙の泡構造」としてよく表現される。
我々の住む銀河は、[[銀河系]]あるいは天の川銀河と呼ばれ、2000億~4000億個の恒星が存在している。天の川銀河は直径10万光年ほどの大きさで、地球から見ると文字通り[[天の川]]となって見える。[[星座]]を形づくるような明るい星は地球の近傍にある星であり、ほとんどは数光年から千数百光年ほどの距離にある。
天の川銀河の所属する銀河群は[[局所銀河群]]と呼ばれ、局所銀河群は[[おとめ座超銀河団]]の一員である。また、おとめ座超銀河団は、「[[うお座・くじら座超銀河団Complex]]」という名の長さ10億光年の銀河フィラメントの一部である。
なお、超銀河団の枠組みとしては、おとめ座超銀河団より大きな範囲となる[[ラニアケア超銀河団]]を設定すべきとの考えもある。ラニアケア超銀河団の中心には、[[グレートアトラクター]]と呼ばれる巨大な重力源が存在し、おとめ座超銀河団も、それにより引きつけられている。ただし、宇宙膨張によって引き離される力のほうが大きいので近づいているわけではない。
地球から観測可能な範囲(光が届く範囲)には、少なくとも1700億個の銀河が存在すると考えられている。
{{Clear}}
{| class="wikitable" style="margin:0.5em auto; width:800px;"
! Constituent spatial scales of the observable universe
|-
| style="font-size:88%; text-align:center;" | [[File:Location of Earth (3x3-English Annot-smaller).png|800px]]
このダイアグラムは宇宙を視る視野を、まず地球あたりだけに焦点をあてた状態から始めて、次第に大規模なスケールへと変化させている。各写真の視野のスケールは、左から右へと、そして上から下へと大きくなる。
<!--This diagram shows Earth's location in the universe on increasingly larger scales. The images, labeled along their left edge, increase in size from left to right, then from top to bottom.-->
|}
=== 地球上の人類が観測可能な範囲 ===
{{Main|観測可能な宇宙|観測|光速|視野|主観}}
[[File:Observable_Universe_Japanese_Annotations.png|thumb|200px|中世に似た、現代の人類中心の宇宙観。観測可能な宇宙は無数に選択肢があるが、人類が住む太陽系を宇宙の中心であるかのように見立てて宇宙を[[対数スケール]]で表した図。]]
上で説明したように、本当の宇宙全体の大きさは全然分かっていないが、現時点での観測可能な限界ライン([[事象の地平面|宇宙の地平線]])の算出というのは、全然別の簡単な問題であり、簡単に算出できる。[[地球]]から理論上観測可能な領域([[観測可能な宇宙]])は、半径約450億[[光年]]の球状の範囲である。ただしこの大きさは[[赤方偏移]]から計算された理論上の値であり、直接の観測によって正確に分かっているわけではない。
なお現代の自然科学では宇宙に特別な中心があるとは考えられておらず、宇宙全体について考察するとき、人類や地球を特別扱いして中心として扱うなどという考え方はそもそも根本的に間違っている、もってのほかだ、と考えられている、ということは強調しておかなければならない。
「天体から放たれた[[光]]が地球にたどり着くまでの時間に光速をかけたもの」は{{仮リンク|光路距離|en|Distance measures (cosmology)}}(あるいは光行距離)と呼ばれている。これは光が地球に届くまでの間に、光の旅した道のりを表す。光路距離では、[[電磁波]]により観測される宇宙<ref group="注釈">電磁波による観測に制限されない、観測可能な宇宙との違いに注意。</ref>の果てから地球までの光の旅した道のりは約138億光年と推定されている。これは光速に宇宙の年齢をかけたものだが、この値は先に述べた2つの距離(450億光年、4100万光年)と値が異なっている。光が地球に届く間に宇宙が膨張し、そのため光の道のりが延び、また光を放った空間が遠ざかるからである。つまり、光路距離はある時刻における空間上の2点間の距離を指し示すものではない。天文学では光路距離を天体までの距離とみなすことが多いが、それは我々に届く光が旅した道のりであり、現在の天体までの距離や、天体が光を放ったときの天体までの距離を示すものではない。
現在(21世紀初頭)の地球上の人類が観測することができる最も古い時代に放たれた光は、約138億年前に約4100万光年離れた空間から放たれた光だ、などと、最近数十年は考えられており、「その光源がある空間は、現在450億光年の彼方にあり、光は138億年かけて138億光年の道のりを旅してきた。わずか4100万光年の距離を光が進むのに138億年もの時間を費やしたのは宇宙の膨張が地球への接近を阻んだためだ」などと、ここ数十年の物理学者・天文学者などによって考えられている。(なおこれを分かりやすく[[比喩|喩える]]と、流れの速い川を上流へ向かう船がなかなか前に進めないという状況に似ている。「宇宙空間の膨張」という仮定はそもそも一般相対性理論を原理に据えて導き出しているわけだが、電磁波の媒質である空間の膨張により地球を基点としたときの、地球から離れた場所にある光の速度が変化しても特殊相対性理論における「光速度不変の法則」とは矛盾しない)。
《地球上から見ることができる宇宙の大きさ》とは、[[人間]]が物理的に観測可能な宇宙の時空の最大範囲を指す表現である。宇宙は膨張し続けているため、宇宙の大きさをと言うと、観測できる光のなかでも、最も古い時代に光が放たれた空間のことを指している。この空間から光が放たれたとき、つまり約138億年前([[宇宙の晴れ上がり]]直後)、この空間(観測可能な宇宙の果て)は地球がある位置から(地球を中心とする全方向に宇宙論的固有距離において)約4100万[[光年]]離れたところにあった。そしてこの空間は、地球の位置から、光の約60倍の速度<ref group="注釈">ここでいう「速度」の大きさとは地球のある位置から対象までの宇宙論的固有距離を宇宙時間で微分したものである。以下、「宇宙の大きさ」の項目における「速度」および「速さ」はこの定義に準ずる。</ref>で遠ざかっていた、とされる。この空間までの現在の距離である{{仮リンク|共動距離|en|Comoving_distance}}は、約450億光年<ref group="注釈">450億光年先の空間は現在における光子の[[事象の地平面#宇宙の地平面|粒子的地平面]]である。
</ref>と推定されている<ref>[https://www.nao.ac.jp/study/uchuzu/rule.html 「宇宙図の見方」](国立天文台)</ref>。
なお典型的な[[銀河]]の直径でも3万光年であり、隣どうしの銀河の間の典型的な距離は300万光年にすぎない<ref>Rindler (1977), p.196.</ref>。例えば、我々人類が属している[[銀河系|天の川銀河]]はざっと10万光年の直径であり<ref>{{cite web
| last = Christian
| first = Eric
| last2 = Samar
| first2 = Safi-Harb
| title = How large is the Milky Way?
| url=http://imagine.gsfc.nasa.gov/docs/ask_astro/answers/980317b.html
| accessdate = 2007-11-28 }}</ref>、我々の銀河に最も近い銀河の[[アンドロメダ銀河]]はおよそ250万光年離れている<ref>{{cite journal
| author=I. Ribas, C. Jordi, F. Vilardell, E.L. Fitzpatrick, R.W. Hilditch, F. Edward
| title=First Determination of the Distance and Fundamental Properties of an Eclipsing Binary in the Andromeda Galaxy
| journal=Astrophysical Journal
| year=2005
|volume=635
| pages=L37–L40
| url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2005ApJ...635L..37R/abstract
| doi = 10.1086/499161
}}<br />{{cite journal
| author=McConnachie, A. W.; Irwin, M. J.; Ferguson, A. M. N.; Ibata, R. A.; Lewis, G. F.; Tanvir, N.
| title=Distances and metallicities for 17 Local Group galaxies
| journal=Monthly Notices of the Royal Astronomical Society
| year=2005
|volume=356
|issue=4
| pages=979–997
| url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2005MNRAS.356..979M
| doi = 10.1111/j.1365-2966.2004.08514.x
}}</ref>。観測可能な宇宙の範囲内だけでもおそらく1000億個(10<sup>11</sup>個)の銀河が存在している<ref>{{cite web | last = Mackie | first = Glen |date= February 1, 2002 | url = http://astronomy.swin.edu.au/~gmackie/billions.html | title = To see the Universe in a Grain of Taranaki Sand | publisher = Swinburne University | accessdate = 2006-12-20 }}</ref>。
人類の宇宙観は、ここ百年ほどの間で大きく進展してきた。学問的には、静的な宇宙観から動的な宇宙観へと移行し、科学技術的には、人類は有人宇宙飛行を実現し、地球以外の天体である月に降り立ち、国際宇宙ステーションも建造した。宇宙に関するSFや映画などの創作物も啓蒙的な意義を持っていた。
{{右|
[[ファイル:Albert_Einstein_Photography.jpg|thumb|150px|[[相対性理論]]によって[[現代宇宙論]]の道を示した[[アインシュタイン]]]]}}
中でも物理学上の時空間に関する観念の変革は、大きな意味を持っている。学問上の大きな起点となったばかりではなく、我々の生活上の常識からの類推が、宇宙の本質を考察するためには全く不適合であることを示した意味合いも持っている。
=== 奇蹟的な宇宙 ===
{{see also|人間原理}}
そのように、物理学に大改革がもたらされた当初、この宇宙に存在する各物理定数がどうしてそのような値になったのかも次第に解明されていくものと思われていた。しかし、[[超ひも理論]]などによれば、今の宇宙に見られる物理定数は、宇宙創世時にたまたまそうなっただけで、実はどんな値でも採り得たというのである。そのパターンは実に10の500乗通りにも及ぶという。そしてこれらの値は、人間の存在のために都合良く出来過ぎている。つまり、我々の住む宇宙は奇蹟的な宇宙なのである。この宇宙の不思議さに対して、これを紐解こうとする試みもある。'''人間原理'''によれば、生成される宇宙は無数にあるため、その中のひとつがたまたま人間に都合がよくても驚くに当たらない、という。例えば、10の500乗個の宇宙があれば、10の500乗のパターンのうちの特別なひとつが現れたとしても不思議ではなく、我々がたまたまそこに居るだけということになる。
== 宇宙と哲学 ==
{{出典の明記|section=1|date=2022-01-23}}
「宇宙は何故あるのか」のような問いは[[存在論]]と呼ばれ、[[認識論]]と並ぶ[[形而上学]]の主要テーマのひとつである。
[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]は、存在論において「[[なぜ何もないのではなく、何かがあるのか]]」という形でこれを定式化し、[[カント]]や[[ショーペンハウアー]]、[[アンリ・ベルクソン|ベルクソン]]らが取り組み、[[ハイデガー]]もまたこの問題の重要性を説いた。
これに対し、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]をはじめとする[[不可知論]]の立場からは、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」との論がある。
== 地球外生命の存在 ==
{{出典の明記|section=1|date=2022-01-20}}
[[地球]]が宇宙において典型的な[[天体]]であると仮定すると、宇宙には数多くの[[地球外生命]]が存在することになる。しかし現在に至るまで地球外生命の存在が確認されたことはなく、この問題は[[天文学上の未解決問題]]の一つとされている。
星に人が住んでいるという着想は古来より見られる。日本最古の物語とされる[[竹取物語]]においても、かぐや姫は月の住人であり、ローマ帝国時代の作家の作品には太陽の住人や金星の住人の話が出てくるという。
== 宇宙の観測・探査 ==
* [[公開天文台一覧]]:日本の公共天文台を主に扱っているページ
* [[天文台一覧]]:海外の天文台を主に扱っているページ
*[[宇宙望遠鏡の一覧]]
* [[望遠鏡]]・[[宇宙望遠鏡]]の項なども参照のこと
== 宇宙開発 ==
{{main|宇宙開発}}
[[人工衛星]]や[[宇宙ステーション]]など、[[地球]]の[[地球周回軌道|軌道]]上の[[人工天体]]が開発されている。これらの人工天体は例えば、[[GPS]]などの[[衛星測位システム]]や[[微小重力実験]]などの科学実験のために利用されている。
宇宙開発やその周辺技術について、現時点で実現されていないが実現のための研究開発が行われている、あるいは概念として提案されているものとして、[[宇宙太陽光発電]]や[[軌道エレベータ]]などがある。
宇宙太陽光発電は、宇宙空間での[[太陽光発電]]と無線による送電を組み合わせたシステムである。宇宙空間での太陽光発電は、大気による減衰がなく、また天候の変化や昼夜の移り変わりに左右されないため、地上における太陽光発電に比べて大きな電力が安定して得られることが見込まれている。
軌道エレベータは、[[静止衛星]]軌道上の宇宙基地と地上とを結ぶケーブル上を往復する乗り物である。軌道エレベータは、従来のロケットによる輸送に比べて、安定的に大容量の貨物を輸送できると見込まれている。
== 並行宇宙 ==
{{節スタブ|date=2022-01-23}}
{{main|多元宇宙論}}
[[理論物理学]]において、並行宇宙の存在を議論することがあり、[[多元宇宙論]]として知られる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|title=宇宙がわかる本|last=荒舩|first=良孝|publisher=[[宝島社]]|year=2014|isbn=978-4-8002-2941-0|ref=荒舩}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|宇宙}}
{{Commons&cat|Space|Space}}
* [[宇宙論]] - [[時空]] - [[相対性理論]] - [[事象の地平面]]
* [[天文学]] - [[天体]] - [[銀河系]]([[天の川|天の川銀河]]) - [[恒星]] - [[惑星]] - [[宇宙の大規模構造|大規模構造]]
* [[宇宙基本法]] - [[宇宙船]] - [[宇宙速度|第一宇宙速度]]
* [[光速]] - [[ブラックホール]]
* [[アインシュタイン・ヒルベルト作用|アインシュタイン ヒルベルト作用]]
* [[標準模型|素粒子標準模型]] - [[超対称性]]
* [[微調整された宇宙]]
* [[量子重力理論]] - [[超弦理論]] - [[Dブレーン]] - [[カラビ・ヤウ多様体|カラビヤウ多様体]] - [[ホログラフィック原理]]
* [[なぜ何もないのではなく、何かがあるのか|なぜ何もないのではなく何かがあるのか]] - [[ビッグバン]] - [[共形サイクリック宇宙論]]
* [[量子情報]] - [[量子もつれ|量子エンタングルメント]]
* [[シミュレーション仮説]]
* [[数学的宇宙仮説]] - [[An Exceptionally Simple Theory of Everything|E8理論]]
* [[侯景]] - 「宇宙大将軍」を称した
* [[宇宙際タイヒミュラー理論]](別の数学世界という意味での宇宙)
* [[存在]] - [[素朴実在論]] - [[多元宇宙論]]
* [[因果力学的単体分割]]
* [[宇宙飛行士]]
* [[宇宙旅行]]
* [[地球]]
== 外部リンク ==
* [https://www.jaxa.jp/ 宇宙航空研究開発機構(JAXA)]
* [https://www.nasa.gov/ 米国航空宇宙局(NASA)]
* [https://www.nao.ac.jp/study/uchuzu/index.html 国立天文台 宇宙図]
* {{Kotobank}}
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[[Category:宇宙|*]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-03-13T20:01:56Z | 2023-12-31T04:44:38Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99 |
3,958 | 日本の道路 | 日本の道路(にほんのどうろ)では、日本における道路について述べる。
日本の道路では、私道を除いて公共の営造物(公物)として地域住民と合意形成を得ながら、主に国や地方公共団体などが直接管理している。そのため、一定水準の管理の下で道路を維持しつつ、広く提供(供用)される必要があり、そのための法律が定められている。日本の道路の多くは道路法に基づいて管理されているが、その他にも農道や林道などでは別の法律に基づいている。
各関係法律別に、対応する道路をまとめると、下表のようになる。
道路交通法や道路運送車両法による道路上の規定は、一般の交通の用に供される全ての道路について適用される。
日本の道路網では、都市や拠点を結ぶネットワーク機能を有しており、都市間の道路では通行機能、都市内ではアクセス機能や滞留機能が求められている。また、山地部の道路では勾配やカーブの半径を厳しくとる必要がある。道路計画設計の基本においては、これら機能や地域特性に応じて代表的な指標を設けて、道路にいくつかの区分を設けている。具体的には、ネットワーク機能は「道路の種類」で表現し、交通機能を「計画交通量」で表現し、地域特性を「都市部・地方部」、「平地部・山地部」で表現している。
また、都道府県道と政令指定都市の市道には主要地方道に指定されている道路がある。
道路構造令に基づいて、道路の規模により第1種から第4種に分類され、それぞれはさらに、計画交通量によって第1級から第5級に分類(交通量が少ないほど級の数字が増える)される。 種の区分では、道路の種類として高速自動車国道や自動車専用道路と一般道路の別、都市部・地方部の別で区分している。級区分は、道路の種類、平地部・山地部の別、計画交通量で区分している。道路の建設を計画する際には、区間ごとにどれに分類するかを決定し、それに基づいて設計が行われる。
また、通行することのできる交通の種別による分類として、自動車専用道路、自転車専用道路、歩行者専用道路、自転車歩行者専用道路という道路法の専用道路と、道路の一部分を区画して自動車の通行を制限している道路構造令上の歩道、自転車道、自転車歩行者道がある。
自動車だけが走れるような構造になっている道路で、以下の条件を満たし道路管理者が法規に基づき指定を行ったものを自動車専用道路という。歩行者や自転車などの通行は禁止される。
これらの道路には、高速自動車国道、都市高速道路および上記の条件を満たす一般有料道路、自動車専用道路が該当する。なお、これらの法規の適用を受けない例外的存在として、私道である宇部伊佐専用道路がある。
高速道路のうち、高速自動車国道および一般国道の自動車専用区間の一部は、主に東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社・本州四国連絡高速道路株式会社が建設・管理を行う。
また都市高速道路とは、大都市圏およびその周辺地域でひとつのネットワークとして機能する自動車専用道路を指し、その事業主体は下記の都市高速道路会社や地方公社が中心となっている。
首都圏・阪神圏の都市高速道路である首都高速道路・阪神高速道路は都府県道または市道であるが、国・地方自治体の設立・出資による特殊会社(首都高速道路株式会社・阪神高速道路株式会社)がそれぞれ建設(一部、路線の存する都府県、市が施工する場合がある)・管理を行う。また国の認可を経て地方自治体が設立・出資する公社による都市高速道路を指定都市高速道路といい、名古屋、福岡・北九州、広島の3都市圏に整備されている。
なお、高速道路株式会社法(2004年6月9日公布)において高速道路とは次のように定義されている。
上記の自動車専用道以外の道路を、通常「一般道」と呼んで区別している。
古代の人々が農耕を始めて定住した場所には、集落間での交易が始まって往来が頻繁になり、多くの人が歩いた結果、自然発生的に踏み分けられた原始的な道ができた。それ以外の場所では、「獣道(けもの道)」が次第に踏み固められ、川沿いや尾根伝い、低い峠などに主要な道路が形成されて行った、とされていたが、2000年に国の特別史跡に指定された三内丸山遺跡に幅12メートルの舗装された道路が発見され、すでに縄文時代には人の手によって道路が作られていたことからそれまでの通説が覆っている。日本書紀の神武東征の件りで、河内国から大和国に兵を進めた様子を書いた記述、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」が、日本の書物の中での道路についての最も古い記述であるとされている。当時の道路が、人が2列で行進することができないほど狭いものであったことが判る。
日本における人工的な道路整備では、諸説あるが紀元前548年頃の綏靖天皇時代に山陽道が開かれたのが最も古いといわれている。日本国外では、紀元前3000年頃にエジプトでピラミッド建設のための道路が整備されていた記録があることから、日本の道路整備は海外に比べて時代的に大きな後れをとって始められていた。
7世紀当初、飛鳥地方に大和政権が誕生し、奈良盆地東縁を通る山辺の道や、聖徳太子が通ったとされる太子道、南北に通る上ツ道・中ツ道・下ツ道、これに直行する横大道、竹内街道などが造られた。日本書紀の推古天皇21年(613年)11月の記事には、「難波より京に至る大道を置く」とあって、当時の京は飛鳥であり、竹内街道は現在の奈良県葛城市 - 大阪府堺市を結ぶもので、今の国道166号のルートにほぼ相当するものである。
律令制が制定されて広域地方行政区画として五畿七道が定められると、日本で最初の計画的な道路網の整備が始められるようになり、646年、孝徳天皇の「改新の詔」により、地方に国司・郡司を置き、中央と地方の官庁とを結ぶ「駅路」が整備されることになった。中央政府を中心に、大路・中路・小路の制度が定められ、これが日本における道路制度の始まりと言われている。駅路の全長は6500キロメートル (km) にもおよび、30里(約16 km)毎に駅が設けられて、輸送機関として駅夫・駅馬が置かれた。駅路は大和朝廷の都(畿内)を中心に放射状に作られ、特に山陽道・東海道・東山道・山陰道・北陸道・西海道・南海道の7路線を「七道駅路」「畿内七道」として重点的に整備した。これら七道の呼称は、道路を指すだけでなく、その道路によって結ばれる国の地域的集合区分としても用いられた。この内、都と大宰府(九州)とを結び最重要視されていた山陽道と西街道の一部が「大路」、東国へ向かう東海道・東山道を「中路」、その他を「小路」と呼んだ。 これらの道路の特徴は、小さな谷は埋め、峠付近は切り通しにするなどして、できるだけ直線的に平坦になるように作られていたため、集落からは遠く離れたところを通っていた。この直線的な道路の傾向は、ローマ帝国におけるローマ街道でも見られる。
奈良時代には行基の指導により、平城京と各地を結ぶ奈良街道などが整備されたほか、神社や寺院が各地で建立されたため、高野街道、熊野古道などの信仰の道が生まれた。
藤原氏が治めた平安時代から鎌倉時代にかけては、大きな道路整備は行われなかった。
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、山陽道に代って都がおかれている京都と鎌倉を結ぶ東海道が重要視されるようになった。この時代には、頼朝が支配圏を拡大していくために道路整備を積極的に行っており、特に東国の関東武士が鎌倉へ集結するための関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が切り開かれた。
室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多く関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかった。
戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、領内の道路整備や峠の開削が行われた。特に武田信玄は、棒道と呼ばれる軍事的な輸送目的の道路を積極に整備している。領国の境には関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていったが、そんな中、織田信長は全国統一を目指して道路整備の方針を制度化し、この思想が江戸幕府に引き継がれることになる。信長は、1574年に道奉行の役職を置き、道路の大規模な改修を実施しており、主要道路の幅員を3間半(約6.54 m)、その他は3間(約5.5 m)として、2160間を1里(約3927 m)と制定している。
織田信長・豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視しており、道路改修や橋梁整備を怠らず行い、国の境にあった関所を廃止した。
江戸時代に入り、幕府は一般旅行者や諸国大名の参勤交代のため全国的な道路整備を行った。その中心となるのが、幕府直轄の五街道である。五街道は4代将軍徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの街道のことである。五街道に繋がる街道(附属街道)のうち主要なものを「脇往還」または「脇街道」という。五街道とその脇街道で、本州中央部のかなりの地域を網羅していた。五街道沿いには原則として天領・親藩・譜代大名が配置された。また、交通上重要な箇所には関所や番所を置いた。
五街道は1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のため順次整備が始められ、1604年(慶長9年)に日本橋が五街道の起点と定められた。1659年(万次2年)以降になると、五街道と脇街道は幕府の道中奉行の管轄とされた。それ以外の街道は勘定奉行が管理をしていたが、道中奉行のような直接管理ではなく、沿道の藩に実際の管理を行わせた。これは、五街道・脇街道以外の街道が外様大名の大藩の領地であることにも関係がある。
軍事・警察上の必要から街道の要所には関所を配置して検問が行われたほか、一里(約4 km)ごとに一里塚が設けられ、一定間隔ごとに開設した宿場には本陣・脇本陣、旅籠などが立ち並んだ。 江戸時代の街道には、古代の駅路などに比べて一般民衆の通行も多くなったが、旅人は道路を見てその藩の状況を判断するからということで、各藩は道路の整備に気を配っていた。また、当時は、馬や駕籠は使われていたものの、まだ馬車は無く交通の大半が徒歩であったことから、道路の傷みは馬車交通で破壊された欧州諸国の道路のようにひどくなかった。日本を訪れていた西欧人の旅行記などには、この当時の日本の道路の印象について書かれており、ヨーロッパの道路と違い整備状態が実によく行き届いていたことを示す評価がなされている。
平戸や長崎には、オランダ人の手によって、石畳による日本初の舗装道路が作られた。
徳川第15代将軍慶喜による大政奉還後、明治新政府によって近代的な道路整備が始まり、道路行政に関する諸制度が次第に整備されるようになった。1869年(明治2年)、全国諸道の関所が廃止されて制度面での交通障害が除かれた。また、それまで車両の使用に課されていた制約が除かれ、この結果、従前の駕籠に代わって、1870年に和泉要助が考案した人力車が軽便な交通機関として急速に普及した。さらに都市では上流層が馬車を用いるようになり、1869年(明治2年)には、東京 - 横浜間に日本で初めての乗合馬車が開業した。その後、東京 - 高崎間や東京 - 宇都宮間など、相次いで主要都市間の乗合馬車が開業されるようになった。日本にも馬車が輸入されて導入されるようになると、それまで徒歩に耐えられる程度に砂利を敷き砂で固めてあった当時の日本の道路は、馬車の通行によってすぐに傷んでたちまち悪路と化し、あまりのでこぼこ道に、馬車が横転する事故も発生していた。
明治政府が最初に行った道路方策は、1871年(明治4年)の太政官布告で発した有料道路制で、道路・橋梁などの築造や運営を民間人が実施し財源として料金を徴収することを認めた。この制度を基に1875年(明治8年)に、東海道に並行する小田原 - 箱根湯本間に日本初の有料道路が開通する。1872年(明治5年)には、太政官布告(道路清掃ノ条目)が制定されて、街路樹が植えられ、車道に砂利、歩道は煉瓦・敷石で舗装された近代的な道路が東京市にできた。さらに1876年(明治9年)の太政官布告第60号により、道路を国道・県道・里道の3種類に分け、さらに一等・二等・三等の等級に格付けする道路の法律制定されて、1898年(明治18年)内務省告示第6号に、江戸時代以来の主要な街道は日本橋を起点とする国道に指定されて1号から44号まで番号が付けられた。
1886年(明治19年)内務省訓令により、道路の施行方法について基準が定められ、割石道路(マカダム道路)が標準道路となった。この道路工法は、路床と路面は中央が少し高くなるように歪曲を持たせて、路床の上に4 - 5センチメートル (cm) 大の砕石を厚さ12.5 cmに敷き、その上の表層面に細砕石および接合剤を厚さ7.5 cmで敷き固めたものである。
1872年(明治5年)に新橋 - 横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、明治政府も長距離の交通手段としては、安全性が高く、より速度や輸送力に優れていた鉄道の建設を優先し、また沿岸部では内航航路が輸送に占める比重も大きかった。明治新政府の中には、鉄道整備を優先すべきと強力に主張する者がいたこともあって、道路の中では限られた幹線が馬車交通を辛うじて可能とする程度に整備されたに過ぎず、鉄道路線の延伸に伴い馬車は幹線道路から影を潜めるようになり、やがて鉄道が陸上交通の主役の座に就いた。
それでも、鉄道建設が明治時代中期以降まで遅れた地域では、新道開削が大規模に行われた例も見られた。よく知られるのは、明治10年代に三島通庸が相次いで県令(県知事)を務めた山形・福島での道路整備である。三島は県民に労働力と費用供出を強制し、文字通りの力業で道路建設を急速に推進した。その使役ぶりは官憲による強圧を伴うもので苛烈を極め、三島は「鬼県令」として恐れられた。福島・山形両県を結ぶ50 kmの新道「万世大路」(1881年全通)は、当時日本最長のトンネルである栗子山隧道(全長約870m)を含む馬車通行可能な道路で、三島の建設した道路の中でも最も有名な例と言える。
日本に初めて自動車が導入されたのは、1903年(明治36年)のことである。当時の日本の道路は全くの未舗装で、東京の都心部も舗装されていなかった。このため、雨が降ればたちまち道路は泥沼と化し、車のタイヤが泥にのめりこむのは当たり前で、でこぼこ道にたまった水溜まりを通り抜ける車がはねた泥水は、通行人に浴びせられることも日常茶飯事であった。初めてのアスファルト舗装が行われたのは明治の終わりごろだといわれており、まだこの当時の舗装技術は未熟だったため、簡易舗装的なものだったと考えられている。その後、大正期にかけて自動車の輸入が増大していき、道路の重要性も増してきたことから、市街地の道路整備も本格的に行われるようになっていった。
1919年(大正8年)に道路法が初めて制定され、道路は国道、府県道、郡道、市道、町村道の5種に分類され、国道も再編成が行われた。なお郡道は1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止されたことにより府県道及び市町村道に昇格及び降格となった。軍港や基地に達する国道路線が多く置かれ、軍事国道と呼ばれる国道も設置された。国道に関しては、建設費および改修費は国が負担し、その他の道路は地方公共団体が負担することになっていた。 1920年(大正9年)、日本初の道路整備長期計画である「第1次道路改良計画」が策定される。しかし、その3年後に関東大震災が発生し、帝都復興が優先された結果、地方道路の整備は更に遅れてしまった。日本初となる本格的な舗装道路、つまり現在でいう本舗装が誕生したのは、1926年(大正15年)に完成した東京・品川 - 横浜市間の約17 kmと、兵庫県尼崎市 - 神戸市間の約22 kmの道路であった。
この時代には、ドイツのアウトバーンを参考に、産業・軍事用の高速道路計画と主要道路の改良策も検討されたが、1937年(昭和13年)の日中戦争突入にはじまり、1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発という事態になると、戦争が最優先されて道路整備は実現不能なものとなっていた。
敗戦国となった日本は、戦争末期の空襲で甚大な被害を受けて、戦時中は保守管理が行き届かなかった道路も相当に荒廃していた。舗装はもとより路盤を造る砕石がほとんどない路面は、自動車の重量を支えられずに轍(わだち)はのめり込み、道路幅員もすれ違いが出来ないほど狭く、車両によっては沿道の家屋と接触するほどであった。また、トラック走行によって舞い上がる砂塵は、日常生活や周囲の農作物に対して被害を及ぼした。破損した道路の復旧・維持修繕を促すために、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官は、1948年(昭和23年)に「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の策定を要請し、1952年(昭和27年)に改正道路法が制定された。自動車の普及とともにその重要性が認識されはじめ、1954年(昭和29年)に「第一次道路整備五か年計画」が発足し、政府も道路整備に本腰を入れ始めるようになった。自動車保有台数も100万台を突破していたため、政府は国内初の高速道路である名神高速道路の実現可能性を探るべく、世界銀行が派遣したアメリカのラルフ・J・ワトキンスを長とする調査団に調査依頼したところ、1956年(昭和31年)に提出されたワトキンス・レポートで日本の道路事情の悪さを痛烈に指摘されるほど道路整備を行うための財源不足が外国人によって認識させられ、これが戦後日本の道路整備を推進するきっかけとなったといわれている。その後、田中角栄らが道路整備を行うための特定財源制度を議員立法で制定させて、その財源をもとに急速に道路整備が行われたことにより、ワトキンスが来日した当時は日本政府の道路整備支出予算は国民総生産(GNP)の0.7%に過ぎなかったものが、10年足らずの間に大幅に拡大されて2%を突破し、その後も2%台を維持した。
1960年頃まで、日本の道路のほとんどは非舗装といってよい状況であった。1960年代半ばまで一般国道の改良率や舗装率を伸ばすことが最重要課題で、道路整備五箇年計画の計画的・重点的実施により、道路水準は著しく向上し、高度経済成長期を支える基本インフラ整備に貢献した。その後は政府の経済計画である全国総合開発計画(全総)との連動で、時代による道路整備の方向性も変化していき、幹線道路の混雑の解消とともに高速道路の全国的整備へとシフトしていった。
1964年(昭和39年)東京オリンピックを1つの契機として、高速道路や都市高速道などが整備されていき、その前年の1963年(昭和38年)には日本初の高速道路である名神高速道路が誕生した。当初、高速道路は6つの法律に基づき個別路線ごとに計画されたが、全国的構想に基づくものではなかったため、1966年(昭和41年)に国土開発幹線自動車道建設法が制定され、延長7600 kmの全国高速道路網計画が策定された。
また、1960年代後半から始まったモータリゼーションは日本の道路の舗装化が急速に進んだ時期でもあったが、自動車の台数は急増していき、交通事故死者が激増して社会問題となり、昭和40年代は交通戦争という言葉まで生まれた。交通公害も社会問題となり、多様化する社会ニーズへの対応など、道路整備延長を増やすだけでは解決できない問題に対し、本格的に自動車や道路の対策が行われることになる。
1980年代に入ると、人口が東京・首都圏だけに集中し始める現象が起こるようになり、政府はこれに対処すべく1987年(昭和62年)に第四次全国総合開発計画(四全総)を策定し、「多極分散型国土の構築」を「交通ネットワークの構築」によって実現することが提唱され、7600 kmに代わる新たな高速道路網計画として延長1万4000 kmの高規格幹線道路網が主要プロジェクトとして位置づけられた。この計画では、目標サービスの改善としてインターチェンジまで1時間以内に見直され、災害に対するリダンダンシー(冗長性)などの視点が加えられた。バブル景気の時代に入ると道路の開発ラッシュで整備がさらに進んだ。
高速道路など高規格幹線道路のネットワークは全国を網羅し、それを補助する地域高規格道路も整備が行われた。道路において一定の量的ストックは形成されたため、2000年代に入り、道路整備予算は縮小されつつあるが、過去の道路建設に伴う負債が多くの自治体で問題となっている。
また、交通事故による死者数はピーク時1万5千人を超えていたが、2007年には高度な医療体制の確立や、エアバッグや衝突安全ボディーなど自動車の安全装置の充実、自動車台数の減少などによって5千人以下となった。
日本の道路交通規則では、自動車、自転車などの車両が左側通行、歩行者が右側通行である。1890年(明治33年)6月の初制度化から改正された1949年(昭和24年)ごろまでは、人も馬・車も道路の左側通行であった。これについての理由は、明治以前の武士の時代に刀を左に挿した侍が擦れ違う時に刀の鞘が触れないようにするためとも、すれ違いざまの攻撃のときに対応が遅れないためともいう説がある。また、牛車が左側を通行する習慣があったため、交通規則を定める際に人も車も左側通行したという説もある。明治に入り、新政府はイギリスに範を取り左側通行を正式に採用している。戦後、自動車が増えるに従い通行者が後ろからくる車に気づきにくく危険であるという理由から、GHQが、アメリカ合衆国と同じく車が右側通行、歩行者が左側通行の対面交通とするよう指導したが、日本の道路設備を右側通行にするには多額の費用と時間が必要ということが判明したため、車の左側通行は維持し歩行者のみ右側通行とすることとなった。アメリカ合衆国の施政下にあった沖縄県では、1978年7月30日まで車が右側通行だった(730)。
現在、世界的には「歩行者が左側、車両が右側」を通行する国が多数派であるが、日本と同様に「歩行者が右側、車両が左側」を通行する国にはイギリスなどがある。
日本の道路では、交通の円滑を図り、安全かつ安心に利用できるように、道路標識、路面標示、非常電話、道路情報提供装置、車両監視装置、車両諸元計測装施設、料金所、信号機の8種類の交通管理施設が設置されている。
道路標識は、道路で見かける丸形や三角形、四角形などの標識である。それぞれ役割があり、案内・警戒・規制・指示の各種類ごとに設置者が決められている。各種の道路標識は、一か所にいくつもの標識が設置されることがないように配慮がなされていて、交通の妨げとならないように道路利用者にとってわかりやすい位置に設置されている。(→詳細は、「日本の道路標識」を参照。)
路面標示は、道路の舗装面にある横断歩道や停止線、センターライン(中央線)などのマーキングのことである。マーキングの色は「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」(略称:標識令)により黄色や白色、青色表示などが定められていて、またその種類によって設置者が規定されている。(→詳細は、「日本の路面標示」を参照。)
非常電話は、高速自動車国道などの自動車専用道路に設置されていて、ネクスコなど道路管理者の担当センターに直接つながり、自動車の事故や故障など非常時の通報や援助を求める際に使用するものである。
道路情報提供装置は、その道路の渋滞や雨、霧、積雪、路面凍結などの気象情報、土砂崩れなどによる交通状況を把握して、道路上に設置された道路情報板などにより利用者へ情報提供する装置である。
車両監視装置は、主要道路の要所要所に遠隔操作できる監視カメラを設置して、交通事故や車両火災などの道路の状態を監視する装置である。交通量や走行速度を感知する車両感知器も、車両監視装置に含まれる。
車両諸元計測装置は、道路構造の保全や通行車両の安全を守るために、幹線道路沿いや料金所に設置されている施設で、日本の小型道路以外の道路設計基準である総重量25トン(245 kN)を超える重量の車両を検出し、取り締まるために設置されている。
料金所は、高速道路や有料道路の出入口に設けられる、通行料金を収受するための施設である。近年では、ETC(料金自動授受システム)の普及により、窓口の無人化がすすんでいる。
信号機は、交差点でよく見かける道路交通の信号装置で、車両用と歩行者用があり、交差点の安全を確保するうえで最も有効な設備である。信号の発光面は意外と大きく、車両用(円形)は直径25 - 30センチメートル、歩行者用(正方形)は1辺あたり25センチメートルある。また、表示色の赤・黄・青の3色のうち、「止まれ」を意味する赤が最も視認性の良い位置になるように配置されている。信号制御方法は、大別すると地点制御、線制御、面制御の3つに分類でき、地点制御は隣接交差点に連動しない当該交差点を単独で制御する方式、線制御は幹線道路において隣接する交差点とともに連動制御する方式、面制御は大都市などの道路網において近隣交差点を一括して制御する方式である。また、信号表示には定期周期と交通感応制御の2種類がある。(→詳細は、「日本の交通信号機」を参照。)
道路整備五箇年計画(どうろせいびごかねんけいかく)とは、1954年から政府の閣議決定により策定が開始された道路整備のための目標や事業量を定めた中長期計画および基本方針プログラムである。国民生活の向上と国民経済の健全な発展を図るために道路整備の計画的・重点的実施が的確に実行されることを目的としており、道路整備緊急措置法(昭和33年法律第34号)第2条第1項の規定に基づいて定められる。道路整備は非常に長期に及ぶとともに、多大な事業費を必要とするため、将来の交通需要を的確に予測し、事業効果を踏まえた優先順位のもとに事業プログラムを策定するものである。また中長期的な視点での有効需要を喚起し、整備された道路や橋、トンネルなどの交通インフラが十分に機能することで生み出される多くの経済効果をもたらすものとして、政府の経済計画の一翼を担う重要な役割を果たすものとして位置づけられている。
道路整備五箇年計画が策定される以前の1950年代前半の日本は、幹線道路の整備は十分ではなく、2車線以上で線形・勾配が満足に改良された道路改良率は一般国道で30%程度、舗装率は20%未満という状況で、日本の経済・産業の発展を阻害する要因の一つにもなっていたが、これまで道路整備五箇年計画に基づいて確実に道路整備が実施されたことにより、道路整備水準が著しく向上し、日本の経済発展に大きな貢献をもたらしてきている。その一方で、時代の経過とともに道路整備の重心も変化しており、1960年代ごろは道路改良率や舗装率の改善が重点的課題にあげられ、平成期に入るまでにその約90%以上が解消されてきたが、その後は高速道路の全国的な整備、幹線道路の交通障害の解消、交通事故や公害への対応など、多岐にわたる課題への取り組みが行われている。
道路法で規定している道路である高速自動車国道・一般国道・都道府県道・市町村道(以下、公道)を合わせた総延長は127万3620 kmあり、その長さは地球約32周分に相当する。全体から見た比率では、高速自動車国道が約0.7 %であるのに対し、生活道路といわれる市町村道で約83 %を占めている。近年、毎年約4000 kmの道路が新たに造られているといわれており、日本国内の道路延長を伸ばし続けている。
公道を対象とした都道府県別の道路延長は、国土交通省発行の道路統計年報2014年によると、北海道が9万7316 kmと最も長く、第2位の茨城県(6万0171 km)、第3位の愛知県(5万2185 km)と続く。また、最も短いのは沖縄県(9076 km)である。道路密度は、農村部よりも都市部の方が高く、人口密度の高い都市ほど道路密度も高い傾向にある。道路密度が最も高いのは埼玉県(13.00 km/km)で、2位が東京都、3位が神奈川県と続く。道路密度が最も低いのは北海道(1.24 km/km)で、1位埼玉県の10分の1以下である。
日本の公道全体を対象とした道路面積は、道路統計年報2014年によると7557 kmあり、熊本県や宮城県の面積を上回る。都道府県別では、最も広いのは北海道で730.3 kmあり、第2位が愛知県(332.7 km)、第3位が茨城県(284.8 km)と続く。一方、都道府県別の道路面積比率では、最も高いのが大阪府で8.04 %あり、2位が東京都、3位が神奈川県と続き、上位5位まで三大都市圏が占める。最も低いのは北海道の0.87 %であるが、これは北海道地域は明治以降に開発された広大な土地で未開の地も多いためである。
道路の路線や地域によって、道路幅には著しい差があり、概して古くから開かれた都市の道路は狭く、新興住宅地など新しく開けた土地の道路は比較的広いスペースが設けられている。都道府県別の道路幅の平均となると大きな差異はみられなくなるが、全国平均で5.90 mとなり、自動車がすれ違うことができない道路が全国的に多いことを物語っている。道路統計年報2014年によると、道路幅平均が最も広い都道府県は大阪府で7.57 mあり、2位が北海道(7.50 m)、3位が沖縄(7.11 m)と続く。
なお、日本の道路における車線の幅は、普通に見られる一般的な2車線道路でおおむね1車線あたり3.0 mの幅があり、幹線道路で3.25 m、高速道路などでは3.5 – 3.75 mとなっている。
車道に併設される歩道の設置状況は、交通弱者である歩行者を守る道路の安全整備状況がどれだけ進んでいるかを示す指標にもなっている。道路統計年報2014年によると、歩道設置率が最も高いのは沖縄県で27.0 %、2位が北海道(24.0 %)、3位が東京都(23.4 %)と続く。沖縄と北海道の歩道設置率が高い理由は、沖縄は戦後アメリカに占領されていた時期があったことや、北海道では明治時代以降に開拓された歴史を持つことから、他府県とは社会的、文化的に事情が異なっているからだという見方がされている。
交通事故の抑止効果があるとされる中央分離帯は、道路幅が広くないと設置困難なため、都市部ほど設置率が高い傾向にある。道路統計年報2014年によると、中央分離帯設置率が最も高いのは大阪府で4.1 %、2位が東京都(2.9 %)、3位は山口県(2.7 %)と続く。一方、設置率が低いのは長崎県・鹿児島県・高知県の3県で0.5 %となっている。
道路では、道路利用者や沿道住民に、より良い道路サービスを提供するために道路の機能の維持・修繕が行われている。その第一歩として、道路の異常や不法占用に対する措置を講ずるために、道路巡回によって道路情報の収集が行われている。道路巡回方法には状況に応じて4つの種類があり、(1) 原則2日に1回程度、目視点検を行う「通常点検」、(2) 原則として月1回、夜間の道路使用状況や夜間特有の照明施設などの安全施設などの機能を確認する「夜間巡回」、(3) 原則として年1回、橋梁やトンネルなどの構造物の破壊状況について点検を行う「定期点検」、(4) 台風や地震災害が発生したときに、交通障害や道路の利用状況を把握するために必要に応じて実施する「異常時巡回」がある。これら巡回業務以外でも、国土交通省の管理基準に則って、路面清掃、除草、樹木の剪定、降雪時の除雪が行われる。
舗装は、供用が始まると徐々に劣化していくため維持修繕が行われているが、日本では高度経済成長期に建設された道路舗装が老朽化し、維持修繕にかかる費用をなるべく抑えた効率の良い修繕計画が求められるため、PSIやMCIを用いて舗装性能を総合的に評価している。舗装が薄いと建設初期の費用は小さく済むが、頻繁に補修を行わなくてはならず、これに対して厚い舗装では維持修繕費用は少なく済むが、建設初期費用が高くなってしまうため、その中間になるようなライフサイクルコストになるように、舗装の厚さは考えられている。
冬期に積雪がある積雪寒冷地は、雪寒法(正式名:積雪寒冷特別地域における道路交通の確保に関する特別措置法)で定義されていて、雪や氷の害から道路の交通機能を維持するために、さまざまな工夫がなされている。路面の凍結防止対策としては、地下水が流れる消雪パイプを道路下に設置して、道路に水を散布することによって雪を溶かす方法や、道路下に熱を発するパイプや電熱線を埋め込むロードヒーティング設備を設置する方法がとられている。
道路施設としての安全対策は、除雪車による除雪位置や走行位置の目印にするための除雪ポールや道路幅表示器、道路脇の斜面に積もった雪が道路上に落ちてくるのを防止するための防護柵やスノーシェッド、チェーン脱着場(チェーンベース)、信号機の上に雪が積もりにくくなるようにした縦型信号機などが設置されている。
舗装についても対策されており、寒冷期に舗装下の路床(ろしょう)の凍結による体積膨張と、夏場に融解した際の地下水で地盤が弱くなることが繰り返されるによって引き起こされる、舗装表面のひび割れや、わだち掘れ現象の対策として、路床と舗装の下層路盤との間に、凍上抑制層とよばれる凍らない層を設置する。
環境影響評価(環境アセスメント)制度は、事業者があらかじめ環境への影響について調査または評価を行い、その結果に基づいて環境保全措置を検討することによって、事業計画を環境保全の上でより望ましいものとする仕組みである。環境保全評価は1972年に一部の事業で導入され、1997年からは環境影響評価法に基づき実施されるようになった。環境影響評価の対象となる道路事業のうち、大きな影響を及ぼす恐れがあるため必ず実施する道路(第1種事業)は、すべての高速自動車国道、4車線以上の都市高速道路、4車線以上かつ10 km以上の一般国道である。また、環境影響評価の手続きを行うかどうかを個別に判断する道路事業(第2種事業)は、4車線以上かつ7.5 - 10 kmの一般国道が対象となる。事業者は、環境影響評価の手順を守るため、まずはじめに環境保全のために配慮すべき事項を記載した「配慮書」を、評価項目や調査・予測・評価の手法などを検討した「方法書」を作成する。方法書に基づいて、環境影響の調査・予測・評価及び環境保全措置の検討をまとめて「準備書」に記し、住民や知事の意見と、事業者の見解を示して必要な修正を行って「評価書」として作成される。最終的に、事業が実施された後に評価書に対する「報告書」がとりまとめられる。
道路を走行する自動車が発する騒音は、地域の環境保全と快適な暮らしを守ることを目的に、環境基本法と騒音規制法によって規制されている。騒音には、距離減衰、反射、屈折、回折といった性質があり、これら考え方をもとに、道路にはさまざまな対策が施される。主な対策に、遮音壁と環境施設帯の設置があり、遮音壁は騒音を遮蔽して減音するとともに、吸音材により反射音を吸収する工夫がなされている。また環境施設帯は、交通量が多い自動車専用道路などの両側に20メートルほどの一定幅を持つ緩衝帯を設けることで騒音の距離減衰効果が期待される空間であり、そこに街路樹を植栽したり、一部は自転車歩行者道や車道が設けられる。
地球規模の環境問題の一つとして、温室効果ガスのひとつである二酸化炭素 (CO2) による地球温暖化がある。「日本国温室効果ガスインベントリ報告書」によれば、2015年度における日本国内の温室効果ガス (CO2) 総排出量は13億2500万トンあり、このうち自動車からのCO2排出量は総排出量全体の約15%を占めている。削減には自動車の燃費改善や、利用目的に応じた公共交通機関の有効利用法もあるが、道路における対策としては、渋滞をなくしたスムーズに走れる道路交通環境の改善と、道路の緑化・道路施設の太陽光発電などの新エネルギー活用が挙げられる。小型車は走行速度60 - 70 km/hのときにCO2排出量は最小になるという計算結果もあり、環状道路やバイパス道路の整備、道路交通情報の提供や弾力的な料金制度による道路交通の円滑化がCO2排出量の削減に寄与している。 | [
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"text": "日本の道路(にほんのどうろ)では、日本における道路について述べる。",
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"text": "日本の道路では、私道を除いて公共の営造物(公物)として地域住民と合意形成を得ながら、主に国や地方公共団体などが直接管理している。そのため、一定水準の管理の下で道路を維持しつつ、広く提供(供用)される必要があり、そのための法律が定められている。日本の道路の多くは道路法に基づいて管理されているが、その他にも農道や林道などでは別の法律に基づいている。",
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"text": "日本の道路網では、都市や拠点を結ぶネットワーク機能を有しており、都市間の道路では通行機能、都市内ではアクセス機能や滞留機能が求められている。また、山地部の道路では勾配やカーブの半径を厳しくとる必要がある。道路計画設計の基本においては、これら機能や地域特性に応じて代表的な指標を設けて、道路にいくつかの区分を設けている。具体的には、ネットワーク機能は「道路の種類」で表現し、交通機能を「計画交通量」で表現し、地域特性を「都市部・地方部」、「平地部・山地部」で表現している。",
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"text": "また、都道府県道と政令指定都市の市道には主要地方道に指定されている道路がある。",
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"text": "道路構造令に基づいて、道路の規模により第1種から第4種に分類され、それぞれはさらに、計画交通量によって第1級から第5級に分類(交通量が少ないほど級の数字が増える)される。 種の区分では、道路の種類として高速自動車国道や自動車専用道路と一般道路の別、都市部・地方部の別で区分している。級区分は、道路の種類、平地部・山地部の別、計画交通量で区分している。道路の建設を計画する際には、区間ごとにどれに分類するかを決定し、それに基づいて設計が行われる。",
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"text": "また、通行することのできる交通の種別による分類として、自動車専用道路、自転車専用道路、歩行者専用道路、自転車歩行者専用道路という道路法の専用道路と、道路の一部分を区画して自動車の通行を制限している道路構造令上の歩道、自転車道、自転車歩行者道がある。",
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"text": "自動車だけが走れるような構造になっている道路で、以下の条件を満たし道路管理者が法規に基づき指定を行ったものを自動車専用道路という。歩行者や自転車などの通行は禁止される。",
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"text": "これらの道路には、高速自動車国道、都市高速道路および上記の条件を満たす一般有料道路、自動車専用道路が該当する。なお、これらの法規の適用を受けない例外的存在として、私道である宇部伊佐専用道路がある。",
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"text": "高速道路のうち、高速自動車国道および一般国道の自動車専用区間の一部は、主に東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社・本州四国連絡高速道路株式会社が建設・管理を行う。",
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"text": "また都市高速道路とは、大都市圏およびその周辺地域でひとつのネットワークとして機能する自動車専用道路を指し、その事業主体は下記の都市高速道路会社や地方公社が中心となっている。",
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"text": "首都圏・阪神圏の都市高速道路である首都高速道路・阪神高速道路は都府県道または市道であるが、国・地方自治体の設立・出資による特殊会社(首都高速道路株式会社・阪神高速道路株式会社)がそれぞれ建設(一部、路線の存する都府県、市が施工する場合がある)・管理を行う。また国の認可を経て地方自治体が設立・出資する公社による都市高速道路を指定都市高速道路といい、名古屋、福岡・北九州、広島の3都市圏に整備されている。",
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"text": "なお、高速道路株式会社法(2004年6月9日公布)において高速道路とは次のように定義されている。",
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"text": "上記の自動車専用道以外の道路を、通常「一般道」と呼んで区別している。",
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"text": "古代の人々が農耕を始めて定住した場所には、集落間での交易が始まって往来が頻繁になり、多くの人が歩いた結果、自然発生的に踏み分けられた原始的な道ができた。それ以外の場所では、「獣道(けもの道)」が次第に踏み固められ、川沿いや尾根伝い、低い峠などに主要な道路が形成されて行った、とされていたが、2000年に国の特別史跡に指定された三内丸山遺跡に幅12メートルの舗装された道路が発見され、すでに縄文時代には人の手によって道路が作られていたことからそれまでの通説が覆っている。日本書紀の神武東征の件りで、河内国から大和国に兵を進めた様子を書いた記述、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」が、日本の書物の中での道路についての最も古い記述であるとされている。当時の道路が、人が2列で行進することができないほど狭いものであったことが判る。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"paragraph_id": 16,
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"text": "日本における人工的な道路整備では、諸説あるが紀元前548年頃の綏靖天皇時代に山陽道が開かれたのが最も古いといわれている。日本国外では、紀元前3000年頃にエジプトでピラミッド建設のための道路が整備されていた記録があることから、日本の道路整備は海外に比べて時代的に大きな後れをとって始められていた。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "7世紀当初、飛鳥地方に大和政権が誕生し、奈良盆地東縁を通る山辺の道や、聖徳太子が通ったとされる太子道、南北に通る上ツ道・中ツ道・下ツ道、これに直行する横大道、竹内街道などが造られた。日本書紀の推古天皇21年(613年)11月の記事には、「難波より京に至る大道を置く」とあって、当時の京は飛鳥であり、竹内街道は現在の奈良県葛城市 - 大阪府堺市を結ぶもので、今の国道166号のルートにほぼ相当するものである。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
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"paragraph_id": 18,
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"text": "律令制が制定されて広域地方行政区画として五畿七道が定められると、日本で最初の計画的な道路網の整備が始められるようになり、646年、孝徳天皇の「改新の詔」により、地方に国司・郡司を置き、中央と地方の官庁とを結ぶ「駅路」が整備されることになった。中央政府を中心に、大路・中路・小路の制度が定められ、これが日本における道路制度の始まりと言われている。駅路の全長は6500キロメートル (km) にもおよび、30里(約16 km)毎に駅が設けられて、輸送機関として駅夫・駅馬が置かれた。駅路は大和朝廷の都(畿内)を中心に放射状に作られ、特に山陽道・東海道・東山道・山陰道・北陸道・西海道・南海道の7路線を「七道駅路」「畿内七道」として重点的に整備した。これら七道の呼称は、道路を指すだけでなく、その道路によって結ばれる国の地域的集合区分としても用いられた。この内、都と大宰府(九州)とを結び最重要視されていた山陽道と西街道の一部が「大路」、東国へ向かう東海道・東山道を「中路」、その他を「小路」と呼んだ。 これらの道路の特徴は、小さな谷は埋め、峠付近は切り通しにするなどして、できるだけ直線的に平坦になるように作られていたため、集落からは遠く離れたところを通っていた。この直線的な道路の傾向は、ローマ帝国におけるローマ街道でも見られる。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"text": "奈良時代には行基の指導により、平城京と各地を結ぶ奈良街道などが整備されたほか、神社や寺院が各地で建立されたため、高野街道、熊野古道などの信仰の道が生まれた。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"text": "藤原氏が治めた平安時代から鎌倉時代にかけては、大きな道路整備は行われなかった。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"tag": "p",
"text": "源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、山陽道に代って都がおかれている京都と鎌倉を結ぶ東海道が重要視されるようになった。この時代には、頼朝が支配圏を拡大していくために道路整備を積極的に行っており、特に東国の関東武士が鎌倉へ集結するための関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が切り開かれた。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"text": "室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多く関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかった。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
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"text": "戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、領内の道路整備や峠の開削が行われた。特に武田信玄は、棒道と呼ばれる軍事的な輸送目的の道路を積極に整備している。領国の境には関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていったが、そんな中、織田信長は全国統一を目指して道路整備の方針を制度化し、この思想が江戸幕府に引き継がれることになる。信長は、1574年に道奉行の役職を置き、道路の大規模な改修を実施しており、主要道路の幅員を3間半(約6.54 m)、その他は3間(約5.5 m)として、2160間を1里(約3927 m)と制定している。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"text": "織田信長・豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視しており、道路改修や橋梁整備を怠らず行い、国の境にあった関所を廃止した。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 25,
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"text": "江戸時代に入り、幕府は一般旅行者や諸国大名の参勤交代のため全国的な道路整備を行った。その中心となるのが、幕府直轄の五街道である。五街道は4代将軍徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの街道のことである。五街道に繋がる街道(附属街道)のうち主要なものを「脇往還」または「脇街道」という。五街道とその脇街道で、本州中央部のかなりの地域を網羅していた。五街道沿いには原則として天領・親藩・譜代大名が配置された。また、交通上重要な箇所には関所や番所を置いた。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
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"paragraph_id": 26,
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"text": "五街道は1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のため順次整備が始められ、1604年(慶長9年)に日本橋が五街道の起点と定められた。1659年(万次2年)以降になると、五街道と脇街道は幕府の道中奉行の管轄とされた。それ以外の街道は勘定奉行が管理をしていたが、道中奉行のような直接管理ではなく、沿道の藩に実際の管理を行わせた。これは、五街道・脇街道以外の街道が外様大名の大藩の領地であることにも関係がある。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"text": "軍事・警察上の必要から街道の要所には関所を配置して検問が行われたほか、一里(約4 km)ごとに一里塚が設けられ、一定間隔ごとに開設した宿場には本陣・脇本陣、旅籠などが立ち並んだ。 江戸時代の街道には、古代の駅路などに比べて一般民衆の通行も多くなったが、旅人は道路を見てその藩の状況を判断するからということで、各藩は道路の整備に気を配っていた。また、当時は、馬や駕籠は使われていたものの、まだ馬車は無く交通の大半が徒歩であったことから、道路の傷みは馬車交通で破壊された欧州諸国の道路のようにひどくなかった。日本を訪れていた西欧人の旅行記などには、この当時の日本の道路の印象について書かれており、ヨーロッパの道路と違い整備状態が実によく行き届いていたことを示す評価がなされている。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"paragraph_id": 28,
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"text": "平戸や長崎には、オランダ人の手によって、石畳による日本初の舗装道路が作られた。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"paragraph_id": 29,
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"text": "徳川第15代将軍慶喜による大政奉還後、明治新政府によって近代的な道路整備が始まり、道路行政に関する諸制度が次第に整備されるようになった。1869年(明治2年)、全国諸道の関所が廃止されて制度面での交通障害が除かれた。また、それまで車両の使用に課されていた制約が除かれ、この結果、従前の駕籠に代わって、1870年に和泉要助が考案した人力車が軽便な交通機関として急速に普及した。さらに都市では上流層が馬車を用いるようになり、1869年(明治2年)には、東京 - 横浜間に日本で初めての乗合馬車が開業した。その後、東京 - 高崎間や東京 - 宇都宮間など、相次いで主要都市間の乗合馬車が開業されるようになった。日本にも馬車が輸入されて導入されるようになると、それまで徒歩に耐えられる程度に砂利を敷き砂で固めてあった当時の日本の道路は、馬車の通行によってすぐに傷んでたちまち悪路と化し、あまりのでこぼこ道に、馬車が横転する事故も発生していた。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
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"text": "明治政府が最初に行った道路方策は、1871年(明治4年)の太政官布告で発した有料道路制で、道路・橋梁などの築造や運営を民間人が実施し財源として料金を徴収することを認めた。この制度を基に1875年(明治8年)に、東海道に並行する小田原 - 箱根湯本間に日本初の有料道路が開通する。1872年(明治5年)には、太政官布告(道路清掃ノ条目)が制定されて、街路樹が植えられ、車道に砂利、歩道は煉瓦・敷石で舗装された近代的な道路が東京市にできた。さらに1876年(明治9年)の太政官布告第60号により、道路を国道・県道・里道の3種類に分け、さらに一等・二等・三等の等級に格付けする道路の法律制定されて、1898年(明治18年)内務省告示第6号に、江戸時代以来の主要な街道は日本橋を起点とする国道に指定されて1号から44号まで番号が付けられた。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "1886年(明治19年)内務省訓令により、道路の施行方法について基準が定められ、割石道路(マカダム道路)が標準道路となった。この道路工法は、路床と路面は中央が少し高くなるように歪曲を持たせて、路床の上に4 - 5センチメートル (cm) 大の砕石を厚さ12.5 cmに敷き、その上の表層面に細砕石および接合剤を厚さ7.5 cmで敷き固めたものである。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "1872年(明治5年)に新橋 - 横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、明治政府も長距離の交通手段としては、安全性が高く、より速度や輸送力に優れていた鉄道の建設を優先し、また沿岸部では内航航路が輸送に占める比重も大きかった。明治新政府の中には、鉄道整備を優先すべきと強力に主張する者がいたこともあって、道路の中では限られた幹線が馬車交通を辛うじて可能とする程度に整備されたに過ぎず、鉄道路線の延伸に伴い馬車は幹線道路から影を潜めるようになり、やがて鉄道が陸上交通の主役の座に就いた。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"paragraph_id": 33,
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"text": "それでも、鉄道建設が明治時代中期以降まで遅れた地域では、新道開削が大規模に行われた例も見られた。よく知られるのは、明治10年代に三島通庸が相次いで県令(県知事)を務めた山形・福島での道路整備である。三島は県民に労働力と費用供出を強制し、文字通りの力業で道路建設を急速に推進した。その使役ぶりは官憲による強圧を伴うもので苛烈を極め、三島は「鬼県令」として恐れられた。福島・山形両県を結ぶ50 kmの新道「万世大路」(1881年全通)は、当時日本最長のトンネルである栗子山隧道(全長約870m)を含む馬車通行可能な道路で、三島の建設した道路の中でも最も有名な例と言える。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "日本に初めて自動車が導入されたのは、1903年(明治36年)のことである。当時の日本の道路は全くの未舗装で、東京の都心部も舗装されていなかった。このため、雨が降ればたちまち道路は泥沼と化し、車のタイヤが泥にのめりこむのは当たり前で、でこぼこ道にたまった水溜まりを通り抜ける車がはねた泥水は、通行人に浴びせられることも日常茶飯事であった。初めてのアスファルト舗装が行われたのは明治の終わりごろだといわれており、まだこの当時の舗装技術は未熟だったため、簡易舗装的なものだったと考えられている。その後、大正期にかけて自動車の輸入が増大していき、道路の重要性も増してきたことから、市街地の道路整備も本格的に行われるようになっていった。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"text": "1919年(大正8年)に道路法が初めて制定され、道路は国道、府県道、郡道、市道、町村道の5種に分類され、国道も再編成が行われた。なお郡道は1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止されたことにより府県道及び市町村道に昇格及び降格となった。軍港や基地に達する国道路線が多く置かれ、軍事国道と呼ばれる国道も設置された。国道に関しては、建設費および改修費は国が負担し、その他の道路は地方公共団体が負担することになっていた。 1920年(大正9年)、日本初の道路整備長期計画である「第1次道路改良計画」が策定される。しかし、その3年後に関東大震災が発生し、帝都復興が優先された結果、地方道路の整備は更に遅れてしまった。日本初となる本格的な舗装道路、つまり現在でいう本舗装が誕生したのは、1926年(大正15年)に完成した東京・品川 - 横浜市間の約17 kmと、兵庫県尼崎市 - 神戸市間の約22 kmの道路であった。",
"title": "日本の道路の歴史"
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"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "この時代には、ドイツのアウトバーンを参考に、産業・軍事用の高速道路計画と主要道路の改良策も検討されたが、1937年(昭和13年)の日中戦争突入にはじまり、1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発という事態になると、戦争が最優先されて道路整備は実現不能なものとなっていた。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
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"text": "敗戦国となった日本は、戦争末期の空襲で甚大な被害を受けて、戦時中は保守管理が行き届かなかった道路も相当に荒廃していた。舗装はもとより路盤を造る砕石がほとんどない路面は、自動車の重量を支えられずに轍(わだち)はのめり込み、道路幅員もすれ違いが出来ないほど狭く、車両によっては沿道の家屋と接触するほどであった。また、トラック走行によって舞い上がる砂塵は、日常生活や周囲の農作物に対して被害を及ぼした。破損した道路の復旧・維持修繕を促すために、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官は、1948年(昭和23年)に「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の策定を要請し、1952年(昭和27年)に改正道路法が制定された。自動車の普及とともにその重要性が認識されはじめ、1954年(昭和29年)に「第一次道路整備五か年計画」が発足し、政府も道路整備に本腰を入れ始めるようになった。自動車保有台数も100万台を突破していたため、政府は国内初の高速道路である名神高速道路の実現可能性を探るべく、世界銀行が派遣したアメリカのラルフ・J・ワトキンスを長とする調査団に調査依頼したところ、1956年(昭和31年)に提出されたワトキンス・レポートで日本の道路事情の悪さを痛烈に指摘されるほど道路整備を行うための財源不足が外国人によって認識させられ、これが戦後日本の道路整備を推進するきっかけとなったといわれている。その後、田中角栄らが道路整備を行うための特定財源制度を議員立法で制定させて、その財源をもとに急速に道路整備が行われたことにより、ワトキンスが来日した当時は日本政府の道路整備支出予算は国民総生産(GNP)の0.7%に過ぎなかったものが、10年足らずの間に大幅に拡大されて2%を突破し、その後も2%台を維持した。",
"title": "日本の道路の歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "1960年頃まで、日本の道路のほとんどは非舗装といってよい状況であった。1960年代半ばまで一般国道の改良率や舗装率を伸ばすことが最重要課題で、道路整備五箇年計画の計画的・重点的実施により、道路水準は著しく向上し、高度経済成長期を支える基本インフラ整備に貢献した。その後は政府の経済計画である全国総合開発計画(全総)との連動で、時代による道路整備の方向性も変化していき、幹線道路の混雑の解消とともに高速道路の全国的整備へとシフトしていった。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)東京オリンピックを1つの契機として、高速道路や都市高速道などが整備されていき、その前年の1963年(昭和38年)には日本初の高速道路である名神高速道路が誕生した。当初、高速道路は6つの法律に基づき個別路線ごとに計画されたが、全国的構想に基づくものではなかったため、1966年(昭和41年)に国土開発幹線自動車道建設法が制定され、延長7600 kmの全国高速道路網計画が策定された。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "また、1960年代後半から始まったモータリゼーションは日本の道路の舗装化が急速に進んだ時期でもあったが、自動車の台数は急増していき、交通事故死者が激増して社会問題となり、昭和40年代は交通戦争という言葉まで生まれた。交通公害も社会問題となり、多様化する社会ニーズへの対応など、道路整備延長を増やすだけでは解決できない問題に対し、本格的に自動車や道路の対策が行われることになる。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1980年代に入ると、人口が東京・首都圏だけに集中し始める現象が起こるようになり、政府はこれに対処すべく1987年(昭和62年)に第四次全国総合開発計画(四全総)を策定し、「多極分散型国土の構築」を「交通ネットワークの構築」によって実現することが提唱され、7600 kmに代わる新たな高速道路網計画として延長1万4000 kmの高規格幹線道路網が主要プロジェクトとして位置づけられた。この計画では、目標サービスの改善としてインターチェンジまで1時間以内に見直され、災害に対するリダンダンシー(冗長性)などの視点が加えられた。バブル景気の時代に入ると道路の開発ラッシュで整備がさらに進んだ。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "高速道路など高規格幹線道路のネットワークは全国を網羅し、それを補助する地域高規格道路も整備が行われた。道路において一定の量的ストックは形成されたため、2000年代に入り、道路整備予算は縮小されつつあるが、過去の道路建設に伴う負債が多くの自治体で問題となっている。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "また、交通事故による死者数はピーク時1万5千人を超えていたが、2007年には高度な医療体制の確立や、エアバッグや衝突安全ボディーなど自動車の安全装置の充実、自動車台数の減少などによって5千人以下となった。",
"title": "日本の道路の歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "日本の道路交通規則では、自動車、自転車などの車両が左側通行、歩行者が右側通行である。1890年(明治33年)6月の初制度化から改正された1949年(昭和24年)ごろまでは、人も馬・車も道路の左側通行であった。これについての理由は、明治以前の武士の時代に刀を左に挿した侍が擦れ違う時に刀の鞘が触れないようにするためとも、すれ違いざまの攻撃のときに対応が遅れないためともいう説がある。また、牛車が左側を通行する習慣があったため、交通規則を定める際に人も車も左側通行したという説もある。明治に入り、新政府はイギリスに範を取り左側通行を正式に採用している。戦後、自動車が増えるに従い通行者が後ろからくる車に気づきにくく危険であるという理由から、GHQが、アメリカ合衆国と同じく車が右側通行、歩行者が左側通行の対面交通とするよう指導したが、日本の道路設備を右側通行にするには多額の費用と時間が必要ということが判明したため、車の左側通行は維持し歩行者のみ右側通行とすることとなった。アメリカ合衆国の施政下にあった沖縄県では、1978年7月30日まで車が右側通行だった(730)。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "現在、世界的には「歩行者が左側、車両が右側」を通行する国が多数派であるが、日本と同様に「歩行者が右側、車両が左側」を通行する国にはイギリスなどがある。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "日本の道路では、交通の円滑を図り、安全かつ安心に利用できるように、道路標識、路面標示、非常電話、道路情報提供装置、車両監視装置、車両諸元計測装施設、料金所、信号機の8種類の交通管理施設が設置されている。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "道路標識は、道路で見かける丸形や三角形、四角形などの標識である。それぞれ役割があり、案内・警戒・規制・指示の各種類ごとに設置者が決められている。各種の道路標識は、一か所にいくつもの標識が設置されることがないように配慮がなされていて、交通の妨げとならないように道路利用者にとってわかりやすい位置に設置されている。(→詳細は、「日本の道路標識」を参照。)",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "路面標示は、道路の舗装面にある横断歩道や停止線、センターライン(中央線)などのマーキングのことである。マーキングの色は「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」(略称:標識令)により黄色や白色、青色表示などが定められていて、またその種類によって設置者が規定されている。(→詳細は、「日本の路面標示」を参照。)",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "非常電話は、高速自動車国道などの自動車専用道路に設置されていて、ネクスコなど道路管理者の担当センターに直接つながり、自動車の事故や故障など非常時の通報や援助を求める際に使用するものである。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "道路情報提供装置は、その道路の渋滞や雨、霧、積雪、路面凍結などの気象情報、土砂崩れなどによる交通状況を把握して、道路上に設置された道路情報板などにより利用者へ情報提供する装置である。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "車両監視装置は、主要道路の要所要所に遠隔操作できる監視カメラを設置して、交通事故や車両火災などの道路の状態を監視する装置である。交通量や走行速度を感知する車両感知器も、車両監視装置に含まれる。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "車両諸元計測装置は、道路構造の保全や通行車両の安全を守るために、幹線道路沿いや料金所に設置されている施設で、日本の小型道路以外の道路設計基準である総重量25トン(245 kN)を超える重量の車両を検出し、取り締まるために設置されている。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "料金所は、高速道路や有料道路の出入口に設けられる、通行料金を収受するための施設である。近年では、ETC(料金自動授受システム)の普及により、窓口の無人化がすすんでいる。",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "信号機は、交差点でよく見かける道路交通の信号装置で、車両用と歩行者用があり、交差点の安全を確保するうえで最も有効な設備である。信号の発光面は意外と大きく、車両用(円形)は直径25 - 30センチメートル、歩行者用(正方形)は1辺あたり25センチメートルある。また、表示色の赤・黄・青の3色のうち、「止まれ」を意味する赤が最も視認性の良い位置になるように配置されている。信号制御方法は、大別すると地点制御、線制御、面制御の3つに分類でき、地点制御は隣接交差点に連動しない当該交差点を単独で制御する方式、線制御は幹線道路において隣接する交差点とともに連動制御する方式、面制御は大都市などの道路網において近隣交差点を一括して制御する方式である。また、信号表示には定期周期と交通感応制御の2種類がある。(→詳細は、「日本の交通信号機」を参照。)",
"title": "道路交通"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "道路整備五箇年計画(どうろせいびごかねんけいかく)とは、1954年から政府の閣議決定により策定が開始された道路整備のための目標や事業量を定めた中長期計画および基本方針プログラムである。国民生活の向上と国民経済の健全な発展を図るために道路整備の計画的・重点的実施が的確に実行されることを目的としており、道路整備緊急措置法(昭和33年法律第34号)第2条第1項の規定に基づいて定められる。道路整備は非常に長期に及ぶとともに、多大な事業費を必要とするため、将来の交通需要を的確に予測し、事業効果を踏まえた優先順位のもとに事業プログラムを策定するものである。また中長期的な視点での有効需要を喚起し、整備された道路や橋、トンネルなどの交通インフラが十分に機能することで生み出される多くの経済効果をもたらすものとして、政府の経済計画の一翼を担う重要な役割を果たすものとして位置づけられている。",
"title": "道路整備五箇年計画"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "道路整備五箇年計画が策定される以前の1950年代前半の日本は、幹線道路の整備は十分ではなく、2車線以上で線形・勾配が満足に改良された道路改良率は一般国道で30%程度、舗装率は20%未満という状況で、日本の経済・産業の発展を阻害する要因の一つにもなっていたが、これまで道路整備五箇年計画に基づいて確実に道路整備が実施されたことにより、道路整備水準が著しく向上し、日本の経済発展に大きな貢献をもたらしてきている。その一方で、時代の経過とともに道路整備の重心も変化しており、1960年代ごろは道路改良率や舗装率の改善が重点的課題にあげられ、平成期に入るまでにその約90%以上が解消されてきたが、その後は高速道路の全国的な整備、幹線道路の交通障害の解消、交通事故や公害への対応など、多岐にわたる課題への取り組みが行われている。",
"title": "道路整備五箇年計画"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "道路法で規定している道路である高速自動車国道・一般国道・都道府県道・市町村道(以下、公道)を合わせた総延長は127万3620 kmあり、その長さは地球約32周分に相当する。全体から見た比率では、高速自動車国道が約0.7 %であるのに対し、生活道路といわれる市町村道で約83 %を占めている。近年、毎年約4000 kmの道路が新たに造られているといわれており、日本国内の道路延長を伸ばし続けている。",
"title": "道路統計年報にみる道路整備状況"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "公道を対象とした都道府県別の道路延長は、国土交通省発行の道路統計年報2014年によると、北海道が9万7316 kmと最も長く、第2位の茨城県(6万0171 km)、第3位の愛知県(5万2185 km)と続く。また、最も短いのは沖縄県(9076 km)である。道路密度は、農村部よりも都市部の方が高く、人口密度の高い都市ほど道路密度も高い傾向にある。道路密度が最も高いのは埼玉県(13.00 km/km)で、2位が東京都、3位が神奈川県と続く。道路密度が最も低いのは北海道(1.24 km/km)で、1位埼玉県の10分の1以下である。",
"title": "道路統計年報にみる道路整備状況"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "日本の公道全体を対象とした道路面積は、道路統計年報2014年によると7557 kmあり、熊本県や宮城県の面積を上回る。都道府県別では、最も広いのは北海道で730.3 kmあり、第2位が愛知県(332.7 km)、第3位が茨城県(284.8 km)と続く。一方、都道府県別の道路面積比率では、最も高いのが大阪府で8.04 %あり、2位が東京都、3位が神奈川県と続き、上位5位まで三大都市圏が占める。最も低いのは北海道の0.87 %であるが、これは北海道地域は明治以降に開発された広大な土地で未開の地も多いためである。",
"title": "道路統計年報にみる道路整備状況"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "道路の路線や地域によって、道路幅には著しい差があり、概して古くから開かれた都市の道路は狭く、新興住宅地など新しく開けた土地の道路は比較的広いスペースが設けられている。都道府県別の道路幅の平均となると大きな差異はみられなくなるが、全国平均で5.90 mとなり、自動車がすれ違うことができない道路が全国的に多いことを物語っている。道路統計年報2014年によると、道路幅平均が最も広い都道府県は大阪府で7.57 mあり、2位が北海道(7.50 m)、3位が沖縄(7.11 m)と続く。",
"title": "道路統計年報にみる道路整備状況"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "なお、日本の道路における車線の幅は、普通に見られる一般的な2車線道路でおおむね1車線あたり3.0 mの幅があり、幹線道路で3.25 m、高速道路などでは3.5 – 3.75 mとなっている。",
"title": "道路統計年報にみる道路整備状況"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "車道に併設される歩道の設置状況は、交通弱者である歩行者を守る道路の安全整備状況がどれだけ進んでいるかを示す指標にもなっている。道路統計年報2014年によると、歩道設置率が最も高いのは沖縄県で27.0 %、2位が北海道(24.0 %)、3位が東京都(23.4 %)と続く。沖縄と北海道の歩道設置率が高い理由は、沖縄は戦後アメリカに占領されていた時期があったことや、北海道では明治時代以降に開拓された歴史を持つことから、他府県とは社会的、文化的に事情が異なっているからだという見方がされている。",
"title": "道路統計年報にみる道路整備状況"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "交通事故の抑止効果があるとされる中央分離帯は、道路幅が広くないと設置困難なため、都市部ほど設置率が高い傾向にある。道路統計年報2014年によると、中央分離帯設置率が最も高いのは大阪府で4.1 %、2位が東京都(2.9 %)、3位は山口県(2.7 %)と続く。一方、設置率が低いのは長崎県・鹿児島県・高知県の3県で0.5 %となっている。",
"title": "道路統計年報にみる道路整備状況"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "道路では、道路利用者や沿道住民に、より良い道路サービスを提供するために道路の機能の維持・修繕が行われている。その第一歩として、道路の異常や不法占用に対する措置を講ずるために、道路巡回によって道路情報の収集が行われている。道路巡回方法には状況に応じて4つの種類があり、(1) 原則2日に1回程度、目視点検を行う「通常点検」、(2) 原則として月1回、夜間の道路使用状況や夜間特有の照明施設などの安全施設などの機能を確認する「夜間巡回」、(3) 原則として年1回、橋梁やトンネルなどの構造物の破壊状況について点検を行う「定期点検」、(4) 台風や地震災害が発生したときに、交通障害や道路の利用状況を把握するために必要に応じて実施する「異常時巡回」がある。これら巡回業務以外でも、国土交通省の管理基準に則って、路面清掃、除草、樹木の剪定、降雪時の除雪が行われる。",
"title": "維持修繕"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "舗装は、供用が始まると徐々に劣化していくため維持修繕が行われているが、日本では高度経済成長期に建設された道路舗装が老朽化し、維持修繕にかかる費用をなるべく抑えた効率の良い修繕計画が求められるため、PSIやMCIを用いて舗装性能を総合的に評価している。舗装が薄いと建設初期の費用は小さく済むが、頻繁に補修を行わなくてはならず、これに対して厚い舗装では維持修繕費用は少なく済むが、建設初期費用が高くなってしまうため、その中間になるようなライフサイクルコストになるように、舗装の厚さは考えられている。",
"title": "維持修繕"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "冬期に積雪がある積雪寒冷地は、雪寒法(正式名:積雪寒冷特別地域における道路交通の確保に関する特別措置法)で定義されていて、雪や氷の害から道路の交通機能を維持するために、さまざまな工夫がなされている。路面の凍結防止対策としては、地下水が流れる消雪パイプを道路下に設置して、道路に水を散布することによって雪を溶かす方法や、道路下に熱を発するパイプや電熱線を埋め込むロードヒーティング設備を設置する方法がとられている。",
"title": "維持修繕"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "道路施設としての安全対策は、除雪車による除雪位置や走行位置の目印にするための除雪ポールや道路幅表示器、道路脇の斜面に積もった雪が道路上に落ちてくるのを防止するための防護柵やスノーシェッド、チェーン脱着場(チェーンベース)、信号機の上に雪が積もりにくくなるようにした縦型信号機などが設置されている。",
"title": "維持修繕"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "舗装についても対策されており、寒冷期に舗装下の路床(ろしょう)の凍結による体積膨張と、夏場に融解した際の地下水で地盤が弱くなることが繰り返されるによって引き起こされる、舗装表面のひび割れや、わだち掘れ現象の対策として、路床と舗装の下層路盤との間に、凍上抑制層とよばれる凍らない層を設置する。",
"title": "維持修繕"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "環境影響評価(環境アセスメント)制度は、事業者があらかじめ環境への影響について調査または評価を行い、その結果に基づいて環境保全措置を検討することによって、事業計画を環境保全の上でより望ましいものとする仕組みである。環境保全評価は1972年に一部の事業で導入され、1997年からは環境影響評価法に基づき実施されるようになった。環境影響評価の対象となる道路事業のうち、大きな影響を及ぼす恐れがあるため必ず実施する道路(第1種事業)は、すべての高速自動車国道、4車線以上の都市高速道路、4車線以上かつ10 km以上の一般国道である。また、環境影響評価の手続きを行うかどうかを個別に判断する道路事業(第2種事業)は、4車線以上かつ7.5 - 10 kmの一般国道が対象となる。事業者は、環境影響評価の手順を守るため、まずはじめに環境保全のために配慮すべき事項を記載した「配慮書」を、評価項目や調査・予測・評価の手法などを検討した「方法書」を作成する。方法書に基づいて、環境影響の調査・予測・評価及び環境保全措置の検討をまとめて「準備書」に記し、住民や知事の意見と、事業者の見解を示して必要な修正を行って「評価書」として作成される。最終的に、事業が実施された後に評価書に対する「報告書」がとりまとめられる。",
"title": "環境への取り組み"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "道路を走行する自動車が発する騒音は、地域の環境保全と快適な暮らしを守ることを目的に、環境基本法と騒音規制法によって規制されている。騒音には、距離減衰、反射、屈折、回折といった性質があり、これら考え方をもとに、道路にはさまざまな対策が施される。主な対策に、遮音壁と環境施設帯の設置があり、遮音壁は騒音を遮蔽して減音するとともに、吸音材により反射音を吸収する工夫がなされている。また環境施設帯は、交通量が多い自動車専用道路などの両側に20メートルほどの一定幅を持つ緩衝帯を設けることで騒音の距離減衰効果が期待される空間であり、そこに街路樹を植栽したり、一部は自転車歩行者道や車道が設けられる。",
"title": "環境への取り組み"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "地球規模の環境問題の一つとして、温室効果ガスのひとつである二酸化炭素 (CO2) による地球温暖化がある。「日本国温室効果ガスインベントリ報告書」によれば、2015年度における日本国内の温室効果ガス (CO2) 総排出量は13億2500万トンあり、このうち自動車からのCO2排出量は総排出量全体の約15%を占めている。削減には自動車の燃費改善や、利用目的に応じた公共交通機関の有効利用法もあるが、道路における対策としては、渋滞をなくしたスムーズに走れる道路交通環境の改善と、道路の緑化・道路施設の太陽光発電などの新エネルギー活用が挙げられる。小型車は走行速度60 - 70 km/hのときにCO2排出量は最小になるという計算結果もあり、環状道路やバイパス道路の整備、道路交通情報の提供や弾力的な料金制度による道路交通の円滑化がCO2排出量の削減に寄与している。",
"title": "環境への取り組み"
}
] | 日本の道路(にほんのどうろ)では、日本における道路について述べる。 | '''日本の道路'''(にほんのどうろ)では、[[日本]]における[[道路]]について述べる。
== 日本の道路と法律 ==
日本の道路では、[[私道]]を除いて公共の営造物(公物)として地域住民と合意形成を得ながら、主に国や地方公共団体などが直接管理している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=12}}。そのため、一定水準の管理の下で道路を維持しつつ、広く提供(供用)される必要があり、そのための法律が定められている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=12}}。日本の道路の多くは[[道路法]]に基づいて管理されているが、その他にも農道や林道などでは別の法律に基づいている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=12}}。
各関係法律別に、対応する道路をまとめると、下表のようになる。
{| class="wikitable"
! 法律 !! 道路の種類 !! 備考
|-
| [[道路法]] || [[国道]]([[高速自動車国道]]・[[一般国道]])・[[都道府県道]]・[[市町村道]] || 特別区道を含む。
|-
| [[都市計画法]] || [[都市計画道路]] || ただし、そのすべてが道路法による道路でもある。
|-
| [[道路運送法]] || [[自動車道]](一般自動車道・専用自動車道) || <!--民間資本により整備・運用されている有料道路や構内専用道路は、私道でもある。-->
|-
| [[土地改良法]]・[[農用地開発公団法]] || [[農道]](農免道路・広域農道) ||
|-
| [[森林法]]・林業基本法・森林開発公団法 || [[林道]] ||
|-
| [[漁港漁場整備法]](旧称・漁港法) || 漁港施設道路・漁免道路 || 漁免道路は完成後、道路法上の道路となる。
|-
| [[港湾法]] || [[臨港道路]] ||
|-
| [[鉱業法]] || 金属鉱山等保安規則による道路 ||
|-
| [[自然公園法]] || 公園道・自然研究路・長距離歩道 ||
|-
| [[都市公園法]] || 園路 ||
|-
| [[国有財産法]] || [[里道]] || 2005年4月1日までに、現に機能を有するものについては、市町村へ所有権を移転。
|-
| 法律なし || [[私道]] || [[建築基準法]]第42条第1項第5号の規定による「[[位置指定道路]]」を含む。
|}
[[道路交通法]]や[[道路運送車両法]]による道路上の規定は、一般の[[交通]]の用に供される全ての道路について適用される。
== 日本の道路の分類 ==
日本の道路網では、都市や拠点を結ぶネットワーク機能を有しており、都市間の道路では通行機能、都市内ではアクセス機能や滞留機能が求められている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=54}}。また、山地部の道路では勾配やカーブの半径を厳しくとる必要がある{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=54}}。道路計画設計の基本においては、これら機能や地域特性に応じて代表的な指標を設けて、道路にいくつかの区分を設けている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=54}}。具体的には、ネットワーク機能は「道路の種類」で表現し、交通機能を「計画交通量」で表現し、地域特性を「都市部・地方部」、「平地部・山地部」で表現している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=54}}。
=== 管理主体による分類 ===
* [[国道]]
* [[都道府県道]]
* 区市町村道
また、都道府県道と政令指定都市の市道には[[主要地方道]]に指定されている道路がある。
=== 道路構造令による種級区分 ===
[[道路構造令]]に基づいて、道路の規模により第1種から第4種に分類され、それぞれはさらに、計画交通量によって第1級から第5級に分類(交通量が少ないほど級の数字が増える)される。
種の区分では、道路の種類として高速自動車国道や自動車専用道路と一般道路の別、都市部・地方部の別で区分している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=54}}。級区分は、道路の種類、平地部・山地部の別、計画交通量で区分している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=54}}。道路の建設を計画する際には、区間ごとにどれに分類するかを決定し、それに基づいて設計が行われる。
* 第1種:地方部の高速自動車国道及び自動車専用道路(平地部1 - 4級、山地部2 - 5級)
* 第2種:都市部の高速自動車国道及び自動車専用道路(1 - 2級)
* 第3種:地方部のその他の道路(平地部1 - 5級、山地部2 - 5級)
* 第4種:都市部のその他の道路(1 - 4級)
また、通行することのできる交通の種別による分類として、[[自動車専用道路]]、[[自転車専用道路]]、[[歩行者専用道路]]、[[自転車歩行者専用道路]]という道路法の専用道路と、道路の一部分を区画して[[自動車]]の通行を制限している道路構造令上の[[歩道]]、[[自転車道]]、[[自転車歩行者道]]がある。
=== 機能区分 ===
* 主要幹線道路
* 幹線道路
* 補助幹線道路
* その他の道路
=== 接続制限による区分 ===
==== 自動車専用道路 ====
[[自動車]]だけが走れるような構造になっている道路で、以下の条件を満たし道路管理者が法規に基づき指定を行ったものを[[自動車専用道路]]という。[[歩行者]]や[[自転車]]などの通行は禁止される。
#自動車だけの通行に限られること。
#出入はインターチェンジに限られること。
#往復車線が中央分離帯によって分離されていること。
#他の道路、鉄道等との交差方式は立体交差であること。
#自動車の高速通行に適した[[線形 (路線)|線形]]になっていること。
これらの道路には、[[高速自動車国道]]、[[都市高速道路]]および上記の条件を満たす[[一般有料道路]]、[[自動車専用道路]]が該当する。なお、これらの法規の適用を受けない例外的存在として、私道である[[宇部伊佐専用道路]]がある。
高速道路のうち、高速自動車国道および一般国道の自動車専用区間の一部は、主に[[東日本高速道路|東日本高速道路株式会社]]・[[中日本高速道路|中日本高速道路株式会社]]・[[西日本高速道路|西日本高速道路株式会社]]・[[本州四国連絡高速道路|本州四国連絡高速道路株式会社]]が建設・管理を行う。
また[[都市高速道路]]とは、大都市圏およびその周辺地域でひとつのネットワークとして機能する自動車専用道路を指し、その事業主体は下記の都市高速道路会社や地方公社が中心となっている。
首都圏・阪神圏の都市高速道路である[[首都高速道路]]・[[阪神高速道路]]は都府県道または市道であるが、国・地方自治体の設立・出資による特殊会社([[首都高速道路|首都高速道路株式会社]]・[[阪神高速道路|阪神高速道路株式会社]])がそれぞれ建設(一部、路線の存する都府県、市が施工する場合がある)・管理を行う。また国の認可を経て地方自治体が設立・出資する公社による[[都市高速道路]]を[[指定都市高速道路]]といい、名古屋、福岡・北九州、広島の3都市圏に整備されている。
なお、[[高速道路株式会社法]]([[2004年]][[6月9日]]公布)において[[高速道路]]とは次のように定義されている。
:「この法律において「高速道路」とは、次に掲げる道路をいう。
:一 高速自動車国道法(昭和三十二年法律第七十九号)第四条第一項に規定する高速自動車国道
:二 道路法第四十八条の四に規定する自動車専用道路(同法第四十八条の二第二項の規定により道路の部分に指定を受けたものにあっては、当該指定を受けた道路の部分以外の道路の部分のうち国土交通省令で定めるものを含む。)並びにこれと同等の規格及び機能を有する道路(一般国道、都道府県道又は同法第七条第三項に規定する指定市の市道であるものに限る。以下「自動車専用道路等」と総称する。)」
:(平成16年6月9日法律第九十九号 高速道路株式会社法第二条第二項)
==== 一般道路 ====
上記の自動車専用道以外の道路を、通常「[[一般道路|一般道]]」と呼んで区別している。
== 日本の道路の歴史 ==
{{See also|日本の道路年表}}
{{Main2|高速道路|日本の高速道路#歴史|国道|国道#国道の歴史}}
=== 古代 ===
古代の人々が農耕を始めて定住した場所には、集落間での交易が始まって往来が頻繁になり、多くの人が歩いた結果、自然発生的に踏み分けられた原始的な道ができた{{sfn|窪田陽一|2009|p=12}}。それ以外の場所では、「獣道([[けもの道]])」が次第に踏み固められ、[[川]]沿いや[[尾根]]伝い、低い[[峠]]などに主要な道路が形成されて行った、とされていたが、[[2000年]]に国の[[特別史跡]]に指定された[[三内丸山遺跡]]に幅12メートルの舗装された道路が発見され、すでに[[縄文時代]]には人の手によって道路が作られていたことからそれまでの通説が覆っている<ref>[http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/09.html “特別史跡「三内丸山遺跡」三内丸山遺跡 道路?”]</ref>。[[日本書紀]]の[[神武東征]]の件りで、[[河内国]]から[[大和国]]に兵を進めた様子を書いた記述、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」が、日本の書物の中での道路についての最も古い記述であるとされている。当時の道路が、人が2列で行進することができないほど狭いものであったことが判る。
日本における人工的な道路整備では、諸説あるが[[紀元前548年]]頃の[[綏靖天皇]]時代に[[山陽道]]が開かれたのが最も古いといわれている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。日本国外では、紀元前3000年頃にエジプトでピラミッド建設のための道路が整備されていた記録があることから、日本の道路整備は海外に比べて時代的に大きな後れをとって始められていた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。
7世紀当初、飛鳥地方に大和政権が誕生し、奈良盆地東縁を通る[[山辺の道]]や、聖徳太子が通ったとされる[[太子道]]、南北に通る[[上街道 (上ツ道)|上ツ道]]・中ツ道・下ツ道、これに直行する横大道、[[竹内街道]]などが造られた{{sfn|窪田陽一|2009|p=13}}。日本書紀の[[推古天皇]]21年([[613年]])11月の記事には、「難波より京に至る大道を置く」とあって{{sfn|武部健一|2015|pp=29–32}}、当時の京は[[飛鳥]]であり、竹内街道は現在の奈良県葛城市 - 大阪府堺市を結ぶもので、今の[[国道166号]]のルートにほぼ相当するものである{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=86-87}}。
[[律令制]]が制定されて広域地方行政区画として[[五畿七道]]が定められると、日本で最初の計画的な道路網の整備が始められるようになり、[[646年]]、[[孝徳天皇]]の「[[改新の詔]]」により、地方に[[国司]]・[[郡司]]を置き、中央と地方の官庁とを結ぶ「[[駅路]]」が整備されることになった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=84–85}}。中央政府を中心に、大路・中路・小路の制度が定められ、これが日本における道路制度の始まりと言われている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。駅路の全長は6500[[キロメートル]] (km) にもおよび、30里(約16 km)毎に[[駅家|駅]]が設けられて、輸送機関として駅夫・駅馬が置かれた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=84–85}}{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}。駅路は大和朝廷の都([[畿内]])を中心に放射状に作られ、特に[[山陽道]]・[[東海道]]・[[東山道]]・[[山陰道]]・[[北陸道]]・[[西海道]]・[[南海道]]の7路線を「七道駅路」「畿内七道」として重点的に整備した{{sfn|武部健一|2015|pp=44 45}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。これら七道の呼称は、道路を指すだけでなく、その道路によって結ばれる[[令制国|国]]の地域的集合区分としても用いられた{{sfn|武部健一|2015|pp=44–45}}。この内、都と[[大宰府]](九州)とを結び最重要視されていた山陽道と西街道の一部が「大路」、東国へ向かう東海道・東山道を「中路」、その他を「小路」と呼んだ{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。 これらの道路の特徴は、小さな[[谷]]は埋め、峠付近は[[切り通し]]にするなどして、できるだけ直線的に平坦になるように作られていたため、集落からは遠く離れたところを通っていた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=84–85}}。この直線的な道路の傾向は、[[ローマ帝国]]における[[ローマ街道]]でも見られる。
[[奈良時代]]には[[行基]]の指導により、平城京と各地を結ぶ[[奈良街道]]などが整備されたほか、神社や寺院が各地で建立されたため、[[高野街道]]、[[熊野古道]]などの信仰の道が生まれた{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}。
{{main|日本の古代道路}}
=== 中世 ===
藤原氏が治めた[[平安時代]]から[[鎌倉時代]]にかけては、大きな道路整備は行われなかった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。
[[源頼朝]]が[[鎌倉]]に[[鎌倉幕府|幕府]]を開くと、山陽道に代って都がおかれている京都と鎌倉を結ぶ東海道が重要視されるようになった{{sfn|浅井建爾|2015|p=113}}。この時代には、頼朝が支配圏を拡大していくために道路整備を積極的に行っており、特に東国の関東武士が鎌倉へ集結するための関東各地と鎌倉とを結ぶ[[鎌倉街道]]が切り開かれた{{sfn|浅井建爾|2015|p=113}}{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=87}}。
[[室町時代]]は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多く[[関所]]を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかった{{sfn|武部健一|2015|p=93}}。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、領内の道路整備や峠の開削が行われた{{sfn|佐藤健太郎|pp=87-88}}。特に[[武田信玄]]は、[[棒道]]と呼ばれる軍事的な輸送目的の道路を積極に整備している{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}。領国の境には関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていったが、そんな中、[[織田信長]]は全国統一を目指して道路整備の方針を制度化し、この思想が[[江戸幕府]]に引き継がれることになる。信長は、1574年に道奉行の役職を置き、道路の大規模な改修を実施しており、主要道路の幅員を3[[間]]半(約6.54 m)、その他は3間(約5.5 m)として、2160間を1[[里 (尺貫法)|里]](約3927 m)と制定している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。
織田信長・[[豊臣秀吉]]は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視しており、道路改修や橋梁整備を怠らず行い、国の境にあった関所を廃止した{{sfn|浅井建爾|2015|p=113}}{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}{{sfn|武部健一|2015|pp=101–104}}。
=== 江戸時代 ===
[[江戸時代]]に入り、幕府は一般旅行者や諸国大名の参勤交代のため全国的な道路整備を行った。その中心となるのが、幕府直轄の[[五街道]]である{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=38}}。五街道は4代将軍[[徳川家綱]]の時代に定められたもので、江戸の[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]を起点とする[[東海道]]、[[中山道]]、[[甲州街道]]、[[奥州街道]]、[[日光街道]]の5つの[[街道]]のことである{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。五街道に繋がる街道(附属街道)のうち主要なものを「[[脇往還]]」または「脇街道」という。五街道とその脇街道で、本州中央部のかなりの地域を網羅していた。五街道沿いには原則として[[天領]]・[[親藩]]・[[譜代大名]]が配置された。また、交通上重要な箇所には[[関所]]や[[番所]]を置いた。
五街道は1601年(慶長6年)に[[徳川家康]]が全国支配のため順次整備が始められ、1604年(慶長9年)に日本橋が五街道の起点と定められた{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}。1659年(万次2年)以降になると、五街道と脇街道は幕府の[[道中奉行]]の管轄とされた{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}。それ以外の街道は[[勘定奉行]]が管理をしていたが{{sfn|浅井建爾|2001|p=100}}、道中奉行のような直接管理ではなく、沿道の藩に実際の管理を行わせた。これは、五街道・脇街道以外の街道が[[外様大名]]の大藩の領地であることにも関係がある。
軍事・警察上の必要から街道の要所には関所を配置して検問が行われたほか、一里(約4 km)ごとに[[一里塚]]が設けられ、一定間隔ごとに開設した宿場には[[本陣]]・[[脇本陣]]、[[旅籠]]などが立ち並んだ{{sfn|窪田陽一|2009|p=14}}。
江戸時代の街道には、古代の駅路などに比べて一般民衆の通行も多くなったが、旅人は道路を見てその藩の状況を判断するからということで、各藩は道路の整備に気を配っていた。また、当時は、[[馬]]や[[駕籠]]は使われていたものの、まだ[[馬車]]は無く交通の大半が徒歩であったことから、道路の傷みは馬車交通で破壊された欧州諸国の道路のようにひどくなかった{{sfn|浅井建爾|2001|p=110}}{{sfn|武部健一|2015|p=144}}。日本を訪れていた西欧人の旅行記などには、この当時の日本の道路の印象について書かれており、ヨーロッパの道路と違い整備状態が実によく行き届いていたことを示す評価がなされている{{sfn|浅井建爾|2001|p=110}}{{sfn|武部健一|2015|p=144}}。
平戸や長崎には、オランダ人の手によって、[[石畳]]による日本初の[[舗装道路]]が作られた。
=== 明治時代 ===
[[徳川慶喜|徳川第15代将軍慶喜]]による[[大政奉還]]後、[[明治政府|明治新政府]]によって近代的な道路整備が始まり、道路行政に関する諸制度が次第に整備されるようになった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}。1869年(明治2年)、全国諸道の[[関所]]が廃止されて制度面での交通障害が除かれた{{sfn|窪田陽一|2009|p=16}}。また、それまで車両の使用に課されていた制約が除かれ、この結果、従前の駕籠に代わって、1870年に和泉要助が考案した[[人力車]]が軽便な交通機関として急速に普及した。さらに都市では上流層が馬車を用いるようになり、1869年(明治2年)には、東京 - 横浜間に日本で初めての[[乗合馬車]]が開業した{{sfn|浅井建爾|2001|p=244}}。その後、東京 - 高崎間や東京 - 宇都宮間など、相次いで主要都市間の[[乗合馬車]]が開業されるようになった{{sfn|浅井建爾|2001|p=244}}。日本にも馬車が輸入されて導入されるようになると、それまで徒歩に耐えられる程度に砂利を敷き砂で固めてあった当時の日本の道路は、馬車の通行によってすぐに傷んでたちまち悪路と化し、あまりのでこぼこ道に、馬車が横転する事故も発生していた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=110,117,244}}。
明治政府が最初に行った道路方策は、1871年(明治4年)の太政官布告で発した有料道路制で、道路・橋梁などの築造や運営を民間人が実施し財源として料金を徴収することを認めた<!--{{sfn|武部健一|2015|p=145}}-->。この制度を基に1875年(明治8年)に、東海道に並行する小田原 - 箱根湯本間に日本初の有料道路が開通する{{sfn|武部健一|2015|p=145}}。1872年(明治5年)には、太政官布告(道路清掃ノ条目)が制定されて、街路樹が植えられ、車道に砂利、歩道は煉瓦・敷石で舗装された近代的な道路が東京市にできた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}。さらに1876年(明治9年)の太政官布告第60号により、道路を[[国道]]・[[県道]]・[[里道]]の3種類に分け、さらに一等・二等・三等の等級に格付けする道路の法律制定されて{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}、1898年(明治18年)内務省告示第6号に、江戸時代以来の主要な街道は日本橋を起点とする国道に指定されて1号から44号まで番号が付けられた{{sfn|窪田陽一|2009|p=16}}{{sfn|浅井建爾|2001|pp=114–115}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=67}}。
1886年(明治19年)内務省訓令により、道路の施行方法について基準が定められ、割石道路(マカダム道路)が標準道路となった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}。この道路工法は、路床と路面は中央が少し高くなるように歪曲を持たせて、路床の上に4 - 5[[センチメートル]] (cm) 大の砕石を厚さ12.5 cmに敷き、その上の表層面に細砕石および接合剤を厚さ7.5 cmで敷き固めたものである{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=41}}。
1872年(明治5年)に新橋 - 横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、明治政府も長距離の交通手段としては、安全性が高く、より速度や輸送力に優れていた[[鉄道]]の建設を優先し、また沿岸部では内航航路が輸送に占める比重も大きかった{{sfn|浅井建爾|2001|p=117}}{{sfn|浅井建爾|2015|p=66}}。明治新政府の中には、鉄道整備を優先すべきと強力に主張する者がいたこともあって{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}、道路の中では限られた[[幹線]]が馬車交通を辛うじて可能とする程度に整備されたに過ぎず{{efn|明治政府は交通インフラに鉄道の整備を優先させたため、他国に比べ道路整備が相対的に遅れたともいわれる{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=88-89}}。}}、鉄道路線の延伸に伴い馬車は幹線道路から影を潜めるようになり、やがて鉄道が陸上交通の主役の座に就いた{{sfn|浅井建爾|2001|p=244}}。
それでも、鉄道建設が明治時代中期以降まで遅れた地域では、新道開削が大規模に行われた例も見られた。よく知られるのは、明治10年代に[[三島通庸]]が相次いで県令(県知事)を務めた山形・福島での道路整備である。三島は県民に労働力と費用供出を強制し、文字通りの力業で道路建設を急速に推進した{{sfn|武部健一|2015|pp=147–151}}。その使役ぶりは官憲による強圧を伴うもので苛烈を極め、三島は「鬼県令」として恐れられた。福島・山形両県を結ぶ50 kmの新道「[[万世大路]]」([[1881年]]全通)は、当時日本最長のトンネルである[[栗子山隧道]](全長約870m)を含む馬車通行可能な道路で、三島の建設した道路の中でも最も有名な例と言える{{sfn|浅井建爾|2001|pp=112–113}}。
日本に初めて[[自動車]]が導入されたのは、1903年(明治36年)のことである{{sfn|浅井建爾|2001|p=116}}。当時の日本の道路は全くの未舗装で、東京の都心部も舗装されていなかった{{sfn|浅井建爾|2001|p=116}}。このため、雨が降ればたちまち道路は泥沼と化し、車のタイヤが泥にのめりこむのは当たり前で、でこぼこ道にたまった水溜まりを通り抜ける車がはねた泥水は、通行人に浴びせられることも日常茶飯事であった{{sfn|浅井建爾|2001|p=116}}。初めてのアスファルト舗装が行われたのは明治の終わりごろだといわれており、まだこの当時の舗装技術は未熟だったため、簡易舗装的なものだったと考えられている{{sfn|浅井建爾|2001|p=116}}。その後、大正期にかけて自動車の輸入が増大していき、道路の重要性も増してきたことから、市街地の道路整備も本格的に行われるようになっていった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}。
=== 大正時代から第二次世界大戦まで ===
1919年(大正8年)に[[道路法]]が初めて制定され、道路は国道、府県道、郡道、市道、町村道の5種に分類され、国道も再編成が行われた{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=89}}{{sfn|浅井建爾|2001|p=115}}。なお郡道は[[1923年]](大正12年)4月1日に[[郡制]]が廃止されたことにより府県道及び市町村道に昇格及び降格となった<ref>{{Cite web|和書|title=岡山県郡治誌. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1450203|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2019-07-26|doi=10.11501/1450203}}</ref>。軍港や基地に達する国道路線が多く置かれ、軍事国道と呼ばれる国道も設置された{{sfn|佐藤健太郎|2014|pp=89}}。国道に関しては、建設費および改修費は国が負担し、その他の道路は地方公共団体が負担することになっていた{{sfn|浅井建爾|2001|p=115}}。
1920年(大正9年)、日本初の道路整備長期計画である「第1次道路改良計画」が策定される。しかし、その3年後に[[関東大震災]]が発生し、帝都復興が優先された結果、地方道路の整備は更に遅れてしまった。日本初となる本格的な舗装道路、つまり現在でいう本舗装が誕生したのは、1926年(大正15年)に完成した東京・品川 - 横浜市間の約17 kmと、兵庫県尼崎市 - 神戸市間の約22 kmの道路であった{{sfn|浅井建爾|2001|p=116}}。
この時代には、ドイツの[[アウトバーン]]を参考に、産業・軍事用の高速道路計画と主要道路の改良策も検討されたが、1937年(昭和13年)の[[日中戦争]]突入にはじまり、1941年(昭和16年)の[[太平洋戦争]]勃発という事態になると、戦争が最優先されて道路整備は実現不能なものとなっていた{{sfn|窪田陽一|2009|p=16}}{{sfn|武部健一|pp=173–176}}。
=== 第二次世界大戦後 ===
敗戦国となった日本は、戦争末期の空襲で甚大な被害を受けて、戦時中は保守管理が行き届かなかった道路も相当に荒廃していた{{sfn|武部健一|2015|p=177}}。舗装はもとより路盤を造る砕石がほとんどない路面は、自動車の重量を支えられずに轍(わだち)はのめり込み、道路幅員もすれ違いが出来ないほど狭く、車両によっては沿道の家屋と接触するほどであった{{sfn|武部健一|2015|p=178}}。また、トラック走行によって舞い上がる砂塵は、日常生活や周囲の農作物に対して被害を及ぼした{{sfn|武部健一|2015|p=178}}。破損した道路の復旧・維持修繕を促すために、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー司令官]]は、1948年(昭和23年)に「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の策定を要請し{{sfn|武部健一|2015|p=179}}、1952年(昭和27年)に改正[[道路法]]が制定された{{sfn|窪田陽一|2009|p=16}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}。自動車の普及とともにその重要性が認識されはじめ、1954年(昭和29年)に「第一次道路整備五か年計画」が発足し、政府も道路整備に本腰を入れ始めるようになった{{sfn|浅井建爾|2001|p=118}}。自動車保有台数も100万台を突破していたため、政府は国内初の高速道路である[[名神高速道路]]の実現可能性を探るべく、世界銀行が派遣したアメリカのラルフ・J・ワトキンスを長とする調査団に調査依頼したところ、[[1956年]](昭和31年)に提出された[[ワトキンス・レポート]]で日本の道路事情の悪さを痛烈に指摘されるほど{{efn|1955年(昭和30年)の道路舗装率は、国道だけとってもわずか13.6%にすぎなかったといわれる{{sfn|佐藤健太郎|2014|p=92}}。}}道路整備を行うための財源不足が外国人によって認識させられ、これが戦後日本の道路整備を推進するきっかけとなったといわれている{{sfn|窪田陽一|2009|p=16}}{{sfn|浅井建爾|2001|p=118}}。その後、[[田中角栄]]らが[[道路特定財源制度|道路整備を行うための特定財源制度]]を議員立法で制定させて、その財源をもとに急速に道路整備が行われたことにより{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=40}}、ワトキンスが来日した当時は日本政府の道路整備支出予算は[[国民総生産]](GNP)の0.7%に過ぎなかったものが、10年足らずの間に大幅に拡大されて2%を突破し、その後も2%台を維持した{{sfn|浅井建爾|2001|p=118}}。
1960年頃まで、日本の道路のほとんどは非舗装といってよい状況であった{{sfn|浅井建爾|2015|p=25}}。1960年代半ばまで一般国道の改良率や舗装率を伸ばすことが最重要課題で、道路整備五箇年計画の計画的・重点的実施により、道路水準は著しく向上し、[[高度経済成長期]]を支える基本インフラ整備に貢献した{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。その後は政府の経済計画である[[全国総合開発計画]](全総)との連動で、時代による道路整備の方向性も変化していき、幹線道路の混雑の解消とともに高速道路の全国的整備へとシフトしていった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。
1964年(昭和39年)[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]を1つの契機として、[[高速道路]]や都市高速道などが整備されていき、その前年の1963年(昭和38年)には日本初の高速道路である[[名神高速道路]]が誕生した{{sfn|浅井建爾|2001|p=118}}。当初、高速道路は6つの法律に基づき個別路線ごとに計画されたが、全国的構想に基づくものではなかったため、1966年(昭和41年)に[[国土開発幹線自動車道建設法]]が制定され、延長7600 kmの全国高速道路網計画が策定された{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=48}}。
また、1960年代後半から始まった[[モータリゼーション]]は日本の道路の舗装化が急速に進んだ時期でもあったが{{sfn|浅井建爾|2015|p=26}}、自動車の台数は急増していき、交通事故死者が激増して社会問題となり、昭和40年代は[[交通戦争]]という言葉まで生まれた{{sfn|窪田陽一|2009|p=16}}。交通[[公害]]も社会問題となり、多様化する社会ニーズへの対応など、道路整備延長を増やすだけでは解決できない問題に対し、本格的に自動車や道路の対策が行われることになる{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。
1980年代に入ると、人口が東京・首都圏だけに集中し始める現象が起こるようになり、政府はこれに対処すべく1987年(昭和62年)に[[第四次全国総合開発計画]](四全総)を策定し、「多極分散型国土の構築」を「交通ネットワークの構築」によって実現することが提唱され、7600 kmに代わる新たな高速道路網計画として延長1万4000 kmの高規格幹線道路網が主要プロジェクトとして位置づけられた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=50}}。この計画では、目標サービスの改善としてインターチェンジまで1時間以内に見直され、災害に対するリダンダンシー(冗長性)などの視点が加えられた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=50}}。[[バブル景気]]の時代に入ると道路の開発ラッシュで整備がさらに進んだ。
=== 平成 ===
高速道路など[[高規格幹線道路]]のネットワークは全国を網羅し、それを補助する[[地域高規格道路]]も整備が行われた。道路において一定の量的ストックは形成されたため、2000年代に入り、道路整備予算は縮小されつつあるが、過去の道路建設に伴う負債が多くの自治体で問題となっている。
また、[[交通事故]]による死者数はピーク時1万5千人を超えていたが、2007年には高度な医療体制の確立や、[[エアバッグ]]や[[衝突安全ボディー]]など自動車の安全装置の充実、自動車台数の減少などによって5千人以下となった。
== 道路交通 ==
日本の道路交通規則では、自動車、自転車などの車両が左側通行、歩行者が右側通行である{{efn|車道と歩道が分離されている場合などを除く。}}。[[1890年]]([[明治]]33年)6月の初制度化から改正された[[1949年]]([[昭和]]24年)ごろまでは、人も馬・車も道路の左側通行であった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=161}}。これについての理由は、明治以前の武士の時代に[[刀]]を左に挿した[[侍]]が擦れ違う時に刀の鞘が触れないようにするためとも、すれ違いざまの攻撃のときに対応が遅れないためともいう説がある{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=162}}。また、牛車が左側を通行する習慣があったため、交通規則を定める際に人も車も左側通行したという説もある{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=162}}。明治に入り、新政府は[[イギリス]]に範を取り左側通行を正式に採用している。戦後、自動車が増えるに従い通行者が後ろからくる車に気づきにくく危険であるという理由から{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=162}}、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が、[[アメリカ合衆国]]と同じく車が右側通行、歩行者が左側通行の対面交通とするよう指導したが、日本の道路設備を右側通行にするには多額の費用と時間が必要ということが判明したため、車の左側通行は維持し歩行者のみ右側通行とすることとなった。アメリカ合衆国の施政下にあった[[沖縄県]]では、[[1978年]][[7月30日]]まで車が右側通行だった([[730 (交通)|730]])。
現在、世界的には「歩行者が左側、車両が右側」を通行する国が多数派であるが、日本と同様に「歩行者が右側、車両が左側」を通行する国にはイギリスなどがある{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=162}}。{{see also|左側通行の国一覧}}
=== 交通管理施設 ===
[[File:Ibaraki prefectural route 150 (Tsukioka-Makabe line) in Makabe-cho-Ta,Sakuragawa city.JPG|thumb|道路情報提供装置の一種である、一般道路に設置されている[[道路情報板]]の例([[茨城県道150号]])。]]
日本の道路では、交通の円滑を図り、安全かつ安心に利用できるように、[[日本の道路標識|道路標識]]、[[日本の路面標示|路面標示]]、[[非常電話]]、道路情報提供装置、車両監視装置、車両諸元計測装施設、[[料金所]]、[[日本の交通信号機|信号機]]の8種類の交通管理施設が設置されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=120}}。
道路標識は、道路で見かける丸形や三角形、四角形などの標識である{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=126}}。それぞれ役割があり、案内・警戒・規制・指示の各種類ごとに設置者が決められている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=126}}。各種の道路標識は、一か所にいくつもの標識が設置されることがないように配慮がなされていて、交通の妨げとならないように道路利用者にとってわかりやすい位置に設置されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=126}}。(→詳細は、「[[日本の道路標識]]」を参照。)
路面標示は、道路の舗装面にある[[横断歩道]]や[[一時停止|停止線]]、[[中央線 (道路)|センターライン]](中央線)などのマーキングのことである{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=128}}。マーキングの色は「[[道路標識、区画線及び道路標示に関する命令]]」(略称:標識令)により黄色や白色、青色表示などが定められていて、またその種類によって設置者が規定されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=128}}。(→詳細は、「[[日本の路面標示]]」を参照。)
[[非常電話]]は、高速自動車国道などの自動車専用道路に設置されていて、[[ネクスコ]]など[[道路管理者]]の担当センターに直接つながり、自動車の事故や故障など非常時の通報や援助を求める際に使用するものである{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=120}}。
道路情報提供装置は、その道路の渋滞や雨、霧、積雪、路面凍結などの気象情報、土砂崩れなどによる交通状況を把握して、道路上に設置された[[道路情報板]]などにより利用者へ情報提供する装置である{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=120}}。
車両監視装置は、主要道路の要所要所に遠隔操作できる監視カメラを設置して、交通事故や車両火災などの道路の状態を監視する装置である。交通量や走行速度を感知する車両感知器も、車両監視装置に含まれる{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=120}}。
車両諸元計測装置は、道路構造の保全や通行車両の安全を守るために、幹線道路沿いや料金所に設置されている施設で、日本の小型道路以外の道路設計基準である総重量25トン(245 [[キロニュートン|kN]])を超える重量の車両を検出し、取り締まるために設置されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=120}}。
[[料金所]]は、高速道路や有料道路の出入口に設けられる、通行料金を収受するための施設である。近年では、[[ETC]](料金自動授受システム)の普及により、窓口の無人化がすすんでいる{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=120}}。
信号機は、交差点でよく見かける道路交通の信号装置で、車両用と歩行者用があり、交差点の安全を確保するうえで最も有効な設備である{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=124}}。信号の発光面は意外と大きく、車両用(円形)は直径25 - 30センチメートル、歩行者用(正方形)は1辺あたり25センチメートルある{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=122}}。また、表示色の赤・黄・青の3色のうち、「止まれ」を意味する赤が最も視認性の良い位置になるように配置されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=122}}。信号制御方法は、大別すると地点制御、線制御、面制御の3つに分類でき、地点制御は隣接交差点に連動しない当該交差点を単独で制御する方式、線制御は幹線道路において隣接する交差点とともに連動制御する方式、面制御は大都市などの道路網において近隣交差点を一括して制御する方式である{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=124}}。また、信号表示には定期周期と交通感応制御の2種類がある{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=124}}。(→詳細は、「[[日本の交通信号機]]」を参照。)
== 道路整備五箇年計画 ==
'''道路整備五箇年計画'''(どうろせいびごかねんけいかく)とは、1954年から政府の閣議決定により策定が開始された道路整備のための目標や事業量を定めた中長期計画および基本方針プログラムである{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。国民生活の向上と国民経済の健全な発展を図るために道路整備の計画的・重点的実施が的確に実行されることを目的としており、[[道路整備緊急措置法]](昭和33年法律第34号)第2条第1項の規定に基づいて定められる。道路整備は非常に長期に及ぶとともに、多大な事業費を必要とするため、将来の交通需要を的確に予測し、事業効果を踏まえた優先順位のもとに事業プログラムを策定するものである{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。また中長期的な視点での有効需要を喚起し、整備された道路や橋、トンネルなどの交通インフラが十分に機能することで生み出される多くの経済効果をもたらすものとして、政府の経済計画の一翼を担う重要な役割を果たすものとして位置づけられている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。
道路整備五箇年計画が策定される以前の1950年代前半の日本は、幹線道路の整備は十分ではなく、2車線以上で線形・勾配が満足に改良された道路改良率は一般国道で30%程度、舗装率は20%未満という状況で、日本の経済・産業の発展を阻害する要因の一つにもなっていたが、これまで道路整備五箇年計画に基づいて確実に道路整備が実施されたことにより、道路整備水準が著しく向上し、日本の経済発展に大きな貢献をもたらしてきている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。その一方で、時代の経過とともに道路整備の重心も変化しており、1960年代ごろは道路改良率や舗装率の改善が重点的課題にあげられ、平成期に入るまでにその約90%以上が解消されてきたが{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=47}}、その後は高速道路の全国的な整備、幹線道路の交通障害の解消、交通事故や公害への対応など、多岐にわたる課題への取り組みが行われている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=46}}。
== 道路統計年報にみる道路整備状況 ==
=== 道路延長 ===
道路法で規定している道路である高速自動車国道・一般国道・都道府県道・市町村道(以下、公道{{efn|ただし、農道・林道・自転車道・自然歩道などは含まない。}})を合わせた総延長は127万3620 kmあり、その長さは地球約32周分に相当する{{sfn|浅井建爾|2015|p=33}}。全体から見た比率では、高速自動車国道が約0.7 %であるのに対し、[[生活道路]]といわれる市町村道で約83 %を占めている{{sfn|浅井建爾|2015|p=33}}。近年、毎年約4000 kmの道路が新たに造られているといわれており、日本国内の道路延長を伸ばし続けている{{sfn|浅井建爾|2015|p=33}}。
公道を対象とした都道府県別の道路延長は、国土交通省発行の道路統計年報2014年によると、[[北海道]]が9万7316 kmと最も長く、第2位の[[茨城県]](6万0171 km)、第3位の[[愛知県]](5万2185 km)と続く{{sfn|浅井建爾|2015|pp=34–36}}。また、最も短いのは沖縄県(9076 km)である。道路密度{{efn|面積1平方キロメートルあたりの道路の延長。}}は、農村部よりも都市部の方が高く、人口密度の高い都市ほど道路密度も高い傾向にある{{sfn|浅井建爾|2015|pp=34–36}}。道路密度が最も高いのは[[埼玉県]](13.00 km/km{{sup|2}})で、2位が[[東京都]]、3位が[[神奈川県]]と続く{{sfn|浅井建爾|2015|pp=34–36}}。道路密度が最も低いのは北海道(1.24 km/km{{sup|2}})で、1位埼玉県の10分の1以下である{{sfn|浅井建爾|2015|pp=34–36}}。
=== 道路面積 ===
日本の公道全体を対象とした道路面積は、道路統計年報2014年によると7557 km{{sup|2}}あり、[[熊本県]]や[[宮城県]]の面積を上回る{{sfn|浅井建爾|2015|pp=37–38}}。都道府県別では、最も広いのは北海道で730.3 km{{sup|2}}あり、第2位が愛知県(332.7 km{{sup|2}})、第3位が茨城県(284.8 km{{sup|2}})と続く{{sfn|浅井建爾|2015|pp=37–38}}。一方、都道府県別の道路面積比率{{efn|都道府県面積に対する道路面積が占める比率。}}では、最も高いのが大阪府で8.04 %あり、2位が東京都、3位が神奈川県と続き、上位5位まで[[三大都市圏]]が占める{{sfn|浅井建爾|2015|pp=37–38}}。最も低いのは北海道の0.87 %であるが、これは北海道地域は明治以降に開発された広大な土地で未開の地も多いためである{{sfn|浅井建爾|2015|pp=37–38}}。
=== 道路幅 ===
道路の路線や地域によって、道路幅には著しい差があり、概して古くから開かれた都市の道路は狭く、新興住宅地など新しく開けた土地の道路は比較的広いスペースが設けられている{{sfn|浅井建爾|2015|pp=39–40}}。都道府県別の道路幅の平均となると大きな差異はみられなくなるが、全国平均で5.90 mとなり、自動車がすれ違うことができない道路が全国的に多いことを物語っている{{sfn|浅井建爾|2015|pp=39–40}}。道路統計年報2014年によると、道路幅平均が最も広い都道府県は大阪府で7.57 mあり、2位が北海道(7.50 m)、3位が沖縄(7.11 m)と続く{{sfn|浅井建爾|2015|pp=39–40}}。
なお、日本の道路における車線の幅は、普通に見られる一般的な2車線道路でおおむね1車線あたり3.0 mの幅があり、幹線道路で3.25 m、高速道路などでは3.5 – 3.75 mとなっている{{sfn|浅井建爾|2015|p=39}}。
=== 歩道 ===
車道に併設される[[歩道]]の設置状況は、交通弱者である歩行者を守る道路の安全整備状況がどれだけ進んでいるかを示す指標にもなっている{{sfn|浅井建爾|2015|pp=40–41}}。道路統計年報2014年によると、歩道設置率が最も高いのは沖縄県で27.0 %、2位が北海道(24.0 %)、3位が東京都(23.4 %)と続く{{sfn|浅井建爾|2015|pp=40–41}}。沖縄と北海道の歩道設置率が高い理由は、沖縄は戦後アメリカに占領されていた時期があったことや、北海道では明治時代以降に開拓された歴史を持つことから、他府県とは社会的、文化的に事情が異なっているからだという見方がされている{{sfn|浅井建爾|2015|pp=40–41}}。
=== 中央分離帯 ===
交通事故の抑止効果があるとされる[[中央分離帯]]は、道路幅が広くないと設置困難なため、都市部ほど設置率が高い傾向にある{{sfn|浅井建爾|2015|pp=43–44}}。道路統計年報2014年によると、中央分離帯設置率が最も高いのは大阪府で4.1 %、2位が東京都(2.9 %)、3位は[[山口県]](2.7 %)と続く{{sfn|浅井建爾|2015|pp=43–44}}。一方、設置率が低いのは[[長崎県]]・[[鹿児島県]]・[[高知県]]の3県で0.5 %となっている{{sfn|浅井建爾|2015|pp=43–44}}。
== 維持修繕 ==
道路では、道路利用者や沿道住民に、より良い道路サービスを提供するために道路の機能の維持・修繕が行われている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=132–133}}。その第一歩として、道路の異常や不法占用に対する措置を講ずるために、道路巡回によって道路情報の収集が行われている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=132–133}}。道路巡回方法には状況に応じて4つの種類があり、(1) 原則2日に1回程度、目視点検を行う「通常点検」、(2) 原則として月1回、夜間の道路使用状況や夜間特有の照明施設などの安全施設などの機能を確認する「夜間巡回」、(3) 原則として年1回、橋梁やトンネルなどの構造物の破壊状況について点検を行う「定期点検」、(4) 台風や地震災害が発生したときに、交通障害や道路の利用状況を把握するために必要に応じて実施する「異常時巡回」がある{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=132–133}}。これら巡回業務以外でも、国土交通省の管理基準に則って、路面清掃、除草、樹木の剪定、降雪時の除雪が行われる{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=132–133}}。
[[舗装]]は、供用が始まると徐々に劣化していくため維持修繕が行われているが、日本では高度経済成長期に建設された道路舗装が老朽化し、維持修繕にかかる費用をなるべく抑えた効率の良い修繕計画が求められるため、PSI{{efn|個別最適ではなく、全体最適の観点でとらえて、計画と実績を管理していくこと。}}やMCI{{efn|維持管理指数(英語:''Maintenance Control Index'')。道路管理者の立場からみた舗装の維持修繕の要否を判断する評価値であり、地域や路線ごとに供用年数・車線当たりの交通量・大型車混入率を説明変数にして、劣化曲線の線形回帰式から算出される将来予測値で評価する。数値レベルは0から10までの範囲で、数値が5を下回ると修繕の必要性があるとされる<ref>{{Cite report|和書|url=https://www.pref.ibaraki.jp/doboku/doiji/documents/hosouijisyuzen.pdf|title=茨城県舗装維持修繕計画(概要版)|publisher=茨城県|author=茨城県土木部道路維持課|page=9|date=2016-03|accessdate=2019-11-27}}</ref>。}}を用いて舗装性能を総合的に評価している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=134}}。舗装が薄いと建設初期の費用は小さく済むが、頻繁に補修を行わなくてはならず、これに対して厚い舗装では維持修繕費用は少なく済むが、建設初期費用が高くなってしまうため、その中間になるような[[ライフサイクルコスト]]になるように、舗装の厚さは考えられている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=134}}。
=== 積雪地域 ===
[[File:Brown road by groundwater in Nagaoka City.jpg|thumb|[[消雪パイプ]]が埋め込まれている新潟県長岡市の道路。道路のセンターラインには地下水が吹き出すヘッドが埋め込まれている。地下水が流れ出る影響で、路面はサビ色に染まっている。]]
冬期に積雪がある積雪寒冷地は、[[雪寒法]](正式名:積雪寒冷特別地域における道路交通の確保に関する特別措置法)で定義されていて、雪や氷の害から道路の交通機能を維持するために、さまざまな工夫がなされている。路面の凍結防止対策としては、地下水が流れる[[消雪パイプ]]を道路下に設置して、道路に水を散布することによって雪を溶かす方法や、道路下に熱を発するパイプや電熱線を埋め込む[[ロードヒーティング]]設備を設置する方法がとられている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=142–143}}。
道路施設としての安全対策は、[[除雪車]]による[[除雪]]位置や走行位置の目印にするための除雪ポールや道路幅表示器、道路脇の斜面に積もった雪が道路上に落ちてくるのを防止するための防護柵や[[スノーシェッド]]、チェーン脱着場(チェーンベース)、信号機の上に雪が積もりにくくなるようにした縦型信号機などが設置されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=142–143}}。
舗装についても対策されており、寒冷期に舗装下の路床(ろしょう)の凍結による体積膨張と、夏場に融解した際の地下水で地盤が弱くなることが繰り返されるによって引き起こされる、舗装表面のひび割れや、わだち掘れ現象の対策として、路床と舗装の下層路盤との間に、凍上抑制層とよばれる凍らない層を設置する{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=142–143}}。
== 環境への取り組み ==
[[環境影響評価]](環境アセスメント)制度は、事業者があらかじめ環境への影響について調査または評価を行い、その結果に基づいて環境保全措置を検討することによって、事業計画を環境保全の上でより望ましいものとする仕組みである。環境保全評価は1972年に一部の事業で導入され、1997年からは[[環境影響評価法]]に基づき実施されるようになった{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=76–77}}。環境影響評価の対象となる道路事業のうち、大きな影響を及ぼす恐れがあるため必ず実施する道路(第1種事業)は、すべての高速自動車国道、4車線以上の都市高速道路、4車線以上かつ10 km以上の一般国道である{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=76–77}}。また、環境影響評価の手続きを行うかどうかを個別に判断する道路事業(第2種事業)は、4車線以上かつ7.5 - 10 kmの一般国道が対象となる{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=76–77}}。事業者は、環境影響評価の手順を守るため、まずはじめに環境保全のために配慮すべき事項を記載した「配慮書」を、評価項目や調査・予測・評価の手法などを検討した「方法書」を作成する{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=76–77}}。方法書に基づいて、環境影響の調査・予測・評価及び環境保全措置の検討をまとめて「準備書」に記し、住民や知事の意見と、事業者の見解を示して必要な修正を行って「評価書」として作成される{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=76–77}}。最終的に、事業が実施された後に評価書に対する「報告書」がとりまとめられる{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=76–77}}。
=== 騒音対策 ===
[[File:Isewangan20180430C.jpg|thumb|遮音壁の一例([[伊勢湾岸自動車道]])]]
道路を走行する自動車が発する騒音は、地域の環境保全と快適な暮らしを守ることを目的に、[[環境基本法]]と[[騒音規制法]]によって規制されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=72–73}}。騒音には、距離減衰、反射、屈折、回折といった性質があり、これら考え方をもとに、道路にはさまざまな対策が施される{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=72–73}}。主な対策に、遮音壁と環境施設帯の設置があり、遮音壁は騒音を遮蔽して減音するとともに、吸音材により反射音を吸収する工夫がなされている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=72–73}}。また環境施設帯は、交通量が多い自動車専用道路などの両側に20メートルほどの一定幅を持つ緩衝帯を設けることで騒音の距離減衰効果が期待される空間であり、そこに[[街路樹]]を植栽したり、一部は自転車歩行者道や車道が設けられる{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=72–73}}。
=== 地球温暖化対策 ===
地球規模の環境問題の一つとして、[[温室効果ガス]]のひとつである[[二酸化炭素]] (CO<sub>2</sub>) による[[地球温暖化]]がある。「日本国温室効果ガスインベントリ報告書」によれば、2015年度における日本国内の温室効果ガス (CO<sub>2</sub>) 総排出量は13億2500万トンあり、このうち自動車からのCO<sub>2</sub>排出量は総排出量全体の約15%を占めている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=74–75}}。削減には自動車の燃費改善や、利用目的に応じた公共交通機関の有効利用法もあるが、道路における対策としては、渋滞をなくしたスムーズに走れる道路交通環境の改善と、道路の緑化・道路施設の太陽光発電などの新エネルギー活用が挙げられる{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=74–75}}。小型車は走行速度60 - 70 km/hのときにCO<sub>2</sub>排出量は最小になるという計算結果もあり、[[環状道路]]や[[バイパス道路]]の整備、[[道路交通情報]]の提供や弾力的な料金制度による道路交通の円滑化がCO<sub>2</sub>排出量の削減に寄与している{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=74–75}}。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=窪田陽一 |title=道路が一番わかる |edition=初版 |date=2009-11-25 |publisher=[[技術評論社]] |series=しくみ図解 |isbn=978-4-7741-4005-6 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤健太郎|authorlink=佐藤健太郎 (フリーライター)|year=2014|title=ふしぎな国道|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|isbn=978-4-06-288282-8|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=峯岸邦夫編著 |authorlink= |date=2018-10-24 |title=トコトンやさしい道路の本 |series=今日からモノ知りシリーズ|publisher=[[日刊工業新聞社]] |isbn=978-4-526-07891-0 |ref={{SfnRef|峯岸邦夫|2018}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Roads in Japan}}
{{Commonscat|Streets in Japan|日本の通り}}
* [[日本の道路一覧]]・[[日本の通り一覧]]
* [[日本の高速道路一覧]]・[[日本の一般有料道路一覧]]
* [[無料開放された道路一覧]]
* [[地域高規格道路一覧]]
* [[日本の道100選]]
* [[道の駅]]
* [[国土交通省]]
* [[古代道路]]
* [[道路特定財源制度]]
== 外部リンク ==
* [http://www.mlit.go.jp/road 国土交通省道路局]
{{日本関連の項目}}
[[Category:日本の道路|*]] | 2003-03-13T20:07:39Z | 2023-11-23T04:12:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%81%93%E8%B7%AF |
3,959 | 日本の高速道路 | 日本の高速道路(にっぽんのこうそくどうろ)では日本の高速道路について説明する。
日本では「高速自動車国道」と「自動車専用道路」とを合わせて「高速道路」として位置付ける(交通の教則など)。従って自動車専用の道路である。
高速道路が正式な呼び方である。日常生活などで略す場合や他の語と組み合わせる場合は「高速」ということがある。
日本での高速道路の公式な英語表記にはExpressway(略記:EXPWY・エクスプレスウェイ)が用いられるが、俗にHighway(ハイウェイ)と呼ばれることがある。元々米国で「Highway」は幹線道路という意味であり、一般国道を含めた国道(英語: National Highway)や主要地方道等の主要道路全体を指す。日本の高速道路は幹線道路としての機能も有するため、Highwayというカテゴリの道路の1種であると言うこともできる。
法令上の高速道路の定義は、概ね「高速自動車国道」と「自動車専用道路」とを合わせたものとするが、詳細はいくつかのものがある。一般自動車道は含まれない。
道路構造令で第1種、第2種に区分する道路が高速道路であるが例外的に第3種第1級の道路を出入り制限して自動車専用道路に指定している道路もある。
高速道路は、以下の条件を満たす必要がある。
高速道路の通行条件は以下のようになっている。
日本の高速道路には、以下のものがある。
高速道路の種類や建設方式が複雑化した背景として、省間の利害対立や建設費用の捻出方法の違いなどが挙げられる。
高速自動車国道の道路名は、「○○高速道路」や「○○自動車道」のように呼ばれる。
なお、道路名と路線名が異なる場合がある。具体例は以下の通り。
高規格幹線道路の路線名は「○○自動車道」という路線名になっているが、これは道路運送法に基づく自動車道ではなく、道路法に基づく道路である。これは、国土開発幹線自動車道建設法制定の際、国土開発幹線自動車道を建設省所管の道路とするか運輸省所管の自動車道とするかの結論が出ず、結局後の高速自動車国道法によって「道路であること」が規定されたという経緯による。
「高速道路」の呼称が用いられるのは、高速自動車国道では東名高速道路・新東名高速道路・名神高速道路・新名神高速道路のみであるが、これは両道路の計画・建設の進められる過程で、広く民間において「高速道路」の通称が使用され、命名の時点で一般に最も定着しているという歴史的な背景を考慮して、例外的に採用されたものである。 中央自動車道も「中央高速道路」(調布インターチェンジ~河口湖インターチェンジ間のみ)とされていたが、その名称故に交通事故が頻発したため改称された。 案内向け名称で◯◯自動車道を使うようになったのは中国自動車道(高速自動車国道中国縦貫自動車道)が最初である。
2017年2月14日に、一部改正された「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」が施行され、高速道路番号の標識が新設された。
高速道路番号の考え方は、2016年9月に、国土交通省道路局が設置した有識者による高速道路ナンバリング検討委員会がとりまとめた「高速道路ナンバリングの実現に向けた提言」に基づいている。これによれば、以下のルールに基づいて高速道路にナンバリングが行われるべきとされた。
自動車専用の規制標識が用いられる。補助標識が追加される場合には「高速自動車国道」、「自動車専用道」(これは高速自動車国道ではない場合)などがある。
案内標識は緑地上に白字で書かれる。
書体は視認性を重視し、日本道路公団が開発した独自の書体の道路公団標準文字(公団文字・公団ゴシック)と呼ばれるものが使用されていた。1963年(昭和38年)の名神高速開通に間に合わせる形で実用化に向け標識に使用する書体のパターンが何種類か作られ、視認性などのテストが行われた。公団文字は、標識として掲示した際、100 km/hで100 - 150 m手前から6秒以内で認識できるように制作された。そのため、文字は角ばっており、画数の多い文字の一部を省略したりバランスを崩して視認性を確保したりとしているため、非常に独特な文字である。過去には、文字を省略したがゆえに誤字だと指摘を受けたこともある。ただ、新規の高速道路やICが開通する際に名称に使う文字がない場合には新たに作成する必要がある上、文字の組み合わせによっては文字の上下がそろっていないため、「東京」や「京都」等では、同じ文字を二度作る手間があった。
2010年(平成22年)には、レイアウトが変更され、日本語書体はヒラギノもしくは新ゴ、英字はVialog(ビアログ)、数字はFrutiger(フルティガー)となり、文字のサイズが従来より5 cm大きくなった(和文で55 cm、英文で30 cm)。新しいレイアウトでは、文字サイズが大きくなり、フォントが変更されたことによって視認性が旧タイプの標識より向上している。旧レイアウトでは英字が日本語の半分以下のサイズだったのに対し、新レイアウトでは英字のサイズが日本語の半分以上のサイズになっている。
首都高速や阪神高速など都市高速や東京外環自動車道・地方道路公社管理の自動車専用道路の道路標識では、1990年代以降、ゴナもしくは新ゴが主流になっている。
高速道路へのアクセス標識にも、高速道路のレイアウトを使用している場合がある。普通の道路標識にリブを2 - 6本つけた構造。
欧米諸国では第二次世界大戦以前から自動車が普及し高速道路が走っていたが、欧米に比べ自動車の普及が遅れた日本では、高速道路の建設自体が相当に遅れて始まった。
高速道路建設の着想自体は実業家の菅原通済が1929年(昭和4年)に東京 - 大阪間に306マイル64チェーン(約493 km)の自動車専用舗装道路を事業費8,000万円(当時)で建設し、民間で運営する構想を打ち出したのが最初である。この「日本自動車道株式会社」計画は道路運営会社自体も旅客・貨物輸送(バス・トラック運行)を行い一般の自動車にも有料通行をさせるという鉄道事業と有料道路事業の折衷的構想で計画書も当局に提出されたが、自動車が一般に本格普及する以前の時代で不況とそれに続く戦時体制によってまったく実現しなかった。日本で初めて高速道路構想が持ち上がったこのころの戦前の道路計画では、弾丸よりも速く走れるという意味で「弾丸道路」と呼ばれていた。東海道新幹線の原形となった鉄道が「弾丸列車」と称したところから命名されたものである。
ドイツのアウトバーンに刺激され、1938年(昭和13年)頃から高速道路である自動車専用国道の議論が始まった。1940年(昭和15年)には内務省により東京 - 下関間の高速国道の調査が始められ、1943年(昭和18年)に全国自動車国道計画を策定した。計画によれば、北は樺太の国境端から北海道の稚内 - 札幌 - 函館間、本州は青森 - 下関間を太平洋側と日本海側でそれぞれ結び、九州では門司 - 福岡 - 長崎間まであり、総延長は5490 km、設計速度は平坦部が150 km/h、丘陵部が100 km/hであった。国防上の要請もあり計画されたが1943年(昭和18年)、戦局のために最優先区間とした東京 - 神戸間の調査も打ち切られた。
敗戦後の日本復興のために奔走した、田中清一と田中角栄の二人の活動は、日本に高速道路を誕生させる大きなきっかけとなった。静岡県沼津市出身の実業家である田中清一は、1947年(昭和22年)に国土改造計画の中心的命題になった、国土の普遍的開発の具体策として「国土開発縦貫自動車道構想」を起案し、この構想は当時の国会議員らをも動かし、高速道路建設を実現する原動力となった。田中角栄は、戦後の日本の道路整備の方向性を明確にし、のちに内閣総理大臣になった政治家で、特に1953年(昭和28年)に揮発油税を道路特定財源とする法整備を推進し、道路整備の安定的な財源確保の大きな支えとなった。
日本における高速道路の本格的な実現は、昭和30年代の高度経済成長期に入ってからで、モータリゼーションを背景として大都市間を結ぶ幹線高速道路、そして東京や大阪をはじめとする大都市内の都市高速道路が急ピッチで建設されていくようになる。これらは国家的施策として計画が立案され、日本道路公団に管理を委ねるかたちで21世紀初頭まで引き続いて高速道路網の整備が促進され続けた。その進展と共に、日本の貨物輸送の主力は、従来の貨物列車からトラックによる自動車輸送を主軸とするようになっていった。
日本国政府が、高速道路建設の実現に向けて世界銀行に融資を求めた際に、1956年(昭和31年)に来日したアメリカ合衆国のワトキンス調査団から、日本の高速道路実現の是非について提出された報告書、通称「ワトキンス・レポート」の冒頭の内容は、当時の日本の道路事情の劣悪さを痛烈に批判するものであった。ワトキンスの発言に刺激された日本国政府は、翌年の1957年(昭和32年)に高速自動車国道法を制定し、これまで鉄道優先としてきた陸上交通政策から高速道路建設へと舵を切ることとなった。
日本の高速自動車国道の開通は、1963年(昭和38年)7月の名神高速道路 栗東IC - 尼崎IC間(71.7 km)が最初である。東海道新幹線開業の前年にあたるこの年に、自動車が時速100 kmで疾走する道路誕生のニュースは、世間を大いに沸かせることとなった。このルート上にあたる京都市は、政令指定都市のなかで最初に高速道路が走った都市となった。1965年(昭和40年)には、名神高速道路の名古屋 - 阪神地区間の全線(小牧IC - 西宮IC、193.9 km)が完成し、これまで自動車で5 - 6時間を要した移動時間が、2時間程で結ばれるようになり、名古屋 - 大阪間において自動車での日帰り移動が可能となった。
全国高速道路網整備の問題は、田中清一の運動以来、道路網整備の理念が先行していくとともに国会議員の政治活動にも巻き込まれていった。
1955年(昭和30年)6月、超党派の国会議員430名によって、中央・東北・北海道・中国・九州の自動車道の6本、合計約5000 kmを整備するため「国土開発縦貫自動車道建設法案」が提出される。
「自動車道」という文言は、建設省が推し進める戦前の自動車国道計画を意識した道路網の一環としての「高速道路」とは異なる概念として定義したものであり、既存の道路法に基づく一般道路とは異なり、道路運送法によって建設されるべき道路という思想が根底にあったため、国会審議と並行して建設省と運輸省の所管争いを伴った。
本法案は、赤石山脈を貫通する中央道建設上の技術的な問題をはらんでいたことと、道路運送法に準拠するという法的な問題を抱えたため、国会での法案成立まで5国会を経て約2年を要し、結局は原案にあった「別表」記載の路線通過位置を外して各自動車道の予定路線は別法律の定めによること、および、新たに既存の道路法上の道路の最上位に位置する「高速自動車国道」という概念が付け加えられて、建設省所管の道路法上の道路として1957年(昭和32年)4月に成立し決着をみた。「国土開発縦貫自動車道建設法」成立時には、建設計画として国土開発縦貫自動車道を含む「高速自動車国道法」も制定された。
国会では、中央自動車道と東名高速道路のどちらの建設を優先するか路線の選択に揺れている間、高速自動車国道建設の要望は全国各地で起こり、各路線ごとに道路建設法の単独立法が次々と成立していく状況を受けて、1966年(昭和41年)に政府起案の「国土開発縦貫自動車道建設法」一部改正法案とした「国土開発幹線自動車道建設法」が成立し、中央・東北・北陸・中国・九州のいわゆる縦貫五道を軸に、全国の都道府県を結ぶ32路線7600 kmの高速道路網が計画された。
しかしその後の社会的な交通状況の変化により、この計画が不十分だとして計画の見直しが行われることとなった。1987年(昭和62年)に修正変更が行われ、第四次全国総合開発計画の閣議決定により、高速道路43路線11,520 km、一般国道の自動車専用道路2,300 km、本州四国連絡道路180 kmの高速交通網から成る、全長14,000 kmの高規格幹線道路網が計画された。
昭和40年代以降、日本の高速道路建設は本格的に推し進められてゆき、1968年(昭和43年)に、東名高速道路の部分開通が始まり、翌1969年(昭和44年)には東名高速道路の東京 - 名古屋地区間(東京IC - 小牧IC、346.8 km)が全線開通した。同じ年に中央自動車道富士吉田線も開通しており、1982年(昭和57年)に中央自動車道の全線が開通した。
東京・大阪の二大都市間が高速道路で結ばれ、物資輸送の大動脈として活躍することとなり、国土開発幹線自動車道建設法の施行以後は、北海道から九州・沖縄までの各地で高速道路が毎年200から250 kmのペースで次々と開通してゆき、2014年(平成26年)時点で北海道の一部を除いて国土開発幹線自動車道網はすべて完成している。一方、本来であれば遅くとも2015年までに高速道路網がほぼ完成する予定であったが、バブル崩壊により実現せず、各地にミッシングリンクが残されている。
オートバイの二人乗りは、危険だとの理由から1965年(昭和40年)から日本では禁止された。これは世界的にも大韓民国と日本しかなく珍しいケースであった。そこに、アメリカ合衆国連邦政府から市場開放問題苦情処理推進会議にこの問題が提起され、内容は「高速道路のオートバイ二人乗り禁止は、大型自動二輪車の普及を阻害する非関税障壁だ」とするものであった。
規制緩和の機運が生じたことから、日本自動車工業会に二輪車特別委員会が設けられ、ヨーロッパのドイツとイタリアでの実態調査を行った結果、事故はごく少なく、そのリスクは一般道の3分の1で、事故発生率も1人乗りより下回っていることがわかった。こうした背景から、2004年の平成16年第159回国会で、二人乗り禁止を解除する法案が提出されて、同年6月9日に同法案が公布、1年後の2005年に施行された。
海外の高速道路は、通行料が無料のところも多いが、日本では1956年(昭和31年)に制定された道路整備特別措置法によって、有料道路制度が創設されたため、原則すべてが有料である。
建設開始当初、高速自動車国道は原則として、建設時の借入金が返済されるまで無料開放をしない有料道路との位置付けであった。このため各路線ごとの借入金が、それぞれの路線の収益により返済された後は、無料開放される予定であった。
だが1972年10月、根拠法である「道路整備特別措置法施行令」が第1次田中角栄内閣によって改正されて全国料金プール制(全国路線網)が導入され、全国の高速道路の収支を合算する(事実上のどんぶり勘定)こと、国土開発幹線自動車道建設審議会が高速道路の延伸を答申したため、東名高速道路や名神高速道路の収益で、他の赤字高速路線の借入金を返却する状態となった。赤字国債によって建設費を賄ったこともあり、無料化は度々先送りされた。
2002年(平成14年)8月7日に道路関係四公団民営化推進委員会は高速道路の無料開放を断念し、日本道路公団民営化に伴う高速道路の恒久有料化を決定した。この結果、高速道路の無料開放の可能性は一旦消滅した。道路公団民営化の方針で、2005年(平成17年)の民営化後45年以内に借入金を返済し、日本高速道路保有・債務返済機構を解散することが日本高速道路保有・債務返済機構法で義務化されている。民営化時の借入金は、約40兆円になった。
その後平成21年の衆議院議員選挙において、高速道路無料化をマニフェストに掲げた民主党が圧勝した。無料化が実現すればアメリカ合衆国のフリーウェイやドイツのアウトバーンと、先進国の主要道路と同様、基本的に車種を問わずに無料となる予定だったが、JRや高速バス、フェリーからの反発が根強い上、民主党が連立政権を組んでいた社民党は「(ガソリン税の暫定税率撤廃と同様に)地球温暖化対策に逆行する上、余計な財源が必要」として再考を求めていた。民主党内部でも約半数の議員がこの政策に懸念を示し、行政刷新会議の中でも事業仕分けリストの中に取り上げられるなど、政策は二転三転し、結果的に民主党はマニフェストを達成せぬまま下野した。
なお新直轄方式の高速自動車国道や一部の高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路、一部の地域高規格道路、その他の自動車専用道路として無料開放されている路線もある。北陸自動車道の新潟西IC - 新潟黒埼ICは新潟西ICに接続する新潟西バイパスが開通したことによって、高速自動車国道では唯一1989年(平成元年)に無料開放された。
民営化時点における料金の徴収期間は、高速道路3社及び本州四国道路連絡橋については、2050年8月27日まで、首都高と阪神高速については、2050年9月30日までとなっていたが、2014年(平成26年)に、構造物の老朽化のため修繕費用を捻出する必要性から、さらに2065年9月30日まで料金徴収をすることが可能となるよう、関係法律が改正された。
日本に高速道路が整備されたことにより、都市や拠点間の旅行時間が大幅に短縮され、交通が一般道路から高速道路へ転換されたことで従来道路の混雑が解消し、交通事故の減少をもたらしている。安定した高速走行により、自動車から排出される二酸化炭素(CO2)の削減にもつながっている。
こうした直接効果から副次的に生まれた間接効果として、都市部では年間を通じて品質の良い生鮮野菜や水産物の安定供給を受けることが実現可能になり、産地にとっても高速道路によって大市場へ出荷することができるようになったので、地域ブランド力や付加価値アップに貢献している。
産業経済面では、大都市圏を中心とする好立地条件を背景に、物流再編を可能とした経済成長を牽引する交通インフラとして機能している。例えば、2018年に発生した大阪府北部地震では、鉄道の運転見合わせや高速道路の通行止めが相次ぐ中で、舞鶴若狭自動車道だけが通行可能だったため、中部地方以東と中国地方以西の交通や流通をつなぐ冗長性機能を発揮した。
(出典:峯岸邦夫編著『トコトンやさしい道路の本』日刊工業新聞社(2018年)p. 25 の表から引用。)
視点を変えて、高速道路を社会インフラ整備の一環として広義に捉えると、ケインズの経済理論に基づく有効需要や失業対策として、公共投資による高速道路の整備過程で、生産、雇用、消費などの経済活動が短期的に活発になって拡大する効果(いわゆるフロー効果)をもたらす経済政策の一つとして位置づけられている。 | [
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"text": "日本の高速道路(にっぽんのこうそくどうろ)では日本の高速道路について説明する。",
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"text": "日本では「高速自動車国道」と「自動車専用道路」とを合わせて「高速道路」として位置付ける(交通の教則など)。従って自動車専用の道路である。",
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"text": "高速道路が正式な呼び方である。日常生活などで略す場合や他の語と組み合わせる場合は「高速」ということがある。",
"title": "概要"
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"text": "日本での高速道路の公式な英語表記にはExpressway(略記:EXPWY・エクスプレスウェイ)が用いられるが、俗にHighway(ハイウェイ)と呼ばれることがある。元々米国で「Highway」は幹線道路という意味であり、一般国道を含めた国道(英語: National Highway)や主要地方道等の主要道路全体を指す。日本の高速道路は幹線道路としての機能も有するため、Highwayというカテゴリの道路の1種であると言うこともできる。",
"title": "概要"
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"text": "法令上の高速道路の定義は、概ね「高速自動車国道」と「自動車専用道路」とを合わせたものとするが、詳細はいくつかのものがある。一般自動車道は含まれない。",
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"text": "道路構造令で第1種、第2種に区分する道路が高速道路であるが例外的に第3種第1級の道路を出入り制限して自動車専用道路に指定している道路もある。",
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"text": "高速道路は、以下の条件を満たす必要がある。",
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"text": "高速道路の通行条件は以下のようになっている。",
"title": "概要"
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"text": "日本の高速道路には、以下のものがある。",
"title": "分類"
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"text": "高速道路の種類や建設方式が複雑化した背景として、省間の利害対立や建設費用の捻出方法の違いなどが挙げられる。",
"title": "分類"
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"text": "高速自動車国道の道路名は、「○○高速道路」や「○○自動車道」のように呼ばれる。",
"title": "各路線の命名規則"
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"text": "なお、道路名と路線名が異なる場合がある。具体例は以下の通り。",
"title": "各路線の命名規則"
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"text": "高規格幹線道路の路線名は「○○自動車道」という路線名になっているが、これは道路運送法に基づく自動車道ではなく、道路法に基づく道路である。これは、国土開発幹線自動車道建設法制定の際、国土開発幹線自動車道を建設省所管の道路とするか運輸省所管の自動車道とするかの結論が出ず、結局後の高速自動車国道法によって「道路であること」が規定されたという経緯による。",
"title": "各路線の命名規則"
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"text": "「高速道路」の呼称が用いられるのは、高速自動車国道では東名高速道路・新東名高速道路・名神高速道路・新名神高速道路のみであるが、これは両道路の計画・建設の進められる過程で、広く民間において「高速道路」の通称が使用され、命名の時点で一般に最も定着しているという歴史的な背景を考慮して、例外的に採用されたものである。 中央自動車道も「中央高速道路」(調布インターチェンジ~河口湖インターチェンジ間のみ)とされていたが、その名称故に交通事故が頻発したため改称された。 案内向け名称で◯◯自動車道を使うようになったのは中国自動車道(高速自動車国道中国縦貫自動車道)が最初である。",
"title": "各路線の命名規則"
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"text": "2017年2月14日に、一部改正された「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」が施行され、高速道路番号の標識が新設された。",
"title": "路線番号の規則(高速道路ナンバリング)"
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"text": "高速道路番号の考え方は、2016年9月に、国土交通省道路局が設置した有識者による高速道路ナンバリング検討委員会がとりまとめた「高速道路ナンバリングの実現に向けた提言」に基づいている。これによれば、以下のルールに基づいて高速道路にナンバリングが行われるべきとされた。",
"title": "路線番号の規則(高速道路ナンバリング)"
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"text": "自動車専用の規制標識が用いられる。補助標識が追加される場合には「高速自動車国道」、「自動車専用道」(これは高速自動車国道ではない場合)などがある。",
"title": "道路標識・案内標識"
},
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"text": "案内標識は緑地上に白字で書かれる。",
"title": "道路標識・案内標識"
},
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"text": "書体は視認性を重視し、日本道路公団が開発した独自の書体の道路公団標準文字(公団文字・公団ゴシック)と呼ばれるものが使用されていた。1963年(昭和38年)の名神高速開通に間に合わせる形で実用化に向け標識に使用する書体のパターンが何種類か作られ、視認性などのテストが行われた。公団文字は、標識として掲示した際、100 km/hで100 - 150 m手前から6秒以内で認識できるように制作された。そのため、文字は角ばっており、画数の多い文字の一部を省略したりバランスを崩して視認性を確保したりとしているため、非常に独特な文字である。過去には、文字を省略したがゆえに誤字だと指摘を受けたこともある。ただ、新規の高速道路やICが開通する際に名称に使う文字がない場合には新たに作成する必要がある上、文字の組み合わせによっては文字の上下がそろっていないため、「東京」や「京都」等では、同じ文字を二度作る手間があった。",
"title": "道路標識・案内標識"
},
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"text": "2010年(平成22年)には、レイアウトが変更され、日本語書体はヒラギノもしくは新ゴ、英字はVialog(ビアログ)、数字はFrutiger(フルティガー)となり、文字のサイズが従来より5 cm大きくなった(和文で55 cm、英文で30 cm)。新しいレイアウトでは、文字サイズが大きくなり、フォントが変更されたことによって視認性が旧タイプの標識より向上している。旧レイアウトでは英字が日本語の半分以下のサイズだったのに対し、新レイアウトでは英字のサイズが日本語の半分以上のサイズになっている。",
"title": "道路標識・案内標識"
},
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"text": "首都高速や阪神高速など都市高速や東京外環自動車道・地方道路公社管理の自動車専用道路の道路標識では、1990年代以降、ゴナもしくは新ゴが主流になっている。",
"title": "道路標識・案内標識"
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"text": "高速道路へのアクセス標識にも、高速道路のレイアウトを使用している場合がある。普通の道路標識にリブを2 - 6本つけた構造。",
"title": "道路標識・案内標識"
},
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"text": "欧米諸国では第二次世界大戦以前から自動車が普及し高速道路が走っていたが、欧米に比べ自動車の普及が遅れた日本では、高速道路の建設自体が相当に遅れて始まった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 23,
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"text": "高速道路建設の着想自体は実業家の菅原通済が1929年(昭和4年)に東京 - 大阪間に306マイル64チェーン(約493 km)の自動車専用舗装道路を事業費8,000万円(当時)で建設し、民間で運営する構想を打ち出したのが最初である。この「日本自動車道株式会社」計画は道路運営会社自体も旅客・貨物輸送(バス・トラック運行)を行い一般の自動車にも有料通行をさせるという鉄道事業と有料道路事業の折衷的構想で計画書も当局に提出されたが、自動車が一般に本格普及する以前の時代で不況とそれに続く戦時体制によってまったく実現しなかった。日本で初めて高速道路構想が持ち上がったこのころの戦前の道路計画では、弾丸よりも速く走れるという意味で「弾丸道路」と呼ばれていた。東海道新幹線の原形となった鉄道が「弾丸列車」と称したところから命名されたものである。",
"title": "歴史"
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"text": "ドイツのアウトバーンに刺激され、1938年(昭和13年)頃から高速道路である自動車専用国道の議論が始まった。1940年(昭和15年)には内務省により東京 - 下関間の高速国道の調査が始められ、1943年(昭和18年)に全国自動車国道計画を策定した。計画によれば、北は樺太の国境端から北海道の稚内 - 札幌 - 函館間、本州は青森 - 下関間を太平洋側と日本海側でそれぞれ結び、九州では門司 - 福岡 - 長崎間まであり、総延長は5490 km、設計速度は平坦部が150 km/h、丘陵部が100 km/hであった。国防上の要請もあり計画されたが1943年(昭和18年)、戦局のために最優先区間とした東京 - 神戸間の調査も打ち切られた。",
"title": "歴史"
},
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"text": "敗戦後の日本復興のために奔走した、田中清一と田中角栄の二人の活動は、日本に高速道路を誕生させる大きなきっかけとなった。静岡県沼津市出身の実業家である田中清一は、1947年(昭和22年)に国土改造計画の中心的命題になった、国土の普遍的開発の具体策として「国土開発縦貫自動車道構想」を起案し、この構想は当時の国会議員らをも動かし、高速道路建設を実現する原動力となった。田中角栄は、戦後の日本の道路整備の方向性を明確にし、のちに内閣総理大臣になった政治家で、特に1953年(昭和28年)に揮発油税を道路特定財源とする法整備を推進し、道路整備の安定的な財源確保の大きな支えとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本における高速道路の本格的な実現は、昭和30年代の高度経済成長期に入ってからで、モータリゼーションを背景として大都市間を結ぶ幹線高速道路、そして東京や大阪をはじめとする大都市内の都市高速道路が急ピッチで建設されていくようになる。これらは国家的施策として計画が立案され、日本道路公団に管理を委ねるかたちで21世紀初頭まで引き続いて高速道路網の整備が促進され続けた。その進展と共に、日本の貨物輸送の主力は、従来の貨物列車からトラックによる自動車輸送を主軸とするようになっていった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本国政府が、高速道路建設の実現に向けて世界銀行に融資を求めた際に、1956年(昭和31年)に来日したアメリカ合衆国のワトキンス調査団から、日本の高速道路実現の是非について提出された報告書、通称「ワトキンス・レポート」の冒頭の内容は、当時の日本の道路事情の劣悪さを痛烈に批判するものであった。ワトキンスの発言に刺激された日本国政府は、翌年の1957年(昭和32年)に高速自動車国道法を制定し、これまで鉄道優先としてきた陸上交通政策から高速道路建設へと舵を切ることとなった。",
"title": "歴史"
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"text": "日本の高速自動車国道の開通は、1963年(昭和38年)7月の名神高速道路 栗東IC - 尼崎IC間(71.7 km)が最初である。東海道新幹線開業の前年にあたるこの年に、自動車が時速100 kmで疾走する道路誕生のニュースは、世間を大いに沸かせることとなった。このルート上にあたる京都市は、政令指定都市のなかで最初に高速道路が走った都市となった。1965年(昭和40年)には、名神高速道路の名古屋 - 阪神地区間の全線(小牧IC - 西宮IC、193.9 km)が完成し、これまで自動車で5 - 6時間を要した移動時間が、2時間程で結ばれるようになり、名古屋 - 大阪間において自動車での日帰り移動が可能となった。",
"title": "歴史"
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"text": "全国高速道路網整備の問題は、田中清一の運動以来、道路網整備の理念が先行していくとともに国会議員の政治活動にも巻き込まれていった。",
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"text": "1955年(昭和30年)6月、超党派の国会議員430名によって、中央・東北・北海道・中国・九州の自動車道の6本、合計約5000 kmを整備するため「国土開発縦貫自動車道建設法案」が提出される。",
"title": "歴史"
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"text": "「自動車道」という文言は、建設省が推し進める戦前の自動車国道計画を意識した道路網の一環としての「高速道路」とは異なる概念として定義したものであり、既存の道路法に基づく一般道路とは異なり、道路運送法によって建設されるべき道路という思想が根底にあったため、国会審議と並行して建設省と運輸省の所管争いを伴った。",
"title": "歴史"
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"text": "本法案は、赤石山脈を貫通する中央道建設上の技術的な問題をはらんでいたことと、道路運送法に準拠するという法的な問題を抱えたため、国会での法案成立まで5国会を経て約2年を要し、結局は原案にあった「別表」記載の路線通過位置を外して各自動車道の予定路線は別法律の定めによること、および、新たに既存の道路法上の道路の最上位に位置する「高速自動車国道」という概念が付け加えられて、建設省所管の道路法上の道路として1957年(昭和32年)4月に成立し決着をみた。「国土開発縦貫自動車道建設法」成立時には、建設計画として国土開発縦貫自動車道を含む「高速自動車国道法」も制定された。",
"title": "歴史"
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"text": "国会では、中央自動車道と東名高速道路のどちらの建設を優先するか路線の選択に揺れている間、高速自動車国道建設の要望は全国各地で起こり、各路線ごとに道路建設法の単独立法が次々と成立していく状況を受けて、1966年(昭和41年)に政府起案の「国土開発縦貫自動車道建設法」一部改正法案とした「国土開発幹線自動車道建設法」が成立し、中央・東北・北陸・中国・九州のいわゆる縦貫五道を軸に、全国の都道府県を結ぶ32路線7600 kmの高速道路網が計画された。",
"title": "歴史"
},
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"text": "しかしその後の社会的な交通状況の変化により、この計画が不十分だとして計画の見直しが行われることとなった。1987年(昭和62年)に修正変更が行われ、第四次全国総合開発計画の閣議決定により、高速道路43路線11,520 km、一般国道の自動車専用道路2,300 km、本州四国連絡道路180 kmの高速交通網から成る、全長14,000 kmの高規格幹線道路網が計画された。",
"title": "歴史"
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"text": "昭和40年代以降、日本の高速道路建設は本格的に推し進められてゆき、1968年(昭和43年)に、東名高速道路の部分開通が始まり、翌1969年(昭和44年)には東名高速道路の東京 - 名古屋地区間(東京IC - 小牧IC、346.8 km)が全線開通した。同じ年に中央自動車道富士吉田線も開通しており、1982年(昭和57年)に中央自動車道の全線が開通した。",
"title": "歴史"
},
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"text": "東京・大阪の二大都市間が高速道路で結ばれ、物資輸送の大動脈として活躍することとなり、国土開発幹線自動車道建設法の施行以後は、北海道から九州・沖縄までの各地で高速道路が毎年200から250 kmのペースで次々と開通してゆき、2014年(平成26年)時点で北海道の一部を除いて国土開発幹線自動車道網はすべて完成している。一方、本来であれば遅くとも2015年までに高速道路網がほぼ完成する予定であったが、バブル崩壊により実現せず、各地にミッシングリンクが残されている。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "オートバイの二人乗りは、危険だとの理由から1965年(昭和40年)から日本では禁止された。これは世界的にも大韓民国と日本しかなく珍しいケースであった。そこに、アメリカ合衆国連邦政府から市場開放問題苦情処理推進会議にこの問題が提起され、内容は「高速道路のオートバイ二人乗り禁止は、大型自動二輪車の普及を阻害する非関税障壁だ」とするものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "規制緩和の機運が生じたことから、日本自動車工業会に二輪車特別委員会が設けられ、ヨーロッパのドイツとイタリアでの実態調査を行った結果、事故はごく少なく、そのリスクは一般道の3分の1で、事故発生率も1人乗りより下回っていることがわかった。こうした背景から、2004年の平成16年第159回国会で、二人乗り禁止を解除する法案が提出されて、同年6月9日に同法案が公布、1年後の2005年に施行された。",
"title": "歴史"
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"tag": "p",
"text": "海外の高速道路は、通行料が無料のところも多いが、日本では1956年(昭和31年)に制定された道路整備特別措置法によって、有料道路制度が創設されたため、原則すべてが有料である。",
"title": "建設費と償還"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "建設開始当初、高速自動車国道は原則として、建設時の借入金が返済されるまで無料開放をしない有料道路との位置付けであった。このため各路線ごとの借入金が、それぞれの路線の収益により返済された後は、無料開放される予定であった。",
"title": "建設費と償還"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "だが1972年10月、根拠法である「道路整備特別措置法施行令」が第1次田中角栄内閣によって改正されて全国料金プール制(全国路線網)が導入され、全国の高速道路の収支を合算する(事実上のどんぶり勘定)こと、国土開発幹線自動車道建設審議会が高速道路の延伸を答申したため、東名高速道路や名神高速道路の収益で、他の赤字高速路線の借入金を返却する状態となった。赤字国債によって建設費を賄ったこともあり、無料化は度々先送りされた。",
"title": "建設費と償還"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2002年(平成14年)8月7日に道路関係四公団民営化推進委員会は高速道路の無料開放を断念し、日本道路公団民営化に伴う高速道路の恒久有料化を決定した。この結果、高速道路の無料開放の可能性は一旦消滅した。道路公団民営化の方針で、2005年(平成17年)の民営化後45年以内に借入金を返済し、日本高速道路保有・債務返済機構を解散することが日本高速道路保有・債務返済機構法で義務化されている。民営化時の借入金は、約40兆円になった。",
"title": "建設費と償還"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "その後平成21年の衆議院議員選挙において、高速道路無料化をマニフェストに掲げた民主党が圧勝した。無料化が実現すればアメリカ合衆国のフリーウェイやドイツのアウトバーンと、先進国の主要道路と同様、基本的に車種を問わずに無料となる予定だったが、JRや高速バス、フェリーからの反発が根強い上、民主党が連立政権を組んでいた社民党は「(ガソリン税の暫定税率撤廃と同様に)地球温暖化対策に逆行する上、余計な財源が必要」として再考を求めていた。民主党内部でも約半数の議員がこの政策に懸念を示し、行政刷新会議の中でも事業仕分けリストの中に取り上げられるなど、政策は二転三転し、結果的に民主党はマニフェストを達成せぬまま下野した。",
"title": "建設費と償還"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "なお新直轄方式の高速自動車国道や一部の高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路、一部の地域高規格道路、その他の自動車専用道路として無料開放されている路線もある。北陸自動車道の新潟西IC - 新潟黒埼ICは新潟西ICに接続する新潟西バイパスが開通したことによって、高速自動車国道では唯一1989年(平成元年)に無料開放された。",
"title": "建設費と償還"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "民営化時点における料金の徴収期間は、高速道路3社及び本州四国道路連絡橋については、2050年8月27日まで、首都高と阪神高速については、2050年9月30日までとなっていたが、2014年(平成26年)に、構造物の老朽化のため修繕費用を捻出する必要性から、さらに2065年9月30日まで料金徴収をすることが可能となるよう、関係法律が改正された。",
"title": "建設費と償還"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "日本に高速道路が整備されたことにより、都市や拠点間の旅行時間が大幅に短縮され、交通が一般道路から高速道路へ転換されたことで従来道路の混雑が解消し、交通事故の減少をもたらしている。安定した高速走行により、自動車から排出される二酸化炭素(CO2)の削減にもつながっている。",
"title": "整備の効果と悪影響"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "こうした直接効果から副次的に生まれた間接効果として、都市部では年間を通じて品質の良い生鮮野菜や水産物の安定供給を受けることが実現可能になり、産地にとっても高速道路によって大市場へ出荷することができるようになったので、地域ブランド力や付加価値アップに貢献している。",
"title": "整備の効果と悪影響"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "産業経済面では、大都市圏を中心とする好立地条件を背景に、物流再編を可能とした経済成長を牽引する交通インフラとして機能している。例えば、2018年に発生した大阪府北部地震では、鉄道の運転見合わせや高速道路の通行止めが相次ぐ中で、舞鶴若狭自動車道だけが通行可能だったため、中部地方以東と中国地方以西の交通や流通をつなぐ冗長性機能を発揮した。",
"title": "整備の効果と悪影響"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "(出典:峯岸邦夫編著『トコトンやさしい道路の本』日刊工業新聞社(2018年)p. 25 の表から引用。)",
"title": "整備の効果と悪影響"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "視点を変えて、高速道路を社会インフラ整備の一環として広義に捉えると、ケインズの経済理論に基づく有効需要や失業対策として、公共投資による高速道路の整備過程で、生産、雇用、消費などの経済活動が短期的に活発になって拡大する効果(いわゆるフロー効果)をもたらす経済政策の一つとして位置づけられている。",
"title": "整備の効果と悪影響"
}
] | 日本の高速道路(にっぽんのこうそくどうろ)では日本の高速道路について説明する。 | [[ファイル:TOYOTA Interchange on TOMEI EXPWY and SHIN-TOMEI EXPWY.jpg|thumb|250px|[[東名高速道路]]及び[[伊勢湾岸自動車道]]の[[豊田ジャンクション|豊田JCT]]]]
[[ファイル:Japan National Expressway map.png|thumb|250px|right]]
'''日本の高速道路'''(にっぽんのこうそくどうろ)では[[日本]]の[[高速道路]]について説明する。
== 概要 ==
日本では「[[高速自動車国道]]」と「[[自動車専用道路]]」とを合わせて「高速道路」として位置付ける([[交通の教則]]など)。従って[[自動車専用]]の[[道路]]である。
[[ファイル:Hamamatsu SA of SHIN-TOMEI EXPWY.JPG|thumb|開通前夜の[[新東名高速道路]]]]
'''高速道路'''が正式な呼び方である。日常生活などで略す場合や他の語と組み合わせる場合は「高速」ということがある。
;英語表記と英語の類似表現との関係
日本での高速道路の公式な英語表記には'''Expressway'''(略記:'''EXPWY'''・エクスプレスウェイ)が用いられるが、俗にHighway(ハイウェイ)と呼ばれることがある{{sfn|浅井建爾|2015|p=88}}。元々[[アメリカ合衆国|米国]]で「Highway」は[[幹線|幹線道路]]という意味であり、[[一般国道]]を含めた[[国道]]({{Lang-en|National Highway}})や[[主要地方道]]等の主要道路全体を指す。日本の高速道路は幹線道路としての機能も有するため、Highwayというカテゴリの道路の1種であると言うこともできる。
=== 法令上の定義 ===
法令上の高速道路の定義は、概ね「[[高速自動車国道]]」と「[[自動車専用道路]]」とを合わせたものとするが、詳細はいくつかのものがある。[[一般自動車道]]は含まれない。
; [[高速道路株式会社法]](平成16年[[6月9日]]法律第九十九号)
: 第2条
: 第2項 この法律において「高速道路」とは、次に掲げる道路をいう。
:# 高速自動車国道法(昭和三十二年法律第七十九号)第四条第一項に規定する高速自動車国道
:# 道路法第四十八条の四に規定する自動車専用道路(同法第四十八条の二第二項の規定により道路の部分に指定を受けたものにあっては、当該指定を受けた道路の部分以外の道路の部分のうち国土交通省令で定めるものを含む。)並びにこれと同等の規格及び機能を有する道路(一般国道、都道府県道又は同法第七条第三項に規定する指定市の市道であるものに限る。以下「自動車専用道路等」と総称する。)
; [[道路交通法]]第108条の28に基づく[[国家公安委員会]]の[[告示]]である交通の方法に関する教則([[1978年|昭和53年]][[10月30日]]国家公安委員会告示第3号(最終改正[[2004年|平成16年]][[8月27日]]))第7章
: 「高速道路とは、[[高速自動車国道]]と[[自動車専用道路]]をいう。高速道路では、[[ミニカー (車両)|ミニカー]]、[[排気量|総排気量]]125 [[立方メートル#分量・倍量単位|cc]]以下の[[オートバイ|普通自動二輪車]]([[小型自動二輪車]])、[[原動機付自転車]]は通行できない。農耕用作業車のように構造上毎時50 km以上の[[速度]]の出ない[[自動車]]やほかの車をけん引しているため毎時50 km以上の速度で走ることのできない自動車も、高速自動車国道を通行することはできない。」
=== 必要条件・通行条件 ===
{{seealso|高速道路でのオートバイの通行条件}}
[[道路構造令]]で第1種、第2種に区分する道路が高速道路であるが例外的に第3種第1級の道路を出入り制限して[[自動車専用道路]]に指定している道路もある。
高速道路は、以下の条件を満たす必要がある。
* 出入りは[[インターチェンジ]](以下、IC)の[[ランプ (道路)|ランプ]]に限られること。
* 原則として、往復車線が[[中央分離帯]]によって分離されていること([[暫定2車線]]を除く)。
* 他の[[道路]]、[[鉄道]]等との交差方式は[[立体交差]]であること。
* 自動車の高速通行に適した[[線形 (路線)|線形]]になっていること。
高速道路の通行条件は以下のようになっている。
* [[自動車専用道路|自動車専用]]
** [[歩行者]]、[[軽車両]]、[[ミニカー (車両)|ミニカー]]は通行できない。
** 高速自動車国道及び[[最低速度]]制限のある自動車専用道路では[[特殊自動車|小型特殊自動車]]やほかの車を[[牽引自動車|けん引している自動車]]など、50 km/h以上の速度を出せない自動車も通行不可
** 125 cc以下の[[オートバイ|自動二輪車]]([[小型自動二輪車]])、[[原動機付自転車]]は通行できない。
*** 自動二輪の2人乗りに関しては、1965年から禁止となっていたが、[[アメリカ合衆国連邦政府]]から「[[非関税障壁]]である」と指摘され、[[2005年]]の法改正に伴い、2人乗りの禁止が解禁された。21歳以上かつ免許(大型二輪または普通二輪)を受けていた期間が3年以上であれば、運転者以外の人を乗車させて運転できる([[首都高速道路]]の一部区間など、標識で二人乗り禁止と指示されている区間は除く)。
* 高速道路では[[駐車]]([[サービスエリア]]・[[パーキングエリア]]を除く)及び[[停車]]([[料金所]]などを除く)、転回、車両横断、後退が禁止されている。
* [[最高速度]]・[[最低速度]]については、それぞれ各項目を参照のこと。
== 分類 ==
日本の高速道路には、以下のものがある。
* [[高規格幹線道路]]
** [[高速自動車国道]](A路線)
*** [[高速自動車国道法]]第四条(高速自動車国道の意義及び路線の指定)に基づく[[高速自動車国道の路線を指定する政令]]で指定される路線。本来国道の建設及び管理は[[道路管理者]]である[[国土交通大臣]]が行うことになっているが、[[新直轄方式|新直轄区間]]を除き高速自動車国道については法令により、[[東日本高速道路|東日本]]・[[中日本高速道路|中日本]]・[[西日本高速道路|西日本]]の各高速道路会社(民営化以前は[[日本道路公団]](JH))に委任されている。
**** [[国土開発幹線自動車道]](国幹道)
***** 国土開発幹線自動車道建設法に基づき建設することが予定されている高規格幹線道路の一つ。現在の総距離は、未開通区間も含め11,520 [[キロメートル|km]]となっている。予定路線のうち基本計画が決定した区間から、順次[[高速自動車国道の路線を指定する政令|政令]]で高速自動車国道の路線を指定する。
**** 高速自動車国道として建設すべき道路の予定路線(国土開発幹線自動車道の予定路線を除く)のうちから、[[高速自動車国道の路線を指定する政令|政令]]でその路線を指定したもの
***** [[新空港自動車道|成田国際空港線]]・[[関西空港自動車道|関西国際空港線]]・[[関門橋|関門自動車道]]・[[沖縄自動車道]]の4路線が指定されている。
** [[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]](A'路線)
*** 本来高速自動車国道で整備される路線のうち、全区間整備の必要性は低いが、部分的にこれに並行して混雑解消や山間部の隘路解消のため、並走する[[一般国道]]の整備が急務となっている一部区間を先行整備した道路。高速自動車国道へ編入されることもある。公費(国と[[都道府県|県]]の建設費負担は2対1)または追加で東日本・中日本・西日本の各高速道路会社(民営化以前は日本道路公団(JH))から建設費を投入されて建設。
** [[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)]](B路線)
*** 道路法第48条の2に基づき、国土交通大臣が指定した道路。並走する一般国道の[[バイパス道路]]として建設されることから、公費(国と[[都道府県|県]]の建設費負担は2対1)または追加で東日本・中日本・西日本の各高速道路会社(民営化以前は日本道路公団(JH))から建設費を投入されて建設。
** [[本州四国連絡道路]]
*** B路線に準じる。
* [[地域高規格道路]]
** 都市圏自動車専用道路
*** [[都市高速道路]]及び重要路線(一般国道1号[[横浜新道]]、一般国道2号[[第二神明道路]]等)。
** 一般
*** 都市圏自動車専用道路を除く地域高規格道路のうち、自動車専用道路であるもの<ref group="注釈">地域高規格道路には自動車専用道路ではない道路(歩行者等も通行できる道路)も含まれるが、そのような道路は高速道路には含まれない。</ref>。
* [[その他の自動車専用道路一覧|その他の自動車専用道路]]
** 高規格幹線道路及び地域高規格道路に分類されない[[自動車専用道路]]。
<!--狭義では高速自動車国道(A路線)のみを指す<ref group="注釈">例として、[[伊勢湾岸自動車道]]ではA路線とA'路線の境界部分に「ここから一般有料道路」「ここから高速道路」という標識が設置されており、A路線の意味で高速道路という語が使われている。</ref>。-->
高速道路の種類や建設方式が複雑化した背景として、省間の利害対立や建設費用の捻出方法の違いなどが挙げられる。
== 各路線の命名規則 ==
[[高速自動車国道]]の道路名<!--{{Efn|name=営業路線名|道路愛好家の間では営業路線名と呼ばれているもの。営業路線名は道路愛好家の造語である{{要出典|date=2022-04}}。}}-->は、「○○高速道路」や「○○自動車道」のように呼ばれる。
なお、道路名と路線名{{Efn|法定路線名は道路愛好家の造語であり正式には路線名。}}が異なる場合がある。具体例は以下の通り。
* 道路名:[[東名高速道路]]([[略語|略称]]:東名高速、東名)
** 路線名:高速自動車国道[[第一東海自動車道]]
** 英称:TOMEI EXPRESSWAY(英略称:TOMEI EXPWY)
* 道路名:[[東北自動車道]](略称:東北道)
** 路線名:高速自動車国道[[東北縦貫自動車道|東北縦貫自動車道弘前線]]
** 英称:TOHOKU EXPRESSWAY(英略称:TOHOKU EXPWY)
[[高規格幹線道路]]の路線名は「○○自動車道」という路線名になっているが、これは[[道路運送法]]に基づく[[自動車道]]ではなく、[[道路法]]に基づく道路である。これは、国土開発幹線自動車道建設法制定の際、[[国土開発幹線自動車道]]を[[建設省]]所管の道路とするか[[運輸省]]所管の自動車道とするかの結論が出ず、結局後の[[高速自動車国道法]]によって「道路であること」が規定されたという経緯による{{efn|「[[#全国的高速道路網建設に向けた政府・国会の動き]]」節も参照。}}。
「高速道路」の呼称が用いられるのは、高速自動車国道では[[東名高速道路]]・[[新東名高速道路]]・[[名神高速道路]]・[[新名神高速道路]]のみであるが、これは両道路の[[計画]]・[[建設]]の進められる過程で、広く民間において「高速道路」の[[通称]]が使用され、命名の時点で一般に最も定着しているという歴史的な背景を考慮して、例外的に採用されたものである<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_01a_05.html 国土交通省道路局 道の相談室] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20091209074729/http://www.mlit.go.jp/road/soudan/soudan_01a_05.html |date=2009年12月9日 }}</ref>。
[[中央自動車道]]も「中央高速道路」([[調布インターチェンジ]]~[[河口湖インターチェンジ]]間のみ)とされていたが、その名称故に交通事故が頻発したため改称された。
案内向け名称で◯◯自動車道を使うようになったのは[[中国自動車道]](高速自動車国道[[中国縦貫自動車道]])が最初である。
== 路線番号の規則(高速道路ナンバリング) ==
[[ファイル:Japanese motorway road sign showing direction guidance and road number,Joso city,Japan.jpg|サムネイル|右|インターチェンジ入口に設置された方面及び方向標識に記された高速道路番号。圏央道常総IC。]]
{{main|高速道路ナンバリング}}
[[2017年]]2月14日に、一部改正された「[[道路標識、区画線及び道路標示に関する命令]]」が施行され、高速道路番号の標識が新設された。
高速道路番号の考え方は、[[2016年]]9月に、[[国土交通省]][[道路局]]が設置した有識者による高速道路ナンバリング検討委員会がとりまとめた「高速道路ナンバリングの実現に向けた提言」に基づいている<ref>{{Cite news|url=https://response.jp/article/2016/09/15/281839.html|title=高速道路に路線番号---訪日外国人にも分かりやすく|newspaper=[[Response.]]|date=2016-09-15|accessdate=2016-10-27}}</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/pdf99/1.pdf 高速道路ナンバリングの実現に向けた提言]}} - 国土交通省道路局</ref>。これによれば、以下のルールに基づいて高速道路にナンバリングが行われるべきとされた。
* ナンバリングの対象は「[[高規格幹線道路]]」の他、「高規格幹線道路網を補完して地域のネットワークを形成しており、利用者にシームレスに案内されるべき路線」「高規格幹線道路から主要な空港・港湾、観光地へのアクセスにおいて、利用者にシームレスに案内されるべき路線」を対象とする。既にナンバリングが行われている[[都市高速道路]]は対象外とする。
* 符番ルールは以下の通りとする。
*# 原則として「高速道路とおおむね平行する主要な[[一般国道]](≒旧[[一級国道]]+[[国道58号]])」と同じ1桁・2桁の数字を付与し、「E+2桁の数字」のナンバリングを与える。番号は高速道路の路線名ごとの区間に依らず、並行する一般国道の起終点区間に準じて設定する。
*# 1桁国道におおむね並行する以下の高速道路については二つにグループ化し、一方には「E+1桁+A」のナンバリングを与える。
*#* [[東名高速道路]]・[[名神高速道路]]:「E1」、[[新東名高速道路]]・[[伊勢湾岸自動車道]]・[[新名神高速道路]]:「E1A」
*#* [[山陽自動車道]]:「E2」、[[中国自動車道]]・[[関門橋|関門自動車道]]:「E2A」
*#* [[九州自動車道]]:「E3」、[[南九州西回り自動車道|南九州自動車道]]:「E3A」
*#* [[東北自動車道]]:「E4」、[[東北縦貫自動車道]]八戸線([[八戸自動車道]]ほか):「E4A」
*#* [[北海道縦貫自動車道]]([[道央自動車道]]):「E5」、[[北海道横断自動車道]]([[札樽自動車道]]ほか):「E5A」
*# 首都圏・名古屋圏の環状高速道路については、「C+1桁の数字」を与える。数字は都市高速の環状線との整合性に配慮する。ただし、[[東京湾アクアライン|東京湾アクアライン・アクア連絡道]]は「CA」とする。
*# 以上の要件に合致しない高速道路(並走する一般国道が旧[[二級国道]]を含む3桁の番号の路線、地域高規格道路で本来所属する一般国道の番号が上記と被る路線)については、「E+2桁の数字」(高規格幹線道路は59からの連番、その他の路線は80からの連番)のナンバリングを沿道の[[自治体コード]]順に基づき付番する。
== 道路標識・案内標識 ==
{{main|日本の道路標識}}
{{Double image aside|right|Japan road sign 325.svg|90|高速自動車国道.jpg|90|[[自動車専用]]の規制標識|[[高速自動車国道]]の[[日本の道路標識#補助標識|補助標識]]の追加}}
[[File:R8 NiigataBP KurosakiIC March2020.jpg|thumb|400px|左から順に一般道([[新潟バイパス]])、自動車専用道路([[新潟西バイパス]])、[[高速自動車国道]](北陸道・関越道)の標識]]
[[自動車専用道路|自動車専用]]の規制標識が用いられる<ref group="注釈">[[1963年]](昭和38年)に制定された。</ref>。補助標識が追加される場合には「[[高速自動車国道]]」、「自動車専用道」(これは高速自動車国道ではない場合)などがある。
案内標識は[[緑|緑地]]上に[[白|白字]]で書かれる。
;案内標識の書体
{{seealso|GD-高速道路ゴシックJA}}
[[書体]]は視認性を重視し、日本道路公団が開発した独自の書体の'''道路公団標準文字'''(公団文字・公団ゴシック)と呼ばれるものが使用されていた。[[1963年]](昭和38年)の名神高速開通に間に合わせる形で実用化に向け標識に使用する書体のパターンが何種類か作られ、視認性などのテストが行われた。公団文字は、標識として掲示した際、100 km/hで100 - 150 m手前から6秒以内で認識できるように制作された。そのため、文字は角ばっており、画数の多い[[文字]]の一部を[[省略]]したりバランスを崩して視認性を確保したりとしているため、非常に独特な文字である。過去には、文字を省略したがゆえに誤字だと指摘を受けたこともある<ref name="www.hido.or.jp">[https://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/2010data/1103/1103hyoushiki-henkou.pdf 財団法人道路新産業開発機構 道路行政セミナー3月号「より視認し易い高速道路案内標識を目指した標識レイアウトの変更について」(PDF)] [[2011年]][[9月18日]]閲覧</ref>。ただ、新規の高速道路やICが開通する際に名称に使う文字がない場合には新たに作成する必要がある上、文字の組み合わせによっては文字の上下がそろっていないため、「東京」や「京都」等では、同じ文字を二度作る手間があった。
[[2010年]](平成22年)には、レイアウトが変更され、日本語書体は[[ヒラギノ]]もしくは[[新ゴ]]、英字は[[Vialog]](ビアログ)、数字は[[Frutiger]](フルティガー)となり、文字のサイズが従来より5 cm大きくなった(和文で55 cm、英文で30 cm)<ref name="www.hido.or.jp"></ref>。新しいレイアウトでは、文字サイズが大きくなり、フォントが変更されたことによって視認性が旧タイプの標識より向上している。旧レイアウトでは英字が日本語の半分以下のサイズだったのに対し、新レイアウトでは英字のサイズが日本語の半分以上のサイズになっている。
首都高速や阪神高速など都市高速や[[東京外環自動車道]]・[[地方道路公社]]管理の自動車専用道路の道路標識では、[[1990年代]]以降、[[ゴナ]]もしくは新ゴが主流になっている。
高速道路へのアクセス標識にも、高速道路のレイアウトを使用している場合がある。普通の道路標識にリブを2 - 6本つけた構造。
== 歴史 ==
[[欧米]]諸国では[[第二次世界大戦]]以前から[[自動車]]が普及し高速道路が走っていたが、欧米に比べ自動車の普及が遅れた日本では、高速道路の建設自体が相当に遅れて始まった{{sfn|浅井建爾|2015|p=88}}。
=== 高速道路の建設構想 ===
高速道路建設の着想自体は[[実業家]]の[[菅原通済]]が[[1929年]]([[昭和]]4年)に東京 - 大阪間に306[[マイル]]64[[チェーン (単位)|チェーン]](約493 km)の自動車専用舗装道路を事業費8,000万[[円 (通貨)|円]](当時)で建設し、民間で運営する構想を打ち出したのが最初である。この「日本自動車道株式会社」計画は道路運営会社自体も[[運輸業|旅客・貨物輸送]](バス・トラック運行)を行い一般の自動車にも有料通行をさせるという[[鉄道事業者|鉄道事業]]と[[有料道路|有料道路事業]]の折衷的構想で計画書も当局に提出されたが、自動車が一般に本格普及する以前の時代で不況とそれに続く戦時体制によってまったく実現しなかった。日本で初めて高速道路構想が持ち上がったこのころの[[戦前]]の道路計画では、弾丸よりも速く走れるという意味で「弾丸道路」と呼ばれていた{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=53}}。[[東海道新幹線]]の原形となった鉄道が「弾丸列車」と称したところから命名されたものである{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=53}}。
[[ドイツ]]の[[アウトバーン]]に刺激され、[[1938年]](昭和13年)頃から高速道路である自動車専用国道の議論が始まった{{sfn|武部健一|2015|p=173}}。[[1940年]](昭和15年)には[[内務省 (日本)|内務省]]により東京 - 下関間の高速国道の調査が始められ、[[1943年]](昭和18年)に全国自動車国道計画を策定した{{sfn|武部健一|2015|p=173}}<ref>[https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/4-2.htm 全国自動車国道計画路線図]を参照</ref>。計画によれば、北は[[樺太]]の国境端から北海道の[[稚内]] - [[札幌市|札幌]] - [[函館市|函館]]間、本州は[[青森市|青森]] - [[下関]]間を太平洋側と日本海側でそれぞれ結び、九州では[[門司]] - [[福岡市|福岡]] - [[長崎市|長崎]]間まであり、総延長は5490 km{{sfn|武部健一|2015|p=173}}、設計速度は平坦部が150 km/h、丘陵部が100 km/hであった。国防上の要請もあり計画されたが[[1943年]](昭和18年)、戦局のために最優先区間とした東京 - 神戸間の調査も打ち切られた{{sfn|武部健一|2015|p=173}}。
{{Double image aside|right|Tanaka Seichi.JPG|140|Tanaka Cropped.jpg|123|[[田中清一]]|[[田中角栄]]}}
敗戦後の日本復興のために奔走した、[[田中清一]]と[[田中角栄]]の二人の活動は、日本に高速道路を誕生させる大きなきっかけとなった{{sfn|武部健一|2015|pp=171–181}}。[[静岡県]][[沼津市]]出身の実業家である田中清一は、[[1947年]](昭和22年)に国土改造計画の中心的命題になった、国土の普遍的開発の具体策として「国土開発縦貫自動車道構想」を起案し、この構想は当時の国会議員らをも動かし、高速道路建設を実現する原動力となった{{sfn|武部健一|2015|pp=182–184}}。田中角栄は、戦後の日本の道路整備の方向性を明確にし、のちに[[内閣総理大臣]]になった政治家で、特に1953年(昭和28年)に[[揮発油税]]を[[道路特定財源]]とする法整備を推進し、道路整備の安定的な財源確保の大きな支えとなった{{sfn|武部健一|2015|pp=184–187}}。
=== 高速道路の開通 ===
日本における高速道路の本格的な実現は、[[昭和30年代]]の[[高度経済成長期]]に入ってからで、[[モータリゼーション]]を背景として大都市間を結ぶ幹線高速道路、そして東京や大阪をはじめとする大都市内の都市高速道路が急ピッチで建設されていくようになる。これらは国家的施策として計画が立案され、日本道路公団に管理を委ねるかたちで[[21世紀]]初頭まで引き続いて高速道路網の整備が促進され続けた。その進展と共に、日本の[[貨物輸送]]の主力は、従来の[[貨物列車]]から[[貨物自動車|トラック]]による自動車輸送を主軸とするようになっていった。
[[日本国政府]]が、高速道路建設の実現に向けて[[世界銀行]]に[[融資]]を求めた際に、1956年(昭和31年)に来日した[[アメリカ合衆国]]のワトキンス調査団から、日本の高速道路実現の是非について提出された報告書、通称「[[ワトキンス・レポート]]」の冒頭の内容は、当時の日本の道路事情の劣悪さを痛烈に批判するものであった{{sfn|浅井建爾|2015|p=88}}。ワトキンスの発言に刺激された日本国政府は、翌年の1957年(昭和32年)に[[高速自動車国道法]]を制定し、これまで鉄道優先としてきた陸上交通政策から高速道路建設へと舵を切ることとなった{{sfn|浅井建爾|2015|p=89}}。
日本の高速自動車国道の開通は、[[1963年]](昭和38年)7月の[[名神高速道路]] [[栗東インターチェンジ|栗東IC]] - [[尼崎インターチェンジ|尼崎IC]]間(71.7 km)が最初である{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}。[[東海道新幹線]]開業の前年にあたるこの年に、自動車が時速100 kmで疾走する道路誕生のニュースは、世間を大いに沸かせることとなった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}。このルート上にあたる[[京都市]]は、[[政令指定都市]]のなかで最初に高速道路が走った都市となった。[[1965年]](昭和40年)には、名神高速道路の名古屋 - 阪神地区間の全線([[小牧インターチェンジ|小牧IC]] - [[西宮インターチェンジ|西宮IC]]、193.9 km)が完成し、これまで自動車で5 - 6時間を要した移動時間が、2時間程で結ばれるようになり{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}、名古屋 - 大阪間において自動車での日帰り移動が可能となった。
=== 全国的高速道路網建設に向けた政府・国会の動き ===
[[File:Japan Expwy1966.png|thumb|500px|1966年に法成立した[[国土開発幹線自動車道]]網の計画図。]]
[[File:Japan Expressway JD19l22a.svg|thumb|500px|1987年の[[第四次全国総合開発計画]]の閣議決定によって新たな高規格幹線道路が追加されることとなった。]]
全国高速道路網整備の問題は、田中清一の運動以来、道路網整備の理念が先行していくとともに国会議員の政治活動にも巻き込まれていった{{sfn|武部健一|2015|p=197}}。
1955年(昭和30年)6月、超党派の国会議員430名によって、中央・東北・北海道・中国・九州の自動車道の6本、合計約5000 kmを整備するため「国土開発縦貫自動車道建設法案」が提出される{{sfn|武部健一|215|p=197}}。
「自動車道」という文言は、建設省が推し進める戦前の自動車国道計画を意識した道路網の一環としての「高速道路」とは異なる概念として定義したものであり、既存の[[道路法]]に基づく一般道路とは異なり、[[道路運送法]]によって建設されるべき道路という思想が根底にあったため、国会審議と並行して[[建設省]]と[[運輸省]]の所管争いを伴った{{sfn|武部健一|2015|p=198}}。
本法案は、[[赤石山脈]]を貫通する中央道建設上の技術的な問題をはらんでいたことと、道路運送法に準拠するという法的な問題を抱えたため、国会での法案成立まで5国会を経て約2年を要し、結局は原案にあった「別表」記載の路線通過位置を外して各自動車道の予定路線は別法律の定めによること、および、新たに既存の道路法上の道路{{efn|この当時は、[[一級国道]]、[[二級国道]]、都道府県道、市町村道のカテゴリが道路法で定める道路とされた。
のちの1965年(昭和40年)4月に、一級国道と二級国道は統合されて[[一般国道]]となっている。}}の最上位に位置する「[[高速自動車国道]]」という概念が付け加えられて、建設省所管の道路法上の道路として1957年(昭和32年)4月に成立し決着をみた{{sfn|武部健一|p=198}}。「国土開発縦貫自動車道建設法」成立時には、建設計画として国土開発縦貫自動車道を含む「[[高速自動車国道法]]」も制定された{{sfn|武部健一|p=198}}。
国会では、[[中央自動車道]]と[[東名高速道路]]のどちらの建設を優先するか路線の選択に揺れている間、高速自動車国道建設の要望は全国各地で起こり、各路線ごとに道路建設法の単独立法が次々と成立していく状況を受けて、[[1966年]](昭和41年)に政府起案の「国土開発縦貫自動車道建設法」一部改正法案とした「[[国土開発幹線自動車道建設法]]」が成立し、中央・東北・北陸・中国・九州のいわゆる縦貫五道を軸に、全国の都道府県を結ぶ32路線7600 kmの高速道路網が計画された{{sfn|武部健一|2015|p=201|ps=、「全国的高速道路網の展開」}}。
しかしその後の社会的な交通状況の変化により、この計画が不十分だとして計画の見直しが行われることとなった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=58-59}}。[[1987年]](昭和62年)に修正変更が行われ、[[第四次全国総合開発計画]]の閣議決定により、[[国土開発幹線自動車道|高速道路]]43路線11,520 km、[[国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)|一般国道の自動車専用道路]]2,300 km、[[本州四国連絡道路]]180 kmの高速交通網から成る、全長14,000 kmの[[高規格幹線道路]]網が計画された{{sfn|浅井建爾|2001|pp=58-59}}。
=== 高速道路網の拡大 ===
昭和40年代以降、日本の高速道路建設は本格的に推し進められてゆき、[[1968年]](昭和43年)に、東名高速道路の部分開通が始まり、翌[[1969年]](昭和44年)には東名高速道路の[[東京]] - 名古屋地区間(東京IC - 小牧IC、346.8 km)が全線開通した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}。同じ年に中央自動車道[[富士吉田線]]も開通しており、[[1982年]](昭和57年)に中央自動車道の全線が開通した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=56-57}}。
東京・大阪の二大都市間が高速道路で結ばれ、物資輸送の大動脈として活躍することとなり{{sfn|浅井建爾|2001|p=89}}、国土開発幹線自動車道建設法の施行以後は、[[北海道]]から[[九州]]・[[沖縄]]までの各地で高速道路が毎年200から250 kmのペースで次々と開通してゆき、[[2014年]]([[平成]]26年)時点で北海道の一部を除いて国土開発幹線自動車道網はすべて完成している{{sfn|武部健一|2015|pp=201–204}}。一方、本来であれば遅くとも2015年までに高速道路網がほぼ完成する予定であったが、バブル崩壊により実現せず、各地に[[ミッシングリンク]]が残されている<ref>[https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/38040 <5>県北の悲願 開通見えず | 新潟日報デジタルプラス] 2022年3月30日閲覧。</ref>。<!-- 高速道路建設は各地で進められていて、{{要出典範囲|date=2018年4月|現在は12,373 kmになってる。}}{{いつ|date=2018年4月}} -->
[[オートバイの二人乗り]]は、危険だとの理由から[[1965年]](昭和40年)から日本では禁止された{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=64}}。これは世界的にも[[大韓民国]]と日本しかなく珍しいケースであった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=64}}。そこに、[[アメリカ合衆国連邦政府]]から市場開放問題苦情処理推進会議にこの問題が提起され、内容は「高速道路の[[オートバイ]]二人乗り禁止は、[[大型自動二輪車]]の普及を阻害する[[非関税障壁]]だ」とするものであった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=65}}。
[[規制緩和]]の機運が生じたことから、[[日本自動車工業会]]に二輪車特別委員会が設けられ、ヨーロッパのドイツとイタリアでの実態調査を行った結果、事故はごく少なく、そのリスクは一般道の3分の1で、事故発生率も1人乗りより下回っていることがわかった{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=65}}。こうした背景から、[[2004年]]の平成16年[[第159回国会]]で、二人乗り禁止を解除する法案が提出されて、同年6月9日に同法案が公布、1年後の[[2005年]]に施行された{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=65}}。
=== 年表 ===
* [[1956年]]([[昭和]]31年)
**[[3月14日]]:昭和27年に制定された旧法を廃止<ref>道路整備特別措置法附則第二条</ref>し現行の[[道路整備特別措置法]]制定<ref name="便覧2007-p13">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=13}}</ref>
** [[4月16日]]:[[日本道路公団]]設立<ref name="便覧2007-p13"/>
* [[1957年]](昭和32年)
** 4月16日:国土開発縦貫自動車道建設法制定<ref name="便覧2007-p13"/>
** [[4月25日]]:高速自動車国道法制定<ref name="便覧2007-p13"/>
** [[5月8日]]:第1回国土開発縦貫自動車道建設審議会開催<ref name="便覧2007-p13"/>
** [[10月17日]]:名神高速道路・[[小牧インターチェンジ|小牧IC]] - [[西宮インターチェンジ|西宮IC]]間に施工命令<ref name="便覧2007-p13"/>
* [[1958年]](昭和35年)[[7月25日]]:東海道幹線自動車国道建設法制定<ref name="便覧2007-p14">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=14}}</ref>
* [[1963年]](昭和38年)
**[[7月16日]]:日本初の高速自動車国道、名神高速道路・[[栗東インターチェンジ|栗東IC]] - [[尼崎インターチェンジ|尼崎IC]]が開通<ref name="便覧2007-p14"/>
** [[7月20日]]:関越自動車道建設法制定<ref name="便覧2007-p14"/>
* [[1964年]](昭和39年)[[7月1日]]:東海北陸自動車道建設法制定<ref name="便覧2007-p14"/>
*
* [[1965年]](昭和40年)
** [[5月28日]]:九州横断自動車道建設法制定<ref name="便覧2007-p14"/>
** [[6月11日]]:中国横断自動車道建設法制定<ref name="便覧2007-p14"/>
** [[7月1日]]:名神高速道路・小牧IC - [[一宮インターチェンジ|一宮IC]]が開通し、名神高速道路の全線が開通<ref name="便覧2007-p14"/>。
** [[10月20日]]:全国高速自動車国道建設協議会発足<ref name="便覧2007-p14"/>
** [[11月1日]]:東北・中央・北陸・中国及び九州のいわゆる縦貫五道に関する基本計画が決定<ref name="便覧2007-p14"/>。
* [[1966年]](昭和41年)7月1日:国土開発幹線自動車道建設法制定。7,600 kmのネットワークが制定される<ref name="便覧2007-p14"/>。
* [[1969年]](昭和44年)[[5月26日]]:東名高速道路・[[大井松田インターチェンジ|大井松田IC]] - [[御殿場インターチェンジ|御殿場IC]]が開通し、東名高速道路の全線が開通<ref name="便覧2007-p15">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=15}}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)[[10月1日]]:道路整備特別措置法施行令の一部改正により、料金プール制採用<ref name="便覧2007-p15"/>。
* [[1973年]](昭和48年)
**[[9月6日]]:[[中央自動車道]]・[[瑞浪インターチェンジ|瑞浪IC]] - [[多治見インターチェンジ|多治見IC]]が開通し、供用延長が1,000 kmを突破<ref name="便覧2007-p15"/>。
** [[11月14日]]:[[関門橋]]が開通<ref name="便覧2007-p15"/>。
* [[1976年]](昭和51年)[[12月19日]]:中央自動車道・[[韮崎インターチェンジ|韮崎IC]] - [[小淵沢インターチェンジ|小淵沢IC]]が開通し、供用延長が2,000 kmを突破<ref name="便覧2007-p15"/>。
* [[1981年]](昭和56年)[[10月29日]]:[[宮崎自動車道]]・[[都城インターチェンジ|都城IC]] - [[宮崎インターチェンジ|宮崎IC]]が開通し、宮崎自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p16">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=16}}</ref>。
* [[1982年]](昭和57年)
** [[3月30日]]:[[関越自動車道]]・[[越後川口インターチェンジ|越後川口IC]] - [[長岡インターチェンジ|長岡IC]]、[[常磐自動車道]]・[[谷田部インターチェンジ|谷田部IC]] - [[千代田石岡インターチェンジ|千代田石岡IC]]、[[山陽自動車道]]・[[竜野西インターチェンジ|龍野西IC]] - [[備前インターチェンジ (山陽自動車道)|備前IC]]の3区間が開通し、供用延長が3,000 kmを突破<ref name="便覧2007-p16"/>。
** [[11月10日]]:中央自動車道・[[勝沼インターチェンジ|勝沼IC]] - [[甲府昭和インターチェンジ|昭和甲府IC]]が開通し、中央自動車道全線が開通<ref name="便覧2007-p16"/>。
* [[1983年]](昭和58年)[[3月24日]]:[[中国自動車道]]・[[千代田インターチェンジ|千代田IC]] - [[鹿野インターチェンジ|鹿野IC]]が開通し、中国自動車道が全線開通。縦貫道が概成する<ref name="便覧2007-p16"/>。
* [[1985年]](昭和60年)
** [[3月20日]]:[[広島自動車道]]全線が開通<ref name="便覧2007-p16"/>。
** [[10月2日]]:関越自動車道・[[前橋インターチェンジ|前橋IC]] - [[湯沢インターチェンジ (新潟県)|湯沢IC]]が開通し、関越自動車道全線が開通<ref name="便覧2007-p16"/>。
* [[1987年]](昭和62年)
** [[6月30日]]:[[第四次全国総合開発計画|第4次全国総合開発計画]]閣議決定。多極分散型の国土形成に対応する交流ネットワーク推進のため、14,000 kmの[[高規格幹線道路]]網が打ち出される<ref name="便覧2007-p16"/>。
** [[9月1日]]:国土開発幹線自動車道建設法の一部改正。既定予定路線7,600 kmに新たに3,920 kmが追加され、11,520 kmとなる<ref name="便覧2007-p16"/>。
** [[9月9日]]:[[東北自動車道]]・[[川口ジャンクション|川口JCT]] - [[浦和インターチェンジ|浦和IC]]が開通し、東北自動車道全線が開通。[[首都高速川口線]]も開通したことで、[[青森県]][[青森市]]から[[熊本県]][[八代市]]まで高速道路が直結された<ref name="便覧2007-p17">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=17}}</ref>。
** [[10月8日]]:[[高知自動車道]]・[[大豊インターチェンジ|大豊IC]] - [[南国インターチェンジ|南国IC]]、[[沖縄自動車道]]・[[石川インターチェンジ|石川IC]] - [[那覇インターチェンジ|那覇IC]]が開通。供用延長が4,000 kmを突破<ref name="便覧2007-p17"/>。
* [[1988年]](昭和63年)7月20日:[[北陸自動車道]]・[[朝日インターチェンジ|朝日IC]] - [[名立谷浜インターチェンジ|名立谷浜IC]]が開通し、北陸自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p17"/>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)
** [[3月28日]]:東名高速道路・大井松田IC - 御殿場ICの改築が完了<ref name="便覧2007-p17"/>。
** [[12月7日]]:[[浜田自動車道]]・千代田IC - [[旭インターチェンジ (島根県)|旭IC]]が開通し、浜田自動車道全線が開通。供用延長が5,000 kmを突破<ref name="便覧2007-p17"/>。
* [[1992年]](平成4年)[[4月19日]]:[[高松自動車道]]・[[高松西インターチェンジ|高松西IC]] - [[善通寺インターチェンジ|善通寺IC]]が開通し、四国の高速自動車国道が本州と直結<ref name="便覧2007-p17"/>。
* [[1993年]](平成5年)
** [[3月25日]]:[[長野自動車道]]・[[安曇野インターチェンジ|豊科IC]] - [[更埴インターチェンジ|更埴IC]]が開通し、長野自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p17"/>。
** [[3月29日]]:[[伊勢自動車道]]・[[勢和多気インターチェンジ|勢和多気IC]] - [[伊勢インターチェンジ|伊勢IC]]が開通し、伊勢自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p17"/>。
** [[12月3日]]:[[東名阪自動車道]]・[[名古屋インターチェンジ|名古屋IC]] - [[勝川インターチェンジ|勝川IC]]が開通し、東名阪自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p17"/>。
* [[1994年]](平成6年)
** [[3月30日]]:[[東京外環自動車道]]・[[大泉インターチェンジ|大泉IC]] - [[和光インターチェンジ|和光IC]]が開通し、首都圏の環状機能が強化される<ref name="便覧2007-p17"/>。
** [[4月2日]]:[[関西国際空港線]]・[[泉佐野ジャンクション|泉佐野JCT]] - [[りんくうジャンクション|りんくうJCT]]の全線が開通<ref name="便覧2007-p18">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=18}}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)
** [[4月28日]]:東名高速道路・[[厚木インターチェンジ|厚木IC]] - 大井松田ICの改築が完了<ref name="便覧2007-p18"/>。
** [[7月28日]]:[[九州縦貫自動車道]]・[[人吉インターチェンジ|人吉IC]] - [[えびのインターチェンジ|えびのIC]]が開通し、九州自動車道が全線開通。青森から鹿児島を結ぶ列島縦貫軸が完成する<ref name="便覧2007-p18"/>。
* [[1996年]](平成8年)
** [[11月14日]]:[[磐越自動車道]]・[[津川インターチェンジ|津川IC]] - [[安田インターチェンジ|安田IC]]、[[上信越自動車道]]・[[小諸インターチェンジ|小諸IC]] - [[更埴ジャンクション|更埴JCT]]、山陽自動車道・[[神戸JCT]] - [[三木小野インターチェンジ|三木小野IC]]が開通し、供用延長が6,000 kmを突破<ref name="便覧2007-p18"/>。
** [[11月26日]]:[[大分自動車道]]・[[大分インターチェンジ|大分IC]] - [[大分米良インターチェンジ|大分米良IC]]が開通し、大分自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p18"/>。
** [[12月20日]]:名神高速道路・栗東IC - [[瀬田東インターチェンジ|瀬田東IC]]の改築が完了<ref name="便覧2007-p18"/>。
* 1997年(平成9年)
** [[3月15日]]:[[岡山自動車道]]が全線開通<ref name="便覧2007-p18"/>。
** 10月1日:磐越自動車道・[[西会津インターチェンジ|西会津IC]] - [[津川インターチェンジ|津川IC]]が開通し、磐越自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p18"/>。
* 1998年(平成10年)[[7月19日]]:名神高速道路・[[京都南インターチェンジ|京都南IC]] - [[吹田インターチェンジ|吹田IC]]の改築が完了<ref name="便覧2007-p18"/>。
* 2000年(平成12年)
** [[3月11日]]:[[徳島自動車道]]・[[井川池田インターチェンジ|井川池田IC]] - [[川之江東ジャンクション|川之江東JCT]]が開通し、徳島自動車道が全線開通。四国4県が結ばれる<ref name="便覧2007-p18"/>。
** [[7月28日]]:[[松山自動車道]]・[[伊予インターチェンジ|伊予IC]] - [[大洲インターチェンジ|大洲IC]]が開通し、松山自動車道全線が開通<ref name="便覧2007-p18"/>。
* [[2001年]](平成13年)
** 1月6日:国土開発幹線自動車建設審議会改め、国土開発幹線自動車道建設会議となる<ref name="便覧2007-p19">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=19}}</ref>。
** [[3月30日]]:日本道路公団が[[ETC]]を導入。
* [[2002年]](平成14年)[[9月16日]]:[[東北中央自動車道]]・[[山形上山インターチェンジ|山形上山IC]] - [[東根インターチェンジ|東根IC]]、高知自動車道・[[伊野インターチェンジ|伊野IC]] - [[須崎東インターチェンジ|須崎東IC]]が開通し、供用延長が7,000 kmを突破<ref name="便覧2007-p19"/>。
* [[2003年]](平成15年)
** [[3月16日]]:中央自動車道・[[上野原インターチェンジ|上野原IC]] - [[大月ジャンクション#大月インターチェンジ|大月IC]]の改築が完了<ref name="便覧2007-p19"/>。
** [[12月25日]]:第1回国土開発幹線自動車道建設会議開催<ref name="便覧2007-p19"/>。
* [[2004年]](平成16年)
** [[3月27日]]:[[長崎自動車道]]・[[長崎インターチェンジ|長崎IC]] - [[長崎多良見インターチェンジ|長崎多良見IC]]が開通し、長崎自動車道が全線開通<ref name="便覧2007-p19"/>。
** [[6月9日]]:道路関係四公団民営化関係4法案制定<ref name="便覧2007-p19"/>
* [[2005年]](平成17年)[[6月1日]]:道路関係四公団民営化関係法令公布<ref name="便覧2007-p20">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=20}}</ref>
* [[2005年]](平成17年)[[10月1日]]:[[道路関係四公団]]民営化会社発足<ref name="便覧2007-p20"/>
** 日本道路公団→[[ネクスコ|NEXCO3社]]に分割([[東日本高速道路]]・[[中日本高速道路]]・[[西日本高速道路]])
** 首都高速道路公団→[[首都高速道路]]
** 阪神高速道路公団→[[阪神高速道路]]
** 本州四国連絡橋公団→[[本州四国連絡高速道路]]
* [[2006年]](平成18年)10月1日:[[スマートインターチェンジ]]本格導入<ref name="便覧2007-p21">{{Harvnb|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007|p=21}}</ref>。
{{See also|日本の道路年表}}
== 建設費と償還 ==
<!--{{道路開発|section=1}}-->
{{See also|高速道路無料化}}
[[ファイル:Yokohama Machida IC entrance.jpg|thumb|[[東名高速道路]][[横浜町田インターチェンジ]]の料金所]]
海外の高速道路は、通行料が無料のところも多いが、日本では1956年(昭和31年)に制定された[[道路整備特別措置法]]によって、有料道路制度が創設されたため、原則すべてが有料である{{sfn|浅井建爾|2015|p=91}}。
建設開始当初、高速自動車国道は原則として、建設時の借入金が返済されるまで無料開放をしない[[有料道路]]との位置付けであった{{sfn|浅井建爾|2015|p=91}}。このため各路線ごとの借入金が、それぞれの路線の収益により返済された後は、無料開放される予定であった。
だが[[1972年]]10月、根拠法である「道路整備特別措置法施行令」が[[第1次田中角栄内閣]]によって改正されて全国料金プール制([[全国路線網]])が導入され、全国の高速道路の収支を合算する(事実上のどんぶり勘定)こと、国土開発幹線自動車道建設審議会が高速道路の延伸を答申したため、[[東名高速道路]]や[[名神高速道路]]の収益で、他の赤字高速路線の借入金を返却する状態となった。[[赤字国債]]によって建設費を賄ったこともあり、無料化は度々先送りされた。
[[2002年]](平成14年)[[8月7日]]に[[道路関係四公団民営化推進委員会]]は高速道路の無料開放を断念し、日本道路公団民営化に伴う高速道路の恒久有料化を決定した。この結果、高速道路の無料開放の可能性は一旦消滅した。[[道路関係四公団民営化推進委員会|道路公団民営化]]の方針で、2005年(平成17年)の民営化後45年以内に借入金を返済し、[[日本高速道路保有・債務返済機構]]を解散することが日本高速道路保有・債務返済機構法で義務化されている。民営化時の借入金は、約40兆円になった。
その後[[第45回衆議院議員総選挙|平成21年の衆議院議員選挙]]において、[[高速道路無料化]]を[[マニフェスト]]に掲げた民主党が圧勝した。無料化が実現すれば[[アメリカ合衆国]]の[[フリーウェイ]]や[[ドイツ]]の[[アウトバーン]]と、[[先進国]]の主要道路と同様、基本的に車種を問わずに[[無料]]となる予定だったが、[[JR]]や[[高速バス]]、[[フェリー]]からの反発が根強い上<ref>[https://web.archive.org/web/20141230085502/http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009101901000232.html バス協会が高速無料化に反対 国交相に緊急要望書(共同通信 2009/10/19配信)] 2009年[[10月30日]]閲覧</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20141230085654/http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009102901000759.html 「高速無料化に断固反対」 関西フェリー7社が訴え(共同通信 2009/10/29配信)] 2009年10月30日閲覧</ref>、民主党が連立政権を組んでいた[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]は「([[ガソリン税]]の暫定税率撤廃と同様に)[[地球温暖化]]対策に逆行する上、余計な財源が必要」として再考を求めていた<ref>[https://web.archive.org/web/20141230085225/http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009090201000068.html マニフェスト一部凍結要求へ 社民、連立入りで民主に(共同通信 2009/09/02配信)] 2009年9月29日閲覧</ref>。民主党内部でも約半数の議員がこの政策に懸念を示し、[[行政刷新会議]]の中でも事業仕分けリストの中に取り上げられるなど<ref>[https://web.archive.org/web/20141230080814/http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009102901001078.html 高速無料化、新幹線が候補 刷新会議の事業仕分け(共同通信 2009/10/29配信)] 2009年10月30日閲覧</ref>、政策は二転三転し、結果的に民主党はマニフェストを達成せぬまま下野した。
なお[[新直轄方式]]の[[高速自動車国道]]や一部の[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路]]、一部の[[地域高規格道路]]、[[その他の自動車専用道路一覧|その他の自動車専用道路]]として無料開放されている路線もある。[[北陸自動車道]]の[[新潟西インターチェンジ|新潟西IC]] - [[黒埼インターチェンジ|新潟黒埼IC]]は新潟西ICに接続する[[新潟バイパス|新潟西バイパス]]が開通したことによって、高速自動車国道では唯一[[1989年]](平成元年)に無料開放された。
民営化時点における料金の徴収期間は、高速道路3社及び本州四国道路連絡橋については、[[2050年]][[8月27日]]まで、首都高と阪神高速については、2050年[[9月30日]]までとなっていたが、2014年(平成26年)に、構造物の老朽化のため修繕費用を捻出する必要性から、さらに[[2065年]]9月30日まで料金徴収をすることが可能となるよう、関係法律が改正された。
== 整備の効果と悪影響 ==
=== 効果 ===
日本に高速道路が整備されたことにより、都市や拠点間の旅行時間が大幅に短縮され、交通が一般道路から高速道路へ転換されたことで従来道路の混雑が解消し、[[交通事故]]の減少をもたらしている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=24}}。安定した高速走行により、自動車から排出される[[二酸化炭素]](CO{{sub|2}})の削減にもつながっている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=24}}。
こうした直接効果から副次的に生まれた間接効果として、都市部では年間を通じて品質の良い生鮮野菜や水産物の安定供給を受けることが実現可能になり、産地にとっても高速道路によって大市場へ出荷することができるようになったので、地域ブランド力や付加価値アップに貢献している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=24}}。
産業経済面では、大都市圏を中心とする好立地条件を背景に、物流再編を可能とした経済成長を牽引する交通インフラとして機能している{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=24}}。例えば、2018年に発生した[[大阪府北部地震]]では、鉄道の運転見合わせや高速道路の通行止めが相次ぐ中で、[[舞鶴若狭自動車道]]だけが通行可能だったため、[[中部地方]]以東と[[中国地方]]以西の交通や流通をつなぐ冗長性機能を発揮した{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=24}}。
{| class="wikitable"
|+ 高速道路整備における直接効果と間接効果の例{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=25}}
! !! 直接効果 !! 間接効果
|-
! 経済性
| 輸送費の削減<br>走行費の節約
|rowspan="4" | (1)生産輸送計画の合理化効果<br>(2)工場進出、工業地帯の分散<br>(3)資源開発効果<br>(4)都市人口分散効果<br>(5)情報、流通経済の合理化<br>(6)市場圏の拡大<br>(7)需要、供給量の増加
|-
! 円滑姓
| 走行時間の節約
|-
! 安全性
| 交通事故の減少
|-
! 快適性
| 運転手の疲労度の軽減<br />交通快適の増大
|}
<cite>{{small|(出典:峯岸邦夫編著『トコトンやさしい道路の本』日刊工業新聞社(2018年)p. 25 の表から引用。)}}</cite>
視点を変えて、高速道路を社会インフラ整備の一環として広義に捉えると、[[ケインズの経済理論]]に基づく有効需要や失業対策として、公共投資による高速道路の整備過程で、生産、雇用、消費などの経済活動が短期的に活発になって拡大する効果(いわゆるフロー効果<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E5%8A%B9%E6%9E%9C-1736659 |title=フロー効果 |publisher=[[朝日新聞社]] |website=コトバンク |quote=公共投資による社会資本の整備過程で、生産、雇用、消費などの経済活動が活発になって生まれる短期的な経済効果。---出典:小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』からの孫引き。|accessdate=2019-07-28}}</ref>)をもたらす経済政策の一つとして位置づけられている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=24}}。
=== 悪影響 ===
; 環境に与える影響
: 道路建設が原因で周囲の'''[[自然環境]]や[[住環境]]が悪化'''する可能性がある。その点を鑑み付近の[[住民]]による反対運動も起こることもある。河川の上に高架で高速道路を建設した場合、河川の環境が悪化する場合もあり、さらに河川そのものを潰して道路がつくられてしまう場合もある。その際は自然環境ばかりか'''[[景観]]の悪化'''という問題も生じる<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/kikaku/006/1.htm 水の都再生へ 夢をつなぐ<1> 読売新聞 地域大阪] [[2009年]][[9月29日]]閲覧</ref>。実際、環境問題に絡む紛争は各地で勃発しており{{sfn|武部健一|2015|p=216|ps=、「生活環境と住民運動による試練」}}、特に[[首都圏中央連絡自動車道|圏央道]]では沿線住民や環境保護団体から工事差し止め運動が頻発した。これらを考慮して近年整備される道路では、対策のひとつとして、道路の外側に10 - 20 mの用地幅をとって、植樹帯や[[遮音壁]]を設けた環境施設帯を設ける方法が取られている{{sfn|武部健一|2015|p=216|ps=、「生活環境と住民運動による試練」}}。
: 通行量の多い都市部や住宅密集地では[[騒音]]が問題となり、こうした日本の高速道路の多くは、延々と続く巨大な遮音壁を持つようになった。当初は臨時工作物のような防音壁であったが、東京大学教授の[[篠原修]]は、高速道路の防音壁デザイン検討委員会の一員だった当時、武者塀をイメージしたとされる防音壁のデザインを提案した。以降、道路の内側を包み込むような形態の、場合によっては透明アクリル板などを使用した防音壁デザインのものが広く定着していった{{sfn|武部健一|2015|pp=217-218|ps=、道路景観に新風を吹き込んだ「塀の美学」}}。
; コストの高さ、道路計画の不安定さ
: 高速道路は一般道路と比較して高速での走行が行えるよう設計されるため、概して'''建設[[コスト]]が高い'''。社会情勢など様々な事情で計画自体が凍結、変更されることがあり、計画されても未着工の路線もある。そのため一部分が開通しても全線開通までの目処が全く立たない事例もある。特に高速道路網の整備が進んでいない地方部では、自治体の首長などが建設促進運動を展開することもある。
; ゴミの投げ捨て、落下物、重大事故発生
: 高速道路においては、自動車が高速で移動することにより一般道路と比較した場合、'''運転手の行動が重大な事件・事故を引き起こす原因となる'''傾向にある。近年問題視されている問題としては、車両からの'''ゴミ等の投擲'''および'''落下物'''問題があり、管理を行なう団体のパトロールや通報による現場到着から復旧作業にかかる経費や、職員の身の安全対策等が年々深刻になりつつある<ref group="注釈">[[NEXCO]]西日本・中日本・東日本各々の管理担当区域において、年間13万件以上の落下物報告があり改善の兆しが見えない状況にある。</ref><ref>[https://corp.w-nexco.co.jp/corporate/release/hq/h28/0629d/ NEXCO西日本 ニュースリリース『高速道路における落下物が一向に減りません!』]</ref><ref>[https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/regular_mtg/ 東日本高速道路株式会社『路上障害物対応に関する取り組みについて』平成22年2月25日公開(PDF形式)]</ref>。
: なお上記の落下物対策や安全な高速道路の通行を目的として、[[国家公安委員会]]から夜間の高速道路では、原則ハイビームの使用が推奨されている<ref>[https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/kyousoku/reiki_honbun/18123000001.html#j229 国家公安委員会告示 【交通の方法に関する教則】「第7章第2節第3項の12」]</ref>。勿論、運転に携わる者は「片側一車線」等の高速道路状況により'''ロービームとの使い分けを要求される'''ものであるが<ref>[https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/kyousoku/reiki_honbun/18123000001.html#j224 国家公安委員会告示 【交通の方法に関する教則】「第6章第3節第2項の2」]</ref>、様々な理由からハイビームを行わない運転者は多く、それに由来する2次衝突の[[交通事故|事故]]が多い<ref group="注釈">ロービームの視界は約40 mしかないため、時速100 km近くで走行する高速道路では、危険を察知しても避けることが困難である。</ref><ref group="注釈">ハイビームが「前の車のドライバーに迷惑」になるのは'''車間距離不保持'''が主原因であることが多い。やむを得ず適正車間距離の維持が不可能な場合、上記【交通の方法に関する教則】文中にてハイビームの使用は非推奨と定められている。</ref>。
:: 正当な理由無くロービームのまま走行を続けた結果、前方で起こった[[交通事故|事故]]の存在に気づくのが遅れ、2次衝突を起こし、第2当事者となった場合は、[[刑事責任]]は問われないことがあっても、[[民事]]の[[損害賠償]]責任は免れない場合もある。[[判例]]では高速道路をロービームで走行していた結果、2次衝突を起こした責任を問われ、第2当事者が第1当事者(酒気帯びかつ一連の事故の主因となった者)と連帯して、計3億4千万円の賠償が命じられた例がある<ref>福岡地裁 平成18年9月28日判決/判例時報1964号127p</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=全国高速道路建設協議会(編) |edition= 第23版|date=2007-08 |title=高速道路便覧 2007 |publisher=全国高速道路建設協議会 |isbn= |ref={{SfnRef|全国高速道路建設協議会(編)『高速道路便覧 2007』|2007}} }}
* {{Cite book |和書 |author=武部健一 |title=道路の日本史 |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}}
* {{Cite book |和書 |author=峯岸邦夫編著 |authorlink= |date=2018-10-24 |title=トコトンやさしい道路の本 |series=今日からモノ知りシリーズ|publisher=[[日刊工業新聞社]] |isbn=978-4-526-07891-0 |ref={{SfnRef|峯岸邦夫|2018}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編) |date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫 |isbn=4-309-49566-4 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[日本の高速道路一覧]]
* [[高速道路ナンバリング]]
* [[地域高規格道路]]
* [[地域高規格道路一覧]]
* [[自動車専用道路]]
* [[高速道路建設推進議員連盟]]
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Expressways in Japan}}
* [https://www.mlit.go.jp/road/yuryo/index.html 国土交通省道路局]
* [https://www.ne.jp/asahi/expressway/dataroom/index.htm 高速道路資料室]
{{日本の高速道路}}
{{アジアの題材|高速道路|mode=3}}
{{日本関連の項目}}
{{デフォルトソート:にほんのこうそくとうろ}}
[[Category:日本の高速道路|* にほんのこうそくとうろ]]
[[Category:日本関連一覧|こうそくとうろ]] | 2003-03-13T20:07:54Z | 2023-11-23T04:17:57Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF |
3,960 | 梅田地区の鉄道駅 | 梅田地区の鉄道駅(うめだちくのてつどうえき)では、大阪府大阪市北区の梅田地区において西日本最大のターミナルを形成している鉄道駅群について総論的に記述する。
具体的には、西日本旅客鉄道(JR西日本)の大阪駅・北新地駅、阪神電気鉄道(阪神)の大阪梅田駅、阪急電鉄(阪急)の大阪梅田駅、ならびに大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)の梅田駅・東梅田駅・西梅田駅を指す。
メディアなどではこれらの駅をまとめて「大阪・梅田駅」または「大阪駅・梅田駅」と表記されることもある。
各駅は、それぞれ離れた場所に別々の駅舎を持つ独立した駅であるが、地下街などを介して相互に乗換え可能である。かつては日本貨物鉄道(JR貨物)の梅田駅(通称: 梅田貨物駅、後の梅田信号場)も近隣を通る東海道本線貨物支線(通称: 梅田貨物線)上に設けられていた。
JR西日本(および開業予定の南海)の大阪駅を中心とすると、北東に阪急の大阪梅田駅、東に地下鉄の梅田駅、南に阪神の大阪梅田駅が位置し、そして北西にJR貨物の梅田駅が存在していた。また、地下鉄梅田駅の東に東梅田駅、阪神大阪梅田駅の西に西梅田駅、阪神大阪梅田駅の南に北新地駅がある。
阪急及び阪神は、両社の「梅田駅」を「大阪梅田駅」に2019年10月1日にそれぞれ変更した。
各社合計の1日平均乗降人員は約240万人も利用しており、年間ではのべ約8億8千万人弱となる(2015年度)。これは新宿駅(約342万人:2015年度)、渋谷駅(約323万人:2015年度)、池袋駅(約262万人:2015年度)についで世界4位の規模である。
各駅の最新年度の1日平均乗降人員を述べる。過去のデータについては各駅の項目を参照。
また、御堂筋線梅田駅、谷町線東梅田駅、四つ橋線西梅田駅の1日乗降者数を含めると合計581,971人と、相互直通を行っていない地下鉄駅では日本一(世界一)であり、相互直通を行っている駅を含めても渋谷駅に次ぐ。
阪神や阪急では大阪側のターミナル駅であることを強調するため、正式に改名する以前から「大阪梅田駅」と呼称することがあった。阪神の車内アナウンスは「次は、大阪梅田、梅田、終点です」となっており、阪急では行先表示板を使用していた1980年代までは電車の行先案内は「大阪⇔京都」のように記載され、「大阪梅田駅」と呼んでいたこともあった。これは他社のターミナル駅である天満橋駅などでも見られ、中には大阪阿部野橋駅や大阪上本町駅のように正式駅名に「大阪」を含んだ例もある。
会社ごと、あるいは位置ごとに分ける意味で「阪神大阪梅田駅」「阪急大阪梅田駅」、または大阪を省略して「阪神梅田駅」「阪急梅田駅」と呼ぶこともある。同様にして阪神と阪急に同一の駅名がある神戸三宮駅、春日野道駅、御影駅も「阪神○○」「阪急○○」と案内されることが多い。これは神戸高速鉄道を介して阪急電鉄、阪神電気鉄道、山陽電気鉄道の3社が相互乗り入れしているためである。
大阪駅付近を通過していた梅田貨物線を大阪駅に近接した位置に移設して地下化し、大阪駅の地下ホームとして建設された。2023年2月に線路が移設され、地下ホームは翌3月に供用開始した。これにより、従前は大阪駅にて乗降できなかった特急「はるか」「くろしお」に、梅田界隈から乗降できるようになったほか、新大阪駅発着であったおおさか東線も当駅に乗り入れている。
また、JR西日本と南海電気鉄道が運営する予定で、仮称なにわ筋線の事業主体である関西高速鉄道の鉄道事業基本計画においては、大阪駅(うめきたエリア)地下ホームの供用開始以前は「(仮称)北梅田駅」とされていたが、こちらも大阪駅(うめきたエリア)地下ホームに乗り入れる予定である。この路線が開業すると、南海は阪神・阪急に次いで梅田地区に入る3社目の大手私鉄となると同時に、関西私鉄では初めて「梅田」と名乗らない駅名(南海側でも駅名は「大阪駅」と決定済)で営業する事業者となる。同時に「ラピート」の大阪駅到達が計画されている。
将来的には仮称なにわ筋連絡線も乗り入れる構想がある。
便宜上、国道176号を南北軸に、大阪環状線を東西軸に置いて示す。 | [
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"text": "便宜上、国道176号を南北軸に、大阪環状線を東西軸に置いて示す。",
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] | 梅田地区の鉄道駅(うめだちくのてつどうえき)では、大阪府大阪市北区の梅田地区において西日本最大のターミナルを形成している鉄道駅群について総論的に記述する。 具体的には、西日本旅客鉄道(JR西日本)の大阪駅・北新地駅、阪神電気鉄道(阪神)の大阪梅田駅、阪急電鉄(阪急)の大阪梅田駅、ならびに大阪市高速電気軌道の梅田駅・東梅田駅・西梅田駅を指す。 メディアなどではこれらの駅をまとめて「大阪・梅田駅」または「大阪駅・梅田駅」と表記されることもある。 | [[ファイル:大阪駅航空写真1985-001.jpg|thumb|300px|[[1985年]]当時の大阪駅・梅田駅付近航空写真。右上が阪急梅田駅、左上は旧梅田貨物駅。画面下は[[大阪駅]]。{{国土航空写真}}]]
{{梅田地区の鉄道駅OSM}}
'''梅田地区の鉄道駅'''(うめだちくのてつどうえき)では、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[梅田]]地区において西日本最大の[[ターミナル駅|ターミナル]]を形成している[[鉄道駅]]群について総論的に記述する。
具体的には、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の'''[[大阪駅]]'''・'''[[北新地駅]]'''、[[阪神電気鉄道]](阪神)の'''[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]'''、[[阪急電鉄]](阪急)の'''[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]'''、ならびに[[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro)の[[梅田駅 (Osaka Metro)|'''梅田駅''']]・'''[[東梅田駅]]'''・'''[[西梅田駅]]'''を指す。
メディアなどではこれらの駅をまとめて「'''大阪・梅田駅'''」または「'''大阪駅・梅田駅'''」と表記されることもある。
== 概要 ==
各駅は、それぞれ離れた場所に別々の駅舎を持つ独立した駅であるが、[[地下街]]などを介して相互に乗換え可能である。かつては[[日本貨物鉄道]](JR貨物)の梅田駅(通称: 梅田貨物駅、後の[[梅田信号場]])も近隣を通る[[東海道本線]]貨物支線(通称: [[梅田貨物線]])上に設けられていた。
JR西日本(および開業予定の南海)の大阪駅を中心とすると、北東に阪急の大阪梅田駅、東に地下鉄の梅田駅、南に阪神の大阪梅田駅が位置し、そして北西にJR貨物の梅田駅が存在していた。また、地下鉄梅田駅の東に東梅田駅、阪神大阪梅田駅の西に西梅田駅、阪神大阪梅田駅の南に北新地駅がある。
阪急及び阪神は、両社の「梅田駅」を「大阪梅田駅」に[[2019年]][[10月1日]]にそれぞれ変更した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/2019-07-30.pdf|format=PDF|title=「梅田」「河原町」「石橋」の駅名を10月1日に変更します|publisher=阪急電鉄|date=2019-07-30|accessdate=2019-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190730033558/https://www.hankyu.co.jp/files/upload/pdf/2019-07-30.pdf|archivedate=2019-07-30}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20190730-ekimei.pdf|format=PDF|title=10月1日から「梅田」と「鳴尾」の駅名を変更します
|publisher=阪神電鉄|date=2019-07-30|accessdate=2019-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190730035842/https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20190730-ekimei.pdf|archivedate=2019-07-30}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://r.nikkei.com/article/DGXMZO47943190Q9A730C1AM1000|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190730041141/https://r.nikkei.com/article/DGXMZO47943190Q9A730C1AM1000|title=梅田駅を「大阪梅田駅」に変更 阪急と阪神が10月|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-07-30|accessdate=2019-07-30|archivedate=2019-07-30}}</ref>。
=== 設置駅・乗り入れ路線 ===
{| {{Railway line header}}
! 大阪・梅田付近の接続路線
{{BS-table|no}}
{{大阪梅田接続}}
|}
|}
* 西日本旅客鉄道(JR西日本)
** '''[[大阪駅]]'''
*** 高架ホーム:[[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]]、[[福知山線|JR宝塚線]])・[[大阪環状線]]
*** 地下ホーム(うめきたエリア):東海道本線支線([[梅田貨物線]]・[[おおさか東線]])・[[なにわ筋線]]{{Efn|name="kita-umeda"|大阪駅地下ホーム(うめきたエリア)の供用開始以前は「(仮称)北梅田駅」と呼ばれていた。}}(事業中)
** '''[[北新地駅]]''':[[JR東西線]]
* 阪神電気鉄道(阪神電鉄)
** [[大阪梅田駅 (阪神)|'''大阪梅田駅''']]:[[阪神本線]](当駅起点)
* 阪急電鉄
** [[大阪梅田駅 (阪急)|'''大阪梅田駅''']]:[[阪急神戸本線|神戸本線]](当駅起点)・[[阪急宝塚本線|宝塚本線]](当駅起点)・[[阪急京都本線|京都本線]](線籍上の起点は[[十三駅]]だが、十三駅を発着する全列車が乗り入れる)
** [[北梅田駅]](計画中):[[なにわ筋連絡線]](事業化に向け協議中)・[[西梅田・十三連絡線]](構想) - このうち、なにわ筋連絡線については大阪駅(うめきたエリア)地下ホームに乗り入れる形となる。
* 大阪市高速電気軌道(Osaka Metro)
** [[梅田駅 (Osaka Metro)|'''梅田駅''']]:[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]
** '''[[東梅田駅]]''':[[Osaka Metro谷町線|谷町線]]
** '''[[西梅田駅]]''':[[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]](当駅起点)
* 南海電気鉄道
** '''[[大阪駅]]'''
*** 地下ホーム(うめきたエリア):[[なにわ筋線]]{{Efn|name="kita-umeda"}}(事業中)
== 利用状況 ==
各社合計の1日平均乗降人員は約240万人も利用しており、年間ではのべ約8億8千万人弱となる(2015年度)。これは[[新宿駅]](約342万人:2015年度)、[[渋谷駅]](約323万人:2015年度)、[[池袋駅]](約262万人:2015年度)についで'''世界4位'''の規模である{{Efn|統計の年度が違うために単純に比較できないが、直通人員を除いた渋谷駅の2011年度の1日平均乗降人員は約230万人。この基準では池袋駅の順位が一つ上がり渋谷駅と大阪駅・梅田駅は僅差となる。また、新宿駅の数値は梅田駅や大阪梅田駅とを合算している大阪駅とは異なり、[[西武新宿駅]]と[[新宿西口駅]]を含めていない}}。
各駅の最新年度の1日平均[[乗降人員]]を述べる。過去のデータについては各駅の項目を参照。
* '''JR西日本'''
** '''大阪駅''' - 2020年度の1日平均'''乗車'''人員は290,317'''人'''である。これは[[JR]]全線でも[[新宿駅]]、[[池袋駅]]、[[東京駅|横浜駅]]につぐ第4位の駅である<ref name="jrwest ranking">{{Cite web|和書|title=なんでもランキング |publisher=西日本旅客鉄道 |url=http://www.westjr.co.jp/railroad/fan/ranking/ |accessdate=2015-05-15}}</ref>。JR西日本の駅では第1位であり、[[京阪神]]および[[西日本]]、東京都以外の都道府県で最多の利用客である。
** '''北新地駅''' - 2020年度の1日平均'''乗車'''人員は38,686'''人'''である。
* '''阪神電気鉄道(大阪梅田駅)''' - 2015年度の1日平均'''乗降'''人員は'''166,010人'''である。同社の駅の中では第1位。
* '''阪急電鉄(大阪梅田駅)''' - 2020年の'''平日'''1日平均'''乗降'''人員は356,742'''人'''(乗車人員:274,591人、降車人員:270,476人)である<ref>[http://rail.hankyu.co.jp/station/passenger.html 阪急電鉄 鉄道情報ホームページ 駅別乗降人員(上位50位)] </ref>。同社の駅では第1位であり、関西の大手私鉄の駅としても第1位である。全国の大手私鉄としては第3位である。また、2014年度の路線別1日乗降人員は以下のとおりである。京都本線の乗降人員は宝塚本線や神戸本線の7割程度になっている。
** 神戸本線 - '''191,104人'''(乗車人員:95,195人、降車人員:95,909人)
** 宝塚本線 - '''200,551人'''(乗車人員:100,552人、降車人員:99,999人)
** 京都本線 - '''141,828人'''(乗車人員:72,905人、降車人員:68,923人)
* '''Osaka Metro'''
** '''梅田駅''' - 2020年11月10日の1日'''乗降'''人員は345''',789人'''である(乗車人員:171,735人、降車人員:174,054人)<ref name="osaka-subway-20141111">[http://www.kotsu.city.osaka.lg.jp/library/ct/kotsutyousa/20161108_subway_nt.pdf 路線別駅別乗降人員] 2016年11月8日</ref>。[[大阪市交通局]](当時)の駅では第1位で、地下鉄単一路線の駅としては日本一乗降人員が多い駅である。
** '''東梅田駅''' - 2016年11月8日の1日乗降人員は'''166,676人'''(乗車人員:82,821人、降車人員:83,855人)である<ref name="osaka-subway-20141111" />。地下鉄・ニュートラム全107駅中第7位であり、谷町線の駅では[[天王寺駅]]に次ぐ第2位である。御堂筋線が乗り入れていない地下鉄の駅では第1位である。
** '''西梅田駅''' - 2016年11月8日の1日[[乗降人員]]は'''113,949人'''(乗車人員:58,838人、降車人員:55,111人)である<ref name="osaka-subway-20141111" />。地下鉄・ニュートラム全107駅中第9位であり、四つ橋線では[[難波駅 (Osaka Metro)|なんば駅]]、[[本町駅]]、[[四ツ橋駅]]([[心斎橋駅]]と合算)に次ぐ第4位である。ただし上位駅は全て御堂筋線を含む乗換駅であるのに対し、西梅田駅は単独駅である。
また、御堂筋線梅田駅、谷町線東梅田駅、四つ橋線西梅田駅の1日乗降者数を含めると合計581,971人と、相互直通を行っていない地下鉄駅では日本一(世界一)であり、相互直通を行っている駅を含めても渋谷駅に次ぐ。
== その他 ==
=== 駅の扱い ===
{{出典の明記|date=2014年1月|section=1}}
[[ファイル:Hankyu2000Series2.jpg|thumb|200px|1970年ごろの阪急宝塚本線電車。「[[豊中駅|豊中]]⇔大阪間」と表示されている。]]
[[ファイル:SHIN-OSAKA noriba 201403.JPG|thumb|200px|新大阪駅構内に掲示されている案内板。「大阪(梅田)」が赤字で表示されている。(※現在はのりば番号が変更されている)]]
阪神や阪急では大阪側のターミナル駅であることを強調するため、正式に改名する以前から「大阪梅田駅」と呼称することがあった。阪神の[[車内放送|車内アナウンス]]は「次は、大阪梅田、梅田、終点です」となっており、阪急では[[行先標|行先表示板]]を使用していた[[1980年代]]までは電車の行先案内は「大阪⇔京都」のように記載され、「'''大阪梅田駅'''」と呼んでいたこともあった。これは他社のターミナル駅である[[天満橋駅]]などでも見られ、中には[[大阪阿部野橋駅]]や[[大阪上本町駅]]のように正式駅名に「大阪」を含んだ例もある。
会社ごと、あるいは位置ごとに分ける意味で「'''阪神大阪梅田駅'''」「'''阪急大阪梅田駅'''」、または大阪を省略して「'''阪神梅田駅'''」「'''阪急梅田駅'''」と呼ぶこともある。同様にして阪神と阪急に同一の駅名がある[[三宮駅|神戸三宮駅]]、[[春日野道駅 (曖昧さ回避)|春日野道駅]]、[[御影駅 (曖昧さ回避)|御影駅]]も「阪神○○」「阪急○○」と案内されることが多い。これは[[神戸高速鉄道]]を介して阪急電鉄、阪神電気鉄道、[[山陽電気鉄道]]の3社が[[直通運転|相互乗り入れ]]しているためである。
=== 大阪駅(うめきたエリア)地下ホーム ===
{{Main|大阪駅#地下ホーム(うめきたエリア)}}
大阪駅付近を通過していた梅田貨物線を大阪駅に近接した位置に移設して地下化し、大阪駅の地下ホームとして建設された<ref name="大阪市パンフp2">{{PDFlink|[https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/cmsfiles/contents/0000438/438690/P02_gaiyou.pdf JR東海道線支線地下化・新駅設置事業パンフレット P.2]}} - [[大阪市]]</ref>。2023年2月に線路が移設され、地下ホームは翌3月に供用開始した<ref name="release20200325">{{Cite press release |和書 |title=「うめきた(大阪)地下駅」と「大阪駅」の改札内連絡通路の整備並びに「うめきた(大阪)地下駅」の駅名について |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2020-03-25 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200325_01_umekita.pdf |format=PDF |accessdate=2020-03-26}}</ref>。これにより、従前は大阪駅にて乗降できなかった[[特別急行列車|特急]]「[[はるか (列車)|はるか]]」「[[くろしお (列車)|くろしお]]」に、梅田界隈から乗降できるようになったほか、新大阪駅発着であった[[おおさか東線]]も当駅に乗り入れている。
また、JR西日本と[[南海電気鉄道]]が運営する予定で、仮称[[なにわ筋線]]の事業主体である[[関西高速鉄道]]の鉄道事業基本計画においては、大阪駅(うめきたエリア)地下ホームの供用開始以前は「(仮称)'''北梅田駅'''」とされていたが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.rpi.or.jp/library/library_BMF18_1.pdf|title=大阪圏における鉄道網整備基本計画|format=PDF|publisher=関西高速鉄道株式会社|date=2019-11|accessdate=2023-04-10}}</ref>、こちらも大阪駅(うめきたエリア)地下ホームに乗り入れる予定である<ref>{{Cite web|url=http://www.kr-railway.co.jp/naniwa.html|title=なにわ筋線について|publisher=関西高速鉄道株式会社|accessdate=2023-04-10}}</ref>。この路線が開業すると、南海は阪神・阪急に次いで梅田地区に入る3社目の大手私鉄となると同時に、[[関西私鉄]]では初めて「梅田」と名乗らない駅名(南海側でも駅名は「大阪駅」と決定済)で営業する事業者となる。同時に「[[ラピート]]」の大阪駅到達が計画されている。
将来的には仮称[[なにわ筋連絡線]]も乗り入れる構想がある。
== 駅周辺 ==
{{see also|梅田}}
便宜上、[[国道176号]]を南北軸に、[[大阪環状線]]を東西軸に置いて示す。
; 北東([[芝田 (大阪市)|芝田]]・[[茶屋町 (大阪市)|茶屋町]])方面
* [[阪急三番街]]
* [[阪急17番街]]([[阪急ターミナルビル]])
* [[新阪急ホテル#大阪新阪急ホテル|大阪新阪急ホテル]]
* D.D.HOUSE・[[新阪急ホテル#新阪急ホテルアネックス|新阪急ホテルアネックス]]([[北野阪急ビル]])
* [[阪急かっぱ横丁]]
* [[阪急古書のまち]]
* [[EST (商業施設)|EST]]
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* [[ちゃやまちアプローズ]]
** [[梅田芸術劇場]](劇場飛天→梅田コマ劇場より改称)
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** 阪急茶屋町ビル内郵便局
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** [[毎日放送]](MBSテレビ)本社・スタジオ
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* 梅田[[ロフト (雑貨店)|ロフト]]
* [[NU茶屋町|NU chayamachi]]
* [[NU茶屋町プラス|NU chayamachi+]]
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** [[丸善|MARUZEN]]&[[ジュンク堂書店]]梅田店
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** [[ジャンプショップ]]大阪店
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* [[大阪希望学園高等部]](通信制高校サポート校)
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* [[日本のタクシー|タクシー]]乗り場
** 阪急大阪梅田駅1階西側
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** 大阪阪急内郵便局
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* [[HEP#HEP FIVE|HEP FIVE]]
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** [[ハービスエント]]
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*** [[毎日新聞大阪本社]]
*** [[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]]大阪本社
*** オーバルホール
== バス路線 ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[茶屋町 (大阪市)]]
* [[阪急・阪神経営統合]]
* [[京阪梅田線]] - かつて存在した[[京阪電気鉄道]]による梅田駅乗り入れ計画
* [[大阪駅周辺バスのりば]]
== 外部リンク ==
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* {{外部リンク/阪神電気鉄道駅|filename=umeda|name=梅田}}
* {{外部リンク/阪急電鉄駅|filename=umeda|name=梅田}}
*[https://subway.osakametro.co.jp/station_guide/M/m16 駅ガイド:梅田駅] - 大阪メトロ
* [http://www.nnn.co.jp/dainichi/kikaku/umedakamotu/ 夕映えの鉄路 -梅田貨物駅物語-] - 大阪日日新聞
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3,961 | 福島駅 | 福島駅(ふくしまえき) | [
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] | 福島駅(ふくしまえき) | '''福島駅'''(ふくしまえき)
== 現存している駅 ==
* [[福島駅 (福島県)]] - 福島県福島市にある東日本旅客鉄道(JR東日本)・阿武隈急行・福島交通の駅
* [[福島駅 (大阪府)]] - 大阪府大阪市福島区にある西日本旅客鉄道(JR西日本)・阪神電気鉄道の駅
** [[福島駅 (JR西日本)]]
** [[福島駅 (阪神)]]
** [[新福島駅]] - 阪神福島駅の[[なにわ筋]]を挟んで向かい(西側)にあるJR西日本の駅。計画段階での仮称は「福島」
* [[上州福島駅]] - 群馬県甘楽郡甘楽町にある上信電鉄の駅
* [[木曽福島駅]] - 長野県木曽郡木曽町にある東海旅客鉄道(JR東海)の駅
== 過去に存在していた駅 ==
* [[福島仮乗降場]] - 北海道紋別郡湧別町にあった日本国有鉄道の仮乗降場
* [[渡島福島駅]] - 北海道松前郡福島町にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅
* [[筑後福島駅]] - 福岡県八女市にあった日本国有鉄道の駅
* 福島停留場 - 群馬県高崎市にあった東武高崎線の停留場。[[東武伊香保軌道線#停留所一覧]]を参照
<!--詳細な解説は各駅の項目で-->
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[[Category:同名の鉄道駅]]
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3,962 | 阪神電気鉄道 | 阪神電気鉄道株式会社(はんしんでんきてつどう、英: Hanshin Electric Railway Co., Ltd.)は、大阪と神戸を結ぶ鉄道を運営している会社。通称は「阪神電鉄」「阪神電鉄KK」または「阪神電車」、略称は「阪神」、キャッチコピーは「“たいせつ”がギュッと。 阪神電車」。阪急阪神ホールディングスの完全子会社であり、阪急阪神東宝グループの企業である。日本の大手私鉄の一つである。
本社所在地は大阪府大阪市福島区海老江一丁目1番24号。他に東京事務所が東京都千代田区有楽町一丁目5番2号 東宝ツインタワービル5階にある。
大阪 - 神戸間という大都市同士を結び、都市間電気鉄道(インターアーバン)としては日本で最も古く、1905年に営業を開始している。2021年3月時点の鉄道事業の営業キロは48.9 kmである。
また、プロ野球球団「阪神タイガース」の親会社であり、阪神タイガースの本拠地である阪神甲子園球場は阪神本線甲子園駅前にある。
2006年6月19日に村上ファンドによる買収問題を発端とする株式公開買い付け (TOB) が成立し、阪急電鉄を中核とする阪急ホールディングスの連結子会社 (64.76%) となった。同年10月1日には阪神電気鉄道株1株につき阪急ホールディングス株1.4株を割り当てる株式交換を実施し、阪急阪神ホールディングス(阪急ホールディングスから商号変更)の完全子会社となった。詳しくは「阪急・阪神経営統合」を参照のこと。
1896年(明治29年)、田中市兵衛、外山脩造、川上左七郎、前川槇造、大阪発起人総代により広瀬宰平、藤田伝三郎、豊田文三郎、岡橋治助らを加え発起人会が発足する。1899年(明治32年)6月に、社名を摂津電気鉄道株式会社として社長に外山脩造を迎えて設立。同年7月に阪神電気鉄道株式会社に改称した。
阪神は大阪 - 神戸間の並行線開業に反対する鉄道作業局が所管する私設鉄道法ではなく、内務省と鉄道作業局が共同で所管していた軌道条例に依拠し、さらに当時の内務省幹部であった古市公威から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道にするという、法の抜け穴を突いた奇策によって1905年(明治38年)4月に神戸(三宮駅) - 大阪(出入橋駅)間の本線を開業した。従来の路面電車に比べ、軌道・車両ともに高規格の設備は、当時の阪神電鉄技師長であり建設時にもアメリカ視察を行った三崎省三の意向を反映したもので、建設ブームの真っ只中にあったアメリカのインターアーバンに範を採ったものであった。
本線と阪神なんば線が阪神の主要路線である。本線は大阪・キタの大阪梅田駅から神戸随一の繁華街・ターミナル駅の神戸三宮駅を経由して元町駅に至る。東海道本線(JR神戸線)及び阪急神戸本線と競合関係にあるが、線路の曲線や駅数が多いため、両者より所要時間の面では不利である。また元町駅から西側は神戸高速線を経由して山陽電気鉄道本線の山陽姫路駅まで直通運転を行っている。阪神なんば線は大阪・ミナミの大阪難波駅から尼崎駅を結ぶ路線であり、大阪難波駅からは近鉄難波線・奈良線に直通して近鉄奈良駅まで至る。2009年の阪神なんば線の開業により、神戸・三宮 - 大阪・難波 - 奈良を結ぶ広大な私鉄ネットワークが完成した。また、山陽電気鉄道に加え近鉄とも直通乗車、阪急に加え、南海とも直接乗り換え可能になり、関西の大手私鉄5社のうち京阪を除く4社の路線とJRや地下鉄を介さずに直接乗り換えることが可能になった。関西の大手私鉄では唯一、大阪の2大繁華街であるキタ・ミナミの双方に自社路線で乗り入れている。
明治時代、開業にあたって官鉄線(現在の東海道本線。愛称はJR神戸線)との競合を危惧する鉄道作業局側の反対から私設鉄道法での許可が得られず、この問題を回避するため、当時まだ内務省単独所管だった軌道条例準拠による軌道敷設申請を行った。これは軌道が道路交通の補助であったことに加え、当時の内務省幹部で、土木工学の大家として都市交通について造詣の深かった古市公威から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得たことで実現した。これらの経緯からと集客を目的として西国街道沿いの集落を結ぶルートを選択した名残で各駅間が平均1kmと短く、駅の数が多い。
京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道、豊州電気鉄道、江之島電気鉄道、宮川電気、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道、大阪市営電気鉄道、横浜電気鉄道、土佐電気鉄道に続く日本で14番目の電鉄運営事業者であり、開業当初の線区が現在も存続するものとしては日本で4番目に古い(いずれも日本の普通鉄道では初めての電車運転(1904年)である甲武鉄道を除く)。大阪と神戸という大都市を結んで、日本における都市間電気鉄道(インターアーバン)の先駆けにもなった鉄道でもある。
電気を表徴する稲妻でレール断面を菱形に囲んだだけの、開業以来変わらぬシンプルな社紋に、その歴史が現れている(大手私鉄で円形をモチーフにした社紋を採用したことがないのは阪神のみである)。
1920年にメインの路線である本線に並行して、阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が神戸本線を開業させると、乗客獲得競争を繰り広げるようになった。それは、車内でハンカチを乗客に無料配布するといった身近なものから、他社の営業活動をお互いに妨害するという過激な事態にも及んだ(詳しくは「阪神急行電鉄」を参照)。阪神はこの頃から、大阪 - 神戸間の多頻度運転を進めることになり、「待たずに乗れる阪神電車」と言うキャッチフレーズがよく知られるようになった。2006年の経営統合後の阪急は兄弟会社であり、共存共栄・棲み分けがはかられている。2014年7月には尼崎工場で阪急の車両を能勢電鉄仕様に改造するため、阪神の線路上を阪急の車両が走っている。
1969年より1975年にかけての国道線およびその支線区2線の廃止開始直前の総営業キロは75.1km(うち国道線系34.1km、本線系41.0km)であった。 1975年に国道線など軌道線区間を全廃した時には総営業キロが41.0km(これには当時休止中であった武庫川線の武庫大橋駅 - 武庫川駅間の1.5kmを含む)まで減少し、1984年の武庫川線0.6kmの延伸で41.6kmとなった後、翌1985年の武庫川線休止区間の廃止で40.1kmになった。これに第二種鉄道事業区間の神戸高速線および阪神なんば線延伸区間を含めても48.9kmで、1990年に相模鉄道が大手私鉄へ昇格するまでは、大手私鉄の中で営業距離が最も短かった。
保有路線は殆ど平野部または臨海部に所在することから、3か所あるトンネルはすべて地下トンネルであるため、関西の大手私鉄5社で唯一山岳トンネルを保有しないのが特徴である。
1951年4月1日に武庫郡鳴尾村が西宮市と合併したことにより、関西の大手私鉄では最も早く路線と駅の所在地が全て市となった。
自社線には新幹線乗換駅がない。
駅ナンバリングの路線記号はすべて (HS)
神戸高速鉄道乗り入れ開始時の経緯から、阪神の在籍車では5000番台(5001形など)が直通する山陽5000系列と一部重複する車両番号となっている。また2009年3月20日からは西大阪線延伸に伴う近鉄との相互乗り入れ開始に伴い、同社奈良線在籍の近鉄5800系と5820系も直通運用に充当され、3社の5000番台形式車が阪神電鉄線上を走ることになった。また近鉄1252系や9820系なども乗り入れるようになったため、1000/9000番台形式も重複する。
2020年までは阪急電鉄の5000系が神戸本線で運用されていたため、神戸高速鉄道には、直通運転に参加している4社全ての鉄道会社の5000系が乗り入れていた。なお阪神の車両が廃車される2003年までは3000系、さらに遡ると2000系も、4社の車両全てが神戸高速鉄道に乗り入れていた。
京阪電気鉄道の開業時には大阪市電を経由して、阪神が京阪天満橋駅まで、京阪が阪神梅田駅(現在の大阪梅田駅)まで直通する構想があり、阪神1形電車と京阪1形は寸法・性能ともほぼ同一で設計されていた。だが後に比較的大型の路面電車を走らせることになる大阪市電は、まだ小型車のみで運行しており、「乗り入れるなら市電と同じサイズで」と要望があったため、折り合いがつかずに頓挫した。
元町駅は2010年10月1日より阪神と神戸高速鉄道の共同使用駅から阪神の単独駅となった。
かつては子会社に武庫川車両工業を有していた関係で、現有車両は武庫川車両工業製が半数以上を占めている。例外的に9000系全車と5500系の一部が川崎重工業製であるほか、武庫川車両工業が解散してからは5550系のみアルナ車両製(車体のみ)で、それ以降の1000系・5700系は全て近畿車輛製である。なお、1960年代頃までは汽車製造製や日本車輌製造製の車両も在籍していた。
2016年に5700系が鉄道友の会のブルーリボン賞に選定され、阪神の車両として初の鉄道友の会BL賞(ブルーリボン賞・ローレル賞)を受賞した。
2015年3月以降、全車両の先頭車運転席側に「たいせつが、ギュッと」マークを取り付けている。
関西の私鉄では車両を長期間使用することが多いが、阪神では車両冷房化をいち早く進めたことから、その対象から外された初期の大型車は登場から20年ほどで廃車になる車両も見られた。平成期以降は他社と同様に更新工事を行い、長期間使用する方針に改めている。
大手私鉄では2021年現在唯一、JRグループや他社で見られる復刻塗装を実施した例がない。また、路線距離が短いことや通勤需要に特化した路線のため、在阪大手私鉄では京阪電気鉄道とともに観光列車を保有したことが無い。
2014年から1000系を皮切りに順次、前照灯のLEDへの換装を進めており、2021年の5001形の廃車をもって関西大手私鉄では京阪電気鉄道に次いで、営業車両全編成の前照灯のLED化が完了した。
車両は1960年代以降、高速走行性能に優れる急行・特急など優等列車用車両と、高加減速性能重視の普通列車専用車両に二分される。
阪神の路線はJR神戸線や阪急神戸線といった競合路線と比べても駅間距離が短く、普通用の車両は所要時間の短縮や、優等列車ダイヤの遅延防止を目的として、特に高加速・高減速性能(加速度・減速度ともに最大 4.0 - 4.5 km/h/s。地下鉄車両の場合は加速度が最大 3.3 km/h/s 程度)が求められており、一方、急行用の車両は高速性能が求められるため、他の大手私鉄の一般的な通勤電車と同様の性能(加速度が2.6 - 3.0 km/h/s)となっている。急行系が長らく採用されて来た朱色とクリームの車体塗装から「赤胴車」(ステンレス車体の1000系・9000系も含む)、普通系は同じように青とクリーム(5500系と5550系は色を変更)の車体塗装から「青胴車」もしくはその高加速・高減速性能ゆえに初期車両に付いた愛称から「ジェットカー」(ステンレス車体の5700系は「ジェット・シルバー5700」)と呼ばれている。
各形式の解説中、営業最高速度が急行用車両 106 km/h 、普通用車両 91 km/h となっているのは、運転曲線がATSの検知誤差を考慮して認可最高速度よりも4 km/h減で引かれていることによる。
旧性能車時代は車体長さ・幅とも小さめの車両が使われており、当時の車両を現在では「小型車」と呼ぶ。正面の尾灯が左右段違いに付いており、貫通扉が二枚折りのガラス戸であるなど、特徴あるデザインだった。新性能車の導入にあわせて寸法は大型化され、現在の車両はいずれも近隣の京阪、阪急、山陽に類似した全長19m級の3扉車(同じグループである阪急については京都線用の車両とほぼ同じ寸法)で、先頭車前面には貫通路が設けられている。
地方鉄道法による免許の交付を受けるまでに製造された鉄道線の車両(軌道法による特許の時代、つまり新設軌道線時代に新造された車両)は車体側面の窓の下部に保護棒が取り付けられていたが、それらの車両は2020年6月をもって全車が引退した。
1980年代までは時間帯や種別によって編成両数を変えていたこともあり、7001・7101形(のち2000系へ改造)以前の大型車は正面の貫通扉がセットバックしており(7801・7901形など例外もある)、このセットバックした部分に貫通幌が格納されていた。8000系以降の形式は固定編成となったため貫通幌を設置する必要がなくなったことから、正面はいずれも凹みがなくフラットな形状となり、非常用に特化された。ただ、近鉄との相互乗り入れ開始により快速急行においては増解結作業が発生することとなったため、1000系のうち増結用2両編成では神戸方に貫通幌が剥き出しの状態で取り付けられている(併せて、乗務員室のうち運転台・車掌部分と通路とを仕切る扉が復活した)。
ステンレス車体の採用についてはこれまで4回の時期に隔てられており、初回が5201形(2両のみの試作的製造)、2回目が9000系(阪神大震災による被災車両の代替車両の急造に迫られた結果、当時は川崎重工業のステンレス車用の製造ベースが唯一空いていたため)、3回目が1000系、4回目が5700系となっている。なお、1000系と5700系との間に登場した5550系は普通鋼車体で新造されている。一方、開業から現在に至るまで、アルミニウム合金製の車両を導入したことは一度もない。
9000系までの両開き扉を持つ車両は、扉の開口幅は他社より広く1400mmを標準としていた。9300系以降は他社並みの1300mmとなっている。
車体デザインは全般的にオーソドックスな前面貫通型・3扉であるのに対し、早期における軽量高性能車・高減加速車の開発、電機子チョッパ制御の実用化、冷房化の推進など技術面の功績から、永らく「技術の阪神」として評価が高い。ただし、VVVFインバータ制御の初導入は1995年の5500系であり、大手私鉄では最も遅かった。
電動機・パンタグラフは、東芝(東芝インフラシステムズ)製の電動機を採用の5700系を除き東洋電機製造(以前は制御器も納入していた)製であり、制御器のメーカーは東芝と三菱電機が現在の所有全車両において約半数ずつの採用となっている。他社からの直通運転可能な車両の一部で採用している日立製作所や富士電機の製品は納入していない。制御器に関しては、直流整流子電動機の時代において電機子チョッパ制御、界磁チョッパ制御、界磁添加励磁制御という省エネルギー効果のある制御方式を採用している。
保有車両数が少ないことが有利に働き、戦前から車内放送装置を全車両に設置していた。1950年代後半から新性能車が各社に登場したが、他の鉄道事業者では1980年代にもまだ大都市近郊で旧性能車が活躍していたのに対し、阪神では(鉄道線の旅客用車両に限定すれば)1966年という非常に早い時期に旧性能車が淘汰された。但し、全車両ベースにおける旅客営業用の吊り掛け駆動車両の完全廃止は国道線廃止の1975年である。
多くの鉄道事業者では新性能車導入と同時に、車体は新性能車に準じた構造ながら走行機器を旧性能車から流用した旧性能機器流用車も製造したが、阪神では7801・7901形の中間車の一部に旧性能車の台車を流用したのみで、大手私鉄では東急電鉄とともに旧性能機器流用車の製造実績がない。
連結器にアメリカ合衆国のヴァン・ドーン(Van Dorn)社のバンドン式密着連結器を長く採用し続けたのは阪神のみであった。また日本国内の鉄道車両の平均的な連結器取り付け位置よりも235mm低い、645mmの位置に連結器が取り付けられていたのも特徴である。2006年から5001形5013号車を皮切りに、近畿日本鉄道の車両と共通の回り子式密着連結器への換装が開始され、換装後の連結面高さは840mm(近鉄車では880mm)となっている。そのままで取り付けを行うと車体裾と干渉する恐れがあるため切り欠きをしているが、8000系についてはこの切り欠き加工を当初は実施していなかった。これは他の形式・系列と比べて車体裾高さが少し高いためだが、後の検査時に切り欠き加工を実施した8000系が一部で存在している。なお、山陽車は連結器の高さこそほぼ同じではあるが、阪神車・近鉄車と同じ回り子式密着連結器を採用している6000系を除き密着自動連結器を採用しているため、阪神・山陽各線での救援の際などの非常時に6000系を除く山陽車が阪神車または自社の6000系(および阪神電鉄線内での近鉄車)と連結する場合は中間連結器(アダプター)を使用する。
電気指令式ブレーキ搭載車のうち、VVVFインバータ制御の車両では、ブレーキハンドルの形状がジェットカーと赤胴車で異なっている。ジェットカーは縦軸式なのに対して、赤胴車は山陽車・近鉄車のシリーズ21に合わせて前後操作式となっている(その他の近鉄車はジェットカーと同じく縦軸式)。9000系も登場当初は縦軸式であったが、近鉄乗り入れ対応改造工事を機に前後操作型に交換した。
1970年代末には赤胴車が全車冷房化され、遅れていた青胴車も1983年には全車冷房化と、驚異的な早さで他社に先駆けて冷房化率100%を達成した。冷房装置は主に国鉄AU13型に準じた分散式を採用していたが、8000系の途中からは集約分散式へと変化している。冷房装置は三菱電機製のものが使用されており、現在では5001形(2代)などで使用されているAU13型類似の冷房装置の型番は「MAU13」である。
接客設備は1954年に登場した初の大型車3011形・初代5001形でクロスシートを採用した例があったが、その後はラッシュ時の混雑緩和や他車との併結を優先することもあり、ロングシート車の採用が続いた。2001年に登場した9300系ではセミクロスシートを中間車4両の扉間座席に採用し、以降8000系のリニューアル車の一部にも同様のレイアウトが導入されている。
普通列車については、1968年までは早朝・深夜の途中駅止まりを除き、方向板(後節も参照)自体を取り付けず全くの無表示であったが、同年4月7日の神戸高速鉄道開業によるダイヤ改正より「梅田 - 元町」などの方向板を前面に掲出するようになった。当初は発駅・着駅が書かれた方向板を使用していたが、神戸高速線に普通列車を直通させるようになった1987年12月13日改正以降は、取り換え作業を簡素化するため駅名部分が差し込み式となった方向板を使用した。ただし現在はすべての車両が方向幕もしくはLED表示となっており、方向板のみを使用する車両は全廃されている。
列車種類選別装置は一貫して東芝製が使われており、車上子は先頭車の左側面の先端に付けられている。この車上子の銘板には最新型の車両でも、東京芝浦電気時代から使用しているロゴマークの1つである「傘マーク」が使われている。列車種類選別装置は自動列車停止装置 (ATS) や列車無線と違って、神戸高速線に直通する各社の共通規格ではなく、乗り入れしている山陽電気鉄道や近鉄の車両にも取り付けられている。運転台にある設定機器については、当初は種別ごとに定められた記号に合わせるチャンネル式であったが、現在は種別ごとに設けられたタッチパネルまたは照光押しボタン式である(山陽電鉄や近鉄の阪神乗り入れ対応車両も同様)。列車種類選別装置により、踏切の作動時間の最適化を図っている。
列車無線は1952年に国際電気製の誘導無線が導入された。1977年には現在の空間波無線が導入されている。
急行系車両は、かつては有効長が5両編成までの駅・ホームに停車する際にドアカットを実施していたため、乗務員室にドアカットスイッチが標準装備されている。また、かつては神戸三宮駅3番線降車ホームなどのほか、山陽電鉄本線内でも大塩駅などで長らくドアカットを実施していたことから、近鉄や山陽電鉄のうち阪神乗り入れ対応車両にも同様にドアカットスイッチが標準装備されている。なお、乗り入れ先も含めてドアカットは全て解消されたことから、神戸寄り先頭車両のドアにのみ貼付していた「上り大塩駅ではこの扉は開きません」のステッカーは剥され、またドアカットスイッチについても常時使用する機会はなくなったが、撤去はなされておらず残置されている。
かつては他の多くの鉄道会社と同様に、車両に「系列」の概念が存在しなかった。1980年代前半までは必要に応じ、複数グループの形式を自由に併結して編成を組む形を取っており、他社のような系列の考えが必要なかったため、7801形などの形式で呼称していたのである。つまり小田急電鉄や京成電鉄、西日本鉄道など現在でも「形」を使用している会社と同様、公式には「系」ではなく「形」を使用していた。3000系以降は1986年改造の8701・8801・8901形と7890・7990形を除き、同一グループの形式だけで編成を組むようになったため、「系」で呼ぶようになっている。
車体外側の車両番号表記には独特の縦長ゴシック体が用いられている。同じ書体はかつての子会社であり、阪神の車両の大半を製造していた武庫川車両が製造を担当した、京福電車のモボ600番台や2000番台とえちぜん鉄道の車体にも用いられている。なお、車番は妻面にも書かれており、この事例は他の大手私鉄では京成のみである。 また、車両番号は四桁数字のみで、「モハ(デハ)」「クハ」「サハ」といった文字は一切使われていない。
大阪梅田駅と神戸三宮駅では可動式ホーム柵が設けられたため、車体側面下部に書かれている車両番号がホーム柵と干渉し確認しにくくなったことから、2022年に入ってから各編成ともに車体側面上部(側面下部とは対角線となる反対側)にも車両番号が描かれたステッカー(5001形のみ青色、それ以外は白色)が貼付されている(これは阪急電鉄が先行して実施)。
現用車は通常、急行用車両と普通用車両を基本に分類するが、本項では便宜上、以下の4種類を基本に分類することとする。
以下掲載している全車両において、製造初年度が新しい車両は上、古い車両は下に配置している。
本線においては4両または6両の固定編成で運用されており、系列把握は他社並に容易である。
阪神なんば線開業前は最長編成両数が6両で、大手私鉄で唯一7両編成以上の列車が存在したことがなかったが、阪神なんば線開業以後は、9000系と1000系に限り尼崎駅で増結用車両を増結し、一部の列車で自社および近鉄の車両による8両編成ないし10両編成の運行を開始した。2020年3月より、本線でも土曜・休日の快速急行で8両編成の運行を開始した。
2015年度からは、量産型の普通用車両としては初のステンレス製となる5700系「ジェット・シルバー5700」が順次投入されており、旧型となった2代目5001形、および5131形、5331形を置き換えている。
この世代は近畿日本鉄道や神戸電鉄と同様、多種の形式が存在しており、大手私鉄の新性能車としては複雑な部類に入るとされている(阪神は大手私鉄としては路線規模が小さいが、路線の長さと車種の多さは比例しない)。主な理由は以下の通り。
そこで前期大型車については下記の表を使用し、製造年や改造年により、同世代の急行用車両と普通用車両などの把握を容易にしているので、参照されたい。
全車除籍済。
全車除籍済。
路線廃止により全車廃車。
2012年までは、関西の大手私鉄で唯一、車両基地を一般に公開するイベントを開催したことがなかった(他社では鉄道の日イベントは車両基地で行われるが、「はんしんまつり」は西宮駅のエビスタ西宮で開催されていた。2013年より尼崎工場で開催)。ただし、「わくわくトレイン」や「石屋川エクスプレス」といった事前応募制の貸切臨時列車を運転して車両基地を公開したことはある。
大人普通旅客運賃(小児は半額・10円未満切り上げ)。特定運賃区間を除き鉄道駅バリアフリー料金10円を含む。2023年4月1日改定。
神戸三宮駅 - 元町駅間の普通運賃は上表の「特定」欄の運賃を適用。
神戸高速線は、阪神が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「神戸高速線#運賃」を参照。本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。
2023年4月1日より、グループの阪急電鉄と同時に、ホームドアの整備などバリアフリーの推進を目的として、普通運賃・通勤定期運賃に鉄道駅バリアフリー料金制度による料金の上乗せ(普通運賃は10円、通勤定期は1か月で380円)を実施している。
阪神なんば線の西九条駅 - 大阪難波駅間(他の区間と連続して利用する場合も含む)を利用する場合、上表の「加算含む」欄の額が適用される。普通運賃では通常額に90円(初乗り区間は60円)が加算される。
杭瀬駅 - 大物駅 - 出来島駅を含む経路を乗車する場合は、大物駅を過ぎて尼崎駅で折り返して乗車しても大物駅経由として運賃計算される。これは、大物駅には優等列車が停車しないことからの措置であり、乗り継ぐ前後の両方の列車が大物駅に停車する場合も含めて尼崎駅での乗り換えも可能である。ただし、定期券の場合は「大物駅乗換」か「尼崎駅乗換」かを指定する必要があり、「大物駅乗換」の定期券では尼崎駅で乗り換えることができない。
2022年9月30日をもって、身体・知的障害者用特別割引回数乗車券を除き、他社連絡回数券も含めて全ての回数券の発売を終了した。代わりに、PiTaPaの従来のサービスに加え、ICOCAでの阪神電鉄線内での利用に対してもポイントを還元するサービスを、阪急電鉄・能勢電鉄や山陽電鉄との間でポイントを共通に使える施策として同年9月1日より開始した。また併せて、阪急との間で実施していた後述の回数券引き換えサービスも同様に9月30日をもって終了となった。
回数券については、晩年は阪急電鉄とともに磁気カードによる「回数カード」に統一しており、紙(磁気券)の仕様は他社線との連絡回数券のみとしていた。なお、2007年4月1日より、阪急電鉄と運賃が同額の区間(2019年10月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、380円、400円)の回数カードについてのみ、阪急電鉄でも利用可能のサービスを実施していた(但し、阪急電鉄で利用する場合は乗車前に阪急電鉄の駅の自動券売機で阪急のきっぷに引き換える必要があった)。また、2018年10月1日より、複数人で乗車する場合などで回数カードを紙の切符に引き換えた場合(阪急電鉄での引き換え含む)は、その切符の有効期限は引き換え当日のみとした。
通勤定期券を使用する場合、以下に挙げる3つの場合で選択乗車が可能となっている。
近鉄との連絡乗車券は近鉄奈良線系統の一部の駅と大阪線の大阪上本町駅から桜井駅までしか発売できないため(下記参照)、運賃表に記載のない駅へ行く場合はその最寄り駅までの乗車券を購入し、車内か降車する駅で精算することとなる。近鉄と阪神なんば線新区間の各駅への連絡乗車券はタッチパネル方式の新型自動券売機でしか購入できない。花隈駅を除く神戸高速線では近鉄との連絡乗車券は発売されていないので大阪難波駅までの乗車券購入後、車内か降車する駅で精算することとなる。PiTaPaやICOCAなどの全国相互利用対応の交通系IC乗車カードはそのまま目的駅まで利用できる。
連絡乗車券発売対象区間は以下の通り。
東鳴尾駅と洲先駅を除く(この2駅には自動券売機がなく、いったんそのまま乗車してから武庫川駅の中間改札に設置されている自動券売機で購入することになる)全ての駅では近鉄(発売範囲は上記参照)に加えて、神戸高速線経由山陽電気鉄道・神戸電鉄各駅への連絡普通券も購入できる。なお、連絡回数券は阪神電鉄線と神戸高速線・山陽電鉄線・神戸電鉄線間で利用できるものしか発売されていない。
以下の各項目を参照。
阪神電気鉄道では上記のICカードを含む交通系全国相互利用IC乗車カードが利用できる。また、連絡する西代駅以西の山陽電鉄線や新開地駅以北の神戸電鉄線・大阪難波駅以東の近鉄線でも交通系全国相互利用IC乗車カードが利用できる。
以下の各項目を参照。
このうち「高野山1dayチケット」「奈良・斑鳩1dayチケット」は、阪神なんば線開業までは梅田駅(現在の大阪梅田駅)経由大阪市営地下鉄・ニュートラムが利用できたが、開業後この2チケットは阪神なんば線経由で利用するように改められた(前者のチケットは大阪難波駅で徒歩連絡乗り換えができ、後者のチケットは同駅から直接接続することになる)ため、大阪市営地下鉄・ニュートラムの利用はできなくなっている(詳細は「阪神なんば線#大阪難波延伸開業による利便性の向上」を参照のこと)。
発売駅以外からの利用について、利用当日に限り乗車駅からの普通乗車券を企画乗車券発売駅で提示して購入すると、普通乗車券を回収したうえで購入した企画乗車券と有効区間が重複する部分が払い戻される(公式ホームページの「お得なきっぷ」のページより)。
2024年6月よりQRコード乗車券のサービスが開始される予定である。また、それに合わせ、2025年3月末までにすべての駅で自動改札機をQRコードに対応する改札機に更新する予定で、2023年12月時点で甲子園駅と尼崎駅のすべての改札機が更新されている。
乗務員室にある放送装置には、乗務員同士で通話が可能なインターホンの機能が付けられており、マイクを通じてのみでの通話が可能である(マイクにはスピーカーも搭載)。現在の装置は、操作盤にある照光式の「車内」「車外」「インターホン」(5700系と5500系のリニューアル編成では、それらに加えて「車内外」「扉個別」もある)のいずれかのボタンを押した上で、マイクにあるボタンを押すことで放送または通話が可能な仕組みとなっている。
長らく、操作盤は「放送」「切」「インターホン」のボタンの仕様のものが使われており、その当時は「放送」ボタンを押すだけでマイクのスイッチが入りそのまま車内放送が可能で、マイクに付いているボタンを押すと車外スピーカーに流れる方式としていた。ただ、これは乗り入れ先の山陽電鉄、近鉄とは方式が異なることから、5700系が登場して以降は既存車両は機器を更新し他社に合わせた現在の方式としている。なお、1980年代までの車両では「放送」「インターホン」それぞれのスイッチのレバーを上下させるものであったが、のちにボタン式のものに取り換えられている。
JR西日本との乗換駅である大阪梅田駅や野田駅、神戸三宮駅では競合関係にあるためか過去はJRへの案内が省略されていたが、阪神なんば線開業の2009年のダイヤ改正より案内を行うようになった。ただし、他社線や阪神バスとの乗り換え案内は、原則として23時以降は行わない。
大阪梅田駅を車内放送で案内する場合「梅田、大阪梅田、終点です。」と放送する。また昼間時には「大阪梅田」の後に「阪神百貨店前」が追加される。尼崎駅における阪神なんば線から阪神本線への乗り換え案内では、「大阪・神戸方面」と梅田や三宮・元町を省略することも少なくない。
福島駅を車内放送で案内する場合「福島、ラグザ大阪・ホテル阪神前です。」と放送する。
尼崎センタープール前駅を車内放送で案内する場合「センタープール前、尼崎センタープール前です。」と放送する。これは尼崎駅との区別を明確にするためである。
甲子園駅を車内放送で案内する場合、現在は「甲子園、甲子園球場前です。」と放送する。かつては「甲子園、甲子園野球場です。」と車内、甲子園駅構内でアナウンスされていた。
西宮駅を車内放送で案内する場合、昼間時のみ「西宮、エビスタ西宮前です。」と放送する。ただし十日えびすの期間中は「西宮、西宮戎です。」と案内される。
神戸三宮駅を車内放送で案内する場合は「三宮、神戸三宮です...(略)」と放送する。
最終到着駅を案内する場合、梅田駅など終端駅の場合は「●●(駅名)、終点です。」、そうでない場合は「終着、●●です。」と案内する。
阪神なんば線(神戸三宮、新開地始発の奈良行き快速急行を含む)の列車については、行先、種別の前に「西九条、難波方面」を付け加えて放送することが多い。
全駅でどちらの扉が開くか案内する。また、通過運転を行う区間では、到着放送の結びに到着駅名の再案内を行う(例:「西宮、エビスタ西宮前です。乗り換え案内をします。各駅停車ご利用の方は左側、1番線の電車にお乗り換えください。阪神バスご利用の方はお乗り換えください。西宮を出ますと、次は、甲子園にとまります。出口は左側です。西宮です。」)。
普通列車ではかつて、駅到着直前の放送は原則として行わず、各駅を出発後に「次は、●●、●●です。出口は●側です。」を1回のみ放送していた時期があったが、2009年3月20日以降は普通列車でも駅到着直前の放送が行われている。
2012年3月20日のダイヤ改正前まであった阪神なんば線内の各駅に停車する奈良行の快速急行(同改正で快速急行の全列車が「尼崎 - 西九条間ノンストップ運転」となった)の尼崎到着時の車内案内は「大阪難波まで各駅に停車」と「鶴橋まで各駅に停車」と両方あり、必ずしも統一はされていなかった。ただし事実上は近鉄奈良線の鶴橋まで各駅に停車するため後者も誤りではない。
2014年より運転を開始した近鉄22600系電車による貸切列車が御影駅を通過する際は、上りでは石屋川駅手前で、下りでは住吉駅手前で「間もなく、御影駅を通過します。電車が揺れますのでご注意ください。」と放送を行う。また、上りでは乗務員交替となる桜川駅(乗客は下車不可能)で、下りでは乗客の下車する各駅で「阪神電車をご利用頂きありがとうございました」と放送を行う。
2016年3月19日のダイヤ改正からは、車内での駅到着時の乗り換え案内では「乗り換えのご案内をします。」などと丁寧な表現が用いられている。
2017年2月から、「姫路」は「山陽姫路」、「難波」は「大阪難波」、「日本橋」は「近鉄日本橋」、「奈良」は「近鉄奈良」など、それまで省略して案内していた駅名は全て正式駅名で案内するようになった。但し、車両側の表示器は他社車両も含め従来のままとなっている。
2019年3月20日より、阪神なんば線内と本線の快速急行で多言語自動放送を開始した。これは、乗り入れ先の近鉄が先行して車掌が携帯するタブレット端末を用いて多言語自動放送を行っていることに追随したもので、タブレット端末を車両側のコネクタに接続してタッチパネルを操作し、日本語と英語、一部で中国語・韓国語による多言語自動放送を行うものである。なお、これらは全て音声合成ソフトで作成した人工音声である。まず、先行してコネクタが取り付けられた1000系と9000系、そして阪神電鉄線乗り入れ対応の近鉄車両において開始し、のちに8000系・9300系にもコネクタが取り付けられたため、本線内では快速急行に加えて直通特急・特急・急行でも、2020年3月14日のダイヤ改正以降にタブレット端末のコネクタを取り付けた編成で多言語自動放送を始めている。さらに2021年1月以降は山陽車両にもコネクタを取り付ける改造を行い、山陽電鉄でもタブレット端末を導入したため、大阪梅田駅 - 山陽姫路駅の全区間において自動放送を行っている。原則として早朝と夜間では自動放送は行わないが、早朝・夜間でも車掌の裁量で使用することもある。但し、普通用車両(ジェットカー)にはコネクタが取り付けられていないため、本線・神戸高速線では急行系車両も含めて普通では全て車掌の肉声による案内である。また、阪神なんば線大阪難波駅 - 桜川駅間の運行は近鉄の乗務員が担当しているため、この区間のみ自動放送は近鉄のタブレット端末で近鉄のフォーマットにより放送されている(アナウンスの声は、日本語のみ男性、英語・中国語・韓国語は女性)。他にも、駅到着時の接続列車の案内などは従来通り肉声放送で行われている。
なお、武庫川線の列車は本線・阪神なんば線に先駆けて自動放送(アナウンスは女性の声で日本語のみ)を採用しているが、ワンマン運転のためタブレット端末の操作による手動ではなく、列車の走行に応じて放送を開始する自動制御のものである。武庫川団地前行きでは行先を「団地前行き」と案内し、終点到着時には「次は、団地前、武庫川団地前。終点です。」と放送する。
1990年から、駅自動放送でシンセサイザーによる接近・発車メロディが演奏されている。発車メロディ・通過列車接近メロディ・遅延発生時ないし緊急時告知メロディはオリジナルだが、停車列車の接近メロディは『線路は続くよどこまでも』が使われている。1990年の導入時は西浦達雄作曲・編曲によるものであったが、2009年1月からは向谷実作曲・編曲によるものに変更され、発車メロディは上り・下りとも同一のメロディとなっている。なお、元町駅と桜川駅のみ発車メロディは予告用のみが流れる(桜川駅1番線では、このあとに近鉄用の信号扱所からの出発承認合図器音〈ブザー音〉が流れる)。また、メロディ更新に合わせて同時に放送の案内の音声も更新している。
頭端式ホーム(梅田駅の全ホーム、神戸三宮駅の2番線)では、入線時の放送フォーマットは独特のものとなっている。駅到着直前は全ての列車で接近メロディを省略し、「まもなく、●番線に電車が参ります」のアナウンスのみを放送する。列車が駅到着後、少し間隔を空けて「●番線に停車中の電車は、■■(駅名)ゆき▲▲(列車種別)です、停車駅は...(普通は「各駅停車、■■(駅名)ゆきです、各駅に停車します」)」と放送する。このほか、梅田駅の全ホーム、尼崎駅2・5番線では発車直前から列車がホームを離れるまでの間、男女声とも(ホームによる)「●番線から、電車が発車します。ご注意ください」を繰り返し放送している。
停車列車接近メロディは、2011年から放送されているラジオCMでも使われている。
甲子園駅では、阪神甲子園球場での高校野球全国大会開催に合わせて、2013年の夏から全国高等学校野球選手権大会、2015年の春から選抜高等学校野球大会の開催期間限定で停車列車接近メロディを変更している。曲目は「甲子園駅#列車接近メロディ」を参照。
2019年3月より、全駅で頭端式ホームも含めて全ての列車到着ないし通過時に、「電車がまいります」「電車が通過します」のアナウンスの直後に新たにオリジナルの接近メロディまたは通過メロディを加えている。
2023年1月6日および1月20日に阪神本線で運転された臨時有料座席定員制列車「らくやんライナー」の車内放送では、2009年まで使用されていた西浦版の通過列車接近メロディが、案内前のチャイムとして使用された。また、同年1月13日運転のらくやんライナーでは、西浦版の「線路は続くよどこまでも」のメロディが使用された。
列車到着時の放送は、「大阪梅田行き・特急」と行先・種別の順に案内しているが、阪神本線の各駅停車のみ「各駅停車・高速神戸行き」と種別・行先の順に案内している(車内放送でも同様)。ただし、列車到着前の乗車位置案内では各駅停車でも種別を後につける文体になる。
2016年3月のダイヤ改正以降、列車到着時には「黄色い線の内側へお下がりください」とアナウンスされている。それまでは「白線の内側へお下がりください」とアナウンスされていた。
発車時の自動放送は、本線では梅田駅・大石駅・神戸三宮駅・元町駅(大石駅は4番線のみ)、阪神なんば線では桜川駅、武庫川線の起終点駅のみ採用している(阪神なんば線開業前は尼崎駅西大阪線ホームと西九条駅でも使用されていた)。それ以外の駅では発車時に自動鳴動する放送はないが、野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅にはホーム上のスイッチにより鳴動する手動の発車ベル(電子音)及び放送が用意されている。このほか、駅員が使用するワイヤレスマイクにも手動の発車ベルのスイッチが付いているため、駅員がマイクのスイッチを操作して発車ベル(電子音)を鳴らすこともある。優等列車と普通列車の接続が行われる場合、優等列車発車時に必ず普通列車乗務員がホームに降りて放送を鳴動させるためほぼ確実に流れる(野田駅と甲子園駅では停車時間の関係により使用されない場合がある)。また、ドーム前駅・九条駅・西九条駅でも発車ベル及び放送(こちらは乗務員や駅員が操作するものではない。ベルの音色とアナウンスの内容や声質は同じ)が用意されており、必要な場合に使用される。
2017年2月から、車内放送と同様に、駅の発車標や時刻表でも省略して案内していた駅名は全て正式駅名で表記するようになり、また自動放送についても全て正式駅名でアナウンスするよう改められた。
駅での警告放送(台風接近時の運行取り止め予告)やイベント案内放送(甲子園球場での高校野球開催中など)、啓発放送については、HOYAのVoiceTextを採用して以降は人工音声によるものも放送されている。
かつては、旧国鉄に準じた「丁字矢印」形式の駅名標であったが、平仮名は使用されず漢字のみが記載されているものであった。その後同じく「丁字矢印」形式であっても、上部よりローマ字の大文字、平仮名で駅名が書かれ、前後の駅は平仮名のみが記載されたものが使用された。
1970年代に入ると、京阪電気鉄道や南海電気鉄道にも見られたタイプの駅名標に代わり、当初は白地に黒色、のちに白地に青色で駅名、前後の駅は青色地に白文字で記載されている物が長らく設置されていたが、2009年1月下旬より全線で青がベースで白文字の新しい駅名標に統一されている(阪神なんば線の西九条駅から福駅までのホーム延長部分の駅名標は最初から設置、尼崎駅西大阪線ホームにあった旧駅名標も阪神なんば線開通日に新しい駅名標に交換された)。
これと同時に駅の案内サインもほぼ全面的に刷新され、ユニバーサルデザイン(ピクトグラムも使われている)に基づいた表示に更新されている。この駅名標は2010年10月1日より神戸高速鉄道東西線花隈駅を除く各駅にも導入された。なお、花隈駅には阪急タイプの駅名標が導入されている。
共同使用駅である大阪難波駅と西代駅は、それぞれ駅を管轄する近畿日本鉄道、山陽電気鉄道仕様の駅名標となる。
2014年3月には、翌月4月1日より導入する駅ナンバリングに対応した駅名標(駅名横に駅番号を追加したもの)への取り換えが行われ、デザインも若干変更された。
2022年以降は光熱費節約のため、駅名標のほか駅の案内サインなどで、蛍光灯などバックライトがない(光らない)ボードタイプのものへの交換が進んでいる。
「縦書きタイプ」の駅名標(ホームの上屋柱などに取り付けるタイプのもの)を設置している駅は1つもなかったが、阪神なんば線の2009年に開業した駅(九条駅、ドーム前駅、桜川駅)およびリニューアル後の神戸三宮駅に設置されたほか、神戸高速線内にも古い縦書き駅名標が存在する。
駅名標・車内案内表示器の英字表記は阪急や京阪と同様一文字目が大文字で、以降が小文字となっている(例:神戸三宮は「Kobe-Sannomiya」、画像も参照)。一方で、車体正面・側面の種別・行先表示器や駅構内の発車標での種別・行先表示では、未だに全て大文字のみとなっている(例:特急は「LTD.EXP.」、神戸三宮は「KOBE-SANNOMIYA」)。なお、2017年2月より、行先や停車駅の表記は、「姫路」が「山陽姫路」、「奈良」が「近鉄奈良」、というように省略はせず正式駅名での表記に改められている(英語表記も同様)。
駅の発車標は、かつてはソラリー式が主に使われたが、1990年代から3色LED式(野田駅・西宮駅・元町駅は液晶式)が主流となり、阪神なんば線延伸開直前の2008年からはフルカラーLED式の設置または更新が行われている。また、字幕式が尼崎駅で阪神なんば線延伸開業前まで使われたほか、ソラリー式は最後に残った甲子園駅で2012年まで使われた。また、野田駅・甲子園駅・西宮駅・御影駅・神戸三宮駅(大阪方面行き)の各島式ホームでは、従来の左右のりば独立したものに代えて直近4列車を一括で表示する大型のものが設置されている。大阪梅田駅では、2021年から供用開始した新しい1番線ホームにて、阪神の駅では神戸高速線以外で初となる液晶ディスプレイ(LCD)式発車標が取り付けられた。
他にも、主要駅の駅改札口には直近2〜4列車が表示されるフルカラーLEDディスプレイ(大阪梅田駅はLCDディスプレイ)が設置されているほか、現在は全ての駅の改札口に上下線とも直近2列車が表示される(運転見合わせなどアクシデント発生時はその状況も表示される)LCDモニターが設置されている(基本は天井据え付けの大型だが、久寿川駅など大型モニターの設置が難しい駅の改札口には据え置きのタッチパネル式小型モニターが設置されている)。
2014年4月1日より、阪神全駅で駅ナンバリングを導入した。最初に発表した時点では近畿日本鉄道と協議中であったため『近畿日本鉄道管理の大阪難波駅を除く』としていたが、最終的には大阪難波駅も同日より導入することになった。路線記号は「HanShin」から「HS」となる。導入に先駆けて同年2月頃より一部車両の車内案内表示で駅ナンバリングが表示されており、3月に入り駅名標や車内の路線図が新しいものに交換された。
数字は阪神本線・神戸高速線が00 - 30番台、阪神なんば線が40番台、武庫川線が50番台となり、大物駅、尼崎駅、武庫川駅は本線の駅ナンバリングが付与され、西代駅では山陽の駅番号であるSY 01、大阪難波駅では近鉄の駅番号であるA01も付与される。
駅名標への駅ナンバリングの記載については、大阪難波駅(近鉄仕様)は阪神・近鉄両方が、西代駅(山陽仕様)は阪神・山陽両方が記載されている。
列車の先頭車両に掲げられていた種別や行き先を示す方向板は、以下の通り。
新造時からの方向幕の設置は、特定の種別に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、1977年にデビューした3801・3901形からである。京阪の正面方向幕初採用も同じ1977年であり、これは関西の大手私鉄では、もっとも遅い採用であった。比較的製造年度の若い車両も、同じ位置に同じ方向幕が比較的容易に後付けできた為(関西の大手私鉄では、阪急以外の4社がこのケースである)、設置が行われていった。ただし青胴車は当時の新製車もまだ方向板のままで、方向幕設置は1988年からという遅さだった。
2013年3月までに阪神の各駅と神戸高速線各駅に公衆無線LANが設置された。利用できるのはauのau Wi-Fi SPOTとワイヤ・アンド・ワイヤレスのWi2 300(au Wi-FiとWi2 300とともにSSIDは「Wi2premium_club」のみ)、SoftBankのソフトバンクWi-Fiスポット (SSID:0001 softbank)、NTTドコモのdocomo Wi-Fi (SSID:docomo) となっている。なおSSIDとしてこれら3つのほかHS_wifiが検出されるが、HS_wifiの用途は不明で、セキュリティが掛かっているため利用はできない。これらは阪神の駅だけではなく、阪神甲子園球場にも設置されている。また阪神の駅や施設だけではなく、阪急阪神グループの駅や、商業施設にも拡大する予定となっている。2013年2月28日からはauとソフトバンクに加え、NTTドコモのdocomo Wi-Fiも利用できるようになった。アイテック阪急阪神が運営に当たっており、阪神のほか、阪急、北大阪急行電鉄、能勢電鉄(SoftBankとドコモは除外)の各路線でも展開されている。
1996年から社内の鉄道ファンによる公認サイト「まにあっく阪神」が開設されていたが、2010年3月末をもって閉鎖された。毎年4月1日(エイプリルフール)にはジョークサイト「はにわっく坂神」が登場していた。
レジャー事業は古くから行われており、初期のものでは、本線が営業開始した1905年(明治38年)に開設された打出海水浴場や、1907年(明治40年)開設の香櫨園浜海水浴場(打出海水浴場から移設)や香櫨園遊園地などがあった。全国中等学校優勝野球大会(現在の「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」)も誘致し、会場となった鳴尾球場(現在のタイガース二軍本拠地の阪神鳴尾浜球場とは異なる)や阪神甲子園球場を相次いで建設した。
その後、阪神甲子園球場では選抜中等学校野球大会(現在の「選抜高等学校野球大会」、いわゆる「春のセンバツ」)も開催されるようになり、昭和になると阪神甲子園球場を本拠地とする職業野球球団である阪神タイガースを創立した。他にも、明治末期から昭和初期にかけて鳴尾で苺狩りイベントを実施したり、甲子園地区や六甲山地区の開発にも携わり阪神間モダニズムの一翼を担った。
プロバスケットボールB.LEAGUEに所属する神戸ストークスのゴールドパートナーにも就いている。
現在でも直営の施設を持っているが、大部分の施設の運営は子会社の六甲山観光株式会社に委託されており、子会社が所有している施設もある。
なお、阪急と経営統合した際には阪神タイガースの実質的な支配が阪神側に残るか、阪急側に移るかを巡って激しい議論となり、最終的に阪急阪神HDは加盟手数料1億円を支払い、経営支配を阪神電鉄に残し、阪急阪神ホールディングスと阪急電鉄は一切経営に関与しないことを確約して、日本野球機構(NPB)との間で妥協した。
かつては阪神電鉄バスとして直営で運行しており、大手私鉄直系のバス事業者の中で最後までバス事業の分社化を全く行っていなかったが、採算の悪化により2005年12月14日に子会社として阪神バス株式会社を設立し、翌2006年6月から阪神西宮発着の一般バス路線および三宮 - HAT神戸の路線が同社に移管され、2009年4月1日に簡易会社分割方式により、残りのバス路線もすべて阪神バスへ譲渡された。これにより、関西の大手私鉄各社は全ての会社がバス事業について子会社による運営に切り替わった。
阪神電気鉄道は、長年航空事業部門として阪神航空のブランドで旅行事業を展開していた。ホームページ等では航空事業と記載されていたが、運営していたのは旅行事業である。以前は同ブランドで航空貨物代理店(フォワーダー)も営んでいたが、こちらは1999年に「阪神エアカーゴ」として分社している。
1948年(昭和23年)から営業を開始しており、国土交通大臣登録第1種旅行業で登録番号は第33号と古い歴史を持っていた。また、関西大手私鉄の鉄道系旅行業者では唯一の直営での運営であった。店舗は大都市圏(首都圏・関西・名古屋地区)のみのため小規模ではあったが、「(阪神航空)フレンドツアー」と題したヨーロッパ旅行ツアーを中心に展開した。
のちに阪急阪神ホールディングスの一員となったため、阪神エアカーゴも含めた旅行事業については阪急系の阪急交通社と重複することから、阪急交通社、阪急エクスプレス、阪神エアカーゴとの4社を中心に阪急阪神交通社ホールディングスを傘下とする企業グループに再編した上で旅行事業は独立し、2008年4月1日に阪神航空株式会社へと移管した。阪神航空は後に社名変更し、現在は株式会社阪急阪神ビジネストラベルとなっている。
阪神電鉄は、創業から10年後の1909年から不動産事業の展開を始め、2018年3月31日まで事業を継続した。阪神電鉄ではかつて不動産事業本部を擁しており、宅地・住宅の開発・分譲のほか、不動産鑑定業務、ハービスOSAKAやハービスENTなどの西梅田再開発事業、エビスタ西宮やウイステなどの商業施設の開発・運営を行っていた。
宅地・住宅の開発・分譲については、阪神沿線を中心に沿線開発等を手掛けてきたが、特に2010年代に入ってからは首都圏にも進出するなど阪神沿線以外でも幅広く手掛けた。ただ、分譲住宅事業に関しては晩年は建売戸建(「ハピアガーデン」ブランド)のみとし、マンションは2008年の「ジオ甲子園口一丁目」を最後に撤退した。特に阪急東宝グループとの経営統合後は、分譲住宅事業のうち建売戸建は阪神電気鉄道が、マンションは阪急不動産(当時)が、それぞれ専ら手掛けることで競合しないようグループ内で棲み分けを図った。
不動産事業については、事業再編により阪急阪神ホールディングスが子会社化した阪急不動産に移管することとなり、不動産事業本部は独立し2018年4月1日より阪急不動産と経営統合して阪急阪神不動産株式会社(の一部)となった。
不動産事業本部が手掛けた主な分譲物件は、以下のとおり。
阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「阪急阪神東宝グループ」を参照。
なお、「阪神」という語は大阪市と神戸市、および両市の間の地域を表すため、社名に「阪神」が入っていても阪神電気鉄道や阪神百貨店とは無関係な企業が多数存在する。
1995年までは朝日放送 (ABC) のテレビとラジオで提供番組を持ち、CMが放送されていたが、阪神・淡路大震災発生後は自粛に入りその後は阪神パーク甲子園住宅遊園のCMが放送された時期があったが、1998年頃の直通特急運行開始の時期、2009年の阪神なんば線開通の時期にそれぞれCMが放送されていた。その後はラジオCMのみとなっていたが、2014年に入り、「阪神沿線物語」でテレビCMが2009年の阪神なんば線開通の時期以来5年ぶりに放送されることとなった。このCMではHD制作となったが、2009年以前のCMは全てSD制作となっていた。2014年のテレビCMの主な出演者は女優の佐藤江梨子とお笑い芸人のハマカーン。ラジオについてはグループ会社のエフエムキタではスポット枠や提供枠を持っており、朝日放送ラジオでは2023年現在はスポット枠や後述の提供番組で放送されている。2011年から2013年まで放送されていたCMは列車到着メロディを使用したCMが放送されていた。
1987年に「ぼくの街の阪神電車」のCMが放送され、CMソングは憂歌団が歌っていた。2017年には同CMを30年の時を越えてリメイクした「ぼくの街の阪神電車2017」が放映される。1987年版と2017年版では構図・CMソングは全く同じであり、阪神タイガースの帽子、阪神百貨店の紙袋が2017年現在のものに変更され、撮影車両も8000系から1000系に変わった。
このほか、桧山進次郎がワンシーンのみ出演していたこともある。 | [
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"text": "阪神電気鉄道株式会社(はんしんでんきてつどう、英: Hanshin Electric Railway Co., Ltd.)は、大阪と神戸を結ぶ鉄道を運営している会社。通称は「阪神電鉄」「阪神電鉄KK」または「阪神電車」、略称は「阪神」、キャッチコピーは「“たいせつ”がギュッと。 阪神電車」。阪急阪神ホールディングスの完全子会社であり、阪急阪神東宝グループの企業である。日本の大手私鉄の一つである。",
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"text": "本社所在地は大阪府大阪市福島区海老江一丁目1番24号。他に東京事務所が東京都千代田区有楽町一丁目5番2号 東宝ツインタワービル5階にある。",
"title": "会社概要"
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"text": "大阪 - 神戸間という大都市同士を結び、都市間電気鉄道(インターアーバン)としては日本で最も古く、1905年に営業を開始している。2021年3月時点の鉄道事業の営業キロは48.9 kmである。",
"title": "会社概要"
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"text": "また、プロ野球球団「阪神タイガース」の親会社であり、阪神タイガースの本拠地である阪神甲子園球場は阪神本線甲子園駅前にある。",
"title": "会社概要"
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"text": "2006年6月19日に村上ファンドによる買収問題を発端とする株式公開買い付け (TOB) が成立し、阪急電鉄を中核とする阪急ホールディングスの連結子会社 (64.76%) となった。同年10月1日には阪神電気鉄道株1株につき阪急ホールディングス株1.4株を割り当てる株式交換を実施し、阪急阪神ホールディングス(阪急ホールディングスから商号変更)の完全子会社となった。詳しくは「阪急・阪神経営統合」を参照のこと。",
"title": "会社概要"
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"text": "1896年(明治29年)、田中市兵衛、外山脩造、川上左七郎、前川槇造、大阪発起人総代により広瀬宰平、藤田伝三郎、豊田文三郎、岡橋治助らを加え発起人会が発足する。1899年(明治32年)6月に、社名を摂津電気鉄道株式会社として社長に外山脩造を迎えて設立。同年7月に阪神電気鉄道株式会社に改称した。",
"title": "歴史"
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"text": "阪神は大阪 - 神戸間の並行線開業に反対する鉄道作業局が所管する私設鉄道法ではなく、内務省と鉄道作業局が共同で所管していた軌道条例に依拠し、さらに当時の内務省幹部であった古市公威から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道にするという、法の抜け穴を突いた奇策によって1905年(明治38年)4月に神戸(三宮駅) - 大阪(出入橋駅)間の本線を開業した。従来の路面電車に比べ、軌道・車両ともに高規格の設備は、当時の阪神電鉄技師長であり建設時にもアメリカ視察を行った三崎省三の意向を反映したもので、建設ブームの真っ只中にあったアメリカのインターアーバンに範を採ったものであった。",
"title": "歴史"
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"text": "本線と阪神なんば線が阪神の主要路線である。本線は大阪・キタの大阪梅田駅から神戸随一の繁華街・ターミナル駅の神戸三宮駅を経由して元町駅に至る。東海道本線(JR神戸線)及び阪急神戸本線と競合関係にあるが、線路の曲線や駅数が多いため、両者より所要時間の面では不利である。また元町駅から西側は神戸高速線を経由して山陽電気鉄道本線の山陽姫路駅まで直通運転を行っている。阪神なんば線は大阪・ミナミの大阪難波駅から尼崎駅を結ぶ路線であり、大阪難波駅からは近鉄難波線・奈良線に直通して近鉄奈良駅まで至る。2009年の阪神なんば線の開業により、神戸・三宮 - 大阪・難波 - 奈良を結ぶ広大な私鉄ネットワークが完成した。また、山陽電気鉄道に加え近鉄とも直通乗車、阪急に加え、南海とも直接乗り換え可能になり、関西の大手私鉄5社のうち京阪を除く4社の路線とJRや地下鉄を介さずに直接乗り換えることが可能になった。関西の大手私鉄では唯一、大阪の2大繁華街であるキタ・ミナミの双方に自社路線で乗り入れている。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "明治時代、開業にあたって官鉄線(現在の東海道本線。愛称はJR神戸線)との競合を危惧する鉄道作業局側の反対から私設鉄道法での許可が得られず、この問題を回避するため、当時まだ内務省単独所管だった軌道条例準拠による軌道敷設申請を行った。これは軌道が道路交通の補助であったことに加え、当時の内務省幹部で、土木工学の大家として都市交通について造詣の深かった古市公威から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得たことで実現した。これらの経緯からと集客を目的として西国街道沿いの集落を結ぶルートを選択した名残で各駅間が平均1kmと短く、駅の数が多い。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "京都電気鉄道、名古屋電気鉄道、大師電気鉄道、小田原電気鉄道、豊州電気鉄道、江之島電気鉄道、宮川電気、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道、大阪市営電気鉄道、横浜電気鉄道、土佐電気鉄道に続く日本で14番目の電鉄運営事業者であり、開業当初の線区が現在も存続するものとしては日本で4番目に古い(いずれも日本の普通鉄道では初めての電車運転(1904年)である甲武鉄道を除く)。大阪と神戸という大都市を結んで、日本における都市間電気鉄道(インターアーバン)の先駆けにもなった鉄道でもある。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "電気を表徴する稲妻でレール断面を菱形に囲んだだけの、開業以来変わらぬシンプルな社紋に、その歴史が現れている(大手私鉄で円形をモチーフにした社紋を採用したことがないのは阪神のみである)。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "1920年にメインの路線である本線に並行して、阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)が神戸本線を開業させると、乗客獲得競争を繰り広げるようになった。それは、車内でハンカチを乗客に無料配布するといった身近なものから、他社の営業活動をお互いに妨害するという過激な事態にも及んだ(詳しくは「阪神急行電鉄」を参照)。阪神はこの頃から、大阪 - 神戸間の多頻度運転を進めることになり、「待たずに乗れる阪神電車」と言うキャッチフレーズがよく知られるようになった。2006年の経営統合後の阪急は兄弟会社であり、共存共栄・棲み分けがはかられている。2014年7月には尼崎工場で阪急の車両を能勢電鉄仕様に改造するため、阪神の線路上を阪急の車両が走っている。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "1969年より1975年にかけての国道線およびその支線区2線の廃止開始直前の総営業キロは75.1km(うち国道線系34.1km、本線系41.0km)であった。 1975年に国道線など軌道線区間を全廃した時には総営業キロが41.0km(これには当時休止中であった武庫川線の武庫大橋駅 - 武庫川駅間の1.5kmを含む)まで減少し、1984年の武庫川線0.6kmの延伸で41.6kmとなった後、翌1985年の武庫川線休止区間の廃止で40.1kmになった。これに第二種鉄道事業区間の神戸高速線および阪神なんば線延伸区間を含めても48.9kmで、1990年に相模鉄道が大手私鉄へ昇格するまでは、大手私鉄の中で営業距離が最も短かった。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "保有路線は殆ど平野部または臨海部に所在することから、3か所あるトンネルはすべて地下トンネルであるため、関西の大手私鉄5社で唯一山岳トンネルを保有しないのが特徴である。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "1951年4月1日に武庫郡鳴尾村が西宮市と合併したことにより、関西の大手私鉄では最も早く路線と駅の所在地が全て市となった。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "自社線には新幹線乗換駅がない。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "駅ナンバリングの路線記号はすべて (HS)",
"title": "鉄道事業"
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"text": "神戸高速鉄道乗り入れ開始時の経緯から、阪神の在籍車では5000番台(5001形など)が直通する山陽5000系列と一部重複する車両番号となっている。また2009年3月20日からは西大阪線延伸に伴う近鉄との相互乗り入れ開始に伴い、同社奈良線在籍の近鉄5800系と5820系も直通運用に充当され、3社の5000番台形式車が阪神電鉄線上を走ることになった。また近鉄1252系や9820系なども乗り入れるようになったため、1000/9000番台形式も重複する。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "2020年までは阪急電鉄の5000系が神戸本線で運用されていたため、神戸高速鉄道には、直通運転に参加している4社全ての鉄道会社の5000系が乗り入れていた。なお阪神の車両が廃車される2003年までは3000系、さらに遡ると2000系も、4社の車両全てが神戸高速鉄道に乗り入れていた。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "京阪電気鉄道の開業時には大阪市電を経由して、阪神が京阪天満橋駅まで、京阪が阪神梅田駅(現在の大阪梅田駅)まで直通する構想があり、阪神1形電車と京阪1形は寸法・性能ともほぼ同一で設計されていた。だが後に比較的大型の路面電車を走らせることになる大阪市電は、まだ小型車のみで運行しており、「乗り入れるなら市電と同じサイズで」と要望があったため、折り合いがつかずに頓挫した。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "元町駅は2010年10月1日より阪神と神戸高速鉄道の共同使用駅から阪神の単独駅となった。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "かつては子会社に武庫川車両工業を有していた関係で、現有車両は武庫川車両工業製が半数以上を占めている。例外的に9000系全車と5500系の一部が川崎重工業製であるほか、武庫川車両工業が解散してからは5550系のみアルナ車両製(車体のみ)で、それ以降の1000系・5700系は全て近畿車輛製である。なお、1960年代頃までは汽車製造製や日本車輌製造製の車両も在籍していた。",
"title": "鉄道事業"
},
{
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"text": "2016年に5700系が鉄道友の会のブルーリボン賞に選定され、阪神の車両として初の鉄道友の会BL賞(ブルーリボン賞・ローレル賞)を受賞した。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "2015年3月以降、全車両の先頭車運転席側に「たいせつが、ギュッと」マークを取り付けている。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "関西の私鉄では車両を長期間使用することが多いが、阪神では車両冷房化をいち早く進めたことから、その対象から外された初期の大型車は登場から20年ほどで廃車になる車両も見られた。平成期以降は他社と同様に更新工事を行い、長期間使用する方針に改めている。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "大手私鉄では2021年現在唯一、JRグループや他社で見られる復刻塗装を実施した例がない。また、路線距離が短いことや通勤需要に特化した路線のため、在阪大手私鉄では京阪電気鉄道とともに観光列車を保有したことが無い。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "2014年から1000系を皮切りに順次、前照灯のLEDへの換装を進めており、2021年の5001形の廃車をもって関西大手私鉄では京阪電気鉄道に次いで、営業車両全編成の前照灯のLED化が完了した。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "車両は1960年代以降、高速走行性能に優れる急行・特急など優等列車用車両と、高加減速性能重視の普通列車専用車両に二分される。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "阪神の路線はJR神戸線や阪急神戸線といった競合路線と比べても駅間距離が短く、普通用の車両は所要時間の短縮や、優等列車ダイヤの遅延防止を目的として、特に高加速・高減速性能(加速度・減速度ともに最大 4.0 - 4.5 km/h/s。地下鉄車両の場合は加速度が最大 3.3 km/h/s 程度)が求められており、一方、急行用の車両は高速性能が求められるため、他の大手私鉄の一般的な通勤電車と同様の性能(加速度が2.6 - 3.0 km/h/s)となっている。急行系が長らく採用されて来た朱色とクリームの車体塗装から「赤胴車」(ステンレス車体の1000系・9000系も含む)、普通系は同じように青とクリーム(5500系と5550系は色を変更)の車体塗装から「青胴車」もしくはその高加速・高減速性能ゆえに初期車両に付いた愛称から「ジェットカー」(ステンレス車体の5700系は「ジェット・シルバー5700」)と呼ばれている。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "各形式の解説中、営業最高速度が急行用車両 106 km/h 、普通用車両 91 km/h となっているのは、運転曲線がATSの検知誤差を考慮して認可最高速度よりも4 km/h減で引かれていることによる。",
"title": "鉄道事業"
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"paragraph_id": 30,
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"text": "旧性能車時代は車体長さ・幅とも小さめの車両が使われており、当時の車両を現在では「小型車」と呼ぶ。正面の尾灯が左右段違いに付いており、貫通扉が二枚折りのガラス戸であるなど、特徴あるデザインだった。新性能車の導入にあわせて寸法は大型化され、現在の車両はいずれも近隣の京阪、阪急、山陽に類似した全長19m級の3扉車(同じグループである阪急については京都線用の車両とほぼ同じ寸法)で、先頭車前面には貫通路が設けられている。",
"title": "鉄道事業"
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"tag": "p",
"text": "地方鉄道法による免許の交付を受けるまでに製造された鉄道線の車両(軌道法による特許の時代、つまり新設軌道線時代に新造された車両)は車体側面の窓の下部に保護棒が取り付けられていたが、それらの車両は2020年6月をもって全車が引退した。",
"title": "鉄道事業"
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"paragraph_id": 32,
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"text": "1980年代までは時間帯や種別によって編成両数を変えていたこともあり、7001・7101形(のち2000系へ改造)以前の大型車は正面の貫通扉がセットバックしており(7801・7901形など例外もある)、このセットバックした部分に貫通幌が格納されていた。8000系以降の形式は固定編成となったため貫通幌を設置する必要がなくなったことから、正面はいずれも凹みがなくフラットな形状となり、非常用に特化された。ただ、近鉄との相互乗り入れ開始により快速急行においては増解結作業が発生することとなったため、1000系のうち増結用2両編成では神戸方に貫通幌が剥き出しの状態で取り付けられている(併せて、乗務員室のうち運転台・車掌部分と通路とを仕切る扉が復活した)。",
"title": "鉄道事業"
},
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"paragraph_id": 33,
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"text": "ステンレス車体の採用についてはこれまで4回の時期に隔てられており、初回が5201形(2両のみの試作的製造)、2回目が9000系(阪神大震災による被災車両の代替車両の急造に迫られた結果、当時は川崎重工業のステンレス車用の製造ベースが唯一空いていたため)、3回目が1000系、4回目が5700系となっている。なお、1000系と5700系との間に登場した5550系は普通鋼車体で新造されている。一方、開業から現在に至るまで、アルミニウム合金製の車両を導入したことは一度もない。",
"title": "鉄道事業"
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "9000系までの両開き扉を持つ車両は、扉の開口幅は他社より広く1400mmを標準としていた。9300系以降は他社並みの1300mmとなっている。",
"title": "鉄道事業"
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"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "車体デザインは全般的にオーソドックスな前面貫通型・3扉であるのに対し、早期における軽量高性能車・高減加速車の開発、電機子チョッパ制御の実用化、冷房化の推進など技術面の功績から、永らく「技術の阪神」として評価が高い。ただし、VVVFインバータ制御の初導入は1995年の5500系であり、大手私鉄では最も遅かった。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "電動機・パンタグラフは、東芝(東芝インフラシステムズ)製の電動機を採用の5700系を除き東洋電機製造(以前は制御器も納入していた)製であり、制御器のメーカーは東芝と三菱電機が現在の所有全車両において約半数ずつの採用となっている。他社からの直通運転可能な車両の一部で採用している日立製作所や富士電機の製品は納入していない。制御器に関しては、直流整流子電動機の時代において電機子チョッパ制御、界磁チョッパ制御、界磁添加励磁制御という省エネルギー効果のある制御方式を採用している。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "保有車両数が少ないことが有利に働き、戦前から車内放送装置を全車両に設置していた。1950年代後半から新性能車が各社に登場したが、他の鉄道事業者では1980年代にもまだ大都市近郊で旧性能車が活躍していたのに対し、阪神では(鉄道線の旅客用車両に限定すれば)1966年という非常に早い時期に旧性能車が淘汰された。但し、全車両ベースにおける旅客営業用の吊り掛け駆動車両の完全廃止は国道線廃止の1975年である。",
"title": "鉄道事業"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "多くの鉄道事業者では新性能車導入と同時に、車体は新性能車に準じた構造ながら走行機器を旧性能車から流用した旧性能機器流用車も製造したが、阪神では7801・7901形の中間車の一部に旧性能車の台車を流用したのみで、大手私鉄では東急電鉄とともに旧性能機器流用車の製造実績がない。",
"title": "鉄道事業"
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"paragraph_id": 39,
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"text": "連結器にアメリカ合衆国のヴァン・ドーン(Van Dorn)社のバンドン式密着連結器を長く採用し続けたのは阪神のみであった。また日本国内の鉄道車両の平均的な連結器取り付け位置よりも235mm低い、645mmの位置に連結器が取り付けられていたのも特徴である。2006年から5001形5013号車を皮切りに、近畿日本鉄道の車両と共通の回り子式密着連結器への換装が開始され、換装後の連結面高さは840mm(近鉄車では880mm)となっている。そのままで取り付けを行うと車体裾と干渉する恐れがあるため切り欠きをしているが、8000系についてはこの切り欠き加工を当初は実施していなかった。これは他の形式・系列と比べて車体裾高さが少し高いためだが、後の検査時に切り欠き加工を実施した8000系が一部で存在している。なお、山陽車は連結器の高さこそほぼ同じではあるが、阪神車・近鉄車と同じ回り子式密着連結器を採用している6000系を除き密着自動連結器を採用しているため、阪神・山陽各線での救援の際などの非常時に6000系を除く山陽車が阪神車または自社の6000系(および阪神電鉄線内での近鉄車)と連結する場合は中間連結器(アダプター)を使用する。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "電気指令式ブレーキ搭載車のうち、VVVFインバータ制御の車両では、ブレーキハンドルの形状がジェットカーと赤胴車で異なっている。ジェットカーは縦軸式なのに対して、赤胴車は山陽車・近鉄車のシリーズ21に合わせて前後操作式となっている(その他の近鉄車はジェットカーと同じく縦軸式)。9000系も登場当初は縦軸式であったが、近鉄乗り入れ対応改造工事を機に前後操作型に交換した。",
"title": "鉄道事業"
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"text": "1970年代末には赤胴車が全車冷房化され、遅れていた青胴車も1983年には全車冷房化と、驚異的な早さで他社に先駆けて冷房化率100%を達成した。冷房装置は主に国鉄AU13型に準じた分散式を採用していたが、8000系の途中からは集約分散式へと変化している。冷房装置は三菱電機製のものが使用されており、現在では5001形(2代)などで使用されているAU13型類似の冷房装置の型番は「MAU13」である。",
"title": "鉄道事業"
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{
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"text": "接客設備は1954年に登場した初の大型車3011形・初代5001形でクロスシートを採用した例があったが、その後はラッシュ時の混雑緩和や他車との併結を優先することもあり、ロングシート車の採用が続いた。2001年に登場した9300系ではセミクロスシートを中間車4両の扉間座席に採用し、以降8000系のリニューアル車の一部にも同様のレイアウトが導入されている。",
"title": "鉄道事業"
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{
"paragraph_id": 43,
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"text": "普通列車については、1968年までは早朝・深夜の途中駅止まりを除き、方向板(後節も参照)自体を取り付けず全くの無表示であったが、同年4月7日の神戸高速鉄道開業によるダイヤ改正より「梅田 - 元町」などの方向板を前面に掲出するようになった。当初は発駅・着駅が書かれた方向板を使用していたが、神戸高速線に普通列車を直通させるようになった1987年12月13日改正以降は、取り換え作業を簡素化するため駅名部分が差し込み式となった方向板を使用した。ただし現在はすべての車両が方向幕もしくはLED表示となっており、方向板のみを使用する車両は全廃されている。",
"title": "鉄道事業"
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{
"paragraph_id": 44,
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"text": "列車種類選別装置は一貫して東芝製が使われており、車上子は先頭車の左側面の先端に付けられている。この車上子の銘板には最新型の車両でも、東京芝浦電気時代から使用しているロゴマークの1つである「傘マーク」が使われている。列車種類選別装置は自動列車停止装置 (ATS) や列車無線と違って、神戸高速線に直通する各社の共通規格ではなく、乗り入れしている山陽電気鉄道や近鉄の車両にも取り付けられている。運転台にある設定機器については、当初は種別ごとに定められた記号に合わせるチャンネル式であったが、現在は種別ごとに設けられたタッチパネルまたは照光押しボタン式である(山陽電鉄や近鉄の阪神乗り入れ対応車両も同様)。列車種類選別装置により、踏切の作動時間の最適化を図っている。",
"title": "鉄道事業"
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{
"paragraph_id": 45,
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"text": "列車無線は1952年に国際電気製の誘導無線が導入された。1977年には現在の空間波無線が導入されている。",
"title": "鉄道事業"
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"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "急行系車両は、かつては有効長が5両編成までの駅・ホームに停車する際にドアカットを実施していたため、乗務員室にドアカットスイッチが標準装備されている。また、かつては神戸三宮駅3番線降車ホームなどのほか、山陽電鉄本線内でも大塩駅などで長らくドアカットを実施していたことから、近鉄や山陽電鉄のうち阪神乗り入れ対応車両にも同様にドアカットスイッチが標準装備されている。なお、乗り入れ先も含めてドアカットは全て解消されたことから、神戸寄り先頭車両のドアにのみ貼付していた「上り大塩駅ではこの扉は開きません」のステッカーは剥され、またドアカットスイッチについても常時使用する機会はなくなったが、撤去はなされておらず残置されている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "かつては他の多くの鉄道会社と同様に、車両に「系列」の概念が存在しなかった。1980年代前半までは必要に応じ、複数グループの形式を自由に併結して編成を組む形を取っており、他社のような系列の考えが必要なかったため、7801形などの形式で呼称していたのである。つまり小田急電鉄や京成電鉄、西日本鉄道など現在でも「形」を使用している会社と同様、公式には「系」ではなく「形」を使用していた。3000系以降は1986年改造の8701・8801・8901形と7890・7990形を除き、同一グループの形式だけで編成を組むようになったため、「系」で呼ぶようになっている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "車体外側の車両番号表記には独特の縦長ゴシック体が用いられている。同じ書体はかつての子会社であり、阪神の車両の大半を製造していた武庫川車両が製造を担当した、京福電車のモボ600番台や2000番台とえちぜん鉄道の車体にも用いられている。なお、車番は妻面にも書かれており、この事例は他の大手私鉄では京成のみである。 また、車両番号は四桁数字のみで、「モハ(デハ)」「クハ」「サハ」といった文字は一切使われていない。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "大阪梅田駅と神戸三宮駅では可動式ホーム柵が設けられたため、車体側面下部に書かれている車両番号がホーム柵と干渉し確認しにくくなったことから、2022年に入ってから各編成ともに車体側面上部(側面下部とは対角線となる反対側)にも車両番号が描かれたステッカー(5001形のみ青色、それ以外は白色)が貼付されている(これは阪急電鉄が先行して実施)。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "現用車は通常、急行用車両と普通用車両を基本に分類するが、本項では便宜上、以下の4種類を基本に分類することとする。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "以下掲載している全車両において、製造初年度が新しい車両は上、古い車両は下に配置している。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "本線においては4両または6両の固定編成で運用されており、系列把握は他社並に容易である。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線開業前は最長編成両数が6両で、大手私鉄で唯一7両編成以上の列車が存在したことがなかったが、阪神なんば線開業以後は、9000系と1000系に限り尼崎駅で増結用車両を増結し、一部の列車で自社および近鉄の車両による8両編成ないし10両編成の運行を開始した。2020年3月より、本線でも土曜・休日の快速急行で8両編成の運行を開始した。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2015年度からは、量産型の普通用車両としては初のステンレス製となる5700系「ジェット・シルバー5700」が順次投入されており、旧型となった2代目5001形、および5131形、5331形を置き換えている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この世代は近畿日本鉄道や神戸電鉄と同様、多種の形式が存在しており、大手私鉄の新性能車としては複雑な部類に入るとされている(阪神は大手私鉄としては路線規模が小さいが、路線の長さと車種の多さは比例しない)。主な理由は以下の通り。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "そこで前期大型車については下記の表を使用し、製造年や改造年により、同世代の急行用車両と普通用車両などの把握を容易にしているので、参照されたい。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "全車除籍済。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "全車除籍済。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "路線廃止により全車廃車。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2012年までは、関西の大手私鉄で唯一、車両基地を一般に公開するイベントを開催したことがなかった(他社では鉄道の日イベントは車両基地で行われるが、「はんしんまつり」は西宮駅のエビスタ西宮で開催されていた。2013年より尼崎工場で開催)。ただし、「わくわくトレイン」や「石屋川エクスプレス」といった事前応募制の貸切臨時列車を運転して車両基地を公開したことはある。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "大人普通旅客運賃(小児は半額・10円未満切り上げ)。特定運賃区間を除き鉄道駅バリアフリー料金10円を含む。2023年4月1日改定。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "神戸三宮駅 - 元町駅間の普通運賃は上表の「特定」欄の運賃を適用。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "神戸高速線は、阪神が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「神戸高速線#運賃」を参照。本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2023年4月1日より、グループの阪急電鉄と同時に、ホームドアの整備などバリアフリーの推進を目的として、普通運賃・通勤定期運賃に鉄道駅バリアフリー料金制度による料金の上乗せ(普通運賃は10円、通勤定期は1か月で380円)を実施している。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線の西九条駅 - 大阪難波駅間(他の区間と連続して利用する場合も含む)を利用する場合、上表の「加算含む」欄の額が適用される。普通運賃では通常額に90円(初乗り区間は60円)が加算される。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "杭瀬駅 - 大物駅 - 出来島駅を含む経路を乗車する場合は、大物駅を過ぎて尼崎駅で折り返して乗車しても大物駅経由として運賃計算される。これは、大物駅には優等列車が停車しないことからの措置であり、乗り継ぐ前後の両方の列車が大物駅に停車する場合も含めて尼崎駅での乗り換えも可能である。ただし、定期券の場合は「大物駅乗換」か「尼崎駅乗換」かを指定する必要があり、「大物駅乗換」の定期券では尼崎駅で乗り換えることができない。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2022年9月30日をもって、身体・知的障害者用特別割引回数乗車券を除き、他社連絡回数券も含めて全ての回数券の発売を終了した。代わりに、PiTaPaの従来のサービスに加え、ICOCAでの阪神電鉄線内での利用に対してもポイントを還元するサービスを、阪急電鉄・能勢電鉄や山陽電鉄との間でポイントを共通に使える施策として同年9月1日より開始した。また併せて、阪急との間で実施していた後述の回数券引き換えサービスも同様に9月30日をもって終了となった。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "回数券については、晩年は阪急電鉄とともに磁気カードによる「回数カード」に統一しており、紙(磁気券)の仕様は他社線との連絡回数券のみとしていた。なお、2007年4月1日より、阪急電鉄と運賃が同額の区間(2019年10月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、380円、400円)の回数カードについてのみ、阪急電鉄でも利用可能のサービスを実施していた(但し、阪急電鉄で利用する場合は乗車前に阪急電鉄の駅の自動券売機で阪急のきっぷに引き換える必要があった)。また、2018年10月1日より、複数人で乗車する場合などで回数カードを紙の切符に引き換えた場合(阪急電鉄での引き換え含む)は、その切符の有効期限は引き換え当日のみとした。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "通勤定期券を使用する場合、以下に挙げる3つの場合で選択乗車が可能となっている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "近鉄との連絡乗車券は近鉄奈良線系統の一部の駅と大阪線の大阪上本町駅から桜井駅までしか発売できないため(下記参照)、運賃表に記載のない駅へ行く場合はその最寄り駅までの乗車券を購入し、車内か降車する駅で精算することとなる。近鉄と阪神なんば線新区間の各駅への連絡乗車券はタッチパネル方式の新型自動券売機でしか購入できない。花隈駅を除く神戸高速線では近鉄との連絡乗車券は発売されていないので大阪難波駅までの乗車券購入後、車内か降車する駅で精算することとなる。PiTaPaやICOCAなどの全国相互利用対応の交通系IC乗車カードはそのまま目的駅まで利用できる。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "連絡乗車券発売対象区間は以下の通り。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "東鳴尾駅と洲先駅を除く(この2駅には自動券売機がなく、いったんそのまま乗車してから武庫川駅の中間改札に設置されている自動券売機で購入することになる)全ての駅では近鉄(発売範囲は上記参照)に加えて、神戸高速線経由山陽電気鉄道・神戸電鉄各駅への連絡普通券も購入できる。なお、連絡回数券は阪神電鉄線と神戸高速線・山陽電鉄線・神戸電鉄線間で利用できるものしか発売されていない。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "以下の各項目を参照。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "阪神電気鉄道では上記のICカードを含む交通系全国相互利用IC乗車カードが利用できる。また、連絡する西代駅以西の山陽電鉄線や新開地駅以北の神戸電鉄線・大阪難波駅以東の近鉄線でも交通系全国相互利用IC乗車カードが利用できる。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "以下の各項目を参照。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "このうち「高野山1dayチケット」「奈良・斑鳩1dayチケット」は、阪神なんば線開業までは梅田駅(現在の大阪梅田駅)経由大阪市営地下鉄・ニュートラムが利用できたが、開業後この2チケットは阪神なんば線経由で利用するように改められた(前者のチケットは大阪難波駅で徒歩連絡乗り換えができ、後者のチケットは同駅から直接接続することになる)ため、大阪市営地下鉄・ニュートラムの利用はできなくなっている(詳細は「阪神なんば線#大阪難波延伸開業による利便性の向上」を参照のこと)。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "発売駅以外からの利用について、利用当日に限り乗車駅からの普通乗車券を企画乗車券発売駅で提示して購入すると、普通乗車券を回収したうえで購入した企画乗車券と有効区間が重複する部分が払い戻される(公式ホームページの「お得なきっぷ」のページより)。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "2024年6月よりQRコード乗車券のサービスが開始される予定である。また、それに合わせ、2025年3月末までにすべての駅で自動改札機をQRコードに対応する改札機に更新する予定で、2023年12月時点で甲子園駅と尼崎駅のすべての改札機が更新されている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "乗務員室にある放送装置には、乗務員同士で通話が可能なインターホンの機能が付けられており、マイクを通じてのみでの通話が可能である(マイクにはスピーカーも搭載)。現在の装置は、操作盤にある照光式の「車内」「車外」「インターホン」(5700系と5500系のリニューアル編成では、それらに加えて「車内外」「扉個別」もある)のいずれかのボタンを押した上で、マイクにあるボタンを押すことで放送または通話が可能な仕組みとなっている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "長らく、操作盤は「放送」「切」「インターホン」のボタンの仕様のものが使われており、その当時は「放送」ボタンを押すだけでマイクのスイッチが入りそのまま車内放送が可能で、マイクに付いているボタンを押すと車外スピーカーに流れる方式としていた。ただ、これは乗り入れ先の山陽電鉄、近鉄とは方式が異なることから、5700系が登場して以降は既存車両は機器を更新し他社に合わせた現在の方式としている。なお、1980年代までの車両では「放送」「インターホン」それぞれのスイッチのレバーを上下させるものであったが、のちにボタン式のものに取り換えられている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "JR西日本との乗換駅である大阪梅田駅や野田駅、神戸三宮駅では競合関係にあるためか過去はJRへの案内が省略されていたが、阪神なんば線開業の2009年のダイヤ改正より案内を行うようになった。ただし、他社線や阪神バスとの乗り換え案内は、原則として23時以降は行わない。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "大阪梅田駅を車内放送で案内する場合「梅田、大阪梅田、終点です。」と放送する。また昼間時には「大阪梅田」の後に「阪神百貨店前」が追加される。尼崎駅における阪神なんば線から阪神本線への乗り換え案内では、「大阪・神戸方面」と梅田や三宮・元町を省略することも少なくない。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "福島駅を車内放送で案内する場合「福島、ラグザ大阪・ホテル阪神前です。」と放送する。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "尼崎センタープール前駅を車内放送で案内する場合「センタープール前、尼崎センタープール前です。」と放送する。これは尼崎駅との区別を明確にするためである。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "甲子園駅を車内放送で案内する場合、現在は「甲子園、甲子園球場前です。」と放送する。かつては「甲子園、甲子園野球場です。」と車内、甲子園駅構内でアナウンスされていた。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "西宮駅を車内放送で案内する場合、昼間時のみ「西宮、エビスタ西宮前です。」と放送する。ただし十日えびすの期間中は「西宮、西宮戎です。」と案内される。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "神戸三宮駅を車内放送で案内する場合は「三宮、神戸三宮です...(略)」と放送する。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "最終到着駅を案内する場合、梅田駅など終端駅の場合は「●●(駅名)、終点です。」、そうでない場合は「終着、●●です。」と案内する。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線(神戸三宮、新開地始発の奈良行き快速急行を含む)の列車については、行先、種別の前に「西九条、難波方面」を付け加えて放送することが多い。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "全駅でどちらの扉が開くか案内する。また、通過運転を行う区間では、到着放送の結びに到着駅名の再案内を行う(例:「西宮、エビスタ西宮前です。乗り換え案内をします。各駅停車ご利用の方は左側、1番線の電車にお乗り換えください。阪神バスご利用の方はお乗り換えください。西宮を出ますと、次は、甲子園にとまります。出口は左側です。西宮です。」)。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "普通列車ではかつて、駅到着直前の放送は原則として行わず、各駅を出発後に「次は、●●、●●です。出口は●側です。」を1回のみ放送していた時期があったが、2009年3月20日以降は普通列車でも駅到着直前の放送が行われている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "2012年3月20日のダイヤ改正前まであった阪神なんば線内の各駅に停車する奈良行の快速急行(同改正で快速急行の全列車が「尼崎 - 西九条間ノンストップ運転」となった)の尼崎到着時の車内案内は「大阪難波まで各駅に停車」と「鶴橋まで各駅に停車」と両方あり、必ずしも統一はされていなかった。ただし事実上は近鉄奈良線の鶴橋まで各駅に停車するため後者も誤りではない。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "2014年より運転を開始した近鉄22600系電車による貸切列車が御影駅を通過する際は、上りでは石屋川駅手前で、下りでは住吉駅手前で「間もなく、御影駅を通過します。電車が揺れますのでご注意ください。」と放送を行う。また、上りでは乗務員交替となる桜川駅(乗客は下車不可能)で、下りでは乗客の下車する各駅で「阪神電車をご利用頂きありがとうございました」と放送を行う。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "2016年3月19日のダイヤ改正からは、車内での駅到着時の乗り換え案内では「乗り換えのご案内をします。」などと丁寧な表現が用いられている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "2017年2月から、「姫路」は「山陽姫路」、「難波」は「大阪難波」、「日本橋」は「近鉄日本橋」、「奈良」は「近鉄奈良」など、それまで省略して案内していた駅名は全て正式駅名で案内するようになった。但し、車両側の表示器は他社車両も含め従来のままとなっている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "2019年3月20日より、阪神なんば線内と本線の快速急行で多言語自動放送を開始した。これは、乗り入れ先の近鉄が先行して車掌が携帯するタブレット端末を用いて多言語自動放送を行っていることに追随したもので、タブレット端末を車両側のコネクタに接続してタッチパネルを操作し、日本語と英語、一部で中国語・韓国語による多言語自動放送を行うものである。なお、これらは全て音声合成ソフトで作成した人工音声である。まず、先行してコネクタが取り付けられた1000系と9000系、そして阪神電鉄線乗り入れ対応の近鉄車両において開始し、のちに8000系・9300系にもコネクタが取り付けられたため、本線内では快速急行に加えて直通特急・特急・急行でも、2020年3月14日のダイヤ改正以降にタブレット端末のコネクタを取り付けた編成で多言語自動放送を始めている。さらに2021年1月以降は山陽車両にもコネクタを取り付ける改造を行い、山陽電鉄でもタブレット端末を導入したため、大阪梅田駅 - 山陽姫路駅の全区間において自動放送を行っている。原則として早朝と夜間では自動放送は行わないが、早朝・夜間でも車掌の裁量で使用することもある。但し、普通用車両(ジェットカー)にはコネクタが取り付けられていないため、本線・神戸高速線では急行系車両も含めて普通では全て車掌の肉声による案内である。また、阪神なんば線大阪難波駅 - 桜川駅間の運行は近鉄の乗務員が担当しているため、この区間のみ自動放送は近鉄のタブレット端末で近鉄のフォーマットにより放送されている(アナウンスの声は、日本語のみ男性、英語・中国語・韓国語は女性)。他にも、駅到着時の接続列車の案内などは従来通り肉声放送で行われている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "なお、武庫川線の列車は本線・阪神なんば線に先駆けて自動放送(アナウンスは女性の声で日本語のみ)を採用しているが、ワンマン運転のためタブレット端末の操作による手動ではなく、列車の走行に応じて放送を開始する自動制御のものである。武庫川団地前行きでは行先を「団地前行き」と案内し、終点到着時には「次は、団地前、武庫川団地前。終点です。」と放送する。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "1990年から、駅自動放送でシンセサイザーによる接近・発車メロディが演奏されている。発車メロディ・通過列車接近メロディ・遅延発生時ないし緊急時告知メロディはオリジナルだが、停車列車の接近メロディは『線路は続くよどこまでも』が使われている。1990年の導入時は西浦達雄作曲・編曲によるものであったが、2009年1月からは向谷実作曲・編曲によるものに変更され、発車メロディは上り・下りとも同一のメロディとなっている。なお、元町駅と桜川駅のみ発車メロディは予告用のみが流れる(桜川駅1番線では、このあとに近鉄用の信号扱所からの出発承認合図器音〈ブザー音〉が流れる)。また、メロディ更新に合わせて同時に放送の案内の音声も更新している。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "頭端式ホーム(梅田駅の全ホーム、神戸三宮駅の2番線)では、入線時の放送フォーマットは独特のものとなっている。駅到着直前は全ての列車で接近メロディを省略し、「まもなく、●番線に電車が参ります」のアナウンスのみを放送する。列車が駅到着後、少し間隔を空けて「●番線に停車中の電車は、■■(駅名)ゆき▲▲(列車種別)です、停車駅は...(普通は「各駅停車、■■(駅名)ゆきです、各駅に停車します」)」と放送する。このほか、梅田駅の全ホーム、尼崎駅2・5番線では発車直前から列車がホームを離れるまでの間、男女声とも(ホームによる)「●番線から、電車が発車します。ご注意ください」を繰り返し放送している。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "停車列車接近メロディは、2011年から放送されているラジオCMでも使われている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "甲子園駅では、阪神甲子園球場での高校野球全国大会開催に合わせて、2013年の夏から全国高等学校野球選手権大会、2015年の春から選抜高等学校野球大会の開催期間限定で停車列車接近メロディを変更している。曲目は「甲子園駅#列車接近メロディ」を参照。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "2019年3月より、全駅で頭端式ホームも含めて全ての列車到着ないし通過時に、「電車がまいります」「電車が通過します」のアナウンスの直後に新たにオリジナルの接近メロディまたは通過メロディを加えている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "2023年1月6日および1月20日に阪神本線で運転された臨時有料座席定員制列車「らくやんライナー」の車内放送では、2009年まで使用されていた西浦版の通過列車接近メロディが、案内前のチャイムとして使用された。また、同年1月13日運転のらくやんライナーでは、西浦版の「線路は続くよどこまでも」のメロディが使用された。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "列車到着時の放送は、「大阪梅田行き・特急」と行先・種別の順に案内しているが、阪神本線の各駅停車のみ「各駅停車・高速神戸行き」と種別・行先の順に案内している(車内放送でも同様)。ただし、列車到着前の乗車位置案内では各駅停車でも種別を後につける文体になる。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "2016年3月のダイヤ改正以降、列車到着時には「黄色い線の内側へお下がりください」とアナウンスされている。それまでは「白線の内側へお下がりください」とアナウンスされていた。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "発車時の自動放送は、本線では梅田駅・大石駅・神戸三宮駅・元町駅(大石駅は4番線のみ)、阪神なんば線では桜川駅、武庫川線の起終点駅のみ採用している(阪神なんば線開業前は尼崎駅西大阪線ホームと西九条駅でも使用されていた)。それ以外の駅では発車時に自動鳴動する放送はないが、野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅にはホーム上のスイッチにより鳴動する手動の発車ベル(電子音)及び放送が用意されている。このほか、駅員が使用するワイヤレスマイクにも手動の発車ベルのスイッチが付いているため、駅員がマイクのスイッチを操作して発車ベル(電子音)を鳴らすこともある。優等列車と普通列車の接続が行われる場合、優等列車発車時に必ず普通列車乗務員がホームに降りて放送を鳴動させるためほぼ確実に流れる(野田駅と甲子園駅では停車時間の関係により使用されない場合がある)。また、ドーム前駅・九条駅・西九条駅でも発車ベル及び放送(こちらは乗務員や駅員が操作するものではない。ベルの音色とアナウンスの内容や声質は同じ)が用意されており、必要な場合に使用される。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "2017年2月から、車内放送と同様に、駅の発車標や時刻表でも省略して案内していた駅名は全て正式駅名で表記するようになり、また自動放送についても全て正式駅名でアナウンスするよう改められた。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "駅での警告放送(台風接近時の運行取り止め予告)やイベント案内放送(甲子園球場での高校野球開催中など)、啓発放送については、HOYAのVoiceTextを採用して以降は人工音声によるものも放送されている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "かつては、旧国鉄に準じた「丁字矢印」形式の駅名標であったが、平仮名は使用されず漢字のみが記載されているものであった。その後同じく「丁字矢印」形式であっても、上部よりローマ字の大文字、平仮名で駅名が書かれ、前後の駅は平仮名のみが記載されたものが使用された。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "1970年代に入ると、京阪電気鉄道や南海電気鉄道にも見られたタイプの駅名標に代わり、当初は白地に黒色、のちに白地に青色で駅名、前後の駅は青色地に白文字で記載されている物が長らく設置されていたが、2009年1月下旬より全線で青がベースで白文字の新しい駅名標に統一されている(阪神なんば線の西九条駅から福駅までのホーム延長部分の駅名標は最初から設置、尼崎駅西大阪線ホームにあった旧駅名標も阪神なんば線開通日に新しい駅名標に交換された)。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "これと同時に駅の案内サインもほぼ全面的に刷新され、ユニバーサルデザイン(ピクトグラムも使われている)に基づいた表示に更新されている。この駅名標は2010年10月1日より神戸高速鉄道東西線花隈駅を除く各駅にも導入された。なお、花隈駅には阪急タイプの駅名標が導入されている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "共同使用駅である大阪難波駅と西代駅は、それぞれ駅を管轄する近畿日本鉄道、山陽電気鉄道仕様の駅名標となる。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 113,
"tag": "p",
"text": "2014年3月には、翌月4月1日より導入する駅ナンバリングに対応した駅名標(駅名横に駅番号を追加したもの)への取り換えが行われ、デザインも若干変更された。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "2022年以降は光熱費節約のため、駅名標のほか駅の案内サインなどで、蛍光灯などバックライトがない(光らない)ボードタイプのものへの交換が進んでいる。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 115,
"tag": "p",
"text": "「縦書きタイプ」の駅名標(ホームの上屋柱などに取り付けるタイプのもの)を設置している駅は1つもなかったが、阪神なんば線の2009年に開業した駅(九条駅、ドーム前駅、桜川駅)およびリニューアル後の神戸三宮駅に設置されたほか、神戸高速線内にも古い縦書き駅名標が存在する。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 116,
"tag": "p",
"text": "駅名標・車内案内表示器の英字表記は阪急や京阪と同様一文字目が大文字で、以降が小文字となっている(例:神戸三宮は「Kobe-Sannomiya」、画像も参照)。一方で、車体正面・側面の種別・行先表示器や駅構内の発車標での種別・行先表示では、未だに全て大文字のみとなっている(例:特急は「LTD.EXP.」、神戸三宮は「KOBE-SANNOMIYA」)。なお、2017年2月より、行先や停車駅の表記は、「姫路」が「山陽姫路」、「奈良」が「近鉄奈良」、というように省略はせず正式駅名での表記に改められている(英語表記も同様)。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "駅の発車標は、かつてはソラリー式が主に使われたが、1990年代から3色LED式(野田駅・西宮駅・元町駅は液晶式)が主流となり、阪神なんば線延伸開直前の2008年からはフルカラーLED式の設置または更新が行われている。また、字幕式が尼崎駅で阪神なんば線延伸開業前まで使われたほか、ソラリー式は最後に残った甲子園駅で2012年まで使われた。また、野田駅・甲子園駅・西宮駅・御影駅・神戸三宮駅(大阪方面行き)の各島式ホームでは、従来の左右のりば独立したものに代えて直近4列車を一括で表示する大型のものが設置されている。大阪梅田駅では、2021年から供用開始した新しい1番線ホームにて、阪神の駅では神戸高速線以外で初となる液晶ディスプレイ(LCD)式発車標が取り付けられた。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 118,
"tag": "p",
"text": "他にも、主要駅の駅改札口には直近2〜4列車が表示されるフルカラーLEDディスプレイ(大阪梅田駅はLCDディスプレイ)が設置されているほか、現在は全ての駅の改札口に上下線とも直近2列車が表示される(運転見合わせなどアクシデント発生時はその状況も表示される)LCDモニターが設置されている(基本は天井据え付けの大型だが、久寿川駅など大型モニターの設置が難しい駅の改札口には据え置きのタッチパネル式小型モニターが設置されている)。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "2014年4月1日より、阪神全駅で駅ナンバリングを導入した。最初に発表した時点では近畿日本鉄道と協議中であったため『近畿日本鉄道管理の大阪難波駅を除く』としていたが、最終的には大阪難波駅も同日より導入することになった。路線記号は「HanShin」から「HS」となる。導入に先駆けて同年2月頃より一部車両の車内案内表示で駅ナンバリングが表示されており、3月に入り駅名標や車内の路線図が新しいものに交換された。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 120,
"tag": "p",
"text": "数字は阪神本線・神戸高速線が00 - 30番台、阪神なんば線が40番台、武庫川線が50番台となり、大物駅、尼崎駅、武庫川駅は本線の駅ナンバリングが付与され、西代駅では山陽の駅番号であるSY 01、大阪難波駅では近鉄の駅番号であるA01も付与される。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "駅名標への駅ナンバリングの記載については、大阪難波駅(近鉄仕様)は阪神・近鉄両方が、西代駅(山陽仕様)は阪神・山陽両方が記載されている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "列車の先頭車両に掲げられていた種別や行き先を示す方向板は、以下の通り。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "新造時からの方向幕の設置は、特定の種別に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、1977年にデビューした3801・3901形からである。京阪の正面方向幕初採用も同じ1977年であり、これは関西の大手私鉄では、もっとも遅い採用であった。比較的製造年度の若い車両も、同じ位置に同じ方向幕が比較的容易に後付けできた為(関西の大手私鉄では、阪急以外の4社がこのケースである)、設置が行われていった。ただし青胴車は当時の新製車もまだ方向板のままで、方向幕設置は1988年からという遅さだった。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 124,
"tag": "p",
"text": "2013年3月までに阪神の各駅と神戸高速線各駅に公衆無線LANが設置された。利用できるのはauのau Wi-Fi SPOTとワイヤ・アンド・ワイヤレスのWi2 300(au Wi-FiとWi2 300とともにSSIDは「Wi2premium_club」のみ)、SoftBankのソフトバンクWi-Fiスポット (SSID:0001 softbank)、NTTドコモのdocomo Wi-Fi (SSID:docomo) となっている。なおSSIDとしてこれら3つのほかHS_wifiが検出されるが、HS_wifiの用途は不明で、セキュリティが掛かっているため利用はできない。これらは阪神の駅だけではなく、阪神甲子園球場にも設置されている。また阪神の駅や施設だけではなく、阪急阪神グループの駅や、商業施設にも拡大する予定となっている。2013年2月28日からはauとソフトバンクに加え、NTTドコモのdocomo Wi-Fiも利用できるようになった。アイテック阪急阪神が運営に当たっており、阪神のほか、阪急、北大阪急行電鉄、能勢電鉄(SoftBankとドコモは除外)の各路線でも展開されている。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "1996年から社内の鉄道ファンによる公認サイト「まにあっく阪神」が開設されていたが、2010年3月末をもって閉鎖された。毎年4月1日(エイプリルフール)にはジョークサイト「はにわっく坂神」が登場していた。",
"title": "鉄道事業"
},
{
"paragraph_id": 126,
"tag": "p",
"text": "レジャー事業は古くから行われており、初期のものでは、本線が営業開始した1905年(明治38年)に開設された打出海水浴場や、1907年(明治40年)開設の香櫨園浜海水浴場(打出海水浴場から移設)や香櫨園遊園地などがあった。全国中等学校優勝野球大会(現在の「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」)も誘致し、会場となった鳴尾球場(現在のタイガース二軍本拠地の阪神鳴尾浜球場とは異なる)や阪神甲子園球場を相次いで建設した。",
"title": "スポーツ・レジャー事業"
},
{
"paragraph_id": 127,
"tag": "p",
"text": "その後、阪神甲子園球場では選抜中等学校野球大会(現在の「選抜高等学校野球大会」、いわゆる「春のセンバツ」)も開催されるようになり、昭和になると阪神甲子園球場を本拠地とする職業野球球団である阪神タイガースを創立した。他にも、明治末期から昭和初期にかけて鳴尾で苺狩りイベントを実施したり、甲子園地区や六甲山地区の開発にも携わり阪神間モダニズムの一翼を担った。",
"title": "スポーツ・レジャー事業"
},
{
"paragraph_id": 128,
"tag": "p",
"text": "プロバスケットボールB.LEAGUEに所属する神戸ストークスのゴールドパートナーにも就いている。",
"title": "スポーツ・レジャー事業"
},
{
"paragraph_id": 129,
"tag": "p",
"text": "現在でも直営の施設を持っているが、大部分の施設の運営は子会社の六甲山観光株式会社に委託されており、子会社が所有している施設もある。",
"title": "スポーツ・レジャー事業"
},
{
"paragraph_id": 130,
"tag": "p",
"text": "なお、阪急と経営統合した際には阪神タイガースの実質的な支配が阪神側に残るか、阪急側に移るかを巡って激しい議論となり、最終的に阪急阪神HDは加盟手数料1億円を支払い、経営支配を阪神電鉄に残し、阪急阪神ホールディングスと阪急電鉄は一切経営に関与しないことを確約して、日本野球機構(NPB)との間で妥協した。",
"title": "スポーツ・レジャー事業"
},
{
"paragraph_id": 131,
"tag": "p",
"text": "かつては阪神電鉄バスとして直営で運行しており、大手私鉄直系のバス事業者の中で最後までバス事業の分社化を全く行っていなかったが、採算の悪化により2005年12月14日に子会社として阪神バス株式会社を設立し、翌2006年6月から阪神西宮発着の一般バス路線および三宮 - HAT神戸の路線が同社に移管され、2009年4月1日に簡易会社分割方式により、残りのバス路線もすべて阪神バスへ譲渡された。これにより、関西の大手私鉄各社は全ての会社がバス事業について子会社による運営に切り替わった。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 132,
"tag": "p",
"text": "阪神電気鉄道は、長年航空事業部門として阪神航空のブランドで旅行事業を展開していた。ホームページ等では航空事業と記載されていたが、運営していたのは旅行事業である。以前は同ブランドで航空貨物代理店(フォワーダー)も営んでいたが、こちらは1999年に「阪神エアカーゴ」として分社している。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 133,
"tag": "p",
"text": "1948年(昭和23年)から営業を開始しており、国土交通大臣登録第1種旅行業で登録番号は第33号と古い歴史を持っていた。また、関西大手私鉄の鉄道系旅行業者では唯一の直営での運営であった。店舗は大都市圏(首都圏・関西・名古屋地区)のみのため小規模ではあったが、「(阪神航空)フレンドツアー」と題したヨーロッパ旅行ツアーを中心に展開した。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 134,
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"text": "のちに阪急阪神ホールディングスの一員となったため、阪神エアカーゴも含めた旅行事業については阪急系の阪急交通社と重複することから、阪急交通社、阪急エクスプレス、阪神エアカーゴとの4社を中心に阪急阪神交通社ホールディングスを傘下とする企業グループに再編した上で旅行事業は独立し、2008年4月1日に阪神航空株式会社へと移管した。阪神航空は後に社名変更し、現在は株式会社阪急阪神ビジネストラベルとなっている。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 135,
"tag": "p",
"text": "阪神電鉄は、創業から10年後の1909年から不動産事業の展開を始め、2018年3月31日まで事業を継続した。阪神電鉄ではかつて不動産事業本部を擁しており、宅地・住宅の開発・分譲のほか、不動産鑑定業務、ハービスOSAKAやハービスENTなどの西梅田再開発事業、エビスタ西宮やウイステなどの商業施設の開発・運営を行っていた。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 136,
"tag": "p",
"text": "宅地・住宅の開発・分譲については、阪神沿線を中心に沿線開発等を手掛けてきたが、特に2010年代に入ってからは首都圏にも進出するなど阪神沿線以外でも幅広く手掛けた。ただ、分譲住宅事業に関しては晩年は建売戸建(「ハピアガーデン」ブランド)のみとし、マンションは2008年の「ジオ甲子園口一丁目」を最後に撤退した。特に阪急東宝グループとの経営統合後は、分譲住宅事業のうち建売戸建は阪神電気鉄道が、マンションは阪急不動産(当時)が、それぞれ専ら手掛けることで競合しないようグループ内で棲み分けを図った。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 137,
"tag": "p",
"text": "不動産事業については、事業再編により阪急阪神ホールディングスが子会社化した阪急不動産に移管することとなり、不動産事業本部は独立し2018年4月1日より阪急不動産と経営統合して阪急阪神不動産株式会社(の一部)となった。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 138,
"tag": "p",
"text": "不動産事業本部が手掛けた主な分譲物件は、以下のとおり。",
"title": "かつて行っていた事業"
},
{
"paragraph_id": 139,
"tag": "p",
"text": "阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「阪急阪神東宝グループ」を参照。",
"title": "関係企業"
},
{
"paragraph_id": 140,
"tag": "p",
"text": "なお、「阪神」という語は大阪市と神戸市、および両市の間の地域を表すため、社名に「阪神」が入っていても阪神電気鉄道や阪神百貨店とは無関係な企業が多数存在する。",
"title": "関係企業"
},
{
"paragraph_id": 141,
"tag": "p",
"text": "1995年までは朝日放送 (ABC) のテレビとラジオで提供番組を持ち、CMが放送されていたが、阪神・淡路大震災発生後は自粛に入りその後は阪神パーク甲子園住宅遊園のCMが放送された時期があったが、1998年頃の直通特急運行開始の時期、2009年の阪神なんば線開通の時期にそれぞれCMが放送されていた。その後はラジオCMのみとなっていたが、2014年に入り、「阪神沿線物語」でテレビCMが2009年の阪神なんば線開通の時期以来5年ぶりに放送されることとなった。このCMではHD制作となったが、2009年以前のCMは全てSD制作となっていた。2014年のテレビCMの主な出演者は女優の佐藤江梨子とお笑い芸人のハマカーン。ラジオについてはグループ会社のエフエムキタではスポット枠や提供枠を持っており、朝日放送ラジオでは2023年現在はスポット枠や後述の提供番組で放送されている。2011年から2013年まで放送されていたCMは列車到着メロディを使用したCMが放送されていた。",
"title": "CM・提供番組"
},
{
"paragraph_id": 142,
"tag": "p",
"text": "1987年に「ぼくの街の阪神電車」のCMが放送され、CMソングは憂歌団が歌っていた。2017年には同CMを30年の時を越えてリメイクした「ぼくの街の阪神電車2017」が放映される。1987年版と2017年版では構図・CMソングは全く同じであり、阪神タイガースの帽子、阪神百貨店の紙袋が2017年現在のものに変更され、撮影車両も8000系から1000系に変わった。",
"title": "CM・提供番組"
},
{
"paragraph_id": 143,
"tag": "p",
"text": "このほか、桧山進次郎がワンシーンのみ出演していたこともある。",
"title": "CM・提供番組"
}
] | 阪神電気鉄道株式会社は、大阪と神戸を結ぶ鉄道を運営している会社。通称は「阪神電鉄」「阪神電鉄KK」または「阪神電車」、略称は「阪神」、キャッチコピーは「“たいせつ”がギュッと。 阪神電車」。阪急阪神ホールディングスの完全子会社であり、阪急阪神東宝グループの企業である。日本の大手私鉄の一つである。 | {{Pathnav|阪急阪神東宝グループ|阪急阪神ホールディングス|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 阪神電気鉄道株式会社
| 英文社名 = Hanshin Electric Railway Co.,Ltd.<ref name="Company Profile">{{Cite web |url=https://www.hanshin.co.jp/global/en/company/ |title=Company Profile |publisher=阪神電気鉄道株式会社 |accessdate=2021-11-21}}</ref>
| ロゴ = [[File:Taisetugagyuto.png|225px|ロゴ]] [[File:Hanshin-logo.svg|75px|社紋]]<br />ロゴ(左)と社紋(右)
| 画像 = [[File:Headquarters of Hanshin Electric Railway Co., Ltd.JPG|220px]]
| 画像説明 = 本社ビル(手前)
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = {{上場情報|東証1部|9043||2006年9月26日}}{{上場情報|大証1部|9043||2006年9月26日}}
| 略称 = 阪神、阪神電鉄、阪神電車
| 国籍 = {{JPN}}
| 本社郵便番号 = 553-8553
| 本社所在地 = [[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[海老江]]一丁目1番24号 (阪神星光ビル)
| 本社緯度度 = 34
| 本社緯度分 = 41
| 本社緯度秒 = 43.0
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 135
| 本社経度分 = 28
| 本社経度秒 = 30.7
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 座標右上表示 = Yes
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1899年]]([[明治]]32年)[[6月12日]]<br />(摂津電気鉄道株式会社)
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 旅客鉄道事業<br />スポーツ・レジャー事業
| 代表者 = [[秦雅夫]]([[代表取締役]] 取締役[[会長]])<br />久須勇介(代表取締役[[社長]])<ref>[https://www.hanshin.co.jp/company/about/board.html 役員] - 阪神電気鉄道、2023年4月6日閲覧</ref>
| 資本金 = 293億8400万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite web|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/kessan/ |title=第200期(2020年4月1日から2021年3月31日まで)貸借対照表、損益計算書及び個別注記表 |publisher=阪神電気鉄道株式会社 |accessdate=2021-08-02}}</ref>
| 発行済株式総数 = 4億2165万2422株<br />(2021年3月31日現在)<ref name="yuho"></ref>
| 売上高 = 265億6500万円<br />(鉄道事業営業収益)<br /> 296億0900万円<br />(兼業営業収益)<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 営業利益 = 28億5300万円<br />(全事業営業利益)<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 経常利益 = 33億4300万円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純利益 = 14億4400万円<br />(2021年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 純資産 = 1256億9400万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 総資産 = 3575億1900万円<br />(2021年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください -->
| 従業員数 = 1,501人<br />(2022年4月1日現在)<ref name="gaiyou">{{Cite web|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/about/ |title=会社概要 |publisher=阪神電気鉄道株式会社 |accessdate=2022-11-15}}</ref>
| 決算期 = [[3月31日]]
| 主要株主 = [[阪急阪神ホールディングス]] 100%<br />(2021年3月31日現在)<ref name="yuho">[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/docs/146db908e8e1fc722941c2933fbb123826599351.pdf 阪急阪神ホールディングス 第183期有価証券報告書]</ref>
| 主要子会社 = [[阪神タイガース|(株)阪神タイガース]]<br />[[阪神バス|阪神バス(株)]]<br />[[阪神コンテンツリンク|(株)阪神コンテンツリンク]] など<br />(上記子会社はいずれも100%出資)
| 関係する人物 = [[外山脩造]]<br />[[石井五郎]]<br />[[小曽根貞松]]<br />[[野田誠三]]<br />[[野田忠二郎]]<br />[[田中隆造]]<br />[[小津正次郎]]<br />[[久万俊二郎]]<br />[[中埜肇 (実業家)|中埜肇]]<br />[[石田一雄]]<br />[[手塚昌利]]<br />[[野崎勝義]]<br />[[坂井信也]](相談役)<br />[[藤原崇起]]
| 外部リンク = [https://www.hanshin.co.jp/ 阪神電気鉄道公式サイト] <br>[https://rail.hanshin.co.jp/ 電車情報サイト]<!-- URL表記は省略しないこと(テンプレートの使用方法を参照願います) -->
| 特記事項 = ・国土交通大臣登録旅行業第33号。
}}
[[File:OSAKA UMEDA TWIN TOWERS SOUTH.jpg|thumb|250px|阪神電鉄[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]と[[阪神百貨店]]梅田本店]]
'''阪神電気鉄道株式会社'''(はんしんでんきてつどう、{{Lang-en-short|Hanshin Electric Railway Co., Ltd.}}<ref name="Company Profile" />)は、[[大阪市|大阪]]と[[神戸市|神戸]]を結ぶ鉄道を運営している会社。通称は「'''阪神電鉄'''」「'''阪神電鉄KK'''」または「'''阪神電車'''」<ref group="注">阪神電気鉄道公式では「阪神電車」と呼称する。ただし、[[報道機関]]や自社管理施設の一部看板では「阪神電鉄」と表記され、グループ内の[[阪急電鉄]]や、[[Osaka Metro]]などの車内放送では「阪神線」と案内している。</ref>、略称は「'''阪神'''」、キャッチコピーは「'''“たいせつ”がギュッと。 阪神電車'''」。[[阪急阪神ホールディングス]]の完全[[子会社]]であり、[[阪急阪神東宝グループ]]の企業である。[[日本]]の[[大手私鉄]]の一つである。
== 会社概要 ==
本社所在地は[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[海老江]]一丁目1番24号。他に東京事務所が[[東京都]][[千代田区]][[有楽町]]一丁目5番2号 [[東宝ツインタワービル]]5階にある。
大阪 - 神戸間という大都市同士を結び、都市間[[電気鉄道]]([[インターアーバン]])としては日本で最も古く、[[1905年]]に営業を開始している。[[2021年]]3月時点の鉄道事業の[[営業キロ]]は48.9 [[キロメートル|km]]<ref name="yuho" />である。
また、[[日本プロ野球|プロ野球]]球団「[[阪神タイガース]]」の親会社であり、阪神タイガースの本拠地である[[阪神甲子園球場]]は[[阪神本線]][[甲子園駅]]前にある<ref>{{Cite web|和書|title=交通アクセス |url=https://www.hanshin.co.jp/koshien/access/traffic.html |publisher=阪神甲子園球場 |access-date=2022-11-19}}</ref>。
[[2006年]][[6月19日]]に[[村上ファンド]]による買収問題を発端とする[[株式公開買い付け]] (TOB) が成立し、[[阪急電鉄]]を中核とする阪急ホールディングスの[[連結子会社]] (64.76%) となった。同年[[10月1日]]には阪神電気鉄道株1株につき阪急ホールディングス株1.4株を割り当てる[[株式交換]]を実施し、阪急阪神ホールディングス(阪急ホールディングスから[[商号]]変更)の[[子会社|完全子会社]]となった。詳しくは「[[阪急・阪神経営統合]]」を参照のこと。
== 歴史 ==
[[File:Misaki Shozo.png|サムネイル|三崎省三は[[三吉電機工場]]で国産初の電車を手掛け、1899年に阪神電鉄に招かれて技師長となり、1917年より専務を務めた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%B4%8E%E7%9C%81%E4%B8%89-1112175 三崎省三(読み)みさき しょうぞう]コトバンク</ref>]]
[[1896年]]([[明治]]29年)、[[田中市兵衛]]、[[外山脩造]]、川上左七郎、[[前川槇造]]、大阪発起人総代により[[広瀬宰平]]、[[藤田伝三郎]]、[[豊田文三郎]]、[[岡橋治助]]らを加え発起人会が発足する。[[1899年]](明治32年)6月に、社名を'''摂津電気鉄道株式会社'''として社長に外山脩造を迎えて設立。同年7月に'''阪神電気鉄道株式会社'''に改称した。
阪神は大阪 - 神戸間の並行線開業に反対する[[鉄道省|鉄道作業局]]が所管する[[私設鉄道法]]ではなく、[[内務省 (日本)|内務省]]と鉄道作業局が共同で所管していた[[軌道条例]]に依拠し、さらに当時の内務省幹部であった[[古市公威]]から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道にするという、法の抜け穴を突いた奇策によって[[1905年]](明治38年)4月に神戸([[三宮駅#併用軌道による阪神電鉄の開業|三宮駅]]) - 大阪([[出入橋駅]])間の[[阪神本線|本線]]を開業した。従来の[[路面電車]]に比べ、軌道・車両ともに高規格の設備は、当時の阪神電鉄技師長であり建設時にもアメリカ視察を行った[[三崎省三]]の意向を反映したもので、建設ブームの真っ只中にあったアメリカのインターアーバンに範を採ったものであった。
=== 年表 ===
[[File:Hanshin electric railway the 2nd power station and car sheds.jpg|thumb|阪神電気鉄道第二発電所と車庫]]
[[File:Samond river bank and Koroen.jpg|thumb|沿線の名所、[[左門殿川]]河岸と香櫨園遊園地(右上)]]
[[File:Imanishi Rinsaburo.jpg|thumb|今西林三郎(阪神電気鉄道第3代代表取締役、大阪商工会議所第9代会頭)]]
* [[1893年]]([[明治]]26年) [[谷新太郎]]外4名は[[資本金]]30万円をもって神阪電気鉄道株式会社設立を発起(後に発起人に[[鹿島秀麿]]外4名追加)<ref name=shibusawa>[https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12320 阪神電気鉄道(株)『輸送奉仕の五十年』(1955.04)]渋沢社史データベース</ref>。
* [[1894年]](明治27年) [[小西酒造|小西新右衛門]]外19名を発起人に追加、社名を摂津電気鉄道株式会社と改称<ref name=shibusawa/>。
* [[1895年]](明治28年) 藤田伝三郎、外山脩造外8名が資本金120万円をもって坂神電気鉄道株式会社設立を発起(後発起人に[[今西林三郎]]外8名を追加)<ref name=shibusawa/>。
* [[1896年]](明治29年) 摂津電気鉄道、坂神電気鉄道、合併契約を締結<ref name=shibusawa/>。
* [[1899年]](明治32年)
** [[6月12日]] 摂津電気鉄道株式会社として設立(資本金150万円)。
** [[7月7日]] 阪神電気鉄道株式会社に社名変更。
* [[1902年]](明治35年) [[東京証券取引所]]・[[大阪取引所|大阪証券取引所]]に株式[[上場]]。
* [[1905年]](明治38年)[[4月12日]] [[阪神本線|本線]] 神戸(三宮駅) - 大阪(出入橋駅)間が開業。
* [[1907年]](明治40年) [[香櫨園遊園地]]開設。
* [[1908年]](明治41年) 電力供給事業営業開始。詳細は[[関西私鉄の電力供給事業]]を参照。
* [[1914年]]([[大正]]3年)[[8月18日]] [[阪神北大阪線|北大阪線]]開業。
* [[1924年]](大正13年)
**[[1月20日]] 伝法線(後の西大阪線、現在の[[阪神なんば線]])開業。
**[[8月1日]] [[阪神甲子園球場]]開場。
* [[1926年]](大正15年)[[7月1日]] [[阪神国道線|甲子園線]]開業。
* [[1928年]]([[昭和]]3年)[[4月1日]] [[阪神国道電軌]]を合併し、[[阪神国道線|国道線]]とする。
* [[1929年]](昭和4年)[[4月14日]] [[阪神尼崎海岸線|尼崎海岸線]]開業。
* [[1933年]](昭和8年)
** 3月 付帯事業として、旧[[大阪梅田駅 (阪神)|梅田停留場]]に「阪神マート」を開業([[阪神百貨店]]の前身)。
** [[6月17日]] [[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]] - 三宮駅(現在の[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]])間の[[三宮駅#阪神の地下化と阪急の乗入れ|地下新線]]開業。
* [[1935年]](昭和10年)[[12月10日]] 株式会社大阪野球倶楽部(大阪タイガース)を設立(1961年〈昭和36年〉4月1日付で株式会社[[阪神タイガース]]に商号・球団名変更)。
* [[1943年]](昭和18年)[[11月21日]] [[阪神武庫川線|武庫川線]]開業。
* [[1944年]](昭和19年)8月17日 武庫川線 [[武庫大橋駅]] - [[武庫川駅]]間の延伸で阪神の路線総延長が最長の76.5kmとなる<ref name="shb">和久田康雄『私鉄史ハンドブック』([[電気車研究会]]、1993年)p.135</ref>。
* [[1949年]](昭和24年)[[11月17日]] 阪神国道自動車(阪国バス)を合併。
* [[1954年]](昭和29年)
** 列車用[[誘導無線]]装置を導入。
** [[9月15日]] 初の大型車両3011形導入。[[大阪梅田駅 (阪神)|梅田駅]] - 三宮駅間ノンストップ特急運転開始。
* [[1957年]](昭和32年)[[4月17日]] 百貨店事業を分離独立する形で株式会社阪神百貨店が設立。
* [[1958年]](昭和33年)[[7月24日]] [[ジェットカー]]5001形(初代)営業運転開始。
* [[1962年]](昭和37年)[[12月1日]] 尼崎海岸線廃止(これにより当時の路線総延長は休止区間を含めて75.6kmとなる。以下も路線総延長に休止区間含む。2年後の[[西九条駅]]延伸で総延長は0.8km追加される)。
* [[1967年]](昭和42年)7月 神戸市内の高架工事完成により本線の線路を移設。これにより[[阪神電気鉄道石屋川車庫|石屋川車庫]]開設。新在家車庫が廃止される。
* [[1968年]](昭和43年)[[4月7日]] [[神戸高速鉄道]]が開業。[[山陽電気鉄道]]と[[直通運転|相互直通運転]]開始。
* [[1970年]](昭和45年)7月1日 日本初の[[電機子チョッパ制御]]装置(力行のみ)採用の[[阪神7001・7101形電車|7001・7101形]]営業運転開始。
* [[1971年]](昭和46年) 元町駅 - 青木駅間で[[列車運行管理システム]](PTC)を導入<ref name="交通860211">{{Cite news |title=阪神が「PTC」導入 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1986-02-11 |page=1 }}</ref>。
* [[1972年]](昭和47年)10月5日 [[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]に[[自動改札機]](11台)を初設置<ref>{{Cite news |和書|title=阪神電鉄に初の自動改札機 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通協力会 |date=1972-09-20 |page=2 }}</ref>。1982年(昭和57年)2月28日には改集札業務の自動化が完了<ref name="history4">[https://www.hanshin.co.jp/company/history/index_4.html 年譜 昭和後期] - 阪神電気鉄道</ref>。
* [[1975年]](昭和50年)[[5月6日]] 国道線・[[甲子園線]]・北大阪線全線廃止(当時の路線総延長41.0km)。
* [[1977年]](昭和52年)[[12月27日]] 全線を[[軌道法]]に基づく[[軌道 (鉄道)|軌道]]から[[地方鉄道法]]に基づく[[鉄道]]に変更。
* [[1983年]](昭和58年)[[4月30日]] 営業用全車両の冷房化を完了(日本の民鉄界で初)。ただしこの時点では武庫川線は冷房電源のない[[阪神3301形・3501形電車|3301形]]の単行で運行されていたため、冷房は使用できなかった。
* [[1984年]](昭和59年)[[4月3日]] 武庫川線[[洲先駅]] - [[武庫川団地前駅]]間0.6km延伸開業(当時の路線総延長41.6km。翌1985年の同線休止区間の廃止で40.1kmとなる)。同線が2両[[編成 (鉄道)|編成]]での運行となり、全線全営業列車での冷房使用を開始。
* [[1985年]](昭和60年)[[8月12日]] [[運輸省]](現・[[国土交通省]])で[[日本民営鉄道協会]]の会議が行われたが、代表取締役社長で阪神タイガース球団オーナーである[[久万俊二郎]]が私用で出席できなくなり、専務取締役鉄道事業本部長でタイガース球団社長の[[中埜肇 (実業家)|中埜肇]]と常務取締役の[[石田一雄]]の2人が代理でこの会議に出席。終了後、帰阪のために[[東京国際空港|羽田]]発[[大阪国際空港|伊丹]]行[[日本航空]]123便に搭乗し、[[日本航空123便墜落事故|その墜落事故]]で犠牲となった。
* [[1986年]](昭和61年)6月 本線全線と西大阪線にPTCを導入{{R|交通860211}}。
* [[1988年]](昭和63年)4月1日 [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]] - [[西代駅]]間の第2種鉄道事業(第3種鉄道事業者:神戸高速鉄道)開始。
* [[1990年]]([[平成]]2年)[[9月1日]] [[甲子園駅]]と[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]に[[発車メロディ|接近・発車メロディ]]を導入<ref name="交通900904">{{Cite news |title=発車合図ソフトに 阪神電鉄 シンセのメロディ採用 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1990-09-04 |page=2 }}</ref>。同年、10月上旬までに本線・武庫川線の37駅に導入し、翌年春までに西大阪線にも導入{{R|交通900904}}。
* [[1992年]](平成4年)5月18日 本社を梅田から[[ウイステ|野田阪神ビル]]に移転<ref>{{Cite news |和書 |title=新社屋に移転 業務がスタート 阪神電鉄 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=1992-05-20 |page=1 }}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)
** [[1月17日]] [[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])が発生し、各線および石屋川車庫が甚大な被害を受ける。[[赤胴車]](特急・急行用車両)33両、[[ジェットカー|青胴車]](各駅停車用車両)8両の計41両が廃車。
** [[1月18日]] 本線の梅田駅 - 甲子園駅間と西大阪線が運行再開。
** [[1月26日]] 武庫川線が復旧。
** [[6月26日]] 本線が全線復旧。
** 9月1日 運賃改定に伴い時差[[回数乗車券|回数券]]、土休日回数券導入。
** [[11月1日]] [[阪神5500系電車|5500系]]営業運転開始。
* [[1996年]](平成8年)
** [[3月20日]]
*** 石屋川車庫が復旧<ref>{{cite news |和書|title=阪神電鉄 3月20日ダイヤ改正 被災の施設、車両全て復旧 |newspaper=交通新聞 |date=1996-02-27 |publisher=交通新聞社 |page=5 }}</ref>。[[阪神9000系電車|9000系]]営業運転開始で震災前の車両数に復旧<ref>{{cite news |和書|title=阪神電鉄 9000系デビュー 車両、施設すべて復旧 |newspaper=交通新聞 |date=1996-03-25 |publisher=交通新聞社 |page=3 }}</ref>。
*** [[スルッとKANSAI]]対応「[[らくやんカード]]」発売開始。
* [[1998年]](平成10年)[[2月15日]] 梅田駅 - [[山陽姫路駅]]間に[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]を運転開始。
* [[2001年]](平成13年)[[3月10日]] [[阪神9300系電車|9300系]]営業運転開始。
* [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] 株式交換により、株式会社阪神百貨店を完全子会社化。
* [[2006年]](平成18年)
** [[2月1日]] [[PiTaPa]]導入。阪神は[[CoCoNet PiTaPaカード]]を発行。同時に[[ICOCA]]も利用可能に。
** [[6月27日]] 阪急ホールディングスが実施した阪神電気鉄道へのTOB([[株式公開買い付け]])成立(6月19日)により買い付けの決済が行われ、阪急ホールディングスの子会社(持株比率64.76%)となる。
** [[6月29日]] 株主総会にて阪急ホールディングスとの経営統合が承認。
** [[9月26日]] 東京証券取引所・大阪証券取引所[[上場廃止]]。
** 10月1日 阪急阪神ホールディングス(旧・阪急ホールディングス)の完全子会社となる([[戦後]]初の大手私鉄の経営統合。株式買収問題の経緯については「[[阪急・阪神経営統合]]」を参照)。
* [[2007年]](平成19年)
** 10月1日 これまでのCoCoNet PiTaPaカードに代わり[[STACIAカード]]を発行。
** [[10月5日]] [[阪神1000系電車|1000系]]営業運転開始。
* [[2009年]](平成21年)
** 3月20日 阪神なんば線(西九条駅 - [[大阪難波駅]]間)開業<ref name="hansin-namba-line-open">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR200808013N2.pdf 平成21年3月20日(祝)阪神なんば線開通]}} - 阪神電気鉄道、2008年8月1日。</ref>、[[近畿日本鉄道]](近鉄)と相互直通運転開始。西大阪線を阪神なんば線に改称(当時の路線総延長43.9km)。
** 4月1日 簡易会社分割により直営バス事業(自動車部、阪神電鉄バス)を子会社の[[阪神バス]]に全面移管(2006年に一部事業を移管済)。
* [[2010年]](平成22年)
** 10月1日 神戸高速鉄道へ委託していた[[阪神神戸高速線|神戸高速線(東西線)]]の駅業務・運行業務を引き継ぐ(これにより路線総延長は現行の48.9kmとなる)。
** [[12月29日]] [[阪神5550系電車|5550系]]営業運転開始<ref>[http://railf.jp/news/2010/12/31/150300.html 阪神5550系が営業運転を開始] - [[交友社]]『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』railf.jp 鉄道ニュース 2010年12月31日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)9月1日 全線各駅において、構内終日全面禁煙化<ref>[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20110705-11.pdf 阪神電車のすべての駅を9月1日から終日全面禁煙化します] - 阪神電気鉄道プレスリリース 2011年7月5日</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月23日]] [[Kitaca]]、[[PASMO]]、[[Suica]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が[[交通系ICカード全国相互利用サービス|IC乗車カード全国相互利用]]開始と同時に利用可能に。
** 7月1日 沿線活性化プロモーションを開始し、キャッチコピーとして「“たいせつ”がギュッと。 阪神電車」を制定<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20130701-promotion.pdf “たいせつ”がギュッと。 阪神電車 沿線活性化プロモーションを始動します]}} - 阪神電気鉄道、2013年7月1日。</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** [[3月22日]] [[賢島駅]] - 神戸三宮駅間で近鉄の特急車両による[[団体専用列車|団体向け臨時貸し切り列車]]が直通運転開始。
** 4月1日 全線全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref name="hhhd20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201304304N1.pdf 阪神「三宮」を「神戸三宮」に駅名変更、駅ナンバリングを導入し、すべてのお客さまに分かりやすい駅を目指します]}} - 阪急阪神ホールディングス、2013年4月30日</ref><ref name="読売20140320">{{Cite news |title=[アラカルト]3月20日=兵庫 ◆駅ナンバリング、神鉄が導入 |newspaper=『[[読売新聞]]』(大阪朝刊) |publisher=[[読売新聞大阪本社]] |page=32 |date=2014.03.20 }}<!--記事内で阪神・山陽について言及あり--></ref>。
** [[5月17日]] [[近鉄名古屋駅]] - 甲子園駅間で近鉄の特急車両による団体向け臨時貸し切り列車が直通運転開始(私鉄では過去最長記録)。
* [[2015年]](平成27年)[[8月24日]] [[阪神5700系電車|5700系]]営業運転開始。
* [[2016年]](平成28年)[[5月24日]] 5700系が自社車両として初の[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を受賞<ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20160524-5700kei2.pdf|format=PDF |title=普通用車両5700系(ジェット・シルバー5700)が、「ブルーリボン賞」を受賞!|publisher=阪神電気鉄道 |date=2016-05-24 |accessdate=2016-06-08}}</ref>。
* [[2017年]](平成29年)4月1日 「らくやんカード」に代わって「[[ラガールカード|阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード]]」発売開始<ref name="hanshin20161227" />。
* [[2018年]](平成30年)
** [[3月17日]] [[スマートフォン]]用公式[[モバイルアプリケーション|アプリ]]「阪神アプリ」配信開始<ref name="hansin20180315" />。
** 4月1日 不動産事業を[[阪急阪神不動産]]へ譲渡。
* [[2019年]](平成31年)
** [[1月21日]] [[台湾]]で[[桃園メトロ]]を運行する[[桃園捷運公司]]と連携協定を締結、自社傘下のタイガースや[[台湾プロ野球]]の[[Lamigoモンキーズ]]を含めた相互交流促進を図ることになった。翌日より[[桃園機場捷運]](MRT空港線)の普通車に阪神タイガースや沿線名所をあしらった[[ラッピング車両|ラッピング列車]]の運行が開始された<ref>{{Zh-tw icon}}[https://www.tymetro.com.tw/tymetro-new/tw/_pages/news/show-969-1.html 【新聞稿】來桃捷體驗大阪風情!阪神電鐵彩繪列車1/22驚艷亮相] 桃園捷運公司、2019年1月21日</ref>。阪神側も3月より台湾仕様のラッピング列車運行を予定している<ref>[https://web.archive.org/web/20190123233909/http://japan.cna.com.tw/news/atra/201901220002.aspx 桃園メトロ、阪神電鉄と連携協定 野球と鉄道で観光促進/台湾] [[フォーカス台湾]]、2019年1月22日</ref>。
** 3月1日 阪神にてプリペイド式ICカード乗車券「ICOCA」および「ICOCA[[定期乗車券|定期券]]」の発売開始<ref name="hanshin2451">[http://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2451 阪急、阪神、能勢、北急におけるICOCAおよびICOCA定期券の発売開始日について] - 阪神電気鉄道、2019年1月24日</ref>。あわせて「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売を2月28日で終了<ref name="hanshin2452">[http://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2452 「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」の発売終了、改札機での利用終了と払戻しおよび「ハープカード」の払戻しについて] - 阪神電気鉄道、2019年1月24日</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)
** [[3月14日]] 同日のダイヤ改正で、阪神本線で運転される営業列車の両数が最大6両編成から8両編成に変更される。
** [[6月18日]] [[NTTドコモ]]と、阪神甲子園球場および阪神タイガースについてのデジタル分野での協業検討合意を発表<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2020/06/18_00.html (お知らせ)NTTドコモと阪神電気鉄道、阪神甲子園球場・阪神タイガースにおけるデジタル分野での協業検討に合意] NTTドコモ報道発表資料(2020年6月18日)同日閲覧</ref>。
* [[2021年]](令和3年)[[2月11日]] 本線の神戸三宮駅(1番線・3番線)で、阪神では初めてとなる[[ホームドア|可動式ホーム柵]]の使用を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/3080|title=神戸三宮駅の可動式ホーム柵(1番線・3番線)の供用を開始します~2月11日(木・祝)始発から~|publisher=阪神電気鉄道|date=2021-02-04|accessdate=2021-11-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210228191004/https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/3080|archivedate=2021-02-28|url-status=live}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 9月1日 「ICOCAポイントサービス」を導入<ref name=":0">{{Cite press release|和書|title=回数乗車券の発売終了とICOCAによるポイントサービスの実施について|publisher=阪神電気鉄道|date=2022-3-10|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20220310-tosikoutu-kaisuukenhaisi.pdf|format=PDF|accessdate=2022-5-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220319112616/https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20220310-tosikoutu-kaisuukenhaisi.pdf|archivedate=2022-3-19}}</ref>。
** [[9月30日]] 回数乗車券・往復乗車券の発売を終了<ref name=":0" />。
** [[12月23日]] 阪神では初となる[[ホームライナー|有料座席定員制列車]]「[[阪神本線#らくやんライナー|らくやんライナー]]」を、2023年1月20日にかけて平日ダイヤの金曜夜間に試験運行<ref>{{Cite press release|和書|title=【期間限定】夜間有料臨時列車(らくやんライナー)の運行について ~確実に着席できる定員制で運行し、ゆったりご利用いただけます~|publisher=阪神電気鉄道|date=2022-12-01|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221201-unyu-rakuyanraina.pdf|format=PDF|access-date=2022-12-04}}</ref>。
<!--* [[2022年]](令和4年)
** 12月6日 グループ会社の[[オーエス]]に対し、完全子会社化のための株式公開買い付け(TOB)を実施すると発表<ref>[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/release/docs/ec083f18d198adbc398f70dd38b6906c4ee96298.pdf]</ref>。-->
== 鉄道事業 ==
=== 路線 ===
[[File:Hanshin Electric Railway Linemap.svg|thumb|none|701px|路線図(クリックで拡大)]]
[[阪神本線|本線]]と[[阪神なんば線]]が阪神の主要路線である。本線は大阪・[[キタ]]の[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]から神戸随一の[[繁華街]]・[[ターミナル駅]]の[[三宮駅|神戸三宮駅]]を経由して[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]に至る。[[東海道本線]]([[JR神戸線]])及び[[阪急神戸本線]]と競合関係にあるが、線路の曲線や駅数が多いため、両者より所要時間の面では不利である。また元町駅から西側は[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]を経由して[[山陽電気鉄道本線]]の[[山陽姫路駅]]まで[[直通運転]]を行っている。阪神なんば線は大阪・[[ミナミ]]の[[大阪難波駅]]から[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]を結ぶ路線であり、大阪難波駅からは[[近鉄難波線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]に直通して[[近鉄奈良駅]]まで至る。2009年の阪神なんば線の開業により、[[神戸市|神戸]]・[[三宮]] - [[大阪市|大阪]]・[[難波]] - [[奈良市|奈良]]を結ぶ広大な私鉄ネットワークが完成した。また、[[山陽電気鉄道]]に加え[[近畿日本鉄道|近鉄]]とも直通乗車、阪急に加え、[[南海電気鉄道|南海]]とも直接乗り換え可能になり、関西の[[大手私鉄]]5社のうち[[京阪電気鉄道|京阪]]を除く4社の路線とJRや地下鉄を介さずに直接乗り換えることが可能になった。関西の大手私鉄では唯一、大阪の2大繁華街であるキタ・ミナミの双方に自社路線で乗り入れている。
[[明治|明治時代]]、開業にあたって官鉄線(現在の東海道本線。愛称はJR神戸線)との競合を危惧する鉄道作業局側の反対から[[私設鉄道法]]での許可が得られず、この問題を回避するため、当時まだ[[内務省 (日本)|内務省]]単独所管だった[[軌道条例]]準拠による軌道敷設申請を行った。これは軌道が道路交通の補助であったことに加え、当時の内務省幹部で、土木工学の大家として都市交通について造詣の深かった[[古市公威]]から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得たことで実現した。これらの経緯からと集客を目的として[[西国街道]]沿いの集落を結ぶルートを選択した名残で各駅間が平均1kmと短く、駅の数が多い。
[[京都電気鉄道]]、[[名古屋電気鉄道]]、[[京浜急行電鉄|大師電気鉄道]]、[[箱根登山鉄道小田原市内線|小田原電気鉄道]]、[[大分交通別大線|豊州電気鉄道]]、[[江ノ島電鉄|江之島電気鉄道]]、[[三重交通神都線|宮川電気]]、[[東京都電車|東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道]]、[[大阪市電|大阪市営電気鉄道]]、[[横浜市電|横浜電気鉄道]]、[[土佐電気鉄道]]に続く日本で14番目の電鉄運営事業者であり、開業当初の線区が現在も存続するものとしては<!--大師、江之島、土佐に次いで-->日本で4番目に古い(いずれも日本の普通鉄道では初めての電車運転(1904年)である[[甲武鉄道]]を除く)。大阪と神戸という大都市を結んで、日本における都市間電気鉄道([[インターアーバン]])の先駆けにもなった鉄道でもある<ref group="注">大師電気鉄道がその最初の営業区間の開業時期([[1899年]])で先行するが、同社は当初[[平間寺|川崎大師]]参詣を主目的として開業しており、これが品川駅 - 神奈川駅間を結ぶ本格的なインターアーバンとなったのは阪神開業後の1905年12月24日であったため、インターアーバンとしての開業では阪神が日本初となる。「[[京浜急行電鉄#歴史]]」を参照。</ref>。
[[File:Hanshin-logo.svg|thumb|right|200px|阪神の社紋]]
電気を表徴する[[雷|稲妻]]で[[軌条|レール]]断面を菱形に囲んだだけ<!-- <ref group="注">他社局では、[[サンデン交通]]の社章や[[神戸市交通局|神戸市]]・[[名古屋市交通局|名古屋市]]の各交通局の徽章も[[雷|稲妻]]を菱形に囲み、それぞれのマークを入ったものとなっている。</ref> -->の、開業以来変わらぬシンプルな[[記章|社紋]]に、その歴史が現れている(大手私鉄で円形をモチーフにした社紋を採用したことがないのは阪神のみである)。
[[1920年]]にメインの路線である本線に並行して、阪神急行電鉄(現在の[[阪急電鉄]])が[[阪急神戸本線|神戸本線]]を開業させると、乗客獲得競争を繰り広げるようになった。それは、車内で[[ハンカチ]]を乗客に無料配布するといった身近なものから、他社の営業活動をお互いに妨害するという過激な事態にも及んだ(詳しくは「[[阪神急行電鉄]]」を参照)。阪神はこの頃から、大阪 - 神戸間の多頻度運転を進めることになり、「'''待たずに乗れる阪神電車'''」と言うキャッチフレーズがよく知られるようになった。2006年の経営統合後の阪急は兄弟会社であり、共存共栄・棲み分けがはかられている。2014年7月には尼崎工場で阪急の車両を[[能勢電鉄]]仕様に改造するため、阪神の線路上を阪急の車両が走っている<ref name="kobe-np20140717">[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201407/0007152422.shtml 「あれ?阪神線路に阪急車両 史上初、ファン興奮」][[神戸新聞]]NEXT(2014年7月17日)</ref><ref group="注">1949年に[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#阪急今津線暴走事故|阪急今津線暴走事故]]で阪急の車両が阪神の路線を走行したことがある。</ref>。
[[1969年]]より1975年にかけての[[阪神国道線|国道線]]およびその支線区2線の廃止開始直前の総[[営業キロ]]は75.1km(うち国道線系34.1km、本線系41.0km<ref group="注">1969年度初頭当時の内訳 国道線系 国道線26.0km、甲子園線3.8km(うち休止区間0.8km)、北大阪線4.3kmの小計34.1km。本線系 本線32.1km、西大阪線(当時)6.3km、武庫川線2.6km(武庫大橋 - 武庫川間の1.5kmは翌1970年休止。また阪神の路線としては未開業=[[未成線]]扱い、すなわち国鉄と阪神との土地の貸借関係に過ぎなかった[[西宮駅 (JR西日本)|西ノ宮駅]] - [[甲子園口駅]] - 武庫大橋駅間の距離を含まず)の小計41.0km。国道線系34.1kmと本線系41.0kmとの合計75.1kmであった。</ref>)であった。
[[1975年]]に国道線など軌道線区間を全廃した時には総営業キロが41.0km(これには当時休止中であった[[阪神武庫川線|武庫川線]]の武庫大橋駅 - 武庫川駅間の1.5kmを含む)まで減少し、1984年の武庫川線0.6kmの延伸で41.6kmとなった後、翌1985年の武庫川線休止区間の廃止で40.1kmになった。これに[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]]区間の神戸高速線および阪神なんば線延伸区間を含めても48.9kmで、[[1990年]]に[[相模鉄道]]が大手私鉄へ昇格するまでは、大手私鉄の中で営業距離が最も短かった。
保有路線は殆ど[[平野部]]または[[臨海部]]に所在することから、3か所ある[[トンネル]]はすべて地下トンネルであるため、関西の大手私鉄5社で唯一山岳トンネルを保有しないのが特徴である<ref group="注">近鉄と南海は多数あるため省略するが、阪急は[[阪急千里線|千里線]]の[[南千里駅]] - [[山田駅 (大阪府)|山田駅]]間に1か所、京阪は[[京阪京津線|京津線]]の[[大谷駅 (滋賀県)|大谷駅]] - [[上栄町駅]]間に1か所存在する。また阪神車両が乗り入れる近鉄奈良線や山陽電鉄本線には、それぞれ2か所ずつ存在する。</ref>。
[[1951年]][[4月1日]]に[[武庫郡]][[鳴尾村 (兵庫県)|鳴尾村]]が[[西宮市]]と合併したことにより、関西の大手私鉄では最も早く路線と駅の所在地が全て[[市]]となった<ref group="注">[[京阪電気鉄道]]も[[八幡市]]が市制施行した[[1977年]][[11月1日]]以降は、路線と駅の所在地が全て市となった。</ref>。
自社線には新幹線乗換駅がない<ref group="注">直通する山陽電鉄線は[[山陽姫路駅]]で[[山陽新幹線]]に乗り換えできる。</ref>。
==== 現有路線 ====
[[駅ナンバリング]]の路線記号はすべて[[File:Number prefix Hanshin line.svg|21px|top|HS]] (HS)
* [[阪神本線|本線]]:[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]] - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]] 32.1km
* [[阪神なんば線]]:[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]] - [[大阪難波駅]]([[西九条駅]] - 大阪難波駅間は阪神が第2種・[[西大阪高速鉄道]]が第3種) 10.1km
* [[阪神武庫川線|武庫川線]]:[[武庫川駅]] - [[武庫川団地前駅]] 1.7km
* [[阪神神戸高速線|神戸高速線]]:元町駅 - [[高速神戸駅]] - [[西代駅]](第2種・[[神戸高速鉄道]]が第3種) 5.0km
==== 廃止路線 ====
* [[阪神北大阪線|北大阪線]]:[[野田駅 (阪神)|野田駅]] - [[天神橋筋六丁目駅]]
* [[阪神国道線|国道線]]:野田駅 - [[東神戸駅]]間
* [[阪神甲子園線|甲子園線]]:上甲子園 - [[甲子園駅]] - 浜甲子園駅 - 中津浜駅
* [[阪神尼崎海岸線|尼崎海岸線]]:[[出屋敷駅]] - 東浜駅
* [[阪神武庫川線|武庫川線]]: 武庫川駅 - [[武庫大橋駅]] - [[西宮駅 (JR西日本)|(国鉄)西ノ宮駅]](武庫大橋 - 西ノ宮間は国鉄直通の貨物列車のみ運行)
==== 未成線 ====
* [[阪神尼崎海岸線#今津出屋敷線|今津出屋敷線]]:高洲駅 - [[洲先駅]] - 浜甲子園駅 - [[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]
* [[宝塚尼崎電気鉄道|尼崎宝塚線(宝塚尼崎電気鉄道)]]:[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]] - [[宝塚駅]]間
* [[第二阪神線]]:梅田駅(現在の大阪梅田駅) - [[千鳥橋駅]] - 尼崎駅 - [[三宮駅]] - [[湊川駅]]間
=== 他社線との直通運転 ===
* [[山陽電気鉄道]]:[[1998年]][[2月15日]]から阪神大阪梅田駅 - [[山陽姫路駅]]間を[[阪神神戸高速線|神戸高速鉄道東西線(現:阪神神戸高速線)]]を経由して[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]が[[直通運転|相互直通運転]]している。直通特急のほか阪神からは特急が[[山陽電気鉄道本線]][[須磨浦公園駅]]まで乗り入れている。直通特急の運転開始前は、阪神からは山陽電気鉄道本線須磨浦公園駅まで、山陽電気鉄道からは[[阪神本線]][[大石駅]]までの乗り入れであった。
* [[近畿日本鉄道]]:[[2009年]][[3月20日]]から[[阪神なんば線]]・[[近鉄難波線]]を経由して、阪神本線神戸三宮駅 - [[近鉄奈良線]][[近鉄奈良駅]]間で相互直通運転している。これに伴い阪神の車両が奈良県を走行するようになった。また、2014年3月22日から近鉄の特急車両による団体向け臨時列車の運行が神戸三宮駅 - [[近鉄志摩線]][[賢島駅]]間で開始された<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20140123.pdf 阪神三宮から近鉄沿線の観光地へ 近鉄特急車両(22600系)による団体向け臨時列車を3月22日から運行開始します]}} - 阪神電気鉄道、2014年1月23日。</ref><ref>{{Cite news |和書 |title=三宮―賢島間に初の直通列車 阪神と近鉄、観光シフト |newspaper=朝日新聞 |date=2014-03-22 |url=http://www.asahi.com/articles/ASG3N36MFG3NPTIL008.html |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2020-06-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140322073225/http://www.asahi.com/articles/ASG3N36MFG3NPTIL008.html |archivedate=2014-03-22}}</ref>。同年5月17日には初めて[[近鉄名古屋線]][[近鉄名古屋駅]] → 阪神本線甲子園駅間でも運転が行われている<ref>{{PDFlink|[http://www.kintetsu.co.jp/all_news/news_info/kousien.pdf 〜近鉄特急車両で名古屋から甲子園へ!〜近鉄名古屋駅から阪神甲子園駅まで乗換えなしで行く「阪神タイガース応援観戦ツアー」および「神戸フリープラン」を発売!]}} - 近畿日本鉄道、2014年4月18日</ref>。
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Sanyo-5000_Kintetsu-9020_Hanshin-8000_hanshin-amagasaki.JPG|[[尼崎駅_(阪神)|尼崎駅]]に乗り入れる各社の車両([[山陽電気鉄道5000系電車|山陽5000系]]・[[近鉄9020系電車|近鉄9020系]]・[[阪神8000系電車|阪神8000系]])
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<!--相互直通運転では、通常は鉄道運転業務上や車両管理上、他社と形式や車両番号が重複しないように対処している。/* 東京メトロ10000系と西武10000系など反例多数 */しかし、-->神戸高速鉄道乗り入れ開始時の経緯から、阪神の在籍車では5000番台(5001形など)が直通する山陽5000系列と一部重複する車両番号となっている。また2009年3月20日からは西大阪線延伸に伴う近鉄との相互乗り入れ開始に伴い、同社奈良線在籍の近鉄5800系と5820系も直通運用に充当され、3社の5000番台形式車が阪神電鉄線上を走ることになった<ref group="注">同様の事例は[[東武伊勢崎線]]において[[東京地下鉄]]/[[東京急行電鉄]]の車両と自社車両で8000番台の形式の重複という例がある。</ref>。また近鉄1252系や9820系なども乗り入れるようになったため、1000/9000番台形式も重複する。
2020年までは阪急電鉄の5000系が神戸本線で運用されていたため、神戸高速鉄道には、直通運転に参加している4社全ての鉄道会社の5000系が乗り入れていた。なお阪神の車両が廃車される2003年までは3000系、さらに遡ると2000系も、4社の車両全てが神戸高速鉄道に乗り入れていた。
[[京阪電気鉄道]]の開業時には[[大阪市電]]を経由して、阪神が京阪[[天満橋駅]]まで、京阪が阪神梅田駅(現在の[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]])まで直通する構想があり、阪神1形電車と[[京阪1形電車|京阪1形]]は寸法・性能ともほぼ同一で設計されていた。だが後に比較的大型の路面電車を走らせることになる大阪市電は、まだ小型車のみで運行しており、「乗り入れるなら市電と同じサイズで」と要望があったため、折り合いがつかずに頓挫した<ref>高山禮蔵『大阪・京都・神戸 私鉄駅物語』([[JTBパブリッシング]]、2005年)p.103-104</ref>。
=== 共同使用駅 ===
*[[大阪難波駅]]([[近畿日本鉄道]]の管轄駅)
*[[高速神戸駅]](阪神の管轄駅、[[阪急電鉄]]との共同)
*[[新開地駅]](同上、阪急電鉄・[[神戸電鉄]]との3社共同)
*[[西代駅]]([[山陽電気鉄道]]の管轄駅)
[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]は[[2010年]][[10月1日]]より阪神と[[神戸高速鉄道]]の[[共同使用駅]]から阪神の単独駅となった。
=== 車両 ===
かつては子会社に[[武庫川車両工業]]を有していた関係で、現有車両は武庫川車両工業製が半数以上を占めている。例外的に[[阪神9000系電車|9000系]]全車と[[阪神5500系電車|5500系]]の一部が[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]]製であるほか、武庫川車両工業が解散してからは[[阪神5550系電車|5550系]]のみ[[アルナ車両]]製(車体のみ)で、それ以降の[[阪神1000系電車|1000系]]・[[阪神5700系電車|5700系]]は全て[[近畿車輛]]製である。なお、1960年代頃までは[[汽車製造]]製や[[日本車輌製造]]製の車両も在籍していた。
2016年に5700系が[[鉄道友の会]]の[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]に選定され<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.jrc.gr.jp/newsreleas/3111.htm|title=鉄道友の会選定 2016年ブルーリボン賞・ローレル賞決定|work=JRCニュースリリース|date=2016-5-24|publisher=鉄道友の会|access-date=2021-10-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160917100225/https://www.jrc.gr.jp/newsreleas/3111.htm|archivedate=2016-09-17|url-status=live}}</ref>、阪神の車両として初の鉄道友の会BL賞(ブルーリボン賞・[[ローレル賞]])を受賞した。
2015年3月以降、全車両の先頭車運転席側に「たいせつが、ギュッと」マークを取り付けている。
関西の私鉄では車両を長期間使用することが多いが、阪神では車両冷房化をいち早く進めたことから、その対象から外された初期の大型車は登場から20年ほどで廃車になる車両も見られた<ref group="注">その他、ジェットカーではその高加減速性能故に足回りへの負担が大きく、老朽化が早く進んでいたため冷房化を兼ねて早期に置き換えられたという側面もある。</ref>。平成期以降は他社と同様に更新工事を行い、長期間使用する方針に改めている。
大手私鉄では2021年現在唯一、JRグループや他社で見られる[[リバイバルトレイン|復刻塗装]]を実施した例がない。また、路線距離が短いことや通勤需要に特化した路線のため、在阪大手私鉄では[[京阪電気鉄道]]とともに[[観光列車]]を保有したことが無い<ref group="注">ただし、京阪電鉄では観光・集客・輸送力強化を目的に、[[京阪特急|特急用車両]]にいずれも無料の「テレビカー(現在は廃止)」、「ダブルデッカー(二階建て車両)」を連結し、2017年及び2021年に特急運用兼用車両(新3000系)と共に「プレミアムカー(座席指定車)」を導入している。</ref>。
2014年から1000系を皮切りに順次、[[前照灯]]の[[発光ダイオード|LED]]への換装を進めており、2021年の[[阪神5001形電車 (2代)|5001形]]の廃車をもって関西大手私鉄では京阪電気鉄道に次いで、営業車両全編成の前照灯のLED化が完了した。
<gallery>
File:Hanshin-Series8000-8211.jpg|[[阪神8000系電車|8000系]](急行用)
File:Hanshin-Series9000-9201.jpg|[[阪神9000系電車|9000系]](急行・近鉄直通用)
File:Hanshin-Series9300-9501.jpg|[[阪神9300系電車|9300系]](急行用)
File:Hanshin-Series1000-1606.jpg|[[阪神1000系電車|1000系]](急行・近鉄直通用)
File:Hanshin-Series5001-5021.jpg|[[阪神5001形電車 (2代)|5001形]](本線普通用)
File:Hanshin-Series5500R-5505F.jpg|[[阪神5500系電車|5500系]](本線普通用)
File:Hanshin-Series5550-5551.jpg|[[阪神5550系電車|5550系]](本線普通用)
File:Hanshin-Series5700-5717.jpg|[[阪神5700系電車|5700系]]『ジェット・シルバー5700』(本線普通用)
</gallery>
==== 走行性能 ====
[[鉄道車両|車両]]は[[1960年代]]以降、高速走行性能に優れる急行・特急など優等列車用車両と、高加減速性能重視の普通列車専用車両に二分される。
阪神の路線は[[JR神戸線]]や[[阪急神戸本線|阪急神戸線]]といった競合路線と比べても駅間距離が短く、普通用の車両は所要時間の短縮や、優等列車ダイヤの遅延防止を目的として、特に高加速・高減速性能([[起動加速度|加速度]]・減速度ともに最大 4.0 - 4.5 km/h/s。地下鉄車両の場合は加速度が最大 3.3 km/h/s 程度)が求められており、一方、急行用の車両は高速性能が求められるため、他の大手私鉄の一般的な通勤電車と同様の性能(加速度が2.6 - 3.0 km/h/s)となっている。急行系が長らく採用されて来た朱色とクリームの車体塗装から「[[赤胴車]]」(ステンレス車体の1000系・9000系も含む)、普通系は同じように青とクリーム(5500系と5550系は色を変更)の車体塗装から「[[ジェットカー|青胴車]]」もしくはその高加速・高減速性能ゆえに初期車両に付いた愛称から「[[ジェットカー]]」(ステンレス車体の5700系は「ジェット・シルバー5700」<ref group="注">かつて存在したステンレス車体の5201形が「ジェットシルバー」と呼ばれていたことから、この愛称が付けられた。</ref>)と呼ばれている。
各形式の解説中、営業最高速度が急行用車両 106 km/h 、普通用車両 91 km/h となっているのは、[[運転曲線]]が[[自動列車停止装置|ATS]]の検知誤差を考慮して[[鉄道の最高速度最高速度|認可最高速度]]よりも4 km/h減で引かれていることによる。
==== 車体 ====
旧性能車時代は車体長さ・幅とも小さめの車両が使われており、当時の車両を現在では「小型車」と呼ぶ。正面の[[尾灯]]が左右段違いに付いており、[[貫通扉]]が二枚折りのガラス戸であるなど、特徴あるデザインだった。新性能車の導入にあわせて寸法は大型化され、現在の車両はいずれも近隣の京阪、阪急、山陽に類似した全長19m級の3扉車(同じグループである阪急については[[阪急京都本線|京都線]]用の車両とほぼ同じ寸法)で、先頭車前面には貫通路が設けられている。
[[地方鉄道法]]による免許の交付を受けるまでに製造された鉄道線の車両([[軌道法]]による特許の時代、つまり新設軌道線時代に新造された車両)は<!--大型車であっても-->車体側面の窓の下部に保護棒が取り付けられていたが、それらの車両は2020年6月をもって全車が引退した。
[[1980年代]]までは時間帯や種別によって編成両数を変えていたこともあり、[[阪神7001・7101形電車|7001・7101形]](のち[[阪神2000系電車|2000系]]へ改造)以前の大型車は正面の貫通扉が[[セットバック (建築)|セットバック]]しており([[阪神7801・7901形電車|7801・7901形]]など例外もある)、このセットバックした部分に[[貫通幌]]が格納されていた。[[阪神8000系電車|8000系]]以降の形式は固定編成となったため貫通幌を設置する必要がなくなったことから、正面はいずれも凹みがなくフラットな形状となり、非常用に特化された。ただ、近鉄との相互乗り入れ開始により[[快速急行]]においては増解結作業が発生することとなったため、[[阪神1000系電車|1000系]]のうち増結用2両編成では神戸方に貫通幌が剥き出しの状態で取り付けられている(併せて、乗務員室のうち[[操縦席#鉄道車両の運転席・運転台|運転台]]・[[車掌]]部分と通路とを仕切る扉が復活した)。
ステンレス車体の採用についてはこれまで4回の時期に隔てられており、初回が[[阪神5201形電車|5201形]](2両のみの試作的製造)、2回目が[[阪神9000系電車|9000系]](阪神大震災による被災車両の代替車両の急造に迫られた結果、当時は川崎重工業のステンレス車用の製造ベースが唯一空いていたため)、3回目が1000系、4回目が[[阪神5700系電車|5700系]]となっている。なお、1000系と5700系との間に登場した[[阪神5550系電車|5550系]]は普通鋼車体で新造されている。一方、開業から現在に至るまで、[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミニウム合金製の車両]]を導入したことは一度もない。
9000系までの両開き扉を持つ車両は、扉の開口幅は他社より広く1400mmを標準としていた。[[阪神9300系電車|9300系]]以降は他社並みの1300mmとなっている。
==== 機器 ====
車体デザインは全般的にオーソドックスな前面貫通型・3扉であるのに対し、早期における軽量高性能車・高減加速車の開発、[[電機子チョッパ制御]]の実用化、冷房化の推進など技術面の功績から、永らく「技術の阪神」として評価が高い。ただし、[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]の初導入は1995年の5500系であり、大手私鉄では最も遅かった。
[[電動機]]・[[集電装置|パンタグラフ]]は、[[東芝]]([[東芝インフラシステムズ]])製の電動機を採用の5700系<ref>[http://www.toshiba.co.jp/about/press/2015_03/pr_j3104.htm 東芝公式プレスリリース「阪神電気鉄道 新型車両向け電気品受注について(2015年03月31日)」]</ref>を除き[[東洋電機製造]](以前は制御器も納入していた)製であり、制御器のメーカーは東芝と[[三菱電機]]が現在の所有全車両において約半数ずつの採用となっている。他社からの直通運転可能な車両の一部で採用している[[日立製作所]]や[[富士電機]]の製品は納入していない。制御器に関しては、直流整流子電動機の時代において電機子チョッパ制御、[[界磁チョッパ制御]]、[[界磁添加励磁制御]]という[[省エネルギー]]効果のある制御方式を採用している。
保有車両数が少ないことが有利に働き、戦前から車内放送装置を全車両に設置していた。1950年代後半から新性能車が各社に登場したが、他の鉄道事業者では1980年代にもまだ大都市近郊で旧性能車が活躍していたのに対し、阪神では(鉄道線の旅客用車両に限定すれば)1966年という非常に早い時期に旧性能車が淘汰された。但し、全車両ベースにおける旅客営業用の[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]]車両の完全廃止は国道線廃止の1975年である。
多くの鉄道事業者では新性能車導入と同時に、車体は新性能車に準じた構造ながら走行機器を旧性能車から流用した旧性能機器流用車も製造したが、阪神では7801・7901形の中間車の一部に旧性能車の[[鉄道車両の台車|台車]]を流用したのみで、大手私鉄では[[東急電鉄]]とともに旧性能機器流用車の製造実績がない。
[[連結器]]に[[アメリカ合衆国]]のヴァン・ドーン(Van Dorn)社の[[連結器#密着連結器|バンドン式密着連結器]]を長く採用し続けたのは阪神のみであった<ref group="注">小型車時代には急行用車にはバンドン式を、普通用には[[連結器#トムリンソン式密着連結器|トムリンソン式密着連結器]]と2種の連結器を併用していた</ref>。また日本国内の鉄道車両の平均的な連結器取り付け位置よりも235mm低い、645mmの位置に連結器が取り付けられていたのも特徴である。2006年から5001形5013号車を皮切りに、[[近畿日本鉄道]]の車両と共通の'''回り子式密着連結器'''への換装が開始され、換装後の連結面高さは840mm(近鉄車では880mm)となっている。そのままで取り付けを行うと車体裾と干渉する恐れがあるため切り欠きをしているが、8000系についてはこの切り欠き加工を当初は実施していなかった。これは他の形式・系列と比べて車体裾高さが少し高いためだが、後の検査時に切り欠き加工を実施した8000系が一部で存在している。なお、山陽車は連結器の高さこそほぼ同じではあるが、阪神車・近鉄車と同じ回り子式密着連結器を採用している6000系を除き密着自動連結器を採用しているため、阪神・山陽各線での救援の際などの非常時に6000系を除く山陽車が阪神車または自社の6000系(および阪神電鉄線内での近鉄車)と連結する場合は中間連結器(アダプター)を使用する。
[[電気指令式ブレーキ]]搭載車のうち、VVVFインバータ制御の車両<ref group="注">[[阪神8000系電車|8000系]]は旧来の縦軸マスコン、ブレーキハンドル取り外し式</ref>では、ブレーキハンドルの形状がジェットカーと赤胴車で異なっている。ジェットカーは縦軸式なのに対して、赤胴車は山陽車・近鉄車の[[シリーズ21]]に合わせて前後操作式となっている(その他の近鉄車はジェットカーと同じく縦軸式)。9000系も登場当初は縦軸式であったが、近鉄乗り入れ対応改造工事を機に前後操作型に交換した。
==== 補助装備など ====
[[File:KINTETSU22600 H-ATS.JPG|thumb|200px|[[近鉄22600系電車|近鉄22600系]]に取付けられた阪神電鉄線用の列車種類選別装置車上子]]
[[File:Door cut switch(hanshin 8000series).JPG|thumb|200px|奥にあるのがドアカットスイッチ(8000系)]]
1970年代末には赤胴車が全車冷房化され、遅れていた青胴車も1983年には全車冷房化と、驚異的な早さで他社に先駆けて冷房化率100%を達成した。冷房装置は主に国鉄AU13型に準じた[[分散式冷房装置|分散式]]を採用していたが、8000系の途中からは[[集約分散式冷房装置|集約分散式]]へと変化している。冷房装置は[[三菱電機]]製のものが使用されており、現在では5001形(2代)などで使用されているAU13型類似の冷房装置の型番は「MAU13」である。
接客設備は1954年に登場した初の大型車3011形・初代5001形でクロスシートを採用した例があったが、その後はラッシュ時の混雑緩和や他車との併結を優先することもあり、ロングシート車の採用が続いた。2001年に登場した9300系ではセミクロスシートを中間車4両の扉間座席に採用し、以降8000系のリニューアル車の一部にも同様のレイアウトが導入されている。
普通列車については、1968年までは早朝・深夜の途中駅止まりを除き、[[行先標|方向板]]([[#方向板|後節]]も参照)自体を取り付けず全くの無表示であったが、同年4月7日の神戸高速鉄道開業によるダイヤ改正より「梅田 - 元町」などの方向板を前面に掲出するようになった。当初は発駅・着駅が書かれた方向板を使用していたが、神戸高速線に普通列車を直通させるようになった1987年12月13日改正以降は、取り換え作業を簡素化するため駅名部分が差し込み式となった方向板を使用した。ただし現在はすべての車両が[[方向幕]]もしくは[[発光ダイオード|LED]]表示となっており、方向板のみを使用する車両は全廃されている。
[[列車選別装置|列車種類選別装置]]は一貫して[[東芝]]製が使われており、車上子は先頭車の左側面の先端に付けられている。この車上子の銘板には最新型の車両でも、東京芝浦電気時代から使用している[[ロゴマーク]]の1つである「傘マーク」が使われている。列車種類選別装置は[[自動列車停止装置]] (ATS) や[[列車無線]]と違って、神戸高速線に直通する各社の共通規格ではなく、乗り入れしている[[山陽電気鉄道]]や[[近畿日本鉄道|近鉄]]の車両にも取り付けられている。運転台にある設定機器については、当初は種別ごとに定められた記号に合わせるチャンネル式であったが、現在は種別ごとに設けられたタッチパネルまたは照光押しボタン式である(山陽電鉄や近鉄の阪神乗り入れ対応車両も同様)。列車種類選別装置により、[[踏切]]の作動時間の最適化を図っている。
列車無線は1952年に[[日立国際電気|国際電気]]製の[[誘導無線]]が導入された。1977年には現在の空間波無線が導入されている。
急行系車両は、かつては有効長が5両編成までの駅・ホームに停車する際に[[ドアカット]]を実施していたため、乗務員室にドアカットスイッチが標準装備されている。また、かつては神戸三宮駅3番線降車ホームなどのほか、[[山陽電気鉄道本線|山陽電鉄本線]]内でも[[大塩駅]]などで長らくドアカットを実施していたことから、近鉄や山陽電鉄のうち阪神乗り入れ対応車両にも同様にドアカットスイッチが標準装備されている。なお、乗り入れ先も含めてドアカットは全て解消されたことから、神戸寄り先頭車両のドアにのみ貼付していた「上り大塩駅ではこの扉は開きません」のステッカーは剥され、またドアカットスイッチについても常時使用する機会はなくなったが、撤去はなされておらず残置されている。
{{-}}
==== 車両番号 ====
[[File:Hanshin-RW number8027.jpg|thumb|right|200px|阪神特有の[[鉄道の車両番号|車番]]書体(8000系)]]
かつては他の多くの鉄道会社と同様に、車両に「系列」の概念が存在しなかった。[[1980年代]]前半までは必要に応じ、複数グループの形式を自由に併結して編成を組む形を取っており、他社のような系列の考えが必要なかったため、7801形などの形式で呼称していたのである。つまり[[小田急電鉄]]や[[京成電鉄]]、[[西日本鉄道]]など現在でも「形」を使用している会社と同様、公式には「系」ではなく「形」を使用していた。3000系以降は1986年改造の[[阪神8701・8801・8901形電車|8701・8801・8901形]]と[[阪神7890・7990形電車|7890・7990形]]を除き、同一グループの形式だけで編成を組むようになったため、「系」で呼ぶようになっている<ref name="rp199707増_p191" />。
車体外側の[[鉄道の車両番号|車両番号]]表記には独特の縦長[[ゴシック体]]が用いられている。同じ書体はかつての子会社であり、阪神の車両の大半を製造していた[[武庫川車両工業|武庫川車両]]が製造を担当した、京福電車のモボ600番台や2000番台と[[えちぜん鉄道]]の車体にも用いられている。なお、車番は妻面にも書かれており、この事例は他の大手私鉄では京成のみである。
また、車両番号は四桁数字のみで、「モハ(デハ)」「クハ」「サハ」といった文字は一切使われていない。
大阪梅田駅と神戸三宮駅では可動式ホーム柵が設けられたため、車体側面下部に書かれている車両番号がホーム柵と干渉し確認しにくくなったことから、2022年に入ってから各編成ともに車体側面上部(側面下部とは対角線となる反対側)にも車両番号が描かれたステッカー([[阪神5001形電車 (2代)|5001形]]のみ青色、それ以外は白色)が貼付されている(これは阪急電鉄が先行して実施)。
==== 分類について ====
現用車は通常、急行用車両と普通用車両を基本に分類するが、本項では便宜上、以下の4種類を基本に分類することとする。
*後期大型車(8000系以降から現在製造中の系列)
*前期大型車(5131・5331形以前)
*開業以来の吊り掛け駆動による小型車
*併用軌道線(国道線・甲子園線・北大阪線の阪神電鉄社内における総称)向け車両
以下掲載している全車両において、製造初年度が新しい車両は上、古い車両は下に配置している。
===== 後期大型車 =====
本線においては4両または6両の固定編成で運用されており、系列把握は他社並に容易である。
阪神なんば線開業前は最長編成両数が6両で、大手私鉄で唯一7両編成以上の列車が存在したことがなかったが、阪神なんば線開業以後は、9000系と1000系に限り尼崎駅で増結用車両を増結し、一部の列車で自社および近鉄の車両による8両編成ないし10両編成の運行を開始した。2020年3月より、本線でも土曜・休日の快速急行で8両編成の運行を開始した<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20191220-daiya.pdf |title=3月 14 日にダイヤ改正を行います。 〜快速急行がますます便利になります〜 |publisher=阪神電気鉄道 |date=2019-12-20 |accessdate=2019-12-20 }}</ref>。
2015年度からは、量産型の普通用車両としては初のステンレス製となる5700系「ジェット・シルバー5700」<ref>[https://www.sankei.com/article/20150330-CTDLTGVNJBM3ZD3HGTRQRWCF4M/ 阪神電鉄ジェットカー「期待の新星」デビュー 省エネ実現しつつトップクラスの加速度維持] - 産経WEST、2015年3月30日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20150330-5700kei.pdf 人と地球へのやさしさを追求した新型普通用車両5700系を導入します 〜普通用車両で20年振りの新型車両を今夏から導入〜]}} - 阪神電気鉄道、2015年3月30日</ref><ref>[http://rail.hanshin.co.jp/service/more/?mode=detail&more_no=9 新型普通用車両5700系(ジェット・シルバー5700)の導入について] - 阪神電気鉄道、2015年8月12日</ref>が順次投入されており、旧型となった2代目5001形、および5131形、5331形を置き換えている<ref>[[電気車研究会]]『[[鉄道ピクトリアル]] 京阪神 都市鉄道プロジェクト』2015年4月臨時増刊号</ref>。
*急行用車両
**[[阪神1000系電車|1000系]] - 近鉄直通運転対応
**[[阪神9300系電車|9300系]]
**[[阪神9000系電車|9000系]] - 近鉄直通運転対応
**[[阪神8000系電車|8000系]]
*普通用車両
**[[阪神5700系電車|5700系]]
**[[阪神5550系電車|5550系]]
**[[阪神5500系電車|5500系]]
===== 前期大型車 =====
この世代は近畿日本鉄道や[[神戸電鉄]]と同様、多種の形式が存在しており、大手私鉄の新性能車としては複雑な部類に入るとされている(阪神は大手私鉄としては路線規模が小さいが、路線の長さと車種の多さは比例しない)。主な理由は以下の通り。
* 何世代にもわたって、同様のスタイルで車両を製造していた(厳密には正面の周囲や、初期急行用車両の窓配置がかなり異なる)。
* 同じ時代に作られた系列でも、急行用車両と普通用車両、両運転台と片運転台、2両運転可と1両運転可など作り分けがあった。
* 新車が出る場合、系列番号の1000位か100位が増加して行くのが一般的であるが、阪神では3000、5000、7000台の番号の増減が不規則に見られがちであった(ちなみに4000台、6000台は使用した実績がない)。
** 急行系車両のうち、7000番台は[[電気ブレーキ]]なし、それ以外の番台は電気ブレーキ付きとなっている<ref name="rp199707増_p191">阪神電車鉄道同好会「私鉄車両めぐり (157) 阪神電気鉄道」『鉄道ピクトリアル』1997年7月臨時増刊号(電気車研究会)191頁。</ref>。例外として[[阪神3521形電車|3521形]]には電気ブレーキがない<ref name="rp199707増_p191" />。
** 普通系車両はすべて5000番台が付番されている。5500系以前に登場した普通系車両を総称して「5000系」と呼ぶこともある<ref name="rp199707増_p191" />。
* 前述の通り、1 - 2両単位の形式が自由に組み合わされて4 - 6両編成を組成していた。
* 8000系製作以前の急行用車両はほとんどが新造後に改造され、別番号に改番されていた。
そこで前期大型車については下記の表を使用し、製造年や改造年により、同世代の急行用車両と普通用車両などの把握を容易にしているので、参照されたい。
* 急行用車両と普通用車両で製造年が違う場合、その枠内で最も製造年の早い形式を記載。
* 改造した系列は改造後も改造初年でなく、製造初年の順に配置している。
* 下表のうち5001形(2代目)のみが現存。他は改造や廃車により消滅。
{| class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!style="background-color:#ddd;"|製造初年
!style="background-color:#adf; border-bottom:solid 3px blue;"|普通用車両
!style="background-color:#fdf; border-bottom:solid 3px red;"|急行用車両(製造時)
!style="background-color:#fdf; border-bottom:solid 3px red;"|急行用車両(改造後)
!style="background-color:#fdf; border-bottom:solid 3px red;"|急行用車両の<br />窓配置(片運転台)
|-
![[1981年]]
|[[阪神5131形・5331形電車|5131形]]<br>[[阪神5131形・5331形電車|5331形]]
|
|
|
|-
![[1974年]]
|'''[[阪神5001形電車 (2代)|5001形]]'''(2代目)
|[[阪神3801・3901形電車|3801・3901形]]
|[[阪神7890・7990形電車|7890・7990形]]<br>[[阪神8701・8801・8901形電車|8701・8801・8901形]]
|
|-
![[1969年]]
|[[阪神5261形電車|5261形]]
|[[阪神7001・7101形電車|7001・7101形]]<br>[[阪神7801・7901形電車|7801・7901形(両開き扉)]]
|[[阪神2000系電車|2000系]]
|(ここより上はすべて同じ)<br>d1D3D3D2
|-
![[1963年]]
|[[阪神5261形電車|5261形]]・[[阪神5311形電車|5311形]]
|[[阪神7801・7901形電車|7801・7901形(片開き扉)]]<br>[[阪神7861・7961形電車|7861・7961形]]<br>[[阪神3521形電車|3521形]]
|[[阪神3000系電車|3000系]]
|d1D4D4D2
|-
![[1958年]]
|[[阪神5231形電車|5231形]]・[[阪神5151形電車|5151形]]<br>[[阪神5101形・5201形電車|5101形・5201形]]
|[[阪神3601・3701形電車|3601・3701形]]<br>[[阪神3301形・3501形電車|3301形・3501形]]
|[[阪神3601・3701形電車#7601・7701形|7601・7701形]]<br>(改造なし)
|d1D22D22D2
|-
![[1954年]]
|[[阪神5001形電車 (初代)|5001形(初代)]]
|[[阪神3011形電車|3011形]]
|[[阪神3011形電車#3561形・3061形|3561形・3061形]]
|d1D3D3D1(3扉改造後)
|}
===== 事業用大型車 =====
*[[阪神201・202形電車#110形|110形]]
*[[阪神201・202形電車|201・202形]]
===== 小型車 =====
全車除籍済。
*[[阪神1001形電車|1001形・1101形・1111形・1121形・1141形]]
*[[阪神851形電車|851形・861形・881形]]
*[[阪神801形電車|801形・831形]]
*[[阪神601形電車|601形]]
*[[阪神701形電車|701形]]
*[[阪神301形電車|301形・311形・321形・331形・291形]]
*[[阪神1形電車|1形(本線)]]
===== 事業用小型車及び電動貨車 =====
全車除籍済。
*[[阪神101形電車|101形]](有蓋電動貨車)
*[[阪神111形電車|111形・112形・121形 (貨車)]](無蓋電動貨車)
*[[阪神151形電車|151形]](救援車)
*[[阪神155形電車|155形]](救援車)
*[[阪神67形電車|67・69形]](散水車)
===== 併用軌道線(国道線・甲子園線・北大阪線)車両 =====
路線廃止により全車廃車。
*[[阪神201形電車|201形]]
*[[阪神91形電車|91形]]
*[[阪神71形電車|71形]]
*[[阪神121形電車|121形]](アミ電)
*[[阪神31形電車|31形]]
*[[阪神国道電軌1形電車|1形 (併用軌道線)]]
*[[阪神51形電車|51形・61形]]
*[[阪神501形電車|501形]]
=== 車両基地 ===
*[[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎車庫・工場]]
*[[石屋川車庫]]
*[[御影駅 (阪神)|御影]]留置線
2012年までは、関西の大手私鉄で唯一、[[車両基地]]を一般に公開するイベントを開催したことがなかった(他社では[[鉄道の日]]イベントは車両基地で行われるが、「はんしんまつり」は[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]の[[エビスタ西宮]]で開催されていた。2013年より尼崎工場で開催)。ただし、「わくわくトレイン」や「石屋川エクスプレス」といった事前応募制の貸切臨時列車を運転して車両基地を公開したことはある。
=== 乗務員区所 ===
*東部列車所《尼崎》(梅田駅 - 尼崎駅、武庫川線、阪神なんば線)
**尼崎車庫構内に事務所がある
*西部列車所《石屋川》
**石屋川車庫構内に事務所がある。
*西部列車所西宮交代所《西宮》
=== 運賃・乗車券 ===
大人普通旅客[[運賃]](小児は半額・10円未満切り上げ)。特定運賃区間を除き[[鉄道駅バリアフリー料金制度|鉄道駅バリアフリー料金]]10円を含む。2023年4月1日改定<ref name="hanshin20220803" />。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|-
!キロ程!!運賃(円)!!加算含む
|-
|特定||130|| -
|-
|1 - 4||160||220
|-
|5 - 8||200||290
|-
|9 - 13||250||340
|-
|14 - 18||280||370
|-
|19 - 24||300||390
|-
|25 - 30||320||410
|-
|31 - 34||330||420
|}
神戸三宮駅 - 元町駅間の普通運賃は上表の「特定」欄の運賃を適用。
神戸高速線は、阪神が第2種鉄道事業者となる区間も含めて別途運賃が設定されている。神戸高速線の運賃の詳細は「[[神戸高速線#運賃]]」を参照。本線と跨って乗車する場合は、神戸三宮駅を境界として運賃を合算する形になる。
2023年4月1日より、グループの阪急電鉄と同時に、[[ホームドア]]の整備など[[バリアフリー]]の推進を目的として、普通運賃・通勤定期運賃に[[鉄道駅バリアフリー料金制度]]による料金の上乗せ(普通運賃は10円、通勤定期は1か月で380円)を実施している<ref name="hanshin20220803">[https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20220803-keikakubu-barifuri-2.pdf 更に安心・快適に。 全駅へのホーム柵の設置を目指します ~鉄道駅バリアフリー料金制度を活用することで、整備を加速化します~ ] - 阪神電気鉄道、2022年8月3日</ref>。
==== 加算運賃 ====
[[阪神なんば線]]の[[西九条駅]] - [[大阪難波駅]]間(他の区間と連続して利用する場合も含む)を利用する場合、上表の「加算含む」欄の額が適用される。普通運賃では通常額に90円(初乗り区間は60円)が加算される。
==== 運賃計算の特例 ====
[[杭瀬駅]] - [[大物駅]] - [[出来島駅]]を含む経路を乗車する場合は、大物駅を過ぎて[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]で折り返して乗車しても大物駅経由として運賃計算される。これは、大物駅には優等列車が停車しないことからの措置であり、乗り継ぐ前後の両方の列車が大物駅に停車する場合も含めて尼崎駅での乗り換えも可能である。ただし、定期券の場合は「大物駅乗換」か「尼崎駅乗換」かを指定する必要があり、「大物駅乗換」の定期券では尼崎駅で乗り換えることができない<ref>[http://rail.hanshin.co.jp/search/info.html 検索に関する注意事項] - 阪神電車</ref>。
==== 回数券の取り扱い ====
[[2022年]][[9月30日]]をもって、身体・知的障害者用特別割引回数乗車券を除き、他社連絡回数券も含めて全ての[[回数乗車券|回数券]]の発売を終了した。代わりに、PiTaPaの従来のサービスに加え、ICOCAでの阪神電鉄線内での利用に対してもポイントを還元するサービスを、阪急電鉄・[[能勢電鉄]]や山陽電鉄との間でポイントを共通に使える施策として同年[[9月1日]]より開始した<ref>{{Cite press release|和書|title= ICOCA利用へのポイントサービス 「阪神電車ポイント還元サービス」を9月から開始 ~山陽・能勢・阪急とも連携予定~|publisher=阪神電気鉄道|date=2022-08-08|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20220808-keikaku-pointo.pdf |format=PDF |access-date=2022-08-09}}</ref>。また併せて、阪急との間で実施していた後述の回数券引き換えサービスも同様に9月30日をもって終了となった<ref name=":0" />。
回数券については、晩年は[[阪急電鉄]]とともに[[磁気カード]]による「回数カード」に統一しており、紙(磁気券)の仕様は他社線との連絡回数券のみとしていた。なお、[[2007年]][[4月1日]]より、阪急電鉄と運賃が同額の区間(2019年10月1日改定時点では190円、270円、280円、320円、380円、400円)の回数カードについてのみ、阪急電鉄でも利用可能のサービスを実施していた(但し、阪急電鉄で利用する場合は乗車前に阪急電鉄の駅の自動券売機で阪急のきっぷに引き換える必要があった)。また、[[2018年]][[10月1日]]より、複数人で乗車する場合などで回数カードを紙の[[乗車券|切符]]に引き換えた場合(阪急電鉄での引き換え含む)は、その切符の有効期限は引き換え当日のみとした。
==== 通勤定期での選択乗車制度 ====
[[定期乗車券|通勤定期券]]を使用する場合、以下に挙げる3つの場合で[[選択乗車]]が可能となっている。
# 阪神本線の[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]] - [[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]間を含む定期券を所持している場合、[[阪急神戸本線]]を利用して[[三宮駅#阪急電鉄(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]]と[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]でも乗降が可能。逆に、阪急神戸本線の神戸三宮駅 - 大阪梅田駅間を含む定期券を所持している場合、阪神本線を利用して神戸三宮駅と大阪梅田駅でも乗降が可能。但し、どちらにおいても他社の神戸三宮駅と大阪梅田駅以外の途中の駅で乗降する場合は別途乗車した区間の運賃が必要<ref name="阪神定期">[http://rail.hanshin.co.jp/ticket/teikiken/teiki02.html 定期券] - 阪神電気鉄道(2013年2月24日閲覧)</ref>。
# 阪神本線・阪神神戸高速線の神戸三宮駅 - [[高速神戸駅]]間を含む定期券を所持している場合、阪急神戸本線・[[阪急神戸高速線]]の神戸三宮駅・[[花隈駅]]・高速神戸駅で乗降可能。逆に阪急神戸高速線の神戸三宮駅 - 高速神戸駅間を含む定期券を所持している場合、阪神本線・阪神神戸高速線の神戸三宮駅・[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]・[[西元町駅]]・高速神戸駅で乗降可能。本項に限り、通勤定期券だけでなくIC通学定期券にも適用される<ref name="阪神定期" />。
# 阪神なんば線の[[九条駅 (大阪府)|九条駅]] - [[大物駅]]を含む定期券を所持している場合、阪神本線の大阪梅田駅でも<!-- 無料で -->乗降が可能(「'''OSAKAどっちも定期'''」<!-- なんば線九条以東開業当日よりこの愛称がついている -->)。逆は不可。また、[[福島駅 (阪神)|福島駅]] - 杭瀬駅間での乗降には別途運賃が必要となる<ref name="阪神定期" />。
==== 近鉄線(または他社路線)との連絡乗車券 ====
{{独自研究|section=1|date=2018年9月17日 (月) 05:12 (UTC)}}
[[近畿日本鉄道|近鉄]]との連絡乗車券は[[近鉄奈良線]]系統の一部の駅と[[近鉄大阪線|大阪線]]の[[大阪上本町駅]]から[[桜井駅 (奈良県)|桜井駅]]までしか発売できないため(下記参照)、運賃表に記載のない駅へ行く場合はその最寄り駅までの乗車券を購入し、車内か降車する駅で[[不足賃|精算]]することとなる。近鉄と阪神なんば線新区間の各駅への連絡乗車券は[[タッチパネル]]方式の新型自動券売機でしか購入できない。花隈駅を除く神戸高速線では近鉄との連絡乗車券は発売されていないので大阪難波駅までの乗車券購入後、車内か降車する駅で精算することとなる。[[PiTaPa]]や[[ICOCA]]などの[[交通系ICカード全国相互利用サービス|全国相互利用対応の交通系IC乗車カード]]はそのまま目的駅まで利用できる。
連絡乗車券発売対象区間は以下の通り。
*奈良線 全駅
*難波線 全駅
*大阪線 大阪上本町駅 - 桜井駅間
*[[近鉄京都線|京都線]] [[平城駅]]・[[高の原駅]]
*[[近鉄橿原線|橿原線]] 全駅
*[[近鉄天理線|天理線]] 全駅
*[[近鉄けいはんな線|けいはんな線]] [[生駒駅]] - [[学研奈良登美ヶ丘駅]]間
*[[近鉄生駒線|生駒線]] 生駒駅 - [[東山駅 (奈良県)|東山駅]]間<!-- 生駒線のみ東山駅までだが、阪神電鉄線内から乗車時に限って対象区間外である同駅以南(元山上口 - 王寺の各駅間)の切符も対象区間内各駅への運賃と同額なら購入可。 -->
*[[近鉄信貴線|信貴線]] 全駅
[[東鳴尾駅]]と[[洲先駅]]を除く(この2駅には自動券売機がなく、いったんそのまま乗車してから[[武庫川駅]]の中間改札に設置されている自動券売機で購入することになる)全ての駅では近鉄(発売範囲は上記参照)に加えて、[[神戸高速線]]経由[[山陽電気鉄道]]・[[神戸電鉄]]各駅への'''連絡普通券'''も購入できる。なお、'''連絡回数券'''は阪神電鉄線と神戸高速線・山陽電鉄線・神戸電鉄線間で利用できるものしか発売されていない。
==== 障害者割引 ====
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|+
!対象
!要提示物
!種別
! colspan="3"| 区分
!距離
!普通券
!回数券
!定期券
|-
| rowspan="13" |[[身体障害者]]<br />[[知的障害者]]
| rowspan="13" |[[身体障害者手帳]]<br />[[療育手帳]]
| rowspan="7" |第一種
| rowspan="3" |大人
| colspan="2" |単独
|101km以上
| rowspan="5" |5割引
| colspan="2" | -
|- align="center"
| rowspan="2" |介護付
|本人
| rowspan="2" |無制限
| colspan="2" rowspan="2" |5割引
|-
|介護人
|-
| rowspan="4" |小児
| colspan="2" |単独
|101km以上
| colspan="2" | -
|- align="center"
| rowspan="3" |介護付
|小学生
| rowspan="3" |無制限
|5割引
|無割引
|- align="center"
|乳幼児
| colspan="3" |無料
|- align="center
|介護者
| colspan="3" |5割引
|- align="center"
| rowspan="6" |第二種
|大人
| colspan="2" rowspan="3" |単独
| rowspan="3" |101km以上
| rowspan="3" | 5割引
| colspan="2" rowspan="3" | -
|-
|小児
|-
| rowspan="4" |小児
|-
| rowspan="3" |介護付
|小学生
| rowspan="3" |無制限
| colspan="2" rowspan="3" | -
|無割引
|-
|乳幼児
|無料
|-
|介護人
|5割引
|}
==== IC乗車カード ====
以下の各項目を参照。
*[[PiTaPa]]
*[[STACIAカード]] - 阪急阪神グループ発行のPiTaPaカード。
*[[ICOCA]] - JR西日本のプリペイド式IC乗車カード。2006年から阪神電鉄線でも利用可能。2019年3月1日には阪神の駅でも定期券を含めて発売開始<ref name="hanshin2451" />。なお、近鉄管理の大阪難波駅や山陽管理の西代駅ではそれ以前から発売されている。
阪神電気鉄道では上記のICカードを含む[[交通系ICカード全国相互利用サービス|交通系全国相互利用IC乗車カード]]が利用できる。また、連絡する[[西代駅]]以西の山陽電鉄線や[[新開地駅]]以北の神戸電鉄線・大阪難波駅以東の近鉄線でも交通系全国相互利用IC乗車カードが利用できる。
==== 過去に発売されていた乗車カード ====
*[[CoCoNet PiTaPaカード]] - 2007年9月で発行を終了し、翌10月からSTACIAカードに移行。
*ハープカード - 1988年より発売されていた独自のプリペイドカード<ref name="history4" />。ハープは「'''H'''anshin '''E'''lectric '''R'''ailway '''P'''repaid」の各頭文字をつなげたもの。自動券売機および自動精算機専用の磁気カードで、自動改札機では利用できない。[[スルッとKANSAI]]に加入時に自動改札機でも利用できる後述の「らくやんカード」に切り替える形で1996年に発売終了し、2010年3月頃に自動券売機および自動精算機での利用も終了した。2024年9月末までの予定で払い戻しの対応を行っている<ref name="prepaidcard" />。
*[[らくやんカード]] - 本線・阪神なんば線の各駅および武庫川団地前駅で2017年3月31日まで発売していたスルッとKANSAI対応の磁気カード<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20160701-kyoutsuucard.pdf 阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄の4社におけるスルッとKANSAI対応カードの取扱いについて「ラガールカード」、「らくやんカード」、「パストラルカード」、「レジオンカード」の発売を2017年3月31日で終了し、4社のみでご利用可能な新しい磁気カードを2017年4月より発売します]}} - 阪神電気鉄道、2016年7月1日</ref>。2019年9月30日で阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄での自動改札機での取り扱いを終了した<ref name="hanshin20180130">{{PDFlink|[http://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/b79c21af9bfb8850380796adf6f6bb2520c9ddff.pdf 2月1日より「らくやんカード」および「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」のご利用エリアが変更となります]}} - 阪神電気鉄道、2018年1月30日</ref><ref name="hanshin2452" />。2022年9月30日をもって自動券売機および自動精算機での利用も終了した。なお、2022年8月から設置された新型券売機では当初から使用できなかった。
*[[ラガールカード]] - 神戸高速線 西元町 - 高速長田間各駅で2017年3月31日まで発売していたスルッとKANSAI対応の磁気カード。2019年9月30日で阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄での自動改札機での取り扱いを終了した<ref name="hanshin20180130" /><ref name="hanshin2452" />。
*[[阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード]] - スルッとKANSAI終了に伴い、前述の「らくやんカード」に代わって2017年4月1日より2019年2月28日まで本線・阪神なんば線の各駅および武庫川団地前駅で発売していた磁気カード<ref name="hanshin20161227">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20161227-card.pdf スルッとKANSAI対応共通磁気カードの発売終了に伴い阪急電鉄・阪神電気鉄道・能勢電鉄・北大阪急行電鉄4社共通の磁気カード「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を2017年4月1日より発売します]}} - 阪神電気鉄道、2016年12月27日</ref>。2019年9月30日で自動改札機での取り扱いを終了した<ref name="hanshin2452" />。2024年9月末までの予定で払い戻し対応を行っている<ref name="prepaidcard">{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/pdf/haraimodoshi.pdf |title=「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」・「ハープカード」の払いもどしについて |publisher=阪神電気鉄道 |date= |accessdate=2020-11-30 }}</ref>。2022年9月30日をもって自動券売機および自動精算機での利用も終了した。なお、2022年8月から設置された新型券売機(ICカードは挿入せず読み取り部に置く仕様)では当初から使用できなかった。
==== 企画乗車券 ====
以下の各項目を参照。
*[[阪急阪神1dayパス]]
*阪神・山陽シーサイド1dayチケット
*阪神・明石市内1dayチケット
*[[高野山1dayチケット]]
*[[奈良・斑鳩1dayチケット]]
*[[いい古都チケット]]
このうち「高野山1dayチケット」「奈良・斑鳩1dayチケット」は、阪神なんば線開業までは梅田駅(現在の大阪梅田駅)経由[[大阪市営地下鉄]]・[[大阪市交通局南港ポートタウン線|ニュートラム]]が利用できたが、開業後この2チケットは阪神なんば線経由で利用するように改められた(前者のチケットは大阪難波駅で徒歩連絡乗り換えができ、後者のチケットは同駅から直接接続することになる)ため、大阪市営地下鉄・ニュートラムの利用はできなくなっている(詳細は「[[阪神なんば線#大阪難波延伸開業による利便性の向上]]」を参照のこと)。
発売駅以外からの利用について、利用当日に限り乗車駅からの普通乗車券を企画乗車券発売駅で提示して購入すると、普通乗車券を回収したうえで購入した企画乗車券と有効区間が重複する部分が払い戻される(公式ホームページの「お得なきっぷ」のページより)。
==== 過去に発売されていた乗車券 ====
*[[どこでもパス]]
*タイガースきっぷ - 1994年のみ発売されていた、梅田 - 甲子園間専用の6枚つづりの回数券。普通乗車券サイズ(磁気券)。
*としのせきっぷ - 1990年代から2008年にかけて発売されていた、毎年12月1日 - 31日の1か月間のみ阪神全線(元町駅以東)で使用できた企画乗車券。普通乗車券サイズ(磁気券)で大人用のみ4枚900円で発売されており、梅田駅 - 元町駅間で利用すれば30%近い割引率になった<ref>{{Cite web|和書|title=年末のお出かけに便利でお得な企画乗車券「としのせきっぷ」を発売 |url=http://www.hanshin.co.jp/company/press/html/20001117.html |publisher=阪神電気鉄道 |date=2000-11-17 |accessdate=2018-04-25 }}{{リンク切れ|date=2020年11月}}</ref>。阪神なんば線が延伸開業した2009年以降は発売されていない。
==== QRコード乗車券 ====
2024年6月より[[QRコード]]乗車券のサービスが開始される予定である<ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20231214-keikaku-qrjousyaken.pdf |title=2024年6月から QRコードを活用したデジタル乗車券サービスを開始します |access-date=2023-12-24 |publisher=阪神電気鉄道}}</ref>。また、それに合わせ、2025年3月末までにすべての駅で自動改札機をQRコードに対応する改札機に更新する予定で<ref name=":1" />、2023年12月時点で[[甲子園駅]]と[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]のすべての改札機が更新されている<ref group="注">すべての改札口が更新されてはいないが、[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]は市役所口のみ更新されている。</ref><ref>{{Cite web |title=阪神電車新型改札機導入状況 |url=https://odakyu4000fan.blogspot.com/2023/11/blog-post.html |website=Blogger |access-date=2023-12-25}}</ref>。
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ファイル:甲子園駅西改札口.jpg|更新前の改札機
ファイル:甲子園駅西改札口2.jpg|更新後の改札機
ファイル:阪神電車通常改札機 (更新後).jpg|矢印の上側にQRコードを読み込ませる部分がある。サービス開始まではQRコード機能は使えないようになっている。
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=== 旅客案内 ===
{{雑多|section=1|date=2018年8月2日 (木) 06:05 (UTC)}}
==== 車内放送 ====
乗務員室にある放送装置には、乗務員同士で通話が可能な[[インターホン]]の機能が付けられており、マイクを通じてのみでの通話が可能である(マイクにはスピーカーも搭載)。現在の装置は、操作盤にある照光式の「車内」「車外」「インターホン」(5700系と5500系のリニューアル編成では、それらに加えて「車内外」「扉個別」もある)のいずれかのボタンを押した上で、マイクにあるボタンを押すことで放送または通話が可能な仕組みとなっている。
長らく、操作盤は「放送」「切」「インターホン」のボタンの仕様のものが使われており、その当時は「放送」ボタンを押すだけでマイクのスイッチが入りそのまま車内放送が可能で、マイクに付いているボタンを押すと車外スピーカーに流れる方式としていた。ただ、これは乗り入れ先の山陽電鉄、近鉄とは方式が異なることから、5700系が登場して以降は既存車両は機器を更新し他社に合わせた現在の方式としている。なお、1980年代までの車両では「放送」「インターホン」それぞれのスイッチのレバーを上下させるもの<ref group="注">[[西宮市]]の[[鳴尾#武庫川団地|武庫川団地]]にて静態保存されている[[阪神7890・7990形電車|7890号]]の運転台に現存している。</ref><!---当時のマイクはNEC製の丸型--->であったが、のちにボタン式のものに取り換えられている。
[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]との乗換駅である[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]や[[野田駅 (阪神)|野田駅]]、[[三宮駅|神戸三宮駅]]では競合関係にあるためか過去はJRへの案内が省略されていたが、阪神なんば線開業の2009年のダイヤ改正より案内を行うようになった<ref group="注">並行する阪急では2013年12月21日の京都線ダイヤ改正までは放送されていなかった。また乗り入れ先の山陽電鉄線([[山陽明石駅]]、[[山陽姫路駅]]など)では、2021年現在においてもJRへの乗り換え案内は行われていない。</ref>。ただし、他社線や[[阪神バス]]との乗り換え案内は、原則として23時以降は行わない。
大阪梅田駅を[[車内放送]]で案内する場合「梅田、大阪梅田、終点です。」と放送する。また昼間時には「大阪梅田」の後に「[[阪神百貨店]]前」が追加される。[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]における[[阪神なんば線]]から[[阪神本線]]への乗り換え案内では、「大阪・神戸方面」と梅田や三宮・元町を省略することも少なくない。
[[福島駅 (阪神)|福島駅]]を車内放送で案内する場合「福島、[[ラグザ大阪]]・[[ホテル阪神]]前です。」と放送する。
[[尼崎センタープール前駅]]を車内放送で案内する場合「[[尼崎競艇場|センタープール]]前、尼崎センタープール前です。」と放送する。これは尼崎駅との区別を明確にするためである。
[[甲子園駅]]を車内放送で案内する場合、現在は「甲子園、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]前です。」と放送する。かつては「甲子園、甲子園野球場です。」と車内、甲子園駅構内でアナウンスされていた。
[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]を車内放送で案内する場合、昼間時のみ「西宮、[[エビスタ西宮]]前です。」と放送する。ただし十日えびすの期間中は「西宮、[[西宮神社|西宮戎]]です。」と案内される。
神戸三宮駅を車内放送で案内する場合は「三宮、神戸三宮です…(略)」と放送する。
最終到着駅を案内する場合、梅田駅など終端駅の場合は「●●(駅名)、'''終点'''です。」、そうでない場合は「'''終着'''、●●です。」と案内する。
阪神なんば線(神戸三宮、新開地始発の[[近鉄奈良駅|奈良]]行き快速急行を含む)の列車については、行先、種別の前に「西九条、難波方面」を付け加えて放送することが多い。
全駅でどちらの扉が開くか案内する。また、通過運転を行う区間では、到着放送の結びに到着駅名の再案内を行う(例:「西宮、エビスタ西宮前です。乗り換え案内をします。各駅停車ご利用の方は左側、1番線の電車にお乗り換えください。阪神バスご利用の方はお乗り換えください。西宮を出ますと、次は、甲子園にとまります。出口は左側です。西宮です。」)。
普通列車ではかつて、駅到着直前の放送は原則として行わず、各駅を出発後に「次は、●●、●●です。出口は●側です。」を1回のみ放送していた時期があったが、2009年3月20日以降は普通列車でも駅到着直前の放送が行われている。
2012年3月20日のダイヤ改正前まであった阪神なんば線内の各駅に停車する奈良行の快速急行(同改正で快速急行の全列車が「尼崎 - 西九条間ノンストップ運転」となった)の尼崎到着時の車内案内は「[[大阪難波駅|大阪難波]]まで各駅に停車」と「[[鶴橋駅|鶴橋]]まで各駅に停車」と両方あり、必ずしも統一はされていなかった。ただし事実上は[[近鉄奈良線]]の鶴橋まで各駅に停車するため後者も誤りではない。
2014年より運転を開始した[[近鉄22600系電車]]による[[団体専用列車|貸切列車]]が御影駅を通過する際は、上りでは[[石屋川駅]]手前で、下りでは[[住吉駅 (阪神)|住吉駅]]手前で「間もなく、御影駅を通過します。電車が揺れますのでご注意ください。」と放送を行う。また、上りでは[[乗務員]]交替となる桜川駅(乗客は下車不可能)で、下りでは乗客の下車する各駅で「阪神電車をご利用頂きありがとうございました」と放送を行う。
2016年3月19日のダイヤ改正からは、車内での駅到着時の乗り換え案内では「乗り換えのご案内をします。」などと丁寧な表現が用いられている。
*野田駅、甲子園駅、西宮駅到着時には「阪神バスご利用の方はお乗り換えください。」と案内する(これは阪神電鉄バス時代から行われている)。但し尼崎駅では阪神バスが乗り入れているにもかかわらず、乗り換え案内はしない。また阪神バスでも、尼崎市内線(旧[[尼崎市交通局]]の路線)への案内は行われていない。
*[[御影駅 (阪神)|御影駅]]に到着する際には、「[[六甲山]]へお越しの方はバスにお乗り換え下さい。」と案内する。これは六甲山のレジャー施設の開発運営を阪神電鉄が行っているためである。ただし御影駅前には阪神バスではなく[[神戸市バス|神戸市交通局バス]]が乗り入れている。また西宮と違い、阪神百貨店が入居する施設である「[[御影クラッセ]]」の案内は行われていない。
2017年2月から、「姫路」は「山陽姫路」、「難波」は「大阪難波」、「日本橋」は「近鉄日本橋」、「奈良」は「近鉄奈良」など、それまで省略して案内していた駅名は全て正式駅名で案内するようになった。但し、車両側の表示器は他社車両も含め従来のままとなっている。
2019年3月20日より、阪神なんば線内と本線の快速急行で多言語自動放送を開始した。これは、乗り入れ先の近鉄が先行して車掌が携帯する[[タブレット (コンピュータ)|タブレット端末]]を用いて多言語自動放送を行っていることに追随したもので、タブレット端末を車両側のコネクタに接続してタッチパネルを操作し、[[日本語]]と[[英語]]、一部で[[中国語]]・[[韓国語]]による多言語自動放送を行うものである。なお、これらは全て[[音声合成]]ソフトで作成した人工音声である<ref name="voicetext">{{cite web |url=https://readspeaker.jp/news/articles/casestudy20190509_hanshin.html |title=阪神電車の車内放送の音声にVoiceTextが採用 ~ 日本語・英語・中国語・韓国語の多言語放送を実現 ~ |publisher=HOYA、リードスピーカー・ジャパン |date=2019-05-17 |accessdate=2021-01-18 }}</ref>。まず、先行してコネクタが取り付けられた1000系と9000系、そして阪神電鉄線乗り入れ対応の近鉄車両において開始し、のちに8000系・9300系にもコネクタが取り付けられたため、本線内では快速急行に加えて直通特急・特急・急行でも、2020年3月14日のダイヤ改正以降にタブレット端末のコネクタを取り付けた編成で多言語自動放送を始めている<ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hanshin.co.jp/service/more/?mode=detail&more_no=76 |title=車内多言語自動放送の本線導入について |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-03-20 |accessdate=2021-01-11 }}</ref>。さらに2021年1月以降は山陽車両にもコネクタを取り付ける改造を行い、山陽電鉄でもタブレット端末を導入したため、大阪梅田駅 - 山陽姫路駅の全区間において自動放送を行っている<ref>{{PDFlink|[http://www.sanyo-railway.co.jp/media/1610946058.pdf 列車内での多言語自動放送を導入します~お客さま満足度の向上を目指して~]}} - 山陽電気鉄道プレスリリース、2021年1月18日。</ref>。原則として早朝と夜間では自動放送は行わない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2501 |title=~訪日外国人のお客様にも快適にご利用いただける阪神電車を目指して~ 車内多言語自動放送の導入など、インバウンド施策を進めます |publisher=阪神電気鉄道 |date=2019-03-18 |accessdate=2019-03-20}}</ref>が、早朝・夜間でも車掌の裁量で使用することもある。但し、普通用車両(ジェットカー)にはコネクタが取り付けられていないため、本線・神戸高速線では急行系車両<ref group="注">急行系車両を使用する普通列車は、主に神戸三宮駅 - 須磨浦公園駅間(須磨浦公園行き特急の折り返し)の運用。</ref>も含めて普通では全て車掌の肉声による案内である。また、阪神なんば線大阪難波駅 - [[桜川駅 (大阪府)|桜川駅]]間の運行は近鉄の乗務員が担当しているため、この区間のみ自動放送は近鉄のタブレット端末で近鉄のフォーマットにより放送されている(アナウンスの声は、日本語のみ男性<!--有田洋之?-->、英語・中国語・韓国語は女性)。他にも、駅到着時の接続列車の案内などは従来通り肉声放送で行われている。
なお、[[阪神武庫川線|武庫川線]]の列車は本線・阪神なんば線に先駆けて自動放送(アナウンスは女性の声で日本語のみ)を採用しているが、[[ワンマン運転]]のためタブレット端末の操作による手動ではなく、列車の走行に応じて放送を開始する自動制御のものである。武庫川団地前行きでは行先を「団地前行き」と案内し、終点到着時には「次は、団地前、武庫川団地前。終点です。」と放送する。
==== 駅の列車接近・発車メロディ ====
1990年から、[[駅自動放送]]で[[シンセサイザー]]による[[発車メロディ|接近・発車メロディ]]が演奏されている{{R|交通900904}}。発車メロディ・通過列車接近メロディ・遅延発生時ないし緊急時告知メロディはオリジナルだが、停車列車の接近メロディは『[[線路は続くよどこまでも]]』が使われている{{R|交通900904}}。1990年の導入時は[[西浦達雄]]作曲・編曲によるものであった{{R|交通900904}}が、2009年1月からは<!--コンペで採用された-->[[向谷実]]作曲・編曲によるものに変更され、発車メロディは上り・下りとも同一のメロディとなっている。なお、元町駅と桜川駅のみ発車メロディは予告用のみが流れる(桜川駅1番線では、このあとに近鉄用の信号扱所からの出発承認合図器音〈ブザー音〉が流れる)。また、メロディ更新に合わせて同時に放送の案内の音声も更新している。
頭端式ホーム(梅田駅の全ホーム、神戸三宮駅の2番線)では、入線時の放送フォーマットは独特のものとなっている。駅到着直前は全ての列車で接近メロディを省略し、「まもなく、●番線に電車が参ります」のアナウンスのみを放送する。列車が駅到着後、少し間隔を空けて「●番線に停車中の電車は、■■(駅名)ゆき▲▲(列車種別)です、停車駅は…(普通は「各駅停車、■■(駅名)ゆきです、各駅に停車します」)」と放送する。このほか、梅田駅の全ホーム、尼崎駅2・5番線では発車直前から列車がホームを離れるまでの間、男女声とも(ホームによる)「●番線から、電車が発車します。ご注意ください」を繰り返し放送している。
停車列車接近メロディは、2011年から放送されているラジオ[[コマーシャルメッセージ|CM]]でも使われている。
[[甲子園駅]]では、[[阪神甲子園球場]]での[[高校野球]]全国大会開催に合わせて、2013年の夏から[[全国高等学校野球選手権大会]]、2015年の春から[[選抜高等学校野球大会]]の開催期間限定で停車列車接近メロディを変更している。曲目は「[[甲子園駅#列車接近メロディ]]」を参照。
2019年3月より、全駅で頭端式ホームも含めて全ての列車到着ないし通過時に、「電車がまいります」「電車が通過します」のアナウンスの直後に新たにオリジナルの接近メロディまたは通過メロディを加えている。
[[2023年]][[1月6日]]および[[1月20日]]に阪神本線で運転された臨時[[ホームライナー|有料座席定員制列車]]「[[阪神本線#らくやんライナー|らくやんライナー]]」の車内放送では、2009年まで使用されていた西浦版の通過列車接近メロディが、案内前のチャイムとして使用された。また、同年[[1月13日]]運転のらくやんライナーでは、西浦版の「線路は続くよどこまでも」のメロディが使用された。
==== 駅の案内放送 ====
列車到着時の放送は、「大阪梅田行き・特急」と行先・種別の順に案内しているが、阪神本線の各駅停車のみ「各駅停車・高速神戸行き」と種別・行先の順に案内している(車内放送でも同様)。ただし、列車到着前の乗車位置案内では各駅停車でも種別を後につける文体になる。
2016年3月のダイヤ改正以降、列車到着時には「黄色い線の内側へお下がりください」とアナウンスされている。それまでは「白線の内側へお下がりください」とアナウンスされていた<ref group="注">ただし、阪神なんば線西九条駅ホーム延伸部分、桜川駅、ドーム前駅、九条駅では白線が設置されていないため、それら4駅では2009年3月の延伸開業当初から「黄色い線の…」とアナウンスされていた。</ref>。
発車時の自動放送は、本線では梅田駅・大石駅・神戸三宮駅・元町駅(大石駅は4番線のみ<ref group="注">2001年まで直通特急以外の山陽電鉄からの乗り入れ列車の折り返しがあった名残である。</ref>)、阪神なんば線では桜川駅、武庫川線の起終点駅のみ採用している(阪神なんば線開業前は尼崎駅西大阪線ホームと西九条駅でも使用されていた)。それ以外の駅では発車時に自動鳴動する放送はないが、野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅にはホーム上のスイッチにより鳴動する手動の発車ベル(電子音)及び放送が用意されている。<!--(これ以外にも設置されている駅はある 尼崎センタープール前駅・鳴尾駅・今津駅(ベルのみ)・魚崎駅(ベルのみ)で確認 -->このほか、駅員が使用するワイヤレスマイクにも手動の発車ベルのスイッチが付いているため、駅員がマイクのスイッチを操作して発車ベル(電子音)を鳴らすこともある。優等列車と普通列車の接続が行われる場合、優等列車発車時に必ず普通列車乗務員がホームに降りて放送を鳴動させるためほぼ確実に流れる(野田駅と甲子園駅では停車時間の関係により使用されない場合がある)。また、[[ドーム前千代崎駅#阪神電気鉄道(ドーム前駅)|ドーム前駅]]・九条駅・西九条駅でも発車ベル及び放送(こちらは乗務員や駅員が操作するものではない。ベルの音色とアナウンスの内容や声質は同じ)が用意されており、必要な場合に使用される。
2017年2月から、車内放送と同様に、駅の[[発車標]]や時刻表でも省略して案内していた駅名は全て正式駅名で表記するようになり、また自動放送についても全て正式駅名でアナウンスするよう改められた。
駅での警告放送(台風接近時の運行取り止め予告)やイベント案内放送(甲子園球場での高校野球開催中など)、啓発放送については、[[HOYA]]のVoiceTextを採用して以降は人工音声によるものも放送されている<!--「[[緊急事態宣言]]発令中のため不要不急の外出を控えるようお願いします」など--><ref name="voicetext" />。
==== 駅名標・駅の案内サイン・発車標 ====
かつては、旧[[日本国有鉄道|国鉄]]に準じた「丁字矢印」形式の[[駅名標]]であったが、平仮名は使用されず漢字のみが記載されているものであった。その後同じく「丁字矢印」形式であっても、上部よりローマ字の大文字、平仮名で駅名が書かれ、前後の駅は平仮名のみが記載されたものが使用された。
1970年代に入ると、[[京阪電気鉄道]]や[[南海電気鉄道]]にも見られたタイプの駅名標に代わり、当初は白地に黒色、のちに白地に青色で駅名、前後の駅は青色地に白文字で記載されている物が長らく設置されていたが、2009年1月下旬より全線で青がベースで白文字の新しい駅名標に統一されている(阪神なんば線の西九条駅から[[福駅]]までのホーム延長部分の駅名標は最初から設置、尼崎駅西大阪線ホームにあった旧駅名標も阪神なんば線開通日に新しい駅名標に交換された)。
これと同時に駅の案内サインもほぼ全面的に刷新され、[[ユニバーサルデザイン]]([[ピクトグラム]]も使われている)に基づいた表示に更新されている。この駅名標は2010年10月1日より神戸高速鉄道東西線[[花隈駅]]を除く各駅にも導入された<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201009131N2.pdf 2010年10月1日(金)、神戸高速線が新たに生まれ変わります!新体制による運営開始にあわせて、お得な乗車券を発売し、制服・駅名看板をリニューアルします。]}} - 阪急阪神ホールディングス、2010年9月13日。</ref>。なお、花隈駅には阪急タイプの駅名標が導入されている。
[[共同使用駅]]である[[大阪難波駅]]と[[西代駅]]は、それぞれ駅を管轄する[[近畿日本鉄道]]、[[山陽電気鉄道]]仕様の駅名標となる。
[[2014年]]3月には、翌月[[4月1日]]より導入する[[駅ナンバリング]]に対応した駅名標(駅名横に駅番号を追加したもの)への取り換えが行われ、デザインも若干変更された。
[[2022年]]以降は光熱費節約のため、駅名標のほか駅の案内サインなどで、蛍光灯などバックライトがない(光らない)ボードタイプのものへの交換が進んでいる。
「縦書きタイプ」の駅名標(ホームの上屋柱などに取り付けるタイプのもの)を設置している駅は1つもなかったが、阪神なんば線の2009年に開業した駅(九条駅、ドーム前駅、桜川駅)およびリニューアル後の神戸三宮駅に設置されたほか、神戸高速線内にも古い縦書き駅名標が存在する。
駅名標・[[車内案内表示装置|車内案内表示器]]の英字表記は阪急や京阪と同様一文字目が大文字で、以降が小文字となっている(例:神戸三宮は「Kobe-Sannomiya」、画像も参照)。一方で、車体正面・側面の[[方向幕|種別・行先表示器]]や駅構内の[[発車標]]での種別・行先表示では、未だに全て大文字のみとなっている(例:特急は「LTD.EXP.」、神戸三宮は「KOBE-SANNOMIYA」)。なお、2017年2月より、行先や停車駅の表記は、「姫路」が「山陽姫路」、「奈良」が「近鉄奈良」、というように省略はせず正式駅名での表記に改められている(英語表記も同様)。
駅の発車標は、かつては[[反転フラップ式案内表示機|ソラリー式]]が主に使われたが、[[1990年代]]から3色LED式(野田駅・西宮駅・元町駅は液晶式<ref group="注">これら3駅はともに後にフルカラーLED式に更新されている。</ref>)が主流となり、阪神なんば線延伸開直前の2008年からはフルカラーLED式の設置または更新が行われている。また、字幕式が尼崎駅で阪神なんば線延伸開業前まで使われたほか、ソラリー式は最後に残った甲子園駅で2012年まで使われた{{refnest|group="注"|甲子園駅で使用されたものは撤去後も社内で保管されており、イベントで公開されたこともあった<ref>[http://www.tetsudokoshien.com/taiken/index.html 鉄道甲子園2016、1F展示ゾーン] - [[2016年]]4月29日から5月5日にかけて[[マイドームおおさか]]で開催されたイベント「鉄道甲子園」で、甲子園駅にあったソラリー式が展示された。</ref>。}}。また、野田駅・甲子園駅・西宮駅・御影駅・神戸三宮駅(大阪方面行き)の各島式ホームでは、従来の左右のりば独立したものに代えて直近4列車を一括で表示する大型のものが設置されている。大阪梅田駅では、[[2021年]]から供用開始した新しい1番線ホームにて、阪神の駅では[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]以外で初となる[[液晶ディスプレイ]](LCD)式発車標が取り付けられた。
他にも、主要駅の駅改札口には直近2〜4列車が表示されるフルカラーLEDディスプレイ(大阪梅田駅はLCDディスプレイ)が設置されているほか、現在は全ての駅の改札口に上下線とも直近2列車が表示される(運転見合わせなどアクシデント発生時はその状況も表示される)LCDモニターが設置されている(基本は天井据え付けの大型だが、[[久寿川駅]]など大型モニターの設置が難しい駅の改札口には据え置きの[[タッチパネル]]式小型モニターが設置されている)。
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Hanshin Dekijima Station sign 2009 style.JPG|阪神の駅名標(駅ナンバリングが入る前)
Hanshin Ishiyagawa Station sign old style 2009.JPG|以前の駅名標。一部の駅(主に、阪神大震災前後に高架化または改良工事が行われた駅)のみでしか導入されなかった。
Hanshin Denpo Station sign old style 2009.JPG|以前からの駅名標。ほとんどの駅には下に広告が入っている。
Hanshin Fukushima eqm.jpg|福島駅のみの独自の駅名標(現在は駅ナンバリングが入ったものに取り替えられている)
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==== 駅ナンバリング ====
[[File:Hanshin-numberring.JPG|thumb|250px|駅ナンバリングが入った駅名標]]
2014年4月1日より、阪神全駅で[[駅ナンバリング]]を導入した。最初に発表した時点では近畿日本鉄道と協議中であったため『[[近畿日本鉄道]]管理の[[大阪難波駅]]を除く』としていた<ref name="hhhd20130430" /><ref name="読売20140320"/>が、最終的には大阪難波駅も同日より導入することになった。路線記号は「'''H'''an'''S'''hin」から「'''HS'''」となる<ref group="注">ちなみに路線記号のHSは[[北総鉄道]][[北総鉄道北総線|北総線]]でも使用されている。</ref>。導入に先駆けて同年2月頃より一部車両の車内案内表示で駅ナンバリングが表示されており<ref group="注">駅ナンバリング導入日の2014年4月1日に三宮駅が神戸三宮駅に改称することから、LEDの行き先表示車両では一部に神戸三宮の表示になったものもある。</ref>、3月に入り駅名標や車内の路線図が新しいものに交換された。
* [[阪神本線|本線]] [[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]] (HS 01) - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]] (HS 33)
* [[阪神神戸高速線|神戸高速線]] [[西元町駅]] (HS 34) - [[西代駅]] (HS 39)
* [[阪神なんば線]] [[大阪難波駅]] (HS 41) - [[出来島駅]] (HS 49)
* [[阪神武庫川線|武庫川線]] [[武庫川団地前駅]] (HS 51) - [[東鳴尾駅]] (HS 53)
数字は阪神本線・神戸高速線が00 - 30番台、阪神なんば線が40番台、武庫川線が50番台となり、[[大物駅]]、[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]、[[武庫川駅]]は本線の駅ナンバリングが付与され、西代駅では山陽の駅番号である'''SY 01'''、大阪難波駅では近鉄の駅番号である'''A01'''も付与される。
駅名標への駅ナンバリングの記載については、大阪難波駅(近鉄仕様)は阪神・近鉄両方が、西代駅(山陽仕様)は阪神・山陽両方が記載されている。
==== 方向板 ====
列車の先頭車両に掲げられていた種別や行き先を示す[[行先標|方向板]]は、以下の通り。
* 基本は縦長の四角形で、正面右(つまり運転台の前)に掲示。原則として起点と終点の両方が入っており、本線系は青文字、支線系は黒文字で縦書きとなっていた。
** 普通 - 最終まで使用されたタイプは行き先が交換できる方式となっていた。武庫川線はワンマンになる直前までは、緑地に白文字で書かれた行き先同士を波で結ぶ形となっていた。これは普通で使用されたほか、赤胴車では方向幕が設置されている車両は、2016年までは普通の行き先幕が全く入っておらず、「普通」の表示で方向板が使用されていた。このような形式は普通車の方向幕設置車と非設置車が混結される場合でも同様となっていた。
** 特急 - 行き先の方向板に加え、横長の四角形で黄色の翼形のマーク(マークの下に赤文字で「特急」)が描かれた種別板を貫通扉に掲げて併用していた。ただし、高校野球の開催期間中は翼形ではなく「[[全国高等学校野球選手権大会|高校野球]]」「[[選抜高等学校野球大会|センバツ]]」と書かれた専用マークのものを使用していた。また、梅田駅 - 元町駅間の特急に限り、横長の四角形で中央に青色の翼形のマーク、その上に「特急」、その下に「梅田⇔元町」と書かれた方向板を掲げていた。なお、「特急」の種別板だけは、表示幕が設置されてからもそのまま継続して使用された(貫通扉に[[行先標#鉄道車両|サボ受け]]がない8000系以降の車両を除く)。
** 急行 - 縦長の四角形で、上半分は赤文字で「急行」と縦書きされ、行き先はその下に青文字横書きで入っていた。
** 準急 - 縦長の四角形で、上半分は赤文字で「準急」と縦書きだがその両脇に青の縦長の帯が入っており、行き先はその下に縦書きで入っていた(「尼崎行」のみ横書き)。
* 左の方向板は丸形で、行楽用の波動輸送や朝ラッシュ時のみの列車など、四角形に対し補助的な位置づけとなる列車に使われた。縦書きの「[[回送]]」「試運転」「貸切」「工事」のほか、「A」「B」というものもあった(いずれも白地に黒文字)。このほか、白地に赤丸と黒文字「急」や、[[カモメ]]をモチーフとした「快速急行」、「うずしお」、「[[競艇]]マーク」(準急と準急のないバージョン両方あり)、「梅田甲子園ノンストップ特急」、団体用の「もみじ」「あおば」などもあった。
* 両者はステー(留め金)も異なっていたため、左右逆に装着ができず、この仕様は関西大手では阪神のみである。また小型車時代は尾灯が左窓上と右窓下に付いていたため。高性能車時代とは逆に四角形を左窓下、丸形はなんと右窓上に付けていた。
*8000系などの新形式車両で使用される前面左側窓のマークは、運行開始直後からしばらく使用された直通特急「大阪ライナー」(青地に黒文字、川の流れを示すマーク)、「姫路ライナー」(赤地に白文字、白鷺のマーク)と、タイガースバージョン(黄地に黒文字、タイガースマーク)もあった。他にタイガースマーク(直通特急でも使用)、「高校野球」(直通特急では2013年春までは未使用で、夏以降からは使用)、「区間特急梅田行き」などもあった。
*赤胴車においては、表示幕が設置される以前は、車体側面のドア3か所のうち両端2か所のドア横にサボ受けが設けられており、運用する種別によって白地に赤文字で「特急」「急行」(準急は白地に緑文字で「準急」)と書かれたサボを掲げていた。
<gallery widths="210px" heights="200px" perrow="3">
File:Hanshin-5261.JPG|5261形で使用されていた方向板。行き先を交換できるタイプだった。
File:阪神3561.jpg|3561形の方向板。行き先と特急マークを併用していた。特急マークは高校野球仕様のもの。
File:阪神電気鉄道7846.JPG|翼形の特急マーク。方向幕になってからも特急マークは2000系の全車廃車直前まで使用されていた。
</gallery>
新造時からの[[方向幕]]の設置は、特定の種別に限らず幅広く使用される汎用通勤車の正面という条件に限定すれば、[[1977年]]にデビューした[[阪神3801・3901形電車|3801・3901形]]からである。京阪の正面方向幕初採用も同じ1977年であり、これは関西の大手私鉄では、もっとも遅い採用であった。比較的製造年度の若い車両も、同じ位置に同じ方向幕が比較的容易に後付けできた為(関西の大手私鉄では、阪急以外の4社がこのケースである)、設置が行われていった。ただし青胴車は当時の新製車もまだ方向板のままで、方向幕設置は[[1988年]]からという遅さだった。
=== その他特記事項 ===
{{Main2|歴代の列車ダイヤ改正|阪神電気鉄道のダイヤ改正}}
==== 駅名 ====
* 在阪大手私鉄では唯一、駅名に[[市駅|「市」が付いている駅]]が存在しない<ref group="注">同じグループに属する[[阪急電鉄|阪急]]には「市」が付く駅が幾つかあるが、それらは全て[[阪急京都本線|京都本線]]にあり、いわゆる[[神宝線|阪急のルーツの路線]]では「市」が付いた駅は存在しない。</ref>。
==== 駅設備 ====
* 駅にある[[エレベーター]]や[[エスカレーター]]は、大部分が[[三菱電機]]製である。一部の駅では[[日立ビルシステム|日立]]製<ref group="注">[[高速長田駅]]など</ref>、[[日本オーチス・エレベータ|オーチス]]製<ref group="注">[[打出駅]]、[[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]など</ref>、や[[フジテック]]製<ref group="注">[[御影駅 (阪神)|御影駅]]、[[春日野道駅 (阪神)|春日野道駅]]、[[ドーム前千代崎駅|ドーム前駅]]など</ref>も設置されているが、[[東芝エレベータ|東芝]]製などの他メーカーは一切設置されてなく、東芝製のエレベーターやエスカレーターが一切設置されていないのは在阪大手私鉄では唯一の事例であり、全国の大手私鉄でもほかに[[西日本鉄道]]しかない<ref group="注">駅ではないが2018年に建て替えた[[阪神百貨店]]梅田本店の店内や店外には東芝製のエレベーターが数台設置されている。</ref>。また、エスカレーターには利用者がいない時に自動停止させるセンサーを取り付けていないため、かつては全ての駅で早朝・深夜など駅係員不在時には運転を停止させていたが、現在は一部の駅では終電後も含めて常時稼働させている。
==== 運行情報・遅延証明書 ====
* 2005年12月19日より[[ウェブサイト]]上で運行情報の提供が開始されたが、これは日本の大手私鉄では最も遅かった。
* 2015年より順次、各駅改札口に大型液晶モニターを設置しており、運転見合わせや遅延の発生など異常時にはモニターにリアルタイムで運行情報が表示されるようになっている。なお、通常時は直近に発車する2ないし4列車を表示しているが、駅構内やホームのLED式発車案内板では表示されない駅ナンバリングのマークも付記されている(山陽姫路や近鉄奈良など他社線の駅についても、乗り入れ先の仕様で表示しているが、近鉄のものについては同社が採用している字体とは異なるものとなっている)。
* [[遅延証明書]]については、ウェブサイト上での発行を開始したあとも大阪梅田駅など一部の駅では駅員による手渡しが行われたこともあったが、紙での配布は2021年11月末を以って終了した。<!--以前より駅構内ポスター、駅放送で案内済み-->
* 2018年3月17日より、スマートフォンなどに対応とした「阪神アプリ」を配信開始。リアルタイムでの運行情報のほか、列車走行位置や、各駅における列車行先案内(足元の乗車位置も表示)、各種駅情報などが取得可能となっている<ref name="hansin20180315">{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/3e584536134d715328ff1b4dd61544d578eed117.pdf |title=3月17日(土)から『阪神アプリ』の配信を開始 〜遅延/運休情報・列車走行位置・行先案内などの案内サービスを開始します〜 |publisher=阪神電気鉄道 |date=2018-03-15 |accessdate=2019-04-22 }}</ref>。
* また、2018年12月より[[twitter|ツイッター]]でも運行情報の提供を開始した。平常時は毎日午前7時と午後5時に配信する([[#外部リンク|外部リンク]]を参照)<ref>{{Cite press release |和書 |title=列車の運行情報専用の公式Twitterアカウントを開設 ~情報提供チャネルを増やし、より多くのお客さまに運行情報をお届けします~ |publisher=阪神電気鉄道 |date=2018-12-20 |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2436 |accessdate=2019-04-23 }}</ref>。
==== 野球開催時の輸送体制 ====
* [[阪神甲子園球場|甲子園球場]]での[[日本野球機構|プロ野球]]、[[日本の高校野球|高校野球]]の試合開催時には、[[甲子園駅]]と大阪梅田方面(特急が中心)・神戸三宮方面(急行が中心)との間で断続的に臨時列車が運転される(大阪難波方面へは臨時列車の運転はない。また、神戸三宮方面へは試合終了後のみ運行)。甲子園球場の存在が阪急阪神ホールディングス全体においても大きな収入源であり、[[阪神タイガース]]及び高校野球の人気チームの勝敗は阪神電鉄の収支に大きな影響を与えている。[[西武ドーム]]を保有し、[[埼玉西武ライオンズ]]の親会社でもある[[西武鉄道]]も、阪神電鉄の野球開催時の輸送体制を模範としている<ref>{{Cite book|和書|year=1992|publisher=[[山と溪谷社]]|title=日本の私鉄109|page=141|isbn=}}</ref> 。なお、阪神ではこのような臨時列車の運行に柔軟に対応できるよう、それを想定したダイヤを組んでいる。
* 甲子園駅では列車の留置能力が最大3編成まで(上下ホーム副本線と神戸側の留置線)であるため、断続的に臨時列車を運転する場合は[[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎車庫]]もしくは[[阪神電気鉄道石屋川車庫|石屋川車庫]]から車両を手配する必要があるが、これについては甲子園駅長が野球の試合展開と旅客の動向を見計らった上で輸送指令に必要な本数と時間を指示して列車手配を行っている<ref>{{Cite web|和書|title=阪神・甲子園駅の野球ファン輸送は「神業」だ 試合の流れを読んで臨時のタイミングを判断 |url=http://toyokeizai.net/articles/-/136194 |work=東洋経済ONLINE |publisher=[[東洋経済新報社]] |date=2016-09-19 |accessdate=2023-09-12 }}</ref>。
* プロ野球、高校野球ともに、甲子園球場または[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]での入場券が前売り完売した場合、開催当日の改札口の液晶モニター、ホームの発車標やLED表示器などでその旨が表示される。
==== 終夜運転 ====
* 例年、[[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけては、武庫川線を除く全線で[[終夜運転]]が行われている。全列車が各駅停車で、本線・神戸高速線は梅田駅 - 高速神戸駅間で、阪神なんば線は全区間(大阪難波駅から先は近鉄奈良方面に直通)で、午前0時台と1時台は概ね15分間隔、午前2時台から5時までは概ね30分間隔で、それぞれ運転されている。なお、高速神戸駅から先は、山陽電鉄が接続して[[須磨浦公園駅]]まで終夜運転を行っている。
** [[2020年]]の大晦日深夜については、当初は終夜運転は行わず、本線・神戸高速線(大阪梅田駅 - 高速神戸駅間)のみ元日の深夜1時台まで主に定期列車の延長運転で対応する予定であった<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/e198bd2d58f0b516fc09120dc20732fae0e29efb.pdf |title=大みそかの運転と年末年始のダイヤについて |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-11-27 |accessdate=2020-11-30 }}</ref>が、のちに延長運転も取り止めた<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/402926b289f83b85a062de8650247afcb165999b.pdf |title=大みそか延長運転中止のお知らせ |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-12-18 |accessdate=2020-12-28 }}</ref>。2021年以降も終夜運転および延長運転は実施しないと発表されている<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/a2a25353513813f7fadeb63c6f8314770e760a6d.pdf |title=年末年始のダイヤについて |publisher=阪神電気鉄道 |date=2021-12-6 |accessdate=2021-12-6 }}</ref><ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221201-unyu-nenmatsunennsi.pdf |title=年末年始のダイヤについて |publisher=阪神電気鉄道 |date=2022-12-01 |accessdate=2022-12-03 }}</ref>。
==== 公衆無線LAN ====
2013年3月までに阪神の各駅と神戸高速線各駅に[[公衆無線LAN]]が設置された<ref name="hhhd20130227" />。利用できるのは[[au (携帯電話)|au]]の[[au Wi-Fi SPOT]]と[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス]]のWi2 300(au Wi-FiとWi2 300とともに[[サービスセット識別子|SSID]]は「Wi2premium_club」のみ)、[[SoftBank (携帯電話)|SoftBank]]の[[ソフトバンクWi-Fiスポット]] (SSID:0001 softbank)、[[NTTドコモ]]の[[docomo Wi-Fi]] (SSID:docomo) となっている。なおSSIDとしてこれら3つのほかHS_wifiが検出されるが、HS_wifiの用途は不明で、セキュリティが掛かっているため利用はできない。これらは阪神の駅だけではなく、阪神甲子園球場にも設置されている。また阪神の駅や施設だけではなく、阪急阪神グループの駅や、商業施設にも拡大する予定となっている<ref name="hhhd201208">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/812.pdf 「公衆無線LANサービス」の提供開始について 〜阪神電車甲子園駅・阪神甲子園球場を初めとしたグループ各施設でWebやメール等をより快適にご利用いただけるようになります〜]}} - 阪急阪神ホールディングス、2012年3月8日。</ref><ref>[http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2012/20120416_01/ 阪神電車の一部駅構内および阪神甲子園球場で「ソフトバンクWi-Fiスポット」を提供開始] - [[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]、2012年4月16日。</ref>。2013年2月28日からはauとソフトバンクに加え、NTTドコモのdocomo Wi-Fiも利用できるようになった<ref name="hhhd20130227">{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/upload/news/280.pdf 〜主要携帯電話会社3社すべてのサービスが利用可能に!〜 鉄道駅の「公衆無線LANサービス」サービスの拡大について]}} - 阪神電気鉄道、2013年2月27日。</ref>。[[アイテック阪急阪神]]が運営に当たっており、阪神のほか、阪急、[[北大阪急行電鉄]]、[[能勢電鉄]](SoftBankとドコモは除外)の各路線でも展開されている。
==== 公認サイト ====
1996年から社内の鉄道ファンによる公認サイト「まにあっく阪神」が開設されていたが<ref name="amaken">[http://www.amaken.jp/32/3205/ 「ここにもあった尼との縁 尼と阪神のいい関係」]『南部再生』Vol.32、2009年発行。</ref>、2010年3月末をもって閉鎖された<ref>[https://web.archive.org/web/20120423060107/http://www.hanshin.co.jp/railfan/ まにあっく・阪神]([[インターネットアーカイブ]])</ref>。毎年[[4月1日]]([[エイプリルフール]])にはジョークサイト「はにわっく坂神」が登場していた<ref name="amaken" />。
== スポーツ・レジャー事業 ==
レジャー事業は古くから行われており、初期のものでは、本線が営業開始した[[1905年]](明治38年)に開設された打出[[海水浴場]]<ref name="nempyoumt" />や、[[1907年]](明治40年)開設の香櫨園浜海水浴場(打出海水浴場から移設)<ref name="nempyoumt" />や[[香櫨園遊園地]]などがあった。[[全国高等学校野球選手権大会|全国中等学校優勝野球大会]](現在の「全国高等学校野球選手権大会」、いわゆる「夏の甲子園」)も誘致し、会場となった[[鳴尾球場]](現在の[[阪神タイガース (ファーム)|タイガース二軍]]本拠地の[[阪神鳴尾浜球場]]とは異なる)や[[阪神甲子園球場]]を相次いで建設した。
その後、阪神甲子園球場では[[選抜高等学校野球大会|選抜中等学校野球大会]](現在の「選抜高等学校野球大会」、いわゆる「春のセンバツ」)も開催されるようになり、[[昭和]]になると阪神甲子園球場を本拠地とする[[日本プロ野球|職業野球]]球団である[[阪神タイガース]]を創立した。他にも、[[明治]]末期から昭和初期にかけて[[鳴尾村 (兵庫県)|鳴尾]]で苺狩りイベントを実施したり、[[甲子園 (地名)|甲子園地区]]や[[六甲山]]地区の開発にも携わり[[阪神間モダニズム]]の一翼を担った。
プロバスケットボール[[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]]に所属する[[神戸ストークス]]のゴールドパートナーにも就いている。
現在でも直営の施設を持っているが、大部分の施設の運営は[[子会社]]の[[六甲山観光]]株式会社に委託されており、子会社が所有している施設もある。
なお、阪急と経営統合した際には阪神タイガースの実質的な支配が阪神側に残るか、阪急側に移るかを巡って激しい議論となり、最終的に阪急阪神HDは加盟手数料1億円を支払い、経営支配を阪神電鉄に残し、阪急阪神ホールディングスと[[阪急電鉄]]は一切経営に関与しないことを確約して、[[日本野球機構]]([[日本プロフェッショナル野球組織|NPB]])との間で妥協した。{{main|阪急・阪神経営統合#阪神タイガース経営|阪神タイガース#村上ファンドによる株式上場計画と阪急への「経営譲渡」}}
; 現在の主な直営施設
:* [[阪神甲子園球場]](開設当初は「甲子園球場」。阪神タイガース本拠地、春・夏の高校野球大会会場)
:* [[六甲高山植物園]]
:* [[六甲山スノーパーク]]
:* [[ホール・オブ・ホールズ六甲]]
; 子会社によるもの
:* ラフィット(フィットネスクラブ) - 株式会社ウエルネス阪神
; 閉鎖されたもの
:* 打出海水浴場 - 1905年7月開設<ref name="nempyoumt">{{Cite web|和書|title=年譜(明治・大正) |url=https://www.hanshin.co.jp/company/history/index_1.html |publisher=阪神電気鉄道 |accessdate=2019-07-31}}</ref>。
:** 香櫨園浜海水浴場 - 打出海水浴場からの移転で1907年7月18日開設、水質悪化により[[1965年]]6月29日廃止<ref name="nempyoumt" />。
:* [[香櫨園遊園地]] - 当時、関西では最大規模の遊園地であった。1907年4月1日開設、[[1913年]]9月廃止<ref name="nempyoumt" />。現在は住宅街(一部に[[阪急神戸本線]]が通っている)。
:* 鳴尾運動場 - [[鳴尾競馬場]]を改造したもの。[[1916年]]3月開設、[[1924年]]8月1日閉鎖<ref name="nempyoumt" />。現在は[[都市再生機構|UR]]浜甲子園団地の一部。
:** [[鳴尾球場]] - 甲子園球場の開設に伴い、鳴尾運動場と同じく1924年8月1日閉鎖<ref name="nempyoumt" />。
:* 南甲子園運動場 - 戦前に[[全日本アマチュア自転車競技選手権大会]]や[[全国高等学校サッカー選手権大会|全国中等学校蹴球選手権大会]]、[[全国高等学校ラグビーフットボール大会|全国中等学校ラグビーフットボール大会]]などが開催された。鳴尾競馬場の西側にあった。現在はUR浜甲子園団地の一部。
:* 甲子園プール - 1万人収容スタンドがあった公認プール。阪神甲子園球場の西側にあった。
:* [[甲子園阪神パーク]] - 2003年閉鎖。現在は[[三井不動産]]プロデュースの[[ららぽーと甲子園]]と[[キッザニア]]、[[イトーヨーカドー]]。
:** 甲子園ボウル - 甲子園阪神パークの北側(西宮市立鳴尾図書館の西側あたり)にあった[[ボウリング|ボウリング場]]。60レーンもある大規模のものであった。現在はららぽーと甲子園の一部。
:** 甲子園デラックスプール(後に「甲子園ビーチプール」) - 夏季のみ営業。[[兵庫県道341号甲子園尼崎線|臨港線]]を挟んだ南側にあり、現在はららぽーと甲子園の駐車場。
:* [[阪神浜田球場]] - かつての[[阪神タイガース (ファーム)|阪神タイガース二軍]]の本拠地球場。[[阪神国道線]]浜田車庫跡地にあった。現在は商業店舗。
:* ボウル阪神 - 阪神浜田球場の西側にあったボウリング場。現在は[[阪急阪神エムテック]]尼崎営業所・尼崎工場。
:* リゾ鳴尾浜(複合スパリゾート) - 株式会社鳴尾ウォーターワールド(兵庫県[[西宮市]]と阪神電気鉄道が中核として出資した[[第三セクター]])。2020年11月30日閉鎖。
{{節スタブ}}
== かつて行っていた事業 ==
=== バス事業 ===
{{Main|阪神バス}}
[[File:Hanshin-RW-bus Amagasaki stn.jpg|thumb|right|200px|阪神電鉄バス<br />阪神尼崎にて撮影。正面窓下に阪神の社紋がある。]]
かつては'''阪神電鉄バス'''として直営で運行しており、大手私鉄直系の[[バス (交通機関)|バス]]事業者の中で最後までバス事業の分社化を全く行っていなかったが、採算の悪化により[[2005年]][[12月14日]]に子会社として'''[[阪神バス]]株式会社'''を設立し、翌2006年6月から[[西宮駅 (阪神)|阪神西宮]]発着の一般バス路線および三宮 - HAT神戸の路線が同社に移管され、[[2009年]][[4月1日]]に簡易[[会社分割]]方式により、残りのバス路線もすべて阪神バスへ譲渡された<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20081205.pdf 会社分割に関するお知らせ]}} - 阪神電気鉄道、2008年12月5日。</ref>。これにより、関西の大手私鉄各社は全ての会社がバス事業について子会社による運営に切り替わった<ref group="注">その後2009年9月に[[相模鉄道]]が持株会社設立により鉄道事業とバス事業を分離したため、大手私鉄で直営のバス事業が残っているのは[[西日本鉄道]]のみとなった。</ref>。
=== 旅行事業 ===
阪神電気鉄道は、長年航空事業部門として'''阪神航空'''のブランドで旅行事業を展開していた。ホームページ等では航空事業と記載されていたが、運営していたのは旅行事業である。以前は同ブランドで航空貨物代理店([[フォワーダー]])も営んでいた<ref group="注">このため、阪神エアカーゴ発足以前は阪神電気鉄道自体が[[西日本鉄道]]と同様、貨物利用運送事業法による[[外資規制]]の対象であった。</ref>が、こちらは[[1999年]]に「阪神エアカーゴ」として分社している。
[[1948年]](昭和23年)から営業を開始しており、国土交通大臣登録第1種旅行業で登録番号は第33号と古い歴史を持っていた。また、関西大手私鉄の鉄道系旅行業者では唯一の直営での運営であった。店舗は大都市圏([[首都圏 (日本)|首都圏]]・[[近畿地方|関西]]・[[名古屋市|名古屋]]地区)のみのため小規模ではあったが、「(阪神航空)フレンドツアー」と題した[[ヨーロッパ]]旅行ツアーを中心に展開した。
のちに阪急阪神ホールディングスの一員となったため、阪神エアカーゴも含めた旅行事業については阪急系の[[阪急交通社]]と重複することから、阪急交通社、阪急エクスプレス、阪神エアカーゴとの4社を中心に[[阪急阪神交通社ホールディングス]]を傘下とする企業グループに再編した上で旅行事業は独立し、[[2008年]][[4月1日]]に阪神航空株式会社へと移管した。阪神航空は後に社名変更し、現在は'''株式会社[[阪急阪神ビジネストラベル]]'''となっている。
=== 不動産事業 ===
阪神電鉄は、創業から10年後の[[1909年]]から不動産事業の展開を始め、[[2018年]][[3月31日]]まで事業を継続した。阪神電鉄ではかつて不動産事業本部を擁しており、宅地・住宅の開発・分譲のほか、不動産鑑定業務、[[ハービスOSAKA]]や[[ハービスENT]]などの西梅田再開発事業、[[エビスタ西宮]]や[[ウイステ]]などの商業施設の開発・運営を行っていた。
*[[村上ファンド]]が阪神電鉄株式を取得し始めたのは、阪神電鉄が[[阪神甲子園球場]]やハービスOSAKA、ハービスENTなどを保有していることに着目したからであるように、不動産事業を撤退した現在でも優良資産を多数保有している。
宅地・住宅の開発・分譲については、阪神沿線を中心に[[沿線開発]]等を手掛けてきたが、特に2010年代に入ってからは首都圏にも進出するなど阪神沿線以外でも幅広く手掛けた。ただ、分譲住宅事業に関しては晩年は建売戸建(「ハピアガーデン」ブランド)のみとし、[[マンション]]は2008年の「ジオ甲子園口一丁目」を最後に撤退した。特に阪急東宝グループとの経営統合後は、分譲住宅事業のうち建売戸建は阪神電気鉄道が、マンションは阪急不動産(当時)が、それぞれ専ら手掛けることで競合しないようグループ内で棲み分けを図った。
不動産事業については、事業再編により阪急阪神ホールディングスが子会社化した阪急不動産に移管することとなり、不動産事業本部は独立し2018年4月1日より阪急不動産と経営統合して'''[[阪急阪神不動産]]株式会社'''(の一部)となった<ref>[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5507.pdf 阪急阪神ホールディングスグループ 不動産事業の再編及び連結子会社(孫会社)の異動・商号変更について] - 阪急阪神ホールディングス 2017年11月2日(2017年11月2日閲覧)</ref>。
不動産事業本部が手掛けた主な分譲物件は、以下のとおり。
*[[住宅#一戸建|分譲戸建]]事業
**東加古川住宅地(兵庫県[[加古川市]])
**土山稲美住宅地
**塩屋とびお台(神戸市[[垂水区]]塩屋北町、1982 - 2006)
**播磨美原台(兵庫県[[揖保郡]][[太子町 (兵庫県)|太子町]]、1991 - )
**神戸・花山手(神戸市[[北区 (神戸市)|北区]]花山中尾台、1994 - )
**武庫川リバーサイド(西宮市小曽根町、1998 - 2002)
**芦屋・春日町(兵庫県[[芦屋市]]春日町他、2000)
**[[苦楽園]]三番町(西宮市苦楽園三番町、2003)
**神戸・石屋川(神戸市[[東灘区]]御影塚町、2002)
**神戸・新在家(神戸市[[灘区]]浜田町、2002)
**コートヴェール芦屋(芦屋市海洋町、2003)
**神戸・西灘公園(神戸市灘区都通、2003)
**神戸・石屋川公園(神戸市東灘区御影塚町、2003)
**カルチェリベルテ学園都市(神戸市[[西区 (神戸市)|西区]]学園東町、2003)
**潮芦屋住宅事業コートヴェール芦屋・パークサイドレジデンス芦屋(芦屋市南浜町、[[共同企業体|JV]]、2004)
**潮芦屋住宅事業コートヴェール芦屋・ビーチフロント芦屋(芦屋市南浜町・涼風町、JV、2005)
**ハピアガーデン武庫川(西宮市上田東町、JV、2006)
**箕面小野原レジデンス(大阪府[[箕面市]]小野原西、JV、2008 - 2010)
**[[ハピアガーデン東加古川]](加古川市野口町、2009 - )
**王寺スカイヒルズ(奈良県[[北葛城郡]][[王寺町]]南元町、JV、2009 - )
**[[ハピアガーデン四季のまち]](大阪市[[西淀川区]]中島、2010 - )
**ハピアガーデン寝屋川市幸町 駅の手公園通りの街(大阪府[[寝屋川市]]幸町、2012-)
*[[マンション|分譲マンション]]事業
**シップス本山(神戸市東灘区本山南町、JV、1999)
**ローレルスクエア南甲子園(西宮市南甲子園、JV、2001)
**クレアフォート西宮 酒蔵通り(西宮市浜町、JV、2002)
**エイヴィスタワー西宮(西宮市田中町、JV、2002)
**レフィナード甲子園(西宮市甲子園浦風町、JV、2002)
**コスモ六甲ガーデンフォート(神戸市灘区新在家北町、JV、2003)
**カルチェリベルテ学園都市(神戸市西区学園東町、JV、2003)
**ハピアレジデンス南堀江(大阪市[[西区 (大阪市)|西区]]南堀江、2003)
**ジークレフ御影(神戸市東灘区御影中町、JV、2004)
**ラセラ高槻(大阪府[[高槻市]]富田丘町、JV、2004)
**[[御影タワーレジデンス]](神戸市東灘区御影中町、JV、2008)
**ジオ甲子園口一丁目(西宮市甲子園口一丁目、JV、2008)
== 関係企業 ==
阪急阪神東宝グループに属する全企業の一覧は「[[阪急阪神東宝グループ]]」を参照。
*[[阪急電鉄]]
*[[能勢電鉄]]
*[[エイチ・ツー・オー リテイリング]]
**[[阪急百貨店]]
**[[阪急オアシス]]
**[[イズミヤ]]
**[[関西スーパーマーケット]]
*[[東宝]]
*阪神グループ
**[[阪神タイガース]]
**[[阪神園芸]]
**[[ハンシン建設]]
**[[阪神百貨店]]
***[[エビスタ西宮]]
**[[ディアモール大阪|大阪ダイヤモンド地下街株式会社]]
**阪神ホテルシステムズ - [[ザ・リッツ・カールトン大阪]]の経営
**[[阪神コンテンツリンク]] - [[ビルボード]]ライブ(東京[[六本木]]、大阪梅田、福岡[[天神 (福岡市)|天神]])運営主体
**[[ベイ・コミュニケーションズ]] - [[ケーブルテレビ]]局
**[[阪神ケーブルエンジニアリング]] - ケーブルテレビ局の設計、施工、保守管理業務等
**[[Be Happy!789]](FMキタ) - [[コミュニティ放送|コミュニティFMラジオ放送]]局
**[[山陽自動車運送]]
**[[武庫川車両工業#阪神車両メンテナンス|阪神車両メンテナンス]] - [[武庫川車両工業]]より継承
**[[西大阪高速鉄道]]
**[[六甲山観光]] - 2013年に六甲摩耶鉄道が阪神総合レジャーと合併して社名変更
**ミマモルメ
*[[神戸高速鉄道]] - 阪急阪神ホールディングスグループ
*[[山陽電気鉄道]]
**[[山陽百貨店]]
*[[神姫バス]]
*[[京福電気鉄道]] - かつては阪神の車両が譲渡されたり自社発注車に阪神との共通点が見られるなど、関係が深かった。だが1960年代より[[京阪電気鉄道]]が関係強化に乗り出した結果、現在、京福および分社化した[[叡山電鉄]]は、京阪の100%子会社となっている。
*[[近畿日本鉄道]]
*[[大阪シティドーム]] - [[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]運営会社
*[[朝日放送グループホールディングス]] - [[朝日放送テレビ]]は[[All-nippon News Network|ANN]][[準キー局]]で、[[朝日放送ラジオ]]は[[Japan Radio Network|JRN]]と[[全国ラジオネットワーク|NRN]]の系列局。阪神との関連が深く、同社が朝日放送HDの株式を保有している<ref>{{PDFlink|[https://www.hankyu-hanshin.co.jp/docs/7fd680fa09af1510228088dcba2e3b7780164162.pdf 第182期 有価証券報告書]}} p.64</ref>ほか、同社会長の[[坂井信也]]が朝日放送の社外取締役を2018年6月まで務めていた。また、2007年から2011年まで同局のアニメ・特撮番組である「[[仮面ライダーシリーズ]]」と「[[プリキュアシリーズ]]」のキャラクターを使って[[夏休み]]期間中に[[スタンプラリー]](阪急・[[能勢電鉄]]と共催)を行っていた。現在では一部車両の中扉の浜側右側に番組宣伝のポスター(「[[ナイトinナイト]]」等自社製作の深夜枠が多い)を出稿している。サイズはかつて阪急が、現在でも山陽電鉄が採用している正方形サイズの広告枠を使用。また、阪神タイガースの[[ファン感謝デー]]は朝日放送テレビが企画しており、ダイジェスト版が毎年12月頃に朝日放送テレビで放送される。
*[[関西テレビ放送]] - [[フジニュースネットワーク|FNN]]/[[フジネットワーク|FNS]]準キー局。筆頭株主は[[フジ・メディア・ホールディングス]]でその持分法適用会社でもあるが、元来阪急系([[阪急東宝グループ]])の会社であり阪急との経営統合後は関連が深くなった。
*[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]](読売ジャイアンツ。東京巨人軍は出資当時の名称) - 戦前の一時期、大阪タイガースの親会社でありながら出資していた。ただしこの当時の巨人軍の筆頭株主は阪神と同業の[[京成電鉄]]であり、[[読売新聞社]]ではなかった。また当時は無協約時代であったため、球団の親会社が他球団を含めた複数の球団に出資しても問題視されなかった。なお、読売新聞社も逆に大阪タイガースの株式を保有していた時期があった。
*[[読売新聞大阪本社]] - [[読売新聞]]の大阪進出にあたり、阪神が仲介して社屋の用地を提供した。
*[[三井住友銀行]] - 旧[[住友銀行]]時代から親密であり、現在でも[[メインバンク制|メインバンク]]としている。
なお、「阪神」という語は大阪市と神戸市、および両市の間の地域を表すため、社名に「阪神」が入っていても阪神電気鉄道や阪神百貨店とは無関係な企業が多数存在する。
== 関連施設 ==
*[[ハービスOSAKA]]
*[[ハービスENT]]
*[[ホテル阪神]] - [[阪急ホテルマネジメント|阪急阪神第一ホテルグループ]]
*[[ウイステ]] - 大手スーパーマーケット・[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]の野田阪神店が入居。
*[[アンスリー]] - [[南海電気鉄道]]・[[京阪電気鉄道]]との三社で共同経営していた[[コンビニエンスストア]]。阪急との経営統合により離脱し、阪神の駅にあった店舗については[[アズナス]]に切り替わったが、現在はフランチャイズ契約により駅ホームの売店も含めて[[ローソン]]に切り替わった。
*[[ウインズ神戸]] - 阪神電鉄がA館設置者。
*[[神戸阪急]] - 旧・[[そごうの店舗一覧|そごう神戸店]]時代から三宮阪神ビルが本館の一部となっている。竣工当時は梅田に阪神マートを開業したばかりで百貨店のノウハウがなかったため、そごうをキーテナントとして招へいした。2016年にそごうの屋号のまま[[エイチ・ツー・オー リテイリング]](エイチ・ツー・オー アセットマネジメント=[[イズミヤ]]旧法人)に運営が移管され、さらに2019年10月1日からは阪急阪神百貨店へ運営を再移管したうえで[[阪急百貨店]]に転換した。
== CM・提供番組 ==
=== CM ===
1995年までは[[朝日放送グループホールディングス|朝日放送]] (ABC) の[[朝日放送テレビ|テレビ]]と[[朝日放送ラジオ|ラジオ]]で提供番組を持ち、[[コマーシャルメッセージ|CM]]が放送されていたが、[[阪神・淡路大震災]]発生後は自粛に入りその後は阪神パーク甲子園住宅遊園のCMが放送された時期があったが、1998年頃の直通特急運行開始の時期<ref group="注">当時のCMでは、グレーの長方形に白い文字で「阪神電車」と書かれたテロップが末尾に挿入されていたが、直通特急のCMのみ同様のフォーマットで背景を赤くして「山陽電車」と書かれたテロップが「阪神電車」の隣に挿入された。</ref>、2009年の阪神なんば線開通の時期<ref group="注">この時期のCMには、当時阪神タイガースの監督に就任したばかりの[[真弓明信]]を起用していた。</ref>にそれぞれCMが放送されていた。その後はラジオCMのみとなっていたが、2014年に入り、「阪神沿線物語」でテレビCMが2009年の阪神なんば線開通の時期以来5年ぶりに放送されることとなった<ref>[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201401071N1.pdf 〜佐藤江梨子さんがお笑いコンビ「ハマカーン」と共に、阪神沿線の魅力を発信〜テレビCM「阪神沿線物語」の放送を1月14日から開始します。] 阪急阪神ホールディングス 2014年1月7日</ref>。このCMでは[[高精細度テレビジョン放送|HD]]制作となったが、2009年以前のCMは全て[[480i|SD]]制作となっていた。2014年のテレビCMの主な出演者は女優の[[佐藤江梨子]]とお笑い芸人の[[ハマカーン]]。ラジオについてはグループ会社の[[エフエムキタ]]ではスポット枠や提供枠を持っており、朝日放送ラジオでは2023年現在はスポット枠や後述の提供番組で放送されている。2011年から2013年まで放送されていたCMは列車到着メロディを使用したCMが放送されていた。
1987年に「ぼくの街の阪神電車」のCMが放送され、[[コマーシャルソング|CMソング]]は[[憂歌団]]が歌っていた。2017年には同CMを30年の時を越えてリメイクした「ぼくの街の阪神電車2017」が放映される。1987年版と2017年版では構図・CMソング<ref group="注">但し、音源は憂歌団のリード・ヴォーカルである[[木村充揮]]による再録音版を使用している。</ref>は全く同じであり、阪神タイガースの帽子、阪神百貨店の紙袋が2017年現在のものに変更され、撮影車両も8000系から1000系に変わった<ref>{{PDF|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/4762.pdf 「ぼくの街の阪神電車 2017」 1月25日公開]}}、阪神電気鉄道、2017年1月24日。</ref>。
==== 阪神沿線物語シリーズCM出演者 ====
*[[佐藤江梨子]] - 森田優子(旧姓 坂本)役
*吉田哲子 - 坂本みよ子役
*[[島崎俊郎]] - 坂本清志役
*山本香織 - 瀬戸直子役
*[[ハマカーン]]
**[[神田伸一郎]] - 森田達也役
**[[浜谷健司]] - [[駅員]]役
このほか、[[桧山進次郎]]がワンシーンのみ出演していたこともある。
=== 現在の提供番組 ===
*[[サンテレビボックス席]]([[サンテレビジョン]]放送分・[[阪神甲子園球場]]での[[阪神タイガース]]戦のみ)
*[[ABCフレッシュアップベースボール]]
*[https://baycom.jp/service/cable_tv/community/channel/detail.cgi?id=6 “たいせつ”がギュッと。阪神沿線] - 歴史・芸術・食・ものづくりといった観点から阪神沿線に関わる“人”を クローズアップする番組。阪神グループの[[ケーブルテレビ]]局・[[ベイ・コミュニケーションズ]]が制作。同局および阪神・近鉄・山陽沿線のケーブルテレビ各局にて放送
=== 過去の提供番組 ===
*[[スポーツ・パレード]] - かつて[[朝日放送ラジオ|ABCラジオ]]で放送されていた提供番組。
*[[ANNニュースレーダー]]→[[たいむ6]](1983年の放映枠拡大時から)→[[ニュースウェーブABC]]→[[600ステーションABC]]→[[ABC News Report]]→[[ワイドABCDE〜す]] - かつて[[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]で放送されていた提供番組。阪神・淡路大震災発生に伴いCM放映を休止し、そのまま撤退している。
*[[渡辺篤史の建もの探訪]] - ABCテレビのみで提供していた。住宅情報番組のため当時あった阪神パーク甲子園住宅遊園のCMが中心だった。
*[[おはよう朝日です]] - 一時期スポンサーに付くことがあった。
*[http://www.hanshin.co.jp/group/close-up/tv/ensen.html 沿線散歩] - 「ときめき沿線ドラマティックロード」の前番組
*[[三月の花嫁 on ドラマティックロード]]([[エフエム大阪|FM大阪]])
*[http://jocr.jp/ecostyle/index.html 正木明のエコ・スタイル]([[ラジオ関西]]制作)
*[[ABCフレッシュアップベースボール]]
*[[MBSタイガースライブ]]
*[[ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です]](朝9時25分頃のニュースコーナー)
*ABCニュース([[ABCニュース (朝日放送テレビ)|テレビ]]・[[ABCニュース (朝日放送ラジオ)|ラジオ]])
*[http://abc1008.com/wufang/index.html 伍芳(ウー・ファン)のふらっと阪神沿線] - ABCラジオで放送されていた沿線情報番組。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
<!-- 放送局等(との関係)は上の「関係企業」節で記述済みです。-->
*[[阪急・阪神経営統合]]
*[[ザ!鉄腕!DASH!!]] - [[TOKIO]]のメンバーが阪神の[[阪神5500系電車|5500系電車]]・[[阪神5700系電車|5700系電車]]と競争する企画があった。
*[[電車唱歌]](阪神電車唱歌)
== 外部リンク ==
{{commonscat|Hanshin Electric Railway}}
<!-- [[Wikipedia:ウィキペディアは何でないか]]の「ウィキペディアはミラーサイトでもリンク集でもありません」の1.単なる外部リンク集ではありません。も参照のこと。念のため。-->
* [https://rail.hanshin.co.jp/ 阪神電車] - 鉄道情報公式サイト
* [https://www.hanshin.co.jp/ 阪神電気鉄道株式会社] - 企業公式サイト
* {{YouTube|channel = UC6K4fwU71S8ekEX39LyYJHg|阪神電気鉄道}}
* {{Twitter|hanshin_pr|阪神電車【公式】(阪神電気鉄道)}}
* {{Twitter|hanshin_unkou_|阪神電車運行情報【公式】}}
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3,963 | 存在 | 存在(そんざい、英語 being, existence, ドイツ語 Sein)とは、
「存在」は古代ギリシャ語ではeon や ousia ウーシア、ラテン語ではesse エッセ、ドイツ語では大文字で始まるSein ザイン、フランス語ではêtre エ(ー)トルなどとされる。
ヨーロッパの哲学の歴史を見てみると、「存在」についての思索、つまり「いったい何が“ある”のか?」や「“ある”とはどういうことか」ということは、ひとつの究極の主題であったとも言える。別の言い方をすると(他の地域の哲学はまた別の話であるが)ヨーロッパ哲学は基本的に存在論であったとも言える。
一方、東洋ではインドで、《無》と関連づけられつつ《有》が探求された。解脱指向のアプローチが現れたり、(西洋同様とも言える)現象界の虚妄性を強調するアプローチが現れた。(後述)
パルメニデスは「ある」に関して多くの文章を残している。彼は次のように述べた。
パルメニデスは「何かがある」ということは証明されうることでもなければ、証明されるべきことでもない、とした。
パルメニデスは「eon(ある)」の内容を真に理解することに努力を注いだ。そして、それは基本的に nous ヌースあるいはlogos ロゴスによってのみ理解されうる、とした。
パルメニデスは「eon(ある)」の誕生を求めてはならぬ、とした。というのは、まず「ある」が「あらぬ(=無)」から生じたと考えることはできない、と言う。「あらぬ」は「あらぬ」であって、語ることも考えることもできぬ非実在だとする。では、だからと言って「ある(A)」は「ある(B)」から生じたとすると、「ある(A)」は「ある」ではなかった、という自己矛盾が生じるから、と言う。
よって、存在に先行する存在はありえず、存在の後にくる存在もない。つまり、存在に関しては過去も未来も意味を持たない、存在について時間は意味を持たない、とした。同様の論法でパルメニデスは、存在の不可分性、連続性、同質性などを否定してゆく。こうしてロゴスを用いた洞察で、「eon(ある)」をの真の姿にもとづいて、人が感覚する「生成変化する時間的な世界」というのは、虚妄の世界だとする。このパルメニデスの論調がひとつの基調となってヨーロッパの存在論へとつらなり「実在と現象」といった二世界論へとなってゆくことになった。
アリストテレスのMetaphysica『形而上学』は体系的な思索をおこない、その原基を提供し、現代に至るまでヨーロッパの形而上学を規定したり影響を与えたりしている。
アリストテレスはまず、『「ある」は様々な意味で語られる』ということ、つまり存在の多義性に着目し、その分析から「ある」こと(存在)についての思索を展開する。アリストテレスは「存在の多義性」を広い意味および狭い意味で用いた。広義のそれを4つからなる多義性とした。それは
の四種類があるという意味での多義性である。狭義の多義性については、10個のカテゴリーに分化して展開することを指した。なお、アリステレス自身はそれらの中で「カテゴリー」としての「ある」を重視したため、それがヨーロッパの伝統に引き継がれ、結果として「ousia ウーシア(実体)」が最重要視されるようになった。
ではそのウーシア(実体)をアリストテレスがどのように考えたかと言うと、彼は2つの考え方をしたのであり、
この1の実体、「あるものをあらしめる普遍的な性格」について解説すると、およそあるものをあらしめている原理は何か?と問うと、例えば具体例としてここに車があるとして、その車を車たらしめている原理は何か?と問うと、すぐに「それは鉄やガラスという素材だ」などと考えてしまう者がいるが、しかし素材は交換しても車は車であるし、またそれらの素材をただ不規則に集めても車にはならない。それらの事実を考慮すると、車を車ならしめているのは、設計図(や設計の意図を表現した何か)ということになる。)(アリストテレスは、ヒューレー(質料、現代風に言うと“素材”)とエイドス(形相)という概念を用いて様々なことを説明したが)前述のことを考慮すると、結局、「あるものがあるものであらしめているのは、ヒューレー(≒素材)ではなく、エイドス(形相)のほうであり、原理から考えて、エイドスのほうが優れて実体である」とした。
次に2の実体、「究極の存在者、すなわち神」についてアリストテレスは、この世界にあるものはすべて生成消滅することから、エネルゲイア(純粋現実態)とした。
中世哲学のなかでもとくにトマスの存在論においては、「存在そのもの」が主題とされた。「存在そのもの」はカテゴリーに依存しておらず、現実態そのものであり、真にその名に値するものは神のみである、とする。神以外の存在者は被造物であり、essentia(本質)を通してのみ、existentia(存在)が与えられる、とされた。つまり、実体・量・性質等々のカテゴリーが与えられ、その形式のもとに「存在すること」が成立するようになる、とした。
カントは、「物自体」は決して知ることが出来ない、とした。
ハイデガーは、アリストテレスの存在論について、《なぜという問い》をしているのではなくて、《存在のしかた》に焦点を当てていると述べ、アリストテレスの形而上学やそれを継承したヨーロッパの形而上学は全て「存在忘却」だと批判した。そしてハイデガーは、それを乗り越えるためには「Sein 存在(あること)」と「Seiende 存在者(あるもの)」について考えなければならない、とした(ontologische Differenz)。これは「存在(ある)」は、存在者として現れることにより、それ自体を隠蔽するという逆説的事態が起きていることを自覚することであり、真理がAnwesen(現前)であるとすれば、真理は隠蔽(など)の非真理と必然的に結びついていることを自覚ことである、とする。かくして「存在(ある)」とは「真理・非真理」(真理であり、同時に非真理であるもの)であり、Abgrund(深淵)、Nichts(無)、Ereignis(呼び求め)、Zeit-Spiel-Raum(時間・戯れ・空間)だ、とハイデガーは言った。
マルティン・ハイデッガー以降、「基礎的存在論」と呼ばれる哲学の一分野が大きく取り上げられるようになった。
自然科学は「ものが存在する」の「もの」すなわち「存在者」の方を問い、「存在すること」そのことは問わない。しかし、ハイデッガーなどは、まさに「存在すること」そのことを問うたといえる。
この問題を最初に定式化したのは、遡れば古代ギリシアのパルメニデスであった。
一方、ハイデッガーやパルメニデスにおける「存在」と、東洋的な「絶対無」との関連を指摘する声もある。代表的な論者は井筒俊彦である。存在も絶対無も突き詰めれば同じ事柄をいっており、それが世界ありかたの根源的な次元である、と考えられている。
インドにおいては哲学的な探求は、存在に焦点が当てられて行われたわけではないものの、《無》の問題と関係する形でしばしば登場することになる。なお、存在に関連する語彙も豊富で、動詞はas, bhu, vrt, vasなどを語根した語彙があり、派生語sat, sattva, satta, astiva, bhava, vrtti, vastuなどがあり、重要な複合語にsvabhava(自性)がある。
宇宙のはじまりに思いをめぐらせたヴェーダの詩人たちは、宇宙の始原を、asat 《非有》、sat《有》、あるいは《有》《非有》の両者を包みなおかつそれを超えた「あの唯一」「時間」「ブラフマン」などの至高存在に求めた。彼らの言う《非有》は単なる虚無ではなく、「無限定の混沌」のようなもので、それに対して《有》は秩序であり、satya(真実)とも関係する概念である。インドでは円環的時間の考え方が前面に現れ、それとともに世界の“始原”への関心は薄れ、むしろ変化の根底にある構成原理へと探求の力点が移動した。ウパニシャッドの哲人ウッダーラカ・アールニは《有の哲学》を唱え、世界の始原たる《有》は、万物に内在する本質でもあり、その真実へ回帰し覚醒することが求められる、とした。これは解脱指向のアプローチで、存在が充溢し、意識・歓喜などと融合するものである。
初期のヴェーダーンタは、開展説によって最高存在と現象界との連続性を保ったが、その後、シャンカラに始まる不二一元論のように、現象界の虚妄性を強調する傾向が主流となった。彼らは、ブラフマンのみをparamarthika-sattva(真の実在)とし、現象界や個我(苦や迷い)は、至高存在についての覚知の欠如(=無明)ゆえに あたかもそれらが実在するかのごとく思っているのであって vyavaharika-sattva(世俗通念)にすぎず、「有とも無とも規定しえないもの」とされた。
(なお、これらの階層的な理解は、仏教における《実有》と《仮有》、あるいは《勝義有》と《世俗有》といった理解のしかたと対応している。)
ハイデガーなどが指摘したように(哲学者の視点から見れば)、(西洋哲学の伝統の系譜にある)自然科学というのは「存在者(1)が存在する(2)」のうちの1「存在者」を問い、2「存在すること」そのことは探求されていない、ということになる。
一部の理論物理学では、宇宙の誕生の過程やミクロの世界の物質の振る舞いを数学的に考察する中から、我々の現実世界以外の平行宇宙や虚時間における物理過程などに言及することがある。ここでは、現実世界として一般に考えられているような世界の外があり、そこに何かの物事が存在、進行していると呼べば呼べそうな事態がある。
また、コペンハーゲン解釈と呼ばれる量子力学の有力な一解釈によれば、物質を量子のレベルで把握する場合、そこには細かな粒子状の存在物とそれらを隔てる空間とがある訳ではないとされる。単一の量子は空間内に広がりを持って確率的に分布しており、特定の一点に存在する訳ではない。観測行為が起こると、そこで初めて、特定の位置が確定される、とされるようになった(シュレーディンガーの猫、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス、ベルの定理も参照のこと) | [
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"text": "一方、ハイデッガーやパルメニデスにおける「存在」と、東洋的な「絶対無」との関連を指摘する声もある。代表的な論者は井筒俊彦である。存在も絶対無も突き詰めれば同じ事柄をいっており、それが世界ありかたの根源的な次元である、と考えられている。",
"title": "西洋"
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"text": "インドにおいては哲学的な探求は、存在に焦点が当てられて行われたわけではないものの、《無》の問題と関係する形でしばしば登場することになる。なお、存在に関連する語彙も豊富で、動詞はas, bhu, vrt, vasなどを語根した語彙があり、派生語sat, sattva, satta, astiva, bhava, vrtti, vastuなどがあり、重要な複合語にsvabhava(自性)がある。",
"title": "東洋"
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"text": "宇宙のはじまりに思いをめぐらせたヴェーダの詩人たちは、宇宙の始原を、asat 《非有》、sat《有》、あるいは《有》《非有》の両者を包みなおかつそれを超えた「あの唯一」「時間」「ブラフマン」などの至高存在に求めた。彼らの言う《非有》は単なる虚無ではなく、「無限定の混沌」のようなもので、それに対して《有》は秩序であり、satya(真実)とも関係する概念である。インドでは円環的時間の考え方が前面に現れ、それとともに世界の“始原”への関心は薄れ、むしろ変化の根底にある構成原理へと探求の力点が移動した。ウパニシャッドの哲人ウッダーラカ・アールニは《有の哲学》を唱え、世界の始原たる《有》は、万物に内在する本質でもあり、その真実へ回帰し覚醒することが求められる、とした。これは解脱指向のアプローチで、存在が充溢し、意識・歓喜などと融合するものである。",
"title": "東洋"
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"text": "初期のヴェーダーンタは、開展説によって最高存在と現象界との連続性を保ったが、その後、シャンカラに始まる不二一元論のように、現象界の虚妄性を強調する傾向が主流となった。彼らは、ブラフマンのみをparamarthika-sattva(真の実在)とし、現象界や個我(苦や迷い)は、至高存在についての覚知の欠如(=無明)ゆえに あたかもそれらが実在するかのごとく思っているのであって vyavaharika-sattva(世俗通念)にすぎず、「有とも無とも規定しえないもの」とされた。",
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"text": "(なお、これらの階層的な理解は、仏教における《実有》と《仮有》、あるいは《勝義有》と《世俗有》といった理解のしかたと対応している。)",
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"text": "ハイデガーなどが指摘したように(哲学者の視点から見れば)、(西洋哲学の伝統の系譜にある)自然科学というのは「存在者(1)が存在する(2)」のうちの1「存在者」を問い、2「存在すること」そのことは探求されていない、ということになる。",
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"text": "一部の理論物理学では、宇宙の誕生の過程やミクロの世界の物質の振る舞いを数学的に考察する中から、我々の現実世界以外の平行宇宙や虚時間における物理過程などに言及することがある。ここでは、現実世界として一般に考えられているような世界の外があり、そこに何かの物事が存在、進行していると呼べば呼べそうな事態がある。",
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"text": "また、コペンハーゲン解釈と呼ばれる量子力学の有力な一解釈によれば、物質を量子のレベルで把握する場合、そこには細かな粒子状の存在物とそれらを隔てる空間とがある訳ではないとされる。単一の量子は空間内に広がりを持って確率的に分布しており、特定の一点に存在する訳ではない。観測行為が起こると、そこで初めて、特定の位置が確定される、とされるようになった(シュレーディンガーの猫、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス、ベルの定理も参照のこと)",
"title": "自然科学"
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] | 存在とは、 あること。あるいは、いること。また、そのある(いる)何か。事物、物体、事柄、物質として有るという概念及びそのもの。「歴史に存在する人物」「神の存在」のように用いる。
(哲学)
他の何かに依存することなく、それ自体としてあるもの。
ものの本質。
(人間にとって)まず現実(リアリティ)としてあるもの。実存。
《現象》として人の意識に映じているものや人が経験している内容。 | {{otheruses||松山千春の曲|存在 (松山千春の曲)}}
{{独自の研究|date=2017年5月4日}}
'''存在'''(そんざい、英語 being, [[w:existence|existence]], ドイツ語 [[:de:Sein|Sein]])とは、
* あること<ref name="kohjien_ver5">広辞苑 第五版 p.1586 存在</ref>。あるいは、いること<ref name="kohjien_ver5" />。また、そのある(いる)何か<ref name="kohjien_ver5" />。事物、物体、事柄、物質として有るという[[概念]]及びそのもの。「[[歴史]]に存在する[[人間|人物]]」「[[神]]の存在」のように用いる<ref name="kohjien_ver5" />。
* ([[哲学]])
** 他の何かに依存することなく、それ自体としてあるもの<ref name="djsen">大辞泉 「存在」</ref>。
** ものの[[本質]]<ref name="djsen" />。
** (人間にとって)まず[[現実]](リアリティ)としてあるもの。[[実存]]<ref name="djsen" />。
** 《[[現象]]》として人の意識に映じているものや人が経験している内容<ref name="djsen" />。
<!--{{要出典}}* この[[世界]]の多様な[[現象]]を把握するために、一定の条件を満たした現象群を統合した呼称。-->
== 概要 ==
「存在」は古代ギリシャ語ではeon や ousia [[ウーシア]]、ラテン語ではesse エッセ、ドイツ語では大文字で始まるSein ザイン、フランス語ではêtre エ(ー)トルなどとされる<ref name="ts_west">哲学思想事典 1998年 pp.991-992 岩田靖夫 執筆「存在」</ref>。
ヨーロッパの哲学の歴史を見てみると、「存在」についての思索、つまり「いったい何が“ある”のか?」や「“ある”とはどういうことか」ということは、ひとつの究極の主題であったとも言える<ref name="ts_west" />。別の言い方をすると(他の地域の哲学はまた別の話であるが)ヨーロッパ哲学は基本的に[[存在論]]であったとも言える<ref name="ts_west" />。
一方、東洋ではインドで、《無》と関連づけられつつ《有》が探求された。解脱指向のアプローチが現れたり、(西洋同様とも言える)現象界の虚妄性を強調するアプローチが現れた。(後述)
== 西洋 ==
=== パルメニデス ===
[[File:Sanzio 01 Parmenides.jpg|thumb|Parmenidēs([[アテナイの学堂]])]]
[[パルメニデス]]は「ある」に関して多くの文章を残している<ref name="ts_west" />。彼は次のように述べた。
:eon(ある)は不生不滅、全体、唯一、不動であり、終わりがない、またそれは、あったこともなく、あるだろうこともない、なぜなら、それは、今、ひとときに、全体、一、連続としてあるのだから。
パルメニデスは「何かがある」ということは証明されうることでもなければ、証明されるべきことでもない、とした<ref name="ts_west" />。
パルメニデスは「eon(ある)」の内容を真に理解することに努力を注いだ。そして、それは基本的に nous [[ヌース]]あるいはlogos [[ロゴス]]によってのみ理解されうる、とした<ref name="ts_west" />。
パルメニデスは「eon(ある)」の誕生を求めてはならぬ、とした<ref name="ts_west" />。というのは、まず「ある」が「あらぬ(=[[無]])」から生じたと考えることはできない、と言う<ref name="ts_west" />。「あらぬ」は「あらぬ」であって、語ることも考えることもできぬ非実在だとする<ref name="ts_west" />。では、だからと言って「ある(A)」は「ある(B)」から生じたとすると、「ある(A)」は「ある」ではなかった、という自己矛盾が生じるから、と言う<ref name="ts_west" />。
よって、存在に先行する存在はありえず、存在の後にくる存在もない。つまり、存在に関しては過去も未来も意味を持たない、存在について[[時間]]は意味を持たない、とした<ref name="ts_west" />。同様の論法でパルメニデスは、存在の不可分性、連続性、同質性などを否定してゆく。こうしてロゴスを用いた洞察で、「eon(ある)」をの真の姿にもとづいて、人が感覚する「生成変化する時間的な世界」というのは、虚妄の世界だとする<ref name="ts_west" />。このパルメニデスの論調がひとつの基調となってヨーロッパの存在論へとつらなり「実在と現象」といった二世界論へとなってゆくことになった<ref name="ts_west" />。
=== アリストテレス ===
[[File:Aristotle Altemps Inv8575.jpg|thumb|[[アリストテレス]]]]
[[アリストテレス]]のMetaphysica『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』は体系的な思索をおこない、その原基を提供し、現代に至るまでヨーロッパの形而上学を規定したり影響を与えたりしている<ref name="ts_west" />。
アリストテレスはまず、『「ある」は様々な意味で語られる』ということ、つまり存在の多義性に着目し、その分析から「ある」こと(存在)についての思索を展開する<ref name="ts_west" />。アリストテレスは「存在の多義性」を広い意味および狭い意味で用いた。広義のそれを4つからなる多義性とした。それは
# 付帯性としての「ある」
# 真としての「ある」
# [[カテゴリー]]としての「ある」
# [[デュナミス]]や[[エネルゲイア]]としての「ある」
の四種類があるという意味での多義性である<ref name="ts_west" />。狭義の多義性については、10個のカテゴリーに分化して展開することを指した<ref name="ts_west" />。なお、アリステレス自身はそれらの中で「カテゴリー」としての「ある」を重視したため、それがヨーロッパの伝統に引き継がれ、結果として「ousia ウーシア([[実体]])」が最重要視されるようになった<ref name="ts_west" />。
ではその[[ウーシア]](実体)をアリストテレスがどのように考えたかと言うと、彼は2つの考え方をしたのであり、
# ひとつは①「あらゆる“ある”ものに共通の、あるものを あらしめる 普遍的な性格」として<ref name="ts_west" />、
# もうひとつは②「究極の存在者、すなわち[[神]]」とした<ref name="ts_west" />。
この①の実体、「あるものをあらしめる普遍的な性格」について解説すると、およそあるものをあらしめている原理は何か?と問うと、例えば具体例としてここに車があるとして、その車を車たらしめている原理は何か?と問うと、すぐに「それは鉄やガラスという素材だ」などと考えてしまう者がいるが、しかし素材は交換しても車は車であるし、またそれらの素材をただ不規則に集めても車にはならない<ref name="ts_west" />。それらの事実を考慮すると、車を車ならしめているのは、設計図(や設計の意図を表現した何か)ということになる<ref name="ts_west" />。)(アリストテレスは、[[ヒューレー]]([[質料]]、現代風に言うと“素材”)と[[エイドス]]([[形相]])という概念を用いて様々なことを説明したが)前述のことを考慮すると、結局、「あるものがあるものであらしめているのは、[[ヒューレー]](≒素材)ではなく、エイドス([[形相]])のほうであり、原理から考えて、エイドスのほうが優れて実体である」とした<ref name="ts_west" />。
次に②の実体、「究極の存在者、すなわち神」についてアリストテレスは、この世界にあるものはすべて生成消滅することから、[[エネルゲイア]](純粋現実態)とした<ref name="ts_west" />。
=== 中世哲学 ===
中世哲学のなかでもとくに[[トマス]]の存在論においては、「存在そのもの」が主題とされた<ref name="ts_west" />。「存在そのもの」はカテゴリーに依存しておらず、現実態そのものであり、真にその名に値するものは神のみである、とする<ref name="ts_west" />。神以外の存在者は被造物であり、essentia(本質)を通してのみ、existentia(存在)が与えられる、とされた<ref name="ts_west" />。つまり、実体・量・性質等々のカテゴリーが与えられ、その形式のもとに「存在すること」が成立するようになる、とした<ref name="ts_west" />。
=== カント ===
[[カント]]は、「[[物自体]]」は決して知ることが出来ない、とした。
=== ハイデガー ===
[[File:Heidegger 2 (1960).jpg|thumb|[[ハイデガー]]]]
[[ハイデガー]]は、アリストテレスの存在論について、《なぜという問い》をしているのではなくて、《存在のしかた》に焦点を当てていると述べ、アリストテレスの形而上学やそれを継承したヨーロッパの形而上学は全て「存在忘却」だと批判した<ref name="ts_west" />。そしてハイデガーは、それを乗り越えるためには「Sein 存在(あること)」と「Seiende 存在者(あるもの)」について考えなければならない、とした(ontologische Differenz)<ref name="ts_west" />。これは「存在(ある)」は、存在者として現れることにより、それ自体を隠蔽するという逆説的事態が起きていることを自覚することであり<ref name="ts_west" />、真理がAnwesen(現前)であるとすれば、真理は隠蔽(など)の非真理と必然的に結びついていることを自覚ことである<ref name="ts_west" />、とする。かくして「存在(ある)」とは「真理・非真理」(真理であり、同時に非真理であるもの)であり、Abgrund(深淵)、Nichts(無)、Ereignis(呼び求め)、Zeit-Spiel-Raum(時間・戯れ・空間)だ、とハイデガーは言った<ref name="ts_west" />。
[[マルティン・ハイデッガー]]以降、「基礎的[[存在論]]」と呼ばれる哲学の一分野が大きく取り上げられるようになった。<!--ハイデッガーは「存在者」(Seiende、ザイエンデ)と「存在そのもの」(Sein、ザイン)を分け、前者は後者を生成の根源とする{{要出典|date=2012年11月}}と考えた。-->
自然科学は「ものが存在する」の「もの」すなわち「存在者」の方を問い、「存在すること」そのことは問わない。しかし、ハイデッガーなどは、まさに「存在すること」そのことを問うたといえる。<!--この問いは純粋に哲学的で、一般に理解されている自然科学の存在の理解とは次元が異なる話である。どのようなものが「存在する」にせよ、「存在する」ということだけは変わらない{{要出典|date=2012年11月}}。-->
この問題を最初に定式化したのは、遡れば古代ギリシアの[[パルメニデス]]であった。<!--彼は、その詩的な著作の中で、「存在するもののみが存在する」とし、「[[無]]はない」と考えた。--><!--{{要出典範囲|ただし、これもまた、自然科学がしばしば取り上げる「無」とはそもそもの次元が異なる議論である。西洋の無は、存在の否定であり、本当の意味で「ない」ということである。よって、無を考えることはできない。|date=2012年11月}}-->
一方、ハイデッガーやパルメニデスにおける「存在」と、東洋的な「絶対無」との関連を指摘する声もある。代表的な論者は[[井筒俊彦]]である。<!--{{要出典|date=2012年11月}}だが、ハイデッガー自らもこのことを認めていると見られる。-->存在も絶対無も突き詰めれば同じ事柄をいっており、それが世界ありかたの根源的な次元である、と考えられている。<!--ここでいわれている絶対無は単なる非-存在(Non-being)ではなく、無でありながらも、存在と無の対立を超えてそれらを包摂するような「存在者を生じさせるもの」である{{要出典|date=2012年11月}}([[無]]の項目を参照されたし)。-->
== 東洋 ==
インドにおいては哲学的な探求は、存在に焦点が当てられて行われたわけではないものの<ref name="ts_east">哲学思想事典 1998年 pp.992-993 丸井浩 執筆「存在」</ref>、《[[無]]》の問題と関係する形でしばしば登場することになる<ref name="ts_east" />。なお、存在に関連する語彙も豊富で、動詞はas, bhu, vrt, vasなどを語根した語彙があり、派生語sat, sattva, satta, astiva, bhava, vrtti, vastuなどがあり<ref name="ts_east" />、重要な複合語にsvabhava([[自性]])がある<ref name="ts_east" />。
宇宙のはじまりに思いをめぐらせたヴェーダの詩人たちは、宇宙の始原を、asat 《非有》、sat《有》、あるいは《有》《非有》の両者を包みなおかつそれを超えた「あの唯一」「[[時間]]」「[[ブラフマン]]」などの至高存在に求めた<ref name="ts_east" />。彼らの言う《非有》は単なる虚無ではなく、「無限定の混沌」のようなもので、それに対して《有》は秩序であり、satya(真実)とも関係する概念である<ref name="ts_east" />。インドでは[[時間#古代宗教における時間|円環的時間]]の考え方が前面に現れ、それとともに世界の“始原”への関心は薄れ、むしろ変化の根底にある構成原理へと探求の力点が移動した<ref name="ts_east" />。[[ウパニシャッド]]の哲人[[ウッダーラカ・アールニ]]は《有の哲学》を唱え、世界の始原たる《有》は、万物に内在する本質でもあり、その真実へ回帰し覚醒することが求められる、とした<ref name="ts_east" />。これは[[解脱]]指向のアプローチで、存在が充溢し、意識・歓喜などと融合するものである<ref name="ts_east" />。
初期の[[ヴェーダーンタ]]は、[[開展説]]によって最高存在と現象界との連続性を保ったが<ref name="ts_east" />、その後、[[シャンカラ]]に始まる[[不二一元論]]のように、現象界の虚妄性を強調する傾向が主流となった<ref name="ts_east" />。彼らは、ブラフマンのみをparamarthika-sattva(真の実在)とし、現象界や個我(苦や迷い)は、至高存在についての覚知の欠如(=無明)ゆえに あたかもそれらが実在するかのごとく思っているのであって vyavaharika-sattva(世俗通念)にすぎず、「有とも無とも規定しえないもの」とされた。
(なお、これらの階層的な理解は、[[仏教]]における《[[実有]]》と《[[仮有]]》、あるいは《[[勝義有]]》と《[[世俗有]]》といった理解のしかたと対応している<ref name="ts_east" />。)
== 自然科学 ==
ハイデガーなどが指摘したように(哲学者の視点から見れば)、(西洋哲学の伝統の系譜にある)自然科学というのは「存在者(①)が存在する(②)」のうちの①「存在者」を問い、②「存在すること」そのことは探求されていない、ということになる。
一部の[[理論物理学]]では、宇宙の誕生の過程やミクロの世界の物質の振る舞いを数学的に考察する中から、我々の現実世界以外の[[平行宇宙]]や[[虚時間]]における物理過程などに言及することがある。ここでは、現実世界として一般に考えられているような世界の外があり、そこに何かの物事が存在、進行していると呼べば呼べそうな事態がある。
また、[[コペンハーゲン解釈]]と呼ばれる[[量子力学]]の有力な一解釈によれば、物質を量子のレベルで把握する場合、そこには細かな粒子状の存在物とそれらを隔てる空間とがある訳ではないとされる。単一の量子は空間内に広がりを持って確率的に分布しており、特定の一点に存在する訳ではない。[[観測]]行為が起こると、そこで初めて、特定の位置が確定される、とされるようになった([[シュレーディンガーの猫]]、[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス]]、[[ベルの定理]]も参照のこと)
== 存在の例 ==
=== 位置づけ、線引きの難しい存在 ===
*[[物質]]。 デカルトの影響もあり18世紀の自然哲学などでは唯一の実体であるかのように考えられ、かつて信奉された機械論などでも絶対視されたが、その後電磁気学が発展するにつれ(物質でない電界・磁界などが物理で重要な役割を果たしていることが認識されるようになり)、物質の位置づけは相対的にかなり低下、さらに20世紀初頭にアインシュタインが[[相対性理論]]によって物質(質量)もあくまでエネルギーの一状態にすぎない、としたことで、物質概念の重要性はすっかり低下した。物質は[[反物質]]と衝突すると[[対消滅]]を起こし物質(質量)はエネルギーに変わる、つまり物質というのは消滅するものなのである。消滅してしまうようなものは、もはや理論の基礎に据えるほど特別・確実なものではない、ということになったのである。<ref>平凡社『世界大百科事典』村上陽一郎 執筆【物質】</ref>
*[[電磁波]]、[[光]]。[[光子]]は静止質量が0の[[素粒子]]であり、物質ともエネルギーとも見なせる微妙な存在である。
*[[電界]]、[[磁界]]、[[重力場]]。 いずれも[[量子化]]により対応する素粒子が現れ、物質ともエネルギーとも見なせる微妙な存在である。
*[[力 (物理学)|力]](エルンスト・マッハらは、ニュートン的な《力》の概念の実在性を否定している)
*[[エネルギー]]<ref group="注釈">エネルギーは通常「実体」とはされない(百科事典や哲学事典のエネルギーの記事参照のこと)。エネルギーそれ自体が文字通り(定義通りに)「実体」として存在しているわけではない(詳しくは青木書店『哲学辞典』あるいは岩波『哲学・思想事典』などの「実体」の記事を熟読のこと)。例えばゴルフボールの運動エネルギーはゴルフボールがあって、なおかつそれが移動しているから、物理の数式上は存在していることになる、という非常に概念的な存在であるが、相対性理論以降はエネルギーが物質化することもある、とされるようになり、これも古いの概念枠ではもはや分類が困難な、微妙な存在である。)</ref>
*[[空間]]<ref group="注釈" name="名前なし-1">非常に議論のある存在である</ref>
*[[時間]]<ref group="注釈" name="名前なし-1"/>
*[[生命]]<ref group="注釈">[[生物]]は物質でできている、と一応は言えるが、生命は物質そのものではない。近代の(つまり一昔前の古い)生物学では「機械論⇔生気論」などという非常に単純化した図式(一種の2項対立思考)を採用する考え方や議論が学者の共同体に蔓延し、この説明がそもそもあくまでひとつの仮説にすぎないということにも気づかないで教条のように扱う科学者まで現れたが、現代の先端の生物学では'''[[生物情報学]]'''が登場し、生命を物質とだけ捕らえていては理解できない、情報の流れという無形の存在が重要なのだと、健全な科学者には認知されるようになってきた。(ただし、いまだに「機械論⇔生気論」という図式で全てを把握しようとする人が学者の共同体には(高齢者を中心として)多数存在する。このように図式(仮説)を否定する事例が提示されても図式(仮説)を棄却できないというのはもはや健全な科学的な思考プロセスとは言えず、観念にとりつかれてしまっている状態、一種の「[[固定観念]]」化している状態とも言える。あるいは、科学共同体の内に潜む、一種のドグマ主義や[[原理主義]]にあたるとも言え、共同体内部の問題だけに非常にやっかいな問題である)(生命のとらえ方、概念の発展については[[生物学]]の項も参照可)</ref>
* [[自然法則]]<ref group="注釈">「自然」と「法則」という概念を組み合わせたこと自体デカルトが行った恣意的なことで、さらに自然自体に本当に法則があるのかは怪しく、デカルト以降の方法論によって自然に対して恣意的な接し方をすることで「自然法則」とされるもの(という人間的な記述)を人間が恣意的につくりだしている、と指摘する学者も多々いる。</ref>
=== 情報的存在 ===
*[[情報]]。 情報は[[エネルギー]]の様々な状態である[[電磁波]]、[[磁界]]、[[光]]、"物質"などにより、変化自在に運ばれ、表現される。いわゆる"物質"には必ずしも依存してはいない。
*[[言語]]
*[[ソフトウェア]]、[[データ]]、[[オペレーティングシステム|OS]]、[[プログラミング言語]]
*[[数学]]的対象、[[論理]]、[[公理系]]
*[[設計思想]]
*[[方法論]]、[[ノウハウ]]、Wikiの編集方針
*[[物理法則]]、[[物理定数]]
=== 心の存在 ===
*[[心]]、[[精神]]、[[魂]]、[[意識]]、[[知性]]
*[[記憶]]、体験、[[経験]]、思い出
*[[感情]]、[[情動]]、友情、[[愛情]]、[[親子]]の情、[[慈愛]]
*[[価値観]]、[[信念]]、[[こころざし]]
*[[思想]]、[[信仰]]
=== 文化全般 ===
*[[文化_(代表的なトピック)|文化]] - [[学問]]、[[哲学]] - [[科学]]、[[宗教]] - [[数学]]、[[芸術]]、[[音楽]]、[[美術]]、[[文学]]
=== 社会的存在 ===
*[[社会]]、[[国家]]、[[法人]]、[[民族]]
*[[法律]]、[[法規]]、[[契約]]、約束
*[[人権]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
{{wiktionary}}
* [[存在論]]
* [[主体と客体]] - 観測者と存在、知るもの(主体)と知られるもの(客体)。
* [[なぜ何もないのではなく、何かがあるのか]]
* [[実体]]
* [[実証主義]]
* [[存在価値]]
* [[神の存在証明]]
== 外部リンク ==
{{SEP|existence|Existence}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:そんさい}}
[[Category:存在論]]
[[Category:古代ギリシア哲学の概念]]
[[Category:古代ギリシア形而上学の概念]] | 2003-03-13T21:35:06Z | 2023-12-31T04:28:35Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8 |
3,964 | 日本の歴史 | この項目では日本の歴史(にっぽんのれきし/にほんのれきし)について記述する。
日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。
古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世を通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊して、バブル崩壊で右肩上がりの経済成長が終わった1990年前後に変更すべきという意見もある。(以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代)
上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。
一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古資料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治の中心地の所在地に従って、弥生時代後期〜古墳時代 (大阪市)・飛鳥時代(明日香村)・奈良時代(奈良市)・平安時代(京都市)・鎌倉時代(鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代(近江八幡市・京都市伏見区)・江戸時代(東京23区・旧東京市)と区分する。ただこれだけでは必ずしも十分でないため弥生時代後期から飛鳥時代前期に大和時代、鎌倉時代の後に建武の新政、室町時代前期に南北朝時代、室町時代後期に戦国時代、江戸時代後期に幕末という区分を設けており、このうち南北朝時代と戦国時代は中国の歴史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位期間(一世一元の制)に従って明治時代(明治天皇)・大正時代(大正天皇)・昭和時代(昭和天皇)・平成時代(明仁)・令和時代(徳仁)と呼ばれている。これらのうち、明治維新から1947年(昭和22年)5月2日までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)を「大日本帝国時代」と、政体(憲法)に因んで呼ぶ例もある。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、→日本史時代区分表)。
また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁・貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化などが用いられる。
日本列島における人類史の始まり、つまり日本列島に初めて人類が到達した年代については、現在も多くの議論が行われている。5万年前、あるいは8-9万年前に遡るとされる岩手県遠野市の金取遺跡出土石器や、2009年(平成21年)に同志社大学らにより発掘調査された島根県出雲市の砂原遺跡出土石器の分析結果から、12万年前に遡るとする松藤和人(同志社大学教授)らの見解もあれば、現世人類(ホモ・サピエンス)以前の人類による列島への渡航能力と時期の問題や、石器の出土した土層の年代測定上の問題などから、4万年前以前に遡る可能性に否定的な堤隆(明治大学研究員)らの見解などがあり、2020年代となった今日でも意見が分かれている。少なくとも現状では、日本列島の旧石器時代遺跡で、4万年前以前に遡る可能性が指摘されているものに、全ての旧石器時代研究者が肯定するものは存在していないとされる。
現生人類の最初の到来は4~3.5万年前と考えられている。この時代の人々は、集落を造って一定の場所に長期間留まることをせず、テントのような簡易な住まいで寝泊まり(キャンプ)しながら集団で狩猟採集をして移動を繰り返す「遊動生活」をしていたと考えられている。後期旧石器時代の初期(4~3万年前)には、大規模な集団キャンプ跡と見られる環状ブロック群と呼ばれる遺構が出現し、千葉県印旛郡酒々井町の墨古沢遺跡や、長野県上水内郡信濃町の日向林B遺跡(野尻湖遺跡群の1つ)などの事例が知られる。
約4~3万年前の人々は、台形様石器を用いたほか、日向林B遺跡などで世界最古とされる磨製石器(局部磨製石斧)が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器を使用していたと見られる。大分県豊後大野市の岩戸遺跡からは、約2万4千年前のものとみられるこけし型の岩偶が出土しており、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえる。
古く北海道と九州方面は大陸と地続きでありナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では出土していない。
この時代に属する遺跡は列島全体で1万箇所以上発見されているが、建物(竪穴建物や平地建物)の遺構が検出される事例は極めて稀で、確実に建物(住居)跡とみて良いものは、約2万2千年前の大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の例や、約2万年前の神奈川県相模原市の田名向原遺跡の例など、10例程度しか発見されていない。
約2万年前にはシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が北海道に伝わり、主に北日本で広がり、また約1万4千年前頃には別の型の細石器が大陸から九州に伝わり、西南日本で広がったものと思われる。
約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な地球温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。
旧石器時代人の遺伝子としてハプログループD1a2a (Y染色体)、ハプログループC1a1(Y染色体)が想定されている。
縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世の末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や、定住化に伴う集落(環状集落など)の形成、長期使用可能な建物(竪穴建物・平地建物・掘立柱建物)の普及、貝塚の形成などがあげられる。
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴建物に住んだ。縄文土器については、青森県大平山元I遺跡にて約1万6,500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁撈、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。
雑穀や堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビワから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。稲作については、約6,000年前の岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていたことが判明した。
縄文人の主要な遺伝子として、ハプログループD1a2a (Y染色体)、ハプログループC1a1 (Y染色体)が想定されている。
紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生土器に由来する。弥生時代の開始期に大陸からハプログループO1b2 (Y染色体)に属す弥生人が到達した。水稲耕作が普及し、青銅器や鉄器などももたらされた。日本語も弥生人によって朝鮮半島からもたらされたという説が有力とされる。
稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。
当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。この時期の倭(日本)の状況は中国の史料で確認できる(倭・倭人関連の中国文献)。
第二次大戦前までは『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当するとされ、初代神武天皇の即位(日本国の建国)とされる年はこの時代の前半にあたるとされていたが、戦後の歴史学では一般的でない。
北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。
弥生時代以降、ハプログループO2 (Y染色体)の渡来人が到達したとされる。
3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に近畿地方に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている(前方後円墳体制)。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ流入した。新羅や高句麗とも戦争を繰り返した。(倭・高句麗戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)
5世紀に入るとヤマト王権は朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく朝貢することで、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。
倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。
またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。
この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
6世紀末から8世紀初頭までは、大和朝廷の本拠が主に飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半には朝廷の国内支配が安定し、むしろ朝廷内部の大王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。仏教・儒教・道教等の書物が入ってきたことで、この頃から文字の使用が普及する。
6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも7世紀前半にかけて推古天皇とその甥厩戸王(聖徳太子)が、王殺しである蘇我馬子を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。第1次遣隋使派遣の反省から、冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。第2次遣隋使では小野妹子が派遣され、中国の皇帝煬帝へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、自主性を示す意図があった。
7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められ、藤原に都城(藤原京)が置かれ、大宝以後は元号も定着した。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる『日本書紀』の編纂が開始される。
なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。
8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。そして遣唐使を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期聖武天皇のときに中宮職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると百姓階層の分化が始まり、逃散増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。
この時代には干ばつ・飢饉・山火事などの災害や疫病の流行が多発した。特に、735–737年にかけて発生した天然痘のエピデミック(天平の疫病大流行)は貴族・庶民を問わず夥しい数の死者を出し、政権を担っていた藤原四兄弟も相次いで病死した。これらの災厄が自らの不信心に起因していると考えた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した。
文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教は政府により統制されたものの鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名である。称徳天皇が作らせた百万塔におさめられた百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物と言われている。
8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。
王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である武士階層が、契丹の台頭に呼応した承平天慶の乱や刀伊の入寇などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門を荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。
奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名・片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。
東北地方では、11世紀頃から安倍氏・清原氏・奥州藤原氏などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された鎮守府将軍をも交えてしばしば抗争した(前九年の役・後三年の役)。南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美群島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。
12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の元寇によって加速した。恩賞の払えない幕府は徳政令を発布したり得宗専制をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた封建制を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。
文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの鎮護国家を目的とする顕密体制の仏教から発した鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の擦文文化が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、またオホーツク文化と融合する中、アイヌ文化へと変遷を遂げた。
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統後醍醐天皇流の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。
鎌倉時代中期以降、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を巡り争い、鎌倉幕府の介入により両統迭立状態となっていた。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとするも失敗し、廃位されたのち隠岐に流され、皇太子であった光厳天皇(持明院統)が即位した。しかし、隠岐を脱出した後醍醐天皇は再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。
後醍醐天皇は、光厳天皇を退位させ、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、公家や武士など様々な層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、光厳上皇の協力も得て建武政権を崩壊させた。京都で持明院統の光明天皇(光厳上皇の実弟、猶子)が即位したのち、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を成立させた。対する京都の朝廷を北朝と呼ぶ。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。情勢的には、一部期間(正平一統など)を除き、京都を掌握し武家政権を擁する北朝が優勢を誇り、大多数の公家や皇族、武士から支持を得た。
文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。
14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。京都に本拠を置いた幕府は、足利尊氏・足利直義兄弟による二頭政治を行った。観応の擾乱以前は、朝廷(公家政権、北朝)と幕府は協調・連動して徳政政策を行っていた。しかし、観応の擾乱を経て幕府は幕府権力を一つに統一し、対して朝廷は権威を失墜させると、幕府は朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷は政治実権や政治機構を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。
足利義満は南北朝合一を遂げ、朝廷を北朝に統一した。また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 1419年、李氏朝鮮が対馬に侵攻した。(応永の外寇) 1429年に尚巴志王が琉球王国を作り上げ、日本や明などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の北海道南部に進出した人々は道南十二館などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、1457年に大首長コシャマインを中心に蜂起するも(コシャマインの戦い)、蠣崎氏により鎮められた。
この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化(北山文化・東山文化)が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した織田信長は、楽市楽座令を出したり、自治都市の堺を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い、強大な軍事力を手にした。
この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が始まり、火縄銃やキリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。
織田信長は室町将軍足利義昭を追放すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が本能寺の変により自害すると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなった。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、中世をおわらせた。刀狩や太閤検地の実施を通し、兵農分離を進めて荘園公領制・職の体系を消滅させたのである。秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名・武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。
この時代の世界情勢と秀吉の外交に臨む態度はサン=フェリペ号事件に見ることができる。船員に提示された秀吉の書状によると、秀吉は英葡永久同盟下にあるポルトガルから聞いて、フィリピンが武力制圧されていたことを知っていた(フィリピン#スペイン植民地時代)。処刑された日本二十六聖人はフランシスコ会であったが、宗教改革の時節柄カトリック教会であった。近世日本国民史によると、スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としているということであった。しかし、この文献は当世のものでない。このときのスペイン国王はフェリペ2世であった。次の事実は世界的観点から特に重要である。ハプスブルク家出身であるフェリペ2世は、英葡同盟下にあるポルトガル国王を兼ね、さらに帝国郵便の維持費を負担していた。
秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。
慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。
秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝利して権力を掌握すると征夷大将軍に任命され(1603年)江戸に幕府を開き、大坂の陣(1614年 - 1615年)で豊臣氏を滅ぼした。この後、幕府は、17世紀中葉までに武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中で勃発した島原の乱(1637年 - 1638年)は、キリスト教禁止の徹底と出島での管理貿易による鎖国の完成へとつながる。日本の境界領域である琉球王国と蝦夷地(和人地である渡島半島を除く北海道、樺太及び千島列島)の支配は大名を通じて行なわれた。
一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。
18世紀に入り金銀が流出して海舶互市新例(1715年)を出すようになり、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力(寛政の改革、天保の改革等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする化政文化が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、そして幕末の通貨問題を背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。
19世紀中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)に抗するため、幕府はフランスのソシエテ・ジェネラルから貸付を受けて軍備を増強した。しかし同世紀後半の黒船来航(1853年)と日米和親条約締結(1854年)による開国を契機として幕府の管理貿易(鎖国)は解かれた。そして不平等な安政五カ国条約(1858年)を勅許なしに締結してしまい、幕府の威信は低下した。朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩、長州藩、土佐藩らが樹立した明治新政府との内戦(戊辰戦争)に敗北後、瓦解した。
江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。当世の教育機関は明治になって財政支援に乏しい学制の普及に活用された。
18世紀初頭の京都と大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、当時から大都市であったロンドンやパリ以上で世界一の人口を誇る都市であった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。その他、江戸時代の日本は230年以上に渡り大規模な暴動や争いが無い平和な時代であった。
明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けてから、王政復古により明治新政府を樹立した。新政府は岩倉使節団の世界視察に基づいて欧米の諸制度を積極的に導入した。明治維新と呼ばれる一連の改革は、廃藩置県、四民平等化、六法・郵便・鉄道・水道等の整備にまで及んだ。その過程で日本の境界領域であった琉球王国や、樺太を除く蝦夷地(北海道の大部分と千島列島)、小笠原諸島を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。
また、初代内閣総理大臣(首相)に伊藤博文が任命された。安政五カ国条約を改正するため、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成(殖産興業)と軍事力強化(富国強兵)を国策として推進した。
また、1875年3月2日には日本の横浜に駐留していた在日英軍、在日フランス軍率いる英仏横浜駐屯軍が撤退した。
日清戦争では三国干渉により、割譲された遼東半島を清に返還。戦後直後には下関条約によって日本軍は台湾に上陸したが、台湾内では混乱と反発が発生し乙未戦争が勃発、日本は再び勝利し台湾民主国は滅亡、日本が台湾を統治することになった。
文化面では、福沢諭吉などが「脱亜論」を執筆したとされる。欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は文明開化と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。言文一致や変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、寺請制度が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする国家神道に再編されていった。これにより仏教は弾圧された(廃仏毀釈)。キリスト教は欧米側の事情として制度・資本両面の輸出に成功し布教の理由が薄れてなお、同志社大学などの教育機関に社会的地位を占めるようになった。
世界的観点においては、明治維新の途中から日清戦争までが大不況 (1873年-1896年) 期にあたる。このときはオリエンタル・バンクが日本の外債を引き受けた。日露戦争ではシ団がロスチャイルドなどの個人銀行に変わり、その意味で幕末の方針に回帰した。
1889年から1900年にかけて清で義和団の乱が発生、西太后は日本や西洋列強国に宣戦布告、その影響で日本は八カ国連合軍に加わり、勝利した。清に再び勝利した日本の権益は増加することになる。
1891年には日本を訪日していたロシア帝国の皇帝ニコライ二世が警備にあたっていた警察官・津田三蔵に暗殺未遂で終わる大津事件が発生した。
1904年に開戦した日露戦争ではロシア帝国側の艦隊がほぼ全滅するといった反面、日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらなく、ほとんど無傷であったという異例の結果を残した。
日本の勝利後、ロシア帝国から賠償金を得られず大きな負債が残ったが、ロシア帝国が清国から受領していた大連と旅順の租借権獲得、東清鉄道の一部である南満洲鉄道を獲得するなど、満洲における権益を得ることとなった。当時としては非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、アジア諸国の中で唯一ほぼ全ての不平等条約改正を達成、欧米諸国と対等の国家となり、のちには「五大国」の一角をも占めることとなり、日清戦争と日露戦争に連続的に勝利したことで下関条約やポーツマス条約といった日本側が有益になる条約を締結した。
戦後、さらには大韓帝国においてロシアの脅威がなくなり日本の保護国となる。1905年(明治38年)には第二次日韓協約締結後大韓帝国の外交権は日本に接収された。同年には韓国統監府を設立、1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は日本に正式に併合された。
明治末期の1912年にはスウェーデンで行われたストックホルムオリンピックに初めて出場した。これはアジア諸国で初である。
大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。護憲運動を経て大衆の政治参加が進み、政党政治が確立した時期である(大正デモクラシー)。1925年(大正14年)には男子普通選挙が実現した。大正の約14年間は、明治時代のような近代化の改革のような事が発生することも無く、日本軍の増強などにより外部からの直接的な攻撃もなかった。災害や社会問題は発生していたが、大きな暴動などもなく日本本土も明治と比較してかなり平和な時代であった。
一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、大隈重信政権は1914年(大正3年)の第一次世界大戦には直接国益に関与しないにもかかわらず日英同盟を根拠に参戦。日本は連合国側に加わることになり、中央同盟国のドイツ帝国とオーストリア゠ハンガリー帝国に事実上の宣戦布告、青島戦争をはじめとする日独戦争が開戦、日本は中国の青島市を海上封鎖を実行した。
同じ連合国である中華民国の袁世凱政権に対華21カ条要求を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。日本はドイツ帝国軍に次々勝利し続けていたためドイツの植民地であった中国の青島と膠州湾と太平洋地域のドイツ領を占領した。1918年、第一次世界大戦は日本を含む連合国の勝利となった。
敗戦国のドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000人は全員を日本の徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など全国12か所に送られ、 戦後の1920年まで日本政府は収容させた。
第一次世界大戦下の日本はヨーロッパ諸国のように戦火に置かれることがなかったため、民間人の死者も発生しなかった他、日本軍の戦死者や被害なども主要連合国の中で最も少なかった。その影響のため、第一次世界大戦中の日本本土では国民はいつも通りの平穏な日々が送られており、日本経済においては大戦特需と海底ケーブル需要により工業生産が激増し、日本は未曾有の好景気が続いていた(大戦景気または大正バブル景気とも言われる事がある)。資本の集積・集中を進め巨大コンツェルンを築いたり、国際カルテルに参加、さらには日本が大戦中にアジア・アフリカの輸出市場を独占、輸出関連でもオーストラリアや南米など従来未開拓であった市場でも活発化したことで日本経済は空前の好況、株式市場も活況を呈し、国民の間でも成金が続出した。
1918年にはロシア帝国内でロシア革命が発生、内政干渉として共産主義の封じ込めのために、アメリカやイギリスと同調しシベリア出兵を行った。日本軍が最初にロシア帝国のウラジオストクに上陸し、続いて他国軍も到着していったが日本以外の連合国側は撤兵させた。数年後の1922年に日本も撤兵を発表。後の首相である加藤高明も「(シベリア出兵は)日本の国益に全くもたらせなかった。」と発言した。そのことからロシア帝国が完全に崩壊、世界初の共産主義国家のソビエト連邦を誕生させることになる。
1920年には国際平和の確保を目指す国際連盟が発足した。当時の日本は第一次世界大戦の戦勝国であると同時に経済や軍事、政治に世界的影響力のある大国であったため、国連連盟の数少ない常任理事国となった。その影響から太平洋のドイツの植民地であった南洋群島は、国際連盟からの委任を受けて日本側が統治することとなった。
1923年には関東大震災が発生した。日本国内は経済的にも社会的にも混乱が発生し、政府は緊急勅令を発令した。1930年には第一次世界大戦の戦勝国(五大国)の一員として日本をはじめとする当時の大国(連合国)は海軍力(特に戦艦)の増強を進めたが、ロンドン海軍軍縮会議によって補助艦保有量の制限を設けた。また、四カ国条約によって日英同盟も破棄される事になった。
昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。
1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生。1930年(昭和5年)には、アメリカから発生した世界恐慌が日本経済を直撃した(昭和恐慌)。国政では二大政党の対立から統帥権干犯問題が表面化し、金解禁も失敗に終わるなど政党政治への不信感が増し、外地では関東軍によって満洲事変が発生するなど社会不安が増加した。1932年(昭和7年)に国家改造運動が過熱する中、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されると、立憲政友会が国政第一党でありながら前朝鮮総督の斎藤実が立憲民政党の協力を得て総理に就任する。斎藤内閣は塘沽協定で満洲事変を終結させた後、事変によって誕生した満洲国を承認し、それに反発する国際連盟に脱退を表明した。
1936年(昭和11年)には陸軍の青年将校による二・二六事件クーデターが発生するも鎮圧された。当時、国連から脱退していた日本は、同じく脱退していたドイツ国(ナチス・ドイツ)と日独防共協定を締結した。1937年(昭和12年)、中国の上海にて第二次上海事変が勃発し、日本は中華民国との戦争(日中戦争・支那事変)に突入する。南京戦などの地上戦に勝利、1938年(昭和13年)には重慶に対する爆撃などを実行し日本側が優勢になっていた。
1940年(昭和15年)、ナチス・ドイツ、イタリア王国と日独伊三国同盟を締結した。それと同時に日本は東京オリンピックを開催予定であったが、日本国政府は第二次世界大戦の影響で国際オリンピック委員会に返上、日本は枢軸国として参戦することになる。
1941年(昭和16年)には仏印進駐の勝利でアメリカとの関係が決定的に悪化すると、日本はアメリカとの戦争を決断し、マレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃でアメリカ軍を奇襲し、太平洋戦争(第二次世界大戦・大東亜戦争)に突入した。日本はアジアの植民地諸国に駐留しているイギリス軍やフランス軍に次々と勝利していき香港、ビルマ、カンボジア、インドネシア、フィリピン、イギリス領ボルネオなどを日本が占領、日本政府は皇民化教育を強制。同時期には日本軍がオーストラリアにダーウィン空襲を実行した(日本のオーストラリア空襲を参照)。
開戦当初こそ優勢を保っていた日本軍であったが、ミッドウェー海戦以降アメリカ軍の生産力と通商破壊に次第に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には世界で初めて原子爆弾が投下された。外国勢力(日本本土を攻撃したのは主にアメリカ合衆国)によって日本本土を広範囲に攻撃されるのは日本の歴史上初の事例であった。
1945年(昭和20年)、昭和天皇の聖断により、日本はポツダム宣言を受託して敗戦を迎えた。戦後、1945年から1952年まで連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に占領された。この7年間は日本の歴史上、初めて外国勢力によって軍事占領された期間である。
同じ枢軸国のドイツの占領政策と日本の占領政策とは差があり、ドイツ政府が解体され、連合国4ヶ国(イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソ連)による直接統治となりその影響で西ドイツ(資本主義)と東ドイツ(共産主義)という分断国家にされた。
一方、日本の占領は分断国家にはされず、日本国政府と皇室を存続したままアメリカ合衆国が間接的に占領するという間接統治を実行した(占領期間も内閣総理大臣なども存在していた)。
GHQは直ちに日本軍を解体し、占領政策に基づいた象徴天皇制、国民主権、平和主義を定めた日本国憲法を新たに制定され、大日本帝国憲法は第73条により全部改正という名目で廃止された。日本が保有していた海外の軍事基地をはじめとする植民地、占領地は全て失う事になった。例えば、台湾は国共内戦によって、中国共産党に敗北した中国国民党が統治する。朝鮮半島に関しては、南部分はアメリカ合衆国と北部分はソビエト連邦の2カ国による直接統治となった。その影響でドイツと同じく大韓民国(資本主義)と朝鮮民主主義人民共和国(共産主義)の分断国家が誕生し、後の朝鮮戦争に繋がる。また、第一次世界大戦の勝利でドイツ帝国から得た南洋諸島もアメリカ合衆国側が統治する方針になった。
「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために農地改革と財閥解体が断行された。解体された財閥はコンツェルンとしての形から企業グループと再び復活した。企業グループとは、アメリカ対日協議会の圧力により過度経済力集中排除法が適用されないことになった「トップのいない企業結合体」である。無力化の対象となった寄生地主制と財閥は、戦中より産業合理化の障害としても論じられていた。そこで傾斜生産方式という合理化が推進された。1952年、日本は世界銀行と国際通貨基金に加盟した。この頃は新円切替や正力マイクロ波事件などが国民生活を脅かした。
1950年代にさしかかる頃から逆コースが進展した。朝鮮戦争では占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った。1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、外債の導入により急速に戦後復興を進め、財閥は企業グループとして形を変えて再び復活した。
戦後のドイツはナチスの国旗の廃止や国歌の制限、国章の変更を行ったが、日本に関しては戦前、戦後と日の丸や国歌、国章の変更や制限は一切されず存続することになった。
1952年(昭和27年)4月28日、GHQは解体し、占領軍は権限低下と名目を変え、在日米軍(USFJ)として第二次世界大戦後の日本に駐留する唯一の外国軍になっている。1954年(昭和29年)には防衛に特化した自衛隊が設立された。
冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。主権回復後の日本は西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、日本国憲法第9条を根拠に軍事力の海外派遣を行わなかった。サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による竹島軍事占領を除き、戦後の日本は諸外国からの軍事的実力行使にさらされることが一切なかった。自民党と社会党の保革55年体制ができた翌年、日本は日ソ共同宣言と国際連合加盟を果した。1972年(昭和47年)には日中国交正常化と沖縄返還が行われた。それぞれに関しては中華民国の国家性と西山事件が未解決である。1960年代、日本の国民総生産は高度経済成長をとげた。この頃中国では国共内戦と大躍進政策の失敗で経済がもたついており、日本は安価な工業製品を大量生産できるライバル不在の新興国と化し、成長への条件が整っていた。
1964年(昭和39年)にはアジア初であり、有色人種の国家としては初となる東京オリンピック・パラリンピックが昭和天皇の開会宣言によって開催された。高速道路や国際空港などインフラの整備やオリンピック景気、1965年以降はいざなぎ景気と呼ばれる好景気が発生するなど繁栄する年が長年続くこととなった。また、国内総生産(GDP)に関しては1966年(昭和41年)にフランスを、1967年(昭和42年)に英国を、1968年(昭和43年)には西ドイツをそれぞれ追い抜いた。これをもって日本は米国に次ぐ世界第2位の経済大国にのぼりつめ、日本は再び先進国となった。
1970年代はニクソン・ショックとオイルショックの二重苦にもかかわらず軟着陸できたので安定成長期と呼ばれた。重化学工業から自動車・電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進んだ。壊滅的な敗戦から奇跡的な復興を遂げた日本は途上国のモデル国家とされた。同年、大阪にて大阪万博が開催された。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の首相の佐藤栄作となった。当時では普及していなかった電気自動車や動く歩道、電動自転車などを展開するなど未来世界を作り上げたことが世界から注目され、6,422万人以上が来場し日本は大成功を収めた。
1972年(昭和47年)に田中角栄内閣総理大臣は日本列島改造論を提唱した。大都市と地方の格差を埋める目的と、高速道路網を全国に張り巡らせ、地方に病院や港湾、学校などの公共施設を次々と建てて、大都市と地方のインフラ格差を埋めた。そのため、東京だけではなく地方の雇用・経済をさらに潤わせることに成功した。
1973年(昭和48年)には日本をはじめアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランスの5カ国がG5(現在このG7)を創設した。
経済学者のラビ・バトラは高い成長率と一億総中流を実現した60年代から70年代の日本経済を指して「資本主義の究極の理想に近い」と評価した。ロナルド・レーガンはGDPと軍事力で日本がアメリカを追い抜くことを覚悟した。一方、傾斜生産方式から安定成長に至るまで公害病問題が深刻化していた。また、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦をもたらした。そして数年にわたり報道されたロッキード事件は日本のグローバル化を象徴した。
昭和末期、中曽根内閣の民営化政策が推進され始めて程なくプラザ合意がなされた。これにより円高不況が起こり、そこで行き過ぎた金融緩和がなされてリクルート事件の頃にバブル景気が到来した。1人あたりの国民所得はアメリカに次ぐ世界第2位となった。引き続き年5%-7%の高い経済成長が見込まれ、21世紀は日本の時代になるといわれた(ジャパン・アズ・ナンバーワン)。日本は大規模な好景気を経験する一方、アメリカなどは経済低迷を経験していたため日米間で貿易摩擦が起きた。
平成年間(1989年 - 2019年)は平成時代と呼ばれる。1989年1月7日の父・昭和天皇の崩御に皇室典範に基づいて皇位を継承。翌8日に元号法と政令に基づき「平成」へ改元が行われた。平成の30年間において、国民の約80%はとても平和な時代であったという回答がある。
平成元年の1989年にはバブル景気の影響で日経平均株価が最高値になった。1991年12月には共産主義の超大国のソビエト連邦が崩壊し、冷戦は日米欧などをはじめとする西側諸国(資本主義)の事実上の勝利となった。同時に日本ではバブル崩壊に続き、自社両党による55年体制が崩壊し、短命の非自民連立内閣が成立した。そして2009年と2012年にも政権交代が起こった。阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が発生し、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。 昭和末期から過熱状態にあった景気は、日銀三重野康総裁の急激な金融引き締めによりハードランディングがおき崩壊。その後も円高不況、アジア通貨危機、ITバブル崩壊と連続した要因により、2000年代まで失われた10年と呼ばれる長い経済停滞を経験した。
世界的観点において平成初期は、余剰家計をミューチュアル・ファンドが吸い上げてグローバルな投資活動を展開し注目を浴びた。21世紀に入り、BRICSなどの新興国が台頭。日本を含む先進国の産業空洞化、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本や欧米の経済的・政治的先進性は疑義をもたれるようになった。また、改革開放以降、高度経済成長を続ける中華人民共和国がイギリスやフランス、ドイツのGDPを抜き、2010年には遂に日本のGDPを超えた。それにより日本は42年振りに世界2位の経済大国という地位を中国に譲る事になった。軍事的にも経済的にも成長した中国の政治体制は一党独裁の共産主義及び社会主義であるため、アメリカ合衆国との対立が深刻化している(新冷戦を参照)。
1993年には日本が自ら提案し、アフリカ連合諸国、世界銀行と共にアフリカ開発会議を日本国政府の主導型として定期的に主催させるようになった。1998年、 20世紀最後の冬季オリンピックとして長野オリンピックが天皇の開会宣言によって開催された。
1994年から、アメリカ政府は日本政府に対して年次改革要望書を出した。年次改革要望書は2008年に鳩山由紀夫内閣中に日本側の申し出で破棄した。2001年には九州南西海域工作船事件が発生。日本の海上保安庁と北朝鮮の工作船が奄美大島付近で激しい銃撃戦を繰り広げた。
2003年10月1日には日本の航空宇宙3機関、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)・独立行政法人航空宇宙技術研究所(NAL)・特殊法人宇宙開発事業団(NASDA)が統合されて宇宙航空研究開発機構が設立され、日本は宇宙開発を本格化し始めた。安倍晋三首相は日本政府の外交方針として2007年には「日米豪印戦略対話」を、2012年には「セキュリティダイヤモンド構想」を、2016年には「自由で開かれたインド太平洋戦略」を世界各国に提唱した。
平成時代に日本は独自で軍事的に再び海外に進出するようになった。2003年にはイラク戦争が勃発した。アメリカ軍がイラク共和国に勝利すると、多国籍軍は占領を開始。日本も有志連合の一員として小泉純一郎首相の強い指導力によって、イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法が公布されイラクに自衛隊が派遣された。日本国政府の目的によるとイラクの国家再建を支援するためであるとされる(事実上のイラク占領)。日本クウェート地位協定に基づきクウェートのアリ・アル・サレーム空軍基地内に自衛隊は長期駐留した。
2009年にはアフリカのソマリアに出現する海賊を対処(ソマリア沖海賊の対策部隊派遣)を行うために日本は北大西洋条約機構率いるオーシャン・シールド作戦(多国籍軍)に参加した。結果、勝利し海賊を減少させることに成功した。
2011年にはアフリカのジブチ共和国内に日本政府とジブチ共和国政府が共に日本ジブチ地位協定を締結し自衛隊専用の海外基地を設立するなど世界各国への影響力を高めた。しかし、ジブチとの地位協定は自衛隊の犯罪等が当事国の法律に適応されないというもので、日本国政府は他国に不平等条約を締結させているという意見もある。
文化面ではサブカルチャーであるアニメ、漫画、テレビゲームが裾野を広げ海外で興味を引くようになった。
インターネット、携帯電話は世の中を変えつつある。また日本は景気の改善と少子化により人手不足に陥っており、人工知能・自動運転・ロボット・電気自動車などの新技術が人間の負担を軽減する見通しが出されている。
2019年4月1日に新たな元号「令和」を発表した。4月30日には天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行に伴い、この日を以って第125代天皇明仁が退位(譲位)。午後5時から退位礼正殿の儀(退位の礼の中心儀式で国事行為たる儀式)が行われた。5月1日午前0時に令和元年となった。
天皇の生前退位は光格天皇以来202年ぶりで一世一元の制となった明治以降かつ憲政史上初めてのことであった。
令和年間は(2019年 - 現在)は令和時代と呼ばれている。元号法並びに「元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)」に基づいて、即位の日に「令和」と改元された。 同年10月22日には即位礼正殿の儀、11月10日には祝賀御列の儀を行った。 御料車(オープンカー)でパレードを行った。政府や皇室などは当初予想されていた以上に全国から国民が集まり、そして多大なる支持を示したことにより皇后雅子がパレード中に感極まって涙を流した。
2019年12月に中国・武漢で発生した新型コロナウイルス感染症が2020年に日本にも到来。安倍晋三首相は諸外国のようなロックダウン(都市封鎖)は実行しないものの緊急事態宣言を発令した。経済、政治、そして何より国民生活に大きな動揺を与えている。9月には安倍晋三首相が辞任、通算在職日数が歴代最長となった。
2020年5月には日本国政府が宇宙作戦隊(事実上の宇宙軍)を設立した。
2021年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により1年延期されていた東京オリンピック・パラリンピックが今上天皇の開会宣言によって開催された。オリンピックのメダル受賞数で日本は世界3位という日本のオリンピック史上最も多くのメダルを獲得するという結果を残した。
2月24日、ロシアがウクライナに全面侵攻し、岸田文雄首相はウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に人道と装備の支援を発表とロシア及びウラジーミル・プーチン及び関連のある家族や側近、ロシア財閥のオリガルヒと侵攻に関与した疑いがあるベラルーシ共和国全土に前例のないほどの経済制裁、資産凍結と国際銀行間通信協会への排除の制裁行っている。また、防衛省は軍事的支援を行う事を発表した。4月、日本国政府は在日ロシア連邦大使館の外交官ら複数人を国外追放した。
日本においては、漢字が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には歴史物語の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。また戦前では日本神話が全て正史であると教育されていたため弥生以前の研究をするのはタブーであるという風潮があった。 | [
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"text": "この項目では日本の歴史(にっぽんのれきし/にほんのれきし)について記述する。",
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"text": "日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。",
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"text": "古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世を通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊して、バブル崩壊で右肩上がりの経済成長が終わった1990年前後に変更すべきという意見もある。(以上の詳細→古代、中世、近世、近代、現代)",
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"text": "上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。",
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"text": "一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古資料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代・縄文時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治の中心地の所在地に従って、弥生時代後期〜古墳時代 (大阪市)・飛鳥時代(明日香村)・奈良時代(奈良市)・平安時代(京都市)・鎌倉時代(鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代(近江八幡市・京都市伏見区)・江戸時代(東京23区・旧東京市)と区分する。ただこれだけでは必ずしも十分でないため弥生時代後期から飛鳥時代前期に大和時代、鎌倉時代の後に建武の新政、室町時代前期に南北朝時代、室町時代後期に戦国時代、江戸時代後期に幕末という区分を設けており、このうち南北朝時代と戦国時代は中国の歴史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位期間(一世一元の制)に従って明治時代(明治天皇)・大正時代(大正天皇)・昭和時代(昭和天皇)・平成時代(明仁)・令和時代(徳仁)と呼ばれている。これらのうち、明治維新から1947年(昭和22年)5月2日までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)を「大日本帝国時代」と、政体(憲法)に因んで呼ぶ例もある。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、→日本史時代区分表)。",
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"text": "また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化・白鳳文化・天平文化・弘仁・貞観文化・国風文化・院政期文化・鎌倉文化・北山文化・東山文化・桃山文化・元禄文化・化政文化などが用いられる。",
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"text": "日本列島における人類史の始まり、つまり日本列島に初めて人類が到達した年代については、現在も多くの議論が行われている。5万年前、あるいは8-9万年前に遡るとされる岩手県遠野市の金取遺跡出土石器や、2009年(平成21年)に同志社大学らにより発掘調査された島根県出雲市の砂原遺跡出土石器の分析結果から、12万年前に遡るとする松藤和人(同志社大学教授)らの見解もあれば、現世人類(ホモ・サピエンス)以前の人類による列島への渡航能力と時期の問題や、石器の出土した土層の年代測定上の問題などから、4万年前以前に遡る可能性に否定的な堤隆(明治大学研究員)らの見解などがあり、2020年代となった今日でも意見が分かれている。少なくとも現状では、日本列島の旧石器時代遺跡で、4万年前以前に遡る可能性が指摘されているものに、全ての旧石器時代研究者が肯定するものは存在していないとされる。",
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"text": "現生人類の最初の到来は4~3.5万年前と考えられている。この時代の人々は、集落を造って一定の場所に長期間留まることをせず、テントのような簡易な住まいで寝泊まり(キャンプ)しながら集団で狩猟採集をして移動を繰り返す「遊動生活」をしていたと考えられている。後期旧石器時代の初期(4~3万年前)には、大規模な集団キャンプ跡と見られる環状ブロック群と呼ばれる遺構が出現し、千葉県印旛郡酒々井町の墨古沢遺跡や、長野県上水内郡信濃町の日向林B遺跡(野尻湖遺跡群の1つ)などの事例が知られる。",
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"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "この時代に属する遺跡は列島全体で1万箇所以上発見されているが、建物(竪穴建物や平地建物)の遺構が検出される事例は極めて稀で、確実に建物(住居)跡とみて良いものは、約2万2千年前の大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の例や、約2万年前の神奈川県相模原市の田名向原遺跡の例など、10例程度しか発見されていない。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "約2万年前にはシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が北海道に伝わり、主に北日本で広がり、また約1万4千年前頃には別の型の細石器が大陸から九州に伝わり、西南日本で広がったものと思われる。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な地球温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "旧石器時代人の遺伝子としてハプログループD1a2a (Y染色体)、ハプログループC1a1(Y染色体)が想定されている。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世の末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や、定住化に伴う集落(環状集落など)の形成、長期使用可能な建物(竪穴建物・平地建物・掘立柱建物)の普及、貝塚の形成などがあげられる。",
"title": "原始"
},
{
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"text": "草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴建物に住んだ。縄文土器については、青森県大平山元I遺跡にて約1万6,500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁撈、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "雑穀や堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビワから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。稲作については、約6,000年前の岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていたことが判明した。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "縄文人の主要な遺伝子として、ハプログループD1a2a (Y染色体)、ハプログループC1a1 (Y染色体)が想定されている。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "紀元前10世紀頃から紀元後3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生土器に由来する。弥生時代の開始期に大陸からハプログループO1b2 (Y染色体)に属す弥生人が到達した。水稲耕作が普及し、青銅器や鉄器などももたらされた。日本語も弥生人によって朝鮮半島からもたらされたという説が有力とされる。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。この時期の倭(日本)の状況は中国の史料で確認できる(倭・倭人関連の中国文献)。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "第二次大戦前までは『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当するとされ、初代神武天皇の即位(日本国の建国)とされる年はこの時代の前半にあたるとされていたが、戦後の歴史学では一般的でない。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "弥生時代以降、ハプログループO2 (Y染色体)の渡来人が到達したとされる。",
"title": "原始"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に近畿地方に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州(筑紫)・北関東(毛野)・山陽(吉備)・山陰(出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている(前方後円墳体制)。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮や中国の技術と文物が倭国へ流入した。新羅や高句麗とも戦争を繰り返した。(倭・高句麗戦争、倭・倭人関連の朝鮮文献)",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "5世紀に入るとヤマト王権は朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく朝貢することで、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と諡(おくりな)されている人物である。このころより、大王や治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 30,
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"text": "この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "6世紀末から8世紀初頭までは、大和朝廷の本拠が主に飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半には朝廷の国内支配が安定し、むしろ朝廷内部の大王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。仏教・儒教・道教等の書物が入ってきたことで、この頃から文字の使用が普及する。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも7世紀前半にかけて推古天皇とその甥厩戸王(聖徳太子)が、王殺しである蘇我馬子を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。第1次遣隋使派遣の反省から、冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。第2次遣隋使では小野妹子が派遣され、中国の皇帝煬帝へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、自主性を示す意図があった。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められ、藤原に都城(藤原京)が置かれ、大宝以後は元号も定着した。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる『日本書紀』の編纂が開始される。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。そして遣唐使を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期聖武天皇のときに中宮職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると百姓階層の分化が始まり、逃散増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この時代には干ばつ・飢饉・山火事などの災害や疫病の流行が多発した。特に、735–737年にかけて発生した天然痘のエピデミック(天平の疫病大流行)は貴族・庶民を問わず夥しい数の死者を出し、政権を担っていた藤原四兄弟も相次いで病死した。これらの災厄が自らの不信心に起因していると考えた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教は政府により統制されたものの鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名である。称徳天皇が作らせた百万塔におさめられた百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物と言われている。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。",
"title": "古代"
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{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である武士階層が、契丹の台頭に呼応した承平天慶の乱や刀伊の入寇などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門を荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名・片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "東北地方では、11世紀頃から安倍氏・清原氏・奥州藤原氏などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された鎮守府将軍をも交えてしばしば抗争した(前九年の役・後三年の役)。南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美群島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。",
"title": "古代"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。",
"title": "中世"
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{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の元寇によって加速した。恩賞の払えない幕府は徳政令を発布したり得宗専制をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた封建制を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。",
"title": "中世"
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{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの鎮護国家を目的とする顕密体制の仏教から発した鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の擦文文化が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、またオホーツク文化と融合する中、アイヌ文化へと変遷を遂げた。",
"title": "中世"
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{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統後醍醐天皇流の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。",
"title": "中世"
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{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "鎌倉時代中期以降、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を巡り争い、鎌倉幕府の介入により両統迭立状態となっていた。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとするも失敗し、廃位されたのち隠岐に流され、皇太子であった光厳天皇(持明院統)が即位した。しかし、隠岐を脱出した後醍醐天皇は再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。",
"title": "中世"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "後醍醐天皇は、光厳天皇を退位させ、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、公家や武士など様々な層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、光厳上皇の協力も得て建武政権を崩壊させた。京都で持明院統の光明天皇(光厳上皇の実弟、猶子)が即位したのち、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を成立させた。対する京都の朝廷を北朝と呼ぶ。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。情勢的には、一部期間(正平一統など)を除き、京都を掌握し武家政権を擁する北朝が優勢を誇り、大多数の公家や皇族、武士から支持を得た。",
"title": "中世"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。",
"title": "中世"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。京都に本拠を置いた幕府は、足利尊氏・足利直義兄弟による二頭政治を行った。観応の擾乱以前は、朝廷(公家政権、北朝)と幕府は協調・連動して徳政政策を行っていた。しかし、観応の擾乱を経て幕府は幕府権力を一つに統一し、対して朝廷は権威を失墜させると、幕府は朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷は政治実権や政治機構を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。",
"title": "中世"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "足利義満は南北朝合一を遂げ、朝廷を北朝に統一した。また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 1419年、李氏朝鮮が対馬に侵攻した。(応永の外寇) 1429年に尚巴志王が琉球王国を作り上げ、日本や明などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の北海道南部に進出した人々は道南十二館などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、1457年に大首長コシャマインを中心に蜂起するも(コシャマインの戦い)、蠣崎氏により鎮められた。",
"title": "中世"
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{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化(北山文化・東山文化)が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。",
"title": "中世"
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{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した織田信長は、楽市楽座令を出したり、自治都市の堺を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い、強大な軍事力を手にした。",
"title": "中世"
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{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が始まり、火縄銃やキリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。",
"title": "中世"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "織田信長は室町将軍足利義昭を追放すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が本能寺の変により自害すると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなった。",
"title": "近世"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、中世をおわらせた。刀狩や太閤検地の実施を通し、兵農分離を進めて荘園公領制・職の体系を消滅させたのである。秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名・武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。",
"title": "近世"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "この時代の世界情勢と秀吉の外交に臨む態度はサン=フェリペ号事件に見ることができる。船員に提示された秀吉の書状によると、秀吉は英葡永久同盟下にあるポルトガルから聞いて、フィリピンが武力制圧されていたことを知っていた(フィリピン#スペイン植民地時代)。処刑された日本二十六聖人はフランシスコ会であったが、宗教改革の時節柄カトリック教会であった。近世日本国民史によると、スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としているということであった。しかし、この文献は当世のものでない。このときのスペイン国王はフェリペ2世であった。次の事実は世界的観点から特に重要である。ハプスブルク家出身であるフェリペ2世は、英葡同盟下にあるポルトガル国王を兼ね、さらに帝国郵便の維持費を負担していた。",
"title": "近世"
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{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。",
"title": "近世"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。",
"title": "近世"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝利して権力を掌握すると征夷大将軍に任命され(1603年)江戸に幕府を開き、大坂の陣(1614年 - 1615年)で豊臣氏を滅ぼした。この後、幕府は、17世紀中葉までに武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中で勃発した島原の乱(1637年 - 1638年)は、キリスト教禁止の徹底と出島での管理貿易による鎖国の完成へとつながる。日本の境界領域である琉球王国と蝦夷地(和人地である渡島半島を除く北海道、樺太及び千島列島)の支配は大名を通じて行なわれた。",
"title": "近世"
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"paragraph_id": 62,
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"text": "一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。",
"title": "近世"
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"text": "18世紀に入り金銀が流出して海舶互市新例(1715年)を出すようになり、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力(寛政の改革、天保の改革等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする化政文化が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、そして幕末の通貨問題を背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。",
"title": "近世"
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"text": "19世紀中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)に抗するため、幕府はフランスのソシエテ・ジェネラルから貸付を受けて軍備を増強した。しかし同世紀後半の黒船来航(1853年)と日米和親条約締結(1854年)による開国を契機として幕府の管理貿易(鎖国)は解かれた。そして不平等な安政五カ国条約(1858年)を勅許なしに締結してしまい、幕府の威信は低下した。朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩、長州藩、土佐藩らが樹立した明治新政府との内戦(戊辰戦争)に敗北後、瓦解した。",
"title": "近世"
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"text": "江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。当世の教育機関は明治になって財政支援に乏しい学制の普及に活用された。",
"title": "近世"
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"text": "18世紀初頭の京都と大坂(大阪)はともに40万近い人口を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、当時から大都市であったロンドンやパリ以上で世界一の人口を誇る都市であった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。その他、江戸時代の日本は230年以上に渡り大規模な暴動や争いが無い平和な時代であった。",
"title": "近世"
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"text": "明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けてから、王政復古により明治新政府を樹立した。新政府は岩倉使節団の世界視察に基づいて欧米の諸制度を積極的に導入した。明治維新と呼ばれる一連の改革は、廃藩置県、四民平等化、六法・郵便・鉄道・水道等の整備にまで及んだ。その過程で日本の境界領域であった琉球王国や、樺太を除く蝦夷地(北海道の大部分と千島列島)、小笠原諸島を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。",
"title": "近現代"
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"text": "また、初代内閣総理大臣(首相)に伊藤博文が任命された。安政五カ国条約を改正するため、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成(殖産興業)と軍事力強化(富国強兵)を国策として推進した。",
"title": "近現代"
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"text": "また、1875年3月2日には日本の横浜に駐留していた在日英軍、在日フランス軍率いる英仏横浜駐屯軍が撤退した。",
"title": "近現代"
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"text": "日清戦争では三国干渉により、割譲された遼東半島を清に返還。戦後直後には下関条約によって日本軍は台湾に上陸したが、台湾内では混乱と反発が発生し乙未戦争が勃発、日本は再び勝利し台湾民主国は滅亡、日本が台湾を統治することになった。",
"title": "近現代"
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"text": "文化面では、福沢諭吉などが「脱亜論」を執筆したとされる。欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は文明開化と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。言文一致や変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、寺請制度が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする国家神道に再編されていった。これにより仏教は弾圧された(廃仏毀釈)。キリスト教は欧米側の事情として制度・資本両面の輸出に成功し布教の理由が薄れてなお、同志社大学などの教育機関に社会的地位を占めるようになった。",
"title": "近現代"
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"text": "世界的観点においては、明治維新の途中から日清戦争までが大不況 (1873年-1896年) 期にあたる。このときはオリエンタル・バンクが日本の外債を引き受けた。日露戦争ではシ団がロスチャイルドなどの個人銀行に変わり、その意味で幕末の方針に回帰した。",
"title": "近現代"
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"text": "1889年から1900年にかけて清で義和団の乱が発生、西太后は日本や西洋列強国に宣戦布告、その影響で日本は八カ国連合軍に加わり、勝利した。清に再び勝利した日本の権益は増加することになる。",
"title": "近現代"
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"text": "1891年には日本を訪日していたロシア帝国の皇帝ニコライ二世が警備にあたっていた警察官・津田三蔵に暗殺未遂で終わる大津事件が発生した。",
"title": "近現代"
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"text": "1904年に開戦した日露戦争ではロシア帝国側の艦隊がほぼ全滅するといった反面、日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらなく、ほとんど無傷であったという異例の結果を残した。",
"title": "近現代"
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"text": "日本の勝利後、ロシア帝国から賠償金を得られず大きな負債が残ったが、ロシア帝国が清国から受領していた大連と旅順の租借権獲得、東清鉄道の一部である南満洲鉄道を獲得するなど、満洲における権益を得ることとなった。当時としては非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、アジア諸国の中で唯一ほぼ全ての不平等条約改正を達成、欧米諸国と対等の国家となり、のちには「五大国」の一角をも占めることとなり、日清戦争と日露戦争に連続的に勝利したことで下関条約やポーツマス条約といった日本側が有益になる条約を締結した。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 77,
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"text": "戦後、さらには大韓帝国においてロシアの脅威がなくなり日本の保護国となる。1905年(明治38年)には第二次日韓協約締結後大韓帝国の外交権は日本に接収された。同年には韓国統監府を設立、1910年(明治43年)の日韓併合条約の締結により、大韓帝国は日本に正式に併合された。",
"title": "近現代"
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"text": "明治末期の1912年にはスウェーデンで行われたストックホルムオリンピックに初めて出場した。これはアジア諸国で初である。",
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"text": "大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。護憲運動を経て大衆の政治参加が進み、政党政治が確立した時期である(大正デモクラシー)。1925年(大正14年)には男子普通選挙が実現した。大正の約14年間は、明治時代のような近代化の改革のような事が発生することも無く、日本軍の増強などにより外部からの直接的な攻撃もなかった。災害や社会問題は発生していたが、大きな暴動などもなく日本本土も明治と比較してかなり平和な時代であった。",
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"text": "一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、大隈重信政権は1914年(大正3年)の第一次世界大戦には直接国益に関与しないにもかかわらず日英同盟を根拠に参戦。日本は連合国側に加わることになり、中央同盟国のドイツ帝国とオーストリア゠ハンガリー帝国に事実上の宣戦布告、青島戦争をはじめとする日独戦争が開戦、日本は中国の青島市を海上封鎖を実行した。",
"title": "近現代"
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"text": "同じ連合国である中華民国の袁世凱政権に対華21カ条要求を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。日本はドイツ帝国軍に次々勝利し続けていたためドイツの植民地であった中国の青島と膠州湾と太平洋地域のドイツ領を占領した。1918年、第一次世界大戦は日本を含む連合国の勝利となった。",
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"paragraph_id": 82,
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"text": "敗戦国のドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)と民間人約5,000人は全員を日本の徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など全国12か所に送られ、 戦後の1920年まで日本政府は収容させた。",
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"text": "第一次世界大戦下の日本はヨーロッパ諸国のように戦火に置かれることがなかったため、民間人の死者も発生しなかった他、日本軍の戦死者や被害なども主要連合国の中で最も少なかった。その影響のため、第一次世界大戦中の日本本土では国民はいつも通りの平穏な日々が送られており、日本経済においては大戦特需と海底ケーブル需要により工業生産が激増し、日本は未曾有の好景気が続いていた(大戦景気または大正バブル景気とも言われる事がある)。資本の集積・集中を進め巨大コンツェルンを築いたり、国際カルテルに参加、さらには日本が大戦中にアジア・アフリカの輸出市場を独占、輸出関連でもオーストラリアや南米など従来未開拓であった市場でも活発化したことで日本経済は空前の好況、株式市場も活況を呈し、国民の間でも成金が続出した。",
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"paragraph_id": 84,
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"text": "1918年にはロシア帝国内でロシア革命が発生、内政干渉として共産主義の封じ込めのために、アメリカやイギリスと同調しシベリア出兵を行った。日本軍が最初にロシア帝国のウラジオストクに上陸し、続いて他国軍も到着していったが日本以外の連合国側は撤兵させた。数年後の1922年に日本も撤兵を発表。後の首相である加藤高明も「(シベリア出兵は)日本の国益に全くもたらせなかった。」と発言した。そのことからロシア帝国が完全に崩壊、世界初の共産主義国家のソビエト連邦を誕生させることになる。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 85,
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"text": "1920年には国際平和の確保を目指す国際連盟が発足した。当時の日本は第一次世界大戦の戦勝国であると同時に経済や軍事、政治に世界的影響力のある大国であったため、国連連盟の数少ない常任理事国となった。その影響から太平洋のドイツの植民地であった南洋群島は、国際連盟からの委任を受けて日本側が統治することとなった。",
"title": "近現代"
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"text": "1923年には関東大震災が発生した。日本国内は経済的にも社会的にも混乱が発生し、政府は緊急勅令を発令した。1930年には第一次世界大戦の戦勝国(五大国)の一員として日本をはじめとする当時の大国(連合国)は海軍力(特に戦艦)の増強を進めたが、ロンドン海軍軍縮会議によって補助艦保有量の制限を設けた。また、四カ国条約によって日英同盟も破棄される事になった。",
"title": "近現代"
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"text": "昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 88,
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"text": "1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生。1930年(昭和5年)には、アメリカから発生した世界恐慌が日本経済を直撃した(昭和恐慌)。国政では二大政党の対立から統帥権干犯問題が表面化し、金解禁も失敗に終わるなど政党政治への不信感が増し、外地では関東軍によって満洲事変が発生するなど社会不安が増加した。1932年(昭和7年)に国家改造運動が過熱する中、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されると、立憲政友会が国政第一党でありながら前朝鮮総督の斎藤実が立憲民政党の協力を得て総理に就任する。斎藤内閣は塘沽協定で満洲事変を終結させた後、事変によって誕生した満洲国を承認し、それに反発する国際連盟に脱退を表明した。",
"title": "近現代"
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"text": "1936年(昭和11年)には陸軍の青年将校による二・二六事件クーデターが発生するも鎮圧された。当時、国連から脱退していた日本は、同じく脱退していたドイツ国(ナチス・ドイツ)と日独防共協定を締結した。1937年(昭和12年)、中国の上海にて第二次上海事変が勃発し、日本は中華民国との戦争(日中戦争・支那事変)に突入する。南京戦などの地上戦に勝利、1938年(昭和13年)には重慶に対する爆撃などを実行し日本側が優勢になっていた。",
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"text": "1940年(昭和15年)、ナチス・ドイツ、イタリア王国と日独伊三国同盟を締結した。それと同時に日本は東京オリンピックを開催予定であったが、日本国政府は第二次世界大戦の影響で国際オリンピック委員会に返上、日本は枢軸国として参戦することになる。",
"title": "近現代"
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"text": "1941年(昭和16年)には仏印進駐の勝利でアメリカとの関係が決定的に悪化すると、日本はアメリカとの戦争を決断し、マレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃でアメリカ軍を奇襲し、太平洋戦争(第二次世界大戦・大東亜戦争)に突入した。日本はアジアの植民地諸国に駐留しているイギリス軍やフランス軍に次々と勝利していき香港、ビルマ、カンボジア、インドネシア、フィリピン、イギリス領ボルネオなどを日本が占領、日本政府は皇民化教育を強制。同時期には日本軍がオーストラリアにダーウィン空襲を実行した(日本のオーストラリア空襲を参照)。",
"title": "近現代"
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"text": "開戦当初こそ優勢を保っていた日本軍であったが、ミッドウェー海戦以降アメリカ軍の生産力と通商破壊に次第に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には世界で初めて原子爆弾が投下された。外国勢力(日本本土を攻撃したのは主にアメリカ合衆国)によって日本本土を広範囲に攻撃されるのは日本の歴史上初の事例であった。",
"title": "近現代"
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"text": "1945年(昭和20年)、昭和天皇の聖断により、日本はポツダム宣言を受託して敗戦を迎えた。戦後、1945年から1952年まで連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に占領された。この7年間は日本の歴史上、初めて外国勢力によって軍事占領された期間である。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 94,
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"text": "同じ枢軸国のドイツの占領政策と日本の占領政策とは差があり、ドイツ政府が解体され、連合国4ヶ国(イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソ連)による直接統治となりその影響で西ドイツ(資本主義)と東ドイツ(共産主義)という分断国家にされた。",
"title": "近現代"
},
{
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"text": "一方、日本の占領は分断国家にはされず、日本国政府と皇室を存続したままアメリカ合衆国が間接的に占領するという間接統治を実行した(占領期間も内閣総理大臣なども存在していた)。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 96,
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"text": "GHQは直ちに日本軍を解体し、占領政策に基づいた象徴天皇制、国民主権、平和主義を定めた日本国憲法を新たに制定され、大日本帝国憲法は第73条により全部改正という名目で廃止された。日本が保有していた海外の軍事基地をはじめとする植民地、占領地は全て失う事になった。例えば、台湾は国共内戦によって、中国共産党に敗北した中国国民党が統治する。朝鮮半島に関しては、南部分はアメリカ合衆国と北部分はソビエト連邦の2カ国による直接統治となった。その影響でドイツと同じく大韓民国(資本主義)と朝鮮民主主義人民共和国(共産主義)の分断国家が誕生し、後の朝鮮戦争に繋がる。また、第一次世界大戦の勝利でドイツ帝国から得た南洋諸島もアメリカ合衆国側が統治する方針になった。",
"title": "近現代"
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{
"paragraph_id": 97,
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"text": "「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために農地改革と財閥解体が断行された。解体された財閥はコンツェルンとしての形から企業グループと再び復活した。企業グループとは、アメリカ対日協議会の圧力により過度経済力集中排除法が適用されないことになった「トップのいない企業結合体」である。無力化の対象となった寄生地主制と財閥は、戦中より産業合理化の障害としても論じられていた。そこで傾斜生産方式という合理化が推進された。1952年、日本は世界銀行と国際通貨基金に加盟した。この頃は新円切替や正力マイクロ波事件などが国民生活を脅かした。",
"title": "近現代"
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{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "1950年代にさしかかる頃から逆コースが進展した。朝鮮戦争では占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った。1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、外債の導入により急速に戦後復興を進め、財閥は企業グループとして形を変えて再び復活した。",
"title": "近現代"
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"text": "戦後のドイツはナチスの国旗の廃止や国歌の制限、国章の変更を行ったが、日本に関しては戦前、戦後と日の丸や国歌、国章の変更や制限は一切されず存続することになった。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 100,
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"text": "1952年(昭和27年)4月28日、GHQは解体し、占領軍は権限低下と名目を変え、在日米軍(USFJ)として第二次世界大戦後の日本に駐留する唯一の外国軍になっている。1954年(昭和29年)には防衛に特化した自衛隊が設立された。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。主権回復後の日本は西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、日本国憲法第9条を根拠に軍事力の海外派遣を行わなかった。サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による竹島軍事占領を除き、戦後の日本は諸外国からの軍事的実力行使にさらされることが一切なかった。自民党と社会党の保革55年体制ができた翌年、日本は日ソ共同宣言と国際連合加盟を果した。1972年(昭和47年)には日中国交正常化と沖縄返還が行われた。それぞれに関しては中華民国の国家性と西山事件が未解決である。1960年代、日本の国民総生産は高度経済成長をとげた。この頃中国では国共内戦と大躍進政策の失敗で経済がもたついており、日本は安価な工業製品を大量生産できるライバル不在の新興国と化し、成長への条件が整っていた。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "1964年(昭和39年)にはアジア初であり、有色人種の国家としては初となる東京オリンピック・パラリンピックが昭和天皇の開会宣言によって開催された。高速道路や国際空港などインフラの整備やオリンピック景気、1965年以降はいざなぎ景気と呼ばれる好景気が発生するなど繁栄する年が長年続くこととなった。また、国内総生産(GDP)に関しては1966年(昭和41年)にフランスを、1967年(昭和42年)に英国を、1968年(昭和43年)には西ドイツをそれぞれ追い抜いた。これをもって日本は米国に次ぐ世界第2位の経済大国にのぼりつめ、日本は再び先進国となった。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "1970年代はニクソン・ショックとオイルショックの二重苦にもかかわらず軟着陸できたので安定成長期と呼ばれた。重化学工業から自動車・電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進んだ。壊滅的な敗戦から奇跡的な復興を遂げた日本は途上国のモデル国家とされた。同年、大阪にて大阪万博が開催された。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の首相の佐藤栄作となった。当時では普及していなかった電気自動車や動く歩道、電動自転車などを展開するなど未来世界を作り上げたことが世界から注目され、6,422万人以上が来場し日本は大成功を収めた。",
"title": "近現代"
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{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)に田中角栄内閣総理大臣は日本列島改造論を提唱した。大都市と地方の格差を埋める目的と、高速道路網を全国に張り巡らせ、地方に病院や港湾、学校などの公共施設を次々と建てて、大都市と地方のインフラ格差を埋めた。そのため、東京だけではなく地方の雇用・経済をさらに潤わせることに成功した。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "1973年(昭和48年)には日本をはじめアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランスの5カ国がG5(現在このG7)を創設した。",
"title": "近現代"
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{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "経済学者のラビ・バトラは高い成長率と一億総中流を実現した60年代から70年代の日本経済を指して「資本主義の究極の理想に近い」と評価した。ロナルド・レーガンはGDPと軍事力で日本がアメリカを追い抜くことを覚悟した。一方、傾斜生産方式から安定成長に至るまで公害病問題が深刻化していた。また、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦をもたらした。そして数年にわたり報道されたロッキード事件は日本のグローバル化を象徴した。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "昭和末期、中曽根内閣の民営化政策が推進され始めて程なくプラザ合意がなされた。これにより円高不況が起こり、そこで行き過ぎた金融緩和がなされてリクルート事件の頃にバブル景気が到来した。1人あたりの国民所得はアメリカに次ぐ世界第2位となった。引き続き年5%-7%の高い経済成長が見込まれ、21世紀は日本の時代になるといわれた(ジャパン・アズ・ナンバーワン)。日本は大規模な好景気を経験する一方、アメリカなどは経済低迷を経験していたため日米間で貿易摩擦が起きた。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "平成年間(1989年 - 2019年)は平成時代と呼ばれる。1989年1月7日の父・昭和天皇の崩御に皇室典範に基づいて皇位を継承。翌8日に元号法と政令に基づき「平成」へ改元が行われた。平成の30年間において、国民の約80%はとても平和な時代であったという回答がある。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "平成元年の1989年にはバブル景気の影響で日経平均株価が最高値になった。1991年12月には共産主義の超大国のソビエト連邦が崩壊し、冷戦は日米欧などをはじめとする西側諸国(資本主義)の事実上の勝利となった。同時に日本ではバブル崩壊に続き、自社両党による55年体制が崩壊し、短命の非自民連立内閣が成立した。そして2009年と2012年にも政権交代が起こった。阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が発生し、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。 昭和末期から過熱状態にあった景気は、日銀三重野康総裁の急激な金融引き締めによりハードランディングがおき崩壊。その後も円高不況、アジア通貨危機、ITバブル崩壊と連続した要因により、2000年代まで失われた10年と呼ばれる長い経済停滞を経験した。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "世界的観点において平成初期は、余剰家計をミューチュアル・ファンドが吸い上げてグローバルな投資活動を展開し注目を浴びた。21世紀に入り、BRICSなどの新興国が台頭。日本を含む先進国の産業空洞化、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本や欧米の経済的・政治的先進性は疑義をもたれるようになった。また、改革開放以降、高度経済成長を続ける中華人民共和国がイギリスやフランス、ドイツのGDPを抜き、2010年には遂に日本のGDPを超えた。それにより日本は42年振りに世界2位の経済大国という地位を中国に譲る事になった。軍事的にも経済的にも成長した中国の政治体制は一党独裁の共産主義及び社会主義であるため、アメリカ合衆国との対立が深刻化している(新冷戦を参照)。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "1993年には日本が自ら提案し、アフリカ連合諸国、世界銀行と共にアフリカ開発会議を日本国政府の主導型として定期的に主催させるようになった。1998年、 20世紀最後の冬季オリンピックとして長野オリンピックが天皇の開会宣言によって開催された。",
"title": "近現代"
},
{
"paragraph_id": 112,
"tag": "p",
"text": "1994年から、アメリカ政府は日本政府に対して年次改革要望書を出した。年次改革要望書は2008年に鳩山由紀夫内閣中に日本側の申し出で破棄した。2001年には九州南西海域工作船事件が発生。日本の海上保安庁と北朝鮮の工作船が奄美大島付近で激しい銃撃戦を繰り広げた。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 113,
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"text": "2003年10月1日には日本の航空宇宙3機関、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)・独立行政法人航空宇宙技術研究所(NAL)・特殊法人宇宙開発事業団(NASDA)が統合されて宇宙航空研究開発機構が設立され、日本は宇宙開発を本格化し始めた。安倍晋三首相は日本政府の外交方針として2007年には「日米豪印戦略対話」を、2012年には「セキュリティダイヤモンド構想」を、2016年には「自由で開かれたインド太平洋戦略」を世界各国に提唱した。",
"title": "近現代"
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"paragraph_id": 114,
"tag": "p",
"text": "平成時代に日本は独自で軍事的に再び海外に進出するようになった。2003年にはイラク戦争が勃発した。アメリカ軍がイラク共和国に勝利すると、多国籍軍は占領を開始。日本も有志連合の一員として小泉純一郎首相の強い指導力によって、イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法が公布されイラクに自衛隊が派遣された。日本国政府の目的によるとイラクの国家再建を支援するためであるとされる(事実上のイラク占領)。日本クウェート地位協定に基づきクウェートのアリ・アル・サレーム空軍基地内に自衛隊は長期駐留した。",
"title": "近現代"
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"text": "2009年にはアフリカのソマリアに出現する海賊を対処(ソマリア沖海賊の対策部隊派遣)を行うために日本は北大西洋条約機構率いるオーシャン・シールド作戦(多国籍軍)に参加した。結果、勝利し海賊を減少させることに成功した。",
"title": "近現代"
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"text": "2011年にはアフリカのジブチ共和国内に日本政府とジブチ共和国政府が共に日本ジブチ地位協定を締結し自衛隊専用の海外基地を設立するなど世界各国への影響力を高めた。しかし、ジブチとの地位協定は自衛隊の犯罪等が当事国の法律に適応されないというもので、日本国政府は他国に不平等条約を締結させているという意見もある。",
"title": "近現代"
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"text": "文化面ではサブカルチャーであるアニメ、漫画、テレビゲームが裾野を広げ海外で興味を引くようになった。",
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"text": "インターネット、携帯電話は世の中を変えつつある。また日本は景気の改善と少子化により人手不足に陥っており、人工知能・自動運転・ロボット・電気自動車などの新技術が人間の負担を軽減する見通しが出されている。",
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"text": "2019年4月1日に新たな元号「令和」を発表した。4月30日には天皇の退位等に関する皇室典範特例法の施行に伴い、この日を以って第125代天皇明仁が退位(譲位)。午後5時から退位礼正殿の儀(退位の礼の中心儀式で国事行為たる儀式)が行われた。5月1日午前0時に令和元年となった。",
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"text": "天皇の生前退位は光格天皇以来202年ぶりで一世一元の制となった明治以降かつ憲政史上初めてのことであった。",
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"text": "令和年間は(2019年 - 現在)は令和時代と呼ばれている。元号法並びに「元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)」に基づいて、即位の日に「令和」と改元された。 同年10月22日には即位礼正殿の儀、11月10日には祝賀御列の儀を行った。 御料車(オープンカー)でパレードを行った。政府や皇室などは当初予想されていた以上に全国から国民が集まり、そして多大なる支持を示したことにより皇后雅子がパレード中に感極まって涙を流した。",
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"text": "2019年12月に中国・武漢で発生した新型コロナウイルス感染症が2020年に日本にも到来。安倍晋三首相は諸外国のようなロックダウン(都市封鎖)は実行しないものの緊急事態宣言を発令した。経済、政治、そして何より国民生活に大きな動揺を与えている。9月には安倍晋三首相が辞任、通算在職日数が歴代最長となった。",
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"text": "2020年5月には日本国政府が宇宙作戦隊(事実上の宇宙軍)を設立した。",
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"text": "2021年、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により1年延期されていた東京オリンピック・パラリンピックが今上天皇の開会宣言によって開催された。オリンピックのメダル受賞数で日本は世界3位という日本のオリンピック史上最も多くのメダルを獲得するという結果を残した。",
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"text": "2月24日、ロシアがウクライナに全面侵攻し、岸田文雄首相はウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に人道と装備の支援を発表とロシア及びウラジーミル・プーチン及び関連のある家族や側近、ロシア財閥のオリガルヒと侵攻に関与した疑いがあるベラルーシ共和国全土に前例のないほどの経済制裁、資産凍結と国際銀行間通信協会への排除の制裁行っている。また、防衛省は軍事的支援を行う事を発表した。4月、日本国政府は在日ロシア連邦大使館の外交官ら複数人を国外追放した。",
"title": "近現代"
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"text": "日本においては、漢字が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には歴史物語の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。また戦前では日本神話が全て正史であると教育されていたため弥生以前の研究をするのはタブーであるという風潮があった。",
"title": "歴史認識・歴史叙述"
}
] | この項目では日本の歴史(にっぽんのれきし/にほんのれきし)について記述する。 | {{Otheruses}}
{{Redirect|日本史}}
{{日本の歴史|KaiIchiranzu1806.jpg}}
この項目では'''日本の歴史'''(にっぽんのれきし/にほんのれきし)について記述する。
== 時代区分 ==
[[日本]]の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。([[原始]]・)[[古代]]・[[中世]]・[[近世]]・[[近代]](・[[現代 (時代区分)|現代]])とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。
古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、[[3世紀]]説、[[5世紀]]説、[[7世紀]]説があり、研究者の間で'''七五三論争'''と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180324-SNTXE7QUEBP2HBLOQGMCDMNTBI/ |title=古代史の七五三論争 日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治 |access-date=2022-01-19 |publisher=[[産経新聞社]] |website=産経ニュース |date=2018-03-24}}</ref>。中世については、中世を通じての社会経済体制であった[[荘園公領制]]が時代の指標とされ、始期は[[11世紀]]後半〜[[12世紀]]の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した[[16世紀]]後半の[[太閤検地]]にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、[[明治維新]]前後に終わるとされる。近代の始期は一般に[[幕末]]期〜明治維新期とされるが、[[18世紀]]前半の[[家内制手工業]]の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は[[冷戦]]構造が崩壊して、[[バブル崩壊]]で右肩上がりの[[経済成長]]が終わった[[1990年]]前後に変更すべきという意見もある。{{誰|date=2020年1月5日}}(以上の詳細→'''[[古代]]'''、'''[[中世#日本|中世]]'''、'''[[近世#日本|近世]]'''、'''[[近代#日本|近代]]'''、'''[[現代 (時代区分)#アジア|現代]]''')
上記のような時代区分論は、[[発展段階史観]]の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える'''「時代移行論」'''を提唱する研究者も現れ始めている。
一般によく知られている[[時代区分]]は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献[[史料]]がなく[[考古資料]]が残る時代は、[[考古学]]上の時代区分に従い、'''[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]'''・'''[[縄文時代]]'''と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治の中心地の所在地に従って、'''[[弥生時代]]'''後期〜'''[[古墳時代]] '''([[大阪市]])・'''[[飛鳥時代]]'''([[明日香村]])・'''[[奈良時代]]'''([[奈良市]])・'''[[平安時代]]'''([[京都市]])・'''[[鎌倉時代]]'''([[鎌倉市]])・'''[[室町時代]]'''(京都市)・'''[[安土桃山時代]]'''([[近江八幡市]]・京都市[[伏見区]])・'''[[江戸時代]]'''([[東京23区]]・旧[[東京市]])と区分する。ただこれだけでは必ずしも十分でないため弥生時代後期から飛鳥時代前期に'''[[大和時代]]'''、鎌倉時代の後に'''[[建武の新政]]'''、室町時代前期に'''[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]'''、室町時代後期に'''[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]'''、江戸時代後期に'''[[幕末]]'''という区分を設けており、このうち南北朝時代と戦国時代は[[中国の歴史]]の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位期間([[一世一元の制]])に従って'''[[明治時代]]'''([[明治天皇]])・'''[[大正時代]]'''([[大正天皇]])・'''[[昭和時代]]'''([[昭和天皇]])・'''[[平成時代]]'''([[明仁]])・'''[[令和時代]]'''([[徳仁]])と呼ばれている。これらのうち、[[明治維新]]から[[1947年]](昭和22年)[[5月2日]]までの時代(明治時代・大正時代・[[戦前]]昭和時代)を「'''[[大日本帝国]]時代'''」と、政体(憲法)に因んで呼ぶ例もある<ref>[[由井正臣]]著、岩波ジュニア新書『大日本帝国の時代―日本の歴史〈8〉』</ref>。また、[[北海道]]・[[北東北]]、[[南西諸島]]などの周縁部については、→'''[[日本史時代区分表]]''')。
また、文化面に着目して、[[縄文文化]]・[[弥生文化]]・[[古墳文化]]・[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]・[[天平文化]]・[[弘仁・貞観文化]]・[[国風文化]]・[[院政期文化]]・[[鎌倉文化]]・[[北山文化]]・[[東山文化]]・[[桃山文化]]・[[元禄文化]]・[[化政文化]]などが用いられる。
== 原始 ==
=== 旧石器時代 ===
{{main|日本列島の旧石器時代}}
[[ファイル:Japan glaciation.png|right|thumb|約2万年前の[[氷期]]最後の[[更新世]]後期の日本の高度地図
{{legend|darkorange|海面上の地域}}
{{legend|white|植物の生息していない地域}}
{{legend|aqua|海}}
黒線は現代の海岸線を示す]]
[[ファイル:岩宿I石器文化.JPG|thumb|220px|right|[[群馬県]][[みどり市]]の[[岩宿遺跡]]第1文化層出土の[[石器]]([[明治大学博物館]])。]]
[[File:田名向原遺跡旧石器時代建物復元模型1.jpg|thumb|220px|right|[[神奈川県]][[相模原市]]、[[田名向原遺跡]]の旧石器時代[[平地建物]]の復元模型([[旧石器ハテナ館]])]]
[[日本列島]]における[[人類]]史の始まり、つまり日本列島に初めて人類が到達した年代については、現在も多くの議論が行われている。5万年前、あるいは8-9万年前に遡るとされる[[岩手県]][[遠野市]]の[[金取遺跡]]出土石器や、2009年(平成21年)に[[同志社大学]]らにより[[発掘調査]]された[[島根県]][[出雲市]]の[[砂原遺跡]]出土石器の分析結果から、12万年前に遡るとする松藤和人(同志社大学教授)らの見解もあれば<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG06054_X00C13A6CR0000/|title=島根・出雲の砂原遺跡の石器、「日本最古」に再修正|accessdate=2023-05-04|publisher=日本経済新聞|date=2013-06-07}}</ref>{{Sfn|松藤|2014}}<ref group="注">[[現生人類]](ホモサピエンス)の出[[アフリカ]]が約6万年前であるため、これらの[[遺物]]は[[デニソワ人]]などの[[旧人類]]の遺したものということになる。</ref>、現世人類([[ホモ・サピエンス]])以前の人類による列島への渡航能力と時期の問題や、石器の出土した[[土層 (考古学)|土層]]の年代測定上の問題などから、4万年前以前に遡る可能性に否定的な堤隆([[明治大学]]研究員)らの見解などがあり{{Sfn|堤|2009|pp=12-15}}、2020年代となった今日でも意見が分かれている{{Sfn|堤|2020}}。少なくとも現状では、日本列島の旧石器時代遺跡で、4万年前以前に遡る可能性が指摘されているものに、全ての旧石器時代研究者が肯定するものは存在していないとされる{{Sfn|堤|2009|pp=12-15}}。
現生人類の最初の到来は4~3.5万年前と考えられている。この時代の人々は、[[集落]]を造って一定の場所に長期間留まることをせず、[[テント]]のような簡易な住まいで寝泊まり([[キャンプ]])しながら集団で[[狩猟採集社会|狩猟採集]]をして移動を繰り返す「遊動生活」をしていたと考えられている{{Sfn|堤|2009|pp=28-29}}{{Sfn|堤|2009|pp=68-71}}。後期旧石器時代の初期(4~3万年前)には、大規模な集団キャンプ跡と見られる[[環状ブロック群]]と呼ばれる[[遺構]]が出現し、[[千葉県]][[印旛郡]][[酒々井町]]の[[墨古沢遺跡]]や、[[長野県]][[上水内郡]][[信濃町 (代表的なトピック)|信濃町]]の日向林B遺跡([[野尻湖遺跡群]]の1つ)などの事例が知られる{{Sfn|堤|2009|pp=52-53}}。
約4~3万年前の人々は、台形様石器を用いたほか、日向林B遺跡などで世界最古とされる[[磨製石器]]([[局部磨製石斧]])が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器を使用していたと見られる{{Sfn|堤|2009|pp=52-53}}。[[大分県]][[豊後大野市]]の[[岩戸遺跡]]からは、約2万4千年前のものとみられる[[こけし]]型の[[岩偶]]が出土しており、旧石器時代にも何らかの[[信仰]]があったことがうかがえる。
古く[[北海道]]と[[九州]]方面は大陸と地続きであり[[ナイフ形石器]]と呼ばれる[[石器]]が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では出土していない。
この時代に属する遺跡は列島全体で1万箇所以上発見されているが{{Sfn|堤|2009|pp=68-71}}、[[建物]]([[竪穴建物]]や[[平地建物]])の[[遺構]]が検出される事例は極めて稀で、確実に建物(住居)跡とみて良いものは、約2万2千年前の[[大阪府]][[藤井寺市]]の[[はさみ山遺跡]]の例や、約2万年前の[[神奈川県]][[相模原市]]の[[田名向原遺跡]]の例など、10例程度しか発見されていない{{Sfn|堤|2009|pp=68-71}}{{Sfn|堤|2009|pp=28-29}}。
約2万年前には[[シベリア]]から新たに[[細石刃]]と呼ばれる石器が[[北海道]]に伝わり、主に[[北日本]]で広がり、また約1万4千年前頃には別の型の[[細石器]]が大陸から九州に伝わり、[[西南日本]]で広がったものと思われる。
約1万2千年前頃、[[最終氷期]]が終わり急激な[[地球温暖化]]による[[海面上昇]]が始まると、日本列島は[[アジア大陸]]から分離した。これにより、人々の[[文化]]や生活に大きな変化が生じ、[[南西諸島]]を除いて、次の縄文時代へ移行していった。
旧石器時代人の[[遺伝子]]として[[ハプログループD1a2a (Y染色体)]]、[[ハプログループC1a1(Y染色体)]]が想定されている<ref name=崎谷>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)</ref>。
{{clear}}
=== 縄文時代 ===
{{main|縄文時代}}
[[File:Yoshibumi-shel-mound,katori-city,japan.JPG|thumb|right|250px|[[良文貝塚]]([[千葉県]][[香取市]])]]
縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、[[地質年代]]では[[更新世]]の末期から[[完新世]]にかけて日本列島で発展した時代であり、[[世界の歴史|世界史]]では[[中石器時代]]ないし[[新石器時代]]に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、[[土器]]の出現や、定住化に伴う[[集落]]([[環状集落]]など)の形成、長期使用可能な[[建物]]([[竪穴建物]]・[[平地建物]]・[[掘立柱建物]])の普及、[[貝塚]]の形成などがあげられる。
草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は[[縄文土器]]を作り、早期以降定住化が進んで主に[[竪穴建物]]に住んだ。縄文土器については、[[青森県]][[大平山元I遺跡]]にて約1万6,500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。[[弓矢]]を用いた[[狩猟]]、[[貝塚]]に見られる[[漁撈]]、[[植物]]の採集などで生活を営み、[[打製石器]]、[[磨製石器]]、[[骨角器]]などを用いた。
[[雑穀]]や[[種実類|堅果]]などの[[栽培]]も行われたとする仮説も提示されており、野生の[[イヌビワ]]から穀物の[[ヒエ]]への栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、[[クリ]]の選択が行われて[[栽培化]]の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。[[稲作]]については、約6,000年前の[[岡山県]][[朝寝鼻貝塚|朝寝鼻(あさねばな)貝塚]]から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていたことが判明した。
[[縄文人]]の主要な遺伝子として、[[ハプログループD1a2a (Y染色体)]]、[[ハプログループC1a1 (Y染色体)]]が想定されている<ref name=崎谷/>。
{{clear}}
=== 弥生時代 ===
{{main|弥生時代}}
[[ファイル:Yoshinogari-iseki kita-naikaku.JPG|thumb|right|250px|[[吉野ヶ里遺跡]]北内郭の大型建物]]
[[ファイル:Emperor_Jimmu.jpg|250px|right|サムネイル|'''初代[[神武天皇]]は紀元前660年元旦(旧暦。新暦では2月11日にあたる)に[[日本国の建国|日本国を建国した]]とされる'''。そのため日本国内では2月11日を[[建国記念の日]]として制定している。しかし神武天皇が実在したかは不明である。]]
[[紀元前10世紀]]頃から[[3世紀|紀元後3世紀]]頃までは[[弥生時代]]と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた[[弥生土器]]に由来する。[[弥生時代]]の開始期に大陸から[[ハプログループO1b2 (Y染色体)]]に属す[[弥生人]]が到達した<ref name=崎谷/>。[[水稲耕作]]が普及し、[[青銅器]]や[[鉄器]]などももたらされた。[[日本語]]も弥生人によって[[朝鮮半島]]からもたらされたという説が有力とされる<ref> 「[https://www.afpbb.com/articles/-/2798334 日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大]」 </ref><ref> 「[https://q-aos.kyushu-u.ac.jp/wp-content/uploads/2021/12/e5bb42e567a495a74c5e2514ca0b7a68.pdf 近年の日本語・韓国語起源論と農耕の拡散]」 </ref>。
[[稲作]]を中心とする[[農耕社会]]が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には[[環濠集落]]が営まれた。当時多く築造された[[弥生時代の墓制#墳丘墓|墳丘墓]]は大型地域集団の首長墓と見られ、[[身分]]差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。
当時の日本列島は[[中国]]から[[倭]]・[[倭国]]と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の[[奴国]]王は[[後漢]]へ通使し[[金印]]を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を[[2世紀]]初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に[[帥升]]がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に[[倭国大乱]]と呼ばれる内乱が生じ、その後[[邪馬台国]]の[[卑弥呼]]が倭国王となった。卑弥呼は[[魏 (三国)|魏]]との通交により倭国連合の安定を図った。この時期の倭(日本)の状況は中国の史料で確認できる([[倭・倭人関連の中国文献]])。
第二次大戦前までは『[[日本書紀]]』の歴代天皇在位年数を元に逆算すると西暦紀元前660年に相当するとされ、初代[[神武天皇]]の即位(日本国の建国)とされる年はこの時代の前半にあたるとされていたが、戦後の歴史学では一般的でない。
[[北海道]]・北[[東北地方]]においては水田耕作が受容されず[[続縄文時代]]に移行した。
弥生時代以降、[[ハプログループO2 (Y染色体)]]の[[渡来人]]が到達したとされる<ref name=崎谷/>。
== 古代 ==
{{clear}}
{{seealso|日本古代史}}
=== 古墳時代 ===
{{main|古墳時代}}
[[ファイル:Hira-ide Historic Site Park reconstructed Kofun period (600 AD) house.jpg|thumb|250px|right|[[平出遺跡]]公園にある、復原された古墳時代(西暦600年)の[[竪穴建物]]。]]
[[3世紀]]中後半から[[7世紀]]頃までは[[古墳時代]]と呼ばれる。3世紀中頃に[[近畿地方]]に出現した[[前方後円墳]]とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは[[畿内]](ヤマト)・[[北部九州]]([[筑紫]])・[[北関東]]([[毛野]])・[[山陽地方|山陽]]([[吉備]])・[[山陰]]([[出雲]])に並立していた地域政治集団が糾合して[[ヤマト王権]]を形成したことを表していると考えられている([[前方後円墳体制]])。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。
[[4世紀]]後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて[[朝鮮半島]]への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として[[朝鮮]]や[[中国]]の技術と文物が倭国へ流入した。新羅や高句麗とも戦争を繰り返した。([[倭・高句麗戦争]]、[[倭・倭人関連の朝鮮文献]])
[[5世紀]]に入るとヤマト王権は朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく[[朝貢]]することで、その目的にふさわしい[[官爵]]を求めて中国の[[南北朝時代_(中国)#南朝|南朝]]との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を[[倭の五王]]という。
倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世[[雄略天皇]](470年頃治世)と[[諡]](おくりな)されている人物である。このころより、[[大王_(ヤマト王権)|大王]]や[[治天下大王]]と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の[[前方後円墳]]は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。
倭の五王の後、5世紀後半から[[6世紀]]前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した[[継体天皇]]の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で[[磐井の乱]]などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族[[筑紫君磐井|磐井]]の関係については不明の点が多い。
またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期に[[オホーツク海]]沿岸地域では、[[オホーツク文化]]が成立し、およそ[[13世紀]]まで続いた。
この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、[[大和時代]]と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。
{{clear}}
=== 飛鳥時代 ===
{{main|飛鳥時代}}
[[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|right|250px|法隆寺金堂と五重塔は国宝。法隆寺は、奈良県斑鳩町にある聖徳宗の寺院。ユネスコ世界文化遺産『法隆寺地域の仏教建造物』の一部。]]
[[6世紀]]末から[[8世紀]]初頭までは、大和朝廷の本拠が主に[[飛鳥]]に置かれたことから[[飛鳥時代]]と呼ばれる。6世紀後半には朝廷の国内支配が安定し、むしろ朝廷内部の[[皇位継承|大王位継承]]抗争が目立った。この時期には[[百済]]から[[仏教]]が伝来し、後の[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]などの仏教文化へと発展していった。[[仏教]]・[[儒教]]・[[道教]]等の書物が入ってきたことで、この頃から文字の使用が普及する<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-66/ |title=漢字はいつから日本にあるのですか。それまで文字はなかったのでしょうか - ことばの疑問 - ことば研究館 |access-date=2023-01-19 |publisher=[[国立国語研究所]]}}</ref>。
6世紀末、400年ぶりに中国を統一した[[隋]]の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらした。倭国でも[[7世紀]]前半にかけて[[推古天皇]]とその甥厩戸王([[聖徳太子]])が、[[王殺し#日本|王殺し]]<!--大学の教科書には出てくるキーワード-->である[[蘇我馬子]]を牽制しながら大王(天皇)主権を確立しようとした。第1次[[遣隋使]]派遣の反省から、[[冠位十二階]]制定・[[十七条憲法]]導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。第2次遣隋使では[[小野妹子]]が派遣され、中国の皇帝[[煬帝]]へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」<ref>隋書 東夷伝 第81巻列伝46): "日出处天子至书日没处天子无恙" </ref>とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、自主性を示す意図があった。
7世紀中頃の[[大化の改新]]も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→[[白村江の戦い]])であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに[[壬申の乱]]に勝利した[[天武天皇]]は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。[[天皇]]号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために[[律令制]]の導入を進め、8世紀初頭の[[大宝律令]]制定に結実した。[[日本]]という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められ、藤原に[[都城]]([[藤原京]])が置かれ、[[大宝 (日本)|大宝]]以後は[[元号]]も定着した。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる『[[日本書紀]]』の編纂が開始される。
なお、この時期[[北海道]]中西南部・[[青森県]]北部においては[[擦文時代]]を迎える。
=== 奈良時代 ===
{{main|奈良時代}}
[[ファイル:Tōdai-ji Kon-dō.jpg|thumb|right|250px|[[東大寺]]金堂、奈良県奈良市。]]
[[8世紀]]初頭から末にかけては[[奈良時代]]と呼ばれ、奈良に都城([[平城京]])が置かれた。そして[[遣唐使]]を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。<!--遣唐使の律令持ち出しが禁じられていたという榎本論文が、律令政治の発展に寄与したという通説を覆すほどに重いかは疑問-->[[王土王民思想]]に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては[[編戸制]]・[[班田制]]・[[租庸調]]制・[[軍団 (古代日本)|軍団兵士制]]などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、[[三世一身法]]・[[墾田永年私財法]]などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期[[聖武天皇]]のときに[[中宮]]職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると[[百姓]]階層の分化が始まり、[[逃散]]増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。
[[ファイル:HeijokyusekiDaigokuden.jpg|right|250px|サムネイル|復元された[[大極殿]]]]
また、新羅を蕃国とし、東北地方の[[蝦夷]]・南九州の[[隼人]]を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。
この時代には[[干ばつ]]・[[飢饉]]・[[山火事]]などの災害や疫病の流行が多発した<ref>{{cite book |last=Totman |first=Conrad |authorlink=Conrad Totman |year=2005 |title=A History of Japan |publisher=[[Wiley-Blackwell|Blackwell Publishing]] |location=Malden, MA |url=https://books.google.com/books?id=QBGGBAAAQBAJ |isbn=978-1-119-02235-0|pages=140–142}}</ref>。特に、735–737年にかけて発生した[[天然痘]]のエピデミック([[天平の疫病大流行]])は貴族・庶民を問わず夥しい数の死者を出し、政権を担っていた[[藤原四兄弟]]も相次いで病死した<ref>{{cite book|和書|author=吉川真司|authorlink=吉川真司|title=天皇の歴史2 聖武天皇と仏都平城京 |year=2018|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|isbn=978-4062924825|pages=121–128}}</ref><ref>{{Cite book| last = Farris| first = William Wayne | title = Population, Disease, and Land in Early Japan, 645-900 | publisher = Harvard University Asia Center | year = 1985 | pages = 53–54 | isbn = 9780674690059}}</ref>。これらの災厄が自らの不信心に起因していると考えた聖武天皇は仏教への帰依を深め、[[東大寺]]創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した<ref>{{cite book |last=Henshall |first=Kenneth |year=2012 |title=A History of Japan: From Stone Age to Superpower |publisher=[[Palgrave Macmillan]] | location=London |url=https://books.google.com/books?id=vD76fF5hqf8C |isbn=978-0-230-34662-8|page=26}}</ref>。
文化面では、『[[日本書紀]]』・『[[万葉集]]』・『[[風土記]]』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた[[天平文化]]が栄えた。仏教は政府により統制されたものの[[鎮護国家]]思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・[[国分寺]]が国家護持の名目で建立された。工芸品では[[正倉院]]宝物が有名である。[[孝謙天皇|称徳天皇]]が作らせた[[百万塔]]におさめられた[[百万塔陀羅尼]]は、現存する世界最古の印刷物と言われている。
{{clear}}
=== 平安時代 ===
{{main|平安時代}}
{{See also|平安時代の人物一覧}}
[[File:Ichijoji Kasai13bs4272.jpg|thumb|right|250px|[[一乗寺]]三重塔(国宝)、[[兵庫県]][[加西市]]。1171年建立の[[和様建築]]。]]
[[8世紀]]末頃から[[12世紀]]末頃までは[[平安時代]]と呼ばれ、[[桓武天皇]]の築いた[[平安京]]が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の[[国造]]一族から任命された[[郡司]]階層の没落と[[百姓]]階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで[[朝廷 (日本)|朝廷]]は[[11世紀]]初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、[[王朝国家|王朝国家体制]]と呼ばれる体制が成立した。
王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された[[受領]]とその[[国衙]]機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、[[戸籍]]による個別人民把握と[[郡司]]層の[[百姓]]層に対する首長権に裏付けられた、[[人頭税]]方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、[[負名]]体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、[[国衙軍制]]を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である[[武士]]階層が、[[契丹]]の台頭に呼応した[[承平天慶の乱]]や[[刀伊の入寇]]<!--世界的観点-->などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に[[藤原北家]]が[[皇室|天皇家]]の[[外戚]]として政権中枢を担う[[摂関政治]]が成立した。
12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から[[13世紀]]にかけて[[荘園 (日本)|荘園]]の量的増加と、経営単位として自律した[[一円領地]]化という質的変化が著しくなり、[[権門]]を[[荘園領主]]とする荘園と、[[国衙]]が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、[[荘園公領制]]と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には[[太上天皇|上皇]]が[[治天の君]]として政務に当たる[[院政]]が開始しており、この時期が[[古代]]から[[中世]]への画期であるとされている。平安末期には[[保元の乱|保元]]・[[平治の乱|平治]]両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った[[伊勢平氏]]によって原初的な[[武家政権]]と評価される[[平氏政権]]が登場した。
[[奈良時代]]から漸次的に進んでいた文化の日本化が[[国風文化]]として結実し、[[漢字]]を元に生み出された[[平仮名]]・[[片仮名]]が使われていくようになり、『[[源氏物語]]』・『[[枕草子]]』に代表される物語文学などが花開いた。[[密教]]や[[末法思想]]が広く信じられ、[[神仏習合]]が進み、[[寺院]]が多く建てられた。
東北地方では、11世紀頃から[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]・[[出羽清原氏|清原氏]]・[[奥州藤原氏]]などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された[[鎮守府将軍]]をも交えてしばしば抗争した([[前九年の役]]・[[後三年の役]])。[[南西諸島]]においては、12世紀頃から[[グスク時代]]に入る。以降の詳細は、北から[[奄美群島の歴史]]、[[沖縄県の歴史]]、[[先島諸島#先島の歴史|先島諸島の歴史]]などを参照のこと。
== 中世 ==
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{{seealso|日本中世史}}
=== 鎌倉時代 ===
[[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|thumb|伝源頼朝像([[足利直義]]とも)]]
[[ファイル:Kamakura Daibutsu - Takeshi DSC 7846 (4833374859).jpg|thumb|150px|[[鎌倉大仏]]]]
{{main|鎌倉時代}}
{{See also|鎌倉将軍一覧|鎌倉幕府の執権一覧|鎌倉時代の人物一覧}}
[[12世紀]]末頃から[[14世紀]]頃までは[[鎌倉時代]]と呼ばれ、中央の[[朝廷|公家政権]]と関東の[[武家政権]]が並立した。[[源頼朝]]を首長とする[[鎌倉幕府]]は、[[治承・寿永の乱]]で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で[[守護]]・[[地頭]]補任権を獲得し、[[朝廷 (日本)|朝廷]](公家政権)と並びうる政権へと成長した。[[13世紀]]前半の[[承久の乱]]の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、[[御家人]]筆頭である[[北条氏]]が幕府政治を実質的にリードする[[執権政治]]が確立した。
13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の[[元寇]]によって加速した。[[恩賞]]の払えない幕府は[[徳政令]]を発布したり[[得宗専制]]をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた[[封建制度#日本|封建制]]<!--地味に世界的観点-->を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて[[悪党]]・[[惣村]]などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。
文化面では[[運慶]]と[[快慶]]の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの[[鎮護国家]]を目的とする[[顕密体制]]の仏教から発した[[鎌倉新仏教]]の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の[[擦文文化]]が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、また[[オホーツク文化]]と融合する中、[[アイヌ]]文化へと変遷を遂げた。
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=== 南北朝時代 ===
{{main|南北朝時代 (日本)}}
{{See also|日本の南北朝時代の人物一覧}}
[[ファイル:Kouyou of Yoshinoyama.JPG|thumb|南朝のあった[[吉野山]]]]
[[File:Kamakura-fu-ja.png|thumb|left|明徳2年/元中8年(1391年)の鎌倉府管轄国地図]]
[[14世紀]]頃は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]と呼ばれ、[[大覚寺統]][[後醍醐天皇|後醍醐天皇流]]の[[南朝 (日本)|南朝]]と[[足利氏]]が支援する[[持明院統]]の[[北朝 (日本)|北朝]]に朝廷が分かれた。
鎌倉時代中期以降、皇室は[[大覚寺統]]と[[持明院統]]に分かれて皇位継承を巡り争い、[[鎌倉幕府]]の介入により[[両統迭立]]状態となっていた。大覚寺統から即位した[[後醍醐天皇]]は幕府を滅ぼそうとするも失敗し、廃位されたのち[[隠岐諸島|隠岐]]に流され、[[皇太子]]であった[[光厳天皇]](持明院統)が即位した。しかし、隠岐を脱出した後醍醐天皇は再び討幕を呼びかけ、[[足利尊氏]]や[[新田義貞]]らにより[[鎌倉幕府]]を滅亡させる。
後醍醐天皇は、光厳天皇を退位させ、[[建武の新政]]と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、[[公家]]や[[武士]]など様々な層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、光厳上皇の協力も得て[[建武政権]]を崩壊させた。京都で持明院統の[[光明天皇]](光厳上皇の実弟、[[猶子]])が即位したのち、後醍醐天皇は[[吉野]]に逃れ、南朝を成立させた。対する京都の朝廷を北朝と呼ぶ。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。情勢的には、一部期間([[正平一統]]など)を除き、京都を掌握し武家政権を擁する北朝が優勢を誇り、大多数の公家や皇族、武士から支持を得た。
文化面では、[[ばさら]]に代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、[[連歌]]が流行し、『[[二条河原落書]]』など文化の庶民化への動きが見られた。
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=== 室町時代 ===
{{Main|室町時代}}
{{See also|足利将軍一覧|室町時代の人物一覧}}
[[ファイル:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|180px|3代将軍[[足利義満]]]]
[[ファイル:Kinkaku-ji_2015.JPG|サムネイル|[[鹿苑寺]]]]
[[14世紀]]頃から[[16世紀]]頃までは[[室町時代]]と呼ばれ、[[京都]]の室町に[[室町幕府|幕府]]が置かれた。京都に本拠を置いた幕府は、[[足利尊氏]]・[[足利直義]]兄弟による[[二頭政治]]を行った。[[観応の擾乱]]以前は、朝廷(公家政権、北朝)と幕府は協調・連動して[[徳政令#徳政|徳政政策]]を行っていた<ref>[[田中奈保]]「貞和年間の公武徳政構想とその挫折―光厳上皇と足利直義の政治的関係から」『中世政治史の研究(阿部猛編)』、日本史史料研究会企画部、2010年、ISBN 9784904315095、p.812。</ref>。しかし、観応の擾乱を経て幕府は幕府権力を一つに統一し、対して朝廷は権威を失墜させると、幕府は朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷は政治実権や政治機構を失っていった。各国に置かれた守護も[[半済]]等の経済的特権の公認や[[守護請]]の拡大などを通じて、国内支配力を強め、[[国衙]]機能を取り込んでいき、[[守護大名]]へと成長して、[[守護領国制]]と呼ばれる支配体制を築いた。<!--こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を[[室町幕府-守護体制]]という。--><!--川岡勉以外にこの体制を主張している学者が見当たらないし、普通に考えると守護領国制の守護勝手な時代のイメージに合わない-->
[[足利義満]]は[[明徳の和約|南北朝合一]]を遂げ、朝廷を北朝に統一した。また[[日明貿易]]を行い明皇帝から[[日本国王]]に[[冊封]]された。義満は[[守護大名]]の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は[[15世紀]]中葉まで存続したが、[[応仁の乱]]によって大きく動揺すると[[明応の政変]]を契機としてついに崩壊し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]へと移行した。
[[1419年]]、[[李氏朝鮮]]が対馬に侵攻した。([[応永の外寇]])
[[1429年]]に[[尚巴志王]]が[[琉球王国]]を作り上げ、日本や明などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の北海道南部に進出した人々は[[道南十二館]]などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、[[1457年]]に大首長コシャマインを中心に蜂起するも([[コシャマインの戦い]])、[[蠣崎氏]]により鎮められた。
この時代の社会原則は[[自力救済]]であり、各階層内において連帯の動き=[[一揆]]が浸透した。村落社会の自立化が進み[[惣村|惣村・郷村]]が各地に成立した。[[西日本]]では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ([[倭寇]])。文化面では、[[連歌]]・[[猿楽]]・[[喫茶]]など身分を超えた交流に特徴付けられる[[室町文化]]([[北山文化]]・[[東山文化]])が栄えた。この文化は[[禅宗]]の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。
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=== 戦国時代 ===
{{Main|戦国時代 (日本)}}
[[ファイル:Himeji Castle The Keep Towers.jpg|thumb|[[姫路城]]]]
[[ファイル:Matsumoto Castle 1-1.jpg|thumb|[[松本城]]]][[15世紀]]後期から[[16世紀]]後期にかけての時期を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]と呼ぶ。この時代は、[[守護大名]]や[[守護代]]、[[国人]]などを出自とする[[戦国大名]]が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、[[分国法]]を定めるなど各地で自立化を強めた。[[一円知行|一円支配]]された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を[[大名領国制]]という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した[[織田信長]]は、[[楽市・楽座|楽市楽座]]令を出したり、[[自治都市]]の[[堺]]を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い<!--安部龍太郎 信長の流通政策と海外交易 (財務省「夏季職員セミナー」) ファイナンス : 財務省広報誌 48(8), 48-55, 2012-11-->、強大な軍事力を手にした。
この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、[[ヨーロッパ]]との交易([[南蛮貿易]])が始まり、[[火縄銃]]や[[キリスト教]]などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。
== 近世 ==
{{clear}}
{{seealso|日本近世史}}
=== 安土桃山時代 ===
{{main|安土桃山時代}}
[[ファイル:FushimiCastle.JPG|サムネイル|[[伏見城]]]]
[[File:Hōkōji Daibutsu Kaempfer.png|thumb|200px|[[エンゲルベルト・ケンペル]]の[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])のスケッチ<ref>ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95</ref>。]]
[[織田信長]]は室町将軍[[足利義昭]]を追放すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が[[本能寺の変]]により自害すると、[[天下統一]]の事業は[[豊臣秀吉]]が継承することとなった。
秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から[[九州]]に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、[[中世]]をおわらせた。[[刀狩]]や[[太閤検地]]の実施を通し、[[兵農分離]]を進めて[[荘園公領制]]・[[職の体系]]を消滅させたのである。秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると[[大名]]・[[武士]]を中心として豪壮な[[桃山文化]]が栄えた。
この時代の世界情勢と秀吉の外交に臨む態度は[[サン=フェリペ号事件]]に見ることができる。船員に提示された秀吉の書状によると、秀吉は[[英葡永久同盟]]下にあるポルトガルから聞いて、フィリピンが武力制圧されていたことを知っていた([[フィリピン#スペイン植民地時代]])。処刑された[[日本二十六聖人]]は[[フランシスコ会]]であったが、[[宗教改革]]の時節柄[[カトリック教会]]であった。[[近世日本国民史]]によると、スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としているということであった。しかし、この文献は当世のものでない。このときのスペイン国王は[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]であった。次の事実は世界的観点から特に重要である。[[ハプスブルク家]]出身であるフェリペ2世は、英葡同盟下にあるポルトガル国王を兼ね、さらに[[フランチェスコ・デ・タシス2世|帝国郵便]]の維持費を負担していた。
[[ファイル:Ulsan_Castles.jpg|サムネイル|[[文禄・慶長の役]]の時に日本軍によって築かれた[[蔚山倭城]]。多くの日本軍が駐留していた。(現在の[[大韓民国]]の[[蔚山広域市]])]]
秀吉は[[文禄・慶長の役|朝鮮への出兵]]を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。
{{clear}}
=== 江戸時代 ===
{{main|江戸時代}}
{{See also|徳川将軍一覧|江戸時代の人物一覧|幕末の人物一覧}}
[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2.JPG|thumb|徳川家康]]
[[画像:Mitsubaaoi.svg|thumb|right|150px|徳川家の[[三葉葵]]家紋。日本では家紋で使用されない緑色バージョン。]]
[[画像:KumamotoCastle EdoPeriod 02.JPG|thumb|江戸期の[[熊本城]]]]
[[慶長]]8年([[1603年]])から[[慶応]]3年([[1867年]])までは[[江戸時代]]と呼ばれ、[[江戸]]に[[江戸幕府]]が置かれた。
秀吉の死後、[[徳川家康]]は[[関ヶ原の戦い]](1600年)に勝利して権力を掌握すると[[征夷大将軍]]に任命され(1603年)江戸に幕府を開き、[[大坂の陣]](1614年 - 1615年)で[[豊臣氏]]を滅ぼした。この後、幕府は、[[17世紀]]中葉までに[[武家諸法度]]の発布、[[参勤交代]]の義務化、有力大名の[[改易]]などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、[[キリスト教]]の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中で勃発した[[島原の乱]](1637年 - 1638年)は、[[キリスト教]]禁止の徹底と[[出島]]での管理貿易による[[鎖国]]の完成へとつながる。日本の境界領域である[[琉球王国]]と[[蝦夷地]]([[和人地]]である[[渡島半島]]を除く[[北海道]]、[[樺太]]及び[[千島列島]])の支配は大名を通じて行なわれた。
一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、[[村請]]を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を[[幕藩体制]]という。社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の[[元禄文化]]に結実した。
[[18世紀]]に入り金銀が流出して[[海舶互市新例]](1715年)を出すようになり<!--世界的観点-->、[[徳川吉宗]]は幕府権力の再強化と財政再建([[享保の改革]])を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力([[寛政の改革]]、[[天保の改革]]等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする[[化政文化]]が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、そして[[幕末の通貨問題]]<!--世界的観点-->を背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。
[[19世紀]]中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力([[ロシア]]、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]船の接近)に抗するため、幕府は[[フランス]]の[[ソシエテ・ジェネラル]]から貸付を受けて軍備を増強した<!--世界的観点-->。しかし同世紀後半の[[黒船来航]](1853年)と[[日米和親条約]]締結(1854年)による[[開国]]を契機として幕府の管理貿易([[鎖国]])は解かれた。そして不平等な[[安政五カ国条約]](1858年)<!--世界的観点と、日米間にとどまらない点での正確性-->を[[勅許]]なしに締結してしまい、幕府の威信は低下した。[[朝廷 (日本)|朝廷]]の権威が増大することになり、幕府は[[大政奉還]]により権力の温存を図ったが、倒幕派の[[薩摩藩]]、[[長州藩]]、[[土佐藩]]らが樹立した[[明治新政府]]との内戦([[戊辰戦争]])に敗北後、瓦解した。
[[ファイル:Shibai_Ukie_by_Masanobu_Okumura.jpg|サムネイル|[[歌舞伎]]([[奥村政信]]画『芝居浮繪』 )は江戸時代の象徴的な娯楽である。]]
江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、[[歌舞伎]]、[[俳諧]]、[[浮世絵]]、[[お陰参り]]などが盛んになったほか、[[寺子屋]]や[[藩校]]で広く教育が行われた。当世の教育機関は明治になって財政支援に乏しい[[学制]]の普及に活用された。
{{Main|江戸時代の日本の人口統計}}
18世紀初頭の[[京都市|京都]]と[[大阪市|大坂(大阪)]]はともに40万近い[[人口]]を抱えていた。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、当時から大都市であった[[ロンドン]]や[[パリ]]以上で世界一の人口を誇る都市であった。当時の江戸と大坂を結ぶ[[東海道]]が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。その他、江戸時代の日本は230年以上に渡り大規模な暴動や争いが無い平和な時代であった。
== 近現代 ==
{{clear}}
{{main|日本近代史}}
=== 明治時代 ===
[[ファイル:Ceremony_for_the_Promulgation_of_the_Constitution_by_Wada_Eisaku.jpg|サムネイル|[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]の制定([[和田英作]])]]
{{main|明治}}
{{See also|明治の人物一覧}}
[[明治]]年間([[1868年]] - [[1912年]])は[[明治|明治時代]]と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は[[戊辰戦争]]を経て旧幕府勢力を退けてから、[[王政復古 (日本)|王政復古]]により[[日本国政府|明治新政府]]を樹立した。新政府は[[岩倉使節団]]の世界視察に基づいて欧米の諸制度を積極的に導入した。<!--世界的観点-->[[明治維新]]と呼ばれる一連の改革は、[[廃藩置県]]、[[四民平等]]化、[[六法]]・[[郵便#日本の郵便の歴史|郵便]]・[[日本の鉄道開業|鉄道]]・[[水道]]等の整備にまで及んだ。その過程で日本の境界領域であった[[琉球王国]]や、[[樺太]]を除く[[蝦夷地]]([[北海道]]の大部分と[[千島列島]])、[[小笠原諸島]]を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。
また、初代[[内閣総理大臣]](首相)に[[伊藤博文]]が任命された。[[安政五カ国条約]]を改正するため、[[帝国議会]]の設置や[[大日本帝国憲法]]の制定など国制整備に努める一方で、産業育成([[殖産興業]])と軍事力強化([[富国強兵]])を国策として推進した。
また、[[1875年]][[3月2日]]には日本の横浜に駐留していた在日英軍、在日フランス軍率いる[[英仏横浜駐屯軍]]が撤退した。
[[ファイル:Great Victory of Pyongyang and Capture of Chinese Qing Generals by Migita Toshihide 1894.jpg|サムネイル|「平譲大捷清将生捕ノ図」は1894年に描かれた。これは日本に降参し[[土下座]]をした清の政治家と、それを見ている日本軍部を表している。]]
日清戦争では[[三国干渉]]により、割譲された[[遼東半島]]を[[清]]に返還。戦後直後には下関条約によって日本軍は台湾に上陸したが、台湾内では混乱と反発が発生し[[乙未戦争]]が勃発、日本は再び勝利し[[台湾民主国]]は滅亡、[[日本統治時代の台湾|日本が台湾を統治]]することになった。
文化面では、[[福澤諭吉|福沢諭吉]]などが「[[脱亜論]]」を執筆したとされる。欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は[[文明開化]]と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。[[言文一致]]や[[変体仮名]]の整理、[[標準語]]の普及が進められ、近代的な[[日本語]]が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ([[神仏分離]])、[[寺請制度]]が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする[[国家神道]]に再編されていった。これにより仏教は弾圧された([[廃仏毀釈]])。キリスト教は欧米側の事情として制度・資本両面の輸出に成功し布教の理由が薄れてなお、[[同志社大学]]などの教育機関に社会的地位を占めるようになった。
世界的観点においては、明治維新の途中から日清戦争までが[[大不況 (1873年-1896年)]] 期にあたる。このときは[[オリエンタル・バンク]]が日本の[[外債]]を引き受けた。日露戦争ではシ団が[[ロスチャイルド]]などの個人銀行に変わり、その意味で幕末の方針に回帰した。
[[ファイル:BoxerTroops.jpg|サムネイル|[[義和団の乱]]時の軍事大国とその軍艦旗([[八カ国連合軍]])。左から右へ、{{flagicon|Kingdom of Italy}} [[イタリア王国|イタリア]]、{{Flagicon|USA1896}} [[アメリカ合衆国]]、{{flagicon|France}} [[フランス第三共和政|フランス]]、{{navy|Austria-Hungary}}、[[ファイル:Naval_Ensign_of_Japan.svg|境界|25x25ピクセル]] [[日本海軍]]、{{navy|German Empire}}、{{navy|UK}}、[[ファイル:Naval ensign of Russia.svg|23x23ピクセル]][[ロシア帝国海軍]]]]
[[1889年]]から[[1900年]]にかけて清で[[義和団の乱]]が発生、西太后は日本や西洋列強国に宣戦布告、その影響で日本は[[八カ国連合軍]]に加わり、勝利した。清に再び勝利した日本の権益は増加することになる。
1891年には日本を訪日していた[[ロシア帝国]]の皇帝[[ニコライ二世]]が警備にあたっていた[[日本の警察官|警察官]]・[[津田三蔵]]に暗殺未遂で終わる[[大津事件]]が発生した。
1904年に開戦した[[日露戦争]]では[[ロシア帝国]]側の艦隊がほぼ全滅するといった反面、日本側の損害は駆逐艦1大破、水雷艇数隻沈没で、主力艦は中破すらなく、<u>ほとんど無傷</u>であったという異例の結果を残した。
日本の勝利後、ロシア帝国から賠償金を得られず大きな負債が残ったが、ロシア帝国が[[清国]]から受領していた[[大連市|大連]]と[[旅順港|旅順]]の[[租借権]]獲得、[[東清鉄道]]の一部である[[南満洲鉄道]]を獲得するなど、[[満洲]]における権益を得ることとなった。当時としては非白人国として唯一列強諸国の仲間入りをし、アジア諸国の中で唯一ほぼ全ての不平等条約改正を達成、欧米諸国と対等の国家となり、のちには「[[五大国]]」の一角をも占めることとなり、[[日清戦争]]と[[日露戦争]]に連続的に勝利したことで[[下関条約]]や[[ポーツマス条約]]といった日本側が有益になる条約を締結した。
戦後、さらには[[大韓帝国]]においてロシアの脅威がなくなり日本の[[保護国]]となる。[[1905年]](明治38年)には[[第二次日韓協約]]締結後大韓帝国の外交権は日本に接収された。同年には[[韓国統監府]]を設立、[[1910年]](明治43年)の[[日韓併合条約]]の締結により、[[韓国併合|大韓帝国は日本に正式に併合された]]。
明治末期の1912年には[[スウェーデン]]で行われた[[1912年ストックホルムオリンピックの日本選手団|ストックホルムオリンピック]]に初めて出場した。これはアジア諸国で初である。
=== 大正時代 ===
{{main|大正|日本近代史}}
[[File:Emperor Taishō.jpg|thumb|150px|right|[[大正天皇]]]]
[[大正]]年間([[1912年]] - [[1926年]])は[[大正|大正時代]]と呼ばれる。[[護憲運動]]を経て大衆の政治参加が進み、[[政党政治]]が確立した時期である([[大正デモクラシー]])。1925年(大正14年)には男子[[普通選挙]]が実現した。大正の約14年間は、明治時代のような[[明治維新|近代化の改革]]のような事が発生することも無く、日本軍の増強などにより外部からの直接的な攻撃もなかった。災害や社会問題は発生していたが、大きな暴動などもなく日本本土も明治と比較してかなり平和な時代であった。
一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、[[大隈重信]]政権は[[1914年]](大正3年)の'''[[第一次世界大戦]]'''には直接国益に関与しないにもかかわらず[[日英同盟]]を根拠に参戦。日本は[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]側に加わることになり、[[中央同盟国]]の[[ドイツ帝国]]と[[オーストリア゠ハンガリー帝国]]に事実上の宣戦布告、[[青島の戦い|青島戦争]]をはじめとする[[日独戦争]]が開戦、日本は中国の[[青島市]]を[[海上封鎖]]を実行した。
同じ連合国である[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に[[対華21カ条要求]]を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。日本は[[ドイツ帝国軍]]に次々勝利し続けていたためドイツの植民地であった中国の[[青島市|青島]]と[[膠州湾租借地|膠州湾]]と[[ドイツ領ニューギニア|太平洋地域のドイツ領]]を占領した。1918年、第一次世界大戦は日本を含む連合国の勝利となった。
敗戦国のドイツとオーストリア=ハンガリーの将兵([[日独戦ドイツ兵捕虜]])と民間人約5,000人は全員を日本の[[徳島県]]の[[板東俘虜収容所]]、[[千葉県]]の[[習志野俘虜収容所]]、[[広島県]]の[[似島検疫所]]俘虜収容所など全国12か所に送られ、 戦後の[[1920年]]まで日本政府は収容させた。
[[ファイル:Takashi_Hara_formal.jpg|サムネイル|193x193ピクセル|第19代[[原敬]]首相。[[原内閣]]は日本初の本格的な政党内閣となるなど、日本の政治の基礎を作り、教育政策では[[高等教育]]の拡張に力を入れた。就任中に第一次世界大戦が終戦し、戦勝国になった日本の影響力を国際社会へ高めることに成功した。]]
[[第一次世界大戦下の日本]]はヨーロッパ諸国のように戦火に置かれることがなかったため、民間人の死者も発生しなかった他、日本軍の戦死者や被害なども主要連合国の中で最も少なかった。その影響のため、第一次世界大戦中の日本本土では国民はいつも通りの平穏な日々が送られており、日本経済においては大戦特需と[[海底ケーブル]]需要<!--世界的観点。フジクラ等の企業も関わっており、最近のビッグビジネスを理解するために必要な指摘。-->により工業生産が激増し、日本は未曾有の好景気が続いていた([[大戦景気 (日本)|大戦景気]]または大正バブル景気とも言われる事がある)。資本の集積・集中を進め巨大[[コンツェルン]]を築いたり、国際[[カルテル]]に参加、さらには日本が大戦中に[[アジア]]・[[アフリカ]]の輸出市場を独占、輸出関連でも[[オーストラリア]]や[[南米]]など従来未開拓であった市場でも活発化したことで日本経済は空前の好況、[[株式市場]]も活況を呈し、国民の間でも[[成金]]が続出した。
[[ファイル:The Illustration of the Siberian War, No. 1, The landing of the Japanese army (LOC ppmsca.08211).jpg|サムネイル|[[シベリア出兵]]を伝える日本の画報(シベリア出兵に向かう日本軍を見届ける日本国民)]]
1918年にはロシア帝国内で[[ロシア革命]]が発生、内政干渉として[[共産主義]]の封じ込めのために、アメリカやイギリスと同調し[[シベリア出兵]]を行った。日本軍が最初にロシア帝国の[[ウラジオストク]]に上陸し、続いて他国軍も到着していったが日本以外の連合国側は撤兵させた。数年後の1922年に日本も撤兵を発表。後の首相である[[加藤高明]]も「(シベリア出兵は)日本の国益に全くもたらせなかった。」と発言した。そのことからロシア帝国が完全に崩壊、世界初の共産主義国家の[[ソビエト連邦]]を誕生させることになる。
1920年には国際平和の確保を目指す[[国際連盟]]が発足した。当時の日本は第一次世界大戦の戦勝国であると同時に経済や軍事、政治に世界的影響力のある大国であったため、国連連盟の数少ない[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]となった。その影響から太平洋の[[ドイツ領ニューギニア|ドイツの植民地であった南洋群島]]は、[[国際連盟]]からの委任を受けて[[南洋諸島|日本側が統治することとなった]]。
[[ファイル:Tinian_Shinto_Shrine_1.JPG|サムネイル|第一次世界大戦に勝利した日本は敗戦国のドイツ帝国からドイツ領だった南洋諸島を委任統治することになり、南洋諸島には[[南洋神社]]などの日本の宗教に関する建物が多数設立された(現在の[[パラオ共和国]])。また、パラオ共和国の[[アンガウル州]]内は2022年現在でも日本語が公用語の1つになっている。]]
1923年には[[関東大震災]]が発生した。日本国内は経済的にも社会的にも混乱が発生し、政府は[[緊急勅令]]を発令した。1930年には第一次世界大戦の戦勝国([[五大国]])の一員として日本をはじめとする当時の大国([[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]])は海軍力(特に戦艦)の増強を進めたが、[[ロンドン海軍軍縮会議]]によって補助艦保有量の制限を設けた。また、[[四カ国条約]]によって[[日英同盟]]も破棄される事になった。{{clear}}
=== 昭和時代 ===
{{main|昭和|日本近代史}}
[[File:Founding Ceremony of the Hakko-Ichiu Monument.JPG|thumb|right|150px|[[八紘之基柱]]竣工式]]
[[File:Fumimaro Konoe.jpg|thumb|150px|right|[[近衛文麿]]、[[大政翼賛会]]総裁(初代)などを歴任した。]]
[[昭和]]年間([[1926年]] - [[1989年]])は[[昭和|昭和時代]]と呼ばれる。
1927年(昭和2年)に[[昭和金融恐慌]]が発生。1930年(昭和5年)には、アメリカから発生した[[世界恐慌]]が日本経済を直撃した([[昭和恐慌]])。国政では二大政党の対立から[[統帥権干犯問題]]が表面化し、[[金解禁]]も失敗に終わるなど政党政治への不信感が増し、外地では[[関東軍]]によって[[満洲事変]]が発生するなど社会不安が増加した。1932年(昭和7年)に国家改造運動が過熱する中、[[五・一五事件]]で[[犬養毅]]首相が暗殺されると、[[立憲政友会]]が国政第一党でありながら前[[朝鮮総督]]の[[斎藤実]]が[[立憲民政党]]の協力を得て総理に就任する。斎藤内閣は[[塘沽協定]]で満洲事変を終結させた後、事変によって誕生した[[満洲国]]を承認し、それに反発する[[国際連盟]]に脱退を表明した。
1936年(昭和11年)には陸軍の青年将校による[[二・二六事件]]クーデターが発生するも鎮圧された。当時、国連から脱退していた日本は、同じく脱退していた[[ドイツ国]]([[ナチス・ドイツ]])と[[日独防共協定]]を締結した。1937年(昭和12年)、中国の上海にて[[第二次上海事変]]が勃発し、日本は[[中華民国]]との戦争([[日中戦争]]・[[支那事変]])に突入する。[[南京戦]]などの地上戦に勝利、1938年(昭和13年)には[[重慶爆撃|重慶に対する爆撃]]などを実行し日本側が優勢になっていた。
1940年(昭和15年)、[[ナチス・ドイツ]]、[[イタリア王国]]と[[日独伊三国同盟]]を締結した。それと同時に日本は[[1940年東京オリンピック|東京オリンピック]]を開催予定であったが、日本国政府は'''[[第二次世界大戦]]'''の影響で[[国際オリンピック委員会]]に返上、日本は[[枢軸国]]として参戦することになる。
1941年(昭和16年)には[[仏印進駐]]の勝利でアメリカとの関係が決定的に悪化すると、日本はアメリカとの戦争を決断し、[[マレー作戦]]とそれに続く[[真珠湾攻撃]]でアメリカ軍を奇襲し、[[太平洋戦争]](第二次世界大戦・[[大東亜戦争]])に突入した。日本はアジアの植民地諸国に駐留しているイギリス軍やフランス軍に次々と勝利していき[[日本占領時期の香港|香港]]、[[日本占領時期のビルマ|ビルマ]]、[[日本占領時期のカンボジア|カンボジア]]、[[日本占領時期のインドネシア|インドネシア]]、[[日本占領時期のフィリピン|フィリピン]]、[[日本占領時期のイギリス領ボルネオ|イギリス領ボルネオ]]などを日本が占領、日本政府は[[皇民化教育]]を強制。同時期には日本軍が[[オーストラリア]]に[[ダーウィン空襲]]を実行した([[日本のオーストラリア空襲]]を参照)。
開戦当初こそ優勢を保っていた[[日本軍]]であったが、[[ミッドウェー海戦]]以降[[アメリカ軍]]の生産力と[[通商破壊]]に次第に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み[[戦略爆撃]]で[[日本本土空襲|焼け野原にされ]]、[[日本への原子爆弾投下|広島と長崎には世界で初めて原子爆弾が投下された]]。外国勢力(日本本土を攻撃したのは主に[[アメリカ合衆国]])によって日本本土を広範囲に攻撃されるのは日本の歴史上初の事例であった。
[[File:Bundesarchiv Bild 183-L09218, Berlin, Japanische Botschaft.jpg|thumb|right|150px|同盟締結を記念して[[ベルリン]]の日本大使館に掲げられた三国の国旗(1940年9月)]]
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|right|thumb|150px|1945年8月6日に[[広島への原子爆弾投下|広島]]、同年8月9日に[[長崎への原子爆弾投下|長崎]]に[[原子爆弾]]が投下された。]]
1945年(昭和20年)、[[昭和天皇]]の[[聖断]]により、日本は[[ポツダム宣言]]を受託して[[日本の降伏|敗戦]]を迎えた。戦後、1945年から1952年まで[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) に占領された。この7年間は日本の歴史上、初めて外国勢力によって[[連合国軍占領下の日本|軍事占領された期間]]である。
同じ枢軸国の[[連合軍軍政期 (ドイツ)|ドイツの占領政策]]と日本の占領政策とは差があり、ドイツ政府が解体され、連合国4ヶ国([[イギリス帝国|イギリス]]、[[フランス第四共和政|フランス]]、[[アメリカ合衆国]]、[[ソ連]])による直接統治となりその影響で[[西ドイツ]](資本主義)と[[東ドイツ]](共産主義)という[[分断国家]]にされた。
一方、日本の占領は分断国家にはされず、日本国政府と皇室を存続したまま[[アメリカ合衆国]]が間接的に占領するという間接統治を実行した(占領期間も内閣総理大臣なども存在していた)。
GHQは直ちに日本軍を解体し、占領政策に基づいた[[象徴天皇制]]、[[国民主権]]、[[平和主義]]を定めた[[日本国憲法]]を新たに制定され、[[大日本帝国憲法]]は第73条により全部改正という名目で廃止された。日本が保有していた海外の軍事基地をはじめとする植民地、占領地は全て失う事になった。例えば、台湾は[[国共内戦]]によって、[[中国共産党]]に敗北した[[中国国民党]]が統治する。[[朝鮮半島]]に関しては、[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|南部分はアメリカ合衆国]]と[[ソビエト民政庁|北部分はソビエト連邦]]の2カ国による直接統治となった。その影響でドイツと同じく[[大韓民国]](資本主義)と[[朝鮮民主主義人民共和国]](共産主義)の分断国家が誕生し、後の[[朝鮮戦争]]に繋がる。また、第一次世界大戦の勝利でドイツ帝国から得た南洋諸島も[[太平洋諸島信託統治領|アメリカ合衆国側が統治する方針になった]]。
「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために[[農地改革]]と[[財閥解体]]が断行された。解体された財閥は[[コンツェルン]]としての形から企業グループと再び復活した。企業グループとは、[[アメリカ対日協議会]]の圧力により[[過度経済力集中排除法]]が適用されないことになった「トップのいない企業結合体」である。無力化の対象となった[[寄生地主制]]と財閥は、戦中より産業合理化の障害としても論じられていた<ref>Freda Utley ''[[:en:Freda Utley#Books|Japan's Feet of Clay]]'', Faber & Faber, London (1937)</ref>。そこで[[傾斜生産方式]]という合理化が推進された。1952年、日本は[[世界銀行]]と[[国際通貨基金]]に加盟した。この頃は[[新円切替]]や[[正力マイクロ波事件]]<!--通信史における重要な世界的観点-->などが国民生活を脅かした。
[[File:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg|thumb|right|[[サンフランシスコ平和条約]]に署名する[[吉田茂]]と日本全権委員団。]]
[[1950年代]]にさしかかる頃から[[逆コース]]が進展した。[[朝鮮戦争]]では占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った<ref name=ishimaru>{{Cite web|和書|url =http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|title =朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―|publisher =[[防衛研究所]]|author =防衛研究所戦史部[[石丸安蔵]]|accessdate =2011-08-02|archiveurl =https://web.archive.org/web/20110323030422/http://www.nids.go.jp///publication/senshi/pdf/200803/03.pdf|archivedate =2011年3月23日|deadlinkdate =2017年10月}}</ref>。[[1952年]](昭和27年)に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]により主権を回復した後、外債の導入により<!--世界的観点-->急速に戦後復興を進め、財閥は企業グループとして形を変えて再び復活した。
戦後のドイツは[[ナチス・ドイツの国旗|ナチスの国旗]]の廃止や国歌の制限、国章の変更を行ったが、日本に関しては戦前、戦後と[[日の丸]]や国歌、[[日本の国章|国章]]の変更や制限は一切されず存続することになった。
1952年(昭和27年)4月28日、GHQは解体し、占領軍は権限低下と名目を変え、[[在日米軍]](USFJ)として第二次世界大戦後の日本に駐留する唯一の外国軍になっている。1954年(昭和29年)には防衛に特化した[[自衛隊]]が設立された。
[[冷戦]]下の西側陣営として[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安全保障条約]]を締結した。主権回復後の日本は[[西側諸国]]の中でも特に米国寄りの立場をとったが、[[日本国憲法第9条]]を根拠に軍事力の海外派遣を行わなかった。サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による[[竹島問題|竹島軍事占領]]を除き、戦後の日本は諸外国からの軍事的実力行使にさらされることが一切なかった。[[自由民主党 (日本)|自民党]]と[[日本社会党|社会党]]の保革[[55年体制]]ができた翌年、日本は[[日ソ共同宣言]]と[[国際連合]]加盟を果した。[[1972年]](昭和47年)には[[日中国交正常化]]と[[沖縄返還]]が行われた。それぞれに関しては[[中華民国]]の国家性と[[西山事件]]が未解決である。[[1960年代]]、日本の[[国民総生産]]は[[高度経済成長]]をとげた。この頃中国では国共内戦と大躍進政策の失敗で経済がもたついており、日本は安価な工業製品を大量生産できるライバル不在の新興国と化し、成長への条件が整っていた。
[[1964年]](昭和39年)にはアジア初であり、有色人種の国家としては初となる[[東京オリンピック (1964年)|東京オリンピック]]・[[1964年東京パラリンピック|パラリンピック]]が[[昭和天皇]]の開会宣言によって開催された。高速道路や国際空港などインフラの整備や[[オリンピック景気]]、1965年以降は[[いざなぎ景気]]と呼ばれる好景気が発生するなど繁栄する年が長年続くこととなった。また、[[国内総生産]](GDP)に関しては[[1966年]](昭和41年)に[[フランス]]を、[[1967年]](昭和42年)に[[英国]]を、[[1968年]](昭和43年)には[[西ドイツ]]をそれぞれ追い抜いた。これをもって日本は[[米国]]に次ぐ世界第2位の経済大国にのぼりつめ、日本は再び[[先進国]]となった。
[[1970年代]]は[[ニクソン・ショック]]と[[オイルショック]]の二重苦にもかかわらず軟着陸できたので[[安定成長期]]と呼ばれた。重化学工業から[[自動車]]・[[電機]]へと産業の主役が移る[[産業構造の転換]]が進んだ。壊滅的な敗戦から奇跡的な復興を遂げた日本は途上国のモデル国家とされた。同年、大阪にて[[日本万国博覧会|大阪万博]]が開催された。博覧会の[[名誉総裁]]は当時の[[皇太子]][[上皇明仁|明仁親王]]、名誉会長は当時の首相の[[佐藤栄作]]となった。当時では普及していなかった[[電気自動車]]や[[動く歩道]]、[[電動自転車]]などを展開するなど未来世界を作り上げたことが世界から注目され、6,422万人以上が来場し日本は大成功を収めた。
[[1972年]](昭和47年)に[[田中角栄]]内閣総理大臣は[[日本列島改造論]]を提唱した。大都市と地方の格差を埋める目的と、[[高速道路]]網を全国に張り巡らせ、地方に病院や港湾、学校などの公共施設を次々と建てて、大都市と地方のインフラ格差を埋めた。そのため、東京だけではなく地方の雇用・経済をさらに潤わせることに成功した。
[[1973年]](昭和48年)には日本をはじめアメリカ、イギリス、[[西ドイツ]]、フランスの5カ国がG5(現在この[[G7]])を創設した。
[[ファイル:GE_Building_by_David_Shankbone.JPG|サムネイル|[[三菱地所]]が1,200億円で買収した[[ロックフェラー・センター]](1989年)
[[バブル景気]]中の日本企業による国外不動産(主にアメリカ企業の)買い漁りの象徴となった。]]
経済学者のラビ・バトラは高い成長率と一億総中流を実現した60年代から70年代の日本経済を指して「[[資本主義]]の究極の理想に近い」と評価した。ロナルド・レーガンはGDPと軍事力で日本がアメリカを追い抜くことを覚悟した。一方、傾斜生産方式から安定成長に至るまで[[公害病]]問題が深刻化していた。また、日本企業の輸出攻勢は[[貿易摩擦]]をもたらした。そして数年にわたり報道された[[ロッキード事件]]は日本の[[グローバル化]]を象徴した。<!--世界的観点-->
昭和末期、[[日本の民営化の一覧#中曽根内閣(1982-1987)|中曽根内閣の民営化政策]]が推進され始めて程なく[[プラザ合意]]がなされた。これにより[[円高不況]]が起こり、そこで行き過ぎた[[政策金利|金融緩和]]がなされて[[リクルート事件]]の頃に[[バブル景気]]が到来した。1人あたりの[[国民所得]]はアメリカに次ぐ世界第2位となった。引き続き年5%-7%の高い経済成長が見込まれ、21世紀は日本の時代になるといわれた([[ジャパン・アズ・ナンバーワン]])。日本は大規模な好景気を経験する一方、アメリカなどは経済低迷を経験していたため日米間で[[日米貿易摩擦|貿易摩擦]]が起きた。
=== 平成時代 ===
[[ファイル:Tokyo Tower at night 8.JPG|thumb|[[東京タワー]]と[[東京都|東京]]の夜景([[六本木ヒルズ]]より)]]
[[ファイル:Osaka_Umeda_Sky_Building_Panoramablick_05.jpg|サムネイル|[[大阪市]]の[[梅田]]のスカイライン([[梅田スカイビル]]より)]]
{{main|平成|日本近代史}}
[[ファイル:Shukuga-Onretsu-no-gi.png|サムネイル|1989年([[平成]]元年)の祝賀御列の儀のパレードには多くの国民が集まった。]]
[[ファイル:Keizo_Obuchi_cropped_Keizo_Obuchi_19890107.jpg|サムネイル|新元号「平成」を発表した[[小渕恵三]]。]]
[[平成]]年間([[1989年]] - [[2019年]])は[[平成|平成時代]]と呼ばれる。1989年1月7日の父・昭和天皇の崩御に[[皇室典範]]に基づいて[[皇位継承|皇位を継承]]。翌[[1月8日|8日]]に[[元号法]]と[[元号を改める政令 (昭和六十四年政令第一号)|政令]]に基づき「'''[[平成]]'''」へ[[改元]]が行われた。平成の30年間において、国民の約80%はとても平和な時代であったという回答がある<ref>{{Cite web|和書|title=平成は「戦争がなく平和な時代」79% NHK世論調査|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB |url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/feature-articles/feature-articles_03.html |website=www3.nhk.or.jp |accessdate=2022-03-03 |last=日本放送協会}}</ref>。
平成元年の1989年にはバブル景気の影響で[[日経平均株価]]が最高値になった。1991年12月には共産主義の超大国の[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦が崩壊]]し、冷戦は日米欧などをはじめとする西側諸国(資本主義)の事実上の勝利となった。同時に日本では[[バブル崩壊]]に続き、自社両党による55年体制が崩壊し、短命の[[非自民・非共産連立政権|非自民連立内閣]]が成立した。そして2009年と2012年にも[[政権交代]]が起こった。[[阪神淡路大震災]]・[[地下鉄サリン事件]]・[[東日本大震災]]とそれに伴う[[福島第一原子力発電所事故]]などの大規模な災害が発生し、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。
昭和末期から過熱状態にあった景気は、[[日銀]][[三重野康]]総裁の急激な金融引き締めによりハードランディングがおき崩壊。その後も[[円高不況]]、[[アジア通貨危機]]、[[ITバブル]]崩壊と連続した要因により、2000年代まで[[失われた10年|失われた10年と呼ばれる長い経済停滞]]を経験した。
世界的観点において平成初期は、余剰家計を[[ミューチュアル・ファンド]]が吸い上げてグローバルな投資活動を展開し注目を浴びた。21世紀に入り、[[BRICs|BRICS]]などの[[新興国]]が台頭。日本を含む先進国の[[空洞化|産業空洞化]]、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本や欧米の経済的・政治的先進性は疑義をもたれるようになった。また、[[改革開放]]以降、高度経済成長を続ける中華人民共和国がイギリスやフランス、[[ドイツ]]のGDPを抜き、2010年には遂に日本のGDPを超えた。それにより日本は42年振りに世界2位の経済大国という地位を中国に譲る事になった<ref>{{Cite web|和書|title=中国GDP、世界2位確実に 日本、42年ぶり転落 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM1905R_Q1A120C1000000/ |website=日本経済新聞 |date=2011-01-20 |accessdate=2022-02-26 |language=ja}}</ref>。軍事的にも経済的にも成長した中国の政治体制は[[一党独裁制|一党独裁]]の共産主義及び[[社会主義]]であるため、アメリカ合衆国との対立が深刻化している([[新冷戦]]を参照)。
[[1993年]]には日本が自ら提案し、[[アフリカ連合]]諸国、[[世界銀行]]と共に[[アフリカ開発会議]]を日本国政府の主導型として定期的に主催させるようになった。[[1998年]]、 [[20世紀]]最後の[[冬季オリンピック]]として[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]が[[明仁|天皇]]の開会宣言によって開催された。
[[1994年]]から、アメリカ政府は日本政府に対して[[年次改革要望書]]を出した。年次改革要望書は[[2008年]]に[[鳩山由紀夫内閣]]中に日本側の申し出で破棄した。[[2001年]]には[[九州南西海域工作船事件]]が発生。日本の海上保安庁と北朝鮮の工作船が[[奄美大島]]付近で激しい銃撃戦を繰り広げた。
[[2003年]][[10月1日]]には日本の航空宇宙3機関、[[文部科学省]][[宇宙科学研究所]](ISAS)・[[独立行政法人]][[航空宇宙技術研究所]](NAL)・[[特殊法人]][[宇宙開発事業団]](NASDA)が統合されて[[宇宙航空研究開発機構]]が設立され、日本は[[宇宙開発]]を本格化し始めた。[[安倍晋三]]首相は[[日本政府]]の外交方針として2007年には「[[日米豪印戦略対話]]」を、2012年には「[[セキュリティダイヤモンド構想]]」を、2016年には「[[自由で開かれたインド太平洋戦略]]」を世界各国に提唱した。
平成時代に日本は独自で軍事的に再び[[自衛隊海外派遣|海外に進出するようになった]]。2003年には[[イラク戦争]]が勃発した。アメリカ軍が[[バアス党政権 (イラク)|イラク共和国]]に勝利すると、多国籍軍は占領を開始。日本も[[有志連合]]の一員として[[小泉純一郎]]首相の強い指導力によって、[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法]]が公布され[[自衛隊イラク派遣|イラクに自衛隊が派遣された]]。日本国政府の目的によるとイラクの国家再建を支援するためであるとされる(事実上のイラク占領)。[[日本クウェート地位協定]]に基づき[[クウェート]]のアリ・アル・サレーム空軍基地内に自衛隊は長期駐留した。
2009年には[[アフリカ]]の[[ソマリア]]に出現する[[ソマリア沖の海賊|海賊]]を対処([[ソマリア沖海賊の対策部隊派遣]])を行うために日本は[[北大西洋条約機構]]率いる[[オーシャン・シールド作戦]](多国籍軍)に参加した。結果、勝利し海賊を減少させることに成功した。
2011年にはアフリカの[[ジブチ共和国]]内に日本政府とジブチ共和国政府が共に[[日本ジブチ地位協定]]を締結し[[ジブチ共和国における自衛隊拠点|自衛隊専用の海外基地]]を設立するなど世界各国への影響力を高めた。しかし、ジブチとの地位協定は[[治外法権|自衛隊の犯罪等が当事国の法律に適応されない]]<ref>{{Cite web|和書|title=自衛隊派遣支える「地位協定」 ジブチの法令適用されず |url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO54942350Y0A120C2PP8000/ |website=日本経済新聞 |date=2020-01-29 |accessdate=2022-03-09 |language=ja}}</ref>というもので、日本国政府は他国に不平等条約を締結させているという意見もある<ref>{{Cite web|和書|title=日本は、自衛隊が駐留するジブチに「占領軍」のような不平等協定を強いている |url=https://nikkan-spa.jp/1556286 |website=日刊SPA! |date=2019-03-06 |accessdate=2022-03-09 |language=ja |last=志葉玲}}</ref>。
[[ファイル:Tokyo_Sky_Tree_at_night_(Iki).JPG|サムネイル|[[東京スカイツリー]]は世界で最も高さが高い[[電波塔]]であり、[[ドバイ]]の[[ブルジュ・ハリファ]]に次ぐ世界で2番目の高さを誇る建造物である。2012年に完成した事により平成を代表する建物になっている。]]
[[ファイル:National-Foundation-Day-of-Japan-2019.png|サムネイル|280x280ピクセル|平成時代最後の[[建国記念の日]](2019年2月11日)]]
文化面ではサブカルチャーである[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[漫画]]、[[テレビゲーム]]が裾野を広げ海外で興味を引くようになった。
[[インターネット]]、[[携帯電話]]は世の中を変えつつある。また日本は景気の改善と少子化により人手不足に陥っており、[[人工知能]]・[[自動運転車|自動運転]]・[[ロボット]]・[[電気自動車]]などの新技術が人間の負担を軽減する見通しが出されている。
2019年4月1日に新たな元号「'''[[令和]]'''」を発表した。4月30日には[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法]]の施行に伴い、この日を以って第125代天皇[[明仁]]が[[退位]]([[譲位]])。午後5時から退位礼正殿の儀([[退位の礼]]の中心儀式で[[国事行為]]たる儀式)が行われた。5月1日午前0時に令和元年となった。
天皇の生前退位は[[光格天皇]]以来202年ぶりで[[一世一元の制]]となった[[明治]]以降かつ憲政史上初めてのことであった。
{{clear}}
=== 令和時代 ===
[[ファイル:Yoshihide_Suga_announcing_new_imperial_era_Reiwa_2_(cropped).jpg|thumb|新元号を発表する当時の[[内閣官房長官]]、[[菅義偉]](2019年4月1日)]]
{{main|令和|日本近代史}}
[[ファイル:Imperial_Procession_by_motorcar_after_the_Ceremony_of_the_Enthronement2019(3).png|サムネイル|令和の[[祝賀御列の儀]](2019年11月)。平成と同様に多くの日本国民が集まった。平成の30年間で日本の[[インターネット|インターネット産業]]が急発達していたため、儀式の模様は[[日本放送協会|NHK]]及び民放各テレビ・ラジオ局にて全世界で生中継された他、[[YouTube#YouTube Live|YouTube Live]]や[[ニコニコ生放送]]などで[[ライブストリーミング]]配信も行われた。日本国内のインターネットにおける生中継で他の番組の視聴率を超える中継となった<ref>{{Cite web|和書|title=「即位礼正殿の儀」みんな見守った・・・視聴率22・3%!繰り上げ放送の「スカーレット」は大幅ダウン |url=https://www.j-cast.com/tv/2019/10/23370735.html |website=J-CAST テレビウォッチ |date=2019-10-23 |accessdate=2022-03-14 |language=ja}}</ref>。]]
[[令和]]年間は([[2019年]] - 現在)は[[令和時代]]と呼ばれている。[[元号法]]並びに「[[元号を改める政令 (平成三十一年政令第百四十三号)]]」に基づいて、即位の日に「'''[[令和]]'''」と[[改元]]された。 同年10月22日には[[即位礼正殿の儀]]、11月10日には[[祝賀御列の儀]]を行った。 [[御料車]](オープンカー)で[[パレード]]を行った。政府や皇室などは当初予想されていた以上に全国から国民が集まり、そして多大なる支持を示したことにより[[皇后雅子]]がパレード中に感極まって涙を流した<ref>{{Cite web|和書|title=感動の即位パレード 外務省近くで雅子さまが流した涙 |url=https://www.news-postseven.com/archives/20191115_1487121.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |accessdate=2022-02-26 |language=ja}}</ref>。
2019年12月に中国・[[武漢市|武漢]]で発生した[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]が[[2020年]]に日本にも到来。[[安倍晋三]]首相は諸外国のような[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]](都市封鎖)は実行しないものの[[緊急事態宣言及びまん延防止等重点措置|緊急事態宣言]]を発令した<ref>{{Cite web|和書|title=安倍首相が緊急事態宣言 7都府県対象 効力5月6日まで |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200407/k10012373011000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-03-03 |last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=緊急事態宣言 39県で解除 安倍首相が表明 新型コロナウイルス |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200514/k10012430241000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-03-03 |last=日本放送協会}}</ref>。経済、政治、そして何より国民生活に大きな動揺を与えている。9月には安倍晋三首相が辞任、通算在職日数が歴代最長となった。
2020年5月には日本国政府が[[宇宙作戦隊]](事実上の[[宇宙軍]])を設立した。
[[2021年]]、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行_(2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により1年延期されていた[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]が[[今上天皇]]の開会宣言によって開催された。[[2020年東京オリンピックのメダル受賞数一覧|オリンピックのメダル受賞数]]で日本は世界3位という日本のオリンピック史上最も多くのメダルを獲得するという結果を残した<ref>{{Cite web|和書|title=NHK世論調査 東京五輪 ことし7月の開催「よかった」は約5割 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211211/k10013384081000.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-03-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=空自輸送機がトンガ到着 飲料水3トン届ける |url=https://www.sankei.com/article/20220122-3FHIPFJZIFPADJI42GCSRHVSXM/ |website=産経ニュース |date=2022-01-22 |accessdate=2022-03-14 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。
2月24日、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアがウクライナに全面侵攻]]し、[[岸田文雄]]首相は[[ウクライナ]]の[[ウォロディミル・ゼレンスキー]]大統領に人道と装備の支援を発表<ref>{{Cite web|和書|title=日本がロシア決済網排除を支持、1億ドル緊急人道支援も…首相「関係をこれまで通りにはできない」 : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220227-OYT1T50125/amp/ |website=www.yomiuri.co.jp |accessdate=2022-03-03}}</ref>と[[ロシア]]及び[[ウラジーミル・プーチン]]及び関連のある家族<ref>{{Cite web|和書|title=プーチン氏娘ら資産凍結 日本がロシアへ追加制裁 |url=https://www.fnn.jp/articles/-/345776 |website=FNNプライムオンライン |access-date=2022-04-16}}</ref>や側近、ロシア財閥の[[オリガルヒ]]<ref>{{Cite web|和書|title=“オリガルヒ中のオリガルヒ一族”に日本が経済制裁…一方で衛星がとらえた”資産隠し”の動きも |url=https://www.fnn.jp/articles/-/332264 |website=FNNプライムオンライン |accessdate=2022-03-16}}</ref>と侵攻に関与した疑いがある[[ベラルーシ|ベラルーシ共和国]]全土に前例のないほどの[[経済制裁]]、[[資産凍結]]<ref>{{Cite web|和書|title=岸田首相、日本もSWIFT制裁参加を表明 「暴挙には代償」プーチン氏資産も凍結 |url=https://www.sankei.com/article/20220227-UW3TKQX2BNPVND76QXBMQDLIK4/ |website=産経ニュース |accessdate=2022-03-03 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=政府 資産凍結の対象にプーチン大統領の娘ら約400人など追加 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220412/k10013578291000.html |website=NHK NEWS WEB |access-date=2022-04-16 |language=ja}}</ref>と[[国際銀行間通信協会]]への排除の制裁行っている<ref>{{Cite web|和書|title=岸田首相 対ロシア追加制裁公表 資産凍結や半導体輸出規制など |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220225/k10013500511000.html |website=NHK NEWS WEB |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=首相、ロシアへの追加制裁発表 金融機関の資産凍結など |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA2508Y0V20C22A2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-02-25 |accessdate=2022-02-25 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本政府、ベラルーシ制裁を検討…米国の表明受け : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン |url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220225-OYT1T50326/amp/ |website=www.yomiuri.co.jp |accessdate=2022-02-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=政府 ベラルーシへの制裁を発表 |url=https://news.yahoo.co.jp/pickup/6419892 |website=Yahoo!ニュース |accessdate=2022-03-03 |language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220305024016/https://news.yahoo.co.jp/pickup/6419892|archivedate=2022-03-05}}</ref>。また、防衛省は軍事的支援を行う事を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=ウクライナに自衛隊の防弾チョッキなど提供決定 |url=https://www.sankei.com/article/20220304-MAPACGHYRBOCRDRD5PTD55BJDU/ |website=産経ニュース |date=2022-03-04 |accessdate=2022-03-30 |language=ja |first=SANKEI DIGITAL |last=INC}}</ref>。4月、日本国政府は[[在日ロシア連邦大使館]]の外交官ら複数人を国外追放した<ref>{{Cite web|和書|title=日本駐在のロシア外交官ら8人追放 ウクライナ情勢で 外務省 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220408/k10013573221000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-04-08 |last=日本放送協会}}</ref>。
== 歴史認識・歴史叙述 ==
{{main|日本史学史|日本の歴史書}}
日本においては、[[漢字]]が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には[[歴史物語]]の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には[[西欧]]から近代的歴史観が本格的に導入された。また戦前では[[日本神話]]が全て正史であると教育されていたため弥生以前の研究をするのは[[タブー]]であるという風潮があった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|last=堤|first=隆|title=ビジュアル版・旧石器時代ガイドブック|publisher=新泉社|series=シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊第2巻|year=2009|date=2009-08-25|isbn=9784787709301|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first=和人|last=松藤|title=日本列島人類史の起源-「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤-|year=2014|date=2014-05-22|isbn=9784639023135|publisher=[[雄山閣]]|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|first=隆|last=堤|title=旧石器時代研究への視座 No.2-特集:4万年前以前日本列島に人類はいたのか-|year=2020|date=2020-11-05|url=https://sitereports.nabunken.go.jp/86546|doi=10.24484/sitereports.86546|volume=2|ref=harv}}
* 『朝日百科 日本の歴史』 全12巻、[[朝日新聞社]]
* 『岩波講座 日本通史』 全21巻・別巻4巻、[[岩波書店]]、[[1993年]] - [[1996年]]
* 『日本の歴史』 全26巻、[[講談社]]、[[2000年]] - [[2003年]]
* 『日本の歴史』 全32巻、[[小学館]]、[[1973年]] - [[1976年]]
* 『大系日本の歴史』 全15巻、小学館、[[1987年]] - [[1989年]]
* 『日本の歴史』 全26巻・別巻5巻、[[中央公論社]]、[[1965年]] - [[1967年]]
* 『講座日本歴史』 全13巻、[[東京大学出版会]]、[[1984年]] - [[1985年]]
* 『日本歴史大系』 全6巻 [[山川出版社]]、[[1984年]] - [[1990年]]
* 『日本の時代史』 全30巻、[[吉川弘文館]]、[[2002年]] - [[2004年]]
* 『国史大辞典』 全15巻、吉川弘文館、[[1979年]] - [[1993年]]
* 『日本史大事典』 全7巻、[[平凡社]]、[[1992年]] - [[1994年]]
* 『日本歴史大事典』 全3巻、小学館、[[2000年]] - [[2001年]]
* その他、[[Portal:歴史学/日本史]]も参照のこと。
== 関連項目 ==
{{関連項目過剰|date=2023年3月}}
{{col|
* [[歴史学]]
* [[考古学]]
* [[古文書]]
* [[日中関係史]]
* [[日朝関係史]]
* [[日露関係史]]
* [[日米関係史]]
* [[朝鮮の歴史]]
* [[台湾の歴史]]
* [[沖縄県の歴史]]
* [[日系アメリカ人の歴史]]
* [[アイヌの歴史]]
* [[郷土史]]
* [[日本の軍事史]]
* [[日本の経済史]]
* [[日本教育史]]
* [[日本法制史]]
* [[日本建築史]]
* [[日本近代建築史]]
* [[日本美術史]]
* [[日本の文化]]
* [[日本写真史]]
* [[日本の女性史]]
|
* [[日本の首都]]
* [[日本の官制]]
** [[近代日本の官制]]
** [[日本の国家機関]]
* [[日本の古代道路]]
* [[日本の税金]]
* [[日本史学史]]
* [[日本史時代区分表]]
* [[日本史の出来事一覧]]
* [[各年の日本の一覧]]
* [[日本の合戦一覧]]
* [[日本が関与した戦争一覧]]
* [[日本の神社一覧]]
* [[日本の寺院一覧]]
* [[令制国一覧]]
* [[元号一覧 (日本)|日本の元号一覧]]
* [[日本の史跡一覧]]
* [[天皇の一覧]]
* [[皇室の系図一覧]]
* [[摂政・関白の一覧]]
* [[内閣総理大臣の一覧]]
* [[日本国歴代内閣]]
* [[戦前の政治家一覧]]
}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|History of Japan}}
{{Wikibooks|日本史}}
{{wikiversity|Topic:日本の歴史|日本の歴史}}
* [http://nihon.mydns.jp/ 日本史年表(戦国・安土桃山)]
* [https://www.jp-history.info/ 日本の歴史ガイド]
* [http://www.kagakueizo.org/movie/education/3990/ 『日本誕生 -民族の歴史-』]《[https://www.youtube.com/watch?v=h_U0a6BBsCc →YouTube版]》 - 『[[科学映像館]]』より。[http://www.nichieikagaku.com/liblary/list/%EF%BD%8Cist_new.htm 1967年]に[[養命酒製造]]の企画の下で製作された短編映画。<br />《[[日本列島の旧石器時代|先土器時代]]から[[弥生時代]]にかけての日本民族の生活・文化について触れている。[[湯浅譲二]]音楽、日映科学映画製作所制作》
* [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_266.html 日本史に関する文献を探すには(主題書誌)] - 調べ方案内([[国立国会図書館]])
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3,965 | 水星 | 水星(すいせい、英語:Mercury マーキュリー、ラテン語:Mercurius)は、太陽系に属する惑星の1つで、惑星の中で太陽に最も近い公転軌道を周回している。岩石質の「地球型惑星」に分類され、太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最小である。
太陽系で最小の惑星が、水星である。水星の赤道面での直径は4879.4 kmと、地球の38パーセントに過ぎない。木星の衛星の1つのガニメデや、土星の衛星の1つであるタイタンよりも小さい。なお、水星に衛星や環は無い。
地球から水星を観測する場合、水星は太陽に非常に近いため、日の出直前と日没直後のわずかな時間しか観測できない。また、地球と水星と太陽の位置関係によっては、たとえ望遠鏡を使っても観測は難しい。これは地球から見た太陽と水星との離角が、最大でも28.3度に過ぎないためである。なお、天球上での見かけの明るさは、−0.4等から5.5等まで変化し、暗く見える時期には、より観測が難しくなる。
1974年にNASAの探査機であるマリナー10号が初めて水星へ接近した。マリナー10号による観測によって、水星の地表の4割強の地図が作成できた。この際に撮影された写真から、水星の表面には多数のクレーターが有り、地球の衛星の月と類似した環境だろうと考えられた。地球からの直接観測だけでなく、地球から水星へと探査機を到達させる事も比較的難しいため、21世紀に入っても依然として判らない点の多い惑星ではあるものの、21世紀に入ってから再び探査機が水星へと送り込まれた事や、地球からの直接観測の技術の向上に伴って、次第に水星に関する知見が集積されつつある。
水星の公転周期は約88日である。その軌道離心率の約0.21という値は、太陽系惑星の中で最大であり、近日点が 約0.31 au(46 ×10 km)で遠日点が 約0.47 au(70 ×10 km)という、太陽を焦点の1つとする楕円軌道を描いている。
公転面は地球の公転面(黄道)に対して7度の傾きがある。その結果、水星の太陽面通過は黄道に水星があるタイミングに限られ、平均7年に1度しか観測されない。
この軌道の近日点は太陽の周りを周回する形でゆっくりと移動している(水星の近日点移動)。この現象の大部分は他の惑星からの摂動など古典力学で説明できる現象だったが、観測値は古典力学による計算値より100年当たり43秒大きく、この説明不可能だったずれは19世紀の天文学者を悩ませてきた。このため水星の内側にもう1つ惑星があるという説が現れた(バルカン参照)。このニュートン力学では説明できなかった43秒は、後にアインシュタインの一般相対性理論によって「太陽の重力により時空が歪んだ結果」として説明づけられた。一般相対性理論による計算値が、誤差の範囲で観測値の43秒と非常によく一致していたのである。
水星の自転周期は58日である。1965年にレーダー観測が行われるまで、水星の自転は地球の月や他の多くの衛星と同様に、太陽からの潮汐力によって公転と同期しており、常に太陽に同じ面を向けて1公転中に1回自転していると考えられていた。しかし実際には水星の公転と自転は 2:3 の共鳴関係にある。すなわち、太陽の周囲を2回公転する間に3回自転する。水星の公転軌道の離心率が比較的大きいため、この共鳴関係は安定して持続している。水星の自転と公転が同期していると考えられた元々の理由は、地球から見て水星が最も観測に適した位置にある時にはいつでも同じ面が見えたからであった。実際にはこれは 2:3 の共鳴の同じ位置にある時に観測していたためだった。この共鳴があるために、水星の恒星日(自転周期)は58.7日なのに対して、水星の太陽日(水星表面から見た太陽の子午線通過の間隔)は176日と、3倍になっている。誕生直後の水星は8時間程度の速さで自転していたが、太陽の潮汐力によって段々と遅くなり現在の同期状態になったと考えられるが、なぜ2:3の比となったのかは分っていない。
水星表面の特定の場所では、水星の1日において日の出の途中で太陽が逆行して一度沈み、その後再び上るという現象が見られる。これは、水星が近日点を通過する約4日前に公転と自転の角速度がちょうど等しくなるため、水星表面から見て太陽固有運動が止まって見えることに起因する。近日点通過の前後4日間は、楕円軌道の尖った部分(円弧と長辺の交点)を水星が通り過ぎるために公転による角速度が自転のそれを上回り、太陽が逆に進むように見える。近日点通過の4日後には太陽は順行に戻る。
先述のとおり、水星は公転周期が約88日で、太陽日が約176日となっている。すなわち、「水星の1日」は「水星の2年」に等しい。言いかえれば、水星のある地点での正午から次の正午まで(ここでは逆行は考慮しないとする)の間に、水星は太陽の周りを2回公転する。
水星の赤道傾斜角(自転軸の傾き)は惑星の中で最も小さく、わずか 0.027度以下でしかない。これは2番目に傾斜が小さい木星の値(約3.1度)に比べても1/300と非常に小さい値である。このため、日の出の位置は2.1分以上ぶれない。
水星には半径 1,800 km 程度の核が存在する。これは惑星半径の3/4に相当し、水星全体では質量の約 70 % が鉄やニッケル等の金属、30 % がケイ酸塩で出来ている。
平均密度 5,430 kg/mは地球と比べわずかに小さい。核の比率が大きい割に密度がそれほど高くないのは、地球は自重によって惑星の体積が圧縮され密度が高くなるのに対し、小さな水星は圧縮される割合が低いためである。地球中心部の圧力は366万気圧に達するのに対し、水星中心部は約25から40万気圧にとどまる。しかし、天体の大きさと平均密度の相関関係では、水星は唯一他の地球型惑星が示す傾向から60%程度重い方向に外れている。自重による圧縮を除外して計算された平均密度は、水星が 5,300 kg/m、地球が 4,000-4,100 kg/mとなり、水星のほうが有意に高い値をとる。
水星の体積は地球の 5.5 % に相当する。しかし地球の金属核は 17 % にすぎないのに対し、水星の金属核はその 42 % を占める。核は地球の内核と外核のように、固体と液体に分離していると見られている。2007年、電波観測によって水星の核に液体の部分が存在することを示す磁場が観測された。2019年には、メッセンジャーの観測データとモデル計算から、核の中心に直径2,000kmにも及ぶ固体の核が存在することが示された
核の周りは厚さ 600km 程度の岩石質マントルで覆われているが、これは他の岩石惑星と比べごく薄いためマントルの対流が小規模となり、惑星表面に特有の影響を及ぼした可能性が指摘されている。地殻は、マリナー10号の観測結果から厚さ 100-300km と推測されている。
水星は太陽系の他のどの天体よりも鉄の存在比が大きい。この高い金属存在量を説明するために、主に3つの理論が提唱されている。
これらの各仮説では、水星表面の構成に異なった影響を与えると考えられている。 探査機メッセンジャーと水星に向けて航行中のベピ・コロンボは、この課題を観測する目的を担う予定である。
当初、水星の地形は望遠鏡によるアルベドの計測で予想された。地域によって反射率に差異があり、これは月の高地のようなリンクルリッジ・山脈・平野・ルペス(英語版)(絶壁)・ヴァリス(英語版)(谷)などがあるためと推測された。
1975年のマリナー10号による観測で得た情報から基本的な部分が明らかになった。水星の地表は月の地表と似ており、その特徴は、数十億年単位時間を経て形成される月の海のような滑らかな面や、全球を覆う多様な大きさのクレーターが数多く存在している点にある。その中で最も大きな地形はカロリス盆地である。従来は、カロリス盆地の直径は1300 km程度と見積もられていたものの、探査機のメッセンジャーの観測により、実際の直径は約1550 kmだったと判明した。これは水星の直径の1/4以上に相当する。この惑星のサイズに比して巨大な地形は、46億年前に水星が形成されて間もなく始まり38億年前まで続いた後期重爆撃期に、彗星や隕石が衝撃を和らげる大気が無い水星に衝突を繰り返すことでクレーターを形成し、当時まだ活発だった火山活動によって盆地がマグマで埋まり形成されたと考えられる。
水星の地表はクレーターに覆われており、比較的なだらかな領域がところどころに広がるなど、月の表面地形と似ている。しかし水星の表層には、カリウムや硫黄、ナトリウムなどの揮発性が高い成分が月面と比べて桁違いに多いことが明らかとなっており、その形成過程が月とは大きく異なるものと考えられている。
水星の地表を特徴付けるもう1つの地形は、惑星の広い範囲に散在する高さ約2 km、長い物では500 kmに達する断崖(線構造)であり、リンクルリッジと呼ばれる。これは水星の内部が冷却され、半径が1-2kmほど縮む過程で形成された「しわ」であると考えられているが、太陽の潮汐力の影響という異説も存在する。太陽が水星に与える潮汐力は地球が月に与える力の約17倍と推定され、そのために水星では赤道部分が膨らむ潮汐変形が起きている。
水星の表面には、鉄酸化物の存在量が他の地球型惑星と比較しても少なく重量比1 - 3%程度しか無い。これが反射率の高さに繋がっている。代わって、ナトリウム分が多い斜長石や鉄をあまり含まない輝石(頑火輝石)が主に占める。
水星は重力が小さいため、長く大気を留めておくことは難しい。しかし、ごく薄く分子同士の衝突がほとんど無い無衝突大気の存在が確認されている。水星の気圧は10 Pa (10気圧) 程度と推測され、その成分は水素・ヘリウムの主成分に加え、ナトリウム・カリウム・カルシウム・酸素などが検出されている。
この大気組成は一定しておらず、絶えず供給と散逸を繰り返している。水素やヘリウムは太陽風の粒子を水星磁場が捕捉したものと考えられ、やがて宇宙空間に拡散されてゆく。地殻で生じる放射性崩壊も一つのヘリウム供給源であり、ナトリウムやカリウムも地殻起源である。水蒸気も存在しており、これは水星の表面が崩壊して生じたものと、太陽風の水素と岩石由来の酸素がスパッタリングを起こして生成されるもの、永久影にある水の氷が昇華して発生するものがある。探査機メッセンジャーによる水の存在に関連するO、OH、H2Oなどのイオン発見は、驚きをもって受け止められた。これら発見されたイオンの量から、科学者らは水星の表面は太陽風に吹き晒されている状態にあると推測した。
大気中にナトリウム・カリウム・カルシウムがあることは1980-1990年代に発見され、当初は隕石衝突による地殻の蒸発がこれらを供給していると考えられた。さらに探査機メッセンジャーによってマグネシウムの存在が確認された。その時点での研究の結果、ナトリウムの供給領域は惑星磁場に対応する部分に絞られた。これは水星の表面と磁場が相互作用を起こしていることを示す。
表面の平均温度は 452K(179 °C)であるが、温度変化は 90-100 K から 700 K におよぶ。水星は公転と自転が共鳴しているため、近日点において特定の2箇所が南中を迎え最高温度の700Kに達する。この場所は「熱極」と呼ばれ、カロリス盆地とその正反対側が当たる。遠日点では500K程度になる。日陰部の最低温度は平均110Kほどである。太陽光は地球の太陽定数の4.59 - 10.61倍に相当し、エネルギー総計では 3,566 W/m となる。
このような高温に晒されながら、水星には氷(=固体の水 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} )の存在が確認されている。北極と南極に近く深いクレーターの中には太陽光が当たらない永久影となる部分があり、温度が102K以下に保たれている。これは1992年、ゴールドストーン深宇宙通信施設の70m電波望遠鏡と超大型干渉電波望遠鏡群(VLA)が、水の氷による強いレーダー反射を観測して確認された。この反射現象は他にも原因を考えうるが、天文学者は水の氷が存在する可能性が最も高いと考えている。2012年6月、メッセンジャーが撮影した極地の画像により、氷が存在する可能性が裏付けられたと、ジョンズ・ホプキンズ大学などの研究チームが発表した。この氷の量は 10×10 - 10×10 kg 程度であり、レゴリスが覆うことで昇華から防がれていると考えられる。なお、地球の南極に存在する氷は4 ×10kg、火星の南極には10×10kg程度の水の氷があると言われる。水星の氷の起源は不明だが、彗星の衝突もしくは水星内部からの放出で生まれたという説が有力である。
水星は59日という遅い自転速度であるにもかかわらず、地球の磁気圏の約1.1%に相当する比較的強い4.9×10Tの磁気圏を持つことがマリナー10号の観測で発見された。この磁場は、地球と同じく双極子であるが、地球にみられるような磁場の軸と自転軸とのずれはほとんど無い。探査機マリナー10号とメッセンジャーの観測によって、この磁場は安定的なものであることが分かった。
詳しくは明らかにはなっていないが、この磁場は地球と同様に流体核の循環運動によるダイナモ効果で生まれている可能性がある。水星の核は純粋なニッケルや鉄が融解するほどの高温を維持していないと考えられているが、硫黄などの不純物が 0.2 - 5 % ほど核に混入すると融点が適度に低下し、地球と同様に固体の内核と液体の外核に分離する可能性がある。仮にこのメカニズムで磁場が発生しているならば、液体の外核はおよそ 500 km の厚さを持つと推定される。また、水星の公転軌道の離心率が高いことから、太陽が及ぼす潮汐力の影響も考えられる。他にも、核とマントルの境界で生じる熱電作用や、過去に起きていたダイナモ効果が消えてしまった後も名残の磁場が固体の磁性体物質に「凍結」しているという理論もある。後者では核が液体である必要はないが、水星磁場は現在も生み出されていると考えられているため、21世紀初頭の時点ではこの説はあまり支持されていない。
水星磁場は惑星の周囲で太陽風をそらして磁気圏をつくり、宇宙風化作用(英語版)に抵抗する程度には強力だが、それは地球の大きさに収まる位の範囲でしかない。マリナー10号の観測では、夜側の磁場圏でエネルギーが低いプラズマが観測され、高エネルギー粒子の噴出も見つかった。これは、惑星磁気圏の高い活動を示している。2008年10月6日にメッセンジャーが2度目のフライバイを行った際、惑星磁場と繋がったまま水星半径の1/3に相当する800kmの長さに伸びた竜巻のようにねじれた磁気の束と遭遇した。これは、水星磁場が「漏れやすい」性質を持つことを示す。この竜巻は、太陽風が運んだ磁場と惑星磁場が接触した際に発生する。太陽風の通過とともに繋がった磁場は引き出され、渦のようなねじれ構造を持つ。このような、惑星磁場の磁力管が太陽風によって引っぱり出される現象(磁束輸送事象(英語版))は、磁場の壁に穴を空けてしまい、そこから水星表面に影響を及ぼす太陽風が吹き込む事態を起こす。磁気再結合と呼ばれるこのような現象は珍しくなく、地球でも起こっている。ただし現在の観測では、これが生じる速度は地球よりも10倍も速く、水星が太陽に近いことでもこの速さの1/3程度しか説明出来ない。
水星の経度は自転方向に従い、西に向かって増えるよう設定されている(つまり、水星の惑星面経度はすべて西経で表示される)。水星では フン・カル という名の小さなクレーターの経度が西経20度として定義され、測定の基準点になっている。
水星について記述された最古の観測記録は、紀元前14世紀頃のアッシリア人によって作られたと考えられる星図表Mul.Apinである。この表における水星の楔形文字表記は、Udu.Idim.Gu\u4.Ud(the jumping planet、「跳ぶ星」)と訳された。バビロニアにも紀元前1000年代の記録があり、彼らは神話に登場する伝達する神ナブーになぞらえた名称をつけていた。
古代ギリシアではヘーシオドス(紀元前700年頃?)の時代には知られ、Στίλβων(Stilbon、「微かな光」の意)やἙρμάων(Hermaon)と呼ばれていた。ヘラクレイデスは、水星と金星が地球でなく太陽の周りを回っていると考えるに値する観測を行った。古代ギリシア世界では、宵の水星にヘルメース、明けの水星にはアポローンを対応させていたが、やがてこの2つの星が同一のものであることに気づいた。その後、最内周惑星で運行が速いことから、ヘルメースと同一視されていた俊足の神メルクリウスの名があてられ、これが英語のマーキュリー(Mercury = 水星)の語源となった。
古代中国では水星は「辰星」の名で知られ、方角の「北」、五行思想の「水」と対比させていた。水を当てはめた理由は、流水を水星の公転速度の速さに見立てたためであり、西洋の俊足神メルクリウスと同じ着眼である。現代でも、中国・日本・韓国・ベトナムでは漢字で「水星」と書かれ、五行思想の反映が見られる。インド神話では、水星には水曜日を司る神ブダの名が与えられる。曜日との関連は、ゲルマン人の思想(英語版)でも神オーディンが水星と水曜日を司るという考えがある。
マヤ文明では水星はフクロウに喩えられ、1羽という時と、朝夕それぞれ2羽の計4羽と考えられることもあった。彼らは地下世界からの使者と考えられた。
中世イスラム世界では、11世紀にアンダルスの天文学者ザルカーリーが水星の公転軌道が卵や松の実のような楕円形だと主張した。ただし彼の天文学理論や計算に、この考えは反映されなかった。12世紀にはイブン・バーッジャが「太陽面にある2つの黒い点」を観察した。13世紀には、マラーゲ天文台(英語版)のクトゥブッディーン・シーラーズィーが、これは水星か金星の太陽面通過またはその両方だと述べた。なお現代では、この種類の中世の報告は太陽黒点を見ていたものとも取り扱われる。
インドでは、15世紀にケーララ州のケーララ学派のニーラカンタ・ソーマヤージー(英語版)が、16世紀デンマークのティコ・ブラーエに先立ち、太陽の周囲を水星と地球が周回する太陽系モデルを構築した。
望遠鏡を用いた水星観測は17世紀初めにガリレオ・ガリレイが手がけたが、天体の相(英語版)を確認するには充分な機能を発揮しなかった。しかし1631年にはピエール・ガッサンディが、ヨハネス・ケプラーが予告した天体の通過を望遠鏡で観測した。1639年にはイタリアのジョヴァンニ・ズッピが望遠鏡を使って水星を観測し、金星や月と同様に満ち欠けがあることを発見した。これによって、水星が太陽の周りを回っていることが確実になった。惑星同士が交差する掩蔽は非常に稀な天体現象だが、1737年5月28日に水星と金星で起こった掩蔽はグリニッジ天文台のジョン・ベヴィスによって観察された。水星と金星が次に掩蔽を起こすのは2133年12月3日である。
水星は太陽に接近しているため、観測するのは非常に困難である。水星軌道周期の約半分に相当する期間は、太陽の光に埋もれてしまって見ることができない。またそれ以外の時期でも、朝か夕方のごく短い時間しか観測できない。ニコラウス・コペルニクスが水星を生涯見られなかったという逸話は有名である。
地球から見た水星にも、金星や月のような満ち欠けの相が見られる。内合の時に「新水星」、外合の時に「満水星」となるが、これらの時期には太陽と同時に上ったり沈んだりするために、見ることはできない。最大離角の時には半分欠けた形になる。西方最大離角の時には日の出前に最も早く上り、東方最大離角の時には日没後に最も遅く沈む。最大離角の値は、近日点ならば17.9度、遠日点ならば27.8度である。しかし金星とは異なり、最も明るくなるのは「半月」形と「満月」形の間の相である(金星では「新月」形と「半月」形の間で最も明るくなる)。この理由は各相にある時の地球からの距離による。水星では内合「新水星」と外合「満水星」の時の地球からの距離の差は3倍以下だが、金星では6.5倍にもなる。水星が内合になる周期は平均すると116日だが、軌道の離心率が大きいために実際には111日から121日まで変化する。同じ理由で、地球から見て逆行する期間も8日から15日まで変化する。
このような観測の難しさから、水星の理解は他の惑星と比べて遅れた。1800年、ヨハン・シュレーターは水星表面の観察を行い。高さ20kmの山脈が存在すると主張した。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルはシュレーターの観察結果から、自転時間を24時間、自転軸の傾斜が70度だという誤った見積もりを発表した。1880年代になって、ジョヴァンニ・スキアパレッリがより精確な惑星写像を取り、その結果から自転周期は88日であると示唆するとともに、公転も潮汐力から同期した状態にあると考えた。惑星写像への取り組みは引き続き行われ、1934年にはユジェーヌ・ミカエル・アントニアディが観測結果と地図を載せた本を出版した。そこには、数多いalbedo features(天体面の明暗模様)が反映され、「アントニアディ・マップ」と呼ばれた。
1962年6月、ウラジーミル・コテルニコフ率いるソヴィエト連邦科学アカデミー情報通信研究所 (Institute of Radio-engineering and Electronics)は、水星にレーダー信号を発信し反射を利用した観測を初めて行った。これはレーダーを利用した惑星観測の皮切りとなった。3年後に、アメリカのゴードン・ペッティンギル(英語版)らがプエルトリコのアレシボ天文台300m径電波望遠鏡を用いた観測を行い、最終的に水星の自転周期が59日であることを突き止めた。水星の自転は公転と同期していると広く考えられていたため、この発見は驚きをもって受け止められた。同期していれば常に影となる半球は非常に冷たくなるはずだが、電波計測の結果は、予想よりもはるかに高い温度を示していた。それでも天文学者の中には風のような熱を分配する何かしら強力な機構を想定するなど、同期説を簡単には手放さない者もいた。
公転と自転の比率が1対1ではないと提言したのはイタリアの天文学者ジュゼッペ・コロンボであり、彼は公転が自転周期の2/3に相当すると述べた。この証明は、マリナー10号から得られたデータで裏づけされた。これは、スキアパレッリとアントニアディの地図が正しいことを示すとともに、他の天文学者が観察した水星表面は2パターンある公転・自転関係のひとつだけを見ていたわけではなく、観測手段が未発達だったために彼らが目にした太陽方向に向けられた表面の違いをさしあたり無視していたことを示した。
地上からの観測は光を反射しない部分を知る手段に乏しく、水星の基本的な特性は探査機を打ち上げて初めて理解できた。しかしながら、20世紀末以降は技術的進歩が進み、地上観測からでも多くの情報を入手できるようになった。2000年、ウィルソン山天文台の1.5mヘール望遠鏡で高解像度のラッキーイメージング(英語版)観測が行われ、マリナー10号では得られなかった水星表面部分の画像撮影に成功した。後の解析で、そこにはカロリス盆地を越え、スキナカス盆地(英語版)の2倍に相当する大きさの巨大な二重クレーターが発見された。その後もアレシボ天文台による観測で、水星表面の大部分は5kmの解像度で撮影された。この中には、極にあり影に水の氷が存在する可能性を持つクレーターも含まれていた。
地球から水星に到達するためには、技術的に高いハードルが有る。水星の公転軌道は、地球の公転軌道と比べて平均で3倍も太陽に近いため、地球から打ち上げた宇宙機を水星の重力に捕捉させるためには、太陽の重力井戸を 9100万 km 以上も降りなくてはならない。単純に、ホーマン遷移軌道によって遷移するとしても、ΔVが他の惑星探査よりも大きい。さらに、水星は太陽系の中では小さな惑星であり、その重力は地球よりも弱く、重力圏も小さい。加えて、水星への着陸や、安定な水星周回軌道への投入を実現するためには、水星に充分な密度の大気が存在しないため空力ブレーキを使えず、宇宙機のエンジンに頼らざるを得ない。なお、単純に力学的な比較として、水星への旅で必要なΔVとしては太陽系脱出速度のためのそれより大きい。これらが、水星探査機の実現回数が少ない理由である。
水星に向けられた初の探査機は、1973年に打ち上げたアメリカ航空宇宙局 (NASA) のマリナー10号であった。同機は1974年から1975年にかけて3回にわたって水星に接近。写真撮影や表面温度の観測を行い、惑星表面の特徴的な地形を数多く知らしめた。しかし探査可能時間が短いことから惑星の夜の部分は撮影ができず、情報は全球の45%以下に止まった。
2004年8月3日、アメリカ航空宇宙局のメッセンジャー が打ち上げられ、地球、金星をスイングバイ(フライバイ)しながら水星へ向かって航行し、2008年1月には水星での最初のスイングバイを行った。2011年3月18日に水星の周回軌道に入った。その結果、クレーターの縁や中心に穴があること、太陽系の内側には水が、ほぼ存在しなかったこと、南北の磁場が非対称なので、水星内部には薄い液体核しかないことが推測できるという。2015年5月1日に水星表面に落下してそのミッションを終了した。
ベピ・コロンボは宇宙航空研究開発機構(JAXA)と欧州宇宙機関(ESA)が共同で打ち上げ、ミッション遂行中の探査機である。これは2機編成で、長楕円軌道には「水星磁気圏探査機(MMO: Mercury Magnetospheric Orbiter)」を、低軌道には「水星表面探査機(MPO: Mercury Planetary Orbiter)」を化学燃料ロケットで投入し、水星公転の数年に相当する期間をかけて探査を行う予定である。MPOは、メッセンジャーと同じく分光計を積載し、赤外線、紫外線、X線など複数の波長で惑星の調査を行う。当初は2013年には打ち上げられる予定であったが、ESAの開発遅れからスケジュールがたびたび延期されている。2014年時点では、2016年7月に打ち上げ、2024年に水星の周回軌道に入って観測をする計画であったが、2016年11月には2018年10月に打ち上げを延期し、水星到着が2025年12月になることがESAから発表された。最終的に、2018年10月19日にギアナ宇宙センターから打ち上げられている。
ヘルメスの伝令杖「ケリュケイオン」(ラテン語でカドゥケウス、二匹の蛇の絡んだ杖)は、現在は商売、交通などのシンボルとして用いられているが、占星術・天文学では古くから、これを図案化したものが水星の記号(☿)として用いられる。錬金術では7種類の金属が惑星によって象徴され、ヘルメス/メルクリウスは水銀と関連付けられたため、水星の惑星記号が水銀の記号として使われた。
水星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。西洋占星術では、双児宮と処女宮の支配星で、吉星である。流動性を示し、通信・交通・商売・旅行・学問・知識関係・兄弟に当てはまる。 | [
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"text": "水星(すいせい、英語:Mercury マーキュリー、ラテン語:Mercurius)は、太陽系に属する惑星の1つで、惑星の中で太陽に最も近い公転軌道を周回している。岩石質の「地球型惑星」に分類され、太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最小である。",
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"text": "核の周りは厚さ 600km 程度の岩石質マントルで覆われているが、これは他の岩石惑星と比べごく薄いためマントルの対流が小規模となり、惑星表面に特有の影響を及ぼした可能性が指摘されている。地殻は、マリナー10号の観測結果から厚さ 100-300km と推測されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "水星は太陽系の他のどの天体よりも鉄の存在比が大きい。この高い金属存在量を説明するために、主に3つの理論が提唱されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "これらの各仮説では、水星表面の構成に異なった影響を与えると考えられている。 探査機メッセンジャーと水星に向けて航行中のベピ・コロンボは、この課題を観測する目的を担う予定である。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "当初、水星の地形は望遠鏡によるアルベドの計測で予想された。地域によって反射率に差異があり、これは月の高地のようなリンクルリッジ・山脈・平野・ルペス(英語版)(絶壁)・ヴァリス(英語版)(谷)などがあるためと推測された。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1975年のマリナー10号による観測で得た情報から基本的な部分が明らかになった。水星の地表は月の地表と似ており、その特徴は、数十億年単位時間を経て形成される月の海のような滑らかな面や、全球を覆う多様な大きさのクレーターが数多く存在している点にある。その中で最も大きな地形はカロリス盆地である。従来は、カロリス盆地の直径は1300 km程度と見積もられていたものの、探査機のメッセンジャーの観測により、実際の直径は約1550 kmだったと判明した。これは水星の直径の1/4以上に相当する。この惑星のサイズに比して巨大な地形は、46億年前に水星が形成されて間もなく始まり38億年前まで続いた後期重爆撃期に、彗星や隕石が衝撃を和らげる大気が無い水星に衝突を繰り返すことでクレーターを形成し、当時まだ活発だった火山活動によって盆地がマグマで埋まり形成されたと考えられる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "水星の地表はクレーターに覆われており、比較的なだらかな領域がところどころに広がるなど、月の表面地形と似ている。しかし水星の表層には、カリウムや硫黄、ナトリウムなどの揮発性が高い成分が月面と比べて桁違いに多いことが明らかとなっており、その形成過程が月とは大きく異なるものと考えられている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "水星の地表を特徴付けるもう1つの地形は、惑星の広い範囲に散在する高さ約2 km、長い物では500 kmに達する断崖(線構造)であり、リンクルリッジと呼ばれる。これは水星の内部が冷却され、半径が1-2kmほど縮む過程で形成された「しわ」であると考えられているが、太陽の潮汐力の影響という異説も存在する。太陽が水星に与える潮汐力は地球が月に与える力の約17倍と推定され、そのために水星では赤道部分が膨らむ潮汐変形が起きている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "水星の表面には、鉄酸化物の存在量が他の地球型惑星と比較しても少なく重量比1 - 3%程度しか無い。これが反射率の高さに繋がっている。代わって、ナトリウム分が多い斜長石や鉄をあまり含まない輝石(頑火輝石)が主に占める。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "水星は重力が小さいため、長く大気を留めておくことは難しい。しかし、ごく薄く分子同士の衝突がほとんど無い無衝突大気の存在が確認されている。水星の気圧は10 Pa (10気圧) 程度と推測され、その成分は水素・ヘリウムの主成分に加え、ナトリウム・カリウム・カルシウム・酸素などが検出されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "この大気組成は一定しておらず、絶えず供給と散逸を繰り返している。水素やヘリウムは太陽風の粒子を水星磁場が捕捉したものと考えられ、やがて宇宙空間に拡散されてゆく。地殻で生じる放射性崩壊も一つのヘリウム供給源であり、ナトリウムやカリウムも地殻起源である。水蒸気も存在しており、これは水星の表面が崩壊して生じたものと、太陽風の水素と岩石由来の酸素がスパッタリングを起こして生成されるもの、永久影にある水の氷が昇華して発生するものがある。探査機メッセンジャーによる水の存在に関連するO、OH、H2Oなどのイオン発見は、驚きをもって受け止められた。これら発見されたイオンの量から、科学者らは水星の表面は太陽風に吹き晒されている状態にあると推測した。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "大気中にナトリウム・カリウム・カルシウムがあることは1980-1990年代に発見され、当初は隕石衝突による地殻の蒸発がこれらを供給していると考えられた。さらに探査機メッセンジャーによってマグネシウムの存在が確認された。その時点での研究の結果、ナトリウムの供給領域は惑星磁場に対応する部分に絞られた。これは水星の表面と磁場が相互作用を起こしていることを示す。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "表面の平均温度は 452K(179 °C)であるが、温度変化は 90-100 K から 700 K におよぶ。水星は公転と自転が共鳴しているため、近日点において特定の2箇所が南中を迎え最高温度の700Kに達する。この場所は「熱極」と呼ばれ、カロリス盆地とその正反対側が当たる。遠日点では500K程度になる。日陰部の最低温度は平均110Kほどである。太陽光は地球の太陽定数の4.59 - 10.61倍に相当し、エネルギー総計では 3,566 W/m となる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "このような高温に晒されながら、水星には氷(=固体の水 H 2 O {\\displaystyle {\\ce {H2O}}} )の存在が確認されている。北極と南極に近く深いクレーターの中には太陽光が当たらない永久影となる部分があり、温度が102K以下に保たれている。これは1992年、ゴールドストーン深宇宙通信施設の70m電波望遠鏡と超大型干渉電波望遠鏡群(VLA)が、水の氷による強いレーダー反射を観測して確認された。この反射現象は他にも原因を考えうるが、天文学者は水の氷が存在する可能性が最も高いと考えている。2012年6月、メッセンジャーが撮影した極地の画像により、氷が存在する可能性が裏付けられたと、ジョンズ・ホプキンズ大学などの研究チームが発表した。この氷の量は 10×10 - 10×10 kg 程度であり、レゴリスが覆うことで昇華から防がれていると考えられる。なお、地球の南極に存在する氷は4 ×10kg、火星の南極には10×10kg程度の水の氷があると言われる。水星の氷の起源は不明だが、彗星の衝突もしくは水星内部からの放出で生まれたという説が有力である。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "水星は59日という遅い自転速度であるにもかかわらず、地球の磁気圏の約1.1%に相当する比較的強い4.9×10Tの磁気圏を持つことがマリナー10号の観測で発見された。この磁場は、地球と同じく双極子であるが、地球にみられるような磁場の軸と自転軸とのずれはほとんど無い。探査機マリナー10号とメッセンジャーの観測によって、この磁場は安定的なものであることが分かった。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "詳しくは明らかにはなっていないが、この磁場は地球と同様に流体核の循環運動によるダイナモ効果で生まれている可能性がある。水星の核は純粋なニッケルや鉄が融解するほどの高温を維持していないと考えられているが、硫黄などの不純物が 0.2 - 5 % ほど核に混入すると融点が適度に低下し、地球と同様に固体の内核と液体の外核に分離する可能性がある。仮にこのメカニズムで磁場が発生しているならば、液体の外核はおよそ 500 km の厚さを持つと推定される。また、水星の公転軌道の離心率が高いことから、太陽が及ぼす潮汐力の影響も考えられる。他にも、核とマントルの境界で生じる熱電作用や、過去に起きていたダイナモ効果が消えてしまった後も名残の磁場が固体の磁性体物質に「凍結」しているという理論もある。後者では核が液体である必要はないが、水星磁場は現在も生み出されていると考えられているため、21世紀初頭の時点ではこの説はあまり支持されていない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "水星磁場は惑星の周囲で太陽風をそらして磁気圏をつくり、宇宙風化作用(英語版)に抵抗する程度には強力だが、それは地球の大きさに収まる位の範囲でしかない。マリナー10号の観測では、夜側の磁場圏でエネルギーが低いプラズマが観測され、高エネルギー粒子の噴出も見つかった。これは、惑星磁気圏の高い活動を示している。2008年10月6日にメッセンジャーが2度目のフライバイを行った際、惑星磁場と繋がったまま水星半径の1/3に相当する800kmの長さに伸びた竜巻のようにねじれた磁気の束と遭遇した。これは、水星磁場が「漏れやすい」性質を持つことを示す。この竜巻は、太陽風が運んだ磁場と惑星磁場が接触した際に発生する。太陽風の通過とともに繋がった磁場は引き出され、渦のようなねじれ構造を持つ。このような、惑星磁場の磁力管が太陽風によって引っぱり出される現象(磁束輸送事象(英語版))は、磁場の壁に穴を空けてしまい、そこから水星表面に影響を及ぼす太陽風が吹き込む事態を起こす。磁気再結合と呼ばれるこのような現象は珍しくなく、地球でも起こっている。ただし現在の観測では、これが生じる速度は地球よりも10倍も速く、水星が太陽に近いことでもこの速さの1/3程度しか説明出来ない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "水星の経度は自転方向に従い、西に向かって増えるよう設定されている(つまり、水星の惑星面経度はすべて西経で表示される)。水星では フン・カル という名の小さなクレーターの経度が西経20度として定義され、測定の基準点になっている。",
"title": "座標系"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "水星について記述された最古の観測記録は、紀元前14世紀頃のアッシリア人によって作られたと考えられる星図表Mul.Apinである。この表における水星の楔形文字表記は、Udu.Idim.Gu\\u4.Ud(the jumping planet、「跳ぶ星」)と訳された。バビロニアにも紀元前1000年代の記録があり、彼らは神話に登場する伝達する神ナブーになぞらえた名称をつけていた。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "古代ギリシアではヘーシオドス(紀元前700年頃?)の時代には知られ、Στίλβων(Stilbon、「微かな光」の意)やἙρμάων(Hermaon)と呼ばれていた。ヘラクレイデスは、水星と金星が地球でなく太陽の周りを回っていると考えるに値する観測を行った。古代ギリシア世界では、宵の水星にヘルメース、明けの水星にはアポローンを対応させていたが、やがてこの2つの星が同一のものであることに気づいた。その後、最内周惑星で運行が速いことから、ヘルメースと同一視されていた俊足の神メルクリウスの名があてられ、これが英語のマーキュリー(Mercury = 水星)の語源となった。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "古代中国では水星は「辰星」の名で知られ、方角の「北」、五行思想の「水」と対比させていた。水を当てはめた理由は、流水を水星の公転速度の速さに見立てたためであり、西洋の俊足神メルクリウスと同じ着眼である。現代でも、中国・日本・韓国・ベトナムでは漢字で「水星」と書かれ、五行思想の反映が見られる。インド神話では、水星には水曜日を司る神ブダの名が与えられる。曜日との関連は、ゲルマン人の思想(英語版)でも神オーディンが水星と水曜日を司るという考えがある。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "マヤ文明では水星はフクロウに喩えられ、1羽という時と、朝夕それぞれ2羽の計4羽と考えられることもあった。彼らは地下世界からの使者と考えられた。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "中世イスラム世界では、11世紀にアンダルスの天文学者ザルカーリーが水星の公転軌道が卵や松の実のような楕円形だと主張した。ただし彼の天文学理論や計算に、この考えは反映されなかった。12世紀にはイブン・バーッジャが「太陽面にある2つの黒い点」を観察した。13世紀には、マラーゲ天文台(英語版)のクトゥブッディーン・シーラーズィーが、これは水星か金星の太陽面通過またはその両方だと述べた。なお現代では、この種類の中世の報告は太陽黒点を見ていたものとも取り扱われる。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "インドでは、15世紀にケーララ州のケーララ学派のニーラカンタ・ソーマヤージー(英語版)が、16世紀デンマークのティコ・ブラーエに先立ち、太陽の周囲を水星と地球が周回する太陽系モデルを構築した。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "望遠鏡を用いた水星観測は17世紀初めにガリレオ・ガリレイが手がけたが、天体の相(英語版)を確認するには充分な機能を発揮しなかった。しかし1631年にはピエール・ガッサンディが、ヨハネス・ケプラーが予告した天体の通過を望遠鏡で観測した。1639年にはイタリアのジョヴァンニ・ズッピが望遠鏡を使って水星を観測し、金星や月と同様に満ち欠けがあることを発見した。これによって、水星が太陽の周りを回っていることが確実になった。惑星同士が交差する掩蔽は非常に稀な天体現象だが、1737年5月28日に水星と金星で起こった掩蔽はグリニッジ天文台のジョン・ベヴィスによって観察された。水星と金星が次に掩蔽を起こすのは2133年12月3日である。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "水星は太陽に接近しているため、観測するのは非常に困難である。水星軌道周期の約半分に相当する期間は、太陽の光に埋もれてしまって見ることができない。またそれ以外の時期でも、朝か夕方のごく短い時間しか観測できない。ニコラウス・コペルニクスが水星を生涯見られなかったという逸話は有名である。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "地球から見た水星にも、金星や月のような満ち欠けの相が見られる。内合の時に「新水星」、外合の時に「満水星」となるが、これらの時期には太陽と同時に上ったり沈んだりするために、見ることはできない。最大離角の時には半分欠けた形になる。西方最大離角の時には日の出前に最も早く上り、東方最大離角の時には日没後に最も遅く沈む。最大離角の値は、近日点ならば17.9度、遠日点ならば27.8度である。しかし金星とは異なり、最も明るくなるのは「半月」形と「満月」形の間の相である(金星では「新月」形と「半月」形の間で最も明るくなる)。この理由は各相にある時の地球からの距離による。水星では内合「新水星」と外合「満水星」の時の地球からの距離の差は3倍以下だが、金星では6.5倍にもなる。水星が内合になる周期は平均すると116日だが、軌道の離心率が大きいために実際には111日から121日まで変化する。同じ理由で、地球から見て逆行する期間も8日から15日まで変化する。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "このような観測の難しさから、水星の理解は他の惑星と比べて遅れた。1800年、ヨハン・シュレーターは水星表面の観察を行い。高さ20kmの山脈が存在すると主張した。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルはシュレーターの観察結果から、自転時間を24時間、自転軸の傾斜が70度だという誤った見積もりを発表した。1880年代になって、ジョヴァンニ・スキアパレッリがより精確な惑星写像を取り、その結果から自転周期は88日であると示唆するとともに、公転も潮汐力から同期した状態にあると考えた。惑星写像への取り組みは引き続き行われ、1934年にはユジェーヌ・ミカエル・アントニアディが観測結果と地図を載せた本を出版した。そこには、数多いalbedo features(天体面の明暗模様)が反映され、「アントニアディ・マップ」と呼ばれた。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1962年6月、ウラジーミル・コテルニコフ率いるソヴィエト連邦科学アカデミー情報通信研究所 (Institute of Radio-engineering and Electronics)は、水星にレーダー信号を発信し反射を利用した観測を初めて行った。これはレーダーを利用した惑星観測の皮切りとなった。3年後に、アメリカのゴードン・ペッティンギル(英語版)らがプエルトリコのアレシボ天文台300m径電波望遠鏡を用いた観測を行い、最終的に水星の自転周期が59日であることを突き止めた。水星の自転は公転と同期していると広く考えられていたため、この発見は驚きをもって受け止められた。同期していれば常に影となる半球は非常に冷たくなるはずだが、電波計測の結果は、予想よりもはるかに高い温度を示していた。それでも天文学者の中には風のような熱を分配する何かしら強力な機構を想定するなど、同期説を簡単には手放さない者もいた。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "公転と自転の比率が1対1ではないと提言したのはイタリアの天文学者ジュゼッペ・コロンボであり、彼は公転が自転周期の2/3に相当すると述べた。この証明は、マリナー10号から得られたデータで裏づけされた。これは、スキアパレッリとアントニアディの地図が正しいことを示すとともに、他の天文学者が観察した水星表面は2パターンある公転・自転関係のひとつだけを見ていたわけではなく、観測手段が未発達だったために彼らが目にした太陽方向に向けられた表面の違いをさしあたり無視していたことを示した。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "地上からの観測は光を反射しない部分を知る手段に乏しく、水星の基本的な特性は探査機を打ち上げて初めて理解できた。しかしながら、20世紀末以降は技術的進歩が進み、地上観測からでも多くの情報を入手できるようになった。2000年、ウィルソン山天文台の1.5mヘール望遠鏡で高解像度のラッキーイメージング(英語版)観測が行われ、マリナー10号では得られなかった水星表面部分の画像撮影に成功した。後の解析で、そこにはカロリス盆地を越え、スキナカス盆地(英語版)の2倍に相当する大きさの巨大な二重クレーターが発見された。その後もアレシボ天文台による観測で、水星表面の大部分は5kmの解像度で撮影された。この中には、極にあり影に水の氷が存在する可能性を持つクレーターも含まれていた。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "地球から水星に到達するためには、技術的に高いハードルが有る。水星の公転軌道は、地球の公転軌道と比べて平均で3倍も太陽に近いため、地球から打ち上げた宇宙機を水星の重力に捕捉させるためには、太陽の重力井戸を 9100万 km 以上も降りなくてはならない。単純に、ホーマン遷移軌道によって遷移するとしても、ΔVが他の惑星探査よりも大きい。さらに、水星は太陽系の中では小さな惑星であり、その重力は地球よりも弱く、重力圏も小さい。加えて、水星への着陸や、安定な水星周回軌道への投入を実現するためには、水星に充分な密度の大気が存在しないため空力ブレーキを使えず、宇宙機のエンジンに頼らざるを得ない。なお、単純に力学的な比較として、水星への旅で必要なΔVとしては太陽系脱出速度のためのそれより大きい。これらが、水星探査機の実現回数が少ない理由である。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "水星に向けられた初の探査機は、1973年に打ち上げたアメリカ航空宇宙局 (NASA) のマリナー10号であった。同機は1974年から1975年にかけて3回にわたって水星に接近。写真撮影や表面温度の観測を行い、惑星表面の特徴的な地形を数多く知らしめた。しかし探査可能時間が短いことから惑星の夜の部分は撮影ができず、情報は全球の45%以下に止まった。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2004年8月3日、アメリカ航空宇宙局のメッセンジャー が打ち上げられ、地球、金星をスイングバイ(フライバイ)しながら水星へ向かって航行し、2008年1月には水星での最初のスイングバイを行った。2011年3月18日に水星の周回軌道に入った。その結果、クレーターの縁や中心に穴があること、太陽系の内側には水が、ほぼ存在しなかったこと、南北の磁場が非対称なので、水星内部には薄い液体核しかないことが推測できるという。2015年5月1日に水星表面に落下してそのミッションを終了した。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "ベピ・コロンボは宇宙航空研究開発機構(JAXA)と欧州宇宙機関(ESA)が共同で打ち上げ、ミッション遂行中の探査機である。これは2機編成で、長楕円軌道には「水星磁気圏探査機(MMO: Mercury Magnetospheric Orbiter)」を、低軌道には「水星表面探査機(MPO: Mercury Planetary Orbiter)」を化学燃料ロケットで投入し、水星公転の数年に相当する期間をかけて探査を行う予定である。MPOは、メッセンジャーと同じく分光計を積載し、赤外線、紫外線、X線など複数の波長で惑星の調査を行う。当初は2013年には打ち上げられる予定であったが、ESAの開発遅れからスケジュールがたびたび延期されている。2014年時点では、2016年7月に打ち上げ、2024年に水星の周回軌道に入って観測をする計画であったが、2016年11月には2018年10月に打ち上げを延期し、水星到着が2025年12月になることがESAから発表された。最終的に、2018年10月19日にギアナ宇宙センターから打ち上げられている。",
"title": "人類による認識"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ヘルメスの伝令杖「ケリュケイオン」(ラテン語でカドゥケウス、二匹の蛇の絡んだ杖)は、現在は商売、交通などのシンボルとして用いられているが、占星術・天文学では古くから、これを図案化したものが水星の記号(☿)として用いられる。錬金術では7種類の金属が惑星によって象徴され、ヘルメス/メルクリウスは水銀と関連付けられたため、水星の惑星記号が水銀の記号として使われた。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "水星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。西洋占星術では、双児宮と処女宮の支配星で、吉星である。流動性を示し、通信・交通・商売・旅行・学問・知識関係・兄弟に当てはまる。",
"title": "人類との関係"
}
] | 水星は、太陽系に属する惑星の1つで、惑星の中で太陽に最も近い公転軌道を周回している。岩石質の「地球型惑星」に分類され、太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最小である。 | {{混同|彗星}}
{{Otheruses|惑星|tofubeatsの楽曲|水星 (曲)}}
{{天体 基本
| 幅 = 350px
| 色 = 地球型惑星
| 和名 = 水星 [[File:Mercury symbol (fixed width).svg|24px|☿]]
| 英名 = [[:en:Mercury (planet)|Mercury]]
| 画像ファイル = Mercury in color - Prockter07 centered.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = [[メッセンジャー (探査機)|メッセンジャー]]が2008年に撮影した水星。
| 画像背景色 = #000000
| 仮符号・別名 = 辰星
| 分類 = [[地球型惑星]]
| 軌道の種類 = [[内惑星]]
}}
{{天体 発見
| 色 = 地球型惑星
| 発見日 =
| 発見年 = [[紀元前]]
| 発見方法 = 目視
}}
{{天体 軌道
| 色 = 地球型惑星
| 元期 = [[J2000.0]]{{R|factsheet}}
| 平均距離 = 0.38709893 [[天文単位|au]]{{R|factsheet}}
| 平均公転半径 = [[1 E10 m|{{val|57910000|u=km}}]]{{R|factsheet}}
| 平均直径 =
| 軌道長半径 =
| 近日点距離 = 0.307 au<br />(46,000,000 km{{R|factsheet}})
| 遠日点距離 = 0.467 au<br/ >(69,818,000 km{{R|factsheet}})
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| 公転周期 = [[1 E6 s|87日 23.3時間]]<br />(0.241 年{{R|factsheet}})
| 会合周期 = 115.88 日{{R|factsheet}}
| 軌道周期 =
| 平均軌道速度 = 47.36 [[メートル毎秒|km/s]]{{R|factsheet}}
| 軌道傾斜角 = 7.00487[[度 (角度)|°]]{{R|factsheet}}
| 近日点黄経 = 77.45645°{{R|factsheet}}
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| 平均黄経 = 252.25084°{{R|factsheet}}
| 主恒星 = 太陽
| 衛星数 = 0
}}
{{天体 物理
| 色 = 地球型惑星
| 赤道直径 = [[1 E6 m|4,879.4 km]]<ref name=nasa>{{cite web|url=http://solarsystem.nasa.gov/planets/profile.cfm?Object=Mercury&Display=Facts |title= Solar System Exploration |author= |publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |language=英語|accessdate=2011-03-11}}</ref>
| 直径 =
| 半径 =
| 表面積 = 7.4797 {{e|7}} [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name=nasa />
| 体積 = 6.082721 {{e|10}} [[立方キロメートル|km<sup>3</sup>]]<ref name=nasa />
| 質量 = 3.301 {{e|23}} [[キログラム|kg]]<ref name=nasa />
| 相対対象1 = 地球
| 相対質量1 = 0.0553<ref name="nssdcMercury">{{cite web|url= http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/mercuryfact.html |title=Mercury Fact Sheet |author=Dr. David R. Williams |publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |language=英語|accessdate=2011-03-11}}</ref>
| 相対対象2 =
| 相対質量2 =
| 平均密度 = 5.427 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm<sup>3</sup>]]<ref name=nasa /><ref name="nssdcMercury" />
| 表面重力 = 3.70 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]<ref name=nasa /><ref name="nssdcMercury" />
| 脱出速度 = 4.25 km/s<ref name=nasa />
| 自転周期 = [[1 E6 s|58日 15.5088時間]](恒星日)<ref name=nasa /><br />175.84 日(太陽日)
| アルベド = 0.065-0.071<br />(球面)<br />0.137-0.147<br />(幾何学値)<ref name="MallamaMercury">{{cite web|url= http://www.sciencedirect.com/science?_ob=ArticleURL&_udi=B6WGF-45K104K-4B&_user=10&_coverDate=02%2F28%2F2002&_rdoc=1&_fmt=high&_orig=gateway&_origin=gateway&_sort=d&_docanchor=&view=c&_acct=C000050221&_version=1&_urlVersion=0&_userid=10&md5=8da4391aa514fcb19a3577dddda59c4f&searchtype=a |title= Photometry of Mercury from SOHO/LASCO and Earth |author=Anthony Mallama, Dennis Wang, Russell A. Howard |publisher= Science Direct |language=英語|accessdate=2011-03-11}}</ref>
| 赤道傾斜角 = ≦0.027 度
| 表面温度 = 623 [[ケルビン|K]](日中)<br />103 K(夜間)
| 最小表面温度 = 90 K<ref name="ESAs&t">{{cite web | title=Background Science | work=BepiColombo | publisher=European Space Agency | date=August 6, 2010 | url=http://sci.esa.int/science-e/www/object/index.cfm?fobjectid=47055 | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref name=nasa />
| 平均表面温度 = 440 K<ref name="nssdcMercury" />
| 最大表面温度 = 700 K<ref name=nasa />
| 年齢 =
| 大気圧 = 10{{e|-10}} [[パスカル (単位)|Pa]]<ref name="nssdcMercury" />、<br />10{{e|-7}} Pa<ref name="ISAS">{{Cite web|和書| title=第7回 水星の超真空大気の生成| publisher=[[宇宙航空研究開発機構|JAXA]] | url= http://www.isas.ac.jp/j/column/inner_planet/07.shtml | accessdate=2011-03-19|language=日本語}}</ref>
| 大気 =
{{天体 項目|大気成分{{R|factsheet}}|[[ナトリウム]]<br>[[マグネシウム]]<br>[[酸素]]<br>[[水素]]<br>[[カリウム]]<br>[[カルシウム]]<br>[[鉄]]<br>[[アルミニウム]]<br>[[アルゴン]](微量)<br>[[二酸化炭素]](微量)<br>[[水]](微量)<br>[[窒素]](微量)<br>[[キセノン]](微量)<br>[[クリプトン]](微量)<br>[[ネオン]](微量)<br>[[ヘリウム]](微量)}}
| 外殻 =
}}
{{天体 終了
| 色 = 地球型惑星
}}
'''水星'''(すいせい、[[英語]]:Mercury マーキュリー、[[ラテン語]]:Mercurius)は、[[太陽系]]に属する[[惑星]]の1つで、惑星の中で[[太陽]]に最も近い公転軌道を周回している。岩石質の「[[地球型惑星]]」に分類され、太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最小である{{Efn|以前最小の惑星だった[[冥王星]]は2006年に[[準惑星]]へ分類変更された。}}。
== 概要 ==<!--内部リンクできるからと言って、関連性の薄い単語などへ内部リンクする事は、厳に慎んでください。-->
太陽系で最小の惑星が、水星である。水星の赤道面での直径は4879.4 kmと、地球の38パーセントに過ぎない。木星の衛星の1つの[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]や、土星の衛星の1つである[[タイタン (衛星)|タイタン]]よりも小さい。なお、水星に衛星や環は無い。
地球から水星を観測する場合、水星は太陽に非常に近いため、日の出直前と日没直後のわずかな時間しか観測できない。また、地球と水星と太陽の位置関係によっては、たとえ望遠鏡を使っても観測は難しい。これは地球から見た太陽と水星との[[離角]]が、最大でも28.3度に過ぎないためである。なお、[[天球]]上での[[等級 (天文)|見かけの明るさ]]は、−0.4等から5.5等まで変化し、暗く見える時期には、より観測が難しくなる。
1974年に[[NASA]]の探査機である[[マリナー10号]]が初めて水星へ接近した。マリナー10号による観測によって、水星の地表の4割強の地図が作成できた。この際に撮影された写真から、水星の表面には多数の[[クレーター]]が有り、[[月|地球の衛星の月]]と類似した環境だろうと考えられた。地球からの直接観測だけでなく、地球から水星へと探査機を到達させる事も比較的難しいため、21世紀に入っても依然として判らない点の多い惑星ではあるものの、21世紀に入ってから再び探査機が水星へと送り込まれた事や、地球からの直接観測の技術の向上に伴って、次第に水星に関する知見が集積されつつある。
== 軌道 ==
=== 公転 ===
水星の[[公転]]周期は約88日である。その[[軌道離心率]]の約0.21という値は、太陽系惑星の中で最大であり、[[近日点]]が 約0.31 au(46 {{e|6}} km)で[[遠日点]]が 約0.47 au(70 {{e|6}} km)という、太陽を[[焦点 (幾何学)|焦点]]の1つとする楕円軌道を描いている<ref name=Miya63-1>[[#宮本ら2008|宮本ら (2008)、1.水星、pp. 63–66、1-1水星の運動と内部構造]]</ref><ref name=MatsuEar30-2>[[#松井『惑星』|松井『惑星』、第二章 そそり立つ絶壁の壁、pp.30-33、軌道について]]</ref>。
[[File:ThePlanets Orbits Mercury EclipticView.svg|300px|thumb|left|(上)黄道から10度上方の位置から見下ろした水星の公転軌道。(下)黄道の真横から見た軌道。]]
[[File:Mercuryorbitsolarsystem.gif|300px|thumb|left|太陽を回る水星(黄色い線)の動きを示したアニメーション。(地球は青色)]]
公転面は地球の公転面([[黄道]])に対して7度の傾きがある。その結果、[[水星の太陽面通過]]は黄道に水星があるタイミングに限られ、平均7年に1度しか観測されない<ref>{{cite web | last=Espenak | first=Fred | date=April 21, 2005 | url=http://eclipse.gsfc.nasa.gov/transit/catalog/MercuryCatalog.html | title=Transits of Mercury | publisher=NASA/Goddard Space Flight Center | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。
この軌道の近日点は太陽の周りを周回する形でゆっくりと移動している(水星の[[近日点移動]])。この現象の大部分は他の惑星からの[[摂動 (天文学)|摂動]]など[[古典力学]]で説明できる現象だったが、観測値は古典力学による計算値より100年当たり43[[秒 (角度)|秒]]大きく、この説明不可能だったずれは19世紀の天文学者を悩ませてきた。このため水星の内側にもう1つ惑星があるという説が現れた([[バルカン (仮説上の惑星)|バルカン]]参照)<ref>U. Le Verrier (1859), (in French), [https://archive.org/stream/comptesrendusheb49acad#page/378/mode/2up "Lettre de M. Le Verrier à M. Faye sur la théorie de Mercure et sur le mouvement du périhélie de cette planète"], Comptes rendus hebdomadaires des séances de l'Académie des sciences (Paris), vol. 49 (1859), pp. 379–383. (At p.383 in the same volume Le Verrier's report is followed by another, from Faye, enthusiastically recommending to astronomers to search for a previously undetected intra-mercurial object.)</ref>。このニュートン力学では説明できなかった43秒は、後に[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の[[一般相対性理論]]によって「太陽の重力により[[時空]]が歪んだ結果」として説明づけられた。一般相対性理論による計算値が、誤差の範囲で観測値の43秒と非常によく一致していたのである<ref>{{cite journal | last=Gilvarry | first=J. J. | title=Relativity Precession of the Asteroid Icarus | journal=Physical Review | year=1953 | volume=89 | issue=5 | pages=1046 | doi=10.1103/PhysRev.89.1046 | url=http://prola.aps.org/abstract/PR/v89/i5/p1046_1 | accessdate=2011-03-19|language=英語| format=subscription required }}
</ref><ref>{{cite web | author=Anonymous | url=http://www.mathpages.com/rr/s6-02/6-02.htm | title=6.2 Anomalous Precession | work=Reflections on Relativity | publisher=MathPages | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=リチャード・コーフィールド|translator=水谷淳|title=太陽系はここまでわかった|year=2008|publisher=文芸春秋|isbn=978-4-16-370480-7|pages=59-61}}</ref>。
=== 自転 ===
[[File:Mercury's orbital resonance.png|thumb|left|水星の公転と自転の関係 - 水星は2回公転する間に3回自転する。]]
水星の自転周期は58日である<ref name=Miya63-1/>。[[1965年]]に[[レーダー]]観測が行われるまで、水星の自転は地球の月や他の多くの衛星と同様に、太陽からの潮汐力によって[[自転と公転の同期|公転と同期]]しており、常に太陽に同じ面を向けて1公転中に1回自転していると考えられていた。しかし実際には水星の公転と自転は 2:3 の[[共鳴]]関係にある<ref name=Miya63-1 /><ref name=MatsuEar37>[[#松井『惑星』|松井『惑星』、第二章 そそり立つ絶壁の壁、pp. 37–40、公転と自転の奇妙な組み合わせ]]</ref><ref name="Benz"/>。すなわち、太陽の周囲を2回公転する間に3回自転する<ref>{{cite journal | last=Liu | first=Han-Shou | coauthors=O'Keefe, John A. | title=Theory of Rotation for the Planet Mercury | journal=Science | year=1965 | volume=150 | issue=3704 | page=1717 | doi=10.1126/science.150.3704.1717 | pmid=17768871 }}</ref>。水星の公転軌道の[[離心率]]が比較的大きいため、この共鳴関係は安定して持続している。水星の自転と公転が同期していると考えられた元々の理由は、地球から見て水星が最も観測に適した位置にある時にはいつでも同じ面が見えたからであった。実際にはこれは 2:3 の共鳴の同じ位置にある時に観測していたためだった。この共鳴があるために、水星の[[恒星日]](自転周期)は58.7日なのに対して、水星の[[太陽日]](水星表面から見た太陽の子午線通過の間隔)は176日と、3倍になっている<ref name=strom />。誕生直後の水星は8時間程度の速さで自転していたが、太陽の潮汐力によって段々と遅くなり現在の同期状態になったと考えられるが、なぜ2:3の比となったのかは分っていない<ref name=MatsuEar37 />。
水星表面の特定の場所では、水星の1日において日の出の途中で太陽が[[順行・逆行|逆行]]して一度沈み、その後再び上るという現象が見られる。これは、水星が[[近点・遠点|近日点]]を通過する約4日前に公転と自転の[[角速度]]がちょうど等しくなるため、水星表面から見て太陽[[固有運動]]が止まって見えることに起因する。近日点通過の前後4日間は、[[楕円]]軌道の尖った部分(円弧と長辺の交点)を水星が通り過ぎるために公転による角速度が自転のそれを上回り、太陽が逆に進むように見える。近日点通過の4日後には太陽は[[順行・逆行|順行]]に戻る<ref name="strom" />。
先述のとおり、水星は公転周期が約88日で、[[太陽日]]が約176日となっている。すなわち、「水星の1日」は「水星の2年」に等しい<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/mercury_venus/mrcvns03.html|title=宇宙の質問箱-水星・金星編 III. 水星はどのような世界ですか?|publisher=[[国立科学博物館]]|accessdate=2012-10-28}}</ref>。言いかえれば、水星のある地点での[[正午]]から次の正午まで(ここでは逆行は考慮しないとする)の間に、水星は太陽の周りを2回公転する。
水星の[[赤道傾斜角]](自転軸の傾き)は惑星の中で最も小さく、わずか 0.027度以下でしかない<ref name=Margot2007>{{cite journal| last=Margot | first=L.J.| coauthors=Peale, S. J.; Jurgens, R. F.; Slade, M. A.; Holin, I. V.| title=Large Longitude Libration of Mercury Reveals a Molten Core| journal=Science| year=2007 | volume=316 | pages=710–714| doi=10.1126/science.1140514
| url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2007Sci...316..710M/abstract| pmid=17478713| issue=5825}}</ref>。これは2番目に傾斜が小さい木星の値(約3.1度)に比べても{{sfrac|300}}と非常に小さい値である。このため、日の出の位置は2.1[[分 (角度)|分]]以上ぶれない<ref name=Margot2007/>。
== 物理的性質 ==
=== 内部構造から考えられる起源 ===
[[File:Mercury_inside_Lmb.png|200px|right|thumb|水星の内部構造。1:核、2:マントル、3:地殻。]]
[[File:Terrestrial planet size comparisons.jpg|200px|right|thumb|同縮尺の地球型惑星。左から、水星、金星、地球、火星。]]
水星には半径 1,800 km 程度の[[核 (天体)|核]]が存在する<ref name=Miya63-1 />。これは惑星半径の3/4に相当し、水星全体では質量の約 70 % が[[鉄]]や[[ニッケル]]等<ref name=MatsuEar35>[[#松井『惑星』|松井『惑星』、第二章 そそり立つ絶壁の壁、pp. 35–36、鉄・ニッケルから成る星]]</ref>の[[金属]]、30 % が[[ケイ酸塩]]で出来ている<ref name=strom>{{cite book| first=Robert G. | last=Strom | coauthors=Sprague, Ann L. | year=2003 | title=Exploring Mercury: the iron planet | publisher=Springer | isbn=1-85233-731-1 }}</ref>。
平均密度 5,430 kg/m{{sup|3}}は地球と比べわずかに小さい<ref name=Miya63-1 /><ref name="nssdcMercury" />。核の比率が大きい割に密度がそれほど高くないのは、地球は自重によって惑星の体積が圧縮され密度が高くなるのに対し、小さな水星は圧縮される割合が低いためである。地球中心部の圧力は366万気圧に達するのに対し、水星中心部は約25から40万気圧にとどまる<ref name=MatsuEar35 />。しかし、天体の大きさと平均密度の相関関係では、水星は唯一他の地球型惑星が示す傾向から60%程度重い方向に外れている<ref name=Miya63-1 />。自重による圧縮を除外して計算された平均密度は、水星が 5,300 kg/m{{sup|3}}、地球が 4,000-4,100 kg/m{{sup|3}}となり、水星のほうが有意に高い値をとる<ref name=MatsuEar35 /><ref>{{cite web | author=staff | date=May 8, 2003 | url=http://astrogeology.usgs.gov/Projects/BrowseTheGeologicSolarSystem/MercuryBack.html|title=Mercury |publisher=U.S. Geological Survey | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。
水星の体積は地球の 5.5 % に相当する。しかし地球の金属核は 17 % にすぎないのに対し、水星の金属核はその 42 % を占める<ref>{{cite journal | title=On the Internal Structures of Mercury and Venus | author=Lyttleton, R. A. | journal=Astrophysics and Space Science | volume=5 | issue=1 | pages=18 | year=1969 | accessdate=2011-03-19|language=英語| doi=10.1007/BF00653933 }}</ref><ref name="cornell">{{cite news | first=Lauren | last=Gold | title=Mercury has molten core, Cornell researcher shows | date=May 3, 2007 | publisher=Cornell University | url=http://www.news.cornell.edu/stories/May07/margot.mercury.html | work=Chronicle Online | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref name=nrao>{{cite news | last=Finley | first=Dave | date=May 3, 2007 | title=Mercury's Core Molten, Radar Study Shows | publisher=National Radio Astronomy Observatory | url=http://www.nrao.edu/pr/2007/mercury/ | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。核は地球の[[内核]]と[[外核]]のように、固体と液体に分離していると見られている。2007年、電波観測によって水星の核に液体の部分が存在することを示す磁場が観測された{{R|astroarts20070509}}。2019年には、メッセンジャーの観測データとモデル計算から、核の中心に直径2,000kmにも及ぶ固体の核が存在することが示された{{R|GenovaGoossens2019|astroarts20190424}}
核の周りは厚さ 600km 程度の岩石質[[マントル]]で覆われている<ref name=Miya63-1 /><ref>{{cite journal | author=Spohn, Tilman; Sohl, Frank; Wieczerkowski, Karin; Conzelmann, Vera | title=The interior structure of Mercury: what we know, what we expect from BepiColombo | journal=Planetary and Space Science | volume=49 | issue=14–15 | pages=1561–1570 | doi=10.1016/S0032-0633(01)00093-9 | bibcode=2001P&SS...49.1561S | year=2001 }}</ref><ref>Gallant, R. 1986. ''The National Geographic Picture Atlas of Our Universe''. National Geographic Society, 2nd edition.</ref>が、これは他の岩石惑星と比べごく薄いためマントルの対流が小規模となり、惑星表面に特有の影響を及ぼした可能性が指摘されている<ref name=Miya63-1 />。地殻は、マリナー10号の観測結果から厚さ 100-300km と推測されている<ref name="anderson1">{{cite journal | last=Anderson | first=J. D. | coauthors=''et al.'' | date=July 10, 1996 | title=Shape and Orientation of Mercury from Radar Ranging Data | journal=Icarus | volume=124 | pages=690–697 | publisher=Academic press | doi=10.1006/icar.1996.0242 }}</ref>。
水星は太陽系の他のどの天体よりも鉄の存在比が大きい。この高い金属存在量を説明するために、主に3つの[[理論]]が提唱されている。
*1つ目は、水星は元々ありふれた[[コンドライト]]隕石と同程度の金属-珪酸塩比を持ち、その質量が現在よりも約2.25倍大きかったが、太陽系形成の初期に水星の 1/6 程度の質量を持つ[[原始惑星]]と衝突した<ref name="Benz">{{cite journal | title=Collisional stripping of Mercury's mantle | author=Benz, W.; Slattery, W. L.; Cameron, A. G. W. | journal=Icarus | volume=74 | issue=3 | pages=516–528 | year=1988 | accessdate=2011-03-19|language=英語| doi=10.1016/0019-1035(88)90118-2 }}</ref>ために元々の[[地殻]]と[[マントル]]の大部分が吹き飛んで失われ、延性を持つ金属核は合体したために比率が高い現在の姿になったという理論である<ref name=MatsuEar36>[[#松井『惑星』|松井『惑星』、第二章 そそり立つ絶壁の壁、pp. 36–37、水素の起源]]</ref><ref name="Benz"/>。これは地球の月の形成を説明する[[ジャイアント・インパクト説|ジャイアント・インパクト理論]]と同様なメカニズムであり<ref name="Benz"/>、「巨大衝突説」と呼ばれる<ref name=Miya71 /><ref name=Newton58>[[#ニュートン(別2009)| ニュートン (別2009)、pp. 58–59、水星の巨大な核はどうやってできた?]]</ref>。また、このような現象は[[原始惑星]]形成時から起こり、水星軌道では選択的に金属が集まりやすかったという「選択集積説」も有力な仮説として唱えられている<ref name=Newton58 /><ref name=Miya71>[[#宮本ら2008|宮本ら (2008)、1.水星、pp. 71–72、1-3起源を探る探査]]</ref>。
*2つ目は、水星が原始太陽系星雲の歴史のごく初期の段階に形成され、その時には未だ太陽からのエネルギー放射が安定化していなかったことが原因という理論である<ref name=Miya71 />。この理論では、当初水星は現在の約2倍の質量を持っていたが、[[原始星]]段階の太陽が収縮するにつれて活動が活発化して[[プラズマ]]を放出し<ref name=Newton58 />、このために水星付近の温度が 2,500 - 3,500 K、あるいは 10,000 K 近くにまで加熱された。表面の岩石がこの高温によって蒸発して岩石蒸気となり、これが原始太陽系円盤ガスと混合して運び去られたため、マントルが薄くなったという<ref name="CameronAGW1">{{cite journal | title = The partial volatilization of Mercury | author = Cameron, A. G. W. | journal = Icarus | volume = 64 | issue = 2| pages = 285–294 | year = 1985 | doi = 10.1016/0019-1035(85)90091-0 }}</ref>。これは「蒸発説」と呼ばれる<ref name=Miya71 /><ref name=Newton58 />。
*3つ目は、原始太陽系星雲からの太陽風が水星表面に付着していた軽い粒子に[[抗力]]を生じさせ、奪い去る現象が重なったという理論である<ref>{{cite journal | title = Iron/silicate fractionation and the origin of Mercury | author = Weidenschilling, S. J. | journal = Icarus | volume = 35 | issue = 1 | pages = 99–111 | year = 1987 | accessdate=2011-03-19|language=英語| doi = 10.1016/0019-1035(78)90064-7}}</ref>。他にも、水星は地殻部分がコアとマントルの冷却よりも先に形成されたため、これが影響したという説もある<ref>{{cite journal | title = Lobate Thrust Scarps and the Thickness of Mercury's Lithosphere | author = Schenk, P.; Melosh, H. J.; | journal = Abstracts of the 25th Lunar and Planetary Science Conference | volume = 1994 | pages = 1994LPI....25.1203S | accessdate=2011-03-19|language=英語| url = https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1994LPI....25.1203S/abstract | date = 03/1994 }}</ref>。
これらの各仮説では、水星表面の構成に異なった影響を与えると考えられている。 探査機[[メッセンジャー (探査機)|メッセンジャー]]と水星に向けて航行中の[[ベピ・コロンボ]]は、この課題を観測する目的を担う予定である<ref name="MSGRgrayzeck">{{cite web| first=Ed | last=Grayzeck | url=http://messenger.jhuapl.edu/| title=MESSENGER Web Site | publisher=Johns Hopkins University | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref name="ESA pages">{{cite web| url=http://sci.esa.int/science-e/www/area/index.cfm?fareaid=30| title=BepiColombo | work=ESA Science & Technology| publisher=European Space Agency| accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref name=Newton58 />。
=== 地形 ===
[[File:Caloris Basin comparison.jpg|200px|left|thumb|[[カロリス盆地]]。内側の円が示すように、マリナー10号による観測で、直径は約1300 kmと見積もられていた。しかし、外側の円が示すように、メッセンジャーによる観測で、実際の直径は約1550 kmだったと判明した<ref name="T_planets_p75">田近 英一(監修)『【大人のための図鑑】惑星・太陽の大発見』 p.75 新星出版社 2013年7月25日発行 ISBN 978-4-405-10802-8</ref>。]]
当初、水星の地形は望遠鏡による[[アルベド]]の計測で予想された。地域によって反射率に差異があり、これは月の[[高地]]のような[[リンクルリッジ]]・[[山脈]]・[[平野]]・{{仮リンク|ルペス|en|Rupes}}([[絶壁]])・{{仮リンク|ヴァリス (谷)|en|Vallis|label=ヴァリス}}([[谷]])などがあるためと推測された<ref>{{cite web | last=Blue | first=Jennifer | date=April 11, 2008 | url=http://planetarynames.wr.usgs.gov/ | title=Gazetteer of Planetary Nomenclature | publisher=US Geological Survey | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref name="DunneCh7" />。
1975年のマリナー10号による観測で得た情報から基本的な部分が明らかになった。水星の地表は月の地表と似ており、その特徴は、数十億年単位時間を経て形成される[[月の海]]のような滑らかな面や、全球を覆う多様な大きさの[[クレーター]]が数多く存在している点にある<ref name=Miya66>[[#宮本ら2008|宮本ら (2008)、1.水星、pp. 66–71、1-2水星の表面]]</ref><ref name=Spudis01>{{cite journal | first=P. D. | last=Spudis | title=The Geological History of Mercury | journal=Workshop on Mercury: Space Environment, Surface, and Interior, Chicago | year=2001 |pages=100 | url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2001mses.conf..100S/abstract | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref name=nrao>{{cite news | last=Finley | first=Dave | date=May 3, 2007 | title=Mercury's Core Molten, Radar Study Shows | publisher=National Radio Astronomy Observatory | url=http://www.nrao.edu/pr/2007/mercury/ | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。その中で最も大きな地形は[[カロリス盆地]]である。従来は、カロリス盆地の直径は1300 km程度と見積もられていたものの、探査機のメッセンジャーの観測により、実際の直径は約1550 kmだったと判明した<ref name="T_planets_p75">田近 英一(監修)『【大人のための図鑑】惑星・太陽の大発見』 p.75 新星出版社 2013年7月25日発行 ISBN 978-4-405-10802-8</ref>。これは水星の直径の1/4以上に相当する。この惑星のサイズに比して巨大な地形は、46億年前に水星が形成されて間もなく始まり38億年前まで続いた[[後期重爆撃期]]に<ref>{{cite journal|author=Strom, Robert|month=September | year=1979 |volume=24|title=Mercury: a post-Mariner assessment|journal=Space Science Reviews|pages=3–70}}</ref>、[[彗星]]や[[隕石]]が衝撃を和らげる大気が無い水星に<ref>{{cite journal|last=Broadfoot|first=A. L.|coauthors=S. Kumar, M. J. S. Belton, and M. B. McElroy|title=Mercury's Atmosphere from Mariner 10: Preliminary Results|journal=Science|volume= 185|issue= 4146|date=July 12, 1974 |pages=166–169|doi=10.1126/science.185.4146.166|pmid=17810510}}</ref>衝突を繰り返すことでクレーターを形成し<ref name="DunneCh7">{{cite book|title=The Voyage of Mariner 10 — Mission to Venus and Mercury|author=Dunne, J. A. and Burgess, E.|chapterurl=http://history.nasa.gov/SP-424/ch7.htm|publisher=NASA History Office|year=1978|chapter=Chapter Seven|url=http://history.nasa.gov/SP-424/| accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>、当時まだ活発だった[[火山]]活動によって[[盆地]]が[[マグマ]]で埋まり形成されたと考えられる<ref name=Miya66 /><ref>{{cite web | author=Staff | date=August 5, 2003 | url=http://astrogeology.usgs.gov/Projects/BrowseTheGeologicSolarSystem/MercuryBack.html | title=Mercury | publisher=U.S. Geological Survey | accessdate=2011-03-19|language=英語
}}</ref><ref>{{cite journal | last=Head | first=James W. | coauthors=Solomon, Sean C. | title=Tectonic Evolution of the Terrestrial Planets | journal=Science | year=1981 | volume=213 | issue=4503 | pages=62–76 | url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/213/4503/62 | doi=10.1126/science.213.4503.62 | accessdate=2011-03-19|language=英語| pmid=17741171 }}</ref>。
[[File:BepiColombo surveys Mercury s rich geology.png|thumb|水星の表面]]
水星の地表はクレーターに覆われており、比較的なだらかな領域がところどころに広がるなど、月の表面地形と似ている。しかし水星の表層には、カリウムや硫黄、ナトリウムなどの揮発性が高い成分が月面と比べて桁違いに多いことが明らかとなっており、その形成過程が月とは大きく異なるものと考えられている{{R|Kameda2021}}。
水星の地表を特徴付けるもう1つの地形は、惑星の広い範囲に散在する高さ約2 km、長い物では500 km<ref name=Newton56>[[#ニュートン(別2009)| ニュートン (別2009)、pp. 56–57、太陽から一番近い惑星]]</ref>に達する断崖(線構造)であり<ref name=Miya66 />、リンクルリッジと呼ばれる<ref name=Newton56 />。これは水星の内部が冷却され、半径が1-2kmほど縮む過程で形成された「しわ」であると考えられているが<ref name=Newton56 /><ref>{{cite journal |last=Dzurisin |first=D. |date=October 10, 1978 |title=The tectonic and volcanic history of Mercury as inferred from studies of scarps, ridges, troughs, and other lineaments |journal=Journal of Geophysical Research |volume=83 |pages=4883–4906 |url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1978JGR....83.4883D/abstract |accessdate=2011-03-19|language=英語|doi=10.1029/JB083iB10p04883 }}</ref>、太陽の[[潮汐力]]の影響という異説も存在する<ref name=Tides>{{cite journal |last=Van Hoolst |first=Tim |coauthors=Jacobs, Carla |year=2003 |title=Mercury's tides and interior structure |journal=Journal of Geophysical Research |volume=108 |issue=E11 |pages=7 |doi=10.1029/2003JE002126 | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。太陽が水星に与える潮汐力は地球が月に与える力の約17倍と推定され<ref name=Tides />、そのために水星では赤道部分が膨らむ潮汐変形が起きている。
=== 地殻物質 ===
水星の表面には、鉄酸化物の存在量が他の地球型惑星と比較しても少なく重量比1 - 3%程度しか無い。これが反射率の高さに繋がっている。代わって、ナトリウム分が多い[[斜長石]]や鉄をあまり含まない[[輝石]]([[頑火輝石]])が主に占める<ref name=Miya66 />。
=== 大気 ===
{{main|水星の大気}}
水星は重力が小さいため、長く[[大気]]を留めておくことは難しい。しかし、ごく薄く[[分子]]同士の衝突がほとんど無い無衝突大気の存在が確認されている<ref name=Miya66 /><ref>{{cite journal | author=Domingue, Deborah L. ''et al.'' | title=Mercury's Atmosphere: A Surface-Bounded Exosphere | journal=Space Science Reviews | volume=131 | issue=1–4 | pages=161–186 | year=2009 | month=August | doi=10.1007/s11214-007-9260-9 | url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2007SSRv..131..161D/abstract}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/jepsjmo/cd-rom/2009cd-rom/program/session/pdf/P144/P144-025.pdf |format=PDF| title=かぐや搭載UPI-TVISによる月ナトリウム大気の観測|author=鍵谷将人、田口真、山崎敦、村上豪、吉川一朗、菊池雅行、岡野章一| publisher=日本地球惑星科学連合| accessdate=2011-03-11|language=日本語}}</ref>。水星の気圧は10<sup>-7</sup> [[パスカル (単位)|Pa]] (10<sup>−12</sup>[[気圧 (単位)|気圧]]) 程度と推測され、その成分は[[水素]]・[[ヘリウム]]の主成分<ref name=MatsuEar33>[[#松井『惑星』|松井『惑星』、第二章 そそり立つ絶壁の壁、pp. 33–34、灼熱と極寒の同居する世界]]</ref>に加え、[[ナトリウム]]・[[カリウム]]・[[カルシウム]]・[[酸素]]などが検出されている<ref name=Miya66 /><ref name="ISAS"/><ref name="ASTROTARTS">[https://www.astroarts.co.jp/news/2006/11/15mercurial_atmosphere/index-j.shtml 水星大気の時間変動を地上から観測【2006年11月15日 アストロアーツ】]</ref>。
この大気組成は一定しておらず、絶えず供給と[[大気散逸|散逸]]を繰り返している。水素やヘリウムは[[太陽風]]の粒子を水星磁場が捕捉したものと考えられ、やがて宇宙空間に拡散されてゆく。地殻で生じる[[放射性崩壊]]も一つのヘリウム供給源であり、ナトリウムやカリウムも地殻起源である。[[水蒸気]]も存在しており、これは水星の表面が崩壊して生じたものと、太陽風の水素と岩石由来の酸素が[[スパッタリング]]を起こして生成されるもの、[[永久影]]にある水の氷が[[昇華 (化学)|昇華]]して発生するものがある。探査機メッセンジャーによる水の存在に関連するO<sup>+</sup>、OH<sup>−</sup>、H<sub>2</sub>O<sup>+</sup>などの[[イオン]]発見は、驚きをもって受け止められた<ref>{{cite book | author=Hunten, D. M.; Shemansky, D. E.; Morgan, T. H. | year=1988 | publisher=University of Arizona Press | isbn=0-8165-1085-7 | chapter=The Mercury atmosphere | title=Mercury | chapterurl=http://www.uapress.arizona.edu/onlinebks/Mercury/MercuryCh17.pdf | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref>{{cite news | first=Emily | last=Lakdawalla | date=July 3, 2008 | title=MESSENGER Scientists 'Astonished' to Find Water in Mercury's Thin Atmosphere | url=http://www.planetary.org/news/2008/0703_MESSENGER_Scientists_Astonished_to.html | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。これら発見されたイオンの量から、科学者らは水星の表面は太陽風に吹き晒されている状態にあると推測した<ref>{{cite journal | author=Zurbuchen, Thomas H. ''et al.'' | title=MESSENGER Observations of the Composition of Mercury's Ionized Exosphere and Plasma Environment | journal=Science | volume=321 | issue=5885 | pages=90–92 | month=July | year=2008 | doi=10.1126/science.1159314 | pmid=18599777}}</ref><ref>{{cite news | publisher=University of Michigan | date=June 30, 2008 | title=Instrument Shows What Planet Mercury Is Made Of | url=http://newswise.com/articles/view/542209/ | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。
大気中にナトリウム・カリウム・カルシウムがあることは1980-1990年代に発見され、当初は隕石衝突による地殻の[[蒸発]]がこれらを供給していると考えられた<ref name=Killen2007>{{cite journal|last=Killen|first=Rosemary|coauthors=Cremonese, Gabrielle; Lammer, Helmut ''et al.''|title=Processes that Promote and Deplete the Exosphere of Mercury|year=2007|journal=Space Science Reviews|volume=132|pages=433–509|doi=10.1007/s11214-007-9232-0|ref=Killen2007|url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2007SSRv..132..433K/abstract}}</ref>。さらに探査機メッセンジャーによってマグネシウムの存在が確認された<ref name=McClintock2009>{{cite journal|last=McClintock|first=William E.|coauthors=Vervack Jr., Ronald J.; Bradley, E. Todd ''et al.''|title=MESSENGER Observations of Mercury's Exosphere: Detection of Magnesium and Distribution of Constituents|journal=Science|year=2009|volume=324|doi=10.1126/science.1172525|pages=610–613|url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2009Sci...324..610M/abstract|pmid=19407195|issue=5927}}</ref>。その時点での研究の結果、ナトリウムの供給領域は惑星磁場に対応する部分に絞られた。これは水星の表面と磁場が相互作用を起こしていることを示す<ref name="chaikin1" />。
=== 温度 ===
表面の[[平均]][[温度]]は 452[[ケルビン|K]](179 ℃)であるが<ref name="nssdcMercury" />、温度変化は 90-100 K から 700 K におよぶ<ref name="ESAs&t" /><ref>{{cite book | author=Prockter, Louise | title=Ice in the Solar System | publisher=Johns Hopkins APL Technical Digest | volume=Volume 26 | issue=number 2 | year=2005 | url=http://www.jhuapl.edu/techdigest/td2602/Prockter.pdf |format=PDF| accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。水星は公転と自転が共鳴しているため、[[近点・遠点|近日点]]において特定の2箇所が[[南中]]を迎え最高温度の700Kに達する。この場所は「熱極」と呼ばれ、カロリス盆地とその正反対側が当たる<ref name=Miya63-1/>。[[近点・遠点|遠日点]]では500K程度になる<ref>{{cite book | first=John S. | last=Lewis | year=2004 | title=Physics and Chemistry of the Solar System | page=463 | edition=2nd | publisher=Academic Press | isbn=0-12-446744-X }}</ref>。日陰部の最低温度は平均110Kほどである<ref>{{cite journal | last=Murdock | first=T. L. | coauthors=Ney, E. P. | title=Mercury: The Dark-Side Temperature | journal=[[Science (journal)|Science]] | year=1970 | volume=170 | issue=3957 | pages=535–537 | url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/170/3957/535 | doi=10.1126/science.170.3957.535 | accessdate=2011-03-19|language=英語| pmid=17799708 }}</ref>。太陽光は地球の[[太陽定数]]の4.59 - 10.61倍に相当し<ref name=MatsuEar33 />、エネルギー総計では 3,566 W/m<sup>2</sup> となる<ref>{{cite book | title=Physics and Chemistry of the Solar System | author=Lewis, John S. | page=461 | publisher=Academic Press | year=2004 | url=https://books.google.co.jp/books?id=ERpMjmR1ErYC&pg=RA1-PA461&lpg=RA1-PA461&dq=solar-constant+mercury+-wikipedia+-wiki+-encyclopedia&redir_esc=y&hl=ja | accessdate=2011-03-19|language=英語| isbn=978-0-12-446744-6}}</ref>。
このような高温に晒されながら、水星には[[氷]](=固体の水{{small|<chem>H2O</chem>}})の存在が確認されている<ref>[[コズミックフロント☆NEXT#放送履歴|コズミックフロント☆NEXT]]2021年2月25日放送「冒険者たちが語る 太陽系のヒミツ 太陽と水星」</ref>。北極と南極に近く深いクレーターの中には太陽光が当たらない[[永久影]]となる部分があり、温度が102K以下に保たれている<ref>{{cite journal | author=Ingersoll, Andrew P.; Svitek, Tomas; Murray, Bruce C. | title=Stability of polar frosts in spherical bowl-shaped craters on the moon, Mercury, and Mars | journal=Icarus | volume=100 | issue=1 | pages=40–47 | month=November | year=1992 | bibcode=1992Icar..100...40I | doi=10.1016/0019-1035(92)90016-Z }}</ref>。これは1992年<ref>{{Cite web|和書| url=http://www-irc.mtk.nao.ac.jp/~fumi/toyo_2006/kouki/2006_k_02.pdf |format=PDF| title=第2回 現在の太陽系の姿|author=吉田二美 | publisher=[[自然科学研究機構]][[国立天文台]] | accessdate=2011-03-11|language=日本語}}</ref>、[[ゴールドストーン深宇宙通信施設]]の70m[[電波望遠鏡]]と[[超大型干渉電波望遠鏡群]](VLA)が、水の氷による強い[[レーダー]][[反射 (物理学)|反射]]を観測して確認された<ref>{{cite journal | last=Slade | first=M. A. | coauthors=Butler, B. J.; Muhleman, D. O. | year=1992 | title=Mercury radar imaging — Evidence for polar ice | journal=[[Science (journal)|Science]] | volume=258 | issue=5082 | pages=635–640 | doi=10.1126/science.258.5082.635 | accessdate=2011-03-19|language=英語| pmid=17748898 }}</ref>。この反射現象は他にも原因を考えうるが、天文学者は水の氷が存在する可能性が最も高いと考えている<ref>{{cite web | last=Williams | first=David R. | date=June 2, 2005 | url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/ice/ice_mercury.html | title=Ice on Mercury | publisher=NASA Goddard Space Flight Center | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。2012年6月、[[メッセンジャー (探査機)|メッセンジャー]]が撮影した極地の画像により、氷が存在する可能性が裏付けられたと、[[ジョンズ・ホプキンズ大学]]などの研究チームが発表した。この氷の量は 10{{e|14}} - 10{{e|15}} kg 程度であり<ref name="Zahnle1">{{cite journal | last=Rawlins |first=K | coauthors=Moses, J. I.; Zahnle, K.J. | title=Exogenic Sources of Water for Mercury's Polar Ice | journal=Bulletin of the American Astronomical Society | year=1995 |volume=27 | bibcode=1995DPS....27.2112R | page=1117}}</ref>、[[レゴリス]]が覆うことで[[昇華 (化学)|昇華]]から防がれていると考えられる<ref>{{cite journal | author=Harmon, J. K.; Perillat, P. J.; Slade, M. A. | title=High-Resolution Radar Imaging of Mercury's North Pole | journal=Icarus | volume=149 | issue=1 | pages=1–15 | year=2001 | month=January | doi=10.1006/icar.2000.6544 }}</ref>。なお、地球の[[南極]]に存在する氷は4 {{e|18}}kg、[[火星]]の南極には10{{e|16}}kg程度の水の氷があると言われる<ref name="Zahnle1" />。水星の氷の起源は不明だが、[[彗星]]の衝突もしくは水星内部からの放出で生まれたという説が有力である<ref name="Zahnle1" />。
=== 磁場 ===
[[File:Mercury Magnetic Field NASA.jpg|thumb|メッセンジャーの2008年の観測グラフ。ピークが水星磁場の存在を示している。]]
水星は59日という遅い自転速度であるにもかかわらず、地球の磁気圏の約1.1%に相当する比較的強い4.9{{e|-12}}[[テスラ (単位)|T]]の[[磁気圏]]を持つことがマリナー10号の観測で発見された<ref name=Miya63-1 /><ref name=russell_luhmann1997>{{cite web | author=Russell, C. T.; Luhmann, J. G. | year=1997 | title=Mercury: Magnetic Field and Magnetosphere | publisher=Space Physics Center, UCLA Institute of Geophysics and Planetary Physics | url=http://www-spc.igpp.ucla.edu/personnel/russell/papers/merc_mag/ | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref>{{cite book | title=Astronomy: The Solar System and Beyond | first=Michael A. | last=Seeds | year=2004 | isbn=0-534-42111-3 | publisher=Brooks Cole | edition=4th}}</ref><ref>{{cite web | last=Williams | first=David R. | date=January 6, 2005 | url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/planetfact.html | title=Planetary Fact Sheets | publisher=NASA National Space Science Data Center | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。この磁場は、地球と同じく[[双極子]]である<ref name=Miya63-1 /><ref name="chaikin1">{{cite book | first=J. Kelly | last=Beatty | coauthors=Petersen, Carolyn Collins; Chaikin, Andrew | title=The New Solar System | year=1999 | publisher=Cambridge University Press | isbn=0-521-64587-5 }}</ref>が、地球にみられるような磁場の軸と自転軸とのずれはほとんど無い<ref name="qq">{{cite web | author=Staff | date=January 30, 2008 | url=http://messenger.jhuapl.edu/gallery/sciencePhotos/image.php?page=2&gallery_id=2&image_id=152 | title=Mercury's Internal Magnetic Field | publisher=NASA | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。探査機マリナー10号とメッセンジャーの観測によって、この磁場は安定的なものであることが分かった<ref name="qq" />。
詳しくは明らかにはなっていないが、この磁場は地球と同様に流体核の循環運動による[[ダイナモ効果]]で生まれている可能性がある<ref name=Miya63-1 /><ref>{{cite web| last=Gold | first=Lauren | date=May 3, 2007 | url=http://www.news.cornell.edu/stories/May07/margot.mercury.html | title=Mercury has molten core, Cornell researcher shows | publisher=Cornell University | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref><ref>{{cite journal | last=Christensen| first=Ulrich R. | title=A deep dynamo generating Mercury's magnetic field| journal=Nature | year=2006 | volume=444 | pages=1056–1058 | doi=10.1038/nature05342 | pmid=17183319 | issue=7122 }}</ref>。水星の核は純粋なニッケルや鉄が[[融解]]するほどの高温を維持していないと考えられているが、[[硫黄]]などの不純物が 0.2 - 5 % ほど核に混入すると融点が適度に低下し、地球と同様に固体の内核と液体の外核に分離する可能性がある。仮にこのメカニズムで磁場が発生しているならば、液体の外核はおよそ 500 km の厚さを持つと推定される<ref name=Miya63-1 />。また、水星の公転軌道の離心率が高いことから、太陽が及ぼす潮汐力の影響も考えられる<ref>{{cite journal | last=Spohn | first=T. | coauthors=Sohl, F.; Wieczerkowski, K.; Conzelmann, V. | title=The interior structure of Mercury: what we know, what we expect from BepiColombo | journal=Planetary and Space Science | year=2001 | volume=49 | issue=14–15 | pages=1561–1570 | doi=10.1016/S0032-0633(01)00093-9 }}</ref>。他にも、核とマントルの境界で生じる熱電作用や、過去に起きていたダイナモ効果が消えてしまった後も名残の磁場が固体の磁性体物質に「凍結」しているという理論もある<ref name=Miya63-1 />。後者では核が液体である必要はないが、水星磁場は現在も生み出されていると考えられているため、21世紀初頭の時点ではこの説はあまり支持されていない{{R|Kameda2021}}。
=== 磁気圏 ===
水星磁場は惑星の周囲で太陽風をそらして[[磁気圏]]をつくり<ref name=Miya63-1 />、{{仮リンク|宇宙風化作用|en|space weathering}}に抵抗する程度には<ref name="qq" />強力だが、それは地球の大きさに収まる位の範囲でしかない<ref name="chaikin1" />。マリナー10号の観測では、夜側の磁場圏でエネルギーが低い[[プラズマ]]が観測され、高エネルギー粒子の噴出も見つかった。これは、惑星磁気圏の高い活動を示している<ref name="chaikin1" />。2008年10月6日にメッセンジャーが2度目の[[フライバイ]]を行った際、惑星磁場と繋がったまま水星半径の1/3に相当する800kmの長さに伸びた竜巻のようにねじれた磁気の束と遭遇した。これは、水星磁場が「漏れやすい」性質を持つことを示す。この竜巻は、太陽風が運んだ磁場と惑星磁場が接触した際に発生する。太陽風の通過とともに繋がった磁場は引き出され、渦のようなねじれ構造を持つ。このような、惑星磁場の磁力管が太陽風によって引っぱり出される現象({{仮リンク|磁束輸送事象|en|flux transfer event}})は、磁場の壁に穴を空けてしまい、そこから水星表面に影響を及ぼす太陽風が吹き込む事態を起こす<ref name="NASA060209">{{cite web | first=Bill | last=Steigerwald | date=June 2, 2009 | title=Magnetic Tornadoes Could Liberate Mercury's Tenuous Atmosphere | publisher=NASA Goddard Space Flight Center | url=http://www.nasa.gov/mission_pages/messenger/multimedia/magnetic_tornadoes.html | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。[[磁気再結合]]と呼ばれるこのような現象は珍しくなく、地球でも起こっている。ただし現在の観測では、これが生じる速度は地球よりも10倍も速く、水星が太陽に近いことでもこの速さの1/3程度しか説明出来ない<ref name="NASA060209" />。
== 座標系 ==
水星の[[経度]]は自転方向に従い、西に向かって増えるよう設定されている(つまり、水星の惑星面経度はすべて西経で表示される)。水星では [[フン・カル]] という名の小さなクレーターの経度が西経20度として定義され、測定の基準点になっている<ref>{{cite web|url=http://astrogeology.usgs.gov/Projects/WGCCRE/constants/iau2000_table1.html|accessdate=2011-03-19|language=英語|title=USGS Astrogeology: Rotation and pole position for the Sun and planets (IAU WGCCRE)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nao.ac.jp/koyomi/faq/ephemeris.html |accessdate=2011-03-11|title=こよみ用語解説 惑星の自転軸|publisher=[[国立天文台]]}}</ref>。
== 人類による認識 ==
=== 古代 ===
[[File:Mercurius.jpg|180px|left|thumb|俊足の神[[メルクリウス]]。英語Mercuryの[[語源]]となった。]]
水星について記述された最古の観測記録は、[[紀元前]]14世紀頃の[[アッシリア]]人によって作られたと考えられる星図表[[:en:Mul.Apin|Mul.Apin]]である<ref>{{cite journal | title=The Latitude and Epoch for the Origin of the Astronomical Lore in Mul.Apin | first=Bradley E. | last=Schaefer | journal=American Astronomical Society Meeting 210, #42.05 | year=2007 | volume=38 | month=May | url=http://cdsads.u-strasbg.fr/abs/2007AAS...210.4205S | page=157 | publisher=American Astronomical Society}}</ref>。この表における水星の[[楔形文字]]表記は、Udu.Idim.Gu\u<sub>4</sub>.Ud{{Efn|楔形文字の翻訳には、「MUL」を伴った資料もある。ただしMULはシュメールにおいて「星」を意味し、固有名詞の一部とは考えられない。「4」は、シュメール語とアッカド語の翻訳法において、楔形文字の単語が持つ複数の音節のうちいずれかを指定するためにつけられた参照番号と考えられる。}}(the jumping planet、「跳ぶ星」)と訳された<ref>{{cite journal | first=Hermann | last=Hunger |coauthors=Pingree, David | title=MUL.APIN: An Astronomical Compendium in Cuneiform | journal=Archiv für Orientforschung | volume=24 | publisher=Verlag Ferdinand Berger & Sohne Gesellschaft MBH | location=Austria | year=1989 | page=146 }}</ref>。[[バビロニア]]にも紀元前1000年代の記録があり、彼らは[[神話]]に登場する伝達する神[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]]になぞらえた名称をつけていた<ref name="JHU history">{{cite web | year=2008 | author=Staff | url=http://btc.montana.edu/messenger/elusive_planet/ancient_cultures_2.php | title=MESSENGER: Mercury and Ancient Cultures | publisher=NASA JPL | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。
[[古代ギリシア]]では[[ヘーシオドス]](紀元前700年頃?)の時代には知られ、{{Lang|el|Στίλβων}}(Stilbon、「微かな光」の意)や{{Lang|el|Ἑρμάων}}(Hermaon)と呼ばれていた<ref>{{cite book |author= H.G. Liddell and R. Scott |coauthors=''rev.'' H.S. Jones and R. McKenzie |title=Greek–English Lexicon, with a Revised Supplement |edition=9th |year=1996 |publisher=Clarendon Press |location=Oxford |isbn=0-19-864226-1 |pages=690 and 1646 }}</ref>。[[ヘラクレイデス]]は、水星と金星が地球でなく太陽の周りを回っていると考えるに値する観測を行った<ref>{{Cite web|和書| title=グローバルテクトニクスの新概念 科学における政治的正当性 Part1|author=山内輝子、山内靖喜 | publisher=NCGT | url=http://kei.kj.yamagata-u.ac.jp/ncgt/NewsLetterJ/NCGT19J.pdf |format=PDF | accessdate=2011-03-13 }}</ref>。古代ギリシア世界では、宵の水星に[[ヘルメース]]、明けの水星には[[アポローン]]を対応させていたが、やがてこの2つの星が同一のものであることに気づいた<ref name="Dunne">{{cite book|title=The Voyage of Mariner 10 — Mission to Venus and Mercury|author=Dunne, J. A. and Burgess, E.|chapterurl=http://history.nasa.gov/SP-424/ch1.htm|publisher=NASA History Office|year=1978|chapter=Chapter One|url=http://history.nasa.gov/SP-424/}}</ref>。その後、最内周惑星で運行が速いことから、ヘルメースと同一視されていた俊足の神[[メルクリウス]]の名があてられ、これが英語のマーキュリー(Mercury = 水星)の[[語源]]となった<ref>{{cite book|title=Astronomy: A Textbook|first=John Charles|last=Duncan|year=1946|publisher=Harper & Brothers|page=125|quote=The symbol for Mercury represents the Caduceus, a wand with two serpents twined
around it, which was carried by the messenger of the gods.}}</ref><ref>{{cite book | first=Eugène Michel | last=Antoniadi | coauthors=Translated from French by Moore, Patrick | year=1974 | title=The Planet Mercury | publisher=Keith Reid Ltd | location=Shaldon, Devon | pages=9–11 | isbn=0-904094-02-2 }}</ref>。
[[古代中国]]では水星は「辰星」の名で知られ、方角の「北」、[[五行思想]]の「水」と対比させていた<ref>{{cite book| first=David H.| last=Kelley | authorlink=デイヴィッド・H・ケリー|coauthors=Milone, E. F.; [[アンソニー・アヴェニ|Aveni, Anthony F.]] | year=2004 | title=Exploring Ancient Skies: An Encyclopedic Survey of Archaeoastronomy | publisher=Birkhäuser | isbn=0-387-95310-8 }}</ref>。水を当てはめた理由は、流水を水星の公転速度の速さに見立てたためであり、西洋の俊足神メルクリウスと同じ着眼である。現代でも、中国・[[日本]]・[[韓国]]・[[ベトナム]]では[[漢字]]で「水星」と書かれ、五行思想の反映が見られる。[[インド神話]]では、水星には水曜日を司る神[[ブダ (インド神話)|ブダ]]の名が与えられる<ref>{{cite book | first=R.M. | last=Pujari | coauthors=Kolhe, Pradeep; Kumar, N. R. | year=2006 | title=Pride of India: A Glimpse Into India's Scientific Heritage | publisher=Samskrita Bharati | isbn=81-87276-27-4 }}</ref>。曜日との関連は、{{仮リンク|ゲルマン人の思想|en|Germanic paganism}}でも神[[オーディン]]が水星と水曜日を司るという考えがある<ref>{{cite book | first=Michael E. | last=Bakich | year=2000 | title=The Cambridge Planetary Handbook | publisher=Cambridge University Press | isbn=0-521-63280-3 }}</ref>。
[[マヤ文明]]では水星は[[フクロウ]]に喩えられ、1羽という時と、朝夕それぞれ2羽の計4羽と考えられることもあった。彼らは地下世界からの使者と考えられた<ref>{{cite book | first=Susan | last=Milbrath | year=1999 | title=Star Gods of the Maya: Astronomy in Art, Folklore and Calendars | publisher=University of Texas Press | isbn=0-292-75226-1 }}</ref>。
{{Clearleft}}
=== 中世 ===
[[File:Shatir500.jpg|thumb|200px|[[イブン・シャーティル]]の天体モデルにも水星が描かれている。]]
中世[[イスラム]]世界では、11世紀に[[アンダルス]]の天文学者[[ザルカーリー]]が水星の公転軌道が卵や松の実のような楕円形だと主張した。ただし彼の天文学理論や計算に、この考えは反映されなかった<ref>{{cite journal | author=Samsó, Julio; Mielgo, Honorino | url=http://articles.adsabs.harvard.edu/full/1994JHA....25..289S | title=Ibn al-Zarqālluh on Mercury | journal=Journal for the History of Astronomy | volume=25 | year=1994 | pages=289–96 [292] }}</ref><ref>{{cite journal | first=Willy | last=Hartner | title=The Mercury Horoscope of Marcantonio Michiel of Venice | journal=Vistas in Astronomy | volume=1 | year=1955 | pages=118-122}}</ref>。12世紀には[[イブン・バーッジャ]]が「太陽面にある2つの黒い点」を観察した。13世紀には、{{仮リンク|マラーゲ天文台|en|Maragheh observatory}}の[[クトゥブッディーン・シーラーズィー]]が、これは[[水星の太陽面通過|水星]]か[[金星の太陽面通過]]またはその両方だと述べた<ref>{{cite conference | title=History of oriental astronomy: proceedings of the joint discussion-17 at the 23rd General Assembly of the International Astronomical Union, organised by the Commission 41 (History of Astronomy), held in Kyoto, August 25–26, 1997 | first=S. M. Razaullah | last=Ansari | publisher=[[Springer Science+Business Media|Springer]] | year=2002 | isbn=1402006578 | page=137}}</ref>。なお現代では、この種類の中世の報告は太陽[[黒点]]を見ていたものとも取り扱われる<ref>{{cite journal | last=Goldstein | first=Bernard R. | year=1969 | title=Some Medieval Reports of Venus and Mercury Transits | month=December | journal=Centaurus | volume=14 | issue=1 | pages=49–59 | doi=10.1111/j.1600-0498.1969.tb00135.x | bibcode=1969Cent...14...49G }}</ref>。
インドでは、15世紀に[[ケーララ州]]の[[ケーララ学派]]の{{仮リンク|ニーラカンタ・ソーマヤージー|en|Nilakantha Somayaji}}が、16世紀[[デンマーク]]の[[ティコ・ブラーエ]]に先立ち、太陽の周囲を水星と地球が周回する太陽系モデルを構築した<ref>{{cite journal | author=Ramasubramanian, K.; Srinivas, M. S.; Sriram, M. S. | title=Modification of the Earlier Indian Planetary Theory by the Kerala Astronomers (c. 1500 AD) and the Implied Heliocentric Picture of Planetary Motion | journal=Current Science | volume=66 | year=1994 | pages=784–790 | url=http://www.physics.iitm.ac.in/~labs/amp/kerala-astronomy.pdf | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。
=== 地上からの観測 ===
[[File:Mercury transit 1.jpg|thumb|left|[[水星の太陽面通過]]。中心下部にある小さな黒い点が水星である。太陽左の縁に見られる黒い部分は太陽黒点である。]]
望遠鏡を用いた水星観測は17世紀初めに[[ガリレオ・ガリレイ]]が手がけたが、天体の{{仮リンク|相 (天文)|en|planetary phase|label=相}}を確認するには充分な機能を発揮しなかった。しかし1631年には[[ピエール・ガッサンディ]]が、[[ヨハネス・ケプラー]]が予告した[[通過 (天文)|天体の通過]]を望遠鏡で観測した。1639年には[[イタリア]]の[[ジョヴァンニ・ズッピ]]が望遠鏡を使って水星を観測し、金星や月と同様に満ち欠けがあることを発見した。これによって、水星が太陽の周りを回っていることが確実になった<ref name=strom/>。惑星同士が交差する[[掩蔽]]は非常に稀な天体現象だが、1737年5月28日に水星と金星で起こった掩蔽は[[グリニッジ天文台]]の[[ジョン・ベヴィス]]によって観察された<ref>{{cite journal |last=Sinnott |first=RW |authorlink= |coauthors=[[ジャン・メーウス|Meeus, J]] |year=1986 |month= |title=John Bevis and a Rare Occultation |journal=Sky and Telescope |volume=72 |issue= |page=220 |id= |url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1986S&T....72..220S/abstract | accessdate=2011-03-19|language=英語|quote= }}</ref>。水星と金星が次に掩蔽を起こすのは2133年12月3日である<ref>{{cite book | first=Timothy | last=Ferris | year=2003 | title=Seeing in the Dark: How Amateur Astronomers | publisher=Simon and Schuster | isbn=0-684-86580-7 }}</ref>。
水星は太陽に接近しているため、観測するのは非常に困難である。水星軌道周期の約半分に相当する期間は、太陽の光に埋もれてしまって見ることができない。またそれ以外の時期でも、朝か夕方のごく短い時間しか観測できない<ref>{{cite journal|last=Baumgardner|first=Jeffrey|coauthors=Mendillo, Michael; Wilson, Jody K.|title=A Digital High-Definition Imaging System for Spectral Studies of Extended Planetary Atmospheres. I. Initial Results in White Light Showing Features on the Hemisphere of Mercury Unimaged by ''Mariner'' 10|journal=The Astronomical Journal|year=2000|volume=119|pages=2458–2464|doi=10.1086/301323}}</ref>。[[ニコラウス・コペルニクス]]が水星を生涯見られなかったという逸話は有名である。<ref>[http://adsabs.harvard.edu/full/1892Obs....15..321L]Copernicus and Mercury 1892年</ref><ref>[http://www.nhk.or.jp/nagano/starproject/special/20130617.html NHK長野放送局│星空プロジェクト:【大西教授コラム】夕暮れに輝く水星]</ref>
地球から見た水星にも、[[金星]]や月のような満ち欠けの相が見られる。内合の時に「新水星」、外合の時に「満水星」となるが、これらの時期には太陽と同時に上ったり沈んだりするために、見ることはできない。最大離角の時には半分欠けた形になる。[[西方最大離角]]の時には日の出前に最も早く上り、[[東方最大離角]]の時には日没後に最も遅く沈む。最大離角の値は、近日点ならば17.9度、遠日点ならば27.8度である<ref name=elongation>{{cite web|title=Mercury Chaser's Calculator|publisher=Fourmilab Switzerland|author=John Walker|url=http://www.fourmilab.ch/images/3planets/elongation.html| accessdate=2011-03-19|language=英語}} (look at 1964 and 2013)</ref><ref name=MercHorizons>{{cite web|title=Mercury Elongation and Distance|url=http://home.comcast.net/~kpheider/Mercury.txt| accessdate=2011-03-19|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110512152841/home.comcast.net/~kpheider/Mercury.txt|archivedate=2011-05-12}} —Numbers generated using the Solar System Dynamics Group, [http://ssd.jpl.nasa.gov/horizons.cgi?find_body=1&body_group=mb&sstr=1 Horizons On-Line Ephemeris System]</ref>。しかし金星とは異なり、最も明るくなるのは「半月」形と「満月」形の間の相である(金星では「新月」形と「半月」形の間で最も明るくなる)。この理由は各相にある時の地球からの距離による。水星では内合「新水星」と外合「満水星」の時の地球からの距離の差は3倍以下だが、金星では6.5倍にもなる。水星が内合になる周期は平均すると116日だが<ref name="nssdcMercury" />、軌道の離心率が大きいために実際には111日から121日まで変化する。同じ理由で、地球から見て逆行する期間も8日から15日まで変化する。
このような観測の難しさから、水星の理解は他の惑星と比べて遅れた。1800年、[[ヨハン・シュレーター]]は水星表面の観察を行い。高さ20kmの山脈が存在すると主張した。[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセル]]はシュレーターの観察結果から、自転時間を24時間、自転軸の傾斜が70度だという誤った見積もりを発表した<ref name="sao188r">{{cite journal | last=Colombo | first=G. | coauthors=Shapiro, I. I. | title=The Rotation of the Planet Mercury | journal=SAO Special Report #188R | url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1965SAOSR.188.....C/abstract | accessdate=2011-03-19|language=英語| volume=188 | date=11/1965 }}</ref>。1880年代になって、[[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]がより精確な惑星写像を取り、その結果から自転周期は88日であると示唆するとともに、公転も潮汐力から同期した状態にあると考えた<ref>{{cite journal|last=Holden |first=E. S. |year=1890 |title=Announcement of the Discovery of the Rotation Period of Mercury [by Professor Schiaparelli] |journal=Publications of the Astronomical Society of the Pacific |volume=2 |issue=7 |page=79 |url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1890PASP....2...79H/abstract |accessdate=2011-03-19|language=英語|doi=10.1086/120099 }}</ref>。惑星写像への取り組みは引き続き行われ、1934年には[[ユジェーヌ・ミカエル・アントニアディ]]が観測結果と地図を載せた本を出版した<ref name="chaikin1" />。そこには、数多い[[:en:albedo features|albedo features]](天体面の明暗模様)が反映され、「アントニアディ・マップ」と呼ばれた<ref>{{cite book|url=http://history.nasa.gov/SP-423/sp423.htm|title=Atlas of Mercury|publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] Office of Space Sciences|author=Merton E. Davies, et al.|year=1978|chapter=Surface Mapping|chapterurl=http://history.nasa.gov/SP-423/surface.htm| accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。
1962年6月、[[ウラジーミル・コテルニコフ]]率いる[[ソヴィエト連邦]][[ロシア科学アカデミー|科学アカデミー]]情報通信研究所 ([[:en:Institute of Radio-engineering and Electronics|Institute of Radio-engineering and Electronics]])は、水星に[[レーダー]]信号を発信し反射を利用した観測を初めて行った。これはレーダーを利用した惑星観測の皮切りとなった<ref>{{cite journal |first= J. V. |last=Evans | coauthors=Brockelman, R. A.; Henry, J. C.; Hyde, G. M.; Kraft, L. G.; Reid, W. A.; Smith, W. W. | title=Radio Echo Observations of Venus and Mercury at 23 cm Wavelength | year=1965 | journal=Astronomical Journal | volume=70 | url=http://articles.adsabs.harvard.edu/abs/1965AJ.....70..486E/0000487.000.html | pages=487–500 | accessdate=2011-03-19|language=英語| doi=10.1086/109772 }}</ref><ref>{{cite book | last=Moore | first=Patrick | title=The Data Book of Astronomy | page=483 | year=2000 | publisher=CRC Press | location=New York | url=https://books.google.com/books?lr=&as_brr=3&q=kotelnikov+1962+mercury&btnG=Search+Books | isbn=0-7503-0620-3}}</ref><ref>{{cite book | title=To See the Unseen: A History of Planetary Radar Astronomy | url=http://history.nasa.gov/SP-4218/sp4218.htm | first=Andrew J. | last=Butrica | publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] History Office, Washington D.C. | year=1996 | chapter=Chapter 5 | chapterurl=http://history.nasa.gov/SP-4218/ch5.htm | isbn=0-16-048578-9 }}</ref>。3年後に、アメリカの{{仮リンク|ゴードン・ペッティンギル|en|Gordon Pettengill}}らが[[プエルトリコ]]の[[アレシボ天文台]]300m径[[電波望遠鏡]]を用いた観測を行い、最終的に水星の自転周期が59日であることを突き止めた<ref>{{cite journal | last=Pettengill | first=G. H. |coauthors=Dyce, R. B. | title=A Radar Determination of the Rotation of the Planet Mercury | journal=[[Nature (journal)|Nature]] | volume=206 | issue= 1240 | pages= 451–2 | year= 1965 |doi=10.1038/2061240a0 }}</ref><ref>[http://scienceworld.wolfram.com/astronomy/Mercury.html Mercury] at Eric Weisstein's 'World of Astronomy'</ref>。水星の自転は公転と同期していると広く考えられていたため、この発見は驚きをもって受け止められた。同期していれば常に影となる半球は非常に冷たくなるはずだが、電波計測の結果は、予想よりもはるかに高い温度を示していた。それでも天文学者の中には風のような熱を分配する何かしら強力な機構を想定するなど、同期説を簡単には手放さない者もいた<ref>{{cite book | first=Bruce C. | last=Murray | coauthors=Burgess, Eric | year=1977 | title=Flight to Mercury | publisher=Columbia University Press | isbn=0-231-03996-4 }}</ref>。
公転と自転の比率が1対1ではないと提言したのは[[イタリア]]の天文学者[[ジュゼッペ・コロンボ]]であり、彼は公転が自転周期の2/3に相当すると述べた<ref>{{cite journal | last=Colombo | first=G. | title=Rotational Period of the Planet Mercury | journal=Nature | volume=208 | page=575 | year=1965 | doi = 10.1038/208575a0 | accessdate=2011-03-19|language=英語| url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/1965Natur.208..575C/abstract }}</ref>。この証明は、マリナー10号から得られたデータで裏づけされた<ref>{{cite web | month=October | year=1976 | author=Davies, Merton E. et al. | url=http://history.nasa.gov/SP-423/mariner.htm | title=Mariner 10 Mission and Spacecraft | work=SP-423 Atlas of Mercury | publisher=NASA JPL | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。これは、スキアパレッリとアントニアディの地図が正しいことを示すとともに、他の天文学者が観察した水星表面は2パターンある公転・自転関係のひとつだけを見ていたわけではなく、観測手段が未発達だったために彼らが目にした太陽方向に向けられた表面の違いをさしあたり無視していたことを示した<ref name="sao188r" />。
[[File:Merc fig2sm.jpg|thumb|right|200px|アレシボ天文台が観測した極のクレーター。水の氷が存在する可能性がある<ref>{{cite web|title=Introduction to Planetary Radar – Mercury |publisher=Fourmilab Switzerland|author=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |url=http://www.naic.edu/%7epradar/radarpage.html | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。]]
地上からの観測は光を反射しない部分を知る手段に乏しく、水星の基本的な特性は探査機を打ち上げて初めて理解できた。しかしながら、20世紀末以降は技術的進歩が進み、地上観測からでも多くの情報を入手できるようになった。2000年、[[ウィルソン山天文台]]の1.5mヘール望遠鏡で高解像度の{{仮リンク|ラッキーイメージング|en|lucky imaging}}観測が行われ、マリナー10号では得られなかった水星表面部分の画像撮影に成功した<ref>{{cite journal | last=Dantowitz | first=R. F. | coauthors=Teare, S. W.; Kozubal, M. J. | title=Ground-based High-Resolution Imaging of Mercury | journal=Astronomical Journal | volume=119 | pages=2455–2457 | year= 2000 | url=http://ukads.nottingham.ac.uk/cgi-bin/nph-bib_query?bibcode=2000AJ....119.2455D&db_key=AST | doi = 10.1016/j.asr.2005.05.071 }}</ref>。後の解析で、そこにはカロリス盆地を越え、{{仮リンク|スキナカス盆地|en|Skinakas Basin}}の2倍に相当する大きさの巨大な二重クレーターが発見された<ref name=Ksa06>{{cite journal|author = L. V. Ksanfomality|title=Earth-based optical imaging of Mercury| journal= Advances in Space Research |volume= 38|page= 594|year= 2006|url= https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2006AdSpR..38..594K?data_type=HTML&format=&high=461152a03222956&db_key=AST|doi=10.1016/j.asr.2005.05.071}}</ref>。その後もアレシボ天文台による観測で、水星表面の大部分は5kmの解像度で撮影された。この中には、極にあり影に水の氷が存在する可能性を持つクレーターも含まれていた<ref name=Harm06>{{cite journal|author =Harmon, J. K. et al.|title= Mercury: Radar images of the equatorial and midlatitude zones| journal= Icarus |volume= 187|page= 374|year= 2007|url= https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2007Icar..187..374H/abstract | doi = 10.1016/j.icarus.2006.09.026}}</ref>。
=== 到達の難しさ ===
地球から水星に到達するためには、技術的に高いハードルが有る。水星の公転軌道は、地球の公転軌道と比べて平均で3倍も太陽に近いため、地球から打ち上げた宇宙機を水星の重力に捕捉させるためには、太陽の重力井戸を 9100万 km 以上も降りなくてはならない。単純に、[[ホーマン遷移軌道]]によって遷移するとしても、[[ΔV]]が他の惑星探査よりも大きい<ref name="DunneCh4">{{cite book|title=The Voyage of Mariner 10 — Mission to Venus and Mercury|author=Dunne, J. A. and Burgess, E.|chapterurl=http://history.nasa.gov/SP-424/ch4.htm|publisher=NASA History Office|year=1978|chapter=Chapter Four|url=http://history.nasa.gov/SP-424/| accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。さらに、水星は太陽系の中では小さな惑星であり、その重力は地球よりも弱く、重力圏も小さい。加えて、水星への着陸や、安定な水星周回軌道への投入を実現するためには、水星に充分な密度の大気が存在しないため空力ブレーキを使えず、宇宙機のエンジンに頼らざるを得ない。なお、単純に力学的な比較として、水星への旅で必要なΔVとしては太陽系脱出速度のためのそれより大きい。これらが、水星探査機の実現回数が少ない理由である<ref>[http://solarsystem.jpl.nasa.gov/planets/profile.cfm?Object=Mercury&Display=OverviewLong Mercury] NASA Jet Propulsion Laboratory. May 5, 2008. Retrieved 2008-05-29.</ref>。
=== 探査 ===
[[File:Mariner10.gif|thumb|200px|right|水星探査機マリナー10号]]
[[File:Drawing back side-spacecraft MESSENGER-fr.png|thumb|200px|right|探査機メッセンジャー]]
{{main|水星探査}}
水星に向けられた初の探査機は、1973年に打ち上げた[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) の[[マリナー10号]]であった<ref name="Dunne" />。同機は1974年から1975年にかけて3回にわたって水星に接近。写真撮影や表面温度の観測を行い、惑星表面の特徴的な地形を数多く知らしめた<ref name="DunneCh4" /><ref>{{cite web | month=October | year=1976 | first=Tony | last=Phillips | url=http://www.nasa.gov/vision/universe/solarsystem/20oct_transitofmercury.html | title=NASA 2006 Transit of Mercury | work=SP-423 Atlas of Mercury | publisher=NASA | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。しかし探査可能時間が短いことから惑星の夜の部分は撮影ができず、情報は全球の45%以下に止まった<ref name="USATMessenger">{{cite news|url=http://www.usatoday.com/tech/news/2004-08-16-mercury-may-shrink_x.htm|title=MESSENGER to test theory of shrinking Mercury|publisher=USA Today|author=Tariq Malik|date=August 16, 2004 | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。
2004年8月3日、アメリカ航空宇宙局の[[メッセンジャー (探査機)|メッセンジャー]] が打ち上げられ、地球、金星を[[スイングバイ]](フライバイ)しながら水星へ向かって航行し<ref>{{cite web|year=2005|url = http://www.spaceref.com/news/viewsr.html?pid=18956| title = MESSENGER Engine Burn Puts Spacecraft on Track for Venus|publisher = SpaceRef.com | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>、2008年1月には水星での最初のスイングバイを行った<ref name="MessCountdown">{{cite web|url= http://messenger.jhuapl.edu/gallery/sciencePhotos/image.php?gallery_id=2&image_id=115|title= Countdown to MESSENGER's Closest Approach with Mercury|date= January 14, 2008 | publisher= Johns Hopkins University Applied Physics Laboratory | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。2011年3月18日に水星の周回軌道に入った。その結果、クレーターの縁や中心に穴があること、太陽系の内側には水が、ほぼ存在しなかったこと、南北の磁場が非対称なので、水星内部には薄い液体核しかないことが推測できるという<ref>「Newton 2011年9月号」ニュートンプレス</ref>。2015年5月1日に水星表面に落下してそのミッションを終了した。
==== 航行中 ====
{{See also|ベピ・コロンボ}}
[[ベピ・コロンボ]]は[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)と[[欧州宇宙機関]](ESA)が共同で打ち上げ、ミッション遂行中の探査機である<ref name="ESAColumboGoAhead">{{cite web | title=ESA gives go-ahead to build BepiColombo | date=February 26, 2007 | publisher=[[European Space Agency]] | url=http://www.esa.int/esaSC/SEMC8XBE8YE_index_0.html | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。これは2機編成で<ref name=Miya71 />、長楕円軌道には「水星磁気圏探査機(MMO: Mercury Magnetospheric Orbiter)」を、低軌道には「水星表面探査機(MPO: Mercury Planetary Orbiter)」を化学燃料ロケットで投入し、水星公転の数年に相当する期間をかけて探査を行う予定である<ref name="ESAColumboGoAhead" />。MPOは、メッセンジャーと同じく分光計を積載し、赤外線、紫外線、X線など複数の波長で惑星の調査を行う<ref>{{cite web | title=Objectives | publisher=European Space Agency | url=http://sci.esa.int/science-e/www/object/index.cfm?fobjectid=31350 | date=February 21, 2006 | accessdate=2011-03-19|language=英語}}</ref>。当初は2013年には打ち上げられる予定であったが、ESAの開発遅れからスケジュールがたびたび延期されている。2014年時点では、2016年7月に打ち上げ、2024年に水星の周回軌道に入って観測をする計画であった<ref>{{Cite web|和書| title=最新スケジュール | publisher=JAXA | url=http://www.stp.isas.jaxa.jp/mercury/index-j.html | date=2014-4 | accessdate=2015-03-19}}</ref>が、2016年11月には2018年10月に打ち上げを延期し、水星到着が2025年12月になることがESAから発表された<ref>{{Cite news|url=http://moonstation.jp/blog/planetaryexp/bepi-colombo/launch-of-bepi-colombo-postponed-to-oct-2018 |title=水星探査機ベピ・コロンボ、打ち上げが2018年10月に延期に |newspaper=月探査情報ステーション |date=2016-12-13 |accessdate=2017-02-19}}</ref>。最終的に、2018年10月19日に[[ギアナ宇宙センター]]から打ち上げられている。
== 人類との関係 ==
=== 惑星記号 ===
[[File:Mercury symbol.svg|100px|right]]
ヘルメスの伝令杖「[[ケリュケイオン]]」(ラテン語でカドゥケウス、二匹の蛇の絡んだ杖)は、現在は商売、交通などの[[天文学のシンボル|シンボル]]として用いられているが、[[占星術]]・[[天文学]]では古くから、これを図案化したものが水星の記号(☿)として用いられる。[[錬金術]]では7種類の金属が惑星によって象徴され、ヘルメス/[[メルクリウス]]は[[水銀]]と関連付けられたため、水星の惑星記号が水銀の記号として使われた。
=== 占星術 ===
水星は[[七曜]]・[[九曜]]の1つで、[[10大天体]]の1つである。[[西洋占星術]]では、[[双児宮]]と[[処女宮]]の[[支配星]]で、吉星である。流動性を示し、[[通信]]・交通・商売・旅行・学問・知識関係・[[兄弟]]に当てはまる<ref>[[石川源晃]]『【実習】占星学入門』 ISBN 4-89203-153-4</ref>。
=== 関連作品 ===
{{main|[[地球以外の実在天体を扱った事物]]<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<!-- 文献参照ページ -->
{{Reflist|25em|refs=
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|date=2007-05-09|accessdate=2019-04-24}}</ref>
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| author=亀田真吾 | editor1=井田茂 | editor1-link=井田茂 | editor2=渡部潤一 | editor2-link=渡部潤一 | editor3=佐々木晶
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| chapter=2.3 水星 | title=9 太陽系と惑星 | series=シリーズ現代の天文学 | publisher=[[日本評論社]] | pages=41-45 | isbn=978-4-535-60761-3}}</ref>
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== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典を列挙して下さい。) -->
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== 関連項目 ==
<!-- 関連するウィキリンク、ウィキ間リンク -->
{{Sisterlinks|commons=Mercury_(planet)|commonscat=Mercury_(planet)|d=Q308}}
* [[水星の衛星]] - 1974年の水星観測データに、水星の衛星の存在を示唆するものが現れたが、後の調査で否定されている。
* [[NWA 7325]] - 水星起源の可能性がある[[隕石]]。
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/suisei_1/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(水星) |date=20200616051105}}
* [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/mercury_venus/mrcvns00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(水星・金星)]
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* [https://nineplanets.org/mercury/ The Nine Planets Mercury Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(水星){{En icon}}
* {{Kotobank}}
* [https://history.nasa.gov/SP-423/sp423.htm Atlas of Mercury—NASA]
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* [https://www.messenger-education.org/Interactives/ANIMATIONS/Day_On_Mercury/day_on_mercury_full.html A Day On Mercury] flash animation
* [http://www.psrd.hawaii.edu/Archive/Archive-Mercury.html Mercury articles in Planetary Science Research Discoveries]
* [https://www.esa.int/Science_Exploration/Space_Science/BepiColombo_overview2 ‘BepiColombo', ESA's Mercury Mission]
* [https://messenger.jhuapl.edu/ ‘Messenger', NASA's Mercury Mission]
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[[Category:太陽系の惑星]]
[[Category:水星|*]]
[[Category:地球型惑星]]
[[Category:有史以前に知られていた天体]]
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3,966 | 小惑星 | 小惑星(しょうわくせい、独: 英: Asteroid)は、太陽系小天体のうち、星像に拡散成分がないものの総称。拡散成分(コマやそこから流出した尾)があるものは彗星と呼ばれる。
ウィリアム・ハーシェルによって、(当時の)望遠鏡で見ると恒星のように見えることから、ギリシャ語の αστηρ(aster:恒星)と ειδος(eidos:姿、形)からアステロイド「asteroid:恒星のようなもの」と命名された。太陽系内の惑星より小さな天体であることから「minor planet:小さな惑星」、「planetoid:惑星のようなもの」などとも呼ばれた。
現在では岩石を主成分とするものを「asteroid」と称し、「minor planet」は「asteroid」に加え、太陽系外縁天体、彗星・小惑星遷移天体や準惑星などを含んだ天体の総称とされているが、「minor planet」も「asteroid」も日本語ではどちらも「小惑星」と訳される(たとえば、小惑星番号は「minor planet」の番号のことであり、「asteroid」には含まれない準惑星などにも割り当てられる)。
その多くは火星と木星の間の軌道を公転しているが、地球付近を通過する可能性のあるものも存在する。21世紀初頭まで最大の小惑星であった (1) ケレス(Ceres:数字は小惑星番号。以下同様)でも地球の月よりはるかに小さい。
また、惑星や衛星のような球形をしているのはケレスなどごく一部の大型の小惑星のみで、大半は丸みを帯びた不定形である。
すでに個体識別されている小惑星のほとんどは、木星軌道と火星軌道の間に存在し、太陽からの距離が約2–4天文単位の範囲に集まっている。この領域を小惑星帯 (asteroid belt) と呼ぶ。現在では太陽系外縁部のエッジワース・カイパーベルトと区別するためにメインベルト (main belt) とも呼ばれる。小惑星は木星の摂動によって、いくつかの群をなして運動する。各群はその公転周期にしたがって分類される。群の中で特に注目されるのが、トロヤ群(周期約12年)と呼ばれる小惑星群であり、これは太陽と木星との間を一辺とする正三角形の一頂点、すなわち両天体の系でのラグランジュ点に位置することが知られている。なお、トロヤ群の名は、この群で最初に発見された小惑星 (588) アキレス (Achilles) にちなむ。
1990年代以降は (50000) クワオアー (Quaoar) や (90377) セドナ (Sedna) といった、エッジワース・カイパーベルトや、さらにその外側にある trans-Neptunian objects(太陽系外縁天体、TNO)が続々と発見されるようになった。これらはメインベルトの小惑星 (asteroid) とは起源が異なると考えられているが、同様に小惑星 (Minor planet) として登録されている。エッジワース・カイパーベルトの総質量は地球質量より一桁少ない程度であり、メインベルトの総質量より大きいと推定されている。
2019年5月現在、軌道が確定して小惑星番号が付けられた天体は541,128個にのぼる(準惑星5個を含む。小惑星の一覧参照)。この他に仮符号のみが登録されている小惑星で、複数の衝を観測されたものが145,378個、1回の衝を観測されたものが106,326個あり、これらを合計すると794,832個に達する。番号登録されたもののうち、すでに命名されたのは21,922個である。
直径1km程度、ないしそれ以下の小惑星については未発見のものが数十万個あると推測されている。
軌道が確定した小惑星数の増え方については小惑星番号を参照。
なお、2021年7月3日までに地球近傍小惑星は仮符号のみのものを含めて26,141個、ケンタウルス族を含む太陽系外縁天体は同じく1,379個(準惑星4個を含む)が発見されている(『天文年鑑』2010年版)。
1781年の天王星発見当時、ティティウス・ボーデの法則から、火星と木星の間に未知の惑星を探索する試みが行われた。1801年に (1) ケレスが発見されたが、翌1802年に (2) パラス、1804年に (3) ジュノー、1807年には (4) ベスタと、同じような位置に天体が相次いで発見されたこと、またいずれも惑星と呼ぶにはあまりに小さいことから、やがて惑星とは区別されるようになった。小惑星 (asteroid) という語は、1853年初めに考え出された。
2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会で惑星の定義が採択された結果、それまで惑星とされていた冥王星および小惑星とされていたケレスと2003 UB313(エリス)が dwarf planet(準惑星)に変更され、さらに小惑星のうち十数個が将来的に dwarf planet に変更される可能性があると考えられるようになった(2008年には、新たにマケマケとハウメアが dwarf planet に変更されている)。また小惑星はTNOや彗星とともに small solar system bodies (太陽系小天体、SSBO) というカテゴリーに包括されることになった。
これを受けて、日本学術会議の小委員会は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、dwarf planet, TNO, SSBO の訳語としてそれぞれ「準惑星」「太陽系外縁天体」「太陽系小天体」の使用を推奨することを提言した。なお、準惑星については当面の間、教育現場などでは積極的な使用を推奨しない方針。
メインベルトの軌道長半径がティティウス・ボーデの法則にほぼ合致するため、昔この位置にあった惑星が何らかの原因で破壊されて小惑星帯が作られたとする惑星破壊説が唱えられたこともあったが、メインベルトの小惑星の質量を合計しても惑星の質量には到底達しないことなどから、現在は支持されていない。またすべての小惑星が同一の起源を持つわけではなく、かつて彗星であったものなども含まれると考えられる。一方で、火星の衛星フォボスとダイモスなど、かつては小惑星だったものが他の天体に把捉されてその衛星となったと考えられている天体も存在する。
メインベルトにある小惑星発生には2つの要素が働いたと考えられる。1つは太陽系形成時にこの付近にダスト成分が少なかったことがある。通常原始太陽系円盤は内側から外側に向けてガスや塵が少なくなるが、メインベルト付近から外は水などの揮発成分が凍るため内側よりも固体成分が多くなり、結果的にメインベルト領域が固体存在量が最も少なくなる。もう1つは木星が先に形成された影響がある。巨大ガス惑星の木星が及ぼす重力によってメインベルト付近の微惑星の軌道が乱され、相対的な速度差が大きくなり、合体よりも破壊される傾向が強まったという。
小惑星の名前については、現在では天体の中で唯一、発見者に命名提案権が与えられている。
まず、新天体と思われる天体を2夜以上にわたって位置観測し、その観測結果が小惑星センター (Minor Planet Center, MPC) に報告されると、発見順に仮符号が与えられる。 仮符号は以下の書式に従う英数字からなる 。
仮符号を付けられた天体は既知の天体との軌道の同定作業が行われる。最終的に軌道が確定して新天体だと確認されると、小惑星番号が与えられた上で命名される。
発見者(すでに死去している場合は軌道確定のための計算を行った者)によって提案された新小惑星の名前は IAU の小天体命名委員会によって審査される。名前はラテン語化するのが好ましいというのが世界的な暗黙の了解事項であるが、現在ではそうでないものも多い。その他にも、「発音可能な英文字で16文字以内であること」、「公序良俗に反するもの、ペットの名前、すでにある小惑星と紛らわしい名前は付けられない」、「政治・軍事に関連する事件や人物の名前は没後100年以上経過し評価が定まってからでないとつけられない」、「命名権の売買は禁止」などの基準がある。
なお、トロヤ群はトロイア戦争に参加した戦士の中から、ケンタウルス族(後述)にはケンタウロス族の名前、太陽系外縁天体には各民族などの創世神話から命名を行うという規則がある。
また、人名については、かつては「姓・名」を分けて命名できた((3744) ジャック・ロンドン (Jack London) など)が、21世紀初頭には姓と名を結合した命名が為されている((79896) ビルヘイリー (Billhaley) など)。また、別々の小惑星に命名提案された人名を結合するケースなども見られる。
近年では、ほぼ同じ大きさの二重小惑星に命名する際に、それぞれの天体に付けた名前をハイフンで結合して小惑星名とするケースが見られる。例としては、(79360)Sila-Nunam(en)、(341520)Mors-Somnus(en)がある。
基本的には、一度命名した小惑星名は変更できないことになっているが、何らかの問題が生じた際には例外的に変更された例がいくつかある。
また、申請の際に名前の綴りが変更されることがある。
小惑星名を日本語で表記する方法は、メディア等によってまちまちである。片仮名もしくはアルファベットで表記する場合もあり、日本や中華人民共和国など、漢字文化圏に因んで命名された小惑星に関しては、漢字表記する場合もある。
当初は他の惑星と同じように、小惑星に対してもローマ神話の神の名が与えられていた。やがて小惑星が多数見つかるようになると、他の神話の神や文学作品の登場人物、あるいは実在した人物や地名なども用いられるようになった。なお、初期に見つかった小惑星に女神の名が付けられたことから、男性の名前でも女性化して命名されていた。例としては (511) ダビダ(デイヴィッド・トッド (David Tod) →Davida)などがある。そして、1896年に最初の地球軌道に接近する小惑星、1906年に最初のトロヤ群小惑星が発見されると、それらのように特異な軌道を持つ小惑星には男性名(神または英雄など)が付けられることになった(上記の2個はそれぞれ (433) エロス、(588) アキレスと命名された)。その後、小惑星の数が更に増加するにつれて名前の数が足りなくなる恐れが出てきたため、比較的自由な命名が許されるようになった。
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国内に小惑星センターが設立され、小惑星および彗星の観測記録や番号登録、命名などを小惑星回報 (MPCs) として公表するようになり(戦前はベルリンに同様の業務を行う機関があったが、詳細は不明)、後に電子化 (MPECs) されている。しかし、すでに発見された小惑星との軌道の同定に手間取ることが多く、加えて20世紀末に小惑星の発見数が急増すると、提案された名前を審査するのが追いつかなくなり、固有名を付けるのをやめようという意見まで出るに至った。2003年、国際天文学連合総会第20委員会において、発見者1人当たり1ヶ月に1個以上の命名提案を控えるよう求めることが決定された。ただしそれは絶対ではなく、適切な理由があれば複数同時提案も認められる。例えば2012年には、東日本大震災で大きな被害を受けた地域に由来する小惑星の命名が、同一発見者の小惑星12個に対して同時にされたことがある。その一方、小惑星番号が付いてから10年以内に名前を提案しないと、命名権を放棄したと見なされるという「10年ルール」も存在する。こうしたことから、発見数に比して命名された小惑星の割合はあまり多くない。
MPCsによって名前とその由来が公表されるようになったのは、小惑星番号にして概ね1500番台以降である。1998年末以降に命名された小惑星(3000番台から9000番台の一部と、10000番台以降のすべて)については、ジェット推進研究所の小天体データベースにほぼ例外なくMPECsの命名文が収録されている。Lutz D. Schmadel の“Dictionary of Minor Planet Names”(2006年に第5版、2008年にその補遺が発行された)には、それまでに命名されたすべての小惑星が掲載されているが、MPCs以前に命名されたものについては由来が不明な場合もある。
軌道長半径や離心率、軌道傾斜角など、類似した固有軌道要素(英語版)を持つ小惑星の集団を「族」(family)と呼ぶ。
これらのグループは同一の母天体(原始惑星)が分裂して母天体に近い軌道を回り続けているものや、木星などの引力の影響で一定範囲の軌道に集まったものと考えられており、基本的には前者を「family」と呼ぶ。
「family」を最初に発見したのは日本の平山清次であり、21世紀初頭までにメインベルトで数十の「family」が発見されている。外縁天体については、2007年に2003 EL61(後のハウメア)を含む「family」が存在する可能性が報告された。
メインベルト以外の小惑星は特異小惑星と呼ばれる。
太陽系外縁天体も、いくつかのグループに分かれている。
他にも多くの族・群がある (Asteroid groups and families)。
小惑星は色、アルベド(反射能)、スペクトルによって大きく3種類に分類される。
上記3つのサブグループに相当する型や、それら以外のマイナーな型も存在する。
惑星形成論の研究や、将来的な資源利用への布石として、小惑星探査が進められている。
望遠鏡でも点状にしか見えないため、1990年代に入るまで、小惑星の研究は軌道の確定や光度の測定に留まり、その姿については想像の域を出なかった。しかし、恒星食による形状の推定、ハッブル宇宙望遠鏡などの高性能の望遠鏡による観察やレーダー測定により、大きさや形状など、その姿が徐々に明らかになってきた。
そして、1989年に打ち上げられた木星探査機ガリレオにより、1991年に (951) ガスプラ、1993年に (243) イダの映像が撮影され、人類は初めて小惑星の鮮明な映像を目にした。なお、ガリレオはイダに初めて衛星を発見し、ダクティルと名づけられた。その後も、主に地上での観測により170個以上(2010年現在)の小惑星に衛星の存在が確認されている(小惑星の衛星参照)。
1996年に打ち上げられたNEARシューメーカーは、1997年に (253) マティルド、2000年に (433) エロスの映像を撮影し、探査機はエロスの周回軌道に乗った後に着陸を果たした。
2003年に打ち上げられた日本の探査機はやぶさは、2005年に (25143) イトカワへ到達、至近距離からの詳細な観測を行った。はやぶさはイトカワに、計画通りではなかったが接地し、その後離脱した。サンプル採取については、操作ミスにより、送られた命令列中に弾丸発射命令が存在していなかったため、サンプルホーンの接触により微粒子状の対象が舞い上がったものが回収されていることを期待する、とした(幸い、そのようにして回収されたものとほぼ断定できるサンプルが、実際に確認された)。2010年6月13日に地球へ帰還し、サンプル容器を納めたカプセルが回収されて容器内の微粒子の回収と分析がおこなわれ、同年11月16日には、回収された微粒子のほとんど全てがイトカワ由来であることが発表された。これは世界初の小惑星からのサンプルリターンである。
2004年に打ち上げられたロゼッタは、2008年に (2867) シュテインス、2010年に (21) ルテティアへの接近観測を行った。
2007年に打ち上げられたドーンは、2011年に (4) ベスタの周回軌道に乗って観測を行い、2012年にベスタの軌道を離脱した。2015年には (1) ケレス周回軌道に到達し、2017年現在でも近接探査が続けられている。
2014年12月には「はやぶさ」の後継機となるはやぶさ2が打ち上げられた。2018年6月に探査目標であるリュウグウに到着、2018年9–10月に探査機器を表面に下ろしたほか、2019年2月には第1回タッチダウン、2019年7月には第2回のタッチダウンを実施、サンプル採取を試みた。この間2019年4月には、天体に衝突体をぶつけてクレーターを生成する爆破探査も実施した。2019年11月にリュウグウを離脱、2020年12月に地球に帰還カプセルを戻した。帰還カプセルの中には小惑星由来と考えられる物質が大量に入っていた。2021年7月現在、詳細な分析が開始されている。なお、本体は別の小惑星への探査を実施する予定であり、2031年7月に1998 KY36という小惑星に到達することを目指している。
2016年にはアメリカの小惑星探査機オシリス・レックス(オサイレス・レックス、オサイリス・レックスとも)が打ち上げられた。目標とする小惑星はベンヌで、2018年12月に到着、2020年10月にサンプル採取を実施し成功した。2021年4月に小惑星を離脱、2023年9月に地球帰還予定である。
その他にも、彗星探査機などにより比較的遠距離からの、もしくは不鮮明な小惑星の映像がいくつか撮影されている。
2021年現在、ルーシー (2021年10月打ち上げ予定)、DART (2021年11月打ち上げ予定)、サイキ (2022年8月打ち上げ予定)が準備中である。また、マルコ・ポーロなどの小惑星探査計画が検討中である。さらにドン・キホーテという計画では、小惑星にインパクターを衝突させる構想である。
アメリカではコンステレーション計画の中止後、2010年4月にオバマ大統領の発表した新宇宙政策の中で有人小惑星探査「小惑星イニシアチブ」が検討されたが、2017年になり中止となっている。
中止または他の目標に変更されたもの
地球の上空には小惑星などの多数の天体が通過している。これらの中には地球に接近し大気圏で燃え尽きることなく落下するものもあり、2013年のチェリャビンスク州の隕石落下では多くのけが人を出した。2018年12月18日には直径約10mの小惑星がベーリング海上空およそ26.5km(成層圏)で爆発したが、そのエネルギーは1945年に広島に投下された原子爆弾のエネルギーの約10倍といわれている。
地球にとって特に危険性が高く深刻な影響を与える天体は直径が150mを超える天体とされている。
ユカタン半島にあるチュクシュルーブ・クレーターの調査から、約6550万年前に秒速10–20kmの速度で衝突した直径10kmの小惑星は、大型の恐竜を全滅させたと考えられている。クレーターは直径150 km、深さ30 km。周辺はマグニチュード11規模の地震と大規模の火災が発生し、海に落ちたために生じた津波は高さ300mと推定される。さらに、衝突で巻き上げられた塵が成層圏やその上の中間圏に及んで漂い、数ヶ月から数年間太陽光線を遮り、植物など光合成生物の死滅に端を発し生物全体の70%が滅んだと推測される。
直径10km規模の小惑星衝突は1億年に1回程の頻度で起こると考えられる。直径1kmの小惑星衝突でも地球規模の気候に変動を与えると考えられ、その頻度は100万年に1回程と推定される。これより小規模な衝突は影響こそ限定的になるが、その反面頻度は上昇する。直径1.2kmのバリンジャー・クレーターを作った隕石は直径50m規模であったが、頻度は1000年に1回程あると考えられる。
地球の公転軌道より1.3天文単位以内を通過する公転周期200年未満の小惑星はNEA(Near Earth Asteroid, 地球近傍小惑星)といい、2012年11月1日現在で9252個が確認されている。その中でも、地球に0.05天文単位(約750万km)以下に近づく公転軌道を通り、直径が150m以上と考えられる小惑星はPHA(Potentially Hazardous Asteroid, 潜在的に危険な小惑星)と呼ばれ、1343個が該当する。しかもNEAは惑星重力の影響を受けやすいため、公転軌道は急に変化して予測どおりにならない可能性が高い。
NEAと、やはり衝突が懸念される彗星(Near Earth Comet, NEC)と合わたNEO(Near Earth Object, 地球近傍天体)を監視する計画は、NASAとアメリカ空軍、マサチューセッツ工科大学の共同によるLINEAR(Lincoln Near Earth Asteriod Research)、アリゾナ大学のSpace WatchとCatarina Sky Survey、NASAジェット推進研究所のNEAT(Near-Earth Asteroid Tracking)、ローウェル天文台のLONEOS(Lowell Observatory Near-Earth-Object Search)、ハワイ大学のPan-STARRAS(Panoramic Survey Telescope And Rapid Response Syastem)などがあり、日本でも美星スペースガードセンターが観測を行っている。このように多くの観測体制が敷かれる理由は、そもそもNEOが非常に観測しにくいことが背景にある。しかも現在、昼間に観測することは事実上不可能である。
小惑星の衝突に備えて小惑星を破壊したり進路を変えさせたりする研究も進められている。
しかし、小惑星の衝突を回避する技術は現在の科学技術では達成しておらず、現存するロケットを衝突させて軌道を変える方法でも、直径100m以下の小惑星でしか効果がないと考えられている。NASAのDARTやESAの「ドン・キホーテ計画」など有効な回避法がさまざまに模索されているが、いまだ研究段階にあり効果はわかっていない。 | [
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"text": "小惑星(しょうわくせい、独: 英: Asteroid)は、太陽系小天体のうち、星像に拡散成分がないものの総称。拡散成分(コマやそこから流出した尾)があるものは彗星と呼ばれる。",
"title": null
},
{
"paragraph_id": 1,
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"text": "ウィリアム・ハーシェルによって、(当時の)望遠鏡で見ると恒星のように見えることから、ギリシャ語の αστηρ(aster:恒星)と ειδος(eidos:姿、形)からアステロイド「asteroid:恒星のようなもの」と命名された。太陽系内の惑星より小さな天体であることから「minor planet:小さな惑星」、「planetoid:惑星のようなもの」などとも呼ばれた。",
"title": "概要"
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"text": "現在では岩石を主成分とするものを「asteroid」と称し、「minor planet」は「asteroid」に加え、太陽系外縁天体、彗星・小惑星遷移天体や準惑星などを含んだ天体の総称とされているが、「minor planet」も「asteroid」も日本語ではどちらも「小惑星」と訳される(たとえば、小惑星番号は「minor planet」の番号のことであり、「asteroid」には含まれない準惑星などにも割り当てられる)。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "その多くは火星と木星の間の軌道を公転しているが、地球付近を通過する可能性のあるものも存在する。21世紀初頭まで最大の小惑星であった (1) ケレス(Ceres:数字は小惑星番号。以下同様)でも地球の月よりはるかに小さい。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "また、惑星や衛星のような球形をしているのはケレスなどごく一部の大型の小惑星のみで、大半は丸みを帯びた不定形である。",
"title": "概要"
},
{
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"text": "すでに個体識別されている小惑星のほとんどは、木星軌道と火星軌道の間に存在し、太陽からの距離が約2–4天文単位の範囲に集まっている。この領域を小惑星帯 (asteroid belt) と呼ぶ。現在では太陽系外縁部のエッジワース・カイパーベルトと区別するためにメインベルト (main belt) とも呼ばれる。小惑星は木星の摂動によって、いくつかの群をなして運動する。各群はその公転周期にしたがって分類される。群の中で特に注目されるのが、トロヤ群(周期約12年)と呼ばれる小惑星群であり、これは太陽と木星との間を一辺とする正三角形の一頂点、すなわち両天体の系でのラグランジュ点に位置することが知られている。なお、トロヤ群の名は、この群で最初に発見された小惑星 (588) アキレス (Achilles) にちなむ。",
"title": "位置と数"
},
{
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"text": "1990年代以降は (50000) クワオアー (Quaoar) や (90377) セドナ (Sedna) といった、エッジワース・カイパーベルトや、さらにその外側にある trans-Neptunian objects(太陽系外縁天体、TNO)が続々と発見されるようになった。これらはメインベルトの小惑星 (asteroid) とは起源が異なると考えられているが、同様に小惑星 (Minor planet) として登録されている。エッジワース・カイパーベルトの総質量は地球質量より一桁少ない程度であり、メインベルトの総質量より大きいと推定されている。",
"title": "位置と数"
},
{
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"text": "2019年5月現在、軌道が確定して小惑星番号が付けられた天体は541,128個にのぼる(準惑星5個を含む。小惑星の一覧参照)。この他に仮符号のみが登録されている小惑星で、複数の衝を観測されたものが145,378個、1回の衝を観測されたものが106,326個あり、これらを合計すると794,832個に達する。番号登録されたもののうち、すでに命名されたのは21,922個である。",
"title": "位置と数"
},
{
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"text": "直径1km程度、ないしそれ以下の小惑星については未発見のものが数十万個あると推測されている。",
"title": "位置と数"
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"text": "軌道が確定した小惑星数の増え方については小惑星番号を参照。",
"title": "位置と数"
},
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"text": "なお、2021年7月3日までに地球近傍小惑星は仮符号のみのものを含めて26,141個、ケンタウルス族を含む太陽系外縁天体は同じく1,379個(準惑星4個を含む)が発見されている(『天文年鑑』2010年版)。",
"title": "位置と数"
},
{
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"text": "1781年の天王星発見当時、ティティウス・ボーデの法則から、火星と木星の間に未知の惑星を探索する試みが行われた。1801年に (1) ケレスが発見されたが、翌1802年に (2) パラス、1804年に (3) ジュノー、1807年には (4) ベスタと、同じような位置に天体が相次いで発見されたこと、またいずれも惑星と呼ぶにはあまりに小さいことから、やがて惑星とは区別されるようになった。小惑星 (asteroid) という語は、1853年初めに考え出された。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会で惑星の定義が採択された結果、それまで惑星とされていた冥王星および小惑星とされていたケレスと2003 UB313(エリス)が dwarf planet(準惑星)に変更され、さらに小惑星のうち十数個が将来的に dwarf planet に変更される可能性があると考えられるようになった(2008年には、新たにマケマケとハウメアが dwarf planet に変更されている)。また小惑星はTNOや彗星とともに small solar system bodies (太陽系小天体、SSBO) というカテゴリーに包括されることになった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "これを受けて、日本学術会議の小委員会は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、dwarf planet, TNO, SSBO の訳語としてそれぞれ「準惑星」「太陽系外縁天体」「太陽系小天体」の使用を推奨することを提言した。なお、準惑星については当面の間、教育現場などでは積極的な使用を推奨しない方針。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "メインベルトの軌道長半径がティティウス・ボーデの法則にほぼ合致するため、昔この位置にあった惑星が何らかの原因で破壊されて小惑星帯が作られたとする惑星破壊説が唱えられたこともあったが、メインベルトの小惑星の質量を合計しても惑星の質量には到底達しないことなどから、現在は支持されていない。またすべての小惑星が同一の起源を持つわけではなく、かつて彗星であったものなども含まれると考えられる。一方で、火星の衛星フォボスとダイモスなど、かつては小惑星だったものが他の天体に把捉されてその衛星となったと考えられている天体も存在する。",
"title": "起源"
},
{
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"tag": "p",
"text": "メインベルトにある小惑星発生には2つの要素が働いたと考えられる。1つは太陽系形成時にこの付近にダスト成分が少なかったことがある。通常原始太陽系円盤は内側から外側に向けてガスや塵が少なくなるが、メインベルト付近から外は水などの揮発成分が凍るため内側よりも固体成分が多くなり、結果的にメインベルト領域が固体存在量が最も少なくなる。もう1つは木星が先に形成された影響がある。巨大ガス惑星の木星が及ぼす重力によってメインベルト付近の微惑星の軌道が乱され、相対的な速度差が大きくなり、合体よりも破壊される傾向が強まったという。",
"title": "起源"
},
{
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"text": "小惑星の名前については、現在では天体の中で唯一、発見者に命名提案権が与えられている。",
"title": "命名規則"
},
{
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"tag": "p",
"text": "まず、新天体と思われる天体を2夜以上にわたって位置観測し、その観測結果が小惑星センター (Minor Planet Center, MPC) に報告されると、発見順に仮符号が与えられる。 仮符号は以下の書式に従う英数字からなる 。",
"title": "命名規則"
},
{
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"text": "仮符号を付けられた天体は既知の天体との軌道の同定作業が行われる。最終的に軌道が確定して新天体だと確認されると、小惑星番号が与えられた上で命名される。",
"title": "命名規則"
},
{
"paragraph_id": 19,
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"text": "発見者(すでに死去している場合は軌道確定のための計算を行った者)によって提案された新小惑星の名前は IAU の小天体命名委員会によって審査される。名前はラテン語化するのが好ましいというのが世界的な暗黙の了解事項であるが、現在ではそうでないものも多い。その他にも、「発音可能な英文字で16文字以内であること」、「公序良俗に反するもの、ペットの名前、すでにある小惑星と紛らわしい名前は付けられない」、「政治・軍事に関連する事件や人物の名前は没後100年以上経過し評価が定まってからでないとつけられない」、「命名権の売買は禁止」などの基準がある。",
"title": "命名規則"
},
{
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"text": "なお、トロヤ群はトロイア戦争に参加した戦士の中から、ケンタウルス族(後述)にはケンタウロス族の名前、太陽系外縁天体には各民族などの創世神話から命名を行うという規則がある。",
"title": "命名規則"
},
{
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"text": "また、人名については、かつては「姓・名」を分けて命名できた((3744) ジャック・ロンドン (Jack London) など)が、21世紀初頭には姓と名を結合した命名が為されている((79896) ビルヘイリー (Billhaley) など)。また、別々の小惑星に命名提案された人名を結合するケースなども見られる。",
"title": "命名規則"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "近年では、ほぼ同じ大きさの二重小惑星に命名する際に、それぞれの天体に付けた名前をハイフンで結合して小惑星名とするケースが見られる。例としては、(79360)Sila-Nunam(en)、(341520)Mors-Somnus(en)がある。",
"title": "命名規則"
},
{
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"text": "基本的には、一度命名した小惑星名は変更できないことになっているが、何らかの問題が生じた際には例外的に変更された例がいくつかある。",
"title": "命名規則"
},
{
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"text": "また、申請の際に名前の綴りが変更されることがある。",
"title": "命名規則"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "小惑星名を日本語で表記する方法は、メディア等によってまちまちである。片仮名もしくはアルファベットで表記する場合もあり、日本や中華人民共和国など、漢字文化圏に因んで命名された小惑星に関しては、漢字表記する場合もある。",
"title": "命名規則"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "当初は他の惑星と同じように、小惑星に対してもローマ神話の神の名が与えられていた。やがて小惑星が多数見つかるようになると、他の神話の神や文学作品の登場人物、あるいは実在した人物や地名なども用いられるようになった。なお、初期に見つかった小惑星に女神の名が付けられたことから、男性の名前でも女性化して命名されていた。例としては (511) ダビダ(デイヴィッド・トッド (David Tod) →Davida)などがある。そして、1896年に最初の地球軌道に接近する小惑星、1906年に最初のトロヤ群小惑星が発見されると、それらのように特異な軌道を持つ小惑星には男性名(神または英雄など)が付けられることになった(上記の2個はそれぞれ (433) エロス、(588) アキレスと命名された)。その後、小惑星の数が更に増加するにつれて名前の数が足りなくなる恐れが出てきたため、比較的自由な命名が許されるようになった。",
"title": "命名規則"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "第二次世界大戦後、アメリカ合衆国内に小惑星センターが設立され、小惑星および彗星の観測記録や番号登録、命名などを小惑星回報 (MPCs) として公表するようになり(戦前はベルリンに同様の業務を行う機関があったが、詳細は不明)、後に電子化 (MPECs) されている。しかし、すでに発見された小惑星との軌道の同定に手間取ることが多く、加えて20世紀末に小惑星の発見数が急増すると、提案された名前を審査するのが追いつかなくなり、固有名を付けるのをやめようという意見まで出るに至った。2003年、国際天文学連合総会第20委員会において、発見者1人当たり1ヶ月に1個以上の命名提案を控えるよう求めることが決定された。ただしそれは絶対ではなく、適切な理由があれば複数同時提案も認められる。例えば2012年には、東日本大震災で大きな被害を受けた地域に由来する小惑星の命名が、同一発見者の小惑星12個に対して同時にされたことがある。その一方、小惑星番号が付いてから10年以内に名前を提案しないと、命名権を放棄したと見なされるという「10年ルール」も存在する。こうしたことから、発見数に比して命名された小惑星の割合はあまり多くない。",
"title": "命名規則"
},
{
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"text": "MPCsによって名前とその由来が公表されるようになったのは、小惑星番号にして概ね1500番台以降である。1998年末以降に命名された小惑星(3000番台から9000番台の一部と、10000番台以降のすべて)については、ジェット推進研究所の小天体データベースにほぼ例外なくMPECsの命名文が収録されている。Lutz D. Schmadel の“Dictionary of Minor Planet Names”(2006年に第5版、2008年にその補遺が発行された)には、それまでに命名されたすべての小惑星が掲載されているが、MPCs以前に命名されたものについては由来が不明な場合もある。",
"title": "命名規則"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "軌道長半径や離心率、軌道傾斜角など、類似した固有軌道要素(英語版)を持つ小惑星の集団を「族」(family)と呼ぶ。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "これらのグループは同一の母天体(原始惑星)が分裂して母天体に近い軌道を回り続けているものや、木星などの引力の影響で一定範囲の軌道に集まったものと考えられており、基本的には前者を「family」と呼ぶ。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "「family」を最初に発見したのは日本の平山清次であり、21世紀初頭までにメインベルトで数十の「family」が発見されている。外縁天体については、2007年に2003 EL61(後のハウメア)を含む「family」が存在する可能性が報告された。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "メインベルト以外の小惑星は特異小惑星と呼ばれる。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "太陽系外縁天体も、いくつかのグループに分かれている。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "他にも多くの族・群がある (Asteroid groups and families)。",
"title": "分類"
},
{
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"text": "小惑星は色、アルベド(反射能)、スペクトルによって大きく3種類に分類される。",
"title": "分類"
},
{
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"text": "上記3つのサブグループに相当する型や、それら以外のマイナーな型も存在する。",
"title": "分類"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "惑星形成論の研究や、将来的な資源利用への布石として、小惑星探査が進められている。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "望遠鏡でも点状にしか見えないため、1990年代に入るまで、小惑星の研究は軌道の確定や光度の測定に留まり、その姿については想像の域を出なかった。しかし、恒星食による形状の推定、ハッブル宇宙望遠鏡などの高性能の望遠鏡による観察やレーダー測定により、大きさや形状など、その姿が徐々に明らかになってきた。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "そして、1989年に打ち上げられた木星探査機ガリレオにより、1991年に (951) ガスプラ、1993年に (243) イダの映像が撮影され、人類は初めて小惑星の鮮明な映像を目にした。なお、ガリレオはイダに初めて衛星を発見し、ダクティルと名づけられた。その後も、主に地上での観測により170個以上(2010年現在)の小惑星に衛星の存在が確認されている(小惑星の衛星参照)。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1996年に打ち上げられたNEARシューメーカーは、1997年に (253) マティルド、2000年に (433) エロスの映像を撮影し、探査機はエロスの周回軌道に乗った後に着陸を果たした。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2003年に打ち上げられた日本の探査機はやぶさは、2005年に (25143) イトカワへ到達、至近距離からの詳細な観測を行った。はやぶさはイトカワに、計画通りではなかったが接地し、その後離脱した。サンプル採取については、操作ミスにより、送られた命令列中に弾丸発射命令が存在していなかったため、サンプルホーンの接触により微粒子状の対象が舞い上がったものが回収されていることを期待する、とした(幸い、そのようにして回収されたものとほぼ断定できるサンプルが、実際に確認された)。2010年6月13日に地球へ帰還し、サンプル容器を納めたカプセルが回収されて容器内の微粒子の回収と分析がおこなわれ、同年11月16日には、回収された微粒子のほとんど全てがイトカワ由来であることが発表された。これは世界初の小惑星からのサンプルリターンである。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2004年に打ち上げられたロゼッタは、2008年に (2867) シュテインス、2010年に (21) ルテティアへの接近観測を行った。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2007年に打ち上げられたドーンは、2011年に (4) ベスタの周回軌道に乗って観測を行い、2012年にベスタの軌道を離脱した。2015年には (1) ケレス周回軌道に到達し、2017年現在でも近接探査が続けられている。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2014年12月には「はやぶさ」の後継機となるはやぶさ2が打ち上げられた。2018年6月に探査目標であるリュウグウに到着、2018年9–10月に探査機器を表面に下ろしたほか、2019年2月には第1回タッチダウン、2019年7月には第2回のタッチダウンを実施、サンプル採取を試みた。この間2019年4月には、天体に衝突体をぶつけてクレーターを生成する爆破探査も実施した。2019年11月にリュウグウを離脱、2020年12月に地球に帰還カプセルを戻した。帰還カプセルの中には小惑星由来と考えられる物質が大量に入っていた。2021年7月現在、詳細な分析が開始されている。なお、本体は別の小惑星への探査を実施する予定であり、2031年7月に1998 KY36という小惑星に到達することを目指している。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2016年にはアメリカの小惑星探査機オシリス・レックス(オサイレス・レックス、オサイリス・レックスとも)が打ち上げられた。目標とする小惑星はベンヌで、2018年12月に到着、2020年10月にサンプル採取を実施し成功した。2021年4月に小惑星を離脱、2023年9月に地球帰還予定である。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "その他にも、彗星探査機などにより比較的遠距離からの、もしくは不鮮明な小惑星の映像がいくつか撮影されている。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2021年現在、ルーシー (2021年10月打ち上げ予定)、DART (2021年11月打ち上げ予定)、サイキ (2022年8月打ち上げ予定)が準備中である。また、マルコ・ポーロなどの小惑星探査計画が検討中である。さらにドン・キホーテという計画では、小惑星にインパクターを衝突させる構想である。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アメリカではコンステレーション計画の中止後、2010年4月にオバマ大統領の発表した新宇宙政策の中で有人小惑星探査「小惑星イニシアチブ」が検討されたが、2017年になり中止となっている。",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "中止または他の目標に変更されたもの",
"title": "探査の歴史"
},
{
"paragraph_id": 50,
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"text": "地球の上空には小惑星などの多数の天体が通過している。これらの中には地球に接近し大気圏で燃え尽きることなく落下するものもあり、2013年のチェリャビンスク州の隕石落下では多くのけが人を出した。2018年12月18日には直径約10mの小惑星がベーリング海上空およそ26.5km(成層圏)で爆発したが、そのエネルギーは1945年に広島に投下された原子爆弾のエネルギーの約10倍といわれている。",
"title": "地球への危険"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "地球にとって特に危険性が高く深刻な影響を与える天体は直径が150mを超える天体とされている。",
"title": "地球への危険"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ユカタン半島にあるチュクシュルーブ・クレーターの調査から、約6550万年前に秒速10–20kmの速度で衝突した直径10kmの小惑星は、大型の恐竜を全滅させたと考えられている。クレーターは直径150 km、深さ30 km。周辺はマグニチュード11規模の地震と大規模の火災が発生し、海に落ちたために生じた津波は高さ300mと推定される。さらに、衝突で巻き上げられた塵が成層圏やその上の中間圏に及んで漂い、数ヶ月から数年間太陽光線を遮り、植物など光合成生物の死滅に端を発し生物全体の70%が滅んだと推測される。",
"title": "地球への危険"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "直径10km規模の小惑星衝突は1億年に1回程の頻度で起こると考えられる。直径1kmの小惑星衝突でも地球規模の気候に変動を与えると考えられ、その頻度は100万年に1回程と推定される。これより小規模な衝突は影響こそ限定的になるが、その反面頻度は上昇する。直径1.2kmのバリンジャー・クレーターを作った隕石は直径50m規模であったが、頻度は1000年に1回程あると考えられる。",
"title": "地球への危険"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "地球の公転軌道より1.3天文単位以内を通過する公転周期200年未満の小惑星はNEA(Near Earth Asteroid, 地球近傍小惑星)といい、2012年11月1日現在で9252個が確認されている。その中でも、地球に0.05天文単位(約750万km)以下に近づく公転軌道を通り、直径が150m以上と考えられる小惑星はPHA(Potentially Hazardous Asteroid, 潜在的に危険な小惑星)と呼ばれ、1343個が該当する。しかもNEAは惑星重力の影響を受けやすいため、公転軌道は急に変化して予測どおりにならない可能性が高い。",
"title": "地球への危険"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "NEAと、やはり衝突が懸念される彗星(Near Earth Comet, NEC)と合わたNEO(Near Earth Object, 地球近傍天体)を監視する計画は、NASAとアメリカ空軍、マサチューセッツ工科大学の共同によるLINEAR(Lincoln Near Earth Asteriod Research)、アリゾナ大学のSpace WatchとCatarina Sky Survey、NASAジェット推進研究所のNEAT(Near-Earth Asteroid Tracking)、ローウェル天文台のLONEOS(Lowell Observatory Near-Earth-Object Search)、ハワイ大学のPan-STARRAS(Panoramic Survey Telescope And Rapid Response Syastem)などがあり、日本でも美星スペースガードセンターが観測を行っている。このように多くの観測体制が敷かれる理由は、そもそもNEOが非常に観測しにくいことが背景にある。しかも現在、昼間に観測することは事実上不可能である。",
"title": "地球への危険"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "小惑星の衝突に備えて小惑星を破壊したり進路を変えさせたりする研究も進められている。",
"title": "地球への危険"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "しかし、小惑星の衝突を回避する技術は現在の科学技術では達成しておらず、現存するロケットを衝突させて軌道を変える方法でも、直径100m以下の小惑星でしか効果がないと考えられている。NASAのDARTやESAの「ドン・キホーテ計画」など有効な回避法がさまざまに模索されているが、いまだ研究段階にあり効果はわかっていない。",
"title": "地球への危険"
}
] | 小惑星は、太陽系小天体のうち、星像に拡散成分がないものの総称。拡散成分(コマやそこから流出した尾)があるものは彗星と呼ばれる。 | {{太陽系の天体の分類}}
[[ファイル:Asteroid Belt ja.svg|right|200px|thumb|'''小惑星帯''' 小惑星は主として[[火星]]軌道と[[木星]]軌道の中間に分布する。このほか、木星軌道上の太陽から見て木星に対して前後60度の位置に[[トロヤ群]]と呼ばれる小惑星の集まりが存在する。図の単位は[[光年|光分]](左)と[[天文単位]](右)。]]
[[ファイル:Asteroid_size_comparison.jpg|right|200px|thumb|'''小惑星の形と大きさ''' 近接探査が行われた[[ガスプラ (小惑星)|ガスプラ]]、[[エロス (小惑星)|エロス]]、[[イダ (小惑星)|イダ]](中段左から中央、左上は拡大したもの)、唯一地球から肉眼で目視できる[[ベスタ (小惑星)|ベスタ]](中央右寄り)、[[小惑星帯]]では最大の天体であり、最初に発見された小惑星でもあった[[ケレス (準惑星)|ケレス]](右)、そして火星(下)。小さな物ほど不規則な形状になっている。]]
[[ファイル:Asteroid proper elements i vs a.png|right|thumb|200px|メインベルト小惑星の分布。縦軸は軌道傾斜角。]]
[[ファイル:Main belt i vs a.png|right|thumb|200px|軌道長半径 6 AU までの小惑星の分布。縦軸は軌道傾斜角。赤い点はメインベルト小惑星。]]
'''小惑星'''(しょうわくせい、[[ドイツ語|独]]: [[英語|英]]: Asteroid)は、[[太陽系小天体]]のうち、星像に拡散成分がないものの総称。拡散成分([[コマ (彗星)|コマ]]やそこから流出した尾)があるものは[[彗星]]と呼ばれる。
== 概要 ==
[[ウィリアム・ハーシェル]]によって、(当時の)[[望遠鏡]]で見ると[[恒星]]のように見えることから、ギリシャ語の {{lang|el|αστηρ}}(aster:恒星)と {{lang|el|ειδος}}(eidos:姿、形)から'''アステロイド'''「asteroid:恒星のようなもの」と命名された。[[太陽系]]内の[[惑星]]より小さな天体であることから「minor planet:小さな惑星」、「planetoid:惑星のようなもの」などとも呼ばれた。
現在では[[岩石]]を主成分とするものを「asteroid」と称し、「minor planet」は「asteroid」に加え、[[太陽系外縁天体]]、[[彗星・小惑星遷移天体]]や[[準惑星]]などを含んだ天体の総称とされているが、「minor planet」も「asteroid」も日本語ではどちらも「小惑星」と訳される(たとえば、[[小惑星番号]]は「minor planet」の番号のことであり、「asteroid」には含まれない準惑星などにも割り当てられる)。
その多くは[[火星]]と[[木星]]の間の軌道を公転しているが、[[地球]]付近を通過する可能性のあるものも存在する。[[21世紀]]初頭まで最大の小惑星であった (1) [[ケレス (準惑星)|ケレス]](Ceres:数字は小惑星番号。以下同様)でも地球の[[月]]よりはるかに小さい。
また、惑星や衛星のような球形をしているのはケレスなどごく一部の大型の小惑星のみで、大半は丸みを帯びた不定形である。
== 位置と数 ==
=== 位置 ===
すでに個体識別されている小惑星のほとんどは、木星軌道と火星軌道の間に存在し、太陽からの距離が約2–4天文単位の範囲に集まっている。この領域を[[小惑星帯]] (asteroid belt) と呼ぶ。現在では太陽系外縁部の[[エッジワース・カイパーベルト]]と区別するために'''メインベルト''' (main belt) とも呼ばれる。小惑星は木星の摂動によって、いくつかの群をなして運動する。各群はその公転周期にしたがって分類される。群の中で特に注目されるのが、[[トロヤ群]](周期約12年)と呼ばれる小惑星群であり、これは太陽と木星との間を一辺とする正三角形の一頂点、すなわち両天体の系での[[ラグランジュ点]]に位置することが知られている。なお、トロヤ群の名は、この群で最初に発見された小惑星 (588) [[アキレス (小惑星)|アキレス]] (Achilles) にちなむ。
[[1990年代]]以降は (50000) [[クワオアー]] (Quaoar) や (90377) [[セドナ (小惑星)|セドナ]] (Sedna) といった、エッジワース・カイパーベルトや、さらにその外側にある '''trans-Neptunian objects'''([[太陽系外縁天体]]、'''TNO''')が続々と発見されるようになった。これらはメインベルトの小惑星 (asteroid) とは起源が異なると考えられているが、同様に小惑星 (Minor planet) として登録されている。エッジワース・カイパーベルトの総質量は[[地球質量]]より一桁少ない程度であり<ref>Brett Gladman, J. J. Kavelaars, Jean-Marc Petit, Alessandro Morbidelli1, Matthew J. Holman, and T. Loredo [https://doi.org/10.1086%2F322080 The Structure of the Kuiper Belt: Size Distribution and Radial Extent] The Astronomical Journal, Vol.122, No.2 (2001)</ref>、メインベルトの総質量より大きいと推定されている。
=== 数 ===
[[2019年]][[5月]]現在、軌道が確定して[[小惑星番号]]が付けられた天体は541,128個にのぼる([[準惑星]]5個を含む。[[小惑星の一覧]]参照)。この他に[[仮符号]]のみが登録されている小惑星で、複数の[[衝]]を観測されたものが145,378個、1回の衝を観測されたものが106,326個あり、これらを合計すると794,832個に達する。番号登録されたもののうち、すでに命名されたのは21,922個である[https://minorplanetcenter.net/iau/lists/ArchiveStatistics.html]。
直径1km程度、ないしそれ以下の小惑星については未発見のものが数十万個あると推測されている。
軌道が確定した小惑星数の増え方については[[小惑星番号]]を参照。
なお、[[2021年]][[7月3日]]までに[[地球近傍小惑星]]は仮符号のみのものを含めて26,141個<ref name="CNEOS">{{Cite web | url=https://cneos.jpl.nasa.gov/stats/totals.html | title=Discovery Statistics | author=Center for Near Earth Object Studies, Jet Propulsion Laboratory, NASA | accessdate=2021-07-06}}</ref>、[[ケンタウルス族 (小惑星)|ケンタウルス族]]を含む[[太陽系外縁天体]]は同じく1,379個(準惑星4個を含む)が発見されている(『[[天文年鑑]]』2010年版)。
== 歴史 ==
[[1781年]]の[[天王星]]発見当時、[[ティティウス・ボーデの法則]]から、火星と木星の間に未知の惑星を探索する試みが行われた。[[1801年]]に (1) [[ケレス (準惑星)|ケレス]]が発見されたが、翌[[1802年]]に (2) [[パラス (小惑星)|パラス]]、[[1804年]]に (3) [[ジュノー (小惑星)|ジュノー]]、[[1807年]]には (4) [[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]と、同じような位置に天体が相次いで発見されたこと、またいずれも惑星と呼ぶにはあまりに小さいことから、やがて惑星とは区別されるようになった。小惑星 (asteroid) という語は、[[1853年]]初めに考え出された。
[[2006年]]8月に[[プラハ]]で開かれた[[国際天文学連合]] (IAU) 総会で[[国際天文学連合による惑星の定義|惑星の定義]]が採択された結果、それまで惑星とされていた[[冥王星]]および小惑星とされていたケレスと{{mp|2003 UB|313}}([[エリス (準惑星)|エリス]])が '''dwarf planet'''([[準惑星]])に変更され、さらに小惑星のうち十数個が将来的に dwarf planet に変更される可能性があると考えられるようになった([[2008年]]には、新たに[[マケマケ (準惑星)|マケマケ]]と[[ハウメア (準惑星)|ハウメア]]が dwarf planet に変更されている)。また小惑星はTNOや[[彗星]]とともに '''small solar system bodies''' ([[太陽系小天体]]、'''SSBO''') というカテゴリーに包括されることになった。
これを受けて、[[日本学術会議]]の小委員会は[[2007年]]4月9日の[https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-20-t35-1.pdf 対外報告(第一報告)]において、dwarf planet, TNO, SSBO の訳語としてそれぞれ「[[準惑星]]」「[[太陽系外縁天体]]」「[[太陽系小天体]]」の使用を推奨することを提言した。なお、準惑星については当面の間、教育現場などでは積極的な使用を推奨しない方針。
{{main|惑星#日本学術会議の対外報告}}
== 起源 ==
メインベルトの[[軌道要素|軌道長半径]]がティティウス・ボーデの法則にほぼ合致するため、昔この位置にあった惑星が何らかの原因で破壊されて小惑星帯が作られたとする惑星破壊説が唱えられたこともあったが、メインベルトの小惑星の質量を合計しても惑星の質量には到底達しないことなどから、現在は支持されていない。またすべての小惑星が同一の起源を持つわけではなく、かつて彗星であったものなども含まれると考えられる。一方で、[[火星]]の衛星[[フォボス (衛星)|フォボス]]と[[ダイモス (衛星)|ダイモス]]など、かつては小惑星だったものが他の天体に把捉されてその衛星となったと考えられている天体も存在する。
メインベルトにある小惑星発生には2つの要素が働いたと考えられる。1つは太陽系形成時にこの付近にダスト成分が少なかったことがある。通常原始太陽系円盤は内側から外側に向けてガスや塵が少なくなるが、メインベルト付近から外は[[水]]などの[[揮発]]成分が凍るため内側よりも[[固体]]成分が多くなり、結果的にメインベルト領域が固体存在量が最も少なくなる。もう1つは木星が先に形成された影響がある。[[巨大ガス惑星]]の木星が及ぼす[[重力]]によってメインベルト付近の微惑星の軌道が乱され、相対的な[[速度]]差が大きくなり、合体よりも破壊される傾向が強まったという<ref>{{Cite book|和書|author = 編:岡村定矩|title = 天文学への招待|year = 2001|publisher = [[朝倉書店]]|series = |isbn = 4-254-15016-4|page = |chapter=2.太陽系、2.1.3.太陽系小天体の起源、a.小惑星の起源 |ref = }}</ref>。
== 命名規則 ==
小惑星の名前については、現在では天体の中で唯一、発見者に命名提案権が与えられている。
まず、新天体と思われる天体を2夜以上にわたって位置観測し、その観測結果が[[小惑星センター]] (Minor Planet Center, MPC) に報告されると、発見順に'''[[仮符号]]'''が与えられる。 仮符号は以下の書式に従う英数字からなる [https://minorplanetcenter.net//iau/info/OldDesDoc.html]。
* 4桁の数字:発見年を表す。
* 空白
* アルファベット (A-Y):発見時期(月の前後半)を表す。
* アルファベット (A-Z) + 数字:発見時期内での発見順を表す。
{{main|仮符号#小惑星}}
仮符号を付けられた天体は既知の天体との軌道の同定作業が行われる。最終的に軌道が確定して新天体だと確認されると、[[小惑星番号]]が与えられた上で命名される。
発見者(すでに死去している場合は軌道確定のための計算を行った者)によって提案された新小惑星の名前は IAU の小天体命名委員会によって審査される。名前は[[ラテン語]]化するのが好ましいというのが世界的な暗黙の了解事項であるが、現在ではそうでないものも多い。その他にも、「発音可能な英文字で16文字以内であること」、「公序良俗に反するもの、ペットの名前<ref group="注">実例としては[[ミスター・スポック (小惑星)|ミスター・スポック]]を参照。</ref>、すでにある小惑星と紛らわしい名前<ref group="注">一部例外あり。[[名前が重複している太陽系内の天体]]を参照。</ref>は付けられない」、「政治・軍事に関連する事件や人物の名前は没後100年以上経過し評価が定まってからでないとつけられない」、「命名権の売買は禁止<ref group="注">[[1886年]]に発見された (250) [[ベティーナ (小惑星)|ベティーナ]]のみで、以降禁止。</ref>」などの基準がある[https://minorplanetcenter.net//iau/info/HowNamed.html]。
なお、トロヤ群は[[トロイア戦争]]に参加した戦士<ref group="注">21世紀初頭にはネタ切れのため、本人ではなく肉親が参戦した人物の名前も付けられるようになっている。</ref>の中から、[[ケンタウルス族 (小惑星)|ケンタウルス族]]([[#ケンタウルス族|後述]])には[[ケンタウロス]]族の名前、[[太陽系外縁天体]]には各民族などの創世神話から命名を行うという規則がある<ref group="注">(66652) [[ボラシシ (小惑星)|ボラシシ]]はSF小説の作品中に登場する架空の神話から命名された。また、(174567)Varda、(385446)Manweは[[指輪物語]]の神格から命名された。</ref>。
また、人名については、かつては「姓・名」を分けて命名できた((3744) [[ジャック・ロンドン (小惑星)|ジャック・ロンドン]] (Jack London) など)が、21世紀初頭には姓と名を結合した命名が為されている((79896) [[ビルヘイリー (小惑星)|ビルヘイリー]] (Billhaley) など)。また、別々の小惑星に命名提案された人名を結合するケースなども見られる。
近年では、ほぼ同じ大きさの[[二重小惑星]]に命名する際に、それぞれの天体に付けた名前をハイフンで結合して小惑星名とするケースが見られる。例としては、(79360)Sila-Nunam([[:en:79360 Sila–Nunam|en]])、(341520)Mors-Somnus([[:en:341520 Mors–Somnus|en]])がある。
基本的には、一度命名した小惑星名は変更できないことになっているが、何らかの問題が生じた際には例外的に変更された例がいくつかある。
{{main|小惑星番号#例外}}
また、申請の際に名前の綴りが変更されることがある。
=== 表記 ===
小惑星名を[[日本語]]で表記する方法は、メディア等によってまちまちである。[[片仮名]]もしくは[[アルファベット]]で表記する場合もあり、[[日本]]や[[中華人民共和国]]など、[[漢字文化圏]]に因んで命名された小惑星に関しては、[[漢字]]表記する場合もある。
=== 命名の歴史 ===
当初は他の惑星と同じように、小惑星に対しても[[ローマ神話]]の神の名が与えられていた。やがて小惑星が多数見つかるようになると、他の神話の神や文学作品の登場人物、あるいは実在した人物や地名なども用いられるようになった。なお、初期に見つかった小惑星に[[女神]]の名が付けられたことから、男性の名前でも女性化して命名されていた。<!-- 詳しい経緯等追加求む。 -->例としては (511) [[ダビダ (小惑星)|ダビダ]]([[デイヴィッド・ペック・トッド|デイヴィッド・トッド]] ('''David''' Tod) →David'''a''')などがある。そして、[[1896年]]に最初の[[地球近傍小惑星|地球軌道に接近する]]小惑星、[[1906年]]に最初の[[トロヤ群]]小惑星が発見されると、それらのように特異な軌道を持つ小惑星には男性名(神または英雄など)が付けられることになった(上記の2個はそれぞれ (433) [[エロス (小惑星)|エロス]]、(588) [[アキレス (小惑星)|アキレス]]と命名された)。その後、小惑星の数が更に増加するにつれて名前の数が足りなくなる恐れが出てきたため、比較的自由な命名が許されるようになった。
[[第二次世界大戦]]後、[[アメリカ合衆国]]内に[[小惑星センター]]が設立され、小惑星および彗星の観測記録や番号登録、命名などを小惑星回報 ([[:en:Minor Planet Circular|MPCs]]) として公表するようになり(戦前は[[ベルリン]]に同様の業務を行う機関があったが、詳細は不明)、後に電子化 ([[:en:Minor Planet Electronic Circular|MPECs]]) されている。しかし、すでに発見された小惑星との軌道の同定に手間取ることが多く、加えて[[20世紀]]末に小惑星の発見数が急増すると、提案された名前を審査するのが追いつかなくなり、固有名を付けるのをやめようという意見まで出るに至った。[[2003年]]、[[国際天文学連合]]総会第20委員会において、発見者1人当たり1ヶ月に1個以上の命名提案を控えるよう求めることが決定された。ただしそれは絶対ではなく、適切な理由があれば複数同時提案も認められる。例えば2012年には、[[東日本大震災]]で大きな被害を受けた地域に由来する小惑星の命名が、同一発見者の小惑星12個に対して同時にされたことがある<ref group="注">命名された小惑星は番号順に[[会津 (小惑星)|会津]]・[[宮城 (小惑星)|宮城]]・[[岩手 (小惑星)|岩手]]・[[青森 (小惑星)|青森]]・[[茨城 (小惑星)|茨城]]・[[栃木 (小惑星)|栃木]]・[[千葉県 (小惑星)|千葉県]]・[[浜通り (小惑星)|浜通り]]・[[中通り (小惑星)|中通り]]・[[陸前高田 (小惑星)|陸前高田]]・[[栄村 (小惑星)|栄村]]・[[津南町 (小惑星)|津南町]]である。</ref>。その一方、小惑星番号が付いてから10年以内に名前を提案しないと、命名権を放棄したと見なされるという「10年ルール」<!--2003年以前からあったのは確かだが起源は不明-->も存在する。こうしたことから、発見数に比して命名された小惑星の割合はあまり多くない。
MPCsによって名前とその由来が公表されるようになったのは、小惑星番号にして概ね1500番台以降である。[[1998年]]末以降に命名された小惑星(3000番台から9000番台の一部と、10000番台以降のすべて)については、[[ジェット推進研究所]]の小天体データベースにほぼ例外なくMPECsの命名文が収録されている。Lutz D. Schmadel の“Dictionary of Minor Planet Names”([[2006年]]に第5版、[[2008年]]にその補遺が発行された)には、それまでに命名されたすべての小惑星が掲載されているが、MPCs以前に命名されたものについては由来が不明な場合もある。
== 分類 ==
=== 固有軌道要素による分類 ===
[[軌道長半径]]や[[離心率]]、[[軌道傾斜角]]など、類似した{{仮リンク|固有軌道要素|en|Proper orbital elements}}を持つ小惑星の集団を「族」(family)と呼ぶ。<!--英語では代表的な小惑星名などの後に「family」ないし「asteroids」を付けるか、小惑星名自体に接尾辞を付けた名称で呼ぶ。日本語では、[[木星]]より内側を公転するグループについては「~ family」を「族」、それ以外を「群」と訳し、木星以遠については([[海王星]]のトロヤ群を除き)一括して「族」と訳することが多い。-->
これらのグループは同一の[[母天体 (曖昧さ回避)|母天体]]([[微惑星|原始惑星]])が分裂して母天体に近い軌道を回り続けているものや、木星などの引力の影響で一定範囲の軌道に集まったものと考えられており、基本的には前者を「family」と呼ぶ。
「family」を最初に発見したのは日本の[[平山清次]]であり、21世紀初頭までにメインベルトで数十の「family」が発見されている。外縁天体については、[[2007年]]に{{mp|2003 EL|61}}(後の[[ハウメア (準惑星)|ハウメア]])を含む「family」が存在する可能性が報告された。
; メインベルト小惑星
: [[木星]]との[[軌道共鳴|共鳴]]により、小惑星が分布しない[[カークウッドの空隙]]などを境界に、いくつかの族 (family) に分類されている。表は代表的な族のみ。
:{|class="wikitable"
! 族 !! [[軌道長半径]]<br />([[天文単位|AU]]) !! [[離心率]] !! [[軌道傾斜角]]<br />([[度 (角度)|°]]) !! 代表的な<br />小惑星
|-style="text-align:center"
| [[フローラ族]] || 2.15–2.35 || 0.03–0.23 || 1.5–8.0 || (8) [[フローラ (小惑星)|フローラ]]
|-style="text-align:center"
| [[ベスタ族]] || 2.26–2.48 || 0.03–0.16 || 5.0–8.3 || (4) [[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]
|-style="text-align:center"
| [[マッサリア族]] || 2.37–2.45 || 0.12–0.21 || 0.4–2.4 || (20) [[マッサリア (小惑星)|マッサリア]]
|-style="text-align:center"
| [[ニサ族]] || 2.41–2.5 || 0.12–0.21 || 1.5–4.3 || (44) [[ニサ (小惑星)|ニサ]]
|-style="text-align:center"
| [[マリア族]] || 2.5–2.706 || 0.057–0.16 || 12–17 || (170) [[マリア (小惑星)|マリア]]
|-style="text-align:center"
| [[エウノミア族]] || 2.53–2.72 || 0.08–0.22 || 11.1–15.8 || (15) [[エウノミア (小惑星)|エウノミア]]
|-style="text-align:center"
| [[パラス族]] || 2.71–2.79 || 0.25–0.31 || 32–34 || (2) [[パラス (小惑星)|パラス]]
|-style="text-align:center"
| [[ゲフィオン族]] || 2.74–2.82 || 0.08–0.18 || 7.4–10.5 || (1272) [[ゲフィオン (小惑星)|ゲフィオン]]
|-style="text-align:center"
| [[コロニス族]] || 2.83–2.91 || 0–0.11 || 0–3.5 || (158) [[コロニス (小惑星)|コロニス]]
|-style="text-align:center"
| [[エオス族]] || 2.99–3.03 || 0.01–0.13 || 8–12 || (221) [[エオス (小惑星)|エオス]]
|-style="text-align:center"
| [[ヒギエア族]] || 3.06–3.24 || 0.09–0.19 || 3.5–6.8 || (10) [[ヒギエア (小惑星)|ヒギエア]]
|-style="text-align:center"
| [[テミス族]] || 3.08–3.24 || 0.09–0.22 || 0–3 || (24) [[テミス (小惑星)|テミス]]
|-style="text-align:center"
| [[キュベレー族]]<!--キュベレー群(共鳴小惑星)の方か?--> || || || || (65) [[キュベレー (小惑星)|キュベレー]]
|}
メインベルト以外の小惑星は特異小惑星と呼ばれる。
; [[軌道共鳴|共鳴]]小惑星
: 公転周期が惑星と整数比の軌道の中には、安定で、多くの小惑星が分布するものがある。[[トロヤ群]]は、惑星と太陽を頂点とする正三角形の第3の頂点、つまり[[ラグランジュ点]]のL<sub>4</sub>、L<sub>5</sub>点に位置する。
:{|class="wikitable"
! 群など !! 軌道<br />長半径<br />(AU) !! 公転<br />周期<br />(年) !! 惑星 !! 公転<br />周期<br />(年) !! 共鳴比 !! 備考
|-style="text-align:center"
| 地球の[[準衛星]] || 1.00 || 1.00 || [[地球]] || 1.00 || 1∶1 ||style="text-align:left"| 常に地球の近くに位置する。
|-style="text-align:center"
| [[火星のトロヤ群|火星トロヤ群]] || 1.52 || 1.88 || [[火星]] || 1.88 || 1∶1 ||style="text-align:left"| 太陽–火星のL4、L5点。
|-style="text-align:center"
| [[ハンガリア群]] || 1.85 || 2.52 || 火星 || 1.88 || 4∶3 ||
|-style="text-align:center"
| [[アリンダ族]]<!--群?--> || 2.50 || 3.95 || [[木星]] || 11.86 || 1∶3 ||style="text-align:left"| [[地球近傍小惑星]]でもある。
|-style="text-align:center"
| [[ヒルダ群]] || 3.97 || 7.91 || 木星 || 11.86 || 2∶3 ||style="text-align:left"| 木星と[[衝]]の頃、[[近日点]]通過<br />(木星に近づかない)。
|-style="text-align:center"
| [[チューレ (小惑星)|チューレ群]] || 4.28 || 8.90 || 木星 || 11.86 || 3∶4 ||style="text-align:left"| 2つのみ発見。
|-style="text-align:center"
| [[木星のトロヤ群|木星トロヤ群]] || 5.20 || 11.86 || 木星 || 11.86 || 1∶1 ||style="text-align:left"| 太陽–木星のL4、L5点。
|-style="text-align:center"
| [[海王星のトロヤ群|海王星トロヤ群]] || 30.11 || 164 || [[海王星]] || 164 || 1∶1 ||style="text-align:left"| 太陽–海王星のL4、L5点。
|}
{{小惑星の分類}}
; [[地球近傍小惑星]] (NEA)
: 地球軌道の近くを通るもの。いくつかのグループに分けられるが、特に上から3つを指すことが多い。
:; [[アテン群]] : 軌道長半径が1 AU以下で[[遠日点]]が0.983 AU以上のもの。
:; [[アポロ群]] : 軌道長半径が1 AU以上で[[近日点]]が1.017 AU以下のもの。
:; [[アモール群]] : 軌道長半径が1 AU以上で近日点が1.017 AU以上1.3 AU<ref group="注">この数値は、火星の近日点(1.381 AU)より少し内側。</ref>以下のもの。アポロ群とまとめて、アポロ・アモール天体ということもある。
:; アリンダ族 : 軌道長半径が約2.5 AUで離心率が0.4–0.65のもの。木星の公転周期の3分の1の公転周期を持ち、近日点は1 AUに近い。
:; [[ダモクレス族]] (Damocloid) : <!--地球付近を通過する-->長楕円軌道や、[[黄道]]平面から大きく傾いた軌道を取る。[[オールトの雲]]由来だと考えられている。
:; [[潜在的に危険な小惑星]](PHA) : 地球近傍小惑星の中でも特に衝突する可能性と衝突した場合の危険性が高い小惑星のこと。
; ○○横断小惑星
: 近日点と遠日点が、それぞれ対象となる惑星の公転軌道より内側と外側にある小惑星。地球近傍小惑星の多くは地球横断小惑星ということもできる。
:* [[水星横断小惑星]]
:* [[金星横断小惑星]]
:* [[地球横断小惑星]]
:* [[火星横断小惑星]]
:* [[木星横断小惑星]]
:* [[土星横断小惑星]]
:* [[天王星横断小惑星]]
:* [[海王星横断小惑星]]
; {{Visible anchor|[[ケンタウルス族 (小惑星)|ケンタウルス族]] (Centaur)|ケンタウルス族|Centaur|ケンタウルス族小天体}}
: 軌道長半径が30 AU以下。近日点は木星軌道から[[天王星]]軌道の間に、遠日点は[[土星]]軌道から海王星軌道の間にあるものが多い。木星などの[[摂動 (天文学)|摂動]]を受けやすく、軌道は不安定。彗星起源と考えられており、太陽系外縁天体に分類されることもある。
; [[逆行小惑星]]
: 軌道傾斜角が90度を超えるもの。ダモクレス族と重複するものも多い。
{{外縁天体の分類}}
太陽系外縁天体も、いくつかのグループに分かれている。
; [[エッジワース・カイパーベルト天体]] (EKBO)
:; [[軌道共鳴|共鳴]]TNO
::; 3∶4共鳴天体 : 軌道長半径が36–36.4 AUで、[[海王星]]の公転周期(166.5年)の4/3倍の周期を持つもの。
::; [[冥王星族]](Plutino、2∶3共鳴天体) : 軌道長半径が39–40.5 AUで、海王星の公転周期の3/2倍の周期を持つもの。
::; 3∶5共鳴天体 : 軌道長半径が42–42.5 AUで、海王星の公転周期の5/3倍の周期を持つもの。
::; [[トゥーティノ族]](Twotino、1∶2共鳴天体) : 軌道長半径が48.0–48.5 AUで、海王星の公転周期の2倍の周期を持つもの。
::; その他の共鳴天体 : 海王星と4∶7、3∶7、2∶5、3∶8、1∶3などの共鳴関係にあるかもしれない外縁天体が見つかっている。
:; [[キュビワノ族]](Cubewano、古典的TNO) : 軌道長半径が41 AU以上で、[[離心率]]が0.15以下のもの。
; [[散乱円盤天体]] (SDO)
: 離心率が大きく、遠日点ではエッジワース・カイパーベルトの外縁を超えるもの。
; さらに遠くの軌道を回る天体
: E-SDO<!--まだ定訳はない模様。「拡張散乱円盤天体」あたりか-->、[[内オールトの雲]]天体など。分類は進んでいない。
他にも多くの族・群がある ([[:en:Category:Asteroid groups and families<!-- [[:ja:Category:小惑星族]] とリンク -->|Asteroid groups and families]])。
=== スペクトルによる分類 ===
{{Main|小惑星のスペクトル分類}}
小惑星は[[色]]、[[アルベド]](反射能)、[[スペクトル]]によって大きく3種類に[[分類]]される。
* [[C型小惑星]] : [[炭素]]質。発見されている小惑星の75%がここに含まれる。
* [[S型小惑星]] : [[ケイ素]]質。ケイ酸塩が主成分。発見されている小惑星の17%がここに含まれる。
* [[M型小惑星]] : [[金属]]質。[[ニッケル]]と[[鉄]]が主成分。
上記3つのサブグループに相当する型や、それら以外のマイナーな型も存在する。
=== その他の分類 ===
* [[彗星・小惑星遷移天体]]
* [[小惑星の衛星]]
** [[二重小惑星]](連小惑星)
** [[小惑星の衛星#接触二重小惑星|接触二重小惑星]](接触連小惑星)
** [[小惑星の衛星#ラブルパイル|ラブルパイル]](破砕集積体)
== 探査の歴史 ==
[[太陽系の形成と進化|惑星形成論]]の研究や、将来的な資源利用への布石として、小惑星探査が進められている。
望遠鏡でも点状にしか見えないため、[[1990年代]]に入るまで、小惑星の研究は軌道の確定や光度の測定に留まり、その姿については想像の域を出なかった。しかし、恒星[[星食|食]]による形状の推定、[[ハッブル宇宙望遠鏡]]などの高性能の望遠鏡による観察や[[レーダー]]測定により、大きさや形状など、その姿が徐々に明らかになってきた。
そして、[[1989年]]に打ち上げられた木星探査機[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]により、[[1991年]]に (951) [[ガスプラ (小惑星)|ガスプラ]]、[[1993年]]に (243) [[イダ (小惑星)|イダ]]の映像が撮影され、人類は初めて小惑星の鮮明な映像を目にした。なお、ガリレオはイダに初めて[[衛星]]を発見し、[[ダクティル (衛星)|ダクティル]]と名づけられた。その後も、主に地上での観測により170個以上([[2010年]]現在)の小惑星に衛星の存在が確認されている([[小惑星の衛星]]参照)。
[[1996年]]に打ち上げられた[[NEARシューメーカー]]は、[[1997年]]に (253) [[マティルド (小惑星)|マティルド]]、[[2000年]]に (433) [[エロス (小惑星)|エロス]]の映像を撮影し、探査機はエロスの周回軌道に乗った後に着陸を果たした。
[[2003年]]に打ち上げられた日本の探査機[[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]]は、[[2005年]]に (25143) [[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]へ到達、至近距離からの詳細な観測を行った。はやぶさはイトカワに、計画通りではなかったが接地し、その後離脱した。サンプル採取については、操作ミスにより、送られた命令列中に弾丸発射命令が存在していなかったため、サンプルホーンの接触により微粒子状の対象が舞い上がったものが回収されていることを期待する、とした(幸い、そのようにして回収されたものとほぼ断定できるサンプルが、実際に確認された)。[[2010年]][[6月13日]]に地球へ帰還し、サンプル容器を納めたカプセルが回収されて容器内の微粒子の回収と分析がおこなわれ、同年11月16日には、回収された微粒子のほとんど全てがイトカワ由来であることが発表された<ref name="JAXA20101116">{{Cite web|和書|url=https://www.jaxa.jp/press/2010/11/20101116_hayabusa_j.html|title=JAXA|はやぶさカプセル内の微粒子の起源の判明について|publisher=ISAS/JAXA|date=2010-11-16|accessdate=2010-11-16}}</ref>。これは世界初の小惑星からの[[サンプルリターン]]である。
[[2004年]]に打ち上げられた[[ロゼッタ (探査機)|ロゼッタ]]は、[[2008年]]に (2867) [[シュテインス (小惑星)|シュテインス]]、2010年に (21) [[ルテティア (小惑星)|ルテティア]]への接近観測を行った。
[[2007年]]に打ち上げられた[[ドーン (探査機)|ドーン]]は、[[2011年]]に (4) [[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]の周回軌道に乗って観測を行い、[[2012年]]にベスタの軌道を離脱した。[[2015年]]には (1) [[ケレス (準惑星)|ケレス]]周回軌道に到達し、[[2017年]]現在でも近接探査が続けられている。
[[2014年]]12月には「はやぶさ」の後継機となる[[はやぶさ2]]が打ち上げられた。2018年6月に探査目標である[[リュウグウ (小惑星)|リュウグウ]]に到着、[[2018年]]9–10月に探査機器を表面に下ろしたほか、[[2019年]]2月には第1回タッチダウン、2019年7月には第2回のタッチダウンを実施、サンプル採取を試みた。この間2019年4月には、天体に衝突体をぶつけてクレーターを生成する爆破探査も実施した。2019年11月にリュウグウを離脱、[[2020年]]12月に地球に帰還カプセルを戻した。帰還カプセルの中には小惑星由来と考えられる物質が大量に入っていた。2021年7月現在、詳細な分析が開始されている。なお、本体は別の小惑星への探査を実施する予定であり、2031年7月に1998 KY36という小惑星に到達することを目指している。
2016年にはアメリカの小惑星探査機[[オサイリス・レックス|オシリス・レックス]](オサイレス・レックス、オサイリス・レックスとも)が打ち上げられた。目標とする小惑星は[[ベンヌ (小惑星)|ベンヌ]]で、[[2018年]]12月に到着、2020年10月にサンプル採取を実施し成功した。2021年4月に小惑星を離脱、2023年9月に地球帰還予定である。
その他にも、彗星探査機などにより比較的遠距離からの、もしくは不鮮明な小惑星の映像がいくつか撮影されている。
2021年現在、[[ルーシー (探査機)|ルーシー]] (2021年10月打ち上げ予定)、[[DART (探査機)|DART]] (2021年11月打ち上げ予定)、[[サイキ (宇宙機)|サイキ]] (2022年8月打ち上げ予定)が準備中である。また、[[マルコ・ポーロ (探査機)|マルコ・ポーロ]]などの小惑星探査計画が検討中である。さらに[[ドン・キホーテ (探査機)|ドン・キホーテ]]という計画では、小惑星にインパクターを衝突させる構想である。
アメリカでは[[コンステレーション計画]]の中止後、2010年4月に[[バラク・オバマ|オバマ大統領]]の発表した新宇宙政策<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.planetary.or.jp/HotTopics/topics100421_1.htm|title=オバマ大統領、米国の新宇宙政策を発表|publisher=日本惑星協会|date=2010-04-21|accessdate=2010-05-30}}</ref>の中で有人小惑星探査「小惑星イニシアチブ」が検討されたが、2017年になり中止となっている。
=== これまでに行われた近接探査 ===
* [[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]] : (951) [[ガスプラ (小惑星)|ガスプラ]]、(243) [[イダ (小惑星)|イダ]]
* [[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]] : (2685) [[マサースキー (小惑星)|マサースキー]]
* [[NEARシューメーカー]] : (253) [[マティルド (小惑星)|マティルド]]、(433) [[エロス (小惑星)|エロス]]
* [[ディープ・スペース1号]] : (9969) [[ブライユ (小惑星)|ブライユ]]
* [[スターダスト (探査機)|スターダスト]] : (5535) [[アンネフランク (小惑星)|アンネフランク]]
* [[はやぶさ (探査機)|はやぶさ]] : (25143) [[イトカワ (小惑星)|イトカワ]]
* [[ニュー・ホライズンズ]] : (132524) [[APL (小惑星)|APL]]、(486958) [[(486958) 2014 MU69|2014 MU<sub>69</sub>]]
* [[ロゼッタ (探査機)|ロゼッタ]] : (2867) [[シュテインス (小惑星)|シュテインス]]、(21) [[ルテティア (小惑星)|ルテティア]]
* [[ドーン (探査機)|ドーン]] : (4) [[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]、(1)[[ケレス (準惑星)|ケレス]]
* [[嫦娥2号]] : (4179) [[トータティス_(小惑星)|トータティス]]
* [[はやぶさ2]] : (162173) [[リュウグウ (小惑星)|リュウグウ]]
* [[オサイリス・レックス|オサイリス・レックス (オシリス・レックス)]] : (101955) [[ベンヌ (小惑星)|ベンヌ]]
=== 今後行われる近接探査 ===
* [[DART (探査機)|DART]] : [[地球近傍天体]]への衝突実験。(65803) [[ディディモス (小惑星)|ディディモス]]を周回する衛星[[ディモーフォス (衛星)|ディモーフォス]]へのインパクター打ち込みおよび軌道偏向の観測。2022年9月到達予定。
* [[ルーシー (探査機) | ルーシー]] : [[木星のトロヤ群|木星トロヤ群]]小惑星探査。2027年に (3548) [[エウリュバテス]]、(15094) ポリメレ、(11351) リュークス、(21900) オラス (フライバイ)、その後2033年に [[パトロクロス (小惑星)|(617) パトロクロス]]及びその衛星である[[メノイティオス (衛星)|メノイティオス]]を探査(フライバイ)。2025年に小惑星帯の (52246) ドナルドヨハンソンを探査する可能性もある(フライバイ)。
* [[サイキ (宇宙機)|サイキ]] : [[プシケ (小惑星)|(16) プシケ]]を周回 (到達は2026年予定)
* [[はやぶさ2]] : {{mpl|1998 KY|26}}((162173) [[リュウグウ (小惑星)|リュウグウ]]のサンプルリターン後の拡張ミッションとして実施予定)
=== 計画が存在する近接探査 ===
* [[マルコ・ポーロ (探査機)|マルコ・ポーロ]] : (107P/ 4015) [[ウィルソン・ハリントン彗星|ウィルソン・ハリントン]]
* [[ドン・キホーテ (探査機)|ドン・キホーテ]] : 未定
=== 実現しなかった近接探査 ===
中止または他の目標に変更されたもの
* [[クレメンタイン (探査機)|クレメンタイン]] : (1620) [[ジオグラフォス (小惑星)|ジオグラフォス]]
* ディープ・スペース1号 : (107P/ 4015) ウィルソン・ハリントン、{{mpl|1999 KK|1}}
* ロゼッタ : (4979) Otawara、(140) [[シワ (小惑星)|シワ]]
* はやぶさ : (4660) [[ネレウス (小惑星4660番)|ネレウス]]、[[(10302) 1989 ML]]
== 地球への危険 ==
=== 衝突の可能性 ===
{{main|隕石衝突}}
地球の上空には小惑星などの多数の天体が通過している<ref name="afp20190320-2">{{Cite news|date=2019-03-20|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3216700?page=2|title=直径10メートルの小惑星飛来、ベーリング海上空で爆発|page=2|publisher= AFP|accessdate=2019-03-21}}</ref>。これらの中には地球に接近し大気圏で燃え尽きることなく落下するものもあり、[[2013年チェリャビンスク州の隕石落下|2013年のチェリャビンスク州の隕石落下]]では多くのけが人を出した<ref name="afp20190320-2" />。2018年12月18日には直径約10mの小惑星が[[ベーリング海]]上空およそ26.5km([[成層圏]])で爆発したが、そのエネルギーは1945年に広島に投下された原子爆弾のエネルギーの約10倍といわれている<ref>{{Cite news|date=2019-03-20|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3216700|title=直径10メートルの小惑星飛来、ベーリング海上空で爆発|page=1|publisher= AFP|accessdate=2019-03-21}}</ref>。
地球にとって特に危険性が高く深刻な影響を与える天体は直径が150mを超える天体とされている<ref name="afp20190320-2" />。
[[ユカタン半島]]にある[[チクシュルーブ・クレーター|チュクシュルーブ・クレーター]]の調査から、約6550万年前に秒速10–20kmの速度で衝突した直径10kmの小惑星は、大型の[[恐竜]]を全滅させたと考えられている。クレーターは直径150 km、深さ30 km。周辺は[[マグニチュード]]11規模の[[地震]]と大規模の[[火災]]が発生し、海に落ちたために生じた[[津波]]は高さ300mと推定される<ref name=New201301-42>[[#ニュートン (2013-1)|ニュートン (2013-1)、p. 42–43、直径10kmの小惑星衝突で生物種の70%が絶滅した]]</ref>。さらに、衝突で巻き上げられた塵が[[成層圏]]やその上の[[中間圏]]に及んで漂い、数ヶ月から数年間太陽光線を遮り、植物など[[光合成]]生物の死滅に端を発し生物全体の70%が滅んだと推測される<ref name=New201301-42 />。
直径10km規模の小惑星衝突は1億年に1回程の頻度で起こると考えられる<ref name=New201301-42 />。直径1kmの小惑星衝突でも地球規模の[[気候]]に変動を与えると考えられ、その頻度は100万年に1回程と推定される。これより小規模な衝突は影響こそ限定的になるが、その反面頻度は上昇する。直径1.2kmの[[バリンジャー・クレーター]]を作った隕石は直径50m規模であったが、頻度は1000年に1回程あると考えられる<ref name=New201301-44>[[#ニュートン (2013-1)|ニュートン (2013-1)、p. 44–45、たった直径50mの小惑星衝突で、直径1.2kmの大穴ができる]]</ref>。
=== 小惑星の監視 ===
地球の公転軌道より1.3天文単位以内を通過する公転周期200年未満の小惑星はNEA(Near Earth Asteroid, [[地球近傍小惑星]])といい、2012年11月1日現在で9252個が確認されている<ref name=New201301-48>[[#ニュートン (2013-1)|ニュートン (2013-1)、p. 48–49、地球の近くを公転する小惑星が、危険な小惑星に豹変する]]</ref>。その中でも、地球に0.05天文単位(約750万km)以下に近づく公転軌道を通り、直径が150m以上と考えられる小惑星はPHA(Potentially Hazardous Asteroid, [[潜在的に危険な小惑星]])と呼ばれ、1343個が該当する<ref name=New201301-48 />。しかもNEAは惑星重力の影響を受けやすいため、公転軌道は急に変化して予測どおりにならない可能性が高い<ref name=New201301-48 />。
NEAと、やはり衝突が懸念される彗星(Near Earth Comet, NEC)と合わたNEO(Near Earth Object, [[地球近傍天体]])<ref name=New201301-48 />を監視する計画は、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]と[[アメリカ空軍]]、[[マサチューセッツ工科大学]]の共同による[[リンカーン地球近傍小惑星探査|LINEAR]](Lincoln Near Earth Asteriod Research)、[[アリゾナ大学]]の[[スペースウォッチ|Space Watch]]と[[カタリナ・スカイサーベイ|Catarina Sky Survey]]、NASA[[ジェット推進研究所]]の[[地球近傍小惑星追跡|NEAT]](Near-Earth Asteroid Tracking)、[[ローウェル天文台]]の[[LONEOS]](Lowell Observatory Near-Earth-Object Search)、[[ハワイ大学]]の[[パンスターズ|Pan-STARRAS]](Panoramic Survey Telescope And Rapid Response Syastem)などがあり、[[日本]]でも[[美星スペースガードセンター]]が観測を行っている<ref name=New201301-58 />。このように多くの観測体制が敷かれる理由は、そもそもNEOが非常に観測しにくいことが背景にある。しかも現在、昼間に観測することは事実上不可能である<ref name=New201301-58 />。
=== 衝突回避の技術研究 ===
小惑星の衝突に備えて小惑星を破壊したり進路を変えさせたりする研究も進められている<ref>{{Cite news|date=2019-03-08|url=https://www.cnn.co.jp/fringe/35133916.html|title=爆破は困難?、小惑星は思ったより硬かった 米研究|publisher= CNN|accessdate=2019-03-09}}</ref>。
しかし、小惑星の衝突を回避する技術は現在の科学技術では達成しておらず、現存するロケットを衝突させて軌道を変える方法でも、直径100m以下の小惑星でしか効果がないと考えられている<ref name=New201301-58>[[#ニュートン (2013-1)|ニュートン (2013-1)、p. 58–59、宇宙船を小惑星に衝突させる計画が検討されている]]</ref>。[[NASA]]の[[DART (探査機)|DART]]や[[ESA]]の「[[ドン・キホーテ (探査機)|ドン・キホーテ計画]]」など有効な回避法がさまざまに模索されているが、いまだ研究段階にあり効果はわかっていない<ref name=New201301-58 />。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書|author=編集長:[[水谷仁]]|year=2013|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]2013年1月号、雑誌07047-01|publisher=[[ニュートンプレス]] |ref=ニュートン (2013-1)}}
== 関連項目 ==
* [[小惑星の一覧]]
* [[小惑星の植民]]
* [[太陽系]]
* [[太陽系小天体]]
* [[太陽系外縁天体]]
* [[準惑星]]
* [[エッジワース・カイパーベルト]]
* [[オールトの雲]]
* [[平山清次]]
* [[平山信]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Asteroids}}
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/syouwakusei/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(小惑星) |date=20211210140321}}
* [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/a-c-m/a-c-m00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(小惑星・彗星・流星・隕石)]
* [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/asteroids.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(小惑星)]
* [https://nineplanets.org/asteroids/ The Nine Planets Asteroid Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(小惑星){{En icon}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/Athlete/2383/as/as.html |title=小惑星 惑星になりそこなった星たち |date=20021106042150}}
* {{Wayback|url=http://www.geocities.com/zlipanov/selected_asteroids/selected_asteroids.html |title=小惑星の画像集(英語) |date=20000621000822}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:天体]]
[[Category:小惑星|*]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-03-13T23:51:36Z | 2023-11-19T11:52:13Z | false | false | false | [
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3,967 | 木星 | 木星(もくせい、英語: Jupiter)は太陽系にある惑星の1つで、内側から5番目の公転軌道を周回している第5惑星である。太陽系の中で大きさ、質量ともに最大の惑星である。
木星およびそれと同様のガスを主成分とする惑星(ガス惑星)である土星のことを木星型惑星(巨大ガス惑星)と呼ぶ。かつては天王星、海王星も木星型惑星に含まれていたが、現在ではこれらの二惑星は天王星型惑星(巨大氷惑星)に分類されている。
木星は古代から知られ観測されてきた。そして多くの文明で神話や信仰の対象となった。英語Jupiter(ジュピター)は古代ローマ神話の神ユーピテルを語源とする。
太陽からの平均距離は7.78×10キロメートル(約5.2 au)である。仮に直径約1.4×10キロメートルの太陽を直径1メートルの球とすると、木星は約560メートル離れたところを周回している直径10センチの球となる。周期は11.86年であり、これは土星の5分の2に相当する。言い換えると、この2つの巨大な木星型惑星は、その公転周期が軌道共鳴5:2の関係にある。
木星の赤道傾斜角は非常に小さく、3.13度しか傾いていない。この結果、惑星上には有意な季節変化がほとんどないと考えられる。木星の重力加速度は24.79m/sであるが、木星は約10時間という猛烈なスピードで自転しており、大きな遠心力を生じるため、重力がいくぶん相殺されて、赤道上での重力加速度は23.12 m/sに減少する。また、この大きな遠心力は、木星そのものの形状にも影響を与えており、赤道方向の直径が自転軸方向の直径よりも7パーセント程度(9,275km)膨らんだ楕円球の状態にある。
視認できる惑星表面が固体ではない木星では、上層大気の差動回転が確認される。極域の大気は、赤道部分の大気よりも回転時間が5分長い。木星の自転は、大気の動きなどに則した3つの系(システム)に分けて説明される。システムIは赤道を挟んだ南北10度の領域で、もっとも速く9時間50分30秒で一周する。システムIIはIを挟む南北部分の中緯度にあたる領域で、周回時間は9時間55分40.6秒である。システムIIIは電波天文学によって定義される惑星磁気圏の回転を指し9時間55分29.37秒で一周し、固体核の自転周期と同値と考えられシステムIIIが木星の公式な自転とみなされている。
太陽系の中で、木星は太陽に次ぐ重力中心であるが、半径比は10パーセントに過ぎない。それでも、その質量は太陽系の木星以外の惑星すべてを合わせたものの2 - 2.5倍ほどに相当する。そのため、太陽 - 木星系の重心は太陽の内部ではなく、太陽半径の1.068倍の位置に相当する太陽表面付近にある。なお太陽系全体の重心への寄与は木星が49%、土星が27%であり、主にこの2惑星の位置によって太陽系の重心は太陽内部に出入りする。地球との比較では質量は318倍、直径は11倍、体積は1,321倍ほどある。半径は太陽の10分の1に等しく、質量は1000分の1である。密度は両者でほとんど差はない。木星質量はMJまたはMJupで表され、太陽系外惑星や褐色矮星などの天体質量を表示する単位にも用いられる。例えば、オシリスの質量は0.69MJ、CoRoT-7bは0.015MJである。
理論モデルによれば、もし木星質量が現在の質量よりもある程度大きかったならば、木星は増大した重力によって現在の大きさよりも逆に縮んでいたと考えられる。少々の差異では半径に影響を及ぼさないが、地球質量の500倍、木星質量の1.6倍程度重かったとすると、重力の増大によって木星内部の密度が高まり、構成物質の増加に反して体積が小さくなると考えられる。質量増加によってかえって半径が収縮する傾向は、木星の50倍程度重い褐色矮星の領域まで続くと考えられている。
木星が恒星として輝くには、水素を中心として現在の75 - 80倍程度の質量がなければならないが、半径で30パーセント程度大きければ赤色矮星にはなり得たという。
木星は、太陽輻射で受ける熱よりも多い熱量を放射している。木星表面の温度は 125Kであり、これは太陽光エネルギーだけで計算される温度102Kよりも高い。この差は木星内部で生成される熱によるものであり、太陽から受けるエネルギー量に匹敵する。この熱の一部は、ケルビン・ヘルムホルツ機構と呼ばれる断熱過程で生じるもので、この過程によって木星は年間2センチずつ縮んでいる。逆に、誕生時の木星は現在の2倍程度の大きさがあったと考えられる。
木星の内部構造は、中心にさまざまな元素が混合した高密度の中心核があり、そのまわりを液状の金属水素と若干のヘリウム混合体が覆い、その外部を分子状の水素を中心とした層が取り囲んでいるものと考えられる。ただしこの構造は外見上からの想像に過ぎず、はっきりと分かっていない。
中心核はケイ素など岩石質ではないかと想像されているが、その構造は温度・圧力の状態と同じく分かっていない。1997年の重力測定に基づく中心核の規模の推定には様々なものがあるが、質量は地球の11 - 45倍で、木星質量全体の3パーセント - 15パーセント程度を占めると考えられる。仮に木星成分が太陽と同じならば、岩石質の中心核は地球の5倍程度になるが、密度から計算するとその大きさは15倍程度となる。これは、巨大ガス惑星といえど太陽系の元素組成よりも水素やヘリウムが少ないことを示す。この中心核は、惑星形成モデルから予測される原始太陽系星雲からの水素やヘリウムの集積が行われた際、同様に岩石や水の氷も木星の初期形成時に集まったと考えられる。この核が予測どおり存在するとすれば、それは液体状の金属水素が起こす対流の中に混ざり込んだ物質が惑星内の深層部分に集まって形成されたことになる。この中心核は、現在では固まっていると思われるが、活動している可能性を完全に除外できるほどの観測結果は得られていない。
中心核の周囲には、微量のヘリウムや水の氷を含む厚い水素の層が広がっていると考えられ、それは木星半径の78パーセントに相当する。深い部分は液体の金属水素が4万キロメートルほどの層を成し、その上部にはやはり液状の水素分子が約2万キロメートルの厚さで覆っている。表面部分の深さでは、温度は水素の臨界点である33Kを上回っているため、水素は液相と気相を区分する境界が存在しない超臨界液体状態にあると考えられる。しかしながら、上層部では水素はガス状であり、1,000キロメートルほど下がると雲状の層となる。そして層の下部では液状になっている。これらに明らかな境界は存在しないが、深くなるにつれ徐々に熱を持ち濃度も高くなっていく。
木星の内部モデルは確立されておらず、これまで観測された諸元値にはばらつきがある。回転係数J6の1つが惑星の慣性モーメントから赤道半径、1気圧下での温度を説明するために用いられていた。2011年に打ち上げられ、2016年に木星に到着した探査機ジュノーでは、これらの値を絞り込む役割があり、その結果から中心核についての課題解決が進むことが期待されている。
木星の赤道傾斜角は、3.08° - 3.12°と水星に次いで小さく、自転軸がほぼ垂直である。このため、地球などに見られるような、気象現象の季節変化はあまりないと推測されている。ところが、木星表面の温度は極部分と赤道部分でほとんど差がない。さらに木星の表面温度はマイナス140°C程度だが、これは太陽からの輻射熱だけで計算される マイナス186°Cよりも高い。このようなことから、木星は内部から熱を発していると考えられる。太陽から受ける熱量の2倍に相当する熱量の熱源は、水素より重いヘリウムが中心に沈む際に生じる重力エネルギーではないかと考えられている。
木星内部の温度と圧力は、内部に向かうほどにどちらも高くなる。水素が臨界点まで加熱され相転移を起こす領域では金属水素が形成されるようになるが、その領域の温度は10,000K、圧力は 200GPaに達すると考えられる。金属水素層の底で温度は20,000K、圧力は3,600GPa、中心核では、温度は36,000K、圧力は4,500GPaに至ると見積もられている。
木星の上層大気は、ガス分子構成比で88 - 92パーセントの水素と8 - 12パーセントのヘリウムガスが占める。元素単位でヘリウムは約4倍重いため、重量比では水素75パーセント、ヘリウム24パーセント、他が1パーセントである。内部は含まれる重い元素の比率が高まり、全体の重量比では水素約71パーセント、ヘリウム約24パーセント、他が5パーセントとなる。大気にはわずかなメタン、水蒸気、アンモニア、珪素化合物も含まれる。また、観測からエタン、硫化水素、ネオン、酸素、硫黄も確認された。大気最外層には凍ったアンモニアの結晶が漂っている。また、赤外線や紫外線測定から、微量のベンゼンやほかの炭化水素の存在も確認された。
大気における水素とヘリウムの存在比は、原始太陽系星雲の理論的構成に近い。しかしネオンは5万分の1と太陽が含む量の約10分の1程度しかない。ヘリウムの比率も太陽の80パーセント程度と少ない。この大気上層におけるヘリウムやネオン比率の少なさから、これらの元素が降水のように金属水素の層へ沈殿し、惑星内部に沈みこんだ結果という説がある。
木星は太陽系惑星の中でももっとも厚い5,000キロメートルにわたる大気層を持つ。木星には固体の表面が存在しないため、惑星の領域は、大気が10気圧または地球表面の10倍に相当する大気圧の部分からと考える。
木星は常時雲に覆われており、可視光で観測される表面は固体の地面ではなく雲の表層である。この雲はアンモニアの結晶や、可能性としてアンモニア水硫化物で作られたものと考えられる。これらの雲は対流圏界面に浮かんでおり、特に赤道域に相当する部分では緯度ごとに異なる流れを起こしていることが知られている。この流れは比較的明るい「帯、ゾーン(zones)」と暗い「縞、ベルト(belts)」に分けられることもあり、それぞれの部分にある物質が太陽光を反射する具合でこのように見える。これらの部分は赤道と平行に、東向きと西向きに交互に流れており、間に働く相互作用は複雑な大気循環を引き起こして嵐の渦や乱流などの現象を発生させる。ゾーンやベルト部分のジェット気流は、風速100m/s(360km/h)にも達する。このゾーンやベルトは幅や色また風速などを毎年変化させるが、観測者の眼には識別し名称をつけるに充分な識別が可能なほど、その個別特徴を保つ。
雲の層は厚さ50キロメートル程度に過ぎない。しかもそれは少なくとも、低部の厚い層と高所の薄く目立つ層の2構造を持っている。さらに、アンモニアの雲の下には薄い水の雲が存在すると予想される。木星の雲の中では稲妻の光が見つかったが、これには極性分子である水が引き起こす電離作用が必要である。水の雲は惑星内部から供給される熱を受けて、雷のエネルギーを蓄積する。この放電現象は地球の稲妻の1,000倍にも相当する大規模なものである。
木星表面に見られる雲のオレンジ色や茶色は、内部から湧き上がった化合物が太陽の紫外線によって変質し色を変えたものである。詳細はいまだ判明していないが、リン、硫黄、炭化水素類が成分だと考えられている。発色団(chromophore)として知られるこれら多彩な化合物は、比較的暖かい雲の下層で混合される。これが対流細胞(convection cell)の湧き上がりによって、上層を覆うアンモニア結晶の雲の上に昇ってくることで、色を持つ層が表面に形成される。
木星は赤道傾斜角が小さいため、両極部分は赤道部分に比べて常に太陽光をあまり受けない状態が続く。そのために熱量を極に向かわせる対流があると考えられるが、それはあくまでも惑星内部で起こっており、観測できる雲の層では温度は釣り合っている。
木星を特徴づけるものに、赤道から南に22度の表面に確認できる大赤斑がある。周囲の温度が2度程度低いことからこれは高気圧性の嵐と考えられる。
この大赤斑は地球からも口径12センチ以上の望遠鏡があれば視認することができ、少なくとも1831年には確認され、さらにさかのぼる1665年には存在したと考えられる。これほど長期間にわたって維持されるメカニズムは解明していない。過去には地殻の突起部分が影響しているという説や、ソリトンではないかという説もあったが、現在では巨大な台風と考える説がもっとも無理が少ない。
計算では、この赤斑を作る嵐は安定しており、今後も惑星が存在する限り消えないとも言われていたが、20世紀後半から21世紀初頭の観測により年々大きさが縮小していることが明らかになっており、2014年5月15日、大赤斑が1930年代以降の観測史上最も縮小していることがアメリカ航空宇宙局から発表された。このまま縮小が進むと21世紀の中頃には消滅すると考えられているが、一方で大赤斑の見た目は縮小しているもののその原動力となっている渦は存在し続けており、消滅するわけではないという見解も存在する。
この楕円形の大赤斑の寸法は、長径2.4 - 4万キロメートル、短径1.2 - 1.4万キロメートルであり、地球2 - 3個がすっぽり納まる。もっとも盛り上がっている箇所は周囲よりも8キロメートル程度高い。反時計回りに回転しており、6日間かけて1周する。
2000年、南半球上に小さいながら大赤斑と同じものと見られる特徴的な大気現象が現れた。これは、もっと小さく白い楕円形をした複数の嵐が合体し1つとなったことで形成されたもので、これら小規模な現象のうち3つは1938年には存在が確認されていた。この斑はオーバルBAと命名され、また赤斑ジュニアのあだ名がついた。その後この斑はさらに強大になり、その色も白から赤へと変化した。
木星の磁場の強さは地球磁場の14倍に相当する。磁力は赤道部分で4.2ガウス、極部分で10 - 14ガウスという太陽黒点を除けば太陽系最大の磁力を持ち、地球磁場の約2万倍に相当する。磁極は自転軸とややずれており、極性は地球と逆になっている。
この磁場は、金属水素のマントルにおける導電物質の対流活動が引き起こすという説が有力である。木星磁気圏の特徴は、衛星イオが火山活動で軌道上に放出する二酸化硫黄ガスが硫黄や酸素等のイオンとなり、木星から供給される水素イオンともども惑星の赤道上にプラズマ・シート(英語版)を形成するところにある。このシートは惑星とともに自転する磁気圏に引っ張られて回転し、遠心力によって引き伸ばされた円盤状となる。プラズマ・シートの中では電子が0.6 - 30.0メガヘルツに達する強い電波バーストを発している。
太陽風と磁気圏は、木星半径の75倍に相当する領域で相互作用を起こしバウショックを発生している。このバウショックと磁気圏境界層との間の内側部分が磁気圏境界面(英語版)となり、木星の磁気圏を覆っている。ここに衝突する太陽風は、風下(英語版)へ木星磁気圏を引き伸ばし、その外側は土星の公転軌道にまで達している。4大衛星はどれも磁気圏の中を公転しており、太陽風の吹きつけから守られている。しかし、この磁気圏内部は高エネルギー粒子で満たされており、地球のヴァン・アレン帯をさらに厳しくしたような環境にある。
木星の磁気圏は磁場が発生する極の部分に激しい現象を起こす。衛星イオの火山活動が磁気圏内に放出するガスは惑星を囲う円環の形に広がる。この中をイオが公転すると、相互作用によってアルヴェーン波が発生し、イオンを木星の極まで運ぶ。その結果、加速されてメーザー発生機構として働き、エネルギーは円錐の表面をなぞるように伝達する。この円錐と交差すると、地球では太陽からの電波よりも高い出力が観測される。
この強い磁気のため、木星の極には常時オーロラが生じ、そのエネルギーは地球の1,000倍に相当する。木星大気の主成分は水素分子H2であるため、流入する荷電粒子によって電離しH2イオンとなり、これがH2と反応を起こしH3とHとなる。このH3イオンがオーロラを起こす。また、磁力線が衛星と重なった際に生じるフラックスチューブ(エネルギー束)が極域とつながった箇所にも点状のオーロラが発生する。
1955年、バーナード・バーグとケネス・フランクリン(英語版)は、木星から発せられた断続的な22.2メガヘルツの電波信号(電波バースト)を検出した。この電波を観測した周期は木星の自転と一致しており、ここから逆に木星自転周期の正確な値を割り出すことができた。また、この電波バーストには数秒程度の長いLバーストと、100分の1秒未満の短いSバーストがあることも判明した。
研究によって、木星は3種類の電波を発していると判明した。
2010年には、木星磁場とほぼ一致する領域から強いX線が放射されていることが日本のX線天文衛星すざくの観測で判明した。この現象は、木星周辺の領域で電子が光速近くまで加速されることが主因と考えられる。
2023年2月26日現在、木星には衛星が95個発見されている。そのうち79個は直径10キロメートルに満たない小さなもので、74個は母星となる木星の自転方向とは反対の公転軌道を持つ逆行衛星であることが確認されている。そのうち、大きな4つの衛星であるイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストはガリレオ衛星と呼ばれる。
イオ、エウロパ、ガニメデの3つは軌道共鳴状態にある。イオが木星を1周する間にエウロパは約1/2周、ガニメデは約1/4周する。このためこれら3衛星には特定の場所で重力の共鳴作用が起き、そのとき公転軌道は楕円形になる。なお、木星からの潮汐力は衛星の公転軌道を円型にしようと働く。
木星には3つの箇所からなる環が存在する。光環(ハロー環)としても知られる木星表面に接している内側のトーラスの環、比較的明るく幅6,400キロメートル・厚さ30キロメートルの主環(メインリング)、そして外側の薄い環(ゴサマー環)である。このうちゴサマー環は内側に1本の輪が入れ子のように存在する。これらの環はアルベドが0.5程度と暗く、土星の環が氷を主成分にするのに対し、塵の比率が高い。主環の材料はおもに衛星アドラステアとメティスから放出された物質と考えられる。
放出された粒子は通常ならば衛星に戻っていくが、木星の場合は木星からの輻射圧や磁場との相互作用の影響を受けて内側へ引っ張られ落ちていく。その一方で環には衛星から新たに物質が供給されている。このメカニズムはゴサマー環も同様で、衛星テーベとアマルテアが物質供給の役目を担う。ほかにも、アマルテアの軌道に沿った岩石質の環が存在する証拠もあり、これも衛星から生じた微粒子からなるものと考えられている。
太陽とともに、木星が及ぼす重力は太陽系に大きな影響を及ぼしてきた。太陽に非常に近い水星を例外に、ほとんどの星の軌道は、太陽の赤道面ではなく木星の軌道平面とほぼ一致している。小惑星の分布についても、カークウッドの空隙は木星によってもたらされ、後期重爆撃期が起こった原因こそが木星の存在とも考えられる。
衛星群とともに、木星の重力場は多くの小惑星に影響を与え、公転軌道上のラグランジュ点に集めた。この小惑星の集まりはトロヤ群と呼ばれ、『イーリアス』に登場するトロイア戦争の人物名から多く小惑星の名前がとられている。発見は1906年にマックス・ヴォルフが見つけた小惑星アキレスに始まり、現在では2,000以上が見つかっている。
ほとんどの短周期彗星(軌道長半径が木星のそれを下回るものと定義される)は木星族彗星に属する。木星族彗星は軌道長半径が木星よりも小さい彗星であり、その起源はエッジワース・カイパーベルトだと考えられている。これらは、木星からの摂動によって短周期化と軌道の真円化を引き起こした結果生じると考えられている。
1993年にアマチュア天文家の串田嘉男と村松修によって発見された串田・村松彗星(147P/Kushida-Muramatsu)は、1949年に木星の重力圏内に捕獲され、1 - 2度木星を周回したあと、1961年に重力圏から脱出していた可能性が指摘されている。また将来的にはヘリン・ローマン・クロケット彗星(111P/Helin-Roman-Crockett)が2068年から2986年までの間に捕獲され、木星の周りを6回周回すると見られている。
木星は太陽系の掃除屋という異名を持ち、それは内惑星の領域に比較的近い重力井戸であるため、木星は数多くの彗星衝突を引き受け内惑星を保護してきたという考えからつけられた。木星がなければ、地球に衝突する小惑星の数は1,000倍、数万年に1回衝突するという。しかし、近年のコンピュータ・シミュレーションでは、木星という重力点によって軌道を変えられてしまう彗星があり、内側に入り込む彗星の数を有意に減らさないという結果も発表された。この問題は議論を呼び、さまざまな意見が示されている。
1997年、過去に木星を観察したスケッチ9枚が調査されたが、その中にあるジョヴァンニ・カッシーニが1690年に観測したスケッチに、木星衝突らしき痕跡を描いたものがあった。現代の観測では、1994年7月16日から22日にかけて起こったシューメーカー・レヴィ第9彗星の20個以上の破片が木星の南半球に衝突した出来事が有名である。これは太陽系天体の衝突を直接観測した最初の例となった。また、この衝突は木星大気の成分分析に関わる重要なデータを提供した。
2009年7月19日には、南半球に衝突痕が発見された。これは大気表面に残った黒い点で、大きさはオーバルBAにほぼ匹敵した。衝突が起こった場所は、赤外線観測によって南極点に近い大気が暖められていることから判明した。2010年にも小さな衝突(en)が観測された。2010年6月3日にオーストラリアのアマチュア天文学者アントニー・ウェスレィが発見し、のちにフィリピンでもアマチュア天文家クリストファー・ゴーが成功したビデオ撮影された画像が発表された。さらに2010年8月21日、木星に小天体が衝突した瞬間の閃光を日本のアマチュア天文家立川正之が観測・撮影した。木星への天体の衝突はきわめてまれな出来事とされていたが、短期間のうちに連続して3件の天体衝突が発生したことから、衝突確率に関する理論を見直す必要があるともいわれている。
夜、そして太陽が低いときに地上から視認できた木星は古代から知られていた。古代バビロニアでは、木星は神マルドゥクと同一視されていた。彼らは、木星の黄道に沿う約12年にわたる周期を用いて、黄道十二星座の各星座を定めていた。
英語のジュピター (Jupiter) は、ギリシア神話のゼウスと同一とみなされるローマ神話の神ユーピテル(ラテン語: Iuppiter, Iūpiter、またはJove)を語源とする。この名はインド・ヨーロッパ祖語におけるDyēu-pəterが変化した呼称であり、その意味は「天空の父たる神("O Father Sky-God")」または「日の父たる神("O Father Day-God")」である。英語における木星の形容詞jovianは、古くはjovialとも書かれ、これは同時に「陽気な、愉快な、幸せな」などの意味を持ち、中世の占星術師から守護惑星の意味として使われた。
中国では、黄道に沿った公転周期がほぼ12年であることから、十二次を司るもっとも尊い星として「歳星」と呼ばれた。また、道教においては天形星(天刑星、てんけいせい)の名で神格化され、牛頭天王さえ喰らう凶神として恐れられた。
木星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。西洋占星術では、人馬宮の支配星、双魚宮の副支配星で、吉星である。保護を示し、儀式、宗教、研究、妻の里方に当てはまる。
木星を指す天文学のシンボル は、神の稲妻を様式化した記号であり、またギリシア語でゼウスの頭文字からローマ人がつけたものでもある。接頭語"zeno-"は、しばしば木星にかかわる諸物を表す単語に用いられる。たとえば木星表面の研究は"zenographic"と表現される。
木星の観察は紀元前8 - 7世紀ごろの古代バビロニアまでさかのぼることができる。また古代中国大陸でも、天文学者の甘徳が紀元前362年に肉眼で木星の衛星を観察したと席澤宗(Xi Zezong)は主張した。これが正しければ、彼はガリレオに先立つこと2000年前に衛星を発見していたことになる。紀元前2世紀ごろには古代ローマのクラウディオス・プトレマイオスが著作『アルマゲスト』にて、従円と周転円を用いて木星と地球の相対位置を説明し、木星の公転時間を地球時間で4332.38日または11.86年とする天動説の惑星モデルを作り上げた。499年にはインドの天文学者・数学者のアリヤバータが同じく天動説モデルにて、木星公転を4332.2722日または11.86年と計算した。
1610年にガリレオ・ガリレイは、望遠鏡を用いて木星に4つの衛星を発見した。これらは地球の月以外では初めて発見された衛星で、今日ではガリレオ衛星と呼ばれるイオ・エウロパ・ガニメデ・カリストである。これは同時に、地球以外の天体力学の中心が初めて見つかった例でもあり、ニコラウス・コペルニクスの地動説を支持する有力な証拠とガリレオは主張したが、そのために彼は異端審問にかけられた。
1660年代、ジョヴァンニ・カッシーニは新型の望遠鏡を用いて観測を行い、木星表面の斑や多彩な帯を発見した。さらに、惑星全体が極方向でつぶれた扁平状であることも視認した。これらの観察から、彼は木星の自転時間を計算し、1690年には大気が差動回転を起こしていることにも気づいた。
南半球にある木星を特徴づける大赤斑は、1664年にロバート・フックが発見したとも、1665年にカッシーニが発見したとも言われる。その詳細は1831年に薬剤師でもあったハインリッヒ・シュワーベが初めて記録した。記録によると、大赤斑は1665年から1708年の間には見つけられなくなり、1878年ごろからしだいに見えるようになった。1883年以降、今日に至るまで大赤斑は一貫して観測され続けている。
ジョヴァンニ・ボレリとカッシーニは木星衛星の動きについての精緻な図を作成し、木星の前後を通過する予測を立てた。しかし1670年代までの観測では、地球から見て木星が太陽の反対側にある際、衛星の木星面通過は予測よりも17分遅れることが判明した。カッシーニはこの観測結果を受け入れなかったが、オーレ・レーマーはこの差異が生じる理由は光には有限の速度があると考え、ここから光速を求めた。
1892年、エドワード・エマーソン・バーナードはカリフォルニアのリック天文台にある36インチ屈折望遠鏡を使って、木星5番目の衛星アマルテアを発見した。優れた視力を生かした彼の発見は、目視観測で発見された最後の衛星となった。
1932年、ルーペルト・ヴィルトは木星のスペクトルを解析し、アンモニアとメタンの吸収線があることを示した。
1938年には白斑と呼ばれる永続的な3つの高気圧性の楕円斑が見つかった。これは数十年間にわたって個別に存在し、時に近づくことがあっても合体することなく存在した。しかし1998年には2つが合わさり、2000年に残りのひとつも含まれてオーバルBAとなった。
1973年を皮切りに、多くの無人探査機が木星観測を行っている。その中でもパイオニア10号が太陽系最大の惑星に近づき多くの発見をもたらしたことが知られている。太陽系のほかの惑星に到達するには、探査機の速度変化であるデルタv(delta-v)を引き起こすエネルギーをどれだけ費やせるかによって決まる。ホーマン遷移軌道を通って地球から木星の低軌道に至るには、デルタvは6.3 km/sであり、地球から打ち上げるのに必要なデルタv9.7 km/sとの差を埋める必要があった。これは、かなり長い時間を要するが、惑星の近接飛行によるスイングバイを用いて縮めることができる。
1973年から数機の探査機がフライバイ航行法を用いて木星観測に向かった。パイオニア計画では初めて木星といくつかの衛星の近接写真が撮影された。惑星近くの固有磁場が予測よりも非常に強かったが、探査機に致命的なトラブルは生じなかった。これらの探査機軌道は木星系質量の予想精度を高めることに役立った。また、探査機の無線信号が惑星によって遮蔽されたことで、木星の直径と極方向の扁平についての詳しい情報が得られた。
6年後に行われたボイジャー計画では、ガリレオ衛星に関する知見が深まり、また木星の環が発見された。また、大赤斑が高気圧性の現象ということも知らしめ、パイオニア計画との画像比較から大赤斑の色がオレンジ色から暗い茶色へ変わったことも判明した。衛星イオについて軌道にあるイオン化原子の円環が見つかり、また表面では噴火中の火山活動も確認された。探査機が惑星の夜側を通過した際の観測から、稲妻の光も観測された。
次に木星を通過するフライバイは太陽観測衛星ユリシーズが行った。これは太陽の極に到達するための経路に使われた。その際、ユリシーズは木星の磁気圏に関する情報を得たが、カメラを搭載していなかったために画像情報の追加は行われなかった。ユリシーズは6年の間隔を経て2度目のフライバイを行ったが、その位置は木星から遠く離れた軌道を取った。
2000年には探査機カッシーニが土星へ向かう途上で木星観測を行い、それまでにない高い解像度の映像を撮影した。2000年12月19日には第6衛星ヒマリアの撮影に成功したが、解像度は低く表面状態の解明は進まなかった。
探査機ニュー・ホライズンズは冥王星を目指す航行中に木星でフライバイを行い、2007年2月28日に最接近した。ニュー・ホライズンズのカメラは衛星イオの火山起源のプラズマを計測し、そのほかのガリレオ衛星の詳細だけでなく、ヒマリアやエララに対しても長期間観測を行った。木星系の画像撮影は2006年9月4日から行われた。
通過ではなく木星を周回しつつ、観測を行った探査機はガリレオのみであり、1995年12月7日に周回軌道へ投入されてから7年間にわたってガリレオ衛星やアマルテアなどのフライバイを含む観測を行った。それに先立つ1994年にはシューメーカー・レヴィ第9彗星の衝突が起こった際に、探査機ガリレオは通常では望めない位置にいたこともあって観測を行った。しかし、木星系にたどり着いたあとに観測で得た情報が膨大になったうえ、高利得電波アンテナを展開させることに失敗し、情報発信に制限がかかってしまった。
1995年7月にはプローブが切り離され、12月7日には木星大気の探測が始められた。プローブはパラシュートを開いて深度159キロメートルに到達する75分間データを送信し続け、機能を停止した。その位置は、気圧は地球の約28倍、温度は185°Cに達していた。プローブは溶解してしまったものと思われる。探査機ガリレオは使命を終えると、エウロパのような生命が存在する可能性を持つ衛星に落下しないように、2003年9月21日に意図的に木星内へ秒速50キロ以上の速度で落とされた。
運用中の探査には、NASAが2011年打ち上げた極軌道から木星を詳細に観測するジュノーがある。これは2016年に木星に到着しており、木星を観測中である。
また、木星の衛星エウロパやガニメデ、カリストには表面の氷の下に液体の海があると推測され、強い関心が持たれており、NASAは木星氷衛星周回機 (JIMO) を検討したが、この計画は資金面から難航し、2005年に頓挫した。ヨーロッパでもエウロパ探査(en)の計画が検討されたが、2007年にお蔵入りとなった。
このほか、木星と衛星の観測を目的としたEJSM(エウロパ・ジュピター・システム・ミッション)もNASAとESA協同の元で進行しており、これは土星系探査のタイタン・サターン・システム・ミッションに先行する旨が2009年2月に発表された。ただし、ESAの負担はほかのプロジェクトに影響を及ぼす懸念が拭えない。計画ではNASAのJIMOやESAのジュピター・ガニメデ計画(Jupiter Ganymede Orbiter)を基軸に、2020年ごろに実行が見込まれる。
1953年に行われたユーリー-ミラーの実験は、原始地球の大気に存在した化学物質から稲妻によって生物を構成するアミノ酸など有機化合物が合成されることを明らかにした。この実験で使われた大気は、水、メタン、アンモニア、水素分子などであり、これらは木星大気にも含まれている。しかし木星には強い垂直方向の空気循環があり、このような物質は高温の惑星内部に運ばれて分解してしまい、地球型の生命が発生することを妨げると考えられる。
また、大気中にある水の絶対量が乏しい点と、岩石核の表面が惑星深くの強い圧力に晒されていることも地球型生物の発生条件にほとんど適さないと考えられる理由である。しかしボイジャー計画前の1976年には、木星の上層大気中にアンモニアか水を媒介とする生物が存在する仮説が示された。この説では、地球の海のような環境をあてはめたもので、上層部に漂い光合成を行うプランクトンが存在し、その下部にはこれらを食糧とする魚のような生物が、さらに下には魚を捕食する生物がいると想定した。
ハーバード大学教授のカール・セーガンは、木星の中心にある岩石質の中心核はまわりを広大な水の海で囲まれ、そこに生物がいる可能性を示唆した。彼は、木星内部は高温であるが一方で高圧でもあり、水が液状で封じられているとすれば、その体積量は地球の海の620倍と試算した。液体の水ならば重力や外部の気圧は影響を及ぼさず、また生命の素材たる有機化合物は木星表面の観測から多量に存在すると考えられる。ただしこの説を確かめる術は(上記の理由もあり)ない。
地球上から観測すると、木星は太陽・月・金星に続いて4番目に明るく見える天体である。しかし、時に火星が木星よりも明るく見えることがある。これは、太陽と木星と地球の相対的な位置が関係し、木星が太陽との衝にあるときは−2.9等級、合にあるときには−1.6等級と明るさが移り変わるためである。また、角直径も50.1 - 29.8秒までの間を変化する。星空の中でひときわ目立って見えるので、夜半の明星とも呼ばれる。
位相角(en)は最大11.5度であるため、地球から見ると木星には影で欠ける食がほとんど視認できない。 | [
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"text": "木星(もくせい、英語: Jupiter)は太陽系にある惑星の1つで、内側から5番目の公転軌道を周回している第5惑星である。太陽系の中で大きさ、質量ともに最大の惑星である。",
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"text": "木星およびそれと同様のガスを主成分とする惑星(ガス惑星)である土星のことを木星型惑星(巨大ガス惑星)と呼ぶ。かつては天王星、海王星も木星型惑星に含まれていたが、現在ではこれらの二惑星は天王星型惑星(巨大氷惑星)に分類されている。",
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"text": "木星は古代から知られ観測されてきた。そして多くの文明で神話や信仰の対象となった。英語Jupiter(ジュピター)は古代ローマ神話の神ユーピテルを語源とする。",
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"text": "太陽からの平均距離は7.78×10キロメートル(約5.2 au)である。仮に直径約1.4×10キロメートルの太陽を直径1メートルの球とすると、木星は約560メートル離れたところを周回している直径10センチの球となる。周期は11.86年であり、これは土星の5分の2に相当する。言い換えると、この2つの巨大な木星型惑星は、その公転周期が軌道共鳴5:2の関係にある。",
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"text": "木星の赤道傾斜角は非常に小さく、3.13度しか傾いていない。この結果、惑星上には有意な季節変化がほとんどないと考えられる。木星の重力加速度は24.79m/sであるが、木星は約10時間という猛烈なスピードで自転しており、大きな遠心力を生じるため、重力がいくぶん相殺されて、赤道上での重力加速度は23.12 m/sに減少する。また、この大きな遠心力は、木星そのものの形状にも影響を与えており、赤道方向の直径が自転軸方向の直径よりも7パーセント程度(9,275km)膨らんだ楕円球の状態にある。",
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"text": "視認できる惑星表面が固体ではない木星では、上層大気の差動回転が確認される。極域の大気は、赤道部分の大気よりも回転時間が5分長い。木星の自転は、大気の動きなどに則した3つの系(システム)に分けて説明される。システムIは赤道を挟んだ南北10度の領域で、もっとも速く9時間50分30秒で一周する。システムIIはIを挟む南北部分の中緯度にあたる領域で、周回時間は9時間55分40.6秒である。システムIIIは電波天文学によって定義される惑星磁気圏の回転を指し9時間55分29.37秒で一周し、固体核の自転周期と同値と考えられシステムIIIが木星の公式な自転とみなされている。",
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"text": "太陽系の中で、木星は太陽に次ぐ重力中心であるが、半径比は10パーセントに過ぎない。それでも、その質量は太陽系の木星以外の惑星すべてを合わせたものの2 - 2.5倍ほどに相当する。そのため、太陽 - 木星系の重心は太陽の内部ではなく、太陽半径の1.068倍の位置に相当する太陽表面付近にある。なお太陽系全体の重心への寄与は木星が49%、土星が27%であり、主にこの2惑星の位置によって太陽系の重心は太陽内部に出入りする。地球との比較では質量は318倍、直径は11倍、体積は1,321倍ほどある。半径は太陽の10分の1に等しく、質量は1000分の1である。密度は両者でほとんど差はない。木星質量はMJまたはMJupで表され、太陽系外惑星や褐色矮星などの天体質量を表示する単位にも用いられる。例えば、オシリスの質量は0.69MJ、CoRoT-7bは0.015MJである。",
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"text": "理論モデルによれば、もし木星質量が現在の質量よりもある程度大きかったならば、木星は増大した重力によって現在の大きさよりも逆に縮んでいたと考えられる。少々の差異では半径に影響を及ぼさないが、地球質量の500倍、木星質量の1.6倍程度重かったとすると、重力の増大によって木星内部の密度が高まり、構成物質の増加に反して体積が小さくなると考えられる。質量増加によってかえって半径が収縮する傾向は、木星の50倍程度重い褐色矮星の領域まで続くと考えられている。",
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"text": "木星が恒星として輝くには、水素を中心として現在の75 - 80倍程度の質量がなければならないが、半径で30パーセント程度大きければ赤色矮星にはなり得たという。",
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"text": "木星は、太陽輻射で受ける熱よりも多い熱量を放射している。木星表面の温度は 125Kであり、これは太陽光エネルギーだけで計算される温度102Kよりも高い。この差は木星内部で生成される熱によるものであり、太陽から受けるエネルギー量に匹敵する。この熱の一部は、ケルビン・ヘルムホルツ機構と呼ばれる断熱過程で生じるもので、この過程によって木星は年間2センチずつ縮んでいる。逆に、誕生時の木星は現在の2倍程度の大きさがあったと考えられる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "木星の内部構造は、中心にさまざまな元素が混合した高密度の中心核があり、そのまわりを液状の金属水素と若干のヘリウム混合体が覆い、その外部を分子状の水素を中心とした層が取り囲んでいるものと考えられる。ただしこの構造は外見上からの想像に過ぎず、はっきりと分かっていない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "中心核はケイ素など岩石質ではないかと想像されているが、その構造は温度・圧力の状態と同じく分かっていない。1997年の重力測定に基づく中心核の規模の推定には様々なものがあるが、質量は地球の11 - 45倍で、木星質量全体の3パーセント - 15パーセント程度を占めると考えられる。仮に木星成分が太陽と同じならば、岩石質の中心核は地球の5倍程度になるが、密度から計算するとその大きさは15倍程度となる。これは、巨大ガス惑星といえど太陽系の元素組成よりも水素やヘリウムが少ないことを示す。この中心核は、惑星形成モデルから予測される原始太陽系星雲からの水素やヘリウムの集積が行われた際、同様に岩石や水の氷も木星の初期形成時に集まったと考えられる。この核が予測どおり存在するとすれば、それは液体状の金属水素が起こす対流の中に混ざり込んだ物質が惑星内の深層部分に集まって形成されたことになる。この中心核は、現在では固まっていると思われるが、活動している可能性を完全に除外できるほどの観測結果は得られていない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "中心核の周囲には、微量のヘリウムや水の氷を含む厚い水素の層が広がっていると考えられ、それは木星半径の78パーセントに相当する。深い部分は液体の金属水素が4万キロメートルほどの層を成し、その上部にはやはり液状の水素分子が約2万キロメートルの厚さで覆っている。表面部分の深さでは、温度は水素の臨界点である33Kを上回っているため、水素は液相と気相を区分する境界が存在しない超臨界液体状態にあると考えられる。しかしながら、上層部では水素はガス状であり、1,000キロメートルほど下がると雲状の層となる。そして層の下部では液状になっている。これらに明らかな境界は存在しないが、深くなるにつれ徐々に熱を持ち濃度も高くなっていく。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "木星の内部モデルは確立されておらず、これまで観測された諸元値にはばらつきがある。回転係数J6の1つが惑星の慣性モーメントから赤道半径、1気圧下での温度を説明するために用いられていた。2011年に打ち上げられ、2016年に木星に到着した探査機ジュノーでは、これらの値を絞り込む役割があり、その結果から中心核についての課題解決が進むことが期待されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "木星の赤道傾斜角は、3.08° - 3.12°と水星に次いで小さく、自転軸がほぼ垂直である。このため、地球などに見られるような、気象現象の季節変化はあまりないと推測されている。ところが、木星表面の温度は極部分と赤道部分でほとんど差がない。さらに木星の表面温度はマイナス140°C程度だが、これは太陽からの輻射熱だけで計算される マイナス186°Cよりも高い。このようなことから、木星は内部から熱を発していると考えられる。太陽から受ける熱量の2倍に相当する熱量の熱源は、水素より重いヘリウムが中心に沈む際に生じる重力エネルギーではないかと考えられている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "木星内部の温度と圧力は、内部に向かうほどにどちらも高くなる。水素が臨界点まで加熱され相転移を起こす領域では金属水素が形成されるようになるが、その領域の温度は10,000K、圧力は 200GPaに達すると考えられる。金属水素層の底で温度は20,000K、圧力は3,600GPa、中心核では、温度は36,000K、圧力は4,500GPaに至ると見積もられている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "木星の上層大気は、ガス分子構成比で88 - 92パーセントの水素と8 - 12パーセントのヘリウムガスが占める。元素単位でヘリウムは約4倍重いため、重量比では水素75パーセント、ヘリウム24パーセント、他が1パーセントである。内部は含まれる重い元素の比率が高まり、全体の重量比では水素約71パーセント、ヘリウム約24パーセント、他が5パーセントとなる。大気にはわずかなメタン、水蒸気、アンモニア、珪素化合物も含まれる。また、観測からエタン、硫化水素、ネオン、酸素、硫黄も確認された。大気最外層には凍ったアンモニアの結晶が漂っている。また、赤外線や紫外線測定から、微量のベンゼンやほかの炭化水素の存在も確認された。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "大気における水素とヘリウムの存在比は、原始太陽系星雲の理論的構成に近い。しかしネオンは5万分の1と太陽が含む量の約10分の1程度しかない。ヘリウムの比率も太陽の80パーセント程度と少ない。この大気上層におけるヘリウムやネオン比率の少なさから、これらの元素が降水のように金属水素の層へ沈殿し、惑星内部に沈みこんだ結果という説がある。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "木星は太陽系惑星の中でももっとも厚い5,000キロメートルにわたる大気層を持つ。木星には固体の表面が存在しないため、惑星の領域は、大気が10気圧または地球表面の10倍に相当する大気圧の部分からと考える。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "木星は常時雲に覆われており、可視光で観測される表面は固体の地面ではなく雲の表層である。この雲はアンモニアの結晶や、可能性としてアンモニア水硫化物で作られたものと考えられる。これらの雲は対流圏界面に浮かんでおり、特に赤道域に相当する部分では緯度ごとに異なる流れを起こしていることが知られている。この流れは比較的明るい「帯、ゾーン(zones)」と暗い「縞、ベルト(belts)」に分けられることもあり、それぞれの部分にある物質が太陽光を反射する具合でこのように見える。これらの部分は赤道と平行に、東向きと西向きに交互に流れており、間に働く相互作用は複雑な大気循環を引き起こして嵐の渦や乱流などの現象を発生させる。ゾーンやベルト部分のジェット気流は、風速100m/s(360km/h)にも達する。このゾーンやベルトは幅や色また風速などを毎年変化させるが、観測者の眼には識別し名称をつけるに充分な識別が可能なほど、その個別特徴を保つ。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "雲の層は厚さ50キロメートル程度に過ぎない。しかもそれは少なくとも、低部の厚い層と高所の薄く目立つ層の2構造を持っている。さらに、アンモニアの雲の下には薄い水の雲が存在すると予想される。木星の雲の中では稲妻の光が見つかったが、これには極性分子である水が引き起こす電離作用が必要である。水の雲は惑星内部から供給される熱を受けて、雷のエネルギーを蓄積する。この放電現象は地球の稲妻の1,000倍にも相当する大規模なものである。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "木星表面に見られる雲のオレンジ色や茶色は、内部から湧き上がった化合物が太陽の紫外線によって変質し色を変えたものである。詳細はいまだ判明していないが、リン、硫黄、炭化水素類が成分だと考えられている。発色団(chromophore)として知られるこれら多彩な化合物は、比較的暖かい雲の下層で混合される。これが対流細胞(convection cell)の湧き上がりによって、上層を覆うアンモニア結晶の雲の上に昇ってくることで、色を持つ層が表面に形成される。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "木星は赤道傾斜角が小さいため、両極部分は赤道部分に比べて常に太陽光をあまり受けない状態が続く。そのために熱量を極に向かわせる対流があると考えられるが、それはあくまでも惑星内部で起こっており、観測できる雲の層では温度は釣り合っている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "木星を特徴づけるものに、赤道から南に22度の表面に確認できる大赤斑がある。周囲の温度が2度程度低いことからこれは高気圧性の嵐と考えられる。",
"title": "物理的性質"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "この大赤斑は地球からも口径12センチ以上の望遠鏡があれば視認することができ、少なくとも1831年には確認され、さらにさかのぼる1665年には存在したと考えられる。これほど長期間にわたって維持されるメカニズムは解明していない。過去には地殻の突起部分が影響しているという説や、ソリトンではないかという説もあったが、現在では巨大な台風と考える説がもっとも無理が少ない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "計算では、この赤斑を作る嵐は安定しており、今後も惑星が存在する限り消えないとも言われていたが、20世紀後半から21世紀初頭の観測により年々大きさが縮小していることが明らかになっており、2014年5月15日、大赤斑が1930年代以降の観測史上最も縮小していることがアメリカ航空宇宙局から発表された。このまま縮小が進むと21世紀の中頃には消滅すると考えられているが、一方で大赤斑の見た目は縮小しているもののその原動力となっている渦は存在し続けており、消滅するわけではないという見解も存在する。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "この楕円形の大赤斑の寸法は、長径2.4 - 4万キロメートル、短径1.2 - 1.4万キロメートルであり、地球2 - 3個がすっぽり納まる。もっとも盛り上がっている箇所は周囲よりも8キロメートル程度高い。反時計回りに回転しており、6日間かけて1周する。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2000年、南半球上に小さいながら大赤斑と同じものと見られる特徴的な大気現象が現れた。これは、もっと小さく白い楕円形をした複数の嵐が合体し1つとなったことで形成されたもので、これら小規模な現象のうち3つは1938年には存在が確認されていた。この斑はオーバルBAと命名され、また赤斑ジュニアのあだ名がついた。その後この斑はさらに強大になり、その色も白から赤へと変化した。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "木星の磁場の強さは地球磁場の14倍に相当する。磁力は赤道部分で4.2ガウス、極部分で10 - 14ガウスという太陽黒点を除けば太陽系最大の磁力を持ち、地球磁場の約2万倍に相当する。磁極は自転軸とややずれており、極性は地球と逆になっている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この磁場は、金属水素のマントルにおける導電物質の対流活動が引き起こすという説が有力である。木星磁気圏の特徴は、衛星イオが火山活動で軌道上に放出する二酸化硫黄ガスが硫黄や酸素等のイオンとなり、木星から供給される水素イオンともども惑星の赤道上にプラズマ・シート(英語版)を形成するところにある。このシートは惑星とともに自転する磁気圏に引っ張られて回転し、遠心力によって引き伸ばされた円盤状となる。プラズマ・シートの中では電子が0.6 - 30.0メガヘルツに達する強い電波バーストを発している。",
"title": "物理的性質"
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{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "太陽風と磁気圏は、木星半径の75倍に相当する領域で相互作用を起こしバウショックを発生している。このバウショックと磁気圏境界層との間の内側部分が磁気圏境界面(英語版)となり、木星の磁気圏を覆っている。ここに衝突する太陽風は、風下(英語版)へ木星磁気圏を引き伸ばし、その外側は土星の公転軌道にまで達している。4大衛星はどれも磁気圏の中を公転しており、太陽風の吹きつけから守られている。しかし、この磁気圏内部は高エネルギー粒子で満たされており、地球のヴァン・アレン帯をさらに厳しくしたような環境にある。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "木星の磁気圏は磁場が発生する極の部分に激しい現象を起こす。衛星イオの火山活動が磁気圏内に放出するガスは惑星を囲う円環の形に広がる。この中をイオが公転すると、相互作用によってアルヴェーン波が発生し、イオンを木星の極まで運ぶ。その結果、加速されてメーザー発生機構として働き、エネルギーは円錐の表面をなぞるように伝達する。この円錐と交差すると、地球では太陽からの電波よりも高い出力が観測される。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "この強い磁気のため、木星の極には常時オーロラが生じ、そのエネルギーは地球の1,000倍に相当する。木星大気の主成分は水素分子H2であるため、流入する荷電粒子によって電離しH2イオンとなり、これがH2と反応を起こしH3とHとなる。このH3イオンがオーロラを起こす。また、磁力線が衛星と重なった際に生じるフラックスチューブ(エネルギー束)が極域とつながった箇所にも点状のオーロラが発生する。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1955年、バーナード・バーグとケネス・フランクリン(英語版)は、木星から発せられた断続的な22.2メガヘルツの電波信号(電波バースト)を検出した。この電波を観測した周期は木星の自転と一致しており、ここから逆に木星自転周期の正確な値を割り出すことができた。また、この電波バーストには数秒程度の長いLバーストと、100分の1秒未満の短いSバーストがあることも判明した。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "研究によって、木星は3種類の電波を発していると判明した。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2010年には、木星磁場とほぼ一致する領域から強いX線が放射されていることが日本のX線天文衛星すざくの観測で判明した。この現象は、木星周辺の領域で電子が光速近くまで加速されることが主因と考えられる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2023年2月26日現在、木星には衛星が95個発見されている。そのうち79個は直径10キロメートルに満たない小さなもので、74個は母星となる木星の自転方向とは反対の公転軌道を持つ逆行衛星であることが確認されている。そのうち、大きな4つの衛星であるイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストはガリレオ衛星と呼ばれる。",
"title": "衛星と環"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "イオ、エウロパ、ガニメデの3つは軌道共鳴状態にある。イオが木星を1周する間にエウロパは約1/2周、ガニメデは約1/4周する。このためこれら3衛星には特定の場所で重力の共鳴作用が起き、そのとき公転軌道は楕円形になる。なお、木星からの潮汐力は衛星の公転軌道を円型にしようと働く。",
"title": "衛星と環"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "木星には3つの箇所からなる環が存在する。光環(ハロー環)としても知られる木星表面に接している内側のトーラスの環、比較的明るく幅6,400キロメートル・厚さ30キロメートルの主環(メインリング)、そして外側の薄い環(ゴサマー環)である。このうちゴサマー環は内側に1本の輪が入れ子のように存在する。これらの環はアルベドが0.5程度と暗く、土星の環が氷を主成分にするのに対し、塵の比率が高い。主環の材料はおもに衛星アドラステアとメティスから放出された物質と考えられる。",
"title": "衛星と環"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "放出された粒子は通常ならば衛星に戻っていくが、木星の場合は木星からの輻射圧や磁場との相互作用の影響を受けて内側へ引っ張られ落ちていく。その一方で環には衛星から新たに物質が供給されている。このメカニズムはゴサマー環も同様で、衛星テーベとアマルテアが物質供給の役目を担う。ほかにも、アマルテアの軌道に沿った岩石質の環が存在する証拠もあり、これも衛星から生じた微粒子からなるものと考えられている。",
"title": "衛星と環"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "太陽とともに、木星が及ぼす重力は太陽系に大きな影響を及ぼしてきた。太陽に非常に近い水星を例外に、ほとんどの星の軌道は、太陽の赤道面ではなく木星の軌道平面とほぼ一致している。小惑星の分布についても、カークウッドの空隙は木星によってもたらされ、後期重爆撃期が起こった原因こそが木星の存在とも考えられる。",
"title": "太陽系内の天体との相互作用"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "衛星群とともに、木星の重力場は多くの小惑星に影響を与え、公転軌道上のラグランジュ点に集めた。この小惑星の集まりはトロヤ群と呼ばれ、『イーリアス』に登場するトロイア戦争の人物名から多く小惑星の名前がとられている。発見は1906年にマックス・ヴォルフが見つけた小惑星アキレスに始まり、現在では2,000以上が見つかっている。",
"title": "太陽系内の天体との相互作用"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの短周期彗星(軌道長半径が木星のそれを下回るものと定義される)は木星族彗星に属する。木星族彗星は軌道長半径が木星よりも小さい彗星であり、その起源はエッジワース・カイパーベルトだと考えられている。これらは、木星からの摂動によって短周期化と軌道の真円化を引き起こした結果生じると考えられている。",
"title": "太陽系内の天体との相互作用"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1993年にアマチュア天文家の串田嘉男と村松修によって発見された串田・村松彗星(147P/Kushida-Muramatsu)は、1949年に木星の重力圏内に捕獲され、1 - 2度木星を周回したあと、1961年に重力圏から脱出していた可能性が指摘されている。また将来的にはヘリン・ローマン・クロケット彗星(111P/Helin-Roman-Crockett)が2068年から2986年までの間に捕獲され、木星の周りを6回周回すると見られている。",
"title": "太陽系内の天体との相互作用"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "木星は太陽系の掃除屋という異名を持ち、それは内惑星の領域に比較的近い重力井戸であるため、木星は数多くの彗星衝突を引き受け内惑星を保護してきたという考えからつけられた。木星がなければ、地球に衝突する小惑星の数は1,000倍、数万年に1回衝突するという。しかし、近年のコンピュータ・シミュレーションでは、木星という重力点によって軌道を変えられてしまう彗星があり、内側に入り込む彗星の数を有意に減らさないという結果も発表された。この問題は議論を呼び、さまざまな意見が示されている。",
"title": "太陽系内の天体との相互作用"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1997年、過去に木星を観察したスケッチ9枚が調査されたが、その中にあるジョヴァンニ・カッシーニが1690年に観測したスケッチに、木星衝突らしき痕跡を描いたものがあった。現代の観測では、1994年7月16日から22日にかけて起こったシューメーカー・レヴィ第9彗星の20個以上の破片が木星の南半球に衝突した出来事が有名である。これは太陽系天体の衝突を直接観測した最初の例となった。また、この衝突は木星大気の成分分析に関わる重要なデータを提供した。",
"title": "太陽系内の天体との相互作用"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2009年7月19日には、南半球に衝突痕が発見された。これは大気表面に残った黒い点で、大きさはオーバルBAにほぼ匹敵した。衝突が起こった場所は、赤外線観測によって南極点に近い大気が暖められていることから判明した。2010年にも小さな衝突(en)が観測された。2010年6月3日にオーストラリアのアマチュア天文学者アントニー・ウェスレィが発見し、のちにフィリピンでもアマチュア天文家クリストファー・ゴーが成功したビデオ撮影された画像が発表された。さらに2010年8月21日、木星に小天体が衝突した瞬間の閃光を日本のアマチュア天文家立川正之が観測・撮影した。木星への天体の衝突はきわめてまれな出来事とされていたが、短期間のうちに連続して3件の天体衝突が発生したことから、衝突確率に関する理論を見直す必要があるともいわれている。",
"title": "太陽系内の天体との相互作用"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "夜、そして太陽が低いときに地上から視認できた木星は古代から知られていた。古代バビロニアでは、木星は神マルドゥクと同一視されていた。彼らは、木星の黄道に沿う約12年にわたる周期を用いて、黄道十二星座の各星座を定めていた。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "英語のジュピター (Jupiter) は、ギリシア神話のゼウスと同一とみなされるローマ神話の神ユーピテル(ラテン語: Iuppiter, Iūpiter、またはJove)を語源とする。この名はインド・ヨーロッパ祖語におけるDyēu-pəterが変化した呼称であり、その意味は「天空の父たる神(\"O Father Sky-God\")」または「日の父たる神(\"O Father Day-God\")」である。英語における木星の形容詞jovianは、古くはjovialとも書かれ、これは同時に「陽気な、愉快な、幸せな」などの意味を持ち、中世の占星術師から守護惑星の意味として使われた。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "中国では、黄道に沿った公転周期がほぼ12年であることから、十二次を司るもっとも尊い星として「歳星」と呼ばれた。また、道教においては天形星(天刑星、てんけいせい)の名で神格化され、牛頭天王さえ喰らう凶神として恐れられた。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "木星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。西洋占星術では、人馬宮の支配星、双魚宮の副支配星で、吉星である。保護を示し、儀式、宗教、研究、妻の里方に当てはまる。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "木星を指す天文学のシンボル は、神の稲妻を様式化した記号であり、またギリシア語でゼウスの頭文字からローマ人がつけたものでもある。接頭語\"zeno-\"は、しばしば木星にかかわる諸物を表す単語に用いられる。たとえば木星表面の研究は\"zenographic\"と表現される。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "木星の観察は紀元前8 - 7世紀ごろの古代バビロニアまでさかのぼることができる。また古代中国大陸でも、天文学者の甘徳が紀元前362年に肉眼で木星の衛星を観察したと席澤宗(Xi Zezong)は主張した。これが正しければ、彼はガリレオに先立つこと2000年前に衛星を発見していたことになる。紀元前2世紀ごろには古代ローマのクラウディオス・プトレマイオスが著作『アルマゲスト』にて、従円と周転円を用いて木星と地球の相対位置を説明し、木星の公転時間を地球時間で4332.38日または11.86年とする天動説の惑星モデルを作り上げた。499年にはインドの天文学者・数学者のアリヤバータが同じく天動説モデルにて、木星公転を4332.2722日または11.86年と計算した。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "1610年にガリレオ・ガリレイは、望遠鏡を用いて木星に4つの衛星を発見した。これらは地球の月以外では初めて発見された衛星で、今日ではガリレオ衛星と呼ばれるイオ・エウロパ・ガニメデ・カリストである。これは同時に、地球以外の天体力学の中心が初めて見つかった例でもあり、ニコラウス・コペルニクスの地動説を支持する有力な証拠とガリレオは主張したが、そのために彼は異端審問にかけられた。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1660年代、ジョヴァンニ・カッシーニは新型の望遠鏡を用いて観測を行い、木星表面の斑や多彩な帯を発見した。さらに、惑星全体が極方向でつぶれた扁平状であることも視認した。これらの観察から、彼は木星の自転時間を計算し、1690年には大気が差動回転を起こしていることにも気づいた。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "南半球にある木星を特徴づける大赤斑は、1664年にロバート・フックが発見したとも、1665年にカッシーニが発見したとも言われる。その詳細は1831年に薬剤師でもあったハインリッヒ・シュワーベが初めて記録した。記録によると、大赤斑は1665年から1708年の間には見つけられなくなり、1878年ごろからしだいに見えるようになった。1883年以降、今日に至るまで大赤斑は一貫して観測され続けている。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "ジョヴァンニ・ボレリとカッシーニは木星衛星の動きについての精緻な図を作成し、木星の前後を通過する予測を立てた。しかし1670年代までの観測では、地球から見て木星が太陽の反対側にある際、衛星の木星面通過は予測よりも17分遅れることが判明した。カッシーニはこの観測結果を受け入れなかったが、オーレ・レーマーはこの差異が生じる理由は光には有限の速度があると考え、ここから光速を求めた。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1892年、エドワード・エマーソン・バーナードはカリフォルニアのリック天文台にある36インチ屈折望遠鏡を使って、木星5番目の衛星アマルテアを発見した。優れた視力を生かした彼の発見は、目視観測で発見された最後の衛星となった。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "1932年、ルーペルト・ヴィルトは木星のスペクトルを解析し、アンモニアとメタンの吸収線があることを示した。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1938年には白斑と呼ばれる永続的な3つの高気圧性の楕円斑が見つかった。これは数十年間にわたって個別に存在し、時に近づくことがあっても合体することなく存在した。しかし1998年には2つが合わさり、2000年に残りのひとつも含まれてオーバルBAとなった。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1973年を皮切りに、多くの無人探査機が木星観測を行っている。その中でもパイオニア10号が太陽系最大の惑星に近づき多くの発見をもたらしたことが知られている。太陽系のほかの惑星に到達するには、探査機の速度変化であるデルタv(delta-v)を引き起こすエネルギーをどれだけ費やせるかによって決まる。ホーマン遷移軌道を通って地球から木星の低軌道に至るには、デルタvは6.3 km/sであり、地球から打ち上げるのに必要なデルタv9.7 km/sとの差を埋める必要があった。これは、かなり長い時間を要するが、惑星の近接飛行によるスイングバイを用いて縮めることができる。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "1973年から数機の探査機がフライバイ航行法を用いて木星観測に向かった。パイオニア計画では初めて木星といくつかの衛星の近接写真が撮影された。惑星近くの固有磁場が予測よりも非常に強かったが、探査機に致命的なトラブルは生じなかった。これらの探査機軌道は木星系質量の予想精度を高めることに役立った。また、探査機の無線信号が惑星によって遮蔽されたことで、木星の直径と極方向の扁平についての詳しい情報が得られた。",
"title": "観測史"
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"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "6年後に行われたボイジャー計画では、ガリレオ衛星に関する知見が深まり、また木星の環が発見された。また、大赤斑が高気圧性の現象ということも知らしめ、パイオニア計画との画像比較から大赤斑の色がオレンジ色から暗い茶色へ変わったことも判明した。衛星イオについて軌道にあるイオン化原子の円環が見つかり、また表面では噴火中の火山活動も確認された。探査機が惑星の夜側を通過した際の観測から、稲妻の光も観測された。",
"title": "観測史"
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"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "次に木星を通過するフライバイは太陽観測衛星ユリシーズが行った。これは太陽の極に到達するための経路に使われた。その際、ユリシーズは木星の磁気圏に関する情報を得たが、カメラを搭載していなかったために画像情報の追加は行われなかった。ユリシーズは6年の間隔を経て2度目のフライバイを行ったが、その位置は木星から遠く離れた軌道を取った。",
"title": "観測史"
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"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "2000年には探査機カッシーニが土星へ向かう途上で木星観測を行い、それまでにない高い解像度の映像を撮影した。2000年12月19日には第6衛星ヒマリアの撮影に成功したが、解像度は低く表面状態の解明は進まなかった。",
"title": "観測史"
},
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"tag": "p",
"text": "探査機ニュー・ホライズンズは冥王星を目指す航行中に木星でフライバイを行い、2007年2月28日に最接近した。ニュー・ホライズンズのカメラは衛星イオの火山起源のプラズマを計測し、そのほかのガリレオ衛星の詳細だけでなく、ヒマリアやエララに対しても長期間観測を行った。木星系の画像撮影は2006年9月4日から行われた。",
"title": "観測史"
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"text": "通過ではなく木星を周回しつつ、観測を行った探査機はガリレオのみであり、1995年12月7日に周回軌道へ投入されてから7年間にわたってガリレオ衛星やアマルテアなどのフライバイを含む観測を行った。それに先立つ1994年にはシューメーカー・レヴィ第9彗星の衝突が起こった際に、探査機ガリレオは通常では望めない位置にいたこともあって観測を行った。しかし、木星系にたどり着いたあとに観測で得た情報が膨大になったうえ、高利得電波アンテナを展開させることに失敗し、情報発信に制限がかかってしまった。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 67,
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"text": "1995年7月にはプローブが切り離され、12月7日には木星大気の探測が始められた。プローブはパラシュートを開いて深度159キロメートルに到達する75分間データを送信し続け、機能を停止した。その位置は、気圧は地球の約28倍、温度は185°Cに達していた。プローブは溶解してしまったものと思われる。探査機ガリレオは使命を終えると、エウロパのような生命が存在する可能性を持つ衛星に落下しないように、2003年9月21日に意図的に木星内へ秒速50キロ以上の速度で落とされた。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 68,
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"text": "運用中の探査には、NASAが2011年打ち上げた極軌道から木星を詳細に観測するジュノーがある。これは2016年に木星に到着しており、木星を観測中である。",
"title": "観測史"
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"paragraph_id": 69,
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"text": "また、木星の衛星エウロパやガニメデ、カリストには表面の氷の下に液体の海があると推測され、強い関心が持たれており、NASAは木星氷衛星周回機 (JIMO) を検討したが、この計画は資金面から難航し、2005年に頓挫した。ヨーロッパでもエウロパ探査(en)の計画が検討されたが、2007年にお蔵入りとなった。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "このほか、木星と衛星の観測を目的としたEJSM(エウロパ・ジュピター・システム・ミッション)もNASAとESA協同の元で進行しており、これは土星系探査のタイタン・サターン・システム・ミッションに先行する旨が2009年2月に発表された。ただし、ESAの負担はほかのプロジェクトに影響を及ぼす懸念が拭えない。計画ではNASAのJIMOやESAのジュピター・ガニメデ計画(Jupiter Ganymede Orbiter)を基軸に、2020年ごろに実行が見込まれる。",
"title": "観測史"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "1953年に行われたユーリー-ミラーの実験は、原始地球の大気に存在した化学物質から稲妻によって生物を構成するアミノ酸など有機化合物が合成されることを明らかにした。この実験で使われた大気は、水、メタン、アンモニア、水素分子などであり、これらは木星大気にも含まれている。しかし木星には強い垂直方向の空気循環があり、このような物質は高温の惑星内部に運ばれて分解してしまい、地球型の生命が発生することを妨げると考えられる。",
"title": "生命の可能性"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、大気中にある水の絶対量が乏しい点と、岩石核の表面が惑星深くの強い圧力に晒されていることも地球型生物の発生条件にほとんど適さないと考えられる理由である。しかしボイジャー計画前の1976年には、木星の上層大気中にアンモニアか水を媒介とする生物が存在する仮説が示された。この説では、地球の海のような環境をあてはめたもので、上層部に漂い光合成を行うプランクトンが存在し、その下部にはこれらを食糧とする魚のような生物が、さらに下には魚を捕食する生物がいると想定した。",
"title": "生命の可能性"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "ハーバード大学教授のカール・セーガンは、木星の中心にある岩石質の中心核はまわりを広大な水の海で囲まれ、そこに生物がいる可能性を示唆した。彼は、木星内部は高温であるが一方で高圧でもあり、水が液状で封じられているとすれば、その体積量は地球の海の620倍と試算した。液体の水ならば重力や外部の気圧は影響を及ぼさず、また生命の素材たる有機化合物は木星表面の観測から多量に存在すると考えられる。ただしこの説を確かめる術は(上記の理由もあり)ない。",
"title": "生命の可能性"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "地球上から観測すると、木星は太陽・月・金星に続いて4番目に明るく見える天体である。しかし、時に火星が木星よりも明るく見えることがある。これは、太陽と木星と地球の相対的な位置が関係し、木星が太陽との衝にあるときは−2.9等級、合にあるときには−1.6等級と明るさが移り変わるためである。また、角直径も50.1 - 29.8秒までの間を変化する。星空の中でひときわ目立って見えるので、夜半の明星とも呼ばれる。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "位相角(en)は最大11.5度であるため、地球から見ると木星には影で欠ける食がほとんど視認できない。",
"title": "地上からの観測"
}
] | 木星は太陽系にある惑星の1つで、内側から5番目の公転軌道を周回している第5惑星である。太陽系の中で大きさ、質量ともに最大の惑星である。 木星およびそれと同様のガスを主成分とする惑星(ガス惑星)である土星のことを木星型惑星(巨大ガス惑星)と呼ぶ。かつては天王星、海王星も木星型惑星に含まれていたが、現在ではこれらの二惑星は天王星型惑星(巨大氷惑星)に分類されている。 木星は古代から知られ観測されてきた。そして多くの文明で神話や信仰の対象となった。英語Jupiter(ジュピター)は古代ローマ神話の神ユーピテルを語源とする。 | {{天体 基本
| 幅 =
| 色 = 木星型惑星
| 和名 = 木星 [[ファイル:Jupiter symbol.svg|24px|♃]]
| 英名 = Jupiter
| 画像ファイル = Jupiter_by_Cassini-Huygens.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 可視光で撮影された木星(2000年12月)[[カッシーニ]]撮影
| 画像背景色 = #000000
| 仮符号・別名 = 歳星
| 視等級 =
| 視直径 =
| 分類 = [[木星型惑星]]
| 軌道の種類 = [[外惑星]]
}}
{{天体 発見
| 色 = 木星型惑星
| 発見年 = 有史以前
| 発見方法 = 目視
}}
{{天体 軌道
| 色 = 木星型惑星
| 元期 = [[2008年]][[1月1日]]<ref>天文年鑑2008年版より</ref>
| 平均距離 = 5.20260 [[天文単位|au]]
| 平均距離対象 = [[太陽]]
| 平均公転半径 = [[1 E11 m|778,412,010 km]]
| 平均直径 =
| 軌道長半径 =
| 近日点距離 = 4.952 au
| 遠日点距離 = 5.455 au
| 離心率 = 0.04851
| 公転周期 = 11.86155[[年]]
| 会合周期 = 398.88[[日]]
| 軌道周期 =
| 平均軌道速度 = 13.0697 [[メートル毎秒|km/s]]
| 軌道傾斜角 = 1.3028[[度 (角度)|度]]
| 近日点引数 = 14.4602度
| 昇交点黄経 = 100.5461度
| 平均近点角 = 277.2142度
| 主恒星 = [[太陽]]
| 衛星数 = [[木星の衛星|95]]
}}
{{天体 物理
| 色 = 木星型惑星
| 赤道直径 = [[1 E8 m|142,984 km]]<ref name=Kanemitsu>{{Cite web|和書|url=http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~kanamitu/study/tnp/tnpjp/nineplan/jupiter.htm |title=木星に関する事実|author=金光理|publisher=[[福岡教育大学]]教育学部 |accessdate=2011-05-05}}</ref>
| 直径 =
| 半径 =(平均)69,911 ± 6 [[キロメートル|km]]<ref name=Seidelmann2007>{{cite journal |last= Seidelmann| first= P. Kenneth |coauthors= Archinal, B. A.; A’Hearn, M. F.; et al. |title= Report of the IAU/IAGWorking Group on cartographic coordinates and rotational elements: 2006 |journal= Celestial Mechanics and Dynamical Astronomy |volume=90 |issue= 3|pages=155–180|year=2007
|doi=10.1007/s10569-007-9072-y |url=http://adsabs.harvard.edu/doi/10.1007/s10569-007-9072-y
|accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref><ref name=1bar>Refers to the level of 1 bar atmospheric pressure</ref>
| 表面積 = 6.21796{{e|10}} [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]<ref name=1bar/>
| 体積 =1.43128{{e|15}} [[立方キロメートル|km<sup>3</sup>]]<ref name="fact">{{cite web|url = http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/jupiterfact.html|title = Jupiter Fact Sheet|publisher = NASA|last = Williams|first = Dr. David R.|accessdate = 2011-05-01|date = November 16, 2004}}</ref><ref name=1bar/>
| 質量 = 1.8986{{e|27}} [[キログラム|kg]]<ref name="fact"/>
| 相対対象1 = 地球
| 相対質量1 = 317.8<ref name="fact"/>
| 相対対象2 =
| 相対質量2 =
| 平均密度 = 1.326 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm<sup>3</sup>]]<ref name="fact"/><ref name=1bar/>
| 表面重力 = 24.79 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]<ref name="fact"/><ref name=1bar/>
| 脱出速度 = 59.5 km/s<ref name="fact"/><ref name=1bar/>
| 自転周期 = 9[[時間]]55.5[[分]]<br />(0.4135 日)<ref>{{cite web |author = Seidelmann, P. K.; Abalakin, V. K.; Bursa, M.; Davies, M. E.; de Burgh, C.; Lieske, J. H.; Oberst, J.; Simon, J. L.; Standish, E. M.; Stooke, P.; Thomas, P. C. |year = 2001|url = http://www.hnsky.org/iau-iag.htm |title = Report of the IAU/IAG Working Group on Cartographic Coordinates and Rotational Elements of the Planets and Satellites: 2000 |publisher = HNSKY Planetarium Program | accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref>
| 絶対等級 =
| 光度 =
| 光度係数 =
| アルベド = 0.52 ([[:en:Geometric albedo|geom.]])<ref name="fact"/>
| 赤道傾斜角 = 3.13[[度 (角度)|度]]<ref name="fact"/>
| 最小表面温度 = 110 [[ケルビン|K]]
| 平均表面温度 = 152 K
| 最大表面温度 = [[n/a]]
| 可視光明度 =
| 全波長明度 =
| 色指数_BV =
| 色指数_UB =
| 色指数_VI =
| 年齢 =
| 大気圧 = 70 k[[パスカル (単位)|Pa]]
| 大気 =
{{天体 項目|[[水素]]|>81%}}
{{天体 項目|[[ヘリウム]]|>17%}}
{{天体 項目|[[メタン]]|0.1%}}
{{天体 項目|[[水]]蒸気|0.1%}}
{{天体 項目|[[アンモニア]]|0.02%}}
{{天体 項目|[[エタン]]|0.0002%}}
{{天体 項目|[[ホスフィン]]|0.0001%}}
{{天体 項目|[[硫化水素]]|<0.0001%}}
| 外殻 =
}}
{{天体 終了
| 色 = 木星型惑星
}}
'''木星'''(もくせい、{{Lang-en|Jupiter}})は[[太陽系]]にある[[惑星]]の1つで、内側から5番目の公転軌道を周回している第5惑星である<ref name=Kanemitsu />。太陽系の中で大きさ、質量ともに最大の惑星である<ref name=New24>[[#ニュートン(別2009)|ニュートン (別2009)、pp. 24–25、惑星の密度と種類]]</ref>。
木星およびそれと同様の[[気体|ガス]]を主成分とする惑星(ガス惑星)である[[土星]]のことを[[木星型惑星]](巨大ガス惑星)と呼ぶ<ref>[[#ニュートン(別2009)|ニュートン (別2009)、pp. 18–19、太陽系の構成員]]</ref><ref name=New24 />。かつては[[天王星]]、[[海王星]]も木星型惑星に含まれていたが、現在ではこれらの二惑星は[[天王星型惑星]](巨大氷惑星)に分類されている<ref name=New24 />。
木星は古代から知られ観測されてきた。そして多くの文明で[[神話]]や[[信仰]]の対象となった。英語Jupiter(ジュピター)は[[古代ローマ]][[ローマ神話|神話]]の神[[ユーピテル]]を語源とする<ref name=Kanemitsu /><ref>{{cite book|author=Stuart Ross Taylor|year=2001|title=Solar system evolution: a new perspective : an inquiry into the chemical composition, origin, and evolution of the solar system|edition=2nd, illus., revised|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-64130-6|page=208}}</ref>。
== 軌道 ==
=== 公転 ===
太陽からの平均距離は7.78{{e|8}}キロメートル(約5.2 [[天文単位|au]])である。仮に直径約1.4{{e|6}}キロメートルの太陽を直径1メートルの球とすると、木星は約560メートル離れたところを周回している<ref>[[#ニュートン(別2009)|ニュートン (別2009)、pp.26-27、惑星の密度と種類]]</ref>直径10センチの球となる。[[公転周期|周期]]は11.86年であり、これは[[土星]]の5分の2に相当する。言い換えると、この2つの巨大な木星型惑星は、その公転周期が[[軌道共鳴]]5:2の関係にある<ref>{{cite journal|last=Michtchenko|first=T. A.|coauthors=Ferraz-Mello, S.|title=Modeling the 5 : 2 Mean-Motion Resonance in the Jupiter–Saturn Planetary System|journal=Icarus|year=2001|month=February|volume=149|issue=2|pages=77–115
|doi=10.1006/icar.2000.6539}}</ref>。
=== 自転 ===
木星の[[赤道傾斜角]]は非常に小さく、3.13度しか傾いていない。この結果、惑星上には有意な[[季節]]変化がほとんどないと考えられる<ref>{{cite web|url = http://science.nasa.gov/headlines/y2000/interplanetaryseasons.html |title = Interplanetary Seasons|publisher = Science@NASA | accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref>。木星の重力加速度は24.79m/s<sup>2</sup>であるが、木星は約10時間という猛烈なスピードで自転しており、大きな遠心力を生じるため、重力がいくぶん相殺されて、[[赤道]]上での重力加速度は23.12 m/s<sup>2</sup>に減少する。また、この大きな遠心力は、木星そのものの形状にも影響を与えており、[[赤道]]方向の直径が[[自転軸]]方向の直径よりも7パーセント程度(9,275km)膨らんだ楕円球の状態にある<ref name="lang03" /><ref name=Kagaku01>{{Cite web|和書|url = http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/mokusei/mokusei_01.html |title = 木星の概要|publisher = 独立行政法人科学技術振興機構|accessdate = 2011-05-05}}</ref>。
視認できる惑星表面が[[固体]]ではない木星では、上層[[大気]]の[[差動回転]]が確認される。極域の大気は、赤道部分の大気よりも回転時間が5分長い。木星の自転は、大気の動きなどに則した3つの系(システム)に分けて説明される。システムIは赤道を挟んだ南北10度の領域で、もっとも速く9時間50分30秒で一周する。システムIIはIを挟む南北部分の中緯度にあたる領域で、周回時間は9時間55分40.6秒である。システムIIIは[[電波天文学]]によって定義される惑星[[磁気圏]]の回転を指し9時間55分29.37秒で一周し、固体核の自転周期と同値と考えられシステムIIIが木星の公式な自転とみなされている<ref>{{cite book |first=Ian|last=Ridpath|year=1998 |title=Norton's Star Atlas|edition=19th |publisher=Prentice Hall|isbn=0-582-35655-5}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=福江純 |url = http://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~fukue/lecture/astronomy/hydro2.pdf |format=PDF|title = 天体の流体力学 14 回転星の大気構造|publisher =[[大阪教育大学]] |accessdate = 2011-04-29}}</ref>。
== 物理的性質 ==
=== 大きさ ===
[[ファイル:Jupiter-Earth-Spot comparison.jpg|thumb|地球と木星の大きさ比較。[[大赤斑]]は地球のおよそ2〜3個分の大きさである。]]
[[ファイル:SolarSystem OrdersOfMagnitude Sun-Jupiter-Earth-Moon.jpg|thumb|left|直径は、[[太陽]]の1/10で地球の10倍ほど。[[大赤斑]]は地球以上の大きさ。<!--Jupiter's diameter is one [[order of magnitude]] smaller (×0.10045) than that of the Sun, and one order of magnitude larger (×10.9733) than that of Earth. The Great Red Spot is roughly the same size as Earth.-->]]
太陽系の中で、木星は太陽に次ぐ[[重力]]中心であるが、半径比は10パーセントに過ぎない。それでも、その[[質量]]は太陽系の木星以外の惑星すべてを合わせたものの2<ref name=Kanemitsu /> - 2.5倍ほどに相当する。そのため、太陽 - 木星系の[[重心]]は太陽の内部ではなく、[[太陽半径]]の1.068倍の位置に相当する太陽表面付近にある<ref>{{cite book|author=Herbst, T. M.; Rix, H.-W.|year=1999|editor=Guenther, Eike; Stecklum, Bringfried; Klose, Sylvio|title=Star Formation and Extrasolar Planet Studies with Near-Infrared Interferometry on the LBT|booktifrared Spectroscopy of Circumstellar Matter, ASP Conference Series, Vol. 188.|isbn=1-58381-014-5|pages=341–350|bibcode=1999ASPC..188..341H|publisher=Astronomical Society of the Pacific|location=San Francisco, Calif.}}</ref><ref>{{cite book |last1=MacDougal |first1=Douglas W. |title=Newton's Gravity |year=2012 |publisher=Springer New York |isbn=978-1-4614-5443-4 |pages=193–211 |language=en |chapter=A Binary System Close to Home: How the Moon and Earth Orbit Each Other |quote=the barycenter is 743,000 km from the center of the sun. The Sun's radius is 696,000 km, so it is 47,000 km above the surface.|doi=10.1007/978-1-4614-5444-1_10 |series=Undergraduate Lecture Notes in Physics }}</ref>。なお[[太陽系]]全体の重心への寄与は木星が49%、土星が27%であり、主にこの2惑星の位置によって太陽系の重心は太陽内部に出入りする<ref name="NAOJ_reki"/>。地球との比較では質量は318倍、直径は11倍、[[体積]]は1,321倍ほどある<ref name="fact" /><ref name="burgess">{{cite book |first=Eric|last=Burgess|year=1982 |title=By Jupiter: Odysseys to a Giant |publisher=Columbia University Press|location=New York |isbn=0-231-05176-X}}</ref>。半径は太陽の10分の1に等しく<ref name=shu82>{{cite book|first=Frank H.|last=Shu|year=1982|title=The physical universe: an introduction to astronomy|page=426|series=Series of books in astronomy|edition=12th|publisher=University Science Books|isbn=0-935702-05-9}}</ref>、質量は1000分の1である。密度は両者でほとんど差はない<ref name=davis_turekian05>{{cite book|author=Davis, Andrew M.; Turekian, Karl K.|title=Meteorites, comets, and planets|volume=1|series=Treatise on geochemistry,|publisher=Elsevier|year=2005|isbn=0-08-044720-1|page=624}}</ref>。[[木星質量]]はM<sub>J</sub>またはM<sub>Jup</sub>で表され、[[太陽系外惑星]]や[[褐色矮星]]などの天体質量を表示する単位にも用いられる。例えば、[[オシリス (惑星)|オシリス]]の質量は0.69M<sub>J</sub>、[[CoRoT-7b]]は0.015M<sub>J</sub>である<ref>{{cite web|title=The Extrasolar Planets Encyclopedia: Interactive Catalogue|url=http://exoplanet.eu/catalog.php |publisher=Paris Observatory|author=Jean Schneider|year=2011| accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref>。
理論モデルによれば、もし木星質量が現在の質量よりもある程度大きかったならば、木星は増大した重力によって現在の大きさよりも逆に縮んでいたと考えられる<ref name=Seager2007>{{cite journal |last=Seager |first=S. |coauthors=Kuchner, M.; Hier-Majumder, C. A.; Militzer, B. |title=Mass-Radius Relationships for Solid Exoplanets |journal=The Astrophysical Journal |volume=669 |issue=2 |pages=1279–1297 |year=2007 |doi=10.1086/521346 |url= |arxiv=0707.2895 |accessdate=2011-02-18}}</ref>。少々の差異では半径に影響を及ぼさないが、[[地球質量]]の500倍、木星質量の1.6倍程度重かったとすると<ref name=Seager2007/>、重力の増大によって木星内部の密度が高まり、構成物質の増加に反して体積が小さくなると考えられる。質量増加によってかえって半径が収縮する傾向は、木星の50倍程度重い[[褐色矮星]]の領域まで続くと考えられている<ref name="tristan286">{{cite journal |last = Guillot|first = Tristan |title=Interiors of Giant Planets Inside and Outside the Solar System |journal=Science|year=1999|volume=286|issue=5437 |pages=72–77|accessdate=2007-08-28 |url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/286/5437/72 |doi=10.1126/science.286.5437.72 |pmid=10506563}}</ref>。
木星が[[恒星]]として輝くには、水素を中心として現在の75 - 80倍<ref name=kahakuj04>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/jupiter/jupiter04.html|title=木星は太陽になりそこねたって本当ですか? |publisher=国立科学博物館|accessdate=2011-04-24}}</ref>程度の質量がなければならないが、半径で30パーセント程度大きければ[[赤色矮星]]にはなり得たという<ref>{{cite journal |author = Burrows, A.; Hubbard, W. B.; Saumon, D.; Lunine, J. I. |title=An expanded set of brown dwarf and very low mass star models |journal=Astrophysical Journal|year=1993|volume=406 |issue=1|pages=158–71 |bibcode=1993ApJ...406..158B |doi = 10.1086/172427}}</ref><ref>{{cite news |first=Didier|last=Queloz |title=VLT Interferometer Measures the Size of Proxima Centauri and Other Nearby Stars |publisher=European Southern Observatory |date=November 19, 2002 |url=http://www.eso.org/outreach/press-rel/pr-2002/pr-22-02.html | accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref>。
木星は、太陽輻射で受ける熱よりも多い熱量を放射している。木星表面の温度は 125[[ケルビン|K]]であり、これは[[太陽エネルギー|太陽光エネルギー]]だけで計算される温度102Kよりも高い<ref name=kahakuj04 />。この差は木星内部で生成される熱によるものであり、太陽から受けるエネルギー量に匹敵する<ref name="elkins-tanton">{{cite book |first=Linda T.|last=Elkins-Tanton|year=2006 |title=Jupiter and Saturn|publisher=Chelsea House |location=New York|isbn=0-8160-5196-8}}</ref>。この熱の一部は、[[ケルビン・ヘルムホルツ機構]]と呼ばれる[[断熱過程]]で生じるもので、この過程によって木星は年間2センチずつ縮んでいる<ref name="guillot04">{{cite book |editor=Bagenal, F.; Dowling, T. E.; McKinnon, W. B |author=Guillot, T.; Stevenson, D. J.; Hubbard, W. B.; Saumon, D. |year=2004 |title=Jupiter: The Planet, Satellites and Magnetosphere |chapterurl= http://web.gps.caltech.edu/faculty/stevenson/pdfs/guillot_etal'04.pdf |chapter=Chapter 3: The Interior of Jupiter |publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-81808-7}}</ref>。逆に、誕生時の木星は現在の2倍程度の大きさがあったと考えられる<ref>{{cite journal|last=Bodenheimer|first=P.|title=Calculations of the early evolution of Jupiter|series=23|journal=Icarus|year=1974|pages=319|issue=3|volume=pages=319–25|bibcode=1974Icar...23..319B|doi=10.1016/0019-1035(74)90050-5}}</ref>。
=== 内部構造 ===
[[ファイル:Jupiter_diagram.svg|thumb|upright=3|木星内部構造の想像図。岩石質の中心核を厚い金属水素の層が覆っていると考えられている。]]
木星の内部構造は、中心にさまざまな元素が混合した高密度の中心核があり、そのまわりを液状の[[金属水素]]と若干の[[ヘリウム]]混合体が覆い、その外部を分子状の[[水素]]を中心とした層が取り囲んでいるものと考えられる<ref name="guillot04"/>。ただしこの構造は外見上からの想像に過ぎず、はっきりと分かっていない。
中心核は[[ケイ素]]など[[岩石]]質ではないかと想像されているが、その構造は温度・圧力の状態と同じく分かっていない。1997年の重力測定<ref name="guillot04"/>に基づく中心核の規模の推定には様々なものがあるが、質量は地球の11 - 45倍で、木星質量全体の3パーセント - 15パーセント程度を占めると考えられる<ref name="elkins-tanton" /><ref>{{cite journal |author=Guillot, T.; Gautier, D.; Hubbard, W. B. |title=New Constraints on the Composition of Jupiter from Galileo Measurements and Interior Models |journal=Icarus|year=1997|volume=130 |issue=2|pages=534–539 |bibcode=1997astro.ph..7210G |doi = 10.1006/icar.1997.5812}}</ref>。仮に木星成分が太陽と同じならば、岩石質の中心核は地球の5倍程度になるが、密度から計算するとその大きさは15倍程度となる。これは、巨大ガス惑星といえど[[太陽系の元素組成]]よりも水素やヘリウムが少ないことを示す<ref>[[#松井(1996)|松井 (1996)、第五章 巨大ガス惑星の世界へ、pp. 114–117、主としてガスから成る巨大ガス惑星]]</ref>。この中心核は、惑星形成モデルから予測される原始太陽系星雲からの水素やヘリウムの集積が行われた際、同様に岩石や[[水]]の[[氷]]も木星の初期形成時に集まったと考えられる。この核が予測どおり存在するとすれば、それは液体状の金属水素が起こす対流の中に混ざり込んだ物質が惑星内の深層部分に集まって形成されたことになる。この中心核は、現在では固まっていると思われるが、活動している可能性を完全に除外できるほどの観測結果は得られていない<ref name="guillot04"/><ref>{{cite book|author=Various|editor=McFadden, Lucy-Ann; Weissman, Paul; Johnson, Torrence|year=2006|title=Encyclopedia of the Solar System|edition=2nd|publisher=Academic Press|isbn=0-12-088589-1|page=412}}</ref>。
中心核の周囲には、微量のヘリウムや水の氷を含む厚い水素の層が広がっている<ref name=Kanemitsu />と考えられ、それは木星半径の78パーセントに相当する<ref name="elkins-tanton" />。深い部分は液体の[[金属水素]]が4万キロメートルほどの層を成し、その上部にはやはり液状の水素[[分子]]が約2万キロメートルの厚さで覆っている<ref name=kahakuj02>{{Cite web|和書|url = https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/jupiter/jupiter02.html |title = 木星に地面はないのですか|publisher = [[国立科学博物館]] | accessdate=2011-05-05 }}</ref>。表面部分の深さでは、温度は水素の[[臨界点]]である33Kを上回っている<ref>{{cite journal|first=Andreas|last=Züttel|month=September|year=2003|title=Materials for hydrogen storage|journal=Materials Today|volume=6|issue=9|pages=24–33|doi=10.1016/S1369-7021(03)00922-2}}</ref>ため、水素は[[液相]]と[[気相]]を区分する境界が存在しない超臨界液体状態にあると考えられる。しかしながら、上層部では水素はガス状であり、1,000キロメートルほど下がると雲状の層となる<ref name="elkins-tanton" />。そして層の下部では液状になっている。これらに明らかな境界は存在しないが、深くなるにつれ徐々に熱を持ち濃度も高くなっていく<ref>{{cite journal |last=Guillot|first=T. |title=A comparison of the interiors of Jupiter and Saturn |journal=Planetary and Space Science|year=1999|volume=47 |issue=10–11|pages=1183–200 |bibcode=1999astro.ph..7402G |doi=10.1016/S0032-0633(99)00043-4}}</ref><ref name="lang03">{{cite web |last =Lang|first = Kenneth R.|year = 2003 |url = http://ase.tufts.edu/cosmos/view_chapter.asp?id=9&page=3 |title = Jupiter: a giant primitive planet|publisher = NASA | accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref>。
木星の内部モデルは確立されておらず、これまで観測された諸元値にはばらつきがある。回転係数J<sub>6</sub>の1つが惑星の[[慣性モーメント]]から赤道半径、1気圧下での温度を説明するために用いられていた。2011年に打ち上げられ、2016年に木星に到着した探査機[[ジュノー (探査機)|ジュノー]]では、これらの値を絞り込む役割があり、その結果から中心核についての課題解決が進むことが期待されている<ref>{{cite journal|author=Horia, Yasunori; Sanoa, Takayoshi; Ikomaa, Masahiro; Idaa, Shigeru|title=On uncertainty of Jupiter's core mass due to observational errors|journal=Proceedings of the International Astronomical Union|year=2007|volume=3|publisher=[[Cambridge University Press]]|issue=S249|doi=10.1017/S1743921308016554|pages=163–166}}</ref>。
=== 温度 ===
木星の[[赤道傾斜角]]は、3.08° - 3.12°と[[水星]]に次いで小さく、自転軸がほぼ垂直である。このため、地球などに見られるような、気象現象の[[季節]]変化はあまりないと推測されている。ところが、木星表面の温度は極部分と赤道部分でほとんど差がない<ref name=Matsu129>[[#松井(1996)|松井 (1996)、第六章 新たな謎を生んだ星‐木星、pp. 129–132、木星大気の運動]]</ref>。さらに木星の表面温度はマイナス140{{℃}}程度だが、これは太陽からの輻射熱だけで計算される マイナス186{{℃}}よりも高い。このようなことから、木星は内部から[[熱]]を発していると考えられる<ref name=Matsu129 />。太陽から受ける熱量の2倍に相当する熱量の熱源は、水素より重いヘリウムが中心に沈む際に生じる重力エネルギーではないかと考えられている<ref name=Matsu129 /><ref>Alvin Seiff. Dynamics of Jupiter's atmosphere. Nature. 2000; 403: 603-605.</ref>。
木星内部の温度と圧力は、内部に向かうほどにどちらも高くなる。水素が臨界点まで加熱され[[相転移]]を起こす領域では金属水素が形成されるようになるが、その領域の温度は10,000K、圧力は 200[[パスカル_(単位)|GPa]]に達すると考えられる。金属水素層の底で温度は20,000K、圧力は3,600GPa<ref name=kahakuj02 />、中心核では、温度は36,000K、圧力は4,500GPaに至ると見積もられている<ref name="elkins-tanton" />。
=== 大気 ===
[[File:790106-0203 Voyager 58M to 31M reduced.gif|thumb|right|ボイジャー一号が撮影した木星大気の帯と大赤斑の動きを捉えた画像[[:ファイル:Jupiter from Voyager 1 PIA02855 max quality.ogv|(フルサイズ動画)]]]]
{{main|木星の大気}}
木星の上層大気は、ガス[[分子]]構成比で88 - 92パーセントの水素と8 - 12パーセントのヘリウムガスが占める。[[元素]]単位でヘリウムは約4倍重いため、重量比では水素75パーセント、ヘリウム24パーセント、他が1パーセントである。内部は含まれる重い元素の比率が高まり、全体の重量比では水素約71パーセント、ヘリウム約24パーセント、他が5パーセントとなる。大気にはわずかな[[メタン]]、[[水蒸気]]、[[アンモニア]]、[[珪素]]化合物も含まれる。また、観測から[[エタン]]、[[硫化水素]]、[[ネオン]]、[[酸素]]、[[硫黄]]も確認された。大気最外層には凍ったアンモニアの結晶が漂っている<ref>{{cite journal |author=Gautier, D.; Conrath, B.; Flasar, M.; Hanel, R.; Kunde, V.; Chedin, A.; Scott N. |title = The helium abundance of Jupiter from Voyager |journal = Journal of Geophysical Research |volume = 86 |issue=A10|pages = 8713–8720|year = 1981 |bibcode = 1981JGR....86.8713G |doi = 10.1029/JA086iA10p08713}}</ref><ref>{{cite journal |author=Kunde, V. G. et al. |title=Jupiter's Atmospheric Composition from the Cassini Thermal Infrared Spectroscopy Experiment |journal=Science|date=September 10, 2004 |volume=305|issue=5690|pages=1582–86 |url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/305/5690/1582 |accessdate = 2007-04-04 |doi = 10.1126/science.1100240 |pmid=15319491 |bibcode=2004Sci...305.1582K}}</ref>。また、[[赤外線]]や[[紫外線]]測定から、微量の[[ベンゼン]]やほかの[[炭化水素]]の存在も確認された<ref>{{cite journal |journal = Icarus| volume = 64 |issue = 2| pages = 233–48|year = 1985 |title = Infrared Polar Brightening on Jupiter III. Spectrometry from the Voyager 1 IRIS Experiment |bibcode=1985Icar...64..233K |author= Kim, S. J.; Caldwell, J.; Rivolo, A. R.; Wagner, R. |doi = 10.1016/0019-1035(85)90201-5}}</ref>。
大気における水素とヘリウムの存在比は、原始太陽系星雲の理論的構成に近い。しかしネオンは5万分の1と太陽が含む量の約10分の1程度しかない<ref>{{cite journal |author=Niemann, H. B.; Atreya, S. K.; Carignan, G. R.; Donahue, T. M.; Haberman, J. A.; Harpold, D. N.; Hartle, R. E.; Hunten, D. M.; Kasprzak, W. T.; Mahaffy, P. R.; Owen, T. C.; Spencer, N. W.; Way, S. H. |title=The Galileo Probe Mass Spectrometer: Composition of Jupiter's Atmosphere |journal=Science|year=1996|volume=272 |issue=5263|pages=846–849 |bibcode=1996Sci...272..846N |doi = 10.1126/science.272.5263.846 |pmid=8629016}}</ref>。ヘリウムの比率も太陽の80パーセント程度と少ない。この大気上層におけるヘリウムやネオン比率の少なさから、これらの元素が[[降水]]のように金属水素の層へ沈殿し、惑星内部に沈みこんだ結果という説がある<ref name="galileo_ms">{{cite web |first=Paul|last=Mahaffy |url = http://ael.gsfc.nasa.gov/jupiterHighlights.shtml |title = Highlights of the Galileo Probe Mass Spectrometer Investigation |publisher = NASA Goddard Space Flight Center, Atmospheric Experiments Laboratory |accessdate = 2007-06-06}}</ref><ref>{{cite journal|last = Lodders|first = Katharina|title=Jupiter Formed with More Tar than Ice|journal=The Astrophysical Journal|year=2004|volume=611|issue=1|pages=587–597|url=http://www.journals.uchicago.edu/doi/full/10.1086/421970| doi = 10.1086/421970|accessdate=2007-07-03}}</ref>。
木星は太陽系惑星の中でももっとも厚い5,000キロメートルにわたる大気層を持つ<ref name=Sieff/><ref>*{{cite journal |last=Miller|first=S. |coauthors=Aylword, A.; Milliword, G. |year=2005 |title=Giant Planet Ionospheres and Thermospheres: the Importance of Ion-Neutral Coupling |journal=[[Space Science Reviews]] |volume=116 |issue=1-2 |pages=319–343 |doi=10.1007/s11214-005-1960-4 |bibcode=2005SSRv..116..319M |ref=Miller2005}}</ref>。木星には固体の表面が存在しないため、惑星の領域は、大気が10気圧または地球表面の10倍に相当する大気圧の部分からと考える<ref name=Sieff>{{cite journal |last=Seiff |first=A. |coauthors=Kirk, D.B.; Knight, T.C.D. et al. |year=1998 |title=Thermal structure of Jupiter's atmosphere near the edge of a 5-μm hot spot in the north equatorial belt |journal=[[Journal of Geophysical Research]] |volume=103 |issue=E10 |pages=22857–22889 |doi=10.1029/98JE01766 |bibcode=1998JGR...10322857S}}</ref>。
=== 雲の層 ===
[[ファイル:PIA02863 - Jupiter surface motion animation thumbnail 300px 10fps.ogv|thumb|250px|木星の雲の帯が動く様子。この図では、木星の球型表面を円筒に[[投影法 (地図)|投影]]し、[[:ファイル:PIA02863 - Jupiter surface motion animation thumbnail 720px 10fps.ogv|720]] × [[:ファイル:PIA02863 - Jupiter surface motion animation 1fps.ogv|1799]]ピクセルで表す]]
{{multiple image |align=right |direction=horizontal |total_width=350
|image1=Map of Jupiter.jpg |width1=2231 |height1=2266 |caption1=木星の南の極
|image2=PIA21641-Jupiter-SouthernStorms-JunoCam-20170525.jpg |width2=2646 |height2=2915 |caption2=木星の南極の雲に色付けした画像
}}
木星は常時雲に覆われており、可視光で観測される表面は固体の地面ではなく雲の表層である<ref name=kahakuj02 />。この雲はアンモニアの結晶や、可能性としてアンモニア水硫化物で作られたものと考えられる。これらの雲は[[対流圏界面]]に浮かんでおり、特に赤道域に相当する部分では[[緯度]]ごとに異なる流れを起こしていることが知られている。この流れは比較的明るい「帯、ゾーン(zones)」と暗い「縞、ベルト(belts)」に分けられることもあり、それぞれの部分にある物質が太陽光を反射する具合でこのように見える<ref name=New74>[[#ニュートン(別2009)|ニュートン (別2009)、pp. 74–75、木星1]]</ref>。これらの部分は赤道と平行に、東向きと西向きに交互に流れており、間に働く相互作用は複雑な[[大気循環]]を引き起こして[[嵐]]の渦や[[乱流]]などの現象を発生させる<ref name=New74 />。ゾーンやベルト部分のジェット気流は、[[風速]]100m/s(360km/h)にも達する<ref>{{cite web |author=Ingersoll, A. P.; Dowling, T. E.; Gierasch, P. J.; Orton, G. S.; Read, P. L.; Sanchez-Lavega, A.; Showman, A. P.; Simon-Miller, A. A.; Vasavada, A. R |url = http://www.lpl.arizona.edu/~showman/publications/ingersolletal-2004.pdf |format=PDF|title = Dynamics of Jupiter’s Atmosphere |publisher = Lunar & Planetary Institute |accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。このゾーンやベルトは幅や色また風速などを毎年変化させるが、観測者の眼には識別し名称をつけるに充分な識別が可能なほど、その個別特徴を保つ<ref name="burgess" />。
雲の層は厚さ50キロメートル程度に過ぎない。しかもそれは少なくとも、低部の厚い層と高所の薄く目立つ層の2構造を持っている。さらに、アンモニアの雲の下には薄い水の雲が存在すると予想される。木星の雲の中では[[稲妻]]の光が見つかったが、これには[[極性分子]]である水が引き起こす電離作用が必要である<ref name="elkins-tanton" />。水の雲は惑星内部から供給される熱を受けて、雷のエネルギーを蓄積する<ref>{{cite journal |last = Kerr|first = Richard A. |title=Deep, Moist Heat Drives Jovian Weather |journal=Science|year=2000|volume=287|issue=5455 |pages=946–947 |url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/287/5455/946b|doi=10.1126/science.287.5455.946b |accessdate = 2007-02-24}}</ref>。この放電現象は地球の稲妻の1,000倍にも相当する大規模なものである<ref>{{cite web |editor=Watanabe, Susan|date = February 25, 2006 |url = http://www.nasa.gov/vision/universe/solarsystem/galileo_end.html |title = Surprising Jupiter: Busy Galileo spacecraft showed jovian system is full of surprises |publisher = NASA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
木星表面に見られる雲のオレンジ色や茶色は、内部から湧き上がった化合物が太陽の[[紫外線]]によって変質し色を変えたものである。詳細はいまだ判明していないが、[[リン]]、[[硫黄]]、[[炭化水素]]類が成分だと考えられている<ref name="elkins-tanton" /><ref>{{cite conference |author=Strycker, P. D.; Chanover, N.; Sussman, M.; Simon-Miller, A. |title = A Spectroscopic Search for Jupiter's Chromophores |booktitle = DPS meeting #38, #11.15 |publisher = American Astronomical Society|year = 2006 |bibcode = 2006DPS....38.1115S}}</ref>。[[発色団]]([[:en:chromophore|chromophore]])として知られるこれら多彩な化合物は、比較的暖かい雲の下層で混合される。これが[[対流細胞]]([[:en:convection cell|convection cell]])の湧き上がりによって、上層を覆うアンモニア結晶の雲の上に昇ってくることで、色を持つ層が表面に形成される<ref name="worldbook">{{cite web |author=Gierasch, Peter J.; Nicholson, Philip D. |year = 2004 |url = http://www.nasa.gov/worldbook/jupiter_worldbook.html |title = Jupiter|publisher = World Book @ NASA | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
木星は[[赤道傾斜角]]が小さいため、両極部分は赤道部分に比べて常に[[太陽光]]をあまり受けない状態が続く。そのために熱量を極に向かわせる対流があると考えられるが、それはあくまでも惑星内部で起こっており、観測できる雲の層では温度は釣り合っている<ref name="burgess" />。
=== 大赤斑 ===
{{main|大赤斑}}
[[ファイル:Great Red Spot From Voyager 1.jpg|thumbnail|250px|ボイジャー1号が1979年2月25日に、920万キロメートルの距離から撮影した木星大赤斑とその周辺。この写真では大きさ 160 km 程度の雲も識別できる。左側に見られる多彩な波状の雲がつくるパターンの部分は、波動が複雑に変化している領域である。大赤斑の直下にある白い楕円形の嵐の大きさがほぼ地球に等しく、ここから[[被写体]]のスケールを判断できる]]
木星を特徴づけるものに、赤道から南に22度の表面に確認できる[[大赤斑]]がある<ref name=New74 />。周囲の温度が2度程度低いことからこれは高気圧性の嵐と考えられる<ref name=Matsu132>[[#松井(1996)|松井 (1996)、第六章 新たな謎を生んだ星‐木星、pp.132-133、大赤斑のなぞ]]</ref>。
この大赤斑は地球からも口径12センチ以上の望遠鏡があれば視認することができ<ref>{{cite book|first=Michael A.|last=Covington|year=2002|title=Celestial Objects for Modern Telescopes|page=53|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-52419-9}}</ref>、少なくとも1831年には確認され<ref>{{cite journal |last=Denning|first=W. F. |title=Jupiter, early history of the great red spot on |journal=Monthly Notices of the Royal Astronomical Society |year=1899|volume=59|pages=574–584 |bibcode=1899MNRAS..59..574D}}</ref>、さらにさかのぼる1665年には存在したと考えられる<ref name="kyrala26">{{cite journal |last = Kyrala|first = A. |title=An explanation of the persistence of the Great Red Spot of Jupiter |journal=Moon and the Planets|year=1982|volume=26 |issue = 1 |pages=105–7 |bibcode=1982M&P....26..105K |doi=10.1007/BF00941374}}</ref>。これほど長期間にわたって維持されるメカニズムは解明していない<ref name=Kanemitsu />。過去には地殻の突起部分が影響しているという説や、[[ソリトン]]ではないかという説もあったが、現在では巨大な[[台風]]と考える説がもっとも無理が少ない<ref name=Matsu132 />。
計算では、この赤斑を作る嵐は安定しており、今後も惑星が存在する限り消えないとも言われていたが<ref>{{cite journal |doi=10.1038/331689a0 |title=Laboratory simulation of Jupiter's Great Red Spot |first=Jöel|last=Sommeria |coauthors=Steven D. Meyers & Harry L. Swinney |journal=Nature|volume=331 |issue=6158|pages=689–693 |bibcode=1988Natur.331..689S |date=February 25, 1988}}</ref>、20世紀後半から21世紀初頭の観測により年々大きさが縮小していることが明らかになっており<ref>[https://science.nasa.gov/science-news/science-at-nasa/2014/15may_grs “Jupiter's Great Red Spot is Shrinking”]NASA (15 May 2014)</ref>、2014年5月15日、大赤斑が1930年代以降の観測史上最も縮小していることが[[アメリカ航空宇宙局]]から発表された。このまま縮小が進むと21世紀の中頃には消滅すると考えられているが<ref name="UnexplainedMysteries20180220">{{cite web | url = https://www.unexplained-mysteries.com/news/315851/jupiters-great-red-spot-could-soon-disappear | title = Jupiter's Great Red Spot could soon disappear - Unexplained Mysteries | author = | authorlink = | coauthors = | date = 2018-02-20 | format = | work = | publisher = Unexplained Mysteries | pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | quote = | accessdate = 2019-12-02}}</ref>、一方で大赤斑の見た目は縮小しているもののその原動力となっている渦は存在し続けており、消滅するわけではないという見解も存在する<ref name="TheConversation20191126">{{cite web | url = https://theconversation.com/contrary-to-recent-reports-jupiters-great-red-spot-is-not-in-danger-of-disappearing-127673 | title = Contrary to recent reports, Jupiter's Great Red Spot is not in danger of disappearing | author = | authorlink = | coauthors = | date = 2019-11-26 | format = | work = | publisher = The Conversation | pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | quote = | accessdate = 2019-12-02}}</ref>。
この楕円形の大赤斑の寸法は、長径2.4 - 4万キロメートル、短径1.2 - 1.4万キロメートルであり、地球2 - 3個がすっぽり納まる<ref>{{cite web |url = http://www.space.com/scienceastronomy/solarsystem/jupiter-ez.html |title = Jupiter Data Sheet|publisher = Space.com| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。もっとも盛り上がっている箇所は周囲よりも8キロメートル程度高い<ref name=Kanemitsu /><ref>{{cite web |first=Tony|last=Phillips|date = March 3, 2006 |url=http://science.nasa.gov/headlines/y2006/02mar_redjr.htm |title=Jupiter's New Red Spot|publisher=NASA |accessdate = 2007-02-02}}</ref>。反時計回りに回転しており、6日間かけて1周する<ref>{{cite web |author=Cardall, C. Y.; Daunt, S. J |url = http://csep10.phys.utk.edu/astr161/lect/jupiter/redspot.html |title = The Great Red Spot |publisher = University of Tennessee| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
2000年、南半球上に小さいながら大赤斑と同じものと見られる特徴的な大気現象が現れた。これは、もっと小さく白い楕円形をした複数の嵐が合体し1つとなったことで形成されたもので、これら小規模な現象のうち3つは1938年には存在が確認されていた。この斑は[[オーバルBA]]と命名され、また赤斑ジュニアのあだ名がついた。その後この斑はさらに強大になり、その色も白から赤へと変化した<ref>{{cite web |url=http://science.nasa.gov/headlines/y2006/02mar_redjr.htm |title=Jupiter's New Red Spot|year=2006 | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref><ref>{{cite web|first=Bill|last=Steigerwald |date = October 14, 2006 |url = http://www.nasa.gov/centers/goddard/news/topstory/2006/little_red_spot.html |title = Jupiter's Little Red Spot Growing Stronger |publisher = NASA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref><ref>{{cite web |last = Goudarzi|first = Sara|date = May 4, 2006 |url = http://www.usatoday.com/tech/science/space/2006-05-04-jupiter-jr-spot_x.htm |title = New storm on Jupiter hints at climate changes |publisher = USA Today| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
=== 磁気圏と磁場 ===
木星の[[磁場]]の強さは地球磁場の14倍に相当する。磁力は赤道部分で4.2[[ガウス (単位)|ガウス]]、極部分で10 - 14ガウスという[[太陽黒点]]を除けば太陽系最大の磁力を持ち<ref name="worldbook" />、地球磁場の約2万倍に相当する<ref name=Kyoto-uJiki>{{Cite web|和書|url = http://wdc.kugi.kyoto-u.ac.jp/stern-j/planetmg_j.htm |title = 惑星磁気学|author=David P. Stern、佐納康治・能勢正仁・二穴喜文・永田大祐・家森俊彦|publisher = [[京都大学]]大学院理学研究科附属地磁気世界資料解析センター |Year=2004年|accessdate = 2011-05-05}}</ref>。磁極は自転軸とややずれており、[[極性]]は地球と逆になっている<ref name=Kyoto-uJiki />。
[[ファイル:Jupiter.Aurora.HST.UV.jpg|right|250px|thumb|木星の[[オーロラ]]。三つの点は三つの衛星と繋がる量子化磁束(フラクソン)がつくるオーロラであり、左側がイオ、下部のふたつがガニメデとエウロパによってもたらされたものである。ほとんどの明るい楕円は「メインオーバル」と呼ばれ、その他にもほのかなオーロラの光も見られる]]
この磁場は、金属水素のマントルにおける導電物質の対流活動が引き起こすという説が有力である<ref name=Kyoto-uJiki />。木星磁気圏の特徴は、衛星[[イオ (衛星)|イオ]]が[[火山]]活動で軌道上に放出する[[二酸化硫黄]]ガスが[[硫黄]]や[[酸素]]等の[[イオン]]となり、木星から供給される水素イオンともども惑星の赤道上に{{Ill|プラズマ・シート|en|Current sheet}}を形成するところにある。このシートは惑星とともに自転する磁気圏に引っ張られて回転し、遠心力によって引き伸ばされた円盤状となる<ref>{{Cite web|和書|author=[[中村正人 (宇宙科学者)|中村正人]]|url = http://www-space.eps.s.u-tokyo.ac.jp/group/stp/kyouyou_kougi/12th/12th_lecture.html |title = 太陽系の天体を取り巻く磁気圏|publisher =[[東京大学]]地球惑星科学専攻宇宙惑星科学講座 |accessdate = 2011-05-03}}</ref>。プラズマ・シートの中では電子が0.6 - 30.0メガヘルツに達する強い電波バーストを発している<ref>{{cite news|last=Brainerd|first=Jim|date=2004-11-22|title=Jupiter's Magnetosphere|publisher=The Astrophysics Spectator|url=http://www.astrophysicsspectator.com/topics/planets/JupiterMagnetosphere.html| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
[[太陽風]]と磁気圏は、木星半径の75倍に相当する領域で相互作用を起こし[[バウショック]]を発生している。このバウショックと[[磁気圏シース|磁気圏境界層]]との間の内側部分が{{Ill|磁気圏境界面|en|magnetopause}}となり、木星の磁気圏を覆っている。ここに衝突する太陽風は、{{Ill|風下|en|lee side|preserve=1}}へ木星磁気圏を引き伸ばし、その外側は土星の公転軌道にまで達している<ref name=Kanemitsu />。4大衛星はどれも磁気圏の中を公転しており、太陽風の吹きつけから守られている<ref name="elkins-tanton" />。しかし、この磁気圏内部は高エネルギー粒子で満たされており、地球の[[ヴァン・アレン帯]]をさらに厳しくしたような環境にある<ref name=Kanemitsu />。
木星の磁気圏は磁場が発生する極の部分に激しい現象を起こす。衛星[[イオの火山活動]]が磁気圏内に放出するガスは惑星を囲う円環の形に広がる。この中をイオが公転すると、相互作用によって[[アルヴェーン波]]が発生し、イオンを木星の極まで運ぶ。その結果、[[サイクロトロン|加速]]されて[[メーザー]]発生機構として働き、エネルギーは円錐の表面をなぞるように伝達する。この円錐と交差すると、地球では太陽からの電波よりも高い出力が観測される<ref>{{cite web |date = February 20, 2004 |url = http://science.nasa.gov/headlines/y2004/20feb_radiostorms.htm |title = Radio Storms on Jupiter |publisher = NASA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
この強い磁気のため、木星の極には常時[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が生じ、そのエネルギーは地球の1,000倍に相当する<ref>{{Cite web|和書|author=土佐誠|url = http://alpo-j.asahikawa-med.ac.jp/Conference/2008/report.htm |title = 天体の磁場‐磁場の起源:ダイナモ理論|publisher =月惑星研究会|accessdate = 2011-05-03}}</ref>。木星大気の主成分は水素分子H<sub>2</sub>であるため、流入する荷電粒子によって電離しH<sub>2</sub><sup>+</sup>イオンとなり、これがH<sub>2</sub>と反応を起こしH<sub>3</sub><sup>+</sup>とHとなる。このH<sub>3</sub><sup>+</sup>イオンがオーロラを起こす<ref name=T.Sato>{{Cite web|和書|author=佐藤毅彦|url = http://wwwsoc.nii.ac.jp/jepsjmo/cd-rom/1999cd-rom/pdf/ae/ae-005.pdf |format=PDF |title = オーロラ観測で探る木星の磁気圏|publisher =国立情報学研究所 学協会情報発信サービス|accessdate = 2011-05-03}}</ref>。また、磁力線が衛星と重なった際に生じるフラックスチューブ(エネルギー束)が極域とつながった箇所にも点状のオーロラが発生する<ref name=T.Sato />。
=== 電波バースト ===
1955年、バーナード・バーグと{{Ill|ケネス・フランクリン|en|Kenneth Franklin}}は、木星から発せられた断続的な22.2メガヘルツの電波信号(電波バースト)を検出した<ref name="elkins-tanton" /><ref>{{cite web |url = http://radiojove.gsfc.nasa.gov/library/sci_briefs/discovery.html |title = The Discovery of Jupiter's Radio Emissions |publisher = NASA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。この電波を観測した周期は木星の自転と一致しており、ここから逆に木星自転周期の正確な値を割り出すことができた。また、この電波バーストには数秒程度の長いLバーストと、100分の1秒未満の短いSバーストがあることも判明した<ref>{{cite web |last = Weintraub|first = Rachel A. |date = September 26, 2005 |url = http://www.nasa.gov/vision/universe/solarsystem/radio_jupiter.html |title = How One Night in a Field Changed Astronomy |publisher = NASA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
研究によって、木星は3種類の電波を発していると判明した。
* 何十メートルにもなるデカメーター波長の電波バーストがあり、これは木星の自転によって異なり、衛星イオが木星磁気圏に及ぼす影響も受ける<ref>{{cite web |last = Garcia|first = Leonard N |url = http://radiojove.gsfc.nasa.gov/library/sci_briefs/decametric.htm |title = The Jovian Decametric Radio Emission|publisher = NASA | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
* デシメートル波長の電波放射は、1959年に[[フランク・ドレイク]]とハイン・フバタムが初めて観測した<ref name="elkins-tanton" />。これは木星赤道付近の円環帯から発せられており、木星磁場で加速された電子による[[サイクロトロン放射]]が起源だと考えられる<ref>{{cite web|author=Klein, M. J.; Gulkis, S.; Bolton, S. J.|year=1996|url=http://deepspace.jpl.nasa.gov/technology/TMOT_News/AUG97/jupsrado.html|title=Jupiter's Synchrotron Radiation: Observed Variations Before, During and After the Impacts of Comet SL9|publisher=NASA|accessdate=2011-05-05|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061001094814/http://deepspace.jpl.nasa.gov/technology/TMOT_News/AUG97/jupsrado.html|archivedate=2006年10月1日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。
* 木星大気からは熱放射が生じている<ref name="elkins-tanton" />。
2010年には、木星磁場とほぼ一致する領域から強い[[X線]]が放射されていることが日本の[[X線天文衛星]][[すざく]]の観測で判明した。この現象は、木星周辺の領域で[[電子]]が[[光速]]近くまで加速されることが主因と考えられる<ref>{{Cite web|和書|author=土佐誠|url = http://www.houjin-tmu.ac.jp/news/press/590.html?d=assets/files/download/press/press_100126.pdf |format=PDF|title = 木星のまわりに大きく広がる硬X線放射を発見|publisher =[[首都大学東京]] |date=2010-01-26|accessdate = 2011-05-07}}</ref>。
== 衛星と環 ==
[[ファイル:Jupiter and Galilean moons.jpg|200px|right|thumb|木星とガリレオ衛星]]
[[ファイル:The_Galilean_satellites_(the_four_largest_moons_of_Jupiter).tif|thumb|200px|right|左からイオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。左の方がより木星の近くを公転する]]
=== 衛星 ===
{{Main|木星の衛星}}
2023年2月26日現在、木星には衛星が95個発見されている<ref name="Sheppard">{{Cite web|author=[[スコット・S・シェパード]]|url=https://sites.google.com/carnegiescience.edu/sheppard/moons/jupitermoons|title=Moons of Jupiter|work=Carnegie Science|accessdate=2023-01-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nao.ac.jp/new-info/satellite.html|title=惑星の衛星数・衛星一覧|publisher=[[国立天文台]]|date=2023-02-23|accessdate=2023-02-26}}</ref>。そのうち79個は直径10キロメートルに満たない小さなもので、74個は母星となる木星の自転方向とは反対の公転軌道を持つ[[逆行衛星]]であることが確認されている<ref name="Sheppard" />。そのうち、大きな4つの衛星であるイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストは[[ガリレオ衛星]]と呼ばれる<ref>[[#ニュートン(別2009)|ニュートン (別2009)、pp.76-77、木星2]]</ref>。
イオ、エウロパ、ガニメデの3つは[[軌道共鳴]]状態にある。イオが木星を1周する間にエウロパは約1/2周、ガニメデは約1/4周する。このためこれら3衛星には特定の場所で重力の共鳴作用が起き、そのとき公転軌道は楕円形になる。なお、木星からの[[潮汐力]]は衛星の公転軌道を円型にしようと働く<ref>{{cite journal|author= Musotto, S.; Varadi, F.; Moore, W. B.; Schubert, G.|title=Numerical simulations of the orbits of the Galilean satellites|url=http://cat.inist.fr/?aModele=afficheN&cpsidt=13969974|journal=Icarus|year=2002|volume=159|issue= 2|pages=500–504 |doi = 10.1006/icar.2002.6939}}</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:right;"
|+ ガリレオ衛星を地球の月と比較した値
|-
! rowspan=2|名称
! rowspan=2|[[国際音声記号|IPA]]
! colspan=2|直径
! colspan=2|質量
! colspan=2|軌道半径
! colspan=2|軌道周期
|-
! km
! %
! kg
! %
! km
! %
! days
! %
|-
! [[イオ (衛星)|イオ]]
| style="text-align:center;"|{{IPA|ˈaɪ.oʊ}}
| 3,643
| 105
| 8.9{{e|22}}
| 120
| 421,700
| 110
| 1.77
| 7
|-
! [[エウロパ (衛星)|エウロパ]]
| style="text-align:center;"|{{IPA|jʊˈroʊpə}}
| 3,122
| 90
| 4.8{{e|22}}
| 65
| 671,034
| 175
| 3.55
| 13
|-
! [[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]
| style="text-align:center;"|{{IPA|ˈɡænimiːd}}
| 5,262
| 150
| 14.8{{e|22}}
| 200
| 1,070,412
| 280
| 7.15
| 26
|-
! [[カリスト (衛星)|カリスト]]
| style="text-align:center;"|{{IPA|kəˈlɪstoʊ}}
| 4,821
| 140
| 10.8{{e|22}}
| 150
| 1,882,709
| 490
| 16.69
| 61
|}
[[ファイル:PIA01627 Ringe.jpg|thumb|right|木星の環]]
=== 環 ===
{{main|木星の環}}
木星には3つの箇所からなる[[環 (天体)|環]]が存在する<ref name=New74 />。光環(ハロー環)としても知られる木星表面に接している内側の[[トーラス]]の環、比較的明るく幅6,400キロメートル・厚さ30キロメートルの主環(メインリング)、そして外側の薄い環(ゴサマー環)である<ref name="Kagaku09">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20180122071947/http://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/mokusei/mokusei_09.html|title=いずれは消えていく? 木星の輪|accessdate=2018-01-22|publisher=国立教育政策研究所}}</ref><ref>{{cite journal |last = Showalter|first = M.A. |coauthors =Burns, J.A.; Cuzzi, J. N.; Pollack, J. B. |title=Jupiter's ring system: New results on structure and particle properties |bibcode=1987Icar...69..458S |journal=Icarus|year=1987|volume=69|issue=3 |pages=458–98|doi = 10.1016/0019-1035(87)90018-2}}</ref>。このうちゴサマー環は内側に1本の輪が入れ子のように存在する<ref name=Kagaku09 />。これらの環は[[アルベド]]が0.5程度と暗く<ref name=Kanemitsu />、[[土星の環]]が氷を主成分にするのに対し、塵の比率が高い<ref name="elkins-tanton" />。主環の材料はおもに衛星[[アドラステア (衛星)|アドラステア]]と[[メティス (衛星)|メティス]]から放出された物質と考えられる<ref name=Kanemitsu />。
放出された粒子は通常ならば衛星に戻っていくが、木星の場合は木星からの輻射圧や磁場との相互作用の影響を受けて内側へ引っ張られ落ちていく<ref>Burns, J.A.; Hamilton, D.P.; Showalter, M.R. (2001). “[http://www.astro.umd.edu/~hamilton/research/preprints/BurHamSho01.pdf Dusty Rings and Circumplanetary Dust: Observations and Simple Physics]”. In Grun, E.; Gustafson, B. A. S.; Dermott, S. T.; Fechtig H. (pdf). Interplanetary Dust. Berlin: Springer. pp. 641–725.</ref><ref name=Kagaku09 />。その一方で環には衛星から新たに物質が供給されている<ref name="Burns1999">{{cite journal|last=Burns|first=J. A.|coauthors=Showalter, M.R.; Hamilton, D.P.; et al.|title=The Formation of Jupiter's Faint Rings|journal=Science|year=1999|volume=284|pages=1146–50|doi=10.1126/science.284.5417.1146|bibcode=1999Sci...284.1146B|pmid=10325220|issue=5417}}</ref>。このメカニズムはゴサマー環も同様で、衛星[[テーベ (衛星)|テーベ]]と[[アマルテア (衛星)|アマルテア]]が物質供給の役目を担う<ref name="Burns1999"/>。ほかにも、アマルテアの軌道に沿った岩石質の環が存在する証拠もあり、これも衛星から生じた微粒子からなるものと考えられている<ref>{{cite journal |last = Fieseler|first = P.D. |title=The Galileo Star Scanner Observations at Amalthea |bibcode=2004Icar..169..390F |journal=Icarus|year=2004|volume=169|issue=2 |pages=390–401|doi = 10.1016/j.icarus.2004.01.012}}</ref>。
== 太陽系内の天体との相互作用 ==
[[ファイル:InnerSolarSystem-ja.png|right|thumb|木星軌道上に広がる[[トロヤ群]](緑色)と[[小惑星帯]](白)]]
太陽とともに、木星が及ぼす[[重力]]は太陽系に大きな影響を及ぼしてきた。太陽に非常に近い[[水星]]を例外に、ほとんどの星の[[軌道 (力学)|軌道]]は、太陽の[[赤道|赤道面]]ではなく木星の軌道平面とほぼ一致している。[[小惑星]]の分布についても、[[カークウッドの空隙]]は木星によってもたらされ、[[後期重爆撃期]]が起こった原因こそが木星の存在とも考えられる<ref>{{cite journal|last = Kerr|first = Richard A.|title=Did Jupiter and Saturn Team Up to Pummel the Inner Solar System?|journal=Science|year=2004|volume=306|issue=5702|pages=1676|url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/full/306/5702/1676a?etoc|accessdate=2007-08-28|doi=10.1126/science.306.5702.1676a|pmid=15576586}}</ref>。
衛星群とともに、木星の重力場は多くの小惑星に影響を与え、公転軌道上の[[ラグランジュ点]]に集めた。この小惑星の集まりは[[トロヤ群]]と呼ばれ、『[[イーリアス]]』に登場する[[トロイア戦争]]の人物名から多く小惑星の名前がとられている。発見は1906年に[[マックス・ヴォルフ]]が見つけた小惑星[[アキレス (小惑星)|アキレス]]に始まり、現在では2,000以上が見つかっている<ref>{{cite web|url=http://www.minorplanetcenter.org/iau/lists/JupiterTrojans.html|title=List Of Jupiter Trojans| accessdate=2011-05-05|language=英語|publisher=IAU Minor Planet Center}}</ref>。
ほとんどの[[短周期彗星]]([[軌道長半径]]が木星のそれを下回るものと定義される)は[[木星族彗星]]に属する。木星族彗星は軌道長半径が木星よりも小さい彗星であり、その起源は[[エッジワース・カイパーベルト]]だと考えられている。これらは、木星からの摂動によって短周期化と軌道の真円化を引き起こした結果生じると考えられている<ref>{{cite journal|author=Quinn, T.; Tremaine, S.; Duncan, M.|title=Planetary perturbations and the origins of short-period comets|journal=Astrophysical Journal, Part 1|year=1990|volume=355|pages=667–679|bibcode=1990ApJ...355..667Q|doi=10.1086/168800}}</ref>。
[[1993年]]に[[アマチュア天文家]]の[[串田嘉男]]と[[村松修]]によって発見された[[串田・村松彗星]](147P/Kushida-Muramatsu)は、1949年に木星の重力圏内に捕獲され、1 - 2度木星を周回したあと、1961年に重力圏から脱出していた可能性が指摘されている。また将来的には[[ヘリン・ローマン・クロケット彗星]](111P/Helin-Roman-Crockett)が2068年から2986年までの間に捕獲され、木星の周りを6回周回すると見られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/1674/|title=木星、彗星を捕獲して衛星にしていた|work=[[ナショナル ジオグラフィック (雑誌)|ナショナル ジオグラフィック]]|publisher=[[ナショナル ジオグラフィック協会]]|date=2009-09-14|accessdate=2023-11-25}}</ref>。
=== 衝突 ===
[[ファイル:Hs-2009-23-crop.jpg|thumb|right|[[ハッブル宇宙望遠鏡]]が捉えた2009年に発生した木星の衝突痕 ([[:en:2009 Jupiter impact event|2009 Jupiter impact event]])。幅 8,000 km<ref>{{cite news|author=Dennis Overbye |title=Hubble Takes Snapshot of Jupiter’s ‘Black Eye’ |url=http://www.nytimes.com/2009/07/25/science/space/25hubble.html?ref=science|date=2009-07-24|publisher=[[New York Times]]| accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref>]]
木星は太陽系の掃除屋という異名を持ち<ref>{{cite news|first=Richard A.|last=Lovett|title=Stardust's Comet Clues Reveal Early Solar System|publisher=National Geographic News|date=December 15,2006|url=http://news.nationalgeographic.com/news/2006/12/061215-comet-stardust.html| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>、それは内惑星の領域に比較的近い[[重力井戸]]であるため、木星は数多くの彗星衝突を引き受け内惑星を保護してきたという考えからつけられた<ref>{{citejournal|author=Nakamura, T.; Kurahashi, H.|title=Collisional Probability of Periodic Comets with the Terrestrial Planets: An Invalid Case of Analytic Formulation|journal=Astronomical Journal|year=1998|volume=115|issue=2|pages=848–854|url=http://www.iop.org/EJ/article/1538-3881/115/2/848/970144.html| accessdate = 2011-05-05|language=英語|doi = 10.1086/300206|bibcode=1998AJ....115..848N}}</ref>。木星がなければ、地球に衝突する小惑星の数は1,000倍、数万年に1回衝突するという<ref>「徹底図解 宇宙のしくみ」、[[新星出版社]]、2006年、p69</ref>。しかし、近年のコンピュータ・シミュレーションでは、木星という重力点によって軌道を変えられてしまう彗星があり、内側に入り込む彗星の数を有意に減らさないという結果も発表された<ref>{{cite journal|author=Horner, J.; Jones, B. W. |year=2008|title=Jupiter - friend or foe? I: the asteroids|journal=International Journal of Astrobiology|volume=7|issue=3–4|pages=251–261|doi=10.1017/S1473550408004187|arxiv=0806.2795}}</ref>。この問題は議論を呼び、さまざまな意見が示されている<ref>{{cite news|first=Dennis|last=Overbyte|date=2009-07-25|title=Jupiter: Our Comic Protector?|work=Thew New York Times| accessdate = 2011-05-05|language=英語|url=http://www.nytimes.com/2009/07/26/weekinreview/26overbye.html?hpw}}</ref>。
1997年、過去に木星を観察したスケッチ9枚が調査されたが、その中にある[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]が1690年に観測したスケッチに、木星衝突らしき痕跡を描いたものがあった<ref>{{Cite journal|author=Tabe, Isshi; Watanabe, Jun-ichi; Jimbo, Michiwo|year=1997|month=February|title=Discovery of a Possible Impact SPOT on Jupiter Recorded in 1690|journal=Publications of the Astronomical Society of Japan|volume=49|pages=L1–L5|bibcode=1997PASJ...49L...1T}}</ref>。現代の観測では、1994年7月16日から22日にかけて起こった[[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]の20個以上の破片が木星の[[南半球]]に衝突した出来事が有名である。これは太陽系天体の衝突を直接観測した最初の例となった。また、この衝突は木星大気の成分分析に関わる重要なデータを提供した<ref>{{cite web|last = Baalke|first = Ron |url = http://www2.jpl.nasa.gov/sl9/ |title = Comet Shoemaker-Levy Collision with Jupiter |publisher = NASA|accessdate = 2007-01-02}}
</ref><ref>{{cite news|first=Robert R.|last=Britt |title=Remnants of 1994 Comet Impact Leave Puzzle at Jupiter |publisher=space.com|date=August 23, 2004 |url=http://www.space.com/scienceastronomy/mystery_monday_040823.html | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
2009年7月19日には、南半球に衝突痕が発見された<ref>{{cite news|author=Staff|url=http://www.abc.net.au/news/stories/2009/07/21/2632368.htm|title=Amateur astronomer discovers Jupiter collision|date=2009-07-21|work=ABC News online| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.iceinspace.com.au/index.php?id=70,550,0,0,1,0|first=Mike| last= Salway|date= July 19, 2009|id=IceInSpace News|title=Breaking News: Possible Impact on Jupiter, Captured by Anthony Wesley|publisher=IceInSpace| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。これは大気表面に残った黒い点で、大きさは[[オーバルBA]]にほぼ匹敵した。衝突が起こった場所は、赤外線観測によって[[南極点]]に近い大気が暖められていることから判明した<ref>{{Cite news |last=Grossman |first=Lisa |date=July 20, 2009 |title=Jupiter sports new 'bruise' from impact |newspaper=New Scientist |url=http://www.newscientist.com/article/dn17491-jupiter-sports-new-bruise-from-impact.html}}</ref>。2010年にも小さな衝突[[:en:2010 Jupiter impact event|(en)]]が観測された。2010年6月3日に[[オーストラリア]]の[[アマチュア天文学者]]アントニー・ウェスレィが発見し、のちに[[フィリピン]]でもアマチュア天文家クリストファー・ゴーが成功したビデオ撮影された画像が発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://wired.jp/2010/06/07/%E6%9C%A8%E6%98%9F%E3%81%AB%E5%A4%A9%E4%BD%93%E3%81%8C%E8%A1%9D%E7%AA%81%E3%80%81%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%81%8C%E6%8D%89%E3%81%88%E3%81%9F%E5%8B%95%E7%94%BB/|title=木星に天体が衝突、天文ファンが捉えた動画|work=WIRED.jp|publisher=WIRED.jp|date=2010-06-07|accessdate=2010-06-07}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.astronomy.com/asy/default.aspx?c=a&id=9918| title=Another impact on Jupiter| date=2010-06-04| first=Michael| last=Bakich| publisher=[[Astronomy Magazine]] online| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。さらに2010年8月21日、木星に小天体が衝突した瞬間の閃光を日本のアマチュア天文家立川正之が観測・撮影した<ref>{{cite web|url=http://pholus.mtk.nao.ac.jp/watanabe/optical-flash-on-jupiter |title=Optical flash on Jupiter|publisher=[[渡部潤一]]|date=2010-08-21|accessdate=2011-05-05}}</ref>。木星への天体の衝突はきわめてまれな出来事とされていたが、短期間のうちに連続して3件の天体衝突が発生したことから、衝突確率に関する理論を見直す必要があるともいわれている<ref>{{cite web|url= http://news.nationalgeographic.com/news/2010/08/100824-jupiter-fireballs-impacts-meteors-comets-space-science/ |title= Third Jupiter Fireball Spotted—Sky-Watching Army Needed? |publisher=National Geographic|accessdate=2011-05-05|language=英語}}</ref>。
== 人類との関係 ==
=== 歴史と神話 ===
[[ファイル:8646 - St Petersburg - Hermitage - Jupiter2.jpg|thumb|right|180px|ユーピテル]]
夜、そして太陽が低いときに地上から視認できた木星は古代から知られていた<ref>{{cite news|author=Staff|date=June 16, 2005|title=Stargazers prepare for daylight view of Jupiter|publisher=ABC News Online|url=http://www.abc.net.au/news/newsitems/200506/s1393223.htm| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。古代[[バビロニア]]では、木星は神[[マルドゥク]]と同一視されていた。彼らは、木星の[[黄道]]に沿う約12年にわたる周期を用いて、[[黄道十二星座]]の各[[星座]]を定めていた<ref name="burgess" /><ref>{{cite journal|last=Rogers|first=J. H.|title=Origins of the ancient constellations: I. The Mesopotamian traditions|journal=Journal of the British Astronomical Association,|year=1998|volume=108|pages=9–28|bibcode=1998JBAA..108....9R}}</ref>。
英語のジュピター (Jupiter) は、[[ギリシア神話]]の[[ゼウス]]と同一とみなされる[[ローマ神話]]の神[[ユーピテル]]({{lang-la|Iuppiter, Iūpiter}}、またはJove)を語源とする<ref name=Kanemitsu />。この名は[[インド・ヨーロッパ祖語]]における''Dyēu-pəter''が変化した呼称であり、その意味は「天空の父たる神("O Father Sky-God")」または「日の父たる神("O Father Day-God")」である<ref name="etymologyonline">{{cite web|last=Harper|first=Douglas|month=November|year=2001|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=Jupiter|title=Jupiter|publisher=Online Etymology Dictionary|accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。英語における木星の[[形容詞]]<nowiki/>jovianは、古くはjovialとも書かれ、これは同時に「陽気な、愉快な、幸せな」などの意味を持ち<ref>{{cite web|url=http://ejje.weblio.jp/content/jovial |title=【Jovial】|publisher= weblio英和辞典| accessdate = 2011-05-05}}</ref>、[[中世]]の占星術師から守護惑星の意味として使われた<ref>{{cite web|url=http://dictionary.reference.com/browse/jovial|title=Jovial|publisher=Dictionary.com| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
中国では、黄道に沿った公転周期がほぼ12年であることから、[[十二次#木星との関係|十二次]]を司るもっとも尊い星<ref>{{Cite web|和書|url=https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/faq/reki/jyuunishi.htm |title=十二支と十干|publisher=[[海上保安庁]]海洋情報部|accessdate=2011-05-05}}</ref>として「歳星」と呼ばれた<ref>{{Cite web|和書|url=http://ksirius.kj.yamagata-u.ac.jp/~shibata/yamashin/100-body.html |title=木星を見つけよう|author=柴田晋平|publisher=[[山形大学]]理学部物理学科 |accessdate=2011-05-05}}</ref>。また、[[道教]]においては天形星(天刑星、てんけいせい)の名で神格化され、[[牛頭天王]]さえ喰らう凶神として恐れられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.fuhc.fukuyama-u.ac.jp/human/hc/event/essay/2008/soturon2008-fujii.pdf |format=PDF |title=呪符木簡「天形星」から見る備後地方の疫病対策|author=藤井隆晴|publisher=[[福山大学]] |accessdate=2011-05-05}}</ref>。
=== 占星術 ===
木星は[[七曜]]・[[九曜]]の1つで、[[10大天体]]の1つである。[[西洋占星術]]では、[[人馬宮]]の[[支配星]]、[[双魚宮]]の副支配星で、吉星である。[[保護]]を示し、[[儀式]]、[[宗教]]、[[研究]]、[[姻族|妻の里方]]に当てはまる<ref>[[石川源晃]]『【実習】占星学入門』ISBN 4-89203-153-4</ref>。
=== 惑星記号 ===
木星を指す[[天文学のシンボル]] [[ファイル:Jupiter symbol.svg]] は、神の稲妻を様式化した記号であり、また[[ギリシア語]]で[[ゼウス]]の頭文字からローマ人がつけたものでもある。接頭語"zeno-"は、しばしば木星にかかわる諸物を表す単語に用いられる。たとえば木星表面の研究は"zenographic"と表現される<ref group="注">使用例:{{cite news|title=IAUC 2844: Jupiter; 1975h|publisher= International Astronomical Union|date=October 1, 1975|url=http://cbat.eps.harvard.edu/iauc/02800/02844.html|accessdate=2010-10-24}}。{{cite web|url=http://adsabs.harvard.edu/cgi-bin/nph-abs_connect?db_key=AST&text=zenographic%20since%20at%20least%201966|title=Query Results from the Astronomy Database|publisher=Smithsonian/NASA|accessdate=2007-07-29}}</ref>。
== 観測史 ==
{{see also|木星探査}}
=== 古代の観測 ===
[[ファイル:Almagest-planets.svg|200px|thumb|right|『アルマゲスト』にて提案された、地球 (⊕) に対する木星 (☉) の相対的な位置と動き]]
木星の観察は紀元前8 - 7世紀ごろの古代[[バビロニア]]までさかのぼることができる<ref>{{Cite journal|title=Babylonian Observational Astronomy|author=A. Sachs|journal=Philosophical Transactions of the Royal Society of London|volume=276|issue=1257|date=May 2, 1974|pages=43–50 (see p. 44)|publisher=Royal Society of London|jstor=74273|postscript=<!--None-->}}</ref>。また[[古代]][[中国大陸]]でも、天文学者の[[甘徳]]が紀元前362年に肉眼で木星の衛星を観察したと[[席澤宗]]([[:en:Xi Zezong|Xi Zezong]])は主張した。これが正しければ、彼はガリレオに先立つこと2000年前に衛星を発見していたことになる<ref>{{cite journal|last=Xi|first=Z. Z.|title=The Discovery of Jupiter's Satellite Made by Gan-De 2000 Years Before Galileo|journal=Acta Astrophysica Sinica|year=1981|volume=1|issue=2|pages=87|bibcode=1981AcApS...1...87X}}</ref><ref>{{cite book|first=Paul|last=Dong|year=2002|title=China's Major Mysteries: Paranormal Phenomena and the Unexplained in the People's Republic|publisher=China Books|isbn=0-8351-2676-5}}</ref>。紀元前2世紀ごろには[[古代ローマ]]の[[クラウディオス・プトレマイオス]]が著作『[[アルマゲスト]]』にて、[[従円と周転円]]を用いて木星と地球の相対位置を説明し、木星の公転時間を地球時間で4332.38日または11.86年とする[[天動説]]の惑星モデルを作り上げた<ref>{{cite book|title=A Survey of the Almagest|author=Olaf Pedersen|year=1974|publisher=Odense University Press|pages=423, 428}}</ref>。499年には[[インド]]の天文学者・[[数学者]]の[[アリヤバータ]]が同じく天動説モデルにて、木星公転を4332.2722日または11.86年と計算した<ref>{{cite book|author=tr. with notes by Walter Eugene Clark|url=https://archive.org/download/The_Aryabhatiya_of_Aryabhata_Clark_1930/The_Aryabhatiya_of_Aryabhata_Clark_1930.pdf|title=The Aryabhatiya of Aryabhata|year=1930|publisher=University of Chicago Press|page=9, Stanza 1}}</ref>。
=== 中世以降の観測 ===
1610年に[[ガリレオ・ガリレイ]]は、望遠鏡を用いて木星に4つの衛星を発見した。これらは地球の月以外では初めて発見された衛星で、今日では[[ガリレオ衛星]]と呼ばれる[[イオ (衛星)|イオ]]・[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]・[[ガニメデ (衛星)|ガニメデ]]・[[カリスト (衛星)|カリスト]]である。これは同時に、地球以外の[[天体力学]]の中心が初めて見つかった例でもあり、[[ニコラウス・コペルニクス]]の[[地動説]]を支持する有力な証拠とガリレオは主張したが、そのために彼は[[異端審問]]にかけられた<ref name=Kanemitsu /><ref>{{cite web |last = Westfall|first = Richard S |url = http://galileo.rice.edu/Catalog/NewFiles/galilei_gal.html |title = Galilei, Galileo |publisher = The Galileo Project | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
1660年代、[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]は新型の望遠鏡を用いて観測を行い、木星表面の斑や多彩な帯を発見した。さらに、惑星全体が極方向でつぶれた扁平状であることも視認した。これらの観察から、彼は木星の自転時間を計算し<ref name= "cassini">{{cite web |author=O'Connor, J. J.; Robertson, E. F. |month = April|year = 2003 |url = http://www-history.mcs.st-andrews.ac.uk/Biographies/Cassini.html |title = Giovanni Domenico Cassini |publisher = University of St. Andrews |accessdate = 2007-02-14}}</ref>、1690年には大気が差動回転を起こしていることにも気づいた<ref name="elkins-tanton" />。
[[ファイル:Jupiter from Voyager 1.jpg|thumb|right|ボイジャー1号撮影の映像に着色[[:en:False-color|(en)]]したもの。大赤斑や白斑などが見られる]]
南半球にある木星を特徴づける大赤斑は、1664年に[[ロバート・フック]]が発見したとも、1665年にカッシーニが発見した<ref name=New74 />とも言われる。その詳細は1831年に[[薬剤師]]でもあった[[ハインリッヒ・シュワーベ]]が初めて記録した<ref>{{cite book |first=Paul|last=Murdin|year=2000 |title=Encyclopedia of Astronomy and Astrophysics |publisher=Institute of Physics Publishing |location=Bristol|isbn=0-12-226690-0}}</ref>。記録によると、大赤斑は1665年から1708年の間には見つけられなくなり、1878年ごろからしだいに見えるようになった。1883年以降、今日に至るまで大赤斑は一貫して観測され続けている<ref>{{cite web |month = August|year = 1974 |url = http://history.nasa.gov/SP-349/ch1.htm |title = SP-349/396 Pioneer Odyssey—Jupiter, Giant of the Solar System |publisher = NASA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
[[ジョヴァンニ・ボレリ]]とカッシーニは木星衛星の動きについての精緻な図を作成し、木星の前後を通過する予測を立てた。しかし1670年代までの観測では、地球から見て木星が太陽の反対側にある際、衛星の木星面通過は予測よりも17分遅れることが判明した。カッシーニはこの観測結果を受け入れなかったが<ref name="cassini" />、[[オーレ・レーマー]]はこの差異が生じる理由は光には有限の速度があると考え、ここから[[光速]]を求めた<ref>{{cite web|url = http://www.mathpages.com/home/kmath203/kmath203.htm |title = Roemer's Hypothesis|publisher = MathPages | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
=== 近現代の観測 ===
1892年、[[エドワード・エマーソン・バーナード]]は[[カリフォルニア]]の[[リック天文台]]にある36インチ屈折望遠鏡を使って、木星5番目の衛星[[アマルテア (衛星)|アマルテア]]を発見した。優れた視力を生かした彼の発見は<ref>{{cite web |first = Joe|last = Tenn|date = March 10, 2006 |url = http://www.phys-astro.sonoma.edu/BruceMedalists/Barnard/ |title = Edward Emerson Barnard |publisher = Sonoma State University| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>、目視観測で発見された最後の衛星となった<ref>{{cite web |date = October 1, 2001 |url = http://www2.jpl.nasa.gov/galileo/education/teacherres-amalthea.html |title = Amalthea Fact Sheet|publisher = NASA JPL | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
[[ファイル:Jupiter MAD.jpg|thumb|left|[[ヨーロッパ南天天文台]]の[[超大型望遠鏡VLT]] が捉えた木星の赤外線映像]]
1932年、[[ルーペルト・ヴィルト]]は木星の[[スペクトル]]を解析し、アンモニアとメタンの吸収線があることを示した<ref>{{cite journal |last = Dunham Jr.|first = Theodore|title=Note on the Spectra of Jupiter and Saturn |journal=Publications of the Astronomical Society of the Pacific |year=1933|volume=45|pages=42–44 |bibcode=1933PASP...45...42D|doi=10.1086/124297}}</ref>。
1938年には白斑と呼ばれる永続的な3つの高気圧性の楕円斑が見つかった。これは数十年間にわたって個別に存在し、時に近づくことがあっても合体することなく存在した。しかし1998年には2つが合わさり、2000年に残りのひとつも含まれて[[オーバルBA]]となった<ref>{{cite journal |author= Youssef, A.; Marcus, P. S. |title=The dynamics of jovian white ovals from formation to merger |journal=Icarus|year=2003|volume=162 |issue=1|pages=74–93 |bibcode=2003Icar..162...74Y |doi = 10.1016/S0019-1035(02)00060-X}}</ref>。
=== フライバイ計画 ===
1973年を皮切りに、多くの無人探査機が木星観測を行っている。その中でも[[パイオニア10号]]が太陽系最大の惑星に近づき多くの発見をもたらしたことが知られている<ref>{{cite web |url = http://quest.nasa.gov/sso/cool/pioneer10/mission/ |title = Pioneer 10 Mission Profile |publisher = NASA | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref><ref>{{cite web |url = http://www.nasa.gov/centers/glenn/about/history/pioneer.html |title = Glenn Research Center |publisher = NASA | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。太陽系のほかの惑星に到達するには、探査機の速度変化である[[ΔV|デルタv]]([[:en:delta-v|delta-v]])を引き起こすエネルギーをどれだけ費やせるかによって決まる。[[ホーマン遷移軌道]]を通って地球から木星の[[低軌道]]に至るには、デルタvは6.3 km/s<ref>p. 150, Spacecraft systems engineering, Peter W. Fortescue, John Stark, and Graham Swinerd, 3rd ed., John Wiley and Sons, 2003, ISBN 0-470-85102-3.</ref>であり、地球から打ち上げるのに必要なデルタv9.7 km/sとの差を埋める必要があった<ref>{{cite web|last = Hirata|first = Chris|url = http://www.pma.caltech.edu/~chirata/deltav.html|title = Delta-V in the Solar System|publisher = California Institute of Technology|accessdate = 2006-11-28|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060715015836/http://www.pma.caltech.edu/~chirata/deltav.html|archivedate = 2006年7月15日|deadurl = yes|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref>。これは、かなり長い時間を要するが、惑星の近接飛行による[[スイングバイ]]を用いて縮めることができる<ref name="delta-v">{{cite web|last = Wong|first = Al |date= May 28, 1998|url = http://www2.jpl.nasa.gov/galileo/faqnav.html|title = Galileo FAQ - Navigation|publisher = NASA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
{| class="wikitable" style="float: right; margin-right: 0px; margin-left: 1em;"
|+ 木星へのフライバイ計画
|-
!探査機
!最接近の日付
!距離
|-
| [[パイオニア10号]]
| 1973年12月3日
|style="text-align: right;"|130,000 km
|-
| [[パイオニア11号]]
| 1974年12月4日
|style="text-align: right;"|34,000 km
|-
| [[ボイジャー1号]]
| 1979年3月5日
|style="text-align: right;"|349,000 km
|-
| [[ボイジャー2号]]
| 1979年7月9日
|style="text-align: right;"|570,000 km
|-
|rowspan="2"|[[ユリシーズ (探査機)|ユリシーズ]]
|1992年2月8日<ref name="ulysses"/>
|style="text-align: right;"|408,894 km
|-
| 2004年2月4日<ref name="ulysses"/>
|style="text-align: right;"|120,000,000 km
|-
| [[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]
| 2000年12月30日
|style="text-align: right;"|10,000,000 km
|-
| [[ニュー・ホライズンズ]]
| 2007年2月28日
|style="text-align: right;"|2,304,535 km
|}
[[ファイル:Jupiter gany.jpg|thumb|200px|right|[[ボイジャー1号]]が1979年1月24日に距離4千万キロメートルから撮影した木星の姿]]
1973年から数機の探査機がフライバイ航行法を用いて木星観測に向かった。[[パイオニア計画]]では初めて木星といくつかの衛星の近接写真が撮影された。惑星近くの固有磁場が予測よりも非常に強かったが、探査機に致命的なトラブルは生じなかった。これらの探査機軌道は木星系質量の予想精度を高めることに役立った。また、探査機の無線信号が惑星によって遮蔽されたことで、木星の直径と極方向の扁平についての詳しい情報が得られた<ref name="burgess" /><ref name="cosmology 101">{{cite web|last = Lasher|first = Lawrence|date = August 1, 2006|url = http://spaceprojects.arc.nasa.gov/Space_Projects/pioneer/PNhome.html|title = Pioneer Project Home Page|publisher = NASA Space Projects Division|accessdate = 2006-11-28|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060101001205/http://spaceprojects.arc.nasa.gov/Space_Projects/pioneer/PNhome.html|archivedate = 2006年1月1日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref>。
6年後に行われた[[ボイジャー計画]]では、ガリレオ衛星に関する知見が深まり、また木星の環が発見された<ref name=Kanemitsu />。また、大赤斑が高気圧性の現象ということも知らしめ、パイオニア計画との画像比較から大赤斑の色がオレンジ色から暗い茶色へ変わったことも判明した。衛星イオについて軌道にあるイオン化原子の円環が見つかり、また表面では噴火中の火山活動も確認された。探査機が惑星の夜側を通過した際の観測から、稲妻の光も観測された<ref>{{cite web |date= January 14, 2003|url = http://voyager.jpl.nasa.gov/science/jupiter.html|title = Jupiter|publisher = NASA Jet Propulsion Laboratory|accessdate = 2006-11-28}}</ref><ref name="burgess" />。
次に木星を通過するフライバイは太陽観測衛星[[ユリシーズ (探査機)|ユリシーズ]]が行った。これは太陽の極に到達するための経路に使われた。その際、ユリシーズは木星の磁気圏に関する情報を得たが、カメラを搭載していなかったために画像情報の追加は行われなかった。ユリシーズは6年の間隔を経て2度目のフライバイを行ったが、その位置は木星から遠く離れた軌道を取った<ref name="ulysses">{{cite web|author = Chan, K.; Paredes, E. S.; Ryne, M. S.|year = 2004|url = http://www.aiaa.org/Spaceops2004Archive/downloads/papers/SPACE2004sp-template00447F.pdf|title = Ulysses Attitude and Orbit Operations: 13+ Years of International Cooperation|format = PDF|publisher = American Institute of Aeronautics and Astronautics|accessdate = 2011-05-05|language = 英語|archiveurl = https://web.archive.org/web/20051214075825/http://www.aiaa.org/Spaceops2004Archive/downloads/papers/SPACE2004sp-template00447F.pdf|archivedate = 2005年12月14日|deadlinkdate = 2017年10月}}</ref>。
2000年には探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]が土星へ向かう途上で木星観測を行い、それまでにない高い解像度の映像を撮影した。2000年12月19日には第6衛星[[ヒマリア (衛星)|ヒマリア]]の撮影に成功したが、解像度は低く表面状態の解明は進まなかった<ref>{{cite journal|author=Hansen, C. J.; Bolton, S. J.; Matson, D. L.; Spilker, L. J.; Lebreton, J.-P.|title=The Cassini-Huygens flyby of Jupiter|bibcode=2004Icar..172....1H|journal=Icarus|year=2004|volume=172|issue=1|pages=1–8|doi = 10.1016/j.icarus.2004.06.018}}</ref>。
探査機[[ニュー・ホライズンズ]]は[[冥王星]]を目指す航行中に木星でフライバイを行い、2007年2月28日に最接近した<ref>{{cite web|url=http://www.planetary.org/explore/topics/space_missions/new_horizons/022807.html|title=Mission Update: At Closest Approach, a Fresh View of Jupiter| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。ニュー・ホライズンズのカメラは衛星イオの火山起源のプラズマを計測し、そのほかのガリレオ衛星の詳細だけでなく、[[ヒマリア (衛星)|ヒマリア]]や[[エララ (衛星)|エララ]]に対しても長期間観測を行った<ref>{{cite web|url=http://www.nasa.gov/mission_pages/newhorizons/news/jupiter_system.html|title=Pluto-Bound New Horizons Provides New Look at Jupiter System| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。木星系の画像撮影は2006年9月4日から行われた<ref>{{cite web|date= January 19, 2007|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6279423.stm|title = New Horizons targets Jupiter kick|publisher = BBC News Online| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref><ref>{{cite web|last = Alexander|first = Amir |date= September 27, 2006 |
url = http://www.planetary.org/news/2006/0927_New_Horizons_Snaps_First_Picture_of.html|title = New Horizons Snaps First Picture of Jupiter|publisher = The Planetary Society| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
=== 探査機ガリレオ ===
通過ではなく木星を周回しつつ、観測を行った探査機は[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]のみであり、1995年12月7日に周回軌道へ投入されてから7年間にわたってガリレオ衛星や[[アマルテア (衛星)|アマルテア]]などのフライバイを含む観測を行った。それに先立つ1994年には[[シューメーカー・レヴィ第9彗星]]の衝突が起こった際に、探査機ガリレオは通常では望めない位置にいたこともあって観測を行った。しかし、木星系にたどり着いたあとに観測で得た情報が膨大になったうえ、高利得電波アンテナを展開させることに失敗し、情報発信に制限がかかってしまった<ref name="galileo">{{cite web|last = McConnell|first = Shannon |date= April 14, 2003|url = http://www2.jpl.nasa.gov/galileo/|title = Galileo: Journey to Jupiter|publisher = NASA Jet Propulsion Laboratory| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
1995年7月には[[プローブ]]が切り離され、12月7日には木星大気の探測が始められた。プローブはパラシュートを開いて深度159キロメートルに到達する75分間データを送信し続け、機能を停止した。その位置は、気圧は地球の約28倍、温度は185{{℃}}に達していた<ref>{{cite web |date = November 30, 1995|url = http://astro.sci.muni.cz/pub/galileo/probe_mission_events.html |title = Galileo Probe Mission Events Timeline|publisher = Petr Horálek | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。プローブは溶解してしまったものと思われる。探査機ガリレオは使命を終えると、エウロパのような生命が存在する可能性を持つ衛星に落下しないように、2003年9月21日に意図的に木星内へ秒速50キロ以上の速度で落とされた<ref name="galileo" />。
=== その他の計画 ===
運用中の探査には、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が2011年打ち上げた[[極軌道]]から木星を詳細に観測する[[ジュノー (探査機)|ジュノー]]がある<ref>{{cite web|first=Anthony|last=Goodeill|date=2008-03-31|url=http://newfrontiers.nasa.gov/missions_juno.html|title=New Frontiers – Missions - Juno|publisher=NASA|accessdate=2011-05-05|language=英語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070203235637/http://newfrontiers.nasa.gov/missions_juno.html|archivedate=2007年2月3日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref>。これは[[2016年]]に木星に到着しており、木星を観測中である<ref>[http://moonstation.jp/ja/pex_world/Juno/ ジュノー - 月探査情報ステーション]</ref>。
また、木星の衛星エウロパやガニメデ、カリストには表面の氷の下に液体の海があると推測され、強い関心が持たれており、NASAは[[JIMO|木星氷衛星周回機 (JIMO)]] を検討したが、この計画は資金面から難航し、2005年に頓挫した<ref>{{cite news|first=Brian|last=Berger|title=White House scales back space plans|publisher=MSNBC|date=2005-02-07|url=http://www.msnbc.msn.com/id/6928404/ | accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。ヨーロッパでもエウロパ探査[[:en:Jovian Europa Orbiter|(en)]]の計画が検討されたが、2007年にお蔵入りとなった<ref>{{cite web|last=Atzei|first=Alessandro|date=2007-04-27|url=http://sci.esa.int/science-e/www/object/index.cfm?fobjectid=35982|title=Jovian Minisat Explorer|publisher=ESA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
このほか、木星と衛星の観測を目的とした[[EJSM]](エウロパ・ジュピター・システム・ミッション)も[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]と[[欧州宇宙機関|ESA]]協同の元で進行しており、これは土星系探査の[[タイタン・サターン・システム・ミッション]]に先行する旨が2009年2月に発表された<ref>{{cite web|author=Talevi, Monica; Brown, Dwayne|date=2009-02-18|title=NASA and ESA Prioritize Outer Planet Missions|url=http://www.nasa.gov/topics/solarsystem/features/20090218.html| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref><ref>{{cite news|first=Paul|last=Rincon|date=2009-02-18|title= Jupiter in space agencies' sights|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/7897585.stm|publisher=BBC News| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。ただし、ESAの負担はほかのプロジェクトに影響を及ぼす懸念が拭えない<ref>{{cite news|first=Sergio|last=Volonte|date=2007-07-10|title=Cosmic Vision 2015-2025 Proposals|url=http://sci.esa.int/science-e/www/object/index.cfm?fobjectid=41177
|publisher=ESA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。計画ではNASAの[[JIMO]]やESAの[[ジュピター・ガニメデ計画]]([[:en:Jupiter Ganymede Orbiter|Jupiter Ganymede Orbiter]])を基軸に、2020年ごろに実行が見込まれる<ref>{{cite web|url=http://sci.esa.int/science-e/www/area/index.cfm?fareaid=107|title=Laplace: A mission to Europa & Jupiter system|publisher=ESA| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
==== 中止された探査機 ====
* [[パイオニアH]]([[:en:Pioneer H|Pioneer H]])- 11号の次に打ち上げられる予定だった。1974年に中止。
* [[エウロパ・オービター]] - エウロパの海を研究するために計画された探査機。2002年か2003年に打ち上げられる予定だった。
== 生命の可能性 ==
1953年に行われた[[ユーリー-ミラーの実験]]は、原始地球の大気に存在した化学物質から稲妻によって生物を構成する[[アミノ酸]]など有機化合物が合成されることを明らかにした。この実験で使われた大気は、水、メタン、アンモニア、水素分子などであり、これらは木星大気にも含まれている。しかし木星には強い垂直方向の空気循環があり、このような物質は高温の惑星内部に運ばれて分解してしまい、地球型の生命が発生することを妨げると考えられる<ref>{{cite web|last=Heppenheimer|first=T. A.|year=2007|url=http://www.nss.org/settlement/ColoniesInSpace/colonies_chap01.html|title=Colonies in Space, Chapter 1: Other Life in Space|publisher=National Space Society| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}</ref>。
また、大気中にある水の絶対量が乏しい点と、岩石核の表面が惑星深くの強い圧力に晒されていることも地球型生物の発生条件にほとんど適さないと考えられる理由である。しかしボイジャー計画前の1976年には、木星の上層大気中にアンモニアか水を媒介とする生物が存在する仮説が示された。この説では、地球の海のような環境をあてはめたもので、上層部に漂い[[光合成]]を行う[[プランクトン]]が存在し、その下部にはこれらを食糧とする[[魚]]のような生物が、さらに下には魚を[[捕食]]する生物がいると想定した<ref>{{cite web|url=http://www.daviddarling.info/encyclopedia/J/Jupiterlife.html| accessdate = 2011-05-05|language=英語|title=Life on Jupiter|publisher=Encyclopedia of Astrobiology, Astronomy & Spaceflight}}</ref><ref>{{cite journal|title=Particles, environments, and possible ecologies in the Jovian atmosphere|author=Sagan, C.; Salpeter, E. E.|journal=The Astrophysical Journal Supplement Series|year=1976|volume=32|pages=633–637|doi=10.1086/190414}}</ref>。
[[ハーバード大学]]教授の[[カール・セーガン]]は、木星の中心にある岩石質の中心核はまわりを広大な水の海で囲まれ、そこに生物がいる可能性を示唆した。彼は、木星内部は高温であるが一方で高圧でもあり、水が液状で封じられているとすれば、その体積量は地球の海の620倍と試算した。液体の水ならば重力や外部の気圧は影響を及ぼさず、また生命の素材たる有機化合物は木星表面の観測から多量に存在すると考えられる。ただしこの説を確かめる術は(上記の理由もあり)ない<ref>{{Cite book|和書|author=アイザック・アシモフ|authorlink=アイザック・アシモフ|year=1963|title=空想自然科学入門|chapter=16.もちろん木星だとも|pages=294-310|publisher=[[早川書房]]|edition=第一八刷|isbn=4-15-050021-5 }}</ref>。
== 地上からの観測 ==
[[ファイル:Retrogradation1.svg|right|thumb|木星のような外惑星が逆行して見える現象は、地球との相対的な位置関係からもたらされる]]
地球上から観測すると、木星は太陽・月・[[金星]]に続いて4番目に明るく見える天体である<ref name="worldbook" />。しかし、時に[[火星]]が木星よりも明るく見えることがある。これは、太陽と木星と地球の相対的な位置が関係し、木星が太陽との[[衝]]にあるときは−2.9等級、[[合 (天文)|合]]にあるときには−1.6等級と明るさが移り変わるためである。また、角直径も50.1 - 29.8[[秒 (角度)|秒]]までの間を変化する<ref name="fact"/>。星空の中でひときわ目立って見えるので、'''夜半の明星'''とも呼ばれる<ref>[https://www.astroarts.co.jp/special/2018jupiter/index-j.shtml 木星とガリレオ衛星(2018年)] アストロアーツ、2022年1月11日閲覧</ref>。
位相角[[:en:Phase angle (astronomy)|(en)]]は最大11.5度であるため、地球から見ると木星には影で欠ける[[食 (天文)|食]]がほとんど視認できない<ref>{{cite web |year=1974|url = http://history.nasa.gov/SP-349/ch8.htm |title = Encounter with the Giant|publisher = NASA |accessdate = 2007-02-17}}</ref>。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<!--
<ref name="aa20170612">{{Cite web|url=https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/9174_jupiter_moon|title=木星に2つの新衛星を発見、総数69個に|date=2017-06-12|accessdate=2017-06-13|publisher=AstroArts}}</ref>
<ref name="ng20180719">{{Cite web
|url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/071900318/
|title=木星に12個の新衛星、1個は「幹線道路を逆走」 全部で79個、「でも決してありふれた発見ではありません」と研究者
|date=2018-07-19
|accessdate=2018-07-19
|publisher=National Geographic News}}</ref>
-->
<ref name="NAOJ_reki">{{Cite web|和書| url = https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/CFC7C0B12FC2C0CDDBB7CFBDC5BFB4.html | title = 暦Wiki/惑星/太陽系重心 - 国立天文台暦計算室 | author = | authorlink = | coauthors = | date = | format = | work = 暦計算室 | publisher = [[国立天文台]] | pages = | language = | archiveurl = | archivedate = | quote = | accessdate = 2020-04-24}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=松井孝典|authorlink=松井孝典|year=1996|title=惑星科学入門|publisher=[[講談社]]|edition=第一刷|isbn=4-06-159222-X|ref=松井(1996)}}
* {{Cite book|和書|author=編集長:水谷仁|coauthors= |year=2009|title=[[ニュートン (雑誌)|ニュートン]]別冊 太陽と惑星 改訂版|publisher=[[ニュートンプレス]] |isbn=978-4-315-51859-7|ref=ニュートン(別2009)}}
== 読書案内 ==
*{{citation |editor1-last=Bagenal |editor1-first=F. |editor2-last=Dowling |editor2-first=T. E. |editor3-last=McKinnon |editor3-first=W. B. |year=2004 |title=Jupiter: The planet, satellites, and magnetosphere |location=Cambridge |publisher=Cambridge University Press |isbn=0-521-81808-7 }}
*{{citation |last=Beebe |first=Reta |title=Jupiter: The Giant Planet |edition=第2 |year=1997 |publisher=Smithsonian Institution Press |location=Washington, D.C. |isbn=1-56098-731-6 }}
== 関連項目 ==
{{sisterlinks|commons=Jupiter|commonscat=Jupiter_(planet)|d=Q319}}
* [[ホット・ジュピター]]
* [[木星を扱った作品一覧]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/mokusei/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(木星) |date=20211210125402}}
* [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/jupiter/jupiter00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(木星)]
* [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/jupiter.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(木星)]
* [https://nineplanets.org/jupiter/ The Nine Planets Jupiter Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(木星){{En icon}}
* {{Kotobank}}
* {{cite web|url=http://www.dagbladet.no/tv/index.html?clipid=17116|title=Video from spaceship New Horizon's flyby of Jupiter|publisher=Dagoblet.no| accessdate = 2011-05-05|language=ノルウェー語}}
* {{cite web|author=Hans Lohninger ''et al.''|date = November 2, 2005|url = http://www.vias.org/spacetrip/jupiter_1.html|title = Jupiter, As Seen By Voyager 1|work = A Trip into Space|publisher = Virtual Institute of Applied Science| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}
* {{cite web|first=Tony|last=Dunn|year = 2006|url = http://orbitsimulator.com/gravity/articles/joviansystem.html|title = The Jovian System|work = Gravity Simulator| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}— 62個の木星衛星の公転シミュレーション。
* {{cite web|author=Seronik, G.; Ashford, A. R|url = http://skytonight.com/observing/objects/planets/3307071.html?page=1&c=y|title = Chasing the Moons of Jupiter|publisher = Sky & Telescope| accessdate = 2011-05-05|language=英語}}
* {{cite news|author=Anonymous|date = May 2, 2007|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_pictures/6614557.stm|title = In Pictures: New views of Jupiter|publisher = [[英国放送協会|BBC]] News|accessdate = 2011-05-05|language=英語}}
* {{cite web|first=Fraser|last= Cain|url=http://www.astronomycast.com/astronomy/episode-56-jupiter/|title=Jupiter|publisher = Universe Today|accessdate=2011-05-05|language=英語}}
* {{cite web|url=http://science.nasa.gov/headlines/y2007/01may_fantasticflyby.htm|title= Fantastic Flyby of the New Horizons spacecraft (May 1, 2007.)|publisher = NASA|accessdate=2011-05-05|language=英語}}
* {{cite web|work=Planetary Science Research Discoveries|publisher=University of Hawaii, NASA|url=http://www.psrd.hawaii.edu/Archive/Archive-Jupiter.html|title=Moons of Jupiter articles in Planetary Science Research Discoveries|accessdate=2011-05-05|language=英語}}
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[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:太陽系の惑星]]
[[Category:有史以前に知られていた天体]]
[[Category:木星|*]] | 2003-03-13T23:52:46Z | 2023-11-25T02:18:00Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%98%9F |
3,968 | 土星 | 土星(どせい、ラテン語: Saturnus、英語: Saturn、ギリシア語: Κρόνος)は、太陽から6番目の、太陽系の中では木星に次いで2番目に大きな惑星である。巨大ガス惑星に属する土星の平均半径は地球の約9倍に当たる。平均密度は地球の1/8に過ぎないため、巨大な体積のわりに質量は地球の95倍程度である。そのため、木星型惑星の一種に分類されている。
土星の内部には鉄やニッケルおよびシリコンと酸素の化合物である岩石から成る中心核があり、そのまわりを金属水素が厚く覆っていると考えられ、中間層には液体の水素とヘリウムが、その外側はガスが取り巻いている。
惑星表面は、最上部にあるアンモニアの結晶に由来する白や黄色の縞が見られる。金属水素層で生じる電流が作り出す土星の固有磁場は地球磁場よりも若干弱く、木星磁場の1/12程度である。外側の大気は変化が少なく色彩の差異も無いが、長く持続する特徴が現れる事もある。風速は木星を上回る1800 km/hに達するが、海王星程ではない。
土星は恒常的な環を持ち、9つが主要なリング状、3つが不定的な円弧である。これらはほとんどが氷の小片であり、岩石のデブリや宇宙塵も含まれる。知られている限り146個の衛星を持ち、うち63個には固有名詞がついている。これにはリングの中に存在する何百という小衛星(ムーンレット)は含まれない。タイタンは土星最大で太陽系全体でも2番目に大きな衛星であり、水星よりも大きく、衛星としては太陽系でただひとつ有意な大気を纏っている。
日本語で当該太陽系第六惑星を「土星」と呼ぶ由来は、古代中国において五惑星が五行説に当てはめて考えられた際、この星に土徳が配当されたからである。英語名サターンはローマ神話の農耕神サートゥルヌスに由来する。
土星は、中心にこそ固体成分を占める核があるが、主要成分がガスであり外縁の境界が不明瞭なため巨大ガス惑星に分類される。自転によって惑星は扁球形状を持ち、極よりも赤道部分が膨らんだ扁平状になっているために、赤道半径と極半径の差はほぼ10%(60,268km 対 54,364km)にもなる。木星・天王星・海王星と言った太陽系のその他のガス惑星もやや扁平しているが、土星ほどではない。土星は太陽系で唯一水よりも30%ほど軽い。その中心核こそ水よりも重い比重を持つが、そのガス成分から平均では0.69g/cmである。体積は地球の764倍にもなるが、質量は95倍にとどまる。木星と土星の2つで、太陽系の惑星質量の92%を占める。
前項にて述べたように土星は巨大ガス惑星に分類されているが、木星と同じく、土星はすべてガスで構成されている訳ではない。惑星成分のほとんどを占める水素は、密度0.01g/cmを超えると非理想溶液となる。土星半径の99.9%部分においてこの密度に達する。惑星内部の温度・圧力・密度はいずれも中心に向かうに連れて高まり、内部に行くと水素は相を変えて金属様になる。
標準惑星モデルでは、土星内部は木星と同じく小さな岩石質中心核を水素やヘリウムなどの揮発成分が取り囲んでいると考えられる。この中心核の構造は地球と似ているが、より濃密な状態になっている。惑星の慣性モーメントの試算と、内部の物理的モデルを組み合わせる事で、フランスの天文学者 Didier Saumon とTristan Guillot が、惑星中心にある質量の塊をはじき出した。2004年に彼らは、中心核の質量は地球の9-22倍、その直径は約25,000kmと試算した。この核は濃い液体状の金属水素の層に覆われ、続けてその外側にヘリウムが飽和した水素分子の液体層があり、高度が増すにつれて気体へ相を変えてゆく。最も外側の層は厚さ約1000kmのガスの大気から成る。
土星内部は非常に高温で、中心核では11,700Kにもなる。そして、太陽光線の形で宇宙空間から受けるよりも2.5倍もの放射を行う。この放出エネルギーはケルビン・ヘルムホルツ機構というゆっくりとした重力の圧縮から生じると考えられるが、これだけでは土星の熱発生量をすべて説明できない。その他のメカニズムとして、惑星内の奥深くで起こる小さなヘリウムの滴による「雨降り」があるのではと考えられる。液滴化したヘリウムが水素の密度が低いところを通る際に摩擦による熱が発生するというもので、惑星の外側の層にあるヘリウムが使われると言う。木星も土星と同様の金属水素の層を持っているが、木星は内部がより高温でヘリウムの水素への溶解度が高いこと・対流が活発であることから、この現象はあまり有効に働かないと推定されている。実際に土星の大気中に含まれるヘリウムの割合は、太陽や4つの木星型惑星のどれよりも低く(体積比で9.9%)、土星内部でヘリウムの分離が起きていることを示唆している。この現象によって中心核はヘリウムで覆われている可能性もある。
外層の大気は96.3 %が水素分子(H2)、3.25 %がヘリウム(He)である。このヘリウムの構成比は、太陽内に存在するこの元素の比率と比較すると明らかに少ない。ヘリウムよりも重い元素の量は正確には分かっていないが、原始太陽系形成時の比率に一致すると考えられている。これらの元素は地球質量の19 - 31倍ほど存在すると見積もられるが、ほとんどは土星中心核にあるものと考えられる。
アンモニア・アセチレン・エタン・プロパン・リン化水素・メタンも土星大気中から検出された。上空に見られる雲はアンモニアの結晶であるが、下に行くと硫化水素アンモニウム(NH4SH)や水へと変わる。太陽からの紫外線は上層大気層でメタンの光分解を起こし、化学反応でつくられた各種の炭化水素が渦巻きや拡散を通じて惑星内部へ運ばれる。この光分解のサイクルは土星の季節変化の影響を受ける。
2005年初頭以後、土星の稲妻の観測が続いている。そのエネルギーは地球の雷の1,000倍に匹敵する。
土星の大気は木星と同様に帯状の模様を見せるが、赤道近くで淡い幅広になる特徴を持つ。この帯は木星と同じ学術用語で呼ばれる。土星の細かな雲の模様は、1980年代の探査機ボイジャーが到達するまで観測された事は無かったが、その後は地球から望遠鏡を用いた観測が詳細を明らかにした。
雲は表面から中に入るほど圧力が増す。上層は温度100 - 160 K、圧力0.5 - 2 barでアンモニアの氷から成っている。下の圧力2.5 - 9.5 bar付近の層は水の氷が雲をつくり、温度は180 - 250 Kに上昇する。この層には硫化アンモニウムの氷が混合し、圧力は3 - 6 bar、温度は235 - 290 Kになる。そして最下層では圧力が10 - 20 bar、温度は270 - 330 Kになり、液化したアンモニウムの水滴が含まれるようになる。
カッシーニなどによって、土星の嵐などの気象現象が観測されている。土星大気は通常それほど激しい動きを見せないが、時に木星で見られるような非常に長持ちする楕円形状が現れる事がある。1990年にハッブル宇宙望遠鏡が、探査機ボイジャー通過の際には確認できなかった赤道付近の巨大な白い雲を発見し、1994年にも別のより小さな嵐が見つかった。1990年の嵐は大白斑という現象のひとつで、土星の約30年毎に北半球が夏至を迎える頃に発生する、それほど長く持続しないものであった。この大白斑は1876年、1903年、1933年、1960年にもそれぞれ発生し、特に1933年のものが有名である。周期性から考慮すると、次の発生は2020年前後になる。
土星に吹く風は太陽系で2番目に速い。ボイジャーの観測によると、最も速いものは偏東風で速度は1800km/hに達する。2007年、探査機カッシーニが土星の北半球で天王星のような輝く青い色の部分を発見した。これはレイリー散乱によって引き起こされたと考えられた。赤外線による観測から、土星の南極点には他の太陽系天体には見られない暖かな極渦がある事が分かった。土星の表面温度は通常-185°C前後だが、この渦は暖かい時には-122°Cにもなり、土星表面で最も高い気温になると考えられている。
土星大気には、北緯78度付近で北極を取り囲む固定的な六角形の波紋があり、ボイジャーが撮影した画像から発見された。しかし強いジェット気流の存在が示唆される南極側には、極渦も六角形の波も無いことがハッブル宇宙望遠鏡の観測から明らかになっている。2006年11月にNASAは、カッシーニが南極に明らかな台風の目を持つハリケーンのような嵐が固着している事を発見したと伝えた。地球以外の太陽系天体で、雲がつくる台風の目が発見されたのは初めてだった。例えば、木星の大赤斑には台風の目に相当するものが無い事は、探査機ガリレオが撮影した画像からも明らかになっている。
北極の六角形構造は、直線部の一辺が地球の直径を越える長さ約13,800kmである。
構造全体は、放射磁気と同期すると考えられる土星の内部部分が自転する周期と同じ速度に当る10時間39分24秒で回転している。この六角形構造の動きは、大気中に視認できる雲と違い、経度に沿ったものではない。
このような構造がなぜ出来上がったかについて様々な憶測がある。ほとんどの天文学者は、大気中にいくつかの定在波パターンが生じた結果というが、ある種のオーロラと考える者もいる。実験では、流体の差動回転から多角形構造を再現した例もある。
土星は磁気双極子という単純な対称形をした固有磁場を持つ。赤道付近での強度は0.2ガウス(20マイクロテスラ)であり、木星磁場の約1/20、地球磁場よりも若干弱い。その結果として、土星の磁気圏は木星よりも非常に小さい。ボイジャー2号が磁気圏に突入した際、内部の太陽風は依然として強く、磁気圏の大きさは土星半径の19倍(110万km)の広がりしか持っていなかった。その時は、数時間後には膨張を見せたが、結局たった3日でまた元に戻った。磁気圏は木星と同じく内部に液状の金属水素の層が存在し、ダイナモ効果によって発生している可能性が高い。この磁気圏は太陽風を逸らす効果を持つ。磁気圏の外を公転する衛星のタイタンの大気から供給されるイオン化された粒子は磁気圏内でプラズマ化し、極地で地球のようなオーロラを発生させる。
太陽から土星までの平均距離は1.4×10kmである。公転速度は平均9.69km/秒であり地球の10,759日(約29.5年)で太陽のまわりを一周する。公転軌道は楕円で、地球の公転面から2.48° 傾いている。軌道離心率は0.056 であり、近日点と遠日点では土星-太陽間の距離は約1億5500万kmの差が生じる。
外観上の自転速度は、木星と同じく、緯度によって異なった回転周期を持つ領域として観察される。システムIは赤道域を含む領域で、一周が10時間14分00秒(844.3度/地球日)である。他の領域はシステムIIと呼ばれ、一周10時間38分25.4秒(810.76度/地球日)で回転している。これらとは別に、ボイジャーが接近した際に観測した電磁波の放射に基づいた回転はシステムIIIと呼ばれ、この一周10時間39分22.4秒(810.8度/地球日)がシステムIIに替わって自転と広く受け止められている。
しかし内部の回転周期は未だ正確に把握されていない。2004年に土星に接近したカッシーニは電磁波の回転を、従来よりも遅い10時間45分45秒(±36秒)と観測した。2007年3月には、電磁波の回転が土星の自転と一致しないことが判明した。この電磁波の変調は土星の衛星エンケラドゥスの間欠泉が影響している可能性がある。土星の軌道上に放出された水蒸気は、磁場の邪魔をして抗力を引き起こし、電磁波の回転を惑星よりも遅らせている可能性がある。カッシーニやボイジャーそしてパイオニアなどの様々な観測結果から、2007年9月には最新の報告として、土星の自転は10時間32分35秒とされている。
土星は、その環によって最も知られ、視覚的な特徴をなす。この環は土星の赤道上空6,630kmから120,700kmの間に広がるが、その厚さはわずか20m程度に過ぎない。その薄さゆえに、地球から見て土星が真横を向けている時は環が見えなくなる。土星の輪の消失は土星の公転中に2回、約15年に1回発生する。
成分の93%はソリンが混ざる水の氷で成り、7%は非結晶の炭素である。リングの温度は-180°C前後。環は塵程度のものから10m長前後までの粒子で形づくられている。このような環は他の巨大惑星にも存在するが、土星のものは規模が特に大きく視認できる。環の起源には主に2種類の仮説があり、ひとつは破壊された土星衛星の残骸というもの、もうひとつは土星を形成した星雲の余りが残っているという考えである。また別に、衛星エンケラドゥスが噴出した氷も環の材料の一部になっている。過去、天文学者は環の形成は土星と平行して数十億年前と考えていたが、その後数億年前と考えられるようになった。
環は、惑星から1200万km離れ他の環から27度の角度を持ったフェーベ環までが主要領域である。衛星の中にはパンやプロメテウスのような環が拡散するのを防ぎ封じ込める役廻りを持つものもあり、これらは羊飼い衛星群と呼ばれる。パンやアトラスの弱く直線的な密度波は、その質量を上回る有意な影響を土星の環に与えることができる。
土星の環は1610年にガリレオ・ガリレイによって初めて観測された。しかし、望遠鏡の性能が良くなかったために、ガリレオは輪であることを把握出来ず、それを大きな2つの衛星であると考えた。その様子をトスカーナ大公コジモ2世(在位:1609年 - 1621年)へ書き送っている。
彼はまた、土星には耳があるとも書いている。地球から見た土星の向きは土星が公転するにつれて変わるため、1612年には環を観測出来なくなった。しかし、1613年に見えなくなった環が再び見えるようになりガリレオをさらに悩ませた。
この土星の環の謎は、1655年にクリスティアーン・ホイヘンスがガリレオよりも数段優れた望遠鏡で観測するまで解けなかった。その後、1675年にジョヴァンニ・カッシーニは土星の環は間をあけた複数の輪で構成されている事を発見した。彼の名に因んでA環とB環の隙間はカッシーニの間隙と名付けられている。またA環内にはエンケの間隙と呼ばれるカッシーニの間隙よりも細い隙間が存在する。これはドイツの天文学者フランツ・エンケにちなんでつけられたものだが、現在のエンケの間隙はジェームズ・キーラーによって発見されたものである。A環にはキーラーの空隙と呼ばれる隙間も存在する。
性能の良い望遠鏡や双眼鏡を使えば土星の環は容易に観測することができる。環は土星の赤道から 6,630 km の距離から 120,700 km の距離まで広がっており、氷の粒子やシリカ・ソリン・ケイ素などで構成されている。粒子は細かい塵状のものから、小さな自動車程度の物まで様々である。土星の環の起源については有力な説が2つある。一つは19世紀にエドゥアール・ロシュが唱えた説で、土星の衛星が土星に近づきすぎて潮汐力によって破壊されたというものである。この前提として、破壊された衛星に彗星や小惑星が衝突したとされている。もう一つの説は、リングの構成物は元々衛星ではなく、土星形成時の星雲の成分がそのまま外に残った物という説である。後者で形成された場合、土星の環は数百万年も形状を維持できるほど安定していないため、この説は今日では広くは受け入れられていない。
土星の環は内側から順にD環・C環・B環・A環・F環・G環・E環があり、F環・G環はよじれた構造をしている。地球から観察した場合、環の間隙は最も大きなカッシーニの間隙とエンケの間隙のみ見ることができるが、ボイジャーは土星の環に何千もの空白区間があることを発見した。この構造は土星にある多くの衛星の副産物と考えられる。また、衛星の運動以外では粒子同士の重力的共鳴現象によって環を形作っていると考えられる。
環の厚さはその大きさに比べて非常に薄く、特に内側ほど薄い。各環の中央部の厚さは不明であるが、端部ではC環が5m、B環が5 - 10m、A環が10 - 30mである。仮に土星本体の直径を10mとして模型を作ったとすると、環の厚さは数μm程度となる。なお、G環の厚さは100km、E環は1万kmと推定されている。
F環は、羊飼い衛星のパンドラとプロメテウスの二つの衛星によって形を維持していると考えられており、物質密度の高いコアという部分と淡いストランドという部分で構成され、形状は常に変化している。2005年9月のカッシーニの観測により、F環のストランドが螺旋状であることが発見された。螺旋構造の成因はF環とS/2004 S 6の衝突によると推測されている。
2006年3月、カッシーニによってエンケラドゥス南極付近に噴出孔が発見され、E環はここから放出された物質によって形成されたと考えられている。
1980年まで、土星の環の構造は土星の重力のみによって形作られると考えられていた。しかし、ボイジャーはB環の中に暗い放射状の構造を発見した。これはスポークと呼ばれ、重力による環の軌道運動だけでは説明できない物だった。この現象は土星の環がほぼ土星の磁気圏内を運動しているため、環を構成している粒子の電磁相互作用によって生じていると考えられている。しかしスポークが形成される原因ははっきりと分ってはいない。
カッシーニは2004年7月の土星到着以来、ボイジャーと同等以上の精度で環を撮影したが、しばらくの間スポークは認められなかった。2005年9月に、スポークの写真が得られ、四半世紀を経てその存在があらためて確認された。スポークは、環の平面が太陽と大きな角度をなす土星の夏・冬には消失し、環の平面が公転面と重なる土星の春・秋に姿を現わすと考えられている。
土星は少なくとも146個の衛星を持ち、うち63個には正式な名称がつけられている。最大の衛星はタイタンで、土星の全衛星と環を足した質量のうち、90%以上を占める天体である。2番目に大きなレアは薄い大気を持つと考えられる。他の衛星は非常に小さく、119個は直径が 10 km 未満、他の14個も 50 km 未満に過ぎない。伝統的に土星のほとんどの衛星はタイタン以来ギリシア神話を由来に名づけられている。タイタンは太陽系で唯一有意な大気を持つ衛星であり、複雑な有機化学合成が行われている。また、表面に炭化水素の湖を持つ唯一の衛星でもある。
エンケラドゥスはしばしば微生物のような地球外生命が存在する可能性が指摘されている。その根拠は、エンケラドゥスから発散する液体の塩水から成る氷のほとんどが海洋的な成分である事に見出されている。
土星は肉眼でも見えるため、その存在は先史時代から知られていた。 アッシリアやバビロニアの天文学(英語版)では、紀元前2000年ごろから土星を含む太陽系の五惑星(水星・金星・火星・木星・土星)が組織立った観測の対象となり、その運行が粘土板に記録された。古代メソポタミアの天文観測を牽引した原動力は数秘術・占星術であり、土星には農耕や狩猟の神ニヌルタが住むと考えられた。バビロニアの天文観測は紀元前3世紀頃(セレウコス朝期)から精緻化し、ヘレニズムの天文学に受け継がれる。土星を司る神はヘレニズム文化圏において、農耕神ニヌルタから、同じく農耕神クロノスへと置き換わった。
ヘレニズム時代にはアレクサンドレイアのプトレマイオスが、西暦127年3月26日と133年6月3日と136年7月8日に土星の衝を観測した。プトレマイオスはこれらの観測結果を基準にして、ジオセントリック・モデルの体系における土星の誘導円、周転円の半径、誘導円の近点軸、誘導円と地球の距離等、土星の軌道要素を得た。プトレマイオスの体系は、占星術のために実用的な程度には正確に、凶星とされる土星が関わる天文現象を予言しつづけ、16世紀のコペルニクスによる再検証までは「完璧」な体系であった。
ヴェーダ時代のインドでは、宗教的な供儀を適切な日時に実施するため天文学(ジョーティシャ(英語版))が重視され、天空上の27又は28の星宿(ナクシャトラ)を基準に、土星を含む五惑星と日月の運行が観測された。前7世紀頃の天文書『ヴェーダーンガ・ジョーティシャ(英語版)』によると、天には、太陽と月、五惑星、ラーフとケートゥの9つの天体(ナヴァグラハ)があるとされ、サンスクリット語で「シャニ(Śani)(英語版)」と呼ばれる土星は、月の交点に存在を措定されたラーフとケートゥとともに凶星と考えられた。4~17世紀に成立した『マツヤ・プラーナ(英語版)』や『パドマ・プラーナ(英語版)』などのプラーナ文献には「シャニ」が骸骨の体を持ち、ハゲタカに乗り弓矢をつがえ、人が一生になした善事と悪事を見張るなどとあり、バラモンの秘儀を支える技術であったジョーティシャはヒンドゥー文化の一つとして形而上的な肉付けを得た。
古代中国でも五惑星は重要な観測対象であり、土星は運行が緩慢であり星色の変化に乏しいため「塡星(鎮星)」と呼ばれた。『礼記』の月令によると塡星は天空を鎮める星で、五穀豊穣をもたらすとされている。前3世紀の鄒衍の説から発展した五行説に五惑星を当てはめる場合、塡星は土徳に配当された。このため漢字文化圏では、当該太陽系第六惑星を「土星」と呼ぶ。五行説の流行した中世(魏晋南北朝時代)において、土星は福星とされた。
中国においては、漢代の一時期を除いて宇宙構造論があまり発達しなかった一方で、「星辰の変」は為政者に発せられた天の警告であると考えられて克明な天象観測記録が続けられた。唐代のインド系占星術者、瞿曇悉達が著した『開元占経(中国語版、英語版)』には、南朝宋の劉裕が、塡星が太微に入ったという観測結果を臣下が隆昌する吉兆と解釈し、東晋の皇帝を廃した事例が紹介されている。
天文暦学書の私蔵を禁止するなど国家経世の学として発展した中国の天文占星の学も唐代には崩れ、個人の運勢を占う星占いが流行する。中東ヘレニズム文化圏でも事情は似て、星占い関連の出土パピルスがプトレマイオス王朝時代以後に急増する。前出のプトレマイオスは、エジプトに流れ込んできたこうした思想文化を集大成した占星術書『テトラビブロス』において、土星がまがまがしい凶星と述べている。人文科学面で古典期ギリシアの遺産を受け継いだローマ人は、ギリシアの農耕神クロノスを自分たちの神話における農耕神サートゥルヌスと同一視し、土星を凶星とみなす思想文化も受け継いだ。
古代ヘブライ語では、土星は「Shabbathai」と呼ばれた。エジプトでは土曜日を土星が支配する曜日と考えられていて、ユダヤ人もローマ人もその思想文化を受け継いだ。ローマ時代以後、農耕神クロノスと、時を擬神化したクロノスが名前の類似から混同されて、土星は「時の神」であるということにもなった。西洋占星術等において土星は "♄" により示されるが、その使用は10世紀以前には遡らない。"♄" はクロノスの鎌と言われることもあるが、アラビア数字の"5"の変形である。
土星の環を観察するには、少なくとも15mm口径の望遠鏡が必要で、1610年にガリレオ・ガリレイが試みるまでその存在は知られていなかった。観察した様子からガリレオは2つの衛星が土星の脇に見えているとしたが、この考えは、クリスティアーン・ホイヘンスがより高性能の望遠鏡で倍率を上げ行った観察で否定された。ホイヘンスは衛星タイタンを発見し、後にジョヴァンニ・カッシーニが1675年に衛星イアペトゥス、レア、テティス、ディオネを相次いで発見し、さらに見つけた環の間隙には彼の名が冠された。
1789年、ウィリアム・ハーシェルによってより遠方の衛星ミマスとエンケラドゥスの発見という重要な偉業がなされた。タイタンと軌道共鳴する異形の衛星ヒペリオンは1848年にイギリスのチームが発見した。
1899年にウィリアム・ヘンリー・ピッカリングが発見した衛星フェーベは典型的な不規則衛星で、大きな衛星に見られる自転と公転の同期状態に無かった。フェーベはこのような種類としては初めて発見された衛星で、一年以上の周期で逆行軌道を取る。20世紀前半に進んだ研究を経て、1944年にタイタンが濃い大気を持つ太陽系の衛星では珍しい特徴を持つ事が分かった。
土星は肉眼でもはっきり見える5つの惑星の中で最も遠くにある。夜空に輝く明るい黄身がかった光の点は、等級にすると通常+1から0である。土星が黄道十二星座の各星座を背景に黄道を一周するには29.5年がかかる。ほとんどの人にとって、土星の環を観察するには大きな双眼鏡や望遠鏡など少なくとも20倍以上拡大できる光学機器が必要になる。
ほとんどの時間に空にある土星と環を見る事ができるが、特に衝(太陽から離角が180度の正反対の位置)の時が観測には好ましい。2002年12月17日の衝では、土星の環の明るい面が地球軌道を向けており、2003年末には地球や太陽に最も近づいた土星の姿が見られた。
1979年、探査機パイオニア11号は雲の上空20,000kmを通過し、初めて土星に接近した。解像度が低く詳細を識別するには至らなかったが、惑星やいくつかの衛星を画像に収めた。また環の調査も行い、薄いFリングの存在、そして環の暗い空隙部分を太陽に対して位相角 (天体)(英語版)が小さい状態で観察すると輝いて見える事を発見した。後者は、軽く光散乱性を持つ物質がある事を示す。さらにパイオニア11号はタイタンの温度も測定した。
1980年11月、探査機ボイジャー1号が土星系に接近し、惑星や環および衛星の高画質映像を初めて撮影し送信した。こうして、さまざまな衛星が持つ表面の特徴が明らかになった。さらにタイタンへの接近も行われ、大気についての知見を深め、可視光線が通過しないため地表の観測ができないことが判明した。最後にボイジャー1号は軌道を変え、太陽系外に向かった。
およそ1年後の1981年8月、ボイジャー2号によって土星系研究は続けられた。より接近した衛星の画像が得られ、大気や環の情報が更新された。しかし、カメラのプラットホームがトラブルから2日間稼動せず、予定されたいくつかの撮影が出来なかった。最後にボイジャー2号は土星の重力を使って軌道を変更し、天王星に向かった。
NASAと欧州宇宙機関(ESA)共同の探査機カッシーニは1997年に打ち上げられた。カッシーニは探査機本体をNASA、ホイヘンス・プローブをESAが担当した。2004年6月、土星に接近し、高解像度の画像を送ってきた。同年7月1日、土星周回軌道に乗り長期間探査(SOI, Saturn Orbit Insertion)を開始した。
探査機は土星最大の衛星タイタンに接近しレーダー探査を行ったところ、大きな湖と数多い島や山を持つ海岸線が発見された。カッシーニは2度タイタンに接近し、2004年12月25日には小型のホイヘンス・プローブを投入した。ホイヘンスは2005年1月14日にタイタンを降下しながら膨大な情報を送信し、地表に着陸した。
2006年にNASAはカッシーニが土星の衛星エンケラドゥスに、間欠泉として噴き出す液体の水が溜まっている証拠を見つけたと発表した。画像は、エンケラドゥスの南極域から氷の粒子が土星を廻る公転軌道上に放たれている様子を掴んでいた。カリフォルニア工科大学のアンドリュー・インガソルは、「太陽系の中で、液体の水を持つ他の衛星は数キロメートルもの氷の層で塞がれている。ここ(エンケラドゥス)が違うところは、液体の水が溜まっている所が表面から10mと無い場所であることなのだろう」と推察した。2011年5月、NASAのエンケラドゥス観測グループ会議の科学者は、エンケラドゥスが「地球の外にある太陽系内で、私たちが知りえる中で生命にとって最も生育に適している」と報告した。
カッシーニの画像は他にも重要な発見をもたらした。明るい土星の環の主要部分とG・Eリングの間に未発見だった環が存在することを明らかにした。この環をつくる材料は、2つの衛星に流星が衝突して供給されたと考えられている。2006年7月、カッシーニの画像からタイタンの北極近くに炭化水素の湖が存在する証拠がもたらされ、これは2007年1月に確定された。同年3月にはカスピ海ほどの大きさの湖も捉えた。一方、2006年10月には土星の南極にある直径8000kmもある六角形の嵐が、台風の目を持つ事を突き止めた。
2004年から2009年11月2日までの間に、カッシーニは8個の新しい衛星を発見した。当初の任務は土星を74周して達成されたが、2010年9月までの運用継続が決まり、さらに土星の季節変動を研究するために2017年まで再延長された。そして2017年9月に運用を終了し、土星大気に突入して消滅した。
2007年には、ESAが将来の宇宙探査ミッションの候補の一つとして、NASAとの共同による土星圏探査ミッション「タンデム計画」を選定した。土星本体とタイタン、エンケラドゥスが主目標であり、タイタンの大気中に気球を送り込むことも計画されている。 | [
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"text": "土星(どせい、ラテン語: Saturnus、英語: Saturn、ギリシア語: Κρόνος)は、太陽から6番目の、太陽系の中では木星に次いで2番目に大きな惑星である。巨大ガス惑星に属する土星の平均半径は地球の約9倍に当たる。平均密度は地球の1/8に過ぎないため、巨大な体積のわりに質量は地球の95倍程度である。そのため、木星型惑星の一種に分類されている。",
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"text": "土星の内部には鉄やニッケルおよびシリコンと酸素の化合物である岩石から成る中心核があり、そのまわりを金属水素が厚く覆っていると考えられ、中間層には液体の水素とヘリウムが、その外側はガスが取り巻いている。",
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"text": "惑星表面は、最上部にあるアンモニアの結晶に由来する白や黄色の縞が見られる。金属水素層で生じる電流が作り出す土星の固有磁場は地球磁場よりも若干弱く、木星磁場の1/12程度である。外側の大気は変化が少なく色彩の差異も無いが、長く持続する特徴が現れる事もある。風速は木星を上回る1800 km/hに達するが、海王星程ではない。",
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"text": "土星は恒常的な環を持ち、9つが主要なリング状、3つが不定的な円弧である。これらはほとんどが氷の小片であり、岩石のデブリや宇宙塵も含まれる。知られている限り146個の衛星を持ち、うち63個には固有名詞がついている。これにはリングの中に存在する何百という小衛星(ムーンレット)は含まれない。タイタンは土星最大で太陽系全体でも2番目に大きな衛星であり、水星よりも大きく、衛星としては太陽系でただひとつ有意な大気を纏っている。",
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"text": "日本語で当該太陽系第六惑星を「土星」と呼ぶ由来は、古代中国において五惑星が五行説に当てはめて考えられた際、この星に土徳が配当されたからである。英語名サターンはローマ神話の農耕神サートゥルヌスに由来する。",
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"text": "土星は、中心にこそ固体成分を占める核があるが、主要成分がガスであり外縁の境界が不明瞭なため巨大ガス惑星に分類される。自転によって惑星は扁球形状を持ち、極よりも赤道部分が膨らんだ扁平状になっているために、赤道半径と極半径の差はほぼ10%(60,268km 対 54,364km)にもなる。木星・天王星・海王星と言った太陽系のその他のガス惑星もやや扁平しているが、土星ほどではない。土星は太陽系で唯一水よりも30%ほど軽い。その中心核こそ水よりも重い比重を持つが、そのガス成分から平均では0.69g/cmである。体積は地球の764倍にもなるが、質量は95倍にとどまる。木星と土星の2つで、太陽系の惑星質量の92%を占める。",
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"text": "前項にて述べたように土星は巨大ガス惑星に分類されているが、木星と同じく、土星はすべてガスで構成されている訳ではない。惑星成分のほとんどを占める水素は、密度0.01g/cmを超えると非理想溶液となる。土星半径の99.9%部分においてこの密度に達する。惑星内部の温度・圧力・密度はいずれも中心に向かうに連れて高まり、内部に行くと水素は相を変えて金属様になる。",
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"text": "標準惑星モデルでは、土星内部は木星と同じく小さな岩石質中心核を水素やヘリウムなどの揮発成分が取り囲んでいると考えられる。この中心核の構造は地球と似ているが、より濃密な状態になっている。惑星の慣性モーメントの試算と、内部の物理的モデルを組み合わせる事で、フランスの天文学者 Didier Saumon とTristan Guillot が、惑星中心にある質量の塊をはじき出した。2004年に彼らは、中心核の質量は地球の9-22倍、その直径は約25,000kmと試算した。この核は濃い液体状の金属水素の層に覆われ、続けてその外側にヘリウムが飽和した水素分子の液体層があり、高度が増すにつれて気体へ相を変えてゆく。最も外側の層は厚さ約1000kmのガスの大気から成る。",
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"text": "土星内部は非常に高温で、中心核では11,700Kにもなる。そして、太陽光線の形で宇宙空間から受けるよりも2.5倍もの放射を行う。この放出エネルギーはケルビン・ヘルムホルツ機構というゆっくりとした重力の圧縮から生じると考えられるが、これだけでは土星の熱発生量をすべて説明できない。その他のメカニズムとして、惑星内の奥深くで起こる小さなヘリウムの滴による「雨降り」があるのではと考えられる。液滴化したヘリウムが水素の密度が低いところを通る際に摩擦による熱が発生するというもので、惑星の外側の層にあるヘリウムが使われると言う。木星も土星と同様の金属水素の層を持っているが、木星は内部がより高温でヘリウムの水素への溶解度が高いこと・対流が活発であることから、この現象はあまり有効に働かないと推定されている。実際に土星の大気中に含まれるヘリウムの割合は、太陽や4つの木星型惑星のどれよりも低く(体積比で9.9%)、土星内部でヘリウムの分離が起きていることを示唆している。この現象によって中心核はヘリウムで覆われている可能性もある。",
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"text": "外層の大気は96.3 %が水素分子(H2)、3.25 %がヘリウム(He)である。このヘリウムの構成比は、太陽内に存在するこの元素の比率と比較すると明らかに少ない。ヘリウムよりも重い元素の量は正確には分かっていないが、原始太陽系形成時の比率に一致すると考えられている。これらの元素は地球質量の19 - 31倍ほど存在すると見積もられるが、ほとんどは土星中心核にあるものと考えられる。",
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"text": "アンモニア・アセチレン・エタン・プロパン・リン化水素・メタンも土星大気中から検出された。上空に見られる雲はアンモニアの結晶であるが、下に行くと硫化水素アンモニウム(NH4SH)や水へと変わる。太陽からの紫外線は上層大気層でメタンの光分解を起こし、化学反応でつくられた各種の炭化水素が渦巻きや拡散を通じて惑星内部へ運ばれる。この光分解のサイクルは土星の季節変化の影響を受ける。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "2005年初頭以後、土星の稲妻の観測が続いている。そのエネルギーは地球の雷の1,000倍に匹敵する。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "土星の大気は木星と同様に帯状の模様を見せるが、赤道近くで淡い幅広になる特徴を持つ。この帯は木星と同じ学術用語で呼ばれる。土星の細かな雲の模様は、1980年代の探査機ボイジャーが到達するまで観測された事は無かったが、その後は地球から望遠鏡を用いた観測が詳細を明らかにした。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "雲は表面から中に入るほど圧力が増す。上層は温度100 - 160 K、圧力0.5 - 2 barでアンモニアの氷から成っている。下の圧力2.5 - 9.5 bar付近の層は水の氷が雲をつくり、温度は180 - 250 Kに上昇する。この層には硫化アンモニウムの氷が混合し、圧力は3 - 6 bar、温度は235 - 290 Kになる。そして最下層では圧力が10 - 20 bar、温度は270 - 330 Kになり、液化したアンモニウムの水滴が含まれるようになる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "カッシーニなどによって、土星の嵐などの気象現象が観測されている。土星大気は通常それほど激しい動きを見せないが、時に木星で見られるような非常に長持ちする楕円形状が現れる事がある。1990年にハッブル宇宙望遠鏡が、探査機ボイジャー通過の際には確認できなかった赤道付近の巨大な白い雲を発見し、1994年にも別のより小さな嵐が見つかった。1990年の嵐は大白斑という現象のひとつで、土星の約30年毎に北半球が夏至を迎える頃に発生する、それほど長く持続しないものであった。この大白斑は1876年、1903年、1933年、1960年にもそれぞれ発生し、特に1933年のものが有名である。周期性から考慮すると、次の発生は2020年前後になる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "土星に吹く風は太陽系で2番目に速い。ボイジャーの観測によると、最も速いものは偏東風で速度は1800km/hに達する。2007年、探査機カッシーニが土星の北半球で天王星のような輝く青い色の部分を発見した。これはレイリー散乱によって引き起こされたと考えられた。赤外線による観測から、土星の南極点には他の太陽系天体には見られない暖かな極渦がある事が分かった。土星の表面温度は通常-185°C前後だが、この渦は暖かい時には-122°Cにもなり、土星表面で最も高い気温になると考えられている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "土星大気には、北緯78度付近で北極を取り囲む固定的な六角形の波紋があり、ボイジャーが撮影した画像から発見された。しかし強いジェット気流の存在が示唆される南極側には、極渦も六角形の波も無いことがハッブル宇宙望遠鏡の観測から明らかになっている。2006年11月にNASAは、カッシーニが南極に明らかな台風の目を持つハリケーンのような嵐が固着している事を発見したと伝えた。地球以外の太陽系天体で、雲がつくる台風の目が発見されたのは初めてだった。例えば、木星の大赤斑には台風の目に相当するものが無い事は、探査機ガリレオが撮影した画像からも明らかになっている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "北極の六角形構造は、直線部の一辺が地球の直径を越える長さ約13,800kmである。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "構造全体は、放射磁気と同期すると考えられる土星の内部部分が自転する周期と同じ速度に当る10時間39分24秒で回転している。この六角形構造の動きは、大気中に視認できる雲と違い、経度に沿ったものではない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "このような構造がなぜ出来上がったかについて様々な憶測がある。ほとんどの天文学者は、大気中にいくつかの定在波パターンが生じた結果というが、ある種のオーロラと考える者もいる。実験では、流体の差動回転から多角形構造を再現した例もある。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "土星は磁気双極子という単純な対称形をした固有磁場を持つ。赤道付近での強度は0.2ガウス(20マイクロテスラ)であり、木星磁場の約1/20、地球磁場よりも若干弱い。その結果として、土星の磁気圏は木星よりも非常に小さい。ボイジャー2号が磁気圏に突入した際、内部の太陽風は依然として強く、磁気圏の大きさは土星半径の19倍(110万km)の広がりしか持っていなかった。その時は、数時間後には膨張を見せたが、結局たった3日でまた元に戻った。磁気圏は木星と同じく内部に液状の金属水素の層が存在し、ダイナモ効果によって発生している可能性が高い。この磁気圏は太陽風を逸らす効果を持つ。磁気圏の外を公転する衛星のタイタンの大気から供給されるイオン化された粒子は磁気圏内でプラズマ化し、極地で地球のようなオーロラを発生させる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "太陽から土星までの平均距離は1.4×10kmである。公転速度は平均9.69km/秒であり地球の10,759日(約29.5年)で太陽のまわりを一周する。公転軌道は楕円で、地球の公転面から2.48° 傾いている。軌道離心率は0.056 であり、近日点と遠日点では土星-太陽間の距離は約1億5500万kmの差が生じる。",
"title": "自転と公転"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "外観上の自転速度は、木星と同じく、緯度によって異なった回転周期を持つ領域として観察される。システムIは赤道域を含む領域で、一周が10時間14分00秒(844.3度/地球日)である。他の領域はシステムIIと呼ばれ、一周10時間38分25.4秒(810.76度/地球日)で回転している。これらとは別に、ボイジャーが接近した際に観測した電磁波の放射に基づいた回転はシステムIIIと呼ばれ、この一周10時間39分22.4秒(810.8度/地球日)がシステムIIに替わって自転と広く受け止められている。",
"title": "自転と公転"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "しかし内部の回転周期は未だ正確に把握されていない。2004年に土星に接近したカッシーニは電磁波の回転を、従来よりも遅い10時間45分45秒(±36秒)と観測した。2007年3月には、電磁波の回転が土星の自転と一致しないことが判明した。この電磁波の変調は土星の衛星エンケラドゥスの間欠泉が影響している可能性がある。土星の軌道上に放出された水蒸気は、磁場の邪魔をして抗力を引き起こし、電磁波の回転を惑星よりも遅らせている可能性がある。カッシーニやボイジャーそしてパイオニアなどの様々な観測結果から、2007年9月には最新の報告として、土星の自転は10時間32分35秒とされている。",
"title": "自転と公転"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "土星は、その環によって最も知られ、視覚的な特徴をなす。この環は土星の赤道上空6,630kmから120,700kmの間に広がるが、その厚さはわずか20m程度に過ぎない。その薄さゆえに、地球から見て土星が真横を向けている時は環が見えなくなる。土星の輪の消失は土星の公転中に2回、約15年に1回発生する。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "成分の93%はソリンが混ざる水の氷で成り、7%は非結晶の炭素である。リングの温度は-180°C前後。環は塵程度のものから10m長前後までの粒子で形づくられている。このような環は他の巨大惑星にも存在するが、土星のものは規模が特に大きく視認できる。環の起源には主に2種類の仮説があり、ひとつは破壊された土星衛星の残骸というもの、もうひとつは土星を形成した星雲の余りが残っているという考えである。また別に、衛星エンケラドゥスが噴出した氷も環の材料の一部になっている。過去、天文学者は環の形成は土星と平行して数十億年前と考えていたが、その後数億年前と考えられるようになった。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "環は、惑星から1200万km離れ他の環から27度の角度を持ったフェーベ環までが主要領域である。衛星の中にはパンやプロメテウスのような環が拡散するのを防ぎ封じ込める役廻りを持つものもあり、これらは羊飼い衛星群と呼ばれる。パンやアトラスの弱く直線的な密度波は、その質量を上回る有意な影響を土星の環に与えることができる。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "土星の環は1610年にガリレオ・ガリレイによって初めて観測された。しかし、望遠鏡の性能が良くなかったために、ガリレオは輪であることを把握出来ず、それを大きな2つの衛星であると考えた。その様子をトスカーナ大公コジモ2世(在位:1609年 - 1621年)へ書き送っている。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "彼はまた、土星には耳があるとも書いている。地球から見た土星の向きは土星が公転するにつれて変わるため、1612年には環を観測出来なくなった。しかし、1613年に見えなくなった環が再び見えるようになりガリレオをさらに悩ませた。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "この土星の環の謎は、1655年にクリスティアーン・ホイヘンスがガリレオよりも数段優れた望遠鏡で観測するまで解けなかった。その後、1675年にジョヴァンニ・カッシーニは土星の環は間をあけた複数の輪で構成されている事を発見した。彼の名に因んでA環とB環の隙間はカッシーニの間隙と名付けられている。またA環内にはエンケの間隙と呼ばれるカッシーニの間隙よりも細い隙間が存在する。これはドイツの天文学者フランツ・エンケにちなんでつけられたものだが、現在のエンケの間隙はジェームズ・キーラーによって発見されたものである。A環にはキーラーの空隙と呼ばれる隙間も存在する。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "性能の良い望遠鏡や双眼鏡を使えば土星の環は容易に観測することができる。環は土星の赤道から 6,630 km の距離から 120,700 km の距離まで広がっており、氷の粒子やシリカ・ソリン・ケイ素などで構成されている。粒子は細かい塵状のものから、小さな自動車程度の物まで様々である。土星の環の起源については有力な説が2つある。一つは19世紀にエドゥアール・ロシュが唱えた説で、土星の衛星が土星に近づきすぎて潮汐力によって破壊されたというものである。この前提として、破壊された衛星に彗星や小惑星が衝突したとされている。もう一つの説は、リングの構成物は元々衛星ではなく、土星形成時の星雲の成分がそのまま外に残った物という説である。後者で形成された場合、土星の環は数百万年も形状を維持できるほど安定していないため、この説は今日では広くは受け入れられていない。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "土星の環は内側から順にD環・C環・B環・A環・F環・G環・E環があり、F環・G環はよじれた構造をしている。地球から観察した場合、環の間隙は最も大きなカッシーニの間隙とエンケの間隙のみ見ることができるが、ボイジャーは土星の環に何千もの空白区間があることを発見した。この構造は土星にある多くの衛星の副産物と考えられる。また、衛星の運動以外では粒子同士の重力的共鳴現象によって環を形作っていると考えられる。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "環の厚さはその大きさに比べて非常に薄く、特に内側ほど薄い。各環の中央部の厚さは不明であるが、端部ではC環が5m、B環が5 - 10m、A環が10 - 30mである。仮に土星本体の直径を10mとして模型を作ったとすると、環の厚さは数μm程度となる。なお、G環の厚さは100km、E環は1万kmと推定されている。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "F環は、羊飼い衛星のパンドラとプロメテウスの二つの衛星によって形を維持していると考えられており、物質密度の高いコアという部分と淡いストランドという部分で構成され、形状は常に変化している。2005年9月のカッシーニの観測により、F環のストランドが螺旋状であることが発見された。螺旋構造の成因はF環とS/2004 S 6の衝突によると推測されている。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2006年3月、カッシーニによってエンケラドゥス南極付近に噴出孔が発見され、E環はここから放出された物質によって形成されたと考えられている。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1980年まで、土星の環の構造は土星の重力のみによって形作られると考えられていた。しかし、ボイジャーはB環の中に暗い放射状の構造を発見した。これはスポークと呼ばれ、重力による環の軌道運動だけでは説明できない物だった。この現象は土星の環がほぼ土星の磁気圏内を運動しているため、環を構成している粒子の電磁相互作用によって生じていると考えられている。しかしスポークが形成される原因ははっきりと分ってはいない。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "カッシーニは2004年7月の土星到着以来、ボイジャーと同等以上の精度で環を撮影したが、しばらくの間スポークは認められなかった。2005年9月に、スポークの写真が得られ、四半世紀を経てその存在があらためて確認された。スポークは、環の平面が太陽と大きな角度をなす土星の夏・冬には消失し、環の平面が公転面と重なる土星の春・秋に姿を現わすと考えられている。",
"title": "環"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "土星は少なくとも146個の衛星を持ち、うち63個には正式な名称がつけられている。最大の衛星はタイタンで、土星の全衛星と環を足した質量のうち、90%以上を占める天体である。2番目に大きなレアは薄い大気を持つと考えられる。他の衛星は非常に小さく、119個は直径が 10 km 未満、他の14個も 50 km 未満に過ぎない。伝統的に土星のほとんどの衛星はタイタン以来ギリシア神話を由来に名づけられている。タイタンは太陽系で唯一有意な大気を持つ衛星であり、複雑な有機化学合成が行われている。また、表面に炭化水素の湖を持つ唯一の衛星でもある。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "エンケラドゥスはしばしば微生物のような地球外生命が存在する可能性が指摘されている。その根拠は、エンケラドゥスから発散する液体の塩水から成る氷のほとんどが海洋的な成分である事に見出されている。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "土星は肉眼でも見えるため、その存在は先史時代から知られていた。 アッシリアやバビロニアの天文学(英語版)では、紀元前2000年ごろから土星を含む太陽系の五惑星(水星・金星・火星・木星・土星)が組織立った観測の対象となり、その運行が粘土板に記録された。古代メソポタミアの天文観測を牽引した原動力は数秘術・占星術であり、土星には農耕や狩猟の神ニヌルタが住むと考えられた。バビロニアの天文観測は紀元前3世紀頃(セレウコス朝期)から精緻化し、ヘレニズムの天文学に受け継がれる。土星を司る神はヘレニズム文化圏において、農耕神ニヌルタから、同じく農耕神クロノスへと置き換わった。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ヘレニズム時代にはアレクサンドレイアのプトレマイオスが、西暦127年3月26日と133年6月3日と136年7月8日に土星の衝を観測した。プトレマイオスはこれらの観測結果を基準にして、ジオセントリック・モデルの体系における土星の誘導円、周転円の半径、誘導円の近点軸、誘導円と地球の距離等、土星の軌道要素を得た。プトレマイオスの体系は、占星術のために実用的な程度には正確に、凶星とされる土星が関わる天文現象を予言しつづけ、16世紀のコペルニクスによる再検証までは「完璧」な体系であった。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "ヴェーダ時代のインドでは、宗教的な供儀を適切な日時に実施するため天文学(ジョーティシャ(英語版))が重視され、天空上の27又は28の星宿(ナクシャトラ)を基準に、土星を含む五惑星と日月の運行が観測された。前7世紀頃の天文書『ヴェーダーンガ・ジョーティシャ(英語版)』によると、天には、太陽と月、五惑星、ラーフとケートゥの9つの天体(ナヴァグラハ)があるとされ、サンスクリット語で「シャニ(Śani)(英語版)」と呼ばれる土星は、月の交点に存在を措定されたラーフとケートゥとともに凶星と考えられた。4~17世紀に成立した『マツヤ・プラーナ(英語版)』や『パドマ・プラーナ(英語版)』などのプラーナ文献には「シャニ」が骸骨の体を持ち、ハゲタカに乗り弓矢をつがえ、人が一生になした善事と悪事を見張るなどとあり、バラモンの秘儀を支える技術であったジョーティシャはヒンドゥー文化の一つとして形而上的な肉付けを得た。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "古代中国でも五惑星は重要な観測対象であり、土星は運行が緩慢であり星色の変化に乏しいため「塡星(鎮星)」と呼ばれた。『礼記』の月令によると塡星は天空を鎮める星で、五穀豊穣をもたらすとされている。前3世紀の鄒衍の説から発展した五行説に五惑星を当てはめる場合、塡星は土徳に配当された。このため漢字文化圏では、当該太陽系第六惑星を「土星」と呼ぶ。五行説の流行した中世(魏晋南北朝時代)において、土星は福星とされた。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "中国においては、漢代の一時期を除いて宇宙構造論があまり発達しなかった一方で、「星辰の変」は為政者に発せられた天の警告であると考えられて克明な天象観測記録が続けられた。唐代のインド系占星術者、瞿曇悉達が著した『開元占経(中国語版、英語版)』には、南朝宋の劉裕が、塡星が太微に入ったという観測結果を臣下が隆昌する吉兆と解釈し、東晋の皇帝を廃した事例が紹介されている。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "天文暦学書の私蔵を禁止するなど国家経世の学として発展した中国の天文占星の学も唐代には崩れ、個人の運勢を占う星占いが流行する。中東ヘレニズム文化圏でも事情は似て、星占い関連の出土パピルスがプトレマイオス王朝時代以後に急増する。前出のプトレマイオスは、エジプトに流れ込んできたこうした思想文化を集大成した占星術書『テトラビブロス』において、土星がまがまがしい凶星と述べている。人文科学面で古典期ギリシアの遺産を受け継いだローマ人は、ギリシアの農耕神クロノスを自分たちの神話における農耕神サートゥルヌスと同一視し、土星を凶星とみなす思想文化も受け継いだ。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "古代ヘブライ語では、土星は「Shabbathai」と呼ばれた。エジプトでは土曜日を土星が支配する曜日と考えられていて、ユダヤ人もローマ人もその思想文化を受け継いだ。ローマ時代以後、農耕神クロノスと、時を擬神化したクロノスが名前の類似から混同されて、土星は「時の神」であるということにもなった。西洋占星術等において土星は \"♄\" により示されるが、その使用は10世紀以前には遡らない。\"♄\" はクロノスの鎌と言われることもあるが、アラビア数字の\"5\"の変形である。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "土星の環を観察するには、少なくとも15mm口径の望遠鏡が必要で、1610年にガリレオ・ガリレイが試みるまでその存在は知られていなかった。観察した様子からガリレオは2つの衛星が土星の脇に見えているとしたが、この考えは、クリスティアーン・ホイヘンスがより高性能の望遠鏡で倍率を上げ行った観察で否定された。ホイヘンスは衛星タイタンを発見し、後にジョヴァンニ・カッシーニが1675年に衛星イアペトゥス、レア、テティス、ディオネを相次いで発見し、さらに見つけた環の間隙には彼の名が冠された。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1789年、ウィリアム・ハーシェルによってより遠方の衛星ミマスとエンケラドゥスの発見という重要な偉業がなされた。タイタンと軌道共鳴する異形の衛星ヒペリオンは1848年にイギリスのチームが発見した。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1899年にウィリアム・ヘンリー・ピッカリングが発見した衛星フェーベは典型的な不規則衛星で、大きな衛星に見られる自転と公転の同期状態に無かった。フェーベはこのような種類としては初めて発見された衛星で、一年以上の周期で逆行軌道を取る。20世紀前半に進んだ研究を経て、1944年にタイタンが濃い大気を持つ太陽系の衛星では珍しい特徴を持つ事が分かった。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "土星は肉眼でもはっきり見える5つの惑星の中で最も遠くにある。夜空に輝く明るい黄身がかった光の点は、等級にすると通常+1から0である。土星が黄道十二星座の各星座を背景に黄道を一周するには29.5年がかかる。ほとんどの人にとって、土星の環を観察するには大きな双眼鏡や望遠鏡など少なくとも20倍以上拡大できる光学機器が必要になる。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "ほとんどの時間に空にある土星と環を見る事ができるが、特に衝(太陽から離角が180度の正反対の位置)の時が観測には好ましい。2002年12月17日の衝では、土星の環の明るい面が地球軌道を向けており、2003年末には地球や太陽に最も近づいた土星の姿が見られた。",
"title": "地上からの観測"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1979年、探査機パイオニア11号は雲の上空20,000kmを通過し、初めて土星に接近した。解像度が低く詳細を識別するには至らなかったが、惑星やいくつかの衛星を画像に収めた。また環の調査も行い、薄いFリングの存在、そして環の暗い空隙部分を太陽に対して位相角 (天体)(英語版)が小さい状態で観察すると輝いて見える事を発見した。後者は、軽く光散乱性を持つ物質がある事を示す。さらにパイオニア11号はタイタンの温度も測定した。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1980年11月、探査機ボイジャー1号が土星系に接近し、惑星や環および衛星の高画質映像を初めて撮影し送信した。こうして、さまざまな衛星が持つ表面の特徴が明らかになった。さらにタイタンへの接近も行われ、大気についての知見を深め、可視光線が通過しないため地表の観測ができないことが判明した。最後にボイジャー1号は軌道を変え、太陽系外に向かった。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "およそ1年後の1981年8月、ボイジャー2号によって土星系研究は続けられた。より接近した衛星の画像が得られ、大気や環の情報が更新された。しかし、カメラのプラットホームがトラブルから2日間稼動せず、予定されたいくつかの撮影が出来なかった。最後にボイジャー2号は土星の重力を使って軌道を変更し、天王星に向かった。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "NASAと欧州宇宙機関(ESA)共同の探査機カッシーニは1997年に打ち上げられた。カッシーニは探査機本体をNASA、ホイヘンス・プローブをESAが担当した。2004年6月、土星に接近し、高解像度の画像を送ってきた。同年7月1日、土星周回軌道に乗り長期間探査(SOI, Saturn Orbit Insertion)を開始した。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "探査機は土星最大の衛星タイタンに接近しレーダー探査を行ったところ、大きな湖と数多い島や山を持つ海岸線が発見された。カッシーニは2度タイタンに接近し、2004年12月25日には小型のホイヘンス・プローブを投入した。ホイヘンスは2005年1月14日にタイタンを降下しながら膨大な情報を送信し、地表に着陸した。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2006年にNASAはカッシーニが土星の衛星エンケラドゥスに、間欠泉として噴き出す液体の水が溜まっている証拠を見つけたと発表した。画像は、エンケラドゥスの南極域から氷の粒子が土星を廻る公転軌道上に放たれている様子を掴んでいた。カリフォルニア工科大学のアンドリュー・インガソルは、「太陽系の中で、液体の水を持つ他の衛星は数キロメートルもの氷の層で塞がれている。ここ(エンケラドゥス)が違うところは、液体の水が溜まっている所が表面から10mと無い場所であることなのだろう」と推察した。2011年5月、NASAのエンケラドゥス観測グループ会議の科学者は、エンケラドゥスが「地球の外にある太陽系内で、私たちが知りえる中で生命にとって最も生育に適している」と報告した。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "カッシーニの画像は他にも重要な発見をもたらした。明るい土星の環の主要部分とG・Eリングの間に未発見だった環が存在することを明らかにした。この環をつくる材料は、2つの衛星に流星が衝突して供給されたと考えられている。2006年7月、カッシーニの画像からタイタンの北極近くに炭化水素の湖が存在する証拠がもたらされ、これは2007年1月に確定された。同年3月にはカスピ海ほどの大きさの湖も捉えた。一方、2006年10月には土星の南極にある直径8000kmもある六角形の嵐が、台風の目を持つ事を突き止めた。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "2004年から2009年11月2日までの間に、カッシーニは8個の新しい衛星を発見した。当初の任務は土星を74周して達成されたが、2010年9月までの運用継続が決まり、さらに土星の季節変動を研究するために2017年まで再延長された。そして2017年9月に運用を終了し、土星大気に突入して消滅した。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2007年には、ESAが将来の宇宙探査ミッションの候補の一つとして、NASAとの共同による土星圏探査ミッション「タンデム計画」を選定した。土星本体とタイタン、エンケラドゥスが主目標であり、タイタンの大気中に気球を送り込むことも計画されている。",
"title": "探査"
}
] | 土星は、太陽から6番目の、太陽系の中では木星に次いで2番目に大きな惑星である。巨大ガス惑星に属する土星の平均半径は地球の約9倍に当たる。平均密度は地球の1/8に過ぎないため、巨大な体積のわりに質量は地球の95倍程度である。そのため、木星型惑星の一種に分類されている。 土星の内部には鉄やニッケルおよびシリコンと酸素の化合物である岩石から成る中心核があり、そのまわりを金属水素が厚く覆っていると考えられ、中間層には液体の水素とヘリウムが、その外側はガスが取り巻いている。 惑星表面は、最上部にあるアンモニアの結晶に由来する白や黄色の縞が見られる。金属水素層で生じる電流が作り出す土星の固有磁場は地球磁場よりも若干弱く、木星磁場の1/12程度である。外側の大気は変化が少なく色彩の差異も無いが、長く持続する特徴が現れる事もある。風速は木星を上回る1800 km/hに達するが、海王星程ではない。 土星は恒常的な環を持ち、9つが主要なリング状、3つが不定的な円弧である。これらはほとんどが氷の小片であり、岩石のデブリや宇宙塵も含まれる。知られている限り146個の衛星を持ち、うち63個には固有名詞がついている。これにはリングの中に存在する何百という小衛星(ムーンレット)は含まれない。タイタンは土星最大で太陽系全体でも2番目に大きな衛星であり、水星よりも大きく、衛星としては太陽系でただひとつ有意な大気を纏っている。 日本語で当該太陽系第六惑星を「土星」と呼ぶ由来は、古代中国において五惑星が五行説に当てはめて考えられた際、この星に土徳が配当されたからである。英語名サターンはローマ神話の農耕神サートゥルヌスに由来する。 | {{天体 基本
| 色 = 木星型惑星
| 和名 = 土星 [[ファイル:Saturn_symbol (fixed width).svg|24px|♄]]
| 英名 = Saturn
| 画像ファイル = Saturn PIA06077.jpg
| 画像説明 = [[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]による撮影<br />([[2004年]][[3月27日]])
| 画像背景色 = #000000
| 仮符号・別名 = 鎮星、填星
| 分類 = [[木星型惑星]]
| 軌道の種類 = [[外惑星]]
}}
{{天体 発見
| 色 = 木星型惑星
| 発見日 =
| 発見年 =
| 発見方法 = 目視
}}
{{天体 軌道
| 色 = 木星型惑星
| 元期 = [[J2000.0]]{{R|NASA_factsheet}}
| 軌道長半径 = 9.53707032 [[天文単位|au]]
| 近日点距離 = 9.021 au
| 遠日点距離 = 10.054 au
| 離心率 = 0.05415060{{R|NASA_factsheet}}
| 公転周期 = 29.53216 年
| 会合周期 = 378.09 日
| 平均軌道速度 = 9.6724 [[メートル毎秒|km/s]]
| 軌道傾斜角 = 2.48446[[度 (角度)|°]]{{R|NASA_factsheet}}
| 近日点黄経 = 92.43194°{{R|NASA_factsheet}}
| 昇交点黄経 = 113.71504°{{R|NASA_factsheet}}
| 平均黄経 = 49.94432°{{R|NASA_factsheet}}
| 主恒星 = [[太陽]]
| 衛星数 = [[土星の衛星|146 (149)]]
}}
{{天体 物理
| 色 = 木星型惑星
| 赤道直径 = [[1 E8 m|120,536 km]]
| 表面積 = 4.38 {{e|10}} [[平方メートル|km<sup>2</sup>]]
| 質量 = 5.688 {{e|26}} [[キログラム|kg]]
| 相対対象1 = 地球
| 相対質量1 = 95.16254888
| 平均密度 = 0.70 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm<sup>3</sup>]]
| 表面重力 = 8.96 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]
| 脱出速度 = 35.49 km/s
| 自転周期 = 10時間 13分 59秒<br /><small>(赤道面)</small><br />10時間 32分 45秒<br /><small>(極)</small>
| アルベド = 0.47
| 赤道傾斜角 = 25.33 度
| 表面温度 = 93[[ケルビン|K]](雲の最上層)
| 最小表面温度 = 82K
| 平均表面温度 = 143K
| 最大表面温度 = [[n/a]]
| 大気圧 = 140 [[パスカル (単位)|kPa]]
| 大気 =
{{天体 項目|[[水素]]|>93%}}
{{天体 項目|[[ヘリウム]]|>5%}}
{{天体 項目|[[メタン]]|0.2%}}
{{天体 項目|[[水蒸気]]|0.1%}}
{{天体 項目|[[アンモニア]]|0.01%}}
{{天体 項目|[[エタン]]|0.0005%}}
{{天体 項目|[[ホスフィン]]|0.0001%}}
}}
{{天体 終了|木星型惑星}}
'''土星'''(どせい、{{Lang-la|Saturnus}}、{{Lang-en|Saturn}}、{{Lang-gr|Κρόνος}})は、[[太陽]]から6番目の、[[太陽系]]の中では[[木星]]に次いで2番目に大きな[[惑星]]である。[[巨大ガス惑星]]に属する土星の平均半径は[[地球]]の約9倍に当たる<ref name="Radius ref">{{cite web| url = http://www.astrophysicsspectator.com/tables/Saturn.html| title = Characteristics of Saturn| accessdate = 2010-07-05| last = Brainerd| first = Jerome James| date = 2004-11-24| publisher = The Astrophysics Spectator| archiveurl = https://webcitation.org/62D9kpF9j?url=http://www.astrophysicsspectator.com/tables/Saturn.html| archivedate = 2011年10月5日| deadurl = no| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref name="Radius ref 2">{{cite web| url = http://scienceray.com/astronomy/general-information-about-saturn-2/1/| title = General Information About Saturn| work = Scienceray| date = 2011-07-28| accessdate = 2011-08-17| archiveurl = https://webcitation.org/62DnS5PZe?url=http://scienceray.com/astronomy/general-information-about-saturn-2/1/| archivedate = 2011年10月6日| deadurl = no| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。平均[[密度]]は地球の1/8に過ぎないため、巨大な体積のわりに質量は地球の95倍程度である<ref name="Mass ref">{{cite web| url = http://www.astrophysicsspectator.com/tables/PlanetComparativeData.html| title = Solar System Planets Compared to Earth| accessdate = 2010-07-05| last = Brainerd| first = Jerome James| date = 2004-10-06| publisher = The Astrophysics Spectator| archiveurl = https://webcitation.org/62DnSq27J?url=http://www.astrophysicsspectator.com/tables/PlanetComparativeData.html| archivedate = 2011年10月6日| deadurl = no| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref name="Mass ref 2">{{cite web| url=http://mynasa.nasa.gov/worldbook/saturn_worldbook.html| title=NASA – Saturn| accessdate=2011-07-21| last=Dunbar| first=Brian| date=2007-11-29| publisher=NASA| archiveurl=https://webcitation.org/62DnSzntL?url=http://mynasa.nasa.gov/worldbook/saturn_worldbook.html| archivedate=2011年10月6日| deadurl=no| deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref name="Mass ref 3">{{cite web | first1=Fraser | last1=Cain | url=http://www.universetoday.com/15378/mass-of-saturn/ | title=Mass of Saturn | publisher=Universe Today | date=2008-07-03 | accessdate=2011-08-17 }}</ref>。そのため、木星型惑星の一種に分類されている。
土星の内部には[[鉄]]や[[ニッケル]]および[[シリコン]]と[[酸素]]の[[化合物]]である[[岩石]]から成る中心核があり、そのまわりを[[金属水素]]が厚く覆っていると考えられ、中間層には[[液体]]の[[水素]]と[[ヘリウム]]が、その外側は[[気体|ガス]]が取り巻いている<ref name="Composition ref">{{cite web| url = http://www.astrophysicsspectator.com/topics/planets/GiantGaseousPlanets.html| title = Giant Gaseous Planets| accessdate = 2010-07-05| last = Brainerd| first = Jerome James| date = 2004-10-27| publisher = The Astrophysics Spectator| archiveurl = https://webcitation.org/62D9le2df?url=http://www.astrophysicsspectator.com/topics/planets/GiantGaseousPlanets.html| archivedate = 2011年10月5日| deadurl = no| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
惑星表面は、最上部にある[[アンモニア]]の結晶に由来する白や黄色の縞が見られる。金属水素層で生じる[[電流]]が作り出す土星の固有[[磁場]]は地球磁場よりも若干弱く、木星磁場の1/12程度である<ref name="mag" />。外側の[[大気]]は変化が少なく色彩の差異も無いが、長く持続する特徴が現れる事もある。風速は木星を上回る1800 km/hに達するが、[[海王星]]程ではない<ref name="Science Ch. 2004">{{cite news |publisher=Science Channel |title=The Planets ('Giants') |date=2004-06-08}}</ref>。
土星は恒常的な[[土星の環|環]]を持ち、9つが主要なリング状、3つが不定的な円弧である。これらはほとんどが[[氷]]の小片であり、岩石の[[デブリ]]や[[宇宙塵]]も含まれる。知られている限り146個の<ref>{{cite web|first=Enrico|last=Piazza|title=Saturn's Moons|work=Cassini, Equinox Mission|publisher=JPL NASA|url=http://saturn.jpl.nasa.gov/science/moons/|accessdate=2010-06-22|archiveurl=https://webcitation.org/62D9ohM2V?url=http://saturn.jpl.nasa.gov/science/moons/|archivedate=2011年10月5日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>[[衛星]]を持ち、うち63個には固有名詞がついている。これにはリングの中に存在する何百という小衛星([[ムーンレット]])は含まれない。[[タイタン (衛星)|タイタン]]は土星最大で太陽系全体でも2番目に大きな衛星であり、[[水星]]よりも大きく、衛星としては太陽系でただひとつ有意な大気を纏っている<ref name="Titan ref">{{cite web|url = http://saturn.jpl.nasa.gov/news/features/saturn-story/moons.cfm|title = The Story of Saturn|accessdate = 2007-07-07|last = Munsell|first = Kirk|date = 2005-04-06|publisher = NASA Jet Propulsion Laboratory; California Institute of Technology|archiveurl = https://webcitation.org/617Vt6xrq?url=http://saturn.jpl.nasa.gov/news/features/saturn-story/moons.cfm|archivedate = 2011年8月22日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
日本語で当該太陽系第六惑星を「土星」と呼ぶ由来は、古代中国において五惑星が[[五行説]]に当てはめて考えられた際、この星に土徳が配当されたからである<ref name="佐藤幸治1998" />{{rp|87}}。英語名サターンは[[ローマ神話]]の農耕神[[サートゥルヌス]]に由来する<ref name=plotner20080222>{{cite web | url=http://www.universetoday.com/12926/time-to-observe-saturn-opposition-occurs-february-23/ | title=Time to Observe Saturn – Opposition Occurs February 23! | publisher=Universe Today | first1=Tammy | last1=Plotner | date=2008-02-22 | accessdate=2011-07-19 | archiveurl=https://webcitation.org/62DnsTWVi?url=http://www.universetoday.com/12926/time-to-observe-saturn-opposition-occurs-february-23/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name=reis_jones2009>{{cite web | url=http://www.astronomy2009.org/static/archives/presentations/pdf/saturn_gn.pdf | title=Saturn: The Ringed Planet | publisher=[[国際天文学連合]] | first1=Ricardo Cardoso | last1=Reis | first2=Jane H. | last2=Jones | format=PDF | accessdate=2011-07-23 }}</ref>。
== 物理的性質 ==
[[ファイル:Saturn, Earth size comparison.jpg|thumb|left|土星と地球のおおまかな大きさ比較]]
[[ファイル:Saturn false color Voyager-1.jpg|thumb|right|土星の特徴を強調するためにボイジャー1号が色の濃淡を強調して作成された画像]]
土星は、中心にこそ固体成分を占める核があるが、主要成分がガスであり外縁の境界が不明瞭なため[[巨大ガス惑星]]に分類される<ref name=melosh2011>{{cite book | first1=H. Jay | last1=Melosh | title=Planetary Surface Processes | volume=13 | series=Cambridge Planetary Science | publisher=ケンブリッジ大学出版局| year=2011 | isbn=0-521-51418-5 | page=5 | url=https://books.google.co.jp/books?id=3bQD1DJgliIC&pg=PA5&redir_esc=y&hl=ja }}</ref>。[[自転]]によって惑星は[[扁球]]形状を持ち、極よりも赤道部分が膨らんだ扁平状になっているために、赤道半径と極半径の差はほぼ10%(60,268km 対 54,364km)にもなる<ref name="fact">{{cite web | url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/saturnfact.html | title=Saturn Fact Sheet | publisher=NASA | last=Williams | first=David R. | accessdate=2007-07-31 | date=2006-09-07 | archiveurl=https://webcitation.org/616VxHVlQ?url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/saturnfact.html | archivedate=2011年8月21日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。木星・天王星・[[海王星]]と言った太陽系のその他のガス惑星もやや扁平しているが、土星ほどではない。土星は太陽系で唯一水よりも30%ほど軽い<ref name=preserve>{{citation | url=http://www.preservearticles.com/201101233659/saturn-the-most-beautiful-planet-of-our-solar-system.html | title=Saturn – The Most Beautiful Planet of our solar system | work=Preserve Articles | date=January 23, 2011 | accessdate=2011-07-24 | archiveurl=https://webcitation.org/62D9uTOJ0?url=http://www.preservearticles.com/201101233659/saturn-the-most-beautiful-planet-of-our-solar-system.html | archivedate=2011年10月5日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。その中心核こそ水よりも重い比重を持つが、そのガス成分から平均では0.69g/cm<sup>3</sup>である。体積は地球の764倍にもなるが、質量は95倍にとどまる<ref name="fact" />。木星と土星の2つで、太陽系の惑星質量の92%を占める<ref name=ssr152_1_423>{{citation | last1=Fortney | first1=Jonathan J. | last2=Nettelmann | first2=Nadine | title=The Interior Structure, Composition, and Evolution of Giant Planets | journal=Space Science Reviews | volume=152 | issue=1-4 | pages=423–447 | month=May | year=2010 | doi=10.1007/s11214-009-9582-x | bibcode=2010SSRv..152..423F |arxiv = 0912.0533 }}</ref><ref name="Jupiter fact">{{citation|title=Jupiter Fact Sheet|last=Williams|first=David R.|date=November 16, 2004|archiveurl=https://webcitation.org/62D9vKbZz?url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/jupiterfact.html|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/jupiterfact.html|publisher=NASA|accessdate=2007-08-02|archivedate=2011年10月5日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。
{{Clearleft}}
=== 内部構造 ===
[[ファイル:Saturn diagram.svg|thumb|left|300px|土星の内部構造]]
前項にて述べたように土星は巨大ガス惑星に分類されているが、木星と同じく、土星はすべてガスで構成されている訳ではない。惑星成分のほとんどを占める水素は、密度0.01g/cm<sup>3</sup>を超えると非[[理想溶液]]となる。土星半径の99.9%部分においてこの密度に達する。惑星内部の温度・圧力・密度はいずれも中心に向かうに連れて高まり、内部に行くと水素は相を変えて金属様になる<ref name=ssr152_1_423/>。
標準惑星モデルでは、土星内部は木星と同じく小さな岩石質中心核を水素やヘリウムなどの揮発成分が取り囲んでいると考えられる<ref name=guillot_et_al2009>{{cite book | display-authors=1 | last1=Guillot | first1=Tristan | last2=Atreya | first2=Sushil | last3=Charnoz | first3=Sébastien | last4=Dougherty | first4=Michele K. | last5=Read | first5=Peter | contribution=Saturn's Exploration Beyond Cassini-Huygens | title=Saturn from Cassini-Huygens | editor1-last=Dougherty | editor1-first=Michele K. | editor2-last=Esposito | editor2-first=Larry W. | editor3-last=Krimigis | editor3-first=Stamatios M., | isbn=978-1-4020-9216-9 | publisher=Springer Science+Business Media B.V. | page=745 | year=2009 | doi=10.1007/978-1-4020-9217-6_23 | bibcode=2009sfch.book..745G | arxiv=0912.2020 }}</ref>。この中心核の構造は地球と似ているが、より濃密な状態になっている。惑星の[[慣性モーメント]]の試算と、内部の物理的モデルを組み合わせる事で、[[フランス]]の天文学者 Didier Saumon とTristan Guillot が、惑星中心にある質量の塊をはじき出した。2004年に彼らは、中心核の質量は地球の9-22倍<ref name=science305_5689_1414>{{cite journal | last=Fortney | first=Jonathan J. | title=Looking into the Giant Planets | journal=Science | year=2004 | volume=305 | issue=5689 | pages=1414–1415 | doi=10.1126/science.1101352 | pmid=15353790 }}</ref><ref name=apj609_2_1170>{{cite journal | last1=Saumon | first1=D. | last2=Guillot | first2=T. | title=Shock Compression of Deuterium and the Interiors of Jupiter and Saturn | journal=The Astrophysical Journal | volume=609 | issue=2 | pages=1170–1180 | month=July | year=2004 | doi=10.1086/421257 | bibcode=2004ApJ...609.1170S |arxiv = astro-ph/0403393 }}</ref>、その直径は約25,000kmと試算した<ref>{{cite web|url = http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A383960|title = Saturn|publisher = BBC|accessdate = 2011-07-19|year = 2000|archiveurl = https://webcitation.org/616W1dNHA?url=http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A383960|archivedate = 2011年8月21日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。この核は濃い液体状の金属水素の層に覆われ、続けてその外側にヘリウムが飽和した水素分子の液体層があり、高度が増すにつれて[[気体]]へ相を変えてゆく。最も外側の層は厚さ約1000kmのガスの大気から成る<ref name=faure_mensing2007>{{cite book | first1=Gunter | last1=Faure | first2=Teresa M. | last2=Mensing | title=Introduction to planetary science: the geological perspective | publisher=Springer | year=2007 | isbn=1-4020-5233-2 | page=337 | url=https://books.google.co.jp/books?id=U4FZp6f6q6MC&pg=PA337&redir_esc=y&hl=ja }}</ref><ref name="NMM Saturn" /><ref>{{cite web|url = http://www.windows2universe.org/saturn/interior/S_int_structure_overview.html|title = Structure of Saturn's Interior|publisher = Windows to the Universe|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/616W0N0ci?url=http://www.windows2universe.org/saturn/interior/S_int_structure_overview.html|archivedate = 2011年8月21日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
土星内部は非常に高温で、中心核では11,700Kにもなる。そして、太陽光線の形で宇宙空間から受けるよりも2.5倍もの放射を行う。この放出エネルギーは[[ケルビン・ヘルムホルツ機構]]というゆっくりとした重力の圧縮から生じると考えられるが、これだけでは土星の熱発生量をすべて説明できない。その他のメカニズムとして、惑星内の奥深くで起こる小さなヘリウムの滴による「雨降り」があるのではと考えられる。液滴化したヘリウムが水素の密度が低いところを通る際に[[摩擦]]による熱が発生するというもので、惑星の外側の層にあるヘリウムが使われると言う<ref name=de_pater_lissauer2010>{{cite book | first1=Imke | last1=de Pater | first2=Jack J. | last2=Lissauer | title=Planetary Sciences | edition=2nd | publisher=Cambridge University Press | year=2010 | isbn=0-521-85371-0 | pages=254–255 | url=https://books.google.co.jp/books?id=a_ijoTgDhnEC&pg=PA254&redir_esc=y&hl=ja }}</ref><ref name=nasa_saturn>{{cite web | url=http://www.nasa.gov/worldbook/saturn_worldbook.html | title=NASA – Saturn | publisher=NASA | accessdate=2007-07-27 | year=2004 | archiveurl=https://webcitation.org/616W1CQJQ?url=http://www.nasa.gov/worldbook/saturn_worldbook.html | archivedate=2011年8月21日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。木星も土星と同様の金属水素の層を持っているが、木星は内部がより高温でヘリウムの水素への溶解度が高いこと・対流が活発であることから、この現象はあまり有効に働かないと推定されている。実際に土星の大気中に含まれるヘリウムの割合は、太陽や4つの木星型惑星のどれよりも低く(体積比で9.9%)、土星内部でヘリウムの分離が起きていることを示唆している<ref name="Watanabe">{{cite book | 和書 | author=[[渡部潤一]]、[[井田茂]]、[[佐々木晶]] | year=2008 | title=太陽系と惑星 | series=シリーズ現代の天文学 | publisher=[[日本評論社]] | pages=p.70- | isbn=978-4-535-60729-3}}</ref>。この現象によって中心核はヘリウムで覆われている可能性もある<ref name=guillot_et_al2009/>。
{{Clearleft}}
=== 大気 ===
外層の大気は96.3 %が水素分子(H<sub>2</sub>)、3.25 %がヘリウム(He)である<ref>[http://www.universeguide.com/Saturn.aspx Saturn]. Universe Guide. Retrieved 29 March 2009.</ref>。このヘリウムの構成比は、太陽内に存在するこの元素の比率と比較すると明らかに少ない<ref name=guillot_et_al2009/>。ヘリウムよりも重い元素の量は正確には分かっていないが、原始太陽系形成時の比率に一致すると考えられている。これらの元素は地球質量の19 - 31倍ほど存在すると見積もられるが、ほとんどは土星中心核にあるものと考えられる<ref name="science286">{{cite journal | last=Guillot | first=Tristan | title=Interiors of Giant Planets Inside and Outside the Solar System | journal=Science | year=1999 | volume=286 | issue=5437 | pages=72–77 | doi=10.1126/science.286.5437.72 | pmid=10506563| bibcode=1999Sci...286...72G }}</ref>。
[[アンモニア]]・[[アセチレン]]・[[エタン]]・[[プロパン]]・[[リン化水素]]・[[メタン]]も土星大気中から検出された<ref name=baas15_831>{{cite journal | display-authors=1 | title=The Composition of Saturn's Atmosphere at Temperate Northern Latitudes from Voyager IRIS spectra | journal=Bulletin of the American Astronomical Society | year=1967 | volume=15 | page=831 | bibcode=1983BAAS...15..831C | last1=Courtin | first1=R. | last2=Gautier | first2=D. | last3=Marten | first3=A. | last4=Bezard | first4=B. }}</ref><ref name=cain2009_24029>{{cite web | url=http://www.universetoday.com/24029/atmosphere-of-saturn/ | title=Atmosphere of Saturn | publisher=Universe Today | first1=Fraser | last1=Cain | date=2009-01-22 | accessdate=2011-07-20 | archiveurl=https://webcitation.org/62D9wWBZg?url=http://www.universetoday.com/24029/atmosphere-of-saturn/ | archivedate=2011年10月5日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name=pfsaa2008>{{citation | last1=Guerlet | first1=S. | last2=Fouchet | first2=T. | last3=Bézard | first3=B. | contribution=Ethane, acetylene and propane distribution in Saturn's stratosphere from Cassini/CIRS limb observations | title=SF2A-2008: Proceedings of the Annual meeting of the French Society of Astronomy and Astrophysics | editor1-first=C. | editor1-last=Charbonnel | editor2-first=F. | editor2-last=Combes | editor3-first=R. | editor3-last=Samadi | page=405 | month=November | year=2008 | bibcode=2008sf2a.conf..405G }}</ref>。上空に見られる雲はアンモニアの結晶であるが、下に行くと[[硫化水素アンモニウム]](NH<sub>4</sub>SH)や水へと変わる<ref name=martinez20050905>{{cite web | last=Martinez | first=Carolina | date=2005-09-05 | url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/whycassini/cassini-090505-clouds.html | title=Cassini Discovers Saturn's Dynamic Clouds Run Deep | publisher=NASA | accessdate=2007-04-29 | archiveurl=https://webcitation.org/62D9wz6i7?url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/whycassini/cassini-090505-clouds.html | archivedate=2011年10月5日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。太陽からの[[紫外線]]は上層大気層でメタンの[[光分解]]を起こし、[[化学反応]]でつくられた各種の[[炭化水素]]が渦巻きや拡散を通じて惑星内部へ運ばれる。この光分解のサイクルは土星の季節変化の影響を受ける<ref name=pfsaa2008/>。
2005年初頭以後、土星の稲妻の観測が続いている。そのエネルギーは地球の雷の1,000倍に匹敵する<ref>{{cite web|url = http://www.sciencedaily.com/releases/2006/02/060215090726.htm|title = Astronomers Find Giant Lightning Storm At Saturn|year = 2007|accessdate = 2007-07-27|publisher = ScienceDaily LLC|archiveurl = https://webcitation.org/616W9ngSD?url=http://www.sciencedaily.com/releases/2006/02/060215090726.htm|archivedate = 2011年8月21日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
=== 雲の層 ===
[[ファイル:Saturn Storm.jpg|thumb|2011年に惑星規模で発生した嵐の帯。明るい領域は嵐の頭部で、尾を引きながら左方向に移動している。]]
土星の大気は木星と同様に帯状の模様を見せるが、赤道近くで淡い幅広になる特徴を持つ。この帯は木星と同じ学術用語で呼ばれる。土星の細かな雲の模様は、1980年代の探査機ボイジャーが到達するまで観測された事は無かったが、その後は地球から望遠鏡を用いた観測が詳細を明らかにした<ref name=emp105_2_143>{{cite journal | last1=Orton | first1=Glenn S. | title=Ground-Based Observational Support for Spacecraft Exploration of the Outer Planets | journal=Earth, Moon, and Planets | volume=105 | issue = 2–4 | pages=143–152 | month=September | year=2009 | doi=10.1007/s11038-009-9295-x | bibcode=2009EM&P..105..143O }}</ref>。
雲は表面から中に入るほど圧力が増す。上層は温度100 - 160 K、圧力0.5 - 2 barでアンモニアの氷から成っている。下の圧力2.5
- 9.5 bar付近の層は水の氷が雲をつくり、温度は180 - 250 Kに上昇する。この層には硫化アンモニウムの氷が混合し、圧力は3 - 6 bar、温度は235 - 290 Kになる。そして最下層では圧力が10 - 20 bar、温度は270 - 330 Kになり、液化したアンモニウムの水滴が含まれるようになる<ref name=dougherty_esposito2009>{{Cite journal |title=Saturn from Cassini-Huygens | publisher=Springer | date=2009 | isbn=1-4020-9216-4 | page=162 |url=https://books.google.com/books?id=M56CHHxVMP4C&pg=PA162 | bibcode=2009sfch.book.....D | doi=10.1007/978-1-4020-9217-6 | journal=Saturn from Cassini-Huygens | editor1-last=Dougherty | editor1-first=Michele K. | editor2-last=Esposito | editor2-first=Larry W. | editor3-last=Krimigis | editor3-first=Stamatios M. }}</ref>。
カッシーニなどによって、土星の嵐などの気象現象が観測されている<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2011/05/25saturn_storm/index-j.shtml AstroArts カッシーニと大型望遠鏡で土星の嵐を同時観測]</ref><ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2008/10/30saturnian_cyclone/index-j.shtml AstroArts 土星の両極で猛烈な渦を観測]</ref>。土星大気は通常それほど激しい動きを見せないが、時に木星で見られるような非常に長持ちする楕円形状が現れる事がある。1990年に[[ハッブル宇宙望遠鏡]]が、探査機ボイジャー通過の際には確認できなかった赤道付近の巨大な白い雲を発見し、1994年にも別のより小さな嵐が見つかった。1990年の嵐は[[大白斑]]という現象のひとつで、土星の約30年毎に北半球が[[夏至]]を迎える頃に発生する、それほど長く持続しないものであった<ref name=icarus176_1_155>{{cite journal | title = Saturn's cloud structure and temporal evolution from ten years of Hubble Space Telescope images (1994–2003) | year = 2005 | first1=S. | last1=Pérez-Hoyos | first2=A. | last2=Sánchez-Laveg | first3=R. G. | last3=French | last4=J. F. | first4=Rojas | journal=Icarus | volume=176 | issue=1 | pages=155–174 | doi=10.1016/j.icarus.2005.01.014 | bibcode=2005Icar..176..155P }}</ref>。この大白斑は1876年、1903年、1933年、1960年にもそれぞれ発生し、特に1933年のものが有名である。周期性から考慮すると、次の発生は2020年前後になる<ref>{{仮リンク|パトリック・ムーア (天文学者)|en|Patrick Moore|label=パトリック・ムーア}}, ed., ''1993 Yearbook of Astronomy'', (London: W.W. Norton & Company, 1992), Mark Kidger, "The 1990 Great White Spot of Saturn", pp. 176–215.</ref>。
土星に吹く風は太陽系で2番目に速い。ボイジャーの観測によると、最も速いものは偏東風で速度は1800km/hに達する<ref name="Voyager Summary 1">{{cite web|title = Voyager Saturn Science Summary|url = http://www.solarviews.com/eng/vgrsat.htm|first = Calvin J.|last = Hamilton|accessdate = 2007-07-05|year = 1997|publisher = Solarviews|archiveurl = https://webcitation.org/62DA0AJg8?url=http://www.solarviews.com/eng/vgrsat.htm|archivedate = 2011年10月5日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。2007年、探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]が土星の北半球で天王星のような輝く青い色の部分を発見した。これは[[レイリー散乱]]によって引き起こされたと考えられた<ref>{{cite web|url = http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/multimedia/pia09188.html|title = Saturn's Strange Hexagon|accessdate = 2007-07-06|date = 2007-03-27|last = Watanabe|first = Susan|publisher = NASA|archiveurl = https://webcitation.org/5nEDDHMNK?url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/multimedia/pia09188.html|archivedate = 2010年2月1日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。[[赤外線]]による観測から、土星の南極点には他の太陽系天体には見られない暖かな[[極渦]]がある事が分かった<ref name=MCP>{{cite web|url = http://www.mcpstars.org/node/353|title = Warm Polar Vortex on Saturn|year = 2007|publisher = Merrillville Community Planetarium|accessdate = 2007-07-25|archiveurl = https://webcitation.org/62DA17ga2?url=http://www.mcpstars.org/node/353|archivedate = 2011年10月5日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。土星の表面温度は通常-185℃前後だが、この渦は暖かい時には-122℃にもなり、土星表面で最も高い気温になると考えられている<ref name=MCP/>。
=== 北極の六角形の雲 ===
[[ファイル:Saturn north polar hexagon 2012-11-27.jpg|thumb|left|北極の六角形の雲。ボイジャー1号が発見し、2006年にカッシーニによって初めて確認された。(2012年11月27日撮影)]]
[[ファイル:Looking saturn in the eye.jpg|thumb|土星の南極(南極側には六角形の雲は無い)]]
[[ファイル:Rotatingsaturnhexagon.gif|thumb|土星の北極([[赤外線]]アニメーション)]]
{{Main|土星の六角形}}
土星大気には、北緯78度付近で北極を取り囲む固定的な[[土星の六角形|六角形]]の波紋があり、ボイジャーが撮影した画像から発見された<ref>{{cite journal|bibcode=1988Icar...76..335G|doi=10.1016/0019-1035(88)90075-9|title = A hexagonal feature around Saturn's North Pole|year=1988|page=335|author = Godfrey, D. A.|volume=76|journal = Icarus|issue=2}}</ref><ref>{{cite journal|title = Ground-based observations of Saturn's north polar SPOT and hexagon|first4 = P.|last4 = Laques|first3 = F.|last3 = Colas|first2 = J.|journal = Science|last = Sanchez-Lavega|last2 = Lecacheux|volume = 260|issue = 5106|page = 329|year = 1993|first = A.|pmid = 17838249|doi=10.1126/science.260.5106.329|bibcode=1993Sci...260..329S|pages = 329–32}}</ref>。しかし強い[[ジェット気流]]の存在が示唆される南極側には、極渦も六角形の波も無いことがハッブル宇宙望遠鏡の観測から明らかになっている<ref>{{cite web|url = https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2002DPS....34.1307S/abstract|title = Hubble Space Telescope Observations of the Atmospheric Dynamics in Saturn's South Pole from 1997 to 2002|accessdate = 2012-02-08|publisher = The American Astronomical Society| date=2002-10-08 }}</ref>。2006年11月に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]は、カッシーニが南極に明らかな[[台風の目]]を持つハリケーンのような嵐が固着している事を発見したと伝えた<ref>{{cite web|url = http://photojournal.jpl.nasa.gov/catalog/PIA09187|title = NASA catalog page for image PIA09187|accessdate = 2007-05-23|publisher = NASA Planetary Photojournal|archiveurl = https://webcitation.org/62DA8MbqG?url=http://photojournal.jpl.nasa.gov/catalog/PIA09187|archivedate = 2011年10月5日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref>{{cite news|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/6135450.stm?lsm|title = Huge 'hurricane' rages on Saturn|publisher = BBC News|date = 2006-11-10|accessdate = 2011-09-29|archiveurl = https://webcitation.org/62DA8ZsRl?url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/6135450.stm?lsm|archivedate = 2011年10月5日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。地球以外の太陽系天体で、雲がつくる台風の目が発見されたのは初めてだった。例えば、木星の[[大赤斑]]には台風の目に相当するものが無い事は、探査機[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ]]が撮影した画像からも明らかになっている<ref>{{cite web|url = http://saturn.jpl.nasa.gov/news/press-release-details.cfm?newsID=703|title = NASA Sees into the Eye of a Monster Storm on Saturn|publisher = NASA|date = 2006-11-09|accessdate = 2006-11-20|archiveurl = https://webcitation.org/62DA9W8s8?url=http://saturn.jpl.nasa.gov/news/press-release-details.cfm?newsID=703|archivedate = 2011年10月5日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
北極の六角形構造は、直線部の一辺が地球の直径を越える長さ約13,800kmである<ref name="Hexagon ref">{{cite news| url = http://www.msnbc.msn.com/id/34352533/ns/technology_and_science-space/t/new-images-show-saturns-weird-hexagon-cloud/| title = New images show Saturn's weird hexagon cloud| publisher = MSNBC| date = 2009-12-12| accessdate = 2011-09-29| archiveurl = https://webcitation.org/62DA5Yz33?url=http://www.msnbc.msn.com/id/34352533/ns/technology_and_science-space/t/new-images-show-saturns-weird-hexagon-cloud/| archivedate = 2011年10月5日| deadurl = no| deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
構造全体は、放射磁気と同期すると考えられる土星の内部部分が自転する周期と同じ速度に当る10時間39分24秒で回転している<ref name=science247_4947_1206>{{cite journal | first1=D. A. | last1=Godfrey | title=The Rotation Period of Saturn's Polar Hexagon | journal=Science | date=1990-03-09 | volume = 247 | issue = 4947 | pages = 1206–1208 | doi = 10.1126/science.247.4947.1206 | pmid = 17809277 |bibcode = 1990Sci...247.1206G }}</ref>。この六角形構造の動きは、大気中に視認できる雲と違い、経度に沿ったものではない<ref name=pss57_14_1671>{{cite journal | display-authors=1 | last1=Baines | first1=Kevin H. | last2=Momary | first2=Thomas W. | last3=Fletcher | first3=Leigh N. | last4=Showman | first4=Adam P. | last5=Roos-Serote | first5=Maarten | last6=Brown | first6=Robert H. | last7=Buratti | first7=Bonnie J. | last8=Clark | first8=Roger N. | last9=Nicholson | first9=Philip D. | title=Saturn's north polar cyclone and hexagon at depth revealed by Cassini/VIMS | journal=Planetary and Space Science | volume=57 | issue=14–15 | pages=1671–1681 | month=December | year=2009 | doi=10.1016/j.pss.2009.06.026 | bibcode=2009P&SS...57.1671B }}</ref>。
{{要出典範囲|このような構造がなぜ出来上がったかについて様々な憶測がある。ほとんどの天文学者は、大気中にいくつかの定在波パターンが生じた結果というが、ある種の[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]と考える者もいる|date=2016-04}}。実験では、流体の差動回転から多角形構造を再現した例もある<ref>{{cite journal|doi=10.1038/news060515-17|last1=Ball|first1=Philip|title = Geometric whirlpools revealed|journal=[[ネイチャー]]| date=2006-05-19 }} Bizarre geometric shapes that appear at the centre of swirling vortices in planetary atmospheres might be explained by a simple experiment with a bucket of water but correlating this to Saturn's pattern is by no means certain.<br />惑星大気がつくる渦巻きの中央に現れる奇妙の幾何学的な形は、水を入れたバケツを使った簡単な実験で再現できる可能性もあるが、土星に現れるパターンとの関連づけは確実にできるとはいえない。</ref>。
=== 磁気圏===
[[ファイル:Saturn's double aurorae (captured by the Hubble Space Telescope).jpg|thumb|left|ハッブル宇宙望遠鏡が捉えた、昼夜平分時頃の土星の[[紫外線]]観測イメージ。両極にオーロラが見える。]]
[[ファイル:Saturn.Aurora.HST.UV-Vis.jpg|thumb|right|upright|ハッブル望遠鏡の宇宙望遠鏡
撮像分光器 (STIS) による紫外線画像と、掃天観測用高性能カメラ (ACS) による可視光画像を統合し、土星南極のオーロラを明らかにした画像。]]
土星は磁気[[双極子]]という単純な対称形をした固有[[磁場]]を持つ。赤道付近での強度は0.2ガウス(20マイクロテスラ)であり、木星磁場の約1/20、地球磁場よりも若干弱い<ref name="mag" />。その結果として、土星の[[磁気圏]]は木星よりも非常に小さい<ref name="mag 2">{{cite web|url = http://library.thinkquest.org/C005921/Saturn/satuAtmo.htm|title = Saturn: Atmosphere and Magnetosphere|publisher = Thinkquest Internet Challenge|accessdate = 2007-07-15|last = McDermott|first = Matthew|year = 2000|archiveurl = https://webcitation.org/62DA9bsti?url=http://library.thinkquest.org/C005921/Saturn/satuAtmo.htm|archivedate = 2011年10月5日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。ボイジャー2号が磁気圏に突入した際、内部の[[太陽風]]は依然として強く、磁気圏の大きさは土星半径の19倍(110万km)の広がりしか持っていなかった<ref>{{cite web|url =http://voyager.jpl.nasa.gov/science/saturn_magnetosphere.html|title =Voyager – Saturn's Magnetosphere|publisher =NASA Jet Propulsion Laboratory|date =2010-10-18|accessdate =2011-07-19|archiveurl =https://webcitation.org/62DnXqAYk?url=http://voyager.jpl.nasa.gov/science/saturn_magnetosphere.html|archivedate =2011年10月6日|deadurl =no|deadlinkdate =2017年9月}}</ref>。その時は、数時間後には膨張を見せたが、結局たった3日でまた元に戻った<ref name=atkinson2010>{{cite news | url=http://www.universetoday.com/81713/hot-plasma-explosions-inflate-saturns-magnetic-field/ | title=Hot Plasma Explosions Inflate Saturn's Magnetic Field | publisher=Universe Today | first1=Nancy | last1=Atkinson | date=2010-12-14 | accessdate=2011-08-24 | archiveurl=https://webcitation.org/62DnY9Cu6?url=http://www.universetoday.com/81713/hot-plasma-explosions-inflate-saturns-magnetic-field/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。磁気圏は木星と同じく内部に液状の金属水素の層が存在し、ダイナモ効果によって発生している可能性が高い<ref name="mag 2" />。この磁気圏は太陽風を逸らす効果を持つ。磁気圏の外を公転する衛星の[[タイタン (衛星)|タイタン]]の大気から供給される[[イオン]]化された粒子は磁気圏内で[[プラズマ]]化し<ref name="mag">{{cite web|author =Russell, C. T.; Luhmann, J. G.|year =1997|url =http://www-ssc.igpp.ucla.edu/personnel/russell/papers/sat_mag.html|title =Saturn: Magnetic Field and Magnetosphere|publisher =UCLA – IGPP Space Physics Center|accessdate =2007-04-29|archiveurl =https://webcitation.org/62DA9rN1s?url=http://www-ssc.igpp.ucla.edu/personnel/russell/papers/sat_mag.html|archivedate =2011年10月5日|deadurl =no|deadlinkdate =2017年9月}}</ref>、極地で地球のような[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]を発生させる<ref>{{cite web|url =http://www.windows2universe.org/saturn/upper_atmosphere.html|title =Saturn Magnetosphere Overview|author =Russell, Randy|publisher =Windows to the Universe|date =2003-06-03|accessdate =2011-07-19|archiveurl =https://webcitation.org/62DnYSLUB?url=http://www.windows2universe.org/saturn/upper_atmosphere.html|archivedate =2011年10月6日|deadurl =no|deadlinkdate =2017年9月}}</ref>。
{{Clearleft}}
== 自転と公転 ==
太陽から土星までの平均距離は1.4×10<sup>9</sup>kmである。公転速度は平均9.69km/秒<ref name="fact" />であり地球の10,759[[日]](約29.5[[年]])で太陽のまわりを一周する<ref name=cain2009>{{cite web | url=http://www.universetoday.com/24168/orbit-of-saturn/ | title=Orbit of Saturn | publisher=Universe Today | first1=Fraser | last1=Cain | date=2009-01-26 | accessdate=2011-07-19 | archiveurl=https://webcitation.org/62DnYuJLb?url=http://www.universetoday.com/24168/orbit-of-saturn/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name="fact" />。公転軌道は楕円で、地球の公転面から2.48° 傾いている<ref name="fact" />。[[軌道離心率]]は0.056 であり、[[近日点]]と[[遠日点]]では土星-太陽間の距離は約1億5500万kmの差が生じる<ref name="fact" />。
外観上の自転速度は、木星と同じく、緯度によって異なった回転周期を持つ領域として観察される。システムIは赤道域を含む領域で、一周が10時間14分00秒(844.3度/地球日)である。他の領域はシステムIIと呼ばれ、一周10時間38分25.4秒(810.76度/地球日)で回転している。これらとは別に、ボイジャーが接近した際に観測した電磁波の放射に基づいた回転はシステムIIIと呼ばれ、この一周10時間39分22.4秒(810.8度/地球日)がシステムIIに替わって自転と広く受け止められている<ref name=benton2006>{{cite book | first1=Julius | last1=Benton | title=Saturn and how to observe it | series=Astronomers' observing guides | edition=11th | publisher=Springer Science & Business | year=2006 | isbn=1-85233-887-3 | page=136 | url=https://books.google.co.jp/books?id=779fPuQmWeYC&pg=PA136&redir_esc=y&hl=ja }}</ref>。
しかし内部の回転周期は未だ正確に把握されていない。2004年に土星に接近したカッシーニは電磁波の回転を、従来よりも遅い10時間45分45秒(±36秒)と観測した<ref>{{cite web|url = http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/media/cassini-062804.html|title = Scientists Find That Saturn's Rotation Period is a Puzzle|date = 2004-06-28|publisher = NASA|accessdate = 2007-03-22|archiveurl = https://webcitation.org/616VzbaQF?url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/media/cassini-062804.html|archivedate = 2011年8月21日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref>Cain, Fraser. "[http://www.universetoday.com/15298/saturn/ Saturn]." Universe Today. 30 June 2008. Retrieved 17 August 2011. </ref>。2007年3月には、電磁波の回転が土星の自転と一致しないことが判明した。この電磁波の変調は土星の衛星[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]の[[間欠泉]]が影響している可能性がある。土星の軌道上に放出された水蒸気は、磁場の邪魔をして抗力を引き起こし、電磁波の回転を惑星よりも遅らせている可能性がある<ref>{{cite press release|url = http://saturn.jpl.nasa.gov/news/press-release-details.cfm?newsID=733|title = Enceladus Geysers Mask the Length of Saturn's Day|date = 2007-03-22|publisher = NASA Jet Propulsion Laboratory|accessdate = 2007-03-22|archiveurl = https://webcitation.org/62DnZvSKY?url=http://saturn.jpl.nasa.gov/news/press-release-details.cfm?newsID=733|archivedate = 2011-10-06|url-status=dead}}</ref><ref name=science316_5823_442>{{cite journal | display-authors=1 | last1=Gurnett | first1=D. A. | last2=Persoon | first2=A. M. | last3=Kurth | first3=W. S. | last4=Groene | first4=J. B. | last5=Averkamp | first5=T. F. | last6=Dougherty | first6=M. K. | last7=Southwood | first7=D. J. | title=The Variable Rotation Period of the Inner Region of Saturn's Plasma Disc | year=2007 | volume=316 | journal=[[:en:Science (journal)|Science]] | pmid=17379775 | issue=5823 | pages=442–5 | bibcode=2007Sci...316..442G | doi=10.1126/science.1138562 }}</ref>。カッシーニやボイジャーそしてパイオニアなどの様々な観測結果から、2007年9月には最新の報告として、土星の自転は10時間32分35秒とされている<ref name=Anderson2007>{{cite journal | journal=Science | title=Saturn's gravitational field, internal rotation and interior structure | volume=317 | pages=1384–1387 | year=2007 | doi=10.1126/science.1144835 | pmid=17823351 | first1=J. D. | last1=Anderson | first2=G. | last2=Schubert | issue=5843 | bibcode = 2007Sci...317.1384A }}</ref>。
== 環 ==
{{multiple image|align=right |direction=vertical |width=220 |image1=Saturn from Cassini Orbiter (2007-01-19).jpg |alt1= |caption1=探査機カッシーニが2007年に撮影した[[土星の環]]。太陽系の中で、最も大きく目を引く惑星の環である<ref name="NMM Saturn" />。|image2=Saturn's A Ring From the Inside Out.jpg |alt2= |caption2=土星の環の紫外線画像}}
{{Main|土星の環}}
土星は、その[[環 (天体)|環]]によって最も知られ、視覚的な特徴をなす<ref name="NMM Saturn">{{cite web|title = Saturn|url = http://www.nmm.ac.uk/server/show/conWebDoc.286|publisher = National Maritime Museum|accessdate = 2007-07-06|archiveurl = https://webcitation.org/62DnaWpNg?url=http://www.nmm.ac.uk/server/show/conWebDoc.286|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。この環は土星の赤道上空6,630kmから120,700kmの間に広がるが、その厚さはわずか20m程度に過ぎない。その薄さゆえに、地球から見て土星が真横を向けている時は環が見えなくなる。土星の輪の消失は土星の公転中に2回、約15年に1回発生する。
成分の93%は[[ソリン (物質)|ソリン]]が混ざる水の氷で成り、7%は非結晶の[[炭素]]である<ref>{{cite journal|title= The Composition of Saturn's Rings|author=Poulet F.; Cuzzi J.N.|journal= Icarus |doi=10.1006/icar.2002.6967|volume= 160|page= 350 |year=2002|bibcode=2002Icar..160..350P|issue= 2}}</ref>。リングの温度は-180℃前後<ref>「徹底図解 宇宙のしくみ」、[[新星出版社]]、2006年、p74</ref>。環は塵程度のものから10m長前後までの粒子で形づくられている<ref>{{cite web|url = http://www.ee.kth.se/php/modules/publications/reports/2005/TRITA-ALP-2005-03.pdf|title = Dusty Plasma Response to a Moving Test Change|first = Muhammad|last = Shafiq|year = 2005|accessdate = 2007-07-25|format = PDF}}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。このような環は他の巨大惑星にも存在するが、土星のものは規模が特に大きく視認できる。環の起源には主に2種類の仮説があり、ひとつは破壊された土星衛星の残骸というもの、もうひとつは土星を形成した[[星雲]]の余りが残っているという考えである。また別に、衛星エンケラドゥスが噴出した氷も環の材料の一部になっている<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2011/07/28saturn_water/index-j.shtml AstroArts 土星大気の水はエンケラドスから]</ref><ref name=Spahn>{{cite journal | display-authors=1 | last1=Spahn | first1=F. | last2=Schmidt | first2=Jürgen | last3=Albers | first3=Nicole | last4=Hörning | first4=Marcel | last5=Makuch | first5=Martin | last6=Seiß | first6=Martin | last7=Kempf | first7=Sascha | last8=Srama | first8=Ralf | last9=Dikarev | first9=Valeri | title=Cassini Dust Measurements at Enceladus and Implications for the Origin of the E Ring | journal=Science | volume=311 | issue=5766 | pages=1416–1418 | year=2006 | doi=10.1126/science.1121375 | pmid=16527969 | bibcode=2006Sci...311.1416S }}</ref>。過去、天文学者は環の形成は土星と平行して数十億年前と考えていたが<ref>{{cite web|url = http://science1.nasa.gov/science-news/science-at-nasa/2002/12feb_rings/|title = The Real Lord of the Rings|work = Science@NASA|date = 2002-02-12|accessdate = 2011-08-24|archiveurl = https://webcitation.org/62DnbX3jV?url=http://science1.nasa.gov/science-news/science-at-nasa/2002/12feb_rings/|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>、その後数億年前と考えられるようになった<ref>{{cite web|url = http://creationconcepts.org/resources/RINGS.pdf|title = Age and Fate of Saturn's Rings|publisher = Creation Concepts|format = PD|accessdate = 2011-07-23}}</ref>。
環は、惑星から1200万km離れ他の環から27度の角度を持った[[フェーベ環]]までが主要領域である<ref>{{cite web|first=Rob|last=Cowen|date=2009-11-07|url=http://www.sciencenews.org/view/generic/id/48097/title/Largest_known_planetary_ring_discovered|title=Largest known planetary ring discovered|work=Science News|accessdate=2010-04-09|archiveurl=https://webcitation.org/62DnaeSgs?url=http://www.sciencenews.org/view/generic/id/48097/title/Largest_known_planetary_ring_discovered|archivedate=2011年10月6日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。衛星の中には[[パン (衛星)|パン]]や[[プロメテウス (衛星)|プロメテウス]]のような環が拡散するのを防ぎ封じ込める役廻りを持つものもあり、これらは羊飼い衛星群と呼ばれる<ref name=russell2004>{{cite web | url=http://www.windows2universe.org/saturn/moons_and_rings.html | title=Saturn Moons and Rings | publisher=Windows to the Universe | first1=Randy | last1=Russell | date=2004-06-07 | accessdate=2011-07-19 | archiveurl=https://webcitation.org/62DnawXlL?url=http://www.windows2universe.org/saturn/moons_and_rings.html | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。パンや[[アトラス (衛星)|アトラス]]の弱く直線的な密度波は、その質量を上回る有意な影響を土星の環に与えることができる<ref>{{cite news|url = http://www.sciencedaily.com/releases/2005/02/050225110106.htm|title = NASA's Cassini Spacecraft Continues Making New Discoveries|publisher = ScienceDaily|author = NASA Jet Propulsion Laboratory|date = 2005-03-03|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62DnbG4WW?url=http://www.sciencedaily.com/releases/2005/02/050225110106.htm|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
=== 歴史 ===
[[ファイル:Saturnoppositions.jpg|thumb|200px|2029年までの輪の見え方]]
土星の環は1610年に[[ガリレオ・ガリレイ]]によって初めて観測された<ref>{{cite web|url=http://library.thinkquest.org/C005921/Saturn/satuHist.htm|title=Saturn: History Timeline|accessdate=2018-05-27|year=2000|last=Chan|first=Gary|archiveurl=https://webcitation.org/616W4pog0?url=http://library.thinkquest.org/C005921/Saturn/satuHist.htm |archivedate=21 August 2011|deadurl=no}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.universetoday.com/15390/history-of-saturn/ |title=History of Saturn|accessdate=2018-05-27|date=3 July 2008|publisher=Universe Today|last=Cain|first=Fraser|archiveurl=https://webcitation.org/62DnmMOUO?url=http://www.universetoday.com/15390/history-of-saturn/|archivedate=6 October 2011|deadurl=no}}</ref>。しかし、[[望遠鏡]]の性能が良くなかったために、ガリレオは輪であることを把握出来ず、それを大きな2つの衛星であると考えた<ref>{{cite web|url=http://www.universetoday.com/15418/interesting-facts-about-saturn/|title=Interesting Facts About Saturn|publisher=Universe Today|last=Cain|first=Fraser|date=7 July 2008|accessdate=2018-05-27|archiveurl=https://webcitation.org/62Dnme0hP?url=http://www.universetoday.com/15418/interesting-facts-about-saturn/|archivedate=6 October 2011|deadurl=no}}</ref>。その様子を[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[コジモ2世]](在位:1609年 - 1621年)へ書き送っている。
{{Quote|「土星は一つではなく3つの星の集まったものです。それらはお互いに結合しており、動いたり変化したりすることはありません。これらは黄道上を同様に行き来し、中心になる土星と、その横にリングのようにくっついた構造をしています。」}}
彼はまた、土星には耳があるとも書いている。地球から見た土星の向きは土星が公転するにつれて変わるため、1612年には環を観測出来なくなった。しかし、1613年に見えなくなった環が再び見えるようになりガリレオをさらに悩ませた。
この土星の環の謎は、1655年に[[クリスティアーン・ホイヘンス]]がガリレオよりも数段優れた望遠鏡で観測するまで解けなかった。その後、1675年に[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]は土星の環は間をあけた複数の輪で構成されている事を発見した。彼の名に因んでA環とB環の隙間は[[カッシーニの間隙]]と名付けられている<ref>{{cite web|url=http://huygensgcms.gsfc.nasa.gov/Shistory.htm|title=Saturn: History of Discoveries|accessdate=2018-05-27|first1=Catherine|last1=Micek|archiveurl=https://webcitation.org/616W5Itgs?url=http://huygensgcms.gsfc.nasa.gov/Shistory.htm|archivedate=21 August 2011|deadurl=yes}}</ref>。またA環内には[[エンケの間隙]]と呼ばれるカッシーニの間隙よりも細い隙間が存在する<ref name=RingFact/>。これはドイツの天文学者[[フランツ・エンケ]]にちなんでつけられたものだが、現在のエンケの間隙は[[ジェームズ・キーラー]]によって発見されたものである。A環には[[キーラーの空隙]]と呼ばれる隙間も存在する。
=== 物理的特徴 ===
[[#望遠鏡による観測の時代|性能の良い望遠鏡や双眼鏡]]を使えば土星の環は容易に観測することができる。環は土星の赤道から 6,630 km の距離から 120,700 km の距離まで広がっており、[[氷]]の粒子や[[二酸化珪素|シリカ]]・ソリン・[[ケイ素]]などで構成されている<ref>{{cite journal|title=A close look at Saturn's rings with Cassini VIMS|author=Nicholson, P.D. and 16 co-authors|journal=Icarus|year=2008|volume=193|issue=1|pages=182-212|doi=10.1016/j.icarus.2007.08.036|bibcode=2008Icar..193..182N}}</ref>。粒子は細かい塵状のものから、小さな自動車程度の物まで様々である。土星の環の起源については有力な説が2つある。一つは[[19世紀]]に[[エドゥアール・ロシュ]]が唱えた説で、土星の衛星が土星に近づきすぎて[[潮汐力]]によって破壊されたというものである<ref>{{cite web|url=http://www2.jpl.nasa.gov/saturn/back.html|title=Historical Background of Saturn's Rings|accessdate=2018-05-27|work=1849 Roche Proposes Tidal Break-up|first=Ron|last=Baalke|publisher=Jet Propulsion Laboratory|archiveurl=https://archive.is/20120923192300/http://www2.jpl.nasa.gov/saturn/back.html%231600|archivedate=2012-09-23|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。この前提として、破壊された衛星に[[彗星]]や[[小惑星]]が衝突したとされている<ref>{{cite web|url=http://science.nasa.gov/headlines/y2002/12feb_rings.htm|title=The Real Lord of the Rings|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080921084158/http://science.nasa.gov/headlines/y2002/12feb_rings.htm|archivedate=2008-09-21|accessdate=2018-05-27}}</ref>。もう一つの説は、リングの構成物は元々衛星ではなく、土星形成時の星雲の成分がそのまま外に残った物という説である。後者で形成された場合、土星の環は数百万年も形状を維持できるほど安定していないため、この説は今日では広くは受け入れられていない。
土星の環は内側から順にD環・C環・B環・A環・F環・G環・E環があり<ref name=RingFact>{{cite web|author=David R. Williams|url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/satringfact.html|title=Saturnian Rings Fact Sheet|work=NASA|accessdate=2018-05-27}}</ref>、F環・G環はよじれた構造をしている。地球から観察した場合、環の間隙は最も大きな[[カッシーニの間隙]]と[[エンケの間隙]]のみ見ることができるが、ボイジャーは土星の環に何千もの空白区間があることを発見した。この構造は土星にある多くの衛星の副産物と考えられる。また、衛星の運動以外では粒子同士の重力的共鳴現象によって環を形作っていると考えられる。
環の厚さはその大きさに比べて非常に薄く、特に内側ほど薄い。各環の中央部の厚さは不明であるが、端部ではC環が5m、B環が5 - 10m、A環が10 - 30mである<ref name=RingFact/>。仮に土星本体の直径を10mとして模型を作ったとすると、環の厚さは数μm程度となる。なお、G環の厚さは100km、E環は1万kmと推定されている。
F環は、[[土星の衛星#羊飼い衛星|羊飼い衛星]]の[[パンドラ (衛星)|パンドラ]]と[[プロメテウス (衛星)|プロメテウス]]の二つの衛星によって形を維持していると考えられており<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/496_saturn|title=土星のF環と羊飼い衛星の起源をシミュレーションで解明|work=AstroArts|date=2015-08-19|accessdate=2018-05-27}}</ref>、物質密度の高いコアという部分と淡いストランドという部分で構成され、形状は常に変化している。2005年9月の[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]の観測により、F環のストランドが螺旋状であることが発見された<ref>{{cite journal|last=Charnoz|first=S.|title=Cassini Discovers a Kinematic Spiral Ring Around Saturn|journal=Science|year=2005|volume=310|pages=1300-1304| doi=10.1126/science.1119387|url=http://ciclops.org/media/sp/2007/2672_7431_0.pdf|format=PDF|pmid=16311328|issue=5752|bibcode=2005Sci...310.1300C|author2=Porco, C.C.|last3=Deau|first3=E.|display-authors=2|last4=Brahic|first4=A|last5=Spitale|first5=JN|last6=Bacques|first6=G|last7=Baillie|first7=K}}</ref>。螺旋構造の成因はF環とS/2004 S 6の衝突によると推測されている。
2006年3月、カッシーニによって[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]南極付近に噴出孔が発見され、E環はここから放出された物質によって形成されたと考えられている<ref>{{cite journal|author=F. Spahn|title=Cassini Dust Measurements at Enceladus and Implications for the Origin of the E Ring|journal=Science|volume=311|issue=5766|pages=1416-1418|publisher=American Association for the Advancement of Science|year=2006|url=http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/311/5766/1416|doi=10.1126/science.1121375}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/9228_enceladus|title=衛星「エンケラドス」周囲に大量のメタノール|work=AstroArts|date=2017-07-07|accessdate=2018-05-27}}</ref>。
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=== 環の夜側 ===
{{出典の明記|date=2016-04|section=1}}
NASAの探査機「カッシーニ」が、太陽光を背景にした土星とその環を撮影した。通常は淡く暗い環が明るく光るという、いつもとは違った姿がとらえられている。
土星の環とその名称
土星の環とその名称。クリックで拡大(提供:NASA)
太陽と反対側から見た赤外線画像
太陽と反対側から見た赤外線画像。クリックで拡大(提供:NASA/JPL-Caltech/University of Arizona/Cornell)
太陽系の惑星のうち2番目の大きさを誇る土星は、地球から小口径の天体望遠鏡でも確認できるほど明るく幅広い環(リング)を持っている。昔から知られていた目立つリングだけではなく、淡く見えにくい環も近年新しく見つかっている。こうした淡いリングを詳しく探るため、NASAの土星探査機「カッシーニ」が太陽の裏側から土星とその環を観測した。
いわば逆光の状態で撮った観測画像は、地球から見たおなじみの姿をネガ像にしたようなものだ。たとえば、もっとも幅が広いBリングは、混じりっけのないきれいな氷が光を反射して普段はよく目立つが、裏側から見ると光がさえぎられて暗い。反対に、もっとも内側のDリングや外側のE、G、Fリングはひじょうに細かい粒子でできており太陽光をあまり反射しないが、裏側からはヘッドライトを当てた霧のように明るく見えている。
赤外線は物質の放つ熱を見るので、暗く見えるはずの土星の夜側も光っている。こうした赤外線データの解析から、それぞれの環を構成する粒子の大きさや組成など、さらに詳しいことがわかるという。
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=== 環のスポーク ===
[[ファイル:Voyager 2 - Saturn Rings - 3085 7800 2.png|thumb|right|B環のスポーク。[[1981年]]、[[ボイジャー2号]]撮影]]
[[1980年]]まで、土星の環の構造は土星の重力のみによって形作られると考えられていた。しかし、ボイジャーはB環の中に暗い放射状の構造を発見した。これはスポークと呼ばれ、重力による環の軌道運動だけでは説明できない物だった<ref>{{cite web|url=http://www.planetary.org/explore/topics/saturn/rings.html|title=The Alphabet Soup of Saturn's Rings|publisher=The Planetary Society|year=2007|accessdate=2018-05-27}}</ref>。この現象は土星の環がほぼ土星の[[磁気圏]]内を運動しているため、環を構成している粒子の[[電磁相互作用]]によって生じていると考えられている。しかしスポークが形成される原因ははっきりと分ってはいない。
[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]は[[2004年]]7月の土星到着以来、ボイジャーと同等以上の精度で環を撮影したが、しばらくの間スポークは認められなかった。[[2005年]]9月に、スポークの写真が得られ、四半世紀を経てその存在があらためて確認された<ref>{{cite web|url=http://www.space.com/scienceastronomy/050915_cassini_spokes.html|title=Cassini Probe Spies Spokes in Saturn's Rings|accessdate=2018-05-27|date=2005-09-15|publisher=Imaginova Corp.|first=Tarig|last=Malik}}</ref>。スポークは、環の平面が太陽と大きな角度をなす土星の夏・冬には消失し、環の平面が公転面と重なる土星の春・秋に姿を現わすと考えられている。
== 衛星 ==
{{Main|土星の衛星}}
[[ファイル:Saturn family.jpg|thumb|土星と主要な[[衛星]]([[ディオネ (衛星)|ディオネ]]、[[テティス (衛星)|テティス]]、[[ミマス (衛星)|ミマス]]、[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]、[[レア (衛星)|レア]]、 [[タイタン (衛星)|タイタン]])。1980年にボイジャー1号が撮影した写真の合成]]
土星は少なくとも146個の[[衛星]]を持ち、うち63個には正式な名称がつけられている。最大の衛星は[[タイタン (衛星)|タイタン]]で、土星の全衛星と環を足した質量のうち、90%以上を占める天体である<ref name=brunier2005>{{cite book | title=Solar System Voyage | first1=Serge | last1=Brunier | page=164 | publisher=Cambridge University Press | year=2005 | isbn=978-0-521-80724-1 }}</ref>。2番目に大きな[[レア (衛星)|レア]]は薄い大気を持つと考えられる<ref name="Jones2008">{{cite journal | display-authors=1 | last1=Jones | first1=G. H. | last2=Roussos | first2=E. | last3=Krupp | first3=N. | last4=Beckmann | first4=U. | last5=Coates | first5=A. J. | last6=Crary | first6=F. | last7=Dandouras | first7=I. | last8=Dikarev | first8=V. | last9=Dougherty | first9=M. K. | title=The Dust Halo of Saturn's Largest Icy Moon, Rhea | journal=Science | volume=319 | issue=5868 | pages=1380–1384 | date=2008-03-07 | doi=10.1126/science.1151524 | pmid=18323452 | bibcode=2008Sci...319.1380J }}</ref><ref name=atkinson20101126>{{cite news | url=http://www.universetoday.com/8023/tenuous-oxygen-atmosphere-found-around-saturns-moon-rhea/ | title=Tenuous Oxygen Atmosphere Found Around Saturn's Moon Rhea | publisher=Universe Today | first1=Nancy | last1=Atkinson | date=2010-11-26 | accessdate=2011-07-20 | archiveurl=https://webcitation.org/62Dncp9IE?url=http://www.universetoday.com/8023/tenuous-oxygen-atmosphere-found-around-saturns-moon-rhea/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite news|url = http://www.sciencedaily.com/releases/2010/11/101128222041.htm|title = Thin air: Oxygen atmosphere found on Saturn's moon Rhea|publisher = ScienceDaily|author = NASA|date = 2010-11-30|accessdate = 2011-07-23|archiveurl = https://webcitation.org/62DnctqqW?url=http://www.sciencedaily.com/releases/2010/11/101128222041.htm|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref>{{cite news|url = http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-1333294/Oxygen-Saturn-moon-Nasa-spacecraft-discovers-Rhea-atmosphere-rich-O2.html|title = Oxygen found on Saturn moon: NASA spacecraft discovers Rhea has thin atmosphere rich in O2|publisher = Daily Mail|date = 2010-11-26|accessdate = 2011-07-23|archiveurl = https://webcitation.org/62DndEEUw?url=http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-1333294/Oxygen-Saturn-moon-Nasa-spacecraft-discovers-Rhea-atmosphere-rich-O2.html|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref name=ryan20101126>{{cite news | url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/whycassini/cassini20101126.html | title=Cassini reveals oxygen atmosphere of Saturn′s moon Rhea | publisher=UCL Mullard Space Science Laboratory | first1=Clare | last1=Ryan | date=2010-11-26 | accessdate=2011-07-23 | archiveurl=https://webcitation.org/62DneNysk?url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/whycassini/cassini20101126.html | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。他の衛星は非常に小さく、119個は直径が 10 km 未満、他の14個も 50 km 未満に過ぎない<ref name="Saturn moons">{{cite web|url=http://www.dtm.ciw.edu/users/sheppard/satellites/satsatdata.html|title=Saturn's Known Satellites|publisher=Department of Terrestrial Magnetism|accessdate=2010-06-22|archiveurl=https://webcitation.org/62Dnf2fWg?url=http://www.dtm.ciw.edu/users/sheppard/satellites/satsatdata.html|archivedate=2011年10月6日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。伝統的に土星のほとんどの衛星はタイタン以来[[ギリシア神話]]を由来に名づけられている。タイタンは太陽系で唯一有意な大気を持つ衛星であり<ref>{{cite news|url = http://www.sciencedaily.com/releases/2009/01/090129182514.htm|title = Cassini Finds Hydrocarbon Rains May Fill Titan Lakes|publisher = ScienceDaily|date = 2009-01-30|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62Dnf8QFF?url=http://www.sciencedaily.com/releases/2009/01/090129182514.htm|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref>{{cite web|url = http://voyager.jpl.nasa.gov/science/saturn_titan.html|title = Voyager – Titan|publisher = NASA Jet Propulsion Laboratory|date = 2010-10-18|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62DnfLqT8?url=http://voyager.jpl.nasa.gov/science/saturn_titan.html|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>、複雑な有機化学合成が行われている。また、表面に炭化水素の[[湖]]を持つ唯一の衛星でもある<ref>{{cite news|url = http://www.msnbc.msn.com/id/14029488/ns/technology_and_science-space/t/evidence-hydrocarbon-lakes-titan/|title = Evidence of hydrocarbon lakes on Titan|publisher = MSNBC|agency = Associated Press|date = 2006-07-25|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62DnfbYNf?url=http://www.msnbc.msn.com/id/14029488/ns/technology_and_science-space/t/evidence-hydrocarbon-lakes-titan/|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref>{{cite news|url = http://www.cosmosmagazine.com/news/2109/ethane-lake-finally-confirmed-titan|title = Hydrocarbon lake finally confirmed on Titan|work = {{仮リンク|コスモス (雑誌)|en|Cosmos (magazine)}}|date = 2008-07-31|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62DngLEx4?url=http://www.cosmosmagazine.com/news/2109/ethane-lake-finally-confirmed-titan|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
エンケラドゥスはしばしば微生物のような[[地球外生命]]が存在する可能性が指摘されている<ref>{{cite web|url = http://www.sciencedaily.com/releases/2008/04/080420122601.htm|title = Could There Be Life On Saturn's Moon Enceladus?|publisher = ScienceDaily|author = NASA|date = 2008-04-21|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62DngmfnJ?url=http://www.sciencedaily.com/releases/2008/04/080420122601.htm|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref name=madrigal20090624>{{cite news | url=http://www.wired.com/wiredscience/2009/06/enceladusocean/ | title=Hunt for Life on Saturnian Moon Heats Up | publisher=Wired Science | first1=Alexis | last1=Madrigal | date=2009-06-24 | accessdate=2011-07-19 | archiveurl=https://webcitation.org/62DnhA5pt?url=http://www.wired.com/wiredscience/2009/06/enceladusocean/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name=spotts20050928>{{cite news | url=http://www.usatoday.com/tech/science/space/2005-09-28-solar-system-life_x.htm | title=Life beyond Earth? Potential solar system sites pop up | publisher=USA Today | first1=Peter N. | last1=Spotts | date=2005-09-28 | accessdate=2011-07-21 | archiveurl=https://webcitation.org/62DnhtWmA?url=http://www.usatoday.com/tech/science/space/2005-09-28-solar-system-life_x.htm | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web|url = http://scienceray.com/astronomy/enceladus-saturns-moon-has-liquid-ocean-of-water/|title = Enceladus: Saturn′s Moon, Has Liquid Ocean of Water|last = Pili|first = Unofre|work = Scienceray|date = 2009-09-09|accessdate = 2011-07-21|archiveurl = https://webcitation.org/62DniPTNa?url=http://scienceray.com/astronomy/enceladus-saturns-moon-has-liquid-ocean-of-water/|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。その根拠は、エンケラドゥスから発散する液体の塩水から成る氷のほとんどが[[海洋]]的な成分である事に見出されている<ref>{{cite news|url = http://www.physorg.com/news/2011-06-strongest-evidence-icy-saturn-moon.html|title = Strongest evidence yet indicates Enceladus hiding saltwater ocean|publisher = Physorg|date = 2011-06-22|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62DnjNuaJ?url=http://www.physorg.com/news/2011-06-strongest-evidence-icy-saturn-moon.html|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref>{{cite news|url = http://www.washingtonpost.com/national/health-science/saturns-moon-enceladus-shows-evidence-of-an-ocean-beneath-its-surface/2011/06/22/AGWYaPgH_story.html|title = Saturn′s moon Enceladus shows evidence of an ocean beneath its surface|work = Washington Post|last = Kaufman|first = Marc|date = 2011-06-22|accessdate = 2011-07-19|archiveurl = https://webcitation.org/62Dnk6EPJ?url=http://www.washingtonpost.com/national/health-science/saturns-moon-enceladus-shows-evidence-of-an-ocean-beneath-its-surface/2011/06/22/AGWYaPgH_story.html|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref><ref>{{cite news|url = http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/whycassini/cassini20110622.html|title = Cassini Captures Ocean-Like Spray at Saturn Moon|publisher = NASA|author = Greicius, Tony; Dunbar, Brian|date = 2011-06-22|accessdate = 2011-09-17|archiveurl = https://webcitation.org/62DnkyeG2?url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/whycassini/cassini20110622.html|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
== 地上からの観測 ==
=== 肉眼による観測の時代 ===
土星は肉眼でも見えるため、その存在は[[先史時代]]から知られていた<ref name="NASA_Saturn_History">{{cite web|title=Saturn History|url=https://attic.gsfc.nasa.gov/huygensgcms/Shistory.htm |publisher=NASA |accessdate=2018-06-04 }}</ref>。
アッシリアや{{仮リンク|バビロニアの天文学|en|Babylonian astronomy}}では、紀元前2000年ごろから土星を含む太陽系の五惑星(水星・金星・火星・木星・土星)が組織立った観測の対象となり、その運行が粘土板に記録された<ref name="ptrsl276_1257_43">{{cite journal | title=Babylonian Observational Astronomy | first1=A. | last1=Sachs | journal=Philosophical Transactions | volume=276 | issue=1257 | date=1974-05-02 | pages=43–50 [45 & 48–9] | publisher=The Royal Society | jstor=74273 | doi=10.1098/rsta.1974.0008 | bibcode=1974RSPTA.276...43S }}(Sachs (1974)『[[フィロソフィカル・トランザクションズ]]』[[王立協会]])</ref>。古代メソポタミアの天文観測を牽引した原動力は[[数秘術]]・[[占星術]]であり<ref name="neugebauer1984">{{cite book |和書|title=古代の精密科学|last=ノイゲバウアー|first=オットー|authorlink=オットー・ノイゲバウアー|translator=[[矢野道雄]], [[斎藤潔]]|publisher=[[恒星社厚生閣]]|series=科学史選書|date=1984-01|isbn=978-4769906803}}</ref>{{rp|V.42.}}、土星には農耕や狩猟の神[[ニヌルタ]]が住むと考えられた<ref name="佐藤幸治1998">{{cite book|和書|title=文化としての暦 |author=佐藤幸治 |publisher=創言社 |date=1998 |ISBN=9784881465066 |url={{Google books|gw7jXCTz_ucC|文化としての暦|plainurl=yes}}}}</ref>{{rp|85}}。バビロニアの天文観測は紀元前3世紀頃([[セレウコス朝]]期)から精緻化し、ヘレニズムの天文学に受け継がれる<ref name="neugebauer1984" />{{rp|V.42.}}。土星を司る神はヘレニズム文化圏において、農耕神ニヌルタから、同じく農耕神[[クロノス]]へと置き換わった<ref name="Hanna-Fatuhu2012">{{cite book|url={{Google books|sQtOAAAAQBAJ|The Untold Story of Native Iraqis: Chaldean Mesopotamians 5300 BC - Present |page=PT480 |plainurl=yes}}|title=The Untold Story of Native Iraqis: Chaldean Mesopotamians 5300 BC - Present |first=Amer |last=Hanna-Fatuhi |publisher=Xlibris Corporation |date=2012 |ISBN=9781469196893}}</ref>。
[[ヘレニズム時代]]には[[アレクサンドレイア]]の[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]が、西暦127年3月26日と133年6月3日と136年7月8日に土星の[[衝]]を観測した<ref name="fsu.edu.ptolemy">{{cite web|url=https://people.sc.fsu.edu/~dduke/plan_mean_motions.pdf |title=Ptolemy's Planetary Mean Motions Revisited |accessdate=2018-05-31 }}</ref><ref name="Copernicus">{{cite book|url={{Google books|2zSFCwAAQBAJ|On the Revolutions II|plainurl=yes}}|title=On the Revolutions II |first=Nicholas |last=Copernicus |authorlink=ニコラウス・コペルニクス |others=Rosen, Jerzy Dobrzycki |publisher=Springer |date=2016 |ISBN=9781349017768 |pages=451 }}([[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]『[[天体の回転について]]』の英語訳)</ref>{{rp|244}}。プトレマイオスはこれらの観測結果を基準にして、[[天動説|ジオセントリック・モデルの体系]]における土星の[[従円と周転円|誘導円]]、[[周転円]]の半径、誘導円の近点軸、誘導円と地球の距離等、土星の[[軌道要素]]を得た<ref name="fsu.edu.ptolemy" /><ref name=harland2007>{{cite book | first1=David Michael | last1=Harland | year=2007 | url=https://books.google.co.jp/books?id=ScORNbV0E8wC&pg=PA1&redir_esc=y&hl=ja | title=Cassini at Saturn: Huygens results | page=1 | isbn=978-0-387-26129-4 }}</ref><ref name="ps04_1893_862">{{cite journal | author=Staff | title=Superstitions about Saturn | work=Popular Miscellany | journal=The Popular Science Monthly | page=862 | month=April | year=1893 | url=https://books.google.co.jp/books?id=cSADAAAAMBAJ&pg=PA862&redir_esc=y&hl=ja }}</ref>。プトレマイオスの体系は、占星術のために実用的な程度には正確に、凶星とされる土星が関わる天文現象を予言しつづけ、16世紀の[[ニコラウス・コペルニクス|コペルニクス]]による再検証までは「完璧」な体系であった<ref name="Copernicus" />{{rp|244}}<ref name=harland2007 /><ref name="Saturn_in_Transit">{{cite book|url={{Google books|DQcG2vHEKa8C|Saturn In Transit|plainurl=yes}}|title=Saturn In Transit |first=Erin |last=Sullivan |publisher=Motilal Banarsidass Publishe |date=2002 |isbn=9788120818293 }}</ref>{{rp|17}}。
[[ヴェーダ時代]]のインドでは、宗教的な供儀を適切な日時に実施するため天文学({{ill2|ジョーティシャ|en|Jyotisha}})が重視され、天空上の27又は28の[[星宿]]([[ナクシャトラ]])を基準に、土星を含む五惑星と日月の運行が観測された<ref name="satoh1988">{{cite book|和書|first=任|last=佐藤|authorlink=佐藤任|title=古代インドの科学思想|publisher=[[東京書籍]]|date=1988-10-25|isbn=4-487-75210-8}}</ref>{{rp|214-218}}。前7世紀頃の天文書『{{ill2|ヴェーダーンガ・ジョーティシャ|en|Vedanga Jyotisha}}』によると、天には、太陽と月、五惑星、[[ラーフ]]と[[ケートゥ]]の9つの天体([[九曜|ナヴァグラハ]])があるとされ<ref name="satoh1988" />{{rp|214-218}}<ref name="vedic_astrology" />{{rp|44}}、[[サンスクリット語]]で「{{ill2|シャニ|en|Shani|preserve=yes|label=シャニ(Śani)}}」と呼ばれる土星は、[[月の交点]]に存在を措定されたラーフとケートゥとともに凶星と考えられた<ref name="vedic_astrology">{{cite book|url={{Google books|XV-eDgAAQBAJ|The Essence of Vedic Astrology: Divine Light To Illuminate The Path of Life|plainurl=yes}}|title=The Essence of Vedic Astrology: Divine Light To Illuminate The Path of Life|author=Krishan Kant Bhardwaj |date=2017-04-20 |publisher=Educreation Publishing}}</ref>{{rp|88}}。4~17世紀に成立した『{{ill2|マツヤ・プラーナ|en|Matsya Purana}}』や『{{ill2|パドマ・プラーナ|en|Padma Purana}}』などの[[プラーナ文献]]には「シャニ」が骸骨の体を持ち、ハゲタカに乗り弓矢をつがえ、人が一生になした善事と悪事を見張るなどとあり、バラモンの秘儀を支える技術であったジョーティシャはヒンドゥー文化の一つとして形而上的な肉付けを得た<ref name="vedic_astrology" />{{rp|44}}。
古代中国でも五惑星は重要な観測対象であり、土星は運行が緩慢であり星色の変化に乏しいため「塡星(鎮星)」と呼ばれた<ref name="佐藤幸治1998" />{{rp|87}}。『[[礼記]]』の月令によると塡星は天空を鎮める星で、五穀豊穣をもたらすとされている<ref name="佐藤幸治1998" />{{rp|100}}。前3世紀の[[鄒衍]]の説から発展した[[五行説]]に五惑星を当てはめる場合、塡星は土徳に配当された<ref name="佐藤幸治1998" />{{rp|100}}。このため漢字文化圏では、当該太陽系第六惑星を「土星」と呼ぶ<ref name="佐藤幸治1998" />{{rp|87}}。五行説の流行した中世([[魏晋南北朝時代]])において、土星は福星とされた<ref name="中國星座神話2005">{{cite book|和書|url={{Google books|0Vex0rYzdu8C|中國星座神話|page=379|plainurl=yes}}|title=中國星座神話 |author=陳久金 |publisher=五南圖書出版股份有限公司 |date=2005 |ISBN=9789867332257}}</ref>{{rp|379}}。
中国においては、漢代の一時期を除いて宇宙構造論があまり発達しなかった一方で、「星辰の変」は為政者に発せられた天の警告であると考えられて克明な天象観測記録が続けられた<ref name="川原1996">{{cite book|和書|title=中国の科学思想 |last=川原 |first=秀城 |publisher=創文社 |date=1996-01 |isbn=4-423-19412-0 }}</ref>{{rp|17-32}}。唐代のインド系占星術者、[[瞿曇悉達]]が著した『{{仮リンク|開元占経|zh|開元占經|en|Treatise on Astrology of the Kaiyuan Era}}』には、[[宋 (南朝)|南朝宋]]の[[劉裕]]が、塡星が[[太微垣|太微]]に入ったという観測結果を臣下が隆昌する吉兆と解釈し、[[東晋]]の皇帝を廃した事例が紹介されている<ref name="中國星座神話2005" />{{rp|379}}。
天文暦学書の私蔵を禁止するなど国家経世の学として発展した中国の天文占星の学も唐代には崩れ、個人の運勢を占う星占いが流行する<ref name="川原1996" />{{rp|17-32}}。中東ヘレニズム文化圏でも事情は似て、星占い関連の出土パピルスが[[プトレマイオス王朝]]時代以後に急増する<ref name="neugebauer1984" />{{rp|III.28.}}。前出のプトレマイオスは、エジプトに流れ込んできたこうした思想文化を集大成した占星術書『[[テトラビブロス]]』において、土星がまがまがしい凶星と述べている<ref name="Saturn_in_Transit" />{{rp|17}}。人文科学面で古典期ギリシアの遺産を受け継いだローマ人は、ギリシアの農耕神クロノスを[[ローマ神話|自分たちの神話]]における農耕神[[サートゥルヌス]]と同一視し<ref name="佐藤幸治1998" />{{rp|86-89}}、土星を凶星とみなす思想文化も受け継いだ<ref name="Saturn_in_Transit" />{{rp|17}}。
[[古代ヘブライ語]]では、土星は「Shabbathai」と呼ばれた<ref name="Hanna-Fatuhu2012" /><ref>{{cite web|url=http://www.universetoday.com/45087/when-was-saturn-discovered/ |title=When Was Saturn Discovered?|publisher=Universe Today |last=Cessna |first=Abby |date=2009-11-15 |accessdate=2011-07-21 |archiveurl=https://webcitation.org/62DnlspZi?url=http://www.universetoday.com/45087/when-was-saturn-discovered/ |archivedate=2011年10月6日 |deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。エジプトでは土曜日を土星が支配する曜日と考えられていて、ユダヤ人もローマ人もその思想文化を受け継いだ<ref name="佐藤幸治1998" />{{rp|86-89}}。ローマ時代以後、農耕神クロノスと、時を擬神化した[[クロノス (時間の神)|クロノス]]が名前の類似から混同されて、土星は「時の神」であるということにもなった<ref name="ps04_1893_862" />。西洋占星術等において土星は "{{Unicode|♄}}" により示されるが、その使用は10世紀以前には遡らない<ref name="ps04_1893_862" />。"{{Unicode|♄}}" はクロノスの鎌と言われることもあるが、アラビア数字の"5"の変形である<ref name="ps04_1893_862" />。
=== 望遠鏡による観測の時代 ===
[[ファイル:Saturn Robert Hooke 1666.jpg|thumb|1666年に[[ロバート・フック]]が惑星と環の影(aとb部分)に注意しながら描いた土星の図。]]
土星の環を観察するには、少なくとも15mm口径の[[望遠鏡]]が必要で<ref name=binoculars>{{cite web | last=Eastman | first=Jack | url=http://www.thedas.org/dfiles/eastman_saturn.html | title=Saturn in Binoculars | year=1998 | publisher=The Denver Astronomical Society | accessdate=2008-09-03 | archiveurl=https://webcitation.org/616W4KJeF?url=http://www.thedas.org/dfiles/eastman_saturn.html | archivedate=2011年8月21日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、1610年に[[ガリレオ・ガリレイ]]が試みるまでその存在は知られていなかった<ref name=chan2000>{{cite web | url=http://library.thinkquest.org/C005921/Saturn/satuHist.htm | title=Saturn: History Timeline | accessdate=2007-07-16 | year=2000 | last=Chan | first=Gary | archiveurl=https://webcitation.org/616W4pog0?url=http://library.thinkquest.org/C005921/Saturn/satuHist.htm | archivedate=2011年8月21日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name=cain2008_15390>{{cite web | url=http://www.universetoday.com/15390/history-of-saturn/ | title=History of Saturn | accessdate=2011-07-24 | date=2008-07-03 | publisher=Universe Today | last=Cain | first=Fraser | archiveurl=https://webcitation.org/62DnmMOUO?url=http://www.universetoday.com/15390/history-of-saturn/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。観察した様子からガリレオは2つの衛星が土星の脇に見えているとしたが<ref name=cain2008_15418>{{cite web | url=http://www.universetoday.com/15418/interesting-facts-about-saturn/ | title=Interesting Facts About Saturn | publisher=Universe Today | last=Cain | first=Fraser | date=2008-07-07 | accessdate=2011-09-17 | archiveurl=https://webcitation.org/62Dnme0hP?url=http://www.universetoday.com/15418/interesting-facts-about-saturn/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name=cain2008_46237>{{cite web | url=http://www.universetoday.com/46237/who-discovered-saturn/ | title=Who Discovered Saturn? | publisher=Universe Today | first1=Fraser | last1=Cain | date=2009-11-27 | accessdate=2011-09-17 | archiveurl=https://webcitation.org/62Dnmx32Y?url=http://www.universetoday.com/46237/who-discovered-saturn/ | archivedate=2011年10月6日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、この考えは、[[クリスティアーン・ホイヘンス]]がより高性能の望遠鏡で倍率を上げ行った観察で否定された。ホイヘンスは衛星タイタンを発見し、後に[[ジョヴァンニ・カッシーニ]]が1675年に衛星イアペトゥス、レア、テティス、ディオネを相次いで発見し、さらに見つけた環の間隙には彼の名が冠された<ref name=micek2007>{{cite web | url=http://huygensgcms.gsfc.nasa.gov/Shistory.htm | title=Saturn: History of Discoveries | accessdate=2007-07-15 | first1=Catherine | last1=Micek | archiveurl=https://webcitation.org/616W5Itgs?url=http://huygensgcms.gsfc.nasa.gov/Shistory.htm | archivedate=2011年8月21日 | deadurl=no | deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
1789年、[[ウィリアム・ハーシェル]]によってより遠方の衛星ミマスとエンケラドゥスの発見という重要な偉業がなされた。タイタンと[[軌道共鳴]]する異形の衛星ヒペリオンは1848年にイギリスのチームが発見した<ref name=pa54_122>{{cite journal | last1=Barton | first1=Samuel G. | title=The names of the satellites | journal=Popular Astronomy | volume=54 | pages=122–130 | month=April | year=1946 | bibcode=1946PA.....54..122B }}</ref>。
1899年に[[ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング]]が発見した衛星フェーベは典型的な[[不規則衛星]]で、大きな衛星に見られる[[自転と公転の同期]]状態に無かった<ref name=pa54_122/>。フェーベはこのような種類としては初めて発見された衛星で、一年以上の周期で[[順行・逆行|逆行]]軌道を取る。20世紀前半に進んだ研究を経て、1944年にタイタンが濃い大気を持つ太陽系の衛星では珍しい特徴を持つ事が分かった<ref name=apj100_378>{{cite journal | last1=Kuiper | first1=Gerard P. | title=Titan: a Satellite with an Atmosphere | journal=Astrophysical Journal | volume=100 | pages=378–388 | month=November | year=1944 | doi=10.1086/144679 | bibcode=1944ApJ...100..378K }}</ref>。
=== 現代の観測 ===
[[ファイル:Saturn-27-03-04.jpeg|thumb|アマチュア天文家が2004年3月27日に撮影した土星。]]
土星は肉眼でもはっきり見える5つの惑星の中で最も遠くにある。夜空に輝く明るい黄身がかった光の点は、[[等級 (天文)|等級]]にすると通常+1から0である。土星が[[黄道十二星座]]の各星座を背景に[[黄道]]を一周するには29.5年がかかる。ほとんどの人にとって、土星の環を観察するには大きな双眼鏡や望遠鏡など少なくとも20倍以上拡大できる光学機器が必要になる<ref name="NMM Saturn" /><ref name=binoculars/>。
ほとんどの時間に空にある土星と環を見る事ができるが、特に[[衝]](太陽から[[離角]]が180度の正反対の位置)の時が観測には好ましい。2002年12月17日の衝では、土星の環の明るい面が地球軌道を向けており<ref name="opp2002">{{cite news|url = http://findarticles.com/p/articles/mi_qa4015/is_200301/ai_n9338203|title = Saturn in 2002–03|accessdate = 2007-10-14|last = Schmude|first = Richard W Jr|year = 2003|publisher = Georgia Journal of Science|archiveurl = https://web.archive.org/web/20071016182307/http://findarticles.com/p/articles/mi_qa4015/is_200301/ai_n9338203|archivedate = 2007年10月16日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>、2003年末には地球や太陽に最も近づいた土星の姿が見られた<ref name="opp2002" />。
== 探査 ==
{{main|土星探査}}
=== パイオニア11号 ===
[[ファイル:P11saturnb.jpg|thumb|1979年9月1日にパイオニア11号が撮影した土星]]
1979年、探査機[[パイオニア11号]]は雲の上空20,000kmを通過し、初めて土星に接近した。解像度が低く詳細を識別するには至らなかったが、惑星やいくつかの衛星を画像に収めた。また環の調査も行い、薄いFリングの存在、そして環の暗い空隙部分を太陽に対して{{仮リンク|位相角 (天体)|en|Phase angle (astronomy)}}が小さい状態で観察すると輝いて見える事を発見した。後者は、軽く光散乱性を持つ物質がある事を示す。さらにパイオニア11号はタイタンの温度も測定した<ref>{{cite web |url = http://spaceprojects.arc.nasa.gov/Space_Projects/pioneer/PN10&11.html |title = The Pioneer 10 & 11 Spacecraft |accessdate = 2007-07-05 |publisher = Mission Descriptions |archiveurl = https://web.archive.org/web/20060130100401/http://spaceprojects.arc.nasa.gov/Space_Projects/pioneer/PN10%2611.html |archivedate = 2006年1月30日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。
=== ボイジャー計画 ===
1980年11月、探査機[[ボイジャー1号]]が土星系に接近し、惑星や環および衛星の高画質映像を初めて撮影し送信した。こうして、さまざまな衛星が持つ表面の特徴が明らかになった。さらにタイタンへの接近も行われ、大気についての知見を深め、可視光線が通過しないため地表の観測ができないことが判明した。最後にボイジャー1号は軌道を変え、太陽系外に向かった<ref name="Voyager">{{cite web|url = http://www.planetary.org/explore/topics/saturn/missions.html|title = Missions to Saturn|publisher = The Planetary Society|year = 2007|accessdate = 2007-07-24|archiveurl = https://webcitation.org/616W84zqh?url=http://www.planetary.org/explore/topics/saturn/missions.html|archivedate = 2011年8月21日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
およそ1年後の1981年8月、[[ボイジャー2号]]によって土星系研究は続けられた。より接近した衛星の画像が得られ、大気や環の情報が更新された。しかし、カメラのプラットホームがトラブルから2日間稼動せず、予定されたいくつかの撮影が出来なかった。最後にボイジャー2号は土星の重力を使って軌道を変更し、天王星に向かった<ref name="Voyager" />。
=== カッシーニ ===
[[ファイル:Saturn during Equinox.jpg|280px|thumb|left|探査機カッシーニが撮影した昼夜平分時の土星]]
[[ファイル:Saturn eclipse.jpg|thumb|280px|太陽を覆い隠した土星。2006年9月15日にカッシーニが撮影。環が太陽光に反射されて解明に写っている。真ん中の黒い部分が裏側(夜側)の環で、地球からは観測できない範囲である。]]
[[ファイル:Earth-AsSeenFromSaturn-20170412.jpg|thumb|right|土星の輪から見た地球と月。(2017年4月12日)]]
[[ファイル:Enceladus geysers June 2009.jpg|thumb|left|エンケラドゥスの南極にある間欠泉では、[[タイガーストライプ]]に沿って水が噴出されている<ref>{{cite web|last=Dyches|first=Preston|last2=Brown|first2=Dwayne|last3=Mullins |first3=Steve|title=Cassini Spacecraft Reveals 101 Geysers and More on Icy Saturn Moon|url=http://www.jpl.nasa.gov/news/news.php?release=2014-246&2|date=28 July 2014|work=NASA|accessdate=29 July 2014}}</ref>。]]
NASAと[[欧州宇宙機関]](ESA)共同の探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]は1997年に打ち上げられた。カッシーニは探査機本体をNASA、[[ホイヘンス・プローブ]]をESAが担当した<ref>{{cite|| title=Titan: tapping the flood of data | journal=Nature | volume=438 | pages=538–539 | month=December | year=2005 | doi=10.1038/438538a}}</ref>。2004年6月、土星に接近し、高解像度の画像を送ってきた。同年[[7月1日]]、土星周回軌道に乗り長期間探査(SOI, Saturn Orbit Insertion)を開始した。
探査機は土星最大の衛星タイタンに接近しレーダー探査を行ったところ、大きな湖と数多い島や山を持つ海岸線が発見された。カッシーニは2度タイタンに接近し、2004年12月25日には小型の[[ホイヘンス・プローブ]]を投入した。ホイヘンスは2005年1月14日にタイタンを降下しながら膨大な情報を送信し、地表に着陸した<ref name=nature438_7069_758>{{cite journal | display-authors=1 | last1=Lebreton | first1=Jean-Pierre | last2=Witasse | first2=Olivier | last3=Sollazzo | first3=Claudio | last4=Blancquaert | first4=Thierry | last5=Couzin | first5=Patrice | last6=Schipper | first6=Anne-Marie | last7=Jones | first7=Jeremy B. | last8=Matson | first8=Dennis L. | last9=Gurvits | first9=Leonid I. | title=An overview of the descent and landing of the Huygens probe on Titan | journal=Nature | volume=438 | issue=7069 | pages=758–764 | month=December | year=2005 | doi=10.1038/nature04347 | bibcode=2005Natur.438..758L | pmid = 16319826 }}</ref>。
2006年にNASAはカッシーニが土星の衛星エンケラドゥスに、間欠泉として噴き出す液体の水が溜まっている証拠を見つけたと発表した。画像は、エンケラドゥスの南極域から氷の粒子が土星を廻る公転軌道上に放たれている様子を掴んでいた。[[カリフォルニア工科大学]]のアンドリュー・インガソルは、「太陽系の中で、液体の水を持つ他の衛星は数キロメートルもの氷の層で塞がれている。ここ(エンケラドゥス)が違うところは、液体の水が溜まっている所が表面から10mと無い場所であることなのだろう」と推察した<ref>{{cite web|last1=Pence|first1=Michael|url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/media/cassini-20060309.html|title=NASA's Cassini Discovers Potential Liquid Water on Enceladus|date=2006-03-09|publisher=[[ジェット推進研究所]]|accessdate=2011-06-03|archiveurl=https://webcitation.org/616WARlPz?url=http://www.nasa.gov/mission_pages/cassini/media/cassini-20060309.html|archivedate=2011年8月21日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。2011年5月、NASAのエンケラドゥス観測グループ会議の科学者は、エンケラドゥスが「地球の外にある太陽系内で、私たちが知りえる中で生命にとって最も生育に適している」と報告した<ref>{{cite journal |last1=Lovett |first1=Richard A. |title=Enceladus named sweetest spot for alien life |url=http://www.nature.com/news/2011/110531/full/news.2011.337.html |date=2011-05-31 |publisher=[[ネイチャー]] |accessdate=2011-06-03 |doi=10.1038/news.2011.337 |archiveurl=https://webcitation.org/62DnnTQPR?url=http://www.nature.com/news/2011/110531/full/news.2011.337.html |archivedate=2011年10月6日 |deadurl=no |journal=Nature |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref>{{cite web |last1=Kazan |first1=Casey |title=Saturn's Enceladus Moves to Top of "Most-Likely-to-Have-Life" List |url=http://www.dailygalaxy.com/my_weblog/2011/06/saturns-enceladus-moves-to-top-of-most-likely-to-have-life-list.html |date=2011-06-02 |publisher=The Daily Galaxy |accessdate=2011-06-03 |archiveurl=https://webcitation.org/616WAzkcp?url=http://www.dailygalaxy.com/my_weblog/2011/06/saturns-enceladus-moves-to-top-of-most-likely-to-have-life-list.html |archivedate=2011年8月21日 |deadurl=no |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
カッシーニの画像は他にも重要な発見をもたらした。明るい土星の環の主要部分とG・Eリングの間に未発見だった環が存在することを明らかにした。この環をつくる材料は、2つの衛星に流星が衝突して供給されたと考えられている<ref>{{cite web|url = http://space.newscientist.com/channel/solar-system/cassini-huygens/dn10124-faint-new-ring-discovered-around-saturn.html|title = Faint new ring discovered around Saturn|accessdate = 2007-07-08|date = 2007-09-20|last = Shiga|first = David|publisher = NewScientist.com|archiveurl = https://webcitation.org/616WDn9aA?url=http://space.newscientist.com/channel/solar-system/cassini-huygens/dn10124-faint-new-ring-discovered-around-saturn.html|archivedate = 2011年8月21日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。2006年7月、カッシーニの画像からタイタンの北極近くに炭化水素の湖が存在する証拠がもたらされ、これは2007年1月に確定された。同年3月には[[カスピ海]]ほどの大きさの湖も捉えた<ref>{{cite news|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6449081.stm|title = Probe reveals seas on Saturn moon|publisher = BBC|last = Rincon|first = Paul|accessdate = 2007-09-26|date = 2007-03-14|archiveurl = https://webcitation.org/62Dno9eEL?url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6449081.stm|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。一方、2006年10月には土星の南極にある直径8000kmもある六角形の嵐が、台風の目を持つ事を突き止めた<ref>{{cite news|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6135450.stm|title = Huge 'hurricane' rages on Saturn|publisher = BBC|last = Rincon|first = Paul|accessdate = 2007-07-12|date = 2006-11-10|archiveurl = https://webcitation.org/62Dnp4804?url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6135450.stm|archivedate = 2011年10月6日|deadurl = no|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。
2004年から2009年11月2日までの間に、カッシーニは8個の新しい衛星を発見した。当初の任務は土星を74周して達成されたが、2010年9月までの運用継続が決まり、さらに土星の季節変動を研究するために2017年まで再延長された<ref>{{cite web|url=http://saturn.jpl.nasa.gov/mission/introduction/|title=Mission overview – introduction|year=2010|work=Cassini Solstice Mission|publisher=NASA / JPL|accessdate=2010-11-23|archiveurl=https://webcitation.org/616WEGPJ0?url=http://saturn.jpl.nasa.gov/mission/introduction/|archivedate=2011年8月21日|deadurl=no|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。そして2017年9月に運用を終了し、土星大気に突入して消滅した<ref>{{cite web|url=https://www.nasa.gov/image-feature/cassini-end-of-mission|title=Cassini End of Mission|work=NASA|date=2017-09-15|accessdate=2018-05-27}}</ref>。
=== 今後の探査構想 ===
[[2007年]]には、ESAが将来の宇宙探査ミッションの候補の一つとして、NASAとの共同による土星圏探査ミッション「[[タンデム (探査機)|タンデム]]計画」を選定した。土星本体とタイタン、[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]が主目標であり、タイタンの大気中に気球を送り込むことも計画されている。
== 脚注 ==
{{Reflist|25em|refs=
<ref name="NASA_factsheet">{{Cite web
| title=Saturn Fact Sheet
| website=nssdc.gsfc.nasa.gov | date=2023-05-23
| url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/saturnfact.html | access-date=2023-06-18}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
{{sisterlinks|commons=Saturn_(planet)|commonscat=Saturn_(planet)|d=Q193}}
* [[天王星型惑星]]
* [[地球以外の実在天体を扱った事物]]<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->
* [[土星の六角形]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/dosei/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(土星) |date=20210424010334}}
* [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/saturn/saturn00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(土星)]
* [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/saturn.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(土星)]
* [https://nineplanets.org/saturn/ The Nine Planets Saturn Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(土星){{En icon}}
* {{Kotobank}}
* [https://solarsystem.nasa.gov/planets/saturn/overview/ Saturn] [[アメリカ航空宇宙局|NASA]] 太陽系探査の紹介 {{En icon}}
* [https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/saturnfact.html Saturn Fact Sheet] NASA {{En icon}}
* [https://saturn.jpl.nasa.gov/ Cassini–Huygens mission] NASA ジェット推進研究所 {{En icon}}
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[[Category:土星|*]]
[[Category:太陽系の惑星]]
[[Category:有史以前に知られていた天体]]
[[Category:天文学に関する記事]] | 2003-03-13T23:58:09Z | 2023-12-14T05:48:55Z | false | false | false | [
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3,969 | 火星 | 火星(かせい、羅: Mars、マールス、英: Mars、マーズ、希: Άρης、アレース)は、太陽系の太陽に近い方から4番目の惑星で、太陽系内では水星より大きく2番目に小さい惑星である。英語では火星はローマ神話の軍神の名を持ち、しばしば「赤い惑星(Red Planet)」と呼ばれる 。
火星は大気の薄い地球型惑星で、月の衝突クレーターや地球の谷、砂漠、極地の氷冠を思わせるような表面形状をしている。別名の赤い惑星とは、火星の表面に存在する酸化鉄の影響で、肉眼で見える天体の中でも独特の赤みを帯びた外観を持つことを指す。
また、自転周期や黄道面に対する回転軸の傾きが似ているため、1日の長さ(火星日)や季節は地球と同等である。火星には、太陽系最大の火山であり、最も高い山として知られるオリンポス山や、太陽系最大の峡谷のひとつであるマリネリス峡谷がある。北半球にある滑らかなボレアリス盆地は、火星の40%を占めており、巨大な衝突現象の可能性がある。火星にはフォボスとダイモスという2つの衛星があり、小さくて不規則な形をしている。これらは、火星のトロヤ群である「5261 エウレカ」と同様に、捕獲された小惑星である可能性がある 。
火星はいくつかの無人探査機によって探査されている。1964年11月28日にNASAによって打ち上げられたマリナー4号は、1965年7月15日に火星に最接近した、火星を訪れた最初の宇宙船である。マリナー4号は、地球の約0.1%という弱い火星の放射線帯を検出し、深宇宙から他の惑星を撮影した最初の画像となった。ソ連の火星探査機「マルス3号」は着陸船を搭載し、1971年12月にソフトランディングを果たしたが、タッチダウンの数秒後に連絡が途絶えた。1976年7月20日、「バイキング1号」が火星表面への着陸に初めて成功した。1997年7月4日、火星探査機「マーズ・パスファインダー」が火星に着陸し、7月5日には火星で活動した初のロボットローバー「ソジャーナー」を放出した。2003年12月25日には、欧州宇宙機関(ESA)が初めて火星を訪れた探査機「マーズ・エクスプレス」が軌道上に到着した。2004年1月には、スピリットとオポチュニティと名付けられたNASAのマーズ・エクスプロレーション・ローバーがともに火星に着陸し、スピリットは2010年3月22日まで、オポチュニティは2018年6月10日まで活動した。NASAは2012年8月6日、火星の気候と地質を調査する「マーズ・サイエンス・ラボラトリー(MSL)」ミッションの一環として、探査機「キュリオシティ」を着陸させた。2014年9月24日、インド宇宙研究機関(ISRO)は、初の惑星間ミッションである探査機「マーズ・オービター・ミッション」が軌道上に到着し、火星を訪れた4番目の宇宙機関となった。アラブ首長国連邦は、2021年2月9日に火星探査機を火星の大気圏に投入し、火星へのミッションを成功させた5番目の宇宙機関となった。また、NASAのローバー「パーサヴィアランス」が2021年2月18日に火星への着陸に成功した。
火星の過去の居住性や現存する生命の可能性を評価する調査が行われている。欧州宇宙機関のロザリンド・フランクリン・ローバーのようなアストロバイオロジー・ミッションが計画されている 。火星の気圧は地球の1%以下と低いため、火星の地表に液体の水は存在しない。2つの極地の氷冠は、大部分が水でできているとされる。南極の氷冠に含まれる水の氷の量は、もし溶けた場合、惑星の表面を11メートルの深さまで覆うのに十分である。2016年11月、NASAはユートピア平原領域で大量の地下氷を発見したことを報告した。検出された水の量は、スペリオル湖の水の量に相当すると推定されている 。
火星は、その赤みを帯びた色合いのように、地球から肉眼で簡単に見ることができる。火星の見かけの等級は-2.94で、これは金星、月、太陽に次ぐ明るさである。地上の光学望遠鏡では、地球の大気の影響を受けるため、地球と火星が最も接近したときに、300km程度の大きさのものしか見ることができない。
火星は地球型惑星に分類される、いわゆる硬い岩石の地表を持った惑星である。火星には海が無く、酸化鉄(赤さび)を大量に含む赤い地表が広がっている。半径は地球の約2分の1、質量は地球の約10分の1であり、火星の地表での重力の強さは、地球の40パーセントほどである。火星の表面積は、地球の表面積の約4分の1であるが、これは地球の陸地の面積(約1.5億平方キロメートル)とほぼ等しい。火星の自転周期は地球のそれと非常に近く、火星の1日(1火星太陽日、1sol)は、24時間39分35.244秒である。また、地球と同じように太陽に対して自転軸を傾けたまま公転しているため、火星には季節が存在する。
地球や金星と比べて火星の質量は小さい。太陽系の惑星移動のモデルであるグランド・タック・モデルによると、木星は火星形成前に一度火星軌道程度まで太陽に近づき、のちに現在の軌道に落ち着いたとしている。その際、火星軌道付近の微惑星がはじき飛ばされ枯渇してしまったため、火星が大きく成長できなかった可能性を示唆している。
火星の大気は希薄で、地表での大気圧は約750Paと地球での平均値の約0.75パーセントに過ぎない。逆に大気の厚さを示すスケールハイトは約11キロに達し、およそ6キロである地球よりも高い。これらはいずれも、火星の重力が地球よりも弱いことに起因している。大気が希薄なために熱を保持する作用が弱く、表面温度は最高でも約20°Cである。大気の組成は二酸化炭素が95パーセント、窒素が3パーセント、アルゴンが1.6パーセントで、ほかに酸素や水蒸気などの微量成分を含む。ただし、火星の大気の上層部は太陽風の影響を受けて宇宙空間へと流出していることが、ソビエト連邦の無人火星探査機のフォボス2号によって観測されている。したがって上記の火星の大気圧や大気組成は、長い目で見ると変化している可能性、そして今後も変化していく可能性が指摘されている。
2003年に地球からの望遠鏡による観測で大気にメタンが含まれている可能性が浮上し、2004年3月のマーズ・エクスプレス探査機の調査による大気の解析でメタンの存在が確認された。現在観測されているメタンの量の平均値は体積比で約11±4 ppbである。
火星の環境下では不安定な気体であるメタンの存在は、火星にメタンのガス源が存在する(または、少なくとも最近100年以内には存在していた)という興味深い事実を示唆している。ガスの生成源としては火山活動や彗星の衝突、あるいはメタン菌のような微生物の形で生命が存在するなどの可能性が考えられているが、いずれも未確認である。地球の海では、生物によってメタンが生成される際には同時にエタンも生成される傾向がある。一方、火山活動から放出されるメタンには二酸化硫黄が付随する。メタンは火星表面のところどころに局所的に存在しているように見えることから、発生したメタンは大気中に一様に分布するよりも短時間で分解されていることがうかがえる。それゆえ、おそらく持続的に大気中に放出されているとも推測される。発生源に関する仮説でどれがもっとも有力かを推定するために、メタンと同時に放出される別の気体を検出する計画も現在進められている。
火星大気には大きく変化する面もある。冬の数か月間に極地方で夜が続くと、地表は非常に低温になり、大気全体の25パーセントもが凝固して厚さ数メートルに達する二酸化炭素の氷(ドライアイス)の層をつくる。やがて、極に再び日光が当たる季節になると二酸化炭素の氷は昇華して、極地方に吹き付ける時速400キロに達する強い風が発生する。これらの季節的活動によって大量の塵や水蒸気が運ばれ、地球と似た霜や大規模な巻雲が生じる。このような水の氷からなる雲の写真が2004年にオポチュニティによって撮影されている(NASA撮影画像へのリンク)。また、南極で二酸化炭素が爆発的に噴出した跡がマーズ・オデッセイによって撮影されている。
火星は短い時間尺度では温暖化していることを示唆する証拠も発見されている。しかし21世紀初頭の火星は1970年代よりは寒冷である。 火星の質量は地球の11%で、地球より太陽からの距離が離れているが、気候変動、観測可能な気候パターンなど、気候面では重要な共通点を持っている。
火星の有効温度は氷点下56°Cであり、実際の温度の氷点下53°Cとほとんど変わらないのは、二酸化炭素が0.006気圧であり水蒸気もほとんど存在せず温室効果が弱いからである。
火星の表面は主として玄武岩と安山岩からなっている。いずれも地球上ではマグマが地表近くで固まって生成する岩石であり、含まれる二酸化ケイ素(SiO2)の量で区別される。火星では多くの場所が厚さ数メートルあるいはそれ以上の滑石粉のような細かい塵で覆われている。
マーズ・グローバル・サーベイヤー探査機による火星の磁場の観測から、火星の地殻が向きの反転を繰り返すバンド状に磁化されていることが分かっている。この磁化バンドは典型的には幅160キロ、長さ1,000キロにわたっている。このような磁化のパターンは地球の海底に見られるものと似ている。1999年に発表された興味深い説によると、これらのバンドは過去の火星のプレートテクトニクス作用の証拠かもしれないと考えられている。しかしそのようなプレート活動があった証拠はまだ確認されていない。2005年10月に発表された新たな発見は上記の説を支持するもので、地球で発見されている海底拡大によるテクトニクス活動と同様の活動が太古の火星にあったことを示している。もしこれらが正しければ、これらの活動によって炭素の豊富な岩石が地表に運ばれることによって地球に近い大気が維持され、一方で磁場の存在によって火星表面が宇宙放射線から守られることになったかもしれない。またこれらとは別の理論的説明も提案されている。
オポチュニティによる発見の中に、メリディアニ平原で採取した岩石から小さな球形の赤鉄鉱(ヘマタイト)が発見された。この球体は直径わずか数ミリしかなく、数十億年前に水の多い環境の下で堆積岩として作られたものと考えられている。ほかにも鉄ミョウバン石など、硫黄、鉄、臭素を含む鉱物が発見されている。これらを含む多くの証拠から、学術誌『サイエンス』 2004年12月9日号において50名の研究者からなる研究グループは、「火星表面のメリディアニ平原では過去に液体の水が断続的に存在し、地表の下が水で満たされていた時代が何回かあった。液体の水は生命にとって鍵となる必要条件であるため、我々は火星の歴史の中でメリディアニでは生命の存在可能な環境が何度か作られていたと推測している」と結論している。メリディアニの反対側の火星表面では、コロンビア・ヒルズにおいてスピリットが針鉄鉱を発見している。これは(赤鉄鉱とは異なり)水が存在する環境で「のみ」作られる鉱物である。スピリットはほかにも水の存在を示す証拠を発見している。
マーズ・グローバル・サーベイヤーが2006年に撮影した写真から、クレーター内壁の斜面を液体が流れた痕跡が見つかったが、1999年に同じ場所を撮影した写真には写っておらず、それ以降にできたものと思われる。
1996年、火星起源であると考えられている隕石「ALH84001」を調査していた研究者が、火星の生命によって残されたと思われる微小化石がこの隕石に含まれていることを報告した。2005年現在、この解釈についてはいまだに議論があり、合意は得られていない。
火星の地形は大きく2通りに分かれており、特徴的である。北半球は溶岩流によって平らに均された平原(北部平原の成因としては大量の水による侵食説もある)が広がっており、一方、南半球は太古の隕石衝突による窪地やクレーターが存在する高地が多い。地球から見た火星表面もこのために2種類の地域に分けられ、両者は光の反射率であるアルベドが異なっている。明るく見える平原は赤い酸化鉄を多く含む塵と砂に覆われており、かつては火星の大陸と見立てられてアラビア大陸(Arabia Terra)やアマゾニス平原(Amazonis Planitia)などと命名されている。暗い模様は海と考えられ、エリトリア海(Mare Erythraeum)、シレーヌス(セイレーンたち)の海(Mare Sirenum)、オーロラ湾(Aurorae Sinus)などと名づけられている。地球から見えるもっとも大きな暗い模様は大シルチス(Syrtis Major)である。
火星には水と二酸化炭素の氷からなる極冠があり、火星の季節によって変化する。二酸化炭素の氷は夏には昇華して岩石からなる表面が現れ、冬には再び氷ができる。楯状火山であるオリンポス山は標高27キロの太陽系最高の山である。この山はタルシス高地と呼ばれる広大な高地にあり、この地方にはいくつかの大きな火山がある。火星には太陽系最大の峡谷であるマリネリス峡谷も存在する。この峡谷は全長4,000キロ、深さ7キロに達する。火星には多くのクレーターも存在する。最大のものはヘラス盆地で、明るい赤色の砂で覆われている。
火星の最高地点と最低地点の標高差は約31キロである。オリンポス山の山頂 27キロがもっとも高く、ヘラス盆地の底部、標高基準面の約4キロ下がもっとも低い。これと比べて地球の最高点と最低点(エベレストとマリアナ海溝)の差は19.7キロに過ぎない。両惑星の半径の差を考えると、火星が地球よりもおよそ3倍も凸凹であることを示している。
21世紀初頭現在では、国際天文学連合(IAU)の惑星系命名ワーキンググループが火星表面の地形名の命名を担当している。
火星には海がないため海抜という定義は使えない。したがって高度0の面、すなわち平均重力面を選ぶ必要がある。火星の基準測地系は4階4次の球面調和関数重力場で定義され、高度0は温度273.16Kでの大気圧が610.5Pa(地球の約0.6パーセント)となる面として定義されている。この圧力と温度は水の三重点に対応している。
火星の赤道はその自転から定義されているが、基準子午線の位置は地球の場合と同様に任意の点が選ばれ、後世の観測者によって受け入れられていった。ドイツの天文学者ヴィルヘルム・ベーアとヨハン・ハインリッヒ・メドラーは1830年から32年にかけて最初の火星の体系的な地図を作成した際に、ある小さな円形の模様を基準点とした。彼らの選択した基準点は1877年に、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリが有名な火星図の作成を始めた際に基準子午線として採用された。1972年に探査機マリナー9号が火星の広範囲の画像を撮影したあと、子午線の湾のベーアとメドラーの子午線上にある小さなクレーター(のちにエアリー0と呼ばれる)がアメリカ、RAND社のメルトン・デーヴィスによって、惑星撮影時の制御点ネットワークを決める際により正確な経度0.0度の定義として採用された。
火星にはかつて生命が存在したという考えのために、火星は人類の想像の世界の中で重要な位置を占めている。こういった考えはおもに19世紀に多くの人々によって行われ、特にパーシヴァル・ローウェルやジョヴァンニ・スキアパレッリによる火星観測から生まれ、一般に知られるようになった、スキアパレッリは観測された模様をイタリア語: canali(溝)という語で記述した。これが英語: canal(運河)と誤訳され、ここから「火星の運河」という説が始まった。これらの火星表面の模様は「人工的な」直線状の模様のように見えたために運河であると主張された。またある領域の明るさが季節によって変化するのは植物の成長によるものだと考えられた。
当初の観測時点でも自然地形とみなされたものが、翻訳(誤訳)によって「運河」と表現されたことで、人工物的な意味合いが付与されてしまった。そこから火星人に関連した多くの話が生まれた。だが火星探査が進むと、運河は無い(=人工物ではなく自然地形である・知的生命体はいない・火星人の文明はない)ことがわかる。先述の色の変化は塵の嵐のためであると考えられている。
火星にはフォボスとダイモスの2つの衛星が存在する。ともに1877年にアサフ・ホールによって発見され、ギリシア神話で軍神アレースの戦いに同行した息子のフォボス(「狼狽」の意)、ダイモス(「恐怖」の意)から名付けられた。アレースはローマ神話では戦争の神マルスとして知られている。
火星の地表や気候、地形を研究するために、ソ連、アメリカ、ヨーロッパ、日本によって今までに軌道探査機、着陸機、ローバーなどの多くの探査機が火星に送り込まれた。火星を目指した探査機のうち、約3分の1がミッション完了前に、またはミッション開始直後に何らかの失敗を起こしており、失敗率が高い。原因は技術上の問題によるものと考えられるが、また一方で原因不明の失敗や交信途絶も多くあり、研究者の中には冗談半分に地球・火星間の「バミューダトライアングル」と呼んだり、火星探査機を食べて暮らしている宇宙悪霊がいると言ったり、火星の呪いと言う人もいる。
もっとも成功したミッションとしては、ソ連の火星探査機計画やアメリカのマリナー計画、バイキング計画、マーズ・グローバル・サーベイヤー、マーズ・パスファインダー、2001マーズ・オデッセイなどがある。グローバル・サーベイヤーは峡谷や土石流の写真を撮影し、帯水層と同様の液体の水が流れる水源が火星の地表または地表近くに存在する可能性を示唆した。2001マーズ・オデッセイは、火星の南緯60度以南の南極地方の地下約3メートル以内の表土には大量の水の氷が堆積していることを明らかにした。
2003年、欧州宇宙機関(ESA)はマーズ・エクスプレス・オービタと着陸機ビーグル2からなるマーズ・エクスプレス探査機を打ち上げた。マーズ・エクスプレス・オービタは火星の南極に水と二酸化炭素の氷が存在することを確認した。NASA はそれ以前に北極について、同様の氷が存在することを確認していた。ビーグル2との交信には失敗し、2004年2月初旬にビーグル2が失われたことが宣言された。
同じ2003年に NASA はスピリット(MER-A)、オポチュニティ(MER-B)と命名された2機のマーズ・エクスプロレーション・ローバーを打ち上げた。2機とも2004年1月に無事に着陸し、すべての探査目標を調査した。当初計画されたミッションは90日間だったが、ミッションは数回延長され、いくつかの機械的トラブルは起きたものの、2007年現在もなお科学的成果を地球に送り続けている。最大の科学的成果は、両方の着陸地点で過去のある時期に液体の水が存在した証拠を発見したことである。また、火星の地上で撮影された旋風(dust devil)が火星の地表を動いていく様子がスピリットによって検出された。この旋風はマーズ・パスファインダーで初めて撮影されていた。
2012年にマーズ・サイエンス・ラボラトリーが火星に到着し、キュリオシティー着陸の過程を撮影した720p10fpsの高精細な動画が地球に送られた。キュリオシティーには、過去火星に投入された探査機の中では最高の解像度(1600×1200)のカメラが搭載されており、次々に高精細なパノラマ画像が送られている。
2018年には、インサイトがエリシウム平原に着陸。搭載した地震計により、最初の15か月間の観測だけでも火星の地震(火震)活動を数百回観測。地球や月と同レベルの「生きた天体」であることが確認された。
ヴェルナー・フォン・ブラウンをはじめ、多くの人々が有人月探査の次のステップは、有人火星探査であると考えてきた。有人探査の賛同者は、人間は無人探査機よりも幾分優れており、有人探査を進めるべきだと主張している。
アメリカ合衆国のブッシュ大統領(父)は1989年に月および火星の有人探査構想を明らかにしたが、多額の予算を必要とするために断念された。また、ブッシュ大統領(息子)も2004年1月14日に「宇宙探査の将来」と題した新たな計画を発表した。これによると、アメリカは2015年までにもう一度月に有人探査機を送り、その後有人での火星探査の可能性を探ることとなっていた(コンステレーション計画)。また、ロシアも将来的に有人火星探査を行うことを予定しており、技術的・経済的に判断して2025年までには実現可能であるとしている。さらにESAも、2030年までに人間を火星に送る「オーロラ・プログラム」と呼ばれる長期計画を持っている。
特にネックとなるのは、火星への往復と滞在期間の合計で1年強から3年弱という、月探査とは比較にならない長期間のミッションであることと、運ばなければならない物資の量である。このため、火星の大気から帰還用燃料を製造する無人工場を先行して送り込み、有人宇宙船は往路分のみの燃料で火星に到達し、探査後に無人工場で製造されていた燃料で帰還するというプラン「マーズ・ダイレクト」なども提案されている。
2010年、オバマ大統領はコンステレーション計画の中止を表明したが、同時に予算を新型のロケットエンジン開発などの将来性の高い新技術開発に振り向けるとしており、より短期間で火星に到達できる航行手段が実用化されることが期待される。また、同計画の代わりにオバマ大統領は、2030年代半ばを目標にした新たな有人火星探査計画も発表している。
火星探査は近年根強く実施されているが、前述のように探査計画の約3分の1が失敗に終わるうえに、莫大な予算がかかるとして批判する声も大きい。「火星に水がかつてあった。それがどうした。我々の生活に関係あるのか?予算を地球のために使うべきだ」というようなものである。実際には(アメリカ合衆国を例に取れば)国防費の20分の1以下のNASAの予算の、さらにごく一部が火星探査に割り当てられているに過ぎないのだが、こうした声を無視することもできず、探査計画の低コスト化が進められている。
16世紀デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、地球を中心に太陽(火星など惑星は太陽の周りを回る)が回る変則的な天動説をとっていたが、肉眼によるものではもっとも精密に火星の軌道を観測した。ティコ(慣習として姓でなく名を通称とする)の助手であったヨハネス・ケプラーは師の死後、観測データを解析することで惑星の軌道が円ではなく楕円であること、さらに火星の軌道からほかの惑星の軌道も楕円でありケプラーの法則に従うという地動説を主張した。公転速度が速く観測しやすい火星の軌道離心率が冥王星や水星に次いで大きい0.0934であったことも幸運であった。
1877年の火星大接近とスキアパレッリの発表に始まった火星運河説に重大な疑問を投げかけたのが、エッジワース・カイパーベルトの提唱者の1人であるカイパーである。1947年、火星を赤外線帯で観測し、大気の成分が二酸化炭素であると主張した。地球大気の重要な成分である窒素、酸素、水蒸気の痕跡は見当たらず、文明を持つ火星人の存在はほぼ否定された。
地球は780日(2年と7週間と1日)ごとに火星を追い越し、そのときの距離は約8000万キロ(約4光分)まで接近する。しかし、火星軌道が楕円であるために最接近時の距離は変化する。火星の近日点付近で接近すれば接近距離は5600万キロ程度となるが、遠日点付近で接近すれば1億キロ程度と2倍近く距離が異なる。肉眼で観測していると、火星は通常、ほかの星とはっきり異なる黄色あるいはオレンジ色や赤っぽい色に見え、軌道を公転するにつれて地球から見るほかのどの惑星よりも大きく明るさが変化する。これは、火星が地球からもっとも離れるときにはもっとも近づいたときの7倍以上も距離が離れるためである。なお、太陽と同じ方向にある合前後の数か月間は太陽の光で見えなくなることもある。もっとも観測に適した時期は32年ごとに2回、15年と17年をおいて交互にやってきて「大接近」と呼ばれる。この時期は常に7月終わりから9月終わりの間になる。この時期に火星を望遠鏡で見ると表面のさまざまな様子を詳細に見ることができる。低倍率でも見える特に目立つ特徴は極冠である。
2003年8月27日9時51分13秒(世界時)に火星は過去60,000年でもっとも近く、5,575万8,006キロまで地球に接近した(惑星光行差補正なしでの値)。この大接近は火星の近日点通過の3日後が火星の衝の翌日と重なったために生じたもので、地球から火星を特に見やすくなった。これ以前にもっとも近く接近したのは紀元前57617年9月12日と計算されている。太陽系の重力計算の詳細な解析から、2287年には2003年よりも近い接近が起こると計算されている。しかし正確に見ていくと、この記録的な大接近は284年ごとに4回起きている別の大接近よりもごくわずかに近いだけであることが分かる。たとえば、2003年8月27日の最接近距離が0.37271auであるのに対して1924年8月22日の最接近距離は0.37284auであり、2208年8月24日の接近は0.37278auである。
2084年11月10日には火星から見て地球の太陽面通過が起こる。このときには太陽と地球、火星が一直線上に並ぶ。同様に火星から見た水星や金星の太陽面通過も起こる。火星の衛星であるダイモスは火星から見た角直径が太陽のそれより充分に小さいため、ダイモスによる部分日食も太陽面通過とみなせる。
1590年10月13日には過去唯一の金星による火星食が起こり、ドイツのハイデルベルクでメストリンによって観測された。
地球上で発見されたもののうち、確実に隕石であり、かつ火星に起源を持つと思われる岩石がいくつか知られている。これらの隕石のうち2つからは古代の細菌の活動の痕跡かもしれない特徴が見つかっている。1996年8月6日、NASAは火星起源と考えられている「ALH84001」隕石の分析から、単細胞生命体の化石の可能性がある特徴が発見されたと発表した。しかしこの解釈にはいまだに議論の余地がある。
『Solar System Research』2004年3月号(38, p.97)に掲載された論文では、イエメンで発見されたカイドゥン隕石が火星の衛星フォボスに起源を持つ可能性があると示唆している。
2004年4月14日にNASAは、オポチュニティによって調査された"Bounce"という名前の岩石が、1979年に南極で発見された隕石「EETA79001-B」と似た組成を持っていることを明らかにした。この岩石はこの隕石と同じクレーターから飛散したか、あるいは火星表面の同じ地域にある別々のクレーターから飛ばされた可能性がある。
2005年7月29日、BBCは火星の北極地方のクレーターで氷の湖が発見されたと報じた。ESAのマーズ・エクスプレス探査機に搭載された高解像度ステレオカメラで撮影されたこのクレーターの画像には、北緯70.5度、東経103度に位置し、火星北極域の大半を占めるボレアリス平野にある無名のクレーターの底に平らな氷が広がっている様子がはっきりと写っている。このクレーターは直径35キロ、深さ約2キロである。
BBCの報道ではやや誇張されているが、もともとのESAの発表ではこれが湖であるとは主張していない。火星の数多くのほかの場所に見られるものと同様に、この円板状の氷は暗く低温の砂丘の頂上(高度約200メートル)に薄い層状の霜が凝結してクレーターの底に広がったものである。報じられたこの氷が特に珍しいのは、霜のいくらかが1年中残りうるほどこの場所が高緯度にあるという点だけである。赤道付近は日中20°Cを越すこともあり、高緯度でなければ氷は存在できない。また、液体の水も、火星の大気は希薄、すなわち大気中の水蒸気圧が小さいため、火星表面のほとんどの地域ではすぐ蒸発してしまうため存在できない。液体の水が存在できるのはヘラス盆地など限られた場所のみである。
かつての火星は現在よりも確実に生命に適した環境だったという証拠は存在するが、実際に生命がいたかどうかについては確定できていない。
現在の火星は、ハビタブルゾーン内(生命存在の可能な天体が、存在できる領域)にあるとされる。
火星の名称(Mars/マーズ)は、ローマ神話の神マルス(ギリシア神話の軍神アレース)から名付けられた。メソポタミアの民は赤い惑星に戦火と血を連想して彼らの戦神ネルガルの名を冠して以来、火星には各々の地でその地の戦神の名がつけられている(ほかの惑星名についてもほぼ同様の継承が認められる)。
火星は五行説に基づく呼び名であり(五行説は東洋医学の基礎理論でもある)、学問上(天文史料)では熒惑()といった。「熒」はしばしば同音の「螢」と誤られる。また、この場合の「惑」は「ワク」ではなく「コク」と読む。江戸時代には「なつひぼし」と訓じられた。そのため夏日星という和名もある。
火星がさそり座のアンタレス(黄道の近くに位置しているため)付近にとどまること(地球から観測する場合、火星は順行から逆行に切り替える数日間、天球上の同じ場所に止まるように見える)を熒惑守心(熒惑心を守る)といい、不吉の前兆とされた。「心」とは、アンタレスが所属する星官(中国の星座)心宿のこと。
火星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。
西洋占星術では、白羊宮の支配星、天蝎宮の副支配星で、凶星である。積極性を示し、運動、暴力戦争などの争い、外科、年下の男にあてはまる。
火星の惑星記号はマルスを象徴する盾と槍を図案化したものが、占星術・天文学を通して用いられる。これを雌雄の表記に転用したのはカール・フォン・リンネであり、生殖器の図案ではない。 | [
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"text": "火星(かせい、羅: Mars、マールス、英: Mars、マーズ、希: Άρης、アレース)は、太陽系の太陽に近い方から4番目の惑星で、太陽系内では水星より大きく2番目に小さい惑星である。英語では火星はローマ神話の軍神の名を持ち、しばしば「赤い惑星(Red Planet)」と呼ばれる 。",
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"text": "火星は大気の薄い地球型惑星で、月の衝突クレーターや地球の谷、砂漠、極地の氷冠を思わせるような表面形状をしている。別名の赤い惑星とは、火星の表面に存在する酸化鉄の影響で、肉眼で見える天体の中でも独特の赤みを帯びた外観を持つことを指す。",
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"text": "また、自転周期や黄道面に対する回転軸の傾きが似ているため、1日の長さ(火星日)や季節は地球と同等である。火星には、太陽系最大の火山であり、最も高い山として知られるオリンポス山や、太陽系最大の峡谷のひとつであるマリネリス峡谷がある。北半球にある滑らかなボレアリス盆地は、火星の40%を占めており、巨大な衝突現象の可能性がある。火星にはフォボスとダイモスという2つの衛星があり、小さくて不規則な形をしている。これらは、火星のトロヤ群である「5261 エウレカ」と同様に、捕獲された小惑星である可能性がある 。",
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"text": "火星の大気は希薄で、地表での大気圧は約750Paと地球での平均値の約0.75パーセントに過ぎない。逆に大気の厚さを示すスケールハイトは約11キロに達し、およそ6キロである地球よりも高い。これらはいずれも、火星の重力が地球よりも弱いことに起因している。大気が希薄なために熱を保持する作用が弱く、表面温度は最高でも約20°Cである。大気の組成は二酸化炭素が95パーセント、窒素が3パーセント、アルゴンが1.6パーセントで、ほかに酸素や水蒸気などの微量成分を含む。ただし、火星の大気の上層部は太陽風の影響を受けて宇宙空間へと流出していることが、ソビエト連邦の無人火星探査機のフォボス2号によって観測されている。したがって上記の火星の大気圧や大気組成は、長い目で見ると変化している可能性、そして今後も変化していく可能性が指摘されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "2003年に地球からの望遠鏡による観測で大気にメタンが含まれている可能性が浮上し、2004年3月のマーズ・エクスプレス探査機の調査による大気の解析でメタンの存在が確認された。現在観測されているメタンの量の平均値は体積比で約11±4 ppbである。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "火星の環境下では不安定な気体であるメタンの存在は、火星にメタンのガス源が存在する(または、少なくとも最近100年以内には存在していた)という興味深い事実を示唆している。ガスの生成源としては火山活動や彗星の衝突、あるいはメタン菌のような微生物の形で生命が存在するなどの可能性が考えられているが、いずれも未確認である。地球の海では、生物によってメタンが生成される際には同時にエタンも生成される傾向がある。一方、火山活動から放出されるメタンには二酸化硫黄が付随する。メタンは火星表面のところどころに局所的に存在しているように見えることから、発生したメタンは大気中に一様に分布するよりも短時間で分解されていることがうかがえる。それゆえ、おそらく持続的に大気中に放出されているとも推測される。発生源に関する仮説でどれがもっとも有力かを推定するために、メタンと同時に放出される別の気体を検出する計画も現在進められている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "火星大気には大きく変化する面もある。冬の数か月間に極地方で夜が続くと、地表は非常に低温になり、大気全体の25パーセントもが凝固して厚さ数メートルに達する二酸化炭素の氷(ドライアイス)の層をつくる。やがて、極に再び日光が当たる季節になると二酸化炭素の氷は昇華して、極地方に吹き付ける時速400キロに達する強い風が発生する。これらの季節的活動によって大量の塵や水蒸気が運ばれ、地球と似た霜や大規模な巻雲が生じる。このような水の氷からなる雲の写真が2004年にオポチュニティによって撮影されている(NASA撮影画像へのリンク)。また、南極で二酸化炭素が爆発的に噴出した跡がマーズ・オデッセイによって撮影されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "火星は短い時間尺度では温暖化していることを示唆する証拠も発見されている。しかし21世紀初頭の火星は1970年代よりは寒冷である。 火星の質量は地球の11%で、地球より太陽からの距離が離れているが、気候変動、観測可能な気候パターンなど、気候面では重要な共通点を持っている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "火星の有効温度は氷点下56°Cであり、実際の温度の氷点下53°Cとほとんど変わらないのは、二酸化炭素が0.006気圧であり水蒸気もほとんど存在せず温室効果が弱いからである。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "火星の表面は主として玄武岩と安山岩からなっている。いずれも地球上ではマグマが地表近くで固まって生成する岩石であり、含まれる二酸化ケイ素(SiO2)の量で区別される。火星では多くの場所が厚さ数メートルあるいはそれ以上の滑石粉のような細かい塵で覆われている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "マーズ・グローバル・サーベイヤー探査機による火星の磁場の観測から、火星の地殻が向きの反転を繰り返すバンド状に磁化されていることが分かっている。この磁化バンドは典型的には幅160キロ、長さ1,000キロにわたっている。このような磁化のパターンは地球の海底に見られるものと似ている。1999年に発表された興味深い説によると、これらのバンドは過去の火星のプレートテクトニクス作用の証拠かもしれないと考えられている。しかしそのようなプレート活動があった証拠はまだ確認されていない。2005年10月に発表された新たな発見は上記の説を支持するもので、地球で発見されている海底拡大によるテクトニクス活動と同様の活動が太古の火星にあったことを示している。もしこれらが正しければ、これらの活動によって炭素の豊富な岩石が地表に運ばれることによって地球に近い大気が維持され、一方で磁場の存在によって火星表面が宇宙放射線から守られることになったかもしれない。またこれらとは別の理論的説明も提案されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "オポチュニティによる発見の中に、メリディアニ平原で採取した岩石から小さな球形の赤鉄鉱(ヘマタイト)が発見された。この球体は直径わずか数ミリしかなく、数十億年前に水の多い環境の下で堆積岩として作られたものと考えられている。ほかにも鉄ミョウバン石など、硫黄、鉄、臭素を含む鉱物が発見されている。これらを含む多くの証拠から、学術誌『サイエンス』 2004年12月9日号において50名の研究者からなる研究グループは、「火星表面のメリディアニ平原では過去に液体の水が断続的に存在し、地表の下が水で満たされていた時代が何回かあった。液体の水は生命にとって鍵となる必要条件であるため、我々は火星の歴史の中でメリディアニでは生命の存在可能な環境が何度か作られていたと推測している」と結論している。メリディアニの反対側の火星表面では、コロンビア・ヒルズにおいてスピリットが針鉄鉱を発見している。これは(赤鉄鉱とは異なり)水が存在する環境で「のみ」作られる鉱物である。スピリットはほかにも水の存在を示す証拠を発見している。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "マーズ・グローバル・サーベイヤーが2006年に撮影した写真から、クレーター内壁の斜面を液体が流れた痕跡が見つかったが、1999年に同じ場所を撮影した写真には写っておらず、それ以降にできたものと思われる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1996年、火星起源であると考えられている隕石「ALH84001」を調査していた研究者が、火星の生命によって残されたと思われる微小化石がこの隕石に含まれていることを報告した。2005年現在、この解釈についてはいまだに議論があり、合意は得られていない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "火星の地形は大きく2通りに分かれており、特徴的である。北半球は溶岩流によって平らに均された平原(北部平原の成因としては大量の水による侵食説もある)が広がっており、一方、南半球は太古の隕石衝突による窪地やクレーターが存在する高地が多い。地球から見た火星表面もこのために2種類の地域に分けられ、両者は光の反射率であるアルベドが異なっている。明るく見える平原は赤い酸化鉄を多く含む塵と砂に覆われており、かつては火星の大陸と見立てられてアラビア大陸(Arabia Terra)やアマゾニス平原(Amazonis Planitia)などと命名されている。暗い模様は海と考えられ、エリトリア海(Mare Erythraeum)、シレーヌス(セイレーンたち)の海(Mare Sirenum)、オーロラ湾(Aurorae Sinus)などと名づけられている。地球から見えるもっとも大きな暗い模様は大シルチス(Syrtis Major)である。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "火星には水と二酸化炭素の氷からなる極冠があり、火星の季節によって変化する。二酸化炭素の氷は夏には昇華して岩石からなる表面が現れ、冬には再び氷ができる。楯状火山であるオリンポス山は標高27キロの太陽系最高の山である。この山はタルシス高地と呼ばれる広大な高地にあり、この地方にはいくつかの大きな火山がある。火星には太陽系最大の峡谷であるマリネリス峡谷も存在する。この峡谷は全長4,000キロ、深さ7キロに達する。火星には多くのクレーターも存在する。最大のものはヘラス盆地で、明るい赤色の砂で覆われている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "火星の最高地点と最低地点の標高差は約31キロである。オリンポス山の山頂 27キロがもっとも高く、ヘラス盆地の底部、標高基準面の約4キロ下がもっとも低い。これと比べて地球の最高点と最低点(エベレストとマリアナ海溝)の差は19.7キロに過ぎない。両惑星の半径の差を考えると、火星が地球よりもおよそ3倍も凸凹であることを示している。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "21世紀初頭現在では、国際天文学連合(IAU)の惑星系命名ワーキンググループが火星表面の地形名の命名を担当している。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "火星には海がないため海抜という定義は使えない。したがって高度0の面、すなわち平均重力面を選ぶ必要がある。火星の基準測地系は4階4次の球面調和関数重力場で定義され、高度0は温度273.16Kでの大気圧が610.5Pa(地球の約0.6パーセント)となる面として定義されている。この圧力と温度は水の三重点に対応している。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "火星の赤道はその自転から定義されているが、基準子午線の位置は地球の場合と同様に任意の点が選ばれ、後世の観測者によって受け入れられていった。ドイツの天文学者ヴィルヘルム・ベーアとヨハン・ハインリッヒ・メドラーは1830年から32年にかけて最初の火星の体系的な地図を作成した際に、ある小さな円形の模様を基準点とした。彼らの選択した基準点は1877年に、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリが有名な火星図の作成を始めた際に基準子午線として採用された。1972年に探査機マリナー9号が火星の広範囲の画像を撮影したあと、子午線の湾のベーアとメドラーの子午線上にある小さなクレーター(のちにエアリー0と呼ばれる)がアメリカ、RAND社のメルトン・デーヴィスによって、惑星撮影時の制御点ネットワークを決める際により正確な経度0.0度の定義として採用された。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "火星にはかつて生命が存在したという考えのために、火星は人類の想像の世界の中で重要な位置を占めている。こういった考えはおもに19世紀に多くの人々によって行われ、特にパーシヴァル・ローウェルやジョヴァンニ・スキアパレッリによる火星観測から生まれ、一般に知られるようになった、スキアパレッリは観測された模様をイタリア語: canali(溝)という語で記述した。これが英語: canal(運河)と誤訳され、ここから「火星の運河」という説が始まった。これらの火星表面の模様は「人工的な」直線状の模様のように見えたために運河であると主張された。またある領域の明るさが季節によって変化するのは植物の成長によるものだと考えられた。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "当初の観測時点でも自然地形とみなされたものが、翻訳(誤訳)によって「運河」と表現されたことで、人工物的な意味合いが付与されてしまった。そこから火星人に関連した多くの話が生まれた。だが火星探査が進むと、運河は無い(=人工物ではなく自然地形である・知的生命体はいない・火星人の文明はない)ことがわかる。先述の色の変化は塵の嵐のためであると考えられている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "火星にはフォボスとダイモスの2つの衛星が存在する。ともに1877年にアサフ・ホールによって発見され、ギリシア神話で軍神アレースの戦いに同行した息子のフォボス(「狼狽」の意)、ダイモス(「恐怖」の意)から名付けられた。アレースはローマ神話では戦争の神マルスとして知られている。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "火星の地表や気候、地形を研究するために、ソ連、アメリカ、ヨーロッパ、日本によって今までに軌道探査機、着陸機、ローバーなどの多くの探査機が火星に送り込まれた。火星を目指した探査機のうち、約3分の1がミッション完了前に、またはミッション開始直後に何らかの失敗を起こしており、失敗率が高い。原因は技術上の問題によるものと考えられるが、また一方で原因不明の失敗や交信途絶も多くあり、研究者の中には冗談半分に地球・火星間の「バミューダトライアングル」と呼んだり、火星探査機を食べて暮らしている宇宙悪霊がいると言ったり、火星の呪いと言う人もいる。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "もっとも成功したミッションとしては、ソ連の火星探査機計画やアメリカのマリナー計画、バイキング計画、マーズ・グローバル・サーベイヤー、マーズ・パスファインダー、2001マーズ・オデッセイなどがある。グローバル・サーベイヤーは峡谷や土石流の写真を撮影し、帯水層と同様の液体の水が流れる水源が火星の地表または地表近くに存在する可能性を示唆した。2001マーズ・オデッセイは、火星の南緯60度以南の南極地方の地下約3メートル以内の表土には大量の水の氷が堆積していることを明らかにした。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "2003年、欧州宇宙機関(ESA)はマーズ・エクスプレス・オービタと着陸機ビーグル2からなるマーズ・エクスプレス探査機を打ち上げた。マーズ・エクスプレス・オービタは火星の南極に水と二酸化炭素の氷が存在することを確認した。NASA はそれ以前に北極について、同様の氷が存在することを確認していた。ビーグル2との交信には失敗し、2004年2月初旬にビーグル2が失われたことが宣言された。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "同じ2003年に NASA はスピリット(MER-A)、オポチュニティ(MER-B)と命名された2機のマーズ・エクスプロレーション・ローバーを打ち上げた。2機とも2004年1月に無事に着陸し、すべての探査目標を調査した。当初計画されたミッションは90日間だったが、ミッションは数回延長され、いくつかの機械的トラブルは起きたものの、2007年現在もなお科学的成果を地球に送り続けている。最大の科学的成果は、両方の着陸地点で過去のある時期に液体の水が存在した証拠を発見したことである。また、火星の地上で撮影された旋風(dust devil)が火星の地表を動いていく様子がスピリットによって検出された。この旋風はマーズ・パスファインダーで初めて撮影されていた。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "2012年にマーズ・サイエンス・ラボラトリーが火星に到着し、キュリオシティー着陸の過程を撮影した720p10fpsの高精細な動画が地球に送られた。キュリオシティーには、過去火星に投入された探査機の中では最高の解像度(1600×1200)のカメラが搭載されており、次々に高精細なパノラマ画像が送られている。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "2018年には、インサイトがエリシウム平原に着陸。搭載した地震計により、最初の15か月間の観測だけでも火星の地震(火震)活動を数百回観測。地球や月と同レベルの「生きた天体」であることが確認された。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "ヴェルナー・フォン・ブラウンをはじめ、多くの人々が有人月探査の次のステップは、有人火星探査であると考えてきた。有人探査の賛同者は、人間は無人探査機よりも幾分優れており、有人探査を進めるべきだと主張している。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国のブッシュ大統領(父)は1989年に月および火星の有人探査構想を明らかにしたが、多額の予算を必要とするために断念された。また、ブッシュ大統領(息子)も2004年1月14日に「宇宙探査の将来」と題した新たな計画を発表した。これによると、アメリカは2015年までにもう一度月に有人探査機を送り、その後有人での火星探査の可能性を探ることとなっていた(コンステレーション計画)。また、ロシアも将来的に有人火星探査を行うことを予定しており、技術的・経済的に判断して2025年までには実現可能であるとしている。さらにESAも、2030年までに人間を火星に送る「オーロラ・プログラム」と呼ばれる長期計画を持っている。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "特にネックとなるのは、火星への往復と滞在期間の合計で1年強から3年弱という、月探査とは比較にならない長期間のミッションであることと、運ばなければならない物資の量である。このため、火星の大気から帰還用燃料を製造する無人工場を先行して送り込み、有人宇宙船は往路分のみの燃料で火星に到達し、探査後に無人工場で製造されていた燃料で帰還するというプラン「マーズ・ダイレクト」なども提案されている。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2010年、オバマ大統領はコンステレーション計画の中止を表明したが、同時に予算を新型のロケットエンジン開発などの将来性の高い新技術開発に振り向けるとしており、より短期間で火星に到達できる航行手段が実用化されることが期待される。また、同計画の代わりにオバマ大統領は、2030年代半ばを目標にした新たな有人火星探査計画も発表している。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "火星探査は近年根強く実施されているが、前述のように探査計画の約3分の1が失敗に終わるうえに、莫大な予算がかかるとして批判する声も大きい。「火星に水がかつてあった。それがどうした。我々の生活に関係あるのか?予算を地球のために使うべきだ」というようなものである。実際には(アメリカ合衆国を例に取れば)国防費の20分の1以下のNASAの予算の、さらにごく一部が火星探査に割り当てられているに過ぎないのだが、こうした声を無視することもできず、探査計画の低コスト化が進められている。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "16世紀デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、地球を中心に太陽(火星など惑星は太陽の周りを回る)が回る変則的な天動説をとっていたが、肉眼によるものではもっとも精密に火星の軌道を観測した。ティコ(慣習として姓でなく名を通称とする)の助手であったヨハネス・ケプラーは師の死後、観測データを解析することで惑星の軌道が円ではなく楕円であること、さらに火星の軌道からほかの惑星の軌道も楕円でありケプラーの法則に従うという地動説を主張した。公転速度が速く観測しやすい火星の軌道離心率が冥王星や水星に次いで大きい0.0934であったことも幸運であった。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1877年の火星大接近とスキアパレッリの発表に始まった火星運河説に重大な疑問を投げかけたのが、エッジワース・カイパーベルトの提唱者の1人であるカイパーである。1947年、火星を赤外線帯で観測し、大気の成分が二酸化炭素であると主張した。地球大気の重要な成分である窒素、酸素、水蒸気の痕跡は見当たらず、文明を持つ火星人の存在はほぼ否定された。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "地球は780日(2年と7週間と1日)ごとに火星を追い越し、そのときの距離は約8000万キロ(約4光分)まで接近する。しかし、火星軌道が楕円であるために最接近時の距離は変化する。火星の近日点付近で接近すれば接近距離は5600万キロ程度となるが、遠日点付近で接近すれば1億キロ程度と2倍近く距離が異なる。肉眼で観測していると、火星は通常、ほかの星とはっきり異なる黄色あるいはオレンジ色や赤っぽい色に見え、軌道を公転するにつれて地球から見るほかのどの惑星よりも大きく明るさが変化する。これは、火星が地球からもっとも離れるときにはもっとも近づいたときの7倍以上も距離が離れるためである。なお、太陽と同じ方向にある合前後の数か月間は太陽の光で見えなくなることもある。もっとも観測に適した時期は32年ごとに2回、15年と17年をおいて交互にやってきて「大接近」と呼ばれる。この時期は常に7月終わりから9月終わりの間になる。この時期に火星を望遠鏡で見ると表面のさまざまな様子を詳細に見ることができる。低倍率でも見える特に目立つ特徴は極冠である。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2003年8月27日9時51分13秒(世界時)に火星は過去60,000年でもっとも近く、5,575万8,006キロまで地球に接近した(惑星光行差補正なしでの値)。この大接近は火星の近日点通過の3日後が火星の衝の翌日と重なったために生じたもので、地球から火星を特に見やすくなった。これ以前にもっとも近く接近したのは紀元前57617年9月12日と計算されている。太陽系の重力計算の詳細な解析から、2287年には2003年よりも近い接近が起こると計算されている。しかし正確に見ていくと、この記録的な大接近は284年ごとに4回起きている別の大接近よりもごくわずかに近いだけであることが分かる。たとえば、2003年8月27日の最接近距離が0.37271auであるのに対して1924年8月22日の最接近距離は0.37284auであり、2208年8月24日の接近は0.37278auである。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "2084年11月10日には火星から見て地球の太陽面通過が起こる。このときには太陽と地球、火星が一直線上に並ぶ。同様に火星から見た水星や金星の太陽面通過も起こる。火星の衛星であるダイモスは火星から見た角直径が太陽のそれより充分に小さいため、ダイモスによる部分日食も太陽面通過とみなせる。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1590年10月13日には過去唯一の金星による火星食が起こり、ドイツのハイデルベルクでメストリンによって観測された。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "地球上で発見されたもののうち、確実に隕石であり、かつ火星に起源を持つと思われる岩石がいくつか知られている。これらの隕石のうち2つからは古代の細菌の活動の痕跡かもしれない特徴が見つかっている。1996年8月6日、NASAは火星起源と考えられている「ALH84001」隕石の分析から、単細胞生命体の化石の可能性がある特徴が発見されたと発表した。しかしこの解釈にはいまだに議論の余地がある。",
"title": "火星起源の隕石"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "『Solar System Research』2004年3月号(38, p.97)に掲載された論文では、イエメンで発見されたカイドゥン隕石が火星の衛星フォボスに起源を持つ可能性があると示唆している。",
"title": "火星起源の隕石"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2004年4月14日にNASAは、オポチュニティによって調査された\"Bounce\"という名前の岩石が、1979年に南極で発見された隕石「EETA79001-B」と似た組成を持っていることを明らかにした。この岩石はこの隕石と同じクレーターから飛散したか、あるいは火星表面の同じ地域にある別々のクレーターから飛ばされた可能性がある。",
"title": "火星起源の隕石"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2005年7月29日、BBCは火星の北極地方のクレーターで氷の湖が発見されたと報じた。ESAのマーズ・エクスプレス探査機に搭載された高解像度ステレオカメラで撮影されたこのクレーターの画像には、北緯70.5度、東経103度に位置し、火星北極域の大半を占めるボレアリス平野にある無名のクレーターの底に平らな氷が広がっている様子がはっきりと写っている。このクレーターは直径35キロ、深さ約2キロである。",
"title": "氷の湖"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "BBCの報道ではやや誇張されているが、もともとのESAの発表ではこれが湖であるとは主張していない。火星の数多くのほかの場所に見られるものと同様に、この円板状の氷は暗く低温の砂丘の頂上(高度約200メートル)に薄い層状の霜が凝結してクレーターの底に広がったものである。報じられたこの氷が特に珍しいのは、霜のいくらかが1年中残りうるほどこの場所が高緯度にあるという点だけである。赤道付近は日中20°Cを越すこともあり、高緯度でなければ氷は存在できない。また、液体の水も、火星の大気は希薄、すなわち大気中の水蒸気圧が小さいため、火星表面のほとんどの地域ではすぐ蒸発してしまうため存在できない。液体の水が存在できるのはヘラス盆地など限られた場所のみである。",
"title": "氷の湖"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "かつての火星は現在よりも確実に生命に適した環境だったという証拠は存在するが、実際に生命がいたかどうかについては確定できていない。",
"title": "生命"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "現在の火星は、ハビタブルゾーン内(生命存在の可能な天体が、存在できる領域)にあるとされる。",
"title": "生命"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "火星の名称(Mars/マーズ)は、ローマ神話の神マルス(ギリシア神話の軍神アレース)から名付けられた。メソポタミアの民は赤い惑星に戦火と血を連想して彼らの戦神ネルガルの名を冠して以来、火星には各々の地でその地の戦神の名がつけられている(ほかの惑星名についてもほぼ同様の継承が認められる)。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "火星は五行説に基づく呼び名であり(五行説は東洋医学の基礎理論でもある)、学問上(天文史料)では熒惑()といった。「熒」はしばしば同音の「螢」と誤られる。また、この場合の「惑」は「ワク」ではなく「コク」と読む。江戸時代には「なつひぼし」と訓じられた。そのため夏日星という和名もある。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "火星がさそり座のアンタレス(黄道の近くに位置しているため)付近にとどまること(地球から観測する場合、火星は順行から逆行に切り替える数日間、天球上の同じ場所に止まるように見える)を熒惑守心(熒惑心を守る)といい、不吉の前兆とされた。「心」とは、アンタレスが所属する星官(中国の星座)心宿のこと。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "火星は七曜・九曜の1つで、10大天体の1つである。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "西洋占星術では、白羊宮の支配星、天蝎宮の副支配星で、凶星である。積極性を示し、運動、暴力戦争などの争い、外科、年下の男にあてはまる。",
"title": "人類との関係"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "火星の惑星記号はマルスを象徴する盾と槍を図案化したものが、占星術・天文学を通して用いられる。これを雌雄の表記に転用したのはカール・フォン・リンネであり、生殖器の図案ではない。",
"title": "人類との関係"
}
] | 火星は、太陽系の太陽に近い方から4番目の惑星で、太陽系内では水星より大きく2番目に小さい惑星である。英語では火星はローマ神話の軍神の名を持ち、しばしば「赤い惑星(Red Planet)」と呼ばれる。 | {{otheruses||航空機用エンジン|火星 (エンジン)|北朝鮮の弾道ミサイル|北朝鮮によるミサイル発射実験}}
{{redirect|夏日星|[[大沢あかね]]のシングル|大沢あかね#シングル}}
{{JIS2004}}
{{天体 基本
| 幅 = 350px
| 色 = 地球型惑星
| 和名 = 火星 [[ファイル:Mars symbol.svg|24px|♂]]
| 英名 = [[:en:Mars|Mars]]
| 画像ファイル = OSIRIS Mars true color.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 探査機「[[ロゼッタ (探査機)|ロゼッタ]]」による撮影([[2007年]]2月24日)
| 画像背景色 = #000
| 仮符号・別名 = 炎星、災星、夏日星、熒惑
| 分類 = [[地球型惑星]]
| 軌道の種類 = [[外惑星]]
}}
{{天体 発見
| 色 = 地球型惑星
| 発見日 =
| 発見年 = 有史以前
| 発見者 =
| 発見方法 = 目視
}}
{{天体 軌道
| 色 = 地球型惑星
| 元期 = [[J2000.0]]{{R|factsheet}}
| 平均距離 =
| 平均距離対象 = [[太陽]]
| 平均公転半径 = [[1 E11 m|227,920,000 km]]{{R|factsheet}}
| 平均直径 =
| 軌道長半径 =
| 近日点距離 = 1.381 [[天文単位|au]]<br />(206,650,000 km{{R|factsheet}})
| 遠日点距離 = 1.666 au<br />(249,261,000 km{{R|factsheet}})
| 離心率 = 0.09341233{{R|factsheet}}
| 公転周期 = 686.980 日{{R|factsheet}}<br />(1.881 年{{R|factsheet}})
| 会合周期 = 779.94 日{{R|factsheet}}
| 軌道周期 =
| 平均軌道速度 = 24.07 km/s{{R|factsheet}}
| 軌道傾斜角 = 1.85061[[度 (角度)|°]]{{R|factsheet}}
| 近日点黄経 = 336.04084°{{R|factsheet}}
| 昇交点黄経 = 49.57854°{{R|factsheet}}
| 平均黄経 = 355.45332°{{R|factsheet}}
| 主恒星 = [[太陽]]
| 衛星数 = 2([[フォボス (衛星)|フォボス]]、[[ダイモス (衛星)|ダイモス]])
}}
{{天体 物理
| 色 = 地球型惑星
| 赤道直径 = [[1 E6 m|6,794.4 km]]
{{天体 項目|赤道半径|3,396.2 [[キロメートル|km]]{{R|factsheet}}}}
{{天体 項目|極半径|3,376.2 km{{R|factsheet}}}}
| 直径 =
| 半径 =
| 表面積 = 1.44{{e|8}} [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]
| 体積 = 1.6318{{e|11}} [[立方キロメートル|km<sup>3</sup>]]{{R|factsheet}}
| 質量 = 6.4171{{e|23}} [[キログラム|kg]]{{R|factsheet}}
| 相対対象1 = 地球
| 相対質量1 = 0.10745<ref name="理科年表平成24年度版p.78-79">国立天文台 編集『理科年表』平成24年 机上版、丸善、2011年、ISBN 978-4-621-08439-7、p.78-79</ref>
| 平均密度 = 3.933 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm<sup>3</sup>]]{{R|factsheet}}
| 表面重力 = 3.71 [[メートル毎秒毎秒|m/s{{sup|2}}]]{{R|factsheet}}
| 脱出速度 = 5.03 km/s{{R|factsheet}}
| 自転周期 = 24.6597 時間{{R|factsheet}}<br />(1.027 日){{R|factsheet}}
| アルベド = 0.250{{R|factsheet}}
| 赤道傾斜角 = 25.19°{{R|factsheet}}
| 表面温度 =
| 最小表面温度 = 133 [[ケルビン|K]]
| 平均表面温度 = 210 K{{R|factsheet}}
| 最大表面温度 = 293 K
| 年齢 =
| 大気圧 = 0.7-0.9 [[パスカル (単位)|kPa]]
| 大気 =
{{天体 項目|[[二酸化炭素]]|95.32%{{R|factsheet}}}}
{{天体 項目|[[窒素]]|2.7%{{R|factsheet}}}}
{{天体 項目|[[アルゴン]]|1.6%{{R|factsheet}}}}
{{天体 項目|[[酸素]]|0.13%{{R|factsheet}}}}
{{天体 項目|[[一酸化炭素]]|0.08%{{R|factsheet}}}}
{{天体 項目|[[水]]蒸気<br>[[一酸化窒素]]<br>[[ネオン]]<br />[[クリプトン]]<br />[[キセノン]]<br />[[オゾン]]|微量{{R|factsheet}}}}
| 外殻 =
}}
{{天体 終了
| 色 = 地球型惑星
}}
'''火星'''(かせい、{{lang-la-short|Mars}}、マールス、{{lang-en-short|Mars}}、マーズ、{{lang-el-short|{{Unicode|Άρης}}}}、アレース)は、[[太陽系]]の[[太陽]]に近い方から4番目の[[惑星]]で、太陽系内では[[水星]]より大きく2番目に小さい惑星である。英語では火星は[[マールス|ローマ神話の軍神の名]]を持ち、しばしば「'''赤い惑星'''('''Red Planet''')」と呼ばれる<ref name="Zubrin1997">{{Cite book|title=The Case for Mars: The Plan to Settle the Red Planet and Why We Must|publisher=Touchstone|location=New York|first=Robert|last=Zubrin|first2=Richard|last2=Wagner|date=1997|oclc=489144963|isbn=978-0-684-83550-1|url=https://archive.org/details/caseformarsplant00zubr}}</ref> <ref name="Rees2012">{{Cite book|title=Universe: The Definitive Visual Guide|publisher=Dorling Kindersley|location=New York|editor-first=Martin J.|editor-last=Rees|pages=160–161|date=October 2012|isbn=978-0-7566-9841-6}}</ref>。
== 概要 ==
火星は大気の薄い[[地球型惑星]]で、[[月]]の衝突[[クレーター]]や[[地球]]の谷、砂漠、[[極冠|極地の氷冠]]を思わせるような表面形状をしている。別名の赤い惑星とは、火星の表面に存在する[[酸化鉄(III)|酸化鉄]]の影響で、肉眼で見える天体の中でも独特の赤みを帯びた外観を持つことを指す。
また、[[自転周期]]や[[黄道|黄道面]]に対する回転軸の傾きが似ているため、1日の長さ([[火星日]])や季節は地球と同等である。火星には、太陽系最大の[[火山]]であり、[[太陽系の天体で最も高い山の一覧|最も高い山]]として知られる[[オリンポス山 (火星)|オリンポス山]]や、太陽系最大の峡谷のひとつである[[マリネリス峡谷]]がある。北半球にある滑らかなボレアリス盆地は、火星の40%を占めており、巨大な衝突現象の可能性がある。火星には[[フォボス (衛星)|フォボス]]と[[ダイモス (衛星)|ダイモス]]という2つの衛星があり、小さくて不規則な形をしている。これらは、[[火星のトロヤ群]]である「5261 [[エウレカ (小惑星)|エウレカ]]」と同様に、捕獲された[[小惑星]]である可能性がある<ref>{{Cite web|url=http://space.about.com/od/mars/a/Mars-Moon-Mystery.htm|title=Mars Moon Mystery|website=About.com|first=John P.|author=Millis|accessdate=2021-06-21}}</ref> <ref name="adler">{{Cite conference|url=http://www.lpi.usra.edu/meetings/marsconcepts2012/pdf/4337.pdf|title=Use of MRO Optical Navigation Camera to Prepare for Mars Sample Return|conference=Concepts and Approaches for Mars Exploration. 12–14 June 2012. Houston, Texas.|first1=M.|last=Adler|first2=W.|last2=Owen|first3=J.|last3=Riedel|at=4337|date=June 2012|bibcode=2012LPICo1679.4337A}}</ref>。
火星はいくつかの無人探査機によって[[火星探査|探査]]されている。1964年11月28日に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]によって打ち上げられた[[マリナー4号]]は、1965年7月15日に火星に最接近した、火星を訪れた最初の宇宙船である。マリナー4号は、地球の約0.1%という弱い火星の放射線帯を検出し、深宇宙から他の惑星を撮影した最初の画像となった<ref>{{Cite web|url=https://solarsystem.nasa.gov/missions/mariner-04/in-depth|title=In Depth {{!}} Mariner 04|website=NASA Solar System Exploration|accessdate=2020-02-09|quote=The Mariner 4 mission, the second of two Mars flyby attempts launched in 1964 by NASA, was one of the great early successes of the agency, and indeed the Space Age, returning the very first photos of another planet from deep space.}}</ref>。[[ソビエト連邦の宇宙開発|ソ連の火星探査機]]「[[マルス3号]]」は[[ランダー|着陸船]]を搭載し、1971年12月に[[ソフトランディング]]を果たしたが、タッチダウンの数秒後に連絡が途絶えた<ref>{{Cite web|author=Shea|first=Garrett|date=2018-09-20|title=Beyond Earth: A Chronicle of Deep Space Exploration|url=http://www.nasa.gov/connect/ebooks/beyond_earth_detail.html|accessdate=2020-02-09|website=NASA|pages=101–102|quote=Mars 3...Immediately after landing, at 13:50:35 UT, the lander probe began transmitting a TV image of the Martian surface although transmissions abruptly ceased after 14.5 seconds (or 20 seconds according to some sources).}}</ref>。1976年7月20日、「[[バイキング1号]]」が火星表面への着陸に初めて成功した<ref>{{Cite web|url=https://solarsystem.nasa.gov/missions/viking-1/in-depth|title=In Depth {{!}} Viking 1|website=NASA Solar System Exploration|accessdate=2020-02-09|quote=NASA's Viking 1 made the first truly successful landing on Mars. The Soviet Mars 3 lander claimed a technical first with a survivable landing in 1971, but contact was lost seconds after it touched down.}}</ref>。1997年7月4日、火星探査機「[[マーズ・パスファインダー]]」が火星に着陸し、7月5日には火星で活動した初のロボット[[探査車|ローバー]]「ソジャーナー」を放出した<ref>{{Cite web|url=https://solarsystem.nasa.gov/missions/mars-pathfinder/in-depth|title=In Depth {{!}} Mars Pathfinder|website=NASA Solar System Exploration|accessdate=2020-02-09|quote=Landing time for Pathfinder was 16:56:55 UT July 4, 1997, at 19 degrees 7 minutes 48 seconds north latitude and 33 degrees 13 minutes 12 seconds west longitude in Ares Vallis, about 12 miles (19 kilometers) southwest of the original target. The next day, Pathfinder deployed the Sojourner rover on the Martian surface via landing ramps. Sojourner was the first wheeled vehicle to be used on any planet.}}</ref>。2003年12月25日には、[[欧州宇宙機関]](ESA)が初めて火星を訪れた探査機「[[マーズ・エクスプレス]]」が軌道上に到着した<ref>{{Cite web|title=Frequently asked questions|url=http://www.esa.int/Science_Exploration/Space_Science/Mars_Express/Frequently_asked_questions2|accessdate=2020-02-10|website=www.esa.int|quote=Mars Express reached Mars at the end of December 2003. Six days before entering into orbit around Mars, Mars Express ejected the Beagle 2 lander. The orbiter was inserted into orbit around Mars on 25 December 2003.}}</ref>。2004年1月には、[[スピリット (探査機)|スピリット]]と[[オポチュニティ]]と名付けられたNASAの[[マーズ・エクスプロレーション・ローバー]]がともに火星に着陸し、スピリットは2010年3月22日まで、オポチュニティは2018年6月10日まで活動した<ref>{{Cite web|url=https://mars.nasa.gov/mer/mission/rover-status/spirit/2010/all/|title=Rover Update: 2010: All|author=mars.nasa.gov|website=mars.nasa.gov|accessdate=14 February 2019}}</ref>。NASAは2012年8月6日、火星の気候と地質を調査する「[[マーズ・サイエンス・ラボラトリー]](MSL)」ミッションの一環として、探査機「キュリオシティ」を着陸させた<ref>{{Cite web|author=mars.nasa.gov|title=Curiosity Has Landed|url=https://mars.nasa.gov/resources/20060/curiosity-has-landed|accessdate=2021-02-21|website=NASA’s Mars Exploration Program|language=en}}</ref>。2014年9月24日、[[インド宇宙研究機関]](ISRO)は、初の惑星間ミッションである探査機「[[マーズ・オービター・ミッション]]」が軌道上に到着し、火星を訪れた4番目の宇宙機関となった<ref>{{Cite web|url=https://www.isro.gov.in/mars-orbiter-mission-completes-1000-days-orbit|title=Mars Orbiter Mission Completes 1000 Days in Orbit - ISRO|website=isro.gov.in|accessdate=2020-02-10|quote=Mars Orbiter Mission (MOM), the maiden interplanetary mission of ISRO, launched on November 5, 2013 by PSLV-C25 got inserted into Martian orbit on September 24, 2014 in its first attempt.}}</ref>。[[アラブ首長国連邦]]は、2021年2月9日に火星探査機を火星の大気圏に投入し、火星へのミッションを成功させた5番目の宇宙機関となった<ref>{{Cite web|url=https://www.bbc.com/news/science-environment-55998848|title=UAE successfully inserts orbiter to Mars orbit|date=2021-02-09|accessdate=2021-06-21}}</ref>。また、NASAのローバー「[[パーサヴィアランス]]」が2021年2月18日に火星への着陸に成功した。
火星の[[惑星の居住可能性|過去の居住性]]や[[火星の生命|現存する生命の可能性]]を評価する調査が行われている。欧州宇宙機関のロザリンド・フランクリン・ローバーのようなアストロバイオロジー・ミッションが計画されている<ref name="curiosity search for life">{{Cite web|url=http://www.marsdaily.com/reports/Using_Curiosity_to_Search_for_Life_999.html|title=Using Curiosity to Search for Life|website=Mars Daily|date=26 February 2015|accessdate=9 August 2015|author=Jarell, Elizabeth M}}</ref> <ref name="MER Search for Life">{{Cite web|url=http://mars.nasa.gov/mer/home/resources/MERLithograph.pdf|title=The Mars Exploration Rover Mission|publisher=NASA|date=November 2013|accessdate=9 August 2015|page=20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151010130653/http://mars.nasa.gov/mer/home/resources/MERLithograph.pdf|archivedate=10 October 2015}}</ref> <ref name="ExoMars's search for life">{{Cite web|url=http://www.euronews.com/2015/05/21/mars-mystery-exomars-mission-to-finally-resolve-question-of-life-on-red-planet/|title=Mars mystery: ExoMars mission to finally resolve question of life on red planet|publisher=EuroNews|date=21 May 2015|accessdate=9 August 2015|author=Wilks, Jeremy}}</ref> <ref name="Mars 2020 search for life">{{Cite journal|last=Howell, Elizabeth|date=5 January 2015|title=Life on Mars? NASA's next rover aims to find out.|url=http://www.csmonitor.com/Science/2015/0105/Life-on-Mars-NASA-s-next-rover-aims-to-find-out|journal=The Christian Science Monitor|accessdate=9 August 2015}}</ref>。火星の気圧は地球の1%以下と低いため、火星の地表に液体の水は存在しない<ref name="nasa.gov">{{Cite web|url=http://www.nasa.gov/mission_pages/msl/news/msl20121102.html|title=NASA – NASA Rover Finds Clues to Changes in Mars' Atmosphere|publisher=NASA|accessdate=2021-06-21}}</ref>。2つの極地の氷冠は、大部分が水でできているとされる。南極の氷冠に含まれる水の氷の量は、もし溶けた場合、惑星の表面を11メートルの深さまで覆うのに十分である。2016年11月、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]は[[ユートピア平原]]領域で大量の地下氷を発見したことを報告した。検出された水の量は、[[スペリオル湖]]の水の量に相当すると推定されている<ref>{{Cite web|url=https://www.theregister.co.uk/2016/11/22/nasa_finds_ice_under_martian_surface/|title=Lake of frozen water the size of New Mexico found on Mars – NASA|website=The Register|date=22 November 2016|accessdate=23 November 2016}}</ref> <ref>{{Cite web|url=http://www.jpl.nasa.gov/news/news.php?release=2016-299|title=Mars Ice Deposit Holds as Much Water as Lake Superior|publisher=NASA|date=22 November 2016|accessdate=23 November 2016}}</ref> <ref name="NASA-20161122">{{Cite web|author=Staff|title=Scalloped Terrain Led to Finding of Buried Ice on Mars|url=http://photojournal.jpl.nasa.gov/catalog/PIA21136|date=22 November 2016|publisher=NASA|accessdate=23 November 2016}}</ref>。
火星は、その赤みを帯びた色合いのように、地球から肉眼で簡単に見ることができる。火星の[[見かけの等級]]は-2.94で、これは[[金星]]、月、太陽に次ぐ明るさである。地上の光学望遠鏡では、地球の大気の影響を受けるため、地球と火星が最も接近したときに、300km程度の大きさのものしか見ることができない。
== 物理的性質 ==
[[ファイル:Mars Earth Comparison.png|thumb|200px|left|地球と火星の大きさ比較。]]
火星は[[地球型惑星]]に分類される、いわゆる硬い岩石の地表を持った惑星である。火星には[[海]]が無く、[[酸化鉄]](赤さび)を大量に含む赤い地表が広がっている。半径は地球の約2分の1、質量は地球の約10分の1であり、火星の地表での[[重力]]の強さは、地球の40パーセントほどである。火星の[[表面積]]は、地球の表面積の約4分の1であるが、これは地球の陸地の面積(約1.5億平方キロメートル)とほぼ等しい。火星の[[自転|自転周期]]は地球のそれと非常に近く、火星の1日(1火星[[太陽時|太陽日]]、1sol)は、24時間39分35.244秒である。また、地球と同じように太陽に対して[[自転軸]]を傾けたまま公転しているため、火星には[[季節]]が存在する。
=== 質量 ===
地球や金星と比べて火星の質量は小さい{{R|astro20110609}}。太陽系の[[惑星移動]]のモデルである[[グランド・タック・モデル]]によると、[[木星]]は火星形成前に一度火星軌道程度まで太陽に近づき、のちに現在の軌道に落ち着いたとしている<ref name="astro20110609"/>。その際、火星軌道付近の微惑星がはじき飛ばされ枯渇してしまったため、火星が大きく成長できなかった可能性を示唆している<ref name="astro20110609"/>。
=== 大気 ===
{{main|火星の大気}}
[[ファイル:Mars atmosphere.jpg|thumb|left|火星(この低軌道写真の中の地平線で見える)の薄い大気]]
[[ファイル:MarsSunset.jpg|thumb|火星探査機[[マーズ・サイエンス・ラボラトリー|キュリオシティ]]が[[ゲール (クレーター)|ゲールクレーター]]で撮影した火星の青い夕焼け<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3048559 |title=火星の青い夕焼け、キュリオシティーが撮影 |access-date=2023-07-29 |date=2015-05-14 |website=www.afpbb.com |language=ja}}</ref>。火星の大気は低重力によって塵が舞っていて[[ミー散乱]]によって昼間の空は赤く、散乱しなかった青の光は直進することで青い夕焼けとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://nazology.net/archives/108145/3 |title=火星の夕焼けはなぜ「青い」のか? 光の散乱と大気の美しい関係 (3/4) |access-date=2023-07-29 |date=2022-05-03 |website=ナゾロジー |language=ja}}</ref>。]]
火星の[[大気圏|大気]]は希薄で、地表での[[気圧|大気圧]]は約750[[パスカル (単位)|Pa]]と地球での平均値の約0.75パーセントに過ぎない。逆に大気の厚さを示す[[スケールハイト]]は約11キロに達し、およそ6キロである地球よりも高い。これらはいずれも、火星の重力が地球よりも弱いことに起因している。大気が希薄なために熱を保持する作用が弱く、表面温度は最高でも約20℃である。大気の組成は[[二酸化炭素]]が95パーセント、[[窒素]]が3パーセント、[[アルゴン]]が1.6パーセントで、ほかに[[酸素]]や[[水蒸気]]などの微量成分を含む。ただし、火星の大気の上層部は[[太陽風]]の影響を受けて[[大気散逸|宇宙空間へと流出]]していることが、ソビエト連邦の無人火星探査機の[[フォボス2号]]によって観測されている。したがって上記の火星の大気圧や大気組成は、長い目で見ると変化している可能性、そして今後も変化していく可能性が指摘されている。
2003年に地球からの[[望遠鏡]]による観測で大気に[[メタン]]が含まれている可能性が浮上し、[[2004年]]3月の[[マーズ・エクスプレス]]探査機の調査による大気の解析でメタンの存在が確認された。現在観測されているメタンの量の平均値は体積比で約11±4 [[ppb]]である。
火星の環境下では不安定な気体であるメタンの存在は、火星にメタンのガス源が存在する(または、少なくとも最近100年以内には存在していた)という興味深い事実を示唆している。ガスの生成源としては[[火山]]活動や[[彗星]]の衝突、あるいは[[メタン菌]]のような[[微生物]]の形で生命が存在するなどの可能性が考えられているが、いずれも未確認である。地球の海では、生物によってメタンが生成される際には同時に[[エタン]]も生成される傾向がある。一方、火山活動から放出されるメタンには[[二酸化硫黄]]が付随する。メタンは火星表面のところどころに局所的に存在しているように見えることから、発生したメタンは大気中に一様に分布するよりも短時間で分解されていることがうかがえる。それゆえ、おそらく持続的に大気中に放出されているとも推測される。発生源に関する仮説でどれがもっとも有力かを推定するために、メタンと同時に放出される別の気体を検出する計画も現在進められている。
火星大気には大きく変化する面もある。冬の数か月間に極地方で夜が続くと、地表は非常に低温になり、大気全体の25パーセントもが凝固して厚さ数メートルに達する二酸化炭素の氷([[ドライアイス]])の層をつくる。やがて、極に再び日光が当たる季節になると二酸化炭素の氷は[[昇華 (化学)|昇華]]して、極地方に吹き付ける時速400キロに達する強い風が発生する。これらの季節的活動によって大量の塵や水蒸気が運ばれ、地球と似た[[霜]]や大規模な[[巻雲]]が生じる。このような水の氷からなる雲の写真が2004年に[[オポチュニティ]]によって撮影されている([http://marsrovers.jpl.nasa.gov/gallery/press/opportunity/20041213a/merb_sol290_clouds-B313R1_br.jpg NASA撮影画像へのリンク])。また、南極で二酸化炭素が爆発的に噴出した跡が[[マーズ・オデッセイ]]によって撮影されている<ref>[http://www.astroarts.com/news/2006/09/07martian_environment/index-j.shtml 地球では考えられない!極限的でダイナミックな火星の気候]</ref>。
火星は短い時間尺度では温暖化していることを示唆する証拠も発見されている<ref>{{Cite web| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/4266474.stm|title=Mars 'more active than suspected'|date=2005年9月21日|publisher=[[英国放送協会|BBC]]|accessdate=2008年5月24日}}</ref>。しかし21世紀初頭の火星は[[1970年代]]よりは寒冷である<ref>{{Cite web|url=http://catdynamics.blogspot.com/2005/09/climate-science-mars-and-politics.html|title=Climate Science, Mars and Politics|date=2005年9月21日|author=Steinn|accessdate=2008年5月24日}}</ref>。
火星の質量は地球の11%で、地球より太陽からの距離が離れているが、気候変動、観測可能な気候パターンなど、気候面では重要な共通点を持っている<ref name="swind">{{cite web|last=Philips|first=Tony|title=The Solar Wind at Mars|website=Science@NASA|date=31 January 2001|url=https://science.nasa.gov/science-news/science-at-nasa/2001/ast31jan_1/|access-date=22 April 2022}} {{PD-notice}}</ref>。
=== 温度 ===
火星の[[有効温度]]は氷点下56℃であり、実際の温度の氷点下53℃とほとんど変わらないのは、二酸化炭素が0.006気圧であり水蒸気もほとんど存在せず[[温室効果]]が弱いからである<ref name="tajika">田近英一、『地球環境46億年の大変動史』p28ほか、株式会社化学同人、2009年5月30日、ISBN 978-4-7598-1324-1 </ref>。
=== 地質 ===
{{Main|火星の地質学的歴史}}[[ファイル:Spirit Mars Silica April 20 2007.jpg|thumb|[[スピリット (探査機)|スピリット]]が抉った地表。明るい[[シリカ]]([[二酸化ケイ素]])が剥き出しになっている。]]
火星の表面は主として[[玄武岩]]と[[安山岩]]からなっている。いずれも地球上ではマグマが地表近くで固まって生成する岩石であり、含まれる[[二酸化ケイ素]](SiO{{sub|2}})の量で区別される。火星では多くの場所が厚さ数メートルあるいはそれ以上の滑石粉のような細かい塵で覆われている。
[[マーズ・グローバル・サーベイヤー]]探査機による火星の[[磁場]]の観測から、火星の[[地殻]]が向きの反転を繰り返すバンド状に[[磁化]]されていることが分かっている。この磁化バンドは典型的には幅160キロ、長さ1,000キロにわたっている。このような磁化のパターンは地球の海底に見られるものと似ている。[[1999年]]に発表された興味深い説によると、これらのバンドは過去の火星の[[プレートテクトニクス]]作用の証拠かもしれないと考えられている。しかしそのようなプレート活動があった証拠はまだ確認されていない<ref>{{ Cite web | url=http://photojournal.jpl.nasa.gov/catalog/PIA02008 | title=Magnetic Strips Preserve Record of Ancient Mars | date=1999年5月3日 | publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>。[[2005年]]10月に発表された新たな発見は上記の説を支持するもので、地球で発見されている海底拡大によるテクトニクス活動と同様の活動が太古の火星にあったことを示している<ref>{{ Cite web | url=http://www.pnas.org/cgi/content/full/102/42/14970#SEC5 | title=Tectonic implications of Mars crustal magnetism | date=2005年10月10日 | publisher=[[米国科学アカデミー紀要|PNAS]] | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>。もしこれらが正しければ、これらの活動によって[[炭素]]の豊富な岩石が地表に運ばれることによって地球に近い大気が維持され、一方で磁場の存在によって火星表面が宇宙[[放射線]]から守られることになったかもしれない。またこれらとは別の理論的説明も提案されている。
[[ファイル:Nasa_mars_opportunity_rock_water_150_eng_02mar04.jpg|thumb|left|オポチュニティによって撮影された火星の岩石の顕微鏡写真。過去に水の作用によって作られたと考えられている。]]
オポチュニティによる発見の中に、[[メリディアニ平原]]で採取した岩石から小さな球形の[[赤鉄鉱]]([[ヘマタイト]])が発見された。この球体は直径わずか数ミリしかなく、数十億年前に水の多い環境の下で[[堆積岩]]として作られたものと考えられている。ほかにも[[鉄ミョウバン石]]など、[[硫黄]]、[[鉄]]、[[臭素]]を含む鉱物が発見されている。これらを含む多くの証拠から、[[学術誌]]『[[サイエンス]]』 [[2004年]][[12月9日]]号において50名の研究者からなる研究グループは、「火星表面のメリディアニ平原では過去に液体の水が断続的に存在し、地表の下が水で満たされていた時代が何回かあった。液体の水は生命にとって鍵となる必要条件であるため、我々は火星の歴史の中でメリディアニでは生命の存在可能な環境が何度か作られていたと推測している」と結論している。メリディアニの反対側の火星表面では、[[コロンビア・ヒルズ (火星)|コロンビア・ヒルズ]]において[[マーズ・エクスプロレーション・ローバー|スピリット]]が[[針鉄鉱]]を発見している。これは(赤鉄鉱とは異なり)水が存在する環境で「のみ」作られる鉱物である。スピリットはほかにも水の存在を示す証拠を発見している。
マーズ・グローバル・サーベイヤーが2006年に撮影した写真から、クレーター内壁の斜面を液体が流れた痕跡が見つかったが、1999年に同じ場所を撮影した写真には写っておらず、それ以降にできたものと思われる。
[[1996年]]、火星起源であると考えられている[[隕石]]「[[アラン・ヒルズ84001|ALH84001]]」を調査していた研究者が、火星の生命によって残されたと思われる微小[[化石]]がこの隕石に含まれていることを報告した。2005年現在、この解釈についてはいまだに議論があり、合意は得られていない。
=== 地形 ===
[[ファイル:MarsTopoMap-PIA02031_modest.jpg|thumb|right|250px|火星の地形図。特徴的な地形として、西部の[[タルシス]]火山群([[オリンポス山 (火星)|オリンポス山]]を含む)、タルシスの東にある[[マリネリス峡谷]]、南半球の[[ヘラス平原|ヘラス盆地]]などがある]]
{{See also|火星の地形一覧}}
火星の地形は大きく2通りに分かれており、特徴的である。北半球は[[溶岩]]流によって平らに均された平原(北部平原の成因としては大量の水による侵食説もある)が広がっており、一方、南半球は太古の隕石衝突による窪地や[[クレーター]]が存在する高地が多い。地球から見た火星表面もこのために2種類の地域に分けられ、両者は光の反射率である[[アルベド]]が異なっている。明るく見える平原は赤い酸化鉄を多く含む塵と砂に覆われており、かつては火星の[[大陸]]と見立てられて[[アラビア大陸]](Arabia Terra)や[[アマゾニス平原]](Amazonis Planitia)などと命名されている。暗い模様は海と考えられ、エリトリア海(Mare Erythraeum<!-- 「紅海」のラテン語名と同じ。「エリュトラー」の方がいいいかも? -->)、シレーヌス([[セイレーン]]たち)の海(Mare Sirenum)、オーロラ湾(Aurorae Sinus)<!-- 日本語定訳が間違っていたら適宜修正して下さい。ラテン語難しい… -->などと名づけられている。地球から見えるもっとも大きな暗い模様は[[大シルチス]](Syrtis Major)である。
[[ファイル:Martian north polar cap.jpg|thumb|right|北極地の初夏極冠]]
火星には水と二酸化炭素の氷からなる[[極冠]]があり、火星の季節によって変化する。二酸化炭素の氷は夏には昇華して岩石からなる表面が現れ、冬には再び氷ができる。[[楯状火山]]である[[オリンポス山 (火星)|オリンポス山]]は標高27キロの太陽系最高の山である<ref>{{ Cite web | url=http://quest.arc.nasa.gov/mars/ask/terrain-geo/highest_and_lowest_points_on_Mars.txt | title=What are the highest and lowest elevations on the surface on Mars? | date=1997年1月24日 | publisher=NASA | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>。この山は[[タルシス]]高地と呼ばれる広大な高地にあり、この地方にはいくつかの大きな火山がある。火星には太陽系最大の峡谷である[[マリネリス峡谷]]も存在する。この峡谷は全長4,000キロ、深さ7キロに達する。火星には多くのクレーターも存在する。最大のものは[[ヘラス平原|ヘラス盆地]]で、明るい赤色の砂で覆われている。
火星の最高地点と最低地点の標高差は約31キロである。オリンポス山の山頂 27キロがもっとも高く、ヘラス盆地の底部、標高基準面の約4キロ下がもっとも低い。これと比べて地球の最高点と最低点([[エベレスト]]と[[マリアナ海溝]])の差は19.7キロに過ぎない。両惑星の半径の差を考えると、火星が地球よりもおよそ3倍も凸凹であることを示している。
21世紀初頭現在では、[[国際天文学連合]](IAU)の惑星系命名ワーキンググループが火星表面の地形名の命名を担当している。
=== 座標の基準 ===
火星には海がないため[[海抜]]という定義は使えない。したがって高度0の面、すなわち[[平均重力面]]を選ぶ必要がある。火星の基準測地系は4階4次の[[球面調和関数]]重力場で定義され、高度0は温度273.16Kでの大気圧が610.5Pa(地球の約0.6パーセント)となる面として定義されている。この圧力と温度は水の[[三重点]]に対応している。
火星の赤道はその自転から定義されているが、基準[[子午線]]の位置は地球の場合と同様に任意の点が選ばれ、後世の観測者によって受け入れられていった。ドイツの天文学者[[ヴィルヘルム・ベーア]]と[[ヨハン・ハインリッヒ・メドラー]]は[[1830年]]から32年にかけて最初の火星の体系的な地図を作成した際に、ある小さな円形の模様を基準点とした。彼らの選択した基準点は[[1877年]]に、イタリアの天文学者[[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]が有名な火星図の作成を始めた際に基準子午線として採用された。[[1972年]]に探査機[[マリナー9号]]が火星の広範囲の画像を撮影したあと、子午線の湾のベーアとメドラーの子午線上にある小さなクレーター(のちに[[エアリー0]]と呼ばれる)がアメリカ、[[RAND]]社の[[メルトン・デーヴィス]]によって、惑星撮影時の制御点ネットワークを決める際により正確な経度0.0度の定義として採用された。
=== 「運河」 ===
{{Main|火星の運河}}
火星にはかつて生命が存在したという考えのために、火星は人類の想像の世界の中で重要な位置を占めている。こういった考えはおもに[[19世紀]]に多くの人々によって行われ、特に[[パーシヴァル・ローウェル]]や[[ジョヴァンニ・スキアパレッリ]]による火星観測から生まれ、一般に知られるようになった、スキアパレッリは観測された模様を{{Lang-it|''canali''}}(溝)という語で記述した。これが{{Lang-en|''canal''}}([[運河]])と誤訳され、ここから「火星の運河」という説が始まった<ref>{{Cite web|和書
|url = https://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2010MARS_description1.html
|title = 「火星―ウソカラデタマコト」
|author = [[東京大学総合研究博物館]]
|accessdate = 2011-05-20
}}</ref>。これらの火星表面の模様は「人工的な」直線状の模様のように見えたために運河であると主張された。またある領域の明るさが季節によって変化するのは植物の成長によるものだと考えられた。
当初の観測時点でも自然地形とみなされたものが、翻訳(誤訳)によって「運河」と表現されたことで、人工物的な意味合いが付与されてしまった。そこから[[火星人]]に関連した多くの話が生まれた。だが火星探査が進むと、運河は無い(=人工物ではなく自然地形である・知的生命体はいない・火星人の文明はない)ことがわかる。先述の色の変化は塵の嵐のためであると考えられている。
== 衛星 ==
{{main|火星の衛星}}
火星には[[フォボス (衛星)|フォボス]]と[[ダイモス (衛星)|ダイモス]]の2つの[[衛星]]が存在する<ref>{{Cite book|和書 |author = 橘省吾 |year = 2016 |title = 星くずたちの記憶 |publisher = [[岩波書店]] |page = 73 |isbn = 978-4-00-029652-6}}</ref>。ともに1877年に[[アサフ・ホール]]によって発見され、[[ギリシア神話]]で軍神[[アレース]]の戦いに同行した息子の[[ポボス|フォボス]](「狼狽」の意)、[[デイモス|ダイモス]](「恐怖」の意)から名付けられた。アレースは[[ローマ神話]]では戦争の神[[マールス|マルス]]として知られている。
== 探査 ==
[[ファイル:Mars_Viking_11h016.png|thumb|right|ヴァイキング1号の着陸地点]]
{{main|火星探査|火星探査機|火星にある人工物の一覧}}
火星の地表や気候、地形を研究するために、ソ連、アメリカ、ヨーロッパ、日本によって今までに軌道探査機、着陸機、ローバーなどの多くの[[宇宙探査機|探査機]]が火星に送り込まれた。火星を目指した探査機のうち、約3分の1がミッション完了前に、またはミッション開始直後に何らかの失敗を起こしており、失敗率が高い。原因は技術上の問題によるものと考えられるが、また一方で原因不明の失敗や交信途絶も多くあり、研究者の中には冗談半分に地球・火星間の「[[バミューダトライアングル]]」と呼んだり、[[火星探査機]]を食べて暮らしている宇宙悪霊がいると言ったり、火星の呪いと言う人もいる。
もっとも成功したミッションとしては、ソ連の火星探査機計画やアメリカの[[マリナー計画]]、[[バイキング計画]]、[[マーズ・グローバル・サーベイヤー]]、[[マーズ・パスファインダー]]、[[2001マーズ・オデッセイ]]などがある。グローバル・サーベイヤーは峡谷や土石流の写真を撮影し、[[帯水層]]と同様の液体の水が流れる水源が火星の地表または地表近くに存在する可能性を示唆した。2001マーズ・オデッセイは、火星の南緯60度以南の南極地方の地下約3メートル以内の表土には大量の水の氷が堆積していることを明らかにした。
2003年、[[欧州宇宙機関]](ESA)はマーズ・エクスプレス・オービタと着陸機ビーグル2からなる[[マーズ・エクスプレス]]探査機を打ち上げた。マーズ・エクスプレス・オービタは火星の南極に水と二酸化炭素の氷が存在することを確認した。[[アメリカ航空宇宙局|NASA]] はそれ以前に北極について、同様の氷が存在することを確認していた。ビーグル2との交信には失敗し、2004年2月初旬にビーグル2が失われたことが宣言された。
[[ファイル:Marsorizon232.JPG|thumb|center|800px|スピリットによって撮影されたコロンビア・ヒルズのパノラマ画像。アメリカにあるカホキア墳丘という先住民遺跡にちなんで Cahokia panorama と呼ばれている]]
同じ2003年に NASA はスピリット(MER-A)、オポチュニティ(MER-B)と命名された2機の[[マーズ・エクスプロレーション・ローバー]]を打ち上げた。2機とも2004年1月に無事に着陸し、すべての探査目標を調査した。当初計画されたミッションは90日間だったが、ミッションは数回延長され、いくつかの機械的トラブルは起きたものの、2007年現在もなお科学的成果を地球に送り続けている。最大の科学的成果は、両方の着陸地点で過去のある時期に液体の水が存在した証拠を発見したことである。また、火星の地上で撮影された[[塵旋風|旋風]](dust devil)が火星の地表を動いていく様子がスピリットによって検出された。この旋風はマーズ・パスファインダーで初めて撮影されていた。
[[ファイル:Marsdustdevil2.gif|thumb|center|580px|スピリットによって撮影された火星の旋風]]
[[2012年]]に[[マーズ・サイエンス・ラボラトリー]]が火星に到着し、キュリオシティー着陸の過程を撮影した720p10fpsの高精細な動画が地球に送られた。キュリオシティーには、過去火星に投入された探査機の中では最高の解像度(1600×1200)のカメラが搭載されており、次々に高精細なパノラマ画像が送られている。
2018年には、[[インサイト (探査機)|インサイト]]が[[エリシウム平原]]に着陸。搭載した[[地震計]]により、最初の15か月間の観測だけでも火星の[[地震]](火震)活動を数百回観測。地球や月と同レベルの「生きた天体」であることが確認された<ref>{{Cite web|和書|date=2020-02-26 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3270217?cx_part=topstory |title=火星の「地震」を観測、謎解明に前進 NASA探査機 |publisher=AFP |accessdate=2020-02-26}}</ref>。
=== 有人探査 ===
{{Main|有人火星探査|火星の植民}}
[[ファイル:Manndmissiononmarsnasa.jpg|thumb|[[有人火星探査]]の想像図。]]
[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]をはじめ、多くの人々が有人月探査の次のステップは、有人火星探査であると考えてきた。有人探査の賛同者は、人間は無人探査機よりも幾分優れており、<!--莫大なコストを費やしても(マーズ・ダイレクトのような低コストでの有人探査構想もあります)-->有人探査を進めるべきだと主張している。
[[アメリカ合衆国]]の[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ大統領(父)]]は[[1989年]]に月および火星の有人探査構想を明らかにしたが、多額の予算を必要とするために断念された。また、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ大統領(息子)]]も[[2004年]][[1月14日]]に「[[ビジョン・フォー・スペース・エクスプロレーション|宇宙探査の将来]]」と題した新たな計画を発表した。これによると、アメリカは[[2015年]]までにもう一度月に有人探査機を送り、その後有人での火星探査の可能性を探ることとなっていた([[コンステレーション計画]])。また、[[ロシア]]も将来的に有人火星探査を行うことを予定しており、技術的・経済的に判断して[[2025年]]までには実現可能であるとしている。さらにESAも、[[2030年]]までに人間を火星に送る「オーロラ・プログラム」と呼ばれる長期計画を持っている。
特にネックとなるのは、火星への往復と滞在期間の合計で1年強から3年弱という、月探査とは比較にならない長期間のミッションであることと、運ばなければならない物資の量である。このため、火星の大気から帰還用燃料を製造する無人工場を先行して送り込み、有人宇宙船は往路分のみの燃料で火星に到達し、探査後に無人工場で製造されていた燃料で帰還するというプラン「[[マーズ・ダイレクト]]」なども提案されている。
[[2010年]]、[[バラク・オバマ|オバマ大統領]]はコンステレーション計画の中止を表明したが、同時に予算を新型の[[ロケットエンジン]]開発などの将来性の高い新技術開発に振り向けるとしており、より短期間で火星に到達できる航行手段が実用化されることが期待される。また、同計画の代わりにオバマ大統領は、[[2030年代]]半ばを目標にした新たな有人火星探査計画も発表している。
=== 探査批判 ===
火星探査は近年根強く実施されているが、前述のように探査計画の約3分の1が失敗に終わるうえに、莫大な予算がかかるとして批判する声も大きい。「火星に水がかつてあった。それがどうした。我々の生活に関係あるのか?予算を地球のために使うべきだ」というようなものである。実際には(アメリカ合衆国を例に取れば)国防費の20分の1以下のNASAの予算の、さらにごく一部が火星探査に割り当てられているに過ぎないのだが、こうした声を無視することもできず、探査計画の低コスト化が進められている。
== 観測 ==
{{Main|火星の観測史}}[[ファイル:Retrograde Motion.bjb.svg|thumb|[[天球]]上の火星の動き。]]
[[16世紀]][[デンマーク]]の天文学者[[ティコ・ブラーエ]]は、地球を中心に太陽(火星など惑星は太陽の周りを回る)が回る変則的な[[天動説]]をとっていたが、肉眼によるものではもっとも精密に火星の軌道を観測した。ティコ(慣習として姓でなく名を通称とする)の助手であった[[ヨハネス・ケプラー]]は師の死後、観測データを解析することで惑星の軌道が円ではなく楕円であること、さらに火星の軌道からほかの惑星の軌道も楕円でありケプラーの法則に従うという[[地動説]]を主張した。公転速度が速く観測しやすい火星の[[軌道離心率]]が冥王星や水星に次いで大きい0.0934であったことも幸運であった。
1877年の火星大接近とスキアパレッリの発表に始まった火星運河説に重大な疑問を投げかけたのが、[[エッジワース・カイパーベルト]]の提唱者の1人であるカイパーである。1947年、火星を赤外線帯で観測し、大気の成分が二酸化炭素であると主張した。地球大気の重要な成分である窒素、酸素、水蒸気の痕跡は見当たらず、文明を持つ火星人の存在はほぼ否定された。
[[ファイル:Mars and Syrtis Major - GPN-2000-000923.jpg|thumb|left|180px|[[ハッブル宇宙望遠鏡]]が写した火星。]]
地球は780日(2年と7週間と1日)ごとに火星を追い越し、そのときの距離は約8000万キロ(約4[[光分]])まで接近する。しかし、火星軌道が[[楕円]]であるために最接近時の距離は変化する。火星の[[近日点]]付近で接近すれば接近距離は5600万キロ程度となるが、遠日点付近で接近すれば1億キロ程度と2倍近く距離が異なる。肉眼で観測していると、火星は通常、ほかの星とはっきり異なる黄色あるいはオレンジ色や赤っぽい色に見え、軌道を公転するにつれて地球から見るほかのどの惑星よりも大きく明るさが変化する。これは、火星が地球からもっとも離れるときにはもっとも近づいたときの7倍以上も距離が離れるためである。なお、太陽と同じ方向にある[[合 (天文)|合]]前後の数か月間は太陽の光で見えなくなることもある。もっとも観測に適した時期は32年ごとに2回、15年と17年をおいて交互にやってきて「大接近」と呼ばれる。この時期は常に7月終わりから9月終わりの間になる。この時期に火星を望遠鏡で見ると表面のさまざまな様子を詳細に見ることができる。低倍率でも見える特に目立つ特徴は[[極冠]]である。
2003年[[8月27日]]9時51分13秒([[世界時]])に火星は過去60,000年でもっとも近く、5,575万8,006キロまで地球に接近した([[惑星光行差]]補正なしでの値)。この大接近は火星の近日点通過の3日後が火星の[[衝]]の翌日と重なったために生じたもので、地球から火星を特に見やすくなった。これ以前にもっとも近く接近したのは紀元前57617年9月12日と計算されている<ref>{{ Cite web | url=http://www.space.com/spacewatch/mars_10_closest_030822.html | title=NightSky Friday - Mars and Earth: The Top 10 Close Passes Since 3000 B.C. | last=Raodate | first=Joe | date=2003年8月22日 | publisher=[[:en:Space.com|Space.com]] | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>。太陽系の重力計算の詳細な解析から、[[23世紀|2287年]]には2003年よりも近い接近が起こると計算されている。しかし正確に見ていくと、この記録的な大接近は284年ごとに4回起きている別の大接近よりもごくわずかに近いだけであることが分かる。たとえば、2003年8月27日の最接近距離が0.37271[[天文単位|au]]であるのに対して[[1924年]][[8月22日]]の最接近距離は0.37284auであり、2208年[[8月24日]]の接近は0.37278auである。
[[2084年]][[11月10日]]には火星から見て[[地球の太陽面通過 (火星)|地球の太陽面通過]]が起こる。このときには太陽と地球、火星が一直線上に並ぶ。同様に火星から見た[[水星]]や[[金星]]の太陽面通過も起こる。火星の衛星であるダイモスは火星から見た角直径が太陽のそれより充分に小さいため、ダイモスによる[[部分日食]]も太陽面通過とみなせる。
[[1590年]][[10月13日]]には過去唯一の金星による火星食が起こり<ref>{{ Cite web | url=http://documents.wolfram.com/applications/astronomer/EclipsePredictingFunctions/Conjunction.html | title=The Conjunction and ConjunctionEvents Functions | publisher=[[ウルフラム・リサーチ|Wolfram Research]] | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>、ドイツの[[ハイデルベルク]]で[[ミヒャエル・メストリン|メストリン]]によって観測された。
{{Clearleft}}
<!-- 適切な記載場所がわからないのでコメントアウト 「鉱物の発見」は特筆性がないので削除
=== 水蒸気の分布の観測 ===
2011年、火星探査機「マーズエクスプレス」がこの惑星の大気の高度ごとに存在する水蒸気の分布の観測を行った<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2011/10/07mars/index-j.shtml 火星の大気は過飽和? 予想以上の水蒸気が存在する可能性]</ref>。
=== 鉱脈の発見 ===
2011年、探査車「オポチュニティ」が、水の流れで堆積した石膏と思われる鉱脈を発見した。<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2011/12/09mars/index-j.shtml 水で堆積した火星の石膏]</ref>
-->
== 火星起源の隕石 ==
[[ファイル:ALH84001 meteorite Smithsonian.jpg|thumb|180px|「[[アラン・ヒルズ84001|ALH84001]]」隕石]]
地球上で発見されたもののうち、確実に隕石であり、かつ火星に起源を持つと思われる岩石がいくつか知られている。これらの隕石のうち2つからは古代の[[細菌]]の活動の痕跡かもしれない特徴が見つかっている。1996年[[8月6日]]、NASAは火星起源と考えられている「[[アラン・ヒルズ84001|ALH84001]]」隕石の分析から、単細胞生命体の化石の可能性がある特徴が発見されたと発表した。しかしこの解釈にはいまだに議論の余地がある。
『Solar System Research』2004年3月号('''38''', p.97)に掲載された論文では、[[イエメン]]で発見された[[カイドゥン隕石]]が火星の衛星フォボスに起源を持つ可能性があると示唆している。
2004年[[4月14日]]にNASAは、オポチュニティによって調査された"Bounce"という名前の岩石が、[[1979年]]に[[南極]]で発見された隕石「EETA79001-B」と似た組成を持っていることを明らかにした<ref>{{ Cite web | url=http://marsrovers.jpl.nasa.gov/gallery/press/opportunity/20040414a.html | title='Bounce' and Martian Meteorite of the Same Mold | date=2004年4月14日 | publisher=NASA | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>。この岩石はこの隕石と同じクレーターから飛散したか、あるいは火星表面の同じ地域にある別々のクレーターから飛ばされた可能性がある。
== 氷の湖 ==
2005年[[7月29日]]、[[英国放送協会|BBC]]は火星の北極地方のクレーターで氷の湖が発見されたと報じた<ref>{{ Cite web | url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/4727847.stm | title=Ice lake found on the Red Planet | date=2005年7月29日 | publisher=BBC | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>。ESAのマーズ・エクスプレス探査機に搭載された高解像度ステレオカメラで撮影されたこのクレーターの画像には、北緯70.5度、東経103度に位置し、火星北極域の大半を占めるボレアリス平野にある無名のクレーターの底に平らな氷が広がっている様子がはっきりと写っている。このクレーターは直径35キロ、深さ約2キロである。
BBCの報道ではやや誇張されているが、もともとのESAの発表ではこれが湖であるとは主張していない<ref>{{ Cite web | url=http://www.esa.int/SPECIALS/Mars_Express/SEMGKA808BE_0.html | title=Water ice in crater at Martian north pole | date=2005年7月28日 | publisher=[[欧州宇宙機関|ESA]] | accessdate=2008年5月24日 }}</ref>。火星の数多くのほかの場所に見られるものと同様に、この円板状の氷は暗く低温の砂丘の頂上(高度約200メートル)に薄い層状の霜が凝結してクレーターの底に広がったものである。報じられたこの氷が特に珍しいのは、霜のいくらかが1年中残りうるほどこの場所が高緯度にあるという点だけである。赤道付近は日中20℃を越すこともあり、高緯度でなければ氷は存在できない<ref group="注">ただし、2009年に[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の火星無人周回探査機「マーズ・リコナサンス・オービター (MRO)」が赤道と北極の中間付近にある氷の撮影を行った。この氷は、火星が湿潤だった頃のもので、火星への[[隕石]]衝突によって地表が削られて露出した。</ref>。また、液体の水も、火星の大気は希薄、すなわち大気中の水蒸気圧が小さいため、火星表面のほとんどの地域ではすぐ蒸発してしまうため存在できない。液体の水が存在できるのはヘラス盆地など限られた場所のみである。
<!--
== 地球への衝突 ==
*英科学誌「ネイチャー」は「約2500分の1」の確率で、約35億年後に火星が地球に衝突する可能性があることを発表した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2610502?pid=4251104 35億年後、地球が火星と衝突する?パリ天文台が試算]</ref>。--><!-- 適切な記載場所がわからないのでコメントアウト
===大量のドライアイス===
火星探査機「マーズ・リコナサンス・オービター」の観測により、この惑星の南極に従来の約30倍のドライアイスが埋まっていることが判明した<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2011/04/25mars_dryice/index-j.shtml 火星の南極に予想以上のドライアイス]</ref>。
===液体の水が存在===
2011年、火星には現在でも「液体の水」が存在していることが判明した<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2011/08/09mars/index-j.shtml 火星に液体の水が現存、季節による変化も]</ref>。
===海が存在していた証拠を発見か?===
2012年、火星探査機「マーズエクスプレス」に搭載されているレーダーが、火星の北半球にある低地で地下に氷のようなものがあることを発見した<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2012/02/08martian_ocean/index-j.shtml 火星に海があった有力な証拠]</ref>。-->
== 生命 ==
{{main|火星の生命}}
[[ファイル:Warm Season Flows on Slope in Newton Crater (animated).gif|thumb|塩水のような液体が流れ出たとみられる跡。]]
かつての火星は現在よりも確実に生命に適した環境だったという証拠は存在するが、実際に生命がいたかどうかについては確定できていない。
*ある研究者は、火星起源の岩石(特に「[[アラン・ヒルズ84001|ALH84001]]」隕石)に過去の生命活動の証拠が含まれていると主張する。だが現状では合意は得られていない。逆に、この隕石は過去数十億年液体の水が存在できるような温度に一定期間さらされたことは無いことを示す研究もある。
*バイキング探査機は、火星の土壌から微生物を検出したという結果をいくつか得たが、のちに多くの科学者によって否定されている。この件については現在も議論が続いている。
*火星の大気にメタンがごく微量存在している原因は、現在生命活動が進行しているから、という説がある。あくまで非主流の一説であり、主流としては生命活動に由来しない別の理由によるものと考えられている。
現在の火星は、[[ハビタブルゾーン]]内(生命存在の可能な天体が、存在できる領域)にあるとされる<ref>「徹底図解 宇宙のしくみ」、[[新星出版社]]、2006年、p58</ref>。
== 人類との関係 ==
=== 歴史と神話 ===
火星の名称(Mars/マーズ)は、ローマ神話の神[[マールス|マルス]](ギリシア神話の軍神[[アレース]])から名付けられた。[[メソポタミア]]の民は赤い惑星に戦火と血を連想して彼らの戦神[[ネルガル]]の名を冠して以来、火星には各々の地でその地の戦神の名がつけられている(ほかの惑星名についてもほぼ同様の継承が認められる)。
=== 東洋 ===
火星は[[五行思想|五行説]]に基づく呼び名であり(五行説は東洋医学の基礎理論でもある)、学問上(天文史料)では{{読み仮名|'''熒惑'''|ケイコク}}といった。「熒」はしばしば同音の「螢」と誤られる。また、この場合の「惑」は「ワク」ではなく「コク」と読む。江戸時代には「なつひぼし」と訓じられた。そのため'''夏日星'''という和名もある。
火星が[[さそり座]]の[[アンタレス]]([[黄道]]の近くに位置しているため)付近にとどまること(地球から観測する場合、火星は[[順行・逆行|順行から逆行]]に切り替える数日間、[[天球]]上の同じ場所に止まるように見える)を'''熒惑守心'''(熒惑心を守る)といい、不吉の前兆とされた。「心」とは、アンタレスが所属する[[二十八宿|星官]](中国の[[星座]])[[心宿]]のこと<ref>{{Cite web |title=古人說「熒惑守心」其實是…… |url=https://www.natgeomedia.com/environment/article/content-4723.html |website=國家地理雜誌中文網 |access-date=2022-04-13 |date=APR. 17 2016}}</ref>。
=== 占星術 ===
火星は[[七曜]]・[[九曜]]の1つで、[[10大天体]]の1つである。
[[西洋占星術]]では、[[白羊宮]]の[[支配星]]、[[天蝎宮]]の副支配星で、凶星である。積極性を示し、[[スポーツ|運動]]、[[暴力]][[戦争]]などの[[争い]]、[[外科学|外科]]、年下の[[男]]にあてはまる<ref>[[石川源晃]]『【実習】占星学入門』 ISBN 4-89203-153-4</ref>。
=== 惑星記号 ===
[[ファイル:Mars symbol.svg|100px|right]]
火星の[[惑星記号]]はマルスを象徴する[[盾]]と[[槍]]を図案化したものが、[[占星術]]・[[天文学]]を通して用いられる。これを雌雄の表記に転用したのは[[カール・フォン・リンネ]]であり、生殖器の図案ではない。
== 火星地図 ==
{{火星地図}}
== 関連作品 ==
{{main|火星を扱った作品一覧}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{reflist|group="注"}}
===出典===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="factsheet">{{cite web|last=Williams|first=David R.|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/marsfact.html|title=Mars Fact Sheet|publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]|date=2018-09-27|accessdate=2020-03-12}}</ref>
<ref name="astro20110609">{{Cite web|和書
|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2011/06/09migration/index-j.shtml
|title=木星の大移動が火星を小さくした?
|date= 2011-6-9
|accessdate=2019-1-8
|publisher=AstroArts Inc.}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
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== 関連項目 ==
{{Wiktionary|火星}}
{{commons&cat|Mars|Mars_(planet)}}
* [[2003年火星大接近]]
* [[火星人]]
* [[火星の人面岩]]
* [[テラフォーミング]]
* [[火星の旗]]
* [[西郷星]]
* [[ダリアン暦]](火星の[[暦法]]の一種)
* [[火星の天文学]]
* [[火星の計時]]
== 外部リンク ==
{{外部リンクの注意|section=1}}
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/kasei/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(火星) |date=20211210124534}}
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* {{Kotobank}}
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=== 火星の水 ===
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* Dr. Tony Phillips: [https://science.nasa.gov/science-news/science-at-nasa/2000/ast29jun_1m "Making a Splash on Mars"], ''Science@[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]'' article, June 29, 2000. Phillips describes the Martian "gullies" and explains the conditions under which liquid water can exist on the surface of Mars. {{En icon}}
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* [https://www.nasa.gov/vision/universe/solarsystem/opportunity_water.html Mars Rover Scientists Wring Water Story from Rocks] This image taken by Mars Rover ''Opportunity'' shows microscopic rock forms indicating past signs of water. Courtesy: NASA {{En icon}}
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=== 火星探査 ===
* [https://moonstation.jp/challenge/mars/exploration 火星探査〜赤い星への挑戦〜 (月探査情報ステーション)]
* [http://www.transhumanist.com/volume4/space.htm The Political Economy of Very Large Space Projects (Journal Of Evolution and Technology)] {{En icon}}
* [https://mars.jpl.nasa.gov/mer/index.cfm NASA Mars Exploration Rover Home Page] {{En icon}}
* [https://www.dualmoments.com/marsrovers/index.html Be on Mars] Anaglyphs from the Mars Rovers (3D) {{En icon}}
{{火星}}
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3,970 | 海王星 | 海王星(かいおうせい、英語: Neptune [ˈnɛptjuːn])は、太陽系の第8惑星で、太陽系の惑星の中では一番外側を公転している。直径は4番目、質量は3番目に大きく、地球の17倍の質量を持ち、太陽系のガス惑星としては最も密度が高い。海王星は組成が類似し直径がやや大きい天王星の質量(地球の15倍)よりもわずかに大きい。164.8年かけて公転しており、太陽からは平均30.1 au(約45億 km)離れている。名称は、ローマ神話における海神ネプトゥーヌスに因んで命名され、惑星記号「♆」はネプトゥーヌスが持つ三叉槍を様式化したものである。
肉眼で観望することは出来ず、太陽系において唯一、経験的観測でなく数学的予測によって発見された惑星である。フランスの天文学者アレクシス・ブヴァールは、天王星の軌道の予期せぬ変化から、天王星の軌道が未知の惑星の重力による摂動のために生じているという推論を導いた。その後、ユルバン・ルヴェリエによって予測された範囲内の位置で1846年9月23日にヨハン・ゴットフリート・ガレが望遠鏡を用いて発見した。海王星の衛星では最大のトリトンは、その後間もなく発見された。現在では他に13個の衛星が知られているものの、地球から海王星までの距離が大きく地上からの観測が困難なため、それらの存在が明らかとなったのは20世紀以降のことである。1989年8月25日、宇宙探査機ボイジャー2号が海王星を訪れ、フライバイを行った。ハッブル宇宙望遠鏡や補償光学機能を備えた大型の地上望遠鏡の登場によって、近年は遠方からの更なる観測が可能になっている。
水やメタン、アンモニアなどの「氷」の割合は大きいものの、木星や土星と同様に海王星の大気は主に水素やヘリウム、そして微量の炭化水素と窒素で構成されている。しかし、天王星と同様にその内部は氷と岩石で構成されている。そのため通常は、天王星と海王星は木星、土星との違いを強調して天王星型惑星(巨大氷惑星)とみなされる。海王星の青い外観は、最も外側の領域に存在している微量のメタンによって作り出されているとされている。
霞んだ、比較的特徴を欠いている天王星の大気とは対照的に、海王星の大気は活発で、明確な変化が見られる気候を持つ。例えば、1989年にボイジャー2号がフライバイを行った時点では、南半球に木星の大赤斑に類似した大暗斑と呼ばれる模様が存在していた。これらの気象パターンは、太陽系のどの惑星よりも強い持続的な風によって引き起こされ、観測された風速は2100 km/h(580 m/s)にもなる。太陽からの距離が遠いため、海王星の外側の大気は太陽系で最も温度の低い場所の1つであり、雲頂での温度は55 K(-218 °C)に近いのに対して、惑星の中心部の温度は約5400 K(約5100 °C)になっていると考えられている。海王星は微かで断片的な環を持っている。この環は1984年に発見され、後にボイジャー2号の観測でも確認された。
望遠鏡を通じて記録されたこれまでで最も初期の観測記録の一部である、1612年12月28日と1613年1月27日にガリレオ・ガリレイが描いた図面には、海王星が位置していた地点が記されていた。しかし、どちらの場合もガリレオは海王星を、合を起こしている木星の近くにある恒星と誤って認識していたとされている。したがって、ガリレオは海王星を発見したとはみなされていない。彼が最初に観測を行った1612年12月ごろは海王星は逆行し始めたばかりで、見かけ上の動きが小さかったため、ガリレオの小型望遠鏡では検出できなかったと考えられている。しかし2009年7月に、メルボルン大学の物理学者David Jamiesonは、少なくともガリレオが観測した「星」が背景の恒星に対して相対的に動いているのを認知していたことを示唆する新たな証拠を発表している。
1821年に、アレクシス・ブヴァールは海王星の1つ内側を公転している天王星の天文表を発表した。その後行われた観測で、天王星の位置が表と実質的に異なっていることが明らかになり、ブヴァールは未知の天体の重力作用によって天王星の軌道が乱されているという仮説を導いた。1843年、イギリスの数学者ジョン・クーチ・アダムズは彼が所持していたデータを使って天王星の軌道の研究を始めた。ケンブリッジ天文台の所長ジェームズ・チャリスを介して、彼は1844年2月にそのデータを受け取ったジョージ・ビドル・エアリーからの追加データを要求した。アダムズは1845年から1846年にかけて作業を続け、新しい惑星に関するいくつかの異なる推定を立てた。
1845年から1846年にかけて、アダムズとは無関係に、フランスの数学者ユルバン・ルヴェリエは自身の計算方法を開発したが、彼の同胞にその熱意は伝わらなかった。1846年6月に、ルヴェリエが最初に発表した惑星の経度の推定値とアダムズの推定値との類似性を見て、エアリーはチャリスに惑星を探索するように説得させ、チャリスは8月から9月にかけて捜索を行った。
その間、ルヴェリエは手紙でベルリン天文台の天文学者ヨハン・ゴットフリート・ガレに天文台の屈折望遠鏡で未知の惑星を捜索するように促した。天文台の学生だったハインリヒ・ダレストはルヴェリエが予測した領域を描いた図面と実際の観測結果とを比較することで、恒星とは異なる、未知の惑星の変位特性を求められることをガレに示した。ガレが手紙を受け取った1846年9月23日の夜、彼はルヴェリエが予測していた地点から1°以内、アダムズが予測していた地点から約12°の領域内で海王星を発見した。後にチャリスは8月4日と8月12日に自身も海王星を観測していたことが判明したが、当時彼が所持していた星図が最新のものではなく、また同時に行っていた彗星の観測に気を取られていたため、海王星を惑星と認識することはできなかった。
海王星の発見をきっかけに、フランスとイギリスの間で海王星の発見に値するのは誰なのかについて多くの民族主義的な対立が発生したが、結局、海王星はルヴェリエとアダムズの両方が発見したという国際的コンセンサスが定着した。1966年以来、アメリカの天文学者Dennis Rawlinsはアダムズの共同発見の主張の信頼性について疑問を投げかけ、1998年にグリニッジ王立天文台に歴史文書の「Neptune papers」が返却されたことで歴史家による再評価が行われた。文章を検討した後、彼らは「アダムズは、海王星の発見に関してルヴェリエと同等の信用に値するものではない。その信用は、惑星の位置を予測することとそれを捜索することを天文学者に納得させることの両方に成功した者にのみ属する。」としている。
発見直後、海王星は単に「天王星の外側の惑星」や「ルヴェリエの惑星」と呼ばれていた。最初に提案された名称はガレが提案した「ヤーヌス(Janus)」というものだった。イギリスでは、チャリスが付与した「オーケアノス(Oceanus)」という名称が用いられていた。
ルヴェリエは彼の発見した惑星に名称を付与する権利を主張し、すぐにこの新たな惑星にNeptuneという名称を提案したが、フランス経度局(英語版)によって正式に承認されたという誤った内容を述べていた。10月、彼は自身の名に因んで新たな惑星をLe Verrierと命名することを求め、この提案は当時の天文台長であったフランソワ・アラゴからも支持を得ていたが、フランス国外からはこの提案に対して多くの反発が上がった。フランスの年鑑はすぐに、天王星が発見された後に発見者のウィリアム・ハーシェルに因んで使用されていたHerschelという名称を天王星に再導入し、新たな惑星にLe Verrierという名称を導入した。
天文学者フリードリッヒ・フォン・シュトルーベは、1846年12月29日に帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーにてNeptuneという名称を支持することを表明した。その後すぐに、Neptuneという名称は国際的に受け入れられるようになっていった。ローマ神話では、名称の元となったネプトゥーヌス(Neptūnus)はギリシア神話のポセイドーン(Poseidōn)と同一視される海の神である。この神話に基づく命名の提案は惑星の命名法と一致しており、地球以外の全ての惑星はギリシア神話とローマ神話の神々から命名されている。
今日において、ほとんどの言語でNeptuneという名称が使用されている。中国語、ベトナム語、日本語、朝鮮語ではこの名称は「海王星」と訳されるようになった。モンゴル語では、海の支配者である同名の神の役割を反映して、Dalain Van(Далайн ван)と呼ばれている。現在のギリシャ語では、海王星はネプトゥーヌスのギリシャ語にあたるPoseidon(Ποσειδώνας, Poseidonas)と呼ばれる。ヘブライ語では、海王星の正式名称として、2009年にヘブライ語アカデミーで管理されていた詩篇に登場する海の怪物に因んだ"Rahab"(רהב)という名称が選定された。既存のラテン語では、一般的にNeptu(נפטון)という名称が使用されている。マオリ語ではマオリ神話に登場する海の神に因んでTangaroaと呼ばれている。ナワトル語ではTlāloccītlalliと呼ばれており、これは雨の神トラロックに因んでいる。タイ語では、海王星はヒンドゥー教において月の交点に存在するとされるケートゥ(केतु)を西洋化した、Dao Nepjun(ดาวเนปจูน)もしくはDao Ketu(ดาวเกตุ, Star of Ketu)という名称が用いられる。
1846年の発見から1930年の冥王星の発見まで、海王星は最も外側にある惑星として知られていた。発見された時は冥王星は惑星とみなされ、楕円軌道によって冥王星が海王星よりも太陽に接近した1979年から1999年までの20年間を除き、海王星は2番目に遠い惑星となった。1992年にエッジワース・カイパーベルトが発見されたことによって、冥王星を惑星とみなすべきか、それともカイパーベルトの一部とみなすべきかについて、多くの天文学者たちの間で議論が交わされた。2006年に国際天文学連合(IAU)は初めて惑星の定義を制定したことにより、冥王星は準惑星に再分類され、海王星は再び太陽系で最も外側にある惑星となった。
海王星の質量は1.0243 ×10 kgで、これは地球の17倍、木星の19分の1に相当し、地球とより大きな巨大ガス惑星の中間の規模を持つ。気圧1 barでの重力加速度は地球の1.14倍に相当する11.15 m/sで、これは太陽系内の惑星では木星に次いで大きい値である。赤道半径は地球の約4倍の24,764 kmである。海王星は天王星と似ており、木星や土星よりも小型で、含まれている揮発性物質の濃度が高いことから木星型惑星のサブクラスである天王星型惑星(巨大氷惑星)に分類される。太陽系外惑星の探査では、英語名の「Neptune」は比喩的に使用されている。科学者たちが太陽系外で発見された様々な天体を「Jupiters」と呼ぶように、海王星と同等の質量を持つ天体はしばしば「Neptunes」と呼ばれる。
海王星の内部構造は天王星と似ている。海王星の大気は全質量の5~10%を占め、大気圏の厚さは核に向かって全体の半径の10~20%にまで広がっていると考えられる。大気圏の最下層での大気圧は約10 GPa、すなわち地球上の大気圧の約10万倍に達する。大気圏の下層に近づくに従い、メタン・アンモニア・水の濃度が上昇する。
マントルの質量は地球の10~15倍に相当し、水やアンモニア、メタンが豊富に含まれている。惑星科学分野の習慣では、このような状態は高温で高密度な液体であるにもかかわらず「氷」と呼ばれる。この高い電気伝導率を持つ液体は、しばしば「水とアンモニアの海(water-ammonia ocean)」 と呼ばれる。マントルは水分子が水素および酸素のイオンに分解されてできた「イオン水」(ionic water) の層によって構成され、さらに深部では酸素が結晶化し、水素イオンがその結晶格子の中を漂う「超イオン水(superionic water)」の状態にある層から成っているとされる。深さ7,000 kmの深度では、マントル中のメタンがダイヤモンドの結晶へと分解され、雹のような形で中心核に向かって降り注いでいる状態になっているかもしれない。ローレンス・リバモア国立研究所での超高圧実験では、マントルの最上部は浮遊固体の「ダイヤモンド」を含む液体炭素の海になっている可能性が示唆されている。
海王星の核は、鉄やニッケル、ケイ酸塩で構成され、内部モデルでは地球の核の1.2倍の質量を持つことが示されている。中心部の圧力は7 Mbar(700 GPa)で、これは地球の中心部の約2倍に相当し、温度は約5,400 Kとされている。
海王星の上層の大気には、水素が80%、ヘリウムが19%、そして微量のメタンが含まれている。顕著なメタンの吸収帯は、スペクトル上の赤および赤外部分において、600 nmを超える波長を示す部分に存在している。天王星の穏やかなシアン色と海王星の鮮やかなアジュール色とに違いはあるが、天王星と同じく、大気中に含まれるメタンによる赤色の光の吸収によって青い色合いになっている。しかし、大気中に含まれるメタンの含有量は天王星と類似しているため、天王星に比べより青みが深い理由はいくつかの未知の化合物によるものと考えられている。 オックスフォード大学の研究チームは、海王星よりも天王星の方が大気中間層にある靄粒子の層が厚く、結果的に海王星の青色が強く見えるとする説を提唱した。
海王星の大気は、高度と共に温度が下がる下層の対流圏と高度と共に温度が上がる上層の成層圏の2つの領域に分けられる。その境界である対流圏界面での気圧は0.1 bar(10 kPa)になっている。さらに上層になると、成層圏の気圧は 10~10 bar(1~10 Pa)以下になり熱圏となる。熱圏よりさらに上層になると徐々に外気圏へと変わる。
モデルでは、海王星の対流圏が高度に応じて異なる組成の雲に覆われていることが示唆されている。上層部の雲は1 bar以下の気圧下にあり、この領域はメタンが凝縮するのに適した温度になっているとされている。1~5 bar(100~500 kPa)の気圧下ではアンモニアと硫化水素の雲が形成されると考えられている。5 bar以上の気圧下では、雲はアンモニアや硫化アンモニウム、硫化水素、水から成っているかもしれない。温度が273 K(0 °C)に達する気圧約50 bar(5 MPa)の状況下では水の氷から成る雲が存在しているはずである。さらにその下層には、アンモニアと硫化水素の雲が見られるかもしれない。
高度が高いところにある雲が下層の不透明な雲の上面に影を落としている様子が観測されている。中には一定の経度を保ちながら、海王星を1周する雲の帯も存在している。こうした雲の帯の幅は50~150 kmで、下層の雲の約50~110 km上空に存在している。この高度は、天候の変化が生じる対流圏である。これより高度が高い成層圏や熱圏では天候の変化は生じない。
海王星のスペクトルからは、エタンやアセチレンといったメタンが紫外線で光分解された際の生成物が凝縮したため、成層圏の下層部は霞がかっていることが示唆されている。成層圏には、微量の一酸化窒素とシアン化水素も存在している。海王星の成層圏は炭化水素の濃度が高いため、天王星の成層圏よりも温度が高くなっている。
海王星の熱圏は750 K(477 °C)と異常に高くなっているが、その理由ははっきりしていない。この熱が紫外線によって生じるにはあまりにも太陽から離れている。この熱を生み出すメカニズムの候補の1つとして、海王星の磁場中のイオンと大気の相互作用が挙げられる。その他の候補としては、内部から発せられて大気圏内で散逸する重力波に起因している可能性が挙げられている。熱圏には、微量の二酸化炭素と水が含まれているが、これらは隕石や塵などによって外部からもたらされた可能性がある。
2020年、東京大学などの研究チームが2016年に行われたアタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(ALMA)による観測結果を再解析した結果、海王星の赤道周辺の成層圏にシアン化水素が帯状に1.66+0.06−0.03 ppbの濃度で分布していることが判明した。以前から大気中にシアン化水素が存在していることは知られていたが、どのように分布しているのかが確かめられたのはこれが初めてである。このシアン化水素は成層圏内で生成され、大気の対流によって輸送されている可能性がある。
海王星の磁気圏は天王星に似ている。その磁場は海王星の自転軸に対して47°も傾いており、磁気軸が海王星の物理的中心から少なくとも海王星の半径の0.55倍(約13,500 km)もずれている。ボイジャー2号が海王星に到着するまでは、先に海王星と同じように傾斜している天王星の磁場は天王星の横向きの自転によるものと仮定されていた。2つの惑星(氷惑星)の磁場の比較において、科学者たちはこの磁場の極端な傾きは惑星内部の流動によるものかもしれないと考えている。この磁場は、薄い球殻状に分布している導電性の液体(おそらくアンモニア、メタン、水が混合している)の中での対流運動によって引き起こされるダイナモ作用によって発生しているかもしれない。
海王星の磁気赤道における磁場の双極子成分は約14 μT(0.14 G)、双極子磁気モーメントは約2.2×10 T·m(約14 μT·RN、ここでのRNは海王星半径を指す)である。海王星の磁場は、双極子モーメントの強度を超える可能性がある強い四重極モーメントを含む、非双極子成分からの比較的大きな寄与があり、複雑な構造を有している。それとは対照的に、地球、木星、土星は比較的小さな四重極モーメントしか持たず、それらの磁場は自転軸からあまり傾いていない。海王星の大きな四重極モーメントは、惑星の中心からのズレと磁場のダイナモ発生の幾何学的な制約による結果であるかもしれない。
磁気圏が太陽風を減速させ始める海王星のバウショックは海王星半径の34.9倍(約86万 km)離れた距離で発生している。磁気圏の圧力が太陽風と釣り合う磁気圏界面は海王星半径の23~26.5倍(約56万6,000~66万 km)離れている。磁気圏の尾部は、海王星半径の少なくとも72倍(約177万 km)、もしくはさらに遠方まで伸びているとされている。
海王星の気候の大きな特徴は非常にダイナミックな暴風構造である。海王星の大気中の風速は600 m/s(2,200 km/h)に達し、超音速流に近い。持続性のある雲の動きを追跡することによって、より一般的には風速は東方向に20 m/sから西向きに325 m/sの範囲にまで変化していることが示されている。雲頂での卓越風の風速は、赤道では400 m/s、極付近では250 m/sとなっている。海王星の風の大部分は、惑星の自転方向と反対向きに吹いている。一般的な風のパターンは、高緯度領域では自転と同じ方向、低緯度領域では自転とは逆の方向を示す。この流れの方向の違いは「skin effect」と呼ばれる表層付近での物理過程に由来し、大気の深い部分での過程によるものではないと考えられている。南緯 70° では、大気ジェットは 300 m/s に達する。
海王星は、一般的な気象活動のレベルにおいて天王星と大きく異なっている。ボイジャー2号は1989年に海王星をフライバイ(接近飛行)した際に海王星の気象現象を観測したが、1986年に天王星をフライバイした際には天王星で海王星のような気象現象は観測されなかった。
海王星の赤道でのメタン、エタン、アセチレンの含有量は極地域よりも10~100倍多くなっている。光化学では、子午面循環無しでこの分布を説明することはできないため、この分布はこれらの物質が赤道で上昇し、極付近で下降している証拠として解釈されている。
ハッブル宇宙望遠鏡で表面の変化が観測されており、海王星にも地球同様に季節がある可能性が示唆されている。2007年に、海王星の南極上空にある対流圏の温度が周辺より約10 K高く、温度が平均で約73 K(約-200 °C)になっていることが判明した。これは、対流圏の他の場所で凍っているメタンを極付近の成層圏に放出するのに充分な温度差である。この相対的な「ホットスポット」は海王星の自転軸の傾きによるもので、これは海王星の1年における最後の四半期、すなわち地球での約40年間は南極に太陽光が照らすようになっていたのが原因であるとされている。海王星が軌道を公転して、太陽を挟んでその反対側に移動すると、南極に太陽光が届かないようになり、逆に北極が照らされるようになってメタンの放出も北極に移動するとみられる。
季節的変化のため、海王星の南半球にある雲の帯がサイズが大きくなってアルベドが高くなっている様子が観測されている。この傾向は1980年に初めて観測され、2020年ごろまで続くと予想されている。海王星の長い公転周期は、それぞれ約40年続く季節を生み出している。
1989年に縦6,600 km、横幅13,000 kmに渡る高気圧性の嵐構造である大暗斑(英語: Great Dark Spot)がNASAのボイジャー2号による観測で発見された。この大暗斑は木星の大赤斑に似ている。しかし、約5年後の1994年11月2日に行われたハッブル宇宙望遠鏡による観測では大暗斑は消失しており、その理由は分かっていない。その代わりに、海王星の北半球では大暗斑に似た新しい嵐が発見された。
大暗斑の下に見える白い雲の塊からなるもう1つの嵐はスクーター(英語: Scooter)と呼ばれる。この名称は、1989年にボイジャー2号が海王星に接近するまでの数ヶ月間の間に、スクーターが大暗斑よりも速く移動している様子が観測されたことから初めて使用された(後に得られた画像から、ボイジャー2号によって最初に検出されたものよりもさらに速く移動する雲の存在も明らかになった)。小暗斑(英語: Small Dark Spot)は南半球に発生する低気圧性の嵐で、1989年の接近飛行の際に観測された2番目に大きな嵐である。当初は完全に暗かったが、ボイジャー2号が海王星に接近するにつれて、明るい中心部が発達し、最高解像度で撮影された画像のほとんどで確認することができる。
海王星の暗斑は、明るい雲の模様より高度が低い対流圏で発生していると考えられているので、それらは上部の雲に穴が開いているように見える。これらの構造は数ヶ月間持続することができる安定した現象のため、これらは渦構造であると考えられる。対流圏界面付近で形成されるメタンの雲は、しばしば暗斑と共に明るくなることがある。暗斑は、赤道に近づいた時もしくは他の未知のメカニズムを介して移動した時に消滅することがある。
天王星よりも多様な海王星の気象は、その大きな内部加熱(英語版)によるものとされている。太陽から海王星までの距離は、太陽から天王星までの距離の50%以上離れており、日射量は天王星の約40%しかないが、2つの惑星の表面温度はほぼ同じになっている。海王星が太陽から受けるエネルギーは地球の約900分の1しかなく、対流圏の上部は51.8 K(-221.3 °C)という低温に達しているが、大気圧が1 bar(100 kPa)になる深度では、温度は72 K(-201.15 °C)になっている。内部になればなるほど、ガスの層の温度は着実に上昇する。天王星と同様にこの加熱の原因は不明だが、その上昇率には大きな違いがある。天王星は太陽から受けるエネルギーの1.1倍しかエネルギーを放射しないが、海王星は約2.61倍のエネルギーを放射している。海王星は太陽から最も遠い惑星ではあるが、その内部からのエネルギーは太陽系で見られる中で最も高速の風を発生させるのには充分である。2つの惑星の見かけ上の類似性を保ちつつ、同時に天王星の内部からのエネルギー放射が欠如しているのを説明することは難しいが、その内部の熱的性質に依存して、海王星の形成から残された熱は現在のその熱の流れを説明するのに充分かもしれない。
海王星と太陽の間の平均距離は約45億 km(30.1 au)であり、±0.1年の変化はあるが平均164.79年で軌道を公転している。近日点距離は29.81 auで、遠日点距離は30.33 au。
2011年7月11日に、海王星は1846年の発見以来、初めて重心軌道を1周した。その時、地球は軌道上において海王星発見時とは別の地点に位置していたため、観測することは出来なかった。しかし太陽系の重心に対する太陽の運動が存在するため、正確にはまだ太陽に対する発見された位置には達していなかった。より一般的な太陽中心座標系を使用する場合、発見された位置に達したのは翌日の7月12日となる。軌道離心率は0.0085で地球よりも真円に近い軌道を持つ。
海王星の軌道は、地球と比較して1.77°傾いている。
海王星の自転軸の傾き(赤道傾斜角)は28.32°で、この値は地球(23°)や火星(25°)に似ている。この結果、海王星は地球と同じように季節変化の影響を受けており、海王星の長い公転周期によってそれぞれの季節が地球において約40年続く。自転周期は約16.11時間である。自転軸の傾斜が地球と似ているため、海王星の長い1年の間にわたる1日の長さの変化は極端なものにはならない。
海王星はガス惑星なので、その大気は差動回転を起こす。幅広い赤道帯では約18時間の周期で自転しているが、これは海王星の磁場の自転周期である16.1時間よりも遅い。これとは対照的に、極付近では自転周期が約12時間で、逆のことが言える。海王星の差動回転は太陽系の惑星の中で最も顕著であり、そのため緯度方向の強いウインドシアが発生する。
海王星の軌道は、エッジワース・カイパーベルト(カイパーベルト)と呼ばれる、そのすぐ外側の領域に大きな影響を与えている。カイパーベルトは小惑星帯に似ているが存在範囲は大きく、氷から成る小天体がリング状に分布しており、太陽からは約30 auから約55 auの領域に存在している。木星の重力が小惑星帯で支配的であり小惑星帯を形作っているのと同じように、カイパーベルトは海王星の重力によって影響を受けている。太陽系の年齢の間にわたってカイパーベルトの特定の領域は海王星の重力によって不安定化されており、カイパーベルトの構造に隙間を生じさせる。太陽から40~42 au離れた領域がその一例である。
太陽系が形成されて以来、天体が安定して存在し続けることができる軌道がこの領域内にも存在している。これらの軌道は、海王星の公転周期との比が1:2や3:4のように簡単な数で表せる軌道共鳴が起きているときに存在できる。たとえば1:2の軌道共鳴の場合、ある天体が太陽を1回公転しているうちの海王星が2回公転している。すなわち海王星が太陽の周りを公転して元の位置に戻った際、この天体は軌道の半分しか進んでいないことを意味する。海王星と軌道共鳴を起こしているカイパーベルトの中で最も多いのは2:3の軌道共鳴を起こしているもので、知られているだけでも200個以上存在している。これらの天体は海王星が3回公転する間に軌道を2回公転しており、それに属する最大の天体が冥王星なので冥王星族と呼ばれる。冥王星は定期的に海王星の軌道を横断するが、2:3の軌道共鳴によって互いが衝突したり接近したりすることはない。他にも3:4や3:5、4:7、2:5の軌道共鳴を起こしている天体もあるが、こうした天体の数はそれほど多くない。
太陽と海王星のラグランジュ点L4とL5の両方には数多くのトロヤ群天体が存在している。海王星のトロヤ群は、海王星と1:1の軌道共鳴を起こしているとみなせる。海王星のトロヤ群の一部は軌道がとても安定しており、これらは捕獲されたのではなく軌道上で海王星と共に形成された可能性がある。海王星の公転方向に対して後方に位置するL5に付随していることが特定された最初の天体は2008 LC18だった。海王星はまた、2007 RW10と呼ばれる一時的な準衛星を持っている。この天体は12,500年間にわたって海王星の準衛星となっており、今後さらに12,500年間にわたって現在のような力学的状態に留まると推測されている。
天王星型惑星である天王星と海王星の形成は、正確にモデル化することが困難であることが知られている。伝統的な惑星形成理論である「コア集積モデル」では、それらの大きな天体を形成させるには太陽系の外縁領域における物質密度が低すぎると示唆されており、この問題を解決するために様々な仮説が提唱された。その1つとして、天王星型惑星がコアの集積(降着)によってではなく、原始惑星系円盤内の不安定性から形成され、後に近傍の大質量のOB型星からの放射によって大気が吹き飛ばされたとするものがある。
別の概念として、これらの天体がより物質密度が高かった太陽の近くで形成されて、原始惑星系円盤が消滅した後に現在の軌道に移動したとするものがある。カイパーベルトで観測されている小天体の数をより良く説明できるため、形成後に移動したという仮説は多くの支持を得ている。この仮説の詳細について現在最も広く受け入れられている説明は、移動する海王星や他の巨大惑星がカイパーベルトの構造に影響を与えていたとするニースモデルである。
海王星には14個の既知の衛星が存在している。トリトンは海王星最大の衛星で、海王星の周回軌道上において全質量の99.5%以上を占めており、回転楕円体になっている唯一の天体である。トリトンは海王星の発見から17日後にウィリアム・ラッセルによって発見された。太陽系内の他の大型衛星とは異なって逆行軌道を描いており、このことはトリトンが海王星と共に形成されたのではなく、外部から捕獲された天体であることを示している。捕獲されるまでは、カイパーベルト内に位置する準惑星規模の天体であったとされている。自転と公転の同期(潮汐固定)を受けるのには充分に海王星に近く、さらに海王星の自転に対して逆行しているため潮汐減速によって海王星に向かってゆっくりと螺旋軌道を描き、徐々に海王星へと接近している。このため、今後約36億年以内に、トリトンは海王星のロッシュ限界に達して崩壊してしまうと考えられている。1989年、トリトンは太陽系で最も表面温度が低い天体であると測定され、その推定温度は38 K(-235 °C)であった。
発見順において海王星の第2衛星として知られている、不規則衛星のネレイドは太陽系の中で最も歪んだ軌道を持つ衛星の1つである。0.7512に及ぶ軌道離心率によって、遠海点は近海点よりも7倍海王星から離れる。
1989年7月から9月にかけて、ボイジャー2号は新たに海王星の衛星を6個発見した。これらのうち、不規則な形状をした衛星プロテウスは、自身の重力で球状になることができない最大級の大きさの天体として注目されている。海王星では2番目に大きな衛星であるが、質量はトリトンのわずか0.25%しかない。海王星で最も内側を公転している4つの衛星、ナイアド、タラッサ、デスピナ、ガラテアは海王星の環の中に入るほど海王星に近い。次に近いラリッサは、1981年に恒星を掩蔽したことで発見された。当時は、この掩蔽は環に起因しているとされたが、1989年にボイジャー2号が海王星を観測した際にラリッサがそれを引き起こしたことが確認された。2002年から2003年までの間に新しく発見された5個の不規則衛星が、2004年に発表された。2013年には、ハッブル宇宙望遠鏡によって撮影された複数の画像を組み合わせた結果、海王星の衛星の中では現時点で最も小さな新衛星ヒッポカンプ(S/2004 N 1)が発見された。海王星の名称の由来はローマ神話の海の神に因むため、海王星の衛星には、より小さな海の神に因んで命名される。
海王星も環を持っているが、土星の環と比べると遥かに微かである。環は、ケイ酸塩または炭素をベースとした物質で覆われた氷の粒子から成ると考えられている。主な環は3つあり、それぞれ海王星の中心から63,000 km離れたところにある狭い環はアダムズ環、53,000 km離れたところにある環はルヴェリエ環、そして42,000 km離れた位置にある広く薄い環はガレ環と呼ばれる。ルヴェリエ環の外側にある微かな環はラッセル環と呼ばれ、外縁は海王星の中心から57,000 km離れたところにあるアラゴ環に囲まれている。アダムズ環の外側には名称のついていない淡い6本目の環がある。
これらの環は1968年にEdward Guinan率いるチームによって初めて観測された。1980年代初頭には、このデータをより新しい観測結果と共に分析した結果、海王星の環が不完全な状態になっているとする仮説が提唱された。1984年の恒星の掩蔽観測で、海王星が恒星を覆い隠すときは環も恒星を覆い隠したが、恒星が出現した際に環は恒星を覆い隠していなかった。これは、環に隙間が存在している可能性を示す証拠とされた。そして1989年に撮影されたボイジャー2号の画像に、いくつかの微かな環が写されたことから、この問題は解決された。
一番外側の環であるアダムズ環には現在、Courage、Liberté、Egalité 1、Egalité 2、Fraternité(それぞれ勇気、自由、平等、友愛という意)と呼ばれる5つの主な「アーク(弧)」と呼ばれる部分が存在している。このアークは、運動法則に基づく予測では短期間の間に環全体に一様に分布するとされたので、その存在を説明するのが困難であった。現在、天文学者たちは、アークは内側に存在している衛星ガラテアの重力効果によってこのような形になったと考えている。
2005年に発表された地球からの観測では、海王星の環が以前考えられていたよりもはるかに不安定である事が示された。2002年と2003年にW・M・ケック天文台で撮影された画像とボイジャー2号が撮影した画像を比較すると、環が減衰している様子が伺える。アークは徐々に暗くなっている様子が観測されており、2009年のW・M・ケック天文台の観測ではLibertéとCourageがほぼ消滅していた。他方、EgalitéとFraternitéについては安定して残っている。
海王星は1980年から2000年の間に著しく明るくなった。海王星の視等級の範囲は現在、7.67等から7.89等の範囲で、平均は7.78等、標準偏差は0.06等となっている。1980年以前の視等級は8等級と暗かった。海王星は肉眼で観望するには淡すぎるため、木星のガリレオ衛星や準惑星のケレス、小惑星のベスタ、パラス、イリス、ジュノー、へーべより暗く見える。望遠鏡や強力な双眼鏡があれば、天王星の外観に似た小さな青い円盤像として海王星を観望することができる。
地球からの距離が遠いため、その角直径は太陽系の惑星の中では最小の2.2~2.4秒角となっている。見かけの大きさが小さいため、視覚的に研究することは困難である。望遠鏡による観測のほとんどは、ハッブル宇宙望遠鏡や補償光学(AO)を備えた大型の望遠鏡が出現するまではかなり限られていた。補償光学を用いた地上望遠鏡からの海王星の最初の科学的に有用な観測は、1997年にハワイで行われた。海王星は2007年現在、季節が春から夏に変化しつつある時期に入っており、それによって気温が上昇して大気活動と明るさが強くなっていることが示されている。技術的進歩と相まって、補償光学を備えた地上望遠鏡は、ますます鮮明な画像を記録するようになっている。ハッブル宇宙望遠鏡と地球上の補償光学を備えた望遠鏡は1990年代中頃から、太陽系内において数々の発見を成し遂げてきたが、とりわけ木星以遠の惑星の衛星数が大幅に増加した。2004年と2005年に、直径38~61 kmの新たな海王星の衛星が5個発見された。
地球から見ると、海王星は367日ごとに逆行運動を繰り返す。その結果、逆行運動を起こしている間、海王星は背景の恒星に対してループしているように見える。これらのループは2010年4月と7月、2011年10月と11月に、海王星を1846年に発見された座標に近づけさせた。
電波周波数帯での観測では、海王星が連続放射と不規則なバーストの両方の源であることが示されており、この両方の発生源は、回転する磁場から生じると考えられている。スペクトルの赤外線部分では、海王星の嵐は背景に対して明るく見える。それによってこれらの特徴の大きさと形を容易に追跡することができる。
アリゾナ大学の研究チームが、ボイジャー2号やハッブル宇宙望遠鏡の画像から、ほぼ正確な自転周期を求めることに成功している。
ボイジャー2号は海王星を訪れた唯一の宇宙探査機で、海王星に最も接近したのは1989年8月25日だった。海王星はボイジャー2号が訪れる最後の主要天体で、今後の探査機の軌道への影響を考慮する必要が無かったため、ボイジャー1号が土星の衛星タイタンに接近したように、衛星トリトンへの接近飛行が行われた。ボイジャー2号から地球に中継された画像は、1989年の PBSの終夜番組、Neptune All Nightの基礎となった。
海王星に接近中、探査機からの信号が地球に到達するには246分を要した。したがって、ボイジャー2号の任務のほとんどは、海王星の接近のためにあらかじめ組み込まれていたコマンドに頼っていた。8月25日にボイジャー2号が海王星の大気上空4,400 km以内に接近する前に衛星ネレイドに近接接近し、そして同日遅くに最大の衛星トリトンの近くを通過した。
ボイジャー2号は海王星を取り巻く磁場の存在を確認し、磁場が中心からずれており、天王星の磁場と同じように傾いていることが判明した。海王星の自転周期は電波放射の測定値を用いて求められ、また海王星には驚くほど活発な大気活動があることも示された。また、海王星の衛星を新たに6個発見し、複数本の環が存在していることも確認された。
海王星のフライバイはまた、以前に計算されていたものよりも0.5%少ない初めての正確な海王星の質量の推定値をもたらした。この新たな数値は、未発見の惑星Xが海王星と天王星の軌道に作用したという仮説を反証することとなった。
2008年10月16日、冥王星探査のために打ち上げられた探査機ニュー・ホライズンズが、約37億5,000万 km 離れた位置から海王星とトリトンの画像を撮影した。
ボイジャー2号のフライバイミッション後、海王星系の科学的探査における次のステップは、フラッグシップ計画での軌道ミッション(Flagship orbital mission)であると考えられている。このような仮説的ミッションは2020年代後半または2030年代初頭に可能だと予想されている。しかし、海王星への探査ミッションを早く実施するための議論が行われたことがある。2003年には、土星探査機カッシーニに似たNASAによる「Neptune Orbiter with Probes」ミッションが提案された。もう1つ、最近提案された計画として、2020年打ち上げ予定のフライバイ探査機Argo(英語版)があった。Argoは木星、土星、海王星、カイパーベルトを訪問することが予定されており、焦点となる海王星とトリトンの探査は2029年頃になるとされている。また、ニュー・ホライズンズのミッション内容に海王星の接近探査が含まれる可能性もあったものの、最終的には断念された。
10大天体の1つである。10大天体は、20世紀の冥王星発見後の占星術のもの。海王星が発見されたのは19世紀でありそれ以前にはありえないため、七曜・九曜にも含まれない(九曜は別の「仮説上の天体」をカウントする)。
西洋占星術では、双魚宮(うお座)の支配星(海王星発見以前は木星が支配星とされていた)である。見えないものを示し、石油、石油製品、霊感、海に当てはまる。 | [
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"text": "海王星(かいおうせい、英語: Neptune [ˈnɛptjuːn])は、太陽系の第8惑星で、太陽系の惑星の中では一番外側を公転している。直径は4番目、質量は3番目に大きく、地球の17倍の質量を持ち、太陽系のガス惑星としては最も密度が高い。海王星は組成が類似し直径がやや大きい天王星の質量(地球の15倍)よりもわずかに大きい。164.8年かけて公転しており、太陽からは平均30.1 au(約45億 km)離れている。名称は、ローマ神話における海神ネプトゥーヌスに因んで命名され、惑星記号「♆」はネプトゥーヌスが持つ三叉槍を様式化したものである。",
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"text": "肉眼で観望することは出来ず、太陽系において唯一、経験的観測でなく数学的予測によって発見された惑星である。フランスの天文学者アレクシス・ブヴァールは、天王星の軌道の予期せぬ変化から、天王星の軌道が未知の惑星の重力による摂動のために生じているという推論を導いた。その後、ユルバン・ルヴェリエによって予測された範囲内の位置で1846年9月23日にヨハン・ゴットフリート・ガレが望遠鏡を用いて発見した。海王星の衛星では最大のトリトンは、その後間もなく発見された。現在では他に13個の衛星が知られているものの、地球から海王星までの距離が大きく地上からの観測が困難なため、それらの存在が明らかとなったのは20世紀以降のことである。1989年8月25日、宇宙探査機ボイジャー2号が海王星を訪れ、フライバイを行った。ハッブル宇宙望遠鏡や補償光学機能を備えた大型の地上望遠鏡の登場によって、近年は遠方からの更なる観測が可能になっている。",
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"text": "水やメタン、アンモニアなどの「氷」の割合は大きいものの、木星や土星と同様に海王星の大気は主に水素やヘリウム、そして微量の炭化水素と窒素で構成されている。しかし、天王星と同様にその内部は氷と岩石で構成されている。そのため通常は、天王星と海王星は木星、土星との違いを強調して天王星型惑星(巨大氷惑星)とみなされる。海王星の青い外観は、最も外側の領域に存在している微量のメタンによって作り出されているとされている。",
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"text": "霞んだ、比較的特徴を欠いている天王星の大気とは対照的に、海王星の大気は活発で、明確な変化が見られる気候を持つ。例えば、1989年にボイジャー2号がフライバイを行った時点では、南半球に木星の大赤斑に類似した大暗斑と呼ばれる模様が存在していた。これらの気象パターンは、太陽系のどの惑星よりも強い持続的な風によって引き起こされ、観測された風速は2100 km/h(580 m/s)にもなる。太陽からの距離が遠いため、海王星の外側の大気は太陽系で最も温度の低い場所の1つであり、雲頂での温度は55 K(-218 °C)に近いのに対して、惑星の中心部の温度は約5400 K(約5100 °C)になっていると考えられている。海王星は微かで断片的な環を持っている。この環は1984年に発見され、後にボイジャー2号の観測でも確認された。",
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"text": "望遠鏡を通じて記録されたこれまでで最も初期の観測記録の一部である、1612年12月28日と1613年1月27日にガリレオ・ガリレイが描いた図面には、海王星が位置していた地点が記されていた。しかし、どちらの場合もガリレオは海王星を、合を起こしている木星の近くにある恒星と誤って認識していたとされている。したがって、ガリレオは海王星を発見したとはみなされていない。彼が最初に観測を行った1612年12月ごろは海王星は逆行し始めたばかりで、見かけ上の動きが小さかったため、ガリレオの小型望遠鏡では検出できなかったと考えられている。しかし2009年7月に、メルボルン大学の物理学者David Jamiesonは、少なくともガリレオが観測した「星」が背景の恒星に対して相対的に動いているのを認知していたことを示唆する新たな証拠を発表している。",
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"text": "1821年に、アレクシス・ブヴァールは海王星の1つ内側を公転している天王星の天文表を発表した。その後行われた観測で、天王星の位置が表と実質的に異なっていることが明らかになり、ブヴァールは未知の天体の重力作用によって天王星の軌道が乱されているという仮説を導いた。1843年、イギリスの数学者ジョン・クーチ・アダムズは彼が所持していたデータを使って天王星の軌道の研究を始めた。ケンブリッジ天文台の所長ジェームズ・チャリスを介して、彼は1844年2月にそのデータを受け取ったジョージ・ビドル・エアリーからの追加データを要求した。アダムズは1845年から1846年にかけて作業を続け、新しい惑星に関するいくつかの異なる推定を立てた。",
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"text": "海王星の発見をきっかけに、フランスとイギリスの間で海王星の発見に値するのは誰なのかについて多くの民族主義的な対立が発生したが、結局、海王星はルヴェリエとアダムズの両方が発見したという国際的コンセンサスが定着した。1966年以来、アメリカの天文学者Dennis Rawlinsはアダムズの共同発見の主張の信頼性について疑問を投げかけ、1998年にグリニッジ王立天文台に歴史文書の「Neptune papers」が返却されたことで歴史家による再評価が行われた。文章を検討した後、彼らは「アダムズは、海王星の発見に関してルヴェリエと同等の信用に値するものではない。その信用は、惑星の位置を予測することとそれを捜索することを天文学者に納得させることの両方に成功した者にのみ属する。」としている。",
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"text": "ルヴェリエは彼の発見した惑星に名称を付与する権利を主張し、すぐにこの新たな惑星にNeptuneという名称を提案したが、フランス経度局(英語版)によって正式に承認されたという誤った内容を述べていた。10月、彼は自身の名に因んで新たな惑星をLe Verrierと命名することを求め、この提案は当時の天文台長であったフランソワ・アラゴからも支持を得ていたが、フランス国外からはこの提案に対して多くの反発が上がった。フランスの年鑑はすぐに、天王星が発見された後に発見者のウィリアム・ハーシェルに因んで使用されていたHerschelという名称を天王星に再導入し、新たな惑星にLe Verrierという名称を導入した。",
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"text": "天文学者フリードリッヒ・フォン・シュトルーベは、1846年12月29日に帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーにてNeptuneという名称を支持することを表明した。その後すぐに、Neptuneという名称は国際的に受け入れられるようになっていった。ローマ神話では、名称の元となったネプトゥーヌス(Neptūnus)はギリシア神話のポセイドーン(Poseidōn)と同一視される海の神である。この神話に基づく命名の提案は惑星の命名法と一致しており、地球以外の全ての惑星はギリシア神話とローマ神話の神々から命名されている。",
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"text": "今日において、ほとんどの言語でNeptuneという名称が使用されている。中国語、ベトナム語、日本語、朝鮮語ではこの名称は「海王星」と訳されるようになった。モンゴル語では、海の支配者である同名の神の役割を反映して、Dalain Van(Далайн ван)と呼ばれている。現在のギリシャ語では、海王星はネプトゥーヌスのギリシャ語にあたるPoseidon(Ποσειδώνας, Poseidonas)と呼ばれる。ヘブライ語では、海王星の正式名称として、2009年にヘブライ語アカデミーで管理されていた詩篇に登場する海の怪物に因んだ\"Rahab\"(רהב)という名称が選定された。既存のラテン語では、一般的にNeptu(נפטון)という名称が使用されている。マオリ語ではマオリ神話に登場する海の神に因んでTangaroaと呼ばれている。ナワトル語ではTlāloccītlalliと呼ばれており、これは雨の神トラロックに因んでいる。タイ語では、海王星はヒンドゥー教において月の交点に存在するとされるケートゥ(केतु)を西洋化した、Dao Nepjun(ดาวเนปจูน)もしくはDao Ketu(ดาวเกตุ, Star of Ketu)という名称が用いられる。",
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"text": "1846年の発見から1930年の冥王星の発見まで、海王星は最も外側にある惑星として知られていた。発見された時は冥王星は惑星とみなされ、楕円軌道によって冥王星が海王星よりも太陽に接近した1979年から1999年までの20年間を除き、海王星は2番目に遠い惑星となった。1992年にエッジワース・カイパーベルトが発見されたことによって、冥王星を惑星とみなすべきか、それともカイパーベルトの一部とみなすべきかについて、多くの天文学者たちの間で議論が交わされた。2006年に国際天文学連合(IAU)は初めて惑星の定義を制定したことにより、冥王星は準惑星に再分類され、海王星は再び太陽系で最も外側にある惑星となった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "海王星の質量は1.0243 ×10 kgで、これは地球の17倍、木星の19分の1に相当し、地球とより大きな巨大ガス惑星の中間の規模を持つ。気圧1 barでの重力加速度は地球の1.14倍に相当する11.15 m/sで、これは太陽系内の惑星では木星に次いで大きい値である。赤道半径は地球の約4倍の24,764 kmである。海王星は天王星と似ており、木星や土星よりも小型で、含まれている揮発性物質の濃度が高いことから木星型惑星のサブクラスである天王星型惑星(巨大氷惑星)に分類される。太陽系外惑星の探査では、英語名の「Neptune」は比喩的に使用されている。科学者たちが太陽系外で発見された様々な天体を「Jupiters」と呼ぶように、海王星と同等の質量を持つ天体はしばしば「Neptunes」と呼ばれる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "海王星の内部構造は天王星と似ている。海王星の大気は全質量の5~10%を占め、大気圏の厚さは核に向かって全体の半径の10~20%にまで広がっていると考えられる。大気圏の最下層での大気圧は約10 GPa、すなわち地球上の大気圧の約10万倍に達する。大気圏の下層に近づくに従い、メタン・アンモニア・水の濃度が上昇する。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "マントルの質量は地球の10~15倍に相当し、水やアンモニア、メタンが豊富に含まれている。惑星科学分野の習慣では、このような状態は高温で高密度な液体であるにもかかわらず「氷」と呼ばれる。この高い電気伝導率を持つ液体は、しばしば「水とアンモニアの海(water-ammonia ocean)」 と呼ばれる。マントルは水分子が水素および酸素のイオンに分解されてできた「イオン水」(ionic water) の層によって構成され、さらに深部では酸素が結晶化し、水素イオンがその結晶格子の中を漂う「超イオン水(superionic water)」の状態にある層から成っているとされる。深さ7,000 kmの深度では、マントル中のメタンがダイヤモンドの結晶へと分解され、雹のような形で中心核に向かって降り注いでいる状態になっているかもしれない。ローレンス・リバモア国立研究所での超高圧実験では、マントルの最上部は浮遊固体の「ダイヤモンド」を含む液体炭素の海になっている可能性が示唆されている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "海王星の核は、鉄やニッケル、ケイ酸塩で構成され、内部モデルでは地球の核の1.2倍の質量を持つことが示されている。中心部の圧力は7 Mbar(700 GPa)で、これは地球の中心部の約2倍に相当し、温度は約5,400 Kとされている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "海王星の上層の大気には、水素が80%、ヘリウムが19%、そして微量のメタンが含まれている。顕著なメタンの吸収帯は、スペクトル上の赤および赤外部分において、600 nmを超える波長を示す部分に存在している。天王星の穏やかなシアン色と海王星の鮮やかなアジュール色とに違いはあるが、天王星と同じく、大気中に含まれるメタンによる赤色の光の吸収によって青い色合いになっている。しかし、大気中に含まれるメタンの含有量は天王星と類似しているため、天王星に比べより青みが深い理由はいくつかの未知の化合物によるものと考えられている。 オックスフォード大学の研究チームは、海王星よりも天王星の方が大気中間層にある靄粒子の層が厚く、結果的に海王星の青色が強く見えるとする説を提唱した。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "海王星の大気は、高度と共に温度が下がる下層の対流圏と高度と共に温度が上がる上層の成層圏の2つの領域に分けられる。その境界である対流圏界面での気圧は0.1 bar(10 kPa)になっている。さらに上層になると、成層圏の気圧は 10~10 bar(1~10 Pa)以下になり熱圏となる。熱圏よりさらに上層になると徐々に外気圏へと変わる。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "モデルでは、海王星の対流圏が高度に応じて異なる組成の雲に覆われていることが示唆されている。上層部の雲は1 bar以下の気圧下にあり、この領域はメタンが凝縮するのに適した温度になっているとされている。1~5 bar(100~500 kPa)の気圧下ではアンモニアと硫化水素の雲が形成されると考えられている。5 bar以上の気圧下では、雲はアンモニアや硫化アンモニウム、硫化水素、水から成っているかもしれない。温度が273 K(0 °C)に達する気圧約50 bar(5 MPa)の状況下では水の氷から成る雲が存在しているはずである。さらにその下層には、アンモニアと硫化水素の雲が見られるかもしれない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "高度が高いところにある雲が下層の不透明な雲の上面に影を落としている様子が観測されている。中には一定の経度を保ちながら、海王星を1周する雲の帯も存在している。こうした雲の帯の幅は50~150 kmで、下層の雲の約50~110 km上空に存在している。この高度は、天候の変化が生じる対流圏である。これより高度が高い成層圏や熱圏では天候の変化は生じない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "海王星のスペクトルからは、エタンやアセチレンといったメタンが紫外線で光分解された際の生成物が凝縮したため、成層圏の下層部は霞がかっていることが示唆されている。成層圏には、微量の一酸化窒素とシアン化水素も存在している。海王星の成層圏は炭化水素の濃度が高いため、天王星の成層圏よりも温度が高くなっている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "海王星の熱圏は750 K(477 °C)と異常に高くなっているが、その理由ははっきりしていない。この熱が紫外線によって生じるにはあまりにも太陽から離れている。この熱を生み出すメカニズムの候補の1つとして、海王星の磁場中のイオンと大気の相互作用が挙げられる。その他の候補としては、内部から発せられて大気圏内で散逸する重力波に起因している可能性が挙げられている。熱圏には、微量の二酸化炭素と水が含まれているが、これらは隕石や塵などによって外部からもたらされた可能性がある。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2020年、東京大学などの研究チームが2016年に行われたアタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(ALMA)による観測結果を再解析した結果、海王星の赤道周辺の成層圏にシアン化水素が帯状に1.66+0.06−0.03 ppbの濃度で分布していることが判明した。以前から大気中にシアン化水素が存在していることは知られていたが、どのように分布しているのかが確かめられたのはこれが初めてである。このシアン化水素は成層圏内で生成され、大気の対流によって輸送されている可能性がある。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "海王星の磁気圏は天王星に似ている。その磁場は海王星の自転軸に対して47°も傾いており、磁気軸が海王星の物理的中心から少なくとも海王星の半径の0.55倍(約13,500 km)もずれている。ボイジャー2号が海王星に到着するまでは、先に海王星と同じように傾斜している天王星の磁場は天王星の横向きの自転によるものと仮定されていた。2つの惑星(氷惑星)の磁場の比較において、科学者たちはこの磁場の極端な傾きは惑星内部の流動によるものかもしれないと考えている。この磁場は、薄い球殻状に分布している導電性の液体(おそらくアンモニア、メタン、水が混合している)の中での対流運動によって引き起こされるダイナモ作用によって発生しているかもしれない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "海王星の磁気赤道における磁場の双極子成分は約14 μT(0.14 G)、双極子磁気モーメントは約2.2×10 T·m(約14 μT·RN、ここでのRNは海王星半径を指す)である。海王星の磁場は、双極子モーメントの強度を超える可能性がある強い四重極モーメントを含む、非双極子成分からの比較的大きな寄与があり、複雑な構造を有している。それとは対照的に、地球、木星、土星は比較的小さな四重極モーメントしか持たず、それらの磁場は自転軸からあまり傾いていない。海王星の大きな四重極モーメントは、惑星の中心からのズレと磁場のダイナモ発生の幾何学的な制約による結果であるかもしれない。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "磁気圏が太陽風を減速させ始める海王星のバウショックは海王星半径の34.9倍(約86万 km)離れた距離で発生している。磁気圏の圧力が太陽風と釣り合う磁気圏界面は海王星半径の23~26.5倍(約56万6,000~66万 km)離れている。磁気圏の尾部は、海王星半径の少なくとも72倍(約177万 km)、もしくはさらに遠方まで伸びているとされている。",
"title": "物理的性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "海王星の気候の大きな特徴は非常にダイナミックな暴風構造である。海王星の大気中の風速は600 m/s(2,200 km/h)に達し、超音速流に近い。持続性のある雲の動きを追跡することによって、より一般的には風速は東方向に20 m/sから西向きに325 m/sの範囲にまで変化していることが示されている。雲頂での卓越風の風速は、赤道では400 m/s、極付近では250 m/sとなっている。海王星の風の大部分は、惑星の自転方向と反対向きに吹いている。一般的な風のパターンは、高緯度領域では自転と同じ方向、低緯度領域では自転とは逆の方向を示す。この流れの方向の違いは「skin effect」と呼ばれる表層付近での物理過程に由来し、大気の深い部分での過程によるものではないと考えられている。南緯 70° では、大気ジェットは 300 m/s に達する。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "海王星は、一般的な気象活動のレベルにおいて天王星と大きく異なっている。ボイジャー2号は1989年に海王星をフライバイ(接近飛行)した際に海王星の気象現象を観測したが、1986年に天王星をフライバイした際には天王星で海王星のような気象現象は観測されなかった。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "海王星の赤道でのメタン、エタン、アセチレンの含有量は極地域よりも10~100倍多くなっている。光化学では、子午面循環無しでこの分布を説明することはできないため、この分布はこれらの物質が赤道で上昇し、極付近で下降している証拠として解釈されている。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ハッブル宇宙望遠鏡で表面の変化が観測されており、海王星にも地球同様に季節がある可能性が示唆されている。2007年に、海王星の南極上空にある対流圏の温度が周辺より約10 K高く、温度が平均で約73 K(約-200 °C)になっていることが判明した。これは、対流圏の他の場所で凍っているメタンを極付近の成層圏に放出するのに充分な温度差である。この相対的な「ホットスポット」は海王星の自転軸の傾きによるもので、これは海王星の1年における最後の四半期、すなわち地球での約40年間は南極に太陽光が照らすようになっていたのが原因であるとされている。海王星が軌道を公転して、太陽を挟んでその反対側に移動すると、南極に太陽光が届かないようになり、逆に北極が照らされるようになってメタンの放出も北極に移動するとみられる。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "季節的変化のため、海王星の南半球にある雲の帯がサイズが大きくなってアルベドが高くなっている様子が観測されている。この傾向は1980年に初めて観測され、2020年ごろまで続くと予想されている。海王星の長い公転周期は、それぞれ約40年続く季節を生み出している。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1989年に縦6,600 km、横幅13,000 kmに渡る高気圧性の嵐構造である大暗斑(英語: Great Dark Spot)がNASAのボイジャー2号による観測で発見された。この大暗斑は木星の大赤斑に似ている。しかし、約5年後の1994年11月2日に行われたハッブル宇宙望遠鏡による観測では大暗斑は消失しており、その理由は分かっていない。その代わりに、海王星の北半球では大暗斑に似た新しい嵐が発見された。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "大暗斑の下に見える白い雲の塊からなるもう1つの嵐はスクーター(英語: Scooter)と呼ばれる。この名称は、1989年にボイジャー2号が海王星に接近するまでの数ヶ月間の間に、スクーターが大暗斑よりも速く移動している様子が観測されたことから初めて使用された(後に得られた画像から、ボイジャー2号によって最初に検出されたものよりもさらに速く移動する雲の存在も明らかになった)。小暗斑(英語: Small Dark Spot)は南半球に発生する低気圧性の嵐で、1989年の接近飛行の際に観測された2番目に大きな嵐である。当初は完全に暗かったが、ボイジャー2号が海王星に接近するにつれて、明るい中心部が発達し、最高解像度で撮影された画像のほとんどで確認することができる。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "海王星の暗斑は、明るい雲の模様より高度が低い対流圏で発生していると考えられているので、それらは上部の雲に穴が開いているように見える。これらの構造は数ヶ月間持続することができる安定した現象のため、これらは渦構造であると考えられる。対流圏界面付近で形成されるメタンの雲は、しばしば暗斑と共に明るくなることがある。暗斑は、赤道に近づいた時もしくは他の未知のメカニズムを介して移動した時に消滅することがある。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "天王星よりも多様な海王星の気象は、その大きな内部加熱(英語版)によるものとされている。太陽から海王星までの距離は、太陽から天王星までの距離の50%以上離れており、日射量は天王星の約40%しかないが、2つの惑星の表面温度はほぼ同じになっている。海王星が太陽から受けるエネルギーは地球の約900分の1しかなく、対流圏の上部は51.8 K(-221.3 °C)という低温に達しているが、大気圧が1 bar(100 kPa)になる深度では、温度は72 K(-201.15 °C)になっている。内部になればなるほど、ガスの層の温度は着実に上昇する。天王星と同様にこの加熱の原因は不明だが、その上昇率には大きな違いがある。天王星は太陽から受けるエネルギーの1.1倍しかエネルギーを放射しないが、海王星は約2.61倍のエネルギーを放射している。海王星は太陽から最も遠い惑星ではあるが、その内部からのエネルギーは太陽系で見られる中で最も高速の風を発生させるのには充分である。2つの惑星の見かけ上の類似性を保ちつつ、同時に天王星の内部からのエネルギー放射が欠如しているのを説明することは難しいが、その内部の熱的性質に依存して、海王星の形成から残された熱は現在のその熱の流れを説明するのに充分かもしれない。",
"title": "気候"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "海王星と太陽の間の平均距離は約45億 km(30.1 au)であり、±0.1年の変化はあるが平均164.79年で軌道を公転している。近日点距離は29.81 auで、遠日点距離は30.33 au。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2011年7月11日に、海王星は1846年の発見以来、初めて重心軌道を1周した。その時、地球は軌道上において海王星発見時とは別の地点に位置していたため、観測することは出来なかった。しかし太陽系の重心に対する太陽の運動が存在するため、正確にはまだ太陽に対する発見された位置には達していなかった。より一般的な太陽中心座標系を使用する場合、発見された位置に達したのは翌日の7月12日となる。軌道離心率は0.0085で地球よりも真円に近い軌道を持つ。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "海王星の軌道は、地球と比較して1.77°傾いている。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "海王星の自転軸の傾き(赤道傾斜角)は28.32°で、この値は地球(23°)や火星(25°)に似ている。この結果、海王星は地球と同じように季節変化の影響を受けており、海王星の長い公転周期によってそれぞれの季節が地球において約40年続く。自転周期は約16.11時間である。自転軸の傾斜が地球と似ているため、海王星の長い1年の間にわたる1日の長さの変化は極端なものにはならない。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "海王星はガス惑星なので、その大気は差動回転を起こす。幅広い赤道帯では約18時間の周期で自転しているが、これは海王星の磁場の自転周期である16.1時間よりも遅い。これとは対照的に、極付近では自転周期が約12時間で、逆のことが言える。海王星の差動回転は太陽系の惑星の中で最も顕著であり、そのため緯度方向の強いウインドシアが発生する。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "海王星の軌道は、エッジワース・カイパーベルト(カイパーベルト)と呼ばれる、そのすぐ外側の領域に大きな影響を与えている。カイパーベルトは小惑星帯に似ているが存在範囲は大きく、氷から成る小天体がリング状に分布しており、太陽からは約30 auから約55 auの領域に存在している。木星の重力が小惑星帯で支配的であり小惑星帯を形作っているのと同じように、カイパーベルトは海王星の重力によって影響を受けている。太陽系の年齢の間にわたってカイパーベルトの特定の領域は海王星の重力によって不安定化されており、カイパーベルトの構造に隙間を生じさせる。太陽から40~42 au離れた領域がその一例である。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "太陽系が形成されて以来、天体が安定して存在し続けることができる軌道がこの領域内にも存在している。これらの軌道は、海王星の公転周期との比が1:2や3:4のように簡単な数で表せる軌道共鳴が起きているときに存在できる。たとえば1:2の軌道共鳴の場合、ある天体が太陽を1回公転しているうちの海王星が2回公転している。すなわち海王星が太陽の周りを公転して元の位置に戻った際、この天体は軌道の半分しか進んでいないことを意味する。海王星と軌道共鳴を起こしているカイパーベルトの中で最も多いのは2:3の軌道共鳴を起こしているもので、知られているだけでも200個以上存在している。これらの天体は海王星が3回公転する間に軌道を2回公転しており、それに属する最大の天体が冥王星なので冥王星族と呼ばれる。冥王星は定期的に海王星の軌道を横断するが、2:3の軌道共鳴によって互いが衝突したり接近したりすることはない。他にも3:4や3:5、4:7、2:5の軌道共鳴を起こしている天体もあるが、こうした天体の数はそれほど多くない。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "太陽と海王星のラグランジュ点L4とL5の両方には数多くのトロヤ群天体が存在している。海王星のトロヤ群は、海王星と1:1の軌道共鳴を起こしているとみなせる。海王星のトロヤ群の一部は軌道がとても安定しており、これらは捕獲されたのではなく軌道上で海王星と共に形成された可能性がある。海王星の公転方向に対して後方に位置するL5に付随していることが特定された最初の天体は2008 LC18だった。海王星はまた、2007 RW10と呼ばれる一時的な準衛星を持っている。この天体は12,500年間にわたって海王星の準衛星となっており、今後さらに12,500年間にわたって現在のような力学的状態に留まると推測されている。",
"title": "軌道と自転"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "天王星型惑星である天王星と海王星の形成は、正確にモデル化することが困難であることが知られている。伝統的な惑星形成理論である「コア集積モデル」では、それらの大きな天体を形成させるには太陽系の外縁領域における物質密度が低すぎると示唆されており、この問題を解決するために様々な仮説が提唱された。その1つとして、天王星型惑星がコアの集積(降着)によってではなく、原始惑星系円盤内の不安定性から形成され、後に近傍の大質量のOB型星からの放射によって大気が吹き飛ばされたとするものがある。",
"title": "形成と移動"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "別の概念として、これらの天体がより物質密度が高かった太陽の近くで形成されて、原始惑星系円盤が消滅した後に現在の軌道に移動したとするものがある。カイパーベルトで観測されている小天体の数をより良く説明できるため、形成後に移動したという仮説は多くの支持を得ている。この仮説の詳細について現在最も広く受け入れられている説明は、移動する海王星や他の巨大惑星がカイパーベルトの構造に影響を与えていたとするニースモデルである。",
"title": "形成と移動"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "海王星には14個の既知の衛星が存在している。トリトンは海王星最大の衛星で、海王星の周回軌道上において全質量の99.5%以上を占めており、回転楕円体になっている唯一の天体である。トリトンは海王星の発見から17日後にウィリアム・ラッセルによって発見された。太陽系内の他の大型衛星とは異なって逆行軌道を描いており、このことはトリトンが海王星と共に形成されたのではなく、外部から捕獲された天体であることを示している。捕獲されるまでは、カイパーベルト内に位置する準惑星規模の天体であったとされている。自転と公転の同期(潮汐固定)を受けるのには充分に海王星に近く、さらに海王星の自転に対して逆行しているため潮汐減速によって海王星に向かってゆっくりと螺旋軌道を描き、徐々に海王星へと接近している。このため、今後約36億年以内に、トリトンは海王星のロッシュ限界に達して崩壊してしまうと考えられている。1989年、トリトンは太陽系で最も表面温度が低い天体であると測定され、その推定温度は38 K(-235 °C)であった。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "発見順において海王星の第2衛星として知られている、不規則衛星のネレイドは太陽系の中で最も歪んだ軌道を持つ衛星の1つである。0.7512に及ぶ軌道離心率によって、遠海点は近海点よりも7倍海王星から離れる。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1989年7月から9月にかけて、ボイジャー2号は新たに海王星の衛星を6個発見した。これらのうち、不規則な形状をした衛星プロテウスは、自身の重力で球状になることができない最大級の大きさの天体として注目されている。海王星では2番目に大きな衛星であるが、質量はトリトンのわずか0.25%しかない。海王星で最も内側を公転している4つの衛星、ナイアド、タラッサ、デスピナ、ガラテアは海王星の環の中に入るほど海王星に近い。次に近いラリッサは、1981年に恒星を掩蔽したことで発見された。当時は、この掩蔽は環に起因しているとされたが、1989年にボイジャー2号が海王星を観測した際にラリッサがそれを引き起こしたことが確認された。2002年から2003年までの間に新しく発見された5個の不規則衛星が、2004年に発表された。2013年には、ハッブル宇宙望遠鏡によって撮影された複数の画像を組み合わせた結果、海王星の衛星の中では現時点で最も小さな新衛星ヒッポカンプ(S/2004 N 1)が発見された。海王星の名称の由来はローマ神話の海の神に因むため、海王星の衛星には、より小さな海の神に因んで命名される。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "海王星も環を持っているが、土星の環と比べると遥かに微かである。環は、ケイ酸塩または炭素をベースとした物質で覆われた氷の粒子から成ると考えられている。主な環は3つあり、それぞれ海王星の中心から63,000 km離れたところにある狭い環はアダムズ環、53,000 km離れたところにある環はルヴェリエ環、そして42,000 km離れた位置にある広く薄い環はガレ環と呼ばれる。ルヴェリエ環の外側にある微かな環はラッセル環と呼ばれ、外縁は海王星の中心から57,000 km離れたところにあるアラゴ環に囲まれている。アダムズ環の外側には名称のついていない淡い6本目の環がある。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "これらの環は1968年にEdward Guinan率いるチームによって初めて観測された。1980年代初頭には、このデータをより新しい観測結果と共に分析した結果、海王星の環が不完全な状態になっているとする仮説が提唱された。1984年の恒星の掩蔽観測で、海王星が恒星を覆い隠すときは環も恒星を覆い隠したが、恒星が出現した際に環は恒星を覆い隠していなかった。これは、環に隙間が存在している可能性を示す証拠とされた。そして1989年に撮影されたボイジャー2号の画像に、いくつかの微かな環が写されたことから、この問題は解決された。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "一番外側の環であるアダムズ環には現在、Courage、Liberté、Egalité 1、Egalité 2、Fraternité(それぞれ勇気、自由、平等、友愛という意)と呼ばれる5つの主な「アーク(弧)」と呼ばれる部分が存在している。このアークは、運動法則に基づく予測では短期間の間に環全体に一様に分布するとされたので、その存在を説明するのが困難であった。現在、天文学者たちは、アークは内側に存在している衛星ガラテアの重力効果によってこのような形になったと考えている。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "2005年に発表された地球からの観測では、海王星の環が以前考えられていたよりもはるかに不安定である事が示された。2002年と2003年にW・M・ケック天文台で撮影された画像とボイジャー2号が撮影した画像を比較すると、環が減衰している様子が伺える。アークは徐々に暗くなっている様子が観測されており、2009年のW・M・ケック天文台の観測ではLibertéとCourageがほぼ消滅していた。他方、EgalitéとFraternitéについては安定して残っている。",
"title": "衛星"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "海王星は1980年から2000年の間に著しく明るくなった。海王星の視等級の範囲は現在、7.67等から7.89等の範囲で、平均は7.78等、標準偏差は0.06等となっている。1980年以前の視等級は8等級と暗かった。海王星は肉眼で観望するには淡すぎるため、木星のガリレオ衛星や準惑星のケレス、小惑星のベスタ、パラス、イリス、ジュノー、へーべより暗く見える。望遠鏡や強力な双眼鏡があれば、天王星の外観に似た小さな青い円盤像として海王星を観望することができる。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "地球からの距離が遠いため、その角直径は太陽系の惑星の中では最小の2.2~2.4秒角となっている。見かけの大きさが小さいため、視覚的に研究することは困難である。望遠鏡による観測のほとんどは、ハッブル宇宙望遠鏡や補償光学(AO)を備えた大型の望遠鏡が出現するまではかなり限られていた。補償光学を用いた地上望遠鏡からの海王星の最初の科学的に有用な観測は、1997年にハワイで行われた。海王星は2007年現在、季節が春から夏に変化しつつある時期に入っており、それによって気温が上昇して大気活動と明るさが強くなっていることが示されている。技術的進歩と相まって、補償光学を備えた地上望遠鏡は、ますます鮮明な画像を記録するようになっている。ハッブル宇宙望遠鏡と地球上の補償光学を備えた望遠鏡は1990年代中頃から、太陽系内において数々の発見を成し遂げてきたが、とりわけ木星以遠の惑星の衛星数が大幅に増加した。2004年と2005年に、直径38~61 kmの新たな海王星の衛星が5個発見された。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "地球から見ると、海王星は367日ごとに逆行運動を繰り返す。その結果、逆行運動を起こしている間、海王星は背景の恒星に対してループしているように見える。これらのループは2010年4月と7月、2011年10月と11月に、海王星を1846年に発見された座標に近づけさせた。",
"title": "観測"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "電波周波数帯での観測では、海王星が連続放射と不規則なバーストの両方の源であることが示されており、この両方の発生源は、回転する磁場から生じると考えられている。スペクトルの赤外線部分では、海王星の嵐は背景に対して明るく見える。それによってこれらの特徴の大きさと形を容易に追跡することができる。",
"title": "観測"
},
{
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"tag": "p",
"text": "アリゾナ大学の研究チームが、ボイジャー2号やハッブル宇宙望遠鏡の画像から、ほぼ正確な自転周期を求めることに成功している。",
"title": "観測"
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{
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"tag": "p",
"text": "ボイジャー2号は海王星を訪れた唯一の宇宙探査機で、海王星に最も接近したのは1989年8月25日だった。海王星はボイジャー2号が訪れる最後の主要天体で、今後の探査機の軌道への影響を考慮する必要が無かったため、ボイジャー1号が土星の衛星タイタンに接近したように、衛星トリトンへの接近飛行が行われた。ボイジャー2号から地球に中継された画像は、1989年の PBSの終夜番組、Neptune All Nightの基礎となった。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "海王星に接近中、探査機からの信号が地球に到達するには246分を要した。したがって、ボイジャー2号の任務のほとんどは、海王星の接近のためにあらかじめ組み込まれていたコマンドに頼っていた。8月25日にボイジャー2号が海王星の大気上空4,400 km以内に接近する前に衛星ネレイドに近接接近し、そして同日遅くに最大の衛星トリトンの近くを通過した。",
"title": "探査"
},
{
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"tag": "p",
"text": "ボイジャー2号は海王星を取り巻く磁場の存在を確認し、磁場が中心からずれており、天王星の磁場と同じように傾いていることが判明した。海王星の自転周期は電波放射の測定値を用いて求められ、また海王星には驚くほど活発な大気活動があることも示された。また、海王星の衛星を新たに6個発見し、複数本の環が存在していることも確認された。",
"title": "探査"
},
{
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"text": "海王星のフライバイはまた、以前に計算されていたものよりも0.5%少ない初めての正確な海王星の質量の推定値をもたらした。この新たな数値は、未発見の惑星Xが海王星と天王星の軌道に作用したという仮説を反証することとなった。",
"title": "探査"
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"text": "2008年10月16日、冥王星探査のために打ち上げられた探査機ニュー・ホライズンズが、約37億5,000万 km 離れた位置から海王星とトリトンの画像を撮影した。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "ボイジャー2号のフライバイミッション後、海王星系の科学的探査における次のステップは、フラッグシップ計画での軌道ミッション(Flagship orbital mission)であると考えられている。このような仮説的ミッションは2020年代後半または2030年代初頭に可能だと予想されている。しかし、海王星への探査ミッションを早く実施するための議論が行われたことがある。2003年には、土星探査機カッシーニに似たNASAによる「Neptune Orbiter with Probes」ミッションが提案された。もう1つ、最近提案された計画として、2020年打ち上げ予定のフライバイ探査機Argo(英語版)があった。Argoは木星、土星、海王星、カイパーベルトを訪問することが予定されており、焦点となる海王星とトリトンの探査は2029年頃になるとされている。また、ニュー・ホライズンズのミッション内容に海王星の接近探査が含まれる可能性もあったものの、最終的には断念された。",
"title": "探査"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "10大天体の1つである。10大天体は、20世紀の冥王星発見後の占星術のもの。海王星が発見されたのは19世紀でありそれ以前にはありえないため、七曜・九曜にも含まれない(九曜は別の「仮説上の天体」をカウントする)。",
"title": "人類との関係"
},
{
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"tag": "p",
"text": "西洋占星術では、双魚宮(うお座)の支配星(海王星発見以前は木星が支配星とされていた)である。見えないものを示し、石油、石油製品、霊感、海に当てはまる。",
"title": "人類との関係"
}
] | 海王星は、太陽系の第8惑星で、太陽系の惑星の中では一番外側を公転している。直径は4番目、質量は3番目に大きく、地球の17倍の質量を持ち、太陽系のガス惑星としては最も密度が高い。海王星は組成が類似し直径がやや大きい天王星の質量(地球の15倍)よりもわずかに大きい。164.8年かけて公転しており、太陽からは平均30.1 au離れている。名称は、ローマ神話における海神ネプトゥーヌスに因んで命名され、惑星記号「♆」はネプトゥーヌスが持つ三叉槍を様式化したものである。 肉眼で観望することは出来ず、太陽系において唯一、経験的観測でなく数学的予測によって発見された惑星である。フランスの天文学者アレクシス・ブヴァールは、天王星の軌道の予期せぬ変化から、天王星の軌道が未知の惑星の重力による摂動のために生じているという推論を導いた。その後、ユルバン・ルヴェリエによって予測された範囲内の位置で1846年9月23日にヨハン・ゴットフリート・ガレが望遠鏡を用いて発見した。海王星の衛星では最大のトリトンは、その後間もなく発見された。現在では他に13個の衛星が知られているものの、地球から海王星までの距離が大きく地上からの観測が困難なため、それらの存在が明らかとなったのは20世紀以降のことである。1989年8月25日、宇宙探査機ボイジャー2号が海王星を訪れ、フライバイを行った。ハッブル宇宙望遠鏡や補償光学機能を備えた大型の地上望遠鏡の登場によって、近年は遠方からの更なる観測が可能になっている。 水やメタン、アンモニアなどの「氷」の割合は大きいものの、木星や土星と同様に海王星の大気は主に水素やヘリウム、そして微量の炭化水素と窒素で構成されている。しかし、天王星と同様にその内部は氷と岩石で構成されている。そのため通常は、天王星と海王星は木星、土星との違いを強調して天王星型惑星(巨大氷惑星)とみなされる。海王星の青い外観は、最も外側の領域に存在している微量のメタンによって作り出されているとされている。 霞んだ、比較的特徴を欠いている天王星の大気とは対照的に、海王星の大気は活発で、明確な変化が見られる気候を持つ。例えば、1989年にボイジャー2号がフライバイを行った時点では、南半球に木星の大赤斑に類似した大暗斑と呼ばれる模様が存在していた。これらの気象パターンは、太陽系のどの惑星よりも強い持続的な風によって引き起こされ、観測された風速は2100 km/hにもなる。太陽からの距離が遠いため、海王星の外側の大気は太陽系で最も温度の低い場所の1つであり、雲頂での温度は55 Kに近いのに対して、惑星の中心部の温度は約5400 Kになっていると考えられている。海王星は微かで断片的な環を持っている。この環は1984年に発見され、後にボイジャー2号の観測でも確認された。 | {{天体 基本
| 幅 = 340px
| 色 = 天王星型惑星
| 和名 = 海王星 [[ファイル:Neptune symbol (fixed width).svg|24px|♆]]
| 英名 = Neptune
| 画像ファイル = Neptune - Voyager 2 (29347980845) flatten crop.jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = [[ボイジャー2号]]が撮影した海王星の画像。中央に[[大暗斑]]とそれに付随した明るい模様が見え、西側の周縁には「スクーター」と呼ばれる、移動速度が速い明るい模様と小さな暗点が見られる。
| 視等級 = 7.67 - 8.00{{R|Mallama2018}}
| 視直径 = 2.2 - 2.4"{{R|fact|ephemeris}}
| 分類 = [[天王星型惑星]]
}}
{{天体 発見
| 色 = 天王星型惑星
| 発見年 = [[1846年]][[9月23日]]{{R|Hamilton}}
| 発見者 = [[ユルバン・ルヴェリエ]]<br>[[ジョン・クーチ・アダムズ|ジョン・アダムズ]]<br>[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ|ヨハン・ガレ]]{{R|Hamilton}}
| 発見場所 = {{flag|DEU}}・[[ベルリン]]{{R|discovery}}
| 発見方法 = 望遠鏡による観測
}}
{{天体 軌道
| 色 = 天王星型惑星
| 元期 = [[J2000.0]]{{R|group="注"|注釈1}}
| 平均距離 =
| 平均距離対象 = [[太陽]]
| 平均公転半径 = [[1 E12 m|4,495,060,000 km]]{{R|fact}}
| 平均直径 =
| 軌道長半径 = 30.181 [[天文単位|au]]<br />(4,514,953,000 km{{R|fact}})
| 近日点距離 = 29.887 au{{R|fact}}<br />(4,471,050,000 km{{R|fact}})
| 遠日点距離 = 30.474 au{{R|fact}}<br />(4,558,857,000 km{{R|fact}})
| 離心率 = 0.0097{{R|fact}}
| 公転周期 = 164.79 [[年]]{{R|fact}}<br>60,189 [[日|地球日]]<br>89,666 海王星[[太陽日]]{{R|planet_years}}
| 会合周期 = 367.49 日{{R|fact}}
| 軌道周期 =
| 平均軌道速度 = 5.43 km/s{{R|fact}}
| 軌道傾斜角 = 1.76917[[度 (角度)|°]]<small>([[黄道面]]に対して)</small>{{R|fact}}<br>6.43°<small>(太陽の赤道面に対して)</small><br>0.725429°<small>([[不変面]]に対して)</small>{{R|meanplane}}
| 近日点黄経 = 44.97135°{{R|fact}}
| 昇交点黄経 = 131.72169°{{R|fact}}
| 平均黄経 = 304.88003°{{R|fact}}
| 前回近日点通過 =
| 次回近日点通過 =
| 主恒星 = [[太陽]]
| 衛星数 = [[海王星の衛星|14]]{{R|fact}}
}}
{{天体 物理
| 色 = 天王星型惑星
| 半径 = 24,622 ± 19 km{{R|Seidelmann2007}}{{R|group="注"|注釈2}}
{{天体 項目|赤道半径|24,764 ± 15 km{{R|Seidelmann2007}}{{R|group="注"|注釈2}}}}
{{天体 項目|極半径|24,341 ± 30 km{{R|Seidelmann2007}}{{R|group="注"|注釈2}}}}
| 表面積 = 7.6183{{e|9}} [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]{{R|fact2}}{{R|group="注"|注釈2}}
| 体積 = 6.254{{e|13}} [[立方キロメートル|km<sup>3</sup>]]{{R|fact}}{{R|group="注"|注釈2}}
| 質量 = 1.02413 {{e|26}} [[キログラム|kg]]{{R|fact}}
| 相対対象1 = 地球
| 相対質量1 = 17.147
| 相対対象2 =
| 相対質量2 =
| 平均密度 = 1.638 [[グラム毎立方センチメートル|g/cm<sup>3</sup>]]{{R|fact}}
| 表面重力 = 11.15 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]{{R|fact}}<br>(1.14 [[重力加速度|''g'']])
| 脱出速度 = 23.5 km/s{{R|fact}}{{R|group="注"|注釈2}}
| 自転周期 = 0.671 [[日]]{{R|fact}}<br>(16時間6分36秒)
| アルベド = 0.290<small>([[ボンドアルベド]])</small>{{R|Pearl1991}}<br>0.442<small>([[幾何アルベド]])</small>{{R|Mallama2017}}
| 赤道傾斜角 = 28.32°{{R|fact}}
| 表面温度 = 46.6 [[ケルビン|K]]<small>([[温室効果]]なし)</small>{{R|fact}}<br>72 K<small>(気圧1 barにおいて)</small>{{R|fact}}<br>55 K<small>(気圧0.1 barにおいて)</small>{{R|fact}}
| 年齢 =
| 大気圧 = 深さによって異なる
| 大気 =
{{天体 項目|気体成分{{R|fact}}|
{{天体 項目|[[水素]]|80 ± 3.2%}}
{{天体 項目|[[ヘリウム]]|19 ± 3.2%}}
{{天体 項目|[[メタン]]|1.5 ± 0.5%}}
{{天体 項目|[[重水素化水素]]|~0.019%}}
{{天体 項目|[[エタン]]|~0.00015%}}
}}
{{天体 項目|氷の成分{{R|fact}}|[[アンモニア]]<br>[[水]]<br>[[硫化水素アンモニウム]]<br>[[メタン]]?}}
| 外殻 =
}}
{{天体 終了
| 色 = 天王星型惑星
}}
'''海王星'''(かいおうせい、{{Lang-en|Neptune}} {{IPAc-en|ˈ|n|ɛ|p|tj|uː|n}}<ref>{{cite book|first=Elizabeth|last=Walter|title=Cambridge Advanced Learner's Dictionary|work=Cambridge University Press|edition=2nd|isbn=978-0-521-53106-1|date=2003-04-21}}</ref>)は、[[太陽系]]の第8[[惑星]]で、太陽系の惑星の中では一番外側を[[公転]]している。直径は4番目、質量は3番目に大きく、[[地球]]の17倍の質量を持ち、太陽系の[[巨大ガス惑星|ガス惑星]]としては最も密度が高い。海王星は組成が類似し直径がやや大きい[[天王星]]の質量(地球の15倍)よりもわずかに大きい{{R|group="注"|注釈3}}。164.8[[年]]かけて公転しており、太陽からは平均30.1 [[天文単位|au]](約45億 km)離れている。名称は、[[ローマ神話]]における海神[[ネプトゥーヌス]]に因んで命名され、[[惑星記号]]「♆」はネプトゥーヌスが持つ[[三叉槍]]を様式化したものである。
肉眼で観望することは出来ず、太陽系において唯一、[[実証研究|経験的観測]]でなく数学的予測によって発見された惑星である。[[フランス]]の天文学者[[アレクシス・ブヴァール]]は、天王星の軌道の予期せぬ変化から、天王星の軌道が未知の惑星の[[重力]]による[[摂動 (天文学)|摂動]]のために生じているという推論を導いた。その後、[[ユルバン・ルヴェリエ]]によって予測された範囲内の位置で[[1846年]][[9月23日]]に[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ]]が[[望遠鏡]]を用いて発見した{{R|Hamilton}}。[[海王星の衛星]]では最大の[[トリトン (衛星)|トリトン]]は、その後間もなく発見された。現在では他に13個の衛星が知られているものの、地球から海王星までの距離が大きく地上からの観測が困難なため、それらの存在が明らかとなったのは20世紀以降のことである{{R|planetarynames}}。[[1989年]][[8月25日]]、[[ボイジャー2号|宇宙探査機ボイジャー2号]]が海王星を訪れ、[[フライバイ]]を行った<ref>{{cite news|last=Chang|first=Kenneth|title=Dark Spots in Our Knowledge of Neptune|url=https://www.nytimes.com/2014/08/19/science/dark-spots-in-our-knowledge-of-neptune.html|work=[[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]]|date=2014-10-18|accessdate=2019-03-01}}</ref>。[[ハッブル宇宙望遠鏡]]や[[補償光学]]機能を備えた大型の地上望遠鏡の登場によって、近年は遠方からの更なる観測が可能になっている。
[[水]]や[[メタン]]、[[アンモニア]]などの「氷」の割合は大きいものの、[[木星]]や[[土星]]と同様に海王星の大気は主に[[水素]]や[[ヘリウム]]、そして微量の[[炭化水素]]と[[窒素]]で構成されている。しかし、天王星と同様にその内部は氷と[[岩石]]で構成されている<ref>{{cite journal|last1=Podolak|first1=M.|last2=Weizman|first2=A.|last3=Marley|first3=M.|title=Comparative models of Uranus and Neptune|year=1995|journal=Planetary and Space Science|volume=43|issue=12|pages=1517–1522|doi=10.1016/0032-0633(95)00061-5|bibcode=1995P&SS...43.1517P}}</ref>。そのため通常は、天王星と海王星は木星、土星との違いを強調して[[天王星型惑星]](巨大氷惑星)とみなされる{{R|Lunine1993}}。海王星の青い外観は、最も外側の領域に存在している微量のメタンによって作り出されているとされている{{R|bluecolour}}。
霞んだ、比較的特徴を欠いている天王星の大気とは対照的に、海王星の大気は活発で、明確な変化が見られる気候を持つ。例えば、1989年にボイジャー2号がフライバイを行った時点では、南半球に木星の[[大赤斑]]に類似した[[大暗斑]]と呼ばれる模様が存在していた。これらの気象パターンは、太陽系のどの惑星よりも強い持続的な風によって引き起こされ、観測された風速は2100 km/h(580 m/s)にもなる{{R|Suomi1991}}。太陽からの距離が遠いため、海王星の外側の大気は太陽系で最も温度の低い場所の1つであり、雲頂での温度は55 [[ケルビン|K]](-218 [[摂氏|℃]])に近いのに対して、惑星の中心部の温度は約5400 K(約5100 ℃)になっていると考えられている{{R|Hubbard1997|nettelmann}}。海王星は微かで断片的な[[環 (天体)|環]]を持っている。この環は[[1984年]]に発見され、後にボイジャー2号の観測でも確認された{{R|ring1}}。
== 歴史 ==
=== 発見 ===
{{Main|海王星の発見}}
[[File:Galileo.arp.300pix.jpg|thumb|left|upright|ガリレオ・ガリレイ]]
望遠鏡を通じて記録されたこれまでで最も初期の観測記録の一部である、1612年12月28日と1613年1月27日に[[ガリレオ・ガリレイ]]が描いた図面には、海王星が位置していた地点が記されていた。しかし、どちらの場合もガリレオは海王星を、[[合 (天文)|合]]を起こしている木星の近くにある[[恒星]]と誤って認識していたとされている<ref>{{cite book|first=Alan|last=Hirschfeld|title=Parallax: The Race to Measure the Cosmos|year=2001|publisher=Henry Holt|location=New York, New York|isbn=978-0-8050-7133-7}}</ref>。したがって、ガリレオは海王星を発見したとはみなされていない。彼が最初に観測を行った1612年12月ごろは海王星は[[順行・逆行|逆行]]し始めたばかりで、見かけ上の動きが小さかったため、ガリレオの小型望遠鏡では検出できなかったと考えられている。しかし2009年7月に、[[メルボルン大学]]の物理学者David Jamiesonは、少なくともガリレオが観測した「星」が背景の恒星に対して相対的に動いているのを認知していたことを示唆する新たな証拠を発表している<ref>{{cite web|title=Galileo discovered Neptune, new theory claims|first=Robert Roy|last=Britt|year=2009|publisher=MSNBC News|accessdate=2019-03-01|url=http://www.msnbc.msn.com/id/31835303/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101002151604/http://www.msnbc.msn.com/id/31835303/|deadurl=yes|archivedate=2010-10-02}}</ref>。
1821年に、[[アレクシス・ブヴァール]]は海王星の1つ内側を公転している天王星の天文表を発表した<ref>{{cite book|first=A.|last=Bouvard|year=1821|title=Tables astronomiques publiées par le Bureau des Longitudes de France |publisher=Bachelier|location=Paris}}</ref>。その後行われた観測で、天王星の位置が表と実質的に異なっていることが明らかになり、ブヴァールは未知の天体の重力作用によって天王星の軌道が乱されているという仮説を導いた{{R|Airy1846}}。1843年、[[イギリス]]の数学者[[ジョン・クーチ・アダムズ]]は彼が所持していたデータを使って天王星の軌道の研究を始めた。[[ケンブリッジ天文台]]の所長[[ジェームズ・チャリス]]を介して、彼は1844年2月にそのデータを受け取った[[ジョージ・ビドル・エアリー]]からの追加データを要求した。アダムズは1845年から1846年にかけて作業を続け、新しい惑星に関するいくつかの異なる推定を立てた<ref>{{cite web|first=John J.|last=O'Connor|author2=Robertson, Edmund F.|url=http://www-groups.dcs.st-and.ac.uk/~history/Extras/Adams_Neptune.html|title=John Couch Adams' account of the discovery of Neptune|work=University of St Andrews|year=2006|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{cite journal|first=J. C.|last=Adams|title=Explanation of the observed irregularities in the motion of Uranus, on the hypothesis of disturbance by a more distant planet|year=1846|journal=Monthly Notices of the Royal Astronomical Society|volume=7|issue=9|pages=149–152|doi=10.1093/mnras/7.9.149|bibcode=1846MNRAS...7..149A}}</ref>。
[[File:Urbain Le Verrier.jpg|thumb|upright|left|ユルバン・ルヴェリエ]]
1845年から1846年にかけて、アダムズとは無関係に、フランスの数学者[[ユルバン・ルヴェリエ]]は自身の計算方法を開発したが、彼の同胞にその熱意は伝わらなかった。<!-- 訳が曖昧過ぎて怪しい -->1846年6月に、ルヴェリエが最初に発表した惑星の経度の推定値とアダムズの推定値との類似性を見て、エアリーはチャリスに惑星を探索するように説得させ、チャリスは8月から9月にかけて捜索を行った{{R|Airy1846}}<ref>{{cite journal|first=Rev. J.|last=Challis|title=Account of observations at the Cambridge observatory for detecting the planet exterior to Uranus|year=1846|journal=Monthly Notices of the Royal Astronomical Society|volume=7|issue=9|pages=145–149|doi=10.1093/mnras/7.9.145|bibcode=1846MNRAS...7..145C}}</ref>。
その間、ルヴェリエは手紙で[[ベルリン天文台]]の天文学者[[ヨハン・ゴットフリート・ガレ]]に天文台の[[屈折望遠鏡]]で未知の惑星を捜索するように促した。天文台の学生だった[[ハインリヒ・ダレスト]]はルヴェリエが予測した領域を描いた図面と実際の観測結果とを比較することで、恒星とは異なる、未知の惑星の[[変位]]特性を求められることをガレに示した。ガレが手紙を受け取った1846年9月23日の夜、彼はルヴェリエが予測していた地点から1°以内、アダムズが予測していた地点から約12°の領域内で海王星を発見した。後にチャリスは8月4日と8月12日に自身も海王星を観測していたことが判明したが、当時彼が所持していた[[星図]]が最新のものではなく、また同時に行っていた[[彗星]]の観測に気を取られていたため、海王星を惑星と認識することはできなかった{{R|Airy1846}}<ref>{{cite journal|first=J. G.|last=Galle|title=Account of the discovery of Le Verrier's planet Neptune, at Berlin, Sept. 23, 1846|year=1846|journal=Monthly Notices of the Royal Astronomical Society|volume=7|issue=9|page=153|doi=10.1093/mnras/7.9.15|bibcode=1846MNRAS...7..153G}}</ref>。
海王星の発見をきっかけに、フランスとイギリスの間で海王星の発見に値するのは誰なのかについて多くの民族主義的な対立が発生したが、結局、海王星はルヴェリエとアダムズの両方が発見したという国際的コンセンサスが定着した。1966年以来、[[アメリカ]]の天文学者Dennis Rawlinsはアダムズの共同発見の主張の信頼性について疑問を投げかけ、1998年に[[グリニッジ王立天文台]]に歴史文書の「Neptune papers」が返却されたことで歴史家による再評価が行われた<ref>{{cite web|first=Nick|last=Kollerstrom|url=http://www.ucl.ac.uk/sts/nk/neptune/index.htm |title=Neptune's Discovery. The British Case for Co-Prediction|publisher=University College London|year=2001|accessdate=2019-03-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051111190351/http://www.ucl.ac.uk/sts/nk/neptune/|archivedate=2005-11-11}}</ref>。文章を検討した後、彼らは「アダムズは、海王星の発見に関してルヴェリエと同等の信用に値するものではない。その信用は、惑星の位置を予測することとそれを捜索することを天文学者に納得させることの両方に成功した者にのみ属する。」としている<ref>{{cite journal|author=William Sheehan |author2=Nicholas Kollerstrom |author3=Craig B. Waff|url=http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=the-case-of-the-pilfered|title=The Case of the Pilfered Planet – Did the British steal Neptune?|journal=Scientific American|year=2004|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
=== 命名 ===
発見直後、海王星は単に「天王星の外側の惑星」や「ルヴェリエの惑星」と呼ばれていた。最初に提案された名称はガレが提案した「[[ヤーヌス]](''Janus'')」というものだった。イギリスでは、チャリスが付与した「[[オーケアノス]](''Oceanus'')」という名称が用いられていた{{sfnp|Moore|2000|p=206}}。
ルヴェリエは彼の発見した惑星に名称を付与する権利を主張し、すぐにこの新たな惑星に''Neptune''という名称を提案したが、{{仮リンク|フランス経度局|en|Bureau des Longitudes}}によって正式に承認されたという誤った内容を述べていた<ref>{{cite book|last=Littmann|first=Mark|year=2004|title=Planets Beyond, Exploring the Outer Solar System|publisher=Courier Dover Publications|isbn=978-0-486-43602-9|page=50}}</ref>。10月、彼は自身の名に因んで新たな惑星を''Le Verrier''と命名することを求め、この提案は当時の天文台長であった[[フランソワ・アラゴ]]からも支持を得ていたが、フランス国外からはこの提案に対して多くの反発が上がった<ref>{{cite book|last=Baum|first=Richard|author2=Sheehan, William|year=2003|title=In Search of Planet Vulcan: The Ghost in Newton's Clockwork Universe|publisher=Basic Books|isbn=978-0-7382-0889-3|pages=109–110}}</ref>。フランスの年鑑はすぐに、天王星が発見された後に発見者の[[ウィリアム・ハーシェル]]に因んで使用されていた''Herschel''という名称を天王星に再導入し、新たな惑星に''Le Verrier''という名称を導入した<ref>{{cite journal|first=Owen|last=Gingerich|title=The Naming of Uranus and Neptune|year=1958|journal=Astronomical Society of the Pacific Leaflets|volume=8|issue=352|pages=9–15|bibcode=1958ASPL....8....9G}}</ref>。
天文学者[[フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ]]は、1846年12月29日に[[ロシア科学アカデミー|帝国サンクトペテルブルク科学アカデミー]]にて''Neptune''という名称を支持することを表明した<ref>{{cite journal|last=Hind|first=J. R.|title=Second report of proceedings in the Cambridge Observatory relating to the new Planet (Neptune)|year=1847|journal=Astronomische Nachrichten|volume=25|issue=21|pages=309–314|doi=10.1002/asna.18470252102|bibcode=1847AN.....25..309.}}</ref>。その後すぐに、''Neptune''という名称は国際的に受け入れられるようになっていった。[[ローマ神話]]では、名称の元となった[[ネプトゥーヌス]](Neptūnus)は[[ギリシア神話]]の[[ポセイドーン]](Poseidōn)と同一視される海の神である。この神話に基づく命名の提案は惑星の命名法と一致しており、地球以外の全ての惑星はギリシア神話とローマ神話の神々から命名されている{{R|USGS}}。
今日において、ほとんどの言語で''Neptune''という名称が使用されている。[[中国語]]、[[ベトナム語]]、[[日本語]]、[[朝鮮語]]ではこの名称は「海王星」と訳されるようになった<ref>{{cite web|title=Planetary linguistics|publisher=nineplanets.org|url=http://nineplanets.org/days.html|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{cite web|url=http://kenh14.vn/kham-pha/sao-hai-vuong-cuc-bang-khong-lo-xa-tit-tap-2010103010172747.chn|title=Sao Hải Vương – "Cục băng" khổng lồ xa tít tắp|publisher=Kenh14|language=vi|date=2010-10-31|accessdate=2019-03-01}}</ref>。[[モンゴル語]]では、海の支配者である同名の神の役割を反映して、''Dalain Van''(Далайн ван)と呼ばれている。現在の[[ギリシャ語]]では、海王星はネプトゥーヌスのギリシャ語にあたる''Poseidon''(Ποσειδώνας, ''Poseidonas'')と呼ばれる<ref>{{cite web|url=http://www.greek-names.info/greek-names-of-the-planets/|title=Greek Names of the Planets|quote=Neptune or ''Poseidon'' as is its Greek name, was the God of the Seas. It is the eight planet from the sun...|date=2010-04-25|accessdate=2019-03-01}} See also the [[:el:Ποσειδώνας (πλανήτης)|Greek article about the planet]].</ref>。[[ヘブライ語]]では、海王星の正式名称として、2009年に[[ヘブライ語アカデミー]]で管理されていた[[詩篇]]に登場する海の怪物に因んだ"Rahab"(רהב)という名称が選定された。既存の[[ラテン語]]では、一般的に''Neptu''(נפטון)という名称が使用されている<ref>{{cite news|url=https://www.haaretz.com/1.4758704|title=Uranus and Neptune Get Hebrew Names at Last|work=Haaretz|first=Yair|last=Ettinger|date=2009-12-31|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.hayadan.org.il/hebrew-names-to-uranus-and-neptune-3112090|title=אוראנוס הוא מהיום אורון ונפטון מעתה רהב|trans-title=Uranus is now Oron and Neptune is now Rahav|work=Hayadan|language=he|first=Avi|last=Belizovsky|date=2009-12-31|accessdate=2019-03-01}}</ref>。[[マオリ語]]では[[マオリ神話]]に登場する海の神に因んで''Tangaroa''と呼ばれている{{R|Appendix 5: Planetary Linguistics}}。[[ナワトル語]]では''Tlāloccītlalli''と呼ばれており、これは[[雨]]の神[[トラロック]]に因んでいる{{R|Appendix 5: Planetary Linguistics}}。[[タイ語]]では、海王星は[[ヒンドゥー教]]において[[月の交点]]に存在するとされる[[ケートゥ]](केतु)を西洋化した、''Dao Nepjun''(ดาวเนปจูน)もしくは''Dao Ketu''(ดาวเกตุ, ''Star of Ketu'')という名称が用いられる。
=== 状況 ===
1846年の発見から1930年の[[冥王星]]の発見まで、海王星は最も外側にある惑星として知られていた。発見された時は冥王星は惑星とみなされ、楕円軌道によって冥王星が海王星よりも太陽に接近した1979年から1999年までの20年間を除き、海王星は2番目に遠い惑星となった<ref>{{cite news|last=Long|first=Tony|title=Neptune Moves Outside Pluto's Wacky Orbit|work=Wired|url=https://www.wired.com/science/discoveries/news/2008/01/dayintech_0121|date=2008-01-21|accessdate=2019-03-01}}</ref>。1992年に[[エッジワース・カイパーベルト]]が発見されたことによって、冥王星を惑星とみなすべきか、それともカイパーベルトの一部とみなすべきかについて、多くの天文学者たちの間で議論が交わされた<ref>{{cite journal|author=Weissman, Paul R.|title=The Kuiper Belt|year=1995|journal=Annual Review of Astronomy and Astrophysics|volume=33|pages=327–357|bibcode=1995ARA&A..33..327W|doi=10.1146/annurev.aa.33.090195.001551}}</ref><ref>{{cite web|title=The Status of Pluto:A clarification|website=International Astronomical Union, Press release|url=http://www.iau.org/STATUS_OF_PLUTO.238.0.html|year=1999|accessdate=2019-03-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060615200253/http://www.iau.org/STATUS_OF_PLUTO.238.0.html|archivedate=2006-06-15|deadurl=yes}}</ref>。2006年に[[国際天文学連合]](IAU)は初めて[[国際天文学連合による惑星の定義|惑星の定義]]を制定したことにより、冥王星は[[準惑星]]に再分類され、海王星は再び太陽系で最も外側にある惑星となった<ref>{{cite news|url=http://www.iau.org/static/resolutions/Resolution_GA26-5-6.pdf|title=IAU 2006 General Assembly: Resolutions 5 and 6|date=2006-08-24|publisher=IAU|format=PDF|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
== 物理的性質 ==
[[File:Neptune, Earth size comparison 2b.jpg|サムネイル|right|地球と海王星の大きさの比較]]
海王星の質量は1.0243 {{e|26}} [[キログラム|kg]]で{{R|fact}}、これは地球の17倍、木星の19分の1に相当し{{R|group="注"|注釈4}}、地球とより大きな巨大ガス惑星の中間の規模を持つ。気圧1 [[バール (単位)|bar]]での[[重力加速度]]は地球の1.14倍に相当する11.15 [[メートル毎秒毎秒|m/s<sup>2</sup>]]で{{R|fact}}、これは太陽系内の惑星では木星に次いで大きい値である<ref>{{cite book|last1=Unsöld|first1=Albrecht|last2=Baschek|first2=Bodo|year=2001|title=The New Cosmos: An Introduction to Astronomy and Astrophysics|journal=The New Cosmos : An Introduction to Astronomy and Astrophysics|edition=5th|publisher=Springer|page=47|isbn=978-3-540-67877-9|bibcode=2001ncia.book.....U}} See Table 3.1.
</ref>。[[赤道]]半径は地球の約4倍の24,764 [[キロメートル|km]]である{{R|Seidelmann2007}}。海王星は天王星と似ており、木星や土星よりも小型で、含まれている揮発性物質の濃度が高いことから[[木星型惑星]]のサブクラスである[[天王星型惑星]](巨大氷惑星)に分類される{{R|Boss2002}}。[[太陽系外惑星]]の探査では、英語名の「Neptune」は[[換喩|比喩]]的に使用されている。科学者たちが太陽系外で発見された様々な天体を「Jupiters」と呼ぶように、海王星と同等の質量を持つ天体はしばしば「Neptunes」と呼ばれる<ref>{{cite news|first=C.|last=Lovis|author2=Mayor, M.|author3=Alibert Y.|author4=Benz W.|url=http://www.eso.org/public/news/eso0618/ |title=Trio of Neptunes and their Belt|work=[[ヨーロッパ南天天文台|European Southern Observatory]]|date=2006-05-18|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
=== 内部構造 ===
海王星の内部構造は天王星と似ている。海王星の大気は全質量の5~10%を占め、大気圏の厚さは[[核 (天体)|核]]に向かって全体の半径の10~20%にまで広がっていると考えられる。大気圏の最下層での[[大気圧]]は約10 [[パスカル (単位)|GPa]]、すなわち地球上の大気圧の約10万倍に達する。大気圏の下層に近づくに従い、[[メタン]]・[[アンモニア]]・[[水]]の濃度が上昇する{{R|Hubbard1997}}。
[[File:Neptune diagram.svg|thumb|left|海王星の内部構造{{ordered list|上層の大気や雲|水素やヘリウム、メタンのガスから成る大気|水やアンモニア、メタンの氷から成るマントル|岩石(ケイ酸塩とニッケル鉄)から成る核}}]]
[[マントル]]の質量は地球の10~15倍に相当し、[[水]]や[[アンモニア]]、[[メタン]]が豊富に含まれている{{R|Hamilton}}。惑星科学分野の習慣では、このような状態は高温で高密度な液体であるにもかかわらず「氷」と呼ばれる。この高い電気伝導率を持つ液体は、しばしば「水とアンモニアの海(water-ammonia ocean)」 と呼ばれる<ref>{{cite journal|url=http://www.cosis.net/abstracts/EGU06/05179/EGU06-J-05179-1.pdf|title=Water-ammonia ionic ocean on Uranus and Neptune?|year=2006|journal=Geophysical Research Abstracts|first1=S.|last1=Atreya|first2=P.|last2=Egeler|first3=K.|last3=Baines|volume=8|at=05179}}</ref>。マントルは水分子が[[水素]]および[[酸素]]の[[イオン]]に分解されてできた「イオン水」(ionic water) の層によって構成され、さらに深部では酸素が結晶化し、水素イオンがその結晶格子の中を漂う「超イオン水(superionic water)」の状態にある層から成っているとされる<ref>{{cite news|first=David|last=Shiga|url=https://www.newscientist.com/article/mg20727764.500-weird-water-lurking-inside-giant-planets/|title=Weird water lurking inside giant planets|work=New Scientist|issue=2776|date=2010-09-01|accessdate=2019-03-01}}</ref>。深さ7,000 kmの深度では、マントル中のメタンが[[ダイヤモンド]]の[[結晶]]へと分解され、[[雹]]のような形で中心核に向かって降り注いでいる状態になっているかもしれない<ref>{{cite journal|title=Neptune May Crush Methane Into Diamonds|year=1999|journal=Science|last=Kerr|first=Richard A.|volume=286|issue=5437|pages=25a–25|doi=10.1126/science.286.5437.25a|pmid=10532884}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.washingtonpost.com/news/speaking-of-science/wp/2017/08/25/it-rains-solid-diamonds-on-uranus-and-neptune/|title=It rains solid diamonds on Uranus and Neptune|work=[[ワシントン・ポスト|The Washington Post]]|last=Kaplan|first=Sarah|date=2017-08-25|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{cite journal|last=Kraus|first=D.|last2=Vorberger|first2=J.|last3=Pak|first3=A.|last4=Hartley|first4=N. J.|last5=Fletcher|first5=L. B.|last6=Frydrych |first6=S.|last7=Galtier|first7=E.|last8=Gamboa|first8=E. J.|last9=Gericke|first9=D. O.|last10=Glenzer|first10=S. H.|last11=Granados|first11=E.|last12=MacDonald|first12=M. J.|last13=MacKinnon|first13=A. J.|last14=McBride|first14=E. E.|last15=Nam|first15=I.|last16=Neumayer|first16=P.|last17=Roth|first17=M.|last18=Saunders|first18=A. M.|last19=Schuster|first19=A. K.|last20=Sun|first20=P.|last21=van Driel|first21=T.|last22=Döppner|first22=T.|last23=Falcone|first23=R. W.|url=http://www.escholarship.org/uc/item/1zd805nx|title=Formation of diamonds in laser-compressed hydrocarbons at planetary interior conditions|year=2017|journal=Nature Astronomy|volume=1|issue=9|pages=606–611|doi=10.1038/s41550-017-0219-9|bibcode=2017NatAs...1..606K}}</ref>。[[ローレンス・リバモア国立研究所]]での超高圧実験では、マントルの最上部は浮遊固体の「ダイヤモンド」を含む液体炭素の海になっている可能性が示唆されている<ref>{{cite news|url=http://www.astronomynow.com/news/n1001/21diamond/|title=Oceans of diamond possible on Uranus and Neptune|work=Astronomy Now|first=Emily|last=Baldwin|date=2010-01-21|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{cite journal|last=Bradley|first=D. K.|last2=Eggert|first2=J. H.|last3=Hicks|first3=D. G.|last4=Celliers|first4=P. M.|url=https://e-reports-ext.llnl.gov/pdf/310197.pdf|title=Shock Compressing Diamond to a Conducting Fluid|doi=10.1103/physrevlett.93.195506|year=2004|journal=Physical Review Letters|format=PDF|volume=93|issue=19|pages=195506|pmid=15600850|bibcode=2004PhRvL..93s5506B}}</ref><ref>{{cite journal|last=Eggert |first=J.H.|last2=Hicks|first2=D. G.|last3=Celliers |first3=P. M.|last4=Bradley|first4=D. K. ''et al.''|url=http://www.nature.com/nphys/journal/v6/n1/abs/nphys1438.html|title=Melting temperature of diamond at ultrahigh pressure|year=2009|journal=Nature Physics|volume=6|issue=40|pages=40–43|doi=10.1038/nphys1438|bibcode=2010NatPh...6...40E}}</ref>。
海王星の核は、[[鉄]]や[[ニッケル]]、[[ケイ酸塩]]で構成され、内部モデルでは地球の核の1.2倍の質量を持つことが示されている<ref>{{cite journal|last=Podolak|first=M.|author2=Weizman, A.|author3=Marley, M.|title=Comparative models of Uranus and Neptune|year=1995|journal=Planetary and Space Science|volume=43|issue=12|pages=1517–1522|doi=10.1016/0032-0633(95)00061-5|bibcode=1995P&SS...43.1517P}}</ref>。中心部の圧力は7 [[バール (単位)|Mbar]](700 GPa)で、これは地球の中心部の約2倍に相当し、温度は約5,400 [[ケルビン|K]]とされている{{R|Hubbard1997|nettelmann}}。
=== 大気 ===
[[File:Neptune-Methane.jpg|thumb|可視光線と[[赤外線|近赤外線]]を組み合わせた海王星の画像。大気中に[[メタン]]の存在を示す帯と4つの衛星([[プロテウス (衛星)|プロテウス]]・[[ラリッサ (衛星)|ラリッサ]]・[[ガラテア (衛星)|ガラテア]]・[[デスピナ (衛星)|デスピナ]])が映し出されている。]]
[[File:Neptune's Dynamic Environment.webm|thumb|海王星とその衛星の[[低速度撮影|タイムラプス動画]]]]
海王星の上層の大気には、[[水素]]が80%、[[ヘリウム]]が19%{{R|Hubbard1997}}、そして微量のメタンが含まれている。顕著なメタンの吸収帯は、[[スペクトル]]上の赤および赤外部分において、600 nmを超える波長を示す部分に存在している。天王星の穏やかな[[シアン (色)|シアン]]色と海王星の鮮やかな[[アジュール]]色とに違いはあるが、天王星と同じく、大気中に含まれるメタンによる赤色の光の吸収によって青い色合いになっている<ref>{{cite web|last=Crisp|first=D.|author2=Hammel, H. B.|url=http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/1995/09/image/a/|title=Hubble Space Telescope Observations of Neptune|work=Hubble News Center|date=1995-06-14|accessdate=2019-03-01}}</ref>。しかし、大気中に含まれるメタンの含有量は天王星と類似しているため、天王星に比べより青みが深い理由はいくつかの未知の化合物によるものと考えられている{{R|bluecolour}}。
[[オックスフォード大学]]の研究チームは、海王星よりも天王星の方が大気中間層にある[[靄]]粒子の層が厚く、結果的に海王星の青色が強く見えるとする説を提唱した<ref>[https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/12561_uranus_neptune なぜ海王星は天王星より青いのか]アストロアーツ 2022年6月7日</ref><ref>[https://cosmosmagazine.com/space/gemini-north-uranus-and-neptune/ Uranus and Neptune are non-identical twins – now we know why]Cosmos 2022年6月2日</ref>。
海王星の大気は、高度と共に温度が下がる下層の[[対流圏]]と高度と共に温度が上がる上層の[[成層圏]]の2つの領域に分けられる。その境界である[[対流圏界面]]での気圧は0.1 bar(10 kPa)になっている{{R|Lunine1993}}。さらに上層になると、成層圏の気圧は 10<sup>-5</sup>~10<sup>-4</sup> bar(1~10 Pa)以下になり[[熱圏]]となる{{R|Lunine1993}}。熱圏よりさらに上層になると徐々に[[外気圏]]へと変わる。
[[File:Neptune clouds.jpg|thumb|高度の高い雲の帯が下層の雲の上面に影を落としている様子]]
モデルでは、海王星の対流圏が高度に応じて異なる組成の[[雲]]に覆われていることが示唆されている。上層部の雲は1 bar以下の気圧下にあり、この領域はメタンが凝縮するのに適した温度になっているとされている。1~5 bar(100~500 kPa)の気圧下ではアンモニアと[[硫化水素]]の雲が形成されると考えられている。5 bar以上の気圧下では、雲はアンモニアや[[硫化アンモニウム]]、硫化水素、水から成っているかもしれない。温度が273 K(0 ℃)に達する気圧約50 bar(5 MPa)の状況下では水の[[氷]]から成る雲が存在しているはずである。さらにその下層には、アンモニアと硫化水素の雲が見られるかもしれない{{R|elkins-tanton}}。
高度が高いところにある雲が下層の不透明な雲の上面に影を落としている様子が観測されている。中には一定の[[経度]]を保ちながら、海王星を1周する雲の帯も存在している。こうした雲の帯の幅は50~150 kmで、下層の雲の約50~110 km上空に存在している。この高度は、天候の変化が生じる対流圏である。これより高度が高い成層圏や熱圏では天候の変化は生じない。<!-- Unlike Uranus, Neptune's composition has a higher volume of ocean, whereas Uranus has a smaller mantle.<ref>{{cite book |last=Frances |first=Peter |title=DK Universe |date=2008 |publisher=DK Publishing |isbn=978-0-7566-3670-8 |pages=196–201}}</ref> -->
海王星のスペクトルからは、[[エタン]]や[[アセチレン]]といったメタンが[[紫外線]]で[[光分解]]された際の生成物が凝縮したため、成層圏の下層部は霞がかっていることが示唆されている{{R|Hubbard1997|Lunine1993}}。成層圏には、微量の[[一酸化窒素]]と[[シアン化水素]]も存在している{{R|Lunine1993|Encrenaz2003}}。海王星の成層圏は炭化水素の濃度が高いため、天王星の成層圏よりも温度が高くなっている{{R|Lunine1993}}。
海王星の熱圏は750 K(477 ℃)と異常に高くなっているが、その理由ははっきりしていない<ref>{{cite journal|last=Broadfoot|first=A. L.|author2=Atreya, S. K.|author3=Bertaux, J. L. ''et al.''|title=Ultraviolet Spectrometer Observations of Neptune and Triton|year=1999|journal=Science|volume=246|pages=1459–1466|issue=4936|url=http://www-personal.umich.edu/~atreya/Articles/1989_Voyager_UV_Spectrometer.pdf|format=PDF|doi=10.1126/science.246.4936.1459|pmid=17756000|bibcode=1989Sci...246.1459B}}</ref><ref>{{cite journal|last1=Herbert|first1=Floyd|last2=Sandel|first2=Bill R.|title=Ultraviolet observations of Uranus and Neptune|year=1999|journal=Planetary and Space Science|volume=47|issue=8–9|pages=1119–1139|doi=10.1016/S0032-0633(98)00142-1|bibcode=1999P&SS...47.1119H}}</ref>。この熱が紫外線によって生じるにはあまりにも太陽から離れている。この熱を生み出すメカニズムの候補の1つとして、海王星の[[磁場]]中のイオンと大気の相互作用が挙げられる。その他の候補としては、内部から発せられて大気圏内で散逸する[[重力波 (流体力学)|重力波]]に起因している可能性が挙げられている。熱圏には、微量の[[二酸化炭素]]と水が含まれているが、これらは[[隕石]]や塵などによって外部からもたらされた可能性がある{{R|elkins-tanton|Encrenaz2003}}。
[[2020年]]、[[東京大学]]などの研究チームが[[2016年]]に行われた[[アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計]](ALMA)による観測結果を再解析した結果、海王星の赤道周辺の成層圏にシアン化水素が帯状に1.66{{+-|0.06|0.03}} [[Parts-per表記|ppb]]の濃度で分布していることが判明した。以前から大気中にシアン化水素が存在していることは知られていたが、どのように分布しているのかが確かめられたのはこれが初めてである。このシアン化水素は成層圏内で生成され、大気の対流によって輸送されている可能性がある<ref>{{cite arxiv|last=Iino|first=Takahiro|last2=Sagawa|first2=Hideo|last3=Tsukagoshi|first3=Takashi|last4=Nozawa|first4=Satonori|title=A belt-like distribution of gaseous hydrogen cyanide on Neptune's equatorial stratosphere detected by ALMA|year=2020|eprint=2009.14072v1|class=astro-ph.EP}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/press/z0310_00023.html|title=海王星の赤道に横たわる猛毒ガス「シアン化水素」の帯を世界で初めて発見|publisher=[[東京大学]]|date=2020-10-22|accessdate=2020-10-24}}</ref>。
=== 磁気圏 ===
海王星の[[磁気圏]]は天王星に似ている。その[[磁場]]は海王星の自転軸に対して47°も傾いており、磁気軸が海王星の物理的中心から少なくとも海王星の半径の0.55倍(約13,500 km)もずれている。ボイジャー2号が海王星に到着するまでは、先に海王星と同じように傾斜している天王星の磁場は天王星の横向きの自転によるものと仮定されていた。2つの惑星([[氷惑星]])の磁場の比較において、科学者たちはこの磁場の極端な傾きは惑星内部の流動によるものかもしれないと考えている。この磁場は、薄い球殻状に分布している[[導電性]]の液体(おそらくアンモニア、メタン、水が混合している{{R|elkins-tanton}})の中での[[対流]]運動によって引き起こされる[[ダイナモ]]作用によって発生しているかもしれない<ref>{{cite journal|last=Stanley|first=Sabine|author2=Bloxham, Jeremy|title=Convective-region geometry as the cause of Uranus' and Neptune's unusual magnetic fields|year=2004|journal=Nature|volume=428|issue=6979|pages=151–153|doi=10.1038/nature02376|pmid=15014493|bibcode=2004Natur.428..151S}}</ref>。
海王星の磁気赤道における磁場の[[双極子]]成分は約14 [[テスラ (単位)|μT]](0.14 [[ガウス (単位)|G]])<ref>{{cite journal|last1=Connerney|first1=J. E. P.|last2=Acuña|first2=Mario H.|last3=Ness|first3=Norman F.|title=The magnetic field of Neptune|year=1991|journal=Journal of Geophysical Research|volume=96|pages=19023–19042|bibcode=1991JGR....9619023C|doi=10.1029/91JA01165}}</ref>、双極子[[磁気モーメント]]は約2.2{{e|17}} T·m<sup>3</sup>(約14 μT·''R''<sub>N</sub><sup>3</sup>、ここでの''R''<sub>N</sub>は海王星半径を指す)である。海王星の磁場は、[[双極子モーメント]]の強度を超える可能性がある強い[[四重極]]モーメントを含む、非双極子成分からの比較的大きな寄与があり、複雑な構造を有している。それとは対照的に、地球、木星、土星は比較的小さな四重極モーメントしか持たず、それらの磁場は自転軸からあまり傾いていない。海王星の大きな四重極モーメントは、惑星の中心からのズレと磁場のダイナモ発生の幾何学的な制約による結果であるかもしれない{{R|Ness1989}}<ref>{{cite web|last=Russell|first=C. T.|author2=Luhmann, J. G.|url=http://www-ssc.igpp.ucla.edu/personnel/russell/papers/nep_mag.html|title=Neptune: Magnetic Field and Magnetosphere|work=University of California, Los Angeles|year=1997|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
磁気圏が[[太陽風]]を減速させ始める海王星の[[バウショック]]は海王星半径の34.9倍(約86万 km)離れた距離で発生している。磁気圏の圧力が太陽風と釣り合う磁気圏界面は海王星半径の23~26.5倍(約56万6,000~66万 km)離れている。磁気圏の尾部は、海王星半径の少なくとも72倍(約177万 km)、もしくはさらに遠方まで伸びているとされている{{R|Ness1989}}。
== 気候 ==
[[File:Neptune storms.jpg|thumb|コントラストを強調した[[大暗斑]](中央)とスクーター(中央の白い雲)<ref>{{cite web|first=Sue|last=Lavoie|title=PIA01142: Neptune Scooter|url=http://photojournal.jpl.nasa.gov/catalog/PIA01142|work=NASA|date=1998-01-08|accessdate=2019-03-01}}</ref>と[[小暗斑]](下)の画像]]
海王星の気候の大きな特徴は非常にダイナミックな暴風構造である。海王星の大気中の風速は600 m/s(2,200 km/h)に達し、[[超音速|超音速流]]に近い{{R|Suomi1991}}。持続性のある雲の動きを追跡することによって、より一般的には風速は東方向に20 m/sから西向きに325 m/sの範囲にまで変化していることが示されている<ref>{{cite journal|author=Hammel, H. B.|author2=Beebe, R. F.|author3=De Jong, E. M.|author4=Hansen, C. J.|author5=Howell, C. D.|author6=Ingersoll, A. P.|author7=Johnson, T. V.|author8=Limaye, S. S.|author9=Magalhaes, J. A.|author10=Pollack, J. B.|author11=Sromovsky, L. A.|author12=Suomi, V. E.|author13=Swift, C. E.|title=Neptune's wind speeds obtained by tracking clouds in ''Voyager 2'' images|year=1989|journal=Science|volume=24|pages=1367–1369|issue=4924|pmid=17798743|bibcode=1989Sci...245.1367H|doi=10.1126/science.245.4924.1367 }}</ref>。雲頂での[[卓越風]]の風速は、赤道では400 m/s、極付近では250 m/sとなっている{{R|elkins-tanton}}。海王星の風の大部分は、惑星の自転方向と反対向きに吹いている{{sfnp|Burgess|1991|pp=64-70}}。一般的な風のパターンは、高緯度領域では自転と同じ方向、低緯度領域では自転とは逆の方向を示す。この流れの方向の違いは「skin effect」と呼ばれる表層付近での物理過程に由来し、大気の深い部分での過程によるものではないと考えられている{{R|Lunine1993}}。南緯 70° では、大気ジェットは 300 m/s に達する{{R|Lunine1993}}。
海王星は、一般的な気象活動のレベルにおいて天王星と大きく異なっている。ボイジャー2号は1989年に海王星をフライバイ(接近飛行)した際に海王星の気象現象を観測したが{{R|spot}}、1986年に天王星をフライバイした際には天王星で海王星のような気象現象は観測されなかった。
[[File:A storm is coming Neptune.tif|left|thumb|北半球の大暗斑は巨大な暴風構造の証拠である<ref>{{cite web|title=A storm is coming|url=https://www.spacetelescope.org/images/potw1907a/|work=www.spacetelescope.org|accessdate=2019-03-01}}</ref>]]
海王星の赤道でのメタン、エタン、[[アセチレン]]の含有量は極地域よりも10~100倍多くなっている。[[光化学]]では、子午面循環無しでこの分布を説明することはできないため、この分布はこれらの物質が赤道で上昇し、極付近で下降している証拠として解釈されている{{R|Lunine1993}}。
[[ハッブル宇宙望遠鏡]]で表面の変化が観測されており、海王星にも地球同様に[[季節]]がある可能性が示唆されている{{R|tettei|villard}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2003/05/28neptune/index-j.shtml |title=海王星にも季節の変化があるらしい |accessdate=2019-03-04 |date=2003-05-28 |work=AstroArts }}</ref><ref>{{cite web|last=Crisp|first=D.|author2=Hammel, H. B.|date=1995-06-14|url=http://hubblesite.org/newscenter/archive/releases/1995/09/image/a/|title=Hubble Space Telescope Observations of Neptune|publisher=Hubble News Center|accessdate=2016-02-07}}</ref>。2007年に、海王星の南極上空にある対流圏の温度が周辺より約10 K高く、温度が平均で約73 K(約-200 ℃)になっていることが判明した{{R|pole}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2007/09/28neptune_southpole/index-j.shtml|title=海王星の南極が熱い|work=AstroArts|date=2007-09-28|accessdate=2019-03-01}}</ref>。これは、対流圏の他の場所で凍っているメタンを極付近の成層圏に放出するのに充分な温度差である<ref>{{cite journal|author=Orton, G. S.|author2=Encrenaz T.|author3=Leyrat C.|author4=Puetter, R.|author5=Friedson, A. J.|title=Evidence for methane escape and strong seasonal and dynamical perturbations of Neptune's atmospheric temperatures|year=2007|journal=Astronomy and Astrophysics|volume=473|issue=1|pages=L5–L8|doi=10.1051/0004-6361:20078277|bibcode=2007A&A...473L...5O}}</ref>。この相対的な「ホットスポット」は海王星の[[赤道傾斜角|自転軸の傾き]]によるもので、これは海王星の1年における最後の四半期、すなわち地球での約40年間は南極に太陽光が照らすようになっていたのが原因であるとされている。海王星が軌道を公転して、太陽を挟んでその反対側に移動すると、南極に太陽光が届かないようになり、逆に北極が照らされるようになってメタンの放出も北極に移動するとみられる{{R|pole}}。
季節的変化のため、海王星の南半球にある雲の帯がサイズが大きくなって[[アルベド]]が高くなっている様子が観測されている。この傾向は1980年に初めて観測され、2020年ごろまで続くと予想されている。海王星の長い公転周期は、それぞれ約40年続く季節を生み出している{{R|villard}}{{sfnp|渡部潤一|2012|pp=172-173}}。
=== 嵐 ===
{{Main|大暗斑}}
[[ファイル:Neptune's Great Dark Spot.jpg|thumb|left|ボイジャー2号が撮影した大暗斑]]
1989年に縦6,600 km、横幅13,000 kmに渡る[[高気圧]]性の[[嵐]]構造である'''[[大暗斑]]'''({{Lang-en|Great Dark Spot}})が[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]のボイジャー2号による観測で発見された{{R|spot}}{{sfnp|渡部潤一|2012|pp=172-173}}。この大暗斑は木星の[[大赤斑]]に似ている{{R|jaxa}}。しかし、約5年後の1994年11月2日に行われた[[ハッブル宇宙望遠鏡]]による観測では大暗斑は消失しており、その理由は分かっていない{{R|tettei}}。その代わりに、海王星の北半球では大暗斑に似た新しい嵐が発見された<ref>{{cite journal|last=Hammel|first=H. B.|author2=Lockwood, G. W.|author3=Mills, J. R.|author4=Barnet, C. D.|title=Hubble Space Telescope Imaging of Neptune's Cloud Structure in 1994|year=1995|journal=Science|volume=268|issue=5218|pages=1740–1742|doi=10.1126/science.268.5218.1740|pmid=17834994|bibcode=1995Sci...268.1740H}}</ref>。
大暗斑の下に見える白い雲の塊からなるもう1つの嵐は'''スクーター'''({{Lang-en|Scooter}})と呼ばれる{{R|jaxa}}。この名称は、1989年にボイジャー2号が海王星に接近するまでの数ヶ月間の間に、スクーターが大暗斑よりも速く移動している様子が観測されたことから初めて使用された(後に得られた画像から、ボイジャー2号によって最初に検出されたものよりもさらに速く移動する雲の存在も明らかになった){{sfnp|Burgess|1991|pp=64-70}}。[[小暗斑]]({{Lang-en|Small Dark Spot}})は南半球に発生する[[低気圧]]性の嵐で、1989年の接近飛行の際に観測された2番目に大きな嵐である。当初は完全に暗かったが、ボイジャー2号が海王星に接近するにつれて、明るい中心部が発達し、最高解像度で撮影された画像のほとんどで確認することができる<ref>{{cite web|last=Lavoie|first=Sue|url=http://photojournal.jpl.nasa.gov/catalog/PIA00064|title=PIA00064: Neptune's Dark Spot (D2) at High Resolution|work=Jet Propulsion LaboratoryL|date=1996-01-29|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
[[File:Neptune’s shrinking vortex.jpg|thumb|海王星の渦の収縮<ref>{{cite web|title=Neptune's shrinking vortex|url=https://esahubble.org/images/potw1808a/|work=www.spacetelescope.org|accessdate=2019-03-01}}</ref>]]
海王星の暗斑は、明るい雲の模様より高度が低い対流圏で発生していると考えられているので<ref>{{cite journal|last=S. G.|first=Gibbard|author2=de Pater, I.|author3=Roe, H. G.|author4=Martin, S.|author5=Macintosh, B. A.|author6=Max, C. E.|title=The altitude of Neptune cloud features from high-spatial-resolution near-infrared spectra|year=2003|journal=Icarus|volume=166|issue=2|pages=359–374|doi=10.1016/j.icarus.2003.07.006|bibcode=2003Icar..166..359G|url=http://cips.berkeley.edu/research/depater_altitude.pdf|format=PDF|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120220052413/http://cips.berkeley.edu/research/depater_altitude.pdf|archivedate=2012-02-20|deadurl=yes}}</ref>、それらは上部の雲に穴が開いているように見える。これらの構造は数ヶ月間持続することができる安定した現象のため、これらは渦構造であると考えられる{{R|Max2003}}。対流圏界面付近で形成されるメタンの雲は、しばしば暗斑と共に明るくなることがある<ref>{{cite journal|last=Stratman|first=P. W.|author2=Showman, A. P.|author3=Dowling, T. E.|author4=Sromovsky, L. A.|url=http://www.lpl.arizona.edu/~showman/publications/stratman-etal-2001.pdf|format=PDF|title=EPIC Simulations of Bright Companions to Neptune's Great Dark Spots|year=2001|journal=Icarus|volume=151|issue=2|pages=275–285|doi=10.1006/icar.1998.5918 |bibcode=1998Icar..132..239L}}</ref>。<!--The persistence of companion clouds shows that some former dark spots may continue to exist as cyclones even though they are no longer visible as a dark feature.-->暗斑は、赤道に近づいた時もしくは他の未知のメカニズムを介して移動した時に消滅することがある<ref>{{cite journal|last1=Sromovsky|first1=L. A.|last2=Fry|first2=P. M.|last3=Dowling|first3=T. E.|last4=Baines|first4=K. H.|title=The unusual dynamics of new dark spots on Neptune|year=2000|journal=Bulletin of the American Astronomical Society|volume=32|page=1005|bibcode=2000DPS....32.0903S}}</ref>。
=== 内部加熱 ===
[[File:Different Faces Neptune.jpg|thumb|upright|ハッブル宇宙望遠鏡の[[広視野カメラ3]]で数時間間隔で撮影した4枚の海王星の画像<ref>{{cite web|url=http://www.spacetelescope.org/images/ann1115a/|title=Happy birthday Neptune|work=ESA/Hubble|accessdate=2019-03-01}}</ref><br>(提供: NASA/ESA)]]
天王星よりも多様な海王星の気象は、その大きな{{仮リンク|内部加熱|en|Internal heating}}によるものとされている。太陽から海王星までの距離は、太陽から天王星までの距離の50%以上離れており、日射量は天王星の約40%しかないが{{R|Lunine1993}}、2つの惑星の表面温度はほぼ同じになっている<ref>{{cite web|last=Williams|first=Sam|title=Heat Sources Within the Giant Planets|date=2004-11-24|publisher=UC Berkeley|url=http://www.cs.berkeley.edu/~samw/research/projects/ay249/z_heat_sources/Paper_small.doc|format=doc |accessdate=2019-03-01}}{{リンク切れ|date=2019-03}}</ref>。海王星が太陽から受けるエネルギーは地球の約900分の1しかなく{{sfnp|渡部潤一|2012|pp=172-173}}、対流圏の上部は51.8 K(-221.3 ℃)という低温に達しているが、大気圧が1 bar(100 kPa)になる深度では、温度は72 K(-201.15 ℃)になっている<ref>{{cite journal|last=Lindal|first=Gunnar F.|title=The atmosphere of Neptune – an analysis of radio occultation data acquired with Voyager 2|year=1992|journal=Astronomical Journal|volume=103|pages=967–982|bibcode=1992AJ....103..967L|doi=10.1086/116119}}</ref>。内部になればなるほど、ガスの層の温度は着実に上昇する。天王星と同様にこの加熱の原因は不明だが、その上昇率には大きな違いがある。天王星は太陽から受けるエネルギーの1.1倍しかエネルギーを放射しないが<ref>{{cite web|title=Class 12 – Giant Planets – Heat and Formation|work=3750 – Planets, Moons & Rings|year=2004|publisher=Colorado University, Boulder|url=http://lasp.colorado.edu/~bagenal/3750/ClassNotes/Class12/Class12.html|accessdate=2019-03-01}}</ref>、海王星は約2.61倍のエネルギーを放射している<ref>{{cite journal|last1=Pearl|first1=J. C.|last2=Conrath|first2=B. J.|title=The albedo, effective temperature, and energy balance of Neptune, as determined from Voyager data|year=1991|journal=Journal of Geophysical Research: Space Physics|volume=96|pages=18921–18930|bibcode=1991JGR....9618921P|doi=10.1029/91ja01087}}</ref>。海王星は太陽から最も遠い惑星ではあるが、その内部からのエネルギーは太陽系で見られる中で最も高速の風を発生させるのには充分である。2つの惑星の見かけ上の類似性を保ちつつ、同時に天王星の内部からのエネルギー放射が欠如しているのを説明することは難しいが、その内部の熱的性質に依存して、海王星の形成から残された熱は現在のその熱の流れを説明するのに充分かもしれない<ref>Imke de Pater and Jack J. Lissauer (2001), ''[https://books.google.com/books?id=RaJdy3_VINQC&pg=PA224&lpg=PA224&dq=planet+neptune+heat+flow&source=bl&ots=ooEcNyQWA0&sig=nuZj0fnt86EkQM2YE1c9xKScQyU&hl=en&sa=X&ei=6e_3UZ-mIo_j4APV04HIDg&ved=0CEUQ6AEwAw#v=onepage&q=planet%20neptune%20heat%20flow&f=false Planetary Sciences]'', 1st edition, p. 224.</ref>。
== 軌道と自転 ==
[[ファイル:Neptune Orbit.gif|サムネイル|left|200px|海王星(赤い円弧)は、地球が164.79周回るごとに太陽を中心に1周する。 ライトブルーの球体は天王星を表す。]]
海王星と太陽の間の平均距離は約45億 km(30.1 [[天文単位|au]])であり、±0.1年の変化はあるが平均164.79年で軌道を[[公転]]している。[[近点・遠点|近日点]]距離は29.81 auで、[[近点・遠点|遠日点]]距離は30.33 au<ref>Jean Meeus, ''Astronomical Algorithms'' (Richmond, VA: Willmann-Bell, 1998) 273. Supplemented by further use of VSOP87. The last three aphelia were 30.33 au, the next is 30.34 au. The perihelia are even more stable at 29.81 au</ref>。
2011年7月11日に、海王星は1846年の発見以来、初めて重心軌道を1周した<ref>{{Cite web|和書|url=http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4576/|title=海王星、発見からようやく"1周年"|work=ナショナルジオグラフィック日本版|date=2011-07-13|accessdate=2019-03-01}}</ref>。その時、地球は軌道上において海王星発見時とは別の地点に位置していたため、観測することは出来なかった。しかし太陽系の[[重心]]に対する太陽の運動が存在するため、正確にはまだ太陽に対する発見された位置には達していなかった。より一般的な[[地動説|太陽中心]]座標系を使用する場合、発見された位置に達したのは翌日の7月12日となる。[[軌道離心率]]は0.0085で地球よりも真円に近い軌道を持つ{{R|fact2|Horizons2011}}<ref>{{cite web|author=Nancy Atkinson |title=Clearing the Confusion on Neptune's Orbit|url=http://www.universetoday.com/72088/clearing-the-confusion-on-neptune%E2%80%99s-orbit/|work=Universe Today|date=2010-08-26|accessdate=2019-03-01}} [https://twitter.com/elakdawalla/status/21525820626 (Bill Folkner at JPL)]</ref>。
海王星の軌道は、地球と比較して1.77°傾いている{{R|fact}}。
海王星の[[自転軸]]の傾き([[赤道傾斜角]])は28.32°で<ref>{{cite web|last=Williams|first=David R.|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/planetfact.html |title=Planetary Fact Sheets|work=NASA|date=2005-01-06|accessdate=2019-03-01}}</ref>、この値は地球(23°)や[[火星]](25°)に似ている。この結果、海王星は地球と同じように[[季節変化]]の影響を受けており、海王星の長い公転周期によってそれぞれの季節が地球において約40年続く{{R|villard}}。自転周期は約16.11時間である{{R|fact2}}。自転軸の傾斜が地球と似ているため、海王星の長い1年の間にわたる1日の長さの変化は極端なものにはならない。
海王星はガス惑星なので、その大気は[[差動回転]]を起こす。幅広い赤道帯では約18時間の周期で自転しているが、これは海王星の磁場の自転周期である16.1時間よりも遅い。これとは対照的に、極付近では自転周期が約12時間で、逆のことが言える。海王星の差動回転は太陽系の惑星の中で最も顕著であり<ref>{{cite journal|last=Hubbard|first=W. B.|author2=Nellis, W. J.|author3=Mitchell, A. C.|author4=Holmes, N. C.|author5=McCandless, P. C.|author6=Limaye, S. S.|title=Interior Structure of Neptune: Comparison with Uranus|year=1991|journal=Science|volume=253|issue=5020|pages=648–651|doi=10.1126/science.253.5020.648|pmid=17772369|bibcode=1991Sci...253..648H }}</ref>、そのため緯度方向の強い[[ウインドシア]]が発生する{{R|Max2003}}。
=== 軌道共鳴 ===
{{See also|エッジワース・カイパーベルト|共鳴外縁天体|海王星のトロヤ群}}
[[File:TheKuiperBelt classes-en.svg|thumb|260px|海王星によって引き起こされたエッジワース・カイパーベルトの主な軌道共鳴を示した図。2:3の軌道共鳴を起こしているのなら[[冥王星族]]、非共鳴なら[[キュビワノ族]](古典的カイパーベルト)、1:2なら[[共鳴外縁天体]]に分類される。]]
海王星の軌道は、[[エッジワース・カイパーベルト]](カイパーベルト)と呼ばれる、そのすぐ外側の領域に大きな影響を与えている{{sfnp|渡部潤一|2012|pp=172-173}}。カイパーベルトは[[小惑星帯]]に似ているが存在範囲は大きく、氷から成る小天体がリング状に分布しており、太陽からは約30 auから約55 auの領域に存在している<ref>{{cite journal|first=S. Alan|last=Stern|last2=Colwell|first2=Joshua E.|title=Collisional Erosion in the Primordial Edgeworth-Kuiper Belt and the Generation of the 30–50 AU Kuiper Gap|year=1997|journal=The Astrophysical Journal|volume=490|issue=2|pages=879–882|doi=10.1086/304912|bibcode=1997ApJ...490..879S}}</ref>。木星の重力が小惑星帯で支配的であり小惑星帯を形作っているのと同じように、カイパーベルトは海王星の重力によって影響を受けている。太陽系の年齢の間にわたってカイパーベルトの特定の領域は海王星の重力によって不安定化されており、カイパーベルトの構造に隙間を生じさせる。太陽から40~42 au離れた領域がその一例である<ref>{{cite journal|title=Large Scattered Planetesimals and the Excitation of the Small Body Belts|first=Jean-Marc|last=Petit|author2=Morbidelli, Alessandro|author3=Valsecchi, Giovanni B.|url=https://www.oca.eu/morby/papers/6166a.pdf |format=PDF|year=1999|journal=Icarus|volume=141|issue=2|pages=367–387|doi=10.1006/icar.1999.6166|bibcode=1999Icar..141..367P|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071201013047/http://www.oca.eu/morby/papers/6166a.pdf|archivedate=2007-12-01}}</ref>。
太陽系が形成されて以来、天体が安定して存在し続けることができる軌道がこの領域内にも存在している。これらの軌道は、海王星の公転周期との比が1:2や3:4のように簡単な数で表せる[[軌道共鳴]]が起きているときに存在できる。たとえば1:2の軌道共鳴の場合、ある天体が太陽を1回公転しているうちの海王星が2回公転している。すなわち海王星が太陽の周りを公転して元の位置に戻った際、この天体は軌道の半分しか進んでいないことを意味する。海王星と軌道共鳴を起こしているカイパーベルトの中で最も多いのは2:3の軌道共鳴を起こしているもので、知られているだけでも200個以上存在している<ref>{{cite web|title=List Of Transneptunian Objects|work=[[小惑星センター|Minor Planet Center]]|url=http://www.minorplanetcenter.org/iau/lists/TNOs.html|accessdate=2019-03-01}}</ref>。これらの天体は海王星が3回公転する間に軌道を2回公転しており、それに属する最大の天体が[[冥王星]]なので[[冥王星族]]と呼ばれる<ref>{{cite web|last=Jewitt|first=David|url=http://www2.ess.ucla.edu/~jewitt/kb/plutino.html|title=The Plutinos |publisher=UCLA|year=2004|accessdate=2019-03-01}}</ref>。冥王星は定期的に海王星の軌道を横断するが、2:3の軌道共鳴によって互いが衝突したり接近したりすることはない<ref>{{cite web|url=http://www.orbitsimulator.com/gravity/articles/pluto.html|title=Pluto's 3:2 Resonance with Neptune|accessdate=2016-02-07}}</ref><ref>{{cite journal|last=Varadi|first=F.|title=Periodic Orbits in the 3:2 Orbital Resonance and Their Stability|year=1999|journal=The Astronomical Journal|volume=118|issue=5|pages=2526–2531|bibcode=1999AJ....118.2526V|doi=10.1086/301088}}</ref>。他にも3:4や3:5、4:7、2:5の軌道共鳴を起こしている天体もあるが、こうした天体の数はそれほど多くない<ref>{{cite book|title=Beyond Pluto: Exploring the outer limits of the solar system|author=John Davies|publisher=Cambridge University Press|year=2001|page=104|isbn=978-0-521-80019-8}}</ref>。
太陽と海王星の[[ラグランジュ点]]L<sub>4</sub>とL<sub>5</sub>の両方には数多くの[[トロヤ群]]天体が存在している<ref>{{cite journal|first=E. I.|last=Chiang|author2=Jordan, A. B.|author3=Millis, R. L.|author4=M. W. Buie|author5=Wasserman, L. H.|author6=Elliot, J. L.|author7=Kern, S. D.|author8=Trilling, D. E.|author9=Meech, K. J.|author10= Wagner, R. M.|title=Resonance Occupation in the Kuiper Belt: Case Examples of the 5 : 2 and Trojan Resonances|year=2003|journal=The Astronomical Journal|volume=126|issue=1|pages=430–443|doi=10.1086/375207|bibcode=2003AJ....126..430C|arxiv=astro-ph/0301458}}</ref>。[[海王星のトロヤ群]]は、海王星と1:1の軌道共鳴を起こしているとみなせる。海王星のトロヤ群の一部は軌道がとても安定しており、これらは捕獲されたのではなく軌道上で海王星と共に形成された可能性がある。海王星の公転方向に対して後方に位置するL<sub>5</sub>に付随していることが特定された最初の天体は{{mpl|2008 LC|18}}だった<ref>{{cite journal|last=Sheppard|first=Scott S.|authorlink=スコット・S・シェパード|author2=Trujillo, Chadwick A.|authorlink2=チャドウィック・トルヒージョ|title=Detection of a Trailing (L5) Neptune Trojan|year=2010|journal=Science|volume=329|issue=5997|page=1304|doi=10.1126/science.1189666|pmid=20705814|bibcode=2010Sci...329.1304S}}</ref>。海王星はまた、{{mpl-|309239|2007 RW|10}}と呼ばれる一時的な[[準衛星]]を持っている{{R|Marcos2012}}。この天体は12,500年間にわたって海王星の準衛星となっており、今後さらに12,500年間にわたって現在のような力学的状態に留まると推測されている{{R|Marcos2012}}。
== 形成と移動 ==
{{Main|太陽系の形成と進化|ニースモデル}}
[[File:Lhborbits.png|thumb|木星以遠の惑星とカイパーベルトの位置の変化を示すシミュレーション。<br>a) 木星と土星が2:1の軌道共鳴になる前。<br>b) 海王星の軌道の変化によってカイパーベルトが内側に散乱した後。<br>c) 散乱したカイパーベルト天体が木星によって弾き飛ばされた後。]]
天王星型惑星である天王星と海王星の形成は、正確にモデル化することが困難であることが知られている。伝統的な惑星形成理論である「コア集積モデル」では、それらの大きな天体を形成させるには太陽系の外縁領域における物質密度が低すぎると示唆されており、この問題を解決するために様々な仮説が提唱された。その1つとして、天王星型惑星がコアの集積(降着)によってではなく、[[原始惑星系円盤]]内の不安定性から形成され、後に近傍の大質量の[[OB型星]]からの放射によって大気が吹き飛ばされたとするものがある{{R|Boss2002}}。
別の概念として、これらの天体がより物質密度が高かった太陽の近くで形成されて、原始惑星系円盤が消滅した後に現在の軌道に[[惑星移動|移動]]したとするものがある<ref>{{cite journal|first=Edward W.|last=Thommes|author2=Duncan, Martin J.|author3=Levison, Harold F.|title=The formation of Uranus and Neptune among Jupiter and Saturn|year=2002|journal=The Astronomical Journal|volume=123|issue=5|pages=2862–2883|arxiv=astro-ph/0111290|doi=10.1086/339975|bibcode=2002AJ....123.2862T}}</ref>。カイパーベルトで観測されている小天体の数をより良く説明できるため、形成後に移動したという仮説は多くの支持を得ている<ref>{{cite web|title=Orbital shuffle for early solar system|first=Kathryn|last=Hansen|publisher=Geotimes|url=http://www.geotimes.org/june05/WebExtra060705.html|date=2005-06-07|accessdate=2019-03-01}}</ref>。この仮説の詳細について現在最も広く受け入れられている説明は、移動する海王星や他の巨大惑星がカイパーベルトの構造に影響を与えていたとする[[ニースモデル]]である<ref>{{cite journal|last=Crida|first=A.title=Solar System formation|year=2009|journal=Reviews in Modern Astronomy|volume=21|arxiv=0903.3008|bibcode=2009RvMA...21..215C|doi=10.1002/9783527629190.ch12|page=3008|isbn=978-3-527-62919-0}}</ref><ref>{{cite journal|last=Desch|first=S. J.|title=Mass Distribution and Planet Formation in the Solar Nebula|year=2007|journal=The Astrophysical Journal|volume=671|issue=1|pages=878–893|doi=10.1086/522825|bibcode=2007ApJ...671..878D}}</ref><ref>{{cite journal|last=Smith|first=R.|author2=L. J. Churcher|author3=M. C. Wyatt|author4=M. M. Moerchen|author5=C. M. Telesco|title=Resolved debris disc emission around η Telescopii: a young solar system or ongoing planet formation?|year=2009|journal=Astronomy and Astrophysics|volume=493|issue=1|pages=299–308|doi=10.1051/0004-6361:200810706|bibcode=2009A&A...493..299S|arxiv=0810.5087}}</ref>。
== 衛星 ==
{{Main|海王星の衛星}}
{{See also|太陽系の惑星と衛星の発見の年表}}
[[File:Neptune-visible.jpg|thumb|upright|ハッブル宇宙望遠鏡で撮影された海王星とプロテウス(上)、ラリッサ(右下)、デスピナ(左)の自然色画像]]
海王星には14個の既知の衛星が存在している{{R|fact}}<ref>[http://www.news.com.au/technology/sci-tech/hubble-space-telescope-discovers-fourteenth-tiny-moon-orbiting-neptune/story-fn5fsgyc-1226679913807 Hubble Space Telescope discovers fourteenth tiny moon orbiting Neptune | Space, Military and Medicine]. News.com.au (16 July 2013). Retrieved on 1 March 2019.</ref>。[[トリトン (衛星)|トリトン]]は海王星最大の衛星で、海王星の周回軌道上において全質量の99.5%以上を占めており{{R|group="注"|注釈5}}、[[回転楕円体]]になっている唯一の天体である。トリトンは海王星の発見から17日後に[[ウィリアム・ラッセル (天文学者)|ウィリアム・ラッセル]]によって発見された。太陽系内の他の大型衛星とは異なって[[順行・逆行|逆行]]軌道を描いており、このことはトリトンが海王星と共に形成されたのではなく、外部から捕獲された天体であることを示している。捕獲されるまでは、カイパーベルト内に位置する準惑星規模の天体であったとされている<ref>{{cite journal|first=Craig B.|last=Agnor|author2=Hamilton, Douglas P.|title=Neptune's capture of its moon Triton in a binary–planet gravitational encounter|year=2006|journal=Nature|volume=441|issue=7090|pages=192–194|doi=10.1038/nature04792|pmid=16688170|bibcode=2006Natur.441..192A}}</ref>。[[自転と公転の同期]](潮汐固定)を受けるのには充分に海王星に近く、さらに海王星の自転に対して逆行しているため[[潮汐加速#潮汐減速|潮汐減速]]によって海王星に向かってゆっくりと螺旋軌道を描き、徐々に海王星へと接近している。このため、今後約36億年以内に、トリトンは海王星の[[ロッシュ限界]]に達して崩壊してしまうと考えられている<ref>{{cite journal|first1=Christopher F.|last1=Chyba|last2=Jankowski|first2=D. G.|last3=Nicholson|first3=P. D.|title=Tidal evolution in the Neptune-Triton system|year=1989|journal=Astronomy and Astrophysics|volume=219|issue=1–2|pages=L23–L26|bibcode=1989A&A...219L..23C}}</ref>。1989年、トリトンは太陽系で最も表面温度が低い天体であると測定され<ref>{{cite news|last=Wilford|first=John N.|work=The New York Times|date=1989-08-29|title=Triton May Be Coldest Spot in Solar System|url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950DE4DC1138F93AA1575BC0A96F948260|accessdate=2019-03-01}}</ref>、その推定温度は38 K(-235 ℃)であった<ref>{{cite journal|author=Nelson, R. M.|author2=Smythe, W. D.|author3=Wallis, B. D.|author4=Horn, L. J.|author5=Lane, A. L.|author6=Mayo, M. J.|title=Temperature and Thermal Emissivity of the Surface of Neptune's Satellite Triton|year=1990|journal=Science|volume=250|issue=4979|pages=429–431|doi=10.1126/science.250.4979.429|pmid=17793020|bibcode=1990Sci...250..429N}}</ref>。
発見順において海王星の第2衛星として知られている、[[不規則衛星]]の[[ネレイド (衛星)|ネレイド]]は太陽系の中で最も歪んだ軌道を持つ衛星の1つである。0.7512に及ぶ[[離心率|軌道離心率]]によって、遠海点は近海点よりも7倍海王星から離れる{{R|group="注"|注釈6}}。
[[File:Proteus (Voyager 2).jpg|thumb|upright|left|海王星の衛星プロテウス]]
[[File:S-2004 N1 Hubble montage.jpg|thumb|ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した、衛星ヒッポカンプと以前から知られていたより内側の衛星と環の画像|232x232px]]
1989年7月から9月にかけて、ボイジャー2号は新たに海王星の衛星を6個発見した{{R|Stone1989}}。これらのうち、不規則な形状をした衛星[[プロテウス (衛星)|プロテウス]]は、自身の重力で球状になることができない最大級の大きさの天体として注目されている<ref>{{cite web|url=http://web.gps.caltech.edu/~mbrown/dwarfplanets/|title=The Dwarf Planets|author=[[マイケル・ブラウン (天文学者)|Michael E. Brown]]|publisher=California Institute of Technology, Department of Geological Sciences|accessdate=2019-03-01}}</ref>。海王星では2番目に大きな衛星であるが、質量はトリトンのわずか0.25%しかない。海王星で最も内側を公転している4つの衛星、[[ナイアド (衛星)|ナイアド]]、[[タラッサ (衛星)|タラッサ]]、[[デスピナ (衛星)|デスピナ]]、[[ガラテア (衛星)|ガラテア]]は海王星の環の中に入るほど海王星に近い{{sfnp|渡部潤一|2012|p=174}}。次に近い[[ラリッサ (衛星)|ラリッサ]]は、1981年に恒星を[[掩蔽]]したことで発見された。当時は、この掩蔽は環に起因しているとされたが、1989年にボイジャー2号が海王星を観測した際にラリッサがそれを引き起こしたことが確認された。2002年から2003年までの間に新しく発見された5個の不規則衛星が、2004年に発表された<ref>{{cite journal|last1=Holman|first1=M. J.|last2=Kavelaars|first2=J. J.|last3=Grav|first3=T.|last4=Gladman|first4=B. J.|authorlink4=Brett J. Gladman|last5=Fraser|first5=W. C.|last6=Milisavljevic|first6=D.|last7=Nicholson|first7=P. D.|last8=Burns|first8=J. A.|last9=Carruba|first9=V.|url=https://www.cfa.harvard.edu/~mholman/nature_final.pdf |format=PDF|title=Discovery of five irregular moons of Neptune|year=2004|journal=Nature|volume=430|issue=7002|pages=865–867|doi=10.1038/nature02832|pmid=15318214|bibcode=2004Natur.430..865H}}
</ref><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/3578210.stm|title=Five new moons for planet Neptune|work=BBC News|date=2004-08-18|accessdate=2019-03-01}}</ref>。2013年には、ハッブル宇宙望遠鏡によって撮影された複数の画像を組み合わせた結果、海王星の衛星の中では現時点で最も小さな新衛星[[ヒッポカンプ (衛星)|ヒッポカンプ]](S/2004 N 1)が発見された<ref>{{cite web|url=https://www.theverge.com/2019/2/20/18233029/neptune-moon-hippocamp-proteus-hubble-space-telescope|title=Neptune’s newly discovered moon may be the survivor of an ancient collision|last=Grush|first=Loren|date=2019-02-20|website=The Verge|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2013/07/17neptune_moon/index-j.shtml|title=海王星に14個目の新衛星を発見|work=AstroArts|date=2013-07-17|accessdate=2019-03-01}}</ref>。海王星の名称の由来はローマ神話の海の神に因むため、海王星の衛星には、より小さな海の神に因んで命名される{{R|USGS}}。
=== 環 ===
{{Main|海王星の環}}
[[File:neptunerings.jpg|thumb|海王星の環]]
[[File:New Webb Image Captures Clearest View of Neptune’s Rings in Decades.png|thumb|海王星の環(2022年[[ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡|JWST]]撮影)]]
海王星も[[環 (天体)|環]]を持っているが、[[土星]]の環と比べると遥かに微かである。環は、[[ケイ酸塩]]または[[炭素]]をベースとした物質で覆われた氷の粒子から成ると考えられている<ref>{{cite book|last=Cruikshank|first=Dale P.|title=Neptune and Triton|publisher=University of Arizona Press|year=1996|isbn=978-0-8165-1525-7|pages=703–804}}</ref>。主な環は3つあり、それぞれ海王星の中心から63,000 km離れたところにある狭い環は[[海王星の環#アダムズ環|アダムズ環]]、53,000 km離れたところにある環は[[海王星の環#内側の環|ルヴェリエ環]]、そして42,000 km離れた位置にある広く薄い環は[[海王星の環#内側の環|ガレ環]]と呼ばれる。ルヴェリエ環の外側にある微かな環は[[海王星の環#内側の環|ラッセル環]]と呼ばれ、外縁は海王星の中心から57,000 km離れたところにある[[海王星の環#内側の環|アラゴ環]]に囲まれている<ref>{{cite web|last=Blue|first=Jennifer|url=http://planetarynames.wr.usgs.gov/Page/Rings|title=Nomenclature Ring and Ring Gap Nomenclature|website=Gazetteer of Planetary Nomenclature|publisher=USGS|date=2004-12-08|accessdate=2019-03-01}}</ref>。アダムズ環の外側には名称のついていない淡い6本目の環がある{{sfnp|渡部潤一|2012|pp=172-173}}。
これらの環は1968年にEdward Guinan率いるチームによって初めて観測された{{R|ring1}}<ref>{{cite journal|last1=Guinan|first1=E. F.|last2=Harris|first2=C. C.|last3=Maloney|first3=F. P.|title=Evidence for a Ring System of Neptune|year=1982|journal=Bulletin of the American Astronomical Society|volume=14|page=658|bibcode=1982BAAS...14..658G}}</ref>。1980年代初頭には、このデータをより新しい観測結果と共に分析した結果、海王星の環が不完全な状態になっているとする仮説が提唱された<ref>{{cite journal|last=Goldreich|first=P.|author2=Tremaine, S.|author3=Borderies, N. E. F.|title=Towards a theory for Neptune's arc rings|year=1986|journal=Astronomical Journal|volume=92|pages=490–494|bibcode=1986AJ.....92..490G|doi=10.1086/114178}}</ref>。1984年の恒星の掩蔽観測で、海王星が恒星を覆い隠すときは環も恒星を覆い隠したが、恒星が出現した際に環は恒星を覆い隠していなかった。これは、環に隙間が存在している可能性を示す証拠とされた<ref>{{cite journal|author=Nicholson, P. D. ''et al.''|title=Five Stellar Occultations by Neptune: Further Observations of Ring Arcs|year=1990|journal=Icarus|volume=87|issue=1|pages=1–39|bibcode=1990Icar...87....1N|doi=10.1016/0019-1035(90)90020-A}}</ref>。そして1989年に撮影されたボイジャー2号の画像に、いくつかの微かな環が写されたことから、この問題は解決された。
一番外側の環であるアダムズ環には現在、''Courage''、''Liberté''、''Egalité 1''、''Egalité 2''、''Fraternité''(それぞれ勇気、自由、平等、友愛という意)と呼ばれる5つの主な「[[海王星の環#アーク|アーク]](弧)」と呼ばれる部分が存在している<ref>{{cite book|first=Arthur N.|last=Cox|title=Allen's Astrophysical Quantities|year=2001|publisher=Springer|isbn=978-0-387-98746-0}}</ref>。このアークは、運動法則に基づく予測では短期間の間に環全体に一様に分布するとされたので、その存在を説明するのが困難であった。現在、天文学者たちは、アークは内側に存在している衛星ガラテアの重力効果によってこのような形になったと考えている<ref>{{cite web|last=Munsell|first=Kirk|author2=Smith, Harman|author3=Harvey, Samantha|url=http://solarsystem.nasa.gov/planets/profile.cfm?Object=Neptune&Display=Rings |title=Planets: Neptune: Rings|work=Solar System Exploration|publisher=NASA|date=2007-11-13|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{cite journal|last=Salo|first=Heikki|author2=Hänninen, Jyrki|title=Neptune's Partial Rings: Action of Galatea on Self-Gravitating Arc Particles|year=1998|journal=Science|volume=282|issue=5391|pages=1102–1104|doi=10.1126/science.282.5391.1102|pmid=9804544|bibcode=1998Sci...282.1102S}}</ref>。
2005年に発表された地球からの観測では、海王星の環が以前考えられていたよりもはるかに不安定である事が示された。2002年と2003年に[[W・M・ケック天文台]]で撮影された画像とボイジャー2号が撮影した画像を比較すると、環が減衰している様子が伺える。アークは徐々に暗くなっている様子が観測されており<ref>{{cite journal|last=dePater|first=Imke|author2=Gibbard, Seren|last3=Chiang|first3=Eugene|display-authors=2|last4=Hammel|first4=Heidi B.|last5=MacIntosh|first5=Bruce|last6=Marchis|first6=Franck|last7=Martin|first7=Shuleen C.|last8=Roe|first8=Henry G.|last9=Showalter|first9=Mark|title=The Dynamic Neptunian Ring Arcs: Evidence for a Gradual Disappearance of Liberté and Resonant Jump of Courage|year=2005|journal=Icarus|volume=174|issue=1|pages=263–272|doi=10.1016/j.icarus.2004.10.020|url=http://astro.berkeley.edu/~echiang/ppp/nepring.pdf|bibcode=2005Icar..174..263D}}</ref>、2009年のW・M・ケック天文台の観測では''Liberté''と''Courage''がほぼ消滅していた<ref name="dePater2019">{{cite arXiv|author=Imke de Pater|author2= Stéfan Renner|author3=Mark R. Showalter|author4=Bruno Sicardy|title=The rings of Neptune|eprint=1906.11728v1|class=astro-ph.EP|date=2019-06-27}}</ref>。他方、''Egalité''と''Fraternité''については安定して残っている<ref name= dePater2019 />。
== 観測 ==
[[File:Neptune from the VLT with MUSE GALACSI Narrow Field Mode adaptive optics.jpg|thumb|2018年に、[[ヨーロッパ南天天文台]]は地球上から海王星の鮮明で高解像度の画像を得るための、独自のレーザーをベースとした観測方法を開発した。]]
海王星は1980年から2000年の間に著しく明るくなった<ref>{{cite arXiv|author=Richard W. Schmude Jr.|author2=Ronald E. Baker|author3=Jim Fox|author4=Bruce A. Krobusek|author5=Hristo Pavlov|author6=Anthony Mallama|title=The Secular and Rotational Brightness Variations of Neptune|eprint=1604.00518v1|class=astro-ph.EP|date=2016-04-02}}</ref>。海王星の[[等級 (天文)|視等級]]の範囲は現在、7.67等から7.89等の範囲で、平均は7.78等、[[標準偏差]]は0.06等となっている{{R|Mallama2018}}。1980年以前の視等級は8等級と暗かった{{R|Mallama2018}}。海王星は肉眼で観望するには淡すぎるため、木星の[[ガリレオ衛星]]や準惑星の[[ケレス (準惑星)|ケレス]]、[[小惑星]]の[[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]、[[パラス (小惑星)|パラス]]、[[イリス (小惑星)|イリス]]、[[ジュノー (小惑星)|ジュノー]]、[[ヘーベ (小惑星)|へーべ]]より暗く見える<ref>それぞれの視等級については各記事を参照。</ref>。[[望遠鏡]]や強力な[[双眼鏡]]があれば、天王星の外観に似た小さな青い円盤像として海王星を観望することができる{{sfnp|Moore|2000|p=207}}。
地球からの距離が遠いため、その[[角直径]]は太陽系の惑星の中では最小の2.2~2.4[[秒 (角度)|秒角]]となっている{{R|fact|ephemeris}}。見かけの大きさが小さいため、視覚的に研究することは困難である。望遠鏡による観測のほとんどは、ハッブル宇宙望遠鏡や[[補償光学]](AO)を備えた大型の望遠鏡が出現するまではかなり限られていた<ref>In 1977, for example, even the rotation period of Neptune remained uncertain. {{cite journal|last=Cruikshank|first=D. P.|title=On the rotation period of Neptune|year=1978|journal=Astrophysical Journal Letters|volume=220|pages=L57–L59|bibcode=1978ApJ...220L..57C|doi=10.1086/182636}}</ref><ref>{{cite journal|last=Max|first=C.|last2=MacIntosh|first2=B.|last3=Gibbard|first3=S.|last4=Roe|first4=H.|last5=De Pater|first5=I.|last6=Ghez|first6=A.|last7=Acton|first7=S.|last8=Wizinowich|first8=P.|last9=Lai|first9=O.|title=Adaptive Optics Imaging of Neptune and Titan with the W.M. Keck Telescope|year=1999|journal=Bulletin of the American Astronomical Society|volume=31|page=1512|bibcode=1999AAS...195.9302M}}</ref><ref>{{cite APOD|date=2000-02-18|title=Neptune through Adaptive Optics|accessdate=2020-09-23}}</ref>。補償光学を用いた地上望遠鏡からの海王星の最初の科学的に有用な観測は、1997年に[[ハワイ州|ハワイ]]で行われた<ref>[http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.66.7754&rep=rep1&type=pdf First Ground-Based Adaptive Optics Observations of Neptune and Proteus] Planetary & Space Science Vol. 45, No. 8, pp. 1031–36, 1997</ref>。海王星は2007年現在、季節が春から夏に変化しつつある時期に入っており、それによって気温が上昇して大気活動と明るさが強くなっていることが示されている。技術的進歩と相まって、補償光学を備えた地上望遠鏡は、ますます鮮明な画像を記録するようになっている。ハッブル宇宙望遠鏡と地球上の補償光学を備えた望遠鏡は1990年代中頃から、太陽系内において数々の発見を成し遂げてきたが、とりわけ木星以遠の惑星の衛星数が大幅に増加した。2004年と2005年に、直径38~61 kmの新たな海王星の衛星が5個発見された<ref>[https://books.google.com/books?id=8s1JV-TrXacC&pg=PA147#v=onepage&q=Neptune&f=false Uranus and Neptune] Reports on Astronomy 2003-2005, pp. 147f.</ref>。
地球から見ると、海王星は367日ごとに[[順行・逆行|逆行]]運動を繰り返す。その結果、逆行運動を起こしている間、海王星は背景の恒星に対してループしているように見える。これらのループは2010年4月と7月、2011年10月と11月に、海王星を1846年に発見された座標に近づけさせた{{R|Horizons2011}}。
[[電波]]周波数帯での観測では、海王星が連続放射と不規則なバーストの両方の源であることが示されており、この両方の発生源は、回転する磁場から生じると考えられている{{R|elkins-tanton}}。[[スペクトル]]の赤外線部分では、海王星の嵐は背景に対して明るく見える。それによってこれらの特徴の大きさと形を容易に追跡することができる<ref>{{cite journal|author=Gibbard, S. G.|author2=Roe, H.|author3=de Pater, I.|author4=Macintosh, B.|author5=Gavel, D.|author6=Max, C. E.|author7=Baines, K. H.|author8=Ghez, A.|title=High-Resolution Infrared Imaging of Neptune from the Keck Telescope|year=1999|journal=Icarus|volume=156|issue=1|pages=1–15|doi=10.1006/icar.2001.6766|bibcode=2002Icar..156....1G}}</ref>。
[[アリゾナ大学]]の研究チームが、ボイジャー2号やハッブル宇宙望遠鏡の画像から、ほぼ正確な自転周期を求めることに成功している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2011/06/30neptune/index-j.shtml|title=海王星の自転周期が正確に判明!|work=AstroArts|date=2011-06-30|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
== 探査 ==
{{Main|海王星探査}}
[[File:Triton moon mosaic Voyager 2 (large).jpg|thumb|ボイジャー2号が撮影したトリトンの集成写真]]
[[ボイジャー2号]]は海王星を訪れた唯一の[[宇宙探査機]]で、海王星に最も接近したのは1989年8月25日だった。海王星はボイジャー2号が訪れる最後の主要天体で、今後の探査機の軌道への影響を考慮する必要が無かったため、[[ボイジャー1号]]が土星の衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]に接近したように、衛星トリトンへの接近飛行が行われた。ボイジャー2号から地球に中継された画像は、1989年の[[公共放送サービス|
PBS]]の終夜番組、''Neptune All Night''の基礎となった<ref>{{cite web|last=Phillips|first=Cynthia|url=http://www.seti.org/about-us/voices/phillips-080503.php|title=Fascination with Distant Worlds|work=[[SETI協会|SETI Institute]]|date=2003-08-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071103094424/http://www.seti.org/about-us/voices/phillips-080503.php|archivedate=2007-11-03|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
海王星に接近中、探査機からの信号が地球に到達するには246分を要した。したがって、ボイジャー2号の任務のほとんどは、海王星の接近のためにあらかじめ組み込まれていたコマンドに頼っていた。8月25日にボイジャー2号が海王星の大気上空4,400 km以内に接近する前に衛星[[ネレイド (衛星)|ネレイド]]に近接接近し、そして同日遅くに最大の衛星トリトンの近くを通過した{{sfnp|Burgess|1991|pp=46-55}}。
ボイジャー2号は海王星を取り巻く磁場の存在を確認し、磁場が中心からずれており、天王星の磁場と同じように傾いていることが判明した。海王星の自転周期は電波放射の測定値を用いて求められ、また海王星には驚くほど活発な大気活動があることも示された。また、海王星の衛星を新たに6個発見し、複数本の環が存在していることも確認された{{R|Stone1989}}{{sfnp|Burgess|1991|pp=46-55}}。
海王星のフライバイはまた、以前に計算されていたものよりも0.5%少ない初めての正確な海王星の質量の推定値をもたらした。この新たな数値は、未発見の[[惑星X]]が海王星と天王星の軌道に作用したという仮説を反証することとなった<ref>Tom Standage (2000). ''The Neptune File: A Story of Astronomical Rivalry and the Pioneers of Planet Hunting''. New York: Walker. p. 188. {{ISBN2|978-0-8027-1363-6}}.</ref><ref>{{cite web|author1=Chris Gebhardt|author2=Jeff Goldader|url=http://www.nasaspaceflight.com/2011/08/thirty-four-years-voyager-2-continues-explore/|title=Thirty-four years after launch, Voyager 2 continues to explore|work=NASASpaceflight|date=2011-08-20|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
2008年10月16日、[[冥王星]]探査のために打ち上げられた探査機[[ニュー・ホライズンズ]]が、約37億5,000万 km 離れた位置から海王星とトリトンの画像を撮影した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.astroarts.co.jp/news/2009/03/13new_horizons/index-j.shtml|title=衛星トリトンをとらえた、ニューホライズンズ|work=AstroArts|date=2009-03-13|accessdate=2019-03-01}}</ref>。
ボイジャー2号のフライバイミッション後、海王星系の科学的探査における次のステップは、フラッグシップ計画での軌道ミッション(Flagship orbital mission)であると考えられている{{R|Flagship}}。このような仮説的ミッションは2020年代後半または2030年代初頭に可能だと予想されている{{R|Flagship}}。しかし、海王星への探査ミッションを早く実施するための議論が行われたことがある。2003年には、土星探査機[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]に似たNASAによる「[[ネプチューン・オービター|Neptune Orbiter with Probes]]」ミッションが提案された<ref>{{cite journal|last1=Spilker|first1=T. R.|last2=Ingersoll|first2=A. P.|title=Outstanding Science in the Neptune System From an Aerocaptured Vision Mission|year=2004|journal=Bulletin of the American Astronomical Society|volume=36|page=1094|bibcode=2004DPS....36.1412S}}</ref>。もう1つ、最近提案された計画として、2020年打ち上げ予定のフライバイ探査機{{仮リンク|Argo (探査機)|label=Argo|en|Argo (NASA spacecraft)}}があった。Argoは木星、土星、海王星、カイパーベルトを訪問することが予定されており、焦点となる海王星とトリトンの探査は2029年頃になるとされている<ref>{{cite web|url=http://www.spacepolicyonline.com/pages/images/stories/PSDS%20GP1%20Hansen_Argo_Neptune%20Mission%20Concept.pdf|title=Argo – A Voyage Through the Outer Solar System|author=Candice Hansen ''et al.''|work=SpacePolicyOnline.com|publisher=Space and Technology Policy Group, LLC|date=|accessdate=2019-03-01}}</ref>。また、ニュー・ホライズンズのミッション内容に海王星の接近探査が含まれる可能性もあったものの、最終的には断念された。
== 人類との関係 ==
=== 占星術 ===
[[10大天体]]の1つである。10大天体は、20世紀の冥王星発見後の占星術のもの。海王星が発見されたのは19世紀でありそれ以前にはありえないため、[[七曜]]・[[九曜]]にも含まれない(九曜は別の「[[仮説上の天体]]」をカウントする)。
[[西洋占星術]]では、[[双魚宮]](うお座)の[[支配星]](海王星発見以前は[[木星]]が支配星とされていた)である。見えないものを示し、[[石油]]、[[石油製品]]、[[霊感]]、[[海]]に当てはまる<ref>[[石川源晃]]『【実習】占星学入門』 ISBN 4-89203-153-4</ref>。
=== 関連作品 ===
{{main|[[地球以外の実在天体を扱った事物]]<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|refs=
<ref name="注釈1">軌道要素は太陽の重心と海王星の重心におけるもので、[[元期]][[J2000.0]]の{{仮リンク|接触軌道|en|Osculating orbit}}における瞬間的な値である。重心は、惑星の中心とは対照的に、周囲の衛星の運動によって変化しない。</ref>
<ref name="注釈2">大気圧が1 [[バール (単位)|bar]](100 [[パスカル (単位)|kPa]])を超える範囲までを示す。</ref>
<ref name="注釈3">海王星の質量が大きいほど重力により大気が圧縮されるため、海王星は天王星よりも密度が高く、物理的に小さくなる。</ref>
<ref name="注釈4">地球の質量を5.9736 {{e|24}} kgとして、地球と海王星の質量比が求められる。
: <math>\tfrac{M_\text{Neptune}}{M_\text{Earth}} = \tfrac{1.02 \times 10^{26}}{5.97 \times 10^{24}} = 17.09.</math>
天王星の質量を8.6810{{e|25}} kgとして、地球と天王星の質量比が求められる。
: <math>\tfrac{M_\text{Uranus}}{M_\text{Earth}} = \tfrac{8.68 \times 10^{25}}{5.97 \times 10^{24}} = 14.54.</math>
木星の質量を1.8986{{e|27}} kgとして、海王星と木星の質量比が求められる。
: <math>\tfrac{M_\text{Jupiter}}{M_\text{Neptune}} = \tfrac{1.90 \times 10^{27}}{1.02 \times 10^{26}} = 18.63.</math>
質量値は{{cite web|last=Williams|first=David R.|date=2007-11-29|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/|title=Planetary Fact Sheet – Metric|publisher=NASA|accessdate=2019-03-01}}より</ref>
<ref name="注釈5">トリトンの質量は 2.14{{e|22}} kg。知られているその他の12個の海王星の衛星の合計質量は 7.53{{e|19}} kg で、トリトンの0.35%に相当する。環の質量はごくわずかである。</ref>
<ref name="注釈6"><math>\tfrac{r_{a}}{r_{p}} = \tfrac{2}{1-e} - 1 = 2/0.2488 - 1 \approx 7.039.</math></ref>
}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
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<ref name="fact">{{cite web|last=Williams|first=David R.|url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/neptunefact.html|title=Neptune Fact Sheet|publisher=[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]|date=2004-09-01|accessdate=2019-03-01}}</ref>
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<ref name="Suomi1991">{{cite journal|last=Suomi|first=V. E.|author2=Limaye, S. S.|author3=Johnson, D. R.|title=High Winds of Neptune: A possible mechanism|year=1991|journal=[[サイエンス|Science]]|volume=251|issue=4996|pages=929–932|doi=10.1126/science.251.4996.929|pmid=17847386|bibcode=1991Sci...251..929S}}</ref>
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|accessdate=2019-10-01
|publisher=[[国際天文学連合]]|work=WGPSN}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|last=Moore|first=Patrick|title=The Data Book of Astronomy|year=2000|publisher=CRC Press|isbn=978-0-7503-0620-1|ref=harv}}
* {{cite book|last=Burgess|first=Eric|title=Far Encounter: The Neptune System|year=1991|publisher=Columbia University Press|isbn=978-0-231-07412-4|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=渡部潤一|title=ビジュアル 宇宙大図鑑 太陽系から130億光年の果てまで|year=2012|publisher=日経ナショナル ジオグラフィック社|isbn=978-4-86313-143-9|ref=harv}}
== 関連項目 ==
* [[太陽系外縁天体]] - 海王星以遠天体とも呼ばれていた
* [[ネプツニウム]] - 海王星に因んで命名された元素
* [[ホット・ネプチューン]]
* [[コールド・ネプチューン]]
== 外部リンク ==
{{sisterlinks|commons=Neptune (planet)}}
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/kaiousei/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(海王星) |date=20211210130544}}
* [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/uranus_neptune/urnsnept00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(天王星・海王星)]
* [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/neptune.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(海王星)]
* [https://nineplanets.org/neptune/ The Nine Planets Neptune Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(海王星){{En icon}}
* {{Kotobank}}
* [https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/neptunefact.html NASA's Neptune fact sheet]
* [https://nineplanets.org/neptune/ Neptune] from Bill Arnett's nineplanets.org
* [http://www.astronomycast.com/astronomy/episode-63-neptune/ Neptune] Astronomy Cast episode No. 63, includes full transcript.
* [https://solarsystem.nasa.gov/planets/neptune/overview/ Neptune Profile] at [https://solarsystem.nasa.gov/ NASA's Solar System Exploration site]
* [https://www.projectshum.org/Planets/neptune.html Planets – Neptune] A children's guide to Neptune.
* {{cite web|last=Merrifield|first=Michael|title=Neptune|url=http://www.sixtysymbols.com/videos/neptune.htm|work=Sixty Symbols|publisher=Brady Haran for the University of Nottingham|author2=Bauer, Amanda|date=2010|accessdate=2019-03-01}}
* [https://www.planetary.org/blogs/guest-blogs/2013/neptune-the-new-amateur-boundary.html Neptune by amateur] (The Planetary Society)
*[https://thehappykoala.github.io/Harmony-of-the-Spheres/#/scenario/The%20Sun%20and%20the%20Neptunian%20System Interactive 3D visualisation of Neptune and its inner moons]
{{海王星}}
{{海王星の衛星}}
{{太陽系}}
{{Normdaten}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:かいおうせい}}
[[Category:海王星|*]]
[[Category:太陽系の惑星]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:1840年代発見の天体]] | 2003-03-14T00:05:23Z | 2023-11-27T05:47:07Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E7%8E%8B%E6%98%9F |
3,971 | 天王星 | 天王星(てんのうせい、Uranus)は、太陽系第7惑星である。太陽系の惑星の中で木星・土星に次いで3番目に大きく、木星・土星・海王星に次いで4番目に重い。1781年3月13日、イギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェルにより発見された。名称は、ギリシア神話における天の神ウーラノス(Ουρανός、ラテン文字転写: Ouranos)のラテン語形である。
最大等級+5.6等と地球最接近時は肉眼で見える明るさになることもあり、ハーシェルによる発見以前にも恒星として20回以上観測されていた(肉眼観測も含む)。
天王星は主にガスと多様な氷から成っている。地球上の氷は液体の水 H 2 O {\displaystyle {\ce {H2O}}} が冷えて固まったものを指すが、天文学ではメタンやアンモニアでも氷という。大気には水素が約83%、ヘリウムが15%、メタンが2%含まれている。内部は重い元素に富み、岩石と氷からなる核のほか、水やメタン・アンモニアが含まれる氷からなるマントルで構成されていると推測されている。酸素・炭素・窒素が多く含まれ、ほとんどが水素とヘリウムで出来ている木星や土星とは対照的である。天王星と海王星は従来木星型惑星に分類されていたが、木星や土星の核から液体の金属水素の層を除いたものによく似ており、内部は比較的均一に分布しているようである。こうした違いから、木星型とは異なる天王星型惑星(英: ice giant)として分類されるようになった。
天王星の特徴の一つとして、自転軸の極端な傾きが挙げられる。天王星の赤道傾斜角は約98度、つまり黄道面に対しほぼ横倒しとなっている。加えて、公転周期が約84年なので、即ち極点では昼と夜がそれぞれ約42年間続くということになる。
天王星の自転軸がなぜこれほど傾いているのかは判明していない。古典的な推察として、星がまだ完成されていない時期に、大きな原始天体が衝突したという説(ジャイアント・インパクト説)や、かつて巨大衛星が存在しており、その引力の影響で徐々に傾斜していったという説も唱えられている。また、天王星が現在のように自転軸が公転面に対して横倒しになるには、地球サイズの天体が1回ではなく、2回衝突する必要があることがシミュレーション研究により判明したとの報告もある。
天王星は自転軸の傾きのため、極周囲の方が赤道周囲よりも太陽からの熱を受けているが、後者の方が前者よりも温度が高い。この理由もまだ解明されていない。
天王星が青緑色に見えるのは、上層大気に含まれるメタンによって赤色光が吸収されるためである。ただし、色は公転に伴って変化する。そのため、天王星には季節変化があると推測されている。
天王星の大気は、他のガス惑星と比べると雲がほとんど見られない、特徴の少ないのっぺりとした外観を持つ。これは、横倒しになった自転軸の影響で、昼夜での気温変化がほとんどないためである。しかし、2007年に天王星は春分を迎え、赤道方向に太陽光が当たるようになると、通常の惑星と同じような昼夜の繰り返しが起こるようになったため、気温変化が起こるようになった。実際、2011年に北半球でかなとこ雲に相当する白い雲が観測された。これは、メタンの氷で出来た雲と考えられている。
ボイジャー2号によって、天王星に磁場の存在が確認された。その強さは地球とほぼ同じである。しかし地球や木星とは大きく異なる特徴として、磁場の中心は惑星の中心から大幅にずれており、また磁場の軸が自転軸から60°も傾いている。そのため、地球のそれよりずっと大きく変動するとされる。ヴァン・アレン帯も土星並みに強く、内側の衛星や環に存在するメタンは、強い化学変化を受けて黒っぽく変色してしまう。
2011年11月、ハッブル宇宙望遠鏡が天王星のオーロラ嵐を2度にわたって観測した。
天王星が惑星として確認されたのは近代になってからである。実際には何度も観測されてはいたが惑星とは認識されていなかった。知られている観測例は、1690年にジョン・フラムスティードがおうし座34番星として記録したものが最古である。
1781年3月13日、ウィリアム・ハーシェルが天王星を観測した。彼はそれが新天体であることには気づいたが、彗星だと考え、同年3月22日に彗星を発見したと発表した。しかしその後観測が進むと、彗星だと仮定して求めた軌道は観測に合わなかった。そこで、アンデル・レクセルは円軌道を仮定して軌道を求め、観測結果を説明することに成功した。求められた軌道長半径は18.93auで、新天体は土星のはるか遠方の、それまで思われていたよりもずっと巨大な天体であることがわかった。これ以後、新天体は惑星と見なされるようになった。
ハーシェルは新惑星をイギリス国王ジョージ3世にちなみ、ゲオルギウム・シドゥス(Georgium Sidus、ラテン語で「ジョージ星」の意)と名付けた(のちに、sidusは恒星であって惑星ではないという指摘を受け、ジョージアン・プラネット(Georgian Planet)に改名)。しかし、イギリス以外では普及しなかった。1784年にジェローム・ラランドが提案した「ハーシェル」は、フランスの天文学者の間に広まった。その後も多くの名前が提案されたが、最終的に、ヨハン・ボーデが提案した「ウラヌス」が広まった。1827年までにはイギリスでもこの名が最も一般的になり、全ての天文台がウラヌスに切り替えたのは1850年だった。なお、中国で生まれた「天王星」という訳語が、日本・韓国・ベトナムにも広まった。
天王星に接近した宇宙探査機は、1977年8月20日に打ち上げられたアメリカ航空宇宙局のボイジャー2号のみである。ボイジャー2号は1986年1月24日に天王星に最接近し、天王星のほか、環や衛星を撮影した。
日本では、1970年代にN-Iロケットを使用した探査が検討されたが、当時はスイングバイ技術を有していなかった事や観測衛星の性能不足などから実現しなかった。
天王星には2013年の時点で27個の衛星が発見され、全てが命名されている。衛星の名前はウィリアム・シェイクスピアかアレキサンダー・ポープの作品中の登場人物名がつけられている(24個がシェイクスピア関連である)。
ボイジャー2号が接近するより前に発見されたアリエル・ウンブリエル・チタニア・オベロン・ミランダを天王星の5大衛星と呼ぶことがある。
衛星の他に、直径10m以下の暗い物質で構成された薄い環もある。天王星の環に関して最初に言及したのは惑星本体の発見者でもあるウィリアム・ハーシェルであった。ハーシェルは1789年2月22日に「赤みがかった」環(ε環と推測される)を観測し、1797年に正式に発表した。だが、この説は受け入れられず、その後約200年にわたり環は観測されなかった。1977年3月10日にカイパー空中天文台から恒星の掩蔽を観測する事によって天王星の環は発見された。その環は暗く、とてもハーシェルの時代の望遠鏡で見えるものではないと思われたが、後にカッシーニによる観測で土星の環が拡散しつつあるという事が分かったため、ハーシェルは天王星の環を実際に観測していたが、その後2世紀の間に環が暗くなってしまったのではないかという仮説が立てられている。
天王星の写真に写る輪は一般に鮮やかな色をしているが、これらは殆どが赤外線域で撮影された輪を可視光域の写真と合成したり、あるいは写真そのものが赤外線域で撮影されたものである。可視光では前述の通り非常に暗い為に、輪が明瞭に撮影される事はまず無い。
2007年には、天王星の環が地球から見て真横を向く位置になった。天王星では公転周期の半分にあたる42年に一度の出来事である(環が真横を向くのは木星では6年、土星では15年に一度)。また衛星やその影が惑星と重なるのは木星や土星ではよく見られる光景だが、この時にハッブル宇宙望遠鏡によって天王星と重なるように通過する衛星とその影の画像が撮影された。
ウラヌスは古代人の命名ではなく、近世以降に発見された惑星に、他の惑星に倣い「未使用の神話上の大物」の名が付けられたもので、天体の外見や運行上の特徴と付けられた神名の関わりは希薄である。なお、Uranusはギリシア神話に由来する名称であり、他の惑星がローマ神話に由来する名称を与えられていることから本来は天王星もカエルス(Caelus)と命名されるべきであったが、それはローマ神話で対応する名称が忘れ去られてしまうほどこの神の存在が人々の記憶から希薄になっていたことを意味する。ウラヌスはギリシア神話の主神ゼウスの祖父にあたる。中国(東洋天文学・占星術)では未発見のため名称がなく、ウラヌス=天空神を翻訳して天王星とした。
10大天体の1つである。10大天体は、20世紀の冥王星発見後の占星術のもの。天王星が発見されたのは18世紀後半でありそれ以前にはありえないため、七曜・九曜にも含まれない(九曜は別の「仮説上の天体」をカウントする)。
西洋占星術では、宝瓶宮(みずがめ)の支配星で、凶星である。変化を示し、改革・離別・不安定・電撃に当てはまる。
ウラヌス=天王星と改称される以前は、発見者にちなみ「ハーシェル」と呼ばれたため、ハーシェルの「H」を他の惑星記号に似せて図案化したものが、占星術・天文学を通して用いられていた。これが改称後も用い続けられている。 | [
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] | 天王星(てんのうせい、Uranus)は、太陽系第7惑星である。太陽系の惑星の中で木星・土星に次いで3番目に大きく、木星・土星・海王星に次いで4番目に重い。1781年3月13日、イギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェルにより発見された。名称は、ギリシア神話における天の神ウーラノスのラテン語形である。 最大等級+5.6等と地球最接近時は肉眼で見える明るさになることもあり、ハーシェルによる発見以前にも恒星として20回以上観測されていた(肉眼観測も含む)。 | {{Expand language
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{{天体 基本
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| 英名 = [[:en:Uranus|Uranus]]
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| 画像説明 = [[1986年]]に[[ボイジャー2号]]が撮影した天王星
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{{天体 発見
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{{天体 軌道
| 色 = 天王星型惑星
| 元期 = [[J2000.0]]{{R|NASA_factsheet}}
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| 平均距離対象 =
| 平均公転半径 =
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| 平均黄経 = 313.23218°{{R|NASA_factsheet}}
| 前回近日点通過 =
| 次回近日点通過 =
| 主惑星 =
| 主恒星 = [[太陽]]
| 惑星数 =
| 衛星数 = [[天王星の衛星|27]]
}}
{{天体 物理
| 色 = 天王星型惑星
| 赤道半径 =
| 直径 =
| 半径 = {{Val|25559|ul=km|fmt=commas}}(赤道){{R|NASA_factsheet}}
| 表面積 = 8.13 {{e|9}} km{{sup|2}}
| 体積 =
| 質量 = 86.811 {{e|24}} kg
| 相対対象1 = 地球
| 相対質量1 = 14.54{{R|NASA_factsheet}}
| 相対対象2 =
| 相対質量2 =
| 平均密度 = {{Val|1.270|ul=g/cm3}}{{R|NASA_factsheet}}
| 表面重力 = {{Val|9.01|ul=m/s2}}{{R|NASA_factsheet}}
| 脱出速度 = 21.30 km/s{{R|NASA_factsheet}}
| 自転周期 = 17時間14分<br>(0.7183 日)<br>([[順行・逆行|逆行]])
| スペクトル分類 =
| 絶対等級 =
| 光度 =
| 光度係数 =
| アルベド = 0.300([[ボンドアルベド|ボンド]]){{R|NASA_factsheet}}<br />0.488([[幾何アルベド|幾何]]){{R|NASA_factsheet}}
| 赤道傾斜角 = 97.77°{{R|NASA_factsheet}}
| 最小表面温度 = 59 [[ケルビン|K]]
| 平均表面温度 = 68 K
| 最大表面温度 = [[n/a]]
| 可視光明度 =
| 全波長明度 =
| 色指数_BV =
| 色指数_UB =
| 色指数_VI =
| 金属量 =
| 年齢 =
| 大気圧 = 深さによって異なる
| 大気 =
{{天体 項目|[[水素]]|83%}}
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{{天体 項目|[[エタン]]|0.00025%}}
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{{天体 項目|[[一酸化炭素]]<br>[[硫化水素]]|微量}}
| 外殻 =
}}
{{天体 終了
| 色 = 天王星型惑星
}}
'''天王星'''(てんのうせい、Uranus)は、[[太陽系]]第7[[惑星]]である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202211050000483.html|title=442年ぶり皆既月食中に惑星食、次回は322年後の天体ショー 8日夜、天気よければ各地で|publisher=日刊スポーツ|date=2022-11-05|accessdate=2022-11-08}}</ref>。太陽系の惑星の中で[[木星]]・[[土星]]に次いで3番目に大きく、木星・土星・[[海王星]]に次いで4番目に重い。[[1781年]][[3月13日]]、[[イギリス]]の[[天文学者]][[ウィリアム・ハーシェル]]により発見された。名称は、[[ギリシア神話]]における天の神[[ウーラノス]]({{lang|el|Ουρανός}}、ラテン文字転写: Ouranos)の[[ラテン語]]形である。
最大等級+5.6等と地球最接近時は[[肉眼]]で見える明るさになることもあり、ハーシェルによる発見以前にも[[恒星]]として20回以上観測されていた(肉眼観測も含む)。
== 物理的性質 ==
=== 内部構造 ===
[[ファイル:Uranus-intern-en.png|thumb|left|天王星の内部構造。]]
天王星は主にガスと多様な[[氷]]から成っている。地球上の氷は液体の水{{small|<chem>H2O</chem>}}が冷えて固まったものを指すが、天文学ではメタンやアンモニアでも氷という。[[大気]]には[[水素]]が約83%、[[ヘリウム]]が15%、[[メタン]]が2%含まれている<ref name=NASA.Uranus>[http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/uranusfact.html Uranus Fact Sheet] [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]</ref>。内部は重い元素に富み、岩石と氷からなる核のほか、水やメタン・アンモニアが含まれる氷からなるマントルで構成されていると推測されている。[[酸素]]・[[炭素]]・[[窒素]]が多く含まれ、ほとんどが水素とヘリウムで出来ている木星や土星とは対照的である。天王星と海王星は従来[[木星型惑星]]に分類されていたが、木星や土星の核から液体の金属水素の層を除いたものによく似ており、<!--木星や土星のように岩石の核を持っておらず-->内部は比較的均一に分布しているようである。こうした違いから、木星型とは異なる[[天王星型惑星]]({{lang-en-short|ice giant}})として分類されるようになった。
{{Clearleft}}
=== 自転軸 ===
[[ファイル:Uranus clouds.jpg|thumb|left|160px|横倒しになった天王星。南半球には線状の雲、北半球には明るい雲も見える。]]
天王星の特徴の一つとして、自転軸の極端な傾きが挙げられる。天王星の[[赤道傾斜角]]は約98度、つまり[[黄道]]面に対しほぼ横倒しとなっている<ref name=jaxa>[https://web.archive.org/web/20070127182515/http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/uranus.html 天王星の基本情報] Jaxa 宇宙情報センター</ref>。加えて、公転周期が約84年なので、即ち極点では昼と夜がそれぞれ約42年間続くということになる。
天王星の自転軸がなぜこれほど傾いているのかは判明していない。古典的な推察として、星がまだ完成されていない時期に、大きな原始天体が衝突したという説([[ジャイアント・インパクト説]])や、かつて巨大衛星が存在しており、その引力の影響で徐々に傾斜していったという説も唱えられている<ref>{{cite news
| author=Ker Than | date=2009-12-04
| title=Large moon of Uranus may explain odd tilt
| url=http://www.newscientist.com/article/dn18239-large-moon-of-uranus-may-explain-odd-tilt.html
| publisher=New Scientist | accessdate=2010-04-08
}}</ref><ref>{{cite paper
| author=Boué, G. & Laskar, J. | year=2010
| title=A Collisionless Scenario for Uranus Tilting
| journal=The Astrophysical Journal | volume=712 | issue=1 | pages=L44-L47
| url=https://ui.adsabs.harvard.edu/abs/2010ApJ...712L..44B/abstract
| doi=10.1088/2041-8205/712/1/L44
}}</ref>。また、天王星が現在のように自転軸が公転面に対して横倒しになるには、地球サイズの天体が1回ではなく、2回衝突する必要があることがシミュレーション研究により判明したとの報告もある<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2011/10/12uranus/index-j.shtml AstroArts 天王星の自転軸が傾いたのは2回の天体衝突が原因?] AstroArts Inc 記事:2011年10月12日</ref>。
天王星は自転軸の傾きのため、極周囲の方が[[赤道]]周囲よりも太陽からの熱を受けているが、後者の方が前者よりも温度が高い。この理由もまだ解明されていない。
=== 大気 ===
{{Main|天王星の大気|天王星の気候}}
天王星が青緑色に見えるのは、上層大気に含まれるメタンによって赤色光が吸収されるためである。ただし、色は[[公転]]に伴って変化する。そのため、天王星には季節変化があると推測されている。
天王星の大気は、他のガス惑星と比べると雲がほとんど見られない、特徴の少ないのっぺりとした外観を持つ。これは、横倒しになった自転軸の影響で、昼夜での気温変化がほとんどないためである。しかし、[[2007年]]に天王星は[[春分]]を迎え、[[赤道]]方向に太陽光が当たるようになると、通常の惑星と同じような昼夜の繰り返しが起こるようになったため、気温変化が起こるようになった。実際、2011年に北半球で[[かなとこ雲]]に相当する白い雲が観測された。これは、[[メタン]]の氷で出来た雲と考えられている<ref name=jaxa />。
=== 磁場 ===
[[ファイル:Uranian Magnetic field.gif|thumb|left|ボイジャー2号によって観測された天王星の磁場]]
[[ボイジャー2号]]によって、天王星に[[磁場]]の存在が確認された。その強さは地球とほぼ同じである。しかし地球や木星とは大きく異なる特徴として、磁場の中心は惑星の中心から大幅にずれており、また磁場の軸が自転軸から60°も傾いている。そのため、地球のそれよりずっと大きく変動するとされる。[[ヴァン・アレン帯]]も土星並みに強く、内側の衛星や環に存在するメタンは、強い化学変化を受けて黒っぽく変色してしまう。
2011年11月、ハッブル宇宙望遠鏡が天王星の[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]嵐を2度にわたって観測した<ref>[http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/5913/?ST=m_news ナショナルジオグラフィック ニュース 天王星のオーロラ、ハッブルが初撮影]</ref>。
{{Clearleft}}
== 発見 ==
[[ファイル:W.Herschel, C.Herschel.png|thumb|180px|観測を行う[[ウィリアム・ハーシェル|ハーシェル]]]]
天王星が惑星として確認されたのは近代になってからである。実際には何度も観測されてはいたが惑星とは認識されていなかった。知られている観測例は、[[1690年]]に[[ジョン・フラムスティード]]が[[フラムスティード番号|おうし座34番星]]として記録したものが最古である。
[[1781年]][[3月13日]]、ウィリアム・ハーシェルが天王星を観測した。彼はそれが新天体であることには気づいたが、[[彗星]]だと考え、同年3月22日に彗星を発見したと発表した。しかしその後観測が進むと、彗星だと仮定して求めた軌道は観測に合わなかった。そこで、[[アンデル・レクセル]]は円軌道を仮定して軌道を求め、観測結果を説明することに成功した。求められた軌道長半径は18.93[[天文単位|au]]で、新天体は土星のはるか遠方の、それまで思われていたよりもずっと巨大な天体であることがわかった。これ以後、新天体は惑星と見なされるようになった。
ハーシェルは新惑星を[[イギリス国王]][[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]にちなみ、ゲオルギウム・シドゥス(Georgium Sidus、ラテン語で「ジョージ星」の意)と名付けた(のちに、sidusは[[恒星]]であって惑星ではないという指摘を受け、ジョージアン・プラネット(Georgian Planet)に改名)。しかし、イギリス以外では普及しなかった。[[1784年]]に[[ジェローム・ラランド]]が提案した「ハーシェル」は、[[フランス]]の天文学者の間に広まった。その後も多くの名前が提案されたが、最終的に、[[ヨハン・ボーデ]]が提案した「ウラヌス」が広まった。[[1827年]]までにはイギリスでもこの名が最も一般的になり、全ての天文台がウラヌスに切り替えたのは1850年だった。なお、[[中国]]で生まれた「天王星」という訳語が、[[日本]]・[[大韓民国|韓国]]・[[ベトナム]]にも広まった。
=== 惑星探査 ===
{{see also|天王星探査}}
天王星に接近した[[宇宙探査機]]は、[[1977年]][[8月20日]]に打ち上げられた[[アメリカ航空宇宙局]]の[[ボイジャー2号]]のみである。ボイジャー2号は[[1986年]][[1月24日]]に天王星に最接近し、天王星のほか、環や衛星を撮影した。
日本では、1970年代に[[N-Iロケット]]を使用した探査が検討された<ref>竹中幸彦、斉藤勝利、[https://doi.org/10.2322/jjsass1969.26.36 Nシリーズ・ロケットによる惑星探査の可能性について] 日本航空宇宙学会誌 Vol.26 (1978) No.288 P.36-42</ref>が、当時は[[スイングバイ]]技術を有していなかった事や観測衛星の性能不足などから実現しなかった。
== 衛星と環 ==
[[ファイル:Uranus rings and moons.jpg|thumb|天王星の環と衛星([[1998年]]、[[ハッブル宇宙望遠鏡]]により撮影)]]
{{main|天王星の衛星|天王星の環}}
天王星には2013年の時点で27個の[[衛星]]が発見され、全てが命名されている。衛星の名前は[[ウィリアム・シェイクスピア]]か[[アレキサンダー・ポープ]]の作品中の登場人物名がつけられている(24個がシェイクスピア関連である)。
ボイジャー2号が接近するより前に発見された[[アリエル (衛星)|アリエル]]・[[ウンブリエル]]・[[チタニア (衛星)|チタニア]]・[[オベロン (衛星)|オベロン]]・[[ミランダ (衛星)|ミランダ]]<ref name=jaxa />を'''天王星'''の5大衛星と呼ぶことがある。
衛星の他に、直径10m以下の暗い物質で構成された薄い[[環 (天体)|環]]もある。天王星の環に関して最初に言及したのは惑星本体の発見者でもある[[ウィリアム・ハーシェル]]であった。ハーシェルは1789年2月22日<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/6569849.stm Uranus rings 'were seen in 1700s'] BBC 2007年4月18日</ref>に「赤みがかった」環(ε環と推測される)を観測し、1797年に正式に発表した。だが、この説は受け入れられず、その後約200年にわたり環は観測されなかった。1977年3月10日に[[カイパー空中天文台]]から[[恒星]]の[[掩蔽]]を観測する事によって天王星の環は発見された。その環は暗く、とてもハーシェルの時代の望遠鏡で見えるものではないと思われたが、後に[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]]による観測で[[土星の環]]が拡散しつつあるという事が分かったため、ハーシェルは天王星の環を実際に観測していたが、その後2世紀の間に環が暗くなってしまったのではないかという仮説が立てられている<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2007/04/27uranus_ring/index-j.shtml ハーシェルは天王星のリングを見たか] RAS Press News 2007年4月27日</ref>。
天王星の写真に写る輪は一般に鮮やかな色をしているが、これらは殆どが赤外線域で撮影された輪を可視光域の写真と合成したり、あるいは写真そのものが赤外線域で撮影されたものである。可視光では前述の通り非常に暗い為に、輪が明瞭に撮影される事はまず無い。
2007年には、天王星の環が地球から見て真横を向く位置になった<ref>[https://www.astroarts.co.jp/news/2007/08/30uranus_ring/index-j.shtml 天王星の環、発見後初めて真横を向く] AstroArts 2007年8月30日</ref>。天王星では公転周期の半分にあたる42年に一度の出来事である(環が真横を向くのは木星では6年、土星では15年に一度)。また衛星やその影が惑星と重なるのは木星や土星ではよく見られる光景だが、この時に[[ハッブル宇宙望遠鏡]]によって天王星と重なるように通過する衛星とその影の画像が撮影された。
== 人類との関係 ==
=== 歴史と神話 ===
ウラヌスは古代人の命名ではなく、[[近世]]以降に発見された惑星に、他の惑星に倣い「未使用の神話上の大物」の名が付けられたもので、天体の外見や運行上の特徴と付けられた神名の関わりは希薄である。なお、Uranusはギリシア神話に由来する名称であり、他の惑星がローマ神話に由来する名称を与えられていることから本来は天王星も[[ウーラノス|カエルス]](Caelus)と命名されるべきであったが、それはローマ神話で対応する名称が忘れ去られてしまうほどこの神の存在が人々の記憶から希薄になっていたことを意味する。ウラヌスはギリシア神話の主神[[ゼウス]]の祖父にあたる。中国(東洋天文学・占星術)では未発見のため名称がなく、ウラヌス=天空神を翻訳して天王星とした。
=== 占星術 ===
[[10大天体]]の1つである。10大天体は、20世紀の冥王星発見後の占星術のもの。天王星が発見されたのは18世紀後半でありそれ以前にはありえないため、[[七曜]]・[[九曜]]にも含まれない(九曜は別の「[[仮説上の天体]]」をカウントする)。
[[西洋占星術]]では、[[宝瓶宮]](みずがめ)の[[支配星]]で、凶星である。[[変化]]を示し、[[改革]]・離別・[[不安定]]・[[電撃]]に当てはまる<ref>[[石川源晃]]『【実習】占星学入門』 ISBN 4-89203-153-4</ref>。
=== 惑星記号 ===
[[ファイル:Uranus's astrological symbol.svg|left|天王星の記号]]
ウラヌス=天王星と改称される以前は、発見者にちなみ「ハーシェル」と呼ばれたため、ハーシェルの「H」を他の惑星記号に似せて図案化したものが、[[占星術]]・[[天文学]]を通して用いられていた。これが改称後も用い続けられている。
{{-}}
=== 関連作品 ===
{{main|[[地球以外の実在天体を扱った事物]]<!--各種作品についてはこちらにお願いします-->}}
== ギャラリー ==
<gallery>
Uranus Earth Comparison.png|地球との大きさ比較。
Uranus Orbit.gif|赤線が天王星の公転である。
</gallery>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|refs=
<ref name="NASA_factsheet">{{Cite web
| title=Uranus Fact Sheet
| website=nssdc.gsfc.nasa.gov | date=2023-05-22
| url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/factsheet/uranusfact.html | access-date=2023-08-25}}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* 『太陽系はここまでわかった』リチャード・コーフィールド著、水谷淳訳、文芸春秋、2008年
== 関連項目 ==
* [[コールド・ネプチューン]]
* [[オリオン座15番星]] - 天王星から見れば[[南極星]]となる。
*[[ウラン]] - 天王星に因んで命名された元素。
== 外部リンク ==
{{Sisterlinks
| q = no
| s = no
| n = no
| v = no
}}
* {{Wayback|url=https://rika-net.com/contents/cp0320a/contents/taiyoukei/tenousei/index.html |title=理科ねっとわーく 太陽系図鑑(天王星) |date=20211210130143}}
* [https://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/resource/tenmon/space/uranus_neptune/urnsnept00.html 国立科学博物館 宇宙の質問箱(天王星・海王星)]
* [https://www.cgh.ed.jp/TNPJP/nineplanets/uranus.html ザ・ナインプラネッツ 日本語版(天王星)]
* [https://nineplanets.org/uranus/ The Nine Planets Uranus Facts] - ザ・ナインプラネッツ 原語版(天王星){{En icon}}
* {{Kotobank}}
* [http://solarviews.com/eng/vgrur.htm Voyager Uranus Science Summary]{{en icon}}[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]/[[ジェット推進研究所|JPL]]
{{天王星}}
{{天王星の衛星}}
{{太陽系}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんのうせい}}
[[Category:天王星|*]]
[[Category:太陽系の惑星]]
[[Category:18世紀発見の天体]]
[[Category:天文学に関する記事]]
[[Category:ウィリアム・ハーシェル]]
[[Category:ヨハン・ボーデ]] | 2003-03-14T00:07:05Z | 2023-11-18T05:58:32Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E6%98%9F |
3,974 | 時間 | 時間(じかん、英: time)とは、出来事や変化を認識するための基礎的な概念である。芸術、哲学、自然科学、心理学などで重要なテーマとして扱われることもあり、分野ごとに定義が異なる。
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。広辞苑で挙げられている順に解説すると次のようになる。
1. の意味の時間、すなわち時の長さというのは「この仕事は時間がかかる」とか「待ち合わせ時刻まで喫茶店で時間をつぶす」とかのように用いられている概念である。長さの意味での時間を数で示す表現を日本語および英語で挙げてみると例えば「5時間 (five hours)」「2日(2日間、two days)」「4ヶ月 (four months)」などがある。
2.の用法、時間という言葉を時刻という意味で用いてしまう用法は、広辞苑や日本語大辞典の解説によるとあくまで俗語である。岩波『国語辞典』でも日常語としている。つまり「時間」を時刻の意味で使ってしまう用法は正しい用法ではない。なお時刻は、ある一瞬を指す概念である。例えば「本日14時20分」などである。時刻については別記事「時刻」が立てられているのでそちらで詳説する。
3. の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。カントなどの指摘に基き現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。広辞苑では3.の「時間」は、1.と 2.の両方を併せたような概念、とも解説されている。
当記事では3. や 1.を中心として解説する。2については基本は別記事「時刻」で扱うが、(広辞苑でも解説されているように)3.の意味の時間は1.と2.を併せたような概念なので、2.の意味についても適宜言及する。
時間というのはあまりに基礎的で、あまりにとらえがたく、人は比喩を用いて“流れ”と表現する。人間にとって理解しやすい川の流れなどに喩えている。人間というのはとらえどころのない対象については比喩を用いて表現し、それを理解のきっかけとして用いようとする。ただし、比喩というのは、異なるものどうしを結びつけて用いるものなのであり、つまり実は本当は、「時間」は「流れ」ではない。時間は本当は"流れ"ではないからこそ、比喩として成立している。時間を「流れ」に譬える比喩としてはたとえば、「過去から未来に絶えず移り流れる」とか「過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく」とか「過去・現在・未来と連続して永久に流れてゆくもの」とか、「過去から未来へと限りなく流れすぎて」とかがある。時間を「流れ」として比喩的にとらえることに関しては、「過去から未来へと流れている」とする時間観と、「未来から過去へ流れている」とする時間観がある。 時間というのは人間にとっては比喩で表現して理解のとりかかりにしようとするくらいがせいぜいであり、正攻法で知的に考察しようとすればするほど困難に突き当たり理解しがたいものなので、時間について考察したアウグスティヌスは「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」と述べた。
時間の長さを表すのに用いられる計量単位)としては、国際単位系(SI)においては、唯一、秒 (second) だけがSI単位となっている。
ただし日常的には秒以外に、多くの国や地域において、分 (minute)、時 (hour)、日 (day)、月 (month)、年 (year) が用いられており、しばしば週 (week) も用いられる。また、十年紀 (decade)、世紀 (century)、千年紀 (millennium) なども使われる場合がある。
上記のうち、分 (minute)、時 (hour)、日 (day)の3つは、SI併用単位である。
人はもともと何かの変化を《時間そのもの》として感じていた、何かの変化と時間をはっきりと区別していなかった、ということは学者によって指摘されることがある(下の「古ゲルマン」などでも述べる)。
《年》は神話的・宗教的概念とも深く結び付いていることが指摘されるが(後述)、一方で人類の農耕活動の定着や知的活動の高まりと関連付けられて説明されることのあるものであり、古今東西の文明で広く用いられている。
《週》は7日をひとまとめと見なす概念・制度(7曜制)であるが、近・現代になるまで万国共通とは言えない状態であった。例えば日本では、平安期に伝わりはしたものの実際上は用いられておらず、生活周期としても日々の意識としても無きにひとしかった。日本人は10日等ごとに何かを行っていた。明治政府が国策として西洋各国に倣い法律で定めたことで日本に広まった。何日かをひとまとまりとして見なす文化・制度としては、例えば5曜制、6曜制もあり、10日、90日などをひとまとまりと見なす文化もある。7日をひとまとまりと見なす文化は、(確かなことは判らない面もあるが)バビロニアが起源だとも言われている。そしてユダヤ人がバビロニアに捕虜として連行された時に(バビロン捕囚)その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対・打倒し成立した革命政府(たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など)では7曜制を排止して10日や5日を週とする制度を定めた時期もあったという。
機械式時計が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、遂には原子の発する電磁波の周波数によって精密に時間を計測できるようになった。これが原子時計である。
現代の国際単位系では、1967年以降、時間の基本単位として秒を原子時計によって定義している。すなわち、「秒(記号は s)は、時間のSI単位であり、セシウム周波数 ∆νCs、すなわち、セシウム133原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s に等しい)で表したときに、その数値を9192631770 と定めることによって定義される」とされている。国際単位系におけるこの秒の定義は、世界的に統一されたものとして、社会生活や産業活動において最もよく使用されている。
時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。
時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。古くは日の動きで決めた。日の出という時刻があり、日没という時刻がある。また日が南中する時刻が正午 (noon) とされた。
なお、一日のいつを一日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしている。またギリシアにある正教会などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が一日の始まりだとされている。今日でもそうだとされている。一日は夜の闇の中で始まり、やがて夜明けを迎え、昼を迎え、最後に一日の終わりである夕暮れを迎える。同教会の修道士たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。
一方で、日の出の瞬間を一日の始まりだと見なしている文化も多い。バビロニア人やエジプト人は日の出を一日の始まりの時刻だとしていた。
ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。
古代宗教における時間については、ミルチア・エリアーデが透徹した解釈を行った。聖なる時間によって俗なる時間は隔てられ、中断される。聖なる時間をその前後の俗なる時間から区別するのは、ヒエロファニー(hierophany、聖なるものの顕現)である。周期的に営まれる祭儀は、本来、俗なる時間を中断して神が顕現する聖なる時間なのだという。
仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世も来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。転生説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにならない。転生が、計測される同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない(諸行無常)というのが仏教の根本的な認識である。アビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。従って、計測される時間の外にある。龍樹に代表される空観における時間もまた、計測時間の外で現在意識を軸に考察されている。
ギリシャ神話には時にまつわる神が二柱ある。カイロス (Καιρός, Kairos) は一瞬を表す神であり、もう一柱のクロノス (Χρόνος, Khronos) は連続した時を表す神である。
ある哲学者らは、時間を円のように回り続けるイメージで捉えた。時間を円と考えると時間に始まりや終わりがあるかないかという面倒な問題が避けられる利点がある。似た考えは、マヤや古代インド文明などにも存在した。
古代ローマのホラティウス(紀元前65年 - 紀元前8年)が詩に残したCarpe diem、カルペ・ディエムという句は、直訳では「その日を摘め」、つまり「今日という一日を大切にしなさい」「今という時をよく味わいなさい」という意味である。人々がつい忘れがちなことを思い出させてくれる深みのある句として、現在に至るまで繰り返し引用されている。
ユダヤ教には円環的な時間観も見られ、その影響がキリスト教にも見られはするが、キリスト教にはそれを超えた反復不可能の一回的な時間観がある。
キリスト教の時間観にとって決定的なことは、神の子の受肉としてのイエス・キリストのこの世への到来、その死と復活という、歴史のただなかへの一度かぎりなされたとされる神の啓示である。これは反復されない、一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っている。
キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在の事実とされ、R.K.ブルトマンやC.H.ドッドなどは終末についても現在性があると指摘している。
キリストの出来事が歴史の中心とされ、それを通して創造や堕罪、終末や再臨が理解される時、これらのことは不可逆的な直線的時間の上に配置され、また現在の事実として主体的に反復される。
時間をめぐる考察が厄介である事を示すためにしばしば引用されるアウグスティヌスの有名な言葉に、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」というものがある。
アウグスティヌス(354年 - 430年)は時間を内面化して考えた。時間は心と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間を3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは《すでにないもの》であり、未来とは《いまだないもの》である。ならば在ると言えるのは現在だけなのか。過去や未来が在るとすれば、それは《過去についての現在》と《未来についての現在》が在る。過去についての現在とは《記憶》であり、未来についての現在とは《期待》、そして現在についての現在は《直観》だとアウグスティヌスは述べる。時間とは、このような心の働きである。「神は世界創造以前には何をしていたのか?」と問う人がいるが、アウグスティヌスによれば、こうした問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間はなかった。神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある。
10世紀以前の古ゲルマン世界での公的生活は、まだ直線時間意識には規定されておらず、円環的な時間意識が支配的であった。ゲルマン人が「timi」(時)と言うと、正確な計測という考え方はみられず、あくまで季節などかなり長い時の経過を意味した。ar(年)というのも、毎年繰り返される収穫の意味であった。まず現実の農耕生活における、具体的な、人間と自然の規則正しい関係があり、それが人間の意識や行動を規定していたのであり、《繰り返し》が時間のあたりまえの姿だった。ゲルマン人の円環的時間意識のもとの死生観では、人間は死後冥界に入るが、この冥界というのはこの世と並行して存在しており、この世と交流可能な世界であり、死者は現世とつながりつつ冥界で生きる、とされた。
11~12世紀以降にキリスト教が公的生活にまで影響を及ぼすようになったが、これは古ゲルマンの意識とは異質なものであり時間意識や死生観は変化してゆくことになった。キリスト教の時間意識は、神を目指すひとつの方向に進む直線的な時間観であったので、《繰り返す時間》の観念は否定されてゆくことになり、終末に向かって進んでゆく時間の変化が意識され、人間は死ねば、煉獄、そして天国か地獄へ行き、最後の審判を待つしかない、とされることになった。古ゲルマンと、この世とあの世の時間的関係が全く異なる。人々は死ぬと現生とのきずながたたれる、ということにされた。教会の教えにより、人はただ1度だけ生き、一度だけ死ぬ、ということになった。
またこの時代、キリスト教のほかにも、商人たちが人々の時間意識に影響を及ぼしはじめる。商人たちは日数と費用の計算をするために、計測するものとして時間の観念を使いはじめた。「市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具」となった、とジャック・ル・ゴフは言う。
アイザック・ニュートンは、自然哲学にユークリッド幾何学(および他の数学)を大幅に導入した体系を構築、それを『自然哲学の数学的諸原理』(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica, 1687年刊)で発表した。当時知られている幾何学はユークリッド幾何学だけで、ニュートンが用いた幾何学もそれであったので、空間は均一で平坦なユークリッド空間だと暗黙裡に仮定されている。
ニュートンは同著において、時間は過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された舞台のように想定し、この固定された舞台を「絶対空間」及び「絶対時間」とも呼んだ(空間#ニュートン力学での空間も参照)。
ニュートン力学では、ガリレイ変換に対して空間座標と時間座標は独立であるため、時間座標(時刻)は空間座標(位置)のパラメータ(parameter, 媒介変数)として扱われる。従って、ニュートン力学の範囲では、時間は空間の一成分としては認識されず、3次元空間上で議論がなされる。
ニュートン力学においては時間は全宇宙で同一とされたが、アルベルト・アインシュタインが発表した相対性理論によって、そうではないことが認識されるようになった。
特殊相対性理論によれば光の速度はどの慣性系に対しても一定である。これを「光速度不変の原理」と呼ぶ。光速度不変の原理から異なる慣性系の間の時空座標の変換式が求められ、それはローレンツ変換となる。このとき、ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、異なる慣性系から見ると同時に起きてはいない。これを「同時性の崩れ」という。結果として、観測者に対して相対運動する時計は進み方が遅れて見える。
相対性理論ではローレンツ変換により時間座標と空間座標とが混合するので、両者を完全に独立のパラメータとして扱うことはできない。この事情から、この4次元空間を時間と空間が一体化した時空 (spacetime) だとする考えが生まれ、さらにこの考えが、重力は4次元時空の曲がりに相当するとする一般相対性理論の発想につながった。この考え方によれば、時間は「経過」ではなく空間と質的に等しい「拡がり」を表すものとみなされる。
一般相対性理論では、重力と加速度は等価とされ(等価原理)、これらは空間と共に時間をも歪める。「一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされる。例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされる。非常に重力の強いブラックホールや中性子星ではこの効果が顕著であるとされる。
物体の運動については、よほど光速に近い速度でない限り、相対論からの近似により、ニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できることが保証されているので、相対性理論が登場した後でも、大半の場合は基本的にニュートン力学の枠組みのままで時間概念を取り扱うことは多い。
現代の物理学の体系において、時間は物理量のひとつとして扱われている。
特筆すべきことのひとつに、「プランク時間」の概念の登場がある。物理学において、いくつかの物理定数を用いて、「長さ(時間)」「エネルギー」「温度」などの単位を構成しようという考え方があり、このような単位の組(単位系)を自然単位系と呼ぶ。プランク時間は自然単位系のひとつであるプランク単位系の時間の単位である。プランク時間は、物理的に興味のある最も短い時間であり、しばしば「時間の最小単位」であると云われる。このことはしかし、物理学における時間の概念が離散的なものであることを意味しない。
量子力学の世界では、時間の概念が一般的なそれとは異なっており、時間が逆方向にも流れているとされている。
ニュートン力学の登場以降も、その理論の成功や、それが人々の時間概念に与えた影響を意識しつつ、哲学的な考察は続けられていた。
イマヌエル・カント(1724年 — 1804年)は、ニュートンの後の時代の人で、ニュートンの体系も学び大学で講義した人物である。彼は時間、空間の直観形式でもって、人間は様々な現象を認識すると考えた。カントにおいて経験的な認識は、現象からの刺激をまず外官(外的なものからの刺激を受け取る感覚器官)によって空間的に、内官(内的なものの感じをうけとる感覚器官)によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外官によって直観され、時間は内官によって直観される。この場合、時間は空間のメタファーとして捉える見方もあるが、それは『純粋理性批判』解釈の大変難しい課題である。時間、空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純粋理性批判には見出される。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられる事が多い。
アンリ・ベルクソンは、時間の理解は《空間化された時間》に過ぎない、と批判した。たとえば、時計は空間化された時間の一例である。時計は時間ではない。座標の横軸や線分も時間ではない。そして、人間が経験している時間というのは《空間化された時間》ではない、と指摘した。ベルクソンは時間を「純粋持続」であるとした。
ガストン・バシュラールもやはり、ニュートン的な時間の理解には異議を申し立てた。ただし、ベルクソンが時間を純粋持続として捉えたのに対し、バシュラールは《瞬間の連続》だとした。我々が感じる時間現象は常に《現在》、言い換えれば瞬間でしかないからである。記憶にある瞬間瞬間と現在瞬間が比較される時、時間概念が誕生するわけである。またそこから、「瞬間瞬間をより高く深く生きる事が、よりよく時間を過ごす事となる」とするバシュラールの思想が開花する事になる。
大森荘蔵は、人が過去を思い出すとき「過去の写し」を再現しているのだと考えがちなことに注目する。大森はそのような《写しとしての過去》という理解は錯覚であるという。
そのような過去のモデルでは、まず写される対象としての正しい過去が存在し、それを写した劣化コピーとしての過去が記憶の中に存在するということになる。しかし、過去は「想起という様式」で振り返られる中にのみ存在する、と大森は述べる。思い出されるのは写しとしての過去ではなく、過去そのものである。
過去の記憶が正しかったかどうか考えるとき、想起という様式から離れて記憶の正誤を判定する過去は存在しない。想起同士の比較ができるのみである。
世界五分前仮説などは過去が想起の外に存在するという前提のもとに生まれた、意味のない問題であるという。
例えば、コーヒーとミルクが混ざることはあっても、混ざったものが自然と分離することは無い。このようにある方向に変化することはあっても、逆方向に変化することが無いものを不可逆現象という。
不可逆現象の事例は、ビデオ映像や映画フィルムの逆回しで説明されることが多い。例えば、“桶の底に入れた一升の米と一升の小豆の混合” を写した映画フィルムの例や、“瀬戸物店に闖入した雄牛” を写したフィルムの例や、“アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程” のビデオ録画の例、がある。このように、自然界において不可逆な現象は、可逆な現象よりもむしろありふれたものであり、「覆水盆に返らず」などの諺も残されている。しかしながら、ビデオの逆回しという考えからは、人間は時間の方向を一方向しか認識出来ていないだけではないかという解釈も出来る。例として、ビデオの中の登場人物を考えてみよう。時間とは変化を認識する事で初めて知覚する現象であり、ビデオの中の登場人物は何回巻き戻しを実行しても結局は同じ行動を繰り返すため、巻き戻しという逆方向の変化を認識出来ない。つまり、ビデオの中の世界の人物は時間の逆行に気づく事が出来てはいないが、実際には時間の逆行は何回も起きているのであり、ビデオとは異なる世界から観測しないと、それを認識する事が出来ない。これを、ビデオテープのパラドックスと言う。
イギリスの天体物理学者アーサー・エディントン (Arthur Stanley Eddington) はこの不可逆な現象を時間的非対称性だと考え、1927年に「時間の矢」と表現した。
この“時間の矢”を表す物理法則として、エントロピー増大則 (law of increasing entropy) について言及されることがある。エントロピー増大則は、「孤立系内のエントロピーは時間と共に増大するか変化しない」と言い表される。このことは熱力学第二法則、すなわち「ある物体より熱を取り、それをすべて仕事に変えて、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というトムソンの原理 (Thomson's principle, —statement) や「低温の物体から熱を取り、それをすべて高温の物体に写し、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というクラウジウスの原理 (Clausius' principle, —statement) などから導かれる。ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)やルドルフ・クラウジウスの主張は互いに等価であることが示されており、これらをまとめたものが熱力学第二法則である。熱力学第二法則は熱力学における基本原理であり、熱現象の観察事実を法則化したものである。熱力学第二法則は時間の矢の現れの一つというだけでなく、非常に多くの時間の矢を説明(ないしは置換)できる。例えば、アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程は「水とアルコールが分離した状態よりも、混ざった状態の方がエントロピーが高い(自由エネルギーが低い)ため起こる」と説明できる。そのためしばしば両者は同列に扱われる。しかし、エントロピー増大則が成り立つのは「孤立系」、すなわち外界と熱的なやりとりがない系においてであり、エントロピー増大則をもって「時間の矢」問題がすべて理解されるということはない。
「時間の矢」ないしは「熱力学第二法則」に対して、多粒子系における衝突現象の結果として認識する還元主義的な立場をとることもできるが、微視的な理論からそれらを説明することは未だに成功していない。時間的に逆に進行するような変化も起こり得る、可逆性が厳密に成り立つような具体的な巨視的現象を挙げるのは難しいが、振り子の運動や惑星の公転をニュートン力学により質点の運動として表した力学系では可逆性が成り立つ。このことは、その系の時間発展を表す運動方程式が時間反転対称性を持ち、時間の進む向きを逆転しても方程式の形は変わらないためであると説明される。また量子力学や相対論、それに含まれる電磁気学も同様に時間反転対称性を持つ。系の時間発展を記述する方程式が、時間反転対称性を持つために、ある運動が方程式によって記述されるなら(解が存在するなら)、その逆向きの運動も存在する。この「可逆性」は「微視的可逆性原理」と呼ばれている。微視的可逆性原理からマクロ現象における不可逆性が説明できるか否かは、不可逆性問題または不可逆性逆理と呼ばれる、自然科学上の未解決問題である。
ルートヴィッヒ・ボルツマンは「分子的混沌」を仮定してH定理を証明した。H定理が成り立つならば、それを通じて微視的な力学からエントロピーを定義することができる。すなわち(微視的な意味での)エントロピー増大則から「時間の矢」の向きを決定できる。可逆な力学からこのような不可逆な理論が得られることは、ある種のパラドックスのように思われるが、それは「分子的混沌」やそれに相当する仮定による。
熱力学第二法則に基づく時間の矢の説明の変わり種として「記憶を含めた生命活動はエントロピーが増大する方向にしか働かず、故にエントロピー増大則が一般には成り立っていないとしても、知的生命体の認識する世界においては常にエントロピーが増大している。時間の矢があるようにみえるのはそのためだ」というものもある。実際コンピュータの記録(正確にいえば記録の消去)はエントロピーの上昇を伴うし、生命活動においてもエントロピーの増大を利用することで方向性を持たせている反応もある(モーター蛋白質など)。この説に従うなら、(われわれから見て)エントロピーが減少していく系も存在しうるが、その内で生じる生命は(われわれから見て)「逆回し」な生命活動を行うはずであり、当人たちにしてみればやはりエントロピーは「増大」していくことになる。
素粒子論においてはCPT変換による物理法則の不変性がひとつのテーマとなっている。これは荷電共役変換 C, 空間反転 P, 時間反転 T の積であり、時間反転対称性が関与している。
量子力学の観測問題におけるコペンハーゲン解釈では観測の瞬間に波動関数の収縮が起きると解釈するが、波動関数が収縮することはあっても、「復元」することはない。すなわち観測に伴う過程は不可逆なものであり、時間反転に対して非対称となる。
これらの矛盾などからジュリアン・バーバーは、宇宙には時間は存在しておらず、時間とはあくまで人類の感覚としての幻想だと主張している。 また、時間の測定は、時間そのものを測定する方法などは現在も存在せず、物体の状態の変化の速度を時間の経過と捉えて測定しているだけのものである。これは、時間そのものが現実として存在しないことを意味しているかもしれない。
《人が感じる時間》の速さは、気分、年齢等により変化する、と言われている。例えば同じ曲を流しても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動・活動の後では遅く聴こえる事がある。こうした場合、感じている時間の速さに相対的な違いがあると言える。また、年齢を重ねれば重ねるほど、一日なり一年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることである(ジャネーの法則)。年をとって自分の動作や思考の速さ・時間当たりの作業量が低下すると、相対的に時間が速く過ぎるように感じる。若い時に10分で歩けた道を歩くのに20分かかるようになったり、1日で片づけられた仕事に2日かかるようになったりすると、時間が2倍ほど速く過ぎるように感じることになる。また人は時間をそれまで生きてきた経験の量の比率のようなもので感じている、と言われることもある。これは、7歳の子供にとっての1年が人生の7分の1であるのに対して、70歳の老人にとっての1年が人生の70分の1であることからも説明ができる。心理的な時間は、さまざまな要因によって影響を受け伸縮する。その影響の度合いは大人に対し子供の方がずっと大きい。大人は心理的な時間の伸縮に左右される出来事があっても『短く感じられるが実はこのくらいだろう』と心理的時間を補正できるが、子供はできない。大人はこの「時計時間」に支配されるが子供は「出来事時間」に支配される。
人間の体温も時間の感覚に影響するという。体温が常温以下に下がると、時間が早く過ぎ、高熱を発すると、普段以上にゆっくりと過ぎるように感じられるという。
また生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なると考えられる。例えば生物種間の時間感覚・体感時間の相違については本川達雄の『ゾウの時間、ネズミの時間』に詳しい。
現代の自然科学を習得しその枠内で思考している間は、人はつい「時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる」などと考えてしまう。だがその時、人はある周期的な現象、例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動などの繰り返しの回数を他の現象と比較しているだけであり(物理的な時間の定義)、何か絶対的な時間そのものの歩みを計っているかどうかは本当は定かではない。
このような “常に一定の速さで過ぎる時間” という概念は、ガリレオ・ガリレイによる「振り子の等時性の発見」とその後の「機械式時計」の発達以降の近代において優勢になってきたとも言われる。それ以前には、例えば不定時法などはよく使われていた。
また、場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われている。例えば仏教の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われている。またこのことは直接関係はないが、一般相対性理論から、重力ポテンシャルが異なる場所や移動速度が異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られている。現実に地球上の時間の進み方と人工衛星での時間の進み方は異なるため、GPSでは時刻の補正を行って位置を測定している。
時間の長さ、ということは、世界観とも深くかかわっている。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識するか、その世界と現世の関係をどうとらえるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうか、ということで時間という概念が根本的に変わってくるからである。
古代宗教の節、ユダヤ教の節、古ゲルマンの節で解説したように、時間は円環して無限に続いている考え方が古来ある。一方で(#ユダヤ教・キリスト教で解説したように)キリスト教では直線的で有限だということになっている。
世界各地の神話では、世界(宇宙)には始まりがあったとされている。中国の神話には「天地開闢」の話があり、日本神話にも(日本なりの)天地開闢の話がある。『旧約聖書』の「創世記」にも神が世界を創造したと記されている(天地創造)。
物理学においては、1927年にベルギーのジョルジュ・ルメートルが「宇宙は primeval atom(原始的原子)の“爆発”から始まった」とする説(ビッグバン仮説)を発表した。
ニュートン力学における時間は、無限の過去から無限の未来へ続く直線であり、これは数直線と同型である。また相対性理論においても一人の観測者が感じる時間、すなわちひとつの質点に固定された時計が計る時間(固有時)は、同様に数直線と同型である。これは、時間の原点が意味を持たないためである。
時間が無限の過去から無限の未来へ続くのではなく、始まりと終わりのある有限なものという考えもある。たとえば、前述のアウグスティウス的な時間観においては、時間は神によって創造されたものであり、始まりを持つ。これは世界や宇宙の始まりと終わりを考えることと同じことになる。世界各地の神話における世界の始まりについては「天地創造」や「天地開闢 (日本神話)」「天地開闢 (中国神話)」に詳しい。また世界の終わりについては「終末論」に詳しい。「宇宙論」も参照のこと。
スティーヴン・ホーキングとジェームズ・ハートルは1983年に発表した無境界仮説において、複素数にまで拡張した時間を計算に使用した。ここから、宇宙の始まりでビッグバン以前の時間が虚数であれば時間的特異点が解消されるとも主張した。なお、相対性理論では時間軸として虚数表現 ict(i は虚数単位、c は光速、t は時刻)を使うことがありこれを虚時間とも言うが、これは無境界仮説での虚数時間とは別のものである。
古典物理学(量子論以前の物理学)における時間は連続体であり、実数で表せる。つまり時間はいくらでも細かく分割可能なものである。だが物質の最小単位として原子や素粒子があるように、時間にも最小単位があるのではないかとも考えられる。例えば映画フィルムのように一コマ以下の時間は存在しないという考えである。物理学(量子力学)ではこの最小時間間隔をプランク時間と呼ぶ。
時間が木のように枝分かれするという時間観。分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているのだが、これらの同時進行する世界同士を互いに並行宇宙または並行世界(パラレルワールド)であると言う。
量子力学の観測問題の解決のためのひとつの仮説である多世界解釈も分岐時間の考えを使っている。
時間の進行を速くする、遅くする、停止するというアイディアは昔から見られる。例えば浦島太郎、リップ・ヴァン・ウィンクルのように特定の場所や状況で時間の進行が異なるという昔話がある。現在の科学の用語と絡めて語られる設定としては、"相対性理論を応用して亜光速の宇宙船に乗る"、"ブラックホール等の重力ポテンシャルの異なる場所を通る"などといったものがある。
時間そのものの進行を変える、とするものではないが、関連するテーマとして、主観的な時間が止まったり生理的な反応を遅くするという発想もある。現実の医療現場における全身麻酔状態の患者や昔話の眠れる森の美女などをそれと見なすことも可能である。SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられる。
SFなどで、ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転することで、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、という設定が用いられることがある。
時間の中を移動して、過去や未来へ行くというアイデア。こういったストーリーの初期のものとしてはH・G・ウェルズの小説『タイムマシン』(1895年)が有名である。
SFには、超能力者が未来のことをESP(超感覚的知覚)を用いてあらかじめ知る、すなわち予知する、という物語が数多く存在する。タイムトラベルとは異なり過去や未来に直接関与するのではないが、いわば情報のみをタイムトラベルさせるとも言える。情報のタイムトラベルにおいても、それを知った者の行動が変わることで未来を変える可能性があるため、タイムパラドックスを生むと考えられている。
SF作品の中には、通常の時間の流れから切り離された部分的な円環時間の中に閉じこめられる、というアイディア(「ループもの」)が登場するものがある。
一部のSF等に登場する、時間に因果律や連続性は存在せずバラバラな「瞬間」が並んでいるだけ、という考え。
因果律や連続性があるように感じるのは人間の錯覚ということになる。因果律が存在しない以上、たとえ「過去」を改変したとしても、以降の歴史には影響がでない。従ってタイムパラドックスも生じない。 | [
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"text": "時間(じかん、英: time)とは、出来事や変化を認識するための基礎的な概念である。芸術、哲学、自然科学、心理学などで重要なテーマとして扱われることもあり、分野ごとに定義が異なる。",
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"text": "「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。広辞苑で挙げられている順に解説すると次のようになる。",
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"text": "1. の意味の時間、すなわち時の長さというのは「この仕事は時間がかかる」とか「待ち合わせ時刻まで喫茶店で時間をつぶす」とかのように用いられている概念である。長さの意味での時間を数で示す表現を日本語および英語で挙げてみると例えば「5時間 (five hours)」「2日(2日間、two days)」「4ヶ月 (four months)」などがある。",
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"text": "2.の用法、時間という言葉を時刻という意味で用いてしまう用法は、広辞苑や日本語大辞典の解説によるとあくまで俗語である。岩波『国語辞典』でも日常語としている。つまり「時間」を時刻の意味で使ってしまう用法は正しい用法ではない。なお時刻は、ある一瞬を指す概念である。例えば「本日14時20分」などである。時刻については別記事「時刻」が立てられているのでそちらで詳説する。",
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"text": "3. の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。カントなどの指摘に基き現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。広辞苑では3.の「時間」は、1.と 2.の両方を併せたような概念、とも解説されている。",
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"text": "当記事では3. や 1.を中心として解説する。2については基本は別記事「時刻」で扱うが、(広辞苑でも解説されているように)3.の意味の時間は1.と2.を併せたような概念なので、2.の意味についても適宜言及する。",
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"text": "時間というのはあまりに基礎的で、あまりにとらえがたく、人は比喩を用いて“流れ”と表現する。人間にとって理解しやすい川の流れなどに喩えている。人間というのはとらえどころのない対象については比喩を用いて表現し、それを理解のきっかけとして用いようとする。ただし、比喩というのは、異なるものどうしを結びつけて用いるものなのであり、つまり実は本当は、「時間」は「流れ」ではない。時間は本当は\"流れ\"ではないからこそ、比喩として成立している。時間を「流れ」に譬える比喩としてはたとえば、「過去から未来に絶えず移り流れる」とか「過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく」とか「過去・現在・未来と連続して永久に流れてゆくもの」とか、「過去から未来へと限りなく流れすぎて」とかがある。時間を「流れ」として比喩的にとらえることに関しては、「過去から未来へと流れている」とする時間観と、「未来から過去へ流れている」とする時間観がある。 時間というのは人間にとっては比喩で表現して理解のとりかかりにしようとするくらいがせいぜいであり、正攻法で知的に考察しようとすればするほど困難に突き当たり理解しがたいものなので、時間について考察したアウグスティヌスは「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」と述べた。",
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"text": "時間の長さを表すのに用いられる計量単位)としては、国際単位系(SI)においては、唯一、秒 (second) だけがSI単位となっている。",
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"text": "ただし日常的には秒以外に、多くの国や地域において、分 (minute)、時 (hour)、日 (day)、月 (month)、年 (year) が用いられており、しばしば週 (week) も用いられる。また、十年紀 (decade)、世紀 (century)、千年紀 (millennium) なども使われる場合がある。",
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"text": "上記のうち、分 (minute)、時 (hour)、日 (day)の3つは、SI併用単位である。",
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"text": "人はもともと何かの変化を《時間そのもの》として感じていた、何かの変化と時間をはっきりと区別していなかった、ということは学者によって指摘されることがある(下の「古ゲルマン」などでも述べる)。",
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"text": "《年》は神話的・宗教的概念とも深く結び付いていることが指摘されるが(後述)、一方で人類の農耕活動の定着や知的活動の高まりと関連付けられて説明されることのあるものであり、古今東西の文明で広く用いられている。",
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"text": "《週》は7日をひとまとめと見なす概念・制度(7曜制)であるが、近・現代になるまで万国共通とは言えない状態であった。例えば日本では、平安期に伝わりはしたものの実際上は用いられておらず、生活周期としても日々の意識としても無きにひとしかった。日本人は10日等ごとに何かを行っていた。明治政府が国策として西洋各国に倣い法律で定めたことで日本に広まった。何日かをひとまとまりとして見なす文化・制度としては、例えば5曜制、6曜制もあり、10日、90日などをひとまとまりと見なす文化もある。7日をひとまとまりと見なす文化は、(確かなことは判らない面もあるが)バビロニアが起源だとも言われている。そしてユダヤ人がバビロニアに捕虜として連行された時に(バビロン捕囚)その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対・打倒し成立した革命政府(たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など)では7曜制を排止して10日や5日を週とする制度を定めた時期もあったという。",
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"text": "機械式時計が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、遂には原子の発する電磁波の周波数によって精密に時間を計測できるようになった。これが原子時計である。",
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"text": "現代の国際単位系では、1967年以降、時間の基本単位として秒を原子時計によって定義している。すなわち、「秒(記号は s)は、時間のSI単位であり、セシウム周波数 ∆νCs、すなわち、セシウム133原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s に等しい)で表したときに、その数値を9192631770 と定めることによって定義される」とされている。国際単位系におけるこの秒の定義は、世界的に統一されたものとして、社会生活や産業活動において最もよく使用されている。",
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"text": "時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。",
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"text": "時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。古くは日の動きで決めた。日の出という時刻があり、日没という時刻がある。また日が南中する時刻が正午 (noon) とされた。",
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"text": "なお、一日のいつを一日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。アラブ人やユダヤ人は日の入を一日の始まりとしている。またギリシアにある正教会などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が一日の始まりだとされている。今日でもそうだとされている。一日は夜の闇の中で始まり、やがて夜明けを迎え、昼を迎え、最後に一日の終わりである夕暮れを迎える。同教会の修道士たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。",
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"text": "一方で、日の出の瞬間を一日の始まりだと見なしている文化も多い。バビロニア人やエジプト人は日の出を一日の始まりの時刻だとしていた。",
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"text": "ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。",
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"text": "古代宗教における時間については、ミルチア・エリアーデが透徹した解釈を行った。聖なる時間によって俗なる時間は隔てられ、中断される。聖なる時間をその前後の俗なる時間から区別するのは、ヒエロファニー(hierophany、聖なるものの顕現)である。周期的に営まれる祭儀は、本来、俗なる時間を中断して神が顕現する聖なる時間なのだという。",
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"text": "仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世も来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。転生説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにならない。転生が、計測される同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない(諸行無常)というのが仏教の根本的な認識である。アビダルマではこれを「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。従って、計測される時間の外にある。龍樹に代表される空観における時間もまた、計測時間の外で現在意識を軸に考察されている。",
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"text": "ギリシャ神話には時にまつわる神が二柱ある。カイロス (Καιρός, Kairos) は一瞬を表す神であり、もう一柱のクロノス (Χρόνος, Khronos) は連続した時を表す神である。",
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"text": "ある哲学者らは、時間を円のように回り続けるイメージで捉えた。時間を円と考えると時間に始まりや終わりがあるかないかという面倒な問題が避けられる利点がある。似た考えは、マヤや古代インド文明などにも存在した。",
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"text": "古代ローマのホラティウス(紀元前65年 - 紀元前8年)が詩に残したCarpe diem、カルペ・ディエムという句は、直訳では「その日を摘め」、つまり「今日という一日を大切にしなさい」「今という時をよく味わいなさい」という意味である。人々がつい忘れがちなことを思い出させてくれる深みのある句として、現在に至るまで繰り返し引用されている。",
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"text": "ユダヤ教には円環的な時間観も見られ、その影響がキリスト教にも見られはするが、キリスト教にはそれを超えた反復不可能の一回的な時間観がある。",
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"text": "キリスト教の時間観にとって決定的なことは、神の子の受肉としてのイエス・キリストのこの世への到来、その死と復活という、歴史のただなかへの一度かぎりなされたとされる神の啓示である。これは反復されない、一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の救済史観が成り立っている。",
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"paragraph_id": 28,
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"text": "キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在の事実とされ、R.K.ブルトマンやC.H.ドッドなどは終末についても現在性があると指摘している。",
"title": "ユダヤ教・キリスト教"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "キリストの出来事が歴史の中心とされ、それを通して創造や堕罪、終末や再臨が理解される時、これらのことは不可逆的な直線的時間の上に配置され、また現在の事実として主体的に反復される。",
"title": "ユダヤ教・キリスト教"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "時間をめぐる考察が厄介である事を示すためにしばしば引用されるアウグスティヌスの有名な言葉に、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」というものがある。",
"title": "アウグスティヌス"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "アウグスティヌス(354年 - 430年)は時間を内面化して考えた。時間は心と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間を3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは《すでにないもの》であり、未来とは《いまだないもの》である。ならば在ると言えるのは現在だけなのか。過去や未来が在るとすれば、それは《過去についての現在》と《未来についての現在》が在る。過去についての現在とは《記憶》であり、未来についての現在とは《期待》、そして現在についての現在は《直観》だとアウグスティヌスは述べる。時間とは、このような心の働きである。「神は世界創造以前には何をしていたのか?」と問う人がいるが、アウグスティヌスによれば、こうした問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間はなかった。神は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある。",
"title": "アウグスティヌス"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "10世紀以前の古ゲルマン世界での公的生活は、まだ直線時間意識には規定されておらず、円環的な時間意識が支配的であった。ゲルマン人が「timi」(時)と言うと、正確な計測という考え方はみられず、あくまで季節などかなり長い時の経過を意味した。ar(年)というのも、毎年繰り返される収穫の意味であった。まず現実の農耕生活における、具体的な、人間と自然の規則正しい関係があり、それが人間の意識や行動を規定していたのであり、《繰り返し》が時間のあたりまえの姿だった。ゲルマン人の円環的時間意識のもとの死生観では、人間は死後冥界に入るが、この冥界というのはこの世と並行して存在しており、この世と交流可能な世界であり、死者は現世とつながりつつ冥界で生きる、とされた。",
"title": "古ゲルマン"
},
{
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"text": "11~12世紀以降にキリスト教が公的生活にまで影響を及ぼすようになったが、これは古ゲルマンの意識とは異質なものであり時間意識や死生観は変化してゆくことになった。キリスト教の時間意識は、神を目指すひとつの方向に進む直線的な時間観であったので、《繰り返す時間》の観念は否定されてゆくことになり、終末に向かって進んでゆく時間の変化が意識され、人間は死ねば、煉獄、そして天国か地獄へ行き、最後の審判を待つしかない、とされることになった。古ゲルマンと、この世とあの世の時間的関係が全く異なる。人々は死ぬと現生とのきずながたたれる、ということにされた。教会の教えにより、人はただ1度だけ生き、一度だけ死ぬ、ということになった。",
"title": "11世紀以降のゲルマン世界"
},
{
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"tag": "p",
"text": "またこの時代、キリスト教のほかにも、商人たちが人々の時間意識に影響を及ぼしはじめる。商人たちは日数と費用の計算をするために、計測するものとして時間の観念を使いはじめた。「市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具」となった、とジャック・ル・ゴフは言う。",
"title": "11世紀以降のゲルマン世界"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "アイザック・ニュートンは、自然哲学にユークリッド幾何学(および他の数学)を大幅に導入した体系を構築、それを『自然哲学の数学的諸原理』(Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica, 1687年刊)で発表した。当時知られている幾何学はユークリッド幾何学だけで、ニュートンが用いた幾何学もそれであったので、空間は均一で平坦なユークリッド空間だと暗黙裡に仮定されている。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ニュートンは同著において、時間は過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された舞台のように想定し、この固定された舞台を「絶対空間」及び「絶対時間」とも呼んだ(空間#ニュートン力学での空間も参照)。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ニュートン力学では、ガリレイ変換に対して空間座標と時間座標は独立であるため、時間座標(時刻)は空間座標(位置)のパラメータ(parameter, 媒介変数)として扱われる。従って、ニュートン力学の範囲では、時間は空間の一成分としては認識されず、3次元空間上で議論がなされる。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ニュートン力学においては時間は全宇宙で同一とされたが、アルベルト・アインシュタインが発表した相対性理論によって、そうではないことが認識されるようになった。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "特殊相対性理論によれば光の速度はどの慣性系に対しても一定である。これを「光速度不変の原理」と呼ぶ。光速度不変の原理から異なる慣性系の間の時空座標の変換式が求められ、それはローレンツ変換となる。このとき、ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、異なる慣性系から見ると同時に起きてはいない。これを「同時性の崩れ」という。結果として、観測者に対して相対運動する時計は進み方が遅れて見える。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "相対性理論ではローレンツ変換により時間座標と空間座標とが混合するので、両者を完全に独立のパラメータとして扱うことはできない。この事情から、この4次元空間を時間と空間が一体化した時空 (spacetime) だとする考えが生まれ、さらにこの考えが、重力は4次元時空の曲がりに相当するとする一般相対性理論の発想につながった。この考え方によれば、時間は「経過」ではなく空間と質的に等しい「拡がり」を表すものとみなされる。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "一般相対性理論では、重力と加速度は等価とされ(等価原理)、これらは空間と共に時間をも歪める。「一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされる。例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされる。非常に重力の強いブラックホールや中性子星ではこの効果が顕著であるとされる。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "物体の運動については、よほど光速に近い速度でない限り、相対論からの近似により、ニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できることが保証されているので、相対性理論が登場した後でも、大半の場合は基本的にニュートン力学の枠組みのままで時間概念を取り扱うことは多い。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 43,
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"text": "現代の物理学の体系において、時間は物理量のひとつとして扱われている。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "特筆すべきことのひとつに、「プランク時間」の概念の登場がある。物理学において、いくつかの物理定数を用いて、「長さ(時間)」「エネルギー」「温度」などの単位を構成しようという考え方があり、このような単位の組(単位系)を自然単位系と呼ぶ。プランク時間は自然単位系のひとつであるプランク単位系の時間の単位である。プランク時間は、物理的に興味のある最も短い時間であり、しばしば「時間の最小単位」であると云われる。このことはしかし、物理学における時間の概念が離散的なものであることを意味しない。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "量子力学の世界では、時間の概念が一般的なそれとは異なっており、時間が逆方向にも流れているとされている。",
"title": "自然哲学および自然科学での時間"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ニュートン力学の登場以降も、その理論の成功や、それが人々の時間概念に与えた影響を意識しつつ、哲学的な考察は続けられていた。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "イマヌエル・カント(1724年 — 1804年)は、ニュートンの後の時代の人で、ニュートンの体系も学び大学で講義した人物である。彼は時間、空間の直観形式でもって、人間は様々な現象を認識すると考えた。カントにおいて経験的な認識は、現象からの刺激をまず外官(外的なものからの刺激を受け取る感覚器官)によって空間的に、内官(内的なものの感じをうけとる感覚器官)によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外官によって直観され、時間は内官によって直観される。この場合、時間は空間のメタファーとして捉える見方もあるが、それは『純粋理性批判』解釈の大変難しい課題である。時間、空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純粋理性批判には見出される。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられる事が多い。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "アンリ・ベルクソンは、時間の理解は《空間化された時間》に過ぎない、と批判した。たとえば、時計は空間化された時間の一例である。時計は時間ではない。座標の横軸や線分も時間ではない。そして、人間が経験している時間というのは《空間化された時間》ではない、と指摘した。ベルクソンは時間を「純粋持続」であるとした。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "ガストン・バシュラールもやはり、ニュートン的な時間の理解には異議を申し立てた。ただし、ベルクソンが時間を純粋持続として捉えたのに対し、バシュラールは《瞬間の連続》だとした。我々が感じる時間現象は常に《現在》、言い換えれば瞬間でしかないからである。記憶にある瞬間瞬間と現在瞬間が比較される時、時間概念が誕生するわけである。またそこから、「瞬間瞬間をより高く深く生きる事が、よりよく時間を過ごす事となる」とするバシュラールの思想が開花する事になる。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "大森荘蔵は、人が過去を思い出すとき「過去の写し」を再現しているのだと考えがちなことに注目する。大森はそのような《写しとしての過去》という理解は錯覚であるという。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "そのような過去のモデルでは、まず写される対象としての正しい過去が存在し、それを写した劣化コピーとしての過去が記憶の中に存在するということになる。しかし、過去は「想起という様式」で振り返られる中にのみ存在する、と大森は述べる。思い出されるのは写しとしての過去ではなく、過去そのものである。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "過去の記憶が正しかったかどうか考えるとき、想起という様式から離れて記憶の正誤を判定する過去は存在しない。想起同士の比較ができるのみである。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "世界五分前仮説などは過去が想起の外に存在するという前提のもとに生まれた、意味のない問題であるという。",
"title": "ニュートン以降の哲学における時間"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "例えば、コーヒーとミルクが混ざることはあっても、混ざったものが自然と分離することは無い。このようにある方向に変化することはあっても、逆方向に変化することが無いものを不可逆現象という。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "不可逆現象の事例は、ビデオ映像や映画フィルムの逆回しで説明されることが多い。例えば、“桶の底に入れた一升の米と一升の小豆の混合” を写した映画フィルムの例や、“瀬戸物店に闖入した雄牛” を写したフィルムの例や、“アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程” のビデオ録画の例、がある。このように、自然界において不可逆な現象は、可逆な現象よりもむしろありふれたものであり、「覆水盆に返らず」などの諺も残されている。しかしながら、ビデオの逆回しという考えからは、人間は時間の方向を一方向しか認識出来ていないだけではないかという解釈も出来る。例として、ビデオの中の登場人物を考えてみよう。時間とは変化を認識する事で初めて知覚する現象であり、ビデオの中の登場人物は何回巻き戻しを実行しても結局は同じ行動を繰り返すため、巻き戻しという逆方向の変化を認識出来ない。つまり、ビデオの中の世界の人物は時間の逆行に気づく事が出来てはいないが、実際には時間の逆行は何回も起きているのであり、ビデオとは異なる世界から観測しないと、それを認識する事が出来ない。これを、ビデオテープのパラドックスと言う。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "イギリスの天体物理学者アーサー・エディントン (Arthur Stanley Eddington) はこの不可逆な現象を時間的非対称性だと考え、1927年に「時間の矢」と表現した。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "この“時間の矢”を表す物理法則として、エントロピー増大則 (law of increasing entropy) について言及されることがある。エントロピー増大則は、「孤立系内のエントロピーは時間と共に増大するか変化しない」と言い表される。このことは熱力学第二法則、すなわち「ある物体より熱を取り、それをすべて仕事に変えて、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というトムソンの原理 (Thomson's principle, —statement) や「低温の物体から熱を取り、それをすべて高温の物体に写し、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というクラウジウスの原理 (Clausius' principle, —statement) などから導かれる。ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)やルドルフ・クラウジウスの主張は互いに等価であることが示されており、これらをまとめたものが熱力学第二法則である。熱力学第二法則は熱力学における基本原理であり、熱現象の観察事実を法則化したものである。熱力学第二法則は時間の矢の現れの一つというだけでなく、非常に多くの時間の矢を説明(ないしは置換)できる。例えば、アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程は「水とアルコールが分離した状態よりも、混ざった状態の方がエントロピーが高い(自由エネルギーが低い)ため起こる」と説明できる。そのためしばしば両者は同列に扱われる。しかし、エントロピー増大則が成り立つのは「孤立系」、すなわち外界と熱的なやりとりがない系においてであり、エントロピー増大則をもって「時間の矢」問題がすべて理解されるということはない。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "「時間の矢」ないしは「熱力学第二法則」に対して、多粒子系における衝突現象の結果として認識する還元主義的な立場をとることもできるが、微視的な理論からそれらを説明することは未だに成功していない。時間的に逆に進行するような変化も起こり得る、可逆性が厳密に成り立つような具体的な巨視的現象を挙げるのは難しいが、振り子の運動や惑星の公転をニュートン力学により質点の運動として表した力学系では可逆性が成り立つ。このことは、その系の時間発展を表す運動方程式が時間反転対称性を持ち、時間の進む向きを逆転しても方程式の形は変わらないためであると説明される。また量子力学や相対論、それに含まれる電磁気学も同様に時間反転対称性を持つ。系の時間発展を記述する方程式が、時間反転対称性を持つために、ある運動が方程式によって記述されるなら(解が存在するなら)、その逆向きの運動も存在する。この「可逆性」は「微視的可逆性原理」と呼ばれている。微視的可逆性原理からマクロ現象における不可逆性が説明できるか否かは、不可逆性問題または不可逆性逆理と呼ばれる、自然科学上の未解決問題である。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ルートヴィッヒ・ボルツマンは「分子的混沌」を仮定してH定理を証明した。H定理が成り立つならば、それを通じて微視的な力学からエントロピーを定義することができる。すなわち(微視的な意味での)エントロピー増大則から「時間の矢」の向きを決定できる。可逆な力学からこのような不可逆な理論が得られることは、ある種のパラドックスのように思われるが、それは「分子的混沌」やそれに相当する仮定による。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "熱力学第二法則に基づく時間の矢の説明の変わり種として「記憶を含めた生命活動はエントロピーが増大する方向にしか働かず、故にエントロピー増大則が一般には成り立っていないとしても、知的生命体の認識する世界においては常にエントロピーが増大している。時間の矢があるようにみえるのはそのためだ」というものもある。実際コンピュータの記録(正確にいえば記録の消去)はエントロピーの上昇を伴うし、生命活動においてもエントロピーの増大を利用することで方向性を持たせている反応もある(モーター蛋白質など)。この説に従うなら、(われわれから見て)エントロピーが減少していく系も存在しうるが、その内で生じる生命は(われわれから見て)「逆回し」な生命活動を行うはずであり、当人たちにしてみればやはりエントロピーは「増大」していくことになる。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "素粒子論においてはCPT変換による物理法則の不変性がひとつのテーマとなっている。これは荷電共役変換 C, 空間反転 P, 時間反転 T の積であり、時間反転対称性が関与している。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "量子力学の観測問題におけるコペンハーゲン解釈では観測の瞬間に波動関数の収縮が起きると解釈するが、波動関数が収縮することはあっても、「復元」することはない。すなわち観測に伴う過程は不可逆なものであり、時間反転に対して非対称となる。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "これらの矛盾などからジュリアン・バーバーは、宇宙には時間は存在しておらず、時間とはあくまで人類の感覚としての幻想だと主張している。 また、時間の測定は、時間そのものを測定する方法などは現在も存在せず、物体の状態の変化の速度を時間の経過と捉えて測定しているだけのものである。これは、時間そのものが現実として存在しないことを意味しているかもしれない。",
"title": "時間の向き"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "《人が感じる時間》の速さは、気分、年齢等により変化する、と言われている。例えば同じ曲を流しても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動・活動の後では遅く聴こえる事がある。こうした場合、感じている時間の速さに相対的な違いがあると言える。また、年齢を重ねれば重ねるほど、一日なり一年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることである(ジャネーの法則)。年をとって自分の動作や思考の速さ・時間当たりの作業量が低下すると、相対的に時間が速く過ぎるように感じる。若い時に10分で歩けた道を歩くのに20分かかるようになったり、1日で片づけられた仕事に2日かかるようになったりすると、時間が2倍ほど速く過ぎるように感じることになる。また人は時間をそれまで生きてきた経験の量の比率のようなもので感じている、と言われることもある。これは、7歳の子供にとっての1年が人生の7分の1であるのに対して、70歳の老人にとっての1年が人生の70分の1であることからも説明ができる。心理的な時間は、さまざまな要因によって影響を受け伸縮する。その影響の度合いは大人に対し子供の方がずっと大きい。大人は心理的な時間の伸縮に左右される出来事があっても『短く感じられるが実はこのくらいだろう』と心理的時間を補正できるが、子供はできない。大人はこの「時計時間」に支配されるが子供は「出来事時間」に支配される。",
"title": "時間の速さ"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "人間の体温も時間の感覚に影響するという。体温が常温以下に下がると、時間が早く過ぎ、高熱を発すると、普段以上にゆっくりと過ぎるように感じられるという。",
"title": "時間の速さ"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "また生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なると考えられる。例えば生物種間の時間感覚・体感時間の相違については本川達雄の『ゾウの時間、ネズミの時間』に詳しい。",
"title": "時間の速さ"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "現代の自然科学を習得しその枠内で思考している間は、人はつい「時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる」などと考えてしまう。だがその時、人はある周期的な現象、例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動などの繰り返しの回数を他の現象と比較しているだけであり(物理的な時間の定義)、何か絶対的な時間そのものの歩みを計っているかどうかは本当は定かではない。",
"title": "時間の速さ"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "このような “常に一定の速さで過ぎる時間” という概念は、ガリレオ・ガリレイによる「振り子の等時性の発見」とその後の「機械式時計」の発達以降の近代において優勢になってきたとも言われる。それ以前には、例えば不定時法などはよく使われていた。",
"title": "時間の速さ"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "また、場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われている。例えば仏教の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われている。またこのことは直接関係はないが、一般相対性理論から、重力ポテンシャルが異なる場所や移動速度が異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られている。現実に地球上の時間の進み方と人工衛星での時間の進み方は異なるため、GPSでは時刻の補正を行って位置を測定している。",
"title": "時間の速さ"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "時間の長さ、ということは、世界観とも深くかかわっている。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識するか、その世界と現世の関係をどうとらえるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうか、ということで時間という概念が根本的に変わってくるからである。",
"title": "時間の有限・無限"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "古代宗教の節、ユダヤ教の節、古ゲルマンの節で解説したように、時間は円環して無限に続いている考え方が古来ある。一方で(#ユダヤ教・キリスト教で解説したように)キリスト教では直線的で有限だということになっている。",
"title": "時間の有限・無限"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "世界各地の神話では、世界(宇宙)には始まりがあったとされている。中国の神話には「天地開闢」の話があり、日本神話にも(日本なりの)天地開闢の話がある。『旧約聖書』の「創世記」にも神が世界を創造したと記されている(天地創造)。",
"title": "時間の有限・無限"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "物理学においては、1927年にベルギーのジョルジュ・ルメートルが「宇宙は primeval atom(原始的原子)の“爆発”から始まった」とする説(ビッグバン仮説)を発表した。",
"title": "時間の有限・無限"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "ニュートン力学における時間は、無限の過去から無限の未来へ続く直線であり、これは数直線と同型である。また相対性理論においても一人の観測者が感じる時間、すなわちひとつの質点に固定された時計が計る時間(固有時)は、同様に数直線と同型である。これは、時間の原点が意味を持たないためである。",
"title": "時間の構造"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "時間が無限の過去から無限の未来へ続くのではなく、始まりと終わりのある有限なものという考えもある。たとえば、前述のアウグスティウス的な時間観においては、時間は神によって創造されたものであり、始まりを持つ。これは世界や宇宙の始まりと終わりを考えることと同じことになる。世界各地の神話における世界の始まりについては「天地創造」や「天地開闢 (日本神話)」「天地開闢 (中国神話)」に詳しい。また世界の終わりについては「終末論」に詳しい。「宇宙論」も参照のこと。",
"title": "時間の構造"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "スティーヴン・ホーキングとジェームズ・ハートルは1983年に発表した無境界仮説において、複素数にまで拡張した時間を計算に使用した。ここから、宇宙の始まりでビッグバン以前の時間が虚数であれば時間的特異点が解消されるとも主張した。なお、相対性理論では時間軸として虚数表現 ict(i は虚数単位、c は光速、t は時刻)を使うことがありこれを虚時間とも言うが、これは無境界仮説での虚数時間とは別のものである。",
"title": "時間の構造"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "古典物理学(量子論以前の物理学)における時間は連続体であり、実数で表せる。つまり時間はいくらでも細かく分割可能なものである。だが物質の最小単位として原子や素粒子があるように、時間にも最小単位があるのではないかとも考えられる。例えば映画フィルムのように一コマ以下の時間は存在しないという考えである。物理学(量子力学)ではこの最小時間間隔をプランク時間と呼ぶ。",
"title": "時間の構造"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "時間が木のように枝分かれするという時間観。分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているのだが、これらの同時進行する世界同士を互いに並行宇宙または並行世界(パラレルワールド)であると言う。",
"title": "時間の構造"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "量子力学の観測問題の解決のためのひとつの仮説である多世界解釈も分岐時間の考えを使っている。",
"title": "時間の構造"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "時間の進行を速くする、遅くする、停止するというアイディアは昔から見られる。例えば浦島太郎、リップ・ヴァン・ウィンクルのように特定の場所や状況で時間の進行が異なるという昔話がある。現在の科学の用語と絡めて語られる設定としては、\"相対性理論を応用して亜光速の宇宙船に乗る\"、\"ブラックホール等の重力ポテンシャルの異なる場所を通る\"などといったものがある。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "時間そのものの進行を変える、とするものではないが、関連するテーマとして、主観的な時間が止まったり生理的な反応を遅くするという発想もある。現実の医療現場における全身麻酔状態の患者や昔話の眠れる森の美女などをそれと見なすことも可能である。SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられる。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "SFなどで、ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転することで、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、という設定が用いられることがある。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "時間の中を移動して、過去や未来へ行くというアイデア。こういったストーリーの初期のものとしてはH・G・ウェルズの小説『タイムマシン』(1895年)が有名である。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "SFには、超能力者が未来のことをESP(超感覚的知覚)を用いてあらかじめ知る、すなわち予知する、という物語が数多く存在する。タイムトラベルとは異なり過去や未来に直接関与するのではないが、いわば情報のみをタイムトラベルさせるとも言える。情報のタイムトラベルにおいても、それを知った者の行動が変わることで未来を変える可能性があるため、タイムパラドックスを生むと考えられている。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "SF作品の中には、通常の時間の流れから切り離された部分的な円環時間の中に閉じこめられる、というアイディア(「ループもの」)が登場するものがある。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
},
{
"paragraph_id": 86,
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"text": "一部のSF等に登場する、時間に因果律や連続性は存在せずバラバラな「瞬間」が並んでいるだけ、という考え。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
},
{
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"tag": "p",
"text": "因果律や連続性があるように感じるのは人間の錯覚ということになる。因果律が存在しない以上、たとえ「過去」を改変したとしても、以降の歴史には影響がでない。従ってタイムパラドックスも生じない。",
"title": "物語・SFなどでの時間"
}
] | 時間とは、出来事や変化を認識するための基礎的な概念である。芸術、哲学、自然科学、心理学などで重要なテーマとして扱われることもあり、分野ごとに定義が異なる。 | {{Otheruses}}
{{redirect|歳月|その他の用法|歳月 (曖昧さ回避)}}
{{see also|時計|時計の歴史}}
[[ファイル:C solarcorona2003.gif|thumb|200px|人類にとって、もともとは[[太陽]]や[[月]]の動きが時間そのものであった。原始共同体でも、[[古代ギリシア]]でも、時間は繰り返されるもの、円環するもの、として語られた<ref>真木悠介 『時間の比較社会学』 岩波書店、2003年 </ref>。]]
[[ファイル:SunDialAiKhanoum.jpg|thumb|200px|[[アイ・ハヌム]](紀元前4世紀~紀元前1世紀の古代都市)で使われていた[[日時計]]。人々は日時計の時間で生きていた。]]
[[ファイル:Wooden hourglass 3.jpg|thumb|200px|[[砂時計]]で砂の流れを利用して時間を計ることも行われるようになった。]]
[[File:Zytglogge 01.jpg|thumb|right|200px|[[スイス]]、[[ベルン]]の[[ツィットグロッゲ]]。ツィットグロッゲには15世紀に[[天文時計]]が設置された。]]
'''時間'''(じかん、{{lang-en-short|time}})とは、[[出来事]]や[[変化]]を[[認識]]するための基礎的な[[概念]]である。[[芸術]]、[[哲学]]、[[自然科学]]、[[心理学]]などで重要な[[テーマ]]として扱われることもあり、分野ごとに定義が異なる。
== 「時間」という言葉・概念の基本的な意味 ==
{{See also|時間 (単位)|時間 (クルアーン)}}
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。[[広辞苑]]<ref name=koujien6>広辞苑第六版</ref>で挙げられている順に解説すると次のようになる。
# 時の流れの2点間の長さ<ref name=koujien6 />。時の[[長さ]]<ref name=koujien6 />
# (あくまで俗用。下で解説)[[時刻]]を指す用法
# 空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり<ref name="国語大辞典小学館">「日本国語大辞典-第六版」小学館 2001年6月</ref><ref name="広辞苑">「広辞苑-第五版」岩波書店 1998年11月</ref><ref name="国語辞典岩波">「国語辞典-第六版」岩波書店 2000年11月</ref>、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの<ref name="大辞林">「大辞林-第三版」三省堂 2006年10月</ref>。
1. の意味の時間、すなわち時の長さというのは「この仕事は時間がかかる<ref name="daijisen">『大辞泉』</ref>」とか「待ち合わせ時刻まで喫茶店で<u>時間</u>をつぶす<ref name="daijisen" />」とかのように用いられている概念である。長さの意味での時間を数で示す表現を日本語および英語で挙げてみると例えば「5時間 ({{en|five hours}})」「2日(2日間、{{en|two days}})」「4ヶ月 ({{en|four months}})」などがある。
2.の用法、時間という言葉を時刻という意味で用いてしまう用法は、広辞苑や日本語大辞典の解説によるとあくまで[[俗語]]である<ref name="広辞苑"/><ref name="日本語大辞典">「日本語大辞典」講談社 1989年11月</ref>。岩波『国語辞典』でも日常語<ref name="国語辞典岩波"/>としている。つまり「時間」を時刻の意味で使ってしまう用法は正しい用法ではない。なお時刻は、ある一瞬を指す概念である。例えば「本日14時20分」などである。時刻については別記事「時刻」が立てられているのでそちらで詳説する。
3. の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。[[カント]]などの指摘に基き現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。広辞苑では3.の「時間」は、1.と 2.の両方を併せたような概念、とも解説されている<ref name=koujien6 />。
当記事では3. や 1.を中心として解説する。2については基本は別記事「[[時刻]]」で扱うが、(広辞苑でも解説されているように)3.の意味の時間は1.と2.を併せたような概念なので、2.の意味についても適宜言及する。
;3.について
時間というのはあまりに基礎的で、あまりにとらえがたく<ref group="注">認識の基礎形式であり、もともと人間の認識の根底部分に、思考や認識と不可分の状態で横たわっており、逆に言うと、時間を人間の認識から分離して、客観的な対象として認識することがきわめて困難なため。</ref>、人は[[比喩]]を用いて“[[流れ]]”と表現する<ref name="kindaichi">『NHK高校講座 あらためまして ベーシック国語「比喩表現」』[[金田一秀穂]]解説担当。</ref>。人間にとって理解しやすい川の流れなどに[[比喩|喩えて]]いる<ref name="kindaichi" />。人間というのはとらえどころのない対象については比喩を用いて表現し、それを理解のきっかけとして用いようとする<ref name="kindaichi" />。ただし、比喩というのは、異なるものどうしを結びつけて用いるものなのであり、つまり実は本当は、「時間」は「流れ」<u>ではない</u><ref name="kindaichi" />。時間は本当は"流れ"ではないからこそ、比喩として成立している<ref name="kindaichi" /><ref group="注">時を川にたとえて川が流れていても本当は時間が流れているわけではなく、また時計の針が回っていても、回っているのはあくまで針なのであって、本当は時間がぐるぐる回っているわけではない、とも金田一秀穂は指摘した。</ref>。時間を「流れ」に譬える比喩としてはたとえば、「過去から未来に絶えず移り流れる<ref name="国語辞典岩波"/>」とか「過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく」<ref name="国語大辞典小学館"/>とか「過去・現在・未来と連続して永久に流れてゆくもの」<ref name="日本語大辞典"/>とか、「過去から未来へと限りなく流れすぎて」<ref name="大辞林"/>とかがある。時間を「流れ」として比喩的にとらえることに関しては、「過去から未来へと流れている」とする時間観と、「未来から過去へ流れている」とする時間観がある。
時間というのは人間にとっては比喩で表現して理解のとりかかりにしようとするくらいがせいぜいであり、正攻法で知的に考察しようとすればするほど困難に突き当たり理解しがたいものなので、時間について考察したアウグスティヌスは「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない<ref name="名前なし-1">アウグスティヌス『告白』第11巻第14節</ref>」と述べた。
== 長さとしての時間 ==
=== 現代の時間の単位 ===
時間の長さを表すのに用いられる[[計量単位]])としては、[[国際単位系]](SI)においては、唯一、[[秒]] ({{en|second}}) だけが[[SI単位]]となっている。
ただし日常的には秒以外に、多くの国や地域において、[[分]] ({{en|minute}})、[[時間 (単位)|時]] ({{en|hour}})、[[日]] ({{en|day}})、[[月 (暦)|月]] ({{en|month}})、[[年]] ({{en|year}}) が用いられており、しばしば[[週]] ({{en|week}}) も用いられる。また、[[十年紀]] ({{en|decade}})、[[世紀]] ({{en|century}})、[[千年紀]] ({{en|millennium}}) なども使われる場合がある。
上記のうち、[[分]] ({{en|minute}})、[[時間 (単位)|時]] ({{en|hour}})、[[日]] ({{en|day}})の3つは、[[SI併用単位]]である。
=== 時間を表すもの ===
{{複数の問題
| section = 1
| 出典の明記 = 2017年9月
| 独自研究 = 2017年9月
}}
人はもともと何かの変化を《時間そのもの》として感じていた、何かの変化と時間をはっきりと区別していなかった、ということは学者によって指摘されることがある(下の「古ゲルマン」などでも述べる)。
《[[年]]》は神話的・宗教的概念とも深く結び付いていることが指摘されるが(後述)、一方で人類の[[農耕]]活動の定着や知的活動の高まりと関連付けられて説明されることのあるものであり、古今東西の[[文明]]で広く用いられている。
《[[週]]》は7日をひとまとめと見なす概念・制度(7曜制)であるが、近・現代になるまで万国共通とは言えない状態であった。例えば日本では、平安期に伝わりはしたものの実際上は用いられておらず、生活周期としても日々の意識としても無きにひとしかった。日本人は10日等ごとに何かを行っていた。明治政府が国策として西洋各国に倣い法律で定めたことで日本に広まった。何日かをひとまとまりとして見なす文化・制度としては、例えば5曜制、6曜制もあり、10日、90日などをひとまとまりと見なす文化もある<ref name="shindou">{{Cite web|和書
|url=http://www.shindo.co.jp/shindo/koyomi/tennji/topic/topic02.html
|accessdate=2011年4月12日
|title=曜日の話
}}</ref>。7日をひとまとまりと見なす文化は、(確かなことは判らない面もあるが)[[バビロニア]]が起源だとも言われている。そして[[ユダヤ人]]がバビロニアに捕虜として連行された時に([[バビロン捕囚]])その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対・打倒し成立した革命政府(たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など)では7曜制を排止して10日や5日を週とする制度を定めた時期もあったという<ref name="shindou" />。
機械式[[時計]]が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、遂には[[原子]]の発する[[電磁波]]の[[周波数]]によって精密に時間を計測できるようになった。これが[[原子時計]]である。
現代の[[国際単位系]]では、1967年以降、時間の[[基本単位]]として[[秒]]を[[原子時計]]によって定義している。すなわち、「秒(記号は s)は、時間の[[SI単位]]であり、セシウム周波数 ∆''ν''<sub>Cs</sub>、すなわち、セシウム133原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s<sup>−1</sup> に等しい)で表したときに、その数値を{{val|9192631770}} と定めることによって定義される<ref> [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.99、産業技術総合研究所、計量標準総合センター</ref>」とされている。[[国際単位系]]におけるこの秒の定義は、世界的に統一されたものとして、社会生活や産業活動において最もよく使用されている。
{{See also|時刻}}
== 時刻 ==
{{main|時刻}}
時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。
時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。古くは日の動きで決めた。[[日の出]]という時刻があり、[[日没]]という時刻がある。また日が南中する時刻が[[正午]] ({{en|noon}}) とされた。
なお、一日のいつを一日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。[[アラブ人]]や[[ユダヤ人]]は[[日没|日の入]]を一日の始まりとしている。また[[ギリシア]]にある[[正教会]]などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が一日の始まりだとされている。今日でもそうだとされている。一日は[[夜]]の[[闇]]の中で始まり、やがて[[明け方|夜明け]]を迎え、[[昼]]を迎え、最後に一日の終わりである[[夕|夕暮れ]]を迎える。同教会の[[修道士]]たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。
一方で、日の出の瞬間を一日の始まりだと見なしている文化も多い。[[バビロニア|バビロニア人]]や[[エジプト人]]は日の出を一日の始まりの時刻だとしていた。
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== 古代宗教における時間 ==
ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。
古代宗教における時間については、[[ミルチア・エリアーデ]]が透徹した解釈を行った<ref name="shukyougaku_dic">{{Cite book|和書
|author=阿部正雄
|chapter=時間
|title=宗教学辞典
|publisher=東京大学出版会
|year=1973
}}</ref>。聖なる時間によって俗なる時間は隔てられ、中断される<ref name="shukyougaku_dic" />。聖なる時間をその前後の俗なる時間から区別するのは、[[ヒエロファニー]]([[:en:hierophany|hierophany]]、聖なるものの顕現)である<ref name="shukyougaku_dic" />。周期的に営まれる[[祭儀]]は、本来、俗なる時間を中断して[[神]]が顕現する聖なる時間なのだという<ref name="shukyougaku_dic" />。
[[image:The wheel of life, Trongsa dzong.jpg|thumb|right|140px|[[バラモン教]]そして[[ヒンドゥー教]]では全てのものは[[輪廻]]しているという。写真は[[チベット仏教]]の仏画に描かれた[[六道]]輪廻の環。]]
* 聖なる時間は可逆的で、反復可能である<ref name="shukyougaku_dic" />。
* 人は、通俗的な時間を中断する力をもった祭儀を周期的に営むことで、聖なる時間へ立ち帰り、神々と同一化する。これは真実在への渇望にもとづく<ref name="shukyougaku_dic" />。
* 神々による世界創造の時間が、あらゆる時間の原型とされた。聖なる時間は、世界が[[創造]]された根源的時間を象徴する。宇宙の原初において聖なるものが顕現した根源的時間を周期的に再現する、ということが宗教暦の基盤である<ref name="shukyougaku_dic" />。[[祝祭]]はたんなる記念日ではなく、[[神話]]的出来事を再現している<ref name="shukyougaku_dic" />。
* 周期的祝祭のうち、重要なのは[[新年]]である。多くの民族の言語で、「世界」をあらわす言葉が同時に「年」をも意味することが指摘されている<ref name="shukyougaku_dic" />。これは、世界が新年ごとに再生し更新されている、という観念である。したがって新年は[[天地創造|世界創造]]の再現であり、新年ごとに原初の[[生命力]]を更新して再生する<ref name="shukyougaku_dic" />。
* ここにあるのは円環的な構造をもち、無限に反復する時間である。こうした円環的時間への信仰は、時間の周期的な全面的再生への願望を生み出している。世界と人は周期的に創造-存続-終末的破滅-創造…を繰り返す(Great Year「[[大年]]」)<ref name="shukyougaku_dic" />。時間は宇宙の創造から破滅にいたる一周期を終えると、さらに他の周期を始め、完全に[[再生]]する<ref name="shukyougaku_dic" />。ここには[[永遠]]に対する希求があるという<ref name="shukyougaku_dic" />。
== 仏教 ==
[[仏教]]の時間理解は基本的に現在指向である。それは[[前世]]も[[来世]]も説かなかった[[釈迦|ブッダ]]の現世指向に起因するものらしい。[[転生]]説を容れるとしても、それは円環時間観の存在を示すことにならない。転生が、計測される同一の時間軸の上に起こるものとされていないからである。[[物事]]はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない([[諸行無常]])というのが仏教の根本的な認識である。[[アビダルマ]]ではこれを「すべての存在は極分化された[[一瞬]]にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)という思想として展開した。従って、計測される時間の外にある。[[龍樹]]に代表される[[空 (仏教)|空観]]における時間もまた、計測時間の外で現在意識を軸に考察されている。
== ギリシャ神話 ==
[[ギリシャ神話]]には時にまつわる[[神]]が二柱ある。[[カイロス]] ({{翻字併記|grc|Καιρός|Kairos|N}})<ref group="注">[[ラテン語|ラテン]]語形: [[:w:Caerus|Caerus]]。</ref> は一瞬を表す神であり、もう一柱の[[クロノス (時間の神)|クロノス]] ({{翻字併記|grc|Χρόνος|Khronos|N}}) は連続した時を表す神である。
== 古代ギリシア ==
ある哲学者らは、時間を[[円 (数学)|円]]のように回り続けるイメージで捉えた。時間を円と考えると時間に始まりや終わりがあるかないかという面倒な問題が避けられる利点がある。似た考えは、[[マヤ]]や古代[[インド]]文明などにも存在した<ref name="Newton">『Newton』別冊「時間とは何か」改訂版 2013年5月13日</ref>。
== 古代ローマ ==
[[ファイル:Carpe Diem.jpg|thumb|right|200px|「[[カルペ・ディエム]]」の句が上部に掲げられた[[日時計]]]]
古代ローマの[[ホラティウス]](紀元前65年 - 紀元前8年)が詩に残した'''{{la|Carpe diem}}'''、[[カルペ・ディエム]]という句は、直訳では「[[その日を摘め]]」、つまり「今日という一日を大切にしなさい」「今という時をよく味わいなさい」という意味である。人々がつい忘れがちなことを思い出させてくれる深みのある句として、現在に至るまで繰り返し引用されている。
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== ユダヤ教・キリスト教 ==
[[ユダヤ教]]には円環的な時間観も見られ、その影響がキリスト教にも見られはするが、[[キリスト教]]にはそれを超えた反復不可能の一回的な時間観がある<ref name="shukyougaku_dic" />。
キリスト教の時間観にとって決定的なことは、神の子の[[受肉]]としての[[イエス・キリスト]]の[[この世]]への到来、その[[死]]と[[蘇生|復活]]という、歴史のただなかへの一度かぎりなされたとされる神の[[啓示]]である<ref name="shukyougaku_dic" />。これは反復されない、一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の[[救済]][[歴史観|史観]]が成り立っている。
キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在の事実とされ、R.K.[[ブルトマン]]やC.H.[[ドッド]]などは[[終末]]についても現在性があると指摘している<ref name="shukyougaku_dic" />。
キリストの出来事が歴史の中心とされ、それを通して創造や堕罪、[[終末]]や[[再臨]]が理解される時、これらのことは不可逆的な直線的時間の上に配置され、また現在の事実として主体的に反復される<ref name="shukyougaku_dic" />。
== アウグスティヌス ==
時間をめぐる考察が厄介である事を示すためにしばしば引用される[[アウグスティヌス]]の有名な言葉に、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない<ref name="名前なし-1"/>」というものがある。
[[アウグスティヌス]](354年 - 430年)は時間を内面化して考えた。時間は[[心]]と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間を3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは《すでにないもの》であり、未来とは《いまだないもの》である。ならば在ると言えるのは現在だけなのか。過去や未来が在るとすれば、それは《過去についての現在》と《未来についての現在》が在る。過去についての現在とは《[[記憶]]》であり、未来についての現在とは《[[期待]]》、そして現在についての現在は《[[直観]]》だとアウグスティヌスは述べる。時間とは、このような心の働きである。「[[神]]は[[天地創造|世界創造]]以前には何をしていたのか?」と問う人がいるが、アウグスティヌスによれば、こうした問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間はなかった。神は[[永遠]]であり、過ぎ去るものは何もなく、[[全体]]が現在にある。
== 古ゲルマン ==
10世紀以前の[[古ゲルマン]]世界での公的生活は、まだ直線時間意識には規定されておらず<ref name="abekinya">{{Cite book|和書|chaper=時間|author=安部謹也|title=世界大百科事典|year=1988}}</ref>、円環的な時間意識が支配的であった<ref name="abekinya" />。[[ゲルマン人]]が「timi」(時)と言うと、正確な計測という考え方はみられず、あくまで季節などかなり長い時の経過を意味した<ref name="abekinya" />。ar(年)というのも、毎年繰り返される収穫の意味であった。まず現実の[[農耕]]生活における、具体的な、人間と自然の規則正しい関係があり、それが人間の意識や行動を規定していたのであり、《繰り返し》が時間のあたりまえの姿だった<ref name="abekinya" />。ゲルマン人の円環的時間意識のもとの[[死生観]]では、人間は死後[[冥界]]に入るが、この冥界というのは[[この世]]と並行して存在しており、この世と[[コミュニケーション|交流]]可能な世界であり、死者は現世とつながりつつ冥界で生きる、とされた<ref name="abekinya" />。
== 11世紀以降のゲルマン世界 ==
11~12世紀以降にキリスト教が公的生活にまで影響を及ぼすようになったが、これは古ゲルマンの意識とは異質なものであり<ref name="abekinya" />時間意識や[[死生観]]は変化してゆくことになった<ref name="abekinya" />。キリスト教の時間意識は、神を目指すひとつの方向に進む直線的な時間観であったので、《繰り返す時間》の観念は否定されてゆくことになり、[[終末]]に向かって進んでゆく時間の変化が意識され<ref name="abekinya" />、人間は死ねば、[[煉獄]]、そして[[天国]]か[[地獄]]へ行き、[[最後の審判]]を待つしかない、とされることになった<ref name="abekinya" />。古ゲルマンと、[[現世|この世]]と[[あの世]]の時間的関係が全く異なる。人々は[[死]]ぬと現生とのきずながたたれる、ということにされた<ref name="abekinya" />。教会の教えにより、人はただ1度だけ生き、一度だけ死ぬ、ということになった<ref name="abekinya" />。
またこの時代、キリスト教のほかにも、[[商人]]たちが人々の時間意識に影響を及ぼしはじめる。商人たちは日数と費用の計算をするために、計測するものとして時間の観念を使いはじめた。「市民共有の大時計は、自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具」となった、と[[ジャック・ル・ゴフ]]は言う<ref name="abekinya" />。
== 自然哲学および自然科学での時間 ==
{{see also|物理学における時間}}
=== ニュートン力学での時間 ===
{{古典力学}}
[[アイザック・ニュートン]]は、[[自然哲学]]に[[ユークリッド幾何学]](および他の数学)を大幅に導入した体系を構築、それを『[[自然哲学の数学的諸原理]]』(''{{la|Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica}}'', 1687年刊)で発表した。当時知られている幾何学は[[ユークリッド幾何学]]だけで、ニュートンが用いた幾何学もそれであったので、空間は均一で平坦な[[ユークリッド空間]]だと暗黙裡に[[仮定]]されている。
ニュートンは同著において、時間は[[過去]]から[[未来]]へとどの場所でも常に等しく進むもので、[[空間]]と共に、現象が起きる固定された舞台のように想定し、この固定された舞台を[[絶対時間と絶対空間|「絶対空間」及び「絶対時間」]]とも呼んだ{{Refnest|group="注"|ただし湯川秀樹は、ニュートンは自然の空間や時間が本当は均一では'''ない'''、と睨んでいたからこそ、あえて自らの体系の中で仮想されている空間や時間を「絶対空間」や「絶対時間」と呼んだのだ、といったことを指摘している<ref>出典:『湯川秀樹著作集』岩波書店。</ref>。}}([[空間#ニュートン力学での空間]]も参照)。
ニュートン力学では、[[ガリレイ変換]]に対して空間座標と時間座標は独立であるため、時間座標(時刻)は空間座標(位置)の[[媒介変数|パラメータ]]({{en|parameter}}, 媒介変数)として扱われる。従って、ニュートン力学の範囲では、時間は空間の一成分としては認識されず、3次元空間上で議論がなされる。
=== 相対性理論での時間 ===
ニュートン力学においては時間は全[[宇宙]]で同一とされたが、[[アルベルト・アインシュタイン]]が発表した[[相対性理論]]によって、そうではないことが認識されるようになった。
[[特殊相対性理論]]によれば[[光速度|光の速度]]はどの[[慣性系]]に対しても一定である。これを「'''光速度不変の原理'''」と呼ぶ。光速度不変の原理から異なる慣性系の間の時空座標の[[変換 (数学)|変換]]式が求められ、それは[[ローレンツ変換]]となる。このとき、ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、異なる慣性系から見ると同時に起きてはいない。これを「[[同時性]]の崩れ」という。結果として、[[観測者]]に対して[[相対運動]]する時計は進み方が遅れて見える。
相対性理論では[[ローレンツ変換]]により時間座標と空間座標とが混合するので<ref group="注">[[ヘルマン・ミンコフスキー]]により示された通り、ローレンツ変換はこの4次元空間の[[座標軸]]の回転と見なせる。</ref>、両者を完全に独立のパラメータとして扱うことはできない。この事情から、この4次元空間を時間と空間が一体化した'''[[時空]]''' ({{en|spacetime}}) だとする考えが生まれ、さらにこの考えが、[[重力]]は4次元時空の曲がりに相当するとする[[一般相対性理論]]の発想につながった<ref>{{cite book|和書|title=アインシュタイン自伝ノート|publisher=東京図書|date=1978年9月|ISBN=448901127X}} p.77-80</ref>。この考え方によれば、時間は「経過」ではなく空間と質的に等しい「拡がり」を表すものとみなされる<ref>{{cite|和書 |author=吉田伸夫 |title=明解量子重力理論入門 |edition= |publisher=講談社 |year=2011 |isbn=978-4-06-153275-5 |page=61}}</ref>。
一般相対性理論では、[[重力]]と[[加速度]]は等価とされ([[等価原理]])、これらは空間と共に時間をも歪める。「一般に[[重力ポテンシャル]]の低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされる<ref name="forward247">[[ロバート・L・フォワード]] 『SFはどこまで実現するか 重力波通信からブラック・ホール工学まで』 [[久志本克己]]訳 講談社〈ブルーバックス〉、1989年、247頁</ref>。例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされる。非常に重力の強い[[ブラックホール]]や[[中性子星]]ではこの効果が顕著であるとされる<ref name="forward247"/>。
=== 相対性理論後 ===
{{物理量
|名称=時間
|英語=time
|画像=
|記号={{mvar|t}}
|次元=T
|階=スカラー
|SI=[[秒]] (s)
|CGS=秒 (s)
|FPS=秒 (s)
|プランク=[[プランク時間]]
}}
物体の運動については、よほど光速に近い速度でない限り、相対論からの近似により、ニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できることが保証されているので、相対性理論が登場した後でも、大半の場合は基本的に[[ニュートン力学]]の枠組みのままで時間概念を取り扱うことは多い。
現代の物理学の体系において、時間は[[物理量]]のひとつとして扱われている<ref>培風館『物理学辞典』</ref>。
特筆すべきことのひとつに、「[[プランク時間]]」の概念の登場がある。物理学において、いくつかの[[物理定数]]を用いて、「長さ(時間)」「エネルギー」「温度」などの単位を構成しようという考え方があり、このような単位の組(単位系)を[[自然単位系]]と呼ぶ。プランク時間は自然単位系のひとつである[[プランク単位系]]の時間の単位である。プランク時間は、物理的に興味のある最も短い時間であり、しばしば「時間の最小単位」であると云われる。このことはしかし、物理学における時間の概念が離散的なものであることを意味しない。
=== 量子力学での時間 ===
{{観点|date=2021年4月|section=1}}
量子力学の世界では、時間の概念が一般的なそれとは異なっており、時間が逆方向にも流れているとされている<ref>{{Cite web |url=http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2946445/Can-past-changed-FUTURE-Bizarre-quantum-experiment-suggests-time-run-backwards.html |title=Bizarre quantum experiment suggests time can run backwards |publisher=[[デイリー・メール|Daily Mail Online]] |date=2015-2-10 |accessdate=2017-12-15}}</ref>。
== ニュートン以降の哲学における時間 ==
ニュートン力学の登場以降も、その理論の成功や、それが人々の時間概念に与えた影響を意識しつつ、哲学的な考察は続けられていた。
* 人間が実際に体験し、感じている時間はどのようなものか?(人が実際に体験している時間は、空間化(視覚化)された時間や、ニュートン力学の変数のような時間ではない、という指摘)
* そもそも、[[過去]]や[[未来]]というのは実在するのか?
* [[変化]]するものが何一つない場合でも、時間はあるのか?
=== カント ===
[[イマヌエル・カント]](1724年 — 1804年)は、ニュートンの後の時代の人で、ニュートンの体系も学び大学で講義した人物である。彼は時間、空間の直観形式でもって、人間は様々な[[現象]]を[[認識]]すると考えた。カントにおいて経験的な認識は、現象からの刺激をまず外官(外的なものからの刺激を受け取る[[感覚器官]])によって空間的に、[[内官]](内的なものの感じをうけとる感覚器官)によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外官によって直観され、時間は内官によって直観される。この場合、時間は空間の[[メタファー]]として捉える見方もあるが、それは『[[純粋理性批判]]』解釈の大変難しい課題である。時間、空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純粋理性批判には見出される。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられる事が多い。
=== ベルクソンの説明 ===
[[アンリ・ベルクソン]]は、時間の理解は《空間化された時間》に過ぎない、と批判した。たとえば、[[時計]]は空間化された時間の一例である。'''時計は時間ではない'''。'''座標の横軸や線分も時間ではない'''。そして、'''人間が経験している時間というのは《空間化された時間》ではない'''、と指摘した。ベルクソンは時間を「純粋持続」であるとした。
=== バシュラールの説明 ===
[[ガストン・バシュラール]]もやはり、ニュートン的な時間の理解には異議を申し立てた。ただし、ベルクソンが時間を純粋持続として捉えたのに対し、バシュラールは《[[瞬間]]の連続》だとした。我々が感じる時間現象は常に《現在》、言い換えれば瞬間でしかないからである。記憶にある瞬間瞬間と現在瞬間が比較される時、時間概念が誕生するわけである。またそこから、「瞬間瞬間をより高く深く生きる事が、よりよく時間を過ごす事となる」とするバシュラールの思想が開花する事になる。
=== 大森荘蔵の説明 ===
[[大森荘蔵]]は、人が過去を思い出すとき「過去の[[写し]]」を[[再現]]しているのだと考えがちなことに注目する。大森はそのような《写しとしての過去》という理解は[[錯覚]]であるという。
そのような過去のモデルでは、まず写される[[対象]]としての正しい過去が存在し、それを写した劣化コピーとしての過去が記憶の中に存在するということになる。しかし、過去は「[[想起]]という様式」で振り返られる中にのみ存在する、と大森は述べる。思い出されるのは写しとしての過去ではなく、過去そのものである。
過去の記憶が正しかったかどうか考えるとき、想起という様式から離れて記憶の正誤を判定する過去は存在しない。想起同士の比較ができるのみである。
[[世界五分前仮説]]などは過去が想起の外に存在するという前提のもとに生まれた、意味のない問題であるという。
== 時間の向き ==
=== 自然科学における「時間の矢」 ===
例えば、コーヒーとミルクが混ざることはあっても、混ざったものが自然と分離することは無い。このようにある方向に変化することはあっても、逆方向に変化することが無いものを不可逆現象という。
不可逆現象の事例は、ビデオ映像や映画フィルムの逆回しで説明されることが多い。例えば、“桶の底に入れた一升の米と一升の小豆の混合” を写した映画フィルムの例<ref>寺田寅彦「映画の世界像」寺田寅彦全集第八巻岩波書店 1997年 所収 p150</ref>や、“瀬戸物店に闖入した雄牛” を写したフィルムの例<ref>ピーター・コヴニー;ロジャー・ハイフィールド「時間の矢、生命の矢」草思社 1995年3月 p28</ref>や、“アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程” のビデオ録画の例<ref name="田崎秀一_p18">田崎秀一「カオスから見た時間の矢―時間を逆にたどる自然現象はなぜ見られないか」(ブルーバックス)講談社 2000年4月 p18</ref>、がある。このように、自然界において不可逆な現象は、可逆な現象よりもむしろありふれたものであり、「覆水盆に返らず」などの諺も残されている。しかしながら、ビデオの逆回しという考えからは、人間は時間の方向を一方向しか認識出来ていないだけではないかという解釈も出来る。例として、ビデオの中の登場人物を考えてみよう。時間とは変化を認識する事で初めて知覚する現象であり、ビデオの中の登場人物は何回巻き戻しを実行しても結局は同じ行動を繰り返すため、巻き戻しという逆方向の変化を認識出来ない。つまり、ビデオの中の世界の人物は時間の逆行に気づく事が出来てはいないが、実際には時間の逆行は何回も起きているのであり、ビデオとは異なる世界から観測しないと、それを認識する事が出来ない。これを、ビデオテープのパラドックスと言う。
イギリスの天体物理学者[[アーサー・エディントン]] (Arthur Stanley Eddington) はこの不可逆な現象を時間的非対称性だと考え、1927年に「[[時間の矢]]」と表現した<ref>Arthur Stanley Eddington "The nature of the physical world (The Gifford lectures)" MacMillan (1943) {{ASIN|B0006DFTN4|com}}</ref><ref>[[:en:Arrow of time|英語版ウィキペディア "時間の矢"]]</ref><ref>戸田盛和「物理読本(1) マクスウェルの魔―古典物理の世界-」岩波書店 1997年10月 p108</ref>。
この“時間の矢”を表す[[物理法則]]として、[[エントロピー#エントロピー増大則|エントロピー増大則]] (law of increasing entropy) について言及されることがある。エントロピー増大則は、「[[孤立系]]内の[[エントロピー]]は時間と共に増大するか変化しない」と言い表される。このことは[[熱力学第二法則]]、すなわち「ある物体より熱を取り、それをすべて仕事に変えて、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というトムソンの原理 (Thomson's principle, —statement) や「低温の物体から熱を取り、それをすべて高温の物体に写し、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である」というクラウジウスの原理 (Clausius' principle, —statement) などから導かれる。[[ウィリアム・トムソン]](ケルヴィン卿)や[[ルドルフ・クラウジウス]]の主張は互いに等価であることが示されており、これらをまとめたものが熱力学第二法則である。熱力学第二法則は熱力学における基本原理であり、熱現象の観察事実を法則化したものである<ref>藤原邦男;兵頭俊夫「熱学入門―マクロからミクロへ」東京大学出版会 1995年6月 3章</ref>。熱力学第二法則は時間の矢の現れの一つというだけでなく、非常に多くの時間の矢を説明(ないしは置換)できる。例えば、アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程は「水とアルコールが分離した状態よりも、混ざった状態の方がエントロピーが高い(自由エネルギーが低い)ため起こる」と説明できる。そのためしばしば両者は同列に扱われる。しかし、エントロピー増大則が成り立つのは「孤立系」、すなわち外界と熱的なやりとりがない系においてであり、エントロピー増大則をもって「時間の矢」問題がすべて理解されるということはない。
「時間の矢」ないしは「熱力学第二法則」に対して、多粒子系における衝突現象の結果として認識する[[還元主義]]的な立場をとることもできるが、微視的な理論からそれらを説明することは未だに成功していない。時間的に逆に進行するような変化も起こり得る、可逆性が厳密に成り立つような具体的な巨視的現象を挙げるのは難しいが、[[振り子]]の運動や[[惑星]]の[[公転]]を[[ニュートン力学]]により質点の運動として表した[[力学系]]では可逆性が成り立つ。このことは、その系の時間発展を表す運動方程式が時間反転対称性を持ち、時間の進む向きを逆転しても方程式の形は変わらないためであると説明される<ref name="理化学辞典_可逆性">長倉三郎、他(編)「岩波理化学辞典 - 第5版」岩波書店 1998年2月 "可逆性"、"時間反転"</ref>。また[[量子力学]]や相対論、それに含まれる[[電磁気学]]も同様に時間反転対称性を持つ。系の時間発展を記述する方程式が、時間反転対称性を持つために、ある運動が方程式によって記述されるなら(解が存在するなら)、その逆向きの運動も存在する。この「可逆性」は「微視的可逆性原理」と呼ばれている<ref name="理化学辞典_可逆性"/>。微視的可逆性原理からマクロ現象における不可逆性が説明できるか否かは、[[不可逆性問題]]または不可逆性逆理と呼ばれる、自然科学上の未解決問題である。
[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]は「分子的混沌」を仮定して[[H定理]]を証明した。H定理が成り立つならば、それを通じて微視的な力学からエントロピーを定義することができる。すなわち(微視的な意味での)エントロピー増大則から「時間の矢」の向きを決定できる。可逆な力学からこのような不可逆な理論が得られることは、ある種のパラドックスのように思われるが、それは「分子的混沌」やそれに相当する仮定による。
熱力学第二法則に基づく時間の矢の説明の変わり種として「記憶を含めた生命活動はエントロピーが増大する方向にしか働かず、故にエントロピー増大則が一般には成り立っていないとしても、知的生命体の認識する世界においては常にエントロピーが増大している。時間の矢があるようにみえるのはそのためだ」というものもある。実際コンピュータの[[記録]](正確にいえば記録の消去)はエントロピーの上昇を伴うし、生命活動においてもエントロピーの増大を利用することで方向性を持たせている反応もある([[分子モーター|モーター蛋白質]]など)。この説に従うなら、(われわれから見て)エントロピーが減少していく系も存在しうるが、その内で生じる生命は(われわれから見て)「逆回し」な生命活動を行うはずであり、当人たちにしてみればやはりエントロピーは「増大」していくことになる<ref>渡辺 慧 「時間の歴史―物理学を貫くもの」東京図書 1987年5月</ref><ref name="yoshinaga">吉永 良正(編)「時間とは何か?(別冊日経サイエンス 180)」日経サイエンス 2011/08</ref>。
素粒子論においては[[CPT変換]]による物理法則の不変性がひとつのテーマとなっている。これは荷電共役変換 C, 空間反転 P, 時間反転 T の積であり、時間反転対称性が関与している<ref name="理化学辞典_可逆性"/>。
量子力学の[[観測問題]]における[[コペンハーゲン解釈]]では観測の瞬間に[[波動関数]]の[[収縮]]が起きると解釈するが、波動関数が収縮することはあっても、「復元」することはない。すなわち観測に伴う過程は不可逆なものであり、時間反転に対して非対称となる<ref name="yoshinaga"/>。
<!--{{要出典範囲|波動関数自体は時間反転対称であるため、収縮を認めない[[多世界解釈]]の場合、時間の矢は存在しないことになる|date=2008年3月}}、ともされるようになった。-->
<!--このような時間的非対称性とは対照的に、我々の住む物理的[[空間]]では、前後左右上下いずれの方向にも我々は移動できるし、力学において物理的空間のモデルとされる[[ユークリッド空間]]は、全方位で[[等方的]]である。言い換えれば、「空間は各方向軸が[[反転対称]]だが時間は反転非対称であり過去と未来の向きを入れ替えることはできない{{要出典|date=2011年4月}}」と主張される{{誰|date=2011年4月}}。-->
これらの矛盾などから[[ジュリアン・バーバー]]は、宇宙には時間は存在しておらず、時間とはあくまで人類の感覚としての幻想だと主張している。
また、時間の測定は、時間そのものを測定する方法などは現在も存在せず、物体の状態の変化の速度を時間の経過と捉えて測定しているだけのものである。これは、時間そのものが現実として存在しないことを意味しているかもしれない。
== 時間の速さ ==
《人が感じる時間》の速さは、[[気分]]、[[年齢]]等により変化する、と言われている。例えば同じ曲を流しても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動・活動の後では遅く聴こえる事がある。こうした場合、感じている時間の速さに相対的な違いがあると言える。また、年齢を重ねれば重ねるほど、一日なり一年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることである([[ジャネーの法則]])。年をとって自分の動作や思考の速さ・時間当たりの作業量が低下すると、相対的に時間が速く過ぎるように感じる。若い時に10分で歩けた道を歩くのに20分かかるようになったり、1日で片づけられた仕事に2日かかるようになったりすると、時間が2倍ほど速く過ぎるように感じることになる。{{要出典|範囲=また人は時間をそれまで生きてきた経験の量の比率のようなもので感じている、と言われる|date=2021年10月}}こともある。これは、7歳の子供にとっての1年が人生の7分の1であるのに対して、70歳の老人にとっての1年が人生の70分の1であることからも説明ができる。心理的な時間は、さまざまな要因によって影響を受け伸縮する。その影響の度合いは大人に対し子供の方がずっと大きい。大人は心理的な時間の伸縮に左右される出来事があっても『短く感じられるが実はこのくらいだろう』と心理的時間を補正できるが、子供はできない。大人はこの「'''時計時間'''」に支配されるが子供は「'''出来事時間'''」に支配される<ref name="Newton"></ref>。
人間の[[体温]]も時間の感覚に影響するという<ref name ="higengo">{{Cite |和書 | author = マジョリー・F・ヴァーガス| translator = 石丸正 | title = 非言語コミュニケーション | date = 1987 |series = 新潮選書 |publisher = 新潮社 |pages=173}}</ref>。体温が常温以下に下がると、時間が早く過ぎ、高熱を発すると、普段以上にゆっくりと過ぎるように感じられるという<ref name ="higengo"/>。
また[[生物]]の個体の[[生理学]]的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なると考えられる。例えば[[生物種]]間の時間感覚・体感時間の相違については[[本川達雄]]の『ゾウの時間、ネズミの時間』に詳しい<ref>[[本川達雄]]『ゾウの時間、ネズミの時間』中央公論社、1992年、ISBN 4121010876</ref>。
現代の自然科学を習得しその枠内で思考している間は、人はつい「時間は常に一定の速さで過ぎるものでそれに合わせて様々な現象の進行速度や周期の長さが計れる」などと考えてしまう。だがその時、人はある周期的な現象、例えば天体の周期運動、振り子の揺れ、水晶子の振動、電磁波の振動などの繰り返しの回数を他の現象と比較しているだけであり(物理的な時間の定義)、何か絶対的な時間そのものの歩みを計っているかどうかは本当は定かではない。
このような “常に一定の速さで過ぎる時間” という[[概念]]は、[[ガリレオ・ガリレイ]]による「[[振り子]]の等時性の発見」とその後の「[[時計|機械式時計]]」の発達以降の近代において優勢になってきたとも言われる。それ以前には、例えば不定時法などはよく使われていた。
{{Main|時刻}}
また、場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われている。例えば[[仏教]]の世界観では「下天の1日は人間界の50年に当たる」と言われている。またこのことは直接関係はないが、[[一般相対性理論]]から、[[重力ポテンシャル]]が異なる場所や移動速度が異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られている。現実に地球上の時間の進み方と人工衛星での時間の進み方は異なるため、GPSでは時刻の補正を行って位置を測定している。
== 時間の有限・無限 ==
時間の長さ、ということは、世界観とも深くかかわっている。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識するか、その世界と現世の関係をどうとらえるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうか、ということで時間という概念が根本的に変わってくるからである。
=== 時間の長さ ===
古代宗教の節、ユダヤ教の節、古ゲルマンの節で解説したように、時間は円環して無限に続いている考え方が古来ある。一方で([[#ユダヤ教・キリスト教]]で解説したように)キリスト教では直線的で有限だということになっている。
=== 始まり ===
{{出典の明記|date=2013年4月|section=1}}
世界各地の[[神話]]では、[[世界]]([[宇宙]])には始まりがあったとされている。中国の神話には「[[天地開闢 (中国神話)|天地開闢]]」の話があり、日本神話にも[[天地開闢 (日本神話)|(日本なりの)天地開闢]]の話がある。『[[旧約聖書]]』の「[[創世記]]」にも神が世界を創造したと記されている([[天地創造]])。
物理学においては、1927年にベルギーの[[ジョルジュ・ルメートル]]が「宇宙は primeval atom(原始的原子)の“爆発”から始まった」とする説([[ビッグバン]]仮説)を発表した。
== 時間の構造 ==
=== 直線的な時間 ===
ニュートン力学における時間は、[[無限]]の過去から無限の未来へ続く[[直線]]であり、これは[[数直線]]と[[同型]]である。また相対性理論においても一人の観測者が感じる時間、すなわちひとつの[[質点]]に固定された時計が計る時間([[固有時]])は、同様に数直線と同型である。これは、時間の原点が意味を持たないためである。
=== 線分的な時間 ===
時間が無限の過去から無限の未来へ続くのではなく、始まりと終わりのある[[有限]]なものという考えもある。たとえば、前述のアウグスティウス的な時間観においては、時間は神によって創造されたものであり、始まりを持つ。これは[[世界]]や[[宇宙]]の始まりと終わりを考えることと同じことになる。世界各地の[[神話]]における世界の始まりについては「[[天地創造]]」や「[[天地開闢 (日本神話)]]」「[[天地開闢 (中国神話)]]」に詳しい。また世界の終わりについては「[[終末論]]」に詳しい。「[[宇宙論]]」も参照のこと。
=== 虚数時間 ===
[[スティーヴン・ホーキング]]と[[ジェームズ・ハートル]]は1983年に発表した[[無境界仮説]]において、[[複素数]]にまで拡張した時間を計算に使用した。ここから、宇宙の始まりで[[ビッグバン]]以前の時間が[[虚数]]であれば時間的特異点が解消されるとも主張した。なお、相対性理論では時間軸として虚数表現 {{mvar|ict}}({{mvar|i}} は虚数単位、{{mvar|c}} は[[光速]]、{{mvar|t}} は時刻)を使うことがありこれを[[虚時間]]とも言うが、これは無境界仮説での虚数時間とは別のものである。
=== 時間の最小単位 ===
古典物理学(量子論以前の物理学)における時間は[[連続]]体であり、[[実数]]で表せる。つまり時間はいくらでも細かく分割可能なものである。だが物質の最小単位として原子や[[素粒子]]があるように、時間にも最小単位があるのではないかとも考えられる。例えば[[映画]]フィルムのように一コマ以下の時間は存在しないという考えである。物理学(量子力学)ではこの最小時間間隔を[[プランク時間]]と呼ぶ。
=== 分岐時間 ===
時間が木のように枝分かれするという時間観。分岐後は複数の異なる歴史の世界が同時進行しているのだが、これらの同時進行する世界同士を互いに[[並行宇宙]]または[[並行世界]]([[パラレルワールド]])であると言う。
量子力学の観測問題の解決のためのひとつの仮説である[[多世界解釈]]も分岐時間の考えを使っている<ref group="注">タイムトラベルを扱うSFや[[疑似科学]]では[[タイムパラドックス]]の解消のために分岐時間を使う、などという設定、発想が多く見られる。</ref>。
== 物語・SFなどでの時間 ==
=== 時間進行の操作 ===
時間の[[進行]]を速くする、遅くする、停止するというアイディアは昔から見られる。例えば[[浦島太郎]]、[[リップ・ヴァン・ウィンクル]]のように特定の場所や状況で時間の進行が異なるという昔話がある。現在の科学の用語と絡めて語られる設定としては、"相対性理論を応用して亜光速の宇宙船に乗る"、"ブラックホール等の重力ポテンシャルの異なる場所を通る"などといったものがある。
{{Main|時間停止}}
時間そのものの進行を変える、とするものではないが、関連するテーマとして、主観的な時間が止まったり生理的な反応を遅くするという発想もある。現実の医療現場における全身麻酔状態の患者や昔話の[[眠れる森の美女]]などをそれと見なすことも可能である。SFの分野などでは、「人工[[冬眠]]」「[[コールドスリープ]]」「[[冷凍保存]]」といった設定が見受けられる。
=== 時間進行の逆転 ===
SFなどで、ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転することで、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、という設定が用いられることがある<ref>鋼屋ジン 古橋秀之 「斬魔大聖デモンベイン 軍神強襲」 角川スニーカー文庫 2006/8</ref>。
=== タイムトラベル ===
時間の中を移動して、過去や未来へ行くというアイデア。こういったストーリーの初期のものとしては[[H・G・ウェルズ]]の小説『[[タイム・マシン (小説)|タイムマシン]]』(1895年)が有名である。
{{Main|タイムトラベル}}
=== 未来の予知 ===
SFには、[[超能力者]]が未来のことをESP([[超感覚的知覚]])を用いてあらかじめ知る、すなわち[[予知]]する、という物語が数多く存在する。タイムトラベルとは異なり過去や未来に直接関与するのではないが、いわば[[情報]]のみをタイムトラベルさせるとも言える。情報のタイムトラベルにおいても、それを知った者の行動が変わることで未来を変える可能性があるため、タイムパラドックスを生むと考えられている<ref name="forward259">[[ロバート・L・フォワード]] 『SFはどこまで実現するか 重力波通信からブラック・ホール工学まで』 [[久志本克己]]訳 講談社〈ブルーバックス〉、1989年、259頁</ref>。
=== ループ ===
[[サイエンス・フィクション|SF]]作品の中には、通常の時間の流れから切り離された部分的な円環時間の中に閉じこめられる、というアイディア(「[[ループもの]]」)が登場するものがある。
=== バラバラな時間 ===
一部のSF等に登場する、時間に因果律や連続性は存在せずバラバラな「瞬間」が並んでいるだけ、という考え<ref>山本弘「トンデモ本?違う、SFだ!」 洋泉社 2004年7月</ref>。
因果律や連続性があるように感じるのは人間の[[錯覚]]ということになる。因果律が存在しない以上、たとえ「過去」を改変したとしても、以降の歴史には影響がでない。従ってタイムパラドックスも生じない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
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*[[アンリ・ベルクソン]]『時間と自由』1889年。(『時間と自由意志』とも)(翻訳は岩波文庫 2001年 ISBN 4003364597 など)
*[[マルティン・ハイデッガー]]『存在と時間』1927年。(哲学系)(筑摩書房1994年 ISBN 4480081372 ほか翻訳多数)
*[[渡辺慧]]『時間の歴史』東京図書、1973年
*渡辺慧『時』河出書房、1974年
*『講座 仏教思想 第1巻(存在論・時間論)』理想社、1974年、ASIN B000J9B0J2
*ホイットロー『時間 その性質』文化放送開発センター、1976年
*滝浦静雄『時間』岩波新書、1976年、ASIN: B000J9AYZI(哲学系)
*中村秀吉『時間のパラドックス』中央公論新社、1980年
*[[土屋賢二]]「時間概念の原型 -プラトンとアリストテレスの時間概念」(『新岩波講座・哲学』第7巻、岩波書店(1985年)に所収。1988年版ISBN 4000102273)
*[[村上陽一郎]]『時間の科学』岩波書店、1986年、ISBN 4000076701
*[[エマニュエル・レヴィナス]]『時間と他者』法政大学出版局、1986年、ISBN 4588001787(哲学系)
*[[松田卓也]]・[[二間瀬敏史]]『時間の逆流する世界』丸善、1987年、ISBN 4621031619
*[[ゲーザ・サモン]]『時間と空間の誕生 蛙からアインシュタインへ』青土社、1887年。新装版1997年 ISBN 4791755529
*ジェレミ・キャンベル『チャーチルの昼寝 人間の[[体内時計]]の探求』青土社、1988年、ISBN 4791751167
*[[松田卓也]]・二間瀬 敏史『時間の本質をさぐる』講談社、1990年、ISBN 4061490052
*[[スティーブン・グールド]]『時間の矢・時間の環』工作舎、1990年(地質学的時間を扱っている)
*本川達雄『ゾウの時間、ネズミの時間』中央公論社、1992年、ISBN 4121010876
*[[大森荘蔵]]『時間と自我』青土社、1992年 ISBN 479175171X、1993年 ISBN 479175171X
*[[劉文栄]]『中国の時空論 - 甲骨文字から相対性理論まで』東方書店、1992年、ISBN 4497923622
*スティーヴン・カーン『時間の文化史―時間と空間の文化 1880‐1918年(上巻)』法政大学出版局、1993年、ISBN 4588021389
*「時間論の現在」(『現代思想』1993年3月号、青土社、所収)
*[[大森荘蔵]]『時間と存在』青土社、1994年、ISBN 4791753054
*[[エマニュエル・レヴィナス]]『神・死・時間』法政大学出版局(叢書ウニベルシタス)1994年、ISBN 4588004492
*ピーター・コヴニー他『時間の矢、生命の矢』草思社、1995年、ISBN 4794205848(ポピュラーサイエンス)
*[[中島義道]]『時間を哲学する―過去はどこへ行ったのか』講談社現代新書、1996年、ISBN 4061492934
*(著者多数)『心理的時間―その広くて深いなぞ』北大路書房、1996年、ISBN 4762820598
*ポール・デイヴィス『時間について―アインシュタインが残した謎とパラドックス』早川書房、1997年、ISBN 4152080639(物理系)
*[[吉田健一 (英文学者)|吉田健一]]『時間』講談社文芸文庫、1998年、ISBN 4061976346(文学・哲学系)
*ジョン・グリビン『時の誕生、宇宙の誕生』翔泳社、2000年
*[[田崎秀一]]『カオスから見た時間の矢』講談社、2000年(物理系)
*[[実松克義]]『マヤ文明 聖なる時間の書―現代マヤ・シャーマンとの対話』現代書林、2000年、ISBN 4774502049
*中島義道『カントの時間論』岩波現代文庫、2001年、ISBN 4006000405(哲学系)
*[[入不二基義]]『時間は実在するか』講談社現代新書、2002年、ISBN 4061496387
*ウィリアム・グラハム フーバー『時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?』森北出版、2002年、ISBN 4627153015
*[[野矢茂樹]]『同一性・変化・時間』哲学書房、2002年、ISBN 488679081X
*粂和彦『時間の分子生物学』講談社現代新書、2003年、ISBN 4061496891
*[[真木悠介]]『時間の比較社会学』岩波現代文庫、岩波書店、2003年、ISBN 4006001088
*[[松田文子]]『時間を作る、時間を生きる―心理的時間入門』北大路書房、2004年、ISBN 4762823554
*[[加藤周一]]『日本文化における時間と空間』岩波書店、2007年、ISBN 4000242482
*[[入不二基義]]『時間と絶対と相対と ―運命論から何を読み取るべきか』勁草書房(双書エニグマ)、2007年、ISBN 4326199172
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== 関連項目 ==
{{sisterlinks
| commons = Category:Time
}}
*[[時間の比較]]
*[[時間の単位]]
*[[時計]](計測器具)
*[[暦]]
*[[時制]]
*[[時刻]]
*[[時空]]
*[[ジュリアン・バーバー]] - イギリスの物理学者。時間は宇宙に存在せず、人類の感覚としての幻想だと主張。
== 外部リンク ==
*[https://24timezones.com/ 世界のタイムレコーダー]{{en icon}} - 世界各地の現地時間を確認できるサイト
{{IEP|time|Time}}
{{SEP|time|Time}}
{{SEP|time-thermo|Thermodynamic Asymmetry in Time|時間の熱力学的非対称性|nolink=yes}}
* {{Kotobank}}
*[https://timecrowd.net/ TimeCrowd] - 個人の時間を計測できるタイムトラッキングツール
{{自然}}
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}{{科学哲学}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しかん}}
[[Category:時間|*しかん]]
[[Category:時空]]
[[Category:科学哲学の概念]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93 |
3,975 | 神戸高速鉄道 | 神戸高速鉄道株式会社(こうべこうそくてつどう)は、神戸市市街地に乗り入れている鉄道会社の鉄道施設を所有する、阪急阪神ホールディングスグループの鉄道事業者。後述の歴史的経緯から、神戸市も出資する第三セクターでもある。兵庫県神戸市中央区多聞通に本社がある。
神戸市中心部にそれぞれ独自のターミナル駅を持っていた京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)・阪神電気鉄道・山陽電気鉄道・神戸電気鉄道(現:神戸電鉄)の4電鉄を連絡する鉄道として1968年に開業した鉄道会社で、設立時の経緯から、当初より「鉄道車両と乗務員を自社で用意しない」(線路・電気設備・駅設備のみ自社で整備し管理運営する)という旧・地方鉄道法時代に設立された鉄道事業者としては特異な運営形態を執っていたことで知られる。このような運営形態を執っていたことに加え、路線のほぼ全線が地下線(トンネル)だったこともあり「トンネル会社」と呼ばれることもあった。
その後、1987年に地方鉄道法が廃止され鉄道事業法に移行後は第三種鉄道事業者の扱いとなったが、運輸省(現:国土交通省)の認可の下、「4電鉄からの業務受託」という形で従前の運営形態が引き継がれた(詳細後述)。この運営形態は2010年まで続き、以降は他の第三種鉄道事業者同様、施設管理のみを行う事業者となったが、運賃制度等で当時の名残が残されている。
総営業キロは7.6km程度と短いものの、第三種鉄道事業者や日本民営鉄道協会非加盟事業者で唯一準大手私鉄に位置付けられている。
神戸高速鉄道は、設立の主目的こそ私鉄4社の連絡であったが、神戸市電の都市高速鉄道への置き換えも兼ねており、東西線は兵庫駅前 - 神戸駅前間の置き換え(山陽電気鉄道の併用軌道区間代替を含む)、南北線は新開地 - 湊川公園間の置き換えという面もあり、神戸市が経営に積極的に関与する理由となっていた。ちなみに、市営地下鉄山手線は市電山手・上沢線・石屋川線(一部区間)の置き換え、市営地下鉄海岸線は市電板宿線・高松線・栄町線の置き換えという扱いになっている。なお、神戸市営地下鉄の条例上での正式名称は「神戸市高速鉄道」であり、「神戸市高速鉄道乗車料条例」などにその名称が見られる。
2021年7月1日現在
4電鉄を連絡する鉄道路線の構想は、1946年策定の「神戸市復興基本計画」に始まる。神戸市街地において、戦後復興計画として神戸市電が担っていた市街地輸送の高速化・大容量化を、民間鉄道会社4社(京阪神急行=現・阪急、阪神、山陽、神鉄)を活用して実現したい神戸市側の思惑と、戦前に神戸市中心部(湊川公園附近)に路線を延伸したかった民間鉄道会社側の思惑とを両立させる形で、1948年に神戸市と4社の間で建設に向けた合意が成立、そこから様々な調整を経て、1958年に神戸市が40%・乗り入れ4社(京阪神急行・阪神・山陽・神鉄)が合計40%、地元財界(当時神戸支店を営業していた三越や関西電力、金融機関等)が20%出資する第三セクターの鉄道会社として神戸高速鉄道は設立された。運行形態については、自社の車両を保有するより車両と鉄道員を借りたほうが合理的であるとの判断の元、4社の車両が神戸高速鉄道に乗務員ごと乗り入れる形態とした上で、駅や設備の建設・管理を自社で行うことで鉄道事業者としての体裁を整えた。
1968年に「東西線」「南北線」が完成し、鉄道事業を開始した。このとき、山陽については西代以東を廃線とし、電鉄兵庫駅 - 長田駅間に残っていた併用軌道の解消があわせて実現された。また、京阪神急行の三宮駅と神鉄の湊川駅は頭端式ホームを採用していたため、前者は駅の貫通構造化、後者は線路切り替えによる地上駅(トンネル内)から地下駅への移設工事を行って乗り入れに備えた。ほか、この開業で相互直通運転を開始する京阪神急行・阪神・山陽の3社は、山陽が戦後まもなく直流600Vから1500Vへ昇圧工事を実施したのに対し、阪急と阪神は戦後もしばらく直流600V電化のままとなっていたため架線電圧の違いがあり、当初は東西線の高速神戸駅 - 新開地駅間に1500Vと600Vのつなぎ目であるデッドセクションを設置し、複電圧車のみが直通する案が検討されていたが、最終的には京阪神急行(1967年10月8日実施)と阪神(1967年11月12日実施)が1500Vへの昇圧を実施することで決着した。
今日、神戸高速線と比較されることが多い神戸市営地下鉄山手線は当時具体化した計画はなく、また当時の国鉄山陽本線(現:JR神戸線の神戸駅以西)は長距離輸送の色が強い路線であり(当時山陽新幹線はまだ開業していなかった)、神戸市内輸送においては今ほどの存在感を示せていなかったので、当路線の開業は市街地輸送の改良に大いに貢献した。
1986年、国鉄分割民営化に備える形で鉄道事業法が成立し、これと引き換えに地方鉄道法が廃止されることが決まる。このとき、神戸高速鉄道は施設を保有し運行を行う第一種鉄道事業者として認定されることを希望したが、当時の運輸省は同社が「車両及び乗務員をもっぱら借り受けている」ことを理由に第一種鉄道事業者として認定せず、新法が施行された1987年4月からは鉄道事業法附則第三条第六号に規定された「法律の施行の日から一年間、鉄道事業法第三条第一項の(第一種鉄道事業者の)免許を受けないで、当該事業及びその受託に係る運転の管理を従前の例により引き続き営むことができる」事業者として、従前と同じ営業形態で営業を行った。第一種鉄道事業者として認定されるためには自社で車両と乗務員を用意する必要があったが、車両基地の確保が困難であるとともに、乗務員の要員確保などを含めて暫定措置の1年間で解決するのは困難であるとの判断からこれを断念、第三種鉄道事業者となっても「実質的に従来どおり」となる経営方法の模索を行うことになった。
神戸高速鉄道と乗り入れ4社が検討を行い、運輸省との交渉の結果、以下のスキームを採用することが認められ、1988年3月4日に鉄道事業免許の認可申請と「業務の管理の受委託申請書」を運輸省近畿運輸局に提出、同年3月24日に認可された。
この結果、運賃収入は形式上第二種鉄道事業者である4社のものという扱いになるが、4社から神戸高速鉄道の受け取る業務委託料について「運賃収入から旅客の運送に要する実費相当額と鉄道線路使用料を差し引いた額とする」という取り決めがなされた結果、4社の第二種鉄道事業に係る収入は実質ゼロ(車両の運転に係る経費のみ)となって、神戸高速鉄道は第三種鉄道事業者でありながら地方鉄道法時代と同じ(第一種鉄道事業者相当の)運賃収入を得ることが出来るようになった。
その後、建設費償還が経営課題となっていて既に1999年から利用者運賃負担軽減の補助を兵庫県と神戸市から受けていた北神急行電鉄から2002年に鉄道施設を譲り受けて同社の経営を支援したり、乗り入れ鉄道会社が鉄道駅の大規模な改良工事を行う際に当該駅を譲り受けたりと、第三セクター会社という特性を活用している。特に後者の場合は国土交通省から改良工事費用の補助(鉄道駅総合改善事業費補助や幹線鉄道等活性化事業費補助)を受けられるようにする狙いがあり、その動きは神戸市外の阪神尼崎駅や阪神甲子園駅にも及んでいる。
自社で建設した東西線や南北線についても、開業から年月を経て、改良の必要が生じるようになったが、全区間においてその後開業した神戸市営地下鉄が競合するようになり、その事業主である神戸市が神戸高速鉄道の発行済み株式の4割を保有していた状況では神戸高速鉄道自体が主体的にサービスを改善するのは費用面で難しく、乗り入れ4社の提供するダイヤによる収益拡大や、バリアフリー化に合わせて駅の改良工事を行うことで補助金を有効活用したサービス改善(具体的には、オストメイト対応トイレの設置に合わせてトイレ全体のリニューアルを行うことができた高速神戸駅)など、工夫ある取り組みを見せていた。この状況下におりしも、2006年10月1日に阪急・阪神経営統合で阪急阪神ホールディングス(HD)が実質21.4%(完全子会社となった阪神電気鉄道が保有する10.7%と阪急阪神HD自らが保有する10.7%)を握るようになり、20%を超えたことで持分法が適用され、阪急阪神東宝グループの企業として位置付けされるようになった。その後、阪急阪神HD、阪急電鉄、阪神電気鉄道、山陽電気鉄道の4社間で保有率を調整することでいったん阪急阪神HDの持分法適用会社から外れると共に阪急阪神東宝グループからも外れたが、2008年に(2006年の阪急・阪神経営統合を契機として)神戸市が阪急阪神HDに株式15%を売却することを表明した。売却は2009年4月1日付で実施され、阪急阪神HD傘下の阪急電鉄と阪神電気鉄道が保有する株式(間接保有分)も含めて筆頭株主となり、神戸高速鉄道は子会社共々阪急阪神HDグループの一員になった。
前述のとおり、神戸高速鉄道は地方鉄道法時代と実質的にほぼ同じ経営リスクを有する運営体制を続けてきたが、輸送人員の減少、阪神・淡路大震災による長期の休業等で収入が減少する中、震災復旧や安全対策費用の増加により、収支はさらに悪化することとなった。このような状況の下、経営改善を行うため、資産の保有と借入金の返済に特化した事業体制(すなわち、本来の第三種鉄道事業者としての事業形態)に移行することを決定した。
具体的には、2010年10月1日をもって、以下の措置・手続きがなされた。
これにより同日以降、神戸高速鉄道は定額の鉄道線路使用料を収受し、これにより鉄道資産の減価償却費、借入金の支払利息等の経費を賄い、借入金の償還等を行っている。なお同社はこのとき策定した40年間の長期収支計画(国土交通省認可)に基づいて第二種鉄道事業者(阪急・阪神・神鉄)から定額の線路使用料を収受しており、同計画では支出の大部分を占める減価償却費及び支払利息の漸減に伴い、令和3年度(2021年度)には単年度収支がプラスに転じ、令和31年度(2049年度)には約29億円の繰越利益が見込まれている。
したがって現在では、神戸高速鉄道は、阪神なんば線における「西大阪高速鉄道」や、JR東西線における「関西高速鉄道」と同様、施設の保有・管理のみを行う会社となっているが、阪急・阪神・神鉄は神戸高速線の運賃について、引き続き自社の他路線とは切り離し独立した運賃体系をとっており、スルッとKANSAIのカードに印字される符号もKKのままであると共に、交通系ICカード全国相互利用サービスによって神戸高速線で利用できるPiTaPaやICOCAなどのICカードにおける履歴印字でも「神高」や「神戸高速」となっている。
1988年に北神急行電鉄の運営で開業した北神線は、2002年4月1日から神戸高速鉄道が第三種鉄道事業者として線路等の鉄道施設を保有するようになったが、東西線・南北線と異なり第二種鉄道事業者となった北神急行電鉄が引続き運行管理と駅業務を直接担っていた。
2020年6月1日に、北神急行電鉄が北神線の第二種鉄道事業を、神戸高速鉄道が同線の第三種鉄道事業をそれぞれ神戸市に譲渡し、神戸市営地下鉄北神線となった。
以下は駅設備の一部を保有している駅
神戸高速鉄道の子会社が経営していた飲食店が3つあった。高速そばは神戸高速興業、喫茶ラピッドと喫茶モネは神戸高速サービスの経営であったが、2010年10月1日に駅売店とともに阪神ステーションネットに譲渡され、2014年4月1日に同社の駅ナカ事業を分割承継したエキ・リテール・サービス阪急阪神が運営に当たっていた。地下街のメトロこうべは神戸高速興業が運営していたが、2017年4月1日に神戸高速興業と神戸高速鉄道が合併したため神戸高速鉄道の直営となった。 | [
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] | 神戸高速鉄道株式会社(こうべこうそくてつどう)は、神戸市市街地に乗り入れている鉄道会社の鉄道施設を所有する、阪急阪神ホールディングスグループの鉄道事業者。後述の歴史的経緯から、神戸市も出資する第三セクターでもある。兵庫県神戸市中央区多聞通に本社がある。 | {{混同|x1=条例における名称が「神戸市高速鉄道」である|神戸市営地下鉄}}
{{Pathnav|阪急阪神東宝グループ|阪急阪神ホールディングス|frame=1}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 神戸高速鉄道株式会社
| 英文社名 = KOBE RAPID TRANSIT RAILWAY CO.,LTD
| ロゴ = [[File:Kobe-kosoku logo.svg|100px]]
| 画像 = [[File:Kobe Nankomae Building.jpg|250px]]
| 画像説明 = 神戸楠公前ビル(本社所在地)
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 =
| 略称 = 神戸高速、高速
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 650-0015
| 本社所在地 = [[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]][[多聞通]]三丁目3番9号
| 本社緯度度 = 34
| 本社緯度分 = 40
| 本社緯度秒 = 48.1
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 135
| 本社経度分 = 10
| 本社経度秒 = 35
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1958年]]([[昭和]]33年)[[10月2日]]
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = 1.[[鉄道事業者#第三種鉄道事業者|第三種鉄道事業]]<br />2.土地家屋の賃貸<br />3.鉄道駅舎等の改善および建設ならびにその賃貸<br />4.駐車場の経営<br />5.前各号に附帯する事業および関連する一切の業務<ref name="Kobe_Rapid_Transit_Railway">{{Cite web|和書|date=2018-07-31 |url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/municipal/giann_etc/H30/img/gaitoku300731-4.pdf |title=平成30年度 神戸高速鉄道株式会社 事業概要 |format=PDF |publisher=神戸市外郭団体特別委員会 |accessdate=2019-05-29}}</ref>
| 代表者 = 代表取締役[[社長]] 久須勇介
| 資本金 = 1億円(2020年3月31日現在)
|売上高 = 19億3100万円<br>(2021年03月31日時点)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/ff873/201813 神戸高速鉄道株式会社 第79期決算公告]</ref>
|営業利益 = 4億9600万円<br>(2021年03月31日時点)<ref name="fy" />
|経常利益 = 3億4800万円<br>(2021年03月31日時点)<ref name="fy" />
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|総資産 = 190億7500万円<br>(2023年03月31日時点)<ref name="fy2" />
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| 主要株主 = [[#主要株主|主要株主]]の節を参照
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[藤原崇起]](元社長)
| 外部リンク = {{Official URL}}
| 特記事項 = [[阪急阪神ホールディングス]]の[[連結子会社]]
}}
[[ファイル:Sanden Local Hanshin-Sannomiya mq.jpg|thumb|200px|right|山陽電鉄車両の阪神乗り入れ普通の方向幕]]
[[ファイル:Sanyo-5000 Kintetsu-9020 Hanshin-8000 hanshin-amagasaki.JPG|thumb|200px|right|神戸高速線に乗り入れる山陽5000系(左)と阪神8000系(右奥)。阪神尼崎駅にて]]
'''神戸高速鉄道株式会社'''(こうべこうそくてつどう)は、[[神戸市]]市街地に乗り入れている鉄道会社の鉄道施設を所有する、[[阪急阪神ホールディングス]]グループの[[鉄道事業者]]。後述の歴史的経緯から、神戸市も出資する[[第三セクター]]でもある。[[兵庫県]]神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]][[多聞通]]に本社がある。
== 概要 ==
神戸市中心部にそれぞれ独自のターミナル駅を持っていた京阪神急行電鉄(現:[[阪急電鉄]])・[[阪神電気鉄道]]・[[山陽電気鉄道]]・神戸電気鉄道(現:[[神戸電鉄]])の4電鉄を連絡する鉄道として[[1968年]]に開業した鉄道会社{{Sfn|正司|2005|p=16}}で、設立時の経緯から、当初より「鉄道車両と乗務員を自社で用意しない」([[線路 (鉄道)|線路]]・電気設備・[[鉄道駅|駅]]設備のみ自社で整備し管理運営する)という旧・[[地方鉄道法]]時代に設立された鉄道事業者としては特異な運営形態を執っていたことで知られる{{Sfn|正司|2005|p=17}}。このような運営形態を執っていたことに加え、路線のほぼ全線が[[地下線]]([[トンネル]])だったこともあり「トンネル会社」と呼ばれることもあった<ref>和久田康雄『日本の地下鉄』〈岩波新書 黄版 392〉、1987年、p.128</ref>{{Efn|なお、通常『トンネル会社』という言葉は、官庁・大会社などの払い下げや注文などを他に周旋し、中間利益を取るだけの名目上の会社を意味する。}}。
その後、[[1987年]]に地方鉄道法が廃止され[[鉄道事業法]]に移行後は[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]の扱いとなったが、[[運輸省]](現:[[国土交通省]])の認可の下、「4電鉄からの業務受託」という形で従前の運営形態が引き継がれた(詳細後述)。この運営形態は[[2010年]]まで続き、以降は他の第三種鉄道事業者同様、施設管理のみを行う事業者となったが、運賃制度等で当時の名残が残されている。
総[[営業キロ]]は7.6km程度と短いものの、第三種鉄道事業者や[[日本民営鉄道協会]]非加盟事業者で唯一[[準大手私鉄]]に位置付けられている。
神戸高速鉄道は、設立の主目的こそ私鉄4社の連絡であったが、[[神戸市電]]の[[都市高速鉄道]]への置き換えも兼ねており、東西線は[[兵庫駅|兵庫駅前]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅前]]間の置き換え(山陽電気鉄道の併用軌道区間代替を含む)、南北線は[[新開地駅|新開地]] - [[湊川公園駅|湊川公園]]間の置き換えという面もあり、神戸市が経営に積極的に関与する理由となっていた。ちなみに、[[神戸市営地下鉄西神・山手線|市営地下鉄山手線]]は[[神戸市電山手・上沢線|市電山手・上沢線]]・[[神戸市電石屋川線|石屋川線]](一部区間)の置き換え、[[神戸市営地下鉄海岸線|市営地下鉄海岸線]]は[[神戸市電板宿線|市電板宿線]]・[[神戸市電高松線|高松線]]・[[神戸市電栄町線|栄町線]]の置き換えという扱いになっている。なお、神戸市営地下鉄の条例上での正式名称は「神戸'''市'''高速鉄道」であり、「神戸市高速鉄道乗車料条例」などにその名称が見られる。
=== 主要株主 ===
2021年7月1日現在<ref>[https://www.city.kobe.lg.jp/documents/44541/20210805gaitoku7.pdf 令和3年度 神戸高速鉄道株式会社 事業概要]</ref>
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:95%"
!株主社名!!所有株式数(株)!!発行済み株式総数に対する所有株式数の割合
|-
| style="text-align:left;" | [[阪急電鉄]]株式会社||103,435||25.86%
|-
| style="text-align:left;" | [[阪神電気鉄道]]株式会社||103,435||25.86%
|-
| style="text-align:left;" | [[神戸市]]||100,000||25.00%
|-
| style="text-align:left;" | [[山陽電気鉄道]]株式会社||48,810||12.20%
|-
| style="text-align:left;" | [[神戸電鉄]]株式会社||31,610||7.90%
|-
| style="text-align:left;" | 株式会社[[三井住友銀行]]||12,700||3.18%
|-
| style="text-align:left;" | 他1名||10||0.00%
|}
== 歴史 ==
=== 東西線・南北線の建設による市街地交通の改良 ===
4電鉄を連絡する鉄道路線の構想は、1946年策定の「神戸市復興基本計画」に始まる{{Sfn|正司|2005|p=16}}。神戸市街地において、戦後復興計画として[[神戸市電]]が担っていた市街地輸送の高速化・大容量化を、民間鉄道会社4社(京阪神急行=現・阪急、阪神、山陽、神鉄)を活用して実現したい神戸市側の思惑と、戦前に神戸市中心部([[湊川公園]]附近)に路線を延伸したかった民間鉄道会社側の思惑{{Efn|阪神は[[1934年]]に三宮から元町を経て湊川に至る路線免許を取得しており、また山陽も[[山陽明石駅|明石]]から別線で湊川に至る路線計画を立てていて{{Sfn|正司|2005|p=16}}、完成すれば神鉄を含む3社が同地において連絡することが可能になるはずであったが、資材と予算の問題、それに戦時体制の中で、阪神の三宮 - 元町間をのぞく建設は頓挫した。}}とを両立させる形で、1948年に神戸市と4社の間で建設に向けた合意が成立{{Sfn|正司|2005|p=16}}、そこから様々な調整{{Efn|特に難航したのが神戸市側の資金手当てと南北線のルートを変更する検討であったという{{Sfn|正司|2005|p=17}}。}}を経て、[[1958年]]に[[神戸市]]が40%・乗り入れ4社(京阪神急行・阪神・山陽・神鉄)が合計40%、地元財界(当時[[三越神戸支店|神戸支店]]を営業していた[[三越]]や[[関西電力]]、金融機関等)が20%[[出資]]する[[第三セクター]]の鉄道会社として神戸高速鉄道は設立された{{Sfn|正司|2005|p=17}}。運行形態については、自社の車両を保有するより車両と鉄道員を借りたほうが合理的であるとの判断の元、4社の車両が神戸高速鉄道に乗務員ごと乗り入れる形態とした上で、駅や設備の建設・管理を自社で行うことで鉄道事業者としての体裁を整えた{{Sfn|正司|2005|p=17}}。
[[1968年]]に「東西線」「南北線」が完成し、鉄道事業を開始した。このとき、山陽については[[西代駅|西代]]以東を廃線とし、[[電鉄兵庫駅]] - 長田駅間に残っていた[[併用軌道]]の解消があわせて実現された。また、京阪神急行の[[三宮駅#阪急電鉄(神戸三宮駅)|三宮駅]]と神鉄の[[湊川駅]]は[[頭端式ホーム]]を採用していたため、前者は駅の貫通構造化、後者は線路切り替えによる地上駅(トンネル内)から地下駅への移設工事を行って乗り入れに備えた。ほか、この開業で[[直通運転|相互直通運転]]を開始する京阪神急行・阪神・山陽の3社は、山陽が戦後まもなく直流600Vから1500Vへ昇圧工事を実施したのに対し、阪急と阪神は戦後もしばらく直流600V電化のままとなっていたため架線電圧の違いがあり、当初は東西線の高速神戸駅 - 新開地駅間に1500Vと600Vのつなぎ目である[[デッドセクション]]を設置し、[[複電圧車]]のみが直通する案が検討されていたが、最終的には京阪神急行([[1967年]][[10月8日]]実施)と阪神(1967年[[11月12日]]実施)が1500Vへの昇圧を実施することで決着した。
今日、神戸高速線と比較されることが多い[[神戸市営地下鉄西神・山手線|神戸市営地下鉄山手線]]は当時具体化した計画はなく、また当時の[[日本国有鉄道|国鉄]][[山陽本線]](現:[[JR神戸線]]の[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]以西)は長距離輸送の色が強い路線であり(当時[[山陽新幹線]]はまだ開業していなかった)、神戸市内輸送においては今ほどの存在感を示せていなかったので、当路線の開業は市街地輸送の改良に大いに貢献した。
=== 鉄道事業法の施行に伴う運営形態の変更 ===
[[1986年]]、[[国鉄分割民営化]]に備える形で鉄道事業法が成立し、これと引き換えに地方鉄道法が廃止されることが決まる。このとき、神戸高速鉄道は施設を保有し運行を行う[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]として認定されることを希望したが、当時の運輸省は同社が「車両及び乗務員をもっぱら借り受けている」ことを理由に第一種鉄道事業者として認定せず、新法が施行された1987年4月からは鉄道事業法附則第三条第六号に規定された「法律の施行の日から一年間、鉄道事業法第三条第一項の(第一種鉄道事業者の)免許を受けないで、当該事業及びその受託に係る運転の管理を従前の例により引き続き営むことができる」事業者として、従前と同じ営業形態で営業を行った{{Sfn|正司|2005|p=18}}。第一種鉄道事業者として認定されるためには自社で車両と乗務員を用意する必要があったが、車両基地の確保が困難であるとともに、乗務員の要員確保などを含めて暫定措置の1年間で解決するのは困難であるとの判断からこれを断念、第三種鉄道事業者となっても「実質的に従来どおり」となる経営方法の模索を行うことになった{{Sfn|正司|2005|p=18-19}}。
神戸高速鉄道と乗り入れ4社が検討を行い、運輸省との交渉の結果、以下のスキームを採用することが認められ、1988年3月4日に鉄道事業免許の認可申請と「業務の管理の受委託申請書」を運輸省[[近畿運輸局]]に提出、同年3月24日に認可された{{Sfn|正司|2005|p=19}}。
* 神戸高速鉄道が第三種鉄道事業、4社が第二種鉄道事業の免許を取得。
* 運賃制度は「4社共通運賃」(=従前の神戸高速鉄道としての認可運賃)を採用する。
* 運転業務は4社が直接行うが、「列車の運行管理」と「出改札等の駅業務」については神戸高速鉄道に委託し、4社が業務委託料を支払う。
* 鉄道施設の保守管理は神戸高速鉄道が直接行う{{Efn|本来、第三種鉄道事業者は鉄道施設の保守管理を行わないが、運輸省通達により神戸高速鉄道が管理主体となることが認められている{{Sfn|正司|2005|p=19}}。}}。
この結果、運賃収入は形式上第二種鉄道事業者である4社のものという扱いになる{{Efn|このため、形式上ではあるが「神戸高速鉄道が4社に運賃収入相当額を支払う」という行為が発生するため、4社への配分額の計算を簡便化するため、神戸高速鉄道の総営業キロ7.6kmの運行区間に応じて比率按分することになり、南北線(0.4km)相当分を神鉄が、東西線(7.2km)相当分を阪急・阪神・山陽の3社で均等配分する計算方式をとる取り決めがなされたという{{Sfn|正司|2005|p=20}}。}}が、4社から神戸高速鉄道の受け取る業務委託料について「運賃収入から旅客の運送に要する実費相当額{{Efn|地方鉄道法時代に神戸高速鉄道から4社に支払っていた「車両使用料」と同じ。}}と鉄道線路使用料{{Efn|別途4社から神戸高速鉄道に支払われる。}}を差し引いた額とする」という取り決めがなされた結果、4社の第二種鉄道事業に係る収入は実質ゼロ(車両の運転に係る経費のみ)となって、神戸高速鉄道は第三種鉄道事業者でありながら地方鉄道法時代と同じ(第一種鉄道事業者相当の)運賃収入を得ることが出来るようになった{{Sfn|正司|2005|p=20}}。
=== 施設保有による経営支援を通じた交通インフラの整備実現 ===
その後、建設費償還が経営課題となっていて既に[[1999年]]から利用者運賃負担軽減の補助を兵庫県と神戸市から受けていた[[北神急行電鉄]]から[[2002年]]に鉄道施設を譲り受けて同社の経営を支援したり、乗り入れ鉄道会社が鉄道駅の大規模な改良工事を行う際に当該駅を譲り受けたり<ref>{{PDFlink|[http://www.city.kobe.lg.jp/information/inspection/office/kekka/img/18-1-2.pdf 神戸市・財政援助団体等監査報告]}} - 平成18年3月27日・線路や駅など鉄道施設の譲受について記述あり。</ref>と、第三セクター会社という特性を活用している。特に後者の場合は[[国土交通省]]から改良工事費用の補助(鉄道駅総合改善事業費補助や幹線鉄道等活性化事業費補助)を受けられるようにする狙いがあり、その動きは神戸市外の[[尼崎駅 (阪神)|阪神尼崎駅]]や[[甲子園駅|阪神甲子園駅]]にも及んでいる{{Efn|記者発表資料
* 「[https://web.archive.org/web/20060520193028/http://www.city.kobe.jp/cityoffice/15/020/information/19990820up.htm 阪神電鉄 岩屋駅の改良工事を行います]」 神戸市都市計画局 1999年8月20日(Internet Archive) - この資料によれば「完成した駅施設は神戸高速鉄道の所有となり、阪神電鉄は駅施設を賃借する」とある。
* 「[https://web.archive.org/web/20020813231157/http://www.sanyo-railway.co.jp/kou/news/2001/20010914-2.html 山陽電鉄 舞子公園駅の橋上駅舎が完成]」山陽電気鉄道 2001年9月14日 - この資料に「工事は神戸高速鉄道の委託を受けて山陽電気鉄道が行う」の表現が見られる。
* 「[http://www.hanshin.co.jp/company/press/html/20011025.html 阪神電鉄 春日野道駅の改良工事に11月6日着手]」 阪神電気鉄道・神戸高速鉄道 2001年10月25日 - この資料に「改良工事は、神戸高速鉄道が事業主体となり実施するもので、工事の施行は神戸高速鉄道から委託を受け、阪神電気鉄道が行う」という記述が見られる。
* 「[http://www.hanshin.co.jp/company/press/html/20030630.html 阪神電鉄 尼崎駅付近の改良工事に7月1日着手]」 阪神電気鉄道・神戸高速鉄道 2003年6月30日 - この資料に「神戸高速鉄道から委託を受け、阪神電鉄が施工します。」という記述が見られる。
* 「{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR200709252N2.pdf 阪神電鉄 三宮駅の改良工事に10月4日着手]}}」 阪神電気鉄道・神戸高速鉄道 2007年9月25日 - この資料に「工事は神戸高速鉄道から委託を受け、阪神電気鉄道が施行します。」(原文ママ)という記述が見られる。
* 「{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201111213N2.pdf 甲子園駅の改良工事に11月24日着手します]}}」 阪神電気鉄道・神戸高速鉄道 2011年11月21日 - この資料に「工事は神戸高速鉄道から委託を受け、阪神電気鉄道が施行します。」(原文ママ)という記述が見られる。}}。
=== 阪急・阪神経営統合を契機とした東西線・南北線の改良推進 ===
自社で建設した東西線や南北線についても、開業から年月を経て、改良の必要が生じるようになったが、全区間においてその後開業した[[神戸市営地下鉄]]が競合するようになり、その事業主である神戸市が神戸高速鉄道の発行済み株式の4割を保有していた状況では神戸高速鉄道自体が主体的にサービスを改善するのは費用面で難しく、乗り入れ4社の提供するダイヤによる収益拡大や、[[バリアフリー]]化に合わせて駅の改良工事を行うことで[[補助金]]を有効活用したサービス改善(具体的には、[[オストメイト]]対応[[便所|トイレ]]の設置に合わせてトイレ全体のリニューアルを行うことができた[[高速神戸駅]])など、工夫ある取り組みを見せていた。この状況下におりしも、[[2006年]][[10月1日]]に[[阪急・阪神経営統合]]で[[阪急阪神ホールディングス]](HD)が実質21.4%(完全子会社となった阪神電気鉄道が保有する10.7%と阪急阪神HD自らが保有する10.7%{{Efn|乗り入れ4社の中で優劣が生じないよう、特に[[阪神神戸高速線|東西線]]に乗り入れる阪急・阪神・山陽の3社については10.7%の株式保有で揃えられていた。}})を握るようになり、20%を超えたことで[[持分法]]が適用され、[[阪急阪神東宝グループ]]の企業として位置付けされるようになった。その後<!--2007年に入ってから?-->、阪急阪神HD、阪急電鉄、阪神電気鉄道、山陽電気鉄道の4社間で保有率を調整することでいったん阪急阪神HDの持分法適用会社から外れると共に阪急阪神東宝グループからも外れたが、2008年に(2006年の阪急・阪神経営統合を契機として)神戸市が阪急阪神HDに株式15%を売却することを表明{{Efn|残る25%は公共性の担保など(特に、阪神・山陽の駅改良事業や[[北神急行電鉄]]の経営において、[[上下分離方式]]による「鉄道駅総合改善事業費補助」「幹線鉄道等活性化事業費補助」の適用を継続すること)を目的に、引き続き神戸市が保有する。}}した。売却は[[2009年]][[4月1日]]付で実施され、阪急阪神HD傘下の阪急電鉄と阪神電気鉄道が保有する株式(間接保有分)も含めて筆頭株主となり、神戸高速鉄道は子会社共々阪急阪神HDグループの一員になった。
=== 事業体制の変更による経営改善 ===
前述のとおり、神戸高速鉄道は地方鉄道法時代と実質的にほぼ同じ経営リスクを有する運営体制を続けてきたが、輸送人員の減少、[[阪神・淡路大震災]]による長期の休業等で収入が減少する中、震災復旧や安全対策費用の増加により、収支はさらに悪化することとなった。このような状況の下、経営改善を行うため、資産の保有と借入金の返済に特化した事業体制(すなわち、本来の第三種鉄道事業者としての事業形態)に移行することを決定した。
具体的には、[[2010年]][[10月1日]]をもって、以下の措置・手続きがなされた<ref name="release20100913">{{Cite press release|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20100913.pdf|format=PDF|title=2010年10月1日(金)、神戸高速線が新たに生まれ変わります!新体制による運営開始にあわせて、お得な乗車券を発売し、制服・駅名看板をリニューアルします。|publisher=阪神電気鉄道・阪急電鉄|date=2010-09-13|accessdate=2020-06-20}}</ref>。
* 山陽電鉄神戸高速線全線([[西代駅]] - [[高速神戸駅]] - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]・阪急三宮駅《現・阪急神戸三宮駅》間)と、阪急神戸高速線 [[新開地駅]] - 西代駅間の第二種鉄道事業を廃止<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20100716.pdf|format=PDF|title=神戸高速線における鉄道事業許可変更日の決定について|publisher=阪急電鉄・山陽電気鉄道・神戸高速鉄道・阪神電気鉄道・神戸電鉄|date=2010-07-16|accessdate=2020-06-20}}</ref>。
* 前日限りで神戸高速鉄道と乗り入れ4社との間で継続していた「業務の管理の受委託」を終了し、「列車の運行管理」と「出改札等の駅業務」については第二種鉄道事業者(阪神・阪急・神鉄)が責任を負う。
** 営業上の(対外的な)路線名も「東西線」「南北線」から各社の「神戸高速線」に改められ、駅員の制服や駅名表示も第二種鉄道事業者のものに改められた{{R|release20100913}}。
** 阪急・阪神の重複区間となる高速神戸駅 - 新開地駅間は阪急の第二種事業の一部を「阪急から阪神への業務委託」の形で阪神が担う。これにより、東西線は阪急三宮駅 - 高速神戸駅間を除き、基本的に阪神の管轄・管理する路線となる。
* 阪神・阪急・神鉄は神戸高速線内の駅管理運営業務と東西線の列車運行管理業務を阪急の子会社である[[阪急レールウェイサービス]] (HRS) に委託し、神戸高速鉄道から転籍したHRSの社員が引き続き業務にあたる。
** ただし、神戸高速鉄道時代と異なり、駅窓口や券売機では第二種鉄道事業者の切符類を受託販売する形となり、運賃収入も第二種鉄道事業者のものとなる。
** その後、HRSへの委託から阪神電鉄の直営に変更され、転籍した従業員はHRSから阪神電鉄へ再度転籍となっている。<!-- 委託時は阪急電鉄に準じたHRSの制服を着用していたが、現在では阪神電鉄の制服を着用している。 →「委託時」が2010年10月のHRS転籍時を指しているなら、制服もその時点で阪神電鉄と同型になっている。http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201009131N2.pdf -->
これにより同日以降、神戸高速鉄道は定額の鉄道線路使用料を収受し、これにより鉄道資産の減価償却費、借入金の支払利息等の経費を賄い、借入金の償還等を行っている。なお同社はこのとき策定した40年間の長期収支計画(国土交通省認可)に基づいて第二種鉄道事業者(阪急・阪神・神鉄)から定額の線路使用料を収受しており、同計画では支出の大部分を占める減価償却費及び支払利息の漸減に伴い、令和3年度(2021年度)には単年度収支がプラスに転じ、令和31年度(2049年度)には約29億円の繰越利益が見込まれている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/inspection/office/kekka/img_25/kousoku.pdf|format=PDF|title=財政援助団体等監査結果報告|website=神戸高速鉄道株式会社|date=2013-12-20|accessdate=2023-09-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150402132028/http://www.city.kobe.lg.jp/information/inspection/office/kekka/img_25/kousoku.pdf|archivedate=2015-04-02}}</ref>。
したがって現在では、神戸高速鉄道は、阪神なんば線における「[[西大阪高速鉄道]]」や、JR東西線における「[[関西高速鉄道]]」と同様、施設の保有・管理のみを行う会社となっているが、阪急・阪神・神鉄は神戸高速線の運賃について、引き続き自社の他路線とは切り離し独立した運賃体系をとっており{{Efn|このため、一部の周遊型企画乗車券(「スルッとKANSAI大阪周遊パス」阪神拡大版など<ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hanshin.co.jp/ticket/otoku/?mode=detail&seq=4&area=|title=2020年度 スルッとKANSAI大阪周遊パス【大阪エリア版】【阪神拡大版】|publisher=阪神電気鉄道|accessdate=2020-06-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151015032459/https://rail.hanshin.co.jp/ticket/otoku/?mode=detail&seq=4&area=|archivedate=2015-10-15}}</ref>)で「神戸高速線を除く」といった取り扱いが引き続きなされている。ただし、新たな特殊乗車券を増やすことで顧客の利便性向上は図られている。2010年10月には「神戸再発見!きっぷ」という名称で4種類の割引乗車券の発売を開始、1日フリー乗車券の「阪急・阪神梅田版」「阪神全線版」「阪急全線版」と5日フリー乗車券の「芦屋川・芦屋5Days」が発売された。}}、[[スルッとKANSAI]]のカードに印字される符号も'''KK'''のままであると共に、[[交通系ICカード全国相互利用サービス]]によって神戸高速線で利用できる[[PiTaPa]]や[[ICOCA]]などのICカードにおける履歴印字でも'''「神高」'''や'''「神戸高速」'''となっている。
=== 北神線の神戸市への譲渡 ===
1988年に[[北神急行電鉄]]の運営で開業した北神線は、2002年4月1日から神戸高速鉄道が第三種鉄道事業者として線路等の鉄道施設を保有するようになったが、東西線・南北線と異なり第二種鉄道事業者となった北神急行電鉄が引続き運行管理と駅業務を直接担っていた。
2020年6月1日に、北神急行電鉄が北神線の第二種鉄道事業を、神戸高速鉄道が同線の第三種鉄道事業をそれぞれ神戸市に譲渡し、[[神戸市営地下鉄北神線]]となった<ref name=":0" /><ref name="毎日20200602" />。
=== 年表 ===
* [[1949年]]([[昭和]]24年)[[12月12日]] - 東西連絡線敷設免許申請。
* [[1952年]](昭和27年)[[1月22日]] - 東西連絡線敷設免許<ref name="youran">国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』平成28年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会、p.166</ref>。
* [[1958年]](昭和33年)[[10月2日]] - 神戸高速鉄道株式会社設立{{R|youran}}。
* [[1962年]](昭和37年)[[8月20日]] - 東西線着工。
* [[1965年]](昭和40年)[[11月26日]] - 神戸電気鉄道(現:[[神戸電鉄]])からの南北線免許譲受許可{{R|youran}}{{Efn|元々神戸電気鉄道が1949年に免許を取得していたが、これを神戸高速鉄道が譲り受けた{{Sfn|正司|2005|p=16}}。}}。
* [[1966年]](昭和41年)[[10月21日]] - 南北線着工。
* [[1968年]](昭和43年)[[4月7日]] - [[阪神神戸高速線|東西線]]・[[神戸電鉄神戸高速線|南北線]]が開業{{R|youran}}{{Efn|当初の予定では、東西線は1964年度に完成し、1965年4月に開業し、南北線は1966年度に完成する予定であったが、中央幹線道路拡幅工事の遅れによる工事の遅れと南北線の構造を高架式から地下式に変更し、新開地駅での接続に変更したことにより、開業が1968年4月にずれ込んだ<ref>『神戸高速鉄道のあゆみ 創立20周年記念』 p.68</ref>。}}。京阪神急行電鉄(現:[[阪急電鉄]])・[[阪神電気鉄道|阪神電鉄]]・[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]が東西線への乗り入れを通じて相互直通運転開始。神戸電鉄が南北線に乗り入れ開始。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] - [[鉄道事業法]]施行。同法附則第3条第6 - 10項の経過規定に基づき「従前の例」のまま営業を継続。
* [[1988年]](昭和63年)4月1日 - [[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業]]営業開始。阪急電鉄・阪神電鉄・山陽電鉄・神戸電鉄が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業]]営業開始。ただし、阪急電鉄・阪神電鉄・山陽電鉄・神戸電鉄が駅業務を神戸高速鉄道に委託する手続きを取ったため、実質的には営業形態の変化はなし。
* [[1999年]]([[平成]]11年)[[10月1日]] - [[スルッとKANSAI]]と[[フェアライドシステム]]を導入。
* [[2002年]](平成14年)4月1日 - [[北神急行電鉄]]から[[北神急行電鉄北神線|北神線]]の鉄道施設を譲り受け、同線の[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]となる{{R|youran}}。
* [[2006年]](平成18年)[[7月1日]] - 山陽電鉄、[[神戸新交通]]と共に[[PiTaPa]]を導入([[KOBE PiTaPa]]カードを共同で発行)。
* [[2009年]](平成21年)4月1日 - 神戸市が保有株式の一部を阪急阪神ホールディングス (HD) に売却し、HD子会社(阪急電鉄・阪神電気鉄道)保有分も含めて神戸高速鉄道は子会社と共にHD傘下の第三セクターになる。代表職が神戸市職員関係者から阪神電気鉄道出身の藤原崇起に交代。
* [[2010年]](平成22年)10月1日 - 阪急電鉄が新開地駅 - 西代駅間、山陽電鉄が神戸高速線全線の第二種鉄道事業を廃止<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/K1201007161N2.pdf 神戸高速線における鉄道事業許可変更日の決定について]}} - 阪急阪神ホールディングス、2010年7月16日。</ref>。同時に運営体制を変更し、神戸高速鉄道が担ってきた東西線の列車運行や駅舎、付随する施設の管理業務を第二種鉄道事業許可の区分に従って各社に移管。駅などで案内するPiTaPaのブランドをKOBE PiTaPaから阪急阪神グループの[[STACIAカード|STACIA]]に変更。
* [[2011年]](平成23年)4月1日 - 藤原崇起の阪神電気鉄道社長就任に伴い、代表職が同じく阪神出身の嶋井敬司に交代。
* [[2015年]](平成27年)7月 - 財務内容改善のため、資本金を20億円から1億円へ減資<ref name="Shihonkin">{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/municipal/giann_etc/H28/img/gaitoku280726-4.pdf |title=神戸高速鉄道株式会社 財務関係資料 |format=PDF |publisher=神戸市 |accessdate=2017-03-24}}</ref>。
* [[2020年]]([[令和]]2年)4月 - 代表職が阪神出身の久須勇介に交代。
* [[2020年]](令和2年)6月1日 - 北神急行電鉄が北神線の第二種鉄道事業を、神戸高速鉄道が同線の第三種鉄道事業を神戸市に譲渡し、北神線が神戸市交通局に移管される<ref name=":0">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001331110.pdf 報道発表資料:北神急行電鉄北神線の鉄道事業譲渡譲受認可 〜北神線の利用者利便向上と沿線地域の活性化が期待されます〜]}} - 国土交通省、2020年3月3日</ref><ref name="毎日20200602">[https://mainichi.jp/articles/20200602/ddl/k28/040/262000c 地下鉄北神線始まる 北神急行が神戸市営化 /兵庫]. 毎日新聞. 2020年6月2日配信, 2020年6月2日閲覧.</ref>。
== 路線 ==
[[ファイル:Kobe Kosoku Line.png|thumb|250px|路線図<br />赤色・茶色・青色の区間が神戸高速線]]
{{See also|神戸高速線}}
* 東西線:[[西代駅]] - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]/[[三宮駅|神戸三宮駅]]間 7.2km
** [[阪神神戸高速線]]:西代駅 - 元町駅間 5.0km
** [[阪急神戸高速線]]:[[新開地駅]] - 神戸三宮駅間 2.8km(新開地駅 - [[高速神戸駅]]間の0.6kmは阪神神戸高速線と重複)
* 南北線:新開地駅 - [[湊川駅]]間 0.4km
** [[神戸電鉄神戸高速線]]:新開地駅 - 湊川駅間 0.4km
=== 廃止された第二種鉄道事業路線の区間 ===
* 東西線:
** 阪急神戸高速線:西代駅 - 新開地駅間 2.9km
** 山陽電気鉄道神戸高速線:元町駅 - 西代駅間 5.0km、阪急神戸三宮駅 - 高速神戸駅間 2.2km
=== 譲渡された第三種鉄道事業路線の区間 ===
* 北神線:[[新神戸駅]] - [[谷上駅]]間 7.5km
** 2002年4月1日から神戸高速鉄道が第三種鉄道事業者
** 2020年6月1日に第三種鉄道事業を神戸市交通局に譲渡し、[[神戸市営地下鉄北神線]]となる。
== 施設を保有する駅 ==
* 神戸高速線<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/library/secreports/data/174.pdf 阪急阪神ホールディングス株式会社 有価証券報告書 第174期 pp.38-39]}}</ref>
** [[花隈駅]]
** [[西元町駅]]
** 高速神戸駅
** 新開地駅
** [[大開駅]]
** [[高速長田駅]]
以下は駅設備の一部を保有している駅<ref name="Kobe_Rapid_Transit_Railway" />
* [[山陽電気鉄道]]
** [[舞子公園駅]]
* [[阪神電気鉄道]]
** [[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]]
** [[春日野道駅 (阪神)|春日野道駅]]
** [[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]
** [[武庫川駅]]
** [[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]]
** [[甲子園駅]]
* [[神戸電鉄]]
** [[湊川駅]]
== その他の事業 ==
{{右|
[[ファイル:Shinkaichi_stn_Shintetsu.jpg|thumb|200px|none|南北線新開地駅コンコース<br />左端が「高速そば」]]
}}
{{Main|メトロこうべ}}<!-- 移転・閉店・店名変更・経営者変更などがあった場合は、単に除去するのではなく、何があったのかや、いきさつを加筆してください。(「○月○日閉店」など)-->
神戸高速鉄道の[[子会社]]が経営していた飲食店が3つあった。高速そばは神戸高速興業、喫茶ラピッドと喫茶モネは神戸高速サービスの経営であったが、<!-- 子会社は両方とも存在せず、→http://www.hankyu-hanshin.co.jp/company/group.html に神戸高速興業は2012年9月現在まだありますが?(神戸高速サービスはない)-->2010年10月1日に駅売店とともに阪神ステーションネットに譲渡され<ref>[https://www.hanshin-stationnet.co.jp/guidance/index.html#history 阪神ステーションネット 沿革]</ref>、2014年4月1日に同社の駅ナカ事業を分割承継した[[エキ・リテール・サービス阪急阪神]]が運営に当たっていた<ref>[http://ers.hankyu-hanshin.co.jp/shop/result?railways=3 エキ・リテール・サービス阪急阪神サイト]</ref>。地下街の[[メトロこうべ]]は神戸高速興業が運営していたが、2017年4月1日に神戸高速興業と神戸高速鉄道が合併したため神戸高速鉄道の直営となった<ref>[http://www.kobe-kousoku.jp/company.html 会社情報]</ref>。
* 高速そば:[[新開地駅]]南北線ホーム付近にあった[[立ち食いそば・うどん店|立ち食い蕎麦屋]](閉店)
*: 2021年6月中旬から休業していたが7月になって6月30日に閉店した旨の張り紙がされていた。神戸高速鉄道の担当者によると運営元だった虎重山本食品興業から退店の申し出があり閉店に至ったとのこと<ref>[https://trafficnews.jp/post/109392 「高速そば」閉店は序章か? 新開地駅&メトロこうべ 昭和レトロ消えていく地下街]、乗りものニュース、2021年7月31日。</ref>。
*: 2022年4月19日より同場所に「神戸製麺所 新開地店」が入店している。
* 喫茶ラピッド:[[高速神戸駅]]東改札口脇にあった[[喫茶店]](閉店)。
* 喫茶モネ:高速神戸駅西改札口前にあった喫茶店(閉店)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書|author=正司健一 |authorlink= |title=日本的都市鉄道整備の一手法 : 神戸高速鉄道のケース |date=2005-10-25 |publisher=[[関西大学]] |journal=関西大学商学論集 |volume=50 |issue=3-4 |naid= |pages=13-25 |url=https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/8920 |hdl=10112/4624 |ref= {{SfnRef|正司|2005}} }}
* 『[[鉄道ジャーナル]]』2020年6月号内連載「月刊阪急」- 同社の沿革や位置づけが簡明に記述されている。
* 『神戸高速鉄道のあゆみ 創立20周年記念』神戸高速鉄道株式会社記念誌編集委員会編 1978年10月
== 関連項目 ==
* [[阪急・阪神経営統合]]
* [[第三セクター鉄道]]
* [[三越]](現・[[三越伊勢丹]]) - かつての株主
** [[三越神戸支店]] - 西元町駅直結
== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Kobe Rapid Transit Railway}}
* [http://www.kobe-kousoku.jp/ 神戸高速鉄道株式会社](公式サイト)
** [http://www.kobe-kousoku.jp/ekiinfo.html 時刻表・駅案内]
{{阪急阪神東宝グループ}}
{{大手私鉄}}
{{スルッとKANSAI}}
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[[Category:日本の第三種鉄道事業者]]
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[[Category:三越の歴史]] | 2003-03-14T00:47:34Z | 2023-12-24T18:45:10Z | false | false | false | [
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3,976 | NHK (曖昧さ回避) | NHK(エヌエイチケイ) | [
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] | NHK(エヌエイチケイ) | '''NHK'''(エヌエイチケイ)
== 法人 ==
* [[日本放送協会]] ('''N'''IPPON '''H'''OSO '''K'''YOKAI)
** 上記放送局の[[NHK-BS|BS放送]]のうち[[リモコンキーID]]3のチャンネル(103チャンネル)。2023年11月30日までの[[BSプレミアム]]で、BS放送の2023年12月の再編に伴う移行案内を行う。
* [[日本発条]]株式会社([[法人登記]]上は日本発條株式会社) ('''NHK''' SPRING CO., LTD.)
== 日本の政党・政治団体等 ==
* [[みんなでつくる党]] (旧NHK党) - [[日本の政党]]
* [[NHKから国民を守る党]] - 日本の[[院内会派]]([[参議院]])
* [[NHKから国民を守る党]] - 日本の政治団体(同名の政治団体が多数存在する)
== その他 ==
* [[野崎・檜山・岸反応]] (略称・NHK反応) - [[化学反応]]の一つ。
* [[パタクセント・リバー海軍航空基地]]の[[空港コード#IATA空港コード(3レターコード)|IATA空港コード]]。
== 関連項目 ==
* {{prefix|NHK}}
* {{intitle|NHK}}
* [[イルクーツク石油]](ИНК)
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3,977 | 現金自動預け払い機 | 現金自動預払機(げんきんじどうあずけばらいき、英: automatic teller machine、イギリス英語では普通cash machineと呼ぶ)は、銀行などの金融機関(など)で、現金の入金(預け入れ)や支払い(引き出し)、通帳の記帳、残高照会などの窓口業務を、顧客の操作によって自動的に処理する機械装置。略称はATM(エーティーエム)
元々は都市銀行の店舗に設置され、普通預金の預払に用いられていたが、その後金融機関に加えて小売店や公共施設などに幅広く設置されるようになっている。普通預金以外の取引や現金を介さない取引も広く取り扱うよう進化しており、自動取引装置、ACM(自動窓口機)などとも呼ばれる。
金融機関では一般に、店舗に設置している場合は「店舗内ATM」、その他の小売店や公共施設などに設置している場合は「店舗外ATM」と呼び、(現金自動支払機、げんきんじどうしはらいき、キャッシュディスペンサー)と呼ばれ区別されている(ただし、一般にはCD機も含め全て "ATM"と呼ばれることが多い)が、光ファイバー通信による処理能力の飛躍的な向上やコンビニATMなどの簡易型ATMの普及などにより、CD機の台数は2000年代以降減少している。台湾では、CD機にも看板には「ATM」と掲示されている。
1960年に、アルメニア系アメリカ人の発明家・起業家のルーサー・シムジャン(en:Luther George Simjian)が自動預入機つまり硬貨や紙幣や小切手を受け入れる機械を発明したが、これは現金を支払う機能のほうは備えていなかった。この機械は「Bankograph バンコグラフ」と呼ばれたが、この機械が実際に配備されるのには数年ほどかかった。その理由のひとつは発明者Simjianの会社のReflectone Electronics Inc.が Universal Match Corporationに買収されて、それにともなう混乱があったからである。1961年にこのBankographの実験機がニューヨーク市のCity Bankに設置されたのだが、お客たちには受け入れてもらえず、半年後には撤去されてしまった。
世界初の現金自動預け払い機(つまり預入れも支払いもできる機械)は、1967年6月27日にイギリスのバークレイズ(Barclays Bank)のロンドン北部のインフィールドタウン支店で使われ始めた。
日本では1969年 (昭和44年)12月1日に住友銀行 (現・三井住友銀行)が日本初のATMを東京・新宿支店と大阪・梅田支店に設置。
ATMでは、以下のような業務を扱う。基本となるのは下記の4種類である。
また以下の業務は金融機関によって取り扱いの有無がある。
上記の業務に必要な媒体を取り扱うため、紙幣、硬貨、預金通帳、帳票類、磁気ストライプカードなどの挿入・支払口と、案内や操作のための表示画面、操作鍵(キー)などを備える。近年のものは操作部に画面表示と一体化した液晶タッチパネルを採用したものが多い。硬貨については、運搬が困難なことや紙幣に比べて故障が発生しやすいため、一部のATMのみが対応しており、無人店舗やコンビニATMでは硬貨を取り扱わない場合が多い。ごく一部の金融機関のATMでは住所変更・届出の電話番号の変更もキャッシュカードで変更手続する事や、資料請求の依頼をキャッシュカード1枚でできる所もある。
なお、特殊詐欺などに見られる、還付、払戻、返金などはATMを操作して相手が振り込む金を自分の口座で受け取るようなことは業務として含まれておらず、またそのような機能はATMに備わっていない。
基本的には各金融機関により、営業店に併設される。現在では相互接続により、提携金融機関の取引もできるようになっている。一つの管理行のもと、数個の金融機関が共同で運営し、各預金者が無料で利用できる共同出張所の形態もある。なお、提携金融機関の取引には原則、手数料が徴収される。
過去には、銀行界が運営会社(日本キャッシュサービス / NCS)を作り、共同ATMを駅などに設置していたが、金融機関の業態間におけるオンラインの相互接続が進んだことにより、事業を終了し解散した経緯がある。しかし近年、銀行・コンビニエンスストア・警備会社などが出資する共同運営のコンビニATM設置のため株式会社イーネットなどを立ち上げ、設置台数を急激に増やすなど、共同ATMの設置が進んでいる。近年では、パチンコ店への設置が推し進められている。
一般に金融機関では、平日8時45分から19時までと土曜9時から17時まで稼働し、金融機関の店舗によっては、日・祝と大型連休、年末年始は現在も非稼働のところもあるが、近年はATMと勘定系システムの交信がアナログ回線から光ファイバー回線に切り替わり、通信コストが大幅に削減されたこともあって営業時間帯を曜日に関係なく深夜帯まで拡張した箇所も多く出現している。特にコンビニエンスストアのATMは、店舗の営業に合わせて通例24時間稼働し、利用者の取引銀行等の定める時間内で、利便性の幅を拡げている。
ただし、平日18時以降と一部の金融機関では土曜14時以降については時間外手数料が徴収される場合も多い。そのため手数料を無料化する銀行や、一定の取引条件(給与振込や各種料金自動支払等)で手数料を無料化するなどの特典を設け、他行との差別化、顧客の囲い込みを行う銀行が増えてきている。近年では土曜日の時間外手数料を休日扱にしている金融機関が多い。なお、ゆうちょ銀行(郵便局)は郵政省・日本郵政公社時代から時間外及び休日の手数料が無料であったが、2022年1月17日から店外ATMとコンビニATMの時間外及び土曜・休日のATM手数料が有料化された。
日本のATMで入金可能な金種は、一般に現在発行中の紙幣4金種と硬貨6金種全てに対応していることが多い。ただし、一部のATMは紙幣のみで硬貨には対応していないものもある。
日本のATMで出金可能な金種は、紙幣では一般的には千円紙幣と一万円紙幣の2種類のみである。コストを抑えるためと、故障のリスクを下げるという理由で、五千円紙幣の出金に対応しているATMの機種は現在のところ稀である。例外として、ゆうちょ銀行には五千円紙幣に対するものが設置されていることがあるが、その場合でも五千円紙幣で出金するには工夫が必要である。また二千円紙幣の出金はごく一部の機種に限られる。硬貨に関しては、一般に全ての金種が出金可能であるが、最小枚数になるように出金される。ただし前述の硬貨の入金に対応していないATMは硬貨の出金もできない。
各社のATMとも、日本自動販売機工業会のレベル2相当以上の手工具破壊耐力があるといわれているが、建設機械を使ったATMコーナーの破壊事件が相次いでおり、一層の対策を求められている。
その一例として、セブン銀行のATMでは、現金収納部分が不正にこじ開けられると、特殊な液体(緑色)が中の紙幣にこぼれて、収納紙幣を汚損させるといった対策が取られている。2006年(平成18年)12月に発生した、同行ATM強奪事件では、早速同行よりこの特殊液が付着した紙幣についての注意喚起がなされた。
また、防犯上の観点から、システム基板上で動作するオペレーティングシステムやアプリケーションにはMicrosoft WindowsやBSD系UNIXなどをベースとしたプロプライエタリソフトウェアが用いられているほか、ATMの製品カタログや取扱説明書は、原則としてユーザー(金融機関)の中でも限られた担当者・システムエンジニア以外は、請求・閲覧できない。
日本では、機器利用者の本人認証のために、磁気情報が記録された専用のキャッシュカードまたは通帳と、通常4桁の暗証番号を用いる。かつては、暗証番号そのものを平文のまま、磁気ストライプカードに記録していた(生暗証)が、カードリーダーを使って容易に読み取る事が出来るため、旧富士銀行の盗難キャッシュカード事件(1993年(平成5年)7月19日最高裁判決。「判例時報」第1489号111頁以下を参照)を契機に、現在は暗証番号はカードに記録せず、入力した暗証番号は、ホストコンピュータ上の口座登録情報と照合されるようになっている。
しかし、暗証番号の詐用に加え、近時はカードの磁気ストライプ自体の複製により預金が不正に引き出される被害が相次いで問題となっており、以下の取扱が一部の銀行、信用金庫等で始まっている。
視覚障害者への対応として、タッチパネル以外に物理ボタンでも数字を入力できるようにしている機種もあり、また、点字による表示および音声案内機能を持たせたものもある。
ゆうちょ銀行のATMは、視覚障害者の操作性確保のために、全ての稼働機にテンキー・点字・音声案内機能を備えるほか、富士通の民間事業者向け汎用ATM「ファクト・ブイ」(FACT-V)及び後継のFACT-Xには、案内音声を聴取できる受話器が標準装備となっており、この受話器に暗証番号、金額等を入力できるテンキーを備えているが、稼働中の機種については、タッチパネルのみでテンキーを省略した機種が多く、バリアフリーの障害となることが多い。
なおこれとは別にコンビニATMは、筐体を小型化するためタッチパネルが垂直配置であり、狭隘な店内において入力が盗み見られる事を防ぐため、テンキーが周囲を囲われた形状で、右下方に独立した機種への置き換えが進んでいる。また設置者によっては、画面の上に左右からの視野角を意図的に狭くする偏光フィルター膜や衝立を設置したり、バックミラーを設けて、背後に不審者がいないか確かめられるようにしたりするなど、上記のような入力を盗み見られる事件を防いでいるところもある。
前述の音声案内は、視覚障害者だけでなく健常者にとっても操作をサポートする役割を果たしているが、日本語の他に英語での案内も可能となっている機種を設置している金融機関もある。三菱UFJ銀行と知多信用金庫(愛知県)、三井住友銀行のATMでは英語のみならず、ポルトガル語・中国語・朝鮮語の表示も可能となっている。
かつては、東芝やジェトロニクス日本法人、日本ATM等もATMを提供していた。
金融機関の窓口の代用として設置されたことが始まりであることから、日本のATMの脇には、金融機関窓口と同じように、紙幣袋(現金を持ち帰るための封筒)が設置されていることが多い。 なお、2020年現在、紙幣袋(現金袋)の据え置きを廃止する金融機関も現れている。 | [
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"text": "その一例として、セブン銀行のATMでは、現金収納部分が不正にこじ開けられると、特殊な液体(緑色)が中の紙幣にこぼれて、収納紙幣を汚損させるといった対策が取られている。2006年(平成18年)12月に発生した、同行ATM強奪事件では、早速同行よりこの特殊液が付着した紙幣についての注意喚起がなされた。",
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"text": "また、防犯上の観点から、システム基板上で動作するオペレーティングシステムやアプリケーションにはMicrosoft WindowsやBSD系UNIXなどをベースとしたプロプライエタリソフトウェアが用いられているほか、ATMの製品カタログや取扱説明書は、原則としてユーザー(金融機関)の中でも限られた担当者・システムエンジニア以外は、請求・閲覧できない。",
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"text": "日本では、機器利用者の本人認証のために、磁気情報が記録された専用のキャッシュカードまたは通帳と、通常4桁の暗証番号を用いる。かつては、暗証番号そのものを平文のまま、磁気ストライプカードに記録していた(生暗証)が、カードリーダーを使って容易に読み取る事が出来るため、旧富士銀行の盗難キャッシュカード事件(1993年(平成5年)7月19日最高裁判決。「判例時報」第1489号111頁以下を参照)を契機に、現在は暗証番号はカードに記録せず、入力した暗証番号は、ホストコンピュータ上の口座登録情報と照合されるようになっている。",
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"text": "しかし、暗証番号の詐用に加え、近時はカードの磁気ストライプ自体の複製により預金が不正に引き出される被害が相次いで問題となっており、以下の取扱が一部の銀行、信用金庫等で始まっている。",
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"text": "ゆうちょ銀行のATMは、視覚障害者の操作性確保のために、全ての稼働機にテンキー・点字・音声案内機能を備えるほか、富士通の民間事業者向け汎用ATM「ファクト・ブイ」(FACT-V)及び後継のFACT-Xには、案内音声を聴取できる受話器が標準装備となっており、この受話器に暗証番号、金額等を入力できるテンキーを備えているが、稼働中の機種については、タッチパネルのみでテンキーを省略した機種が多く、バリアフリーの障害となることが多い。",
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"text": "なおこれとは別にコンビニATMは、筐体を小型化するためタッチパネルが垂直配置であり、狭隘な店内において入力が盗み見られる事を防ぐため、テンキーが周囲を囲われた形状で、右下方に独立した機種への置き換えが進んでいる。また設置者によっては、画面の上に左右からの視野角を意図的に狭くする偏光フィルター膜や衝立を設置したり、バックミラーを設けて、背後に不審者がいないか確かめられるようにしたりするなど、上記のような入力を盗み見られる事件を防いでいるところもある。",
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"text": "前述の音声案内は、視覚障害者だけでなく健常者にとっても操作をサポートする役割を果たしているが、日本語の他に英語での案内も可能となっている機種を設置している金融機関もある。三菱UFJ銀行と知多信用金庫(愛知県)、三井住友銀行のATMでは英語のみならず、ポルトガル語・中国語・朝鮮語の表示も可能となっている。",
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"text": "かつては、東芝やジェトロニクス日本法人、日本ATM等もATMを提供していた。",
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"text": "金融機関の窓口の代用として設置されたことが始まりであることから、日本のATMの脇には、金融機関窓口と同じように、紙幣袋(現金を持ち帰るための封筒)が設置されていることが多い。 なお、2020年現在、紙幣袋(現金袋)の据え置きを廃止する金融機関も現れている。",
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] | 現金自動預払機は、銀行などの金融機関(など)で、現金の入金(預け入れ)や支払い(引き出し)、通帳の記帳、残高照会などの窓口業務を、顧客の操作によって自動的に処理する機械装置。略称はATM(エーティーエム) | [[ファイル:Yucho-DSC00481.JPG|thumb|[[ゆうちょ銀行]]のATM[[ブース]](大町東郵便局、[[佐賀県]][[杵島郡]])]]
'''現金自動預払機'''(げんきんじどうあずけばらいき、{{Lang-en-short|automatic teller machine}}、[[イギリス英語]]では普通cash machineと呼ぶ)は、銀行などの金融機関(など)で、[[現金]]の入金(預け入れ)や支払い(引き出し)、[[預金通帳|通帳]]の記帳、残高照会などの窓口業務を、顧客の操作によって自動的に処理する機械装置<ref>『日本大百科全書』【現金自動預払機】</ref>。略称は'''ATM'''('''エーティーエム'''{{Efn2|<u>現金自動預払機の略語のATMの読み方は「エーティーエム」しかない</u>。なお、まったく別概念の「[[圧力]]の単位」のatmは「アトム」と読むが、これはあくまで別概念の略語の読み方であり、全く無関係である。</u>。[https://www.weblio.jp/content/ATM]}})
== 概説 ==
[[File:Automated_teller_machines_(ATMs),_OWID.svg|thumb|300px|人口10万人あたりのATMの台数。(このマップではアメリカ合衆国については「データが無い」とされてしまっているが)はっきりしているところでは特に[[イギリス]]、[[オーストラリア]]、[[カナダ]]、[[日本]]、[[韓国]]、[[ロシア]]などが人口比台数が多く、[[西ヨーロッパ]]諸国はおおむねそれに次ぐ水準の台数で、南米では[[ブラジル]]が西ヨーロッパと同水準の人口比台数である、と判る。それに対して[[北アフリカ]]や[[中部アフリカ]]にはほとんど無い、ということも分かる。]]
元々は[[都市銀行]]の店舗に設置され、[[預金|普通預金]]の預払に用いられていたが、その後[[金融機関]]に加えて[[小売店]]や[[公共施設]]などに幅広く設置されるようになっている。[[預金|普通預金]]以外の取引や[[現金]]を介さない取引も広く取り扱うよう進化しており、'''自動取引装置'''、ACM('''自動窓口機''')などとも呼ばれる。
[[金融機関]]では一般に、店舗に設置している場合は「店舗内ATM」、その他の小売店や公共施設などに設置している場合は「'''店舗外ATM'''」と呼び、(現金自動支払機、げんきんじどうしはらいき、キャッシュディスペンサー<ref group="注">{{lang-en-short|cash dispenser}}、'''CD'''</ref>)と呼ばれ区別されている(ただし、一般にはCD機も含め全て "ATM"と呼ばれることが多い)が、[[光ファイバー]]通信による処理能力の飛躍的な向上や[[コンビニATM]]などの簡易型ATMの普及などにより、CD機の台数は[[2000年代]]以降減少している。[[台湾]]では、CD機にも看板には「ATM」と掲示されている。
<gallery>
File:Hancock-Whitney ATM, New Orleans July 2021.jpg|アメリカのHancock-WhitneyのATM([[ニューオーリンズ]])
File:Automated teller machine downtown Harrisonburg VA July 2012.jpg|アメリカ・[[ハリソンバーグ (バージニア州)|バージニア州・ハリソンバーグ]]に設置されているATM
File:OTP ATM, Coop shop, Budapest, Haller utca.jpg|[[ブダペスト]]のOTP銀行のATM
File:PRESTIA Automated Teller Machine at the 1st floor of ABC-MART Umeda Building.JPG|日本の[[プレスティア]]のATM(大阪梅田ビル)
File:ATM MB, Huỳnh Thúc Kháng, Hà Nội 001.JPG|[[ハノイ]]のMBのATM
</gallery>
== 歴史 ==
{{節スタブ}}
;前史
[[1960年]]に、アルメニア系アメリカ人の発明家・起業家の[[ルーサー・シムジャン]]([[:en:Luther George Simjian]])が自動預入機つまり硬貨や紙幣や小切手を受け入れる機械を[[発明]]したが、これは現金を支払う機能のほうは備えていなかった<ref>1961年4月12日づけの''The New York Times''には、この機械について、"Machine Accepts Bank Deposits"と書かれている。 </ref>。この機械は「Bankograph バンコグラフ」と呼ばれ{{Efn2|「銀行記帳機」や「銀行記入機」といった意味の表現である。}}たが、この機械が実際に配備されるのには数年ほどかかった。その理由のひとつは発明者Simjianの会社のReflectone Electronics Inc.が Universal Match Corporationに[[企業買収|買収]]されて<ref>''The New York Times''の1961年3月22日号には Universal社による買収が "Universal Match Maps Acquisition"というタイトルで掲載されている。 </ref>、それにともなう混乱があったからである。[[1961年]]にこのBankographの実験機が[[ニューヨーク市]]の[[シティバンク、エヌ・エイ|City Bank]]に設置されたのだが、お客たちには受け入れてもらえず、半年後には撤去されてしまった<ref>{{cite web|url=http://www.atmmarketplace.com/article/217157/From-punchcard-to-prestaging-50-years-of-ATM-innovation |title=From punchcard to prestaging: 50 years of ATM innovation |publisher=ATM Marketplace |date=31 July 2013 |access-date=27 September 2013 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20130815222832/http://www.atmmarketplace.com/article/217157/From-punchcard-to-prestaging-50-years-of-ATM-innovation |archive-date=15 August 2013 }}</ref>。
;ATMの歴史
'''世界初の現金自動預け払い機'''(つまり預入れも支払いもできる機械)は、[[1967年]]6月27日に[[イギリス]]の[[バークレイズ]](Barclays Bank)の[[ロンドン]]北部の[[インフィールド区|インフィールドタウン]]支店で使われ始めた。
日本では[[1969年]] (昭和44年)12月1日に[[住友銀行]] (現・[[三井住友銀行]])が日本初のATMを東京・新宿支店と大阪・梅田支店に設置。
== 機能 ==
{{銀行業}}
=== 主な取扱業務 ===
ATMでは、以下のような業務を扱う。基本となるのは下記の4種類である。
* お預入れ:[[預貯金]]口座への[[現金]]の預け入れ
* お引出し:預貯金や貸付金、預り金、積立配当金、据置祝金・保険金、保険ファンド、各種キャッシュバックなどの引出し
* 残高照会:預貯金([[貸付金]])残高や取引明細、相場情報、借入(返済)可能額などの照会
* 通帳記入・通帳繰越:[[預金通帳|預貯金通帳]]に記入されていない取引の記入・預貯金通帳の繰越
また以下の業務は[[金融機関]]によって取り扱いの有無がある。
* 貸付金の現金による返済
* 信託口座、証券口座や生命保険口座への入金、MRF・MMF・中期国債ファンドの現金による買付
* 保険ファンドへの入金
* (担保)[[定期預金]]の預け入れ(新規・追加・継続)、満期のお手続き
* [[クレジットカード]]ショッピング利用額の現金による入金<ref group="注">レシート毎、未確定分、当月請求額、ショッピング[[リボルビング払い|リボ]]残高の全部または一部。</ref>
* [[振込]]<ref group="注">現金あるいは[[キャッシュカード]]を利用した振込。</ref>
** 金融機関によっては[[カードローン]]を利用した振込も可能。また、振込券(カード)や振込帳の発行・受け入れ機能を有していたり、振込先を登録できることもあり、よく利用する振込先への2回目以降の振込の際、振込先の受取人名義・金融機関・支店・預金科目及び口座番号が同一であれば、前述の券や振込帳を挿入したり、画面に表示される一覧より選択することで、これらの情報を再入力する手間が省ける。
* 振替<ref group="注">自己の預貯金口座の一方から引き出し、他の預金口座に預け入れる取引。金融機関によっては口座を作成した支店同士でないと取扱できない場合がある。但しゆうちょ銀行の場合、振替は電信振替で自身の貯金通帳から他者の貯金通帳ないしは振替口座宛へ送金する事を意味し、自身の貯金通帳から他金融機関宛の送金が「振込」となる。</ref>
* [[Pay-easy]]
* [[キャッシュカード]]に設定した[[暗証番号]]の変更
* [[STAR (ATMネットワーク)|STAR]]などを介する[[デビットカード]](J-Debit)機能の停止、利用再開
* [[偽札]]や異物を弾く[[紙幣識別機]]の機能
** 大抵のATMは返却口を備え、紙幣口に誤って投入された[[硬貨]]や小さい異物<ref group="注">クリップや鍵など。</ref>はそこに返却される。
* 債券や外国通貨の購入申込
* [[損害保険]]への加入申込
* [[カードローン]]の申込
* [[宝くじ]]<ref group="注">[[数字選択式全国自治宝くじ|ナンバーズ]]など。</ref>の購入
** この場合、設置金融機関のキャッシュカードが必要で、購入代金は同金融機関の普通預金口座より引き落とされ、当せん金も左記口座に振り込まれる。数字の選択等は画面上で行い、また、くじ券の実券も発行されず、代わりにご利用明細票に控え券が印字される。
* [[電子マネー]]のチャージ(入金)、残高照会、ポイント照会、ポイントを利用したチャージ
* カードご利用限度額の変更
* [[募金]]
* [[監視カメラ]]での利用者記録
* 無効カードの回収
** ATMの設置機関以外の金融機関の口座を使用する場合、主に預貯金の引出と預貯金残高の照会を扱っている。
上記の業務に必要な媒体を取り扱うため、[[紙幣]]、[[硬貨]]、[[預金通帳]]、帳票類、[[磁気ストライプカード]]などの挿入・支払口と、案内や操作のための表示画面、操作鍵(キー)などを備える。近年のものは操作部に画面表示と一体化した[[液晶]][[タッチパネル]]を採用したものが多い。硬貨については、運搬が困難なことや紙幣に比べて故障が発生しやすいため、一部のATMのみが対応しており、無人店舗やコンビニATMでは硬貨を取り扱わない場合が多い。ごく一部の金融機関のATMでは住所変更・届出の電話番号の変更もキャッシュカードで変更手続する事や、資料請求の依頼をキャッシュカード1枚でできる所もある。
なお、'''[[特殊詐欺]]'''などに見られる、還付、払戻、返金などはATMを操作して相手が振り込む金を自分の口座で受け取るようなことは業務として含まれておらず、またそのような機能はATMに備わっていない。
== 日本のATM ==
[[ファイル:ATMShinGinkoTokyoNakaiSta.jpg|thumb|[[新銀行東京]]のATM([[都営大江戸線]][[中井駅]]に設置されていたもの)]]
[[File:Seven Bank ATM in 7-ELEVEn.JPG|thumb|[[日本]]の[[コンビニ]]・[[セブン-イレブン]]店内に設置された[[セブン銀行]]'''ATM'''([[コンビニATM]])]]
=== 設置主体 ===
基本的には各金融機関により、営業店に併設される。現在{{いつ|date= 2020年10月15日 (木) 13:56 (UTC)}}では相互接続により、提携金融機関の取引もできるようになっている。一つの管理行のもと、数個の金融機関が共同で運営し、各預金者が無料で利用できる共同出張所の形態もある。なお、提携金融機関の取引には原則、手数料が徴収される。
過去には、銀行界が運営会社([[全国カードサービス|日本キャッシュサービス]] / ''NCS'')を作り、共同ATMを駅などに設置していたが、金融機関の業態間におけるオンラインの相互接続が進んだことにより、事業を終了し解散した経緯がある<!-- もう少し詳しい情報を求む!-->。しかし近年、[[銀行]]・[[コンビニエンスストア]]・警備会社などが出資する共同運営の[[コンビニATM]]設置のため株式会社[[イーネット]]などを立ち上げ、設置台数を急激に増やすなど、共同ATMの設置が進んでいる。近年では、[[パチンコ]]店への設置が推し進められている<ref name="sai20100210">{{Cite news
|url= https://www.excite.co.jp/news/article/Diamond_20100204001/
|title= 新たな警察利権の温床か パチンコ店に銀行ATM!
|author= 小出康成
|work= [[週刊ダイヤモンド]]
|publisher= [[excite. ニュース]]
|date= 2010-02-04
|accessdate= 2020-10-15
}}</ref><ref name="akahata20091117">
{{Cite news
|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-11-17/2009111715_01_1.html
|title= パチンコ店内 ATM設置 警察認識 届け出許可、規制せず
|work= [[日本共産党]]
|publisher= [[しんぶん赤旗]]
|date= 2009-11-17
|accessdate= 2020-10-15
}}</ref><ref name="sai20081014">
{{Cite news
|url= http://news.livedoor.com/article/detail/3857981/
|title= "パチンコ利権"を貪る上場貸金業者と警察の天下り
|work= [[サイゾー]]
|publisher= [[Livedoor ニュース]]
|date= 2008-10-14
|accessdate= 2020-10-15
}} {{リンク切れ|date= 2020年10月}}</ref>。
<!--;ギャラリー-->
=== 営業時間 ===
一般に金融機関では、平日8時45分から19時までと土曜9時から17時まで稼働し、金融機関の店舗によっては、日・祝と[[大型連休]]、[[年末年始]]は現在も非稼働のところもあるが、近年はATMと勘定系システムの交信が[[アナログ回線]]から[[光通信|光ファイバー回線]]に切り替わり、通信コストが大幅に削減されたこともあって営業時間帯を曜日に関係なく深夜帯まで拡張した箇所も多く出現している。特にコンビニエンスストアのATMは、店舗の営業に合わせて通例24時間稼働し、利用者の取引銀行等の定める時間内で、利便性の幅を拡げている。
ただし、平日18時以降と一部の金融機関では土曜14時以降については時間外[[手数料]]が徴収される場合も多い。そのため[[手数料]]を無料化する銀行や、一定の取引条件(給与振込や各種料金自動支払等)で手数料を無料化するなどの特典を設け、他行との差別化、顧客の囲い込みを行う銀行が増えてきている。近年では[[土曜日]]の時間外手数料を休日扱にしている金融機関が多い。なお、[[ゆうちょ銀行]](郵便局)は郵政省・[[日本郵政公社]]時代から時間外及び休日の手数料が無料であったが、[[2022年]][[1月17日]]から店外ATMとコンビニATMの時間外及び土曜・休日のATM手数料が有料化された。
=== 日本のATMで入出金可能な金種 ===
;入金
日本のATMで入金可能な金種は、一般に現在{{いつ|date= 2020年10月15日 (木) 13:56 (UTC)}}発行中の紙幣4金種<ref group="注">流通の少ない[[二千円紙幣]]も含む</ref>と硬貨6金種全てに対応していることが多い。ただし、一部のATMは紙幣のみで硬貨には対応していないものもある<ref group="注">コンビニや店舗外の出張所などに多い。</ref>。
;出金
日本のATMで出金可能な金種は、[[紙幣]]では一般的には[[千円紙幣]]と[[一万円紙幣]]の2種類のみである。コストを抑えるためと、故障のリスクを下げるという理由で、[[五千円紙幣]]の出金に対応しているATMの機種は現在{{いつ|date= 2020年10月15日 (木) 13:56 (UTC)}}のところ稀である<ref group="注">金融機関の店舗内にある両替機を使って、五千円紙幣を出金することは可能。</ref>。例外として、[[ゆうちょ銀行]]には五千円紙幣に対するものが設置されていることがあるが、その場合でも五千円紙幣で出金するには工夫が必要である<ref group="注">ただし最新の機種ではその機能も外されている。</ref>。また二千円紙幣の出金はごく一部の機種<ref group="注">主に[[沖縄県]]のもの</ref>に限られる。[[日本の硬貨|硬貨]]に関しては、一般に全ての金種が出金可能であるが、最小枚数になるように出金される。ただし前述の硬貨の入金に対応していないATMは硬貨の出金もできない。
=== 日本のATMの防犯 ===
各社のATMとも、[[日本自動販売機工業会]]のレベル2相当以上の手工具破壊耐力があるといわれているが、[[建設機械]]を使ったATMコーナーの破壊事件が相次いでおり、一層の対策を求められている。
その一例として、[[セブン銀行]]のATMでは、現金収納部分が不正にこじ開けられると、特殊な液体(緑色)が中の紙幣にこぼれて、収納紙幣を汚損させる<ref group="注">不正に取り出しても、使い物にならなくし、証拠品として使えるようにする。また液の付着が少量にとどまっても、[[カラーボール]]のような追跡支援効果もある</ref>といった対策が取られている。[[2006年]](平成18年)12月に発生した、同行ATM強奪事件では、早速同行より[https://web.archive.org/web/20090430121258/http://www.sevenbank.co.jp/site/info20061208.html この特殊液が付着した紙幣についての注意喚起がなされた]。
また、防犯上の観点から、システム基板上で動作する[[オペレーティングシステム]]や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]には[[Microsoft Windows]]や[[Berkeley Software Distribution|BSD]]系[[UNIX]]などをベースとした[[プロプライエタリソフトウェア]]が用いられているほか、ATMの製品カタログや[[取扱説明書]]は、原則としてユーザー(金融機関)の中でも限られた担当者・[[システムエンジニア]]以外は、請求・閲覧できない。
=== 利用者認証 ===
[[日本]]では、機器利用者の本人認証のために、[[磁気]]情報が記録された専用のキャッシュカードまたは通帳と、通常4桁<ref group="注">[[中国銀聯|銀聯カード]]は6桁</ref>の[[暗証番号]]を用いる<!--(提携取引では4桁)-->。かつては、暗証番号そのものを平文<ref group="注">[[暗号]]化がまったくされていない状態</ref>のまま、磁気ストライプカードに記録していた('''生暗証''')が、[[スキミング|カードリーダー]]を使って容易に読み取る事が出来るため、旧[[富士銀行]]の盗難キャッシュカード事件([[1993年]]([[平成]]5年)[[7月19日]][[最高裁判所 (日本)|最高裁]][[判決 (日本法)|判決]]。「判例時報」第1489号111頁以下を参照)を契機に、現在{{いつ|date= 2020年10月15日 (木) 13:56 (UTC)}}は暗証番号はカードに記録せず、入力した暗証番号は、[[ホストコンピュータ]]上の口座登録情報と照合されるようになっている<ref group="注">カードに暗証番号を記録しない方式への変更を'''ゼロ暗証'''化と称した。</ref>。
しかし、暗証番号の詐用に加え、近時はカードの磁気ストライプ自体の複製により預金が不正に引き出される被害が相次いで問題となっており、以下の取扱が一部の銀行、信用金庫等で始まっている。
* カードの情報を磁気ストライプに代え、複製の困難な[[集積回路|ICチップ]]に記録したICカード
* 預金者の手指や手掌の[[静脈]]叢紋様を予め登録し、利用者の当該部位を取引の都度照合して[[生体認証]]するATM
** 生体認証の対象となる部位については、現状では銀行等の個別規格と、[[全国銀行協会]]の統一規格とが並存しており、提携先のATMが異なる形式で生体認証を行う場合には、ICチップ・生体認証を用いた取引を行えない。この場合は、併せて搭載された磁気ストライプ記載の情報を用いた取引となり、取引金額や取引項目に制限が生じることもある。なお、将来的には他の生体認証情報も記録して、いずれの生体認証型ATMでも利用できるように準備が進められている([[2006年]](平成18年)8月現在)。
=== 視覚障害者への配慮 ===
[[ファイル:Japanese ATM Palm Scanner.jpg|thumb|250px|[[タッチパネル]]式のATM([[三菱UFJ銀行]]の店舗外ATM)<br/>キャッシュカード挿入口の横に背後を確認できるミラーを備える。タッチパネル右側の装置は[[生体認証|掌静脈認証]]用のスキャナー。]]
[[視覚障害者]]への対応として、タッチパネル以外に物理ボタンでも数字を入力できるようにしている機種もあり、また、[[点字]]による表示および音声案内機能を持たせたものもある。
[[ゆうちょ銀行]]のATMは、視覚障害者の操作性確保のために、全ての稼働機に[[テンキー]]・点字・音声案内機能を備えるほか、[[富士通]]の民間事業者向け汎用ATM「ファクト・ブイ」(FACT-V)及び後継のFACT-Xには、案内音声を聴取できる受話器が標準装備<!--貸金業向けなど搭載されていない機体もあるが、レスオプションに位置付けられる-->となっており、この受話器に暗証番号、金額等を入力できるテンキーを備えているが、稼働中の機種については、タッチパネルのみでテンキーを省略した機種が多く、[[バリアフリー]]の障害となることが多い。
なおこれとは別に[[コンビニATM]]は、筐体を小型化するためタッチパネルが垂直配置であり、狭隘な店内において入力が盗み見られる事を防ぐため、[[テンキー]]が周囲を囲われた形状で、右下方に独立した機種への置き換えが進んでいる。また設置者によっては、画面の上に左右からの視野角を意図的に狭くする偏光フィルター膜や衝立を設置したり、バックミラーを設けて、背後に不審者がいないか確かめられるようにしたりするなど、上記のような入力を盗み見られる事件を防いでいるところもある。
;音声案内
前述の音声案内は、視覚障害者だけでなく[[健常者]]にとっても操作をサポートする役割を果たしているが、[[日本語]]の他に[[英語]]での案内も可能となっている機種を設置している金融機関もある。[[三菱UFJ銀行]]<ref group="注">[[日立オムロンターミナルソリューションズ|Leadus]]・[[日立製作所]]製の機械のみ</ref>と[[知多信用金庫]]([[愛知県]])、[[三井住友銀行]]のATMでは[[英語]]のみならず、[[ポルトガル語]]・[[中国語]]・[[朝鮮語]]の表示も可能となっている<ref group="注">三菱UFJ銀行[旧・[[東京三菱銀行]]の支店設置分]のATMJ製のATMは英語のみ</ref>。
=== 日本のATMの主要メーカー ===
* [[富士通フロンテック]](FUJITSU):[[富士通]]が金融端末部門を切り離し、その製造部門と旧富士通機電が統合した会社。販売は富士通が継続して行っている。
* [[沖電気工業]](OKI)
** [[イオン銀行]]向けのATMは、上記の[[富士通フロンテック]]のOEMではなく[[沖電気工業]]のOEMが導入されている。
* [[日立チャネルソリューションズ]](Leadus):[[日立製作所]]と[[オムロン]]が[[2004年]](平成16年)10月に合弁で設立し、両社の金融・現金処理業務向け端末部門を統合。後に、日立の完全子会社化。
* [[日本電気]](NEC)
かつては、[[東芝]]や[[ジェトロニクス]]日本法人、[[日本ATM]]等もATMを提供していた。
=== その他、雑学 ===
金融機関の窓口の代用として設置されたことが始まりであることから、日本のATMの脇には、金融機関窓口と同じように、紙幣袋(現金を持ち帰るための封筒)が設置されていることが多い。
なお、2020年現在、紙幣袋(現金袋)の据え置きを廃止する金融機関も現れている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/715182 |title=京銀と京信、現金封筒の設置終了へ 1月末、京都中信や滋賀銀はすでに終了 |publisher=京都新聞 |date=2022-01-20 |accessdate=2022-01-20}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commons category|Automatic teller machines}}
* [[ジョン・シェパード=バロン]] - ATMの発明者
* [[キャッシュカード]]
* [[暗証番号]]
* [[入金機]]
* [[自動入出金機]]
* [[磁気カードシステム]] - 現金自動預け払い機の必須機能である磁気カードの誕生史実
* [[キャッシュアウト]]
== 外部リンク ==
* [http://100ginkou.jp/atms/ 全国銀行のATM - 最寄りのATMを探すサービス]
{{オートメーション}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:けんきんしとうあすけはらいき}}
[[Category:ATMネットワーク|*]]
[[Category:情報システム]]
[[Category:キャッシュカード|*けんきんしとうあすけはらいき]]
[[Category:オートメーション]]
[[Category:預金]] | 2003-03-14T01:16:03Z | 2023-12-12T14:55:18Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:Efn2",
"Template:節スタブ",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:オートメーション",
"Template:銀行業",
"Template:いつ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite web",
"Template:Cite news",
"Template:リンク切れ",
"Template:Commons category",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E9%87%91%E8%87%AA%E5%8B%95%E9%A0%90%E3%81%91%E6%89%95%E3%81%84%E6%A9%9F |
3,981 | 阪和線 | 阪和線(はんわせん)は、大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅から和歌山県和歌山市の和歌山駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。ほかに通称「羽衣線」と呼ばれる大阪府堺市西区の鳳駅から大阪府高石市の東羽衣駅までを結ぶ支線を持つ。
大阪市南部のターミナルである天王寺から南へ伸び、大阪府南部の各都市を経由して和歌山市へ至る路線であり、JR西日本のアーバンネットワークの一角を成す。ラインカラーはオレンジ色(■)であり、選定理由は「陽光あふれる大地につながるイメージ」とされる。路線記号は R である。愛称も正式名称と同じ「阪和線」である。
阪和線は、当路線より海側を通っている南海電気鉄道の南海本線と競合しているほか、天王寺駅(新今宮駅) - 三国ケ丘駅間では南海高野線と、大阪市内ではOsaka Metroの御堂筋線・谷町線や近鉄南大阪線・阪堺電気軌道などとも競合している。天王寺駅 - 和歌山駅間の1日平均の利用者数は107,079人で、同区間では南海本線の102,701人と比べて多い。
和歌山駅では紀勢本線に接続しており、同線へ直通し南紀方面へ向かう特急「くろしお」も運転されている。関西国際空港(関空)が開港した1994年9月4日以降は、そのアクセス路線としても重要な役割を持つようになっている。途中の日根野駅からは関西空港線が分岐しており、特急「はるか」が京都市・大阪市などと関空を結んでいる。また、大阪環状線経由で大阪駅(梅田)に直通運転する関空快速・紀州路快速が設定されている。
私鉄の南海山手線(旧阪和電気鉄道)を戦時買収して国有化した路線であるため、独特の三角屋根をもった特徴的な駅舎が数多く存在したが、近年駅舎の建て替えなどでその多くが姿を消した。また、日本国有鉄道(国鉄)の多くの駅でみられた2面3線の駅構造がなく、2面4線が主要駅の標準仕様となっている。のちに国鉄分割民営化によりJR西日本の路線となった。
鳳駅から分岐する東羽衣駅までの支線は羽衣線などと通称されている。この区間にはラインカラー・駅ナンバー・路線記号はいずれも設定されていない。なお、杉本町駅から分岐して八尾駅まで通じていた路線(2004年7月1日休止、2009年4月1日廃止)は「阪和貨物線」あるいは「阪和連絡線」と呼ばれていたが、これは阪和線ではなく関西本線の支線であった。
支線も含め、全線が旅客営業規則上の「大阪近郊区間」および「電車特定区間」に含まれており、区間外よりも割安な近距離運賃が適用される。またIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。
天王寺駅 - 長滝駅間(構内を除く)と鳳駅 - 東羽衣駅は近畿統括本部が、長滝駅 - 和歌山駅間は和歌山支社が管轄している。
天王寺駅では阪和電鉄時代から使用している地上の阪和線専用ホームからの発着が基本ではあるが、1989年(平成元年)7月22日に関西本線(大和路線)ホームからも発着が可能となり、特に関西国際空港開港後は大阪環状線と直通する列車を中心に大和路線ホームから発着する列車が大幅に増えている。地上ホームから出発するとすぐ右方向から近づいてくる大阪環状線直通列車が通る連絡線と合流した後、高々架の近鉄南大阪線の下を通り美章園駅に到着する。その先しばらくすると阪神高速14号松原線(その地下にはOsaka Metro谷町線も走っている)と交差する。1929年(昭和4年)の開業時は天王寺駅からここまでが高架で開通し、下に南海平野線が走っていた。この先は杉本町駅の手前まで2004年に完成した高架区間を走る。右手に桃ヶ池公園が見えると南田辺駅、そして右手に長池公園、元シャープ本社と続くと待避線のある鶴ケ丘駅に到着する。鶴ケ丘駅は長居陸上競技場の最寄り駅である。車窓から見える長居公園内にある長居球技場が視界の後方に移動すると長居駅に到着する。地上駅時代にはこの長居駅に待避線があったが、高架後待避線は鶴ケ丘駅に移されている。かつて長居駅の前後にはあびこ筋(府道28号大阪高石線)・長居公園通(国道479号)との踏切があり、渋滞の絶えない箇所であった。我孫子町駅を過ぎると高架区間は終了し徐々に高度を下げる。地上に降りると大阪市立大学の最寄り駅で待避線のある杉本町駅に着く。2008年までは関西本線久宝寺駅から延びていた阪和貨物線の終点であった。
大和川を渡り堺市に入る。堺市に入って最初の駅が浅香駅である。浅香駅の南側でも西除川と狭間川という二つの川を渡る。次が快速停車駅の堺市駅である。堺市駅を出ると高架道の大阪府道12号堺大和高田線の下を通る。金岡南二踏切を過ぎると徐々に線路脇の地面が高くなって掘削部を進むようになる。そして中央環状線の下を通ると南海高野線との接続駅である三国ケ丘駅に到着する。三国ケ丘駅を出るとすぐに南海高野線と国道310号(西高野街道)の下を過ぎ、徐々に高度を上げ百舌鳥駅に着く。百舌鳥・古市古墳群として世界文化遺産に登録された日本最大級の古墳である大仙古墳(仁徳天皇陵) は進行方向の右側(西側)に見える。百舌鳥駅を出ると西側には広々とした大仙公園の風景がしばらく続く。また西側だけでなく東側にも古墳が見受けられるようになる。泉北1号線の通称がある府道34号堺狭山線の交差する場所に新幹線型の待避構造をもつ2面4線の上野芝駅がある。上野芝駅を出ると百済川を越え津久野駅に到着、その先で石津川を越えそして右手に大鳥大社が見えてくると堺市西区の中心駅である鳳駅に着く。鳳駅は東羽衣駅への支線が分岐しており、鳳駅の南東に車両基地(2012年5月31日までは日根野電車区鳳派出所(旧・鳳電車区))も併設されていて、阪和線における拠点駅の一つである。車両基地の奥にはかつて帝國車輌(のちの東急車輛製造大阪工場)が存在し鉄道車両の製造を行っていたが、現在はショッピングセンターのアリオ鳳に変わっている。
高石市に入ると富木駅があるが、すぐに和泉市に入る。堺泉北道路の下を過ぎると和泉市最初の駅である北信太駅で、信太山駅と続き、和泉市の中心駅である和泉府中駅までほぼ直線が続く。なおこの区間(信太山駅 - 和泉府中駅間)には駅の設置はないが泉大津市との市境が入り乱れている部分もあり、立体化が進められない要因の一つになっている。和泉府中駅には一部の特急が停車する。和泉府中駅を発車すると地下道化された国道480号を越える。以前の踏切は残されているが立体化により渋滞は無くなった。徐々に駅間距離も長くなり、毎日牛乳和泉工場を過ぎて岸和田市に入ると、久米田駅・下松駅と続き、待避線のある東岸和田駅に着く。東岸和田駅は快速停車駅でありながらかつてはホーム幅が狭い上にバリアフリー設備がなく、駅前後に踏切があるなど旧態依然の形であったため連続立体交差化がなされ、2017年に高架駅となった。右手のイオン東岸和田店の隣には私立病院があるが、そこは関西圏でシネコンのさきがけとなったワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田の跡地である。待避線のある東貝塚駅は国鉄時代に貨物営業を行っていたときに補機の連結・切り離しを行っていたために構内はやや広いがホーム幅は高架化前の東岸和田同様に狭い。また近くにはユニチカ貝塚工場も存在していた。少しして水間鉄道水間線、府道貝塚中央線・13号線の通称を持つ府道大阪和泉泉南線を越えて和泉橋本駅に着く。この駅あたりから徐々に山谷が増えだし、右手には次第に関西国際空港が見え始める。泉佐野市に入って東佐野駅を過ぎ国道170号(大阪外環状線)の下を通ると快速停車駅で待避線のある熊取町の中心駅である熊取駅に着く。近年はバリアフリー対応の改良工事や駅前広場が完成するなど、開発が進んでいる。再び泉佐野市に入って左手に見えるイオンモール日根野を過ぎると、関西国際空港の玄関口である日根野駅に着く。
日根野駅を過ぎると右手に関西空港線が分かれ、左手に吹田総合車両所日根野支所が見える。関西空港自動車道・国道481号の下を通ると日根野支所が途切れて、車窓は田園地帯が目立つようになる。2面4線の長滝駅と進むにつれて住宅地が広がり、泉南市に入って新家駅を過ぎると和泉砂川駅に着く。かつては駅周辺に遊園地が存在していたが、現在は住宅地になっている。
和泉砂川駅を過ぎると徐々に勾配区間が増える。孝子峠へ向けて進路を南西に取り続ける南海本線と異なり、阪和線は阪南市に入るとすぐに雄ノ山峠へ向けて進路を南に取り、和泉鳥取駅構内のカーブを過ぎ住宅地を抜けると長い山岳区間に入る。阪和自動車道や大阪府道64号が並行して走り、カーブが多くなり、春には多くのカメラマンや桜の花見客が訪れる山中渓駅に着く。駅近くにはわんぱく王国という遊園地もあり、土休日には家族連れなどで賑わっている。山中渓駅を過ぎると程なく左側に山中渓温泉(廃業)が見えた後、和歌山県に入りトンネルが多くなる。長い雄ノ山トンネルを抜けると、阪和自動車道と京奈和自動車道とを結ぶ和歌山ジャンクションの取付道路が頭上で交差し、線路は右カーブしながら徐々に高度を下げる。左手に住宅や畑が点々と目に入り、平野部に向かって下り勾配を一直線に下り始める。カーブを曲がり左手に和歌山県道7号が見え始めると紀伊駅、再び田畑や住宅地が点在し、阪和自動車道をくぐると六十谷駅に到着する。
六十谷駅の先で紀の川を渡り、右にカーブすると住宅地に入り、国道24号を渡ってすぐに盛土駅の紀伊中ノ島駅に到着。紀伊中ノ島駅のすぐ先にある鉄橋の下には元々和歌山線が走っていて、駅の西側には和歌山線の紀伊中ノ島駅のホームが残っている。そして和歌山市駅方向から伸びてきた紀勢本線を越えて地平に下り始める。紀勢本線と和歌山線が左手に並行して走ると終点和歌山駅に着く。和歌山駅は和歌山市の玄関口であり、特急列車や一部の快速列車は紀勢本線海南・紀伊田辺方面に直通している。
羽衣線の列車は、鳳駅西側の5番のりばから発着する。ホームは島式であり、かつては反対側は6番のりばとして使用されていたが、現在はホームの端に柵が設けられており線路は撤去されている。ホームと線路は右にカーブしている。列車が鳳駅を発車してもしばらく右カーブが続き進行方向を南から西に変える。程なく線路は高架区間に入り徐々に高度をあげる。羽衣線のほぼ中間地点にある片側3車線の道路が国道26号(第二阪和国道)である。その国道26号を越えて西進する。地面の標高自体下がってくるため、高架のままではあるがこの先東羽衣駅まで下り坂である。やや右カーブした箇所を通り過ぎると終点の東羽衣駅に到着する。すぐ西側には南海本線羽衣駅がある。
阪和線内運転の列車のほか、大阪環状線・関西空港線・紀勢本線(きのくに線)や、梅田貨物線を経由してJR京都線・琵琶湖線に直通運転する列車も設定されている。待避設備は鶴ケ丘駅・杉本町駅・上野芝駅・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・東貝塚駅・熊取駅・日根野駅・長滝駅・和泉砂川駅・紀伊駅にある。
2023年3月18日ダイヤ改正時点での運行概況は次の通り。
日中の1時間あたりの運行本数は、特急「くろしお」が1本、特急「はるか」が2本、関空快速・紀州路快速が大阪環状線 - 関西空港駅・和歌山駅間で4本、区間快速が天王寺駅 - 熊取駅間で4本、普通が天王寺駅 - 鳳駅間で4本である。
特急は、京都・新大阪方面から梅田貨物線・大阪環状線・当線を経て、きのくに線に直通する南紀方面への「くろしお」(283系・287系・289系使用)と、関西空港への空港連絡列車として関西空港線に直通する「はるか」(281系・271系使用)が運転されている。「くろしお」は日中は1時間に1本、「はるか」は概ね1時間に2本が運転されている。多客期には臨時列車も運転されている。「はるか」は新型コロナウイルス感染症流行の影響で2020年9月から2022年6月までは日中の列車が運休していた。
「くろしお」は途中、全列車が日根野駅に停車し、「はるか」は阪和線内は原則無停車である。ただし、朝晩は通勤特急としての役割を果たすため、「くろしお」は朝の下りと夜の上りのみ和泉府中駅と和泉砂川駅に、「はるか」は朝の京都行きと夕夜間の関西空港行きのみ、和泉府中駅と日根野駅に停車する。
広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、阪和線の天王寺発着かつ関空快速と併結しない列車、および大阪環状線から直通する鳳・東岸和田・日根野行きの列車は「快速」を称する。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。日中時間帯は運転されていない。
阪和線の天王寺駅発着列車の一部は、きのくに線に直通する。以前は日中にも天王寺駅 - きのくに線御坊駅・紀伊田辺駅間を直通する列車が1時間1本あったが、2000年3月11日のダイヤ改正で大半が系統分割されて和歌山駅発着になり、以後は朝晩に限って設定されている。きのくに線区間では基本4両編成での運用のため、8両編成運転の列車は日根野駅または和歌山駅で後ろ4両の切り離しを行う。また和歌山駅発着の列車も一部は日根野駅で連結・切り離し作業を行う。
2022年3月12日改正時点のダイヤでは天王寺駅 - 和歌山駅間を最速58分で運転している。特急以外では最速種別であるが、停車駅が増加傾向にあることと、途中駅で特急列車の通過待ちをする列車が多いため、同区間で60分を切る列車は土休日ダイヤの1本のみである。
かつて朝6時台・夜22時台(天王寺発は23時台)には新大阪発のきのくに線直通列車(朝は湯浅行き、夜は御坊行き)が存在したが、2018年3月17日のダイヤ改正で新大阪駅への乗り入れは消滅。土休日朝運転の湯浅行き以外は、きのくに線直通となった大阪環状線内を始発とする紀州路快速に置き換えられた(土休日朝の湯浅行きは天王寺発の快速列車として存続したが、2022年3月12日のダイヤ改正で大阪環状線内を始発とする紀州路快速となった。また、従来御坊行きが運転されていた時間帯には「くろしお」が増発されている)。この列車は「はるか」や「くろしお」などと同じく梅田貨物線を走るため大阪駅を経由しなかった。深夜に運転される列車に関しては、165系電車を使用し、1999年10月2日のダイヤ改正で紀伊田辺行きに変更されるまで夜行列車として新宮駅まで運転されていた。この列車は2002年3月23日ダイヤ改正で221系に置き換えられ、2010年3月13日のダイヤ改正で御坊行きに変更された。
かつては朝・夕方ラッシュ時に天王寺駅発着で和歌山線・きのくに線に直通する列車(両線直通列車を併結したいわゆる多層建て列車)もあった。2008年3月14日までは日根野駅で関空快速と併結する和歌山発天王寺行きも設定されていた。
紀伊駅は1988年3月13日から1999年5月9日まで、六十谷駅は1993年3月18日から1999年5月9日までラッシュ時のみ停車していた。紀伊中ノ島駅は国鉄時代からラッシュ時のみ停車していたが、1993年3月18日からは通過となった。また、日根野駅は1994年9月3日までは原則通過駅で、当時の日根野電車区に出入りする列車のみが停車する「快速始発駅」であった。
2008年3月15日のダイヤ改正で和歌山駅発着の快速のほとんどは大阪環状線直通の関空快速・紀州路快速となり、天王寺駅 - 和歌山駅・きのくに線間の列車は朝・夕ラッシュ時と夜間の運転になった。2011年3月12日のダイヤ改正では、日中の大半の天王寺駅 - 日根野駅間の列車が区間快速に置き換えられる一方で、はんわライナー廃止に伴い夕方以降に天王寺駅 - 和歌山駅間の列車が設定された。
過去には4ドア車も運用され、103系が1968年10月1日 から2012年3月16日まで、205系1000番台が1988年3月13日から2012年3月16日まで、205系0番台が2007年3月18日から2010年12月1日まで運用されていた。また3ドア車は、113系が1972年3月15日から2011年12月10日まで、奈良電車区(現在の吹田総合車両所奈良支所)所属の221系が2000年3月11日 から2010年12月1日まで運用されていた。
広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、大阪環状線内で各駅に停車する列車は発駅にかかわらず「直通快速」を称する。
2008年3月15日のダイヤ改正で新設され、平日の朝ラッシュ時に大阪環状線外回りを経由して大阪・京橋方面に運転されている。阪和線内の停車駅は快速と同じである。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。関空・紀州路快速と同様に関西空港・和歌山発系統を日根野駅で連結する列車も2本ある。
かつては下り列車も運転されていた。運転開始当初は大阪環状線から鳳行きと和歌山行きがそれぞれ1本ずつ運転されていたが、2011年3月12日のダイヤ改正から鳳行きは関西空港・和歌山行きに変更され、2012年3月17日のダイヤ改正で設定がなくなった。
広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、大阪環状線内でも快速運転を行う関西空港駅発着列車および阪和線天王寺駅 - 関西空港駅間のみを運行する列車は「関空快速」を、大阪環状線内でも快速運転を行う和歌山駅発着列車(きのくに線直通を含む)および阪和線天王寺駅発着で関空快速と併結する列車は「紀州路快速」を、それぞれ称する。
日中は大阪環状線天王寺駅 - 大阪駅 - 関西空港駅・和歌山駅間で1時間に4本運転される。基本的に大阪環状線 - 日根野駅間では関空快速と紀州路快速を併結して8両編成で運転されており、関空快速が関西空港・和歌山寄りに、紀州路快速が天王寺・大阪寄りに連結されている。天王寺駅 - 日根野駅間の停車駅は快速と同じで、紀州路快速は日根野駅 - 和歌山駅間では朝の一部列車を除き各駅に停車する。紀州路快速は、きのくに線紀伊田辺発や湯浅駅・海南駅・御坊駅発着の列車も設定されている。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。
関空快速は、特急「はるか」とともに関西国際空港へのアクセス列車として、天王寺駅 - 関西空港駅間において関空開港日の1994年9月4日から運転されている。2008年3月14日まではJR難波駅発着列車も設定されていた。
紀州路快速は、大阪方面から和歌山への観光客や通勤客の増大を図ろうと、これまでの京都・新大阪方面からの特急列車に加えて、1999年5月10日の改正で新設された列車である。2011年3月11日までは日根野駅 - 和歌山駅間でも原則、快速運転を行っていた。
なお、1995年4月20日から1999年5月9日までは、関空快速よりもさらに停車駅が少ない関空特快「ウイング」も運転されていた。
区間快速は、天王寺駅 - 鳳駅間の快速停車駅と、鳳駅 - 和歌山駅間の各駅に停車する列車である。
日中は天王寺駅 - 熊取駅間、朝と夕方は天王寺駅 - 日根野駅間で1時間に4本運転されており、東岸和田駅で関空快速・紀州路快速と相互接続を行う。日根野駅以南では、平日朝ラッシュ時に和歌山行きが1本、和歌山発が3本設定されている。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。
前身は阪和電気鉄道時代からの急行および準急で、1958年11月7日に両者を統合の上、紀勢本線直通列車種別と識別するために直行に改称された。当時の停車駅は金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅と和泉府中駅 - 東和歌山駅(現在の和歌山駅)間の各駅であった。1968年10月1日のダイヤ改正では区間快速に再改称されるとともに、従来の直行停車駅を引き継ぐ列車のほか、堺市駅と鳳駅 - 和歌山駅間の各駅に停車する列車が新たに設定された。天王寺鉄道管理局内では前者を「区間快速A」、後者を「区間快速B」と呼んでいた。1972年3月15日に後者に統一された。1986年10月31日までの日中は1時間に2本の運転で、鳳駅で折り返しの普通と、熊取駅で快速とそれぞれ緩急接続していた。
1986年11月1日のダイヤ改正で三国ケ丘駅にも停車するようになったが、日中の列車が快速に格上げされ、1992年3月14日のダイヤ改正では、夕方以降の列車は快速に置き換えられた。この削減傾向は1999年5月10日に三国ケ丘駅が快速停車駅になってさらに強まった。この間、1986年11月1日から1999年5月9日まで鳳駅で折り返す列車も設定されていた(現在の鳳駅折り返し快速と同じ停車駅)。また2008年3月14日までは和泉砂川駅で折り返す列車も存在していた。
2003年10月1日に新大阪駅からの新幹線接続のために夜の日根野行きが設定され、鳳駅→日根野駅間の終電が繰り下げられた。また、2003年10月4日から2006年3月12日まで土曜・休日の朝に1往復のみ大阪環状線 - 鳳駅間の列車(大阪環状線内各駅に停車)が設定されていた。こうして、2011年3月11日までは朝ラッシュ時と日根野行きの最終列車のみの設定となっていたが、翌12日の改正より日中の運転が再開されている。2022年3月12日の改正で、輸送力の適正化を目的に、運転時間帯の拡大と日中時間帯の列車の熊取駅折り返しへの変更が行われた。
普通は、運行区間内のすべての駅に停車する列車である。
日中時間帯は天王寺駅 - 鳳駅間で1時間に4本運転されている。この時間帯は鶴ケ丘駅と上野芝駅で関空快速・紀州路快速、杉本町駅で区間快速の通過待ちを行う。朝晩は熊取駅・日根野駅・和泉砂川駅・和歌山駅発着およびきのくに線御坊始発の設定がある。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。
国鉄時代のうち昭和40年代までは杉本町駅・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・東貝塚駅・熊取駅・和泉砂川駅など折り返しパターンが多彩であったが、昭和50年代になると鳳駅・東岸和田駅折り返しに集約され、日根野方面まで来る列車は朝晩のみであった。この当時は区間快速が2011年3月12日以降と同様に日中にも運転されており、普通の代わりに鳳駅・東岸和田駅 - 和歌山駅間の各駅の輸送を担っていたためである。この当時は天王寺駅 - 和歌山駅間で各駅に停車する列車は1日2往復のみであった。1986年11月1日のダイヤ改正では区間快速が快速に格上げされた関係で日中時間帯の普通の運転系統が天王寺駅 - 和泉砂川駅・和歌山駅間に延長された。1992年3月14日の改正で、夕方の区間快速が快速になったため、この時間帯の普通も運転区間が延長された。2011年3月12日のダイヤ改正で日中の鳳駅 - 日根野駅間は区間快速が、日根野駅 - 和歌山駅間は紀州路快速がそれぞれ各駅に停車することとなったため、鳳駅以南では日中の運用が消滅した。
過去には4ドア車の103系(4・6両編成)および205系(4・6両編成)、3ドア車の113系(2・6両編成)および223系2両編成を2本連結した4両編成も使用された。
毎年大晦日深夜から翌年の元旦にかけては、普通のみ天王寺駅 - 鳳駅間で終夜運転を行っていたが、2018年末をもって取り止めとなり、2019年末は全線で終夜運転は行われないこととなった。なお、過去には2017年まで天王寺駅発鳳行き最終列車を日根野駅まで延長運転したほか、大和路線JR難波駅まで乗り入れていた時期もあった。
阪和線の快速列車は、1958年10月1日にそれまで「特急」と呼ばれていた列車を「快速」に名称を変更したのが最初である。当時は1時間に1本の運転で、鳳駅・紀伊中ノ島駅に全列車が、金岡駅(現在の堺市駅)・和泉砂川駅に一部の列車が停車していた。
また同日からそれまで「急行」電車と「準急」電車と別々に運転していたものを統合した上で「直行」に変更した種別も運転を開始した。直行は1時間に2本の運転で、金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅と和泉府中駅 - 東和歌山駅(現在の和歌山駅)間の各駅に停車した。1968年10月1日のダイヤ改正で「直行」が「区間快速」に名称を変更し、鳳駅 - 和歌山駅間を各駅に停車する区間快速も運転されるようになった。
1972年3月15日に阪和線でも新快速が運転開始し、鳳駅にのみ停車して阪和間の所要時間が戦前の超特急と同じレベルの45分で結ばれた。しかし、1977年3月15日に熊取駅と和泉砂川駅が停車駅に追加され、1978年10月2日改正で廃止された。同改正では紀勢本線和歌山駅 - 新宮駅間の電化が完成したことを受け、天王寺駅 - 和歌山駅間の快速が1時間に2本(うち1本は紀勢本線直通)とされた。1986年11月1日のダイヤ改正からは天王寺駅 - 熊取駅・日根野駅間運転の快速が1時間に2本加わって、天王寺駅 - 熊取駅または日根野駅間では1時間に4本の運転となった。和歌山駅発着と紀勢本線直通には113系が、熊取駅・日根野駅発着の快速には103系が充当された。
1988年3月13日のダイヤ改正で、熊取駅 - 和歌山駅間の各駅に停車するB快速が日中1時間に1本新設された。1989年3月11日のダイヤ改正でさらに快速が増発され、1時間に天王寺駅 - 和歌山駅間が3本(うち1本は紀勢本線直通)と天王寺駅 - 日根野駅間が3本に揃えられ、天王寺駅基準で10分に1本の運転になった。
関西国際空港開港に合わせた1994年9月4日改正では「関空快速」が新設された。従来の日根野発着の「快速」を改称し、関西空港線関西空港駅まで延長して、大阪環状線および大和路線JR難波駅への乗り入れを開始した。続く1995年4月20日からは関空快速を速達化した関空特快「ウイング」が運転を開始した。1999年5月10日改正では関空特快の廃止に代わって「紀州路快速」が新設され、おおむね2015年3月14日現在で運転されている列車種別が出揃うことになる。この1999年改正から、三国ケ丘駅・紀伊駅・六十谷駅にすべての快速が停車するようになり、阪和線では日中1時間あたり、関空快速・紀州路快速が2本、単独の関空快速が1本、きのくに線直通の快速が1本、天王寺駅 - 日根野駅間の快速が2本の運転となった。
天王寺駅構内の大和路線との連絡線が複線・立体交差化された2008年3月15日改正では、関空快速の大和路線JR難波駅乗り入れが廃止され、日中の天王寺駅 - 和歌山駅間の快速とともに大阪環状線直通の関空快速・紀州路快速に統合され、関空快速・紀州路快速が日中1時間に3本となった。また、大阪環状線内で各駅に停車する直通快速も朝ラッシュ上りに運転が開始された。2011年3月12日改正では、日中に区間快速が設定され、関空快速・紀州路快速が4本、天王寺駅 - 日根野駅間の区間快速が4本となった。
ここでは1944年の国有化以降の運行状況を記述する。阪和電気鉄道時代の列車については以下を参照のこと。
阪和線では、戦時中の私鉄編入路線の流れで、次項の有料準急「きのくに」が登場する1958年まで、追加料金不要の速達電車を「特急」「急行」「準急」と称していた。特急は1950年に設定され、当初は途中ノンストップであったが、1951年には紀伊中ノ島駅に、1952年には鳳駅と和泉砂川駅に停車するようになった。当初は52系、後に70系が使用された。1958年に快速に改称された。
急行は1949年に設定され、金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・和泉砂川駅・紀伊中ノ島駅に停車していた。準急は1946年に設定され、金岡駅(現在の堺市駅)と鳳駅以南の各駅に停車していた。1958年に急行と準急が統合され、直行に改称された。
1965年 - 1967年に名古屋駅 - 東和歌山駅(現:和歌山駅)間を阪和貨物線経由で運行された気動車特急。
国鉄時代の1984年9月1日から天王寺駅 - 日根野駅間で運転を開始した「ホームライナーいずみ」が前身で、特急「くろしお」で運用された列車が日根野電車区に入区するための回送列車を、座席整理券を要する座席定員制の列車として客扱いしたもので、関西におけるホームライナーはこれが最初であり、下り列車が2本設定された。
1986年11月1日のダイヤ改正で、運転区間が和歌山駅まで延長され、名称も「はんわライナー」に変更されたが、2000年代以降の特急格上げなどによって次第に本数を減らし、2011年3月12日のダイヤ改正ですべて廃止された。
停車駅は、天王寺駅・鳳駅(下りのみ)・和泉府中駅・東岸和田駅・熊取駅・和泉砂川駅・和歌山駅。以前は平日で1日上り3本、下り6本が運転されていたが、2002年3月23日のダイヤ改正で下り1本が新大阪発紀伊田辺行きの特急「くろしお」に、2004年10月16日のダイヤ改正で1往復が新大阪駅 - 和歌山駅(上りは臨時列車扱いで海南発)間の特急「スーパーくろしお」に変更され、上り2本、下り4本となっていた。2009年3月14日のダイヤ改正で土曜・休日ダイヤの運転が廃止され、同年の6月1日より全面禁煙になった。
2010年3月13日に行われたダイヤ改正では、和歌山行きの下り列車は夜に4本、天王寺行きの上り列車は朝に3本運行される形をとっていた(上り6号のみ熊取発)。車両は基本的にはリニューアルが行われていない国鉄色の381系電車が使われていた。特急運用の間合いや車両の都合で「くろしお」用または「スーパーくろしお」用のものが用いられる場合もあり、この場合1号車のグリーン車は普通車扱いとしていた。
かつては車内販売も行っていた。土曜・休日ダイヤでは熊取駅で特急「はるか」に追い抜かれる列車や、東岸和田駅で特急「くろしお」に追い抜かれる列車もあった。また、ダイヤの大幅乱れが発生した際には、座席整理券不要で乗車できるケースがあった。
B快速は、天王寺駅 - 熊取駅間の快速停車駅と、熊取駅 - 和歌山駅間の各駅に停車していた列車である。
1988年3月13日のダイヤ改正で新設され、当初は日中にも1時間に1本運転されていた。しかし、1989年3月11日のダイヤ改正で日中の列車が廃止されると、以後は増減を繰り返しつつ少数が運行されるのみになる。基本的に天王寺駅 - 和歌山駅間での運転であったが、大阪環状線・梅田貨物線経由の新大阪行きや、きのくに線周参見発の列車も設定されていた。2018年3月17日のダイヤ改正にて、早朝の和歌山発新大阪行きのB快速は増発される特急「くろしお」に置き換えられる形で廃止され、阪和線天王寺発着列車も種別が変更されたため、B快速の名称は廃止となった。現在、阪和線天王寺発着で日根野以南の各駅に停車する和歌山方面の快速列車は紀州路快速として運行されている。
廃止直前には全列車が223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されていた。8両編成で運転される列車も設定されていたが、日根野駅 - 和歌山駅間はホーム有効長の関係から4両編成で運転され、日根野駅で増解結を行っていた。2011年3月12日のダイヤ改正時点では、夜間の上り1本は103系または205系1000番台の4両編成で運転されていた。早朝の和歌山発新大阪行きは2011年12月10日まで113系電車4両編成で運転されていた。
なお、阪和線内の路線図にB快速の案内はなく、時刻表には、B快速であっても快速と同じ表記になっていた。列車内で掲出およびJRおでかけネットで提供されている停車駅案内 や「JTB時刻表」では「B快速」とは案内されておらず、単なる快速の停車駅違いの扱いであった。大阪環状線内では単に快速として案内されていた。
全列車がワンマン運転を行い、14 - 20分間隔(日中は15分間隔)でこの区間を折り返し運転している。車両は2018年3月17日のダイヤ改正から225系5100番台4両編成が使用されている。それまでは専用の103系3両編成を交代制で2編成使用していた。運行距離は1.7 km(所要時間3分)で、これはJR旅客6社で最も運転区間が短い営業列車の一つでもある。なお、羽衣線については大晦日の終夜運転は行われていない。
車内および駅の案内では羽衣線と呼称されることはなく、鳳駅での乗り換え案内では「東羽衣方面」、南海羽衣駅での乗り換え案内では「JR鳳行き」と案内されている。
2021年3月のダイヤ改正前まで長らく、近畿地方の都市間鉄道路線では珍しい曜日に関係なく同じダイヤで運行されていたが、同改正からは平日と土休日で別ダイヤとなっている。
天王寺駅 - 和歌山駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、6両編成の225系による普通・区間快速・快速の3号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
阪和線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。
全列車がVVVFインバータ制御の電車で運転されており、289系以外は吹田総合車両所日根野支所(2012年6月1日に車両部門の組織改正が行われ、日根野支所は日根野電車区に相当する)、289系は同総合車両所京都支所(旧京都総合運転所)に配置されている。快速・普通列車用車両は全て2列+1列の転換クロスシート・トイレつきの車両となっている。
前述の通り、並行私鉄との競合や、関西国際空港へのアクセス路線であることから、JR西日本では東海道・山陽本線(JR京都線・JR神戸線)、片町線(学研都市線)、福知山線(JR宝塚線)、北陸本線とともに、新形式車両が優先的かつ最初に投入される路線の一つになっている。
阪和線では、天王寺駅 - 鳳駅間の複々線化が、1958年3月に提出された都市交通審議会の「大阪市およびその周辺における都市交通について」の答申で、1975年を目標年度として整備すべき路線に盛り込まれたが、具体化されることは無かった。
大阪市内区間のうち阪和電鉄開業以前から走っていた近鉄南大阪線と南海平野線との立体交差は元々必要だったため、天王寺駅から美章園駅 - 南田辺間の阪神高速との交差部付近までは開業当初から高架化されていた。しかし、阪神高速交差部付近 - 杉本町駅北側間は長らく地平を走っていて、この区間には12か所の踏切があった。そのうち開かずの踏切が11か所、全国の開かずの踏切のワースト10の3か所の踏切が含まれており、重大な踏切障害事故や主要幹線道路を中心に慢性的な渋滞が発生していた。このため、約4.9 kmを高架化する連続立体交差事業が1983年度から実施され、1999年後半から工事に着手し、2004年10月16日に上り線が、2006年5月21日に美章園駅 - 杉本町駅間の下り線が高架化された。
高架化にあたっては、阪神高速が計画していた大阪泉北線と一体的に整備し、2階を阪和線、3階を阪神高速とした3階建ての高架橋を建設する予定であった。しかし、阪神・淡路大震災での高架橋の倒壊で、沿線住民から耐震性を不安視されたため、3階建ての計画を見直して阪神高速は地下化を検討して、阪和線だけの2階建てで先行して建設が進められていた。3階建て高架橋は、2003年3月に正式に建設中止され、その後高速道路自体の建設が中止された。
2015年3月現在、地上線として残っている大阪市内区間は、杉本町駅北側から杉本町駅 - 浅香駅間の大和川橋梁までである。杉本町駅周辺には住宅街が広がっているほか、大阪公立大学が阪和線に隣接しており、2008年度の1日平均乗車人員は9,079人である。しかし、JR阪和線連続立体交差事業では杉本町駅前後も高架化されることなく地上線として残されたままであり、改札口が西側にしかないうえ同駅前後には開かずの踏切があり、踏切事故が多発していたため、地域住民や大阪市・JR西日本の3者により解決策が模索されていたが、改札口がなかった東側にも改札口を設置することとなり、2012年3月11日から使用が開始された。
また阪和線では、JR西日本が2013年に発表した「安全行動計画2017」に掲げられた輸送障害半減などの目標に向けての取り組みが行われている。
阪和線では関西空港線開業を機に列車本数が増加することから、1993年7月から「阪和線運行管理システム」(初代)が導入されていたが、老朽化が進んでいたことから2013年9月28日にシステムの更新が行われた。この更新により、操作性と応答性が向上されるためダイヤが乱れた際に早期に正常ダイヤに戻ることが可能とされるとともに、発車標の増設や遅れ表示ができる機能を持たせることにより旅客案内機能を拡充させている。
運行管理システムの更新にあわせて、踏切の長時間鳴動対策も実施された。輸送障害発生時には駅で長時間抑止することにより踏切が長時間動作し、踏切非常ボタンの取り扱いや踏切の無謀横断により本来の事象以上に列車の遅延が発生することがある。これにより、踏切が通行できなくなるのを解消するために、我孫子町駅 - 日根野駅間で大阪総合指令所から信号の現示が制御できるように停車場化されている(踏切がない浅香駅を除く)。なお、東岸和田駅付近は2016年度内に高架化されるため、この対策は行われない。
折り返し設備の拡充・新設も行われている。鳳駅では折り返し設備の拡充と新設、熊取駅・東貝塚駅で折り返し設備が新設された。鳳駅では天王寺方面からの折り返しは1ルートであったが3ルートにするとともに、和歌山方面からは新たに折り返しができるように改良されている。鳳駅 - 熊取駅間で輸送障害が発生した場合でも、運転見合わせ区間が鳳駅 - 熊取駅間の最小限にすることが可能になり、早期に通常ダイヤに戻ることができると見込まれている。
京阪電気鉄道や大阪商船などが出資の阪和電気鉄道により、南海鉄道の保有する南海本線で独占されていた阪和間の輸送に切り込むため建設された。そのため、阪和と南海の間ではしばらく激しい乗客獲得競争が繰り広げられたが、1940年に阪和は南海に合併されて同社の山手線となり、さらに1944年に阪和間の直通路線を有していなかった国鉄(運輸通信省)に戦時買収され、阪和線となった。「阪和電気鉄道」の項目も参照のこと。
なお東羽衣への支線は、浜寺に存在した海水浴場への輸送が大きな目的となって建設された。 | [
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"text": "阪和線(はんわせん)は、大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅から和歌山県和歌山市の和歌山駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。ほかに通称「羽衣線」と呼ばれる大阪府堺市西区の鳳駅から大阪府高石市の東羽衣駅までを結ぶ支線を持つ。",
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"text": "大阪市南部のターミナルである天王寺から南へ伸び、大阪府南部の各都市を経由して和歌山市へ至る路線であり、JR西日本のアーバンネットワークの一角を成す。ラインカラーはオレンジ色(■)であり、選定理由は「陽光あふれる大地につながるイメージ」とされる。路線記号は R である。愛称も正式名称と同じ「阪和線」である。",
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"text": "阪和線は、当路線より海側を通っている南海電気鉄道の南海本線と競合しているほか、天王寺駅(新今宮駅) - 三国ケ丘駅間では南海高野線と、大阪市内ではOsaka Metroの御堂筋線・谷町線や近鉄南大阪線・阪堺電気軌道などとも競合している。天王寺駅 - 和歌山駅間の1日平均の利用者数は107,079人で、同区間では南海本線の102,701人と比べて多い。",
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"text": "和歌山駅では紀勢本線に接続しており、同線へ直通し南紀方面へ向かう特急「くろしお」も運転されている。関西国際空港(関空)が開港した1994年9月4日以降は、そのアクセス路線としても重要な役割を持つようになっている。途中の日根野駅からは関西空港線が分岐しており、特急「はるか」が京都市・大阪市などと関空を結んでいる。また、大阪環状線経由で大阪駅(梅田)に直通運転する関空快速・紀州路快速が設定されている。",
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"text": "私鉄の南海山手線(旧阪和電気鉄道)を戦時買収して国有化した路線であるため、独特の三角屋根をもった特徴的な駅舎が数多く存在したが、近年駅舎の建て替えなどでその多くが姿を消した。また、日本国有鉄道(国鉄)の多くの駅でみられた2面3線の駅構造がなく、2面4線が主要駅の標準仕様となっている。のちに国鉄分割民営化によりJR西日本の路線となった。",
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"text": "鳳駅から分岐する東羽衣駅までの支線は羽衣線などと通称されている。この区間にはラインカラー・駅ナンバー・路線記号はいずれも設定されていない。なお、杉本町駅から分岐して八尾駅まで通じていた路線(2004年7月1日休止、2009年4月1日廃止)は「阪和貨物線」あるいは「阪和連絡線」と呼ばれていたが、これは阪和線ではなく関西本線の支線であった。",
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"text": "支線も含め、全線が旅客営業規則上の「大阪近郊区間」および「電車特定区間」に含まれており、区間外よりも割安な近距離運賃が適用される。またIC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれている。",
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"text": "天王寺駅 - 長滝駅間(構内を除く)と鳳駅 - 東羽衣駅は近畿統括本部が、長滝駅 - 和歌山駅間は和歌山支社が管轄している。",
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"text": "天王寺駅では阪和電鉄時代から使用している地上の阪和線専用ホームからの発着が基本ではあるが、1989年(平成元年)7月22日に関西本線(大和路線)ホームからも発着が可能となり、特に関西国際空港開港後は大阪環状線と直通する列車を中心に大和路線ホームから発着する列車が大幅に増えている。地上ホームから出発するとすぐ右方向から近づいてくる大阪環状線直通列車が通る連絡線と合流した後、高々架の近鉄南大阪線の下を通り美章園駅に到着する。その先しばらくすると阪神高速14号松原線(その地下にはOsaka Metro谷町線も走っている)と交差する。1929年(昭和4年)の開業時は天王寺駅からここまでが高架で開通し、下に南海平野線が走っていた。この先は杉本町駅の手前まで2004年に完成した高架区間を走る。右手に桃ヶ池公園が見えると南田辺駅、そして右手に長池公園、元シャープ本社と続くと待避線のある鶴ケ丘駅に到着する。鶴ケ丘駅は長居陸上競技場の最寄り駅である。車窓から見える長居公園内にある長居球技場が視界の後方に移動すると長居駅に到着する。地上駅時代にはこの長居駅に待避線があったが、高架後待避線は鶴ケ丘駅に移されている。かつて長居駅の前後にはあびこ筋(府道28号大阪高石線)・長居公園通(国道479号)との踏切があり、渋滞の絶えない箇所であった。我孫子町駅を過ぎると高架区間は終了し徐々に高度を下げる。地上に降りると大阪市立大学の最寄り駅で待避線のある杉本町駅に着く。2008年までは関西本線久宝寺駅から延びていた阪和貨物線の終点であった。",
"title": "沿線概況"
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"text": "大和川を渡り堺市に入る。堺市に入って最初の駅が浅香駅である。浅香駅の南側でも西除川と狭間川という二つの川を渡る。次が快速停車駅の堺市駅である。堺市駅を出ると高架道の大阪府道12号堺大和高田線の下を通る。金岡南二踏切を過ぎると徐々に線路脇の地面が高くなって掘削部を進むようになる。そして中央環状線の下を通ると南海高野線との接続駅である三国ケ丘駅に到着する。三国ケ丘駅を出るとすぐに南海高野線と国道310号(西高野街道)の下を過ぎ、徐々に高度を上げ百舌鳥駅に着く。百舌鳥・古市古墳群として世界文化遺産に登録された日本最大級の古墳である大仙古墳(仁徳天皇陵) は進行方向の右側(西側)に見える。百舌鳥駅を出ると西側には広々とした大仙公園の風景がしばらく続く。また西側だけでなく東側にも古墳が見受けられるようになる。泉北1号線の通称がある府道34号堺狭山線の交差する場所に新幹線型の待避構造をもつ2面4線の上野芝駅がある。上野芝駅を出ると百済川を越え津久野駅に到着、その先で石津川を越えそして右手に大鳥大社が見えてくると堺市西区の中心駅である鳳駅に着く。鳳駅は東羽衣駅への支線が分岐しており、鳳駅の南東に車両基地(2012年5月31日までは日根野電車区鳳派出所(旧・鳳電車区))も併設されていて、阪和線における拠点駅の一つである。車両基地の奥にはかつて帝國車輌(のちの東急車輛製造大阪工場)が存在し鉄道車両の製造を行っていたが、現在はショッピングセンターのアリオ鳳に変わっている。",
"title": "沿線概況"
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"text": "高石市に入ると富木駅があるが、すぐに和泉市に入る。堺泉北道路の下を過ぎると和泉市最初の駅である北信太駅で、信太山駅と続き、和泉市の中心駅である和泉府中駅までほぼ直線が続く。なおこの区間(信太山駅 - 和泉府中駅間)には駅の設置はないが泉大津市との市境が入り乱れている部分もあり、立体化が進められない要因の一つになっている。和泉府中駅には一部の特急が停車する。和泉府中駅を発車すると地下道化された国道480号を越える。以前の踏切は残されているが立体化により渋滞は無くなった。徐々に駅間距離も長くなり、毎日牛乳和泉工場を過ぎて岸和田市に入ると、久米田駅・下松駅と続き、待避線のある東岸和田駅に着く。東岸和田駅は快速停車駅でありながらかつてはホーム幅が狭い上にバリアフリー設備がなく、駅前後に踏切があるなど旧態依然の形であったため連続立体交差化がなされ、2017年に高架駅となった。右手のイオン東岸和田店の隣には私立病院があるが、そこは関西圏でシネコンのさきがけとなったワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田の跡地である。待避線のある東貝塚駅は国鉄時代に貨物営業を行っていたときに補機の連結・切り離しを行っていたために構内はやや広いがホーム幅は高架化前の東岸和田同様に狭い。また近くにはユニチカ貝塚工場も存在していた。少しして水間鉄道水間線、府道貝塚中央線・13号線の通称を持つ府道大阪和泉泉南線を越えて和泉橋本駅に着く。この駅あたりから徐々に山谷が増えだし、右手には次第に関西国際空港が見え始める。泉佐野市に入って東佐野駅を過ぎ国道170号(大阪外環状線)の下を通ると快速停車駅で待避線のある熊取町の中心駅である熊取駅に着く。近年はバリアフリー対応の改良工事や駅前広場が完成するなど、開発が進んでいる。再び泉佐野市に入って左手に見えるイオンモール日根野を過ぎると、関西国際空港の玄関口である日根野駅に着く。",
"title": "沿線概況"
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"text": "日根野駅を過ぎると右手に関西空港線が分かれ、左手に吹田総合車両所日根野支所が見える。関西空港自動車道・国道481号の下を通ると日根野支所が途切れて、車窓は田園地帯が目立つようになる。2面4線の長滝駅と進むにつれて住宅地が広がり、泉南市に入って新家駅を過ぎると和泉砂川駅に着く。かつては駅周辺に遊園地が存在していたが、現在は住宅地になっている。",
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"text": "和泉砂川駅を過ぎると徐々に勾配区間が増える。孝子峠へ向けて進路を南西に取り続ける南海本線と異なり、阪和線は阪南市に入るとすぐに雄ノ山峠へ向けて進路を南に取り、和泉鳥取駅構内のカーブを過ぎ住宅地を抜けると長い山岳区間に入る。阪和自動車道や大阪府道64号が並行して走り、カーブが多くなり、春には多くのカメラマンや桜の花見客が訪れる山中渓駅に着く。駅近くにはわんぱく王国という遊園地もあり、土休日には家族連れなどで賑わっている。山中渓駅を過ぎると程なく左側に山中渓温泉(廃業)が見えた後、和歌山県に入りトンネルが多くなる。長い雄ノ山トンネルを抜けると、阪和自動車道と京奈和自動車道とを結ぶ和歌山ジャンクションの取付道路が頭上で交差し、線路は右カーブしながら徐々に高度を下げる。左手に住宅や畑が点々と目に入り、平野部に向かって下り勾配を一直線に下り始める。カーブを曲がり左手に和歌山県道7号が見え始めると紀伊駅、再び田畑や住宅地が点在し、阪和自動車道をくぐると六十谷駅に到着する。",
"title": "沿線概況"
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"text": "六十谷駅の先で紀の川を渡り、右にカーブすると住宅地に入り、国道24号を渡ってすぐに盛土駅の紀伊中ノ島駅に到着。紀伊中ノ島駅のすぐ先にある鉄橋の下には元々和歌山線が走っていて、駅の西側には和歌山線の紀伊中ノ島駅のホームが残っている。そして和歌山市駅方向から伸びてきた紀勢本線を越えて地平に下り始める。紀勢本線と和歌山線が左手に並行して走ると終点和歌山駅に着く。和歌山駅は和歌山市の玄関口であり、特急列車や一部の快速列車は紀勢本線海南・紀伊田辺方面に直通している。",
"title": "沿線概況"
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"text": "羽衣線の列車は、鳳駅西側の5番のりばから発着する。ホームは島式であり、かつては反対側は6番のりばとして使用されていたが、現在はホームの端に柵が設けられており線路は撤去されている。ホームと線路は右にカーブしている。列車が鳳駅を発車してもしばらく右カーブが続き進行方向を南から西に変える。程なく線路は高架区間に入り徐々に高度をあげる。羽衣線のほぼ中間地点にある片側3車線の道路が国道26号(第二阪和国道)である。その国道26号を越えて西進する。地面の標高自体下がってくるため、高架のままではあるがこの先東羽衣駅まで下り坂である。やや右カーブした箇所を通り過ぎると終点の東羽衣駅に到着する。すぐ西側には南海本線羽衣駅がある。",
"title": "沿線概況"
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"text": "阪和線内運転の列車のほか、大阪環状線・関西空港線・紀勢本線(きのくに線)や、梅田貨物線を経由してJR京都線・琵琶湖線に直通運転する列車も設定されている。待避設備は鶴ケ丘駅・杉本町駅・上野芝駅・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・東貝塚駅・熊取駅・日根野駅・長滝駅・和泉砂川駅・紀伊駅にある。",
"title": "運行形態"
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"text": "2023年3月18日ダイヤ改正時点での運行概況は次の通り。",
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"text": "日中の1時間あたりの運行本数は、特急「くろしお」が1本、特急「はるか」が2本、関空快速・紀州路快速が大阪環状線 - 関西空港駅・和歌山駅間で4本、区間快速が天王寺駅 - 熊取駅間で4本、普通が天王寺駅 - 鳳駅間で4本である。",
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"text": "特急は、京都・新大阪方面から梅田貨物線・大阪環状線・当線を経て、きのくに線に直通する南紀方面への「くろしお」(283系・287系・289系使用)と、関西空港への空港連絡列車として関西空港線に直通する「はるか」(281系・271系使用)が運転されている。「くろしお」は日中は1時間に1本、「はるか」は概ね1時間に2本が運転されている。多客期には臨時列車も運転されている。「はるか」は新型コロナウイルス感染症流行の影響で2020年9月から2022年6月までは日中の列車が運休していた。",
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"text": "「くろしお」は途中、全列車が日根野駅に停車し、「はるか」は阪和線内は原則無停車である。ただし、朝晩は通勤特急としての役割を果たすため、「くろしお」は朝の下りと夜の上りのみ和泉府中駅と和泉砂川駅に、「はるか」は朝の京都行きと夕夜間の関西空港行きのみ、和泉府中駅と日根野駅に停車する。",
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"text": "広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、阪和線の天王寺発着かつ関空快速と併結しない列車、および大阪環状線から直通する鳳・東岸和田・日根野行きの列車は「快速」を称する。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。日中時間帯は運転されていない。",
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"text": "阪和線の天王寺駅発着列車の一部は、きのくに線に直通する。以前は日中にも天王寺駅 - きのくに線御坊駅・紀伊田辺駅間を直通する列車が1時間1本あったが、2000年3月11日のダイヤ改正で大半が系統分割されて和歌山駅発着になり、以後は朝晩に限って設定されている。きのくに線区間では基本4両編成での運用のため、8両編成運転の列車は日根野駅または和歌山駅で後ろ4両の切り離しを行う。また和歌山駅発着の列車も一部は日根野駅で連結・切り離し作業を行う。",
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"text": "2022年3月12日改正時点のダイヤでは天王寺駅 - 和歌山駅間を最速58分で運転している。特急以外では最速種別であるが、停車駅が増加傾向にあることと、途中駅で特急列車の通過待ちをする列車が多いため、同区間で60分を切る列車は土休日ダイヤの1本のみである。",
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"text": "かつて朝6時台・夜22時台(天王寺発は23時台)には新大阪発のきのくに線直通列車(朝は湯浅行き、夜は御坊行き)が存在したが、2018年3月17日のダイヤ改正で新大阪駅への乗り入れは消滅。土休日朝運転の湯浅行き以外は、きのくに線直通となった大阪環状線内を始発とする紀州路快速に置き換えられた(土休日朝の湯浅行きは天王寺発の快速列車として存続したが、2022年3月12日のダイヤ改正で大阪環状線内を始発とする紀州路快速となった。また、従来御坊行きが運転されていた時間帯には「くろしお」が増発されている)。この列車は「はるか」や「くろしお」などと同じく梅田貨物線を走るため大阪駅を経由しなかった。深夜に運転される列車に関しては、165系電車を使用し、1999年10月2日のダイヤ改正で紀伊田辺行きに変更されるまで夜行列車として新宮駅まで運転されていた。この列車は2002年3月23日ダイヤ改正で221系に置き換えられ、2010年3月13日のダイヤ改正で御坊行きに変更された。",
"title": "運行形態"
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"text": "かつては朝・夕方ラッシュ時に天王寺駅発着で和歌山線・きのくに線に直通する列車(両線直通列車を併結したいわゆる多層建て列車)もあった。2008年3月14日までは日根野駅で関空快速と併結する和歌山発天王寺行きも設定されていた。",
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"text": "紀伊駅は1988年3月13日から1999年5月9日まで、六十谷駅は1993年3月18日から1999年5月9日までラッシュ時のみ停車していた。紀伊中ノ島駅は国鉄時代からラッシュ時のみ停車していたが、1993年3月18日からは通過となった。また、日根野駅は1994年9月3日までは原則通過駅で、当時の日根野電車区に出入りする列車のみが停車する「快速始発駅」であった。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日のダイヤ改正で和歌山駅発着の快速のほとんどは大阪環状線直通の関空快速・紀州路快速となり、天王寺駅 - 和歌山駅・きのくに線間の列車は朝・夕ラッシュ時と夜間の運転になった。2011年3月12日のダイヤ改正では、日中の大半の天王寺駅 - 日根野駅間の列車が区間快速に置き換えられる一方で、はんわライナー廃止に伴い夕方以降に天王寺駅 - 和歌山駅間の列車が設定された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "過去には4ドア車も運用され、103系が1968年10月1日 から2012年3月16日まで、205系1000番台が1988年3月13日から2012年3月16日まで、205系0番台が2007年3月18日から2010年12月1日まで運用されていた。また3ドア車は、113系が1972年3月15日から2011年12月10日まで、奈良電車区(現在の吹田総合車両所奈良支所)所属の221系が2000年3月11日 から2010年12月1日まで運用されていた。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、大阪環状線内で各駅に停車する列車は発駅にかかわらず「直通快速」を称する。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2008年3月15日のダイヤ改正で新設され、平日の朝ラッシュ時に大阪環状線外回りを経由して大阪・京橋方面に運転されている。阪和線内の停車駅は快速と同じである。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。関空・紀州路快速と同様に関西空港・和歌山発系統を日根野駅で連結する列車も2本ある。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 30,
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"text": "かつては下り列車も運転されていた。運転開始当初は大阪環状線から鳳行きと和歌山行きがそれぞれ1本ずつ運転されていたが、2011年3月12日のダイヤ改正から鳳行きは関西空港・和歌山行きに変更され、2012年3月17日のダイヤ改正で設定がなくなった。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、大阪環状線内でも快速運転を行う関西空港駅発着列車および阪和線天王寺駅 - 関西空港駅間のみを運行する列車は「関空快速」を、大阪環状線内でも快速運転を行う和歌山駅発着列車(きのくに線直通を含む)および阪和線天王寺駅発着で関空快速と併結する列車は「紀州路快速」を、それぞれ称する。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 32,
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"text": "日中は大阪環状線天王寺駅 - 大阪駅 - 関西空港駅・和歌山駅間で1時間に4本運転される。基本的に大阪環状線 - 日根野駅間では関空快速と紀州路快速を併結して8両編成で運転されており、関空快速が関西空港・和歌山寄りに、紀州路快速が天王寺・大阪寄りに連結されている。天王寺駅 - 日根野駅間の停車駅は快速と同じで、紀州路快速は日根野駅 - 和歌山駅間では朝の一部列車を除き各駅に停車する。紀州路快速は、きのくに線紀伊田辺発や湯浅駅・海南駅・御坊駅発着の列車も設定されている。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "関空快速は、特急「はるか」とともに関西国際空港へのアクセス列車として、天王寺駅 - 関西空港駅間において関空開港日の1994年9月4日から運転されている。2008年3月14日まではJR難波駅発着列車も設定されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "紀州路快速は、大阪方面から和歌山への観光客や通勤客の増大を図ろうと、これまでの京都・新大阪方面からの特急列車に加えて、1999年5月10日の改正で新設された列車である。2011年3月11日までは日根野駅 - 和歌山駅間でも原則、快速運転を行っていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、1995年4月20日から1999年5月9日までは、関空快速よりもさらに停車駅が少ない関空特快「ウイング」も運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
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"text": "区間快速は、天王寺駅 - 鳳駅間の快速停車駅と、鳳駅 - 和歌山駅間の各駅に停車する列車である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日中は天王寺駅 - 熊取駅間、朝と夕方は天王寺駅 - 日根野駅間で1時間に4本運転されており、東岸和田駅で関空快速・紀州路快速と相互接続を行う。日根野駅以南では、平日朝ラッシュ時に和歌山行きが1本、和歌山発が3本設定されている。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "前身は阪和電気鉄道時代からの急行および準急で、1958年11月7日に両者を統合の上、紀勢本線直通列車種別と識別するために直行に改称された。当時の停車駅は金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅と和泉府中駅 - 東和歌山駅(現在の和歌山駅)間の各駅であった。1968年10月1日のダイヤ改正では区間快速に再改称されるとともに、従来の直行停車駅を引き継ぐ列車のほか、堺市駅と鳳駅 - 和歌山駅間の各駅に停車する列車が新たに設定された。天王寺鉄道管理局内では前者を「区間快速A」、後者を「区間快速B」と呼んでいた。1972年3月15日に後者に統一された。1986年10月31日までの日中は1時間に2本の運転で、鳳駅で折り返しの普通と、熊取駅で快速とそれぞれ緩急接続していた。",
"title": "運行形態"
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{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1986年11月1日のダイヤ改正で三国ケ丘駅にも停車するようになったが、日中の列車が快速に格上げされ、1992年3月14日のダイヤ改正では、夕方以降の列車は快速に置き換えられた。この削減傾向は1999年5月10日に三国ケ丘駅が快速停車駅になってさらに強まった。この間、1986年11月1日から1999年5月9日まで鳳駅で折り返す列車も設定されていた(現在の鳳駅折り返し快速と同じ停車駅)。また2008年3月14日までは和泉砂川駅で折り返す列車も存在していた。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 40,
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"text": "2003年10月1日に新大阪駅からの新幹線接続のために夜の日根野行きが設定され、鳳駅→日根野駅間の終電が繰り下げられた。また、2003年10月4日から2006年3月12日まで土曜・休日の朝に1往復のみ大阪環状線 - 鳳駅間の列車(大阪環状線内各駅に停車)が設定されていた。こうして、2011年3月11日までは朝ラッシュ時と日根野行きの最終列車のみの設定となっていたが、翌12日の改正より日中の運転が再開されている。2022年3月12日の改正で、輸送力の適正化を目的に、運転時間帯の拡大と日中時間帯の列車の熊取駅折り返しへの変更が行われた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "普通は、運行区間内のすべての駅に停車する列車である。",
"title": "運行形態"
},
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"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日中時間帯は天王寺駅 - 鳳駅間で1時間に4本運転されている。この時間帯は鶴ケ丘駅と上野芝駅で関空快速・紀州路快速、杉本町駅で区間快速の通過待ちを行う。朝晩は熊取駅・日根野駅・和泉砂川駅・和歌山駅発着およびきのくに線御坊始発の設定がある。全列車223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されている。",
"title": "運行形態"
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"text": "国鉄時代のうち昭和40年代までは杉本町駅・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・東貝塚駅・熊取駅・和泉砂川駅など折り返しパターンが多彩であったが、昭和50年代になると鳳駅・東岸和田駅折り返しに集約され、日根野方面まで来る列車は朝晩のみであった。この当時は区間快速が2011年3月12日以降と同様に日中にも運転されており、普通の代わりに鳳駅・東岸和田駅 - 和歌山駅間の各駅の輸送を担っていたためである。この当時は天王寺駅 - 和歌山駅間で各駅に停車する列車は1日2往復のみであった。1986年11月1日のダイヤ改正では区間快速が快速に格上げされた関係で日中時間帯の普通の運転系統が天王寺駅 - 和泉砂川駅・和歌山駅間に延長された。1992年3月14日の改正で、夕方の区間快速が快速になったため、この時間帯の普通も運転区間が延長された。2011年3月12日のダイヤ改正で日中の鳳駅 - 日根野駅間は区間快速が、日根野駅 - 和歌山駅間は紀州路快速がそれぞれ各駅に停車することとなったため、鳳駅以南では日中の運用が消滅した。",
"title": "運行形態"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "過去には4ドア車の103系(4・6両編成)および205系(4・6両編成)、3ドア車の113系(2・6両編成)および223系2両編成を2本連結した4両編成も使用された。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "毎年大晦日深夜から翌年の元旦にかけては、普通のみ天王寺駅 - 鳳駅間で終夜運転を行っていたが、2018年末をもって取り止めとなり、2019年末は全線で終夜運転は行われないこととなった。なお、過去には2017年まで天王寺駅発鳳行き最終列車を日根野駅まで延長運転したほか、大和路線JR難波駅まで乗り入れていた時期もあった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "阪和線の快速列車は、1958年10月1日にそれまで「特急」と呼ばれていた列車を「快速」に名称を変更したのが最初である。当時は1時間に1本の運転で、鳳駅・紀伊中ノ島駅に全列車が、金岡駅(現在の堺市駅)・和泉砂川駅に一部の列車が停車していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "また同日からそれまで「急行」電車と「準急」電車と別々に運転していたものを統合した上で「直行」に変更した種別も運転を開始した。直行は1時間に2本の運転で、金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅と和泉府中駅 - 東和歌山駅(現在の和歌山駅)間の各駅に停車した。1968年10月1日のダイヤ改正で「直行」が「区間快速」に名称を変更し、鳳駅 - 和歌山駅間を各駅に停車する区間快速も運転されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1972年3月15日に阪和線でも新快速が運転開始し、鳳駅にのみ停車して阪和間の所要時間が戦前の超特急と同じレベルの45分で結ばれた。しかし、1977年3月15日に熊取駅と和泉砂川駅が停車駅に追加され、1978年10月2日改正で廃止された。同改正では紀勢本線和歌山駅 - 新宮駅間の電化が完成したことを受け、天王寺駅 - 和歌山駅間の快速が1時間に2本(うち1本は紀勢本線直通)とされた。1986年11月1日のダイヤ改正からは天王寺駅 - 熊取駅・日根野駅間運転の快速が1時間に2本加わって、天王寺駅 - 熊取駅または日根野駅間では1時間に4本の運転となった。和歌山駅発着と紀勢本線直通には113系が、熊取駅・日根野駅発着の快速には103系が充当された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1988年3月13日のダイヤ改正で、熊取駅 - 和歌山駅間の各駅に停車するB快速が日中1時間に1本新設された。1989年3月11日のダイヤ改正でさらに快速が増発され、1時間に天王寺駅 - 和歌山駅間が3本(うち1本は紀勢本線直通)と天王寺駅 - 日根野駅間が3本に揃えられ、天王寺駅基準で10分に1本の運転になった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "関西国際空港開港に合わせた1994年9月4日改正では「関空快速」が新設された。従来の日根野発着の「快速」を改称し、関西空港線関西空港駅まで延長して、大阪環状線および大和路線JR難波駅への乗り入れを開始した。続く1995年4月20日からは関空快速を速達化した関空特快「ウイング」が運転を開始した。1999年5月10日改正では関空特快の廃止に代わって「紀州路快速」が新設され、おおむね2015年3月14日現在で運転されている列車種別が出揃うことになる。この1999年改正から、三国ケ丘駅・紀伊駅・六十谷駅にすべての快速が停車するようになり、阪和線では日中1時間あたり、関空快速・紀州路快速が2本、単独の関空快速が1本、きのくに線直通の快速が1本、天王寺駅 - 日根野駅間の快速が2本の運転となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "天王寺駅構内の大和路線との連絡線が複線・立体交差化された2008年3月15日改正では、関空快速の大和路線JR難波駅乗り入れが廃止され、日中の天王寺駅 - 和歌山駅間の快速とともに大阪環状線直通の関空快速・紀州路快速に統合され、関空快速・紀州路快速が日中1時間に3本となった。また、大阪環状線内で各駅に停車する直通快速も朝ラッシュ上りに運転が開始された。2011年3月12日改正では、日中に区間快速が設定され、関空快速・紀州路快速が4本、天王寺駅 - 日根野駅間の区間快速が4本となった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ここでは1944年の国有化以降の運行状況を記述する。阪和電気鉄道時代の列車については以下を参照のこと。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "阪和線では、戦時中の私鉄編入路線の流れで、次項の有料準急「きのくに」が登場する1958年まで、追加料金不要の速達電車を「特急」「急行」「準急」と称していた。特急は1950年に設定され、当初は途中ノンストップであったが、1951年には紀伊中ノ島駅に、1952年には鳳駅と和泉砂川駅に停車するようになった。当初は52系、後に70系が使用された。1958年に快速に改称された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "急行は1949年に設定され、金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・和泉砂川駅・紀伊中ノ島駅に停車していた。準急は1946年に設定され、金岡駅(現在の堺市駅)と鳳駅以南の各駅に停車していた。1958年に急行と準急が統合され、直行に改称された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1965年 - 1967年に名古屋駅 - 東和歌山駅(現:和歌山駅)間を阪和貨物線経由で運行された気動車特急。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "国鉄時代の1984年9月1日から天王寺駅 - 日根野駅間で運転を開始した「ホームライナーいずみ」が前身で、特急「くろしお」で運用された列車が日根野電車区に入区するための回送列車を、座席整理券を要する座席定員制の列車として客扱いしたもので、関西におけるホームライナーはこれが最初であり、下り列車が2本設定された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "1986年11月1日のダイヤ改正で、運転区間が和歌山駅まで延長され、名称も「はんわライナー」に変更されたが、2000年代以降の特急格上げなどによって次第に本数を減らし、2011年3月12日のダイヤ改正ですべて廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "停車駅は、天王寺駅・鳳駅(下りのみ)・和泉府中駅・東岸和田駅・熊取駅・和泉砂川駅・和歌山駅。以前は平日で1日上り3本、下り6本が運転されていたが、2002年3月23日のダイヤ改正で下り1本が新大阪発紀伊田辺行きの特急「くろしお」に、2004年10月16日のダイヤ改正で1往復が新大阪駅 - 和歌山駅(上りは臨時列車扱いで海南発)間の特急「スーパーくろしお」に変更され、上り2本、下り4本となっていた。2009年3月14日のダイヤ改正で土曜・休日ダイヤの運転が廃止され、同年の6月1日より全面禁煙になった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "2010年3月13日に行われたダイヤ改正では、和歌山行きの下り列車は夜に4本、天王寺行きの上り列車は朝に3本運行される形をとっていた(上り6号のみ熊取発)。車両は基本的にはリニューアルが行われていない国鉄色の381系電車が使われていた。特急運用の間合いや車両の都合で「くろしお」用または「スーパーくろしお」用のものが用いられる場合もあり、この場合1号車のグリーン車は普通車扱いとしていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "かつては車内販売も行っていた。土曜・休日ダイヤでは熊取駅で特急「はるか」に追い抜かれる列車や、東岸和田駅で特急「くろしお」に追い抜かれる列車もあった。また、ダイヤの大幅乱れが発生した際には、座席整理券不要で乗車できるケースがあった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "B快速は、天王寺駅 - 熊取駅間の快速停車駅と、熊取駅 - 和歌山駅間の各駅に停車していた列車である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "1988年3月13日のダイヤ改正で新設され、当初は日中にも1時間に1本運転されていた。しかし、1989年3月11日のダイヤ改正で日中の列車が廃止されると、以後は増減を繰り返しつつ少数が運行されるのみになる。基本的に天王寺駅 - 和歌山駅間での運転であったが、大阪環状線・梅田貨物線経由の新大阪行きや、きのくに線周参見発の列車も設定されていた。2018年3月17日のダイヤ改正にて、早朝の和歌山発新大阪行きのB快速は増発される特急「くろしお」に置き換えられる形で廃止され、阪和線天王寺発着列車も種別が変更されたため、B快速の名称は廃止となった。現在、阪和線天王寺発着で日根野以南の各駅に停車する和歌山方面の快速列車は紀州路快速として運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "廃止直前には全列車が223系0・2500番台、225系5000・5100番台で運転されていた。8両編成で運転される列車も設定されていたが、日根野駅 - 和歌山駅間はホーム有効長の関係から4両編成で運転され、日根野駅で増解結を行っていた。2011年3月12日のダイヤ改正時点では、夜間の上り1本は103系または205系1000番台の4両編成で運転されていた。早朝の和歌山発新大阪行きは2011年12月10日まで113系電車4両編成で運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "なお、阪和線内の路線図にB快速の案内はなく、時刻表には、B快速であっても快速と同じ表記になっていた。列車内で掲出およびJRおでかけネットで提供されている停車駅案内 や「JTB時刻表」では「B快速」とは案内されておらず、単なる快速の停車駅違いの扱いであった。大阪環状線内では単に快速として案内されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "全列車がワンマン運転を行い、14 - 20分間隔(日中は15分間隔)でこの区間を折り返し運転している。車両は2018年3月17日のダイヤ改正から225系5100番台4両編成が使用されている。それまでは専用の103系3両編成を交代制で2編成使用していた。運行距離は1.7 km(所要時間3分)で、これはJR旅客6社で最も運転区間が短い営業列車の一つでもある。なお、羽衣線については大晦日の終夜運転は行われていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "車内および駅の案内では羽衣線と呼称されることはなく、鳳駅での乗り換え案内では「東羽衣方面」、南海羽衣駅での乗り換え案内では「JR鳳行き」と案内されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2021年3月のダイヤ改正前まで長らく、近畿地方の都市間鉄道路線では珍しい曜日に関係なく同じダイヤで運行されていたが、同改正からは平日と土休日で別ダイヤとなっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "天王寺駅 - 和歌山駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、6両編成の225系による普通・区間快速・快速の3号車に女性専用車が設定されている。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "阪和線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。",
"title": "女性専用車"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "全列車がVVVFインバータ制御の電車で運転されており、289系以外は吹田総合車両所日根野支所(2012年6月1日に車両部門の組織改正が行われ、日根野支所は日根野電車区に相当する)、289系は同総合車両所京都支所(旧京都総合運転所)に配置されている。快速・普通列車用車両は全て2列+1列の転換クロスシート・トイレつきの車両となっている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "前述の通り、並行私鉄との競合や、関西国際空港へのアクセス路線であることから、JR西日本では東海道・山陽本線(JR京都線・JR神戸線)、片町線(学研都市線)、福知山線(JR宝塚線)、北陸本線とともに、新形式車両が優先的かつ最初に投入される路線の一つになっている。",
"title": "使用車両"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "阪和線では、天王寺駅 - 鳳駅間の複々線化が、1958年3月に提出された都市交通審議会の「大阪市およびその周辺における都市交通について」の答申で、1975年を目標年度として整備すべき路線に盛り込まれたが、具体化されることは無かった。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "大阪市内区間のうち阪和電鉄開業以前から走っていた近鉄南大阪線と南海平野線との立体交差は元々必要だったため、天王寺駅から美章園駅 - 南田辺間の阪神高速との交差部付近までは開業当初から高架化されていた。しかし、阪神高速交差部付近 - 杉本町駅北側間は長らく地平を走っていて、この区間には12か所の踏切があった。そのうち開かずの踏切が11か所、全国の開かずの踏切のワースト10の3か所の踏切が含まれており、重大な踏切障害事故や主要幹線道路を中心に慢性的な渋滞が発生していた。このため、約4.9 kmを高架化する連続立体交差事業が1983年度から実施され、1999年後半から工事に着手し、2004年10月16日に上り線が、2006年5月21日に美章園駅 - 杉本町駅間の下り線が高架化された。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "高架化にあたっては、阪神高速が計画していた大阪泉北線と一体的に整備し、2階を阪和線、3階を阪神高速とした3階建ての高架橋を建設する予定であった。しかし、阪神・淡路大震災での高架橋の倒壊で、沿線住民から耐震性を不安視されたため、3階建ての計画を見直して阪神高速は地下化を検討して、阪和線だけの2階建てで先行して建設が進められていた。3階建て高架橋は、2003年3月に正式に建設中止され、その後高速道路自体の建設が中止された。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "2015年3月現在、地上線として残っている大阪市内区間は、杉本町駅北側から杉本町駅 - 浅香駅間の大和川橋梁までである。杉本町駅周辺には住宅街が広がっているほか、大阪公立大学が阪和線に隣接しており、2008年度の1日平均乗車人員は9,079人である。しかし、JR阪和線連続立体交差事業では杉本町駅前後も高架化されることなく地上線として残されたままであり、改札口が西側にしかないうえ同駅前後には開かずの踏切があり、踏切事故が多発していたため、地域住民や大阪市・JR西日本の3者により解決策が模索されていたが、改札口がなかった東側にも改札口を設置することとなり、2012年3月11日から使用が開始された。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "また阪和線では、JR西日本が2013年に発表した「安全行動計画2017」に掲げられた輸送障害半減などの目標に向けての取り組みが行われている。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "阪和線では関西空港線開業を機に列車本数が増加することから、1993年7月から「阪和線運行管理システム」(初代)が導入されていたが、老朽化が進んでいたことから2013年9月28日にシステムの更新が行われた。この更新により、操作性と応答性が向上されるためダイヤが乱れた際に早期に正常ダイヤに戻ることが可能とされるとともに、発車標の増設や遅れ表示ができる機能を持たせることにより旅客案内機能を拡充させている。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "運行管理システムの更新にあわせて、踏切の長時間鳴動対策も実施された。輸送障害発生時には駅で長時間抑止することにより踏切が長時間動作し、踏切非常ボタンの取り扱いや踏切の無謀横断により本来の事象以上に列車の遅延が発生することがある。これにより、踏切が通行できなくなるのを解消するために、我孫子町駅 - 日根野駅間で大阪総合指令所から信号の現示が制御できるように停車場化されている(踏切がない浅香駅を除く)。なお、東岸和田駅付近は2016年度内に高架化されるため、この対策は行われない。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "折り返し設備の拡充・新設も行われている。鳳駅では折り返し設備の拡充と新設、熊取駅・東貝塚駅で折り返し設備が新設された。鳳駅では天王寺方面からの折り返しは1ルートであったが3ルートにするとともに、和歌山方面からは新たに折り返しができるように改良されている。鳳駅 - 熊取駅間で輸送障害が発生した場合でも、運転見合わせ区間が鳳駅 - 熊取駅間の最小限にすることが可能になり、早期に通常ダイヤに戻ることができると見込まれている。",
"title": "輸送品質向上の取り組み"
},
{
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"tag": "p",
"text": "京阪電気鉄道や大阪商船などが出資の阪和電気鉄道により、南海鉄道の保有する南海本線で独占されていた阪和間の輸送に切り込むため建設された。そのため、阪和と南海の間ではしばらく激しい乗客獲得競争が繰り広げられたが、1940年に阪和は南海に合併されて同社の山手線となり、さらに1944年に阪和間の直通路線を有していなかった国鉄(運輸通信省)に戦時買収され、阪和線となった。「阪和電気鉄道」の項目も参照のこと。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "なお東羽衣への支線は、浜寺に存在した海水浴場への輸送が大きな目的となって建設された。",
"title": "歴史"
}
] | 阪和線(はんわせん)は、大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅から和歌山県和歌山市の和歌山駅までを結ぶ西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。ほかに通称「羽衣線」と呼ばれる大阪府堺市西区の鳳駅から大阪府高石市の東羽衣駅までを結ぶ支線を持つ。 | {{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 阪和線
|路線色 = #ff8e1f
|ロゴ = JRW kinki-R.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = Hanwa-Line-225 281.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = 阪和線の普通列車と特急「はるか」<br />(2017年7月 [[浅香駅]])
|通称 = 羽衣線([[鳳駅]] - [[東羽衣駅]]間)
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]、[[和歌山県]]
|種類 = [[日本の鉄道|普通鉄道]]([[在来線]]・[[幹線]])
|起点 = [[天王寺駅]]<ref name="sone 5">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 5頁]]</ref>
|終点 = [[和歌山駅]]<ref name="sone 5"/>
|駅数 = 36駅
|電報略号 = ハワセ<ref name="tetsudoudenpouryakugou-p21">{{Cite book |和書 |author=日本国有鉄道電気局 |date=1959-09-17 |title=鉄道電報略号 |url= |format= |publisher= |volume= |page=21}}</ref>
|路線記号 = {{JR西路線記号|K|R}}(支線を除く)
|開業 = [[1929年]][[7月18日]]
|全通 = [[1930年]][[6月16日]]<ref name="sone 5"/>
|廃止 =
|所有者 = [[西日本旅客鉄道]]
|運営者 = 西日本旅客鉄道
|車両基地 = [[吹田総合車両所]][[日根野電車区|日根野支所]]
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 61.3 [[キロメートル|km]](天王寺駅 - 和歌山駅間)<br>1.7 km(鳳駅 - 東羽衣駅間)
|軌間 = 1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数 = [[複線]](天王寺駅 - 和歌山駅間)<br>[[単線]](鳳駅 - 東羽衣駅間)
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P]](全線P・天王寺駅 - 日根野駅間<ref name="zensen">{{PDFlink|[https://www.mlit.go.jp/jtsb/railway/fukuchiyama/RA07-3-1-1.pdf 鉄道事故調査報告書]}} - 航空・鉄道事故調査委員会</ref>)<br>ATS-Pおよび[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P・日根野駅 - 和歌山駅間<ref name="kyoten">[https://www.westjr.co.jp/safety/action/ats/ ATS-Pの整備状況] - JR西日本</ref>)
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|最高速度 = 120 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="speed">{{PDFlink|1=[https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2021_05.pdf#page=7 データで見るJR西日本2021]}} - 西日本旅客鉄道</ref>
|路線図 =
}}
'''阪和線'''(はんわせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[天王寺区]]の[[天王寺駅]]から[[和歌山県]][[和歌山市]]の[[和歌山駅]]までを結ぶ[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)の[[鉄道路線]]([[幹線]])である。ほかに通称「'''羽衣線'''」と呼ばれる大阪府[[堺市]][[西区 (堺市)|西区]]の[[鳳駅]]から大阪府[[高石市]]の[[東羽衣駅]]までを結ぶ支線を持つ。
== 概要 ==
大阪市南部のターミナルである[[天王寺]]から南へ伸び、大阪府南部の各都市を経由して[[和歌山市]]へ至る路線であり、JR西日本の[[アーバンネットワーク]]の一角を成す。[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は'''オレンジ色'''({{Color|#ff8e1f|■}})であり、選定理由は「陽光あふれる大地につながるイメージ」とされる<ref>[[交通新聞社]](編集)『新世紀へ走る JR西日本10年の歩み』西日本旅客鉄道、1997年、p.206。</ref>。路線記号は''' R '''である<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref><ref group="*">他線直通列車は車両の行先表示器に直通先の路線記号を表示しており、大阪環状線直通列車(主に関空・紀州路快速系統)の上りは '''O'''、関空快速下りは '''S'''、きのくに線直通列車は '''W'''を表示している。</ref>。愛称も正式名称と同じ「阪和線」である<ref name="aisho">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/railroad/digest/#aisho |title=鉄道事業ダイジェスト |publisher=西日本旅客鉄道 |accessdate=2019-09-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140314194736/http://www.westjr.co.jp/railroad/digest/#aisho |archivedate=2014-03-14}}</ref>。
阪和線は、当路線より海側を通っている[[南海電気鉄道]]の[[南海本線]]と競合しているほか、天王寺駅([[新今宮駅]]) - [[三国ヶ丘駅|三国ケ丘駅]]間では[[南海高野線]]と、大阪市内では[[大阪市高速電気軌道|Osaka Metro]]の[[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]・[[Osaka Metro谷町線|谷町線]]や[[近鉄南大阪線]]・[[阪堺電気軌道]]などとも競合している。天王寺駅 - 和歌山駅間の1日平均の利用者数は107,079人<ref name=":0">{{Cite book|洋書|title=都市鉄道完全ガイド関西JR編|date=2021年6月22日|publisher=双葉社}}</ref>で、同区間では南海本線の102,701人<ref name=":0" />と比べて多い。
和歌山駅では[[紀勢本線]]に接続しており、同線へ直通し[[南紀]]方面へ向かう[[特別急行列車|特急]]「[[くろしお (列車)|くろしお]]」も運転されている。[[関西国際空港]](関空)が開港した[[1994年]]9月4日以降は、その[[空港連絡鉄道|アクセス路線]]としても重要な役割を持つようになっている。途中の[[日根野駅]]からは[[関西空港線]]が分岐しており、特急「[[はるか (列車)|はるか]]」が[[京都市]]・[[大阪市]]などと関空を結んでいる<ref>{{Cite web|和書|title=はるか |url=https://www.jr-odekake.net/train/haruka/ |website=JRおでかけネット|work=車両案内 |access-date=2023-01-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=電車|work=アクセス |url=https://www.kansai-airport.or.jp/access/train |website=関西国際空港 |access-date=2023-01-07}}</ref>。また、[[大阪環状線]]経由で[[大阪駅]]([[梅田]])に直通運転する[[関空快速・紀州路快速]]が設定されている<ref>{{Cite web|和書|title=関西のJR「ご当地快速」の謎 大和路 紀州路etc ただの「快速」と何が違う? |url=https://trafficnews.jp/post/105899 |website=乗りものニュース |access-date=2023-01-07 |language=ja}}</ref>。
[[私鉄]]の南海山手線(旧[[阪和電気鉄道]])を[[戦時買収私鉄|戦時買収]]して国有化した路線であるため、独特の三角屋根をもった特徴的な駅舎が数多く存在したが、近年駅舎の建て替えなどでその多くが姿を消した。また、[[日本国有鉄道]](国鉄)の多くの駅でみられた2面3線の駅構造がなく、2面4線が主要駅の標準仕様となっている。のちに[[国鉄分割民営化]]によりJR西日本の路線となった。
鳳駅から分岐する東羽衣駅までの支線は'''羽衣線'''などと通称されている。この区間にはラインカラー・駅ナンバー・路線記号はいずれも設定されていない。なお、[[杉本町駅]]から分岐して[[八尾駅]]まで通じていた路線(2004年7月1日休止、2009年4月1日廃止)は「[[阪和貨物線]]」あるいは「阪和連絡線」と呼ばれていたが、これは阪和線ではなく[[関西本線]]の支線であった。
支線も含め、全線が[[旅客営業規則]]上の「[[大都市近郊区間 (JR)|大阪近郊区間]]」および「[[電車特定区間]]」に含まれており、区間外よりも割安な近距離運賃が適用される<ref>[http://www.jr-odekake.net/railroad/ticket/guide/02.html 乗車券|きっぷのルール:乗車券:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。また[[ICカード|IC]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」のエリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。
天王寺駅 - [[長滝駅]]間(構内を除く)と鳳駅 - 東羽衣駅は[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]が、長滝駅 - 和歌山駅間は[[西日本旅客鉄道和歌山支社|和歌山支社]]が管轄している。
=== 路線データ ===
[[ファイル:LineMap OsakaWakayama.png|250px|thumb|阪和線と競合する南海本線の位置関係]]
* 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):
** 天王寺駅 - 和歌山駅間 61.3 km<ref name="sone 5"/>
** 鳳駅 - 東羽衣駅間 1.7 km<ref name="sone 5"/>
* [[軌間]]:1067mm
* 駅数:36(起終点駅含む)
** 阪和線所属駅に限定した場合、関西本線所属の天王寺駅と紀勢本線所属の和歌山駅<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』[[JTB]]、1998年。{{ISBN2|978-4-533-02980-6}}。</ref> が除外され、34駅となる。
* 複線区間:天王寺駅 - 和歌山駅間
* 単線区間:鳳駅 - 東羽衣駅間
* 電化区間:全線電化(直流1500V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 保安装置:
** 天王寺駅 - 日根野駅間 [[自動列車停止装置#ATS-P形(デジタル伝送パターン形)|ATS-P(全線P)]]<ref name="zensen" />
** 日根野駅 - 和歌山駅間 ATS-Pおよび[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P)<ref name="kyoten" />
** 鳳駅 - 東羽衣駅間 ATS-PおよびATS-SW(拠点P)<ref name="kyoten" />
* 最高速度<ref name="speed" />
** 天王寺駅 - 鳳駅間 95 km/h
** 鳳駅 - 和歌山駅間 120 km/h
** 鳳駅 - 東羽衣駅間 95 km/h
* [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]]
* [[列車運行管理システム]]:天王寺駅 - 和歌山駅間 [[運行管理システム (JR西日本)|阪和線運行管理システム]]
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間:
** [[ICOCA]]エリア:天王寺駅 - 和歌山駅間、鳳駅 - 東羽衣駅間(いずれも[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
* 2020年度の混雑率:快速列車87%(堺市駅→天王寺駅 7:10-8:10)、普通列車95%(美章園駅→天王寺駅 7:10-8:10)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2021-11-03|publisher=国土交通省|page=2|format=PDF}}</ref>
== 沿線概況 ==
=== 天王寺駅 - 日根野駅間 ===
{{阪和線路線図}}
天王寺駅では[[阪和電気鉄道|阪和電鉄]]時代から使用している地上の阪和線専用ホームからの発着が基本ではあるが、1989年(平成元年)[[7月22日]]に[[関西本線]]([[大和路線]])ホームからも発着が可能となり、特に[[関西国際空港]]開港後は[[大阪環状線]]と直通する列車を中心に大和路線ホームから発着する列車が大幅に増えている。地上ホームから出発するとすぐ右方向から近づいてくる大阪環状線直通列車が通る連絡線と合流した後、高々架の[[近鉄南大阪線]]の下を通り[[美章園駅]]に到着する。その先しばらくすると[[阪神高速14号松原線]](その地下には[[Osaka Metro谷町線]]も走っている)と交差する。1929年(昭和4年)の開業時は天王寺駅からここまでが高架で開通し、下に[[南海平野線]]が走っていた。この先は杉本町駅の手前まで2004年に完成した高架区間を走る。右手に[[桃ヶ池公園]]が見えると[[南田辺駅]]、そして右手に長池公園、元[[シャープ]]本社と続くと待避線のある[[鶴ケ丘駅]]に到着する。鶴ケ丘駅は[[長居陸上競技場]]の最寄り駅である。車窓から見える[[長居公園]]内にある[[長居球技場]]が視界の後方に移動すると[[長居駅]]に到着する。地上駅時代にはこの長居駅に待避線があったが、高架後待避線は鶴ケ丘駅に移されている。かつて長居駅の前後には[[あびこ筋]]([[大阪府道28号大阪高石線|府道28号大阪高石線]])・[[長居公園通]]([[国道479号]])との踏切があり、渋滞の絶えない箇所であった。[[我孫子町駅]]を過ぎると高架区間は終了し徐々に高度を下げる。地上に降りると[[大阪市立大学]]の最寄り駅で待避線のある[[杉本町駅]]に着く。2008年までは関西本線[[久宝寺駅]]から延びていた[[阪和貨物線]]の終点であった。
[[大和川]]を渡り[[堺市]]に入る。堺市に入って最初の駅が[[浅香駅]]である。浅香駅の南側でも[[西除川]]と狭間川という二つの川を渡る。次が快速停車駅の[[堺市駅]]である。堺市駅を出ると高架道の[[大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線|大阪府道12号堺大和高田線]]の下を通る。金岡南二踏切を過ぎると徐々に線路脇の地面が高くなって掘削部を進むようになる。そして[[大阪府道2号大阪中央環状線|中央環状線]]の下を通ると[[南海高野線]]との接続駅である[[三国ヶ丘駅|三国ケ丘駅]]に到着する。三国ケ丘駅を出るとすぐに南海高野線と[[国道310号]]([[西高野街道]])の下を過ぎ、徐々に高度を上げ[[百舌鳥駅]]に着く。[[百舌鳥・古市古墳群]]として[[世界文化遺産]]に登録された日本最大級の[[古墳]]である[[大仙古墳]]([[仁徳天皇]]陵)<ref>[http://www.chikatsu-asuka.jp/?s=child/16protector 「大仙古墳と仁徳陵古墳という名称」について - 大阪府立近つ飛鳥博物館]</ref> は進行方向の右側(西側)に見える。百舌鳥駅を出ると西側には広々とした[[大仙公園]]の風景がしばらく続く。また西側だけでなく東側にも古墳が見受けられるようになる。泉北1号線の通称がある[[大阪府道34号堺狭山線|府道34号堺狭山線]]の交差する場所に新幹線型の待避構造をもつ2面4線の[[上野芝駅]]がある。上野芝駅を出ると百済川を越え[[津久野駅]]に到着、その先で[[石津川]]を越えそして右手に[[大鳥大社]]が見えてくると堺市[[西区 (堺市)|西区]]の中心駅である[[鳳駅]]に着く。鳳駅は[[東羽衣駅]]への支線が分岐しており、鳳駅の南東に[[車両基地]](2012年5月31日までは[[日根野電車区#鳳派出所|日根野電車区鳳派出所(旧・鳳電車区)]]<ref name="ReferenceA">「車両部門の組織改正 JR西日本、近畿統括本部」『[[交通新聞]]』2012年6月5日</ref>)も併設されていて、阪和線における拠点駅の一つである。車両基地の奥にはかつて[[帝國車輛工業|帝國車輌]](のちの[[東急車輛製造]]大阪工場)が存在し鉄道車両の製造を行っていたが<ref group="*">東急車輛大阪工場で鉄道車両の製造が行われていたのは1970年までで、その後は分岐器・トレーラー・コンテナのみを製造していた(1970年に鉄道車両の製造は横浜製作所に集約された)。なお大阪工場は2003年に和歌山県に移転したが、その後2012年には[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)傘下の[[総合車両製作所]]和歌山事業所となっている。</ref>、現在はショッピングセンターの[[アリオ鳳]]に変わっている。
[[高石市]]に入ると[[富木駅]]があるが、すぐに[[和泉市]]に入る。[[堺泉北道路]]の下を過ぎると和泉市最初の駅である[[北信太駅]]で、[[信太山駅]]と続き、和泉市の中心駅である[[和泉府中駅]]までほぼ直線が続く。なおこの区間(信太山駅 - 和泉府中駅間)には駅の設置はないが[[泉大津市]]との市境が入り乱れている部分もあり、立体化が進められない要因の一つになっている。和泉府中駅には一部の特急が停車する。和泉府中駅を発車すると地下道化された[[国道480号]]を越える。以前の踏切は残されているが立体化により渋滞は無くなった。徐々に駅間距離も長くなり、[[毎日牛乳]]和泉工場を過ぎて[[岸和田市]]に入ると、[[久米田駅]]・[[下松駅 (大阪府)|下松駅]]と続き、待避線のある[[東岸和田駅]]に着く。東岸和田駅は快速停車駅でありながらかつてはホーム幅が狭い上にバリアフリー設備がなく、駅前後に踏切があるなど旧態依然の形であったため連続立体交差化がなされ、2017年に高架駅となった。右手の[[イオン (店舗ブランド)|イオン]]東岸和田店の隣には[[医療法人|私立]]病院があるが、そこは関西圏で[[シネマコンプレックス|シネコン]]のさきがけとなった[[ワーナー・マイカル・シネマズ|ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田]]の跡地である。待避線のある[[東貝塚駅]]は国鉄時代に貨物営業を行っていたときに[[補助機関車|補機]]の連結・切り離しを行っていたために構内はやや広いがホーム幅は高架化前の東岸和田同様に狭い。また近くには[[ユニチカ]]貝塚工場も存在していた。少しして[[水間鉄道水間線]]、府道貝塚中央線・13号線の通称を持つ[[大阪府道30号大阪和泉泉南線|府道大阪和泉泉南線]]を越えて[[和泉橋本駅]]に着く。この駅あたりから徐々に山谷が増えだし、右手には次第に関西国際空港が見え始める。[[泉佐野市]]に入って[[東佐野駅]]を過ぎ[[国道170号]](大阪外環状線)の下を通ると快速停車駅で待避線のある[[熊取町]]の中心駅である[[熊取駅]]に着く。近年はバリアフリー対応の改良工事や駅前広場が完成するなど、開発が進んでいる。再び泉佐野市に入って左手に見える[[イオンモール日根野]]を過ぎると、関西国際空港の玄関口である[[日根野駅]]に着く。
<gallery>
Tennoji sta01s3872.jpg|天王寺駅阪和線ホーム
JRW Hanwa Line view-01.jpg|鶴ケ丘駅付近では長居公園の西側を通過
JRW series113-Hanwa.jpg|大和川橋梁を渡る113系
</gallery>
=== 日根野駅 - 和歌山駅間 ===
日根野駅を過ぎると右手に[[関西空港線]]が分かれ、左手に[[吹田総合車両所]]日根野支所が見える。[[関西空港自動車道]]・[[国道481号]]の下を通ると日根野支所が途切れて、車窓は田園地帯が目立つようになる。2面4線の[[長滝駅]]と進むにつれて住宅地が広がり、[[泉南市]]に入って[[新家駅]]を過ぎると[[和泉砂川駅]]に着く。かつては駅周辺に遊園地が存在していたが、現在は住宅地になっている。
和泉砂川駅を過ぎると徐々に勾配区間が増える。[[孝子峠]]へ向けて進路を南西に取り続ける南海本線と異なり、阪和線は[[阪南市]]に入るとすぐに[[雄ノ山峠]]へ向けて進路を南に取り、[[和泉鳥取駅]]構内のカーブを過ぎ住宅地を抜けると長い山岳区間に入る。[[阪和自動車道]]や[[和歌山県道・大阪府道64号和歌山貝塚線|大阪府道64号]]が並行して走り、カーブが多くなり、春には多くのカメラマンや桜の花見客が訪れる[[山中渓駅]]に着く。駅近くには[[わんぱく王国]]という遊園地もあり、土休日には家族連れなどで賑わっている。山中渓駅を過ぎると程なく左側に[[山中渓温泉]](廃業)が見えた後、和歌山県に入りトンネルが多くなる。長い雄ノ山トンネルを抜けると、阪和自動車道と[[京奈和自動車道]]とを結ぶ[[和歌山ジャンクション]]の取付道路が頭上で交差し、線路は右カーブしながら徐々に高度を下げる。左手に住宅や畑が点々と目に入り、平野部に向かって下り勾配を一直線に下り始める。カーブを曲がり左手に[[和歌山県道7号粉河加太線|和歌山県道7号]]が見え始めると[[紀伊駅]]、再び田畑や住宅地が点在し、阪和自動車道をくぐると[[六十谷駅]]に到着する。
六十谷駅の先で[[紀の川]]を渡り、右にカーブすると住宅地に入り、[[国道24号]]を渡ってすぐに盛土駅の[[紀伊中ノ島駅]]に到着。紀伊中ノ島駅のすぐ先にある鉄橋の下には元々[[和歌山線]]が走っていて、駅の西側には和歌山線の紀伊中ノ島駅のホームが残っている。そして[[和歌山市駅]]方向から伸びてきた[[紀勢本線]]を越えて地平に下り始める。紀勢本線と和歌山線が左手に並行して走ると終点和歌山駅に着く。和歌山駅は[[和歌山市]]の玄関口であり、特急列車や一部の快速列車は紀勢本線[[海南駅|海南]]・[[紀伊田辺駅|紀伊田辺]]方面に直通している。
<gallery>
Hanwasen-yamanakadani 223 PICT0049-2.JPG|山中渓駅
JRW Hanwa Line view-02.jpg|雄ノ山峠付近では阪和道と府道64号と並走する
</gallery>
=== 鳳駅 - 東羽衣駅間(支線)===
[[File:JR東羽衣駅 Higashi-Hagoromo Sta. - panoramio.jpg|thumb|全区間単線であり、東羽衣駅で線路は途切れている。<br>(2015年11月22日)]]
羽衣線の列車は、鳳駅西側の5番のりばから発着する。ホームは島式であり、かつては反対側は6番のりばとして使用されていたが、現在はホームの端に柵が設けられており線路は撤去されている。ホームと線路は右にカーブしている。列車が鳳駅を発車してもしばらく右カーブが続き進行方向を南から西に変える。程なく線路は高架区間に入り徐々に高度をあげる。羽衣線のほぼ中間地点にある片側3車線の道路が[[国道26号]]([[第二阪和国道]])である。その国道26号を越えて西進する。地面の標高自体下がってくるため、高架のままではあるがこの先東羽衣駅まで下り坂である。やや右カーブした箇所を通り過ぎると終点の東羽衣駅に到着する。すぐ西側には[[南海本線]][[羽衣駅]]がある。
== 運行形態 ==
{{出典の明記|date=2022年12月12日 (月) 17:35 (UTC)|section=1}}
阪和線内運転の列車のほか、[[大阪環状線]]・[[関西空港線]]・[[紀勢本線]](きのくに線)や、[[梅田貨物線]]を経由して[[JR京都線]]・[[琵琶湖線]]に直通運転する列車も設定されている。待避設備は鶴ケ丘駅・杉本町駅・上野芝駅・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・東貝塚駅・熊取駅・日根野駅・長滝駅・和泉砂川駅・紀伊駅にある。
2023年3月18日ダイヤ改正時点での運行概況は次の通り<ref>『JTB時刻表』2023年3月号、[[JTBパブリッシング]]。</ref>。
日中の1時間あたりの運行本数は、特急「くろしお」が1本、特急「はるか」が2本、関空快速・紀州路快速が大阪環状線 - 関西空港駅・和歌山駅間で4本、区間快速が天王寺駅 - 熊取駅間で4本、普通が天王寺駅 - 鳳駅間で4本である。
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
|+日中の1時間あたりの本数(2023年3月18日現在)
!種別\駅名
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|天王寺
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|鳳
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|熊取
!colspan="2" style="width:1em;"|日根野
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|和歌山
!…
|-
|特急「くろしお」
|style="text-align:right;"|新大阪←
|colspan="13" style="background-color:#aff;"|1本
|style="text-align:left;"|→白浜または新宮
|-
|特急「はるか」
|style="text-align:right;"|京都←
|colspan="10" style="background-color:#dcf;"|2本
|colspan="4" style="text-align:left;"|→関西空港
|-
|紀州路快速
|rowspan="2" style="text-align:right;"|大阪環状線内←<br/><span style="font-size:80%;">(日根野まで併結運転)</span>
|colspan="12" style="background-color:#fd9;"|4本
|colspan="2" style="text-align:left;"|
|-
|関空快速
|colspan="10" style="background-color:#acf;"|4本
|colspan="4" style="text-align:left;"|→関西空港
|-
|区間快速
|
|colspan="8" style="background-color:#cfc;"|4本
|colspan="6"|
|-
|普通
|
|colspan="4" style="background-color:#ccc"|4本
|colspan="10"|一部熊取、日根野、和泉砂川発着
|}
=== 天王寺駅 - 和歌山駅間 ===
==== 特急 ====
[[ファイル:Series281-Hanwa-Line.jpg|thumb|200px|特急「はるか」([[美章園駅]])]]
特急は、京都・新大阪方面から梅田貨物線・大阪環状線・当線を経て、きのくに線に直通する南紀方面への「[[くろしお (列車)|くろしお]]」([[JR西日本283系電車|283系]]・[[JR西日本287系電車|287系]]・[[JR西日本289系電車|289系]]使用)と、関西空港への空港連絡列車として関西空港線に直通する「[[はるか (列車)|はるか]]」([[JR西日本281系電車|281系]]・[[JR西日本271系電車|271系]]使用)が運転されている。「くろしお」は日中は1時間に1本、「はるか」は概ね1時間に2本が運転されている。多客期には臨時列車も運転されている。「はるか」は[[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況|新型コロナウイルス感染症流行]]の影響で2020年9月から2022年6月までは日中の列車が運休していた。
「くろしお」は途中、全列車が日根野駅に停車し、「はるか」は阪和線内は原則無停車である。ただし、朝晩は通勤特急としての役割を果たすため、「くろしお」は朝の下りと夜の上りのみ和泉府中駅と和泉砂川駅に、「はるか」は朝の京都行きと夕夜間の関西空港行きのみ、和泉府中駅と日根野駅に停車する。
==== 快速 ====
[[ファイル:HF413 -2.jpg|サムネイル|200x200ピクセル|225系5000番台の快速列車([[鶴ケ丘駅]])]]
広義の[[快速列車]](区間快速を除く)のうち、阪和線の天王寺発着かつ関空快速と併結しない列車、および大阪環状線から直通する鳳・東岸和田・日根野行きの列車は「快速」を称する。全列車[[JR西日本223系電車|223系]]0・2500番台、[[JR西日本225系電車|225系]]5000・5100番台で運転されている<ref name="jrw_20111216">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_kinki.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2011年12月16日</ref>。日中時間帯は運転されていない。
阪和線の天王寺駅発着列車の一部は、きのくに線に直通する。以前は日中にも天王寺駅 - きのくに線御坊駅・紀伊田辺駅間を直通する列車が1時間1本あったが、2000年3月11日のダイヤ改正で大半が系統分割されて和歌山駅発着になり、以後は朝晩に限って設定されている。きのくに線区間では基本4両編成での運用のため、8両編成運転の列車は日根野駅または和歌山駅で後ろ4両の切り離しを行う。また和歌山駅発着の列車も一部は日根野駅で連結・切り離し作業を行う。
2022年3月12日改正時点のダイヤでは天王寺駅 - 和歌山駅間を最速58分で運転している<ref>『JR版西日本時刻表』2022年春号、p.211</ref>。特急以外では最速種別であるが、停車駅が増加傾向にあることと、途中駅で特急列車の通過待ちをする列車が多いため、同区間で60分を切る列車は土休日ダイヤの1本のみである<ref group="*">戦前の[[阪和電気鉄道]]時代の最速列車と1972 - 1978年に走った[[新快速]]は45分であった。</ref>。
かつて朝6時台・夜22時台(天王寺発は23時台)には新大阪発のきのくに線直通列車(朝は湯浅行き<ref group="*">和歌山発新大阪行き[[#B快速|B快速]]の折り返し運用</ref>、夜は御坊行き)が存在したが、2018年3月17日のダイヤ改正で新大阪駅への乗り入れは消滅。土休日朝運転の湯浅行き以外は、きのくに線直通となった大阪環状線内を始発とする紀州路快速に置き換えられた(土休日朝の湯浅行きは天王寺発の快速列車として存続したが、2022年3月12日のダイヤ改正で大阪環状線内を始発とする紀州路快速となった。また、従来御坊行きが運転されていた時間帯には「くろしお」が増発されている)。この列車は「はるか」や「くろしお」などと同じく[[梅田貨物線]]を走るため大阪駅を経由しなかった。深夜に運転される列車に関しては、[[国鉄165系電車|165系]]電車を使用し、1999年10月2日のダイヤ改正で紀伊田辺行きに変更されるまで夜行列車として[[新宮駅]]まで運転されていた<ref group="*">2000年9月30日まで臨時に新宮駅まで延長運転。「[[紀勢本線#大阪側発着夜行普通列車の年譜|紀勢本線夜行列車]]」を参照。</ref>。この列車は2002年3月23日ダイヤ改正で221系に置き換えられ、2010年3月13日のダイヤ改正で御坊行きに変更された。
かつては朝・夕方ラッシュ時に天王寺駅発着で和歌山線・きのくに線に直通する列車(両線直通列車を併結したいわゆる[[多層建て列車]])もあった。2008年3月14日までは日根野駅で関空快速と併結する和歌山発天王寺行きも設定されていた。
[[紀伊駅]]は1988年3月13日から1999年5月9日まで、[[六十谷駅]]は1993年3月18日から1999年5月9日までラッシュ時のみ停車していた。紀伊中ノ島駅は国鉄時代からラッシュ時のみ停車していたが、1993年3月18日からは通過となった。また、日根野駅は1994年9月3日までは原則通過駅で、当時の[[日根野電車区]]に出入りする列車のみが停車する「快速始発駅」であった。
2008年3月15日のダイヤ改正で和歌山駅発着の快速のほとんどは大阪環状線直通の関空快速・紀州路快速となり、天王寺駅 - 和歌山駅・きのくに線間の列車は朝・夕ラッシュ時と夜間の運転になった。2011年3月12日のダイヤ改正では、日中の大半の天王寺駅 - 日根野駅間の列車が区間快速に置き換えられる一方で、[[#はんわライナー|はんわライナー]]廃止に伴い夕方以降に天王寺駅 - 和歌山駅間の列車が設定された。
過去には4ドア車も運用され、[[国鉄103系電車|103系]]が1968年10月1日<ref name="jtb77">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 77頁]]</ref> から2012年3月16日まで<ref name="jtb146">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 146-147頁]]</ref>、[[国鉄205系電車|205系]]1000番台が1988年3月13日から2012年3月16日まで、205系0番台が2007年3月18日から2010年12月1日まで運用されていた。また3ドア車は、[[国鉄113系電車|113系]]が1972年3月15日から2011年12月10日まで<ref name="rf_20111210">[http://railf.jp/news/2011/12/10/065700.html 日根野電車区の113系4連が運用離脱] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年12月10日</ref>、[[奈良電車区]](現在の吹田総合車両所奈良支所)所属の[[JR西日本221系電車|221系]]が2000年3月11日<ref name="jtb133">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 133-134頁]]</ref> から2010年12月1日まで運用されていた<ref name="kotsu_2012w">ジェー・アール・アール編『JR電車編成表 2012冬』交通新聞社、2011年。{{ISBN2|978-4-330-25611-5}}。</ref>。
==== 直通快速 ====
[[File:JRW Hanwa direct Rapid Service.jpg|thumb|200px|225系5100番台の直通快速(鶴ケ丘駅)]]
広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、大阪環状線内で各駅に停車する列車は発駅にかかわらず「直通快速」を称する。
2008年3月15日のダイヤ改正で新設され、平日の朝ラッシュ時に大阪環状線外回りを経由して大阪・京橋方面に運転されている。阪和線内の停車駅は快速と同じである。全列車[[JR西日本223系電車|223系]]0・2500番台、[[JR西日本225系電車|225系]]5000・5100番台で運転されている<ref name="local_29" />。関空・紀州路快速と同様に関西空港・和歌山発系統を日根野駅で連結する列車も2本ある。
かつては下り列車も運転されていた。運転開始当初は大阪環状線から鳳行きと和歌山行きがそれぞれ1本ずつ運転されていたが、2011年3月12日のダイヤ改正から鳳行きは関西空港・和歌山行きに変更され、2012年3月17日のダイヤ改正で設定がなくなった<ref group="*">『JR時刻表』2012年3月号・2011年3月号、交通新聞社。</ref>。
==== 関空快速・紀州路快速 ====
[[ファイル:JRW223-0 Airport,KishujiRapid.jpg|サムネイル|223系0番台の関空•紀州路快速(2017年5月20日)]]
{{Main|関空快速・紀州路快速}}
広義の快速列車(区間快速を除く)のうち、大阪環状線内でも快速運転を行う関西空港駅発着列車および阪和線天王寺駅 - 関西空港駅間のみを運行する列車は「関空快速」を、大阪環状線内でも快速運転を行う和歌山駅発着列車(きのくに線直通を含む)および阪和線天王寺駅発着で関空快速と併結する列車は「紀州路快速」を、それぞれ称する。
日中は大阪環状線天王寺駅 - 大阪駅 - 関西空港駅・和歌山駅間で1時間に4本運転される。基本的に大阪環状線 - 日根野駅間では関空快速と紀州路快速を併結して8両編成で運転されており、関空快速が関西空港・和歌山寄りに、紀州路快速が天王寺・大阪寄りに連結されている。天王寺駅 - 日根野駅間の停車駅は快速と同じで、紀州路快速は日根野駅 - 和歌山駅間では朝の一部列車を除き各駅に停車する。紀州路快速は、きのくに線[[紀伊田辺駅|紀伊田辺]]発や[[湯浅駅]]・[[海南駅]]・[[御坊駅]]発着の列車も設定されている。全列車[[JR西日本223系電車|223系]]0・2500番台、[[JR西日本225系電車|225系]]5000・5100番台で運転されている<ref name="local_29">ジェー・アール・アール『普通列車編成両数表 Vol.29』[[交通新聞社]]、2012年、p.140 - p.145。{{ISBN2|978-4-330-26412-7}}。</ref>。
関空快速は、特急「はるか」とともに関西国際空港へのアクセス列車として、天王寺駅 - 関西空港駅間において関空開港日の[[1994年]]9月4日から運転されている<ref group="*">ただし関西空港線は同年6月15日から空港関係職員などを対象に営業を行っており、天王寺駅 - 関西空港駅間の快速列車が運行されていた</ref>。2008年3月14日まではJR難波駅発着列車も設定されていた。
紀州路快速は、大阪方面から和歌山への観光客や通勤客の増大を図ろうと、これまでの京都・新大阪方面からの特急列車に加えて、[[1999年]]5月10日の改正で新設された列車である。2011年3月11日までは日根野駅 - 和歌山駅間でも原則、快速運転を行っていた。
なお、1995年4月20日から1999年5月9日までは、関空快速よりもさらに停車駅が少ない[[関空快速・紀州路快速#関空特快「ウイング」|関空特快「ウイング」]]も運転されていた。
==== 区間快速 ====
[[ファイル:JRW223-2500 R.Rapid.jpg|サムネイル|223系2500番台の区間快速日根野行き(2017年7月1日)]]
区間快速は、天王寺駅 - 鳳駅間の快速停車駅と、鳳駅 - 和歌山駅間の各駅に停車する列車である。
日中は天王寺駅 - 熊取駅間、朝と夕方は天王寺駅 - 日根野駅間で1時間に4本運転されており、東岸和田駅で関空快速・紀州路快速と相互接続を行う。日根野駅以南では、平日朝ラッシュ時に和歌山行きが1本、和歌山発が3本設定されている。全列車[[JR西日本223系電車|223系]]0・2500番台、[[JR西日本225系電車|225系]]5000・5100番台で運転されている<ref name="local_29" />。
前身は[[阪和電気鉄道]]時代からの急行および準急で、1958年11月7日に両者を統合の上、紀勢本線直通列車種別と識別するために[[直行 (列車)|直行]]に改称された。当時の停車駅は金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅と和泉府中駅 - 東和歌山駅(現在の和歌山駅)間の各駅であった<ref name="jtb66">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 66頁]]</ref>。1968年10月1日のダイヤ改正では区間快速に再改称されるとともに<ref name="jtb77">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 77頁]]</ref>、従来の直行停車駅を引き継ぐ列車のほか、堺市駅と鳳駅 - 和歌山駅間の各駅に停車する列車が新たに設定された。天王寺鉄道管理局内では前者を「区間快速A」、後者を「区間快速B」と呼んでいた。1972年3月15日に後者に統一された。[[1986年]]10月31日までの日中は1時間に2本の運転で、鳳駅で折り返しの普通と、熊取駅で快速とそれぞれ緩急接続していた。
1986年11月1日のダイヤ改正で三国ケ丘駅にも停車するようになったが、日中の列車が快速に格上げされ、1992年3月14日のダイヤ改正では、夕方以降の列車は快速に置き換えられた。この削減傾向は1999年5月10日に三国ケ丘駅が快速停車駅になってさらに強まった。この間、1986年11月1日から1999年5月9日まで鳳駅で折り返す列車も設定されていた(現在の鳳駅折り返し快速と同じ停車駅)。また2008年3月14日までは和泉砂川駅で折り返す列車も存在していた。
2003年10月1日に新大阪駅からの新幹線接続のために夜の日根野行きが設定され、鳳駅→日根野駅間の終電が繰り下げられた。また、2003年10月4日から2006年3月12日まで土曜・休日の朝に1往復のみ大阪環状線 - 鳳駅間の列車(大阪環状線内各駅に停車)が設定されていた。こうして、2011年3月11日までは朝ラッシュ時と日根野行きの最終列車のみの設定となっていたが、翌12日の改正より日中の運転が再開されている。2022年3月12日の改正で、輸送力の適正化を目的に、運転時間帯の拡大と日中時間帯の列車の熊取駅折り返しへの変更が行われた<ref>{{Cite press release |和書 |title=2022 年 3 月 12 日にダイヤ改正を実施します |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2021-12-27 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/211217_05_keihanshin.pdf |format=pdf |accessdate=2022-01-23}}</ref>。
==== 普通 ====
[[File:Series225-5100-HF604.jpg|thumb|200px|225系5100番台の普通列車(美章園駅)]]
普通は、運行区間内のすべての駅に停車する列車である。
日中時間帯は天王寺駅 - 鳳駅間で1時間に4本運転されている。この時間帯は鶴ケ丘駅と上野芝駅で関空快速・紀州路快速、杉本町駅で区間快速の通過待ちを行う。朝晩は熊取駅・日根野駅・和泉砂川駅・和歌山駅発着およびきのくに線御坊始発{{Refnest|group="*"|きのくに線乗り入れ列車は、2021年6月21日時点で土曜・休日ダイヤに御坊発6時台に天王寺行きとして上り1本のみ設定されている。この列車は終点の天王寺駅まで運転区間の各駅に停車し、所要時間は約3時間である<ref>交通新聞社『西日本時刻表』2021年夏号。</ref>}}の設定がある。全列車[[JR西日本223系電車|223系]]0・2500番台、[[JR西日本225系電車|225系]]5000・5100番台で運転されている。
国鉄時代のうち昭和40年代までは杉本町駅・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・東貝塚駅・熊取駅・和泉砂川駅など折り返しパターンが多彩であったが、昭和50年代になると鳳駅・東岸和田駅折り返しに集約され、日根野方面まで来る列車は朝晩のみであった。この当時は区間快速が2011年3月12日以降と同様に日中にも運転されており、普通の代わりに鳳駅・東岸和田駅 - 和歌山駅間の各駅の輸送を担っていたためである<ref group="*">1980年10月1日改正の日中の1時間あたりの運転パターンは天王寺駅 - 和歌山駅間運転の快速と区間快速が2本、普通は鳳駅折り返しが4本、東岸和田駅折り返しが2本の合計6本が運転されており、鳳駅 - 東岸和田駅間を区間快速と普通それぞれ2本ずつ組み合わせることにより天王寺駅 - 東岸和田駅間の全駅で1時間に最低4本の乗車機会を確保していた。</ref>。この当時は天王寺駅 - 和歌山駅間で各駅に停車する列車は1日2往復のみであった。1986年11月1日のダイヤ改正では区間快速が快速に格上げされた関係で日中時間帯の普通の運転系統が天王寺駅 - 和泉砂川駅・和歌山駅間に延長された。1992年3月14日の改正で、夕方の区間快速が快速になったため、この時間帯の普通も運転区間が延長された。2011年3月12日のダイヤ改正で日中の鳳駅 - 日根野駅間は区間快速が、日根野駅 - 和歌山駅間は紀州路快速がそれぞれ各駅に停車することとなったため、鳳駅以南では日中の運用が消滅した。
過去には4ドア車の[[国鉄103系電車|103系]](4・6両編成)および[[国鉄205系電車|205系]](4・6両編成)、3ドア車の[[国鉄113系電車|113系]](2・6両編成)および223系2両編成を2本連結した4両編成も使用された<ref>『関西の鐵道』2008年爽秋号、関西鉄道研究会、p.12</ref><ref>『鉄道ダイヤ情報』2004年11月号、交通新聞社、p.40。</ref>。
毎年[[大晦日]]深夜から翌年の[[元日|元旦]]にかけては、普通のみ天王寺駅 - 鳳駅間で[[終夜運転]]を行っていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>が、2018年末をもって取り止めとなり、2019年末は全線で終夜運転は行われないこととなった<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/12/page_15240.html |title=大みそかの臨時列車運転のお知らせ |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2019-12-12 |accessdate=2019-12-16 }}</ref>。なお、過去には2017年まで天王寺駅発鳳行き最終列車を日根野駅まで延長運転した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/11/page_11531.html |title=大みそかの終夜運転のお知らせ 〜大みそか深夜から元旦にかけて終夜運転を行います〜 |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2017-11-27 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>ほか、大和路線JR難波駅まで乗り入れていた時期もあった<ref>『JTB時刻表』1999年12月号、JTB、付録15ページ</ref><ref>『JTB時刻表』2002年12月号、JTB、付録9ページ</ref>。
=== 快速列車の推移 ===
阪和線の快速列車は、1958年10月1日にそれまで「特急」と呼ばれていた列車を「快速」に名称を変更したのが最初である。当時は1時間に1本の運転で、鳳駅・紀伊中ノ島駅に全列車が、金岡駅(現在の堺市駅)・和泉砂川駅に一部の列車が停車していた<ref name="jtb66" />。
また同日からそれまで「急行」電車と「準急」電車と別々に運転していたものを統合した上で「直行」に変更した種別も運転を開始した。直行は1時間に2本の運転で、金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅と和泉府中駅 - 東和歌山駅(現在の和歌山駅)間の各駅に停車した<ref name="jtb66" />。1968年10月1日のダイヤ改正で「直行」が「区間快速」に名称を変更し、鳳駅 - 和歌山駅間を各駅に停車する区間快速も運転されるようになった<ref name="jtb77" />。
1972年3月15日に阪和線でも[[新快速]]が運転開始し、鳳駅にのみ停車して阪和間の所要時間が戦前の超特急と同じレベルの45分で結ばれた<ref name="jtb81">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 81頁]]</ref>。しかし、1977年3月15日に熊取駅と和泉砂川駅が停車駅に追加され、1978年10月2日改正で廃止された<ref name="jtb188">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 188頁]]</ref>。同改正では紀勢本線和歌山駅 - 新宮駅間の電化が完成したことを受け、天王寺駅 - 和歌山駅間の快速が1時間に2本(うち1本は紀勢本線直通)とされた<ref name="jtb94">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 94頁]]</ref>。1986年11月1日のダイヤ改正からは天王寺駅 - 熊取駅・日根野駅間運転の快速が1時間に2本加わって、天王寺駅 - 熊取駅または日根野駅間では1時間に4本の運転となった。和歌山駅発着と紀勢本線直通には113系が、熊取駅・日根野駅発着の快速には103系が充当された<ref>[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 105-106頁]]</ref>。
1988年3月13日のダイヤ改正で、熊取駅 - 和歌山駅間の各駅に停車するB快速が日中1時間に1本新設された。1989年3月11日のダイヤ改正でさらに快速が増発され、1時間に天王寺駅 - 和歌山駅間が3本(うち1本は紀勢本線直通)と天王寺駅 - 日根野駅間が3本に揃えられ、天王寺駅基準で10分に1本の運転になった<ref>[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 116頁]]</ref>。
関西国際空港開港に合わせた1994年9月4日改正では「関空快速」が新設された。従来の日根野発着の「快速」を改称し、関西空港線[[関西空港駅]]まで延長して、大阪環状線および大和路線[[JR難波駅]]への乗り入れを開始した。続く1995年4月20日からは関空快速を速達化した関空特快「ウイング」が運転を開始した<ref name="jtb122">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 122-123,126頁]]</ref>。1999年5月10日改正では関空特快の廃止に代わって「紀州路快速」が新設され、おおむね2015年3月14日現在で運転されている列車種別が出揃うことになる<ref name="jtb130">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 130-132, 174-175頁]]</ref>。この1999年改正から、三国ケ丘駅・紀伊駅・六十谷駅にすべての快速が停車するようになり、阪和線では日中1時間あたり、関空快速・紀州路快速が2本、単独の関空快速が1本、きのくに線直通の快速が1本、天王寺駅 - 日根野駅間の快速が2本の運転となった<ref name="jtb130" />。
天王寺駅構内の[[大和路線]]との連絡線が複線・立体交差化された2008年3月15日改正では、関空快速の大和路線JR難波駅乗り入れが廃止され、日中の天王寺駅 - 和歌山駅間の快速とともに大阪環状線直通の関空快速・紀州路快速に統合され、関空快速・紀州路快速が日中1時間に3本となった<ref name="jtb191">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 191頁]]</ref>。また、大阪環状線内で各駅に停車する[[#直通快速|直通快速]]も朝ラッシュ上りに運転が開始された<ref name="jtb191" />。2011年3月12日改正では、日中に区間快速が設定され、関空快速・紀州路快速が4本、天王寺駅 - 日根野駅間の区間快速が4本となった<ref>[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 174-175頁]]</ref>。
==== 列車種別の変遷 ====
[[File:Hanwa Line Route Map 1929-2018.gif|800px|none|停車駅の変遷]]
=== 過去の列車 ===
ここでは1944年の国有化以降の運行状況を記述する。阪和電気鉄道時代の列車については以下を参照のこと。
*黒潮号 … [[黒潮号]]
*超特急 … [[阪和電気鉄道#ノンストップ超特急]]
*特急・急行・準急・直急・ハイキング列車・海水浴臨時急行 … [[阪和電気鉄道#超特急以外の列車]]、[[阪和電気鉄道#駅一覧]]
==== 料金不要の「特急」「急行」「準急」 ====
阪和線では、戦時中の私鉄編入路線の流れで、次項の有料準急「[[きのくに (列車)|きのくに]]」が登場する1958年まで、追加料金不要の速達電車を「特急」「急行」「準急」と称していた。特急は1950年に設定され、当初は途中ノンストップであったが、1951年には紀伊中ノ島駅に、1952年には鳳駅と和泉砂川駅に停車するようになった<ref name="jtb187">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 187頁]]</ref>。当初は[[国鉄52系電車|52系]]、後に[[国鉄70系電車|70系]]が使用された<ref name="名前なし-1">寺本光照『関西発の名列車 山陽最急行からトワイライトエクスプレスまで』62頁 </ref>。1958年に快速に改称された<ref name="jtb66" />。
急行は1949年に設定され<ref name="jtb187" />、金岡駅(現在の堺市駅)・鳳駅・和泉府中駅・東岸和田駅・和泉砂川駅・紀伊中ノ島駅に停車していた<ref name="名前なし-1"/>。準急は1946年に設定され<ref name="jtb187" />、金岡駅(現在の堺市駅)と鳳駅以南の各駅に停車していた<ref name="jtb66" />。1958年に急行と準急が統合され、直行に改称された<ref name="jtb66" />。
==== (有料)急行(1966年までの準急含む) ====
{{See|きのくに (列車)}}
==== 特急「あすか」 ====
1965年 - 1967年に[[名古屋駅]] - 東和歌山駅(現:和歌山駅)間を阪和貨物線経由で運行された気動車特急。
{{See|かすが_(列車)#あすか}}
==== 新快速 ====
{{See|新快速#阪和線}}
==== 関空特快「ウイング」 ====
{{See|関空快速・紀州路快速#過去の列車}}
==== はんわライナー ====
[[ファイル:Hanwa-Liner2.jpg|thumb|200px|381系による「はんわライナー」(天王寺駅)]]
国鉄時代の1984年9月1日から天王寺駅 - 日根野駅間で運転を開始した「ホームライナーいずみ」が前身で、特急「くろしお」で運用された列車が日根野電車区に入区するための[[回送|回送列車]]を、座席整理券を要する座席定員制の列車として客扱いしたもので、関西における[[ホームライナー]]はこれが最初であり、下り列車が2本設定された<ref name="jtb100">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 100頁]]</ref>。
1986年11月1日のダイヤ改正で、運転区間が和歌山駅まで延長され、名称も「はんわライナー」に変更されたが<ref name="jtb106">[[#寺本2014|『国鉄・JR関西圏近郊電車発達史』 106頁]]</ref>、2000年代以降の特急格上げなどによって次第に本数を減らし、2011年3月12日のダイヤ改正ですべて廃止された<ref name="jrw_kin20101217">{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}}{{リンク切れ|date=2015-12-01}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部プレスリリース 2010年12月17日</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_honsya.pdf 平成23年春ダイヤ改正について]}}{{リンク切れ|date=2015-12-01}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年12月17日</ref>。
停車駅は、天王寺駅・鳳駅(下りのみ)・和泉府中駅・東岸和田駅・熊取駅・和泉砂川駅・和歌山駅。以前は平日で1日上り3本、下り6本が運転されていたが、2002年3月23日のダイヤ改正で下り1本が新大阪発紀伊田辺行きの特急「くろしお」に、2004年10月16日のダイヤ改正で1往復が新大阪駅 - 和歌山駅(上りは臨時列車扱いで海南発)間の特急「スーパーくろしお」に変更され、上り2本、下り4本となっていた。2009年3月14日のダイヤ改正で土曜・休日ダイヤの運転が廃止され、同年の6月1日より全面禁煙になった。
2010年3月13日に行われたダイヤ改正では、和歌山行きの下り列車は夜に4本、天王寺行きの上り列車は朝に3本運行される形をとっていた(上り6号のみ熊取発)。車両は基本的にはリニューアルが行われていない[[国鉄色]]の[[国鉄381系電車|381系]]電車が使われていた。特急運用の[[間合い運用|間合い]]や車両の都合で「くろしお」用または「スーパーくろしお」用のものが用いられる場合もあり、この場合1号車のグリーン車は普通車扱いとしていた。
かつては車内販売も行っていた。土曜・休日ダイヤでは熊取駅で特急「はるか」に追い抜かれる列車や、東岸和田駅で特急「くろしお」に追い抜かれる列車もあった。また、ダイヤの大幅乱れが発生した際には、座席整理券不要で乗車できるケースがあった。
==== B快速 ====
B快速は、天王寺駅 - 熊取駅間の快速停車駅と、熊取駅 - 和歌山駅間の各駅に停車していた列車である。
[[1988年]][[3月13日]]のダイヤ改正で新設され、当初は日中にも1時間に1本運転されていた。しかし、1989年3月11日のダイヤ改正で日中の列車が廃止されると、以後は増減を繰り返しつつ少数が運行されるのみになる。基本的に天王寺駅 - 和歌山駅間での運転であったが、大阪環状線・[[梅田貨物線]]経由の新大阪行きや、きのくに線[[周参見駅|周参見]]発の列車も設定されていた。2018年3月17日のダイヤ改正にて、早朝の和歌山発新大阪行きのB快速は増発される特急「くろしお」に置き換えられる形で廃止され<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/12/page_11628.html 2018年春ダイヤ改正 (2018年3月17日【土曜日】)] – 西日本旅客鉄道、2018年1月12日閲覧</ref>、阪和線天王寺発着列車も種別が変更されたため、B快速の名称は廃止となった。現在、阪和線天王寺発着で日根野以南の各駅に停車する和歌山方面の快速列車は紀州路快速として運行されている。
廃止直前には全列車が[[JR西日本223系電車|223系]]0・2500番台、[[JR西日本225系電車|225系]]5000・5100番台で運転されていた<ref name="jrw_20111216" />。8両編成で運転される列車も設定されていたが、日根野駅 - 和歌山駅間はホーム有効長の関係から4両編成で運転され、日根野駅で増解結を行っていた。2011年3月12日のダイヤ改正時点では、夜間の上り1本は103系または205系1000番台の4両編成で運転されていた<ref name="local_29" />。早朝の和歌山発新大阪行きは2011年12月10日まで113系電車4両編成で運転されていた<ref name="rf_20111210" />。
なお、阪和線内の路線図にB快速の案内はなく、時刻表には、B快速であっても快速と同じ表記になっていた。列車内で掲出およびJRおでかけネットで提供されている停車駅案内<ref>{{PDFlink|[https://www.jr-odekake.net/eki/pdf/teisya_02.pdf 停車駅ご案内 大阪環状線・JRゆめ咲線・大和路線・阪和線・関西空港線]}} – 西日本旅客鉄道 JRおでかけネット、2016年7月20日閲覧</ref> や「JTB時刻表」では「B快速」とは案内されておらず、単なる快速の停車駅違いの扱いであった。大阪環状線内では単に快速として案内されていた。
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Hanwa B Rapid.jpg|「B快速」種別幕
JR West 225-5014 20110312.jpg|225系5000番台のB快速天王寺行き(紀伊中ノ島駅)
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=== 鳳駅 - 東羽衣駅間(羽衣線) ===
全列車が[[ワンマン運転]]を行い、14 - 20分間隔(日中は15分間隔)でこの区間を折り返し運転している。車両は2018年3月17日のダイヤ改正から[[JR西日本225系電車|225系]]5100番台4両編成が使用されている。それまでは専用の[[国鉄103系電車|103系]]3両編成を交代制で2編成使用していた<ref name="kotsu_2012w" />。運行距離は1.7 km(所要時間3分)で、これはJR旅客6社で最も運転区間が短い営業列車の一つでもある<ref group="*">このほか、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[鶴見線]]で平日のみ運転されている[[弁天橋駅]]16時40分発[[武蔵白石駅|武蔵白石]]行き(2013年12月2日現在)も同じく最も運転区間が短い営業列車となっている。</ref>。なお、羽衣線については大晦日の終夜運転は行われていない。
車内および駅の案内では羽衣線と呼称されることはなく、鳳駅での乗り換え案内では「東羽衣方面」、南海羽衣駅での乗り換え案内では「JR鳳行き」と案内されている。
2021年3月のダイヤ改正前まで長らく、近畿地方の都市間鉄道路線では珍しい曜日に関係なく同じダイヤで運行されていたが、同改正からは平日と土休日で別ダイヤとなっている。
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JRW series225-Hagoromo.jpg|羽衣線 225系[[ワンマン運転|ワンマン]]車<br>([[2018年]]8月 鳳駅 - 東羽衣駅間)
Hagoromo Line Rollsign JNR 103.jpg|羽衣線103系の行先幕
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{{-}}
== 女性専用車 ==
{|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;"
|-
|style="background-color:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #ff8e1f"|女性専用車
|-
|{{TrainDirection|天王寺|和歌山}}
|-
|
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em;"
|-
|style="width:2em;"|6
|style="width:2em;"|5
|style="width:2em;"|4
|style="width:2em; background-color:#fcf"|3
|style="width:2em;"|2
|style="width:2em;"|1
|}
|}
天王寺駅 - 和歌山駅間では、平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、6両編成の225系による普通・区間快速・快速の3号車に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている<ref>[http://www.jr-odekake.net/railroad/service/train_woman/ 列車でのサービス:女性専用車両] - 西日本旅客鉄道 JRおでかけネット</ref>。乗車位置には女性専用車の案内が表示されている。なお、ダイヤが乱れた際は女性専用車の設定が解除されることがある。
阪和線では2004年10月18日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていた<ref name="jrw_20040721">[http://replay.waybackmachine.org/20041022202346/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/040721a.html 阪和線、大和路線に「女性専用車」を拡大します](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2004年7月21日</ref> が、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった<ref name="jrw_20110304">[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] ・ [http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175270_799.html 車両保守部品の不足に伴う列車運転計画の見直しについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日・2011年4月6日</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現在の使用車両 ===
全列車が[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]の[[電車]]で運転されており、289系以外は[[吹田総合車両所]]日根野支所(2012年6月1日に車両部門の組織改正が行われ、日根野支所は[[日根野電車区]]に相当する<ref name="ReferenceA"/>)、289系は同総合車両所京都支所(旧[[京都総合運転所]])に配置されている。快速・普通列車用車両は全て2列+1列の転換クロスシート・[[列車便所|トイレ]]つきの車両となっている。
前述の通り、並行私鉄との競合や、関西国際空港へのアクセス路線であることから、JR西日本では東海道・山陽本線([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])、[[片町線]](学研都市線)、[[福知山線]](JR宝塚線)、[[北陸本線]]とともに、新形式車両が優先的かつ最初に投入される路線の一つになっている。
==== 特急列車 ====
* [[JR西日本283系電車|283系]]・[[JR西日本287系電車|287系]]・[[JR西日本683系電車#289系|289系]]
** 特急「くろしお」で使用されている。
** 289系は[[北陸本線]]の特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」専用車両だった[[JR西日本683系電車|683系2000番台]]を直流化改造したものである。
* [[JR西日本281系電車|281系]]・[[JR西日本271系電車|271系]]
** 特急「はるか」で使用されている。
<gallery>
Series281 Hanwa Line.jpg|281系
JRW series271-4 Hanwa Haruka.jpg|271系
283系オーシャンアロー.jpg|283系
JRW series287 Kinokuni.jpg|287系
JR-Series289-Hanwa-Line.jpg|289系
</gallery>
==== 快速・普通列車 ====
* [[JR西日本223系電車|223系]]0・2500番台
** 快速列車を中心に、一部の普通にも運用されている。関西国際空港へのアクセス列車として使用するため、関西国際空港開港の前の1994年4月1日から運転を開始した。当初は6両編成と2両編成であったが、1999年5月10日に紀州路快速が登場した際に5両編成と3両編成に組み替えられ、2008年3月15日ダイヤ改正後はすべて4両編成となっている。2011年3月12日からは225系と共通運用に変更されたが、一部の編成は2011年12月10日から一時期きのくに線で限定運用されていた。
* [[JR西日本225系電車|225系]]5000・5100番台
** 阪和線の快速列車で運用されていた221系と205系0番台の8両編成を置き換える形で、5000番台が4両編成で2010年12月1日から運転を開始し<ref>[http://railf.jp/news/2010/12/02/095900.html 225系が営業運転を開始] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2010年12月2日</ref>、2011年3月12日からは編成増備のうえ223系と共通運用になった。
** 2016年7月1日には103系などの置き換え用に5100番台が投入され<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20160314-a537/|title=JR西日本225系2次車、阪和線新車を公開! 227系の外観デザインに - 写真70枚|newspaper=マイナビニュース|date=2016-03-14|accessdate=2016-03-14}}</ref>、4両編成だけでなく新たに6両固定編成が加わった<ref>[http://railf.jp/news/2016/07/02/200500.html 225系5100番台が営業運転を開始] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2016年7月2日</ref>。なお、5100番台ではフリーの[[公衆無線LAN|Wi-Fiスポット]]が提供されている。2017年7月をもって導入予定であった4両編成14編成・6両編成11編成の計122両の製造が終了した。2018年3月17日からは羽衣支線での運行を開始し、阪和線内すべての普通列車が3ドア車両に統一された。
<gallery>
ファイル:Series223-102.jpg|223系0番台
ファイル:Series223-2509.jpg|223系2500番台
ファイル:Series225-5006.jpg|225系5000番台
ファイル:阪和線225系5100番台.jpg|225系5100番台
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
{{Main2|国有化以前の車両|阪和電気鉄道の車両}}
==== 電車 ====
* [[国鉄40系電車|40系]]
* [[国鉄51系電車|51系]]
* [[国鉄52系電車|52系]](流電)
* [[国鉄70系電車|70系]]
* [[国鉄72系電車|72系]]
* [[国鉄103系電車|103系]](1968年10月1日<ref>{{Cite news |和書|title=阪和線増強ほぼ完成 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1968-09-27 |page=1 }}</ref> - 2018年3月16日)
** 2017年7月30日から2018年3月16日までは羽衣支線でのみ運用されていた。
* [[国鉄123系電車|123系]](1987年7月1日<ref>鉄道ファン 1987年9月号 115頁</ref> - 1995年頃)
* [[国鉄205系電車|205系]](1988年3月 - 2018年3月16日)
**[[京阪神緩行線]]から転属した0番台と民営化後に投入された1000番台が存在した。
* [[国鉄165系電車|165系]](1986年11月 - 2002年3月)
* [[国鉄113系電車|113系]](1972年3月 - 2020年3月13日)
** 2011年12月10日から2020年3月13日までは日根野 - 和歌山間でのみ運用されていた。
* [[国鉄117系電車|117系]]
** 阪和貨物線の線路保守目的で回送列車([[錆取り列車]])が[[王寺駅]] - 鳳駅間で1往復運転されていた<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2003年2月号、No.728、[[電気車研究会]]、p.14。</ref>。
* [[JR西日本221系電車|221系]](2000年3月 - 2010年12月1日)
** [[奈良電車区]]所属の車両を使用し、快速で運用。
* [[国鉄485系電車|485系]](1985年4月 - 1986年10月)
* [[国鉄381系電車|381系]](1978年10月 - 2015年10月30日)
** 特急「くろしお」「[[#はんわライナー|はんわライナー]]」で運用。
<gallery>
ファイル:阪和線103系高運転台車.jpg|103系
ファイル:羽衣支線103系.jpg|103系(羽衣支線)
ファイル:1987-8-kumoha123-5a.JPG|123系
ファイル:阪和線205系0番台.jpg|205系0番台
ファイル:体質改善工事を受けた205系1000番台.jpg|205系1000番台
ファイル:JRW series113 Hanwa Line Rapid.jpg|113系
ファイル:Jrwest 113 2000.jpg|113系(紀勢本線ワンマン列車用)
ファイル:JRW series221-12 Hanwa Rapid.jpg|221系
ファイル:JRW series381 Hanwa.jpg|381系
</gallery>
==== 気動車 ====
* [[国鉄キハ55系気動車|キハ55系]]
* [[国鉄キハ57系気動車|キハ57系]]
** 1975年から1978年にかけて[[名古屋車両区|名古屋第一機関区]]の車両が天王寺駅 - 名古屋駅間の急行「[[南紀 (列車)|紀州]]」で運用。
* [[国鉄キハ58系気動車|キハ58系]]
* [[国鉄キハ65形気動車|キハ65形]]
* [[国鉄キハ80系気動車|キハ81・82系]]
==== 電気機関車 ====
* [[国鉄ED16形電気機関車|ED16形]]
* [[富士身延鉄道200形電気機関車|ED20形]]
* [[国鉄EF15形電気機関車|EF15形]]
* [[国鉄EF51形電気機関車|EF51形]]
* [[国鉄EF52形電気機関車|EF52形]]
* [[国鉄EF58形電気機関車|EF58形]]
* [[国鉄ED60形電気機関車|ED60形]]
* [[国鉄EF60形電気機関車|EF60形]]
* [[国鉄ED61形電気機関車|ED61形]]
== 輸送品質向上の取り組み ==
=== 複々線化計画と大阪市内区間の高架化 ===
阪和線では、天王寺駅 - 鳳駅間の複々線化が、1958年3月に提出された都市交通審議会の「大阪市およびその周辺における都市交通について」の答申で、1975年を目標年度として整備すべき路線に盛り込まれたが、具体化されることは無かった<ref>「大阪環状線の成立とその後」『[[鉄道ジャーナル]]』2011年7月号、[[鉄道ジャーナル社]]、p.106。</ref>。
大阪市内区間のうち阪和電鉄開業以前から走っていた[[近鉄南大阪線]]と[[南海平野線]]との立体交差は元々必要だったため、天王寺駅から美章園駅 - 南田辺間の阪神高速との交差部付近までは開業当初から高架化されていた。しかし、阪神高速交差部付近 - 杉本町駅北側間は長らく地平を走っていて、この区間には12か所の踏切があった。そのうち[[開かずの踏切]]が11か所、全国の開かずの踏切のワースト10の3か所の踏切が含まれており、重大な[[踏切障害事故]]や主要幹線道路を中心に慢性的な渋滞が発生していた<ref>[https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000162748.html 大阪市市政 JR阪和線連続立体交差事業] - 大阪市</ref>。このため、約4.9 kmを高架化する[[連続立体交差事業]]が1983年度から実施され、[[1999年]]後半から工事に着手し、[[2004年]][[10月16日]]に上り線が<ref name="jrw_k20040721">[https://web.archive.org/web/20040804172305/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/k040721.html 2004年7月定例社長会見]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2004年7月21日</ref>、[[2006年]][[5月21日]]に美章園駅 - 杉本町駅間の下り線が高架化された<ref name="jrw_20060330">[https://web.archive.org/web/20060426234042/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/060330a.html JR阪和線連続立体交差事業における下り線高架切替](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2006年3月30日</ref>。
高架化にあたっては、[[阪神高速道路|阪神高速]]が計画していた[[阪神高速道路大阪泉北線|大阪泉北線]]と一体的に整備し、2階を阪和線、3階を阪神高速とした3階建ての高架橋を建設する予定であった。しかし、[[阪神・淡路大震災]]での高架橋の倒壊で、沿線住民から耐震性を不安視されたため、3階建ての計画を見直して阪神高速は地下化を検討して、阪和線だけの2階建てで先行して建設が進められていた。3階建て高架橋は、2003年3月に正式に建設中止され、その後高速道路自体の建設が中止された<ref>[https://web.archive.org/web/20110925063532/http://www.47news.jp/CN/200307/CN2003072401000352.html 大阪泉北線を建設中止 3階建てで耐震性に不安] - 47NEWS 2003年7月24日</ref>。
=== 開かずの踏切問題 ===
2015年3月現在、地上線として残っている大阪市内区間は、杉本町駅北側から杉本町駅 - 浅香駅間の大和川橋梁までである。杉本町駅周辺には住宅街が広がっているほか、大阪公立大学が阪和線に隣接しており、2008年度の1日平均乗車人員は9,079人である<ref>[https://www.pref.osaka.lg.jp/toukei/nenkan/nenkan-09xls.html 大阪府統計年鑑 統計データ 9-3 JR各駅別乗車人員] ([[Excel]]) - 大阪府</ref>。しかし、JR阪和線連続立体交差事業では杉本町駅前後も高架化されることなく地上線として残されたままであり、改札口が西側にしかないうえ同駅前後には開かずの踏切があり、踏切事故が多発していたため<ref>[http://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK201001270070.html 「開かずの踏切」問題解消へ 杉本町駅の改良工事を検討] - [[朝日新聞]] 2010年1月27日</ref>、地域住民や大阪市・JR西日本の3者により解決策が模索されていたが<ref>[http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/hanwasen/090720/20090720086.html 提案型まちづくり [JR阪和線 「杉本町」問題を問う]] - [[大阪日日新聞]]</ref>、改札口がなかった東側にも改札口を設置することとなり、2012年3月11日から使用が開始された<ref>[http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120310/20120310043.html 新改札口開設 JR杉本町駅「開かずの踏切」問題] - 大阪日日新聞 2012年3月10日</ref>。
また阪和線では、JR西日本が2013年に発表した「安全行動計画2017」に掲げられた輸送障害半減などの目標に向けての取り組みが行われている<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/safety/fukuchiyama/plan_consider/pdf/anzen2017_all.pdf 安全行動計画2017]}} - 西日本旅客鉄道</ref><ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2013/09/page_4431.html 2013年9月定例社長会見] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2013年9月11日</ref>。
阪和線では[[関西空港線]]開業を機に列車本数が増加することから、1993年7月から「[[運行管理システム (JR西日本)|阪和線運行管理システム]]」(初代)が導入されていたが、老朽化が進んでいたことから2013年9月28日にシステムの更新が行われた。この更新により、操作性と応答性が向上されるためダイヤが乱れた際に早期に正常ダイヤに戻ることが可能とされるとともに、[[発車標]]の増設や遅れ表示ができる機能を持たせることにより旅客案内機能を拡充させている。
運行管理システムの更新にあわせて、踏切の長時間鳴動対策も実施された。輸送障害発生時には駅で長時間抑止することにより踏切が長時間動作し、踏切非常ボタンの取り扱いや踏切の無謀横断により本来の事象以上に列車の遅延が発生することがある。これにより、踏切が通行できなくなるのを解消するために、我孫子町駅 - 日根野駅間で大阪総合指令所から信号の現示が制御できるように[[停車場]]化されている(踏切がない浅香駅を除く)<ref>『[[鉄道ジャーナル]]』2014年9月号、鉄道ジャーナル社、p.26</ref>。なお、東岸和田駅付近は2016年度内に高架化されるため、この対策は行われない<ref>[http://response.jp/article/2013/09/16/206476.html JR西日本、阪和線に新しい運行管理システムを導入…折り返し設備の増強なども実施] - [[Response.]] 2013年9月16日</ref>。
折り返し設備の拡充・新設も行われている。鳳駅では折り返し設備の拡充と新設、熊取駅・東貝塚駅で折り返し設備が新設された。鳳駅では天王寺方面からの折り返しは1ルートであったが3ルートにするとともに、和歌山方面からは新たに折り返しができるように改良されている。鳳駅 - 熊取駅間で輸送障害が発生した場合でも、運転見合わせ区間が鳳駅 - 熊取駅間の最小限にすることが可能になり、早期に通常ダイヤに戻ることができると見込まれている。
== 歴史 ==
[[京阪電気鉄道]]や[[商船三井|大阪商船]]などが出資の[[阪和電気鉄道]]により、[[南海電気鉄道|南海鉄道]]の保有する[[南海本線]]で独占されていた阪和間の輸送に切り込むため建設された。そのため、阪和と南海の間ではしばらく激しい乗客獲得競争が繰り広げられたが、1940年に阪和は南海に合併されて同社の'''山手線'''となり、さらに1944年に阪和間の直通路線を有していなかった[[日本国有鉄道|国鉄]]([[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]])に[[戦時買収私鉄|戦時買収]]され、'''阪和線'''となった。「[[阪和電気鉄道]]」の項目も参照のこと。
なお東羽衣への支線は、浜寺に存在した[[海水浴場]]への輸送が大きな目的となって建設された。
=== 阪和電気鉄道→南海鉄道 ===
[[File:Hanwa Electric Railway Linemap 1940.svg|thumb|right|200px|阪和電気鉄道時代(1940年)]]
* [[1929年]]([[昭和]]4年)[[7月18日]]:阪和電気鉄道により阪和天王寺駅 - 和泉府中駅間(13.0[[マイル|M]]≒20.92 km)、支線 鳳駅 - 阪和浜寺駅間(1.0M≒1.61 km)が開業。当初から全線複線電化<ref name="sone 12">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 12頁]]</ref>。
** 阪和天王寺駅(現在の天王寺駅)・南田辺[[停車場|停留場]]・臨南寺前駅(現在の長居駅)・杉本町停留場・仁徳御陵前停留場(現在の百舌鳥駅)・上野芝駅・鳳駅・信太山停留場・和泉府中駅・阪和浜寺駅(現在の東羽衣駅)が開業。
* [[1930年]](昭和5年)
** [[1月1日]]:我孫子観音前仮停留場(現在の我孫子町駅)が開業。
** [[4月1日]]:営業距離の単位をマイルからメートルに変更(本線 13.0M→20.9 km、支線 1.0M→1.6 km)。
** [[6月16日]]:和泉府中駅 - 阪和東和歌山駅間 (40.3 km) が複線電化で延伸開業し全通<ref name="sone 12"/>。久米田駅・土生郷駅(現在の東岸和田駅)・和泉橋本停留場・熊取駅・日根野停留場・長滝駅・新家停留場・信達駅(現在の和泉砂川駅)・山中渓駅・紀伊駅・六十谷停留場・阪和東和歌山駅(現在の和歌山駅)が開業。
** [[12月6日]]:我孫子観音前仮停車場が我孫子観音前停留場に変更。
* [[1931年]](昭和6年)
** [[3月3日]]:日根野停留場が日根野駅、新家停留場が新家駅に変更。
** [[6月3日]]:美章園停留場が開業。
** [[10月10日]]:六十谷停留場が六十谷駅に変更。
* [[1932年]](昭和7年)
** 月日不明:信達駅が阪和砂川駅に改称。
** 1月1日:中之島停留場が開業。
** [[1月15日]]:中之島停留場が阪和中之島停留場に改称。
** [[2月2日]]:堺市停留場(1932年中に阪和堺停留場に改称、現在の堺市駅)、葛葉稲荷停留場(1932年中に阪和葛葉停留場に改称、現在の北信太駅)が開業。
** 4月1日:土生郷駅が阪和岸和田駅に改称。
* [[1933年]](昭和8年)
** [[1月23日]]:杉本町停留場が杉本町駅に変更。
** [[11月4日]]:阪和天王寺駅 - [[紀伊田辺駅]]間(翌月から[[白浜駅|白浜口駅]])で、温泉列車「[[黒潮号]]」が運転開始<ref name="sone 12"/>。
** [[12月20日]]:阪和天王寺駅 - 阪和東和歌山駅間で[[超特急]]が運転開始<ref name="sone 12"/>。
* [[1934年]](昭和9年)[[9月24日]]:阪和貝塚駅が開業。
* [[1936年]](昭和11年)[[9月25日]]:阪和中之島停留場が紀伊中ノ島停留場に改称。
* [[1937年]](昭和12年)
** [[9月3日]]:阪和浅香山停留場(現在の浅香駅)が開業。
** [[12月1日]]:「黒潮号」が廃止<ref name="sone 12"/>。
* [[1938年]](昭和13年)
** 5月:仁徳御陵前停留場が百舌鳥御陵前停留場に改称。
** [[5月22日]]:阪和鶴ケ丘停留場(現在の鶴ケ丘駅)が開業。
* [[1939年]](昭和14年)[[1月9日]]:泉ケ丘停留場が開業<ref>{{Cite book|和書|author=竹田辰男|year =1989|title = 阪和電気鉄道史|publisher =鉄道資料保存会|isbn = 978-4885400612|page=102,304}}</ref>。
* [[1940年]](昭和15年)
** [[3月1日]]:富木停留場が開業。
**[[12月1日]]:阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、同社の山手線となる<ref name="sone 12"/>。
* [[1941年]](昭和16年)[[8月1日]]:阪和天王寺駅が南海天王寺駅、阪和鶴ケ丘停留場が南海鶴ケ丘停留場、阪和浅香山停留場が山手浅香山停留場、阪和堺停留場が堺金岡停留場、阪和浜寺駅が山手羽衣駅、阪和葛葉停留場が葛葉稲荷停留場、阪和岸和田駅が東岸和田駅、阪和貝塚駅が東貝塚駅、阪和砂川駅が砂川園駅、阪和東和歌山が南海東和歌山駅に改称<ref>{{Cite journal|和書|author=竹田辰男|journal=鉄道史料|volume=108|title=南海鉄道山手線史の考察|publisher=鉄道史資料保存会|year=2003|page=28}}</ref>。
* [[1942年]](昭和17年)[[2月15日]]:三国ケ丘停留場が開業<ref name="sone 12"/>。
=== 日本国有鉄道 ===
[[ファイル:Bishouen Station after air raid.jpg|thumb|200px|1945年2月14日の空襲の高架線の被害(美章園駅)]]
* [[1944年]](昭和19年)
** [[5月1日]]:国有化され阪和線になる<ref>[{{NDLDC|2961684/7}} 「運輸通信省告示第185号」『官報』1944年4月26日](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。
*** 南海天王寺駅が天王寺駅に、紀伊中ノ島停留場が紀伊中ノ島駅に、南海東和歌山駅が東和歌山駅に統合。
*** 停留場を駅に変更。南海鶴ケ丘停留場が鶴ケ丘駅、臨南寺前駅が長居駅、我孫子観音前停留場が我孫子町駅、山手浅香山停留場が浅香駅、堺金岡停留場が金岡駅、百舌鳥御陵前停留場が百舌鳥駅、山手羽衣駅が東羽衣駅、葛葉稲荷停留場が北信太駅、泉ケ丘停留場が東佐野駅、砂川園駅が和泉砂川駅に改称。
** [[6月27日]]:山中渓駅で電車衝突事故が発生。4名死亡。詳細は[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#山中渓駅構内電車衝突事故]]を参照。
** [[8月1日]]:鳳駅 - 東羽衣駅間が単線化<ref name="sone 12"/>。
* [[1945年]](昭和20年)[[2月14日]]:美章園駅が空襲の被害を受け、営業休止。
* [[1947年]](昭和22年)[[4月15日]]:美章園駅の営業再開<ref>[[#jnr1981|「駅の変せん」『天王寺鉄道管理局三十年写真史』 275頁]]</ref>。
* [[1950年]](昭和25年)
** 6月1日:南紀の海の幸を輸送する急行貨物列車「銀鱗号」が天王寺駅 - 串本駅間で運転開始<ref>[[#jnr2004|『近畿地方の日本国有鉄道』 9・358頁]]</ref>。
** [[10月1日]]:流電ことモハ52形電車によって特急料金不要の特急電車が復活する(2往復、天王寺駅 - 東和歌山駅間の所要時間55分)<ref name="jtb66" />。
* [[1951年]](昭和26年)7月15日 - 8月19日:天王寺駅 - 東羽衣駅間で海水浴臨時列車が運転<ref>[[#jnr1981|『天王寺鉄道管理局三十年写真史』 187頁]]</ref>。
* [[1955年]](昭和30年)[[12月1日]]:70系が運用開始<ref>[[#jnr2004|『近畿地方の日本国有鉄道』 361頁]]</ref>。主に特急電車に使用される。
* [[1958年]](昭和33年)10月1日:料金不要の特急電車、急行電車がそれぞれ快速、直行に改称<ref name="jtb77" />。
* [[1960年]](昭和35年)[[9月1日]]:津久野駅が開業。
* [[1963年]](昭和38年)4月1日:和泉鳥取駅が開業。
* [[1965年]](昭和40年)3月1日:金岡駅が堺市駅に改称。阪和線初の有料特急列車として、特急「くろしお」、特急「[[かすが (列車)|あすか]]」が運転開始<ref name="sone 16">[[#sone42|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』42号 16頁]]</ref>。
* [[1967年]](昭和42年)10月1日:特急「あすか」が廃止。
* [[1968年]](昭和43年)
**3月1日:東和歌山駅が和歌山駅に改称<ref name="sone 16"/>。
**[[10月1日]]:直行が区間快速に改称<ref name="jtb77"/>。
* [[1972年]](昭和47年)[[3月15日]]:阪和線で[[新快速]]が運転開始<ref name="jtb81" />。[[ファイル:阪和線新快速.jpg|thumb|阪和線でかつて運転されていた新快速(1978年9月)]]
* [[1973年]](昭和48年)8月31日:鳳駅 - 東羽衣駅間が高架化<ref>{{Cite news |和書|title=羽衣線 鳳-東羽衣間を立体化 あすから新線営業開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1973-08-30 |page=1 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author =藤井信夫 |date = 1973-12-01 |title = TOPIC PHOTO |journal = [[鉄道ピクトリアル]] |volume = 23 |issue = 12 |page = 80 |publisher = [[電気車研究会]] }}</ref>。
* [[1976年]](昭和51年)11月17日:全列車で6両運転開始<ref>[[#jnr2004|『近畿地方の日本国有鉄道』 376頁]]</ref>。
* [[1977年]](昭和52年)
** 3月15日:熊取駅・和泉砂川駅が新快速の停車駅になる<ref name="jtb94" />。
** 3月27日:羽衣線の運用車両を旧型車両から103系に置き換え<ref>[[#jnr1981|『天王寺鉄道管理局三十年写真史』 239頁]]</ref>。
** 4月14日:この日限りで旧形電車の運行を終了。最後まで残ったのは70系4両とモハ72の2両であった。
* [[1978年]](昭和53年)10月2日:新快速が廃止され、快速が増発される<ref name="jtb94" />。紀勢本線(和歌山駅 - [[新宮駅]]間)の電化に伴い特急「くろしお」が電車化<ref name="sone 16"/>。なお、鳳駅以南の架線を振り子対応とするが、この改正では所要時間短縮を余裕時分に向けたので、阪和間の所要時間は、戦前の超特急と同じである。
* [[1982年]](昭和57年)[[1月29日]]:天王寺駅構内で電車が車止めに衝突する事故が発生<ref name="sone 16"/>。
* [[1983年]](昭和58年)10月1日:一部の快速で8両運転開始。
* [[1984年]](昭和59年)
** 4月1日:下松駅が開業。
** 9月1日:関西最初のホームライナーである「ホームライナーいずみ」が天王寺駅 - 日根野駅間で運転開始<ref name="jtb100" />。
* [[1985年]](昭和60年)3月13日:急行「きのくに」が廃止<ref name="sone 16"/>。
* [[1986年]](昭和61年)11月1日:ダイヤ改正により次のように変更<ref name="jtb106" />。
** 東岸和田駅が快速の停車駅に、三国ケ丘駅が区間快速の停車駅になる。
** 日中に運転されていた区間快速はラッシュ時のみ運転されるようになり、快速が天王寺駅 - 日根野駅・和泉砂川駅間で日中にも運転されるようになる。
** 「ホームライナーいずみ」の運転区間が天王寺駅 - 和歌山駅間に延長され「はんわライナー」として運転開始。
=== 西日本旅客鉄道 ===
* [[1987年]](昭和62年)
**4月1日:[[国鉄分割民営化]]により西日本旅客鉄道が承継<ref name="sone 16"/>。[[日本貨物鉄道]]が杉本町駅 - 和歌山駅間の[[鉄道事業者|第二種鉄道事業者]]となる<ref name="sone 16"/>。
**7月1日:羽衣支線にて123系電車運転開始。
* [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:B快速が運転開始。阪和線の愛称が使用開始(正式名称と同じ<ref name="aisho" />)<ref name="history">[http://www.westjr.co.jp/company/info/history/ 沿革:JR西日本] - 西日本旅客鉄道</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** [[3月11日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref>『鉄道ピクトリアル』2003年2月号、電気車研究会、p.54 - 55。普通列車の行き先駅については『JR時刻表』1989年3月ダイヤ改正特集号(現在の[[交通新聞社]])誌面の阪和線(区間快速・普通)掲載頁に天王寺駅発の平日時刻表を別途掲載している。</ref>。
*** 日中のB快速の運転を中止し、快速は天王寺駅 - 日根野駅・和歌山駅間でそれぞれ毎時3本ずつになる(一部は紀勢本線直通)。
*** 日中の普通は天王寺駅 - 和歌山駅間3本と、天王寺駅 - 熊取駅・日根野駅・和泉砂川駅間でそれぞれ1本ずつになる。
*** 天王寺駅 - 五条駅間で快速が運転開始(朝方上り1本・夕方下り2本)。113系使用列車にも朝夕に4両編成を2本併結した8両編成が登場。
** [[7月22日]]:天王寺駅構内の阪和線から大和路線への渡り線が開通し、特急「くろしお」が大阪環状線を介して新大阪駅・京都駅まで直通運転を開始<ref name="sone 16"/>。特急「スーパーくろしお」が運転開始<ref name="sone 16"/>。
** [[8月27日]]:天王寺駅構内で[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#阪和線天王寺駅列車衝突事故|電車が車止めに衝突する事故]]が発生する。
** [[10月20日]]:鳳駅 - 東羽衣駅間でワンマン運転開始<ref name="sone 16"/>。
* [[1990年]](平成2年)
** 3月10日:ラインカラーが導入される<ref name="history" />。
** [[8月20日]]:天王寺駅 - 鳳駅間上り線で ATS-P が使用開始<ref name="zensen" />。
* [[1991年]](平成3年)4月1日:天王寺駅 - 鳳駅間下り線で ATS-P が使用開始<ref name="zensen" /><ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=195 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)[[7月1日]]:天王寺駅 - 和歌山駅間で[[運行管理システム (JR西日本)|阪和線運行管理システム]] (SUNTRAS) が使用開始<ref>{{Cite news |title=新運行管理システム稼働 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-07-06 |page=1 }}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)
** 4月1日:223系電車が運転開始。
** 5月:鳳駅 - 日根野駅間で ATS-P が使用開始<ref name="zensen" />。
** [[6月15日]]:[[関西空港線]]が開業<ref name="jrr_95">{{Cite book|和書 |date=1995-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '95年版 |chapter=JR年表 |page=189 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-116-3}}</ref>。223系電車による天王寺駅 - 関西空港駅間の快速が運転開始<ref name="jrr_95" />。
** [[9月4日]]:関西国際空港開港に伴い、特急「[[はるか (列車)|はるか]]」、[[関空快速・紀州路快速|関空快速]]が運転開始<ref name="jrr_95" />。日根野駅が快速列車の停車駅になる。
* [[1995年]](平成7年)[[4月20日]]:関空特快「ウイング」運転開始<ref name="jtb122" /><ref name=JRR1996>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=185 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。
* [[1996年]](平成8年)
**[[3月16日]]:鳳駅以南の最高速度が120 km/hに引き上げられ、最速列車は戦前に運転されていた超特急の所要時間を更新する39分で阪和間を走破するようになる([[表定速度]]94.3 km/h)。
** [[7月31日]]:283系電車が特急「スーパーくろしお オーシャンアロー」として運転開始<ref name="sone 16"/><ref name=JRR1997>{{Cite book|和書 |date=1997-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '97年版 |chapter=JR年表 |page=186 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-118-X}}</ref>。
** [[10月5日]]:平日ダイヤで運転されていた土曜日が、休日ダイヤで運転されるようになる{{R|JRR1997}}。
* [[1997年]](平成9年)[[3月8日]]:特急「スーパーくろしお オーシャンアロー」が「オーシャンアロー」に改称。
* [[1999年]](平成11年)[[5月10日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref name="jtb130" />。
** 紀州路快速が運転開始。
** 三国ケ丘駅・紀伊駅・六十谷駅が快速列車の停車駅になる。
** 関空特快「ウイング」が廃止。
* [[2000年]](平成12年)3月11日:日中の天王寺駅発着の快速が221系に置き換え<ref>[https://web.archive.org/web/20000303170640/http://www.westjr.co.jp/kou/press/4press/n991217a.html 平成12年春 ダイヤ改正について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 1999年12月17日</ref>。日中の紀勢本線への快速は和歌山駅で系統分割される。
* [[2003年]](平成15年)
** 4月1日:日本貨物鉄道の第二種鉄道事業(杉本町駅 - 和歌山駅間)が廃止<ref>『JR気動車客車編成表 '05年版』ジェー・アール・アール、2005年。{{ISBN2|4-88283-126-0}}。</ref>。和歌山県から貨物列車が消滅する。
** 10月1日:コンコースの喫煙コーナーが廃止<ref>[https://web.archive.org/web/20031001173208/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030829a.html 駅コンコースを終日全面禁煙にします](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月29日</ref>。
** [[11月1日]]:近畿圏で「ICOCA」の利用サービスが開始され、阪和線も利用可能エリアとなる<ref>[https://web.archive.org/web/20040803184954/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030820a.html 「ICOCA」いよいよデビュー! 〜 平成15年11月1日(土)よりサービス開始いたします 〜]([[インターネットアーカイブ]])- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年8月30日</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** [[10月16日]]:美章園駅 - 杉本町駅<!--出典の原文ママ。我孫子町-杉本町間の高架アプローチ部含む-->間の上り線が高架化<ref name="jrw_20040721" />。
** [[10月18日]]:一部列車で女性専用車が導入<ref name="jrw_20040721" />。
* [[2006年]](平成18年)[[5月21日]]:美章園駅 - 杉本町駅<!--出典の原文ママ。我孫子町-杉本町間の高架アプローチ部含む-->間の下り線が高架化<ref name="jrw_20060330" />。[[File:JR Abikomachi sta 001.jpg|thumb|高架化された我孫子町駅付近の風景(2012年5月)]]
* [[2007年]](平成19年)
** [[3月31日]]:日根野駅 - 和歌山駅間で ATS-P が使用開始<ref>[https://web.archive.org/web/20071105211504/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1172920_799.html 阪和線ATS-Pの使用開始について](インターネット・アーカイブ)- 西日本旅客鉄道プレスリリース 2007年3月27日</ref>。
** [[7月12日]]:東佐野駅 - 和泉橋本駅間の架道橋に[[高所作業車]]が接触、破壊された橋桁のコンクリートにより上り電車が脱線。乗客1名と運転士が負傷<ref>[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/railway/detail.php?id=1731 阪和線東佐野駅〜和泉橋本駅間 列車脱線事故] - 運輸安全委員会</ref>。天王寺駅 - 和歌山駅間全線の運転が約12時間にわたり見合わせとなる。
* [[2008年]](平成20年)3月15日:関西本線との連絡線が複線化<ref name="sone 16"/>。大阪環状線に直通する直通快速が運転開始<ref name="sone 16"/>。
* [[2009年]](平成21年)
** [[3月22日]]:紀ノ川橋梁架け替えが完了し、供用開始。
** 7月1日:線内全駅のホーム上の喫煙コーナーが廃止され全面禁煙化<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174167_799.html 在来線特急列車などの全席禁煙化ならびに在来線ホームの禁煙化の拡大について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2009年3月26日</ref>。
* [[2010年]](平成22年)
** 3月:鳳駅 - 東羽衣駅間で ATS-P が使用開始<ref name="data2014-anzen">{{Cite web|和書|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/data/pdf/data2014_05.pdf |title=データで見るJR西日本2014 |format=PDF|publisher=西日本旅客鉄道 |date=2014-09 |page=33 |accessdate=2014-10-24}}</ref>。
** [[12月1日]]:225系電車運転開始<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1174976_799.html 12月1日から営業運転開始! 新型近郊電車225系の展示会の開催について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年9月15日</ref>。組織改正により、[[西日本旅客鉄道大阪支社|大阪支社]]が管轄していた天王寺駅 - 長滝駅間、鳳駅 - 東羽衣駅間が近畿統括本部の管轄に変更<ref>[http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175068_799.html 組織改正などについて] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年11月16日</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月12日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref name="jrw_kin20101217" />。
*** 日中の運行形態が変更され、15分間隔のダイヤになる。
*** 「はんわライナー」が廃止。
*** 225系5000番台が快速だけでなく、日中の区間快速や関空快速・紀州路快速にも使用されるようになる。
** 4月18日:女性専用車が毎日、終日設定される<ref name="jrw_20110304" />。
** 12月1日:東岸和田駅 - 紀伊駅間で2分以上停車する223系・225系による列車で、車内保温のための半自動扱い開始。
** 12月11日:113系4両編成が阪和線の運用を終了(2両編成1往復は引き続き運転)<ref name="rf_20111210" />。
* [[2012年]](平成24年)
** [[3月17日]]:ダイヤ改正により次のように変更<ref name="jrw_20111216" /><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/20111216_wakayama.pdf 平成24年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道和歌山支社プレスリリース 2011年12月16日</ref>。
*** 紀勢本線の特急「オーシャンアロー」「スーパーくろしお」「くろしお」がすべて「くろしお」に列車名統一。特急「くろしお」に287系電車が投入され運転開始。
*** 快速(関空快速・紀州路快速・区間快速・B快速を含み、区間快速を除く)が223系・225系に統一される。
* [[2013年]](平成25年)
** [[9月28日]]:天王寺駅 - 和歌山駅間で阪和線運行管理システム(SUNTRAS) を新システムに更新<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2013/09/page_4431.html 9月定例社長会見] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2013年9月11日</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[2月8日]]:東岸和田駅付近の下り線が高架化<ref>{{PDFlink|[http://www.city.kishiwada.osaka.jp/uploaded/attachment/29340.pdf 東岸和田駅付近高架化事業だよりVol.35(平成27年3月)]}} - 岸和田市</ref>。
** 3月14日:夕方のラッシュ時間帯にパターンダイヤを導入<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/141219_00_keihanshin_kai.pdf 平成27年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部ニュースリリース 2014年12月19日</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[7月1日]]:225系5100番台が運転開始。従来の223系・225系5000番台が普通列車にも使用されるようになる<ref>[http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2016/07/jr22550002.html 225系5000番代2次車営業運転開始] - 鉄道ホビダス 2016年7月1日</ref>。
** [[12月24日]]:103系4両編成・205系1000番台の運用撤退に伴い、4両編成の普通列車がすべて3扉車(223系・225系)となる<ref>[http://railf.jp/news/2016/12/25/200000.html 日根野支所所属の103系4両編成が運用離脱] - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2016年12月25日</ref>。
* [[2017年]](平成29年)
** [[3月7日]]:東羽衣駅を除く全駅で使用している入線警告音(接近メロディ)を幅広い周波数帯域を持つ音質の警告音に更新<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/03/page_10078.html ~駅のホームの安全性向上に向けて~JR宝塚線・JR東西線・学研都市線・阪和線の駅のホームで使用している「入線警告音」の音質を見直します] - 西日本旅客鉄道近畿統括本部ニュースリリース 2017年3月2日</ref>。
** [[10月22日]]:東岸和田駅付近の上り線が高架化され、上下線共に高架化が完了し<ref>{{Cite web|和書|date=2017-05-22|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2017/05/page_10472.html|title=阪和線東岸和田駅付近高架化の完成について|publisher=西日本旅客鉄道ニュースリリース|accessdate=2017-05-23}}</ref>、東岸和田駅周辺の[[営業キロ]]が改訂<ref name="東岸和田高架化予定営業キロ">{{Cite web|和書|date=2017-05-22|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/170522_01_higashikishiawada.pdf|title=東岸和田駅営業キロ変更に伴う乗車券類の取扱いについて|publisher=西日本旅客鉄道|format=PDF|accessdate=2017-05-23}}</ref>。
* [[2018年]](平成30年)[[3月17日]]:ダイヤ改正に伴い、羽衣線を含む全ての快速・普通列車(日根野駅 - 和歌山駅間の下り初電・上り終電を除く)を223・225系で運行<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/171215_00_keihanshin_1.pdf 平成30年春ダイヤ改正について]}} - 西日本旅客鉄道近畿統括本部ニュースリリース 2017年12月16日</ref>。また、羽衣線2駅のホームを延長し供用を開始する。新大阪発着快速が全て廃止。各駅に[[駅ナンバリング|駅ナンバー]]が導入され、使用を開始する。
* [[2020年]](令和2年)[[3月13日]]:ダイヤ改正に伴い、日根野駅 - 和歌山駅間で運用されていた113系2000番台の運用がこの日をもって終了。すべての列車がJR発足以降の車両で運用されるようになる。
== 駅一覧 ==
* {{JR特定都区市内|阪}}:[[特定都区市内]]制度における「大阪市内」エリアの駅
* <nowiki>#</nowiki>:[[待避駅|待避線が備えられている駅]]
* 停車駅
** 普通…すべての駅に停車
** 快速…●印の駅は全列車が停車、○印の駅は一部列車を除いて停車、▲印の駅は上り列車のみ運転で停車、|印の駅は全列車が通過、↑印の駅は上り列車のみ運転で通過
** 特急…「[[はるか (列車)]]」「[[くろしお (列車)]]」参照
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>、大阪環状線からの通し番号となっている。
<!-- 区間快速以外の種別色は公式色に統一、B快速もあわせた -->
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:95%;"
|-
!style="width:6em; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|駅ナンバー<br /><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref>
!style="width:7em; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|駅間<br />営業キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|累計<br />営業キロ
!style="width:1em; line-height:1.3em; background-color:#cfc; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|{{縦書き|区間快速}}
<!--!style="width:1em; background-color:#feb; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|{{縦書き|B快速}}-->
!style="width:1em; line-height:1.3em; background-color:#feb; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|{{縦書き|関空快速}}
!style="width:1em; line-height:1.0em; background-color:#feb; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|{{縦書き|紀州路快速}}
!style="width:1em; line-height:1.3em; background-color:#feb; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|{{縦書き|直通快速}}
!style="width:1em; background-color:#feb; border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|{{縦書き|快速}}
!style="border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|接続路線・備考
!colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #ff8e1f;"|所在地
|-
!JR-R20
|[[天王寺駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-O.svg|15px|O]] [[大阪環状線]] (JR-O01)([[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]まで直通運転)・[[ファイル:JRW kinki-Q.svg|15px|Q]] [[関西本線]]([[大和路線]])(JR-Q20)<br />[[大阪市高速電気軌道]]:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]] (M23)・[[File:Osaka_Metro_Tanimachi_line_symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]] (T27)<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|F}} [[近鉄南大阪線|南大阪線]] …[[大阪阿部野橋駅]] (F01)<br />[[阪堺電気軌道]]:[[File:Number prefix Hankai Tramway line.png|15px|HN]] {{Color|orange|■}}[[阪堺電気軌道上町線|上町線]] …[[天王寺駅|天王寺駅前駅]] (HN01)
|rowspan="31" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]]|height=6em}}
|rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪市]]|height=6em}}
|style="white-space:nowrap;"|[[天王寺区]]
|-
!JR-R21
|[[美章園駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|1.5
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="3"|[[阿倍野区]]
|-
!JR-R22
|[[南田辺駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|3.0
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R23
|[[鶴ケ丘駅]] {{JR特定都区市内|阪}}#
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|3.9
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R24
|[[長居駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|4.7
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|大阪市高速電気軌道:[[File:Osaka_Metro_Midosuji_line_symbol.svg|15px|M]] 御堂筋線 (M26)
|rowspan="3"|[[住吉区]]
|-
!JR-R25
|[[我孫子町駅]] {{JR特定都区市内|阪}}
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|5.9
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R26
|[[杉本町駅]] {{JR特定都区市内|阪}}#
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|6.9
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R27
|[[浅香駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|7.9
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[堺市]]|height=4em}}
|rowspan="4"|[[堺区]]
|-
!JR-R28
|[[堺市駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|8.8
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|
|-
!JR-R29
|[[三国ヶ丘駅|三国ケ丘駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|10.2
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|[[南海電気鉄道]]:[[File:Nankai koya line simbole.svg|15px|NK]] [[南海高野線|高野線]] (NK57)
|-
!JR-R30
|[[百舌鳥駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|11.1
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R31
|[[上野芝駅]]#
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|12.4
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="3"|[[西区 (堺市)|西区]]
|-
!JR-R32
|[[津久野駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|13.7
|style="background-color:#cfc;"||
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R33
|[[鳳駅]]#
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|15.1
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|西日本旅客鉄道:阪和線支線(羽衣線)
|-
!JR-R34
|[[富木駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|16.3
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|colspan="2"|[[高石市]]
|-
!JR-R35
|[[北信太駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|18.0
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[和泉市]]
|-
!JR-R36
|[[信太山駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|19.4
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R37
|[[和泉府中駅]]#
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|20.9
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|
|-
!JR-R38
|[[久米田駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|23.9
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="3" colspan="2"|[[岸和田市]]
|-
!JR-R39
|[[下松駅 (大阪府)|下松駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|25.1
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R40
|[[東岸和田駅]]#
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|26.5
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|
|-
!JR-R41
|[[東貝塚駅]]#
|style="text-align:right;"|1.6
|style="text-align:right;"|28.1
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[貝塚市]]
|-
!JR-R42
|[[和泉橋本駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|30.0
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R43
|[[東佐野駅]]
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|31.5
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"||-->
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"||
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|colspan="2"|[[泉佐野市]]
|-
!JR-R44
|[[熊取駅]]#
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|33.0
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|
|colspan="2"|[[泉南郡]]<br />[[熊取町]]
|-
!JR-R45
|[[日根野駅]]#
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|34.9
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-S.svg|15px|S]] [[関西空港線]] (JR-S45)(天王寺方面から[[関西空港駅]]まで直通運転)
|rowspan="2" colspan="2"|泉佐野市
|-
!JR-R46
|[[長滝駅]]#
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|36.3
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|rowspan="9" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:top;" |{{縦書き|関西空港線直通}}
|style="background-color:#feb;"|○
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R47
|[[新家駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:right;"|38.6
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|○
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[泉南市]]
|-
!JR-R48
|[[和泉砂川駅]]#
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|40.5
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|
|-
!JR-R49
|[[和泉鳥取駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|43.3
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|○
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|rowspan="2" colspan="2"|[[阪南市]]
|-
!JR-R50
|[[山中渓駅]]
|style="text-align:right;"|1.9
|style="text-align:right;"|45.2
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|○
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R51
|[[紀伊駅]]#
|style="text-align:right;"|8.1
|style="text-align:right;"|53.3
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|
|rowspan="4" colspan="3"|[[和歌山県]]<br />[[和歌山市]]
|-
!JR-R52
|[[六十谷駅]]
|style="text-align:right;"|3.9
|style="text-align:right;"|57.2
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|
|-
!JR-R53
|[[紀伊中ノ島駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
|style="text-align:right;"|60.2
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|○
|style="background-color:#feb;"|↑
|style="background-color:#feb;"||
|
|-
!JR-R54
|[[和歌山駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|61.3
|style="background-color:#cfc;"|●
<!--|style="background-color:#feb;"|●-->
|style="background-color:#feb;"|●
|style="background-color:#feb;"|▲
|style="background-color:#feb;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-W.svg|15px|W]] [[紀勢本線]](一部直通運転)・[[ファイル:JRW kinki-T.svg|15px|T]] [[和歌山線]]<br />[[和歌山電鐵]]:[[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]] (01)
|}
* 信太山駅 - 和泉府中駅間で[[泉大津市]]を、和泉府中駅 - 久米田駅間で[[忠岡町]]を通るが、いずれも当該市内に駅は存在しない。
* 長滝駅・山中渓駅・紀伊中ノ島駅は無人駅、美章園駅・南田辺駅・長居駅・我孫子町駅・浅香駅・百舌鳥駅・富木駅・信太山駅・下松駅・和泉橋本駅・東佐野駅・新家駅・和泉鳥取駅・六十谷駅の13駅は[[JR西日本交通サービス]]への業務委託駅、他は全て直営駅である。
=== 羽衣線 ===
* 全区間単線。両駅ともに[[列車交換]]は不可能。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:5em;"|駅名
!style="width:2.5em;"|営業キロ
!接続路線
!所在地
|-
|[[鳳駅]]
|style="text-align:right;"|0.0
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-R.svg|15px|R]] 阪和線(本線)
|大阪府堺市西区
|-
|[[東羽衣駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|南海電気鉄道:[[File:Nankai mainline simbole.svg|15px|NK]] 南海本線・[[File:Nankai mainline simbole.svg|15px|NK]] [[南海高師浜線|高師浜線]] …[[羽衣駅]] (NK16)
|大阪府高石市
|}
=== 過去の接続路線 ===
* 天王寺駅:[[南海天王寺支線]] - 1993年4月1日まで
* 杉本町駅:[[阪和貨物線]](阪和連絡線) - 2009年3月31日まで
* 紀伊中ノ島駅:[[和歌山線]] - 1974年9月30日まで
* 和歌山駅:[[南海和歌山軌道線]] - 1971年3月31日まで
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="*"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』2003年2月号、No.728、[[電気車研究会]]。
* 『鉄道ジャーナル』2011年7月号、鉄道ジャーナル社。
* [[川島令三]]編著『東海道ライン - 全線・全駅・全配線』10 阪南・紀勢西部、[[講談社]]、2009年。{{ISBN2|978-4-06-270020-7}}。
* {{Cite book|和書|author=寺本光照|authorlink=寺本光照|title=国鉄・JR関西圏近郊電車発達史 大阪駅140年の歴史とアーバンネットワークの成立ち|publisher=[[JTBパブリッシング]]|isbn=978-4-533-09794-2|date=2014-6|ref=寺本2014}}
* {{Cite book|和書|title=天王寺鉄道管理局三十年写真史|editor=天王寺鉄道管理局|publisher=天王寺鉄道管理局|date=1981-3|ref=jnr1981}}
* {{Cite book|和書|title=近畿地方の日本国有鉄道 : 大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史|editor=大阪・天王寺・福知山鉄道管理局史編集委員会|date=2004-12|ref=jnr2004}}<!-- 2004年に日本国有鉄道はなく、他のところで調べても発行者にないので|publisher=[[日本国有鉄道]]は除去しました。 -->
* {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=42号 阪和線・和歌山線・桜井線・湖西線・関西空港線|date=2010-05-16|ref=sone42}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[なにわ筋線]]
* [[南海本線]]
* [[国道26号]]
* [[阪和自動車道]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Hanwa Line}}
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/hanwahagoromo.html 阪和線・羽衣線:JR西日本 列車走行位置]
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[[Category:関西国際空港の鉄道]] | 2003-03-14T02:14:10Z | 2023-12-23T07:15:42Z | false | false | false | [
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3,982 | 東京臨海高速鉄道 | 東京臨海高速鉄道株式会社(とうきょうりんかいこうそくてつどう、英: Tokyo Waterfront Area Rapid Transit, Inc. 略称:TWR)は、東京都の主に臨海副都心エリアでりんかい線を運営している鉄道会社。東京都が90%以上出資する第三セクター方式で設立された、第三セクター鉄道会社の一つである。
社名の「高速鉄道」とは新幹線のような高速鉄道ではなく、路面電車と比較して高速な都市高速鉄道を意味する。
1991年(平成3年)3月12日設立。東京都が9割超を出資する東京都の外郭団体(都市整備局所管)である。他に東日本旅客鉄道(JR東日本)・品川区・銀行11行、証券会社10社・生保会社15社・損保会社9社・その他5社が出資している(2006年4月1日現在)。
事業内容は、鉄道事業法に基づく第一種鉄道事業・不動産の売買・賃貸借およびこれらの斡旋・仲介と、土木・建築・電気および機械据付工事の設計・請負および監理となっている。
2004年(平成16年)11月1日に現在の本社所在地 東京都江東区青海一丁目2番地9(現・青海一丁目2番1号)に本社を移転した。同年10月31日までの本社所在地は、東京都江東区辰巳三丁目12番地1(現・辰巳三丁目9番2号)であった。
2025年度に新型車両71-000形の導入を予定している。
沿線のお台場地区や品川湾岸地区・江東湾岸地区の開発進展により旅客は増加の傾向である。このため運輸収入は堅調に増加しており、2006年度決算において、1996年の開業以来初の営業損益黒字(6億4700万円)を達成した。利息等を差し引いた経常赤字は続いていたが、2012年決算において40億3900万円の営業黒字、18億1000万円の経常利益を確保し、初の経常黒字決算となった。
JR東日本が計画している「羽田空港アクセス線」に関連して、東京都などが保有している当社株式をJR東日本が買収する方向で調整に入っていると2014年8月に報じられた。報道によれば、JR東日本は「期限を決めないで交渉を続ける」としている。
開業10周年を迎えた2006年に一般公募(一般公募の委託先は講談社フェーマススクール)でイルカをモチーフとしたマスコットキャラクターを募集し、『りんかる』と命名された。以後キャラクターグッズの発売を手掛けている。
2009年3月末で新木場・国際展示場・東京テレポート・天王洲アイル・品川シーサイド・大井町の6駅の駅構内売店は一旦閉店し、新木場駅・東京テレポート駅・大井町駅にNEWDAYS、天王洲アイル駅にキオスクが開店した。
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] | 東京臨海高速鉄道株式会社は、東京都の主に臨海副都心エリアでりんかい線を運営している鉄道会社。東京都が90%以上出資する第三セクター方式で設立された、第三セクター鉄道会社の一つである。 社名の「高速鉄道」とは新幹線のような高速鉄道ではなく、路面電車と比較して高速な都市高速鉄道を意味する。 | {{Otheruses||この会社の運営する鉄道路線|東京臨海高速鉄道りんかい線}}
{{混同|東京臨海ホールディングス|東京臨海新交通|x2=ゆりかもめの旧社名である|link2=ゆりかもめ (企業)}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 東京臨海高速鉄道株式会社
| 英文社名 = Tokyo Waterfront Area Rapid Transit, Inc.
| ロゴ = [[ファイル:東京臨海高速鉄道ロゴマーク.svg|175px|ロゴマーク]]
| 画像 = [[ファイル:TWR HQ 200909.jpg|250px]]
| 画像説明 = 本社
| 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
| 市場情報 = 非上場
| 略称 = TWR
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 = 135-0064
| 本社所在地 = [[東京都]][[江東区]][[青海 (江東区)|青海]]一丁目2番1号
| 本社緯度度 = 35
| 本社緯度分 = 37
| 本社緯度秒 = 38.69
| 本社N(北緯)及びS(南緯) = N
| 本社経度度 = 139
| 本社経度分 = 46
| 本社経度秒 = 42.95
| 本社E(東経)及びW(西経) = E
| 本社地図国コード = JP
| 設立 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月12日]]
| 業種 = 5050
| 事業内容 = 第一種鉄道事業 他
| 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] [[斎藤真人]]<br />代表取締役[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|専務]] [[遠藤正宏]]
| 資本金 = 1242億7900万円
|売上高 = 153億4700万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy">[https://catr.jp/settlements/e8115/311632 東京臨海高速鉄道株式会社 第33期決算公告]</ref>
|営業利益 = 11億9600万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|経常利益 = 7億0700万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|純利益 = 7億9300万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|純資産 = 859億9500万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
|総資産 = 1942億9600万円<br>(2023年3月期)<ref name="fy" />
| 従業員数 = 286人<br />(2018年3月31日現在<ref name="nenpou2017">鉄道統計年報平成29年度版 - 国土交通省</ref>)
| 決算期 = [[3月31日]]
| 会計監査人 = [[EY新日本有限責任監査法人]]
| 主要株主 = 東京都 91.32%<br />[[東日本旅客鉄道]] 2.41%<br />[[品川区]] 1.77%<br />[[みずほ銀行]] 0.70%<br />[[三菱UFJ銀行]] 0.46%<br />(2019年3月31日現在<ref>国土交通省鉄道局監修『鉄道要覧』令和元年度版、電気車研究会・鉄道図書刊行会</ref>)
| 主要子会社 =
| 関係する人物 = [[関谷保夫]](元社長)
| 外部リンク = https://www.twr.co.jp/
| 特記事項 = *鉄道事業では略称「TWR」と路線名「りんかい線」を多用。<br />*[[東京都都市整備局]]が所管する[[東京都監理団体|東京都政策連携団体]]である。
}}
'''東京臨海高速鉄道株式会社'''(とうきょうりんかいこうそくてつどう、{{Lang-en-short|''Tokyo Waterfront Area Rapid Transit, Inc.''}} 略称:TWR)は、[[東京都]]の主に[[東京臨海副都心|臨海副都心]]エリアで[[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]を運営している[[鉄道事業者|鉄道会社]]。東京都が90%以上出資する[[第三セクター]]方式で設立された、[[第三セクター鉄道]]会社の一つである。
社名の「高速鉄道」とは[[新幹線]]のような[[高速鉄道]]ではなく、[[路面電車]]と比較して高速な[[都市高速鉄道]]を意味する<ref>[https://news.mynavi.jp/article/trivia-84/ 鉄道トリビア (84) あんまり速くないのに「高速鉄道」ってどうして? ] {{Wayback|url=https://news.mynavi.jp/article/trivia-84/ |date=20230410150354 }} - マイナビニュース、2011年11月29日</ref>。
== 会社概要 ==
[[1991年]]([[平成]]3年)[[3月12日]]設立。東京都が9割超を出資する東京都の[[外郭団体]](都市整備局所管)である。他に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[品川区]]・[[銀行]]11行、[[証券会社]]10社・[[生命保険|生保]]会社15社・[[損害保険|損保]]会社9社・その他5社が出資している(2006年4月1日現在)。
事業内容は、[[鉄道事業法]]に基づく第一種鉄道事業・[[不動産]]の[[売買]]・[[賃貸借]]およびこれらの斡旋・仲介と、土木・建築・電気および機械据付工事の設計・[[請負]]および監理となっている。
[[2004年]](平成16年)[[11月1日]]に現在の本社所在地 東京都[[江東区]][[青海 (江東区)|青海]]一丁目2番地9(現・青海一丁目2番1号)に本社を移転した。同年[[10月31日]]までの本社所在地は、東京都江東区[[辰巳 (江東区)|辰巳]]三丁目12番地1(現・辰巳三丁目9番2号)であった。
== 路線 ==
*[[File:Rinkai Line symbol.svg|20px|R]] [[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]](臨海副都心線) [[新木場駅]] (R 01) - [[大崎駅]](R 08)12.2 [[キロメートル|km]]
[[File:TWR Linemap.svg|thumb|none|400px|路線図(クリックで拡大)]]
== 車両 ==
* [[東京臨海高速鉄道70-000形電車|70-000形]]
[[ファイル:Rinkai-line Series70-000 70-030.jpg|thumb|none|250px|70-000形(2022年6月 [[東雲駅 (東京都)|東雲駅]])]]
[[2025年]]度に新型車両71-000形の導入を予定している<ref>{{Cite web|url=https://www.twr.co.jp/Portals/0/resources/info/2023/20231106_information.pdf|title=りんかい線に新型車両71-000形を導入します |date=2023-11-06 |accessdate=2023-11-07|publisher=東京臨海高速鉄道}}</ref>。
== 運賃 ==
{{See|東京臨海高速鉄道りんかい線#運賃}}
=== 企画乗車券 ===
[[File:東京臨海高速鉄道 りんかい線1日乗車券.png|thumb|りんかい線1日乗車券]]
* りんかい線1日乗車券
<!--*お台場・有明ぐるりきっぷ
** [[ゆりかもめ東京臨海新交通臨海線|ゆりかもめ]]線・[[東京都観光汽船]]水上バスとの共通1日券※平成24年9月30日発売終了。-->
==== 他社発行 ====
; 発売中
:* [[休日おでかけパス]](発売:[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])
:* [[東急お台場パス|東急線りんかい線お台場パス]](発売:[[東急電鉄]])※大崎‐大井町間は利用不可
; 販売終了
:* [[東京フリーきっぷ#○○東京週末フリーきっぷ|東京週末フリーきっぷ]](発売:JR東日本)
:* [[ホリデー・パス]](発売:JR東日本・[[東京モノレール]])
:* [[周遊きっぷ]]([[周遊きっぷ#2013年3月31日発売終了時点|東京ゾーン]])(発売:[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]・JR東日本・[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]]・[[四国旅客鉄道|JR四国]]・[[九州旅客鉄道|JR九州]])
:* [[都区内パス|都区内・りんかいフリーきっぷ]](発売:JR東日本)
:* [[都区内パス|新幹線都区内・りんかいフリーきっぷ]](発売:JR東日本)
:* [[都区内パス|こだま都区内・りんかいフリーきっぷ]](発売:JR東海<ref>[http://jr-central.co.jp/news/release/nws001243.html 「お得なきっぷ」の一部見直しについて(2013年6月28日 JR東海ニュースリリース)] {{Wayback|url=http://jr-central.co.jp/news/release/nws001243.html |date=20130701044722 }}</ref>)
:* 首都圏往復フリーきっぷ(発売:JR西日本)
== 経営状況 ==
沿線の[[お台場]]地区や品川湾岸地区・江東湾岸地区の開発進展により旅客は増加の傾向である。このため運輸収入は堅調に増加しており、2006年度決算において、1996年の開業以来初の営業損益黒字(6億4700万円)を達成した。利息等を差し引いた経常赤字は続いていたが、2012年決算において40億3900万円の営業黒字、18億1000万円の経常利益を確保し、初の経常黒字決算となった。
JR東日本が計画している「[[羽田空港アクセス線]]」に関連して、東京都などが保有している当社株式をJR東日本が買収する方向で調整に入っていると[[2014年]]8月に報じられた<ref>{{cite news|newspaper=[[TOKYO MX NEWS]]|publisher=[[東京メトロポリタンテレビジョン]]|date=2014-08-22|url=http://s.mxtv.jp/mxnews/kiji.php?date=201408226|title=りんかい線株売却「慎重に見る必要」|language=[[日本語]]|accessdate=2015-12-14|archive-date=2023年4月10日|archive-url=https://web.archive.org/web/20230410160420/https://s.mxtv.jp/error/index.html}}</ref>。報道によれば、JR東日本は「期限を決めないで交渉を続ける」としている。
== マスコットキャラクター ==
開業10周年を迎えた[[2006年]]に一般公募(一般公募の委託先は講談社フェーマススクール)で[[イルカ]]をモチーフとした[[マスコット|マスコットキャラクター]]を募集し、『'''りんかる'''』と命名された。以後キャラクターグッズの発売を手掛けている。
== その他 ==
[[2009年]]3月末で新木場・国際展示場・東京テレポート・天王洲アイル・品川シーサイド・大井町の6駅の駅構内売店は一旦閉店し、新木場駅・東京テレポート駅・大井町駅に[[NewDays|NEWDAYS]]、天王洲アイル駅に[[キヨスク|キオスク]]が開店した。
全線開通前から[[コマーシャルメッセージ|CM]]やドラマ・映画等の撮影を積極的に受け入れている。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道事業者一覧]]
*[[東京臨海副都心]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tokyo Waterfront Area Rapid Transit}}
* [https://www.twr.co.jp/ お台場電車 りんかい線] - 公式サイト
* {{Twitter|twr_official|りんかい線 公式 お知らせ}}
* {{Facebook|twr.japan|お台場電車 りんかい線}}
* {{YouTube|c=UCNIHKEo_ZAhilzDt5A8jTHA|りんかい線公式}}
* [https://web.archive.org/web/20051125142528/http://www.seaside-tokyo.gr.jp/index.html 臨海副都心まちづくり協議会]
{{Suica}}
{{パスネット}}
{{JR東日本}}
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{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:とうきようりんかいこうそくてつとう}}
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:江東区の企業]]
[[Category:東京臨海高速鉄道|*]]
[[Category:第三セクター鉄道]]
[[Category:1991年設立の企業]]
[[Category:東京の地下鉄]] | 2003-03-14T02:31:16Z | 2023-12-10T15:11:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%87%A8%E6%B5%B7%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%89%84%E9%81%93 |
3,984 | 軌間 | 軌間(きかん)は、鉄道の線路を構成する左右の軌条(レール)の間隔である。ゲージ(英語: Gauge)ともいう。軌条には幅があるため、軌条頭部の内側の最短距離と規定される(詳しくは後述)。
軌間は鉄道の機能・能力に関わる重要な要素であり、また軌間の異なる鉄道の間では通常は直通運転は不可能である。世界で最も普及している軌間は1435 mm(4フィート8 1/2インチ)で、標準軌と呼ばれる。標準軌より広い軌間を広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。日本で多い狭軌は、在来線でよく使われる1067 mmである。軌間を変更することは改軌と呼ばれる。しかし、改軌は周辺のものに大きく影響があり費用も莫大なため、余程の理由がない限り行われない。
曲線部では、車輪のすべてが、曲線の中心を向くことができないのと、車輪のフランジが軌条に接触することなく走行できるようにするため、内側の軌条を曲心側に若干広げて、軌条の間隔を所定の軌間より広げて車輪を円滑に走行できるようにしており、この拡幅をスラック(拡度)と呼んでいる。曲線半径が600 m以下の場合において設けられるが、その設定幅は曲線半径、台車の固定軸距、軌間などの数値や実験値等から計算され、曲線半径のランクにより5 mm刻みに設定されており、大きな値をとってしまうと脱線の危険が生まれてしまうため、最大値で30 mmとしている。また、曲線半径が600 m以上においても2 mm以下のスラックが設けられる場合がある。
軌間の正確な定義には、レールの頭部上面から一定の長さだけ下がった位置での左右のレール内側面の距離とするものと、上面から一定の範囲内でのレール内面の最短距離とするものがあり、国や地域などによって若干の差異がある。
19世紀後半のフランスとイタリアでは、レール中心の間隔を基準として定めていた。この場合軌間はレールの幅によって変わってしまうことになる。
現代において標準軌とされる4フィート8.5インチ軌間の起源は、イングランド北東部のキリングワース(英語版)炭鉱の馬車鉄道で用いられていた4フィート8インチ軌間である。なおキリングワースの車輪間隔の起源をさらに古代ローマの馬車にまで遡ることができるとする説もあったが後に否定されている。1814年、ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造した。スティーブンソンはその後他の炭鉱向けにも機関車を製造し、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立したが、ここで製造された機関車も同じ軌間で設計されていた。スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えていた。1825年にストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で公共用の鉄道として初めて蒸気機関車が使われ、1830年には世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道であるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。これらの鉄道でもスティーブンソンの機関車が用いられた。ただし、軌間はこの途中のいずれかの段階で半インチ拡大されて4フィート8.5インチとなっている。
その後もスティーヴンソンらの関わった鉄道では4フィート8 1/2インチ軌間が採用されたが、蒸気機関車を用いた鉄道で馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も多かった。代表的な例がイザムバード・キングダム・ブルネルであり、グレート・ウェスタン鉄道において7フィート1/4インチ(2140 mm)という広軌を採用した。ブルネルは、グレート・ウェスタン鉄道がスティーヴンソンの4フィート8 1/2インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていた。ブルネルほど極端ではないにしろ、1830年代から40年代には5フィートから6フィート程度の様々な広軌鉄道が現れており、イングランドでもグレート・ウェスタン鉄道に追従して1836年にイースタンカウンティー鉄道が7フィート1/4インチ軌間にしようと試みたが技師長のブレイスウェストによって5フィート軌間を勧められどちらとも違う軌間を始めた(後に標準軌に改軌)。
ただし、こうした異なる軌間が路線を拡大した結果1844年にグロスターにおいて4フィート8 1/2インチ軌間と7フィート1/4インチ軌間の鉄道ははじめて接し、これにより軌間が異なると直通運転ができないという弊害が顕在化した。軌間をどちらに統一すべきかは「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれる激しい論争となった。1845年、王立委員会は広軌の技術的な優位は認めつつ、その差はわずかであり、路線長の長い4フィート8 1/2インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告した。翌1846年に制定された軌間法により、グレートブリテン島の新規路線は原則として4フィート8 1/2インチの軌間で建設されることになった。
この規定はスコットランド(5フィート6インチ軌間の「アブローズ~フォーファー」の路線が先行して施設されていた)にも適用され、安全上などの理由で広軌を求める声もあったが陸続きである以上4フィート8.5インチ軌間を受け入れることになった。ただし、アイルランドの鉄道は、グレートブリテン島とは海で隔てられているため共通の軌間を用いる必要はないとして、5フィート3インチ(1600 mm)が標準とされた。(時系列的に少々戻るがアイルランドは1834年に軌間4フィート8 1/2インチで最初の鉄道が施設、その後ダブリンとベルファスト間で本格的に施設する際もっと広軌にするべきだと6フィート2インチか5フィート2インチかで揉めて最終的に5フィート3インチで妥協され、1846年の軌間法で追認された。)
大陸ヨーロッパではイギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定した例が多い。このとき最も多く選ばれたのはスティーヴンソンの1435 mm軌間であるが、オランダ、バーデン大公国、ロシア帝国、スペイン、ポルトガルの各国ではそれぞれ広軌(5~6フィート前後)が採用された。これは広軌のほうが技術的には優れているという見解に基づくものであった。オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて1435 mmに改軌したが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っている。
アメリカ合衆国では、1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業した。これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、4フィート8 1/2インチの他にも様々な広軌が採用された。これが1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチ、南部では5フィート、ニュージャージー州とオハイオ州では4フィート10インチのように地域的に統合され、さらに1863年に大陸横断鉄道の軌間が4フィート8 1/2インチとされたことがきっかけとなって、全国的に4フィート8 1/2インチに統一された。
カナダでは、1851年に5フィート6インチを標準とする法律が制定されたが、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8 1/2インチに改軌された。
英領インドでは、最初のカルカッタ周辺は4フィート8 1/2インチ軌間で始まったが、1851年以降ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ総督により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8 1/2インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8 1/2インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった。
オーストラリアでは後の各州に相当する各植民地が独自に鉄道建設を行なった結果、最初(1850年)のサウスオーストラリア州は4フィート8 1/2インチ、次(1852年)にニューサウスウェールズ州はアイルランド式の5フィート3インチでビクトリア州と前述のサウスオーストラリア州もこれに合わせ改軌。しかしニューサウスウェールズの技師長がアイルランド人からスコットランド人に変わると今度は4フィート8 1/2インチになる(ビクトリア・サウスオーストラリアは変更せず)など混乱が続き、1870年代の狭軌ブームの時代もあって1067 mmの州も加わるなど、州ごとにゲージが分断されたまま発展が続いて現在に至っている。
ラテンアメリカ各地の鉄道の軌間は建設の始まった時期により異なり、1837年から1851年までの6例ではすべて1435 mm軌間、1854年から1863年までの6例はすべて広軌である。1865年にウルグアイが1435 mm軌間を採用したのを挟んで、以後はもっぱら狭軌となる。
馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11 1/2インチ(597 mm)がある。ただし当時はこうした狭軌鉄道では蒸気機関車を用いることはできなかった。
1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になった。ノルウェーのカール・アブラハム・ピルは、同国西部での鉄道の建設にあたり、3フィート6インチ(1067 mm)軌間がコストと能力のバランスのとれた理想的な軌間であるとした。ピルはイギリスで技術教育を受けており、その見解はチャールズ・フォックス(英語版)をはじめとするイギリスの技術者たちにも支持された。さらに1865年ごろからは、フェステニオグ鉄道の技術者チャールズ・イーストン・スプーナー(英語版)やイギリス商務省のヘンリー・タイラーらによって、3フィート(914 mm)や2フィート6インチ(762 mm)の軽便鉄道のアイデアが提唱された。スプーナーらは、従来の標準軌や広軌の鉄道は無駄が多く、狭軌の軽便鉄道こそが将来の鉄道にふさわしいと主張した。
1860年代後半から1880年代にかけては、フォックスやその影響を受けたイギリス人を中心とする技術者の指導により、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの鉄道未開業地域において1067 mmや1000 mm、914 mmなどの軌間での鉄道建設が相次いだ。1872年に開業した日本の鉄道が1067 mm軌間を採用したのもその一例である。またケープ植民地(南アフリカ)やニュージーランドでは、一旦標準軌での鉄道建設が始まっていたものが、狭軌に切り替えられている。タイやインドネシアでは、先行していた標準軌鉄道とは別に狭軌の鉄道が建設され、その後長い時間をかけて狭軌に統一された。
インドとオーストラリアでは、すでに広軌や標準軌の鉄道網がある程度発達していたにもかかわらず、狭軌の鉄道も並行して建設されるようになった。このため複数の軌間が混在する状況が生じ、21世紀に至っても完全には解消されていない。
すでに標準軌の普及していたヨーロッパや北アメリカでも、標準軌路線を作るほどの需要のない地域での軽便鉄道の規格として狭軌は広く用いられた。
アメリカ合衆国では、1871年に3フィート軌間のデンバー・アンド・リオグランデ鉄道の最初の区間が開通した。1872年には第1回全米狭軌鉄道会議(National Narrow-Gauge Railway Convention)が開催され、3フィート軌間がアメリカにおける狭軌の統一規格として合意されるとともに、標準軌鉄道に代わって狭軌の幹線鉄道網を築くという野心的な計画も示された。
しかし、狭軌鉄道がある程度普及してくると、狭軌は従来主張されていたほど経済的ではないことが明らかとなった。オーストラリア・クイーンズランド植民地の鉄道の建設費は当初予算を40 %も超過した。またアメリカ合衆国の狭軌鉄道会社でも、1880年代には標準軌鉄道との積み換えを避けるための改軌が相次いだ。アメリカ合衆国のアーサー・M・ウェリントン(英語版)は1887年の著書で、狭軌鉄道の利点とされていた建設費の安さや曲線通過性能は、実際には軌間にほとんど依存せず、ランニングコストはかえって高くなってしまうと述べた。狭軌を使う意味のあるのは、車体サイズなどを小さくした低規格の軽便鉄道の場合に限られる。しかしウェリントンやその支持者たちの主張では、建設段階では需要の少ない路線であっても、狭軌ではなく標準軌で建設したほうが、将来の改良で本線鉄道網の一部とすることが容易であるため好ましいとしている。
アメリカ合衆国やイギリスではこの主張が比較的早く受け入れられたが、大陸ヨーロッパにおいては20世紀前半においても狭軌の軽便鉄道の建設が続いた。しかし自動車が普及してくると、速度や輸送力の劣る軽便鉄道は競争力を失い、多くが廃止に追い込まれた。
20世紀に入ってからは、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、軌間の優劣に関する議論は低調になった。20世紀初めごろには日本(日本の改軌論争)や南アフリカ、オーストラリア、アメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に、あるいは標準軌を広軌に改軌すべきであるという議論が起こったが、オーストラリアのいくつかの狭軌鉄道が標準軌に改軌された例を除いて、いずれも実現には至っていない。ナチス・ドイツでは軌間3000 mmの超広軌鉄道「ブライトシュプールバーン」が計画されていた。
20世紀後半以降に新たに建設された鉄道では、標準軌が採用される例が多い。日本の新幹線や多数の製鉄所構内鉄道が、狭軌の在来線網とは独立した形で標準軌を選んだのがその最たるものである。またアフリカ各国やブラジル、オーストラリアでは、従来の狭軌鉄道とは別に、鉱山用や通勤用に標準軌で鉄道を新設した例がある。逆にスペインなどは在来線は広軌だが、高速列車のAVEはフランスなどとの接続を考えて、また通勤用の鉄道は車両限界をなるべく小さくして建設費用や車両新製費用を抑えるために、いずれも狭い標準軌で施設されている。こうした選択は、既に存在する技術を活用でき、車両や資材の調達もしやすいことによるものである。
一般的に、軌間が広いほど輸送力や最高速度など鉄道の能力は高まり、逆に狭いほど建設費は安くなるとされる。ただしこれらには様々な要因があり、単純に軌間のみで決まるわけではない。また時代によりその評価は変わっており、論拠の一部は特定の時代の技術に依存したものである。
鉄道車両には鉛直方向の重力のほか、横風や走行時の車両の動揺、曲線通過時の遠心力などにより横方向の力がかかっている。車両の重心からこれらの力の合力方向にひいた直線が線路面と交わる位置が、片方のレールの外側になると、車両は転覆してしまう。また、軌道の中心から軌間の6分の1以上ずれると、脱線の確率が高まることが知られている。
このため、重心の高さが同じであれば広軌のほうが横方向の力に対してより安全であるといえる。特に列車の速度が速くなるほどこうした力の影響は大きくなるため、高速運転には軌間の広いほうが適している。狭軌の場合は、横方向の力の発生を防ぐためより精度の高い保線作業が必要となる。また同程度の安定性を求めるのであれば、軌間の広いほうが重心を高くすることができ、大型の車両を用いることができる。
1850年代にインドの鉄道で広軌(1676 mm)が採用された理由のひとつとして、軌間が広いほうがサイクロンなどの強風に対して安全であるということが挙げられている。また1973年にアメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ・ベイエリアで開業したBARTでも、湾岸地域での横風に対する安定性を考慮して1676 mm軌間とコンクリート道床の組み合わせを採用した。
蒸気機関車の用いられていた時代には、軌間の広いほうが機関車の性能が高いとされていた。これは1830年代から20世紀前半に至るまで、広軌の優位性を主張する最大の根拠であった。
1830年代から40年代初頭まで、蒸気機関車のシリンダーは車輪の内側に取り付けられていた。これは、シリンダーを外側にすると蒸気が空気で冷やされて効率が落ちると考えられたこと、また機関車の車体に左右交互に力が加わるため、当時の技術ではこれに耐えられるような台枠が作れなかったことによるものである。このため、シリンダーの大きさは軌間に大きな影響を受けた。加えて、この時代の弁装置は大きく、頻繁な保守作業を必要とした。これも車輪の内側におかれたため、狭い軌間はメンテナンスが困難であるとして嫌われることになった。これ以外にもシリンダーから動輪の軸に力を伝えるクランク部分が広軌の方が広くとれるので摩耗や強度的に有利orクランクが同じ幅ならより外側にずらすことでボイラー下部と干渉しにくくなり、ボイラー高さを抑えられたり太いボイラーが使えるというメリットもあった。
ただし、1840年代半ば以降になると、車体の製造技術の向上などにより外側シリンダーの蒸気機関車が製造可能になり、シリンダーの大きさが軌間に制約されることはなくなった。むしろ外側シリンダーでは車両限界や特にボイラーの太さが同一ならば広軌の方がシリンダーをより外側につけるため、シリンダーの大きさを妨げる原因になり、イギリスの軌間問題に関する王立調査委員会は、1845年の報告で7フィート軌間のほうが4フィート8 1/2インチ軌間より機関車の性能が優れていることは認めつつ、その差は僅かであると指摘している。
一方で、軌間の広いほうが高い重心が許容されるため、火室(英語版)やボイラーを大型化し、出力を向上させることができる。19世紀半ばまでは低い蒸気圧しか使えなかったため、この点は大きな差にはならなかった。しかし使用蒸気圧の増した19世紀末から20世紀であれば、軌間と蒸気機関車の性能にはより強い関係があった。20世紀初頭の段階では、狭軌の蒸気機関車は標準軌の半分程度の性能しか出せないとされていた。 1912年に日本で行われた実験では、国鉄の2120形と呼ばれたタンク機関車のグループのうち2323号機を広軌化(1067 mm→1435 mm)して、左右車輪の間に空間ができたのを利用して火室の幅を広げた所、牽引能力が上昇して1067 mm時には10 ‰勾配上で250 tの列車を引けたものが1435 mm時には350 tまで牽引可能になった。1920年代のアメリカ合衆国では、標準軌でも不十分であり、6フィート(1829 mm)などの広軌に改軌したほうがより高性能の機関車を設計できるという主張があった。
ただし、蒸気機関車でも従輪で火室を受ければ軌間を超える幅の広い火室を重心を上げずに採用できるし、ボイラーもガーラット式機関車のようにボイラーの前後に走り装置をつけて支える形式にすれば、動輪に邪魔されずナローでも太いボイラーを使うことは可能である。
一方、電動機(モーター)を動力源とする電車や電気機関車(電気式動力伝達の内燃機関動力車も含む)の場合は、通常動輪のすぐ横でモーターを軸と平行に置くので車輪直径で上下方向、軌間で左右方向の大きさに制約が生じる。この影響は電車より電気機関車、電気機関車より電気式動力伝達の内燃機関動力車の方が大きい。このためモーターの大型化・車輪直径を抑える・狭軌の3つはすべて満たすことが難しくなり、日本の例では明治の末に国鉄が山手線で初めて電車を運行したころはモーターが50馬力だったので車輪径が客車や貨車と同じ大きさでもさほど問題はなかったが、大正3年に京浜間に100馬力の大型モーターの電車を走らせることになった際、このサイズの車輪ではモーターの下端とレール上面の隙間が構造規定を下回ってしまうため車輪径を大きくして910 mmの車輪を採用し、以後これが電車の標準になったことがある。私鉄でも箱根登山鉄道は急勾配を理由に標準軌を採用している。 逆に路面電車など床高さを抑えるため車輪が小さくならざるを得ない車両では、狭軌になるとモーターを収める空間に余裕がなくなるため、モーターの位置を変え直角カルダン駆動方式や車体装架カルダン駆動方式などを採用したり、逆に路面電車に多い急カーブや狭小建築限界に不利とわかっていても軌道施設時に標準軌を選択する場合がある。
なお、内燃機関を機械式もしくは液体式で動力伝達をする車両の場合は、元々エンジンが車輪の間と無関係の位置にあるので軌間と出力の間に直接的な関係はほとんどない。但し内燃機関は電動機に比べて小型化が難しく、重心が高くなりがちであり、この点が蒸気機関車に似ている。
貨車に貨物を搭載する場合の効率については、広軌のほうが有利であるという主張と狭軌のほうが有利であるという主張の双方が存在する。
広軌を有利とするのは、広軌のほうが重心を高くすることができるため、車体を横方向のみならず垂直方向にも大型化することができるためである。このとき(車体長を不変とした場合)床や壁の面積は軌間の1乗のオーダーで増加するが、容積は2乗のオーダーで増えるため、より効率よく貨物を積むことができる。
一方狭軌を有利とする根拠は、軌間が広いほど台車などが大きくなってしまい、運ぶべき貨物の重量に対して貨車そのものの重量が大きく効率が悪いことによる。
結論を言えば、これは貨物の比重と輸送量に影響される。農産物など比重の小さい貨物を大量に運ぶときには前者の影響が大きく、広軌のほうが有利である。一方鉱石など比重の大きな貨物を少量運ぶときは後者の影響が大きい。鉱山などの専用鉄道で狭軌が採用される例があるのはこのためである。
ただし、車体を大きくするには車両限界や建築限界(特に橋梁やトンネルの設計)、レールや路盤の強度なども関係してくるため、単純に軌間が広ければよいというわけではない。1676 mmの広軌を採用しているインドの鉄道でも、欧米の標準軌鉄道と比べて車両限界は僅かに大きい程度である。
これについては日本の鉄道院初代総裁である後藤新平も広軌化検討時に「ドイツ鉄道で現在(注:1909年)使用されている有蓋貨車は狭軌でこれは採用できる、したがって貨車においては広狭関係ない。アメリカの貨車は最も大きいが、南ア(注:南アフリカ共和国の事)のボギー貨車はこれに劣らないので貨車についてはボギーとすれば広狭同等と考える。」、「元九州鉄道の貴賓車(九州鉄道ブリル客車のこと)はイギリスよりも大きく、プロシャ(ドイツ)とほぼ同じである、したがって狭軌でも建築限界を広げれば「萬国寝台会社」サイズの客車を運転できる。」としている。
曲線部では、外側のレールのほうが内側のレールより長くなるが、同一の曲線半径であれば軌間が狭いほどその差は小さい。このため、狭軌のほうが小さな半径の曲線を作りやすいとされている。特に山岳路線では、地形に沿うように線路を敷くことができるため、トンネルや橋梁などの高価な施設を最小限に抑えることができる。広軌論者のイザムバード・キングダム・ブルネルも、広軌の欠点としてこの点を認めており、1860年代以降の狭軌鉄道の流行においてもその最大のメリットとされていた。広軌を用いているスペインでは、曲線通過のため左右の車輪が独立して回転するタルゴ車両が開発された。
鉄道では車輪に踏面勾配を持たせることで、曲線部では外側の車輪とレールの接触部の半径が内側よりも大きくなり、外側の車輪の走行距離が内側よりも長くなって自然に曲がることができる。しかし内外の走行距離の差が踏面勾配によって吸収できないほど大きい場合には、フランジがレール側面と接触し、内外いずれかの車輪がレール上を滑ることになり、大きな摩擦を生じることになる。
一方で、鉄道車両の曲線通過能力において、軌間の違いは本質的ではないとする見解もある。
複数の車軸をもつ鉄道車両では、曲線部では車輪の向きとレールの向きが異なってしまう。この角度をアタック角といい、これが大きいほど走行抵抗が大きく、脱線の危険も高まる。アタック角は車軸の間隔に依存し、軌間とは関係ない。転向可能なボギー台車を用いることでアタック角を小さくすることができる。実際、19世紀後半のアメリカの標準軌鉄道では、ボギー台車を用いることで、同時代の二軸車主体のヨーロッパの狭軌(軽便)鉄道より小さな曲線半径を実現していた。
ボギー台車を用いたとしても、今度は車両の進行方向と台車の向きが異なるため、台車を転向させるための横圧が加わる。これは台車の中心間隔に依存する。アーサー・M・ウェリントンは1887年の著書において、車体各部の寸法がそのままで軌間のみを狭くしても、こうした曲線通過時の抵抗にはほとんど影響がなく、台車中心間隔を同時に小さくすることではじめて抵抗を減らす効果があると論じた。彼はさらに、軌間の広いほうが高重心が許容されるため、機関車や貨車の性能は同程度のまま車軸や台車の間隔を縮めることができ、曲線通過に適しているとすら述べている。ウェリントンの見解はなかなか受け入れられなかったが、例えばペルーにおいてはこの説に基づき山岳路線を標準軌で建設している。
レールを支える枕木の長さや、その下のバラストの量は、軌間の大きさに直接影響される。狭軌の鉄道ほど軌道に専有される幅は狭くなる。19世紀末から20世紀前半のヨーロッパの軽便鉄道は、多くが既存の道路の端を使って敷設されたため、この点が狭軌を使用する大きな利点となった。一方、軌道を支える路盤の強度や橋梁の設計は、走らせる列車の重量(軸重)や速度によって決定され、軌間にはほとんど影響されない。
2001年に南アフリカでハウトレイン建設の際に行なわれた試算では、1 kmあたりの建設費は標準軌(1435 mm)の場合180万ランドであるのに対し、ケープ軌間(1065 mm)であれば160万ランドと見積もられた。この差は枕木とバラストによるものであり、事業全体のコストに比べればそれほど重要ではないと評価された。
なお、実際に2140 mmもの広軌を使っていたイギリスのグレート・ウェスタン鉄道では上記の問題から枕木を倹約するため、通常のレールのように枕木を並行に無数に並べ、その上に直角にレール2本を置くのではなく「レールに沿うように切れ目なく枕木を敷いて(つまり鉄のレールの下に木のレールがあるような外見)重量を分散させ、その枕木を約10フィートおきに横木で結び、ずれないように固定する。」という独特の敷き方を行っていた。
一般に鉄道車両は特定の軌間に合わせて製造されている。車輪の内側にはフランジがあるため、両側の車輪のフランジの間隔より狭い軌間の線路に乗り入れることは不可能である。また軌間が大きすぎる場合にも脱線してしまう。
しかし、車輪にもレールにもある程度の幅があるため、軌間の1 %程度の差異であれば直通運転にはほとんど支障がない。フィート・インチからメートル法へ単位系の切り替えの際の考え方の違いなどで、1067 mmと1065 mm、1524 mmと1520 mmのような数ミリメートル異なる軌間が存在するが、これらは実用上は同一軌間とみなしうる。19世紀のアメリカ合衆国では、4フィート8.5インチ(1435 mm)軌間用の車両がそのまま4フィート10インチ(1475 mm)軌間の鉄道に乗り入れていた例もある。この場合、脱線の危険が増すものの、当時の安全水準からはそれほど問題とはされなかった。
ロシア帝国とスペインの鉄道がヨーロッパの他地域と異なり広軌を選択した理由として、ナポレオン戦争の記憶から他国に侵略された場合に鉄道を利用されることを恐れたためと説明されることがある。しかし、両国が軍事的理由で軌間を選んだとする記録は存在しない。両国とも、鉄道が開業したのは1830年代から40年代の広軌優位論が盛んであった時代であり、軌間を検討した技術者は4フィート8 1/2インチよりも広い軌間のほうが優れていると主張した。また、将来他国の4フィート8 1/2インチ軌間の鉄道と接続される可能性については軽視している。
ロシアが侵略に備えて異軌間を選んだとする説の初出は、1866年にイギリスのタイムズ紙に掲載された特派員報告で、伝聞の形で伝えている。また、ロシア交通省は1841年の報告書で、鉄道が敵に利用される可能性について、軍が退却する時に線路を破壊すればよいと記しているが、軌間の違いには言及していない。
また、他国の侵入防止目的説の最大の問題点としてこれらの国が広軌を採用している点があり、軌間は狭める方が楽であり、実際に日本が日露戦争中に満洲にあった5フィート軌間のロシアの鉄道(後の満鉄など)を改軌して3フィート6インチにしてしばらく使用していたケースがあるので、仮想敵国より軌間を狭くしないとこの目的には使用できない。
スペインにおいては、1856年にフランス国境近くの鉄道にフランス人が出資しようとしているのが国防上問題視された際に、経営者が軌間が違うため侵略に使われることはないと回答したのがおそらく初である。
また、隣国と異なる軌間を用いることは、敵に攻められた場合には有利でも、逆に攻め込む場合には不利になる。実際ロシアは露土戦争の際ルーマニア公国を経由してオスマン帝国に攻め込んだが、ルーマニアの鉄道は標準軌だったため、国境で貨物を積み替える必要が生じ兵站上の大きな問題となった。第一次世界大戦の序盤においても、ドイツ領東プロイセンに侵攻してからは鉄道を使うことができなかった。これがタンネンベルクの戦いの敗因の一つとなった。
なお、プロイセン王国においては、フランスやベルギーと同じ軌間を使うことについて、一部の高官が侵略に用いられる可能性があると反対したが、退けられている。
鉄道会社の経営上の理由から、あえて他鉄道と異なる軌間を採用したと考えられる例は存在する。
1841年に開業したアメリカ合衆国のニューヨーク・アンド・エリー鉄道(後のエリー鉄道)は、アメリカ合衆国北東部で一般的であった4フィート8.5インチ軌間ではなく、6フィート軌間を採用した。これはエリエイザー・ロード社長の意向によるところが大きい。ロードはニューヨーク・アンド・エリー鉄道の設立にあたって、顧客が他の鉄道に逸走することのないように、同鉄道を他の鉄道と接続させないとする免許を得ていた。しかし免許条件は将来変更される可能性があるが、軌間は容易には変更できないとして、他鉄道と異なる軌間を採用した。もっとも、1845年のロード社長の退任後は、軌間の違いはむしろ経営上不利であるとして、しばしば株主から批判を受けている。
また、1853年に開業したアメリカ合衆国メイン州のポートランドとカナダのモントリオールを結ぶ鉄道は、5フィート6インチ軌間を選択した。その理由の一つが、ポートランド側の出資者の意向によるものである。ポートランド港はボストン港と競合関係にあるため、この鉄道を利用したカナダからの貨物がボストンに奪われないように、ボストン周辺の鉄道とは異なる軌間にしたのである。ただし、こうした事情はモントリオール側の出資者には無縁のことであり、広軌が技術的に優れているという当時の風潮のほうがより影響したと思われる。
異なる軌間の鉄道が接続する地点を軌間不連続点(英語版)という。通常は列車は軌間不連続点を越えて走行することはできない。これに対して様々な対処法がある。
最も簡単な対策は、軌間不連続点において旅客の乗り換え、貨物の積み換えを行なうことである。
これには特別な設備は何も必要としない。ただし、旅客の乗り換えの負担を減らすために対面乗り換えが行われることがある。貨物の場合も、異軌間の線路を並べてその間で積み換えが行えるようにすることがある。また、規格化されたコンテナ(一般的にISO 668で定められたサイズのISOコンテナ)を用いることで効率的に積み換えを行なうことができる。
軌間の異なる鉄道車両を搭載するための貨車をロールワーゲンという。また輪軸部分のみを載せるようにした小さな車両をロールボックという。これらは20世紀初め頃までにヨーロッパで標準軌の貨車を狭軌の路線に直通されるために用いられるようになった。
しかし、ロールワーゲンやロールボックを使うと車両の重心が高くなってしまうため、特に標準軌の車両を狭軌線に乗り入れさせる場合には極めて不安定になってしまい、低速でしか運転できないという欠点がある。
軌間不連続点を越えて貨車や客車を直通させるため、接続駅で台車をそれぞれの軌間に対応したものに交換する。台車交換の方法には、クレーンやジャッキを使って車体を持ち上げるものと、車体の高さを固定した上でレールの側が沈み込んで台車を取り外すものがある。
1870年代の北アメリカで実用化された。現代でも旧ソビエト連邦の広軌鉄道と東ヨーロッパや中国などの標準軌鉄道の間の直通などに用いられている。日本においても、1067 mm軌間でない車両をJR在来線を介して輸送する場合などには、台車交換が行われることがある(車両輸送を参照)。近畿日本鉄道では車両検修場(五位堂検修車庫)が標準軌線内にあるため、1,067 mm軌間車両が入場する際は橿原神宮駅で仮台車に交換している。
また、台車そのものではなく輪軸のみを軌間に合わせて交換できるようにした車両も存在する。
原始的な軌間可変車両は1860年代のカナダで現れており、車軸上の異なる位置に車輪を固定することで、5フィート6インチ軌間と4フィート8.5インチ軌間などの異なる軌間に対応していた。しかしこの方式は信頼性に乏しかったため早期に姿を消し、台車交換に取って代わられた。
近代的な軌間可変車両は1968年に製造されたスペイン・タルゴ社のTalgoIII-RD客車が初であり、TEEカタラン・タルゴとして広軌のスペインと標準軌のフランスの間を直通した。その後スペインの他ポーランド、日本、ドイツで種々の方式が開発され、一部は実用化されている。
3本以上のレールを使った三線軌条(三線式)や四線軌条(四線式)により、同一の線路で2種類の軌間に対応することができる。混合軌間(mixed gauge)やデュアルゲージ(dual gauge)、軌間混合とも呼ばれる。三線軌条では片側のレールは共通であり、もう片方のレールをそれぞれの軌間に合わせて敷設する。四線軌条ではそれぞれの軌間に対して2本ずつのレールを用いる。稀ではあるが、四線軌条で3種類の軌間に対応した例もある。軌間の差が200 mm程度以下の場合には、レールが干渉してしまうため三線軌条を使うことができない。
19世紀半ばから、イギリスや北アメリカにおいて標準軌鉄道と各種の広軌の鉄道の間での直通のために用いられるようになった。現代においても世界各地で広く用いられている。
車両側には特に何も対応する必要はないが、建設や保守には余分なコストがかかる。車両側での対応による異軌間乗り入れのコストが乗り入れる車両数に依存するのに対し、混合軌間による乗り入れの場合は乗り入れる距離に依存する。このため、輸送量が多く乗り入れ距離が比較的短い場合には、混合軌間による対応が適していることになる。
軌道は列車が走行するたびに少しずつ変形してしまう。これを軌道狂いといい、このうち軌間の所定の値(ただし曲線部では所定の軌間とスラックの和)からのずれを軌間狂いという。狂いが大きくなると乗り心地が悪くなり、さらに大きくなると脱線の危険も高まる。このため定期的に検測と保守作業を行ない、狂いが一定の範囲内に収まるようにしている。
手動による軌間狂いの検測には、軌間ゲージという器具が用いられる。また軌道検測車により走行しながら検測を行なうこともできる。
JR在来線の場合、軌間狂いの整備目標値は+6 mmから-4 mm(高速軌道検測車による動的値の場合は+10 mmから-5 mm)である。ただし分岐器のクロッシング部では、狂いが大きいと異線進入のおそれがあるため、+5 mmから-3 mmとされている。整備基準値は直線部で+14 mm(高速軌道検測車による動的値の場合は+20 mm)である。新幹線の場合は、軌道管理目標値は高速軌道検測車による測定で+6 mmから-4 mmとなる。
日本の私鉄路線において、運輸安全委員会が調査した事故のうち、2017年5月22日に発生したわたらせ渓谷鐵道脱線事故における検測車両(キヤE193系)の脱線事故を始めとして、西濃鉄道市橋線脱線事故(2016年10月6日発生・貨物列車)・紀州鉄道脱線事故(2017年1月22日発生・旅客列車)・熊本電鉄藤崎線脱線事故(2017年2月22日発生・旅客列車)の4件で同様の事故が発生したことを受けて、2018年6月28日に運輸安全委員会がこれらの事故は枕木やレール締結装置の不良(犬釘が浮いた状態になるなど)で「軌間拡大」が発生したことによると考えられると指摘している。その対応策として、コンクリート製などへの枕木の材質変更、脱線ガードや脱線防止レールの敷設が望ましく、軌道の定期検査や線路巡視による枕木やレール締結装置の適切な管理、軌道変位の状況に応じた適切な軌道整備の実施が必要としている。
鉄道車両に高速カメラを搭載させて、運行時に線路(路面)撮影する。撮影された映像をもとにして、軌間狂いを人工知能などで検出を行い、沿線の保守工事を行うことがなされている。
標準軌(国際標準軌、スティーヴンソン軌間)は、1,435 mm(4 ft 8.5 in)で、ヨーロッパ(一部を除く)、北アメリカ、東アジアの大陸部などで広く用いられている。ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道やリバプール・アンド・マンチェスター鉄道といった初期の鉄道で用いられたことがきっかけとなり、世界的に普及した。
ただし1435 mm以外の軌間が主流となっている地域では、その軌間のことを「標準軌」と呼ぶことがある。たとえば日本においては1067 mmが圧倒的多数を占める。そのため、古い資料では「1435 mm=広軌、1067 mm=標準軌」と記されているケースもあり、注意が必要である。この場合、京王線、函館市電などが採用する1372 mmは広軌の扱いを受けることが多い。
標準軌より広い軌間。「ブロードゲージ(Broad Gauge)」とも呼ばれる。19世紀半ばには広軌のほうが標準軌より優れているとの考えから、様々な広軌が実用化された。その後標準軌に改軌されたことで現存しないものも多いが、国や地域によってはそのまま地域における標準的な軌間となった。
現代の本線鉄道で用いられている軌間で最大のものは1,676 mm (5 ft 6 in)である。特殊用途の鉄道では、巨大な積載物を移動する必要性などから広軌が採用される場合もある。インクラインやレール上を移動するクレーンなどでは、極端に広い軌間が用いられることもある。
現代の普通鉄道において用いられている主な広軌は以下である。
標準軌より狭い軌間。「ナローゲージ (Narrow Gauge)」とも呼ばれる。国際鉄道連合の分類では、1000 mmから1067 mmまでの軌間を広義のメーターゲージとも呼ぶ。1,000 mm未満の軌間は各地に分散しており、広範囲の鉄道網は形成していない。
現代において用いられている主な狭軌は以下である。
営業用の鉄道として認知されているもののうちで、最小の軌間はイギリスの Mull and West Highland Railway (1983年 - 2010年、2011年 5月 - 9月 )と Wells and Walsingham Light Railway の260 mm である。このほか 311 mm, 381 mm (15 in), 500 mm などの軌間も存在する。日本では法制上は鉄道とはされていないが、伊豆修善寺の「虹の郷」園内の虹の郷ロムニー鉄道が381 mm軌間である。
三重県の桑名駅付近に、762 mmの三岐鉄道北勢線、1067 mmの関西本線、1435 mmの近鉄名古屋線と、異なる3種の軌間を渡る踏切がある。
ここまでが、実際の交通機関(輸送手段)として使われている(または過去に使われた)軌間である。これより狭いものはライブスチーム(イベントなどのミニSLなど)による庭園鉄道や、鉄道模型などで使われる。 | [
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"text": "軌間(きかん)は、鉄道の線路を構成する左右の軌条(レール)の間隔である。ゲージ(英語: Gauge)ともいう。軌条には幅があるため、軌条頭部の内側の最短距離と規定される(詳しくは後述)。",
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"text": "軌間は鉄道の機能・能力に関わる重要な要素であり、また軌間の異なる鉄道の間では通常は直通運転は不可能である。世界で最も普及している軌間は1435 mm(4フィート8 1/2インチ)で、標準軌と呼ばれる。標準軌より広い軌間を広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。日本で多い狭軌は、在来線でよく使われる1067 mmである。軌間を変更することは改軌と呼ばれる。しかし、改軌は周辺のものに大きく影響があり費用も莫大なため、余程の理由がない限り行われない。",
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"text": "曲線部では、車輪のすべてが、曲線の中心を向くことができないのと、車輪のフランジが軌条に接触することなく走行できるようにするため、内側の軌条を曲心側に若干広げて、軌条の間隔を所定の軌間より広げて車輪を円滑に走行できるようにしており、この拡幅をスラック(拡度)と呼んでいる。曲線半径が600 m以下の場合において設けられるが、その設定幅は曲線半径、台車の固定軸距、軌間などの数値や実験値等から計算され、曲線半径のランクにより5 mm刻みに設定されており、大きな値をとってしまうと脱線の危険が生まれてしまうため、最大値で30 mmとしている。また、曲線半径が600 m以上においても2 mm以下のスラックが設けられる場合がある。",
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"text": "軌間の正確な定義には、レールの頭部上面から一定の長さだけ下がった位置での左右のレール内側面の距離とするものと、上面から一定の範囲内でのレール内面の最短距離とするものがあり、国や地域などによって若干の差異がある。",
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"text": "19世紀後半のフランスとイタリアでは、レール中心の間隔を基準として定めていた。この場合軌間はレールの幅によって変わってしまうことになる。",
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"text": "現代において標準軌とされる4フィート8.5インチ軌間の起源は、イングランド北東部のキリングワース(英語版)炭鉱の馬車鉄道で用いられていた4フィート8インチ軌間である。なおキリングワースの車輪間隔の起源をさらに古代ローマの馬車にまで遡ることができるとする説もあったが後に否定されている。1814年、ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造した。スティーブンソンはその後他の炭鉱向けにも機関車を製造し、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立したが、ここで製造された機関車も同じ軌間で設計されていた。スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えていた。1825年にストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で公共用の鉄道として初めて蒸気機関車が使われ、1830年には世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道であるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。これらの鉄道でもスティーブンソンの機関車が用いられた。ただし、軌間はこの途中のいずれかの段階で半インチ拡大されて4フィート8.5インチとなっている。",
"title": "歴史"
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"text": "その後もスティーヴンソンらの関わった鉄道では4フィート8 1/2インチ軌間が採用されたが、蒸気機関車を用いた鉄道で馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も多かった。代表的な例がイザムバード・キングダム・ブルネルであり、グレート・ウェスタン鉄道において7フィート1/4インチ(2140 mm)という広軌を採用した。ブルネルは、グレート・ウェスタン鉄道がスティーヴンソンの4フィート8 1/2インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていた。ブルネルほど極端ではないにしろ、1830年代から40年代には5フィートから6フィート程度の様々な広軌鉄道が現れており、イングランドでもグレート・ウェスタン鉄道に追従して1836年にイースタンカウンティー鉄道が7フィート1/4インチ軌間にしようと試みたが技師長のブレイスウェストによって5フィート軌間を勧められどちらとも違う軌間を始めた(後に標準軌に改軌)。",
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"text": "ただし、こうした異なる軌間が路線を拡大した結果1844年にグロスターにおいて4フィート8 1/2インチ軌間と7フィート1/4インチ軌間の鉄道ははじめて接し、これにより軌間が異なると直通運転ができないという弊害が顕在化した。軌間をどちらに統一すべきかは「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれる激しい論争となった。1845年、王立委員会は広軌の技術的な優位は認めつつ、その差はわずかであり、路線長の長い4フィート8 1/2インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告した。翌1846年に制定された軌間法により、グレートブリテン島の新規路線は原則として4フィート8 1/2インチの軌間で建設されることになった。",
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"text": "この規定はスコットランド(5フィート6インチ軌間の「アブローズ~フォーファー」の路線が先行して施設されていた)にも適用され、安全上などの理由で広軌を求める声もあったが陸続きである以上4フィート8.5インチ軌間を受け入れることになった。ただし、アイルランドの鉄道は、グレートブリテン島とは海で隔てられているため共通の軌間を用いる必要はないとして、5フィート3インチ(1600 mm)が標準とされた。(時系列的に少々戻るがアイルランドは1834年に軌間4フィート8 1/2インチで最初の鉄道が施設、その後ダブリンとベルファスト間で本格的に施設する際もっと広軌にするべきだと6フィート2インチか5フィート2インチかで揉めて最終的に5フィート3インチで妥協され、1846年の軌間法で追認された。)",
"title": "歴史"
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"text": "大陸ヨーロッパではイギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定した例が多い。このとき最も多く選ばれたのはスティーヴンソンの1435 mm軌間であるが、オランダ、バーデン大公国、ロシア帝国、スペイン、ポルトガルの各国ではそれぞれ広軌(5~6フィート前後)が採用された。これは広軌のほうが技術的には優れているという見解に基づくものであった。オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて1435 mmに改軌したが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っている。",
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"text": "アメリカ合衆国では、1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業した。これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、4フィート8 1/2インチの他にも様々な広軌が採用された。これが1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチ、南部では5フィート、ニュージャージー州とオハイオ州では4フィート10インチのように地域的に統合され、さらに1863年に大陸横断鉄道の軌間が4フィート8 1/2インチとされたことがきっかけとなって、全国的に4フィート8 1/2インチに統一された。",
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"text": "カナダでは、1851年に5フィート6インチを標準とする法律が制定されたが、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8 1/2インチに改軌された。",
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"text": "英領インドでは、最初のカルカッタ周辺は4フィート8 1/2インチ軌間で始まったが、1851年以降ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ総督により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8 1/2インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8 1/2インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった。",
"title": "歴史"
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"text": "オーストラリアでは後の各州に相当する各植民地が独自に鉄道建設を行なった結果、最初(1850年)のサウスオーストラリア州は4フィート8 1/2インチ、次(1852年)にニューサウスウェールズ州はアイルランド式の5フィート3インチでビクトリア州と前述のサウスオーストラリア州もこれに合わせ改軌。しかしニューサウスウェールズの技師長がアイルランド人からスコットランド人に変わると今度は4フィート8 1/2インチになる(ビクトリア・サウスオーストラリアは変更せず)など混乱が続き、1870年代の狭軌ブームの時代もあって1067 mmの州も加わるなど、州ごとにゲージが分断されたまま発展が続いて現在に至っている。",
"title": "歴史"
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"text": "ラテンアメリカ各地の鉄道の軌間は建設の始まった時期により異なり、1837年から1851年までの6例ではすべて1435 mm軌間、1854年から1863年までの6例はすべて広軌である。1865年にウルグアイが1435 mm軌間を採用したのを挟んで、以後はもっぱら狭軌となる。",
"title": "歴史"
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"text": "馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11 1/2インチ(597 mm)がある。ただし当時はこうした狭軌鉄道では蒸気機関車を用いることはできなかった。",
"title": "歴史"
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"text": "1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になった。ノルウェーのカール・アブラハム・ピルは、同国西部での鉄道の建設にあたり、3フィート6インチ(1067 mm)軌間がコストと能力のバランスのとれた理想的な軌間であるとした。ピルはイギリスで技術教育を受けており、その見解はチャールズ・フォックス(英語版)をはじめとするイギリスの技術者たちにも支持された。さらに1865年ごろからは、フェステニオグ鉄道の技術者チャールズ・イーストン・スプーナー(英語版)やイギリス商務省のヘンリー・タイラーらによって、3フィート(914 mm)や2フィート6インチ(762 mm)の軽便鉄道のアイデアが提唱された。スプーナーらは、従来の標準軌や広軌の鉄道は無駄が多く、狭軌の軽便鉄道こそが将来の鉄道にふさわしいと主張した。",
"title": "歴史"
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"text": "1860年代後半から1880年代にかけては、フォックスやその影響を受けたイギリス人を中心とする技術者の指導により、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの鉄道未開業地域において1067 mmや1000 mm、914 mmなどの軌間での鉄道建設が相次いだ。1872年に開業した日本の鉄道が1067 mm軌間を採用したのもその一例である。またケープ植民地(南アフリカ)やニュージーランドでは、一旦標準軌での鉄道建設が始まっていたものが、狭軌に切り替えられている。タイやインドネシアでは、先行していた標準軌鉄道とは別に狭軌の鉄道が建設され、その後長い時間をかけて狭軌に統一された。",
"title": "歴史"
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"text": "インドとオーストラリアでは、すでに広軌や標準軌の鉄道網がある程度発達していたにもかかわらず、狭軌の鉄道も並行して建設されるようになった。このため複数の軌間が混在する状況が生じ、21世紀に至っても完全には解消されていない。",
"title": "歴史"
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"text": "すでに標準軌の普及していたヨーロッパや北アメリカでも、標準軌路線を作るほどの需要のない地域での軽便鉄道の規格として狭軌は広く用いられた。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 20,
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"text": "アメリカ合衆国では、1871年に3フィート軌間のデンバー・アンド・リオグランデ鉄道の最初の区間が開通した。1872年には第1回全米狭軌鉄道会議(National Narrow-Gauge Railway Convention)が開催され、3フィート軌間がアメリカにおける狭軌の統一規格として合意されるとともに、標準軌鉄道に代わって狭軌の幹線鉄道網を築くという野心的な計画も示された。",
"title": "歴史"
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"text": "しかし、狭軌鉄道がある程度普及してくると、狭軌は従来主張されていたほど経済的ではないことが明らかとなった。オーストラリア・クイーンズランド植民地の鉄道の建設費は当初予算を40 %も超過した。またアメリカ合衆国の狭軌鉄道会社でも、1880年代には標準軌鉄道との積み換えを避けるための改軌が相次いだ。アメリカ合衆国のアーサー・M・ウェリントン(英語版)は1887年の著書で、狭軌鉄道の利点とされていた建設費の安さや曲線通過性能は、実際には軌間にほとんど依存せず、ランニングコストはかえって高くなってしまうと述べた。狭軌を使う意味のあるのは、車体サイズなどを小さくした低規格の軽便鉄道の場合に限られる。しかしウェリントンやその支持者たちの主張では、建設段階では需要の少ない路線であっても、狭軌ではなく標準軌で建設したほうが、将来の改良で本線鉄道網の一部とすることが容易であるため好ましいとしている。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国やイギリスではこの主張が比較的早く受け入れられたが、大陸ヨーロッパにおいては20世紀前半においても狭軌の軽便鉄道の建設が続いた。しかし自動車が普及してくると、速度や輸送力の劣る軽便鉄道は競争力を失い、多くが廃止に追い込まれた。",
"title": "歴史"
},
{
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"tag": "p",
"text": "20世紀に入ってからは、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、軌間の優劣に関する議論は低調になった。20世紀初めごろには日本(日本の改軌論争)や南アフリカ、オーストラリア、アメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に、あるいは標準軌を広軌に改軌すべきであるという議論が起こったが、オーストラリアのいくつかの狭軌鉄道が標準軌に改軌された例を除いて、いずれも実現には至っていない。ナチス・ドイツでは軌間3000 mmの超広軌鉄道「ブライトシュプールバーン」が計画されていた。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "20世紀後半以降に新たに建設された鉄道では、標準軌が採用される例が多い。日本の新幹線や多数の製鉄所構内鉄道が、狭軌の在来線網とは独立した形で標準軌を選んだのがその最たるものである。またアフリカ各国やブラジル、オーストラリアでは、従来の狭軌鉄道とは別に、鉱山用や通勤用に標準軌で鉄道を新設した例がある。逆にスペインなどは在来線は広軌だが、高速列車のAVEはフランスなどとの接続を考えて、また通勤用の鉄道は車両限界をなるべく小さくして建設費用や車両新製費用を抑えるために、いずれも狭い標準軌で施設されている。こうした選択は、既に存在する技術を活用でき、車両や資材の調達もしやすいことによるものである。",
"title": "歴史"
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{
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"tag": "p",
"text": "一般的に、軌間が広いほど輸送力や最高速度など鉄道の能力は高まり、逆に狭いほど建設費は安くなるとされる。ただしこれらには様々な要因があり、単純に軌間のみで決まるわけではない。また時代によりその評価は変わっており、論拠の一部は特定の時代の技術に依存したものである。",
"title": "軌間の広狭による性質"
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"text": "鉄道車両には鉛直方向の重力のほか、横風や走行時の車両の動揺、曲線通過時の遠心力などにより横方向の力がかかっている。車両の重心からこれらの力の合力方向にひいた直線が線路面と交わる位置が、片方のレールの外側になると、車両は転覆してしまう。また、軌道の中心から軌間の6分の1以上ずれると、脱線の確率が高まることが知られている。",
"title": "軌間の広狭による性質"
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{
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"tag": "p",
"text": "このため、重心の高さが同じであれば広軌のほうが横方向の力に対してより安全であるといえる。特に列車の速度が速くなるほどこうした力の影響は大きくなるため、高速運転には軌間の広いほうが適している。狭軌の場合は、横方向の力の発生を防ぐためより精度の高い保線作業が必要となる。また同程度の安定性を求めるのであれば、軌間の広いほうが重心を高くすることができ、大型の車両を用いることができる。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1850年代にインドの鉄道で広軌(1676 mm)が採用された理由のひとつとして、軌間が広いほうがサイクロンなどの強風に対して安全であるということが挙げられている。また1973年にアメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ・ベイエリアで開業したBARTでも、湾岸地域での横風に対する安定性を考慮して1676 mm軌間とコンクリート道床の組み合わせを採用した。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "蒸気機関車の用いられていた時代には、軌間の広いほうが機関車の性能が高いとされていた。これは1830年代から20世紀前半に至るまで、広軌の優位性を主張する最大の根拠であった。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1830年代から40年代初頭まで、蒸気機関車のシリンダーは車輪の内側に取り付けられていた。これは、シリンダーを外側にすると蒸気が空気で冷やされて効率が落ちると考えられたこと、また機関車の車体に左右交互に力が加わるため、当時の技術ではこれに耐えられるような台枠が作れなかったことによるものである。このため、シリンダーの大きさは軌間に大きな影響を受けた。加えて、この時代の弁装置は大きく、頻繁な保守作業を必要とした。これも車輪の内側におかれたため、狭い軌間はメンテナンスが困難であるとして嫌われることになった。これ以外にもシリンダーから動輪の軸に力を伝えるクランク部分が広軌の方が広くとれるので摩耗や強度的に有利orクランクが同じ幅ならより外側にずらすことでボイラー下部と干渉しにくくなり、ボイラー高さを抑えられたり太いボイラーが使えるというメリットもあった。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "ただし、1840年代半ば以降になると、車体の製造技術の向上などにより外側シリンダーの蒸気機関車が製造可能になり、シリンダーの大きさが軌間に制約されることはなくなった。むしろ外側シリンダーでは車両限界や特にボイラーの太さが同一ならば広軌の方がシリンダーをより外側につけるため、シリンダーの大きさを妨げる原因になり、イギリスの軌間問題に関する王立調査委員会は、1845年の報告で7フィート軌間のほうが4フィート8 1/2インチ軌間より機関車の性能が優れていることは認めつつ、その差は僅かであると指摘している。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "一方で、軌間の広いほうが高い重心が許容されるため、火室(英語版)やボイラーを大型化し、出力を向上させることができる。19世紀半ばまでは低い蒸気圧しか使えなかったため、この点は大きな差にはならなかった。しかし使用蒸気圧の増した19世紀末から20世紀であれば、軌間と蒸気機関車の性能にはより強い関係があった。20世紀初頭の段階では、狭軌の蒸気機関車は標準軌の半分程度の性能しか出せないとされていた。 1912年に日本で行われた実験では、国鉄の2120形と呼ばれたタンク機関車のグループのうち2323号機を広軌化(1067 mm→1435 mm)して、左右車輪の間に空間ができたのを利用して火室の幅を広げた所、牽引能力が上昇して1067 mm時には10 ‰勾配上で250 tの列車を引けたものが1435 mm時には350 tまで牽引可能になった。1920年代のアメリカ合衆国では、標準軌でも不十分であり、6フィート(1829 mm)などの広軌に改軌したほうがより高性能の機関車を設計できるという主張があった。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "ただし、蒸気機関車でも従輪で火室を受ければ軌間を超える幅の広い火室を重心を上げずに採用できるし、ボイラーもガーラット式機関車のようにボイラーの前後に走り装置をつけて支える形式にすれば、動輪に邪魔されずナローでも太いボイラーを使うことは可能である。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一方、電動機(モーター)を動力源とする電車や電気機関車(電気式動力伝達の内燃機関動力車も含む)の場合は、通常動輪のすぐ横でモーターを軸と平行に置くので車輪直径で上下方向、軌間で左右方向の大きさに制約が生じる。この影響は電車より電気機関車、電気機関車より電気式動力伝達の内燃機関動力車の方が大きい。このためモーターの大型化・車輪直径を抑える・狭軌の3つはすべて満たすことが難しくなり、日本の例では明治の末に国鉄が山手線で初めて電車を運行したころはモーターが50馬力だったので車輪径が客車や貨車と同じ大きさでもさほど問題はなかったが、大正3年に京浜間に100馬力の大型モーターの電車を走らせることになった際、このサイズの車輪ではモーターの下端とレール上面の隙間が構造規定を下回ってしまうため車輪径を大きくして910 mmの車輪を採用し、以後これが電車の標準になったことがある。私鉄でも箱根登山鉄道は急勾配を理由に標準軌を採用している。 逆に路面電車など床高さを抑えるため車輪が小さくならざるを得ない車両では、狭軌になるとモーターを収める空間に余裕がなくなるため、モーターの位置を変え直角カルダン駆動方式や車体装架カルダン駆動方式などを採用したり、逆に路面電車に多い急カーブや狭小建築限界に不利とわかっていても軌道施設時に標準軌を選択する場合がある。",
"title": "軌間の広狭による性質"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "なお、内燃機関を機械式もしくは液体式で動力伝達をする車両の場合は、元々エンジンが車輪の間と無関係の位置にあるので軌間と出力の間に直接的な関係はほとんどない。但し内燃機関は電動機に比べて小型化が難しく、重心が高くなりがちであり、この点が蒸気機関車に似ている。",
"title": "軌間の広狭による性質"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "貨車に貨物を搭載する場合の効率については、広軌のほうが有利であるという主張と狭軌のほうが有利であるという主張の双方が存在する。",
"title": "軌間の広狭による性質"
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "広軌を有利とするのは、広軌のほうが重心を高くすることができるため、車体を横方向のみならず垂直方向にも大型化することができるためである。このとき(車体長を不変とした場合)床や壁の面積は軌間の1乗のオーダーで増加するが、容積は2乗のオーダーで増えるため、より効率よく貨物を積むことができる。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "一方狭軌を有利とする根拠は、軌間が広いほど台車などが大きくなってしまい、運ぶべき貨物の重量に対して貨車そのものの重量が大きく効率が悪いことによる。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "結論を言えば、これは貨物の比重と輸送量に影響される。農産物など比重の小さい貨物を大量に運ぶときには前者の影響が大きく、広軌のほうが有利である。一方鉱石など比重の大きな貨物を少量運ぶときは後者の影響が大きい。鉱山などの専用鉄道で狭軌が採用される例があるのはこのためである。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ただし、車体を大きくするには車両限界や建築限界(特に橋梁やトンネルの設計)、レールや路盤の強度なども関係してくるため、単純に軌間が広ければよいというわけではない。1676 mmの広軌を採用しているインドの鉄道でも、欧米の標準軌鉄道と比べて車両限界は僅かに大きい程度である。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 41,
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"text": "これについては日本の鉄道院初代総裁である後藤新平も広軌化検討時に「ドイツ鉄道で現在(注:1909年)使用されている有蓋貨車は狭軌でこれは採用できる、したがって貨車においては広狭関係ない。アメリカの貨車は最も大きいが、南ア(注:南アフリカ共和国の事)のボギー貨車はこれに劣らないので貨車についてはボギーとすれば広狭同等と考える。」、「元九州鉄道の貴賓車(九州鉄道ブリル客車のこと)はイギリスよりも大きく、プロシャ(ドイツ)とほぼ同じである、したがって狭軌でも建築限界を広げれば「萬国寝台会社」サイズの客車を運転できる。」としている。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "曲線部では、外側のレールのほうが内側のレールより長くなるが、同一の曲線半径であれば軌間が狭いほどその差は小さい。このため、狭軌のほうが小さな半径の曲線を作りやすいとされている。特に山岳路線では、地形に沿うように線路を敷くことができるため、トンネルや橋梁などの高価な施設を最小限に抑えることができる。広軌論者のイザムバード・キングダム・ブルネルも、広軌の欠点としてこの点を認めており、1860年代以降の狭軌鉄道の流行においてもその最大のメリットとされていた。広軌を用いているスペインでは、曲線通過のため左右の車輪が独立して回転するタルゴ車両が開発された。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "鉄道では車輪に踏面勾配を持たせることで、曲線部では外側の車輪とレールの接触部の半径が内側よりも大きくなり、外側の車輪の走行距離が内側よりも長くなって自然に曲がることができる。しかし内外の走行距離の差が踏面勾配によって吸収できないほど大きい場合には、フランジがレール側面と接触し、内外いずれかの車輪がレール上を滑ることになり、大きな摩擦を生じることになる。",
"title": "軌間の広狭による性質"
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{
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"text": "一方で、鉄道車両の曲線通過能力において、軌間の違いは本質的ではないとする見解もある。",
"title": "軌間の広狭による性質"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "複数の車軸をもつ鉄道車両では、曲線部では車輪の向きとレールの向きが異なってしまう。この角度をアタック角といい、これが大きいほど走行抵抗が大きく、脱線の危険も高まる。アタック角は車軸の間隔に依存し、軌間とは関係ない。転向可能なボギー台車を用いることでアタック角を小さくすることができる。実際、19世紀後半のアメリカの標準軌鉄道では、ボギー台車を用いることで、同時代の二軸車主体のヨーロッパの狭軌(軽便)鉄道より小さな曲線半径を実現していた。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ボギー台車を用いたとしても、今度は車両の進行方向と台車の向きが異なるため、台車を転向させるための横圧が加わる。これは台車の中心間隔に依存する。アーサー・M・ウェリントンは1887年の著書において、車体各部の寸法がそのままで軌間のみを狭くしても、こうした曲線通過時の抵抗にはほとんど影響がなく、台車中心間隔を同時に小さくすることではじめて抵抗を減らす効果があると論じた。彼はさらに、軌間の広いほうが高重心が許容されるため、機関車や貨車の性能は同程度のまま車軸や台車の間隔を縮めることができ、曲線通過に適しているとすら述べている。ウェリントンの見解はなかなか受け入れられなかったが、例えばペルーにおいてはこの説に基づき山岳路線を標準軌で建設している。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "レールを支える枕木の長さや、その下のバラストの量は、軌間の大きさに直接影響される。狭軌の鉄道ほど軌道に専有される幅は狭くなる。19世紀末から20世紀前半のヨーロッパの軽便鉄道は、多くが既存の道路の端を使って敷設されたため、この点が狭軌を使用する大きな利点となった。一方、軌道を支える路盤の強度や橋梁の設計は、走らせる列車の重量(軸重)や速度によって決定され、軌間にはほとんど影響されない。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2001年に南アフリカでハウトレイン建設の際に行なわれた試算では、1 kmあたりの建設費は標準軌(1435 mm)の場合180万ランドであるのに対し、ケープ軌間(1065 mm)であれば160万ランドと見積もられた。この差は枕木とバラストによるものであり、事業全体のコストに比べればそれほど重要ではないと評価された。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "なお、実際に2140 mmもの広軌を使っていたイギリスのグレート・ウェスタン鉄道では上記の問題から枕木を倹約するため、通常のレールのように枕木を並行に無数に並べ、その上に直角にレール2本を置くのではなく「レールに沿うように切れ目なく枕木を敷いて(つまり鉄のレールの下に木のレールがあるような外見)重量を分散させ、その枕木を約10フィートおきに横木で結び、ずれないように固定する。」という独特の敷き方を行っていた。",
"title": "軌間の広狭による性質"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "一般に鉄道車両は特定の軌間に合わせて製造されている。車輪の内側にはフランジがあるため、両側の車輪のフランジの間隔より狭い軌間の線路に乗り入れることは不可能である。また軌間が大きすぎる場合にも脱線してしまう。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "しかし、車輪にもレールにもある程度の幅があるため、軌間の1 %程度の差異であれば直通運転にはほとんど支障がない。フィート・インチからメートル法へ単位系の切り替えの際の考え方の違いなどで、1067 mmと1065 mm、1524 mmと1520 mmのような数ミリメートル異なる軌間が存在するが、これらは実用上は同一軌間とみなしうる。19世紀のアメリカ合衆国では、4フィート8.5インチ(1435 mm)軌間用の車両がそのまま4フィート10インチ(1475 mm)軌間の鉄道に乗り入れていた例もある。この場合、脱線の危険が増すものの、当時の安全水準からはそれほど問題とはされなかった。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "ロシア帝国とスペインの鉄道がヨーロッパの他地域と異なり広軌を選択した理由として、ナポレオン戦争の記憶から他国に侵略された場合に鉄道を利用されることを恐れたためと説明されることがある。しかし、両国が軍事的理由で軌間を選んだとする記録は存在しない。両国とも、鉄道が開業したのは1830年代から40年代の広軌優位論が盛んであった時代であり、軌間を検討した技術者は4フィート8 1/2インチよりも広い軌間のほうが優れていると主張した。また、将来他国の4フィート8 1/2インチ軌間の鉄道と接続される可能性については軽視している。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ロシアが侵略に備えて異軌間を選んだとする説の初出は、1866年にイギリスのタイムズ紙に掲載された特派員報告で、伝聞の形で伝えている。また、ロシア交通省は1841年の報告書で、鉄道が敵に利用される可能性について、軍が退却する時に線路を破壊すればよいと記しているが、軌間の違いには言及していない。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "また、他国の侵入防止目的説の最大の問題点としてこれらの国が広軌を採用している点があり、軌間は狭める方が楽であり、実際に日本が日露戦争中に満洲にあった5フィート軌間のロシアの鉄道(後の満鉄など)を改軌して3フィート6インチにしてしばらく使用していたケースがあるので、仮想敵国より軌間を狭くしないとこの目的には使用できない。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "スペインにおいては、1856年にフランス国境近くの鉄道にフランス人が出資しようとしているのが国防上問題視された際に、経営者が軌間が違うため侵略に使われることはないと回答したのがおそらく初である。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "また、隣国と異なる軌間を用いることは、敵に攻められた場合には有利でも、逆に攻め込む場合には不利になる。実際ロシアは露土戦争の際ルーマニア公国を経由してオスマン帝国に攻め込んだが、ルーマニアの鉄道は標準軌だったため、国境で貨物を積み替える必要が生じ兵站上の大きな問題となった。第一次世界大戦の序盤においても、ドイツ領東プロイセンに侵攻してからは鉄道を使うことができなかった。これがタンネンベルクの戦いの敗因の一つとなった。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "なお、プロイセン王国においては、フランスやベルギーと同じ軌間を使うことについて、一部の高官が侵略に用いられる可能性があると反対したが、退けられている。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "鉄道会社の経営上の理由から、あえて他鉄道と異なる軌間を採用したと考えられる例は存在する。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "1841年に開業したアメリカ合衆国のニューヨーク・アンド・エリー鉄道(後のエリー鉄道)は、アメリカ合衆国北東部で一般的であった4フィート8.5インチ軌間ではなく、6フィート軌間を採用した。これはエリエイザー・ロード社長の意向によるところが大きい。ロードはニューヨーク・アンド・エリー鉄道の設立にあたって、顧客が他の鉄道に逸走することのないように、同鉄道を他の鉄道と接続させないとする免許を得ていた。しかし免許条件は将来変更される可能性があるが、軌間は容易には変更できないとして、他鉄道と異なる軌間を採用した。もっとも、1845年のロード社長の退任後は、軌間の違いはむしろ経営上不利であるとして、しばしば株主から批判を受けている。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、1853年に開業したアメリカ合衆国メイン州のポートランドとカナダのモントリオールを結ぶ鉄道は、5フィート6インチ軌間を選択した。その理由の一つが、ポートランド側の出資者の意向によるものである。ポートランド港はボストン港と競合関係にあるため、この鉄道を利用したカナダからの貨物がボストンに奪われないように、ボストン周辺の鉄道とは異なる軌間にしたのである。ただし、こうした事情はモントリオール側の出資者には無縁のことであり、広軌が技術的に優れているという当時の風潮のほうがより影響したと思われる。",
"title": "軌間と直通運転"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "異なる軌間の鉄道が接続する地点を軌間不連続点(英語版)という。通常は列車は軌間不連続点を越えて走行することはできない。これに対して様々な対処法がある。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "最も簡単な対策は、軌間不連続点において旅客の乗り換え、貨物の積み換えを行なうことである。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "これには特別な設備は何も必要としない。ただし、旅客の乗り換えの負担を減らすために対面乗り換えが行われることがある。貨物の場合も、異軌間の線路を並べてその間で積み換えが行えるようにすることがある。また、規格化されたコンテナ(一般的にISO 668で定められたサイズのISOコンテナ)を用いることで効率的に積み換えを行なうことができる。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "軌間の異なる鉄道車両を搭載するための貨車をロールワーゲンという。また輪軸部分のみを載せるようにした小さな車両をロールボックという。これらは20世紀初め頃までにヨーロッパで標準軌の貨車を狭軌の路線に直通されるために用いられるようになった。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "しかし、ロールワーゲンやロールボックを使うと車両の重心が高くなってしまうため、特に標準軌の車両を狭軌線に乗り入れさせる場合には極めて不安定になってしまい、低速でしか運転できないという欠点がある。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "軌間不連続点を越えて貨車や客車を直通させるため、接続駅で台車をそれぞれの軌間に対応したものに交換する。台車交換の方法には、クレーンやジャッキを使って車体を持ち上げるものと、車体の高さを固定した上でレールの側が沈み込んで台車を取り外すものがある。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "1870年代の北アメリカで実用化された。現代でも旧ソビエト連邦の広軌鉄道と東ヨーロッパや中国などの標準軌鉄道の間の直通などに用いられている。日本においても、1067 mm軌間でない車両をJR在来線を介して輸送する場合などには、台車交換が行われることがある(車両輸送を参照)。近畿日本鉄道では車両検修場(五位堂検修車庫)が標準軌線内にあるため、1,067 mm軌間車両が入場する際は橿原神宮駅で仮台車に交換している。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "また、台車そのものではなく輪軸のみを軌間に合わせて交換できるようにした車両も存在する。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "原始的な軌間可変車両は1860年代のカナダで現れており、車軸上の異なる位置に車輪を固定することで、5フィート6インチ軌間と4フィート8.5インチ軌間などの異なる軌間に対応していた。しかしこの方式は信頼性に乏しかったため早期に姿を消し、台車交換に取って代わられた。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "近代的な軌間可変車両は1968年に製造されたスペイン・タルゴ社のTalgoIII-RD客車が初であり、TEEカタラン・タルゴとして広軌のスペインと標準軌のフランスの間を直通した。その後スペインの他ポーランド、日本、ドイツで種々の方式が開発され、一部は実用化されている。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "3本以上のレールを使った三線軌条(三線式)や四線軌条(四線式)により、同一の線路で2種類の軌間に対応することができる。混合軌間(mixed gauge)やデュアルゲージ(dual gauge)、軌間混合とも呼ばれる。三線軌条では片側のレールは共通であり、もう片方のレールをそれぞれの軌間に合わせて敷設する。四線軌条ではそれぞれの軌間に対して2本ずつのレールを用いる。稀ではあるが、四線軌条で3種類の軌間に対応した例もある。軌間の差が200 mm程度以下の場合には、レールが干渉してしまうため三線軌条を使うことができない。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "19世紀半ばから、イギリスや北アメリカにおいて標準軌鉄道と各種の広軌の鉄道の間での直通のために用いられるようになった。現代においても世界各地で広く用いられている。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "車両側には特に何も対応する必要はないが、建設や保守には余分なコストがかかる。車両側での対応による異軌間乗り入れのコストが乗り入れる車両数に依存するのに対し、混合軌間による乗り入れの場合は乗り入れる距離に依存する。このため、輸送量が多く乗り入れ距離が比較的短い場合には、混合軌間による対応が適していることになる。",
"title": "軌間不連続点への対応"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "軌道は列車が走行するたびに少しずつ変形してしまう。これを軌道狂いといい、このうち軌間の所定の値(ただし曲線部では所定の軌間とスラックの和)からのずれを軌間狂いという。狂いが大きくなると乗り心地が悪くなり、さらに大きくなると脱線の危険も高まる。このため定期的に検測と保守作業を行ない、狂いが一定の範囲内に収まるようにしている。",
"title": "軌間狂い"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "手動による軌間狂いの検測には、軌間ゲージという器具が用いられる。また軌道検測車により走行しながら検測を行なうこともできる。",
"title": "軌間狂い"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "JR在来線の場合、軌間狂いの整備目標値は+6 mmから-4 mm(高速軌道検測車による動的値の場合は+10 mmから-5 mm)である。ただし分岐器のクロッシング部では、狂いが大きいと異線進入のおそれがあるため、+5 mmから-3 mmとされている。整備基準値は直線部で+14 mm(高速軌道検測車による動的値の場合は+20 mm)である。新幹線の場合は、軌道管理目標値は高速軌道検測車による測定で+6 mmから-4 mmとなる。",
"title": "軌間狂い"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "日本の私鉄路線において、運輸安全委員会が調査した事故のうち、2017年5月22日に発生したわたらせ渓谷鐵道脱線事故における検測車両(キヤE193系)の脱線事故を始めとして、西濃鉄道市橋線脱線事故(2016年10月6日発生・貨物列車)・紀州鉄道脱線事故(2017年1月22日発生・旅客列車)・熊本電鉄藤崎線脱線事故(2017年2月22日発生・旅客列車)の4件で同様の事故が発生したことを受けて、2018年6月28日に運輸安全委員会がこれらの事故は枕木やレール締結装置の不良(犬釘が浮いた状態になるなど)で「軌間拡大」が発生したことによると考えられると指摘している。その対応策として、コンクリート製などへの枕木の材質変更、脱線ガードや脱線防止レールの敷設が望ましく、軌道の定期検査や線路巡視による枕木やレール締結装置の適切な管理、軌道変位の状況に応じた適切な軌道整備の実施が必要としている。",
"title": "軌間狂い"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "鉄道車両に高速カメラを搭載させて、運行時に線路(路面)撮影する。撮影された映像をもとにして、軌間狂いを人工知能などで検出を行い、沿線の保守工事を行うことがなされている。",
"title": "軌間狂い"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "標準軌(国際標準軌、スティーヴンソン軌間)は、1,435 mm(4 ft 8.5 in)で、ヨーロッパ(一部を除く)、北アメリカ、東アジアの大陸部などで広く用いられている。ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道やリバプール・アンド・マンチェスター鉄道といった初期の鉄道で用いられたことがきっかけとなり、世界的に普及した。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "ただし1435 mm以外の軌間が主流となっている地域では、その軌間のことを「標準軌」と呼ぶことがある。たとえば日本においては1067 mmが圧倒的多数を占める。そのため、古い資料では「1435 mm=広軌、1067 mm=標準軌」と記されているケースもあり、注意が必要である。この場合、京王線、函館市電などが採用する1372 mmは広軌の扱いを受けることが多い。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "標準軌より広い軌間。「ブロードゲージ(Broad Gauge)」とも呼ばれる。19世紀半ばには広軌のほうが標準軌より優れているとの考えから、様々な広軌が実用化された。その後標準軌に改軌されたことで現存しないものも多いが、国や地域によってはそのまま地域における標準的な軌間となった。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "現代の本線鉄道で用いられている軌間で最大のものは1,676 mm (5 ft 6 in)である。特殊用途の鉄道では、巨大な積載物を移動する必要性などから広軌が採用される場合もある。インクラインやレール上を移動するクレーンなどでは、極端に広い軌間が用いられることもある。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "現代の普通鉄道において用いられている主な広軌は以下である。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "標準軌より狭い軌間。「ナローゲージ (Narrow Gauge)」とも呼ばれる。国際鉄道連合の分類では、1000 mmから1067 mmまでの軌間を広義のメーターゲージとも呼ぶ。1,000 mm未満の軌間は各地に分散しており、広範囲の鉄道網は形成していない。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "現代において用いられている主な狭軌は以下である。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "営業用の鉄道として認知されているもののうちで、最小の軌間はイギリスの Mull and West Highland Railway (1983年 - 2010年、2011年 5月 - 9月 )と Wells and Walsingham Light Railway の260 mm である。このほか 311 mm, 381 mm (15 in), 500 mm などの軌間も存在する。日本では法制上は鉄道とはされていないが、伊豆修善寺の「虹の郷」園内の虹の郷ロムニー鉄道が381 mm軌間である。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "三重県の桑名駅付近に、762 mmの三岐鉄道北勢線、1067 mmの関西本線、1435 mmの近鉄名古屋線と、異なる3種の軌間を渡る踏切がある。",
"title": "軌間の種類"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "ここまでが、実際の交通機関(輸送手段)として使われている(または過去に使われた)軌間である。これより狭いものはライブスチーム(イベントなどのミニSLなど)による庭園鉄道や、鉄道模型などで使われる。",
"title": "軌間の種類"
}
] | 軌間(きかん)は、鉄道の線路を構成する左右の軌条(レール)の間隔である。ゲージともいう。軌条には幅があるため、軌条頭部の内側の最短距離と規定される(詳しくは後述)。 軌間は鉄道の機能・能力に関わる重要な要素であり、また軌間の異なる鉄道の間では通常は直通運転は不可能である。世界で最も普及している軌間は1435 mmで、標準軌と呼ばれる。標準軌より広い軌間を広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。日本で多い狭軌は、在来線でよく使われる1067 mmである。軌間を変更することは改軌と呼ばれる。しかし、改軌は周辺のものに大きく影響があり費用も莫大なため、余程の理由がない限り行われない。 曲線部では、車輪のすべてが、曲線の中心を向くことができないのと、車輪のフランジが軌条に接触することなく走行できるようにするため、内側の軌条を曲心側に若干広げて、軌条の間隔を所定の軌間より広げて車輪を円滑に走行できるようにしており、この拡幅をスラック(拡度)と呼んでいる。曲線半径が600 m以下の場合において設けられるが、その設定幅は曲線半径、台車の固定軸距、軌間などの数値や実験値等から計算され、曲線半径のランクにより5 mm刻みに設定されており、大きな値をとってしまうと脱線の危険が生まれてしまうため、最大値で30 mmとしている。また、曲線半径が600 m以上においても2 mm以下のスラックが設けられる場合がある。 | {{Train topics}}
{{軌間}}
'''軌間'''(きかん)は、[[鉄道]]の[[線路 (鉄道)|線路]]を構成する左右の[[軌条]](レール)の間隔である。'''ゲージ'''({{Lang-en|Gauge}})ともいう。軌条には幅があるため、軌条頭部の内側の最短距離と規定される(詳しくは後述)。
軌間は鉄道の機能・能力に関わる重要な要素であり、また軌間の異なる鉄道の間では通常は直通運転は不可能である<ref name="Aoki2008_43-44"/>。世界で最も普及している軌間は1435 mm(4[[フィート]]<ref group="注釈">1フィートの長さは地域により異なった。以下では特に断らない限り[[イングランド]]や[[アメリカ合衆国]]のフィート(1フィート=12インチ=0.3048 m)を意味する。</ref>8 1/2[[インチ]])で、[[標準軌]]と呼ばれる。標準軌より広い軌間を[[広軌]]、狭いものを[[狭軌]]と呼ぶ。日本で多い狭軌は、在来線でよく使われる1067 mmである。軌間を変更することは[[改軌]]と呼ばれる。しかし、改軌は周辺のものに大きく影響があり費用も莫大なため、余程の理由がない限り行われない。
曲線部では、車輪のすべてが、曲線の中心を向くことができないのと、車輪の[[フランジ]]が軌条に接触することなく走行できるようにするため、内側の軌条を曲心側に若干広げて、軌条の間隔を所定の軌間より広げて車輪を円滑に走行できるようにしており、この拡幅を[[線形 (路線)#その他|スラック]](拡度)と呼んでいる。曲線半径が600 m以下の場合において設けられるが、その設定幅は曲線半径、台車の固定軸距、軌間などの数値や実験値等から計算され、曲線半径のランクにより5 mm刻みに設定されており、大きな値をとってしまうと脱線の危険が生まれてしまうため、最大値で30 mmとしている。また、曲線半径が600 m以上においても2 mm以下のスラックが設けられる場合がある<ref name="AMM_26"/>。
== 定義 ==
{{Wide image|Gauge EN.svg|300px|軌間}}
軌間の正確な定義には、レールの頭部上面から一定の長さだけ下がった位置での左右のレール内側面の距離とするものと、上面から一定の範囲内でのレール内面の最短距離とするものがあり、国や地域などによって若干の差異がある<ref name="MW_5"/>。
* [[日本]] - レール上面から鉛直方向に16 mm以内の最短内面距離<ref name="Aoki2008_43-44"/>。
* [[アメリカ合衆国]](アメリカ鉄道技術協会) - レール上面から15.875 mm(5/8インチ)下がった位置での内面距離<ref name="MW_5"/>。
* [[スペイン]] - レール上面から14.5 mm(±5 mm)下の位置での内面距離<ref name="Alvarez_16"/>。
[[19世紀]]後半の[[フランス]]と[[イタリア]]では、レール中心の間隔を基準として定めていた。この場合軌間はレールの幅によって変わってしまうことになる<ref name="Puffert_172-173"/><ref name="Puffert_175"/>。
== 歴史 ==
=== 標準軌の起源とゲージ戦争 ===
[[File:Killingworth-locomotive.jpg|thumb|キリングワースの機関車]]
現代において[[標準軌]]とされる4フィート8.5インチ軌間の起源は、イングランド北東部の{{仮リンク|キリングワース|en|Killingworth}}炭鉱の馬車鉄道で用いられていた4フィート8インチ軌間である<ref name="Aoki2008_43-44"/>。なおキリングワースの車輪間隔の起源をさらに[[古代ローマ]]の馬車にまで遡ることができるとする説<ref>{{Citation|和書|title=鉄道の地理学|author=[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]|publisher=[[WAVE出版]]|year=2008
|page=44|isbn=978-4-87290-376-8|ref=}}</ref>もあったが後に否定されている<ref>{{cite journal|title=Standard gauge originated with a roman chariot |url=https://d18je8rbmgt7gi.cloudfront.net/bbs/data/tprr6/img/37_0a6df23371.png |publisher= |journal=[[トレインズ]] |page=25 |date=2009年7月号 }}</ref>。[[1814年]]、[[ジョージ・スティーヴンソン]]がこの炭鉱鉄道のために[[蒸気機関車]]を製造した<ref name="Oka_5-8"/>。スティーブンソンはその後他の炭鉱向けにも機関車を製造し、[[1823年]]には[[ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー]]を設立したが、ここで製造された機関車も同じ軌間で設計されていた。スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えていた<ref name="Oka_3-5"/>。[[1825年]]に[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]で公共用の鉄道として初めて蒸気機関車が使われ、[[1830年]]には世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道である[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]が開業した。これらの鉄道でもスティーブンソンの機関車が用いられた<ref name="Oka_5-8"/>。ただし、軌間はこの途中のいずれかの段階で半インチ拡大されて4フィート8.5インチとなっている<ref name="Oka_5-8"/>。
その後もスティーヴンソンらの関わった鉄道では4フィート8 1/2インチ軌間が採用されたが、蒸気機関車を用いた鉄道で馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も多かった。代表的な例が[[イザムバード・キングダム・ブルネル]]であり、[[グレート・ウェスタン鉄道]]において7フィート1/4インチ(2140 mm)という広軌を採用した<ref name="Aoki2008_45-47"/>。ブルネルは、グレート・ウェスタン鉄道がスティーヴンソンの4フィート8 1/2インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていた<ref name="Puffert_63"/>。ブルネルほど極端ではないにしろ、1830年代から40年代には5フィートから6フィート程度の様々な広軌鉄道が現れており、イングランドでもグレート・ウェスタン鉄道に追従して1836年にイースタンカウンティー鉄道が7フィート1/4インチ軌間にしようと試みたが技師長のブレイスウェスト<ref group="注釈">[[レインヒル・トライアル]]に出場したノベリティ号製作者ジョン・ブレイスウェイト。</ref>によって5フィート軌間を勧められどちらとも違う軌間を始めた(後に標準軌に改軌)<ref name="Puffert_53"/><ref name="広軌をどう見たか">[[#齋藤2007|(齋藤2007)p.72-73「第5章 シングルドライバー」]]</ref>。
[[File:Break of gauge GWR Gloucester.jpg|thumb|グロスターでの乗り換えを風刺した絵]]
ただし、こうした異なる軌間が路線を拡大した結果[[1844年]]に[[グロスター]]において4フィート8 1/2インチ軌間と7フィート1/4インチ軌間の鉄道ははじめて接し、これにより軌間が異なると直通運転ができないという弊害が顕在化した<ref name="Oka_8-9"/>。軌間をどちらに統一すべきかは「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれる激しい論争となった。1845年、王立委員会は広軌の技術的な優位は認めつつ、その差はわずかであり<ref name="Aoki2008_45-47"/>、路線長の長い4フィート8 1/2インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告した。翌[[1846年]]に制定された軌間法により、[[グレートブリテン島]]の新規路線は原則として4フィート8 1/2インチの軌間で建設されることになった<ref name="Aoki2008_45-47"/>。
この規定はスコットランド(5フィート6インチ軌間の「アブローズ~フォーファー」の路線が先行して施設されていた)にも適用され、安全上などの理由で広軌を求める声もあったが陸続きである以上4フィート8.5インチ軌間を受け入れることになった。ただし、[[アイルランド]]の鉄道は、グレートブリテン島とは海で隔てられているため共通の軌間を用いる必要はないとして、5フィート3インチ(1600 mm)が標準とされた<ref name="Oka_48-49"/>。(時系列的に少々戻るがアイルランドは1834年に軌間4フィート8 1/2インチで最初の鉄道が施設、その後ダブリンとベルファスト間で本格的に施設する際もっと広軌にするべきだと6フィート2インチか5フィート'''2インチ'''かで揉めて最終的に5フィート3インチで妥協され、1846年の軌間法で追認された<ref name="広軌をどう見たか"/>。)
=== 標準軌と広軌の普及 ===
[[大陸ヨーロッパ]]ではイギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定した例が多い<ref name="Puffert_171"/>。このとき最も多く選ばれたのはスティーヴンソンの1435 mm軌間であるが、[[オランダ]]、[[バーデン大公国]]、[[ロシア帝国]]、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]の各国ではそれぞれ広軌(5~6フィート前後)が採用された。これは広軌のほうが技術的には優れているという見解に基づくものであった。オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて1435 mmに改軌したが、ロシアと[[イベリア半島]]の軌間はそのまま現代に至っている<ref name="Puffert_176-182"/><ref name="広軌をどう見たか"/>。
[[アメリカ合衆国]]では、[[1830年代]]から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業した。これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、4フィート8 1/2インチの他にも様々な広軌が採用された。これが1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチ、南部では5フィート、[[ニュージャージー州]]と[[オハイオ州]]では4フィート10インチのように地域的に統合され、さらに1863年に[[大陸横断鉄道]]の軌間が4フィート8 1/2インチとされたことがきっかけとなって、全国的に4フィート8 1/2インチに統一された<ref name="Puffert_93-96"/>。
[[カナダ]]では、[[1851年]]に5フィート6インチを標準とする法律が制定された<ref name="Puffert_122"/>が、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8 1/2インチに改軌された<ref name="Hayashi_449"/><ref name="Puffert_140-142"/>。
[[英領インド]]では、最初のカルカッタ周辺は4フィート8 1/2インチ軌間で始まったが、1851年以降[[ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)|ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ]][[インドの総督|総督]]により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8 1/2インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8 1/2インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった<ref name="Tada_519-520"/><ref name="Puffert_193-194"/><ref name="広軌をどう見たか"/>。
[[オーストラリア]]では後の各州に相当する各植民地が独自に鉄道建設を行なった結果、最初(1850年)のサウスオーストラリア州は4フィート8 1/2インチ、次(1852年)にニューサウスウェールズ州はアイルランド式の5フィート3インチでビクトリア州と前述のサウスオーストラリア州もこれに合わせ改軌。しかしニューサウスウェールズの技師長がアイルランド人からスコットランド人に変わると今度は4フィート8 1/2インチになる(ビクトリア・サウスオーストラリアは変更せず)など混乱が続き、1870年代の狭軌ブームの時代もあって1067 mmの州も加わるなど、州ごとにゲージが分断されたまま発展が続いて現在に至っている<ref name="Puffert_203-205"/><ref name="広軌をどう見たか"/>。
[[ラテンアメリカ]]各地の鉄道の軌間は建設の始まった時期により異なり、1837年から1851年までの6例ではすべて1435 mm軌間、1854年から1863年までの6例はすべて広軌である。1865年に[[ウルグアイ]]が1435 mm軌間を採用したのを挟んで、以後はもっぱら狭軌となる<ref name="Puffert_215-216"/>。
=== 狭軌鉄道の流行 ===
[[File:Ffestiniog-Railway-07419u.jpg|thumb|フェステニオグ鉄道(1900年頃)]]
馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、[[1836年]]開業の[[ウェールズ]]の[[フェステニオグ鉄道]]の1フィート11 1/2インチ(597 mm)がある<ref name="Aoki2002_36"/>。ただし当時はこうした狭軌鉄道では[[蒸気機関車]]を用いることはできなかった。
[[1860年]]ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になった<ref name="Puffert_60-61"/>。[[ノルウェー]]の[[カール・アブラハム・ピル]]は、同国西部での鉄道の建設にあたり、3フィート6インチ(1067 mm)軌間がコストと能力のバランスのとれた理想的な軌間であるとした<ref name="Saito_33-34"/>。ピルはイギリスで技術教育を受けており、その見解は{{仮リンク|チャールズ・フォックス (技術者)|label=チャールズ・フォックス|en|Charles Fox (civil and railway engineer)}}をはじめとするイギリスの技術者たちにも支持された<ref name="Aoki2002_36"/>。さらに[[1865年]]ごろからは、フェステニオグ鉄道の技術者{{仮リンク|チャールズ・イーストン・スプーナー|en|Charles Easton Spooner}}やイギリス商務省のヘンリー・タイラーらによって、3フィート(914 mm)や2フィート6インチ(762 mm)の[[軽便鉄道]]のアイデアが提唱された。スプーナーらは、従来の標準軌や広軌の鉄道は無駄が多く、狭軌の軽便鉄道こそが将来の鉄道にふさわしいと主張した<ref name="Puffert_85-87"/>。
1860年代後半から1880年代にかけては、フォックスやその影響を受けたイギリス人を中心とする技術者の指導により、[[アジア]]、[[アフリカ]]、[[ラテンアメリカ]]などの鉄道未開業地域において1067 mmや1000 mm、914 mmなどの軌間での鉄道建設が相次いだ<ref name="Puffert_16-17"/>。1872年に開業した[[日本]]の鉄道が1067 mm軌間を採用したのもその一例である<ref name="Aoki2002_37"/>。また[[ケープ植民地]]([[南アフリカ]])や[[ニュージーランド]]では、一旦標準軌での鉄道建設が始まっていたものが、狭軌に切り替えられている<ref name="Puffert_212"/><ref name="Puffert_224-225"/>。[[タイ王国|タイ]]や[[インドネシア]]では、先行していた標準軌鉄道とは別に狭軌の鉄道が建設され、その後長い時間をかけて狭軌に統一された<ref name="Kakizaki_557-559"/><ref name="Puffert_233-235"/>。
インドとオーストラリアでは、すでに広軌や標準軌の鉄道網がある程度発達していたにもかかわらず、狭軌の鉄道も並行して建設されるようになった<ref name="Puffert_195"/><ref name="Puffert_205-207"/>。このため複数の軌間が混在する状況が生じ、21世紀に至っても完全には解消されていない<ref name="Tada_525-526"/><ref name="Saito_686-687"/>。
すでに標準軌の普及していたヨーロッパや北アメリカでも、標準軌路線を作るほどの需要のない地域での[[軽便鉄道]]の規格として狭軌は広く用いられた<ref name="Puffert_16-17"/>。
[[File:D&RG Narrow Gauge Trestle.jpg|thumb|デンバー・アンド・リオグランデ鉄道の狭軌車両]]
アメリカ合衆国では、1871年に3フィート軌間の[[デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道|デンバー・アンド・リオグランデ鉄道]]の最初の区間が開通した<ref name="Puffert_154"/>。1872年には第1回全米狭軌鉄道会議(National Narrow-Gauge Railway Convention)が開催され、3フィート軌間がアメリカにおける狭軌の統一規格として合意されるとともに、標準軌鉄道に代わって狭軌の幹線鉄道網を築くという野心的な計画も示された<ref name="Puffert_156-157"/>。
しかし、狭軌鉄道がある程度普及してくると、狭軌は従来主張されていたほど経済的ではないことが明らかとなった。オーストラリア・[[クイーンズランド州|クイーンズランド植民地]]の鉄道の建設費は当初予算を40 %も超過した<ref name="Puffert_205-207"/>。またアメリカ合衆国の狭軌鉄道会社でも、[[1880年代]]には標準軌鉄道との積み換えを避けるための改軌が相次いだ<ref name="Puffert_164-165"/>。アメリカ合衆国の{{仮リンク|アーサー・ウェリントン (技術者)|en|Arthur M. Wellington|label=アーサー・M・ウェリントン}}は[[1887年]]の著書で、狭軌鉄道の利点とされていた建設費の安さや曲線通過性能は、実際には軌間にほとんど依存せず、ランニングコストはかえって高くなってしまうと述べた。狭軌を使う意味のあるのは、車体サイズなどを小さくした低規格の軽便鉄道の場合に限られる。しかしウェリントンやその支持者たちの主張では、建設段階では需要の少ない路線であっても、狭軌ではなく標準軌で建設したほうが、将来の改良で本線鉄道網の一部とすることが容易であるため好ましいとしている<ref name="Puffert_25-27"/>。
アメリカ合衆国やイギリスではこの主張が比較的早く受け入れられたが、大陸ヨーロッパにおいては20世紀前半においても狭軌の軽便鉄道の建設が続いた<ref name="Puffert_25-27"/>。しかし[[自動車]]が普及してくると、速度や輸送力の劣る軽便鉄道は競争力を失い、多くが廃止に追い込まれた<ref name="Aoki1996_37"/>。
=== 20世紀以降の傾向 ===
[[20世紀]]に入ってからは、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、軌間の優劣に関する議論は低調になった<ref name="Puffert_30"/>。20世紀初めごろには[[日本]]([[日本の改軌論争]])や[[南アフリカ]]、[[オーストラリア]]、[[アメリカ合衆国]]などで、狭軌鉄道を標準軌に<ref group="注釈">日本や南アフリカ、オーストラリアなど</ref>、あるいは標準軌を広軌に<ref group="注釈">アメリカ合衆国やカナダなど</ref>[[改軌]]すべきであるという議論が起こったが、オーストラリアのいくつかの狭軌鉄道が標準軌に改軌された例を除いて、いずれも実現には至っていない<ref name="Puffert_31"/>。[[ナチス・ドイツ]]では軌間3000 mmの超広軌鉄道「[[ブライトシュプールバーン]]」が計画されていた<ref name="Puffert_182"/>。
20世紀後半以降に新たに建設された鉄道では、標準軌が採用される例が多い。日本の[[新幹線]]や多数の製鉄所構内鉄道が、狭軌の[[在来線]]網とは独立した形で標準軌を選んだのがその最たるものである。またアフリカ各国やブラジル、オーストラリアでは、従来の狭軌鉄道とは別に、鉱山用や通勤用に標準軌で鉄道を新設した例がある。逆にスペインなどは在来線は広軌だが、高速列車の[[AVE]]はフランスなどとの接続を考えて、また通勤用の鉄道は車両限界をなるべく小さくして建設費用や車両新製費用を抑えるために、いずれも狭い標準軌で施設されている。こうした選択は、既に存在する技術を活用でき、車両や資材の調達もしやすいことによるものである<ref name="Puffert_32"/>。
== 軌間の広狭による性質 ==
一般的に、軌間が広いほど輸送力や最高速度など鉄道の能力は高まり、逆に狭いほど建設費は安くなるとされる。ただしこれらには様々な要因があり、単純に軌間のみで決まるわけではない<ref name="Aoki2008_43-44"/>。また時代によりその評価は変わっており、論拠の一部は特定の時代の技術に依存したものである<ref name="Puffert_19"/>。
=== 安定性 ===
[[File:DalyCitysta.jpg|thumb|BART]]
[[鉄道車両]]には鉛直方向の[[重力]]のほか、横風や走行時の車両の動揺、曲線通過時の[[遠心力]]などにより横方向の力がかかっている。車両の[[重心]]からこれらの力の[[合力]]方向にひいた直線が線路面と交わる位置が、片方のレールの外側になると、車両は[[転覆]]してしまう。また、軌道の中心から軌間の6分の1以上ずれると、[[脱線]]の確率が高まることが知られている<ref name="Puffert_21-22"/>。
このため、重心の高さが同じであれば広軌のほうが横方向の力に対してより安全であるといえる。特に列車の速度が速くなるほどこうした力の影響は大きくなるため、高速運転には軌間の広いほうが適している。狭軌の場合は、横方向の力の発生を防ぐためより精度の高い[[保線]]作業が必要となる。また同程度の安定性を求めるのであれば、軌間の広いほうが重心を高くすることができ、大型の車両を用いることができる<ref name="Puffert_22-23"/>。
[[1850年代]]に[[インド]]の鉄道で広軌(1676 mm)が採用された理由のひとつとして、軌間が広いほうが[[サイクロン]]などの強風に対して安全であるということが挙げられている<ref name="Wolmar_88"/><ref name="広軌をどう見たか"/>。また[[1973年]]に[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]]の[[サンフランシスコ・ベイエリア]]で開業した[[バート (鉄道)|BART]]でも、湾岸地域での横風に対する安定性を考慮して1676 mm軌間とコンクリート道床の組み合わせを採用した<ref name="Oka_53-54"/>。
=== 機関車の性能 ===
[[File:GWR broad gauge locomotives.jpg|thumb|グレート・ウェスタン鉄道の広軌機関車]]
[[蒸気機関車]]の用いられていた時代には、軌間の広いほうが機関車の性能が高いとされていた。これは[[1830年代]]から20世紀前半に至るまで、広軌の優位性を主張する最大の根拠であった<ref name="Puffert_20-21"/>。
1830年代から40年代初頭まで、蒸気機関車の[[シリンダー]]は車輪の内側に取り付けられていた。これは、シリンダーを外側にすると蒸気が空気で冷やされて効率が落ちると考えられたこと、また機関車の車体に左右交互に力が加わるため、当時の技術ではこれに耐えられるような[[台枠]]が作れなかったことによるものである。このため、シリンダーの大きさは軌間に大きな影響を受けた。加えて、この時代の[[弁装置]]は大きく、頻繁な保守作業を必要とした。これも車輪の内側におかれたため、狭い軌間はメンテナンスが困難であるとして嫌われることになった<ref name="Puffert_20-21"/>。これ以外にもシリンダーから動輪の軸に力を伝えるクランク部分が広軌の方が広くとれるので摩耗や強度的に有利orクランクが同じ幅ならより外側にずらすことでボイラー下部と干渉しにくくなり、ボイラー高さを抑えられたり太いボイラーが使えるというメリットもあった<ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.65]]</ref>。
ただし、1840年代半ば以降になると、車体の製造技術の向上などにより外側シリンダーの蒸気機関車が製造可能になり、シリンダーの大きさが軌間に制約されることはなくなった<ref name="Puffert_20-21"/>。むしろ外側シリンダーでは車両限界や特にボイラーの太さが同一ならば広軌の方がシリンダーをより外側につけるため、シリンダーの大きさを妨げる原因になり<ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.307]]</ref>、[[イギリス]]の軌間問題に関する王立調査委員会は、[[1845年]]の報告で7フィート軌間のほうが4フィート8 1/2インチ軌間より機関車の性能が優れていることは認めつつ、その差は僅かであると指摘している<ref name="Aoki2008_45-47"/>。
一方で、軌間の広いほうが高い重心が許容されるため、{{仮リンク|火室 (蒸気機関)|en|Firebox (steam engine)|label=火室}}や[[ボイラー]]を大型化し、出力を向上させることができる<ref name="Puffert_20-21"/>。19世紀半ばまでは低い[[蒸気圧]]しか使えなかったため、この点は大きな差にはならなかった。しかし使用蒸気圧の増した19世紀末から20世紀であれば、軌間と蒸気機関車の性能にはより強い関係があった<ref name="Aoki2008_45-47"/>。[[20世紀]]初頭の段階では、狭軌の蒸気機関車は標準軌の半分程度の性能しか出せないとされていた<ref name="Puffert_20-21"/>。
[[1912年]]に[[日本]]で行われた実験では、国鉄の2120形と呼ばれたタンク機関車のグループのうち[[国鉄2100形蒸気機関車#広軌化試験改造車|2323号機]]を広軌化(1067 mm→1435 mm)して、左右車輪の間に空間ができたのを利用して火室の幅を広げた所、牽引能力が上昇して1067 mm時には10 ‰勾配上で250 tの列車を引けたものが1435 mm時には350 tまで牽引可能になった<ref name="Fukuda_104"/><ref>[[#朝倉1979/11|(朝倉1979/11)p.103]]</ref>。1920年代の[[アメリカ合衆国]]では、標準軌でも不十分であり、6フィート(1829 mm)などの広軌に改軌したほうがより高性能の機関車を設計できるという主張があった<ref name="Puffert_20-21"/><ref group="注釈">6フィート(1829 mm)案以外にも、5フィート6インチ(1676 mm)や7フィート0.25インチ(2140 mm)など各種の意見があった。</ref>。
ただし、蒸気機関車でも[[従輪]]で火室を受ければ軌間を超える幅の広い火室を重心を上げずに採用できるし、ボイラーも[[ガーラット式機関車]]のようにボイラーの前後に走り装置をつけて支える形式にすれば、動輪に邪魔されずナローでも太いボイラーを使う<ref group="注釈">例として東アフリカ鉄道[[:en:EAR 59 class|59形]]は軌間1000 mmに対しボイラーの最大直径が2284 mmもある、動輪径も1372 mmで貨物用機関車としては決して小さくはない。</ref>ことは可能である。
一方、[[電動機]](モーター)を動力源とする電車や電気機関車(電気式動力伝達の内燃機関動力車も含む)の場合は、通常動輪のすぐ横でモーターを軸と平行に置くので車輪直径で上下方向、軌間で左右方向の大きさに制約が生じる<ref group="注釈">この比率は軌間に正比例せず、1435 mmと1067 mmでは軌間は約4:3ぐらいだがモーターの幅スペースは3:2ぐらいになる。</ref>。この影響は電車より電気機関車、電気機関車より電気式動力伝達の内燃機関動力車の方が大きい。<br>このためモーターの大型化・車輪直径を抑える・狭軌の3つはすべて満たすことが難しくなり、日本の例では明治の末に国鉄が山手線で初めて電車を運行したころはモーターが50馬力だったので車輪径が客車や貨車と同じ大きさでもさほど問題はなかったが、大正3年に京浜間に100馬力の大型モーターの電車を走らせることになった際、このサイズの車輪ではモーターの下端とレール上面の隙間が構造規定を下回ってしまうため車輪径を大きくして910 mmの車輪を採用し、以後これが電車の標準になったことがある<ref>[[#朝倉1979/6|(朝倉1979/6)p.81]]</ref>。私鉄でも箱根登山鉄道は急勾配を理由に標準軌を採用している<ref group="注釈">詳しくは[[箱根登山鉄道鉄道線#小田急が箱根湯本へ乗り入れ|箱根登山鉄道鉄道線]]参照。</ref>。
<br>逆に路面電車など床高さを抑えるため車輪が小さくならざるを得ない車両では、狭軌になるとモーターを収める空間に余裕がなくなるため、モーターの位置を変え[[直角カルダン駆動方式]]や[[車体装架カルダン駆動方式]]などを採用したり、逆に路面電車に多い急カーブや狭小建築限界に不利とわかっていても軌道施設時に標準軌を選択する場合がある。
なお、[[内燃機関]]を機械式もしくは液体式で動力伝達をする車両の場合は、元々エンジンが車輪の間と無関係の位置にあるので軌間と出力の間に直接的な関係はほとんどない。但し内燃機関は電動機に比べて小型化が難しく、重心が高くなりがちであり、この点が蒸気機関車に似ている。
=== 車両の搭載能力 ===
[[貨車]]に貨物を搭載する場合の効率については、広軌のほうが有利であるという主張と狭軌のほうが有利であるという主張の双方が存在する<ref name="Puffert_24-25"/>。
広軌を有利とするのは、広軌のほうが重心を高くすることができるため、車体を横方向のみならず垂直方向にも大型化することができるためである。このとき(車体長を不変とした場合)床や壁の面積は軌間の1乗のオーダーで増加するが、容積は2乗のオーダーで増えるため、より効率よく貨物を積むことができる<ref name="Puffert_24-25"/>。
一方狭軌を有利とする根拠は、軌間が広いほど[[鉄道車両の台車|台車]]などが大きくなってしまい、運ぶべき貨物の重量に対して貨車そのものの重量が大きく効率が悪いことによる<ref name="Puffert_24-25"/>。
結論を言えば、これは貨物の[[比重]]と輸送量に影響される。農産物など比重の小さい貨物を大量に運ぶときには前者の影響が大きく、広軌のほうが有利である。一方[[鉱石]]など比重の大きな貨物を少量運ぶときは後者の影響が大きい。[[鉱山]]などの専用鉄道で狭軌が採用される例があるのはこのためである<ref name="Puffert_24-25"/>。
ただし、車体を大きくするには[[車両限界]]や[[建築限界]](特に[[橋梁]]や[[トンネル]]の設計)、レールや路盤の強度なども関係してくるため、単純に軌間が広ければよいというわけではない<ref name="Aoki2008_44-45"/>。1676 mmの広軌を採用しているインドの鉄道でも、欧米の標準軌鉄道と比べて車両限界は僅かに大きい程度である<ref name="Aoki2008_50"/>。
これについては日本の鉄道院初代総裁である[[後藤新平]]も広軌化検討時に「ドイツ鉄道で現在(注:1909年)使用されている有蓋貨車は狭軌でこれは採用できる、したがって貨車においては広狭関係ない。アメリカの貨車は最も大きいが、南ア(注:南アフリカ共和国の事)のボギー貨車はこれに劣らないので貨車についてはボギーとすれば広狭同等と考える。」、「元九州鉄道の貴賓車([[九州鉄道ブリル客車]]のこと)はイギリスよりも大きく、プロシャ(ドイツ)とほぼ同じである、したがって狭軌でも建築限界を広げれば「[[国際寝台車会社|萬国寝台会社]]」サイズの客車を運転できる。」としている<ref>齋藤晃「幻の広軌化計画に登場する蒸気機関車」『幻の国鉄車両』岡田秀樹 企画、JTBパブリッシング、2007年、ISBN 978-4-533-06906-2、P25-27。</ref>。
=== 曲線の通過 ===
曲線部では、外側のレールのほうが内側のレールより長くなるが、同一の曲線半径であれば軌間が狭いほどその差は小さい。このため、狭軌のほうが小さな半径の曲線を作りやすいとされている<ref name="Handa_83-88"/>。特に[[山岳路線]]では、地形に沿うように線路を敷くことができるため、[[トンネル]]や[[橋梁]]などの高価な施設を最小限に抑えることができる。広軌論者の[[イザムバード・キングダム・ブルネル]]も、広軌の欠点としてこの点を認めており、[[1860年代]]以降の狭軌鉄道の流行においてもその最大のメリットとされていた<ref name="Puffert_27-29"/>。広軌を用いている[[スペイン]]では、曲線通過のため左右の車輪が独立して回転する[[タルゴ]]車両が開発された<ref name="Haraguchi_148-149"/>。
鉄道では車輪に[[踏面勾配]]を持たせることで、曲線部では外側の車輪とレールの接触部の半径が内側よりも大きくなり、外側の車輪の走行距離が内側よりも長くなって自然に曲がることができる。しかし内外の走行距離の差が踏面勾配によって吸収できないほど大きい場合には、[[フランジ]]がレール側面と接触し、内外いずれかの車輪がレール上を滑ることになり、大きな[[摩擦]]を生じることになる<ref name="Handa_83-88"/>。
一方で、鉄道車両の曲線通過能力において、軌間の違いは本質的ではないとする見解もある<ref name="Puffert_27-29"/>。
複数の車軸をもつ鉄道車両では、曲線部では車輪の向きとレールの向きが異なってしまう。この角度をアタック角といい、これが大きいほど走行抵抗が大きく、[[脱線]]の危険も高まる。アタック角は車軸の間隔に依存し、軌間とは関係ない。転向可能な[[ボギー台車]]を用いることでアタック角を小さくすることができる<ref group="注釈">通常は一つの台車に複数の車軸があり、車軸の向きは台車に対して固定されているため、アタック角が0になるわけではない。これを減らすために[[鉄道車両の台車#輪軸操舵機構(操舵台車)|輪軸操舵機構]]が開発されている。</ref>。実際、19世紀後半のアメリカの標準軌鉄道では、[[ボギー台車]]を用いることで、同時代の[[二軸車]]主体のヨーロッパの狭軌(軽便)鉄道より小さな曲線半径を実現していた<ref name="Puffert_27-29"/>。
ボギー台車を用いたとしても、今度は車両の進行方向と台車の向きが異なるため、台車を転向させるための横圧が加わる。これは台車の中心間隔に依存する。アーサー・M・ウェリントンは[[1887年]]の著書において、車体各部の寸法がそのままで軌間のみを狭くしても、こうした曲線通過時の抵抗にはほとんど影響がなく、台車中心間隔を同時に小さくすることではじめて抵抗を減らす効果があると論じた。彼はさらに、軌間の広いほうが高重心が許容されるため、機関車や貨車の性能は同程度のまま車軸や台車の間隔を縮めることができ、曲線通過に適しているとすら述べている。ウェリントンの見解はなかなか受け入れられなかったが、例えば[[ペルー]]においてはこの説に基づき山岳路線を標準軌で建設している<ref name="Puffert_27-29"/>。
=== 下部構造 ===
レールを支える[[枕木]]の長さや、その下の[[バラスト軌道|バラスト]]の量は、軌間の大きさに直接影響される。狭軌の鉄道ほど軌道に専有される幅は狭くなる。19世紀末から20世紀前半のヨーロッパの[[軽便鉄道]]は、多くが既存の道路の端を使って敷設されたため、この点が狭軌を使用する大きな利点となった。一方、軌道を支える路盤の強度や[[橋梁]]の設計は、走らせる列車の重量([[軸重]])や速度によって決定され、軌間にはほとんど影響されない<ref name="Puffert_25-27"/>。
[[2001年]]に[[南アフリカ]]で[[ハウトレイン]]建設の際に行なわれた試算では、1 kmあたりの建設費は標準軌(1435 mm)の場合180万[[ランド (通貨)|ランド]]であるのに対し、ケープ軌間(1065 mm)であれば160万ランドと見積もられた。この差は枕木とバラストによるものであり、事業全体のコストに比べればそれほど重要ではないと評価された<ref name="Gau_1"/>。
なお、実際に2140 mmもの広軌を使っていたイギリスのグレート・ウェスタン鉄道では上記の問題から枕木を倹約するため、通常のレールのように枕木を並行に無数に並べ、その上に直角にレール2本を置くのではなく「レールに沿うように切れ目なく枕木を敷いて(つまり鉄のレールの下に木のレールがあるような外見)重量を分散させ、その枕木を約10フィートおきに横木で結び、ずれないように固定する。」という独特の敷き方を行っていた<ref>高畠潔『続 イギリスの鉄道の話』株式会社成山堂書店、2005年、ISBN 4425961013、P98-100</ref>。
== 軌間と直通運転 ==
=== 直通の可否 ===
一般に鉄道車両は特定の軌間に合わせて製造されている。車輪の内側には[[フランジ]]があるため、両側の車輪のフランジの間隔より狭い軌間の線路に乗り入れることは不可能である。また軌間が大きすぎる場合にも[[脱線]]してしまう<ref name="Oka_2_3"/>。
しかし、車輪にもレールにもある程度の幅があるため、軌間の1 %程度の差異であれば直通運転にはほとんど支障がない。フィート・インチから[[メートル法]]へ単位系の切り替えの際の考え方の違いなどで、1067 mmと1065 mm、1524 mmと1520 mmのような数[[ミリメートル]]異なる軌間が存在するが、これらは実用上は同一軌間とみなしうる<ref name="Oka_11"/>。[[19世紀]]の[[アメリカ合衆国]]では、4フィート8.5インチ(1435 mm)軌間用の車両がそのまま4フィート10インチ(1475 mm)軌間の鉄道に乗り入れていた例もある。この場合、脱線の危険が増すものの、当時の安全水準からはそれほど問題とはされなかった<ref name="Oka_11"/>。
=== 故意の異軌間採用 ===
==== 軍事的理由 ====
[[ロシア帝国]]と[[スペイン]]の鉄道がヨーロッパの他地域と異なり[[広軌]]を選択した理由として、[[ナポレオン戦争]]の記憶から他国に侵略された場合に鉄道を利用されることを恐れたためと説明されることがある。しかし、両国が軍事的理由で軌間を選んだとする記録は存在しない。両国とも、鉄道が開業したのは1830年代から40年代の広軌優位論が盛んであった時代であり、軌間を検討した技術者は4フィート8 1/2インチよりも広い軌間のほうが優れていると主張した。また、将来他国の4フィート8 1/2インチ軌間の鉄道と接続される可能性については軽視している<ref name="Puffert_179-181"/><ref name="Puffert_181-182"/><ref name="Alvarez_23"/>。
ロシアが侵略に備えて異軌間を選んだとする説の初出は、[[1866年]]にイギリスの[[タイムズ]]紙に掲載された特派員報告<ref group="注釈">しかもこの報告では、ロシアの軌間は他国より狭いとしている。</ref>で、伝聞の形で伝えている。また、ロシア交通省は1841年の報告書で、鉄道が敵に利用される可能性について、軍が退却する時に線路を破壊すればよいと記しているが、軌間の違いには言及していない<ref name="Puffert_179-181"/>。
また、他国の侵入防止目的説の最大の問題点としてこれらの国が広軌を採用している点があり、軌間は狭める方が楽<ref group="注釈">犬釘を外してレールを中央に寄せればよい、逆に広軌化は枕木や道床が足りなくなるケースがある。</ref>であり、実際に日本が日露戦争中に[[満洲]]にあった5フィート軌間のロシアの鉄道(後の[[南満洲鉄道|満鉄]]など)を改軌して3フィート6インチにしてしばらく使用していたケースがあるので、仮想敵国より軌間を狭くしないとこの目的には使用できない<ref name="広軌をどう見たか"/>。
スペインにおいては、[[1856年]]に[[フランス]]国境近くの鉄道にフランス人が出資しようとしているのが国防上問題視された際に、経営者が軌間が違うため侵略に使われることはないと回答したのがおそらく初である<ref name="Puffert_181-182"/>。
また、隣国と異なる軌間を用いることは、敵に攻められた場合には有利でも、逆に攻め込む場合には不利になる。実際ロシアは[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]]の際[[ルーマニア公国]]を経由して[[オスマン帝国]]に攻め込んだが、ルーマニアの鉄道は標準軌だったため、国境で貨物を積み替える必要が生じ兵站上の大きな問題となった<ref name="Wol_5"/>。[[第一次世界大戦]]の序盤においても、ドイツ領[[東プロイセン]]に侵攻してからは鉄道を使うことができなかった。これが[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]の敗因の一つとなった<ref name="Wol_8"/>。
なお、[[プロイセン王国]]においては、フランスや[[ベルギー]]と同じ軌間を使うことについて、一部の高官が侵略に用いられる可能性があると反対したが、退けられている<ref name="Puffert_173-174"/>。
==== その他 ====
鉄道会社の経営上の理由から、あえて他鉄道と異なる軌間を採用したと考えられる例は存在する。
[[1841年]]に開業した[[アメリカ合衆国]]のニューヨーク・アンド・エリー鉄道(後の[[エリー鉄道]])は、アメリカ合衆国北東部で一般的であった4フィート8.5インチ軌間ではなく、6フィート軌間を採用した。これはエリエイザー・ロード社長の意向によるところが大きい。ロードはニューヨーク・アンド・エリー鉄道の設立にあたって、顧客が他の鉄道に逸走することのないように、同鉄道を他の鉄道と接続させないとする免許を得ていた。しかし免許条件は将来変更される可能性があるが、軌間は容易には変更できないとして、他鉄道と異なる軌間を採用した。もっとも、1845年のロード社長の退任後は、軌間の違いはむしろ経営上不利であるとして、しばしば株主から批判を受けている<ref name="Puffert_113-114"/>。
また、[[1853年]]に開業したアメリカ合衆国[[メイン州]]の[[ポートランド (メイン州)|ポートランド]]と[[カナダ]]の[[モントリオール]]を結ぶ鉄道<ref group="注釈">アメリカ側がアトランティック・アンド・セントローレンス鉄道(Atlantic and St. Lawrence Railroad)、カナダ側がセントローレンス・アンド・アトランティック鉄道([[:en:St. Lawrence and Atlantic Railroad|St. Lawrence and Atlantic Railroad]])。後の{{仮リンク|グランド・トランク鉄道|en|Grand Trunk Railway}}の一部。</ref>は、5フィート6インチ軌間を選択した。その理由の一つが、ポートランド側の出資者の意向によるものである。ポートランド港は[[ボストン]]港と競合関係にあるため、この鉄道を利用したカナダからの貨物がボストンに奪われないように、ボストン周辺の鉄道とは異なる軌間にしたのである。ただし、こうした事情はモントリオール側の出資者には無縁のことであり、広軌が技術的に優れているという当時の風潮のほうがより影響したと思われる<ref name="Puffert_120-121"/>。
== 軌間不連続点への対応 ==
異なる軌間の鉄道が接続する地点を{{仮リンク|軌間不連続点|en|Break-of-gauge}}という。通常は列車は軌間不連続点を越えて走行することはできない。これに対して様々な対処法がある。
=== 乗り換え・積み換え ===
[[File:C01357-military rail transport Frizeville 1917.jpg|thumb|[[第一次世界大戦]]、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]における標準軌列車から軽便鉄道への貨物の積み換え]]
最も簡単な対策は、軌間不連続点において旅客の乗り換え、貨物の積み換えを行なうことである。
これには特別な設備は何も必要としない。ただし、旅客の乗り換えの負担を減らすために[[対面乗り換え]]が行われることがある。貨物の場合も、異軌間の線路を並べてその間で積み換えが行えるようにすることがある。また、規格化された[[輸送コンテナ|コンテナ]](一般的に[[ISO 668]]で定められたサイズのISOコンテナ)を用いることで効率的に積み換えを行なうことができる<ref name="Puffert_34"/>。
=== ロールワーゲン、ロールボック ===
[[ファイル:001015 gauge buster.jpg|thumb|狭軌用ロールワーゲンに搭載された標準軌貨車]]
{{main|ロールワーゲン|ロールボック}}
軌間の異なる鉄道車両を搭載するための貨車を[[ロールワーゲン]]という。また輪軸部分のみを載せるようにした小さな車両を[[ロールボック]]という。これらは[[20世紀]]初め頃までに[[ヨーロッパ]]で標準軌の貨車を狭軌の路線に直通されるために用いられるようになった<ref name="Puffert_35"/>。
しかし、ロールワーゲンやロールボックを使うと車両の重心が高くなってしまうため、特に標準軌の車両を狭軌線に乗り入れさせる場合には極めて不安定になってしまい、低速でしか運転できないという欠点がある<ref name="Puffert_35"/>。
=== 輪軸・台車交換 ===
[[File:Bogies-exchange.jpg|thumb|ロシア・中国国境における台車交換作業]]
軌間不連続点を越えて貨車や客車を直通させるため、接続駅で[[鉄道車両の台車|台車]]をそれぞれの軌間に対応したものに交換する。台車交換の方法には、[[クレーン]]や[[ジャッキ]]を使って車体を持ち上げるものと、車体の高さを固定した上でレールの側が沈み込んで台車を取り外すものがある。
[[1870年代]]の北アメリカで実用化された<ref name="Puffert_137-138"/>。現代でも旧[[ソビエト連邦]]の広軌鉄道と[[東ヨーロッパ]]や[[中国]]などの標準軌鉄道の間の直通などに用いられている。日本においても、1067 mm軌間でない車両をJR在来線を介して輸送する場合などには、台車交換が行われることがある([[車両輸送]]を参照)。[[近畿日本鉄道]]では車両検修場([[五位堂検修車庫]])が標準軌線内にあるため、1,067 mm軌間車両が入場する際は[[橿原神宮駅]]で仮台車に交換している<ref name="KH_93"/>。
また、台車そのものではなく[[輪軸]]のみを軌間に合わせて交換できるようにした車両も存在する<ref name="Alvarez_9"/>。
=== 軌間可変車両 ===
{{main|軌間可変車両}}
原始的な軌間可変車両は1860年代のカナダで現れており、車軸上の異なる位置に車輪を固定することで、5フィート6インチ軌間と4フィート8.5インチ軌間などの異なる軌間に対応していた。しかしこの方式は信頼性に乏しかったため早期に姿を消し、台車交換に取って代わられた<ref name="Puffert_136-137"/>。
近代的な軌間可変車両は[[1968年]]に製造された[[スペイン]]・[[タルゴ]]社のTalgoIII-RD客車が初であり、[[TEE]]カタラン・タルゴとして広軌のスペインと標準軌の[[フランス]]の間を直通した<ref name="Alvarez_34"/>。その後スペインの他[[ポーランド]]、[[日本]]、[[ドイツ]]で種々の方式が開発され、一部は実用化されている<ref name="Alvarez_11-12"/>。
=== 混合軌間 ===
[[File:Gladstone Railyard March 1986 002.jpg|thumb|オーストラリア・グラッドストーン[[操車場]]内の四線軌条(1600 mm,1435 mm,1067 mm)]]
{{main|三線軌条}}
3本以上のレールを使った[[三線軌条]](三線式)や四線軌条(四線式)により、同一の線路で2種類の軌間に対応することができる。混合軌間(mixed gauge)やデュアルゲージ(dual gauge)、軌間混合とも呼ばれる<ref name="JARTS_441"/>。三線軌条では片側のレールは共通であり、もう片方のレールをそれぞれの軌間に合わせて敷設する。四線軌条ではそれぞれの軌間に対して2本ずつのレールを用いる。稀ではあるが、四線軌条で3種類の軌間に対応した例もある。軌間の差が200 mm程度以下の場合には、レールが干渉してしまうため三線軌条を使うことができない<ref name="Puffert_35-36"/>。
19世紀半ばから、イギリスや北アメリカにおいて標準軌鉄道と各種の広軌の鉄道の間での直通のために用いられるようになった。現代においても世界各地で広く用いられている<ref name="Puffert_35-36"/>。
車両側には特に何も対応する必要はないが、建設や保守には余分なコストがかかる。車両側での対応による異軌間乗り入れのコストが乗り入れる車両数に依存するのに対し、混合軌間による乗り入れの場合は乗り入れる距離に依存する。このため、輸送量が多く乗り入れ距離が比較的短い場合には、混合軌間による対応が適していることになる<ref name="Puffert_35-36"/>。
== 軌間狂い ==
軌道は列車が走行するたびに少しずつ変形してしまう。これを[[軌道狂い]]といい、このうち軌間の所定の値(ただし曲線部では所定の軌間とスラックの和)からのずれを軌間狂いという。狂いが大きくなると乗り心地が悪くなり、さらに大きくなると脱線の危険も高まる。このため定期的に検測と[[保線|保守]]作業を行ない、狂いが一定の範囲内に収まるようにしている<ref name="AMM_46-48"/>。
手動による軌間狂いの検測には、軌間ゲージという器具が用いられる<ref name="RTRI_137"/>。また軌道検測車により走行しながら検測を行なうこともできる<ref name="AMM_46-48"/>。
JR在来線の場合、軌間狂いの整備目標値{{refnest|group=注釈|旧乙修繕整備基準。乗り心地の確保を主な目的とする<ref name="MW_494"/>。}}は+6 mmから-4 mm(高速軌道検測車による動的値の場合は+10 mmから-5 mm)である<ref name="AMM_47"/>。ただし[[分岐器]]のクロッシング部では、狂いが大きいと異線進入のおそれがある<ref name="MW_10"/>ため、+5 mmから-3 mmとされている<ref name="AMM_47"/>。整備基準値{{refnest|group=注釈|旧緊急整備値。発見から15日以内に補修すべきもの<ref name="MW_496"/>。}}は直線部で+14 mm(高速軌道検測車による動的値の場合は+20 mm)である<ref name="AMM_47"/>。新幹線の場合は、軌道管理目標値{{refnest|group=注釈|新幹線の軌道管理目標値には保守計画目標値、乗り心地管理目標値、安全管理目標値といった段階があるが、軌間に関しては同一の値である<ref name="AMM_46-48"/>。}}は高速軌道検測車による測定で+6 mmから-4 mmとなる<ref name="AMM_47"/>。
日本の私鉄路線において、[[運輸安全委員会]]が調査した事故のうち、2017年5月22日に発生した[[日本の鉄道事故_(2000年以降)#わたらせ渓谷鐵道脱線事故|わたらせ渓谷鐵道脱線事故]]における検測車両([[JR東日本キヤE193系気動車|キヤE193系]])の[[脱線事故]]を始めとして、[[日本の鉄道事故_(2000年以降)#西濃鉄道市橋線脱線事故|西濃鉄道市橋線脱線事故]](2016年10月6日発生・[[貨物列車]])・[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#紀州鉄道脱線事故|紀州鉄道脱線事故]](2017年1月22日発生・[[旅客列車]])・[[日本の鉄道事故 (2000年以降)#熊本電鉄藤崎線脱線事故|熊本電鉄藤崎線脱線事故]](2017年2月22日発生・旅客列車)の4件で同様の事故が発生したことを受けて、2018年6月28日に運輸安全委員会がこれらの事故は[[枕木]]やレール締結装置の不良([[犬釘]]が浮いた状態になるなど)で「軌間拡大」が発生したことによると考えられると指摘している<ref name="railway-iken4_20180628">{{Cite web|和書|date=2018年6月28日 |url=http://www.mlit.go.jp/jtsb/railkankoku/railway-iken4_20180628.pdf |title=軌間拡大による列車脱線事故の防止に係る意見について |format=PDF |publisher=運輸安全委員会 |accessdate=2018年9月8日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180901100228/http://www.mlit.go.jp/jtsb/railkankoku/railway-iken4_20180628.pdf |archivedate=2018年9月1日 |deadlinkdate=}}</ref>。その対応策として、コンクリート製などへの枕木の材質変更、脱線ガードや脱線防止レールの敷設が望ましく、軌道の定期検査や線路巡視による枕木やレール締結装置の適切な管理、軌道変位の状況に応じた適切な軌道整備の実施が必要としている<ref name="railway-iken4_20180628" />。
鉄道車両に高速カメラを搭載させて、運行時に線路(路面)撮影する。撮影された映像をもとにして、軌間狂いを人工知能などで検出を行い、沿線の保守工事を行うことがなされている。
== 軌間の種類 ==
[[File:Rail gauge world.svg|thumb|300px|世界各国の代表的な軌間]]
[[File:Comparison of track gauges in Japan.png|thumb|300px|日本で利用されている主な軌間]]
[[File:Hinaga_stn_daisya.jpg|thumb|300px|762 mmの台車と1067 mmの車軸、さらに1435 mmを加えた3軌間のレール展示([[四日市あすなろう鉄道]][[日永駅]])]]
{{main|軌間の一覧}}
=== 標準軌 ===
{{main|標準軌}}
標準軌(国際標準軌、スティーヴンソン軌間)は、1,435 mm(4 [[フィート|ft]] 8.5 [[インチ|in]])で、[[ヨーロッパ]](一部を除く)、[[北アメリカ]]、[[東アジア]]の大陸部などで広く用いられている。[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]や[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]といった初期の鉄道で用いられたことがきっかけとなり、世界的に普及した。
ただし1435 mm以外の軌間が主流となっている地域では、その軌間のことを「標準軌」と呼ぶことがある。たとえば日本においては1067 mmが圧倒的多数を占める。そのため、古い資料では「1435 mm=広軌、1067 mm=標準軌」と記されているケースもあり、注意が必要である<ref name="Oka_8-9"/>。この場合、[[京王京王線|京王線]]、[[函館市電]]などが採用する1372 mmは広軌の扱いを受けることが多い。
=== 広軌 ===
{{main|広軌}}
標準軌より広い軌間。「ブロードゲージ(Broad Gauge)」とも呼ばれる。19世紀半ばには広軌のほうが標準軌より優れているとの考えから、様々な広軌が実用化された。その後標準軌に[[改軌]]されたことで現存しないものも多いが、国や地域によってはそのまま地域における標準的な軌間となった。
現代の本線鉄道で用いられている軌間で最大のものは1,676 mm (5 ft 6 in)である<ref name="Aoki2008_50"/>。特殊用途の鉄道では、巨大な積載物を移動する必要性などから広軌が採用される場合もある。[[インクライン]]やレール上を移動するクレーンなどでは、極端に広い軌間が用いられることもある。
現代の普通鉄道において用いられている主な広軌は以下である<ref name="Kokon_188-193"/><ref name="Puffert_318-319"/>。
* [[5フィート軌間|1,520 mm または 1,524 mm (5 ft 0 in)]] - 旧[[ソビエト連邦]]各国、[[フィンランド]]、[[モンゴル国|モンゴル]]
* [[5フィート3インチ軌間|1,600 mm (5 ft 3 in)]] - [[アイルランド]]、[[オーストラリア]]の一部など
* [[イベリア軌間|1,668 mm]] - [[スペイン]](元は1672 mm)、[[ポルトガル]](元は1665 mm)
* [[5フィート6インチ軌間|1,676 mm (5 ft 6 in)]] - [[南アジア]]、[[南アメリカ]]の一部など
=== 狭軌 ===
[[File:Blaenau Ffestiniog railway station MMB 02.jpg|thumb|標準軌の線路(右)とフェステニオグ鉄道の狭軌(597 mm)線路(左)]]
{{main|狭軌}}
標準軌より狭い軌間。「ナローゲージ (Narrow Gauge)」とも呼ばれる。[[国際鉄道連合]]の分類では、1000 mmから1067 mmまでの軌間を広義のメーターゲージとも呼ぶ<ref name="UIC_4"/>。1,000 mm未満の軌間は各地に分散しており、広範囲の鉄道網は形成していない<ref name="Aoki2008_50"/>。
現代において用いられている主な狭軌は以下である<ref name="Kokon_188-193"/><ref name="Puffert_318-319"/>。
* [[4フィート6インチ軌間|1,372 mm(4 ft 6 in)]] - [[スコットランド]]の初期の鉄道の一部と、20世紀以降の[[日本]]の一部。
* [[3フィート6インチ軌間|1,067 mm(3 ft 6 in)]]または1,065 mm - [[JR]][[在来線]]、一部の[[私鉄]]・[[地下鉄]]など、[[台湾]]、[[フィリピン]]、[[インドネシア]]、[[南部アフリカ]](ケープ軌間)、[[ラテンアメリカ|中南米]]の一部、[[オーストラリア]]の一部、[[ニュージーランド]]。
* 1,000 mm([[メーターゲージ]]) - [[東南アジア]](大陸部分)、[[アフリカ]]、[[南アメリカ]]の一部。ヨーロッパ([[ドイツ]]、[[スイス]]など)の地方鉄道など。
* [[3フィート軌間|{{0}}914 mm(3 ft)]] - かつてのアメリカ合衆国の狭軌鉄道、[[ラテンアメリカ|中南米]]の一部の鉄道。
* [[2フィート6インチ軌間|{{0}}762 mm(2 ft 6 in)]]または760 mm - 世界の多くの[[軽便鉄道]]。日本で「軽便」「ナローゲージ」「[[狭軌#日本の特殊狭軌線|特殊狭軌]]」と呼ばれる鉄道の多くがこの軌間である。
* [[2フィート・600ミリ軌間|{{0}}610 mm(2 ft)、600 mmなど]] - 軽便鉄道
営業用の鉄道として認知されているもののうちで、最小の軌間はイギリスの [[:en:Isle of Mull Railway|Mull and West Highland Railway]] ([[1983年]] - [[2010年]]、[[2011年]] 5月 - 9月 )と [[:en:Wells and Walsingham Light Railway|Wells and Walsingham Light Railway]] の260 mm である。このほか 311 mm, [[15インチ軌間|381 mm (15 in)]], 500 mm などの軌間も存在する。日本では法制上は鉄道とはされていないが、伊豆修善寺の「[[虹の郷]]」園内の虹の郷ロムニー鉄道が381 mm軌間である<ref name="Kokon_44"/>。
三重県の[[桑名駅]]付近に、762 mmの[[三岐鉄道北勢線]]、1067 mmの[[関西本線]]、1435 mmの[[近鉄名古屋線]]と、異なる3種の軌間を渡る[[踏切]]がある<ref>{{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 大手私鉄 |date=2010-08-22 |publisher=[[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume=2号 近畿日本鉄道 1 |isbn=978-4-02-340132-7 |page=5}}</ref>。
ここまでが、実際の[[公共交通機関|交通機関]]([[輸送]]手段)として使われている(または過去に使われた)軌間である。これより狭いものは[[ライブスチーム]](イベントなどのミニSLなど)による[[庭園鉄道]]や、[[鉄道模型]]などで使われる<ref name="Kokon_20"/>。
{{Seealso|鉄道模型#軌間(ゲージ)}}
* 190.5 mm - [[7.5インチゲージ|7 1/2インチゲージ]]
* 127{{0|.0}} mm - [[5インチゲージ]]
* {{0}}89{{0|.0}} mm - [[3.5インチゲージ|3 1/2インチゲージ]]
* {{0}}45{{0|.0}} mm - [[1番ゲージ]]、[[Gゲージ]]
* {{0}}32{{0|.0}} mm - [[Oゲージ]]
* {{0}}16.5 mm - [[HOゲージ]]、[[OOゲージ]]
* {{0|00}}9{{0|.0}} mm - [[Nゲージ]]
* {{0|00}}6.5 mm - [[Zゲージ]]
* {{0|00}}3{{0|.0}} mm - [[Tゲージ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em|refs=
<ref name="AMM_26">{{Harvnb|天野|前田|三輪|1992|p=26|Ref=AMM1992}}</ref>
<ref name="AMM_46-48">{{Harvnb|天野|前田|三輪|1992|pp=46-48|Ref=AMM1992}}</ref>
<ref name="AMM_47">{{Harvnb|天野|前田|三輪|1992|p=47|Ref=AMM1992}}</ref><!-- 表3.2 -->
<ref name="Alvarez_9">{{Harvnb|Álvarez|2010|p=9}}</ref>
<ref name="Alvarez_11-12">{{Harvnb|Álvarez|2010|pp=11-12}}</ref>
<ref name="Alvarez_16">{{Harvnb|Álvarez|2010|pp=11-12}}</ref>
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<ref name="Alvarez_34">{{Harvnb|Álvarez|2010|p=34}}</ref>
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<ref name="Gau_1">[[#Gautrain2001|"Gautrain Rapid Rail Link: Planning and Implementation Study, Document 2.4: Gauge"]] p.1</ref>
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<ref name="Haraguchi_148-149">{{Harvnb|原口|2010|pp=148-149|Ref=Haraguchi2010}}</ref>
<ref name="Hayashi_449">{{Harvnb|林|2010|p=449|Ref=Hayashi2010}}</ref>
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<ref name="Kokon_20">{{Harvnb|岡|2002|p=20|Ref=Oka_col1}}</ref>
<ref name="Kokon_44">{{Harvnb|岡|2002|p=44|Ref=Oka_col2}}</ref>
<ref name="MW_5">{{Harvnb|宮本|渡辺|1980|p=5|Ref=MW1980}}</ref>
<ref name="MW_10">{{Harvnb|宮本|渡辺|1980|p=10|Ref=MW1980}}</ref>
<ref name="MW_494">{{Harvnb|宮本|渡辺|1980|p=494|Ref=MW1980}}</ref>
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<ref name="Oka_48-49">{{Harvnb|岡|2002|pp=48-49|Ref=Oka_ch4}}</ref>
<ref name="Oka_53-54">{{Harvnb|岡|2002|pp=53-54|Ref=Oka_ch4}}</ref>
<ref name="Puffert_16-17">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=16-17}}</ref>
<ref name="Puffert_19">{{Harvnb|Puffert|2009|p=19}}</ref>
<ref name="Puffert_20-21">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=20-21}}</ref>
<ref name="Puffert_21-22">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=21-22}}</ref>
<ref name="Puffert_22-23">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=22-23}}</ref>
<ref name="Puffert_24-25">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=24-25}}</ref>
<ref name="Puffert_25-27">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=25-27}}</ref>
<ref name="Puffert_27-29">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=27-29}}</ref>
<ref name="Puffert_30">{{Harvnb|Puffert|2009|p=30}}</ref>
<ref name="Puffert_31">{{Harvnb|Puffert|2009|p=31}}</ref>
<ref name="Puffert_32">{{Harvnb|Puffert|2009|p=32}}</ref>
<ref name="Puffert_34">{{Harvnb|Puffert|2009|p=34}}</ref>
<ref name="Puffert_35">{{Harvnb|Puffert|2009|p=35}}</ref>
<ref name="Puffert_35-36">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=35-36}}</ref>
<ref name="Puffert_53">{{Harvnb|Puffert|2009|p=53}}</ref>
<ref name="Puffert_60-61">{{Harvnb|Puffert|2009|p=60-61}}</ref>
<ref name="Puffert_63">{{Harvnb|Puffert|2009|p=63}}</ref>
<ref name="Puffert_85-87">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=85-87}}</ref>
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<ref name="Puffert_113-114">{{Harvnb|Puffert|2009|pp=113-114}}</ref>
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<ref name="RTRI_137">[[#RTRI2006|『第2版 鉄道技術用語辞典』]] p.137</ref>
<ref name="Saito_33-34">{{Harvnb|Saito|2002|pp=33-34}}</ref>
<ref name="Saito_686-687">{{Harvnb|西藤|2010|pp=686-687|Ref=Saito2010}}</ref>
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<ref name="Tada_525-526">{{Harvnb|多田|2010|pp=525-526|Ref=Tada2010}}</ref>
<ref name="UIC_4">[[#UIC2004|3rd Meter Gauge Group CEO’s Conference]] p.4</ref>
<ref name="Wol_5">{{Harvnb|Wolmar|2012|loc=Chapter 5}}</ref><!-- kindle版を参照 -->
<ref name="Wol_8">{{Harvnb|Wolmar|2012|loc=Chapter 8}}</ref><!-- kindle版を参照 -->
<ref name="Wolmar_88">{{Harvnb|ウォルマー|2012|p=88|Ref=Wolmar2012}}</ref>
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== 参考文献 ==
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|title=線路:軌道の設計・管理
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|author =伊原一夫
|title = 鉄道車両メカニズム図鑑
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|author=井上勇一
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|editor=岡雅行
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|ref=Oka-Yamada
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** {{Citation|和書
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** {{Citation|和書
|author=岡雅行
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|page=20
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|chapter=第6章 日本のゲージ論争のゆくえ
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| author = 齋藤晃
| supervisor =
| translator =
| year = 2007
| title = 蒸気機関車200年史
| publisher = NTT出版
| isbn = 978-4-7571-4151-3
| ref = 齋藤2007
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* {{Citation|和書
|title=鉄道の地理学
|author=[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]
|publisher=[[WAVE出版]]
|year=2008
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|editor=[[小池滋]]
|editor2=青木栄一
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** {{Citation|和書
|author=原口隆行
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|author=林弥太郎
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|author=半田利弘
|title=物理で広がる鉄道の魅力
|year=2010
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|author=クリスティアン・ウォルマー
|translator=安原和見、須川綾子
|title=世界鉄道史
|publisher=[[河出書房]]
|year=2012
|origyear=2009
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}}
<!-- 洋書 -->
* {{Citation|
|last=Puffert
|first=Douglas J.
|title=Tracks Across Continents, Paths Through History: The Economic Dynamics of Standardization in Railway Gauge
|year=2009
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}}
* {{Citation
|last=Wolmar
|first=Christian
|title=Engines of War: How Wars Were Won and Lost on the Railways
|year=2012
|publisher=Atlantic Books
|isbn=978-1848871731
}}<!-- kindle版を参照 -->
<!-- 団体名義 -->
* {{Citation|和書
|editor=[[海外鉄道技術協力協会]]
|year=2005
|title=最新 世界の鉄道
|publisher=ぎょうせい
|isbn=4-324-07626-X
|ref=JARTS2005
}}
* {{Citation|和書
|editor=[[鉄道総合技術研究所]]
|title=第2版 鉄道技術用語辞典
|year=2006
|publisher=丸善
|isbn=978-4621077658
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}}
=== 雑誌記事・Web上の資料 ===
<!-- 雑誌 -->
* {{Citation|和書
|author=朝倉希一
|title=技術随筆 汽車の今昔6
|year=1979
|month=6
|journal=鉄道ファン(No.218)雑誌06459-6
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|volume=19
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|pages=81-87
|ref=朝倉1979/6
}}
* {{Citation|和書
|author=朝倉希一
|title=技術随筆 汽車の今昔11
|year=1979
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* {{Citation|和書
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|title=鉄道ゲージの歴史地理学
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* {{Citation|和書
|title=3フィート6インチ・ゲージ採用についてのノート
|author=青木栄一
|journal=文化情報学 : 駿河台大学文化情報学部紀要
|publisher=[[駿河台大学]]
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}}
* {{Citation
|title=Why Did Japan Choose the 3'6" Narrow Gauge?
|last=Saito
|first=Akira
|journal=Japan Railway & Transport Review
|issue=31
|year=2002
|month=6
|publisher=[[東日本鉄道文化財団|East Japan Railway Culture Foundation]]
|language=英語
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* {{Citation|
|last=Álvarez
|first=Alberto García
|title=Automatic track gauge changeover for trains in Spain
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* {{Citation|
|author=Gautrain Project Team
|title=Gautrain Rapid Rail Link: Planning and Implementation Study, Document 2.4: Gauge
|url=http://www.gautrain.co.za/about/uploads/2010/04/Tech-Rep-2-4-GAUGE-Data-Room-Rev0.pdf
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* {{Citation|
|author=[[国際鉄道連合]]
|title=3rd Meter Gauge Group CEO’s Conference
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|url=http://www.uic.org/applications/reunion/docs/wec2004/papers/MGG/Hearsch.pdf
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}}
== 外部リンク ==
*[http://www.gautrain.co.za/about/services/look-feel/gautrain-gauge/ GAUTRAIN GAUGE] - [[ハウトレイン]]の軌間の検討について
* {{Kotobank}}
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{{Normdaten}}
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[[Category:軌間|*]]
[[Category:長さ]]
[[Category:工業規格]] | 2003-03-14T03:13:42Z | 2023-12-02T23:39:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8C%E9%96%93 |
3,985 | 運輸業 | 運輸業(うんゆぎょう)、運送業(うんそうぎょう)とは、旅客や貨物の運送にかかる業種、あるいは職業である。運輸業には単に輸送する以外にも、保管業務、通関業務、荷役業務(搬出・搬入・仕分け)、流通加工業務、使用機材のスケジュール管理を行う運行管理や整備を行う車両管理、物流にかかる情報処理業務、フォワーダー業務などがある。倉庫業を兼ねる企業も多く、製造から出荷まで一貫して行う複合企業もある。
運輸とは産業に必ず付随する業となり国の根幹を支えるため、日本では日本航空や国鉄、日本通運、日本郵便など国営企業として成り立っている。運輸業に付帯するサービスまで含めると、運輸業が全サービス産業に占める構成比は約1割を占める。運送運搬手段が生み出す価値の60%以上は、道路運送から生み出されたものであり、貨物運送が3/4を占める。道路と鉄道というインフラが、当面は運送運搬手段の中軸と考えられる。
運送する対象が人である輸送を旅客輸送、モノである輸送を貨物輸送と呼び、輸送機関が鉄道やトラックなど陸上の貨車での輸送を陸運、航空機での輸送を空運、船舶での輸送を海運または水運と呼ぶ。
陸上輸送(運送)。自動車は時間や量など貨物需要に柔軟に対応ができるため、近距離の輸送、内陸地への輸送や消費者へ商品を集荷ないし行き渡らせるラストワンマイル流通を得意とする。自動車が普及する以前は貨物列車がその役割を担っており、駅からは人によって運ばれていた。現代では空運と海運の間の特性を示すことから北米やユーラシアでは大陸横断鉄道など長距離輸送に用いられる例が多く、電車は他の交通機関より温室効果ガス排出量が格段に低いため、環境に配慮した輸送が行える点が利点となる。
旅客輸送および貨物輸送がある。軌道を自ら敷き(または借用し)、その軌道上に運搬車両(鉄道車両)を運行させる事業。天候による運行停止も比較的少なく、近中距離間の安価な定時輸送が比較的容易であるが、損益分岐点が高く、軌道などの設備の保守作業を事業者が行わなければならない。
公道上を自動車で輸送する事業。小口輸送をもっとも得意とするほか、鉄道の通っていない地域の補完的な輸送を行う。網の目のように全国津々浦々の道路網を使った面輸送を行い、拠点間輸送の鉄道貨物や航路貨物、航空貨物も輸送拠点からの戸口までの末端集配業務をトラックに引き継ぐ。渋滞等で到着時刻が遅延することが間々ある。ジャストインタイム輸送など荷主要求が強く、ドライバーは時間厳守を要求される。貨物列車を持たない鉄道会社(特に大手民鉄)を中心に既存企業の資本参加や買収、新規参入などで積極的に参入していた時期があったが、2000年代に入り経営不振や、2002年2月に施行された道路運送法改正(規制緩和)により貨物旅客問わず中小企業の参入が相次ぎ、経営環境の変化で大手民鉄系を中心に撤退する企業が続出した。
海上輸送。船は移動速度が低いため輸送に時間がかかるが、一度に多量の積載に耐え得るため輸送コストがあまり掛からないことが利点となる。主に原油、石炭、ウランなどのエネルギー、鉄の原料となる鉄鉱石、小麦や大豆、トウモロコシなど加工食品の原材料輸入に用いられ、日本からは主に自動車や電子機器などが輸出されており、企業間の商業輸送(BtoB)とりわけ輸出入の大半を占める輸送形態で国際貨物輸送の主軸を担う。
航空機、ヘリコプター等を使った輸送、サービス。移動に関し燃料を多大に消費するため輸送コストが高い反面、輸送時間(リードタイム)を短縮するのに適しているため、主に鮮度や緊急性など速さが重要視される輸入貨物や医療品、郵便などに使用され、輸送時間が優先される長距離間の旅客輸送や貨物輸送に用いられる。また大容量データの情報輸送の際も空運が用いられる。反面、陸運や海運の様に重量物や貨物を大量に運搬できない点が欠点となる。ヘリコプターは道路整備が進んでいない場所へ物資搬入が行えるため建設業などで利用されており、高地、離島、僻地など固定翼機では容易にアクセスできない箇所などにも用いられている。
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] | 運輸業(うんゆぎょう)、運送業(うんそうぎょう)とは、旅客や貨物の運送にかかる業種、あるいは職業である。運輸業には単に輸送する以外にも、保管業務、通関業務、荷役業務(搬出・搬入・仕分け)、流通加工業務、使用機材のスケジュール管理を行う運行管理や整備を行う車両管理、物流にかかる情報処理業務、フォワーダー業務などがある。倉庫業を兼ねる企業も多く、製造から出荷まで一貫して行う複合企業もある。 | {{複数の問題
|出典の明記=2022-03
|独自研究=2022-03
|正確性=2022-03
}}
'''[[運輸]]業'''(うんゆぎょう)、'''運送業'''(うんそうぎょう)とは、[[旅客]]や[[貨物]]の[[運送]]にかかる業種、あるいは[[職業]]である。運輸業には単に輸送する以外にも、[[保管]]業務、[[通関]]業務、[[荷役]]業務(搬出・搬入・仕分け)、[[流通加工]]業務、使用機材のスケジュール管理を行う[[運行管理者|運行管理]]や整備を行う車両管理、物流にかかる[[情報処理]]業務、[[フォワーダー]]業務などがある。[[倉庫業]]を兼ねる企業も多く、製造から出荷まで一貫して行う[[複合企業]]もある。
== 概要 ==
運輸とは産業に必ず付随する業となり国の根幹を支えるため<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meti.go.jp/meti_lib/report/H30FY/000034.pdf|title=平成30年度商取引・サービス環境の適正化に係る事業(海外における物流・サプライチェーンの動向調査事業)|website=経済産業省|format=PDF|date=2019-03-08|accessdate=2021-04-23}}</ref>、日本では[[日本航空]]や[[国鉄]]、[[日本通運]]、[[日本郵便]]など[[国営企業]]として成り立っている。運輸業に付帯するサービスまで含めると、運輸業が全[[サービス産業]]に占める構成比は約1割を占める<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=道路、鉄道、航空、水運など運送手段のボリュームの変遷;2008年と2017年暫定値との較|url=https://www.meti.go.jp/statistics/toppage/report/minikaisetsu/hitokoto_kako/20180109hitokoto.html|website=経済産業省|accessdate=2020-06-27|language=ja}}</ref>。運送運搬手段が生み出す価値の60%以上は、道路運送から生み出されたものであり、貨物運送が3/4を占める<ref name=":0" />。道路と鉄道というインフラが、当面は運送運搬手段の中軸と考えられる<ref name=":0" />。
運送する対象が人である輸送を[[旅客輸送]]、モノである輸送を[[貨物輸送]]と呼び、輸送機関が[[鉄道]]や[[貨物自動車|トラック]]など陸上の貨車での輸送を[[陸運]]、[[航空機]]での輸送を[[空運]]、[[船舶]]での輸送を[[海運]]または[[水運]]と呼ぶ。
== 主な事業 ==
{{複数の問題
|出典の明記=2022-03
|独自研究=2022-03
|正確性=2022-03
|section=1
}}
=== 陸運 ===
陸上輸送([[運送]])。[[自動車]]は時間や量など貨物需要に柔軟に対応ができるため、近距離の輸送、内陸地への輸送や消費者へ商品を集荷ないし行き渡らせる[[ラストワンマイル (運輸)|ラストワンマイル]]流通を得意とする。自動車が普及する以前は[[貨物列車]]がその役割を担っており、[[鉄道駅|駅]]からは人によって運ばれていた。現代では空運と海運の間の特性を示すことから[[北米]]や[[ユーラシア]]では[[大陸横断鉄道]]など長距離輸送に用いられる例が多く、[[電車]]は他の交通機関より[[温室効果ガス]]排出量が格段に低いため、環境に配慮した輸送が行える点が利点となる。
==== 鉄道輸送====
旅客輸送および貨物輸送がある。[[軌道 (鉄道)|軌道]]を自ら敷き(または借用し)、その軌道上に運搬車両([[鉄道車両]])を運行させる事業。天候による運行停止も比較的少なく、近中距離間の安価な定時輸送が比較的容易であるが、[[損益分岐点]]が高く、軌道などの設備の保守作業を事業者が行わなければならない。
{{main|鉄道事業者}}
==== 自動車輸送 ====
[[公道]]上を[[自動車]]で輸送する事業。小口輸送をもっとも得意とするほか、鉄道の通っていない地域の補完的な輸送を行う。網の目のように全国津々浦々の道路網を使った面輸送を行い、拠点間輸送の鉄道貨物や航路貨物、航空貨物も輸送拠点からの戸口までの末端集配業務をトラックに引き継ぐ。[[渋滞]]等で到着時刻が遅延することが間々ある。[[ジャストインタイム]]輸送など荷主要求が強く、ドライバーは[[時間厳守]]を要求される。貨物列車を持たない鉄道会社(特に大手民鉄)を中心に既存企業の資本参加や買収、新規参入などで積極的に参入していた時期があったが、2000年代に入り経営不振や、2002年2月に施行された[[道路運送法]]改正([[規制緩和]])により貨物旅客問わず[[中小企業]]の参入が相次ぎ、経営環境の変化で大手民鉄系を中心に撤退する企業が続出した。
* 貨物自動車事業 - [[貨物自動車|トラック]]や[[牽引自動車|トレーラー]]を利用した貨物輸送で、今日の運輸業の大半を担っており、一般に「'''運送会社'''」という呼称は、この事業を営む[[企業]]を指す。都市部では[[オートバイ]]による配達もみられる。{{main|日本の企業一覧 (陸運)}}
** [[郵便事業]]
** [[貴重品輸送警備]] - 現金や貴金属などの輸送業務。[[警備業]]としての要素も持つ。
* 旅客自動車事業 - 人(旅客)を運搬する自動車事業。
** [[バス (交通機関)|バス]] - [[バス事業者]]を参照。
** [[タクシー]] - [[日本のタクシー#主なタクシー事業者・グループ]]を参照。
=== 海運 ===
海上輸送。[[船]]は移動速度が低いため輸送に時間がかかるが、一度に多量の積載に耐え得るため輸送コストがあまり掛からないことが利点となる。主に[[原油]]、[[石炭]]、[[ウラン]]などの[[エネルギー]]、[[鉄]]の原料となる[[鉄鉱石]]、[[小麦]]や[[大豆]]、[[トウモロコシ]]など加工食品の[[原材料]][[輸入]]に用いられ、日本からは主に自動車や電子機器などが[[輸出]]されており、[[企業間取引|企業間の商業輸送]](BtoB)とりわけ輸出入の大半を占める輸送形態で国際貨物輸送の主軸を担う。
* [[船舶]]輸送 - [[日本の企業一覧 (海運)|海運事業者]]
* [[回航]]
=== 航空運輸 ===
[[航空機]]、[[ヘリコプター]]等を使った輸送、サービス。移動に関し燃料を多大に消費するため輸送コストが高い反面、輸送時間(リードタイム)を短縮するのに適しているため、主に鮮度や緊急性など速さが重要視される輸入貨物や医療品、郵便などに使用され、輸送時間が優先される長距離間の旅客輸送や貨物輸送に用いられる。また大容量データの情報輸送の際も空運が用いられる。反面、陸運や海運の様に重量物や貨物を大量に運搬できない点が欠点となる。[[ヘリコプター]]は道路整備が進んでいない場所へ物資搬入が行えるため[[建設業]]などで利用されており、[[高地]]、[[離島]]、[[僻地]]など[[固定翼機]]では容易にアクセスできない箇所などにも用いられている。
* 航空運輸業 - 航空に関わるサービス全般<!--管理事務を行う本社等、その他の管理,補助的経済活動を行う事業所-->
* [[航空会社|航空輸送業]](空運業<ref>{{Cite Kotobank|航空輸送| accessdate=2021-11-12}}</ref>) - 他人の需要に応じ、航空機を使用して有償で旅客又は貨物を運送する事業
* [[航空機使用事業|航空機使用業]] - 他人の需要に応じ、航空機を使用して 有償で旅客又は貨物の運送以外の行為 の請負を行う事業
=== 倉庫・運輸関連業 ===
各輸送事業をつなぐための事業。
* [[倉庫業]](保管・荷役事業) - 荷物を保管・搬出・搬入・仕分けをする事業。[[倉庫]]会社
* [[流通加工]]事業 - 荷主から引き受けた商品に対し、値札タグをつけたり、注文に応じて部品を組み立てたりするといった、出庫時に行う方が効率的な業務を生産者に成り代わり代行する業務。
* [[フォワーダー]]事業 - 複数の荷主から小口貨物の運送を引き受け、仕分けし、大口貨物にして航空会社や船会社に運送を依頼する事業。国際貨物の場合は、通関事務代行業務も含めて請け負う。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[物流]]
* [[貿易]]
* [[物流危機]]
* [[貨客混載]] - タクシーや貸し切りバスなどでも運輸業務が行えるようにしたもの。2017年に過疎地のみに限定していたが、2023年に全国規模へ拡大された。
== 外部リンク ==
* [https://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/seido/sangyo/02toukatsu01_03000044.html#h 運輸業,郵便業] - [[総務省]] [[日本標準産業分類]]
{{主要産業}}
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[[Category:運輸産業]] | 2003-03-14T03:23:18Z | 2023-12-29T02:49:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E8%BC%B8%E6%A5%AD |
3,987 | 東海林さだお | 東海林 さだお(しょうじ さだお、男性、1937年10月30日 - )は、日本の漫画家、エッセイスト。本名は庄司 禎雄(しょうじ さだお)。
1974年6月16日から2014年12月31日にかけて毎日新聞朝刊に13,749回連載した4コマ漫画の『アサッテ君』で、一般全国紙の連載漫画の最多掲載記録を作った。他の漫画・エッセイの連載においても、ほとんどが40年超のロングランとなっている。
東海林は1937年10月30日、東京府東京市杉並区高円寺南で生まれた。父は小西六の社員だった。小学生時代に戦火を避け、父以外の家族で山梨県大月市に疎開。終戦後も東京には戻らず、母方の実家のある栃木県那須郡武茂村(のちの馬頭町)に移り、中学2年時まで過ごす。このころに野球、漫画、絵物語に親しみ、漫画家を将来の目標に定める。
東京都立立川高等学校卒業。現役で早稲田大学政経学部および慶應義塾大学法学部を受験し失敗。1浪後、再び早大と慶大に出願。計9学部を受験し、そのうち早大第一文学部美術史科を受験する予定だったが隣の窓口にロシア文学科があり、「女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか」という理由で急に出願先を変更。そのロシア文学科に合格し、入学を果たした。
大学2年時、創設されたばかりの早稲田大学漫画研究会に入部し、1年上級のしとうきねおと園山俊二、1年下級で同い年の福地泡介らと出会う。福地泡介によれば、東海林だけは講義にほとんど出ず、当時八王子市に移り酒販店を経営していた実家からの通学で疲れ切り、そのまま大学近くの福地の下宿部屋に直行してそこで眠り込むことが多かったという。福地は、東海林が「実家で売れ残って変色した日本酒を、世話になっている礼のつもりかよく持ってきた」と回想している。東海林はこのころ、「一生懸命ユーモアを探してた」といい、太宰治、木山捷平、鹿島孝二、北杜夫らの小説や、5代目古今亭志ん生の落語に熱中した。
1959年に東海林・福地ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、東海林の採用は『美しい十代』(学習研究社)における1ページ作品数回にとどまるなど、グループ活動はうまくいかず、数か月で解散に追い込まれている。
早大中退後、東海林は『週刊漫画サンデー』編集部のアルバイトや黄小娥のアシスタント、実家の手伝いなどの傍ら、1964年に結婚。その後、プロとして成功した福地の新居をたずねた折り、玄関先に置かれた牛乳瓶を見て「漫画を描いて牛乳をとろう」と思い立ち、原稿の持ち込み活動を開始。1967年、『週刊漫画TIMES』の『新漫画文学全集』で連載デビューする。
1968年より漫画の傍ら、イラスト付きのエッセイの執筆でも活動。エッセイ集の刊行冊数は漫画作品の単行本を上回っている。特に1970年代以降、マンガは大部分が新聞雑誌掲載のみで単行本化されていないのに対しエッセイはほぼ全部が単行本化、文庫本化されている。
東京ドームを借りて試合をするほどの草野球愛好者でもある。ポジションは内野手。仕事に対するスタンスについても東海林は、「毎回いいものが書けるわけがない。野球と同じで三割打てればいいんだ」「プロだから残り七回全部三振はダメだけど、バントとかポテンヒットとかで誤魔化しながらね」と、野球にからめた比喩を語っている。
「ビールの最良の『あて』は串カツである」と多くのエッセイで記述している。
2015年に見つかった肝臓癌を手術で治し、その体験を2017年にエッセイ『ガン入院オロオロ日記』(文藝春秋社)として出版した。酒は医師に止められているが、最近は「ノンアルコールビールがおいしくなった」という。
刊行作品は後述
書名(共著の場合は括弧内に共著者)、初版発行日(単行本、文庫版の順。特記なき場合はすべて単行本は文藝春秋発行、文庫版は文春文庫所収。)
アサッテ君#刊行リスト参照。
サラリーマン専科#単行本リスト参照。
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] | 東海林 さだおは、日本の漫画家、エッセイスト。本名は庄司 禎雄。 1974年6月16日から2014年12月31日にかけて毎日新聞朝刊に13,749回連載した4コマ漫画の『アサッテ君』で、一般全国紙の連載漫画の最多掲載記録を作った。他の漫画・エッセイの連載においても、ほとんどが40年超のロングランとなっている。 | {{Infobox 漫画家
|名前 = 東海林 さだお
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|脚注 =
|本名 = 庄司 禎雄<ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E6%9E%97%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%8A-531779 東海林さだお] コトバンク</ref>
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'''東海林 さだお'''(しょうじ さだお、男性、[[1937年]][[10月30日]]<ref name="kotobank" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[随筆家|エッセイスト]]。本名は'''庄司 禎雄'''<ref name="kotobank" />(しょうじ さだお)。
[[1974年]]6月16日から[[2014年]]12月31日にかけて[[毎日新聞]]朝刊に13,749回連載した[[4コマ漫画]]の『[[アサッテ君]]』で、一般全国紙の連載漫画の最多掲載記録を作った<ref>その後、2021年1月7日に「[[コボちゃん]]」(作:[[植田まさし]])が最多掲載記録を更新している。</ref>。他の漫画・エッセイの連載においても、ほとんどが40年超のロングランとなっている。
== 略歴・人物 ==
東海林は1937年10月30日、[[東京府]][[東京市]][[杉並区]][[高円寺|高円寺南]]<ref name="na_g022" />で生まれた。父は[[コニカ|小西六]]の社員だった<ref name="na771">『なんたって! ショージ君』(1999) p.771-798</ref>。小学生時代に戦火を避け、父以外の家族で[[山梨県]][[大月市]]に疎開<ref name="na771" />。終戦後も東京には戻らず、母方の実家のある[[栃木県]][[那須郡]][[武茂村]](のちの[[馬頭町]])に移り、中学2年時まで過ごす<ref name="na_g022" /><ref name="na771" /><ref>『ショージ君の青春記』文春文庫、1980年 pp.50-74</ref>。このころに[[野球]]、漫画、[[絵物語]]に親しみ、漫画家を将来の目標に定める<ref name="na771" /><ref>『ショージ君の青春記』文春文庫、1980年 pp.61-65</ref>。
[[東京都立立川高等学校]]卒業<ref name="na_g022" />。現役で[[早稲田大学政治経済学部|早稲田大学政経学部]]および[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学法学部]]を受験し失敗<ref name="na771" /><ref name="seishun76">『ショージ君の青春記』文春文庫、1980年 pp.76-79</ref>。1浪後、再び[[早稲田大学|早大]]と[[慶應義塾大学|慶大]]に出願。計9学部を受験し、そのうち[[早稲田大学第一文学部|早大第一文学部]]美術史科を受験する予定だったが隣の窓口にロシア文学科があり、「女のコとつき合うとき、美術史よりも露文のほうがモテるのではなかろうか<ref name="seishun76" />」という理由で急に出願先を変更。そのロシア文学科に合格し、入学を果たした。
大学2年時、創設されたばかりの[[早稲田大学漫画研究会]]に入部し、1年上級の[[しとうきねお]]と[[園山俊二]]、1年下級で同い年の[[福地泡介]]らと出会う<ref name="na771" /><ref>『ショージ君の青春記』文春文庫、1980年 pp.126-149、p.152</ref>。福地泡介によれば<ref>『ホースケがいた―福地泡介〈マンガ+エッセイ〉傑作選』</ref>、東海林だけは講義にほとんど出ず、当時[[八王子市]]に移り酒販店を経営していた実家<ref name="na771" /><ref name="seishun208">『ショージ君の青春記』文春文庫、1980年 p.208、p.213</ref>からの通学で疲れ切り、そのまま大学近くの福地の下宿部屋に直行してそこで眠り込むことが多かったという。福地は、東海林が「実家で売れ残って変色した日本酒を、世話になっている礼のつもりかよく持ってきた」と回想している。東海林はこのころ、「一生懸命ユーモアを探してた」といい、[[太宰治]]、[[木山捷平]]、[[鹿島孝二]]、[[北杜夫]]らの[[小説]]や、[[古今亭志ん生 (5代目)|5代目古今亭志ん生]]の[[落語]]に熱中した<ref name="na771" />。
[[1959年]]に東海林・福地ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、東海林の採用は『[[美しい十代 (雑誌)|美しい十代]]』([[学習研究社]])における1ページ作品数回にとどまるなど、グループ活動はうまくいかず、数か月で解散に追い込まれている<ref name="na771" /><ref>『ショージ君の青春記』文春文庫、1980年 pp.182-209</ref>。
早大中退後、東海林は『[[漫画サンデー|週刊漫画サンデー]]』編集部のアルバイト<ref name="na771" />や[[黄小娥]]のアシスタント<ref name="na771" />、実家の手伝い<ref name="seishun208" />などの傍ら、[[1964年]]に結婚<ref name="na771" />。その後、プロとして成功した福地の新居をたずねた折り、玄関先に置かれた牛乳瓶を見て「漫画を描いて牛乳をとろう<ref>『ショージ君の青春記』文春文庫、1980年 pp.250-251</ref>」と思い立ち、原稿の持ち込み活動を開始。[[1967年]]、『[[週刊漫画TIMES]]』の『[[新漫画文学全集]]』で連載デビューする。
[[1968年]]<ref name="na771" />より漫画の傍ら、イラスト付きのエッセイの執筆でも活動。エッセイ集の刊行冊数は漫画作品の単行本を上回っている。特に1970年代以降、マンガは大部分が新聞雑誌掲載のみで単行本化されていないのに対しエッセイはほぼ全部が単行本化、文庫本化されている。
[[東京ドーム]]を借りて試合をするほどの[[日本のアマチュア野球|草野球]]愛好者でもある。ポジションは[[内野手]]<ref name="na771" />。仕事に対するスタンスについても東海林は、「毎回いいものが書けるわけがない。野球と同じで三割打てればいいんだ」「プロだから残り七回全部三振はダメだけど、バントとかポテンヒットとかで誤魔化しながらね」と、野球にからめた比喩を語っている<ref name="siina">[http://www.shinchosha.co.jp/nami/tachiyomi/20131227_03.html 【椎名誠『殺したい蕎麦屋』刊行記念対談】東海林さだお×椎名誠] - [[新潮社]]『[[波 (雑誌)|波]]』ウェブサイト 2014年1月号立ち読み</ref>。
「[[ビール]]の最良の『[[肴|あて]]』は[[串カツ]]である」と多くのエッセイで記述している。
2015年に見つかった[[肝癌|肝臓癌]]を手術で治し、その体験を2017年にエッセイ『ガン[[入院]]オロオロ日記』([[文藝春秋社]])として出版した。酒は医師に止められているが、最近は「ノンアルコールビールがおいしくなった」という<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20170525-AQMCPXM2SJL6FJZV2ALZ4HHD4Y/|title=【病と生きる】漫画家・エッセイスト東海林さだおさん(79)健康診断でがんの数値 手術入院中も人間観察|publisher=[[産経新聞]]朝刊2017年5月25日|accessdate=2017-05-27}}</ref>。
=== 受賞歴 ===
*[[1970年]] 第16回[[文藝春秋漫画賞]](『タンマ君』『新漫画文学全集』)
*[[1995年]] 第11回[[講談社エッセイ賞]](『ブタの丸かじり』)
*[[1997年]] 第45回[[菊池寛賞]]
*[[2000年]] [[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]
*[[2001年]] 第30回[[日本漫画家協会賞]]大賞(『アサッテ君』)
*[[2011年]] [[旭日小綬章]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS0201X_S1A101C1PE8000/|title=秋の叙勲4079人 河野前衆院議長に桐花大綬章|accessdate=2023-02-12|publisher=[[日本経済新聞]]|date =2011/11/3}}</ref>
== 作風・評価 ==
=== 取材活動・アイデア ===
* 「僕の商売道具というのはユーモアです<ref name="siina" />」「役に立たないとか、非建設的ということこそ大切なんじゃないか<ref name="na771" />」と自負している。
* 東海林は平日は仕事場としている東京・[[西荻窪]]のマンションに泊まり込み、週末のたびに八王子市の自宅に帰る生活を続けている<ref name="na771" />。東海林は[[サラリーマン]]を主役にした漫画作品を多数描いているが、サラリーマンとしての勤務経験がないため、自宅と仕事場を行き来する電車の中での人物観察を作品に生かし、経験不足をカバーしているという。
* アイデアの書き留めや取材のために、[[画用紙#特徴|ケント紙]]をノート状に製本したものを文具店に特注している<ref name="na771" /><ref name="na_g072">『なんたって! ショージ君』(1999) 綴じ込み口絵グラビア「明るいクヨクヨ人」7枚目裏</ref>。
* 普段から取材メモとともに、「顔だけファイル<ref name="na_g072" />」と称する、[[似顔絵]]や「いかにも実在しそうな一般人の顔」のストックノートをつけており、漫画やエッセイに活用しているという。
* エッセイの対象が食べ物、生活観察、旅行などが中心なのに対し、漫画では社会的事件、政治問題など時事問題を頻繁に取り上げており、はっきりとジャンルの線引きがなされている。音楽についてははっきり「関心がない{{要出典|date=2015年3月}}」と述べている。
* エッセイのイラストならびに漫画の中で、東海林本人が出てくることはめったにない。自画像については『ショージ君の旅行鞄』等に掲載されたことがあるが、極めて少ない。
=== 漫画 ===
* 力をこめずに急いで書いたようなタッチが特徴。枠線を除いて、[[効果線]]や建物の描写において定規が用いられた形跡はほとんど見られない。[[スクリーントーン]]もほとんど用いない。
* [[ふきだし]]は楕円形ではなく、指示部の両端が大きくくぼんだ形状をした多角形で描く。ふきだし内の文字は[[版下]]を用いず、ペンによる手書きのままのことがほとんどである。
* 「グヤジー」「ユルジデ」など、カタカナや濁音を活用したセリフ回しを多用する。
* [[山藤章二]]は東海林の画風を、読者との距離を縮めるためにあえて技巧を捨てたと捉え、「ミスター・[[ヘタウマ]]」と評している<ref>山藤章二『ヘタウマ文化論』[[岩波新書]]、2013年</ref>。
* [[平凡社]]『[[マイペディア]]』においては「[[ナンセンス文学|ナンセンス]]を交えてサラリーマンの悲哀を描いた<ref name="kotobank" />」と評され、講談社『[[日本人名大辞典]]』においては「サラリーマンのペーソスをえがいて人気を博す<ref name="kotobank" />」と評されている。東海林はサラリーマン漫画において「役職では計れない人間の本質を描いている{{要出典|date=2015年3月}}」とコメントしている。
* ペン入れ中、仕事場のテレビをつけっぱなしにし、次作以降のアイデアに備えている<ref name="na771" /><ref>『なんたって! ショージ君』(1999) 綴じ込み口絵グラビア「明るいクヨクヨ人」2枚目表</ref>。
=== エッセイ ===
* 東海林は日本におけるユーモアエッセイの一人横綱的存在とされ、[[擬声語]]の多用や、[[句点]]のたびに改行を重ねるなど軽薄でスムーズな感じを抱かせる独特な文体([[昭和軽薄体]])が知られる。この文体を使う理由として、東海林は「エッセイに論理はあまりいらないんじゃないか。論理を繋げていくより、[[漢詩]]みたいにいいリズムがあればそれでいいような気がしてる<ref name="siina" />」と語っている。
* エッセイでは、旅行記、体験記を除いては仕事場での泊まり込み生活(自炊、外食、買い物など)が中心に描かれるため、一見独身生活者風である。家族(妻、子)は、ごく初期のエッセイに娘の幼い頃が描かれたほかはあまり登場しない。
* [[高島俊男]]も東海林の文章を「二十世紀日本の文章の天才をたった一人あげろ、と言われたらわたくしは、『[[太宰治]]』と答えるに躊躇しない者であるが、それにつぐのはあるいは東海林さだおではないか、と思っている<ref>『ナマズの丸かじり』巻末解説</ref>」と、激賞している。東海林と対談集の共著を上梓している[[椎名誠]]も、「丸かじりシリーズ」を高く評価している。
* かつて、小説家の[[金井美恵子]]も「[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]や[[朝日新聞]]にはせこい繊細さがあり、東海林さだおには繊細なせこさがある、両者は天と地ほどちがう」といったことを発言した。
== 作品 ==
=== 連載 ===
刊行作品は後述
; 漫画
* おませなルミちゃん([[美しい十代 (1959年の雑誌)|美しい十代]] 1960年9月号 - 1961年3月号)
* イッコちゃんとボク([[美しい十代 (1959年の雑誌)|美しい十代]] 1962年2月号 - 1962年6月号)
* [[新漫画文学全集]]([[週刊漫画TIMES]] 1967年 - 1978年) - 1988年の[[文藝春秋]]による単行本化以降「漫画文学全集」に改題(後述)。
* [[ショージ君]]([[漫画サンデー]] 1967年 - 1975年)
* [[タンマ君]]([[週刊文春]] 1968年 - )
* [[サラリーマン専科]]([[週刊現代]] 1969年 - ) - [[1995年]]に実写映画化([[サラリーマン専科#映画]]を参照)。
* [[アサッテ君]]([[毎日新聞]] 1974年 - 2014年)
; エッセイ
* [[あれも食いたいこれも食いたい]]([[週刊朝日]] 1987年 - 2023年)
: 単行本化の際「○○の丸かじり」と改題されて刊行される(上記リンク先参照)。
* 男の分別学([[オール讀物]] 1980年 - )
=== 著書 ===
書名(共著の場合は括弧内に共著者)、初版発行日(単行本、文庫版の順。特記なき場合はすべて単行本は[[文藝春秋]]発行、文庫版は[[文春文庫]]所収。)
==== 漫画 ====
; 新漫画文学全集・漫画文学全集
* 単行本
** 漫画文学全集 1 - 1988年5月15日
** 漫画文学全集 2 - 1988年6月15日
** 漫画文学全集 3 - 1988年8月20日
* 文庫
** [[立風書房|立風漫画文庫]]
*** 新漫画文学全集 1 - 1976年
*** 新漫画文学全集 2 - 1976年
*** 新漫画文学全集 3 - 1976年
*** 新漫画文学全集 4 - 1976年
*** 続新漫画文学全集 1 - 1976年12月
*** 続新漫画文学全集 2 - 1977年3月
*** 続新漫画文学全集 3 - 1977年4月
*** 続新漫画文学全集 4 - 1978年7月
*** 続新漫画文学全集 5 - 1978年10月
*** 完結編新漫画文学全集 - 1979年1月
*** 大完結新漫画文学全集 - 1979年4月
** 文春文庫
*** 漫画文学全集 1 - 1994年1月10日
*** 漫画文学全集 2 - 1994年1月10日
*** 漫画文学全集 3 - 1994年2月10日
*** 漫画文学全集 4 - 1994年2月10日
*** 漫画文学全集 5 - 1995年2月10日
*** 漫画文学全集 6 - 1995年2月10日
*** ショージ君の漫画文学全集110選 - 2004年9月15日
** [[ちくま文庫]]
*** 新漫画文学全集 1 感動篇 - 1994年7月
*** 新漫画文学全集 2 珠玉篇 - 1994年7月
*** 新漫画文学全集 3 衝撃篇 - 1994年8月
*** 新漫画文学全集 4 怒涛篇 - 1994年8月
*** 新漫画文学全集 5 渾身篇 - 1994年9月
*** 新漫画文学全集 6 落涙篇 - 1994年9月
*** 新漫画文学全集 7 情熱篇 - 1994年10月
*** 新漫画文学全集 8 慟哭篇 - 1994年10月
; ショージ君
* 立風漫画文庫
** ショージ君 1 - 1976年
** ショージ君 2 - 1976年
** ショージ君 3 - 1976年
** ショージ君 4 - 1976年
** 続ショージ君 1 - 1976年
** 続ショージ君 2 - 1977年
** 続ショージ君 3 - 1978年
* ちくま文庫
** ショージ君全集 1 - 1993年7月
** ショージ君全集 2 - 1993年7月
** ショージ君全集 3 - 1993年8月
** ショージ君全集 4 - 1993年9月
* ショージ君不滅の100名作 - 2000年12月([[マガジンハウス]])、文庫未刊行
; タンマ君
* 立風漫画文庫
** タンマ君 花も嵐もの巻 - 1977年10月
** タンマ君 照る日曇る日の巻 - 1978年4月
** タンマ君 朝な夕なにの巻 - 1980年7月
** タンマ君 楽あれば苦ありの巻 - 1981年5月
* 文春文庫
** タンマ君 1 純情編 - 1985年7月25日
** タンマ君 2 歓喜編 - 1985年7月25日
** タンマ君 3 激辛篇 - 1996年2月10日
** タンマ君 4 純愛篇 - 1996年2月10日
** タンマ君 5 妄烈篇 - 1996年3月10日
** タンマ君 6 清貧篇 - 1996年3月10日
** タンマ君 7 希望篇 - 2000年3月10日
* 文春ムック 週刊文春お正月スペシャル号 丸ごと1冊タンマ君! - 2015年1月1日、文庫未刊行
; アサッテ君
[[アサッテ君#刊行リスト]]参照。
; サラリーマン専科
[[サラリーマン専科#単行本リスト]]参照。
; 作品集
* 現代漫画 第1期11 東海林さだお集 - 1969年([[筑摩書房]])
* 東海林さだお傑作集(立風書房)<!-- 初版刊行年月の補遺乞う -->
** 1 ショージ君
** 2 新漫画文学全集
** 3 リーチ君・タンマ君
** 4 続ショージ君
** 5 続新漫画文学全集
** 6 サラリーマン専科
** 7 続々新漫画文学全集
** 8 続々ショージ君
** 9 又新漫画文学全集
** 10 完結編ショージ君
** 11 又々新漫画文学全集
** 12 完結編新漫画文学全集
** 13 タンマ君
** 14 又ショージ君
** 15 大完結新漫画文学全集
** 16 ショージ漫画読本
** 17 続サラリーマン専科
** 18 タンマ君朝な夕に
** 別巻 トットキ漫画大傑作
* 人生カタログ - 文庫のみ、1976年([[奇想天外社|奇想天外文庫]])
* グヤジイマン - 文庫のみ、1976年(奇想天外文庫)
* 若きドジたち - 文庫のみ、1977年(奇想天外文庫)、連載作品の『ミス・ハプコ』および『ヨーコとジロー』収録
* ショージ漫画読本 1 - 文庫のみ、1979年7月(立風漫画文庫)
* ショージ漫画読本 2 - 文庫のみ、1980年7月(立風漫画文庫)
* ショージ君の漫画文庫 1 - 文庫のみ、1983年11月
* ショージ君の漫画文庫 2 - 文庫のみ、1983年11月
* ショージ君の漫画文庫 3 - 文庫のみ、1984年7月
* ショージ君の漫画文庫 4 - 文庫のみ、1984年7月
* 東海林さだお自選 ショージ君の漫画文庫傑作選 - 文庫のみ、2003年9月30日
==== エッセイ ====
* ショージ君のにっぽん拝見 - 1971年4月、1976年10月25日
* ショージ君のぐうたら旅行 - 1973年3月、1977年10月25日
* ショージ君のゴキゲン日記 - 1974年9月、1978年11月25日
* ショージ君の一日入門 - 1979年3月([[平凡社]])、1983年3月25日
* ショージ君の面白半分 - 文庫のみ、1979年12月25日
* ショージ君の青春記 - 文庫のみ、1980年8月25日。[[1983年]]に『[[青春前後不覚]]』の題で[[テレビドラマ]]化。
* ショージ君のほっと一息 - 1977年9月、1981年1月25日
* ショージ君の「さあ! なにを食おうかな」 - 1975年6月(平凡社)、1981年11月25日
* ショージ君の東奔西走 - 1979年3月、1982年8月25日
* ショージ君の満腹カタログ - 1980年9月、1983年8月25日
* ショージ君の「料理大好き!」 - 1981年6月(平凡社)、1984年8月([[新潮文庫]])、2014年12月4日
* ショージ君のコラムで一杯 - 1982年10月、1986年2月25日
* ショージ君の南国たまご騒動 - 1984年4月、1987年9月10日
* ショージ君の「ナンデカ?」の発想 - 1987年7月(平凡社)、1990年8月10日
* 某飲某食デパ地下絵日記 - 1999年9月([[毎日新聞社]])、2003年8月10日
* 超優良企業「さだお商事」―ショージ君のイキイキ快適仕事術([[藤原あつこ]]) - 2002年11月22日([[東洋経済新報社]])、文庫未刊行
* ショージ君のALWAYS―東海林さだおが昭和を懐かしむ - 2006年4月([[集英社インターナショナル]])、文庫未刊行
; 丸かじりシリーズ
[[あれも食いたいこれも食いたい#丸かじりシリーズ]]参照。
; 男の分別学シリーズ
* ショージ君の男の分別学 - 1983年4月、1986年9月25日
* ショージ君の時代は胃袋だ - 1985年9月、1988年2月10日
* 東京ブチブチ日記 - 1987年5月20日、1990年3月10日
* 平成元年のオードブル - 1989年5月15日、1992年1月10日
* 笑いのモツ煮こみ - 1990年6月15日、1993年5月8日
* 食後のライスは大盛りで - 1992年3月15日、1995年3月10日
* ニッポン清貧旅行 - 1993年9月25日、1997年1月10日
* アイウエオの陰謀 - 1995年1月15日、1998年2月10日
* 行くぞ! 冷麺探険隊 - 1996年1月15日、1999年1月10日
* ずいぶんなおねだり - 1997年3月20日、2000年3月10日
* のほほん行進曲 - 1997年11月20日、2002年1月10日
* 明るいクヨクヨ教 - 1999年2月10日、2003年2月10日
* とんかつ奇々怪々 - 2000年6月20日、2004年5月10日
* ヘンな事ばかり考える男 - ヘンな事は考えない女 2002年2月1日、2005年10月10日
* もっとコロッケな日本語を - 2003年6月15日、2006年6月10日
* 誰だってズルしたい! - 2004年11月15日、2007年11月10日
* ショージ君の養生訓 - 2005年11月15日、2009年2月10日
* 偉いぞ! 立ち食いそば - 2006年6月15日、2009年12月10日。タイトル作は[[名代富士そば|富士そば]]のメニューを毎日1品ずつ注文し、全品制覇するというもの。このエッセイが縁で実現した、運営会社の社長・[[丹道夫]]との対談が収録されている。
* そうだ、ローカル線、ソースカツ丼 - 2008年5月15日、2011年4月10日
* 微視的(ちまちま)お宝鑑定団 - 2009年10月15日、2012年4月10日
* 花がないのに花見かな - 2011年4月25日、2014年4月10日
* さらば東京タワー - 2012年9月15日、2016年1月4日
* 猫大好き - 2014年7月30日、文庫未刊行
; 選集
* 東海林さだお自選 なんたって「ショージ君」―東海林さだお入門 - 1999年11月20日、2003年11月10日
* 東海林さだお自選 ショージ君の旅行鞄 - 2001年6月30日、2005年2月10日
* 東海林さだおの味わい方([[南伸坊]]編) - 2003年12月10日(筑摩書房)、文庫未刊行
==== その他 ====
; 対談
* 人生途中対談([[椎名誠]]) - 1996年10月25日、文庫未刊行
* シーナとショージの発奮忘食対談(椎名誠) - 1999年9月10日
* ビールうぐうぐ対談(椎名誠) - 1999年3月10日、2002年7月10日
* 大日本オサカナ株式会社(椎名誠) - 文庫のみ、2012年1月4日([[朝日文庫]])
* 老化で遊ぼう([[赤瀬川原平]]) - 文庫のみ、2008年2月(新潮文庫)
; 編著
* ラーメン大好き!! - 1982年10月([[冬樹社]])、1985年8月25日(新潮文庫)
=== キャラクター提供 ===
; テレビCM<ref>[https://www.bpcj.or.jp/search/show_result.php?query=1607562&pagetop=0&category=0&sort=3 「東海林さだお」の検索結果] [[放送ライブラリー]]</ref>
:* [[中外製薬]]「[[バルサン]]」(1975年 - 1976年 アニメーション:[[月岡貞夫]])
:* [[カゴメ]]「トマトジュース」(1975年 出演:[[黒柳徹子]])
== 脚注 ==
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== 関連人物 ==
* [[井浦秀夫]] - 東海林のアシスタント出身。
* [[和田誠]] - 東海林作品の装丁・ロゴデザインを担当。
{{講談社エッセイ賞|第11回}}
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[[Category:日本の漫画家]]
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[[Category:東京都立立川高等学校出身の人物]]
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[[Category:1937年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-14T03:26:34Z | 2023-11-24T20:22:37Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E6%9E%97%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%8A |
3,988 | 時空 | 時空(じくう、英: spacetime)は、時間と空間を合わせて表現する物理学の用語、または、時間と空間を同時に、場合によっては相互に関連したものとして扱う概念である。時空間(time and space)ともいう。
ニュートンは、この宇宙の時空は絶対的なもの(「絶対時間と絶対空間」、「ニュートン時空」などとも)であるとした。その時空では、空間は物理現象が起きる入れ物である3次元ユークリッド空間で、時間はそれとは独立した宇宙のどこでも一様に刻まれるものである。しかしニュートンには光学に関する研究と著作『光学』もあることなどから、これをニュートンの運動方程式などを構築するための単なる「仮定」だとする見方もある。
アインシュタインの相対性理論により、この宇宙観は一変した。特殊相対性理論では、(相対)速度が光速に近い場合の時間と空間に関する変換は、ニュートン的な時空を前提としたガリレイ変換ではなく、時間と空間が入り混じるローレンツ変換でなければならないことを示した。また、そのような、相対論が示す時空を「ミンコフスキー時空」という。一般相対性理論では、時空は物質の存在によって歪み、この歪みが重力の正体であることが説明された(電磁場とともに場の概念で扱われる)。どちらの概念も、現代物理学では標準として受け入れられている。
場の理論の量子化(場の量子論)では、余剰次元という概念が使われることがある。この分野の理論には、超弦理論などがある。不確定性原理を時空に当てはめるならば、時空の大きさがプランク長程度のものを考えるとき、時空自身は、存在時間がプランク時間程度で生成・消滅する物理的対象となる。このような描像は、時空泡 (space‐time foam) と呼ばれ、1955年にジョン・ホイーラーによって提案されている。また、1999年にリサ・ランドールとラマン・サンドラムによって提案されたブレーンワールドモデルは、「我々の住む4次元時空は、重力だけが伝播できる5次元時空中の膜のような4次元断面である」と考えるものである。 | [
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] | 時空は、時間と空間を合わせて表現する物理学の用語、または、時間と空間を同時に、場合によっては相互に関連したものとして扱う概念である。時空間ともいう。 | {{Otheruses||[[堂本剛]]の楽曲|縁を結いて}}
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'''時空'''(じくう、{{lang-en-short|spacetime}})は、[[時間]]と[[空間]]を合わせて表現する[[物理学]]の用語、または、時間と空間を同時に、場合によっては相互に関連したものとして扱う[[概念]]である。'''時空間'''({{En|time and space}})ともいう。
== 概要 ==
[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]は、この[[宇宙]]の時空は絶対的なもの(「[[絶対時間と絶対空間]]」、「ニュートン時空」などとも)であるとした。その時空では、[[空間]]は物理現象が起きる入れ物である3次元[[ユークリッド空間]]で、[[時間]]はそれとは独立した宇宙のどこでも一様に刻まれるものである。しかしニュートンには[[光学]]に関する研究と著作『[[光学 (アイザック・ニュートン)|光学]]』もあることなどから、これを[[ニュートンの運動方程式]]などを構築するための単なる「仮定」だとする見方もある。
[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の[[相対性理論]]により、この宇宙観は一変した。[[特殊相対性理論]]では、(相対)速度が[[光速]]に近い場合の時間と空間に関する変換は、ニュートン的な時空を前提とした[[ガリレイ変換]]ではなく、時間と空間が入り混じる[[ローレンツ変換]]でなければならないことを示した。また、そのような、相対論が示す時空を「[[ミンコフスキー空間|ミンコフスキー時空]]」という。[[一般相対性理論]]では、時空は物質の存在によって歪み、この歪みが[[重力]]の正体であることが説明された([[電磁場]]とともに[[場]]の概念で扱われる)<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=107}}</ref>。どちらの概念も、現代物理学では標準として受け入れられている。
[[場]]の理論の量子化([[場の量子論]])では、[[余剰次元]]という概念が使われることがある。この分野の理論には、[[超弦理論]]などがある。[[不確定性原理]]を時空に当てはめるならば、時空の大きさが[[プランク長]]程度のものを考えるとき、時空自身は、存在時間が[[プランク時間]]程度で生成・消滅する物理的対象となる。このような描像は、[[時空泡]] ({{en|space‐time foam}}) と呼ばれ、1955年に[[ジョン・ホイーラー]]によって提案されている。また、1999年に[[リサ・ランドール]]と[[ラマン・サンドラム]]によって提案された[[ブレーンワールド]]モデルは、「我々の住む4次元時空は、重力だけが伝播できる5次元時空中の膜のような4次元断面である」と考えるものである。
== 脚注==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary}}
* [[ガリレイ変換]] - [[ローレンツ変換]]
* [[相対性理論]] - [[特殊相対性理論]] - [[一般相対性理論]]
* [[超弦理論]]
* [[物理学における時間]] - [[時空の哲学]]
* [[次元]]
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[[Category:時空の哲学]] | null | 2022-11-19T17:12:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA |
3,989 | 面積 | 面積(めんせき、英: area)とは、平面内の、あるいは曲面内の図形の大きさや、広さの量である。立体物の表面の面積の合計を特に表面積(ひょうめんせき)と呼ぶ。
平面図形については、2次元空間内の部分集合(つまり図形)の定義関数を積分して面積を定義する。直感的にはまず長方形の面積を定義し、一般の図形に対しては小さな長方形の集まりでその図形を近似した極限を以って面積を定義する。
曲面については、定義関数の面積分のほか、曲面を(3次元空間内で)小さな北朝鮮ミサイル発射速度測定器北朝鮮ミサイル発射速度測定器北朝鮮ミサイル発射速度測定器北朝鮮ミサイル発射速度測定器器北朝鮮ミサイル発射速度測定器北朝鮮ミサイル発射速度測定器北朝鮮ミサイル発射速度測定器器北朝鮮ミサイル発射速度測定器の集まりでその図形を近似した極限によって面積を定義することができる。
以下のように定義されている。
基本的な面積を計算する公式をいくつか示す。
立体の表面積、側面積を求める公式を以下に示す。
円以下の公式は、正確には積分を使って正当化される。さらに幅広い図形についてこの概念を定義するためには、積分を避けて通ることはできない。
選択公理を受け入れると、「意味のある面積が定義できない図形」が存在することを証明できる (ルベーグ測度を参照)。 このような「図形」(簡単に図示することは出来ない)はタルスキーの円積問題(英語版)に関係している(三次元における類似の例として、「体積の定義できない図形」とバナッハ=タルスキーのパラドックスがある)。 このような集合は実用上現実の世界では生じない。 | [
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"title": "定義不良な面積 Ill-defined areas"
}
] | 面積とは、平面内の、あるいは曲面内の図形の大きさや、広さの量である。立体物の表面の面積の合計を特に表面積(ひょうめんせき)と呼ぶ。 | {{出典の明記|date=2017年6月}}
{{物理量
| 名称 =
| 英語 = area
| 画像 =
| 記号 =''S'', ''A''
| 次元 =[[長さ|L]]{{sup|2}}
| 階 =スカラー
| SI = [[平方メートル]] (m{{sup|2}})
| CGS = [[平方センチメートル]] (cm{{sup|2}})
| MTS =
| FPS = [[平方フィート]] (ft{{sup|2}})
| MKSG =
| CGSG =
| FPSG =
| プランク = [[プランク面積]] (''l''{{sub|P}}{{sup|2}})
| 原子 =
}}
'''面積'''(めんせき、{{Lang-en-short|area}})とは、平面内の、あるいは曲面内の図形の大きさや、広さの[[量]]である。[[立体]]物の表面の面積の合計を特に'''[[表面積]]'''(ひょうめんせき)と呼ぶ。
== 定義 ==
平面図形については、2次元空間内の部分集合(つまり図形)の[[指示関数|定義関数]]を[[積分]]して面積を定義する。直感的にはまず長方形の面積を定義し、一般の図形に対しては小さな長方形の集まりでその図形を近似した[[極限]]を以って面積を定義する。
曲面については、定義関数の[[面積分]]のほか、曲面を(3次元空間内で)小さな平面図形の集まりでその図形を近似した[[極限]]によって面積を定義することができる。
== 面積の単位 ==
* [[平方メートル]](m<sup>2</sup>)<ref group="注釈">口頭では平米(へいべい)とも呼ぶ。ただし計量法では認められていない。</ref> - [[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある[[SI組立単位]]
* [[アール (単位)|アール]](a) - 100 m<sup>2</sup> 土地の面積の計量にのみ用いることができる。
* [[ヘクタール]](ha) - {{val|10000}} m<sup>2</sup> 土地の面積の計量にのみ用いることができる。
* [[平方キロメートル]](km<sup>2</sup>) - {{val|1000000}} m<sup>2</sup>
=== イギリスの単位 ===
以下のように定義されている。
* 平方フィート - {{val|0.09290304}} m<sup>2</sup>
* 平方ヤード - 9 平方フィート - {{val|0.83612736}} m<sup>2</sup>
* 平方パーチ - 30.25 平方ヤード - {{val|25.29285264}} m<sup>2</sup>
* [[エーカー]] - 160 平方パーチまたは 43 560 平方フィート - {{val|4046.8564224}} m<sup>2</sup>
* 平方マイル - 640 エーカー - {{val|2.589988110336}} km<sup>2</sup>
=== 古い日本の単位 ===
* 勺(しゃく) - 約{{val|0.033058}} m<sup>2</sup><ref name="体積" group="注釈">体積の単位とは別</ref>
* 合(ごう) - 10 勺 - 約{{val|0.33058}} m<sup>2</sup><ref name="体積" group="注釈"></ref>
* [[坪]](つぼ)・歩(ぶ) - 10 合 - 約{{val|3.305785124}} m<sup>2</sup>
* [[畝 (単位)|畝]](せ) - 30 坪 - 約{{val|99.17355}} m<sup>2</sup>
* 段・[[反]](たん) - 10 畝 - 約{{val|991.7355}} m<sup>2</sup>
* [[町 (単位)|町]](ちょう)・町歩(ちょうぶ) - 10 段 - 約{{val|9917.355}} m<sup>2</sup>
* 尺坪(しゃくつぼ) - 約{{val|0.09183}} m<sup>2</sup>
* 帖・[[畳]](じょう) - 0.5 坪 - 約{{val|1.6528926}} m<sup>2</sup>
* [[方丈]](ほうじょう) - 約{{val|9.182736453}} m<sup>2</sup>
=== その他の単位 ===
* [[ドゥナム]]
* [[甲 (単位)|甲]]
* [[バーン (単位)|バーン]]
*[[畝 (単位)|畝]](ムー、ム、ほ) - 中国の伝統的単位
== 面積を求める公式 ==
=== 平面 ===
[[Image:Area.svg|right|201px]]
{{Wikibooks|初等数学公式集#面積|公式集}}
基本的な面積を計算する公式をいくつか示す。
*[[正方形]]: ''{{Mvar|a}}''{{sup|2}}(''{{Mvar|a}}'' = 一辺の長さ)
*[[長方形]]: ''{{Mvar|ab}}''(''{{Mvar|a}}'', ''{{Mvar|b}}'' = 縦および横の長さ)
*[[菱形]]: {{sfrac|1|2}}''{{Mvar|ab}}''(''{{Mvar|a}}'', ''{{Mvar|b}}'' は2つの[[対角線]]の長さ)
*[[台形]]: {{sfrac|1|2}}(''{{Mvar|B}}'' + ''{{Mvar|b}}'')''{{Mvar|h}}''(''{{Mvar|B}}'', ''{{Mvar|b}}'' = 上底および下底の長さ、''{{Mvar|h}}'' = 高さ)
*[[平行四辺形]]: ''{{Mvar|ah}}''(''{{Mvar|a}}'' = 底辺の長さ、''{{Mvar|h}}'' = 高さ)
*平行四辺形: |'''{{Mvar|A}}''' × '''{{Mvar|B}}'''| = |'''{{Mvar|A}}'''||'''{{Mvar|B}}'''|{{Mvar|sin ''θ''}}('''{{Mvar|A}}''', '''{{Mvar|B}}''' は平行四辺形を張る[[線型結合|独立]]な[[空間ベクトル|ベクトル]]、"×" はベクトルの[[クロス積]](外積)、"| |" はベクトルの大きさ、''{{Mvar|θ}}'' は '''{{Mvar|A}}''' と '''{{Mvar|B}}''' の[[ベクトルのなす角]])
*[[三角形]]: {{sfrac|1|2}}''{{Mvar|ah}}''(''{{Mvar|a}}'' = 底辺の長さ、''{{Mvar|h}}'' = 高さ)
*三角形: {{sfrac|1|2}}''{{Mvar|ab}}''{{Mvar|sin ''θ''}}(''{{Mvar|a}}'', ''{{Mvar|b}}'' = 辺の長さ、''{{Mvar|θ}}'' = 2辺のなす角の大きさ([[ラジアン]] (rad))、[[ヘロンの公式]]
*各[[頂点]]の[[座標]]が与えられた[[多角形]]: [[座標法]]を参照
*[[円 (数学)|円]]: {{π}}''{{Mvar|r}}''{{sup|2}}({{π}} = [[円周率]]、''{{Mvar|r}}'' = 半径)
*[[扇形]]: {{sfrac|1|2}}''{{Mvar|r}}''{{sup|2}}''{{Mvar|θ}}''(''{{Mvar|θ}}'' = 中心角の大きさ(ラジアン))
*扇形: {{sfrac|{{Mvar|''θ''}}|360}}{{π}}''{{Mvar|r}}''{{sup|2}}(''{{Mvar|θ}}'' = 中心角の大きさ(度))
*扇形: {{sfrac|1|2}}''{{Mvar|lr}}''(''{{Mvar|l}}'' = 弧の長さ ({{sfrac|2{{π}}''{{Mvar|rθ}}''|360}}))
*[[楕円]]: {{π}}''{{Mvar|ab}}''(''{{Mvar|a}}'', ''{{Mvar|b}}'' = 半長軸および半短軸の長さ)
*[[正多角形]]: {{sfrac|1|2}}''{{Mvar|Pa}}''(''{{Mvar|P}}'' = 周辺の長さ、''{{Mvar|a}}'' = 多角形の辺心距離(中心から辺の中心までの長さ))
*格子[[多角形]]:[[ピックの定理]]
*[[アステロイド (曲線)|アステロイド]]曲線に囲まれた部分: {{sfrac|3|8}}{{π}}''{{Mvar|a}}''(アステロイド曲線の方程式 ''{{Mvar|x}}''{{sup|{{sfrac|2|3}}}} + ''{{Mvar|y}}''{{sup|{{sfrac|2|3}}}} = ''{{Mvar|a}}''{{sup|{{sfrac|2|3}}}})
*[[カージオイド]]曲線に囲まれた部分: {{sfrac|3|2}}{{π}}''{{Mvar|a}}''(カージオイド曲線の極方程式 ''{{Mvar|r}}'' = ''{{Mvar|a}}''(1 + {{Mvar|cos ''θ''}}))
=== 立体 ===
立体の表面積、側面積を求める公式を以下に示す。
*[[立方体]]の表面積: 6''{{Mvar|s}}''{{sup|2}}(''{{Mvar|s}}'' = 一辺の長さ)
*[[直方体]]の表面積: 2(''{{Mvar|lw}}'' + ''{{Mvar|lh}}'' + ''{{Mvar|wh}}'')(''{{Mvar|l}}'' = 縦の長さ、''{{Mvar|w}}'' = 横の長さ、''{{Mvar|h}}'' = 高さ)
*[[円柱 (数学)|円柱]]の側面積: 2{{π}}''{{Mvar|rh}}''(''{{Mvar|r}}'' = 底面の半径、''{{Mvar|h}}'' = 高さ)
*斜切円柱の側面積: {{π}}''{{Mvar|r}}''(''{{Mvar|h}}''{{sub|1}} + ''{{Mvar|h}}''{{sub|2}})(''{{Mvar|h}}''{{sub|1}} = 最大母線の長さ、''{{Mvar|h}}''{{sub|2}} = 最小母線の長さ)
*[[円錐]]の側面積: {{π}}''{{Mvar|ar}}''(''{{Mvar|a}}'' = 母線の長さ、''{{Mvar|r}}'' = 底面の半径)
*円錐台の側面積: {{π}}''{{Mvar|a}}''(''{{Mvar|R}}'' + ''{{Mvar|r}}'')(''{{Mvar|a}}'' = 母線の長さ、''{{Mvar|R}}'', ''{{Mvar|r}}'' = 両底面の半径、''{{Mvar|h}}'' = 高さ)
*円柱の表面積: 2{{π}}''{{Mvar|r}}''(''{{Mvar|h}}'' + ''{{Mvar|r}}'')(''{{Mvar|r}}'' = 底面の半径、''{{Mvar|h}}'' = 高さ)
*円錐の表面積: {{π}}''{{Mvar|r}}''(''{{Mvar|r}}'' + ''{{Mvar|a}}'')(''{{Mvar|r}}'' = 底面の半径、''{{Mvar|a}}'' = 母線の長さ)
*[[球面|球]]の表面積: 4{{π}}''{{Mvar|r}}''{{sup|2}}(''{{Mvar|r}}'' = 半径)
円以下の公式は、正確には[[積分]]を使って正当化される。さらに幅広い図形についてこの概念を定義するためには、積分を避けて通ることはできない。
== 定義不良な面積 Ill-defined areas ==
<!--If one adopts the [[選択公理|axiom of choice]], then it is possible to prove that there are some shapes whose area cannot be meaningfully defined; see [[ルベーグ測度|Lebesgue measure]]. Such 'shapes' (they cannot ''a fortiori'' be simply visualised) enter into [[:en:Tarski's circle-squaring problem]] (and, moving to three dimensions, in the [[バナッハ=タルスキーのパラドックス|Banach-Tarski paradox]]). The sets involved will not arise in practical matters.
:''以下に上記の訳をしようとして失敗したものを記しておきます。どなたか適切な訳をお願いします。''
-->
[[選択公理]]を受け入れると、「意味のある面積が定義できない図形」が存在することを証明できる ([[ルベーグ測度]]を参照)。
このような「図形」(簡単に図示することは出来ない)は{{ill2|タルスキーの円積問題|en|Tarski's circle-squaring problem}}に関係している(三次元における類似の例として、「体積の定義できない図形」と[[バナッハ=タルスキーのパラドックス]]がある)。
このような集合は実用上現実の世界では生じない。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wikidata property}}
* [[長さ]]
* [[体積]]
* [[表面積]]
* [[面積の比較]]
* [[国の面積順リスト]]
*[[2D]]
== 外部リンク ==
* [http://www.shurey.com/Soft/JavaScript/DoRyouKou/square.html 度量衡換算(面積)]
* {{MathWorld|urlname=Area|title=Area}}
* {{PlanetMath|urlname=Area|title=area}}
* {{SpringerEOM|urlname=Area|title=Area}}
*{{Kotobank}}
{{面積の単位}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:めんせき}}
[[Category:面積|*]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:幾何学]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:物理量]]
[[Category:空間]] | 2003-03-14T05:24:03Z | 2023-12-25T04:05:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A2%E7%A9%8D |
3,990 | 神 | 神(かみ)は、宗教信仰の対象として尊崇・畏怖されるもの。
「神」という字は古代中国で生まれ、元来は道教、儒教、古代中国思想に由来しているが、日本においては長らく神道における神を指す言葉であった。近世以降にキリスト教や西洋思想が伝来すると、古代ギリシア語: Θεός テオスまたは古代ギリシア語: Ζεύς ゼウス、ラテン語: deus, Deus デウス、ドイツ語: Gott, 英語: god, Godなどにあたる外来語の訳語として用いられるようになった。これらの意味と日本語における「神」は厳密には意味が異なるとされる。詳細は下記を参照。また、英語において、多神教の神々は"God"ではなく、頭文字を小文字にして"god"、複数形:gods、もしくは"deity"、複数形:deitiesと区別する。
百科事典類の記述を紹介すると、『ブリタニカ国際大百科事典』では「宗教信仰の対象。」と説明されている。そして、一般に絶対的、超越的な存在とされる、と指摘。また、原始信仰では人間を超えた力と考えられていて、高度な宗教では超越的な力を有する人格的存在とされることが一般的、としている。
『広辞苑』の第7版では6項目に分けて説明しており、一つ目は「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知ではかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。」を挙げている。つづいていくつか日本の伝統での神を中心に説明しており、天皇の呼称のひとつとしての「神」にも触れ、6項目目に「キリスト教やイスラム教などの一神教で、宇宙と人類を創造して世界の運行を司る、全知全能の絶対者。」を挙げている。
『大辞泉』では、様々な概念に用いられる語彙、とし、「人知を超えた絶対的存在」(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)、「アニミズム的発想で自然界の万物を擬人化(神格化)した存在」、「神社に祭られている生前優れた業績で名を馳せた人物や祖先」、「天皇への尊称」、「優れた能力を発揮する人物、非常にありがたい人やもの」とした。
どのような神を崇拝・信仰するかということによって、多神教、単一神教、一神教 等々の形が生まれる。
神に対する人間の態度は、一般に「信仰」や「信心」と呼ばれている。『ブリタニカ百科事典』によると、神学は信仰を理性的に理解しようとする試みである。そして、近年では合理性をこえた原初の信仰を復興させる動きもあるという。
漢字としての「神」には、「不可知な自然の力」「不思議な力」「目に見えぬ心の働き」「ずば抜けて優れたさま」「かみ」といった意味が含まれる。
「神」は古代ギリシア語の"Θεός" テオスや英語の"God"の訳語としても使われている。このように「神」の字で、「神」と訳されることになった、もともと日本語以外の言語で呼ばれていたものごとまで含みうるわけなので、その指し示す内容は多岐にわたっている。(なお、キリスト教における"Θεός"や"God"を、中国語や日本語に翻訳する際に、「神」という字をあてることの是非について19世紀から議論がある(後述)。ただしキリスト教化される以前の古代ギリシャ時代の"Θεός"にも、訳語として「神」は用いられている。)
春秋左氏伝‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の初出とされる。 「神」は、国の興亡の分かれ目に、君主の善悪を見極め禍福を下す、聡明正直で純一な者として記されている。
世界的に見ると、神を信じている人は多く(アブラハムの宗教だけでも30億人を超える)、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、"神とともに生きている"と形容できるような人は多い。
神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。
神の性質に関して、その唯一性を強調する場合 一神教、多元性を強調する場合 多神教、遍在性を強調する場合 汎神論が生まれるとされる。ただし汎神論はしばしば一神教、多神教の双方に内包される。また、古代から現在まで神話的世界観の中で、神は超越的であると同時に人間のような意思を持つものとして捉えられてきた。近代科学の発展と無神論者からの批判を受け、このような神理解を改めるべきという意見も現れている。
人知を超えた存在であると考えられることや、人間やその他の生物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。現代科学においては想像上の概念を超えるものではなく、その物理的な実存については肯定されない。神の不在を信じる者は無神論者と呼ばれ、マルクス主義は無神論の立場に立つ。また、実存主義者の一部も無神論を主張する。
また神が存在するかどうかは知りえないことであると考える者は不可知論者と呼ばれる。
一神教の例としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教がある(これらはアブラハムの宗教である)。
いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、イエス・キリストの教えからキリスト教が誕生し、さらにムハンマドによってイスラム教が生じた。
これら3つの宗教は唯一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の知的存在があることを認めている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である(ただしイスラム教では、後に創造されたものであるほど優れているという考えがあるため、天使は人間に仕える存在という側面もある)。天使はあるときは普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。しかし「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。聖母マリアも、厳密には崇拝対象ではなく「崇敬」の対象であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。
またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。ただし、キリスト教のなかでもカトリックなどは聖人崇敬を行っているが、プロテスタント諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。
実際、一神教内部においても例えばインドのように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。無論一神教と多神教が両立不可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為に齟齬が生まれることも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。
「トーラー」の第1巻「ベレシート(キリスト教翻訳では創世記)」第1章では、天地創造の6日目までに登場する神の名は男性名詞複数形のエロヒーム(אלהים)のみである。また、第2章に記された天地創造の7日目もエロヒームのみである。
しかし、第2章における天地創造の詳述では、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」と、エロヒームが併記され、かれらは、草木とイーシュ(男)であるアダム(人)を創造して良し悪しの知識の木から取って食べてはならないと命じ、その後にアダム(人)からイシャー(女)を創造したことが記されている。
また、第三章では、イシャー(女)が蛇に促されて禁断の実を食べアダム(人)にも与えたので彼も食べたために、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、蛇がイシャー(女)の子孫のかかとを砕きイシャー(女)の子孫から頭を砕かれるように呪い、イシャー(女)には、苦悩と分娩を増やしに増やし苦痛の中で男児たちを産みイーシュ(男)に支配されると言い渡し、アダム(人)にも、顔に汗して食べ物を得ようと苦しむと言い渡し、土を呪ったことが記されている。そして、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、彼らの一人のようになったアダム(人)が命の木からも取って食べ永遠に生きないよう、アダム(人)をエデンの園から追い出し、また、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東に回されている燃える剣とケルビムを置いたことが記されている。
「申命記・詩篇・箴言・知恵の書」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、サムエル記・列王記・マカバイ記・エステル記などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。
なお、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」をそのまま声に出して読まない訳は、「神の名」を唱えてはいけないと伝えられている。
ただし、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」は、次の通り、イスラエルの祭司族であり書紀族でもあるレビ族の嗣業を指す。
日本の高等学校公民科の教科書や一般の出版物では、ユダヤ教の神を、ヘブライ文字で「ヨッド・ヘー(無声声門摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」という子音で綴られた「יהוה」(エ・ハヴァー)のみとし、その発音をYah·wehのカタカナ読みとして「ヤハウェ」と明記している。しかし、ヘブライ語としての実際の発音は、子音で「ヘット(無声軟口蓋摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」と綴るアダムの妻の名「חוה」(ハヴァー)に非常に近い。カタカナでその発音を表記するのは非常に難しく、「ה」と「ו」と「ח」は、日本語で表記すると「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。なお、このアダムの妻の名は、キリスト教口語訳聖書や新共同訳聖書でエバと表記されているが、日本ではイヴと表記されることも多い。
キリスト教のうちほとんど(カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・東方諸教会など)が「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
伝統的キリスト教の多数の教派においては、ナザレのイエスはキリスト(イエス・キリスト)であり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている。
三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議(正教会で全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。
カトリック教会では、かつては「天主(てんしゅ)」の訳語が用いられており、大浦天主堂や浦上天主堂などの教会名にその名残を留める。また隠れキリシタンによる「ゴッド」の訳には「ゴクラク」「オタイセツ」などがあったという。
プロテスタントには「真神」という用語もあった。
漢字である「神」が、ヘブライ語: "אלהים"、古代ギリシア語: "Θεός"、英語: "God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソンによる漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上「Term question(用語論争)」と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後に清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた。用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師たちが支持した。
現代でもその妥当性については様々な評価があるが、和訳聖書の最も重要な底本と推定されるモリソン訳の流れを汲むブリッジマン、カルバートソン (M. S. Culbertson) による漢文訳聖書では「神」を採用していた。ほとんどの日本語訳聖書はこの流れを汲み、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせず、訳語として「神」を採用するものが今日に至るまで圧倒的多数となっている。ただし日本においても全く問題とされなかったわけではなく、1938年にはキリスト教神学者の前島潔が「神」という用語についての論文を書いている。
旧約聖書の創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクとイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラームの聖典であるアル=クルアーン(コーラン)にはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。なお、イシュマエルとはヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではイスマーイールとなる。 また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、ムハンマドやモーセなどのように神の預言者の一人であるとみなされている。
ちなみに、イスラーム信徒に広く使われているアラビア語の中の、神を意味する単語で「アッラーフ」または「アラー」「アッラー」(アラビア語: الله ラテン文字化: Allâh)がある。これは、普通名詞である場合と、固有名詞である場合がある。
キリスト教、ネストリウス派、イスラム教が教典とするヨハネによる福音書において、「言は神」である。
また、このことをトーラーに引くと、主は祭司族として書記を務めたレビ族の嗣業であるゆえに、「主イエス・キリストは神であり、言であり、レビ族の嗣業」であることを意味する。
多神教の例として、アジアに広く存在している「仏教」、インドの「ヒンドゥー教」、中国の「道教」および日本の「神道」がある。
どちらも、別の宗教の神を排斥するより、神々の一柱として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできた。日本でも明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し混じりあっていた。多神教においても、原初の神や中心的存在の神が体系内に存在することがある。そうした一柱の神だけが重要視されることで一神教の一種、単一神教とされることもあり、その区別は曖昧である。
ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。 現在のヒンドゥー教は、次に挙げる三つの神を重要な中心的な神として扱っている。
シヴァは世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。
ヴィシュヌは、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としており、世界を維持する役目がある。多くのアヴァターラとして生まれ変わっており、数々の偉業をなした人々がヴィシュヌの生まれ変わりとしてヒンドゥー教の体系に組み込まれている。仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ヒンドゥー教の体系においてはヴィシュヌの生まれ変わりとされ、人々を惑わすために現われたとされる。
ブラフマー(梵天)は、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマーと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。
道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は「辶(しんにょう)」が「終わり」を、「首」が「始まり」を示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それはひとつの道に成ろうとしている。
道教では、道は学ぶことはできるが教えることはできないと言われる。言葉で言い表すことのできる道は真の道ではないとされ、道士の書物や言葉は道を指し示すものに過ぎず、真の「恒常不変の道」は各自が自分自身で見出さなくてはならないとされている。
神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。 また、拳法を通じて「気」を整え精神の安定を図る、瞑想によって「無為を成す」ことも道への接近に有効であるという。
本居宣長は「尋常(よのつね)ならず人の及ばぬ徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と定義したが、神道においては、神の定義は一義的には定めにくい。教義と言えるようなものを持たず、歴史的経緯により、様々な異質な要素が混在した信仰であるからである。「八百万の神」と言われ「八百万(やおよろず)」は数が多いことの例えである。神道は古代律令国家によりその体系が整えられたが、道教中の陰陽道や仏教の影響を強く受け、明確な信仰体系を持たない時代が長く続いた。明治期に仏教の影響を排除する神仏分離が行われ、一神教を意識した体系として「国家神道」が再構成されている。これにより、神道における神は天照大神から「現人神」とされる天皇に至る流れを中心として位置づけられた。しかし、この改変は徹底したものではなく、土着的な要素も依然多く残った。第二次世界大戦後、神社神道は国家と分離され、それまで非宗教とされていた神道は宗教として位置づけなおされたが、現在もなお神仏習合・国家神道の名残はそれぞれ強く残り、依然として異質の要素が雑然と混在した信仰である。仏教の影響を受ける以前の神道を「古神道(原始神道)」と呼び区別する場合もある。しかし、明治以降の「国家神道」も、江戸時代に研究が進んだ「古神道」の考え方を多く取り入れて形成された側面がある。
仏教は、本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。原始仏教は煩悩から解放された涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。現在は神と同じ様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。
時代が下るにつれ、ゴータマらの偉大な先人が、悟りを得たもの(仏)として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は多神教的な色彩を帯びていく。仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。仏教が様々な地域に浸透していく中で、現地の神々をあるいは仏の本地垂迹として、あるいは護法善神として取り込んだのである。したがって、仏教も一部の宗派では神を仏より下位にあって仏法を守護するものと位置づけ、ある面では仏自体も有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。
日本の神社で弁財天として祭られている神も、そもそもは仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神サラスヴァティーであり、仏教とともに日本に伝わったものである。これはやがて日本の市杵島姫神と習合した(神仏習合、本地垂迹説)。
仏教を考える場合、釈迦の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。
釈迦は、人間を超えた存在としての神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダーンタの宗教を否定・捨てた人であるという主張もある。一方で、釈迦は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教などの人格神とは異なるだけという意見もある。
浄土真宗の親鸞は、和讃において「弥陀の浄土に 帰しぬればすなわち諸仏に 帰するなり」と説いており、阿弥陀如来に帰依すれば、あらゆる神仏に帰依するものとしている。
現代日本では仏教はもっぱら霊魂の永遠不滅を前提とした葬式を扱う宗教と見られることが多いが、古代インドの部派仏教では死後も残る魂(アートマン)のようなものを否定する部派も存在し、現代日本においても無霊魂説を前提に仏教は無神論であると考える学者や僧侶は存在する。ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異がある(釈迦は、自己の魂(アートマン)が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしない(無記)という態度をとったが、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダーンタの宗教を拒否しているとも受け取られた)。
古代インドの宗教的な文書(ヴェーダ)では、全ての神々は梵(ブラフマン)から発生したと見なされており、仏典の「梵天勧請」の説話には、釈迦が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神(デーバ)の一人である梵天(ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧めて要請し、釈尊がそれを受け入れたという物語などが残っている。
一方、民衆レベルでは、仏もこの記事で扱うところの広い意味での「神」の一種であるといえる。日本では死亡を「成仏」と、死者を「仏」と呼称するに至る。この場合の仏とは、参拝し利益を祈願する対象であって、かつての原始仏教でそうであったような「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象ではない。ただし、日本における仏は、キリスト教の訳語としての「神」が定着する以前からの存在であり、一般的な日本語において神と仏とは区別して用いられる(神像と仏像など)。
一般に、仏教では解脱には無用なので神の存在を扱わない。
なお大乗仏典の華厳経には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良いことも悪いことも全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではない。
ヨーロッパ中世においては「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた。よって自然を解明することはそのような被造物を創造した神の意図を知ることになり神の偉大さを讃えることにもなると考えられた。ヨハネス・ケプラーやアイザック・ニュートンなど宗教的情熱、神の意図を知るために自然を知ろうとし、結果として自然科学の発達に大きく貢献した、ということは指摘されている。自然科学が発達した地域が、ほかでもなくイスラム世界やキリスト教世界であったのは、上述のような自然観と神への信仰が原動力となった、ということは指摘されている。それをリン・ホワイトは「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現した(「宗教と科学#キリスト教と近代科学」も参照)。
実際ヨーロッパでは神の存在について研究する神学は長きにわたって学問上の基礎科目であり、オックスフォード大学もケンブリッジ大学も、ハーバード大学も元は神学校である。 現代でも、科学者のおよそ半数が神や超越的な力を信じている、ということがアンケート調査で明らかになっている。
ヨーロッパの中世では広く神の存在が信じられ、神を疑う人は稀であった。神が、人々に人生の意味、生きる意味を与えてくれていた。だが、ルネ・デカルトは(当時としては非常に大胆なのだが)神を疑うような考え方を提示、代わりにego(エゴ)や(cogito)コギトを基礎に置くような思想を展開した(いわゆる「我思う、ゆえに我あり」と要約される思想。『方法序説』などで提示)、18世紀には哲学者・思想家によって唯物論など神を介しない哲学的な考え方も論じられるようになった。さらに19世紀に自然哲学が自然科学へと徐々に変化し大学で教えられる学問の体系が変化するにつれ、学問体系からは神や人生の意味とのつながりが次第に抜け落ちていった。そして、神を信ずる人の割合は中世などに比べじわじわと減ることになった。そうした一連の風潮を、19世紀にはニーチェが「神の死」・「神々の死」という言葉で指摘した。神(唯一神と神々)の死はニヒリズムをもたらしがちであるが、ニーチェは、神が思想から失われた時代になっても、神に代わって人々に生きる意味を与えてくれるような、ニヒリズムを乗り越えさせてくれるような思想を打ち立てようとした。20世紀前半、マックス・ウェーバーは、学問体系が「神」や「人生の意味」を失ってしまった状態でそれに取り組むことはどのようなことなのか、その厳しさ・残酷さを学生たちに理解させようとした(『職業としての学問』)。しかし神の定義は有神論、理神論、汎神論など様々あり曖昧である。 | [
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"text": "神(かみ)は、宗教信仰の対象として尊崇・畏怖されるもの。",
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"text": "「神」という字は古代中国で生まれ、元来は道教、儒教、古代中国思想に由来しているが、日本においては長らく神道における神を指す言葉であった。近世以降にキリスト教や西洋思想が伝来すると、古代ギリシア語: Θεός テオスまたは古代ギリシア語: Ζεύς ゼウス、ラテン語: deus, Deus デウス、ドイツ語: Gott, 英語: god, Godなどにあたる外来語の訳語として用いられるようになった。これらの意味と日本語における「神」は厳密には意味が異なるとされる。詳細は下記を参照。また、英語において、多神教の神々は\"God\"ではなく、頭文字を小文字にして\"god\"、複数形:gods、もしくは\"deity\"、複数形:deitiesと区別する。",
"title": "語源"
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"text": "百科事典類の記述を紹介すると、『ブリタニカ国際大百科事典』では「宗教信仰の対象。」と説明されている。そして、一般に絶対的、超越的な存在とされる、と指摘。また、原始信仰では人間を超えた力と考えられていて、高度な宗教では超越的な力を有する人格的存在とされることが一般的、としている。",
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"text": "『広辞苑』の第7版では6項目に分けて説明しており、一つ目は「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知ではかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。」を挙げている。つづいていくつか日本の伝統での神を中心に説明しており、天皇の呼称のひとつとしての「神」にも触れ、6項目目に「キリスト教やイスラム教などの一神教で、宇宙と人類を創造して世界の運行を司る、全知全能の絶対者。」を挙げている。",
"title": "概説"
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"text": "『大辞泉』では、様々な概念に用いられる語彙、とし、「人知を超えた絶対的存在」(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など)、「アニミズム的発想で自然界の万物を擬人化(神格化)した存在」、「神社に祭られている生前優れた業績で名を馳せた人物や祖先」、「天皇への尊称」、「優れた能力を発揮する人物、非常にありがたい人やもの」とした。",
"title": "概説"
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"text": "どのような神を崇拝・信仰するかということによって、多神教、単一神教、一神教 等々の形が生まれる。",
"title": "概説"
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"text": "神に対する人間の態度は、一般に「信仰」や「信心」と呼ばれている。『ブリタニカ百科事典』によると、神学は信仰を理性的に理解しようとする試みである。そして、近年では合理性をこえた原初の信仰を復興させる動きもあるという。",
"title": "概説"
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"text": "漢字としての「神」には、「不可知な自然の力」「不思議な力」「目に見えぬ心の働き」「ずば抜けて優れたさま」「かみ」といった意味が含まれる。",
"title": "概説"
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"text": "「神」は古代ギリシア語の\"Θεός\" テオスや英語の\"God\"の訳語としても使われている。このように「神」の字で、「神」と訳されることになった、もともと日本語以外の言語で呼ばれていたものごとまで含みうるわけなので、その指し示す内容は多岐にわたっている。(なお、キリスト教における\"Θεός\"や\"God\"を、中国語や日本語に翻訳する際に、「神」という字をあてることの是非について19世紀から議論がある(後述)。ただしキリスト教化される以前の古代ギリシャ時代の\"Θεός\"にも、訳語として「神」は用いられている。)",
"title": "概説"
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"text": "春秋左氏伝‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の初出とされる。 「神」は、国の興亡の分かれ目に、君主の善悪を見極め禍福を下す、聡明正直で純一な者として記されている。",
"title": "漢字の「神」"
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"text": "世界的に見ると、神を信じている人は多く(アブラハムの宗教だけでも30億人を超える)、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、\"神とともに生きている\"と形容できるような人は多い。",
"title": "神の性質についての様々な考え方"
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"text": "神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。",
"title": "神の性質についての様々な考え方"
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"text": "神の性質に関して、その唯一性を強調する場合 一神教、多元性を強調する場合 多神教、遍在性を強調する場合 汎神論が生まれるとされる。ただし汎神論はしばしば一神教、多神教の双方に内包される。また、古代から現在まで神話的世界観の中で、神は超越的であると同時に人間のような意思を持つものとして捉えられてきた。近代科学の発展と無神論者からの批判を受け、このような神理解を改めるべきという意見も現れている。",
"title": "神の性質についての様々な考え方"
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"paragraph_id": 13,
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"text": "人知を超えた存在であると考えられることや、人間やその他の生物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。現代科学においては想像上の概念を超えるものではなく、その物理的な実存については肯定されない。神の不在を信じる者は無神論者と呼ばれ、マルクス主義は無神論の立場に立つ。また、実存主義者の一部も無神論を主張する。",
"title": "神の性質についての様々な考え方"
},
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"text": "また神が存在するかどうかは知りえないことであると考える者は不可知論者と呼ばれる。",
"title": "神の性質についての様々な考え方"
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"text": "一神教の例としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教がある(これらはアブラハムの宗教である)。",
"title": "一神教の神"
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"text": "いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、イエス・キリストの教えからキリスト教が誕生し、さらにムハンマドによってイスラム教が生じた。",
"title": "一神教の神"
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"text": "これら3つの宗教は唯一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の知的存在があることを認めている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である(ただしイスラム教では、後に創造されたものであるほど優れているという考えがあるため、天使は人間に仕える存在という側面もある)。天使はあるときは普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。しかし「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。聖母マリアも、厳密には崇拝対象ではなく「崇敬」の対象であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。",
"title": "一神教の神"
},
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"text": "またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。ただし、キリスト教のなかでもカトリックなどは聖人崇敬を行っているが、プロテスタント諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。",
"title": "一神教の神"
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"text": "実際、一神教内部においても例えばインドのように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。無論一神教と多神教が両立不可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為に齟齬が生まれることも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。",
"title": "一神教の神"
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"text": "「トーラー」の第1巻「ベレシート(キリスト教翻訳では創世記)」第1章では、天地創造の6日目までに登場する神の名は男性名詞複数形のエロヒーム(אלהים)のみである。また、第2章に記された天地創造の7日目もエロヒームのみである。",
"title": "一神教の神"
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"text": "しかし、第2章における天地創造の詳述では、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」と、エロヒームが併記され、かれらは、草木とイーシュ(男)であるアダム(人)を創造して良し悪しの知識の木から取って食べてはならないと命じ、その後にアダム(人)からイシャー(女)を創造したことが記されている。",
"title": "一神教の神"
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"text": "また、第三章では、イシャー(女)が蛇に促されて禁断の実を食べアダム(人)にも与えたので彼も食べたために、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、蛇がイシャー(女)の子孫のかかとを砕きイシャー(女)の子孫から頭を砕かれるように呪い、イシャー(女)には、苦悩と分娩を増やしに増やし苦痛の中で男児たちを産みイーシュ(男)に支配されると言い渡し、アダム(人)にも、顔に汗して食べ物を得ようと苦しむと言い渡し、土を呪ったことが記されている。そして、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、彼らの一人のようになったアダム(人)が命の木からも取って食べ永遠に生きないよう、アダム(人)をエデンの園から追い出し、また、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東に回されている燃える剣とケルビムを置いたことが記されている。",
"title": "一神教の神"
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{
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"text": "「申命記・詩篇・箴言・知恵の書」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、サムエル記・列王記・マカバイ記・エステル記などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。",
"title": "一神教の神"
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"text": "なお、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」をそのまま声に出して読まない訳は、「神の名」を唱えてはいけないと伝えられている。",
"title": "一神教の神"
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{
"paragraph_id": 25,
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"text": "ただし、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」は、次の通り、イスラエルの祭司族であり書紀族でもあるレビ族の嗣業を指す。",
"title": "一神教の神"
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"text": "日本の高等学校公民科の教科書や一般の出版物では、ユダヤ教の神を、ヘブライ文字で「ヨッド・ヘー(無声声門摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」という子音で綴られた「יהוה」(エ・ハヴァー)のみとし、その発音をYah·wehのカタカナ読みとして「ヤハウェ」と明記している。しかし、ヘブライ語としての実際の発音は、子音で「ヘット(無声軟口蓋摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」と綴るアダムの妻の名「חוה」(ハヴァー)に非常に近い。カタカナでその発音を表記するのは非常に難しく、「ה」と「ו」と「ח」は、日本語で表記すると「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。なお、このアダムの妻の名は、キリスト教口語訳聖書や新共同訳聖書でエバと表記されているが、日本ではイヴと表記されることも多い。",
"title": "一神教の神"
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"text": "キリスト教のうちほとんど(カトリック教会・聖公会・プロテスタント・正教会・東方諸教会など)が「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。",
"title": "一神教の神"
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"text": "伝統的キリスト教の多数の教派においては、ナザレのイエスはキリスト(イエス・キリスト)であり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている。",
"title": "一神教の神"
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"text": "三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議(正教会で全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。",
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"text": "カトリック教会では、かつては「天主(てんしゅ)」の訳語が用いられており、大浦天主堂や浦上天主堂などの教会名にその名残を留める。また隠れキリシタンによる「ゴッド」の訳には「ゴクラク」「オタイセツ」などがあったという。",
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"text": "プロテスタントには「真神」という用語もあった。",
"title": "一神教の神"
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"text": "漢字である「神」が、ヘブライ語: \"אלהים\"、古代ギリシア語: \"Θεός\"、英語: \"God\"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソンによる漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上「Term question(用語論争)」と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後に清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた。用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師たちが支持した。",
"title": "一神教の神"
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"text": "現代でもその妥当性については様々な評価があるが、和訳聖書の最も重要な底本と推定されるモリソン訳の流れを汲むブリッジマン、カルバートソン (M. S. Culbertson) による漢文訳聖書では「神」を採用していた。ほとんどの日本語訳聖書はこの流れを汲み、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせず、訳語として「神」を採用するものが今日に至るまで圧倒的多数となっている。ただし日本においても全く問題とされなかったわけではなく、1938年にはキリスト教神学者の前島潔が「神」という用語についての論文を書いている。",
"title": "一神教の神"
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"text": "旧約聖書の創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクとイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラームの聖典であるアル=クルアーン(コーラン)にはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。なお、イシュマエルとはヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではイスマーイールとなる。 また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、ムハンマドやモーセなどのように神の預言者の一人であるとみなされている。",
"title": "一神教の神"
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"text": "ちなみに、イスラーム信徒に広く使われているアラビア語の中の、神を意味する単語で「アッラーフ」または「アラー」「アッラー」(アラビア語: الله ラテン文字化: Allâh)がある。これは、普通名詞である場合と、固有名詞である場合がある。",
"title": "一神教の神"
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"text": "キリスト教、ネストリウス派、イスラム教が教典とするヨハネによる福音書において、「言は神」である。",
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"text": "また、このことをトーラーに引くと、主は祭司族として書記を務めたレビ族の嗣業であるゆえに、「主イエス・キリストは神であり、言であり、レビ族の嗣業」であることを意味する。",
"title": "一神教の神"
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"text": "多神教の例として、アジアに広く存在している「仏教」、インドの「ヒンドゥー教」、中国の「道教」および日本の「神道」がある。",
"title": "多神教の神"
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"text": "どちらも、別の宗教の神を排斥するより、神々の一柱として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできた。日本でも明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し混じりあっていた。多神教においても、原初の神や中心的存在の神が体系内に存在することがある。そうした一柱の神だけが重要視されることで一神教の一種、単一神教とされることもあり、その区別は曖昧である。",
"title": "多神教の神"
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"text": "ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。 現在のヒンドゥー教は、次に挙げる三つの神を重要な中心的な神として扱っている。",
"title": "多神教の神"
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"text": "シヴァは世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。",
"title": "多神教の神"
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"text": "ヴィシュヌは、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としており、世界を維持する役目がある。多くのアヴァターラとして生まれ変わっており、数々の偉業をなした人々がヴィシュヌの生まれ変わりとしてヒンドゥー教の体系に組み込まれている。仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ヒンドゥー教の体系においてはヴィシュヌの生まれ変わりとされ、人々を惑わすために現われたとされる。",
"title": "多神教の神"
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"text": "ブラフマー(梵天)は、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心であるアートマンは、ブラフマーと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。",
"title": "多神教の神"
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"paragraph_id": 44,
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"text": "道教は漢民族の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の道(タオ)とは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す。道の字は「辶(しんにょう)」が「終わり」を、「首」が「始まり」を示し、道の字自体が太極にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。それはひとつの道に成ろうとしている。",
"title": "多神教の神"
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"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "道教では、道は学ぶことはできるが教えることはできないと言われる。言葉で言い表すことのできる道は真の道ではないとされ、道士の書物や言葉は道を指し示すものに過ぎず、真の「恒常不変の道」は各自が自分自身で見出さなくてはならないとされている。",
"title": "多神教の神"
},
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"paragraph_id": 46,
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"text": "神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。 また、拳法を通じて「気」を整え精神の安定を図る、瞑想によって「無為を成す」ことも道への接近に有効であるという。",
"title": "多神教の神"
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"paragraph_id": 47,
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"text": "本居宣長は「尋常(よのつね)ならず人の及ばぬ徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と定義したが、神道においては、神の定義は一義的には定めにくい。教義と言えるようなものを持たず、歴史的経緯により、様々な異質な要素が混在した信仰であるからである。「八百万の神」と言われ「八百万(やおよろず)」は数が多いことの例えである。神道は古代律令国家によりその体系が整えられたが、道教中の陰陽道や仏教の影響を強く受け、明確な信仰体系を持たない時代が長く続いた。明治期に仏教の影響を排除する神仏分離が行われ、一神教を意識した体系として「国家神道」が再構成されている。これにより、神道における神は天照大神から「現人神」とされる天皇に至る流れを中心として位置づけられた。しかし、この改変は徹底したものではなく、土着的な要素も依然多く残った。第二次世界大戦後、神社神道は国家と分離され、それまで非宗教とされていた神道は宗教として位置づけなおされたが、現在もなお神仏習合・国家神道の名残はそれぞれ強く残り、依然として異質の要素が雑然と混在した信仰である。仏教の影響を受ける以前の神道を「古神道(原始神道)」と呼び区別する場合もある。しかし、明治以降の「国家神道」も、江戸時代に研究が進んだ「古神道」の考え方を多く取り入れて形成された側面がある。",
"title": "多神教の神"
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"text": "仏教は、本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。原始仏教は煩悩から解放された涅槃の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。現在は神と同じ様に崇拝されている開祖のゴータマ・シッダルタも、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。",
"title": "多神教の神"
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"text": "時代が下るにつれ、ゴータマらの偉大な先人が、悟りを得たもの(仏)として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は多神教的な色彩を帯びていく。仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。仏教が様々な地域に浸透していく中で、現地の神々をあるいは仏の本地垂迹として、あるいは護法善神として取り込んだのである。したがって、仏教も一部の宗派では神を仏より下位にあって仏法を守護するものと位置づけ、ある面では仏自体も有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。",
"title": "多神教の神"
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"text": "日本の神社で弁財天として祭られている神も、そもそもは仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神サラスヴァティーであり、仏教とともに日本に伝わったものである。これはやがて日本の市杵島姫神と習合した(神仏習合、本地垂迹説)。",
"title": "多神教の神"
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"text": "仏教を考える場合、釈迦の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。",
"title": "多神教の神"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "釈迦は、人間を超えた存在としての神に関しては不可知論の立場に立ち、ヴェーダーンタの宗教を否定・捨てた人であるという主張もある。一方で、釈迦は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教などの人格神とは異なるだけという意見もある。",
"title": "多神教の神"
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"text": "浄土真宗の親鸞は、和讃において「弥陀の浄土に 帰しぬればすなわち諸仏に 帰するなり」と説いており、阿弥陀如来に帰依すれば、あらゆる神仏に帰依するものとしている。",
"title": "多神教の神"
},
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"text": "現代日本では仏教はもっぱら霊魂の永遠不滅を前提とした葬式を扱う宗教と見られることが多いが、古代インドの部派仏教では死後も残る魂(アートマン)のようなものを否定する部派も存在し、現代日本においても無霊魂説を前提に仏教は無神論であると考える学者や僧侶は存在する。ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異がある(釈迦は、自己の魂(アートマン)が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしない(無記)という態度をとったが、この態度は、アートマンが残り輪廻するというヴェーダーンタの宗教を拒否しているとも受け取られた)。",
"title": "多神教の神"
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"text": "古代インドの宗教的な文書(ヴェーダ)では、全ての神々は梵(ブラフマン)から発生したと見なされており、仏典の「梵天勧請」の説話には、釈迦が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神(デーバ)の一人である梵天(ブラフマン)が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧めて要請し、釈尊がそれを受け入れたという物語などが残っている。",
"title": "多神教の神"
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"tag": "p",
"text": "一方、民衆レベルでは、仏もこの記事で扱うところの広い意味での「神」の一種であるといえる。日本では死亡を「成仏」と、死者を「仏」と呼称するに至る。この場合の仏とは、参拝し利益を祈願する対象であって、かつての原始仏教でそうであったような「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象ではない。ただし、日本における仏は、キリスト教の訳語としての「神」が定着する以前からの存在であり、一般的な日本語において神と仏とは区別して用いられる(神像と仏像など)。",
"title": "多神教の神"
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"text": "一般に、仏教では解脱には無用なので神の存在を扱わない。",
"title": "多神教の神"
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"text": "なお大乗仏典の華厳経には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良いことも悪いことも全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではない。",
"title": "多神教の神"
},
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"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパ中世においては「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた。よって自然を解明することはそのような被造物を創造した神の意図を知ることになり神の偉大さを讃えることにもなると考えられた。ヨハネス・ケプラーやアイザック・ニュートンなど宗教的情熱、神の意図を知るために自然を知ろうとし、結果として自然科学の発達に大きく貢献した、ということは指摘されている。自然科学が発達した地域が、ほかでもなくイスラム世界やキリスト教世界であったのは、上述のような自然観と神への信仰が原動力となった、ということは指摘されている。それをリン・ホワイトは「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現した(「宗教と科学#キリスト教と近代科学」も参照)。",
"title": "学問や自然科学との関係"
},
{
"paragraph_id": 60,
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"text": "実際ヨーロッパでは神の存在について研究する神学は長きにわたって学問上の基礎科目であり、オックスフォード大学もケンブリッジ大学も、ハーバード大学も元は神学校である。 現代でも、科学者のおよそ半数が神や超越的な力を信じている、ということがアンケート調査で明らかになっている。",
"title": "学問や自然科学との関係"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ヨーロッパの中世では広く神の存在が信じられ、神を疑う人は稀であった。神が、人々に人生の意味、生きる意味を与えてくれていた。だが、ルネ・デカルトは(当時としては非常に大胆なのだが)神を疑うような考え方を提示、代わりにego(エゴ)や(cogito)コギトを基礎に置くような思想を展開した(いわゆる「我思う、ゆえに我あり」と要約される思想。『方法序説』などで提示)、18世紀には哲学者・思想家によって唯物論など神を介しない哲学的な考え方も論じられるようになった。さらに19世紀に自然哲学が自然科学へと徐々に変化し大学で教えられる学問の体系が変化するにつれ、学問体系からは神や人生の意味とのつながりが次第に抜け落ちていった。そして、神を信ずる人の割合は中世などに比べじわじわと減ることになった。そうした一連の風潮を、19世紀にはニーチェが「神の死」・「神々の死」という言葉で指摘した。神(唯一神と神々)の死はニヒリズムをもたらしがちであるが、ニーチェは、神が思想から失われた時代になっても、神に代わって人々に生きる意味を与えてくれるような、ニヒリズムを乗り越えさせてくれるような思想を打ち立てようとした。20世紀前半、マックス・ウェーバーは、学問体系が「神」や「人生の意味」を失ってしまった状態でそれに取り組むことはどのようなことなのか、その厳しさ・残酷さを学生たちに理解させようとした(『職業としての学問』)。しかし神の定義は有神論、理神論、汎神論など様々あり曖昧である。",
"title": "学問や自然科学との関係"
}
] | 神(かみ)は、宗教信仰の対象として尊崇・畏怖されるもの。 | {{出典の明記|date=2014年9月21日 (日) 17:42 (UTC) }}{{Otheruses}}{{Redirect|神様}}
'''神'''(かみ)は、宗教[[信仰]]の対象<ref>{{Cite Kotobank|word=神|encyclopedia=[[ブリタニカ国際大百科事典]]|accessdate=2020-12-08}}</ref>として尊崇・畏怖されるもの<ref>{{Cite Kotobank|word=神|encyclopedia=[[デジタル大辞泉]]|accessdate=2020-12-14}}</ref>。
== 語源 ==
「神」という字は古代中国で生まれ、元来は[[道教]]、[[儒教]]、古代[[中国哲学|中国思想]]に由来しているが、日本においては長らく[[神道]]における神を指す言葉であった。[[近世]]以降に[[キリスト教]]や[[西洋思想]]が伝来すると、{{lang-grc|Θεός}} テオスまたは{{lang-grc|Ζεύς}} [[ゼウス]]、{{lang-la|deus, Deus}} [[デウス]]、{{lang-de|Gott}}, {{lang-en|god, God}}などにあたる外来語の訳語として用いられるようになった。これらの意味と日本語における「神」は厳密には意味が異なるとされる。詳細は下記を参照。また、英語において、多神教の[[神々]]は"God"ではなく、頭文字を小文字にして"god"、複数形:gods、もしくは"[[:en:Deity|deity]]"、複数形:deitiesと区別する。
== 概説 ==
百科事典類の記述を紹介すると、『[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ国際大百科事典]]』では「[[宗教]][[信仰]]の対象。」と説明されている<ref name="britanica">ブリタニカ国際大百科事典【神】</ref>。そして、一般に絶対的、超越的な存在とされる、と指摘<ref name="britanica" />。また、原始信仰では人間を超えた力と考えられていて、高度な宗教では超越的な力を有する人格的存在とされることが一般的、としている<ref name="britanica" />。
『[[広辞苑]]』の第7版では6項目に分けて説明しており、一つ目は「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知ではかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。」を挙げている。つづいていくつか日本の伝統での神を中心に説明しており、天皇の呼称のひとつとしての「神」にも触れ、6項目目に「キリスト教やイスラム教などの一神教で、宇宙と人類を創造して世界の運行を司る、全知全能の絶対者。」を挙げている。
<!--{{いつ|date=2014年9月21日 (日) 17:42 (UTC)}}{{誰|date=2014年9月21日 (日) 17:42 (UTC)}}によると「{{要出典範囲|神とは、人間の民族性・地域性・文化・伝統などの歴史的背景を経て、その宗教的風土や伝統的風土の中で醸成された、人知を超えて尊敬・崇拝される存在ないし概念のことをいう。|date=2014年9月21日 (日) 17:42 (UTC)}}」-->
<!--神は、[[神話]]や[[伝説]]や[[経典]]に登場する憧れや尊敬や信仰の対象となる存在である。-->
『[[大辞泉]]』では、様々な概念に用いられる語彙、とし、「人知を超えた絶対的存在」([[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]・[[イスラム教]]など)、「[[アニミズム]]的発想で自然界の万物を[[擬人化]](神格化)した存在」、「[[神社]]に祭られている生前優れた業績で名を馳せた人物や祖先」、「[[天皇]]への尊称」、「優れた能力を発揮する人物、非常にありがたい人やもの」とした<ref>{{Cite book |和書 |editor=小学館『大辞泉』編集部/ |title=大辞泉 |publisher=[[小学館]] |pages= 548-549 |date=1998-11-20 |edition=増補・新装版 |isbn=978-4-09-501212-4 }}</ref>。
どのような神を崇拝・信仰するかということによって、[[多神教]]、[[単一神教]]、[[一神教]] 等々の形が生まれる<ref name="britanica" />。
神に対する人間の態度は、一般に「[[信仰]]」や「[[信心]]」と呼ばれている<ref name="britanica" />。『ブリタニカ百科事典』によると、[[神学]]は信仰を理性的に理解しようとする試みである<ref name="britanica" />。そして、近年では合理性をこえた原初の信仰を復興させる動きもあるという<ref name="britanica" />。
漢字としての「神」には、「不可知な自然の力」「[[不思議]]な力」「目に見えぬ心の働き」「ずば抜けて優れたさま」「かみ」といった意味が含まれる<ref name="kanji961" />。
「神」は[[古代ギリシア語]]の{{lang|grc|"Θεός"}} <small>テオス</small>や[[英語]]の{{lang|en|"God"}}の訳語としても使われている。このように「神」の字で、「神」と訳されることになった、もともと日本語以外の言語で呼ばれていたものごとまで含みうるわけなので、その指し示す内容は多岐にわたっている。(なお、[[キリスト教]]における{{lang|grc|"Θεός"}}や{{lang|en|"God"}}を、中国語や日本語に翻訳する際に、「神」という字をあてることの是非について19世紀から議論がある([[#キリスト教における訳語としての「神」|後述]])。ただしキリスト教化される以前の古代ギリシャ時代の{{lang|grc|"Θεός"}}にも、訳語として「神」は用いられている。)
== 漢字の「神」 ==
[[ファイル:神 kyuujitai.PNG|right|thumb|126px|「神」の字の旧字体「神」。一説の漢字の成り立ちは、会意兼形声であり「示(祭壇)+<small>音符</small>申」で、いなずまのように、不可知な自然の力のこと。のち、不思議な力や、目に見えぬ心の働きをもいう<ref name="kanji961">引用元・出典:『漢字源』961頁、学研、1996年4月1日改訂新版第3刷</ref>。のちに「ずばぬけてすぐれたさま」や「かみ」といった意味が加わった。]]
=== 初出 ===
[[春秋左氏伝]]‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の{{要出典範囲|date=2018年5月|初出とされる}}。
「神」は、国の興亡の分かれ目に、君主の善悪を見極め禍福を下す、聡明正直で純一な者として記されている<ref>[http://ctext.org/chun-qiu-zuo-zhuan/zhuang-gong/zh 春秋左氏伝‐荘公三十二年 中国哲学書電子化計画]</ref><ref>{{OA}}{{Cite book|和書|author=島田鈞一|title=春秋左氏伝新講|date=1937|publisher=有精堂出版部|id={{NDLJP|1120963/38}}|pages= 60-61|chapter= 一九 有神降于莘 莊公三十二年}}</ref><ref>{{OA}}{{Cite book|和書|author=博文館|editor= 博文館編輯局|title=春秋左氏伝|date=1941|publisher=博文館|location=東京|series= 博文館文庫 第2部|id={{NDLJP|1111785/65}}|volume=第1巻|page= 114}}</ref>。
== 神の性質についての様々な考え方 ==
世界的に見ると、神を信じている人は多く([[アブラハムの宗教]]だけでも30億人を超える<ref>Preston Hunter, [http://www.adherents.com/Religions_By_Adherents.html ''Major Religions of the World Ranked by Number of Adherents'']</ref>)、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、"神とともに生きている"と形容できるような人は多い。
神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。
* [[創造神|創造主]]([[ギリシア語]]では[[デミウルゴス]])、[[第一原因]]としての神。全ての物事の原因を辿って行ったときに、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
* [[アニミズム]]([[汎霊説]])における神。洞窟や岩石、山、水(泉、滝)など[[自然]]界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
* [[守護神]]、恩恵を与える者としての神。神は[[信仰]]、犠牲、[[祈り]]などに応じて[[現世]]や[[来世]]における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方。
* 人格神。神が[[人]]と同じような[[人格]](や姿)を持つとする考え方。
* 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えば<!--{{要出典範囲|[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]|date=2009年7月}}や-->[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]はこのような考え方を採った{{要出典|date=2015年4月}}ことで知られている。[[汎神論]]。
神の性質に関して、その唯一性を強調する場合 [[一神教]]、多元性を強調する場合 [[多神教]]、遍在性を強調する場合 [[汎神論]]が生まれるとされる。ただし汎神論はしばしば一神教、多神教の双方に内包される{{要出典|date=2015年4月}}。また、古代から現在まで神話的世界観の中で、神は超越的であると同時に人間のような意思を持つものとして捉えられてきた。近代科学の発展と無神論者からの批判を受け、このような神理解を改めるべきという意見{{要出典|date=2015年4月}}も現れている。
人知を超えた存在であると考えられることや、人間やその他の生物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。現代科学においては想像上の概念を超えるものではなく、その物理的な実存については肯定されない。神の不在を信じる者は[[無神論]]者と呼ばれ、[[マルクス主義]]は無神論の立場に立つ。また、[[実存主義|実存主義者]]の一部も無神論を主張する。
また神が存在するかどうかは知りえないことであると考える者は[[不可知論]]者と呼ばれる。
== 一神教の神 ==
{{Seealso|一神教|唯一神}}
[[ファイル:Michelangelo, Creation of Adam 06.jpg|thumb|250px|[[ミケランジェロ]]の絵画「[[アダムの創造]]」の詳細。これは、[[アブラハムの宗教]]における神の一般的な描写である。]]
[[一神教]]の例として[[ユダヤ教]]、[[キリスト教]]、[[イスラム教]]がある(これらは[[アブラハムの宗教]]である)。
いずれも、[[旧約聖書]]を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においては[[モーセ]]の時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、[[イエス・キリスト]]の教えからキリスト教が誕生し、さらに[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]によってイスラム教が生じた。
これら3つの宗教は唯一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の知的存在があることを認めている。[[天使]]が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である(ただしイスラム教では、後に創造されたものであるほど優れているという考えがあるため、天使は人間に仕える存在という側面もある)。天使はあるときは普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。しかし「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。[[聖母マリア]]も、厳密には崇拝対象ではなく「[[マリア崇敬|崇敬]]」の対象であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いを[[イエス・キリスト]]に伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。
またキリスト教では、[[聖人]]が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。ただし、キリスト教のなかでも[[カトリック教会|カトリック]]などは聖人[[崇敬]]を行っているが、[[プロテスタント]]諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。[[イスラム世界]]では[[ジン_(アラブ)|ジン]]という人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『[[千夜一夜物語]]』(アラビアン・ナイト)に登場する[[アラジンと魔法のランプ|魔法のランプ]]のジンが有名)。
実際、一神教内部においても例えば[[インド]]のように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。無論一神教と多神教が両立不可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為に齟齬が生まれることも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。
=== ユダヤ教の神 ===
{{正確性|section=1|date=2013年3月|各宗教・諸思想において解釈の別れる[[聖書]]の記述を、直接出典とすることへの疑義}}
{{See also|ヤハウェ|l1=アドナイ(ヤハウェ)}}
「[[トーラー]]」の第1巻「ベレシート(キリスト教翻訳では[[創世記]])」第1章では、[[天地創造]]の6日目までに登場する神の名は男性名詞複数形の[[エロヒーム]]({{lang|he|אלהים}})のみである。また、第2章に記された[[天地創造]]の7日目もエロヒームのみである。<ref>[http://interlinearbible.org/genesis/1.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 1]</ref>
しかし、第2章における[[天地創造]]の詳述では、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」と、エロヒームが併記され、かれらは、草木とイーシュ(男)である[[アダム]](人)を創造して良し悪しの知識の木から取って食べてはならないと命じ、その後に[[アダム]](人)からイシャー(女)を創造したことが記されている。<ref>[http://interlinearbible.org/genesis/2.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 2]</ref>
また、第三章では、イシャー(女)が蛇に促されて禁断の実を食べ[[アダム]](人)にも与えたので彼も食べたために、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、[[蛇]]がイシャー(女)の子孫の[[かかと]]を砕きイシャー(女)の子孫から頭を砕かれるように呪い、イシャー(女)には、苦悩と分娩を増やしに増やし苦痛の中で男児たちを産みイーシュ(男)に支配されると言い渡し、[[アダム]](人)にも、顔に汗して食べ物を得ようと苦しむと言い渡し、土を呪ったことが記されている。そして、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、彼らの一人のようになった[[アダム]](人)が[[生命の樹 (旧約聖書)|命の木]]からも取って食べ永遠に生きないよう、[[アダム]](人)を[[エデンの園]]から追い出し、また、[[生命の樹 (旧約聖書)|命の木]]に至る[[道]]を守るために、エデンの園の東に回されている燃える剣とケルビムを置いたことが記されている。<ref name="名前なし-1">[http://interlinearbible.org/genesis/3.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3]</ref>
「[[申命記]]・[[詩篇]]・[[箴言]]・[[知恵の書]]」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、[[サムエル記]]・[[列王記]]・[[マカバイ記]]・[[エステル記]]などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。
なお、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」をそのまま声に出して読まない訳は、「神の名」を唱えてはいけないと伝えられている。
ただし、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」は、次の通り、[[イスラエル]]の祭司族であり書紀族でもある[[レビ族]]の嗣業を指す<ref name="名前なし-2">[http://interlinearbible.org/deuteronomy/10.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Deuteronomy 10:9]</ref>。
*[[聖書 口語訳|口語訳聖書]][[申命記]]10章9節‐そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。
*[[新共同訳聖書]]申命記10章9節‐それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。
*[[欽定訳聖書]]申命記10章9節‐Wherefore Levi hath no part nor inheritance with his brethren; the LORD is his inheritance, according as the LORD thy God promised him.
日本の[[高等学校]][[公民 (教科)|公民科]]の教科書や一般の出版物では、ユダヤ教の神を、[[ヘブライ文字]]で「ヨッド・ヘー([[無声声門摩擦音]])・ヴァヴ([[軟口蓋接近音]])・ヘー([[無声声門摩擦音]])」という子音で綴られた「יהוה」(エ・ハヴァー)のみとし、その発音をYah·weh<ref name="名前なし-1"/>のカタカナ読みとして「[[ヤハウェ]]」と明記している。しかし、[[ヘブライ語]]としての実際の発音は、子音で「ヘット([[無声軟口蓋摩擦音]])・ヴァヴ([[軟口蓋接近音]])・ヘー([[無声声門摩擦音]])」と綴る[[アダム]]の妻の名「חוה」(ハヴァー)に非常に近い<ref>[http://interlinearbible.org/genesis/3.htm ヘブライ語対訳英語聖書 Genesis 3:20]</ref>。カタカナでその発音を表記するのは非常に難しく、「ה」と「ו」と「ח」は、日本語で表記すると「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。なお、この[[アダム]]の妻の名は、[[キリスト教]][[聖書 口語訳|口語訳聖書]]や[[新共同訳聖書]]で[[イヴ|エバ]]と表記されているが、日本では[[イヴ]]と表記されることも多い。
===キリスト教の神===
====三位一体====
{{Main|三位一体|イエス・キリスト}}
[[ファイル:Angelsatmamre-trinity-rublev-1410.jpg|thumb|170px|[[アンドレイ・ルブリョフ]]による[[イコン]]『[[至聖三者 (ルブリョフによるイコン)|至聖三者]]』。<br/>[[正教会]]には[[旧約聖書]]において[[アブラハム]]を3人の[[天使]]が訪れたことを[[三位一体]]の神の象徴的顕現として捉える伝統があるが、そのもてなしの食卓の情景を描いたイコンをもとに3人の天使のみが描かれたもの。]]
[[キリスト教]]のうちほとんど([[カトリック教会]]<ref name="rc">[[カトリック教会]]からの出典:[http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message117.htm 教皇ベネディクト十六世の2006年6月11日の「お告げの祈り」のことば]</ref>・[[聖公会]]<ref name="ac">[[聖公会]]からの出典:[http://www5.ocn.ne.jp/~f-frank/39kajyo.html 英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)一1563年制定一]</ref>・[[プロテスタント]]<ref name="lc">[[ルーテル教会]]からの出典:[http://www.jelc.or.jp/belief/ 私たちルーテル教会の信仰]</ref><ref name="wcf">[[改革派教会]]からの出典:[http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/index.htm ウェストミンスター信仰基準]</ref><ref name="bcf">[[バプテスト]]からの出典:[http://www.ccel.org/creeds/bcf/bcfc02.htm#chapter2 Of God and of the Holy Trinity.]</ref><ref name="jg">[[メソジスト]]からの参照:[[フスト・ゴンサレス]] 著、[[鈴木浩 (神学者)|鈴木浩]] 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, [[教文館]] (2010/11)、ISBN 9784764240353</ref>・[[正教会]]<ref name="oc">[[正教会]]からの出典:[http://www.orthodoxjapan.jp/tebiki/shinkou01.html 信仰-信経:日本正教会 The Orthodox Church in Japan]</ref>・[[東方諸教会]]<ref name="syr">[[東方諸教会]]からの出典:[http://www.syrian.jp/001-1-3.htm 信仰と教義(シリア正教会)]</ref>など)が「'''[[父なる神|父]]'''と'''[[神の子|子]]'''と'''[[聖霊]]'''」を唯一の神([[三位一体]]・[[至聖三者]])として信仰する。
伝統的キリスト教の多数の[[教派]]においては、[[ナザレのイエス]]は[[キリスト]]([[イエス・キリスト]])であり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている<ref name="JCOC">[[正教会]]からの参照:[http://oca.org/OCchapter.asp?SID=2&ID=17 Jesus Christ], [http://oca.org/OCchapter.asp?SID=2&ID=18 Son of God], [http://oca.org/OCchapter.asp?SID=2&ID=19 Incarnation]([[アメリカ正教会]])</ref><ref name="JCRC">[[カトリック教会]]からの参照:[http://www.newadvent.org/cathen/14597a.htm Christology]([[カトリック百科事典]])</ref><ref name="JCAC">[[聖公会]]からの参照:[http://www5.ocn.ne.jp/~f-frank/39kajyo.html 英国聖公会の39箇条(聖公会大綱)] [[1563年]]制定(ただしこの「39カ条」は現代の聖公会では絶対視はされていない)。</ref><ref name="JCLC">[[ルーテル教会]]からの参照:[http://cyclopedia.lcms.org/display.asp?t1=C&word=CHRISTJESUS Christ Jesus.(Edited by: Erwin L. Lueker, Luther Poellot, Paul Jackson)]</ref><ref name="JCRP">[[改革派教会]]からの参照:[http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/index.htm ウェストミンスター信仰基準]</ref><ref name="JCBT">[[バプテスト]]からの参照:[http://www.ccel.org/creeds/bcf/bcfc02.htm#chapter2 Of God and of the Holy Trinity.], [http://www.ccel.org/creeds/bcf/bcfc08.htm#chapter8 Of Christ the Mediator.] (いずれも[http://www.ccel.org/creeds/bcf/bcf.htm#confession The 1677/89 London Baptist Confession of Faith])</ref><ref name="JCJG">[[メソジスト]]からの参照:[[フスト・ゴンサレス]] 著、[[鈴木浩 (神学者)|鈴木浩]] 訳『キリスト教神学基本用語集』pp.73-75, [[教文館]]、2010年11月、ISBN 9784764240353</ref>。
[[三位一体論]]の定式の確認の多くは、古代の[[公会議]]([[正教会]]で[[全地公会議]]と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。
====キリスト教における訳語としての「神」====
{{See also|デウス#日本のカトリックにおけるデウス}}
[[カトリック教会]]では、かつては「[[天主]](てんしゅ)」の訳語が用いられており、[[大浦天主堂]]や[[浦上天主堂]]などの教会名にその名残を留める。また[[隠れキリシタン]]による「ゴッド」の訳には「ゴクラク」「オタイセツ」など<ref>{{Cite book |和書 |author=高島俊男|authorlink=高島俊男 |title=お言葉ですが… |volume=11 |publisher=[[連合出版]] |date=2006-11 |isbn=978-4-89772-214-6 }} {{要ページ番号|date=2016-05-08 }}</ref>があったという。
[[プロテスタント]]には「真神」という用語もあった<ref>{{Cite book |和書 |author=鈴木範久|authorlink=鈴木範久 |title=聖書の日本語 - 翻訳の歴史 |publisher=[[岩波書店]] |date=2006-02 |isbn=978-4-00-023664-5 }}{{要ページ番号|date=2016-05-08 }}</ref>。
漢字である「神」が、{{lang-he|"אלהים"}}、{{lang-grc|"Θεός"}}、{{Lang-en|"God"}}の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた[[清]]におけるキリスト教宣教の先駆者である、[[ロバート・モリソン (宣教師)|ロバート・モリソン]]による漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の[[1840年]]代から[[1850年]]代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上「'''Term question'''(用語論争)」と呼ばれる。この論争の発生には、[[アヘン戦争]]後に清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた<ref name="ゴッドと上帝p120-131">『[[#ゴッドと上帝|ゴッドと上帝]]』、pp. 120-131。</ref>。用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「'''上帝'''」を推す派と「'''神'''」を推す派とが存在したことである。前者は[[ウォルター・メドハースト]]など多数派イギリス人宣教師が支持し、後者を[[E.C.ブリッジマン]]をはじめとするアメリカ人宣教師たちが支持した<ref name="ゴッドと上帝p120-131" />。
現代でもその妥当性については様々な評価があるが、[[日本語訳聖書|和訳聖書]]の最も重要な[[底本]]と推定されるモリソン訳の流れを汲む[[イライジャ・コールマン・ブリッジマン|ブリッジマン]]、カルバートソン (M. S. Culbertson) による[[中国語訳聖書|漢文訳聖書]]では「神」を採用していた。ほとんどの[[日本語訳聖書]]はこの流れを汲み<ref>『[[#ゴッドと上帝|ゴッドと上帝]]』、pp. 160-162。</ref>、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせず、訳語として「神」を採用するものが今日に至るまで圧倒的多数となっている。ただし[[日本のキリスト教史|日本]]においても全く問題とされなかったわけではなく、[[1938年]]にはキリスト教[[神学者]]の[[前島潔]]が「神」という用語についての論文<ref>『[[#ゴッドと上帝|ゴッドと上帝]]』、p. 122。</ref>を書いている。
===イスラームの神===
{{See also|アッラーフ|l1=アッラーフ({{lang|ar|الله}} Allâh)}}
[[旧約聖書]]の[[創世記]]において、[[アブラハム]]の子であり異母兄弟である[[イサク]]と[[イシュマエル]]がおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。[[イスラーム]]の聖典である[[アル=クルアーン]](コーラン)にはイシュマエルが[[アラブ人]]の祖であるとの記述がある。なお、イシュマエルとはヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではイスマーイールとなる。
また、[[インジール]](福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、[[ムハンマド]]や[[モーセ]]などのように神の[[預言者]]の一人であるとみなされている。
ちなみに、[[ムスリム|イスラーム信徒]]に広く使われている[[アラビア語]]の中の、神を意味する単語で「アッラーフ」または「アラー」「アッラー」({{lang-ar|[[:ar:الله|الله]]}} [[ラテン文字化]]: Allâh)がある。これは、普通名詞である場合と、固有名詞である場合がある。
===福音書における神===
{{See also|ロゴス}}
[[キリスト教]]、[[ネストリウス派]]、[[イスラム教]]が教典とする[[ヨハネによる福音書]]において、「言は神」である。
*[[聖書 口語訳|口語訳聖書]]ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
*[[新共同訳聖書]]ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
*[[欽定訳聖書]]ヨハネによる福音書1章1節‐In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
また、このことを[[トーラー]]に引くと、主は祭司族として書記を務めた[[レビ族]]の嗣業<ref name="名前なし-2"/>であるゆえに、「主[[イエス・キリスト]]は神であり、言であり、[[レビ族]]の嗣業」であることを意味する。
==多神教の神==
{{main|多神教}}
[[多神教]]の例として、[[アジア]]に広く存在している「[[仏教]]」、[[インド]]の「[[ヒンドゥー教]]」、[[中国]]の「[[道教]]」および[[日本]]の「[[神道]]」がある。
どちらも、別の宗教の神を排斥するより、神々の一柱として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできた。日本でも明治の[[神仏分離|神仏分離令]]によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し混じりあっていた。多神教においても、原初の神や中心的存在の神が体系内に存在することがある。そうした一柱の神だけが重要視されることで一神教の一種、単一神教とされることもあり、その区別は曖昧である。
===ヒンドゥー教===
ヒンドゥー教の人間神は、自然神の生まれ変わりであったり、生前に偉大な仕事をなした人であったりする。
現在のヒンドゥー教は、次に挙げる三つの神を重要な中心的な神として扱っている。
[[シヴァ]]は世界の終わりにやって来て世界を破壊して次の世界創造に備える役目をしている。
[[ヴィシュヌ]]は、世界を三歩で歩くと言われる太陽神を起源としており、世界を維持する役目がある。多くの[[アヴァターラ]]として生まれ変わっており、数々の偉業をなした人々がヴィシュヌの生まれ変わりとしてヒンドゥー教の体系に組み込まれている。仏教の開祖ゴータマ・ブッダも、ヒンドゥー教の体系においてはヴィシュヌの生まれ変わりとされ、人々を惑わすために現われたとされる。
[[ブラフマー]](梵天)は、世界の創造と、次の破壊の後の再創造を担当している。人間的な性格は弱く、宇宙の根本原理としての性格が強い。なお、自己の中心である[[アートマン]]は、ブラフマーと同一(等価)であるとされる([[梵我一如]])。
===道教===
道教は[[漢民族]]の土着的・伝統的な宗教である。中心概念の'''道'''(タオ)とは[[宇宙]]と[[人生]]の根源的な不滅の[[真理]]を指す。道の字は「辶([[辵部|しんにょう]])」が「終わり」を、「[[首部|首]]」が「始まり」を示し、道の字自体が[[太極]]にもある二元論的要素を表している。この道(タオ)と一体となる修行のために[[錬丹術]]を用いて、[[不老不死]]の霊薬、[[丹]]を錬り、[[仙人]]となることを究極の理想とする。それはひとつの道に成ろうとしている。
道教では、道は学ぶことはできるが教えることはできないと言われる<ref name="Hartz">P.R.ハーツ『道教』<世界の宗教> 鈴木博訳 青土社 1994年、ISBN 4791753003 pp.12-23.</ref>。言葉で言い表すことのできる道は真の道ではないとされ、道士の書物や言葉は道を指し示すものに過ぎず、真の「恒常不変の道」は各自が自分自身で見出さなくてはならないとされている。
[[神仙]]となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励される。真理としての宇宙観には多様性があり、中国では儒・仏・道の三教が各々補完し合って共存しているとするのが道教の思想である。食生活においても何かを食することを禁ずる律はなく、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きするとされる。
また、[[拳法]]を通じて「[[気]]」を整え精神の安定を図る、[[瞑想]]によって「[[無為]]を成す」ことも道への接近に有効であるという<ref name="Hartz"/>。
===神道===
{{main|神 (神道)}}
[[File:Amaterasu cave crop.jpg|thumb|340px|[[天照大御神]]]]
[[本居宣長]]は「尋常(よのつね)ならず人の及ばぬ徳(こと)のありて、畏(かしこ)きもの」と定義したが、'''[[神道]]'''においては、神の定義は一義的には定めにくい。教義と言えるようなものを持たず、歴史的経緯により、様々な異質な要素が混在した信仰であるからである。「八百万の神」と言われ「八百万(やおよろず)」は数が多いことの例えである。神道は古代律令国家によりその体系が整えられたが、道教中の[[陰陽道]]や[[仏教]]の影響を強く受け、明確な信仰体系を持たない時代が長く続いた。明治期に仏教の影響を排除する[[神仏分離]]が行われ、一神教を意識した体系として「[[国家神道]]」が再構成されている。これにより、神道における神は[[天照大神]]から「[[現人神]]」とされる天皇に至る流れを中心として位置づけられた。しかし、この改変は徹底したものではなく、土着的な要素も依然多く残った。第二次世界大戦後、[[神道指令|神社神道は国家と分離され]]、それまで非宗教とされていた神道は宗教として位置づけなおされたが、現在もなお[[神仏習合]]・[[国家神道]]の名残はそれぞれ強く残り、依然として異質の要素が雑然と混在した信仰である。仏教の影響を受ける以前の神道を「[[古神道]](原始神道)」と呼び区別する場合もある。しかし、明治以降の「国家神道」も、[[江戸時代]]に研究が進んだ「古神道」の考え方を多く取り入れて形成された側面がある。
=== 仏教 ===
[[仏教]]は、本来は神のような信仰対象を持たない宗教であった。[[原始仏教]]は[[煩悩]]から解放された[[涅槃]]の境地に至るための実践の道であり、超越的な存在を信仰するものではなかった。現在は神と同じ様に崇拝されている開祖の[[釈迦|ゴータマ・シッダルタ]]も、神を崇拝することを自分の宗教に含めず、また自身を神として崇拝することも許さなかった。
時代が下るにつれ、ゴータマらの偉大な先人が、[[悟り]]を得たもの([[仏陀|仏]])として尊敬を集め、崇拝されるようになり、仏教は多神教的な色彩を帯びていく。仏教にはヒンドゥー教の神が含まれ、中国の神も含まれ、日本に来ては神道と混ざりあった。仏教が様々な地域に浸透していく中で、現地の神々をあるいは仏の[[本地垂迹]]として、あるいは[[護法善神]]として取り込んだのである。したがって、仏教も一部の宗派では神を仏より下位にあって仏法を守護するものと位置づけ、ある面では仏自体も有神教の神とほぼ同じ機能を果たしている。
日本の神社で[[弁才天|弁財天]]として祭られている神も、そもそもは仏教の護法神(天部の仏)として取り込まれたヒンドゥー教の女神[[サラスヴァティー]]であり、仏教とともに日本に伝わったものである。これはやがて日本の[[宗像三女神|市杵島姫神]]と習合した([[神仏習合]]、[[本地垂迹|本地垂迹説]])。
==== 仏教における神 ====
仏教を考える場合、釈迦の教えとそれを継承していった教団のレベルと、土着信仰を取り込んだ民衆レベルとを混同しないで、それぞれについて議論する必要がある。
[[釈迦]]は、人間を超えた存在としての神に関しては[[不可知論]]の立場に立ち、[[ヴェーダーンタ]]の宗教を否定・捨てた人であるという主張もある。一方で、釈迦は人間を超えた存在(非人格的)を認めており、ただ単にその理解の仕方がキリスト教やヒンドゥー教などの人格神とは異なるだけという意見もある。
[[浄土真宗]]の[[親鸞]]は、和讃において「弥陀の浄土に 帰しぬればすなわち諸仏に 帰するなり」と説いており、阿弥陀如来に帰依すれば、あらゆる神仏に帰依するものとしている。
現代日本では仏教はもっぱら[[霊魂]]の永遠不滅を前提とした[[葬式]]を扱う宗教と見られることが多いが、古代インドの部派仏教では死後も残る[[魂]](アートマン)のようなものを否定する部派も存在し、現代日本においても無霊魂説を前提に仏教は無神論であると考える学者や僧侶は存在する。ここにおいても民衆の信仰の形とは大きな差異がある(釈迦は、自己の魂([[アートマン]])が死後も残るのかとの議論に対し、回答をしない([[無記]])という態度をとったが、この態度は、アートマンが残り輪廻するという[[ヴェーダーンタ]]の宗教を拒否しているとも受け取られた)。
古代インドの宗教的な文書([[ヴェーダ]])では、全ての神々は梵([[ブラフマン]])から発生したと見なされており、仏典の「[[梵天の勧請|梵天勧請]]」の説話には、釈迦が悟った後、「悟りは微妙であり、欲に縛られた俗人には理解できない。布教は無駄である。」として沈黙していたので、神([[デーバ]])の一人である[[梵天]]([[ブラフマン]])が心配してやって来て「俗人にもいろいろな人がいるので、悟った真理を布教するよう」に勧めて要請し、釈尊がそれを受け入れたという物語などが残っている。
一方、民衆レベルでは、仏もこの記事で扱うところの広い意味での「神」の一種であるといえる。日本では死亡を「[[成仏]]」と、死者を「[[仏]]」と呼称するに至る。この場合の仏とは、参拝し利益を祈願する対象であって、かつての原始仏教でそうであったような「教えを学び、悟る・覚醒する」という対象ではない。ただし、日本における仏は、キリスト教の訳語としての「神」が定着する以前からの存在であり、一般的な日本語において神と仏とは区別して用いられる(神像と仏像など)。
==== ブッダ(仏)と神 ====
一般に、仏教では[[解脱]]には無用なので神の存在を扱わない。
なお[[大乗仏教|大乗仏典]]の[[華厳経]]には、人間がこの世で経験するどのようなことも全て神のみ業であるとの考え方は、良いことも悪いことも全て神によるのみとなって、人々に希望や努力がなくなり世の中の進歩や改良が無くなってしまうので正しくないと説かれているが、これは神の存否について議論したものというわけではない。
==学問や自然科学との関係==
{{関連記事|隙間の神|科学の神|[[:Category:知識の神|知識の神]]|[[ロゴス|ロゴス(理知・神言)]]|理神論|インテリジェント・デザイン}}
;一神教を母体として生まれた自然科学
ヨーロッパ中世においては「神は二つの書物をお書きになった」、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていた<ref>村上陽一郎『奇跡を考える』岩波書店、pp.133-138</ref>。よって自然を解明することはそのような被造物を創造した神の意図を知ることになり神の偉大さを讃えることにもなると考えられた。[[ヨハネス・ケプラー]]や[[アイザック・ニュートン]]など宗教的情熱、神の意図を知るために自然を知ろうとし、結果として自然科学の発達に大きく貢献した、ということは指摘されている。[[自然科学]]が発達した地域が、ほかでもなくイスラム世界やキリスト教世界であったのは、上述のような自然観と神への信仰が原動力となった、ということは指摘されている。それをリン・ホワイトは「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現した(「[[宗教と科学#キリスト教と近代科学]]」も参照)。
実際ヨーロッパでは神の存在について研究する[[神学]]は長きにわたって学問上の基礎科目であり、[[オックスフォード大学]]も[[ケンブリッジ大学]]も、[[ハーバード大学]]も元は[[神学校]]である。<!-- 日本でも、本来神学校として創設された[[東北学院大学]]や、[[同志社大学]]などはこの名残か、[[工学部]]において[[神学|キリスト教学]]が必修科目{{要出典||2007年4月}}[cite:見聞による。←検証可能性を満たしていない]となっている。 --> 現代でも、[[科学者]]のおよそ半数が神や超越的な力を信じている、ということがアンケート調査で明らかになっている。
{{関連記事|科学者#科学者と信仰|哲学#現代理工医学からの批判}}
<!--2015年4月20日 (月) 10:49 (UTC) の編集で注釈化されたが出典がない記述でもありコメントアウト
<ref> {{誰|date=2015年4月20日 (月) 10:49 (UTC)}}が「{{要出典範囲|人間はその生物学的本質として、神の存在を必要とする|date=2015年4月20日 (月) 10:49 (UTC)}}」と指摘。すなわち、「{{要出典範囲|[[時間]]の概念を認識し、かつ「[[死]]」の概念を理解することができるのは人間の高度に発達した大脳においてのみであり、いずれ死を迎えるという未来に対して不安を抱く。死を始めとする自らの努力においてはどうしようもない未来に対する巨大な不安を和らげるために人知を超越した神の存在を設定しようとする|date=2015年4月20日 (月) 10:49 (UTC)}}」、というものである。
{{誰|date=2015年4月20日 (月) 10:49 (UTC)}}「{{要出典範囲|このような性質から、永続的な不安を感じることの少ない若い世代においては神への強い信仰は得られにくく、死という最も大きい不安を感じることの多い年配の世代になればなるほどに神への信仰を持つ率が高くなると言われている。また両親が信仰を持つことなどからの影響で信仰心を持つ場合も少なくないが、逆に家庭内での不和等が生みだす永続的な不安感を持つ者は絶対的な他者への救いを求めることへ繋がりやすい。|date=2015年4月20日 (月) 10:49 (UTC)}}」</ref>-->
;「神の死」
ヨーロッパの中世では広く神の存在が信じられ、神を疑う人は稀であった。神が、人々に[[人生の意味]]、生きる意味を与えてくれていた。だが、[[ルネ・デカルト]]は(当時としては非常に大胆なのだが)神を疑うような考え方を提示、代わりにego(エゴ)や(cogito)コギトを基礎に置くような思想を展開した(いわゆる「[[我思う、ゆえに我あり]]」と要約される思想。『[[方法序説]]』などで提示)、18世紀には哲学者・思想家によって[[唯物論]]など神を介しない哲学的な考え方も論じられるようになった。さらに19世紀に自然哲学が自然科学へと徐々に変化し大学で教えられる学問の体系が変化するにつれ、学問体系からは神や人生の意味とのつながりが次第に抜け落ちていった。そして、神を信ずる人の割合は中世などに比べじわじわと減ることになった。そうした一連の風潮を、[[19世紀]]には[[ニーチェ]]が「[[神の死]]」・「神々の死」という言葉で指摘した。神([[唯一神]]と[[神々]])の死は[[ニヒリズム]]をもたらしがちであるが、[[ニーチェ]]は、神が思想から失われた時代になっても、神に代わって人々に生きる意味を与えてくれるような、ニヒリズムを乗り越えさせてくれるような思想を打ち立てようとした。20世紀前半、[[マックス・ウェーバー]]は、学問体系が「神」や「人生の意味」を失ってしまった状態でそれに取り組むことはどのようなことなのか、その厳しさ・残酷さを学生たちに理解させようとした(『[[職業としての学問]]』)。しかし神の定義は有神論、理神論、汎神論など様々あり曖昧である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。
書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。-->
* {{Cite book |和書 |author=柳父章|authorlink=柳父章 |title=ゴッドと上帝 - 歴史のなかの翻訳 |publisher=[[筑摩書房]] |date=1986-03 |isbn=978-4-480-85301-1 |ref=ゴッドと上帝 }}
{{参照方法|section=1|date=2014年9月}}
* {{Cite book |和書 |author=河合隼雄|authorlink=河合隼雄 |title=宗教と科学の接点 |publisher=[[岩波書店]] |date=1986-05 |isbn=978-4-00-001026-9 |ref= }}<!--2007年4月6日 (金) 03:51 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=佐藤幸治|authorlink=佐藤幸治 (心理学者) |title=心理禅 - 東洋の知恵と西洋の科学 |publisher=[[創元社]] |date=2004-08 |isbn=978-4-422-93270-5 |ref= }}<!--2007年4月6日 (金) 03:51 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=渡辺正雄|authorlink=渡辺正雄 |title=科学者とキリスト教 - ガリレイから現代まで |publisher=[[講談社]] |series=[[ブルーバックス]] B-686 |date=1987-04 |isbn=978-4-06-132686-6 |ref= }}<!--2007年4月6日 (金) 03:51 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |last=ヘルマンス |first=ウィリアム |authorlink= |others=雑賀紀彦訳 |title=アインシュタイン、神を語る - 宇宙・科学・宗教・平和 |publisher=[[工作舎]] |date=2000-04 |isbn=978-4-87502-326-5 |ref= }}<!--2007年4月6日 (金) 05:29 (UTC)-->
== 関連書籍 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。
書籍の宣伝はおやめ下さい。-->
* [[鹿嶋春平太]] 『神とゴッドはどう違うか』 [[新潮社]]〈新潮選書〉、1997年2月。ISBN 978-4-10-600512-1。
== 関連項目 ==
{{sisterlinks|commons=category:God}}
;宗教
* [[主 (宗教)]]、[[ドミナス]]
* [[神の一覧]]、[[日本の神の一覧]]
* [[神話]]、[[デウス]]、[[アニミズム]]
* [[神学]]
* [[宗教と科学]]
* [[現人神]]
;学術
* [[汎神論]]、[[無神論]] [[有神論]]
* [[不可知論]]、[[懐疑論]]、[[神の存在証明]]
* [[多神教優位論]]
* [[暗黙知]]、[[理神論]]
* [[創造科学]] - [[インテリジェント・デザイン]]
* [[形而上学]]
* [[元型]]
* [[象徴]]
==外部リンク==
{{IEP|god-west|Western Concepts of God|西洋における神の概念}}
{{SEP|concepts-god|Concepts of God|神の概念}}
* {{Kotobank}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かみ}}
[[Category:神|*]]
[[Category:哲学の主題]] | 2003-03-14T05:44:22Z | 2023-09-26T11:08:35Z | false | false | false | [
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3,991 | 魔法騎士レイアース |
『魔法騎士レイアース』(マジックナイトレイアース Magic Knight Rayearth)は、CLAMPによる日本の漫画。また、それを原作としたテレビアニメ、ゲーム、OVAなどの作品である。
1993年11月から1996年4月まで『なかよし』で連載されたファンタジー漫画作品。また、1994年から1995年にかけてアニメ化され、1997年にはOVA化もされた。
基本的に典型的な剣と魔法といったファンタジーロールプレイングゲームの世界をモチーフとしているが、単純な勧善懲悪ものではなく、シリアスで重いテーマを内包している。また、作中で登場する固有名詞の多くは、CLAMPの「カタカナの名前は覚えにくいので、どこかで聞いたことのある名前がいい」と言う理由から、自動車関連の固有名称が用いられている。
以下は漫画版に準ずる。
1993年、東京タワーでの社会科見学中、中学2年生の3人の少女・獅堂光、龍咲海、鳳凰寺風は偶然出会った。窓の外、眩い光の中に浮かび上がる謎の少女の幻影を見た3人は、その直後異世界「セフィーロ」に召喚される。そこで出会った導師クレフの導きを受けて、3人は「魔法騎士(マジックナイト)」としてセフィーロを救う旅に出ることに。
神官ザガートがセフィーロの要である「柱」エメロード姫を捕らえたため、セフィーロは魔物の跋扈する危険な世界に変わり果てていた。ザガートを倒し、エメロードを救いだすためには、魔法騎士が伝説の鉱物エスクードで出来た武器を手に入れ、各地の神殿に眠る魔神を蘇らせる必要があるという。クレフの指示で最初の協力者である創師プレセアと出会い、謎の生き物モコナを道案内に沈黙の森を抜ける3人は、森の中で剣士フェリオと出会った。フェリオの助力を受けつつ森を抜けた3人は、その先にある伝説の泉エテルナでの試練を乗り越えて武器を手に入れ、モコナの案内に従って今度は魔神が眠る神殿を目指す。
各所に立ちはだかるザガートの手下を退けながら、数々の困難を乗り越えることで武器と防具を成長させ、ついに魔神を手に入れた3人の魔法騎士。
しかし、彼女らがザガートを倒した時、エメロード姫は突如豹変して魔神を召喚し、ザガートを死に追いやった魔法騎士たちへの怨嗟の言葉を吐きながら襲い掛かってきた。戸惑う3人に、わずかに残っていた彼女の最後の思念が呼びかけ、自身の死を願うと共に魔法騎士の真実を3人に告げる。
セフィーロの荒廃の原因が、世界の柱であるエメロード姫がザガート1人を愛してしまい世界と万人の幸福を祈ることができなくなったためであること。「柱」は自分で死ぬこともこの世界の民に討たれることも許されないこと。外界から呼び寄せられた魔法騎士こそが「柱」を殺せる唯一の存在であること。すなわち、魔法騎士の本当の役目は世界を守護する務めを果たせなくなった「柱」を討ち取ることであり、光たちは世界の崩壊を防ぐために死を望むエメロード姫の願いを叶えるためにこの世界に呼び出されたのだった。憎しみに駆られてセフィーロの消滅を願う前に自分を殺せと懇願するエメロード姫。そして衝撃の真実に動揺する魔法騎士たち。
突きつけられた残酷な真実への戸惑いと迷いの果て、3人は魔神を合体させ、ザガートを失った悲しみと憎しみから復讐鬼と化してしまったエメロードを討ち、その悲しい願いを叶えた。そして傷心とともに元の世界へと帰還する。
東京に戻って数ヵ月後。
「もう1度セフィーロへ行って、エメロード姫が守っていたあの国のために自分が出来ることをしたい」と願った3人は何者かによって再び召喚される。
そしてクレフたちと再会した3人は、要であった「柱」を失ったことで崩壊の危機に加えて他国の侵攻に晒されているセフィーロのために、そして自分たち自身との決着をつけるために戦う道を自らの意思で選ぶ。
一方、セフィーロを狙う3つの国々にはそれぞれの思惑があった。イーグル率いるオートザムは星の内部が空洞化に至るほど環境汚染が深刻なため、国民の移住先としてセフィーロを欲していた。そしてタトラとタータの姉妹率いるチゼータは国土拡大を願い、政情的には一番安定しているはずのファーレンはまだ幼い国主である皇女アスカの子供らしい願いからセフィーロを欲していたのである。
様々な思惑が絡み合い、セフィーロ上空で繰り返される戦闘。そして時は満ち、実は地球及びセフィーロとその他のすべての世界を作り出した創造神たる存在であったモコナの導きの元、時を止められた東京を舞台に、新たな「柱」の候補者となった光とオートザムのイーグルによる決戦が始まる。 柱の座をかけた決闘の中、光は、病により余命いくばくもないイーグルが柱制度を終わらせるべく柱となった上で永遠の眠りにつこうとしていることを知る。しかし、セフィーロのみならずオートザムの未来をも想うがゆえに柱候補の資格を失ったイーグルは消滅の危機に立たされてしまう。柱制度によるこれ以上の犠牲を良しとしない光は消滅を承知でイーグルを救わんとする。すんでのところで風と海に助けられ、彼の無事を祈るランティス、そしてその願いを受け止めたモコナの導きにより、イーグルとともに無事生還を果たす。
戦いを終え、「柱」に選ばれた光はセフィーロの未来を思い、たった独りの背に重責を背負わせる柱制度の廃止を宣言する。そして、全ての世界の人々が喜びも苦しも共に分かち合い、愛する人々と共に幸福に生きていける世界を作りたいと願う。光の強い意志に納得したモコナはその願いを叶え、魔神たちと共に新たな次元へと旅立った。光の望み通り、争いあっていたオートザム・ファーレン・チゼータ・セフィーロが一つとなり、新しい世界への一歩を踏み出した。そして、光たちの住む地球もセフィーロとつながり自由に往来が可能となった。
光が新たに生まれた国の名付けを読者に委ねるシーンで物語は幕を閉じる。
本作の主人公である3人の中学2年生の少女達。東京タワーで社会見学をしていた際に初対面し、その直後にエメロード姫によってセフィーロに召喚される。魔法、武器、魔神を駆使して戦う。しかし、古来よりその本来の役割は、自ら命を絶つことができないセフィーロの柱を抹殺することだった。
主人公3人が突如として飛ばされてきた異世界。いわゆる剣と魔法のファンタジー世界であり、心の強さが全てを決定する要素となる。「柱」と呼ばれる存在の祈りによって世界が支えられており、もし柱が祈ることができなくなれば、セフィーロも崩壊する。セフィーロの空はオートザムから望遠鏡を使えば見えるらしい。「柱制度」崩壊後は、新しい国づくりへ動き出した。
原作では建造物や地名など登場したが町などは出てこず、アニメ版や一部のゲームでは様々な地域や町を渡り歩くなど描かれる舞台に大きな違いがある。
ザガートとその部下達。アルシオーネとイノーバ以外、部下達は全員がザガートへの忠誠心から彼に従っているわけではなく彼の本心を理解している訳でも無い。ザガートの死後、アルシオーネ以外の部下達はセフィーロのために尽力する。
セフィーロの外に存在する、高度に機械化された近未来的な文化の共和制の国。球状の星からトゲ状の岩が突き出た形をしており、そのトゲは星の核から地表を貫く形で生えている、居住区のあるエリアという設定である。環境汚染(アニメ版は精神エネルギーの枯渇)が深刻化しているため、人々はドーム型の居住区に住んでいるが、国土自体が死んでいっているため、滅亡を免れない状況にある。ケーキが存在する。
セフィーロの外に存在する、中国風文化を持つ帝政の国。土星の環のような物を二つ持っている赤い星でその7割が海。リングの部分を除き、星の周囲を赤いガラスのようなバリアーが覆っている。経済的にも豊かで本来ならばセフィーロに侵攻する必要性の少ない国。
セフィーロの外に存在する、アラブ風文化を持つ王制の国。小さな球状の主星の左右から横にラグビーボールを半分にしたような形状の重力発生装置が生えている。国土は真ん中の小さな主星のみで大変狭い。国民は褐色の肌に比して薄い髪色が特徴。方言が存在するが、現実世界の関西弁と同じものである。勉強不足のアスカでさえ知っているほど、領土が小さいことで有名。
いずれもアニメ版のオリジナル敵キャラクターで二期から登場。アニメは原作と違いストーリーが大幅に変更されたものになっている。
魔法騎士に力を貸して共に戦うと伝えられる存在。その正体は柱を殺すことを目的に創造された巨大ロボットで、普段は動物の姿で神殿に眠っている。
いずれも自らの意志を持ち、魔法騎士の意志の強さを認めた場合動物形態から巨大ロボット形態になり、魔法騎士を体内に取り込む形で共に戦うようになる。TVアニメ版では魔法騎士のことをそれぞれ名前で呼ぶ他、原作では末端肥大なデザインだった足が細くなっているなどデザインも若干アレンジされている。3人が愛用する武器と魔法を使用する他、3体の魔力を組み合わせた合体魔法「閃光の螺旋」が使用出来る。また合体することで巨大な合体魔神レイアースとなる。
原作では創造主(モコナ)の下僕でもあり、モコナの前では謙遜した態度をとる。柱システムの崩壊を受け、モコナと共に別次元へと消えていった。
読売テレビ制作・日本テレビ系列(NNS加盟局)にて1994年10月17日から1995年11月27日まで月曜日の19時30分から20時00分に放送された。本編は全49話だが、1995年12月23日には総集編「マジックナイト・レイアース増刊号」が放送された。また、レギュラー放送の第9話(1994年12月12日放送)については、第8話までの総集編と本編を合わせた60分スペシャルとして放送された。
本作は芸術文化振興基金助成事業の一環として制作されているため、第一章のOPタイトルの下にはそのシンボルロゴと『芸術文化振興基金助成作品』がクレジットされている。
本作で一度中断した月曜19時台のアニメ枠が復活し、2009年4月に『サプライズ』が平日19時台に設置されるまで一貫してアニメが放送された。当初の放送期間は1年間だったが、3カ月延長された。一部のスタッフ・キャストを引き継いだ上で後番組として開始し、現在も時間帯を変えて継続している『名探偵コナン』が年が明けた翌年1月8日からスタートしたのはこのためである。なお11月で終了となっているのは年末年始の特別編成によるもので、12月から翌年1月1日は単発特番や後続の『世界まる見え!テレビ特捜部』の2時間スペシャルで『コナン』開始までつなぐ形をとった。1995年12月23日の総集編は土曜日の放送である。
プロデューサーの諏訪道彦によると、グッズの売り上げは上々で内容の評価も高い作品ではあったが、視聴率だけは低かったとのこと。
メインタイトルロゴ『魔法騎士レイアース』の表記が全部カタカナの『マジックナイト・レイアース』に直されたのは第43話(1995年10月16日放送分)から。なお、放送中の1995年10月より、東京ムービー新社は「キョクイチ東京ムービー」と表記変更(合併は11月)したが、アニメ本編終了まで「東京ムービー新社」名義でクレジットされていた(12月の総集編ではそれ以前の社名である「東京ムービー」名義で表示)。現在の再放送(並びにデジタルリマスター版)は「トムス・エンタテインメント」名義でクレジットされている。
「マジックナイト・レイアース増刊号」はアニメの総集編の他、キャラクターや名場面をピックアップした特別編となっており、光役の椎名、海役の吉田、風役の笠原が顔出しで出演した。
原作とは設定や話の展開が異なる部分が多く、特に第二章は大きく異なっている。アニメオリジナルストーリーが多い。
第一章のEDの動画でプレセアの衣装が変化している。
セガのTOY部門がキャラクターグッズを展開。放映当時CMにも力を入れていたのかレイアースを実写版で製作しCMで放映していた。このときの光、海、風の3人を演じていたのは南青山少女歌劇団のメンバーである(光役:広橋佳以、海役:飯田未、風役:千葉紗子)。
BGMの楽曲は『CDシアター ドラゴンクエスト』のコンセプトを踏襲して、同じ作曲家が作っている。
1995年1月16日放送分の第11話「異世界セフィーロの魔神伝説」の翌日に阪神淡路大震災が発生。連日民放各社が時間帯に関係なく地震報道を放送している中、被災地のキー局である読売テレビは、翌週の第12話「恐るべき幻惑士 カルディナ」を予定通り放送した。
第一章オープニングで、田村直美が歌った「ゆずれない願い」は売り上げ100万枚を越えるヒットを記録し、田村は同曲で1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』に出場した。
主要な声の出演については、登場キャラクターの節を参照のこと。
これらの曲の歌詞には全て主人公3人の名である「光」「海」「風」の文字が入っている。
出典は1995年9月時点のものとする。
ビデオソフト
3バージョン共に1995年3月 - 1996年4月にポリグラムからリリースされた。
DVD-BOX
DVD(単品)
BD-BOX
OVA版『レイアース』は全3巻で、VHS/LD版が1997年7月25日 - 12月10日にポリグラムから、DVD-BOX版が2002年11月27日に講談社からリリースされた。他に『特別編 -希望の翼-』(ディレクターズカット版)はVHS/LD版が1998年にポリグラムから発売されている。また、2014年10月に発売された『魔法騎士レイアース』のBD-BOXに、このOVA版も特典DVDとして収録されている。
原作・TVアニメ版とは大きく設定が異なり、OVAオリジナルストーリーとなっている。スタッフも大幅に変更されているが、担当声優は同じ。ナレーションは田中秀幸が担当。
など。
1995年8月25日にセガより4,800円で発売されたアクションRPG。キャッチコピーである「ハマるロープレ」シリーズの第3弾。開発担当は「ファンタシースターシリーズ」や後に『サクラ大戦』を手掛けるセガ第二CS研究開発部。初回版は三平方BOX仕様に加え、レイアースファンブックおよびパワーメモリー用のインデックスシールが付いた。米国ではサターン最後のソフトとして発売された。
マップを移動しながら、画面上に点在する敵キャラクターを操作キャラクターで倒していく戦闘システム。ボスにはいわゆる根負けシステムが採用されており、負けてもゲームオーバーにはならず再戦すると弱体化している。最終決戦は魔神を切り替えて戦闘を行うシューティング風のゲームになっている。
画面演出には、階段で他階に移動する際の風景は切り替えや暗転を使用せずに連続的に切り替えるというシステムを採用している。この独特な演出はセガの自社製作であり、続作の『サクラ大戦』などの画面演出の原形となっている。
ほぼフルボイスになっており、流し台やタンスなど特に意味のない物に対しても先頭のメンバーがセリフをしゃべる。イベントごとには3人それぞれの絵日記(ゲームの進行そのものには影響しない)が追加されていく。
物語の発端と最終的な目的以外は、原作・アニメ版とも異なったストーリー展開となっており、オリジナルキャラクターも多数登場する(上記で説明のあった「セラ」はこのゲームでは10歳の少女という設定になっている)。イベントシーンなどにアニメーションが多数挿入されており、序盤は本編からの流用が多いものの、風の武器が剣から弓に変更されていることや、ほぼオリジナルストーリーだということもあり、中盤以降はアニメスタッフによる新規描き下ろしアニメが多用されている。原作・アニメ版では成長と共に長大化していく剣を使っていた風だが、このゲームでは最後まで弓を使用する(つまりエスクード製の弓である)。また、原作・アニメ版には登場しないオリジナルの魔法や技が複数登場する。ザガート側の人物のうち、ザガート、エメロード姫、イノーバ、アルシオーネは魔法騎士に敗れて、アスコットは半狂乱になったカルディナの一撃を受けて、カルディナとラファーガ(洗脳)はイノーバに処刑される(原作ではアルシオーネ、TVアニメ版ではイノーバを除いて全員生存)。一方でプレセアはTVアニメ版のように途中で死亡せず最後まで生存している。また、フェリオとエメロード姫の関係については、このゲームでは何も触れられていない。
魔神の声はスタッフロールではセレス表記のみだが、レイアース、ウィンダムも玄田哲章が担当している。
ゲームオリジナルキャラクターとしてルキノ(秋元羊介)、カルタス(速水奨)、セラ(こおろぎさとみ)、アベニール(梅津秀行)、アルティナ(皆口裕子)、ネロ(山田恭子)が登場する。
主題歌はTVアニメと同じ「ゆずれない願い」
1994年12月16日にセガより4,800円で発売されたRPG。対応ハードはゲームギアで、同日に「ゲームギア キャラクターパック 魔法騎士レイアース」として、ゲームギア本体との同梱版も15,800円で発売された。レイアースのロゴとモコナがプリントがされたゲームギア本体(色はレッド)と本カセット、モコナのアミュレットがセットになっている。カセットも本体カラーに合わせ赤色になっている(通常は黒)。
ストーリーはオリジナルで、姿を消してしまったモコナを追うというものになっている。フェリオが変装の達人となっているなど、原作とは一部設定が異なり、魔法に関しても原作とは効果が全く違うものがある。
戦闘シーンはスロットバトルと呼び、ルーレットで攻撃の順番が決まり、ルーレットの回転が速いほど攻撃力が上がるというシステムになっている。
本作のストーリーをもとにした外伝漫画がるんるんに掲載された(設定資料集に再録されている)。
1995年8月4日にセガより4,800円で発売された育成シミュレーションゲーム。対応ハードはゲームギア。なお、サターン版とゲームギアの2作のCMはすべて光、海、風の3人の実写版で製作された。
再びセフィーロに戻ってきた3人を魔法騎士に育てるのが目的。育て方によっては魔法騎士以外にも剣士や魔術師などもになれる。8つの育成メニューを毎日1つ実行して50日間で3人のパラメータを上げていく。
魔法騎士にするにはアイテムの入手が必要であり、3人同時に魔法騎士にするにはメモを取りながらの複数回プレイが必要。主人公3人の成長度合いでエンディングが変化する。
タイトルBGMに第2章オープニングテーマである「キライになれない」が使用されている。
1995年9月29日にトミーより9,800円で発売されたRPG。対応ハードはスーパーファミコン。
原作の第1部をベースにしているが、原作やアニメにはない多彩な魔法が用意されている。3人の冒険だが、途中ではフェリオ、アスコット、カルディナ、ラファーガと共に冒険を続けるシーンもある。各キャラクターの掛け声も聞ける(味方キャラクターのみ)。
プレセアは最後まで生きており、クレフも石にはならない。1周目のエンディングはバッドエンドだが、2周目以降はハッピーエンドになるというやり込みを狙った隠し要素も存在する。
※ゲーム画面に表示された技の説明文を記述する。
1995年6月22日にトミーより4,500円で発売されたRPG。対応ハードはゲームボーイ。制作はパンドラボックス。
森の中で見つけた絵の中に迷い込み、そこから脱出するというストーリー。光、海、風のそれぞれ各シナリオが分かれており、3人は別々に行動する。全てクリア後に3人が一緒になる。声優によるボイスサンプリングが行われている。
原作が少女漫画ということもあって、難易度は少女漫画誌の読者に合わせて相当に低くなっており、RPGの入門タイトルと言ってもよい。キャラクターデザインの再現度や書き込みなどは当時から評価された。
1995年10月27日にトミーより4,500円で発売されたRPG。対応ハードはゲームボーイだが、スーパーゲームボーイにも対応している。制作は前作同様パンドラボックス。
前作の続きとなっていて、色泥棒に奪われた色を取り戻すというストーリー。ボイスサンプリングは数を増やしている。前作と比べるとパズル要素が強くなっており、その為やや難易度も上がっている。
KCデラックス 講談社 A5判
KCデラックス 講談社 B6判
※無印の旧版単行本各3巻には付録漫画が収録されている。
講談社 ワイド判
KCブックス 講談社 A6判
KCデラックス 講談社 A4判
2010年7月13日よりアニ読メにてTVアニメの内容のアニメコミックが電子書籍として配信。
2010年から携帯電話用にきせかえアプリケーション、マチキャラアプリケーションが製作されており、ダウンロードが購入が可能になっていた。 | [
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"text": "魔法騎士に力を貸して共に戦うと伝えられる存在。その正体は柱を殺すことを目的に創造された巨大ロボットで、普段は動物の姿で神殿に眠っている。",
"title": "登場人物"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "いずれも自らの意志を持ち、魔法騎士の意志の強さを認めた場合動物形態から巨大ロボット形態になり、魔法騎士を体内に取り込む形で共に戦うようになる。TVアニメ版では魔法騎士のことをそれぞれ名前で呼ぶ他、原作では末端肥大なデザインだった足が細くなっているなどデザインも若干アレンジされている。3人が愛用する武器と魔法を使用する他、3体の魔力を組み合わせた合体魔法「閃光の螺旋」が使用出来る。また合体することで巨大な合体魔神レイアースとなる。",
"title": "登場人物"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "原作では創造主(モコナ)の下僕でもあり、モコナの前では謙遜した態度をとる。柱システムの崩壊を受け、モコナと共に別次元へと消えていった。",
"title": "登場人物"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "読売テレビ制作・日本テレビ系列(NNS加盟局)にて1994年10月17日から1995年11月27日まで月曜日の19時30分から20時00分に放送された。本編は全49話だが、1995年12月23日には総集編「マジックナイト・レイアース増刊号」が放送された。また、レギュラー放送の第9話(1994年12月12日放送)については、第8話までの総集編と本編を合わせた60分スペシャルとして放送された。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "本作は芸術文化振興基金助成事業の一環として制作されているため、第一章のOPタイトルの下にはそのシンボルロゴと『芸術文化振興基金助成作品』がクレジットされている。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "本作で一度中断した月曜19時台のアニメ枠が復活し、2009年4月に『サプライズ』が平日19時台に設置されるまで一貫してアニメが放送された。当初の放送期間は1年間だったが、3カ月延長された。一部のスタッフ・キャストを引き継いだ上で後番組として開始し、現在も時間帯を変えて継続している『名探偵コナン』が年が明けた翌年1月8日からスタートしたのはこのためである。なお11月で終了となっているのは年末年始の特別編成によるもので、12月から翌年1月1日は単発特番や後続の『世界まる見え!テレビ特捜部』の2時間スペシャルで『コナン』開始までつなぐ形をとった。1995年12月23日の総集編は土曜日の放送である。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "プロデューサーの諏訪道彦によると、グッズの売り上げは上々で内容の評価も高い作品ではあったが、視聴率だけは低かったとのこと。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "メインタイトルロゴ『魔法騎士レイアース』の表記が全部カタカナの『マジックナイト・レイアース』に直されたのは第43話(1995年10月16日放送分)から。なお、放送中の1995年10月より、東京ムービー新社は「キョクイチ東京ムービー」と表記変更(合併は11月)したが、アニメ本編終了まで「東京ムービー新社」名義でクレジットされていた(12月の総集編ではそれ以前の社名である「東京ムービー」名義で表示)。現在の再放送(並びにデジタルリマスター版)は「トムス・エンタテインメント」名義でクレジットされている。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "「マジックナイト・レイアース増刊号」はアニメの総集編の他、キャラクターや名場面をピックアップした特別編となっており、光役の椎名、海役の吉田、風役の笠原が顔出しで出演した。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "原作とは設定や話の展開が異なる部分が多く、特に第二章は大きく異なっている。アニメオリジナルストーリーが多い。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "第一章のEDの動画でプレセアの衣装が変化している。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "セガのTOY部門がキャラクターグッズを展開。放映当時CMにも力を入れていたのかレイアースを実写版で製作しCMで放映していた。このときの光、海、風の3人を演じていたのは南青山少女歌劇団のメンバーである(光役:広橋佳以、海役:飯田未、風役:千葉紗子)。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "BGMの楽曲は『CDシアター ドラゴンクエスト』のコンセプトを踏襲して、同じ作曲家が作っている。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1995年1月16日放送分の第11話「異世界セフィーロの魔神伝説」の翌日に阪神淡路大震災が発生。連日民放各社が時間帯に関係なく地震報道を放送している中、被災地のキー局である読売テレビは、翌週の第12話「恐るべき幻惑士 カルディナ」を予定通り放送した。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "第一章オープニングで、田村直美が歌った「ゆずれない願い」は売り上げ100万枚を越えるヒットを記録し、田村は同曲で1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』に出場した。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "主要な声の出演については、登場キャラクターの節を参照のこと。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "これらの曲の歌詞には全て主人公3人の名である「光」「海」「風」の文字が入っている。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "出典は1995年9月時点のものとする。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "ビデオソフト",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "3バージョン共に1995年3月 - 1996年4月にポリグラムからリリースされた。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "DVD-BOX",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "DVD(単品)",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 48,
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"text": "BD-BOX",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "OVA版『レイアース』は全3巻で、VHS/LD版が1997年7月25日 - 12月10日にポリグラムから、DVD-BOX版が2002年11月27日に講談社からリリースされた。他に『特別編 -希望の翼-』(ディレクターズカット版)はVHS/LD版が1998年にポリグラムから発売されている。また、2014年10月に発売された『魔法騎士レイアース』のBD-BOXに、このOVA版も特典DVDとして収録されている。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "原作・TVアニメ版とは大きく設定が異なり、OVAオリジナルストーリーとなっている。スタッフも大幅に変更されているが、担当声優は同じ。ナレーションは田中秀幸が担当。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "など。",
"title": "アニメ"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1995年8月25日にセガより4,800円で発売されたアクションRPG。キャッチコピーである「ハマるロープレ」シリーズの第3弾。開発担当は「ファンタシースターシリーズ」や後に『サクラ大戦』を手掛けるセガ第二CS研究開発部。初回版は三平方BOX仕様に加え、レイアースファンブックおよびパワーメモリー用のインデックスシールが付いた。米国ではサターン最後のソフトとして発売された。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "マップを移動しながら、画面上に点在する敵キャラクターを操作キャラクターで倒していく戦闘システム。ボスにはいわゆる根負けシステムが採用されており、負けてもゲームオーバーにはならず再戦すると弱体化している。最終決戦は魔神を切り替えて戦闘を行うシューティング風のゲームになっている。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "画面演出には、階段で他階に移動する際の風景は切り替えや暗転を使用せずに連続的に切り替えるというシステムを採用している。この独特な演出はセガの自社製作であり、続作の『サクラ大戦』などの画面演出の原形となっている。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "ほぼフルボイスになっており、流し台やタンスなど特に意味のない物に対しても先頭のメンバーがセリフをしゃべる。イベントごとには3人それぞれの絵日記(ゲームの進行そのものには影響しない)が追加されていく。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "物語の発端と最終的な目的以外は、原作・アニメ版とも異なったストーリー展開となっており、オリジナルキャラクターも多数登場する(上記で説明のあった「セラ」はこのゲームでは10歳の少女という設定になっている)。イベントシーンなどにアニメーションが多数挿入されており、序盤は本編からの流用が多いものの、風の武器が剣から弓に変更されていることや、ほぼオリジナルストーリーだということもあり、中盤以降はアニメスタッフによる新規描き下ろしアニメが多用されている。原作・アニメ版では成長と共に長大化していく剣を使っていた風だが、このゲームでは最後まで弓を使用する(つまりエスクード製の弓である)。また、原作・アニメ版には登場しないオリジナルの魔法や技が複数登場する。ザガート側の人物のうち、ザガート、エメロード姫、イノーバ、アルシオーネは魔法騎士に敗れて、アスコットは半狂乱になったカルディナの一撃を受けて、カルディナとラファーガ(洗脳)はイノーバに処刑される(原作ではアルシオーネ、TVアニメ版ではイノーバを除いて全員生存)。一方でプレセアはTVアニメ版のように途中で死亡せず最後まで生存している。また、フェリオとエメロード姫の関係については、このゲームでは何も触れられていない。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "魔神の声はスタッフロールではセレス表記のみだが、レイアース、ウィンダムも玄田哲章が担当している。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ゲームオリジナルキャラクターとしてルキノ(秋元羊介)、カルタス(速水奨)、セラ(こおろぎさとみ)、アベニール(梅津秀行)、アルティナ(皆口裕子)、ネロ(山田恭子)が登場する。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "主題歌はTVアニメと同じ「ゆずれない願い」",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "1994年12月16日にセガより4,800円で発売されたRPG。対応ハードはゲームギアで、同日に「ゲームギア キャラクターパック 魔法騎士レイアース」として、ゲームギア本体との同梱版も15,800円で発売された。レイアースのロゴとモコナがプリントがされたゲームギア本体(色はレッド)と本カセット、モコナのアミュレットがセットになっている。カセットも本体カラーに合わせ赤色になっている(通常は黒)。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ストーリーはオリジナルで、姿を消してしまったモコナを追うというものになっている。フェリオが変装の達人となっているなど、原作とは一部設定が異なり、魔法に関しても原作とは効果が全く違うものがある。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "戦闘シーンはスロットバトルと呼び、ルーレットで攻撃の順番が決まり、ルーレットの回転が速いほど攻撃力が上がるというシステムになっている。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "本作のストーリーをもとにした外伝漫画がるんるんに掲載された(設定資料集に再録されている)。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1995年8月4日にセガより4,800円で発売された育成シミュレーションゲーム。対応ハードはゲームギア。なお、サターン版とゲームギアの2作のCMはすべて光、海、風の3人の実写版で製作された。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "再びセフィーロに戻ってきた3人を魔法騎士に育てるのが目的。育て方によっては魔法騎士以外にも剣士や魔術師などもになれる。8つの育成メニューを毎日1つ実行して50日間で3人のパラメータを上げていく。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "魔法騎士にするにはアイテムの入手が必要であり、3人同時に魔法騎士にするにはメモを取りながらの複数回プレイが必要。主人公3人の成長度合いでエンディングが変化する。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "タイトルBGMに第2章オープニングテーマである「キライになれない」が使用されている。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1995年9月29日にトミーより9,800円で発売されたRPG。対応ハードはスーパーファミコン。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "原作の第1部をベースにしているが、原作やアニメにはない多彩な魔法が用意されている。3人の冒険だが、途中ではフェリオ、アスコット、カルディナ、ラファーガと共に冒険を続けるシーンもある。各キャラクターの掛け声も聞ける(味方キャラクターのみ)。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "プレセアは最後まで生きており、クレフも石にはならない。1周目のエンディングはバッドエンドだが、2周目以降はハッピーエンドになるというやり込みを狙った隠し要素も存在する。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "※ゲーム画面に表示された技の説明文を記述する。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "1995年6月22日にトミーより4,500円で発売されたRPG。対応ハードはゲームボーイ。制作はパンドラボックス。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "森の中で見つけた絵の中に迷い込み、そこから脱出するというストーリー。光、海、風のそれぞれ各シナリオが分かれており、3人は別々に行動する。全てクリア後に3人が一緒になる。声優によるボイスサンプリングが行われている。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "原作が少女漫画ということもあって、難易度は少女漫画誌の読者に合わせて相当に低くなっており、RPGの入門タイトルと言ってもよい。キャラクターデザインの再現度や書き込みなどは当時から評価された。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "1995年10月27日にトミーより4,500円で発売されたRPG。対応ハードはゲームボーイだが、スーパーゲームボーイにも対応している。制作は前作同様パンドラボックス。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "前作の続きとなっていて、色泥棒に奪われた色を取り戻すというストーリー。ボイスサンプリングは数を増やしている。前作と比べるとパズル要素が強くなっており、その為やや難易度も上がっている。",
"title": "ゲーム"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "KCデラックス 講談社 A5判",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "KCデラックス 講談社 B6判",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "※無印の旧版単行本各3巻には付録漫画が収録されている。",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "講談社 ワイド判",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "KCブックス 講談社 A6判",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "KCデラックス 講談社 A4判",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "2010年7月13日よりアニ読メにてTVアニメの内容のアニメコミックが電子書籍として配信。",
"title": "刊行書籍"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "2010年から携帯電話用にきせかえアプリケーション、マチキャラアプリケーションが製作されており、ダウンロードが購入が可能になっていた。",
"title": "アプリ"
}
] | 『魔法騎士レイアース』は、CLAMPによる日本の漫画。また、それを原作としたテレビアニメ、ゲーム、OVAなどの作品である。 | {{拡張半保護}}
{{移動拡張半保護}}
{{Infobox animanga/Header
|タイトル=魔法騎士レイアース
|ジャンル=[[少女漫画]]<br />[[ハイ・ファンタジー|異世界ファンタジー]]
}}
{{Infobox animanga/Manga
|作者=[[CLAMP]]
|出版社=[[講談社]]
|他出版社={{flagicon|Taiwan}} [[台灣東販]]<br />{{flagicon|Hong Kong}} [[天下出版]]<br />{{flagicon|Brazil}} Editora JBC<br />{{flagicon|France}} Pika Édition<br />{{flagicon|Italy}} Star Comics<br />{{flagicon|United States}} Tokyopop
|掲載誌=[[なかよし]]
|レーベル=[[KCデラックス]]
|開始=[[1993年]]11月号
|終了=[[1995年]]2月号
|巻数=全3巻(旧版[[単行本]]・新装版)
}}
{{Infobox animanga/Manga
|タイトル=魔法騎士レイアース2
|作者=CLAMP
|出版社=講談社
|掲載誌=なかよし
|レーベル=KCデラックス
|開始=[[1995年]]3月号
|終了=[[1996年]]4月号
|巻数=全3巻(旧版[[単行本]]・新装版)
}}
{{Infobox animanga/TVAnime
|原作=CLAMP
|監督=[[平野俊弘]]
|シリーズ構成=[[まるおけいこ]]・中村修(第1話 - 第18話)<br />[[大川七瀬]](第19話 - 第49話)
|脚本=大川七瀬、まるおけいこ
|キャラクターデザイン=[[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]
|メカニックデザイン=[[山根理宏]](モンスター)
|音楽=[[松尾早人]]
|アニメーション制作=[[東京ムービー新社]]
|製作=[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、東京ムービー新社
|放送局=読売テレビ
|放送開始=[[1994年]][[10月17日]]
|放送終了=[[1995年]][[11月27日]]
|話数=全49話
}}
{{Infobox animanga/OVA
|タイトル=レイアース
|原作=CLAMP
|監督=[[平野俊貴]]
|シリーズ構成=[[中村学 (脚本家)|中村学]]
|キャラクターデザイン=[[門之園恵美]]
|アニメーション制作=[[トムス・エンタテインメント]]
|製作=講談社、[[ユニバーサルミュージック (日本)|ポリグラム]]<br />トムス・エンタテインメント
|開始=[[1997年]][[7月25日]]
|終了=[[12月10日]]
|話数=全3話
|その他=
}}
{{Infobox animanga/Footer
|ウィキプロジェクト=[[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]]
|ウィキポータル=[[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]]
}}
『'''魔法騎士レイアース'''』(マジックナイトレイアース Magic Knight Rayearth)は、[[CLAMP]]による[[日本]]の[[漫画]]。また、それを[[原作]]とした[[テレビアニメ]]、[[ゲーム]]、[[OVA]]などの作品である。
== 概要 ==
[[1993年]]11月から[[1996年]]4月まで『[[なかよし]]』で連載された[[ファンタジー漫画]]作品。また、[[1994年]]から[[1995年]]にかけて[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化され、[[1997年]]には[[OVA]]化もされた。
基本的に典型的な剣と魔法といった[[ファンタジー]][[ロールプレイングゲーム]]の世界をモチーフとしているが、単純な勧善懲悪ものではなく、シリアスで重いテーマを内包している。また、作中で登場する固有名詞の多くは、CLAMPの「カタカナの名前は覚えにくいので、どこかで聞いたことのある名前がいい」と言う理由から<ref name="new">{{Cite journal|和書 |editor=田中宏樹 |title=特別企画 レイアースはこうして生まれた! |journal=[[月刊ニュータイプ]]|issue=1994年11月号 |pages=141 |publisher=[[角川書店]] |date=1994-11-01}}</ref>、[[自動車]]関連の固有名称が用いられている。
== あらすじ ==
以下は漫画版に準ずる。
=== 第一章 ===
[[1993年]]、[[東京タワー]]での社会科見学中、中学2年生の3人の少女・獅堂光、龍咲海、鳳凰寺風は偶然出会った。窓の外、眩い光の中に浮かび上がる謎の少女の幻影を見た3人は、その直後異世界「セフィーロ」に召喚される。そこで出会った導師クレフの導きを受けて、3人は「魔法騎士(マジックナイト)」としてセフィーロを救う旅に出ることに。
神官ザガートがセフィーロの要である「柱」エメロード姫を捕らえたため、セフィーロは魔物の跋扈する危険な世界に変わり果てていた。ザガートを倒し、エメロードを救いだすためには、魔法騎士が伝説の鉱物エスクードで出来た武器を手に入れ、各地の神殿に眠る魔神を蘇らせる必要があるという。クレフの指示で最初の協力者である創師プレセアと出会い、謎の生き物モコナを道案内に沈黙の森を抜ける3人は、森の中で剣士フェリオと出会った。フェリオの助力を受けつつ森を抜けた3人は、その先にある伝説の泉エテルナでの試練を乗り越えて武器を手に入れ、モコナの案内に従って今度は魔神が眠る神殿を目指す。
各所に立ちはだかるザガートの手下を退けながら、数々の困難を乗り越えることで武器と防具を成長させ、ついに魔神を手に入れた3人の魔法騎士。
しかし、彼女らがザガートを倒した時、エメロード姫は突如豹変して魔神を召喚し、ザガートを死に追いやった魔法騎士たちへの怨嗟の言葉を吐きながら襲い掛かってきた。戸惑う3人に、わずかに残っていた彼女の最後の思念が呼びかけ、自身の死を願うと共に魔法騎士の真実を3人に告げる。
セフィーロの荒廃の原因が、世界の柱であるエメロード姫がザガート1人を愛してしまい世界と万人の幸福を祈ることができなくなったためであること。「柱」は自分で死ぬこともこの世界の民に討たれることも許されないこと。外界から呼び寄せられた魔法騎士こそが「柱」を殺せる唯一の存在であること。すなわち、魔法騎士の本当の役目は世界を守護する務めを果たせなくなった「柱」を討ち取ることであり、光たちは世界の崩壊を防ぐために死を望むエメロード姫の願いを叶えるためにこの世界に呼び出されたのだった。憎しみに駆られてセフィーロの消滅を願う前に自分を殺せと懇願するエメロード姫。そして衝撃の真実に動揺する魔法騎士たち。
突きつけられた残酷な真実への戸惑いと迷いの果て、3人は魔神を合体させ、ザガートを失った悲しみと憎しみから復讐鬼と化してしまったエメロードを討ち、その悲しい願いを叶えた。そして傷心とともに元の世界へと帰還する。
=== 第二章 ===
東京に戻って数ヵ月後。
「もう1度セフィーロへ行って、エメロード姫が守っていたあの国のために自分が出来ることをしたい」と願った3人は何者かによって再び召喚される。
そしてクレフたちと再会した3人は、要であった「柱」を失ったことで崩壊の危機に加えて他国の侵攻に晒されているセフィーロのために、そして自分たち自身との決着をつけるために戦う道を自らの意思で選ぶ。
一方、セフィーロを狙う3つの国々にはそれぞれの思惑があった。イーグル率いるオートザムは星の内部が空洞化に至るほど環境汚染が深刻なため、国民の移住先としてセフィーロを欲していた。そしてタトラとタータの姉妹率いるチゼータは国土拡大を願い、政情的には一番安定しているはずのファーレンはまだ幼い国主である皇女アスカの子供らしい願いからセフィーロを欲していたのである。
様々な思惑が絡み合い、セフィーロ上空で繰り返される戦闘。そして時は満ち、実は地球及びセフィーロとその他のすべての世界を作り出した創造神たる存在であったモコナの導きの元、時を止められた東京を舞台に、新たな「柱」の候補者となった光とオートザムのイーグルによる決戦が始まる。<br>
柱の座をかけた決闘の中、光は、病により余命いくばくもないイーグルが柱制度を終わらせるべく柱となった上で永遠の眠りにつこうとしていることを知る。しかし、セフィーロのみならずオートザムの未来をも想うがゆえに柱候補の資格を失ったイーグルは消滅の危機に立たされてしまう。柱制度によるこれ以上の犠牲を良しとしない光は消滅を承知でイーグルを救わんとする。すんでのところで風と海に助けられ、彼の無事を祈るランティス、そしてその願いを受け止めたモコナの導きにより、イーグルとともに無事生還を果たす。
戦いを終え、「柱」に選ばれた光はセフィーロの未来を思い、たった独りの背に重責を背負わせる柱制度の廃止を宣言する。そして、全ての世界の人々が喜びも苦しも共に分かち合い、愛する人々と共に幸福に生きていける世界を作りたいと願う。光の強い意志に納得したモコナはその願いを叶え、魔神たちと共に新たな次元へと旅立った。光の望み通り、争いあっていたオートザム・ファーレン・チゼータ・セフィーロが一つとなり、新しい世界への一歩を踏み出した。そして、光たちの住む地球もセフィーロとつながり自由に往来が可能となった。
光が新たに生まれた国の名付けを読者に委ねる<ref>コマの中に、実際に名前を書き込める欄が描かれている。</ref>シーンで物語は幕を閉じる。
== 登場人物 ==
=== 魔法騎士 ===
本作の主人公である3人の中学2年生の少女達。[[東京タワー]]で社会見学をしていた際に初対面し、その直後にエメロード姫によってセフィーロに召喚される。魔法、武器、魔神を駆使して戦う。しかし、古来よりその本来の役割は、自ら命を絶つことができないセフィーロの柱を抹殺することだった。
; {{読み仮名|獅堂 光|しどう ひかる}}
: [[声優|声]] - [[椎名へきる]]
: 誕生日:[[8月8日]] / 星座:獅子座 / 身長:145cm<ref name="image">CLAMP「魔法騎士レイアース イメージボード」『魔法騎士レイアース 設定資料集』講談社〈KCデラックス688〉、1996年3月28日、{{ISBN2|4-06-319688-7}}、頁表記なし。</ref> / 血液型:O型 / 好きな食べ物:アイスクリーム / 嫌いな食べ物:からいもの / 好きな科目:生物 / きらいな科目:音楽 / 所属クラブ:剣道部 / 趣味:閃光と遊ぶ / 特技:剣道、動物と話せる / 好きな色:赤<ref name="chara">CLAMP「魔法騎士レイアース 人物紹介」『魔法騎士レイアース 1』講談社〈KCデラックス530〉、1994年7月22日、{{ISBN2|4-06-319530-9}}、204-205頁。</ref>
: とある女子校に通う中学2年生。両親<ref>作中では未登場。</ref>と3人の兄の6人家族で、愛犬は{{読み仮名|閃光|ひかり}}。実家が[[剣道]]道場で、小さい頃から剣道を習っていたことから、剣が得意。幼稚園児の頃、父親に剣道で勝っている<ref>父親はその時のショックで、修行の旅に出ているという。</ref>。長い間家には帰らない父親に代わり、3人の兄からかわいがられている。テーマカラーは赤。明るく元気いっぱいで誰とでも仲良くなれる反面で、非常に頑固者。ボーイッシュ寄りな口調が特徴で、一人称は「わたし」。海や風は「ちゃん」付けで呼ぶが、セフィーロの人物は基本的に呼び捨てで呼んでいる。背が低く、[[童顔|年齢よりも幼く見られやすい]]。セフィーロへと召喚されて間もなく自己紹介したときに海や風から「小学生だと思った」「11歳くらい」と言われている。学年を問わず人気者。3人の中で1番運動神経が良い。閃光と接していることから、動物と意思疎通ができる。3頭身の描写になると、時々猫の耳とシッポが出る。また、お菓子が大好物で食べないと戦闘中でも切なくなる。
: 強く優しく真っ直ぐな心の持ち主であり、自分な素直な思いを敵味方問わずにぶつけることができる。心の強さは随一。
: 東京タワーにおいて他の2人と共にセフィーロへと召喚される。クレフより授けられた魔法は炎の魔法。エテルナの試練では愛犬・{{読み仮名|閃光|ひかり}}に襲われるも幻影と割り切り勝利。炎の神殿において炎の魔神・レイアースを手に入れる。
: 恋愛には無縁だったが、第二章ではランティスと惹かれ合う。
: アニメ版二期の展開は原作と大きく変わっており、特にアニメオリジナルキャラクターであるノヴァとは深い関わりがある。
: 作中での髪型は細い1本の三つ編みだったが、連載予告時のイラストでは[[ポニーテール]]だった。
: イーグルとの戦いを経てセフィーロの「柱」となり、「柱」に頼らない世界を願うことで「柱制度」そのものが消滅。エンディングでは自由に地球とセフィーロを行き来できるようになった。
: アニメ版では全く異なる展開となり、自らの影であるノヴァと和解を果たし一つの存在として合一。その後に最後の敵デボネアと戦う。セフィーロの民の祈りによって「柱」の証たる「剣」が現れ、それを用いてデボネアを討ち滅ぼした。直後に魔法騎士たちは地球へと転送させられ、セフィーロとは完全に繋がりが立たれてしまう。東京タワーに集まった三人がこれまでのことを思い返しながら空を見上げるところでこの物語は終わる。
: 原作に収録された着せ替えイラストでは普通の下着を身につけているが、一部のフィギュアでは黒のスパッツを穿いている。またブラジャーの類は付けておらずヘソ出しのタンクトップを着用している。
:; {{読み仮名|炎の矢|ほのおのや}}
:: 炎で出来た十数本の矢を生み出し、敵に向けて乱射する。沈黙の森脱出後の対アルシオーネ戦では、海を傷つけられた怒りから威力が上がっており、矢の幾つかがアルシオーネの防御魔法を貫通した。
:; {{読み仮名|紅い稲妻|あかいいなずま}}
:: エテルナの試練で現れた、{{読み仮名|閃光|ひかり}}の幻影を倒す際に習得。真っ赤な炎で強力な電撃を作り出して撃ち放つ。
; {{読み仮名|龍咲 海|りゅうざき うみ}}
: 声 - [[吉田小南美|吉田古奈美]]
: 誕生日:[[3月3日]] / 星座:魚座 / 身長:158cm<ref name="image"/> / 血液型:A型 / 好きな食べ物:スパゲッティ / 嫌いな食べ物:あまいもの / 好きな科目:英語 / きらいな科目:家庭科(お裁縫) / 所属クラブ:フェンシング部 / 趣味:ケーキづくり / 特技:英語、フェンシング / 好きな色:青<ref name="chara"/>
: 中学2年生で、財閥や政治家など裕福な家庭の娘が多く通っているという女子校に通っている。家族は両親のみの3人家族。テーマカラーは青。3人の中では1番長身。学校ではフェンシング部に所属しており、エテルナへ行く時に借りた剣も、後にプレセアに創ってもらった剣も、光の物より細身。一見モデルのような美少女だが、感情の起伏が激しく思ったことを口にする性質であることから、時折失言をすることもある。興奮しやすく怒りっぽく反面、根は仲間思いで優しく非常に繊細。自分では「温厚」と公言しているが、コメディパートでは魔神を纏ったままの状態でモコナを追いかけ回したこともある。口調は典型的な女性言葉で、一人称は「私」、他人への呼称も基本的に呼び捨てである。
: 東京タワーで光や風と一緒だった時に突然セフィーロへ召喚される。クレフより授けられた魔法は水。第1部で「水の龍」、「蒼い竜巻」を習得し、第2部では新魔法「氷の刃」を習得した。エテルナの試練では両親の幻影と対峙。最初は戸惑うも本物の両親ではないとすぐに割り切り勝利する。海の神殿において、アスコットを改心させ水の魔神・セレスを手に入れる。第二部では大人に成長したアスコットから恋愛感情を向けられているがまったく気づいていない。
:[[マッチョ]]の男性が大の苦手であり、チゼータの王女らが操る守護精霊に嫌悪感を露わにしている。
:アニメ版ではクレフに恋する。原作では逆に「つき合いを考えている異性はいない」とアスコットに述べている。
:; {{読み仮名|水の龍|みずのりゅう}}
:: 龍の姿を象った凄い水圧が敵に襲い掛かる。初登場は沈黙の森を抜けた直後の対アルシオーネ戦。
:; {{読み仮名|蒼い竜巻|あおいたつまき}}
:: エテルナの試練で現れた、両親の幻影を倒す際に習得。水で激しい竜巻を作り出して攻撃。アニメ版第二章では、爆発物による火災を消火する、闘技場から落ちたタータを巻き上げて救い出すなどの使い方も見せた。
:; {{読み仮名|氷の刃|こおりのやいば}}
:: 原作第2部で習得。氷で作り出した刃で相手を切り裂く攻撃。アスカの「幻術糸」を破るために使用。アニメでも第二章で習得したが、こちらは再生能力の高い魔物を倒すため。
; {{読み仮名|鳳凰寺 風|ほうおうじ ふう}}
: 声 - [[笠原弘子]]
: 誕生日:[[12月12日]] / 星座:射手座 / 身長:156cm<ref name="image"/> / 血液型:A型 / 好きな食べ物:てっさ / 嫌いな食べ物:おいしくないもの / 好きな科目:数学 / きらいな科目:美術 / 所属クラブ:弓道部 / 趣味:読書 / 特技:コンピュータープログラム / 好きな色:緑<ref name="chara"/>
: 名門の私立女子校に通う中学2年生。両親と姉の4人家族で、作中には姉のみ登場。テーマカラーは緑。いつもおっとりした笑顔で、お嬢様口調な反面、非常に洞察力に優れ頭の回転が速い策略家。一人称は「私(わたし)」、アニメや一部のゲームでは「わたくし」。他人への呼称は基本的に「さん」付けである。基本的に真面目だがコメディパートでは腹黒い面を見せることもある。
: クレフより授けられた魔法は風。3人の中で唯一回復魔法や防御魔法がある。学校では[[弓道]]部に所属していることもあり、エテルナまでの冒険には弓を使った(後にプレセアに創ってもらった武器は剣)。エテルナの試練では「もう一人の自分自身」と対峙。相手を攻撃すれば自分も傷つくが、傷は魔法で治せると奮起しもう一人の自分に打ち勝った。空の神殿において、風の魔神・ウィンダムを手に入れる。沈黙の森で出会ったフェリオとは恋仲となった。
: 普段は眼鏡をかけているが、魔神に乗るとそれが消える(甲冑の効果で裸眼の視力が上がる模様)。連載予告時のイラストでは、眼鏡をかけていなかった。
: セガサターン版では上記の二人とは異なり泳げないという設定であり、海に入る際は浮き輪を装着している。
:; {{読み仮名|癒しの風|いやしのかぜ}}
:: アルシオーネの魔法攻撃を受け、瀕死に近い状態に陥った海を癒すために使った。体の傷は治せるが病気は治せない。また、精神力を消耗したことによる疲労は回復できないことが第2部で判明。
:; {{読み仮名|碧の疾風|みどりのしっぷう}}
:: エテルナの試練で現れた、自身の幻影を倒す際に習得。緑色の真空刃を巻き起こし攻撃する。
:; {{読み仮名|防りの風|まもりのかぜ}}
:: 海の神殿でアスコットが招喚した魔物の攻撃から海を護るために習得。風で強力な円形状の防御壁を張る。
:; {{読み仮名|戒めの風|いましめのかぜ}}
:: 空の神殿で、カルディナに操られた光と海の動きを止めるために習得。原作では、第2部においてイーグルが作った光の道から弾き出された光を受け止める際にも使用。
:; {{読み仮名|碧の烈風|みどりのれっぷう}}
:: アニメ第二章のオリジナル魔法。碧の疾風よりも強力。再生能力の高い魔物を倒すため習得。
=== セフィーロ ===
主人公3人が突如として飛ばされてきた異世界。いわゆる剣と魔法のファンタジー世界であり、心の強さが全てを決定する要素となる。「柱」と呼ばれる存在の祈りによって世界が支えられており、もし柱が祈ることができなくなれば、セフィーロも崩壊する。セフィーロの空はオートザムから望遠鏡を使えば見えるらしい。「柱制度」崩壊後は、新しい国づくりへ動き出した。
原作では建造物や地名など登場したが町などは出てこず、アニメ版や一部のゲームでは様々な地域や町を渡り歩くなど描かれる舞台に大きな違いがある。
; [[モコナ]]
: 声 - [[白鳥由里]]
: 白くてふわふわな謎の生き物。魔法騎士達の水先案内人。クレフがエメロード姫から受け取り、その後、プレセアに預けられた。プレセアへのいたずらが好きな様子。
: アニメ版では特に正体が語られずに終わるが、漫画版で地球や宇宙、セフィーロを始めとする異世界を創った、全ての世界の創造主であるという衝撃的な事実が明かされた。「絶対的統率者がいない代わりに個々の人間1人1人の意志の力が未来へ続く世界」として地球を最初に創るも争い合う人間に失望し、「柱」一人の意思で全てを決めるセフィーロを創造した。最終的に「柱」となった光の願いによって「柱制度」が消滅すると、自らもその選択を受け入れ、光たちの魔神と共にいずこかへと去っていった。
: 対照的な「柱」の選択を目撃し、エメロードは今日とは異なる明日を望まなかったことを悟る。また、人間という存在に失望しつつ、心の底では人々が自らの意志で世界に変革を起こしより良い世界に導いていこうとする意思を見せてくれることを期待してセフィーロを創ったのではないかとクレフに推察されている。デザインは猫井椿。
; エメロード
: 声 - [[緒方恵美]]
: セフィーロの「柱」たる女性。彼女の祈りなしにはセフィーロは成り立たない。万人(セフィーロに生きる命全て)の幸せを祈らなければならない身でありながら、一個人であるザガートを愛してしまったため、世界を崩壊に導く存在と化してしまった自分を殺させるため、異世界より「魔法騎士」として光たちを召喚した。原作では自ら水牢に閉じこもるが、アニメ版ではザガートに拉致されて幽閉されるもザガートの幻影に攻撃された一行を魔法で助け、フェリオに連絡を取るなどもしている。
: 波打つ長い金髪が特徴の幼女姿だが、見た目とは裏腹に相当な年月を生きているという。クレフよりは年下。ザガートが討ちとられた直後、最愛の想い人の死の悲しみと怒りから復讐鬼と化し、成熟した大人の女性の姿に急成長すると共に魔神を召喚し、最後の敵として魔法騎士に襲い掛かる。しかし、わずかに残った柱としての良心によって「魔法騎士伝説」の真実を伝え、世界を守るため、そしてザガートの下へ行けるようになるために自分の命を終わらせてほしいと懇願した。最終的には魔法騎士に倒され、死を以てザガート一人のものになれることを喜びながら絶命した。
: 漫画版では、柱制度の廃止を望まなかった理由について、モコナの口から「セフィーロと人々を愛して守ろうとはしたが信じてはおらず、重荷を分かち合って共に歩もうという意志をもたなかったのではないか」と推察されている。
: OVA版では精霊として登場し、最後まで生存する。
: 作中で使用した魔法は、「光衝招撃(サイノス、英語で「目標」「注目の的」などを意味する「cynosure」から取られた造語)」と「金爆殺襲(デボネア、英語で「愛想のいい、礼儀正しい、陽気な」の意味)」。
: スーパーロボット大戦Tではザガートを倒し、彼の協力者を退けた後に敵として登場する。原作と同様に憎しみを抱いた大人の姿で現れ、魔神エメロードを駆り光を優先的に狙ってくる。
; クレフ
: 声 - [[佐々木望]]
: 好きなもの:静けさ / きらいなもの:騒がしさ / 趣味:散歩・精獣たちとの語らい<ref name="chara2">CLAMP「魔法騎士レイアース 人物紹介」『魔法騎士レイアース 2』講談社〈KCデラックス549〉、1994年11月22日、{{ISBN2|4-06-319549-X}}、204-205頁。</ref>
: セフィーロで最高位の導師(グル)。位の高い魔法使い。光達3人に魔法を授けた人物。光の肩ほどしかない身長で若そうに見えるが、745歳の年長者(本人談)。ザガート、ランティス、アルシオーネの師匠でもある。気が短い。アニメ版では、第1部で3人を沈黙の森に送り出した直後にザガートに不意を打たれ石化させられてしまう。第2部では巨大なセフィーロの城全体を結界で包む、その結界をイーグルに破られた後の不安定な体調のまま全精神力を用いて崩れかけた城を支えるなど本来の実力に近いものを見せた。なお、アニメ版最終話で海に告白されかけている。
: 魔法騎士として召喚された3人の少女に「伝説」の真実を伝えなかったのが原因で、彼女達の心を傷つけたことに罪悪感を抱いている。水の牢屋に入ることを選んだエメロードからモコナを受け取っており、沈黙の森に家を構えることにしたプレセアに預けた。
:原作・アニメともに「柱制度」が間違っていると考えており、エメロード亡き後の新たに「柱候補」が判明したら、たとえ「柱」になることを拒絶される結果となろうとも過去の悲劇と「柱制度」の真実を告げることを決めていた。
: 作中で使用した魔法は、「魔法伝承(アクセプト、魔法を伝える。光達には合わせて「成長する防具」も与えた)」と「稲妻招来(サンダス、稲妻を放ち攻撃する)」、「殻円防除(クレスタ、球形のシールドを張って身を守る)」、「精獣召喚(クレフト、精獣を呼び出す)」、「精獣戻界(スレイヤ、精獣を異界に戻す)」。「精獣召喚」と「精獣戻界」は対になる魔法。
: クレフの声を担当した佐々木望は、745歳という年齢と、海とのミニラブコメをビデオの映像特典でネタにしている。
; プレセア
: 声 - [[篠原恵美]]
: 好きなもの:ブイ・テック(セフィーロの食べ物) / きらいなもの:ちらかった部屋 / 趣味:折檻<ref name="chara2"/>
: セフィーロで最高位の創師(ファル。武器職人)。長い金髪をポニーテールにまとめた女性。アニメ版ではクレフの勧めで沈黙の森に家を建て、モコナと暮らしている。クレフに好意を寄せている。
: 光たち3人にエスクード製の武器を創って与えた。武器を創る際には、精神力を相当消耗するらしい。原作では、エテルナでの試練を終えた直後に合流し武器を創ったが、アニメ版では、光たちがエスクードを手に館へ戻り、館の一角にある創作室で武器を創っている時にアスコットに襲撃され、彼が放った魔物を光たちが食い止めきれず、魔物が創作室に突入した際に、崩れた天井の下敷きになり、武器を完成させた直後に死亡する(そのため、第2部ではアニメオリジナルキャラクターである双子の妹・シエラが登場する)。
: 原作第2部では、フューラに乗って来た光たち3人をセフィーロ城で最初に出迎えた。
: 趣味は折檻で、モコナの耳を引っ張る、人間を釜茹でにするなど、未遂に終わっているが過激な内容である。時々他人の話を聞かず、自分の想像の世界で遊ぶ癖がある。
; フェリオ
: 声 - [[山崎たくみ]] / 子供時代:[[冬馬由美]]
: 身長:156cm<ref name="image"/> / 好きなもの:寝ること / きらいなもの:睡眠不足 / 趣味:昼寝<ref name="chara2"/>
: エスクードを探す光達が沈黙の森で出会った少年。緑色の髪に、鼻と頬に傷があるのが特徴。また、身長と同じくらいの長さの、先が湾曲した大剣を持つ。風が出した交換条件により、森を出るまで魔法騎士達とともに行動する。実はエメロードの実弟で、原作第2部では、光たち3人の前で、プレセアから「王子」と紹介される。
: 原作では、沈黙の森を出た後のアルシオーネ戦で「これは私たちの戦い」と風が言い切り、援護を拒んだことがきっかけで彼女に惚れ、その後恋仲に。彼が両耳につけている金色のリング状ピアスはエメロードからもらったもので、沈黙の森の出口で別れる際に片方を風に贈る(風は第2部において、これを指輪として身に着けている)。
: アニメ版では当初、記憶喪失の状態で旅芸人の一座にいた。原作同様に沈黙の森を出た後、風に(ピアスではなく)通信機能を持つ赤いオーブ(マジックアイテム)を贈る。これは幼いフェリオが柱となったエメロードと引き離されることになった時、彼女の心配を少しでも減らそうと記憶を封じることを選んだため、エメロードから授けられたもの。なお、原作では沈黙の森を抜けた後、第2部になるまで再登場しないが、アニメ版では数話ごとに登場し、魔法騎士たちと行動する。
; ランティス
: 声 - [[小杉十郎太]]
: 身長:198cm<ref name="image"/> / 好きなもの:昼寝 / 嫌いなもの:甘いもの<ref name="chara4">CLAMP「魔法騎士レイアース2 人物紹介」『魔法騎士レイアース2 1』講談社〈KCデラックス610〉、1995年7月26日、{{ISBN2|4-06-319610-0}}、212-214頁。</ref>
: 第2部から登場。強い魔力と高い剣術を兼ね備えた、セフィーロで唯一の魔法剣士(カイル)。身長198cm。クレフの弟子の一人で、ザガートの弟。容姿も声もザガートとよく似ているが短髪。目と宝石の色は青。鎧の色は漆黒。鎧の下の服は黒で、上は長袖の[[タートルネック]]。ラファーガの前任の親衛隊長で、兄と共にエメロード姫の補佐をしていたのだが、「柱制度」に疑念を抱き、突如行方をくらます。各国を転々としていたがオートザムに最も長く滞在していたらしい。そのためイーグルとも親しい。
: アニメ版でのファイターメカ同士の決闘では、無敗だったイーグルの乗るFTOに性能の劣る量産機で土を付けたほどの戦闘力を見せ、オートザムでも一目置かれており、オートザム政府から正式なファイター登録(軍への入隊)を勧められたが断った。
: 「柱」であるエメロードと兄ザガートの死後にセフィーロに帰還。冷静で理性的な人物で、兄を倒した光たち魔法騎士の立場や胸中にも理解を示しており、兄を殺したことで恨まれていると思い込み、一人で3人分の罪を背負い込もうとしていた光に自分を責めないように伝え諭した。アニメ版では、エスクード製の剣を甦らせようとしている光の波動が、ノヴァの影響で細く弱くなっていることに気付いたり、母の形見(ネックレス状の手鏡)を「いつかお前を守ってくれる」と渡すなど、魔法騎士の中でも無自覚な好意を見せる光を大切に思っている節がある。また、クレフとたびたびテレパシーのような会話をしている。
: アニメ版ではアルシオーネと出会った際には、よく似た容姿と声が原因でしばらくザガートに間違えられていた。デボネアの配下となったアルシオーネを倒し幽閉した。後に光が無自覚ながら好意を寄せていることが原因でノヴァにさらわれ、レガリアの内部に捕らえられてしまう。
: 原作第2部最終回ラストシーンでは白装束になっている。また、OVA版では絶命している。
: 作中で使用した魔法は、「稲妻招来(サンダス)」、「雷衝撃射(クロノス、[[クロノス (時間の神)|ギリシア神話に登場する時間の神]]から。稲妻招来より強力な魔法)」、「殻円防除(クレスタ)」、「精獣召喚(クレフト)」。
; プリメーラ
: 声 - [[白鳥由里]]
: 身長:24cm<ref name="image"/> / 好きなもの: ランティス、プラグ(セフィーロの果物)、ギア(セフィーロの食べ物)/ 嫌いなもの:ランティスにちょっかいだすもの全部<ref name="chara4"/>
: 第2部から登場。ランティスが連れている[[フェアリー|小妖精]]。髪の色はペパーミントグリーン。服は薄いピンク色でスカートの広がった[[チュチュ (バレエ)|バレエチュチュ]]のようなデザイン。危ないところを助けてくれたランティスに一目惚れし、以後命の恩人たる彼と行動を共にしている。背中にある4枚の薄翅で飛行することができるが、たいていはランティスの肩に座っている(設定画集ではランティス肩上の彼女に、冗談めかして「[[オプション]]」との注記がある)。
: 治癒魔法や強化魔法も使え(呪文は両方とも「フーチュラ」だが、強化魔法〔漢字表記は'''魔法増幅'''〕、アニメ版は治癒魔法として使用)、戦闘時はランティスの補佐も行う。ランティスとの幸せな未来を夢見ているが為、光を恋敵と認識しており、少々嫉妬深い。モコナとは<!--海に次ぐ-->漫才コンビでもある。アニメ版では終盤、他力本願のセフィーロの住人達に「このセフィーロ誰の国なの!」と発破を掛けて、デボネアへ力を与えていた民の心の恐怖を払拭する役目を果たした。
: 作中で使用した魔法は「魔法増幅(フーチュラ)」。上述の通り、原作とアニメで効果が異なる。
; シエラ
: 声 - 篠原恵美
: アニメ版オリジナルキャラクター。プレセアの[[双子]]の妹。光達やクレフ、アスコットを傷つけたくなくて「プレセアが蘇生した」と称して姉のふりをしていた。姉との違いは胸にある鳥形のあざ(半裸でないと分からない)。武器の修理は出来るが、新しい武器を作ることだけは出来ない。彼女もまたクレフに好意を寄せている。
=== ザガート一派 ===
ザガートとその部下達。アルシオーネとイノーバ以外、部下達は全員がザガートへの忠誠心から彼に従っているわけではなく彼の本心を理解している訳でも無い。ザガートの死後、アルシオーネ以外の部下達はセフィーロのために尽力する。
; ザガート
: 声 - [[小杉十郎太]]
: エメロードの祈りを補佐する神官(ソル)。クレフの弟子の1人。黒い装束に身を包み、冠を飾った、床近くまである黒い長髪を毛先近くでまとめている男性。穏やかで思慮深い性格であったが、とある想いから、魔法騎士を抹殺しようと刺客を向ける。
: 当初はセフィーロの支配が目的だと思われており、魔法騎士や部下達(イノーバを除く)もそう考えていたが、カルディナから「姫に祈りは続けてもらい、全権を譲ってもらったらどうか?」と提案された際、笑いながら「セフィーロより大切なものがある」と返答しセフィーロの支配が目的では無い事を示唆した。
: そして空中宮殿に現れた魔法騎士を自らが創造した魔神で迎え撃ち、圧倒的な力を見せつけるが、魔法騎士達3人の意志の強さにかなわず、合体魔法「閃光の螺旋」を受け敗北。エメロードに自由になるよう言い残し、消滅した。
: 過去、親衛隊長だった頃のランティスに「柱制度」に疑問を持っていることを告げており、ランティスがセフィーロを出奔する切っ掛けの一つとなった。
: OVA版では最初から故人という設定。エメロードの弟という設定のイーグルに謀殺された。
: 作中で使用した魔法は、「闇爆殺襲(ストラトス)」と「銀爆殺襲(ディアブロ)」、「闇衝招撃(レクサス)」。
; アルシオーネ
: 声 - [[天野由梨]]
: かつてクレフの弟子だった女性の魔導士(イル)。アニメ版では魔操士。
:ザガートに恋慕して師匠を裏切り、エメロードとザガートが愛し合っていることを知らずに彼に一途に尽くしていたが、当のザガートには嫌悪されており、
:魔法騎士の抹殺に二度失敗したことでザガートに見限られ粛清された。
: アニメ版では三度の失敗を喫して見限られたが命は奪われなかったものの、ザガートとエメロードが恋仲であることを知ってショックを受け詰め寄るもザガートの怒りを買い、そのまま放逐された。アスコットをそそのかして魔物をエネルギー源とした魔法を展開し、何度目かの魔法騎士抹殺を試みるが、剣を成長させた海に敗北。その後、第二章でデボネアに拾われ、魔法騎士達の前に立ちふさがるが、ランティスに敗れ幽閉される。当初はザガートのことなどで心を閉ざしていたが、プレセアからデボネアの居場所を教えてほしいと詰め寄られ、その際に彼女の心を読んだことで双子の妹シエラだと知る。シエラがプレセアを装っていたのは光たちを悲しませたくなったのと、クレフを助けたかったからだと聞かされ「報われない愛だとわかっていても」行動するシエラに心を開き改心。直後、海たちにデボネアの居場所を聞かれ教えようとしたが、デボネアを裏切ろうとしたことで黒い霧が現れ苦痛を味わう。居場所を言わなくていいという海だったがそれでも「私が決めた最期よ。泣くことはないわ」と言い残し、デボネアがセフィーロの裏にいることを告げ消滅していった。最期の最期にザガートの名前を遺しており、自分とシエラを重ねていることが覗えた。
: セガサターン版では自身の愛するザガートに奉仕するため、魔法騎士を抹殺しようと企むが、かげろうのアイアイで魔物を召喚。海におばさん呼ばわりされて激昂し、生命の木で光達と戦い、ひそかなる大穴でカルディナに攻撃を加え、蒼き雲の迷宮でフェニックス・リーを召喚して、さざめきの森でイノーバに致命傷を受けた挙句、エメロード姫がザガートを愛していると知ってしまい、失恋した。後に真実の眠る火山で自害するより、魔法騎士に捨て身の特攻をかけ、無へと消滅する。
: 作中で使用した魔法は、「氷尖撃射(アライア)」と「氷槍投射(アライル)」、「氷流切刃(アストラ)」。全て氷属性の攻撃魔法。その他に「殻円防除(クレスタ)」、「精獣召喚(クレフト)」も使っている。
; アスコット
: 声 - [[高山みなみ]]
: 海の神殿で魔法騎士を襲った(アニメ版ではそれ以降にもたびたび登場)子供の召喚士(パル)。魔獣と心を通わせる力を持っている。ザガートに魔獣と一緒に住める場所を提供してもらい、その恩義から彼の陣営に加わる。アルシオーネに代わって魔法騎士を攻撃してくる。
: アニメ版では、エスクードを手に戻ってくる光達3人を沈黙の森のプレセアの館付近で待ち受け、召喚した魔物に館を襲撃させるが、3人に友人である魔物を殺されたことで逆恨みし、以降もたびたび魔物たちに3人を襲撃させる。しかし、原作・アニメ共に最終的に海によって改心。それ以来海に好意を寄せる。第2部では身長をかなり'''伸ばした'''様子(海より頭一つ分高い)。なお、魔獣は城で手伝いをしているとのこと。
: 第1部では子供らしさが目立っていたが、第2部では大人しくなり、控えめな性格に変わっている。
: セガサターン版ではひそかなる大穴でカルディナの説得に失敗し、半狂乱になったカルディナの一撃を受ける光達を庇い、死亡する。
: 作中で使用した魔法は「魔獣召喚(マキシマ、魔獣を召喚する)」。第2部では「衝電破激(アスキス)」という魔法をクレフから教わった。
: アニメにて登場した、本人の魔獣はアタランテ、[[三菱・パジェロ|パジェロ]]、[[ホンダ・ビガー|ビガー]]、デューシー、[[マツダ・カペラ|カペラ]]。
; カルディナ
: 声 - [[永島由子]]
: 空の神殿で魔法騎士を襲った(アニメでは、海の神殿から空の神殿に向かう途中に戦う)、[[関西弁]]で話す踊り子兼幻惑師(ラル)。[[褐色]]の肌に淡いピンク色の髪の美女。ザガートに金で雇われた。アスコットを弟のように思って非常にかわいがっている。失敗したアスコットに代わり、魔法騎士に攻撃をしかけてくる。
: 踊ることで相手を意のままに操ることができ、原作・アニメ共に、魔法騎士達を同士討ちさせようとしたが、風の強い意思を知り撤退。第2部ではラファーガと恋仲。
: チゼータ出身で、踊り子をしながら旅をしていた(関西弁はチゼータの方言)。そのため、タータ・タトラ姉妹のことや、彼女達の召喚するジンのことも知っていた。
: セガサターン版ではひそかなる大穴で光達を庇い死亡したアスコットの説得を聞かず、自らの手で殺したアスコットの仇を討つため、自暴自棄になって光達を襲うも、戦いに敗れ、光に説得される寸前にイノーバに魂ごと消去される。
; ラファーガ
: 声 - [[岸野幸正]]
: 炎の神殿で魔法騎士を襲った剣闘師(ダル)。エメロードを護衛する親衛隊長だったが、術によりザガートの操り人形と化していた。圧倒的な剣技で光を追い込むが、地面に突き刺さった光の剣に触れた際に炎を浴び、洗脳が解ける。後にカルディナと恋仲に。ランティスとは馬が合わないらしい。
: アニメ版では、炎の神殿へ行く途中に3人を襲撃。光の呼びかけで自我を取り戻しかけるも1度は失敗、光にとどめを刺そうとして光の剣を握った瞬間炎に包まれ、原作同様洗脳が解けた。その後、炎の神殿へ現れたザガートの攻撃から防具を奪われた3人を庇い、自分の誇りをかけて交戦する。そして、自分を背後に庇いザガートの魔法を受けそうになった光を身を挺して守り、光の試練完了を見届けた。
: セガサターン版ではさざめきの森で光達との戦いに敗れ、イノーバに殺されるが、最後に自分を取り戻した。
; イノーバ
: 声 - [[置鮎龍太郎]]
: アニメ版オリジナルキャラクター。かつてエメロードがザガートに贈った精獣であり、2人が愛し合っていることも知っている。ザガートの力で人間の姿になり副官を務める。主(ザガート)を猊下と呼び、主の思いのために魔法騎士抹殺を誓う。
: 空の神殿ではフェリオを人質にとり、風に対して魔法騎士にならないよう脅迫するが失敗。その後、二度と人間の姿に戻れなくなることを承知で、自ら志願して元の精獣の姿に戻り、魔法騎士に決戦を挑むも、エメロードと連絡を取ったフェリオの協力を受けた3人に敗れて死亡する。
=== オートザム ===
セフィーロの外に存在する、高度に機械化された近未来的な文化の[[共和制]]の国。球状の星からトゲ状の岩が突き出た形をしており、そのトゲは星の核から地表を貫く形で生えている、居住区のあるエリアという設定である。環境汚染(アニメ版は精神エネルギーの枯渇)が深刻化しているため、人々はドーム型の居住区に住んでいるが、国土自体が死んでいっているため、滅亡を免れない状況にある。ケーキが存在する。
; イーグル・ビジョン
: 声 - [[緒方恵美]]
: 身長:180cm<ref name="image"/> / 好きなもの:甘いもの、お茶の時間、昼寝 / きらいなもの:特にない<ref name="chara4"/>
: オートザム軍の最高指揮官(コマンダー)で、最強のファイター。原作における最終的な敵であり、柱の試練のため光と死闘を繰り広げた。オートザム国大統領の令息でもある。身長180cm。オートザムの環境汚染(アニメ版では精神エネルギーの枯渇)を食い止めるため、柱システムを解明するためセフィーロに侵攻。重度の精神エネルギー欠乏症に陥っており、病状が進行すると永遠に眠り続ける<!--ジェオ曰く廃人-->。原作では他の2国が生み出した「光の道」を自分が生み出したそれで貫いて動きを封じるなど、命を懸けているがゆえの心の強さを見せた。原作・アニメ共に光と関わることが多い。
: 普段はおとなしい性格で、会議中に眠ったり、何も無い真平らな道で転んだりするなど抜けた所があるが、FTOに搭乗すると冷徹な性格と化す。
: 柱候補の一人として光と共に柱への道を通って試練に挑む。光の柱就任が決定した後、資格の無いものとして消滅するはずだったが、光達3人やランティスの強い意思を受けたモコナが柱への道を全面的に開放したため、海と風に光共々救出され無事帰還。しかし昏睡に近い状態になったため、以降はセフィーロで療養中(徐々に回復しつつある)。
: アニメ版ではクレフの張ったバリアをFTOで破って城内に侵入、一時城内に囚われの身となる。しかし、ランティスの剣が「柱の証」へ至る鍵の一つであることを本人から聞かされて知っていたため、隠し持っていたハンドコンピュータに納めた爆発物を利用し部屋を脱出。コンピュータが示すランティスの生命反応を頼りに移動し、居住区の中庭でランティスと戦闘する。そこに到着した光と共に「柱の証」のある部屋へ転送され柱候補に選ばれた後、柱システム解明とオートザムの再生方法の共同研究を条件にセフィーロと講和。FTOでNSXまで帰還するが、ザズが漏らした「魔神と戦っているロボット(レガリア)の中にランティスが捕まっている」という言葉に「病気に命を奪われるより、戦士として散る」という願いから、喀血しつつも全権をジェオに委譲し再出撃、ランティスを捕らえていたレガリアと魔法騎士との戦いに介入する。魔法騎士ともどもノヴァに引き込まれた異空間で、ランティスを傷つけられないという想いから防戦一方になる魔法騎士たちの代わりに、病状悪化による喀血を引き起こしながらも単身レガリアに挑み続けて追い詰められる。その間に光に「ランティスを呼んでください」と提案し、光の声で意識を取り戻したランティスの呼びかけに応じて特攻を仕掛け、ランティスを救出するが、直後に現れたデボネアの怒りを受け、既にボロボロになっていたFTOと共に爆散し、ランティスに「光を幸せにしてあげて下さい」と言い残し死亡した。
: OVA版ではエメロード姫の弟として登場する。和解した際に「エメロードが忌み嫌った影」と言っている。
; ジェオ・メトロ
: 声 - [[梁田清之]]
: 身長:202cm<ref name="image"/> / 好きなもの:甘いもの、美味しいもの、料理 / きらいなもの:酒<ref name="chara4"/>
: オートザム旗艦NSXの副司令官(サブコマンダー)で、彼自身も有能なファイター。イーグルの親友である。セフィーロ侵攻に関しては反対はしていないものの、いろいろ思う所があるらしい。たびたび眠るイーグルの体調に疑問を感じていた。料理が得意で下戸。極度の甘党。柱システム崩壊後もたびたびセフィーロを訪れている。
: アニメ版では、ランティス救出のため強引に出撃したイーグルから全権を任され、イーグルがクレフと講和したことでセフィーロと敵対する理由がなくなったことを受けてデボネアと魔法騎士たちの戦いにNSXで介入、魔法騎士を援護する。
; ザズ・トルク
: 声 - [[金丸淳一]]
: 身長:145cm<ref name="image"/> / 好きなもの:FTO、酒 / きらいなもの:愛するメカを壊す者<ref name="chara4"/>
: NSXの整備士(メカニック)で、修理なら電子レンジから戦艦まで何でもこなす。イーグルの愛機・FTOが大好きで同行した。光と背が変わらない少年だが酒豪。
: アニメ版では光に好意を寄せていた。また、光よりは年上らしい。年下で髪が短く、自分より背の低い子が好みらしい。しかし本人曰く「年上も嫌いじゃない」。
=== ファーレン ===
セフィーロの外に存在する、[[中国]]風文化を持つ[[帝政]]の国。[[土星]]の[[環 (天体)|環]]のような物を二つ持っている赤い星でその7割が海。リングの部分を除き、星の周囲を赤いガラスのようなバリアーが覆っている。経済的にも豊かで本来ならばセフィーロに侵攻する必要性の少ない国。
; アスカ(阿洲花)
: 声 - [[西村ちなみ]]
: 身長:92cm<ref name="image"/> / 好きなもの:お菓子(桃饅頭)、いたずら、サンユン<ref name="chara5">CLAMP「魔法騎士レイアース2 人物紹介」『魔法騎士レイアース2 2』講談社〈KCデラックス663〉、1995年12月18日、{{ISBN2|4-06-319663-1}}、220-222頁。</ref>
: ファーレンの第一皇女。ファーレン唯一の帝位継承者であり、既に両親は共に他界。一人称は「わらわ」で、古風な貴族言葉で話し、「おーほほほほ」と高笑いを上げる。サンユンより頭半分身長が低い。セフィーロをお菓子一杯の国にするという、子供らしい欲望でセフィーロ侵攻を決定した。ファーレン皇室に伝わる幻術の使い手で、未熟だが、才能は豊からしい。わがままな性格であるが、根は素直で、国と国民のことを一番に考える優しい心の持ち主であり、原作でイーグルから「ファーレンとセフィーロ両方を幸せにすることは出来ない」「“柱”の心が揺らげばセフィーロは崩壊する」と聞かされた際はセフィーロ侵攻を諦めるが、セフィーロが崩壊した理由を自国を守るためにも知りたいから撤退するわけには行かないとオートザムとの開戦を決意する。武術は得意だが、勉強が大嫌いでチャンアンに怒られるが全く気にしない。サンユンが好き。レイアースなどの魔神に関しては「かっこいい」と気に入り、欲しがっていた(庭で飼うつもりらしい)。
: 原作では柱システムが崩壊した後、自らセフィーロを訪れているようである。
; サンユン(山伊)
: 声 - [[こおろぎさとみ]]
: 身長:101cm<ref name="image"/> / 好きなもの:アスカ様、本<ref name="chara5"/>
: アスカの乳兄妹でお側役の少年。ギャグな顔をしているが、思慮深い性格で、文武に優れた人物。将来アスカの手助けになればと、様々な分野の勉強も惜しまない努力家。チャンアンからも将来帝位を継ぐアスカの良き補佐官になってくれればと期待されている。気弱な性格でアスカには頭が上がらず、幻術をやたら使いまくる彼女と、それを制止するチャンアンの間で板挟みになるが大抵アスカに押し切られる。
:アスカのことが好きだが身分が違うため、一生明かすつもりはないらしい。
; チャンアン(長庵)
: 声 - [[宮内幸平]](26話のみ)→[[石森達幸]](31話以降)<ref>本放送中に宮内が急逝したため、石森が後任となった。</ref>
: 身長:146cm<ref name="image"/> / 好きなもの:杏子酒、肩もみ<ref name="chara5"/>
: ファーレンの大臣で、まだ幼いアスカの代わりに摂政として政治を行う老人。身長146cm。普段は教育係としてアスカに厳しく接するので彼女には口うるさいと思われているが、本人は気にしていない。アスカの幻術の才能、天性の明るさ、素直で優しい所を見抜いており、いい君主になってくれればと願っている。オートザムとの会談後、王としての自覚に目覚めたアスカの決断を「大人になられました」と嬉しそうに褒めオートザムとの決戦の準備にかかった。皇族とは親類関係にあるらしく、多少の幻術は使える。[[カラオケ]]が趣味で、毎晩唸ってから寝るらしい。
; 巨大サンユン
: アスカがサンユンをモデルに「奥義:画竜転生の術」で創り出した幻。巨体で、セフィーロの城ほどの大きさである。その巨大さにものを言わせ、チゼータの守護精霊を小さな虫ケラのごとく投げ捨てたり、TVアニメ版ではNSXに跳び蹴りしたり、オーバーヒートを起こしたNSXを抱えて飛んだりもした。必殺技は口から発射する怪光線。これを目の当たりにしたサンユンは卒倒し、チャンアンにも「これも趣味がいいとは…」と冷評されたが、アスカ本人は相当気に入っているらしく、原作では1度きりだったが、TVアニメ版は「(以前創った)獅子より強い」と言って頻繁に呼び出している。タトラにもかわいいと気に入られている。原作ではモデルとなったサンユンによく似ていたが、アニメ版では水墨画風の落書き、といったデザイン。
=== チゼータ ===
セフィーロの外に存在する、[[アラブ]]風文化を持つ[[王制]]の国。小さな球状の主星の左右から横にラグビーボールを半分にしたような形状の重力発生装置が生えている。国土は真ん中の小さな主星のみで大変狭い。国民は[[褐色]]の肌に比して薄い髪色が特徴。方言が存在するが、現実世界の[[関西弁]]と同じものである。勉強不足のアスカでさえ知っているほど、領土が小さいことで有名。
; タトラ
: 声 - [[井上喜久子]]
: 身長:167cm<ref name="image"/> / 好きなもの:妹、お茶<ref name="chara5"/>
: チゼータ第一王女。普段はおっとりしているが、チゼータ最強の戦士でもあり、戦闘時などは王族に相応しい毅然たる態度で物事に臨む。妹を誰よりも大事に思っている。
: オートザムとの会談の席で、イーグルが死ぬ覚悟であることをいち早く見抜いた。また、全面開戦を決定したタータの本心を見抜き彼女の意見を尊重している。そして妹に「死を覚悟した者に勝てるのは、命の尊さを知っている者だけ」と諭した。柱システム崩壊後も、妹と共にたびたびセフィーロを訪れているようである。
: アニメ版ではタータが海に敗れた後、軽装の服に着替えて海と戦うが敗北。セフィーロへの侵攻を中止した。
; タータ
: 声 - [[久川綾]]
: 身長:162cm<ref name="image"/> / 好きなもの:父、母、武術訓練 とりあえず姉<ref name="chara5"/>
: チゼータ第二王女。気丈な性格で王族らしく正々堂々としているが、姉には頭が上がらない。本人曰く姉の笑顔ほど怖いものは無い。国土が狭いことを大変気にしており、領土拡大のためにセフィーロに侵攻する。あくまでも本人は武力併合ではなく、話し合いによる統合を望んでいた。姉とは対照的に男勝りな口調だが、興奮すると関西弁になる。
: オートザム、チゼータとの3カ国会談の際、イーグルからセフィーロより撤退するよう提案があったが、国土滅亡の危機にあるオートザムが新天地を求め、セフィーロの人民を弾圧するかもしれないと考えたタータは、国軍を持たないセフィーロのために戦うことを決め提案を拒否。オートザムとの全面開戦に踏み切った。柱システム崩壊後、姉と共にチゼータの代表としてセフィーロを訪れている。
: アニメ版では二度海と勝負するも、どちらも敗北している。
; ラシーン
: タトラを守る守護精霊で、タータのラクーンと総称して“ジン”と呼ばれる。ラクーンとは性格も多少異なるらしい。守護精霊を操るには相当強い心が必要。移動要塞「ブラヴァーダ」の艦首にある女神像の付近に、ラクーンと共に顕現する。
; ラクーン
: タータを守る守護精霊で、代々の王位継承者に憑く。固有の形態は持っていないため、何にでも変身できるが、基本的にはランプの精のような姿をしている。見た目はマッチョだが、女性が操っているため、気持ちの悪い動き方に拒絶反応を示す者も多い<!--海・アスカなど-->。
: アニメではラシーンと合体して海とタータ・タトラが決闘した闘技場に変身した。
=== セフィーロ(裏) ===
いずれもアニメ版のオリジナル敵キャラクターで二期から登場。アニメは原作と違いストーリーが大幅に変更されたものになっている。
; デボネア
: 声 - [[高畑淳子]]
: アニメにおける最終ボス。柱を失ったことでセフィーロ全土の人間が抱いた恐怖などから具現化した存在であり、「セフィーロの民の心」でもある。すべてを闇の世界に沈めようとしている。ノヴァやアルシオーネをも己の目的のために利用する狡猾な性格。ノヴァを唆し利用した挙句斬り捨て、最終決戦では魔神レガリアの上半身部分の破片と同化、魔法騎士に最後の戦いを挑む。光たちを圧倒し、最強の魔法「閃光の螺旋」さえも凌ぎ切り、魔法騎士たちを恐怖させた。しかし、そのことを知ったセフィーロの民たちの生きる願いによって現れたセフィーロの証たる剣を手にした光の前に敗れ去った。デボネアを生み出したのは人々が持つ負の感情だったが、デボネアを打ち破ったのもまた人々の思いだった。
: 『[[ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-]]』の高麗国編にて、キィシムとして正式にフィードバックされる。
; ノヴァ
: 声 - [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]]
: デボネアが作り上げた魔神レガリアを操る。デボネアを「(デボネア)お母様」と呼んで懐いている。光と顔がそっくりで、光と同じ炎の魔法が使える。性格は今で言う[[ヤンデレ]]。
: その正体は、光がエメロード姫との戦いの後にこの世界に残したやるせない心(後悔、怒りなど)から生まれた、もう1人の獅堂光とも言うべき存在。そのため、もともと光に対する異常な愛情と愛着を持っているが、全てを消せばヒカルは自分だけを見てくれるとデボネアに唆されたため、「ヒカルが好きなものはみんな嫌い!」と言い放つ、歪んだ妄執を抱くようになってしまった。最期は母と慕っていたデボネアに切り捨てられたが、そこへ現れた光から「嫌いな自分も抱えて生きていく」と手を差し出され和解。光と融合し一つの存在となった。
=== 伝説の魔神 ===
魔法騎士に力を貸して共に戦うと伝えられる存在。その正体は柱を殺すことを目的に創造された巨大ロボットで、普段は動物の姿で神殿に眠っている。
いずれも自らの意志を持ち、魔法騎士の意志の強さを認めた場合動物形態から巨大ロボット形態になり、魔法騎士を体内に取り込む形で共に戦うようになる。TVアニメ版では魔法騎士のことをそれぞれ名前で呼ぶ他、原作では末端肥大なデザインだった足が細くなっているなどデザインも若干アレンジされている。3人が愛用する武器と魔法を使用する他、3体の魔力を組み合わせた合体魔法「閃光の螺旋」が使用出来る。また合体することで巨大な合体魔神レイアースとなる。
原作では創造主(モコナ)の下僕でもあり、モコナの前では謙遜した態度をとる。柱システムの崩壊を受け、モコナと共に別次元へと消えていった。
; 炎神レイアース
: 声 - [[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]
: 光が操ることのできる炎の魔神(マシン)。一角と炎のたてがみがある赤い狼(獅子)の姿。炎の神殿で眠りについていて、巨大ロボット形態では赤く後頭部から炎を出し、先端に三本の爪の付いた盾を持つなど三体の中で唯一防具を装備している。イーグルいわく攻撃重視で、剣の威力は3機中最強。“炎”、“情熱”、“未来”を司る。
: アニメ版では炎を出す位置が後頭部から背中に変わっている。第二章では、光の心に直接話しかけたこともあった。またレガリアとの初戦で剣を折れたことで消滅して敗北を喫した後、光が心の強さを取り戻し、剣が戻ったことで復活を遂げた。本編での登場は18話とかなり遅く主役ロボットとしては日本で放映された巨大ロボットアニメの中でも最遅である。
: モコナ同様、自動車関係の名称が付いていない。RAY-EARTHは英語で「光る大地」。
: OVA版では[[レクサス]](ライオンの姿)として登場したが、Vol.2で破壊された。初期設定の段階での命名案も「レクサス」だった。
; 海神セレス
: 声 - [[玄田哲章]]
: 海が操ることのできる水の魔神。青い龍の姿。海の神殿で眠りについていて、魔法騎士三人が初めて出会った魔神でもある。海の心の強さを認めるもまだ十分ではないとして胸の宝石に宿り光が覚醒するまで再度眠りについた。“水”、“優しさ”、“現在”を司る。イーグルいわく機動力重視。
; 空神ウィンダム
: 声 - [[大塚明夫]]
: 風が操ることのできる風の魔神。2対の翼がある緑色の鳳凰の姿。空の神殿で眠りについていた。セレスと同じく風の心の強さを認めた後は胸の宝石に入り眠りについた。“風”、“知性”、“過去”を司る。イーグルいわく防御重視。
; 合体魔神レイアース
: 3体の魔神が合体したもの。容姿はレイアースを主とし、主翼にウィンダムの羽、副翼にセレスの翼。セレスの尻尾は単体では青だが、こちらは赤になっている。原作ではエメロードを倒す時と柱への道から脱出する時の2回で最後は戦闘シーンは無い。アニメ版では同じくエメロードを倒す時とイーグルが殺された時とデボネアを倒す時の3回合体した。
:; 閃光の螺旋(ひかりのらせん)
:: 3体の魔神の魔力を収束させて放つ合体魔法。原作では魔神ザガートを3体で包囲し、それぞれが構えた武器に浮き出た紋章から魔力を放っていたが、アニメ版では3体のイメージカラーである赤、青、緑の魔力が魔法陣から放たれ、螺旋を描きながら1つの光に収束する描写となっている。第二章では合体魔神の指先から放たれた。OVA版では合体魔神レイアースが構えた剣の刃が左右に開き、そこから放射状に発射された魔力が1つの光に収束している。
=== その他の魔神・ロボット ===
; 魔神ザガート
: ザガートが魔法騎士を迎え撃つために、持てる心の力を注いで創造した魔神。ザガートと同じく、黒の甲冑をまとった中世騎士のような風貌、身につけた紫のマントはビーム系攻撃を弾く。凄まじい力で魔法騎士たちを圧倒するも、合体魔法「閃光の螺旋」を受けて本体は爆発。残った剣はエメロードが魔法騎士への復讐に使用したが、最後は彼女と共に消滅した。作中では名称不明だったが、[[サウンドトラック]]では魔神ザガートと表記されていた。
; 魔神エメロード
: ザガートを殺された怒りと憎しみに染まったエメロードが魔法騎士への復讐のために創造した魔神。4本足の[[ケンタウロス]]のような姿(アニメ版では2本脚)。白を基調とするが、成長後のエメロードがまとう赤や紫といった濃い色も触手(髪)などに見受けられる。魔法騎士への激しい恨みと憎しみで、彼女たちをまったく寄せ付けなかったが、最後は合体魔神レイアースに胸を貫かれ消滅した。名称は作中では明らかにされず、サウンドトラックにて表記されていた。
; FTO
: メタリックな白を基調とした、オートザムのファイターメカ(ロボット)。イーグルの乗機。機動性と白兵戦に優れる。武装はビームソードとバルカン砲、捕獲バリア、シールド、またそれ以外にも多数のミサイルとシールド結界を張るビット状のメカがあるが、アニメでは描かれていない。原作におけるラストボスに当たる。
: 圧倒的な力を見せつけるが、柱候補として光と交戦中に右翼を破壊され<!--その後なぜか破損箇所が左翼に変わっている-->、柱への道から脱出するときに消滅。
: アニメ版48話では、ノヴァが駆る魔神レガリアとの戦闘で、ランティスの救出と引き換えに大破。さらにデボネアの攻撃によって消滅した。イーグル専用の配色と、量産型の配色の2種類があり、頭部とひざから下のデザインはイーグル専用機のみ異なる(装備は同じ)。
; GTO
: オートザムの緑色のファイターメカ。ジェオの乗機。ビーム砲とハーケンを装備し、遠距離戦に長ける。原作ではイーグルが起動[[パスワード]]を変えた為に機能を停止、モニターに映る程度でしか登場しない。アニメではFTOと共に出撃し魔法騎士達と戦った。
; 魔神レガリア
: 前述の通りアニメオリジナルの機体。ノヴァが操ることのできる黒い魔神で、デボネアが創造しノヴァに与えたもの。ノヴァと同様に光と同じ魔法を使いこなし、さらに他の魔導師を内部に取り込むことで、その者の魔法を操ることもできる。アニメ版48話においてFTOや合体魔神レイアースとの戦闘で破損し、用無しと見なしたデボネアの攻撃で下半身が吹き飛ばされ大破したが、残された上半身はデボネアによって回収され、魔法騎士を迎え撃つべくデボネアが融合し、最後の敵として立ちふさがる。デボネアと融合した際、彼女のシルエットを模した姿に変異した。
== 作中用語 ==
=== 戦艦・要塞 ===
; NSX
: オートザムの巨大戦艦。ラグナ砲をはじめ多数のビーム砲やミサイル発射口、シールドなどを装備しており攻防共に戦闘能力は高い。また、FTOなどの戦闘マシーンを多数収容し[[電磁式カタパルト|リニアカタパルト]]を備える。
; 童夢
: ファーレンの移動要塞。龍の形を模しており、炎のたてがみをなびかせて飛ぶ。タトラ曰く「長くてかわいい」らしい。龍の口部分から火球を発射できる。
; ブラヴァーダ
: チゼータの移動要塞。カレー鍋のような形をしている(アスカ談)。艦首からは守護精霊を出すことが出来る。また、船首の女性像の目からビームを放てる(原作では、その女性像の頭上に守護精霊が飛び出して実体化する)。
=== その他の用語 ===
; 魔法騎士(マジックナイト)
: セフィーロに口伝えで残されている伝説。「セフィーロに危機が迫った時、異世界から魔法騎士が召喚され、魔神の力を借りて戦う」というもの。当初、主人公の3人はその伝説について「単純な勧善懲悪の物語」と誤解していた。実際は「柱」がセフィーロに害悪をもたらす存在になった時、「柱」を殺すために呼び出される異界の人間のことである。過去に最低でも1度は魔法騎士が召喚され、柱の交代がなされた模様。
; 柱
: 祈りの力で国を支えるセフィーロそのものである存在。生前退位や自死は許されず、セフィーロをひたすら愛することを求められている。国の安寧以外の事に少しでも心揺らぐことがあれば世界が崩壊への道を歩む。人一人が世界そのものを背負うというその重圧と「人柱」の如き残酷な運命から、セフィーロの人の中にもクレフのように「柱制度」に疑問を持つ者が存在する。作中では光が新たな「柱」になり、心の強さを持って願うことで「柱制度」を消滅させた。
: 原作ではその資格者にモコナから「道」が開かれたが、アニメではエメロード姫の宝冠が「柱の証」であり、その時々の資格者によって姿を変える。また証が安置されている部屋は、クレフの持つ指輪かザガートの鎧、ランティスの剣のどれかがなければ扉が開かず、「意識を持つ水」が証を護っていて、入った者が資格者でなければ命を落とす。
; 沈黙の森
: セフィーロにある森。当初プレセアが住んでいた。この森では結界の力で魔法は使えず、呪文を唱えても魔法は発動しない。魔物が徘徊しており、エテルナにある伝説の鉱物エスクードを求めてこの森に入った戦士達は誰一人帰って来なかったという。
; エテルナ
: エスクードがあるという伝説の泉。沈黙の森を出た先にある。横から見るとただの線が空中に浮いているようにしか見えないが、上から見てみると泉に見える“[[二次元]]の泉”である。海からは「妙な泉」と俗称が付けられた。
: この泉の中で光達はエスクードを手に入れるための試練を受けたが、それは光達がそれぞれ大切に思っている存在の幻影に攻撃されるという内容だった(光は愛犬の閃光、海は両親。風は自分自身で、幻影を攻撃すると自らも傷ついた)。
; エスクード
: 魔法騎士専用の武器を作るために必要な、伝説の鉱物。これで作られた武器は、持ち主の成長に合わせて形状を変えていき、持ち主以外が触れても扱えないようになっている(光の剣は炎を発し触れた者が燃え、海の剣は水のように流れ落ち、風の剣は地面にめり込むほど重くなる)。
: 鉱物の状態では中心に[[スズキ (企業)|スズキ]]のマークが掘られている<ref name="new">{{Cite journal|和書 |editor=田中宏樹 |title=特別企画 レイアースはこうして生まれた! |journal=[[月刊ニュータイプ]]|issue=1994年11月号 |pages=141 |publisher=[[角川書店]] |date=1994-11-01}}</ref>。
; 魔神(マシン)
: セフィーロにおける巨大ロボットの総称。本来は魔法騎士に力を貸す存在とされる伝説の3体を指すが、ザガートやエメロード姫が自らの魔法で生み出したものや、アニメ版でデボネアがノヴァ用に創ったものも便宜上「魔神」とされる。
: いずれも操縦者と一体となって動き、魔神が負傷すると操縦者の身体も同じように負傷する。また、操縦者の魔法を繰り出したり、操縦者の武器を魔神の外に具現化(逆に魔神が拾った武器を操縦者が所持することも)できる。
; 光の道
: オートザム、チゼータ、ファーレンがセフィーロへ向けて伸ばしてきた、移動のための通路のようなもの。作り出すためにはかなりの精神力を必要とする。クレフは「これを作り出せる者が柱候補である」という推測を立てていた。
; 精神エネルギー
: オートザムの機械全般を動かすために必要な燃料。心の力が全てを決めるセフィーロと意味は似通っているが、オートザムの場合は人間が持つ精神力であり、生きるための力その物であるため、オートザム人はまさに寿命を削りながら生活している。
: アニメ版では、高度に機械化した影響で惑星自体が膨大な精神エネルギーを必要としているため、すでに枯渇が始まっており、それを食い止める術を柱システムに見出し、セフィーロへ侵攻してきた(原作では環境汚染が深刻な状態になったため)。
; 幻術
: ファーレン皇室に代々伝わる術。筆で書いた絵を実体化させたり(画竜転生の術)、糸を使って他のものを操ったり(幻術糸)することが出来る。膨大な心の力を必要とし、劇中では多用したアスカが過労で倒れた。術者はアスカとチャンアン(未使用)。
== アニメ ==
=== テレビアニメ ===
[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作・[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]](NNS加盟局)にて[[1994年]][[10月17日]]から[[1995年]][[11月27日]]まで月曜日の19時30分から20時00分に放送された。本編は全49話だが、1995年[[12月23日]]には総集編「マジックナイト・レイアース増刊号」が放送された。また、レギュラー放送の第9話(1994年[[12月12日]]放送)については、第8話までの総集編と本編を合わせた60分スペシャルとして放送された。
本作は[[日本芸術文化振興会|芸術文化振興基金]]助成事業の一環として制作されているため、第一章のOPタイトルの下にはそのシンボルロゴと『'''芸術文化振興基金助成作品'''』がクレジットされている。
本作で一度中断した月曜19時台のアニメ枠が復活し、[[2009年]][[4月]]に『[[SUPER SURPRISE|サプライズ]]』が平日19時台に設置されるまで一貫してアニメが放送された。当初の放送期間は1年間だったが、3カ月延長された。一部のスタッフ・キャストを引き継いだ上で後番組として開始し、現在も時間帯を変えて継続している『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』が年が明けた翌年1月8日からスタートしたのはこのためである。なお11月で終了となっているのは年末年始の特別編成によるもので、12月から翌年1月1日は単発特番や後続の『[[世界まる見え!テレビ特捜部]]』の2時間スペシャルで『コナン』開始までつなぐ形をとった。1995年12月23日の総集編は土曜日の放送である。
プロデューサーの[[諏訪道彦]]によると、グッズの売り上げは上々で内容の評価も高い作品ではあったが、[[視聴率]]だけは低かったとのこと<ref name="livedoor_17041456">{{Cite interview|和書|subject=[[諏訪道彦]]|url=https://news.livedoor.com/article/detail/17041456/|title=「真実はいつもひとつ!」の生みの親、諏訪道彦が語るアニメ『名探偵コナン』誕生秘話|work=[[livedoor ニュース|ライブドアニュース]]|publisher=[[ライブドア]]|interviewer=岡本大介|cointerviewers=西田周平|date=2019-09-06|accessdate=2020-01-13}}</ref>。
メインタイトルロゴ『魔法騎士レイアース』の表記が全部カタカナの『'''マジックナイト・レイアース'''』に直されたのは第43話(1995年10月16日放送分)から。なお、放送中の1995年10月より、東京ムービー新社は「キョクイチ東京ムービー」と表記変更(合併は11月)したが、アニメ本編終了まで「東京ムービー新社」名義でクレジットされていた(12月の総集編ではそれ以前の社名である「東京ムービー」名義で表示)。現在の再放送(並びにデジタルリマスター版)は「トムス・エンタテインメント」名義でクレジットされている。
「マジックナイト・レイアース増刊号」はアニメの総集編の他、キャラクターや名場面をピックアップした特別編となっており、光役の椎名、海役の吉田、風役の笠原が顔出しで出演した。
原作とは設定や話の展開が異なる部分が多く、特に第二章は大きく異なっている。アニメオリジナルストーリーが多い。
第一章のEDの動画でプレセアの衣装が変化している<ref>「マジックナイト・レイアース増刊号」の中で問題としてだされた。</ref>。
[[セガ]]のTOY部門がキャラクターグッズを展開。放映当時CMにも力を入れていたのかレイアースを実写版で製作しCMで放映していた。このときの光、海、風の3人を演じていたのは[[南青山少女歌劇団]]のメンバーである(光役:[[広橋佳以]]、海役:飯田未、風役:[[千葉紗子]])。
BGMの楽曲は『[[CDシアター ドラゴンクエスト]]』の[[概念|コンセプト]]を踏襲して、同じ[[作曲家]]が作っている。
1995年1月16日放送分の第11話「異世界セフィーロの魔神伝説」の翌日に[[阪神淡路大震災]]が発生。連日民放各社が時間帯に関係なく地震報道を放送している中、被災地のキー局である読売テレビは、翌週の第12話「恐るべき幻惑士 カルディナ」を予定通り放送した。
第一章オープニングで、[[田村直美]]が歌った「[[ゆずれない願い]]」は売り上げ100万枚を越えるヒットを記録し、田村は同曲で1995年の『[[第46回NHK紅白歌合戦]]』に出場した。
==== 声の出演 ====
主要な声の出演については、[[#登場キャラクター|登場キャラクター]]の節を参照のこと。
* ミラ - [[今井由香]]
* セラ - [[こおろぎさとみ]]
** ※ミラ、セラ、シエラ、イノーバ、ノヴァ、デボネアはTVアニメ版オリジナルキャラクター(セラはセガサターン版のゲームでは別の設定で登場。声優は同じくこおろぎさとみ)。
* 獅堂覚(しどう さとる、光の長兄) - [[飛田展男]]
* 獅堂優(しどう まさる、光の次兄) - [[千葉一伸]]
* 獅堂翔(しどう かける、光の三兄) - [[菊池正美]]
* 海のパパ - [[塩沢兼人]]
* 海のママ - [[伊藤美紀 (声優)|伊藤美紀]]
* 長谷川 - [[冬馬由美]](9話)
* 鳳凰寺空(ほうおうじ くう、風の姉) - [[小林優子]]
* ナレーション - [[島津冴子]]、[[吉成圭子]](19話、各種特別編のみ)
==== スタッフ ====
* 原作・オリジナルデザイン→キャラクター原案 - [[CLAMP]]
* 監督 - [[平野俊貴|平野俊弘]]
* シリーズ構成 - [[まるおけいこ]]・中村修(18話まで)、[[大川七瀬]](19話以降)
* シリーズ構成監修 - 大川七瀬(18話まで)
* 脚本協力 - 大川七瀬(18話まで)
* 脚本原案 - まるおけいこ(18話まで)
* キャラクターデザイン - [[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]
* モンスターメカデザイン - [[山根理宏]](やまねまさひろ)
* デザインワークス - [[森木靖泰]](21話以降)
* オープニングディレクター - [[大張正己]]
* 美術監督 - 石垣努
* 撮影監督 - 野村隆
* 音響監督 - [[浦上靖夫]]
* 音楽プロデューサー - 堀尾裕樹([[ユニバーサルミュージック (日本)|ポリグラム]])
* 音楽 - [[松尾早人]]
* 音楽監修 - [[すぎやまこういち]]
* 編集 - [[岡安肇]]
* 色彩設計 - 平山礼子
* 文芸担当 - 小野田博之
* 制作担当 - 小島哲
* CG製作 - 中川真一、小野弘司
* CG協力 - [[Kodak]]
* プロデューサー - [[諏訪道彦]](読売テレビ)、中村重喜(電通)、岩田幹宏→[[吉岡昌仁]](東京ムービー新社)
* 制作協力 - [[電通]]
* 製作 - [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、[[東京ムービー新社]]
==== 主題歌 ====
これらの曲の歌詞には全て主人公3人の名である「光」「海」「風」の文字が入っている。
===== 第一章 =====
; オープニングテーマ
:; 「[[ゆずれない願い]]」
:: 作詞・歌 - [[田村直美]] / 作曲 - 田村直美、[[石川寛門]] / 編曲 - 鷹羽仁、[[井上龍仁]]
:: 第1回[[アニメーション神戸]] 主題歌賞受賞曲。
; エンディングテーマ
:; 「[[明日への勇気]]」(第1 - 19話)
:: 作詞・作曲 - [[前田克樹]] / 編曲 - [[根岸貴幸]] / 歌 - [[吉成圭子]]
:; 「明日への勇気 アコースティック・ヴァージョン」(第20話)
:: 作詞・作曲 - 前田克樹 / 編曲 - 根岸貴幸 / 歌 - 吉成圭子
===== 第二章 =====
; オープニングテーマ
:; 「[[キライになれない]]」(第21 - 42話)
:: 作詞・作曲・編曲 - [[高橋研]] / 歌 - [[中村あゆみ]]
:: テレビ放送のみ別バージョンOP映像が第21話から30話まで放送されていたが、DVD版では収録されていない。
:; 「[[光と影を抱きしめたまま]]」(第43 - 49話)
:: 作詞 - 田村直美 / 作曲 - 田村直美、石川寛門 / 編曲 - 鷹羽仁、井上龍仁 / 歌 - 田村直美
; エンディングテーマ
:; 「[[ら・ら・ば・い〜優しく抱かせて]]」(第21 - 42話)
:: 作詞 - [[有森聡美]] / 作曲 - [[MIO]] / 編曲 - 富田素弘 / 歌 - [[本田美奈子.|本田美奈子]]
:; 「[[いつか輝く]]」(第43 - 49話)
:: 作詞 - [[及川眠子]] / 作曲 - [[湯川トーベン]] / 編曲 - [[松尾早人]] / 歌 - [[吉成圭子]]
==== ネット局 ====
出典は1995年9月時点のものとする<ref>『[[アニメディア]]』1995年10月号『TV STATION NETWORK』(113 - 115頁)</ref>。
{| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:smaller"
! 放送対象地域
! 放送局
! 系列
! ネット形態
|-
|[[広域放送|近畿広域圏]]
|[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]
|rowspan="27"|[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]
|'''制作局'''
|-
|[[北海道]]
|[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]
|rowspan="28"|同時ネット
|-
|[[青森県]]
|[[青森放送]]
|-
|[[岩手県]]
|[[テレビ岩手]]
|-
|[[宮城県]]
|[[宮城テレビ放送|ミヤギテレビ]]
|-
|[[秋田県]]
|[[秋田放送]]
|-
|[[山形県]]
|[[山形放送]]
|-
|[[福島県]]
|[[福島中央テレビ]]
|-
|[[広域放送|関東広域圏]]
|[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]
|-
|[[新潟県]]
|[[テレビ新潟放送網|テレビ新潟]]
|-
|[[長野県]]
|[[テレビ信州]]
|-
|[[山梨県]]
|[[山梨放送]]
|-
|[[静岡県]]
|[[静岡第一テレビ]]
|-
|[[富山県]]
|[[北日本放送]]
|-
|[[石川県]]
|[[テレビ金沢]]
|-
|[[広域放送|中京広域圏]]
|[[中京テレビ放送|中京テレビ]]
|-
|[[島根県]]<br />[[鳥取県]]
|[[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]]
|-
|[[広島県]]
|[[広島テレビ放送|広島テレビ]]
|-
|[[山口県]]
|[[山口放送]]
|-
|[[徳島県]]
|[[四国放送]]
|-
|[[香川県]]<br />[[岡山県]]
|[[西日本放送テレビ|西日本放送]]
|-
|[[愛媛県]]
|[[南海放送]]
|-
|[[高知県]]
|[[高知放送]]
|-
|[[福岡県]]
|[[福岡放送]]
|-
|[[長崎県]]
|[[長崎国際テレビ]]
|-
|[[熊本県]]
|[[熊本県民テレビ|くまもと県民テレビ]]
|-
|[[鹿児島県]]
|[[鹿児島讀賣テレビ]]
|-
|[[福井県]]
|[[福井放送]]
|日本テレビ系列<br />[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]
|-
|[[大分県]]
|[[テレビ大分]]
|日本テレビ系列<br />[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]
|-
|[[沖縄県]]
|[[琉球放送]]
|[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]
|水曜 16:00 - 16:30に遅れネット
|}
==== 各話リスト ====
{|class="wikitable" style="font-size:small"
|-
!話数!!サブタイトル!!脚本!!絵コンテ!!演出!!作画監督!!放送日
|-
!colspan="7"|第一章
|-
|1||伝説のマジックナイト始動||rowspan="3"|[[まるおけいこ]]||[[平野俊貴|平野俊弘]]||[[元永慶太郎]]||[[石田敦子 (漫画家)|石田敦子]]||'''[[1994年]]'''<br />[[10月17日]]
|-
|2||沈黙の森の創師プレセア||colspan="2" style="text-align:center"|[[千明孝一]]||[[後藤圭二]]||[[10月24日]]
|-
|3||謎の美少年剣士フェリオ||colspan="2" style="text-align:center"|[[新田義方]]||[[竹内昭]]||[[10月31日]]
|-
|4||執念の魔操士アルシオーネ||rowspan="2"|中村修||colspan="2" style="text-align:center"|[[亀垣一]]||[[本橋秀之]]||[[11月7日]]
|-
|5||伝説の鉱物エスクード||中山岳洋||元永慶太郎||中山岳洋||[[11月14日]]
|-
|6||命をかけたプレセアの武器||rowspan="2"|まるおけいこ||[[飯島正勝]]||保谷太郎||小林多加志||[[11月21日]]
|-
|7||捨て身のフェリオ砂漠の恋||colspan="2" style="text-align:center"|千明孝一||後藤圭二||[[11月28日]]
|-
|8||召喚士アスコットの恐怖の罠||中村修||小枝マリ||新田義方||竹内昭||[[12月5日]]
|-
|9||マジックナイト最大の危機!||まるおけいこ||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之||[[12月12日]]
|-
|10||よみがえる伝説の魔神セレス||中村修||平野俊弘||元永慶太郎||中山岳洋||'''[[1995年]]'''<br />[[1月9日]]
|-
|11||異世界セフィーロの魔神伝説||まるおけいこ||松村康弘||中野頼道||小林多加志<br />久保博志||[[1月16日]]
|-
|12||恐るべき幻惑士カルディナ||rowspan="2"|中村修||colspan="2" style="text-align:center"|[[まついひとゆき]]||後藤圭二||[[1月23日]]
|-
|13||この世界でいちばん大切なもの||colspan="2" style="text-align:center"|千明孝一||[[平山まどか|平山円]]||[[1月30日]]
|-
|14||光、海、風のゆずれない願い||[[大川七瀬]]||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之||[[2月6日]]
|-
|15||第二の魔神・空神ウィンダム||まるおけいこ||小枝マリ||元永慶太郎||中山岳洋||[[2月13日]]
|-
|16||強敵!剣闘士ラファーガ||中村修||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||後藤圭二||[[2月20日]]
|-
|17||イノーバの正体とよみがえる記憶||大川七瀬||colspan="2" style="text-align:center"|中野頼道||中島弘明||[[2月27日]]
|-
|18||最後の魔神・炎神レイアース||中村修||colspan="2" style="text-align:center"|千明孝一||平山円||[[3月6日]]
|-
|19||対決!魔法騎士VSザガート||rowspan="2"|大川七瀬||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||本橋秀之||[[3月13日]]
|-
|20||伝説の魔法騎士!驚異の真実||中山岳洋||元永慶太郎||||[[3月20日]]
|-
!colspan="7"|第二章
|-
|21||出発(たびだち)と新たな絆||rowspan="29"|大川七瀬||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||後藤圭二||[[4月10日]]
|-
|22||セフィーロと三つの国||小枝マリ||元永慶太郎||平山円||[[4月17日]]
|-
|23||オートザムの侵攻とランティス||colspan="2" style="text-align:center"|高木真司||渡部迅子||[[4月24日]]
|-
|24||魔法騎士と戦艦NSX||中山岳洋||中野頼道||中山岳洋||[[5月1日]]
|-
|25||光と夢の中のノヴァ||[[佐藤真人]]||[[長岡康史]]||[[山根理宏]]||[[5月8日]]
|-
|26||魔法騎士とファーレンのアスカ||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||後藤圭二||[[5月22日]]
|-
|27||セフィーロの柱の秘密||colspan="2" style="text-align:center"|岡崎幸男||平山円||[[6月5日]]
|-
|28||光とランティスの危険な旅||小枝マリ||元永慶太郎||中山岳洋||[[6月12日]]
|-
|29||イーグルと捕らわれた光||中山岳洋||中野頼道||阿部純子||[[6月19日]]
|-
|30||ノヴァと悪魔の魔神レガリア||きくちみちたか||元永慶太郎||石田敦子||[[6月26日]]
|-
|31||チゼータの移動要塞と戦えない光||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||後藤圭二||[[7月3日]]
|-
|32||海・風とファーレン・チゼータ||[[篠原俊哉]]||岡崎幸男||平山円||[[7月10日]]
|-
|33||光の願いとプレセアの秘密||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||中山岳洋||[[7月17日]]
|-
|34||光と引き裂かれた友情||中山岳洋||中野頼道||阿部純子||[[7月24日]]
|-
|35||海とタータ・タトラの野望||小枝マリ||元永慶太郎||山根理宏||[[7月31日]]
|-
|36||風対アスカ!命がけの弓勝負||[[鍋島修]]||長岡康史||後藤圭二<br />[[門之園恵美]]||[[8月7日]]
|-
|37||甦れ!光の剣||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||平山円<br />西岡忍||[[8月14日]]
|-
|38||イーグル・セフィーロ城総攻撃!||colspan="2" style="text-align:center"|亀垣一||後野真津里||[[8月21日]]
|-
|39||セフィーロ城大混戦!||中山岳洋||岡崎幸男||[[石野聡]]<br />[[木崎文智]]||[[8月28日]]
|-
|40||魔法騎士とひとときの安らぎ||佐藤真人||元永慶太郎||西岡忍||[[9月4日]]
|-
|41||ノヴァとの戦いと魔物の正体||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||服部和美<br />[[かわむらあきお|河村明夫]]||[[9月11日]]
|-
|42||巨大サンユンVSNSX!||小枝マリ||元永慶太郎||平山円<br />石野聡||[[9月18日]]
|-
|43||王冠の部屋と柱の記憶||中山岳洋||長岡康史||中山岳洋||[[10月16日]]
|-
|44||真剣勝負!海VSタータ・タトラ||なかやまたけひろ||中野頼道||やまねまさひろ<br />平山円<br />西岡忍<br />坂井久美||[[10月23日]]
|-
|45||絶体絶命!ランティスの危機||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||門之園恵美||[[10月30日]]
|-
|46||光・衝撃!ノヴァの真実||佐藤真人||元永慶太郎||西岡忍||[[11月6日]]
|-
|47||真の柱は!?光か、イーグルか!?||岡崎幸男<br />まついひとゆき<br />鍋島修||岡崎幸男||石野聡||[[11月13日]]
|-
|48||果てしない戦い!||小枝マリ||元永慶太郎||平山円||[[11月20日]]
|-
|49||勝利への道!信じる心が開く明日!||colspan="2" style="text-align:center"|まついひとゆき||石田敦子<br />やまねまさひろ||[[11月27日]]
|}
{{前後番組
|放送局=[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作・[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]
|放送枠=[[読売テレビ制作月曜夜7時30分枠のアニメ|月曜19:30枠]](本作以降再びアニメ枠)
|番組名=魔法騎士レイアース<br />(1994年10月17日 - 1995年11月27日)
|前番組=[[即席!明るい改造計画]]<br />(1994年4月11日 - 1994年9月12日)
|次番組=[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](第1話 - 第514話)<br />([[1996年]]1月8日 - [[2008年]]9月8日)
}}
==== ビデオ・DVD・BD ====
''' ビデオソフト '''
* レンタル用VHS版:第一章5+第二章7の全12巻
* 店頭販売用VHS版:第一章7+第二章10の全17巻
* LD版:第一章5+第二章7+特別編1の全13巻
3バージョン共に1995年3月 - 1996年4月に[[ユニバーサルミュージック (日本)|ポリグラム]]からリリースされた。
''' DVD-BOX '''
* 第1版:第一章4+第二章6の全10巻編成で、[[1999年]]6月16日にポリグラムからリリースされた。
* 第2版:第一章4+第二章6+特別編1+サントラCD1の全12巻編成で、[[2005年]]5月27日に[[バンダイビジュアル]]からリリースされた。
''' DVD(単品) '''
* 2005年12月23日から[[2006年]]2月24日にかけて、[[バンダイビジュアル]]より全10巻でリリースされた。レンタルはされていない。
''' BD-BOX '''
* [[2014年]]10月29日にリリース。テレビアニメ版すべてを収録。OVA版『レイアース』も特典DVDとして収録。
=== OVA ===
OVA版『レイアース』は全3巻で、VHS/LD版が1997年7月25日 - 12月10日にポリグラムから、DVD-BOX版が2002年11月27日に[[講談社]]からリリースされた。他に『特別編 -希望の翼-』(ディレクターズカット版)はVHS/LD版が1998年にポリグラムから発売されている。また、2014年10月に発売された『魔法騎士レイアース』のBD-BOXに、このOVA版も特典DVDとして収録されている。
原作・TVアニメ版とは大きく設定が異なり、OVAオリジナルストーリーとなっている。スタッフも大幅に変更されているが、担当声優は同じ。ナレーションは[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]]が担当。
==== OVA版の主な設定 ====
* 異世界「セフィーロ」の人々や魔神が地球の東京に出現し、光、海、風が地球の運命を懸けた戦いに巻き込まれていくストーリー。
* 原作・TVアニメ版にあったような明るさ・ギャグ的要素はほとんどなく、シリアスな内容になっている。
* 光、海、風は、原作・TVアニメ版では中学2年生だが、このOVA版では中学卒業間際。
* 光、海、風の3人が最初から同じミッション系の中学校<ref>「女子校である」という明確な設定はないが、登場する生徒は女子のみである。</ref>に通っている<ref>『脚本集4』での発言によると、このOVA版で光たちが通っている中学校は[[CLAMP学園]]だという。実際に作中で3人が着ている冬服のデザインはCLAMP学園中等部の物にそっくりである。</ref>。
* 光、海、風が学校で所属している部活動が、原作・TVアニメ版とは異なる<ref>光が新体操部、海がテニス部、風が演奏学部。</ref>。
* 魔神の格好が生物的。また、魔神の内部では、光たちは全裸。
* 光が操る魔神の名前が、原作・TVアニメ版では「レイアース」だったが、このOVA版では「レクサス」となっている。そして、レクサス、セレス、ウィンダムが合体した形態の名称が「レイアース」となっている。
* エメロード姫の弟は、原作・TVアニメ版ではフェリオだったが、このOVA版ではイーグルになっている。
* エメロード姫が精霊のような存在であり、死亡しない。
* イーグルを除くセフィーロ外のキャラクターやアニメオリジナルキャラクターは登場しない。また、カルディナ、ラファーガも登場しない。
* 光とクレフの身長が、原作・TVアニメ版よりもやや高い。
など。
==== スタッフ(OVA) ====
* 監督 - [[平野俊貴]]
* 脚本 - 中村学
* キャラクターデザイン - [[門之園恵美]]
* 魔神デザイン原案 - [[麻宮騎亜|キクチミチタカ]]
* 絵コンテ - 平野俊貴、[[まついひとゆき]]
* 演出 - [[元永慶太郎]]、模財久太郎(3)
* メカデザイン - [[紺野直幸]]
* 精獣デザイン - [[後藤圭二]]
* 作画監督 - 西岡忍(1、3)、[[斎藤久]](2)、[[宍戸久美子]]・[[糸島雅彦]](3)
* 美術監督 - [[加藤浩]]、佐藤勝(3)
* 色彩設計 - [[中山久美子]]
* 撮影監督 - 野村隆
* 編集 - [[岡安肇]]
* 音響監督 - [[浦上靖夫]]、[[小林克良]]
* 音楽 - [[佐橋俊彦]]
* プロデューサー - 角田研、山内文恵、[[吉岡昌仁]]
* アニメーション制作 - [[トムス・エンタテインメント]]
* 製作 - 講談社、ポリグラム、トムス・エンタテインメント
==== 主題歌(OVA) ====
; エンディング「[[All You Need Is Love (田村直美の曲)|All You Need Is Love]]」
: 作詞・歌 - [[田村直美]]、作曲 - 田村直美・[[Joey Carbone]]、編曲 - [[Ichiro]]
== ゲーム ==
=== 魔法騎士レイアース(セガサターン) ===
{{コンピュータゲーム
| Title = 魔法騎士レイアース
| Plat = [[セガサターン]]
| Dev =
| Pub = [[セガ]]
| Date = [[1995年]][[8月25日]]
| Sale =
| Genre = [[アクションロールプレイングゲーム|アクションRPG]]
| Play = 1人
| Media = [[CD-ROM]]
| etc =
|}}
[[1995年]]8月25日に[[セガ]]より4,800円で発売された[[アクションRPG]]。キャッチコピーである「ハマるロープレ」シリーズの第3弾。開発担当は「[[ファンタシースターシリーズ]]」や後に『[[サクラ大戦]]』を手掛けるセガ第二CS研究開発部<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/202009/27206474.html|title=太正桜に浪漫の嵐!『サクラ大戦』がセガサターンで発売された日。舞台やアニメ、ラジオなど多方面に展開するメディアミックスの先駆け的な作品【今日は何の日?】|publisher=[[ファミ通.com]] |date=2020-09-27 |accessdate=2020-11-20}}</ref>。初回版は三平方BOX仕様に加え、レイアースファンブックおよびパワーメモリー用のインデックスシールが付いた。米国ではサターン最後のソフトとして発売された。
マップを移動しながら、画面上に点在する敵キャラクターを操作キャラクターで倒していく戦闘システム。ボスにはいわゆる根負けシステムが採用されており、負けてもゲームオーバーにはならず再戦すると弱体化している。最終決戦は魔神を切り替えて戦闘を行うシューティング風のゲームになっている。
画面演出には、階段で他階に移動する際の風景は切り替えや暗転を使用せずに連続的に切り替えるというシステムを採用している。この独特な演出はセガの自社製作であり、続作の『サクラ大戦』などの画面演出の原形となっている{{要出典|date=2016年5月}}。
ほぼフルボイスになっており、流し台やタンスなど特に意味のない物に対しても先頭のメンバーがセリフをしゃべる。イベントごとには3人それぞれの絵日記(ゲームの進行そのものには影響しない)が追加されていく。
物語の発端と最終的な目的以外は、原作・アニメ版とも異なったストーリー展開となっており、オリジナルキャラクターも多数登場する(上記で説明のあった「セラ」はこのゲームでは10歳の少女という設定になっている)。イベントシーンなどにアニメーションが多数挿入されており、序盤は本編からの流用が多いものの、風の武器が剣から弓に変更されていることや、ほぼオリジナルストーリーだということもあり、中盤以降はアニメスタッフによる新規描き下ろしアニメが多用されている。原作・アニメ版では成長と共に長大化していく剣を使っていた風だが、このゲームでは最後まで弓を使用する(つまりエスクード製の弓である)。また、原作・アニメ版には登場しないオリジナルの魔法や技が複数登場する。ザガート側の人物のうち、ザガート、エメロード姫、イノーバ、アルシオーネは魔法騎士に敗れて、アスコットは半狂乱になったカルディナの一撃を受けて、カルディナとラファーガ(洗脳)はイノーバに処刑される(原作ではアルシオーネ、TVアニメ版ではイノーバを除いて全員生存)<!--ただ、それらのシーンもキャラクタ個々の性格などを踏まえた上での展開であるため、単に死亡させたというだけではなく相応の説得力は持たせている(特にラファーガと光の関係など)。-->。一方でプレセアはTVアニメ版のように途中で死亡せず最後まで生存している。また、フェリオとエメロード姫の関係については、このゲームでは何も触れられていない。
魔神の声はスタッフロールではセレス表記のみだが、レイアース、ウィンダムも[[玄田哲章]]が担当している。
'''ゲームオリジナルキャラクター'''としてルキノ([[秋元羊介]])、カルタス([[速水奨]])、セラ([[こおろぎさとみ]])、アベニール([[梅津秀行]])、アルティナ([[皆口裕子]])、ネロ([[山田恭子]])が登場する。
主題歌はTVアニメと同じ「'''ゆずれない願い'''」
; キャスト
* 獅堂光:椎名へきる
* 龍咲海:吉田古奈美
* 鳳凰寺風:笠原弘子
* エメロード:緒方恵美
* クレフ:佐々木望
* モコナ:白鳥由里
* フェリオ:山崎たくみ
* プレセア:篠原恵美
* ラファーガ:岸野幸正
* セレス:玄田哲章
* ザガート:小杉十郎太
* イノーバ:置鮎龍太郎
* アルシオーネ:天野由梨
* カルディナ:永島由子
* アスコット:高山みなみ
* ルキノ:秋本洋介
* カルタス:速水奨
* セラ:こおろぎさとみ
* アベニール:梅津秀行
* アルティナ:皆口裕子
* ネロ:山田恭子
; ゲームスタッフ
* 原作・オリジナルデザイン:CLAMP
* ディレクター:小玉理恵子
* ゲームデザイン&シナリオ:西山彰則
* システム仕様:荷村知宏、向山彰彦
* アートディレクター:山口恭史
* キャラクター制作:中崎光康、西野歩、岡田谷弥栄子、津川一吉
* サウンドディレクター:牧野幸文
* ゲームBGM&SE:和智弥生、岡元清郎
* 作曲・編曲:松尾早人
* プロデューサー:山田辰夫、神谷眞
* エグゼクティブ・プロデューサー:重田守
* 制作:セガ・エンタープライゼス
; アニメーションスタッフ
* 監修:平野俊弘
* 演出:[[元永慶太郎]]
* キャラクターデザイン:石田敦子
* モンスターメカデザイン:山根理宏
* 作画監督:長野伸明
* 美術監督:石垣努
* 撮影監督:[[長谷川肇 (撮影監督)|長谷川肇]]
* 音響監督:浦上靖夫、小林克良
* 編集:岡安肇
* 色彩設計:平山礼子
* 企画開発:野田直彦
* 企画協力:宮川明子
* プロデューサー:岩田幹宏
* アシスタントプロデューサー:水沼健二
* 制作担当:伊藤隆
* 制作進行:後藤洋輝
* 制作協力・原画・作画:スタジオ テイク・オフ
* 色指定:清水千世子
* 特殊効果:林好美
* アニメーション制作:東京ムービー新社
{{clear}}
=== 魔法騎士レイアース(ゲームギア) ===
{{コンピュータゲーム
| Title = 魔法騎士レイアース
| Plat = [[ゲームギア]]
| Dev =
| Pub = [[セガ]]
| Date = [[1994年]][[12月16日]]
| Sale =
| Genre = [[ロールプレイングゲーム|RPG]]
| Play = 1人
| Media = [[ロムカセット]]
| etc =
|}}
[[1994年]]12月16日にセガより4,800円で発売された[[ロールプレイングゲーム|RPG]]。対応ハードは[[ゲームギア]]で、同日に「ゲームギア キャラクターパック 魔法騎士レイアース」として、ゲームギア本体との同梱版も15,800円で発売された。レイアースのロゴとモコナがプリントがされたゲームギア本体(色はレッド)と本カセット、モコナのアミュレットがセットになっている。カセットも本体カラーに合わせ赤色になっている(通常は黒)。
ストーリーはオリジナルで、姿を消してしまったモコナを追うというものになっている。フェリオが変装の達人となっているなど、原作とは一部設定が異なり、魔法に関しても原作とは効果が全く違うものがある。
戦闘シーンはスロットバトルと呼び、ルーレットで攻撃の順番が決まり、ルーレットの回転が速いほど攻撃力が上がるというシステムになっている。
本作のストーリーをもとにした外伝漫画が[[るんるん (講談社)|るんるん]]に掲載された(設定資料集に再録されている)。
{{clear}}
=== 魔法騎士レイアース2 〜 making of magic knight 〜 ===
{{コンピュータゲーム
| Title = 魔法騎士レイアース2<br />〜 making of magic knight 〜
| Plat = [[ゲームギア]]
| Dev =
| Pub = [[セガ]]
| Date = [[1995年]][[8月4日]]
| Sale =
| Genre = [[育成シミュレーションゲーム|SLG]]
| Play = 1人
| Media = [[ロムカセット]]
| etc =
|}}
1995年8月4日にセガより4,800円で発売された育成シミュレーションゲーム。対応ハードはゲームギア。なお、サターン版とゲームギアの2作のCMはすべて光、海、風の3人の実写版で製作された。
再びセフィーロに戻ってきた3人を魔法騎士に育てるのが目的。育て方によっては魔法騎士以外にも剣士や魔術師などもになれる。8つの育成メニューを毎日1つ実行して50日間で3人のパラメータを上げていく。
魔法騎士にするにはアイテムの入手が必要であり、3人同時に魔法騎士にするにはメモを取りながらの複数回プレイが必要。主人公3人の成長度合いでエンディングが変化する。
タイトルBGMに第2章オープニングテーマである「キライになれない」が使用されている。
{{clear}}
=== 魔法騎士レイアース(スーパーファミコン) ===
{{コンピュータゲーム
| Title = 魔法騎士レイアース
| Plat = [[スーパーファミコン]]
| Dev =
| Pub = [[トミー (企業)|トミー]]
| Date = 1995年[[9月29日]]
| Sale =
| Genre = [[ロールプレイングゲーム|RPG]]
| Play = 1人
| Media = [[ロムカセット]]
| etc =
|}}
1995年9月29日に[[トミー (企業)|トミー]]より9,800円で発売されたRPG。対応ハードは[[スーパーファミコン]]。
原作の第1部をベースにしているが、原作やアニメにはない多彩な魔法が用意されている。3人の冒険だが、途中ではフェリオ、アスコット、カルディナ、ラファーガと共に冒険を続けるシーンもある。各キャラクターの掛け声も聞ける(味方キャラクターのみ)。
プレセアは最後まで生きており、クレフも石にはならない。1周目のエンディングはバッドエンドだが、2周目以降はハッピーエンドになるというやり込みを狙った隠し要素も存在する。
※ゲーム画面に表示された技の説明文を記述する。
{| width="100%"
|-----
| valign="top" width="25%" |
; 獅堂光のマジック
; 炎の矢(ほのおのや)
: 燃え盛る炎を敵に放つ。
; 紅い稲妻(あかいいなずま)
: 稲妻を敵に落とす。
; 火焔の舞(ひえんのまい)
: 炎の竜巻が敵を包む。
; 炎の隕石(ほのおのいんせき)
: 炎の塊を敵にぶつける。
; 逆巻く炎(さかまくほのお)
: 火柱が敵を燃やし尽くす。
; 紅い波動(あかいはどう)
: 熱い波が敵を包む。
; 真紅の業火(しんくのごうか)
: 熔岩を噴き上げる。
; 白き閃光(しろきせんこう)
: 聖なる光が敵を浄化する。
; 炎の爪(ほのおのつめ)
: レイアースの爪が敵を切り裂く。
; 炎の叫び(ほのおのさけび)
: レイアースの息吹で攻撃。
; 真紅の螺旋(しんくのらせん)
: レイアースが螺旋の炎で攻撃。
; 炎の剣(ほのおのけん)
: レイアースの剣が敵を斬る。
<td><td valign=top width="25%">
; 龍咲海のマジック
; 水の龍(みずのりゅう)
: 水の龍が敵を襲う。
; 蒼い竜巻(あおいたつまき)
: 巨大な竜巻を発生させる。
; 海流の波(かいりゅうのなみ)
: 津波が敵を押し流す。
; 水龍の滝(すいりゅうのたき)
: 地下水を吹き上げる。
; 水の刃(みずのやいば)
: 速い水が敵を切り裂く。
; 氷の乱舞(こおりのらんぶ)
: 氷の吹雪が敵を襲う。
; 龍鱗の盾(りゅうりんのたて)
: 水の壁が味方を防御。
; 波紋の鎖(はもんのくさり)
: 水の鎖が敵を動けなくする。
; 魔神の拳(ましんのこぶし)
: セレスが敵を殴る。
; 蒼い波紋(あおいはもん)
: セレスが水の環を打ち出して攻撃。
; 蒼き咆哮(あおきほうこう)
: セレスの咆哮で敵を攻撃。
; 蒼い牙(あおいきば)
: セレスの剣で敵を斬る。
<td><td valign=top width="25%">
; 鳳凰寺風のマジック
; 癒しの風(いやしのかぜ)
: 聖なる風が傷を癒やす。
; 風の旋律(かぜのせんりつ)
: 味方の状態を正常にする。
; 碧の疾風(みどりのしっぷう)
: カマイタチが敵を切り刻む。
; 風の怒り(かぜのいかり)
: 激しい風を巻き起こす。
; 防りの風(まもりのかぜ)
: 空気の壁が味方を防御。
; 風の精霊(かぜのせいれい)
: 風の精霊が気絶を回復。
; 戒めの風(いましめのかぜ)
: 風の帯が敵の動きを封じる。
; 香雲の風(こううんのかぜ)
: 必殺の一撃が出やすくなる。
; 碧の翼(みどりのつばさ)
: ウィンダムの起こす風が味方を護る。
; 碧の力(みどりのちから)
: ウィンダムの風が味方を回復。
; 碧の光(みどりのひかり)
: ウィンダムの力で能力がアップ。
; 魔神の風(ましんのかぜ)
: ウィンダムの剣が敵を斬る。
|}
; 声の出演
* 光:椎名へきる
* 海:吉田古奈美
* 風:笠原弘子
* フェリオ:山崎たくみ
* アスコット:高山みなみ
* カルディナ:永島由子
* ラファーガ:岸野幸正
; スタツフ
* 原作:CLAMP
* プログラム:伊藤真也
* シナリオ:早川奈津子
* ゲームデザイン:頓宮勝弘
* イペント:川上俊則
* ミュージック:田村大輔
* グラフィック:朝桐三喜、上野かおり、蚊爪麗香、小林康、濱本浩志、矢野史子
* スペシャルサンクス:馬先正之[TOMY]、考志康子
* ディレクター:頓宮勝弘
* プロデュース:PANDORA BOX 1995
{{clear}}
=== 魔法騎士レイアース(ゲームボーイ) ===
{{コンピュータゲーム
| Title = 魔法騎士レイアース
| Plat = [[ゲームボーイ]]
| Dev = [[パンドラボックス (ゲーム会社)|パンドラボックス]]
| Pub = [[トミー (企業)|トミー]]
| Date = 1995年[[6月2日]]
| Sale =
| Genre = [[ロールプレイングゲーム|RPG]]
| Play = 1人
| Media = [[ロムカセット]]
| etc =
|}}
1995年6月22日にトミーより4,500円で発売されたRPG。対応ハードは[[ゲームボーイ]]。制作は[[パンドラボックス (ゲーム会社)|パンドラボックス]]。
森の中で見つけた絵の中に迷い込み、そこから脱出するというストーリー。光、海、風のそれぞれ各シナリオが分かれており、3人は別々に行動する。全てクリア後に3人が一緒になる。声優によるボイスサンプリングが行われている。
原作が少女漫画ということもあって、難易度は少女漫画誌の読者に合わせて相当に低くなっており、RPGの入門タイトルと言ってもよい。キャラクターデザインの再現度や書き込みなどは当時から評価された<ref>M.B.MOOK『懐かしゲームボーイパーフェクトガイド』 ({{ISBN2|978-4-86640-025-9}})、23ページ</ref>。
{{clear}}
=== 魔法騎士レイアース2nd ミッシングカラーズ ===
{{コンピュータゲーム
| Title = 魔法騎士レイアース2nd<br />ミッシングカラーズ
| Plat = [[ゲームボーイ]]
| Dev = [[パンドラボックス (ゲーム会社)|パンドラボックス]]
| Pub = [[トミー (企業)|トミー]]
| Date = 1995年[[10月27日]]
| Sale =
| Genre = [[ロールプレイングゲーム|RPG]]
| Play = 1人
| Media = [[ロムカセット]]
| etc =
|}}
1995年10月27日にトミーより4,500円で発売されたRPG。対応ハードはゲームボーイだが、[[スーパーゲームボーイ]]にも対応している。制作は前作同様[[パンドラボックス (ゲーム会社)|パンドラボックス]]。
前作の続きとなっていて、色泥棒に奪われた色を取り戻すというストーリー。ボイスサンプリングは数を増やしている。前作と比べるとパズル要素が強くなっており、その為やや難易度も上がっている。
{{clear}}
=== その他 ===
;魔法騎士レイアース マジックナイトたんじょう
:1995年6月24日に[[セガ]]より[[キッズコンピュータ・ピコ]]用ソフトとして4,980円で発売。
;[[ニンテンドー3DS]]用テーマ
:ニンテンドー3DSの背景画像として使えるテーマ3種が2015年9月30日から配信された。各250円だが、3種セットで購入すると650円となる。BGMとして「ゆずれない願い」が1コーラスだけ収録されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.famitsu.com/news/201509/30089755.html|title=『魔法騎士レイアース』3種類のニンテンドー3DS用のテーマが配信開始 主題歌『ゆずれない願い』がBGMに|publisher=[[エンターブレイン]]|date=2015-9-30|accessdate=2015-10-4}}</ref>。
; [[ゴシックは魔法乙女〜さっさと契約しなさい!〜]]
: [[iOS]] / [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]用アプリゲーム。期間限定コラボとして、2018年9月に本作のキャラクターが登場。イラスト・ボイス共に完全新規<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社ケイブ|url=https://www.cave.co.jp/news/%E3%80%8E%E9%AD%94%E6%B3%95%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%80%8Fx%E3%80%8E%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AF%E9%AD%94%E6%B3%95%E4%B9%99%E5%A5%B3/|title=『魔法騎士レイアース』×『ゴシックは魔法乙女』コラボ9月19日(水)から開始!魔法騎士たちが「ごまおつ」の世界に登場!!|date=2018-09-14|accessdate=2022-06-04}}</ref>。
; [[スーパーロボット大戦T]]
: 2019年発売の[[PlayStation 4]] / [[Nintendo Switch]]用ゲームソフト。本作のキャラクターとロボットが登場<ref>{{Cite web|和書|author=[[4Gamer.net]] |date=2019-11-19 |url=https://www.4gamer.net/games/999/G999903/20181119098/ |title=スパロボ最新作「スーパーロボット大戦T」発表。レイアースやカウボーイビバップなど新規参戦。PS4/Nintendo Switch向けに2019年発売予定 |publisher= [[デジタルハーツホールディングス|Aetas]]|accessdate=2018-11-19}}</ref>。ただし、シナリオ構成の都合で第2部の展開は簡略化されており、ファーレン、チゼータ及びその関連キャラクターは搭乗しない。
: オリジナル要素としてランティス専用の魔神ランティスが登場する(デザインは魔神ザガートの左右反転)。ゲームプロデューサーの[[寺田貴信]]によれば、「ランティスが搭乗する機体が必要で、原作者様にご了承いただいて生まれた」とのこと<ref>{{Cite book|和書|editor=林克彦|chapter=EXTRA プロデューサーインタビュー|title=スーパーロボット大戦T パーフェクトバイブル|publisher=[[Gzブレイン]]|ate=2019-04-20|isbn=978-4-04-733404-5|page=509}}</ref>。
; [[ヴァルキリーアナトミア -ジ・オリジン-]]
: iOS / Android用アプリゲーム。期間限定コラボとして、2019年9月に本作のキャラクターが登場。
; [[スーパーロボット大戦30]]
: 2021年発売のNintendo Switch / PlayStation 4 / [[Steam]]用ゲームソフト。本作のキャラクターとロボットが登場。
: 『T』では未登場だった第2部から登場の主要国2国及び関連キャラクターが初登場し、本格的な原作再現が行われた。
== 刊行書籍 ==
KCデラックス [[講談社]] A5判
* 魔法騎士レイアース 1 1994年7月22日 {{ISBN2|4-06-319530-9}}
* 魔法騎士レイアース 2 1994年11月22日 {{ISBN2|4-06-319549-X}}
* 魔法騎士レイアース 3 1995年3月6日 {{ISBN2|4-06-319566-X}}
* 魔法騎士レイアース2 1 1995年7月26日 {{ISBN2|4-06-319610-0}}
* 魔法騎士レイアース2 2 1995年12月18日 {{ISBN2|4-06-319663-1}}
* 魔法騎士レイアース2 3 1996年4月23日 {{ISBN2|4-06-319698-4}}
KCデラックス 講談社 B6判
* 魔法騎士レイアース 1 2002年12月17日 {{ISBN2|4-06-334642-0}}
* 魔法騎士レイアース 2 2002年12月17日 {{ISBN2|4-06-334643-9}}
* 魔法騎士レイアース 3 2002年12月17日 {{ISBN2|4-06-334644-7}}
* 魔法騎士レイアース2 1 2003年1月23日 {{ISBN2|4-06-334659-5}}
* 魔法騎士レイアース2 2 2003年1月23日 {{ISBN2|4-06-334660-9}}
* 魔法騎士レイアース2 3 2003年1月23日 {{ISBN2|4-06-334661-7}}
※無印の旧版単行本各3巻には付録漫画が収録されている。
講談社 ワイド判
* 魔法騎士レイアース ILLUSTRATIONS COLLECTION 1995年3月25日 {{ISBN2|4-06-324513-6}}
* 魔法騎士レイアース2 ILLUSTRATIONS COLLECTION 1996年5月10日 {{ISBN2|4-06-324517-9}}
KCブックス 講談社 A6判
* 魔法騎士レイアース脚本集 1 1995年10月31日 {{ISBN2|4-06-330202-4}}
* 魔法騎士レイアース脚本集 2 1995年11月30日 {{ISBN2|4-06-330203-2}}
* 魔法騎士レイアース脚本集 3 1995年12月18日 {{ISBN2|4-06-330204-0}}
* 魔法騎士レイアース脚本集 4 1996年1月30日 {{ISBN2|4-06-330205-9}}
KCデラックス 講談社 A4判
* 魔法騎士レイアース設定資料集 1996年3月28日 {{ISBN2|4-06-319688-7}}
2010年7月13日より[[アニ読メ]]にてTVアニメの内容のアニメコミックが電子書籍として配信。
== 音楽CD ==
=== 主題歌シングル ===
* [[ゆずれない願い]] (1994年11月9日発売) PODH-1230
* [[明日への勇気]] (1994年12月1日発売) PODH-1231
* [[キライになれない]] (1995年5月10日発売) PODH-1250
* [[ら・ら・ば・い〜優しく抱かせて]] (1995年5月10日発売) PHDL-1031
* [[光と影を抱きしめたまま]] (1995年10月25日発売) PODH-1277
* [[いつか輝く]] (1995年10月25日発売) PODH-1278
* [[魔法騎士レイアース プチキャラCD]] (1995年発売) PH-098
* [[All You Need Is Love (田村直美の曲)|All You Need Is Love]] (1997年7月24日発売) PODX-1029
=== イメージソング ===
{{Main|魔法騎士レイアース イメージソング}}
* モコナの絵かきうた (1995年3月25日発売) POCH-1001
* いつか天使になれる (1995年5月25日発売) PODH-1258
* そよ風のソナチネ (1995年6月25日発売) POCH-1261
* 少女よ、大志を抱け! (1995年7月15日発売) POCH-1264
* モコナ音頭でぷぷぷのぷ (1995年7月26日発売) POCH-1003
* RUN/闇の夢 (1995年11月10日発売) PODX-1004
* 聖夜の天使たち (1995年12月1日発売) PODX-1005
=== サウンドトラック ===
{{Main|魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック}}
; TVアニメ版
* 魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック1 選ばれた少女達 (1994年12月1日発売) POCH-1424
* 魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック2 伝説の騎士 (1994年12月1日発売) POCH-1425
* 魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック3 ゆずれない願い (1995年3月25日発売) POCH-1490
* 魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック4 新しい絆 (1995年6月25日発売) POCH-1504
* 魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック5 光・海・風 (1995年7月15日発売) POCH-1505
* 魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック6 いつか輝く (1995年11月25日発売) POCH-1546
;OVA版
* レイアース オリジナルサウンドトラック 1st Half (1997年8月27日発売) POCX-1076
* レイアース オリジナルサウンドトラック 2nd Half (1997年10月29日発売) POCX-1077
; ゲーム版
* セガサターン魔法騎士レイアース オリジナルサウンドトラック (1995年8月25日発売) POCX-1009
=== ボーカルアルバム ===
{{Main|魔法騎士レイアース Original Song Book}}
* 魔法騎士レイアース Original Song Book (1995年9月20日発売) POCX-1008
* 魔法騎士レイアース Original Song Book2 (1996年1月1日発売) POCX-1015
* [[魔法騎士レイアース Best Song Book]] (1997年1月10日発売) POCX-1050
{{Main|魔法騎士レイアース EXTRA}}
* 魔法騎士レイアース EXTRA 獅堂光スペシャル (1997年12月17日発売) POCX-1084
* 魔法騎士レイアース EXTRA 龍咲海スペシャル (1997年12月17日発売) POCX-1085
* 魔法騎士レイアース EXTRA 鳳凰寺風スペシャル (1997年12月17日発売) POCX-1086
* 魔法騎士レイアース EXTRA モコナスペシャル (1997年12月17日発売) POCX-1087
* [[With Rayearth]] (1997年11月24日発売) POCX-1078
** OVA版のボーカルアルバム。
== アプリ ==
[[2010年]]から[[携帯電話]]用にきせかえアプリケーション、マチキャラアプリケーションが製作されており、ダウンロードが購入が可能になっていた。
== 関連作品 ==
;『[[ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-]]』
: 本作からはモコナ、プリメーラ、エメロード、カルディナ、イーグル、ジェオ、ランティス及びデボネアが登場。終盤には光、海、風の3人も[[ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-のメインキャラクター|さくら]]の同級生として登場している<ref>本作とは「同じ魂を持った(異世界の)別人」である。</ref>。魔神レイアース・セレス・ウィンダムも獣形態にて阪神共和国の「巧断(くだん)」として登場している。さらに、レイアース、セレス、ウィンダム、セフィーロの紋章が移動の魔法陣に使われたりしている。
;『[[こばと。]]』
: 単行本第1巻にて、プリメーラに相応するキャラクターが登場している。
== 関連項目 ==
* [[日本テレビ系アニメ]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 外部リンク==
{{Commonscat|Magic Knight Rayearth}}
* [https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1990s/080101.html 魔法騎士レイアース] トムス・エンタテインメント公式サイト作品情報ページ
* [https://web.archive.org/web/19990117052654/http://madeira.cc.hokudai.ac.jp/RD/take/rayearth/rayearth.html 魔法騎士レイアース 情報サイト]
* [https://web.archive.org/web/20210917075436/https://www.bandaivisual.co.jp/tms_50th/rayearth.html 魔法騎士レイアース Blu-ray BOX]
* {{YouTube|playlist = PLVs8KIyueUjWQEJ83sa8kpo4jIjWh_aWT|『魔法騎士レイアース』シリーズ}}
* {{Twitter}}
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3,992 | 主体と客体 | ここでは主体と客体(しゅたいときゃくたい)および主観と客観(英: subject and object)について説明する。
これらの用語や概念がどのような経緯で用いられ、指す内容がどのように変化してきたかについて、これまで現代人の哲学的知識とは異なることが起きてきた。そこで順を追って解説する。
アリストテレスは希: ὑποκείμενον 英語表記:Hypokeimenon ヒュポケイメノン、という用語を用いていた。ヒュポケイメノンは、ヒュポ+ケイメノン =下に + 置かれたもの、という意味の語である。 またアリストテレスはantikeimemonという言葉も用いていた。これは「向こうがわに置かれたもの」という意味である。antikeimenonは『形而上学』においては、複数形で登場し、「たがいに対立しあうもの」という意味で用いられ、Περὶ Ψυχῆς 『ペリ・プシュケース』では単数形で登場し、「思考や感覚の働きに対置されるもの」という意味に使われた。 ただし、アリストテレスにおいてはhypokeimenonとantikeimemonは特に対をなしていたわけではない。
アリストテレスの「hypokeimenon」は、属性の担い手である「基体」や文法上の主語を意味していて、それらが(中世ヨーロッパで)ラテン語のsubjectumやsubstratum、substantia、suppositumなどと訳された。またアリストテレスの『形而上学』の「antikeimemon」は、ラテン語ではoppositaと訳され、『ペリ・プシュケース』の単数形の「antikeimemon」はobiectumと訳された。中世から近世初頭にかけて使われたラテン語の訳語 subjectumとobiiectumも、対概念を成していたわけではない。
実は、hypokeimenonおよびそれのラテン語訳subiectumは、古代ギリシアからヨーロッパ近代初頭までは、一貫して(属性を担う)「基体」や(文の)「主語」を意味していたのであり、カント以降の「主観」という意味はまったく含まれていなかった。実は、近代初頭までのsubiectumは、心の外にそれ自体で自存するものであった。
一方、obiectivusのほうは、意味がかなり変遷してきた。アリストテレスにおいてantikeimenonが「対象」を意味していたが、ラテン語に翻訳されたobiectivusは中世のスコラ哲学や近代初頭の哲学において「quod obiicitur intellectui 知性に投影されたもの」を意味するようになった。
それがよくわかることに、たとえばデカルトやスピノザのもとにおいても、realitas obiectiva というのは、 realitas actualis(現実的事象内容)や realitas formalis(形相的事象内容)と対比的に、「単に表彰されたかぎりでの事象内容」つまり可能的事象内容を意味していたのである。
したがって、中世から近代初頭まで、実は、subiectumのほうが、それ自体で存在する客観的存在者を意味し、obiectumのほうが主観的表象を意味していたのであったのだが、これがカントのころから意味が逆転し、ラテン語のsubiectumとobiectumがドイツ語に訳されたSubjektとObjektが、カントあたりでそれぞれ(現在のような)「主観」と「客観」を意味するようになり、しかもカントあたりで二つの用語・概念が対をなすように扱われるようになったのである。
現象の属性・形質・様態は変化しうるものであるから、その同一性を担うものではあり得ない、という分析から、それらの特性を皿やお盆や机のように上に載せている下に置かれたものがあって、載せられたものは変化するが載せているものは不変である、という発想が生じ、こうして現象(の同一性)の基盤であって、それ自体は現象としては現れない、実体という概念が立てられた。なお、この発想は主語と述語、という印欧語に特徴的な文法構造にも影響されている。
デカルトの懐疑論的な、現象主義の枠組みにおいては、認識の向こう側に存在する外在的な実体というものが方法論的に疑われた。かわりに、いわば認識の手前に位置するコギト(思惟する我)こそが、現象や観念(idea)の基体(subject)、すなわちその同一性を担う、存立基盤であると見なされた。この傾向はカントにおいてよりはっきりと顕著になる。
ヘーゲルにおいては、このsubjectが認識論的なだけでなく実践的な対立矛盾の相において把握されることになり(言語哲学的な表現をすれば文の主語から発話の主語へと移行し)、この意味合いではとくに主体という訳語を受け取ることとなった。
ここで、objectに客観という意味が発生した。
客観と主観は、この世界の様態を捉えるために広く用いられる、基本的な枠組みのひとつである。世界を構成するものとして、「見る側のもの、知る側のもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める。
この枠組みを肯定し、主体と客体はいずれか一方を他方に解消することができないと考える哲学的な立場を主客二元論と呼ぶ。これに対し、全ては物質的な存在やそれらが引き起こす出来事であるとする立場は唯物論と呼ばれる。また、全てが意識の産物であって、外界や物質的存在があることを認めない、あるいは強く疑う立場は独我論、唯我論などと呼ばれる。ヴェーダの宗教などでは、主体と客体の分離が消失する場合があるとし、それを重視する考え方もある。「主客一体」「梵我一如」などと呼ばれる。いずれの立場も、他の2者を意識しつつ構築されることが多く、主体と客体という分類枠組みは、肯定されるにせよ否定されるにせよ、ある程度理解、共有されている。(しかし仏教、特に中観派においては、主体と客体というような二項対立的な見方を謬見として徹底的に斥ける。この延長線上で実践したのが中国唐代の禅であり、彼らの目標は「主と客」という意識(念)の起きる以前の意識の探求であった。またヨーロッパにおける脱近代の思潮にもこのような見方があることも特筆しなければならない。)
また、これらとよく似た、関連の深い区別が、認識論の領域においても存在している。すなわち、主観と客観の区別である。
主体と客体は、このように世界のありさまを捉えるための枠組みだが、同様の、密接に関連した区別が人間のありさまを捉えるためにしばしば用いられる。意識や心と身体との区別である。哲学的には、両者の区別を肯定、前提する立場は心身二元論と呼ばれる。
科学的な研究は、通常、物質的な存在、事象の観察と理論化を通じて行われる。社会科学でも、そのような経験主義的アプローチをとる学問は多い。直接観察できない事象については言及、仮構を控える行動主義のような立場もある。こうした認識論的な態度を一般に客観主義と呼ぶ。この立場の特徴は物事についての客観的な事実を確定することを研究の目標とし、またそれが可能であると考える立場である。
それに対し、内省や内観を重んじる立場もある。フッサールの現象学やその成立にも影響を与えている心理学の一部、また宗教的瞑想などは、物事の真理に到達するために観察ではなく意識や自己のあり方、理解や直観の性質を考察する。これは一見奇妙なアプローチだが、人が通常客観的な存在だと前提している物事が、よく吟味してみるとそうとは言えない、といった点を明らかにする効果などがあり、必ずしも無意味な思弁に終始するとは限らない。
また、カントのように人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、ありのままの事物(物自体 Dinge an sich)を知ることは不可能である、と考えることは現代においても比較的広く受け入れられている発想である。必ずしも物事の直接的な観察に基づく研究ではない数学が現代科学で決定的な役割を果たしていることは、しばしばこれと関連づけられる。
主観と客観を論じるにあたっては、いくつかの伝統的な用語法が用いられている。多くの哲学者は、客観的実在という用語を、意識から独立して存在している事物を指すために用いている。これに対して、主観的実在とは、広い意味での意識に依存する事物を意味する。例えば、知覚されている色や音は、それらが意識作用に服している限りにおいて実在する。この他にも、とりわけ幸福や悲嘆などの感情は主観的実在であると考えられる。
客観的知識とは、文字通り客観的実在に関する知識である。これに対して、主観的知識とは、主観的実在に関する知識である。
他方で、別の用法によれば、主観的知識とは、ある個人の主観的状態に関する知識である。このような知識は、他者の主観的状態に関する知識から区別され、また当然に、客観的知識からも区別される。このような定義の下では、他者の主観的知識も客観的知識に属する。なぜなら、他者の主観的状態は私の主観的状態から独立しているからである。つまり、他者の主観的状態は、それが私の知覚に依存していないという意味で、私から見れば客観の一種である。
最後に、最もよく知られている用語法は、ある主張が有する論拠との関連で用いられ、この場合には、客観的知識とは十分に根拠付けられた知識を言い、反対に主観的知識とは不十分にあるいはほとんど根拠付けられていない知識を言う。客観的に強力な論拠に支えられた判断や信念は、客観的判断ないし客観的信念とも言われ、理性的存在一般にとって満足のいく証拠にもとづいている。これに対して、主観的判断ないし主観的信念とは、理性的存在一般が納得するわけでないような証拠にもとづくものである。これには、必然的に特定の人物(単・複)にしか利用可能でない証拠にもとづくものも含まれる。
法学の分野では、主観とは通常、事件の当事者が契約や不法行為あるいは犯罪行為にあたってどのような認識や判断を持っていたのかという意味で用いられ、逆に客観とは、当事者ではなく第三者が行為時にその契約や行為を冷静に見たならばどのように見えたのかという意味で用いられる。つまり、このような用語法においては、主観とは訴訟当事者のないし関係者の判断のことであり、客観とは部外者としての通常一般人の判断のことである。例えば、瑕疵担保における価値の主観説と客観説は、前者は訴訟当事者がいくらと評価したかであり、後者は市場がいくらと評価するかである。
また、映像手法における主観(Point-of-view shot)とは、登場人物の視点で撮影された映像を指す。ホラー映画やアダルトビデオなどの映像作品で、視聴者に臨場感を与える際に用いられる。 | [
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] | ここでは主体と客体(しゅたいときゃくたい)および主観と客観について説明する。 | ここでは'''主体と客体'''(しゅたいときゃくたい)および'''主観と客観'''({{lang-en-short|subject and object}})について説明する<ref group="注釈">『岩波 哲学・思想事典』では、「主体」や「客体」という記事は立てられておらず、【主観】という記事で解説されている。平凡社『哲学事典』でも同様に、【主観】という項目で解説されている。</ref>。
== 概説 ==
これらの用語や概念がどのような経緯で用いられ、指す内容がどのように変化してきたかについて、これまで現代人の哲学的知識とは異なることが起きてきた。そこで順を追って解説する。
=== 古代から近代初頭 ===
;アリストテレスの段階
アリストテレスは''{{lang-el-short|ὑποκείμενον}}'' 英語表記:''Hypokeimenon'' ヒュポケイメノン、という用語を用いていた。ヒュポケイメノンは、ヒュポ+ケイメノン =下に + 置かれたもの、という意味の語である<ref name="iwanami_tetsugaku">『岩波 哲学・思想事典』pp.734-735【主観】</ref>。
またアリストテレスはantikeimemonという言葉も用いていた<ref name="iwanami_tetsugaku" />。これは「向こうがわに置かれたもの」という意味である。antikeimenonは『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』においては、[[複数形]]で登場し、「たがいに対立しあうもの」という意味で用いられ<ref name="iwanami_tetsugaku" />、''Περὶ Ψυχῆς'' 『[[ペリ・プシュケース]]』では[[単数形]]で登場し、「思考や感覚の働きに対置されるもの」という意味に使われた<ref name="iwanami_tetsugaku" />。
ただし、アリストテレスにおいては''hypokeimenon''とantikeimemonは特に対をなしていたわけではない<ref name="iwanami_tetsugaku" />。
;ラテン語への翻訳
アリストテレスの「hypokeimenon」は、[[属性]]の担い手である「基体」や文法上の[[主語]]を意味していて、それらが([[中世#ヨーロッパ|中世ヨーロッパ]]で)[[ラテン語]]のsubjectumやsubstratum、substantia、suppositumなどと訳された<ref name="iwanami_tetsugaku" />。またアリストテレスの『形而上学』の「antikeimemon」は、ラテン語ではoppositaと訳され<ref name="iwanami_tetsugaku" />、『ペリ・プシュケース』の単数形の「antikeimemon」はobiectumと訳された。中世から近世初頭にかけて使われたラテン語の訳語 subjectumとobiiectumも、対概念を成していたわけではない<ref name="iwanami_tetsugaku" />。
;subiectumとobiectivusの意味の相互に異なる変遷
実は、hypokeimenonおよびそれのラテン語訳subiectumは、古代ギリシアからヨーロッパ近代初頭までは、一貫して(属性を担う)「基体」や(文の)「主語」を意味していたのであり<ref name="iwanami_tetsugaku" />、[[カント]]以降の「主観」という意味はまったく含まれていなかった<ref name="iwanami_tetsugaku" />。実は、近代初頭までのsubiectumは、心の外にそれ自体で自存するものであった<ref name="iwanami_tetsugaku" />。
一方、obiectivusのほうは、意味がかなり変遷してきた。アリストテレスにおいてantikeimenonが「対象」を意味していたが、ラテン語に翻訳されたobiectivusは中世の[[スコラ哲学]]や[[近代]]初頭の哲学において「quod obiicitur intellectui 知性に投影されたもの」を意味するようになった<ref name="iwanami_tetsugaku" />。
それがよくわかることに、たとえばデカルトやスピノザのもとにおいても、realitas obiectiva というのは、 realitas actualis(現実的事象内容)や realitas formalis([[形相]]的事象内容)と対比的に、「単に表彰されたかぎりでの事象内容」つまり可能的事象内容を意味していたのである<ref name="iwanami_tetsugaku" />。
したがって、中世から近代初頭まで、実は、subiectumのほうが、それ自体で存在する客観的存在者を意味し、obiectumのほうが主観的表象を意味していたのであったのだが<ref name="iwanami_tetsugaku" />、これが[[カント]]のころから意味が逆転し<ref name="iwanami_tetsugaku" />、ラテン語のsubiectumとobiectumがドイツ語に訳されたSubjektとObjektが、カントあたりでそれぞれ(現在のような)「主観」と「客観」を意味するようになり、しかもカントあたりで二つの用語・概念が対をなすように扱われるようになったのである<ref name="iwanami_tetsugaku" />。
=== 近代初頭以降 ===
;subject
現象の属性・形質・様態は変化しうるものであるから、その同一性を担うものではあり得ない、という分析から、それらの特性を皿やお盆や机のように上に載せている且つ下に置かれたものがあって、載せられたものは変化するが載せている側のものは不変である、という発想が生じ、こうして現象(の同一性)の基盤であって、それ自体は現象としては現れない、[[実体]]という概念が立てられた。なお、この発想は主語と述語、という印欧語に特徴的な文法構造にも影響されている。
デカルトの懐疑論的な、現象主義の枠組みにおいては、認識の向こう側に存在する外在的な実体というものが方法論的に疑われた。かわりに、いわば認識の手前に位置するコギト(思惟)する我(ego)こそが、現象や観念(idea)の基体(subject)であると、すなわちその同一性を担う存立基盤であると、見なされた。<!--{{要出典}}こうして、彼以降、subjectには'''主観'''という意味が発生した。-->この傾向はカントにおいてよりはっきりと顕著になる。
ヘーゲルにおいては、このsubjectが認識論的なだけでなく実践的な対立矛盾の相において把握されることになり(言語哲学的な表現をすれば文の主語としてのsubjectから発話の主としてのsubjectへと移行し)、この意味合いではとくに'''主体'''という訳語を受け取ることとなった。
;object
<!--{{要出典|date=2016年7月}}objectum(オブジェクト)は、前に投げられたものという語構成のラテン語で、前面の対象を意味し、-->
<!--{{要出典|date=2016年7月}}中世哲学においては、意識の対象として、表象や観念に相当するものを意味していた。-->
<!--{{要出典|date=2016年7月}}近世になって、デカルト哲学の懐疑論的な現象主義の枠組みにおいて、外的実在は、もはや神の理性や観念との関係においてではなく、主観における観念や表象、つまり意識の対象という形で、すくなくともそうした対象を通じて把握されることになり、-->ここで、objectに'''客観'''という意味が発生した。
客観と主観は、この世界の様態を捉えるために広く用いられる、基本的な枠組みのひとつである。世界を構成するものとして、「'''見る側のもの、知る側のもの'''(主体)」と「'''見られるもの、知られるもの'''(客体)」の2種類の[[存在]]を認める。
*[[客体]]とは感覚を通して知ることができるものであり、いわゆる物である。
*[[主体]]とは感覚を受け取るものであり、[[意識]]である。
この枠組みを肯定し、主体と客体はいずれか一方を他方に解消することができないと考える哲学的な立場を[[主客二元論]]と呼ぶ。これに対し、全ては物質的な存在やそれらが引き起こす出来事であるとする立場は[[唯物論]]と呼ばれる。また、全てが意識の産物であって、外界や物質的存在があることを認めない、あるいは強く疑う立場は[[独我論]]、唯我論などと呼ばれる。[[ヴェーダの宗教]]などでは、主体と客体の分離が消失する場合があるとし、それを重視する考え方もある。「主客一体」「[[梵我一如]]」などと呼ばれる。いずれの立場も、他の2者を意識しつつ構築されることが多く、主体と客体という分類枠組みは、肯定されるにせよ否定されるにせよ、ある程度理解、共有されている。(しかし[[仏教]]、特に[[中観派]]においては、主体と客体というような二項対立的な見方を謬見として徹底的に斥ける。この延長線上で実践したのが中国唐代の[[禅]]であり、彼らの目標は「主と客」という意識(念)の起きる以前の意識の探求であった。またヨーロッパにおける脱近代の思潮にもこのような見方があることも特筆しなければならない。)
また、これらとよく似た、関連の深い区別が、[[認識論]]の領域においても存在している。すなわち、[[主観と客観]]の区別である。
主体と客体は、このように世界のありさまを捉えるための枠組みだが、同様の、密接に関連した区別が人間のありさまを捉えるためにしばしば用いられる。意識や心と身体との区別である。哲学的には、両者の区別を肯定、前提する立場は[[心身二元論]]と呼ばれる。<!--両者の間の因果関係、つまり[[自由意志]]の問題は、英語圏の哲学では特に[[心身問題]]と呼ばれる。-->
科学的な研究は、通常、物質的な存在、事象の[[観察]]と理論化を通じて行われる。[[社会科学]]でも、そのような[[経験主義]]的アプローチをとる[[学問]]は多い。直接観察できない事象については言及、仮構を控える[[行動主義]]のような立場もある。こうした認識論的な態度を一般に'''客観主義'''と呼ぶ。この立場の特徴は物事についての客観的な事実を確定することを研究の目標とし、またそれが可能であると考える立場である。
それに対し、[[内省]]や内観を重んじる立場もある。フッサールの[[現象学]]やその成立にも影響を与えている[[心理学]]の一部、また宗教的[[瞑想]]などは、物事の真理に到達するために観察ではなく意識や自己のあり方、理解や直観の性質を考察する。これは一見奇妙なアプローチだが、人が通常客観的な存在だと前提している物事が、よく吟味してみるとそうとは言えない、といった点を明らかにする効果などがあり、必ずしも無意味な思弁に終始するとは限らない。
また、[[イマヌエル・カント|カント]]のように人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、ありのままの事物([[物自体]] Dinge an sich)を知ることは不可能である、と考えることは現代においても比較的広く受け入れられている発想である。必ずしも物事の直接的な観察に基づく研究ではない[[数学]]が現代科学で決定的な役割を果たしていることは、しばしばこれと関連づけられる。
== 用語法 ==
=== 客観的実在と主観的実在 ===
主観と客観を論じるにあたっては、いくつかの伝統的な用語法が用いられている。多くの哲学者は、'''客観的実在'''という用語を、意識から独立して存在している事物を指すために用いている。これに対して、'''主観的実在'''とは、広い意味での意識に依存する事物を意味する。例えば、知覚されている色や音は、それらが意識作用に服している限りにおいて実在する。この他にも、とりわけ幸福や悲嘆などの感情は主観的実在であると考えられる。
=== 客観的知識と主観的知識 ===
'''客観的知識'''とは、文字通り客観的実在に関する知識である。これに対して、'''主観的知識'''とは、主観的実在に関する知識である。
他方で、別の用法によれば、主観的知識とは、ある個人の主観的状態に関する知識である。このような知識は、他者の主観的状態に関する知識から区別され、また当然に、客観的知識からも区別される。このような定義の下では、他者の主観的知識も客観的知識に属する。なぜなら、他者の主観的状態は私の主観的状態から独立しているからである。つまり、他者の主観的状態は、それが私の知覚に依存していないという意味で、私から見れば客観の一種である。
最後に、最もよく知られている用語法は、ある主張が有する論拠との関連で用いられ、この場合には、客観的知識とは十分に根拠付けられた知識を言い、反対に主観的知識とは不十分にあるいはほとんど根拠付けられていない知識を言う。客観的に強力な論拠に支えられた判断や信念は、客観的判断ないし客観的信念とも言われ、理性的存在一般にとって満足のいく証拠にもとづいている。これに対して、主観的判断ないし主観的信念とは、理性的存在一般が納得するわけでないような証拠にもとづくものである。これには、必然的に特定の人物(単・複)にしか利用可能でない証拠にもとづくものも含まれる。
=== 特殊な用語法 ===
[[法学]]の分野では、主観とは通常、事件の当事者が[[契約]]や[[不法行為]]あるいは[[犯罪]]行為にあたってどのような認識や判断を持っていたのかという意味で用いられ、逆に客観とは、当事者ではなく第三者が行為時にその契約や行為を冷静に見たならばどのように見えたのかという意味で用いられる。つまり、このような用語法においては、主観とは訴訟当事者のないし関係者の判断のことであり、客観とは部外者としての通常一般人の判断のことである。例えば、瑕疵担保における価値の主観説と客観説は、前者は訴訟当事者がいくらと評価したかであり、後者は市場がいくらと評価するかである。
また、映像手法における主観([[:en:Point-of-view shot|Point-of-view shot]])とは、登場人物の視点で撮影された映像を指す。[[ホラー映画]]や[[アダルトビデオ]]などの映像作品で、視聴者に臨場感を与える際に用いられる。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
<references />
==関連項目==
*[[二元論]]
*[[一元論]]
*[[創世記]]
*[[カルテジアン劇場]]
*[[融即律]]
== 外部リンク ==
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[[Category:哲学の概念]]
[[Category:形而上学の概念]]
[[Category:自己]]
[[Category:主観的体験]]
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'''3月15日'''(さんがつじゅうごにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から74日目([[閏年]]では75日目)にあたり、年末まであと291日ある。
== できごと ==
[[Image:Council_of_Trent.JPG|thumb|240px|[[トリエント公会議]](1545-1563)召集される。[[対抗宗教改革]]の原動力に]]
[[Image:%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E4%B8%B8.jpg|thumb|250px|[[山下公園]]開園(1930)。画像は山下公園に停泊する[[氷川丸]]]]
[[Image:Bundesarchiv_Bild_183-R69173%2C_M%C3%BCnchener_Abkommen%2C_Staatschefs.jpg|thumb|250px|[[ナチス・ドイツ]]による[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]](1939)]]
* [[紀元前44年]] - [[ガイウス・ユリウス・カエサル]]が[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス]]らに{{仮リンク|ガイウス・ユリウス・カエサル暗殺事件|en|Assassination of Julius Caesar|label=暗殺|redirect=1}}される。
* [[797年]]([[延暦]]16年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - 『[[続日本紀]]』全40巻が完成する。
* [[1493年]] - [[クリストファー・コロンブス]]が、[[アメリカ大陸|アメリカ]]に到達した航海から[[スペイン]]に帰還。
* [[1564年]] - [[ムガル帝国]]皇帝[[アクバル]]が非ヒンドゥー教徒に対する[[ジズヤ]]([[人頭税]])の徴収を廃止。
* [[1545年]] - [[トリエント公会議]]が招集される。
* [[1717年]]([[享保]]2年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]) - [[徳川吉宗]]が[[大岡忠相]]を[[町奉行|江戸南町奉行]]に登用する。
* [[1774年]] - [[ジョゼフ・プリーストリー]]が[[酸素]]を発見。
* [[1781年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ギルフォード郡庁舎の戦い]]
* [[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]3年[[1月26日 (旧暦)|1月26日]]) - [[江戸幕府]]が文化の[[薪水給与令]](撫恤令)を出す。
* [[1820年]] - [[ミズーリ妥協]]: [[マサチューセッツ州]][[メイン地区]]が独立して[[アメリカ合衆国]]23番目の[[州]]・[[メイン州]]となる。
* [[1827年]] - [[トロント大学]]が創立される。
* [[1890年]] - [[琵琶湖疏水]]の第1期工事が竣工。
* [[1895年]] - 京都で[[平安京|平安]]遷都1100年を記念して[[平安神宮]]を創建。
* [[1906年]] - [[ロールス・ロイス]]創業。
* [[1914年]] - [[秋田仙北地震]]。
* [[1916年]] - [[ウッドロウ・ウィルソン]]米大統領が[[パンチョ・ビリャ]]討伐のため[[ジョン・パーシング]]将軍指揮下遠征部隊12,000人をメキシコに派遣。
* [[1917年]]([[ユリウス暦]][[3月2日]]) - [[ロシア革命]]:ロシア皇帝[[ニコライ2世]]が退位させられる。
* [[1920年]] - 日本で、[[第一次世界大戦]]による好況の反動で株価が大暴落。[[戦後恐慌]]の始まり。
* [[1922年]] - [[エジプト]]の[[フアード1世 (エジプト王)|ファード1世]]が、[[イギリス]]から条件付きで[[独立]]したエジプトの国王に即位。
* [[1928年]] - [[三・一五事件]]。
* [[1930年]] - <!-- 日本最初の臨海公園である ←横浜市がそう主張しているだけ。「臨海公園」の定義が不明確 -->横浜の[[山下公園]]が開園。
* [[1939年]] - [[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]]: [[ナチス・ドイツ]]が[[ボヘミア]]、[[モラビア]]を[[占領]]し、[[チェコスロバキア]]が消滅。
* 1939年 - 全国の[[招魂社]]を[[護国神社]]に改称。
* [[1943年]] - [[第二次世界大戦]]: [[第三次ハリコフ攻防戦]]。[[ドイツ軍]]が[[ハリコフ]]を再占領する。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[モンテ・カッシーノの戦い]]の第3回戦闘(ディッケンズ作戦)が始まる。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[硫黄島の戦い]]で、アメリカ軍が[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]の完全占領を発表。
* [[1948年]] - [[民主自由党 (日本)|民主自由党]]結党。
* [[1951年]] - [[イラン]]で国内のイギリス資本の石油会社を国有化する法案が成立。
* [[1956年]] - [[ニューヨーク]]で[[ブロードウェイ]][[ミュージカル]]『[[マイ・フェア・レディ]]』の公演開始。
* [[1961年]] - [[南アフリカ共和国|南アフリカ]]が[[イギリス連邦]]から脱退。
* 1961年 - [[三島由紀夫]]の小説『宴のあと』で[[プライバシー]]を侵害されたとして[[有田八郎]]が三島を告訴。([[宴のあと#「宴のあと」裁判|『宴のあと』裁判]])
* [[1972年]] - [[山陽新幹線]]の[[新大阪駅]] - [[岡山駅]]間が開業。
* [[1980年]] - 映画[[ドラえもん]]シリーズ第1作『[[ドラえもん のび太の恐竜|映画ドラえもん のび太の恐竜]]』公開。以降、[[2005年]]を除き毎年新作が公開され、今や国民的な[[アニメ映画]]となっている。
* [[1985年]] - アメリカのコンピュータ製造会社[[シンボリックス]]が、世界初の[[.com]][[ドメイン名|ドメイン]]"symbolics.com"を取得。
* [[1987年]] - 北海道の国鉄[[瀬棚線]]がこの日限りで廃止。
* 1987年 - 静岡県の国鉄[[天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線|二俣線]]が[[第三セクター鉄道]]・[[天竜浜名湖鉄道]]に転換。
* [[1988年]] - 客に有料でカラオケ機器を利用させていたスナック店経営者に対し[[日本音楽著作権協会]] (JASRAC) が[[著作権侵害]]として損害賠償を請求した事件(クラブキャッツアイ事件)で、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]がJASRACの訴えを認める判決。([[カラオケ法理]])
* [[1990年]] - [[ミハイル・ゴルバチョフ]]が[[ソビエト連邦]]初代[[ソビエト連邦大統領|大統領]]に就任。
* [[1991年]] - [[ドイツ統一]]: [[ドイツ最終規定条約]]が発効、統一ドイツが完全に主権を回復。
* [[1992年]] - [[TBSラジオ|東京放送]]、[[文化放送]]、[[ニッポン放送]]、[[MBSラジオ|毎日放送]]、[[朝日放送ラジオ|朝日放送]]のAMラジオ局5局が午前9時から同時に、日本初の[[AMステレオ放送]]の本放送を開始。
* [[1997年]] - [[ナゴヤドーム]]開業。
* [[2003年]] - [[胡錦濤]]が[[中華人民共和国主席]]に就任。
* [[2005年]] - [[東武鉄道|東武]][[東武伊勢崎線|伊勢崎線]][[竹ノ塚駅]][[踏切]]で事故発生、4人死傷。([[日本の鉄道事故 (2000年以降)#東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故|東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故]])
* [[2008年]] - [[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[おおさか東線]] [[放出駅]] - [[久宝寺駅]]間が開業。
* [[2011年]] - [[東日本大震災]]: [[日経平均株価]]が1,000円以上を下げる大暴落。
* 2011年 - [[静岡県東部地震]]発生。
* 2011年 - [[シリア]]南部[[ダルアー]]市内で反政府抗議行動が発生。長期間に及ぶ[[シリア内戦]]のきっかけとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2019-03-15 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/3216030|title=シリア内戦勃発から8年、死者37万人に 監視団発表 |publisher=AFP |accessdate=2019-03-15}}</ref>。
* [[2013年]] - [[新幹線200系電車]]引退。すべての国鉄形新幹線が定期運用から退く。
* 2013年 - [[東京メトロ副都心線]]との相互直通運転に伴い、[[東急東横線]][[渋谷駅]]の高架ホームの営業終了。
* [[2014年]] - [[ももいろクローバーZ]]が女性グループ初となる[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立競技場]]でのコンサートを開催。
* [[2019年]] - [[ニュージーランド]]、[[クライストチャーチ]]にあるモスクで銃乱射事件が発生、100人以上が死傷。([[クライストチャーチモスク銃乱射事件]])
===日本の自治体改編===
* [[1947年]] - [[東京都]]の[[東京市#区の変遷一覧|35区が22区に整理統合]]される。
* 1947年 - [[徳島県]]鳴南市が市制施行。市名が住民に不評のため同年5月に[[鳴門市]]に改称。
* 1951年 - [[千葉県]][[佐原市]](現 [[香取市]]の一部)、[[富山県]][[新湊市]](現 [[射水市]]の一部)が市制施行。
* [[1954年]] - [[茨城県]][[結城市]]、茨城県[[下館市]](現 [[筑西市]]の一部)が市制施行。
* [[1967年]] - 埼玉県[[朝霞市]]が市制施行。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Fujiwara_no_Tadamichi.jpg|thumb|180px|[[平安時代]]後期の[[公卿]]、[[藤原忠通]](1097-1164)誕生。書もよくした]]
[[Image:清 佚名 《清世祖顺治皇帝朝服像》.jpg|thumb|160px|[[清]]の第3代皇帝、[[順治帝]](1638-1661)誕生]]
[[Image:Andrew_Jackson_drawn_on_stone_by_Lafosse%2C_1856-crop.jpg|thumb|140px|[[アメリカ合衆国]]の第7代大統領、[[アンドリュー・ジャクソン]](1767-1845)]]
[[Image:Joseph_Jenkins_Roberts.jpg|thumb|140px|[[リベリア|リベリア共和国]]の初代大統領、[[ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ]](1809-1876)]]
[[Image:EmilVonBehring.jpg|thumb|140px|医学者[[エミール・アドルフ・フォン・ベーリング]](1854-1917)。[[ジフテリア]]の免疫血清を完成]]
[[Image:Takashi_Hara_posing.jpg|thumb|140px|第19代内閣総理大臣、[[原敬]](1856-1921)]]
[[Image:Kajiro_Yamamoto.jpg|thumb|140px|映画監督、[[山本嘉次郎]](1902-1974)]]
[[Image:Take_yutaka_February_Stakes_interview_2019_inti.jpg|thumb|140px|騎手、[[武豊]](1969- )]]
* [[1097年]]([[承徳]]元年閏[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[藤原忠通]]、[[公卿]](+ [[1164年]])
* [[1492年]] - [[アンヌ・ド・モンモランシー]]、[[軍人]](+ [[1567年]])
* [[1615年]] - [[インノケンティウス12世 (ローマ教皇)|インノケンティウス12世]]、[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1700年]])
* [[1638年]](〈[[明]]〉[[崇禎]]11年/〈[[後金]]〉[[崇徳]]3年1月30日) - [[順治帝]]、[[清]]の第3代[[皇帝]](+ [[1661年]])
* [[1713年]] - [[ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ]]、[[天文学者]](+ [[1762年]])
* [[1738年]] - [[チェーザレ・ベッカリーア]]、[[法学者]]、[[経済学者]]、[[啓蒙思想|啓蒙思想家]](+ [[1794年]])
* [[1767年]] - [[アンドリュー・ジャクソン]]、第7代[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]](+ [[1845年]])
* [[1779年]] - 第2代[[メルバーン子爵]][[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|ウィリアム・ラム]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1848年]])
* [[1809年]] - [[ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ]]、[[リベリアの大統領|リベリア共和国初代大統領]](+ [[1876年]])
* [[1821年]] - [[ヨハン・ロシュミット]]、[[化学者]]、[[物理学者]](+ [[1895年]])
* 1821年 - [[エドゥアルト・ハイネ]]、[[数学者]](+ [[1881年]])
* [[1830年]] - [[パウル・フォン・ハイゼ]]、[[作家]](+ [[1914年]])
* 1830年 - [[ジョン・モーズビー]]、[[軍人]]、[[探検家]](+ [[1922年]])
* [[1835年]] - [[エドゥアルト・シュトラウス1世]]、[[作曲家]](+ [[1916年]])
* 1835年([[天保]]6年[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]) - [[高橋泥舟]]、[[幕臣]](+ [[1903年]])
* [[1838年]] - [[カルル・ダヴィドフ]]、[[チェリスト]]、作曲家(+ [[1889年]])
* [[1845年]]([[弘化]]2年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[澤村田之助 (3代目)|澤村田之助]]、[[歌舞伎役者]](+ [[1878年]])
* [[1847年]] - [[レイ・ランケスター]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1929年]])
* [[1849年]]([[嘉永]]2年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) - [[末広鉄腸]]、政論家、[[新聞記者]](+ [[1896年]])
* [[1852年]] - [[オーガスタ・グレゴリー]]、[[劇作家]]、[[詩人]](+ [[1932年]])
* [[1854年]] - [[エミール・アドルフ・フォン・ベーリング|エミール・ベーリング]]、[[細菌学|細菌学者]](+ [[1917年]])
* [[1856年]]([[安政]]3年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[原敬]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/172/|title=原敬 | 近代日本人の肖像 : 作品情報|publisher=国立国会図書館|accessdate=2020-12-08}}</ref>、第19代[[内閣総理大臣]](+ [[1921年]])
* [[1860年]] - [[ウォルター・ウェルドン]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[1906年]])
* [[1862年]]([[文久]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[近藤たま]]、[[新選組]]局長、[[近藤勇]]の一人娘(+ [[1886年]])
* [[1864年]] - [[ヨハン・ハルヴォルセン]]、作曲家、[[指揮者]] (+ [[1935年]])
* [[1868年]]([[慶応]]4年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[岡倉由三郎]]、[[英語学|英語学者]](+ [[1936年]])
* [[1875年]] - [[蒲原有明]]、[[詩人]](+ [[1952年]])
* [[1876年]] - [[伊波普猷]]、[[民俗学|民俗学者]](+ [[1947年]])
* [[1882年]] - [[橋田邦彦]]、[[医学|医学者]]、第52代[[文部大臣]](+ [[1945年]])
* [[1884年]] - [[長谷川伸]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1963年]])
* [[1886年]] - [[ゲルダ・ヴィーグナー]]、画家、イラストレーター (+ [[1940年]])
* [[1896年]] - [[鈴木龍二]]、[[実業家]]、第2代[[セントラル・リーグ]]会長(+ [[1986年]])
* [[1902年]] - [[山本嘉次郎]]、[[映画監督]](+ [[1974年]])
* 1902年 - [[栗島すみ子]]、[[俳優|女優]](+ [[1987年]])
* [[1906年]] - [[野原正勝]]、[[政治家]](+ [[1983年]])
* [[1907年]] - [[川田晴久]]、[[俳優]]、[[コメディアン]]、[[ヴォードヴィリアン]](+ [[1957年]])
* 1907年 - [[真壁仁]]、詩人(+ [[1984年]])
* 1907年 - [[ツァラー・レアンダー]]、[[歌手]]、女優(+ [[1981年]])
* [[1909年]] - [[都家かつ江]]、[[音曲]]師、女優(+ [[1983年]])
* [[1911年]] - [[堀尾文人]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1949年]])
* [[1912年]] - [[ライトニン・ホプキンス]]、[[ブルース]][[ミュージシャン]](+ [[1982年]])
* [[1914年]] - [[宇佐美一夫]]、元プロ野球選手(+ [[2000年]])
* [[1916年]] - [[五味川純平]]、小説家(+ [[1995年]])
* 1916年 - [[ハリー・ジェイムス]]、[[ジャズ]][[トランペット]]奏者(+ [[1983年]])
* [[1917年]] - [[ハンス・ラムバーグ]]、[[地球物理学者]](+ [[1998年]])
* [[1919年]] - [[安西均]]、詩人(+ [[1994年]])
* [[1920年]] - [[玉腰忠義]]、元プロ野球選手(+ [[1957年]])
* 1920年 - [[エドワード・ドナル・トーマス]]、医学者(+ [[2012年]])
* [[1921年]] - [[福島菊次郎]]、[[写真家]](+ [[2015年]])
* 1921年 - [[岡本三男]]、元プロ野球選手
* [[1922年]] - [[広瀬習一]]、プロ野球選手(+ [[1944年]])
* [[1923年]] - [[宮川ひろ]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](+ [[2018年]])
* [[1924年]] - [[千野敏子]]<ref name="長野県文学全集">神津良子編『長野県文学全集 [第II期/随筆・紀行・日記編] 第10巻 日記編〈II〉』(1989年11月18日、郷土出版社) - 152頁。</ref>、教育者(+ [[1946年]])
* [[1925年]] - [[室賀三郎]]、[[計算機科学|計算機科学者]](+ [[2009年]])
* 1925年 - [[バート・ボリン]]、[[気象学者の一覧|気象学者]](+ [[2007年]])
* [[1926年]] - [[坂本文次郎]]、元プロ野球選手(+ [[1994年]])
* 1926年 - [[五十嵐広三]]、政治家(+ [[2013年]])
* 1926年 - [[辻久子]]、[[バイオリニスト]](+ [[2021年]])
* [[1927年]] - [[関根潤三]]<ref name="sanspo">{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20200409-WUGINFG3AVNRBMS4G3RSUPQZSU/|title=元ヤクルト監督の関根潤三氏、死去、93歳 投打二刀流としても活躍|work=サンケイスポーツ|date=2020-04-09|accessdate=2020-10-31}}</ref>、元プロ野球選手、[[プロ野球監督|監督]](+ [[2020年]])
* [[1928年]] - [[坂本百大]]<ref>{{Cite news|url=https://www.aoyama.ac.jp/post07/2020/news_20210108_01|title=青山学院大学 名誉教授 坂本百大氏が2020年12月17日に逝去|newspaper=青山学院大学 HP|date=2021-01-08|accessdate=2021-01-29}}</ref>、[[哲学者]](+ [[2020年]])
* [[1930年]] - [[黒崎健時]]、[[武道|武道家]]、元[[空手道|空手家]]、元[[キックボクシング]]指導者
* 1930年 - [[ジョレス・アルフョーロフ]]、物理学者(+ [[2019年]])
* [[1931年]] - [[山村正夫]]、[[推理作家]](+ [[1999年]])
* [[1932年]] - [[平岩弓枝]]、[[脚本家]]、小説家(+ [[2023年]])
* 1932年 - [[アラン・ビーン]]、[[宇宙飛行士]](+ 2018年)
* [[1933年]] - [[針すなお]]、漫画家、イラストレーター
* 1933年 - [[フィリップ・ド・ブロカ]]、[[映画監督]](+ [[2004年]])
* 1933年 - [[中牟礼貞則]]、[[ギタリスト]]
* [[1934年]] - [[正司照枝]]、[[漫才師]]、女優
* 1934年 - [[安藤元雄]]、詩人、[[フランス文学者]]
* 1934年 - [[ラドスラフ・クヴァピル]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]]
* [[1935年]] - [[ヨネヤマ・ママコ]]、[[舞踏家]]、[[パントマイム|パントマイマー]](+ [[2023年]])
* 1935年 - [[ウヴェ・ペルクセン]]、[[言語学者の一覧|言語学者]]
* 1935年 - [[井箟重慶]]、実業家、元[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]球団代表
* [[1939年]] - [[西部邁]]<ref>{{Harvnb|西部|2012d|pp=46, 103}}</ref>、[[評論家]](+ [[2018年]])
* [[1940年]] - [[フィル・レッシュ]]、[[ミュージシャン]]([[グレイトフル・デッド]])
* 1940年 - [[佐々木吉郎]]、プロ野球選手(+ [[2008年]])
* 1940年 - [[トミー・マクレイン]]、シンガー、ソングライター
* [[1941年]] - [[井上堯之]]、ミュージシャン(+ [[2018年]]<ref name="Sponichi 20180505">{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/05/kiji/20180504s00041000425000c.html|date=2018-05-05|title=井上堯之さん死去「ザ・スパイダース」で活躍 マッチ「愚か者」作曲|newspaper=Sponichi ANNEX|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2020-11-07}}</ref>)
* 1941年 - [[マイク・ラヴ]]、ミュージシャン([[ザ・ビーチ・ボーイズ]])
* [[1942年]] - [[朝コータロー]]、歌手、[[ナレーター]]
* 1942年 - [[高村正彦]]、政治家、[[国会議員|衆議院議員]]、元[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
* [[1943年]] - [[森次晃嗣]]、[[俳優]]
* 1943年 - [[デヴィッド・クローネンバーグ]]、映画監督
* 1943年 - [[スライ・ストーン]]、ミュージシャン([[スライ&ザ・ファミリー・ストーン]])
* [[1945年]] - [[竹之内雅史]]、元プロ野球選手
* 1946年 - [[ボビー・ボンズ]]{{要出典|date=2021-02}}、元プロ野球選手(+ [[2003年]])
* [[1947年]] - [[ライ・クーダー]]、ミュージシャン
* 1947年 - [[ツトム・ヤマシタ]]、[[パーカッション|打楽器奏者]]
* [[1948年]] - [[幹本雄之]]、声優
* 1948年 - [[屋良有作]]、声優
* 1948年 - [[堀井和人]]、元プロ野球選手
* 1948年 - [[川内雄富]]、元プロ野球選手
* [[1949年]] - [[杉田久雄]]、元プロ野球選手
* [[1951年]] - [[中里綴]]、元女優、作詞家(+ [[1988年]])
* 1951年 - [[盧永夏]]、囲碁棋士
* [[1952年]] - [[スティーブ・ストローター]]、元プロ野球選手(+ [[2018年]])
* 1952年 - [[ハワード・ディヴォート]]、歌手 ([[バズコックス]]、[[マガジン (イギリスのバンド)|マガジン]]、ラグジャリア([[:en:Luxuria (band)|英語版]]))
* [[1954年]] - [[伊東たけし]]、[[サクソフォーン]]奏者
* 1954年 - [[ロバート・カバス]]、[[ウェイトリフティング]]選手
* [[1955年]] - [[二又一成]]<ref name="goo">{{Cite web|和書|url=https://dictionary.goo.ne.jp/word/person/二又一成/|title=二又一成(ふたまたいっせい)の解説|work=goo人名事典|accessdate=2020-11-15}}</ref>、声優
* 1955年 - [[塚田三喜夫]]、歌手
* 1955年 - [[李良枝]]、小説家(+ [[1992年]])
* 1955年 - [[スティーヴ・リリーホワイト]]、[[音楽プロデューサー]]
* 1955年 - [[石井直方]]、[[運動生理学|運動生理学者]]、[[ボディビル|ボディビルダー]]
* [[1956年]] - [[高橋葉介]]、漫画家
* [[1958年]] - [[谷真一]]、元プロ野球選手
* [[1959年]] - [[レニー・ハーリン]]、映画監督、[[映画プロデューサー]]
* 1959年 - [[ハロルド・ベインズ]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[横峯良郎]]、[[参議院議員]]、実業家、ゴルフコーチ
* [[1961年]] - [[岡本哲司]]、元プロ野球選手
* 1961年 - [[ファビオ・ビオンディ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]]
* 1961年 - [[サビーネ・ベース]]、[[フィギュアスケート]]選手
* [[1962年]] - [[梶島正樹]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]]
* 1962年 - [[虫明洋一]]、実業家
* 1962年 - [[朝比奈マリア]]、[[タレント]]、女優、[[画家]]
* 1962年 - [[マルクス・メルク]]、[[審判員 (サッカー)|サッカー審判員]]
* [[1963年]] - [[肥後克広]]、[[お笑いタレント]]([[ダチョウ倶楽部]])
* 1963年 - [[弥生みつき]]、声優
* [[1964年]] - [[杉谷満]]、元プロボクサー
* [[1967年]] - [[武内直子]]、漫画家
* 1967年 - [[ロバート・ローズ]]、元プロ野球選手
* 1967年 - [[斉藤律]]、ミュージシャン
* 1967年 - [[菊池淳介]]、[[ラジオパーソナリティ]]、[[ディレクター]]
* [[1968年]] - [[カヒミ・カリィ]]、歌手
* [[1969年]] - [[武豊]]、[[騎手]]
* 1969年 - [[武藤潤一郎]]、元プロ野球選手
*1969年 - [[キム・レイヴァー]]、女優
* [[1970年]] - [[佳月大人]]、声優
* [[1971年]] - [[純名里沙]]、女優
* [[1974年]] - [[菊地由美]]、タレント
* 1974年 - [[山田美樹]]、政治家
* [[1975年]] - [[ベセリン・トパロフ]]、[[チェス]]プレーヤー
* 1975年 - [[ピエール・ヌジャンカ]]、[[サッカー選手]]
* 1975年 - [[エヴァ・ロンゴリア・パーカー]]、女優
* 1975年 - [[ウィル・アイ・アム]]、ミュージシャン
* 1975年 - [[坂口拓]]、俳優
* [[1976年]] - [[品田寛介]]、元プロ野球選手
* [[1977年]] - [[山本徳郁|山本"KID"徳郁]]、[[総合格闘技|総合格闘家]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2119758/full/|title=山本KIDさん死去 41歳|newspaper=ORICON NEWS|date=2018-09-18|accessdate=2020-12-25}}</ref>)
* 1977年 - [[小田幸平]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[赤岡修次]]、騎手
* 1977年 - [[エイドリアン・バーンサイド]]、元プロ野球選手
* [[1978年]] - [[小林尊]]、[[フードファイター]]
* 1978年 - [[ジョシュ・マトス]]、野球選手
* [[1979年]] - [[楽しんご]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]]
* 1979年 - [[ケビン・ユーキリス]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[とにかく明るい安村]]、お笑いタレント(元[[アームストロング (お笑いコンビ)|アームストロング]])
* 1982年 - [[中村ゆり]]、女優
* [[1983年]] - [[塩川達也]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[渋江譲二]]、俳優
* 1983年 - [[ショーン・ビガースタッフ]]、俳優
* [[1984年]] - [[杉田沙緒里]]、[[グラビアアイドル]]
* 1984年 - [[イ・ユンジ]]、女優
* [[1985年]] - [[飯田龍一郎]]、元プロ野球選手
* 1985年 - 喜矢武豊、ミュージシャン([[ゴールデンボンバー (バンド)|ゴールデンボンバー]])
* 1985年 - [[マイコ (女優)|マイコ]]、女優
* 1985年 - [[ケラン・ラッツ]]、俳優、モデル
* 1985年 - [[小手川喜常]]、野球選手
* [[1986年]] - [[佐藤弥生]]、タレント
* 1986年 - [[上尾野辺めぐみ]]、サッカー選手
* [[1987年]] - [[渋谷桃子]]、元女優
* 1987年 - [[エリック・デッカー]]、[[アメリカンフットボール]]選手
* [[1988年]] - [[アンゲリカ・チホツカ]]、陸上競技選手
* 1988年 - [[梅田悠]]、歌手、タレント(元[[SDN48]])
* 1988年 - NANAE、歌手([[seven oops]])
* 1988年 - MAIKO、ドラマー(seven oops)
* 1988年 - [[甲斐雄平]]、元プロ野球選手
* [[1989年]] - [[オンドジェイ・マズフ]]、サッカー選手
* [[1990年]] - [[白河優菜]]、タレント([[AppleTale]])
* 1990年 - [[石川理咲子]]、ファッションモデル
* [[1991年]] - [[北乃きい]]、女優
* 1991年 - [[セルゲイ・クリフツォフ]]、サッカー選手
* [[1993年]] - [[岡田ロビン翔子]]、タレント(元[[チャオ ベッラ チンクエッティ]])
* 1993年 - [[ポール・ポグバ]]、サッカー選手
* [[1994年]] - [[今村信貴]]、プロ野球選手
* 1994年 - [[坂東瑞紀]]、元プロ野球選手
* [[1995年]] - [[有安杏果]]、シンガーソングライター、写真家、元アイドル(元[[ももいろクローバーZ]])
* 1995年 - [[愛須心亜]]、AV女優
* 1995年 - [[豊田萌絵]]、声優([[StylipS]])
*[[1996年]] - コナー・ボール、ミュージシャン([[The Vamps]])
* [[1997年]] - [[黒島結菜]]、女優
*[[1998年]] - [[大谷映美里]]、アイドル([[=LOVE]]、元[[アキシブproject]])
* [[1999年]] - [[根本凪]]、アイドル(元[[虹のコンキスタドール]]、元[[でんぱ組.inc]])
* [[2000年]] - 仲村和泉、アイドル([[SKE48]])
*[[2001年]] - [[井頭愛海]]、女優、元アイドル(元[[X21]])
* 2001年 - [[長谷川玲奈]]、声優、タレント、元アイドル(元[[NGT48]])
* 生年不明 - [[川島美菜子]]、声優
* 生年不明 - [[大津愛理]]、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1962年]] - [[キーストン]]、競走馬(+ [[1967年]])
* [[1971年]] - [[ノーザンテースト]]、競走馬、[[種牡馬]](+ [[2004年]])
* [[2003年]] - [[マツリダゴッホ]]、競走馬
* [[2006年]] - まーご、[[田勢康弘の週刊ニュース新書]]に出演していた初代看板猫(+ [[2014年]])
== 忌日 ==
[[Image:Jean-Léon_Gérôme_-_The_Death_of_Caesar_-_Walters_37884.jpg|thumb|330px|[[ガイウス・ユリウス・カエサル]](BC100?-BC44)暗殺される。画像は[[ジャン=レオン・ジェローム]]画(1867)]]
[[Image:Mask_of_Cao_Cao.jpg|thumb|160px|[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]を興した[[曹操]](155-220)病死。画像は[[京劇]]の曹操の面]]
[[Image:Odovacar_Ravenna_477.jpg|thumb|160px|[[西ローマ帝国]]を滅ぼしイタリア王を称した[[オドアケル]](433-493)暗殺される。]]
<!--[[Image:Duc_de_Berry.jpg|thumb|180px|『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』を作らせた[[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]](1340-1416)没。画像は『時祷書』に見えるベリー公ジャン1世]]-->
<!--[[Image:Félix Nadar 1820-1910 Portrait de Théodore de Banville.jpg|thumb|200px|フランス[[高踏派]]の詩人[[テオドール・ド・バンヴィル]](1823-1891)]]-->
[[Image:H.P._Lovecraft%27s_grave.jpg|thumb|160px|[[クトゥルフ神話]]の産みの親、[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]](1890-1937)病没<!--。画像の墓はファンが資金を集め作った-->]]
[[Image:Photos_–_Olympics_2018_–_Dance_(MURAMOTO_Kana_REED_Chris_JPN_–_15th_Place)_(10).jpg|thumb|160px|フィギュアスケート選手、[[クリス・リード]](右側、1989-2020)急死]]
* [[紀元前44年]] - [[ガイウス・ユリウス・カエサル]]、[[古代ローマ]]の[[政治家]](* [[紀元前100年]]頃)
* [[220年]]([[建安 (漢)|建安]]25年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[曹操]]、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[武将]](* [[155年]]?)
* [[493年]] - [[オドアケル]]、[[イタリア王]](* [[433年]])
* [[1184年]]([[元暦]]元年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[樋口兼光]]、[[平安時代]]の[[武将]]
* [[1272年]]([[文永]]9年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[北条時輔]]、[[六波羅探題]]南方(* [[1248年]])
* [[1416年]] - [[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]]、[[ベリー公]](* [[1340年]])
* [[1575年]] - [[アンニーバレ・パドヴァーノ]]、[[作曲家]](* [[1527年]])
* [[1648年]]([[慶安]]元年[[閏]][[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[覚深法親王]]、[[仁和寺]]第21世[[門跡]]、[[後陽成天皇]]第一皇子(* [[1588年]])
* [[1673年]] - [[サルヴァトル・ローザ]]、作曲家、[[画家]]、[[詩人]](* [[1615年]])
* [[1842年]] - [[ルイジ・ケルビーニ]]、作曲家(* [[1760年]])
* [[1866年]]([[慶応]]2年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[松平信義 (丹波亀山藩主)|松平信義]]、[[丹波亀山藩|丹波亀山藩主]]、[[江戸幕府]][[老中]](* [[1824年]])
* [[1868年]](慶応4年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[神保長輝]]、[[会津藩]]軍事奉行添役(* [[1834年]])
* [[1881年]] - [[フランツ・フォン・ディンゲルシュテット]]、[[詩人]]、[[劇作家]]、劇場支配人(* [[1814年]])
* [[1882年]] - [[トーマス・ヒル・グリーン]]、[[哲学|哲学者]](* [[1836年]])
* [[1891年]] - [[テオドール・ド・バンヴィル]]、[[詩人]]、[[劇作家]](* [[1823年]])
* [[1897年]] - [[ジェームス・ジョセフ・シルベスター]]、[[数学者]](* [[1814年]])
* [[1917年]] - [[山路愛山]]、[[評論家]]、[[歴史家]](* [[1865年]])
* [[1918年]] - [[リリ・ブーランジェ]]、作曲家(* [[1893年]])
* [[1937年]] - [[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]、小説家(* [[1890年]])
* [[1938年]] - [[アレクセイ・ルイコフ]]、[[ソビエト連邦人民委員会議議長|ソ連首相]](* [[1881年]])
* 1938年 - [[ニコライ・クレスチンスキー]]、ソ連外交官(* [[1883年]])
* 1938年 - [[ニコライ・ブハーリン]]、[[ソ連共産党政治局|ソ連共産党政治局員]](* [[1888年]])
* 1938年 - [[ゲンリフ・ヤゴーダ]]、元ソ連[[内務人民委員部|内務人民委員部長]](* [[1891年]])
* [[1942年]] - [[アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー]]、作曲家(* [[1871年]])
* 1942年 - [[安井仲治]]、[[写真家]](* [[1903年]])
* [[1945年]] - [[ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル]]、[[小説家]](* [[1893年]])
* [[1948年]] - [[山崎達之輔]]、政治家(* [[1880年]])
<!-- 5月15日へ移動* 1948年 - [[エドワード・ジョゼフ・フラナガン]]、[[神父]]・社会事業家(* [[1886年]])-->
* [[1956年]] - [[オースティン・オスマン・スパー]]、[[画家]](* [[1886年]])
* [[1957年]] - [[村田省蔵]]、元[[逓信省#歴代大臣|逓信大臣]]、[[鉄道大臣]](* [[1878年]])
* [[1958年]] - [[久保栄]]、劇作家、[[演出家]](* [[1900年]])
* [[1959年]] - [[レスター・ヤング]]、[[ジャズ]][[ミュージシャン]](* [[1909年]])
* [[1962年]] - [[アーサー・コンプトン]]、[[実験物理学|実験物理学者]](* [[1892年]])
* [[1969年]] - [[武藏山武]]、[[大相撲]][[力士]]、第33代[[横綱]](* [[1909年]])
* [[1970年]] - [[アルチュール・アダモフ]]、[[劇作家]](* [[1908年]])
* [[1975年]] - [[アリストテレス・オナシス]]、[[実業家]](* [[1906年]])
* [[1977年]] - [[アントニオ・ロッカ]]、[[プロレスラー]](* [[1927年]])
* [[1979年]] - [[レオニード・マシーン]]、[[バレエ]][[ダンサー]](* [[1896年]])
* [[1981年]] - [[堀口大學]]、[[詩人]](* [[1892年]])
* 1981年 - [[ルネ・クレール]]、[[映画監督]](* [[1898年]])
* [[1982年]] - [[白川一]]、[[プロ野球選手]](* [[1922年]]<ref>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、282ページ</ref>)
* [[1991年]] - [[松村勝男]]、[[家具]][[デザイナー]](* [[1923年]])
* [[1995年]] - [[福島知春]]、プロ野球選手(* [[1954年]])
* [[1997年]] - [[木下勇 (野球)|木下勇]]、プロ野球選手(* [[1920年]])
* [[1998年]] - [[ベンジャミン・スポック]]、[[小児科学|小児科医]](* [[1903年]])
* [[1999年]] - [[佐藤伸治]]、[[歌手]]、[[ギタリスト]]([[フィッシュマンズ]])(* [[1966年]])
* [[2004年]] - [[ジョン・ポープル]]、[[化学者]](* [[1925年]])
* 2004年 - [[神山卓三]]、声優(* [[1931年]])
* [[2006年]] - [[ゲオルギオス・ラリス]]、元[[ギリシャ]]首相(* [[1918年]])
* [[2007年]] - [[ボウイ・キューン]]、MLB[[コミッショナー]](* [[1926年]])
* [[2008年]] - [[鈴木敏通]]、[[陸上幕僚長]](* [[1924年]])
* 2008年 - [[佐々木繁明]]、[[実業家]](* [[1930年]])
* [[2011年]] - [[マーティー・マリオン]]、プロ野球選手(* [[1916年]])
* [[2014年]] - [[渡辺茂樹]]、[[音楽プロデューサー]](* [[1951年]])
* 2014年 - [[安西マリア]]、歌手、女優(* [[1953年]])
* 2014年 - [[藤巻幸大]]、実業家(* [[1960年]])
* [[2015年]] - [[徐才厚]]、[[中国共産党]][[中国共産党中央政治局|中央政治局]]第17期委員、[[中国共産党中央軍事委員会|党中央軍事委員会]]元副主席(* [[1943年]])
* 2015年 - [[マイク・ポーカロ]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/03/16/kiji/K20150316009992610.html 元「TOTO」マイク・ポーカロさん死去] - スポニチアネックス</ref>、ミュージシャン(* [[1955年]])
* [[2017年]] - [[龍隆行]]、プロ野球選手(* [[1941年]])
* [[2019年]] - [[樽本庄一]]<ref>{{Cite news|title=
前加古川市長の樽本庄一氏死去 78歳、棋士のまち推進|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201903/0012154062.shtml|newspaper=神戸新聞|date=2019-3-17|accessdate=2020-11-18}}</ref>、[[政治家]]、元[[兵庫県]][[加古川市|加古川市長]](* [[1940年]])
* [[2020年]] - [[クリス・リード]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/m/sports/news/202003170000385_m.html |title=C・リード氏30歳突然死 アイスダンス元五輪代表 - フィギュア |publisher=日刊スポーツ |date=2020-03-17 |accessdate=2020-10-29}}</ref>、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1989年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Vincent Willem van Gogh 117.jpg|thumb|240px|[[靴]]の記念日。画像は[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]画『静物、靴』(1887)]]
* [[世界消費者権利デー]]({{World}})<!-- [[:en:Consumers International#World Consumer Rights Day]] -->
*: [[国際消費者機構]]の消費者運動の統一行動日。[[1983年]]から実施。この日に[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領]]が「[[消費者]]には[[消費者の権利|権利]]がある」との一般教書を発表したことにちなむ。
* 1848年の革命と自由戦争記念日({{HUN}})
*: [[1848年]]の[[1848年革命#ドイツ3月革命|ペシュト蜂起]]<!-- [[:en:Hungarian Revolution of 1848]] -->を記念。
* 憲法記念日({{BLR}})
* [[靴]]の記念日({{JPN}})
*: [[日本靴連盟]]が[[1932年]]に制定。明治3年([[1870年]])[[3月15日 (旧暦)|旧暦3月15日]]、[[西村勝三]]が築地に日本初の西洋靴の工場「伊勢勝造靴場」を開設した。
* [[万国博覧会|万国博]]デー({{JPN}})
*: [[1970年]]のこの日、前日に開会式が行われた[[日本万国博覧会]](大阪万博)の一般入場が開始された。
* [[涅槃会]]({{JPN}})
*: [[2月15日 (旧暦)|旧暦2月15日]]は[[釈迦]]が亡くなったとされる日で、各寺院で釈迦の遺徳を偲ぶ法会が行われる。本来は旧暦の2月15日であるが、明治の改暦以降は新暦の[[2月15日]]や[[月遅れ]]の3月15日に行う寺院もある。
* 豊年祭({{JPN}} [[愛知県]][[田縣神社]]・[[大縣神社]])
* サイコの日({{JPN}})
*: 映画『[[ヒッチコック]]』を記念してサ(3月)イコ(15日)をサイコの日と制定された。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0315|date=2011年6月}}
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1971年]] - [[テリー・ボガード]]、ゲーム『[[餓狼伝説]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url = http://www.garou15th.com/character/terry.php |title = [CHARACTER]テリー・ボガード:餓狼伝説総合公式サイト |accessdate = 2019-04-07 }}</ref>
* 1986年 - イブキ(和泉伊織)、[[仮面ライダーシリーズ]]『[[仮面ライダー響鬼]]』 の登場人物
* [[2035年]] - [[バトルガールハイスクール#星月みき|星月みき]]、ゲーム「[[バトルガールハイスクール]]」に登場するキャラクター<ref>電撃オンライン編集部『バトルガール ハイスクール 公式ビジュアルファンブック』KADOKAWA/アスキー・メディアワークス、2016年4月27日。</ref><ref>[http://wiki.dengekionline.com/battlegirl/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC/%E6%98%9F%E6%9C%88%E3%81%BF%E3%81%8D 星月みき] ([[電撃オンライン]]、2016年5月16日閲覧)。</ref>
* 生年不明 - 藍野青司、漫画『[[恋愛暴君]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年3月14日 (木) 15:17 (UTC)}}
* 生年不明 - 魚島鮫治、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22|url=https://corocoro.jp/68074/|title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!!|website=コロコロオンライン|publisher=[[小学館]]|page=1|accessdate=2021-01-24}}</ref>
* 生年不明 - 大守八雲(ヤモリ)、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref name=":02">{{Cite book|和書|author=[[石田スイ]]|year=2013|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-879546-1|quote=|date=|volume=7巻|page=カバー裏}}</ref>
* 生年不明 - 新百合うらら、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年3月14日 (木) 15:17 (UTC)}}
* 生年不明 - [[ラブライブ!#園田海未|園田海未]]、メディアミックス企画『[[ラブライブ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lovelive-anime.jp/otonokizaka/member/member04.html|title=ラブライブ!Official Web Site|メンバー紹介|publisher=|accessdate=2020-03-14}}</ref>
* 生年不明 - 高町なのは、ゲーム・アニメ『[[魔法少女リリカルなのは]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nanoha.com/archive2/chara/cha_121.html|title=魔法少女リリカルなのはA's 公式ホームページ|メンバー紹介|publisher=|accessdate=2015-04-24}}</ref>
* 生年不明 - 巽紺、漫画・アニメ『[[うらら迷路帖]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/urara/chara/kon.html|title=紺(こん) CV:本渡楓|うらら迷路帖 公式ホームページ|publisher=[[TBSテレビ]]|accessdate=2017-03-05}}</ref>
* 生年不明 - 新居浜いずな、ゲーム『ステーションメモリーズ!』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年3月14日 (木) 15:17 (UTC)}}
* 生年不明 - 星宮いちご、ゲーム・アニメ『[[アイカツ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.aikatsu.net/character/04.html|title=アイカツ!キャラクター|publisher=|accessdate=2014-10-07}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=アイカツ! アイドル名鑑|author=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]](企画・原作)、[[バンダイ]](原案)、サンライズ、バンダイ(監修)|publisher=[[小学館]]|year=2014|page=10|isbn=978-4-09-280501-9}}</ref>
* 生年不明 - 松実玄、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』・『咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A』に登場するキャラクター<ref>[http://sciasta.com/characters.html 咲-Saki- Characters(小林立公式サイト)] 2014年6月17日閲覧。</ref>
* 生年不明 - 本場切絵、アニメ『[[干物妹!うまるちゃん]]』に登場するキャラクター{{要出典|date=2019年3月14日 (木) 15:17 (UTC)}}
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
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== 関連項目 ==
{{commons&cat|March 15|15 March}}
{{新暦365日|3|14|3|16|[[2月15日]]|[[4月15日]]|[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]|0315|3|15}}
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3,994 | 3月16日 | 3月16日(さんがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から75日目(閏年では76日目)にあたり、年末まであと290日ある。 なお、予定ではあるが2024年の同日には北陸新幹線金沢ー敦賀間が延伸開業する。 | [
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'''3月16日'''(さんがつじゅうろくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から75日目([[閏年]]では76日目)にあたり、年末まであと290日ある。
なお、予定ではあるが2024年の同日には北陸新幹線金沢ー敦賀間が延伸開業する。
== できごと ==
[[Image:MactanShrineTower2.jpg|thumb|160px|[[フェルディナンド・マゼラン]]、[[フィリピン]]に到達(1521)。画像はフィリピンにあるモニュメント]]
[[Image:Thiamine-3D-vdW.png|thumb|200px|[[鈴木梅太郎]]、[[チアミン|ビタミンB1]]の抽出に成功(1910)]]
[[ファイル:Goddard and Rocket.jpg|thumb|180px|[[ロバート・ゴダード]]、[[液体燃料]]を用いた[[ロケット]]を発射(1926)]]
[[Image:Taihoku_Imperial_University.JPG|thumb|250px|日本領時代の[[台湾]]に[[台北帝国大学]]設置(1928)]]
* [[紀元前6世紀|紀元前597年]] - [[新バビロニア|新バビロニア王国]]が[[エルサレム]]を征服、[[エホヤキン]]に代えて[[ゼデキヤ (ユダ王)|ゼデキヤ]]を王に。([[バビロン捕囚]])
* [[37年]] - [[カリグラ]]が[[ローマ皇帝]]に即位。
* [[729年]]([[神亀]]6年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[長屋王]]が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害。
* [[1214年]]([[建保]]2年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[明菴栄西]]が[[源実朝]]に「茶徳の誉むる所の書」(『喫茶養生記』とされる)を献上。
* [[1521年]] - [[フェルディナンド・マゼラン]]が[[フィリピン]]に到達。
* [[1660年]] - [[イングランド]]で[[長期議会]]が解散。[[4月25日]]に[[仮議会 (1660年)|仮議会]]が開会。
* [[1684年]]([[貞享]]元年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[浄瑠璃]]の[[竹本義太夫]]らが[[道頓堀]]に[[竹本座]]を開設する。
* [[1754年]] - ニューカッスル公[[トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)|トマス・ペラム=ホールズ]]が[[イギリス]]の第4代[[イギリスの首相|首相]]に就任。
* [[1781年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ヘンリー岬の海戦]]が行われる。
* [[1792年]] - [[スウェーデン]]王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]が{{仮リンク|グスタフ3世暗殺事件|sv|Mordet på Gustav III|label=銃撃}}される。[[3月29日]]に死亡。
* [[1815年]] - [[ウィレム1世 (オランダ王)|ウィレム1世]]が[[ネーデルラント連合王国]]([[オランダ]])の初代国王に即位。
* [[1872年]] - 世界で最も古い[[サッカー]]大会・[[FAカップ]]の{{仮リンク|FAカップ (1871-1872)|en|1871–72 FA Cup|label=第1回大会}}の決勝戦が行われ、[[ワンダラーズFC]]が優勝。
* [[1885年]] - 『[[時事新報]]』の[[社説]]として[[福沢諭吉]]の[[脱亜論]]が掲載される。
* [[1900年]] - [[アーサー・エヴァンズ]]が[[クレタ島]]の[[クノッソス]]遺跡を発掘。
* [[1910年]] - [[鈴木梅太郎]]が[[ビタミンB1]](オリザニン)の抽出に成功。
* [[1921年]] - 英ソ通商協定締結。ソ連が英国との通商関係を開く<ref>{{Cite web |url=https://warwick.ac.uk/services/library/mrc/archives_online/digital/russia/trade/ |title=The Soviet economy and Anglo-Soviet trade Anglo-Soviet trade: Civil war and the 1921 trade agreement |access-date=17 Mar 2023 |publisher=University of Warwick}}</ref>。
* [[1926年]] - [[マサチューセッツ州]]で[[ロバート・ゴダード]]が[[液体燃料]]を初めて用いた[[ロケット]]を発射。
* [[1928年]] - [[キリンレモン]]の販売が開始。
* 1928年 - [[台北の歴史#日本統治時代|日本統治下の台北]]に[[台北帝国大学]]が設置される。
* [[1940年]] - [[和歌山中学漕艇部遭難事故]]。
* [[1934年]] - [[瀬戸内海国立公園|瀬戸内海]]・雲仙(現 [[雲仙天草国立公園|雲仙天草]])・霧島([[霧島屋久国立公園|霧島屋久]])の各[[国立公園]]が日本初の国立公園に指定。
* [[1935年]] - [[アドルフ・ヒトラー]]が、[[ドイツ]]が[[ヴェルサイユ条約]]を破棄し、[[再軍備]]すると宣言。([[ドイツ再軍備宣言]])
* [[1938年]] - 衆議院本会議の[[国家総動員法]]案賛成演説で[[社会大衆党]]議員の[[西尾末広]]が「[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の如く大胆に」と発言。他党から問題視され、[[除名#日本の議員の除名|議員除名]]が決議される。
* [[1946年]] - [[片岡仁左衛門一家殺害事件]]。
* [[1950年]] - [[徳田要請問題]]で、[[日本共産党書記長]]である[[徳田球一]]が[[衆議院]]の[[証人喚問]]を受ける。
* 1952年 - [[有楽町]]に[[日劇ミュージックホール]]が開場。
* [[1960年]] - ラジオ山形が社名を『[[山形放送]](YBC)』に変更。
* 1960年 - [[全日空小牧空港衝突事故]]
* [[1962年]] - [[新潟県]][[栃尾市]]新山で[[雪崩]]を伴う[[地すべり]]が発生。住宅2棟が全壊して6人が死亡<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=159 |isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1963年]] - 新潟県[[能生町]]小泊(現:[[糸魚川市]]能生小泊)で大規模な地すべりが発生([[頸城トンネル|小泊地すべり]])。死傷者25人。
* [[1965年]] - アメリカの平和運動家[[アリス・ハーズ]]が[[ベトナム戦争]]に抗議して焼身自殺を図る。
* [[1966年]] - [[アメリカ合衆国]]の人工衛星「[[ジェミニ8号]]」が打ち上げられ、同日、史上初の宇宙ドッキングに成功。
* [[1968年]] - [[ベトナム戦争]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍による[[ソンミ村虐殺事件|ミ・ライ村(ソンミ村)虐殺事件]]が起きる。
* [[1969年]] - ビアサ742便が[[ベネズエラ]]・[[マラカイボ]]に墜落、155人が死亡。([[ビアサ742便墜落事故]])
* [[1970年]] - [[旅券]]の発行にコンピューターを導入。申請から発行までの期間が約2週間に短縮<ref>初日から計算違い 旅券約7000件がストップ『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月19日 12版 14面</ref>。
* [[1976年]] - イギリスの首相[[ハロルド・ウィルソン]]が病気により辞任。
* [[1978年]] - [[イタリア]]の元首相[[アルド・モーロ]]が極左テロ組織「[[赤い旅団]]」により誘拐。後に殺害される。
* 1978年 - フランス・[[ブルターニュ半島]]沖で大型タンカー「[[アモコ・カディス|アモコ・カディズ]]」が座礁し、史上最大の[[海洋汚染]]事故となる。
* [[1980年]] - [[都営地下鉄新宿線]]・[[新線新宿駅|新宿駅]] - [[岩本町駅]]が延伸開業し、[[京王線]]と[[直通運転|相互直通運転]]を開始。
* [[1983年]] - [[千葉県]][[佐倉市]]に[[国立歴史民俗博物館]]が開館。
* [[1986年]] - [[スイス]]で[[国際連合|国連]]加盟を問う[[国民投票]]が行われ、76.6%の反対により否決。
* [[1988年]] - [[イラン・コントラ事件]]で、[[オリバー・ノース]]中佐とジョン・ポインデクスター海軍中将が告発される。
* 1988年 - [[ハラブジャ事件]]:[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン|サダム・フセイン]]政権が[[クルド人]]の住むハラブジャを毒ガス・神経ガスで攻撃し、約5,000人を殺害<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2365410 |title=イラク北部のハラブジャ村、旧政権による毒ガス攻撃から20年 |access-date=18 Mar 2023 |publisher=[[フランス通信社]] |website=AFP BB News}}</ref>。
* [[2002年]] - [[フランス]] [[マルヌ=ラ=ヴァレ|マルヌ・ラ・ヴァレ]]に[[ディズニーランド・パーク (パリ)|ディズニーランド・パリ]]に次ぐ2つ目のテーマパーク、[[ウォルト・ディズニー・スタジオ・パーク]]が開園。
* [[2003年]] - [[イラク戦争]]開戦前に世界規模の抗議行動が行われる。
* [[2006年]] - [[北九州空港]]開港。
* [[2012年]] - [[日本放送協会|NHK]]で半世紀にわたり放送されたテレビドラマ『[[中学生日記]]』が最終回を迎える。
* [[2013年]] - [[東急東横線]][[渋谷駅]]地下化<ref>{{Cite web|和書|date=16 Dec 2013 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK0502J_V01C13A2000000/ |title=東横線渋谷駅を一夜で地下へ、線路切り替えの早業 13年の注目技術7位 |accessdate=17 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]]}}</ref>。[[みなとみらい線]] - [[東武東上本線|東武東上線]]・[[西武池袋線]]の相互直通運転開始<ref>{{Cite web|和書|date=2013-03-16 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG16001_W3A310C1000000/ |title=東急東横線とメトロ副都心線、直通運転開始 |work=[[日本経済新聞]] |publisher=日本経済新聞社 |accessdate=17 Mar 2023}}</ref>。同時に[[東京メトロ日比谷線]]との相互直通運転廃止。
* [[2019年]] - JR西日本近畿エリアの[[おおさか東線]]の[[新大阪駅]] - [[放出駅]]間が延伸開業<ref name="mynavi20181214">{{Cite web|和書|date=14 Dec 2018 |url=https://news.mynavi.jp/article/jrdiagram2019-3/ |title=JR西日本、おおさか東線全線開業後の新大阪発直通快速の時刻公開 |website=マイナビニュース |publisher=[[マイナビ]] |accessdate=17 Mar 2023}}</ref>。
* [[2022年]] - 宮城県と福島県で震度6強の揺れを観測し、震害もこの2県に集中した。
== 誕生日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Ohm3.gif|thumb|140px|物理学者[[ゲオルク・オーム]](1789-1854)誕生。[[オームの法則]]を再発見し抵抗の単位[[オーム]]にも名を残す]]
[[Image:Sully-Prudhomme.jpg|thumb|140px|詩人[[シュリ・プリュドム]](1839-1907)。第1回の[[ノーベル文学賞]]を受賞]]
[[ファイル:Eiichi Shibusawa.jpg|thumb|140px|実業家[[渋沢栄一]](1840-1931)。日本の近代[[資本主義]]を先導した]]
[[Image:Kodaira_Kunihiko.jpg|thumb|140px|幅広い業績を挙げた数学者[[小平邦彦]](1915-1997)]]
[[ファイル:Frederick Reines.jpg|thumb|140px|[[ニュートリノ]]を検出し存在を証明した物理学者[[フレデリック・ライネス]](1918-1998)]]
[[ファイル:Tommy Flanagan.jpg|thumb|180px|ジャズピアニスト、[[トミー・フラナガン (ミュージシャン)|トミー・フラナガン]](1930-2001)]]
* [[1554年]]([[天文 (元号)|天文]]23年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[雲光院]](阿茶局)、[[徳川家康]]の[[側室]](+ [[1637年]])
* [[1590年]]([[天正]]8年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[井伊直孝]]、[[近江国|近江]][[彦根藩]]第2代[[藩主]](+ [[1659年]])
* [[1641年]]([[寛永]]18年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[土屋政直]]、[[常陸国|常陸]][[土浦藩]]第2代[[藩主]](+ [[1722年]])
* [[1650年]]([[慶安]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[藤堂高堅]]、[[伊勢国|伊勢]][[津藩#久居藩|久居藩]]第2代[[藩主]](+ [[1715年]])
* [[1697年]]([[元禄]]10年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]) - [[中川久忠]]、[[豊後国|豊後]][[岡藩]]第6代[[藩主]](+ [[1742年]])
* [[1722年]]([[享保]]7年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[細川興里]]、[[肥後国|肥後]][[宇土藩]]第4代[[藩主]](+ [[1745年]])
* [[1750年]] - [[カロライン・ハーシェル]]、[[天文学者]](+ [[1848年]])
* [[1751年]] - [[ジェームズ・マディソン]]、第4代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1836年]])
* [[1766年]] - [[ジャン=フレデリック・ワルデック]]、古物研究家、[[地図学|地図学者]]、[[芸術家]]、[[探検家]](+ [[1875年]])
* [[1771年]] - [[アントワーヌ=ジャン・グロ]]、[[画家]](+ [[1835年]])
* [[1774年]] - [[マシュー・フリンダース]]、[[航海|航海者]]、[[海図]]作成者(+ [[1814年]])
* [[1789年]] - [[ゲオルク・オーム]]、[[物理学者]](+ [[1854年]])
* [[1800年]]([[寛政]]12年[[2月21日 (旧暦)|2月21日]]) - [[仁孝天皇]]、第120代[[天皇]](+ [[1846年]])
* [[1822年]] - [[ローザ・ボヌール]]、画家(+ [[1899年]])
* [[1839年]] - [[シュリ・プリュドム]]、[[詩人]](+ [[1907年]])
* [[1840年]]([[天保]]11年2月13日) - [[渋沢栄一]]、[[実業家]](+ [[1931年]])
* [[1841年]]([[天保]]12年閏[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[吉田稔麿]]、[[幕末]]の[[志士]](+ [[1864年]])
* [[1845年]]([[弘化]]2年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - 初代[[梅ヶ谷藤太郎 (初代)|梅ヶ谷藤太郎]]、[[大相撲]]第15代[[横綱]](+ [[1928年]])
* [[1846年]] - [[ヨースタ・ミッタク=レフラー]]、[[数学者]](+ [[1927年]])
* [[1851年]] - [[マルティヌス・ベイエリンク]]、[[微生物学|微生物学者]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1931年]])
* [[1859年]] - [[アレクサンドル・ポポフ (物理学者)|アレクサンドル・ポポフ]]、物理学者(+ [[1906年]])
* [[1869年]] - [[ウィリー・ブルメスター]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1933年]])
* [[1878年]] - [[レザー・シャー]]、[[イラン]]・[[パフラヴィー朝]]初代国王(+ [[1944年]])
* [[1902年]] - [[郡祐一]]、[[政治家]](+ [[1983年]])
* [[1903年]] - [[マイケル・マンスフィールド]]、政治家(+ [[2001年]])
* [[1908年]] - [[ルネ・ドーマル]]、詩人、[[小説家]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1944年]])
* 1908年 - [[ロバート・ロッセン]]、[[映画監督]]、[[脚本家]](+ [[1966年]])
* [[1911年]] - [[ヨーゼフ・メンゲレ]]、[[医師]]、[[ナチス親衛隊]]将校(+ [[1979年]])
* 1911年 - [[黒田了一]]、[[法学者]]、政治家(+ [[2002年]])
* [[1913年]] - [[田中筆子]]、[[俳優|女優]](+ [[1981年]])
* [[1914年]] - [[嵯峨浩]]、[[満州国]]皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]の弟[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]の妻(+ [[1987年]])
* [[1915年]] - [[小平邦彦]]、[[数学者]](+ [[1997年]])
* 1915年 - [[寺田透]]、[[文芸評論家]](+ [[1995年]])
* [[1918年]] - [[フレデリック・ライネス]]、物理学者(+ [[1998年]])
* [[1920年]] - [[下条進一郎]]、政治家(+ [[2013年]])
* [[1922年]] - [[佐川清]]、[[佐川急便]]株式会社創業者(+ [[2002年]])
* [[1923年]] - [[鳳啓助]]、[[漫才師]](+ [[1994年]])
* [[1924年]] - [[石井藤吉郎]]、[[野球選手]](+ [[1999年]])
* 1924年 - [[ガストン・ネサン]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[2018年]])
* [[1925年]] - [[ルイス・ミラモンテス]]、[[化学者]](+ [[2004年]])
* [[1926年]] - [[ジェリー・ルイス]]、[[コメディアン|喜劇俳優]]、映画監督(+ [[2017年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/08/21/kiji/20170821s00041000087000c.html |title=米喜劇俳優ジェリー・ルイス氏死去、91歳「底抜け」シリーズ |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=21 Aug 2017}}</ref>)
* [[1927年]] - [[ダニエル・パトリック・モイニハン]]、[[政治家]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](+ [[2003年]])
* [[1928年]] - 初代[[若乃花幹士 (初代)|若乃花幹士]]、元[[大相撲]][[力士]]、第45代[[横綱]]、第6代[[日本相撲協会]]理事長、[[年寄名跡|年寄]]10代[[二子山 (相撲)|二子山]](+ [[2010年]])
* 1928年 - [[クリスタ・ルートヴィヒ]]、[[メゾソプラノ]]歌手(+ [[2021年]])
* 1928年 - [[カールハインツ・ベーム]]、[[俳優]](+ [[2014年]])
* [[1930年]] - [[京塚昌子]]、女優(+ [[1994年]])
* 1930年 - [[高橋昌也 (俳優)|高橋昌也]]、俳優(+ [[2014年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG22032_S4A120C1CC1000/ |title=俳優・演出家の高橋昌也さん死去 83歳 |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=22 Jan 2014}}</ref>)
* 1930年 - [[大平修三]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](+ [[1998年]])
* 1930年 - [[トミー・フラナガン (ミュージシャン)|トミー・フラナガン]]、[[ミュージシャン]](+ [[2001年]])
* [[1931年]] - [[三浦哲郎]]、[[小説家]](+ [[2010年]])
* [[1932年]] - [[ドン・ブラッシンゲーム]]、元[[プロ野球選手]]、監督(+ [[2005年]])
* [[1933年]] - [[浅利慶太]]、[[演出家]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/07/18/kiji/20180718s00041000159000c.html |title=演出家の浅利慶太さんが死去 85歳 劇団四季の元代表 |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |website=Sponichi Annex |date=18 Jul 2018}}</ref>)
* [[1934年]] - [[ロジャー・ノリントン]]、[[指揮者]]
* [[1935年]] - [[今村洋子]]、[[漫画家]]
* [[1936年]] - [[テレサ・ベルガンサ]]、メゾソプラノ歌手
* [[1937年]] - [[エイモス・トベルスキー]]、[[心理学者]](+ [[1996年]])
* 1937年 - [[デイヴィッド・デル・トレディチ]]、[[作曲家]](+ [[2023年]])
* [[1939年]] - [[若秩父高明]]、元大相撲[[力士]]、[[年寄]]14代[[常盤山]](+ [[2014年]])
* 1939年 - [[カルロス・ビラルド]]、[[サッカー選手]]、指導者
* [[1941年]] - [[ベルナルド・ベルトルッチ]]、[[映画監督]](+ [[2018年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20181126/16/ |title=「ラストタンゴ・イン・パリ」「ラストエンペラー」ベルナルド・ベルトルッチ監督死去 |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[映画.com]] |date=26 Feb 2018}}</ref>)
* [[1942年]] - [[ジィズ・ヴァン・レネップ]]、元[[自動車競技|レーシングドライバー]]
* [[1944年]] - [[石田太郎]]、俳優、[[声優]](+ [[2013年]])
* [[1946年]] - [[星吉昭]]、ミュージシャン([[姫神]])(+ [[2004年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20041001000494 |title=星吉昭さんが死去/「姫神」名でシンセ音楽 |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[四国新聞社]] |date=1 Oct 2004}}</ref>)
* 1946年 - [[斉藤昌子]]、[[声楽家]]、女優(+ [[2023年]])
* 1946年 - [[上田武司]]、元プロ野球選手
* [[1948年]] - [[桜多吾作]]、漫画家(+ [[2022年]])
* 1948年 - [[マーガレット・ワイス]]、[[作家]]
* [[1949年]] - [[エリック・エストラーダ]]、俳優
* 1949年 - [[手使海ユトロ]]、作曲家
* [[1950年]] - [[佐々木譲]]、[[小説家]]
* 1950年 - [[白鳥英美子]]、[[歌手]]
* 1950年 - [[木村庄之助 (37代)|37代木村庄之助]]、[[大相撲]][[行司]](+ [[2022年]])
* [[1953年]] - [[リチャード・ストールマン]]、[[フリーソフトウェア財団]]設立者
* 1953年 - [[堀井美晴]]、サッカー選手、指導者
* [[1954年]] - [[ナンシー・ウィルソン (ロックミュージシャン)|ナンシー・ウィルソン]]、ミュージシャン([[ハート (バンド)|ハート]])
* [[1955年]] - [[渡辺二郎]]、元[[プロボクサー]]
* 1955年 - [[イザベル・ユペール]]、女優
* [[1956年]] - [[笙野頼子]]、小説家
* [[1958年]] - [[渡辺三千彦]]、[[アナウンサー]]
* 1958年 - [[吉良州司]]、政治家
* [[1959年]] - [[イェンス・ストルテンベルグ]]、[[ノルウェー]][[首相]]
* [[1961年]] - [[蛭田達也]]、[[漫画家]]
* 1961年 - [[大島ミチル]]、[[作曲家]]
* 1961年 - [[市川哲史]]、[[音楽評論家]]
* 1961年 - [[長岡成貢]]、作曲家
* [[1962年]] - [[山本浩之 (アナウンサー)|山本浩之]]、アナウンサー
* 1962年 - [[三五十五]]、パフォーマー、お笑いタレント、ミュージシャン([[電撃ネットワーク]])(+ [[2015年]])
* [[1963年]] - [[能瀬慶子]]、歌手、女優
* [[1964年]] - [[野々村俊恵]]、[[タレント]]
* 1964年 - [[ゴア・ヴァービンスキー]]、映画監督
* [[1965年]] - [[鳥越マリ]]、女優
* 1965年 - [[南利幸]]、[[気象予報士]]
* [[1966年]] - [[栗本和博]]、漫画家
* 1966年 - [[中脇樹人]]、俳優
* [[1967年]] - [[安芸乃島勝巳]]、元大相撲力士、年寄9代[[高田川 (相撲)|高田川]]
* 1967年 - [[F.King Toggy]]、[[ディスクジョッキー]]
* 1967年 - [[ローレン・グレアム]]、女優
* [[1968年]] - [[柴田佳主也]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[上原みなみ]]、気象予報士、タレント
* 1969年 - [[ハロルド作石]]、漫画家
* [[1970年]] - [[イマクニ?]]、[[グラフィックデザイナー]]
* 1970年 - [[里見祐輔]]、元プロ野球選手
* 1970年 - [[神尾佑]]、俳優
* [[1971年]] - [[木村多江]]、女優
* [[1972年]] - [[大内厚雄]]、俳優
* [[1973年]] - [[玉田凛映]]、元[[プロレスラー]]
* 1973年 - [[山内泰幸]]、元プロ野球選手
* 1973年 - [[小林正幹]]、元[[陸上競技]]選手
* [[1975年]] - [[黒田百合]]、女優、[[ダンサー]]、演出振付家
* 1975年 - [[市瀬秀和]]、俳優
* 1975年 - 石井康太、お笑いタレント([[やるせなす]])
* 1975年 - [[シエンナ・ギロリー]]、女優
* 1975年 - [[森川次朗]]、俳優、ダンサー
* [[1976年]] - [[カルロス天野]]、元プロレスラー
* 1976年 - [[野島健児 (声優)|野島健児]]、声優
* 1976年 - [[諸宸]]、[[チェス]]選手
* [[1977年]] - [[柏原崇]]、俳優
* 1977年 - [[音羽しのぶ]]、[[演歌歌手]]
* 1977年 - [[山梨崇仁]]、政治家
* 1977年 - [[安元洋貴]]、声優
* [[1978年]] - [[岡田薫]]、女優
* 1978年 - [[ささきうずまき]]、[[AV監督]]
* [[1979年]] - [[榎本達也]]、元サッカー選手
* 1979年 - Taku Goto、[[ミュージシャン]]([[FREEASY BEATS]])
* 1979年 - [[春風亭三朝]]、[[落語家]]
* [[1980年]] - [[フェリペ・レジェス]]、[[バスケットボール選手一覧|バスケットボール選手]]
* [[1981年]] - [[坂上庸介]]、[[シンガーソングライター]]([[SPIRAL SPIDERS]])
* 1981年 - [[長野翼]]、元アナウンサー
* 1981年 - [[矢沢心]]、タレント、女優
* 1981年 - [[カーティス・グランダーソン]]、元プロ野球選手
* [[1982年]] - [[ブライアン・ウィルソン (野球)|ブライアン・ウィルソン]]、元プロ野球選手
* [[1983年]] - [[良知真次]]、俳優、タレント
* 1983年 - [[スティーブン・ドリュー]]、元プロ野球選手
* 1983年 - [[ラスティ・ライアル]]、元プロ野球選手
* [[1985年]] - [[果梨]]、元[[グラビアアイドル]]、元[[AV女優]]
* 1985年 - KENTA、ドラマー([[SPYAIR]])
* [[1986年]] - [[髙橋大輔 (フィギュアスケート選手)|髙橋大輔]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1986年 - [[アレクサンドラ・ダダリオ]]、女優
* [[1988年]] - [[榎あづさ]]、声優(元[[LISP (声優ユニット)|LISP]])
* 1988年 - [[ZAQ (シンガーソングライター)|ZAQ]]、シンガーソングライター
* 1988年 - [[田中健 (競馬)|田中健]]、[[騎手]]
* 1988年 - [[町田直希]]、騎手
* [[1989年]] - [[セオ・ウォルコット]]、サッカー選手
* 1989年 - [[原瑞歩]]、[[ファッションモデル]]
* 1989年 - [[工藤晴香]]、声優、女優
* [[1990年]] - [[森川つくし]]、[[演歌歌手]]
* 1990年 - [[ホナタン・ウレタヴィスガジャ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[咲妃みゆ]]、女優、元[[宝塚歌劇団]][[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]トップ娘役
* 1991年 - [[磯村亮太]]、サッカー選手
* 1991年 - [[ヴォルフガング・ヴァン・ヘイレン]]、ミュージシャン([[ヴァン・ヘイレン]])
* 1991年 - [[コーリー・スパンジェンバーグ]]、プロ野球選手
* 1991年 - [[イ・ジナ]]、シンガーソングライター
* [[1993年]] - [[高田憂希]]、声優
* [[1995年]] - [[瑛茉ジャスミン]]、女優、タレント
* 1995年 - [[濵口遥大]]、プロ野球選手
* 1995年 - [[瑞希]]、プロレスラー
* 1995年 - [[坂本優太]]、アナウンサー、元俳優
* [[1996年]] - [[アンナ・オフチャロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1996年 - [[山上愛]]、元グラビアアイドル
* [[1997年]] - [[森嶋優花]]、声優
* 1997年 - [[町野友哉]]、アメリカンフットボール選手
* [[1998年]] - [[北口榛花]]、陸上競技選手
* [[1999年]] - [[高瀬くるみ]]、アイドル([[BEYOOOOONDS]]、元[[とちおとめ25]])
* 1999年 - [[ブラディミール・ゲレーロ・ジュニア]]、プロ野球選手
* [[2000年]] - [[ロイ (モデル)|ロイ]]、[[ファッションモデル]]、[[YouTuber]]
* 2000年 - [[森マリア (2000年生)|森マリア]]、女優
* [[2001年]] - [[橋本乃依]]、女優
* [[2002年]] - [[花谷麻妃]]、歌手
* 2002年 - 栗原桜子、元VRアイドル(元[[えのぐ]])
* [[2004年]] - [[北川莉央]]、アイドル([[モーニング娘。]])
* 生年非公表 - [[あかいとまと]]、声優
* 生年非公表 - [[小比類巻かほる]]、歌手
* 生年非公表 - [[樋口橘]]、漫画家
* 生年非公表 - [[和多田美咲]]、声優
* 生年不明 - [[園田泰隆]]、声優
* 生年不明 - [[高橋良吉]]、声優
* 生年不明 - [[岡田加奈子]]、声優
* 生年不明 - [[鬼八頭かかし]]、漫画家(+ [[2019年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1988年]] - [[リンデンリリー]]、[[競走馬]]、[[繁殖牝馬]](+ [[2008年]])
* 1988年 - [[ケイエスミラクル]]、競走馬(+ [[1991年]])
* [[1997年]] - [[タップダンスシチー]]、競走馬、[[種牡馬]]
== 忌日 ==
[[ファイル:JPaul Laurens The Death of Tiberius.jpg|thumb|240px|[[ローマ帝国]]第2代皇帝[[ティベリウス]](BC42-37)病没。画像は{{仮リンク|ジャン=ポール・ローレンス|fr|Jean-Paul Laurens}}『ティベリウスの死』(1864)]]
[[Image:Nagaya nara.jpg|thumb|140px|[[長屋王]](684?-829)、[[長屋王の変]]により自害。画像は長屋王邸跡]]
[[ファイル:Himeji Castle The Keep Towers.jpg|thumb|200px|[[戦国武将]][[池田輝政]](1565-1613)没。[[姫路城]]を今の姿(画像)に修築した]][[Image:Beardsley-peacockskirt.PNG|thumb|140px|[[イラストレーター]]の[[オーブリー・ビアズリー]](1872-1898)、25歳で夭折。画像は『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』の挿絵(1894)]]
[[ファイル:J.J.R. Macleod ca. 1928.png|thumb|140px|[[インスリン]]の発見者の1人、[[ジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウド]](1876-1935)]]
[[ファイル:Selma Lagerlöf.jpg|thumb|140px|作家[[セルマ・ラーゲルレーブ]](1858-1940)没。代表作『[[ニルスのふしぎな旅]]』(1906)]]
* [[37年]] - [[ティベリウス]]<ref>{{Cite web |title=Tiberius {{!}} Biography, Accomplishments, Facts, & Death |url=https://www.britannica.com/biography/Tiberius |website=Britannica |access-date=2023-03-17 |language=en}}</ref>、[[ローマ皇帝]](* [[紀元前42年]])
* [[455年]] - [[ウァレンティニアヌス3世]]、ローマ皇帝(* [[419年]])
* [[729年]]([[天平]]元年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[長屋王]]、[[奈良時代]]の[[皇族]](* [[676年]])
* [[760年]]([[天平宝字]]4年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[菩提僊那]]、[[東大寺]][[東大寺盧舎那仏像|大仏]][[開眼法要]]をしたインドからの[[渡来人|渡来僧]](* [[704年]])
* [[1410年]] - [[ジョン・ボーフォート (初代サマセット伯)|ジョン・ボーフォート]]、初代[[サマセット伯]](* [[1371年]]頃)
* [[1485年]] - [[アン・ネヴィル]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の王妃(* [[1456年]])
* [[1508年]]([[永正]]5年[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]) - [[島津忠昌]]、[[薩摩国]]の[[戦国大名]](* [[1463年]])
* [[1544年]] - [[ルートヴィヒ5世 (プファルツ選帝侯)|ルートヴィヒ5世]]、[[ライン宮中伯|プファルツ選帝侯]](* [[1478年]])
* [[1604年]]([[慶長]]9年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[菊姫 (上杉景勝正室)|菊姫]]、[[上杉景勝]]の[[正室]](* [[1563年]])
* [[1613年]](慶長18年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[池田輝政]]、[[武将|戦国武将]]、初代[[姫路藩|姫路藩主]](* [[1565年]])
* [[1648年]]([[正保]]5年[[閏]][[1月22日 (旧暦)|1月22日]]) - [[戸沢政盛]]、[[新庄藩|新庄藩主]](* [[1585年]])
* [[1731年]]([[享保]]16年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[堀田正春]]、[[山形藩|山形藩主]](* [[1715年]])
* [[1736年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ]]、[[作曲家]](* [[1710年]])
* [[1828年]] - [[ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ]]、[[歴史家|歴史学者]]、[[地理学者]](* [[1750年]])
* [[1839年]]([[天保]]10年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[上杉斉定]]、第11代[[米沢藩|米沢藩主]](* [[1788年]])
* [[1861年]] - [[ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド]]、[[ケント公]][[エドワード・オーガスタス (ケント公)|エドワード・オーガスタス]]の妻(* [[1786年]])
* 1861年 - [[ジョン・スティーブンス・ヘンズロー]]、[[植物学|植物学者]]、[[地質学|地質学者]](* [[1796年]])
* [[1870年]] - [[テオドール・エステン]]、作曲家(* [[1813年]])
* [[1872年]]([[明治]]5年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[本間玄調]]、[[水戸藩]]の[[医師]](* [[1804年]])
* [[1889年]] - [[エルンスト・テンペル]]、[[天文学者]](* [[1821年]])
* [[1894年]] - [[浅田宗伯]]、[[漢方医]]、[[儒教|儒学者]](* [[1815年]])
* [[1898年]] - [[オーブリー・ビアズリー]]、[[画家]](* [[1872年]])
* [[1909年]] - [[桂文屋]]、[[落語家]](* [[1867年]])
* [[1914年]] - [[ジョン・マレー]]、[[海洋学|海洋学者]](* [[1841年]])
* 1914年 - [[シャルル・ゴバ]]、[[政治家]](* [[1843年]])
* [[1919年]] - [[ヤーコフ・スヴェルドロフ]]、[[ボリシェヴィキ]]の活動家(* [[1885年]])
* [[1930年]] - [[ミゲル・プリモ・デ・リベラ|プリモ・デ・リベラ]]、[[スペイン]]の指導者(* [[1870年]])
* [[1935年]] - [[ジョン・ジェームズ・リチャード・マクラウド]]、[[医学|医学者]](* [[1876年]])
* [[1936年]] - [[三宅秀]]、医学者、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員(* [[1848年]])
* [[1938年]] - [[エゴン・フリーデル]]、作家(* [[1878年]])
* [[1940年]] - [[セルマ・ラーゲルレーブ]]、小説家(* [[1858年]])
* [[1945年]] - [[モーリス・アルブヴァクス]]、[[社会学者の一覧|社会学者]](* [[1877年]])
* [[1946年]] - [[片岡仁左衛門 (12代目) ]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1882年]])
* [[1951年]] - [[宮部金吾]]、植物学者(* [[1860年]])
* [[1955年]] - [[アロイス・フォン・リヒテンシュタイン (1869-1955)|アロイス・フォン・リヒテンシュタイン]]、[[リヒテンシュタイン]]の王族(* [[1869年]])
* [[1957年]] - [[コンスタンティン・ブランクーシ]]、[[彫刻家]](* [[1876年]])
* [[1958年]] - 4代目[[桂文枝]]、落語家(* [[1891年]])
* [[1961年]] - [[ヴァーツラフ・ターリヒ]]、[[指揮者]](* [[1883年]])
* [[1962年]] - [[吉田三郎]]、[[彫刻家]](* [[1889年]])
* [[1963年]] - [[ウィリアム・ベヴァリッジ]]、[[経済学者]](* [[1879年]])
* [[1964年]] - [[太田垣士郎]]、[[実業家]](* [[1894年]])
* [[1965年]] - [[蔵原伸二郎]]、作家(* [[1899年]])
* [[1967年]] - [[野口源三郎]]、陸上競技選手、体育学者(* [[1888年]]<ref>{{cite journal|和書|date=1967-12-20|title=略歴|journal=順天堂大学体育学部紀要|publisher=順天堂大学体育学部紀要編集委員会|issue=10|page=1-2|naid=40001782384}}</ref>)
* [[1968年]] - [[マリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコ]]、作曲家(* [[1895年]])
* 1968年 - [[小川友三]]、政治家、[[参議院|参議院議員]](* [[1904年]])
* [[1971年]] - [[ビーブ・ダニエルズ]]、[[俳優|女優]](* [[1901年]])
* 1971年 - [[トマス・E・デューイ]]、[[政治家]](* [[1902年]])
* [[1972年]] - [[パイ・トレイナー]]、元プロ野球選手(* [[1899年]])
* [[1975年]] - [[小堀進]]、[[水彩]]画家(* [[1904年]])
* 1975年 - [[T-ボーン・ウォーカー]]、[[ブルース]][[ギタリスト]](* [[1910年]])
* [[1978年]] - [[山手樹一郎]]、[[編集者]]、[[小説家]](* [[1899年]])
* [[1979年]] - [[ジャン・モネ]]、[[欧州石炭鉄鋼共同体]]最高機関委員長(* [[1888年]])
* [[1980年]] - [[宮崎康平]]、[[歴史家|歴史研究家]]、作家(* [[1917年]])
* [[1982年]] - [[ウォルター・レンジリー]]、[[陸上競技]]選手(* [[1903年]])
* [[1984年]] - [[山口華楊]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9997.html |title=山口華楊 |access-date=17 Mar 2023 |publisher=東京文化財研究所}}</ref>、[[日本画家]](* [[1899年]])
* [[1985年]] - [[ロジャー・セッションズ]]、[[作曲家]](* [[1896年]])
* 1985年 - [[エディ・ショア]]、[[アイスホッケー]]選手(* [[1902年]])
* 1985年 - [[ベルト・レーリンク]]、[[法律家]]、[[極東国際軍事裁判]][[判事]](* [[1906年]])
* [[1986年]] - [[内藤誉三郎]]、政治家、[[文部大臣]](* [[1912年]])
* [[1993年]] - [[笠智衆]]、俳優(* [[1904年]])
* [[1994年]] - [[ニコラス・フラジェロ]]、作曲家(* [[1928年]])
* [[1995年]] - [[ハインリヒ・ズーターマイスター]]、作曲家(* [[1910年]])
* [[1997年]] - [[柴田實]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1906年]])
* [[1998年]] - [[デレック・バートン]]、[[化学者]](* [[1918年]])
* [[2002年]] - [[永井秀明]]、俳優(* [[1921年]])
* [[2003年]] - [[ローター・コッホ]]、[[オーボエ]]奏者(* [[1935年]])
* [[2004年]] - [[ヴィレム・タウスキー]]、指揮者(* [[1910年]])
* [[2005年]] - [[ジャスティン・ハインズ]]、[[レゲエ]][[歌手]](* [[1942年]])
* 2005年 - [[ジャン=フランソワ・タルノフスキ]]、[[映画評論|映画評論家]]、[[脚本家]](* [[1948年]])
* [[2006年]] - [[石原照夫]]、元[[プロ野球選手]](* [[1929年]])
* 2006年 - [[デイヴィッド・ファインタック]]、[[SF作家]](* [[1944年]])
* 2006年 - [[ポール・フラハーティ (コンピュータ科学者)|ポール・フラハーティ]]、[[情報工学|情報工学者]](* [[1964年]])
* [[2007年]] - [[椎名素夫]]、[[自由連合 (日本)|自由連合]]・[[無所属の会 (1999)|参議院クラブ]]代表(* [[1930年]])
* [[2008年]] - [[波多野里望]]、[[法学者]](* [[1931年]])
* [[2010年]] - [[前川八郎]]、元プロ野球選手、指導者(* [[1912年]])
* [[2012年]] - [[吉本隆明]]、[[思想家]]、[[詩人]]、[[評論家]](* [[1924年]])
* [[2013年]] - [[ヤディエル・ペドロソ]]、[[野球選手]](* [[1986年]])
* [[2017年]] - [[ジェイムズ・コットン]]<ref name="barks10001">{{Cite web|和書|title=ブルース界のレジェンド、ハーモニカ奏者のジェイムス・コットン、死去 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000139716 |website=BARKS |access-date=2023-03-17 |date=17 Mar 2023}}</ref>、[[歌手]]、[[ハーモニカ]]奏者(* [[1935年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Setostamp1939.JPG|thumb|300px|[[国立公園]]指定記念日。画像は[[瀬戸内海国立公園]]の記念切手(1939)]]
* 十六団子({{JPN}}){{Anchors|十六団子}}
*: [[田の神]]が山から戻ってくるとされる日で、東北地方の各地で団子を16個供えて神を迎える行事が行われる。[[10月16日]]にも、神が山へ帰る日として同じように団子を供える。
* 国立公園指定記念日({{JPN}})
*: [[1934年]]3月16日に内務省が、[[瀬戸内海国立公園|瀬戸内海]]・雲仙(現在の[[雲仙天草国立公園|雲仙天草]])・霧島(現在の[[霧島屋久国立公園|霧島屋久]])の3か所を[[国立公園]]に指定し、日本初の国立公園が誕生したことに由来。
* 財務の日({{JPN}})
*: 「ざ(3)い(1)む(6)」の語呂合せ。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0316|date=2023年3月}}
* [[宇宙世紀|U.C.]]0123年 - [[ブッホ・コンツェルン#クロスボーン・バンガード|クロスボーン・バンガード]]が[[サイド (ガンダムシリーズ)#サイド5(ルウム)→新サイド4(フロンティア)|フロンティア4]]に侵攻、[[宇宙世紀#コスモ・バビロニア建国戦争|コスモ・バビロニア建国戦争]]勃発。(アニメ映画『[[機動戦士ガンダムF91]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1966年]] - ザンチン、漫画・アニメ『[[シャーマンキング]]』に登場するキャラクター
* [[1989年]] - 古菲、漫画・アニメ『[[魔法先生ネギま!]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://king-cr.jp/special/negima/12.html |title=12.古菲(くーふぇい) |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[赤松健]]・[[講談社]]・関東魔法協会 [[キングレコード|King Record.Co.,Ltd.]] |work=『魔法先生ネギま!麻帆良学園中等部2-A』}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author= 赤松健|authorlink=赤松健 |year = 2003 |title = 魔法先生ネギま! |volume = 第2巻 |page = 42 |publisher = [[講談社]] |series = [[講談社コミックス]] |isbn = 978-4-06-363276-7 }}</ref>
* [[2004年]] - 守島音芽、アニメ『[[Wake Up, Girls!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|wakeupgirls_pr|891485099245555712}}</ref>
* [[2080年]] - メリクル・シャムロット、ゲーム『[[スターオーシャン4 -THE LAST HOPE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=スターオーシャン:アナムネシス オフィシャルアートワークス|publisher=[[スクウェア・エニックス]]|year=2019|page=65|ISBN=978-4-7575-5997-4}}</ref>
* グルグル暦1299年 - [[魔法陣グルグル (1994年のアニメ)#登場人物|ククリ]]、漫画・アニメ『[[魔法陣グルグル]]』のヒロイン<ref>{{Cite book |和書 |title=魔法陣グルグルランド |volume=2巻 |publisher=[[エニックス]] |year=1995 |page=30 |isbn=978-4-87025-834-1 }}</ref>
* 生年不明 - 黒部由起夫、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1503749124897783809}}</ref>
* 生年不明 - 四方田尽、漫画・アニメ『[[火ノ丸相撲]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - リル・ボワモルティエ、漫画・アニメ『[[ブラッククローバー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://bclover.jp/character/ |title=水色の幻鹿 リル・ボワモルティエ |accessdate=2022-09-10 |publisher=[[田畠裕基]]/[[集英社]]・[[テレビ東京]]・ブラッククローバー製作委員会 |work=『ブラッククローバー』}}</ref>
* 生年不明 - シェリー・ホーネット、漫画・アニメ『[[風夏]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|seokouji|842718182532042752}}</ref>
* 生年不明 - 西村たかし、漫画・アニメ『[[ちびまる子ちゃん]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 乃木流架、漫画・アニメ『[[学園アリス]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 姉帯豊音、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html |title=姉帯 豊音(あねたい とよね) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=2022-09-10 |publisher=[[小林立]]}}</ref>
* 生年不明 - 島田柚姫、漫画・アニメ『[[ももくり]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://momokuri-anime.jp/character.html |title=島田 柚姫 |access-date=2022-09-10 |publisher=くろせ/[[comico]]/ももくり製作委員会 |work=『ももくり』}}</ref>
* 生年不明 - ナツメ・イザヨイ、小説・ゲーム・アニメ『[[ギャラクシーエンジェルII]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - [[シェゾ・ウィグィィ]]、ゲーム『[[魔導物語]]』・『[[ぷよぷよ]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ルーティ・ワイエス、ゲーム『[[悠久幻想曲|悠久幻想曲3 perpetual blue]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - トビオ、ゲーム『[[どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/m03.html |title=住民名簿 3月 トビオ |access-date=2022-09-10 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref>
* 生年不明 - [[天枷美春]]、ゲーム・アニメ『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://circus-co.jp/product/dc12-p/dc_heroine_details.html#mhr |title=天枷 美春 |access-date=2023-02-05 |publisher=[[CIRCUS (ブランド)|CIRCUS]] |work=『D.C.I&II P.S.P. ~ダ・カーポ I&II~ プラスシチュエーション』}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |date = 2003-11 |publisher = [[角川書店]] |journal = [[コンプティーク]] |page = 25 }}</ref>
* 生年不明 - 右代宮譲治、ゲーム・漫画・アニメ『[[うみねこのなく頃に]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - ギャンレル、ゲーム『[[ファイアーエムブレム 覚醒]]』に登場するキャラクター
* 生年不明 - 柳瀬美由紀、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20178 |title=柳瀬 美由紀(やなせ みゆき) |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[窪岡俊之]] [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=『THE IDOLM@STER』アイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - がしがし、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.showbyrock.com/character/LB011.html |title=しにものぐるい がしがし(Dr) |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[サンリオ|SANRIO CO.,LTD.]] SP-M |work=『SHOW BY ROCK!!』}}</ref>
* 生年不明 - スズメバチ、ゲーム・アニメ『[[消滅都市]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|shoumetsutoshi|842625350119055360}}</ref>
* 生年不明 - 衣更真緒、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/isara_mao/ |title=UNIT 衣更 真緒 |accessdate=17 Mar 2023 |work=『あんさんぶるスターズ!!』 |publisher=[[Happy Elements]]}}</ref>
* 生年不明 - 吉良かなた、ゲーム・アニメ『[[アイカツスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.aikatsu.net/aikatsustars_02/character/chara_kanata.html |title=吉良 かなた |access-date=17 Mar 2023 |publisher=[[バンダイナムコピクチャーズ|BNP]]/[[バンダイ|BANDAI]], [[電通|DENTSU]], [[テレビ東京|TV TOKYO]] |work=『アイカツスターズ!』}}</ref>
* 生年不明 - ユカリ、ゲーム・アニメ『[[プリンセスコネクト!Re:Dive]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|priconne_redive|1371642395813572610}}</ref>
* 生年不明 - トム、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web |title=トム {{!}} キャラクター検索 |url=https://one-piece.com/character/Tom/index.html |website=ONE PIECE.com(ワンピース ドットコム) |access-date=2023-11-22 |language=ja |last=尾田栄一郎}}</ref>
== 出典 ==
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== 関連項目 ==
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'''3月18日'''(さんがつじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から77日目([[閏年]]では78日目)にあたり、年末まであと288日ある。
== できごと ==
[[Image:Caricature_for_Riga_Peace_1921.png|thumb|180x180px|[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約]](1921)。画像は[[ベラルーシ]]の分割を批判する風刺画。]]
[[Image:Kantei_1929.jpg|thumb|180x180px|先代の[[首相官邸]]が竣工(1929)。]]
[[Image:Bundesarchiv Bild 183-1989-0407-022, Midori Ito.jpg|thumb|262x262px|1989年、[[伊藤みどり]]が、日本人として[[世界選手権]]で初優勝。]]
[[File:Tokyo Sky Tree under construction 20110319-1.jpg|thumb|180px|[[東京スカイツリー]]の高さが634mに到達(2011)。]]
* [[978年]] - [[ウェセックス家]]の王族[[エゼルレッド2世 (イングランド王)|エゼルレッド]]が[[イングランド王国|イングランド人の]][[イングランド王|王]]( ''King of the English'' )に就任した。のちにエゼルレッド無策王と称される。
* [[1229年]] - [[第6回十字軍]]: [[エルサレム]]に入城した[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]が[[聖墳墓教会]]で[[エルサレム王国|エルサレム王]]として戴冠。
* [[1314年]] - [[フランス王国|フランス]]国王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の命で捕えられた[[テンプル騎士団]]団長[[ジャック・ド・モレー]]が、宗教裁判で異端とされて[[火刑|焚刑]]に処せられる。
* [[1438年]] - [[ハプスブルク家]]の[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]が[[ローマ王]]に即位。
* [[1850年]] - [[アメリカン・エキスプレス]]社がヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴにより創立される。
* [[1871年]] - パリの民衆が[[アドルフ・ティエール]]の臨時政府に対し武器をとり蜂起。([[パリ・コミューン]])
* [[1874年]] - [[ハワイ王国]]が、[[アメリカ合衆国]]に対して独占的な通商権を与える条約を結ぶ。
* [[1881年]] - 『[[東洋自由新聞]]』創刊<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/france/jp/part1/s1_2.html |title=2. 中江兆民と自由民権運動の諸相『東洋自由新聞』東洋自由新聞社,明治14(1881) |access-date=21 Feb 2023 |publisher=国立国会図書館 |work=『近代日本とフランスー憧れ、出会い、交流』}}</ref>。
* [[1913年]] - [[ギリシャ王国|ギリシャ]]国王[[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]が暗殺される。
* [[1915年]] - [[第一次世界大戦]]・[[ガリポリの戦い]]: 連合国による[[ダーダネルス海峡]]進攻作戦が失敗。
* [[1921年]] - [[ポーランド第二共和国|ポーランド]]と[[ソビエト連邦]]の間で[[ポーランド・ソビエト・リガ平和条約|リガ条約]]が結ばれる。
* [[1925年]] - [[日暮里大火 (1925年)|日暮里大火]]。全半焼約2,000戸、焼失面積4万6千坪の被害が出る。
* [[1926年]] - [[三・一八事件]]。北京の[[段祺瑞]]政府打倒を叫ぶ民衆のデモに対し政府軍が発砲。
* [[1927年]] - 日本へ贈られた「ミス・アメリカ」をはじめとするアメリカ合衆国の各州を代表する友情人形([[青い目の人形]])が[[横浜港]]にて、児童の歓迎を受ける。
* [[1929年]] - 先代の[[内閣総理大臣官邸|首相官邸]](現[[内閣総理大臣公邸|首相公邸]])が竣工。
* [[1937年]] - [[ニューロンドン学校爆発事故]]。
* [[1938年]] - [[メキシコ]]が国内にある外国所有下の石油資源をすべて国有化。
* [[1940年]] - [[第二次世界大戦]]: [[アドルフ・ヒトラー]]と[[ベニート・ムッソリーニ|ベニト・ムッソリーニ]]が[[ブレンナー峠]]で会談し、フランス・イギリスに対して共同で当たることを確認。
* [[1941年]] - [[北海道]][[美唄市]]の[[美唄炭鉱|三菱美唄炭鉱]]でガス爆発が発生<ref>三百七十四人が遭難、百八十人は救出(昭和16年3月19日 朝日新聞(夕刊))『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p215 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。死者・行方不明者177人<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_5965.html |title=○昭和16年北海道三菱美唄炭鉱ガス爆発事故(70年前) |access-date=21 Feb 2023 |publisher=防災情報新聞無料版}}</ref>。
* [[1944年]] - 第二次世界大戦: [[ナチス・ドイツ]]軍が[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー]]を占領。
* [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[国民学校]]初等科以外の全ての授業を4月から1年間停止することを決定。
* 1945年 - [[A-1 (航空機)|XBT2D-1試作艦上攻撃機]]が初飛行。
* [[1946年]] - [[スイス]]とソビエト連邦が国交を樹立。
* [[1947年]] - アジア極東経済委員会(現 [[アジア太平洋経済社会委員会]])設置。
* [[1948年]] - 戦災で焼失した[[新橋演舞場]]が再建され開錠式が行われる。改築落成開場式記念興行の御祝儀は「寿式三番叟」で六代目菊五郎が三番叟を踏み、新橋芸妓による「東をどり」が上演される。
* [[1953年]] - [[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]を離党した[[鳩山一郎]]・[[三木武吉]]・[[河野一郎]]らが[[日本自由党 (1953-1954)#分党派自由党|分党派自由党]]を結成。
* [[1958年]] - [[文部省]]が各小中学校に[[道徳教育]]の実施要綱を通達。
* [[1962年]] - [[フランス]]と[[アルジェリア]]が[[エビアン協定]]に調印し、[[アルジェリア戦争]]が終結。
* [[1964年]] - 早川電機(現在の[[シャープ]])と[[ソニー]]が、商用化された製品としては初の電子式卓上計算機([[電卓]])を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://gendai.media/articles/-/71153 |title=3月18日 世界初の電卓が発表(1964年) |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[講談社]] |work=サイエンス365days |date=18 Mar 2020}}</ref>。
* [[1965年]] - ソ連の宇宙飛行士[[アレクセイ・レオノフ]]が宇宙船[[ヴォスホート]][[ボスホート2号|2号]]から離れて、史上初の[[船外活動]]を行う。
* 1965年 - [[愛知県]][[犬山市]]、[[入鹿池]]のほとりに野外博物館「[[博物館明治村]]」が開業。初代村長に[[徳川夢声]]を迎え、[[西郷従道]]邸、[[三重県庁舎]]、帝国ホテル中央玄関など、解体されてゆく建造物を移築。
* [[1967年]] - [[岡山県]][[岡山市]]の原尾島交差点に[[三宅精一]]の発明した[[視覚障害者誘導用ブロック|点字ブロック]]が、世界で初めて設置される<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ossk-33.jp/braille_block/ |title=点字ブロック豆知識 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=社会福祉法人岡山県視覚障害者協会}}</ref>。
* 1967年 - [[トリー・キャニオン号事件]]が発生。
* [[1970年]] - [[カンボジア]]で[[ロン・ノル]]首相のクーデタにより[[ノロドム・シハヌーク|ノロドム・シアヌーク]]皇太子が亡命。
* [[1974年]] - [[石油輸出国機構|OPEC]]諸国が5か月に渡り続けていた、アメリカ・ヨーロッパ・日本への石油輸出禁止措置を解除。
* [[1977年]] - [[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]の[[伏見駅 (愛知県)|伏見駅]] - [[八事駅]]間が開業。
* [[1980年]] - ソ連・[[プレセツク宇宙基地]]で燃料注入中の[[ボストーク-2M]]ロケットが爆発、48人が死亡。
* [[1984年]] - [[江崎グリコ]]社長が[[西宮市]]の自宅から「かい人21面相」に誘拐される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/special/sengo/visual/page46.html |title=9章 揺れる国内 グリコ・森永事件 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[朝日新聞]]}}</ref>。社長は3日後に自力で脱出。[[グリコ・森永事件]]の始まり。
* [[1987年]] - [[神戸市営地下鉄西神・山手線]]の[[学園都市駅]] - [[西神中央駅]]間が開業し、西神・山手線が全線開通。
* [[1988年]] - [[名古屋妊婦切り裂き殺人事件]]が発生。[[2003年]]公訴[[時効]]成立。
* 1988年 - [[近鉄21000系電車]]デビュー。[[近畿日本鉄道|近鉄]]の[[近鉄特急|名阪甲特急]](ノンストップ特急)は、[[鶴橋駅|大阪]] - [[近鉄名古屋駅|名古屋]]間を1時間58分で結び、初めて2時間を切るようになる。
* 1988年 - 日本初のドーム型球場「[[東京ドーム]]」の[[こけら落とし]]が行われ、[[読売ジャイアンツ]]の[[江川卓 (野球)|江川卓]][[投手]]の[[引退セレモニー]]が行われた。
* [[1989年]] - [[エジプト]]の[[クフ王]]の[[ピラミッド]]で、4,400年前の[[ミイラ]]が発見される。
* 1989年 - [[伊藤みどり]]がフランスパリで行われたフィギュアスケート世界選手権で、日本人選手として初優勝<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO42497360V10C19A3EAC000/ |title=3月18日 伊藤みどりが日本人初、世界フィギュア優勝 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=15 Mar 2019}}</ref>。
* [[1990年]] - [[1990年ドイツ民主共和国人民議会選挙]]の投票が行われる。
* 1990年 - [[長崎屋火災]]。2005年公訴時効成立。
* [[1995年]] - [[宇宙開発事業団]]が静止気象衛星「[[ひまわり5号]]」を[[H-IIロケット]]3号機により打上げ。
* [[1999年]] - [[台湾]][[台北市]]でアニメーション式[[交通信号機|歩行者信号]]「[[小緑人]]」を設置<ref>{{Cite web|和書|date=18 Mar 2016 |url=https://www.google.com/doodles/xiaolurens-17th-birthday |title=台湾の歩行者用信号機「小緑人」の設置 17 周年 |publisher=Google |accessdate=21 Feb 2023}}</ref>。
* [[2000年]] - [[2000年中華民国総統選挙]]で[[民主進歩党]]の[[陳水扁]]が当選。台湾史上初めて選挙による政権交代が実現。
* 2000年 - 兵庫県津名郡淡路町と東浦町(現・[[淡路市]])で[[ジャパンフローラ2000]]開幕。
* [[2007年]] - [[PASMO]]運用開始。
* 2007年 - [[仙台空港鉄道]]の[[名取駅]] - [[仙台空港駅]]が開業。
* [[2011年]] - [[福島第一原子力発電所事故]]を受け、[[東京消防庁]][[消防救助機動部隊]]が放水作業を開始。
* 2011年 - [[東京スカイツリー]]の高さが634メートルに到達。
* [[2014年]] - 一方的に独立を宣言していた[[クリミア共和国]]([[ウクライナ]]の[[クリミア自治共和国]]・[[セヴァストポリ]])を[[ロシア連邦|ロシア]]が事実上編入<ref>{{Cite web|和書|date=18 Mar 2014 |url=https://news.ntv.co.jp/category/international/247706 |title=プーチン大統領 クリミアの編入を発表 |accessdate=21 Feb 2023 |publisher=[[日テレNEWS24]]}}</ref>([[ロシアによるクリミアの併合]])。
* [[2015年]] - [[バルド国立博物館での銃乱射事件]]が発生<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-19 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFS19H0V_Z10C15A3AM1000/ |title=チュニジアで襲撃、邦人3人死亡・3人負傷 政府確認 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=21 Feb 2023}}</ref>。
* [[2018年]] - ノルディックスキー複合で日本の[[渡部暁斗]]が、個人総合初優勝を決める。この競技における日本人の優勝は、[[荻原健司]]の優勝以来、23季ぶり2人目の快挙<ref>{{Cite web |url=https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/03/18/kiji/20180319s00075000039000c.html |title=渡部暁がW杯個人総合初V ノルディック複合の日本勢2人目 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=19 Mar 2018 |website=Sponichi Annex}}</ref>。
* 2018年 - [[2018年ロシア大統領選挙]]の投票が行われ、[[ウラジーミル・プーチン]]が得票率76%で再選を果たした<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.bbc.com/japanese/43453959 |title=ロシア大統領選、プーチン氏が圧勝 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS JAPAN |date=19 Mar 2018}}</ref>。
* 2018年 - アメリカ、[[アリゾナ州]][[テンピ (アリゾナ州)|テンピ]]で、試験走行中だった[[Uber]]の[[自動運転車]]が歩行者をはねて死亡させる。自動運転車によって歩行者が犠牲になった初めての事故<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/43467055 |title=自動運転車で歩行者死亡事故 ウーバー車両 米アリゾナ州 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=BBC NEWS JAPAN |date=20 Mar 2018}}</ref>。
* [[2020年]] - 新型[[iPad Pro]]とMagic Keyboardが発表<ref>{{Cite web|和書|title=Apple、LiDARスキャナ、トラックパッド対応を特長とする新しいiPad Proを発表。 |url=https://www.apple.com/jp/newsroom/2020/03/apple-unveils-new-ipad-pro-with-lidar-scanner-and-trackpad-support-in-ipados/ |website=Apple Newsroom |accessdate=21 Feb 2023 |date=18 Mar 2020}}</ref>。[[iPadOS]]トラックパッドとマウスのサポートも発表された。
* 2021年 - ユニバーサル・スタジオ・ジャパン内にスーパー・ニンテンドーワールド開業<ref>{{Cite web |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/531490 |title=USJ「マリオの世界」オープン 新エリア「ニンテンドー・ワールド」 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[京都新聞]] |date=18 Mar 2021}}</ref>。
* [[2023年]] - [[英国放送協会|BBC]](英国放送協会)が、[[ジャニーズ事務所]]創設者の性的虐待に関するニュースを全世界に配信<ref>{{Cite web |url=https://www.bbcworldnews-japan.com/programs/predator-the-secret-scandal-of-j-pop/ |title=J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル Predator: The Secret Scandal of J-Pop |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[BBC]] NEWS}}</ref>。
* 2023年 - [[東急新横浜線]]が開業。[[神奈川東部方面線|相鉄・東急直通線]]が全線開業し、[[相模鉄道]]が[[東急電鉄|東急]]線に乗り入れて[[東京都|都]]心直通開始。
== 誕生日 ==
[[Image:Adam Elsheimer - Philemon and Baucis.jpg|thumb|180x180px|「キャビネット画」を多く遺した画家[[アダム・エルスハイマー]](1578-1610)誕生。画像は『バウキスとピレモンの家のユーピテルとメルクリウス』(1608頃)]]
[[Image:President_Grover_Cleveland.jpg|thumb|267x267px|第22・24代アメリカ合衆国大統領[[グロバー・クリーブランド]](1837-1908)]]
[[Image:Portrait_of_St%C3%A9phane_Mallarm%C3%A9_%28Manet%29.jpg|thumb|180x180px|難解で知られる[[象徴主義|象徴派]]詩人[[ステファヌ・マラルメ]](1842-1898)。画像は[[エドゥアール・マネ]]による肖像(1876)]]
[[Image:Walentin_Alexandrowitsch_Serow_004.jpg|thumb|180x180px|作曲家[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]](1844-1908)]]
[[Image:DBPSL_1958_432_Rudolf_Diesel.jpg|thumb|180x180px|[[ルドルフ・ディーゼル]](1858-1913)。[[ディーゼルエンジン]]の発明者]]
[[Image:Yurakucho_de_Aimasho_vinyl.jpg|thumb|180x180px|[[ムード歌謡]]歌手[[フランク永井]](1932-2008)]]
[[Image:Frederik_de_Klerk_with_Nelson_Mandela_-_World_Economic_Forum_Annual_Meeting_Davos_1992.jpg|thumb |180x180px|[[南アフリカ共和国]]第8代大統領[[フレデリック・ウィレム・デクラーク]](1936-)。[[アパルトヘイト]]体制を解体した。画像は[[ネルソン・マンデラ]](右)と握手するデクラーク(左)]]
* [[1578年]] - [[アダム・エルスハイマー]]<ref>{{Cite web |title=Adam Elsheimer {{!}} German artist |url=https://www.britannica.com/biography/Adam-Elsheimer |website=Britannica |access-date=2023-02-21 |language=en}}</ref>、[[画家]](+ [[1610年]])
* [[1586年]]([[天正]]14年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[浅野長晟]]、初代[[広島藩|広島藩主]](+ [[1632年]])
* [[1604年]] - [[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン4世]]、[[ポルトガル王]](+ [[1656年]])
* [[1609年]] - [[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]、[[デンマーク王]](+ [[1670年]])
* [[1634年]] - [[ラファイエット夫人]]、[[小説家]](+ [[1693年]])
* [[1690年]] - [[クリスティアン・ゴルトバハ]]、[[数学者]](+ [[1764年]])
* [[1724年]]([[享保]]9年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[水野勝前]]、第4代[[結城藩|結城藩主]](+ [[1763年]])
* [[1743年]]([[寛保]]3年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) - [[安藤信成]]、初代[[磐城平藩|磐城平藩主]](+ [[1810年]])
* [[1746年]]([[延享]]3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[池田政直 (鴨方藩主) |池田政直]]、第5代[[鴨方藩|鴨方藩主]](+ [[1818年]])
* [[1782年]] - [[ジョン・カルフーン]]、第7代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1850年]])
* [[1790年]] - [[キュスティーヌ侯爵]]、[[外交官]]、[[紀行|紀行文作家]](+ [[1857年]])
* [[1797年]]([[寛政]]9年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]) - [[堀河康親]]、公卿(+ [[1859年]])
* [[1802年]]([[享和]]2年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[三条実万]]、公卿(+ 1859年)
* [[1813年]] - [[フリードリヒ・ヘッベル]]、[[劇作家]]、[[詩人]]、小説家(+ [[1863年]])
* [[1828年]] - [[ウィリアム・ランダル・クリーマー]]、[[政治家]]、[[平和運動|平和運動家]](+ [[1903年]])
* [[1830年]] - [[フュステル・ド・クーランジュ]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1889年]])
* [[1834年]]([[天保]]5年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[江藤新平]]、政治家(+ [[1874年]])
* [[1837年]] - [[グロバー・クリーブランド]]、政治家、第22・24代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1908年]])
* [[1842年]] - [[ステファヌ・マラルメ]]、[[詩人]](+ [[1898年]])
* [[1844年]] - [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]、[[作曲家]](+ [[1908年]])
* [[1848年]] - [[ルイーズ (アーガイル公爵夫人)|ルイーズ王女]]、[[イギリス]]女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]の四女(+ [[1939年]])
* [[1851年]]([[嘉永]]4年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[柳生俊益]]、第13代[[柳生藩|柳生藩主]]・[[子爵]](+ [[1927年]])
* [[1852年]] - [[オーガスタス・ハリス]]、[[俳優]]、興行主、劇作家(+ [[1896年]])
* [[1853年]]([[嘉永]]6年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[青木重義]]、第14代[[麻田藩|麻田藩主]]・[[子爵]](+ [[1884年]])
* [[1858年]] - [[ルドルフ・ディーゼル]]、[[ディーゼル機関]]発明(+ [[1913年]])
* 1858年([[安政]]5年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[井上円了]]、[[仏教哲学|仏教哲学者]]、教育家(+ [[1919年]])
* [[1863年]] - [[エドガー・サイアーズ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1946年]])
* [[1869年]] - [[ネヴィル・チェンバレン]]、政治家、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1940年]])
* [[1874年]] - [[稲田龍吉]]、[[細菌学|細菌学者]](+ [[1950年]])
* 1874年 - [[ニコライ・ベルジャーエフ]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1948年]])
* [[1875年]] - [[一松定吉]]、政治家(+ [[1973年]])
* [[1877年]] - [[エドガー・ケイシー]]、[[予言|予言者]](+ [[1945年]])
* [[1880年]] - [[ヴァルター・ホーマン]]、[[技術者]]、[[宇宙工学|宇宙工学者]](+ 1945年)
* [[1882年]] - [[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]、作曲家(+ [[1973年]])
* [[1883年]] - [[茅野蕭々]]、[[ドイツ文学者]](+ [[1946年]])
* [[1886年]] - [[遠藤柳作]]、政治家、[[実業家]](+ [[1963年]])
* 1886年 - [[クルト・コフカ]]、[[心理学者]](+ [[1941年]])
* [[1889年]] - [[齊藤知一郎]]、[[実業家]](+ [[1961年]])
* [[1891年]] - [[柿本権一郎]]、[[大日本帝国海軍]][[少将]](+ [[1977年]])
* 1891年 - [[瀬藤象二]]、[[電気工学|電気工学者]](+ 1977年)
* [[1893年]] - [[ウィルフレッド・オーエン]]、詩人(+ [[1918年]])
* 1893年 - [[橘孝三郎]]、[[政治運動家]]、[[思想家]](+ [[1974年]])
* [[1896年]] - [[佐々木味津三]]、小説家(+ [[1934年]])
* [[1901年]] - [[三宅藤九郎|三宅藤九郎(九世)]]、[[能楽師]](+ [[1990年]])
* [[1902年]] - [[月形龍之介]]、[[俳優]](+ [[1970年]])
* [[1903年]] - [[ガレアッツォ・チャーノ|ガレアッツォ・チャーノ(チアノ)]]、[[イタリア]][[外務大臣|外相]](+ [[1944年]])
* [[1904年]] - [[吉川幸次郎]]、[[中国文学者]](+ [[1980年]])
* [[1905年]] - [[ロバート・ドーナット]]、俳優(+ [[1958年]])
* [[1906年]] - [[森茂雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1977年]])
* [[1909年]] - [[アーネスト・ガロ]]、[[ワイン]]醸造家(+ [[2007年]])
* [[1913年]] - [[石田波郷]]、[[俳人]](+ [[1969年]])
* 1913年 - [[ルネ・クレマン]]、[[映画監督]](+ [[1996年]])
* [[1917年]] - [[リッカルド・ブレンゴーラ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2004年]])
* 1917年 - [[神代錦]]、[[俳優|女優]]、[[宝塚歌劇団]]男役(+ [[1989年]])
* [[1918年]] - [[本堂保次]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1997年]])
* [[1919年]] - [[エリザベス・アンスコム]]、哲学者(+ [[2001年]])
* [[1922年]] - [[野口昇]]、元プロ野球選手(+ [[1945年]])
* 1922年 - [[シーモア・M・リプセット]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[政治学者]](+ [[2006年]])
* [[1923年]] - [[乾国雄]]、元プロ野球選手
* 1923年 - [[江田孝]]、元プロ野球選手(+ [[1978年]])
* 1923年 - [[田村隆一]]、詩人、[[随筆家]](+ [[1998年]])
* [[1926年]] - [[ピーター・グレイブス]]、俳優(+ [[2010年]])
* 1926年 - [[金井直]]、詩人(+ [[1997年]])
* [[1927年]] - [[明石晃一]]、元プロ野球選手(+ [[2022年]])
* 1927年 - [[内田稔]]、[[俳優]](+ [[2018年]])
* [[1928年]] - [[光瀬龍]]、[[SF作家]](+ [[1999年]])
* 1928年 - [[フィデル・ラモス]]、政治家、12代[[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]](+ [[2022年]])
* 1928年 - [[レンナルト・カルレソン]]、[[数学者]]
* [[1929年]] - [[クリスタ・ヴォルフ]]、小説家(+ [[2011年]])
* [[1930年]] - [[桑名義治]]、政治家(+ [[2021年]])
* [[1931年]] - [[宮川泰]]、作曲家(+ [[2006年]])
* 1931年 - [[小池朝雄]]、俳優、[[声優]](+ [[1985年]])
* 1931年 - [[本岡昭次]]、政治家(+ [[2017年]])
* [[1932年]] - [[フランク永井]]、[[歌手]](+ [[2008年]])
* 1932年 - [[クルト・オッペルト]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2015年]])
* 1932年 - [[ジョン・アップダイク]]、小説家(+ [[2009年]])
* 1932年 - [[真継伸彦]]、[[作家]](+ [[2016年]])
* [[1933年]] - [[細江英公]]、[[写真家]]
* [[1934年]] - [[佐藤允]]、俳優(+ [[2012年]])
* [[1936年]] - [[フレデリック・ウィレム・デクラーク]]、政治家、7代[[南アフリカ共和国の大統領|南アフリカ共和国大統領]](+ [[2021年]])
* [[1937年]] - [[井沢八郎]]、歌手(+ [[2007年]])
* 1937年 - [[杉本大一郎]]、[[天文学者]]
* 1937年 - [[富士錦猛光]]、元[[大相撲]][[力士]]、年寄6代[[高砂 (相撲)|高砂]](+ [[2003年]])
* 1937年 - [[ワダ・エミ]]、衣装[[デザイナー]](+[[2021年]])
* [[1938年]] - [[曽我町子]]、[[俳優|女優]]、声優(+ [[2006年]])
* 1938年 - [[代々木忠]]、[[AV監督]]
* [[1939年]] - [[梅野慶志]]、元プロ野球選手
* [[1941年]] - [[ウィルソン・ピケット]]、歌手(+ [[2006年]])
* [[1943年]] - [[今井信子]]、[[ヴィオリスト]]
* 1943年 - [[ウェルナー・ヒンク]]、[[ヴァイオリニスト]]
* [[1944年]] - [[横山やすし]]、[[漫才師]](元[[横山やすし・西川きよし|やすし・きよし]])(+ [[1996年]])
* [[1946年]] - [[岩木康郎]]、元プロ野球選手
* [[1948年]] - [[小川敏夫]]、政治家
* [[1949年]] - [[今宮純]]、モーター[[ジャーナリスト]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/car/news/2020/01/10/kiji/20200110s00045000146000c.html |title=F1解説者・今宮純氏が死去、70歳 セナ事故死の際も解説 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=10 Jan 2020 |website=Shonichi Annex}}</ref>)
* [[1950年]] - [[奥田瑛二]]、俳優
* 1950年 - [[千坂恭二]]、評論家、[[思想史家]]
* [[1951年]] - [[戸田ツトム]]、[[装幀|装丁家]]
* 1951年 - [[ビル・フリゼール]]、ジャズギタリスト
* 1951年 - [[深見東州]]、宗教法人[[ワールドメイト]]代表
* [[1953年]] - [[吉松隆]]、作曲家
* [[1954年]] - [[松浦寿輝]]、[[フランス文学者]]、詩人、小説家、映画批評家
* 1954年 - [[大谷亮介]]、俳優
* 1954年 - [[因幡晃]]、シンガーソングライター
* [[1955年]] - [[島崎俊郎]]、タレント(元[[ヒップアップ]])(+ [[2023年]])
* 1955年 - [[田中幹保]]、元[[バレーボール]]選手、監督
* 1955年 - [[ドウェイン・マーフィー]]、元プロ野球選手
* [[1956年]] - [[インゲマル・ステンマルク]]、[[アルペンスキー]]選手
* [[1957年]] - [[絵門ゆう子]]、[[アナウンサー]]、女優、[[エッセイスト]](+ 2006年)
* [[1958年]] - [[加藤正次]]、元プロ野球選手
* [[1959年]] - [[リュック・ベッソン]]、映画監督
* 1959年 - [[アイリーン・キャラ]]、歌手、女優(+ [[2022年]])
* [[1960年]] - [[マット・ウインタース]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[村田雄浩]]、俳優
* [[1961年]] - [[グラント・ハート]]、[[音楽家|ミュージシャン]](+ [[2017年]])
* 1961年 - [[高本昇一]]、元プロ野球選手
* [[1962年]] - [[豊川悦司]]、俳優
* [[1963年]] - [[ヴァネッサ・ウィリアムス]]、歌手
* 1963年 - [[月村了衛]]、小説家、脚本家
* 1963年 - [[菅野よう子]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/0000078724/ |title=菅野よう子 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=WEBザテレビジョン}}</ref>、作曲家
* [[1964年]] - [[Dr.Tommy]]、歌手、ミュージシャン、DJ、音楽プロデューサー
* 1964年 - [[かないみか]]、声優
* 1964年 - [[ボニー・ブレア]]、[[スピードスケート]]選手
* [[1965年]] - [[洞口依子]]、女優
* [[1966年]] - [[ジェリー・カントレル]]、[[ギタリスト]]([[アリス・イン・チェインズ]])
* [[1967年]] - [[高木智視]]、小説
* 1967年 - [[楠大典]]、声優
* 1967年 - [[米森麻美]]、元[[アナウンサー]](+ [[2001年]])
* 1967年 - 堀江毅、ミュージシャン ([[Minimum Rockets]])
* 1967年 - 石森敏行、ミュージシャン([[エレファントカシマシ]])
* [[1968年]] - [[三木眞一郎]]、声優
* 1968年 - [[松本友里]]、女優、歌手(+ [[2010年]])
* 1968年 - [[胡軍]]、俳優
* [[1969年]] - [[小池秀郎]]、元プロ野球選手
* 1969年 - [[芳本美代子]]、女優、歌手、[[タレント]]
* 1969年 - [[マイケル・バーギン]]、俳優、ファッションモデル
* [[1970年]] - [[クィーン・ラティファ]]、[[ラッパー]]、歌手、女優
* [[1972年]] - [[黒柳能生]]、ミュージシャン、[[ベーシスト]]([[SOPHIA (バンド)|SOPHIA]])
* 1972年 - [[高橋里華]]、元タレント
* [[1973年]] - [[ラウル・チャベス]]、元プロ野球選手
* [[1974年]] - [[真由子]]、女優
* [[1975年]] - [[野村たかし]]、[[俳優]]
* [[1976年]] - [[大家友和]]、元プロ野球選手
* 1976年 - [[本多RuRu]]、歌手(元[[T&Cボンバー]])
* 1976年 - [[スコット・ポドセドニック]]、プロ野球選手
* [[1977年]] - [[黒田俊介]]、ミュージシャン([[コブクロ]])
* 1977年 - [[ZUN (ゲームクリエイター)|ZUN]]、ゲームクリエイター
* 1977年 - [[ターメル・スレッジ]]、元プロ野球選手
* 1977年 - [[ウィリー・サニョル]]、[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]
* 1977年 - [[フェルナンド・ロドニー]]、プロ野球選手
* [[1978年]] - [[竹下佳江]]、元バレーボール選手
* 1978年 - [[かねきよ勝則]]、お笑い芸人([[新宿カウボーイ]])
* 1978年 - [[山中崇]]、俳優
* 1978年 - [[霜鳥典雄]]、元大相撲力士
* [[1979年]] - [[アダム・レヴィーン]]、ミュージシャン([[マルーン5]])
* [[1980年]] - [[アレクセイ・ヤグディン]]、フィギュアスケーター
* 1980年 - [[ソフィア・マイルズ]]、女優
* 1980年 - [[松尾知枝]]、タレント
* [[1981年]] - [[鳥居みゆき]]、お笑いタレント
* 1981年 - [[ファビアン・カンチェラーラ]]、元自転車プロ[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]選手
* 1981年 - [[横田はるな]]、ミュージシャン
* [[1982年]] - [[吉井怜]]、女優
* 1982年 - [[坂田めぐみ]]、タレント
* 1982年 - [[ペドロ・マントラス]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[ティモ・グロック]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]]
* [[1983年]] - [[小高早紀]]、元女優
* [[1984年]] - Atsuko Watanabe、ミュージシャン([[START OF THE DAY]])
* 1984年 - [[石毛輝]]、ミュージシャン([[the telephones]])
* [[1985年]] - [[三輪秀香]]、[[日本放送協会|NHK]]アナウンサー
* [[1987年]] - Misaty、[[トランペット]]プレイヤー(元[[ピストルバルブ]])
* 1987年 - [[レベッカ・ソニ]]、競泳選手
* 1987年 - Katsuma、ミュージシャン、[[ドラマー]]([[coldrain]])
* [[1988年]] - [[入船加澄実]]、元[[グラビアアイドル]]
* 1988年 - [[石坂結]]、[[アイドル]]
* 1988年 - [[滝澤彩]]、元[[野球選手]]
* [[1989年]] - [[西野カナ]]、[[歌手]]
* 1989年 - [[大塚びる]]、グラビアアイドル、タレント
* 1989年 - [[リリー・コリンズ]]、女優
* 1989年 - [[楢﨑誠]]、ミュージシャン([[Official髭男dism]])
* [[1990年]] - [[タイラン・ウォーカー (アメリカンフットボール)|タイラン・ウォーカー]]、アメリカンフットボール選手
* 1990年 - [[ミハイ・ラドゥツ]]、サッカー選手
* [[1991年]] - [[レウリー・ガルシア]]、プロ野球選手
* [[1992年]] - [[髙立直哉]]、元大相撲力士
* [[1993年]] - [[岩渕真奈]]、サッカー選手
* 1995年 - [[上西恵]]、アイドル(元[[NMB48]])
* [[1997年]] - [[シアラ・ブラヴォ]]、女優
* 1997年 - [[吉木千沙都]]、ファッションモデル
* 1997年 - [[渡辺一平]]、競泳選手
* 1997年 - [[片西景]]、陸上選手
* [[1999年]] - [[華村あすか]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.box-corporation.com/asuka_hanamura |title=華村あすか |publisher=BOX CORPORATION |accessdate=21 Feb 2023}}</ref>、女優、グラビアアイドル
* [[2000年]] - [[小沼綺音]]、タレント
* 2000年 - イ・シン、アイドル ([[GHOST9]])
* 2000年 - [[日隈モンテル]]、プロ野球選手
* [[2002年]] - [[松田聖菜]]、ファッションモデル
* [[2003年]] - [[久保田真知子]]、スキージャンプ選手
* [[2004年]] - [[日向亘]]、俳優
* [[2005年]] - [[権隨玲]]、ファッションモデル
* 生年非公表 - [[阪井あかね]]、声優
* 生年非公表 - [[Annabel]]、歌手
* 生年不明 - [[古宮吾一]]、声優
* 生年不明 - [[大田詩織]]、声優
* 生年不明 - MiKiNA EMPiRE、アイドル([[EMPiRE]])
== 忌日 ==
[[Image:Death_of_edward_martyr.jpg|thumb|219x219px|[[エドワード殉教王]](962頃-978)、刺殺される]]
[[Image:Laurence_Sterne_by_Sir_Joshua_Reynolds.jpg|thumb|225x225px|『[[トリストラム・シャンディ]]』(1759)の作者、[[ローレンス・スターン]](1713-1768)没。]]
[[Image:De_Morgan_Augustus.jpg|thumb|222x222px|数学者[[オーガスタス・ド・モルガン]](1806-1871)没。[[ド・モルガンの法則]]に名を残す。]]
[[Image:King_George_of_Hellenes.jpg|thumb|244x244px|ギリシャ王[[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]](1845-1913)、暗殺される]]
* [[978年]] - [[エドワード殉教王]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[962年]]頃)
* [[1065年]]([[治暦]]元年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[藤原能信]]、[[平安時代]]の[[公卿]](* [[995年]])
* [[1108年]]([[嘉承]]3年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]) - [[安倍宗任]]、[[陸奥国]]の豪族(* [[1032年]])
* [[1511年]]([[永正]]8年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]) - [[吉田兼倶]]、[[神道|神道家]](* [[1435年]])
* [[1662年]]([[寛文]]2年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[古筆了佐]]、古筆[[鑑定家]](* [[1572年]])
* [[1745年]] - [[ロバート・ウォルポール]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1676年]])
* [[1768年]] - [[ローレンス・スターン]]、[[小説家]](* [[1713年]])
* [[1781年]] - [[ジャック・テュルゴー]]、[[政治家]]、[[経済学者]](* [[1727年]])
* [[1871年]] - [[オーガスタス・ド・モルガン]]、[[数学者]](* [[1806年]])
* [[1877年]] - [[佐川官兵衛]]、元[[会津藩]][[家老]](* [[1831年]])
* [[1898年]] - [[近衛忠煕]]、[[幕末]]期の公卿(* [[1808年]])
* [[1899年]] - [[オスニエル・チャールズ・マーシュ]]<ref>{{Cite web |title=Othniel Charles Marsh {{!}} American paleontologist |url=https://www.britannica.com/biography/Othniel-Charles-Marsh |website=Britannica |access-date=2023-02-21 |language=en}}</ref>、[[古生物学|古生物学者]](* [[1831年]])
* [[1907年]] - [[マルセラン・ベルテロ]]、[[化学者]](* [[1827年]])
* [[1913年]] - [[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]王(* [[1845年]])
* [[1915年]] - [[香川敬三]]、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]、[[官僚]](* [[1841年]])
* [[1916年]] - [[市川右團次 (初代)]]、[[歌舞伎]][[役者]](* [[1843年]])
* [[1933年]] - [[ルイージ・アメデーオ・ディ・サヴォイア]]、[[登山家]]、[[探検家]](* [[1873年]])
* 1933年 - [[吉野作造]]、[[政治学者]](* [[1878年]])
* [[1936年]] - [[エレフテリオス・ヴェニゼロス]]、元ギリシャ首相(* [[1864年]])
* [[1944年]] - [[ウィリアム・ヘイル・トンプソン]]、元[[シカゴ]]市長(* [[1869年]])
* 1944年 - [[押川清]]、[[野球選手]](* [[1881年]])
* [[1947年]] - [[ウィリアム・C・デュラント]]、[[実業家]]、[[ゼネラルモーターズ]](GM)創業者(* [[1861年]])
* [[1948年]] - [[中村梅玉 (3代目)]]、歌舞伎役者(* [[1875年]])
* [[1954年]] - [[前田米蔵]]、[[政治家]](* [[1882年]])
* [[1956年]] - [[織田一磨]]、[[版画家]](* [[1882年]])
* [[1957年]] - [[田邊宗英]]、実業家(* [[1881年]])
* [[1964年]] - [[ジークフリード・エドストレーム]]、第4代[[国際オリンピック委員会]]会長(* [[1870年]])
* 1964年 - [[ノーバート・ウィーナー]]、数学者(* [[1894年]])
* [[1965年]] - [[ファールーク1世 (エジプト王)|ファールーク1世]]、元[[エジプト王国|エジプト]]王(* [[1920年]])
* [[1977年]] - [[ホセ・カルロス・パーチェ]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー(* [[1944年]])
* [[1978年]] - [[リイ・ブラケット]]、[[SF作家]](* [[1915年]])
* [[1980年]] - [[タマラ・ド・レンピッカ]]、[[画家]](* [[1898年]])
* 1980年 - [[エーリヒ・フロム]]、[[精神分析学|精神分析学者]]、社会学者(* [[1900年]])
* [[1981年]] - [[佐伯孝夫]]、[[作詞家]](* [[1902年]])
* [[1982年]] - [[ワシーリー・チュイコフ]]、[[ソ連邦元帥]](* [[1900年]])
* 1982年 - [[北畠八穂]]、[[小説家]]、[[児童文学|児童文学者]]、[[詩人]](* [[1903年]])
* [[1983年]] - [[近藤真柄]]、社会主義者、婦人運動家、[[フェミニスト]](* [[1903年]])
* 1983年 - [[ウンベルト2世]]、[[イタリア王国]]国王(* [[1904年]])
* 1983年 - [[渋谷天外 (2代目)]]、[[コメディアン]]、[[劇作家]](* [[1906年]])
* [[1989年]] - [[ハロルド・ジェフリーズ]]、数学者、[[統計学|統計学者]]、[[地球物理学|地球物理学者]]、[[天文学者]](* [[1891年]])
* 1989年 - [[内田義彦]]、経済学者(* [[1913年]])
* [[1991年]] - [[鴨居羊子]]、[[デザイナー]](* [[1925年]])
* [[1993年]] - [[ケネス・E・ボールディング]]、経済学者(* [[1910年]])
* 1993年 - [[加藤正之]]、[[声優]](* [[1932年]])
* [[1996年]] - [[オデッセアス・エリティス]]、[[詩人]](* [[1911年]])
* [[1998年]] - [[島秀雄]]、 鉄道技術者、元[[日本国有鉄道|国鉄]]技師長、初代[[宇宙開発事業団]]理事長(* [[1901年]])
* 1998年 - [[ステファニー・ポンド・スミス]]、元子役(* [[1951年]])
* [[2000年]] - [[永井道雄]]、[[教育社会学|教育社会学者]](* [[1923年]])
* [[2002年]] - [[R・A・ラファティ]]、SF作家(* [[1914年]])
* [[2003年]] - [[アダム・オズボーン]]、コンピュータデザイナー(* [[1939年]])
* [[2007年]] - [[林政治]]、[[彫刻家]](* 生年不詳)
* [[2008年]] - [[アンソニー・ミンゲラ]]、[[映画監督]](* [[1954年]])
* [[2011年]] - [[森下あみい]]、元[[AV女優]](* [[1972年]])
* [[2012年]] - [[ジョージ・トゥポウ5世]]<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/world/2012/mar/26/king-george-tupou-v-of-tonga |title=King George Tupou V of Tonga obituary |access-date=21 Feb 2023 |publisher=The Guardian |date=26 Mar 2012 |language=En}}</ref>、[[トンガ]]国王(* [[1948年]])
* [[2017年]] - [[チャック・ベリー]]<ref>{{Cite web |url=https://www.theguardian.com/music/2017/mar/19/chuck-berry-obituary-a-perfect-fit-of-street-talk-to-music |title=Chuck Berry obituary: 'A lively, perfect fit of street-talk to music' |access-date=21 Feb 2023 |publisher=The Guardian |date=Mar 19 2017 |language=En}}</ref>、[[ミュージシャン]](* [[1926年]])
* [[2019年]] - [[織本順吉]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM3T440XM3TUCLV00D.html |title=俳優・織本順吉さん死去 滋味あふれる脇役で存在感 |access-date=21 Feb 2023 |publisher=[[朝日新聞]] |date=25 Mar 2019}}</ref>、[[俳優]](* [[1927年]])
== 記念日・年中行事 ==
* [[彼岸]]の入り({{JPN}} 2010年・2011年・2014年・2015年・2018年)
*: [[春分]]を中心とする7日間が春の彼岸である。
* [[視覚障害者誘導用ブロック|点字ブロック]]の日({{JPN}})
*: [[1967年]]3月18日、[[岡山県立岡山盲学校]]に近い[[国道250号]]に世界で初めて敷設されたことに因む。
* 明治村開村記念日({{JPN}})
*: [[1965年]](昭和40年)のこの日、愛知県犬山市に博物館明治村が開村した。博物館明治村は明治の建築物を保存展示する野外博物館である。
* 人類初の宇宙遊泳({{RUS}})
*: 1965年(昭和40年)のこの日、旧ソ連の宇宙船の飛行士が約10分間の宇宙遊泳をした。
* 精霊の日({{JPN}})
*: [[柿本人麻呂]]、[[和泉式部]]、[[小野小町]]の3人の命日がこの日であると伝えられていることから<ref>{{Cite web|和書|url=https://tenki.jp/suppl/miyasaka/2019/03/17/28933.html |title=3月18日は何故「精霊の日」?―和歌と彼岸と言霊の関係を探ります |access-date=21 Feb 2023 |publisher=日本気象協会 |website=tenki.jp |date=17 Mar 2019}}</ref>。
* 本尊示現会({{JPN}})
*: [[東京都]][[台東区]][[浅草]]の[[浅草寺]]で、ご本尊の[[観音菩薩|観世音菩薩]]が推古天皇36年(628年)3月18日に示現されたことを祝い、毎年この日に法要が営まれる。貫首をはじめとする一山の住職が総出で、伝法院から仲見世を通り、本堂まで練行列を行なうほか、境内西側で「金龍の舞」が奉演される。また、当日に限り「紅札」と呼ばれる赤い祈祷札が授与される<ref>{{Cite web |url=https://www.senso-ji.jp/annual_event/08.html |title=本尊示現会(ほんぞんじげんえ)3月18日 |access-date=7 Oct 2023 |publisher=あさくさかんのん 浅草寺}}</ref>。
== フィクションのできごと ==
{{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0318|date=Feb 2023}}
*室町時代末 - [[忍術学園]]にて学園長の思いつきにより 武道大会が行われる。(漫画『[[落第忍者乱太郎]]』2巻)
*[[1892年]] - [[ユーストン駅]]発[[マンチェスター]]行の列車の[[ラグビー (イングランド)|ラグビー]]駅到着時に、6つの時計を持つ男の[[射殺]]体が発見される。(小説『[[時計だらけの男]]』)
*[[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - [[ジオン公国|ジオン軍]]が[[北京市|北京]]・[[オセアニア]]に降下し、これらを制圧。(第三次降下作戦)(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』)
=== 誕生日(フィクション) ===
* [[1910年]] - 大道寺欣造、小説『[[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]]』の登場人物<ref>『女王蜂』第2章の紳士録</ref>
* [[1975年]] - 五代雄介、特撮テレビドラマ『[[仮面ライダークウガ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.kamen-rider-official.com/zukan/characters/1328 |title=五代雄介(ごだいゆうすけ) |access-date=7 Oct 2023 |publisher=[[石森プロ]]・[[テレビ朝日]]・ADK EM・[[東映]]・[[東映ビデオ]] |work=『仮面ライダークウガ』 |website=仮面ライダー図鑑}}</ref>
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== 関連項目 ==
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3,996 | 標準軌 | 標準軌(ひょうじゅんき、スタンダードゲージ、英語: standard gauge)は、鉄道線路の軌間、すなわちレール頭頂部の内側の間隔が1435ミリメートル(4フィート8 1⁄2インチ)であるものを指す。ただし軌間の多少の差異は実用上あまり問題にならないため、レールウェイ・ガゼット・インターナショナルの統計では軌間1432 mmから1445 mmを標準軌としている。
ヨーロッパ、北アメリカ、東アジアを中心に、世界で最も普及している軌間であり、20世紀末の時点では全世界の鉄道の約6割が標準軌である。標準軌より広い軌間を広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。
標準軌の起源は、北東イングランドのキリングワース(英語版)炭鉱で用いられていた馬車軌道の軌間である。1814年にジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造した。スティーブンソンはその後他の炭鉱向けにも機関車を製造し、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立したが、ここで製造された機関車も同じ軌間で設計されていた。スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えていた。1825年にストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で公共用の鉄道として初めて蒸気機関車が使われ、1830年には世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道であるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。これらの鉄道でもスティーブンソンの機関車が用いられた。
キリングワース炭鉱の軌道の間隔は、当時の北東イングランドで一般的だった馬車の車輪の間隔と一致している。馬車の車輪間隔は、他の車両のつけた轍に沿って走れるように地域ごとに統一される傾向がある。馬車軌道の車両は通常の馬車をそのまま流用したため、軌間もこれによって決まった。なおキリングワースの車輪間隔の起源をさらに古代ローマの馬車にまで遡ることができるとする説もあったが後に否定されている。
標準軌が4フィート8 1⁄2インチという半端な値である理由は、以下の説が有力である。もともとは4フィート8インチだったものが、蒸気機関車の使用により速度が増したことで、曲線をスムーズに曲がれるよう踏面勾配をつけた車輪が発明された。このためには車輪がある程度左右に動けるようにしなければならないため、軌間を半インチ広げたというものである。この拡大が行われた時期については諸説あり、キリングワース炭鉱の時点ですでに4フィート8 1⁄2インチだったとするものから、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で半インチ加えられたとするもの、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道のレインヒル・トライアル前の線路改良で拡大が行われたとするものまである。もっとも、軌間の半インチ(メートル法に直せば12.7mm)程度の差は実用上はあまり問題にならず、特に当時の炭鉱鉄道の工事や保線の精度からは誤差の範囲内であったともいえる。
その他の説明として、小池滋は以下のような説を紹介している。この時代の炭鉱鉄道ではフランジのない一般道路用の馬車を走らせても脱線しないよう、外側に防護壁をつけたL字形レールを使っていたが、このレール外側の間隔をちょうど5フィートとしていた。フランジ付きの車輪を用いる鉄道車両では、レールの内側の間隔が重要となるが、それは外側の間隔から2本のレールの幅を除いたものであり、これが4フィート8 1⁄2インチという値になったという。
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の成功の後、鉄道はイングランド各地で急速に普及した。こうした鉄道プロジェクトの多くにはジョージ・スティーブンソンや息子のロバート・スティーブンソンが関わっており、4フィート8 1⁄2インチの軌間が採用された。
一方で、グレート・ウェスタン鉄道では、広軌のほうが優れているというイザムバード・キングダム・ブルネル技師長の主張により7フィート 1⁄4インチ(2140mm)という軌間を採用した。4フィート8 1⁄2インチ軌間の鉄道網と7フィート 1⁄4インチ軌間の鉄道網は1844年にグロスターで初めて接し、これにより異軌間で直通運転ができないことの不利益が顕在化した。4フィート8 1⁄2インチと7フィート1⁄4インチのどちらの軌間がふさわしいかは、技術者のみならず社交界や議会を巻き込んだ大きな論戦となった。なおイースト・アングリア地方のイースタン・カウンティズ鉄道(英語版)も、技師長ジョン・ブレイスウェイトの見解により5フィート(1524mm)軌間を採用していたが、他社との直通のため1844年には全線を4フィート8 1⁄2インチに改軌した。
1845年に王立委員会は、国防上の観点からも軌間の統一を法制化すべきと勧告した。また広軌のほうが蒸気機関車の性能がよいことは認めつつも、その差はわずかであり、4フィート8 1⁄2インチ軌間が7フィート1⁄4インチ軌間より多数派であることを理由として、より好ましいとした。引き続き1846年に軌間法で、グレートブリテン島の新規路線は4フィート8 1⁄2インチの軌間で建設されるべしと定めた。ただしコーンウォール、デヴォン、ドーセット、サマセットの各州のみは例外とされた。グレート・ウェスタン鉄道の広軌路線は少しずつ標準軌に改軌され、ロンドンからエクセターまでの幹線は三線軌条化された。最終的には1892年に全線改軌が完了し、グレートブリテン島の軌間は標準軌で統一された。
19世紀にはイギリス領の一部だったアイルランドでは、鉄道建設の初期の段階から4フィート8 1⁄2インチの他にも様々な広軌が用いられていたが、1846年の軌間法で5フィート3インチ(1600mm)が標準とされた。
イギリスに少し遅れて鉄道を開業させた大陸ヨーロッパ諸国では、初期の鉄道に関してスティーブンソン親子らイギリス人技術者の指導を仰いだ例が多い。また蒸気機関車も、スティーブンソン社をはじめとするイギリス製のものを輸入するか、ライセンスを受けて製造した。こうした鉄道は1435mm軌間となった。
ただし、一部の国や地域では、独自の観点から広軌を導入したところもある。オランダのホラント鉄道(オランダ語版)とオランダ・ライン鉄道(オランダ語版)やバーデン大公国の邦有鉄道、スイスのチューリッヒ-バーデン間の鉄道は、最初広軌で建設された。しかし周辺の鉄道がみな1435mm軌間を採用したことから、直通運転の必要のため同じ軌間に改軌した。
なおフランスにおいては、公式にはレールの中心の間隔を1500mmとする規格が採用されていた。このためレール内側の間隔(軌間)はレールの幅によって変わってしまうことになった。鉄道会社に出された建設許可では、レール内側の間隔は1440mmから1450mmとなっている。そのためフランスの軌間は厳密にはドイツやベルギーなどとは少し異なったが、この程度の差であれば実用上は直通運転に支障はなかった。その後20世紀初頭になって正式に1435mm軌間に改められた。
1886年にベルンで開催された鉄道規格統一会議において、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、スイスの各国は、今後建設される鉄道路線の軌間は1435mm以上1440mm以下(直線区間)とすることで合意した。
一方で、スペインではブルネルの、ロシア帝国ではアメリカ人技術者ジョージ・ワシントン・ホイッスラー(英語版)の提言を元に、それぞれ1435mmよりも広い広軌を採用した。両国があえて広軌を選んだ背景には、ナポレオン戦争の教訓を元に、他国に侵略された際に鉄道を利用されないようにするため故意に直通不可能な軌間にしたとする説もある。ポルトガルも隣国スペインと同様に広軌を採用した。ただし、ロシア帝国主権下のポーランド立憲王国でポーランド人により建設されたワルシャワ・ウィーン鉄道(ポーランド語版)は1435mm軌間であった。その後もロシア・旧ソビエト連邦とイベリア半島の鉄道は標準軌に改軌されることはなく現代に至っている。ただしスペインの高速鉄道は、将来のフランスなど他国の高速鉄道との接続を考慮して、標準軌で建設された。そのため、1067mmが主流のなかで1435mm軌道を採用した日本の新幹線とは逆に、スペインでは高速鉄道のほうが一般鉄道よりも狭い軌道を走っていることになる。
アメリカ合衆国の初期の鉄道では、イギリス製機関車を用いた北東部を中心に、4フィート8 1⁄2インチ軌間が普及した。ただしイギリスの影響力はヨーロッパほど強くなく、ペンシルベニア州やオハイオ州では4フィート10インチ(1473mm)、南部諸州では5フィート(1524mm)の軌間が主流となった。ニューヨーク州と内陸を結ぶエリー鉄道などは6フィート(1829mm)という広い軌間を採用した。1860年の時点で、4フィート8 1⁄2インチ軌間の鉄道は全体の54%にすぎなかった。
これが統一されるきっかけとなったのが、南北戦争と大陸横断鉄道の建設である。南北戦争では、軌間の異なる鉄道の間で乗り換えや貨物の積み替えが必要となることが、軍需輸送上の大きな問題点となった。大陸横断鉄道については、1862年に太平洋鉄道法(英語版)が制定された際には、エイブラハム・リンカーン大統領はその軌間について5フィートを想定していたようである。しかし1863年の法律では、大陸横断鉄道の軌間は4フィート8 1⁄2インチとすることが定められた。その他の鉄道も順次4フィート8 1⁄2インチの標準軌に改軌され、1886年にはアメリカ合衆国の主要鉄道は標準軌に統一された。
カナダでは当初、イギリス植民地に多く見られる5フィート6インチ(1676mm)軌間が使われていた。しかしアメリカ合衆国との直通の必要から、1870年代に標準軌に改軌された。
中国(清)で最初の本格的な鉄道は1881年に開業した唐胥線(中国語版)である。これは炭鉱の石炭輸送用の短距離路線にすぎなかったが、イギリス人技術者クロード・ウィリアム・キンダー(英語版)の主張により1435mm軌間で建設された。これは将来北京と奉天(現瀋陽)を結ぶ京奉線の一部となることを見越したものであった。以後中国の鉄道網は、中国人によるものも外国資本によるものも含め、ほぼ標準軌で建設されてゆくことになる。
ただし、ロシアの東清鉄道のみは、シベリア鉄道と同じ広軌であった。日露戦争で東清鉄道の南半分が日本の南満洲鉄道となると、この部分は標準軌に改軌され、長春駅が境界駅となった。満洲事変ののち、東清鉄道の後身である中東鉄道が満洲国の国有鉄道となると、1937年までに全線が標準軌に改軌された。
中華人民共和国の成立後、中国の鉄道網は拡大を続けており、20世紀末の時点で標準軌鉄道の路線長はアメリカ合衆国に次ぎ世界第2位となっている。
朝鮮半島での鉄道建設は、日韓併合以前から日本の主導で行われていたが、その軌間は日本本国とは異なり標準軌であった。1896年に朝鮮政府の定めた国内鉄道規則では、軌間は4フィート8インチ半とすることにされていた。その後1911年に鴨緑江橋梁が開通し、中国側の安奉線も狭軌から標準軌に改軌されたことで、中国の標準軌鉄道網との直通が可能になった。
日本では、1872年(明治4 - 5年)の鉄道開業時に3フィート6インチ(1,067 mm)の狭軌を選択した。これを国際標準軌(当時の日本では「広軌」と呼んだ)へ改軌する提案が何度か行われた。最初は1887年(明治20年)の陸軍の建議があり、1909年(明治42年)以降は後藤新平、仙石貢らが改軌を主張した。軌間を巡る政策は内閣の交替のたびに二転三転したが、原敬内閣成立後の1919年(大正8年)に国鉄の改軌計画は放棄された。一方で、1899年(明治32年)の大師電気鉄道(現・京急大師線)を皮切りとして、1900年代以降に建設された私鉄や公営の路面電車といった電気鉄道路線では国際標準軌を採用した例が多くあり、とくに関西私鉄では(日本では伝統的に広軌とされてきた)1,435mmがむしろ主流となっていった。
1938年(昭和13年)に始まった弾丸列車計画では、広軌(1,435 mm)の新線を建設する予定であったが、一部のトンネルなどが着工されたのみで中止された。1950年代には、東海道本線の輸送力逼迫に対する対策として複々線化、狭軌別線、広軌(1,435 mm)別線の3案が比較された結果、広軌別線案が採用され、1964年(昭和39年)に東海道新幹線として開業した。その後の各新幹線も1,435 mm軌間で建設され、1,067 mm軌間の在来線との直通は不可能であった。このためJR東日本は1992年(平成4年)に奥羽本線の一部、1997年(平成9年)に田沢湖線および奥羽本線の一部を改軌し、車両限界を在来線に合わせた「ミニ新幹線」としてフル規格の東北新幹線と直通運転を行なっている。
台湾で最初の鉄道は1891年の基隆 - 台北間の鉄道であり、軌間は3フィート6インチ(1067mm)だった。その後の日本統治時代、中華民国時代とも、鉄道は1067mmまたはそれ未満の狭軌が用いられ続けた。しかし2007年開業の台湾高速鉄道は標準軌が採用され、日本やスペインと同様、高速鉄道と在来線で軌間が異なることになった。
イギリスの植民地だったオーストラリアでは、1901年の連邦成立まで後の各州がそれぞれ自治政府を有しており、鉄道政策もばらばらに行われていた。ニューサウスウェールズ植民地ではアイルランド出身の技術者により5フィート3インチ(1600mm)軌間が採用され、ビクトリア、南オーストラリア植民地もこれにならった。しかしニューサウスウェールズでは技術者がスコットランド出身者に交代し、その後はイギリス本国やヨーロッパ諸国で標準的な4フィート8 1⁄2インチ軌間に変更されたため、隣の植民地州と軌間が異なってしまった。さらに、それらより遅れて鉄道を開業させたクイーンズランドや西オーストラリア、それに南オーストラリアの一部などでは、他のイギリス植民地でも多く利用され建設費も安い3フィート6インチ(1067mm)軌間を使ったため、オーストラリア大陸には3種類の軌間が混在することになった。
1901年の連邦成立後、連邦政府は軌間を標準軌へ統一しようとしたが、その動きは遅かった。1917年にポートオーガスタとカルグーリーの間で開通した大陸横断鉄道は、両端で接続する鉄道が狭軌だったにもかかわらず、標準軌で建設された。第二次世界大戦が終わってしばらく経った1950年代以降になってようやく、主要路線の改軌(三線軌条化なども含む)が本格化した。シドニー - パース間が標準軌で直通可能になったのは1969年であり、1995年には5大都市(州都)がすべて標準軌鉄道で結ばれた。
東アジアと西アジア・ヨーロッパの標準軌鉄道は直接には結ばれておらず、旧ソ連の1520mm軌間の鉄道を介する必要がある。しかしカザフスタンとトルクメニスタンで新たに標準軌鉄道を建設することにより、中国とイランの標準軌鉄道を接続する計画がある。またこれとは別に、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン経由でも、中国とイランを標準軌で結ぶことも計画されている。
標準軌を主な軌間として採用している国・地域は以下の通り。なお同国内でも一部の地方や軽便鉄道、都市部の地下鉄、路面電車などではこれと異なる軌間も用いられていることがある。
路面電車や地下鉄などの都市鉄道でのみ標準軌が採用されている例。
標準軌鉄道の存在する国・地域とその路線長、同国内での割合は以下の通り。ただし路線長や割合に関しては、どの路線を計上するかや距離の算出基準により異なるため、ここでは岡雅行・山田俊明による20世紀末時点でのもの(Railway Gazette Railway Directory 2001を元に補正、1432mmから1445mmを標準軌とする)とザ・ワールド・ファクトブックウェブ版によるものを掲載した。
日本で標準軌を採用しているのは、新幹線、JR田沢湖線等在来線のミニ新幹線区間、近畿圏および東京を中心とする大手私鉄、地下鉄、路面電車等である。日本に現存する標準軌幅の営業用路線はすべて電化路線であり、日本が領有していた外地を除くと、過去を含めても営業用の路線として非電化だったのは琴平電鉄塩江線が唯一の例である。
なお、昭和中期ごろまではこの1,435mm軌間を「広軌」と呼ぶのが一般的であり、公文書上でも1,435mm軌間を広軌と表現していたこともあった。理由は在来線に多く使用されている狭軌(1,067mm軌間)が標準的であり、それより広いためである。そのため、伝統的に標準軌が主流の関西私鉄の一つである近畿日本鉄道(近鉄)ですら、同様の理由で1,435mm軌間の路線を「広軌」と公式には称している。しかし、近年では国際的な広軌幅の呼称との混同を防ぐため、日本において1,435mm軌間を意味するためには本項目の「標準軌」の用語が基本的に使用されることが増えている。
この他、上掲社局の廃止路線にも該当例がある。なお、北海道、北陸地方、甲信越地方には過去にも現在にも標準軌を一切導入していない(いずれも新幹線を除く)。
ローカルな用法として、1435mm以外の軌間が大部分を占める国や地域では、それらのうち最も主流な軌間を「標準軌」と呼ぶことがあった。たとえば日本では、かつて旧国鉄の在来線の軌間である1067mmが「標準軌」と呼ばれ、新幹線などの1435mm軌間を「広軌」と呼んだことがあった。「標準軌」が1067mm軌間を指すか1435mm軌間を指すか分かりにくいため、1435mm軌間のことを「国際標準軌」(international standard gauge)と呼んで区別することもあった。各地の新幹線網が発達し、ある程度は国際標準軌が社会においても定着したため、この用法は現在の日本では廃れつつあり、単に「標準軌」といえばほぼ間違いなく1435mm軌間のことを指す。 | [
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"text": "標準軌が4フィート8 1⁄2インチという半端な値である理由は、以下の説が有力である。もともとは4フィート8インチだったものが、蒸気機関車の使用により速度が増したことで、曲線をスムーズに曲がれるよう踏面勾配をつけた車輪が発明された。このためには車輪がある程度左右に動けるようにしなければならないため、軌間を半インチ広げたというものである。この拡大が行われた時期については諸説あり、キリングワース炭鉱の時点ですでに4フィート8 1⁄2インチだったとするものから、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で半インチ加えられたとするもの、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道のレインヒル・トライアル前の線路改良で拡大が行われたとするものまである。もっとも、軌間の半インチ(メートル法に直せば12.7mm)程度の差は実用上はあまり問題にならず、特に当時の炭鉱鉄道の工事や保線の精度からは誤差の範囲内であったともいえる。",
"title": "標準軌の起源"
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"text": "その他の説明として、小池滋は以下のような説を紹介している。この時代の炭鉱鉄道ではフランジのない一般道路用の馬車を走らせても脱線しないよう、外側に防護壁をつけたL字形レールを使っていたが、このレール外側の間隔をちょうど5フィートとしていた。フランジ付きの車輪を用いる鉄道車両では、レールの内側の間隔が重要となるが、それは外側の間隔から2本のレールの幅を除いたものであり、これが4フィート8 1⁄2インチという値になったという。",
"title": "標準軌の起源"
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"text": "リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の成功の後、鉄道はイングランド各地で急速に普及した。こうした鉄道プロジェクトの多くにはジョージ・スティーブンソンや息子のロバート・スティーブンソンが関わっており、4フィート8 1⁄2インチの軌間が採用された。",
"title": "各地での普及"
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"text": "一方で、グレート・ウェスタン鉄道では、広軌のほうが優れているというイザムバード・キングダム・ブルネル技師長の主張により7フィート 1⁄4インチ(2140mm)という軌間を採用した。4フィート8 1⁄2インチ軌間の鉄道網と7フィート 1⁄4インチ軌間の鉄道網は1844年にグロスターで初めて接し、これにより異軌間で直通運転ができないことの不利益が顕在化した。4フィート8 1⁄2インチと7フィート1⁄4インチのどちらの軌間がふさわしいかは、技術者のみならず社交界や議会を巻き込んだ大きな論戦となった。なおイースト・アングリア地方のイースタン・カウンティズ鉄道(英語版)も、技師長ジョン・ブレイスウェイトの見解により5フィート(1524mm)軌間を採用していたが、他社との直通のため1844年には全線を4フィート8 1⁄2インチに改軌した。",
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"text": "1845年に王立委員会は、国防上の観点からも軌間の統一を法制化すべきと勧告した。また広軌のほうが蒸気機関車の性能がよいことは認めつつも、その差はわずかであり、4フィート8 1⁄2インチ軌間が7フィート1⁄4インチ軌間より多数派であることを理由として、より好ましいとした。引き続き1846年に軌間法で、グレートブリテン島の新規路線は4フィート8 1⁄2インチの軌間で建設されるべしと定めた。ただしコーンウォール、デヴォン、ドーセット、サマセットの各州のみは例外とされた。グレート・ウェスタン鉄道の広軌路線は少しずつ標準軌に改軌され、ロンドンからエクセターまでの幹線は三線軌条化された。最終的には1892年に全線改軌が完了し、グレートブリテン島の軌間は標準軌で統一された。",
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"text": "19世紀にはイギリス領の一部だったアイルランドでは、鉄道建設の初期の段階から4フィート8 1⁄2インチの他にも様々な広軌が用いられていたが、1846年の軌間法で5フィート3インチ(1600mm)が標準とされた。",
"title": "各地での普及"
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"text": "イギリスに少し遅れて鉄道を開業させた大陸ヨーロッパ諸国では、初期の鉄道に関してスティーブンソン親子らイギリス人技術者の指導を仰いだ例が多い。また蒸気機関車も、スティーブンソン社をはじめとするイギリス製のものを輸入するか、ライセンスを受けて製造した。こうした鉄道は1435mm軌間となった。",
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"text": "ただし、一部の国や地域では、独自の観点から広軌を導入したところもある。オランダのホラント鉄道(オランダ語版)とオランダ・ライン鉄道(オランダ語版)やバーデン大公国の邦有鉄道、スイスのチューリッヒ-バーデン間の鉄道は、最初広軌で建設された。しかし周辺の鉄道がみな1435mm軌間を採用したことから、直通運転の必要のため同じ軌間に改軌した。",
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"text": "なおフランスにおいては、公式にはレールの中心の間隔を1500mmとする規格が採用されていた。このためレール内側の間隔(軌間)はレールの幅によって変わってしまうことになった。鉄道会社に出された建設許可では、レール内側の間隔は1440mmから1450mmとなっている。そのためフランスの軌間は厳密にはドイツやベルギーなどとは少し異なったが、この程度の差であれば実用上は直通運転に支障はなかった。その後20世紀初頭になって正式に1435mm軌間に改められた。",
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"text": "1886年にベルンで開催された鉄道規格統一会議において、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、スイスの各国は、今後建設される鉄道路線の軌間は1435mm以上1440mm以下(直線区間)とすることで合意した。",
"title": "各地での普及"
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"text": "一方で、スペインではブルネルの、ロシア帝国ではアメリカ人技術者ジョージ・ワシントン・ホイッスラー(英語版)の提言を元に、それぞれ1435mmよりも広い広軌を採用した。両国があえて広軌を選んだ背景には、ナポレオン戦争の教訓を元に、他国に侵略された際に鉄道を利用されないようにするため故意に直通不可能な軌間にしたとする説もある。ポルトガルも隣国スペインと同様に広軌を採用した。ただし、ロシア帝国主権下のポーランド立憲王国でポーランド人により建設されたワルシャワ・ウィーン鉄道(ポーランド語版)は1435mm軌間であった。その後もロシア・旧ソビエト連邦とイベリア半島の鉄道は標準軌に改軌されることはなく現代に至っている。ただしスペインの高速鉄道は、将来のフランスなど他国の高速鉄道との接続を考慮して、標準軌で建設された。そのため、1067mmが主流のなかで1435mm軌道を採用した日本の新幹線とは逆に、スペインでは高速鉄道のほうが一般鉄道よりも狭い軌道を走っていることになる。",
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"text": "アメリカ合衆国の初期の鉄道では、イギリス製機関車を用いた北東部を中心に、4フィート8 1⁄2インチ軌間が普及した。ただしイギリスの影響力はヨーロッパほど強くなく、ペンシルベニア州やオハイオ州では4フィート10インチ(1473mm)、南部諸州では5フィート(1524mm)の軌間が主流となった。ニューヨーク州と内陸を結ぶエリー鉄道などは6フィート(1829mm)という広い軌間を採用した。1860年の時点で、4フィート8 1⁄2インチ軌間の鉄道は全体の54%にすぎなかった。",
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"text": "これが統一されるきっかけとなったのが、南北戦争と大陸横断鉄道の建設である。南北戦争では、軌間の異なる鉄道の間で乗り換えや貨物の積み替えが必要となることが、軍需輸送上の大きな問題点となった。大陸横断鉄道については、1862年に太平洋鉄道法(英語版)が制定された際には、エイブラハム・リンカーン大統領はその軌間について5フィートを想定していたようである。しかし1863年の法律では、大陸横断鉄道の軌間は4フィート8 1⁄2インチとすることが定められた。その他の鉄道も順次4フィート8 1⁄2インチの標準軌に改軌され、1886年にはアメリカ合衆国の主要鉄道は標準軌に統一された。",
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"text": "カナダでは当初、イギリス植民地に多く見られる5フィート6インチ(1676mm)軌間が使われていた。しかしアメリカ合衆国との直通の必要から、1870年代に標準軌に改軌された。",
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"text": "中国(清)で最初の本格的な鉄道は1881年に開業した唐胥線(中国語版)である。これは炭鉱の石炭輸送用の短距離路線にすぎなかったが、イギリス人技術者クロード・ウィリアム・キンダー(英語版)の主張により1435mm軌間で建設された。これは将来北京と奉天(現瀋陽)を結ぶ京奉線の一部となることを見越したものであった。以後中国の鉄道網は、中国人によるものも外国資本によるものも含め、ほぼ標準軌で建設されてゆくことになる。",
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"text": "ただし、ロシアの東清鉄道のみは、シベリア鉄道と同じ広軌であった。日露戦争で東清鉄道の南半分が日本の南満洲鉄道となると、この部分は標準軌に改軌され、長春駅が境界駅となった。満洲事変ののち、東清鉄道の後身である中東鉄道が満洲国の国有鉄道となると、1937年までに全線が標準軌に改軌された。",
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"text": "中華人民共和国の成立後、中国の鉄道網は拡大を続けており、20世紀末の時点で標準軌鉄道の路線長はアメリカ合衆国に次ぎ世界第2位となっている。",
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"text": "朝鮮半島での鉄道建設は、日韓併合以前から日本の主導で行われていたが、その軌間は日本本国とは異なり標準軌であった。1896年に朝鮮政府の定めた国内鉄道規則では、軌間は4フィート8インチ半とすることにされていた。その後1911年に鴨緑江橋梁が開通し、中国側の安奉線も狭軌から標準軌に改軌されたことで、中国の標準軌鉄道網との直通が可能になった。",
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"text": "日本では、1872年(明治4 - 5年)の鉄道開業時に3フィート6インチ(1,067 mm)の狭軌を選択した。これを国際標準軌(当時の日本では「広軌」と呼んだ)へ改軌する提案が何度か行われた。最初は1887年(明治20年)の陸軍の建議があり、1909年(明治42年)以降は後藤新平、仙石貢らが改軌を主張した。軌間を巡る政策は内閣の交替のたびに二転三転したが、原敬内閣成立後の1919年(大正8年)に国鉄の改軌計画は放棄された。一方で、1899年(明治32年)の大師電気鉄道(現・京急大師線)を皮切りとして、1900年代以降に建設された私鉄や公営の路面電車といった電気鉄道路線では国際標準軌を採用した例が多くあり、とくに関西私鉄では(日本では伝統的に広軌とされてきた)1,435mmがむしろ主流となっていった。",
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"text": "1938年(昭和13年)に始まった弾丸列車計画では、広軌(1,435 mm)の新線を建設する予定であったが、一部のトンネルなどが着工されたのみで中止された。1950年代には、東海道本線の輸送力逼迫に対する対策として複々線化、狭軌別線、広軌(1,435 mm)別線の3案が比較された結果、広軌別線案が採用され、1964年(昭和39年)に東海道新幹線として開業した。その後の各新幹線も1,435 mm軌間で建設され、1,067 mm軌間の在来線との直通は不可能であった。このためJR東日本は1992年(平成4年)に奥羽本線の一部、1997年(平成9年)に田沢湖線および奥羽本線の一部を改軌し、車両限界を在来線に合わせた「ミニ新幹線」としてフル規格の東北新幹線と直通運転を行なっている。",
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"text": "台湾で最初の鉄道は1891年の基隆 - 台北間の鉄道であり、軌間は3フィート6インチ(1067mm)だった。その後の日本統治時代、中華民国時代とも、鉄道は1067mmまたはそれ未満の狭軌が用いられ続けた。しかし2007年開業の台湾高速鉄道は標準軌が採用され、日本やスペインと同様、高速鉄道と在来線で軌間が異なることになった。",
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"text": "イギリスの植民地だったオーストラリアでは、1901年の連邦成立まで後の各州がそれぞれ自治政府を有しており、鉄道政策もばらばらに行われていた。ニューサウスウェールズ植民地ではアイルランド出身の技術者により5フィート3インチ(1600mm)軌間が採用され、ビクトリア、南オーストラリア植民地もこれにならった。しかしニューサウスウェールズでは技術者がスコットランド出身者に交代し、その後はイギリス本国やヨーロッパ諸国で標準的な4フィート8 1⁄2インチ軌間に変更されたため、隣の植民地州と軌間が異なってしまった。さらに、それらより遅れて鉄道を開業させたクイーンズランドや西オーストラリア、それに南オーストラリアの一部などでは、他のイギリス植民地でも多く利用され建設費も安い3フィート6インチ(1067mm)軌間を使ったため、オーストラリア大陸には3種類の軌間が混在することになった。",
"title": "各地での普及"
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"text": "1901年の連邦成立後、連邦政府は軌間を標準軌へ統一しようとしたが、その動きは遅かった。1917年にポートオーガスタとカルグーリーの間で開通した大陸横断鉄道は、両端で接続する鉄道が狭軌だったにもかかわらず、標準軌で建設された。第二次世界大戦が終わってしばらく経った1950年代以降になってようやく、主要路線の改軌(三線軌条化なども含む)が本格化した。シドニー - パース間が標準軌で直通可能になったのは1969年であり、1995年には5大都市(州都)がすべて標準軌鉄道で結ばれた。",
"title": "各地での普及"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "東アジアと西アジア・ヨーロッパの標準軌鉄道は直接には結ばれておらず、旧ソ連の1520mm軌間の鉄道を介する必要がある。しかしカザフスタンとトルクメニスタンで新たに標準軌鉄道を建設することにより、中国とイランの標準軌鉄道を接続する計画がある。またこれとは別に、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン経由でも、中国とイランを標準軌で結ぶことも計画されている。",
"title": "各地での普及"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "標準軌を主な軌間として採用している国・地域は以下の通り。なお同国内でも一部の地方や軽便鉄道、都市部の地下鉄、路面電車などではこれと異なる軌間も用いられていることがある。",
"title": "標準軌を採用している国"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "路面電車や地下鉄などの都市鉄道でのみ標準軌が採用されている例。",
"title": "標準軌を採用している国"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "標準軌鉄道の存在する国・地域とその路線長、同国内での割合は以下の通り。ただし路線長や割合に関しては、どの路線を計上するかや距離の算出基準により異なるため、ここでは岡雅行・山田俊明による20世紀末時点でのもの(Railway Gazette Railway Directory 2001を元に補正、1432mmから1445mmを標準軌とする)とザ・ワールド・ファクトブックウェブ版によるものを掲載した。",
"title": "標準軌を採用している国"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "日本で標準軌を採用しているのは、新幹線、JR田沢湖線等在来線のミニ新幹線区間、近畿圏および東京を中心とする大手私鉄、地下鉄、路面電車等である。日本に現存する標準軌幅の営業用路線はすべて電化路線であり、日本が領有していた外地を除くと、過去を含めても営業用の路線として非電化だったのは琴平電鉄塩江線が唯一の例である。",
"title": "日本の標準軌路線"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "なお、昭和中期ごろまではこの1,435mm軌間を「広軌」と呼ぶのが一般的であり、公文書上でも1,435mm軌間を広軌と表現していたこともあった。理由は在来線に多く使用されている狭軌(1,067mm軌間)が標準的であり、それより広いためである。そのため、伝統的に標準軌が主流の関西私鉄の一つである近畿日本鉄道(近鉄)ですら、同様の理由で1,435mm軌間の路線を「広軌」と公式には称している。しかし、近年では国際的な広軌幅の呼称との混同を防ぐため、日本において1,435mm軌間を意味するためには本項目の「標準軌」の用語が基本的に使用されることが増えている。",
"title": "日本の標準軌路線"
},
{
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"tag": "p",
"text": "この他、上掲社局の廃止路線にも該当例がある。なお、北海道、北陸地方、甲信越地方には過去にも現在にも標準軌を一切導入していない(いずれも新幹線を除く)。",
"title": "日本の標準軌路線"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "ローカルな用法として、1435mm以外の軌間が大部分を占める国や地域では、それらのうち最も主流な軌間を「標準軌」と呼ぶことがあった。たとえば日本では、かつて旧国鉄の在来線の軌間である1067mmが「標準軌」と呼ばれ、新幹線などの1435mm軌間を「広軌」と呼んだことがあった。「標準軌」が1067mm軌間を指すか1435mm軌間を指すか分かりにくいため、1435mm軌間のことを「国際標準軌」(international standard gauge)と呼んで区別することもあった。各地の新幹線網が発達し、ある程度は国際標準軌が社会においても定着したため、この用法は現在の日本では廃れつつあり、単に「標準軌」といえばほぼ間違いなく1435mm軌間のことを指す。",
"title": "ローカルな用法"
}
] | 標準軌は、鉄道線路の軌間、すなわちレール頭頂部の内側の間隔が1435ミリメートルであるものを指す。ただし軌間の多少の差異は実用上あまり問題にならないため、レールウェイ・ガゼット・インターナショナルの統計では軌間1432 mmから1445 mmを標準軌としている。 ヨーロッパ、北アメリカ、東アジアを中心に、世界で最も普及している軌間であり、20世紀末の時点では全世界の鉄道の約6割が標準軌である。標準軌より広い軌間を広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。 | {{軌間}}
'''標準軌'''(ひょうじゅんき、スタンダードゲージ、{{lang-en|standard gauge}})は、[[鉄道]][[線路 (鉄道)|線路]]の[[軌間]]、すなわち[[軌条|レール]]頭頂部の内側の間隔が1435[[ミリメートル]](4[[フィート]]8 1⁄2[[インチ]]<ref group="注釈">1フィートの長さは地域により異なった。以下では特に断らない限り[[イングランド]]や[[アメリカ合衆国]]のフィート(1フィート=約0.3048 m)を意味する。</ref>)であるものを指す。ただし軌間の多少の差異は実用上あまり問題にならないため、[[レールウェイ・ガゼット・インターナショナル]]の統計では軌間1432 mmから1445 mmを標準軌としている<ref name="Oka_9"/>。
[[ヨーロッパ]]、[[北アメリカ]]、[[東アジア]]を中心に、世界で最も普及している軌間であり、[[20世紀]]末の時点では全世界の鉄道の約6割<ref group="注釈">国により統計年代や路線長の算出などの基準が異なるため、こうしたデータには曖昧さがある{{Harv|岡|2002|pp=13-14|Ref=Oka_ch2}}。</ref>が標準軌である<ref name="Oka_12-4"/>。標準軌より広い軌間を[[広軌]]、狭いものを[[狭軌]]と呼ぶ。
== 標準軌の起源 ==
[[File:Killingworth-locomotive.jpg|thumb|キリングワースの機関車]]
標準軌の起源は、北東[[イングランド]]の{{仮リンク|キリングワース|en|Killingworth}}炭鉱で用いられていた[[馬車軌道]]の軌間である。[[1814年]]に[[ジョージ・スティーヴンソン]]がこの炭鉱鉄道のために[[蒸気機関車]]を製造した<ref name="Oka_5-8"/>。スティーブンソンはその後他の炭鉱向けにも機関車を製造し、[[1823年]]には[[ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー]]を設立したが、ここで製造された機関車も同じ軌間で設計されていた。スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えていた<ref name="Oka_3-5"/>。[[1825年]]に[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]で公共用の鉄道として初めて蒸気機関車が使われ、[[1830年]]には世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道である[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]が開業した。これらの鉄道でもスティーブンソンの機関車が用いられた<ref name="Oka_5-8"/>。
キリングワース炭鉱の軌道の間隔は、当時の北東イングランドで一般的だった[[馬車]]の車輪の間隔と一致している。馬車の車輪間隔は、他の車両のつけた[[轍]]に沿って走れるように地域ごとに統一される傾向がある。馬車軌道の車両は通常の馬車をそのまま流用したため、軌間もこれによって決まった。なおキリングワースの車輪間隔の起源をさらに[[古代ローマ]]の馬車にまで遡ることができるとする説もあったが後に否定されている<ref name="Aoki_44"/><ref>{{cite journal|title=Standard gauge originated with a roman chariot |url=https://d18je8rbmgt7gi.cloudfront.net/bbs/data/tprr6/img/37_0a6df23371.png |publisher= |journal=[[トレインズ]] |page=25 |date=2009年7月号 }}</ref>。
[[ファイル:踏面勾配.png|thumb|踏面勾配]]
標準軌が4フィート8 1⁄2インチという半端な値である理由は、以下の説が有力である。もともとは4フィート8インチだったものが、蒸気機関車の使用により速度が増したことで、曲線をスムーズに曲がれるよう[[踏面勾配]]をつけた車輪が発明された。このためには車輪がある程度左右に動けるようにしなければならないため、軌間を半インチ広げたというものである。この拡大が行われた時期については諸説あり、キリングワース炭鉱の時点ですでに4フィート8 1⁄2インチだったとするものから、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で半インチ加えられたとするもの、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の[[レインヒル・トライアル]]前の線路改良で拡大が行われたとするものまである。もっとも、軌間の半インチ(メートル法に直せば12.7mm)程度の差は実用上はあまり問題にならず、特に当時の炭鉱鉄道の工事や保線の精度からは誤差の範囲内であったともいえる<ref name="Oka_5-8"/>。
その他の説明として、[[小池滋]]は以下のような説<ref group="注釈">ただし小池ははっきりした証拠に基づくものではなく、説明の一つとして紹介している。</ref>を紹介している。この時代の炭鉱鉄道では[[フランジ]]のない一般道路用の馬車を走らせても脱線しないよう、外側に防護壁をつけたL字形レールを使っていたが、このレール外側の間隔をちょうど5フィートとしていた。フランジ付きの車輪を用いる鉄道車両では、レールの内側の間隔が重要となるが、それは外側の間隔から2本のレールの幅を除いたものであり、これが4フィート8 1⁄2インチという値になったという<ref name="Koike_16"/>。
== 各地での普及 ==
=== イギリス ===
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の成功の後、鉄道は[[イングランド]]各地で急速に普及した。こうした鉄道プロジェクトの多くにはジョージ・スティーブンソンや息子の[[ロバート・スティーブンソン]]が関わっており、4フィート8 1⁄2インチの軌間が採用された<ref name="Oka_3-5"/>。
一方で、[[グレート・ウェスタン鉄道]]では、広軌のほうが優れているという[[イザムバード・キングダム・ブルネル]]技師長の主張により7フィート 1⁄4インチ(2140mm)という軌間を採用した<ref name="Koike_17"/>。4フィート8 1⁄2インチ軌間の鉄道網と7フィート 1⁄4インチ軌間の鉄道網は[[1844年]]に[[グロスター]]で初めて接し、これにより異軌間で直通運転ができないことの不利益が顕在化した<ref name="Oka_8-10"/>。4フィート8 1⁄2インチと7フィート1⁄4インチのどちらの軌間がふさわしいかは、技術者のみならず社交界や議会を巻き込んだ大きな論戦となった。なお[[イースト・アングリア]]地方の{{仮リンク|イースタン・カウンティズ鉄道|en|Eastern Counties Railway}}も、技師長ジョン・ブレイスウェイトの見解により5フィート(1524mm)軌間を採用していたが、他社との直通のため[[1844年]]には全線を4フィート8 1⁄2インチに改軌した<ref name="Koike_18"/>。
[[File:Baulk road point with side step.jpg|thumb|標準軌(1435mm)と広軌(2140mm)の三線軌条]]
[[1845年]]に王立委員会は、[[国防]]上の観点からも軌間の統一を法制化すべきと勧告した<ref name="Metzeltin_122"/>。また広軌のほうが蒸気機関車の性能がよいことは認めつつも、その差はわずかであり、4フィート8 1⁄2インチ軌間が7フィート1⁄4インチ軌間より多数派であることを理由として、より好ましいとした<ref name="Aoki_45-7"/>。引き続き[[1846年]]に[[1846年軌間統一法|軌間法]]で、[[グレートブリテン島]]の新規路線は4フィート8 1⁄2インチの軌間で建設されるべしと定めた<ref name="Oka_8-10"/>。ただし[[コーンウォール]]、[[デヴォン]]、[[ドーセット]]、[[サマセット]]の各州のみは例外とされた<ref name="Metzeltin_122"/><ref group="注釈">これらはグレート・ウェスタン鉄道の末端部に位置する。</ref>。グレート・ウェスタン鉄道の広軌路線は少しずつ標準軌に改軌され、ロンドンから[[エクセター]]までの幹線は[[三線軌条]]化された。最終的には1892年に全線[[改軌]]が完了し、グレートブリテン島の軌間は標準軌で統一された<ref name="Koike_19-20"/>。
19世紀にはイギリス領の一部だった[[アイルランド]]では、鉄道建設の初期の段階から4フィート8 1⁄2インチの他にも様々な広軌が用いられていたが、1846年の軌間法で5フィート3インチ(1600mm)が標準とされた<ref name="Oka_48-9"/>。
=== 大陸ヨーロッパ ===
イギリスに少し遅れて鉄道を開業させた[[大陸ヨーロッパ]]諸国では、初期の鉄道に関してスティーブンソン親子らイギリス人技術者の指導を仰いだ例が多い。また蒸気機関車も、スティーブンソン社をはじめとするイギリス製のものを輸入するか、ライセンスを受けて製造した。こうした鉄道は1435mm軌間となった<ref name="Yamada_22-5"/>。
ただし、一部の国や地域では、独自の観点から広軌を導入したところもある。[[オランダ]]の{{仮リンク|ホラント鉄道|nl|Hollandsche IJzeren Spoorweg-Maatschappij}}と{{仮リンク|オランダ・ライン鉄道|nl|Nederlandsche Rhijnspoorweg-Maatschappij}}や[[バーデン大公国]]の[[バーデン大公国邦有鉄道|邦有鉄道]]、[[スイス]]の[[チューリッヒ]]-[[バーデン (スイス)|バーデン]]間の鉄道は、最初広軌で建設された。しかし周辺の鉄道がみな1435mm軌間を採用したことから、直通運転の必要のため同じ軌間に改軌した<ref name="Wolmar_50-1"/><ref name="Metzeltin_123"/>。
なお[[フランス]]においては、公式にはレールの中心の間隔を1500mmとする規格が採用されていた。このためレール内側の間隔(軌間)はレールの幅によって変わってしまうことになった。鉄道会社に出された建設許可では、レール内側の間隔は1440mmから1450mmとなっている<ref name="Metzeltin_123"/>。そのためフランスの軌間は厳密にはドイツやベルギーなどとは少し異なったが、この程度の差であれば実用上は直通運転に支障はなかった。その後20世紀初頭になって正式に1435mm軌間に改められた<ref name="Yamada_42"/><!-- 孫引き、原出典は「鉄道ギネスブック」 -->。
[[1886年]]に[[ベルン]]で開催された鉄道規格統一会議において、[[ドイツ帝国|ドイツ]]、フランス、[[イタリア]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]、スイスの各国は、今後建設される鉄道路線の軌間は1435mm以上1440mm以下(直線区間)とすることで合意した<ref name="Metzeltin_122"/>。
一方で、[[スペイン]]ではブルネルの、[[ロシア帝国]]ではアメリカ人技術者{{仮リンク|ジョージ・ワシントン・ホイッスラー|en|George Washington Whistler}}の提言を元に、それぞれ1435mmよりも広い広軌を採用した<ref name="Oka_50-2"/><ref name="Haraguchi_143-4"/><ref name="Metzeltin_123"/>。両国があえて広軌を選んだ背景には、[[ナポレオン戦争]]の教訓を元に、他国に侵略された際に鉄道を利用されないようにするため故意に直通不可能な軌間にしたとする説もある<ref name="Haraguchi_143-4"/><ref name="Wolmar_72-3"/>。[[ポルトガル]]も隣国スペインと同様に広軌を採用した<ref name="Oka_49-50"/>。ただし、ロシア帝国主権下の[[ポーランド立憲王国]]でポーランド人により建設された{{仮リンク|ワルシャワ・ウィーン鉄道|pl|Kolej Warszawsko-Wiedeńska}}は1435mm軌間であった<ref name="Akiyama_252-5"/>。その後もロシア・旧[[ソビエト連邦]]<ref group="注釈">[[第一次世界大戦]]、[[ロシア革命]]と[[第二次世界大戦]]による国境の移動などのため、ロシア・ソ連の広軌圏と中央ヨーロッパの標準軌圏との境界も移動している。また戦争中などの一時的な改軌もあった。</ref>と[[イベリア半島]]の鉄道は標準軌に改軌されることはなく現代に至っている<ref name="Oka_50-2"/>。ただしスペインの高速鉄道は、将来のフランスなど他国の高速鉄道との接続を考慮して、標準軌で建設された<ref name="Oka_49-50"/>。そのため、1067mmが主流のなかで1435mm軌道を採用した日本の新幹線とは逆に、スペインでは高速鉄道のほうが一般鉄道よりも狭い軌道を走っていることになる。
=== 北アメリカ ===
[[アメリカ合衆国]]の初期の鉄道では、イギリス製機関車を用いた北東部を中心に、4フィート8 1⁄2インチ軌間が普及した。ただしイギリスの影響力はヨーロッパほど強くなく、[[ペンシルベニア州]]や[[オハイオ州]]では4フィート10インチ(1473mm)<ref group="注釈">4フィート8.5インチ軌間との差はわずかであり、直通運転も行われていた{{Harv|岡|2002|p=11|Ref=Oka_ch1}}。</ref>、南部諸州では5フィート(1524mm)の軌間が主流となった。[[ニューヨーク州]]と内陸を結ぶ[[エリー鉄道]]などは6フィート(1829mm)という広い軌間を採用した<ref name="Wolmar_136-7"/>。[[1860年]]の時点で、4フィート8 1⁄2インチ軌間の鉄道は全体の54%にすぎなかった<ref name="Yamada_25-7"/>。
これが統一されるきっかけとなったのが、[[南北戦争]]と[[大陸横断鉄道]]の建設である。南北戦争では、軌間の異なる鉄道の間で乗り換えや貨物の積み替えが必要となることが、軍需輸送上の大きな問題点となった。大陸横断鉄道については、[[1862年]]に{{仮リンク|太平洋鉄道法|en|Pacific Railroad Acts}}が制定された際には、[[エイブラハム・リンカーン]]大統領はその軌間について5フィートを想定していたようである<ref name="Oka_52-4"/>。しかし1863年の法律では、大陸横断鉄道の軌間は4フィート8 1⁄2インチとすることが定められた。その他の鉄道も順次4フィート8 1⁄2インチの標準軌に改軌され、1886年にはアメリカ合衆国の主要鉄道は標準軌に統一された<ref name="Yamada_25-7"/>。
[[カナダ]]では当初、イギリス植民地に多く見られる5フィート6インチ(1676mm)軌間が使われていた。しかしアメリカ合衆国との直通の必要から、1870年代に標準軌に改軌された<ref name="Oka_52-4"/>。
=== 東アジア ===
==== 中国 ====
[[中国]]([[清]])で最初の本格的な鉄道<ref group="注釈">それ以前には[[1876年]]にイギリス人が無許可で建設した狭軌の[[呉淞鉄道]]がある。</ref>は[[1881年]]に開業した{{仮リンク|唐胥線|zh|唐胥鐵路}}である。これは炭鉱の石炭輸送用の短距離路線にすぎなかったが、[[イギリス人]]技術者{{仮リンク|クロード・ウィリアム・キンダー|en|Claude W. Kinder}}の主張により1435mm軌間で建設された。これは将来[[北京]]と[[奉天]](現[[瀋陽]])を結ぶ京奉線の一部となることを見越したものであった<ref name="Yamada_34-5"/>。以後中国の鉄道網は、中国人によるものも外国資本によるものも含め、ほぼ標準軌で建設されてゆくことになる<ref name="Yamada_36"/>。
ただし、[[ロシア]]の[[東清鉄道]]のみは、[[シベリア鉄道]]と同じ[[広軌]]であった。[[日露戦争]]で東清鉄道の南半分が日本の[[南満洲鉄道]]となると、この部分は標準軌に改軌され、[[長春駅]]が境界駅となった<ref name="Yamada_631-2"/>。[[満洲事変]]ののち、東清鉄道の後身である中東鉄道が[[満洲国]]の[[満洲国国有鉄道|国有鉄道]]となると、[[1937年]]までに全線が標準軌に改軌された<ref name="Yamada_635-6"/>。
[[中華人民共和国]]の成立後、中国の鉄道網は拡大を続けており、20世紀末の時点で標準軌鉄道の路線長はアメリカ合衆国に次ぎ世界第2位となっている<ref name="Yamada_33-4"/>。
==== 朝鮮半島 ====
朝鮮半島での鉄道建設は、[[日韓併合]]以前から[[日本]]の主導で行われていたが、その軌間は日本本国とは異なり標準軌であった。[[1896年]]に[[李氏朝鮮|朝鮮政府]]の定めた国内鉄道規則では、軌間は4フィート8インチ半とすることにされていた。その後[[1911年]]に[[中朝友誼橋#鴨緑江橋梁|鴨緑江橋梁]]が開通し、中国側の安奉線も狭軌から標準軌に改軌されたことで、中国の標準軌鉄道網との直通が可能になった<ref name="Yamada_646-650"/>。
==== 日本 ====
{{seealso|日本の改軌論争}}
[[日本]]では、[[1872年]]([[明治]]4 - 5年)の鉄道開業時に3フィート6インチ(1,067 mm)の狭軌を選択した。これを国際標準軌(当時の日本では「広軌」と呼んだ)へ改軌する提案が何度か行われた。最初は[[1887年]](明治20年)の[[大日本帝国陸軍|陸軍]]の建議があり、[[1909年]](明治42年)以降は[[後藤新平]]、[[仙石貢]]らが改軌を主張した。軌間を巡る政策は[[内閣 (日本)|内閣]]の交替のたびに二転三転したが、[[原敬]]内閣成立後の[[1919年]]([[大正]]8年)に[[日本国有鉄道|国鉄]]の改軌計画は放棄された。一方で、[[1899年]](明治32年)の大師電気鉄道(現・[[京急大師線]])を皮切りとして、[[1900年代]]以降に建設された[[私鉄]]や[[地方公営企業|公営]]の[[路面電車]]といった[[電気鉄道]]路線では国際標準軌を採用した例が多くあり、とくに関西私鉄では(日本では伝統的に広軌とされてきた)1,435mmがむしろ主流となっていった。
[[1938年]]([[昭和]]13年)に始まった[[弾丸列車]]計画では、広軌(1,435 mm)の新線を建設する予定であったが、一部の[[トンネル]]などが着工されたのみで中止された。[[1950年代]]には、[[東海道本線]]の[[輸送力]]逼迫に対する対策として[[複々線]]化、狭軌別線、広軌(1,435 mm)別線の3案が比較された結果、広軌別線案が採用され、[[1964年]](昭和39年)に[[東海道新幹線]]として開業した。その後の各新幹線も1,435 mm軌間で建設され、1,067 mm軌間の[[在来線]]との[[直通運転|直通]]は不可能であった。このため[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]は[[1992年]]([[平成]]4年)に[[奥羽本線]]の一部、[[1997年]](平成9年)に[[田沢湖線]]および奥羽本線の一部を改軌し、[[車両限界]]を在来線に合わせた「[[ミニ新幹線]]」として[[新幹線|フル規格]]の[[東北新幹線]]と直通運転を行なっている。
==== 台湾 ====
[[台湾]]で最初の鉄道は[[1891年]]の[[基隆]] - [[台北]]間の鉄道であり、軌間は3フィート6インチ(1067mm)だった。その後の[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]、[[中華民国]]時代とも、鉄道は1067mmまたはそれ未満の狭軌が用いられ続けた<ref name="Yamada_654-7"/>。しかし[[2007年]]開業の[[台湾高速鉄道]]は標準軌が採用され、日本やスペインと同様、高速鉄道と在来線で軌間が異なることになった。
=== オーストラリア ===
[[File:Clapp Report 1945.gif|thumb|1945年のクラップ報告書による標準軌路線と改軌予定路線の図]]
イギリスの植民地だった[[オーストラリア]]では、[[1901年]]の連邦成立まで後の各州がそれぞれ自治政府を有しており、鉄道政策もばらばらに行われていた。[[ニューサウスウェールズ州|ニューサウスウェールズ]]植民地ではアイルランド出身の技術者により5フィート3インチ(1600mm)軌間が採用され、[[ビクトリア州|ビクトリア]]、[[南オーストラリア州|南オーストラリア]]植民地もこれにならった。しかしニューサウスウェールズでは技術者が[[スコットランド]]出身者に交代し、その後はイギリス本国やヨーロッパ諸国で標準的な4フィート8 1⁄2インチ軌間に変更されたため、隣の植民地州と軌間が異なってしまった。さらに、それらより遅れて鉄道を開業させた[[クイーンズランド州|クイーンズランド]]や[[西オーストラリア州|西オーストラリア]]、それに南オーストラリアの一部などでは、他のイギリス植民地でも多く利用され建設費も安い3フィート6インチ(1067mm)軌間を使ったため、オーストラリア大陸には3種類の軌間が混在することになった<ref name="Yamada_45-7"/><ref name="Oka_54-5"/>。
1901年の連邦成立後、連邦政府は軌間を標準軌へ統一しようとしたが、その動きは遅かった。[[1917年]]に[[ポートオーガスタ]]と[[カルグーリー]]の間で開通した[[大陸横断鉄道]]は、両端で接続する鉄道が狭軌だったにもかかわらず、標準軌で建設された。[[第二次世界大戦]]が終わってしばらく経った1950年代以降になってようやく、主要路線の改軌(三線軌条化なども含む)が本格化した。[[シドニー]] - [[パース (西オーストラリア州)|パース]]間が標準軌で直通可能になったのは[[1969年]]であり、[[1995年]]には5大都市(州都)がすべて標準軌鉄道で結ばれた<ref name="Yamada_45-7"/>。
=== 中央アジア ===
東アジアと西アジア・ヨーロッパの標準軌鉄道は直接には結ばれておらず、旧ソ連の1520mm軌間の鉄道を介する必要がある。しかし[[カザフスタン]]と[[トルクメニスタン]]で新たに標準軌鉄道を建設することにより、中国とイランの標準軌鉄道を接続する計画がある<ref name="Jarts_138n"/>。またこれとは別に、[[キルギス]]、[[タジキスタン]]、[[アフガニスタン]]経由でも、中国とイランを標準軌で結ぶことも計画されている<ref name="RG_20100628"/>。
== 標準軌を採用している国 ==
[[ファイル:Rail gauge world.png|thumb|300px|各国の軌間。水色が標準軌]]
標準軌を主な軌間として採用している国・地域は以下の通り。なお同国内でも一部の地方や[[軽便鉄道]]、都市部の[[地下鉄]]、[[路面電車]]などではこれと異なる軌間も用いられていることがある。
=== ヨーロッパ ===
* [[イギリス]]([[北アイルランド]]を除く)
* [[ヨーロッパ大陸]]の大部分 - [[スペイン]]の在来線、[[ポルトガル]]、旧[[ソビエト連邦]]諸国、[[フィンランド]](いずれも[[広軌]])を除く。なお、スペインの[[AVE]]は標準軌。
=== アジア ===
* [[西アジア]]
**[[トルコ]]
**[[シリア]]([[ヒジャーズ鉄道]]・1050mmを除く)
**[[レバノン]]
**[[イスラエル]]
**[[パレスチナ]]
**[[ヨルダン]]([[ヒジャーズ鉄道]]・1050mmを除く)
**[[イラン]]
**[[イラク]]
**[[サウジアラビア]]
* [[中央アジア]]
**[[カザフスタン]](ごく一部)
* [[東アジア]]
**[[中華人民共和国|中国]]
**[[香港]]([[香港MTR]]の一部は軌間を1432mmとしている)
**[[大韓民国]]
**[[朝鮮民主主義人民共和国]]
**[[台湾]]
***[[台湾高速鉄道]]
***[[台北捷運|台北地下鉄]]
***[[高雄捷運|高雄地下鉄]]
***[[桃園機場捷運]]
***[[台中捷運|台中地下鉄]]
**[[日本]]
***{{main|#日本の標準軌路線}}
* [[東南アジア]]
**[[ベトナム]]
***[[ハノイ]]以北<ref name="Jarts_51-53"/>
**[[ラオス]]
* [[南アジア]]
**[[インド]](一部)<ref name="OY_table1"/>
=== アフリカ ===
* [[エジプト]]
* [[アルジェリア]]
* [[モロッコ]]
* [[モーリタニア]]
* [[ガボン]]
* [[リベリア]]
**ボン鉱業会社線
**ラムコ鉄道<ref name="Jarts_298-299"/>
* [[チュニジア]]
**[[チュニス]]以西<ref name="Jarts_283-284"/>
* [[ギニア]]
**[[ボケ (ギニア)|ボケ]]鉄道
**[[キンディア]]・[[ボーキサイト]]鉄道<ref name="Jarts_296-297"/>
* [[ナイジェリア]]
**{{仮リンク|イタクペ|en|Itakpe}}鉱山 - {{仮リンク|アジャオクタ|en|Ajaokuta}}製鋼所間<ref name="Jarts_309-310"/>
* [[ケニア]]
**[[モンバサ・ナイロビ標準軌鉄道]]
* [[エチオピア]]
**[[アディスアベバ・ジブチ鉄道]]
* [[ジブチ]]
**[[アディスアベバ・ジブチ鉄道]]
=== 北アメリカ ===
* [[アメリカ合衆国]]
* [[カナダ]]
* [[メキシコ]]
* [[キューバ]]
* [[ドミニカ共和国]]
* [[ジャマイカ]]
* [[パナマ]]
**[[パナマ運河鉄道]]<ref name="Jarts_381-382"/>
* [[グアテマラ]](一部)<ref name="OY_table1"/>
=== 南アメリカ ===
* [[ベネズエラ]]
* [[ペルー]]
* [[パラグアイ]]
* [[ウルグアイ]]
* [[スリナム]](一部)
* [[ガイアナ]](一部)
* [[パラグアイ]]
* [[アルゼンチン]]
** [[:en:General_Urquiza_Railway|ウルキサ将軍鉄道]]
* [[ブラジル]](一部)<ref name="OY_table1"/>
=== オセアニア ===
* [[オーストラリア]]
=== 都市鉄道 ===
路面電車や地下鉄などの都市鉄道でのみ標準軌が採用されている例。
* [[タイ王国|タイ]]
**[[バンコク・スカイトレイン]]
**[[バンコク・メトロ]]
**[[エアポート・レール・リンク]]
* [[マレーシア]]・[[クアラルンプール]]
**[[KLIAエクスプレス]]
**[[ラピドKL]]
**マス・ラピッド・トランジット(地下鉄)
* [[シンガポール]]
**[[マス・ラピッド・トランジット (シンガポール)|マス・ラピッド・トランジット]](地下鉄)
* [[フィリピン]]
**[[マニラ・ライトレール・トランジット・システム]]
**[[マニラ・メトロレール]]
* [[南アフリカ共和国]]
**[[ハウトレイン]]
* [[チリ]]
**[[サンティアゴ地下鉄]]
* [[ポルトガル]]
* [[ロシア]]
* [[ニュージーランド]]<ref name="OY_table2"/>
=== 国別の路線長一覧 ===
標準軌鉄道の存在する国・地域とその路線長、同国内での割合は以下の通り。ただし路線長や割合に関しては、どの路線を計上するかや距離の算出基準により異なるため、ここでは岡雅行・山田俊明による20世紀末時点でのもの<ref name="OY_table1"/><ref name="OY_table2"/>(Railway Gazette Railway Directory 2001を元に補正、1432mmから1445mmを標準軌とする)と[[ザ・ワールド・ファクトブック]]ウェブ版<ref name="CIA"/>によるものを掲載した。
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ ヨーロッパ
|-
! 国・地域
! 岡 & 山田
! ザ・ワールド・ファクトブック
! 備考
|-
! [[アルバニア]]
| 447km (100%)
| 339km (100%)
|
|-
! [[イギリス]]
| 17932km ({{0}}97%)
| 16151km ({{0}}98%)
| style="text-align:left" | 他に1600mm軌間([[北アイルランド]])。
|-
! [[イタリア]]
| 18630km ({{0}}95%)
| 18611km ({{0}}92%)
| style="text-align:left" | 他に950mm軌間など。
|-
! [[ウクライナ]]
| 49km (0.2%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 最多は1520/1524mm軌間。
|-
! [[オーストリア]]
| 5993km ({{0}}89%)
| 5927km ({{0}}93%)
| style="text-align:left" | 他に1000mm軌間など。
|-
! [[オランダ]]
| 3494km (100%)
| 2896km (100%)
|
|-
! [[ギリシア]]
| 1617km ({{0}}62%)
| 1565km ({{0}}61%)
| style="text-align:left" | 他に1000mm軌間など。
|-
! [[クロアチア]]
| 2699km ({{0}}98%)
| 2722km (100%)
|
|-
! [[コソヴォ]]
| -<ref group="注" name="Jugo">「ユーゴスラビア」として記載。</ref>
| 430km (100%)
|
|-
! [[スイス]]
| 3790km ({{0}}69%)
| 3846km ({{0}}79%)
| style="text-align:left" | 他に1000mm軌間など。
|-
! [[スウェーデン]]
| 12861km ({{0}}97%)
| 11568km ({{0}}99%)
|
|-
! [[スペイン]]
| 758km (5.0%)
| 1392km (9.1%)
| style="text-align:left" | 最多は1668mm軌間。
|-
! [[スロバキア]]
| 3507km ({{0}}91%)
| 3473km ({{0}}96%)
| style="text-align:left" | 他に1000mm、1520mm軌間など。
|-
! [[スロベニア]]
| 1201km (100%)
| 1228km (100%)
|
|-
! [[セルビア]]
| -<ref group="注" name="Jugo"/>
| 3379km (100%)
|
|-
! [[チェコ]]
| 9716km ({{0}}99%)
| 9449km (100%)
|
|-
! [[デンマーク]]
| 2860km (100%)
| 2667km (100%)
|
|-
! [[ドイツ]]
| 47710km ({{0}}97%)
| 41722km ({{0}}99%)
|
|-
! [[ノルウェー]]
| 4242km ({{0}}99%)
| 4169km (100%)
|-
! [[バチカン市国]]
| 1km (100%)
| 鉄道の記載なし
|
|-
! [[ハンガリー]]
| 8902km ({{0}}98%)
| 7802km ({{0}}97%)
|
|-
! [[フランス]]
| 30310km ({{0}}97%)
| 29473km ({{0}}99%)
|
|-
! [[ブルガリア]]
| 4357km ({{0}}91%)
| 4072km ({{0}}98%)
|
|-
! [[ベラルーシ]]
| 20km (0.3%)
| 25km (0.5%)
| style="text-align:left" | 最多は1520mm
|-
! [[ベルギー]]
| 3631km ({{0}}92%)
| 3233km (100%)
| style="text-align:left" | 他に1000mm軌間(岡 & 山田)。
|-
! [[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]
| 1043km (100%)
| 601km (100%)
|
|-
! [[ポーランド]]
| 21936km ({{0}}93%)
| 19029km ({{0}}98%)
| style="text-align:left" | 他に1524mm軌間など。
|-
! [[ポルトガル]]
| 28km (0.9%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。最多は1668mm軌間。
|-
! [[マケドニア旧ユーゴスラビア共和国|マケドニア]]<ref group="注">2019年に「北マケドニア」に改称。</ref>
| 699km (100%)
| 699km (100%)
|
|-
! [[モナコ]]
| 2km (100%)
| 鉄道の記載なし
|
|-
! [[モンテネグロ]]
| -<ref group="注" name="Jugo" />
| 250km (100%)
|
|-
! [[ユーゴスラビア連邦共和国|ユーゴスラビア]]
| 4031km ({{0}}97%)
| -<ref group="注">コソヴォ、セルビア、モンテネグロの各項参照</ref>
|-
! [[リトアニア]]
| 22km (1.1%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 最多は1520mm軌間。
|-
! [[リヒテンシュタイン]]
| 19km (100%)
| 9km (100%)
|
|-
! [[ルクセンブルク]]
| 280km (100%)
| 275km (100%)
|
|-
! [[ルーマニア]]
| 11235km ({{0}}96%)
| 10645km ({{0}}99%)
|
|-
! [[ロシア]]
| 112km (0.1%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。最多は1520mm軌間。
|}
{{Reflist|group=注}}
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ アジア
|-
! 国・地域
! 岡 & 山田
! ザ・ワールド・ファクトブック
! 備考
|-
! [[イスラエル]]
| 610km (100%)
| 975km (100%)
|
|-
! [[イラク]]
| 2032km (100%)
| 2272km (100%)
|-
! [[イラン]]
| 6448km ({{0}}99%)
| 8348km ({{0}}99%)
|
|-
! [[インド]]
| 66km (0.1%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 最多は1676mm軌間、他に1000mmなど。
|-
! [[カザフスタン]]
| 107km (0.8%)
| 0km({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 最多は1520mm軌間。
|-
! [[サウジアラビア]]
| 1394km (100%)
| 1378km (100%)
|
|-
! [[シリア]]
| 1771km ({{0}}84%)
| 1801km ({{0}}88%)
| style="text-align:left" | 他に1050mm軌間。
|-
! [[シンガポール]]
| 91km ({{0}}70%)
| 鉄道の記載なし
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。
|-
! [[タイ王国|タイ]]
| 24km (0.6%)
| 29km (0.7%)
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。最多は1000mm軌間。
|-
! [[大韓民国]]
| 3517km (100%)
| 3381km (100%)
|
|-
! [[朝鮮民主主義人民共和国]]
| 3605km ({{0}}80%)
| 5242km (100%)
| style="text-align:left" | 他に760/762mm軌間など(岡 & 山田)。
|-
! [[中華人民共和国]]
| 60117km ({{0}}93%)
| 86000km (100%)
| style="text-align:left" | 台湾を含まず。他に760/762mm、1000mm軌間など(岡 & 山田)。
|-
! [[台湾]]
| 10km<ref group="注">台湾高速鉄道開業前のデータであり、都市鉄道のみ。</ref> (0.4%)
| 345km (22%)
| style="text-align:left" | 最多は1067mm軌間。
|-
! [[トルコ]]
| 8715km (100%)
| 8699km (100%)
|
|-
! [[日本]]
| 3796km ({{0}}14%)
| 4251km<ref group="注">他に1067mm軌間との混合軌間486kmがあるとしている。</ref> ({{0}}16%)
| style="text-align:left" | 最多は1067mm軌間。
|-
! [[フィリピン]]
| 15km (3.5%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。最多は1067mm軌間。
|-
! [[ベトナム]]
| 480km ({{0}}16%)
| 527km ({{0}}20%)
| style="text-align:left" | 最多は1000mm軌間。
|-
! [[マレーシア]]
| 27km (1.5%)
| 57km (3.1%)
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。
|-
! [[レバノン]]
| 317km ({{0}}79%)
| 319km ({{0}}80%)
| style="text-align:left" | 他に1050mm軌間。
|}
{{Reflist|group=注}}
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ アフリカ
|-
! 国・地域
! 岡 & 山田
! ザ・ワールド・ファクトブック
! 備考
|-
! [[アルジェリア]]
| 3138km ({{0}}74%)
| 2888km ({{0}}73%)
| style="text-align:left" | 他に1055mm軌間。
|-
! [[エジプト]]
| 5109km ({{0}}98%)
| 5083km (100%)
|
|-
! [[ガボン]]
| 649km (100%)
| 649km (100%)
|
|-
! [[ギニア]]
| 236km ({{0}}20%)
| 238km ({{0}}20%)
| style="text-align:left" | 最多は1000mm軌間。
|-
! [[チュニジア]]
| 546km ({{0}}24%)
| 471km ({{0}}22%)
| style="text-align:left" | 最多は1000mm軌間。
|-
! [[ナイジェリア]]
| 53km (1.5%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 最多は1067mm軌間。
|-
! [[モーリタニア]]
| 704km (100%)
| 728km (100%)
|
|-
! [[モロッコ]]
| 1907km (100%)
| 2067km (100%)
|
|-
! [[リベリア]]
| 345km ({{0}}70%)
| 345km ({{0}}80%)
| style="text-align:left" | 他に1067mm軌間。
|}
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ 北アメリカ
|-
! 国・地域
! 岡 & 山田
! ザ・ワールド・ファクトブック
! 備考
|-
! [[アメリカ合衆国]]
| 265991km (100%)
| 224792km (100%)
|
|-
! [[カナダ]]
| 57586km (100%)
| 46552km (100%)
|-
! [[キューバ]]
| 約9700km ({{0}}78%)
| 8322km ({{0}}97%)
| style="text-align:left" | サトウキビ運搬鉄道を含む。
|-
! [[グアテマラ]]
| 285km ({{0}}27%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 最多は914mm軌間。
|-
! [[ジャマイカ]]
| 272km (100%)
| 鉄道の記載なし
|
|-
! [[ドミニカ共和国]]
| 375km ({{0}}50%)
| 142km (100%)
| style="text-align:left" | 他に760/762mm、1067mm軌間など(岡 & 山田)。
|-
! [[メキシコ]]
| 17240km (100%)
| 17166km (100%)
|
|}
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ 南アメリカ
|-
! 国・地域
! 岡 & 山田
! ザ・ワールド・ファクトブック
! 備考
|-
! [[アルゼンチン]]
| 2826km (8.0%)
| 2780km (7.5%)
| style="text-align:left" | 最多は1676mm軌間で他に1000mm軌間も存在。
|-
! [[ウルグアイ]]
| 1903km (100%)
| 1641km (100%)
|
|-
! [[ガイアナ]]
| 40km ({{0}}45%)
| 鉄道の記載なし
|
|-
! [[コロンビア]]
| 179km ({{0}}11%)
| 150km ({{0}}17%)
| style="text-align:left" | 最多は950mm軌間。
|-
! [[スリナム]]
| 80km ({{0}}48%)
| 鉄道の記載なし
| style="text-align:left" | 他に1000mm軌間(岡 & 山田)。
|-
! [[チリ]]
| 38km (0.5%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。他に1676mm・1000mm・1067mm軌間等。
|-
! [[パラグアイ]]
| 441km ({{0}}42%)
| 36km (100%)
| style="text-align:left" | 他に760/762mm、1000mm軌間等(岡 & 山田)。
|-
! [[ブラジル]]
| 194km (0.7%)
| 194km (0.7%)
| style="text-align:left" | 最多は1000mm軌間で他に1600mm軌間も存在。
|-
! [[ベネズエラ]]
| 819km (100%)
| 806km (100%)
|
|-
! [[ペルー]]
| 1725km ({{0}}85%)
| 1772km ({{0}}93%)
| style="text-align:left" | 他に914mm軌間。
|}
{| class="wikitable" style="text-align:right"
|+ オセアニア
|-
! 国・地域
! 岡 & 山田
! ザ・ワールド・ファクトブック
! 備考
|-
! [[オーストラリア]]
| 21927km ({{0}}44%)
| 21674km ({{0}}56%)
| style="text-align:left" | 他に1600mm、1067mm軌間など。
|-
! [[ニュージーランド]]
| 3km (0.1%)
| 0km ({{0|00}}0%)
| style="text-align:left" | 都市鉄道のみ(岡 & 山田)。最多は1067mm軌間。
|}
== 日本の標準軌路線 ==
[[日本]]で標準軌を採用しているのは、[[新幹線]]、JR[[田沢湖線]]等在来線の[[ミニ新幹線]]区間、近畿圏および東京を中心とする[[大手私鉄]]、地下鉄、路面電車等である。日本に現存する標準軌幅の営業用路線はすべて[[鉄道の電化|電化]]路線であり、日本が領有していた外地を除くと、過去を含めても営業用の路線として[[非電化]]だったのは[[琴平電鉄塩江線]]が唯一の例である。
なお、昭和中期ごろまではこの1,435mm軌間を「広軌」と呼ぶのが一般的であり、公文書上でも1,435mm軌間を広軌と表現していたこともあった。理由は[[在来線]]に多く使用されている[[狭軌]](1,067mm軌間)が標準的であり、それより広いためである。そのため、伝統的に標準軌が主流の関西私鉄の一つである[[近畿日本鉄道]](近鉄)ですら、同様の理由で1,435mm軌間の路線を「広軌」と公式には称している。しかし、近年では国際的な[[広軌]]幅の呼称との混同を防ぐため、日本において1,435mm軌間を意味するためには本項目の「標準軌」の用語が基本的に使用されることが増えている。
* JR(新幹線および、法律上の在来線のうち新幹線車両のみが走行する路線)
** [[東海道新幹線]]・[[山陽新幹線]]・[[九州新幹線]]・[[西九州新幹線]]
** [[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]
** [[北海道新幹線]](ただし[[海峡線]]との共用区間([[新中小国信号場]] - [[木古内駅|木古内]]間)は狭軌と標準軌の[[三線軌条]])
** [[博多南線]](山陽新幹線車両が直通)
** [[上越線]]支線[[越後湯沢駅|越後湯沢]] - [[ガーラ湯沢駅|ガーラ湯沢]]間(上越新幹線車両が直通)
* JR(在来線のうち新幹線車両が直通する路線。いわゆるミニ新幹線)
** [[奥羽本線]][[福島駅 (福島県)|福島]] - [[新庄駅|新庄]]間(東北新幹線から専用車両が直通、通称[[山形新幹線]]。同区間を走行する普通列車の運行系統上の路線名は通称[[山形線]]。ただし[[山形駅|山形]] - [[羽前千歳駅|羽前千歳]]間は狭軌と標準軌の[[単線並列]])
** 奥羽本線[[大曲駅 (秋田県)|大曲]] - [[秋田駅|秋田]]間(東北新幹線から専用車両が直通、通称[[秋田新幹線]]の一部。同区間は狭軌と標準軌の単線並列、標準軌は東側軌道(軌間変更前の上り線に相当)。ただし[[神宮寺駅|神宮寺]] - [[峰吉川駅|峰吉川]]間の西側軌道(軌間変更前の下り線に相当)は狭軌と標準軌の三線軌条)
** [[田沢湖線]](東北新幹線から専用車両が直通、通称秋田新幹線の一部)
* 私鉄
** [[東京地下鉄]]([[東京メトロ銀座線|銀座線]]・[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線・丸ノ内線分岐線]])
** [[京成電鉄]]
** [[新京成電鉄]]
** [[北総鉄道]]
** [[芝山鉄道]]
** [[京浜急行電鉄]]([[京急逗子線|逗子線]][[金沢八景駅|金沢八景]] - [[神武寺駅|神武寺]]間の上り線は狭軌と標準軌の三線軌条)
** [[箱根登山鉄道]]([[箱根登山鉄道鉄道線|鉄道線]][[入生田駅|入生田]] - [[強羅駅|強羅]]間(ただし入生田 - [[箱根湯本駅|箱根湯本]]間は狭軌と標準軌の三線軌条))
** [[十国峠十国鋼索線|十国峠]]([[十国峠十国鋼索線|十国鋼索線]])
** [[大阪市高速電気軌道]]
** [[近畿日本鉄道]]([[近鉄南大阪線|南大阪線]]系統・[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]]は狭軌)
** [[京阪電気鉄道]]([[京阪鋼索線|鋼索線]]のみ狭軌)
** [[阪急電鉄]]
** [[阪神電気鉄道]]
** [[山陽電気鉄道]]
** [[能勢電鉄]]
** [[京福電気鉄道]]([[京福電気鉄道嵐山本線|嵐山本線]]・[[京福電気鉄道北野線|北野線]])
** [[叡山電鉄]]
** [[阪堺電気軌道]]
** [[北大阪急行電鉄]]
** [[高松琴平電気鉄道]](四国地方唯一)
** [[広島電鉄]](新幹線を除けば中国地方唯一)
** [[筑豊電気鉄道]]
** [[西日本鉄道]]([[西鉄貝塚線|貝塚線]]のみ狭軌)
** [[長崎電気軌道]]
* 公営
** [[仙台市交通局]]([[仙台市地下鉄東西線|東西線]])
** [[東京都交通局]]([[都営地下鉄浅草線|浅草線]]・[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]])
** [[横浜市交通局]]
** [[名古屋市交通局]]([[名古屋市営地下鉄東山線|東山線]]・[[名古屋市営地下鉄名城線|名城線]]・[[名古屋市営地下鉄名港線|名港線]])
** [[京都市交通局]]
** [[神戸市交通局]](旧[[北神急行電鉄]]区間を含む)
** [[福岡市交通局]]([[福岡市地下鉄七隈線|七隈線]])
** [[熊本市交通局]]
** [[鹿児島市交通局]]
* 廃止された路線
** [[川崎市交通局]]([[川崎市電]])
** 京都市交通局([[京都市電]])(旧[[京都電気鉄道]]買収区間を除く)
** [[愛宕山鉄道]] - [[愛宕山鉄道|平坦線]]
** 大阪市交通局([[大阪市電]])
** [[南海電気鉄道]]([[南海平野線|平野線]]・[[南海大浜支線|大浜支線]])
** 神戸市交通局([[神戸市電]])
** [[播電鉄道]]
*改軌された路線(事業者として現存しないもの)
** [[松山電気軌道]] - 全線 - [[伊予鉄道]]への合併後、全線を1067mmに改軌(一部は廃止)
この他、上掲社局の廃止路線にも該当例がある。なお、[[北海道]]、[[北陸地方]]、[[甲信越地方]]には過去にも現在にも標準軌を一切導入していない(いずれも新幹線を除く)。
== ローカルな用法 ==
ローカルな用法として、1435mm以外の軌間が大部分を占める国や地域では、それらのうち最も主流な軌間を「標準軌」と呼ぶことがあった。たとえば[[日本]]では、かつて旧[[日本国有鉄道|国鉄]]の[[在来線]]の軌間である1067mmが「標準軌」と呼ばれ、[[新幹線]]などの1435mm軌間を「[[広軌]]」と呼んだことがあった<ref name="Oka_9"/>。「標準軌」が1067mm軌間を指すか1435mm軌間を指すか分かりにくいため、1435mm軌間のことを「'''国際標準軌'''」(international standard gauge)と呼んで区別することもあった。各地の[[新幹線]]網が発達し、ある程度は国際標準軌が社会においても定着したため、この用法は現在の日本では廃れつつあり、単に「標準軌」といえばほぼ間違いなく1435mm軌間のことを指す。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2|refs=
<ref name="OY_table1">{{Harvnb|岡|山田|2002|pp=188-193|Ref=Oka-Yamada}} 世界のゲージ一覧</ref>
<ref name="OY_table2">{{Harvnb|岡|山田|2002|pp=186-187|Ref=Oka-Yamada}} 別表 世界の都市鉄道のゲージ一覧</ref>
<ref name="Oka_3-5">{{Harvnb|岡|2002|pp=3-5|Ref=Oka_ch1}}</ref>
<ref name="Oka_5-8">{{Harvnb|岡|2002|pp=5-8|Ref=Oka_ch1}}</ref>
<ref name="Oka_8-10">{{Harvnb|岡|2002|pp=8-10|Ref=Oka_ch1}}</ref>
<ref name="Oka_9">{{Harvnb|岡|2002|p=9|Ref=Oka_ch1}}</ref>
<ref name="Oka_12-4">{{Harvnb|岡|2002|pp=12-14|Ref=Oka_ch2}}</ref>
<ref name="Yamada_22-5">{{Harvnb|山田|2002|pp=22-25|Ref=Yamada_ch3}}</ref>
<ref name="Yamada_25-7">{{Harvnb|山田|2002|pp=25-27|Ref=Yamada_ch3}}</ref>
<ref name="Yamada_33-4">{{Harvnb|山田|2002|pp=33-34|Ref=Yamada_ch3}}</ref>
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<ref name="Yamada_36">{{Harvnb|山田|2002|p=36|Ref=Yamada_ch3}}</ref>
<ref name="Yamada_42">{{Harvnb|山田|2002|p=42|Ref=Yamada_ch3}} 注(2)</ref>
<ref name="Yamada_45-7">{{Harvnb|山田|2002|pp=45-47|Ref=Yamada_col}}</ref>
<ref name="Oka_48-9">{{Harvnb|岡|2002|pp=49-9|Ref=Oka_ch4}}</ref>
<ref name="Oka_49-50">{{Harvnb|岡|2002|pp=49-50|Ref=Oka_ch4}}</ref>
<ref name="Oka_50-2">{{Harvnb|岡|2002|pp=50-52|Ref=Oka_ch4}}</ref>
<ref name="Oka_52-4">{{Harvnb|岡|2002|pp=52-54|Ref=Oka_ch4}}</ref>
<ref name="Oka_54-5">{{Harvnb|岡|2002|pp=54-55|Ref=Oka_ch4}}</ref>
<ref name="Aoki_44">{{Harvnb|青木|2008|p=44|Ref=Aoki}}</ref>
<ref name="Aoki_45-7">{{Harvnb|青木|2008|pp=45-7|Ref=Aoki}}</ref>
<ref name="Haraguchi_143-4">{{Harvnb|原口|2010|pp=143-144|Ref=Haraguchi}}</ref>
<ref name="Akiyama_252-5">{{Harvnb|秋山|2010|pp=252-255|Ref=Akiyama}}</ref>
<ref name="Yamada_631-2">{{Harvnb|山田|2010|pp=631-632|Ref=Yamada_2010}}</ref>
<ref name="Yamada_635-6">{{Harvnb|山田|2010|pp=635-636|Ref=Yamada_2010}}</ref>
<ref name="Yamada_646-650">{{Harvnb|山田|2010|pp=646-650|Ref=Yamada_2010}}</ref>
<ref name="Yamada_654-7">{{Harvnb|山田|2010|pp=654-657|Ref=Yamada_2010}}</ref>
<ref name="Wolmar_50-1">{{Harvnb|ウォルマー|2012|pp=50-51|Ref=Wolmar}}</ref>
<ref name="Wolmar_72-3">{{Harvnb|ウォルマー|2012|pp=72-73|Ref=Wolmar}}</ref>
<ref name="Wolmar_136-7">{{Harvnb|ウォルマー|2012|pp=136-137|Ref=Wolmar}}</ref>
<ref name="Koike_16">{{Harvnb|小池|1980|p=16|Ref=RP_Koike}}</ref>
<ref name="Koike_17">{{Harvnb|小池|1980|p=17|Ref=RP_Koike}}</ref>
<ref name="Koike_18">{{Harvnb|小池|1980|p=18|Ref=RP_Koike}}</ref>
<ref name="Koike_19-20">{{Harvnb|小池|1980|p=19-20|Ref=RP_Koike}}</ref>
<ref name="Metzeltin_122">{{Harvnb|Metzeltin|1921|p=122}}</ref>
<ref name="Metzeltin_123">{{Harvnb|Metzeltin|1921|p=123}}</ref>
<ref name="Jarts_51-53">{{Harvnb|海外鉄道技術協力協会|2005|pp=51-53|Ref=Jarts}}</ref>
<ref name="Jarts_283-284">{{Harvnb|海外鉄道技術協力協会|2005|pp=283-284|Ref=Jarts}}</ref>
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<ref name="Jarts_298-299">{{Harvnb|海外鉄道技術協力協会|2005|pp=298-299|Ref=Jarts}}</ref>
<ref name="Jarts_309-310">{{Harvnb|海外鉄道技術協力協会|2005|pp=309-310|Ref=Jarts}}</ref>
<ref name="Jarts_381-382">{{Harvnb|海外鉄道技術協力協会|2005|pp=381-382|Ref=Jarts}}</ref>
<ref name="Jarts_138n">{{Citation|和書|title=[[#Jarts|最新 世界の鉄道]]|author=秋山芳弘|chapter=カザフスタン横断標準姫新線の建設|page=138
}}</ref>
<ref name="RG_20100628">{{Cite web|url=http://www.railwaygazette.com/news/single-view/view/afghan-rail-strategy-takes-shape.html|title=Afghan rail strategy takes shape|author=[[レールウェイ・ガゼット・インターナショナル|Railway Gazette International]]|date=2010-06-28|accessdate=2013-03-29}}</ref>
<ref name="CIA">{{Cite web|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/index.html|title=the World Factbook|author=[[中央情報局|Central Intelligence Agency]]|accessdate=2013-03-06}} 各国の記事の"Transportation"の項目</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書
|editor=岡雅行
|editor2=山田俊明
|year=2002
|title=ゲージの鉄道学
|publisher=古今書院
|isbn=4-7722-3023-8
|ref=Oka-Yamada
}}
** {{Citation|和書
|author=岡雅行
|chapter=ゲージの起源
|pages=2-11
|ref=Oka_ch1
}}
** {{Citation|和書
|author=岡雅行
|chapter=ゲージの勢力分布
|pages=12-19
|ref=Oka_ch2
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** {{Citation|和書
|author=山田俊明
|chapter=標準軌世界と最近の潮流
|pages=22-43
|ref=Yamada_ch3
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** {{Citation|和書
|author=山田俊明
|chapter=ゲージの不統一に悩まされたオーストラリア
|pages=45-47
|ref=Yamada_col
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** {{Citation|和書
|author=岡雅行
|chapter=広軌世界の光と影
|pages=48-64
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* {{Citation|和書
|title=鉄道の地理学
|author=[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]
|publisher=[[WAVE出版]]
|year=2008
|isbn=978-4-87290-376-8
|ref=Aoki
}}
* {{Citation|和書
|editor=[[小池滋]]
|editor2=青木栄一
|editor3=和久田康雄
|year=2010
|title=鉄道の世界史
|publisher=悠書館
|isbn=978-4-903487-32-8
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** {{Citation|和書
|author=原口隆行
|chapter=イベリア
|pages=135-168
|ref=Haraguchi
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** {{Citation|和書
|author=秋山芳弘
|chapter=ポーランド
|pages=249-267
|ref=Akiyama
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** {{Citation|和書
|author=山田俊明
|chapter=東アジア
|pages=613-658
|ref=Yamada_2010
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* {{Citation|和書
|author=クリスティアン・ウォルマー
|translator=安原和見、須川綾子
|title=世界鉄道史
|publisher=[[河出書房]]
|location=東京
|year=2012
|origyear=2009
|ref=Wolmar
}}
* {{Citation|和書
|editor=[[海外鉄道技術協力協会]]
|year=2005
|title=最新 世界の鉄道
|publisher=ぎょうせい
|isbn=4-324-07626-X
|ref=Jarts
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* {{Citation|和書
|author=小池滋
|title=ゲージの戦い
|year=1980
|month=9
|periodical=[[鉄道ピクトリアル]]
|volume=30
|issue=9
|publisher=[[鉄道図書刊行会]]
|pages=16-20
|ref=RP_Koike
}}
* {{Citation|
|last=Metzeltin
|year=1921
|contribution=Spur
|contribution-url=http://www.zeno.org/nid/20011426675
|pages=121-126
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|title=Enzyklopädie des Eisenbahnwesens
|volume=9
|url=http://www.zeno.org/nid/20011402539
|place=Berlin/Wien
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|language=ドイツ語
}}
== 関連項目 ==
* [[軌間]]
* [[広軌]]
* [[狭軌]]
* [[日本の改軌論争]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ひようしゆんき}}
[[Category:軌間]] | 2003-03-14T08:22:22Z | 2023-09-29T01:46:08Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E6%BA%96%E8%BB%8C |
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'''3月19日'''(さんがつじゅうくにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から78日目([[閏年]]では79日目)にあたり、年末まであと287日ある。
== できごと ==
[[Image:Jingmen002.jpg|thumb|180px|[[崖山の戦い]](1279)で[[モンゴル]]が[[南宋]]を滅ぼす。画像は記念公園]]
[[Image:Lowell_blink_comparator.jpg|thumb|120px|[[冥王星]]の最初の写真が撮影される(1915)。画像は検出に用いられたブリンクコンパレータ]]
[[Image:Sydney_Harbour_Bridge_from_Circular_Quay.jpg|thumb|250px|[[シドニー]]の[[ハーバーブリッジ]]開通(1932)]]
* [[681年]](天武天皇10年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[天武天皇]]が[[飛鳥浄御原令]]の制定を命ずる{{要出典|date=2021-03}}。
* [[1279年]]([[祥興]]2年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[崖山の戦い]]。[[モンゴル]]により[[南宋]]が滅亡。
<!-- 8月19日? * [[1839年]] - [[ルイ・マンデ・ダゲール]]、世界初の実用的[[カメラ]]「[[ダゲレオタイプ]]」を発表。 -->
* [[1853年]] - [[太平天国の乱]]: 太平天国軍が江寧([[南京市|南京]])を陥落。「天京」と改称して首都とし、太平天国の王朝を樹立。
* [[1865年]]- [[南北戦争]]: [[ベントンビルの戦い]]が始まる。
* [[ 1882年]] - [[サグラダ・ファミリア]]の建設が開始される。
<!--{{listen|filename=JOHN MICHEL CELLO-DVORAK CELLO CONCERTO IN B MINOR 1st.ogg|title=ドヴォルザーク『チェロ協奏曲ロ短調作品104』第1楽章|description=1896年初演。演奏はJohn Michel}}-->
* [[1885年]] - [[カナダ]]・[[サスカチュワン州]]で[[ルイ・リエル]]が再び連邦政府に対する反乱を開始。
* [[1896年]] - [[アントニン・ドヴォルザーク]]の[[チェロ協奏曲 (ドヴォルザーク)|チェロ協奏曲]]が[[ロンドン]]で初演。{{Audio|JOHN MICHEL CELLO-DVORAK CELLO CONCERTO IN B MINOR 1st.ogg|第1楽章を聴く}}
* [[1906年]] - [[イギリス]]が満州の門戸開放を要求。
* [[1915年]] - [[冥王星]]が初めて[[写真]]に捉えられるが、当時は[[惑星]]だと認識されず。
* [[1920年]] - アメリカ合衆国上院が[[ヴェルサイユ条約]]の[[批准]]を否決する。
* [[1926年]] - 東京市[[巣鴨]]から出火。折からの烈風で延焼、597戸が焼失<ref>「東京巣鴨で大火」『東京日日新聞』1926年(大正15年)3月20日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.67 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
<!-- 5月11日? * [[1927年]] - [[アカデミー賞]]設立記念日。アメリカで[[映画芸術科学アカデミー]](AMPAS)が設立された。 -->
* [[1931年]] - アメリカ合衆国[[ネバダ州]]が[[賭博|ギャンブル]]を合法化する。
* [[1932年]] - [[シドニー]]の[[シドニー・ハーバー・ブリッジ|ハーバーブリッジ]]が開通。
* [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]: [[アドルフ・ヒトラー]]が[[ドイツ]]国内の[[インフラ]]破壊を指令。([[ネロ指令]])
* 1945年 - 第二次世界大戦・[[九州沖航空戦]]: [[アメリカ海軍]]の[[航空母艦]]「[[フランクリン (空母)|フランクリン]]」が[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[爆撃機]]「[[銀河 (航空機)|銀河]]」1機の攻撃を受け大破、724名の死者を出す。
* 1945年 - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[名古屋大空襲]]。
* [[1949年]] - 東京の[[定期観光バス]]「[[はとバス]]」が運行開始。
* [[1950年]] - 世界平和擁護大会常任委員会第3回総会で[[原子爆弾|原爆]]禁止の[[ストックホルム・アピール]]を採択。
* [[1951年]] - [[イラン]]で、国内のイギリス資本の石油会社を国有化する法律が成立。
* [[1953年]] - 国鉄[[日田彦山線]][[釈迦岳 (大分県・福岡県)|釈迦ヶ岳]]トンネルの工事現場で落盤が発生。死者21人、重軽傷者4人<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=91|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1955年]] - [[第2次鳩山一郎内閣]]が成立。<!-- * [[1956年]] - 旭通信社(現在の[[アサツー ディ・ケイ|ADK]])設立。 -->
* [[1960年]] - [[福岡県]][[久留米市]]の国立療養所久留米病院(後に[[国立病院機構九州医療センター]]に統合)で火災。患者11人が焼死<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部編 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010 |page=143|isbn=9784816922749}}</ref>。
* [[1962年]] - [[アルジェリア戦争|アルジェリア独立戦争]]が停戦。
<!-- * [[1969年]] - ニチボーと日本レイヨンが合併して[[ユニチカ]]が発足。 -->
* [[1970年]] - [[ヴィリー・ブラント]][[西ドイツ|西独]]首相と[[ヴィリー・シュトフ]][[ドイツ民主共和国|東独]]首相が[[エアフルト]]で初の東西ドイツ[[首脳会談]]。
* [[1972年]] - [[インド]]と[[バングラデシュ]]が友好条約に調印。
* [[1973年]] - [[欧州共同体]]6か国の[[変動相場制]]への移行が決定。[[スミソニアン協定|スミソニアン体制]]が崩壊。
<!-- * 1973年 - [[コナミ]]設立。 -->
* [[1974年]] - [[兵庫県]][[西宮市]]の[[知的障害者]]施設の[[浄化槽]]から幼児2名の遺体が発見される。([[甲山事件]])
* [[1974年]] - [[蔵前国技館]]で[[アントニオ猪木]]が[[国際プロレス]]を離脱した[[ストロング小林]]と対戦し、[[原爆固め]]で勝ち、[[NWF世界ヘビー級王座]]初防衛。
* [[1977年]] - 石川県の[[尾小屋鉄道]]がこの日限りで廃止。
* [[1982年]] - [[アルゼンチン]]軍が[[南ジョージア島]]に上陸し、[[フォークランド紛争]]が始まる。
* [[1987年]] - 北海道の[[日本国有鉄道|国鉄]][[湧網線]]がこの日限りで廃止。
* [[1989年]] - [[都営地下鉄新宿線]]が全線開通。
* [[1991年]] - [[成田空港高速鉄道]]の[[成田駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[成田線]])と[[京成電鉄]][[京成成田駅]] - [[成田空港駅]]間が開通。
* [[1997年]] - [[東電OL殺人事件]]発生。
<!-- 特記するほどではない * [[1998年]] - [[九州旅客鉄道|JR九州]][[筑肥線]]で脱線事故。 -->
* [[2002年]] - [[アメリカのアフガニスタン侵攻]]:[[ターリバーン]]や[[アルカーイダ]]を多数殺害し、アナコンダ作戦が終了。
* [[2003年]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]による[[イラクの自由作戦]]の開始。[[イラク戦争]]開戦。
* 2003年 - [[東京メトロ半蔵門線|営団地下鉄半蔵門線]][[水天宮前駅]] - [[押上駅]]間開通。[[東急田園都市線]] - [[東武伊勢崎線]]の相互直通運転開始。
* [[2004年]] - [[2004年中華民国総統選挙]]: 現職の[[陳水扁]]候補が[[台南]]を遊説中に狙撃され負傷。
* [[2008年]] - [[土浦連続殺傷事件]]の最初の事件が起こる。
* [[2011年]] - [[北関東自動車道]][[太田桐生インターチェンジ|太田桐生IC]]([[群馬県]][[太田市]]) - [[佐野田沼インターチェンジ|佐野田沼IC]]([[栃木県]][[佐野市]])間の18.6kmが開通。これにより同自動車道が全線開通した<ref>{{Cite press release |和書 |title=北関東自動車道全線開通後の1年間の交通状況と整備効果についてお知らせします |publisher=東日本高速道路株式会社 関東支社 |date=2012年4月23日 |url=https://www.e-nexco.co.jp/pressroom/kanto/2012/0423/00007869.html |accessdate=2018-02-23}}</ref>。
* [[2017年]] - [[上武道路]] ([[国道17号]])が全線開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://takasaki.keizai.biz/headline/2928/ |title=「上武道路」いよいよ全線開通 決定から47年、長く短く |access-date=2022-09-06 |publisher=高崎前橋経済新聞}}</ref>。
* [[2018年]] - [[キタシロサイ]]最後のオス、[[スーダン (サイ)|スーダン]]が死去し、絶滅が事実上確定<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20180320122941/https://www.jiji.com/jc/article?k=2018032001025&g=int|title=キタシロサイ、最後の雄死ぬ=乱獲の末、事実上の絶滅-ケニア|newspaper=時事通信社|date=2018-03-20|accessdate=2018-03-21}}</ref>。
* [[2022年]] - [[2022年トルクメニスタン大統領選挙|トルクメニスタン大統領選挙]]に勝利した[[セルダル・ベルディムハメドフ]]が第3代となる[[トルクメニスタンの大統領]]に就任<ref name="cgtn20220319">{{Cite news|url=https://news.cgtn.com/news/2022-03-19/Serdar-Berdimuhamedow-sworn-in-as-Turkmen-president-18wRiIdxJFm/index.html|title=Serdar Berdimuhamedow sworn in as Turkmen president|agency=[[CGTN]]|date=2022-03-19|accessdate=2022-03-20}}</ref>。
== 誕生日 ==
[[Image:La_Tour.jpg|thumb|240px|画家[[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]](1593-1652)誕生。画像は『聖ヨセフ』(1642)]]
[[Image:Alexis_I_of_Russia_(Hermitage).jpg|thumb|upright|モスクワ大公[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ ]](1629-1676)誕生。[[ツァーリズム|ツァーリ専制]]を確立]]
[[Image:David_Livingstone_memorial_at_Victoria_Falls%2C_Zimbabwe.jpg|thumb|upright|アフリカ大陸を横断した探検家[[デービッド・リビングストン]](1813-1873)]]
[[Image:RichardFrancisBurton.jpeg|thumb|upright|『[[千夜一夜物語|アラビアン・ナイト]]』の翻訳でも知られる語学の天才、探検家[[リチャード・フランシス・バートン]](1821-1890)]]
[[Image:Albert_Speer_Neurenberg.JPG|thumb|upright|[[ナチス・ドイツ]]の生き証人、政治家[[アルベルト・シュペーア]](1905-1981)]]
=== 人物 ===
* [[1434年]]([[永享]]6年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]) - [[足利義勝]]、[[室町幕府]]7代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1443年]])
* [[1593年]] - [[ジョルジュ・ド・ラ・トゥール]]、[[画家]](+ [[1652年]])
* [[1629年]] - [[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]]、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]](+ [[1676年]])
* [[1734年]] - [[トマス・マッキーン]]、[[政治家]]、[[弁護士]](+ [[1817年]])
* [[1746年]]([[延享]]3年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - [[松平信亨]]、[[上山藩|上山藩主]](+ [[1796年]])
* [[1770年]]([[明和]]7年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[松平忠宝]]、[[尼崎藩|尼崎藩主]](+ [[1829年]])
* [[1782年]] - [[ヴィルヘルム・フォン・ビーラ]]、[[天文学者]](+ [[1856年]])
* [[1799年]] - [[ウィリアム・ドーズ]]、天文学者(+ [[1868年]])
* [[1801年]] - [[サルヴァトーレ・カンマラーノ]]、[[オペラ]]台本作家(+ [[1852年]])
* [[1813年]] - [[デービッド・リビングストン]]、[[探検家]](+ [[1873年]])
* [[1817年]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[谷衛滋]]、[[山家藩|山家藩主]](+ [[1875年]])
* [[1821年]] - [[リチャード・フランシス・バートン]]、探検家、[[人類学|人類学者]](+ [[1890年]])
* [[1832年]] - [[ヴァーンベーリ・アールミン]]、[[東洋学|東洋学者]]、旅行者(+ [[1913年]])
* [[1848年]] - [[ワイアット・アープ]]、[[ガンマン]](+ [[1929年]])
* 1848年 - [[ジョージ・ロマネス]]、[[生物学者の一覧|生物学者]](+ [[1894年]])
* [[1849年]] - [[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]、ドイツの海軍[[軍人]]、海軍大臣(+ [[1930年]])
* [[1855年]] - [[デイヴィッド・ペック・トッド]]、天文学者(+ [[1939年]])
* [[1858年]]([[咸豊]]8年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[康有為]]、政治家、[[思想家]](+ [[1927年]])
* [[1867年]]([[慶応]]3年[[2月14日 (旧暦)|2月14日]]) - [[豊田佐吉]]、[[発明家]]、[[豊田自動織機]]創業者(+ [[1930年]])
* [[1871年]] - [[ジョー・マクギニティ]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1929年]])
* [[1873年]] - [[マックス・レーガー]]、[[作曲家]](+ [[1916年]])
* [[1875年]] - [[張作霖]]、[[中華民国]]初期の軍閥政治家(+ [[1928年]])
* [[1881年]] - [[森田草平]]、[[小説家]](+ [[1949年]])
* [[1883年]] - [[ウォルター・ハース]]、[[化学者]](+ [[1950年]])
* [[1886年]] - [[原石鼎]]、[[俳人]](+ [[1951年]])
* [[1887年]] - [[ホセ・メンデス]]、元プロ野球選手(+ 1928年)
* 1887年 - [[竹下しづの女]]、俳人(+ 1951年)
* [[1888年]] - [[ヨゼフ・アルバース]]、[[美術家]](+ [[1976年]])
* [[1889年]] - [[マヌエル2世 (ポルトガル王)|マヌエル2世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]最後の[[ポルトガル君主一覧|国王]](+ [[1932年]])
* [[1891年]] - [[アール・ウォーレン]]、[[カリフォルニア州]]知事、[[アメリカ合衆国最高裁判所長官]](+ [[1974年]])
* [[1893年]] - [[ヘンリー・ギルマン]]、[[化学者]](+ [[1986年]])
* [[1894年]] - [[ビル・ワムズガンス]]、元プロ野球選手(+ [[1985年]])
* [[1896年]] - [[谷村貞治]]、[[花巻東高等学校]]創立者(+ [[1968年]])
* [[1898年]] - [[芝祐泰]]、[[雅楽|雅楽家]](+ [[1982年]])
* [[1899年]] - [[時雨音羽]]、[[作詞家]](+ [[1980年]])
* [[1900年]] - [[フレデリック・ジョリオ=キュリー]]、[[物理学者]](+ [[1958年]])
* [[1901年]] - [[中村梅吉]]、[[政治家]]・第57代[[衆議院議長]](+ [[1984年]])
* [[1904年]] - [[阿部五郎]]、政治家(+ [[1963年]])
* [[1905年]] - [[アルベルト・シュペーア]]、[[ナチス・ドイツ]]の建築家(+ [[1981年]])
* [[1906年]] - [[アドルフ・アイヒマン]]、ナチス・ドイツの[[ホロコースト]]指揮者(+ [[1962年]])
* [[1908年]] - [[ジョージ・ロジャー]]、[[写真家]](+ [[1995年]])
* [[1910年]] - [[堀一郎]]、[[宗教学者]](+ [[1974年]])
* [[1911年]] - [[江口朴郎]]、[[歴史家|歴史学者]](+ [[1989年]])
* [[1912年]] - [[アドルフ・ガーランド]]、[[第二次世界大戦]]時の[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1996年]])
* [[1917年]] - [[ディヌ・リパッティ]]、[[ピアニスト]](+ [[1950年]])
* [[1918年]] - [[福永武彦]]、[[小説家]](+ [[1979年]])
* [[1919年]] - [[レニー・トリスターノ]]、[[ジャズ]][[ピアニスト]](+ [[1978年]])
* [[1922年]] - [[小野田寛郎]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[少尉]](+ [[2014年]])
* 1922年 - [[石橋一弥]]、政治家(+ [[1999年]])
* [[1924年]] - [[磯貝碧蹄館]]、[[書家]]、[[詩人]](+ [[2013年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500O_V20C13A3CC0000/|title=磯貝碧蹄館氏が死去 俳人|publisher=日本経済新聞|date=2013-03-25|accessdate=2020-10-29}}</ref>)
* [[1926年]] - [[天野哲夫|天野哲夫(沼正三)]]、小説家(+ [[2008年]])
* [[1927年]] - [[アレン・ニューウェル]]、[[人工知能]]研究者(+ [[1992年]])
* 1927年 - [[リッチー・アシュバーン]]、元プロ野球選手(+ [[1997年]])
* [[1928年]] - [[パトリック・マクグーハン]]、俳優、脚本家、映像作品監督、プロデューサー(+ [[2009年]])
* [[1929年]] - [[平山亨]]、[[映画監督]]、[[テレビプロデューサー]](+ [[2013年]])
* 1929年 - [[三遊亭金馬 (4代目)]]、[[落語家]] (+ [[2022年]])
* [[1931年]] - [[エッマ・アンドリエーヴシカ]]、[[詩人]]、[[作家]]、[[画家]]
* [[1933年]] - [[フィリップ・ロス]]、小説家(+ [[2018年]])
* [[1936年]] - [[ウルスラ・アンドレス]]、[[俳優|女優]]
* [[1937年]] - [[渕上貞雄]]、政治家 (+ [[2023年]])
* 1937年 - [[エゴン・クレンツ]]、元[[ドイツの大統領|東ドイツ国家評議会議長]]
* [[1938年]] - [[鄭夢九]]、[[実業家]]
* [[1943年]] - [[マリオ・モリーナ]]、化学者(+ [[2020年]])
* 1943年 - [[ヴァーン・シュパン]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]]
* [[1946年]] - [[鈴木正幸]]、[[俳優]]
* 1946年 - [[蛸島彰子]]、[[女流棋士 (将棋)|女流将棋棋士]]
* [[1947年]] - [[グレン・クローズ]]、女優
* 1947年 - [[ゲーリー・ジェスタッド|ゲーリー・ジェスター]]、元プロ野球選手
* 1947年 - [[鳳芳野]]、[[声優]]
* [[1948年]] - [[朱里エイコ]]、[[歌手]](+ [[2004年]])
* [[1949年]] - [[平野博文]]、政治家
* [[1950年]] - [[岡田繁幸]]、実業家(+ [[2021年]])
* 1950年 - [[大受久晃]]、元[[大相撲]][[力士]]
* 1950年 - [[善岡雅文]]、政治家
* [[1953年]] - [[潘恵子]]、声優(戸籍上は[[4月5日]])
* 1953年 - [[北橋健治]]、政治家
* 1953年 - [[ビリー・シーン]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[MR. BIG (アメリカのバンド)|MR. BIG]])
* [[1955年]] - [[ブルース・ウィリス]]、[[映画俳優]]
* 1955年 - [[頭師佳孝]]、俳優
* [[1956年]] - [[江田康幸]]、政治家
* 1956年 - [[森一晃]]、元プロ野球選手
* [[1957年]] - [[尾崎亜美]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1958年]] - [[中多和宏]]、[[声優]]
* 1958年 - [[赤坂東児]]、作曲家
* 1958年 - [[アンディ・リード (アメリカンフットボール)|アンディ・リード]]、[[アメリカンフットボール]]コーチ
* [[1959年]] - [[森厚三]]、元プロ野球選手
* [[1960年]] - [[川端順]]、元プロ野球選手
* 1960年 - [[イリアーヌ・イリアス]]、ジャズピアニスト
* [[1961年]] - [[いとうせいこう]]、小説家
* [[1962年]] - [[岩崎元是]]、[[作曲家]]
* [[1963年]] - [[内山正博 (競馬)|内山正博]]、元[[騎手]]、[[調教助手]]
* 1963年 - [[熊谷幸子]]、[[シンガーソングライター]]
* [[1964年]] - [[北原佐和子]]、歌手、[[俳優|女優]]
* [[1966年]] - [[マイケル・スリプチュク]]、[[フィギュアスケート]]選手
* 1966年 - [[蒲田健]]、[[ラジオパーソナリティ]]
* [[1968年]] - [[米崎薫臣]]、元プロ野球選手
* [[1969年]] - [[蛯名正義]]、元[[騎手]]、調教師
* 1969年 - [[野田知]]、元[[サッカー選手]]、指導者
* 1969年 - [[浪乃花教天]]、元大相撲力士
* [[1970年]] - [[ミハエル・クルム]]、レーシングドライバー
* [[1971年]] - [[ナジャ・アウアマン]]、[[ファッションモデル]]
* 1971年 - [[D・T・クローマー]]、元プロ野球選手
* [[1972年]] - [[稲森いずみ]]、女優
* 1972年 - [[久保恵子]]、[[タレント]]
* 1972年 - [[長谷川朝晴]]、俳優
* [[1973年]] - [[武内由紀子]]、タレント
* [[1974年]] - [[後藤浩輝]]、騎手(+ [[2015年]])
* 1974年 - [[横山義行]]、元騎手
* [[1975年]] - [[ビビアン・スー]]、タレント
* [[1976年]] - [[アレッサンドロ・ネスタ]]、元[[サッカー選手一覧|サッカー選手]]
* 1976年 - [[光市母子殺害事件|本村洋]]、[[全国犯罪被害者の会]]幹事
* 1976年 - [[市川喜康]]、ミュージシャン
* 1976年 - [[市川実和子]]、[[俳優|女優]]
* 1976年 - [[Ikoman]]、[[編曲家|アレンジャー]]
* 1976年 - [[メグちゃん]]、お笑いタレント
* [[1977年]] - [[岡田義徳]]、俳優
* 1977年 - [[萩原達也]]、元プロ野球審判員
* 1977年 - [[小原明大]]、政治家
* [[1978年]] - [[杉村一樹]]、元騎手
* 1978年 - [[黒須克彦]]、作曲家
* [[1979年]] - [[イワン・リュビチッチ]]、[[テニス]]選手
* 1979年 - [[ヘド・ターコルー]]、バスケットボール選手
* [[1980年]] - [[下川みくに]]、[[歌手]]
* 1980年 - [[タイチ (プロレスラー)|タイチ]]、[[プロレスラー]]
* [[1981年]] - Giz'Mo、ミュージシャン([[Jam9]])
* 1981年 - 伊藤こう大、お笑い芸人([[こりゃめでてーな]])
* 1981年 - [[コロ・トゥーレ]]、元サッカー選手
* 1982年 - [[黒崎優]]、ストリッパー
* 1982年 - [[嘉風雅継]]、元大相撲力士
* 1982年 - [[安藤桃子]]、映画監督
* [[1983年]] - [[いのうえのぞみ]]、[[グラビアアイドル]]、タレント
* 1983年 - [[小山知良]]、[[オートバイ競技|モーターサイクルロードレーサー]]
* [[1985年]] - [[梅澤レナ]]、[[ファッションモデル]]
* 1985年 - [[岡野絵里]]、お笑いタレント([[パシンペロン]])
* [[1986年]] - [[若木萌]]、グラビアアイドル、タレント([[innes]])
* [[1987年]] - [[金丸将也]]、元プロ野球選手
* 1987年 - [[金原早苗]]、お笑いタレント
* [[1988年]] - [[ALEX (ファッションモデル)|Alex]]、ファッションモデル(元[[ONE OK ROCK]])
* 1988年 - [[レオ・シン]]、サッカー選手
* 1988年 - [[クレイトン・カーショウ]]、プロ野球選手
* 1988年 - [[浜田亜理沙]]、[[競艇選手|ボートレーサー]]
* 1988年 - [[弥香]]、女優
* [[1989年]] - [[小林豊 (俳優)|小林豊]]、俳優
<!-- 生年の出典が不明 * [[1990年]] - [[太田暁音]]、[[陸上競技]]選手 -->
* [[1990年]] - [[ERICA]]、モデル
* [[1991年]] - [[アレクサンドル・ココリン]]、サッカー選手
* 1991年 - [[三遊亭楽㐂]]、落語家
* [[1992年]] - 椎木知仁、ミュージシャン([[My Hair is Bad]])
* [[1993年]] - [[Mr.シャチホコ]]、[[ものまねタレント]]
* 1993年 - [[金太郎 (格闘家)|金太郎]]、[[総合格闘家]]
* [[1994年]] - [[犬塚あさな]]、タレント、元アイドル(元[[SKE48]])
* [[1996年]] - [[あおいれな]]、[[AV監督]]、元AV女優、YouTuber
* 1996年 - [[御山真悠]]、プロ野球選手
* [[1998年]] - [[宮脇咲良]]、アイドル([[LE SSERAFIM]]、元[[HKT48]]、元[[IZ*ONE]])
* 1998年 - [[谷かえ]]、グラビアアイドル
* [[1999年]] - [[田城飛翔]]、元プロ野球選手
* 1999年 - [[大島璃音]]、気象キャスター
* [[2001年]] - [[齋藤美雪]]、グラビアアイドル
* 2001年 - ウンソク、ボーイズグループ([[RIIZE]])
* [[2003年]] - [[秋田汐梨]]、モデル、女優
* 2003年 - 成瀬知瑠、アイドル(ほーむたいがー)
* [[2004年]] - [[鈴木心緒]]、タレント
* 生年不明 - [[石見翔子]]、[[漫画家]]
* 生年不明 - [[川野剛稔]]、声優
* 生年不明 - [[鈴木貴宏]]、元声優
* 生年不明 - [[中恵光城]]、歌手、声優
=== 人物以外(動物など) ===
* [[1980年]] - [[シャダイソフィア]]、[[競走馬]](+ [[1985年]])
* [[1990年]] - [[トーワウィナー]]、競走馬
* 1990年 - [[マーベラスクラウン]]、競走馬(+ [[2007年]])
* [[1993年]] - [[エリモシック]]、競走馬(+ [[2014年]])
* [[1997年]] - [[ユウフヨウホウ]]、競走馬
* [[2001年]] - [[ポップロック (競走馬)|ポップロック]]、競走馬
== 忌日 ==
=== 人物 ===
[[Image:Ibn_Khaldoun-Kassus.jpg|thumb|upright|イスラームの大歴史家、[[イブン・ハルドゥーン]](1332-1406)没]]
[[Image:Hasegawa Tohaku - Pine Trees (Shōrin-zu byōbu) - right hand screen.jpg|thumb|400px|[[安土桃山時代]]の絵師、[[長谷川等伯]](1539-1610)没。画像は『松林図』右隻]]
<!--[[Image:Arthur_James_Balfour00.jpg|thumb|upright|イギリスの政治家[[アーサー・バルフォア]](1848-1930)没。[[ユダヤ人]]国家建設を支持する[[バルフォア宣言]]を発した]]-->
[[Image:Fujishima_Takeji-Black_Fan.jpg|thumb|160px|洋画家、[[藤島武二]](1867-1943)没。画像は『黒扇』(1908)]]
<!--[[Image:Princess of Mars.jpg|thumb|240px|SF作家[[エドガー・ライス・バローズ]](1875-1950)没。-->
<!--[[Image:E-R-Burroughs.jpg|thumb|upright|SF作家[[エドガー・ライス・バローズ]](1875-1950)没。『[[ターザン]]』シリーズで知られる]]-->
[[Image:Broglie_Big.jpg|thumb|upright|物理学者[[ルイ・ド・ブロイ]](1892-1987)没。[[ド・ブロイ波]]を提唱]]
* [[1205年]]([[元久]]2年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[藤原隆信]]、[[平安時代]]の[[公卿]]、[[画家]](* [[1142年]])
* [[1238年]] - [[ヘンリク1世]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](* [[1163年]])
* [[1255年]]([[建長]]7年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[雅成親王]]、[[鎌倉時代]]の[[皇族]](* [[1200年]])
* [[1279年]]([[祥興]]2年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]) - [[陸秀夫]]、[[南宋]]の重臣(* [[1236年]])
* 1279年(祥興2年2月6日) - 趙昺(衛王、[[祥興帝]])、第9代南宋[[皇帝]](* [[1272年]])
* [[1286年]] - [[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]、スコットランド王(* [[1241年]])
* [[1566年]]([[永禄]]9年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[有馬晴純]]、[[肥前国]]の[[戦国大名]](* [[1483年]])
* [[1610年]]([[慶長]]15年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]) - [[長谷川等伯]]、[[絵師]](* [[1539年]])
<!--* [[1662年]] - [[エッバ・スパッレ]]、[[スウェーデン]][[女王]][[クリスティーナ]]の[[女官]](* [[1629年]])-->
* [[1674年]]([[延宝]]2年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[松平定長]]、第3代[[伊予松山藩|伊予松山藩主]](* [[1640年]])
* [[1687年]] - [[ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール]]、[[探検家]](* [[1643年]])
* [[1697年]] - [[ニコラウス・ブルーンス]]、[[作曲家]](* [[1665年]])
* [[1721年]] - [[クレメンス11世 (ローマ教皇)|クレメンス11世]]、第243代[[ローマ教皇]](* [[1649年]])
* [[1819年]] - [[フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ]]、[[哲学|哲学者]](* [[1743年]])
* [[1829年]] - [[ジョン・テイラー (ニューヨーク州知事)|ジョン・テイラー]]、[[ニューヨーク州知事]](* [[1742年]])
* [[1884年]] - [[エリアス・リョンロート]]、[[文献学|文献学者]](* [[1802年]])
* [[1900年]] - [[シャルル=ルイ・アノン]]、作曲家(* [[1819年]])
* [[1908年]] - [[エドゥアルト・ツェラー]] ([[:en:Eduard Zeller|Eduard Zeller]])、哲学者(* [[1814年]])
* [[1909年]] - [[ジェームス・ハチソン・スターリング]]、哲学者(* [[1820年]])
* [[1914年]] - [[ジュゼッペ・メルカリ]]、[[地震学|地震学者]](* [[1850年]])
* [[1916年]] - [[ワシーリー・スリコフ]]、画家(* [[1848年]])
* [[1926年]] - [[ビル・ハッチソン (野球)|ビル・ハッチソン]]、プロ野球選手(* [[1859年]])
* [[1928年]] - [[岩下清周]]、[[実業家]](* [[1857年]])
* [[1930年]] - [[ヘンリー・フォールズ]]、[[指紋]]研究家(* [[1843年]])
* 1930年 - [[アーサー・バルフォア]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1848年]])
* [[1943年]] - [[藤島武二]]、画家(* [[1867年]])
* 1943年 - [[フランク・ニッティ]]、[[ギャング|ギャングスタ]](* [[1888年]])
* [[1945年]] - [[折口春洋]]、[[日本文学研究者|国文学者]](* [[1907年]])
* [[1950年]] - [[エドガー・ライス・バローズ]]、[[SF作家]](* [[1875年]])
* 1950年 - [[ウォルター・ハース]]、[[化学者]](* [[1883年]])
* [[1954年]] - [[ヴァルター・ブラウンフェルス]]、作曲家(* [[1882年]])
* [[1965年]] - [[ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ]]、[[ルーマニア]]の指導者(* [[1901年]])
* 1965年 - [[エドワード・ベイリー]]、[[地質学|地質学者]](* [[1881年]])
* [[1972年]] - [[林平馬]]、[[政治家]](* [[1883年]])
* [[1974年]] - [[アン・クライン]]、[[ファッションデザイナー]](* [[1923年]])
* [[1976年]] - [[ポール・コゾフ]]、[[ギタリスト]](* [[1950年]])
* [[1978年]] - [[ガストン・ジュリア]]、[[数学者]](* [[1893年]])
* [[1982年]] - [[ランディ・ローズ]]、[[ギタリスト]](* [[1956年]])
* [[1983年]] - [[戸川猪佐武]]、[[政治評論家]](* [[1923年]])
* [[1985年]] - [[永沢富士雄]]、元[[プロ野球選手]](* [[1904年]])
* [[1987年]] - [[ルイ・ド・ブロイ]]、[[物理学者]](* [[1892年]])
* [[1989年]] - [[アラン・シヴィル]]、[[ホルン]]奏者(* [[1929年]])
* [[1990年]] - [[根本龍太郎]]、政治家、[[内閣官房長官]](* [[1907年]])
* 1990年 - [[アンドリュー・ウッド]]、[[歌手]]、[[シンガーソングライター]](* [[1966年]])
* [[1995年]] - [[山田康雄]]、[[俳優]]、[[声優]](* [[1932年]])
* [[1996年]] - [[ヴァージニア・ヘンダーソン]]、[[看護学|看護学者]](* [[1897年]])
* 1996年 - [[陳景潤]]、数学者(* [[1933年]])
* [[1997年]] - [[ウィレム・デ・クーニング]]、画家(* [[1904年]])
* [[1998年]] - [[大隅健一郎]]、[[法学者]](* 1904年)
* [[2003年]] - [[華倫変]]、[[漫画家]](* [[1974年]])
* 2003年 - [[冬木弘道]]、[[プロレスラー]](* [[1960年]])
* 2003年 - [[小野正一]]、元プロ野球選手(* [[1933年]])
* [[2004年]] - 四世[[井上八千代]]、[[日本舞踊|日本舞踊家]](* [[1905年]])
* [[2005年]] - ジョン・デロリアン ([[:en:John DeLorean|John DeLorean]])、[[デロリアン|DMC]]社長(* [[1925年]])
* [[2006年]] - [[坂本三十次]]、政治家(* [[1923年]])
* 2006年 - [[チャニング・ポロック]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](* [[1926年]])
* [[2007年]] - [[石野久男]]、[[日本社会党]][[衆議院議員]](* [[1911年]])
* 2007年 - [[ルーサー・イングラム]]、[[ソウルミュージック|ソウル]]歌手(* [[1937年]])
* 2007年 - [[太宰義人]]、[[調教師]](* [[1945年]])
* [[2008年]] - [[アーサー・C・クラーク]]、SF作家(* [[1917年]])
* 2008年 - [[ポール・スコフィールド]]、俳優(* [[1922年]])
* [[2012年]] - [[吉田あつし]]、[[経済学者]](* [[1958年]])
* [[2014年]] - [[安西水丸]]、[[イラストレーター]](* [[1942年]])
* [[2015年]] - 3代目[[桂米朝 (3代目)|桂米朝]]、[[落語家]](* [[1925年]])
* [[2016年]] - [[夏樹静子]]、小説家(* [[1938年]])
* [[2017年]] - [[岡崎トミ子]]、政治家(* [[1944年]])
* [[2018年]] - [[青木裕]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000153116|title=downyのギタリスト青木裕、逝去|publisher=BARKS|date=2018-03-20|accessdate=2020-11-18}}</ref>、ギタリスト(* [[1970年]])
* [[2021年]] - [[岡田繁幸]]、実業家(* [[1950年]])
=== 人物以外(動物など) ===
* [[2023年]] - [[まさお君#まさはる君|まさはる君]]、『[[ペット大集合!ポチたま#まさはる君が行く!ポチたまペットの旅→まさはる君が行く!ポチたまペット大集合|まさはる君が行く!ポチたまペット大集合]]』に出演していた[[ラブラドール・レトリバー]](* [[2012年]])
== 記念日・年中行事 ==
[[Image:Mascleta 2004b.JPG|thumb|220px|サン・ホセの火祭り]]
* サン・ホセの[[火祭り (バレンシア)|火祭り]]({{ESP}}[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]])
* ミュージックの日({{JPN}})
*: 音楽関係者の労働団体・[[日本音楽家ユニオン]]が[[1991年]]に制定。「ミュー(3)ジック(19)」の語呂合せ。
* 立庁記念日({{JPN}}[[神奈川県]])
*: [[慶応]]4年([[1868年]])のこの日、明治政府が、幕府から接収した神奈川奉行所を現在の県庁に相当する横浜裁判所に改めたことを記念し、神奈川県庁が制定。
* [[聖ヨセフの日]]
{{-}}
==フィクションのできごと==
=== 誕生日(フィクション) ===
* 生年不明 - 天宮さくら、ゲーム・アニメ『[[新サクラ大戦]]』の主人公<ref>{{Twitter status|Sakura_Taisen|1240473674567651328}}</ref>
* 生年不明 - アトモス、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/atmos.html |title=アトモス |access-date=2022-09-11 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]] |work=ONE PIECE.com}}</ref>
* 生年不明 - A・フランケンシュタイナー、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1240293136989065216}}</ref>
* 生年不明 - 魚座のルゴニス 、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1505080104023646210}}</ref>
* 生年不明 - 天立星ドリュアスのルコ 、漫画・アニメ『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1505080152727896068}}</ref>
* 生年不明 - ラフィエル、漫画・アニメ『[[ガヴリールドロップアウト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://gabdro.com/chara4.html |title=ラフィエル(CV:花澤香菜)白羽=ラフィエル=エインズワース |work=『ガヴリールドロップアウト』 |accessdate=2022-09-11 |publisher=[[うかみ]]/[[KADOKAWA]] [[アスキー・メディアワークス]]/ガヴリールドロップアウト製作委員会}}</ref>
* 生年不明 - 栗木容子、アニメ『[[絶対無敵ライジンオー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.eldran.net/raijin-oh/chara/index.html |title=5年3組地球防衛組 栗木 容子 |access-date=2022-09-11 |publisher=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]] |work=『絶対無敵ライジンオー』}}</ref>
* 生年不明 - アベルト・デスラー、アニメ『[[宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|yamato2202game|1240609070417162240}}</ref>
* 生年不明 - 無豹条、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22 |url=https://corocoro.jp/special/68074/ |title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!! |website=コロコロオンライン |publisher=[[小学館]] |page=1 |accessdate=2022-09-11}}</ref>
* 生年不明 - マルチ、ゲーム『[[To Heart]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|AQUAPLUS_JP|1504835017893052418}}</ref>
* 生年不明 - 長富蓮実、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20111 |title=長富 蓮実(ながとみ はすみ) |access-date=2022-09-11 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]] |work=THE IDOLM@STERアイドル名鑑}}</ref>
* 生年不明 - 弥生春、キャラクターCD・アニメ『[[ツキウタ。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://tsukino-pro.com/tsukiuta/character/haru |title=弥生 春 |access-date=2022-09-11 |work=ツキウタ。}}</ref>
* 生年不明 - 高崎瑠依、ゲーム『[[ガールフレンド(仮)|ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://app.famitsu.com/20130328_145344/ |title=【ガールフレンド(仮)通信06】紅茶大好きイングリッシュガール 高崎瑠依ちゃん(CV:田村奈央) |access-date=2022-09-11 |publisher=ファミ通App}}</ref>
* 生年不明 - 新百合ほこね、ゲーム『[[ステーションメモリーズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ekimemo|1240435335022157826}}</ref>
* 生年不明 - 桜木陽向、ゲーム・アニメ『[[夢色キャスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ycast.sega-net.com/cast.html |title=YUMEIRO SOMPANY 桜木 陽向 |access-date=2022-09-11 |publisher=SEGA/夢色カンパニー |work=夢キャス 【公式】夢色キャスト}}</ref>
* 生年不明 - [[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#音無いちえ|音無いちえ]]、ゲーム『[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト#アプリゲーム|少女☆歌劇 レヴュースタァライト -Re LIVE-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|starlightrelive|1107808909065154561}}</ref>
*生年不明 - 桃井愛莉、ゲーム『[[プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク|プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|pj_sekai|1372065676089643011}}</ref>
* 生年不明 - 溝端創、漫画『[[スロウスタート]]』に登場するキャラクター<ref>『[[まんがタイムきらら]]』2023年10月号、[[芳文社]]、31頁。</ref>
<!--
* 生年不明 - 張宿、漫画『[[ふしぎ遊戯]]』に登場するキャラクター
-->
== 脚注 ==
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<!--=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8819%E6%97%A5 |
3,998 | 広軌 | 広軌(こうき、broad gauge)は、鉄道線路のレール(軌条)間隔を表わす軌間が標準軌の1435mm(4フィート81⁄2インチ)を超えるものをさす。
軌間は、広ければ広いほど安定性が高くなり横風に対する安全性は増す。ただし、曲線での左右の車輪の回転数の差は軌間が広いほど大きいため、最小半径は大きくしなければならない。左右の車輪を独立して回転できるようにすることで、この問題を克服したタルゴのような例もある。
速度の向上との関連性については、蒸気機関車の場合、動輪直径を大きくできるため軌間は広いほうが有利であるが、電気機関車などの近代的動力車であれば、多少の軌間の違いはそれほど大きなハンデにはならないとされる。その例として、スペインの鉄道では、営業最高速度が220 km/hの在来線が広軌であるのに対し、350 km/hでの営業運転を計画しているAVE(高速新線)はフランス国鉄への直通運転を考慮したこともあるが、標準軌で建設されている。
イギリスの鉄道では、グレート・ウェスタン鉄道が1838年以来2140mm(7フィート1⁄4インチ)の広軌の先駆けであり、1890年代までこの軌間を維持していた。
今日でも多くの国が広軌鉄道を保有している。
2022年ロシアのウクライナ侵攻を受けて、ウクライナは旧ソ連圏の5フィート軌間(1520mm)から欧州標準軌 (1435mm)への改軌を同年5月末の会議で表明した。
両国は旧ソビエト連邦構成共和国ではないが、モンゴルの独立と国造りはソ連の支援を受けており、フィンランドはソ連よりの中立政策(フィンランド化)の下、東西貿易の販路としてソ連直通の鉄道が用いられていた。
ほか
インドでは、1800mm以上の広軌を主張する技術者と標準軌を主張するインド政府側で意見の対立があり、妥協案として1676mmとなったという。
グレート・ウェスタン鉄道では、イザムバード・キングダム・ブルネルの考案した2140mmゲージにより、車両の安定性を増し、高速化できることを期待したが、同社は初期の機関車の設計に問題があり、広軌の利点を幾分損なうこととなった。また、懸架装置の発展が早く進み、どのみち10年か20年のうちに標準軌での速度が広軌での速度に追いつくことになった。1600mmと1676mm軌間においては、幅の広い分だけ蒸気機関のシリンダを大きくでき、出力を増やすことができたが、標準軌でもシリンダを外側に配置することでこの問題を解決することができた。
米国のピッツバーグやフィラデルフィアの路面電車・地下鉄の軌間は、米国内で軌間の統一がなされていなかった19世紀中頃に建設された馬車鉄道の軌間に由来する。その後、19世紀終わりまでに幹線鉄道の軌間は標準軌へ統一されたが、市街鉄道の場合、市街の併用軌道上への貨物列車の進入を阻止したいという市当局の思惑から、標準軌と異なる軌道幅が支持され、20世紀初頭建設の路面電車を含め、5フィート前後の様々な軌間が採用される結果となった。
ナチス・ドイツでは、ブライトシュプールバーンと呼ばれる、軌間3000mmの巨大列車計画があった。
日本では地方鉄道法により、私鉄も旧国鉄線の1067mmの狭軌を超える軌間の敷設が制限されたため、狭軌が日本の標準軌間になっていた。このため1067mmを超える軌間を全て広軌と呼ぶのが一般的だった時期がある。このため、現在でも過去と同様に1435mm軌間を広軌と表現する場合もあり、近畿日本鉄道ではそれを公式の呼称としている。混同を防ぐために、1067mmは国鉄標準軌、1435mmは国際標準軌という表現も用いられていた。
国鉄分割民営化後は、国際的な広軌との混同を防ぐため、公式文書で1435mm軌間を標準軌と記述するのが基本になり、広軌とは表現しなくなった。
日本国内に国際的な広軌(軌間が1435mmを超える)営業用路線は、2017年時点、(国土交通省管轄の普通鉄道では)存在しない。
工場構内鉄道として製鉄所で広軌を採用したケースがある。1676mm軌間がJFEスチール東日本製鉄所・京浜地区(旧称・扇島地区)に用いられているほか、1435mm軌間も各地の製鉄所で用いられている(いずれも非電化)。製鉄所構内で広軌や標準軌を採用した理由は、高炉で製造された銑鉄の輸送は製鋼工場までの閉じた輸送なことと、製鉄所が立地する埋め立て地の軟弱地盤で重量物を安定輸送する設計が容易なことによる。
特殊鉄道や非指定鉄道(国土交通省管轄外の鉄道)では、広軌を導入しているケースがある。ゴムタイヤ式地下鉄では広島高速交通が1700mm(案内輪間隔 2900mm)、札幌市営地下鉄が走行輪間隔で南北線が2230mm、東西線・東豊線が2150mmである。宮ヶ瀬ダムインクラインは1600mm、野辺山宇宙電波観測所のパラボラアンテナ運搬軌道は4000mmである。 | [
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"title": "日本における広軌の定義"
}
] | 広軌は、鉄道線路のレール(軌条)間隔を表わす軌間が標準軌の1435mm(4フィート8½インチ)を超えるものをさす。 軌間は、広ければ広いほど安定性が高くなり横風に対する安全性は増す。ただし、曲線での左右の車輪の回転数の差は軌間が広いほど大きいため、最小半径は大きくしなければならない。左右の車輪を独立して回転できるようにすることで、この問題を克服したタルゴのような例もある。 速度の向上との関連性については、蒸気機関車の場合、動輪直径を大きくできるため軌間は広いほうが有利であるが、電気機関車などの近代的動力車であれば、多少の軌間の違いはそれほど大きなハンデにはならないとされる。その例として、スペインの鉄道では、営業最高速度が220 km/hの在来線が広軌であるのに対し、350 km/hでの営業運転を計画しているAVE(高速新線)はフランス国鉄への直通運転を考慮したこともあるが、標準軌で建設されている。 | {{軌間}}
'''広軌'''(こうき、broad gauge)は、[[鉄道]][[線路 (鉄道)|線路]]のレール([[軌条]])間隔を表わす[[軌間]]が[[標準軌]]の1435[[ミリメートル|mm]](4[[フィート]]8½[[インチ]])を超えるものをさす。
軌間は、広ければ広いほど安定性が高くなり横風に対する安全性は増す。ただし、曲線での左右の車輪の回転数の差は軌間が広いほど大きいため、最小半径は大きくしなければならない。左右の車輪を独立して回転できるようにすることで、この問題を克服した[[タルゴ]]のような例もある。
速度の向上との関連性については、[[蒸気機関車]]の場合、動輪直径を大きくできるため軌間は広いほうが有利であるが、[[電気機関車]]などの近代的動力車であれば、多少の軌間の違いはそれほど大きなハンデにはならないとされる。その例として、[[レンフェ|スペインの鉄道]]では、営業最高速度が220 km/hの在来線が広軌であるのに対し、350 km/hでの営業運転を計画している[[AVE]](高速新線)は[[フランス国鉄]]への[[直通運転]]を考慮したこともあるが、標準軌で建設されている。
== 広軌鉄道を保有している国 ==
[[ファイル:Rail gauge world.png|thumb|250px|各国の軌間<br />緑色が広軌]]
[[イギリスの鉄道]]では、[[グレート・ウェスタン鉄道]]が[[1838年]]以来2140mm(7フィート¼インチ)の広軌の先駆けであり、1890年代までこの軌間を維持していた。
今日でも多くの国が広軌鉄道を保有している。
=== 1524mm(5フィート)<ref group="注">現在フィンランド以外は1520mmと登録。</ref> ===
==== 旧[[ソビエト連邦]]諸国<ref group="注">かつての[[ロシア帝国]]が外敵の侵略を困難にするために互換性の無い広軌を採用したが、米国技師案によるとの説もある。</ref> ====
* [[ロシア連邦]]
* [[ウクライナ]]
* [[ベラルーシ]]
* [[モルドバ]]
* [[エストニア]]
* [[ラトビア]]
* [[リトアニア]]
* [[ジョージア (国)|ジョージア]]
* [[アゼルバイジャン]]
* [[アルメニア]]
* [[カザフスタン]]
* [[ウズベキスタン]]
* [[トルクメニスタン]]
* [[キルギス]]
* [[タジキスタン]]
[[2022年ロシアのウクライナ侵攻]]を受けて、ウクライナは旧ソ連圏の[[5フィート軌間]](1520㎜)から欧州[[標準軌]]
(1435㎜)への[[改軌]]を同年5月末の会議で表明した<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/183810 「ウクライナ 鉄道レール幅変更方針 ロシア型から欧州型へ」]『[[東京新聞]]』朝刊2022年6月17日(国際面)2022年7月6日閲覧</ref>。
====旧ソビエト連邦ではない国====
* [[モンゴル国]]
* [[フィンランド]]
両国は旧[[ソビエト連邦構成共和国]]ではないが、[[モンゴル人民共和国|モンゴルの独立と国造り]]はソ連の支援を受けており、フィンランドはソ連よりの中立政策([[フィンランド化]])の下、東西貿易の販路としてソ連直通の鉄道が用いられていた。
=== 1581mm(5フィート2¼インチ)===
* [[アメリカ合衆国の鉄道|米国]]([[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]市の[[地下鉄]]・[[路面電車]]路線[[南東ペンシルベニア交通局|SEPTA]])
=== 1588mm(5フィート2½インチ)===
* 米国([[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]市の路面電車)
=== 1600mm(5フィート3インチ)===
* [[アイルランド]]
* [[イギリス]]
**[[北アイルランド]]
* [[オーストラリア]]
* [[ブラジル]] - 複数の都市鉄道とかつての{{仮リンク|パウリスタ鉄道|pt|Estrada de Ferro Paulísta}}および{{仮リンク|ブラジル中央鉄道|pt|EFCB}}などが敷設した鉄道路線において採用。一部路線は1,000 mm軌間との三線軌条。
**[[サンパウロ]]近郊路線([[サンパウロ都市圏鉄道会社]])
**[[リオデジャネイロ]]近郊路線([[SuperVia]]等)
**[[メトロ・デ・ポルトアレグレ|ポルトアレグレ都市鉄道]]
**[[メトロ・デ・ベロオリゾンテ|ベロオリゾンテ都市鉄道]]
**[[メトロ・ド・レシフェ|レシフェ都市鉄道]]
ほか
=== 1665mm ===
* [[ポルトガル]](計画されている高速鉄道では標準軌を予定している<ref>{{Cite web | url = http://www.railwaygazette.com/nc/news/single-view/view/high-speed-lines-will-drive-forward-refers-long-term-strategy.html | title = High speed lines will drive forward Refer's long-term strategy | author = Chris Jackson | date = 2006-02-01 | publisher = [[レールウェイ・ガゼット・インターナショナル]] | accessdate = 2010-11-11}}</ref>)
=== 1668mm(5フィート5½インチ)===
* [[スペイン]](高速鉄道[[AVE]]を除く)
=== 1676mm(5フィート6インチ)===
* [[インドの鉄道|インド]](一部の[[狭軌]]路線を除く大半)
* [[パキスタンの鉄道|パキスタン]]
* [[スリランカの鉄道|スリランカ]]
* [[アルゼンチンの鉄道]]<ref>ユージン・フォーター 編/[[小池滋]] 監訳『世界の鉄道』([[集英社]]、1979年)442頁</ref>
**[[アルゼンチンの鉄道#ロカ将軍鉄道 (Ferrocarril General Roca)|ロカ将軍鉄道]]
**[[アルゼンチンの鉄道#ミトレ将軍鉄道 (Ferrocarril General Bartolomé Mitre)|ミトレ将軍鉄道]]
**[[アルゼンチンの鉄道#サルミエント鉄道 (Ferrocarril Domingo Faustino Sarmiento)|サルミエント鉄道]]
**[[アルゼンチンの鉄道#サン・マルティン将軍鉄道 (Ferrocarril General San Martín)|サン・マルティン将軍鉄道]]
* [[チリの鉄道|チリ]]<ref>ユージン・フォーター 編/小池滋 監訳『世界の鉄道』(集英社、1979年)452頁</ref>
**[[バルパライソ]] - (ラ・カレラ) - [[コンセプシオン (チリ)|コンセプシオン]] - [[プエルトモント]]のチリ縦貫鉄道とその[[支線]]
* 米国
**[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]市の[[バート (鉄道)|BART]](Bay Area Rapid Transit)システム<ref group="注">従来より軽量な車両が従来より長い高架区間で強風で煽られて横転・転覆することを防ぐために従来のアメリカ合衆国各鉄道よりも広い軌間としている。</ref>
<!--大抵の非標準軌間は、既存の鉄道路線間の相互運用を目的として採用されたものである。-->
インドでは、1800mm以上の広軌を主張する技術者と標準軌を主張するインド政府側で意見の対立があり、妥協案として1676mmとなったという。<!-- 「英国政府」と書かれていましたが、英語版ウィキペディアの「5 ft 6 in gauge railway」の記事によれば、「The first agreement of the Government of India with East Indian Railway Company and Great Indian Peninsula Company in 1849 stipulated that railways in India would be built on a four feet, eight and half inches gauge. 」とのことです。1849年の時点でthe Government of Indiaといえばムガール帝国政府のことです。 -->
[[グレート・ウェスタン鉄道]]では、[[イザムバード・キングダム・ブルネル]]の考案した2140mmゲージにより、車両の安定性を増し、高速化できることを期待したが、同社は初期の機関車の設計に問題があり、広軌の利点を幾分損なうこととなった。また、[[サスペンション#鉄道車両のサスペンション|懸架装置]]の発展が早く進み、どのみち10年か20年のうちに標準軌での速度が広軌での速度に追いつくことになった。1600mmと1676mm軌間においては、幅の広い分だけ蒸気機関のシリンダを大きくでき、出力を増やすことができたが、標準軌でもシリンダを外側に配置することでこの問題を解決することができた。
米国の[[ピッツバーグ]]や[[フィラデルフィア]]の路面電車・地下鉄の軌間は、米国内で軌間の統一がなされていなかった19世紀中頃に建設された馬車鉄道の軌間に由来する。その後、19世紀終わりまでに幹線鉄道の軌間は標準軌へ統一されたが、市街鉄道の場合、市街の併用軌道上への貨物列車の進入を阻止したいという市当局の思惑から、標準軌と異なる軌道幅が支持され、20世紀初頭建設の路面電車を含め、5フィート前後の様々な軌間が採用される結果となった。
[[ナチス・ドイツ]]では、[[ブライトシュプールバーン]]と呼ばれる、軌間3000mmの巨大列車計画があった。
== 日本における広軌の定義 ==
日本では[[地方鉄道法]]により、[[私鉄]]も旧[[日本国有鉄道|国鉄]]線の1067mmの[[狭軌]]を超える軌間の敷設が制限されたため、狭軌が日本の標準軌間になっていた。このため1067mmを超える軌間を全て広軌と呼ぶのが一般的だった時期がある。このため、現在でも過去と同様に1435mm軌間を広軌と表現する場合もあり、[[近畿日本鉄道]]ではそれを公式の呼称としている。混同を防ぐために、1067mmは国鉄標準軌、1435mmは国際標準軌という表現も用いられていた。
* 標準軌の1435mm([[新幹線]])を広軌と記述した、[[昭和]]中期頃([[東海道新幹線]]の開業直前まで)までの国鉄公式文書がある。
* [[近鉄名古屋線]]の標準軌化当時は、広軌化と記述されていた。
[[国鉄分割民営化]]後は、国際的な広軌との混同を防ぐため、公式文書で1435mm軌間を標準軌と記述するのが基本になり<ref group="注">近年は新幹線網の拡大で多くの地域に1435mm軌間が広まり、かつてほど特殊でなくなった。</ref>、広軌とは表現しなくなった。
日本国内に国際的な広軌(軌間が1435mmを超える)営業用路線は、2017年時点、([[国土交通省]]管轄の普通鉄道では)存在しない。
工場構内鉄道として製鉄所で広軌を採用したケースがある。1676mm軌間が[[JFEスチール東日本製鉄所]]・京浜地区(旧称・[[扇島]]地区)に用いられているほか、1435mm軌間も各地の製鉄所で用いられている<ref group="注">1435mm軌間もJFEスチール西日本製鉄所・福山地区や[[新日鐵住金]]君津製鉄所・堺製鉄所などで採用。</ref><ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』 No.797(2007年12月号)「製鉄所の鉄道」、No.805(2008年7月号)「続・製鉄所の鉄道」石本祐吉</ref>(いずれも[[非電化]])。製鉄所構内で広軌や標準軌を採用した理由は、[[高炉]]で製造された[[銑鉄]]の輸送は製鋼工場までの閉じた輸送なことと、製鉄所が立地する埋め立て地の軟弱地盤で重量物を安定輸送する設計が容易なことによる。
特殊鉄道や非指定鉄道(国土交通省管轄外の鉄道)では、広軌を導入しているケースがある。ゴムタイヤ式地下鉄では[[広島高速交通]]が1700mm(案内輪間隔 2900mm)、[[札幌市営地下鉄]]が走行輪間隔で[[札幌市営地下鉄南北線|南北線]]が2230mm、[[札幌市営地下鉄東西線|東西線]]・[[札幌市営地下鉄東豊線|東豊線]]が2150mmである。[[宮ヶ瀬ダム]][[インクライン]]は1600mm、[[野辺山宇宙電波観測所]]の[[パラボラアンテナ]]運搬軌道は4000mmである。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Wiktionary|広軌}}
* [[軌間]]
* [[標準軌]]
* [[狭軌]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こうき}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E8%BB%8C |
4,001 | 鉄道の歴史 | 鉄道の歴史(てつどうのれきし)では、鉄道の創始以来の主要な歴史について説明する。
最古の鉄道は16世紀半ばにまでさかのぼり、鉱山内における馬の引く輸送車両の使用が最初であったといわれる。
18世紀後半より、イギリスでは、蒸気機関を中心とする産業技術上の変革、すなわち「産業革命」とよばれる変化が経済の諸方面に多大な影響をおよぼし、社会生活の様相を根本的に変えていった。産業革命は人間や物資の移動手段にも変革をもたらした。綿工業は機械化され、そのために大量の物資の輸送が必要となって道路や運河の建設・整備を不可欠としたが、とりわけ蒸気機関車・鉄道・蒸気船の登場は単に輸送時間を短縮して輸送量を増大させたのみならず、鉄と石炭と蒸気という新しい時代のおとずれを人びとに印象づけた。そのなかで鉄道は、貨物や乗客を運ぶ手段として、他の運送手段に比較して効率性において優れていた。鋼鉄製のレールに接する輪縁(フリンジ)の付いた車輪の摩擦は少なく、貨物列車が1トンを運ぶのに要する力はわずか1馬力にすぎない。鉄道はまた、遠隔地に新産業の成果を運び、時刻表を通して各地の時間を中央に結びつける役割を果たした。
イギリスで最初に旅客輸送をおこなった鉄道は、1807年に開業したウェールズ地方のオイスターマス鉄道で、既存の路面軌道を用いた馬車鉄道であった。しかしながら、19世紀において鉄道がおそるべきスピードで整備拡充していったのは、それが蒸気機関車の技術と結びついたからである。
オイスターマス鉄道の開業に先立つ1804年、リチャード・トレビシックが、世界で初めて軌道上を走る蒸気機関車を製作した。商業的に成功した最初の蒸気機関車は、1812年に製作されたサラマンカ号(The Salamanca)であり、これはラック・アンド・ピニオン式の機関車であった。その後も蒸気機関車は改良が重ねられ、ジョージ・スチーブンソンは1814年、初めてフランジが1方向のみである車輪を用いた機関車を開発した。1821年、イギリスのヘンリー・ロランソン・パーマーによりモノレールが考案され、1825年には、世界初の鉄道として英国ダラム州のストックトンとダーリントンを結ぶストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開業した。以後、欧米各地で鉄道の建設が活発になり、1827年にアメリカ合衆国、フランス、1835年にはドイツでも鉄道が開業し、1830年代にはアメリカ全土で鉄道建設がさかんとなった。ただしストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、運賃を定めて毎日定期的に運行する商業運転はおこなわず、線路もまた一般に公開され、通行料金さえ支払えばだれでも機関車や鉄道馬車を乗り入れることができた。その意味では純然たる営利事業としての鉄道事業ではなかったが、しかし、このときすでに技術的・工学的には近代鉄道事業はほとんど成立していたといってよい。
1830年に開業したイギリスのリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は工業都市マンチェスターと貿易港リヴァプールの間の約50キロメートルを蒸気機関車が走り、時刻表を用いて定期運行する世界初の営利事業としての鉄道である。馬車とちがって季節や天候に左右されず、大量、迅速かつ確実に輸送し、移動することのできる鉄道は交通事情を一変させた(交通革命)。この鉄道を走る機関車を公募で選んだところ、5件の応募があり、ジョージ・スチーブンソンとその息子ロバート・スチーブンソンの機関車「ロケット号」が採用された。最高時速は58キロメートルであり、これは後の機関車の基準となった。機関車製造の技術者であり、鉄道会社の主任技師、そして経営者でもあったジョージ・スチーブンソンは、各鉄道の接続のためにはすべての鉄道が同じゲージ(軌間)であるべきだと主張し、そして実際、1,435ミリメートルの軌間が採用された。これが、今日でいう「標準軌」となっている。
1830年、蒸気機関車「トム・サム号」がメリーランド州のボルチモアとエリコットミルズの間21キロメートルを最高時速29キロメートルで結び、復路は馬と競争して敗れたもののアメリカ最初の商業運転となり、ボルチモアの経済的な重要性をおおいに高め、進展めざましい西部のオハイオ州とを連絡するボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の初代小型機関車として採用された。
1830年代の後半から始まった鉄道網の整備は、「鉄道狂時代」と呼ばれる投資熱を生み出した。1835年、アメリカにはすでに1,600キロメートル以上の線路が敷設され、1850年代にはミシシッピ州以東のすべての州では鉄道が建設されていた。このような投資熱さらには鉄道網の拡充は、当時、鉄道事業がきわめて収益性の高い事業だったからである。いっぽう、鉄道網の拡充は新たな旅行文化をももたらした。禁酒論者であったイギリスのトーマス・クックは、1843年に世界最初のパッケージツアーを考案して事業化し、大成功を収めて「近代ツーリズムの父」と呼ばれる。近代ツーリズムは欧州各地を経て世界各地に急速に広がる一方、対象地域を拡大して利害関係者を増大させ、マスツーリズムを生み出すなど旅行形態の多様化をもたらした。
初期の鉄道建設には、地域的にみて大きな偏りがあった。1850年には、西洋諸国では4万キロメートル弱の鉄道が開業していたものの、アジア、ラテン・アメリカ、アフリカの地域では全部合わせても約4,000キロメートルの鉄道しか有しなかった。
19世紀中葉にあっては、ヨーロッパの工業化が飛躍的に進み、各国は先行するイギリスに対抗しながら殖産興業を進展させていった。諸国の経済はこうして相互に連関しあうようになり、世界的な資本制が形成されていった。 鉄道は大量の人や物資の移動を可能にし、こうした状況に対応して、多くの国が共通の関心をもつ事象について共同処理する機関がつぎつぎに設立された。1865年に設立された万国電信連合は世界最古の国際機関といわれ、1874年には万国郵便連合が設立された。赤十字国際委員会が組織されたのも1863年のことである。この年、イギリスの首都ロンドンでは世界初の地下鉄が開業しているが、当時は蒸気機関車が車両を牽引した。なお、世界で2番目の地下鉄は 1896年 ハンガリー(オーストリア=ハンガリー帝国)の首都ブダペストにおいてであり、1896年のことである。
ヨーロッパ大陸では、1870年ころまでに主要な鉄道路線が田園地帯を縫うように走るようになっており、アルプス山脈を抜けるトンネルや橋梁などは当時の土木技術の偉大な成果とみなされていた。
北アメリカ大陸を横断する鉄道を建設しようという考えは合衆国で鉄道が実用化された当初から存在していたが、同時に新聞の社説などでは批判の対象ともなっていた。これが、1848年のメキシコからのカリフォルニア割譲、ゴールドラッシュ、1850年のカリフォルニア州成立によって事情が一変した。1850年、アメリカ合衆国連邦議会は鉄道建設のために土地の払い下げを開始した。さらに1853年、連邦議会はアメリカ陸軍省に対して15万ドルの予算を支出し、どの横断ルートが最も適切であるのかを調査させた。その結果、南部に1本、北部に1本、中央には1本以上が可能であると報告された。1854年成立のカンザス・ネブラスカ法も、元来はシカゴを起点とする中央部の大陸横断鉄道建設を目標としたものであった。1862年にユニオン・パシフィック鉄道会社が創立されてネブラスカ州からカリフォルニアまでの鉄道建設が議会によって認可され、一方、カリフォルニア州ではサクラメントを起点にセントラル・パシフィック鉄道が東へ向けて鉄道を建設することが決まった。
1861年に起こった南北戦争にあっては、北軍(連邦軍)が鉄道・機関車双方において優位に立っており、軍隊や物資の輸送能力の面では南軍(アメリカ連合国軍)を決定的に上回っていた。北軍勝利で戦争が終結すると、大陸横断鉄道の建設には中国やヨーロッパからの移民労働者に加え、南北戦争の退役軍人が加わり、1869年5月に工事が完成した。集められた中国人労働者の数は、最終的には1万2,000人に達したといわれている。ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道はユタ準州(当時)のプロモントリーで接続した。なお、19世紀末には、この路線含め4本の大陸横断鉄道が完成している。大陸横断鉄道の完成は、西部への移住をおおいに促進した。
この間、列車は徐々に走行速度を速めていったが、アメリカ合衆国の蒸気機関車999号は、1893年に時速160キロメートルを記録している。
ドイツでは、1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争の勝利を経て、1871年に統一国家であるドイツ帝国が成立したが、鉄道については中央政府による一元運営ではなく、プロイセン邦有鉄道、王立バイエルン邦有鉄道、王立ザクセン邦有鉄道、王立ヴュルテンベルク邦有鉄道、バーデン大公国邦有鉄道など、連邦を構成する王国や大公国毎の単位で運営された。連邦の首都ベルリンの発展はめざましく、 1881年には世界初の路面電車が開業している。
1888年、ドイツ帝国はオスマン帝国領内でアナトリア鉄道の建設を開始し、1893年に開通した。ドイツ資本はまた、1899年にはバグダート鉄道敷設権を獲得し、現在のイラク地方への鉄道建設を進め、ほぼ同時期にヒジャーズ鉄道も建設して中東地域への進出を図り、これが、イギリスやロシアなどとの対立をまねき、第一次世界大戦の遠因のひとつとなった(3B政策)。
ロシア帝国は、1872年、グルジア(現、ジョージア)のトビリシとポティの間の鉄道を建設し、コーカサス地方の支配を強めた。さらに、1880年代には帝国領だった中央アジア諸地域にも鉄道を敷設してその支配を強め、1887年にはサマルカンドに達した。
1891年、ロシアはシベリア横断鉄道の建設を開始した。この鉄道は、露仏協商によって提携を強めたフランス資本を導入して進められたが、一方では極東に経済的利権を保有していたイギリスの警戒をまねき、地理的に近い日本もまたヨーロッパからの大軍の移動を容易にするこの鉄道の敷設には恐怖をいだいた。両者の利害がここで一致し、日英両国は1902年、日英同盟を結ぶにいたった。鉄道建設は、ヨーロッパ側から建設を進めた区間が1898年にバイカル湖畔のイルクーツクに達した。極東地方から起工したウスリー鉄道は1897年に完成し、ハバロフスクからアムール川、シルカ川を超えて西への鉄道も建設されていった。建設は、サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士によって進められた。1896年、ロシア政府は露清密約によって清国からシベリア鉄道短絡線として満州北部を横断してハルビンなどを経由する東清鉄道の敷設権を得た。1901年、バイカル湖の区間を除いて完成、1903年には東清鉄道も全通して日露戦争のさなかの1904年9月に全通した。日露戦争後は、アムール川左岸を通ってハバロフスク橋でアムール川を渡り、ハバロフスクを経由する国内ルートの建設を進めた。1913年、世界最長のシベリア鉄道が完成、総延長は9,000キロメートルを超える。
日本も明治維新後は殖産興業政策を推し進めていった。日本の鉄道建設は伊藤博文・大隈重信の熱心な主張で始まった。1869年、従来の民部官が改組されるかたちで民部省が太政官に設置され、民部省はその後大蔵省との合併と分離をくりかえすが、大隈・伊藤らは両省の役職を兼務して租税徴収から産業育成におよぶ強大な権限を掌握して、鉄道・電信・郵便・灯台など近代化のためのインフラストラクチャー整備を強力に進めた。鉄道に関しては政府は財政不足のため、建設費にあてるため100万ポンドの外国債をイギリスで募集した。新たに設立された工部省によって京浜間の測量が始まったのは1870年3月のことである。
日本の鉄道開業は1872年(明治5年)、新橋・横浜(現、桜木町駅)間においてであった。鉄道開業式は、横浜駅でおこなわれたが、明治天皇は新橋駅から乗車して1時間後の開業式に臨み、みずから「鉄道の便利さ」をアピールし、百官衆庶や外国公使、横浜居留外国人、工部省の御雇外国人などに対し勅語をした。
いわゆる「長州五傑」のひとりであり、ロンドン大学で鉱山・土木を学んだ井上勝は工部省鉄道寮の長官(鉄道頭)となり、1877年、大阪に工技生養成所を設けて鉄道技術者を養成し、京都・大津間の鉄道はすべて日本人技術者と労働者だけで工事をおこなった。一時は鉄道関係の「お雇い外国人」は100人を超えていたが、1875年ごろから減少しはじめ、1880年ごろには日本人が鉄道建設および鉄道運営の技術をほぼ習得した。1879年には日本人機関士も登場している。1885年の工部省廃止後の鉄道事業は内閣直属となった。1890年前後になると東海道線の新橋・神戸間や日本鉄道の上野・青森間が全通した。日本鉄道は、1881年に6,000万という当時にあっては巨額な資本金で設立された日本初の民営鉄道で、華族の資本を結集したものであった。また、1890年代から1900年代には、京都市はじめ大都市では都市内の交通機関として市街電車が開通した。
1880年、西洋諸国の鉄道線路は延長35万キロメートルに達したが、他地域ではすべて合わせても3万5,000メートルにすぎなかった。しかも、その割合はイギリス人がインドで建設したものが多くを占めた。インドでは1853年にアジア初の鉄道が開業している。中国大陸初の鉄道は1876年のことであるが、これはヨーロッパ人によって建設されたものであり、しかも翌年清国政府によって破壊されてしまった。したがって、1880年段階では清帝国はわずか1本の鉄道も保有していなかった。ペルシア初の鉄道は1888年にようやく建設され、首都テヘランとそこから約10キロメートル南のイスラームの聖地を結んだもので、ベルギーの会社によって建設されたものであった。このように、欧米における鉄道普及とそれ以外の地域のそれとでは大きな格差があったが、自国で鉄道建設を進めた日本は、アジアのなかにあっては例外的な存在といえる。
以下は、各年次ごとの世界の大陸別鉄道の延長距離であり、単位は1,000キロメートルである。
19世紀後葉から20世紀初頭にかけては、世界システム論が唱える「世界システム」の「周辺」地域での鉄道建設がめざましいことが、上の表からもうかがわれる。たとえば、メキシコでは1876年には650キロメートルだったものが1911年の鉄道総延長は2万4,000キロメートルに達し、その増加率は37倍にもおよんだ。
中国においても、1900年には470キロメートルにすぎなかったものが、1913年には21倍の9,858キロメートルへと21倍に急増したが、これは列強が競って鉄道建設の利権を求めた結果であった。そして、これは単に鉄道敷設権だけではなく、鉄道沿線地域での資源の開発や独占を可能にする鉱業特権・採掘権、関税ほか租税における免税特権、場合によっては治安維持のための警察権・駐兵権などをもともなっており、この国の半植民地化をむしろ推進させたのである。そして、鉄道建設は沿線農民の田畑や墓地を破壊し、伝統的な運送業者の仕事を奪い、さらに輸入された外国産の繊維製品はじめ工業製品は、伝統的な手工業者のしごとを圧迫した。こうした国内に所在する外国経営の鉄道への反感が排外主義として現れることも少なくなく、1900年の北清事変(義和団の乱)でも、義和団は西洋人や中国人キリスト教信者、舶来物を扱う商店、電線などとともに鉄道も攻撃対象として襲撃した。日本もまた、日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で長春以南のロシア東清鉄道南部支線を獲得し、戦争中に清国の抗議を退けて臨時軍用鉄道監部が建設した安東(現、丹東)・奉天(現、瀋陽)間の軍用軽便鉄道(安奉線)とあわせて1907年設立の南満州鉄道会社(通称、満鉄)の経営下に置かれた。
英領インドではすでに1850年代に鉄道建設ラッシュが始まり、20世紀初頭には総延長4万キロメートルに達し、これはアメリカ合衆国、カナダ、ロシア帝国につぐ世界第4の距離であった。インド亜大陸で急速に鉄道交通が発展したのには、デカン高原など比較的平坦な高原状の地形が広がっていることやガンジス川を除くと乾季に河川での舟運がほとんど不可能になること、大量の貨物の輸送には不向きな道路事情などの理由が考えられる。鉄道建設はしたがってインドに新しい生活様式と近代産業の勃興を生み出すものと一部では期待されたが、実際には必ずしもそうならなかった。鉄道は内陸で生産された綿花、小麦、ジュート、茶、アヘンなどをムンバイ(ボンベイ)、チェンナイ(マドラス)、コルカタ(カルカッタ)などの輸出港に運び、外国とくにイギリスからの輸入品を内陸各地に輸送するために建設された。したがって、インドにまとまりのある国内市場をつくることには寄与せず、その一方で、鉄道会社は経費節減等のため路線ごとに異なるゲージ(軌間)を用いたので、国内市場はむしろ分断されたのであった。また、ロンドンの金融市場で募集されたインド鉄道債には通常より高い利子率がインド帝国政府によって保証され、その利子は鉄道が赤字であってもインド人の支払う税金によって支払われた。さらに、インド農業は自給目的の食糧生産を中心とするものから次第に輸出用の商品作物生産にシフトしてきたので、いったん不作になると、しばしば深刻な飢饉に襲われた。総じて、インドの鉄道はインド経済を低開発状態のままに固定する役割を果たしたのである。もとより、鉄道が道路事情のわるいインドに交通革命をもたらしたのも事実であり、都市や巡礼地にはインド各地から多くの人びとが流入した。しかし、鉄道会社における人びとの職種や列車における客室の等級などにおいては、人種的な差別がインド人同士のカースト間の差別よりもいっそう露骨で明瞭なかたちをとったのであり、インドにおける反英運動が鉄道建設と同時に始まったのは必ずしも偶然ではなかった。
アフリカは、鉄道の普及に関しては他大陸と比較していっそう遅れていた。ただし、19世紀後葉にはエジプトやアルジェリアなど植民地化が比較的早く進んだ北部アフリカや鉱産資源の豊富な現在の南アフリカ共和国の地域(ケープ植民地、オレンジ自由国、トランスヴァール共和国など)では鉄道建設が始まった。しかし、1880年代以降ヨーロッパ人が殺到したサハラ砂漠以南の熱帯アフリカでは、たとえ有望な鉱産資源が見つかっても鉄道建設にすぐに結びついたわけではなかった。吸血性のツェツェバエがアフリカ睡眠病を媒介するため荷物運搬用の大型役畜を用いることができず、荷物を運ぶには人力に拠るしかなかったからである。もっぱら人力に頼るこのような交通事情を克服するために着手された鉄道建設に際しても、最初、すべての資材・機材の運搬を人力に頼らざるを得ないというディレンマに陥った。ベルギー王レオポルド2世の私的植民地であったコンゴ自由国では、1890年、マタディ・レオポルドヴィル鉄道の建設に着手し、建設労働者の多くは険しい地形やマラリア、赤痢などの感染症、脚気などで命を落とし、やがてアフリカ各地、カリブ海沿岸地域、中国などからも人夫を集めたが、暴動が起こったり、逃亡する者や病死者が相次いだりして建設は遅々として進まず、ようやく8年後の1898年に完成している。これは一例であるが、このように現地の人びとの多大な犠牲のもとに建設された鉄道も、内陸部に大都市のほとんどない熱帯アフリカ各地にあっては旅客輸送で収益をあげることができず、ヨーロッパ人による資源の収奪に役立つのみであり、アフリカ人自身にはほとんど恩恵をもたらさなかった。
ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスによって画期的な発電機が製作されたのは1866年にさかのぼり、1878年にはトーマス・エジソンによって改良された。このころより、産業界において電力がかつて蒸気力がしめていたような中心的位置を占めるようになってきた。1880年代後葉には変圧器が発明され、高圧送電も可能になった。これは産業界に大きな変革をもたらした。従来、動力源にめぐまれなかった地域でも遠距離の発電所から送電される電力によって工業化が可能となったからである。電動機を交通機関にすえつけ、電力によって車を動かすことは1879年のベルリンで開かれた博覧会において、ジーメンス・ウント・ハルスケ社によって試みられたもので、この試作品が電気機関車(電車)としては最初期のものとなる。上述のように世界初の電車開業は1881年に施行運転され、1883年に定期運行の始まったベルリンとリヒターフェルデ(ドイツ語版)をむすぶ路面電車であった。イギリスでは1883年、ブライトンで最初の電気鉄道フォルクス電気鉄道(英語版)が開業、アメリカ合衆国でも1888年にリッチモンド・ユニオン旅客鉄道(英語版)が最初の路面電車が開業するなど、電車はこの後の約10年間で、欧米の大都市に急速にひろがっていった。また、1897年にフランク・スプレイグが総括制御を発明したことによって地下鉄の電化がはかられた。蒸気機関車の煙害が問題視されていたため、地下鉄を含む都市部の電化は急速に進んだ。都市以外では山岳地域の電化が進展した。山岳地域では石炭の供給が難しい反面、水力発電が得られやすく、急勾配な路線には電気機関車の方が適していたためである。短区間でなく一つの幹線全体を世界で初めて電化したのはイタリアのヴァルテッリーナ線(全長106キロメートル)で、1902年に開業した。アメリカ最後の大陸横断鉄道、ミルウォーキー鉄道では、1915年からロッキー山脈と太平洋岸の路線の電化に着手した。なお、東海岸のバージニアン鉄道やノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道といった鉄道では、山岳部の一部区間のみ電化するという方式が採用された。第一次世界大戦のころになると、電柱がいたるところに立てられるようになり、電力の利用が蒸気力の利用を圧倒するまでになった。
1892年、フランス生まれでバイエルン人移民の息子だったドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルによって発明されたディーゼルエンジンは、圧縮して高熱になった空気熱によって燃料が発火する仕組みの往復ピストンエンジン(レシプロエンジン)であり、1893年に特許を取得した。ディーゼルエンジンは、自動車や船、のちに航空機などに使用されることになるが、世界で初めてディーゼルエンジンを鉄道車両用に用いたのもやはりドイツであった。1912年、プロイセン州州営鉄道向けに最初のディーゼル機関車が製作されており、これはディーゼル=ズルツァー=クローゼ式熱機関車と呼ばれ、ディーゼルエンジンと動輪軸を直結して駆動させる方式であったが、起動には空気圧縮機が必要で、牽引力や速度も思うような成果が出せず、クランクシャフトやシリンダーの破損が相次いで失敗に終わり、エンジン自体も凄まじい轟音を発したことから苦情も大きく、結局1914年に廃車となった。
1920年代にはディーゼル電気機関車が導入されて、燃費効率も格段に向上した。1924年にはロシア鉄道向けに大型機のGe-1形が製造されており、これは現存する最古のディーゼル機関車としてサンクトペテルブルクの鉄道博物館に静態保存されている。アメリカ合衆国のシカゴとデンヴァーを結ぶ流線型のディーゼル電気機関車「ゼファー」は平均時速120キロメートルであった。アメリカでは電気機関車よりもディーゼル機関車の方が普及した。とくに「北東回廊」と呼ばれる人口稠密地帯以外では、ディーゼル機関は、蒸気機関に比較したときの利点のいくつかを電動機と共有しており、また、電力供給網を構築する必要がなかったためである。その後、機械式・電気式・液体式の動力伝達機構の開発が進められ、これにより1930年代以降、ドイツやアメリカ合衆国などで本格的に実用化された。
ここでは、主要な項目を列挙し、詳細は別にゆずる。
ここでは、世界各地域の主要な項目を列挙し、詳細は各地域の鉄道の説明にゆずる。
イギリスで初めて登場した鉄道は、すぐにその有用性が認められ、北アメリカやヨーロッパ各地でも鉄道建設がはじまった。地域によっては猛烈な勢いで総延長距離を伸ばす時期もあり、鉄道狂時代あるいは鉄道建設狂時代と呼ばれる時期もある。たとえば、アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道が敷設され、1920年頃までに総延長は40万kmにも達した。
また、19世紀半ばには、当時進行していたヨーロッパの植民地政策と歩調をあわせるようにヨーロッパの影響の大きい地域から鉄道が敷設されていった。インド(英領インド帝国)や中近東でも比較的早い時期から鉄道の建設が始まっている。
日本でも明治時代の1870年代に入って鉄道の建設が始まり、遅れて中国(清)や朝鮮半島(大韓帝国)でも鉄道建設が活発化した。ロシア(ロシア帝国)からもシベリア鉄道の延長が進み、20世紀初頭には極東地域とも結ばれるようになった。 | [
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"text": "鉄道の歴史(てつどうのれきし)では、鉄道の創始以来の主要な歴史について説明する。",
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"text": "最古の鉄道は16世紀半ばにまでさかのぼり、鉱山内における馬の引く輸送車両の使用が最初であったといわれる。",
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"text": "18世紀後半より、イギリスでは、蒸気機関を中心とする産業技術上の変革、すなわち「産業革命」とよばれる変化が経済の諸方面に多大な影響をおよぼし、社会生活の様相を根本的に変えていった。産業革命は人間や物資の移動手段にも変革をもたらした。綿工業は機械化され、そのために大量の物資の輸送が必要となって道路や運河の建設・整備を不可欠としたが、とりわけ蒸気機関車・鉄道・蒸気船の登場は単に輸送時間を短縮して輸送量を増大させたのみならず、鉄と石炭と蒸気という新しい時代のおとずれを人びとに印象づけた。そのなかで鉄道は、貨物や乗客を運ぶ手段として、他の運送手段に比較して効率性において優れていた。鋼鉄製のレールに接する輪縁(フリンジ)の付いた車輪の摩擦は少なく、貨物列車が1トンを運ぶのに要する力はわずか1馬力にすぎない。鉄道はまた、遠隔地に新産業の成果を運び、時刻表を通して各地の時間を中央に結びつける役割を果たした。",
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"text": "イギリスで最初に旅客輸送をおこなった鉄道は、1807年に開業したウェールズ地方のオイスターマス鉄道で、既存の路面軌道を用いた馬車鉄道であった。しかしながら、19世紀において鉄道がおそるべきスピードで整備拡充していったのは、それが蒸気機関車の技術と結びついたからである。",
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"text": "オイスターマス鉄道の開業に先立つ1804年、リチャード・トレビシックが、世界で初めて軌道上を走る蒸気機関車を製作した。商業的に成功した最初の蒸気機関車は、1812年に製作されたサラマンカ号(The Salamanca)であり、これはラック・アンド・ピニオン式の機関車であった。その後も蒸気機関車は改良が重ねられ、ジョージ・スチーブンソンは1814年、初めてフランジが1方向のみである車輪を用いた機関車を開発した。1821年、イギリスのヘンリー・ロランソン・パーマーによりモノレールが考案され、1825年には、世界初の鉄道として英国ダラム州のストックトンとダーリントンを結ぶストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開業した。以後、欧米各地で鉄道の建設が活発になり、1827年にアメリカ合衆国、フランス、1835年にはドイツでも鉄道が開業し、1830年代にはアメリカ全土で鉄道建設がさかんとなった。ただしストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、運賃を定めて毎日定期的に運行する商業運転はおこなわず、線路もまた一般に公開され、通行料金さえ支払えばだれでも機関車や鉄道馬車を乗り入れることができた。その意味では純然たる営利事業としての鉄道事業ではなかったが、しかし、このときすでに技術的・工学的には近代鉄道事業はほとんど成立していたといってよい。",
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"text": "1830年に開業したイギリスのリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は工業都市マンチェスターと貿易港リヴァプールの間の約50キロメートルを蒸気機関車が走り、時刻表を用いて定期運行する世界初の営利事業としての鉄道である。馬車とちがって季節や天候に左右されず、大量、迅速かつ確実に輸送し、移動することのできる鉄道は交通事情を一変させた(交通革命)。この鉄道を走る機関車を公募で選んだところ、5件の応募があり、ジョージ・スチーブンソンとその息子ロバート・スチーブンソンの機関車「ロケット号」が採用された。最高時速は58キロメートルであり、これは後の機関車の基準となった。機関車製造の技術者であり、鉄道会社の主任技師、そして経営者でもあったジョージ・スチーブンソンは、各鉄道の接続のためにはすべての鉄道が同じゲージ(軌間)であるべきだと主張し、そして実際、1,435ミリメートルの軌間が採用された。これが、今日でいう「標準軌」となっている。",
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"text": "1830年、蒸気機関車「トム・サム号」がメリーランド州のボルチモアとエリコットミルズの間21キロメートルを最高時速29キロメートルで結び、復路は馬と競争して敗れたもののアメリカ最初の商業運転となり、ボルチモアの経済的な重要性をおおいに高め、進展めざましい西部のオハイオ州とを連絡するボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の初代小型機関車として採用された。",
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"text": "1830年代の後半から始まった鉄道網の整備は、「鉄道狂時代」と呼ばれる投資熱を生み出した。1835年、アメリカにはすでに1,600キロメートル以上の線路が敷設され、1850年代にはミシシッピ州以東のすべての州では鉄道が建設されていた。このような投資熱さらには鉄道網の拡充は、当時、鉄道事業がきわめて収益性の高い事業だったからである。いっぽう、鉄道網の拡充は新たな旅行文化をももたらした。禁酒論者であったイギリスのトーマス・クックは、1843年に世界最初のパッケージツアーを考案して事業化し、大成功を収めて「近代ツーリズムの父」と呼ばれる。近代ツーリズムは欧州各地を経て世界各地に急速に広がる一方、対象地域を拡大して利害関係者を増大させ、マスツーリズムを生み出すなど旅行形態の多様化をもたらした。",
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"text": "初期の鉄道建設には、地域的にみて大きな偏りがあった。1850年には、西洋諸国では4万キロメートル弱の鉄道が開業していたものの、アジア、ラテン・アメリカ、アフリカの地域では全部合わせても約4,000キロメートルの鉄道しか有しなかった。",
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"text": "19世紀中葉にあっては、ヨーロッパの工業化が飛躍的に進み、各国は先行するイギリスに対抗しながら殖産興業を進展させていった。諸国の経済はこうして相互に連関しあうようになり、世界的な資本制が形成されていった。 鉄道は大量の人や物資の移動を可能にし、こうした状況に対応して、多くの国が共通の関心をもつ事象について共同処理する機関がつぎつぎに設立された。1865年に設立された万国電信連合は世界最古の国際機関といわれ、1874年には万国郵便連合が設立された。赤十字国際委員会が組織されたのも1863年のことである。この年、イギリスの首都ロンドンでは世界初の地下鉄が開業しているが、当時は蒸気機関車が車両を牽引した。なお、世界で2番目の地下鉄は 1896年 ハンガリー(オーストリア=ハンガリー帝国)の首都ブダペストにおいてであり、1896年のことである。",
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"text": "ヨーロッパ大陸では、1870年ころまでに主要な鉄道路線が田園地帯を縫うように走るようになっており、アルプス山脈を抜けるトンネルや橋梁などは当時の土木技術の偉大な成果とみなされていた。",
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"text": "北アメリカ大陸を横断する鉄道を建設しようという考えは合衆国で鉄道が実用化された当初から存在していたが、同時に新聞の社説などでは批判の対象ともなっていた。これが、1848年のメキシコからのカリフォルニア割譲、ゴールドラッシュ、1850年のカリフォルニア州成立によって事情が一変した。1850年、アメリカ合衆国連邦議会は鉄道建設のために土地の払い下げを開始した。さらに1853年、連邦議会はアメリカ陸軍省に対して15万ドルの予算を支出し、どの横断ルートが最も適切であるのかを調査させた。その結果、南部に1本、北部に1本、中央には1本以上が可能であると報告された。1854年成立のカンザス・ネブラスカ法も、元来はシカゴを起点とする中央部の大陸横断鉄道建設を目標としたものであった。1862年にユニオン・パシフィック鉄道会社が創立されてネブラスカ州からカリフォルニアまでの鉄道建設が議会によって認可され、一方、カリフォルニア州ではサクラメントを起点にセントラル・パシフィック鉄道が東へ向けて鉄道を建設することが決まった。",
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"text": "1861年に起こった南北戦争にあっては、北軍(連邦軍)が鉄道・機関車双方において優位に立っており、軍隊や物資の輸送能力の面では南軍(アメリカ連合国軍)を決定的に上回っていた。北軍勝利で戦争が終結すると、大陸横断鉄道の建設には中国やヨーロッパからの移民労働者に加え、南北戦争の退役軍人が加わり、1869年5月に工事が完成した。集められた中国人労働者の数は、最終的には1万2,000人に達したといわれている。ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道はユタ準州(当時)のプロモントリーで接続した。なお、19世紀末には、この路線含め4本の大陸横断鉄道が完成している。大陸横断鉄道の完成は、西部への移住をおおいに促進した。",
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"text": "この間、列車は徐々に走行速度を速めていったが、アメリカ合衆国の蒸気機関車999号は、1893年に時速160キロメートルを記録している。",
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"text": "ドイツでは、1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争の勝利を経て、1871年に統一国家であるドイツ帝国が成立したが、鉄道については中央政府による一元運営ではなく、プロイセン邦有鉄道、王立バイエルン邦有鉄道、王立ザクセン邦有鉄道、王立ヴュルテンベルク邦有鉄道、バーデン大公国邦有鉄道など、連邦を構成する王国や大公国毎の単位で運営された。連邦の首都ベルリンの発展はめざましく、 1881年には世界初の路面電車が開業している。",
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"text": "1888年、ドイツ帝国はオスマン帝国領内でアナトリア鉄道の建設を開始し、1893年に開通した。ドイツ資本はまた、1899年にはバグダート鉄道敷設権を獲得し、現在のイラク地方への鉄道建設を進め、ほぼ同時期にヒジャーズ鉄道も建設して中東地域への進出を図り、これが、イギリスやロシアなどとの対立をまねき、第一次世界大戦の遠因のひとつとなった(3B政策)。",
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"text": "ロシア帝国は、1872年、グルジア(現、ジョージア)のトビリシとポティの間の鉄道を建設し、コーカサス地方の支配を強めた。さらに、1880年代には帝国領だった中央アジア諸地域にも鉄道を敷設してその支配を強め、1887年にはサマルカンドに達した。",
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"text": "1891年、ロシアはシベリア横断鉄道の建設を開始した。この鉄道は、露仏協商によって提携を強めたフランス資本を導入して進められたが、一方では極東に経済的利権を保有していたイギリスの警戒をまねき、地理的に近い日本もまたヨーロッパからの大軍の移動を容易にするこの鉄道の敷設には恐怖をいだいた。両者の利害がここで一致し、日英両国は1902年、日英同盟を結ぶにいたった。鉄道建設は、ヨーロッパ側から建設を進めた区間が1898年にバイカル湖畔のイルクーツクに達した。極東地方から起工したウスリー鉄道は1897年に完成し、ハバロフスクからアムール川、シルカ川を超えて西への鉄道も建設されていった。建設は、サハリンなど各地に流されていた受刑者やロシア軍兵士によって進められた。1896年、ロシア政府は露清密約によって清国からシベリア鉄道短絡線として満州北部を横断してハルビンなどを経由する東清鉄道の敷設権を得た。1901年、バイカル湖の区間を除いて完成、1903年には東清鉄道も全通して日露戦争のさなかの1904年9月に全通した。日露戦争後は、アムール川左岸を通ってハバロフスク橋でアムール川を渡り、ハバロフスクを経由する国内ルートの建設を進めた。1913年、世界最長のシベリア鉄道が完成、総延長は9,000キロメートルを超える。",
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"text": "日本も明治維新後は殖産興業政策を推し進めていった。日本の鉄道建設は伊藤博文・大隈重信の熱心な主張で始まった。1869年、従来の民部官が改組されるかたちで民部省が太政官に設置され、民部省はその後大蔵省との合併と分離をくりかえすが、大隈・伊藤らは両省の役職を兼務して租税徴収から産業育成におよぶ強大な権限を掌握して、鉄道・電信・郵便・灯台など近代化のためのインフラストラクチャー整備を強力に進めた。鉄道に関しては政府は財政不足のため、建設費にあてるため100万ポンドの外国債をイギリスで募集した。新たに設立された工部省によって京浜間の測量が始まったのは1870年3月のことである。",
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"text": "日本の鉄道開業は1872年(明治5年)、新橋・横浜(現、桜木町駅)間においてであった。鉄道開業式は、横浜駅でおこなわれたが、明治天皇は新橋駅から乗車して1時間後の開業式に臨み、みずから「鉄道の便利さ」をアピールし、百官衆庶や外国公使、横浜居留外国人、工部省の御雇外国人などに対し勅語をした。",
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"text": "いわゆる「長州五傑」のひとりであり、ロンドン大学で鉱山・土木を学んだ井上勝は工部省鉄道寮の長官(鉄道頭)となり、1877年、大阪に工技生養成所を設けて鉄道技術者を養成し、京都・大津間の鉄道はすべて日本人技術者と労働者だけで工事をおこなった。一時は鉄道関係の「お雇い外国人」は100人を超えていたが、1875年ごろから減少しはじめ、1880年ごろには日本人が鉄道建設および鉄道運営の技術をほぼ習得した。1879年には日本人機関士も登場している。1885年の工部省廃止後の鉄道事業は内閣直属となった。1890年前後になると東海道線の新橋・神戸間や日本鉄道の上野・青森間が全通した。日本鉄道は、1881年に6,000万という当時にあっては巨額な資本金で設立された日本初の民営鉄道で、華族の資本を結集したものであった。また、1890年代から1900年代には、京都市はじめ大都市では都市内の交通機関として市街電車が開通した。",
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"text": "1880年、西洋諸国の鉄道線路は延長35万キロメートルに達したが、他地域ではすべて合わせても3万5,000メートルにすぎなかった。しかも、その割合はイギリス人がインドで建設したものが多くを占めた。インドでは1853年にアジア初の鉄道が開業している。中国大陸初の鉄道は1876年のことであるが、これはヨーロッパ人によって建設されたものであり、しかも翌年清国政府によって破壊されてしまった。したがって、1880年段階では清帝国はわずか1本の鉄道も保有していなかった。ペルシア初の鉄道は1888年にようやく建設され、首都テヘランとそこから約10キロメートル南のイスラームの聖地を結んだもので、ベルギーの会社によって建設されたものであった。このように、欧米における鉄道普及とそれ以外の地域のそれとでは大きな格差があったが、自国で鉄道建設を進めた日本は、アジアのなかにあっては例外的な存在といえる。",
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"text": "以下は、各年次ごとの世界の大陸別鉄道の延長距離であり、単位は1,000キロメートルである。",
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"text": "19世紀後葉から20世紀初頭にかけては、世界システム論が唱える「世界システム」の「周辺」地域での鉄道建設がめざましいことが、上の表からもうかがわれる。たとえば、メキシコでは1876年には650キロメートルだったものが1911年の鉄道総延長は2万4,000キロメートルに達し、その増加率は37倍にもおよんだ。",
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"text": "英領インドではすでに1850年代に鉄道建設ラッシュが始まり、20世紀初頭には総延長4万キロメートルに達し、これはアメリカ合衆国、カナダ、ロシア帝国につぐ世界第4の距離であった。インド亜大陸で急速に鉄道交通が発展したのには、デカン高原など比較的平坦な高原状の地形が広がっていることやガンジス川を除くと乾季に河川での舟運がほとんど不可能になること、大量の貨物の輸送には不向きな道路事情などの理由が考えられる。鉄道建設はしたがってインドに新しい生活様式と近代産業の勃興を生み出すものと一部では期待されたが、実際には必ずしもそうならなかった。鉄道は内陸で生産された綿花、小麦、ジュート、茶、アヘンなどをムンバイ(ボンベイ)、チェンナイ(マドラス)、コルカタ(カルカッタ)などの輸出港に運び、外国とくにイギリスからの輸入品を内陸各地に輸送するために建設された。したがって、インドにまとまりのある国内市場をつくることには寄与せず、その一方で、鉄道会社は経費節減等のため路線ごとに異なるゲージ(軌間)を用いたので、国内市場はむしろ分断されたのであった。また、ロンドンの金融市場で募集されたインド鉄道債には通常より高い利子率がインド帝国政府によって保証され、その利子は鉄道が赤字であってもインド人の支払う税金によって支払われた。さらに、インド農業は自給目的の食糧生産を中心とするものから次第に輸出用の商品作物生産にシフトしてきたので、いったん不作になると、しばしば深刻な飢饉に襲われた。総じて、インドの鉄道はインド経済を低開発状態のままに固定する役割を果たしたのである。もとより、鉄道が道路事情のわるいインドに交通革命をもたらしたのも事実であり、都市や巡礼地にはインド各地から多くの人びとが流入した。しかし、鉄道会社における人びとの職種や列車における客室の等級などにおいては、人種的な差別がインド人同士のカースト間の差別よりもいっそう露骨で明瞭なかたちをとったのであり、インドにおける反英運動が鉄道建設と同時に始まったのは必ずしも偶然ではなかった。",
"title": "概要"
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"text": "アフリカは、鉄道の普及に関しては他大陸と比較していっそう遅れていた。ただし、19世紀後葉にはエジプトやアルジェリアなど植民地化が比較的早く進んだ北部アフリカや鉱産資源の豊富な現在の南アフリカ共和国の地域(ケープ植民地、オレンジ自由国、トランスヴァール共和国など)では鉄道建設が始まった。しかし、1880年代以降ヨーロッパ人が殺到したサハラ砂漠以南の熱帯アフリカでは、たとえ有望な鉱産資源が見つかっても鉄道建設にすぐに結びついたわけではなかった。吸血性のツェツェバエがアフリカ睡眠病を媒介するため荷物運搬用の大型役畜を用いることができず、荷物を運ぶには人力に拠るしかなかったからである。もっぱら人力に頼るこのような交通事情を克服するために着手された鉄道建設に際しても、最初、すべての資材・機材の運搬を人力に頼らざるを得ないというディレンマに陥った。ベルギー王レオポルド2世の私的植民地であったコンゴ自由国では、1890年、マタディ・レオポルドヴィル鉄道の建設に着手し、建設労働者の多くは険しい地形やマラリア、赤痢などの感染症、脚気などで命を落とし、やがてアフリカ各地、カリブ海沿岸地域、中国などからも人夫を集めたが、暴動が起こったり、逃亡する者や病死者が相次いだりして建設は遅々として進まず、ようやく8年後の1898年に完成している。これは一例であるが、このように現地の人びとの多大な犠牲のもとに建設された鉄道も、内陸部に大都市のほとんどない熱帯アフリカ各地にあっては旅客輸送で収益をあげることができず、ヨーロッパ人による資源の収奪に役立つのみであり、アフリカ人自身にはほとんど恩恵をもたらさなかった。",
"title": "概要"
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"tag": "p",
"text": "ドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスによって画期的な発電機が製作されたのは1866年にさかのぼり、1878年にはトーマス・エジソンによって改良された。このころより、産業界において電力がかつて蒸気力がしめていたような中心的位置を占めるようになってきた。1880年代後葉には変圧器が発明され、高圧送電も可能になった。これは産業界に大きな変革をもたらした。従来、動力源にめぐまれなかった地域でも遠距離の発電所から送電される電力によって工業化が可能となったからである。電動機を交通機関にすえつけ、電力によって車を動かすことは1879年のベルリンで開かれた博覧会において、ジーメンス・ウント・ハルスケ社によって試みられたもので、この試作品が電気機関車(電車)としては最初期のものとなる。上述のように世界初の電車開業は1881年に施行運転され、1883年に定期運行の始まったベルリンとリヒターフェルデ(ドイツ語版)をむすぶ路面電車であった。イギリスでは1883年、ブライトンで最初の電気鉄道フォルクス電気鉄道(英語版)が開業、アメリカ合衆国でも1888年にリッチモンド・ユニオン旅客鉄道(英語版)が最初の路面電車が開業するなど、電車はこの後の約10年間で、欧米の大都市に急速にひろがっていった。また、1897年にフランク・スプレイグが総括制御を発明したことによって地下鉄の電化がはかられた。蒸気機関車の煙害が問題視されていたため、地下鉄を含む都市部の電化は急速に進んだ。都市以外では山岳地域の電化が進展した。山岳地域では石炭の供給が難しい反面、水力発電が得られやすく、急勾配な路線には電気機関車の方が適していたためである。短区間でなく一つの幹線全体を世界で初めて電化したのはイタリアのヴァルテッリーナ線(全長106キロメートル)で、1902年に開業した。アメリカ最後の大陸横断鉄道、ミルウォーキー鉄道では、1915年からロッキー山脈と太平洋岸の路線の電化に着手した。なお、東海岸のバージニアン鉄道やノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道といった鉄道では、山岳部の一部区間のみ電化するという方式が採用された。第一次世界大戦のころになると、電柱がいたるところに立てられるようになり、電力の利用が蒸気力の利用を圧倒するまでになった。",
"title": "概要"
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"text": "1892年、フランス生まれでバイエルン人移民の息子だったドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルによって発明されたディーゼルエンジンは、圧縮して高熱になった空気熱によって燃料が発火する仕組みの往復ピストンエンジン(レシプロエンジン)であり、1893年に特許を取得した。ディーゼルエンジンは、自動車や船、のちに航空機などに使用されることになるが、世界で初めてディーゼルエンジンを鉄道車両用に用いたのもやはりドイツであった。1912年、プロイセン州州営鉄道向けに最初のディーゼル機関車が製作されており、これはディーゼル=ズルツァー=クローゼ式熱機関車と呼ばれ、ディーゼルエンジンと動輪軸を直結して駆動させる方式であったが、起動には空気圧縮機が必要で、牽引力や速度も思うような成果が出せず、クランクシャフトやシリンダーの破損が相次いで失敗に終わり、エンジン自体も凄まじい轟音を発したことから苦情も大きく、結局1914年に廃車となった。",
"title": "概要"
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"text": "1920年代にはディーゼル電気機関車が導入されて、燃費効率も格段に向上した。1924年にはロシア鉄道向けに大型機のGe-1形が製造されており、これは現存する最古のディーゼル機関車としてサンクトペテルブルクの鉄道博物館に静態保存されている。アメリカ合衆国のシカゴとデンヴァーを結ぶ流線型のディーゼル電気機関車「ゼファー」は平均時速120キロメートルであった。アメリカでは電気機関車よりもディーゼル機関車の方が普及した。とくに「北東回廊」と呼ばれる人口稠密地帯以外では、ディーゼル機関は、蒸気機関に比較したときの利点のいくつかを電動機と共有しており、また、電力供給網を構築する必要がなかったためである。その後、機械式・電気式・液体式の動力伝達機構の開発が進められ、これにより1930年代以降、ドイツやアメリカ合衆国などで本格的に実用化された。",
"title": "概要"
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"text": "ここでは、主要な項目を列挙し、詳細は別にゆずる。",
"title": "鉄道技術の歴史年表"
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"text": "ここでは、世界各地域の主要な項目を列挙し、詳細は各地域の鉄道の説明にゆずる。",
"title": "鉄道建設の歴史年表"
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"text": "イギリスで初めて登場した鉄道は、すぐにその有用性が認められ、北アメリカやヨーロッパ各地でも鉄道建設がはじまった。地域によっては猛烈な勢いで総延長距離を伸ばす時期もあり、鉄道狂時代あるいは鉄道建設狂時代と呼ばれる時期もある。たとえば、アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道が敷設され、1920年頃までに総延長は40万kmにも達した。",
"title": "鉄道建設の歴史年表"
},
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"text": "また、19世紀半ばには、当時進行していたヨーロッパの植民地政策と歩調をあわせるようにヨーロッパの影響の大きい地域から鉄道が敷設されていった。インド(英領インド帝国)や中近東でも比較的早い時期から鉄道の建設が始まっている。",
"title": "鉄道建設の歴史年表"
},
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"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "日本でも明治時代の1870年代に入って鉄道の建設が始まり、遅れて中国(清)や朝鮮半島(大韓帝国)でも鉄道建設が活発化した。ロシア(ロシア帝国)からもシベリア鉄道の延長が進み、20世紀初頭には極東地域とも結ばれるようになった。",
"title": "鉄道建設の歴史年表"
}
] | 鉄道の歴史(てつどうのれきし)では、鉄道の創始以来の主要な歴史について説明する。 | [[Image:StocktonDarlingtonOpening.jpg|thumb|350px|世界最初の[[鉄道]]である、[[ダラム州]]''ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の開業''、1825年]]
[[ファイル:Opening of the Liverpool and Manchester Railway.jpg|350px|right|thumb|[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]の開通式([[1830年]])]]
{{train topics}}
'''鉄道の歴史'''(てつどうのれきし)では、[[鉄道]]の創始以来の主要な[[歴史]]について説明する。
== 概要 ==
最古の鉄道は16世紀半ばにまでさかのぼり、[[鉱山]]内における馬の引く[[輸送]][[車両]]の使用が最初であったといわれる<ref name=daniels252>[[#ダニエルズ|ダニエルズ(2012)p.252]]</ref>。
=== 蒸気機関車の登場と鉄道旅行の始まり(19世紀前半) ===
18世紀後半より、[[イギリス]]では、[[蒸気機関]]を中心とする産業技術上の変革、すなわち「[[産業革命]]」とよばれる変化が経済の諸方面に多大な影響をおよぼし、社会生活の様相を根本的に変えていった。産業革命は人間や物資の移動手段にも変革をもたらした。綿工業は機械化され、そのために大量の物資の[[輸送]]が必要となって[[道路]]や[[運河]]の建設・整備を不可欠としたが、とりわけ[[蒸気機関車]]・[[鉄道]]・[[蒸気船]]の登場は単に輸送時間を短縮して輸送量を増大させたのみならず、[[鉄]]と[[石炭]]と[[蒸気]]という新しい時代のおとずれを人びとに印象づけた。そのなかで鉄道は、貨物や乗客を運ぶ手段として、他の運送手段に比較して効率性において優れていた<ref name=daniels252/>。鋼鉄製のレールに接する輪縁(フリンジ)の付いた車輪の摩擦は少なく、[[貨物列車]]が1トンを運ぶのに要する力はわずか1馬力にすぎない<ref name=daniels252/><ref group="注釈">それに対し、1トンの荷物を貨物トラックで運ぼうとすると10馬力は必要となる。[[#ダニエルズ|ダニエルズ(2012)p.252]]</ref>。鉄道はまた、遠隔地に新産業の成果を運び、[[時刻表]]を通して各地の時間を中央に結びつける役割を果たした。
イギリスで最初に旅客輸送をおこなった鉄道は、[[1807年]]に開業した[[ウェールズ]]地方の[[オイスターマス鉄道]]で、既存の路面軌道を用いた[[馬車鉄道]]であった。しかしながら、19世紀において鉄道がおそるべきスピードで整備拡充していったのは、それが蒸気機関車の技術と結びついたからである。
[[ファイル:Blenkinsop's rack locomotive, 1812 (British Railway Locomotives 1803-1853).jpg|220px|left|thumb|蒸気機関車サラマンカ号(1812年)]]
オイスターマス鉄道の開業に先立つ[[1804年]]、[[リチャード・トレビシック]]が、世界で初めて[[軌道 (鉄道)|軌道]]上を走る[[蒸気機関車]]を製作した<ref name=daniels252/>。商業的に成功した最初の蒸気機関車は、[[1812年]]に製作されたサラマンカ号(The Salamanca)であり、これは[[ラック・アンド・ピニオン]]式の機関車であった<ref group="注釈">ラック・アンド・ピニオン式とは[[歯車]]を利用して回転力を直線の動きに変換させる方式である。</ref>。その後も蒸気機関車は改良が重ねられ、[[ジョージ・スチーブンソン]]は[[1814年]]、初めてフランジが1方向のみである[[車輪]]を用いた機関車を開発した。[[1821年]]、イギリスの[[ヘンリー・ロランソン・パーマー]]により[[モノレール]]が考案され、[[1825年]]には、世界初の鉄道として英国[[ダラム州]]の[[ストックトン・オン・ティーズ|ストックトン]]と[[ダーリントン]]を結ぶ[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]が開業した。以後、欧米各地で鉄道の建設が活発になり、[[1827年]]に[[アメリカ合衆国]]、[[フランス]]、[[1835年]]には[[ドイツ]]でも鉄道が開業し、[[1830年代]]にはアメリカ全土で鉄道建設がさかんとなった<ref name=daniels252/>。ただしストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、運賃を定めて毎日定期的に運行する商業運転はおこなわず、[[線路 (鉄道)|線路]]もまた一般に公開され、通行料金さえ支払えばだれでも機関車や鉄道馬車を乗り入れることができた<ref name=kojima12>[[#小島|小島(2010)pp.12-22]]</ref>。その意味では純然たる営利事業としての鉄道事業ではなかったが、しかし、このときすでに技術的・[[工学]]的には近代鉄道事業はほとんど成立していたといってよい<ref name=kojima12/>。
[[ファイル:GeorgeStephenson.PNG|130px|right|thumb|ジョージ・スチーブンソン]]
[[1830年]]に開業したイギリスの[[リバプール・アンド・マンチェスター鉄道]]は工業都市[[マンチェスター]]と貿易港[[リヴァプール]]の間の約50キロメートルを蒸気機関車が走り、[[時刻表]]を用いて定期運行する世界初の営利事業としての鉄道である<ref name=daniels252/><ref name=cedarborg206>[[#シーダーボルグ|シーダーボルグ(2012)p.206]]</ref><ref name=kojima24>[[#小島|小島(2010)pp.24-39]]</ref><ref name=harari94>[[#ハラリ|ハラリ(2016)pp.94-99]]</ref><ref group="注釈">[[アメリカ合衆国]](とくに南部)やインドから汽船でリヴァプールの港に運ばれた[[綿花]]は、鉄道によってマンチェスターに運ばれ、綿製品に加工され、今度はリヴァプール港から世界各地に輸送された。</ref>。[[馬車]]とちがって[[季節]]や[[天候]]に左右されず、大量、迅速かつ確実に輸送し、移動することのできる鉄道は交通事情を一変させた([[交通革命]])。この鉄道を走る機関車を公募で選んだところ、5件の応募があり、ジョージ・スチーブンソンとその息子[[ロバート・スチーブンソン]]の機関車「ロケット号」が採用された<ref name=cedarborg206/><ref name=kojima24/>。最高時速は58キロメートルであり、これは後の機関車の基準となった<ref name=cedarborg206/>。機関車製造の技術者であり、鉄道会社の主任技師、そして[[経営者]]でもあったジョージ・スチーブンソンは、各鉄道の接続のためにはすべての鉄道が同じゲージ([[軌間]])であるべきだと主張し、そして実際、1,435ミリメートルの軌間が採用された<ref name=kojima24/>。これが、今日でいう「[[標準軌]]」となっている。
[[ファイル:Tom Thumb-1.jpg|180px|right|thumb|[[ピーター・クーパー]]が製造したアメリカ初の蒸気機関車「トム・サム」(レプリカ)]]
1830年、蒸気機関車「[[トム・サム]]号」が[[メリーランド州]]の[[ボルチモア]]と[[エリコットシティ (メリーランド州)|エリコットミルズ]]の間21キロメートルを最高時速29キロメートルで結び、復路は馬と競争して敗れたもののアメリカ最初の商業運転となり、ボルチモアの経済的な重要性をおおいに高め、進展めざましい西部の[[オハイオ州]]とを連絡する[[ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道]]の初代小型機関車として採用された<ref name=cedarborg206/>。
[[1830年代]]の後半から始まった鉄道網の整備は、「[[鉄道狂時代]]」と呼ばれる投資熱を生み出した。1835年、アメリカにはすでに1,600キロメートル以上の線路が敷設され、[[1850年代]]には[[ミシシッピ州]]以東のすべての州では鉄道が建設されていた<ref name=daniels252/>。このような投資熱さらには鉄道網の拡充は、当時、鉄道事業がきわめて収益性の高い事業だったからである。いっぽう、鉄道網の拡充は新たな旅行文化をももたらした。禁酒論者であったイギリスの[[トーマス・クック]]は、[[1843年]]に世界最初の[[パッケージツアー]]を考案して事業化し、大成功を収めて「近代[[観光|ツーリズム]]の父」と呼ばれる。近代ツーリズムは欧州各地を経て世界各地に急速に広がる一方、対象地域を拡大して利害関係者を増大させ、マスツーリズムを生み出すなど旅行形態の多様化をもたらした<ref>{{PDFlink|[http://library.tourism.ac.jp/no.10SinichiSatake.pdf 「ツーリズムの観光の定義」佐竹真一(大阪観光大学開学10周年記念号)]}}p.91</ref>。
初期の鉄道建設には、地域的にみて大きな偏りがあった。[[1850年]]には、西洋諸国では4万キロメートル弱の鉄道が開業していたものの、[[アジア]]、[[ラテン・アメリカ]]、[[アフリカ]]の地域では全部合わせても約4,000キロメートルの鉄道しか有しなかった<ref name=harari94/>。
=== 帝国主義時代(19世紀後半〜1913年) ===
19世紀中葉にあっては、ヨーロッパの工業化が飛躍的に進み、各国は先行するイギリスに対抗しながら[[殖産興業]]を進展させていった。諸国の経済はこうして相互に連関しあうようになり、世界的な[[資本制]]が形成されていった。
鉄道は大量の人や物資の移動を可能にし、こうした状況に対応して、多くの国が共通の関心をもつ事象について共同処理する機関がつぎつぎに設立された。[[1865年]]に設立された[[万国電信連合]]は世界最古の国際機関といわれ、[[1874年]]には[[万国郵便連合]]が設立された。[[赤十字国際委員会]]が組織されたのも[[1863年]]のことである。この年、イギリスの首都[[ロンドン]]では世界初の[[地下鉄]]が開業しているが、当時は蒸気機関車が車両を牽引した。なお、世界で2番目の地下鉄は [[1896年]] [[ハンガリー]]([[オーストリア=ハンガリー帝国]])の首都[[ブダペスト]]においてであり、[[1896年]]のことである。
[[ヨーロッパ大陸]]では、[[1870年]]ころまでに主要な鉄道路線が田園地帯を縫うように走るようになっており、[[アルプス山脈]]を抜ける[[トンネル]]や[[橋梁]]などは当時の[[土木]]技術の偉大な成果とみなされていた<ref name=daniels252/>。
;アメリカ合衆国
[[ファイル:GoldenSpikev3.jpg|280px|right|thumb|プロモントリーでの大陸横断鉄道開通記念式典(1869年5月10日)]]
[[北アメリカ大陸]]を横断する鉄道を建設しようという考えは合衆国で鉄道が実用化された当初から存在していたが、同時に[[新聞]]の[[社説]]などでは批判の対象ともなっていた<ref name=nakaya298>[[#中屋|中屋(1975)pp.298-300]]</ref>。これが、[[1848年]]の[[メキシコ]]からのカリフォルニア割譲、[[ゴールドラッシュ]]、[[1850年]]の[[カリフォルニア州]]成立によって事情が一変した<ref name=nakaya298/>。1850年、[[アメリカ合衆国連邦議会]]は鉄道建設のために土地の払い下げを開始した<ref name=daniels252/>。さらに[[1853年]]、連邦議会は[[アメリカ合衆国旧陸軍省|アメリカ陸軍省]]に対して15万ドルの予算を支出し、どの横断ルートが最も適切であるのかを調査させた<ref name=nakaya298/>。その結果、南部に1本、北部に1本、中央には1本以上が可能であると報告された<ref name=nakaya298/>。[[1854年]]成立の[[カンザス・ネブラスカ法]]も、元来は[[シカゴ]]を起点とする中央部の[[大陸横断鉄道]]建設を目標としたものであった<ref name=nakaya298/>。[[1862年]]に[[ユニオン・パシフィック鉄道]]会社が創立されて[[ネブラスカ州]]からカリフォルニアまでの鉄道建設が議会によって認可され、一方、カリフォルニア州では[[サクラメント (カリフォルニア州)|サクラメント]]を起点に[[セントラル・パシフィック鉄道]]が東へ向けて鉄道を建設することが決まった<ref name=nakaya298/>。
[[1861年]]に起こった[[南北戦争]]にあっては、[[北軍]](連邦軍)が鉄道・機関車双方において優位に立っており、軍隊や物資の輸送能力の面では南軍([[アメリカ連合国]]軍)を決定的に上回っていた<ref name=daniels252/>。北軍勝利で戦争が終結すると、大陸横断鉄道の建設には中国やヨーロッパからの[[移民]]労働者に加え、南北戦争の[[退役軍人]]が加わり、1869年5月に工事が完成した<ref name=daniels236>[[#ダニエルズ|ダニエルズ(2012)p.236]]</ref>。集められた中国人労働者の数は、最終的には1万2,000人に達したといわれている<ref name=daniels236/>。ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道は[[ユタ州|ユタ準州]](当時)の[[プロモントリー]]で接続した<ref name=daniels236/>。なお、19世紀末には、この路線含め4本の大陸横断鉄道が完成している。大陸横断鉄道の完成は、西部への移住をおおいに促進した<ref name=daniels236/>。
この間、列車は徐々に走行速度を速めていったが、アメリカ合衆国の蒸気機関車999号は、[[1893年]]に時速160キロメートルを記録している<ref name=daniels252/>。
;ドイツ
ドイツでは、[[1866年]]の[[普墺戦争]]、[[1870年]]の[[普仏戦争]]の勝利を経て、[[1871年]]に統一国家である[[ドイツ帝国]]が成立したが、鉄道については中央政府による一元運営ではなく、[[プロイセン邦有鉄道]]、[[王立バイエルン邦有鉄道]]、[[王立ザクセン邦有鉄道]]、[[王立ヴュルテンベルク邦有鉄道]]、[[バーデン大公国邦有鉄道]]など、連邦を構成する王国や大公国毎の単位で運営された。連邦の首都[[ベルリン]]の発展はめざましく、 [[1881年]]には世界初の[[路面電車]]が開業している<ref name=nakayama26>[[#中山|中山(1975)pp.26-28]]</ref>。
[[1888年]]、ドイツ帝国はオスマン帝国領内で[[アナトリア鉄道]]の建設を開始し、1893年に開通した。ドイツ資本はまた、[[1899年]]には[[バグダート鉄道]]敷設権を獲得し、現在の[[イラク]]地方への鉄道建設を進め、ほぼ同時期に[[ヒジャーズ鉄道]]も建設して[[中東]]地域への進出を図り、これが、イギリスやロシアなどとの対立をまねき、[[第一次世界大戦]]の遠因のひとつとなった([[3B政策]])。
;ロシア
[[ロシア帝国]]は、[[1872年]]、[[グルジア]](現、ジョージア)の[[トビリシ]]と[[ポティ]]の間の[[鉄道]]を建設し、[[コーカサス地方]]の支配を強めた<ref name=lang>[[#ラング|ラング(1973)pp.151-153]]</ref><ref name=kimura113>[[#木村|木村(1970)pp.113-132]]</ref>。さらに、[[1880年代]]には帝国領だった[[中央アジア]]諸地域にも鉄道を敷設してその支配を強め、1887年には[[サマルカンド]]に達した。
[[ファイル:Map Transsib Railway 1897.png|450px|right|thumb|シベリア鉄道路線地図(1897年当時、ドイツで発行)]]
[[1891年]]、ロシアは[[シベリア横断鉄道]]の建設を開始した。この鉄道は、[[露仏協商]]によって提携を強めたフランス資本を導入して進められたが、一方では極東に経済的利権を保有していたイギリスの警戒をまねき、地理的に近い日本もまたヨーロッパからの大軍の移動を容易にするこの鉄道の敷設には恐怖をいだいた。両者の利害がここで一致し、日英両国は[[1902年]]、[[日英同盟]]を結ぶにいたった。鉄道建設は、ヨーロッパ側から建設を進めた区間が[[1898年]]に[[バイカル湖]]畔の[[イルクーツク]]に達した。極東地方から起工した[[ウスリー鉄道]]は[[1897年]]に完成し、[[ハバロフスク]]から[[アムール川]]、[[シルカ川]]を超えて西への鉄道も建設されていった。建設は、[[樺太|サハリン]]など各地に流されていた受刑者や[[ロシア帝国軍|ロシア軍]]兵士によって進められた。[[1896年]]、ロシア政府は[[露清密約]]によって[[清国]]からシベリア鉄道短絡線として[[満州]]北部を横断して[[ハルビン市|ハルビン]]などを経由する[[東清鉄道]]の敷設権を得た。[[1901年]]、バイカル湖の区間を除いて完成、[[1903年]]には東清鉄道も全通して[[日露戦争]]のさなかの[[1904年]]9月に全通した。日露戦争後は、アムール川左岸を通って[[ハバロフスク橋]]でアムール川を渡り、ハバロフスクを経由する国内ルートの建設を進めた。[[1913年]]、世界最長のシベリア鉄道が完成、総延長は9,000キロメートルを超える<ref name=daniels252/>。
;日本
[[ファイル:Steam-Locomotive-on-the-coast-in-Yokohama-1874-Utagawa-Hiroshige-III.png|450px|right|thumb|開業当時(1874年)の横浜駅([[歌川広重 (3代目)|3代目歌川広重]]画)]]
日本も[[明治維新]]後は殖産興業政策を推し進めていった。日本の鉄道建設は[[伊藤博文]]・[[大隈重信]]の熱心な主張で始まった<ref name=makihara80>[[#牧原|牧原(2008)pp.80-81]]</ref>。1869年、従来の[[民部官]]が改組されるかたちで[[民部省]]が[[太政官]]に設置され、民部省はその後[[大蔵省]]との合併と分離をくりかえすが、大隈・伊藤らは両省の役職を兼務して[[租税]]徴収から産業育成におよぶ強大な権限を掌握して、鉄道・[[電信]]・[[郵便]]・[[灯台]]など近代化のための[[インフラストラクチャー]]整備を強力に進めた<ref name=makihara80/>。鉄道に関しては政府は財政不足のため、建設費にあてるため100万ポンドの外国債をイギリスで募集した。新たに設立された[[工部省]]によって京浜間の測量が始まったのは[[1870年]]3月のことである。
[[日本の鉄道開業]]は[[1872年]](明治5年)、[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]・[[横浜駅|横浜]](現、[[桜木町駅]])間においてであった<ref name=makihara170>[[#牧原|牧原(2008)pp.170-173]]</ref>。鉄道開業式は、横浜駅でおこなわれたが、[[明治天皇]]は新橋駅から乗車して1時間後の開業式に臨み、みずから「鉄道の便利さ」をアピールし<ref name=makihara170/>、百官衆庶や外国公使、横浜居留外国人、[[工部省]]の[[御雇外国人]]などに対し勅語をした。
{{quote|我国鉄道の首線工竣り、朕みずから開行するの日にあたりて、列国公使等斎く来りて祝意を表せらる、朕歓喜の至りに堪えざるなり。朕更に庶幾すは、自今、中外人民共に鴻利を享け永く幸福を保ち、公使等の祝詞に負かざらんことを祈る。|各国公使等へ勅語、1872年9月12日{{sfn|植村泰通|1884年}}}}
いわゆる「[[長州五傑]]」のひとりであり、[[ロンドン大学]]で鉱山・土木を学んだ[[井上勝]]は工部省鉄道寮の長官(鉄道頭)となり、[[1877年]]、[[大阪]]に工技生養成所を設けて鉄道技術者を養成し、[[京都駅|京都]]・[[大津駅|大津]]間の鉄道はすべて日本人技術者と労働者だけで工事をおこなった<ref name=nakamura215>[[#中村|中村(1992)pp.215-216]]</ref>。一時は鉄道関係の「[[お雇い外国人]]」は100人を超えていたが、[[1875年]]ごろから減少しはじめ、[[1880年]]ごろには日本人が鉄道建設および鉄道運営の技術をほぼ習得した<ref name=nakamura215/>。[[1879年]]には日本人[[機関士]]も登場している<ref name=nakamura215/>。[[1885年]]の工部省廃止後の鉄道事業は[[内閣]]直属となった。[[1890年]]前後になると[[東海道本線|東海道線]]の新橋・[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]間や[[日本鉄道]]の[[上野駅|上野]]・[[青森駅|青森]]間が全通した。日本鉄道は、[[1881年]]に6,000万という当時にあっては巨額な資本金で設立された日本初の民営鉄道で、[[華族]]の資本を結集したものであった<ref name=nakamura215/>。また、1890年代から1900年代には、[[京都市]]はじめ大都市では都市内の交通機関として[[市街電車]]が開通した。
[[1880年]]、西洋諸国の鉄道線路は延長35万キロメートルに達したが、他地域ではすべて合わせても3万5,000メートルにすぎなかった<ref name=harari94/>。しかも、その割合は[[イギリス人]]が[[インド]]で建設したものが多くを占めた<ref name=harari94/>。インドでは[[1853年]]にアジア初の鉄道が開業している。[[中国大陸]]初の鉄道は[[1876年]]のことであるが、これは[[ヨーロッパ人]]によって建設されたものであり、しかも翌年[[清国]]政府によって破壊されてしまった<ref name=harari94/>。したがって、1880年段階では清帝国はわずか1本の鉄道も保有していなかった<ref name=harari94/>。[[ペルシア]]初の[[鉄道]]は[[1888年]]にようやく建設され、首都[[テヘラン]]とそこから約10キロメートル南の[[イスラーム]]の[[聖地]]を結んだもので、[[ベルギー]]の会社によって建設されたものであった<ref name=harari94/>。このように、欧米における鉄道普及とそれ以外の地域のそれとでは大きな格差があったが、自国で鉄道建設を進めた日本は、アジアのなかにあっては例外的な存在といえる<ref name=harari94/>。
以下は、各年次ごとの世界の大陸別鉄道の延長距離であり、単位は1,000キロメートルである<ref>[[#クチンスキー|クチンスキー(1966)p.98]]</ref>。
{|class="wikitable" cellspacing="0"
!年代||||世界||||ヨーロッパ||アメリカ||アジア||アフリカ||オーストラリア
|-
|1870||||210||||105||93||8||2||2
|-
|1880||||372||||169||175||16||5||8
|-
|1890||||617||||224||331||34||9||19
|-
|1900||||790||||284||402||60||20||24
|-
|1910||||1,030||||334||526||102||37||31
|-
|1913||||1,102||||347||567||108||44||36
|-
!<span style="font-size:80%;">1870-1900の増加分||||<span style="font-size:90%;">580||||<span style="font-size:90%;">179||<span style="font-size:90%;">309||<span style="font-size:90%;">52||<span style="font-size:90%;">18||<span style="font-size:90%;">22
|-
!<span style="font-size:80%;">1900-1913の増加分||||<span style="font-size:90%;">312||||<span style="font-size:90%;">63||<span style="font-size:90%;">165||<span style="font-size:90%;">98||<span style="font-size:90%;">24||<span style="font-size:90%;">12
|}
19世紀後葉から20世紀初頭にかけては、[[世界システム論]]が唱える「世界システム」の「[[周辺]]」地域での鉄道建設がめざましいことが、上の表からもうかがわれる<ref group="注釈">「世界システム論」は、アメリカの社会学者[[イマニュエル・ウォーラステイン]]が提唱した巨視的歴史理論。それによれば、「世界システム」とは、一つの国家や民族の枠組みを超えて展開する単一の分業体制「世界経済」で、[[中央]]([[中核]])・半周辺・[[周辺]](周縁)の三要素から構成され、この三要素には流動性がある、とする。[[#木谷|木谷(1997)pp.20-23]]</ref>。たとえば、[[メキシコ]]では[[1876年]]には650キロメートルだったものが[[1911年]]の鉄道総延長は2万4,000キロメートルに達し、その増加率は37倍にもおよんだ<ref name=kitani31>[[#木谷|木谷(1997)pp.31-39]]</ref>。
中国においても、1900年には470キロメートルにすぎなかったものが、[[1913年]]には21倍の9,858キロメートルへと21倍に急増したが、これは列強が競って鉄道建設の利権を求めた結果であった<ref name=kitani31/>。そして、これは単に鉄道敷設権だけではなく、鉄道沿線地域での[[資源]]の開発や独占を可能にする[[鉱業]]特権・採掘権、[[関税]]ほか[[租税]]における[[免税]]特権、場合によっては治安維持のための[[警察権]]・駐兵権などをもともなっており、この国の半植民地化をむしろ推進させたのである<ref name=kitani31/>。そして、鉄道建設は沿線農民の[[田畑]]や[[墓地]]を破壊し、伝統的な運送業者の仕事を奪い、さらに輸入された外国産の繊維製品はじめ工業製品は、伝統的な手工業者のしごとを圧迫した<ref name=kitani31/>。こうした国内に所在する外国経営の鉄道への反感が排外主義として現れることも少なくなく、1900年の[[北清事変]](義和団の乱)でも、[[義和団]]は西洋人や中国人キリスト教信者、舶来物を扱う商店、電線などとともに鉄道も攻撃対象として襲撃した<ref name=kitani31/>。日本もまた、[[日露戦争]]後の[[ポーツマス条約]]([[1905年]])で[[長春]]以南のロシア[[東清鉄道]]南部支線を獲得し、戦争中に[[清国]]の抗議を退けて臨時軍用鉄道監部が建設した安東(現、[[丹東市|丹東]])・奉天(現、[[瀋陽市|瀋陽]])間の軍用[[軽便鉄道]]([[安奉線]])とあわせて[[1907年]]設立の[[南満州鉄道会社]](通称、満鉄)の経営下に置かれた<ref name=unno140>[[#海野|海野(1992)pp.140-141]]</ref><ref group="注釈">南満州鉄道は、1911年完成の[[鴨緑江橋梁]]によって[[日本統治時代の朝鮮|日本領朝鮮]]とも直結して一貫輸送体制が整備され、また、同年には[[日本国有鉄道]](国鉄)がロシア帝国とのあいだに国際鉄道連絡運輸を開始したので、日本とアジア大陸とのあいだで連絡輸送体制が成立し、[[シベリア鉄道]]経由でヨーロッパに旅行することも可能となった。[[#海野|海野(1997)p.141]]</ref>。
[[ファイル:IndianRailways1871b.jpg|代替文=|サムネイル|300x300ピクセル|1871年当時のインドの鉄道敷設状況]]
[[イギリス領インド帝国|英領インド]]ではすでに1850年代に鉄道建設ラッシュが始まり、[[20世紀]]初頭には総延長4万キロメートルに達し、これはアメリカ合衆国、[[カナダ]]、[[ロシア帝国]]につぐ世界第4の距離であった<ref name=kitani31/>。[[インド亜大陸]]で急速に鉄道交通が発展したのには、[[デカン高原]]など比較的平坦な[[高原]]状の地形が広がっていることや[[ガンジス川]]を除くと[[乾季]]に[[河川]]での舟運がほとんど不可能になること、大量の[[貨物]]の輸送には不向きな[[道路]]事情などの理由が考えられる<ref name=kitani31/>。鉄道建設はしたがってインドに新しい生活様式と近代産業の勃興を生み出すものと一部では期待されたが、実際には必ずしもそうならなかった<ref name=kitani31/>。鉄道は内陸で生産された綿花、[[小麦]]、[[ジュート]]、[[茶]]、[[アヘン]]などを[[ムンバイ]](ボンベイ)、[[チェンナイ]](マドラス)、[[コルカタ]](カルカッタ)などの輸出港に運び、外国とくにイギリスからの輸入品を内陸各地に輸送するために建設された<ref name=kitani31/>。したがって、インドにまとまりのある国内市場をつくることには寄与せず、その一方で、鉄道会社は経費節減等のため路線ごとに異なるゲージ([[軌間]])を用いたので、国内市場はむしろ分断されたのであった<ref name=kitani31/>。また、[[ロンドン]]の[[金融市場]]で募集されたインド鉄道債には通常より高い[[利子率]]がインド帝国政府によって保証され、その[[利子]]は鉄道が[[黒字と赤字|赤字]]であってもインド人の支払う税金によって支払われた<ref name=kitani31/>。さらに、インド農業は自給目的の食糧生産を中心とするものから次第に輸出用の[[商品作物]]生産にシフトしてきたので、いったん不作になると、しばしば深刻な[[飢饉]]に襲われた<ref name=kitani31/>。総じて、インドの鉄道はインド経済を低開発状態のままに固定する役割を果たしたのである<ref name=kitani31/>。もとより、鉄道が道路事情のわるいインドに[[交通革命]]をもたらしたのも事実であり、[[都市]]や[[巡礼地]]にはインド各地から多くの人びとが流入した<ref name=kitani31/>。しかし、鉄道会社における人びとの職種や列車における客室の等級などにおいては、[[人種]]的な差別がインド人同士の[[カースト]]間の差別よりもいっそう露骨で明瞭なかたちをとったのであり、インドにおける反英運動が鉄道建設と同時に始まったのは必ずしも偶然ではなかった<ref name=kitani31/>。
[[ファイル:Locomotive ndolo.jpg|thumb|right|300px|レオポルドヴィルに到着した最初の蒸気機関車(1898年)]]
アフリカは、鉄道の普及に関しては他大陸と比較していっそう遅れていた。ただし、19世紀後葉には[[エジプト]]や[[アルジェリア]]など植民地化が比較的早く進んだ北部アフリカや[[鉱産資源]]の豊富な現在の[[南アフリカ共和国]]の地域([[ケープ植民地]]、[[オレンジ自由国]]、[[トランスヴァール共和国]]など)では鉄道建設が始まった<ref name=kitani31/>。しかし、1880年代以降ヨーロッパ人が殺到した[[サハラ砂漠]]以南の熱帯アフリカでは、たとえ有望な鉱産資源が見つかっても鉄道建設にすぐに結びついたわけではなかった<ref name=kitani31/>。吸血性の[[ツェツェバエ]]が[[アフリカ睡眠病]]を媒介するため荷物運搬用の大型役畜を用いることができず、荷物を運ぶには人力に拠るしかなかったからである<ref name=kitani31/>。もっぱら人力に頼るこのような交通事情を克服するために着手された鉄道建設に際しても、最初、すべての資材・機材の運搬を人力に頼らざるを得ないという[[ディレンマ]]に陥った<ref name=kitani31/>。ベルギー王[[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]の私的植民地であった[[コンゴ自由国]]では、[[1890年]]、[[マタディ・キンシャサ鉄道|マタディ・レオポルドヴィル鉄道]]の建設に着手し、建設労働者の多くは険しい地形や[[マラリア]]、[[赤痢]]などの[[感染症]]、[[脚気]]などで命を落とし、やがてアフリカ各地、[[カリブ海]]沿岸地域、中国などからも人夫を集めたが、暴動が起こったり、逃亡する者や病死者が相次いだりして建設は遅々として進まず、ようやく8年後の[[1898年]]に完成している<ref name=kitani31/><ref group="注釈">[[マタディ]]は[[コンゴ川]]河口近くの河港、ベルギー国王の名を冠したレオポルドヴィルはコンゴ自由国の首府で現在の[[キンシャサ]]である。この鉄道の建設工事では1,800人もの労働者が命を落としたと記録されており、それにはヨーロッパ人技師や工夫頭の132人は含まれていない。苛酷な建設工事のようすは[[ジョゼフ・コンラッド]]の小説『[[闇の奥]]』に描かれている。建設現場では一時6万人もの労働者が運搬人などとして働いていたといわれる。[[#木谷|木谷(1997)pp.36-38]]</ref>。これは一例であるが、このように現地の人びとの多大な犠牲のもとに建設された鉄道も、内陸部に大都市のほとんどない熱帯アフリカ各地にあっては旅客輸送で収益をあげることができず、ヨーロッパ人による資源の収奪に役立つのみであり、アフリカ人自身にはほとんど恩恵をもたらさなかった<ref name=kitani31/>。
=== 電車・ディーゼル車の登場と2度の大戦(1914年〜1945年) ===
[[ファイル:Milw003.jpg|thumb|200px|電化区間を走る[[ミルウォーキー鉄道EP-2型電気機関車]]のイラスト。1925年の時刻表より]]
ドイツの[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]によって画期的な[[発電機]]が製作されたのは[[1866年]]にさかのぼり、[[1878年]]には[[トーマス・エジソン]]によって改良された<ref name=nakayama26/>。このころより、産業界において[[電力]]がかつて蒸気力がしめていたような中心的位置を占めるようになってきた<ref name=nakayama26/>。[[1880年代]]後葉には[[変圧器]]が発明され、高圧送電も可能になった<ref name=nakayama26/>。これは産業界に大きな変革をもたらした。従来、動力源にめぐまれなかった地域でも遠距離の[[発電所]]から送電される電力によって工業化が可能となったからである<ref name=nakayama26/>。電動機を交通機関にすえつけ、電力によって車を動かすことは[[1879年]]のベルリンで開かれた[[博覧会]]において、[[ジーメンス・ウント・ハルスケ|ジーメンス・ウント・ハルスケ社]]によって試みられたもので、この試作品が[[電気機関車]](電車)としては最初期のものとなる<ref name=nakayama26/>。上述のように世界初の電車開業は[[1881年]]に施行運転され、[[1883年]]に定期運行の始まったベルリンと{{仮リンク|リヒターフェルデ|de|Berlin-Lichterfelde}}をむすぶ[[路面電車]]であった<ref name=nakayama26/>。イギリスでは1883年、[[ブライトン]]で最初の電気鉄道{{仮リンク|フォルクス電気鉄道|en|Volk's Electric Railway}}が開業、アメリカ合衆国でも[[1888年]]に{{仮リンク|リッチモンド・ユニオン旅客鉄道|en|Richmond Union Passenger Railway}}が最初の路面電車が開業するなど、電車はこの後の約10年間で、欧米の大都市に急速にひろがっていった<ref name=nakayama26/>。また、[[1897年]]に[[フランク・スプレイグ]]が[[総括制御]]を発明したことによって地下鉄の電化がはかられた。蒸気機関車の煙害が問題視されていたため、地下鉄を含む都市部の電化は急速に進んだ。都市以外では山岳地域の電化が進展した。山岳地域では石炭の供給が難しい反面、[[水力発電]]が得られやすく、急勾配な路線には電気機関車の方が適していたためである。短区間でなく一つの幹線全体を世界で初めて電化したのは[[イタリア]]のヴァルテッリーナ線(全長106キロメートル)で、[[1902年]]に開業した。アメリカ最後の大陸横断鉄道、[[ミルウォーキー鉄道]]では、[[1915年]]から[[ロッキー山脈]]と[[太平洋]]岸の路線の電化に着手した。なお、東海岸の[[バージニアン鉄道]]や[[ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道]]といった鉄道では、山岳部の一部区間のみ電化するという方式が採用された。[[第一次世界大戦]]のころになると、[[電柱]]がいたるところに立てられるようになり、電力の利用が蒸気力の利用を圧倒するまでになった<ref name=nakayama26/>。
[[ファイル:DieselLoco first.jpg|thumb|250px|right|現存する最古のディーゼル機関車、ロシア鉄道 Ge-1形]]
[[1892年]]、フランス生まれでバイエルン人移民の息子だったドイツの技術者[[ルドルフ・ディーゼル]]によって発明された[[ディーゼルエンジン]]は、圧縮して高熱になった空気熱によって[[燃料]]が発火する仕組みの往復[[ピストンエンジン]]([[レシプロエンジン]])であり、[[1893年]]に[[特許]]を取得した<ref name=daniels253>[[#ダニエルズ|ダニエルズ(2012)p.253]]</ref>。ディーゼルエンジンは、[[自動車]]や船、のちに[[航空機]]などに使用されることになる<ref name=daniels253/>が、世界で初めてディーゼルエンジンを鉄道車両用に用いたのもやはりドイツであった。[[1912年]]、[[プロイセン州]]州営鉄道向けに最初のディーゼル機関車が製作されており、これは[[ディーゼル]]=[[ズルツァー]]=クローゼ式熱機関車と呼ばれ、ディーゼルエンジンと[[駆動輪|動輪]][[輪軸 (鉄道車両)|軸]]を直結して駆動させる方式であったが、[[起動]]には空気[[圧縮機]]が必要で、牽引力や[[速度]]も思うような成果が出せず、[[クランクシャフト]]や[[シリンダー]]の破損が相次いで失敗に終わり、エンジン自体も凄まじい[[騒音|轟音]]を発したことから苦情も大きく、結局[[1914年]]に廃車となった。
[[1920年代]]にはディーゼル電気機関車が導入されて、燃費効率も格段に向上した<ref name=daniels252/>。[[1924年]]には[[ロシア鉄道]]向けに大型機のGe-1形が製造されており、これは現存する最古のディーゼル機関車として[[サンクトペテルブルク]]の鉄道博物館に[[静態保存]]されている。アメリカ合衆国の[[シカゴ]]と[[デンヴァー]]を結ぶ流線型のディーゼル電気機関車「ゼファー」は平均時速120キロメートルであった<ref name=daniels252/>。アメリカでは電気機関車よりもディーゼル機関車の方が普及した。とくに「[[北東回廊]]」と呼ばれる人口稠密地帯以外では、ディーゼル機関は、蒸気機関に比較したときの利点のいくつかを電動機と共有しており、また、電力供給網を構築する必要がなかったためである。その後、機械式・電気式・液体式の動力伝達機構の開発が進められ、これにより[[1930年代]]以降、ドイツやアメリカ合衆国などで本格的に実用化された。
== 鉄道技術の歴史年表 ==
ここでは、主要な項目を列挙し、詳細は別にゆずる。
* 馬車道上の切石を用いた軌道を牽引される最初の車両は、少なくとも2000年前にギリシャ、マルタとローマ帝国の一部に登場した。
* [[16世紀]]半ば 木製のレールが使用されはじめる。
: イギリスの炭鉱で車の轍(わだち)のあとに丸太を設置して、その上に車を走らせた。また、ドイツの鉱山でも木製レールが使用され、[[分岐器|ポイント]](分岐)も備えていた。
* [[18世紀]]後半 [[産業革命]]で[[蒸気機関]]の動力が発明される。
* 18世紀後半 鉄製[[軌条|レール]]が使用されはじめる。
: 鉱山などで鉄製のレールを使った運搬が行われた。馬や人の力で運搬する。
* [[19世紀]]初頭 蒸気機関を用いた鉄道の研究・開発がはじまる。
: [[リチャード・トレビシック|トレビシック]]が[[1804年]]に鉄製レール上を走る[[蒸気機関車]]の走行に成功したが、この頃は[[馬車鉄道]]用のもろい鋳鉄レールを使用していたため線路が折れやすく、本格的な実用化までには至らなかった。その後、[[ナポレオン戦争]]による軍馬の需要の増加で馬の価格が高騰し、運搬の代替手段としてレールと蒸気機関車を用いた鉄道の研究が一段と進んだ。
* [[1812年]] イギリスのミドルトン鉄道が[[ラック式鉄道]]を初めて採用する。
* [[1821年]] イギリスのヘンリー・ロランソン・パーマーにより、[[モノレール]]が考案される。
* [[1825年]] [[イギリス]]のストックトン・ダーリントン間を結ぶ鉄道が開業した。
: これが世界初の商用鉄道とされている。以後、欧米各地で鉄道の建設が活発になり、1827年に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[フランス]]、1835年に[[ドイツ]]で鉄道が開業した。また、当時、イギリスの植民地化が進んでいた[[インド]]でも1853年に鉄道が開業した。
* [[1837年]] イギリスのロバート・デビッドソンにより[[電気機関車]]が製作される。
* [[1841年]] イギリスで[[鉄道信号機|腕木信号機]]が考案される。
* [[1863年]] イギリス、ロンドンで蒸気機関車を用いた[[地下鉄]]が開業。
* [[1879年]] ドイツの[[シーメンス]]社が本格的な[[電気機関車]]を試作・公開。
: ベルリン博覧会で公開運転を行った。
* [[1881年]] ドイツのベルリンで世界初の電車の営業運転を開始。
* [[1910年]] アメリカで色灯式信号機が製造される。
* [[1912年]] ドイツで[[ディーゼル機関車]]が製作される。
* [[1955年]] フランス国鉄が当時の[[標準軌]]での速度記録を樹立。331km/h。
* [[1960年]] 日本、[[狭軌]]での速度記録を樹立。175km/h。
* [[1964年]] 日本、[[東海道新幹線]]が営業運転を開始。当時営業速度では世界最速の210km/h運転を行った。
: 東京・新大阪間4時間運転。1年ほどの後の[[1965年]][[11月1日]]には所要時間が3時間10分になった。
* [[1981年]] フランスで[[TGV]]が運行開始、最高速度270km/hで世界最速に。
* [[2003年]] 中国、[[上海市|上海]]で[[トランスラピッド]]開業。最高速度430km/h。
* [[2007年]] 日本、[[小海線]]で世界初の[[鉄道車両におけるハイブリッド|ハイブリッドシステム]]が使用される。
== 鉄道建設の歴史年表 ==
ここでは、世界各地域の主要な項目を列挙し、詳細は[[世界の鉄道一覧|各地域の鉄道]]の説明にゆずる。
[[イギリス]]で初めて登場した鉄道は、すぐにその有用性が認められ、[[北アメリカ]]や[[ヨーロッパ]]各地でも鉄道建設がはじまった。地域によっては猛烈な勢いで総延長距離を伸ばす時期もあり、[[鉄道狂時代]]あるいは鉄道建設狂時代と呼ばれる時期もある。たとえば、アメリカの場合、1880年代頃から年間1万kmのペースで鉄道が敷設され、1920年頃までに総延長は40万kmにも達した。
また、19世紀半ばには、当時進行していたヨーロッパの植民地政策と歩調をあわせるようにヨーロッパの影響の大きい地域から鉄道が敷設されていった。[[インド]]([[英領インド帝国]])や[[中近東]]でも比較的早い時期から鉄道の建設が始まっている。
[[日本]]でも[[明治|明治時代]]の1870年代に入って鉄道の建設が始まり、遅れて[[中国]]([[清]])や[[朝鮮半島]]([[大韓帝国]])でも鉄道建設が活発化した。[[ロシア]]([[ロシア帝国]])からも[[シベリア鉄道]]の延長が進み、20世紀初頭には極東地域とも結ばれるようになった。
=== 19世紀前半 ===
* [[1803年]] イギリスで世界初の公共目的の[[馬車鉄道]]である[[サリー鉄道]]が開業。
* [[1807年]] イギリス([[ウェールズ]])で世界初の旅客輸送を行なう馬車鉄道が開業([[:en:Swansea and Mumbles Railway|Swansea and Mumbles Railway]])。
* [[1825年]] イギリスで世界初の蒸気機関を用いる公共鉄道、[[ストックトン・オン・ティーズ|ストックトン]]・[[ダーリントン]]間が開業した。
* [[1827年]] [[フランス]]初の鉄道開業。
: [[サン=テティエンヌ]] - アンドレジュー間。フランスでは1842年頃から鉄道建設が活発化した。
* [[1830年]] アメリカ初の鉄道開業。
: [[ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道]]。1846年にはアメリカの代表的な鉄道会社の一つである[[ペンシルバニア鉄道]]が開業した。
* [[1835年]] [[ドイツ]]初の鉄道開業。
: [[ニュルンベルク]] - [[フュルト]]間。
* [[1830年代]]後半~、[[ベルギー]]、[[イタリア]]などでも鉄道の建設・開業が相次ぐ。
* [[1840年代]]~ 各地で鉄道建設ラッシュ。
: 1840年代頃からイギリスで鉄道の建設が一段と活発化した。アメリカでも1848年に西部の[[カリフォルニア州]]がアメリカ領となり、同時期にはじまる金採掘ブーム([[ゴールドラッシュ]])を機に鉄道建設が一段と活発化した。
=== 19世紀後半 ===
* 1850年代 中近東地域で鉄道が開業。
: ヨーロッパ列強の中近東地域進出とともにこの地域でも鉄道が建設されるようになった。1855年に[[エジプト]]初の鉄道が登場した。イギリス資本で建設され、[[アレクサンドリア]]・[[カイロ]]間を結んだ。1858年にはカイロ・スエズ間が開通した。この頃、[[スエズ運河]]の建設の動き(こちらはフランス資本)も進行している。また、1858年には[[トルコ]]([[オスマン帝国]])初の鉄道([[イズミル]]・セイディキョイ間)が開業した。
* 1850年代後半 南米の[[ペルー]]で南米初の鉄道が開業([[カヤオ]] - [[リマ]]間)。
: 中米の[[パナマの歴史|パナマ]]では[[1850年]]から[[パナマ・コロン地峡横断鉄道]]の建設が始まり、[[1855年]]に完成した。
* [[1853年]] [[インド]]初の鉄道開業
: [[ムンバイ|ボンベイ]]・[[ターネー]]間。当時、インドはイギリスの植民地化が進みつつあり、イギリスの資本で鉄道が建設された。[[インドの鉄道]]は[[アジア]]では最初のものであった。
* [[1854年]] [[オーストラリア]](英領オーストラリア[[ビクトリア州|ビクトリア植民地]])で鉄道が開業。
: [[オセアニア]]初の鉄道となる。
* [[1857年]] 8月29日 [[アルゼンチン]]初の鉄道が開業(東鉄道・首都[[ブエノスアイレス]]市内)。全長9.6 Km。
* [[1863年]] イギリスの首都[[ロンドン]]で世界初の[[地下鉄]]が開業(当時は蒸気機関車牽引)。
* [[1869年]] アメリカで最初の[[大陸横断鉄道]]が開通。
: アメリカの東海岸と西海岸が結ばれた。開通より少し前の1865年頃(当時、[[南北戦争]]の時代でもある)には、アメリカではすでに約56,000kmの鉄道網があったという記述も見られる。
* [[1872年]] [[日本の鉄道開業]]。
: [[新橋駅|新橋]]・[[桜木町駅|横浜]]間を結んだ。日本では、1854年にペリーが[[蒸気機関]]の鉄道模型を紹介し、その後、明治時代に入ってイギリスの指導で鉄道の建設が始まった。旧新橋駅は現在の汐留にあり、昭和時代には広大な貨物ターミナル駅があったが現在は高層ビル群となっている。また、旧横浜駅は現在の桜木町にあり、現在の横浜駅はまだ海で、沖に堤が築かれ線路が敷設されていた。
* [[1876年]] 中国初の鉄道が敷設される。
: イギリスが[[上海市|上海]]・[[呉淞]]間に鉄道を敷設するが反対運動で撤去された。1880年代には欧米列強による鉄道建設が本格化した。
* [[1881年]] [[ドイツ]]([[ドイツ帝国]])の首都[[ベルリン]]で世界初の[[路面電車]]が開業。
* [[1880年代]] ロシア帝国領の[[中央アジア]]地域にも鉄道が延びる。
: ロシアが[[コーカサス鉄道]]を建設し、1887年には[[サマルカンド]]に達した。
* 1880年代 日本、各地で鉄道の建設が進む。
: [[北海道]]、[[四国]]、[[九州]]にも初の鉄道が敷設された。また、1889年には[[東海道本線|東海道線]](新橋・神戸間)が全通した。
* 1880年代 [[モノレール]]の開発が進む。
: 以後、世界各地で建設。ドイツ・[[ブッパータール]]の[[懸垂式モノレール]]([[ヴッパータール空中鉄道]])は[[1901年]]に開業。
* [[1888年]] ドイツがアナトリア(トルコ)鉄道の建設を開始。
: 1893年に開通した。また、1899年には[[バグダート鉄道]]敷設権を獲得し、イラク地方への鉄道建設を進める。バクダード鉄道敷設権の獲得は、ヨーロッパの[[植民地主義]]政策([[3B政策]]、[[3C政策]])でしばしば取り上げられる項目である。→[[ヒジャーズ鉄道]]
* [[1891年]] ロシアが[[シベリア横断鉄道]]の建設を開始。
: [[露仏協商]]によりフランス資本を導入して進められ、[[日露戦争]]の頃の1905年に開通した。また、これより前の1901年には、シベリア鉄道が中国の[[東清鉄道]]と結ばれた。
* [[1896年]] [[ハンガリー]]([[オーストリア=ハンガリー帝国]])の首都[[ブダペスト]]で世界2番目の地下鉄が開業。
: 初の電化式地下鉄。以後、西欧や北米を皮切りに世界の各都市で地下鉄建設が進行。
* 1896年 スイスで世界初の[[交流電化]]鉄道が開業。
: その後の開発は難航し、高速運転の実用化は1950年代以降。
* [[1899年]] [[朝鮮]](当時[[大韓帝国]])初の鉄道開業。
: 鷺梁津(現・[[ソウル特別市|ソウル特別市・鷺梁津]])と濟物浦(現・[[仁川広域市]])を結ぶ[[京仁線|京仁鉄道]]が1899年に創業した。最初はアメリカ人が朝鮮より鉄道敷設権を得て着工したが、途中で日本人の[[合資会社]]が敷設権を引受、完成した。
=== 20世紀前半 ===
* [[1904年]] 朝鮮(大韓帝国)で[[京釜鉄道]]が開業。
: [[釜山広域市|釜山]]と京城(現・[[ソウル特別市|ソウル]])間を結ぶ[[京釜線]]が完成した。日本の資本によるもので、[[日露戦争]]が背景にあった。
* [[1910年]] アルゼンチンと[[チリ]]を結ぶアンデス横断鉄道([[:es:Ferrocarril Trasandino Los Andes-Mendoza|スペイン語版]]、[[:en:Transandine Railway|英語版]])が開通。
: 軌間の違いにより、完全な形で大陸の東西を結ぶことはできなかったが、南米は北米に続いて2つ目の横断鉄道が開通した大陸となる(現在国境区間は[[廃線]])。
* [[1916年]] シベリア鉄道のロシア国内部分が完成し、全面開通。
* [[1917年]] アメリカで鉄道の総延長距離が40万 kmを超えピークに。
: この頃がアメリカにおける鉄道の最盛期で、その後、次第に成長してくる[[自動車]]と[[航空機]]に押されることになった。
* 1917年 オーストラリアで初の大陸横断鉄道が開業。
: イギリスの直轄植民地時代に建設された規格がまちまちで、特に軌間が異なる各州境では[[鉄道車両の台車|台車]]交換が必要だった。大陸の東西が[[標準軌]]で結ばれたのは[[1969年]]。
=== 20世紀後半 ===
* [[1964年]] [[日本国有鉄道]](国鉄)が[[東海道新幹線]]を開業。
: 全線が超高速運転用の[[新幹線]]規格で建設。[[新幹線0系電車|0系]]は最高時速210kmを記録し、営業運転の世界最高速度を大幅に更新。
* [[1981年]] 日本の[[神戸新交通]]が[[神戸新交通ポートアイランド線|ポートアイランド線]]を開業。
: [[新交通システム]](AGT方式)では日本初の営業路線。以後、同種の軌条式中量輸送機関の建設が世界各国で進行。
* 1981年 [[フランス国鉄]] (SNCF) が[[TGV]]の南東線を開業。
: 最高時速260kmで新幹線を上回る。以後、世界各国での超高速鉄道開発競争が進行。
* [[1984年]] [[ソビエト連邦]]で[[バイカル・アムール鉄道]](バム鉄道)が開業。
: シベリア鉄道の北方、より酷寒の悪条件の地域に建設、全長約4300km。
* 1984年 イギリスで世界初の[[磁気浮上式鉄道]]の商用路線、[[バーミンガムピープルムーバ]]が開業。
: [[バーミンガム]]で空港と駅を結ぶ交通機関として開業。最高時速54km。1995年廃止。
* [[1988年]] 日本の[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)が[[青函トンネル]]の営業運転を開始。
: 全長53.85km、うち海底部分は23.30km。最深部は海抜マイナス240m(海底下100m)で、当時世界最長の海底トンネル。
* [[1994年]] イギリスとフランスを結ぶ[[英仏海峡トンネル]]が営業を開始。
: 全長50.5km、うち海底部分は37.9kmで、海底部分の延長では世界最長。
=== 21世紀 ===
* [[2003年]] 中国([[中華人民共和国]])で[[上海トランスラピッド]]が開業。
: 世界初の超高速磁気浮上式鉄道の営業路線。最高時速430km。
* [[2006年]] 中国で[[青蔵鉄道]]が全線開業。
: 最高地点は[[唐古拉峠]]の海抜5072m、最高標高駅は[[唐古拉駅]]の海抜5068m と、世界で最も高い所を走る鉄道。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|author=[[榊原浩逸]]|year=1885|month=|title=『[{{NDLDC|805076/12}} 欧州鉄道経済論]』([[博文堂]])|series=|publisher=[[国立国会図書館]]デジタルアーカイブ|isbn=|ref=harv}}
* {{Cite book|author=[[植村泰通]]|year=1884|month=|title=『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759513/36 明治勅詔 : 皇国亀鑑]』(中野啓蔵出版)|series=|publisher=[[国立国会図書館]]デジタルアーカイブ|isbn=|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=海野福寿|authorlink=海野福寿|year=1992|month=11|title=日清・日露戦争|series=集英社版日本の歴史18|publisher=[[集英社]]|isbn=4-08-195018-0|ref=海野}}
* {{Cite book|和書|author=木谷勤|authorlink=木谷勤|year=1997|month=8|title=帝国主義と世界の一体化|series=世界史リブレット40|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4-634-34400-6|ref=木谷}}
*{{Cite book|和書|author=木村英亮|authorlink=木村英亮|chapter=6-2.ロシア周辺の革命|year=1970|month=8|title=岩波講座世界の歴史25|series=近代6/諸地域の革命運動と国際共産主義運動|publisher=岩波書店|isbn=|ref=木村}}
* {{Cite book|和書|author=ユルゲン・クチンスキー|authorlink=ユルゲン・クチンスキー|year=1966|month=|title=世界経済|series=|publisher=[[有斐閣]]|isbn=|ref=クチンスキー}}
* {{Cite book|和書|author=小島英俊|authorlink=小島英俊|year=2010|month=1|title=鉄道という文化|series=角川選書|publisher=[[角川学芸出版]]|isbn=978-4-04-703452-5|ref=小島}}
* {{Cite book|和書|author=ジュリー・シーダーボルグ|authorlink=ジュリー・シーダーボルグ|editor=武内太一・桑原啓治・大塚茂夫ほか|translator=岡田凛|year=2012|month=2|chapter=第4章 革命の時代|title=ビジュアル1001の出来事でわかる世界史|series=|publisher=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|日経ナショナルジオグラフィック社]]|isbn=978-4-86313-161-3|ref=シーダーボルグ}}
* {{Cite book|和書|author=パトリシア・ダニエルズ|authorlink=パトリシア・ダニエルズ|editor=武内太一・桑原啓治・大塚茂夫ほか|translator=村田綾子|year=2012|month=2|chapter=第5章 帝国主義の時代|title=ビジュアル1001の出来事でわかる世界史|series=|publisher=日経ナショナルジオグラフィック社|isbn=978-4-86313-161-3|ref=ダニエルズ}}
* {{Cite book|和書|author=中村哲|authorlink=中村哲 (経済学者)|year=1992|month=9|title=明治維新|series=集英社版日本の歴史16|publisher=集英社|isbn=4-08-195016-4|ref=中村}}
* {{Cite book|和書|author=中屋健一|authorlink=中屋健一|year=1975|month=3|title=世界の歴史11 新大陸と太平洋|series=[[中公文庫]]|publisher=[[中央公論社]]|isbn=|ref=中屋}}
* {{Cite book|和書|author=中山治一|authorlink=中山治一|year=1975|month=5|title=世界の歴史13 帝国主義の時代|series=中公文庫|publisher=中央公論社|isbn=|ref=中山}}
* {{Cite book|和書|author=ユヴァル・ノア・ハラリ|authorlink=ユヴァル・ノア・ハラリ|year=2016|month=9|title=サピエンス全史 (下)|series=|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4-309-22672-9|ref=ハラリ}}
* {{Cite book|和書|author=牧原憲夫|authorlink=牧原憲夫|year=2008|month=12|title=文明国をめざして|series=全集日本の歴史13|publisher=小学館|isbn=978-4-09-622113-6|ref=牧原}}
*{{Cite book|和書|author=デヴィッド・マーシャル・ラング|authorlink=:en:David Marshall Lang|translator=菅原崇光|editor=フランク・B・ギブニー|chapter=グルジア:歴史|year=1973|month=3|title=[[ブリタニカ国際大百科事典]]|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|series=|isbn=|ref=ラング}}
== 関連項目 ==
* [[鉄道]]
* [[イギリスの鉄道史]]
* [[フランスの鉄道史]]
* [[ドイツの鉄道史]]
* [[アメリカ合衆国の鉄道史]]
* [[日本の鉄道史]]
* [[鉄道車両の歴史]]
== 外部リンク ==
* {{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20201105043310/http://library.tourism.ac.jp/no.10SinichiSatake.pdf 「ツーリズムの観光の定義」佐竹真一(大阪観光大学開学10周年記念号)]}}
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[[Category:鉄道の歴史|*てつとうのれきし]] | 2003-03-14T09:52:07Z | 2023-10-26T12:30:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 |
4,004 | 東京都交通局 |
東京都交通局(とうきょうとこうつうきょく、英: Bureau of Transportation Tokyo Metropolitan Government)は、東京都及びその周辺の区域において公営交通事業などを行う東京都の局。
東京都地方公営企業の設置等に関する条例(昭和41年東京都条例第147号)及び東京都公営企業組織条例(昭和27年東京都条例第81号)に基づき、水道局や下水道局とともに設置され、地方公営企業法に基づく地方公営企業として軌道事業・鉄道事業・自動車運送事業・電気事業を行っている。
交通事業として都営地下鉄・都電荒川線・日暮里・舎人ライナー・都営バスを運営しており、都営交通(とえいこうつう)と総称される。日本の公営交通で4種類もの交通機関(地下鉄・路面電車・新交通システム・バス)を運営する事業者は現在、東京都交通局のみである。過去にはトロリーバス(都営トロリーバス・1968年廃止)・モノレール(上野懸垂線・2019年休止)も運営していた。なお、都道府県単位で公共交通機関を運営している例は他に長崎県(長崎県交通局)がある。
地下鉄、都電、都営バスの詳細な沿革は各事業・各路線の項目を参照。
局の紋章(局紋)は、東京都章を基にしながら、六方に広がる光の部分を稲妻状に変形し、周囲を真円で囲ったものである。この局紋は、東京都交通局の前身である東京市電気局の創設時に制定された。
1989年に東京都シンボルマークが制定されてからは、これを交通局のシンボルマークとして一般的に用いるようになった。なお都営地下鉄では、2007年以降の新たな案内サインの更新に際し、通常のマークより明度の低い色を背景に、マークそのものを白抜きとしたデザインも用いられるようになっている(このデザインでは通常、「都営地下鉄」・「TOEI SUBWAY」も併記される)。
シンボルマーク制定以降、一般的な表記や掲示において、局紋はこのシンボルマークに順次取って代わられた。このため紋章が使用される機会は激減したが、その後も都営地下鉄や都営バス、都電荒川線、日暮里・舎人ライナーで発行されている乗車券の地紋にあしらわれているほか、都電荒川線9000形電車の車体側面装飾にも採用されている。
吊り広告等は、東京都交通局指定広告代理店にて取り扱われている。 | [
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] | 東京都交通局は、東京都及びその周辺の区域において公営交通事業などを行う東京都の局。 東京都地方公営企業の設置等に関する条例(昭和41年東京都条例第147号)及び東京都公営企業組織条例(昭和27年東京都条例第81号)に基づき、水道局や下水道局とともに設置され、地方公営企業法に基づく地方公営企業として軌道事業・鉄道事業・自動車運送事業・電気事業を行っている。 交通事業として都営地下鉄・都電荒川線・日暮里・舎人ライナー・都営バスを運営しており、都営交通(とえいこうつう)と総称される。日本の公営交通で4種類もの交通機関(地下鉄・路面電車・新交通システム・バス)を運営する事業者は現在、東京都交通局のみである。過去にはトロリーバス(都営トロリーバス・1968年廃止)・モノレール(上野懸垂線・2019年休止)も運営していた。なお、都道府県単位で公共交通機関を運営している例は他に長崎県(長崎県交通局)がある。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
}}
{{基礎情報 会社
| 社名 = 東京都交通局
| 英文社名 = Bureau of Transportation Tokyo Metropolitan Government
| ロゴ = [[ファイル:Tokyo Metropolitan Bureau of Transportation logo.svg|265px]]
| 画像 = [[ファイル:Tokyo Metropolitan Government Building No.2 2009.jpg|260px]]
| 画像説明 = 東京都交通局本局がある東京都庁第二本庁舎
| 種類 = [[地方公営企業]]
| 市場情報 =
| 略称 = 都営交通・都営地下鉄・都電・都営バス
| 国籍 = {{JPN}}
| 郵便番号 =
| 本社所在地 = [[東京都]][[新宿区]][[西新宿]]二丁目8番1号 [[東京都庁]]第二本庁舎内
| 設立 = [[1911年]]([[明治]]44年)[[8月1日]](※1)
| 業種 = 陸運業
| 事業内容 = [[軌道 (鉄道)|軌道]]事業・[[鉄道]]事業・[[バス (交通機関)|自動車運送]]事業・[[発電|電気]]事業
| 代表者 = 久我英男(公営企業管理者・交通局長)
| 資本金 =
| 発行済株式総数 =
| 売上高 =
| 営業利益 =
| 純利益 =
| 純資産 =
| 総資産 =
| 従業員数 = 6,466名(令和3年(2021年)度現在)
| 決算期 =
| 主要株主 =
| 主要子会社 =
| 関係する人物 =
| 外部リンク = https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/
| 特記事項 = ※1:[[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]に局制移行。
}}
{{Vertical_images_list
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|枠幅=240px
|1=Toei Series6500-6502.jpg
|2=[[東京都交通局6500形電車 (鉄道)|6500形]](都営三田線)
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|4=[[東京都交通局8900形電車|8900形]](都電荒川線)
|5=UenoZooMonorail40-2008.jpg
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|9=Nippori-Toneri-Liner Type320-21.jpg
|10=[[東京都交通局320形電車|320形]](日暮里・舎人ライナー)
}}
'''東京都交通局'''(とうきょうとこうつうきょく、{{Lang-en-short|Bureau of Transportation Tokyo Metropolitan Government}})は、[[東京都]]及びその周辺の区域において[[公営交通]]事業などを行う東京都の局。
東京都地方公営企業の設置等に関する条例([[昭和]]41年東京都[[条例]]第147号)及び東京都公営企業組織条例(昭和27年東京都条例第81号)に基づき、[[東京都水道局|水道局]]や[[東京都下水道局|下水道局]]とともに設置され、[[地方公営企業法]]に基づく[[地方公営企業]]として[[軌道法|軌道事業]]・[[鉄道事業法|鉄道事業]]・[[バス (交通機関)|自動車運送事業]]・[[発電|電気事業]]を行っている。
交通事業として[[都営地下鉄]]・[[都電荒川線]]・[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]・[[都営バス]]を運営しており、'''都営交通'''(とえいこうつう)と総称される。[[日本]]の公営交通で4種類もの交通機関([[地下鉄]]・[[路面電車]]・[[新交通システム]]・[[バス (交通機関)|バス]])を運営する事業者は現在、東京都交通局のみである。過去には[[トロリーバス]]([[都営トロリーバス]]・1968年廃止)・[[モノレール]]([[東京都交通局上野懸垂線|上野懸垂線]]・2019年休止・2023年廃止)も運営していた。なお、都道府県単位で[[公共交通機関]]を運営している例は他に[[長崎県]]([[長崎県交通局]])がある。
== 沿革 ==
地下鉄、都電、都営バスの詳細な沿革は各[[#事業|事業]]・各[[都営地下鉄#路線|路線]]の項目を参照。
* [[1911年]]([[明治]]44年)[[8月1日]] - [[東京市]](当時)が[[東京都電車|東京鉄道]]株式会社を買収。'''東京市電気局'''を創設し、[[路面電車]](市電)事業と電気供給事業を開始。
* [[1923年]]([[大正]]12年)[[9月1日]] - この日発生した[[関東大震災]]で市電に大きな被害を受けた。
* [[1924年]](大正13年)[[1月18日]] - 市電の応急復旧として、乗合バス(市バス)事業を開始。
* [[1942年]]([[昭和]]17年)
** [[2月1日]] - [[陸上交通事業調整法]]に基づく交通統制により以下の事業体を統合。
*** [[東京地下鉄道]]([[東京乗合自動車|青バス]]・[[東京遊覧乗合自動車|ユーランバス]]・葛飾乗合自動車・城東軌道線・西武軌道線〈受託〉)
*** [[王子電気軌道]](現在の[[都電荒川線]]部分を含む軌道線、王電バス)
*** 東京環状乗合自動車(黄バス)
*** 城東乗合自動車([[洲崎 (東京都)|洲崎]] - [[三ツ目通り]] - [[言問通り]] - [[鶯谷駅]]間のバス路線)
*** [[東京急行電鉄|東京横浜電鉄]]([[山手線]]以内のバス路線)
*** [[京王電鉄|京王電気軌道]](同上)
** [[4月1日]] - [[配電統制令]]に基づき配電部門を分割、[[関東配電]]([[東京電力]]の前身会社)に移譲。
* [[1943年]](昭和18年)
** [[5月29日]] - 財団法人東京市電気局協力会(のちの一般財団法人[[東京都営交通協力会]])を設立。
** [[7月1日]] - 都制施行に伴い、名称を'''東京都交通局'''に変更。
* [[1948年]](昭和23年) - 遊覧バス事業を新日本観光株式会社(のちの[[はとバス]])へ譲渡。
* [[1952年]](昭和27年)[[5月20日]] - [[都営トロリーバス]]が開業。
* [[1957年]](昭和32年)[[12月17日]] - [[東京都交通局上野懸垂線|上野公園モノレール]]が開業。
* [[1960年]](昭和35年)[[12月4日]] - 都営地下鉄が開業。
* [[1963年]](昭和38年)6月3日 - 株式会社[[東京交通会館]]を設立。
* [[1967年]](昭和42年)
**[[1月1日]] - [[財政再建団体]]に指定。
** 8月1日 - 「東京都交通事業財政再建計画」(第一次財政再建計画)を策定。
* [[1968年]](昭和43年)[[9月30日]] - 都営トロリーバスを廃止。
* [[1969年]](昭和44年)[[10月16日]] - 東京交通サービス株式会社を設立。
* [[1972年]](昭和47年)[[11月12日]] - この日までに都電路線が現在の荒川線区間を除き廃止。
* [[1976年]](昭和51年)[[10月22日]] - 第二次財政再建計画を策定。
* [[1977年]](昭和52年) - 都電・都バス・都営地下鉄[[一日乗車券]]の発売を開始。
* [[1980年]](昭和55年)[[11月26日]] - 第三次財政再建計画を策定。
* [[1984年]](昭和59年)1月18日 - 財政再建完了に伴い、東京都交通事業経営健全化計画を策定。
* [[1987年]](昭和62年)11月12日 - 東京トラフィック開発株式会社を設立。
* [[1988年]](昭和63年)[[7月28日]] - [[東京都地下鉄建設]]株式会社を設立。
* [[1991年]]([[平成]]3年)4月1日 - [[東京都庁舎]]移転に伴い交通局本庁舎を、東京交通会館から東京都庁第二本庁舎に移転。
* [[1993年]](平成5年)[[11月1日]] - [[Tカード]]の発売を開始。
* [[1994年]](平成6年)[[10月1日]] - [[バス共通カード]]の発売を開始。
* [[1995年]](平成7年)[[7月3日]] - 都営地下鉄の全車両が完全冷房化<ref>{{Cite news |title=都営地下鉄が完全冷房化 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-06-28 |page=3 }}</ref>。
* [[2000年]](平成12年)[[10月14日]] - [[パスネット]]を導入。
* [[2004年]](平成16年)4月1日 - 都営バスの一部路線を、はとバスへ委託。
* [[2006年]](平成18年)[[3月7日]] - 交通局経営アドバイザリー委員会を設置。
* [[2007年]](平成19年)[[3月18日]] - [[乗車カード#ICカード乗車券|IC乗車カード]]「[[PASMO]]」を導入。同時に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)などが発行するICカード乗車券「[[Suica]]」と相互利用を開始。
* [[2008年]](平成20年)
** [[1月10日]] - PASMOの普及に伴い、この日の終電をもってパスネット(Tカード)の発行・発売を終了。
** [[3月14日]] - この日の終電をもってパスネット(Tカード)の自動改札機での使用終了。
** [[3月30日]] - [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]開業。同時に一日乗車券を「都営まるごときっぷ」に名称変更。
* [[2010年]](平成22年)
** [[3月31日]] - バス共通カード・乗継割引カードの発売を終了。
** [[7月31日]] - バス共通カード・乗継割引カード・都バス都電専用Tカードの利用を終了<ref>[http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/bus/2009/bus_p_200912224_h.html バス共通カードのサービス終了について]、[http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/bus/2010/bus_i_201001131_h.html 乗継割引カード及び都バス都電専用Tカードの取り扱い終了について]</ref>。
* [[2011年]](平成23年)8月1日 - 東京都交通局が前身の東京市電気局として創業以来、100周年を迎える<ref name="Toei201012">[https://web.archive.org/web/20110205000803/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/toden/2010/tdn_p_201012201_h.html 平成23年8月1日、おかげさまで都営交通は創業100周年を迎えます](東京都交通局ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。</ref><ref name="Toei100th">[https://web.archive.org/web/20120101152540/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/100th/index.html 都営交通100周年記念WEBサイト](東京都交通局・インターネットアーカイブ)。</ref>。各種記念イベントの開催のほか<ref name="Toei201012"/>、都電荒川線では33年ぶりに[[花電車]]が運転された<ref>[https://web.archive.org/web/20110505091340/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/toden/2011/tdn_p_201103031_h.html 都電荒川線の花電車の運行について](東京都交通局ニュースリリース・インターネットアーカイブ・2011年時点の版)。運転時期は東日本大震災の影響で秋に延期。</ref>。同日、PASMOを利用したポイントサービス「[[ToKoPo]]」を開始<ref>[http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/others/2011/otr_p_201106271_h.html 東京都交通局ポイントサービスToKoPoを開始します!]</ref>。
* [[2013年]](平成25年)3月23日 - IC乗車カード全国相互利用開始で、[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が利用可能になる。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** 5月31日 - 都営交通の運行情報等を「公共交通[[オープンデータ]]センター」を通じて提供開始<ref>[https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2019/05/31/04.html 都営交通の運行情報等をオープンデータとして提供開始します] 東京都戦略政策情報推進本部 交通局(2019年5月31日)2020年3月4日閲覧</ref>。
** 11月1日 - 上野公園モノレールが休止<ref name="pr20190123">{{Cite press release|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2018/otr_p_20190123_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190123223316/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2018/otr_p_20190123_h_01.pdf|format=PDF|language=ja|title=恩賜上野動物園モノレール休止のお知らせ|publisher=建設局/交通局|date=2019-01-23|access-date=2023-12-28|archive-date=2019-01-23}}</ref>。
* [[2020年]](令和2年)3月30日 - 都営交通の運行状況や駅情報を知らせる「都営交通[[モバイルアプリケーション|アプリ]]」配信<ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/others/2020/otr_p_202003269058_h.html 「都営交通アプリ」の配信について 令和2年3月30日(月)配信開始] 東京都交通局(2019年3月26日)2020年3月28日閲覧</ref>。
* [[2023年]](令和5年)12月27日 - 上野公園モノレールが廃止<ref name="tbmlit20231113">{{Cite press release |title=鉄道事業の廃止の日を繰り上げる届出について |publisher=[[国土交通省]][[関東運輸局]] |date=2023-11-13 |url=https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/content/000306127.pdf |format=PDF |language=ja |access-date=2023-12-28}}</ref>。
== 紋章・シンボルマーク ==
局の紋章(局紋)は、[[東京都旗|東京都章]]を基にしながら、六方に広がる光の部分を[[雷|稲妻]]状に変形し、周囲を真円で囲ったものである。この局紋は、東京都交通局の前身である東京市電気局の創設時に制定された。
[[1989年]]に[[東京都シンボルマーク]]が制定されてからは、これを交通局のシンボルマークとして一般的に用いるようになった。なお都営地下鉄では、2007年以降の新たな案内サインの更新に際し、通常のマークより明度の低い色を背景に、マークそのものを白抜きとしたデザインも用いられるようになっている(このデザインでは通常、「都営地下鉄」・「TOEI SUBWAY」も併記される)。
シンボルマーク制定以降、一般的な表記や掲示において、局紋はこのシンボルマークに順次取って代わられた。このため紋章が使用される機会は激減したが、その後も都営地下鉄や都営バス、都電荒川線、日暮里・舎人ライナーで発行されている乗車券の地紋にあしらわれているほか、都電荒川線[[東京都交通局9000形電車|9000形電車]]の車体側面装飾にも採用されている。
<gallery widths="120px" style="font-size:90%;">
Emblem of Tokyo Metropolis.svg|東京都章
BTTMG logomark.svg|局紋
PrefSymbol-Tokyo.svg|東京都シンボルマーク
</gallery>
== 事業 ==
=== 鉄道事業 ===
* 地下鉄 - [[都営地下鉄]](東京都地下高速電車)
** [[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]]
** [[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|15px|I]] [[都営地下鉄三田線|三田線]]
** [[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]]
** [[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|15px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]
=== 軌道事業 ===
* 路面電車 - [[東京都電車|都電]](東京都電車)
** [[ファイル:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|15px|SA]] [[都電荒川線|荒川線(東京さくらトラム)]]
**: かつては[[東京都区部]]に最盛期には約213 kmの路線網を擁していたが、1972年までに荒川線以外は廃止された。荒川線も本来は都電の大幅廃止とともに廃止される予定であった。詳細は[[都電荒川線#来歴]]を参照
* 案内軌条式鉄道(新交通システム)
** [[ファイル:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]
=== 自動車運送事業 ===
* 乗合バス・貸切バス - [[都営バス]](東京都乗合自動車・東京都貸切自動車)
=== 電気事業 ===
* ダムおよび発電所 - [[多摩川]]の上流部に[[ダム]]と3箇所の[[水力発電所]]を管理している。
** [[白丸ダム]]
** 多摩川第一発電所
** 多摩川第三発電所
** 白丸発電所
== 組織 ==
* [[局長]](公営企業管理者)
* [[次長]]
* [[技監]]
** 総務部
*** 総務課・企画調整課・財務課・お客様サービス課・安全対策推進課
** 職員部
*** 人事課・労務課・研修所
** 資産運用部
*** 資産活用課・事業開発課・会計課・契約課
** 電車部
*** 管理課・営業課・運転課
** 自動車部
*** 管理課・計画課・営業課・車両課
** 車両電気部
*** 管理課・車両課・電力課・信号通信課
** 建設工務部
*** 管理課・計画改良課・保線課・建築課
== 指定広告代理店 ==
[[吊り広告]]等は、東京都交通局指定[[広告代理店]]にて取り扱われている。
== 関連団体 ==
=== 政策連携団体 ===
*[[東京交通サービス]]株式会社<ref name="sei">[https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/02gyokaku/pdf/dantai/ichiran/seisaku20201001.pdf 東京都政策連携団体一覧] - 東京都</ref>
=== 報告団体 ===
*[[東京トラフィック開発]]株式会社<ref name="hou">[https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/02gyokaku/pdf/dantai/houkoku-gaiyou.pdf その他報告を受ける団体(報告団体)の概要] - 東京都</ref>
*株式会社[[はとバス]]<ref name="hou"/>
*株式会社[[東京交通会館]]<ref name="hou"/>
*[[有電ビル管理]]株式会社<ref name="hou"/>
*[[有楽町駅前開発]]株式会社<ref name="hou"/>
*[[東京都地下鉄建設]]株式会社<ref name="hou"/>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[東京都電車]]
* [[都営トロリーバス]]
* [[東京都地下鉄建設]]
* [[東京都庁]]
* [[東京都庁舎]]
* [[都営まるごときっぷ]]
* [[都営フェスタ]]
* [[Tカード]]
* [[東京都営交通協力会]]
* [[松木幹一郎]] - 東京市電気局初代局長
* [[東京地下鉄]]
* [[東京臨海高速鉄道]]
* [[東京臨海ホールディングス]]
* [[奥多摩湖|小河内ダム]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Tokyo Metropolitan Bureau of Transportation}}
{{Multimedia|東京都交通局の画像}}
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/ 東京都交通局]
* {{Twitter|toeikotsu}}
* {{Facebook|toeikotsu}}
* {{Instagram|toeitransportation_official}}
* {{YouTube|c=UC2V_e2PqDF-pfLKeLTZHz3g|都営交通公式チャンネル Tokyo TOEI Transportation Movies}}
{{東京都の行政組織}}
{{日本のモノレール}}
{{日本の電力会社}}
{{PASMO}}
{{パスネット}}
{{バス共通カード}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:とうきようとこうつうきよく}}
[[Category:東京都交通局|*]]
[[Category:東京都の地方公営企業]]
[[Category:日本の鉄道事業者]]
[[Category:日本の軌道事業者]]
[[Category:日本の電気事業者]]
[[Category:関東地方の乗合バス事業者]]
[[Category:関東地方の貸切バス事業者]]
[[Category:東京都の交通]]
[[Category:千葉県の交通]]
<!--都営地下鉄本八幡駅が千葉県に位置しているため。-->
[[Category:新宿区の企業]]
[[Category:1911年設立の企業]] | 2003-03-14T10:35:21Z | 2023-12-27T16:31:26Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%A4%E9%80%9A%E5%B1%80 |
4,006 | ソプラノ | ソプラノ(イタリア語: soprano)は、西洋音楽における歌手の声域区分で、女声の高い音域を指す。また、器楽においては、同系の楽器中、最も高い音域のものをいう。例えばソプラノサックス(サクソフォーン)。
四声体和声、混声四部合唱では、ソプラノが最高部を受け持ち、通常は旋律を演奏する。 ソプラノは概ねC4〜E6の声域を持つ。合唱や4声体和声ではC4 - A5くらいの音域である。混声4部合唱ではテノールと合わせて高声、バスと合わせて外声とよばれる。 思春期前の一部の少年(トレブル)およびカウンターテナーも、この声域を持つことがあるが(変声期前の少年の場合ボーイソプラノと呼ぶ場合もある)、ほとんどの場合は女性歌手に対して用いられる。 歴史的には、女性がキリスト教会で歌うことは認められていなかったので、ソプラノの役割は若い少年、後にカストラートに与えられた。 なお、去勢せずともソプラノの音域を出せる成人男性歌手をソプラニスト又はソプラニスタと呼ぶ。この手の歌手は数少ないが、日本人では岡本知高がいる。 なお、「ソプラノ歌手」という言い方が普及しているが、そもそも歌手の声域を表す言葉なので、本来は「歌手」をつける必要はない。
オペラにおいては、声質の違いによりさらに詳細な区分が行われる。これらの区分は歌手の声域というよりむしろ声の特性、音色に関係する。詳細区分は次のようなものである。
平均的な音域は最初に書かれた通りであるが、独唱、特にオペラのアリアにおいてはそれ以上の音が求められることも多い。例えばモーツァルトの「魔笛」では、夜の女王役にF6が与えられている。ルクレツィア・アグヤーリ(英語版)やエルナ・ザック(英語版)はC7(フルートの最高音域に匹敵)まで出すことができたと伝えられている。マド・ロバン(英語版)も高い声の持ち主として知られ、残された録音ではB♭6を出しているところを確認できる。
著名なソプラノをめぐって、熱狂的なオペラファンはしばしば異なる歌手を支持して対立する複数の陣営をつくることがあった。 一例としてマリア・カラスとレナータ・テバルディのライバル関係は最も著名なものである(トスカの英語版にある小噺を参照のこと)。
姓の五十音順。括弧内は英語版へのリンク。 | [
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] | ソプラノは、西洋音楽における歌手の声域区分で、女声の高い音域を指す。また、器楽においては、同系の楽器中、最も高い音域のものをいう。例えばソプラノサックス(サクソフォーン)。 | {{Portal クラシック音楽}}
<div class=floatright style="background: #eef; border: solid 1px #88f">
[[ファイル:Sopran.png|thumb|200px|none|'''ソプラノ''']]
[[ファイル:Range of alto voice marked on keyboard.svg|thumb|200px|none|[[アルト]]]]
[[ファイル:Tenor.png|thumb|200px|none|[[テノール]]]]
[[ファイル:Range of bass voice marked on keyboard.png|thumb|200px|none|[[バス (声域)|バス]]]]
</div>
'''ソプラノ'''({{lang-it|soprano}})は、[[西洋音楽]]における[[歌手]]の[[声域]]区分で、女声の高い音域を指す。また、器楽においては、同系の楽器中、最も高い音域のものをいう。例えばソプラノサックス([[サクソフォーン]])。
== 概要 ==
四声体和声、混声四部合唱では、ソプラノが最高部を受け持ち、通常は旋律を演奏する。
ソプラノは概ね[[音名・階名表記#オクターヴ表記|C4]]〜[[音名・階名表記#オクターヴ表記|E6]]の声域を持つ<ref>フレデリック・フースラー/イヴォンヌ・ロッド=マーリング 『うたうこと 発声器官の肉体的特質』 須永義雄・大熊文子訳 音楽之友社、2000年、ISBN 4-276-14252-0 111頁による。但し、あくまで一つの目安であり、後述されるようにこれを上回る例もある。</ref>。合唱や[[和声#声部|4声体和声]]ではC4 - A5くらいの音域である。混声4部合唱ではテノールと合わせて高声、バスと合わせて外声とよばれる。
思春期前の一部の少年(トレブル)および[[カウンターテナー]]も、この声域を持つことがあるが([[変声期]]前の少年の場合'''''[[ボーイソプラノ]]'''''と呼ぶ場合もある)、ほとんどの場合は女性歌手に対して用いられる。
歴史的には、女性がキリスト教会で歌うことは認められていなかったので、ソプラノの役割は若い少年、後に[[カストラート]]に与えられた。
なお、去勢せずともソプラノの音域を出せる成人男性歌手を'''ソプラニスト'''又は[[ソプラニスタ]]と呼ぶ。この手の歌手は数少ないが、日本人では[[岡本知高]]がいる。<br>
なお、「ソプラノ歌手」という言い方が普及しているが、そもそも歌手の声域を表す言葉なので、本来は「歌手」をつける必要はない。
== オペラにおけるソプラノ ==
[[オペラ]]においては、声質の違いによりさらに詳細な区分が行われる。これらの区分は歌手の声域というよりむしろ声の特性、音色に関係する。詳細区分は次のようなものである。
*[[レッジェーロ]](あるいは[[スーブレット]]) →括弧内は、役柄依存の分類
*[[コロラトゥーラ]]
*[[リリコ]]
*[[リリコ・スピント]]
*[[ドラマティコ]]
平均的な音域は最初に書かれた通りであるが、独唱、特にオペラの[[アリア]]においてはそれ以上の音が求められることも多い。例えば[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の「[[魔笛]]」では、夜の女王役に[[音名・階名表記#オクターヴ表記|F6]]が与えられている。{{ill|ルクレツィア・アグヤーリ|en|Lucrezia Agujari}}や{{ill|エルナ・ザック|en|Erna Sack}}は[[音名・階名表記#オクターヴ表記|C7]]([[フルート]]の最高音域に匹敵)まで出すことができたと伝えられている。{{ill|マド・ロバン|en|Mado Robin}}も高い声の持ち主として知られ、残された録音では[[音名・階名表記#オクターヴ表記|B♭6]]を出しているところを確認できる。
著名なソプラノをめぐって、熱狂的なオペラファンはしばしば異なる歌手を支持して対立する複数の陣営をつくることがあった。
一例として[[マリア・カラス]]と[[レナータ・テバルディ]]のライバル関係は最も著名なものである([[トスカ]]の[[:en:Tosca|英語版]]にある小噺を参照のこと)。
== ソプラノの例 ==
姓の五十音順。括弧内は英語版へのリンク。
=== 日本以外 ===
;あ行
*[[ルクレツィア・アグヤーリ]]([[w:Lucrezia Agujari|Lucrezia Agujari]])
*[[ナンシー・アージェンタ]]
*[[ドーン・アップショウ]]
*[[イレーネ・アーベントロート]]([[w:Irene Abendroth|Irene Abendroth]])
*[[ルシーン・アマーラ]]([[w:Lucine Amara|Lucine Amara]])
*[[エリー・アーメリング]]
*[[ジャンニーナ・アランジ=ロンバルディ]]([[w:Giannina Arangi-Lombardi|Giannina Arangi-Lombardi]])
*[[ルチア・アリベルティ]]([[w:Lucia Aliberti|Lucia Aliberti]])
*[[フランシス・アルダ]]([[w:Frances Alda|Frances Alda]])
*[[エマ・アルバーニ]]
*[[リチア・アルバネーゼ]]
*[[マーティナ・アーロヨ]]([[w:Martina Arroyo|Martina Arroyo]])
*[[ジューン・アンダースン]]
*[[アンナ・カテリーナ・アントナッチ]]([[w:Anna Caterina Antonacci|Anna Caterina Antonacci]])
*[[マリア・イヴォーギュン]]([[w:Maria Ivogün|Maria Ivogün]])
*[[マリア・イェリッツァ]]
*[[ジェーン・イーグレン]]([[w:Jane Eaglen|Jane Eaglen]])
*[[フローレンス・イーストン]]([[w:Florence Easton|Florence Easton]])
*[[エマ・イームズ]]([[w:Emma Eames|Emma Eames]])
*[[スヴェトラ・ヴァシレヴァ]]([[w:Svetla Vassileva|Svetla Vassileva]])
*[[レオンティーナ・ヴァドゥーヴァ]]([[w:Leontina Vaduva|Leontina Vaduva]])
*[[ニノン・ヴァラン]]
*[[アストリッド・ヴァルナイ]]
*[[ガリーナ・ヴィシネフスカヤ]]
*[[ドロレス・ウィルソン]]([[w:Dolores Wilson|Dolores Wilson]])
*[[ヘイリー・ウェステンラ]]
*[[ジリアン・ウェブスター]]
*[[リューバ・ヴェリッチュ]]([[w:Ljuba Welitsch|Ljuba Welitsch]])
*[[ルース・ウェルティング]]
*[[ステファニア・ヴォイトヴィチ]]
*[[ヴィオリカ・ウルスレアク]]
*[[アン・エヴァンズ]]([[w:Anne Evans|Anne Evans]])
*[[アーリーン・オジェー]]
*[[マグダ・オリヴェロ]]
;か行
*[[リナ・カヴァリエリ]] ([[w:Lina Cavalieri|Lina Cavalieri]])
*[[エマ・カークビー]]
*[[ドロシー・カーステン]]
*[[メアリー・ガーデン]]
*[[ヨハンナ・ガドスキ]]([[w:Johanna Gadski|Johanna Gadski]])
*[[マリア・カニーリア]]([[w:Maria Caniglia|Maria Caniglia]])
*[[ライナ・カバイヴァンスカ]]
*[[モンセラート・カバリエ]]
*[[メルセデス・カプシール]]([[w:Mercedes Capsir|Mercedes Capsir]])
*[[マリア・カラス]]
*[[イネッサ・ガランテ]]
*[[アメリータ・ガリ=クルチ]]
*[[エマ・カルヴェ]]([[w:Emma Calvé|Emma Calvé]])
*[[ロザンナ・カルテリ]]([[w:Rosanna Carteri|Rosanna Carteri]])
*[[マリア・ガルバニー]]([[w:Maria Galvany|Maria Galvany]])
*[[マリア・カレーナ]]
*[[マルゲリータ・カロージオ]]([[w:Margherita Carosio|Margherita Carosio]])
*[[マリア・キアーラ]]
*[[メイベル・ギャリソン]]([[w:Mabel Garrison|Mabel Garrison]])
*[[ヒルデ・ギューデン]]
*[[マリー・グートハイル=ショーダー]]
*[[レリ・グリスト]]
*[[マヌエラ・クリスチャック]]
*[[サロメア・クルシェルニツカ]]([[w:Solomiya Krushelnytska|Solomiya Krushelnytska]])
*[[ゼルマ・クルツ]]([[w:Selma Kurz|Selma Kurz]])
*[[アルマ・グルック]]
*[[エディタ・グルベローヴァ]]
*[[マドレーヌ・グレイ]]
*[[マリア・グレギーナ]]([[w:Maria Guleghina|Maria Guleghina]])
*[[レジーヌ・クレスパン]]([[w:Régine Crespin|Régine Crespin]])
*[[アンジェラ・ゲオルギュー]]
*[[イレアナ・コトルバシュ]]
*[[ナディーン・コナー]]([[w:Nadine Conner|Nadine Conner]])
*[[アニー・コネツニ]]
*[[ヒルデ・コネツニ]]
*[[ミリッツァ・コリウス]]([[w:Miliza Korjus|Miliza Korjus]])
*[[クリステル・ゴルツ]]([[w:Christel Goltz|Christel Goltz]])
;さ行
*[[サイ・イエングアン]]([[w:Sai Yanguang|Sai Yanguang]])([[w:Sai Yanguang|Cui Yan-guang]])
*[[メタ・ザイネマイヤー]]([[w:Meta Seinemeyer|Meta Seinemeyer]])
*[[ジョーン・サザーランド]]
*[[エルシー・サダビー]]
*[[エルナ・ザック]]([[w:Erna Sack|Erna Sack]])
*[[ビドゥ・サヤン]]([[w:Bidu Sayão|Bidu Sayão]])
*[[オリアンナ・サントゥニオーネ]](Orianna Santunione)
*[[クリスティーネ・シェーファー]]
*[[ヘレン・ジェプソン]]([[w:Helen Jepson|Helen Jepson]])
*[[フローレンス・フォスター・ジェンキンス]]
*[[レイラ・ジェンチェル]]
*[[マルガレーテ・ジームス]]([[w:Margarethe Siems|Margarethe Siems]])
*[[ヴェロニク・ジャンス]]
*[[ドゥソリーナ・ジャンニーニ]]([[w:Dusolina Giannini|Dusolina Giannini]])
*[[エリーザベト・シュヴァルツコップ]]
*[[グラツィエラ・シュッティ]]
*[[リタ・シュトライヒ]]([[w:Rita Streich|Rita Streich]])
*[[エリザベート・シューマン]]
*[[スミ・ジョー]]
*[[ギネス・ジョーンズ]]
*[[アニャ・シリヤ]]
*[[ビヴァリー・シルズ]]
*[[レナータ・スコット]]
*[[テレサ・スティッチ=ランドール]]([[w:Teresa Stich-Randall|Teresa Stich-Randall]])
*[[エリナー・スティーバー]]([[w:Eleanor Steber|Eleanor Steber]])
*[[アントニエッタ・ステッラ]]
*[[シェリル・ステューダー]]
*[[テレサ・ストラータス]]
*[[ジュゼッピーナ・ストレッポーニ]]
*[[ロジーナ・ストルキオ]]([[w:Rosina Storchio|Rosina Storchio]])
*[[エレナ・スリオティス]]([[w:Elena Souliotis|Elena Souliotis]])
*[[ヴィルジニア・ゼアーニ]]
*[[イルムガルト・ゼーフリート]]
*[[マルセラ・ゼンブリヒ]]([[w:Marcella Sembrich|Marcella Sembrich]])
;た行
*[[ピア・タシナーリ]]
*[[ジルダ・ダッラ・リッツァ]]([[w:Gilda dalla Rizza|Gilda dalla Rizza]])
*[[エヴァ・ターナー]]([[w:Eva Turner|Eva Turner]])
*[[トティ・ダル・モンテ]]([[w:Toti Dal Monte|Toti Dal Monte]])
*[[シャルロット・チャーチ]]
*[[マリア・チェボターリ]]([[w:Maria Cebotari|Maria Cebotari]])
*[[アニタ・チェルクェッティ]]
*[[ジーナ・チーニャ]]
*[[エルビラ・デ・イダルゴ]]([[w:Elvira de Hidalgo|Elvira de Hidalgo]])
*[[ゲーナ・ディミトローヴァ]]([[w:Ghena Dimitrova|Ghena Dimitrova]])
*[[マリエッラ・デヴィーア]]([[w:Mariella Devia|Mariella Devia]])
*[[キリ・テ・カナワ]]
*[[田月仙]](チョン・ウォルソン)
*[[ドラホミーラ・ティカロヴァー]]
*[[マギー・テイト]]([[w:Maggie Teyte|Maggie Teyte]])
*[[エミー・デスティン]]([[w:Emmy Destinn|Emmy Destinn]])
*[[ナタリー・デセイ]]
*[[ダニエラ・デッシー]]
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*[[小川里美]]
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*[[加古三枝子]]
*[[片岡啓子]]
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*[[二葉あき子|加藤芳江]](二葉あき子)
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*[[木下美穂子]]
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*[[釜洞祐子]]
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*[[川口聖加]]
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*[[喜波貞子]](1902 - 1983)
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*[[幸田浩子]]
*[[小林千代子]]
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==他の声域==
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*[[バス (声域)|バス]]
==注脚==
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==関連項目==
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*[[歌手]]
*[[オペラ]]
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4,008 | アルベルト・アインシュタイン | アルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者。ユダヤ人。スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。
特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。
それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。
1905年に特殊相対性理論を発表した。以前から論理的に展開されていた相対性原理(アンリ・ポアンカレ、ジョゼフ・ラーモア、ヘンドリック・ローレンツなどによるもの)を明確化して採用し、ニュートン力学とマクスウェルの方程式に基づく当時の古典論的物理学の体系に対し、相対性原理に基づく時空概念の修正を前者へ施すことにより、(重力場を除いて)両者は理論的に統合され、古典論的物理学の体系の完成に成功した。特殊相対性理論では、「質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なもの」であり、「唯一不変なものは光速度 c のみである」とした。
特殊相対性理論は、重力場のない状態での慣性系のみを取り扱った(限定的な)理論であるが、1915年から1916年には、加速度運動と重力を取り込んだ(より適用範囲を広げた)一般相対性理論を発表した。一般相対性理論では、重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述している。さらに後半生の30年近くを重力と電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わった。一般相対性理論を素直にそのまま認めると、「宇宙は膨張または収縮をしている」ということが素朴に演繹されうる。しかしアインシュタインは、宇宙が膨張や収縮しているとは考えたくなかったため、重力による影響を相殺するような宇宙項Λ(ラムダ)を場の方程式に組み入れることで、理論上静的な宇宙でも存在可能であるとする理論を作った。その後、エドウィン・ハッブルらの天文台での実際の観測によって、実際は宇宙は膨張しているということが観測的に確認されたため、アインシュタインは自身がかつて提案した「宇宙項」を撤回せざるを得なくなった(のちに彼は、宇宙項の導入は「生涯最大の失敗」と述べることになった)。なおアインシュタインが死去してからかなり月日が流れ、21世紀になってからの宇宙望遠鏡による超新星の赤方偏移の観測結果の分析によって、「宇宙は膨張している」と言っても、単に一定の速度で膨張しているのではなく、その膨張する速度が次第に大きくなってきている(加速している)ということが明らかになってきており、この「加速」を説明するには、「宇宙項をむしろ導入するほうが妥当だ」「アインシュタインは実は宇宙項を撤回する必要はなかったのではないか」とする指摘や学説が存在する(詳細はダークエネルギーを参照)。
光量子仮説によって光電効果について理論的な説明づけを行うなど、初期量子論の確立に多大な貢献をした。しかし、「量子は確率論的に振舞う」とする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と懐疑的な立場をとった。局所実在論を支持していたアインシュタインは量子力学の矛盾点の一つとしてアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを提示したが、のちにベルの不等式の破れが実証されると局所実在論は破綻し、EPR相関として知られるようになった。
そのほか、ブラウン運動を説明する理論の構築、固体における比熱の理論である「アインシュタインモデル」の提唱、ボース=アインシュタイン凝縮の予言など、物理学の全領域にわたり多大な業績を残した。
アインシュタインは1879年3月14日、ヘルマン・アインシュタインを父、パウリーネ・コッホを母とし、その長男としてドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市にて生まれた。父ヘルマンはその弟ヤコブから誘われ、アルベルト誕生翌年の1880年夏、一家はミュンヘンに引っ越し、兄弟は、直流電流に基づいた電気機器を製造する会社「Elektrotechnische Fabrik J. Einstein & Cie」を設立した。ヘルマンは営業を担当しヤコブは技術を担当した。1881年には一家にマリア(アルベルトの妹。通称「マーヤ」。)が誕生し、一家は1894年まで同地ミュンヘンで暮らすことになる。
アインシュタインは、5歳ごろまであまり言葉を発して他人と会話することがなかった。しかし、5歳のときに父親からもらった方位磁針が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった。また、同じ頃、ヴァイオリンを習い始めている。そしてすぐにモーツァルトの曲が好きになり、ヴァイオリンは生涯の友となった。
アインシュタイン一家はその家系からしてアシュケナージ系ユダヤ人ではあったものの、敬虔なユダヤ教徒というわけではなかったため、アインシュタインは5歳から3年間、ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通った。卒業後はミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウム(英語版)(現在では「アルバート・アインシュタイン・ギムナジウム」と呼ばれている学校)に入学。以後7年間、(ドイツを離れイタリアに行くまで)教育を受ける。しかし、同校の軍国主義的で重苦しい校風にはなじめなかった。
幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題がなかったが、言葉を出すのには時間を要した。一方で数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じころ、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知らされ、同時に物理学に関心を示すようになったという。ただ、確率は生まれつき不得意で、このことがのちに統計力学・量子力学を否定する素地となる。
1894年、父と叔父の会社が行きづまり、その結果、新たな商業的な機会を求めて一家はイタリアのミラノに引っ越すことになった。父ヘルマンはアインシュタインがギムナジウムをしっかり卒業する必要があると判断し、アインシュタインだけ同地に残されることになった。父ヘルマンはアルベルトが電気工学の道へと進むといいと考えていたのだった。だがアインシュタインは規則ずくめで軍国主義的な校風と対立・反発し、1894年12月末、医師に書かせた診断書を口実にして退校を申し出て、家族を追って旅をし、当時イタリアのパヴィアにいた家族のもとへとやってきた。このイタリアでの滞在中、アインシュタインは「磁界中でのエーテルの状態の調査について」という題名の短い試論を書いたという。
1895年、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験するも総合点が合格基準に足らず失敗。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったため、アーラウのギムナジウム(ドイツ語版)に通うこと(大学入学に必要な中等教育の諸知識を習得すること)を条件に、翌年度の入学資格を与えた。アインシュタインは1895年と96年に同校に通学した。アーラウの学校の校風は、ある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。
ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これがのちの相対性理論を生み出すきっかけになったといわれている。
このころアインシュタインは教師のヨスト・ヴィンテラー(英語版)の家に身を寄せていたが、その娘のマリーに恋するようになった。1896年1月、父の許可のもと、ドイツ帝国の兵役義務から逃れるためにアインシュタインはドイツ市民権を放棄した(その後にスイス国籍を取得するまで無国籍となった)。1896年9月のマトゥーラ試験(欧米で広く見られる中等教育修了試験)をアインシュタインはおおむね好成績で、特に数学と物理は 6段階評価の最高ランク「6」で、無事通過した。10月、チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可された。同大学の、数学・物理学の教員資格を取得する4年課程の学生となったのである。同学は自由な校風で、数人の学友を得た。恋の相手だった ヴィンテラーの娘マリーは、アインシュタインよりも1歳年上で、すでに教員資格を得て、教師として着任するためにスイスのオルスベルク(英語版)へと引っ越してしまった。しかし、アインシュタインは同大学でミレヴァ・マリッチという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は当時としては女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつであったが、ミレヴァはアインシュタインが属した課程の6名の中で唯一の女性であった。最初は友達だった二人は、数年の年月とともにロマンス(恋愛感情)をともなう関係となり、アインシュタインがますます熱中するようになっていた物理の文献を一緒に読むようにもなった。
アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとった。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ。
卒業の年である1900年に、アインシュタインは数学・物理の教員資格試験に無事合格した。アインシュタインは7月にチューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバーと不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ながら、論文の執筆に取り組んだ。
1901年、スイス国籍を取得。スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足および静脈瘤の診断からこれを免除される。一般の人々には、はるか後の1987年になって若きアインシュタインが交わした手紙が研究されて、はじめて明らかにされたことだが、このころ恋人ミレヴァはアインシュタインの子を身ごもり、彼女の両親がいるノヴィ・サドへ行き滞在し、1902年初頭に娘を産んだ。二人が交わした手紙では、その子は「リーゼル」(Lieserl) と仮の名前で呼ばれていたが、出産後にミレヴァは子供をともなわずスイスへと戻ってきた。
1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きで、ベルンのスイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。このころ、モーリス・ソロヴィーヌ(英語版)、コンラート・ハービヒト(英語版)らと「アカデミー・オリンピア」を設立した。同じころ、父ヘルマンが死去。ミラノで埋葬を済ませると、ふたたびチューリッヒに戻り、間もなくしてベルンに移った。
1903年1月6日、アインシュタインとミレヴァは正式に結婚し、アーレ川の近くにあるアパートで暮らす。翌1904年には長男ハンスを授かる。このアパート暮らしでは、アインシュタインは壁が完全な平面ではなく、歪曲している・壁と天井を結ぶ線が直線ではなく、少し曲がっているのではないか、ということが気になっていた。この考えがのちに一般相対性理論を生み出す元となった。
1905年、26歳のときに3つの重要な論文を発表する。この1905年は「奇跡の年」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。
1905年に博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理された。この学位論文は「ブラウン運動の理論」に発展し、アインシュタインの全ての仕事のうち最も引用件数の多い論文となった。アインシュタインがバスに乗車中にベルンの時計台(ツィットグロッゲ)の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は、当時まったく無名の特許局員が提唱したもので当初は周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。
1906年、2級技術専門職へ昇進。年俸も4,500スイス・フランへと昇給された。
1907年、有名な式E=mcを発表(1905年9月にm=L/V^2の形で既に発表している)。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができない」という、のちの一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べた。
アインシュタインが「奇跡の年」を過ごしたベルンのクラム通り49番地は、現在アインシュタイン・ハウスという名の記念館となっており、アインシュタイン一家が使っていた家具が当時のスタイルのまま再現されている。また、ベルン市内にあるベルン歴史博物館には、アインシュタインの業績や生涯を紹介するアインシュタイン・ミュージアムが入っている。
1909年、特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号がジュネーヴ大学より授与された。
1910年、プラハ大学の教授となる。次男エドゥアルト誕生。1911年、ソルベー会議に招待された。この年には、プラハ大学の教授として、「光の伝播における重力の影響について」を発表し、不完全ながら一般相対性理論への挑戦が初めて試みられている。弟子のレオポルト・インフェルトはアインシュタインの思索の過程が最も現れている論文と称している。同年プランクにより、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長に推薦された。
1912年、母校・チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任(その契約は妻ミレヴァが行ったとされる)。アインシュタインはわずか1年で再びチューリッヒに戻ることになるのだが、これによりプラハ大学では彼と大学との間に問題が生じたのではないかとの噂が生じてしまう。彼はプラハ大学学長宛てに礼状を書き、これを否定したという。
1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となる。アインシュタインはベルリンに移住した。
ベルリンに移住して数か月後、アインシュタインが再従姉のエルザに対して恋愛感情を抱いている、ということが妻のミレヴァに知られ、その発覚から数か月後に妻ミレヴァは長男・次男とともにチューリッヒへと引っ越す事態となり、別居状態となった。親友のフリッツ・ハーバーの仲裁も空しく、別居生活が5年ほど続き、1919年2月に正式に離婚の手続きが完了。アインシュタインは当時、ミレヴァに対してそれなりの額を払うような金銭的な余裕はなかったため、「ノーベル賞を取ってその賞金をミレヴァに譲る」と未来に関する、相手から見て魅力的な条件を提示することで、ともかくも離婚を成立させた。当時、アインシュタインの業績から考えるに、ノーベル賞を受賞することはほぼ確定的とみなされていたため、それを相手へのオファーとして提示することができ、相手もそれを受け入れた。離婚が成立した数ヵ月後の1919年の6月、アルベルトはエルザと再婚した。そして離婚成立の2年後、招待され日本へ渡航中にノーベル賞受賞の決定が通知された。つまり同賞受賞は、人々が理解・想像していたような学問上の名誉の観点だけでなく、ノーベル賞の賞金を受け取りそれを元妻に渡すことで、元妻との離婚一連の騒動が完全に片づけられ、落ち着かない日々がようやく終わる、という観点からもアインシュタインにとっては喜ばしいものであったのである。
1914年、第一次世界大戦が勃発する。この頃、知識人に向けて『ヨーロッパ人への宣言』で平和行動について書いた。
1915年、ロマン・ロランと出会う。意気投合した二人は、命がけで平和運動をしている人々を手助けする方法について話し合ったという。
1916年、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(これはのちに実証される)。
1917年、肝臓病や黄疸といったいくつかの病がアインシュタインを襲う。病院はけがをした兵士で一杯になっており、一般人は入院できず、自宅で療養することになる。この数年間、いとこのエルザが看病にあたる。
一般相対性理論の立証のため、クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し、皆既日食の観測を試みるも、曇天のため失敗する。また、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。
1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。このことは世界のマスコミにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。一方、彼がユダヤ人であるとの理由から、ドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、アインシュタインの親友のフリッツ・ハーバーもユダヤ人であったが、ハーバーのほうはアインシュタインとは異なった道を進み、ドイツ軍に協力して毒ガス兵器の開発に力を貸した。
キャンベルは、アメリカ・ワシントン州で再度日食を観測、曇天の隙間があり撮影には成功したが立証にはいたらなかった。しかし敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道された(上記エディントンの観測を取り上げた世界のマスコミの中にアメリカThe New York Times 1919年11月10日の記事がある)。
この間、理論の証明は日食観測によるよりも数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者のダフィット・ヒルベルトとほぼ同時に発見したが、ヒルベルトはその功績をアインシュタインに譲った。
ケンブリッジ天文台のエディントンは戦勝国者だったため、戦後も自由に海外渡航ができ、アフリカのプリンシペのジャングルで日食を観測、理論の立証を発表したが、学会での認証は得られなかった。1922年に皆既日食が豪州で観測されるとあって、キャンベルをはじめ七つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、重力レンズ効果の存在を観測によって実証(立証)、これによって一般相対性理論は妥当性のある理論だと学会でも認められるようになった。
1921年、カイム・ワイズマンの提案により、イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムに創立予定のヘブライ大学建設資金を調達するためにアメリカを訪問し、その帰りにイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。
1922年3月にフランスを訪れたほか、10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見している(#アインシュタインと日本参照)。また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声があり、さらには「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルトあるいは、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。ノーベル委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレヴァに渡したとされる。
1923年、日本を出国した後、エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻る。7月11日にスウェーデンのヨーテボリでノーベル賞受賞の講演を行っている。
1925年、インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた誘導放出の研究が、のちのレーザーの開発につながることになった。
1929年、ベルギー王家を訪問。ベルギー王妃エリザベートと親交を交わす。
1930年、ベルリン郊外、カプート(ドイツ語版)という町に別荘を建てる。 同年11月、レオ・シラードと共同でガス吸収式の家庭用冷蔵庫の特許を申請する。
1932年、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。
1933年、ベルギー王妃の厚意により、ベルギーの港町デ・ハーン(フランス語版、英語版)に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの国境に近かったため、ドイツの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をドイツ警察が強制的に家宅捜索するなどという出来事もあった。その後ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。
1935年、ボリス・ポドリスキー、ネイサン・ローゼンとともにアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス(量子力学と相対性理論の矛盾)を発表する。また、アメリカでの永住権を申請、取得する。アメリカ国籍も申請。
1936年、ローゼンとともに位相幾何学上の仮説としての時空構造「アインシュタイン=ローゼン橋」(のちにジョン・アーチボルト・ホイーラーによってワームホール(1957年)と命名された)の概念を発表する。この年に妻のエルザが死去。
1939年、当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容だった。
1940年、アメリカ国籍を取得。1943年、アメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。魚雷の起爆装置の改善に尽力した。
1945年、広島市への原子爆弾投下報道に衝撃を受ける。9月2日に第二次世界大戦終結。連合国の一員であるアメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説する。
1946年、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。また、国連総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送る。
1948年、イスラエル建国。アインシュタインはハンナ・アーレントらユダヤ系知識人と連名で、訪米中のメナヘム・ベギンとその政党ヘルート(ヘブライ語版、英語版)をファシストと呼び、イスラエルのデイル・ヤシンの虐殺事件などのテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表する。なおこのころ、アインシュタインの腹部大動脈に大きな動脈瘤が存在することが手術の結果判明する。
1952年、イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退した。しかし、自分がユダヤ人であることを決して忘れてはおらず、著作権をヘブライ大学に贈った。
1954年、「人間は肉食動物ではない」と主張してベジタリアンの生活を実践するようになった。「人間の健康を高め、地球生命の存続を確かなものとする点で、菜食に勝るものはない」とも述べている(発言年不詳)。
1955年4月11日、哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の肥大)。
4月15日にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否。入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会したほか、病院でも研究を続けるべく秘書に電話をかけ、必要な用具を持って来るよう伝えてもいる。そして4月18日の午前1時すぎ、入院先のプリンストン病院で死去(満76歳没)。彼は死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したが、その場にいた看護師がドイツ語を理解できなかったため、彼が最後に何を言っていたのか、その内容については不明である。
アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表されたほか、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番、バッハのカンカータ第106番などの曲目が演奏された。
1999年、ライフ誌の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。同年、アメリカのニュース週刊誌『タイム』は、アルベルト・アインシュタインを「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」(20世紀の人)に選出した。
科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインはさまざまな政治的発言を行った。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ」と発言し、反戦運動に影響を与えた。しかし、第二次世界大戦の際は、戦争へのアイロニーとして、「最早、兵役拒否は許されない」と発言し、同時代人の文学者ロマン・ロランからのちに痛烈に批判された。また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムを支援した。このためナチス・ドイツから迫害を受け、アメリカに亡命した。
一部には「アインシュタインが原子爆弾の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という誤解も広く存在するが、質量とエネルギーの関係式:E=mc2は、あらゆるエネルギーについて成り立つ式であり、特に原子力に関係した公式ではない。また、アインシュタインはマンハッタン計画については一切関与していない。しかしながら、レオ・シラードの勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙(写真)に署名したことは事実であり、その手紙の内容は以下のようなものであった。
この手紙はシラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックス(英語版)を介して、1939年10月にフランクリン・ルーズベルトに渡された。その結果、ルーズベルトによりウラン諮問委員会が作られ、アインシュタインの提言が検討されることになり、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助が決定した。ただし、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆の開発は見送られた。
しかし、2年後の1941年秋にはアメリカで原子爆弾の開発・製造が開始した(マンハッタン計画)。これは41年夏以降、イギリスの科学者たちによる「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされる。 このとき、アインシュタイン自身はマンハッタン計画への協力を求められることはなかった。国防研究委員会委員長であったヴァネヴァー・ブッシュはその理由について、アインシュタインの過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性があったからとした。
アインシュタインの死後、バートランド・ラッセルはラッセル・アインシュタイン宣言を発表しパグウォッシュ会議を創設した。また世界連邦の樹立を提唱するなど、多くの平和的言動を残した。
アインシュタインは「自然法則こそが神」であり「≪人格のある神≫はいない」とする考えを持っていたともいう。 「アインシュタインの神秘主義は、哲学者のピタゴラスとスピノザの折衷である」と分析されてきており、1954年の著書 Ideas and opinions 『概念と見解』には、彼のそうした見解が述べられている。それは次のようなものである。
擬人的な神を据え置くというレベルの宗教を超えた場合には第三の宗教体験が存在し、それをアインシュタインは「宇宙的宗教感覚」と名付けた。この感覚の中では≪擬人的な神≫の概念はまったくないし、体験したことのない者にこの感覚を説明するのは難しい、ということである。また「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例え、「理性における成功を強く体験した者は誰しも万物にあらわれている合理性に畏敬の念を持っている」とし、「科学、宗教、芸術など様々な活動を動機づけているのは、崇高さの神秘に対する驚きだ」としていた。
ストラディヴァリウスと双璧を為すヴァイオリンの名器、グァルネリ・デル・ジェスは、アインシュタインが所有していたことで知られている。アインシュタインは6歳でヴァイオリンを始め、1895年に編入したスイスの学校では、仲が悪い級友が学生食堂でヴァイオリンを弾くアインシュタインの演奏に聴き入った、という逸話が残されている。そのアインシュタインが使った最も高価な楽器と言われるのがグァルネリである。このヴァイオリンは、1931年冬にアインシュタインに貸し出された。1727年に作製されたヨーゼフ・グァルネリ・デル・ジェスがこのヴァイオリンであるとされており、アインシュタイン自身が愛した女性に贈ったという逸話がある。その後、パリ音楽院を首席で卒業した日本生まれの演奏者などがこのグァルネリを演奏することもあり、日本で演奏を聴く機会も多い(外部リンク・アインシュタインのグァルネリを演奏した演奏家のページ参照)。
アインシュタインの遺体は焼却され灰は近くのデラウェア川に流された。しかしアインシュタインの遺体の検死を行った解剖学者トマス・シュトルツ・ハーヴェイは遺族の承諾を得ずに、脳だけを自宅に持ち帰り、40年間も手元に置いていた。スライスした切片を求めに応じて知人に配布し、その後世界各地の博物館・科学館でアインシュタインの脳の切片の展示が行われるようになった。晩年、彼は脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却している。
アインシュタイン研究者で近畿大学の杉元賢治は彼の脳の一部を入手しており、その過程はBBCのドキュメンタリー番組『アインシュタインの脳』で見ることができる。
2018年にはNHKが、散逸した脳の所在を調査したドキュメンタリーを制作している。
1912年(明治45年/大正元年)、東北帝国大学初代総長の澤柳政太郎が、ドイツ帝国・ミュンヘンに留学中の石原純(東北帝国大学理科大学理論物理学助教授)宛てに手紙を出し、年俸1万5000マルク(約7,500円)、3年の任期で、アインシュタインを1911年(明治44年)に新設された東北帝国大学理科大学の教授として招聘できないか打診したが、断られ実現しなかった。
1921年(大正10年)、アインシュタインは日本からドイツに留学していた鈴木鎮一(音楽教育家、1898-1998)の面倒をみることになった。鈴木は徳川義親の渡欧に同行した人物で、ドイツでベルリン高等音楽学校教授カール・クリングラーに師事していた。当初、鈴木は医学部教授のミヒャエルス教授のもとで生活していたが、アメリカの大学に招聘されたためミヒャエルス教授はアインシュタインに鈴木のことを託した。鈴木はアインシュタインがバッハのシャコンヌ(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1004-5)を好んでおりヴァイオリンの演奏は自分よりも上手いと思ったという。アインシュタインは鈴木を通じて日本人の人となりを知るきっかけになったといわれている。
1922年(大正11年)、「出版業界きっての立役者」と名を馳せた改造社創業者・山本実彦は、同出版社および雑誌「改造」が日本に招致したバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガーに次ぐ「世界的名声人士」として、懇意になっていたアインシュタイン博士を妻エルザとともに日本に招待することにした。招待する側には、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増の見込みもあったが、日本は当時大正デモクラシーの時期であり、アインシュタイン来日は社会的にも大きな意味を持っていた。招かれたアインシュタインの側は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的である、と語っている。
日本滞在は1922年11月17日から12月29日までの43日間となった。
10月8日、フランス南部・地中海に面したマルセイユから日本郵船「北野丸」で出港。香港から上海へと航海中の11月10日、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。11月13日午前11時、上海に入港。14日朝、上海を出港し神戸に向かった。
11月17日16時すぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎、女性問題ですでに大学を辞職していた東北帝国大学元教授だった石原純と教授の愛知敬一、九州帝国大学教授の桑木彧雄(石原と愛知は長岡の弟子。石原と桑木はアインシュタインとスイスにて面識があった)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車で京都に向かい、その夜は京都の都ホテルに宿泊した。翌18日、9:15発の特急で東京に向かい、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに通常は車で5、6分程度のものの、相当の時間が必要だったと記録されている。
一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度であった。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市・福岡市で各1回の計8回行われ、14,000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純が行った。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った 。
なお、この訪日の際に人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある。
講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良、宮島などを観光し、能と歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。12月29日午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。
2018年に公開されたアインシュタインのアジア旅行時の日記には現地での中国人やスリランカ人への記載が人種差別だとして批判されている。対照的に1922-23年の訪日時の日記にて「日本人は謙虚で質素、礼儀正しい、まったく魅力的です」「他のどこにも存在しないくらい純真な魂たち。誰でもこの国を愛し、敬うだろう」と評価した一方で「日本人の知識への欲求は芸術への欲求に比べると弱いようだ。生まれつきの気質か?」と残している。 | [
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"text": "アルベルト・アインシュタイン(独: Albert Einstein、1879年3月14日 - 1955年4月18日)は、ドイツ生まれの理論物理学者。ユダヤ人。スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。",
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"text": "特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は\"無名の特許局員\"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。",
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"text": "それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。",
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"text": "1905年に特殊相対性理論を発表した。以前から論理的に展開されていた相対性原理(アンリ・ポアンカレ、ジョゼフ・ラーモア、ヘンドリック・ローレンツなどによるもの)を明確化して採用し、ニュートン力学とマクスウェルの方程式に基づく当時の古典論的物理学の体系に対し、相対性原理に基づく時空概念の修正を前者へ施すことにより、(重力場を除いて)両者は理論的に統合され、古典論的物理学の体系の完成に成功した。特殊相対性理論では、「質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なもの」であり、「唯一不変なものは光速度 c のみである」とした。",
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"text": "特殊相対性理論は、重力場のない状態での慣性系のみを取り扱った(限定的な)理論であるが、1915年から1916年には、加速度運動と重力を取り込んだ(より適用範囲を広げた)一般相対性理論を発表した。一般相対性理論では、重力場による時空の歪みをリーマン幾何学を用いて記述している。さらに後半生の30年近くを重力と電磁気力を統合する統一場理論を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わった。一般相対性理論を素直にそのまま認めると、「宇宙は膨張または収縮をしている」ということが素朴に演繹されうる。しかしアインシュタインは、宇宙が膨張や収縮しているとは考えたくなかったため、重力による影響を相殺するような宇宙項Λ(ラムダ)を場の方程式に組み入れることで、理論上静的な宇宙でも存在可能であるとする理論を作った。その後、エドウィン・ハッブルらの天文台での実際の観測によって、実際は宇宙は膨張しているということが観測的に確認されたため、アインシュタインは自身がかつて提案した「宇宙項」を撤回せざるを得なくなった(のちに彼は、宇宙項の導入は「生涯最大の失敗」と述べることになった)。なおアインシュタインが死去してからかなり月日が流れ、21世紀になってからの宇宙望遠鏡による超新星の赤方偏移の観測結果の分析によって、「宇宙は膨張している」と言っても、単に一定の速度で膨張しているのではなく、その膨張する速度が次第に大きくなってきている(加速している)ということが明らかになってきており、この「加速」を説明するには、「宇宙項をむしろ導入するほうが妥当だ」「アインシュタインは実は宇宙項を撤回する必要はなかったのではないか」とする指摘や学説が存在する(詳細はダークエネルギーを参照)。",
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"text": "光量子仮説によって光電効果について理論的な説明づけを行うなど、初期量子論の確立に多大な貢献をした。しかし、「量子は確率論的に振舞う」とする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と懐疑的な立場をとった。局所実在論を支持していたアインシュタインは量子力学の矛盾点の一つとしてアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックスを提示したが、のちにベルの不等式の破れが実証されると局所実在論は破綻し、EPR相関として知られるようになった。",
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"text": "アインシュタインは1879年3月14日、ヘルマン・アインシュタインを父、パウリーネ・コッホを母とし、その長男としてドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市にて生まれた。父ヘルマンはその弟ヤコブから誘われ、アルベルト誕生翌年の1880年夏、一家はミュンヘンに引っ越し、兄弟は、直流電流に基づいた電気機器を製造する会社「Elektrotechnische Fabrik J. Einstein & Cie」を設立した。ヘルマンは営業を担当しヤコブは技術を担当した。1881年には一家にマリア(アルベルトの妹。通称「マーヤ」。)が誕生し、一家は1894年まで同地ミュンヘンで暮らすことになる。",
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"text": "アインシュタインは、5歳ごろまであまり言葉を発して他人と会話することがなかった。しかし、5歳のときに父親からもらった方位磁針が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった。また、同じ頃、ヴァイオリンを習い始めている。そしてすぐにモーツァルトの曲が好きになり、ヴァイオリンは生涯の友となった。",
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"text": "幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題がなかったが、言葉を出すのには時間を要した。一方で数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じころ、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知らされ、同時に物理学に関心を示すようになったという。ただ、確率は生まれつき不得意で、このことがのちに統計力学・量子力学を否定する素地となる。",
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"text": "1894年、父と叔父の会社が行きづまり、その結果、新たな商業的な機会を求めて一家はイタリアのミラノに引っ越すことになった。父ヘルマンはアインシュタインがギムナジウムをしっかり卒業する必要があると判断し、アインシュタインだけ同地に残されることになった。父ヘルマンはアルベルトが電気工学の道へと進むといいと考えていたのだった。だがアインシュタインは規則ずくめで軍国主義的な校風と対立・反発し、1894年12月末、医師に書かせた診断書を口実にして退校を申し出て、家族を追って旅をし、当時イタリアのパヴィアにいた家族のもとへとやってきた。このイタリアでの滞在中、アインシュタインは「磁界中でのエーテルの状態の調査について」という題名の短い試論を書いたという。",
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"text": "1895年、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験するも総合点が合格基準に足らず失敗。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったため、アーラウのギムナジウム(ドイツ語版)に通うこと(大学入学に必要な中等教育の諸知識を習得すること)を条件に、翌年度の入学資格を与えた。アインシュタインは1895年と96年に同校に通学した。アーラウの学校の校風は、ある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これがのちの相対性理論を生み出すきっかけになったといわれている。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "このころアインシュタインは教師のヨスト・ヴィンテラー(英語版)の家に身を寄せていたが、その娘のマリーに恋するようになった。1896年1月、父の許可のもと、ドイツ帝国の兵役義務から逃れるためにアインシュタインはドイツ市民権を放棄した(その後にスイス国籍を取得するまで無国籍となった)。1896年9月のマトゥーラ試験(欧米で広く見られる中等教育修了試験)をアインシュタインはおおむね好成績で、特に数学と物理は 6段階評価の最高ランク「6」で、無事通過した。10月、チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可された。同大学の、数学・物理学の教員資格を取得する4年課程の学生となったのである。同学は自由な校風で、数人の学友を得た。恋の相手だった ヴィンテラーの娘マリーは、アインシュタインよりも1歳年上で、すでに教員資格を得て、教師として着任するためにスイスのオルスベルク(英語版)へと引っ越してしまった。しかし、アインシュタインは同大学でミレヴァ・マリッチという女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は当時としては女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつであったが、ミレヴァはアインシュタインが属した課程の6名の中で唯一の女性であった。最初は友達だった二人は、数年の年月とともにロマンス(恋愛感情)をともなう関係となり、アインシュタインがますます熱中するようになっていた物理の文献を一緒に読むようにもなった。",
"title": "生涯"
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"text": "アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の実験は最低の「1」、電気技術では優秀な「6」の成績をとった。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ。",
"title": "生涯"
},
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"tag": "p",
"text": "卒業の年である1900年に、アインシュタインは数学・物理の教員資格試験に無事合格した。アインシュタインは7月にチューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバーと不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ながら、論文の執筆に取り組んだ。",
"title": "生涯"
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"text": "1901年、スイス国籍を取得。スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは扁平足および静脈瘤の診断からこれを免除される。一般の人々には、はるか後の1987年になって若きアインシュタインが交わした手紙が研究されて、はじめて明らかにされたことだが、このころ恋人ミレヴァはアインシュタインの子を身ごもり、彼女の両親がいるノヴィ・サドへ行き滞在し、1902年初頭に娘を産んだ。二人が交わした手紙では、その子は「リーゼル」(Lieserl) と仮の名前で呼ばれていたが、出産後にミレヴァは子供をともなわずスイスへと戻ってきた。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1902年、友人のマルセル・グロスマンの父親の口利きで、ベルンのスイス特許庁に3級技術専門職(審査官)として就職した。年俸は3,500スイス・フランであった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。このころ、モーリス・ソロヴィーヌ(英語版)、コンラート・ハービヒト(英語版)らと「アカデミー・オリンピア」を設立した。同じころ、父ヘルマンが死去。ミラノで埋葬を済ませると、ふたたびチューリッヒに戻り、間もなくしてベルンに移った。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1903年1月6日、アインシュタインとミレヴァは正式に結婚し、アーレ川の近くにあるアパートで暮らす。翌1904年には長男ハンスを授かる。このアパート暮らしでは、アインシュタインは壁が完全な平面ではなく、歪曲している・壁と天井を結ぶ線が直線ではなく、少し曲がっているのではないか、ということが気になっていた。この考えがのちに一般相対性理論を生み出す元となった。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "1905年、26歳のときに3つの重要な論文を発表する。この1905年は「奇跡の年」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。",
"title": "生涯"
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{
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"tag": "p",
"text": "1905年に博士号を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「分子の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理された。この学位論文は「ブラウン運動の理論」に発展し、アインシュタインの全ての仕事のうち最も引用件数の多い論文となった。アインシュタインがバスに乗車中にベルンの時計台(ツィットグロッゲ)の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は、当時まったく無名の特許局員が提唱したもので当初は周囲の理解を得られなかったが、マックス・プランクの支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。",
"title": "生涯"
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"text": "1906年、2級技術専門職へ昇進。年俸も4,500スイス・フランへと昇給された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1907年、有名な式E=mcを発表(1905年9月にm=L/V^2の形で既に発表している)。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができない」という、のちの一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "アインシュタインが「奇跡の年」を過ごしたベルンのクラム通り49番地は、現在アインシュタイン・ハウスという名の記念館となっており、アインシュタイン一家が使っていた家具が当時のスタイルのまま再現されている。また、ベルン市内にあるベルン歴史博物館には、アインシュタインの業績や生涯を紹介するアインシュタイン・ミュージアムが入っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "1909年、特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の助教授となる。この年には彼の生涯で初となる名誉博士号がジュネーヴ大学より授与された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "1910年、プラハ大学の教授となる。次男エドゥアルト誕生。1911年、ソルベー会議に招待された。この年には、プラハ大学の教授として、「光の伝播における重力の影響について」を発表し、不完全ながら一般相対性理論への挑戦が初めて試みられている。弟子のレオポルト・インフェルトはアインシュタインの思索の過程が最も現れている論文と称している。同年プランクにより、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長に推薦された。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1912年、母校・チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任(その契約は妻ミレヴァが行ったとされる)。アインシュタインはわずか1年で再びチューリッヒに戻ることになるのだが、これによりプラハ大学では彼と大学との間に問題が生じたのではないかとの噂が生じてしまう。彼はプラハ大学学長宛てに礼状を書き、これを否定したという。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となる。アインシュタインはベルリンに移住した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "ベルリンに移住して数か月後、アインシュタインが再従姉のエルザに対して恋愛感情を抱いている、ということが妻のミレヴァに知られ、その発覚から数か月後に妻ミレヴァは長男・次男とともにチューリッヒへと引っ越す事態となり、別居状態となった。親友のフリッツ・ハーバーの仲裁も空しく、別居生活が5年ほど続き、1919年2月に正式に離婚の手続きが完了。アインシュタインは当時、ミレヴァに対してそれなりの額を払うような金銭的な余裕はなかったため、「ノーベル賞を取ってその賞金をミレヴァに譲る」と未来に関する、相手から見て魅力的な条件を提示することで、ともかくも離婚を成立させた。当時、アインシュタインの業績から考えるに、ノーベル賞を受賞することはほぼ確定的とみなされていたため、それを相手へのオファーとして提示することができ、相手もそれを受け入れた。離婚が成立した数ヵ月後の1919年の6月、アルベルトはエルザと再婚した。そして離婚成立の2年後、招待され日本へ渡航中にノーベル賞受賞の決定が通知された。つまり同賞受賞は、人々が理解・想像していたような学問上の名誉の観点だけでなく、ノーベル賞の賞金を受け取りそれを元妻に渡すことで、元妻との離婚一連の騒動が完全に片づけられ、落ち着かない日々がようやく終わる、という観点からもアインシュタインにとっては喜ばしいものであったのである。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1914年、第一次世界大戦が勃発する。この頃、知識人に向けて『ヨーロッパ人への宣言』で平和行動について書いた。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "1915年、ロマン・ロランと出会う。意気投合した二人は、命がけで平和運動をしている人々を手助けする方法について話し合ったという。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1916年、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(これはのちに実証される)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1917年、肝臓病や黄疸といったいくつかの病がアインシュタインを襲う。病院はけがをした兵士で一杯になっており、一般人は入院できず、自宅で療養することになる。この数年間、いとこのエルザが看病にあたる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "一般相対性理論の立証のため、クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し、皆既日食の観測を試みるも、曇天のため失敗する。また、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。このことは世界のマスコミにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。一方、彼がユダヤ人であるとの理由から、ドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、アインシュタインの親友のフリッツ・ハーバーもユダヤ人であったが、ハーバーのほうはアインシュタインとは異なった道を進み、ドイツ軍に協力して毒ガス兵器の開発に力を貸した。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "キャンベルは、アメリカ・ワシントン州で再度日食を観測、曇天の隙間があり撮影には成功したが立証にはいたらなかった。しかし敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道された(上記エディントンの観測を取り上げた世界のマスコミの中にアメリカThe New York Times 1919年11月10日の記事がある)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "この間、理論の証明は日食観測によるよりも数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者のダフィット・ヒルベルトとほぼ同時に発見したが、ヒルベルトはその功績をアインシュタインに譲った。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "ケンブリッジ天文台のエディントンは戦勝国者だったため、戦後も自由に海外渡航ができ、アフリカのプリンシペのジャングルで日食を観測、理論の立証を発表したが、学会での認証は得られなかった。1922年に皆既日食が豪州で観測されるとあって、キャンベルをはじめ七つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、重力レンズ効果の存在を観測によって実証(立証)、これによって一般相対性理論は妥当性のある理論だと学会でも認められるようになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "1921年、カイム・ワイズマンの提案により、イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムに創立予定のヘブライ大学建設資金を調達するためにアメリカを訪問し、その帰りにイギリスも訪問した(ここではニュートンの墓を訪ねた)。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "1922年3月にフランスを訪れたほか、10月には日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見している(#アインシュタインと日本参照)。また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「光電効果の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声があり、さらには「ユダヤ的」であるとするフィリップ・レーナルトあるいは、ヨハネス・シュタルクなどノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。ノーベル委員会は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレヴァに渡したとされる。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "1923年、日本を出国した後、エルサレム、スペインを訪問しドイツへと戻る。7月11日にスウェーデンのヨーテボリでノーベル賞受賞の講演を行っている。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "1925年、インドの物理学者サティエンドラ・ボースからの手紙をきっかけとして、ボース=アインシュタイン凝縮の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた誘導放出の研究が、のちのレーザーの開発につながることになった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "1929年、ベルギー王家を訪問。ベルギー王妃エリザベートと親交を交わす。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1930年、ベルリン郊外、カプート(ドイツ語版)という町に別荘を建てる。 同年11月、レオ・シラードと共同でガス吸収式の家庭用冷蔵庫の特許を申請する。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "1932年、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツでヒトラー率いるナチスが政権を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "1933年、ベルギー王妃の厚意により、ベルギーの港町デ・ハーン(フランス語版、英語版)に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの国境に近かったため、ドイツの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をドイツ警察が強制的に家宅捜索するなどという出来事もあった。その後ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "1935年、ボリス・ポドリスキー、ネイサン・ローゼンとともにアインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス(量子力学と相対性理論の矛盾)を発表する。また、アメリカでの永住権を申請、取得する。アメリカ国籍も申請。",
"title": "生涯"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "1936年、ローゼンとともに位相幾何学上の仮説としての時空構造「アインシュタイン=ローゼン橋」(のちにジョン・アーチボルト・ホイーラーによってワームホール(1957年)と命名された)の概念を発表する。この年に妻のエルザが死去。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1939年、当時のアメリカ合衆国大統領であったフランクリン・ルーズベルト宛ての、原子力とその軍事利用の可能性に触れた手紙に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容だった。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "1940年、アメリカ国籍を取得。1943年、アメリカ海軍省兵器局の顧問に就任。魚雷の起爆装置の改善に尽力した。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "1945年、広島市への原子爆弾投下報道に衝撃を受ける。9月2日に第二次世界大戦終結。連合国の一員であるアメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」と演説する。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "1946年、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。また、国連総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送る。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 53,
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"text": "1948年、イスラエル建国。アインシュタインはハンナ・アーレントらユダヤ系知識人と連名で、訪米中のメナヘム・ベギンとその政党ヘルート(ヘブライ語版、英語版)をファシストと呼び、イスラエルのデイル・ヤシンの虐殺事件などのテロ行為を非難する書簡をニューヨーク・タイムズ紙上に発表する。なおこのころ、アインシュタインの腹部大動脈に大きな動脈瘤が存在することが手術の結果判明する。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "1952年、イスラエル初代大統領ハイム・ヴァイツマンが死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退した。しかし、自分がユダヤ人であることを決して忘れてはおらず、著作権をヘブライ大学に贈った。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1954年、「人間は肉食動物ではない」と主張してベジタリアンの生活を実践するようになった。「人間の健康を高め、地球生命の存続を確かなものとする点で、菜食に勝るものはない」とも述べている(発言年不詳)。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "1955年4月11日、哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の肥大)。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "4月15日にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否。入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会したほか、病院でも研究を続けるべく秘書に電話をかけ、必要な用具を持って来るよう伝えてもいる。そして4月18日の午前1時すぎ、入院先のプリンストン病院で死去(満76歳没)。彼は死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したが、その場にいた看護師がドイツ語を理解できなかったため、彼が最後に何を言っていたのか、その内容については不明である。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表されたほか、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、モーツァルトのピアノ協奏曲第26番、バッハのカンカータ第106番などの曲目が演奏された。",
"title": "生涯"
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"paragraph_id": 59,
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"text": "1999年、ライフ誌の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。同年、アメリカのニュース週刊誌『タイム』は、アルベルト・アインシュタインを「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」(20世紀の人)に選出した。",
"title": "生涯"
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{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインはさまざまな政治的発言を行った。第一次世界大戦中は平和主義を掲げ、戦争を公然と批判した。「2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ」と発言し、反戦運動に影響を与えた。しかし、第二次世界大戦の際は、戦争へのアイロニーとして、「最早、兵役拒否は許されない」と発言し、同時代人の文学者ロマン・ロランからのちに痛烈に批判された。また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムを支援した。このためナチス・ドイツから迫害を受け、アメリカに亡命した。",
"title": "政治的活動"
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{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一部には「アインシュタインが原子爆弾の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という誤解も広く存在するが、質量とエネルギーの関係式:E=mc2は、あらゆるエネルギーについて成り立つ式であり、特に原子力に関係した公式ではない。また、アインシュタインはマンハッタン計画については一切関与していない。しかしながら、レオ・シラードの勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への手紙(写真)に署名したことは事実であり、その手紙の内容は以下のようなものであった。",
"title": "政治的活動"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "この手紙はシラードが接触を図っていたアレクサンダー・ザックス(英語版)を介して、1939年10月にフランクリン・ルーズベルトに渡された。その結果、ルーズベルトによりウラン諮問委員会が作られ、アインシュタインの提言が検討されることになり、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助が決定した。ただし、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆の開発は見送られた。",
"title": "政治的活動"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "しかし、2年後の1941年秋にはアメリカで原子爆弾の開発・製造が開始した(マンハッタン計画)。これは41年夏以降、イギリスの科学者たちによる「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされる。 このとき、アインシュタイン自身はマンハッタン計画への協力を求められることはなかった。国防研究委員会委員長であったヴァネヴァー・ブッシュはその理由について、アインシュタインの過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性があったからとした。",
"title": "政治的活動"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "アインシュタインの死後、バートランド・ラッセルはラッセル・アインシュタイン宣言を発表しパグウォッシュ会議を創設した。また世界連邦の樹立を提唱するなど、多くの平和的言動を残した。",
"title": "政治的活動"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "アインシュタインは「自然法則こそが神」であり「≪人格のある神≫はいない」とする考えを持っていたともいう。 「アインシュタインの神秘主義は、哲学者のピタゴラスとスピノザの折衷である」と分析されてきており、1954年の著書 Ideas and opinions 『概念と見解』には、彼のそうした見解が述べられている。それは次のようなものである。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "擬人的な神を据え置くというレベルの宗教を超えた場合には第三の宗教体験が存在し、それをアインシュタインは「宇宙的宗教感覚」と名付けた。この感覚の中では≪擬人的な神≫の概念はまったくないし、体験したことのない者にこの感覚を説明するのは難しい、ということである。また「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例え、「理性における成功を強く体験した者は誰しも万物にあらわれている合理性に畏敬の念を持っている」とし、「科学、宗教、芸術など様々な活動を動機づけているのは、崇高さの神秘に対する驚きだ」としていた。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "ストラディヴァリウスと双璧を為すヴァイオリンの名器、グァルネリ・デル・ジェスは、アインシュタインが所有していたことで知られている。アインシュタインは6歳でヴァイオリンを始め、1895年に編入したスイスの学校では、仲が悪い級友が学生食堂でヴァイオリンを弾くアインシュタインの演奏に聴き入った、という逸話が残されている。そのアインシュタインが使った最も高価な楽器と言われるのがグァルネリである。このヴァイオリンは、1931年冬にアインシュタインに貸し出された。1727年に作製されたヨーゼフ・グァルネリ・デル・ジェスがこのヴァイオリンであるとされており、アインシュタイン自身が愛した女性に贈ったという逸話がある。その後、パリ音楽院を首席で卒業した日本生まれの演奏者などがこのグァルネリを演奏することもあり、日本で演奏を聴く機会も多い(外部リンク・アインシュタインのグァルネリを演奏した演奏家のページ参照)。",
"title": "人物像"
},
{
"paragraph_id": 68,
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"text": "アインシュタインの遺体は焼却され灰は近くのデラウェア川に流された。しかしアインシュタインの遺体の検死を行った解剖学者トマス・シュトルツ・ハーヴェイは遺族の承諾を得ずに、脳だけを自宅に持ち帰り、40年間も手元に置いていた。スライスした切片を求めに応じて知人に配布し、その後世界各地の博物館・科学館でアインシュタインの脳の切片の展示が行われるようになった。晩年、彼は脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却している。",
"title": "アインシュタインの脳"
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"text": "アインシュタイン研究者で近畿大学の杉元賢治は彼の脳の一部を入手しており、その過程はBBCのドキュメンタリー番組『アインシュタインの脳』で見ることができる。",
"title": "アインシュタインの脳"
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"text": "2018年にはNHKが、散逸した脳の所在を調査したドキュメンタリーを制作している。",
"title": "アインシュタインの脳"
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"text": "1912年(明治45年/大正元年)、東北帝国大学初代総長の澤柳政太郎が、ドイツ帝国・ミュンヘンに留学中の石原純(東北帝国大学理科大学理論物理学助教授)宛てに手紙を出し、年俸1万5000マルク(約7,500円)、3年の任期で、アインシュタインを1911年(明治44年)に新設された東北帝国大学理科大学の教授として招聘できないか打診したが、断られ実現しなかった。",
"title": "アインシュタインと日本"
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"text": "1921年(大正10年)、アインシュタインは日本からドイツに留学していた鈴木鎮一(音楽教育家、1898-1998)の面倒をみることになった。鈴木は徳川義親の渡欧に同行した人物で、ドイツでベルリン高等音楽学校教授カール・クリングラーに師事していた。当初、鈴木は医学部教授のミヒャエルス教授のもとで生活していたが、アメリカの大学に招聘されたためミヒャエルス教授はアインシュタインに鈴木のことを託した。鈴木はアインシュタインがバッハのシャコンヌ(無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1004-5)を好んでおりヴァイオリンの演奏は自分よりも上手いと思ったという。アインシュタインは鈴木を通じて日本人の人となりを知るきっかけになったといわれている。",
"title": "アインシュタインと日本"
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"text": "1922年(大正11年)、「出版業界きっての立役者」と名を馳せた改造社創業者・山本実彦は、同出版社および雑誌「改造」が日本に招致したバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガーに次ぐ「世界的名声人士」として、懇意になっていたアインシュタイン博士を妻エルザとともに日本に招待することにした。招待する側には、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増の見込みもあったが、日本は当時大正デモクラシーの時期であり、アインシュタイン来日は社会的にも大きな意味を持っていた。招かれたアインシュタインの側は、ラフカディオ・ハーンが記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的である、と語っている。",
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"text": "日本滞在は1922年11月17日から12月29日までの43日間となった。",
"title": "アインシュタインと日本"
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"text": "10月8日、フランス南部・地中海に面したマルセイユから日本郵船「北野丸」で出港。香港から上海へと航海中の11月10日、スウェーデン科学アカデミーが、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞を授与することを発表し、船上でこの電報を受けた。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。11月13日午前11時、上海に入港。14日朝、上海を出港し神戸に向かった。",
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"text": "11月17日16時すぎに神戸港に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、東京帝国大学教授の長岡半太郎、女性問題ですでに大学を辞職していた東北帝国大学元教授だった石原純と教授の愛知敬一、九州帝国大学教授の桑木彧雄(石原と愛知は長岡の弟子。石原と桑木はアインシュタインとスイスにて面識があった)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ大使館は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00三宮駅発の汽車で京都に向かい、その夜は京都の都ホテルに宿泊した。翌18日、9:15発の特急で東京に向かい、19:20東京駅着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する帝国ホテルに到着するのに通常は車で5、6分程度のものの、相当の時間が必要だったと記録されている。",
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"text": "一般講演は入場料3円(オペラの上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度であった。講演回数は6回の予定だったが、結局、東京市2回と仙台市・名古屋市・京都市・大阪市・神戸市・福岡市で各1回の計8回行われ、14,000名ほどの聴衆を集めた。講演の通訳は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに留学した石原純が行った。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った 。",
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"text": "なお、この訪日の際に人力車に乗ることを薦められたが、非人道的な奴隷労働と解釈し、乗車を拒否したことがある。",
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"text": "講演の合間を縫って、浅草、松島、日光、熱田、京都、奈良、宮島などを観光し、能と歌舞伎も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。12月29日午後3時、日本郵船「榛名丸」で門司港よりパレスチナに向けて出航・離日。",
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"text": "2018年に公開されたアインシュタインのアジア旅行時の日記には現地での中国人やスリランカ人への記載が人種差別だとして批判されている。対照的に1922-23年の訪日時の日記にて「日本人は謙虚で質素、礼儀正しい、まったく魅力的です」「他のどこにも存在しないくらい純真な魂たち。誰でもこの国を愛し、敬うだろう」と評価した一方で「日本人の知識への欲求は芸術への欲求に比べると弱いようだ。生まれつきの気質か?」と残している。",
"title": "アインシュタインと日本"
}
] | アルベルト・アインシュタインは、ドイツ生まれの理論物理学者。ユダヤ人。スイス連邦工科大学チューリッヒ校卒業。 特殊相対性理論および一般相対性理論、相対性宇宙論、ブラウン運動の起源を説明する揺動散逸定理、光量子仮説による光の粒子と波動の二重性、アインシュタインの固体比熱理論、零点エネルギー、半古典型のシュレディンガー方程式、ボース=アインシュタイン凝縮などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人のマックス・プランクが支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。 それまでの物理学の認識を根本から変え、「20世紀最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年のノーベル物理学賞を受賞した。 | {{Redirect|アインシュタイン}}
{{Infobox Scientist
| name = アルベルト・アインシュタイン
| native_name = Albert Einstein
| image = Einstein1921 by F Schmutzer 2.jpg
| caption = 講義中のアインシュタイン(1921年、[[ウィーン]])
| birth_date = {{生年月日と年齢|1879|3|14|no}}
| birth_place = {{DEU1871}}<br>[[File:Flagge Königreich Württemberg.svg|border|25px]] [[ヴュルテンベルク王国]][[ウルム]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1879|3|14|1955|4|18}}
| death_place = {{USA1912}}<br />[[ニュージャージー州]][[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]]
| residence = {{Plainlist|
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| nationality = {{Plainlist|
* {{DEU1871}}、[[ヴュルテンベルク王国]] (1879-96)
* [[無国籍]] (1896-1901)
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| spouse = {{Plainlist|
* [[ミレヴァ・マリッチ]] (1903-1919)
* [[エルザ・アインシュタイン|エルザ・レーベンタール]] (1919-1936)
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| children = {{Plainlist|
* [[リーゼル・アインシュタイン|リーゼル]] (1902-1903?)
* [[ハンス・アルベルト・アインシュタイン|ハンス・アルベルト]] (1904-1973)
* [[エドゥアルト・アインシュタイン|エドゥアルト]] (1910-1965)
}}
| field = {{Plainlist|
* [[物理学]]
* [[哲学]]
}}
| work_institution = {{Plainlist|
* [[スイス特許庁]] ([[ベルン]]) (1902-1909)
* [[ベルン大学]] (1908-1909)
* [[チューリッヒ大学]] (1909-1911)
* [[プラハ・カレル大学]] (1911-1912)
* [[チューリッヒ工科大学]] (1912-1914)
* [[プロイセン科学アカデミー]] (1914-1933)
* [[フンボルト大学ベルリン]] (1914-1917)
* [[カイザー・ヴィルヘルム協会|カイザー・ヴィルヘルム研究所]] (化学・物理学研究所長, 1917-1933)
* [[ドイツ物理学会]] (会長, 1916-1918)
* [[ライデン大学]] (客員, 1920-)
* [[プリンストン高等研究所]] (1933-1955)
* [[カリフォルニア工科大学]] (客員, 1931-33)
}}
| alma_mater = [[チューリッヒ工科大学]]<br />[[チューリッヒ大学]]
| doctoral_advisor = [[アルフレート・クライナー]]
| academic_advisors = [[ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバー]]
| doctoral_students =
| known_for = {{Plainlist|
* [[一般相対性理論]]
* [[特殊相対性理論]]
* [[光電効果]]
* [[ブラウン運動]]
* [[E{{=}}mc2|質量とエネルギーの等価性]] (E{{=}}mc<sup>2</sup>)
* [[アインシュタイン方程式]]
* [[ボース分布関数]]
* [[宇宙定数]]
* [[ボース=アインシュタイン凝縮]]
* [[EPRパラドックス]]
* {{仮リンク|古典統一場論|en|Classical unified field theories}}
}}
| influenced = {{Plainlist|
* {{仮リンク|エルンスト・G・シュトラウス|en|Ernst G. Straus}}
* [[ネイサン・ローゼン]]
* [[レオ・シラード]]
}}
| prizes = {{Plainlist|
**[[ノーベル物理学賞]](1921)
*[[マテウチ・メダル]](1921)
*[[コプリ・メダル]](1925)
*[[王立天文学会ゴールドメダル]](1926)
*[[マックス・プランク・メダル]](1929)
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| footnotes =
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{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|1921年|ノーベル物理学賞|光電効果の法則の発見等}}
{{thumbnail:end}}
'''アルベルト・アインシュタイン'''<ref group="注釈">[[日本語]]における表記には、他に「アル{{Underline|バー}}ト・アインシュタイン」(現代[[ドイツ語]]の発音由来)、「アル{{Underline|バー}}ト・アイン{{Underline|ス}}タイン」([[英語]]の発音由来)がある。</ref>({{lang-de-short|Albert Einstein}}<ref group="注釈">{{IPA-de|ˈɑlbɛrt ˈaɪnˌʃtaɪn}} '''ア'''ルベルト・'''ア'''インシュタイン、'''ア'''ルバート・'''ア'''インシュタイン</ref><ref group="注釈">{{IPA-en|ˈælbə(r)t ˈaɪnˌstaɪn}} '''ア'''ルバ(ー)ト・'''ア'''インスタイン、'''ア'''ルバ(ー)'''タ'''インスタイン</ref><ref>[http://dictionary.reference.com/browse/einstein Einstein] (Dictionary.com)</ref><ref>[http://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/albert-einstein?q=Albert+Einstein Albert Einstein] (Oxford Learner's Dictionaries)</ref>、[[1879年]][[3月14日]] - [[1955年]][[4月18日]])は、[[ドイツ国|ドイツ]]生まれの[[理論物理学者]]。[[ユダヤ人]]。[[チューリッヒ工科大学|スイス連邦工科大学チューリッヒ校]]卒業。
[[特殊相対性理論]]および[[一般相対性理論]]、相対性[[宇宙論]]、[[ブラウン運動]]の[[起源]]を説明する[[揺動散逸定理]]、[[光量子]]仮説による光の[[粒子と波動の二重性]]、アインシュタインの固体[[比熱]]理論、[[零点エネルギー]]、半古典型の[[シュレディンガー方程式]]、[[ボース=アインシュタイン凝縮]]などを提唱した業績で知られる。当時は"無名の特許局員"が提唱したものとして全く理解を得られなかったが、著名人の[[マックス・プランク]]が支持を表明したことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった。
それまでの物理学の認識を根本から変え、「[[20世紀]]最高の物理学者」とも評される。特殊相対性理論や一般相対性理論が有名だが、[[光量子仮説]]に基づく[[光電効果]]の理論的解明によって[[1921年]]の[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。
== 業績 ==
[[1905年]]に特殊相対性理論を発表した。以前から論理的に展開されていた相対性原理([[アンリ・ポアンカレ]]、[[ジョゼフ・ラーモア]]、[[ヘンドリック・ローレンツ]]などによるもの)を明確化して採用し、[[ニュートン力学]]と[[マクスウェルの方程式]]に基づく当時の古典論的物理学の体系に対し、相対性原理に基づく時空概念の修正を前者へ施すことにより、([[重力場]]を除いて)両者は理論的に統合され、古典論的物理学の体系の完成に成功した。特殊相対性理論では、「[[質量]]、[[長さ]]、同時性といった概念は、観測者のいる[[慣性系]]によって異なる相対的なもの」であり、「唯一不変なものは[[光速度]] ''c'' のみである」とした。
特殊相対性理論は、重力場のない状態での慣性系のみを取り扱った(限定的な)[[理論]]であるが、[[1915年]]から[[1916年]]には、[[加速度運動]]と[[重力]]を取り込んだ(より適用範囲を広げた)一般相対性理論を発表した。一般相対性理論では、重力場による[[時空]]の歪みを[[リーマン幾何学]]を用いて記述している。さらに後半生の30年近くを重力と[[電磁気力]]を統合する[[統一場理論]]を構築しようと心血を注いだが、死により未完に終わった。一般相対性理論を素直にそのまま認めると、「[[宇宙]]は[[膨張]]または[[収縮]]をしている」ということが素朴に[[演繹]]されうる。しかしアインシュタインは、宇宙が膨張や収縮しているとは考えたくなかったため、重力による影響を相殺するような[[宇宙項]]Λ(ラムダ)を[[アインシュタイン方程式|場の方程式]]に組み入れることで、理論上静的な宇宙でも存在可能であるとする理論を作った。その後、[[エドウィン・ハッブル]]らの天文台での実際の観測によって、実際は宇宙は膨張しているということが観測的に確認されたため、アインシュタインは自身がかつて提案した「宇宙項」を撤回せざるを得なくなった(のちに彼は、宇宙項の導入は「生涯最大の失敗」と述べることになった)。なおアインシュタインが死去してからかなり月日が流れ、21世紀になってからの[[ハッブル宇宙望遠鏡|宇宙望遠鏡]]による[[超新星]]の[[赤方偏移]]の観測結果の分析によって、「宇宙は膨張している」と言っても、単に一定の速度で膨張しているのではなく、その膨張する速度が次第に大きくなってきている([[加速]]している)ということが明らかになってきており、この「加速」を説明するには、「宇宙項をむしろ導入するほうが妥当だ」「アインシュタインは実は宇宙項を撤回する必要はなかったのではないか」とする指摘や学説が存在する(詳細は[[ダークエネルギー]]を参照)。
光量子仮説によって光電効果について理論的な説明づけを行うなど、[[前期量子論|初期量子論]]の確立に多大な貢献をした。しかし、「[[量子]]は[[確率論]]的に振舞う」とする量子力学自体については、アインシュタインは、「神はサイコロを振らない」<ref group="注釈">[[マックス・ボルン]]宛の1926年12月4日付の手紙<br>原文: {{lang|de|Die Quantenmechanik ist sehr achtunggebietend. Aber eine innere Stimme sagt mir, daß das noch nicht der wahre Jakob ist. Die Theorie liefert viel, aber dem Geheimnis des Alten bringt sie uns kaum näher. Jedenfalls bin ich überzeugt, daß {{Underline|der Alte nicht würfelt.}}}}<br>(直訳:量子力学はとても印象的です。しかし内なる声が私に、その理論はまだ真の[[ヤコブ]]になっていないと言っています。量子力学はとても有益なものではありますが、かの古人の秘密にはほとんど迫っていません。いずれにせよ私には、かの古人はサイコロを振らないという確信があるのです)</ref>と懐疑的な立場をとった。[[局所実在論]]を支持していたアインシュタインは量子力学の矛盾点の一つとして[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス]]を提示したが、のちに[[ベルの不等式]]の破れが実証されると局所実在論は破綻し、[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス|EPR相関]]として知られるようになった。
そのほか、[[ブラウン運動]]を説明する理論の構築、固体における比熱の理論である「アインシュタインモデル」の提唱、[[ボース=アインシュタイン凝縮]]の予言など、物理学の全領域にわたり多大な業績を残した。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[File:Maja and Albert Einstein c1886.jpg|thumb|right|150px|アルベルトと妹のマリア(通称「マーヤ」)(1885年)]]
アインシュタインは1879年3月14日、[[ヘルマン・アインシュタイン]]を父、[[パウリーネ・コッホ]]を母とし、その長男としてドイツ南西部の[[バーデン=ヴュルテンベルク州]][[ウルム|ウルム市]]にて生まれた<ref name="Bio">{{cite web |url=http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1921/einstein-bio.html |title=Albert Einstein – Biography |accessdate=6 February 2016 |publisher=[[Nobel Foundation]]| archiveurl= https://web.archive.org/web/20070306133522/http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1921/einstein-bio.html| archivedate= 6 March 2007 <!--DASHBot-->| deadurl= no}}</ref><ref name="violin21">{{Cite book |和書 |author1=西原稔 |author2= 安生健 |year=2013 |title=アインシュタインとヴァイオリン |publisher=ヤマハミュージックメディア |page=21}}</ref><ref group="注釈">父ヘルマンは学生時代、大の[[数学]]好きで同分野の探究を続けることを望んでいたが、家庭の経済的事情からそれを断念し、[[商人]]となることを決意。シュトゥットガルトでその修業を開始、1876年に18歳でパウリーネと結婚しウルムに引っ越し、ヘルマンの従兄とともに羽毛寝具の店を共同経営していた。</ref>。父ヘルマンはその弟ヤコブから誘われ、アルベルト誕生翌年の1880年夏、一家は[[ミュンヘン]]に引っ越し、兄弟は、直流電流に基づいた電気機器を製造する会社「Elektrotechnische Fabrik J. Einstein & Cie」を設立した。ヘルマンは営業を担当しヤコブは技術を担当した。1881年には一家にマリア(アルベルトの妹。通称「マーヤ」。)が誕生し、一家は1894年まで同地ミュンヘンで暮らすことになる。
アインシュタインは、5歳ごろまであまり言葉を発して他人と会話することがなかった<ref name="violin21" /><ref group="注釈">そのことで、単なる記号処理的な頭脳の働きでなく、全体を把握する能力を養ったという意見もある。</ref>。しかし、5歳のときに父親からもらった[[方位磁針]]が、自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなった<ref name="violin21" />。また、同じ頃、[[ヴァイオリン]]を習い始めている<ref name="violin21" />。そしてすぐに[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の曲が好きになり、ヴァイオリンは生涯の友となった。
アインシュタイン一家はその家系からして[[アシュケナジム|アシュケナージ系ユダヤ人]]ではあったものの、敬虔なユダヤ教徒というわけではなかったため、アインシュタインは5歳から3年間、ミュンヘンにある[[カトリック教会|カトリック]]系の公立学校へ通った。卒業後はミュンヘンの{{仮リンク|ルイトポルト・ギムナジウム|en|Luitpold Gymnasium}}(現在では「アルバート・アインシュタイン・ギムナジウム」と呼ばれている学校)に入学。以後7年間、(ドイツを離れイタリアに行くまで)教育を受ける。しかし、同校の[[軍国主義]]的で重苦しい校風にはなじめなかった{{Sfnp|Stachel|2002|pp=[https://books.google.com/books?id=OAsQ_hFjhrAC&pg=PA59 59–61]}}。
[[File:Albert_Einstein_as_a_child.jpg|thumb|right|150px|1893年、アルベルトが14歳の写真]]
幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題がなかったが、言葉を出すのには時間を要した。一方で数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときに[[ピタゴラスの定理]]の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明した。12歳のときに叔父から[[ユークリッド幾何学]]の本をもらい[[独学|独習]]。[[微分]]学と[[積分]]学も、この当時に独学で習得したといわれている。同じころ、医学生だった[[マックス・タルメイ]]から[[天文学]]の存在を知らされ、同時に物理学に関心を示すようになったという。ただ、確率は生まれつき不得意{{要出典|date=2021年5月}}で、このことがのちに統計力学・量子力学を否定する素地となる。
[[1894年]]、父と叔父の会社が行きづまり<ref group="注釈">ミュンヘン市の電流供給が[[直流]]方式からより便利な[[交流]]方式へと変更されたが、ヘルマン兄弟はその事態に対応して工場設備を変更するのに十分な資本を持っておらず、ミュンヘンの工場を手放さざるを得なかった。</ref>、その結果、新たな商業的な機会を求めて一家は[[イタリア]]の[[ミラノ]]に引っ越すことになった。父ヘルマンはアインシュタインがギムナジウムをしっかり卒業する必要があると判断し、アインシュタインだけ同地に残されることになった。父ヘルマンはアルベルトが[[電気工学]]の道へと進むといいと考えていたのだった。だがアインシュタインは規則ずくめで軍国主義的な校風と対立・反発し、1894年12月末、医師に書かせた診断書を口実にして退校を申し出て、家族を追って旅をし、当時イタリアの[[パヴィア]]にいた家族のもとへとやってきた<ref>{{Cite book|和書|author=C・ロヴェッリ|authorlink=カルロ・ロヴェッリ|year=2019|title=すごい物理学講義|publisher=河出文庫|page=85}}</ref>。このイタリアでの滞在中、アインシュタインは「磁界中での[[エーテル]]の状態の調査について」という題名の短い試論を書いたという。
=== チューリッヒ連邦工科大学へ ===
[[1895年]]、[[スイス]]の名門、[[チューリッヒ連邦工科大学]]を受験するも総合点が合格基準に足らず失敗。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったため、[[アーラウ]]の{{仮リンク|アルテ・カントンシューレ・アーラウ|de|Alte Kantonsschule Aarau|label=ギムナジウム}}に通うこと(大学入学に必要な中等教育の諸知識を習得すること)を条件に、翌年度の入学資格を与えた。アインシュタインは1895年と96年に同校に通学した。アーラウの学校の校風は、ある程度自由が保障されており、さらにこの学校は[[視聴覚教育|視覚教育]]に力を入れていた<ref group="注釈">言語に障害があったアインシュタインに、この視覚教育はよく合っていた。そして、昔培った視覚能力をそのアーラウでさらに高めた。それがのちの研究者としての人生に大きく関わることになる。</ref>。
ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。{{要出典|date=2021年5月}}彼は目が覚めると、すぐに[[思考実験]]を試みた。これがのちの相対性理論を生み出すきっかけになったといわれている。
このころアインシュタインは教師の{{仮リンク|ヨスト・ヴィンテラー|en|Jost Winteler}}の家に身を寄せていたが、その娘のマリーに恋するようになった。1896年1月、父の許可のもと、ドイツ帝国の[[徴兵制度|兵役義務]]から逃れるためにアインシュタインはドイツ市民権を放棄した(その後に[[スイス]]国籍を取得するまで無国籍となった)。1896年9月の[[アビトゥーア|マトゥーラ]]試験(欧米で広く見られる中等教育修了試験)をアインシュタインはおおむね好成績で、特に数学と物理は 6段階評価の最高ランク「6」で、無事通過した。10月、チューリッヒ連邦工科大学への入学を許可された。同大学の、数学・物理学の教員資格を取得する4年課程の学生となったのである。同学は自由な校風で、数人の学友を得た。恋の相手だった ヴィンテラーの娘マリーは、アインシュタインよりも1歳年上で、すでに教員資格を得て、教師として着任するためにスイスの{{仮リンク|オルスベルク (スイス)|en|Olsberg, Aargau|label=オルスベルク}}へと引っ越してしまった。しかし、アインシュタインは同大学で[[ミレヴァ・マリッチ]]という女学生と出会う。チューリッヒ連邦工科大学は当時としては女性に門戸を開いていた数少ない大学のひとつであったが、ミレヴァはアインシュタインが属した課程の6名の中で唯一の女性であった。最初は友達だった二人は、数年の年月とともに[[ロマンス]](恋愛感情)をともなう関係となり、アインシュタインがますます熱中するようになっていた物理の文献を一緒に読むようにもなった。
アインシュタインは大学の講義にはあまり出席せず、自分の興味ある分野だけに熱中し、物理の[[実験]]は最低の「1」、[[電気]][[技術]]では優秀な「6」の成績をとった。大学時代は、化学の実験中に爆発事故を起こし、学校をパニックに陥れてしまったこともあった。彼は教師には反抗的で、授業をよく休んだ<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』IV 世界大戦ー現代 原書房 2005年 15ページ</ref>。
卒業の年である[[1900年]]に、アインシュタインは数学・物理の教員資格試験に無事合格した<ref group="注釈">一方、恋人のミレヴァのほうは、数学部門(関数理論)の点数が足らず試験に落ちてしまった。</ref>。アインシュタインは7月にチューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長[[ハインリヒ・フリードリヒ・ヴェーバー]]と不仲であったために、大学の[[助手 (教育)|助手]]になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ながら、論文の執筆に取り組んだ。
[[1901年]]、スイス国籍を取得<ref name="violin22">{{Cite book |和書 |author1=西原稔 |author2= 安生健 |year=2013 |title=アインシュタインとヴァイオリン |publisher=ヤマハミュージックメディア |page=22}}</ref>。スイスもまた兵役義務を課していたが、アインシュタインは[[扁平足]]および[[静脈瘤]]の診断からこれを免除される<ref name="violin22" />。一般の人々には、はるか後の1987年になって若きアインシュタインが交わした手紙が研究されて、はじめて明らかにされたことだが、このころ恋人ミレヴァはアインシュタインの子を[[妊娠|身ごもり]]、彼女の両親がいる[[ノヴィ・サド]]へ行き滞在し、1902年初頭に娘を産んだ。二人が交わした手紙では、その子は「[[リーゼル・アインシュタイン|リーゼル]]」(Lieserl) と仮の名前で呼ばれていたが、出産後にミレヴァは子供をともなわずスイスへと戻ってきた<ref group="注釈">したがって、おそらくアルベルトは誕生した自分の娘を一度も目にしなかっただろう、と推定される。なお、誕生した娘の名前も、その後どうなったかも、公式の記録が残っていない。娘に起きたことが明確に手紙に書かれているわけではないが、二人の手紙の微妙な文言から推察されるのは、子供が放棄されたかあるいは[[猩紅熱]]で死去したなどといったことが起きたのだろう、ということくらいである。</ref>。
=== 特許庁への就職 ===
[[1902年]]、友人の[[マルセル・グロスマン]]の父親の口利きで、ベルンのスイス[[特許庁]]に3級技術専門職([[審査官 (特許庁)|審査官]])として就職した。年俸は3,500[[スイス・フラン]]であった。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。このころ、{{仮リンク|モーリス・ソロヴィーヌ|en|Maurice Solovine}}、{{仮リンク|コンラート・ハービヒト|en|Conrad Habicht}}らと「[[アカデミー・オリンピア]]」を設立した。同じころ、父ヘルマンが死去。ミラノで埋葬を済ませると、ふたたびチューリッヒに戻り、間もなくしてベルンに移った。
[[1903年]]1月6日、アインシュタインとミレヴァは正式に結婚し、[[アーレ川]]の近くにあるアパートで暮らす。翌1904年には長男[[ハンス・アルベルト・アインシュタイン|ハンス]]を授かる。このアパート暮らしでは、アインシュタインは壁が完全な平面ではなく、歪曲している・壁と天井を結ぶ線が直線ではなく、少し曲がっているのではないか、ということが気になっていた。この考えがのちに一般相対性理論を生み出す元となった。
=== 「奇跡の年」およびそれに続く数年 ===
[[1905年]]、26歳のときに3つの重要な論文を発表する。この1905年は「'''[[アインシュタインの奇跡の年|奇跡の年]]'''」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは'''「[[光量子仮説]]」「[[ブラウン運動]]」「[[特殊相対性理論]]」'''に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。
1905年に[[博士号]]を取得すべく「特殊相対性理論」に関連する論文を書き上げ、大学に提出した。しかし内容が大学側に受け入れられなかったため、急遽代わりに「[[分子]]の大きさの新しい決定法」という論文を提出し、受理された。この学位論文は「ブラウン運動の理論」に発展し、アインシュタインの全ての仕事のうち最も引用件数の多い論文となった<ref>アインシュタイン論文選 ジョン・スタチェル編 青木薫訳 ちくま学芸文庫、2011、158頁</ref>。アインシュタインがバスに乗車中にベルンの時計台([[ツィットグロッゲ]])の針が不動に見えることから着想した「特殊相対性理論」は、当時まったく無名の特許局員が提唱したもので当初は周囲の理解を得られなかったが、[[マックス・プランク]]の支持を得たことにより、次第に物理学界に受け入れられるようになった<ref>『数学と理科の法則・定理集』アントレックス、2009年、148-149頁</ref>。
[[1906年]]、2級技術専門職へ昇進。年俸も4,500[[スイス・フラン]]へと昇給された。
[[1907年]]、有名な式'''[[E=mc2|E=mc<sup>2</sup>]]'''を発表(1905年9月にm=L/V^2の形で既に発表している<ref>[https://einsteinpapers.press.princeton.edu/vol2-doc/350 Volume 2: The Swiss Years: Writings, 1900-1909 Page 314 (350 of 692)]</ref>)。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が[[慣性力]]なのか重力なのか区別ができない」という、のちの[[一般相対論]]の基礎となるアイディア([[等価原理]])を考案。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べた。
アインシュタインが「奇跡の年」を過ごしたベルンのクラム通り49番地は、現在[[アインシュタイン・ハウス]]という名の記念館となっており、アインシュタイン一家が使っていた家具が当時のスタイルのまま再現されている。また、ベルン市内にあるベルン歴史博物館には、アインシュタインの業績や生涯を紹介する[[アインシュタイン・ミュージアム]]が入っている。
===大学教授へと転職===
[[ファイル:Einstein 1911 Solvay.jpg|thumb|200px|1911年の[[ソルベー会議]]でのアインシュタイン]]
[[1909年]]、特許局に辞表を提出。チューリッヒ大学の[[助教授]]となる。この年には彼の生涯で初となる[[名誉博士]]号が[[ジュネーヴ大学]]より授与された。
[[1910年]]、[[プラハ・カレル大学|プラハ大学]]の[[教授]]となる。次男[[エドゥアルト・アインシュタイン|エドゥアルト]]誕生。[[1911年]]、[[ソルベー会議]]に招待された。この年には、プラハ大学の教授として、「光の伝播における重力の影響について」を発表し、不完全ながら一般相対性理論への挑戦が初めて試みられている。弟子の[[レオポルト・インフェルト]]はアインシュタインの思索の過程が最も現れている論文と称している<ref>{{Cite book|和書 |title=アインシュタインの世界 |year=1991 |publisher=講談社 |page=90 |author=レオポルト・インフェルト |translator=武谷三男 篠原正瑛}}</ref>。同年プランクにより、ベルリンの[[マックス・プランク研究所|カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所]]の所長に推薦された。
[[1912年]]、母校・チューリッヒ連邦工科大学の教授に就任(その契約は妻ミレヴァが行ったとされる)。アインシュタインはわずか1年で再びチューリッヒに戻ることになるのだが、これによりプラハ大学では彼と大学との間に問題が生じたのではないかとの噂が生じてしまう。彼はプラハ大学学長宛てに礼状を書き、これを否定したという。
[[1913年]]、[[プロイセン科学アカデミー]]の会員となる。アインシュタインは[[ベルリン]]に移住した。
====新たな恋、家族との別居、離婚、再婚====
ベルリンに移住して数か月後、アインシュタインが[[はとこ|再従姉]]の[[エルザ・アインシュタイン|エルザ]]に対して恋愛感情を抱いている、ということが妻のミレヴァに知られ、その発覚から数か月後に妻ミレヴァは長男・次男とともにチューリッヒへと引っ越す事態となり、別居状態となった。親友の[[フリッツ・ハーバー]]の仲裁も空しく、別居生活が5年ほど続き、1919年2月に正式に離婚の手続きが完了<ref group="注釈">そこに至るまでに、仲たがいし離婚に至る夫婦にありがちな、誰もがうんざりとさせられるような男女のやりとり、つまり、互いの問題点をあげつらう非難合戦や、慰謝料や養育費の請求やそれの拒否、調停の場での疑心暗鬼の駆け引きなどがあったらしい。</ref>。アインシュタインは当時、ミレヴァに対してそれなりの額を払うような金銭的な余裕はなかったため、「ノーベル賞を取ってその賞金をミレヴァに譲る」と未来に関する、相手から見て魅力的な条件を提示することで、ともかくも離婚を成立させた。当時、アインシュタインの業績から考えるに、ノーベル賞を受賞することはほぼ確定的とみなされていたため、それを相手へのオファーとして提示することができ、相手もそれを受け入れた。離婚が成立した数ヵ月後の1919年の6月、アルベルトはエルザと再婚した。そして離婚成立の2年後、招待され日本へ渡航中にノーベル賞受賞の決定が通知された。つまり同賞受賞は、人々が理解・想像していたような学問上の名誉の観点だけでなく、ノーベル賞の賞金を受け取りそれを元妻に渡すことで、元妻との離婚一連の騒動が完全に片づけられ、落ち着かない日々がようやく終わる、という観点からもアインシュタインにとっては喜ばしいものであったのである。
====第一次大戦勃発と平和運動====
[[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発する。この頃、知識人に向けて『ヨーロッパ人への宣言』で平和行動について書いた<ref name=":0">レオポルト・インフェルト著 武谷三男 篠原正瑛訳『アインシュタインの世界』講談社 1991年 90頁</ref>。
[[1915年]]、[[ロマン・ロラン]]と出会う。意気投合した二人は、命がけで平和運動をしている人々を手助けする方法について話し合ったという。
===一般相対性理論の発表===
1916年、[[一般相対性理論]]を発表。この理論には星の重力により[[光]]が曲げられるという予言も含まれていた(これはのちに実証される)。
[[1917年]]、[[肝臓病]]や[[黄疸]]といったいくつかの病がアインシュタインを襲う。病院はけがをした兵士で一杯になっており、一般人は入院できず、自宅で療養することになる。この数年間、いとこのエルザが看病にあたる。
一般相対性理論の立証のため、クリミア半島でアメリカ人[[ウィリアム・ウォレス・キャンベル|ウィリアム・キャンベル]]に依頼し、[[皆既日食]]の観測を試みるも、曇天のため失敗する。また、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。
[[1919年]]、皆既日食において、[[太陽]]の重力場で光が曲げられること(いわゆる[[重力レンズ]]効果)が[[ケンブリッジ天文台]]の[[アーサー・エディントン]]の観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。このことは世界の[[マスメディア|マスコミ]]にも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。一方、彼がユダヤ人であるとの理由から、ドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、アインシュタインの親友の[[フリッツ・ハーバー]]もユダヤ人であったが、ハーバーのほうはアインシュタインとは異なった道を進み、ドイツ軍に協力して[[毒ガス]]兵器の開発に力を貸した。
キャンベルは、アメリカ・[[ワシントン州]]で再度日食を観測、曇天の隙間があり撮影には成功したが立証にはいたらなかった。しかし敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道された(上記エディントンの観測を取り上げた世界のマスコミの中にアメリカThe New York Times 1919年11月10日の記事がある[https://www.nytimes.com/1919/11/10/archives/lights-all-askew-in-the-heavens-men-of-science-more-or-less-agog.html])。
この間、理論の証明は日食観測によるよりも数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者の[[ダフィット・ヒルベルト]]とほぼ同時に発見したが、ヒルベルトはその功績をアインシュタインに譲った。
ケンブリッジ天文台のエディントンは戦勝国者だったため、戦後も自由に海外渡航ができ、アフリカの[[プリンシペ島|プリンシペ]]のジャングルで日食を観測、理論の立証を発表したが、[[学会]]での認証は得られなかった。1922年に皆既日食が豪州で観測されるとあって、キャンベルをはじめ七つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、重力レンズ効果の存在を観測によって実証(立証)、これによって一般相対性理論は妥当性のある理論だと学会でも認められるようになった。
===世界各地への訪問===
1921年、[[カイム・ワイズマン]]の提案により、[[イギリス委任統治領パレスチナ]]の[[エルサレム]]に創立予定の[[ヘブライ大学]]建設資金を調達するために[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を訪問し、その帰りに[[イギリス]]も訪問した(ここでは[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の墓を訪ねた)。
[[1922年]]3月に[[フランス]]を訪れたほか、10月には[[日本国|日本]]への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船。11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、[[大正天皇]]に謁見している<ref>http://english4success.ru/Upload/books/1640.pdf {{リンク切れ|date=2020-11}} Walter Isaacson(2007). "[''EINSTEIN HIS LIFE AND UNIVERSE'']". New York City. Simon & Schuster, Inc. p.1104-1107. 2016年8月18日閲覧</ref>([[#アインシュタインと日本]]参照)。また、日本へ向かう最中、11月9日にアインシュタインは前年度に保留されていた1921年度のノーベル物理学賞受賞の知らせを受けている。受賞理由は「[[光電効果]]の発見」によるものであった。当時、アインシュタインが構築した相対性理論について「人類に大きな利益をもたらすような研究と言えるのかと言えば疑問」との声があり、さらには「[[ユダヤ]]的」であるとする[[フィリップ・レーナルト]]あるいは、[[ヨハネス・シュタルク]]などノーベル物理学賞受賞者らの批判があった。[[ノーベル委員会]]は、これらの批判を避けるために、光電効果を受賞理由に挙げたと言われている。なお、受賞に際して賞金も授与されたが、これはアインシュタインが近々自身のノーベル賞授与を予測しており、賞金を渡す前提条件に離婚していたため、かつての妻ミレヴァに渡したとされる。
[[1923年]]、日本を出国した後、エルサレム、[[スペイン]]を訪問しドイツへと戻る。7月11日にスウェーデンの[[ヨーテボリ]]でノーベル賞受賞の講演を行っている。
[[1925年]]、[[インド]]の物理学者[[サティエンドラ・ボース]]からの手紙をきっかけとして、[[ボース=アインシュタイン凝縮]]の存在を予言する論文を発表。また、この時期に行っていた[[誘導放出]]の研究が、のちの[[レーザー]]の開発につながることになった。
[[1929年]]、[[ベルギー]]王家を訪問。ベルギー王妃[[エリザベート・ド・バヴィエール|エリザベート]]と親交を交わす。
[[1930年]]、ベルリン郊外、{{仮リンク|カプート|de|Caputh}}という町に[[別荘]]を建てる。
同年11月、[[レオ・シラード]]と共同でガス吸収式の家庭用[[冷蔵庫]]の特許を申請する<ref>ビー・ウィルソン『キッチンの歴史:料理道具が変えた人類の食文化』真田真由子訳 河出書房新社 2014年 ISBN 9784309022604 pp.285-288.</ref>。
[[1932年]]、アメリカへ3度目の訪問をすべくドイツを発つ。しかし、翌年にはドイツで[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]率いる[[ナチス]]が[[政権]]を獲得。以後ユダヤ人への迫害が日増しに激しくなっていったため、アインシュタインがドイツに戻ることはなかった。
[[1933年]]、ベルギー王妃の厚意により、ベルギーの港町{{仮リンク|デ・ハーン|fr|Le Coq|en|De Haan, Belgium}}に一時身を置く。しかしこの町はドイツとの[[国境]]に近かったため、ドイツの手が及ぶのを恐れたアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、[[プリンストン高等学術研究所]]の教授に就任。また、プロイセン科学アカデミーを辞任。なお、この年にはアインシュタインの別荘をドイツ警察が強制的に家宅捜索するなどという出来事もあった。その後ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。
===アメリカへの移住===
[[1935年]]、[[ボリス・ポドリスキー]]、[[ネイサン・ローゼン]]とともに[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス]](量子力学と相対性理論の矛盾)を発表する。また、アメリカでの[[永住権]]を申請、取得する。アメリカ国籍も申請。
[[1936年]]、ローゼンとともに位相幾何学上の仮説としての時空構造「[[アインシュタイン-ローゼン橋|アインシュタイン=ローゼン橋]]」(のちに[[ジョン・アーチボルト・ホイーラー]]によって[[ワームホール]]([[1957年]])と命名された)の概念を発表する。この年に妻のエルザが死去。
[[1939年]]、当時の[[アメリカ合衆国大統領]]であった[[フランクリン・ルーズベルト]]宛ての、[[原子力]]とその[[軍事]]利用の可能性に触れた[[アインシュタイン=シラードの手紙|手紙]]に署名。その手紙は「確信は持てませんが、非常に強大な[[原子爆弾|新型の爆弾]]が作られることが、十分に考えられます。この爆弾一つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」という内容だった。
[[1940年]]、アメリカ国籍を取得。[[1943年]]、[[アメリカ海軍]]省兵器局の顧問に就任。[[魚雷]]の[[起爆装置]]の改善に尽力した<ref>{{Cite web|和書|author=田中祐三 |url=http://homepage2.nifty.com/i-museum/19420327kitano/2501kit-einstein3.htm |title=魚雷の改良とアインシュタイン |publisher=戦時下に喪われた日本の商船 |accessdate=2012-05-01}}</ref>。
[[1945年]]、[[広島市への原子爆弾投下]]報道に衝撃を受ける。[[9月2日]]に[[第二次世界大戦]]終結。連合国の一員であるアメリカは戦勝国となったが、アインシュタインは「我々は戦いには勝利したが、[[平和]]まで勝ち取ったわけではない」と演説する。
[[1946年]]、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受ける。また、[[国連総会]]に[[世界連邦運動|世界政府]]樹立を提唱する手紙を送る。
[[ファイル:Albert Einstein Head.jpg|thumb|225px|Oren J. Turnerによる写真(1947年)]]
[[1948年]]、[[イスラエル]]建国。アインシュタインは[[ハンナ・アーレント]]らユダヤ系知識人と連名で、訪米中の[[メナヘム・ベギン]]とその政党{{仮リンク|ヘルート|he|תנועת החרות|en|Herut}}をファシストと呼び、イスラエルの[[デイル・ヤシーン事件|デイル・ヤシンの虐殺事件]]などの[[テロ]]行為を非難する書簡を[[ニューヨーク・タイムズ]]紙上に発表する。なおこのころ、アインシュタインの[[大動脈|腹部大動脈]]に大きな[[動脈瘤]]が存在することが手術の結果判明する。
[[1952年]]、イスラエル初代大統領[[ハイム・ヴァイツマン]]が死去したため、イスラエル政府はアインシュタインに対して第2代大統領への就任を要請したが、彼はこれを辞退した。しかし、自分が[[ユダヤ人]]であることを決して忘れてはおらず、著作権をヘブライ大学に贈った。
[[1954年]]、「人間は肉食動物ではない」と主張して[[ベジタリアン]]の生活を実践するようになった<ref>[https://ivu.org/history/northam20a/einstein.html Albert Einstein (1879-1955)] International Vegetarian Union (IVU)</ref>。「人間の健康を高め、地球生命の存続を確かなものとする点で、菜食に勝るものはない」とも述べている(発言年不詳)<ref>{{Cite book|和書|author=ゲイリー・L・フランシオン|title=動物の権利入門 |date=2018 |publisher=緑風出版|page=73}}</ref>。
=== 死去 ===
1955年4月11日、[[哲学者]][[バートランド・ラッセル]]とともに[[核兵器]]の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容の[[ラッセル=アインシュタイン宣言]]に署名する。4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せる[[ラジオ]][[放送]]に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の肥大)。
4月15日にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否。入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会したほか、病院でも研究を続けるべく秘書に電話をかけ、必要な用具を持って来るよう伝えてもいる。そして4月18日の午前1時すぎ、入院先のプリンストン病院で死去(満76歳没)。彼は死の間際にドイツ語で最後の言葉を遺したが、その場にいた[[看護師]]がドイツ語を理解できなかったため、彼が最後に何を言っていたのか、その内容については不明である。
アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表されたほか、12月17日にはプリンストンで彼を偲ぶコンサートが開かれ、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[ピアノ協奏曲第26番 (モーツァルト)|ピアノ協奏曲第26番]]、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の[[神の時こそいと良き時|カンカータ第106番]]などの曲目が演奏された。
1999年、[[ライフ (雑誌)|ライフ誌]]の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。同年、アメリカのニュース週刊誌『[[タイム (雑誌)|タイム]]』は、アルベルト・アインシュタインを「パーソン・オブ・ザ・センチュリー」(20世紀の人)に選出した<ref>{{cite news|title={{lang|en|TIME 100 Persons Of The Century}}|newspaper=タイム|publisher=[[タイム・ワーナー]]|date=1999-06-14|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,991227,00.html|accessdate=2012-05-01|language=English}}</ref>。
== 政治的活動 ==
[[ファイル:Declaration of Intention for Albert Einstein, 10-01-1940 (596270 ).jpg|200px|thumb|アインシュタインが提出した[[アメリカ合衆国]]帰化申請書]]
科学的業績によって得た世界的名声を背景に、アインシュタインはさまざまな政治的発言を行った。[[第一次世界大戦]]中は[[平和主義]]を掲げ、[[戦争]]を公然と批判した。「'''2%の人間が兵役拒否すれば、政府は戦争を継続できない。なぜか、政府は兵役対象者の2%の人数を収容する刑務所を保有していないんだ'''」と発言し、反戦運動に影響を与えた。しかし、第二次世界大戦の際は、戦争への[[アイロニー]]として、「'''最早、兵役拒否は許されない'''」と発言<ref group="注釈">この発言については彼の有名な言葉の一つである「生きるには二つの方法しかない。何事も奇跡ではないかのように生きるか、あらゆることが奇跡であるかのように生きるかだ」が示すように、平和と戦争の両方に深く重く関わった彼だからこそ言える発言であるという声もある。</ref>し、同時代人の文学者[[ロマン・ロラン]]からのちに痛烈に批判された。また、ユダヤ人である彼は、ユダヤ人国家建設運動である[[シオニズム]]を支援した。このため[[ナチス・ドイツ]]から迫害を受け、アメリカに亡命した。
一部には「アインシュタインが[[原子爆弾]]の理論を発見した」あるいは「アインシュタインが原子爆弾の開発者」という誤解も広く存在するが、質量とエネルギーの関係式:E=mc²は、あらゆる[[エネルギー]]について成り立つ式であり、特に原子力に関係した公式ではない<ref group="注釈">[[核分裂反応]]の観測によって実証されたことから、このような誤解が流布されているが、実際はすべてのエネルギー発生の現象において成り立つ公式である。</ref>。また、アインシュタインは[[マンハッタン計画]]については一切関与していない。しかしながら、[[レオ・シラード]]の勧めにより当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト宛への[[アインシュタイン=シラードの手紙|手紙]][http://www.dannen.com/ae-fdr.html (写真)]に署名したことは事実であり、その手紙の内容は以下のようなものであった。
{| class="wikitable"
|
* 近い将来にウラン元素が新たに重要なエネルギー源になると予想されること。
** フランスの[[フレデリック・ジョリオ=キュリー|ジョリオ=キュリー]]ならびにアメリカの[[エンリコ・フェルミ|フェルミ]]とシラードの研究により、大量のウラン中で連鎖核反応を起こすことができるようになる可能性がきわめて高い、ということ。
** その連鎖核反応においては、莫大なエネルギーとラジウムに似た新種の元素が大量に作り出されるであろうこと。
* この研究が進めば爆弾の製造にも応用され、新しいタイプのきわめて強力な爆弾が作られるということにもなるかもしれないこと。
** その爆弾は巨大なものになり、飛行機による爆撃は不可能と思われるものの、船によって輸送して爆発させた際には港湾施設等を広域にわたって破壊しうるということ。
* ウランのもっとも重要な産地である[[ベルギー領コンゴ]]など含め、合衆国へのウラン鉱石の供給を確保することに特に関心を寄せること。
* 政府と物理学者たちとの間に恒常的な接触をもたせるべきである、ということ。具体的には、大統領への以下の提案を含む。
** 政府の省庁を通じて、さらなる開発のための周知徹底を図り、またウランの供給の実現に注意を向けさせるための政府行動を起こすよう勧告を行うこと。
** 寄付を惜しまない私人への接触を通じて基金を設立し、また必要な装置をもっている企業研究所の協力を取り付けることによって、開発を促進すること。
* ドイツがウランの販売を停止したことは、ウランの研究が[[カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー]]を中心として国家単位で行われていることを意味する、ということ。
|}
[[ファイル:Einstein oppenheimer.jpg|250px|thumb|アインシュタインとオッペンハイマー]]
この手紙はシラードが接触を図っていた{{仮リンク|アレクサンダー・ザックス|en|Alexander Sachs}}を介して、1939年10月にフランクリン・ルーズベルトに渡された。その結果、ルーズベルトによりウラン諮問委員会が作られ、アインシュタインの提言が検討されることになり、黒鉛・天然ウラン原子炉の研究についての資金援助が決定した。ただし、「原子爆弾については、はっきりしないことが多すぎた」ため、原爆の開発は見送られた。
しかし、2年後の1941年秋にはアメリカで原子爆弾の開発・製造が開始した(マンハッタン計画)。これは41年夏以降、イギリスの科学者たちによる「原爆製造は可能である」とする検討結果がアメリカに伝わるようになったためとされる。 このとき、アインシュタイン自身はマンハッタン計画への協力を求められることはなかった。[[国防研究委員会]]委員長であった[[ヴァネヴァー・ブッシュ]]はその理由について、アインシュタインの過去の平和主義やシオニズムの政治的傾向からみて彼は機密を守れない可能性があったからとした。
アインシュタインの死後、バートランド・ラッセルはラッセル・アインシュタイン宣言を発表し[[パグウォッシュ会議]]を創設した。また[[世界連邦運動|世界連邦]]の樹立を提唱するなど、多くの平和的言動を残した。
== 人物像 ==
{{出典の明記|section=1|date=2015年8月}}
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2012年9月}}
* 趣味は[[ヴァイオリン]]で、公の場でもしばしば演奏した。しかし、[[ピアニスト]]で友人の[[アルトゥール・シュナーベル]]とアンサンブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も数えられないのか」と呆れられたという。また、「ヴァイオリンの名手であった」という風評が一般的であるが、当時の高名なヴァイオリニストからは「relatively good」(直訳は"比較的良い"だが、意訳として相対性理論 (Theory of Relativity) と'''かけて'''いるため"相対的に良い"とも訳せる)と評価されている。
* 最初の妻だったミレヴァとの間に息子が2人。長男の[[ハンス・アルベルト・アインシュタイン|ハンス]]は、[[カリフォルニア大学バークレー校]]で[[流体力学]]関係の教授を務めた。次男の[[エドゥアルト・アインシュタイン|エドゥアルト]]は、[[医学]]を学んでいたものの、学生時代に[[統合失調症]]を発し、亡くなるまで[[精神病院]]で過ごした。そのため、[[病跡学]]上(エピ・パトグラフィー)の対象ともなっている<ref>ナンシー・アンドリアセン『心を探る脳科学』《NHK未来への提言》日本放送出版協会 p.91 ISBN 978-4140812228。</ref>。後年公開された資料では、ミレヴァとの破局はアインシュタインの[[ドメスティックバイオレンス|家庭内暴力]]が一因であり、精神を患ったエドゥアルトに対しても、非常に冷淡な態度を取り続けたことが公表されている。なお、再婚相手であるエルザには前夫との間に娘が2人いたが、再婚に伴い彼女たちもアインシュタイン姓を名乗ることとなった。なお、ミレヴァとの間には最初の子である[[リーゼル・アインシュタイン|リーゼル]]という長女がいたとされるが、生まれてすぐに養女に出してしまったとされ、早世したのかその後の消息も不明となっている。
* 人前ではめったに笑顔を見せたことがなかったと言われている。自身が舌を出しているもっとも有名な写真は、[[1951年]][[3月14日]]、アインシュタインが72歳の誕生日に、[[国際通信社 (アメリカ合衆国)|INS通信社]]カメラマンだった[[アーサー・サス]]の「笑ってください」というリクエストに危うく応えそうになってしまい、とっさにそれを隠そうとした表情を撮ったものである。しかし、その写真は、アインシュタイン本人もお気に入りで、9枚焼き増しを頼んだほどである。この写真は、1951年度のニューヨーク新聞写真家賞のグランプリを受賞した。また、[[切手]]にもなった。
* 1924年、[[ルイ・ド・ブロイ]]がソルボンヌ大学の博士論文を提出した際、教授陣は誰もその論文を理解できなかった。教授の一人がアインシュタインにセカンドオピニオンを求めたところ「この青年は博士号よりノーベル賞を受けるに値する」との返答を得た。その5年後にルイは、本当にノーベル賞を受賞した。<ref>{{Cite book|和書|author=レオン・レーダーマン|authorlink=レオン・レーダーマン|coauthors=[[クリストファー・ヒル]]|others=[[小林茂樹]]訳|date=2008-04-15|title=対称性 レーダーマンが語る量子から宇宙まで|publisher=白揚社|pages={{要ページ番号|date=2012年5月}}|isbn=978-4-8269-0144-4|url=http://www.hakuyo-sha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=detail&mode2=search&id=364|ref=レーダーマン&ヒル2008}}</ref>
<!--*とあるパーティーに出席した際、同席していた[[マリリン・モンロー]]から「私の美貌とあなたの頭脳をもった子供ができたら、どんなに素晴らしいでしょう」と言われ、「私の顔と、あなたの知能をもつ子供が生まれるかもしれませんよ」と切り返したという(ほぼ同じ内容のエピソードが、[[バーナード・ショー]]と某女優(女性に対する礼儀として匿名にしたと思われる。また、イサドラ・ダンカン説もある)のやりとりとして伝わっている(真偽の程は定かではない)。モンローとアインシュタインの年齢差が50歳近くあることから、バーナード・ショーの逸話が人違いを起こして紛れ込んでいる可能性が高いと思われる)。-->
* 大の親日家である。[[改造社]]の招待で訪日したアインシュタインは、講演の合間に観光。特に気に入ったものは「新橋橋善」の天ぷら弁当で、そこに添えられていた「新橋玉木屋」の昆布の佃煮を好んだ。
* [[手紙]]好きであり、有名になってからも'''1万通'''以上も手紙をやり取りしていたという。
* 晩年は、他者の論文を読むことがなくなっており、[[弱い力]]も知らなかったと言われる<ref>{{Cite book|和書|author=ブライアン・グリーン|authorlink=ブライアン・グリーン|others=林一・林大訳|date=2001-12-25|title=エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する|publisher=草思社|pages={{要ページ番号|date=2012年5月}}|isbn=4-7942-1109-0|ref=グリーン2001}}</ref>。
* [[睡眠]]時間は、1日10時間の長時間睡眠(ロングスリーパー)だったという。
* 当時の靴下はすぐに破れてしまうため嫌いで、常に靴を素足のまま履いていたという。
* 音楽学者で[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[研究者]]の[[アルフレート・アインシュタイン]]を従弟と見なす文献もあるが<ref>''The New Grove Dictionary of Music and Musicians'', ed. Stanley Sadie. 20 vol. London, Macmillan Publishers Ltd., 1980. ISBN 1-56159-174-2 における "Alfred Einstein"の記事。</ref>、二人は無関係だ、とする説もある<ref>''The Concise Edition of Baker's Biographical Dictionary of Musicians'', 8th ed. Revised by Nicolas Slonimsky. New York, Schirmer Books, 1993. ISBN 0-02-872416-X</ref>。
=== 発言、語録 ===
* 特許庁の審査官を務めていたころ、「君ほどの人物が大学に残れないのは納得がいかない」と言われたことがあったが、「研究は大学でしかできないわけじゃないよ。だって、こうして君とお茶を飲みながらでも議論ができるじゃないか。ここは私にしてみれば、実に立派な研究室だよ」と言い返したことがある。
* 「[[第三次世界大戦]]が起こったら、どのような兵器が使われると思いますか?」というインタビューを受けたアインシュタインは「第三次世界大戦についてはわかりませんが、第四次世界大戦ならわかります。石と棍棒でしょう」と答えた、とされることがある。これは実際は[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン大統領]]に宛てた書簡の中で述べられている一節であるとされる<ref>{{Cite document | first = Alice | last = Calaprice | title = The new quotable Einstein | page = 173 | publisher = Princeton University Press | year = 2005 | postscript = <!--None--> | isbn = 0-691-12075-7}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.msnbc.msn.com/id/7406337/ |title=The culture of Einstein|publisher=MSNBC |date=2005-04-19 |accessdate=2012-10-06}}</ref>。
** なお、[[スノープス]]が2018年に行った[[ファクトチェック]]によると、上記の「トルーマンに宛てた書簡」の存在は発見されておらず、最も初期の記録は『{{仮リンク|バークシャー・イーグル|en|The Berkshire Eagle}}』紙が1948年6月28日付けで伝えた「1947年3月にアインシュタインが友人グループとのディナーパーティーで行った発言」や、1949年に''Liberal Judaism''がアインシュタインと[[アルフレート・ヴェルナー]]との[[鼎談]]である「70歳のアインシュタイン」("Einstein at 70")なる題名で公表したインタビュー記事などに、同様の発言が逸話として参照されていたという。スノープスはまた、「アインシュタインの発言」の6ヶ月以上前の1946年9月25日に、『ゼーンズビル・シグナル』紙が[[ビキニ環礁]]で行われた[[核実験]][[クロスロード作戦]]に参加した無名の陸軍中尉の発言として伝えた皮肉に、ほぼ同様の内容が見られる事を突き止めており、これらの調査結果から「石と棍棒」発言はアインシュタインの知性に基づいた固有のものではなく、当時の核物理学者や核兵器の威力を直接目の当たりにした軍人達の共通した認識だったのではないかと結論付けており、1955年の[[ラッセル=アインシュタイン宣言]]からも分かるように、アインシュタインもその認識を強く持つ人物の一人だったに過ぎないとの調査結果を発表している<ref>[https://www.snopes.com/fact-check/einstein-world-war-iv-sticks-stones/ Did Albert Einstein Say World War IV Will be Fought 'With Sticks and Stones'?] - Snopes.com</ref>。
* 「科学技術の進歩というのは、病的犯罪者の手の中にある斧のようなものだ」(Technological progress is like an axe in the hands of a pathological criminal.)<ref>[https://www.brainyquote.com/quotes/albert_einstein_164554] Brainy Quote</ref>
* 服装に気をつかってはどうかと言われた際、「肉を買ったときに包み紙の方が立派だったら侘びしくはないか」とやりかえしたことがあるという。
* 自身が構築した相対性理論(における時間の相対性)に関して物理学の門外漢から尋ねられたとき、「熱いストーブの上に1分間手を当ててみて下さい、まるで1時間くらいに感じられる。では可愛い女の子と一緒に1時間座っているとどうだろう、まるで1分間ぐらいにしか感じられない。それが相対性です」と、ユーモアで答えた。
* ノーベル賞受賞後、[[ニューヨーク]]である少女に[[数学]]を教えていたことがあった。少女の母親が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れたが、そのとき彼は「私が彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、礼には及びません」と返答した。
* 簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビューの中で、光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならないのかね?」とやりかえしたという。
* 日本のお辞儀という文化にもいたく感動した。アメリカに滞在中の[[湯川秀樹]]のもとを訪ね、「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった。こんな私を許してください」と激しく泣き出し、深々とお辞儀を繰り返したという逸話があるほどである。なお、この姿を見た湯川は「学者は研究室の中が世界のすべてになりがちだが、世界の平和なくして学問はない」という考えに至り、世界平和のための運動に力を入れるようになったという。<ref name="名前なし-1">[http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic9.html]</ref>
* 日本に原爆が落とされたとの一報を受けたとき、「O weh!(ああ、何て事だ!)」と漏らしたと伝えられている。
* 死去する前年の1954年に、「もしヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式は破棄していただろう」と語った<ref name="名前なし-1"/>。
* 日本のネット上で、アインシュタインが述べたとされるいくつかの言葉が出回っているが、そのほとんどは確証が取れていない。例としては、「日本が世界の盟主になる」とした予言([[アインシュタインの予言]])や、「『[[複利]]』は人類史上最大の発見」とするもの、またそこから派生した「アインシュタインの[[72の法則]]」と呼ばれるものなどである。
=== 世界観、宇宙観、宗教的感覚 ===
アインシュタインは「自然法則こそが神」であり「≪人格のある神≫はいない」とする考えを持っていた<ref>水崎拓『図解入門よくわかる相対性理論の基本』56頁</ref>ともいう。
「アインシュタインの[[神秘主義]]は、哲学者の[[ピタゴラス]]と[[スピノザ]]の折衷である」と分析されてきており、1954年の著書 ''Ideas and opinions'' 『概念と見解』には、彼のそうした見解が述べられている<ref name="量子の公案">{{Cite book |和書 |author=ケン・ウィルバー |authorlink=ケン・ウィルバー |translator=田中三彦、吉福伸逸 |year=1987 |title=量子の公案 現代物理学のリーダーたちの神秘観 |publisher=工作舎 |pages=180-199 |isbn=4-87502-137-2 }}</ref>。それは次のようなものである。
擬人的な神を据え置くというレベルの宗教を超えた場合には第三の宗教体験が存在し、それをアインシュタインは「'''宇宙的宗教感覚'''」と名付けた<ref name="量子の公案"/>。この感覚の中では≪擬人的な神≫の概念はまったくないし、体験したことのない者にこの感覚を説明するのは難しい、ということである<ref name="量子の公案"/>。また「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」と例え、「理性における成功を強く体験した者は誰しも万物にあらわれている合理性に畏敬の念を持っている」とし、「科学、宗教、芸術など様々な活動を動機づけているのは、崇高さの神秘に対する驚きだ」としていた<ref name="量子の公案"/>。
=== アインシュタインのグァルネリ ===
[[ストラディヴァリウス]]と双璧を為すヴァイオリンの名器、[[グァルネリ・デル・ジェス]]は、アインシュタインが所有していたことで知られている。アインシュタインは6歳でヴァイオリンを始め<ref>Foster, Brian (January 2005), “Einstein and his love of music”, PhysicsWorld 18 (1): 34 </ref>、1895年に編入したスイスの学校では、仲が悪い級友が学生食堂でヴァイオリンを弾くアインシュタインの演奏に聴き入った、という逸話が残されている<ref>西原稔・安生健『アインシュタインとヴァイオリン 音楽のなかの科学』ヤマハミュージックメディア、2014年、22ページ。ISBN 978-4-636-89993-1</ref>。そのアインシュタインが使った最も高価な楽器と言われるのがグァルネリである。このヴァイオリンは、1931年冬にアインシュタインに貸し出された<ref>Wolff, Barbara (2005), “Einstein und die Musik”, in Renn, Jürgen, Albert Einstein - Ingenieur des Universums. 100 Autoren für Einstein, pp. 254-255, ISBN 3-527-40579-8 </ref>。1727年に作製されたヨーゼフ・グァルネリ・デル・ジェスがこのヴァイオリンであるとされており、アインシュタイン自身が愛した女性に贈ったという逸話がある。その後、パリ音楽院を首席で卒業した日本生まれの演奏者などがこのグァルネリを演奏することもあり、日本で演奏を聴く機会も多い(外部リンク・アインシュタインのグァルネリを演奏した演奏家のページ参照)。
== アインシュタインの脳 ==
{{main|アルベルト・アインシュタインの脳}}
アインシュタインの遺体は焼却され灰は近くのデラウェア川に流された。しかしアインシュタインの遺体の検死を行った解剖学者[[トマス・シュトルツ・ハーヴェイ]]は遺族の承諾を得ずに、脳だけを自宅に持ち帰り、40年間も手元に置いていた。スライスした切片を求めに応じて知人に配布し、その後世界各地の博物館・科学館でアインシュタインの脳の切片の展示が行われるようになった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC19BL20Z11C23A0000000/ 死後に盗まれたアインシュタインの脳 その悲劇的な物語(日本経済新聞、2023年11月3日)]</ref>。晩年、彼は脳の残りをアインシュタインの孫娘に返却している<ref>{{Cite journal|author=R. Douglas Fields|authorlink=ダグラス・フィールズ|date=2004-4 |title=The Other Half of the Brain |journal=[[Scientific American]] |issue=290 |pages=55-61 |url=http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=the-other-half-of-the-bra }}</ref>。
アインシュタイン研究者で[[近畿大学]]の[[杉元賢治]]は彼の脳の一部を入手しており、その過程はBBCのドキュメンタリー番組『[[アインシュタインの脳]]』で見ることができる。
2018年には[[日本放送協会|NHK]]が、散逸した脳の所在を調査したドキュメンタリーを制作している<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009050928_00000 NHKスペシャル アインシュタイン 消えた“天才脳”を追え] - [[NHK]]</ref>。
== アインシュタインと日本 ==
: ''都市、大学名や肩書きなどの名称は当時のもの。現在の名称はリンク先参照''
=== 日本との接点 ===
[[1912年]]([[明治]]45年/[[大正]]元年)、[[東北大学|東北帝国大学]]初代総長の[[澤柳政太郎]]が、[[ドイツ帝国]]・[[ミュンヘン]]に留学中の[[石原純]](東北帝国大学理科大学[[理論物理学]]助教授)宛てに手紙を出し、[[年俸]]1万5000[[マルク (通貨)|マルク]](約7,500円)、3年の任期で、アインシュタインを[[1911年]](明治44年)に新設された東北帝国大学理科大学の教授として招聘できないか打診したが、断られ実現しなかった<ref>{{cite news|title=点描・百年史 アインシュタイン博士と東北大学 |newspaper=東北大学百年史編纂室ニュース |publisher=[[東北大学]] |date=1998-08-31 |url=http://www2.archives.tohoku.ac.jp/hensan/news/kiji2.htm#アインシュタイン博士と東北大学 |accessdate=2012-05-01}}</ref>。
[[1921年]](大正10年)、アインシュタインは日本からドイツに留学していた[[鈴木鎮一]](音楽教育家、1898-1998)の面倒をみることになった<ref name="violin25">{{Cite book |和書 |author1=西原稔 |author2= 安生健 |year=2013 |title=アインシュタインとヴァイオリン |publisher=ヤマハミュージックメディア |page=25}}</ref>。鈴木は[[徳川義親]]の渡欧に同行した人物で、ドイツでベルリン高等音楽学校教授カール・クリングラーに師事していた<ref name="violin25" />。当初、鈴木は医学部教授のミヒャエルス教授のもとで生活していたが、アメリカの大学に招聘されたためミヒャエルス教授はアインシュタインに鈴木のことを託した<ref name="violin25" />。鈴木はアインシュタインがバッハのシャコンヌ([[無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ]]BWV1004-5)を好んでおりヴァイオリンの演奏は自分よりも上手いと思ったという<ref name="violin26">{{Cite book |和書 |author1=西原稔 |author2= 安生健 |year=2013 |title=アインシュタインとヴァイオリン |publisher=ヤマハミュージックメディア |page=26}}</ref>。アインシュタインは鈴木を通じて日本人の人となりを知るきっかけになったといわれている<ref name="violin26" />。
=== 日本での講演 ===
[[1922年]](大正11年)、「出版業界きっての立役者」と名を馳せた[[改造社]]創業者・[[山本実彦]]は、同出版社および雑誌「[[改造 (雑誌)|改造]]」が日本に招致した[[バートランド・ラッセル]]、[[マーガレット・サンガー]]に次ぐ「世界的名声人士」として、懇意になっていたアインシュタイン博士を妻エルザとともに日本に招待することにした。招待する側には、講演収入と同出版社の招待者特集本の売上増の見込みもあったが、日本は当時[[大正デモクラシー]]の時期であり、アインシュタイン来日は社会的にも大きな意味を持っていた。招かれたアインシュタインの側は、[[小泉八雲|ラフカディオ・ハーン]]が記した美しい日本を実際に自分の眼で確かめることと、科学の世界的連携によって国際関係を一層親善に導くことが訪日の目的である、と語っている。
日本滞在は1922年[[11月17日]]から[[12月29日]]までの43日間となった。
[[File:Miyake-einstein.jpg|thumb|right|120px|マルセイユから日本に向かう船上でのアインシュタインと[[三宅速]](1922年10月)]]
[[10月8日]]、フランス南部・[[地中海]]に面した[[マルセイユ]]から[[日本郵船]]「[[北野丸]]」で出港。[[香港]]から[[上海市|上海]]へと航海中の[[11月10日]]、[[スウェーデン科学アカデミー]]が、アインシュタインに1921年度ノーベル物理学賞<ref group="注釈">同賞が授与されたのは公式的には、光電効果の法則等についての貢献に関して。相対性理論についてではない。</ref>を授与することを発表し、船上でこの[[電報]]を受けた<ref name="violin26" /><ref group="注釈">1922年度の同賞受賞者・[[ニールス・ボーア]]と同時発表。授賞式典には参加できず、受賞者講演は1923年7月に行った</ref>。このニュースは日本国内にも伝えられ、結果、日本各地で更なる歓待を受けることとなった。11月13日午前11時、上海に入港。14日朝、上海を出港し神戸に向かった。
11月17日16時すぎに[[神戸港]]に到着。出迎えたのは、改造社の山本実彦夫妻、そして、[[東京大学|東京帝国大学]]教授の[[長岡半太郎]]、女性問題ですでに大学を辞職していた東北帝国大学元教授だった石原純と教授の[[愛知敬一]]、[[九州帝国大学]]教授の[[桑木彧雄]](石原と愛知は[[長岡半太郎#主な弟子|長岡の弟子]]。石原と桑木はアインシュタインとスイスにて面識があった)。集まった歓迎の群集や新聞記者の様子を見て、当時のドイツ[[大使館]]は「凱旋行進のようだ」と本国に報告している。17:00[[三宮駅]]発の[[汽車]]で[[京都]]に向かい、その夜は京都の[[ウェスティン都ホテル京都|都ホテル]]に宿泊した。翌18日、9:15発の[[特別急行列車|特急]]で[[東京]]に向かい、19:20[[東京駅]]着。駅には歓迎の群集が押し寄せ、投宿する[[帝国ホテル]]に到着するのに通常は車で5、6分程度のものの、相当の時間が必要だったと記録されている。
一般講演は入場料3円([[オペラ]]の上等席に匹敵)で、休憩を挟んで4-5時間程度であった。講演回数は6回の予定だったが、結局、[[東京市]]2回と[[仙台市]]・[[名古屋市]]・[[京都市]]・[[大阪市]]・[[神戸市]]・[[福岡市]]で各1回の計8回行われ、14,000名ほどの聴衆を集めた。講演の[[通訳]]は、東北帝大元教授で、助教授時代にアインシュタインのもとに[[留学]]した石原純が行った。東京帝大での学術講義では、全国から集まった学者・学生120名が聴き入った
<ref group="注釈">当時の[[六大都市]]([[都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位#1920年(大正9年)の人口順位|人口順]]):東京・大阪・神戸・京都・名古屋・横浜
:当時存在していた[[帝国大学]](設立順):東京・京都・東北・九州・北海道
:当時存在していた帝大以外の[[旧制大学]]:慶應・[[早稲田大学|早稲田]]など24校([[内地]]22校、[[外地]]2校)
</ref>。
なお、この訪日の際に[[人力車]]に乗ることを薦められたが、非人道的な[[奴隷]]労働と解釈し、乗車を拒否したことがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://homepage1.nifty.com/zpe60314/ukiyo11.htm|title=人力車|publisher=94才のホームページ |accessdate=2012-05-01}}</ref>。
==== 日程 ====
{| style="float:right"
|-
| style="vertical-align:top;" |{{水曜日から始まる30日のカレンダー|width=175px|float=|prefix=11月 |suffix=|header = '''1922年 [[11月]]'''}}
|-
| style="vertical-align:top;" |{{金曜日から始まる31日のカレンダー|width=175px|float=|prefix=4月 |suffix=|header = '''1922年 [[12月]]'''}}
|}
[[File:Einstein in Japan, 1922.png|thumb|right|200px|日本で歓待を受けるアルベルトと妻エルザ(1922年11~12月ころ)]]
* 11月19日(日)、[[慶應義塾大学]]・三田大講堂にて2千数百名の入場者を集めて一般講演<ref>{{Cite web|和書|date=2005-10-18|url=https://www.keio.ac.jp/ja/contents/stained_glass/2005/248.html|title=アインシュタインと慶應義塾|publisher=[[慶應義塾]]|accessdate=2012-05-01}}</ref><ref name="UTokyo">{{Cite web|和書|author=[[田賀井篤平]]|url=http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2006jiku_design/tagai.html|title=田中舘愛橘とアインシュタイン|publisher=[[東京大学総合研究博物館]]|accessdate=2022-11-08}}</ref>。「特殊相対性理論について」「一般相対性理論について」
* 11月20日(月)午後、[[小石川植物園]]で開かれた学士院の公式歓迎会に出席。参加者は[[穂積陳重]]、[[長井長義]]、通訳を務めた長井夫人のテレーゼら。夜は[[明治座]]で日本の芝居を見物。
* 11月24日(金)、[[東京基督教青年会館|神田青年会館]]で一般講演<ref name="UTokyo"/>。「物理学における空間および時間」
[[File:Albert Einstein in Japan - Hiizu Miyake -Koishikawa-Botanical-Gardens - Nov-29 1922.jpg|thumb|[[東京大学大学院理学系研究科附属植物園#小石川植物園(本園)|小石川植物園]]での歓迎会の様子(1922年11月29日)]]
* 11月25日(土)〜12月1日(金)、東京帝国大学理学部物理学教室中央講堂で、専門家向け学術講演<ref name="UTokyo"/>(日曜は休んで毎日14:00から1時間半、計6回)。「[[光速度不変の原理]]」「自然法則と[[ローレンツ変換]]の共変性」「[[テンソル]]解析法」「テンソル[[微分法]]」「[[万有引力]]」についてなど
* この間の11月27日(月)、[[宝生流]]の[[能]]を鑑賞<ref>{{Cite book|和書|editor=倉田喜弘|year=1998|title=大正の能楽|publisher=国立能楽堂|pages=398-399}}</ref>。演目は「[[羽衣 (能)|羽衣]]」(シテ:[[松本長]])<ref>{{Cite book|和書|author=坂元雪鳥|year=1943|title=坂元雪鳥能評全集|publisher=畝傍書房|volume=上|page=464}}</ref>。
[[File:Kotaro Honda ,Albert Einstein,Keiichi Aichi,Sirouta Kusukabe.jpg|thumb|right|200px|アインシュタインが東北帝国大学を訪問した際の記念写真(1922年12月)<ref name="TohokuUnivMuseum1922">[http://webdb3.museum.tohoku.ac.jp/tua-photo/photo-img-s.php?id=C010919&kw=%A5%A2%A5%A4%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3&mode=0 アインシュタインと物理学科教授陣 / 大正11年(1922)12月](東北大学史料館)</ref>。左から[[本多光太郎]]、アインシュタイン、[[愛知敬一]]、[[日下部四郎太]]。]]
* 12月2日(土)、[[東京工業大学|東京高等工業学校(現東京工業大学)]]訪問<ref>The Collected Papers of Albert Einstein, [https://einsteinpapers.press.princeton.edu/vol13-doc/644 Volume 13: The Berlin Years: Writings & Correspondence January 1922-March 1923], p.548.</ref>。[[仙台駅]]着。アインシュタインが「命も危険」と思うほど歓迎の群衆が押し寄せ、駅前広場を挟んで向かい側にある宿泊先の[[仙台ホテル]]に辿りつくのに20分もかかった<ref>{{cite news|title=「仙台ホテル」159年の歴史に幕|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2009-12-30|url=http://www.yomiuri.co.jp/tabi/news/20091230-OYT8T00271.htm|accessdate=2012-05-01}}{{リンク切れ|date=2012年5月}}</ref><ref>{{cite news|title=日本滞在43日、ゆかりの品々も|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=読売新聞社|date=2006-04-06|url=https://web.archive.org/web/20111208220730/http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/einstein/20060407ei02.htm|accessdate=2012-05-01}}</ref>。[[東北帝国大学]]を訪問し、[[本多光太郎]]教授と会う。講義室の壁にサインを残すが、[[仙台空襲]]で建物が焼失したため、現存しない<ref>{{Cite journal|和書|year=2006|month=7|title=|journal=仙台学|volume=vol.3 特集◎異邦人たちの仙台|pages={{要ページ番号|date=2012年5月}}|publisher=[[荒蝦夷]]}}</ref>。
* 12月3日(日)、[[仙台市公会堂]]で一般講演<ref name="UTokyo" />(9:30〜14:30。通訳:東北帝大・愛知敬一教授)。15:00発の[[東北本線]]に乗り、[[松島#雪月花|松島で月見]]をし、[[瑞巌寺]]を見学。仙台に戻って[[土井晩翠]]と会う。仙台泊。
* 12月4日(月)、8:30発の列車で[[日光市|日光]]へ向かい、日光で2泊する。
* 12月6日(水)、列車で東京へ。
* 12月7日(木)、移動。
* 12月8日(金)、[[名古屋国技館]]で一般講演<ref name="UTokyo" />。
* 12月10日(日)、[[京都市公会堂]]で一般講演<ref name="UTokyo" />。「いかにして私は相対性理論を創ったか」
* 12月11日(月)、[[大阪中央公会堂]]で一般講演<ref name="UTokyo" />。
* 12月13日(水)、[[神戸基督教青年会館]]で一般講演<ref name="UTokyo" />。
* 12月17日(日)22:14、[[奈良]]に到着。[[奈良ホテル]]で2泊する。
* 12月18日(月)、[[奈良公園]]周辺を散策。[[春日若宮おん祭]]の後宴[[能]]を鑑賞し、[[奈良国立博物館]]等を訪れる。
* 12月20日(水)、[[厳島|宮島]]に到着。
* 12月23日(土)夜、[[門司市]]の[[北九州市旧門司三井倶楽部|三井倶楽部]]に宿泊。
* 12月24日(日)、[[博多駅]]着<sup>[http://www.phys.kyushu-u.ac.jp/kids-labo/5einstein/img/ein_hakata.jpg (写真)]</sup>、福岡市[[大博劇場]]で一般講演<ref name="UTokyo"/><ref group="注釈">大博劇場での講演の際、福岡県立福岡中学(現在の[[福岡県立福岡高等学校]])が黒板を提供した。5時間の講演の後、教諭が演壇に消し忘れの黒板を発見しニスを塗り保存して福岡中学の物理の講義室に飾っていた。現在、その黒板の写真は高校の玄関内に掲げられているが、黒板自体の所在は不明。</ref>。東中州のカフェ・パウリスタで慰労会、旅館栄屋に宿泊。
* 12月25日(月)、九州帝国大学訪問<sup>[http://www.phys.kyushu-u.ac.jp/kids-labo/5einstein/img/ein_campus.jpg (理工学部にて)]</sup><ref>{{Cite web|和書|author=[[九州大学]]物理学教室企画・主催|date=2005-09-10|url=http://www.phys.kyushu-u.ac.jp/kids-labo/5einstein/5einstein.html|title=世界物理年2005記念イベント 子どももおとなも楽しめるアインシュタインの宇宙|publisher=九州大学物理学教室|accessdate=2012-05-01}}</ref>、[[博多]]見物。門司に移動して、門司[[キリスト教青年会|YMCA]]の[[クリスマス]]パーティに参加し、ヴァイオリンで[[アヴェ・マリア]]を演奏。
* 12月27日(水)、[[関門海峡]]や[[下関市]]を見物。
* 12月28日(木)夜、送別会。日本人列席者による[[義太夫]]、[[謡曲]]、[[長唄]]、[[槍さび]]、[[どじょうすくい]]などの隠し芸と、返礼に博士によるヴァイオリン演奏3曲。
講演の合間を縫って、[[浅草]]、松島、日光、[[熱田神宮|熱田]]、京都、奈良、宮島などを観光し、能と[[歌舞伎]]も堪能した。26日に離日の予定だったが、船舶の都合で滞在が3日延びたため、門司三井倶楽部に滞在した。[[12月29日]]午後3時、日本郵船「榛名丸」で[[門司港]]より[[パレスチナ]]に向けて出航・離日。
==== 旅行日記 ====
2018年に公開されたアインシュタインのアジア旅行時の日記には現地での中国人やスリランカ人への記載が人種差別だとして批判されている。対照的に1922-23年の訪日時の日記にて「日本人は謙虚で質素、礼儀正しい、まったく魅力的です」「他のどこにも存在しないくらい純真な魂たち。誰でもこの国を愛し、敬うだろう」と評価した一方で「日本人の知識への欲求は芸術への欲求に比べると弱いようだ。生まれつきの気質か?」と残している<ref>{{Cite web|url=https://www.theguardian.com/books/2018/jun/12/einsteins-travel-diaries-reveal-shocking-xenophobia|title=Einstein's travel diaries reveal 'shocking' xenophobia|accessdate=2018/06/14|publisher=The Guardian}}</ref>。
=== 第二次世界大戦後 ===
* 広島の平和活動家[[谷本清]]牧師と彼の自宅にて面会した際に、多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行為を悔やみ謝罪したと言われ、またノーベル物理学賞を受賞した[[湯川秀樹]]と面会した際にも、同様の理由で涙ながらに謝罪したと言われる<ref>{{Cite book|和書|date=2007-06-15|title=湯川秀樹 日本の「知性」、日本の「心」を世界に示した科学者|chapter=5章 核兵器は“絶対悪”という信念|series=[[別冊宝島]] 1444号 シリーズ偉大な日本人|publisher=[[宝島社]]|isbn=978-4-7966-5905-5|url=https://tkj.jp/book/?cd=20144401}}</ref>。ラッセル=アインシュタイン宣言には湯川も名を連ねた。[[ジョン・ハーシー]]の『[[ヒロシマ (本)|ヒロシマ]]』を自費で大量に購入し、知人に配って回ったことからも、原爆被害について関心を持っていたようである。
* 第二次世界大戦後、日本の哲学者で雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』の編集者だった[[篠原正瑛]]から原爆開発に関して、<br />「その第一の目的が、[[人類]]の福祉と[[幸福]]に奉仕すべき科学が、なぜにあのように恐ろしい結果を、もたらすようになったのか。偉大な科学者として、原爆製造に重要な役割を演じられたあなたは、日本国民の精神的苦痛を救う資格がある」という手紙を受け取った。それに対してアインシュタインは、あえて篠原の手紙の裏面に返事を記し、「原爆が、人類にとって恐るべき結果をもたらすことを、私は知っていました。しかし、ドイツでも、原爆開発に成功するかも知れないという可能性が、私にサインさせたのです。私に敵があって、その無条件の目的が、私と私の家族を殺すことである場合です」と述べたうえで、追伸として「他人の行為については、十分な情報を手に入れてから意見を述べるよう努力すべきだ」と記した<ref>[[NHKスペシャル]]「[[アインシュタインロマン]]」第5回「E=mc² 隠された設計図」(1991年11月24日放映)による</ref>。2人はその後も文通を続け、篠原が受け取ったアインシュタインの書簡6通は、篠原の没後の2005年に[[広島平和記念資料館]]に寄贈されて保管されている[http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1132207991848/index.html]。
* 1993年、[[理論物理学者]]の[[スティーヴン・ホーキング]]が[[仙台市]]を訪れた際、同地を訪れた理由を訊かれたところ、「アインシュタイン博士の本を読んでいたら、『やがて我々の大学と競争関係に入る大学は東北大学だ』と書いてあったからだ」と答えたという。
* [[2017年]]、アインシュタインが[[1922年]]に来日した際滞在した東京の[[帝国ホテル]]で[[ベルボーイ]]に[[チップ (サービス)|チップ]]代わりに渡した2枚のドイツ語のメモが、それぞれ156万ドル、24万ドルで落札された<ref>{{Cite news |title=アインシュタインの「幸福論」、約2億円で落札 帝国ホテルでチップ代わりに|newspaper=[[BBCニュース・オンライン]](BBC News Japan)|date=2017-10-25|url=http://www.bbc.com/japanese/41745019 |accessdate=2018-05-28|language=Japanese}}</ref>。
== アインシュタインを題材にした作品 ==
;映画
*[[SF地球滅亡の危機/アインシュタイン暗殺指令]](1969年、チェコスロバキア)
*[[マリリンとアインシュタイン]](1985年、イギリス)
*[[ヤング・アインシュタイン]](1988年、オーストラリア)
;テレビドラマ
*[[ハローアインシュタイン]](1984年、フランス・西ドイツ・スペイン・イタリア・ハンガリー・日本・ブラジル)
*[[アインシュタイン〜天才科学者の殺人捜査〜]](2016年、ドイツ)※彼の[[玄孫]]が主人公である。
*[[ジーニアス:世紀の天才 アインシュタイン]](2017年、アメリカ)
;ドキュメンタリー映画
*[[アインシュタインの脳]](1994年、イギリス)
== 著作 ==
;単著
* {{Cite book|和書|others=[[桑木雄]]・[[池田芳郎]]訳|title=アインスタイン相対性原理講話|year=1921|publisher=岩波書店|ref=アインスタイン&桑木&池田1921}} - 原タイトル:''Ueber die spezielle und die allgemeine Relativitätstheorie''。
** {{Cite book|和書|others=[[金子務]]訳|title=わが相対性理論|year=1973|publisher=白揚社|ref=アインシュタイン&金子1973}}
** {{Cite book|和書|others=金子務訳|title=特殊および一般相対性理論について|year=1991|month=4|publisher=白揚社|isbn=4-8269-0046-5|ref=アインシュタイン&金子1991}} - 『[[#アインシュタイン&金子1973|わが相対性理論]]』(1973年刊)の改題。
** {{Cite book|和書|others=金子務訳|title=特殊および一般相対性理論について|edition=新装版|year=2004|month=10|publisher=白揚社|isbn=4-8269-0120-8|url=http://www.hakuyo-sha.co.jp/physics/%E7%89%B9%E6%AE%8A%E3%81%8A%E3%82%88%E3%81%B3%E4%B8%80%E8%88%AC%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E6%80%A7%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/|ref=アインシュタイン&金子2004}} - 原タイトル:''Über die spezielle und die allgemeine Relativitätstheorie''。
**『一般相対性理論』小玉英雄編訳・解説、岩波文庫、2023年1月
* {{Cite book|和書|others=石原純訳|title=アインスタイン教授講演録|year=1923|publisher=改造社|ref=アインスタイン&石原1923}}
* {{Cite book|和書|others=石原純訳|title=アインシュタインの新学説|year=1929|publisher=朝日新聞社|ref=アインシュタイン&石原1929}} - 英語書名:''Field theories, old and new'' 英文併記。
* {{Cite book|和書|title=世界大思想全集|chapter=相対性理論|year=1930|publisher=春秋社|volume=第48巻|ref=アインスタイン&石原1930}}
* {{Cite book|和書|others=[[藤田秀夫]]訳|title=戦争と民族に就いて|year=1933|month=7|publisher=三陽閣|ref=アインシュタイン&藤田1933}}
* {{Cite book|和書|others=[[石井友幸]]・[[稲葉明男]]共訳|title=わが世界観|year=1947|publisher=白揚社|ref=アインシユタイン&石井&稲葉1947}}
* {{Cite book|和書|others=[[中村誠太郎]]ほか訳|title=晩年に想ふ|year=1950|publisher=日本評論社|ref=アインシュタイン&中村ら1950}}
** {{Cite book|和書|others=中村誠太郎・[[南部陽一郎]]・[[市井三郎]]訳|title=晩年に想う|year=1971|publisher=講談社|series=講談社文庫|ref=アインシュタイン&中村・南部・市井1971}}
* {{Cite book|和書|others=[[矢野健太郎 (数学者)|矢野健太郎]]訳|title=相対論の意味|date=1958-04-30|publisher=岩波書店|isbn=4-00-005600-X|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b265541.html|ref=アインシュタイン&矢野1958}} - 付:「非対称場の相対論」、pp.141-175。
* {{Cite book|和書|others=中村誠太郎・[[五十嵐正敬]]訳|title=自伝ノート|year=1978|month=9|publisher=東京図書|ref=アインシュタイン&中村・五十嵐1978}}
* {{Cite book|和書|others=[[内山龍雄]]訳・解説|title=アインシュタイン 相対性理論|date=1988-11-16|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=4-00-339341-4|url=https://www.iwanami.co.jp/book/b247047.html|ref=アインシュタイン&内山1988}} - 原タイトル:''Zur Elektrodynamik bewegter Körper''。
* {{Cite book|和書|author=アルベルト・アインシュタイン|coauthors=[[ヘルマン・オーベルト]]|others=[[中森岩夫]]訳|title=宇宙人と超宗教|year=1991|month=5|publisher=たま出版|isbn=4-88481-250-6|ref=アインシュタイン&オーベルト&中森1991}} - アルベルト・アインシュタイン著「宇宙宗教」を収録。共著ではなく合本。
* {{Cite book|和書|editor1=金子務|editor2=板垣良一|editor2-link=板垣良一|title=アインシュタイン、ひとを語る 序文を中心に|year=1993|month=4|publisher=東海大学出版会|isbn=4-486-01213-5|ref=アインシュタイン&金子・板垣1993}}
* {{Cite book|和書|author=アインシュタイン述|editor1=ジェリー・メイヤー|editor1-link=ジェリー・メイヤー|editor2=ジョン・P・ホームズ|editor2-link=ジョン・P・ホームズ|others=[[ディスカヴァー21]]編集部訳|title=アインシュタイン150の言葉|date=1997-04-25|publisher=ディスカヴァー・トゥエンティワン|isbn=4-924751-58-8|url=https://d21.co.jp/book/detail/978-4-924751-58-3|ref=アインシュタイン&メイヤー&ホームズ&ディスカヴァー21編集部1997}} - 原タイトル:''Bite-size Einstein''。
* {{Cite book|和書|others=[[杉元賢治]]編訳、[[佐藤文隆]]解説|title=アインシュタイン 日本で相対論を語る|date=2001-10-11|publisher=講談社|isbn=4-06-210931-X|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000180771|ref=アインシュタイン&杉元&佐藤2001}}
* {{Cite book|和書|others=[[井上健 (物理学者)|井上健]]訳|title=科学者と世界平和|year=2002|month=1|publisher=中央公論新社|series=[[中公文庫]]|isbn=4-12-203968-1|ref=アインシュタイン&井上2002}} - 原タイトル:''Out of my later years''。
* {{Cite book|和書|author=アインシュタイン述|others=[[弓場隆]]編訳|title=アインシュタインにきいてみよう 勇気をくれる150の言葉|date=2006-04-01|publisher=ディスカヴァー・トゥエンティワン|isbn=4-88759-457-7|url=http://www.d21.co.jp/products/isbn9784887594579|ref=アインシュタイン&弓場2006}} - 『[[#アインシュタイン&メイヤー&ホームズ&ディスカヴァー21編集部1997|アインシュタイン150の言葉]]』(1997年発行)の続編。
* {{Cite book|和書|author=アインシュタイン述|editor=アン・ルーニー|others=[[東出顕子]]訳|title=孤高に生きる言葉|date=2009-05-27|publisher=青志社|isbn=978-4-903853-58-1|url=http://www.seishisha.co.jp/catalog/2009book.html|ref=アインシュタイン&ルーニー&東出2009}} - 原タイトル:''Einstein in his own words''。
* {{Cite book|和書|author=アルバート・アインシュタイン述|others=[[志村史夫]]監修・訳|title=アインシュタイン 希望の言葉|date=2011-11-15|publisher=ワニ・プラス(発行) ワニブックス(発売)|isbn=978-4-8470-9024-0|url=https://www.wani.co.jp/event.php?id=3269|ref=アインシュタイン&志村2011}} - 英文併記。
* {{Cite book|和書|editor=|others=渡辺正訳|title=アインシュタイン回顧録|year=2022|month=3|publisher=筑摩書房|series=ちくま学芸文庫 Math & science |isbn=978-4-480-51112-6|url=|ref=アインシュタイン&渡辺2022}}
;選集
* {{Cite book|和書|others=[[物理学史研究刊行会]]編訳|title=光量子論|origyear=1969|year=1991|month=7|publisher=東海大学出版会|edition=第9刷|series=物理学古典論文叢書 第2|isbn=4-486-00112-5|ref=Einstein&物理学史研究刊行会1969}}
*#「光の発生と変脱とに関するひとつの発見法的観点について」([[高田誠二]]訳)
*#「光の発生と光の吸収の理論について」([[広重徹]]訳)
*#「輻射に関するPlanckの理論と比熱の理論」(高田誠二訳)
*#「輻射の問題の現情について」(高田誠二訳)
*#「輻射の本質と構造に関するわれわれの見解の発展について」([[上川友好]]訳)
*#「量子論による輻射の放出と吸収」(上川友好訳)
*#「輻射の量子論」(上川友好訳)
*#「解説」[[辻哲夫]]著
* {{Cite book|和書|others=湯川秀樹監修、中村誠太郎・[[谷川安孝]]・井上健訳・編|year=1971|title=アインシュタイン選集1――特殊相対性理論・量子論・ブラウン運動――|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-03019-0|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookhtml/0410/000951.html|ref=アインシュタイン1971}}
* {{Cite book|和書|others=湯川秀樹監修、内山龍雄訳・編|year=1970|title=アインシュタイン選集2――一般相対性理論および統一場理論――|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-03020-6|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookhtml/0410/000952.html|ref=アインシュタイン1970}}
* {{Cite book|和書|others=湯川秀樹監修、中村誠太郎・井上健訳・編|year=1972|title=アインシュタイン選集3――アインシュタインとその思想――|publisher=共立出版|isbn=978-4-320-03021-3|url=http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookhtml/0410/000953.html|ref=アインシュタイン1972}}
* {{Cite book|和書|editor=ジョン・スタチェル|editor-link=ジョン・スタチェル|others=[[青木薫]]訳|title=アインシュタイン論文選 「奇跡の年」の5論文|year=2011|month=9|publisher=筑摩書房|series=[[ちくま学芸文庫]] Math & science]|isbn=978-4-480-09403-2|url=http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480094032/|ref=アインシュタイン&スタチェル&青木2011}} - 原タイトル:''Einstein’s miraculous year''。
*# アインシュタインの学位論文「分子の大きさを求める新手法」
*# ブラウン運動への取り組み「熱の分子運動論から要請される,静止液体中に浮かぶ小さな粒子の運動について」
*# 相対性理論への取り組み「運動物体の電気力学」
*# 「物体の慣性は,その物体に含まれるエネルギーに依存するか」
*# 量子仮説に関する初期の仕事「光の生成と変換に関する,ひとつの発見法的観点について」
;全集
* {{Cite book|和書|others=石原純ほか訳|title=アインスタイン全集|year=1922-1924|publisher=改造社|volume=第1-4巻|ref=アインスタイン&石原ら1922-1924}}
;共著
* {{Cite book|和書|author=アインシユタイン等|others=[[生形要]]訳|title=戦争批判|year=1934|month=2|publisher=同人社|ref=アインシユタイン等&生形1934}}
* {{Cite book|和書|author=アインシュタイン|coauthors=[[レオポルト・インフェルト|インフェルト]]共著|others=石原純訳|title=物理学はいかに創られたか|date=1963-09-20|origyear=1950|publisher=岩波書店|series=岩波新書|volume=上巻|isbn=4-00-400014-9|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/40/9/4000140.html|ref=アインシュタイン&インフェルト&石原1963a}}
* {{Cite book|和書|author=アインシュタイン|coauthors=インフェルト共著|others=石原純訳|title=物理学はいかに創られたか|date=1963-10-21|origyear=1950|publisher=岩波書店|series=岩波新書|volume=下巻|isbn=4-00-400015-7|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/40/7/4000150.html|ref=アインシュタイン&インフェルト&石原1963b}}
* {{Cite book|和書|author=アインシュタイン|coauthors=[[ゾンマー・フェルト]]|editor=アーミン・ヘルマン|editor-link=アーミン・ヘルマン|others=[[小林晨作]]・[[坂口治隆]]訳|title=アインシュタイン = ゾンマーフェルト往復書簡|date=1971-03|publisher=法政大学出版局|series=叢書・ウニベルシタス22|isbn=4-588-00022-5|url=http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-00022-5.html|ref=アインシュタイン&フェルト&ヘルマン&小林・坂口1971}}
* {{Cite book|和書|editor1=オットー・ネーサン|editor1-link=オットー・ネーサン|editor2=ハインツ・ノーデン|editor2-link=ハインツ・ノーデン|others=[[金子敏男]]訳|title=アインシュタイン平和書簡|year=1974|publisher=みすず書房|volume=1|ref=アインシュタイン&ネーサン&ノーデン&金子1974}}
* {{Cite book|和書|editor=オットー・ネーサン・ハインツ・ノーデン|others=金子敏男訳|title=アインシュタイン平和書簡|year=1975|publisher=みすず書房|volume=2|ref=アインシュタイン&ネーサン&ノーデン&金子1975}}
* {{Cite book|和書|editor=オットー・ネーサン・ハインツ・ノーデン|others=金子敏男訳|title=アインシュタイン平和書簡|year=1977|month=2|publisher=みすず書房|volume=3|ref=アインシュタイン&ネーサン&ノーデン&金子1977}}
* {{Cite book|和書|author=アインシュタイン|coauthors=マックス・ボルン|others=[[西義之]]・[[井上修一]]・[[横谷文孝]]訳|title=アインシュタイン・ボルン往復書簡集 1916-1955|year=1976|publisher=三修社|ref=アインシュタイン&西・井上・横谷訳1976}}
* {{Cite book|和書|author=アルバート・アインシュタイン|coauthors=[[ミレヴァ・マリッチ]]|editor1=ユルゲン・レン|editor1-link=ユルゲン・レン|editor2=ロバート・シュルマン|editor2-link=ロバート・シュルマン|others=[[大貫昌子]]訳|title=アインシュタイン 愛の手紙|date=1993-10-26|publisher=岩波書店|isbn=4-00-000058-6|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/6/0000580.html|ref=アインシュタイン&ミレヴァ・マリッチ&レン&シュルマン&大貫1993}} - 原タイトル:''The love letters''。
* {{Cite book|和書|author=アルバート・アインシュタイン|coauthors=[[ジークムント・フロイト]]|others=[[養老孟司]]解説、[[浅見昇吾]]編訳|title=ヒトはなぜ戦争をするのか? アインシュタインとフロイトの往復書簡|date=2000-12|publisher=花風社|isbn=4-907725-21-3|url=http://www.kafusha.com/shuppan/books/4-907725-21-3.html|ref=アインシュタイン&フロイト&養老&浅見2000}}
== 主な受賞歴 ==
*1920年 [[バーナード・メダル]]
*1921年 [[ノーベル物理学賞]]
*1921年 [[マテウチ・メダル]]
*1925年 [[コプリ・メダル]]
*1926年 [[王立天文学会ゴールドメダル]]
*1929年 [[マックス・プランク・メダル]]
*1931年 [[ジュール・ジャンサン賞]]
*1935年 [[フランクリン・メダル]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連文献 ==
* {{Cite book|和書|author=ケン・ウィルバー編著|authorlink=ケン・ウィルバー|others=[[田中三彦]]・[[吉福伸逸]]訳|date=1987-08|title=量子の公案 現代物理学のリーダーたちの神秘観|publisher=[[工作舎]] |isbn=4-87502-137-2|url=http://www.kousakusha.co.jp/BOOK/ISBN4-87502-137-2.html|ref=ウィルバー1987}} - 原タイトル:''Quantum questions.''
* {{Cite book|和書|author=デサンカ・トルブホヴィッチ=ギュリッチ|authorlink=デサンカ・トルブホヴィッチ=ギュリッチ|others=[[田村雲供]]・[[伊藤典子]]訳|date=1995-12|title=二人のアインシュタイン ミレヴァの愛と生涯|publisher=[[工作舎]] |isbn=4-87502-259-X|url=http://www.kousakusha.co.jp/BOOK/ISBN4-87502-259-X.html|ref=トルブホヴィッチ=ギュリッチ1995}} - 原タイトル:''Im Schatten Albert Einsteins. 5.Aufl.''
* {{Cite book|和書|author=フランソワーズ・バリバール|authorlink=フランソワーズ・バリバール|others=[[佐藤勝彦 (物理学者)|佐藤勝彦]]監修、[[南條郁子]]訳|date=1996-07-20|title=アインシュタインの世界|series=「知の再発見」双書59|publisher=創元社|isbn=4-422-21119-6|url=http://www.sogensha.co.jp/booklist.php?act=details&ISBN_5=21119|ref=バリバール1996}} - 原タイトル:''La joie de la pensée''。
* {{Cite book|和書|author=ウィリアム・ヘルマンス|authorlink=ウィリアム・ヘルマンス|others=[[神保圭志]]訳|date=2000年/新装版2015年|title=アインシュタイン、神を語る 宇宙・科学・宗教・平和|publisher=[[工作舎]] |isbn=978-4-87502-464-4|url=http://www.kousakusha.co.jp/BOOK/ISBN4-87502-326-X.html|ref=ヘルマンス2000}} - 原タイトル:''Einstein and the poet''
* {{Cite book|和書|author=エド・レジス|authorlink=エド・レジス|others=大貫昌子訳|date=1990-09|title=アインシュタインの部屋 天才たちの奇妙な楽園|volume=上・下|publisher=[[工作舎]] |id=ISBN 4-87502-171-2 ISBN 4-87502-172-0|url=http://www.kousakusha.co.jp/BOOK/ISBN4-87502-171-2.html|ref=レジス1990}} - 原タイトル:''Who got Einstein’s office?''
== 参考文献 ==
{{refbegin|30em}}
* {{Citation |last=Brian |first=Denis |date=1996 |title=Einstein: A Life |location=New York |publisher=John Wiley}}
* Calaprice, Alice, Daniel Kennefick, & Robert Schulmann. ''An Einstein Encyclopedia'' (Princeton University Press, 2015)
* {{Citation |last=Clark |first=Ronald W. |date=1971 |title=Einstein: The Life and Times |location=New York |publisher=Avon Books |isbn=0-380-44123-3}}
* {{Citation |last=Fölsing |first=Albrecht |date=1997 |title=Albert Einstein: A Biography |location=New York |publisher=Penguin Viking |others=Translated and abridged from German by Ewald Osers |isbn=978-0-670-85545-2}}
* {{Citation |last1=Highfield |first1=Roger |authorlink=Roger Highfield |last2=Carter |first2=Paul |date=1993 |title=The Private Lives of Albert Einstein |location=London |publisher=Faber and Faber |isbn=978-0-571-16744-9}}
* {{Citation |last=Hoffmann |first=Banesh |others=with the collaboration of Helen Dukas |date=1972 |title=Albert Einstein: Creator and Rebel' |location=London |publisher=Hart-Davis, MacGibbon |isbn=978-0-670-11181-7}}
* {{Citation |last=Isaacson |first=Walter |date=2007 |title=Einstein: His Life and Universe |publisher=Simon & Schuster Paperbacks |location=New York |isbn=978-0-7432-6473-0}}
* {{Citation |last=Moring |first=Gary |date=2004 |url=https://books.google.com/books?id=875TTxildJ0C&dq=idiots+guide+to+einstein&printsec=frontcover |title=The complete idiot's guide to understanding Einstein |edition=1st |location=Indianapolis IN |publisher=Alpha books (Macmillan) |isbn=0-02-863180-3}}
* {{Citation |last=Neffe |first=Jürgen |title=Einstein: A Biography |others=Translated by Shelley Frisch |date=2007 |url=https://books.google.com/books?id=B8K6n177ZwcC |publisher=[[Farrar, Straus and Giroux]] |isbn=978-0-374-14664-1}}
* {{Citation |last=Oppenheimer |first=J. Robert |date=1971 |title=On Albert Einstein |pages=8–12, 208 |work=Science and synthesis: an international colloquium organized by Unesco on the tenth anniversary of the death of Albert Einstein and Teilhard de Chardin |publisher=Springer-Verlag |others=Lecture delivered at the UNESCO House in Paris on 13 December 1965}}, or {{Citation |work=The New York Review of Books |date=17 March 1966 |url=http://www.nybooks.com/articles/archives/1966/mar/17/on-albert-einstein/?pagination=false |title=On Albert Einstein by Robert Oppenheimer}}
* {{Citation |last=Pais |first=Abraham |date=1982 |title=Subtle is the Lord: The science and the life of Albert Einstein |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-853907-0}}
* {{Citation |last=Pais |first=Abraham |date=1994 |title=Einstein Lived Here |publisher=Oxford University Press |isbn= 0-19-280672-6}}
* {{Citation |last=Parker |first=Barry |date=2000 |title=Einstein's Brainchild: Relativity Made Relatively Easy! |publisher= Prometheus Books |others=Illustrated by Lori Scoffield-Beer |isbn=978-1-59102-522-1}}
* {{Citation |last=Rogers |first=Donald W. |title=Einstein's "Other" Theory: The Planck-Bose-Einstein Theory of Heat Capacity |publisher=Princeton University Press |date=2005 |isbn=978-0-691-11826-0}}
* {{Citation |last=Schweber |first=Sylvan S. |date=2008 |title=Einstein and [[J. Robert Oppenheimer|Oppenheimer]]: The Meaning of Genius |publisher=Harvard University Press |isbn=978-0-674-02828-9}}
* {{Citation |last=Stachel |first=John J. |date=2002 |title=Einstein from ‘B’ to ‘Z’ |url=http://www.worldcat.org/title/einstein-from-b-to-z/oclc/237532460 |publisher=Birkhäuser |series=Einstein Studies |volume=9 |isbn=978-0-8176-4143-6 |via=WorldCat by OCLC (Dublin, OH, USA) |accessdate=2015-03-23}}
* {{Citation |last=Stone |first=A. Douglas |date=2013 |title=Einstein and the Quantum |publisher=Princeton University Press |isbn=978-0-691-13968-5}}
* {{cite journal|last1=Weinberg|first1=Steven|title=Einstein’s mistakes|journal=Physics Today|date=2005|volume=58|issue=11|page=31|doi=10.1063/1.2155755|bibcode = 2005PhT....58k..31W }}
{{refend}}
== 関連項目 ==
{{Portal box|物理学|自然科学|原子力|人物伝}}
{{Wikiquote|アルベルト・アインシュタイン}}
{{Commons&cat|Albert Einstein}}
* [[アインシュタイン=シラードの手紙]]
* [[アインシュタイン (単位)]]
* [[アインシュタインの原論文]]
* [[アインシュタインの式]]
* [[アインシュタインの脳]](映画)
* [[アインシュタインの予言]]
* [[アインシュタインリング]]
* [[アインシュタインロマン]](NHKスペシャル)
* [[アインスタイニウム]]
* [[アスペルガー症候群]]
* [[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス|EPRのパラドックス]]
* [[高機能自閉症]]
* [[世界物理年]]
* [[ロバート・オッペンハイマー]]
* [[コルネリウス・ランチョス]]
* [[ロンジン]] - 愛用していたという懐中時計。現在もほぼ同等の時計を販売している。
* [[アルベルト・アインシュタイン (ATV)]] - アインシュタインに因んで命名された[[欧州補給機]]。
== 外部リンク ==
* [http://www.alberteinstein.info/ Einstein Archives Online]{{en icon}}
* [https://hypertextbook.com/eworld/einstein/ アメリカ物理学会のアインシュタインのページ]{{en icon}}
* {{青空文庫著作者|1428|アインシュタイン アルベルト}}
* [http://koshiro56.la.coocan.jp/contents/relativity/contents/relativity.html アインシュタインの科学と生涯]
* [http://www.einstein1905.info/index.html Einstein 1905]{{ja icon}}
* [https://kakugen.aikotoba.jp/einstein.htm アインシュタイン名言集] ([https://kakugen.aikotoba.jp/ 世界傑作格言集])
* [http://www.bremen-house.com/ensemble/ アインシュタインのグァルネリを演奏した演奏家のページ]
* {{Kotobank|アインシュタイン(Albert Einstein)}}
{{アルベルト・アインシュタイン|state=expanded}}
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4,009 | 京成船橋駅 | 京成船橋駅(けいせいふなばしえき)は、千葉県船橋市本町一丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS22。
モーニングライナー・イブニングライナーなども含め、当駅を通る旅客列車は全て停車する。
当駅は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の船橋駅(南口)と近接しており、乗換駅となっている。
当初計画では東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の船橋駅より北に駅を建設予定であったが、船橋市の中心市街地から離れすぎるということから南側に変更された。当駅付近では直線的に市街地を貫通する予定であったが、住民の反対で急曲線に変更された。
相対式ホーム2面2線を有する高架駅。駅長配置駅。以前は、跨線橋もない地上駅であった。しかし、列車の本数が多く、京成成田寄りの「船橋1号踏切」は「開かずの踏切」になることもしばしばあり、これを解消するべく、1983年より海神 - 大神宮下間2.5キロメートル(km)の高架化工事が進められてきた。2006年(平成18年)11月25日に線路は高架化され、駅周辺の鉄道との平面交差はなくなった。そのため、渋滞はほぼ解消されている。 2009年(平成21年)3月24日には商業施設「ネクスト船橋」が開業し、長期にわたって行われてきた高架化工事が終了した。 発車標は、3色LEDを使用していたが、2023年にフルカラーLED式に交換され、駅案内放送も成田スカイアクセスの駅と同じ内容になった。
当駅より京成津田沼方面の乗客が東京都の都心方面に移動する際は、当駅でJR線船橋駅に乗り換えた方が早く到着する場合が多いために乗降人員が多くなっている。なお、総武快速線・京成本線相互で連絡運輸(定期券のみ)が設定されている駅は当駅のみである。
北総線が京成高砂駅まで延伸開業した1991年度以前は、当駅が京成線内全駅で最も乗降人員が多い駅であった。1991年度から2009年度までは押上駅に次ぐ第2位であったが、成田スカイアクセス線が開業した2010年度に京成高砂駅と日暮里駅を下回った。1991年度の最ピーク時は1日平均乗降人員が14万人程度であり、1995年度までは13万人を上回っていた。しかし、その後は減少傾向が続き2004年度に9万人を下回った。2008年度に再度9万人を上回り、近年はほぼ横ばいの傾向にある。
2022年度の1日平均乗降人員は82,828人である。京成線内69駅中第4位。近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通りである。
ペデストリアンデッキと再開発ビルである船橋フェイスビル(Face)により、当駅と東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の船橋駅(南口)が接続されている。さらに2007年11月17日からは駅コンコースにも直結した。船橋フェイスビルとコンコースをつなぐ通路は船橋フェイスビル2階通路と同様、早朝深夜帯は閉鎖されるため、当該時間帯は地上の公道・横断歩道を経由する必要がある。
当駅東口前には千葉県道39号船橋停車場線が通り、駅南側には京葉道路(船橋インターチェンジ)、東関東自動車道、国道14号(千葉街道)、国道357号(東京湾岸道路)、千葉県道156号船橋埠頭線が通る。当駅の駅ビルであるネクスト船橋(next)には、レストランやフード、ファッション雑貨など約20店舗の専門店を有する(地上1階 - 2階)。
以下、総武本線より南側の施設等一覧(北側は「船橋駅#駅周辺」を参照)。
「船橋駅#バス路線」も参照。なお、当駅始発のバス停は船橋駅(南口)の3番のりばという扱いとなっている。また、船橋駅始発の路線にも「京成船橋駅」バス停がある。反対に、船橋駅方向に向かうバスは基本的に京成船橋駅を終点とする。 | [
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"title": "駅構造"
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"title": "利用状況"
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"text": "北総線が京成高砂駅まで延伸開業した1991年度以前は、当駅が京成線内全駅で最も乗降人員が多い駅であった。1991年度から2009年度までは押上駅に次ぐ第2位であったが、成田スカイアクセス線が開業した2010年度に京成高砂駅と日暮里駅を下回った。1991年度の最ピーク時は1日平均乗降人員が14万人程度であり、1995年度までは13万人を上回っていた。しかし、その後は減少傾向が続き2004年度に9万人を下回った。2008年度に再度9万人を上回り、近年はほぼ横ばいの傾向にある。",
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"text": "ペデストリアンデッキと再開発ビルである船橋フェイスビル(Face)により、当駅と東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の船橋駅(南口)が接続されている。さらに2007年11月17日からは駅コンコースにも直結した。船橋フェイスビルとコンコースをつなぐ通路は船橋フェイスビル2階通路と同様、早朝深夜帯は閉鎖されるため、当該時間帯は地上の公道・横断歩道を経由する必要がある。",
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"text": "当駅東口前には千葉県道39号船橋停車場線が通り、駅南側には京葉道路(船橋インターチェンジ)、東関東自動車道、国道14号(千葉街道)、国道357号(東京湾岸道路)、千葉県道156号船橋埠頭線が通る。当駅の駅ビルであるネクスト船橋(next)には、レストランやフード、ファッション雑貨など約20店舗の専門店を有する(地上1階 - 2階)。",
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"text": "「船橋駅#バス路線」も参照。なお、当駅始発のバス停は船橋駅(南口)の3番のりばという扱いとなっている。また、船橋駅始発の路線にも「京成船橋駅」バス停がある。反対に、船橋駅方向に向かうバスは基本的に京成船橋駅を終点とする。",
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] | 京成船橋駅(けいせいふなばしえき)は、千葉県船橋市本町一丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS22。 モーニングライナー・イブニングライナーなども含め、当駅を通る旅客列車は全て停車する。 当駅は、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の船橋駅(南口)と近接しており、乗換駅となっている。 | {{Otheruses||近接する東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の駅|船橋駅}}
{{駅情報
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|文字色 =
|駅名 = 京成船橋駅
|画像 = Keisei Funabashi Station 20190708 south.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎南側(2019年7月)
|地図= {{maplink2|frame=yes|plain=yes|zoom=15|frame-align=center|frame-width=300
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|coord3={{coord|35|42|7.5|N|139|59|5|E}}|marker-color3=0F6CC3|title3=東武 船橋駅
}}上は乗り換え駅の船橋駅
|よみがな = けいせいふなばし
|ローマ字 = Keisei-Funabashi
|前の駅 = KS21 [[海神駅|海神]]
|駅間A = 1.5
|駅間B = 1.3
|次の駅 = [[大神宮下駅|大神宮下]] KS23
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|22|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線|本線]]
|キロ程 = 25.1
|起点駅 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所在地 = [[千葉県]][[船橋市]][[本町 (船橋市)|本町]]一丁目5番1号
|座標 = {{coord|35|42|0.5|N|139|59|7.7|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[高架駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1916年]]([[大正]]5年)[[12月30日]]
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|乗車人員 =
|乗降人員 = <ref group="京成" name="keisei2022" />82,828
|統計年度 = 2022年
|乗換 = [[船橋駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・[[東武鉄道]])
|備考 =
}}
{|{{Railway line header|collapse=yes}}
{{UKrail-header2|<br />京成船橋駅<br />配線図|#0f6cc3}}
{{BS-table|配線}}
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↑[[海神駅]]
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↓[[大神宮下駅]]
|}<ref>[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/123.pdf 京成電鉄ホームページ(駅構内図)]</ref>
|}
'''京成船橋駅'''(けいせいふなばしえき)は、[[千葉県]][[船橋市]][[本町 (船橋市)|本町]]一丁目にある、[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS22'''。
[[スカイライナー|モーニングライナー・イブニングライナー]]なども含め、当駅を通る旅客列車は全て停車する。
当駅は、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東武鉄道]]の[[船橋駅]](南口)と近接しており、[[乗換駅]]となっている<ref group="注">当駅⇔[[船橋駅]]は、[https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1382 駅情報]に接続交通機関として掲載されている。連絡定期券も発売されている。</ref>。
== 歴史 ==
当初計画では東日本旅客鉄道(JR東日本)・東武鉄道の船橋駅より北に駅を建設予定であったが、船橋市の中心市街地から離れすぎるということから南側に変更された。当駅付近では直線的に市街地を貫通する予定であったが、住民の反対で急曲線に変更された<ref>白土貞夫著『ちばの鉄道一世紀』による。</ref>。
=== 年表 ===
* [[1916年]]([[大正]]5年)[[12月30日]] - '''船橋駅'''として開業<ref name="地図帳3-37">{{Cite book|和書 |author=今尾恵介(監修) |title=日本鉄道旅行地図帳 |publisher=[[新潮社]] |volume=3 関東1 |year=2008 |id=ISBN 978-4-10-790021-0 |page=37}}</ref>。
* [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月18日]] - '''京成船橋駅'''に改称<ref name="地図帳3-37" />。
* [[1992年]]([[平成]]4年)11月 - 工事着手。
* [[2004年]](平成16年)[[11月27日]] - 上り(京成上野・押上方面)ホームを高架化<ref name="chibanippo2004918">{{Cite news |title=京成船橋・京成線上り高架 11月27日から使用 市内の交通渋滞緩へ |newspaper=千葉日報 |publisher=千葉日報社 |page=16 |date=2002-04-18}}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[11月25日]] - 下り(京成成田方面)ホームを高架化<ref name="chibanippo20021126">{{Cite news |title=車の流れスムーズに 京成本線を完全高架化 船橋市内の16踏切を廃止 |newspaper=千葉日報 |publisher=千葉日報社 |page=15 |date=2002-11-26}}</ref><ref>{{Cite web |title=京成船橋駅|高架化工事 {{!}} 実績紹介 |url=https://noguchikoumuten.com/2006/11/post-184/ |website=株式会社野口工務店 |date=2006-11-19 |access-date=2023-12-10 |language=ja |last=admin-noguchi-100}}</ref>。これに伴い駅前踏切を廃止。
* [[2009年]](平成21年)[[3月24日]] - ネクスト船橋開業<ref name="chibanippo2009325">{{Cite news |title=パスモで食事も買い物も 「ネクスト船橋」がオープン |newspaper=千葉日報 |publisher=千葉日報社 |page=15 |date=2009-03-25}}</ref>。
* [[2010年]](平成22年)[[7月17日]] - [[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]開業に伴うダイヤ改正によって、スカイライナーがスカイアクセス線経由に変更されて当駅を経由しなくなり、かわりに新設された[[スカイライナー#シティライナー(臨時運行)|シティライナー]]の停車駅となる<ref name="keiseinews20100528">{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf |title=成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正 |format=PDF |accessdate=2016-10-15 |date=2010-5-28 |publisher=京成電鉄株式会社}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[12月5日]] - ダイヤ改正によりシティライナーが廃止され<ref group="注">シティライナーは土日祝のみ運行されていたため、最終運行は同年11月29日。</ref>、新たに[[モーニングライナー・イブニングライナー]]の停車駅となる<ref name="keiseinews20151022">{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/151022_01.pdf |title=12月5日(土)京成線ダイヤ改正 |format=PDF |accessdate=2016-10-15 |date=2015-10-22 |publisher=京成電鉄株式会社}}</ref>。
<gallery>
Funa.JPG|2006年頃の駅舎北側(2006年9月)
Keisei-Funabashi001.jpg|2007年11月16日まで使用されていた駅出入口(2007年2月)
Keisei-funabashi-platform-20041109.jpg|地平時代の駅ホーム(2004年11月)
Keisei-Funabashi Station Sign.jpg|旧1番線駅名標(2015年9月)
</gallery>
== 駅構造 ==
{{出典の明記|section=1|date=2016年8月}}
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[高架駅]]。駅長配置駅。以前は、[[跨線橋]]もない[[地上駅]]であった。しかし、列車の本数が多く、京成成田寄りの「船橋1号[[踏切]]」は「[[開かずの踏切]]」になることもしばしばあり、これを解消するべく、[[1983年]]より海神 - 大神宮下間2.5キロメートル(km)の[[高架橋|高架]]化工事が進められてきた。[[2006年]](平成18年)[[11月25日]]に線路は高架化され、駅周辺の鉄道との平面交差はなくなった<ref name="chibanippo20021126" />。そのため、[[渋滞]]はほぼ解消されている。
[[2009年]](平成21年)[[3月24日]]には商業施設「ネクスト船橋」が開業し<ref name="chibanippo2009325" />、長期にわたって行われてきた高架化工事が終了した。
[[発車標]]は、3色LEDを使用していたが、2023年にフルカラーLED式に交換され、駅案内放送も[[京成成田空港線|成田スカイアクセス]]の駅と同じ内容になった。
=== のりば ===
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠。新京成線も表記あり -->
{| class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
| rowspan="2" |[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
| style="text-align:center" |上り
|[[京成高砂駅|京成高砂]]・[[青砥駅|青砥]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]・[[File:Number prefix Keikyū.svg|15px|KK]] [[京浜急行電鉄|京急線]]方面
|-
!2
| style="text-align:center" |下り
|[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成成田駅|京成成田]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]・[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|}
* 上表の路線名は[[京成成田空港線|成田空港線]]開業後の旅客案内の名称に基づいている。
* ホーム有効長は10両分ある(10両編成化の予定があったスカイライナーの停車に対応するための名残)。
* 以前の車内アナウンスでは、当駅でのJR線・東武線への乗り換え案内を行っていなかった。
<gallery>
Keisei-Funabash-Sta-East-Gate 20190708.jpg|東口改札(2019年7月)
Keisei-Funabash-Sta-W-Gate.JPG|西口改札(2018年9月)
Keisei-Funabashi-STA Home.jpg|ホーム(2021年6月)
Keisei-railway-KS22-Keisei-funabashi-station-sign-20170823-180043.jpg|1番線駅名標(2017年8月)
Keisei-Funabashi-Sta-1.JPG|東口外観(2011年10月)
Keisei-Funabashi-Sta-W.JPG|西口外観(2018年9月)
Keisei Funabashi Station - Aug 19 2019 15 18 49 936000.jpeg|船橋フェイスビル直結出入口(2019年8月)
</gallery>{{-}}
== 利用状況 ==
[[ファイル:京成船橋駅下りホーム(cropped).jpg|thumb|[[ラッシュ時]](23時頃)の駅ホーム(2019年8月)]]
当駅より京成津田沼方面の乗客が[[東京都]]の[[都心]]方面に移動する際は、当駅でJR線船橋駅に乗り換えた方が早く到着する場合が多いために乗降人員が多くなっている。なお、総武快速線・京成本線相互で連絡運輸(定期券のみ)が設定されている駅は当駅のみである。
[[北総鉄道北総線|北総線]]が京成高砂駅まで延伸開業した1991年度以前は、当駅が京成線内全駅で最も乗降人員が多い駅であった。1991年度から2009年度までは[[押上駅]]に次ぐ第2位であったが、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]が開業した2010年度に[[京成高砂駅]]と[[日暮里駅]]を下回った。1991年度の最ピーク時は1日平均乗降人員が14万人程度であり、1995年度までは13万人を上回っていた。しかし、その後は減少傾向が続き2004年度に9万人を下回った。2008年度に再度9万人を上回り、近年はほぼ横ばいの傾向にある。
[[2022年]]度の1日平均[[乗降人員]]は'''82,828人'''である<ref group="京成" name="keisei2022" />。京成線内69駅中第4位。近年の1日平均乗降・乗車人員の推移は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref group="統計">[http://www.city.funabashi.chiba.jp/shisei/toukei/0002/p012851.html 船橋市統計書]</ref>
!年度
!colspan="2"|1日平均<br>乗降人員<ref group="統計">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!colspan="2"|1日平均<br>乗車人員<ref group="統計">[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/index.html 千葉県統計年鑑]</ref>
|-
|1975年(昭和50年)
| ||
|65,333||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s51/documents/124n_19.pdf 124 私鉄駅別1日平均運輸状況(昭和50年度)]}}、千葉県統計年鑑(昭和51年)</ref>
|-
|1980年(昭和55年)
| ||
|64,592||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s56/documents/122n_14.pdf 122 私鉄駅別1日平均運輸状況(昭和55年度)]}}、千葉県統計年鑑(昭和56年)</ref>
|-
|1985年(昭和60年)
| ||
|64,651||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-s61/documents/113n_8.pdf 113 私鉄駅別1日平均運輸状況(昭和60年度)]}}、千葉県統計年鑑(昭和61年)</ref>
|-
|1989年(平成元年)
| ||
|68,550||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h02/documents/110n_5.pdf 110 民鉄駅別1日平均運輸状況(平成元年度)]}} - 千葉県統計年鑑(平成2年)208ページ</ref>
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| ||
|69,820||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h03/documents/111n_4.pdf 111 民鉄駅別1日平均運輸状況(平成2年度)]}} - 千葉県統計年鑑(平成3年)208ページ</ref>
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
| ||
|70,344||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h04/documents/111n_3.pdf 111 民鉄駅別1日平均運輸状況(平成3年度)]}} - 千葉県統計年鑑(平成4年)208ページ</ref>
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
| ||
|69,640||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h05/documents/111n_2.pdf 111 民鉄駅別1日平均運輸状況(平成4年度)]}} - 千葉県統計年鑑(平成5年)206ページ</ref>
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
| ||
|68,333||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h06/documents/111n_1.pdf 111 民鉄駅別1日平均運輸状況(平成5年度)]}} - 千葉県統計年鑑(平成6年)206ページ</ref>
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
| ||
|67,088||<ref group="統計">{{PDFlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h07/documents/111n.pdf 111 民鉄駅別1日平均運輸状況(平成6年度)]}} - 千葉県統計年鑑(平成7年)206ページ</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| ||
|67,203||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h08/documents/111n_6.xlss 111 民鉄駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成8年)</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| ||
|59,634||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h09/documents/111n_5.xls 111 民鉄駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成9年)</ref>
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
| ||
|55,672||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h10/documents/111n_4.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成10年)</ref>
|-
|1998年(平成10年)
| ||
|53,488||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11/documents/111n_3.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成11年)</ref>
|-
|1999年(平成11年)
| ||
|50,952||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成12年)</ref>
|-
|2000年(平成12年)
| ||
|49,062||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成13年)</ref>
|-
|2001年(平成13年)
| ||
|47,933||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成14年)</ref>
|-
|2002年(平成14年)
| ||
|46,254||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成15年)</ref>
|-
|2003年(平成15年)
|91,240||<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0411/keisei.pdf|title=京成電鉄|format=PDF|page=12|work=[http://www.train-media.net/report/0411/0411.html 平成15年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-05-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131019194358/http://www.train-media.net/report/0411/keisei.pdf|archivedate=2013-10-19}}</ref>
|45,489||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成16年)</ref>
|-
|2004年(平成16年)
|89,528||<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0511/keisei.pdf|title=京成電鉄|format=PDF|page=12|work=[http://www.train-media.net/report/0511/0511.html 平成16年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-05-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131019194352/http://www.train-media.net/report/0511/keisei.pdf|archivedate=2013-10-19}}</ref>
|44,999||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成17年)</ref>
|-
|2005年(平成17年)
|88,499||<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0611/keisei.pdf|title=京成電鉄|format=PDF|page=12|work=[http://www.train-media.net/report/0611/0611.html 平成17年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-05-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131014000144/http://www.train-media.net/report/0611/keisei.pdf|archivedate=2013-10-19}}</ref>
|44,485||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18/documents/111n_2.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成18年)</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|87,529||<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0711/keisei.pdf|title=京成電鉄|format=PDF|page=12|work=[http://www.train-media.net/report/0711/0711.html 平成18年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-05-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131019194409/http://www.train-media.net/report/0711/keisei.pdf|archivedate=2013-10-19}}</ref>
|44,086||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19/documents/111n_1.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成19年)</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|88,106||<ref group="統計">{{Cite web|和書|url=http://www.train-media.net/report/0811/keisei.pdf|title=京成電鉄|format=PDF|page=12|work=[http://www.train-media.net/report/0811/0811.html 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員]|publisher=関東交通広告協議会|accessdate=2019-05-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131019194401/http://www.train-media.net/report/0811/keisei.pdf|archivedate=2013-10-19}}</ref>
|44,225|| <ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成20年)</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|91,353||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/0910/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成20年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|45,729||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成21年)</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|92,190||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1010/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成21年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|46,136||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成22年)</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|91,907||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1110/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成22年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|45,940||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成23年)</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|91,071||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1210/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成23年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|45,492||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成24年)</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|92,145||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1310/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成24年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|46,002||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成25年)</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|93,256||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1410/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成25年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|46,542||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成26年)</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|92,109||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1511/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成26年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|46,000||<ref group="統計">{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h27/documents/111n.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成27年)</ref>
|-
|2015年(平成27年)
|93,420||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1610/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成27年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|46,673||<ref group="統計">{{XLSlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h28/documents/111n.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成28年)</ref>
|-
|2016年(平成28年)
|93,955||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1710/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成28年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|46,970||<ref group="統計">{{XLSlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h29/documents/111n.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成29年)</ref>
|-
|2017年(平成29年)
|94,507||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1810/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成29年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2019年5月5日閲覧。</ref>
|47,225||<ref group="統計">{{XLSlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h30/documents/111n.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成30年)</ref>
|-
|2018年(平成30年)
|94,318||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1910/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成30年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2021年8月30日閲覧。</ref>
|47,142||<ref group="統計">{{XLSlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r1/documents/111n.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(令和元年)</ref>
|-
|2019年(令和元年)
|93,281||<ref group="統計">{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/2010/keisei.pdf 京成電鉄]}}、令和元年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2021年8月30日閲覧。</ref>
|46,610||<ref group="統計">{{XLSlink|[https://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-r02/documents/111n.xlsx 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(令和2年)</ref>
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|67,723||<ref group="京成" name="keisei2020">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2020年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2020_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>
|33,858||<ref group="京成" name="keisei2020" />
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|73,750||<ref group="京成" name="keisei2021">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2021年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2021_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>
|36,887||<ref group="京成" name="keisei2021" />
|-
|2022年(令和{{0}}4年)
|82,828||<ref group="京成" name="keisei2022">{{Cite web|和書|author=京成電鉄株式会社 |authorlink=京成電鉄 |coauthors= |date= |title=駅別乗降人員(2022年度1日平均) |url=https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/2022_ks_joukou.pdf |publisher= |page= |docket= |format=pdf |accessdate=2023-06-10 |quote= |archiveurl= |archivedate= |deadlink= |}}</ref>
|41,353||<ref group="京成" name="keisei2022" />
|}
== 駅周辺 ==
{{Main|船橋駅#駅周辺}}
[[ペデストリアンデッキ]]と[[都市再開発|再開発]][[建築物|ビル]]である[[船橋フェイスビル]](Face)により、当駅と[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東武鉄道]]の[[船橋駅]](南口)が接続されている。さらに[[2007年]][[11月17日]]からは駅コンコースにも直結した。船橋フェイスビルとコンコースをつなぐ通路は船橋フェイスビル2階通路と同様、早朝深夜帯は閉鎖されるため、当該時間帯は地上の公道・横断歩道を経由する必要がある。
当駅東口前には[[千葉県道39号船橋停車場線]]が通り、駅南側には[[京葉道路]]([[船橋インターチェンジ]])、[[東関東自動車道]]、[[国道14号]]([[千葉街道]])、[[国道357号]]([[東京湾岸道路]])、[[千葉県道156号船橋埠頭線]]が通る。当駅の[[駅ビル]]である[[ユアエルム|ネクスト船橋]](next)には、レストランやフード、ファッション雑貨など約20店舗の専門店を有する(地上1階 - 2階)。
以下、総武本線より南側の施設等一覧(北側は「[[船橋駅#駅周辺]]」を参照)。
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* [[船橋市役所]]
** [[千葉銀行]]船橋支店船橋市役所出張所
* [[法務省]]千葉地方法務局船橋支局
* [[船橋警察署]]船橋駅前交番
* 船橋市中央消防署
* 船橋公共職業安定所第一庁舎・第二庁舎
* [[船橋市図書館|船橋市中央図書館]]
* [[船橋市民文化ホール]]
* 船橋市勤労市民センター
* 千葉船橋美容専門学校
* [[中山学園高等学校]]
* [[船橋市立湊中学校]]
* [[船橋市立船橋小学校]]
* [[船橋市立湊町小学校]]
* [[船橋市立南本町小学校]]
* 板倉病院
* [[船橋郵便局]]
** [[ゆうちょ銀行]]船橋店
* 船橋本町郵便局
* [[三菱UFJ銀行]]船橋駅前支店
* [[三井住友銀行]]船橋支店
* [[千葉銀行]]船橋支店
* [[京葉銀行]]船橋支店
* [[千葉興業銀行]]船橋支店
* [[大和証券]]船橋支店
* [[東海東京証券]]船橋支店
* [[野村證券]]船橋支店
* [[SMBC日興証券]]船橋支店
* 船橋本町通り商店街
* [[船橋フェイスビル]] - 商業ゾーン([[ビックカメラ]]など店舗数約36店舗<ref>{{Cite web|和書|title=管理運営商業施設(船橋フェイス) ニッケ・タウンパートナーズ株式会社|url=http://nikke-townpartners.co.jp/sc/f-face/|accessdate=2020-01-15|language=ja}}</ref>)・公共公益ゾーン・オフィスゾーンと区分されている。
* [[JR東日本都市開発#ショッピングセンター事業|シャポー船橋]]([[成城石井]]・[[ワイズマート]]など店舗数約96店舗、船橋駅の駅ビル<ref>{{Cite web|和書|title=シャポー船橋 南館&本館1階・B1階 2018年2月9日(金)グランドオープン!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000112.000015279.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2020-01-15}}</ref>。)
* [[東武ストア]] 船橋南本町店
* [[アタック (スーパーマーケット)|アタック]]船橋湊町店28
* [[大創産業|ダイソー]]ギガ船橋店(売り場面積日本一の[[100円ショップ]])
* [[青山商事|洋服の青山]]船橋南口店
* [[マツモトキヨシ]]船橋駅前通り店
* [[くすりの福太郎]]船橋南口店
* くすりの福太郎船橋本町通り店
* 日産レンタカー船橋駅南口店(京成上野方面高架下)
* [[スギ薬局|スギドラッグ]]船橋本町店
* [[石井食品]]本社
* [[地域新聞社]]本社
* [[京成トラベルサービス]]本社
* [[パークハウスプレシアタワー]]
* [[船橋東照宮]](船橋御殿)
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<gallery>
Funabashi Station Front Street 20190708.jpg|東口より南側の駅前通り 県道39号船橋停車場線(2019年7月)
Funabashi Face Bdg.jpg|船橋フェイスビル
Funabashishiyakusho2012.jpg|船橋市役所
Funabashi City Fire Department.JPG|船橋市中央消防署
ChibaFunabashiPostOffice.JPG|船橋郵便局
Daiso Giga Funabashi 20190708.jpg|ダイソーギガ船橋店
Funabashi park house presia 20190708.jpg|パークハウスプレシアタワー
</gallery>
== バス路線 ==
[[ファイル:Funabashi Station Near South Exit.jpg|thumb|1番・2番バス停留所 [[JR東日本都市開発#ショッピングセンター事業|シャポー船橋]](船橋駅の駅ビル)前]]
「[[船橋駅#バス路線]]」も参照。なお、当駅始発の[[バス停留所|バス停]]は船橋駅(南口)の3番のりばという扱いとなっている。また、船橋駅始発の路線にも「京成船橋駅」バス停がある。反対に、船橋駅方向に向かうバスは基本的に京成船橋駅を終点とする。
{|class="wikitable"
!乗場!!系統!!主要経由地!!行先!!運行事業者!!所管!!備考
|-
|1番||rowspan="2"| ||rowspan="2"| ||rowspan="2"| ||rowspan="2"|{{Color|#1155cc|■}}{{Color|#dd1133|■}}[[京成バスシステム]]<br />{{Color|#1155cc|■}}{{Color|#dd1133|■}}[[京成バス]]<br />{{Color|#00ccff|■}}[[京浜急行バス|京急バス]]<br />{{Color|#6cbb5a|■}}{{Color|#1155cc|■}}[[ちばグリーンバス]]||rowspan="2"| ||rowspan="2"|[[船橋駅#バス路線]]を参照
|-
|2番
|-
|rowspan="6"|3番||rowspan="3"|[[京成バスシステム#臨港線|船61]]||日の出町・丸善||rowspan="2"|船橋海浜公園|| rowspan="6" |{{Color|#1155cc|■}}{{Color|#dd1133|■}}[[京成バスシステム]]||rowspan="6"| ||
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|日の出町・[[二俣新町駅|二俣新道]]||
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|日の出町||丸善||
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|船62||日の出町・二俣新道・[[潮見町 (船橋市)|潮見町]]||rowspan="2"|船橋海浜公園||
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|rowspan="2"|船63||南本町小学校・二俣新道||
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|南本町小学校||丸善||
|-
|杉山ビル前<ref>{{Cite web|和書|title=京成船橋駅 杉山ビル前 {{!}} さくら観光 {{!}} 高速バス・夜行バス予約1230|url=https://www.489.fm/ridedetail-1230.html|website=www.489.fm|accessdate=2021-10-09}}</ref>
|OWL LINER
|[[木津卸売市場|なんば大阪木津市場]]・[[新今宮駅|新今宮]]
|[[りんくうタウン駅]]
|アウル交通(ワールドツアーシステム)
|
|
|}
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:* [[スカイライナー|{{Color|#5362a8|■}}「モーニングライナー」・{{Color|#5362a8|■}}「イブニングライナー」]]停車駅<!--有料列車の停車駅は記載しません-->
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急
::: [[京成八幡駅]] (KS16) - '''京成船橋駅 (KS22)''' - [[京成津田沼駅]] (KS26)<ref name="teisya">[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/railmap/railmap.pdf 京成電鉄ホームページ(路線図)]</ref>
:: {{Color|#ee86a1|■}}快速
::: [[東中山駅]] (KS19) - '''京成船橋駅 (KS22)''' - [[船橋競馬場駅]] (KS24)<ref name="teisya" />
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[海神駅]] (KS21) - '''京成船橋駅 (KS22)''' - [[大神宮下駅]] (KS23)<ref name="teisya" />
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
;京成電鉄の1日平均利用客数
{{Reflist|group="京成"|22em}}
;統計資料
{{Reflist|2|group="統計"|22em}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道駅一覧]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Keisei Funabashi Station}}
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/keisei-funabashi.php 京成船橋駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
* {{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/stationmap/pdf/jp/123.pdf 京成船橋駅]}}
{{京成本線}}
{{DEFAULTSORT:けいせいふなはし}}
[[Category:日本の鉄道駅 け|いせいふなはし]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:船橋市の鉄道駅]]
[[Category:1916年開業の鉄道駅]]
[[Category:船橋駅]]
[[Category:千葉県の駅ビル]] | 2003-03-14T12:42:41Z | 2023-12-10T15:59:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%88%90%E8%88%B9%E6%A9%8B%E9%A7%85 |
4,010 | ヤフー | ヤフー(英: Yahoo) | [
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] | ヤフー ヤフー(Yahoo):ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場する架空の生物
ポータルサイト
Yahoo!:アポロ・グローバル・マネジメント傘下のWebポータル
LINEヤフー株式会社(旧名Zホールディングス、)
ヤフー (企業):過去に存在していた、上記会社を持株会社とするために設立された日本の事業会社。上記親会社と合併して消滅。
Yahoo! JAPAN : 上記日本法人が運営するWebポータル
日本の野球場の呼称の略称
神戸総合運動公園野球場の呼称「Yahoo!BBスタジアム」の略称。
福岡ドームの呼称「福岡Yahoo! JAPANドーム」の略称。 Yaho : 英語の間投詞。日本語のヤッホー。 | '''ヤフー'''({{Lang-en-short|''Yahoo''}})
* ヤフー(Yahoo):[[ジョナサン・スウィフト]]の『[[ガリヴァー旅行記]]』に登場する架空の生物
* ポータルサイト
**[[Yahoo!]]:[[アポロ・グローバル・マネジメント]]傘下のWebポータル
*[[LINEヤフー]]株式会社(旧名Zホールディングス、((初代)ヤフー株式会社))
** [[ヤフー (企業)]]:過去に存在していた、上記会社を持株会社化にともない設立された日本の事業会社。上記親会社と合併して消滅。
***[[Yahoo! JAPAN]] : 上記日本法人が運営するWebポータル
* 日本の[[野球場]]の呼称の略称
** [[神戸総合運動公園野球場]]の呼称「Yahoo!BBスタジアム」(2003年 - 2004年)の略称。
** [[福岡ドーム]]の呼称「福岡Yahoo! JAPANドーム」(2005年 - 2013年)の略称。
* Yaho : [[英語]]の[[間投詞]]。日本語の[[ヤッホー]]。
{{Aimai}}
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%95%E3%83%BC |
4,011 | 磁気コアメモリ | 磁気コアメモリ(じきコアメモリ)は、小さなドーナツ状のフェライトコアを磁化させることにより情報を記憶させる主記憶装置のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある。破壊読み出しだが、磁気で記憶させるため、不揮発性という特徴がある。
縦方向、横方向、さらに斜め方向の三つの線の交点にコアを配置する。縦横方向でアドレッシングを行ない、斜め方向の線でデータを読み出す。
角形ヒステリシス特性を有するある種の磁性材料をストレージまたはスイッチングデバイスとして利用する、というコンセプト自体は、コンピュータの発明初期より存在した。しかし、磁気コアメモリの発明者とされるのは、アン・ワング、ジャン・A・ライクマン、ジェイ・フォレスターの3人である。
磁気コアメモリを世界で初めて開発したのは上海生まれのアメリカ人物理学者であるアン・ワング(王安)と Way-Dong Woo である。彼らは1949年に「パルス転送制御デバイス」を開発したが、その名称が意味するのはコアの磁場を活用して電気機械式システムの制御をするというものだった。ワングと Woo はハーバード大学のハワード・エイケン計算研究所に勤務していたが、大学側は彼らの発明を売り出すことに興味を持たなかった。そのため、ワングらは自分たちで特許を申請することにした。Wooが病気のため中国に帰国したのち、1955年にワングが米国において単独で特許権を取得したため、ワングが磁気コアメモリの発明者とされる。
RCA社のジャン・A・ライクマンもコアメモリに関する先駆的な研究を行っている。ライクマンはフェライト製のバンドを薄い金属管に巻き付けるという構造のストレージシステムを発明し、アスピリン錠のプレス成型機を転用した機械を使ってこれを実際に製造し、1949年に発表した。しかし、ライクマンはRCA社において当時の次世代メモリの本命と目されていた静電記憶管(electrostatic memory tube。CRTを利用した記憶装置)であるウィリアムス管およびセレクトロン管の開発の中心人物であり、後のコアメモリに繋がる研究はこれだけに終わった。
マサチューセッツ工科大学 (MIT) の Whirlwind プロジェクトに従事していたジェイ・フォレスターらのグループが、このワングらの業績に気づいた。Whirlwind はリアルタイムのフライトシミュレーションに使われる予定であり、高速なメモリを必要としていた。最初はウィリアムス管を使おうとしていたが、このデバイスは気まぐれで信頼性に乏しかった。そのため、MIT放射線研究所が開発中であった双電子銃管(dual-gun electron tube)を採用することにしたが、これは失敗で、何年たっても完成せず、1951年の時点ではウィリアムス管以下の性能で、Whirlwindに要求される性能を満たさなった。アメリカ空軍の防空システムに使用するため、年間約100万ドルと言う莫大な金が投入されているにもかかわらず、メインメモリが遅すぎて使い物にならない状態だったので、ジェイ・フォレスターは代替品を探すのに必死であった。
ふたつの発明によって磁気コアメモリの開発が可能となった。ひとつはアン・ワングのライト-アフター-リード・サイクルの発明である。これにより情報を読み出すと消えてしまうという問題が解決された。もうひとつはジェイ・フォレスターの電流一致システム (coincident-current system) であり、これによって多数のコアを数本のワイヤで制御することが可能となった。こうして1951年に磁気コアメモリの原理が発明された。ジェイ・フォレスターの2年の研究の結果、アクセス時間9マイクロ秒、記憶容量1024ワードという、Whirlwindの要求性能についに到達し、1953年夏、磁気コアメモリがWhirlwindに取り付けられた。これが史上初、コンピュータに実用搭載された磁気コアメモリである。当時各所で開発中であった次世代の静電記憶管(前述のMITの双電子銃管、RCA社のセレクトロン管など)が実用化される前に、これを超える性能を持つ磁気コアメモリが実用化されたことにより、静電記憶管の研究は全て中止された。ウィリアムス管を採用していたIBM 702(1953年発売)もすぐに磁気コアメモリを採用したIBM 704(1954年)を発売し、フェランティ社など他のコンピュータ会社もそれに続いた。商用製品としては、ジュークボックスのシーバーグ社が1955年に「Tormatコントロールシステム」として磁気コアメモリを用いた記憶システムを採用し、コンピュータ以外に電話機やその他の産業用機器など非常に広い範囲で採用されるようになった。
磁気コアメモリにおいて最もコストがかかったのは、フェライトコアにワイヤーを張る人件費である。フォレスターの発明した電流一致システムでは、ワイヤの1つをコアに対して45度で走らせる必要があったが、これは機械によるワイヤリングが難しかったため、人間が顕微鏡を見ながら精密なモーター制御を行ってコアの配列を編み上げる必要があった。そのため1950年代後半には、極東でコアメモリ製造工場ができており、例えば東京電気化学工業(現・TDK)の市川工場(東京電気化学工業株式会社電子事業部、現・TDKテクニカルセンター)が1956年に設立されている。日立製作所茂原工場(現・ジャパンディスプレイ)におけるコアメモリの生産開始時期は不明であるが、1957年に稼働した電電公社のMUSASINO-1のためにコアメモリ事業が立ち上げられたことを考えると、ほぼ同時期だと推測される。工員の多くは「手先が器用」とされた女性で、当初は縫製工が雇われたが、1956年に東京通信工業(現・ソニー)が工員募集の際に「女工」の代わりに使った「トランジスタ娘」のキャッチコピーが話題となったため、(ソニーは社の方針としてコンシューマー志向だったので、大型機向けは電気試験所のETL Mark IIIの磁気ドラム装置の磁性体の開発に協力した程度でコアメモリを作っていなかったが)それまでの紡績メーカーに代わって電子機器メーカーの工員が女性の花形職業となった。数百人の労働者が一日数セントの賃金でコアメモリを組み立てていた(1960年当時の大卒初任給が約1.1万円、1ドル360円の時代なので、当時は相当な高学歴だった大卒でも米ドル換算で日給1ドルを下回るような時代であり、中卒・高卒で「金の卵」と呼ばれて上京し集団就職した女性工員はそれよりも遥かに低い)。これによってコアメモリの価格が低くなり、1960年代初めには主記憶装置として広く使われるようになり、低価格/低性能の磁気ドラムメモリも高価格/高性能の静電記憶管(ウィリアムス管など)も使われなくなっていった。「コアメモリプレーン」として1枚だけで使われることもあった(平面実装方式)が、「コアメモリスタック」として何枚も積み重ねて大容量化を図った製品もあった。例えば8K*8Kのプレーンを64枚スタックした3D方式のコアメモリの場合、1スタックで8K*8K*64 = 4096Kの大容量を扱えることになる。ただし、「スタック」の形式をとると発熱や価格などの問題があるため、特にコアメモリの実装密度が向上した1970年代以降は、一般的な計算機ではコアをスタックするよりも平面展開してプレーン1枚だけで使われることが多かった。
コストを抑えるため、半自動化に向けての技術革新が続いた。1956年にIBMのグループが、最初の数本のワイヤーを各コアに自動的に通す装置の特許を申請した。この装置はフェライトコアの平面部分を「ネスト」状に保持し、さらにその後、中空の針の配列をコアに突き通して、ワイヤーを編組む際のガイドとするものである。この装置を使用することで、128 x 128コア(16,384bit)の配列においてX線とY線(縦横のワイヤー)を編組むのにかかっていた時間が、それまでの25時間から12分に短縮された。フェライトコアが微細化するに従って、中空の針を使う方式は役に立たなくなってしまった物の、代わりにガイド用の通路が付いた補助ネストが開発された。フェライトコアを「patch」(とwikipedia英語版にあるが、どこのメーカーの呼称かは不明。日立製作所での呼称は「ブロック」)ごとに裏材に接着するようになり(なお、日立ではアルミ板にシリコン樹脂で固定していた)、編組時や使用時に便利になった。メモリプレーンを編組するための針をワイヤーに突合せ溶接することで、針の径はワイヤーの径と同じになり、(特許の出願はDRAMの普及より後になるが)針自体を無くすための発明もなされた。オートメーション化において重要だったのが、インヒビット線(禁止線)とセンス線(探査線)の編組方式の改良で、これによりセンス線を斜め方向に長々と伸ばす必要が無くなり、また各ブロックにおいてフェライトコアをより密接に配置することも可能となった。
磁気コアメモリの製造が自動化されることはなかったが、その価格はほぼムーアの法則に従った推移を示した。最初のころビット当たり1ドル程度だった価格は、最後にはビット当たり0.01ドルになっている。フェライトコアも1950年代には直径0.1インチ(2.5 mm)だったものが、1966年には0.013インチ(0.33 mm)にまで微細化。1967年には台湾でも高雄日立(現・高雄晶傑達光電科技)が設立されてコアメモリの生産を開始する。日本や台湾など極東の人件費の安い国の工場で大量の女工を投入して人の手で編組みするという、典型的な労働集約型の製造方法を取っていた。
その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ (RAM) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初のDRAM、Intel 1103(容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており(逆に言うと、最後期の磁気コアメモリは最初期のDRAMと同レベルの集積度を手作業で実現していたということである)、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitのSRAMであるIntel 1101を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。1973年から1978年にかけて、末期には生産されるコアメモリのほとんどが保守用パーツだったが、次第に市場が縮小していった。
磁気コアメモリは、磁気をスイッチや増幅に使用する様々な技術のひとつである。1950年代、ウィリアムス管に代表される真空管メモリは先端技術であったが、その材質は壊れやすく、発熱と電力消費が大きく、不安定であった。磁気デバイスはトランジスタなどの半導体デバイスと同様の利点を持っていて、軍事利用された例が多い。
ワング博士の出願した特許は1955年にようやく認められたが、そのころには既に磁気コアメモリが使われていた。そのため長い訴訟問題となったが、1956年にIBMがワングに数百万ドルを支払って特許権を買い取ることで解決した。ワングはこれを資金としてワング・ラボラトリーズの規模を拡大させた。なおワングはこの時の因縁からIBMに対抗意識を燃やし、電卓、ワープロ機、そしてミニコン市場に進出。全盛期となる1980年代初頭にはアメリカのOA機器市場でIBMを上回る市場シェアを誇ったが、IBMが1980年代にはパソコンに力を入れたのとは対照的に、ワングはワープロ機やミニコンなどの独自システムの展開に固執したため、1980年代後半にはアメリカのオフィスにあったワングのOA機器はIBM社のパソコンに置き換えられ、1992年に倒産した。
一方、フォレスターの特許に関してもIBMとMITで訴訟となった。MITは1959年の時点で、1コア当たり2セントの特許料を要求していたが、磁気コアメモリの普及により、1963年度のIBM社の年間報告書におけるフェライトコアの生産量を見る限りでは、その年だけで20万ドルを支払わなければいけない事が判明したため、IBM社が13万ドルを一括で支払うことで1964年にMITと同意。当時としては史上最高額の特許料であった。
フォレスターが2011年に回想したところによると、(一般的には磁気コアメモリの発明者の1人だとされている)ワングの発明は自分の発明に全く何の影響も及ぼしていない、とのこと。フォレスターはコンピューター業界において7年がかりでコンピューターのメモリを磁気コアメモリに置き換えた後、特許裁判所において7年がかりで自分こそが磁気コアメモリの発明者だと認めさせた。
1954年、東京大学理学部高橋秀俊研究室の学生であった後藤英一がパラメトロン素子を発明する。同年7月、後藤がパラメトロン素子を日本電信電話公社(現・NTT)電気通信技術委員会研究専門委員会の電子計算機研究専門委員会において発表したところ、これが高く評価され、日本の各所でパラメトロン方式の計算機の開発が始まった。一方同時期、電子計算機研究専門委員会において米国のI.R.E誌(現・IEEE誌)の計算機特集を各委員で手分けして子細に検討していたところ、1954年2月、後藤と高橋は同誌に掲載されていた前述のRCA社のジャン・A・ライクマンの論文を知る。これがたまたまパラメトロンと同じく磁心(フェライトコア)を利用する物であったことと、パラメトロンの高い信頼性に釣り合うメモリと言うことから、高橋はパラメトロン方式の計算機に使用されるメモリとして磁気コアメモリ(当時の日本語では「磁心記憶装置」)を使用することに決定した。このように、日本で磁気コアメモリが次世代メモリの本命とされ、研究開発が開始されたのはかなり早い(なお当時の日本の計算機開発を主導した電電公社は製造部門を持たなかったため、技術開発はメーカーとの共同によってなされていた。後に大手メーカー数社と「電電ファミリー」を形成して通信産業を独占し、その弊害から1985年に解体されて現在のNTTグループ各社となるが、当時の日本メーカー各社の技術向上に寄与した点は大きい)。
ただし、パラメトロン方式の計算機では交流が使われるため、直流を用いた米国の磁気コアメモリの方式をそのまま使うことができなかった。そのため、後藤はパラメトロンに適した磁気コアメモリである「二周波メモリ」を発明し、1955年4月に特許を出願し、1956年2月に電子計算機研究専門委員会で発表した。この「二周波メモリ」が1950年代後半の日本のパラメトロン方式の計算機で使われている磁気コアメモリの方式である。パラメトロン方式の計算機で磁気コアメモリが採用されたのは、当時の日本では技術やコストの制約で水銀遅延線や静電記憶管のような既存の装置を開発するのは困難だという消極的な理由もあったが、後藤ら開発者がその可能性を正しく評価できたことと、東京電気化学工業(TDK)の協力が得られたことが大きな理由である。
後藤はフェライトコアの制作をTDKに依頼した。後藤によると、パラメトロン用のフェライトコアの制作に関しては、最初に作った銅・亜鉛系のコアがたまたまパラメトロンに最適な物で、ラッキーだったが、磁気コアメモリ用のフェライトコアの制作に関してはものすごく苦労したとのこと。これが取り付けられたパラメトロン計算機PC-1が日本初の磁気コアメモリを採用した計算機となるはずであったが、東京大学高橋研究室によるPC-1本体の開発は難航し、稼働したのは1958年3月となった。結局、後藤のアイデアに基づいて電電公社の電気通信研究所(通研、現・NTT武蔵野研究開発センタ)が後から開発し、1957年3月に稼働したパラメトロン式計算機MUSASINO-1が最も早かった。ただし、MUSASINO-1の当初のコアメモリの記憶容量はたった32ワード(1280ビット)であり、1958年3月に256ワード(10,240ビット)に拡張されてようやく実用的になった。
電電公社の主導するパラメトロン計算機の流れは続かず、日本メーカー各社は1950年代後半より米国メーカーと提携して、米国より日本に計算機の技術移転が開始される。しかし、IBMに提携を断られたためRCAやUNIVACなどIBM以外の「7人の小人」と呼ばれる中小メーカーと提携せざるをえなかったり、莫大な技術料(ロイヤルティ)を払ったわりにそれほど大した技術協力が得られず研究員を数名米国企業に派遣して逐次送られてくる手書きのレポートを頼りにしたり、最終的には米国メーカーが不甲斐ないので独自路線を歩まざるをえなかったり、とても大変だった。
日本が「世界の工場」として海外向けの磁気コアメモリを作っていた歴史は前記を参照。ただし、単に米国メーカーの技術をベースに安価なコアメモリを提供するだけだったわけではなく、TDKや日立など日本メーカーの独自の発明もいくつかなされており、米国特許も取得している。当時生産された物のいくつかは産業遺産として保存されており、例えば日立製作所が1964年にHITAC 5020用に制作した4Kの磁心記憶装置が日立製作所に所蔵されているほか、NTT技術史料館に所蔵されているMUSASINO-1にも磁心記憶装置が搭載されている。4Kのコアメモリで1ユニット当たり4096個、64K(8K*8K)の物で65536個も搭載されたフェライトコアは、全て高度成長期の日本人が顕微鏡を見ながらドーナツ状のフェライト磁石(リングコア)に銅線を1本ずつ手で通したものである。
なお、コアメモリは人件費の安い日本の工場で製造することで低価格化を図り、メインメモリとして磁気ドラム装置などに代わって広く普及させることに成功したが、それでも高価であることには変わりなかった。特に日本国内の組織が自前でコンピュータを作る際はTDKや日立に高い金を払ってコアメモリを購入することになるため、例えば電電公社・日本電気(NEC)・日立製作所・富士通の4社共同で1968年より開発が開始された電電公社のDIPS-1(主記憶16MB)では、磁気コアメモリがそのセンタコストの約3割を占めたという。そのため、DIPS-1では後にコアメモリより安くて大容量な磁気ドラム装置を用いた仮想記憶システムが搭載された。磁気ドラム装置は安価で大容量と言う点を生かし、1960年代以降には補助記憶として利用されるようになったが、メインメモリのコアメモリと比べると1000倍程度遅く、1970年当時には主記憶と補助記憶のあまりに大きすぎる性能差が問題となっていた。電電公社のシステムでは従来の固定ヘッドに代わって浮動ヘッド方式を採用することで10倍の高速化を成し遂げたが、それでも遅かった(主記憶と補助記憶のあまりに大きすぎる性能差は2020年現在でも解決されていない)。
日本メーカーが半導体メモリの量産を開始するのは、Intelの2年後となる1973年頃からである。NEC(半導体事業部、後に日立の半導体事業部と合併、現・マイクロンメモリジャパン)の開発したSRAMは1973年にDIPS-1に搭載された(NECは1968年に144bitのSRAMを開発していたという説があるが、この説が本当なら世界初のSRAMはIntel 1101ではなくNECと言うことになってしまうので議論の余地がある)。また、日立製作所(半導体事業部、現・マイクロンメモリジャパン)も1973年に日立初の半導体メモリとなるHM3503シリーズ(1,024ビット、Intel1103シリーズ相当品)の量産を開始する。コアメモリは信頼性、コスト、電源を切っても記憶内容が消失しないなど、1973年の時点でも半導体メモリに対する利点は依然として大きく、メインメモリ以外の分野ではしばらくはコアメモリを置き換えることは無いだろうというのが業界の予想であり、日立の社内誌である『日立評論』においても1973年以後もいくつかコアメモリの高性能化に向けた論文が発表されているが、一方で、大容量、速度、コストの面から今後の半導体メモリの市場性が高いことに日立は気づいていた。日立は1952年にRCA社と技術提携し、日立製作所茂原工場(現・ジャパンディスプレイ)にRCA社の技術導入を行った際「欧米との20年の技術的な隔たり」があると語ったが、20年後の1972年の時点では世界の半導体ビッグスリーの一角を占めるまでになっていた(と「日立評論」1974年1月号p.40では主張しているが、実際はNECやフェアチャイルドなど3位集団にひしめき合っており、また1位のTIと2位のモトローラからはかなり離されていた。しかし、少なくともRCA社に高いロイヤルティを払って技術を使わせてもらって製品を作っていただけの頃とは違う、世界有数の半導体メーカーとしての自覚が1974年当時の日立にあったことが分かる)。
なお、国際電信電話(KDD、現・KDDI)の大島信太郎らが、RCA社のライクマンの特許をベースにパラメトロン用の磁性薄膜メモリを1960年頃に開発している。大島らの開発した磁性薄膜メモリの方式は、電着法によって銅線表面に磁性合金膜を析出した磁性線(ワイヤ)を記憶素子として利用した、織成形ワイヤメモリの一種である。「磁性薄膜メモリ」とは、磁性薄膜を平板(プレート)もしくは磁性線(ワイヤ)にめっき、電着、蒸着などの方式で形成して記憶素子としたもので、コアメモリと同等の特性を持ちながら、コアを人の手で編組しているコアメモリと比較して量産性・高密度性・高速性に優れていると考えられており、1950年代後半より各所で試作されていたが、1960年代以降のコアメモリの(依然として人の手で編組しているにもかかわらず)想像以上の微細化・高速化・低価格化・大容量化と、薄膜メモリの薄膜の不安定さなど技術開発の困難さにより、学術機関や軍関係など特殊な機関における採用に留まり、米国においても商用化はなされていなかった。しかし大島らはこれらの問題を解決する「ファインストライプトメモリ」を開発(これにより1971年度の電子通信学会業績賞を受賞)。コアメモリは1960年代後半ごろにはフェライトコアの微細化の限界に由来する問題から、1966年に直径14ミル(0.35 mm)に到達して以来微細化がストップしていたため(wikipedia英語版では1966年に0.013インチ(13ミル、0.33mm)まで微細化が進んでいたとあるが、日本国内メーカーでは日立の14ミルが最大である)、いよいよ「機は熟した」ということで、「ファインストライプトメモリ」の技術はコアメモリに代わる次世代メモリとして日本の主要メーカー13社に技術指導がなされ、1970年頃には東光(現・埼玉村田製作所)が量産化にまでこぎつけたが、この後すぐに半導体メモリの量産が開始されたためにあまり生産されなかった(1970年頃に開発が行われていたコアメモリの次世代メモリの技術は他にもいろいろあったが、半導体メモリの実用化に伴ってほとんど中止されるので、量産化までこぎつけた製品は少ない。リングコアの直径10ミル以下の「マイクロフェライト・メモリー」も研究されていたが、実用化される前に半導体メモリが登場した)。なおフェライトの微細化に関しては、HITAC 5020を開発した日立の村田健郎によると、「女工さんの目が潰れるので、これ以上は無理」だったとのこと(図書館情報大学教授時代の村田が、教え子である阪口哲男に語ったところによる)。
その後、1980年代には世界シェアの8割を占め「産業のコメ」とまで言われた日本のメモリメーカーは、2010年代までにすべて潰れたが、TDKは2020年現在もまだフェライトコアを作っている。リングコアを自力で編組することで磁気コアメモリの自作も可能。2021年現在、数寄者が製作したarduino用のコアメモリモジュール(容量:32ビット)が市販されている。
一般的な磁気コアメモリについて、その構造と記憶の原理について説明する。
基本的な要諦は、フェライトコアの特性としてその磁化特性について、ヒステリシスの存在により着磁の変化に一定の「しきい値」のようなものがある、ということである。
磁気コアメモリは、小型のフェライト磁性体のリング(コアという)に電線が通されたものが、格子状に多数配置された構造になっている。コアの一つが1ビットの記憶容量を持つ。
一つのコアに対しては、書き込み用電線が縦横の各1本で2本、それと読み出し用電線1本が通っている。書き込み用電線は格子状に配線され格子点にコアがある。格子の縦横各1本の書き込み用電線を指定すると、一つのコアが定まるわけである。これがビットアドレスの指定になる。縦と横のそれぞれ1本の電線に流す電流は、ある程度の余裕を持って前述のしきい値よりも低い磁力しか発生させない程度に流す。これにより、交点にある、両方の電線が通っている唯一のコアだけが十分な強さの磁力の変化を受ける。
あるコアにデータを書き込むには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流して磁化させる。電流の方向によりコアの磁界の向きが決まり、それにより0か1のビット値が決まる。なお、磁化されたコアは、電流が止まっても磁化した状態を保持するので不揮発性のメモリということができる。
あるコアのデータを読み出すには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流し、読み出し用電線の電流を検知する。このとき現在のコアの磁界の向きが逆転するようであれば、読み出し用ケーブルに電流が流れる。逆転しない場合は、読み出し用電線に電流が流れない。これによりコアのビット値が判明する。しかし、データを読み出すときに、書き込み用電線2本に電流を流すのでコアが磁化されてしまい、読み出し前の内容が失われてしまう(非破壊読み出しができない)。このためコアの内容をその後も保持したい場合は、「書き戻し」が必要である。 | [
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"text": "磁気コアメモリ(じきコアメモリ)は、小さなドーナツ状のフェライトコアを磁化させることにより情報を記憶させる主記憶装置のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある。破壊読み出しだが、磁気で記憶させるため、不揮発性という特徴がある。",
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"text": "縦方向、横方向、さらに斜め方向の三つの線の交点にコアを配置する。縦横方向でアドレッシングを行ない、斜め方向の線でデータを読み出す。",
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"text": "角形ヒステリシス特性を有するある種の磁性材料をストレージまたはスイッチングデバイスとして利用する、というコンセプト自体は、コンピュータの発明初期より存在した。しかし、磁気コアメモリの発明者とされるのは、アン・ワング、ジャン・A・ライクマン、ジェイ・フォレスターの3人である。",
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"text": "磁気コアメモリを世界で初めて開発したのは上海生まれのアメリカ人物理学者であるアン・ワング(王安)と Way-Dong Woo である。彼らは1949年に「パルス転送制御デバイス」を開発したが、その名称が意味するのはコアの磁場を活用して電気機械式システムの制御をするというものだった。ワングと Woo はハーバード大学のハワード・エイケン計算研究所に勤務していたが、大学側は彼らの発明を売り出すことに興味を持たなかった。そのため、ワングらは自分たちで特許を申請することにした。Wooが病気のため中国に帰国したのち、1955年にワングが米国において単独で特許権を取得したため、ワングが磁気コアメモリの発明者とされる。",
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"text": "RCA社のジャン・A・ライクマンもコアメモリに関する先駆的な研究を行っている。ライクマンはフェライト製のバンドを薄い金属管に巻き付けるという構造のストレージシステムを発明し、アスピリン錠のプレス成型機を転用した機械を使ってこれを実際に製造し、1949年に発表した。しかし、ライクマンはRCA社において当時の次世代メモリの本命と目されていた静電記憶管(electrostatic memory tube。CRTを利用した記憶装置)であるウィリアムス管およびセレクトロン管の開発の中心人物であり、後のコアメモリに繋がる研究はこれだけに終わった。",
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"text": "マサチューセッツ工科大学 (MIT) の Whirlwind プロジェクトに従事していたジェイ・フォレスターらのグループが、このワングらの業績に気づいた。Whirlwind はリアルタイムのフライトシミュレーションに使われる予定であり、高速なメモリを必要としていた。最初はウィリアムス管を使おうとしていたが、このデバイスは気まぐれで信頼性に乏しかった。そのため、MIT放射線研究所が開発中であった双電子銃管(dual-gun electron tube)を採用することにしたが、これは失敗で、何年たっても完成せず、1951年の時点ではウィリアムス管以下の性能で、Whirlwindに要求される性能を満たさなった。アメリカ空軍の防空システムに使用するため、年間約100万ドルと言う莫大な金が投入されているにもかかわらず、メインメモリが遅すぎて使い物にならない状態だったので、ジェイ・フォレスターは代替品を探すのに必死であった。",
"title": "歴史"
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"text": "ふたつの発明によって磁気コアメモリの開発が可能となった。ひとつはアン・ワングのライト-アフター-リード・サイクルの発明である。これにより情報を読み出すと消えてしまうという問題が解決された。もうひとつはジェイ・フォレスターの電流一致システム (coincident-current system) であり、これによって多数のコアを数本のワイヤで制御することが可能となった。こうして1951年に磁気コアメモリの原理が発明された。ジェイ・フォレスターの2年の研究の結果、アクセス時間9マイクロ秒、記憶容量1024ワードという、Whirlwindの要求性能についに到達し、1953年夏、磁気コアメモリがWhirlwindに取り付けられた。これが史上初、コンピュータに実用搭載された磁気コアメモリである。当時各所で開発中であった次世代の静電記憶管(前述のMITの双電子銃管、RCA社のセレクトロン管など)が実用化される前に、これを超える性能を持つ磁気コアメモリが実用化されたことにより、静電記憶管の研究は全て中止された。ウィリアムス管を採用していたIBM 702(1953年発売)もすぐに磁気コアメモリを採用したIBM 704(1954年)を発売し、フェランティ社など他のコンピュータ会社もそれに続いた。商用製品としては、ジュークボックスのシーバーグ社が1955年に「Tormatコントロールシステム」として磁気コアメモリを用いた記憶システムを採用し、コンピュータ以外に電話機やその他の産業用機器など非常に広い範囲で採用されるようになった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 7,
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"text": "磁気コアメモリにおいて最もコストがかかったのは、フェライトコアにワイヤーを張る人件費である。フォレスターの発明した電流一致システムでは、ワイヤの1つをコアに対して45度で走らせる必要があったが、これは機械によるワイヤリングが難しかったため、人間が顕微鏡を見ながら精密なモーター制御を行ってコアの配列を編み上げる必要があった。そのため1950年代後半には、極東でコアメモリ製造工場ができており、例えば東京電気化学工業(現・TDK)の市川工場(東京電気化学工業株式会社電子事業部、現・TDKテクニカルセンター)が1956年に設立されている。日立製作所茂原工場(現・ジャパンディスプレイ)におけるコアメモリの生産開始時期は不明であるが、1957年に稼働した電電公社のMUSASINO-1のためにコアメモリ事業が立ち上げられたことを考えると、ほぼ同時期だと推測される。工員の多くは「手先が器用」とされた女性で、当初は縫製工が雇われたが、1956年に東京通信工業(現・ソニー)が工員募集の際に「女工」の代わりに使った「トランジスタ娘」のキャッチコピーが話題となったため、(ソニーは社の方針としてコンシューマー志向だったので、大型機向けは電気試験所のETL Mark IIIの磁気ドラム装置の磁性体の開発に協力した程度でコアメモリを作っていなかったが)それまでの紡績メーカーに代わって電子機器メーカーの工員が女性の花形職業となった。数百人の労働者が一日数セントの賃金でコアメモリを組み立てていた(1960年当時の大卒初任給が約1.1万円、1ドル360円の時代なので、当時は相当な高学歴だった大卒でも米ドル換算で日給1ドルを下回るような時代であり、中卒・高卒で「金の卵」と呼ばれて上京し集団就職した女性工員はそれよりも遥かに低い)。これによってコアメモリの価格が低くなり、1960年代初めには主記憶装置として広く使われるようになり、低価格/低性能の磁気ドラムメモリも高価格/高性能の静電記憶管(ウィリアムス管など)も使われなくなっていった。「コアメモリプレーン」として1枚だけで使われることもあった(平面実装方式)が、「コアメモリスタック」として何枚も積み重ねて大容量化を図った製品もあった。例えば8K*8Kのプレーンを64枚スタックした3D方式のコアメモリの場合、1スタックで8K*8K*64 = 4096Kの大容量を扱えることになる。ただし、「スタック」の形式をとると発熱や価格などの問題があるため、特にコアメモリの実装密度が向上した1970年代以降は、一般的な計算機ではコアをスタックするよりも平面展開してプレーン1枚だけで使われることが多かった。",
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"text": "コストを抑えるため、半自動化に向けての技術革新が続いた。1956年にIBMのグループが、最初の数本のワイヤーを各コアに自動的に通す装置の特許を申請した。この装置はフェライトコアの平面部分を「ネスト」状に保持し、さらにその後、中空の針の配列をコアに突き通して、ワイヤーを編組む際のガイドとするものである。この装置を使用することで、128 x 128コア(16,384bit)の配列においてX線とY線(縦横のワイヤー)を編組むのにかかっていた時間が、それまでの25時間から12分に短縮された。フェライトコアが微細化するに従って、中空の針を使う方式は役に立たなくなってしまった物の、代わりにガイド用の通路が付いた補助ネストが開発された。フェライトコアを「patch」(とwikipedia英語版にあるが、どこのメーカーの呼称かは不明。日立製作所での呼称は「ブロック」)ごとに裏材に接着するようになり(なお、日立ではアルミ板にシリコン樹脂で固定していた)、編組時や使用時に便利になった。メモリプレーンを編組するための針をワイヤーに突合せ溶接することで、針の径はワイヤーの径と同じになり、(特許の出願はDRAMの普及より後になるが)針自体を無くすための発明もなされた。オートメーション化において重要だったのが、インヒビット線(禁止線)とセンス線(探査線)の編組方式の改良で、これによりセンス線を斜め方向に長々と伸ばす必要が無くなり、また各ブロックにおいてフェライトコアをより密接に配置することも可能となった。",
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"text": "磁気コアメモリの製造が自動化されることはなかったが、その価格はほぼムーアの法則に従った推移を示した。最初のころビット当たり1ドル程度だった価格は、最後にはビット当たり0.01ドルになっている。フェライトコアも1950年代には直径0.1インチ(2.5 mm)だったものが、1966年には0.013インチ(0.33 mm)にまで微細化。1967年には台湾でも高雄日立(現・高雄晶傑達光電科技)が設立されてコアメモリの生産を開始する。日本や台湾など極東の人件費の安い国の工場で大量の女工を投入して人の手で編組みするという、典型的な労働集約型の製造方法を取っていた。",
"title": "歴史"
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"text": "その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ (RAM) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初のDRAM、Intel 1103(容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており(逆に言うと、最後期の磁気コアメモリは最初期のDRAMと同レベルの集積度を手作業で実現していたということである)、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitのSRAMであるIntel 1101を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。1973年から1978年にかけて、末期には生産されるコアメモリのほとんどが保守用パーツだったが、次第に市場が縮小していった。",
"title": "歴史"
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"text": "磁気コアメモリは、磁気をスイッチや増幅に使用する様々な技術のひとつである。1950年代、ウィリアムス管に代表される真空管メモリは先端技術であったが、その材質は壊れやすく、発熱と電力消費が大きく、不安定であった。磁気デバイスはトランジスタなどの半導体デバイスと同様の利点を持っていて、軍事利用された例が多い。",
"title": "歴史"
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"text": "ワング博士の出願した特許は1955年にようやく認められたが、そのころには既に磁気コアメモリが使われていた。そのため長い訴訟問題となったが、1956年にIBMがワングに数百万ドルを支払って特許権を買い取ることで解決した。ワングはこれを資金としてワング・ラボラトリーズの規模を拡大させた。なおワングはこの時の因縁からIBMに対抗意識を燃やし、電卓、ワープロ機、そしてミニコン市場に進出。全盛期となる1980年代初頭にはアメリカのOA機器市場でIBMを上回る市場シェアを誇ったが、IBMが1980年代にはパソコンに力を入れたのとは対照的に、ワングはワープロ機やミニコンなどの独自システムの展開に固執したため、1980年代後半にはアメリカのオフィスにあったワングのOA機器はIBM社のパソコンに置き換えられ、1992年に倒産した。",
"title": "歴史"
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"text": "一方、フォレスターの特許に関してもIBMとMITで訴訟となった。MITは1959年の時点で、1コア当たり2セントの特許料を要求していたが、磁気コアメモリの普及により、1963年度のIBM社の年間報告書におけるフェライトコアの生産量を見る限りでは、その年だけで20万ドルを支払わなければいけない事が判明したため、IBM社が13万ドルを一括で支払うことで1964年にMITと同意。当時としては史上最高額の特許料であった。",
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"text": "フォレスターが2011年に回想したところによると、(一般的には磁気コアメモリの発明者の1人だとされている)ワングの発明は自分の発明に全く何の影響も及ぼしていない、とのこと。フォレスターはコンピューター業界において7年がかりでコンピューターのメモリを磁気コアメモリに置き換えた後、特許裁判所において7年がかりで自分こそが磁気コアメモリの発明者だと認めさせた。",
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"text": "1954年、東京大学理学部高橋秀俊研究室の学生であった後藤英一がパラメトロン素子を発明する。同年7月、後藤がパラメトロン素子を日本電信電話公社(現・NTT)電気通信技術委員会研究専門委員会の電子計算機研究専門委員会において発表したところ、これが高く評価され、日本の各所でパラメトロン方式の計算機の開発が始まった。一方同時期、電子計算機研究専門委員会において米国のI.R.E誌(現・IEEE誌)の計算機特集を各委員で手分けして子細に検討していたところ、1954年2月、後藤と高橋は同誌に掲載されていた前述のRCA社のジャン・A・ライクマンの論文を知る。これがたまたまパラメトロンと同じく磁心(フェライトコア)を利用する物であったことと、パラメトロンの高い信頼性に釣り合うメモリと言うことから、高橋はパラメトロン方式の計算機に使用されるメモリとして磁気コアメモリ(当時の日本語では「磁心記憶装置」)を使用することに決定した。このように、日本で磁気コアメモリが次世代メモリの本命とされ、研究開発が開始されたのはかなり早い(なお当時の日本の計算機開発を主導した電電公社は製造部門を持たなかったため、技術開発はメーカーとの共同によってなされていた。後に大手メーカー数社と「電電ファミリー」を形成して通信産業を独占し、その弊害から1985年に解体されて現在のNTTグループ各社となるが、当時の日本メーカー各社の技術向上に寄与した点は大きい)。",
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"text": "ただし、パラメトロン方式の計算機では交流が使われるため、直流を用いた米国の磁気コアメモリの方式をそのまま使うことができなかった。そのため、後藤はパラメトロンに適した磁気コアメモリである「二周波メモリ」を発明し、1955年4月に特許を出願し、1956年2月に電子計算機研究専門委員会で発表した。この「二周波メモリ」が1950年代後半の日本のパラメトロン方式の計算機で使われている磁気コアメモリの方式である。パラメトロン方式の計算機で磁気コアメモリが採用されたのは、当時の日本では技術やコストの制約で水銀遅延線や静電記憶管のような既存の装置を開発するのは困難だという消極的な理由もあったが、後藤ら開発者がその可能性を正しく評価できたことと、東京電気化学工業(TDK)の協力が得られたことが大きな理由である。",
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"text": "後藤はフェライトコアの制作をTDKに依頼した。後藤によると、パラメトロン用のフェライトコアの制作に関しては、最初に作った銅・亜鉛系のコアがたまたまパラメトロンに最適な物で、ラッキーだったが、磁気コアメモリ用のフェライトコアの制作に関してはものすごく苦労したとのこと。これが取り付けられたパラメトロン計算機PC-1が日本初の磁気コアメモリを採用した計算機となるはずであったが、東京大学高橋研究室によるPC-1本体の開発は難航し、稼働したのは1958年3月となった。結局、後藤のアイデアに基づいて電電公社の電気通信研究所(通研、現・NTT武蔵野研究開発センタ)が後から開発し、1957年3月に稼働したパラメトロン式計算機MUSASINO-1が最も早かった。ただし、MUSASINO-1の当初のコアメモリの記憶容量はたった32ワード(1280ビット)であり、1958年3月に256ワード(10,240ビット)に拡張されてようやく実用的になった。",
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"text": "日本が「世界の工場」として海外向けの磁気コアメモリを作っていた歴史は前記を参照。ただし、単に米国メーカーの技術をベースに安価なコアメモリを提供するだけだったわけではなく、TDKや日立など日本メーカーの独自の発明もいくつかなされており、米国特許も取得している。当時生産された物のいくつかは産業遺産として保存されており、例えば日立製作所が1964年にHITAC 5020用に制作した4Kの磁心記憶装置が日立製作所に所蔵されているほか、NTT技術史料館に所蔵されているMUSASINO-1にも磁心記憶装置が搭載されている。4Kのコアメモリで1ユニット当たり4096個、64K(8K*8K)の物で65536個も搭載されたフェライトコアは、全て高度成長期の日本人が顕微鏡を見ながらドーナツ状のフェライト磁石(リングコア)に銅線を1本ずつ手で通したものである。",
"title": "日本における磁気コアメモリの歴史"
},
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"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "なお、コアメモリは人件費の安い日本の工場で製造することで低価格化を図り、メインメモリとして磁気ドラム装置などに代わって広く普及させることに成功したが、それでも高価であることには変わりなかった。特に日本国内の組織が自前でコンピュータを作る際はTDKや日立に高い金を払ってコアメモリを購入することになるため、例えば電電公社・日本電気(NEC)・日立製作所・富士通の4社共同で1968年より開発が開始された電電公社のDIPS-1(主記憶16MB)では、磁気コアメモリがそのセンタコストの約3割を占めたという。そのため、DIPS-1では後にコアメモリより安くて大容量な磁気ドラム装置を用いた仮想記憶システムが搭載された。磁気ドラム装置は安価で大容量と言う点を生かし、1960年代以降には補助記憶として利用されるようになったが、メインメモリのコアメモリと比べると1000倍程度遅く、1970年当時には主記憶と補助記憶のあまりに大きすぎる性能差が問題となっていた。電電公社のシステムでは従来の固定ヘッドに代わって浮動ヘッド方式を採用することで10倍の高速化を成し遂げたが、それでも遅かった(主記憶と補助記憶のあまりに大きすぎる性能差は2020年現在でも解決されていない)。",
"title": "日本における磁気コアメモリの歴史"
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"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "日本メーカーが半導体メモリの量産を開始するのは、Intelの2年後となる1973年頃からである。NEC(半導体事業部、後に日立の半導体事業部と合併、現・マイクロンメモリジャパン)の開発したSRAMは1973年にDIPS-1に搭載された(NECは1968年に144bitのSRAMを開発していたという説があるが、この説が本当なら世界初のSRAMはIntel 1101ではなくNECと言うことになってしまうので議論の余地がある)。また、日立製作所(半導体事業部、現・マイクロンメモリジャパン)も1973年に日立初の半導体メモリとなるHM3503シリーズ(1,024ビット、Intel1103シリーズ相当品)の量産を開始する。コアメモリは信頼性、コスト、電源を切っても記憶内容が消失しないなど、1973年の時点でも半導体メモリに対する利点は依然として大きく、メインメモリ以外の分野ではしばらくはコアメモリを置き換えることは無いだろうというのが業界の予想であり、日立の社内誌である『日立評論』においても1973年以後もいくつかコアメモリの高性能化に向けた論文が発表されているが、一方で、大容量、速度、コストの面から今後の半導体メモリの市場性が高いことに日立は気づいていた。日立は1952年にRCA社と技術提携し、日立製作所茂原工場(現・ジャパンディスプレイ)にRCA社の技術導入を行った際「欧米との20年の技術的な隔たり」があると語ったが、20年後の1972年の時点では世界の半導体ビッグスリーの一角を占めるまでになっていた(と「日立評論」1974年1月号p.40では主張しているが、実際はNECやフェアチャイルドなど3位集団にひしめき合っており、また1位のTIと2位のモトローラからはかなり離されていた。しかし、少なくともRCA社に高いロイヤルティを払って技術を使わせてもらって製品を作っていただけの頃とは違う、世界有数の半導体メーカーとしての自覚が1974年当時の日立にあったことが分かる)。",
"title": "日本における磁気コアメモリの歴史"
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"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "なお、国際電信電話(KDD、現・KDDI)の大島信太郎らが、RCA社のライクマンの特許をベースにパラメトロン用の磁性薄膜メモリを1960年頃に開発している。大島らの開発した磁性薄膜メモリの方式は、電着法によって銅線表面に磁性合金膜を析出した磁性線(ワイヤ)を記憶素子として利用した、織成形ワイヤメモリの一種である。「磁性薄膜メモリ」とは、磁性薄膜を平板(プレート)もしくは磁性線(ワイヤ)にめっき、電着、蒸着などの方式で形成して記憶素子としたもので、コアメモリと同等の特性を持ちながら、コアを人の手で編組しているコアメモリと比較して量産性・高密度性・高速性に優れていると考えられており、1950年代後半より各所で試作されていたが、1960年代以降のコアメモリの(依然として人の手で編組しているにもかかわらず)想像以上の微細化・高速化・低価格化・大容量化と、薄膜メモリの薄膜の不安定さなど技術開発の困難さにより、学術機関や軍関係など特殊な機関における採用に留まり、米国においても商用化はなされていなかった。しかし大島らはこれらの問題を解決する「ファインストライプトメモリ」を開発(これにより1971年度の電子通信学会業績賞を受賞)。コアメモリは1960年代後半ごろにはフェライトコアの微細化の限界に由来する問題から、1966年に直径14ミル(0.35 mm)に到達して以来微細化がストップしていたため(wikipedia英語版では1966年に0.013インチ(13ミル、0.33mm)まで微細化が進んでいたとあるが、日本国内メーカーでは日立の14ミルが最大である)、いよいよ「機は熟した」ということで、「ファインストライプトメモリ」の技術はコアメモリに代わる次世代メモリとして日本の主要メーカー13社に技術指導がなされ、1970年頃には東光(現・埼玉村田製作所)が量産化にまでこぎつけたが、この後すぐに半導体メモリの量産が開始されたためにあまり生産されなかった(1970年頃に開発が行われていたコアメモリの次世代メモリの技術は他にもいろいろあったが、半導体メモリの実用化に伴ってほとんど中止されるので、量産化までこぎつけた製品は少ない。リングコアの直径10ミル以下の「マイクロフェライト・メモリー」も研究されていたが、実用化される前に半導体メモリが登場した)。なおフェライトの微細化に関しては、HITAC 5020を開発した日立の村田健郎によると、「女工さんの目が潰れるので、これ以上は無理」だったとのこと(図書館情報大学教授時代の村田が、教え子である阪口哲男に語ったところによる)。",
"title": "日本における磁気コアメモリの歴史"
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"text": "その後、1980年代には世界シェアの8割を占め「産業のコメ」とまで言われた日本のメモリメーカーは、2010年代までにすべて潰れたが、TDKは2020年現在もまだフェライトコアを作っている。リングコアを自力で編組することで磁気コアメモリの自作も可能。2021年現在、数寄者が製作したarduino用のコアメモリモジュール(容量:32ビット)が市販されている。",
"title": "日本における磁気コアメモリの歴史"
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"text": "一般的な磁気コアメモリについて、その構造と記憶の原理について説明する。",
"title": "構造と記憶の原理"
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"tag": "p",
"text": "基本的な要諦は、フェライトコアの特性としてその磁化特性について、ヒステリシスの存在により着磁の変化に一定の「しきい値」のようなものがある、ということである。",
"title": "構造と記憶の原理"
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"text": "磁気コアメモリは、小型のフェライト磁性体のリング(コアという)に電線が通されたものが、格子状に多数配置された構造になっている。コアの一つが1ビットの記憶容量を持つ。",
"title": "構造と記憶の原理"
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"tag": "p",
"text": "一つのコアに対しては、書き込み用電線が縦横の各1本で2本、それと読み出し用電線1本が通っている。書き込み用電線は格子状に配線され格子点にコアがある。格子の縦横各1本の書き込み用電線を指定すると、一つのコアが定まるわけである。これがビットアドレスの指定になる。縦と横のそれぞれ1本の電線に流す電流は、ある程度の余裕を持って前述のしきい値よりも低い磁力しか発生させない程度に流す。これにより、交点にある、両方の電線が通っている唯一のコアだけが十分な強さの磁力の変化を受ける。",
"title": "構造と記憶の原理"
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"text": "あるコアにデータを書き込むには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流して磁化させる。電流の方向によりコアの磁界の向きが決まり、それにより0か1のビット値が決まる。なお、磁化されたコアは、電流が止まっても磁化した状態を保持するので不揮発性のメモリということができる。",
"title": "構造と記憶の原理"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "あるコアのデータを読み出すには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流し、読み出し用電線の電流を検知する。このとき現在のコアの磁界の向きが逆転するようであれば、読み出し用ケーブルに電流が流れる。逆転しない場合は、読み出し用電線に電流が流れない。これによりコアのビット値が判明する。しかし、データを読み出すときに、書き込み用電線2本に電流を流すのでコアが磁化されてしまい、読み出し前の内容が失われてしまう(非破壊読み出しができない)。このためコアの内容をその後も保持したい場合は、「書き戻し」が必要である。",
"title": "構造と記憶の原理"
}
] | 磁気コアメモリ(じきコアメモリ)は、小さなドーナツ状のフェライトコアを磁化させることにより情報を記憶させる主記憶装置のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある。破壊読み出しだが、磁気で記憶させるため、不揮発性という特徴がある。 縦方向、横方向、さらに斜め方向の三つの線の交点にコアを配置する。縦横方向でアドレッシングを行ない、斜め方向の線でデータを読み出す。 | [[File:Ferrite core memory.jpg|thumb|[[CDC 6600]](1964年)で使われた磁気コアメモリ。大きさは10.8×10.8 cm。1コアごとに1[[ビット]]、全体では64 x 64 コアで合計4096ビットの容量がある。拡大図はコアの構造を示したもの]]
'''磁気コアメモリ'''(じきコアメモリ)は、小さな[[ドーナツ]]状の[[フェライトコア]]を[[磁化]]させることにより情報を記憶させる[[主記憶装置]]のことで、コンピュータの黎明期にあたる1955年から1975年頃に多用された。原理的に破壊読み出しで、読み出すと必ずデータが消えるため、再度データを書き戻す必要がある{{R|comp-arch-n-org|page=336-337}}。破壊読み出しだが、[[磁性|磁気]]で記憶させるため、[[不揮発性メモリ|不揮発性]]という特徴がある<ref group="注">ただし、電源投入時のノイズ等で内容が破壊されうるので、設計次第で[[揮発性メモリ]]のように扱われる。</ref>。
縦方向、横方向、さらに斜め方向の三つの線の交点にコアを配置する。縦横方向でアドレッシングを行ない、斜め方向の線でデータを読み出す。
== 歴史 ==
角形ヒステリシス特性を有するある種の磁性材料をストレージまたはスイッチングデバイスとして利用する、というコンセプト自体は、コンピュータの発明初期より存在した。しかし、磁気コアメモリの発明者とされるのは、アン・ワング、ジャン・A・ライクマン、ジェイ・フォレスターの3人である。
[[File:Project Whirlwind - core memory, circa 1951 - detail 1.JPG|thumb|[[Whirlwind]]で使われた史上初の磁気コアメモリ(1953年)。容量は2048ビット]]
磁気コアメモリを世界で初めて開発したのは[[上海市|上海]]生まれのアメリカ人[[物理学者]]である[[アン・ワング]]({{lang|zh|[[:zh:王安 (计算机科学家)|王安]]}})と Way-Dong Woo である。彼らは1949年に「パルス転送制御デバイス」を開発したが、その名称が意味するのはコアの磁場を活用して電気機械式システムの制御をするというものだった。ワングと Woo は[[ハーバード大学]]の[[ハワード・エイケン]]計算研究所に勤務していたが、大学側は彼らの発明を売り出すことに興味を持たなかった。そのため、ワングらは自分たちで特許を申請することにした。Wooが病気のため中国に帰国したのち、1955年にワングが米国において単独で特許権を取得したため、ワングが磁気コアメモリの発明者とされる。
[[RCA]]社のジャン・A・ライクマンもコアメモリに関する先駆的な研究を行っている。ライクマンはフェライト製のバンドを薄い金属管に巻き付けるという構造のストレージシステムを発明し<ref>Jan A. Rajchman, Magnetic System, {{US patent|2792563}}, granted May. 14, 1957</ref>、[[アスピリン]]錠のプレス成型機を転用した機械を使ってこれを実際に製造し、1949年に発表した。しかし、ライクマンはRCA社において当時の次世代メモリの本命と目されていた静電記憶管(electrostatic memory tube。[[CRT]]を利用した記憶装置)であるウィリアムス管および[[セレクトロン管]]の開発の中心人物であり、後のコアメモリに繋がる研究はこれだけに終わった<ref>{{cite journal |first=William |last=Hittinger |url=http://books.nap.edu/openbook.php?isbn=0309046890&page=229 |title=Jan A. Rajchman |journal=Memorial Tributes |publisher=National Academy of Engineering |location=US |volume=5 |page=229 |year=1992}}</ref>。
[[マサチューセッツ工科大学]] (MIT) の [[Whirlwind]] プロジェクトに従事していた[[ジェイ・フォレスター]]らのグループが、このワングらの業績に気づいた。Whirlwind はリアルタイムの[[フライトシミュレーション]]に使われる予定であり、高速なメモリを必要としていた。最初は[[ウィリアムス管]]を使おうとしていたが、このデバイスは気まぐれで信頼性に乏しかった。そのため、MIT放射線研究所が開発中であった双電子銃管(dual-gun electron tube)を採用することにしたが、これは失敗で、何年たっても完成せず、1951年の時点ではウィリアムス管以下の性能で、Whirlwindに要求される性能を満たさなった。アメリカ空軍の防空システムに使用するため、年間約100万ドルと言う莫大な金が投入されているにもかかわらず、メインメモリが遅すぎて使い物にならない状態だったので、ジェイ・フォレスターは代替品を探すのに必死であった。
ふたつの発明によって磁気コアメモリの開発が可能となった。ひとつはアン・ワングのライト-アフター-リード・サイクルの発明である。これにより情報を読み出すと消えてしまうという問題が解決された。もうひとつはジェイ・フォレスターの電流一致システム (coincident-current system) であり、これによって多数のコアを数本のワイヤで制御することが可能となった。こうして1951年に磁気コアメモリの原理が発明された。ジェイ・フォレスターの2年の研究の結果、[[アクセス時間]]9マイクロ秒、記憶容量1024ワードという、Whirlwindの要求性能についに到達し、1953年夏、磁気コアメモリがWhirlwindに取り付けられた。これが史上初、コンピュータに実用搭載された磁気コアメモリである{{R|comp-arch-n-org|page=21}}。当時各所で開発中であった次世代の静電記憶管(前述のMITの双電子銃管、RCA社の[[セレクトロン管]]など)が実用化される前に、これを超える性能を持つ磁気コアメモリが実用化されたことにより、静電記憶管の研究は全て中止された。ウィリアムス管を採用していた[[IBM 702]](1953年発売)もすぐに磁気コアメモリを採用したIBM 704(1954年)を発売し、[[フェランティ]]社など他のコンピュータ会社もそれに続いた。商用製品としては、[[ジュークボックス]]の[[シーバーグ]]社が1955年に「Tormatコントロールシステム」として磁気コアメモリを用いた記憶システムを採用し、コンピュータ以外に電話機やその他の産業用機器など非常に広い範囲で採用されるようになった。
[[File:Magnetic-core memory, 18x24 bits.jpg|thumb|TDKが製造したコアメモリのプレーン。[[25セント硬貨]](直径24.26mm)とほぼ同じ大きさの区画に18x24個(432bit)のコアがある。日本人が手作業で編組していた。]]
磁気コアメモリにおいて最もコストがかかったのは、フェライトコアにワイヤーを張る人件費である。フォレスターの発明した電流一致システムでは、ワイヤの1つをコアに対して45度で走らせる必要があったが、これは機械によるワイヤリングが難しかったため、人間が顕微鏡を見ながら精密なモーター制御を行ってコアの配列を編み上げる必要があった。そのため1950年代後半には、極東でコアメモリ製造工場ができており、例えば東京電気化学工業(現・[[TDK]])の市川工場(東京電気化学工業株式会社電子事業部、現・TDKテクニカルセンター)が1956年に設立されている。日立製作所茂原工場(現・[[ジャパンディスプレイ]])におけるコアメモリの生産開始時期は不明であるが、1957年に稼働した電電公社の[[MUSASINO-1]]のためにコアメモリ事業が立ち上げられたことを考えると、ほぼ同時期だと推測される。工員の多くは「手先が器用」とされた女性で、当初は縫製工が雇われたが、1956年に東京通信工業(現・[[ソニー]])が工員募集の際に「[[女工]]」の代わりに使った「トランジスタ娘」のキャッチコピーが話題となったため、(ソニーは社の方針としてコンシューマー志向だったので、大型機向けは電気試験所の[[ETL Mark III]]の磁気ドラム装置の磁性体の開発に協力した程度でコアメモリを作っていなかったが)それまでの紡績メーカーに代わって電子機器メーカーの工員が女性の花形職業となった。数百人の労働者が一日数セントの賃金でコアメモリを組み立てていた(1960年当時の大卒初任給が約1.1万円、1ドル360円の時代なので、当時は相当な高学歴だった大卒でも米ドル換算で日給1ドルを下回るような時代であり、中卒・高卒で「[[金の卵]]」と呼ばれて上京し集団就職した女性工員はそれよりも遥かに低い)。これによってコアメモリの価格が低くなり、1960年代初めには[[主記憶装置]]として広く使われるようになり、低価格/低性能の[[磁気ドラムメモリ]]も高価格/高性能の静電記憶管(ウィリアムス管など)も使われなくなっていった。「コアメモリプレーン」として1枚だけで使われることもあった(平面実装方式)が、「コアメモリスタック」として何枚も積み重ねて大容量化を図った製品もあった。例えば8K*8Kのプレーンを64枚スタックした3D方式のコアメモリの場合、1スタックで8K*8K*64 = 4096Kの大容量を扱えることになる。ただし、「スタック」の形式をとると発熱や価格などの問題があるため、特にコアメモリの実装密度が向上した1970年代以降は、一般的な計算機ではコアをスタックするよりも平面展開してプレーン1枚だけで使われることが多かった。
[[File:Coincident-current magnetic core.svg|thumb|left|磁気コアメモリの4×4のプレーンの模式図。 縦横の「X」と「Y」がそれぞれ「X線」および「Y線」で、この2つは電流を流してコアを励磁する駆動線である。「S」が磁化方向を読み取るセンス線(探査線)で、もし目当てのコアが磁化反転した場合に電流が流れる。「Z」がインヒビット線(禁止線)で、読み込み電流を流したくない場合や書き戻し電流を流したくない場合(「0」を書き込みたい場合)に妨害電流を流す。]]
コストを抑えるため、半自動化に向けての技術革新が続いた。1956年にIBMのグループが、最初の数本のワイヤーを各コアに自動的に通す装置の特許を申請した。この装置はフェライトコアの平面部分を「ネスト」状に保持し、さらにその後、中空の針の配列をコアに突き通して、ワイヤーを編組む際のガイドとするものである。この装置を使用することで、128 x 128コア(16,384bit)の配列においてX線とY線(縦横のワイヤー)を編組むのにかかっていた時間が、それまでの25時間から12分に短縮された<ref>Walter P. Shaw and Roderick W. Link, Method and Apparatus for Threading Perforated Articles, {{US patent|2958126}}, granted Nov. 1, 1960.</ref><ref>{{cite book |title=IBM's Early Computers |first1=Charles J. |last1=Bashe |first2=Lyle R. |last2=Johnson |first3=John H. |last3=Palmer |publisher=MIT Press |location=Cambridge, MA |year=1986 |pages=268 |isbn=0-262-52393-0}}</ref>。フェライトコアが微細化するに従って、中空の針を使う方式は役に立たなくなってしまった物の、代わりにガイド用の通路が付いた補助ネストが開発された。フェライトコアを「patch」(とwikipedia英語版にあるが、どこのメーカーの呼称かは不明。日立製作所での呼称は「ブロック」)ごとに裏材に接着するようになり(なお、日立ではアルミ板にシリコン樹脂で固定していた)、編組時や使用時に便利になった。メモリプレーンを編組するための針をワイヤーに突合せ溶接することで、針の径はワイヤーの径と同じになり、(特許の出願はDRAMの普及より後になるが)針自体を無くすための発明もなされた<ref>Robert L. Judge, Wire Threading Method and Apparatus, {{US patent|3314131}}, granted Apr. 18, 1967.</ref><ref>Ronald A. Beck and Dennis L. Breu, Core Patch Stringing Method, {{US patent|3872581}}, granted Mar. 25, 1975.</ref>。オートメーション化において重要だったのが、インヒビット線(禁止線)とセンス線(探査線)の編組方式の改良で、これによりセンス線を斜め方向に長々と伸ばす必要が無くなり、また各ブロックにおいてフェライトコアをより密接に配置することも可能となった<ref name=US3329940>Creighton D. Barnes, et. al., Magnetic core storage device having a single winding for both the sensing and inhibit function, {{US patent|3329940}}, granted July 4, 1967.</ref><ref name=US3711839>Victor L. Sell and Syed Alvi, High Density Core Memory Matrix, {{US patent|3711839}}, granted Jan. 16, 1973.</ref>。
磁気コアメモリの製造が自動化されることはなかったが、その価格はほぼ[[ムーアの法則]]に従った推移を示した。最初のころビット当たり1ドル程度だった価格は、最後にはビット当たり0.01ドルになっている。フェライトコアも1950年代には直径0.1インチ(2.5 mm)だったものが、1966年には0.013インチ(0.33 mm)にまで微細化。1967年には台湾でも高雄日立(現・高雄晶傑達光電科技)が設立されてコアメモリの生産を開始する。日本や台湾など極東の人件費の安い国の工場で大量の女工を投入して人の手で編組みするという、典型的な労働集約型の製造方法を取っていた。
[[File:Intel C1103.jpg|thumb|[[Intel 1103]](1970年)。世界初の[[DRAM]]で、磁気コアメモリを置き換える形で普及した]]
その後磁気コアメモリは 1970年代初めにシリコン半導体のメモリチップ ([[Random Access Memory|RAM]]) に置き換えられていった。特に半導体ベンチャー企業(1968年創業)のIntel社が1970年に発売した世界初の[[DRAM]]、[[Intel 1103]](容量1,024bit)は、磁気コアメモリと同等以上の集積度を実現しており(逆に言うと、最後期の磁気コアメモリは最初期のDRAMと同レベルの集積度を手作業で実現していたということである)、またその1ビット1セントを下回る低価格性もあって(Intelは1969年に容量256bitの[[Static Random Access Memory|SRAM]]である[[Intel 1101]]を発売していたが、高価だったので磁気コアメモリを置き換えることができなかった)、この発売以後、メインフレームにおいて磁気コアメモリからDRAMへの置き換えが急速に進んだ。Intel社の創業当時のロゴ(通称:ドロップドイー)は、下に下がった「e」がコアメモリを齧る様子を表しており、DRAMはその低コスト性、信頼性、省スペース性によって、文字通りコアメモリのシェアを食う形で普及していった。インテルミュージアム(Intelを記念するカリフォルニアの博物館で、磁気コアメモリも展示されている)の説明によると、1972年にIntel 1103 DRAMのシェアが磁気コアメモリのシェアを上回ったという。1973年から1978年にかけて、末期には生産されるコアメモリのほとんどが保守用パーツだったが、次第に市場が縮小していった。
磁気コアメモリは、磁気をスイッチや増幅に使用する様々な技術のひとつである。1950年代、ウィリアムス管に代表される真空管メモリは先端技術であったが、その材質は壊れやすく、発熱と電力消費が大きく、不安定であった。磁気デバイスは[[トランジスタ]]などの半導体デバイスと同様の利点を持っていて、軍事利用された例が多い。
=== 特許問題 ===
ワング博士の出願した特許は1955年にようやく認められたが、そのころには既に磁気コアメモリが使われていた。そのため長い訴訟問題となったが、1956年に[[IBM]]がワングに数百万ドルを支払って特許権を買い取ることで解決した。ワングはこれを資金として[[ワング・ラボラトリーズ]]の規模を拡大させた。なおワングはこの時の因縁からIBMに対抗意識を燃やし、電卓、ワープロ機、そしてミニコン市場に進出。全盛期となる1980年代初頭にはアメリカのOA機器市場でIBMを上回る市場シェアを誇ったが、IBMが1980年代にはパソコンに力を入れたのとは対照的に、ワングはワープロ機やミニコンなどの独自システムの展開に固執したため、1980年代後半にはアメリカのオフィスにあったワングのOA機器はIBM社のパソコンに置き換えられ、1992年に倒産した。
一方、フォレスターの特許に関してもIBMとMITで訴訟となった。MITは1959年の時点で、1コア当たり2セントの特許料を要求していたが、磁気コアメモリの普及により、1963年度のIBM社の年間報告書におけるフェライトコアの生産量を見る限りでは、その年だけで20万ドルを支払わなければいけない事が判明したため、IBM社が13万ドルを一括で支払うことで1964年にMITと同意。当時としては史上最高額の特許料であった。
フォレスターが2011年に回想したところによると、(一般的には磁気コアメモリの発明者の1人だとされている)ワングの発明は自分の発明に全く何の影響も及ぼしていない、とのこと。フォレスターはコンピューター業界において7年がかりでコンピューターのメモリを磁気コアメモリに置き換えた後、特許裁判所において7年がかりで自分こそが磁気コアメモリの発明者だと認めさせた<ref>{{cite web |url=http://sloanreview.mit.edu/feature/jay-forrester-shock-to-the-system/ |title=Jay Forrester's Shock to the System |first=Art |last=Kleiner |work=The MIT Sloan Review |location=US |date=4 February 2009 |access-date=1 April 2018}}</ref>。
== 日本における磁気コアメモリの歴史 ==
1954年、東京大学理学部[[高橋秀俊]]研究室の学生であった[[後藤英一]]が[[パラメトロン]]素子を発明する。同年7月、後藤がパラメトロン素子を日本電信電話公社(現・[[NTT]])電気通信技術委員会研究専門委員会の電子計算機研究専門委員会において発表したところ、これが高く評価され、日本の各所でパラメトロン方式の計算機の開発が始まった。一方同時期、電子計算機研究専門委員会において米国のI.R.E誌(現・[[:en:Proceedings of the IEEE|IEEE誌]])の計算機特集を各委員で手分けして子細に検討していたところ、1954年2月、後藤と高橋は同誌に掲載されていた前述のRCA社のジャン・A・ライクマンの論文を知る。これがたまたまパラメトロンと同じく磁心(フェライトコア)を利用する物であったことと、パラメトロンの高い信頼性に釣り合うメモリと言うことから、高橋はパラメトロン方式の計算機に使用されるメモリとして磁気コアメモリ(当時の日本語では「'''磁心記憶装置'''」)を使用することに決定した。このように、日本で磁気コアメモリが次世代メモリの本命とされ、研究開発が開始されたのはかなり早い(なお当時の日本の計算機開発を主導した電電公社は製造部門を持たなかったため、技術開発はメーカーとの共同によってなされていた。後に大手メーカー数社と「電電ファミリー」を形成して通信産業を独占し、その弊害から1985年に解体されて現在のNTTグループ各社となるが、当時の日本メーカー各社の技術向上に寄与した点は大きい)。
ただし、パラメトロン方式の計算機では交流が使われるため、直流を用いた米国の磁気コアメモリの方式をそのまま使うことができなかった。そのため、後藤はパラメトロンに適した磁気コアメモリである「二周波メモリ」を発明し、1955年4月に特許を出願し<ref>{{US patent|2946045A}},Digital memory system ,Goto Eiichi</ref>、1956年2月に電子計算機研究専門委員会で発表した。この「二周波メモリ」が1950年代後半の日本のパラメトロン方式の計算機で使われている磁気コアメモリの方式である。パラメトロン方式の計算機で磁気コアメモリが採用されたのは、当時の日本では技術やコストの制約で水銀遅延線や静電記憶管のような既存の装置を開発するのは困難だという消極的な理由もあったが、後藤ら開発者がその可能性を正しく評価できたことと、東京電気化学工業(TDK)の協力が得られたことが大きな理由である<ref>「パラメトロン用記憶装置の開発」、小山俊士、哲学・科学史論叢 第十八号、東京大学、2016年</ref>。
後藤はフェライトコアの制作をTDKに依頼した。後藤によると、パラメトロン用のフェライトコアの制作に関しては、最初に作った銅・亜鉛系のコアがたまたまパラメトロンに最適な物で、ラッキーだったが、磁気コアメモリ用のフェライトコアの制作に関してはものすごく苦労したとのこと<ref>[http://museum.ipsj.or.jp/guide/pdf/magazine/IPSJ-MGN160109.pdf パラメトロン計算機pc-1] - 後藤英一</ref>。これが取り付けられたパラメトロン計算機[[PC-1]]が日本初の磁気コアメモリを採用した計算機となるはずであったが、東京大学高橋研究室によるPC-1本体の開発は難航し、稼働したのは1958年3月となった。結局、後藤のアイデアに基づいて電電公社の電気通信研究所(通研、現・NTT武蔵野研究開発センタ)が後から開発し、1957年3月に稼働したパラメトロン式計算機[[MUSASINO-1]]が最も早かった。ただし、MUSASINO-1の当初のコアメモリの記憶容量はたった32ワード(1280ビット)であり、1958年3月に256ワード(10,240ビット)に拡張されてようやく実用的になった。
電電公社の主導するパラメトロン計算機の流れは続かず、日本メーカー各社は1950年代後半より米国メーカーと提携して、米国より日本に計算機の技術移転が開始される。しかし、IBMに提携を断られたためRCAやUNIVACなどIBM以外の「7人の小人」と呼ばれる中小メーカーと提携せざるをえなかったり、莫大な技術料(ロイヤルティ)を払ったわりにそれほど大した技術協力が得られず研究員を数名米国企業に派遣して逐次送られてくる手書きのレポートを頼りにしたり、最終的には米国メーカーが不甲斐ないので独自路線を歩まざるをえなかったり、とても大変だった。
日本が「[[世界の工場]]」として海外向けの磁気コアメモリを作っていた歴史は前記を参照。ただし、単に米国メーカーの技術をベースに安価なコアメモリを提供するだけだったわけではなく、TDKや日立など日本メーカーの独自の発明もいくつかなされており、米国特許も取得している。当時生産された物のいくつかは産業遺産として保存されており、例えば[[日立製作所]]が1964年に[[HITAC]] 5020用に制作した4Kの磁心記憶装置が日立製作所に所蔵されているほか、[[NTT技術史料館]]に所蔵されているMUSASINO-1にも磁心記憶装置が搭載されている。4Kのコアメモリで1ユニット当たり4096個、64K(8K*8K)の物で65536個も搭載されたフェライトコアは、全て高度成長期の日本人が顕微鏡を見ながらドーナツ状のフェライト磁石(リングコア)に銅線を1本ずつ手で通したものである。
なお、コアメモリは人件費の安い日本の工場で製造することで低価格化を図り、メインメモリとして磁気ドラム装置などに代わって広く普及させることに成功したが、それでも高価であることには変わりなかった。特に日本国内の組織が自前でコンピュータを作る際はTDKや日立に高い金を払ってコアメモリを購入することになるため、例えば電電公社・日本電気(NEC)・日立製作所・富士通の4社共同で1968年より開発が開始された電電公社の[[DIPS (コンピュータ)|DIPS-1]](主記憶16MB)では、磁気コアメモリがそのセンタコストの約3割を占めたという<ref>[http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/topics/other/o_20160310.html 2016/3/10 DIPS4150形磁気ドラム記憶装置が「情報処理技術遺産」に認定されました。] - NTT技術史料館</ref>。そのため、DIPS-1では後にコアメモリより安くて大容量な磁気ドラム装置を用いた仮想記憶システムが搭載された。磁気ドラム装置は安価で大容量と言う点を生かし、1960年代以降には補助記憶として利用されるようになったが、メインメモリのコアメモリと比べると1000倍程度遅く、1970年当時には主記憶と補助記憶のあまりに大きすぎる性能差が問題となっていた。電電公社のシステムでは従来の固定ヘッドに代わって浮動ヘッド方式を採用することで10倍の高速化を成し遂げたが、それでも遅かった(主記憶と補助記憶のあまりに大きすぎる性能差は2020年現在でも解決されていない)。
日本メーカーが半導体メモリの量産を開始するのは、Intelの2年後となる1973年頃からである。NEC(半導体事業部、後に日立の半導体事業部と合併、現・[[マイクロンメモリジャパン]])の開発したSRAMは1973年にDIPS-1に搭載された(NECは1968年に144bitのSRAMを開発していたという説があるが、この説が本当なら世界初のSRAMはIntel 1101ではなくNECと言うことになってしまうので議論の余地がある<ref>[https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/semicon/1068576.html 【福田昭のセミコン業界最前線】Intelの歴史を「インテルミュージアム」から振り返る【メモリ編】] - PC Watch</ref>)。また、日立製作所(半導体事業部、現・[[マイクロンメモリジャパン]])も1973年に日立初の半導体メモリとなるHM3503シリーズ(1,024ビット、Intel1103シリーズ相当品)の量産を開始する。コアメモリは信頼性、コスト、電源を切っても記憶内容が消失しないなど、1973年の時点でも半導体メモリに対する利点は依然として大きく、メインメモリ以外の分野ではしばらくはコアメモリを置き換えることは無いだろうというのが業界の予想であり、日立の社内誌である『日立評論』においても1973年以後もいくつかコアメモリの高性能化に向けた論文が発表されているが、一方で、大容量、速度、コストの面から今後の半導体メモリの市場性が高いことに日立は気づいていた<ref>『日立評論』1974年1月号p.48</ref>。日立は1952年にRCA社と技術提携し、日立製作所茂原工場(現・[[ジャパンディスプレイ]])にRCA社の技術導入を行った際「欧米との20年の技術的な隔たり」<ref>『日立評論』1952年11月号、p.101</ref>があると語ったが、20年後の1972年の時点では世界の半導体ビッグスリーの一角を占めるまでになっていた(と「日立評論」1974年1月号p.40では主張しているが、実際はNECやフェアチャイルドなど3位集団にひしめき合っており、また1位のTIと2位のモトローラからはかなり離されていた。しかし、少なくともRCA社に高いロイヤルティを払って技術を使わせてもらって製品を作っていただけの頃とは違う、世界有数の半導体メーカーとしての自覚が1974年当時の日立にあったことが分かる)。
なお、国際電信電話(KDD、現・[[KDDI]])の[[大島信太郎]]らが、RCA社のライクマンの特許をベースにパラメトロン用の[[磁性薄膜メモリ]]を1960年頃に開発している<ref>{{US patent|3381138A}}</ref>。大島らの開発した磁性薄膜メモリの方式は、電着法によって銅線表面に磁性合金膜を析出した磁性線(ワイヤ)を記憶素子として利用した、織成形[[ワイヤメモリ]]の一種である。「磁性薄膜メモリ」とは、磁性薄膜を平板(プレート)もしくは磁性線(ワイヤ)にめっき、電着、蒸着などの方式で形成して記憶素子としたもので、コアメモリと同等の特性を持ちながら、コアを人の手で編組しているコアメモリと比較して量産性・高密度性・高速性に優れていると考えられており、1950年代後半より各所で試作されていたが、1960年代以降のコアメモリの(依然として人の手で編組しているにもかかわらず)想像以上の微細化・高速化・低価格化・大容量化と、薄膜メモリの薄膜の不安定さなど技術開発の困難さにより、学術機関や軍関係など特殊な機関における採用に留まり、米国においても商用化はなされていなかった。しかし大島らはこれらの問題を解決する「ファインストライプトメモリ」を開発<ref>[https://dbnst.nii.ac.jp/pro/detail/912 発見と発明のデジタル博物館: 磁性薄膜メモリの発明開発 (専門向け)]</ref>(これにより1971年度の[[電子通信学会]]業績賞を受賞)。コアメモリは1960年代後半ごろにはフェライトコアの微細化の限界に由来する問題から、1966年に直径14ミル(0.35 mm)に到達して以来微細化がストップしていたため(wikipedia英語版では1966年に0.013インチ(13ミル、0.33mm)まで微細化が進んでいたとあるが、日本国内メーカーでは日立の14ミルが最大である)、いよいよ「機は熟した」ということで、「ファインストライプトメモリ」の技術はコアメモリに代わる次世代メモリとして日本の主要メーカー13社に技術指導がなされ、1970年頃には東光(現・埼玉村田製作所)が量産化にまでこぎつけたが<ref>[https://www.museum.uec.ac.jp/database/sf/sf150/s168.html ワイヤメモリーシステム] - 電通大 UEC コミュニケーション ミュージアム所蔵</ref>、この後すぐに半導体メモリの量産が開始されたためにあまり生産されなかった(1970年頃に開発が行われていたコアメモリの次世代メモリの技術は他にもいろいろあったが、半導体メモリの実用化に伴ってほとんど中止されるので、量産化までこぎつけた製品は少ない。リングコアの直径10ミル以下の「マイクロフェライト・メモリー」も研究されていたが、実用化される前に半導体メモリが登場した)。なおフェライトの微細化に関しては、HITAC 5020を開発した日立の[[村田健郎]]によると、「女工さんの目が潰れるので、これ以上は無理」だったとのこと(図書館情報大学教授時代の村田が、教え子である[[阪口哲男]]に語ったところによる<ref>[https://twitter.com/tsaka1/status/1289230009014444032 阪口哲男のtwitter] 2020年8月1日</ref>)。
その後、1980年代には世界シェアの8割を占め「産業のコメ」とまで言われた日本のメモリメーカーは、2010年代までにすべて潰れたが、TDKは2020年現在もまだフェライトコアを作っている。リングコアを自力で編組することで磁気コアメモリの自作も可能。2021年現在、数寄者が製作した[[arduino]]用のコアメモリモジュール(容量:32ビット)が市販されている。
== 構造と記憶の原理 ==
一般的な磁気コアメモリについて、その構造と記憶の原理について説明する。
[[File:Hysteresiscurve.png|thumb|right|ヒステリシス曲線]]
基本的な要諦は、フェライトコアの特性としてその磁化特性について、[[ヒステリシス]]の存在により着磁の変化に一定の「しきい値」のようなものがある、ということである。
磁気コアメモリは、小型のフェライト磁性体のリング(コアという)に電線が通されたものが、格子状に多数配置された構造になっている。コアの一つが1ビットの記憶容量を持つ。
一つのコアに対しては、書き込み用電線が縦横の各1本で2本、それと読み出し用電線1本が通っている。書き込み用電線は格子状に配線され格子点にコアがある。格子の縦横各1本の書き込み用電線を指定すると、一つのコアが定まるわけである。これがビットアドレスの指定になる。縦と横のそれぞれ'''1本の電線に流す電流は'''、ある程度の余裕を持って'''前述のしきい値よりも低い磁力しか発生させない'''程度に流す。これにより、交点にある、両方の電線が通っている唯一のコアだけが十分な強さの磁力の変化を受ける。
あるコアにデータを書き込むには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流して磁化させる。電流の方向によりコアの磁界の向きが決まり、それにより0か1のビット値が決まる。なお、磁化されたコアは、電流が止まっても磁化した状態を保持するので不揮発性のメモリということができる。
あるコアのデータを読み出すには、そのコアに対応する書き込み用電線2本に電流を流し、読み出し用電線の電流を検知する。このとき現在のコアの磁界の向きが逆転するようであれば、読み出し用ケーブルに電流が流れる。逆転しない場合は、読み出し用電線に電流が流れない。これによりコアのビット値が判明する。しかし、データを読み出すときに、書き込み用電線2本に電流を流すのでコアが磁化されてしまい、読み出し前の内容が失われてしまう(非破壊読み出しができない)。このためコアの内容をその後も保持したい場合は、「書き戻し」が必要である。
== 豆知識 ==
* コンピュータのメモリが半導体化されて久しいが、メモリ内容をダンプしたファイルを[[コアダンプ]](プログラムの異常終了などでそうなることを「コアを吐く」ともいう)と呼ぶのは磁気コアメモリが使われていた当時の名残りであり、現在でも使われている。
* [[IBM]]は[[半自動式防空管制組織]]に用いた磁気コアメモリの駆動回路に、[[真空管]]に代えて[[シリコン]]トランジスタを採用し信頼性と高速性を確保した。トランジスタが[[ゲルマニウム]]製全盛期に、シリコントランジスタを製造できたのは[[ロバート・ノイス]]率いる[[フェアチャイルドセミコンダクター]]のみであり、IBMはフェアチャイルドセミコンダクターから独占的に高額で買い付け、創業時のフェアチャイルドセミコンダクターを(結果的に)資金面で支えた。後年フェアチャイルドセミコンダクターを見限ったロバート・ノイスは、半導体メモリを[[集積回路]]で安価に製造することで、(自身が普及を助けた)磁気コアメモリに取って代わることを目的として[[インテル]]を設立した。最初期の社章はコアを齧るイメージを用いている。最初の[[Dynamic Random Access Memory|D-RAM]]を商品化したのもIntel社である。
* 最も遅い時代までコアメモリが使われていたとしてよく語られるもののひとつに、[[スペースシャトル]]の飛行制御システムに使われた[[:en:IBM System/4 Pi#AP-101|AP-101]]の初期型がある。このことは[[リチャード・P・ファインマン|ファインマン]]の逸話集『[[困ります、ファインマンさん]]』に書かれて広く知られるようになった<ref>「ジョンソン基地では非常に良いソフトウェアを作っているのだが、悲しいかなシャトルに載っているコンピュータは、およそカビでも生えそうな時代遅れのモデルで、もう製造すらしていない。その記憶装置も中に電線が通った磁気コアから成るおよそ旧式なしろものだ。」{{Cite book |和書 |author=R.P.ファインマン |title=困ります、ファインマンさん |series=岩波現代文庫 |page=278 |isbn=9784006030292 |year=2001}}</ref>。
* 特定のコアへのアクセスが集中すると、そこが[[鉄損|熱]]を持って正常動作が出来なくなる。これは、プログラムで同一変数に連続して操作を行うと値が化ける現象として現れる。そのため、プログラムでは異なる変数を順次操作する様に考慮する必要がある。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
<!-- <references /> -->
{{Reflist|1|refs=<ref name="comp-arch-n-org">{{cite book
|title=Computer Architecture and Organization
|last1=P.HAYES
|first1=JOHN
|isbn=0-07-027363-4
|year=1978,1979
|date=
|publisher=}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[水銀遅延線]]
* [[パラメトロン]]
* [[磁性体論理素子]]
* [[磁気増幅器]]
* [[コアロープメモリ]]
* [[磁気バブル|磁気バブルメモリ]]
* [[Magnetoresistive Random Access Memory|MRAM]]
* [[FeRAM]]
* [[コア戦争]]
== 外部リンク ==
{{commonscat|Core memory}}
* [https://www.jp.tdk.com/tech-mag/ninja/094 第94回「磁気記録の技術史」の巻] - TDKによる磁気コアメモリ(3D4W式)の仕組み
* [http://museum.ipsj.or.jp/heritage/hitac5020.html HITAC 5020および関連部品] - 情報処理学会のコンピュータ博物館によるHITAC 5020の磁気コアメモリ(日立製)の紹介
いずれも英文
* [http://www.columbia.edu/acis/history/core.html Core Memory]
* [http://www.ed-thelen.org/comp-hist/navy-core-memory-desc.html Navy Manual]
* [http://www.psych.usyd.edu.au/pdp-11/core.html Core Memory on the PDP-11]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%81%E6%B0%97%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%A2%E3%83%AA |
4,012 | レイ・ハリーハウゼン | レイ・ハリーハウゼン(Ray Harryhausen、1920年6月29日 - 2013年5月7日)は、アメリカ合衆国の特撮映画監督・ならびに特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。映画史上、20世紀の映画における特撮技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。主に1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。
カリフォルニア州ロサンゼルスにて、ドイツ帝国からの移民である父・フレデリックと、母・マーサの子として生まれる。なお、ドイツ時代の家名はヘレンハウゼン(ドイツ語: Herrenhausen)と綴られていたが、アメリカに移住した際に現在の名であるハリーハウゼンに改められた。
1933年公開の『キング・コング』におけるウィリス・オブライエンに影響され、ストップモーション・アニメーション映画の仕事に就くことを志すようになる。学生時代から自主制作でストップ・モーション映像を作り始め、高校生の時に友人の紹介でオブライエンと面識を得て、彼からグラフィックアートと彫刻の授業を受けて技術を磨くようにアドバイスされる。また、この頃にレイ・ブラッドベリと友人になる。二人は1939年にフォレスト・J・アッカーマンが結成したサイエンス・フィクション連盟(英語版)に参加し、三人は終生の友情を交わした。
南カリフォルニア大学の夜間部に通い映画技術を学んだ後、ジョージ・パルのスタジオで「パペトーン」のアニメーション・スタッフとなる。第二次世界大戦中にはフランク・キャプラの下でアメリカ陸軍の映画撮影班に属し、映画技術の基礎を習得した。ストップモーション・アニメーションの技術を用いた「戦場での架橋工程を示した軍用教育映画」など当時の作品が残っている。この間、ディミトリ・ティオムキンとドクター・スースとも仕事をしている。
戦後、ハリーハウゼンは捨てられていた16mmフィルムを拾い、短編のおとぎ話を製作している。また、『宇宙戦争』を題材に、火星人が地球に降り立つシーンを独自に撮影している。1949年にアシスタント・アニメーターとして雇われ、『猿人ジョー・ヤング』の製作に参加し、オブライエンからアニメーション製作の大部分を任された。
1960年にロンドンに移住し、晩年まで同地で過ごした。1962年10月にダイアナ・リビングストン・ブルースと結婚し、娘ヴァネッサをもうける。1992年に永年の功績によりアカデミー賞特別賞を受賞した。授賞式では、高校時代からの盟友であるレイ・ブラッドベリの手からオスカー像が手渡された。
1994年の映画『ビバリーヒルズ・コップ3』ではカメオ出演し、1998年には『猿人ジョー・ヤング』のリメイク作品『マイティ・ジョー』に、『猿人ジョー・ヤング』で主演を務めたテリー・ムーア(英語版)と共にカメオ出演し、2003年公開の『エルフ 〜サンタの国からやってきた〜』にもカメオ出演した。2010年には『バーク アンド ヘア』にもカメオ出演している。
2013年5月7日、5か月間の闘病の末に92歳で死去したことが、家族によってTwitterとFacebookで公表された。デイリー・ミラーはハリーハウゼンのウェブサイトを引用して、「ハリーハウゼンはスティーヴン・スピルバーグ、ジェームズ・キャメロン、ピーター・ジャクソン、ジョージ・ルーカス、ジョン・ランディス、ニック・パークなど多くの映画製作者に多大な影響を与えた」とコメントを発表した。
内部にアーマチュア(可動式骨格)を仕込んだ人形を1コマずつ撮影するモデルアニメーションの分野で評価されており、リアルな動きで作り出された映像は世界の人々を驚嘆させた。特に評価が高いのは、「ダイナメーション」と呼ばれる手法で、これは俳優の演技をスクリーン・プロセスでコマ送りで投影しながらそれに合わせて人形を動かすものである。従来、俳優と人形のカラーでの合成には、人形の撮影時にライトの熱で色温度が変化してしまい、実際に映写した際に俳優に対して人形の色が目まぐるしく変わってしまうという難点があったが、ハリーハウゼンは人形の撮影の際、コマ毎に色温度を修正するフィルタを入れる技術を生み出し、この問題を解決した。これにより人形と人間の同時演技(例えばミニチュアと人間の格闘シーン)が光学合成なしで可能となり、後のハリウッド映画の特撮人気を爆発させた。
ハリーハウゼンは映画の脚本、デザイン、コンセプトなど多くの部分に参加しており、プロデューサーはハリーハウゼンのやり方に常に同意することを求められていた。しかし、ハリウッドの製作組合の規則の問題から監督になることはできず、ほとんどの映画では別の役職でクレジットされていた。彼の作品には両親も参加しており、父フレデリックは息子のデザインに基づき金属加工を行い、母マーサはミニチュアの衣装を担当していたが、1973年にフレデリックが死去した後は、他の職人に金属加工を依頼するようになった。
本格的なデビュー作となったのは、ブラッドベリの短編『霧笛』を原作として1953年に製作された『原子怪獣現わる』であり、特撮部分の製作を全面的に担当した。元々は「Monster From the Sea」というオリジナル作品として製作が進められていたが、ハリーハウゼンが描いた「海から現れた怪獣が灯台によじ登る」というシーンが『霧笛』にも描かれていることを知った製作側が、法的問題を避けるために同作の映画化の権利を買い取って製作が続けられた。水爆実験でよみがえった怪獣がニューヨークを破壊するというこの作品は、日本の特撮映画『ゴジラ』にも大きな影響を与えた。
1955年の『水爆と深海の怪物』は、ゴールデン・ゲート・ブリッジを巨大な蛸が破壊するというストーリーであったが、予算不足から巨大蛸の触腕は6本となっている。本作では「橋の強度に対して不安感を与える」との理由からロサンゼルス市当局の撮影許可が下りず、ゲリラ的な撮影が敢行された。この作品以降、コロンビア ピクチャーズのチャールズ・H・シニア(英語版)と盟友関係を結ぶことになった。
1956年の『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』では、UFOの特撮に挑戦している。この映画では崩れ落ちるビルの瓦礫までもモデルアニメで処理されたが、実は予算の関係でミニチュア爆破のような大規模な特撮が出来なかったため、この方式がとられている。ティム・バートンの『マーズ・アタック!』に登場するUFOはこの作品のパロディである。
1957年の『地球へ2千万マイル』では、初めてヨーロッパロケを行っている。この作品では古代ローマの遺跡コロッセオで金星の生物「イーマ(Ymir)」が暴れまわる。人間によって地球に連れて来られ、モンスターとして人間によって殺されてしまうイミーアは『キング・コング』へのオマージュでもある。
1958年の『シンバッド七回目の航海』(公開当時の題名は「シンバッド7回目の航海」)は、ハリーハウゼンの初のカラー作品となった。ハリーハウゼンはカラー映画への転換をシニアに求められ、ダイナメーションをカラーでも通用するように技術開発を行い、製作に挑んでいる。1つ目巨人のサイクロプスや、双頭の巨大鷲のロック鳥、ドラゴンなど様々な怪物が登場する。中でも骸骨戦士との剣戟シーンは有名である。この後、ハリーハウゼンはコロンビア映画との間に、4本のカラー映画の製作契約を結んでいる。
1963年の『アルゴ探検隊の大冒険』では、7体の骸骨戦士との集団剣戟や、空を飛び回る怪鳥ハーピー、重厚な動きを見せる青銅の巨人タロスなど、さらに磨きのかかった特撮技術が見られる。特に、7首の竜ヒドラの登場シーンでは、「それぞれの首が自然で滑らかな動作をしているように見せるため大変な苦労をした」とハリーハウゼンは語っている。1960年に『H・G・ウェルズのSF月世界探検(英語版)』が公開された後、コロンビア映画との契約が終了し、ハリーハウゼンは新規の映画会社の業界参入に伴い、フリーランスとして他の映画会社の元で製作を続けることになる。
コロンビア映画との契約終了後の初作品は、ハマー・フィルム・プロダクションと契約した『恐竜100万年』である。1969年には再びシニアとタッグを組み、ワーナー・ブラザースと契約して『恐竜グワンジ』を製作した。この作品はオブライエンが映画化を企画したものの実現しなかった企画であり、ハリーハウゼンが長年製作を希望していた作品だった。
ハリーハウゼンとシニアはコロンビア映画にシンドバッドの続編企画を持ち込み、1973年に15年ぶりの続編『シンドバッド黄金の航海』を製作した。この映画では、6本腕の陰母神カーリー像のダンスとシンドバッド達との剣戟が有名である。他に空を飛ぶ小悪魔のようなホムンクルス、動き出す船首女神像、1つ目のケンタウロスとグリフォンの死闘などの特撮も見られる。続く『シンドバッド虎の目大冒険』(1977年)は、1本角の原始人やサーベルタイガー、巨大セイウチ、金色の人造ミノタウロスなどが登場するシンドバッドシリーズ最終作となり、3つで「シンドバッド3部作」と呼ばれる。
最後の作品となった1981年の『タイタンの戦い』では、円熟した特撮技術が見られる。実際の馬に対する綿密な観察に基づき造形された天馬ペガサスは、大変リアルな動きを見せる。海の巨大怪物クラーケンや、獣人カリボス、双頭犬ディオスキロス、大サソリなども登場し、特に蛇女メドゥーサの髪の毛だけでなく下半身も蛇の胴体で恐ろしい顔つきの悪魔的な独自の造形は、ハリーハウゼンの創造したモンスターの中でも高い評価を得ている。この造形のメドゥーサは世間に浸透し後の映像・ゲーム等ファンタジー作品にも使われている。同作は興行的に成功したが、これ以降はコンピューター技術の発展により、ハリーハウゼンのアナログな手法は相手にされなくなり、彼とシニアは事実上映画業界から引退することになった。
20世紀の特撮映画界を創造・牽引してきた巨匠ハリーハウゼンの映画は、『ゴジラ』や、ジョージ・ルーカス、ピクサーなど後の特撮映画の巨匠にも多くの影響を与えた。ピクサーが製作した『モンスターズ・インク』及び『メーターの東京レース』には、「ハリーハウゼン」という名前の寿司屋が登場する。訃報を受けたルーカスは「僕たちのほとんどが子供のころから彼(ハリーハウゼン)の影響を受けてきた。その存在なくして『スター・ウォーズ』は生まれなかった」とコメントした。キャメロンも「SFとファンタジー映画の実践者である私たちの全てが、巨人(ハリーハウゼン)の肩の上に乗っていると感じています。もしレイが存在していなかったら、私たちも存在していなかったでしょう」とコメントしている。
アードマン・アニメーションズのピーター・ロード(英語版)もTwitterで「一人の産業、一人のジャンル」と彼の業績を称賛し、テリー・ギリアムも「私たちはコンピューターでデジタル的に作ります。しかし、ハリーハウゼンはコンピューターのない時代からデジタル的に作っていました」と述べた。エドガー・ライトは「私はレイ・ハリーハウゼンのあらゆる映像を愛していました。彼は、私にモンスターの存在を信じさせた存在でした」とコメントしている。
1990年の映画『グレムリン2 新・種・誕・生』や2008年の映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』では、リドサウルスが暴れる場面が挿入されている。
2013年のアメリカ映画『パシフィック・リム』では、エンドクレジットに「THIS FILM IS DEDICATED TO THE MEMORY OF MONSTER MASTERS RAY HARRYHAUSEN AND ISHIRŌ HONDA」(この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ)との献辞が掲げられている。
※ - はストップモーションアニメのクリーチャー | [
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"text": "レイ・ハリーハウゼン(Ray Harryhausen、1920年6月29日 - 2013年5月7日)は、アメリカ合衆国の特撮映画監督・ならびに特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。映画史上、20世紀の映画における特撮技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。主に1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。",
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"text": "カリフォルニア州ロサンゼルスにて、ドイツ帝国からの移民である父・フレデリックと、母・マーサの子として生まれる。なお、ドイツ時代の家名はヘレンハウゼン(ドイツ語: Herrenhausen)と綴られていたが、アメリカに移住した際に現在の名であるハリーハウゼンに改められた。",
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"text": "1933年公開の『キング・コング』におけるウィリス・オブライエンに影響され、ストップモーション・アニメーション映画の仕事に就くことを志すようになる。学生時代から自主制作でストップ・モーション映像を作り始め、高校生の時に友人の紹介でオブライエンと面識を得て、彼からグラフィックアートと彫刻の授業を受けて技術を磨くようにアドバイスされる。また、この頃にレイ・ブラッドベリと友人になる。二人は1939年にフォレスト・J・アッカーマンが結成したサイエンス・フィクション連盟(英語版)に参加し、三人は終生の友情を交わした。",
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"text": "南カリフォルニア大学の夜間部に通い映画技術を学んだ後、ジョージ・パルのスタジオで「パペトーン」のアニメーション・スタッフとなる。第二次世界大戦中にはフランク・キャプラの下でアメリカ陸軍の映画撮影班に属し、映画技術の基礎を習得した。ストップモーション・アニメーションの技術を用いた「戦場での架橋工程を示した軍用教育映画」など当時の作品が残っている。この間、ディミトリ・ティオムキンとドクター・スースとも仕事をしている。",
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"text": "戦後、ハリーハウゼンは捨てられていた16mmフィルムを拾い、短編のおとぎ話を製作している。また、『宇宙戦争』を題材に、火星人が地球に降り立つシーンを独自に撮影している。1949年にアシスタント・アニメーターとして雇われ、『猿人ジョー・ヤング』の製作に参加し、オブライエンからアニメーション製作の大部分を任された。",
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"text": "1960年にロンドンに移住し、晩年まで同地で過ごした。1962年10月にダイアナ・リビングストン・ブルースと結婚し、娘ヴァネッサをもうける。1992年に永年の功績によりアカデミー賞特別賞を受賞した。授賞式では、高校時代からの盟友であるレイ・ブラッドベリの手からオスカー像が手渡された。",
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"text": "1994年の映画『ビバリーヒルズ・コップ3』ではカメオ出演し、1998年には『猿人ジョー・ヤング』のリメイク作品『マイティ・ジョー』に、『猿人ジョー・ヤング』で主演を務めたテリー・ムーア(英語版)と共にカメオ出演し、2003年公開の『エルフ 〜サンタの国からやってきた〜』にもカメオ出演した。2010年には『バーク アンド ヘア』にもカメオ出演している。",
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"text": "2013年5月7日、5か月間の闘病の末に92歳で死去したことが、家族によってTwitterとFacebookで公表された。デイリー・ミラーはハリーハウゼンのウェブサイトを引用して、「ハリーハウゼンはスティーヴン・スピルバーグ、ジェームズ・キャメロン、ピーター・ジャクソン、ジョージ・ルーカス、ジョン・ランディス、ニック・パークなど多くの映画製作者に多大な影響を与えた」とコメントを発表した。",
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"text": "内部にアーマチュア(可動式骨格)を仕込んだ人形を1コマずつ撮影するモデルアニメーションの分野で評価されており、リアルな動きで作り出された映像は世界の人々を驚嘆させた。特に評価が高いのは、「ダイナメーション」と呼ばれる手法で、これは俳優の演技をスクリーン・プロセスでコマ送りで投影しながらそれに合わせて人形を動かすものである。従来、俳優と人形のカラーでの合成には、人形の撮影時にライトの熱で色温度が変化してしまい、実際に映写した際に俳優に対して人形の色が目まぐるしく変わってしまうという難点があったが、ハリーハウゼンは人形の撮影の際、コマ毎に色温度を修正するフィルタを入れる技術を生み出し、この問題を解決した。これにより人形と人間の同時演技(例えばミニチュアと人間の格闘シーン)が光学合成なしで可能となり、後のハリウッド映画の特撮人気を爆発させた。",
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"text": "ハリーハウゼンは映画の脚本、デザイン、コンセプトなど多くの部分に参加しており、プロデューサーはハリーハウゼンのやり方に常に同意することを求められていた。しかし、ハリウッドの製作組合の規則の問題から監督になることはできず、ほとんどの映画では別の役職でクレジットされていた。彼の作品には両親も参加しており、父フレデリックは息子のデザインに基づき金属加工を行い、母マーサはミニチュアの衣装を担当していたが、1973年にフレデリックが死去した後は、他の職人に金属加工を依頼するようになった。",
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"text": "本格的なデビュー作となったのは、ブラッドベリの短編『霧笛』を原作として1953年に製作された『原子怪獣現わる』であり、特撮部分の製作を全面的に担当した。元々は「Monster From the Sea」というオリジナル作品として製作が進められていたが、ハリーハウゼンが描いた「海から現れた怪獣が灯台によじ登る」というシーンが『霧笛』にも描かれていることを知った製作側が、法的問題を避けるために同作の映画化の権利を買い取って製作が続けられた。水爆実験でよみがえった怪獣がニューヨークを破壊するというこの作品は、日本の特撮映画『ゴジラ』にも大きな影響を与えた。",
"title": "業績"
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"text": "1955年の『水爆と深海の怪物』は、ゴールデン・ゲート・ブリッジを巨大な蛸が破壊するというストーリーであったが、予算不足から巨大蛸の触腕は6本となっている。本作では「橋の強度に対して不安感を与える」との理由からロサンゼルス市当局の撮影許可が下りず、ゲリラ的な撮影が敢行された。この作品以降、コロンビア ピクチャーズのチャールズ・H・シニア(英語版)と盟友関係を結ぶことになった。",
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"text": "1956年の『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』では、UFOの特撮に挑戦している。この映画では崩れ落ちるビルの瓦礫までもモデルアニメで処理されたが、実は予算の関係でミニチュア爆破のような大規模な特撮が出来なかったため、この方式がとられている。ティム・バートンの『マーズ・アタック!』に登場するUFOはこの作品のパロディである。",
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"text": "1957年の『地球へ2千万マイル』では、初めてヨーロッパロケを行っている。この作品では古代ローマの遺跡コロッセオで金星の生物「イーマ(Ymir)」が暴れまわる。人間によって地球に連れて来られ、モンスターとして人間によって殺されてしまうイミーアは『キング・コング』へのオマージュでもある。",
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"text": "1958年の『シンバッド七回目の航海』(公開当時の題名は「シンバッド7回目の航海」)は、ハリーハウゼンの初のカラー作品となった。ハリーハウゼンはカラー映画への転換をシニアに求められ、ダイナメーションをカラーでも通用するように技術開発を行い、製作に挑んでいる。1つ目巨人のサイクロプスや、双頭の巨大鷲のロック鳥、ドラゴンなど様々な怪物が登場する。中でも骸骨戦士との剣戟シーンは有名である。この後、ハリーハウゼンはコロンビア映画との間に、4本のカラー映画の製作契約を結んでいる。",
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"text": "1963年の『アルゴ探検隊の大冒険』では、7体の骸骨戦士との集団剣戟や、空を飛び回る怪鳥ハーピー、重厚な動きを見せる青銅の巨人タロスなど、さらに磨きのかかった特撮技術が見られる。特に、7首の竜ヒドラの登場シーンでは、「それぞれの首が自然で滑らかな動作をしているように見せるため大変な苦労をした」とハリーハウゼンは語っている。1960年に『H・G・ウェルズのSF月世界探検(英語版)』が公開された後、コロンビア映画との契約が終了し、ハリーハウゼンは新規の映画会社の業界参入に伴い、フリーランスとして他の映画会社の元で製作を続けることになる。",
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"text": "コロンビア映画との契約終了後の初作品は、ハマー・フィルム・プロダクションと契約した『恐竜100万年』である。1969年には再びシニアとタッグを組み、ワーナー・ブラザースと契約して『恐竜グワンジ』を製作した。この作品はオブライエンが映画化を企画したものの実現しなかった企画であり、ハリーハウゼンが長年製作を希望していた作品だった。",
"title": "業績"
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"text": "ハリーハウゼンとシニアはコロンビア映画にシンドバッドの続編企画を持ち込み、1973年に15年ぶりの続編『シンドバッド黄金の航海』を製作した。この映画では、6本腕の陰母神カーリー像のダンスとシンドバッド達との剣戟が有名である。他に空を飛ぶ小悪魔のようなホムンクルス、動き出す船首女神像、1つ目のケンタウロスとグリフォンの死闘などの特撮も見られる。続く『シンドバッド虎の目大冒険』(1977年)は、1本角の原始人やサーベルタイガー、巨大セイウチ、金色の人造ミノタウロスなどが登場するシンドバッドシリーズ最終作となり、3つで「シンドバッド3部作」と呼ばれる。",
"title": "業績"
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"text": "最後の作品となった1981年の『タイタンの戦い』では、円熟した特撮技術が見られる。実際の馬に対する綿密な観察に基づき造形された天馬ペガサスは、大変リアルな動きを見せる。海の巨大怪物クラーケンや、獣人カリボス、双頭犬ディオスキロス、大サソリなども登場し、特に蛇女メドゥーサの髪の毛だけでなく下半身も蛇の胴体で恐ろしい顔つきの悪魔的な独自の造形は、ハリーハウゼンの創造したモンスターの中でも高い評価を得ている。この造形のメドゥーサは世間に浸透し後の映像・ゲーム等ファンタジー作品にも使われている。同作は興行的に成功したが、これ以降はコンピューター技術の発展により、ハリーハウゼンのアナログな手法は相手にされなくなり、彼とシニアは事実上映画業界から引退することになった。",
"title": "業績"
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"text": "20世紀の特撮映画界を創造・牽引してきた巨匠ハリーハウゼンの映画は、『ゴジラ』や、ジョージ・ルーカス、ピクサーなど後の特撮映画の巨匠にも多くの影響を与えた。ピクサーが製作した『モンスターズ・インク』及び『メーターの東京レース』には、「ハリーハウゼン」という名前の寿司屋が登場する。訃報を受けたルーカスは「僕たちのほとんどが子供のころから彼(ハリーハウゼン)の影響を受けてきた。その存在なくして『スター・ウォーズ』は生まれなかった」とコメントした。キャメロンも「SFとファンタジー映画の実践者である私たちの全てが、巨人(ハリーハウゼン)の肩の上に乗っていると感じています。もしレイが存在していなかったら、私たちも存在していなかったでしょう」とコメントしている。",
"title": "特撮映画への影響"
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"text": "アードマン・アニメーションズのピーター・ロード(英語版)もTwitterで「一人の産業、一人のジャンル」と彼の業績を称賛し、テリー・ギリアムも「私たちはコンピューターでデジタル的に作ります。しかし、ハリーハウゼンはコンピューターのない時代からデジタル的に作っていました」と述べた。エドガー・ライトは「私はレイ・ハリーハウゼンのあらゆる映像を愛していました。彼は、私にモンスターの存在を信じさせた存在でした」とコメントしている。",
"title": "特撮映画への影響"
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"text": "1990年の映画『グレムリン2 新・種・誕・生』や2008年の映画『クローバーフィールド/HAKAISHA』では、リドサウルスが暴れる場面が挿入されている。",
"title": "特撮映画への影響"
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{
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"text": "2013年のアメリカ映画『パシフィック・リム』では、エンドクレジットに「THIS FILM IS DEDICATED TO THE MEMORY OF MONSTER MASTERS RAY HARRYHAUSEN AND ISHIRŌ HONDA」(この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ)との献辞が掲げられている。",
"title": "特撮映画への影響"
},
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"text": "※ - はストップモーションアニメのクリーチャー",
"title": "主な映画作品"
}
] | レイ・ハリーハウゼンは、アメリカ合衆国の特撮映画監督・ならびに特殊効果スタッフで、ストップモーション・アニメーター。映画史上、20世紀の映画における特撮技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。主に1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。 | {{ActorActress
| 芸名 = レイ・ハリーハウゼン
| ふりがな = Ray Harryhausen
| 画像ファイル = Harryhausen.jpg
| 画像サイズ = 240px
| 画像コメント = 2006年
| 本名 = レイモンド・フレデリック・ハリーハウゼン<br>{{lang|en|Raymond Frederick Harryhausen}}
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 -->
| 出生地 = {{USA1912}}<br>[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]
| 死没地 = {{ENG}}・[[ロンドン]]
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 -->
| 身長 =
| 血液型 =
| 生年 = 1920
| 生月 = 6
| 生日 = 29
| 没年 = 2013
| 没月 = 5
| 没日 = 7
| 職業 = [[ストップモーション・アニメーション|ストップモーション]][[アニメーター]]<br>[[特撮]][[監督]]
| ジャンル = [[特撮映画]]
| 活動期間 = [[1953年]] - [[1981年]]、[[2002年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 = ダイアナ・リビングストン・ブルース
| 著名な家族 =
| 所属劇団 =
| 事務所 =
| 公式サイト = [http://www.rayharryhausen.com/ www.rayharryhausen.com]
| 主な作品 = 『[[猿人ジョー・ヤング]]』<br />『[[原子怪獣現わる]]』<br />『[[水爆と深海の怪物]]』<br />『[[世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す]]』<br />『[[地球へ2千万マイル]]』<br />『[[シンバッド七回目の航海]]』<br />『[[SF巨大生物の島]]』<br />『[[アルゴ探検隊の大冒険]]』<br />『[[恐竜100万年]]』<br />『[[シンドバッド黄金の航海]]』<br />『[[シンドバッド虎の目大冒険]]』<br />『[[タイタンの戦い (1981年の映画)|タイタンの戦い]]』
| アカデミー賞 = '''[[ゴードン・E・ソーヤー賞]]'''<br />[[第64回アカデミー賞|1991年]]
| その他の賞 = [[:en:EMP_Museum#Science_Fiction_Hall_of_Fame|EMP博物館SF技術賞]](2005年)<br/>[[:en:Rondo Hatton|ロンド・ハットン・クラシック・ホラー賞]](2006年)
| 備考 =
}}
'''レイ・ハリーハウゼン'''({{lang|en|Ray Harryhausen}}、[[1920年]][[6月29日]] - [[2013年]][[5月7日]]<ref>{{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-22441567|title=Ray Harryhausen, visual effects master, dies aged 92|publisher=[[英国放送協会|BBC News]]|date=2013年05月07日 ([[協定世界時|UTC]])|accessdate=2013年05月08日 ([[日本標準時|JST]])}}</ref>)は、[[アメリカ合衆国]]の[[特撮映画]]監督・ならびに[[SFX|特殊効果]]スタッフで、[[ストップモーション・アニメーション|ストップモーション]]・アニメーター。映画史上、20世紀の映画における[[特撮]]技術の歴史を作ってきたといわれる人物である。主に1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた。
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス]]にて、[[ドイツ帝国]]からの移民である父・フレデリックと、母・マーサの子として生まれる。なお、[[ドイツ]]時代の家名は'''ヘレンハウゼン'''({{lang-de|Herrenhausen}})と綴られていたが、アメリカに移住した際に現在の名であるハリーハウゼンに改められた<ref>{{cite journal|author=Mandell, Paul |url=http://www.questia.com/library/1P3-1254069131/of-genies-and-dragons-the-career-of-ray-harryhausen |title=Of Genies and Dragons: The Career of Ray Harryhausen|journal=American Cinematographer|volume=73|issue=12|date=December 1992 |publisher=via Questia.com |accessdate=2013-05-10}}</ref>。
1933年公開の『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』における[[ウィリス・オブライエン]]に影響され、[[ストップモーション・アニメーション]]映画の仕事に就くことを志すようになる。学生時代から自主制作でストップ・モーション映像を作り始め、高校生の時に友人の紹介でオブライエンと面識を得て、彼からグラフィックアートと彫刻の授業を受けて技術を磨くようにアドバイスされる。また、この頃に[[レイ・ブラッドベリ]]と友人になる<ref>''The Harryhausen Chronicles'', documentary written and directed by Richard Schickel, 1997.</ref>。二人は1939年に[[フォレスト・J・アッカーマン]]が結成した{{仮リンク|サイエンス・フィクション連盟|en|Science Fiction League}}に参加し、三人は終生の友情を交わした。
=== 映画業界への参加 ===
[[南カリフォルニア大学]]の夜間部に通い映画技術を学んだ後、[[ジョージ・パル]]のスタジオで「パペトーン」のアニメーション・スタッフとなる。[[第二次世界大戦]]中には[[フランク・キャプラ]]の下で[[アメリカ陸軍]]の映画撮影班に属し、映画技術の基礎を習得した。ストップモーション・アニメーションの技術を用いた「戦場での架橋工程を示した軍用教育映画」など当時の作品が残っている。この間、[[ディミトリ・ティオムキン]]と[[ドクター・スース]]とも仕事をしている<ref>{{cite web | url=http://www.brightlightsfilm.com/58/58harryhauseniv.html | title=Monsters, Inc. An Interview with Ray Harryhausen | last=Love | first=Damien|publisher=Bright Lights Film Journal | date=November 2007 | accessdate=2009-08-22}}</ref>。
戦後、ハリーハウゼンは捨てられていた[[16mmフィルム]]を拾い、短編のおとぎ話を製作している。また、『[[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|宇宙戦争]]』を題材に、火星人が地球に降り立つシーンを独自に撮影している。1949年にアシスタント・アニメーターとして雇われ、『[[猿人ジョー・ヤング]]』の製作に参加し、オブライエンからアニメーション製作の大部分を任された。
1960年に[[ロンドン]]に移住し、晩年まで同地で過ごした。1962年10月にダイアナ・リビングストン・ブルースと結婚し、娘ヴァネッサをもうける。[[1992年]]に永年の功績により[[アカデミー賞]]特別賞を受賞した。授賞式では、高校時代からの盟友である[[レイ・ブラッドベリ]]の手からオスカー像が手渡された。
=== 晩年 ===
1994年の映画『[[ビバリーヒルズ・コップ3]]』ではカメオ出演し、1998年には『猿人ジョー・ヤング』のリメイク作品『[[マイティ・ジョー]]』に、『猿人ジョー・ヤング』で主演を務めた{{仮リンク|テリー・ムーア (女優)|en|Terry Moore (actress)|label=テリー・ムーア}}と共にカメオ出演し、2003年公開の『[[エルフ 〜サンタの国からやってきた〜]]』にもカメオ出演した。2010年には『[[バーク アンド ヘア]]』にもカメオ出演している。
2013年5月7日、5か月間の闘病の末に92歳で死去したことが、家族によってTwitterとFacebookで公表された<ref name="Facebook">Facebook. [https://www.facebook.com/pages/The-Ray-and-Diana-Harryhausen-Foundation/125012827632564 Ray and Diana Harryhausen Foundation Facebook Page] Retrieved 2013-06-07.</ref><ref>http://file770.com/?p=14837</ref>。[[デイリー・ミラー]]はハリーハウゼンのウェブサイトを引用して、「ハリーハウゼンは[[スティーヴン・スピルバーグ]]、[[ジェームズ・キャメロン]]、[[ピーター・ジャクソン]]、[[ジョージ・ルーカス]]、[[ジョン・ランディス]]、[[ニック・パーク]]など多くの映画製作者に多大な影響を与えた」とコメントを発表した<ref name="mirror">Rankin, Ben (May 7, 2013). [http://www.mirror.co.uk/lifestyle/going-out/film/ray-harryhausen-dead-movie-veteran-1874607#ixzz2Sd9O7z7p Ray Harryhausen dead: Movie veteran dies] Mirror.co.uk. Retrieved 2013-06-07.</ref>。
== 業績 ==
=== ダイナメーション ===
[[File:Harryhausen Allosaurus Talos NMM.jpg|thumb|240px|『恐竜100万年』のアロサウルスと『アルゴ探検隊の大冒険』のタロス({{仮リンク|国立科学・メディア博物館|en|National Science and Media Museum}})]]
内部にアーマチュア(可動式骨格)を仕込んだ人形を1コマずつ撮影する[[モデルアニメーション]]の分野で評価されており、リアルな動きで作り出された映像は世界の人々を驚嘆させた。特に評価が高いのは、「ダイナメーション」と呼ばれる手法で、これは俳優の演技を[[スクリーン・プロセス]]でコマ送りで投影しながらそれに合わせて人形を動かすものである<ref name="NYT Obituary">{{cite web|url=https://www.nytimes.com/2013/05/08/movies/ray-harryhausen-cinematic-special-effects-innovator-dies-at-92.html |title=Ray Harryhausen, Whose Creatures Battled Jason and Sinbad, Dies at 92 |publisher=[[New York Times]] |first=Patrick J. |last=Lyons |date=2013-05-07 |accessdate=2016-08-27}}</ref>。従来、俳優と人形のカラーでの合成には、人形の撮影時にライトの熱で色温度が変化してしまい、実際に映写した際に俳優に対して人形の色が目まぐるしく変わってしまうという難点があったが、ハリーハウゼンは人形の撮影の際、コマ毎に色温度を修正するフィルタを入れる技術を生み出し、この問題を解決した。これにより人形と人間の同時演技(例えばミニチュアと人間の格闘シーン)が[[光学合成]]なしで可能となり、後のハリウッド映画の特撮人気を爆発させた<ref name="harry">{{cite news|title=【訃報】特撮の巨匠・レイ・ハリーハウゼン死去。ゴジラ、ルーカス、ピクサーに多大な影響|publisher=DDN JAPAN livedoorニュース|date=2013-05-08|accessdate=2013-06-08|url=http://news.livedoor.com/article/detail/7656547/}}</ref>。
ハリーハウゼンは映画の脚本、デザイン、コンセプトなど多くの部分に参加しており、プロデューサーはハリーハウゼンのやり方に常に同意することを求められていた。しかし、[[ハリウッド]]の製作組合の規則の問題から監督になることはできず、ほとんどの映画では別の役職でクレジットされていた。彼の作品には両親も参加しており、父フレデリックは息子のデザインに基づき金属加工を行い、母マーサはミニチュアの衣装を担当していたが、1973年にフレデリックが死去した後は、他の職人に金属加工を依頼するようになった。
=== 製作 ===
==== コロンビア映画作品 ====
{{Multiple image
|direction = vertical
|width = 240
|image1 = Rhedosaurus & the lighthouse.png
|caption1 = 『原子怪獣現わる』のリドザウルス
|image2 = 20 million miles to earth (1957) Ymir.png
|caption2 = 『地球へ2千万マイル』のイーマ
}}
本格的なデビュー作となったのは、ブラッドベリの短編『[[霧笛]]』を原作として1953年に製作された『[[原子怪獣現わる]]』であり、特撮部分の製作を全面的に担当した。元々は「''Monster From the Sea''」というオリジナル作品として製作が進められていたが、ハリーハウゼンが描いた「海から現れた怪獣が灯台によじ登る」というシーンが『霧笛』にも描かれていることを知った製作側が、法的問題を避けるために同作の映画化の権利を買い取って製作が続けられた。[[水素爆弾|水爆]]実験でよみがえった怪獣が[[ニューヨーク]]を破壊するというこの作品は、日本の特撮映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』にも大きな影響を与えた。
1955年の『[[水爆と深海の怪物]]』は、[[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]を巨大な[[タコ|蛸]]が破壊するというストーリーであったが、予算不足から巨大蛸の触腕は6本となっている。本作では「橋の強度に対して不安感を与える」との理由から[[ロサンゼルス]]市当局の撮影許可が下りず、ゲリラ的な撮影が敢行された。この作品以降、[[コロンビア ピクチャーズ]]の{{仮リンク|チャールズ・H・シニア|en|Charles H. Schneer}}と盟友関係を結ぶことになった<ref>[https://www.nytimes.com/2009/01/27/movies/27schneer.html "Charles H. Schneer, Sci-Fi Film Producer, Dies at 88"] by Margalit Fox, ''The New York Times'', January 27, 2009, p. A28 (NY edition). Retrieved 2009-01-27.</ref>。
1956年の『[[世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す]]』では、[[未確認飛行物体|UFO]]の特撮に挑戦している。この映画では崩れ落ちるビルの瓦礫までもモデルアニメで処理されたが、実は予算の関係でミニチュア爆破のような大規模な特撮が出来なかったため、この方式がとられている。[[ティム・バートン]]の『[[マーズ・アタック!]]』に登場するUFOはこの作品の[[パロディ]]である。
1957年の『[[地球へ2千万マイル]]』では、初めて[[ヨーロッパ]]ロケを行っている。この作品では[[古代ローマ]]の遺跡[[コロッセオ]]で[[金星]]の生物「イーマ(Ymir)」が暴れまわる。人間によって地球に連れて来られ、モンスターとして人間によって殺されてしまうイミーアは『[[キング・コング (1933年の映画)|キング・コング]]』へのオマージュでもある。
1958年の『[[シンバッド七回目の航海]]』(公開当時の題名は「シンバッド7回目の航海」)は、ハリーハウゼンの初のカラー作品となった。ハリーハウゼンはカラー映画への転換をシニアに求められ、ダイナメーションをカラーでも通用するように技術開発を行い、製作に挑んでいる。1つ目巨人の[[キュクロープス|サイクロプス]]や、双頭の巨大鷲の[[ロック鳥]]、ドラゴンなど様々な怪物が登場する。中でも骸骨戦士との剣戟シーンは有名である。この後、ハリーハウゼンはコロンビア映画との間に、4本のカラー映画の製作契約を結んでいる。
1963年の『[[アルゴ探検隊の大冒険]]』では、7体の骸骨戦士との集団剣戟や、空を飛び回る怪鳥ハーピー、重厚な動きを見せる青銅の巨人[[タロース (ギリシア神話)|タロス]]など、さらに磨きのかかった特撮技術が見られる。特に、7首の竜[[ヒュドラー|ヒドラ]]の登場シーンでは、「それぞれの首が自然で滑らかな動作をしているように見せるため大変な苦労をした」とハリーハウゼンは語っている。1960年に『{{仮リンク|H・G・ウェルズのSF月世界探検|en|First Men in the Moon (1964 film)}}』が公開された後、コロンビア映画との契約が終了し、ハリーハウゼンは新規の映画会社の業界参入に伴い、フリーランスとして他の映画会社の元で製作を続けることになる。
==== コロンビア映画との契約終了後の作品 ====
{{Multiple image
|direction = vertical
|width = 240
|image1 = 7th voyage of Sinbad - Cyclops vs Dragon.png
|caption1 = 『シンバッド七回目の航海』のサイクロプスとドラゴン
|image2 = Jason and the Argonauts (1963) Hydra fight.png
|caption2 = 『アルゴ探検隊の大冒険』のヒドラ
}}
コロンビア映画との契約終了後の初作品は、[[ハマー・フィルム・プロダクション]]と契約した『[[恐竜100万年]]』である。1969年には再びシニアとタッグを組み、[[ワーナー・ブラザース]]と契約して『[[恐竜グワンジ]]』を製作した。この作品はオブライエンが映画化を企画したものの実現しなかった企画であり、ハリーハウゼンが長年製作を希望していた作品だった。
ハリーハウゼンとシニアはコロンビア映画にシンドバッドの続編企画を持ち込み、1973年に15年ぶりの続編『[[シンドバッド黄金の航海]]』を製作した。この映画では、6本腕の陰母神[[カーリー]]像のダンスとシンドバッド達との剣戟が有名である。他に空を飛ぶ小悪魔のようなホムンクルス、動き出す船首女神像、1つ目のケンタウロスとグリフォンの死闘などの特撮も見られる。続く『[[シンドバッド虎の目大冒険]]』(1977年)は、1本角の原始人やサーベルタイガー、巨大セイウチ、金色の人造ミノタウロスなどが登場するシンドバッドシリーズ最終作となり、3つで「シンドバッド3部作」と呼ばれる。
最後の作品となった1981年の『[[タイタンの戦い (1981年の映画)|タイタンの戦い]]』では、円熟した特撮技術が見られる。実際の馬に対する綿密な観察に基づき造形された天馬[[ペーガソス|ペガサス]]は、大変リアルな動きを見せる。海の巨大怪物クラーケンや、獣人カリボス、双頭犬ディオスキロス、大サソリなども登場し、特に蛇女[[メドゥーサ]]の髪の毛だけでなく下半身も蛇の胴体で恐ろしい顔つきの悪魔的な独自の造形は、ハリーハウゼンの創造したモンスターの中でも高い評価を得ている。この造形のメドゥーサは世間に浸透し後の映像・ゲーム等ファンタジー作品にも使われている。同作は興行的に成功したが、これ以降はコンピューター技術の発展により、ハリーハウゼンのアナログな手法は相手にされなくなり、彼とシニアは事実上映画業界から引退することになった。
== 特撮映画への影響 ==
[[File:Jules Verne Aventures 2006.jpg|thumb|240px|ジョージ・ルーカス、ジェームズ・キャメロン、[[ハリソン・フォード]]、[[マルコム・マクダウェル]]、[[ジェーン・グドール]]らとハリーハウゼン]]
20世紀の特撮映画界を創造・牽引してきた巨匠ハリーハウゼンの映画は、『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』や、[[ジョージ・ルーカス]]、[[ピクサー]]など後の特撮映画の巨匠にも多くの影響を与えた。ピクサーが製作した『[[モンスターズ・インク]]』及び『[[メーターの東京レース]]』には、「ハリーハウゼン」という名前の寿司屋が登場する。訃報を受けたルーカスは「僕たちのほとんどが子供のころから彼(ハリーハウゼン)の影響を受けてきた。その存在なくして『[[スター・ウォーズシリーズ|スター・ウォーズ]]』は生まれなかった」とコメントした<ref name="harry"/>。キャメロンも「SFとファンタジー映画の実践者である私たちの全てが、巨人(ハリーハウゼン)の肩の上に乗っていると感じています。もしレイが存在していなかったら、私たちも存在していなかったでしょう」とコメントしている<ref name="family statement"/>。
[[アードマン・アニメーションズ]]の{{仮リンク|ピーター・ロード|en|Peter Lord}}もTwitterで「一人の産業、一人のジャンル」と彼の業績を称賛し、[[テリー・ギリアム]]も「私たちはコンピューターでデジタル的に作ります。しかし、ハリーハウゼンはコンピューターのない時代からデジタル的に作っていました」と述べた<ref name="bbc">BBC. [http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-22441567 Ray Harryhausen, visual effects master, dies aged 92] Retrieved 2013-06-07.</ref><ref name="family statement">Comingsoon.net. [http://www.comingsoon.net/news/movienews.php?id=103886 RIP Ray Harryhausen: 1920–2013] Retrieved 2013-05-08.</ref>。[[エドガー・ライト]]は「私はレイ・ハリーハウゼンのあらゆる映像を愛していました。彼は、私にモンスターの存在を信じさせた存在でした」とコメントしている<ref name="bbc"/>。
1990年の映画『[[グレムリン2 新・種・誕・生]]』や2008年の映画『[[クローバーフィールド/HAKAISHA]]』では、リドサウルスが暴れる場面が挿入されている。
[[2013年]]のアメリカ映画『[[パシフィック・リム (映画)|パシフィック・リム]]』では、エンドクレジットに「THIS FILM IS DEDICATED TO THE MEMORY OF MONSTER MASTERS RAY HARRYHAUSEN AND ISHIRŌ HONDA」(この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと[[本多猪四郎]]に捧ぐ)との献辞が掲げられている。
== 主な映画作品 ==
※ - はストップモーションアニメのクリーチャー
* 『[[猿人ジョー・ヤング]]』(1949年) - ジョー
* 『[[原子怪獣現わる]]』(1953年) - リドザウルス
* 『[[水爆と深海の怪物]]』(1955年) - 6本足の大蛸
* 『[[世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す]]』(1956年) - [[UFO]]
* 『[[地球へ2千万マイル]]』(1957年) - イーマ、象
* 『[[シンバッド七回目の航海]]』(1958年) - [[キュクロプス|サイクロプス]]、四腕の蛇女、双頭の[[ロック鳥]](親、雛)、[[ドラゴン]]、[[骸骨]]剣士
* 『{{仮リンク|ガリバーの大冒険|en|The 3 Worlds of Gulliver}}』(1960年) - [[ブロブディンナグ]]の[[リス]]、ブロブディンナグの小[[ワニ]]
* 『[[SF巨大生物の島]]』(1961年) - 巨大[[カニ|ガニ]]、[[フォルスラコス|巨鳥]]、巨大[[蜂]]、巨大[[オウムガイ]]
* 『[[アルゴ探検隊の大冒険]]』(1963年) - [[タロース (ギリシア神話)|タロス]]、[[ハーピー]]、[[ヒュドラ]]、7人の骸骨剣士
* 『{{仮リンク|H・G・ウェルズのSF月世界探検|en|First Men in the Moon (1964 film)}}』(1964年) - 月船、宇宙球面、月牛(ムーンカーフ)、[[宇宙人|セレナイト]]、グランドルナ
* 『[[恐竜100万年]]』(1966年) - [[ブロントサウルス]]、[[アロサウルス]]、[[トリケラトプス]]、[[ケラトサウルス]]、[[プテラノドン]]、[[エウディモルフォドン]]、[[アーケロン]]
* 『[[恐竜グワンジ]]』(1969年) - [[エオヒップス]]、[[オルニトミムス]]、プテラノドン、[[スティラコサウルス]]、グワンジ、象
* 『[[シンドバッド黄金の航海]]』(1973年) - [[ホムンクルス]]、動く女神の船首像([[セイレーン]])、[[カーリー]]、一つ目の[[ケンタウロス]]、[[グリフォン]]
* 『[[シンドバッド虎の目大冒険]]』(1977年) - 3体の[[グール]]、[[ヒヒ]]となったカシム王子(全身カット)、[[ミーノータウロス|ミナトン]]、大蜂、巨大[[セイウチ]]、一角の[[原始人]]、[[サーベルタイガー]]
* 『[[タイタンの戦い (1981年の映画)|タイタンの戦い]]』(1981年) - 巨大[[ハゲワシ]]、[[ペーガソス|ペガサス]](全身カット)、[[フクロウ|ブーボー]]、カリポス(全身カット)、双頭の番犬、[[メデューサ]]、三匹の大[[サソリ]]、[[クラーケン]]([[ケートス]])
== 出演 ==
* 『{{仮リンク|レイ・ハリーハウゼン 特殊効果の巨人|en|Ray Harryhausen: Special Effects Titan}}』(2011年)ドキュメンタリー映画
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* ''Film Fantasy Scrapbook'', by Ray Harryhausen, 1972
* ''From the Land Beyond Beyond'', by Jeff Rovin, 1977
* ''Ray Harryhausen: An Animated Life'', by Ray Harryhausen and Tony Dalton, foreword by Ray Bradbury, 2003
* ''The Art of Ray Harryhausen'', by Ray Harryhausen and Tony Dalton, foreword by [[Peter Jackson]], 2005
* ''A Century of Model Animation: From Méliès to Aardman'', by Ray Harryhausen and Tony Dalton, 2008
* ''Ray Harryhausen A Life in Pictures'', by Tony Dalton, foreword by [[George Lucas]], final word by Ray Bradbury, 2010
* ''Ray Harryhausen's Fantasy Scrapbook'', by Ray Harryhausen and Tony Dalton, foreword by [[John Landis]], 2011
* "Ray Harryhausen - Master of the Majicks", an exhaustive limited-edition three volume set of books edited by Ernest Farino showcasing Harryhausen and his films. (Release of Volume 3 is currently pending.)
== 外部リンク ==
* {{imdb name|id=0366063|name=Ray Harryhausen}}
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4,013 | ポートピア連続殺人事件 | 『ポートピア連続殺人事件』(ポートピアれんぞくさつじんじけん)は、堀井雄二がデザインしたアドベンチャーゲーム。
1983年6月にエニックス(現在のスクウェア・エニックス)よりPC-6001版から発売され、当時の多くのパソコンに移植された。1985年11月29日にファミリーコンピュータ(以下、ファミコン/FC)移植版が発売され、FC初のアドベンチャーゲームとなった。
2001年にはフィーチャーフォン用の携帯電話ゲーム(携帯アプリ)としてリメイク版も配信された。
発売当時の現代日本を舞台としたアドベンチャーゲーム。プレイヤーは神戸市で起こった殺人事件を担当する刑事となり、相棒のヤスと共に事件の背景を探り真犯人に迫っていく。社会派推理小説を意識したストーリーとなっており、その結末にはどんでん返しの展開が設けられ、真犯人の正体の意外性が話題になった。
発売当時のゲームはSFやファンタジーといった現実から離れた物語のジャンルが主流で、初めてではないものの、本作のような現代日本を舞台とするゲームは少数派であった。また、当時のアドベンチャーゲームというジャンルも、宝探しか迷宮脱出のいずれかに分類できるゲーム性がほとんどである。本作のように実在する土地を舞台に、人間ドラマを盛り込んだ小説仕立てのストーリーが展開されるという趣向は、革新的なものであった。
その一方で、ゲームシステムの制約から、アリバイ崩しのような複雑な展開を盛り込むことは断念され、事件の因果関係を明らかにしていくというストーリーが設定された。最後に意外性のある結末でプレイヤーを驚かせるという手法を用いたのも、少ない容量で娯楽性を追求するという制約の中で生まれた工夫による。
発表当時のゲーム業界は個人による開発が主流で、分業がほとんどされておらず、本作もオリジナル版のPC-6001版では、プログラム・シナリオ・グラフィック等の全ての作業を堀井が1人でこなしている。後に堀井雄二がシナリオを担当したアドベンチャーゲーム『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』(1984年、アスキー)、『軽井沢誘拐案内』(1985年、エニックス)と本作を合わせて「堀井ミステリー三部作」とも呼ばれる。
PC版のシステムは、発売当時としてはオーソドックスなキーボードからのコマンド打ち込み式のアドベンチャーゲームとなっている。堀井は当時アメリカ合衆国で同種のゲームシステムが流行していることを聞きつけ、これをサスペンスのジャンルと組み合わせるという着想を得て、ゲーム性よりもストーリーを表現する手段として、アドベンチャーゲームの形式を用いるスタイルを確立させた。基本的なストーリーはどの機種もほぼ同じであるが、ゲーム途中に出てくる暗号はPCの機種毎に異なり、その難易度には明らかに差があった。
文章入力方式であり、プレイヤーが主人公の部下であるヤスに命令するという体裁でコマンドを入力する。新開地に進みたければ基本的に命令口調で「シンカイチ イケ」(「ヲ」「ニ」などは不要)のようにコマンドを打つ。「デンワ」など単語だけで判断可能な場合は「シロ」「セヨ」は不要。特定の機種版では、方言対応と銘打って「シンカイチ イクンダヨ」のように入力しても反応できる仕様となっていたが、「シンカイチ イクナ」と入力しても新開地に行ってしまう。また、「アホ」と入力すると「アホ ト イウホウガ アホ ヤト ウチノ シンダ オバアチャンガ ヨク イッテマシタ」(=「『アホと言うほうがアホや』と、うちの死んだお婆ちゃんがよく言ってました」)という反応が返ってくる。オリジナルのPC-6001版ではコマンドは全てキーボードから手打ち入力する方式だったが、その後の移植版では主要なコマンド(「イケ」「シラベロ」「アリバイ」など)はファンクションキーに割り当てられ、プレイヤーの負担を軽減する方策がとられた。これが『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』や、本作のFC移植版で採用されたコマンド選択式へと繋がっていく。
合成音声機能を持つPC-6001mkIIの専用版がPC-6001版のテープB面に収録されており、例えば街で「キキコミ」をすると、ヤス「あのぉ、ちょっとお尋ねしますが...」→通行人「はい、何でしょう?」など、一部の場面で登場人物が音声を出すようになっている。
なお、本作では謎解きよりも物語を見せることを重視したゲームデザインがされており、エンディングに辿り着くためにゲーム中で様々な証拠を集め、フラグを立て、事件の因果関係を解き明かしてお膳立てを整える必要がある。プレイヤーが最初から真犯人を知っていたとしても、ゲーム開始直後に逮捕することはできない。
コマンドは入力式になっており、基本的な動作は以下のコマンドによって行われる。
No.はファンクションキーの番号。なお、F6には「ゲンバ」、F7には「アリバイ」、F8には「ドウキ」が定義されている。
かねてより堀井はアドベンチャーゲームに興味があったものの、このジャンルは他人に遊んでもらうことを前提としており、開発にはためらいがあった。『ラブマッチテニス』の発売元であるエニックスから次回作の依頼が寄せられ、堀井はこれをチャンスと受け止めてアドベンチャーゲームの開発を決意した。
当時のアドベンチャーゲームは『ミステリーハウス』のように、時間の概念がない作品が多かったことから、堀井はテレビ番組『火曜サスペンス劇場』を参考に、物語の進行に合わせて事件も進むというあり方を考えた。テレビドラマからの影響は移動方法にも現れており、当時のアドベンチャーゲームでは一般的だった方角による移動ではなく、地名の指定による移動方法が採用された。これについて堀井は『ミステリーハウス』のように限られた空間が舞台ではないため、中間地点を省いた移動の方法が自然だと考えたと2017年の「AUTOMATON」とのインタビューの中で話している。
また、堀井は当時のアドベンチャーゲームでは一般的だった地の文を排し、かつセリフを短く伝わるようにするという手法をとったことについて、漫画原作者としての経験が影響していると思うとニュースサイト「AUTOMATON」による2017年のインタビューの中で話している。
主人公の相棒である「ヤス」について、堀井はコンピュータから発せられる対話文自体を擬人化した存在だと認めており、プレイヤー‐コンピュータ間よりも、キャラクター同士のやり取りの方が温かみがあると考えたと「AUTOMATON」とのインタビューの中で話している。
以上の在り方について、堀井は自分が漫画家志望だったことが影響していると「AUTOMATON」とのインタビューの中で話している。
本作は兵庫県とその周辺が舞台となっており、具体的な地名が登場する。これは、ゲームの作者である堀井雄二が兵庫県洲本市(淡路島)の出身であることにちなむ。堀井はなんとなく調べて事件が起きそうなところを舞台に選んだ。また、京都の阿弥陀ヶ峰は名前のおどろおどろしさから選ばれた。
チュンソフト(現在のスパイク・チュンソフト)が移植を担当。60万本を販売した(80万本とも)ファミコンのコントローラーではパソコン版のようなキーボードタイプによるコマンド入力は困難であるため、パソコン版の『オホーツクに消ゆ』と同様のコマンド選択式のインターフェースが採用され、命令を一文字ずつ打ち込んでいく必要がなくなった。パソコンゲームでは一般的だった“アドベンチャーゲーム”というジャンルを、はじめてファミコンに持ち込んだ作品となる。これはテレビゲーム業界では初めての革新的な出来事でもあった。ただし、コマンドを適当に選んでいるだけでゲームが終わらないように、パソコン版にあった暗号だけでなく画面内でカーソルを動かして証拠品を探す箇所や、3D表示の地下迷宮が追加されている。コンティニュー用パスワードやバッテリーバックアップといった進行状況を保存する機能は存在しない。また、誤ったタイミングで捜査を打ち切った場合に発生するバッドエンドはなくなり、電話口で署長に怒られて捜査を再開するようになっている。
堀井がFCのゲームソフトに関わるのは本作が初となり、本作において成立した堀井雄二がゲームデザインをしてチュンソフトが開発するという体制は、その後の『ドラゴンクエストシリーズ』へと引き継がれている。
FC版の開発中には容量不足に苦しめられた。PC版の台詞をそのまま移植すると容量が2KBほど不足する計算となったため、台詞を少しずつ削って容量を節約する処置が取られた。同様の理由から、カタカナは「ア・イ・ウ・カ・ス・タ・ツ・ッ・テ・ト・ナ・ハ・ヒ・フ・ホ・マ・ヤ・ラ・リ・ロ・ン」の21文字のみが使用されている。なお、漫画『ドラゴンクエストへの道』では「この制限のためにペンダントをゆびわに変更した」と語られているが、PC版に該当アイテムは存在せず、FC版が初出である。
FC版で出てくる音響は冒頭などのサイレンの音、電話の音、ドアなどを閉める音、コマンド入力音、台詞の文字が流れる音くらいのものである。なお、携帯アプリ移植版では全編BGMが付いている。
発売40周年となる2023年には、スクウェア・エニックスで製品開発の支援を行うAI部が開発した『SQUARE ENIX AI Tech Preview: THE PORTOPIA SERIAL MURDER CASE』がSteamで無償公開された。これはCEDEC+KYUSHU 2022で発表されたゲームの公開版となる。なお技術プレビューであるためSteamでは教育のジャンルに登録されている。説明では「PC版「ポートピア連続殺人事件」を通して、AI技術のひとつである「自然言語処理」を学習・体験するソフトウェアです」としている。
特徴としては自然言語処理(NLP)により入力したテキストの内容を判断し、意図が近いコマンドとして入力を受け付けることで、会話でゲームを進行することができる。ジャンルは「NLPアドベンチャー」としている。シナリオはPC版と同等(ただし、暗号はFC版と同じ)でグラフィックは新規であるが、技術プレビューで遊びやすさの調整がされていないため、現状では不自然な箇所が多いという。背景は実写が使われており、舞台となった神戸市の観光局が協力している。CEDEC+KYUSHU 2022で発表されたバージョンでは、入力されたテキストの内容を判断する「自然言語理解(NLU」と、入力に対応したテキストを生成する「自然言語生成(NLG)」を備えていたが、公開版は倫理上の問題などによりNLGは搭載していない。オプションとして音声認識にも対応しており、キーボードを使わずにプレイすることも可能であるが、CUDA対応のGPUが必要となる。
主人公がゲームの最終目標として捕らえるべき犯人には、連続殺人に至った動機などの同情を誘うようなバックストーリーが設定され、人間ドラマをゲームの中に再現するという、当時のゲームではまだ珍しかった小説的な手法が取られた。結末で明らかになる真犯人の正体は、その意外性でも語り草となったが、同時にその人物が何者であるかもよく知られており、当時このゲームが流行していた頃の世代には、このゲームを遊んだことがなくても犯人の名前だけは知っているという状況が多く見られた。この人物は「おそらく日本一有名な犯人」と形容されることもある。
具体的には、作中で物語の冒頭から一貫して主人公と行動を共にし、ゲームシステムの一部にも組み込まれている主人公の相棒・ヤスこと真野康彦が真犯人であるのだが、これを一言で言い表した「犯人はヤス」というフレーズは未だにネタバレを指す小ネタや、犯人が分からない事件に寄せられるインターネットスラングとして使われることがある。デザイナーの堀井も、もし本作の次回作を作ることがあるなら、このフレーズをサブタイトルに組み込みたいという話を冗談めかして語っている。
1986年1月にタレントのビートたけしがラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』で、ファミコンと本ゲームをスタジオに持ち込み、弟子のたけし軍団とスタッフとともにプレイして実況放送した。この実況中に、犯人が誰か分かってしまったたけしが犯人の名前を喋ってしまうというタブーを犯すが、逆にこの放送をきっかけに売上げが伸びたという逸話がある。
また、同1986年12月に発売された双葉社のゲームブック『ファミコン冒険ゲームブック ドラゴンクエスト―蘇る英雄伝説』内で、「ポートピアの犯人はヤス」というパロディー表現が登場している。
本作における「地の文」をキャラクターの相棒のセリフに置き換えるという手法はエニックスの『ウイングマン』(1984年)や『北斗の拳 バイオレンス劇画アドベンチャー』(1986年)だけでなく、リバーヒルソフトの『黒猫荘相続殺人事件』『白バラ連続殺人事件』(共に1984年)といった他社作品でも使われた。 | [
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"text": "チュンソフト(現在のスパイク・チュンソフト)が移植を担当。60万本を販売した(80万本とも)ファミコンのコントローラーではパソコン版のようなキーボードタイプによるコマンド入力は困難であるため、パソコン版の『オホーツクに消ゆ』と同様のコマンド選択式のインターフェースが採用され、命令を一文字ずつ打ち込んでいく必要がなくなった。パソコンゲームでは一般的だった“アドベンチャーゲーム”というジャンルを、はじめてファミコンに持ち込んだ作品となる。これはテレビゲーム業界では初めての革新的な出来事でもあった。ただし、コマンドを適当に選んでいるだけでゲームが終わらないように、パソコン版にあった暗号だけでなく画面内でカーソルを動かして証拠品を探す箇所や、3D表示の地下迷宮が追加されている。コンティニュー用パスワードやバッテリーバックアップといった進行状況を保存する機能は存在しない。また、誤ったタイミングで捜査を打ち切った場合に発生するバッドエンドはなくなり、電話口で署長に怒られて捜査を再開するようになっている。",
"title": "移植版"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "堀井がFCのゲームソフトに関わるのは本作が初となり、本作において成立した堀井雄二がゲームデザインをしてチュンソフトが開発するという体制は、その後の『ドラゴンクエストシリーズ』へと引き継がれている。",
"title": "移植版"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "FC版の開発中には容量不足に苦しめられた。PC版の台詞をそのまま移植すると容量が2KBほど不足する計算となったため、台詞を少しずつ削って容量を節約する処置が取られた。同様の理由から、カタカナは「ア・イ・ウ・カ・ス・タ・ツ・ッ・テ・ト・ナ・ハ・ヒ・フ・ホ・マ・ヤ・ラ・リ・ロ・ン」の21文字のみが使用されている。なお、漫画『ドラゴンクエストへの道』では「この制限のためにペンダントをゆびわに変更した」と語られているが、PC版に該当アイテムは存在せず、FC版が初出である。",
"title": "移植版"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "FC版で出てくる音響は冒頭などのサイレンの音、電話の音、ドアなどを閉める音、コマンド入力音、台詞の文字が流れる音くらいのものである。なお、携帯アプリ移植版では全編BGMが付いている。",
"title": "移植版"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "発売40周年となる2023年には、スクウェア・エニックスで製品開発の支援を行うAI部が開発した『SQUARE ENIX AI Tech Preview: THE PORTOPIA SERIAL MURDER CASE』がSteamで無償公開された。これはCEDEC+KYUSHU 2022で発表されたゲームの公開版となる。なお技術プレビューであるためSteamでは教育のジャンルに登録されている。説明では「PC版「ポートピア連続殺人事件」を通して、AI技術のひとつである「自然言語処理」を学習・体験するソフトウェアです」としている。",
"title": "移植版"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "特徴としては自然言語処理(NLP)により入力したテキストの内容を判断し、意図が近いコマンドとして入力を受け付けることで、会話でゲームを進行することができる。ジャンルは「NLPアドベンチャー」としている。シナリオはPC版と同等(ただし、暗号はFC版と同じ)でグラフィックは新規であるが、技術プレビューで遊びやすさの調整がされていないため、現状では不自然な箇所が多いという。背景は実写が使われており、舞台となった神戸市の観光局が協力している。CEDEC+KYUSHU 2022で発表されたバージョンでは、入力されたテキストの内容を判断する「自然言語理解(NLU」と、入力に対応したテキストを生成する「自然言語生成(NLG)」を備えていたが、公開版は倫理上の問題などによりNLGは搭載していない。オプションとして音声認識にも対応しており、キーボードを使わずにプレイすることも可能であるが、CUDA対応のGPUが必要となる。",
"title": "移植版"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "主人公がゲームの最終目標として捕らえるべき犯人には、連続殺人に至った動機などの同情を誘うようなバックストーリーが設定され、人間ドラマをゲームの中に再現するという、当時のゲームではまだ珍しかった小説的な手法が取られた。結末で明らかになる真犯人の正体は、その意外性でも語り草となったが、同時にその人物が何者であるかもよく知られており、当時このゲームが流行していた頃の世代には、このゲームを遊んだことがなくても犯人の名前だけは知っているという状況が多く見られた。この人物は「おそらく日本一有名な犯人」と形容されることもある。",
"title": "影響"
},
{
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"text": "具体的には、作中で物語の冒頭から一貫して主人公と行動を共にし、ゲームシステムの一部にも組み込まれている主人公の相棒・ヤスこと真野康彦が真犯人であるのだが、これを一言で言い表した「犯人はヤス」というフレーズは未だにネタバレを指す小ネタや、犯人が分からない事件に寄せられるインターネットスラングとして使われることがある。デザイナーの堀井も、もし本作の次回作を作ることがあるなら、このフレーズをサブタイトルに組み込みたいという話を冗談めかして語っている。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "1986年1月にタレントのビートたけしがラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』で、ファミコンと本ゲームをスタジオに持ち込み、弟子のたけし軍団とスタッフとともにプレイして実況放送した。この実況中に、犯人が誰か分かってしまったたけしが犯人の名前を喋ってしまうというタブーを犯すが、逆にこの放送をきっかけに売上げが伸びたという逸話がある。",
"title": "影響"
},
{
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"text": "また、同1986年12月に発売された双葉社のゲームブック『ファミコン冒険ゲームブック ドラゴンクエスト―蘇る英雄伝説』内で、「ポートピアの犯人はヤス」というパロディー表現が登場している。",
"title": "影響"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "本作における「地の文」をキャラクターの相棒のセリフに置き換えるという手法はエニックスの『ウイングマン』(1984年)や『北斗の拳 バイオレンス劇画アドベンチャー』(1986年)だけでなく、リバーヒルソフトの『黒猫荘相続殺人事件』『白バラ連続殺人事件』(共に1984年)といった他社作品でも使われた。",
"title": "影響"
}
] | 『ポートピア連続殺人事件』(ポートピアれんぞくさつじんじけん)は、堀井雄二がデザインしたアドベンチャーゲーム。 1983年6月にエニックス(現在のスクウェア・エニックス)よりPC-6001版から発売され、当時の多くのパソコンに移植された。1985年11月29日にファミリーコンピュータ(以下、ファミコン/FC)移植版が発売され、FC初のアドベンチャーゲームとなった。 2001年にはフィーチャーフォン用の携帯電話ゲーム(携帯アプリ)としてリメイク版も配信された。 | {{コンピュータゲーム
| Title = ポートピア連続殺人事件
| image =
| Genre = [[アドベンチャーゲーム|グラフィックアドベンチャー]]
| Plat = [[PC-6000シリーズ|PC-6001/mkII]]{{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[PC-6000シリーズ|PC-6001]]<br />[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]<br />[[PC-8000シリーズ#PC-8001mkII|PC-8001mkII]]<br />[[FM-7|FM-7/8]]<br />[[X1 (コンピュータ)|X1]]<br />[[MSX]]<br />[[ファミリーコンピュータ]](FC)<br />[[iアプリ]]<br />[[EZアプリ (Java)|ezplus]]<br />[[Javaアプリケーション|Javaアプリ]]}}
| Dev = [[堀井雄二]]
| Pub = [[エニックス]]
| distributor =
| producer = <!-- 担当プロデューサー -->
| director = 堀井雄二
| designer = 堀井雄二
| writer = 堀井雄二
| programmer = 堀井雄二
| composer = <!-- 音楽担当スタッフ -->
| artist = <!-- 美術関係の主なスタッフ -->
| license = <!-- ソフトウェアライセンス(無料配布ゲームの場合のみ) -->
| series = <!-- ゲームシリーズ -->
| Ver = <!-- バージョン -->
| Play = 1人
| Media = [[コンパクトカセット|カセットテープ]]
| Date = {{Vgrelease new|JP|August 1983}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''PC60'''<br />{{Vgrelease new|JP|August 1983}}'''PC80'''<br />{{Vgrelease new|JP|1983年}}'''FM-7'''<br />{{Vgrelease new|JP|1983年}}'''X1'''<br />{{Vgrelease new|JP|1983年}}'''MSX'''<br />{{Vgrelease new|JP|June 1985}}'''FC'''<br />{{Vgrelease new|JP|1985-11-29}}'''iアプリ'''<br>{{Vgrelease new|JP|2001-10-15}}'''ezplus'''<br />{{Vgrelease new|JP|2003-04-03}}'''Javaアプリ'''<br />{{Vgrelease new|JP|2003-05-06}}'''EZアプリ(リニューアル版)'''<br />{{Vgrelease new|JP|2005-01-13}}'''iアプリ(リニューアル版)'''<br />{{Vgrelease new|JP|2005-07-19}}'''Vアプリ(リニューアル版)'''<br />{{Vgrelease new|JP|2006-01-18}}}}
| Rating = <!-- 対象年齢(CEROレーティングなど) -->
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}}
『'''ポートピア連続殺人事件'''』(ポートピアれんぞくさつじんじけん)は、[[堀井雄二]]がデザインした[[アドベンチャーゲーム]]。
[[1983年]][[6月]]に[[エニックス]](現在の[[スクウェア・エニックス]])よりPC-6001版から発売され、当時の多くの[[パソコン]]に移植された{{Efn|発売日順や移植された機種はAUTOMATONインタビュー記事内{{R|AUTOMATON20171220}}の[https://automaton-media.com/wp-content/uploads/2017/12/20171215-59185-022.png リンク先画像]参照}}。[[1985年]][[11月29日]]に[[ファミリーコンピュータ]](以下、ファミコン/FC)移植版が発売され、FC初のアドベンチャーゲームとなった。
2001年には[[フィーチャーフォン]]用の[[携帯電話ゲーム]]([[携帯アプリ]])としてリメイク版も配信された。
== 概要 ==
発売当時の現代日本を舞台としたアドベンチャーゲーム。プレイヤーは[[神戸市]]で起こった殺人事件を担当する刑事となり、相棒のヤスと共に事件の背景を探り真犯人に迫っていく。[[社会派推理小説]]を意識したストーリーとなっており<ref name="automaton20160624" />、その結末には[[どんでん返し]]の展開が設けられ、真犯人の正体の意外性が話題になった<ref name="俺の妹アニメガイド" /><ref name="sankei20150408" />。
発売当時のゲームはSFやファンタジーといった現実から離れた物語のジャンルが主流で、初めてではないものの、本作のような現代日本を舞台とするゲームは<ref name="automaton20160624" />少数派であった。また、当時のアドベンチャーゲームというジャンルも、[[宝探し]]か[[ダンジョン#ゲームにおけるダンジョン|迷宮脱出]]のいずれかに分類できるゲーム性がほとんどである<ref name="automaton20160624" />。本作のように実在する土地を舞台に、人間ドラマを盛り込んだ小説仕立てのストーリーが展開されるという趣向は、革新的なものであった<ref name="automaton20160624" />。
その一方で、ゲームシステムの制約から、アリバイ崩しのような複雑な展開を盛り込むことは断念され、事件の因果関係を明らかにしていくというストーリーが設定された<ref name="automaton20160624" />。最後に意外性のある結末でプレイヤーを驚かせるという手法を用いたのも、少ない容量で娯楽性を追求するという制約の中で生まれた工夫による<ref name="sankei20150408" />。
発表当時のゲーム業界は個人による開発が主流で、分業がほとんどされておらず、本作もオリジナル版のPC-6001版では、プログラム・シナリオ・グラフィック等の全ての作業を堀井が1人でこなしている。後に堀井雄二がシナリオを担当したアドベンチャーゲーム『[[北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ]]』([[1984年]]、[[アスキー (企業)|アスキー]]{{Efn|現:角川アスキー総合研究所。}})、『[[軽井沢誘拐案内]]』([[1985年]]、エニックス)と本作を合わせて「堀井ミステリー[[三部作]]」とも呼ばれる。
== ゲーム内容 ==
=== システム ===
{{Main2|FC版のゲームシステム|#ファミリーコンピュータ版}}
PC版のシステムは、発売当時としてはオーソドックスなキーボードからのコマンド打ち込み式のアドベンチャーゲームとなっている。堀井は当時[[アメリカ合衆国]]で同種のゲームシステムが流行していることを聞きつけ<ref name="sankei20150408" />、これをサスペンスのジャンルと組み合わせるという着想を得て<ref name="sankei20150408" />、ゲーム性よりもストーリーを表現する手段として、アドベンチャーゲームの形式を用いるスタイルを確立させた<ref name="automaton20160624" />。基本的なストーリーはどの機種もほぼ同じであるが、ゲーム途中に出てくる暗号はPCの機種毎に異なり、その難易度には明らかに差があった。
文章入力方式であり、プレイヤーが主人公の部下であるヤスに命令するという体裁でコマンドを入力する。[[新開地]]に進みたければ基本的に命令口調で「シンカイチ イケ」(「ヲ」「ニ」などは不要)のようにコマンドを打つ。「デンワ」など単語だけで判断可能な場合は「シロ」「セヨ」は不要。特定の機種版では、方言対応と銘打って「シンカイチ イクンダヨ」のように入力しても反応できる仕様となっていたが、「シンカイチ イクナ」と入力しても新開地に行ってしまう。また、「アホ」と入力すると「アホ ト イウホウガ アホ ヤト ウチノ シンダ オバアチャンガ ヨク イッテマシタ」(=「『アホと言うほうがアホや』と、うちの死んだお婆ちゃんがよく言ってました」)という反応が返ってくる。オリジナルの[[PC-6001]]版ではコマンドは全てキーボードから手打ち入力する方式だったが、その後の移植版では主要なコマンド(「イケ」「シラベロ」「アリバイ」など)は[[ファンクションキー]]に割り当てられ、プレイヤーの負担を軽減する方策がとられた。これが『[[北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ]]』や、本作のFC移植版で採用されたコマンド選択式へと繋がっていく。
合成音声機能を持つ[[PC-6000シリーズ#PC-6001mkII|PC-6001mkII]]の専用版がPC-6001版のテープB面に収録されており、例えば街で「キキコミ」をすると、ヤス「あのぉ、ちょっとお尋ねしますが…」→通行人「はい、何でしょう?」など、一部の場面で登場人物が音声を出すようになっている<ref name="AUTOMATON20171220">{{Cite web|和書|title=「堀井雄二」調査団: アドベンチャーゲームは如何に日本のストーリーゲームを発展させていったか?(前編) |url=https://automaton-media.com/articles/interviewsjp/20171215-59185/ |website=AUTOMATON |date=2017-12-20 |access-date=2023-04-21 |language=ja |first=Koji |last=Fukuyama}}</ref>。
なお、本作では謎解きよりも物語を見せることを重視したゲームデザインがされており<ref name="automaton20160624" />、エンディングに辿り着くためにゲーム中で様々な証拠を集め、[[フラグ (ストーリー)|フラグ]]を立て、事件の因果関係を解き明かしてお膳立てを整える必要がある。プレイヤーが最初から真犯人を知っていたとしても、ゲーム開始直後に逮捕することはできない<ref>{{Cite web|和書|author=ライムスター宇多丸とマイゲーム・マイライフ|date=2018-12-09|url=https://web.archive.org/web/20201001070157/https://www.tbsradio.jp/321132|title=MCUさんが『ポートピア連続殺人事件』を題材に作った曲は、サビで思いっきりネタバレ|work=[[TBSラジオ]]公式サイト|publisher=[[TBSラジオ]]|accessdate=2021-06-12}}</ref>。
=== コマンド一覧 ===
コマンドは入力式になっており、基本的な動作は以下のコマンドによって行われる。
{| class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
!No.
!コマンド名
!解説
|-
|style="text-align:right"|1
!イケ
|場所移動する時に使用する。
|-
|style="text-align:right"|2
!ヨベ
|人を呼び出す時に使用する。
|-
|style="text-align:right"|3
!シラベロ
|人物や証拠品を調査する。
|-
|style="text-align:right"|4
!サガセ
|特定の人物を探す。
|-
|style="text-align:right"|5
!デンワ
|電話を掛ける。
|-
|style="text-align:right"|9
!キキコミ
|今いるところの周辺で聞き込みをする。
|-
|style="text-align:right"|10
!モドレ
|捜査本部に戻る。
|}
No.はファンクションキーの番号。なお、F6には「ゲンバ」、F7には「アリバイ」、F8には「ドウキ」が定義されている。
== ストーリー ==
; 第一の事件
: 黒い噂の絶えない[[消費者金融|サラ金会社]]{{Efn|PC版の発売当時、「貸金業の規制等に関する法律」(現:「[[貸金業法]]」)は国会で成立した直後でまだ施行されていなかった(この年の11月に施行)。}}「ローンやまきん」の社長・'''山川耕造'''が殺害された。しかし耕造の発見された部屋は完全な密室{{Efn|具体的には、現場の部屋のドアは内側からロックするにも鍵を必要とする錠前が付いており、その錠前は内側から鍵が差し込まれていると外側から鍵が入らない構造で、発見時には内側から鍵が差し込まれていた。また、窓ははめ殺しで開閉不可。}}であった。[[兵庫県警察]]の刑事である[[主人公]]('''ボス''')は事件の究明のため、部下の'''ヤス'''こと'''真野康彦'''と共に捜査を開始する。
: 遺体の第一発見者、耕造の秘書である'''沢木文江'''と、守衛の'''小宮六助'''には死亡推定時刻当時の[[アリバイ]]があり、犯人ではあり得ない。耕造は他殺ではなく自殺という可能性もあった。しかし事件現場の地下からは金庫を隠すための通路が発見され{{Efn|地下通路はFC版以降のみの展開。|name=地下迷宮}}、被害者である耕造は'''平田'''、'''川村'''という人物と金銭のやり取りをしていたことが明らかになる。ところが平田や川村とは連絡が取れず、また他の親族や関係者たちは各々後ろ暗い事情を抱えており、[[冤罪]]や[[別件逮捕]]を恐れて捜査には非協力的であった。
: 主人公は現場に残された遺留品をもとに、関係者のアリバイや人間関係を洗い直す。耕造の甥である'''山川俊之'''は密かに麻薬の取引に関わっており、また、耕造から多額の借金をしていた平田には娘・'''由貴子'''がおり、彼女は俊之から交際を迫られていた{{Efn|由貴子が登場するのはFC版以降のみ。}}。実は彼女は事件の直前、父親の借金のことで耕造に会っていたが、耕造の対応は親身であったといい、平田親子には耕造を殺害する動機がない。俊之は麻薬取引の容疑で逮捕されるが、そのことで逆に曖昧だった俊之のアリバイが明白になり、捜査は振り出しに戻る。
; 第二・第三の事件
: 主人公は相棒のヤスとともに、現場の検証や、聞き込みによる情報収集、時には暴力を辞さない手段で、真相に迫ろうとする。しかしその最中、連絡の取れなかった平田、川村が相次いで不審死を遂げているのが発見され、これが自殺とも、第2、第3の殺人事件ともつかない。ヤスは事件のたびに、これは追い詰められた真犯人が自殺した結果に違いないと主人公に進言するが、主人公はヤスの推理に納得せず、捜査を続行する。
: 第2の事件で死亡した平田は、耕造の死亡推定時刻より前に死んでいることが明らかになり、[[多重債務]]を苦にしての自殺であると判明するが、第3の事件で死亡した川村は耕造と死因が同じで、他殺による[[連続殺人]]が疑われた。
: 川村の知人、ストリッパーの'''夕日おこい'''の取り調べから得た情報で、過去に川村が耕造と共謀して[[詐欺]]事件を起こしており、そのことをネタにして耕造を恐喝していたことを掴んでいた主人公とヤスは、第一発見者の文江が、かつて耕造と川村による詐欺事件が原因で自殺した「被害者夫婦の娘」であったことを知らされる。
; 淡路島へ
: しかし、文江には両親の復讐という動機や、第一発見者を装って事件現場を密室のように見せかける手段はあっても、完全なアリバイがあるため、事件に関わっているとしても耕造の殺害を実行した共犯者は別にいるはずである。
: 既に逃走していた文江を追って、彼女の故郷である淡路島へと向かった主人公とヤスは、文江には'''兄'''がいたことを突き止めるが、彼が養子として引き取られた後の行方はわからない。
; 隠し扉から地下迷宮へ (FC版のみ)
: 淡路島から戻った主人公とヤスは、耕造の自宅を捜査していた本部から、新たなメモが発見されたことを知らされ、地下通路には更なる隠し扉があったことに気がつく{{Efn|name=地下迷宮}}。迷路状になった地下通路を探索した主人公とヤスは、その奥で耕造の懺悔が綴られた日記帳を発見する。
: 実は、耕造は文江たちの両親を自殺に追い込んだことを悔いており、復讐のために秘書として志願してきた文江の正体も知っていた。そして耕造が金融業者として金儲けに邁進していたのは、[[贖罪]]として文江に遺産を相続させるためであった。耕造の意外な一面を知ったヤスは、「もし文江の兄が復讐のために耕造を殺したのなら、このことを後から知って後悔したに違いない」という感慨を漏らす。
; 犯人はヤツ
: 捜査本部に戻った主人公には、既に文江の兄の行方に心当たりがあった。主人公はヤスに命じ、捜査で得られた文江の兄の身体的な特徴の情報が、ヤス自身に当てはまっていることを本人に確認させる。その結果、[[#犯人について|犯人はヤス]]であることが判明した。
: ヤスは自分が耕造と川村を殺害したことを認め、観念する。逃走していた妹の文江も共謀者として出頭し、自殺に見せかける意図で密室を作ったトリックを自白すると、ヤスは改めて、耕造の真意を知らないまま犯行に至ったことへの後悔を口にする。
: パトカーのサイレンが鳴り響き、エンディングとなる。
== 登場人物 ==
; ボス
: 本作の[[主人公]]([[プレイヤーキャラクター]])。兵庫県警捜査一課のベテラン刑事。本作のゲーム画面は基本的にボスの一人称視点という体裁で描かれているため、画面には登場せず容姿が描かれない。台詞もプレイヤーから入力されたコマンドという形を取り、自ら台詞を発する場面はほとんどない。
; {{Visible anchor|真野 康彦|ヤス}}(まの やすひこ)
: 通称'''ヤス'''。ボスの部下であり、捜査上のパートナー。彼がボス(プレイヤー)に語りかけ、ボスの命令で動き、状況をボスに報告するという形式でゲームが進行する。物語の[[語り手]]とも言える立場の人物だが、実は劇中における最大の秘密を隠し事にしている[[信頼できない語り手]]であり<ref name="automaton20160624" />、物語の結末では、彼が[[#文江の兄|文江の兄]]であり、[[#犯人について|事件の真犯人]]だったという真相が明かされる。FC版ではボスと共に捜査を進めていくにつれて、復讐のために殺害した耕造の胸の内を知ることとなり、人知れず後悔に苦しむようになる。
: 携帯アプリ版およびテックプレビュー版では姓の漢字表記が異なり、'''間野康彦'''<ref>{{Cite web|和書
|url=http://www.square-enix.co.jp/mobile/game/mysteries/portopia/gaiyou.html
|title=事件概要
|work=ポートピア連続殺人事件 スクエニMobile
|publisher=[[スクウェア・エニックス]]
|accessdate=2016-08-18
}}</ref><ref>{{Cite web|和書
|date=2005-01-13
|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0501/13/news090.html
|title=BREW版「ポートピア連続殺人事件」
|work=ITmedia Mobile
|publisher=ITmedia
|accessdate=2016-08-18
}}</ref>という名前に変更されている。読みは同じ。
; 署長
: 電話口で登場する、主人公2人の上司。プレイヤーが真犯人の用意した偽の真相に欺かれ、誤った行動を取ると「何が○○(死亡者の名前)が犯人だ!」と怒り、捜査再開を命じる。
; 山川 耕造(やまかわ こうぞう)
: この事件の第1の被害者。年齢は不明、独身。自宅は神戸市中央区花隈町。サラ金「ローンやまきん」の社長で、前科こそ無いもののあくどい事もやっており、多くの人から恨みを買っていた。FC版では、捜査を進めていくうちに彼の意外な一面が明らかになっていく。
; 沢木 文江(さわき ふみえ)
: 耕造の秘書。23歳独身。[[短期大学|短大]]卒業後、ローンやまきんに入社。耕造の死体の第1発見者である。仕事をしながら[[英会話教室|英会話スクール]](PC版ではデザイン学校)にも通っている。
: 物語の結末では、彼女がヤスの妹であったことが明かされる。
: なお、同じエニックスの『[[軽井沢誘拐案内]]』にも「[[ペンション]]従業員」としてゲスト出演する{{Efn|この時に、「マノ・ヤスヒコ」(携帯アプリ版では「間野康彦」)という兄がいるということにも言及される。}}。
; 小宮 六助(こみや ろくすけ)
: 耕造に雇われている守衛。60歳。身寄りはなく、5年前から耕造の屋敷に住み込みで働いていた。文江とともに耕造の死体を発見している。事情聴取ではなぜか[[ステテコ]]を履いて登場する。
: 事件現場はFC版が一戸建て住宅、PC版がマンションの一室という差異がある。そのため、PC版の小宮は「マンション管理人」{{Efn|発売当時、管理人がマンションの一室を管理人室として住み込むという形態はごく普通だった。}}という設定になっている。
; 山川 俊之(やまかわ としゆき)
: 耕造の甥。29歳。[[無職]]で、耕造から金を貰っては遊び回っていた。[[神戸港]]近くで1人暮らしをしている。傷害の前科がある。事情聴取の際にはサングラスをかけ、煙草をふかしている。なお、俊之の苗字はゲーム中で明らかになる事は一切無かった{{Efn|PC版の説明書には、人名を入力する際、山川姓の人物については「コウゾウ」「トシユキ」と入力するという記載がある。}}。
; 室田(むろた)
: 俊之の麻薬密売の取引相手。下の名前は不明。4、5回検挙されている常習犯。名前はPC版でのみ表記。
; 平田(ひらた)
: 由貴子の父親。50歳。下の名前は不明。古くから八百屋を経営していたが、最近は[[スーパーマーケット|スーパー]]に押され経営が苦しく、耕造に多額の借金を抱えている。由貴子の証言によると、ローンやまきん以外でも借金をしていて、そこからの[[取り立て屋|取り立て]]がすごかったらしい。
; 平田 由貴子(ひらた ゆきこ)
: FC版以降に登場。平田の娘。高校2年生。事情聴取の際に制服を着ている。以前はグレていたこともあったが、現在は真面目に学校に通っている。俊之とは知り合い。
; 川村 まさじ(かわむら まさじ)
: [[手形詐欺]]の常習犯で前科6犯。42歳。耕造とはかつては詐欺仲間であったが、現在では揉めていた。テックプレビュー版では、名前は政次となっている(読みは同じ)。
; 夕日 おこい(ゆうひ おこい)
: 新劇「シルバー」に勤める[[ストリップ (性風俗)|ストリッパー]]。川村の知り合い。昔宝塚にいたと自称している{{Efn|FC版、携帯アプリ版による。ただし、「[[宝塚市]]に住んでいた」という意味なのか、それとも「[[宝塚歌劇団]]に所属していた」という意味なのかについては明らかではない。}}。なお、写真撮影には応じない。
; {{Visible anchor|文江の兄}}
: 文江の実兄。文江が幼少の頃、洲本で両親とともに暮らしていた。父親が「沢木産業」という会社を経営していたが、詐欺事件の被害にあって倒産し、両親は自殺。その後文江は親戚に引き取られ、兄とは離れ離れになった。ちなみに兄自身も別の者に引き取られ、改姓。現在は行方不明。肩に蝶々の形の痣がある。この詐欺事件は、川村が耕造と起こした事件の中で最大のものだった{{Efn|ちなみにPC版では桜井刑事、FC版ではおこいによる情報となっている。}}。実は正体は[[#ヤス|ヤス]]。
; 女将
: 電話口で登場する、京都にある寺田屋旅館の女将。
; マスター
: 新開地にあるスナック「ぱる」のマスター。
; [[リカちゃん]]
: FC版に登場。電話番号を「0000000000」と入力すると現れる。いわゆる「[[リカちゃん#リカちゃん電話|リカちゃん電話]]」。犯人を推測してくれる。[[バービー|バービーちゃん]]という友達がいる{{Efn|本人は登場せず、母親の話の中に名前で登場。}}。
: 携帯アプリ版では「リガちゃん」に変えられている。
; 通信司令室
: 電話番号を「110」と入れると「刑事が[[110番]]回してどないするんじゃ!」と怒られる。また、事件が起きた直後にかけると別の反応が返ってくる。
; 桜井(さくらい)
: PC版でのみ登場する、特命捜査課の刑事。下の名前は不明。普通に進めた場合、1回だけ電話がかかるという形で登場する。真犯人の用意した偽の真相に欺かれてバッドエンドに至った場合にも登場し{{Efn|容疑者となる平田、川村の死亡を発見した際、「デハ エピローグヲ ムカエマスノデヨイ ト ニュウリョクシテ クダサイ」(=「では、エピローグを迎えますので『ヨイ』と入力してください」)というメッセージが出た際に「ヨイ」と入力して捜査を終了すると、バッドエンドとなる。なお、オリジナルのPC-6001版などはメモリ容量の関係上プロローグ・本編・エピローグがそれぞれ別々に記録されているため、メッセージは「では エピローグを CLOADしますので」となる。}}、推理の矛盾点を指摘してゲームオーバーを宣告する。
== 制作 ==
<!--=== 背景 ===-->
{{出典範囲|text1=かねてより堀井はアドベンチャーゲームに興味があったものの、このジャンルは他人に遊んでもらうことを前提としており、開発にはためらいがあった。『ラブマッチテニス』{{Efn|堀井が第一回ホビープログラムコンテストで入選した作品で、コンテストを主催したエニックスによりPC-6001用ソフトとして商品化された。}}の発売元であるエニックスから次回作の依頼が寄せられ、堀井はこれをチャンスと受け止めてアドベンチャーゲームの開発を決意した。
当時のアドベンチャーゲームは『ミステリーハウス』{{Efn|この『ミステリーハウス』とは、マイクロキャビンによるローカライズ版のことである。シエラオンラインによるオリジナル版では部屋に遺体を置くなどして、時間概念の要素が内包されていた。}}のように、時間の概念がない作品が多かったことから、堀井はテレビ番組『[[火曜サスペンス劇場]]』を参考に、物語の進行に合わせて事件も進むというあり方を考えた。|ref1={{R|AUTOMATON20171220}} }}テレビドラマからの影響は移動方法にも現れており、当時のアドベンチャーゲームでは一般的だった方角による移動ではなく、地名の指定による移動方法が採用された{{R|AUTOMATON20171220}}。これについて堀井は『ミステリーハウス』のように限られた空間が舞台ではないため、中間地点を省いた移動の方法が自然だと考えたと2017年の「AUTOMATON」とのインタビューの中で話している{{R|AUTOMATON20171220}}。
また、堀井は当時のアドベンチャーゲームでは一般的だった[[語り手|地の文]]を排し{{Efn|なお、地の文を排するという手法は、インフォコムの『Suspended』(1983年)で取り入られていたものの、日本では取り上げられる機会が少なく、『電子小説批評序説』(1987年)や『ゲームライフ』(1987年)の冒頭で取り上げられた程度である{{R|AUTOMATON20171220}}。}}、かつセリフを短く伝わるようにするという手法をとったことについて、漫画原作者としての経験が影響していると思うとニュースサイト「AUTOMATON」による2017年のインタビューの中で話している{{R|AUTOMATON20171220}}。
主人公の相棒である「ヤス」について、堀井はコンピュータから発せられる対話文自体を擬人化した存在だと認めており、プレイヤー‐コンピュータ間よりも、キャラクター同士のやり取りの方が温かみがあると考えたと「AUTOMATON」とのインタビューの中で話している{{R|AUTOMATON20171220}}。
以上の在り方について、堀井は自分が漫画家志望だったことが影響していると「AUTOMATON」とのインタビューの中で話している{{R|AUTOMATON20171220}}。
{{出典範囲|text1=本作は兵庫県とその周辺が舞台となっており、具体的な地名が登場する。これは、ゲームの作者である[[堀井雄二]]が[[兵庫県]][[洲本市]]([[淡路島]])の出身であることにちなむ。|s1="ref1"|text2=堀井はなんとなく調べて事件が起きそうなところを舞台に選んだ。また、京都の[[阿弥陀ヶ峰]]は名前のおどろおどろしさから選ばれた。|s2="ref2"|ref1=<ref name="sankei20150408" />|ref2={{R|AUTOMATON20171220}} }}
== 移植版 ==
{| class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
!No.
!タイトル
!発売日
!対応機種
!開発元
!発売元
!メディア
!型式
!備考
!出典
|-
|style="text-align:right"|1
!rowspan="13"|ポートピア連続殺人事件
|{{Vgrelease new|JP|June 1983}}
|[[PC-6000シリーズ|PC-6001]]
|rowspan="6"|堀井雄二
|rowspan="7"|エニックス
|rowspan="6"|[[コンパクトカセット|カセットテープ]]
|E-G022
|{{Nowiki|-}}
|
|-
|style="text-align:right"|2
|{{Vgrelease new|JP|1983年}}
|[[PC-8800シリーズ|PC-8801]]
|E-G032
|{{Nowiki|-}}
|
|-
|style="text-align:right"|2
|{{Vgrelease new|JP|1983年}}
|[[PC-8001|PC-8001mkII]]
|E-G033
|{{Nowiki|-}}
|
|-
|style="text-align:right"|3
|{{Vgrelease new|JP|1983年}}
|[[FM-7]]
|E-G034
|{{Nowiki|-}}
|
|-
|style="text-align:right"|4
|{{Vgrelease new|JP|1983年}}
|[[X1 (コンピュータ)|X1]]
|E-G069
|{{Nowiki|-}}
|
|-
|style="text-align:right"|5
|{{Vgrelease new|JP|June 1985}}
|[[MSX]]
|E-M002
|{{Nowiki|-}}
|
|-
|style="text-align:right"|6
|{{Vgrelease new|JP|1985-11-29}}
|[[ファミリーコンピュータ]]
|[[チュンソフト]]
|[[ロムカセット]]
|EFC-PR
|売上本数:60万本(または80万本)
|
|-
|style="text-align:right"|7
|{{Vgrelease new|JP|2001-10-15}}
|[[iアプリ]]
|colspan="2"|エニックス
|[[ダウンロード販売|ダウンロード]]<br />(未解決事件ファイル)
|{{Nowiki|-}}
|[[2007年]][[8月31日]]配信終了
|<ref>{{Cite web|和書|author=伊藤大地 |date=2001-10-15 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/6328.html |title=エニックスの「ポートピア」「オホーツク」がiアプリに |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018-12-31}}</ref>
|-
|style="text-align:right"|8
|{{Vgrelease new|JP|2003-04-03}}
|[[EZアプリ (Java)|ezplus]]
|colspan="2" rowspan="6"|[[スクウェア・エニックス]]
|rowspan="2"|ダウンロード<br />(堀井雄二劇場)
|{{Nowiki|-}}
|2007年[[9月3日]]配信終了
|<ref>{{Cite web|和書|author=関口聖 |date=2006-04-03 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/13467.html |title=「ポートピア」がezplusでプレイできる「堀井雄二劇場」 |website=[[ケータイ Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2019-02-24}}</ref>
|-
|style="text-align:right"|9
|{{Vgrelease new|JP|2003-05-06}}
|[[Yahoo!ケータイ|J-スカイ]]<br />([[Javaアプリケーション|Javaアプリ]])
|{{Nowiki|-}}
|2007年8月31日配信終了
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2003-05-06 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/0305/06/n_squareenix.html |title=あの「ポートピア連続殺人事件」がJ-スカイに登場 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2018-12-31}}</ref>
|-
|style="text-align:right"|10
|{{Vgrelease new|JP|2005-01-13}}
|[[CDMA 1X WIN]]専用<br />EZアプリ([[BREW]])
|rowspan="4"|ダウンロード
|{{Nowiki|-}}
|
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2005-01-13 |url=https://www.famitsu.com/k_tai/news/2005/01/13/607,1105588849,35276,0,0.html |title=『ポートピア連続殺人事件』がリニューアルしてEZアプリに!|website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2018-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |date=2005-1-13 |url=http://dengekionline.com/data/news/2005/1/13/991bc6d04e6546c6c10b5b78b0d3f75f.html |title=グラフィックを完全リニューアル!EZアプリ『ポートピア連続殺人事件』本日配信 |website=[[アスキー・メディアワークス|電撃オンライン]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2018-12-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=石田賀津男 |date=2005-01-13 |url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/20050113/port.htm |title=スクウェア・エニックス、完全リニューアルによる移植作EZweb「ポートピア連続殺人事件」 |website=[[Impress Watch|GAME Watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018-12-31}}</ref>
|-
|style="text-align:right"|11
|{{Vgrelease new|JP|2005-07-19}}
|[[FOMA]]900i<br />(iアプリ)
|{{Nowiki|-}}
|
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2005-07-19 |url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0507/19/news101.html |title=900i向け落としきりアプリ「ポートピア連続殺人事件」 |website=[[ITmedia|ITmedia Moblie]] |publisher=アイティメディア |accessdate=2018-12-31}}</ref>
|-
|style="text-align:right"|12
|{{Vgrelease new|JP|2006-01-18}}
|[[SoftBank 3G|ボーダフォン3G]]端末<br />([[S!アプリ|Vアプリ]])
|{{Nowiki|-}}
|
|<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2006-01-18 |url=https://www.famitsu.com/k_tai/news/2006/01/18/607,1137566753,47645,0,0.html |title=ボーダフォンライブ!で『ポートピア連続殺人事件』が配信 |website=[[ファミ通|ファミ通.com]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2018-12-31}}</ref>
|-
|style="text-align:right"|13
!SQUARE ENIX<br />AI Tech Preview<br />THE PORTOPIA SERIAL MURDER CASE
|{{Vgrelease new|JP|2023-04-24}}
|Windows PC
|{{Nowiki|-}}
|[[Steam|STEAM]]にて無料配信中
|
|}
=== ファミリーコンピュータ版 ===
==== 概要 ====
[[チュンソフト]](現在の[[スパイク・チュンソフト]])が移植を担当。60万本を販売した<ref>土屋新太郎『キャラクタービジネス その構造と戦略』より。</ref>(80万本<ref>『89年版 ヒット商品「88」』[[講談社]]、1988年、31頁。{{NDLJP|11984310/18}}</ref>とも)ファミコンのコントローラーではパソコン版のようなキーボードタイプによるコマンド入力は困難であるため、パソコン版の『オホーツクに消ゆ』と同様のコマンド選択式のインターフェースが採用され、命令を一文字ずつ打ち込んでいく必要がなくなった。パソコンゲームでは一般的だった“アドベンチャーゲーム”というジャンルを、はじめてファミコンに持ち込んだ作品となる<ref>{{Cite book|title=ファミ通Wave|date=1998年8月1日|year=1998|publisher=株式会社アスキー|page=59}}</ref>。これはテレビゲーム業界では初めての革新的な出来事でもあった{{要出典|date=2021年2月}}。ただし、コマンドを適当に選んでいるだけでゲームが終わらないように、パソコン版にあった暗号だけでなく画面内でカーソルを動かして証拠品を探す箇所や、3D表示の地下迷宮が追加されている。[[パスワード (コンピュータゲーム)|コンティニュー用パスワード]]や[[バッテリーバックアップ]]といった進行状況を保存する機能は存在しない。また、誤ったタイミングで捜査を打ち切った場合に発生するバッドエンドはなくなり、電話口で署長に怒られて捜査を再開するようになっている。
堀井がFCのゲームソフトに関わるのは本作が初となり<ref name="walkerplus20160426">{{Cite interview |和書|subject=[[堀井雄二]] |date= 2016-04-26 |url=http://news.walkerplus.com/article/76628/ |title=「ドラクエ」の堀井雄二、開発ストップした“幻の作品”激白!|interviewer=週刊ジョージア |work=[[ウォーカープラス]] |accessdate=2016-08-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160426213044/http://news.walkerplus.com/article/76628/ |archivedate=2016-04-26}}{{リンク切れ|date=2022年12月}}</ref>、本作において成立した堀井雄二がゲームデザインをしてチュンソフトが開発するという体制は、その後の『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』へと引き継がれている{{Efn|同シリーズにおけるチュンソフトによる開発は、[[スーパーファミコン|SFC]]版『[[ドラゴンクエストV 天空の花嫁]]』まで。}}。
FC版の開発中には容量不足に苦しめられた。PC版の台詞をそのまま移植すると容量が2KBほど不足する計算となったため、台詞を少しずつ削って容量を節約する処置が取られた{{要出典|date=2022年12月}}<ref name="walkerplus20160426" />。同様の理由から、カタカナは「ア・イ・ウ・カ・ス・タ・ツ・ッ・テ・ト・ナ・ハ・ヒ・フ・ホ・マ・ヤ・ラ・リ・ロ・ン」の21文字のみが使用されている{{Efn|堀井雄二がいう「よく使う20文字のカタカナ」。この工夫は後の『ドラゴンクエスト』等にも引き継がれている<ref name="walkerplus20160426" />。ただし、本作と(初代)『ドラゴンクエスト』で同じ種類のカタカナが採用されているという意味ではない。両作品に採用されているカタカナは約20種類という数こそほぼ同じだが、その内訳は約半数が異なるカタカナである。}}。なお、漫画『ドラゴンクエストへの道』では「この制限のためにペンダントをゆびわに変更した」と語られているが、PC版に該当アイテムは存在せず、FC版が初出である。
FC版で出てくる音響は冒頭などのサイレンの音、電話の音、ドアなどを閉める音、コマンド入力音、台詞の文字が流れる音くらいのものである。なお、携帯アプリ移植版では全編BGMが付いている。
==== コマンド一覧 ====
{| class="wikitable" style="white-space:nowrap; font-size:85%"
!No.
!コマンド名
!解説
|-
|style="text-align:right"|1
!ばしょいどう
|場所移動する。
|-
|style="text-align:right"|2
!ひとに きけ
|目前の人物に話を聞く。
|-
|style="text-align:right"|3
!ひと しらべろ
|目前の人物や、周辺の人物を調査する。
|-
|style="text-align:right"|4
!なにか みせろ
|目前の物を調査する。
|-
|style="text-align:right"|5
!ひと さがせ
|特定の人物を探す。
|-
|style="text-align:right"|6
!よべ
|特定の人物を呼び出す。
|-
|style="text-align:right"|7
!たいほ しろ
|容疑者を逮捕する。
|-
|style="text-align:right"|8
!なにか しらべろ
|証拠品や対象物を調査する。
|-
|style="text-align:right"|9
!もちもの
|所持品などを見る。
|-
|style="text-align:right"|10
!たたけ
|画面上の特定の箇所を叩く。
|-
|style="text-align:right"|11
!なにか とれ
|証拠品などを取る。
|-
|style="text-align:right"|12
!すいり しろ
|特定の人物についての推理をする。
|-
|style="text-align:right"|13
!でんわ かけろ
|電話を掛ける。
|-
|style="text-align:right"|14
!そうさ やめろ
|事件解決後、捜査を終了する。
|}
=== テックプレビュー版 ===
発売40周年となる2023年には、[[スクウェア・エニックス]]で製品開発の支援を行うAI部が開発した『SQUARE ENIX AI Tech Preview: THE PORTOPIA SERIAL MURDER CASE』が[[Steam]]で無償公開された<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=AI搭載版『ポートピア連続殺人事件』が4月24日にSteamで無料配信決定、『THE PORTOPIA SERIAL MURDER CASE』として名作ADVが蘇る スクエニAI部に経緯を訊いた |url=https://jp.ign.com/the-portopia-serial-murder-case/67387/preview/ai424steamthe-portopia-serial-murder-caseadv-ai |website=IGN Japan |date=2023-04-21 |access-date=2023-04-21 |language=ja |first=福山幸司 Updated 2023年4月21日11:37 |last=Posted 2023年4月21日11:00}}</ref>。これは[[CEDEC]]+KYUSHU 2022で発表されたゲームの公開版となる<ref name=":0" />。なお技術プレビューであるためSteamでは教育のジャンルに登録されている<ref name=":0" />。説明では「PC版「ポートピア連続殺人事件」を通して、AI技術のひとつである「自然言語処理」を学習・体験するソフトウェアです」としている<ref>{{Cite web|和書|title=SQUARE ENIX AI Tech Preview: THE PORTOPIA SERIAL MURDER CASE |url=https://www.jp.square-enix.com/ai-tech-preview/portopia/jp/ |website=SQUARE ENIX AI Tech Preview: THE PORTOPIA SERIAL MURDER CASE |access-date=2023-04-21 |language=ja |first=SQUARE ENIX CO |last=LTD}}</ref>。
特徴としては[[自然言語処理]](NLP)により入力したテキストの内容を判断し、意図が近いコマンドとして入力を受け付けることで、会話でゲームを進行することができる<ref name=":0" />。ジャンルは「NLPアドベンチャー」としている<ref name=":0" />。シナリオはPC版と同等(ただし、暗号はFC版と同じ)でグラフィックは新規であるが、技術プレビューで遊びやすさの調整がされていないため、現状では不自然な箇所が多いという<ref name=":0" />。背景は実写が使われており、舞台となった[[神戸市]]の''観光局''が協力している<ref name=":0" />。CEDEC+KYUSHU 2022で発表されたバージョンでは、入力されたテキストの内容を判断する「[[自然言語理解]](NLU」と、入力に対応したテキストを生成する「[[自然言語生成]](NLG)」を備えていたが、公開版は倫理上の問題などによりNLGは搭載していない<ref name=":0" />。オプションとして[[音声認識]]にも対応しており、キーボードを使わずにプレイすることも可能であるが、[[CUDA]]対応の[[Graphics Processing Unit|GPU]]が必要となる<ref name=":0" />。
== 影響 ==
=== 犯人について ===
主人公がゲームの最終目標として捕らえるべき犯人には、連続殺人に至った動機などの同情を誘うようなバックストーリーが設定され、人間ドラマをゲームの中に再現するという、当時のゲームではまだ珍しかった小説的な手法が取られた<ref name="automaton20160624" />。{{Anchors|犯人はヤス}}結末で明らかになる真犯人の正体は、その意外性でも語り草となったが{{R|俺の妹アニメガイド|sankei20150408}}、同時にその人物が何者であるかもよく知られており、当時このゲームが流行していた頃の世代には、このゲームを遊んだことがなくても犯人の名前だけは知っているという状況が多く見られた。この人物は「おそらく日本一有名な犯人」と形容されることもある<ref>{{Cite news
|author = 池谷勇人
|date = 2011-08-16
|url = http://gadget.itmedia.co.jp/gg/articles/1108/16/news048.html
|title = ネタバレがあった方が物語は楽しめる? カリフォルニア大学の調査で明らかに
|work = ITmediaガジェット
|publisher = [[ITmedia]]
|accessdate = 2011-08-25
}}</ref>。
具体的には、作中で物語の冒頭から一貫して主人公と行動を共にし、ゲームシステムの一部にも組み込まれている主人公の相棒・ヤスこと真野康彦が真犯人であるのだが、これを一言で言い表した「'''犯人はヤス'''」というフレーズは未だに[[ネタバレ]]を指す小ネタや、犯人が分からない事件に寄せられるインターネットスラングとして使われることがある<ref name="4gamer20091107">{{Cite web|和書
|author = 大陸新秩序
|date = 2009-11-07
|url = https://www.4gamer.net/games/072/G007233/20091107003/
|title = 堀井雄二氏が“師匠”小池一夫氏とドラクエ、キャラ作り、そしてゲーム業界について大いに語る。堀井氏はまさかの「ポートピア殺人事件2」を企画中!?
|work = [[4Gamer.net]]
|publisher = [[Aetas]]
|accessdate = 2011-08-25
}}</ref>。デザイナーの堀井も、もし本作の次回作を作ることがあるなら、このフレーズをサブタイトルに組み込みたいという話を冗談めかして語っている<ref name="4gamer20091107" /><ref>{{Cite web|和書
|date = 2009-11-09
|url = http://www.gpara.com/pickupnews/news/091109_horii/
|title = 次回作は『ポートピア2〜犯人はヤス〜』!? 堀井雄二×小池一夫の対談講演
|publisher = [[ジーパラドットコム]]
|accessdate = 2012-03-30
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091110160541/http://www.gpara.com/pickupnews/news/091109_horii/
|archivedate=2009-11-10
|deadlinkdate=2019-10-30
}}</ref>。
1986年1月にタレントの[[ビートたけし]]がラジオ番組『[[ビートたけしのオールナイトニッポン]]』で、ファミコンと本ゲームをスタジオに持ち込み、弟子の[[たけし軍団]]とスタッフとともに[[実況プレイ|プレイして実況放送]]した<ref>オールナイトニッポン&高田文夫編『ビートたけしの不幸中の幸い』ニッポン放送、1986年、p.20</ref>。この実況中に、犯人が誰か分かってしまったたけしが犯人の名前を喋ってしまうというタブーを犯すが、逆にこの放送をきっかけに売上げが伸びたという逸話がある<ref>土屋新太郎『キャラクタービジネス その構造と戦略キネマ旬報社、1995年、pp.243-244</ref>。
また、同1986年12月に発売された[[双葉社]]の[[ゲームブック]]『[[冒険ゲームブックシリーズ#ドラゴンクエスト|ファミコン冒険ゲームブック ドラゴンクエスト―蘇る英雄伝説]]』内で、「ポートピアの犯人はヤス」というパロディー表現が登場している<ref>{{Cite book|和書
|author=[[樋口明雄]]
|editor=スタジオ・ハード
|date=1987-01-18
|title=[[冒険ゲームブックシリーズ#ドラゴンクエスト|ファミコン冒険ゲームブック(7) ドラゴンクエスト 蘇る英雄伝説]]
|publisher=[[双葉社]]
|series=[[双葉文庫]]
|isbn=4-575-76020-X
|page=98
}}</ref>。
=== その他の影響 ===
本作における「地の文」をキャラクターの相棒のセリフに置き換えるという手法はエニックスの『[[ウイングマン]]』(1984年)や『[[北斗の拳 バイオレンス劇画アドベンチャー]]』(1986年)だけでなく、[[リバーヒルソフト]]の『[[黒猫荘相続殺人事件]]』『[[白バラ連続殺人事件]]』(共に1984年)といった他社作品でも使われた{{R|AUTOMATON20171220}}。
== 関連書籍 ==
* ポートピア連続殺人事件 密室殺人の謎(池田美佐著、[[双葉社]]、[[1987年]])ISBN 4575760234 - 本作を元に書かれた[[ゲームブック]]で、[[ファミコン冒険ゲームブック]]の1つ。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=
<ref name="俺の妹アニメガイド">{{Cite book|和書
|editor = [[電撃文庫]]編集部
|title = 俺の妹がこんなに可愛いわけがないアニメ公式ガイドブック アニメ『俺の妹』がこんなに丸裸なわけがない
|publisher = [[アスキー・メディアワークス]]
|date = 2011-09-30
|isbn = 978-4-04-870649-0
|page = 71
}}</ref>
<ref name="sankei20150408">{{Cite interview
|和書
|subject=[[堀井雄二]]
|date=2015-04-08
|url=https://www.sankei.com/article/20150408-T3DSXA6LOVKDZGCCNLZ25UYYRA/
|title=【ドラクエ生みの親(3)】意外な犯人「ポートピア連続殺人事件」が好評 ウケてなんぼの“いちびり精神” ゲームデザイナー堀井雄二さん
|interviewer=三宅令
|work=[[産経新聞|産経WEST]]
|accessdate=2016-08-20
}}</ref>
<ref name="automaton20160624">{{Cite web|和書
|author=Koji Fukuyama
|date=2016-06-24
|url=http://jp.automaton.am/articles/columnjp/dragon-quest-30th-anniversary/
|title=【祝・ドラクエ30周年】 改めて「堀井雄二」というパラダイムシフトについて
|work=AUTOMATON
|publisher=[[アクティブゲーミングメディア]]
|accessdate=2016-08-21
}}</ref>
}}
== 関連項目 ==
* [[神戸ポートアイランド博覧会]](ポートピア'81)
* [[トリック (推理小説)#叙述トリック|叙述トリック]]
* [[信頼できない語り手]]
== 外部リンク ==
{{ウィキポータルリンク|コンピュータゲーム|[[画像:Gamepad.svg|34px|Portal:コンピュータゲーム]]}}
* [https://web.archive.org/web/20060411045429/http://www.square-enix.co.jp/mobile/game/mysteries/portopia/ ポートピア連続殺人事件](2006年4月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])
* [https://web.archive.org/web/20120218033122/http://www.intara.net/og/portpia.shtml コマンド─「ヤス」という発明 ポートピア連続殺人事件](2012年2月18日時点のアーカイブ)
* {{MobyGames|id=/39799/portopia-renzoku-satsujin-jiken/|name=Portopia Renzoku Satsujin Jiken}}
{{DEFAULTSORT:ほおとひあれんそくさつしんしけん}}
[[Category:1983年のパソコンゲーム]]
[[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
[[Category:FM-7シリーズ用ゲームソフト]]
[[Category:MSX/MSX2用ソフト]]
[[Category:PC-6000/6600用ゲームソフト]]
[[Category:PC-8001用ゲームソフト]]
[[Category:PC-8800用ゲームソフト]]
[[Category:X1用ゲームソフト]]
[[Category:グラフィックアドベンチャー]]
[[Category:コマンド選択式アドベンチャー]]
[[Category:警察官を主人公としたコンピュータゲーム]]
[[Category:携帯電話アプリゲーム]]
[[Category:近畿地方を舞台としたコンピュータゲーム]]
[[Category:神戸市を舞台とした作品]]
[[Category:兵庫県を舞台とした作品]]
[[Category:スクウェア・エニックスのゲームソフト]]
[[Category:チュンソフト開発のゲームソフト]]
[[Category:日本で開発されたコンピュータゲーム]]
[[Category:冒険ゲームブック]]
[[Category:ミステリゲーム]] | 2003-03-14T13:39:49Z | 2023-11-04T14:00:40Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2%E9%80%A3%E7%B6%9A%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 |
4,015 | 真理 | 真理(しんり、希: ἀλήθεια、羅: veritas、英: truth、仏: vérité、独: Wahrheit)は、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。
西欧哲学において、真理論(英語: truth theory, theory of truth)は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には本質主義や同一性とも関わりが深い。
真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・反抗が懐疑主義を生んだ。そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟・観念・判断、命題、「事物」(羅:res、レス)等のいずれであるか、について議論がなされてきた。現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値という。論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるときは「実体的真理」という。判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という。現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。
論証する、つまり、言語による表現であることが真理に不可欠であり、哲学的にはロゴスとも関わりが深い。東洋には不言真如という概念もある。
人間を自由にするものとしての真理が説かれることもある。キリスト教では「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8章32節) 」と説かれている。仏教では、人間を苦しみから解放する真理をあらわす「法」が説かれる。
真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。
真理の歴史は古代ギリシアに遡る。プロタゴラスは、『真理』と題する書物の中で、「人間は万物の尺度である」とし、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べたと伝えられている。簡単に言えば、判断基準は自分自身という人間である。万物の尺度を科学的で客観性をとる原理や観測ではなく、自分という人間の主観がものさしとなる感想や意見が万物の尺度のひとつであり、絶対的判断基準はなくそれぞれの人間の思いとし、人間には絶対的な共通の認識はないとする。このようにして、まず、真理の相対性が主張された。
プラトンは、対話篇『テアイテトス』において、登場人物に、プロタゴラスの真理の相対性の主張を批判させている。本対話篇では、「知識とは何か?」という認識論な問いに対し、知識とは常に存在し、疑いなきものであるとの対話者間の共通の前提から、テアイテトスはまず知識とは知覚であると主張する。これに対して、ソクラテスは、知覚は人それぞれによって異なるものであるとした上で、「人間は万物の尺度である」と主張して相対主義を唱えたプロタゴラスを引き合いに出し、彼が自らの思いが真であると固執すれば、自らの思いが偽であると認めざるを得なくなると述べる。
プラトンの真理の相対性に対する反論は自己矛盾というものであるが、引き続き、彼は、『パイドン』において、パルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとの見地から、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもないが、イデアの世界は真実在であるとして世界を二元的に理解し、イデアの世界における真理の絶対性を主張する。そこで前提とされている永遠不滅の真理は、死すべき運命にある仮象の現実の世界に住む者どもに対し、それを超越したイデアの世界における永遠不滅の魂の存在を証明するためのものであった。
プラトンは、引き続き、対話篇『国家』において、仮象の現象界における真理について言及する。彼にとって、真理とは永遠かつ普遍的なものでなければならないが、それは実体であるイデアの世界にしかないものであり、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもない。弁論術による対話において、まず仮説を立て、これから演繹されるもろもろの帰結が相互に整合していれば、それは現象界における真理と認めてもよいが、対話によってその整合性が破られれば、その仮説は廃棄されなければならない。プラトンの著作が対話篇という形をとり、その結末がアポリアを呈示する形で終わっているのは、このようなプラトンの思想を反映したものである。
このように、プラトンは真理は永遠普遍なものとしつつも、それをイデアの世界に限定したため、仮象の現象界における真理は命題間調和を基準とする整合説を主張するにとどまった。彼が創始したアカデメイアでは、弁論術による対話を繰り返し、真理に近づこうと努力したが、皮肉なことに懐疑主義的なアカデメイア派を生み出すことになる。後世に、このアカデメイア派と対立したのが、プラトンの思想を新たな形で復活させたアウグスティヌスだった。
アリストテレスは、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。
まず、彼は、学問体系の整備を始め、「論理学」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にした。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。
ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。そこでは、存在者の「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。判断は真であることによって知識となるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論がロゴスにおいて一体不可分のものとして語られていた。
そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを四原因説という。例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての可能態であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成しておらず、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となる。
彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない究極の目的が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。
アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで唯物論的見地から主張された模写説(素朴実在論)・反映説(マルクス主義)や観念論的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。バートランド・ラッセル、前期ウィトゲンシュタインも言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。
アウグスティヌスは若き日に懐疑主義の虜となったが、のちに神学者として「宗教的真理」を探究した人物である。彼は、懐疑主義者に対し、「わたしも疑う。ゆえにわたしは存在する。わたしは間違える。ゆえにわたしは存在する」として自己の存在の確実性を盾にした上で、神学者として、わたしは神と自らの魂を認識したいと望む。ここから真理の探究が始まる。
プラトンによれば、この世は仮象の世界であって真は存在しない。しかし、アウグスティヌスは、この点を修正し、世界はロゴス・真理によって創造されたのであるから、存在するものはすべて真である、とする(真理の存在論的側面)。それは、ヨハネ伝に、すべてのものはロゴスからできたとあるからである。人もこの世界の被造物の一つであり、その限りで魂は真理とつながっており、魂は真理を認識することができる(真理の認識論的側面)。そして、魂は「わたし」という意思であり、存在する実体であり、自律している。それゆえに、魂は探求するが、彼を探求に導くものは愛であり、愛は最後の憩いの場として万有の根源である神を求める。万有の根源である「神は存在である」(Deus est esse)。神が自己自身を認識することによって、われわれの認識が始まる。神は認識の原理であるとともに真理である。人は真理を認識するためには、感覚(外的人間)に頼るのではなく、理性(内的人間)によらなければならない。創世記には、神は人間を神の似姿として創ったとあり、神に似るのは動物にはない人間のみが有する理性部分だからである。理性は外に向かうのではなく、内部に向い、それを超えた至福の果てに真理を見る(真理の幸福論的側面)。
彼の真理論は、プラトンが真理を神とは独立別個のイデアに直結させていたのを修正しつつも、大筋においてプラトンの真理論を承継したものといってよい。彼の真理論は後にデカルトの懐疑論の克服に多大な影響を与えた。
トマス・アクィナスは、アリストテレスのロゴスを中心に認識論・存在論と一体化した真理論とキリスト教的神学を統合した人物であり、真とは思惟と事物の一致であるとして対応説をとる。トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻き、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた。また、トマスは、同様に、アビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。異教徒との対決は懐疑主義との対決というより、(それが異教徒に向くか自身の足元に向くかはともかく)独断主義との対決であった。
トマスは、異教徒であったアリストテレスの真理論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えてキリスト教神学の「宗教的真理」との調和を図ろうとしたのであり、哲学は「神学の婢」(ancilla theologiae)であった。アリストテレスは、すべての存在者の究極の原因である「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相としていた。しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在論に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。また、アリストテレスは、世界の根源を神と第一質量の二元的に考え、世界を始まりと終わりのない永遠なものとしていた。しかし、トマスにとって、世界は神によって無から創造されたものであった。そこで、彼は、アリストテレスが神を自らを思惟するのみで、他者を認識しないとしていた点を修正し、神は自らと他者をイデアによって認識するとし、世界は第一質量とともに神のみが創造したものとして一元的に把握した。
トマスによれば、魂は不滅であり、人間は、理性によって永遠普遍の神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界があり、人間が認識できる真理にも限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。
ルネ・デカルトは、数学・幾何学の研究によって得られた概念は疑い得ない明証的なものであり、理性による永遠真理であるとしたが、このような永遠真理は神によって創造されたのであり(永遠真理創造説)、他の被造物と同様神に全面的に依存するとし、そこから欺く神の存在を導き出す。そこから、彼は、いったんは数学的な永遠真理でさえ疑うという方法的懐疑論を唱え、ついには肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられた後に、どれだけ疑っても疑いえないものとして純化された精神だけが残ると主張した。そこから、彼は、純化された精神に明晰かつ判明に現れるもののみを真理の基準として真理の明証説を提唱した。
このように、デカルトに始まる近代的認識論の成立によって、存在論と真理論がいったん切り離されて認識論と真理論が直結し、真理を人間の知性の内部に求める主観主義が成立した。
デカルトの明証説は、その後、カントの超越論的哲学を批判的に承継したエトムント・フッサールがとることになる。フッサールは、数学基礎論の研究から始め、事象そのものへ立ち返る現象学を創始したが、デカルトと同じく数学がその哲学の出発点となっている。フッサールが明証性の基盤について、どのように考えていたのかについては明らかでない点があるとされているが、いわゆる『危機書』によれば、それは生活世界ということになろう。事象に繰り返し立ち返ることによってなされる生活世界の無限の改訂可能性こそフッサールが示した真理である。
デカルトと同じく大陸合理論に立つライプニッツは、デカルトが明証という心理的なものを真理の基準としたことに反対し、すべての真理はアプリオリな分析命題であり、分析によって最終的には同一律に還元可能であると主張し、真理の基準を無矛盾性という論理的なものに置いた。アリストテレス以来の論理学を重視する学問体系が中期プラトンの整合説と結びついた。
整合説は、存在者を問題とせず、明証か論理的整合性かはともかく人間の知性内のものを真理の基準とする点で主観主義である。もっとも、整合説は、複数の整合的な主張がでてくる可能性を否定できず、プラトンが創始したアカデメイアから懐疑主義がでたように、基本的に相対主義的な側面がある。利害対立が錯綜する現代にいたると、そのような場合、補充的な真理の基準を併用するというアイデアがでてくることになる。それが実用説である。この実用説も主観主義の一つといってよい。
ヘーゲルは、永遠で変化しない真理という概念をひっくり返し、真理は弁証法によって発展するものであって、矛盾は真理の対立概念ではなく、かえって真理の発展原因なのであり、その発展運動の整合的全体こそが真理であるとした。ヘーゲルの整合説は、デカルトと同じく認識論を出発点としながらも存在論を含んである。カントは、主観/客観の二項対立図式を前提としつつ、現象と物自体を厳密に区別したが、ヘーゲルは弁証法により現象の背後にある物自体に絶対的精神が到達することを認めた。ヘーゲルの真理論は、矛盾を含む人間の生や非合理的で非理性的なものまで理性によって一元化するものであった。ヘーゲルに対する厳しい批判者であったニーチェはさらにもう一度真理という概念をひっくり返すことになる。
ニーチェはある意味でカントの理論の継承者である。カントは、主観/客観の二項対立図式を前提としつつ、現象と物自体を厳密に区別し、ショーペンハウアーは、理性によっては認識できない物自体という概念を維持しつつ、現象とは私の表象であり、物自体とはただ生きんとする盲目的な意思そのものにほかならないとして理性を批判した。ニーチェは、このような図式を引き継ぎ、生とは、すべてを我がものとし、支配し、超え出て、より強くならんとする権力への意志であるとし、従来の真理の概念をひっくり返し真理は一種の誤謬であるとする。ただし、それはそれなしではある種の生物である人間が生きてはいけないという厳しい条件のついた誤謬であるとして、真理を理性と共に生に従属させ、人の生に有用であるか否かをもって真理の基準とした。
このように、ニーチェは大陸合理論におけるヘーゲル批判という文脈で真理の有用説に到達したが、これとは別の経路、つまりイギリス経験論を鍛えなおす形で有用説にたどり着いたのがウィリアム・ジェームズである。プラグマティズムは、論者によってそうとうな主張の相違があり、その内容は一様ではないが、おおむね経験・科学を重視して形而上学に反対し、キリスト教の伝統に則りながらも、進化論を否定しないという中庸で実利的な傾向を持つ。その主著『プラグマティズム』において、ジェームズは、相容れない脆弱型精神と強靭型精神の二種類の気質から哲学史の思想を区別し、その両者を媒介する思想が必要であり、それがプラグマティズムであるとする。それは、思想の意味を理解するためにはその思想がもたらす行動こそが全てであるとし、思想を自然を改変するための道具と位置づけ、思想が生存するために必要な実利に合致するならばそれは真理であり、真理の役割とは現実に思考を方向付ける過程にあるとする。他方で、彼は、厳しい自然の中で人間の生存に不可欠なものとして慣習的に発展してきた常識を重視し、性急な改革を戒める。真理とは長い時間をかけて常識によって発展してきた信用制度によって確立されており、信念や思想が反発されない限りはそれは真理として妥当する。ジェイムスのプラグマティズムは、相容れない脆弱型精神と強靭型精神の二種類の気質を区別し、これが媒介する思想が新たに社会を発展させていくという意味でヘーゲルの全体的整合説の影響を受けたものであった。
チャールズ・サンダース・パースは、カントの純粋理性批判・論理学・記号論から出発し、プラグマティズムを学問における意味を明確にする一提案ととらえ、真理の基準を研究者集団における研究者の意見の一致に求めたのであった。プラグマティズムの名づけ親ともいえるパースは、ジェームスらのプラグマティズムのむやみな拡張を批判し、自身の立場をプラグマティシズムと命名し直したのであった。
パースとは異なる経路で合意説に到達したのがドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスである。彼は、フランクフルト学派の第二世代に属し、ヘーゲル・マルクス主義と科学の統合を目指す批判理論を承継していたが、英米圏の分析哲学の研究成果を取り入れ、コミュニケーション的転回を果たし、討論における合意を真理の基準とするに至った。
パースもハーバーマスも基礎づけ主義を批判し、可謬主義をとる。プラグマティズムのジェイムス、ローティも同様である。批判的合理主義のカール・ポパー、ハンス・アルバートなどほかにも可謬主義を採用するものがいるが、研究や思想が究極的な一致に向けて収束するかについて主張の相違がある。ポパー、ハーバーマス、パトナムは収束を認めるが、ローティ、クーンは収束を認めないので、相対主義的である。
フッサールは、フレーゲと共に心理主義を批判し、現象学を提唱した人物である。真理とは志向的対象が自体所持において根源的に与えられていることであるとしていた。アリストテレス以来多くの者が思惟と実在の一致、認識と存在の一致などデカルト的な主観/客観の二項対立図式を前提に対応説をとってきたが、現象学においてはかかる図式自体が放棄されており、真理は現象学的還元によって与えられるものとなる。彼自身は真理の基準として明証説をとったが、彼の弟子のハイデッガーは現象学を方法論として存在論に応用することで新たな真理論を打ち立てた。
マルティン・ハイデッガーは、ニーチェを形而上学の完成者であるとしてその真理論を批判し、プラトンに始まり現在に至るまで存在者のみに目を奪われ、存在を忘却する存在忘却の歴史に陥っているとした。彼は、まず、『存在と時間』において、真理の語源ギリシア語のアレーテイアーに遡って考察し、真理とは隠されたものを戦い奪う、つまり「隠れなさ」という意味であるとした。ついで、現象学的解釈学・基礎的存在論を展開し、人間は現存在であると同時に世界内存在であって、そもそも主観と客観の区別はなく、環世界に存在している。頽落して世間に埋没して存在する非本来的な現存在は、世間や自己の見方に執着しているので、内世界において出遭う存在者は非本来的な隠れたあり方をしている。したがって、生は、ニーチェが述べるように人間が認識しえるものではないが、真理は生に従属するだけのものではない。本来的な現存在が自身をこの執着から解放すれば、存在者が全体として自らを本来のあり方そのままで現れる。これが真理であり、その本質は自由である、とした。さらに、彼は、『ヒューマニズムについて』において、言葉こそ存在の家であり、言葉のうちにこそ真理は宿り、存在の明るみが性起する限りにおいて存在を己を人間に開示する。あらゆる知の根拠である存在の開示は、生の生成過程における生の自己差異化、二重性の表れであり、現存在が脱自的に存在者に身をさらしているときに真理は体験され、感じられるのであり、驚き、感動、落涙などを伴う、とした。
ハイデッガーの議論を踏まえて西部邁(評論家)は真理についてこう述べている。「探し当てられるべきは実在(真理)なのだが、実在は言葉を住(す)み処(か)とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者(ぼくしゃ)にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。」
ミシェル・フーコーは、哲学の役割は隠れているものをあらわにするものではなく、今まさに見えているが、あまりにも近くにあるがゆえにかえってその実態が見えなくなっているものを見えるようにするものであるとして、『ニーチェ、系譜学、歴史』(1971年)において、ニーチェの系譜学を批判的に承継し、今日の現実性の中での真理について探求した。彼によれば、私たちを権力者の支配から自由にしてくれるはずの永遠かつ普遍の真理は、現実には権力と結託してきた共犯者であった。伝統的歴史学は、歴史の外に自らの視点を置こうとするが、それは永遠普遍の真理を前提とした形而上学にほかならないとしたうえで、系譜学は、自らが視点が歴史の中に埋没する解釈の一つにすぎないことを認める。そのことによって初めて伝統的な真理概念に引きずられない現実性の真理についての記述が可能になる。系譜学によれば、ある言説が真とされるのはそれが客観的・普遍的に真であるからではなく、「真理への意志」 (volonté de vérité)が働いた結果である。たとえ真理を言ったとしてもその時代の真なるもののうちにいなければ、その言明は「真理」とは見なされ得ない。真偽を区別するのは真理の意思であるが、これは様々な制度によって強化されているが、これはあまりに近くにあるためわれわれが気が付かないように巧妙に作用している。そして、彼は、現代の知識人はもはらアームチェアの上で真理について思索することは不可能であり、むしろ自らが権力の標的であると同時に道具でもあるような場所において、権力のさまざまなかたちと闘ってゆくことが必要なのだと述べ、晩年には、「危険」を顧みず「勇気」を持って「真理」を言うパレーシアの重要性について言及するようになった。
フレーゲは、現在の分析哲学の基礎を作った人物である。彼は、数学・論理学の基礎を生物学的・心理学的な過程に求めようとする心理主義、殊に意味・思想までも表象ととらえることに強く反対し、意味・思想という論理的なものと心理的なものを厳密に区別しようとした。彼によれば、語は記号である「意義」と記号によって表示される「意味」は区別されなければならず、伝統的に命題といわれてきた文は意義である。文は客観的な思想を含むが、文の真理値がその文の意味なのだとする。すると、ある文、例えば、命題Pは命題「命題Pは真である」と同値になる。したがって、真理の概念は定義不可能になる。彼は、このように、言語表現の内包(意味)が外延(指示対象)を決定すると考え、心理的なものから論理的なものの領域を守ったのであった。
フランク・ラムゼイは、フレーゲの論を更に進めて真理は余分な概念であるとした。命題Pは命題「命題Pは真である」と同値になる。それゆえ真理は余分な概念であり、真理述語はいかなる性質も表現していない。対応説や整合説のように真理述語に存在論的・認識論的性質の表現を認める見解は真理のインフレ理論にあたり、これを認めない見解は真理のデフレ理論にあたる。真理述語は一定の推論的役割という下がり続ける貨幣価値しか有しない。しかし、それは命題が真になる条件を明らかにしてくれる。それは、『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』との真理条件を満たすかどうか、によってテストすることができる。
真理が真理であると証明することは、ゲーデルの不完全性定理と同じように証明できないであろうので、これが真理だという完全な証明は不可能だと思われる。
アルフレッド・タルスキは、『形式論理における真理概念』(1931年)において、形式言語による真理述語の導入を提案し、それが可能になる言語の条件を研究した。彼によれば、真理概念の定義は、従来の対応説的な真理観に反せず、自己言及のパラドックスをさけることができる、形式的に正しいものでなければならない。そこから彼は、真理概念は文に適用され、特定の言語に相対的に定義され、意味論の基礎になっていることが必要であるとする。「Alice is alive.」という文について真偽を考えた場合、従来の対応説的な真理観からは、少なくともAliceが誰かという事実がわからないと真偽の判断はできないことになろう。しかし、事実がどうであれ、文が真になる条件を形式的に考えることはできるはずである。それが『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』というものである。彼は、このような条件を真理条件と呼び、真理条件の記述を「(T)形式の同値」と呼んだ。『〜』内の文をT文と呼ぶが、T文内の「Alice is alive.」は英語ではなく、日本語である。なぜなら、その文に引き続く「〜が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。」という文が日本語だからである。このように真理概念は特定の言語に相対的に定義されなければならない。T文内の「Alice is alive.」を対象言語というが、その文に引き続く「〜が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。」は対象言語ではなく、対象言語の真偽を区別するためのメタ言語である。このように言語とメタ言語を区別することにより自己言及のパラドックスを避けることができる。真理概念が意味論の基礎になるというのは以下のようなことである。英語を全く理解しない日本人(A)が英語を理解する日本人(B)に「Alice is alive.」の意味を質問する場合を想定すると、Bは、『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』と答える。Aは、Aliceがアリスであり、生きているものであることを理解するかもしれないが、人間なのか動物なのかを理解しないかもしれない。そこで、Aが「Alice is animal.」と質問すると、Bは、『「Alice is animal.」が真であるのは、アリスが動物であるときであり、かつ、そのときだけである。したがって、「Alice is animal.」は偽である。』と答える。そのような問答を続けていけば、Bはいつか『「Alice is alive.」の意味を特定できるはずである。彼は、このような発想に従って数学上のやや特殊ないくつかの言語についてその平叙文が真になる条件を記載してみせた。彼のこのような方法は、応用のきく発展性のあるものだったので、以後ソール・クリプキ、ドナルド・デイヴィッドソンらが研究を進めている。
カール・ポパーは、タルスキの真理意味論と科学的実在論を結びつけた。彼は、文については真理意味論を継承しつつも、ある科学的理論は常に反証の危険を潜在的に有しており真理であることを確定することはできないが、真理に向かっての基準は存在し、その限りで科学的な真理は存在するという。彼は、実在論の立場に立ち、実在をわれわれの認識から独立したものとしつつも、実在を近似的に表現した理論という形での対応は認めることができるとし、開かれた社会における討論によりより優れた理論が出現し、やがて客観的な真実へと向かって収束していくという。
真理論は、相対主義的な見方に反論する形で、神の視点からする永遠・普遍の真理の概念が生まれたが、近代認識論の成立により真理を人間の知性の内部に求める主観主義が生まれ、様々なヴァリエーションに分岐した。科学の飛躍的な発展に伴い、永遠・普遍の宗教的真理概念に代わって、客観的な科学的真理概念が生まれたことにより、現代の真理概念は様々な形で修正を受け、暫定的な真理という意味での相対的な傾向を強めているが、それでもなお相対主義に陥らない努力が続けられている。そのような状況において古典的な対応説が見直され、実在論と結びついた形で新たな対応説が復権を遂げているものの、観念論を現代的に修正した反実在論も有力であり、議論は収束する気配を見せてはいない。 | [
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"text": "西欧哲学において、真理論(英語: truth theory, theory of truth)は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には本質主義や同一性とも関わりが深い。",
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"text": "真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・反抗が懐疑主義を生んだ。そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟・観念・判断、命題、「事物」(羅:res、レス)等のいずれであるか、について議論がなされてきた。現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値という。論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるときは「実体的真理」という。判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という。現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。",
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"text": "論証する、つまり、言語による表現であることが真理に不可欠であり、哲学的にはロゴスとも関わりが深い。東洋には不言真如という概念もある。",
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"text": "人間を自由にするものとしての真理が説かれることもある。キリスト教では「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8章32節) 」と説かれている。仏教では、人間を苦しみから解放する真理をあらわす「法」が説かれる。",
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"text": "真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。",
"title": "西洋哲学における真理論"
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"text": "真理の歴史は古代ギリシアに遡る。プロタゴラスは、『真理』と題する書物の中で、「人間は万物の尺度である」とし、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べたと伝えられている。簡単に言えば、判断基準は自分自身という人間である。万物の尺度を科学的で客観性をとる原理や観測ではなく、自分という人間の主観がものさしとなる感想や意見が万物の尺度のひとつであり、絶対的判断基準はなくそれぞれの人間の思いとし、人間には絶対的な共通の認識はないとする。このようにして、まず、真理の相対性が主張された。",
"title": "歴史"
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"text": "プラトンは、対話篇『テアイテトス』において、登場人物に、プロタゴラスの真理の相対性の主張を批判させている。本対話篇では、「知識とは何か?」という認識論な問いに対し、知識とは常に存在し、疑いなきものであるとの対話者間の共通の前提から、テアイテトスはまず知識とは知覚であると主張する。これに対して、ソクラテスは、知覚は人それぞれによって異なるものであるとした上で、「人間は万物の尺度である」と主張して相対主義を唱えたプロタゴラスを引き合いに出し、彼が自らの思いが真であると固執すれば、自らの思いが偽であると認めざるを得なくなると述べる。",
"title": "歴史"
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"text": "プラトンの真理の相対性に対する反論は自己矛盾というものであるが、引き続き、彼は、『パイドン』において、パルメニデスの不生不滅の考えとヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させようとの見地から、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもないが、イデアの世界は真実在であるとして世界を二元的に理解し、イデアの世界における真理の絶対性を主張する。そこで前提とされている永遠不滅の真理は、死すべき運命にある仮象の現実の世界に住む者どもに対し、それを超越したイデアの世界における永遠不滅の魂の存在を証明するためのものであった。",
"title": "歴史"
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"text": "プラトンは、引き続き、対話篇『国家』において、仮象の現象界における真理について言及する。彼にとって、真理とは永遠かつ普遍的なものでなければならないが、それは実体であるイデアの世界にしかないものであり、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもない。弁論術による対話において、まず仮説を立て、これから演繹されるもろもろの帰結が相互に整合していれば、それは現象界における真理と認めてもよいが、対話によってその整合性が破られれば、その仮説は廃棄されなければならない。プラトンの著作が対話篇という形をとり、その結末がアポリアを呈示する形で終わっているのは、このようなプラトンの思想を反映したものである。",
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"text": "このように、プラトンは真理は永遠普遍なものとしつつも、それをイデアの世界に限定したため、仮象の現象界における真理は命題間調和を基準とする整合説を主張するにとどまった。彼が創始したアカデメイアでは、弁論術による対話を繰り返し、真理に近づこうと努力したが、皮肉なことに懐疑主義的なアカデメイア派を生み出すことになる。後世に、このアカデメイア派と対立したのが、プラトンの思想を新たな形で復活させたアウグスティヌスだった。",
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"text": "アリストテレスは、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンがイデアが個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。",
"title": "歴史"
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"text": "まず、彼は、学問体系の整備を始め、「論理学」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にした。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。",
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"text": "ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。そこでは、存在者の「有・無」という「存在論」が基礎にあり、これを「論証する」という「判断」が支えている。判断は真であることによって知識となるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論がロゴスにおいて一体不可分のものとして語られていた。",
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"text": "そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを四原因説という。例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての可能態であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成しておらず、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となる。",
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"text": "彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない究極の目的が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。",
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"text": "アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで唯物論的見地から主張された模写説(素朴実在論)・反映説(マルクス主義)や観念論的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。バートランド・ラッセル、前期ウィトゲンシュタインも言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。",
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"text": "アウグスティヌスは若き日に懐疑主義の虜となったが、のちに神学者として「宗教的真理」を探究した人物である。彼は、懐疑主義者に対し、「わたしも疑う。ゆえにわたしは存在する。わたしは間違える。ゆえにわたしは存在する」として自己の存在の確実性を盾にした上で、神学者として、わたしは神と自らの魂を認識したいと望む。ここから真理の探究が始まる。",
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"text": "プラトンによれば、この世は仮象の世界であって真は存在しない。しかし、アウグスティヌスは、この点を修正し、世界はロゴス・真理によって創造されたのであるから、存在するものはすべて真である、とする(真理の存在論的側面)。それは、ヨハネ伝に、すべてのものはロゴスからできたとあるからである。人もこの世界の被造物の一つであり、その限りで魂は真理とつながっており、魂は真理を認識することができる(真理の認識論的側面)。そして、魂は「わたし」という意思であり、存在する実体であり、自律している。それゆえに、魂は探求するが、彼を探求に導くものは愛であり、愛は最後の憩いの場として万有の根源である神を求める。万有の根源である「神は存在である」(Deus est esse)。神が自己自身を認識することによって、われわれの認識が始まる。神は認識の原理であるとともに真理である。人は真理を認識するためには、感覚(外的人間)に頼るのではなく、理性(内的人間)によらなければならない。創世記には、神は人間を神の似姿として創ったとあり、神に似るのは動物にはない人間のみが有する理性部分だからである。理性は外に向かうのではなく、内部に向い、それを超えた至福の果てに真理を見る(真理の幸福論的側面)。",
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"text": "彼の真理論は、プラトンが真理を神とは独立別個のイデアに直結させていたのを修正しつつも、大筋においてプラトンの真理論を承継したものといってよい。彼の真理論は後にデカルトの懐疑論の克服に多大な影響を与えた。",
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"text": "トマス・アクィナスは、アリストテレスのロゴスを中心に認識論・存在論と一体化した真理論とキリスト教的神学を統合した人物であり、真とは思惟と事物の一致であるとして対応説をとる。トマスの生きた時代は、十字軍をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻き、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた。また、トマスは、同様に、アビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。異教徒との対決は懐疑主義との対決というより、(それが異教徒に向くか自身の足元に向くかはともかく)独断主義との対決であった。",
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"text": "トマスは、異教徒であったアリストテレスの真理論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えてキリスト教神学の「宗教的真理」との調和を図ろうとしたのであり、哲学は「神学の婢」(ancilla theologiae)であった。アリストテレスは、すべての存在者の究極の原因である「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相としていた。しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在論に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。また、アリストテレスは、世界の根源を神と第一質量の二元的に考え、世界を始まりと終わりのない永遠なものとしていた。しかし、トマスにとって、世界は神によって無から創造されたものであった。そこで、彼は、アリストテレスが神を自らを思惟するのみで、他者を認識しないとしていた点を修正し、神は自らと他者をイデアによって認識するとし、世界は第一質量とともに神のみが創造したものとして一元的に把握した。",
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{
"paragraph_id": 22,
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"text": "トマスによれば、魂は不滅であり、人間は、理性によって永遠普遍の神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界があり、人間が認識できる真理にも限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 23,
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"text": "ルネ・デカルトは、数学・幾何学の研究によって得られた概念は疑い得ない明証的なものであり、理性による永遠真理であるとしたが、このような永遠真理は神によって創造されたのであり(永遠真理創造説)、他の被造物と同様神に全面的に依存するとし、そこから欺く神の存在を導き出す。そこから、彼は、いったんは数学的な永遠真理でさえ疑うという方法的懐疑論を唱え、ついには肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられた後に、どれだけ疑っても疑いえないものとして純化された精神だけが残ると主張した。そこから、彼は、純化された精神に明晰かつ判明に現れるもののみを真理の基準として真理の明証説を提唱した。",
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{
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"text": "このように、デカルトに始まる近代的認識論の成立によって、存在論と真理論がいったん切り離されて認識論と真理論が直結し、真理を人間の知性の内部に求める主観主義が成立した。",
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"text": "デカルトの明証説は、その後、カントの超越論的哲学を批判的に承継したエトムント・フッサールがとることになる。フッサールは、数学基礎論の研究から始め、事象そのものへ立ち返る現象学を創始したが、デカルトと同じく数学がその哲学の出発点となっている。フッサールが明証性の基盤について、どのように考えていたのかについては明らかでない点があるとされているが、いわゆる『危機書』によれば、それは生活世界ということになろう。事象に繰り返し立ち返ることによってなされる生活世界の無限の改訂可能性こそフッサールが示した真理である。",
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{
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"text": "デカルトと同じく大陸合理論に立つライプニッツは、デカルトが明証という心理的なものを真理の基準としたことに反対し、すべての真理はアプリオリな分析命題であり、分析によって最終的には同一律に還元可能であると主張し、真理の基準を無矛盾性という論理的なものに置いた。アリストテレス以来の論理学を重視する学問体系が中期プラトンの整合説と結びついた。",
"title": "歴史"
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"text": "整合説は、存在者を問題とせず、明証か論理的整合性かはともかく人間の知性内のものを真理の基準とする点で主観主義である。もっとも、整合説は、複数の整合的な主張がでてくる可能性を否定できず、プラトンが創始したアカデメイアから懐疑主義がでたように、基本的に相対主義的な側面がある。利害対立が錯綜する現代にいたると、そのような場合、補充的な真理の基準を併用するというアイデアがでてくることになる。それが実用説である。この実用説も主観主義の一つといってよい。",
"title": "歴史"
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"text": "ヘーゲルは、永遠で変化しない真理という概念をひっくり返し、真理は弁証法によって発展するものであって、矛盾は真理の対立概念ではなく、かえって真理の発展原因なのであり、その発展運動の整合的全体こそが真理であるとした。ヘーゲルの整合説は、デカルトと同じく認識論を出発点としながらも存在論を含んである。カントは、主観/客観の二項対立図式を前提としつつ、現象と物自体を厳密に区別したが、ヘーゲルは弁証法により現象の背後にある物自体に絶対的精神が到達することを認めた。ヘーゲルの真理論は、矛盾を含む人間の生や非合理的で非理性的なものまで理性によって一元化するものであった。ヘーゲルに対する厳しい批判者であったニーチェはさらにもう一度真理という概念をひっくり返すことになる。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "ニーチェはある意味でカントの理論の継承者である。カントは、主観/客観の二項対立図式を前提としつつ、現象と物自体を厳密に区別し、ショーペンハウアーは、理性によっては認識できない物自体という概念を維持しつつ、現象とは私の表象であり、物自体とはただ生きんとする盲目的な意思そのものにほかならないとして理性を批判した。ニーチェは、このような図式を引き継ぎ、生とは、すべてを我がものとし、支配し、超え出て、より強くならんとする権力への意志であるとし、従来の真理の概念をひっくり返し真理は一種の誤謬であるとする。ただし、それはそれなしではある種の生物である人間が生きてはいけないという厳しい条件のついた誤謬であるとして、真理を理性と共に生に従属させ、人の生に有用であるか否かをもって真理の基準とした。",
"title": "歴史"
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{
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"text": "このように、ニーチェは大陸合理論におけるヘーゲル批判という文脈で真理の有用説に到達したが、これとは別の経路、つまりイギリス経験論を鍛えなおす形で有用説にたどり着いたのがウィリアム・ジェームズである。プラグマティズムは、論者によってそうとうな主張の相違があり、その内容は一様ではないが、おおむね経験・科学を重視して形而上学に反対し、キリスト教の伝統に則りながらも、進化論を否定しないという中庸で実利的な傾向を持つ。その主著『プラグマティズム』において、ジェームズは、相容れない脆弱型精神と強靭型精神の二種類の気質から哲学史の思想を区別し、その両者を媒介する思想が必要であり、それがプラグマティズムであるとする。それは、思想の意味を理解するためにはその思想がもたらす行動こそが全てであるとし、思想を自然を改変するための道具と位置づけ、思想が生存するために必要な実利に合致するならばそれは真理であり、真理の役割とは現実に思考を方向付ける過程にあるとする。他方で、彼は、厳しい自然の中で人間の生存に不可欠なものとして慣習的に発展してきた常識を重視し、性急な改革を戒める。真理とは長い時間をかけて常識によって発展してきた信用制度によって確立されており、信念や思想が反発されない限りはそれは真理として妥当する。ジェイムスのプラグマティズムは、相容れない脆弱型精神と強靭型精神の二種類の気質を区別し、これが媒介する思想が新たに社会を発展させていくという意味でヘーゲルの全体的整合説の影響を受けたものであった。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 31,
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"text": "チャールズ・サンダース・パースは、カントの純粋理性批判・論理学・記号論から出発し、プラグマティズムを学問における意味を明確にする一提案ととらえ、真理の基準を研究者集団における研究者の意見の一致に求めたのであった。プラグマティズムの名づけ親ともいえるパースは、ジェームスらのプラグマティズムのむやみな拡張を批判し、自身の立場をプラグマティシズムと命名し直したのであった。",
"title": "歴史"
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"text": "パースとは異なる経路で合意説に到達したのがドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスである。彼は、フランクフルト学派の第二世代に属し、ヘーゲル・マルクス主義と科学の統合を目指す批判理論を承継していたが、英米圏の分析哲学の研究成果を取り入れ、コミュニケーション的転回を果たし、討論における合意を真理の基準とするに至った。",
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"paragraph_id": 33,
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"text": "パースもハーバーマスも基礎づけ主義を批判し、可謬主義をとる。プラグマティズムのジェイムス、ローティも同様である。批判的合理主義のカール・ポパー、ハンス・アルバートなどほかにも可謬主義を採用するものがいるが、研究や思想が究極的な一致に向けて収束するかについて主張の相違がある。ポパー、ハーバーマス、パトナムは収束を認めるが、ローティ、クーンは収束を認めないので、相対主義的である。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "フッサールは、フレーゲと共に心理主義を批判し、現象学を提唱した人物である。真理とは志向的対象が自体所持において根源的に与えられていることであるとしていた。アリストテレス以来多くの者が思惟と実在の一致、認識と存在の一致などデカルト的な主観/客観の二項対立図式を前提に対応説をとってきたが、現象学においてはかかる図式自体が放棄されており、真理は現象学的還元によって与えられるものとなる。彼自身は真理の基準として明証説をとったが、彼の弟子のハイデッガーは現象学を方法論として存在論に応用することで新たな真理論を打ち立てた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "マルティン・ハイデッガーは、ニーチェを形而上学の完成者であるとしてその真理論を批判し、プラトンに始まり現在に至るまで存在者のみに目を奪われ、存在を忘却する存在忘却の歴史に陥っているとした。彼は、まず、『存在と時間』において、真理の語源ギリシア語のアレーテイアーに遡って考察し、真理とは隠されたものを戦い奪う、つまり「隠れなさ」という意味であるとした。ついで、現象学的解釈学・基礎的存在論を展開し、人間は現存在であると同時に世界内存在であって、そもそも主観と客観の区別はなく、環世界に存在している。頽落して世間に埋没して存在する非本来的な現存在は、世間や自己の見方に執着しているので、内世界において出遭う存在者は非本来的な隠れたあり方をしている。したがって、生は、ニーチェが述べるように人間が認識しえるものではないが、真理は生に従属するだけのものではない。本来的な現存在が自身をこの執着から解放すれば、存在者が全体として自らを本来のあり方そのままで現れる。これが真理であり、その本質は自由である、とした。さらに、彼は、『ヒューマニズムについて』において、言葉こそ存在の家であり、言葉のうちにこそ真理は宿り、存在の明るみが性起する限りにおいて存在を己を人間に開示する。あらゆる知の根拠である存在の開示は、生の生成過程における生の自己差異化、二重性の表れであり、現存在が脱自的に存在者に身をさらしているときに真理は体験され、感じられるのであり、驚き、感動、落涙などを伴う、とした。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "ハイデッガーの議論を踏まえて西部邁(評論家)は真理についてこう述べている。「探し当てられるべきは実在(真理)なのだが、実在は言葉を住(す)み処(か)とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者(ぼくしゃ)にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。」",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "ミシェル・フーコーは、哲学の役割は隠れているものをあらわにするものではなく、今まさに見えているが、あまりにも近くにあるがゆえにかえってその実態が見えなくなっているものを見えるようにするものであるとして、『ニーチェ、系譜学、歴史』(1971年)において、ニーチェの系譜学を批判的に承継し、今日の現実性の中での真理について探求した。彼によれば、私たちを権力者の支配から自由にしてくれるはずの永遠かつ普遍の真理は、現実には権力と結託してきた共犯者であった。伝統的歴史学は、歴史の外に自らの視点を置こうとするが、それは永遠普遍の真理を前提とした形而上学にほかならないとしたうえで、系譜学は、自らが視点が歴史の中に埋没する解釈の一つにすぎないことを認める。そのことによって初めて伝統的な真理概念に引きずられない現実性の真理についての記述が可能になる。系譜学によれば、ある言説が真とされるのはそれが客観的・普遍的に真であるからではなく、「真理への意志」 (volonté de vérité)が働いた結果である。たとえ真理を言ったとしてもその時代の真なるもののうちにいなければ、その言明は「真理」とは見なされ得ない。真偽を区別するのは真理の意思であるが、これは様々な制度によって強化されているが、これはあまりに近くにあるためわれわれが気が付かないように巧妙に作用している。そして、彼は、現代の知識人はもはらアームチェアの上で真理について思索することは不可能であり、むしろ自らが権力の標的であると同時に道具でもあるような場所において、権力のさまざまなかたちと闘ってゆくことが必要なのだと述べ、晩年には、「危険」を顧みず「勇気」を持って「真理」を言うパレーシアの重要性について言及するようになった。",
"title": "歴史"
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{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "フレーゲは、現在の分析哲学の基礎を作った人物である。彼は、数学・論理学の基礎を生物学的・心理学的な過程に求めようとする心理主義、殊に意味・思想までも表象ととらえることに強く反対し、意味・思想という論理的なものと心理的なものを厳密に区別しようとした。彼によれば、語は記号である「意義」と記号によって表示される「意味」は区別されなければならず、伝統的に命題といわれてきた文は意義である。文は客観的な思想を含むが、文の真理値がその文の意味なのだとする。すると、ある文、例えば、命題Pは命題「命題Pは真である」と同値になる。したがって、真理の概念は定義不可能になる。彼は、このように、言語表現の内包(意味)が外延(指示対象)を決定すると考え、心理的なものから論理的なものの領域を守ったのであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "フランク・ラムゼイは、フレーゲの論を更に進めて真理は余分な概念であるとした。命題Pは命題「命題Pは真である」と同値になる。それゆえ真理は余分な概念であり、真理述語はいかなる性質も表現していない。対応説や整合説のように真理述語に存在論的・認識論的性質の表現を認める見解は真理のインフレ理論にあたり、これを認めない見解は真理のデフレ理論にあたる。真理述語は一定の推論的役割という下がり続ける貨幣価値しか有しない。しかし、それは命題が真になる条件を明らかにしてくれる。それは、『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』との真理条件を満たすかどうか、によってテストすることができる。",
"title": "歴史"
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"text": "真理が真理であると証明することは、ゲーデルの不完全性定理と同じように証明できないであろうので、これが真理だという完全な証明は不可能だと思われる。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 41,
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"text": "アルフレッド・タルスキは、『形式論理における真理概念』(1931年)において、形式言語による真理述語の導入を提案し、それが可能になる言語の条件を研究した。彼によれば、真理概念の定義は、従来の対応説的な真理観に反せず、自己言及のパラドックスをさけることができる、形式的に正しいものでなければならない。そこから彼は、真理概念は文に適用され、特定の言語に相対的に定義され、意味論の基礎になっていることが必要であるとする。「Alice is alive.」という文について真偽を考えた場合、従来の対応説的な真理観からは、少なくともAliceが誰かという事実がわからないと真偽の判断はできないことになろう。しかし、事実がどうであれ、文が真になる条件を形式的に考えることはできるはずである。それが『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』というものである。彼は、このような条件を真理条件と呼び、真理条件の記述を「(T)形式の同値」と呼んだ。『〜』内の文をT文と呼ぶが、T文内の「Alice is alive.」は英語ではなく、日本語である。なぜなら、その文に引き続く「〜が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。」という文が日本語だからである。このように真理概念は特定の言語に相対的に定義されなければならない。T文内の「Alice is alive.」を対象言語というが、その文に引き続く「〜が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。」は対象言語ではなく、対象言語の真偽を区別するためのメタ言語である。このように言語とメタ言語を区別することにより自己言及のパラドックスを避けることができる。真理概念が意味論の基礎になるというのは以下のようなことである。英語を全く理解しない日本人(A)が英語を理解する日本人(B)に「Alice is alive.」の意味を質問する場合を想定すると、Bは、『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』と答える。Aは、Aliceがアリスであり、生きているものであることを理解するかもしれないが、人間なのか動物なのかを理解しないかもしれない。そこで、Aが「Alice is animal.」と質問すると、Bは、『「Alice is animal.」が真であるのは、アリスが動物であるときであり、かつ、そのときだけである。したがって、「Alice is animal.」は偽である。』と答える。そのような問答を続けていけば、Bはいつか『「Alice is alive.」の意味を特定できるはずである。彼は、このような発想に従って数学上のやや特殊ないくつかの言語についてその平叙文が真になる条件を記載してみせた。彼のこのような方法は、応用のきく発展性のあるものだったので、以後ソール・クリプキ、ドナルド・デイヴィッドソンらが研究を進めている。",
"title": "歴史"
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"text": "カール・ポパーは、タルスキの真理意味論と科学的実在論を結びつけた。彼は、文については真理意味論を継承しつつも、ある科学的理論は常に反証の危険を潜在的に有しており真理であることを確定することはできないが、真理に向かっての基準は存在し、その限りで科学的な真理は存在するという。彼は、実在論の立場に立ち、実在をわれわれの認識から独立したものとしつつも、実在を近似的に表現した理論という形での対応は認めることができるとし、開かれた社会における討論によりより優れた理論が出現し、やがて客観的な真実へと向かって収束していくという。",
"title": "歴史"
},
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"text": "真理論は、相対主義的な見方に反論する形で、神の視点からする永遠・普遍の真理の概念が生まれたが、近代認識論の成立により真理を人間の知性の内部に求める主観主義が生まれ、様々なヴァリエーションに分岐した。科学の飛躍的な発展に伴い、永遠・普遍の宗教的真理概念に代わって、客観的な科学的真理概念が生まれたことにより、現代の真理概念は様々な形で修正を受け、暫定的な真理という意味での相対的な傾向を強めているが、それでもなお相対主義に陥らない努力が続けられている。そのような状況において古典的な対応説が見直され、実在論と結びついた形で新たな対応説が復権を遂げているものの、観念論を現代的に修正した反実在論も有力であり、議論は収束する気配を見せてはいない。",
"title": "真理論の現在と未来"
}
] | 真理は、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。 西欧哲学において、真理論は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には本質主義や同一性とも関わりが深い。 真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・反抗が懐疑主義を生んだ。そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟・観念・判断、命題、「事物」等のいずれであるか、について議論がなされてきた。現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値という。論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるときは「実体的真理」という。判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という。現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。 論証する、つまり、言語による表現であることが真理に不可欠であり、哲学的にはロゴスとも関わりが深い。東洋には不言真如という概念もある。 人間を自由にするものとしての真理が説かれることもある。キリスト教では「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8章32節) 」と説かれている。仏教では、人間を苦しみから解放する真理をあらわす「法」が説かれる。 | {{See Wiktionary|[[哲学]]用語の「真理」([[命題]]が真であること)}}
[[ファイル:Statue_of_Truth.jpg|サムネイル|"Truth". Supreme Court. Sculptor, Walter Allward]]
'''真理'''(しんり、{{lang-el-short|ἀλήθεια}}、{{lang-la-short|veritas}}、{{lang-en-short|truth}}、{{lang-fr-short|vérité}}、{{lang-de-short|Wahrheit}})は、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。'''[[真実]]'''とも。
[[西欧哲学]]において、'''真理論'''({{Lang-en|truth theory, theory of truth}})は[[論理学]]や[[認識論]]においてとりわけ主題化される。真理は、[[現実]]や[[事実]]と異なり、妨害・障害としての[[虚偽]]・[[誤謬]]を対義語としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、あらわであり、その[[本質]]が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には[[本質主義]]や[[同一性]]とも関わりが深い。
真理論の[[歴史]]は、[[古代ギリシア]]に始まる。人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。このような絶対性を内実とする[[真理概念]]は[[独断主義]]を生み、これに対する防衛・反抗が[[懐疑主義]]を生んだ。そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを求めて近代の[[認識論]]が始まり、その後、真理の担い手が[[思惟]]・[[観念]]・[[判断]]、[[命題]]、「事物」(羅:res、レス)等のいずれであるか、について議論がなされてきた。現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて[[真理値]]という。論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。このような形式的な[[形相]]についてではなく、[[質料]]について真理が語られるときは「実体的真理」という。判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という<ref name="kato">[[加藤信朗]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9C%9F%E7%90%86/ 「真理」(Yahoo!百科事典)]</ref>。現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。
[[論証]]する、つまり、[[言語]]による表現であることが真理に不可欠であり、哲学的には[[ロゴス]]とも関わりが深い。東洋には[[不言真如]]という概念もある。
人間を[[自由]]にするものとしての真理が説かれることもある。キリスト教では「真理はあなたたちを自由にする([[ヨハネによる福音書|ヨハネ]][[s:ヨハネによる福音書(口語訳)#8:32|8章32節]]) 」と説かれている。仏教では、人間を苦しみから解放する真理をあらわす「[[法 (仏教)|法]]」が説かれる。
== 西洋哲学における真理論 ==
真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。
#[[真理の対応説]](correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。[[アリストテレス]]、[[トマス・アクィナス]]、[[イマヌエル・カント]]、[[カール・マルクス]]、[[バートランド・ラッセル]]、前期[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]、[[アルフレッド・タルスキ]]、[[カール・ポパー]]
#[[真理の整合説]]:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。中期[[プラトン]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]、[[スピノザ]]、[[ヘーゲル]]
#[[真理の明証説]]:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。[[ルネ・デカルト]]、[[エトムント・フッサール]]
#[[真理の実用説]](有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。[[フリードリヒ・ニーチェ]]、[[ウィリアム・ジェイムズ]]
#[[真理の合意説]]:合意された認識を真理であるとする。[[チャールズ・サンダース・パース]]、[[ユルゲン・ハーバーマス]]
#[[真理の定義不可能説]]:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。[[フレーゲ]]
#[[真理の余剰説]](redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。[[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]
#[[規約主義]]:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。[[アンリ・ポアンカレ]]、[[デュエム]]、[[オットー・ノイラート]]
== 歴史 ==
=== 古代 ===
==== プロタゴラス 人間は万物の尺度である 相対主義 ====
真理の歴史は古代ギリシアに遡る。[[プロタゴラス]]は、『真理』と題する書物の中で、「人間は万物の尺度である」とし、ある人には風は温かく感じられ、別の人には冷たく感じられるので、風そのものは温かいのかそれとも冷たいのかという問いには答えがないと述べたと伝えられている<ref>バーナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』下川潔・森際康友訳、産業図書、1985、p.258.</ref>。簡単に言えば、判断基準は自分自身という人間である。万物の尺度を科学的で客観性をとる原理や観測ではなく、自分という人間の主観がものさしとなる感想や意見が万物の尺度のひとつであり、絶対的判断基準はなくそれぞれの人間の思いとし、人間には絶対的な共通の認識はないとする。このようにして、まず、真理の[[相対主義|相対性]]が主張された。
==== プラトン 永遠・普遍の真理 ====
[[Image:Plato-raphael.jpg|right|thumb|200px|プラトン([[紀元前427年]] - [[紀元前347年]])]]
[[プラトン]]は、対話篇『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』において、登場人物に、プロタゴラスの真理の相対性の主張を批判させている。本対話篇では、「知識とは何か?」という[[認識論]]な問いに対し、知識とは常に存在し、疑いなきものであるとの対話者間の共通の前提から、テアイテトスはまず知識とは[[知覚]]であると主張する。これに対して、[[ソクラテス]]は、知覚は人それぞれによって異なるものであるとした上で、「人間は万物の尺度である」と主張して[[相対主義]]を唱えた[[プロタゴラス]]を引き合いに出し、彼が自らの思いが真であると固執すれば、自らの思いが偽であると認めざるを得なくなると述べる。
プラトンの真理の相対性に対する反論は自己矛盾というものであるが、引き続き、彼は、『[[パイドン]]』において、[[パルメニデス]]の不生不滅の考えと[[ヘラクレイトス]]の万物流転の考えを調和させようとの見地から、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもないが、[[イデア]]の世界は真実在であるとして世界を二元的に理解し、イデアの世界における真理の絶対性を主張する。そこで前提とされている永遠不滅の真理は、死すべき運命にある仮象の現実の世界に住む者どもに対し、それを超越したイデアの世界における永遠不滅の魂の存在を証明するためのものであった。
プラトンは、引き続き、対話篇『[[国家 (対話篇)|国家]]』において、仮象の現象界における真理について言及する。彼にとって、真理とは永遠かつ普遍的なものでなければならないが、それは[[実体]]であるイデアの世界にしかないものであり、この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもない。[[弁論術]]による対話において、まず仮説を立て、これから演繹されるもろもろの帰結が相互に整合していれば、それは現象界における真理と認めてもよいが、対話によってその整合性が破られれば、その仮説は廃棄されなければならない。プラトンの著作が対話篇という形をとり、その結末が[[アポリア]]を呈示する形で終わっているのは、このようなプラトンの思想を反映したものである。
このように、プラトンは真理は永遠普遍なものとしつつも、それをイデアの世界に限定したため、仮象の現象界における真理は命題間調和を基準とする整合説を主張するにとどまった。彼が創始した[[アカデメイア]]では、弁論術による対話を繰り返し、真理に近づこうと努力したが、皮肉なことに懐疑主義的な[[アカデメイア派]]を生み出すことになる。後世に、このアカデメイア派と対立したのが、プラトンの思想を新たな形で復活させた[[アウグスティヌス]]だった。
{{-}}
==== アリストテレス 対応説 ====
[[ファイル:Aristotle Altemps Inv8575.jpg|thumb|200px|アリストテレス([[紀元前384年]] - [[紀元前322年]])]]
[[アリストテレス]]は、プラトンと同じく真理を永遠普遍なものとしながらも、プラトンが[[イデア]]が個物から離れて実在するとしたことを否定して批判的に承継し、真理を認識する体系的構造を整備し、後に「真理の対応説」と呼ばれる真理論を展開し、後世に大きな影響力をもった。
まず、彼は、学問体系の整備を始め、「[[論理学]]」は確実な知識を手に入れるという目的のための「道具」(organon)であるとする。論理学においては、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しい。真理に到達するためには知識は確実なものでなければならないが、そのための道具の性能をまず問題にした。彼のこのような着眼点は現代真理論における記号論理学の発展を準備したものともいえる。
ついで、彼は、学問を、「理論」(テオリア)、「実践」(プラクシス)、「制作」(ポイエーシス)に三分した上で、理論学を「[[自然学]]」と「[[形而上学]]」、実践学を「[[政治学]]」と「[[倫理学]]」、制作学を「詩学」に分類した。そして、その著書『形而上学』において、形而上学は存在するものについての「第一哲学」であり、始まりの原理についての知であるとし、「PはQである」という命題は真か偽かのどちらかであり、有を無、無を有と論証するのが虚偽であり、有を有、無を無と論証するのが真であるとした。そこでは、存在者の「有・無」という「[[存在論]]」が基礎にあり、これを「論証する」という「[[判断]]」が支えている。判断は真であることによって[[知識]]となるから、そこでは、真理とは思惟と実在の一致と定義され、真理論と認識論と存在論が[[ロゴス]]において一体不可分のものとして語られていた。
そして、彼は、プラトンのイデアと区別してエイドス([[形相]])とヒュレー([[質料]])の概念をとなえ、その上で、世界に生起する現象には「形相因」と「質量因」があるとして、これを分け、前者をさらに「動力因」、「目的因」に分け、都合4つの原因(アイティアaitia)があるとした(『形而上学』Α巻・『自然学』第2巻第3章等)。これを[[四原因説]]という。例えば、家という存在者の形相因は家の形そのものであり、質量因は木・鉄等の材料であり、動力因は大工であり、目的因は住むことである。その上で、存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが素材としての[[可能態]]であり、それとすでに生成したもので思考が具体化した現実態とを区別した。例えば、家を作るため大工が木を切り倒して切り出して材木を作っても、家はまだ完成しておらず、それは可能態であって現実態ではない。壁や瓦などの材料と組み合わさって家になって初めて現実態となる。
彼は、すべての存在者が可能態から現実態への生成のうちにあり、すべて現象に四つの原因があるという。すべての現象の目的をたどっていくともうこれ以上遡ることができない[[ナマの事実|究極の目的]]が存在するはずである。それは、すべての存在の動力因であるが、自らは動く必要がなく、自らのことだけを思惟すればよく、他のものを思惟しない質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたもの(不動の動者)があるはずである。これを彼は「神」と呼んだ。
アリストレスの学問体系は、その後、中世のスコラ学に引き継がれ、近代認識論が成立するまでは長らく支持されていたが、その後も現代にいたるまで[[唯物論]]的見地から主張された模写説([[素朴実在論]])・反映説([[マルクス主義]])や[[観念論]]的見地から主張された構成説など様々なバリエーションの対応説が主張された。[[バートランド・ラッセル]]、前期[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]も言語論の研究成果を受けて修正されているものの、対応説の一つに数えることができる。
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=== 中世 ===
==== アウグスティヌス 懐疑主義との対決 ====
[[ファイル:AugustineLateran.jpg|right|thumb|200px|アウグスティヌス([[354年]] - [[430年]])]]
[[アウグスティヌス]]は若き日に[[懐疑主義]]の虜となったが、のちに神学者として「宗教的真理」を探究した人物である。彼は、懐疑主義者に対し、「わたしも疑う。ゆえにわたしは存在する。わたしは間違える。ゆえにわたしは存在する」として自己の存在の確実性を盾にした上で、神学者として、わたしは神と自らの魂を認識したいと望む。ここから真理の探究が始まる。
プラトンによれば、この世は仮象の世界であって真は存在しない。しかし、アウグスティヌスは、この点を修正し、世界はロゴス・真理によって創造されたのであるから、存在するものはすべて真である、とする(真理の存在論的側面)。それは、ヨハネ伝に、すべてのものはロゴスからできたとあるからである。人もこの世界の被造物の一つであり、その限りで魂は真理とつながっており、魂は真理を認識することができる(真理の認識論的側面)。そして、魂は「わたし」という意思であり、存在する実体であり、自律している。それゆえに、魂は探求するが、彼を探求に導くものは愛であり、愛は最後の憩いの場として万有の根源である神を求める。万有の根源である「神は存在である」(Deus est esse)。神が自己自身を認識することによって、われわれの認識が始まる。神は認識の原理であるとともに真理である。人は真理を認識するためには、感覚(外的人間)に頼るのではなく、理性(内的人間)によらなければならない。創世記には、神は人間を神の似姿として創ったとあり、神に似るのは動物にはない人間のみが有する理性部分だからである。理性は外に向かうのではなく、内部に向い、それを超えた至福の果てに真理を見る(真理の幸福論的側面)。
彼の真理論は、プラトンが真理を神とは独立別個のイデアに直結させていたのを修正しつつも、大筋においてプラトンの真理論を承継したものといってよい。彼の真理論は後にデカルトの懐疑論の克服に多大な影響を与えた。
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==== トマス 独断主義との対決 ====
[[ファイル:St-thomas-aquinas.jpg|right|thumb|200px|トマス・アクィナス([[1225年]]頃 - [[1274年]])]]
[[トマス・アクィナス]]は、アリストテレスのロゴスを中心に認識論・存在論と一体化した真理論とキリスト教的神学を統合した人物であり、真とは思惟と事物の一致であるとして対応説をとる。トマスの生きた時代は、[[十字軍]]をきっかけに、アラブ世界との文物を問わない広汎な交流が始まったことにより、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさの中で、イスラム教徒であるとユダヤ教徒であるとキリスト教徒であるとを問わず、大衆が堕落していくという風潮と、これに対する反感が渦巻き、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていた[[アヴィケンナ]]や[[イブン=ルシュド|アヴェロエス]]とは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた<ref>稲垣、1999、p.59</ref>。また、トマスは、同様に、[[ソロモン・イブン・ガビーロール|アビケブロン]]のみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。異教徒との対決は懐疑主義との対決というより、(それが異教徒に向くか自身の足元に向くかはともかく)[[独断主義]]との対決であった。
トマスは、異教徒であったアリストテレスの真理論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えてキリスト教神学の「宗教的真理」との調和を図ろうとしたのであり、哲学は「神学の婢」(ancilla theologiae)であった。アリストテレスは、すべての存在者の究極の原因である「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相としていた。しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。[[旧約聖書]]の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在論に修正を加え、「存在-本質」(esse-essentia)を加えた。また、アリストテレスは、世界の根源を神と第一質量の二元的に考え、世界を始まりと終わりのない永遠なものとしていた。しかし、トマスにとって、世界は神によって無から創造されたものであった。そこで、彼は、アリストテレスが神を自らを思惟するのみで、他者を認識しないとしていた点を修正し、神は自らと他者をイデアによって認識するとし、世界は第一質量とともに神のみが創造したものとして一元的に把握した。
トマスによれば、魂は不滅であり、人間は、理性によって永遠普遍の神の存在を認識できる(いわゆる[[神の存在証明|宇宙論的証明]])。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界があり、人間が認識できる真理にも限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。人は死して初めて「栄光の光」を得て神の本質を完全に認識するものであり、真の幸福が得られる。
{{-}}
=== 近世 ===
==== デカルト 明証説 ====
[[Image:Frans_Hals_-_Portret_van_René_Descartes.jpg|right|thumb|200px|デカルト([[1596年]]-[[1650年]])]]
[[ルネ・デカルト]]は、[[数学]]・[[幾何学]]の研究によって得られた概念は疑い得ない明証的なものであり、理性による永遠真理であるとしたが、このような永遠真理は神によって創造されたのであり(永遠真理創造説)、他の被造物と同様神に全面的に依存するとし、そこから欺く神の存在を導き出す。そこから、彼は、いったんは数学的な永遠真理でさえ疑うという方法的懐疑論を唱え、ついには肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられた後に、どれだけ疑っても疑いえないものとして純化された精神だけが残ると主張した。そこから、彼は、純化された精神に明晰かつ判明に現れるもののみを真理の基準として真理の明証説を提唱した。
このように、デカルトに始まる近代的認識論の成立によって、存在論と真理論がいったん切り離されて認識論と真理論が直結し、真理を人間の知性の内部に求める主観主義が成立した。
デカルトの明証説は、その後、カントの超越論的哲学を批判的に承継した[[エトムント・フッサール]]がとることになる。フッサールは、数学基礎論の研究から始め、事象そのものへ立ち返る[[現象学]]を創始したが、デカルトと同じく数学がその哲学の出発点となっている。フッサールが明証性の基盤について、どのように考えていたのかについては明らかでない点があるとされているが、いわゆる『危機書』によれば、それは生活世界ということになろう。事象に繰り返し立ち返ることによってなされる生活世界の無限の改訂可能性こそフッサールが示した真理である。
{{-}}
==== ライプニッツとヘーゲル 整合説 ====
{{multiple image
| footer = (画像左)ライプニッツ(画像右)ヘーゲル
| image1 = Gottfried Wilhelm von Leibniz.jpg
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| alt1 = ライプニッツ
| image2 = Hegel portrait by Schlesinger 1831.jpg
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| alt2 = ヘーゲル}}
デカルトと同じく[[大陸合理論]]に立つ[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]は、デカルトが明証という心理的なものを真理の基準としたことに反対し、すべての真理はアプリオリな分析命題であり、分析によって最終的には[[同一律]]に還元可能であると主張し、真理の基準を無矛盾性という論理的なものに置いた。アリストテレス以来の論理学を重視する学問体系が中期プラトンの整合説と結びついた。
整合説は、存在者を問題とせず、明証か論理的整合性かはともかく人間の知性内のものを真理の基準とする点で主観主義である。もっとも、整合説は、複数の整合的な主張がでてくる可能性を否定できず、プラトンが創始した[[アカデメイア]]から懐疑主義がでたように、基本的に[[相対主義]]的な側面がある。利害対立が錯綜する現代にいたると、そのような場合、補充的な真理の基準を併用するというアイデアがでてくることになる。それが実用説である。この実用説も主観主義の一つといってよい<ref name="kato">[[加藤信朗]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9C%9F%E7%90%86/ 「真理」(Yahoo!百科事典)]</ref>。
[[ヘーゲル]]は、永遠で変化しない真理という概念をひっくり返し、真理は弁証法によって発展するものであって、矛盾は真理の対立概念ではなく、かえって真理の発展原因なのであり、その発展運動の整合的全体こそが真理であるとした。ヘーゲルの整合説は、デカルトと同じく認識論を出発点としながらも存在論を含んである。カントは、主観/客観の二項対立図式を前提としつつ、[[現象]]と[[物自体]]を厳密に区別したが、ヘーゲルは弁証法により現象の背後にある物自体に絶対的精神が到達することを認めた。ヘーゲルの真理論は、矛盾を含む人間の生や非合理的で非理性的なものまで理性によって一元化するものであった。ヘーゲルに対する厳しい批判者であった[[ニーチェ]]はさらにもう一度真理という概念をひっくり返すことになる。
=== 現代 ===
==== ニーチェとジェイムス 有用説 ====
{{multiple image
| footer = (画像左)ニーチェ(画像右)ジェームス
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| alt1 = ニーチェ
| image2 = William James b1842c.jpg
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| alt2 = ジェームス}}
[[ニーチェ]]はある意味でカントの理論の継承者である。カントは、主観/客観の二項対立図式を前提としつつ、[[現象]]と[[物自体]]を厳密に区別し、[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]は、理性によっては認識できない物自体という概念を維持しつつ、現象とは私の[[表象]]であり、物自体とはただ生きんとする盲目的な意思そのものにほかならないとして理性を批判した。ニーチェは、このような図式を引き継ぎ、生とは、すべてを我がものとし、支配し、超え出て、より強くならんとする権力への意志であるとし、従来の真理の概念をひっくり返し真理は一種の誤謬であるとする。ただし、それはそれなしではある種の生物である人間が生きてはいけないという厳しい条件のついた誤謬であるとして、真理を理性と共に生に従属させ、人の生に有用であるか否かをもって真理の基準とした。
このように、ニーチェは[[大陸合理論]]におけるヘーゲル批判という文脈で真理の有用説に到達したが、これとは別の経路、つまり[[イギリス経験論]]を鍛えなおす形で有用説にたどり着いたのが[[ウィリアム・ジェームズ]]である。[[プラグマティズム]]は、論者によってそうとうな主張の相違があり、その内容は一様ではないが、おおむね経験・科学を重視して形而上学に反対し、キリスト教の伝統に則りながらも、進化論を否定しないという中庸で実利的な傾向を持つ。その主著『プラグマティズム』において、ジェームズは、相容れない脆弱型精神と強靭型精神の二種類の気質から哲学史の思想を区別し、その両者を媒介する思想が必要であり、それがプラグマティズムであるとする。それは、思想の意味を理解するためにはその思想がもたらす行動こそが全てであるとし、思想を自然を改変するための道具と位置づけ、思想が生存するために必要な実利に合致するならばそれは真理であり、真理の役割とは現実に思考を方向付ける過程にあるとする。他方で、彼は、厳しい自然の中で人間の生存に不可欠なものとして慣習的に発展してきた[[常識]]を重視し、性急な改革を戒める。真理とは長い時間をかけて常識によって発展してきた信用制度によって確立されており、信念や思想が反発されない限りはそれは真理として妥当する。ジェイムスのプラグマティズムは、相容れない脆弱型精神と強靭型精神の二種類の気質を区別し、これが媒介する思想が新たに社会を発展させていくという意味で[[ヘーゲル]]の全体的整合説の影響を受けたものであった。
==== パースとハーバーマス 合意説 ====
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| footer = (画像左)パース(画像右)ハーバーマス
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| alt1 = パース
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[[チャールズ・サンダース・パース]]は、カントの純粋理性批判・論理学・記号論から出発し、プラグマティズムを学問における意味を明確にする一提案ととらえ、真理の基準を研究者集団における研究者の意見の一致に求めたのであった。プラグマティズムの名づけ親ともいえるパースは、ジェームスらのプラグマティズムのむやみな拡張を批判し、自身の立場を[[プラグマティシズム]]と命名し直したのであった。
パースとは異なる経路で合意説に到達したのがドイツの哲学者[[ユルゲン・ハーバーマス]]である。彼は、[[フランクフルト学派]]の第二世代に属し、ヘーゲル・マルクス主義と科学の統合を目指す[[批判理論]]を承継していたが、英米圏の[[分析哲学]]の研究成果を取り入れ、コミュニケーション的転回を果たし、討論における合意を真理の基準とするに至った。
パースもハーバーマスも基礎づけ主義を批判し、[[可謬主義]]をとる。プラグマティズムのジェイムス、ローティも同様である。批判的合理主義のカール・ポパー、ハンス・アルバートなどほかにも可謬主義を採用するものがいるが、研究や思想が究極的な一致に向けて[[収束]]するかについて主張の相違がある。ポパー、ハーバーマス、[[ヒラリー・パトナム|パトナム]]は収束を認めるが、ローティ、[[トーマス・クーン|クーン]]は収束を認めないので、[[相対主義]]的である。
==== ハイデッガー 存在の開示 ====
フッサールは、フレーゲと共に心理主義を批判し、[[現象学]]を提唱した人物である。真理とは志向的対象が自体所持において根源的に与えられていることであるとしていた。アリストテレス以来多くの者が思惟と実在の一致、認識と存在の一致などデカルト的な主観/客観の二項対立図式を前提に対応説をとってきたが、現象学においてはかかる図式自体が放棄されており、真理は現象学的還元によって与えられるものとなる。彼自身は真理の基準として明証説をとったが、彼の弟子のハイデッガーは現象学を方法論として存在論に応用することで新たな真理論を打ち立てた。
[[マルティン・ハイデッガー]]は、[[ニーチェ]]を[[形而上学]]の完成者であるとしてその真理論を批判し、プラトンに始まり現在に至るまで存在者のみに目を奪われ、存在を忘却する存在忘却の歴史に陥っているとした。彼は、まず、『[[存在と時間]]』において、真理の語源ギリシア語のアレーテイアーに遡って考察し、真理とは隠されたものを戦い奪う、つまり「隠れなさ」という意味であるとした。ついで、現象学的解釈学・基礎的存在論を展開し、人間は現存在であると同時に世界内存在であって、そもそも主観と客観の区別はなく、[[環世界]]に存在している。頽落して世間に埋没して存在する非本来的な現存在は、世間や自己の見方に執着しているので、内世界において出遭う存在者は非本来的な隠れたあり方をしている。したがって、生は、ニーチェが述べるように人間が認識しえるものではないが、真理は生に従属するだけのものではない。本来的な現存在が自身をこの執着から解放すれば、存在者が全体として自らを本来のあり方そのままで現れる。これが真理であり、その本質は[[自由]]である、とした。さらに、彼は、『ヒューマニズムについて』において、言葉こそ存在の家であり、言葉のうちにこそ真理は宿り、存在の明るみが性起する限りにおいて存在を己を人間に開示する。あらゆる知の根拠である存在の開示は、生の生成過程における生の自己差異化、二重性の表れであり、現存在が脱自的に存在者に身をさらしているときに真理は体験され、感じられるのであり、驚き、感動、落涙などを伴う、とした。
ハイデッガーの議論を踏まえて[[西部邁]](評論家)は真理についてこう述べている。「探し当てられるべきは[[実在]](真理)なのだが、実在は言葉を住(す)み処(か)とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者(ぼくしゃ)にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「[[永劫回帰]]」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。」<ref>{{Cite book|和書|author=西部邁|title=虚無の構造|year=2013|publisher=中央公論新社|series=中公文庫|page=148}}</ref>
==== フーコー 真理/権力 ====
[[ミシェル・フーコー]]は、哲学の役割は隠れているものをあらわにするものではなく、今まさに見えているが、あまりにも近くにあるがゆえにかえってその実態が見えなくなっているものを見えるようにするものであるとして、『ニーチェ、系譜学、歴史』(1971年)において、[[ニーチェ]]の系譜学を批判的に承継し、今日の現実性の中での真理について探求した。彼によれば、私たちを権力者の支配から自由にしてくれるはずの永遠かつ普遍の真理は、現実には権力と結託してきた共犯者であった。伝統的歴史学は、歴史の外に自らの視点を置こうとするが、それは永遠普遍の真理を前提とした形而上学にほかならないとしたうえで、系譜学は、自らが視点が歴史の中に埋没する解釈の一つにすぎないことを認める。そのことによって初めて伝統的な真理概念に引きずられない現実性の真理についての記述が可能になる。系譜学によれば、ある言説が真とされるのはそれが客観的・普遍的に真であるからではなく、「真理への意志」 (volonté de vérité)が働いた結果である。たとえ真理を言ったとしてもその時代の真なるもののうちにいなければ、その言明は「真理」とは見なされ得ない。真偽を区別するのは真理の意思であるが、これは様々な制度によって強化されているが、これはあまりに近くにあるためわれわれが気が付かないように巧妙に作用している。そして、彼は、現代の知識人はもはらアームチェアの上で真理について思索することは不可能であり、むしろ自らが権力の標的であると同時に道具でもあるような場所において、権力のさまざまなかたちと闘ってゆくことが必要なのだと述べ、晩年には、「危険」を顧みず「勇気」を持って「真理」を言う[[パレーシア]]の重要性について言及するようになった。
==== フレーゲとラムゼイ 真理のデフレ理論 ====
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| footer =フレーゲは真理述語が有する問題に初めて着目し、これを定義不能であるとした。
| image1 = Young frege.jpg
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| alt1 = フレーゲ}}
[[フレーゲ]]は、現在の[[分析哲学]]の基礎を作った人物である。彼は、数学・論理学の基礎を生物学的・心理学的な過程に求めようとする[[心理主義]]、殊に意味・思想までも表象ととらえることに強く反対し、意味・思想という論理的なものと心理的なものを厳密に区別しようとした。彼によれば、語は記号である「意義」と記号によって表示される「意味」は区別されなければならず、伝統的に命題といわれてきた文は意義である。文は客観的な思想を含むが、文の真理値がその文の意味なのだとする。すると、ある文、例えば、命題Pは命題「命題Pは真である」と同値になる。したがって、真理の概念は定義不可能になる。彼は、このように、言語表現の内包(意味)が外延(指示対象)を決定すると考え、心理的なものから論理的なものの領域を守ったのであった。
[[フランク・ラムゼイ (数学者)|フランク・ラムゼイ]]は、フレーゲの論を更に進めて真理は余分な概念であるとした。命題Pは命題「命題Pは真である」と同値になる。それゆえ真理は余分な概念であり、真理述語はいかなる性質も表現していない。対応説や整合説のように真理述語に存在論的・認識論的性質の表現を認める見解は真理のインフレ理論にあたり、これを認めない見解は真理のデフレ理論にあたる。真理述語は一定の推論的役割という下がり続ける貨幣価値しか有しない。しかし、それは命題が真になる条件を明らかにしてくれる。それは、『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』との真理条件を満たすかどうか、によってテストすることができる。
真理が真理であると証明することは、{{要出典|範囲=[[ゲーデルの不完全性定理]]と同じように証明できない|date=2021年9月}}であろうので、これが真理だという完全な証明は不可能だと思われる。
{{-}}
==== タルスキとポパー 真理の意味論 ====
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| footer = (画像左)意味論的真理概念で真理論に革命的変化をもたらしたタルスキ(画像右)意味論的真理概念と科学的実在論を結びつけたポパー
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[[アルフレッド・タルスキ]]は、『形式論理における真理概念』(1931年)において、形式言語による真理述語の導入を提案し、それが可能になる言語の条件を研究した。彼によれば、真理概念の定義は、従来の対応説的な真理観に反せず、[[自己言及のパラドックス]]をさけることができる、形式的に正しいものでなければならない。そこから彼は、真理概念は文に適用され、特定の言語に相対的に定義され、意味論の基礎になっていることが必要であるとする。「Alice is alive.」という文について真偽を考えた場合、従来の対応説的な真理観からは、少なくともAliceが誰かという事実がわからないと真偽の判断はできないことになろう。しかし、事実がどうであれ、文が真になる条件を形式的に考えることはできるはずである。それが『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』というものである。彼は、このような条件を真理条件と呼び、真理条件の記述を「(T)形式の同値」と呼んだ。『〜』内の文をT文と呼ぶが、T文内の「Alice is alive.」は英語ではなく、日本語である。なぜなら、その文に引き続く「〜が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。」という文が日本語だからである。このように真理概念は特定の言語に相対的に定義されなければならない。T文内の「Alice is alive.」を対象言語というが、その文に引き続く「〜が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。」は対象言語ではなく、対象言語の真偽を区別するためのメタ言語である。このように言語とメタ言語を区別することにより自己言及のパラドックスを避けることができる。真理概念が意味論の基礎になるというのは以下のようなことである。英語を全く理解しない日本人(A)が英語を理解する日本人(B)に「Alice is alive.」の意味を質問する場合を想定すると、Bは、『「Alice is alive.」が真であるのは、アリスが生きているときであり、かつ、そのときだけである。』と答える。Aは、Aliceがアリスであり、生きているものであることを理解するかもしれないが、人間なのか動物なのかを理解しないかもしれない。そこで、Aが「Alice is animal.」と質問すると、Bは、『「Alice is animal.」が真であるのは、アリスが動物であるときであり、かつ、そのときだけである。したがって、「Alice is animal.」は偽である。』と答える。そのような問答を続けていけば、Bはいつか『「Alice is alive.」の意味を特定できるはずである。彼は、このような発想に従って数学上のやや特殊ないくつかの言語についてその平叙文が真になる条件を記載してみせた。彼のこのような方法は、応用のきく発展性のあるものだったので、以後[[ソール・クリプキ]]、[[ドナルド・デイヴィッドソン]]らが研究を進めている。
[[カール・ポパー]]は、タルスキの真理意味論と[[科学的実在論]]を結びつけた。彼は、文については真理意味論を継承しつつも、ある科学的理論は常に反証の危険を潜在的に有しており真理であることを確定することはできないが、真理に向かっての基準は存在し、その限りで科学的な真理は存在するという。彼は、実在論の立場に立ち、実在をわれわれの認識から独立したものとしつつも、実在を近似的に表現した理論という形での対応は認めることができるとし、[[開かれた社会]]における討論によりより優れた理論が出現し、やがて客観的な真実へと向かって収束していくという。
== 真理論の現在と未来 ==
真理論は、相対主義的な見方に反論する形で、[[神]]の視点からする永遠・普遍の真理の概念が生まれたが、近代認識論の成立により真理を人間の知性の内部に求める主観主義が生まれ、様々なヴァリエーションに分岐した。[[科学]]の飛躍的な発展に伴い、永遠・普遍の宗教的真理概念に代わって、客観的な科学的真理概念が生まれたことにより、現代の真理概念は様々な形で修正を受け、暫定的な真理という意味での相対的な傾向を強めているが、それでもなお[[相対主義]]に陥らない努力が続けられている。そのような状況において古典的な対応説が見直され、[[実在論]]と結びついた形で新たな対応説が復権を遂げているものの、観念論を現代的に修正した[[反実在論]]も有力であり、議論は収束する気配を見せてはいない。
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[加藤信朗]][https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9C%9F%E7%90%86/ 「真理」(Yahoo!百科事典)]
*プラトン著『[[国家 (対話篇)|国家]]』上・下、[[藤沢令夫]]訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2008
*プラトン著『[[パイドン]]』、[[岩田靖夫]]訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1998
*プラトン著『[[テアイテトス (対話篇)|テアイテトス]]』、[[渡辺邦夫 (哲学者)|渡辺邦夫]]訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2004 ISBN 4480088180
*[[アリストテレス]]著『[[形而上学 (アリストテレス)|形而上学]]』全2巻[[出隆]]訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1959 ISBN 4003360435
*[[稲垣良典]]、『トマス・アクィナス』、[[講談社学術文庫]]、1999(初出は『トマス・アクィナス. 人類の知的遺産20巻』、講談社、1979)
*[[ヘーゲル]]著『[[エンチクロペディー|論理学 哲学の集大成・要綱 第1部]]』[[長谷川宏]]訳、作品社、2002
* ヘーゲル著『自然哲学 哲学の集大成・要綱 第2部』長谷川宏訳、作品社、2005
* ヘーゲル著『精神哲学 哲学の集大成・要綱 第3部』長谷川宏訳、作品社、2006
*[[ウィリアム・ジェームズ|ジェームズ]]『[[プラグマティズム (ジェームズ)|プラグマティズム]]』[[桝田啓三郎]]訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1957 ISBN 4003364015
*中岡成文『ハーバーマス‐コミュニケーション行為‐現代思想の冒険者たち27』講談社、1996年
*[[マルティン・ハイデッガー]]著『[[存在と時間]]』[[細谷貞雄]]訳、筑摩書房〈[[ちくま学芸文庫]]〉全2巻、1994 ISBN 4480081372
'''関連文献'''
* チェイス・レン 著, 野上志学 訳, [[一ノ瀬正樹]] 解説『現代哲学のキーコンセプト 真理』岩波新書、2019年、ISBN 9784000613743
== 関連項目 ==
{{wikiquote|真理}}
{{wiktionary}}
*[[認識論]]・[[存在論]]
*[[論理的真理]]
*[[二重真理]]
*[[独断主義]]・[[基礎付け主義]]・[[可謬主義]]・[[懐疑主義]]・[[反基礎付け主義]]
*[[無限後退]] - [[循環論法]] - [[ナマの事実]]
*[[ミュンヒハウゼンのトリレンマ]]
*[[自己言及のパラドックス]]
*[[デュエム-クワイン・テーゼ]]
*[[真実らしさ]]
== 外部リンク ==
* [[加藤信朗]][https://archive.ph/20110101000000/http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9C%9F%E7%90%86/ 「真理」(Yahoo!百科事典)]
* [https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E7%90%86-82706 真理] - [[コトバンク]]
英語
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[[Category:真理|*]]
[[Category:認識論の概念]]
[[Category:仏教用語]]
[[Category:哲学的論理学]]
[[Category:真理論]] | 2003-03-14T14:01:04Z | 2023-09-21T07:54:56Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86 |
4,017 | アルゴ探検隊の大冒険 | 『アルゴ探検隊の大冒険』(アルゴたんけいたいのだいぼうけん、原題 Jason and the Argonauts )は、1963年に公開されたイギリス・アメリカ製作の特撮映画。特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンによる、ギリシア神話のイアソン(ジェーソン)率いるアルゴ船探検隊(アルゴナウタイ)の冒険を描いた作品。
ゼウス(ナイアル・マクギニス)の保護下にあるペリアス(ダグラス・ウィルマー)はアリスト王の宮殿周辺に起こった嵐により、また彼を殺害したことによりテッサリアの王座を奪った。しかし預言者は、サンダルを片足のみ履いたアリストの子により覆されると語った。予言を阻止しようとペリアスはアリストの娘の1人であるブリセイス(デイヴィニア・テイラー)を殺し、女神ヘラ(オナー・ブラックマン)はこれを神殿への冒涜として怒った。ブリセイスは殺される直前、ヘラの像の腕の中にアリストの幼子を置いた。ペリアスの企てに怒ったゼウスはペリアスを失脚させるためアリストの幼子を使うことを決心した。
20年後(しかしオリンポス山では一瞬)、成長したアリストの息子ジェーソン(トッド・アームストロング)はペリアスが溺れている所に偶然遭遇し、彼を助けた際サンダルを片方なくしたためペリアスは彼を認識する。王国を取り戻すために神の贈り物である金羊毛を獲得しようとする実直なジェーソンに対し、正体を隠しているペリアスは彼を励ます振りをしながら、彼が殺されることを望んでいた。
ジェーソンはゼウスとヘラと話すためヘルメス(マイケル・グウィン)によりオリンポス山に連れていかれた。ヘラは彼の成功を望むが、ゼウスの命令により彼女は5回のみ彼を助けることができることになった。ヘラはジェーソンに、コルキスに行き金羊毛を探すよう指示した。オリュンポス十二神たち、特にゼウスは彼に助力を申し出るが、ジェーソンは自身で航海し、船を建立し、人間の力だけで成し遂げる事を誓い、オリンピックを開催してギリシア中の勇者たちを船員に選抜すると語った。神々の中でもジェーソンを最も助けたかったのであるが、ジェーソンの言葉に負けて冒険の準備のために彼を地上に帰した。
建造者のアルゴス(英語版)(ローレンス・ネイスミス)に因み名付けられ、ヘラの加護を受けた人類史上最初の大型帆船「アルゴ号」でジェーソンの仲間「アルゴナウタイ」となる栄誉のために、多くの勇士がギリシャ中から競技に集まった。ヘラクレス(ナイジェル・グリーン)、ハイラス(ジョン・カーニー)などが選ばれ、ペリアスにより息子のアカスタス(ゲイリー・レイモンド)が妨害のため送り込まれた。
ヘラの3回目の助けとして、彼女はジェーソンをブロンズ島に向かわせ、水と食糧以外は何も持ち出さないよう忠告するが、島内探検中、ヘラクレスは上に青銅の巨人テイロスがそびえ立つ財宝倉庫から、ハイラスが注意したにも係わらず槍投げの槍サイズのブローチのピンを盗んだため、テイロスの眠りを覚ましてしまい、アルゴ号もひっくり返される。ジェーソンは再びヘラに助言を求め、テイロスの踵の円形の栓を開けるとイコルが大量に流れ出し死に至った。テイロスが地面に倒れる際、ヘラクレスが落としたピンを取りに戻ったハイラスが潰された。ハイラスが見つかるまで島を離れないというヘラクレスと、彼を置いて島を離れようという他のアルゴナウタイに悩まされ、ヘラに再度助言を求めた。ヘラはこれが最後の助けになると念を押し、ハイラスの死はもう戻せないこと、ヘラクレスももう戻らないことを語り、予言を悪用したとしてゼウスの怒りを受けて怪鳥ハーピーに拷問され続ける盲目の老預言者ピネウス(パトリック・トラウトン)の所へ行くように語った。翼のある女性の形をしたハーピーはピネウスの食事を奪い、残飯のみを与えていたのであった。ジェーソン達がハーピーを檻に閉じ込めると、ピネウスはジェーソンにコルキスへの航路を教え、お守りを与えた。コルキスへの道中、通行する船をことごとく沈める吠える岩の間を通らねばならなかった。ジェーソン一行がこの岩の下を通ろうとすると、大荒れの海に飲まれそうになった。絶望したジェーソンは自棄になり、ピネウスからもらったお守りを海に投げた。するとトリトンが海から現れ、アルゴ号が通れるよう岩の間に立ちはだかった。ジェーソンらは、他に遭難したコルキスの船から美しい王女メディア(ナンシー・コバック)ら3人を救った。
ジェーソンの一行はコルキスに着き、ジェーソンとアカスタスはどのように黄金の毛皮を守るコルキス王アイエテス(ジャック・グウィリム)に近づくかで対立し、喧嘩となった。アカスタスは非武装で海に飛び込んで逃げた。彼が死んだと思ったジェーソンと仲間達はアイエテス王の祝宴への招待を受け、そこで毛皮を取りに来た事が露見し、捕らえられる。ジェーソンの目的を密告したのは、アルゴ探検隊の一員の振りをしていたペリアスの息子アカスタスであった。だが、ジェーソンと惹かれあったメディアは彼と仲間達を助け脱出した。
アカスタスは自分1人で金羊毛を獲得しようとしたが警護をしていた7本の首を持つ竜ハイドラに負傷させられた。ジェーソンはハイドラを倒し、金羊毛を手に入れた。追ってきたアイエテス王は女神ヘカテに祈った後、ハイドラの歯を地に撒くとそれぞれが骸骨剣士となった。この戦闘で矢が当たりメディアが負傷した時、彼女を治すためにジェーソンは金羊毛を使用した。彼はアルゴスにメディアを船に連れて行くよう頼み、ジェーソンと他の2人の仲間は骸骨剣士と戦った。2人の仲間が戦死し、ジェーソンは崖から海に飛び込み、骸骨たちも後を追ったが海に沈んでしまった。ジェーソンは船にたどり着き、その後、彼、メディア、生き残ったアルゴナウタイはテッサリアへ戻った。オリンポス山ではゼウスがヘラにまた時が来ればジェーソンを呼ぼうと語る。 | [
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] | 『アルゴ探検隊の大冒険』は、1963年に公開されたイギリス・アメリカ製作の特撮映画。特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンによる、ギリシア神話のイアソン(ジェーソン)率いるアルゴ船探検隊(アルゴナウタイ)の冒険を描いた作品。 | {{Infobox Film
|作品名=アルゴ探検隊の大冒険
|原題=Jason and the Argonauts
|画像=Jason and the argounauts.jpg
|画像サイズ=
|画像解説=
|監督=[[ドン・チャフィ]]
|脚本=[[ジャン・リード]]
|原案=
|原作=
|製作=[[チャールズ・H・シニア]]<br />[[レイ・ハリーハウゼン]]
|製作総指揮=
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|出演者=
|音楽=[[バーナード・ハーマン]]
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|撮影=[[ウィルキー・クーパー]]
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|配給=[[コロンビア ピクチャーズ]]
|公開= {{flagicon|GBR}} 1963年8月15日<br />{{flagicon|JPN}} 1964年2月15日
|上映時間=104分
|製作国={{GBR}}<br />{{USA}}
|言語=[[英語]]
|製作費=
|興行収入=
|前作=
|次作=
}}
『'''アルゴ探検隊の大冒険'''』(アルゴたんけいたいのだいぼうけん、原題 ''{{en|Jason and the Argonauts}}'' )は、[[1963年]]に公開された[[イギリス]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]製作の[[特撮映画]]。[[特撮]]の巨匠[[レイ・ハリーハウゼン]]による、[[ギリシア神話]]の[[イアーソーン|イアソン]](ジェーソン)率いる[[アルゴ船]]探検隊([[アルゴナウタイ]])の冒険を描いた作品。
== あらすじ ==
[[ゼウス]]([[ナイアル・マクギニス]])の保護下にある[[ペリアース|ペリアス]]([[ダグラス・ウィルマー]])は[[アイソーン|アリスト王]]の宮殿周辺に起こった嵐により、また彼を殺害したことにより[[テッサリア]]の王座を奪った。しかし預言者は、サンダルを片足のみ履いたアリストの子により覆されると語った。予言を阻止しようとペリアスはアリストの娘の1人であるブリセイス([[デイヴィニア・テイラー]])を殺し、女神[[ヘーラー|ヘラ]]([[オナー・ブラックマン]])はこれを神殿への冒涜として怒った。ブリセイスは殺される直前、ヘラの像の腕の中にアリストの幼子を置いた。ペリアスの企てに怒ったゼウスはペリアスを失脚させるためアリストの幼子を使うことを決心した。
20年後(しかし[[オリンポス山]]では一瞬)、成長したアリストの息子[[イアーソーン|ジェーソン]]([[トッド・アームストロング]])はペリアスが溺れている所に偶然遭遇し、彼を助けた際サンダルを片方なくしたためペリアスは彼を認識する。王国を取り戻すために神の贈り物である[[金羊毛]]を獲得しようとする実直なジェーソンに対し、正体を隠しているペリアスは彼を励ます振りをしながら、彼が殺されることを望んでいた。
ジェーソンはゼウスとヘラと話すため[[ヘルメース|ヘルメス]]([[マイケル・グウィン]])によりオリンポス山に連れていかれた。ヘラは彼の成功を望むが、ゼウスの命令により彼女は5回のみ彼を助けることができることになった。ヘラはジェーソンに、[[コルキス]]に行き金羊毛を探すよう指示した。[[オリュンポス十二神]]たち、特にゼウスは彼に助力を申し出るが、ジェーソンは自身で航海し、船を建立し、人間の力だけで成し遂げる事を誓い、[[オリンピック]]を開催して[[ギリシア]]中の勇者たちを船員に選抜すると語った。神々の中でもジェーソンを最も助けたかったのであるが、ジェーソンの言葉に負けて冒険の準備のために彼を地上に帰した。
建造者の{{仮リンク|アルゴス (船大工)|label=アルゴス|en|Argus (Argonaut)}}([[ローレンス・ネイスミス]])に因み名付けられ、ヘラの加護を受けた人類史上最初の大型帆船「[[アルゴー船|アルゴ号]]」でジェーソンの仲間「アルゴナウタイ」となる栄誉のために、多くの勇士がギリシャ中から競技に集まった。[[ヘーラクレース|ヘラクレス]]([[ナイジェル・グリーン]])、[[ヒュラース|ハイラス]]([[ジョン・カーニー (俳優)|ジョン・カーニー]])などが選ばれ、ペリアスにより息子の[[アカストス|アカスタス]]([[ゲイリー・レイモンド]])が妨害のため送り込まれた。
ヘラの3回目の助けとして<ref>ペリアスを馬から川に落とし溺れさせたのを1回目、コルキスについて教えたのを2回目とする。</ref>、彼女はジェーソンをブロンズ島に向かわせ、水と食糧以外は何も持ち出さないよう忠告するが、島内探検中、ヘラクレスは上に青銅の巨人[[タロース (ギリシア神話)|テイロス]]がそびえ立つ財宝倉庫から、ハイラスが注意したにも係わらず[[やり投|槍投げ]]の槍サイズの[[ブローチ (装身具)|ブローチ]]のピンを盗んだため、テイロスの眠りを覚ましてしまい、アルゴ号もひっくり返される。ジェーソンは再びヘラに助言を求め、テイロスの踵の円形の栓を開けると[[イコル]]が大量に流れ出し死に至った。テイロスが地面に倒れる際、ヘラクレスが落としたピンを取りに戻ったハイラスが潰された。ハイラスが見つかるまで島を離れないというヘラクレスと、彼を置いて島を離れようという他のアルゴナウタイに悩まされ、ヘラに再度助言を求めた。ヘラはこれが最後の助けになると念を押し、ハイラスの死はもう戻せないこと、ヘラクレスももう戻らないことを語り、予言を悪用したとしてゼウスの怒りを受けて怪鳥[[ハーピー]]に拷問され続ける盲目の老預言者[[ピネウス]]([[パトリック・トラウトン]])の所へ行くように語った。翼のある女性の形をしたハーピーはピネウスの食事を奪い、残飯のみを与えていたのであった。ジェーソン達がハーピーを檻に閉じ込めると、ピネウスはジェーソンにコルキスへの航路を教え、[[お守り]]を与えた。コルキスへの道中、通行する船をことごとく沈める吠える岩の間を通らねばならなかった。ジェーソン一行がこの岩の下を通ろうとすると、大荒れの海に飲まれそうになった。絶望したジェーソンは自棄になり、ピネウスからもらったお守りを海に投げた。すると[[トリートーン|トリトン]]が海から現れ、アルゴ号が通れるよう岩の間に立ちはだかった<ref>ヘラはゼウスに「あなたは多くの人々の神なのに、あなたをもう信じなくなるともう何もしてあげないのね」と語った。ゼウスは「その通り。そして君はそれをわかっていて私といるじゃないか」と返した。ヘラは笑って「あなたは私に弱いのね」と言い、ゼウスは「弱いのではない。人間に近いのだ」と言った。</ref>。ジェーソンらは、他に遭難したコルキスの船から美しい王女[[メデイア|メディア]]([[ナンシー・コバック]])ら3人を救った。
ジェーソンの一行はコルキスに着き、ジェーソンとアカスタスはどのように黄金の毛皮を守るコルキス王[[アイエーテース|アイエテス]]([[ジャック・グウィリム]])に近づくかで対立し、喧嘩となった。アカスタスは非武装で海に飛び込んで逃げた。彼が死んだと思ったジェーソンと仲間達はアイエテス王の祝宴への招待を受け、そこで毛皮を取りに来た事が露見し、捕らえられる。ジェーソンの目的を密告したのは、アルゴ探検隊の一員の振りをしていたペリアスの息子アカスタスであった。だが、ジェーソンと惹かれあったメディアは<ref>ギリシャ神話においては、ヘラはアイエテス王に対し理由もわからないまま怒り、[[アプロディーテー|アプロディーテ]]に悪戯な[[エロース|エロス]]を、ゼウスの乳母[[アドラステイアー|アドラステイア]]によりゼウスのために作られた金のおもちゃで説得させ、ジェーソンを助ける計画を思いついた。このおもちゃで遊ぶと良いと吹き込み、エロスがおもちゃの矢を放つと流れ星のように明るい光が空を横切りメディアに当たり、メディアはジェーソンと恋に落ちた。</ref>彼と仲間達を助け脱出した。
アカスタスは自分1人で金羊毛を獲得しようとしたが警護をしていた7本の首を持つ竜[[ヒュドラ|ハイドラ]]に負傷させられた。ジェーソンはハイドラを倒し、金羊毛を手に入れた。追ってきたアイエテス王は女神[[ヘカテー|ヘカテ]]に祈った後、ハイドラの歯を地に撒くとそれぞれが骸骨剣士となった。この戦闘で矢が当たりメディアが負傷した時、彼女を治すためにジェーソンは金羊毛を使用した。彼はアルゴスにメディアを船に連れて行くよう頼み、ジェーソンと他の2人の仲間は骸骨剣士と戦った。2人の仲間が戦死し、ジェーソンは崖から海に飛び込み、骸骨たちも後を追ったが海に沈んでしまった<ref>レイ・ハリーハウゼンは骸骨剣士の撮影に3ヶ月以上かけた。</ref>。ジェーソンは船にたどり着き、その後、彼、メディア、生き残ったアルゴナウタイはテッサリアへ戻った。オリンポス山ではゼウスがヘラにまた時が来ればジェーソンを呼ぼうと語る。
== 登場人物 ==
* [[トッド・アームストロング]]:[[イアーソーン|ジェーソン]] - [[テッサリア]]の前王の子。
* {{仮リンク|ナンシー・コバック|en|Nancy Kovack}}:[[メデイア|メディア]] - [[コルキス]]王国の王女で、アイエテス王の娘。あるいはヘカテに仕える女神官。
* [[ゲイリー・レイモンド]]:[[アカストス|アカスタス]] - ペリアス王の子。
* {{仮リンク|ローレンス・ナイスミス|en|Laurence Naismith}}:{{仮リンク|アルゴス (船大工)|label=アルゴス|en|Argus (Argonaut)}} - アルゴ号を建造し、ジェーソンを補佐する。
* {{仮リンク|ナイアル・マクギニス|en|Niall MacGinnis}}:[[ゼウス]] - [[オリンポス山|オリンポス]]の大神。
* {{仮リンク|マイケル・グウィン|en|Michael Gwynn}}:[[ヘルメース|ヘルメス]] - オリンポスの神で、ゼウスの伝令。
* {{仮リンク|ダグラス・ウィルマー|en|Douglas Wilmer}}:[[ペリアース|ペリアス]] - テッサリアの王。
* [[ジャック・グウィリム]]:[[アイエーテース|アイエテス]] - コルキスの王。
* [[オナー・ブラックマン]]:[[ヘーラー|ヘラ]] - ゼウスの妻、神々の女王。ジェーソンを助ける。
* {{仮リンク|ナイジェル・グリーン|en|Nigel Green}}:[[ヘーラクレース|ヘラクレス]] - ギリシアの英雄で、アルゴナウタイになる。
* [[ジョン・カーニー (俳優)|ジョン・カーニー]]:[[ヒュラース|ハイラス]] - アルゴナウタイ。
* [[パトリック・トラウトン]]:[[ピーネウス|ピネウス]] - 盲目の預言者。
* {{仮リンク|アンドリュー・フォールズ|en|Andrew Faulds}}:パレルス - アルゴナウタイ。
* '''クレジットなしのキャスト'''
** フェルディナンド・ポッギ:[[カストール|カストル]] - アルゴナウタイ。ポリュデウケスの双子の兄。
** ジョン・クロフォード:[[ポリュデウケース|ポリュデウケス]] - アルゴナウタイ。カストルの双子の弟。
** アルド・クリスティアーニ:[[リュンケウス]] - アルゴナウタイ。
** ダグ・ロビンソン:[[エウペーモス|エウペムス]] - アルゴナウタイで、水泳の達人。
=== 登場するクリーチャーたち ===
; 船尾像 : 本来はアルゴ号の船首を飾る女神像だが、船大工アルゴスが乗組員を見下ろすように船尾へ据え付けた。女神ヘラの生き写しであり、ヘラがこの像を通してジェーソンと乗組員たちに神託を行うときは、目を開き口を動かす。
; [[タロース (ギリシア神話)|テイロス]]
: [[鍛冶]]の神[[ヘーパイストス]]によって作られた、ブロンズ島を守護する青銅の巨像。「神々の宝物庫」を侵す者があれば動き出し、アルゴ号を片手で持ち上げるほどの巨体と剛力をもってこれを追い狙う。
; [[ハーピー]]
: コウモリと人間をかけ合せたような姿の怪鳥。
; 吠える岩
: 海峡を船が通ると、岸壁が震えて岩石を落とし、船を沈める。
; [[ヘカテ]]
: コルキスの守護女神で、馬・雌獅子・犬という3つの首を持つ黄金の神像。メデイアとアイエテスから「闇の女王 (Queen of Darkness)」と呼ばれている。
; [[金羊毛|黄金の毛皮]]
: コルキスの秘宝。神々の贈り物で、国を繁栄させる奇跡の力がある。
; [[ヒュドラ|ハイドラ]]
: 7つの首を持つ竜のような怪物。
: このモンスターをアニメートしている最中、電話がかかってきたため、ハリーハウゼンは席をはずした。話を終え戻ってきた彼は、首のうちの1つが、上下のどちらに動いている途中だったのかを失念してしまった。これに懲り、以後は詳細なアニメート用のコンテを準備するようになったという事である。
; 7人の骸骨剣士
: ハイドラの歯からアイエテス王が創造した剣士。
: ハリーハウゼンのクリーチャーとしては、『[[シンバッド七回目の航海]]』(1958年)に続いて二度目の登場ながら、同時に7体が動くことで斬新な画面となった。関節部の滑り止めとして使われた“液体ゴムを染み込ませた綿”以外にほとんどゴム製パーツを持たない骸骨剣士のモデルは経時劣化に強く、後年『[[シンドバッド虎の目大冒険]]』(1977年)のグールとして改造されたものを除けば、撮影当時の状態で現存している唯一のクリーチャーである。
== キャスト ==
{| class="wikitable" style="text-align:center"
|-
! rowspan="2" | 役名
! rowspan="2" | 俳優
! colspan="3" | 日本語吹き替え
|-
! [[テレビ東京|東京12ch]]版 || [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]版 || [[テレビ朝日]]版
|-
| ジェーソン || [[トッド・アームストロング]] || [[伊武雅之]] || [[野田圭一]] || [[小川真司]]
|-
| メディア || [[ナンシー・コヴァック]] || [[松尾佳子]] || [[高橋ひろ子]] || [[梨羽侑里]]
|-
| アルゴス || [[ローレンス・ナイスミス]] || || [[巌金四郎]] || [[富田耕生]]
|-
| ヘラ || [[オナー・ブラックマン]] || || [[岩瀬晃]] || [[鈴木弘子]]
|-
| アカスタス || [[ゲイリー・レイモンド]] || [[野島昭生]] || [[力石考]] || [[池田秀一]]
|-
| ゼウス || [[ニオール・マッギニス]] || || [[根本嘉也]] || [[田中明夫]]
|-
| ペリアス || [[ダグラス・ウィルマー]] || || [[加藤精三 (声優)|加藤精三]] || [[大塚周夫]]
|-
| アイエテス || [[ジャック・グイリム]] || || [[大木民夫]] || [[内海賢二]]
|-
| ヘルメス || [[マイケル・グウィン]] || || [[大久保正信]] || [[坂口芳貞]]
|-
| ヘラクレス || [[ナイジェル・グリーン]] || || || [[飯塚昭三]]
|-
| ハイラス || [[ジョン・カーニー (俳優)|ジョン・カーニー]] || || || [[大塚芳忠]]
|-
|
|-
| colspan="2"|演出 || ||[[蕨南勝之]]||[[山田悦司]]
|-
| colspan="2"|翻訳 || ||安西秀織||[[木原たけし]]
|-
| colspan="2"|効果 || ||||
|-
| colspan="2"|調整 || ||||小野敦志
|-
| colspan="2"|制作 |||| colspan=2|[[東北新社]]
|-
| colspan="2"|解説 ||||||[[淀川長治]]
|-
| colspan="2"|初回放送 || [[1972年]][[12月27日]]<br />『[[木曜洋画劇場]]』||[[1975年]][[8月6日]]<br />『[[水曜ロードショー (日本テレビ)|水曜ロードショー]]』||[[1986年]][[5月4日]]<br />『[[日曜洋画劇場]]』
|}
== スタッフ ==
* 製作:[[チャールズ・H・シニア]] (Charles H. Schneer) 、レイ・ハリーハウゼン
* 監督:[[ドン・チャフィ]] (Don Chaffey)
* 脚本:[[ジャン・リード]] (Jan Read) 、[[ビヴァリー・クロス]] (Beverley Cross)
* 撮影:[[ウィルキー・クーパー]] (Wilkie Cooper)
* 特撮:[[レイ・ハリーハウゼン]] (Ray Harryhausen)
* 音楽:[[バーナード・ハーマン]] (Bernard Hermann)
== 神話と映画の主な違い ==
{| class="wikitable"
! !! 神話 !! 映画
|-
! イアソン(ジェーソン)の父王の名前
| [[アイソーン|アイソン]] || アリスト
|-
! {{nowrap|ペリアス王とイアソン(ジェーソン)の関係}}
| 叔父 || 描写なし
|-
! 青銅のタロス(テイロス)を倒す人物
| メデイア || ジェーソン(イアソン)
|-
! メデイア(メディア)は弟を
| 殺す || 描写なし(弟は登場しない)
|-
! 地面に撒いたヒュドラ(ハイドラ)の歯
| 描写なし(本来これは[[カドモス]]の伝説) || 骸骨戦士が生まれる
|-
! イアソン(ジェーソン)とメデイア(メディア)の末路
| 悲惨で陰惨な結末 || 二人が船に戻り、希望に満ちて再び旅立つところで終わる
|}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
== 関連項目 ==
* [[アルゴノーツ 伝説の冒険者たち]] - 同じくアルゴナウタイの冒険を描いたテレビドラマ(2000年、アメリカ)。
* [[アルゴナウティカ]] - [[紀元前3世紀]]に[[ロドスのアポローニオス]]によって書かれた[[叙事詩]]。
== 外部リンク ==
* {{allcinema title|1455}}
* {{kinejun title|578}}
* {{Movie Walker|mv577}}
* {{Allmovie title|25902|Jason and the Argonauts}}
* {{IMDb title|0057197|Jason and the Argonauts}}
* {{Rotten Tomatoes|1010939|Jason and the Argonauts}}
{{デフォルトソート:あるこたんけんたいのたいほうけん}}
[[Category:アメリカ合衆国のファンタジー映画]]
[[Category:イギリスのファンタジー映画]]
[[Category:アメリカ合衆国の冒険映画]]
[[Category:イギリスの冒険映画]]
[[Category:アメリカ合衆国のアクション映画]]
[[Category:イギリスの特撮映画]]
[[Category:アルゴナウタイ]]
[[Category:イギリスのアクション映画]]
[[Category:アメリカ合衆国の特撮映画]]
[[Category:1963年の映画]]
[[Category:1960年代の特撮作品]]
[[Category:ギリシア・ローマ神話を題材とした映画作品]]
[[Category:コロンビア映画の作品]]
[[Category:バーナード・ハーマンの作曲映画]]
[[Category:ストップモーション・アニメーションを使用した映画作品]] | 2003-03-14T14:14:53Z | 2023-08-07T14:31:33Z | false | false | false | [
"Template:Movie Walker",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B4%E6%8E%A2%E6%A4%9C%E9%9A%8A%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%86%92%E9%99%BA |
4,018 | 日本の鉄道駅 | 日本の鉄道駅(にほんのてつどうえき)は、日本における鉄道の駅について記述する。
日本では駅員が配置されている鉄道駅については乗車券等や入場券を持たないと乗降場に立ち入ることができないようになっているのが一般的である。駅員が乗車券を検査・回収する出入口を改札口と呼ぶ。現在では都市部を中心に、乗車券の自動販売機(自動券売機)や自動改札機が多く用いられている。
また、かつての日本国有鉄道(国鉄)には仮乗降場という施設が存在し旅客の乗降を扱っていたが、こちらは正規の鉄道駅ではなく各地方管理局の権限で設けられた乗降のための施設で、主に北海道内に設置されていた。仮乗降場は1987年の国鉄分割民営化までに所属する路線そのものの廃止や正式な駅への格上げによって姿を消した。
日本における扱う貨客や運営形態、構造などは、概ね以下のように分類される。以下は基本的に旧日本国有鉄道の定義に準拠する。
旅客と貨物の双方を扱う機能を有しているものを指す。営業内容に小荷物の取扱が含まれることもあるが、国鉄では荷物列車と共に1986年(昭和61年)11月1日の白紙ダイヤ改正をもって廃止されており、JR各社にも引き継がれてはいない。
明治時代の鉄道開業当初の主要駅は、旅客も貨物も扱う一般駅として開業したところが多いが、その後明治中期以降の貨物の取扱い数の増加によって、大都市ターミナル駅では貨物駅を分離させたケースが散見される(例・JR大阪駅と梅田貨物駅)。
一方、路線中間にある駅では、1970年代以降の貨物輸送の低迷による合理化で、1984年に貨物列車の運行形態が車扱貨物からコンテナ列車主体に転換されて貨物取り扱い駅が整理され、一般駅は大幅に減少した。現状残っている一般駅は、ほとんどがコンテナの取り扱い拠点を併設していたり、石油類の発着拠点(製油所、油槽所)に接続する駅である。
なお、品川駅や名古屋駅などのように貨物設備が無く一見すると旅客駅のようなものや(品川は1994年まで貨物扱いがあった)、仙台貨物ターミナル駅や東京貨物ターミナル駅などのように旅客設備が無く貨物駅のように見える一般駅(元々は貨物駅だが、いずれも国鉄末期の1986年に形式上旅客の取り扱いを開始し、旅客会社も継承)も存在する。
旅客が乗降するための駅。一般的に「駅」というと、旅客を扱う旅客駅あるいは一般駅を指す。
貨物を積み降ろしするための駅。俗に言う「貨物基地」。貨物列車のみが停車し、一般客は乗降できない。列車の組成を行う操車場(ヤード)もこの貨物駅の一種にあたる。拠点となる貨物駅には「○○貨物ターミナル駅」のような名称がつけられているものも多い。また鉄道輸送の速達化によって、E&S(着発線荷役)方式という新技術も導入されているものや、貨物列車の発着が無いオフレールステーションとなっているものもある。
駅員が配置されている鉄道駅のこと。運営形態により、更に下記の3つに分類することができる。
鉄道会社の正規社員が駅業務を行う駅のこと。駅の要員規模にもよるが、駅長・副駅長・助役(JR西日本は“係長”も存在)・一般社員全てが配置されている駅、駅長+一般駅員、一般駅員のみ配置の駅も存在する。また委託駅や無人駅などを管理している駅も多く存在する。
鉄道会社の関連会社(ステーションサービスなど)等に、運転取り扱いを除く全ての業務を委託している駅。利用者にとって直営駅と大差はない。近年は駅ナカ商業施設や車両・駅舎清掃などの駅周辺付帯事業を運営する子会社に駅業務を委託する場合もある。
業務委託駅の駅員は、鉄道会社の制服を着用している場合と、委託先の制服を着用している場合がある。
JRと他社私鉄や地下鉄との共同使用駅の一部では、他社側に駅業務を委託している駅がある。このような駅の場合、JRの乗車券類の発売に制限が生じる場合がある。
なお、JR以外にも駅業務を関連会社に委託している鉄道会社が増えてきている。
一般的に委託駅と言うとこの形式を示すことが多い。業務委託駅と区別するため、「簡託(駅)」「簡委」と通称されることもある。乗車券類の発売(出札業務)が、鉄道会社から市町村・農協・駅前商店・個人などに委託された駅をいう。
基本的に、簡易委託駅の駅員は乗車券類の発売など、窓口の出札業務だけを行う。このため、集札及び改札などの業務は、その駅に停車する列車の乗務員(車掌もしくはワンマンの場合は運転士)が行う。ただし、小浜線の美浜駅や、芸備線の備後庄原駅などのように、簡易委託駅でも駅で改札業務を行う駅も存在する。
形態的には駅舎内で乗車券類を発売する駅と、受託者の自宅や商店などで発売する駅がある。
駅舎内で委託している場合でも、委託駅員が直接客扱いを行うことはなく、窓口で発売される乗車券類も、原則として近距離乗車券や回数券等に限られるなど制約がある。ただし、JR北海道・JR東日本・JR西日本・JR九州管内においては、子会社や市町村などの公益団体、一般企業への委託を中心とした一部の簡易委託駅で委託駅員が集改札や精算を行っているケースもみられるので、一概には言えなくなっている。また、市町村・企業委託などの場合は全国の乗車券・指定券を販売できる契約を結ぶ例もある。簡易委託駅の委託駅員は市販の事務服などの私服や委託企業の制服で勤務しているケースが多い。
受託者側に発売所を置いている場合は、駅舎があっても駅業務には使用されず、外見上には無人駅と変わりがない。また、国鉄時代に簡易委託化される場合は官報または国鉄により公示されていた。公示は単に「無人駅化」であるが、この意味は国鉄職員を配置しないことであり、委託者についてはこの限りではない。
なお、営業時間が24時間でない駅もあるため、高山本線や太多線のように夜間にワンマン列車を運転する路線については、回収ボックスに入れる形式となっている。上記路線の他にも、JR東海管内の東海道本線・中央本線以外の路線では閉鎖時間は車掌が集札を行っている。
簡易委託駅の売上金は、決められた日に管理駅へ納入することになっている。切符販売委託料は各会社ごとに決められており、JR東日本の場合は1枚につき額面金額の5%(ただし定期券は1.8%)となっている。JR西日本では常備券の束が1冊11枚綴りになっており、10枚分の値段で管理駅から購入する。11枚売り上げの内、1枚分が受託者の収入となる。また、市町村委託でJR東海と同様にジェイアール西日本交通サービス等のJR西日本の関連会社や地元の旅行会社・タクシー会社に再委託する場合はマルス端末やPOS端末が設置されたり、指定券の販売をマルス端末または料金専用補充券で行う場合もある。また、市町村やNPO法人などへの委託の場合、券売機やICカードチャージ機の設置で切符販売を取りやめても、券売機やチャージ機の売り上げから受託者が販売手数料を受け取る形で簡易委託扱いを継続している例がある。
駅員が常駐していない駅のこと。「駅員無配置駅」とも呼ばれる。
運営会社より所定の独自裁量権限を与えられている駅。駅長が最高権限を持つ。管理下にある駅(被管理駅)に社員をラッシュ時のみ派遣するといった人事権の一部も認められていることが多い。また近隣の業務委託駅・簡易委託駅の指導や被管理駅・無人駅の整備なども行う。なお、JR九州では業務体制見直しに伴い、無人駅整備に限れば、一部地域で、直営駅ではなく鉄道事業部工務センター担当となっている。
乗降客の多い駅が管理駅と思われがちだが、実際の分布を見ると乗降人口よりも鉄道施設の充実度が重視されている傾向にある。例えば兵庫県の明石駅は明石市の中心部にあり、隣の西明石駅より1万5千人以上も多くの乗降客があるが、西明石駅傘下となっている(ただし地区駅として駅長を配置)。
また配置人員が少ない管理駅では、近隣の管理駅からの助勤が頻繁に行われている。
JR東日本の場合、管理駅を地区ごとにまとめ、その中で重要な駅を地区駅とし、その地区駅の駅長は「地区駅長」を兼務する。例えばJR東日本仙台支社古川地区の地区駅長は古川駅長が兼務し、石巻駅・小牛田駅・くりこま高原駅を統括している。各地区ごとに地区指導センター、地区センター、サポートセンター等の後方支援業務を中心に行う部署を設置している支社もある。
JR東日本新潟支社のように周辺駅管理業務を地区駅に集約し、地区駅以外の直営駅は自駅単独管理となっているケースもある。例えば酒田地区は酒田駅と鶴岡駅が直営駅としてあるが、鶴岡駅は自駅のみ管理し、その他の無人駅・簡易委託駅・業務委託駅の管理はすべて地区駅である酒田駅が管理駅として行っている。
なお、会社ごとで用語・体制が異なるためか、JR西日本の場合は、JR東日本での「地区駅」に相当する駅(鉄道部制の線区・区間でも管理駅が複数ある場合もあり)を「管理駅」とし、その傘下にある拠点駅を「地区駅」として駅長(部内的には管理駅の助役)を配置して、管理業務を分担している。
管理駅より限定された裁量権限を与えられている駅。直営駅では助役(複数の場合は筆頭助役)が最高権限を持ち、駅長の肩書きを与えられている場合もある。しかしその裁量範囲は管理駅に委ねられており、重要な決裁は管理駅の駅長が行なう場合が多い。委託駅・無人駅では管理駅長がそのまま兼任したり、管理駅の中で担当助役が任命されているようである。
なお、管理駅から駅員が派遣されている直営駅のことを派遣駅という。派遣駅は基本的には前述の通りだが、実際には派遣駅在勤の駅員が配置されていることもある。この場合、所属は管理駅だが配置箇所は派遣駅となっている。なお派遣駅在勤の駅員は配置人員が少ないため、日常的に管理駅からの助勤が行われている。
設置された後、原則として通年営業を行う駅。
特定の時期にのみ営業をする駅、あるいはイベントなどで一時的に設置されて営業を行う駅。臨時駅も参照。
駅自体は存在するが、何らかの理由で列車が止まらない駅。休止駅も参照。
JR(国鉄)の鉄道駅は、それぞれに対し1つ所属線が定められている。複数の路線が集まる駅でも同様で、所属線以外の路線が乗り入れる形になっている。基本的に駅の設置と同時に開業した路線が所属線となるため、隣の駅でも所属線が異なる場合がある。
また、元々の所属線が他事業者へ転換となった場合、その駅の所属線は残存した接続路線に変更される。これは特に整備新幹線の並行在来線が経営分離されることで発生することが多い。以下に例を示す。
駅は、単に列車の乗客を乗降させるという役割にとどまらない。駅ビルを併設したり、ホーム等に売店・食堂などの店舗を設置したりすることは古くから行われてきた。
駅構内にコンビニエンスストアや、複数の飲食店、書店、衣料品店などの、いわゆる「駅ナカ」と称したショッピングゾーンが設置されることがある。これらに加え、コンサートや展示会等のイベントが行われたりするなど、鉄道利用者の生活支援や文化活動なども色々と行われている。
また、2000年に制定された高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律(交通バリアフリー法。2006年に高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律へ移行)により、高齢者や障害者に使いやすい環境を整えることが求められている。
これにより、エスカレータやエレベータ、障害者やオストメイトに対応したトイレの設置が広まり、障害のある人にもより使いやすいようになりつつある。
国土交通省により2010年までに、乗降客5000人以上の駅で段差が5m以上ある場合、エレベータ・エスカレータにより段差を解消することなど、移動円滑化を図ることを目標にしている。さらに、一部の路線の駅では、線路への転落事故を防止するためのホームドアの設置が行われており、安全にも配慮がなされている。
かつては小さな駅でも貨物や運転を取り扱うために駅員がおり、小さい駅でも一定以上の規模の駅舎が必要だった。しかし最近は人件費の節約や、維持に費用のかからないもの(メンテナンスフリー)を優先するような経営姿勢により、乗降客が非常に少ない場合は、地方を中心に無人駅化される例が多く見られるようになった。かつての駅舎が撤去され、待合室のみ、出札小屋のみ、あるいは建物が何もない駅なども出てきた。一方、都心部では駅に人が集まることを利用した駅ビルや、自由通路を兼ねる橋上駅舎などが増えている。
駅の利用人員は通常、改札を通過した人員数で表され、乗車のみを集計した「乗車人員」または降車も合算した「乗降人員」が用いられる。日本においては、JRでは前者、その他の事業者では後者が主に用いられている。
この数字には直通運転により事業者をまたがる場合も集計される一方、同一事業者間での乗り継ぎは考慮されないなど、感覚的な駅の利用者数とは必ずしも一致しない。
建築基準法には「駅舎」の用語はないが、同法2条でこの法律が適用される「建築物」から除外されるものとして「鉄道及び軌道の線路敷地内の運転保安に関する施設並びに跨線橋、プラットホームの上屋、貯蔵槽その他これらに類する施設」があげられている。したがって、プラットホームに接する出改札施設、駅事務室などは同法の適用を受けないとされる。橋上駅や地下駅の階段や通路も同様である。ただし、駅施設と一体になったいわゆる「駅ビル」の商業施設、一般居室ならびに避難設備は構造を含め建築基準法の適用を受ける。詳細の運用は特定行政庁により異なる。また、同法40条の規定により地方自治体が条例で規制を付加することができるので、安全やユニバーサルデザインの観点からこれを定めるところがある。また、都心部における土地の有効利用の観点から鉄道を含めた高架工作物の敷地内では、建築基準法の道路斜線、日影規制など集団規定の一部の適用が除外されることとなっている。
など(*は新駅舎への移行または廃線・廃駅により現在駅舎として使用していないもの) | [
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"text": "日本の鉄道駅(にほんのてつどうえき)は、日本における鉄道の駅について記述する。",
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"text": "日本では駅員が配置されている鉄道駅については乗車券等や入場券を持たないと乗降場に立ち入ることができないようになっているのが一般的である。駅員が乗車券を検査・回収する出入口を改札口と呼ぶ。現在では都市部を中心に、乗車券の自動販売機(自動券売機)や自動改札機が多く用いられている。",
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"text": "また、かつての日本国有鉄道(国鉄)には仮乗降場という施設が存在し旅客の乗降を扱っていたが、こちらは正規の鉄道駅ではなく各地方管理局の権限で設けられた乗降のための施設で、主に北海道内に設置されていた。仮乗降場は1987年の国鉄分割民営化までに所属する路線そのものの廃止や正式な駅への格上げによって姿を消した。",
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"text": "日本における扱う貨客や運営形態、構造などは、概ね以下のように分類される。以下は基本的に旧日本国有鉄道の定義に準拠する。",
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"text": "旅客と貨物の双方を扱う機能を有しているものを指す。営業内容に小荷物の取扱が含まれることもあるが、国鉄では荷物列車と共に1986年(昭和61年)11月1日の白紙ダイヤ改正をもって廃止されており、JR各社にも引き継がれてはいない。",
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"text": "明治時代の鉄道開業当初の主要駅は、旅客も貨物も扱う一般駅として開業したところが多いが、その後明治中期以降の貨物の取扱い数の増加によって、大都市ターミナル駅では貨物駅を分離させたケースが散見される(例・JR大阪駅と梅田貨物駅)。",
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"text": "一方、路線中間にある駅では、1970年代以降の貨物輸送の低迷による合理化で、1984年に貨物列車の運行形態が車扱貨物からコンテナ列車主体に転換されて貨物取り扱い駅が整理され、一般駅は大幅に減少した。現状残っている一般駅は、ほとんどがコンテナの取り扱い拠点を併設していたり、石油類の発着拠点(製油所、油槽所)に接続する駅である。",
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"text": "なお、品川駅や名古屋駅などのように貨物設備が無く一見すると旅客駅のようなものや(品川は1994年まで貨物扱いがあった)、仙台貨物ターミナル駅や東京貨物ターミナル駅などのように旅客設備が無く貨物駅のように見える一般駅(元々は貨物駅だが、いずれも国鉄末期の1986年に形式上旅客の取り扱いを開始し、旅客会社も継承)も存在する。",
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"text": "旅客が乗降するための駅。一般的に「駅」というと、旅客を扱う旅客駅あるいは一般駅を指す。",
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"text": "貨物を積み降ろしするための駅。俗に言う「貨物基地」。貨物列車のみが停車し、一般客は乗降できない。列車の組成を行う操車場(ヤード)もこの貨物駅の一種にあたる。拠点となる貨物駅には「○○貨物ターミナル駅」のような名称がつけられているものも多い。また鉄道輸送の速達化によって、E&S(着発線荷役)方式という新技術も導入されているものや、貨物列車の発着が無いオフレールステーションとなっているものもある。",
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"text": "駅員が配置されている鉄道駅のこと。運営形態により、更に下記の3つに分類することができる。",
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"text": "鉄道会社の正規社員が駅業務を行う駅のこと。駅の要員規模にもよるが、駅長・副駅長・助役(JR西日本は“係長”も存在)・一般社員全てが配置されている駅、駅長+一般駅員、一般駅員のみ配置の駅も存在する。また委託駅や無人駅などを管理している駅も多く存在する。",
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},
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"text": "鉄道会社の関連会社(ステーションサービスなど)等に、運転取り扱いを除く全ての業務を委託している駅。利用者にとって直営駅と大差はない。近年は駅ナカ商業施設や車両・駅舎清掃などの駅周辺付帯事業を運営する子会社に駅業務を委託する場合もある。",
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},
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"text": "業務委託駅の駅員は、鉄道会社の制服を着用している場合と、委託先の制服を着用している場合がある。",
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"text": "JRと他社私鉄や地下鉄との共同使用駅の一部では、他社側に駅業務を委託している駅がある。このような駅の場合、JRの乗車券類の発売に制限が生じる場合がある。",
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},
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"text": "なお、JR以外にも駅業務を関連会社に委託している鉄道会社が増えてきている。",
"title": "駅の分類"
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"text": "一般的に委託駅と言うとこの形式を示すことが多い。業務委託駅と区別するため、「簡託(駅)」「簡委」と通称されることもある。乗車券類の発売(出札業務)が、鉄道会社から市町村・農協・駅前商店・個人などに委託された駅をいう。",
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},
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"text": "基本的に、簡易委託駅の駅員は乗車券類の発売など、窓口の出札業務だけを行う。このため、集札及び改札などの業務は、その駅に停車する列車の乗務員(車掌もしくはワンマンの場合は運転士)が行う。ただし、小浜線の美浜駅や、芸備線の備後庄原駅などのように、簡易委託駅でも駅で改札業務を行う駅も存在する。",
"title": "駅の分類"
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"text": "形態的には駅舎内で乗車券類を発売する駅と、受託者の自宅や商店などで発売する駅がある。",
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"text": "駅舎内で委託している場合でも、委託駅員が直接客扱いを行うことはなく、窓口で発売される乗車券類も、原則として近距離乗車券や回数券等に限られるなど制約がある。ただし、JR北海道・JR東日本・JR西日本・JR九州管内においては、子会社や市町村などの公益団体、一般企業への委託を中心とした一部の簡易委託駅で委託駅員が集改札や精算を行っているケースもみられるので、一概には言えなくなっている。また、市町村・企業委託などの場合は全国の乗車券・指定券を販売できる契約を結ぶ例もある。簡易委託駅の委託駅員は市販の事務服などの私服や委託企業の制服で勤務しているケースが多い。",
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"text": "受託者側に発売所を置いている場合は、駅舎があっても駅業務には使用されず、外見上には無人駅と変わりがない。また、国鉄時代に簡易委託化される場合は官報または国鉄により公示されていた。公示は単に「無人駅化」であるが、この意味は国鉄職員を配置しないことであり、委託者についてはこの限りではない。",
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"text": "なお、営業時間が24時間でない駅もあるため、高山本線や太多線のように夜間にワンマン列車を運転する路線については、回収ボックスに入れる形式となっている。上記路線の他にも、JR東海管内の東海道本線・中央本線以外の路線では閉鎖時間は車掌が集札を行っている。",
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"text": "簡易委託駅の売上金は、決められた日に管理駅へ納入することになっている。切符販売委託料は各会社ごとに決められており、JR東日本の場合は1枚につき額面金額の5%(ただし定期券は1.8%)となっている。JR西日本では常備券の束が1冊11枚綴りになっており、10枚分の値段で管理駅から購入する。11枚売り上げの内、1枚分が受託者の収入となる。また、市町村委託でJR東海と同様にジェイアール西日本交通サービス等のJR西日本の関連会社や地元の旅行会社・タクシー会社に再委託する場合はマルス端末やPOS端末が設置されたり、指定券の販売をマルス端末または料金専用補充券で行う場合もある。また、市町村やNPO法人などへの委託の場合、券売機やICカードチャージ機の設置で切符販売を取りやめても、券売機やチャージ機の売り上げから受託者が販売手数料を受け取る形で簡易委託扱いを継続している例がある。",
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"text": "駅員が常駐していない駅のこと。「駅員無配置駅」とも呼ばれる。",
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"text": "運営会社より所定の独自裁量権限を与えられている駅。駅長が最高権限を持つ。管理下にある駅(被管理駅)に社員をラッシュ時のみ派遣するといった人事権の一部も認められていることが多い。また近隣の業務委託駅・簡易委託駅の指導や被管理駅・無人駅の整備なども行う。なお、JR九州では業務体制見直しに伴い、無人駅整備に限れば、一部地域で、直営駅ではなく鉄道事業部工務センター担当となっている。",
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"text": "乗降客の多い駅が管理駅と思われがちだが、実際の分布を見ると乗降人口よりも鉄道施設の充実度が重視されている傾向にある。例えば兵庫県の明石駅は明石市の中心部にあり、隣の西明石駅より1万5千人以上も多くの乗降客があるが、西明石駅傘下となっている(ただし地区駅として駅長を配置)。",
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"text": "JR東日本の場合、管理駅を地区ごとにまとめ、その中で重要な駅を地区駅とし、その地区駅の駅長は「地区駅長」を兼務する。例えばJR東日本仙台支社古川地区の地区駅長は古川駅長が兼務し、石巻駅・小牛田駅・くりこま高原駅を統括している。各地区ごとに地区指導センター、地区センター、サポートセンター等の後方支援業務を中心に行う部署を設置している支社もある。",
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"text": "JR東日本新潟支社のように周辺駅管理業務を地区駅に集約し、地区駅以外の直営駅は自駅単独管理となっているケースもある。例えば酒田地区は酒田駅と鶴岡駅が直営駅としてあるが、鶴岡駅は自駅のみ管理し、その他の無人駅・簡易委託駅・業務委託駅の管理はすべて地区駅である酒田駅が管理駅として行っている。",
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"text": "なお、会社ごとで用語・体制が異なるためか、JR西日本の場合は、JR東日本での「地区駅」に相当する駅(鉄道部制の線区・区間でも管理駅が複数ある場合もあり)を「管理駅」とし、その傘下にある拠点駅を「地区駅」として駅長(部内的には管理駅の助役)を配置して、管理業務を分担している。",
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"text": "管理駅より限定された裁量権限を与えられている駅。直営駅では助役(複数の場合は筆頭助役)が最高権限を持ち、駅長の肩書きを与えられている場合もある。しかしその裁量範囲は管理駅に委ねられており、重要な決裁は管理駅の駅長が行なう場合が多い。委託駅・無人駅では管理駅長がそのまま兼任したり、管理駅の中で担当助役が任命されているようである。",
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"text": "国土交通省により2010年までに、乗降客5000人以上の駅で段差が5m以上ある場合、エレベータ・エスカレータにより段差を解消することなど、移動円滑化を図ることを目標にしている。さらに、一部の路線の駅では、線路への転落事故を防止するためのホームドアの設置が行われており、安全にも配慮がなされている。",
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"text": "かつては小さな駅でも貨物や運転を取り扱うために駅員がおり、小さい駅でも一定以上の規模の駅舎が必要だった。しかし最近は人件費の節約や、維持に費用のかからないもの(メンテナンスフリー)を優先するような経営姿勢により、乗降客が非常に少ない場合は、地方を中心に無人駅化される例が多く見られるようになった。かつての駅舎が撤去され、待合室のみ、出札小屋のみ、あるいは建物が何もない駅なども出てきた。一方、都心部では駅に人が集まることを利用した駅ビルや、自由通路を兼ねる橋上駅舎などが増えている。",
"title": "鉄道駅の現在"
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"text": "駅の利用人員は通常、改札を通過した人員数で表され、乗車のみを集計した「乗車人員」または降車も合算した「乗降人員」が用いられる。日本においては、JRでは前者、その他の事業者では後者が主に用いられている。",
"title": "利用人員"
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"text": "この数字には直通運転により事業者をまたがる場合も集計される一方、同一事業者間での乗り継ぎは考慮されないなど、感覚的な駅の利用者数とは必ずしも一致しない。",
"title": "利用人員"
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"text": "建築基準法には「駅舎」の用語はないが、同法2条でこの法律が適用される「建築物」から除外されるものとして「鉄道及び軌道の線路敷地内の運転保安に関する施設並びに跨線橋、プラットホームの上屋、貯蔵槽その他これらに類する施設」があげられている。したがって、プラットホームに接する出改札施設、駅事務室などは同法の適用を受けないとされる。橋上駅や地下駅の階段や通路も同様である。ただし、駅施設と一体になったいわゆる「駅ビル」の商業施設、一般居室ならびに避難設備は構造を含め建築基準法の適用を受ける。詳細の運用は特定行政庁により異なる。また、同法40条の規定により地方自治体が条例で規制を付加することができるので、安全やユニバーサルデザインの観点からこれを定めるところがある。また、都心部における土地の有効利用の観点から鉄道を含めた高架工作物の敷地内では、建築基準法の道路斜線、日影規制など集団規定の一部の適用が除外されることとなっている。",
"title": "建築基準法と駅舎"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "など(*は新駅舎への移行または廃線・廃駅により現在駅舎として使用していないもの)",
"title": "特徴的な駅舎"
}
] | 日本の鉄道駅(にほんのてつどうえき)は、日本における鉄道の駅について記述する。 日本では駅員が配置されている鉄道駅については乗車券等や入場券を持たないと乗降場に立ち入ることができないようになっているのが一般的である。駅員が乗車券を検査・回収する出入口を改札口と呼ぶ。現在では都市部を中心に、乗車券の自動販売機(自動券売機)や自動改札機が多く用いられている。 また、かつての日本国有鉄道(国鉄)には仮乗降場という施設が存在し旅客の乗降を扱っていたが、こちらは正規の鉄道駅ではなく各地方管理局の権限で設けられた乗降のための施設で、主に北海道内に設置されていた。仮乗降場は1987年の国鉄分割民営化までに所属する路線そのものの廃止や正式な駅への格上げによって姿を消した。 | {{複数の問題
|出典の明記=2016年7月
|独自研究=2016年7月
}}
[[ファイル:Tokyo-STA Marunouchi-Entrance 2023.jpg|thumb|300px|right|[[東京駅]](丸の内側)]]
'''日本の鉄道駅'''(にほんのてつどうえき)は、[[日本]]における鉄道の駅について記述する。
日本では[[駅員]]が配置されている[[鉄道駅]]については[[乗車券]]等や[[入場券#日本の鉄道駅の入場券|入場券]]を持たないと乗降場に立ち入ることが出来ないようになっているのが一般的である。駅員が乗車券を検査・回収する出入口を[[改札|改札口]]と呼ぶ。現在では都市部を中心に、乗車券の[[自動販売機]]([[自動券売機]])や[[自動改札機]]が多く用いられている。
また、かつての[[日本国有鉄道]](国鉄)には[[仮乗降場]]という施設が存在し旅客の乗降を扱っていたが、こちらは正規の鉄道駅ではなく各地方管理局の権限で設けられた乗降のための施設で、主に[[北海道]]内に設置されていた。仮乗降場は[[1987年]]の[[国鉄分割民営化]]までに所属する路線そのものの[[廃線|廃止]]や正式な駅への格上げによって姿を消した。
== 駅の分類 ==
日本における扱う貨客や運営形態、構造などは、概ね以下のように分類される。以下は基本的に旧日本国有鉄道の定義に準拠する。
=== 扱う対象による分類 ===
==== 一般駅 ====
旅客と貨物双方を扱う機能を有しているものを指す。営業内容に[[日本国有鉄道の荷物運送|小荷物]]取扱が含まれることもあるが、国鉄では[[荷物列車]]と共に[[1986年]](昭和61年)[[1986年11月1日国鉄ダイヤ改正|11月1日の白紙ダイヤ改正]]をもって廃止されており、JR各社にも引継がれてはいない。
[[明治|明治時代]]の鉄道開業当初の主要駅は、旅客も貨物も扱う一般駅として開業したところが多いが、その後明治中期以降の貨物取扱数増加によって、大都市[[ターミナル駅]]では貨物駅を分離させたケースが散見される(例・JR[[大阪駅]]と[[梅田信号場|梅田貨物駅]])。
一方、路線中間にある駅では、1970年代以降の貨物輸送の低迷による合理化で、1984年に[[貨物列車]]の運行形態が[[車扱貨物]]からコンテナ列車主体に転換されて貨物取扱駅が整理され、一般駅は大幅に減少した。現状残っている一般駅は、殆どがコンテナ取扱拠点を併設していたり、石油類の発着拠点(製油所、油槽所)に接続する駅である
なお、[[品川駅]]や[[名古屋駅]]などのように貨物設備が無く一見すると旅客駅のようなものや(品川は1994年まで貨物扱いがあった)、[[仙台貨物ターミナル駅]]や[[東京貨物ターミナル駅]]などのように旅客設備が無く貨物駅のように見える一般駅(元々は貨物駅だが、いずれも国鉄末期の1986年に'''形式上'''旅客取扱を開始し、旅客会社も継承)も存在する。
; 主な一般駅
{{div col|colwidth=15em}}
* [[滝川駅]]
* [[東室蘭駅]]
* [[五稜郭駅|五稜郭駅・函館貨物駅]]
* [[新富士駅 (北海道)|新富士駅・釧路貨物駅]]
* [[東青森駅]]
* [[弘前駅]]
* [[大館駅]]
* [[横手駅]]
* [[郡山駅 (福島県)|郡山駅]]
* [[東福島駅]]
* [[小名浜駅]]
* [[土浦駅]]
* [[倉賀野駅]]
* [[高崎駅]]
* [[横浜羽沢駅]]
* [[長津田駅]]
* [[水戸駅]]
* [[黒井駅 (新潟県)|黒井駅]]
* [[青海駅 (新潟県)|青海駅]]
* [[竜王駅]]
* [[南松本駅]]
* [[北長野駅]]
* [[大府駅]]
* [[名古屋駅]]
* [[沼津駅]]
* [[四日市駅]]
* [[安治川口駅]]
* [[米子駅]]
* [[伯耆大山駅]]
* [[東松江駅 (島根県)|東松江駅]]
* [[東福山駅]]
* [[大竹駅]]
* [[新南陽駅]]
* [[下関駅]]
* [[新居浜駅]]
* [[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]
* [[鍋島駅]]
* [[有田駅]]
* [[西大分駅]]
* [[熊本駅]]
* [[延岡駅]]
* [[佐土原駅]]
{{div col end}}
==== 旅客駅 ====
{{main|鉄道駅#旅客駅}}
旅客が乗降するための駅。一般的に「駅」というと、旅客を扱う旅客駅あるいは一般駅を指す。
==== 貨物駅 ====
{{main|貨物駅}}
[[鉄道貨物|貨物]]を積み降ろしするための駅。俗に言う「貨物基地」。[[貨物列車]]のみが停車し、一般客は乗降出来ない。列車の組成を行う[[操車場 (鉄道)|操車場]](ヤード)もこの貨物駅の一種にあたる。拠点となる貨物駅には「○○貨物ターミナル駅」のような名称がつけられているものも多い。また鉄道輸送の速達化によって、[[着発線荷役方式|E&S(着発線荷役)方式]]という新技術も導入されているものや、貨物列車の発着が無い[[オフレールステーション]]となっているものもある。
; 主な貨物駅
{{div col|colwidth=20em}}
* [[北旭川駅]]
* [[札幌貨物ターミナル駅]]
* [[八戸貨物駅]]
* [[秋田貨物駅]]
* [[盛岡貨物ターミナル駅]]
* [[酒田港駅]]
* [[郡山貨物ターミナル駅]]
* [[宇都宮貨物ターミナル駅]]
* [[熊谷貨物ターミナル駅]]
* [[越谷貨物ターミナル駅]]
* [[新座貨物ターミナル駅]]
* [[隅田川駅]]
* [[梶ヶ谷貨物ターミナル駅]]
* [[川崎貨物駅]]
* [[千葉貨物駅]]
* [[京葉久保田駅]]
* [[横浜本牧駅]]
* [[新潟貨物ターミナル駅]]
* [[南長岡駅]]
* [[富山貨物駅]]
* [[金沢貨物ターミナル駅]]
* [[南福井駅]]
* [[敦賀港駅]]
* [[静岡貨物駅]]
* [[西浜松駅]]
* [[岐阜貨物ターミナル駅]]
* [[名古屋貨物ターミナル駅]]
* [[京都貨物駅]]
* [[大阪貨物ターミナル駅]]
* [[吹田貨物ターミナル駅]]
* [[百済貨物ターミナル駅]]
* [[神戸貨物ターミナル駅]]
* [[姫路貨物駅]]
* [[岡山貨物ターミナル駅]]
* [[広島貨物ターミナル駅]]
* [[高松貨物ターミナル駅]]
* [[北九州貨物ターミナル駅]]
* [[福岡貨物ターミナル駅]]
* [[鳥栖貨物ターミナル駅]]
* [[鹿児島貨物ターミナル駅]]
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=== 駅員の配置の有無による分類 ===
==== 有人駅 ====
[[駅員]]が配置されている鉄道駅のこと。運営形態により、更に下記の3つに分類することが出来る。
===== 直営駅 =====
鉄道会社の正規社員が駅業務を行う駅のこと。駅の要員規模にもよるが、[[駅長]]・[[副駅長]]・[[助役 (鉄道)|助役]](JR西日本は“係長”も存在)・一般社員全てが配置されている駅、駅長+一般駅員、一般駅員のみ配置の駅も存在する。また委託駅や無人駅などを管理している駅も多く存在する。
===== 業務委託駅 =====
鉄道会社の関連会社([[ステーションサービス]]など)等に、運転取扱を除く全ての業務を委託している駅。利用者にとって直営駅と大差はない。近年は[[駅ナカ]]商業施設や車両・駅舎清掃などの駅周辺付帯事業を運営する子会社に駅業務を委託する場合もある。
業務委託駅の駅員は、鉄道会社の制服を着用している場合と、委託先の制服を着用している場合がある。
* [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)では、[[子会社]]の[[北海道ジェイ・アール・サービスネット]]に業務委託している。男性社員の制服はJR北海道のものだが、女性社員の制服は直営駅と異なる。
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)では、[[子会社]]の[[JR東日本ステーションサービス]](JESS)・[[JR中央線コミュニティデザイン]]・[[千葉ステーションビル]]・[[JR東日本東北総合サービス]](TSS)・[[JR東日本新潟シティクリエイト]](JENIC)・[[ステーションビルMIDORI]]に業務委託している。それぞれ各社独自の制服を着用している。企業内ではエリアごとに制帽の有無もある。
* [[東海旅客鉄道]](JR東海)では、子会社の[[東海交通事業]]に業務委託している駅があり<ref group="注釈">かつては簡易委託も行っていたが、2011年10月を以って終了</ref>、JR東海が貸与する制服を着用している(名札の取付方が違うので、見分けはつく)。また[[東海旅客鉄道新幹線鉄道事業本部|新幹線鉄道事業本部]]エリアでは同じく子会社の[[新幹線メンテナンス東海]]、[[東海旅客鉄道関西支社|関西支社]]エリアでは[[関西新幹線サービック]]にそれぞれ業務委託している。
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)では、[[JR西日本交通サービス]]・[[JR西日本中国交通サービス]]・[[JR西日本金沢メンテック]]に業務委託している駅があり、これらはそれぞれ各社独自の制服を着用している。
* [[九州旅客鉄道]](JR九州)では、[[JR九州サービスサポート]]に業務委託しているが、JR九州の制服を着用して勤務している。
JRと他社[[私鉄]]や[[地下鉄]]との[[共同使用駅]]の一部では、他社側に駅業務を委託している駅がある。このような駅の場合、JRの乗車券類の発売に制限が生じる場合がある。
なお、JR以外にも駅業務を関連会社に委託している鉄道会社が増えてきている。
===== 簡易委託駅 =====
一般的に'''委託駅'''と言うとこの形式を示すことが多い。業務委託駅と区別するため、「'''簡託(駅)'''」「'''簡委'''」と通称されることもある。乗車券類の発売([[出札|出札業務]])が、鉄道会社から[[市町村]]・[[農業協同組合|農協]]・駅前商店・個人などに委託された駅をいう。
基本的に、簡易委託駅の駅員は乗車券類発売など、窓口の出札業務だけを行う。このため、[[集札]]及び[[改札]]などの業務は、その駅に停車する列車の乗務員(車掌若しくはワンマンの場合は運転士)が行う。ただし、[[小浜線]]の[[美浜駅]]や、[[芸備線]]の[[備後庄原駅]]などのように、簡易委託駅でも駅で改札業務を行う駅も存在する。
形態的には駅舎内で乗車券類を発売する駅と、受託者の自宅や商店などで発売する駅がある。
駅舎内で委託している場合でも、委託駅員が直接客扱いを行うことは無く、窓口で発売される乗車券類も、原則として近距離乗車券や回数券等に限られるなど制約がある。ただし、JR北海道・JR東日本・JR西日本・JR九州管内においては、子会社や市町村などの公益団体、一般企業への委託を中心とした一部の簡易委託駅で委託駅員が集改札や精算を行っているケースもみられるので、一概には言えなくなっている。また、市町村・企業委託などの場合は全国の乗車券・指定券を販売できる契約を結ぶ例もある。簡易委託駅の委託駅員は市販の事務服などの私服や委託企業の制服で勤務しているケースが多い。
受託者側に発売所を置いている場合は、駅舎があっても駅業務には使用されず、外見上には無人駅と変わりがない。また、国鉄時代に簡易委託化される場合は[[官報]]または国鉄により公示されていた。公示は単に「'''無人駅化'''」であるが、この意味は'''国鉄職員を配置しないこと'''であり、委託者についてはこの限りではない。
なお、営業時間が24時間で無い駅もあるため、[[高山本線]]や[[太多線]]のように夜間にワンマン列車を運転する路線については、回収ボックスに入れる形式となっている。上記路線の他にも、JR東海管内の[[東海道本線]]・[[中央本線]]以外の路線では閉鎖時間は車掌が集札を行っている。
簡易委託駅の売上金は、決められた日に管理駅へ納入することになっている。切符販売委託料は各会社ごとに決められており、JR東日本の場合は1枚につき額面金額の5%(ただし定期券は1.8%)となっている。JR西日本では常備券の束が1冊11枚綴りになっており、10枚分の値段で管理駅から購入する。11枚売り上げの内、1枚分が受託者の収入となる。また、市町村委託でJR東海と同様にジェイアール西日本交通サービス等のJR西日本の関連会社や地元の旅行会社・タクシー会社に再委託する場合はマルス端末やPOS端末が設置されたり、指定券の販売をマルス端末または料金専用補充券で行う場合もある。また、市町村やNPO法人などへの委託の場合、券売機やICカードチャージ機の設置で切符販売を取りやめても、券売機やチャージ機の売上から受託者が販売手数料を受取る形で簡易委託扱いを継続している例がある。
==== 無人駅 ====
{{main|無人駅}}
駅員が常駐していない駅のこと。「'''駅員無配置駅'''」とも呼ばれる。
=== 駅の権限による分類 ===
==== 管理駅 ====
運営会社より所定の独自裁量権限を与えられている駅。駅長が最高権限を持つ。管理下にある駅(被管理駅)に社員をラッシュ時のみ派遣するといった人事権の一部も認められていることが多い。また近隣の業務委託駅・簡易委託駅の指導や被管理駅・無人駅の整備なども行う。なお、JR九州では業務体制見直しに伴い、無人駅整備に限れば、一部地域で、直営駅では無く鉄道事業部工務センター担当となっている<ref group="注釈">工務センター社員が保線・信号等の作業と併せ無人駅管理を行う省力化施策である。</ref>。
乗降客の多い駅が管理駅と思われがちだが、実際の分布を見ると乗降人口よりも鉄道施設の充実度が重視されている傾向にある。例えば[[兵庫県]]の[[明石駅]]は[[明石市]]の中心部にあり、隣の[[西明石駅]]より1万5千人以上も多くの乗降客があるが、西明石駅傘下となっている(ただし地区駅として駅長を配置)。
また配置人員が少ない管理駅では、近隣の管理駅からの助勤が頻繁に行われている。
==== 地区駅 ====
JR東日本の場合、管理駅を地区ごとにまとめ、その中で重要な駅を地区駅とし、その地区駅の駅長は「地区駅長」を兼務する。例えば[[東日本旅客鉄道仙台支社|JR東日本仙台支社]]古川地区の地区駅長は[[古川駅]]長が兼務し、[[石巻駅]]・[[小牛田駅]]・[[くりこま高原駅]]を統括している。各地区ごとに地区指導センター、地区センター、サポートセンター等の後方支援業務を中心に行う部署を設置している支社もある。
[[東日本旅客鉄道新潟支社|JR東日本新潟支社]]のように周辺駅管理業務を地区駅に集約し、地区駅以外の直営駅は自駅単独管理となっているケースもある。例えば酒田地区は[[酒田駅]]と[[鶴岡駅]]が直営駅としてあるが、鶴岡駅は自駅のみ管理し、その他の無人駅・簡易委託駅・業務委託駅の管理はすべて地区駅である酒田駅が管理駅として行っている。
なお、会社ごとで用語・体制が異なるためか、JR西日本の場合は、JR東日本での「地区駅」に相当する駅(鉄道部制の線区・区間でも管理駅が複数ある場合もあり)を「管理駅」とし、その傘下にある拠点駅を「地区駅」として駅長(部内的には管理駅の助役)を配置して、管理業務を分担している<ref>[[鉄道ジャーナル]]連載『日本縦断各駅停車』でのJR西日本各駅の記事</ref>。
==== 被管理駅 ====
管理駅より限定された裁量権限を与えられている駅。直営駅では助役(複数の場合は筆頭助役)が最高権限を持ち、駅長の肩書きを与えられている場合もある。しかしその裁量範囲は管理駅に委ねられており、重要な決裁は管理駅の駅長が行なう場合が多い。委託駅・無人駅では管理駅長がそのまま兼任したり、管理駅の中で担当助役が任命されているようである。
なお、管理駅から駅員が派遣されている直営駅のことを'''派遣駅'''という。派遣駅は基本的には前述の通りだが、実際には派遣駅在勤の駅員が配置されていることもある。この場合、所属は管理駅だが配置箇所は派遣駅となっている。なお派遣駅在勤の駅員は配置人員が少ないため、日常的に管理駅からの助勤が行われている。
=== 駅の設置期間による分類 ===
==== 常設駅 ====
設置された後、原則として通年営業を行う駅。
==== 臨時駅 ====
特定の時期にのみ営業をする駅、あるいはイベントなどで一時的に設置されて営業を行う駅。[[臨時駅]]も参照。
====休止駅====
駅自体は存在するが、何らかの理由で列車が止まらない駅。[[休止駅]]も参照。
== 所属線 ==
{{出典の明記|date=2018年2月|section=1}}
[[JR]]([[日本国有鉄道|国鉄]])の鉄道駅は、それぞれに対し1つ所属線が定められている。複数の路線が集まる駅でも同様で、所属線以外の路線が乗入れる形になっている。基本的に駅の設置と同時に開業した路線が所属線となるため、隣の駅でも所属線が異なる場合がある。
また、元々の所属線が他事業者へ転換となった場合、その駅の所属線は残存した接続路線に変更される。これは特に[[整備新幹線]]の並行在来線が経営分離されることで発生することが多い。以下に例を示す。
* [[青森駅]]:東北本線→[[奥羽本線]]([[東北新幹線]]延伸による東北本線八戸駅 - 青森駅間の[[青い森鉄道]]への転換のため)
* [[野辺地駅]]:東北本線→[[大湊線]](上記と同じ理由)
* [[八戸駅]]:東北本線→[[八戸線]](上記と同じ理由)
* [[好摩駅]]:東北本線→[[花輪線]](東北新幹線延伸による東北本線[[盛岡駅]] - [[目時駅]]間の[[IGRいわて銀河鉄道]]への転換のため)
* [[釜石駅]]:[[山田線]]→[[釜石線]]([[三陸鉄道リアス線|山田線]][[宮古駅]] - 釜石駅間の[[三陸鉄道]]への転換のため)
* [[今泉駅]]:[[山形鉄道フラワー長井線|長井線]]→[[米坂線]](長井線の[[山形鉄道]]への転換のため)
* [[小諸駅]]:[[信越本線]]→[[小海線]]([[北陸新幹線]]部分開業による信越本線[[軽井沢駅]] - [[篠ノ井駅]]間の[[しなの鉄道]]への転換のため)
* [[豊野駅]]:信越本線→[[飯山線]](北陸新幹線延伸による信越本線[[長野駅]] - [[妙高高原駅]]間のしなの鉄道への転換のため)
* [[糸魚川駅]]:[[北陸本線]]→[[大糸線]](北陸新幹線延伸による北陸本線[[市振駅]] - [[直江津駅]]間の[[えちごトキめき鉄道]]への転換のため)
* [[富山駅]]:北陸本線→[[高山本線]](北陸新幹線延伸による北陸本線[[倶利伽羅駅]] - 市振駅間の[[あいの風とやま鉄道]]への転換のため)
* [[高岡駅]]:北陸本線→[[城端線]](上記と同じ理由)
* [[津幡駅]]:北陸本線→[[七尾線]](北陸新幹線延伸による北陸本線[[金沢駅]] - 倶利伽羅駅間の[[IRいしかわ鉄道]]への転換のため)
* [[紀伊中ノ島駅]]:[[和歌山線]]→[[阪和線]](和歌山線が[[田井ノ瀬駅]] - 紀和駅の経路から田井ノ瀬駅 - [[和歌山駅]]の経路に変更されたため)<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=365,369}}</ref>
* [[紀和駅]]:和歌山線→[[紀勢本線]](上記と同じ理由)<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=365,381}}</ref>
* [[和歌山市駅]]:和歌山線→紀勢本線(上記と同じ理由)<ref>{{Cite book|和書|author=石野哲(編)|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=382}}</ref>
* [[若井駅]]:[[土佐くろしお鉄道中村線|中村線]]→[[予土線]](中村線の[[土佐くろしお鉄道]]への転換のため)
* [[伊万里駅]]:[[松浦鉄道西九州線|松浦線]]→[[筑肥線]](松浦線の[[松浦鉄道]]への転換のため)
* [[志布志駅]]:志布志線→[[日南線]](志布志線廃止のため)
== 鉄道駅の現在 ==
{{右|
[[画像:JR Hakata City 2011 Jan.jpg|180px|thumb|none|駅ビルを併設した例([[博多駅]])]]
[[画像:20060209 kameda gate.jpg|180px|thumb|none|コンビニエンスストアを有する鉄道駅([[信越本線]][[亀田駅]]内部)]]
}}
駅は、単に列車の乗客を乗降させるという役割に留まらない。[[駅ビル]]を併設したり、ホーム等に[[売店]]・[[飲食店|食堂]]などの店舗を設置したりすることは古くから行われてきた。
駅構内に[[コンビニエンスストア]]や、複数の[[飲食店]]、[[書店]]、衣料品店などの、いわゆる「[[駅ナカ]]」と称したショッピングゾーンが設置されることがある。これらに加え、[[コンサート]]や展示会等のイベントが行われたりするなど、鉄道利用者の生活支援や文化活動なども色々と行われている。
また、2000年に制定された[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律]](交通バリアフリー法。2006年に[[高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律]]へ移行)により、高齢者や[[障害者]]に使いやすい環境を整えることが求められている。
これにより、[[エスカレータ]]や[[エレベーター|エレベータ]]、障害者や[[オストメイト]]に対応した[[便所|トイレ]]の設置が広まり、障害のある人にもより使いやすいようになりつつある。
[[国土交通省]]により2010年までに、乗降客5000人以上の駅で段差が5m以上ある場合、エレベータ・エスカレータにより段差を解消することなど、移動円滑化を図ることを目標にしている。さらに、一部の路線の駅では、線路への転落事故を防止するための[[ホームドア]]の設置が行われており、安全にも配慮がなされている。
かつては小さな駅でも貨物や運転を取扱うために駅員がおり、小さい駅でも一定以上の規模の駅舎が必要だった。しかし最近は人件費節約や、維持に費用の掛からないもの(メンテナンスフリー)を優先するような経営姿勢により、乗降客が非常に少ない場合は、[[地方]]を中心に[[無人駅]]化される例が多く見られるようになった。かつての駅舎が撤去され、待合室のみ、出札小屋のみ、あるいは建物が何も無い駅なども出てきた。一方、都心部では駅に人が集まることを利用した[[駅ビル]]や、自由通路を兼ねる[[橋上駅舎]]などが増えている。
== 利用人員 ==
<!--{{駅別利用客数ランキング}}-->
{{main|乗降人員}}
駅の利用人員は通常、改札を通過した人員数で表され、乗車のみを集計した「乗車人員」または降車も合算した「乗降人員」が用いられる。日本においては、JRでは前者、その他の事業者では後者が主に用いられている。
この数字には[[直通運転]]により事業者をまたがる場合も集計される一方、同一事業者間での乗継は考慮されないなど、感覚的な駅の利用者数とは必ずしも一致しない。
== 建築基準法と駅舎 ==
[[建築基準法]]には「駅舎」の用語はないが、同法2条でこの法律が適用される「建築物」から除外されるものとして「鉄道及び軌道の線路敷地内の運転保安に関する施設並びに跨線橋、プラットホームの上屋、貯蔵槽その他これらに類する施設」が挙げられている。したがって、プラットホームに接する出改札施設、駅事務室などは同法の適用を受けないとされる。橋上駅や地下駅の階段や通路も同様である。ただし、駅施設と一体になったいわゆる「[[駅ビル]]」の商業施設、一般居室ならびに避難設備は構造を含め建築基準法の適用を受ける。詳細の運用は[[特定行政庁]]により異なる。また、同法40条の規定により[[地方公共団体|地方自治体]]が[[条例]]で規制を付加することが出来るので、安全や[[ユニバーサルデザイン]]の観点からこれを定めるところがある。また、都心部における土地の有効利用の観点から鉄道を含めた高架工作物の敷地内では、建築基準法の道路斜線、日影規制など[[集団規定]]の一部の適用が除外されることとなっている。
== 特徴的な駅舎 ==
=== 歴史的な駅舎 ===
* [[汐留駅 (国鉄)|新橋停車場]]*(東京都) - 日本最初の鉄道駅。[[汐留]]再開発に合わせて、古写真や発掘調査を元に日本最初の駅舎が復元された。
* [[長浜駅]]*(滋賀県、[[北陸本線]]) - 1882年3月10日開業当時の駅舎が現存している。日本最古の鉄道駅舎として[[鉄道記念物]]に指定されており、「[[長浜鉄道スクエア|旧長浜駅舎鉄道資料館]]」として公開されている。
* [[亀崎駅]](愛知県、[[武豊線]]) - 1886年3月1日開業当時の駅舎とされ、現存しているだけで無く現在も使用が続けられている。現役駅舎の中で最古であり、木造駅舎としては現存する日本最古の駅舎とされる。
* [[大隅横川駅]]・[[嘉例川駅]]([[明治]]36年、[[九州旅客鉄道|JR九州]]) - 開業当時の木造駅舎が現用されている。
* [[二条駅]]*(明治40年、[[京都鉄道]]→[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]、[[梅小路蒸気機関車館]]→[[京都鉄道博物館]]資料展示館として移築保存)
* [[浜寺公園駅]](明治40年、[[南海電気鉄道]])
**建築家[[辰野金吾]]設計。木造平屋建ての洋風駅舎(辰野が初めて手がけた駅舎)で、私鉄最古の駅舎でもある。
* [[軽井沢駅]]*(明治45年、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]、(旧)軽井沢駅舎記念館として移築保存)
* [[室蘭駅]]*(明治45年、[[北海道旅客鉄道|JR北海道]]、観光案内所、多目的ホールとして保存)
* [[上熊本駅]]*([[大正]]2年、JR九州)
* [[新八日市駅]](大正2年、[[近江鉄道]])
* [[東京駅]]丸ノ内側(大正3年、JR東日本ほか)
** 赤レンガの駅舎は建築家[[辰野金吾]]の代表作の一つ。2012年に、建造当時の姿に「復元」された。
* [[門司港駅]](大正3年、[[重要文化財]]、JR九州) - 駅舎腐食により改築中。
* [[折尾駅]]*(大正5年、JR九州) - 保存か廃棄か地元と協議中。
* [[諏訪ノ森駅]]・[[高師浜駅]](大正8年、南海電気鉄道)
* [[美濃駅]]*(大正12年、[[名古屋鉄道|名鉄]]、廃線廃駅後も保存)
* [[蛸地蔵駅]](大正14年、[[南海電気鉄道]])
* [[栃木駅]]*(昭和3年、JR東日本・[[東武鉄道|東武]]、栃木市総合運動公園付近のスーパーカーミュージアムに移築)
* [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]](昭和5年、JR西日本)
* [[出雲大社前駅]](昭和5年、[[一畑電車]])
* [[大社駅]]*(大正13年、JR西日本、廃線廃駅後も保存)
* [[宇治山田駅]](昭和6年、[[近畿日本鉄道]])
* [[琴平駅]](昭和11年、[[四国旅客鉄道|JR四国]])
* [[熱塩駅]]*(昭和13年、[[日本国有鉄道|国鉄]]、廃線廃駅により現・日中線記念館)
* 旧[[同和鉱業片上鉄道]]の駅舎群*(廃線廃駅、一部は現存)
* [[西岩国駅]]([[1929年]](昭和4年)、現在も使用、[[岩徳線]])
など(*は新駅舎への移行または廃線・廃駅により現在駅舎として使用していないもの)
=== その他 ===
* [[深谷駅]](埼玉県、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]] [[高崎線]])
*: [[東京駅]]を模した新しい[[橋上駅|橋上駅舎]]である。当地は実業家[[渋沢栄一]]の出身地で、渋沢が建設した[[煉瓦|レンガ]]工場があり、多くのレンガを生産していた。東京駅舎でも使われたため、それを記念したデザインになったという。但し橋上駅舎の耐荷重の問題で実際にはレンガ調のタイルが用いられている。
* [[川崎駅]](神奈川県、JR東日本 [[東海道本線|東海道線]]/[[京浜東北線]]/[[南武線]])
*: 駅舎の大半は[[駅ビル]]にて構成されているごく一般的な物。比較的新しい物に見えるが大半の建物はもうじき築40年を迎える。本来は改築すべきだったが当時は国鉄の末期であり資金が無く困難だったため、駅舎の一部分を川崎市に提供し東西自由通路を設置してもらう。駅ビル部分は大規模な耐震工事に加えて増築するなどの大規模な工事を短期間に行ったため業界では有名である。
* [[旧敦賀港駅舎]](福井県)
*: 1999年開催の「[[つるが・きらめき・みなと博21]]」に合わせて「[[欧亜国際連絡列車]]」の発着駅として賑わった時代の[[敦賀港駅]]駅舎を再現したもの。
* [[柏原駅 (兵庫県)|柏原駅]](兵庫県、JR西日本 [[福知山線]])
*: 1990年に[[大阪市]]の[[鶴見緑地]]で開催された「[[国際花と緑の博覧会]]」でJRが敷設したドリームエキスプレスの「山の駅」駅舎を[[柏原町]](現[[丹波市]])の「丹波の森」構想に合致するものとして翌年移建した。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
{{div col|colwidth=15em}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[駅種別]]
* [[廃駅]]
* [[停車場]]
* [[信号場]]
* [[ターミナル駅]]
* [[共同使用駅]]
* [[仮乗降場]]
* [[秘境駅]]
* [[鉄道駅|駅名]]
* [[請願駅]]
* [[民衆駅]]
* [[有効長]]
* [[駅務機器]] <!--(自動改札機・自動券売機・入金機・定期券発行機など)-->
* [[改札]]
* [[みどりの窓口]]
* [[駅スタンプ]]
* [[駅 STATION]]
* [[道の駅]]
* [[駅ナンバリング]]
* [[駅コード]]
* [[出口番号]]
* [[オフレールステーション]]
* [[自動車駅]]
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:にほんのてつとうえき}}
[[Category:日本の鉄道駅|*]] | 2003-03-14T14:38:33Z | 2023-12-19T07:04:05Z | false | false | false | [
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4,019 | 日本の鉄道駅一覧 | 日本の鉄道駅一覧(にっぽんのてつどうえきいちらん)は、日本の鉄道駅を五十音順に並べ、分類したものである。 | [
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4,021 | スティーヴン・ホーキング | スティーヴン・ウィリアム・ホーキング(英: Stephen William Hawking CH CBE FRS FRSA、1942年1月8日 - 2018年3月14日)は、イギリスの理論物理学者である。大英帝国勲章(CBE)受勲、FRS(王立協会フェロー)、FRA(ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツフェロー)。スティーブン・ホーキングとも。
一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1965年にブラックホールの特異点定理を発表し、世界的に有名になった。1971年には「宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生する」とする理論を提唱、1974年には「ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する」とする理論(ホーキング放射)を発表、量子宇宙論という分野を形作ることになった。
また、一般人向けに現代の理論的宇宙論を平易に解説するサイエンス・ライターの才能も持ち合わせており、その著作群が各国で翻訳されており、これでも人々によく知られている(日本語版は『ホーキング、宇宙を語る』など)。
「車椅子の物理学者」としても知られる。1960年代、学生の頃に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症したとされている。ALSは発症から5年程度で死に至る病であると考えられていたが、途中で進行が急に弱まり、発症から50年以上にわたり研究活動を続けた。晩年は意思伝達のためにアイトラッキングによる重度障害者用意思伝達装置を使用し、スピーチや会話はコンピュータプログラムによる合成音声で行っていた 。
一般相対性理論が破綻する特異点の存在を証明した特異点定理をロジャー・ペンローズと共に発表した。
一般相対性理論と量子力学を結びつけた量子重力論を提示している。この帰結として、量子効果によってブラックホールから粒子が逃げ出すというホーキング放射の存在を予想している。
タイムトラベルが不可能であるとする「時間順序保護仮説(英語版)」を提唱し、過去に行くことを許容する閉じた時間線が存在するためには場のエネルギーが無限大でなくてはならないとしている。
父フランク(1905年 - 1986年)、母イゾベル(1915年 - 2013年)の間にオックスフォードで生まれた。両親は経済的には恵まれていなかったものの、父はオックスフォード大学で熱帯医学を学び、母も同大学でPPE(哲学・政治・経済の学際領域)を学んだ。第二次世界大戦の直前、ある医学研究所でフランクが医学研究者として、また同じ場所でイゾベルが秘書として働いていたことで二人は出会った。両親はハイゲイトで暮らしていたが、第二次世界大戦でロンドンは爆撃を受けていたため(ザ・ブリッツ)、おなかの子を安全に産むために母はオックスフォードに疎開して出産した。こうしてスティーヴンが誕生した。スティーヴンにはフィリッパとメアリーという2人の妹ができ、またエドワードという、養子縁組による兄弟もできた。
スティーヴンはバイロン・ハウス・スクールで初等教育を開始した。1950年に父フランクがナショナル・インスティテュート・フォー・メディカル・リサーチの寄生虫学部門の長となると、一家はセント・オールバンズに引っ越した。
スティーヴンはラドレット・スクールに1年通い、1952年からはセント・オールバンズ校(St Albans School)に通った。一家は教育を重視していた。父フランクはスティーヴンを評価の高いウェストミンスター・スクールに入れたがっていたが、当時13歳だったスティーヴンは奨学金のための試験の日に病気になり受験できず、家計の状況は奨学金無しで通わせるのは困難だったので、スティーヴンはそのままセント・オールバンズ校に通いつづけた。ただ、これで良かったこともあり、スティーヴンは仲の良い友人たちとボードゲームをしたり、花火を作ったり、模型飛行機やボートで遊ぶことができたし、またキリスト教やESPについて話し合うことができた。
1958年からは、数学教師ディクラン・タータ(英語版)の助けも借りて、この仲間たちは、時計部品、電話交換機、中古部品などを使って計算機を作った。学校では“アインシュタイン”として知られていたものの、元々は学問的にはさほど優れてはいなかった。
やがて、科学に適性があるところを見せ始め、数学教師のタータに鼓舞されて、スティーヴンは大学で数学を学ぼうと決意した。スティーヴンの父は、数学専攻で卒業した人には職が少ない、ということから、医学を学ぶことを勧めた。父は自分のアルマ・マータ(出身校)であるオックスフォード大学で息子が学ぶことを望んでいた。当時、オックスフォード大学では数学を選択できなかったので、スティーヴンは物理学と化学を学ぶことにした。1959年の試験を受け奨学金を獲得することに成功した。
1959年10月に17歳でオックスフォード大学に入学した。最初の1年半、彼はうんざりさせられていて、孤独だった。というのは、他のほとんどの学生に比べて彼は若く、また大学の教育内容が「ばからしいほど簡単」と思えたからだった。
変化が訪れたのは第2学年と第3学年で、学生の一員になろうと努力するようになり、クラシック音楽とサイエンス・フィクション(SF)に興味を抱いている者たちのグループと交流するようになってからである。また、大学のボート部に参加しようと決意したことも状況を変える効果をもたらした。ボート部では、コックス(英語版)という、漕ぎ手たちのリズムを整える役を務めた。ホーキングはオックスフォードの3年間で約1,000時間勉強したと見積もった。この感心できない学習習慣により最終試験は厳しいものとなり、彼は知識が必要な問題ではなく、理論物理学の問題だけに解答することにした。第一級優等学位は、彼が計画していたケンブリッジ大学の大学院で宇宙論の研究をするための受入条件だった。不安で彼は試験の前日あまり眠れず、最終試験の結果が第一級と第二級のボーダーライン上だったため、オックスフォードの試験官とのviva(口頭試問)が必要になった。
ホーキングは自分が怠惰で気難しい学生と見なされていると懸念した。そのため、計画を説明するようvivaで求められた時、彼は「もしあなた方が私に第一級を与えてくだされば、ケンブリッジに行くでしょう。もし第二級を受ければ、オックスフォードに残りますから、私に第一級をくださると思います」と言った。彼は自分が考えるより高く評価されていた。彼の物理の指導教員だったロバート・バーマンが評したように、試験官は「彼らの多くよりはるかに賢い人物と話していることを認識できるほどに理解力があった」。物理で優等学士学位の第一級を受け、友人とのイラン旅行を終えた後、彼は1962年10月にケンブリッジのトリニティ・ホール(英語版)で大学院の研究を始めた。
ホーキングの博士課程1年目は困難だった。指導教官に、著名なヨークシャー出身の天文学者フレッド・ホイルでなく、現代宇宙論の開祖の一人であるデニス・ウィリアム・シアマ(英語版)が割り当てられたことを知り、初めは失望した。また一般相対性理論を研究するには数学の訓練が足りないことがわかった。運動ニューロン病と診断された後、ホーキングは鬱状態に陥った。主治医は学業を続けるよう助言したが、彼は意味がないと感じた。病気の進行は医師の予想より遅かった。ホーキングは支えなしで歩くのが困難になり、話しぶりはわかりにくくなったが、余命わずか2年という初期診断は杞憂に終わった。シアマに励まされ、彼は研究に戻った。ホーキングは、1964年6月の講演で、フレッド・ホイルと彼の学生ジャヤント・ナーリカーの研究に公に異議を唱えた時から、才気があり生意気であるという名声を築き始めた。
大学院で研究を始めた時、宇宙創生を解き明かす理論であるビッグバンと定常宇宙論について、物理学界では盛んな議論があった。ブラックホールの中央に時空の特異点があるというロジャー・ペンローズの定理に触発され、ホーキングは同じ考えを宇宙全体に応用した。そして、1965年の間、彼はこのトピックについての論文を書いた。ホーキングの論文は1966年に承認された。他にも前向きな動きがあった。ホーキングはケンブリッジのゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの特別研究員の資格を得た。1966年3月に、一般相対性理論と宇宙論の専攻で、応用数学・理論物理学の博士号を得た。そして彼の小論「特異点と時空の幾何学」により、その年の権威あるアダムズ賞を受賞するという最高の栄誉をペンローズと共有した。
2018年3月14日、イギリス東部・ケンブリッジの自宅で死去した。76歳没。葬儀は3月31日、ケンブリッジ大学にあるキリスト教会で行われ、追悼式が6月15日ロンドンのウェストミンスター寺院で執り行われた。博士は火葬され遺灰は、アイザック・ニュートンら著名な科学者の墓の近くに埋葬された。
著書『ホーキング、宇宙を語る』("A Brief History of Time"の日本語版)で「統一理論はそれ自身の存在をもたらすほど説得力があるのだろうか」と問いかけ、「もし完全な理論を発見すれば、それは人間の理性の究極の勝利となるだろう。そのとき我々は神の心を知ることになるはずだから」と述べている。
この点について、El Mundoという新聞のインタビューに対して、ホーキング博士は下記のように回答している。
科学が理解される以前は、神が宇宙を創造したと考えるのが自然であった。しかし、現代では科学がより説得力のある説明をする。私が「神の心を知ることができる」と言ったのは、もし神が存在するならば、神が知っているであろうことをすべて知ることができる、という意味です。私は無神論者である。
2011年5月には、人間の脳について「部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ」と否定的な見解を述べ、改めて宗教界との認識の溝を示した。 しかし、前述のロジャー・ペンローズのように完全には死後の世界を否定しておらず、むしろ肯定的な人間とも仕事をすることはある。それについてホーキングは、「あくまで私の中の主張」と注釈を述べている。 | [
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] | スティーヴン・ウィリアム・ホーキングは、イギリスの理論物理学者である。大英帝国勲章(CBE)受勲、FRS(王立協会フェロー)、FRA(ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツフェロー)。スティーブン・ホーキングとも。 一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1965年にブラックホールの特異点定理を発表し、世界的に有名になった。1971年には「宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生する」とする理論を提唱、1974年には「ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する」とする理論(ホーキング放射)を発表、量子宇宙論という分野を形作ることになった。 また、一般人向けに現代の理論的宇宙論を平易に解説するサイエンス・ライターの才能も持ち合わせており、その著作群が各国で翻訳されており、これでも人々によく知られている(日本語版は『ホーキング、宇宙を語る』など)。 「車椅子の物理学者」としても知られる。1960年代、学生の頃に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症したとされている。ALSは発症から5年程度で死に至る病であると考えられていたが、途中で進行が急に弱まり、発症から50年以上にわたり研究活動を続けた。晩年は意思伝達のためにアイトラッキングによる重度障害者用意思伝達装置を使用し、スピーチや会話はコンピュータプログラムによる合成音声で行っていた。 | {{Infobox scientist
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}}
'''スティーヴン・ウィリアム・ホーキング'''({{lang-en-short|Stephen William Hawking {{post-nominals|country=GBR|CH|CBE|FRS|FRSA}}}}、[[1942年]][[1月8日]] - [[2018年]][[3月14日]]<ref name="cast">{{Cite news|url=http://www.bbc.com/japanese/43395742|title=スティーブン・ホーキング氏が死去、76歳|newspaper=[[BBC]]|date=2018-03-14|accessdate=2018-03-14}}</ref>)は、[[イギリス]]の[[理論物理学者]]である。[[大英帝国勲章]](CBE)受勲、FRS([[王立協会フェロー]])、FRA([[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ]]フェロー)。スティーブン・ホーキングとも<ref name="cast"/>。
[[一般相対性理論]]と関わる分野で理論的研究を前進させ、1965年に[[ブラックホール]]の[[特異点定理]]を発表し、世界的に有名になった。1971年には「宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生する」とする理論を提唱、1974年には「ブラックホールは[[素粒子]]を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する」とする理論([[ホーキング放射]])を発表、[[量子宇宙論]]という分野を形作ることになった。
また、一般人向けに[[現代宇宙論|現代の理論的宇宙論]]を平易に解説する[[サイエンス・ライター]]の才能も持ち合わせており、その著作群が各国で翻訳されており、これでも人々によく知られている(日本語版は『[[ホーキング、宇宙を語る]]』など)。
「[[車椅子]]の物理学者」としても知られる。1960年代、学生の頃に[[筋萎縮性側索硬化症]](ALS)を発症したとされている。ALSは発症から5年程度で死に至る病であると考えられていたが、途中で進行が急に弱まり、発症から50年以上にわたり研究活動を続けた。晩年は意思伝達のために[[アイトラッキング]]による[[重度障害者用意思伝達装置]]を使用し、スピーチや会話はコンピュータプログラムによる[[音声合成|合成音声]]で行っていた
<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28111980U8A310C1CC1000/|title=宇宙論のホーキング博士死去 車いすの天才科学者 |publisher=日本経済新聞|date=2018-03-14|accessdate=2019-12-21}}</ref>。
== 業績 ==
一般相対性理論が破綻する[[重力の特異点|特異点]]の存在を証明した特異点定理を[[ロジャー・ペンローズ]]と共に発表した。
一般相対性理論と[[量子力学]]を結びつけた[[量子重力|量子重力論]]を提示している。この帰結として、量子効果によってブラックホールから粒子が逃げ出すというホーキング放射の存在を予想している。
[[タイムトラベル]]が不可能であるとする「{{仮リンク|時間順序保護仮説|en|Chronology protection conjecture}}」を提唱し、過去に行くことを許容する閉じた時間線が存在するためには場のエネルギーが無限大でなくてはならないとしている。
== 生涯 ==
=== 出生 ===
父フランク<ref>{{lang-en-short|Frank}}</ref>(1905年 - 1986年)、母イゾベル<ref>{{lang-en-short|Isobel}}</ref>(1915年 - 2013年)の間に[[オックスフォード]]で生まれた。両親は経済的には恵まれていなかったものの、父は[[オックスフォード大学]]で[[熱帯医学]]を学び、母も同大学で[[:en:Philosophy, Politics and Economics|PPE]](哲学・政治・経済の学際領域)を学んだ<ref>Ferguson, Kitty (2011). Stephen Hawking:His Life and Work. Transworld. ISBN 978-1-4481-1047-6</ref>。[[第二次世界大戦]]の直前、ある医学研究所でフランクが医学研究者として、また同じ場所でイゾベルが秘書として働いていたことで二人は出会った。両親は[[ハイゲイト]]で暮らしていたが、第二次世界大戦でロンドンは爆撃を受けていたため([[ザ・ブリッツ]])、おなかの子を安全に産むために母はオックスフォードに[[疎開]]して出産した。こうしてスティーヴンが誕生した。スティーヴンにはフィリッパ<ref>{{lang-en-short|Philippa}}</ref><ref>フィリッパ・ホーキングは日本に留学したことがあり( http://www.music-tel.com/maestro/Hawking/Hawking1.html )、また[[中岡哲郎]]の著書『イギリスと日本の間で』(岩波書店)では「[[ジョゼフ・ニーダム]]の東アジア科学史図書館の司書」として登場する。</ref>とメアリー<ref>{{lang-en-short|Mary}}</ref>という2人の妹ができ、またエドワード<ref>{{lang-en-short|Edward}}</ref>という、養子縁組による兄弟もできた。
=== 初等・中等教育 ===
スティーヴンはバイロン・ハウス・スクール<ref>{{lang-en-short|Byron House School}}</ref>で初等教育を開始した。1950年に父フランクがナショナル・インスティテュート・フォー・メディカル・リサーチ<ref>{{lang-en-short|National Institute for Medical Research}}</ref>の[[寄生虫学]]部門の長となると、一家は[[セント・オールバンズ]]に引っ越した<ref>Larsen, Kristine (2005). Stephen Hawking:a biography. p.3</ref>。
スティーヴンはラドレット・スクール<ref>{{lang-en-short|Radlett School}}</ref>に1年通い、1952年からはセント・オールバンズ校([[:en:St Albans School (Hertfordshire)|St Albans School]])に通った。一家は教育を重視していた。父フランクはスティーヴンを評価の高い[[ウェストミンスター・スクール]]に入れたがっていたが、当時13歳だったスティーヴンは奨学金のための試験の日に病気になり受験できず、家計の状況は奨学金無しで通わせるのは困難だったので、スティーヴンはそのままセント・オールバンズ校に通いつづけた。ただ、これで良かったこともあり、スティーヴンは仲の良い友人たちとボードゲームをしたり、花火を作ったり、模型飛行機やボートで遊ぶことができたし、また[[キリスト教]]や[[超感覚的知覚|ESP]]について話し合うことができた。
1958年からは、数学教師{{仮リンク|ディクラン・タータ|en|Dikran Tahta}}の助けも借りて、この仲間たちは、時計部品、電話交換機、中古部品などを使って[[計算機]]を作った。学校では“[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]”として知られていたものの、元々は学問的にはさほど優れてはいなかった。
やがて、科学に適性があるところを見せ始め、数学教師のタータに鼓舞されて、スティーヴンは大学で[[数学]]を学ぼうと決意した。スティーヴンの父は、数学専攻で卒業した人には職が少ない、ということから、医学を学ぶことを勧めた。父は自分の[[アルマ・マータ]](出身校)であるオックスフォード大学で息子が学ぶことを望んでいた。当時、オックスフォード大学では数学を選択できなかったので、スティーヴンは[[物理学]]と[[化学]]を学ぶことにした。1959年の試験を受け[[奨学金]]を獲得することに成功した。
=== 大学 ===
1959年10月に17歳でオックスフォード大学に入学した。最初の1年半、彼はうんざりさせられていて、孤独だった。というのは、他のほとんどの学生に比べて彼は若く、また大学の教育内容が「ばからしいほど簡単」と思えたからだった。
変化が訪れたのは第2学年と第3学年で、学生の一員になろうと努力するようになり、[[クラシック音楽]]と[[サイエンス・フィクション]](SF)に興味を抱いている者たちのグループと交流するようになってからである。また、大学の[[ボート競技|ボート]]部に参加しようと決意したことも状況を変える効果をもたらした。ボート部では、{{仮リンク|label=コックス|コックス (舵手)|en|Coxswain (rowing)}}という、漕ぎ手たちのリズムを整える役を務めた。ホーキングはオックスフォードの3年間で約1,000時間勉強したと見積もった。この感心できない学習習慣により最終試験は厳しいものとなり、彼は知識が必要な問題ではなく、[[理論物理学]]の問題だけに解答することにした。第一級優等学位は、彼が計画していた[[ケンブリッジ大学]]の大学院で[[宇宙論]]の研究をするための受入条件だった。不安で彼は試験の前日あまり眠れず、最終試験の結果が第一級と第二級のボーダーライン上だったため、オックスフォードの試験官とのviva(口頭試問)が必要になった。
ホーキングは自分が怠惰で気難しい学生と見なされていると懸念した。そのため、計画を説明するようvivaで求められた時、彼は「もしあなた方が私に第一級を与えてくだされば、ケンブリッジに行くでしょう。もし第二級を受ければ、オックスフォードに残りますから、私に第一級をくださると思います」と言った。彼は自分が考えるより高く評価されていた。彼の物理の指導教員だったロバート・バーマンが評したように、試験官は「彼らの多くよりはるかに賢い人物と話していることを認識できるほどに理解力があった」。物理で優等学士学位の第一級を受け、友人との[[イラン]]旅行を終えた後、彼は1962年10月に{{仮リンク|トリニティ・ホール (ケンブリッジ大学)|label=ケンブリッジのトリニティ・ホール|en|Trinity Hall, Cambridge}}で大学院の研究を始めた。
=== 大学院 ===
ホーキングの博士課程1年目は困難だった。指導教官に、著名なヨークシャー出身の天文学者[[フレッド・ホイル]]でなく、現代宇宙論の開祖の一人である{{仮リンク|デニス・ウィリアム・シアマ|en|Dennis William Sciama}}が割り当てられたことを知り、初めは失望した。また一般相対性理論を研究するには数学の訓練が足りないことがわかった。[[運動ニューロン病]]と診断された後、ホーキングは鬱状態に陥った。主治医は学業を続けるよう助言したが、彼は意味がないと感じた。病気の進行は医師の予想より遅かった。ホーキングは支えなしで歩くのが困難になり、話しぶりはわかりにくくなったが、余命わずか2年という初期診断は杞憂に終わった。シアマに励まされ、彼は研究に戻った。ホーキングは、1964年6月の講演で、フレッド・ホイルと彼の学生[[ジャヤント・ナーリカー]]の研究に公に異議を唱えた時から、才気があり生意気であるという名声を築き始めた。
大学院で研究を始めた時、宇宙創生を解き明かす理論である[[ビッグバン]]と[[定常宇宙論]]について、物理学界では盛んな議論があった。ブラックホールの中央に時空の特異点があるという[[ロジャー・ペンローズ]]の定理に触発され、ホーキングは同じ考えを宇宙全体に応用した。そして、1965年の間、彼はこのトピックについての論文を書いた。ホーキングの論文は1966年に承認された。他にも前向きな動きがあった。ホーキングはケンブリッジの[[ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ]]の特別研究員の資格を得た。1966年3月に、一般相対性理論と宇宙論の専攻で、応用数学・理論物理学の博士号を得た。そして彼の小論「特異点と時空の幾何学」により、その年の権威あるアダムズ賞を受賞するという最高の栄誉をペンローズと共有した。
=== 死去 ===
2018年3月14日、イギリス東部・ケンブリッジの自宅で死去した。76歳没<ref>[https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-43413185 ホーキング氏死去 世界的な物理学者が残した数々の名言][[BBC]]</ref>。[[葬儀]]は3月31日、ケンブリッジ大学にある[[キリスト教会]]で行われ、追悼式が6月15日ロンドンの[[ウェストミンスター寺院]]で執り行われた。博士は[[火葬]]され遺灰は、[[アイザック・ニュートン]]ら著名な科学者の墓の近くに埋葬された<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL6L7DKYL6LUHBI027.html ホーキング博士、ニュートンやダーウィンと同じ墓地に] [[朝日新聞]] </ref><ref>[http://www.sankei.com/life/news/180401/lif1804010018-n1.html 英でホーキング博士葬儀 友人や同僚、多数の市民][[産経新聞]]ニュース掲載の[[共同通信]]配信記事(2018年4月1日)</ref>。
== 略歴 ==
* 1942年 - 戦時疎開先のオックスフォードで生まれる。
* 1950年 - ロンドン北部のハイゲートから、セント・オールバンズ市に引越す。
* 1959年 - オックスフォード大学、ユニバーシティカレッジ入学。ボート部に所属。
* 1962年 - オックスフォード大学[[卒業]]。ケンブリッジ大学[[大学院]]、応用数学・理論物理学科に入学。
* 1963年 - 検査で「筋萎縮性側索硬化症」と診断される。
* 1965年 - ジェーン・ワイルドと[[結婚]]する。ペンローズと共同で、「特異点定理」発表。
* 1966年 - ケンブリッジ大学[[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|トリニティー校]]で学位取得。博士論文の題目は Properties of expanding universes。 2017年10月に Web サイトにて公開された<ref>[https://doi.org/10.17863/CAM.11283 Properties of expanding universes (University of Cambridge).]</ref>。
* 1967年 - 論文「特異点と時空の幾何学」でアダムズ賞受賞。長男のロバート誕生。
* 1970年 - 長女のルーシー誕生。
* 1974年 - 「ブラックホールの蒸発理論」発表。ロンドン王立協会フェロー(FRS)に選出される。
* 1975年 - 業績を讃えられ、[[ローマ教皇庁]]から「[[ピウス11世メダル]]」を授与される<ref>[http://www.casinapioiv.va/content/accademia/en/about/medal.html Pius XI Medal]</ref>。
* 1977年 - ケンブリッジ大学の教授職を得る。
* 1979年 - ケンブリッジ大学、[[ルーカス教授職]]に就任。歴代任期四位がアイザック・ニュートンで五位が ホーキング 。次男・ティモシー誕生。
* 1983年 - ジェームズ・ハートルと共同で「無境界仮説」<ref>[[ハートル=ホーキングの境界条件]]([[:en:Hartle-Hawking state|Hartle-Hawking state]])とも</ref>発表。
* 1988年 - 『ホーキング、宇宙を語る』を出版。発行部数が全世界1000万部、日本110万部を超えるベストセラーになる。
* 1991年 - 「時間順序保護仮説」を提唱。ジェーン・ワイルドと[[離婚]]する。
* 1995年 - [[看護師]]のエレイン・メイソンと再婚する。
* 2001年 - [[東京大学]][[安田講堂]]にて一般講演を行う。
* 2006年 - 香港にて一般講演を行う。
* 2007年 - アメリカ合衆国でのゼロ・グラビティー社の専用機「G-フォースワン」に搭乗し、車いすから離れ[[無重量状態|無重力]]体験を行う。
* 2009年 - ケンブリッジ大学の教員退職規定により9月の学年末に大学を退任。退任後もケンブリッジ大学に留まり、応用数学と理論物理学部の研究責任者を務め、研究活動を続けるという。[[大統領自由勲章]]叙勲。
* 2011年 - エレイン・メイソンと離婚する。
* 2016年 - [[ロシア]]の富豪でベンチャー投資家の[[ユーリ・ミルナー]]と共に、[[ケンタウルス座アルファ星|アルファ・ケンタウリ]]まで[[レーザー推進]]の小型探査機を送る[[ブレークスルー・スターショット|スターショット計画]]を発表。
* 2018年 - 76歳で、ケンブリッジ大学近くの自宅にて死去。
== 主張 ==
* 前述のとおり、時間順序保護仮説によって過去に戻る[[タイムマシン]]は不可能という立場をとっている。これは「我々の時代に未来からの観光客が押し寄せたことはない」ことからも裏付けられるとしている。タイムマシンが将来的にできるかどうかに関しては「私は誰とも賭けをしないだろう」とした。その理由について、「賭けの相手は(もし本当にタイムマシンが作られるならそれを使って)不公平にも未来を知っているかもしれないから」としている<ref>{{Cite |和書 |author=スティーヴン・ホーキング |author2=レナード・ムロディナウ |translator=佐藤勝彦 |title=ホーキング、宇宙のすべてを語る |page=190}}</ref>。
* 2010年4月25日にアメリカの[[ディスカバリーチャンネル]]のテレビ番組にて、[[クリストファー・コロンブス]]がアメリカ大陸に到着した時、資源を使い切った彼によってアメリカ先住民が征服されたことを引き合いに出し、人類と宇宙人との接触は人類にとってよい結果をもたらさない、として宇宙人とのコンタクトを試みるべきではないと主張した<ref>{{Cite news|url=https://news.nationalgeographic.com/2018/03/stephen-hawking-controversial-physics-black-holes-bets-science/|title=Stephen Hawking's Most Provocative Moments, From Evil Aliens to Black Hole Wagers|newspaper=[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)]]|date=2018-05-02|accessdate=2019-07-03}}</ref>。2017年に[[中華人民共和国|中国]]にある世界最大の[[500メートル球面電波望遠鏡]]が初めて宇宙からの信号らしきものを受信したと伝えられた際は「応答するな!応答するな!応答するな!」と厳しい警告を発していた<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-03-15|url= https://www.recordchina.co.jp/b581931-s0-c100-d0135.html|title= ホーキング博士が生前、中国に繰り返し警告していたこととは?―米華字メディア|publisher= レコードチャイナ|accessdate=2022-04-02}}</ref>。
* 2010年9月7日に刊行された新刊書『ホーキング、宇宙と人間を語る』<ref>原著名「{{lang|en|The Grand Design}}」</ref>で、量子力学に重力の理論を組み合わせた最新の研究成果から、偶然の一致に見える現象は「創造主なしで説明は可能」、「宇宙誕生に神は不要」と主張し、宗教界から批判を浴びた<ref name=reuters20110517>{{Cite news |url=http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-21136220110517 |title=「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言 |work=ロイター |publisher=[[ロイター]] |date=2011-05-17 |accessdate=2011-05-18 }}</ref>。
* 「AIは人類にとって最悪、もしくは最良の結果をもたらす可能性がある」「[[人工知能]]の開発は人類の終わりを意味するかもしれない」と述べるなど人工知能の危険性を頻繁に語っていた<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3033312</ref><ref>https://forbesjapan.com/articles/detail/18421</ref>。
== 宗教観 ==
=== 神の心 ===
著書『ホーキング、宇宙を語る』("A Brief History of Time"の日本語版)で「統一理論はそれ自身の存在をもたらすほど説得力があるのだろうか」と問いかけ、「もし完全な理論を発見すれば、それは人間の理性の究極の勝利となるだろう。そのとき我々は神の心を知ることになるはずだから」と述べている<ref name=":0">{{Cite web|title=Stephen Hawking: 'There is no heaven; it's a fairy story'|url=http://www.theguardian.com/science/2011/may/15/stephen-hawking-interview-there-is-no-heaven|website=the Guardian|date=2011-05-15|accessdate=2022-01-08|language=en}}</ref>。
この点について、El Mundoという新聞のインタビューに対して、ホーキング博士は下記のように回答している。
科学が理解される以前は、神が宇宙を創造したと考えるのが自然であった。しかし、現代では科学がより説得力のある説明をする。私が「神の心を知ることができる」と言ったのは、もし神が存在するならば、神が知っているであろうことをすべて知ることができる、という意味です。私は無神論者である<ref>{{Cite web|title='I'm an Atheist': Stephen Hawking on God and Space Travel|url=https://www.nbcnews.com/science/space/i-m-atheist-stephen-hawking-god-space-travel-n210076|website=NBC News|accessdate=2022-01-08|language=en}}</ref>。
=== 死後の世界 ===
2011年5月には、人間の脳について「部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人の架空のおとぎ話だ」と否定的な見解を述べ<ref name=":0" /><ref name="reuters20110517" />、改めて宗教界との認識の溝を示した<ref>{{Cite news |url=http://www.christiantoday.co.jp/view-3180.html |title=ホーキング博士「天国はない、作り話である」-科学者と信仰者の間隙 |work=キリスト教インターネット新聞クリスチャントゥデイ |newspaper=[[クリスチャントゥデイ]] |date=2011-05-17 |accessdate=2011-09-20 }}</ref>。
しかし、前述のロジャー・ペンローズのように完全には死後の世界を否定しておらず、むしろ肯定的な人間とも仕事をすることはある。それについてホーキングは、「あくまで私の中の主張」と注釈を述べている。
== 逸話 ==
* 他の科学者と賭けをし、「[[はくちょう座X-1]]にブラックホールは含まれない」「[[ヒッグス粒子]]は発見できない」など、自説にとって望まれない方に賭けることがある。これは彼流の“保険”で、自分が望まない結果が出ても賭けには勝ったという慰めを得るためであるという<ref name="bet">{{Cite |和書 |author=スティーヴン・ホーキング |translator=林一 |title=ホーキング、宇宙を語る |page=131}}</ref>。なお先述の2つの賭けについてホーキングは負けを認め、賭け金を支払っている<ref name="bet" /><ref>{{Cite web |url=http://www.businessinsider.com/stephen-hawking-bet-100-that-the-higgs-boson-wasnt-real-2012-7 |title=Stephen Hawking Lost A $100 Bet On The Higgs Boson |accessdate=2016-09-16}}</ref>。
* [[サイエンスフィクション]](SF)を好み、実際にアメリカのSFテレビドラマ『[[新スタートレック]]』に本人の[[ホログラム]]イメージ役で出演の経験がある(第6シーズン26話「ボーグ変質の謎(前編)」)<ref>[https://i.imgur.com/1brkKAg.png アインシュタインやニュートンとポーカーをする]</ref>。[[マット・グレイニング]]制作のアニメ『[[フューチュラマ (アニメ)|フューチュラマ]]』の長編第2作や『[[ザ・シンプソンズ]]』にも出演している(第10シーズン22話ほか)<ref>[https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4258/index.html 車いすの天才ホーキング博士の遺言] [[クローズアップ現代+]]</ref>。また、[[モンティ・パイソン]]のライブ『[[モンティ・パイソン 復活ライブ!]]』の客席にも招かれている。
== 著作物 ==
=== 原著 ===
* A brief History of Time. (1988). Bantam Dell Publishing Group
* Black Holes and Baby Universes and Other Essays. (1993). Bantam Dell Publishing Group
* The Universe in a Nutshell. (2001). Bantam Spectra
* On The Shoulders of Giants. (2002). Running Press
* God Created the Integers. (2005). Running Press
* The Grand Design. Mlodinow, Leonard との共著。(2010). New York: Bantam Books. ISBN 978-0553805376
=== 日本語訳書 ===
{{see also| スティーヴン・ホーキングの著作}}
* 『ホーキング、宇宙を語る』林一 訳、アーティストハウスパプリッシャーズ、1989年。ISBN 4-15-203401-7。 (A BRIEF HISTORY OF TIMEの翻訳)
* 『時間順序保護仮説』[[佐藤勝彦 (物理学者)|佐藤勝彦]] 解説・監訳、[[NTT出版]]、1991年。ISBN 4-87188-150-4。
* 『ホーキングペンローズが語る時空の本質』ロジャー・ペンローズ との共著、[[林一]] 訳、[[早川書房]]、1997年。ISBN 4-15-208076-0。
* 『ホーキング、未来を語る』(普及) 佐藤勝彦 訳、アーティストハウスパプリッシャーズ、2004年。ISBN 4-04-898165-X。(The Universe in a Nutshellの翻訳)
* 『ホーキング、宇宙のすべてを語る』{{仮リンク|レナード・ムロディナウ|en|Leonard Mlodinow}} との共著、佐藤勝彦 訳、[[ランダムハウス講談社]]、2005年。ISBN 4-270-00097-X。
* 『宇宙への秘密の鍵』{{仮リンク|ルーシー・ホーキング|en|Lucy Hawking}} との共著、[[さくまゆみこ]] 訳、岩崎書店〈ホーキング博士のスペース・アドベンチャー〉、2008年。ISBN 4-265-82011-5。
* 『宇宙に秘められた謎』ルーシー・ホーキング との共著、さくまゆみこ 訳、岩崎書店〈ホーキング博士のスペース・アドベンチャー〉、2009年。ISBN 9784265820122。
* 『ホーキング、宇宙と人間を語る』レナード・ムロディナウ(英語版) との共著、佐藤勝彦 訳、[[エクスナレッジ]]、2010年。ISBN 4767810442。
* 『宇宙の誕生・ビッグバンへの旅』ルーシー・ホーキング(英語版) との共著、さくまゆみこ 訳、[[岩崎書店]]〈ホーキング博士のスペース・アドベンチャー〉、2011年。ISBN 4265820131。
* 『ホーキング、自らを語る』佐藤勝彦 池央耿 訳、あすなろ書房、2014年。ISBN 9784751527511。
* 『ホーキング、最後に語る--多宇宙をめぐる博士のメッセージ』トマス・ハートッホ; 佐藤勝彦; 白水徹也 との共著、早川書房、2018年。ISBN 9784152097880。
* 『ビッグ・クエスチョン <人類の難問>に答えよう』青木薫 訳、[[NHK出版]]、2019年。ISBN 9784140817735。
* 『時空の大域的構造』ジョージ・エリス との共著、富岡 竜太、鵜沼 豊、クストディオ D. ヤンカルロス J. 訳、プレアデス出版、2019年。ISBN 9784903814940。
== 主な受賞歴 ==
* [[アダムズ賞]](1966年)
* [[ピウス11世メダル]](1975年)<ref>[[ヴァチカン]]には1936年に[[ピウス11世]]によって設立された[[ローマ教皇庁科学アカデミー]]があり、同アカデミーが受賞者の選定をして授与している。ホーキングの受賞通知書はこちら[http://www.casinapioiv.va/content/dam/accademia/pdf/vari/hawking_piusximedalbooklet.pdf]。同アカデミーのウェブサイトにはホーキングの業績を紹介するページもある[http://www.casinapioiv.va/content/accademia/en/academicians/ordinary/hawking.html]。</ref>
* [[エディントン・メダル]](1975年)
* [[ハイネマン賞数理物理学部門]](1976年)
* [[ヒューズ・メダル]](1976年)
* [[アルベルト・アインシュタイン賞]](1978年)
* [[アルベルト・アインシュタイン・メダル]](1979年)
* [[フランクリン・メダル]](1981年)
* [[王立天文学会ゴールドメダル]](1985年)
* [[ディラック賞|ポール・ディラック賞]](1987年)
* [[ウルフ賞物理学部門]](1988年)
* [[アストゥリアス皇太子賞]]平和部門(1989年)
* [[マルセル・グロスマン賞]](1992年)
* [[リリエンフェルト賞]](1996年)
* [[オスカル・クライン記念講座|オスカル・クラインメダル]](2003年)
* [[コプリ・メダル]](2006年)
* [[基礎物理学ブレイクスルー賞]]特別賞(2012年)
== 関連作品 ==
* 『[[ホーキング (2004年のテレビドラマ)|ホーキング]]』 (''Hawking'') - [[ベネディクト・カンバーバッチ]]主演の2004年のドラマ(DVD化されている)で、難病におかされつつ量子宇宙論に貢献したケンブリッジ大学の博士課程時代を描いている。
* 映画『[[博士と彼女のセオリー]]』 (''The Theory of Everything'') - 2014年に公開され、[[エディ・レッドメイン]]がホーキングを演じ、最初の妻ジェーンとの出会いから別れまでを中心に描いている。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ルーカス教授職]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Stephen Hawking}}
* {{公式サイト|name=Stephen Hawking}} 公式ウェブサイト
* {{YouTube|V66feYKy6_A|Stephen Hawking:Science&Technology Lecture,Interview-The Film Archives}}
* {{YouTube|geybTGQnF4s|10 Questions for Stephen Hawking-TIME}}
* {{TED speaker}}
** {{TED talk|id=stephen_hawking_questioning_the_universe|title=スティーヴン・ホーキング「宇宙に関する大きな疑問を問う」|date=2008年2月|time=10分12秒}}
* {{Wayback|url=https://wired.jp/special/2018/stephen-hawking/ |title=ホーキング博士の「遺言」─車いすの天才科学者が見た人類の未来|date=20180420073013}} - [[WIRED]]
{{ウルフ賞物理学部門}}
{{100名の最も偉大な英国人}}
{{典拠管理}}
{{DEFAULTSORT:ほおきんく すていいふん}}
[[Category:スティーヴン・ホーキング|*]]
[[Category:20世紀イングランドの著作家]]
[[Category:21世紀イングランドの著作家]]
[[Category:20世紀イギリスの物理学者]]
[[Category:21世紀イギリスの物理学者]]
[[Category:20世紀イギリスの天文学者]]
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4,023 | サルバドール・ダリ | サルバドール・ダリ(Salvador Dalí カタルーニャ語: [səɫβəˈðo dəˈɫi] スペイン語: [salβaˈðoɾ ðaˈli]、初代ダリ・デ・プブル侯爵 Marqués de Dalí de Púbol(es)、1904年5月11日 - 1989年1月23日)は、スペイン・フィゲーラス出身の画家である。シュルレアリスムの代表的作家として知られる。フルネームはカタルーニャ語でサルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)。スペイン語ではサルバドール・ドミンゴ・フェリペ・ハスィント・ダリ・ドメネク(Salvador Domingo Felipe Jacinto Dalí Doménech)となるが、1977年以後はスペイン語とカタルーニャ語を混ぜたものを利用し始めた。
妻は詩人ポール・エリュアールの元妻、ガラ・エリュアール=ダリ。
ダリは1904年5月11日、スペインのカタルーニャ地方フィゲーラスで、裕福な公証人サルバドール・ダリ・イ・クシ(Salvador Dalí i Cusí)(1872〜1950)の息子として生まれた。母親フェリパ(旧姓ドメネク・フェレス)(1874〜1921)も富裕な商家出身で、一族は自らをユダヤ系の血筋と信じている。ダリには幼くして亡くなった兄がいて、同じ「サルバドール」という名が付けられていた。これは少年ダリに大きな心理的影響を与えた。
少年時代から絵画に興味を持ち、パブロ・ピカソの友人であった画家のラモン・ピショット(en:Ramon Pichot)から才能を認められた。1922年、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学し、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)と知り合った。ブニュエルとは、1928年にシュルレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作した。
ダリは教授を批判し学生の反乱を指導したとして、1923年にアカデミーから処分を受けた。 1925年、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開いた。
1927年、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンら、シュルレアリスムの中心人物たちと面識を得た。
1929年夏、ポール・エリュアールが妻とともにカダケスのダリを訪ねた。これが後にダリの妻となるガラ・エリュアールとの出会いであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、1934年に結婚した。
王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生時代には、印象派やキュビスムなどの影響も受けていたが、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。ダリは1938年にグループから除名されたが、その理由はダリの「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからであった。1939年にはブルトンはダリの作品が商業的になっていくのをからかって、"Avida Dollars"「ドルの亡者」というあだ名をダリに与えた(これはSalvador Dalíのアナグラムであり、音声的にはフランス語"avide à dollars"「ドルをむさぼる」と同音である)。しかしダリの人気は非常に高かったため、グループを除名されたあとも国際シュールレアリスム展などに必ず招待された。
ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法(Paranoiac Critic)」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描いた。またバロックを代表する画家ヨハネス・フェルメールを高く評価していた。著書の中で、ほかの画家を採点したとき、フェルメールに最高点をつけている。「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるならこの右腕を切り落としてもいい」と述べたこともあった。第二次世界大戦後はカトリックに帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、又マネージャーであった。
第二次世界大戦中は戦禍を避けてアメリカ合衆国に移住したが、1948年にスペインに帰国。ポルト・リガト(en:Port Lligat)に居を定めて制作活動を行った。
1982年にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、ジローナのプボル城に引きこもった。
1983年5月を最後に絵画制作をやめている。
1984年には寝室でおきた火事でひどい火傷を負い、フィゲラスに移った。
1989年にフィゲラスのダリ劇場美術館(en:Dalí Theatre and Museum)に隣接するガラテアの塔で心不全により死去。84歳没。
ダリは、生前「偉大な天才には並みの子どもが生まれる。私はこの経験を味わいたくない。」と述べ、暗に婚外子の存在を否定していた。しかし、2000年代に入るとダリと使用人との間に生まれた娘だと主張するスペイン人女性が出現。2017年には、スペインの裁判所が女性の求めに応じ遺体発掘を指示、実際に墓を開きダリの毛髪や歯からDNA検体の採取が行われた。同年9月6日、ダリ財団は、DNA鑑定の結果、女性の主張が否定されたと発表した。 | [
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] | サルバドール・ダリは、スペイン・フィゲーラス出身の画家である。シュルレアリスムの代表的作家として知られる。フルネームはカタルーニャ語でサルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク。スペイン語ではサルバドール・ドミンゴ・フェリペ・ハスィント・ダリ・ドメネクとなるが、1977年以後はスペイン語とカタルーニャ語を混ぜたものを利用し始めた。 妻は詩人ポール・エリュアールの元妻、ガラ・エリュアール=ダリ。 | {{Infobox 芸術家
| name = サルバドール・ダリ<br />Salvador Dalí
| image = Salvador Dalí 1939.jpg
| caption = サルバドール・ダリ([[1939年]][[11月29日]])<br />[[カール・ヴァン・ヴェクテン]]撮影
| birthname = Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech
| birthdate = {{birth date|1904|5|11|mf=y}}
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| deathdate = {{death date and age|1989|1|23|1904|5|11}}
| deathplace = {{ESP}} カタルーニャ州フィゲーラス
| nationality = {{ESP}}
| field = [[絵画]]、[[デッサン]]、[[写真]]、[[彫刻]]、[[作家]]
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| works = [[#主な作品|こちら]]を参照
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[[Image:Dali museum.jpg|thumb|230px|フィゲーラスのダリ劇場美術館]]
'''サルバドール・ダリ'''({{lang|ca|Salvador Dalí}} {{IPA-ca|səɫβəˈðo dəˈɫi|lang}} {{IPA-es|salβaˈðoɾ ðaˈli|lang}}、初代ダリ・デ・プブル[[侯爵]] {{lang|und|Marqués de Dalí de Púbol}}([[:es:Marquesado de Púbol|es]])、[[1904年]][[5月11日]] - [[1989年]][[1月23日]])は、[[スペイン]]・[[フィゲーラス]]出身の[[画家]]である。[[シュルレアリスム]]の代表的作家として知られる<ref>{{Cite web|url=https://news.biglobe.ne.jp/trend/0326/kpa_180326_4051307907.html|title=鬼才、サルバドール・ダリとダリの愛したガラ・エリュアールの白黒写真(1930年代から1960年代)|publisher=BIGLOBEニュース|date=2018-03-26|accessdate=2020-10-11}}</ref>。フルネームは[[カタルーニャ語]]で'''サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク'''{{lang|ca|(Salvador Domènec Felip Jacint Dalí i Domènech)}}。[[スペイン語]]では'''サルバドール・ドミンゴ・フェリペ・ハスィント・ダリ・ドメネク'''{{lang|es|(Salvador Domingo Felipe Jacinto Dalí Doménech)}}となるが、1977年以後はスペイン語とカタルーニャ語を混ぜたものを利用し始めた。
妻は詩人[[ポール・エリュアール]]の元妻、[[ガラ・エリュアール|ガラ・エリュアール=ダリ]]。
== 生涯 ==
ダリは1904年5月11日<!--午前8時45分-->、スペインの[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]地方[[フィゲーラス]]で、裕福な公証人サルバドール・ダリ・イ・クシ(Salvador Dalí i Cusí)(1872〜1950)の息子として生まれた<ref name="salvador_dali_1">{{Cite web|url=https://www.salvador-dali.org/dali/fr_biografia/ |title=Biographie de Dalí - Fundació Gala - Salvador Dalí |accessdate=2013年12月24日 |author=Fundació Gala-Salvador Dalí}}</ref>。母親フェリパ(旧姓ドメネク・フェレス)(1874〜1921)も富裕な商家出身で、一族は自らをユダヤ系の血筋と信じている<ref>[https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/books/first/g/gibson-dali.html ''The Shameful Life of Salvador Dali'' By IAN GIBSON]</ref>。ダリには幼くして亡くなった兄がいて、同じ「サルバドール」という名が付けられていた。これは少年ダリに大きな心理的影響を与えた。<!--子供時代に市立の美術学校に通う。-->
少年時代から絵画に興味を持ち、[[パブロ・ピカソ]]の友人であった画家の[[ラモン・ピショット]]([[:en:Ramon Pichot]])から才能を認められた。[[1922年]]、[[マドリード]]の[[王立サン・フェルナンド美術アカデミー]]に入学し、[[フェデリコ・ガルシーア・ロルカ]]([[詩人]])、[[ルイス・ブニュエル]]([[映画監督]])と知り合った。ブニュエルとは、[[1928年]]にシュルレアリスムの代表的映画『[[アンダルシアの犬]]』を共同制作した。
ダリは教授を批判し学生の反乱を指導したとして、1923年にアカデミーから処分を受けた<ref>[https://www.biography.com/artists/salvador-dali ダリ バイオ] 2023年3月30日閲覧</ref>。
[[1925年]]、マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開いた<ref name="salvador_dali_1"/>。
[[1927年]]、[[パリ]]に赴き、[[パブロ・ピカソ]]、[[トリスタン・ツァラ]]、[[ポール・エリュアール]]、[[ルイ・アラゴン]]、[[アンドレ・ブルトン]]ら、[[シュルレアリスム]]の中心人物たちと面識を得た。
[[1929年]]夏、ポール・エリュアール<ref>Paul Éluard born Eugène Émile Paul Grindel (14 December 1895 - 26 November 1952), was a French poet who was one of the founders of the surrealist movement [https://www.colognehq.com/ Clara D. Lepore]</ref>が妻とともに[[カダケス]]のダリを訪ねた。これが後にダリの妻となる[[ガラ・エリュアール]]との出会いであった。ダリとガラは強く惹かれ合い、[[1934年]]に結婚した。
王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生時代には、[[印象派]]や[[キュビスム]]などの影響も受けていたが、シュルレアリスムに自分の進む道を見出し、1929年に正式にシュルレアリスト・グループに参加した。ダリは[[1938年]]にグループから除名されたが、その理由はダリの「[[ファシスト]]的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れたからであった。1939年にはブルトンはダリの作品が商業的になっていくのをからかって、"Avida Dollars"「[[ドル]]の亡者」というあだ名をダリに与えた(これはSalvador Dalíの[[アナグラム]]であり、音声的にはフランス語"avide à dollars"「ドルをむさぼる」と同音である)。しかしダリの人気は非常に高かったため、グループを除名されたあとも国際シュールレアリスム展などに必ず招待された。
ダリは自分の制作方法を「偏執狂的批判的方法(Paranoiac Critic)」と称し、写実的描法を用いながら、多重イメージなどを駆使して夢のような風景画を描いた。また[[バロック]]を代表する画家[[ヨハネス・フェルメール]]を高く評価していた。著書の中で、ほかの画家を採点したとき、フェルメールに最高点をつけている。「アトリエで仕事をするフェルメールを10分でも観察できるならこの右腕を切り落としてもいい」と述べたこともあった。[[第二次世界大戦]]後は[[カトリック教会|カトリック]]に帰依し、ガラを聖母に見立てた宗教画を連作した。ガラはダリのミューズであり、支配者であり、又マネージャーであった。
[[第二次世界大戦]]中は戦禍を避けて[[アメリカ合衆国]]に移住したが、[[1948年]]にスペインに帰国。[[ポルト・リガト]]([[:en:Port Lligat]])に居を定めて制作活動を行った。
[[1982年]]にガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落ち込み、[[ジローナ]]の[[プボル城]]に引きこもった。
[[1983年]]5月を最後に絵画制作をやめている<ref group="注釈">もっともガラの生前から[[パーキンソン病]]の影響で制作が困難な状況に陥っていた。</ref>。
[[1984年]]には寝室でおきた火事でひどい[[火傷]]を負い、[[フィゲラス]]に移った。
[[1989年]]に[[フィゲラス]]の[[ダリ劇場美術館]]([[:en:Dalí Theatre and Museum]])に隣接するガラテアの塔で[[心不全]]により死去。84歳没。
== エピソード ==
[[Image:Salvador Dali NYWTS.jpg|200px|thumb|ダリ(1965年)ペットの[[オセロット]]と]]
[[File:Dali Allan Warren.jpg|200px|thumb|ダリ(1972年)]]
* [[川添象郎]]と[[加橋かつみ]]がフランスへ、ロック・ミュージカル「ヘアー」を見に行った際、加橋がたまたま出会った青年の連れが、ダリであったという<ref>実話BUNKA超タブー 2022年11月号 p.126</ref>。
* ダリは自作に対し、「ダリの作品は誰にもわからない。ダリにもわからない」と述べている<ref>映画『[[ホドロフスキーのDUNE]]』ダリの発言</ref>。
* 科学に興味を持っており、異なる分野の科学者が討論する会議を主催したり、学会のポスターを制作するなどした。これらはドキュメンタリー映画「ダリ ―科学を追い求めた生涯」としてまとめられている。特に当時最先端の[[DNA]]に関心を示し、「ガラ酸とダリ酸のデオキシリボ核酸」という作品を残している。発見者の1人である[[ジェームズ・ワトソン]]は自伝「二重らせん」の表紙を依頼するため面会したことがある<ref>{{Cite web |title=【やっとダリにたどりつきました】 |url=https://www.brh.co.jp/salon/hitokoto/2009/post_000014.php |website=JT生命誌研究館 |access-date=2022-07-10 |language=ja}}</ref>。
* 実際には、ダリは根っからの奇人というわけではなく、本当に親しい友人の前では非常に繊細で気の行き届いた常識人だったとされている。つまり彼のこうした「アート」は現実世界と対峙するための鎧のようなものであり、顕示される自己が必ずしもダリ本人そのものではないことは重要である。
* 絵画だけではなく[[彫刻]]や[[オブジェ]]など、さまざまな作品を残した。展示場の玄関先に置かれていたオブジェがその奇抜さから[[ごみ収集車]]に回収され行方がわからなくなるというトラブルに見舞われたこともある。2004年はダリの生誕100年に当たり、世界各地で展覧会が開かれた。
* ダリは、1936年に制作した『茹でた隠元豆のある柔らかい構造([[内乱の予感]])』が[[スペイン内戦]]を予言したと称し「完全なダリ的予言の例」として文字通り自画自賛している。ほかにも自己顕示的で奇妙な言動は多く、講演会で[[潜水服]]を着て登壇したはいいが、[[酸素]]供給がうまくいかずに死にかけたことがある(1936年、[[ロンドン]])。[[ゾウ|象]]に乗って[[エトワール凱旋門|凱旋門]]を訪れたり、また「[[リーゼントヘア]]」と称して[[フランスパン]]を頭に括りつけて取材陣の前に登場するなど、[[マスメディア|マスコミ]]に多くのネタを提供した。また、[[パブロ・ピカソ]]ら同時代の芸術家たちからも大きな反感を買っていた独裁者[[フランシスコ・フランコ]](ピカソには『フランコの夢と嘘』などの作品がある)を公然と支持するなど、政治的な意味での奇行もあった。
* ダリはペットとして「Babou」という名前の[[オセロット]]を飼っていたことがある。また[[アリクイ]]を飼っていたこともある。
* また、上記のブルトンのあだ名とは裏腹に金銭には無頓着であり、資産管理は全てガラに一任し、貧しい時期も知人のために借金をしたりしていた。そのため、ガラの死後は一転して借金が膨らみ財団が設立されることとなった。
* 自伝『わが秘められた生涯』には、若い頃、鉛筆と紙を買いに出たのに魚屋に行ってしまったとか、[[地下鉄]]の乗り方・降り方を知らず、友人が先に降りていってしまったとき泣き出したなどのエピソードが書かれている。
<!--* 今日では、ダリの上向きにピンとはねた[[髭#髭の種類|カイゼル髭]]と目を大きく見開いた顔は「アート」そのものとして認知されるほどの人気であり、スペインの[[アーティスティックスイミング]]チームが水着の柄に採用して競技会に出場したことがある。口ひげの形をどうやって維持しているのかと質問された際に'''「これは[[水飴|水あめ]]で固めてるのさ」'''と答えたという。 -->
=== 遺体の発掘 ===
ダリは、生前「偉大な天才には並みの子どもが生まれる。私はこの経験を味わいたくない。」と述べ、暗に[[婚外子]]の存在を否定していた。しかし、2000年代に入るとダリと使用人との間に生まれた娘だと主張するスペイン人女性が出現。[[2017年]]には、スペインの裁判所が女性の求めに応じ遺体発掘を指示、実際に墓を開きダリの毛髪や歯から[[DNA]]検体の採取が行われた。同年9月6日、ダリ財団は、[[DNA鑑定]]の結果、女性の主張が否定されたと発表した<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35106957.html 画家ダリの娘と認定せず、遺体発掘] CNN(2017年9月7日)2017年9月8日閲覧。</ref>。
== 主な作品 ==
* [[1926年]] パン籠
* [[1929年]] 大自慰者(El gran masturbador)
* [[1931年]] [[記憶の固執|記憶の固執(柔らかい時計)]](La persistència de la memòria)
* [[1930年]] 不可視のライオン、馬、眠る女
* [[1933年]] ミレーの≪晩鐘≫の古代学的回想
* [[1936年]] [[燃えるキリン]]
* [[1936年]] [[内乱の予感|茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)]]
* 1936年 <!-- 差し替え [http://www.dali-gallery.com/html/galleries/painting12.htm 秋の人肉食] -->秋の人肉食<ref name="salvador_dali_art_1">{{Cite web|url=http://arthistory.about.com/od/from_exhibitions/ig/dali_retrospective/dali_pma.htm |title=Salvador Dalí - Autumn Cannibalism, 1936 |accessdate=2013年12月24日 |author=About.com}}</ref>
* 1936年 [[ロブスター・テレフォン]]
* [[1937年]] 眠り (El somni)
* 1937年 ナルシスの変貌
* [[1938年]] 果てしない謎(L'enigme sense fi)
* [[1944年]] 目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢
* [[1945年]] <!-- 差し替え [http://www.digistats.net/museum/2005/01/blog-post_13.htm パン籠(恥辱よりは死を!)] -->パン籠(恥辱よりは死を!)<ref name="salvador_dali_art_2">{{Cite web|url=https://www.salvador-dali.org/es/obra/coleccion/ |title=Obras destacadas - Fundació Gala - Salvador Dalí |accessdate=2013年12月24日 |author=Fundación Gala-Salvador Dalí}}</ref>
* [[1947年]] <!-- リンク切れ [http://www.dali.jp/work_03.html ビキニの3つのスフィンクス] -->ビキニの3つのスフィンクス<ref name="salvador_dali_art_3">{{Cite web|url=http://www.dali.jp/collection/dali/works/dali01.html |title=ビキニの3つのスフィンクス|サルバドール・ダリ コレクション|諸橋近代美術館 |accessdate=2016年1月21日 |author=諸橋近代美術館}}</ref>
* [[1950年]] ポルト・リガトの聖母<ref name="salvador_dali_art_4">{{Cite web|url=https://www.fukuoka-art-museum.jp/collection_highlight/2657/ |title=ポルト・リガトの聖母 |accessdate=2023年9月29日 |author=福岡市美術館}}</ref>
* [[1964年]] <!-- リンク切れ [http://www.dali.jp/work_05.html 蝶と葡萄の風景] -->蝶と葡萄の風景
* [[1965年]] "ポップ、オップ、月並派、大いに結構"と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空は、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである
* [[1969年]] [[チュッパチャプス]](商品デザイン)
* 1969 - 1979年 [[:fr:Collection Clot]](彫刻)
* [[1972年]] ラ・トワール・ダリグラム(ファッションや革製品のデザイン画)
* [[1980年]] <!-- リンク切れ [http://www.dali.jp/work_08.html 宇宙象](彫刻) -->宇宙象(彫刻)<ref name="salvador_dali_art_5">{{Cite web|url=http://www.williambennettgallery.com/artists/dali/pieces/DALI1339.php |title=William Bennett Gallery - Salvador Dali - L'Elephant Spatial |accessdate=2013年12月24日 |author=William Bennett Gallery}}</ref>
* [[1984年]] <!-- リンク切れ [http://www.dali.jp/work_09.html 時間のプロフィール](彫刻) -->時間のプロフィール(彫刻)
== ギャラリー ==
<gallery>
ファイル:Dalí. Gala.JPG|窓の中のガラ(1933)
ファイル:Salvador.Dali-Profile.of.Time.JPG|時間のプロフィール(1984)
ファイル:Hommage à Newton.jpg|ニュートンへの敬意(1985)
</gallery>
== 書籍 ==
* ''Carré d'Art'' (Salvador Dali), [[ジャンピエール ティオレ|Jean-Pierre Thiollet]], Anagramme Ed., 2008. ISBN 978-2-35035-189-6
* [[ロバート・ラドフォード]]『ダリ 岩波世界の美術』、[[岡村多佳夫]]訳、[[岩波書店]]、2002年、ISBN 978-4-00-008930-2
*『ダリ 西洋美術の巨匠3』 岡村多佳夫解説、[[小学館]]、2006年、ISBN 978-4-09-675103-9
*『ダリ回顧展 生誕100年記念』、岡村多佳夫監修、[[朝日新聞社]]・[[フジテレビジョン]]、2006年
* [[村松和明]]『ダリをめぐる不思議な旅』[[ラピュータ (企業)|ラピュータ]]<!-- https://web.archive.org/web/20190126163928/http://www.laputa.ne.jp/ -->、2010年、ISBN 978-4-947752-92-5
* [[ロベール・デシャヌル]]/[[ジル・ネレ]]『ダリ全画集』、TASCHEN、新版2009年。ISBN 978-4-88783-376-0
* [[ドミニク・ボナ]]『ガラ 炎のエロス』、[[岩切正一郎]]訳、[[筑摩書房]]、1997年。ISBN 978-4-480-88503-6
* [[ルイス・キャロル]]著 サルバドール・ダリ作画『Alice's Adventures in Wonderland150 Anv Edition』{{ISBN2|978-0691170022}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
<!--
== ==
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※記事を書く上で参考とした文献はここでまとめる。文献の提示がない場合はコメントアウトとしておく。
</div>
-->
== 関連項目 ==
* [[パブロ・ピカソ]] - 若い頃の彼に絶大な影響を与えた。
* [[アンダルシアの犬]] - ルイス・ブニュエルとダリによる1929年のフランス映画。
* [[H・R・ギーガー|ハンス・ギーガー]] - 作品の展示などで親交があった。
* [[アリス・クーパー]] - ダリがファンであり、ステージでも競演。
* [[天才画家ダリ 愛と激情の青春]] - 2008年の[[イギリス]]・[[スペイン]]合作映画。
* {{仮リンク|アマンダ・リア|en|Amanda Lear}} - 元[[愛人]]。ガラ公認で20年近く交際していた。
* [[エドワード・ジェームズ]]-フロリダ州セント・ピーターズバーグに[[サルバドール・ダリ美術館]]を設立。
* [[諸橋近代美術館]] - ダリ作品を数多く所蔵している。
* [[ダリ・ユニバース]] - 2000年から2010年まで開催されていたダリの彫刻作品などを展示した常設展。
* [[煮ル果実]] - ダリをモデルにした楽曲「サルバドール」を発表。
* [[四次元と芸術の関係]] - 1954年に完成された作品「磔刑(超立方体的人体)」
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Salvador Dalí}}
* [https://dalidegala.com/ サルバドール・ダリの世界]
* [https://dali.jp/ 諸橋近代美術館]
* {{Kotobank|ダリ}}
{{Artist-stub}}
{{シュルレアリスム}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:たり さるはとおる}}
[[Category:サルバドール・ダリ|*]]
[[Category:スペインのシュルレアリスト・アーティスト]]
[[Category:シュルレアリストの画家]]
[[Category:スペイン内戦の人物]]
[[Category:ニューヨーク万国博覧会 (1939年)の芸術家]]
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]]
[[Category:ベルギー王立アカデミー会員]]
[[Category:スペインの侯爵]]
[[Category:ジローナ県出身の人物]]
[[Category:1904年生]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AA |
4,029 | リバプールサウンド | リバプールサウンドとは、1960年代前半にイギリスで勃興したロックンロールのムーブメントおよびそこから確立したジャンルを指す音楽用語。日本独自の呼称であり、現地ではマージー・ビート(英語: Merseybeat)、ビート・ミュージック(英語: Beat music)、ブリティッシュビート(英語: British beat)などと呼称された。
ロックンロール、ドゥー・ワップ、スキッフル、R&B、ソウル・ミュージックなど様々な既成の音楽が融合され、1960年代中盤まで進化・分化していった。1964年以降、このムーブメントから生まれたバンドが次々とアメリカのポップ・ミュージック界に進出してヒットチャートを賑わせ、第1次ブリティッシュ・インヴェイジョンのリーダー役となった。
1950年代後半から、リヴァプール、マンチェスター、バーミンガム、ロンドンといった大都市圏で、廃れつつあったスキッフルに代わる新感覚の音楽を切望する土壌が生まれていた。特に港町のリヴァプールは海の玄関口で海外から多くの労働者が訪れるため、多様な音楽を演奏するパブやレコード店が存在し、そのような環境の下アメリカの大衆音楽ロックンロール、R&B、ブルースに熱中する若者が生まれた。彼らは一時的な流行とは関係なく、彼らにとっての「本物」の音楽を探し求めた。情報源はもっぱら米軍放送や海賊放送などであった。そういった土壌に呼応して、リヴァプールでは当時300を超えるバンドがひしめき合い、ダンス場、コンサート・ホール、クラブなどでプレイしていた。
地域の連帯感とイギリス社会全体からの疎外、経済の停滞による閉塞感など、様々な要因がこの地域における独自のビート・ミュージックの誕生に影響を与え、アメリカから流入する最新のレコード、ギターなどの楽器にいち早く触れられる環境でもあった(貿易制限のためギターの輸入量は限られてはいたが)ことも重なって、リヴァプールのビート・バンド達はバディー・ホリー&ザ・クリケッツ(英語版)をはじめとする同時代のアメリカのグループに大きな影響を受けた。
当時、大衆音楽の配給元はほぼ全てがアメリカだった。そのような状況下で、音楽的僻地・イギリスの白人の若者達であるビートルズが黒人音楽に強く影響されたビート音楽を生み出し、大ヒットを記録したのである。まさに前代未聞の出来事であった。それはファッション・ルックスだけでなく、エレクトリックギターを中心にしたソリッドな演奏に巧みなコーラスワークを加えたバンドスタイル、メンバー自らが作詞作曲を手がける独自の音楽性が真に衝撃的だったからだ。
エド・サリバン・ショー出演で幕を明けたビートルズのアメリカでの驚異的な成功が呼び水となって、ビートルズと同じリヴァプール出身のジェリー&ザ・ペースメイカーズやサーチャーズをはじめ、イギリス各地のバンドが次々とアメリカへと渡った。このため1964年 - 1965年にかけてビルボードのヒットチャートの約半分がイギリスのバンドで占められるという現象が起き、アメリカの音楽業界はこれをブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)と呼んだ(詳細は「ブリティッシュ・インヴェイジョン」参照)。ブリティッシュ・インヴェイジョンは、その後のアメリカのフォーク・ロック、ガレージ・ロック、パンクなどに大きな影響を与えた。
この出来事は社会現象として世界中に配信され、日本ではそれをリバプールサウンドと呼んだ。その由来は当時の東芝音楽工業(現EMIミュージック・ジャパン)が1964年に独自に編集した、ビートルズを含む複数のイギリス出身バンドの曲を集めたオムニバスLP「リバプールの若者たち」に由来するといわれている。しかしこれはあくまでも「アメリカでヒットを飛ばしたイギリスのバンド」に対する日本独自の呼称であり、それらのバンドがロンドン出身だろうがマンチェスター出身だろうが関係なくひとまとめにされていた。
ちなみに英米では、特にリヴァプール出身のバンドを指してマージー川に由来するマージービート(Merseybeat)という名称で呼ぶ。ロンドンやマンチェスターなど他地域のバンドも含めた場合はブリティッシュビートという総称で呼ぶのが一般的である。
この時期、リヴァプール以外のバンドでリバプールサウンド(ブリティッシュビート)の波に乗って全国区あるいは世界的な人気を獲得していったのは、マンチェスターのフレディー&ザ・ドリーマーズ、ハーマンズ・ハーミッツ、ホリーズ、バーミンガムのスペンサー・デイヴィス・グループ、ムーディー・ブルース、ニューカッスルのアニマルズ、ベルファストからのゼムなど錚々たる顔ぶれであった。そしてロンドンからはデイヴ・クラーク・ファイヴ、そしてよりブルースに感化されたバンド、ローリング・ストーンズとヤードバーズである。
ビートルズの影響力は世界中に波及し、数年のタイムラグをおいて世界各地で熱狂的なビートバンドブームが起きた。1967年 - 1969年にかけて日本中を席巻したGS(グループ・サウンズ)もその一環である。それまでアメリカ主導だった音楽エンターテイメントは、このブームを境に英米二極型へと大きく変貌を遂げることになった。そして外貨を稼いだビートルズにMBE勲章を授けたイギリスはこれ以降、ロックを最大の輸出商品としていくのである。
しかし1966年頃には、ビート音楽は時代遅れになっていった。生き残ったバンドはビートルズを先頭に、サイケデリックでプログレッシブな方向、あるいはよりブルースを突き詰める方向へと進化していった。1967年頃には、音楽業界の情報の共有化も進み世界的に共通なスタイルが流行するようになって、ブリティッシュ・インヴェイジョンも終焉を迎えた。 | [
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] | リバプールサウンドとは、1960年代前半にイギリスで勃興したロックンロールのムーブメントおよびそこから確立したジャンルを指す音楽用語。日本独自の呼称であり、現地ではマージー・ビート、ビート・ミュージック、ブリティッシュビートなどと呼称された。 ロックンロール、ドゥー・ワップ、スキッフル、R&B、ソウル・ミュージックなど様々な既成の音楽が融合され、1960年代中盤まで進化・分化していった。1964年以降、このムーブメントから生まれたバンドが次々とアメリカのポップ・ミュージック界に進出してヒットチャートを賑わせ、第1次ブリティッシュ・インヴェイジョンのリーダー役となった。 | {{Infobox Music genre
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'''リバプールサウンド'''とは、[[1960年代]]前半に[[イギリス]]で勃興した[[ロックンロール]]のムーブメントおよびそこから確立したジャンルを指す音楽用語。日本独自の呼称であり<ref group="注釈">日本ではリバプールサウンド=イギリスでのサウンド、イギリスでの[[ロック (音楽)|ロック]]という解釈。</ref>、現地では'''マージー・ビート'''({{Lang-en|''Merseybeat''}})、'''ビート・ミュージック'''({{Lang-en|''Beat music''}})、'''[[ブリティッシュビート]]'''({{Lang-en|''British beat''}})などと呼称された{{sfn|かまち|1998|p=10-11}}。
[[ロックンロール]]、[[ドゥー・ワップ]]、[[スキッフル]]、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ソウル・ミュージック]]など様々な既成の音楽が融合され、1960年代中盤まで進化・分化していった{{sfn|かまち|1998|p=12-13}}。[[1964年]]以降、このムーブメントから生まれたバンドが次々と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ポップ・ミュージック]]界に進出してヒットチャートを賑わせ、第1次[[ブリティッシュ・インヴェイジョン]]のリーダー役となった。
== 概要 ==
[[1950年代]]後半から、[[リヴァプール]]、[[マンチェスター]]、[[バーミンガム]]、[[ロンドン]]といった大都市圏で、廃れつつあったスキッフルに代わる新感覚の音楽を切望する土壌が生まれていた{{sfn|かまち|1998|p=116}}。特に港町のリヴァプールは海の玄関口で海外から多くの労働者が訪れるため、多様な音楽を演奏するパブやレコード店が存在し、そのような環境の下アメリカの大衆音楽ロックンロール、[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、[[ブルース]]に熱中する若者が生まれた{{sfn|星加|1977|p=7}}。彼らは一時的な流行とは関係なく、彼らにとっての「本物」の音楽を探し求めた{{sfn|かまち|1998|p=170}}。情報源はもっぱら米軍放送や海賊放送などであった。そういった土壌に呼応して、リヴァプールでは当時300を超えるバンドがひしめき合い、ダンス場、コンサート・ホール、クラブなどでプレイしていた。
地域の連帯感とイギリス社会全体からの疎外、経済の停滞による閉塞感など、様々な要因がこの地域における独自のビート・ミュージックの誕生に影響を与え、アメリカから流入する最新のレコード、ギターなどの楽器にいち早く触れられる環境でもあった{{sfn|かまち|1998|p=18}}(貿易制限のためギターの輸入量は限られてはいたが)ことも重なって、リヴァプールのビート・バンド達は[[バディー・ホリー]]&{{仮リンク|ザ・クリケッツ|en|The Crickets}}<ref group="注釈">ビートルズがクリケッツの名前を自分たちのグループ名のモデルにしたことは有名。</ref>をはじめとする同時代のアメリカのグループに大きな影響を受けた。
当時、大衆音楽の配給元はほぼ全てがアメリカだった。そのような状況下で、音楽的僻地・イギリスの白人の若者達である[[ビートルズ]]が黒人音楽に強く影響された[[ビート音楽]]を生み出し、大ヒットを記録したのである。まさに前代未聞の出来事であった{{sfn|かまち|1998|p=190-192}}。それはファッション・ルックスだけでなく、[[エレクトリックギター]]を中心にしたソリッドな演奏に巧みな[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]ワークを加えた[[バンド (音楽)|バンド]]スタイル、メンバー自らが作詞作曲を手がける独自の音楽性が真に衝撃的だったからだ。
[[エド・サリバン・ショー]]出演で幕を明けたビートルズのアメリカでの驚異的な成功が呼び水となって、ビートルズと同じリヴァプール出身の[[ジェリー&ザ・ペースメイカーズ]]や[[サーチャーズ]]をはじめ、イギリス各地のバンドが次々とアメリカへと渡った{{sfn|星加|1977|p=5}}。このため[[1964年]] - [[1965年]]にかけてビルボードのヒットチャートの約半分がイギリスのバンドで占められるという現象が起き<ref group="注釈">ピーター&ゴードン、アニマルズ、マンフレッド・マン、ペトゥラ・クラーク、フレディー&ザ・ドリーマーズ、ウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズ、ハーマンズ・ハーミッツ、ローリング・ストーンズ、デイヴ・クラーク・ファイヴ、トロッグス、ドノヴァンらは少なくとも1曲以上アメリカでのナンバーワン・ヒットを放っている。</ref>、アメリカの音楽業界はこれを[[ブリティッシュ・インヴェイジョン]](イギリスの侵略)と呼んだ<ref group="注釈">テレビ・レポーターの[[ウォルター・クロンカイト]]によって作られた言葉。</ref>(詳細は「[[ブリティッシュ・インヴェイジョン]]」参照)。ブリティッシュ・インヴェイジョンは、その後のアメリカのフォーク・ロック、ガレージ・ロック、パンクなどに大きな影響を与えた。
この出来事は社会現象として世界中に配信され、日本ではそれを'''リバプールサウンド'''と呼んだ。その由来は当時の東芝音楽工業(現[[EMIミュージック・ジャパン]])が[[1964年]]に独自に編集した、ビートルズを含む複数のイギリス出身バンドの曲を集めた[[オムニバス]]LP「リバプールの若者たち」に由来するといわれている。しかしこれはあくまでも'''「アメリカでヒットを飛ばしたイギリスのバンド」'''に対する日本独自の呼称であり、それらのバンドがロンドン出身だろうがマンチェスター出身だろうが関係なくひとまとめにされていた。
ちなみに英米では、特にリヴァプール出身のバンドを指して[[マージー川]]に由来する'''マージービート'''(Merseybeat)という名称で呼ぶ<ref group="注釈">「マージービート」という言葉そのものはビートルズ・デビュー以前、[[1961年]]にビル・ハリーによって創刊されたリバプールのコミュニティ・タブロイド紙のタイトルとして初めて登場した。</ref>。ロンドンやマンチェスターなど他地域のバンドも含めた場合は[[ブリティッシュビート]]という総称で呼ぶのが一般的である。
この時期、リヴァプール以外のバンドでリバプールサウンド(ブリティッシュビート)の波に乗って全国区あるいは世界的な人気を獲得していったのは、マンチェスターのフレディー&ザ・ドリーマーズ、[[ハーマンズ・ハーミッツ]]、[[ホリーズ]]、バーミンガムの[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]、[[ムーディー・ブルース]]、ニューカッスルの[[アニマルズ]]、ベルファストからの[[ゼム]]など錚々たる顔ぶれであった。そしてロンドンからは[[デイヴ・クラーク・ファイヴ]]、そしてよりブルースに感化されたバンド、[[ローリング・ストーンズ]]と[[ヤードバーズ]]である。
ビートルズの影響力は世界中に波及し、数年のタイムラグをおいて世界各地で熱狂的なビートバンドブームが起きた。[[1967年]] - [[1969年]]にかけて日本中を席巻したGS([[グループ・サウンズ]])もその一環である。それまでアメリカ主導だった音楽エンターテイメントは、このブームを境に英米二極型へと大きく変貌を遂げることになった。そして外貨を稼いだビートルズに[[MBE勲章]]を授けたイギリスはこれ以降、[[ロック (音楽)|ロック]]を最大の輸出商品としていくのである。
しかし[[1966年]]頃には、ビート音楽は時代遅れになっていった。生き残ったバンドはビートルズを先頭に、[[サイケデリック・ロック|サイケデリック]]で[[プログレッシブ・ロック|プログレッシブ]]な方向、あるいはよりブルースを突き詰める方向へと進化していった。[[1967年]]頃には、音楽業界の情報の共有化も進み世界的に共通なスタイルが流行するようになって、ブリティッシュ・インヴェイジョンも終焉を迎えた。
===主要ミュージシャン===
*[[ビートルズ]]
*[[ローリング・ストーンズ]]
*[[ザ・フー]]
*[[ヤードバーズ]]
*[[キンクス]]
*[[ジェリー&ザ・ペースメイカーズ]]
*[[アニマルズ]]
*[[ゾンビーズ]]
*[[デイヴ・クラーク・ファイヴ]]
*[[ハーマンズ・ハーミッツ]]
*[[ホリーズ]]
*[[サーチャーズ]]
*[[スウィンギング・ブルー・ジーンズ]]
*[[フレディ&ザ・ドリーマーズ]]
*[[マンフレッド・マン (バンド)|マンフレッド・マン]]
*[[ピーター&ゴードン]]
===代表曲===
*[[シー・ラヴズ・ユー]] /ビートルズ(リヴァプール)
*[[朝日のあたる家]] /[[アニマルズ]](ニューキャッスル)
*[[バス・ストップ (ホリーズの曲)|バス・ストップ]] /[[ホリーズ]](マンチェスター)
*ビコーズ /デイヴ・クラーク・ファイヴ(ロンドン)
*朝からごきげん /[[ハーマンズ・ハーミッツ]](マンチェスター)
*[[ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット|恋のテクニック]] /ジェリー&ザ・ペースメイカーズ(リヴァプール)
*[[ヒッピー・ヒッピー・シェイク]]/[[スウィンギング・ブルー・ジーンズ]](リヴァプール)
*[[愛なき世界]] /[[ピーター&ゴードン]](ロンドン)
*好きなんだ /フレディ&ザ・ドリーマーズ(マンチェスター)
*シーズ・ノット・ゼア /[[ゾンビーズ]](ロンドン)
*ドゥワ・ディディ・ディディ /マンフレッド・マン(ロンドン)
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
===出典===
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=星加ルミ子訳|translator=|title=これがリヴァプール・サウンドだ!|publisher=洋版出版株式会社|date=1977年1月|isbn=|ref=星加 1977}}
* {{Citation|和書|author=かまち潤|translator=|title=これがリヴァプール・サウンドだ!|publisher=小学館|date=1998年12月1日|isbn=4-09-440803-7|ref=かまち 1998}}
== 関連項目 ==
* [[Mi-Ke]](永遠のリバプールサウンド〜Please Please Me,LOVE)
*[[竹内まりや]] - 『[[マージービートで唄わせて]]』というリバプールサウンドの流行をテーマにした曲を発表している。
== 外部リンク ==
* [http://www.bounce.com/article/article.php/3431 第14回 ─ BRITISH BEAT]
* [http://www.ongen.net/international/serial/tigerhole/britishbeat/index.php ブリティッシュ・ビート特集:ジャンル虎の穴]
{{リズム・アンド・ブルース}}
{{ポップ・ミュージック}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:りはふうるさうんと}}
[[Category:ロックのジャンル]]
[[Category:イギリスの音楽]]
[[Category:ビートルズ]]
[[Category:ローリング・ストーンズ]]
[[Category:ザ・フー]] | 2003-03-14T17:21:17Z | 2023-09-14T02:05:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89 |
4,030 | 福島駅 (阪神) |
福島駅(ふくしまえき)は、大阪府大阪市福島区福島五丁目にある、阪神電気鉄道本線の駅。駅番号はHS 02。
普通・区間急行の停車駅である。
以下の駅と近接しており、乗り換えが可能である。
当駅到着時にはいずれの路線の乗り換え案内も行われないが、駅出口案内には各駅への最寄出口が表示されている。なお、JR新福島駅はなにわ筋を挟んで向かい(西側)にある地下駅だが地下では繋がっておらず、一度地上に出る必要がある。
相対式ホーム2面2線を有する地下駅。ホーム有効長は8両編成分あるが、整備・供用されているのは6両編成分となっている。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。改札口は東西に各1か所設けられているが、両改札は地下1階のコンコースで繋がっており、乗降人員の割には改札内は大きな空間を持っている。阪神電気鉄道開業100周年の年には、当時の出入橋駅を再現した模型が展示されていたこともある。
当駅の到着前に車内放送では「次は 福島 ラグザ大阪・ホテル阪神前」と案内されている。駅名標にも「ラグザ大阪前」の副駅名表記があったが、新デザインの駅名標導入に際して同表記は消えている。
地上駅の跡地にはホテル阪神、地上線跡地には交番、商業ビルなどが建っている。
※実際には構内に上記ののりば番号表記はないが、スマートフォン向けアプリ「阪神アプリ」の行先表示機能では、上りホームが1番線、下りホームが2番線とされている。
2000年代以降、中之島西部地区におけるオフィスビル開発の進行に伴い、当該地区への通勤者の中で当駅で乗降する者が増加している。ただし、京阪中之島線開業後の利用動向は不明である。
「大阪府統計年鑑」によると、2019年(令和元年)次の1日平均乗降人員は11,082人(乗車人員:5,075人、降車人員:6,007人)である。当駅から梅田行きの利用者は比較的少ない。
近年の1日平均乗降人員推移は下記の通り。
大阪シティバス
福島八丁目停留所
浄正橋停留所 | [
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] | 福島駅(ふくしまえき)は、大阪府大阪市福島区福島五丁目にある、阪神電気鉄道本線の駅。駅番号はHS 02。 普通・区間急行の停車駅である。 | {{駅情報
|社色 = #1f64b1
|文字色 =
|駅名 = 福島駅
|画像 = Hanshin Fukushima Sta.JPG
|pxl = 300px
|画像説明 = 1番出口(東出口)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = ふくしま
|ローマ字 = Fukushima
|副駅名 =
|前の駅 = HS 01 [[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田]]
|駅間A = 1.1
|駅間B = 1.2
|次の駅 = [[野田駅 (阪神)|野田]] HS 03
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|HS|02|#1f64b1|4||#1f64b1}}
|所属事業者 = [[阪神電気鉄道]]
|所属路線 = [[阪神本線|本線]]
|キロ程 = 1.1
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|所在地 = [[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]五丁目8-10<!--ハンドブック阪神より-->
|緯度度 = 34 |緯度分 = 41 |緯度秒 = 45.7
|経度度 = 135 |経度分 = 29 |経度秒 = 17.79
|地図国コード = JP
|座標右上表示 = Yes
|駅構造 = [[地下駅]]
|ホーム = 2面2線
|開業年月日 = [[1905年]]([[明治]]38年)[[4月12日]]
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|乗降人員 =
|乗降人員n = 9,364
|統計年度 =
|統計年次 = 2020年
|乗換 = [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)<br> - [[福島駅 (JR西日本)|福島駅]]([[大阪環状線]])*<br /> - [[新福島駅]]([[JR東西線]])*<br />[[京阪電気鉄道]] [[中之島駅]]([[京阪中之島線|中之島線]])*
|備考 =
|備考全幅 = * 駅の出口案内では表記されているが、路線図や車内アナウンス等での乗換案内はない。
}}
[[ファイル:Hanshin Fukushima Sta 2-Gate.JPG|thumb|2番出口(西出口)]]
[[ファイル:Hanshin Fukushima Sta 3-Gate.JPG|thumb|3番出口(西出口)]]
'''福島駅'''(ふくしまえき)は、[[大阪府]][[大阪市]][[福島区]][[福島 (大阪市)|福島]]五丁目にある、[[阪神電気鉄道]][[阪神本線|本線]]<!-- 阪神本線の正式名称に社名は入らない -->の[[鉄道駅|駅]]。駅番号は'''HS 02'''。
[[阪神本線#普通(阪神普通)|普通]]・[[阪神本線#区間急行|区間急行]]の停車駅である。
== 当駅から接続する鉄道路線 ==
以下の駅と近接しており、乗り換えが可能である。
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
** {{JR西路線記号|K|O}}[[大阪環状線]] - [[福島駅 (JR西日本)|福島駅]]
** {{JR西路線記号|K|H}}[[JR東西線]] - [[新福島駅]]
* [[京阪電気鉄道]]
** [[京阪中之島線|中之島線]] - [[中之島駅]]<ref>[http://www.okeihan.net/access おけいはん.ねっと|京阪電車へのアクセス] 「大阪エリア」→「阪神沿線から」をクリック</ref>
当駅到着時にはいずれの路線の乗り換え案内も行われないが、駅出口案内には各駅への最寄出口が表示されている<ref>[http://rail.hanshin.co.jp/uploads/guidemap/fukushima.pdf 福島駅構内案内図]阪神電車HP。</ref>。なお、JR新福島駅は[[なにわ筋]]を挟んで向かい(西側)にある地下駅だが地下では繋がっておらず、一度地上に出る必要がある。
== 歴史 ==
* [[1905年]]([[明治]]38年)[[4月12日]]:阪神本線の開業と同時に開業。当時は地上駅で、現在の[[ラグザ大阪]]が建つ場所に駅があった。
* [[1945年]]([[昭和]]20年):戦禍により営業休止。
* [[1948年]](昭和23年)[[10月26日]]:営業再開。同時に当駅の300m梅田寄りにあった[[出入橋駅]]を廃止。
* [[1993年]]([[平成]]5年)[[9月5日]]:本線地下化により[[福島駅 (JR西日本)|JR西日本福島駅]]南側から100mの[[国道2号|国道2号線]]地下に移転、地下駅となる<ref name="kotsu19930823">{{Cite news |title=阪神電鉄・梅田-野田間 来月5日から地下新線に 6踏切除去 交通渋滞を大幅解消へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-08-23 |page=1 }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)[[4月11日]]:[[阪神本線#急行|急行]]停車駅に昇格。
* [[2009年]](平成21年)[[3月20日]]:急行停車を取りやめ(同時に本線[[阪神本線#準急(休止)|準急]]も休止)、代わって区間急行の停車駅となる。
* [[2014年]](平成26年)[[4月1日]]:[[駅ナンバリング|駅番号]]導入。
== 駅構造 ==
[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。ホーム[[有効長]]は8両編成分あるが、整備・供用されているのは6両編成分となっている。[[分岐器]]や[[日本の鉄道信号#主信号機|絶対信号機]]を持たないため、[[停車場#停車場の定義|停留所]]に分類される。[[改札|改札口]]は東西に各1か所設けられているが、両改札は地下1階の[[コンコース]]で繋がっており、[[乗降人員]]の割には改札内は大きな空間を持っている。阪神電気鉄道開業100周年の年には、当時の[[出入橋駅]]を再現した模型が展示されていたこともある。
当駅の到着前に車内放送では「次は 福島 [[ラグザ大阪]]・[[ホテル阪神]]前」と案内されている。[[駅名標]]にも「ラグザ大阪前」の副駅名表記があったが、新デザインの駅名標導入に際して同表記は消えている。
[[地上駅]]の跡地にはホテル阪神、地上線跡地には交番、商業ビルなどが建っている。
<gallery>
Hanshin Fukushima eqm.jpg|地下化当初の駅名標。当駅独特の様式であったが、のちに他の駅と同じデザインのものに取り替えられている。
Hanshin Fukushima Station platform.jpg|ホーム
</gallery>
=== のりば ===
<!-- 下表の行先表記は、2009年3月20日改正時点のコンコース内案内標識の記載に合わせた -->
{|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" class="wikitable"
!番線!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|{{Color|navy|■}}本線
|style="text-align:center"|上り
|[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪(梅田)]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[尼崎駅 (阪神)|尼崎]]・[[三宮駅|神戸(三宮)]]・[[山陽明石駅|明石]]・[[山陽姫路駅|姫路]]方面
|}
※実際には構内に上記ののりば番号表記はないが、スマートフォン向けアプリ「阪神アプリ」の行先表示機能では、上りホームが1番線、下りホームが2番線とされている。
{{駅配線図
|title = 福島駅配線略図
|type = LD22
|left = 梅田方面
|right = 三宮・元町方面
|source = <ref>{{Cite book|和書 |others=[[川島令三]] 編著 |title=東海道ライン 全線・全駅・全配線 第7巻 大阪エリア-神戸駅 |year=2009 |publisher=[[講談社]] |series=図説 日本の鉄道 |isbn=978-4-06-270017-7}} 19頁</ref>
}}
== 利用状況 ==
[[2000年代]]以降、[[中之島 (大阪府)|中之島]]西部地区における[[オフィスビル]]開発の進行に伴い、当該地区への通勤者の中で当駅で乗降する者が増加している。ただし、京阪中之島線開業後の利用動向は不明である。
「大阪府統計年鑑」によると、2019年(令和元年)次の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''11,082人'''(乗車人員:5,075人、降車人員:6,007人)である。当駅から梅田行きの利用者は比較的少ない<ref>これはJR福島駅から大阪環状線に乗車した方が、梅田駅に近接する[[大阪駅]]への運賃が割安なことなどが挙げられる。</ref>。
近年の1日平均'''乗降'''人員推移は下記の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!年次
!1日平均<br />乗降人員
!1日平均<br />乗車人員
!出典
|-
|1990年
|22,067
|10,279
|<ref name="toukei1991">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00088143/tn1991n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成3年)]}}</ref>
|-
|1991年
|24,666
|11,694
|<ref name="toukei1992">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00088083/tn1992n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成4年)]}}</ref>
|-
|1992年
|21,516
|10,200
|<ref name="toukei1993">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085641/tn1993n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成5年)]}}</ref>
|-
|1993年
|19,633
|9,230
|<ref name="toukei1994">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085625/tn1994n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成6年)]}}</ref>
|-
|1994年
|18,864
|8,869
|<ref name="toukei1995">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085578/tn1995n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成7年)]}}</ref>
|-
|1995年
|15,300
|7,158
|<ref name="toukei1996">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085307/tn1996n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成8年)]}}</ref>
|-
|1996年
|12,395
|5,690
|<ref name="toukei1997">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00084805/tn1997n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成9年)]}}</ref>
|-
|1997年
|11,612
|5,331
|<ref name="toukei1998">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00084997/tn1998n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成10年)]}}</ref>
|-
|1998年
|11,289
|5,183
|<ref name="toukei1999">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085083/tn1999n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成11年)]}}</ref>
|-
|1999年
|10,886
|5,000
|<ref name="toukei2000">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00085215/tn2000n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成12年)]}}</ref>
|-
|2000年
|9,491
|4,402
|<ref name="toukei2001">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076905/tn01n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成13年)]}}</ref>
|-
|2001年
|9,739
|4,515
|<ref name="toukei2002">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076904/tn02n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成14年)]}}</ref>
|-
|2002年
|10,157
|4,641
|<ref name="toukei2003">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076903/tn03n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成15年)]}}</ref>
|-
|2003年
|10,165
|4,585
|<ref name="toukei2004">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076902/tn04n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成16年)]}}</ref>
|-
|2004年
|10,454
|4,791
|<ref name="toukei2005">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076901/tn05n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成17年)]}}</ref>
|-
|2005年
|10,750
|4,926
|<ref name="toukei2006">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00076900/tn06n110.pdf 大阪府統計年鑑(平成18年)]}}</ref>
|-
|2006年
|10,694
|4,884
|<ref name="toukei2007">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00074421/tn07n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成19年)]}}</ref>
|-
|2007年
|11,103
|5,118
|<ref name="toukei2008">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00074418/tn08n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成20年)]}}</ref>
|-
|2008年
|10,963
|4,978
|<ref name="toukei2009">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00064556/tn09n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成21年)]}}</ref>
|-
|2009年
|12,262
|5,701
|<ref name="toukei2010">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00071058/tn10n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成22年)]}}</ref>
|-
|2010年
|11,036
|5,034
|<ref name="toukei2011">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00093411/tn2011n090.pdf 大阪府統計年鑑(平成23年)]}}</ref>
|-
|2011年
|11,101
|5,062
|<ref name="toukei2012">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00121073/tn2012n092.pdf 大阪府統計年鑑(平成24年)]}}</ref>
|-
|2012年
|10,575
|4,704
|<ref name="toukei2013">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00144873/tn2013n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成25年)]}}</ref>
|-
|2013年
|10,759
|4,849
|<ref name="toukei2014">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00180638/tn2014n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成26年)]}}</ref>
|-
|2014年
|10,557
|4,810
|<ref name="toukei2015">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00211004/tn2015n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成27年)]}}</ref>
|-
|2015年
|10,908
|4,921
|<ref name="toukei2016">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00242803/tn2016n09.pdf 大阪府統計年鑑(平成28年)]}}</ref>
|-
|2016年
|10,947
|4,946
|<ref name="toukei2017">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00281833/9-all.pdf 大阪府統計年鑑(平成29年)]}}</ref>
|-
|2017年
|12,181
|5,587
|<ref name="toukei2018">{{PDFlink|[https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00319513/n2018-09-2.pdf 大阪府統計年鑑(平成30年)]}}</ref>
|-
|2018年
|10,962
|4,986
|<ref name="toukei2019">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00357824/n2019-09.pdf 大阪府統計年鑑(令和元年)]}}</ref>
|-
|2019年
|11,082
|5,075
|<ref name="toukei2020">{{PDFlink|[http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/3355/00387493/n2020-09-01~31.pdf 大阪府統計年鑑(令和2年)]}}</ref>
|-
|2020年
|9,364
|4,339
|
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:CityTower-Nishiumeda.jpg|thumb|シティタワー西梅田]]
[[ファイル:Asahi Broadcasting Corporation headquarters in 201909 001.jpg|thumb|朝日放送グループホールディングス本社社屋]]
* [[ラグザ大阪]]
** [[ホテル阪神]]
* 浄正橋交差点
** [[曽根崎通]]([[国道2号]])
** [[なにわ筋]]([[大阪府道41号大阪伊丹線|府道41号]])
* [[福島天満宮]]
* [[日本郵便]] 大阪福島駅前郵便局
* 日本郵便 大阪上福島郵便局
* [[ザ・シンフォニーホール]](旧・[[ABCセンター]])
* [[将棋会館#関西将棋会館|関西将棋会館]]
* [[関西電力病院]]
* [[大阪中之島合同庁舎]]
** [[大阪高等検察庁]]
** [[大阪地方検察庁]]
** [[法務総合研究所]]大阪支所
** [[人事院]]近畿事務局
* [[ほたるまち]] 福島一丁目 再開発地区
** [[朝日放送グループホールディングス]]本社
*** [[朝日放送ラジオ]]・[[朝日放送テレビ]]本社
*** [[朝日放送グループホールディングス#社屋・スタジオ|ABCホール]]
** [[堂島リバーフォーラム]]
* ABCアネックスビル(朝日放送別館)
** [[スカイ・エー]]本社
* [[シティタワー西梅田]]
* [[毎日ビルディング|毎日新聞ビル]]
** [[毎日新聞社]] [[毎日新聞大阪本社|大阪本社]]
** [[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社 大阪本社]]
=== バス路線 ===
[[大阪シティバス]]
'''福島八丁目'''停留所
* [[大阪シティバス酉島営業所#39号系統|39]] [[新大阪駅]]北口 行
* 39 [[野田駅 (阪神)|野田阪神前]] 行
'''浄正橋'''停留所
* [[大阪シティバス鶴町営業所#55号系統|55]] [[阿波座駅|岡崎橋]]・大浪橋経由 鶴町四丁目 行
* [[大阪シティバス酉島営業所#56号系統|56]] [[西九条駅|西九条]]・春日出経由 酉島車庫前 行
* 55・56 [[大阪駅周辺バスのりば#大阪駅前停留所(大阪シティバス)|大阪駅前]] 行
== 隣の駅 ==
; 阪神電気鉄道
: 本線
:: {{Color|red|■}}{{Color|#ffcc33|■}}直通特急・{{Color|red|■}}特急・{{Color|red|■}}区間特急・{{Color|#ff8000|■}}急行
::; 通過
:: {{Color|#ff8000|■}}区間急行・{{Color|#03c|■}}普通
::: [[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]] (HS 01) - '''福島駅 (HS 02)''' - [[野田駅 (阪神)|野田駅]] (HS 03)
::* 1948年まで、梅田駅(当時)と当駅の間に[[出入橋駅]]があった。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<!--=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===-->
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Fukushima Station (Hanshin)}}
* [[福島駅 (大阪府)]]
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[日本の同一駅名・同一市町村で所在地が異なる駅の一覧]]<!--
* [[福島駅 (福島県)]] 説明がないためのコメントアウト-->
== 外部リンク ==
* {{外部リンク/阪神電気鉄道駅|filename=fukushima|name=福島}}
{{阪神本線}}
{{デフォルトソート:ふくしま}}
[[Category:福島区の鉄道駅|ふくしま はんしん]]
[[Category:日本の鉄道駅 ふ|くしま]]
[[Category:阪神電気鉄道の鉄道駅]]
[[Category:1905年開業の鉄道駅]] | 2003-03-14T18:20:53Z | 2023-12-15T10:12:12Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E9%A7%85_(%E9%98%AA%E7%A5%9E) |
4,031 | 細胞質分裂 | 細胞質分裂 (さいぼうしつぶんれつ) とは、真核細胞が分裂する際、細胞核分裂に引き続き起きる細胞質の分離現象。この過程によって細胞分裂が終結する。動物細胞では細胞骨格の構成因子であるアクチン繊維とミオシンからなる収縮環が形成され、この働きにより細胞膜の絞込みによる分裂溝が生じ、細胞質が分離する。植物細胞はこれと異なり細胞内部に細胞板が形成され、これが外縁の細胞膜に到達することで細胞質が仕切られる。 | [
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'''細胞質分裂''' (さいぼうしつぶんれつ) とは、真核細胞が分裂する際、細胞核分裂に引き続き起きる[[細胞質]]の分離現象。この過程によって[[細胞分裂]]が終結する。[[動物]]細胞では[[細胞骨格]]の構成因子である[[アクチン]]繊維と[[ミオシン]]からなる収縮環が形成され、この働きにより[[細胞膜]]の絞込みによる[[分裂溝]]が生じ、細胞質が分離する。[[植物]]細胞はこれと異なり細胞内部に細胞板が形成され、これが外縁の細胞膜に到達することで細胞質が仕切られる。
[[Category:細胞生物学|さいほうしつふんれつ]] | 2003-03-14T19:05:57Z | 2023-11-19T13:22:23Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E%E8%B3%AA%E5%88%86%E8%A3%82 |
4,032 | 細胞骨格 | 細胞骨格(さいぼうこっかく、英語: cytoskeleton, CSK)は、細胞質内に存在し、細胞の形態を維持し、また細胞内外の運動に必要な物理的力を発生させる細胞内の繊維状構造。細胞内での各種膜系の変形・移動と細胞小器官の配置、また、細胞分裂、筋収縮、繊毛運動などの際に起こる細胞自身の変形を行う重要な細胞小器官。
細胞骨格はすべての細胞に存在する。かつては真核生物に特有の構造だと考えられていたが、最近の研究により原核生物の細胞骨格の存在が確かめられた。
細胞骨格という概念と用語(フランス語で cytosquelette)は、1931年、フランスの発生生物学者 Paul Wintrebert によって導入された。
真核生物の細胞には、電子顕微鏡で観察することができる、主に3種類の細胞骨格がある。アクチンフィラメント、中間径フィラメント、微小管である。細胞骨格は細胞に構造と形態を与える。また、細胞質基質中の高分子に排除体積効果を与えることで、分子クラウディング効果のレベルを増加させる。
マイクロフィラメントの直径は5〜9nm。2つのアクチン鎖が縒り合わさって構成されている。マイクロフィラメントのほとんどは細胞膜の直下に集中しており、張力に抵抗する、細胞の形を保つ、細胞質突起を形成する(仮足や微絨毛など。ただしこれらの機構はそれぞれ異なる)、細胞間や細胞-基質間の接合に関わる、などの役割を果たしている。後者の機能に関しては、マイクロフィラメントはシグナル伝達に必須である。これらは細胞質分裂にも重要(特に分裂溝生成時に)な役割を果たし、またミオシンと協同して横紋筋を作る。アクチン/ミオシン共同体は、ほとんどの細胞で細胞質流動を作り出す。
中間フィラメントあるいは10 nmフィラメントとも呼ばれる。
これらのフィラメントは直径8〜12nm、アクチンフィラメントよりも丈夫な、細胞質中の複数種の構成要素である。アクチンフィラメントと同様に、張力に抵抗することによって細胞の形態を保つ働きがある(微小管はこれと対照的に、圧力に抵抗する。マイクロフィラメントと中間径フィラメントは鉄筋に当たり、微小管は鉄骨に当たると考えるとよい)。中間径フィラメントは、細胞内部の3次元構造を構成し、オルガネラを固定し、核ラミナやサルコメアの要素となる。また細胞間や細胞-基質間接合にも関わる。
中間径フィラメントには、以下のようなものがある。
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3つ組み9本(星形)のセットで中心小体を形成し、2つ組み9本と中央の2本の微小管(車輪型)のセットで繊毛や鞭毛を形成する。後者の形態はよく「9+2」と言われる。ここではそれぞれの2つ組みは、ダイニンタンパク質によって連結される。鞭毛と繊毛は細胞の構造体であり、微小管から構成されるので、これらは細胞骨格の一部だと考えることもできる。
これは以下の現象に重要な働きをなしている:
1970年代、Keith Porter は 、細胞の高圧電子顕微鏡画像を基に、真核生物の4つめの細胞骨格の要素 microtrabeculae を提唱した。画像には、短い繊維状で、不明なタンパク質からなり、他の細胞質構造と結びついている構造が映し出されていた。Porter はこの微小柱状の構造を、微小管、中間径フィラメント、アクチンフィラメントのどれとも異なる新種の繊維網状構造と提唱した。しかしながら、細胞骨格についてすべてがわかっているわけではないが、 microtrabeculae は現在一般的には、細胞固定処理の影響で作られた構造にすぎないと考えられている。
細胞骨格は以前は真核生物細胞のみにある構造だと考えられていた。しかし近年、細胞骨格の主要なタンパク質と相同なものが原核生物中にも発見された。進化的な関係が遠いので、タンパク質のアミノ酸配列のみの比較だけでは明白ではないのだが、タンパク質の立体構造の類似性と、細胞の形態と極性を維持するという機能の類似が、真核生物と原核生物の細胞骨格が真に相同であるという強い証拠を与えている。しかし、細菌の細胞骨格については、まだいくつかの明らかにすべき点が残っている。
FtsZは最初に同定された原核生物の細胞骨格タンパク質である。チューブリンに似て、FtsZはグアノシン3リン酸の存在下で繊維構造を作る。細胞分裂中にFtsZは最初に分裂位置に来るタンパク質であり、新たな細胞壁を構成するための他のタンパク質を補充するのに必須である。クレン古細菌及びタウム古細菌を除くほぼすべての原核生物、ミトコンドリアや葉緑体の分裂にも使用される。
真正細菌のMreBは、細胞の形を保つ働きをする。球状以外の全ての細菌は、アクチンに似たタンパク質に翻訳される遺伝子を持つ。これらのタンパク質は細胞膜の直下でらせん状の構造をとり、細胞壁の生合成をなすタンパク質を導く役目を持つ。
いくつかのプラスミドからエンコードされる分裂系は、アクチン類似のタンパク質ParMを含んでいる。ParMの繊維は動的不安定性を示す。そしてプラスミドのDNAを、分裂後の娘細胞へ分ける。その機構は真核生物の体細胞分裂で働く微小管と相似である。
この他、磁性細菌が持つMamKなどが知られる。
クレン古細菌のテルモプロテウス目が持つアクチン様タンパクはアクチンの祖先型とみなされており、クレンアクチンと呼ばれている。機能はMreBと同様である。
バクテリアの Caulobacter crescentus は、第3のタンパク質クレセンチン(crescentin)を含んでいる。これは真核生物の中間径フィラメントと関係している。クレセンチンは、らせん状やビブリオ様の細菌の形態を保つ役割もしている。しかしその機序は現在明らかにはされていない。 | [
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] | 細胞骨格は、細胞質内に存在し、細胞の形態を維持し、また細胞内外の運動に必要な物理的力を発生させる細胞内の繊維状構造。細胞内での各種膜系の変形・移動と細胞小器官の配置、また、細胞分裂、筋収縮、繊毛運動などの際に起こる細胞自身の変形を行う重要な細胞小器官。 細胞骨格はすべての細胞に存在する。かつては真核生物に特有の構造だと考えられていたが、最近の研究により原核生物の細胞骨格の存在が確かめられた。 細胞骨格という概念と用語は、1931年、フランスの発生生物学者 Paul Wintrebert によって導入された。 | {{Organelle diagram}}
[[File:FluorescentCells.jpg|thumb|right|300px|真核生物の細胞骨格。
{{legend|red|[[アクチンフィラメント]]}}
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]]
'''細胞骨格'''(さいぼうこっかく、{{lang-en|cytoskeleton, CSK}})は、[[細胞質]]内に存在し、[[細胞]]の形態を維持し、また細胞内外の運動に必要な物理的力を発生させる細胞内の繊維状構造。細胞内での各種膜系の変形・移動と[[細胞小器官]]の配置、また、[[細胞分裂]]、筋収縮、繊毛運動などの際に起こる細胞自身の変形を行う重要な細胞小器官。
細胞骨格はすべての細胞に存在する。かつては[[真核生物]]に特有の構造だと考えられていたが、最近の研究により[[原核生物の細胞骨格]]の存在が確かめられた。
細胞骨格という概念と用語(フランス語で {{fr|cytosquelette}})は、1931年、[[フランス]]の[[発生生物学]]者 [[:en:Paul Wintrebert|Paul Wintrebert]] によって導入された<ref>{{cite journal |author=Frixione E |title=Recurring views on the structure and function of the cytoskeleton: a 300-year epic |journal=Cell motility and the cytoskeleton |volume=46 |issue=2 |pages=73–94 |year=2000 |month=June |pmid=10891854 |doi=10.1002/1097-0169(200006)46:2<73::AID-CM1>3.0.CO;2-0}}</ref>。
== 真核生物の細胞骨格 ==
[[File:MEF_microfilaments.jpg|thumb|right|200px|アクチンの細胞骨格。[[ハツカネズミ]]胚の[[線維芽細胞]]を[[ファロイジン]]で染色。]]
[[真核生物]]の細胞には、[[電子顕微鏡]]で観察することができる、主に3種類の細胞骨格がある。[[アクチンフィラメント]]、[[中間径フィラメント]]、[[微小管]]である。細胞骨格は細胞に構造と形態を与える。また、[[細胞質基質]]中の高分子に[[排除体積効果]]を与えることで、[[分子クラウディング]]効果のレベルを増加させる<ref>{{cite journal |author=Minton AP |title=Confinement as a determinant of macromolecular structure and reactivity |journal=Biophys. J. |volume=63 |issue=4 |pages=1090–100 |year=1992 |month=October |pmid=1420928 |pmc=1262248 |url=http://www.biophysj.org/cgi/reprint/63/4/1090}}</ref>。
=== アクチンフィラメント ===
{{Main article|マイクロフィラメント}}
{{See also|アクチン}}
マイクロフィラメントの直径は5〜9nm。2つのアクチン鎖が縒り合わさって構成されている。マイクロフィラメントのほとんどは[[細胞膜]]の直下に集中しており、張力に抵抗する、細胞の形を保つ、細胞質突起を形成する([[仮足]]や[[微絨毛]]など。ただしこれらの機構はそれぞれ異なる)、細胞間や細胞-基質間の接合に関わる、などの役割を果たしている。後者の機能に関しては、マイクロフィラメントは[[シグナル伝達]]に必須である。これらは[[細胞質分裂]]にも重要(特に[[分裂溝]]生成時に)な役割を果たし、また[[ミオシン]]と協同して[[横紋筋]]を作る。アクチン/ミオシン共同体は、ほとんどの細胞で[[細胞質流動]]を作り出す。
=== 中間径フィラメント ===
[[File:KeratinF9.png|thumb|right|200px|細胞中のケラチンフィラメントの顕微鏡画像]]
{{Main|中間径フィラメント}}
中間フィラメントあるいは10 nmフィラメントとも呼ばれる。
これらのフィラメントは直径8〜12nm、アクチンフィラメントよりも丈夫な、細胞質中の複数種の構成要素である。アクチンフィラメントと同様に、張力に抵抗することによって細胞の形態を保つ働きがある([[微小管]]はこれと対照的に、圧力に抵抗する。マイクロフィラメントと中間径フィラメントは鉄筋に当たり、微小管は鉄骨に当たると考えるとよい)。中間径フィラメントは、細胞内部の3次元構造を構成し、オルガネラを固定し、[[核ラミナ]]や[[サルコメア]]の要素となる。また細胞間や細胞-基質間接合にも関わる。
中間径フィラメントには、以下のようなものがある。
* [[ビメンチン]]からなるもの。多くの細胞で共通に見られる。
* [[ケラチン]]からなるもの。[[内胚葉]]及び[[外胚葉]]のあらゆる[[上皮]]細胞。陸上脊椎動物の[[皮膚]]細胞、[[髪]]や[[爪]]の細胞では[[角質]]化を担う。
* [[ニューロフィラメント]]。神経細胞に存在する。
* [[ラミン]]からなるもの。[[核膜]]をかたちづくる。
=== 微小管 ===
[[File:Btub.jpg|thumb|right|200px|ゲル固定細胞の微小管]]
{{Main|微小管}}
微小管は、中空な管状で、直径は約25nm(内径は約15nm)、ほとんどの場合の共通構造としては、αおよびβ[[チューブリン]]が互い違いに結合したプロトフィラメント13本からできている。これは[[グアノシン三リン酸]]の重合によって非常に動的なふるまいをする。[[中心体]]によって統合される。
3つ組み9本(星形)のセットで[[中心小体]]を形成し、2つ組み9本と中央の2本の微小管(車輪型)のセットで[[繊毛]]や[[鞭毛]]を形成する。後者の形態はよく「9+2」と言われる。ここではそれぞれの2つ組みは、[[ダイニン]]タンパク質によって連結される。鞭毛と繊毛は細胞の構造体であり、微小管から構成されるので、これらは細胞骨格の一部だと考えることもできる。
これは以下の現象に重要な働きをなしている:
* 細胞内輸送([[ダイニン]]や[[キネシン]]と協調して働く。[[ミトコンドリア]]等の[[オルガネラ]]や[[小胞]]を輸送する)。
* [[繊毛]]や[[鞭毛]]の[[軸糸]](axoneme)になる。
* 植物の細胞壁を統合する。
=== 比較 ===
{|class="wikitable"
|-
! 細胞骨格の種類 !! 直径 ([[ナノメートル|nm]]) <ref name=boron25Unless> Unless else specified in boxes, then ref is:{{cite book |author=Walter F., PhD. Boron |title=Medical Physiology: A Cellular And Molecular Approaoch |publisher=Elsevier/Saunders |location= |year=2003 |pages=1300 |isbn=1-4160-2328-3 |oclc= |doi=}} Page 25 </ref> !! 構造 !! サブユニットの例<ref name=boron25Unless/>
|-
! [[マイクロフィラメント]]
| 5-9 || [[二重らせん]] || [[アクチン]]
|-
! [[中間径フィラメント]]群
| 8-12 || two parallel [[helix|helices]]{{要曖昧さ回避|date=2021年8月}}/dimers, forming tetramers ||
*[[ビメンチン]] ([[間葉]])
*[[グリア繊維性酸性タンパク質]] ([[グリア細胞]])
*[[ニューロフィラメント]]タンパク質 ([[神経細胞]])
*[[ケラチン]]類 ([[上皮細胞]])
*[[核ラミン]]
|-
![[微小管]]
| 25 || 微小管プロトフィラメント, in turn consisting of tubulin subunits || α、β[[チューブリン]]
|}
=== Microtrabeculae(別の網状構造?) ===
1970年代、[[:en:Keith R. Porter|Keith Porter]] は 、細胞の高圧[[電子顕微鏡]]画像を基に、真核生物の4つめの細胞骨格の要素 ''microtrabeculae'' を提唱した<ref>{{cite journal |author=Wolosewick JJ, Porter KR |title=Microtrabecular lattice of the cytoplasmic ground substance. Artifact or reality |journal=J. Cell Biol. |volume=82 |issue=1 |pages=114–39 |year=1979 |month=July |pmid=479294 |pmc=2110423 |url=http://www.jcb.org/cgi/pmidlookup?view=long&pmid=479294}}</ref>。画像には、短い繊維状で、不明なタンパク質からなり、他の細胞質構造と結びついている構造が映し出されていた。Porter はこの微小柱状の構造を、微小管、中間径フィラメント、アクチンフィラメントのどれとも異なる新種の繊維網状構造と提唱した。しかしながら、細胞骨格についてすべてがわかっているわけではないが、 ''microtrabeculae'' は現在一般的には、細胞固定処理の影響で作られた構造にすぎないと考えられている<ref>{{cite journal | author=Heuser J | title = Whatever happened to the 'microtrabecular concept'? | journal = Biol Cell | year = 2002 | volume = 94| issue = 9| pages = 561–96 | doi=10.1016/S0248-4900(02)00013-8}}</ref>。
== 原核生物の細胞骨格 ==
{{Main|原核生物の細胞骨格}}
細胞骨格は以前は[[真核生物]]細胞のみにある構造だと考えられていた。しかし近年、細胞骨格の主要なタンパク質と[[相同]]なものが[[原核生物]]中にも発見された<ref name=Shih>{{cite journal |author=Shih YL, Rothfield L |title=The bacterial cytoskeleton |journal=Microbiol. Mol. Biol. Rev. |volume=70 |issue=3 |pages=729–54 |year=2006 |pmid=16959967 |url=http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?tool=pubmed&pubmedid=16959967 |doi=10.1128/MMBR.00017-06}}</ref>。進化的な関係が遠いので、タンパク質のアミノ酸配列のみの比較だけでは明白ではないのだが、[[タンパク質構造|タンパク質の立体構造]]の類似性と、細胞の形態と極性を維持するという機能の類似が、真核生物と原核生物の細胞骨格が真に相同であるという強い証拠を与えている<ref>{{cite journal |author=Michie KA, Löwe J |title=Dynamic filaments of the bacterial cytoskeleton |journal=Annu. Rev. Biochem. |volume=75 |issue= |pages=467–92 |year=2006 |pmid=16756499 |url=http://www2.mrc-lmb.cam.ac.uk/SS/Lowe_J/group/PDF/annrev2006.pdf |doi=10.1146/annurev.biochem.75.103004.142452}}</ref>。しかし、細菌の細胞骨格については、まだいくつかの明らかにすべき点が残っている<ref>{{cite journal |author=Briegel A, Dias DP, Li Z, Jensen RB, Frangakis AS, Jensen GJ |title=Multiple large filament bundles observed in Caulobacter crescentus by electron cryotomography |journal=Mol. Microbiol. |volume=62 |issue=1 |pages=5–14 |year=2006 |month=October |pmid=16987173 |doi=10.1111/j.1365-2958.2006.05355.x}}</ref>。
=== FtsZ ===
[[FtsZ]]は最初に同定された原核生物の細胞骨格タンパク質である。チューブリンに似て、FtsZは[[グアノシン3リン酸]]の存在下で繊維構造を作る。[[細胞分裂]]中にFtsZは最初に分裂位置に来るタンパク質であり、新たな[[細胞壁]]を構成するための他のタンパク質を補充するのに必須である。[[クレン古細菌]]及び[[タウム古細菌]]を除くほぼすべての原核生物、ミトコンドリアや葉緑体の分裂にも使用される。
===アクチン様タンパク===
真正細菌の[[MreB]]は、細胞の形を保つ働きをする。球状以外の全ての細菌は、アクチンに似たタンパク質に翻訳される[[遺伝子]]を持つ。これらのタンパク質は細胞膜の直下でらせん状の構造をとり、細胞壁の[[生合成]]をなすタンパク質を導く役目を持つ。
いくつかの[[プラスミド]]からエンコードされる分裂系は、アクチン類似のタンパク質[[ParM]]を含んでいる。ParMの繊維は[[動的不安定性]]を示す。そしてプラスミドのDNAを、分裂後の娘細胞へ分ける。その機構は真核生物の[[体細胞分裂]]で働く微小管と[[相似 (生物学)|相似]]である。
この他、磁性細菌が持つMamKなどが知られる。
クレン古細菌の[[テルモプロテウス目]]が持つアクチン様タンパクはアクチンの祖先型とみなされており、クレンアクチンと呼ばれている。機能はMreBと同様である。
=== クレセンチン ===
バクテリアの [[Caulobacter crescentus]] は、第3のタンパク質[[クレセンチン]]([[crescentin]])を含んでいる。これは真核生物の中間径フィラメントと関係している。クレセンチンは、らせん状や[[ビブリオ属|ビブリオ]]様の細菌の形態を保つ役割もしている。しかしその機序は現在明らかにはされていない<ref>{{cite journal |author=Ausmees N, Kuhn JR, Jacobs-Wagner C |title=The bacterial cytoskeleton: an intermediate filament-like function in cell shape |journal=Cell |volume=115 |issue=6 |pages=705–13 |year=2003 |month=December |pmid=14675535}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* Linda A. Amos and W. Gradshaw Amos, ''Molecules of the Cytoskeleton'', Guilford, ISBN 0-89862-404-5, LoC QP552.C96A46 1991
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Cytoskeleton}}
* {{脳科学辞典|記事名=細胞骨格}}
* [http://www.biochemweb.org/cytoskeleton.shtml Cytoskeleton, Cell Motility and Motors - The Virtual Library of Biochemistry and Cell Biology]
* [http://www.cytoskeletons.com Cytoskeleton database, clinical trials, recent literature, lab registry ...]
* [http://aimediaserver.com/studiodaily/videoplayer/?src=harvard/harvard.swf&width=640&height=520 Animation of leukocyte adhesion] (Animation with some images of actin and microtubule assembly and dynamics.)
{{細胞小器官}}
{{Normdaten}}
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[[Category:細胞骨格|*]]
[[Category:細胞解剖学]] | null | 2022-12-11T10:27:41Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E%E9%AA%A8%E6%A0%BC |
4,033 | 記憶 | 記憶(きおく)とは、
この記事では主として人間(ヒト)の記憶について説明する。
人間の記憶の分類法はさまざまである。よって、ここではスクワイアの記憶分類を基にしたモデルについて述べる(他の分類も提唱されている)。記憶は感覚記憶、短期記憶、長期記憶の3つに大きく分類される。自伝的記憶、展望的記憶という概念を提唱する学者もいる。大脳辺縁系の海馬という部分で、記憶が作られる。
感覚記憶(sensory memory)とは、外部からの刺激を与えた時に起こる、最大1~2秒ほどの最も保持期間が短い記憶である。各感覚器官に特有に存在し、瞬間的に保持されるのみで意識されない。外部からの刺激を与えた時の情報は、まず感覚記憶として保持され、そのうち注意を向けられた情報だけが短期記憶として保持される。
短期記憶(short-term memory, STM)とは、記憶の二重貯蔵モデルにおいて提唱された記憶区分の一つであり、情報を短時間保持する貯蔵システムである。一般に成人における短期記憶の容量は、7±2(5から9まで)程度と言われている。この仮説は心理学者のジョージ・ミラーが提示したものであり、7±2という数はマジカルナンバー(magical number)と言う。このマジカルナンバーは、まとまりのある意味のかたまりである「チャンク」という単位で示される。
短期記憶の情報は時間の経過とともに忘却されるが、維持リハーサルによって情報の保持時間を伸ばすことができる。リハーサルが妨げられた場合、数秒から十数秒で情報は忘却される。脳科学者は短期記憶の忘却が未使用の記憶を脳から取り除き、より新しく、より有用な記憶に道を譲るので、むしろ人間にとって有益であると考えている。
また短期記憶の情報はリハーサルにより長期記憶に転送されると言われている。
短期記憶の分かり易い例であると、感情がこもっているかこもっていないかで簡単に分けられる。長期記憶の場合は、自分が感じた感情が強ければ強い程覚える。反対に自分の感じた感情が弱い程覚えていないのが短期記憶である。
多くの研究によると、後ろ向きに歩いたり、後ろ向きに歩いていると想像したり、後ろ向きに歩いているビデオを見たりした人は、後ろ向きに歩くことはあなたの短期記憶を後押しするのに役立つかもしれないと示唆した。虚偽の記憶を誘発することなく、できるだけ正確な情報を入手できる。後ろ向きに歩いた人は、年齢やその他の要因に関係なく、より多くの目撃に関する質問に正しく答える可能性が非常に高いことを発見した。
ハーバード大学心理学部は、たとえば犯罪を目撃した場合など、最近の出来事の詳細を思い出すのに役立つと述べてる。人々が前進したときよりも後退したときの方が短期記憶が優れている。
短期記憶を発展させた作動記憶という概念が提唱されている。ワーキングメモリは短期的な情報の保存だけでなく、認知的な情報処理も含めた概念である。容量には個人差があり、その容量の差がある課題での個人のパフォーマンスに影響を与えていると言われている。ワーキングメモリは中央制御系、音韻ループ、視空間スケッチパッドからなる。
長期記憶(long-term memory, LTM)とは、記憶の二重貯蔵モデルにおいて提唱された記憶区分の一つであり、大容量の情報を保持する貯蔵システムである。二重貯蔵モデルにおいては、一旦長期記憶に入った情報は消えることはないとされた。
長期記憶の忘却の原因については、減衰説と干渉説、さらに検索失敗説が存在する。減衰説とは、時間の経過とともに記憶が失われていくという説である。干渉説とは、ある記憶が他の記憶と干渉を起こすことによって記憶が消えるという説である。検索失敗説とは、想起の失敗は記憶された情報自体が消失しているのではなく、適切な検索手がかりが見つからないため、記憶内の情報にアクセスできないという説である。 βエンドルフィン(=脳内ホルモンの一つ)が分泌されたり、A10神経が活性化すると、海馬における長期記憶が増強する。
長期記憶は陳述記憶・非陳述記憶の2つに分類される。長期記憶を近時記憶と遠隔記憶の2つに分類する説も存在する。
言葉で表現できる記憶である。宣言的記憶、顕在記憶とも呼ばれる。陳述記憶は意味記憶とエピソード記憶に分けることができる。
意味記憶とは事物、事象の一般的知識や言葉の意味についての記憶である。1966年に心理学者のマックス・キリアンが提唱した。意味記憶の構造は、(コリンズとキリアンによって)意味ネットワークという形でモデル化されている。他にも、意味記憶を表す多くのモデルがある。
個人的体験や出来事についての記憶である。1972年に心理学者のタルヴィングが、意味記憶と対になるものとして提唱した。
非陳述記憶とは、言葉で表現できない記憶である。非宣言的記憶、潜在記憶とも呼言う。非陳述記憶には手続き記憶、プライミング、古典的条件づけなどが含まれる。
物事を行うときの手続きについての記憶である。いわゆる「体で覚える」記憶がこれにあたる。
先行する事柄が後続する事柄に、影響を与える状況を指して「プライミングの効果(または“プライミング効果”)があった」と言われる。そのような状況における「先行する事柄」をプライムと称す。先行する事柄には、単語、絵、音などがありうる。例えば「医者」という言葉を聞くと、その後「看護師」という言葉の読みが「富士山」という言葉の読みよりも早くなるのはプライミング効果があったこととなる。
多くの場合、その効果が無意識的である点、およびかなりの長期間(例えば1年間)にわたり効果が持続する点、記憶に障害を受けた者にも無意識的なプライミング効果は損なわれずにある(機能し続けている)点に、この現象の面白さがある。
自分自身に関する事柄についての記憶である。ある個人のなかにある自分に関する記憶を体系的に説明する一つの記憶モデルであり、エピソード記憶と意味記憶によって構成される。
将来行う行動についての記憶である。これに対して、過去の出来事についての記憶は回想的記憶と呼ばれる。一般に記憶の内容は「過去」の事柄だと思われているのに対し、展望的記憶は未来(将来)に関わるものであるため、その点でユニークな記憶であるとされる。スケジュール帳、PDAなどの予定を管理する機器類の使用方法、使用行動と絡めて研究されることも多い。
記憶の階層については、心理学者のタルヴィングによって考えられた記憶システム論というモデルがある。これによると、
の順に、左の記憶ほど原始的で、生命の維持に直接関わり、右の記憶ほど高度な記憶になる。
記憶の過程は記銘、保持、想起(再生、再認、再構成)、忘却という流れになっている。
情報を憶えこむことを記銘という。情報を人間の記憶に取りこめる形式に変えるという情報科学的な視点から符号化と呼ばれることが多い。
情報を保存しておくことを保持という。情報科学的な視点から貯蔵と呼ばれることが多い。
情報を思い出すことを想起、起憶という。情報科学的な視点から検索と呼ばれることが多い。想起のしかたには以前の経験を再現する再生、以前に経験したことと同じ経験をそれと確認できる再認、以前の経験をその要素を組み合わせて再現する再構成などがある。
記憶されていたことを想起できなくなることを忘却(ぼうきゃく)という。
東京大学の研究チームは、脳における軽微な忘却が運動制御指令の最適化に有効であることを理論的に初めて証明した、と発表。
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"text": "先行する事柄が後続する事柄に、影響を与える状況を指して「プライミングの効果(または“プライミング効果”)があった」と言われる。そのような状況における「先行する事柄」をプライムと称す。先行する事柄には、単語、絵、音などがありうる。例えば「医者」という言葉を聞くと、その後「看護師」という言葉の読みが「富士山」という言葉の読みよりも早くなるのはプライミング効果があったこととなる。",
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"text": "自分自身に関する事柄についての記憶である。ある個人のなかにある自分に関する記憶を体系的に説明する一つの記憶モデルであり、エピソード記憶と意味記憶によって構成される。",
"title": "自伝的記憶"
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"text": "将来行う行動についての記憶である。これに対して、過去の出来事についての記憶は回想的記憶と呼ばれる。一般に記憶の内容は「過去」の事柄だと思われているのに対し、展望的記憶は未来(将来)に関わるものであるため、その点でユニークな記憶であるとされる。スケジュール帳、PDAなどの予定を管理する機器類の使用方法、使用行動と絡めて研究されることも多い。",
"title": "展望的記憶"
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"text": "記憶の階層については、心理学者のタルヴィングによって考えられた記憶システム論というモデルがある。これによると、",
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"text": "情報を憶えこむことを記銘という。情報を人間の記憶に取りこめる形式に変えるという情報科学的な視点から符号化と呼ばれることが多い。",
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"text": "情報を保存しておくことを保持という。情報科学的な視点から貯蔵と呼ばれることが多い。",
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"text": "情報を思い出すことを想起、起憶という。情報科学的な視点から検索と呼ばれることが多い。想起のしかたには以前の経験を再現する再生、以前に経験したことと同じ経験をそれと確認できる再認、以前の経験をその要素を組み合わせて再現する再構成などがある。",
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"text": "記憶されていたことを想起できなくなることを忘却(ぼうきゃく)という。",
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] | 記憶(きおく)とは、 ものごとを忘れずに覚えていること。また覚えておくこと。
(心理学)過去の経験の内容を保持し、後でそれを思い出すこと。
(心理学)将来に必要な情報をその時まで保持すること。
(生物学)生物に過去の影響が何らかの形で残ること。
(コンピュータ)必要な情報を保持しておくこと。メモリ (曖昧さ回避)を経て各記事を参照のこと。 この記事では主として人間(ヒト)の記憶について説明する。 | {{Otheruses}}
{{神経心理学}}
'''記憶'''(きおく)とは、
*ものごとを忘れずに覚えていること<ref name="kojien5">広辞苑第五版 p.626</ref>。また覚えておくこと<ref name="kojien5">広辞苑第五版 p.626</ref>。
*(心理学)過去の経験の内容を保持し、後でそれを思い出すこと<ref name="kojien5" />。
*(心理学)将来に必要な情報をその時まで保持すること<ref name="kojien5" />。
*(生物学)[[生物]]に過去の影響が何らかの形で残ること<ref name="kojien5" />。
* (コンピュータ)必要な[[情報]]を保持しておくこと<ref name="kojien5" />。[[メモリ (曖昧さ回避)]]を経て各記事を参照のこと。
この記事では主として[[人間]]([[ヒト]])の記憶について説明する。
==概説==
人間の記憶の分類法はさまざまである。よって、ここでは'''スクワイアの記憶分類'''を基にしたモデルについて述べる(他の分類も提唱されている)。記憶は感覚記憶、短期記憶、長期記憶の3つに大きく分類される。自伝的記憶、展望的記憶という概念を提唱する学者もいる<ref>[[榎本博明]]『記憶の整理術』PHP研究所 2011年 ISBN 978-4569796680。85頁、91頁</ref>。大脳辺縁系の[[海馬 (脳)|海馬]]という部分で、記憶が作られる。
== 感覚記憶 ==
'''感覚記憶'''([[:en:Sensory memory|sensory memory]])とは、外部からの刺激を与えた時に起こる、最大1~2秒ほどの最も保持期間が短い記憶である。各[[感覚器官]]に特有に存在し、瞬間的に保持されるのみで意識されない。外部からの刺激を与えた時の情報は、まず感覚記憶として保持され、そのうち注意を向けられた情報だけが短期記憶として保持される。
== 短期記憶 ==
'''短期記憶'''([[:en:Short-term memory|short-term memory]], '''STM''')とは、[[記憶の二重貯蔵モデル]]において提唱された記憶区分の一つであり、情報を短時間保持する貯蔵システムである。一般に成人における短期記憶の容量は、7±2(5から9まで)程度と言われている<ref name="BasicPsy">子安増生・田中俊也・南風原朝和・伊東裕司 1992 ベーシック現代心理学6 教育心理学 新版 有斐閣</ref>。この仮説は心理学者の[[ジョージ・ミラー]]が提示したものであり、7±2という数は'''マジカルナンバー'''(magical number)と言う。このマジカルナンバーは、まとまりのある意味のかたまりである「チャンク」という単位で示される<ref>太田信夫(編)2006 記憶の心理学と現代社会 有斐閣</ref>。
短期記憶の情報は時間の経過とともに[[忘却]]されるが、[[維持リハーサル]]によって情報の保持時間を伸ばすことができる。リハーサルが妨げられた場合、数秒から十数秒で情報は忘却される<ref name="BasicPsy" />。脳科学者は短期記憶の忘却が未使用の記憶を脳から取り除き、より新しく、より有用な記憶に道を譲るので、むしろ人間にとって有益であると考えている<ref>{{Cite web|title=Forgetfulness — 7 types of normal memory problems - Harvard Health Publishing|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/forgetfulness-7-types-of-normal-memory-problems|website=Harvard Health|date=2012-04-03|accessdate=2021-12-08|language=en}}</ref>。
また短期記憶の情報は[[リハーサル]]により[[長期記憶]]に転送される<ref name="CognitivePsy">箱田裕司・都築誉史・川畑秀明・萩原滋 2010 認知心理学 有斐閣</ref>と言われている。
短期記憶の分かり易い例であると、感情がこもっているかこもっていないかで簡単に分けられる。長期記憶の場合は、自分が感じた感情が強ければ強い程覚える。反対に自分の感じた感情が弱い程覚えていないのが短期記憶である。
多くの研究によると、後ろ向きに歩いたり、後ろ向きに歩いていると想像したり、後ろ向きに歩いているビデオを見たりした人は、後ろ向きに歩くことはあなたの短期記憶を後押しするのに役立つかもしれないと示唆した。虚偽の記憶を誘発することなく、できるだけ正確な情報を入手できる。後ろ向きに歩いた人は、年齢やその他の要因に関係なく、より多くの目撃に関する質問に正しく答える可能性が非常に高いことを発見した。
[[ハーバード大学]][[心理学部]]は、たとえば犯罪を目撃した場合など、最近の出来事の詳細を思い出すのに役立つと述べてる。人々が前進したときよりも後退したときの方が短期記憶が優れている<ref>{{Cite web|title=Can you boost your memory by walking backward?|url=https://www.health.harvard.edu/mind-and-mood/can-you-boost-your-memory-by-walking-backward|website=Harvard Health|accessdate=2021-03-09|first=Harvard Health|last=Publishing}}</ref>。
=== ワーキングメモリ ===
{{Main|ワーキングメモリ}}
{{出典の明記|section=1|date=2012年11月}}
短期記憶を発展させた[[作動記憶]]という概念が提唱されている。ワーキングメモリは短期的な情報の保存だけでなく、認知的な情報処理も含めた概念である。容量には個人差があり、その容量の差がある課題での個人のパフォーマンスに影響を与えていると言われている。ワーキングメモリは中央制御系、音韻ループ、視空間スケッチパッドからなる。
; 中央制御系
: 音韻ループと視空間スケッチパッドを制御し、長期記憶と情報をやりとりするシステムである。
; 音韻ループ
: 言語を理解したり、推論を行うための音韻情報を保存するシステムである。
; 視空間スケッチパッド
: 視覚的・空間的なイメージを操作したり、保存したりするシステムである。
== 長期記憶 ==
{{出典の明記|section=1|date=2012年11月}}
'''長期記憶'''([[:en:long-term memory|long-term memory]], '''LTM''')とは、[[記憶の二重貯蔵モデル]]において提唱された記憶区分の一つであり、大容量の情報を保持する貯蔵システムである。二重貯蔵モデルにおいては、一旦長期記憶に入った情報は消えることはないとされた<ref name="CognitivePsy" />。
長期記憶の忘却の原因については、減衰説と干渉説、さらに検索失敗説が存在する。減衰説とは、時間の経過とともに記憶が失われていくという説である。干渉説とは、ある記憶が他の記憶と干渉を起こすことによって記憶が消えるという説である。検索失敗説とは、想起の失敗は記憶された情報自体が消失しているのではなく、適切な検索手がかりが見つからないため、記憶内の情報にアクセスできないという説である。
βエンドルフィン(=脳内ホルモンの一つ)が分泌されたり、A10神経が活性化すると、[[海馬 (脳)|海馬]]における長期記憶が増強する。
長期記憶は陳述記憶・非陳述記憶の2つに分類される。長期記憶を近時記憶と遠隔記憶の2つに分類する説も存在する。
=== 陳述記憶===
{{Main|宣言的記憶}}
言葉で表現できる記憶である。[[宣言的記憶]]、顕在記憶とも呼ばれる。陳述記憶は意味記憶とエピソード記憶に分け<ref name="CognitivePsy" />ることができる。
==== 意味記憶 ====
意味記憶とは事物、事象の一般的知識や言葉の意味についての記憶である。[[1966年]]に心理学者の[[マックス・キリアン]]が提唱した。意味記憶の構造は、([[:en:Allan M. Collins|コリンズ]]とキリアンによって)[[意味ネットワーク]]という形でモデル化されている。他にも、意味記憶を表す多くのモデルがある。
==== エピソード記憶 ====
{{Main|エピソード記憶}}
個人的体験や出来事についての記憶である。[[1972年]]に心理学者の[[エンデル・タルヴィング|タルヴィング]]が、意味記憶と対になるものとして提唱した。
=== 非陳述記憶 ===
非陳述記憶とは、言葉で表現できない記憶である。非宣言的記憶、潜在記憶とも呼言う。非陳述記憶には手続き記憶、プライミング、古典的条件づけなどが含まれる。
==== 手続き記憶 ====
{{Main|手続き記憶}}
物事を行うときの手続きについての記憶である。いわゆる「体で覚える」記憶がこれにあたる。
==== プライミング ====
先行する事柄が後続する事柄に、影響を与える状況を指して「プライミングの効果(または“プライミング効果”)があった」と言われる。そのような状況における「先行する事柄」をプライムと称す。先行する事柄には、単語、絵、音などがありうる。例えば「医者」という言葉を聞くと、その後「看護師」という言葉の読みが「富士山」という言葉の読みよりも早くなるのはプライミング効果があったこととなる。
多くの場合、その効果が無意識的である点、およびかなりの長期間(例えば1年間)にわたり効果が持続する点、記憶に障害を受けた者にも無意識的なプライミング効果は損なわれずにある(機能し続けている)点に、この現象の面白さがある。
== 自伝的記憶 ==
自分自身に関する事柄についての記憶である。ある個人のなかにある自分に関する記憶を体系的に説明する一つの記憶モデルであり、エピソード記憶と意味記憶によって構成される<ref>[https://web.archive.org/web/20120519062752/http://memory.uva.nl/testpanel/gc/ja/index_html 自伝的記憶](2012年5月19日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) 自伝的記憶テスト</ref>。
== 展望的記憶 ==
将来行う行動についての記憶である。これに対して、過去の出来事についての記憶は回想的記憶と呼ばれる。一般に記憶の内容は「過去」の事柄だと思われているのに対し、展望的記憶は未来(将来)に関わるものであるため、その点でユニークな記憶であるとされる。スケジュール帳、PDAなどの予定を管理する機器類の使用方法、使用行動と絡めて研究されることも多い。
== 記憶の階層 ==
記憶の階層については、心理学者の[[エンデル・タルヴィング|タルヴィング]]によって考えられた'''記憶システム論'''というモデルがある。これによると、
:手続き記憶、プライミング記憶、意味記憶、短期記憶、エピソード記憶
の順に、左の記憶ほど原始的で、生命の維持に直接関わり、右の記憶ほど高度な記憶になる。
== 記憶の過程 ==
記憶の過程は[[記銘]]、[[保持]]、[[想起]]([[再生]]、再認、再構成)、[[忘却]]という流れになっている。
=== 記銘(符号化) ===
情報を憶えこむことを記銘という。情報を人間の記憶に取りこめる形式に変えるという[[情報科学]]的な視点から符号化と呼ばれることが多い。
=== 保持(貯蔵) ===
情報を保存しておくことを保持という。[[情報科学]]的な視点から貯蔵と呼ばれることが多い。
=== 想起、起憶(検索) ===
情報を思い出すことを想起、起憶という。[[情報科学]]的な視点から検索と呼ばれることが多い。想起のしかたには以前の経験を再現する[[再生]]、以前に経験したことと同じ経験をそれと確認できる[[再認]]、以前の経験をその要素を組み合わせて再現する[[再構成]]などがある。
=== 忘却 ===
記憶されていたことを想起できなくなることを'''[[忘却]]'''(ぼうきゃく)という。
[[東京大学]]の研究チームは、脳における軽微な忘却が[[運動]][[制御]][[指令]]の最適化に有効であることを理論的に初めて証明した、と発表<ref>[http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_240629_j.html 忘却がもたらす驚くべき効果-軽微な忘却は、運動指令を最適化することを理論的に証明-東京大学大学院教育学研究科]2012年7月13日閲覧</ref>。
忘れることは、時に学習にとって良いことである<ref>{{Cite web|和書|title=Uncommon Sense Teaching: Part 2, Building Community and Habits of Learning |url=https://www.coursera.org/learn/building-community-habits-of-learning |website=Coursera |access-date=2022-06-06 |language=ja}}</ref>。
== 出典 ==
{{Reflist}}
== 記憶がテーマとなっている競技 ==
* [[メモリースポーツ]]
* [[記憶力日本選手権大会]]
* [[記憶力世界選手権大会]]
* [[弁論大会]]
* [[暗唱大会]]
* [[脳トレ]]
== 関連項目 ==
{{col-begin}}
{{col-break}}
* [[記憶術]]
* [[暗唱]]
* [[暗記]]
* {{ill2|記憶固定|en|Memory consolidation}}
* [[リハーサル (心理学)]]
* [[レミニセンス]]
* [[記憶の干渉]]
* [[暗黙知]]
* [[知覚]]
* [[理解]]
* [[思考]]
* [[学習]]
* [[幼児期健忘]]
{{col-break}}
* [[サヴァン症候群]]
* [[記憶障害]]
* [[忘却]]
* [[健忘]]
* [[痴呆症]]
* [[風化]]
* [[抑圧された記憶]]
* [[心的外傷後ストレス障害]](PTSD)
* [[過誤記憶]]
* [[ワーキングメモリー]]
{{col-break}}
* [[記憶転移]]
* [[細胞記憶]]
* [[脳科学]]
* [[神経学]]
* [[認知心理学]]
* {{ill2|記憶の神経解剖学|en|Neuroanatomy of memory}}
* [[長期増強]]、{{ill2|長期抑圧|en|Long-term depression}}
* {{ill2|記憶と感情|en|Emotion and memory}}
* [[ストレス (生体)|ストレス]]、[[コルチゾール]]、[[心的外傷]]、[[フラッシュバック (心理現象)|フラッシュバック]]
* [[エリック・カンデル]]
* [[世界五分前仮説]]
* [[培養槽の中の脳]]
* [[懐疑主義]]
* [[認識論]]
{{col-end}}
* {{ill2|集合的記憶|en|Collective memory}} - 集団で共有している記憶
== 外部リンク ==
{{Wiktionary|記憶}}
*{{脳科学辞典|記事名=想起・誤想起(記憶)}}
{{Spedia|Memory|Memory}}
{{Spedia|Cortical_Memory|Cortical Memory|皮質記憶|nolink=yes}}
{{Spedia|Emotional_Memory|Emotional Memory|情動記憶|nolink=yes}}
{{Spedia|Visual_Short_Term_Memory|Visual Short Term Memory|視覚短期記憶|nolink=yes}}
{{Spedia|Multiple_Memory_Systems|Multiple Memory Systems|Multiple Memory Systems|nolink=yes}}
*[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC0981W0Z01C22A1000000/ 記憶の定着、脳でシナプス食べる細胞が促す 東北大 (日本経済新聞2022年11月9日記事)]
{{SEP|memory|Memory}}
{{SEP|memory-episprob|Epistemological Problems of Memory|記憶に関する認識論的な論点|nolink=yes}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:きおく}}
[[Category:記憶|*]]
[[Category:心]]
[[Category:知識源]] | 2003-03-14T19:57:43Z | 2023-12-20T14:23:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E6%86%B6 |
4,034 | 微小管 | 微小管(びしょうかん、英: microtubule、マイクロチューブル)は、細胞中に見いだされる直径約 25 nm の管状の構造であり、主にチューブリンと呼ばれるタンパク質からなる。細胞骨格の一種。細胞分裂の際に形成される分裂装置(星状体・紡錘体・染色体をまとめてこう呼ぶ。星状体・紡錘体は中心体・微小管複合体そのものをその形態からこう呼んだ)の主体は、この微小管である。
チューブリンにはα, β, γ, δなどの種類があることが知られているが、微小管は主に、αチューブリンとβチューブリンが結合したヘテロ二量体(ヘテロダイマー)を基本単位として構成される。α, βチューブリンからなるヘテロ二量体が繊維状につながったものをプロトフィラメントと呼び、これが螺旋の形で11-16本程度集まって管状の構造を取ったものが微小管である。細胞中に見いだされる微小管の主なものは13本のプロトフィラメントからなり、直径が約25nmである。また、鞭毛・繊毛にはダブレット、トリプレットと呼ばれる2本または3本の微小管が融合した構造も見いだされる。
細胞中の微小管の表面には微小管結合タンパク質 (MAPs) と呼ばれるタンパク質が結合している。これらの結合タンパク質の種類は神経細胞、鞭毛、繊毛、紡錘体など、組織や微小管の機能によって異なっており、微小管の機能を調節していると考えられている。チューブリンとこの微小管結合タンパク質の複合体を広義には微小管と呼ぶ。
微小管には方向性があり、チューブリン二量体が付加しやすい側を+(プラス)端、解離しやすい側を-(マイナス)端と呼ぶ(微小管はチューブリンの付加により伸長し、解離により短縮される)。+端と-端では付加の速度が二倍程度違う。付加・解離の速度は遊離チューブリンの濃度によって決まり、高濃度の場合はいずれの端でも付加が起こる。濃度の低下とともにまず-端での付加が止まり、低濃度ではいずれの端でも解離が進む。伸長と解離の速度が等しく、全体に平衡状態となる濃度を臨界濃度と呼ぶ。微小管の見かけ上の長さが変化しない場合でも、常に+端での伸長と-端での短縮が起こっており、この状態をトレッドミルと呼ぶ。なお微小管+端においても臨界濃度以上の遊離チューブリンが存在していれば必ずしも伸長が続くというわけではなく、重合を続けていた微小管が突如 急激な脱重合 (catastroph) を起こすことがあり、これを動的不安定性 (dynamic instability) と呼んでいる。
この微小管の伸長と短縮(微小管のダイナミクスとも呼ばれる)は、微小管結合タンパク質 (MAPs) によって様々に変化する。微小管を安定化するもの、微小管を切断するもの、微小管同士を結合するものなどがある。
微小管は、その-端を中心体に置き、重合の場である+端を細胞内の様々な領域に伸ばすことが多い。なお、中心体を構成する中心子自体、9対の三連微小管が環状に配置したものである。また、中心体にはγチューブリンが含まれ、このγチューブリンに結合する形で微小管が伸長する。
細胞分裂の際に形成される紡錘体 (spindle) や、繊毛や鞭毛の主要な構造は複数の微小管の束からなり、染色体の移動や鞭毛打などの運動を司っている(原核生物の鞭毛には微小管は存在しない)。微小管を足場(レール)とするモータータンパク質としてダイニンやキネシンなどが知られている。これらのタンパク質は細胞の巨視的運動のみではなくタンパク質やmRNAといった分子の細胞内局在にも関与しているが、この場合の-端から+端に向けての輸送を順行性、+端から-端に向けての輸送を逆行性として区別され、いずれの輸送も微小管系と細胞質中に存在するモータータンパク質群との相互作用によって起こる。順行性の輸送はキネシンが、逆行性の輸送にはダイニンが重要な役割を果たしているといわれている。
コルヒチンやビンカアルカロイド系の抗がん剤(ビンクリスチンなど)は微小管の伸長を阻害する。タキサン系の抗がん剤(ドセタキセル、パクリタキセル)は逆に解離を阻害し、微小管を極度に安定化する。いずれも分裂装置の主体である微小管の不全をもたらし、細胞分裂を阻害することから分裂毒と呼ばれている。
微小管の重合を阻害する薬剤であるコルヒチンは紡錘糸の形成阻害を起こすことから、果樹では種無し(不稔)の果実を品種改良により作成する際に使用される(種なしスイカ参照)。 また、カタニンによって切断される。 | [
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] | 微小管は、細胞中に見いだされる直径約 25 nm の管状の構造であり、主にチューブリンと呼ばれるタンパク質からなる。細胞骨格の一種。細胞分裂の際に形成される分裂装置(星状体・紡錘体・染色体をまとめてこう呼ぶ。星状体・紡錘体は中心体・微小管複合体そのものをその形態からこう呼んだ)の主体は、この微小管である。 | {{出典の明記 | date = 2020-12}}
{{Organelle diagram}}
<!-- [[ファイル:Biological cell.svg|thumb|400px|典型的な動物細胞の模式図: (1) [[核小体]](仁)、(2) [[細胞核]]、(3) [[リボソーム]]、(4) [[小胞]]、(5) [[粗面小胞体]]、(6) [[ゴルジ体]]、(7) '''微小管'''、(8) [[滑面小胞体]]、(9) [[ミトコンドリア]]、(10) [[液胞]]、(11) [[細胞質基質]]、(12) [[リソソーム]]、(13) [[中心体]]]] -->
'''微小管'''(びしょうかん、{{Lang-en-short|microtubule}}、'''マイクロチューブル''')は、[[細胞]]中に見いだされる直径約 25 nm の[[管]]状の[[構造]]であり、主に[[チューブリン]]と呼ばれる[[タンパク質]]からなる。[[細胞骨格]]の一種。細胞分裂の際に形成される分裂装置([[星状体]]・[[紡錘体]]・[[染色体]]をまとめてこう呼ぶ。星状体・紡錘体は[[中心体]]・微小管複合体そのものをその形態からこう呼んだ)の主体は、この微小管である。
__TOC__
{{clear}}<!-- 上の動物細胞の模式図と、下の微小管の構造図の競合を避ける -->
== 微小管の構造 ==
[[File:Mikrotubula007 en.png|thumb|center|600px|上からチューブリン二量体、プロトフィラメント、微小管(左が側面、右が断面)]]
[[チューブリン]]にはα, β, γ, δなどの種類があることが知られているが、微小管は主に、αチューブリンとβチューブリンが結合したヘテロ二量体(ヘテロダイマー)を基本単位として構成される。α, βチューブリンからなるヘテロ二量体が繊維状につながったものをプロトフィラメントと呼び、これが[[螺旋]]の形で11-16本程度集まって管状の構造を取ったものが微小管である。細胞中に見いだされる微小管の主なものは13本のプロトフィラメントからなり、直径が約25nmである。また、鞭毛・繊毛にはダブレット、トリプレットと呼ばれる2本または3本の微小管が融合した構造も見いだされる。
細胞中の微小管の表面には[[微小管結合タンパク質]] (MAPs) と呼ばれるタンパク質が結合している。これらの結合タンパク質の種類は神経細胞、鞭毛、繊毛、紡錘体など、組織や微小管の機能によって異なっており、微小管の機能を調節していると考えられている。チューブリンとこの微小管結合タンパク質の複合体を広義には微小管と呼ぶ。
== 微小管の伸長 ==
微小管には方向性があり、チューブリン二量体が付加しやすい側を+(プラス)端、解離しやすい側を-(マイナス)端と呼ぶ(微小管はチューブリンの付加により伸長し、解離により短縮される)。+端と-端では付加の速度が二倍程度違う。付加・解離の速度は遊離チューブリンの濃度によって決まり、高濃度の場合はいずれの端でも付加が起こる。濃度の低下とともにまず-端での付加が止まり、低濃度ではいずれの端でも解離が進む。伸長と解離の速度が等しく、全体に平衡状態となる濃度を[[臨界濃度]]と呼ぶ。微小管の見かけ上の長さが変化しない場合でも、常に+端での伸長と-端での短縮が起こっており、この状態を[[トレッドミル]]と呼ぶ。なお微小管+端においても臨界濃度以上の遊離チューブリンが存在していれば必ずしも伸長が続くというわけではなく、重合を続けていた微小管が突如 急激な[[脱重合]] (catastroph) を起こすことがあり、これを[[動的不安定性]] (dynamic instability) と呼んでいる。
この微小管の伸長と短縮(微小管のダイナミクスとも呼ばれる)は、微小管結合タンパク質 (MAPs) によって様々に変化する。微小管を安定化するもの、微小管を切断するもの、微小管同士を結合するものなどがある。
微小管は、その-端を[[中心体]]に置き、重合の場である+端を細胞内の様々な領域に伸ばすことが多い。なお、中心体を構成する[[中心子]]自体、9対の三連微小管が環状に配置したものである。また、中心体にはγチューブリンが含まれ、このγチューブリンに結合する形で微小管が伸長する。
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== 微小管形成の操作 ==
[[コルヒチン]]やビンカアルカロイド系の[[抗がん剤]]([[ビンクリスチン]]など)は微小管の伸長を阻害する。タキサン系の抗がん剤([[ドセタキセル]]、[[パクリタキセル]])は逆に解離を阻害し、微小管を極度に安定化する。いずれも分裂装置の主体である微小管の不全をもたらし、細胞分裂を阻害することから分裂毒と呼ばれている。
微小管の重合を阻害する薬剤である[[コルヒチン]]は紡錘糸の形成阻害を起こすことから、[[果樹]]では種無し([[不稔]])の果実を[[品種改良]]により作成する際に使用される([[種なしスイカ]]参照)。
また、[[カタニン]]によって切断される。
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Microtubules}}
* [[細胞骨格]]
* [[中心体]]
** [[微小管形成中心]]
* [[原形質流動]]
* [[チューブリン]]
* [[ダイニン]]
* [[キネシン]]
* [[スタスミン]]
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* {{脳科学辞典|微小管}}
* {{脳科学辞典|MAP2|nolink=yes}} - 微小管に結合するタンパク質であるMicrotubules-associated protein 2に関する解説。
{{細胞小器官}}
{{DEFAULTSORT:ひしようかん}}
[[Category:細胞解剖学]]
[[Category:細胞骨格]] | 2003-03-14T20:16:10Z | 2023-08-28T01:58:31Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Organelle diagram",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Clear",
"Template:Commonscat",
"Template:Reflist",
"Template:脳科学辞典",
"Template:細胞小器官"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%AE%E5%B0%8F%E7%AE%A1 |
4,035 | 生命 | 生命(せいめい、英: life、羅: vita ウィータ)とは一般に生物及び生命体が生きていくための根源的な力。ここでは幅広く意味を持つ生命について詳しく解説する。
生命とは、文脈によって様々な定義がある語であるが、基本的には「生きているもの」と「死んでいるもの」、あるいは物質と生物を区別する特徴・属性などを指す語、あるいは抽象概念である。伝統的に、「生き物が生きた状態」そのものを生命と呼んだり、生きた状態は目に見えない何かが宿っている状態であるとして、その宿っているものを「生命」「命」「魂」などと呼んでおり、現在でも広く日常的にそのような用法で使われている。現代の生物学では、代謝に代表される、自己の維持、増殖、自己と外界との隔離など、様々な現象の連続性を以って「生命」とする場合が多い。
生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や生命観と言う。自然哲学には自然哲学の生命観があり、宗教には宗教的な生命観がある。現在、一般的・日常的には、生きものが生きている状態を指して「生命を持っている」「生命を宿している」と呼び、文脈によっては非物質的な魂のようなものを指す場合もある。
ここでは様々な角度から生命を扱うことにし、伝統的な概念から、現代生物学的な生命に関する概念や理論までを、ある程度歴史に沿って追ってゆくことにする。
大島泰郎によれば、現在、我々人類が知っている生命は、地球上の生物のみであるが、これらの全ての生物は同一の先祖から発展してきたと、現代生物学では考えられている。その理由は、全ての地球生物が用いるアミノ酸が20種類だけに限定され、そのうちグリシンを除き光学異性体を持つ19種類が全てL型を選択していること、またDNAに用いる核酸の塩基が4種類に限定され、それらが全てD型である事である。
現在知られている地球上の全ての生物は炭素を素にしているが、我々が地球以外での生命の形を知らないだけという可能性も指摘されることがある。理論上は炭素以外の物質を元とした生物も考えられうる。
生命の定義は哲学、生物学双方の分野で、非常に困難な問題である。生命とは何らかの過程を意味するものであり、純粋な物質というわけではないからである。また、地球以外で生み出された生命体についての知識が乏しいことも生命の定義を困難にしている。哲学における生命の定義も試みられているが、生命体と非生命体の区別においては生物学と似たような困難に直面している。また、生命を法的に定義することも広く議論されてきたものの、法学における論争は主に特定の人間の死亡を宣告する条件と死亡宣告の影響に集中している。
何が「生きているか」を考える難しさを示す実例にHeLa細胞が挙げられる事もある。これはヘンリエッタ・ラックスというアメリカ人女性の子宮がん細胞を元にしたヒト細胞であり、培養され世界中の研究所に分配され試験に用いられている。ヘンリエッタ個人は既に亡くなったが、彼女由来の細胞は現在でも生きている。生命の基本的活動が細胞である事、そして「生きている」状態には明瞭な線引きができないさまざまな段階が存在すると考えられている。
生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や生命観と言う。
古代ギリシャ人たちは、生きている状態のことを希: Ψυχή プシュケーと呼んでいた。プシュケーというのはもともとは息(呼吸)のことであり、呼吸は生きていることを示す最も目立つ特徴なので、この言葉が「生きていること= 生命」も指すようになり、転じて日本語の「心」や「霊魂」という概念まで意味するようになった。 アリストテレスは Peri psyches 『ペリ・プシュケース』でこのプシュケーについて論じた。(同著の題名は直訳すれば『プシュケーについて』である。)アリストテレスは初期段階では、生きものの種類によって異なるプシュケーの段階があると見なしていて、(1)植物的プシュケー (2)動物的プシュケー (3)理性的プシュケー(人間のプシュケー)というように区別していたが、やがて植物・動物・人間の間にプシュケーの差というのはさほど絶対的なものではないと見なすようになり、最終的にはそれらプシュケーに差はない、とも記した。
また、「すべての物質は生きている」とする哲学的な考え方が古くから現代にいたるまである。古くは古代ギリシャのミレトス学派にもそうした考え方があったことが知られている。こうした考え方を物活論(英語版) hylozoism と言う。
ヨーロッパでは中世、キリスト教が広がり、旧約聖書の創世記の記述に従い、神が自然も人間も、動物・植物も、その他 生きとし生けるものすべてを造ったと考えていた。また、12世紀ルネサンスによってイスラーム(アラビア語)の文献がラテン語に翻訳されるようになると、そこで解説されていたアリストテレスの考え方が知られるようになり、その生命論も受け入れられるようになった。
1648年にデカルトが、Le monde(『世界論』とも『宇宙論』とも)の後半にあたるTraité de l'homme(『人間論』)を出版した。デカルトは、人間も含めて全ての生物は神が制作した機械だと見なした。当時、ものの喩えではなく、宇宙は機械だと考えられたが、こうした考えの背景には「神が宇宙を制作した」というキリスト教の信仰がある。と同時に、その本でデカルトは、例えば心臓は熱機関だとし、運動によって説明できる、とし、(アリストテレスが用いていたプシュケーという概念の系統に属するともいえる)植物プシュケーや感覚プシュケーなどは用いなくても説明できる、とした。アリストテレスがプシュケーを用いて、生命と非生命の区別をしふたつは異なっているとしたのに対し、デカルトはその差異は見せかけのものだとして、全てを物の運動で説明しようとした。デカルトの考え方は機械論と呼ばれる。
18世紀になると、それを批判する動きが出た。18世紀フランスの哲学者コンディアックが1749年に『体系論』を出版したが、そこで彼はデカルト以来の17世紀的な「体系」は、事実に根拠を持たない想像力の産物だとして批判し、学問的な知識というのは、“ニュートン力学のように”観察にもとづく事実を出発点にして構築しなければいけない、と述べた。18世紀に博物学が再隆盛した理由としてジャック・ロジェは17世紀の内戦の時代の後に社会が全体的に安定し、人々が「退屈」したことを挙げた。退屈な現実から逃れるため、異国の文物や自然学研究に関心を持ったという。
18世紀には生命と物質の概念の区分けは現代人と異なっていた。たとえば、18世紀の博物学における分類体系においては、大抵は、「動物界」「植物界」「鉱物界」が並置されていた。分類学の父とされるリンネの『自然の体系』(1735)はその典型で、冒頭で「自然物は鉱物界、植物界、動物界の三界に区分される。鉱物は成長する。植物は成長し、生きる。動物は成長し、生き、感覚を持つ」と定義された。
すべてのcreature(被造物。神が創造したもの)というのは、鉱物のような単純なものから植物、動物、そして人間のような複雑な存在へ、さらには人間よりも高度な天使へと連続的な序列をなしている、というイメージはヨーロッパでは根強いものがあった(この連続的な階梯は「存在の大いなる連鎖(英語版) the great chain of being 」と呼ばれる)。
リンネと同年生まれのビュッフォンは自著『博物誌』においてリンネの分類体系(花のおしべやめしべの数で分類するもの)を批判しつつ、客観的な分類は不可能だ、と主張した。上述のように全ての被造物は連続的な序列をなしていると考えられていたので、連続的に変化するものに客観的な区分線などないのだから、自然を分類するということは人為的あるいは恣意的だ、とした。ビュッフォンの『博物誌』もまた四足獣類、鳥類、鉱物の巻があり、それらを等しく対象としていた。
ラマルクは1809年の著書『動物哲学』において、「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」と強調した。これは18世紀に台頭したVitalism(ヴァイタリズム)という考え方が背景にある。ヴァイタリズムというのは「生きているものには、物質とは異なる特殊な生命原理がはたらいている」とする考え方であり、「生命原理」「生命特性」や「生命力」といった用語が用いられた。この「生命原理」は、個体全体にはたらくというよりも、個体を構成する器官や組織が持つ特性で、何らかの自然法則である、と考えられた。こうした2点でヴァイタリズムは単なるアニミズムとは異なっていた。アニミズムが「ただの物体としての身体に、超自然的・非物質的な、だが実体的なアニマが宿る」と考えるのに対して、ヴァイタリズムというのは「身体を構成する組織や物質そのものが、何らかの生命原理を持っている。その原理は自然法則であって研究できる」と考える。17世紀〜18世紀にかけて解剖実験が行われるようになり、切り離された心臓がしばらく鼓動しつづけることや、切り離された筋肉が刺激によって動くことが観察されたことなどから、器官や組織は生きている、とする考え方が生まれた。
20世紀になるとホーリスム的な考え方も提唱され、またネオヴァイタリズムや有機体論なども登場した。
現在では、生命は自動制御の機械に譬えられることも多いが、同時にそれは有機体論的にも把握されており、分子生物学な見解も認められており、また、生命を可能ならしめている土台には情報の伝達やエネルギーの方向性のある変換がある、とも言われるなど様々な切り口で把握されており、現代の生命論は複雑な様相を呈している。
多くの宗教においては、死後の世界もしくは、輪廻、転生などがあると考えられている。この場合、人間の主体、存在の本質、あるいは人格そのものを、魂、霊魂と呼ぶ。生命と霊魂を同一視するかどうかは、様々である。
古代インドのヴェーダや仏教では、人間の命と動物の命は同列的に扱われていた。仏教では、人間が動物に転生する考えなども見られるし、宗教家が動物を食べることはあまりよくないとする例もある。またジャイナ教では、虫を踏み潰して無駄な殺生をすることがないよう、僧侶は常にほうきを持ち歩くという習慣も見ることができる。
一方、キリスト教では、人間と動物の生命は全く別のものとする傾向が強く、人間という存在は「神によって命を吹き込まれたもの」であり特別な存在である。さらに言えば、「命を失った者」と背信者を呼ぶ比喩が存在し、「命を得た者」「永遠の命を得た者」と神を信じるようになった者、天国に至る権利を得た者を呼ぶ場合がある。
生物学では、生物の示す固有の現象を生命現象と呼ぶ。生命とは、その根元にあるものとの思想があり、生気論もその一つである。
生命現象には様々な側面があるが、一般に生物学では、根本的な生命の定義に関わる部分は、その内部での物質交換と外部との物質のやりとり、および同じ型の個体の再生産にあると考えられている。また、そのような性質を持つ最小の単位が細胞であるので、細胞を生命の最小の単位と見なし、それから構成されるものに生命を認める、というのが一般的である。植物の種子などのように、著しく代謝活動が不活発な状態でも代謝活動の再開が見込める場合には生きている、と呼ぶ。
ところが、ウイルスやウイロイドなどの存在は判断が難しい。ウイルスを生物とするか無生物とするかについて長らく論争があり、いまだに決着していないと言ってもよい。
ウイルスは増殖はするが代謝を行っていない。増殖について言えば、宿主となる生物が持つ有機物質合成機能のシステムの中にウイルスが入り込むと、宿主のシステムが言わば誤動作を起こしてしまいウイルスを増産してしまう。形状について言えば、ウイルスはDNAやRNAなどの核酸とそれを包む殻から成っている。概して幾何学的な形状を持っており、あるものは正二十面体のような多角立方体、あるものは無人火星探査機のようなメカニカルな形状をしており、同一種はまったく同形で、生物全般に見られる個体の多様性が見られない。代謝について言えば、ウイルスは栄養を摂取することがなく、呼吸もしないし、老廃物の排泄もしておらず、つまり生命の特徴である代謝を一切行っていない。また1935年にはすでにタバコモザイクウイルスの結晶化が成功している。結晶というのは、同じ構造を持つ単位が規則正しく充填される。この点でもウイルスは生物というよりは物質と言える側面があることがわかった。これらの相違点があるので普通はウイルスを生物とは認めない。 また、ウイロイドというのは、寄生性RNAのことで、ウイルス同様に宿主内のシステムが異常なものであることを判別できずに増産してしまう等々の特徴はウイルス同様であり一般に生物とは認めない。 ただし、これらも自己複製という点だけに着眼すれば単なる物質から一線を画しており、「ウイルスは生物と無生物の間をたゆたう何者かである」とも福岡伸一は表現した。
近年の生命の定義の試みは多数あり主要なものを挙げただけでも相当な数になるが、参考までにその一例を紹介すると、例えば福岡伸一は、ルドルフ・シェーンハイマーの発見した「生命の動的状態」という概念を拡張し、動的平衡という概念を提示し、「生命とは動的平衡にある流れである」とした。 生物は動的に平衡状態を作り出している。生物というのは平衡が崩れると、その事態に対して反応を起こす。そして福岡は、ノックアウトマウスの実験結果なども踏まえて、従来の生命の定義の設問は時間を見落としている、とし、生命を機械に譬えるのは無理があるとする。機械には時間が無く原理的にはどの部分から作ることもでき部品を抜き取ったり交換したりすることもでき生物に見られる一回性というものが欠如しているが、生物には不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、二度と解くことのできないものとして存在している、とした。
物理学者のシュレーディンガーは、著書『生命とは何か?』の中で生命を、ネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れ体内のエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした。
地球上の生命は、およそ37億年前には存在していたという証拠がある。また、細胞を基本の構成単位としていること、核酸・タンパク質・脂質などからなることなどから、地球上の生命は全て単一の祖先から進化したか、他の生命は発生しなかった、ないしは発生してもすぐに絶滅したと考えられている。
また、地球生命の起源を地球外部に求める説も存在する。1908年にスウェーデンのスヴァンテ・アレニウスが提唱したことに始まるパンスペルミア説(胚種普遍説)は、細胞や生命の種が宇宙から飛来する場合に長期間受けるであろう有害な宇宙線を例にした否定論も多く、賛否入り混じったさまざまな議論が行われた。その一方で、生命の材料たりえる有機化合物が宇宙空間に存在する証拠は数多く積み上がっている。隕石中からは、古くは1806年のアライス隕石から発見されている。本格的な研究は20世紀中ごろから始まり、アミノ酸・核酸塩基・炭化水素・ポリフィリンなどの発見が相次いだ。1986年3月にハレー彗星が地球に近づいた際、日本・ヨーロッパ・ソ連は計5基の観測器を送り込み、様々な分析を行った。その結果、アミノ酸合成の中間物にあたるシアン化水素やホルムアルデヒド、酸化炭素・炭化水素・アンモニア・硫化水素や硫化炭素・ヒドラジンなどが発見された。彗星は、太陽系形成初期の物質を維持していると考えられ、これが海を形成した後の地球に降ったならば、彗星から生命の材料たる有機化合物が供給された可能性がある。また、地球以外の天体にも同様に材料を分け与え、条件がそろえば生命が発生したことを否定できない。電波天文学の発展が明らかにした星間物質の組成には、多様な有機化合物が発見されている。このような結果から、生命の素材を地球内部の化学合成だけに限定する必然性は段々と薄れつつある。
生命の特徴のひとつに、自己と同じ子孫を複製し増殖する能力を持つことがある。これは核酸で構成される遺伝子を用いて行われる。地球生命の場合、4種類の塩基をD-リボース(またはD-デオキシリボース)という糖と結びついた化合物ヌクレオシドが、リン酸と結合してヌクレオチドとなり、これが鎖状につながって構成される。この各塩基には「塩基対」という水素結合で結びつきやすい組み合わせがあり、核酸は必ずこの塩基対に応じたもう1本の核酸と対をつくる。これがDNAである。対になったDNAを引き離すと、それぞれの核酸は周囲から塩基を集め、対の相手を作り、その結果同じDNAが2組出来上がる。これが生命の自己複製の基礎である。
地球生命では、DNAの連なる塩基3つを1組とする意味を持ち、細胞を構成するたんぱく質のアミノ酸がどのように並ぶかを、DNAから複製したm-RNAで規定し、親と同じ構造を作り出す。生命が自己複製を行うにおいて、地球外の生命でも基本的に塩基対構造と似た働きを持つ物質を介すると考えられるが、地球環境内では塩基以外に相応する物質はほとんど無い。ただし、地球外生物では使用する塩基の数が4種以外であったり、生体の基本物質を規定する塩基数は3つ1組以外の組み合わせを利用する可能性も想定できる。
生命は、成長や増殖に必要なエネルギー源を外部から栄養の形で得る。栄養はそのまま用いることができないため、複雑な化学反応をへてエネルギーに変換するが、これを代謝という。
生物の細胞や臓器における生命活動が不可逆的に失なわれることを死と呼ぶ。生命を定義することが難しいのと同様に、死を定義することも困難な問題である。そのため、生きている状態と死んでいる状態をはっきりと区別することはできない。多細胞生物においては、個体の死と細胞の死は別々に考えられるべきで、例えば、臓器移植の場合、臓器提供者が死んだとしても、移植が成功すればその臓器は生きていると考えられる。また生命体は普通、子をなしてその血統を存続させる。これを細胞レベルで見れば、細胞の分裂と融合に基づく連続性は常に維持されているため、その意味で生命は停止せずに連続していると表現する事も出来る。これを生命の連続性という。
多くの宗教では、何らかの形での死後の世界や輪廻、転生などが存在していると考えられている。
人間によって作成、またはシミュレーションされた生命体を人工生命と呼ぶ。特に近年の情報処理技術の発達にともなって、生命現象のシミュレーションをコンピュータ内("in silico")で行なうことも可能になった。文字通り「生命」を持つ人工生命を強い人工生命(strong Artificial Life, または Strong Alife)と呼び、限定された人工環境下で生命現象の一部だけをシミュレーションしたものを弱い人工生命(weak Alife)と呼ぶ。強いAlifeが本当に実現可能であるのか、化学的プロセスと切り離されたコンピュータ上の計算が生命を持つと呼べるのかについては、さまざまな議論がある。
コンピュータシミュレーションではない現実の生命については、2003年にゲノム解析の塩基配列情報からウイルスを合成することができたという報告がある。 その後2010年、アメリカのクレイグ・ベンター博士のチームはmycoplasmaのゲノムを表すほぼ完全なDNAを合成し、本来のDNAを除去された近縁種の細菌の細胞に、合成したDNAを移植する手法で、自立的に増殖する人工細菌を作成することに成功した。
21世紀初頭現在において、人類の知識の範囲内では、全ての生命体は地球上にしか存在しない。しかし、地球外生命の存在可能性は、古くからかぐや姫やウェルズの宇宙戦争のような、おとぎ話やSFのインスピレーション元となってきた。また、近年の観測技術の発達に伴い、地球外生命体の存在可能性は真面目な科学的考察の対象となっている。カール・セーガンは、著書『コスモス』で、地球外生命体の存在可能性を数式を用いて提示した。太陽系内のいくつかの天体における生命存在の可能性については古くから議論がなされており、中でももっとも生命存在の可能性が高いとされる火星においては、1975年から1976年にかけて行われたバイキング計画において生命探査が行われたが、生命の痕跡を検出することはできなかった。しかし、その後も火星生命の探索は行われている。このほか、地下に海の存在する可能性の高い木星の衛星エウロパや土星の衛星エンケラドゥス、液体メタンやエタンによる海が存在する土星の衛星タイタンなども生命の存在する可能性があると考えられている(タイタンの生命も参照)。 | [
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"text": "生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や生命観と言う。自然哲学には自然哲学の生命観があり、宗教には宗教的な生命観がある。現在、一般的・日常的には、生きものが生きている状態を指して「生命を持っている」「生命を宿している」と呼び、文脈によっては非物質的な魂のようなものを指す場合もある。",
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"tag": "p",
"text": "ウイルスは増殖はするが代謝を行っていない。増殖について言えば、宿主となる生物が持つ有機物質合成機能のシステムの中にウイルスが入り込むと、宿主のシステムが言わば誤動作を起こしてしまいウイルスを増産してしまう。形状について言えば、ウイルスはDNAやRNAなどの核酸とそれを包む殻から成っている。概して幾何学的な形状を持っており、あるものは正二十面体のような多角立方体、あるものは無人火星探査機のようなメカニカルな形状をしており、同一種はまったく同形で、生物全般に見られる個体の多様性が見られない。代謝について言えば、ウイルスは栄養を摂取することがなく、呼吸もしないし、老廃物の排泄もしておらず、つまり生命の特徴である代謝を一切行っていない。また1935年にはすでにタバコモザイクウイルスの結晶化が成功している。結晶というのは、同じ構造を持つ単位が規則正しく充填される。この点でもウイルスは生物というよりは物質と言える側面があることがわかった。これらの相違点があるので普通はウイルスを生物とは認めない。 また、ウイロイドというのは、寄生性RNAのことで、ウイルス同様に宿主内のシステムが異常なものであることを判別できずに増産してしまう等々の特徴はウイルス同様であり一般に生物とは認めない。 ただし、これらも自己複製という点だけに着眼すれば単なる物質から一線を画しており、「ウイルスは生物と無生物の間をたゆたう何者かである」とも福岡伸一は表現した。",
"title": "生物学における生命"
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"paragraph_id": 27,
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"text": "近年の生命の定義の試みは多数あり主要なものを挙げただけでも相当な数になるが、参考までにその一例を紹介すると、例えば福岡伸一は、ルドルフ・シェーンハイマーの発見した「生命の動的状態」という概念を拡張し、動的平衡という概念を提示し、「生命とは動的平衡にある流れである」とした。 生物は動的に平衡状態を作り出している。生物というのは平衡が崩れると、その事態に対して反応を起こす。そして福岡は、ノックアウトマウスの実験結果なども踏まえて、従来の生命の定義の設問は時間を見落としている、とし、生命を機械に譬えるのは無理があるとする。機械には時間が無く原理的にはどの部分から作ることもでき部品を抜き取ったり交換したりすることもでき生物に見られる一回性というものが欠如しているが、生物には不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、二度と解くことのできないものとして存在している、とした。",
"title": "生物学における生命"
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"text": "物理学者のシュレーディンガーは、著書『生命とは何か?』の中で生命を、ネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れ体内のエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした。",
"title": "生物物理学における生命"
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"text": "地球上の生命は、およそ37億年前には存在していたという証拠がある。また、細胞を基本の構成単位としていること、核酸・タンパク質・脂質などからなることなどから、地球上の生命は全て単一の祖先から進化したか、他の生命は発生しなかった、ないしは発生してもすぐに絶滅したと考えられている。",
"title": "生命の起源"
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"text": "また、地球生命の起源を地球外部に求める説も存在する。1908年にスウェーデンのスヴァンテ・アレニウスが提唱したことに始まるパンスペルミア説(胚種普遍説)は、細胞や生命の種が宇宙から飛来する場合に長期間受けるであろう有害な宇宙線を例にした否定論も多く、賛否入り混じったさまざまな議論が行われた。その一方で、生命の材料たりえる有機化合物が宇宙空間に存在する証拠は数多く積み上がっている。隕石中からは、古くは1806年のアライス隕石から発見されている。本格的な研究は20世紀中ごろから始まり、アミノ酸・核酸塩基・炭化水素・ポリフィリンなどの発見が相次いだ。1986年3月にハレー彗星が地球に近づいた際、日本・ヨーロッパ・ソ連は計5基の観測器を送り込み、様々な分析を行った。その結果、アミノ酸合成の中間物にあたるシアン化水素やホルムアルデヒド、酸化炭素・炭化水素・アンモニア・硫化水素や硫化炭素・ヒドラジンなどが発見された。彗星は、太陽系形成初期の物質を維持していると考えられ、これが海を形成した後の地球に降ったならば、彗星から生命の材料たる有機化合物が供給された可能性がある。また、地球以外の天体にも同様に材料を分け与え、条件がそろえば生命が発生したことを否定できない。電波天文学の発展が明らかにした星間物質の組成には、多様な有機化合物が発見されている。このような結果から、生命の素材を地球内部の化学合成だけに限定する必然性は段々と薄れつつある。",
"title": "生命の起源"
},
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"paragraph_id": 31,
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"text": "生命の特徴のひとつに、自己と同じ子孫を複製し増殖する能力を持つことがある。これは核酸で構成される遺伝子を用いて行われる。地球生命の場合、4種類の塩基をD-リボース(またはD-デオキシリボース)という糖と結びついた化合物ヌクレオシドが、リン酸と結合してヌクレオチドとなり、これが鎖状につながって構成される。この各塩基には「塩基対」という水素結合で結びつきやすい組み合わせがあり、核酸は必ずこの塩基対に応じたもう1本の核酸と対をつくる。これがDNAである。対になったDNAを引き離すと、それぞれの核酸は周囲から塩基を集め、対の相手を作り、その結果同じDNAが2組出来上がる。これが生命の自己複製の基礎である。",
"title": "典型的な生命現象"
},
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"text": "地球生命では、DNAの連なる塩基3つを1組とする意味を持ち、細胞を構成するたんぱく質のアミノ酸がどのように並ぶかを、DNAから複製したm-RNAで規定し、親と同じ構造を作り出す。生命が自己複製を行うにおいて、地球外の生命でも基本的に塩基対構造と似た働きを持つ物質を介すると考えられるが、地球環境内では塩基以外に相応する物質はほとんど無い。ただし、地球外生物では使用する塩基の数が4種以外であったり、生体の基本物質を規定する塩基数は3つ1組以外の組み合わせを利用する可能性も想定できる。",
"title": "典型的な生命現象"
},
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"text": "生命は、成長や増殖に必要なエネルギー源を外部から栄養の形で得る。栄養はそのまま用いることができないため、複雑な化学反応をへてエネルギーに変換するが、これを代謝という。",
"title": "典型的な生命現象"
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"text": "生物の細胞や臓器における生命活動が不可逆的に失なわれることを死と呼ぶ。生命を定義することが難しいのと同様に、死を定義することも困難な問題である。そのため、生きている状態と死んでいる状態をはっきりと区別することはできない。多細胞生物においては、個体の死と細胞の死は別々に考えられるべきで、例えば、臓器移植の場合、臓器提供者が死んだとしても、移植が成功すればその臓器は生きていると考えられる。また生命体は普通、子をなしてその血統を存続させる。これを細胞レベルで見れば、細胞の分裂と融合に基づく連続性は常に維持されているため、その意味で生命は停止せずに連続していると表現する事も出来る。これを生命の連続性という。",
"title": "典型的な生命現象"
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"text": "多くの宗教では、何らかの形での死後の世界や輪廻、転生などが存在していると考えられている。",
"title": "典型的な生命現象"
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"text": "人間によって作成、またはシミュレーションされた生命体を人工生命と呼ぶ。特に近年の情報処理技術の発達にともなって、生命現象のシミュレーションをコンピュータ内(\"in silico\")で行なうことも可能になった。文字通り「生命」を持つ人工生命を強い人工生命(strong Artificial Life, または Strong Alife)と呼び、限定された人工環境下で生命現象の一部だけをシミュレーションしたものを弱い人工生命(weak Alife)と呼ぶ。強いAlifeが本当に実現可能であるのか、化学的プロセスと切り離されたコンピュータ上の計算が生命を持つと呼べるのかについては、さまざまな議論がある。",
"title": "人工生命"
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"text": "コンピュータシミュレーションではない現実の生命については、2003年にゲノム解析の塩基配列情報からウイルスを合成することができたという報告がある。 その後2010年、アメリカのクレイグ・ベンター博士のチームはmycoplasmaのゲノムを表すほぼ完全なDNAを合成し、本来のDNAを除去された近縁種の細菌の細胞に、合成したDNAを移植する手法で、自立的に増殖する人工細菌を作成することに成功した。",
"title": "人工生命"
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"text": "21世紀初頭現在において、人類の知識の範囲内では、全ての生命体は地球上にしか存在しない。しかし、地球外生命の存在可能性は、古くからかぐや姫やウェルズの宇宙戦争のような、おとぎ話やSFのインスピレーション元となってきた。また、近年の観測技術の発達に伴い、地球外生命体の存在可能性は真面目な科学的考察の対象となっている。カール・セーガンは、著書『コスモス』で、地球外生命体の存在可能性を数式を用いて提示した。太陽系内のいくつかの天体における生命存在の可能性については古くから議論がなされており、中でももっとも生命存在の可能性が高いとされる火星においては、1975年から1976年にかけて行われたバイキング計画において生命探査が行われたが、生命の痕跡を検出することはできなかった。しかし、その後も火星生命の探索は行われている。このほか、地下に海の存在する可能性の高い木星の衛星エウロパや土星の衛星エンケラドゥス、液体メタンやエタンによる海が存在する土星の衛星タイタンなども生命の存在する可能性があると考えられている(タイタンの生命も参照)。",
"title": "地球外生命体"
}
] | 生命とは一般に生物及び生命体が生きていくための根源的な力。ここでは幅広く意味を持つ生命について詳しく解説する。 | {{Otheruseslist|生きているものを指す概念|1994年の[[NHKスペシャル]]|生命40億年はるかな旅|松山千春の曲|生命 (松山千春の曲)}}
{{導入部が短い|date=2018年10月}}
{{出典の明記|date=2012年11月}}
[[File:Human fetus 10 weeks - therapeutic abortion.jpg|thumb|right|[[妊娠]]第10週目の[[ヒト]]の[[胎児]]。]]
'''生命'''(せいめい、{{Lang-en-short|life}}、{{Lang-la-short|vita}} ウィータ)とは一般に[[生物]]及び[[生命体]]が生きていくための[[根源]]的な力。ここでは幅広く[[意味]]を持つ生命について詳しく[[解説]]する。
== 概論 ==
生命とは、[[文脈]]によって様々な[[定義]]がある語であるが、基本的には「生きているもの」と「死んでいるもの」、あるいは[[物質]]と[[生物]]を区別する特徴・[[属性]]などを指す語、あるいは[[抽象化|抽象概念]]である。伝統的に、「生き物が生きた状態」そのものを生命と呼んだり、生きた状態は目に見えない何かが宿っている状態であるとして、その宿っているものを「生命」「[[命]]」「[[魂]]」などと呼んでおり、現在でも広く日常的にそのような用法で使われている。現代の[[生物学]]では、[[代謝]]に代表される、自己の維持、増殖、[[自己]]と外界との隔離など、様々な現象の連続性を以って「生命」とする場合が多い。
生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や[[#生命観・生命論の歴史|生命観]]と言う。[[自然哲学]]には自然哲学の生命観があり、[[宗教]]には宗教的な生命観がある。現在、一般的・日常的には、生きものが生きている状態を指して「生命を持っている」「生命を宿している」と呼び、文脈によっては非物質的な[[魂]]のようなものを指す場合もある。
ここでは様々な角度から生命を扱うことにし、伝統的な概念から、現代生物学的な生命に関する概念や理論までを、ある程度歴史に沿って追ってゆくことにする。
{{main2|伝統的な理解については[[命]]、[[魂]]も}}
[[大島泰郎]]によれば、現在、我々[[人類]]が知っている生命は、[[地球]]上の[[生物]]のみであるが、これらの全ての生物は同一の[[先祖]]から発展してきたと、[[現代生物学]]では考えられている。その理由は、全ての地球生物が用いる[[アミノ酸]]が20種類だけに限定され、そのうち[[グリシン]]を除き[[光学異性体]]を持つ19種類が全てL型を選択していること、また[[DNA]]に用いる核酸の[[塩基]]が4種類に限定され、それらが全てD型である事である<ref name="Oshima14">[[#大島(1994)|大島(1994)、p.14-29、第1章 生命は星の一部である、(1)宇宙の生命を探る]]</ref>。
現在知られている地球上の全ての生物は[[炭素]]を素にしているが、我々が[[地球外生命体|地球以外での生命]]の形を知らないだけという可能性も指摘されることがある。理論上は炭素以外の物質を元とした生物も考えられうる。
{{seealso|代わりの生化学}}
== 定義 ==
生命の定義は[[哲学]]、[[生物学]]双方の分野で、非常に困難な問題である<ref>[http://www.astrobio.net/exclusive/226/defining-life Defining Life : Astrobiology Magazine - earth science - evolution distribution Origin of life universe - life beyond]</ref><ref>[http://www.nbi.dk/~emmeche/cePubl/97e.defLife.v3f.html Defining Life, Explaining Emergence]</ref><ref>{{cite web|url=http://artsandsciences.colorado.edu/magazine/2009/03/can-we-define-life/|title=Can We Define Life|accessdate=2009-06-22|year=2009|publisher=Colorado Arts & Sciences}}</ref>。生命とは何らかの過程を意味するものであり、純粋な物質というわけではないからである<ref name="McKay">{{cite journal|title=What Is Life—and How Do We Search for It in Other Worlds?|journal=PLoS Biol.|date=September 14, 2004|first=Chris P.|last=McKay|coauthors=|volume=2|issue=2(9)|pages=302|id=PMID PMC516796 {{doi|10.1371/journal.pbio.0020302}}|url=http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC516796/?tool=pubmed|format=|accessdate=2010-02-02}}</ref>。また、地球以外で生み出された生命体についての知識が乏しいことも生命の定義を困難にしている<ref>{{Cite journal |last1=Nealson |first1=K.H. |last2=Conrad |first2=P.G. |title=Life: past, present and future |journal={{仮リンク|フィロソフィカル・トランザクションズB|en|Philosophical Transactions of the Royal Society B|label=Philosophical Transactions of the Royal Society of London B}} |volume=354 |issue=1392 |pages=1923–39 |date=December 1999 |pmid=10670014 |pmc=1692713 |doi=10.1098/rstb.1999.0532 |url=http://journals.royalsociety.org/content/7r10hqn3rp1g1vag/fulltext.pdf}}</ref><ref name="Bioethics">{{Cite journal2|last=Mautner |first=Michael N. |title=Life-centered ethics, and the human future in space |journal=Bioethics |volume=23 |pages=433–40 |date=2009 |doi=10.1111/j.1467-8519.2008.00688.x |pmid=19077128 |url=http://www.astro-ecology.com/PDFLifeCenteredBioethics2009Paper.pdf |issue=8 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121102064743/http://www.astro-ecology.com/PDFLifeCenteredBioethics2009Paper.pdf |archivedate=2 November 2012 }}</ref>。哲学における生命の定義も試みられているが、生命体と非生命体の区別においては生物学と似たような困難に直面している<ref name="Jeuken1975">{{Cite journal2|title=The biological and philosophical defitions of life |author=Jeuken M |journal=Acta Biotheoretica |volume=24 |issue=1–2 |pages=14–21 |date=1975 |doi=10.1007/BF01556737|pmid=811024 }}</ref>。また、生命を法的に定義することも広く議論されてきたものの、法学における論争は主に特定の人間の死亡を宣告する条件と死亡宣告の影響に集中している<ref name="Capron1978">{{Cite journal2|title=Legal definition of death |author=Capron AM |journal=Annals of the New York Academy of Sciences |date=1978 |doi=10.1111/j.1749-6632.1978.tb50352.x |volume=315 |issue=1 |pages=349–62|bibcode=1978NYASA.315..349C }}</ref>。
何が「生きているか」を考える難しさを示す実例に[[HeLa細胞]]が挙げられる事もある。これは[[ヘンリエッタ・ラックス]]というアメリカ人女性の子宮がん細胞を元にしたヒト細胞であり、培養され世界中の研究所に分配され試験に用いられている。ヘンリエッタ個人は既に亡くなったが、彼女由来の[[細胞]]は現在でも生きている。生命の基本的活動が細胞である事、そして「生きている」状態には明瞭な線引きができないさまざまな段階が存在すると考えられている<ref name="Oshima46">[[#大島(1994)|大島(1994)、p.46-50、第2章 宇宙の中の生命、(1)生命の三つの特徴]]</ref>。
== 生命観・生命論の歴史 ==
生命とは何か、ということについての論や見解を生命論や生命観と言う<ref name="iwanami">『岩波 生物学事典』【生命】</ref>。
[[古代ギリシャ]]人たちは、生きている状態のことを{{lang-el-short|Ψυχή}} [[プシュケー]]と呼んでいた。プシュケーというのはもともとは[[息]]([[呼吸]])のことであり、呼吸は生きていることを示す最も目立つ特徴なので、この言葉が「生きていること= 生命」も指すようになり、転じて[[日本語]]の「[[心]]」や「[[霊魂]]」という概念まで意味するようになった。
[[アリストテレス]]は Peri psyches 『[[霊魂論|ペリ・プシュケース]]』でこのプシュケーについて論じた。(同著の題名は直訳すれば『[[プシュケー]]について』である。)アリストテレスは初期段階では、生きものの種類によって異なるプシュケーの段階があると見なしていて、(1)植物的プシュケー (2)動物的プシュケー (3)理性的プシュケー(人間のプシュケー)というように区別していたが、やがて[[植物]]・[[動物]]・[[人間]]の間にプシュケーの差というのはさほど絶対的なものではないと見なすようになり、最終的にはそれらプシュケーに差はない、とも記した。
{{seealso|生物学史}}
また、「すべての物質は生きている」とする哲学的な考え方が古くから現代にいたるまである。古くは古代ギリシャの[[ミレトス学派]]にもそうした考え方があったことが知られている。こうした考え方を{{仮リンク|物活論|en|hylozoism}} hylozoism と言う。
ヨーロッパでは[[中世]]、[[キリスト教]]が広がり、[[旧約聖書]]の[[創世記]]の記述に従い、[[神]]が[[自然]]も[[人間]]も、動物・植物も、その他 生きとし生けるものすべてを造ったと考えていた。また、[[12世紀ルネサンス]]によって[[イスラーム]](アラビア語)の文献が[[ラテン語]]に翻訳されるようになると、そこで解説されていた[[アリストテレス]]の考え方が知られるようになり、その生命論も受け入れられるようになった。
[[1648年]]に[[ルネ・デカルト|デカルト]]が、''Le monde''(『世界論』とも『宇宙論』とも)の後半にあたるTraité de l'homme(『[[人間論 (デカルト)|人間論]]』)を出版した<ref name="rikai_chap2_23">[[山口裕之 (哲学者)|山口裕之]]『ひとは生命をどのように理解してきたか』講談社、2011年 p.80-113</ref>。デカルトは、人間も含めて全ての生物は神が制作した[[機械]]だと見なした<ref name="rikai_chap2_23" />。当時、ものの喩えではなく、[[宇宙]]は機械だと考えられたが、こうした考えの背景には「神が宇宙を制作した」というキリスト教の信仰がある<ref name="rikai_chap2_23" />。と同時に、その本でデカルトは、例えば[[心臓]]は[[熱機関]]だとし、[[運動]]によって説明できる、とし、(アリストテレスが用いていたプシュケーという概念の系統に属するともいえる)植物プシュケーや感覚プシュケーなどは用いなくても説明できる、とした<ref name="rikai_chap2_23" /><ref>『デカルト著作集4』p.286</ref>。アリストテレスが[[プシュケー]]を用いて、生命と非生命の区別をしふたつは異なっているとしたのに対し、デカルトはその差異は見せかけのものだとして、全てを物の運動で説明しようとした<ref name="rikai_chap2_23" />。デカルトの考え方は[[機械論]]と呼ばれる。
[[18世紀]]になると、それを批判する動きが出た。18世紀[[フランス]]の哲学者[[エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック|コンディアック]]が[[1749年]]に『体系論』を出版したが、そこで彼はデカルト以来の17世紀的な「体系」は、事実に根拠を持たない想像力の産物だとして批判し、学問的な知識というのは、“[[ニュートン力学]]のように”観察にもとづく事実を出発点にして構築しなければいけない、と述べた<ref name="rikai_chap2_23" />。18世紀に博物学が再隆盛した理由としてジャック・ロジェは17世紀の内戦の時代の後に社会が全体的に安定し、人々が「退屈」したことを挙げた。退屈な現実から逃れるため、異国の文物や自然学研究に関心を持ったという<ref name="rikai_chap2_23" />。
18世紀には生命と物質の概念の区分けは現代人と異なっていた。たとえば、18世紀の[[博物学]]における分類体系においては、大抵は、「動物界」「植物界」「鉱物界」が並置されていた。分類学の父とされる[[リンネ]]の『自然の体系』(1735)はその典型で、冒頭で「自然物は鉱物界、植物界、動物界の三界に区分される。鉱物は成長する。植物は成長し、生きる。動物は成長し、生き、感覚を持つ」と定義された<ref name="rikai_64">『ひとは生命をどのように理解してきたか』p.64</ref>。
すべての[[:en:creature|creature]](被造物。神が創造したもの)というのは、[[鉱物]]のような単純なものから植物、動物、そして[[人間]]のような複雑な存在へ、さらには人間よりも高度な[[天使]]へと連続的な序列をなしている、というイメージはヨーロッパでは根強いものがあった<ref name="rikai_chap2_23" />(この連続的な階梯は「{{仮リンク|存在の大いなる連鎖|en|Great chain of being}} the great chain of being 」と呼ばれる)。
リンネと同年生まれの[[ビュフォン|ビュッフォン]]は自著『博物誌』においてリンネの分類体系(花のおしべやめしべの数で分類するもの)を批判しつつ、客観的な分類は不可能だ、と主張した。上述のように全ての被造物は連続的な序列をなしていると考えられていたので、連続的に変化するものに客観的な区分線などないのだから、自然を分類するということは人為的あるいは恣意的だ、とした<ref name="rikai_chap2_23" />。ビュッフォンの『博物誌』もまた四足獣類、鳥類、鉱物の巻があり、それらを等しく対象としていた。
[[ジャン=バティスト・ラマルク|ラマルク]]は[[1809年]]の著書『[[動物哲学]]』において、「動植物と鉱物の間には越えられない断絶がある」と強調した。これは18世紀に台頭したVitalism([[生気論|ヴァイタリズム]])という考え方が背景にある<ref name="rikai_chap2_23" />。ヴァイタリズムというのは「生きているものには、物質とは異なる特殊な生命[[原理]]がはたらいている」とする考え方であり<ref name="rikai_chap2_23" />、「生命原理」「生命特性」や「生命力」といった用語が用いられた<ref name="rikai_chap2_23" />。この「生命原理」は、個体全体にはたらくというよりも、個体を構成する器官や組織が持つ特性で、何らかの[[自然法則]]である、と考えられた<ref name="rikai_chap2_23" />。こうした2点でヴァイタリズムは単なるアニミズムとは異なっていた。アニミズムが「ただの物体としての身体に、超自然的・非物質的な、だが実体的なアニマが宿る」と考えるのに対して、ヴァイタリズムというのは「身体を構成する組織や物質そのものが、何らかの生命原理を持っている。その原理は自然法則であって研究できる」と考える<ref name="rikai_chap2_23" />。17世紀〜18世紀にかけて解剖実験が行われるようになり、切り離された心臓がしばらく鼓動しつづけることや、切り離された筋肉が刺激によって動くことが観察されたことなどから、器官や組織は生きている、とする考え方が生まれた<ref name="rikai_chap2_23" />。
20世紀になると[[全体論|ホーリスム]]的な考え方も提唱され、また[[生気論|ネオヴァイタリズム]]や[[有機体論]]なども登場した<ref name="iwanami"/>。
現在では、生命は自動制御の機械に譬えられることも多いが<ref name="iwanami"/>、同時にそれは有機体論的にも把握されており、[[分子生物学]]な見解も認められており、また、生命を可能ならしめている土台には[[情報]]の伝達<ref name="iwanami"/>や[[エネルギー]]の方向性のある変換がある<ref name="iwanami"/>、とも言われるなど様々な切り口で把握されており、現代の生命論は複雑な様相を呈している。
== 宗教における生命 ==
[[Image:Tree of Life, Medieval.jpg|thumb|right|120px|[[カバラ]]に記されている[[生命の樹 (旧約聖書)|生命の樹]]]]
多くの宗教においては、[[死後の世界]]もしくは、[[輪廻]]、[[転生]]などがあると考えられている。この場合、人間の主体、存在の本質、あるいは人格そのものを、魂、[[霊魂]]と呼ぶ。生命と霊魂を同一視するかどうかは、様々である。
[[古代インド]]の[[ヴェーダ]]や[[仏教]]では、人間の命と動物の命は同列的に扱われていた。仏教では、人間が動物に転生する考えなども見られるし、宗教家が動物を食べることはあまりよくないとする例もある。また[[ジャイナ教]]では、虫を踏み潰して無駄な殺生をすることがないよう、僧侶は常に[[箒|ほうき]]を持ち歩くという習慣も見ることができる。
一方、[[キリスト教]]では、人間と動物の生命は全く別のものとする傾向が強く、人間という存在は「[[神]]によって[[命]]を吹き込まれたもの」であり特別な存在である。さらに言えば、「命を失った者」と背信者を呼ぶ比喩が存在し、「命を得た者」「[[永遠の命]]を得た者」と神を信じるようになった者、[[天国]]に至る権利を得た者を呼ぶ場合がある。
{{節スタブ}}
== 生物学における生命 ==
[[ファイル:Soybeanvarieties.jpg|right|120px|thumb|[[種子]]([[大豆]])]]
[[File:Sunflower seedlings.jpg|thumb|left|120px|[[発芽]]した[[ひまわり]]]]
[[ファイル:Bifidobacterium adolescentis Gram.jpg|thumb|left|120px|[[ビフィズス菌]]]]
生物学では、生物の示す固有の現象を生命現象と呼ぶ。生命とは、その根元にあるものとの思想があり、生気論もその一つである。
生命現象には様々な側面があるが、一般に生物学では、根本的な生命の定義に関わる部分は、その内部での物質交換と外部との物質のやりとり、および同じ型の[[個体]]の再生産にあると考えられている。また、そのような性質を持つ最小の単位が[[細胞]]であるので、細胞を生命の最小の単位と見なし、それから構成されるものに生命を認める、というのが一般的である<ref name="Oshima46" />。植物の[[種子]]などのように、著しく代謝活動が不活発な状態でも代謝活動の再開が見込める場合には生きている、と呼ぶ。
[[ファイル:Nucleocapsids.png|thumb|200px|right|(左)正二十面体様 (中)らせん構造 (右)無人探査機のような形状の[[ファージ]]]]
ところが、[[ウイルス]]や[[ウイロイド]]などの存在は判断が難しい。ウイルスを生物とするか無生物とするかについて長らく論争があり、いまだに決着していないと言ってもよい<ref name="fukuoka2">{{Cite book|和書|author=福岡伸一|year=2007|title=生物と無生物のあいだ|publisher=講談社|chapter=第2章|pages=29-46}}</ref>。
ウイルスは増殖はするが代謝を行っていない<ref name="fukuoka2" />。増殖について言えば、宿主となる生物が持つ有機物質合成機能のシステムの中にウイルスが入り込むと、宿主のシステムが言わば誤動作を起こしてしまいウイルスを増産してしまう。形状について言えば、ウイルスはDNAやRNAなどの[[核酸]]とそれを包む殻から成っている。概して幾何学的な形状を持っており、あるものは正二十面体のような多角立方体、あるものは無人火星探査機のようなメカニカルな形状をしており、同一種はまったく同形で、生物全般に見られる個体の多様性が見られない<ref name="fukuoka2" />。代謝について言えば、ウイルスは[[栄養]]を摂取することがなく、[[呼吸]]もしないし、[[老廃物]]の排泄もしておらず、つまり生命の特徴である[[代謝]]を一切行っていない<ref name="fukuoka2" />。また1935年にはすでに[[タバコモザイクウイルス]]の結晶化が成功している。結晶というのは、同じ構造を持つ単位が規則正しく充填される<ref name="fukuoka2" />。この点でもウイルスは生物というよりは物質と言える側面があることがわかった<ref name="fukuoka2" />。これらの相違点があるので普通はウイルスを生物とは認めない。
また、ウイロイドというのは、寄生性RNAのことで、ウイルス同様に宿主内のシステムが異常なものであることを判別できずに増産してしまう等々の特徴はウイルス同様であり一般に生物とは認めない。
ただし、これらも自己複製という点だけに着眼すれば単なる物質から一線を画しており、「ウイルスは生物と無生物の間をたゆたう何者かである<ref name="fukuoka2" />」とも福岡伸一は表現した。
近年の生命の定義の試みは多数あり主要なものを挙げただけでも相当な数になるが、参考までにその一例を紹介すると、例えば[[福岡伸一]]は、[[ルドルフ・シェーンハイマー]]の発見した「生命の動的状態」という概念を拡張し、'''[[動的平衡]]'''という概念を提示し、「生命とは[[動的平衡]]にある[[流れ]]である」とした<ref name="fukuoka9-15">{{Cite book|和書|author=福岡伸一|year=2007|title=生物と無生物のあいだ|publisher=講談社|chapter=第9-第15章|pages=152-272}}</ref>。
生物は'''動的に'''平衡状態を作り出している<ref name="fukuoka9-15" />。生物というのは平衡が崩れると、その事態に対して[[反応]]を起こす<ref name="fukuoka9-15" />。そして福岡は、[[ノックアウトマウス]]の実験結果なども踏まえて、従来の生命の定義の設問は[[時間]]を見落としている、とし<ref name="fukuoka9-15" />、生命を機械に譬えるのは無理があるとする<ref name="fukuoka9-15" />。機械には時間が無く原理的にはどの部分から作ることもでき部品を抜き取ったり交換したりすることもでき生物に見られる一回性というものが欠如しているが、生物には不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、二度と解くことのできないものとして存在している、とした<ref name="fukuoka9-15" />。
{{seealso|生物}}
<gallery style="font-size:0.8em;">
File:Megaptera novaeangliae -Bar Harbor, Maine, USA-8d.jpg|ジャンプする[[鯨]]
File:Formation flight.jpg|[[鳥]]の[[群れ]]
File:Blue Linckia Starfish.JPG|[[グレート・バリア・リーフ]]の[[さんご礁]]、[[アオヒトデ]]、[[魚]]
File:Biogradska suma.jpg|[[モンテネグロ]]の[[森林]]
</gallery>
== 生物物理学における生命 ==
物理学者の[[エルヴィン・シュレーディンガー|シュレーディンガー]]は、著書『生命とは何か?』の中で生命を、ネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れ体内のエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした<ref>{{Cite book|和書|others=[[岡小天]]・[[鎮目恭夫]]共訳|year=1951|title=生命とは何か 物理学者のみた生細胞|series=岩波新書 第72|publisher=岩波書店}}</ref>。
{{節スタブ}}
== 生命の起源 ==
{{Main|生命の起源}}
{{Seealso|創造論|創造科学}}
地球上の生命は、およそ37億年前には存在していたという証拠がある<ref>"[http://www.ucmp.berkeley.edu/exhibits/historyoflife.php History of life through time]". University of California Museum of Paleontology.</ref><ref>新しい生物学 p.269</ref>。また、細胞を基本の構成単位としていること、核酸・タンパク質・脂質などからなることなどから、地球上の生命は全て単一の祖先から[[進化]]したか、他の生命は発生しなかった、ないしは発生してもすぐに絶滅したと考えられている。
また、地球生命の起源を地球外部に求める説も存在する。1908年に[[スウェーデン]]の[[スヴァンテ・アレニウス]]が提唱したことに始まる[[パンスペルミア説]](胚種普遍説)は、細胞や生命の種が宇宙から飛来する場合に長期間受けるであろう有害な宇宙線を例にした否定論も多く、賛否入り混じったさまざまな議論が行われた<ref name="Oshima14" /><ref>「生命の起源 宇宙・地球における化学進化」p6-p7 小林憲正 講談社 2013年5月20日第1刷発行</ref>。その一方で、生命の材料たりえる[[有機化合物]]が宇宙空間に存在する証拠は数多く積み上がっている。隕石中からは、古くは1806年のアライス隕石から発見されている。本格的な研究は20世紀中ごろから始まり、アミノ酸・[[核酸塩基]]・炭化水素・ポリフィリンなどの発見が相次いだ<ref name="Oshima160">[[#大島(1994)|大島(1994)、p.160-171、第5章 地球外生命の可能性、(1)隕石‐太陽系の古文書]]</ref>。1986年3月に[[ハレー彗星]]が地球に近づいた際、[[日本]]・[[ヨーロッパ]]・[[ソ連]]は計5基の観測器を送り込み、様々な分析を行った。その結果、アミノ酸合成の中間物にあたる[[シアン化水素]]や[[ホルムアルデヒド]]、酸化炭素・炭化水素・アンモニア・硫化水素や硫化炭素・ヒドラジンなどが発見された。彗星は、太陽系形成初期の物質を維持していると考えられ、これが海を形成した後の地球に降ったならば、彗星から生命の材料たる有機化合物が供給された可能性がある。また、地球以外の天体にも同様に材料を分け与え、条件がそろえば生命が発生したことを否定できない<ref name="Oshima160"/>。[[電波天文学]]の発展が明らかにした星間物質の組成には、多様な有機化合物が発見されている。このような結果から、生命の素材を地球内部の化学合成だけに限定する必然性は段々と薄れつつある<ref name="Oshima160" />。
== 典型的な生命現象 ==
=== 自己複製 ===
{{Main|生殖}}
生命の特徴のひとつに、自己と同じ子孫を複製し増殖する能力を持つことがある。これは核酸で構成される遺伝子を用いて行われる。地球生命の場合、4種類の塩基をD-リボース(またはD-デオキシリボース)という[[糖]]と結びついた化合物ヌクレオシドが、リン酸と結合してヌクレオチドとなり、これが鎖状につながって構成される。この各塩基には「塩基対」という水素結合で結びつきやすい組み合わせがあり、核酸は必ずこの塩基対に応じたもう1本の核酸と対をつくる。これが[[DNA]]である。対になったDNAを引き離すと、それぞれの核酸は周囲から塩基を集め、対の相手を作り、その結果同じDNAが2組出来上がる。これが生命の自己複製の基礎である<ref name="Oshima60">[[#大島(1994)|大島(1994)、p.60-66、第2章 宇宙のなかの生命、(3)特徴の2自己を複製する]]</ref>。
地球生命では、DNAの連なる塩基3つを1組とする意味を持ち、細胞を構成するたんぱく質のアミノ酸がどのように並ぶかを、DNAから複製したm-RNAで規定し、親と同じ構造を作り出す。生命が自己複製を行うにおいて、地球外の生命でも基本的に塩基対構造と似た働きを持つ物質を介すると考えられるが、地球環境内では塩基以外に相応する物質はほとんど無い。ただし、地球外生物では使用する塩基の数が4種以外であったり、生体の基本物質を規定する塩基数は3つ1組以外の組み合わせを利用する可能性も想定できる<ref name="Oshima60" />。
=== エネルギー代謝 ===
{{Main|代謝}}
生命は、成長や増殖に必要な[[エネルギー]]源を外部から[[栄養]]の形で得る。栄養はそのまま用いることができないため、複雑な[[化学反応]]をへてエネルギーに変換するが、これを代謝という。
=== 死 ===
{{Main|死}}
生物の細胞や臓器における生命活動が不可逆的に失なわれることを'''死'''と呼ぶ<ref>{{cite web2|title=Definition of death.|url=http://encarta.msn.com/dictionary_1861602899/death.html|work=
|archiveurl=https://webcitation.org/5kwsdvU8f|archivedate=2009-10-31|url-status=dead|accessdate=2010-04-30}}</ref><ref>[http://www.deathreference.com/Da-Em/Definitions-of-Death.html Defining of death.]</ref>。生命を定義することが難しいのと同様に、死を定義することも困難な問題である。そのため、生きている状態と死んでいる状態をはっきりと区別することはできない。多細胞生物においては、個体の死と細胞の死は別々に考えられるべきで、例えば、[[移植 (医療)|臓器移植]]の場合、臓器提供者が死んだとしても、移植が成功すればその臓器は生きていると考えられる。また生命体は普通、子をなしてその血統を存続させる。これを[[細胞]]レベルで見れば、細胞の分裂と融合に基づく連続性は常に維持されているため、その意味で生命は停止せずに連続していると表現する事も出来る。これを[[生命の連続性]]という。
多くの[[宗教]]では、何らかの形での[[死後の世界]]や[[輪廻]]、[[転生]]などが存在していると考えられている。
=== 進化 ===
{{Main|進化}}
== 人工生命 ==
{{Main|人工生命}}
人間によって作成、またはシミュレーションされた生命体を人工生命と呼ぶ。特に近年の情報処理技術の発達にともなって、生命現象のシミュレーションをコンピュータ内("in silico")で行なうことも可能になった。文字通り「生命」を持つ人工生命を強い人工生命(strong Artificial Life, または Strong Alife)と呼び、限定された人工環境下で生命現象の一部だけをシミュレーションしたものを弱い人工生命(weak Alife)と呼ぶ<ref>Thro, E.: Artificial Life Explorer's Kit, SAMS Publishing.,1993.</ref>。強いAlifeが本当に実現可能であるのか、化学的プロセスと切り離されたコンピュータ上の計算が生命を持つと呼べるのかについては、さまざまな議論がある。
コンピュータシミュレーションではない現実の生命については、2003年にゲノム解析の塩基配列情報からウイルスを合成することができたという報告がある<ref>[http://j.peopledaily.com.cn/2003/11/14/jp20031114_34084.html 2週間でウイルス合成 米、「人工微生物」実現に展望]</ref><ref>[http://www.nature.com/news/1998/031110/full/news031110-17.html Virus built from scratch in two weeks - Nature News]</ref>。
その後2010年、アメリカのクレイグ・ベンター博士のチームはmycoplasmaのゲノムを表すほぼ完全なDNAを合成し、本来のDNAを除去された近縁種の細菌の細胞に、合成したDNAを移植する手法で、自立的に増殖する人工細菌を作成することに成功した。
== 地球外生命体 ==
{{Main|地球外生命}}
21世紀初頭現在において、人類の知識の範囲内では、全ての生命体は地球上にしか存在しない。しかし、地球外生命の存在可能性は、古くから[[竹取物語#あらすじ|かぐや姫]]やウェルズの[[宇宙戦争 (H・G・ウェルズ)|宇宙戦争]]のような、おとぎ話やSFのインスピレーション元となってきた。また、近年の観測技術の発達に伴い、地球外生命体の存在可能性は真面目な科学的考察の対象となっている。[[カール・セーガン]]は、著書『コスモス』で、地球外生命体の存在可能性を数式を用いて提示した。[[太陽系]]内のいくつかの天体における生命存在の可能性については古くから議論がなされており、中でももっとも生命存在の可能性が高いとされる火星においては、1975年から1976年にかけて行われた[[バイキング計画]]において生命探査が行われたが、生命の痕跡を検出することはできなかった<ref>「生命の起源 宇宙・地球における化学進化」p146-p148 小林憲正 講談社 2013年5月20日第1刷発行</ref>。しかし、その後も火星生命の探索は行われている。このほか、地下に海の存在する可能性の高い[[木星]]の[[衛星]][[エウロパ (衛星)|エウロパ]]や[[土星]]の衛星[[エンケラドゥス (衛星)|エンケラドゥス]]、液体[[メタン]]や[[エタン]]による海が存在する土星の衛星[[タイタン (衛星)|タイタン]]なども生命の存在する可能性があると考えられている<ref>「生命の起源 宇宙・地球における化学進化」p164-p165 小林憲正 講談社 2013年5月20日第1刷発行</ref>([[タイタンの生命]]も参照)。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* 山口裕之『ひとは生命をどのように理解してきたか』講談社、2011年
* {{Cite book|和書|author1=野田春彦|authorlink1=野田春彦|author2=丸山工作|authorlink2=丸山工作|author3=日高敏隆|authorlink3=日高敏隆|coauthors = |others = |title = 新しい生物学 - 生命のナゾはどこまで解けたか|edition = 第3版|year = 1999|publisher = [[講談社]]|series = [[ブルーバックス]]|isbn = 978-4-06-257241-5|pages = }}
* {{Cite book|和書|author= 大島泰郎|authorlink=大島泰郎|others = |title = 宇宙生物学とET探査|origyear = |edition =第1刷 |year = 1994|publisher = [[朝日新聞社]] |isbn = 4-02-260798-X|page = |ref = 大島(1994)}}
== 関連項目 ==
{{wikiquote|生命}}
{{Commonscat|Life}}
*[[命]]
* [[生命科学]] - [[分類学]]
* [[進化]] - [[系統樹]]
* [[遺伝子]] - [[人工生命]] - [[自己複製子]]
* [[オートポイエーシス]] - [[散逸構造]] - [[創発]] - [[階層構造]]
* [[ガイア理論]]
* [[生命倫理学]]
* [[アニミズム]] - [[トーテミズム]]
* [[生活環]]
== 外部リンク ==
{{SEP|life|Life}}
* {{Kotobank}}
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[[Category:生命|*]] | 2003-03-14T22:13:54Z | 2023-11-01T21:41:24Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD |
4,037 | 拡張現実 | 拡張現実(かくちょうげんじつ、英: Augmented Reality、オーグメンテッド・リアリティ、AR)とは、現実世界に仮想世界を重ね合わせて表示する技術を指す言葉。エクステンデッド・リアリティ(XR)と呼ばれる先端技術の一つである。
現実の風景の中にCGでつくられた3D映像やキャラクターなどのデジタルコンテンツやデータを重ねて表示することで現実世界を"拡張"する。専用のヘッドマウントディスプレイ(以下、HMD)を用いる方法、あるいはスマートフォンのカメラとディスプレイを使って重ね合わせる方法などがある。
拡張現実(AR)とはその名の通り、「現実を拡張する」ものであり、肉眼で直接見ることができる現実の世界に重ねて、本来その現実空間に存在しない情報を表示するというものである。複合現実(MR)の一種とも言われ、広くはエクステンデッド・リアリティ(XR)に含まれる。仮想現実(VR)のベースにあるのが映像であるのに対し、ARのベースにあるのは現実世界である。
現実世界の情報とデバイスのシースルー(透過型)のディスプレイに表示されるデジタル情報を組み合わせることで、肉眼だけでは得られない"新たな現実"を作り出せる点が特徴であり、現実の風景の上に本来存在しない映像やアイコン、アノテーションなど様々な情報が付加されることによって、あたかも現実が拡張されたかのように見える。このシースルーで周囲が見えるという利点は大きく、ユーザーは現実世界で普段の生活と同じように行動をしながらでもデジタル情報を得ることができる。
現実とリンクしてそこに新たな情報を追加して世界を広げるのがARの特長であり、そもそも現実の世界が見えていないと意味がないため、モバイル利用できることが大前提である。屋内はもちろん、屋外でも自由に出歩いたり動き回ったりできなければならない。そのため、デバイスのサイズはできるだけ小型化・軽量化されることが望まれる。
ARはロケーションベースAR、マーカー型AR、マーカーレス型ARの3種類に大別される。
ロケーションベースARまたは位置拡張ARとは、GPSをはじめとする各種センサーによって位置情報を取得し、その場所に応じた3Dグラフィックスなどのコンテンツをカメラ映像に合成して表示する技術。
マーカー型ARとは、マーカーと呼ばれる図形をカメラで読み取ることで、その位置にコンテンツを合成して表示する技術。コンテンツを表示する位置を細かく制御できるという利点がある。
マーカーレス型ARとは、カメラ映像に含まれる実際の風景や建造物、看板などを識別し、それぞれに合わせたコンテンツを合成して表示する技術。マーカーを使わずにコンテンツを表示できることがメリット。
AR技術は現実とリンクするというその特徴を生かして、Pokémon GOなどの位置情報ゲームのようなエンターテインメント分野ではすでに利用が進んでおり、ビジネスシーンでも様々な利用が始まっている。産業用途としては、製品や装置・設備の3D CADデータをもとに、仮想空間で試作品を作る前に動作や状態を検証することができるシステムや、工場や機械などの保守・点検の際に、作業員が実際の空間や機器に重ねてディスプレイに表示される点検箇所の情報や作業指示に従って作業を進める業務支援システムなどでの利用例がある。その際、同時に作業の過程も録画・記録される。また現実世界の装置の状態を3Dデータで再現して、専門家が遠隔地から検証や保守などに活用するというケースも出ている。2020年の新型コロナの影響で国境を越えた移動が難しくなった日本の大手メーカーにも採用が広がっている。日本からエンジニアが現地の作業員の作業を手伝ったり指導したりすることができるので、作業効率を引き上げ、事故を減らすこともできるからである。さらにセンサーやHMDを駆使して、遠隔地からロボットを分身のように操作する「テレイグジスタンス」と呼ばれる応用例もある。これは宇宙空間など危険な場所での作業をロボットが肩代わりすることが出来る技術で、生産性と安全性の面で将来期待される技術である。
近年では、店舗のレイアウトがスマートフォンの画面に再現されるARショッピングも登場し、小売業や家具店などのオンラインストアで導入されることも増えている。スマートフォンを周囲にかざすことで商品が表示されるため、自分の部屋にいながらにして購入前に商品のイメージを確認できる。また博物館や美術館で見学者のスマートグラスに文字情報や映像を表示して展示物の解説をしたり、順路を明示したりするようなことも考えられている。
中国では、2018年の春節から顔認識機能付きのサングラスが犯罪捜査に使われ始めた。警察のデータベースにある逃亡犯の画像と一致すると警告が出る仕組みの顔認識機能付きのサングラスをかけた警察官が人込みの中から犯罪者を見つけるというものであった。2020年には、新型コロナウイルス感染症対策で空港の旅客の体温を赤外線カメラのついた眼鏡をかけた空港警備員がチェックするということも行われた。眼鏡越しに見ると旅客の顔は四角い枠で囲まれ、その下に体温が表示されるようになっていた。
日本ではドローンによる屋外利用も進み、撮影などに盛んに利用されている。国内の規制上、ドローンの操縦者は目視が必要であるため、外界から完全に隔絶されたVRでは操縦できないのに対し、目の前でドローンの飛行データやカメラの映像を確認しながらドローンを目視できるARなら操縦できるからである。
医療はARやVRの導入が進む分野のひとつで、教育、治療・手術支援、リハビリテーション、遠隔医療などで次々と新しい実践が行われていて、すでに手術室や医療訓練、診療所、在宅医療などの現場に入り込み始めている。
AR技術を活用した遠隔医療システムとは、遠隔地にいる専門医が現地の執刀医と視界を共有し、ARを使って患者の切開箇所などを指示し、現地にいる執刀医はそれをもとに手術を行うことができるというものである。当初は軍事目的や医学的リソースが乏しい地域や紛争地の外科医に対して遠隔で外科医を教育指導・支援するために開発された技術だったが、リアルタイムの手術にも対応可能となり、様々な国で広く導入されるようになり、医師の大都市集中や診療科偏在などで地方の医師不足が深刻な課題となっている日本でも、その動きは始まっている。
近年、ネット回線を使った通信上の遅延や高額な費用の課題などがクリアされて遠隔手術ができる情報通信の環境が整い始めると、アメリカや中国をはじめ、世界各国が遠隔ロボット手術に取り組むようになった。手術に不可欠な手術支援ロボットの開発も、それまで独り勝ちだった米国製ロボット「ダビンチ」の主要な特許が2019年に切れたことで開発競争に火が付いた。日本では川崎重工業とシスメックスの合弁会社メディカロイドが開発した「hinotori (ヒノトリ)」が2020年8月、国産の手術支援ロボットとして製造販売の承認を得ると、2021年4月にはメディカロイド、神戸大学、NTTドコモがヒノトリと次世代高速通信規格「5G」を使った遠隔操作による模擬手術の実証実験を開始した。この実験と従来の実験との最大の違いは、専用の有線回線でつなぐのではなく、商用5G網を活用した「世界初」という実験だった点であった。遅延を減らすことやセキュリティー面を考慮すれば、光ファイバーの専用の有線回線で各病院のロボットをつなぐのが一番であるが、それには莫大な費用がかかる。またプロバイダーを介した商用の有線接続では、各病院内のネット環境の違いが通信速度に差を生み、ネットワーク化の支障となる。将来、あらゆる病院をつないで実用化することを考えると、無線というハードルはあるものの、商用5G網の利用は大きな魅力になる。それにより、日本中どこの病院でも比較的安価で安定した通信環境の下、ロボットを直接ネットワークにつなぐことが可能になるからである。さらにロボットを使うことで、執刀医のあらゆる動きをデジタル化してデータベースとして蓄積することもできるようになる。卓越した医師の『匠の技』をたくさん集めてすべてデータ化すれば、『匠』とはどういうものかを解析して、熟練した指導医が指導するようにロボットが指導できるようになる。その先には、ロボットが自分で手術をできるようになる可能性もある。2021年、弘前大学医学部附属病院で遠隔手術の実証実験が行われた。
医者が切開することなしに患者の解剖学的構造を把握できる技術もあり、患者や医師の教育、手術の可視化やシミュレーションなど、医療現場の実習などに使われるケースもある。解剖モデルを3Dで見ることができるARアプリや、注射の際に患者の肌をスキャンして血管の位置を特定し、針を刺すのを容易にしてくれるデバイス、ヘッドセットで患者の脊椎上に脊椎に関する情報をオーバーレイ表示する外科用の技術などが開発されている。
発達障害の子どもたちのソーシャルスキルトレーニングにスマートグラスを用いる研究が進められている
米国空軍では、1980年代から攻撃ヘリコプターAH-64 アパッチには操縦士用の暗視装置であるAN/AAQ-11パイロット暗視センサー(PNVS)が搭載されていた。1990年代後半からはJHMCSという戦闘機用のHMDが開発され、2003年11月より本格生産が開始された。
米国海軍は、ARを射撃の支援に利用する実証試験を実施したことがある。2016年12月に陸上で、2017年6月にイージス巡洋艦の艦上で、それぞれ実証試験を実施した。対象は艦上に設置した機関砲を扱う銃手で、銃手のヘルメットに取り付けたヘッドセットに目標指示や交戦に関する情報を表示してやることで、情報共有が改善されることが期待されている。
米国陸軍は、2008年から現場で行動する兵士の装備にAR技術を取り入れる研究を行なっている。開発中のシステムは『戦術拡張現実(Tactical Augmented Reality : T.A.R.)』と呼ばれ、兵士がARディスプレイを装着することによって様々な情報をビジュアルで把握できるようになるというもの。2018年、Microsoftと共同でARヘッドセット「HoloLens 2」をベースにした米陸軍用ヘッドセット「IVAS(Integrated Visual Augmentation System)」の試作品を開発する2年契約を結ぶと、2021年には同社に「IVAS」12万台を発注した
活用事例の主流は「訓練」や「研究開発」であり、武器の運用環境が過酷な実戦用の技術はまだほとんど例がない。
ARのようなものは発想としては古くからあり、コンピュータ研究の初期の1960年代にはすでにARのような技術のために使うシースルーHMDなどの開発が始まっていた。そのため、SF作品を中心に様々なジャンルのフィクション作品の題材として取り上げられてきた。
日本におけるAR技術周知のきっかけとなった作品の一つとして、2007年のアニメ『電脳コイル』の存在を挙げる声が多い。ARが社会に普及した世界の日常が描かれ、作中に登場するデバイス「電脳メガネ」にはARだけでなくMR技術も使われている。また2009年のアニメ『東のエデン』も『電脳コイル』と並んで日本国内の現実のARサービスの盛り上がりに影響を及ぼした作品であると言われる。作中には、携帯カメラを使って建物や人物の情報が分かるARシステム「東のエデンシステム」が登場する。
それら以前にもAR技術を使ったデバイスが登場する作品は数多く存在し、漫画/アニメ『ドラゴンボール』に登場する相手の戦闘力を見ることの出来る「スカウター」なども、HMDを使ったARデバイスの一種と言える。
映像作品では、登場人物の顔や表情を描写する都合からか、『電脳コイル』の電脳メガネのような透過型のHMDや、『ドラゴンボール』のスカウターのような通信機などのヘッドセットに付属した片眼鏡型で描かれることが多い。
拡張現実と同様のアイデアは、劇作家のライマン・フランク・ボームによって1901年に初めに述べられた。彼は、現実世界に創作されたデータを重ね合わて表示する「キャラクター・マーカー」という電子デバイスを考案した。
映像撮影技師のen:Morton Heiligは1957–62年にかけて「センソラマ」というシミュレータを開発し特許を取得した。これは映像と音響と振動と香りを模擬するシステムであった。
またARを実現するデバイスが実際に開発された事例として、1966年のアイバン・サザランドによる「ヘッドマウントディスプレイ」の発明などがなされてきた。
1975年にはen:Myron Kruegerによって、ユーザーが仮想物体とやりとりできる「ビデオプレイス」というシステムが初めて開発された。
1989年、「仮想現実」(VR) という言葉がジャロン・ラニアーによって作られ、初めての仮想世界で行うビジネスを作り出した。
「拡張現実」という名前は、1990年にボーイングの技術者であるTom Caudellによって付けられた。
1992年に日本で子ども向けのバラエティ番組『ウゴウゴルーガ』の放送が開始される。リアルタイムに制御されるCGキャラクターと出演者が対話する形式のシリーズ番組の先駆的事例である。(バーチャル・スタジオ)
1992年にアームストロング空軍研究所のL.B. Rosenbergは機能するARシステムとしては最初期のものである「Virtual Fixtures」を開発し、デモンストレーションを行った。
1992-93年に、ARシステムのプロトタイプ「KARMA」の有名な論文が発表された。
2000年、Bruce H. Thomasは初の屋外携帯ARゲームである「ARQuake」をウェアラブル・コンピュータ国際シンポジウムで発表しデモンストレーションを行った。
このように、一部のエンターテイメント向け試作機を除けば、軍事産業や自動車・航空機製造産業で主に利用されてきたARだが、2000年代に入り携帯端末の普及に伴い一般消費者向けサービスへと利用されるようになった。
日本では2007年以降一般にも知られるようになった。同年にAR技術を応用した初めての市販ゲーム「THE EYE OF JUDGMENT」が発売された。
2008年、スマートフォンでARを活用した初の一般向け位置情報アプリケーションである「Wikitude」がリリースされた。日本ではGPSの位置情報を利用する「セカイカメラ」が2009年にリリースされた。
2010年8月27日にリリースされた日本の携帯電話(フィーチャーフォン)用プラットフォームである「AR3DPlayer」は、2次元バーコードのQRコードをそのままQaRマーカーとして認識するトラッキング・システムを実装していた。カメラやGPS、加速度センサなど各種センサによって携帯電話の位置や向きをトラッキングすることで、正しい位置と向きに画像を表示するシステムはARの実現のために重要な技術である。AR用のトラッキングのための画像認識ライブラリは1999年にリリースされた「ARToolKit」などから利用することができ、2003年にはDieter SchmalstiegおよびDaniel Wagnerによって携帯電話・PDA向けで初のマーカー・トラッキング・システムが開発されていた。アジアではQRコードが携帯電話による画像認識マーカーとして普及していたため、ARのマーカー・トラッキングにも用いられるようになった。
ARを使った作品の例としてはni_kaのAR詩がある。これは東日本大震災が念頭に置かれており、パウル・ツェランの『誰でもない者の薔薇』を意識した喪の表現となっていて、東京タワーの頂上に薔薇の花を咲かせたり、キティが沢山画面上に出てきて、タップするとそこから詩が出てきて、それに対して感想や返詩ができたりするものであった。
2013年、Googleによる拡張現実ツール「Google Glass」のベータ版のテストが始まり、この製品向けの様々な拡張現実アプリケーションがサードパーティーにより実装されてきている。眼鏡型および時計型コンピュータは、スマートフォン以降のウェアラブル・コンピュータ(身に付けられるコンピュータ。持ち運びできるモバイル・コンピュータの次に来る流れとして注目されている)の本命と見なされている。
2014年、ARのコア技術であるコンピュータービジョン (CV) のリーディングカンパニーのKudan Limited(英国)が日本法人となるKudan株式会社を設立し、マーカーARおよびマーカーレスARの両方をサポートするクロスプラットフォーム対応のモバイルアプリケーション開発向けツールキット「Kudan AR SDK」を日本市場に広めた。2018年3月より、Kudan AR SDKの販売およびサポートは、グローバルディストリビューターであるエクセルソフト株式会社が提供している。
2016年、AR特化型ニュースメディア「GET AR」が誕生した。
米国Niantic社により、世界各地でPokémon GO(ポケモン ゴー)が発表された。
2016年11月30日に、エプソン販売株式会社からAR対応のスマートグラス、EPSON MOVERIO「BT-300」を発売。独自開発の有機ELディスプレイを採用し、軽量化、高輝度、高画質化まで実現している。 | [
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"text": "現実世界の情報とデバイスのシースルー(透過型)のディスプレイに表示されるデジタル情報を組み合わせることで、肉眼だけでは得られない\"新たな現実\"を作り出せる点が特徴であり、現実の風景の上に本来存在しない映像やアイコン、アノテーションなど様々な情報が付加されることによって、あたかも現実が拡張されたかのように見える。このシースルーで周囲が見えるという利点は大きく、ユーザーは現実世界で普段の生活と同じように行動をしながらでもデジタル情報を得ることができる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
"tag": "p",
"text": "現実とリンクしてそこに新たな情報を追加して世界を広げるのがARの特長であり、そもそも現実の世界が見えていないと意味がないため、モバイル利用できることが大前提である。屋内はもちろん、屋外でも自由に出歩いたり動き回ったりできなければならない。そのため、デバイスのサイズはできるだけ小型化・軽量化されることが望まれる。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "ARはロケーションベースAR、マーカー型AR、マーカーレス型ARの3種類に大別される。",
"title": "ARの種類"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "ロケーションベースARまたは位置拡張ARとは、GPSをはじめとする各種センサーによって位置情報を取得し、その場所に応じた3Dグラフィックスなどのコンテンツをカメラ映像に合成して表示する技術。",
"title": "ARの種類"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "マーカー型ARとは、マーカーと呼ばれる図形をカメラで読み取ることで、その位置にコンテンツを合成して表示する技術。コンテンツを表示する位置を細かく制御できるという利点がある。",
"title": "ARの種類"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "マーカーレス型ARとは、カメラ映像に含まれる実際の風景や建造物、看板などを識別し、それぞれに合わせたコンテンツを合成して表示する技術。マーカーを使わずにコンテンツを表示できることがメリット。",
"title": "ARの種類"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "AR技術は現実とリンクするというその特徴を生かして、Pokémon GOなどの位置情報ゲームのようなエンターテインメント分野ではすでに利用が進んでおり、ビジネスシーンでも様々な利用が始まっている。産業用途としては、製品や装置・設備の3D CADデータをもとに、仮想空間で試作品を作る前に動作や状態を検証することができるシステムや、工場や機械などの保守・点検の際に、作業員が実際の空間や機器に重ねてディスプレイに表示される点検箇所の情報や作業指示に従って作業を進める業務支援システムなどでの利用例がある。その際、同時に作業の過程も録画・記録される。また現実世界の装置の状態を3Dデータで再現して、専門家が遠隔地から検証や保守などに活用するというケースも出ている。2020年の新型コロナの影響で国境を越えた移動が難しくなった日本の大手メーカーにも採用が広がっている。日本からエンジニアが現地の作業員の作業を手伝ったり指導したりすることができるので、作業効率を引き上げ、事故を減らすこともできるからである。さらにセンサーやHMDを駆使して、遠隔地からロボットを分身のように操作する「テレイグジスタンス」と呼ばれる応用例もある。これは宇宙空間など危険な場所での作業をロボットが肩代わりすることが出来る技術で、生産性と安全性の面で将来期待される技術である。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "近年では、店舗のレイアウトがスマートフォンの画面に再現されるARショッピングも登場し、小売業や家具店などのオンラインストアで導入されることも増えている。スマートフォンを周囲にかざすことで商品が表示されるため、自分の部屋にいながらにして購入前に商品のイメージを確認できる。また博物館や美術館で見学者のスマートグラスに文字情報や映像を表示して展示物の解説をしたり、順路を明示したりするようなことも考えられている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "中国では、2018年の春節から顔認識機能付きのサングラスが犯罪捜査に使われ始めた。警察のデータベースにある逃亡犯の画像と一致すると警告が出る仕組みの顔認識機能付きのサングラスをかけた警察官が人込みの中から犯罪者を見つけるというものであった。2020年には、新型コロナウイルス感染症対策で空港の旅客の体温を赤外線カメラのついた眼鏡をかけた空港警備員がチェックするということも行われた。眼鏡越しに見ると旅客の顔は四角い枠で囲まれ、その下に体温が表示されるようになっていた。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "日本ではドローンによる屋外利用も進み、撮影などに盛んに利用されている。国内の規制上、ドローンの操縦者は目視が必要であるため、外界から完全に隔絶されたVRでは操縦できないのに対し、目の前でドローンの飛行データやカメラの映像を確認しながらドローンを目視できるARなら操縦できるからである。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "医療はARやVRの導入が進む分野のひとつで、教育、治療・手術支援、リハビリテーション、遠隔医療などで次々と新しい実践が行われていて、すでに手術室や医療訓練、診療所、在宅医療などの現場に入り込み始めている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "AR技術を活用した遠隔医療システムとは、遠隔地にいる専門医が現地の執刀医と視界を共有し、ARを使って患者の切開箇所などを指示し、現地にいる執刀医はそれをもとに手術を行うことができるというものである。当初は軍事目的や医学的リソースが乏しい地域や紛争地の外科医に対して遠隔で外科医を教育指導・支援するために開発された技術だったが、リアルタイムの手術にも対応可能となり、様々な国で広く導入されるようになり、医師の大都市集中や診療科偏在などで地方の医師不足が深刻な課題となっている日本でも、その動きは始まっている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "近年、ネット回線を使った通信上の遅延や高額な費用の課題などがクリアされて遠隔手術ができる情報通信の環境が整い始めると、アメリカや中国をはじめ、世界各国が遠隔ロボット手術に取り組むようになった。手術に不可欠な手術支援ロボットの開発も、それまで独り勝ちだった米国製ロボット「ダビンチ」の主要な特許が2019年に切れたことで開発競争に火が付いた。日本では川崎重工業とシスメックスの合弁会社メディカロイドが開発した「hinotori (ヒノトリ)」が2020年8月、国産の手術支援ロボットとして製造販売の承認を得ると、2021年4月にはメディカロイド、神戸大学、NTTドコモがヒノトリと次世代高速通信規格「5G」を使った遠隔操作による模擬手術の実証実験を開始した。この実験と従来の実験との最大の違いは、専用の有線回線でつなぐのではなく、商用5G網を活用した「世界初」という実験だった点であった。遅延を減らすことやセキュリティー面を考慮すれば、光ファイバーの専用の有線回線で各病院のロボットをつなぐのが一番であるが、それには莫大な費用がかかる。またプロバイダーを介した商用の有線接続では、各病院内のネット環境の違いが通信速度に差を生み、ネットワーク化の支障となる。将来、あらゆる病院をつないで実用化することを考えると、無線というハードルはあるものの、商用5G網の利用は大きな魅力になる。それにより、日本中どこの病院でも比較的安価で安定した通信環境の下、ロボットを直接ネットワークにつなぐことが可能になるからである。さらにロボットを使うことで、執刀医のあらゆる動きをデジタル化してデータベースとして蓄積することもできるようになる。卓越した医師の『匠の技』をたくさん集めてすべてデータ化すれば、『匠』とはどういうものかを解析して、熟練した指導医が指導するようにロボットが指導できるようになる。その先には、ロボットが自分で手術をできるようになる可能性もある。2021年、弘前大学医学部附属病院で遠隔手術の実証実験が行われた。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "医者が切開することなしに患者の解剖学的構造を把握できる技術もあり、患者や医師の教育、手術の可視化やシミュレーションなど、医療現場の実習などに使われるケースもある。解剖モデルを3Dで見ることができるARアプリや、注射の際に患者の肌をスキャンして血管の位置を特定し、針を刺すのを容易にしてくれるデバイス、ヘッドセットで患者の脊椎上に脊椎に関する情報をオーバーレイ表示する外科用の技術などが開発されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "発達障害の子どもたちのソーシャルスキルトレーニングにスマートグラスを用いる研究が進められている",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "米国空軍では、1980年代から攻撃ヘリコプターAH-64 アパッチには操縦士用の暗視装置であるAN/AAQ-11パイロット暗視センサー(PNVS)が搭載されていた。1990年代後半からはJHMCSという戦闘機用のHMDが開発され、2003年11月より本格生産が開始された。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "米国海軍は、ARを射撃の支援に利用する実証試験を実施したことがある。2016年12月に陸上で、2017年6月にイージス巡洋艦の艦上で、それぞれ実証試験を実施した。対象は艦上に設置した機関砲を扱う銃手で、銃手のヘルメットに取り付けたヘッドセットに目標指示や交戦に関する情報を表示してやることで、情報共有が改善されることが期待されている。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "米国陸軍は、2008年から現場で行動する兵士の装備にAR技術を取り入れる研究を行なっている。開発中のシステムは『戦術拡張現実(Tactical Augmented Reality : T.A.R.)』と呼ばれ、兵士がARディスプレイを装着することによって様々な情報をビジュアルで把握できるようになるというもの。2018年、Microsoftと共同でARヘッドセット「HoloLens 2」をベースにした米陸軍用ヘッドセット「IVAS(Integrated Visual Augmentation System)」の試作品を開発する2年契約を結ぶと、2021年には同社に「IVAS」12万台を発注した",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "活用事例の主流は「訓練」や「研究開発」であり、武器の運用環境が過酷な実戦用の技術はまだほとんど例がない。",
"title": "用途"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "ARのようなものは発想としては古くからあり、コンピュータ研究の初期の1960年代にはすでにARのような技術のために使うシースルーHMDなどの開発が始まっていた。そのため、SF作品を中心に様々なジャンルのフィクション作品の題材として取り上げられてきた。",
"title": "ポピュラーカルチャーにおける拡張現実"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "日本におけるAR技術周知のきっかけとなった作品の一つとして、2007年のアニメ『電脳コイル』の存在を挙げる声が多い。ARが社会に普及した世界の日常が描かれ、作中に登場するデバイス「電脳メガネ」にはARだけでなくMR技術も使われている。また2009年のアニメ『東のエデン』も『電脳コイル』と並んで日本国内の現実のARサービスの盛り上がりに影響を及ぼした作品であると言われる。作中には、携帯カメラを使って建物や人物の情報が分かるARシステム「東のエデンシステム」が登場する。",
"title": "ポピュラーカルチャーにおける拡張現実"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "それら以前にもAR技術を使ったデバイスが登場する作品は数多く存在し、漫画/アニメ『ドラゴンボール』に登場する相手の戦闘力を見ることの出来る「スカウター」なども、HMDを使ったARデバイスの一種と言える。",
"title": "ポピュラーカルチャーにおける拡張現実"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "映像作品では、登場人物の顔や表情を描写する都合からか、『電脳コイル』の電脳メガネのような透過型のHMDや、『ドラゴンボール』のスカウターのような通信機などのヘッドセットに付属した片眼鏡型で描かれることが多い。",
"title": "ポピュラーカルチャーにおける拡張現実"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "拡張現実と同様のアイデアは、劇作家のライマン・フランク・ボームによって1901年に初めに述べられた。彼は、現実世界に創作されたデータを重ね合わて表示する「キャラクター・マーカー」という電子デバイスを考案した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "映像撮影技師のen:Morton Heiligは1957–62年にかけて「センソラマ」というシミュレータを開発し特許を取得した。これは映像と音響と振動と香りを模擬するシステムであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "またARを実現するデバイスが実際に開発された事例として、1966年のアイバン・サザランドによる「ヘッドマウントディスプレイ」の発明などがなされてきた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "1975年にはen:Myron Kruegerによって、ユーザーが仮想物体とやりとりできる「ビデオプレイス」というシステムが初めて開発された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1989年、「仮想現実」(VR) という言葉がジャロン・ラニアーによって作られ、初めての仮想世界で行うビジネスを作り出した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "「拡張現実」という名前は、1990年にボーイングの技術者であるTom Caudellによって付けられた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "1992年に日本で子ども向けのバラエティ番組『ウゴウゴルーガ』の放送が開始される。リアルタイムに制御されるCGキャラクターと出演者が対話する形式のシリーズ番組の先駆的事例である。(バーチャル・スタジオ)",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "1992年にアームストロング空軍研究所のL.B. Rosenbergは機能するARシステムとしては最初期のものである「Virtual Fixtures」を開発し、デモンストレーションを行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "1992-93年に、ARシステムのプロトタイプ「KARMA」の有名な論文が発表された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "2000年、Bruce H. Thomasは初の屋外携帯ARゲームである「ARQuake」をウェアラブル・コンピュータ国際シンポジウムで発表しデモンストレーションを行った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "このように、一部のエンターテイメント向け試作機を除けば、軍事産業や自動車・航空機製造産業で主に利用されてきたARだが、2000年代に入り携帯端末の普及に伴い一般消費者向けサービスへと利用されるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本では2007年以降一般にも知られるようになった。同年にAR技術を応用した初めての市販ゲーム「THE EYE OF JUDGMENT」が発売された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2008年、スマートフォンでARを活用した初の一般向け位置情報アプリケーションである「Wikitude」がリリースされた。日本ではGPSの位置情報を利用する「セカイカメラ」が2009年にリリースされた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2010年8月27日にリリースされた日本の携帯電話(フィーチャーフォン)用プラットフォームである「AR3DPlayer」は、2次元バーコードのQRコードをそのままQaRマーカーとして認識するトラッキング・システムを実装していた。カメラやGPS、加速度センサなど各種センサによって携帯電話の位置や向きをトラッキングすることで、正しい位置と向きに画像を表示するシステムはARの実現のために重要な技術である。AR用のトラッキングのための画像認識ライブラリは1999年にリリースされた「ARToolKit」などから利用することができ、2003年にはDieter SchmalstiegおよびDaniel Wagnerによって携帯電話・PDA向けで初のマーカー・トラッキング・システムが開発されていた。アジアではQRコードが携帯電話による画像認識マーカーとして普及していたため、ARのマーカー・トラッキングにも用いられるようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "ARを使った作品の例としてはni_kaのAR詩がある。これは東日本大震災が念頭に置かれており、パウル・ツェランの『誰でもない者の薔薇』を意識した喪の表現となっていて、東京タワーの頂上に薔薇の花を咲かせたり、キティが沢山画面上に出てきて、タップするとそこから詩が出てきて、それに対して感想や返詩ができたりするものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2013年、Googleによる拡張現実ツール「Google Glass」のベータ版のテストが始まり、この製品向けの様々な拡張現実アプリケーションがサードパーティーにより実装されてきている。眼鏡型および時計型コンピュータは、スマートフォン以降のウェアラブル・コンピュータ(身に付けられるコンピュータ。持ち運びできるモバイル・コンピュータの次に来る流れとして注目されている)の本命と見なされている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2014年、ARのコア技術であるコンピュータービジョン (CV) のリーディングカンパニーのKudan Limited(英国)が日本法人となるKudan株式会社を設立し、マーカーARおよびマーカーレスARの両方をサポートするクロスプラットフォーム対応のモバイルアプリケーション開発向けツールキット「Kudan AR SDK」を日本市場に広めた。2018年3月より、Kudan AR SDKの販売およびサポートは、グローバルディストリビューターであるエクセルソフト株式会社が提供している。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2016年、AR特化型ニュースメディア「GET AR」が誕生した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "米国Niantic社により、世界各地でPokémon GO(ポケモン ゴー)が発表された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "2016年11月30日に、エプソン販売株式会社からAR対応のスマートグラス、EPSON MOVERIO「BT-300」を発売。独自開発の有機ELディスプレイを採用し、軽量化、高輝度、高画質化まで実現している。",
"title": "歴史"
}
] | 拡張現実とは、現実世界に仮想世界を重ね合わせて表示する技術を指す言葉。エクステンデッド・リアリティ(XR)と呼ばれる先端技術の一つである。 現実の風景の中にCGでつくられた3D映像やキャラクターなどのデジタルコンテンツやデータを重ねて表示することで現実世界を"拡張"する。専用のヘッドマウントディスプレイ(以下、HMD)を用いる方法、あるいはスマートフォンのカメラとディスプレイを使って重ね合わせる方法などがある。 | [[File:Wikitude.jpg|thumb|250px|「[[Wikitude]]」。スマートフォンを通して見た風景上に、その場所に関する情報がオーバーレイされる]]
'''拡張現実'''(かくちょうげんじつ、{{lang-en-short|''Augmented Reality''}}、オーグメンテッド・リアリティ、'''AR''')とは、現実世界に[[仮想世界]]を重ね合わせて表示する技術を指す言葉<ref name="nttar">{{Cite news | url = https://www.ntt.com/business/solutions/communication-and-collaboration/vrsol/ar.html| title =仮想現実ソリューション Augmented Reality(拡張現実)| website = | publisher = [[NTTコミュニケーションズ]] | date = | accessdate =2021-11-28}}</ref><ref name="kddi20170316">{{Cite web|和書|url=https://time-space.kddi.com/ict-keywords/kaisetsu/20170316/|author=|title=VRやARとどこが違う? MR(複合現実)の仕組みと代表例『Microsoft HoloLens』を解説|website=TIME&SPACE|publisher=[[KDDI]]|date= 2017-03-16|accessdate=2021-11-28}}</ref>。[[エクステンデッド・リアリティ]](XR)と呼ばれる先端技術の一つである<ref name="docomoabout_xr">{{Cite news | url = https://xr.docomo.ne.jp/about_xr/| title =XRとは| website = | publisher = [[NTTドコモ]] | date = 2021-08-12| accessdate =2021-11-28}}</ref>。
現実の風景の中に[[コンピュータグラフィックス|CG]]でつくられた[[3次元映像|3D]]映像や[[キャラクター]]などの[[デジタルコンテンツ]]や[[データ]]を重ねて表示することで現実世界を"拡張"する<ref name="swri863">{{Cite web|和書|url=https://swri.jp/article/863|author= ムコハタワカコ|title=もっと知りたい! Pickup スマートワーク用語 第6回 VR・AR・MR・SR・XR|website=スマートワーク総研|publisher=[[ダイワボウ情報システム]]|date= 2021-05-27|accessdate=2021-11-28}}</ref><ref name="kddi20180816">{{Cite web|和書|url=https://time-space.kddi.com/ict-keywords/20180816/2406|author=|title=注目の「XR」(クロスリアリティ)とは? VR、AR、MRとの違いと最新事例を紹介|website=TIME&SPACE|publisher=[[KDDI]]|date= 2018-08-16|accessdate=2021-11-28}}</ref>。専用の[[ヘッドマウントディスプレイ]](以下、HMD)を用いる方法、あるいは[[スマートフォン]]の[[カメラ]]と[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]を使って重ね合わせる方法などがある<ref name="nttar"/>。
== 概要 ==
拡張現実(AR)とはその名の通り、「現実を拡張する」ものであり、肉眼で直接見ることができる現実の世界に重ねて、本来その現実空間に存在しない情報を表示するというものである<ref name="ascii1273955">{{Cite web|和書|url=https://ascii.jp/elem/000/001/273/1273955/|title=ARとVRの違いを改めて解説! - 目指すは"電脳コイル"と"ソードアート・オンライン" (1/4)|language= |date= 2016-12-09|accessdate= 2021-12-09|website=ASCII.jp×デジタル|publisher=角川アスキー総合研究所}}</ref><ref name="ascii1634772">{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/001/634/1634772/|title= ARやVRとは? さらにMRやXRまで!? 何がどう違うのか改めて解説だ! (1/5)|website= [[アスキー (企業)|アスキー]]|publisher= [[KADOKAWA|角川アスキー総合研究所]] |date= 2018-02-26|accessdate=2021-12-09}}</ref>。[[複合現実]](MR)の一種とも言われ、広くはエクステンデッド・リアリティ(XR)に含まれる{{Refnest|group="注"|現実世界にCGなどで存在しないものを表示するところまでは同じだが、MRの場合はさらにそのCGで作られたモノを手に持って動かすといった具合に現実とCGを相互に関連付けることができる。}}<ref name="ascii1273955"/><ref name="ascii1273955.2">{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/001/273/1273955/2/|title=ARとVRの違いを改めて解説! - 目指すは"電脳コイル"と"ソードアート・オンライン" (2/4)|language= |date= 2016-12-09|accessdate= 2021-12-09|website=ASCII.jp×デジタル|publisher=角川アスキー総合研究所}}</ref>。仮想現実(VR)のベースにあるのが映像であるのに対し、ARのベースにあるのは現実世界である<ref name="ascii1273955"/>。
現実世界の情報とデバイスの[[シースルー]](透過型)のディスプレイに表示されるデジタル情報を組み合わせることで、肉眼だけでは得られない"新たな現実"を作り出せる点が特徴であり、現実の風景の上に本来存在しない映像や[[アイコン]]、[[アノテーション]]など様々な情報が付加されることによって、あたかも現実が拡張されたかのように見える<ref name="ascii1273955"/><ref name="ascii1634772"/><ref name="ascii1634772.3">{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/001/634/1634772/3/|title= ARやVRとは? さらにMRやXRまで!? 何がどう違うのか改めて解説だ! (3/5)|website= [[アスキー (企業)|アスキー]]|publisher= [[KADOKAWA|角川アスキー総合研究所]] |date= 2018-02-26|accessdate=2021-12-09}}</ref>。このシースルーで周囲が見えるという利点は大きく、ユーザーは現実世界で普段の生活と同じように行動をしながらでもデジタル情報を得ることができる<ref name="ascii1273955"/><ref name="ascii1634772"/><ref name="ascii1634772.4">{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/001/634/1634772/4/|title= ARやVRとは? さらにMRやXRまで!? 何がどう違うのか改めて解説だ! (4/5)|website= [[アスキー (企業)|アスキー]]|publisher= [[KADOKAWA|角川アスキー総合研究所]] |date= 2018-02-26|accessdate=2021-12-09}}</ref>。
現実とリンクしてそこに新たな情報を追加して世界を広げるのがARの特長であり、そもそも現実の世界が見えていないと意味がないため、[[モバイル]]利用できることが大前提である<ref name="ascii1273955.2"/><ref name="ascii1634772.4"/>。屋内はもちろん、屋外でも自由に出歩いたり動き回ったりできなければならない<ref name="ascii1634772.4"/>。そのため、デバイスのサイズはできるだけ小型化・軽量化されることが望まれる<ref name="ascii1634772.5">{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/001/634/1634772/5/|title= ARやVRとは? さらにMRやXRまで!? 何がどう違うのか改めて解説だ! (5/5)|website= [[アスキー (企業)|アスキー]]|publisher= [[KADOKAWA|角川アスキー総合研究所]] |date= 2018-02-26|accessdate=2021-12-09}}</ref>。
== ARの種類 ==
ARはロケーションベースAR、マーカー型AR、マーカーレス型ARの3種類に大別される<ref name="nttar"/>。
=== ロケーションベースAR ===
ロケーションベースARまたは位置拡張ARとは、[[GPS]]をはじめとする各種センサーによって位置情報を取得し、その場所に応じた3Dグラフィックスなどのコンテンツをカメラ映像に合成して表示する技術<ref name="nttar"/>。
=== マーカー型AR ===
マーカー型ARとは、マーカーと呼ばれる図形をカメラで読み取ることで、その位置にコンテンツを合成して表示する技術<ref name="nttar"/>。コンテンツを表示する位置を細かく制御できるという利点がある<ref name="nttar"/>。
=== マーカーレス型AR ===
マーカーレス型ARとは、カメラ映像に含まれる実際の風景や建造物、看板などを識別し、それぞれに合わせたコンテンツを合成して表示する技術<ref name="nttar"/>。マーカーを使わずにコンテンツを表示できることがメリット<ref name="nttar"/>。
== 用途 ==
AR技術は現実とリンクするというその特徴を生かして、[[Pokémon GO]]などの[[位置情報ゲーム]]のような[[エンターテインメント]]分野ではすでに利用が進んでおり、ビジネスシーンでも様々な利用が始まっている<ref name="nttar"/><ref name="ascii1634772.4"/><ref name="globe.asahi13595185">{{Cite news | url = https://globe.asahi.com/article/13595185 | title =創業@中国 「ドラゴンボールのスカウター」を作った男 鯖江の技術も生きる| website =GLOBE+| pub-lisher = [[朝日新聞]] | date = 2020-08-04 | accessdate = 2021-12-09}}</ref>。産業用途としては、製品や装置・設備の[[3D]] [[CAD]]データをもとに、仮想空間で試作品を作る前に動作や状態を検証することができるシステムや、工場や機械などの保守・点検の際に、作業員が実際の空間や機器に重ねてディスプレイに表示される点検箇所の情報や作業指示に従って作業を進める業務支援システムなどでの利用例がある<ref name="swri863"/><ref name="ascii1634772.4"/>。その際、同時に作業の過程も録画・記録される<ref name="globe.asahi13595185"/>。また現実世界の装置の状態を3Dデータで再現して、専門家が遠隔地から検証や保守などに活用するというケースも出ている<ref name="swri863"/>。2020年の[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナ]]の影響で国境を越えた移動が難しくなった日本の大手メーカーにも採用が広がっている<ref name="globe.asahi13595185"/>。日本からエンジニアが現地の作業員の作業を手伝ったり指導したりすることができるので、作業効率を引き上げ、事故を減らすこともできるからである<ref name="globe.asahi13595185"/>。さらにセンサーやHMDを駆使して、遠隔地から[[ロボット]]を分身のように操作する「[[テレイグジスタンス]]」と呼ばれる応用例もある。これは宇宙空間など危険な場所での作業をロボットが肩代わりすることが出来る技術で、生産性と安全性の面で将来期待される技術である<ref name="swri863"/>。
近年では、店舗のレイアウトがスマートフォンの画面に再現されるARショッピングも登場し、小売業や家具店などのオンラインストアで導入されることも増えている<ref name="kddi20180816"/>。スマートフォンを周囲にかざすことで商品が表示されるため、自分の部屋にいながらにして購入前に商品のイメージを確認できる<ref name="kddi20180816"/>。また[[博物館]]や[[美術館]]で見学者の[[スマートグラス]]に文字情報や映像を表示して展示物の解説をしたり、順路を明示したりするようなことも考えられている<ref name="globe.asahi13595185"/>。
中国では、2018年の[[春節]]から顔認識機能付きのサングラスが犯罪捜査に使われ始めた<ref name="globe.asahi13595185"/>。警察のデータベースにある逃亡犯の画像と一致すると警告が出る仕組みの顔認識機能付きのサングラスをかけた警察官が人込みの中から犯罪者を見つけるというものであった<ref name="globe.asahi13595185"/>。2020年には、[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]対策で空港の旅客の体温を[[赤外線カメラ]]のついた眼鏡をかけた空港警備員がチェックするということも行われた<ref name="globe.asahi13595185"/>。眼鏡越しに見ると旅客の顔は四角い枠で囲まれ、その下に体温が表示されるようになっていた<ref name="globe.asahi13595185"/>。
日本では[[無人航空機|ドローン]]による屋外利用も進み、撮影などに盛んに利用されている<ref name="ascii1634772.5"/><ref name="ascii1273955.3">{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/001/273/1273955/3/|title=ARとVRの違いを改めて解説! - 目指すは"電脳コイル"と"ソードアート・オンライン" (3/4)|language= |date= 2016-12-09|accessdate= 2021-12-09|website=ASCII.jp×デジタル|publisher=角川アスキー総合研究所}}</ref>。国内の規制上、ドローンの操縦者は目視が必要であるため、外界から完全に隔絶されたVRでは操縦できないのに対し、目の前でドローンの飛行データやカメラの映像を確認しながらドローンを目視できるARなら操縦できるからである<ref name="ascii1273955.3"/>。
=== 医療 ===
医療はARやVRの導入が進む分野のひとつで、教育、治療・手術支援、[[リハビリテーション]]、[[遠隔医療]]などで次々と新しい実践が行われていて、すでに手術室や医療訓練、診療所、在宅医療などの現場に入り込み始めている<ref name="zdnethealthcare">{{cite web|url= https://www.zdnet.com/article/3-unexpected-ways-youll-soon-find-arvr-in-healthcare/|author= Greg Nichols|title=3 unexpected ways you'll soon find AR/VR in healthcare|language=en|date= 2018-08-01|accessdate= 2021-11-28 |website=ZDNet |publisher= Red Ventures]}}</ref><ref name="medicaldxtreatment">{{Cite web|和書|url= https://medicaldx-jp.com/treatment/39|title=ARやVRが医療の可能性を広げる時代が到来!|date= 2020-08-15|accessdate= 2021-11-28 |website=Medical DX |publisher=株式会社[[オプティム]]}}</ref>。
AR技術を活用した遠隔医療システムとは、遠隔地にいる専門医が現地の執刀医と視界を共有し、ARを使って患者の切開箇所などを指示し、現地にいる執刀医はそれをもとに手術を行うことができるというものである<ref name="medicaldxtreatment"/>。当初は軍事目的や医学的リソースが乏しい地域や紛争地の外科医に対して遠隔で外科医を教育指導・支援するために開発された技術だったが、リアルタイムの手術にも対応可能となり、様々な国で広く導入されるようになり、医師の大都市集中や診療科偏在などで地方の医師不足が深刻な課題となっている日本でも、その動きは始まっている<ref name="medicaldxtreatment"/>。
近年、ネット回線を使った通信上の遅延や高額な費用の課題などがクリアされて遠隔手術ができる情報通信の環境が整い始めると、アメリカや中国をはじめ、世界各国が遠隔ロボット手術に取り組むようになった<ref name="globe.asahi14482731">{{Cite news | url = https://globe.asahi.com/article/14482731 | title =遠隔手術、開発はここまで来た 「ダビンチ」の次を目指す国産ロボットも| website =GLOBE+| publisher = [[朝日新聞]] | date = 2021-12-04| accessdate = 2021-12-07}}</ref>。手術に不可欠な手術支援ロボットの開発も、それまで独り勝ちだった米国製ロボット「[[da Vinci (医療ロボット)|ダビンチ]]」の主要な特許が2019年に切れたことで開発競争に火が付いた<ref name="globe.asahi14482731"/>。日本では[[川崎重工業]]と[[シスメックス]]の合弁会社[[メディカロイド]]が開発した「[[Hinotori (医療ロボット)|hinotori]] (ヒノトリ)」が2020年8月、国産の手術支援ロボットとして製造販売の承認を得ると、2021年4月にはメディカロイド、[[神戸大学]]、[[NTTドコモ]]がヒノトリと次世代高速通信規格「[[第5世代移動通信システム|5G]]」を使った遠隔操作による模擬手術の実証実験を開始した<ref name="globe.asahi14482731"/>。この実験と従来の実験との最大の違いは、専用の有線回線でつなぐのではなく、商用5G網を活用した「世界初」という実験だった点であった<ref name="globe.asahi14482731"/>。遅延を減らすことやセキュリティー面を考慮すれば、[[光ファイバー]]の専用の有線回線で各病院のロボットをつなぐのが一番であるが、それには莫大な費用がかかる<ref name="globe.asahi14482731"/>。またプロバイダーを介した商用の有線接続では、各病院内のネット環境の違いが通信速度に差を生み、ネットワーク化の支障となる<ref name="globe.asahi14482731"/>。将来、あらゆる病院をつないで実用化することを考えると、無線というハードルはあるものの、商用5G網の利用は大きな魅力になる<ref name="globe.asahi14482731"/>。それにより、日本中どこの病院でも比較的安価で安定した通信環境の下、ロボットを直接ネットワークにつなぐことが可能になるからである<ref name="globe.asahi14482731"/>。さらにロボットを使うことで、執刀医のあらゆる動きをデジタル化して[[データベース]]として蓄積することもできるようになる<ref name="globe.asahi14482731"/>。卓越した医師の『匠の技』をたくさん集めてすべてデータ化すれば、『匠』とはどういうものかを解析して、熟練した指導医が指導するようにロボットが指導できるようになる。その先には、ロボットが自分で手術をできるようになる可能性もある<ref name="globe.asahi14482731"/>。2021年、[[弘前大学医学部附属病院]]で遠隔手術の実証実験が行われた<ref name="globe.asahi14482731"/>。
医者が切開することなしに患者の解剖学的構造を把握できる技術もあり、患者や医師の教育、手術の可視化やシミュレーションなど、医療現場の実習などに使われるケースもある<ref name="swri863"/><ref name="zdnethealthcare"/><ref name="prtimes67400">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000003064.000067400.html|author= |title=医療分野における拡張現実・仮想現実の世界市場は、2027年まで年平均成長率26.57%で成長する見込み Report Ocean|website=|publisher=[[PR TIMES]]|date= 2021-10-05|accessdate=2021-11-28}}</ref>。解剖モデルを3Dで見ることができるARアプリや、注射の際に患者の肌をスキャンして血管の位置を特定し、針を刺すのを容易にしてくれるデバイス、ヘッドセットで患者の脊椎上に脊椎に関する情報をオーバーレイ表示する外科用の技術などが開発されている<ref name="zdnethealthcare"/>。
[[発達障害]]の子どもたちのソーシャルスキルトレーニングに[[スマートグラス]]を用いる研究が進められている<ref name="h-navi">{{Cite web|和書|url= https://h-navi.jp/column/article/35026748|title=拡張現実(AR)で療育!? 自閉症スペクトラムの人がソーシャルスキル獲得に使えるメガネがスゴイ!|date= 2018-01-27|accessdate= 2021-11-28 |website= |publisher=[[LITALICO|LITALICO発達ナビ]]}}</ref>
=== 軍事 ===
[[file:Apache Helicopter Helmet & Display System - GPN-2000-001550.jpg|thumb|200px|[[ヘルメットマウンテッドディスプレイ|IHADSS]]から暗視画像が表示される]]
米国空軍では、1980年代から[[攻撃ヘリコプター]][[AH-64 アパッチ]]には[[パイロット (航空)|操縦士]]用の[[暗視装置]]であるAN/AAQ-11[[TADS/PNVS#PNVS(パイロット暗視センサー)|パイロット暗視センサー(PNVS)]]が搭載されていた。1990年代後半からは[[JHMCS]]という[[戦闘機]]用のHMDが開発され、2003年11月より本格生産が開始された。
米国海軍は、ARを射撃の支援に利用する実証試験を実施したことがある<ref name="military_it-363">{{Cite web|和書|url= https://news.mynavi.jp/article/military_it-363/ |author= 井上孝司|title=軍事でも使われ始めたxR技術(4)ARの活用事例|date= 2020-08-22 |accessdate=2021-11-28|website= マイナビニュース|publisher= [[マイナビ]]}}</ref>。2016年12月に陸上で、2017年6月に[[イージス艦|イージス巡洋艦]]の艦上で、それぞれ実証試験を実施した<ref name="military_it-363"/>。対象は艦上に設置した機関砲を扱う銃手で、銃手のヘルメットに取り付けたヘッドセットに目標指示や交戦に関する情報を表示してやることで、情報共有が改善されることが期待されている<ref name="military_it-363"/>。
米国陸軍は、2008年から現場で行動する兵士の装備にAR技術を取り入れる研究を行なっている。開発中のシステムは『戦術拡張現実(Tactical Augmented Reality : T.A.R.)』と呼ばれ、兵士がARディスプレイを装着することによって様々な情報をビジュアルで把握できるようになるというもの<ref name="moguratar-vr ">{{Cite web|和書|url= https://www.moguravr.com/tar-vr/ |title=ARの軍事利用 米陸軍の「戦術拡張現実(T.A.R.)」|date= 2017-07-08 |accessdate=2021-11-28|website= MoguraVR|publisher= 株式会社Mogura}}</ref>。2018年、[[Microsoft]]と共同でARヘッドセット「[[Microsoft HoloLens|HoloLens 2]]」をベースにした米陸軍用ヘッドセット「IVAS(Integrated Visual Augmentation System)」の試作品を開発する2年契約を結ぶと、2021年には同社に「IVAS」12万台を発注した<ref name="cnet35168676">{{cite web|url= https://japan.cnet.com/article/35168676/|title=マイクロソフト、「HoloLens 2」ベースの軍事用ARヘッドセット12万台を受注|date= 2021-04-01|accessdate= 2021-11-28 |website=CNET Japan|publisher=[[朝日インタラクティブ]]}}</ref>
活用事例の主流は「訓練」や「研究開発」であり、武器の運用環境が過酷な実戦用の技術はまだほとんど例がない<ref name="military_it-365">{{Cite web|和書|url= https://news.mynavi.jp/article/military_it-365/ |author= 井上孝司|title=軍事でも使われ始めたxR技術(6)xRが実戦で活用が進まない理由|date= 2020-09-05 |accessdate=2021-11-28|website= マイナビニュース|publisher= [[マイナビ]]}}</ref>。
== ポピュラーカルチャーにおける拡張現実 ==
<!--「スタートレック」に登場するバイザーはARではなく盲人用のもので、原文ではARとは関係ない科学技術について語られている。
ARを利用する具体的なビジョンは「[[スタートレック]]」などの[[サイエンス・フィクション|SF]]に現れてきた<ref>[http://www.wired.com/business/2012/04/opinion-abell-ar-envy/ Augmented Reality’s Path From Science Fiction to Future Fact]</ref>。
-->
ARのようなものは発想としては古くからあり、コンピュータ研究の初期の1960年代にはすでにARのような技術のために使うシースルー{{Refnest|group="注"|現実に見ているものを画像表示部分の先に透けて見えるようにする。}}HMDなどの開発が始まっていた<ref name="impress305346">{{Cite web|和書| url = https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/column/keyword/305346.html | title = ケータイ用語の基礎知識 第431回:拡張現実(AR)とは| date =2009-07-28| website =ケータイ Watch | publisher =[[インプレス]]| accessdate =2021-12-07}}</ref>。そのため、[[サイエンス・フィクション|SF]]作品を中心に様々なジャンルのフィクション作品の題材として取り上げられてきた<ref name="impress305346"/>。
日本におけるAR技術周知のきっかけとなった作品の一つとして、2007年のアニメ『[[電脳コイル]]』の存在を挙げる声が多い<ref name="kai-you31991.2">{{Cite web|和書| url = https://kai-you.net/article/31991/page/2| title =稲見昌彦 東大教授VRインタビュー 『電脳コイル』は必修です (2/2)| date =2016/8/16| accessdate = 2021-12-07| website =KAI-YOU.net| publisher =株式会社カイユウ}}</ref><ref name="4gamer1">{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/033/G003334/20080229057/|title=近未来社会の枠組みとインフラを構想する対談 「『スノウ・クラッシュ』から『電脳コイル』へ」|date= 2008-03-01|accessdate= 2021-12-07|website=4Gamer.net|publisher=}}</ref><ref name="journal.vrsj">{{Cite journal |和書 |author= |date= |year= 2008|month= 12|title= 特集■第13回大会 特別セッション アニメ『電脳コイル』にみるリアルとバーチャルの接点〜複合現実感の未来実現形態を探る|journal= 日本バーチャルリアリティ学会誌|volume= 13|issue= 4|pages= 6-19|publisher= [[日本バーチャルリアリティ学会]]|location= |issn= |doi= |naid= |pmid= |id= |isbn= |url=http://journal.vrsj.org/13-4/s6-19.pdf |format= |accessdate= 2021-12-07|quote= }}}</ref><ref>{{Cite book | 和書 | year=2009 | title= ARのすべて-ケータイとネットを変える拡張現実 | pages=10頁 | publisher=[[日経BP]] | id=ISBN 978-4822210830 }}</ref>。ARが社会に普及した世界の日常が描かれ<ref name="kai-you31991.2"/><ref name="4gamer1"/>、作中に登場するデバイス「電脳メガネ」にはARだけでなく[[複合現実|MR]]技術も使われている<ref name="journal.vrsj"/><ref>{{Cite web|和書|url= https://ascii.jp/elem/000/000/409/409940/|title=電脳コイル・磯監督とセカイカメラ・井口代表が語る、新しい現実|website= [[アスキー (企業)|アスキー]]|publisher=[[角川アスキー総合研究所]]|date= 2009-04-24|accessdate=2021-12-07}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author= |url= https://www.famitsu.com/news/202006/14200051.html|title=アマゾンプライムに『電脳コイル』降臨! ほのぼのSFアニメと見せかけてじつはトラウマシーンの宝庫!?|date= 2020-06-14|accessdate= 2021-12-07|website=[[ファミ通.com]]|publisher= [[KADOKAWA]]}}</ref>。また2009年のアニメ『[[東のエデン]]』も『電脳コイル』と並んで日本国内の現実のARサービスの盛り上がりに影響を及ぼした作品であると言われる<ref name="itmedia1005">{{Cite web|和書|url= https://www.itmedia.co.jp/promobile/articles/1005/21/news005.html |title=サイエンスフューチャーの創造者たち技術に「希望を見いだしたい」――「東のエデン」神山監督×セカイカメラ井口氏|date= 2010-05-21|accessdate=2021-12-07|website= ITmedia NEWS|publisher= [[アイティメディア]]}}</ref><ref name="eiga.com20100110">{{Cite web|和書|url= https://eiga.com/news/20100110/1/ |title=「東のエデン」AR技術を駆使した舞台挨拶に拍手喝さい|date= 2010-01-10 |accessdate=2021-12-07|website= [[映画.com]]|publisher= 株式会社エイガ・ドット・コム}}</ref>。作中には、携帯カメラを使って建物や人物の情報が分かるARシステム「東のエデンシステム」が登場する<ref name="itmedia1005"/>。
それら以前にもAR技術を使ったデバイスが登場する作品は数多く存在し、漫画/アニメ『[[ドラゴンボール]]』に登場する相手の戦闘力を見ることの出来る「[[ドラゴンボールの道具#スカウター|スカウター]]」なども、HMDを使ったARデバイスの一種と言える<ref name="globe.asahi13595185"/><ref name="impress305346"/><ref name="impress320647"/>。
映像作品では、登場人物の顔や表情を描写する都合からか、『電脳コイル』の電脳メガネのような透過型のHMDや、『ドラゴンボール』のスカウターのような通信機などのヘッドセットに付属した片眼鏡型で描かれることが多い<ref name="impress320647">{{Cite web|和書| url = https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/review/320647.html | title = 「ケータイ+AR」の現在と未来 話題の拡張現実「AR」って何?| date =2009-10-09| website =ケータイ Watch | publisher =[[インプレス]]| accessdate =2021-12-07}}</ref>。
== 歴史 ==
拡張現実と同様のアイデアは、劇作家の[[ライマン・フランク・ボーム]]によって1901年に初めに述べられた。彼は、現実世界に創作されたデータを重ね合わて表示する「キャラクター・マーカー」という電子デバイスを考案した<ref>Johnson, Joel. [http://moteandbeam.net/the-master-key-l-frank-baum-envisions-ar-glasses-in-1901 “The Master Key”: L. Frank Baum envisions augmented reality glasses in 1901] {{webarchive|url=https://archive.is/20130112003011/http://moteandbeam.net/the-master-key-l-frank-baum-envisions-ar-glasses-in-1901 |date=2013年1月12日}} ''Mote & Beam'' 10 September 2012</ref>。
映像撮影技師の[[:en:Morton Heilig]]は1957–62年にかけて「[[センソラマ]]」というシミュレータを開発し特許を取得した。これは映像と音響と振動と香りを模擬するシステムであった<ref>https://www.google.com/patents?q=3050870</ref>。
またARを実現するデバイスが実際に開発された事例として、1966年の[[アイバン・サザランド]]による「ヘッドマウントディスプレイ」の発明などがなされてきた。
1975年には[[:en:Myron Krueger]]によって、ユーザーが仮想物体とやりとりできる「[[:en:Videoplace|ビデオプレイス]]」というシステムが初めて開発された。
1989年、「[[仮想現実]]」(VR) という言葉が[[ジャロン・ラニアー]]によって作られ、初めての[[仮想世界]]で行うビジネスを作り出した。
「拡張現実」という名前は、1990年に[[ボーイング]]の技術者であるTom Caudellによって付けられた<ref>[http://www.ece.unm.edu/morenews/profile_caudell.html Tom Caudell]. Ece.unm.edu. Retrieved 9 June 2012.</ref>。
1992年に日本で子ども向けのバラエティ番組『[[ウゴウゴルーガ]]』の放送が開始される。リアルタイムに制御されるCGキャラクターと出演者が対話する形式のシリーズ番組の先駆的事例である。([[ヴァーチャルスタジオ|バーチャル・スタジオ]])
1992年にアームストロング[[空軍研究所]]のL.B. Rosenbergは機能するARシステムとしては最初期のものである「Virtual Fixtures」を開発し、デモンストレーションを行った<ref name="B. Rosenberg 1992">L. B. Rosenberg. The Use of Virtual Fixtures As Perceptual Overlays to Enhance Operator Performance in Remote Environments. Technical Report AL-TR-0089, USAF Armstrong Laboratory, Wright-Patterson AFB OH, 1992.</ref><ref name="B. Rosenberg 1993">L. B. Rosenberg, "The Use of Virtual Fixtures to Enhance Operator Performance in Telepresence Environments" SPIE Telemanipulator Technology, 1993.</ref>。
1992-93年に、ARシステムのプロトタイプ「KARMA」の有名な論文が発表された<ref>{{cite web
| last=Wellner | first=Pierre
| title=Computer Augmented Environments: back to the real world
| url=http://dl.acm.org/citation.cfm?id=159544
| publisher=ACM
| accessdate=28 July 2012 }}</ref>。
2000年、Bruce H. Thomasは初の屋外携帯ARゲームである「[[ARQuake]]」を[[:en:International Symposium on Wearable Computers|ウェアラブル・コンピュータ国際シンポジウム]]で発表しデモンストレーションを行った。
このように、一部のエンターテイメント向け試作機を除けば、[[軍事産業]]や自動車・航空機製造産業で主に利用されてきたARだが、2000年代に入り携帯端末の普及に伴い一般消費者向けサービスへと利用されるようになった<ref>[http://wired.jp/wv/2009/08/31/拡張現実arはモバイルへ:各種プロジェクトを紹/ 拡張現実(AR)はモバイルへ:各種プロジェクトを紹介]</ref>。
日本では2007年以降一般にも知られるようになった。同年にAR技術を応用した初めての市販ゲーム「[[THE EYE OF JUDGMENT]]」が発売された。
2008年、スマートフォンでARを活用した初の一般向け[[位置情報サービス|位置情報]]アプリケーションである「[[Wikitude]]」がリリースされた<ref>{{cite news | url=http://digital-lifestyles.info/2008/10/23/wikitude-android-app-with-augmented-reality-mind-blowing/ | title=Wikitude: Android App With Augmented Reality: Mind Blowing | author=Simon Perry | work=digital-lifestyles.info
| date=2008-10-23 | accessdate=2008-10-23}}</ref><ref>{{cite news | url=https://www.icg.tugraz.at/~daniel/HistoryOfMobileAR/ | title=History of Mobile Augmented Reality | author=Daniel Wagner | work=Institute for Computergraphics and Vision | date=2009-08-06 | accessdate=2009-08-06}}</ref>。日本では[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]の[[位置情報]]を利用する「[[セカイカメラ]]」が2009年にリリースされた。
2010年8月27日にリリースされた日本の携帯電話([[フィーチャーフォン]])用プラットフォームである「[[AR3D|AR3DPlayer]]」は、2次元[[バーコード]]の[[QRコード]]をそのままQaRマーカーとして認識するトラッキング・システムを実装していた。カメラやGPS、加速度センサなど各種センサによって携帯電話の位置や向きをトラッキングすることで、正しい位置と向きに画像を表示するシステムはARの実現のために重要な技術である。AR用のトラッキングのための画像認識ライブラリは1999年にリリースされた「[[ARToolKit]]」などから利用することができ、2003年にはDieter SchmalstiegおよびDaniel Wagnerによって携帯電話・[[携帯情報端末|PDA]]向けで初のマーカー・トラッキング・システムが開発されていた<ref>{{cite web | url=http://portal.acm.org/citation.cfm?id=946910 | title=First Steps Towards Handheld Augmented Reality | author=Wagner, Daniel | date=29 September 2009 | publisher=ACM | accessdate=2009-09-29}}</ref>。アジアではQRコードが携帯電話による画像認識マーカーとして普及していたため、ARのマーカー・トラッキングにも用いられるようになった。
ARを使った作品の例としては[[ni_ka]]の[[AR詩]]がある。これは東日本大震災が念頭に置かれており、[[パウル・ツェラン]]の『[[誰でもない者の薔薇]]』を意識した喪の表現となっていて、東京タワーの頂上に薔薇の花を咲かせたり、キティが沢山画面上に出てきて、タップするとそこから詩が出てきて、それに対して感想や返詩ができたりするものであった。<ref>「AR技術による喪の空間の創造 ni_kaのAR詩について」『[[DOMMUNE]] OFFICIAL GUIDE BOOK2』[[河出書房新社]] 2011年 p49-50</ref><ref>「ni_kaの「AR詩」」『[[Web Designing]]』2012年6月号 [[マイナビ]] p43</ref>
2013年、[[Google]]による拡張現実ツール「[[Google Glass]]」のベータ版のテストが始まり、この製品向けの様々な拡張現実アプリケーションが[[サードパーティー]]により実装されてきている。眼鏡型および時計型コンピュータは、スマートフォン以降のウェアラブル・コンピュータ(身に付けられるコンピュータ。持ち運びできるモバイル・コンピュータの次に来る流れとして注目されている)の本命と見なされている。
2014年、ARのコア技術である[[コンピュータビジョン|コンピュータービジョン]] (CV) のリーディングカンパニーのKudan Limited(英国)が日本法人となる[[Kudan]]株式会社を設立し、マーカーARおよび[[マーカーレスAR]]の両方をサポートするクロスプラットフォーム対応のモバイルアプリケーション開発向けツールキット「[[Kudan AR SDK]]」を日本市場に広めた。2018年3月より、[[Kudan AR SDK]]の販売およびサポートは、グローバルディストリビューターであるエクセルソフト株式会社が提供している。
2016年、AR特化型ニュースメディア「[http://getar.jp/ GET AR]」が誕生した。
米国[[Niantic]]社により、世界各地で[[Pokémon GO]](ポケモン ゴー)が発表された。
2016年11月30日に、エプソン販売株式会社からAR対応のスマートグラス、EPSON MOVERIO「[http://www.epson.jp/products/moverio/bt300/ BT-300]」を発売。独自開発の有機ELディスプレイを採用し、軽量化、高輝度、高画質化まで実現している。
== ARを利用したアプリケーション、ゲームおよびサービス ==
{{宣伝|section=1|date=2012年9月26日 (水) 08:29 (UTC)}}<!-- 特筆性のある数個の例で十分 -->
* [[AR Toolkit]] - ARアプリケーションを実現するためのC言語ライブラリ。
* [[AR3D]] - スマートフォンで動作するモバイルARの配信プラットフォーム。
* [[ARAPPLI]] - スマートフォンで動作するARソフトウェア。
* [[セカイカメラ]] - スマートフォンで動作するARソフトウェア。
* [[カードダス|ARカードダス]] - スマートフォンのアプリケーションと連動した[[トレーディングカードゲーム]]。
* [[ARゲームズ]] - [[ニンテンドー3DS]]シリーズ本体に内蔵されているARのミニゲーム。
* [[クリッターズ]] - [[オンラインゲーム|オンライン]][[位置情報ゲーム]]。
* [[Ingress]] - オンライン位置情報ゲーム。
* [[Pokémon GO]] - オンライン位置情報ゲーム。
== ARを扱った作品 ==
* [[アクセル・ワールド]]
* [[俺達の世界わ終っている。]]
* [[ゴーストリコンシリーズ]]
* [[人類は衰退しました]]
* [[劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-]]
* [[デバイスレイン]]
* [[電脳コイル]]
* [[ドラゴンボール]]
* [[東のエデン]]
* [[プリズム◇リコレクション!]]
* [[マブラヴ オルタネイティヴ]]
* [[遊戯王ZEXAL]]
* [[リアルアカウント]]
* [[ROBOTICS;NOTES]]
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
* [[エクステンデッド・リアリティ]](XR)
* [[バーチャルリアリティ|仮想現実]](バーチャルリアリティ、VR)
* [[複合現実]] (ミクスト・リアリティ、MR)
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4,039 | 動きベクトル | 動きベクトル(うごきベクトル、英: motion vector)は動画のデータの表現方法として、"基準となるフレーム(動画のある瞬間に相当する画像)"と、"基準となるフレームからの動き"をベクトルとして表現する方法。単純に全時間の全ピクセル情報を記述するよりも圧倒的にデータの記述量を削減することが可能であり、動画像圧縮や、動画内の移動物体認識等を行う場合に用いられる。
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'''動きベクトル'''(うごきベクトル、{{lang-en-short|motion vector}})は[[動画]]のデータの表現方法として、"基準となる[[コマ (映画・漫画)|フレーム]](動画のある瞬間に相当する画像)"と、"基準となるフレームからの動き"を[[ベクトル]]{{要曖昧さ回避|date=2021年7月}}として表現する方法。単純に全時間の全[[ピクセル]]情報を記述するよりも圧倒的にデータの記述量を削減することが可能であり、動画像[[データ圧縮|圧縮]]や、動画内の移動物体認識等を行う場合に用いられる。
[[位置]](通常は画素数で表現する)の[[量の次元|次元]]であり、移動量を指す。
==関連項目==
*[[フレーム間予測]]
*[[パターン認識]]
*[[オプティカルフロー]]
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[[Category:動画圧縮]]
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4,042 | 時間依存密度汎関数法 | 時間依存密度汎関数理論(じかんいぞんみつどはんかんすうりろん、英: Time-dependent density-functional theory、略称: TDDFT)は、電場や磁場といった時間依存的ポテンシャルの存在下での多体系の性質と動力学を調べるために物理学および化学において使われる量子力学理論である。こういった場の分子や固体に対する効果はTDDFTを使って研究するこが可能であり、励起エネルギー、周波数依存応答特性、光吸収スペクトルのような特徴を抽出できる。
TDDFTは密度汎関数理論(DFT)の拡張であり、概念的、計算的基礎は類似している。(時間に依存する)波動関数は(時間に依存する)電子密度と等価であることを示し、次に任意の相互作用のある系と同じ密度を返す相互作用のない架空の系の有効ポテンシャルを導く。こういった系を構築するうえでの問題はTDDFTでより複雑である。これは、とりわけ全ての瞬間における時間依存有効ポテンシャルがそれより前の全ての時間における密度の値に依存するためである。その結果として、TDDFTの実装についての時間依存近似の開発はDFTに遅れた。応用ではこの記憶の必要性はいつも決まって無視されている。
TDDFTの形式的基礎はルンゲ・グロスの定理(RG定理、1984年)である(1964年のホーヘンベルク・コーンの定理の時間依存版)。RG定理は、所与の初期波動関数について、系の時間依存外部ポテンシャルとその時間依存密度との間に唯一の写像が存在することを示す。これは、3N個の変数に依存する多体波動関数がわずか3個の変数のみに依存する密度と等価であること、そして系の全ての性質は電子密度の知識だけから決定することができることを含意する。DFTとは異なり、時間に依存する量子力学において一般的な最小化原理は存在しない。その結果として、RG定理の証明はHK定理よりもややこしい。
RG定理を所与とすると、計算的に有用な手法を開発するうえでの次の段階は、興味のある物理的(相互作用のある)系と同じ電子密度を持つ架空の相互作用のない系を決定することである。DFTと同様に、これは(時間に依存する)コーン–シャム系と呼ばれる。この系はケルディッシュ形式において定義される作用汎関数の停留点として形式的に見出される。
TDDFTの最も人気のある応用は、孤立系やそれほど多くはないが固体の励起状態のエネルギーの計算である。こういった計算は、線形応答関数 —すなわち、外部ポテンシャルが変化する時に電子密度がどのように変化するか— が系の厳密な励起エネルギーで極を持つ、という事実に基づく。こういった計算は、交換-相関ポテンシャルに加えて、交換-相関核 — 密度に関する交換-相関ポテンシャルの汎関数微分— を必要とする。
波動関数をΨ(t)、t を時間、ハミルトニアンを H ^ {\displaystyle {\hat {H}}} とする。この時、出発点としての時間を含むシュレーディンガー方程式は、
となる。ここで、 ħ = h / 2 π {\displaystyle \hbar =h/2\pi } (h はプランク定数)である。時刻 t0 、t でのそれぞれの波動関数の関係をシュレーディンガー表示で表すと、
となる。少々厳密ではないが、 t → t + Δ t {\displaystyle t\to t+\Delta t} 、 t 0 → t {\displaystyle t_{0}\to \,t} とし、波動関数の時間発展を、Δt の時間刻みによる逐次的な発展として考えると上式は、
となる。問題となるのは、 e − i H ^ Δ t / ħ {\displaystyle e^{-i{\hat {H}}\Delta t/\hbar }} の部分の処理で、 H ^ Δ t {\displaystyle {\hat {H}}\Delta t} に関して冪展開したり、指数関数部分に関して分解(鈴木=トロッター分解)を施すなどしてΔt に関しての逐次計算が行われ方程式が解かれる。
TDDFT (TDLDA) は、ポテンシャル部分が時間に依存する場合、例として時間によって変動する動的な電場、磁場中での電子の振舞いや、断熱近似が成り立たないような化学反応を扱うような場合などに適用される。たがし、この手法は密度汎関数理論が前提であり、正しい結果を与えることが保証されるのは基底状態に対してのみである。上記のような時間依存する系は、準位の交差など励起状態を扱う計算となっている。これまでの実際の計算例などから経験的にこのような励起状態をTDDFTは良く記述できていることが分かっているが、どのような場合でも正しい結果を与える保証はない。
ルンゲとグロスのアプローチは、ハミルトニアンが
の形式を取る時間に依存するスカラー場の存在下での単一要素系について考える。上式において、Tは運動エネルギー演算子、Wは電子-電子相互作用、Vext(t) は電子の数と連動して系を定義する外部ポテンシャルである。通常、外部ポテンシャルは系の核との電子の相互作用を含む。非自明な時間依存性について、追加の明示的に時間依存的なポテンシャルが存在する。これは、例えば、時間に依存する電場あるいは磁場から生じうる。多体波動関数は単一の初期条件の下で時間に依存するシュレーディンガー方程式にしたがって発展する。
その出発点としてシュレーディンガー方程式を利用し、ルンゲ・グロスの定理は、いかなる時点においても、密度は外部ポテンシャルを一意的に決定することを示す。これは2つの段階で成される。
所与の相互作用ポテンシャルについて、RG定理は外部ポテンシャルが電子密度を一意的に決定することを示す。コーン–シャム・アプローチは、相互作用のある系と等しい電子密度を形成する相互作用のない系(相互作用ポテンシャルがゼロ)を選ぶ。こうすることの利点は、相互作用のない系を容易に解くことができること —相互作用のない系の波動関数は単一粒子軌道のスレイター行列式として表わすことができ、個々の軌道は3つの変数をもつ単一の偏微分方程式によって決定される— そして、相互作用ない系の運動エネルギーはこれらの軌道の観点から厳密に表すことができることである。したがって、問題は相互作用のないハミルトニアンHsを決定するポテンシャル(vs(r, t) または vKS(r, t) と表わされる)を決定することである。
次に、このハミルトニアンが行列式波動関数を決定する。
行列式波動関数は方程式
に従う一式のN個の軌道の観点から構築され、ρsが相互作用のある系の密度と常に等しい
ような時間に依存する密度
を生成する。
ここで留意すべきは、上記の密度の式において、総和が N b {\displaystyle N_{\textrm {b}}} 個「全ての」コーン–シャム軌道にわたること、 f i ( t ) {\displaystyle f_{i}(t)} が軌道 i {\displaystyle i} についての時間に依存する占有数であることである。もしポテンシャルvs(r,t) が決定できる、あるいは少くともよく近似できるならば、次に元のシュレーディンガー方程式(3N個の変数を持つ単一粒子微分方程式)は、それぞれ初期条件のみが異なる3次元におけるN個の微分方程式に置き換えられる。
コーン–シャム・ポテンシャルに対する近似を決定する問題は難易度が高い。DFTと類似して、時間に依存するKSポテンシャルは系の外部ポテンシャルと時間に依存するクーロン相互作用vJを抽出するために分解される。残った要素は交換–相関ポテンシャルである。
彼らの独創的な論文において、ルンゲとグロスはディラック場を出発点とした場に基づく議論を通してKSポテンシャルの定義に取り組んだ。
波動関数の汎関数 A[Ψ] として取り扱った、波動関数の変分は停留点として多体シュレーディンガー方程式をもたらす。電子密度と波動関数との間の一意的な写像を考え、ルンゲとグロスは次に密度汎関数
としてディラック場を扱い、場の交換–相関要素についての形式的式を導いた。これが汎関数微分によって交換–相関ポテンシャルを決定する。後に、ディラック場の基づくやり方は、それを生成する応答関数の因果律を考えた時に逆説的結論をもたらすことが見つかった 。密度応答関数(外部ポテンシャルに関する電子密度の汎関数微分)は因果的でなければならない(いかなる時間におけるポテンシャルの変化もそれより前の時間の密度に影響を与えない)。しかしながら、ディラック場から応答関数は時間について対称的であり、必要とされる因果構造を欠いている。この問題に悩まされないやり方が後に複素時間経路積分のケルディッシュ形式に基づく場を通して導入された。「実時間」における場の原理の精緻化による因果律パラドックスの別の解決法が最近ジョヴァンニ・ヴィナーレ(英語版)によって提唱された。
外部摂動が系の基底状態構造を完全に破綻しないという意味で小さければ、線形応答TDDFTを使うことができる。この場合、系の線形応答を解析することができる。これは、1次まで、系の変分が基底状態波動関数のみに依存し、DFTの全ての性質を単純に使うことができるため、大きな利点である。
小さな時間に依存する外部摂動 δ V ext ( t ) {\displaystyle \delta V^{\text{ext}}(t)} を考える。
そして、電子密度の線形応答からすると、
上式において、 δ V eff [ ρ ] ( t ) = δ V ext ( t ) + δ V H [ ρ ] ( t ) + δ V xc [ ρ ] ( t ) {\displaystyle \delta V^{\text{eff}}[\rho ](t)=\delta V^{\text{ext}}(t)+\delta V_{H}[\rho ](t)+\delta V_{\text{xc}}[\rho ](t)} である。ここで、そしてこれ以後、プライム記号付きの変数は積分されているものと見なす。
線形応答領域内において、ハートリー(H)ポテンシャルと交換-相関(xc)ポテンシャルの線形順序への変分は密度変分に関して展開できる。
最後に、この関係をKS系に対する応答方程式に挿入し、得られた方程式と物理的系についての応答方程式を比較すると、TDDFTのDyson方程式が得られる。
この最後の方程式から、系の励起エネルギーを導くことが可能である(これらは単に応答関数の極であるため)。
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}
] | 時間依存密度汎関数理論は、電場や磁場といった時間依存的ポテンシャルの存在下での多体系の性質と動力学を調べるために物理学および化学において使われる量子力学理論である。こういった場の分子や固体に対する効果はTDDFTを使って研究するこが可能であり、励起エネルギー、周波数依存応答特性、光吸収スペクトルのような特徴を抽出できる。 TDDFTは密度汎関数理論(DFT)の拡張であり、概念的、計算的基礎は類似している。(時間に依存する)波動関数は(時間に依存する)電子密度と等価であることを示し、次に任意の相互作用のある系と同じ密度を返す相互作用のない架空の系の有効ポテンシャルを導く。こういった系を構築するうえでの問題はTDDFTでより複雑である。これは、とりわけ全ての瞬間における時間依存有効ポテンシャルがそれより前の全ての時間における密度の値に依存するためである。その結果として、TDDFTの実装についての時間依存近似の開発はDFTに遅れた。応用ではこの記憶の必要性はいつも決まって無視されている。 | '''時間依存密度汎関数理論'''(じかんいぞんみつどはんかんすうりろん、{{lang-en-short|Time-dependent density-functional theory}}、略称: '''TDDFT''')は、[[電場]]や[[磁場]]といった時間依存的ポテンシャルの存在下での多体系の性質と動力学を調べるために[[物理学]]および[[化学]]において使われる[[量子力学]]理論である。こういった場の分子や固体に対する効果はTDDFTを使って研究することが可能であり、励起エネルギー、周波数依存応答特性、光吸収スペクトルのような特徴を抽出できる。
TDDFTは[[密度汎関数理論]](DFT)の拡張であり、概念的、計算的基礎は類似している。(時間に依存する)[[波動関数]]は(時間に依存する)[[電子密度]]と等価であることを示し、次に任意の相互作用のある系と同じ密度を返す相互作用のない架空の系の有効ポテンシャルを導く。こういった系を構築するうえでの問題はTDDFTでより複雑である。これは、とりわけ全ての瞬間における時間依存有効ポテンシャルがそれより前の全ての時間における密度の値に依存するためである。その結果として、TDDFTの実装についての時間依存近似の開発はDFTに遅れた。応用ではこの記憶の必要性はいつも決まって無視されている。
== 概要 ==
TDDFTの形式的基礎は'''[[ルンゲ・グロスの定理]]'''('''RG定理'''、1984年)である<ref>{{cite journal|last=Runge|first=Erich|author2=Gross, E. K. U. |year=1984|title=Density-Functional Theory for Time-Dependent Systems|journal=Phys. Rev. Lett.|volume=52|issue=12|pages=997–1000|doi=10.1103/PhysRevLett.52.997|bibcode=1984PhRvL..52..997R}}</ref>(1964年の[[ホーヘンベルク・コーンの定理]]<ref>{{cite journal|title=Inhomogeneous electron gas|journal=Phys. Rev.|year=1964|first=P.|last=Hohenberg|author-link= ピエール・ホーエンバーグ|author2=Kohn, W. |volume=136|issue=3B|pages=B864–B871|doi=10.1103/PhysRev.136.B864|bibcode = 1964PhRv..136..864H |url=https://doi.org/10.1103/PhysRev.136.B864}}</ref>の時間依存版)。RG定理は、所与の初期波動関数について、系の時間依存外部ポテンシャルとその時間依存密度との間に唯一の写像が存在することを示す。これは、3''N''個の変数に依存する多体波動関数がわずか3個の変数のみに依存する密度と等価であること、そして系の全ての性質は電子密度の知識だけから決定することができることを含意する。DFTとは異なり、時間に依存する量子力学において一般的な最小化原理は存在しない。その結果として、RG定理の証明はHK定理よりもややこしい。
RG定理を所与とすると、計算的に有用な手法を開発するうえでの次の段階は、興味のある物理的(相互作用のある)系と同じ電子密度を持つ架空の相互作用のない系を決定することである。DFTと同様に、これは(時間に依存する)コーン–シャム系と呼ばれる。この系は[[ケルディッシュ形式]]において定義される[[作用 (物理学)|作用]]汎関数の{{仮リンク|停留点|en|Stationary point}}として形式的に見出される<ref>{{cite journal|last=van Leeuwen|first=Robert|year=1998|title=Causality and Symmetry in Time-Dependent Density-Functional Theory|journal=Phys. Rev. Lett.|volume=80|issue=6|pages=1280–283|doi=10.1103/PhysRevLett.80.1280|bibcode=1998PhRvL..80.1280V}}</ref>。
TDDFTの最も人気のある応用は、孤立系やそれほど多くはないが固体の[[励起状態]]のエネルギーの計算である。こういった計算は、線形応答関数 —すなわち、外部ポテンシャルが変化する時に電子密度がどのように変化するか— が系の厳密な励起エネルギーで極を持つ、という事実に基づく。こういった計算は、交換-相関ポテンシャルに加えて、交換-相関[[核 (代数学)|核]] — 密度に関する交換-相関ポテンシャルの[[汎関数微分]]— を必要とする<ref>{{cite book|last=Casida |first=M. E.|author2=C. Jamorski |author3=F. Bohr |author4=J. Guan |author5=D. R. Salahub |title=Theoretical and Computational Modeling of NLO and Electronic Materials|editor=S. P. Karna and A. T. Yeates|publisher=ACS Press|location=Washington, D.C.|year=1996|url=http://dcm.ujf-grenoble.fr/PERSONNEL/CT/casida/research/chong.ps|page=145–}}</ref><ref>{{cite journal|last=Petersilka|first=M. |author2=U. J. Gossmann |author3=E.K.U. Gross|year=1996|title=Excitation Energies from Time-Dependent Density-Functional Theory|journal=Phys. Rev. Lett.|volume=76|issue=8|pages=1212–1215|doi=10.1103/PhysRevLett.76.1212|pmid=10061664|bibcode=1996PhRvL..76.1212P|arxiv=cond-mat/0001154}}</ref>。
=== 詳細 ===
[[波動関数]]を''Ψ''(''t'')、''t'' を時間、[[ハミルトニアン]]を<math> \hat{H} </math>とする。この時、出発点としての時間を含む[[シュレーディンガー方程式]]は、
:<math> i \hbar { \partial \Psi (t) \over {\partial t}} = \hat{H} \Psi (t) </math>
となる。ここで、<math> \hbar = h / 2 \pi </math>(''h'' は[[プランク定数]])である。時刻 ''t''<sub>0</sub> 、''t'' でのそれぞれの波動関数の関係をシュレーディンガー表示で表すと、
:<math> \Psi (t) = e^{ -i \hat{H} (t - t_0) / \hbar} \Psi(t_0) </math>
となる。少々厳密ではないが、<math> t \to t + \Delta t </math>、<math> t_0 \to \, t </math>とし、波動関数の時間発展を、Δ''t'' の時間刻みによる逐次的な発展として考えると上式は、
:<math> \Psi (t + \Delta t) = e^{ - i \hat{H} \Delta t / \hbar} \Psi (t) </math>
となる。問題となるのは、<math> e^{ - i \hat{H} \Delta t / \hbar} </math>の部分の処理で、<math> \hat{H} \Delta t </math> に関して冪展開したり、指数関数部分に関して分解([[鈴木=トロッター分解]])を施すなどしてΔ''t'' に関しての逐次計算が行われ方程式が解かれる。
TDDFT (TDLDA) は、ポテンシャル部分が時間に依存する場合、例として時間によって変動する動的な[[電場]]、[[磁場]]中での電子の振舞いや、[[断熱近似]]が成り立たないような[[化学反応]]を扱うような場合などに適用される。たがし、この手法は密度汎関数理論が前提であり、正しい結果を与えることが保証されるのは[[基底状態]]に対してのみである。上記のような時間依存する系は、準位の交差など[[励起状態]]を扱う計算となっている。これまでの実際の計算例などから経験的にこのような励起状態をTDDFTは良く記述できていることが分かっているが、どのような場合でも正しい結果を与える保証はない。
==形式==
===ルンゲ・グロスの定理===
{{main|ルンゲ・グロスの定理}}
ルンゲとグロスのアプローチは、[[ハミルトニアン]]が
:<math>\hat{H}(t)=\hat{T}+\hat{V}_{\mathrm{ext}}(t)+\hat{W},</math>
の形式を取る時間に依存する[[スカラー場]]の存在下での単一要素系について考える。上式において、''T''は運動エネルギー演算子、''W''は電子-電子相互作用、''V''<sub>ext</sub>(''t'') は電子の数と連動して系を定義する外部ポテンシャルである。通常、外部ポテンシャルは系の核との電子の相互作用を含む。非自明な時間依存性について、追加の明示的に時間依存的なポテンシャルが存在する。これは、例えば、時間に依存する電場あるいは磁場から生じうる。多体波動関数は単一の[[初期条件]]の下で[[時間に依存するシュレーディンガー方程式]]にしたがって発展する。
:<math>\hat{H}(t)|\Psi(t)\rangle=i\hbar\frac{\partial}{\partial t}|\Psi(t)\rangle,\ \ \ |\Psi(0)\rangle=|\Psi\rangle</math>
その出発点としてシュレーディンガー方程式を利用し、ルンゲ・グロスの定理は、いかなる時点においても、密度は外部ポテンシャルを一意的に決定することを示す。これは2つの段階で成される。
# 外部ポテンシャルが任意の時間に関する[[テイラー級数]]で展開できることを仮定すると、追加の定数よりも異なる2つの外部ポテンシャルが異なる[[電流密度]]を生成することが示される。
# [[連続の方程式]]を使うと、有限の系について、異なる電流密度が異なる電子密度に対応することが示される。
===時間に依存するコーン–シャム系===
所与の相互作用ポテンシャルについて、RG定理は外部ポテンシャルが電子密度を一意的に決定することを示す。コーン–シャム・アプローチは、相互作用のある系と等しい電子密度を形成する相互作用のない系(相互作用ポテンシャルがゼロ)を選ぶ。こうすることの利点は、相互作用のない系を容易に解くことができること —相互作用のない系の波動関数は単一粒子[[分子軌道|軌道]]の[[スレイター行列式]]として表わすことができ、個々の軌道は3つの変数をもつ単一の[[偏微分方程式]]によって決定される— そして、相互作用ない系の運動エネルギーはこれらの軌道の観点から厳密に表すことができることである。したがって、問題は相互作用のないハミルトニアン''H''<sub>s</sub>を決定するポテンシャル(''v''<sub>s</sub>('''''r''''', ''t'') または ''v''<sub>KS</sub>('''''r''''', ''t'') と表わされる)を決定することである。
:<math>\hat{H}_{s}(t) = \hat{T}+\hat{V}_{s}(t)</math>
次に、このハミルトニアンが行列式波動関数を決定する。
:<math>\hat{H}_{s}(t)|\Phi(t)\rangle=i\frac{\partial}{\partial t}|\Phi(t)\rangle,\ \ \ |\Phi(0)\rangle=|\Phi\rangle</math>
行列式波動関数は方程式
:<math>\left(-\frac{1}{2}\nabla^{2}+v_{s}(\boldsymbol{r},t)\right)\phi_{i}(\boldsymbol{r},t)=i\frac{\partial}{\partial t}\phi_{i}(\boldsymbol{r},t)\ \ \ \phi_{i}(\boldsymbol{r},0)=\phi_{i}(\boldsymbol{r}),</math>
に従う一式の''N''個の軌道の観点から構築され、''ρ''<sub>s</sub>が相互作用のある系の密度と常に等しい
:<math>\rho_{s}(\boldsymbol{r},t)=\rho(\boldsymbol{r},t)</math>
ような時間に依存する密度
:<math>\rho_{s}(\boldsymbol{r},t)=\sum_{i = 1}^{N_{\textrm{b}}}f_{i}(t)|\phi_{i}(\boldsymbol{r},t)|^{2}</math>
を生成する。
ここで留意すべきは、上記の密度の式において、総和が<math>N_{\textrm{b}}</math>個「全ての」コーン–シャム軌道にわたること、<math>f_i(t)</math>が軌道<math>i</math>についての時間に依存する占有数であることである。もしポテンシャル''v''<sub>s</sub>('''r''',''t'') が決定できる、あるいは少くともよく近似できるならば、次に元のシュレーディンガー方程式(3''N''個の変数を持つ単一粒子微分方程式)は、それぞれ初期条件のみが異なる3次元における''N''個の微分方程式に置き換えられる。
コーン–シャム・ポテンシャルに対する近似を決定する問題は難易度が高い。DFTと類似して、時間に依存するKSポテンシャルは系の外部ポテンシャルと時間に依存するクーロン相互作用''v''<sub>J</sub>を抽出するために分解される。残った要素は交換–相関ポテンシャルである。
:<math>v_{s}(\boldsymbol{r},t)=v_{\rm ext}(\boldsymbol{r},t)+v_{J}(\boldsymbol{r},t)+v_{\rm xc}(\boldsymbol{r},t)</math>
彼らの独創的な論文において、ルンゲとグロスはディラック場を出発点とした場に基づく議論を通してKSポテンシャルの定義に取り組んだ。
:<math>A[\Psi]=\int\mathrm{d}t\ \langle\Psi(t)|\hat{H}-i\frac{\partial}{\partial t}|\Psi(t)\rangle</math>
波動関数の汎関数 ''A''[Ψ] として取り扱った、波動関数の変分は停留点として多体シュレーディンガー方程式をもたらす。電子密度と波動関数との間の一意的な写像を考え、ルンゲとグロスは次に密度汎関数
:<math>A[\rho]=A[\Psi[\rho]],\,</math>
としてディラック場を扱い、場の交換–相関要素についての形式的式を導いた。これが汎関数微分によって交換–相関ポテンシャルを決定する。後に、ディラック場の基づくやり方は、それを生成する応答関数の因果律を考えた時に逆説的結論をもたらすことが見つかった<ref>{{cite book|last=Gross|first=E. K. U. |author2=C. A. Ullrich |author3=U. J. Gossman|title=Density Functional Theory|editor=E. K. U. Gross and R. M. Dreizler|publisher=Plenum Press|location=New York|year=1995|series=B|volume=337|isbn=0-387-51993-9}}</ref> 。密度応答関数(外部ポテンシャルに関する電子密度の汎関数微分)は因果的でなければならない(いかなる時間におけるポテンシャルの変化もそれより前の時間の密度に影響を与えない)。しかしながら、ディラック場から応答関数は時間について対称的であり、必要とされる因果構造を欠いている。この問題に悩まされないやり方が後に複素時間経路積分の[[ケルディッシュ形式]]に基づく場を通して導入された。「実時間」における場の原理の精緻化による因果律パラドックスの別の解決法が最近{{仮リンク|ジョヴァンニ・ヴィナーレ|en|Giovanni Vignale}}によって提唱された<ref name="Vignale2008">{{cite journal|last1=Vignale|first1=Giovanni|title=Real-time resolution of the causality paradox of time-dependent density-functional theory|journal=Physical Review A|volume=77|issue=6|year=2008|doi=10.1103/PhysRevA.77.062511}}</ref>。
== 線形応答TDDFT ==
外部摂動が系の基底状態構造を完全に破綻しないという意味で小さければ、線形応答TDDFTを使うことができる。この場合、系の線形応答を解析することができる。これは、1次まで、系の変分が基底状態波動関数のみに依存し、DFTの全ての性質を単純に使うことができるため、大きな利点である。
小さな時間に依存する外部摂動<math>\delta V^{\text{ext}}(t)</math>を考える。
:<math>\begin{align}
\hat{H}'(t) &= \hat{H} + \delta V^{\text{ext}}(t) \\
\hat{H}'_{\text{KS}}[\rho](t) &= \hat{H}_{\text{KS}}[\rho]+\delta V_H[\rho](t)+\delta V_{\text{xc}}[\rho](t)+\delta V^{\text{ext}}(t)
\end{align}</math>
そして、電子密度の線形応答からすると、
:<math>\begin{align}
\delta \rho(\boldsymbol{r}t) &= \chi(\boldsymbol{r}t,\boldsymbol{r}'t')
\delta V^{\text{ext}}(\boldsymbol{r}'t') \\
\delta \rho(\boldsymbol{r}t) &= \chi_{\text{KS}}(\boldsymbol{r}t,\boldsymbol{r}'t')
\delta V^{\text{eff}}[\rho](\boldsymbol{r}'t')
\end{align}</math>
上式において、<math>\delta V^{\text{eff}}[\rho](t)=\delta V^{\text{ext}}(t)+\delta V_H[\rho](t)+\delta V_{\text{xc}}[\rho](t)</math>である。ここで、そしてこれ以後、プライム記号付きの変数は積分されているものと見なす。
線形応答領域内において、ハートリー(H)ポテンシャルと交換-相関(xc)ポテンシャルの線形順序への変分は密度変分に関して展開できる。
:<math>\begin{align}
\delta V_H[\rho](\boldsymbol{r}) &= \frac{\delta V_H[\rho]}{\delta\rho}\delta\rho=
\frac{1}{|\boldsymbol{r}-\boldsymbol{r}'|}\delta\rho(\boldsymbol{r}') \\
\delta V_{\text{xc}}[\rho](\boldsymbol{r}) &= \frac{\delta V_{\text{xc}}[\rho]}{\delta\rho}\delta\rho=
f_{\text{xc}}(\boldsymbol{r}t,\boldsymbol{r}'t')\delta\rho(\boldsymbol{r}')
\end{align}</math>
最後に、この関係をKS系に対する応答方程式に挿入し、得られた方程式と物理的系についての応答方程式を比較すると、TDDFTのDyson方程式が得られる。
:<math>\chi(\boldsymbol{r}_1t_1,\boldsymbol{r}_2t_2)=\chi_{\text{KS}}(\boldsymbol{r_1}t_1,\boldsymbol{r}_2t_2)+
\chi_{\text{KS}}(\boldsymbol{r_1}t_1,\boldsymbol{r}_2't_2')
\left(\frac{1}{|\boldsymbol{r}_2'-\boldsymbol{r}_1'|}+f_{\text{xc}}(\boldsymbol{r}_2't_2',\boldsymbol{r}_1't_1')\right)
\chi(\boldsymbol{r}_1't_1',\boldsymbol{r}_2t_2) </math>
この最後の方程式から、系の励起エネルギーを導くことが可能である(これらは単に応答関数の極であるため)。
その他の線形応答アプローチには、Casida形式(電子孔対における展開)やSternheimer方程式(密度汎関数摂動理論)がある。
==TDDFTプログラム==
* [http://elk.sourceforge.net ELK]
* [[Firefly (プログラム)|Firefly]]
* [[GAMESS (US)]]
* [[Gaussian]]
* [[Amsterdam Density Functional]]
* [[CP2K]]
* [[Dalton (プログラム)|Dalton]]
* [[NWChem]]
* [[octopus (ソフトウェア)|Octopus]]
* [http://www.pw-teleman.org pw-teleman library]
* [[PARSEC]]
* [https://github.com/LLNL/qball Qbox/Qb@ll]
* [[Q-Chem]]
* [[Spartan]]
* [[TeraChem]]
* [[TURBOMOLE]]
* [[YAMBO code]]
* [[ORCA (量子化学プログラム)|ORCA]]
* [[Jaguar (ソフトウェア)|Jaguar]]
* [https://wiki.fysik.dtu.dk/gpaw/ GPAW]
* [http://www.onetep.org/ ONETEP]
== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
* {{cite book|editor1=M.A.L. Marques |editor2=C.A. Ullrich |editor3=F. Nogueira |editor4=A. Rubio |editor5=K. Burke |editor6=E.K.U. Gross |title=Time-Dependent Density Functional Theory |publisher=[[Springer-Verlag]]|year=2006| isbn =978-3-540-35422-2}}
* {{cite book|author=Carsten Ullrich |title=Time-Dependent Density-Functional Theory: Concepts and Applications (Oxford Graduate Texts) |publisher=[[Oxford University Press]]|year=2012 |isbn =978-0199563029}}
== 関連項目 ==
*[[局所密度近似]]
*[[第一原理バンド計算]]
== 外部リンク ==
* [http://tddft.org tddft.org]
* [http://th.physik.uni-frankfurt.de/~engel/tddft.html Brief introduction of TD-DFT]
{{DEFAULTSORT:しかんいそんみつとはんかんすうほう}}
[[Category:固体物理学]]
[[Category:計算物理学]]
[[Category:密度汎関数理論]]
[[Category:量子化学]] | 2003-03-15T04:11:11Z | 2023-11-21T11:06:55Z | false | false | false | [
"Template:Lang-en-short",
"Template:仮リンク",
"Template:Main",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:Cite book"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93%E4%BE%9D%E5%AD%98%E5%AF%86%E5%BA%A6%E6%B1%8E%E9%96%A2%E6%95%B0%E6%B3%95 |
4,046 | 琵琶湖線 | 琵琶湖線(びわこせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、滋賀県米原市の米原駅から京都府京都市下京区の京都駅までの区間、および北陸本線のうち米原駅から滋賀県長浜市の長浜駅までの区間に付けられた愛称である。
JR西日本の京阪神エリアの路線網(アーバンネットワーク)の一角を成す路線である。琵琶湖の東岸を走り、滋賀県湖東・湖南地区の各都市と京都を結ぶ、滋賀県の主要路線である。京都・大阪方面への通勤・通学に利用され、大津市や草津市など京都・大阪に近い沿線はベッドタウンとして開発されている。多くの列車がJR京都線、JR神戸線へと直通運転しているほか、新快速を中心に長浜駅以北の敦賀駅方面に至る列車が設定されている。また、山科駅 - 石山駅間で、京阪京津線・石山坂本線(大津線)、近江八幡駅 - 米原駅間で近江鉄道本線・八日市線と並行しているものの、いずれも地域内輸送が中心であり、運賃や経路・速度・駅間距離・運転本数が違い過ぎることからいずれも競合する私鉄とはいえない。
ラインカラーは青(■)で、JR京都線、JR神戸線と同様にJR西日本のコーポーレートカラーがそのまま採用されている。路線記号は A であるが、湖西線の列車が乗り入れる山科駅 - 京都駅間は、重複して B も付与されている。
JR西日本の発足直後、米原駅 - 大阪駅間の愛称を公募したところ、国鉄時代から俗に呼ばれていた「湖東線」が1位であったが、JR西日本は米原駅 - 大阪駅間の愛称を「JR京都線」と決定した。しかし、滋賀県や県議会から地域密着の路線名にして欲しいと強い要望があったことを受け、1988年2月5日に米原駅 - 京都駅間の愛称を「琵琶湖線」に変更し、1988年3月13日のダイヤ改正から使用を開始した。1991年9月14日には北陸本線の田村駅 - 長浜間が交流電化から直流電化に変更され、京都方面からの新快速・普通が直通するようになったことに合わせて、同線の米原駅 - 長浜駅間も琵琶湖線に加えられた。2006年10月21日には同線の長浜駅 - 敦賀駅間も直流電化に変更され、各列車の運転区間も延長されたが、この区間は近江塩津駅の手前まで琵琶湖の湖岸線に並行しているものの、琵琶湖線に加えられていない。
当該区間では旅客案内上も「琵琶湖線」と案内され、基本的には「東海道(本)線」が使用されることはない(ただし、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される)。 なお、米原駅から長浜方面では敦賀方面行きを「琵琶湖線」ではなく「北陸本線」あるいは「北陸線」と案内することがある。また、山科駅 - 京都駅間では湖西線系統の列車も走るため、山科駅では草津・米原方面行きのみ「琵琶湖線」と案内し、京都・大阪方面行きは直通先の名称である「JR京都線」として案内される。
全区間がJR西日本近畿統括本部の管轄であり、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」、およびICカード乗車カード「ICOCA」エリアに含まれている。
草津駅 - 京都駅間は複々線で、外側の2線(外側線)は主として特急列車・貨物列車及び草津線直通の普通が使用し、内側の2線(内側線)は新快速・普通(高槻または京都から快速)が使用している。ホームの両面とも客扱いするため、いずれの駅にもホームドアも柵も設置されていない。基本的に外側線の通過列車は、京都駅以西のJR京都線やJR神戸線と異なり、特急及び貨物列車に限る運用がなされており、実質的に貨客分離となっているが、ラッシュ時を中心に外側線を走る新快速があり、また事故などでダイヤが乱れた場合には外側線を走る普通があるなど、京都駅以西の複々線区間と比較して柔軟な運用が行われている。米原駅 - 京都駅間の全線で130 km/h運転が可能であり、特に草津駅 - 京都駅間は内側線も130 km/hに対応している。南彦根駅・稲枝駅・篠原駅・守山駅・栗東駅・南草津駅・瀬田駅・大津駅は絶対信号機を持たないため停留所に分類される。能登川駅で上り米原方面行きの列車、近江八幡駅で下り京都方面行きの列車がそれぞれ緩急接続ができるほか、河瀬駅・安土駅・野洲駅に中線があり普通列車の特急・貨物列車の待避や折り返しに使用される。野洲駅には網干総合車両所宮原支所野洲派出所がある。そのため野洲駅を始発・終着駅とする区間列車が多く設定されている。
ダイヤは基本的に、京都駅 - 大阪駅 - 姫路駅間のJR京都線・JR神戸線と長浜駅 - 近江塩津駅・敦賀駅間の北陸本線の直流電化区間と一体的に組まれている。琵琶湖線内の列車種別は、一部の駅を通過する「新快速」と各駅に停車する「普通」が中心である。この2種別によるパターンダイヤが組まれており、日中は15 - 30分ヘッドの等時隔ダイヤとなっている。このほかに一部特別料金を必要とする優等列車も走る。
土曜・休日ダイヤの7時台に米原駅から野洲駅までを普通、野洲駅で新快速に種別を変更する京都・大阪・神戸方面行きの列車があった。2011年3月11日までは平日朝に草津駅 → 米原駅間・京都駅 → 野洲駅間でそれぞれ普通となる新快速が設定されていた。また、2007年3月3日までは平日午前中に米原駅 → 野洲駅間で普通列車となる京都・大阪・神戸方面行きの列車があった。2021年10月2日より長浜駅 - 米原駅間の新快速が日中時間帯1時間に1本の運行となった。
この区間のダイヤは、京都駅 - 草津駅間で普通(京阪神間快速電車の延長)が日中時間帯1時間に4本の運行となった1972年3月15日改正が原型で、その後草津駅 - 野洲駅・米原駅間の増発が行われてきた。新快速の運転開始当時は、普通の中に割って入れたダイヤであったため、新快速と普通の乗り継ぎは考慮されていなかったが、その後の新快速の増発に合わせて米原方面への上り列車は草津駅や野洲駅で、京都方面への下り列車は朝晩に近江八幡駅で接続を取るダイヤが設定されてきた。2003年12月1日の改正では新快速が停車しない中間駅からの所要時間短縮を目的に、日中の上り野洲行き新快速からの米原方面への普通、また近江八幡駅での米原方面からの下り普通から新快速への相互接続ダイヤを組んだが、京都方面への下りの場合、近江八幡駅や彦根駅での実質利用可能列車の減少というデメリットが大きいため、2008年3月15日改正で米原発の列車は京都駅に先着するダイヤに戻された。
夜間の車両収容は網干総合車両所宮原支所の野洲派出所・米原派出所の電留線を利用している。
大阪方面から北陸方面への特急列車は山科駅から湖西線に入り、米原駅から名古屋方面へは東海道新幹線が並行するため、山科駅 - 米原駅間を走行する優等列車は、JR京都線と比べると本数は少ない。
2023年3月18日の改正ダイヤでは、米原駅 - 山科駅間を定期で運転される列車は以下のとおりで、特急「はるか」は野洲駅発着関西空港行2往復と草津発関西空港行き1本、特急「びわこエクスプレス」が米原駅発着1往復と大阪発草津行きが1本運転されているほかは、いずれも1日1往復の運転である。ただし、「びわこエクスプレス」は京都・大阪方面への通勤利用客を主な対象としているため土曜・休日ダイヤでは運転されていない。「はるか」は新快速と同一停車駅で、「びわこエクスプレス」は能登川駅以外の新快速停車駅に、「ひだ」は米原駅・草津駅・京都駅に停車する。山科駅 - 京都駅間はこれらに特急「サンダーバード」など湖西線経由の列車が加わる。「サンダーバード」については湖西線の強風による迂回運転時には京都駅 - 長浜駅間の琵琶湖線全線での運行に変更され、米原駅に運転停車する以外は、琵琶湖線内は無停車で運行される。米原駅 - 長浜駅間には名古屋駅および米原駅と北陸を結ぶ特急「しらさぎ」が名古屋駅・米原駅 - 金沢駅間で運転されている。
これらの特急の自由席を米原駅 - 京都駅間で利用した場合、同区間を東海道新幹線の自由席を利用する場合と比較して特急料金が高くなる(特定特急券の項目も参照)。
新快速は、他社鉄道線と競合する京阪神間の速達輸送を目的に1970年より運行を開始した列車であり、現在の琵琶湖線区間には翌1971年から乗り入れている。
北陸本線から琵琶湖線を経てJR京都線・JR神戸線方面へ直通運転を行っている。琵琶湖線内では長浜駅 - 彦根駅間は各駅に停車、彦根駅 - 京都駅間では一部の駅(彦根駅・能登川駅・近江八幡駅・野洲駅・守山駅・草津駅・南草津駅・石山駅・大津駅・山科駅)にのみ停車する快速運転を行う。京都駅 - 草津駅間は列車により内側線または外側線を走るが、平日の朝ラッシュ時は外側線を走り、京都駅では0・6番のりばに停車する。
日中時間帯の琵琶湖線系統は1時間に3本(うち1本が野洲駅発着、1本が草津駅発着)で、運転間隔が広がる部分がある。これは京都駅 - 山科駅間の1時間に4本のうち、1本は湖西線直通で運行されているからである。京都駅 - 大阪駅 - 姫路駅間のJR京都線・神戸線と直通運転をしている。上り列車は京都駅を毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車する。
運転区間の拡大に合わせたダイヤ改正により運転時間の拡大も続き、1999年5月10日に平日ダイヤの朝ラッシュ時に増発、2004年10月16日に平日ダイヤの夕ラッシュ時に増発と続き、2009年3月14日には夜の大阪方面に向かう下り列車の増発も行われた。2011年3月12日の改正で南草津駅が新快速の停車駅になり、また、土曜・休日ダイヤのすべての新快速が京都駅 - 米原駅間で12両編成に統一された。
全列車とも223系(1000番台および2000番台)・225系(0番台および100番台)電車(いずれも網干総合車両所所属)の8両または12両編成で運転される。北陸本線の区間はホーム有効長の関係で長浜駅発着は4両または8両編成、近江塩津駅・敦賀駅発着は4両編成で運転されるため、米原駅で車両の連結・切り離しを行う列車が多い。2017年3月4日のダイヤ改正より平日・土曜/休日とも京都駅 - 米原駅間のほぼすべての列車が12両編成に統一された(平日朝の京都発1本および夕方ラッシュ時の大阪始発は除く)。
米原駅を境に列車番号が変更される。以前は、平日のみ運行される米原発7時台の京都・大阪方面神戸・姫路行き(米原で長浜発の8両編成と近江塩津発の4両編成を連結する)は、長浜発の編成のみ米原駅で列車番号を変えていた(近江塩津発の編成と番号が揃えられる)。
事故などのトラブルでダイヤが乱れた場合や、ダイヤの乱れが見込まれる場合、米原駅で運転を打ち切り、米原駅以北と以南で別の編成を用いて運転することがある。
琵琶湖線内は各駅に停車する。草津駅 - 京都駅間は内側線で運転されている。朝・深夜の一部列車をのぞきJR京都線・JR神戸線に直通し、JR京都線・JR神戸線内では高槻駅 - 大阪駅 - 西明石駅間(始発から朝ラッシュ時までは京都駅 - 長岡京駅 - 高槻駅 - 大阪駅 - 西明石駅間)で快速となる。JR宝塚線には直通しない。
朝ラッシュ時は米原・野洲発の系統のほか、安土発や草津線柘植発の列車もある。日中時間帯は1時間に4本(うち2本は京都駅 - 野洲駅間の区間系統)で運行されており、上り列車は京都駅を毎時07・22・37・52分の15分間隔で発車する。朝晩は長浜駅発着系統がある。2016年3月26日のダイヤ改正以前は東海旅客鉄道(JR東海)大垣駅発着の設定もあった。
221系・223系(1000番台・2000番台・6000番台)・225系(0番台・100番台)電車(いずれも網干総合車両所所属車)の6・8・10・12両編成で運転されている。京都駅発着の列車には4両編成で運行される列車があり、長浜駅・近江塩津駅発着の列車では米原駅で連結・切り離しをする列車もある。なおこれらいずれの普通列車にも女性専用車の設定はない。
JR京都線直通列車の中には、運行全区間の各駅に停車する列車(京阪神緩行線)も少数存在する。京都発平日8時台の普通電車草津行きは、JR宝塚線新三田始発で運行されており、運行区間内の全駅に停車する。2004年10月11日までは土曜・休日ダイヤでも設定があり、2004年10月18日から2013年3月15日までは野洲駅発着の設定もあったが、翌16日のダイヤ改正以降は西明石駅から直通する草津行きの1本のみとなった。2022年3月12日のダイヤ改正で新三田発草津行きに変更された。207系または321系が使用されており、乗り入れ先線区の関係で女性専用車の設定がある(2002年12月7日からは、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで。2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず終日)。
草津線に直通する列車も朝夕に設定されており、吹田総合車両所京都支所所属の221系電車も使われている。草津線直通の列車は新快速との接続および草津駅の線路配線の関係で草津駅 - 京都駅間を原則外側線で運転する。また山科駅 - 京都駅間は湖西線の新快速・普通も運転されており、この区間の日中は1時間に11本の運転になる。
1989年3月10日までは草津線直通の客車列車や彦根駅から北陸本線に直通する気動車列車も設定されていた。
現在、定期列車はすべて電車で運転されている。
以下では、琵琶湖線の各駅の営業キロ・停車列車・接続路線についてを一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」を参照。
以下の区間で新駅を設置することが検討されている。
このほか、南草津駅 - 瀬田駅間にも新駅設置が計画されていたが、草津市が新駅の設置計画を凍結する方針を2013年10月28日までに固めた。 | [
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"text": "琵琶湖線(びわこせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、滋賀県米原市の米原駅から京都府京都市下京区の京都駅までの区間、および北陸本線のうち米原駅から滋賀県長浜市の長浜駅までの区間に付けられた愛称である。",
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"text": "JR西日本の京阪神エリアの路線網(アーバンネットワーク)の一角を成す路線である。琵琶湖の東岸を走り、滋賀県湖東・湖南地区の各都市と京都を結ぶ、滋賀県の主要路線である。京都・大阪方面への通勤・通学に利用され、大津市や草津市など京都・大阪に近い沿線はベッドタウンとして開発されている。多くの列車がJR京都線、JR神戸線へと直通運転しているほか、新快速を中心に長浜駅以北の敦賀駅方面に至る列車が設定されている。また、山科駅 - 石山駅間で、京阪京津線・石山坂本線(大津線)、近江八幡駅 - 米原駅間で近江鉄道本線・八日市線と並行しているものの、いずれも地域内輸送が中心であり、運賃や経路・速度・駅間距離・運転本数が違い過ぎることからいずれも競合する私鉄とはいえない。",
"title": "概要"
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"text": "ラインカラーは青(■)で、JR京都線、JR神戸線と同様にJR西日本のコーポーレートカラーがそのまま採用されている。路線記号は A であるが、湖西線の列車が乗り入れる山科駅 - 京都駅間は、重複して B も付与されている。",
"title": "概要"
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"text": "JR西日本の発足直後、米原駅 - 大阪駅間の愛称を公募したところ、国鉄時代から俗に呼ばれていた「湖東線」が1位であったが、JR西日本は米原駅 - 大阪駅間の愛称を「JR京都線」と決定した。しかし、滋賀県や県議会から地域密着の路線名にして欲しいと強い要望があったことを受け、1988年2月5日に米原駅 - 京都駅間の愛称を「琵琶湖線」に変更し、1988年3月13日のダイヤ改正から使用を開始した。1991年9月14日には北陸本線の田村駅 - 長浜間が交流電化から直流電化に変更され、京都方面からの新快速・普通が直通するようになったことに合わせて、同線の米原駅 - 長浜駅間も琵琶湖線に加えられた。2006年10月21日には同線の長浜駅 - 敦賀駅間も直流電化に変更され、各列車の運転区間も延長されたが、この区間は近江塩津駅の手前まで琵琶湖の湖岸線に並行しているものの、琵琶湖線に加えられていない。",
"title": "概要"
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"text": "当該区間では旅客案内上も「琵琶湖線」と案内され、基本的には「東海道(本)線」が使用されることはない(ただし、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される)。 なお、米原駅から長浜方面では敦賀方面行きを「琵琶湖線」ではなく「北陸本線」あるいは「北陸線」と案内することがある。また、山科駅 - 京都駅間では湖西線系統の列車も走るため、山科駅では草津・米原方面行きのみ「琵琶湖線」と案内し、京都・大阪方面行きは直通先の名称である「JR京都線」として案内される。",
"title": "概要"
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"text": "全区間がJR西日本近畿統括本部の管轄であり、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」、およびICカード乗車カード「ICOCA」エリアに含まれている。",
"title": "概要"
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"text": "草津駅 - 京都駅間は複々線で、外側の2線(外側線)は主として特急列車・貨物列車及び草津線直通の普通が使用し、内側の2線(内側線)は新快速・普通(高槻または京都から快速)が使用している。ホームの両面とも客扱いするため、いずれの駅にもホームドアも柵も設置されていない。基本的に外側線の通過列車は、京都駅以西のJR京都線やJR神戸線と異なり、特急及び貨物列車に限る運用がなされており、実質的に貨客分離となっているが、ラッシュ時を中心に外側線を走る新快速があり、また事故などでダイヤが乱れた場合には外側線を走る普通があるなど、京都駅以西の複々線区間と比較して柔軟な運用が行われている。米原駅 - 京都駅間の全線で130 km/h運転が可能であり、特に草津駅 - 京都駅間は内側線も130 km/hに対応している。南彦根駅・稲枝駅・篠原駅・守山駅・栗東駅・南草津駅・瀬田駅・大津駅は絶対信号機を持たないため停留所に分類される。能登川駅で上り米原方面行きの列車、近江八幡駅で下り京都方面行きの列車がそれぞれ緩急接続ができるほか、河瀬駅・安土駅・野洲駅に中線があり普通列車の特急・貨物列車の待避や折り返しに使用される。野洲駅には網干総合車両所宮原支所野洲派出所がある。そのため野洲駅を始発・終着駅とする区間列車が多く設定されている。",
"title": "沿線概況"
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"title": "運行形態"
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"text": "ダイヤは基本的に、京都駅 - 大阪駅 - 姫路駅間のJR京都線・JR神戸線と長浜駅 - 近江塩津駅・敦賀駅間の北陸本線の直流電化区間と一体的に組まれている。琵琶湖線内の列車種別は、一部の駅を通過する「新快速」と各駅に停車する「普通」が中心である。この2種別によるパターンダイヤが組まれており、日中は15 - 30分ヘッドの等時隔ダイヤとなっている。このほかに一部特別料金を必要とする優等列車も走る。",
"title": "運行形態"
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"text": "土曜・休日ダイヤの7時台に米原駅から野洲駅までを普通、野洲駅で新快速に種別を変更する京都・大阪・神戸方面行きの列車があった。2011年3月11日までは平日朝に草津駅 → 米原駅間・京都駅 → 野洲駅間でそれぞれ普通となる新快速が設定されていた。また、2007年3月3日までは平日午前中に米原駅 → 野洲駅間で普通列車となる京都・大阪・神戸方面行きの列車があった。2021年10月2日より長浜駅 - 米原駅間の新快速が日中時間帯1時間に1本の運行となった。",
"title": "運行形態"
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"text": "この区間のダイヤは、京都駅 - 草津駅間で普通(京阪神間快速電車の延長)が日中時間帯1時間に4本の運行となった1972年3月15日改正が原型で、その後草津駅 - 野洲駅・米原駅間の増発が行われてきた。新快速の運転開始当時は、普通の中に割って入れたダイヤであったため、新快速と普通の乗り継ぎは考慮されていなかったが、その後の新快速の増発に合わせて米原方面への上り列車は草津駅や野洲駅で、京都方面への下り列車は朝晩に近江八幡駅で接続を取るダイヤが設定されてきた。2003年12月1日の改正では新快速が停車しない中間駅からの所要時間短縮を目的に、日中の上り野洲行き新快速からの米原方面への普通、また近江八幡駅での米原方面からの下り普通から新快速への相互接続ダイヤを組んだが、京都方面への下りの場合、近江八幡駅や彦根駅での実質利用可能列車の減少というデメリットが大きいため、2008年3月15日改正で米原発の列車は京都駅に先着するダイヤに戻された。",
"title": "運行形態"
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"text": "夜間の車両収容は網干総合車両所宮原支所の野洲派出所・米原派出所の電留線を利用している。",
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"text": "大阪方面から北陸方面への特急列車は山科駅から湖西線に入り、米原駅から名古屋方面へは東海道新幹線が並行するため、山科駅 - 米原駅間を走行する優等列車は、JR京都線と比べると本数は少ない。",
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"text": "2023年3月18日の改正ダイヤでは、米原駅 - 山科駅間を定期で運転される列車は以下のとおりで、特急「はるか」は野洲駅発着関西空港行2往復と草津発関西空港行き1本、特急「びわこエクスプレス」が米原駅発着1往復と大阪発草津行きが1本運転されているほかは、いずれも1日1往復の運転である。ただし、「びわこエクスプレス」は京都・大阪方面への通勤利用客を主な対象としているため土曜・休日ダイヤでは運転されていない。「はるか」は新快速と同一停車駅で、「びわこエクスプレス」は能登川駅以外の新快速停車駅に、「ひだ」は米原駅・草津駅・京都駅に停車する。山科駅 - 京都駅間はこれらに特急「サンダーバード」など湖西線経由の列車が加わる。「サンダーバード」については湖西線の強風による迂回運転時には京都駅 - 長浜駅間の琵琶湖線全線での運行に変更され、米原駅に運転停車する以外は、琵琶湖線内は無停車で運行される。米原駅 - 長浜駅間には名古屋駅および米原駅と北陸を結ぶ特急「しらさぎ」が名古屋駅・米原駅 - 金沢駅間で運転されている。",
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},
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"text": "これらの特急の自由席を米原駅 - 京都駅間で利用した場合、同区間を東海道新幹線の自由席を利用する場合と比較して特急料金が高くなる(特定特急券の項目も参照)。",
"title": "運行形態"
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"text": "新快速は、他社鉄道線と競合する京阪神間の速達輸送を目的に1970年より運行を開始した列車であり、現在の琵琶湖線区間には翌1971年から乗り入れている。",
"title": "運行形態"
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"text": "北陸本線から琵琶湖線を経てJR京都線・JR神戸線方面へ直通運転を行っている。琵琶湖線内では長浜駅 - 彦根駅間は各駅に停車、彦根駅 - 京都駅間では一部の駅(彦根駅・能登川駅・近江八幡駅・野洲駅・守山駅・草津駅・南草津駅・石山駅・大津駅・山科駅)にのみ停車する快速運転を行う。京都駅 - 草津駅間は列車により内側線または外側線を走るが、平日の朝ラッシュ時は外側線を走り、京都駅では0・6番のりばに停車する。",
"title": "運行形態"
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{
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"text": "日中時間帯の琵琶湖線系統は1時間に3本(うち1本が野洲駅発着、1本が草津駅発着)で、運転間隔が広がる部分がある。これは京都駅 - 山科駅間の1時間に4本のうち、1本は湖西線直通で運行されているからである。京都駅 - 大阪駅 - 姫路駅間のJR京都線・神戸線と直通運転をしている。上り列車は京都駅を毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車する。",
"title": "運行形態"
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"text": "運転区間の拡大に合わせたダイヤ改正により運転時間の拡大も続き、1999年5月10日に平日ダイヤの朝ラッシュ時に増発、2004年10月16日に平日ダイヤの夕ラッシュ時に増発と続き、2009年3月14日には夜の大阪方面に向かう下り列車の増発も行われた。2011年3月12日の改正で南草津駅が新快速の停車駅になり、また、土曜・休日ダイヤのすべての新快速が京都駅 - 米原駅間で12両編成に統一された。",
"title": "運行形態"
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"text": "全列車とも223系(1000番台および2000番台)・225系(0番台および100番台)電車(いずれも網干総合車両所所属)の8両または12両編成で運転される。北陸本線の区間はホーム有効長の関係で長浜駅発着は4両または8両編成、近江塩津駅・敦賀駅発着は4両編成で運転されるため、米原駅で車両の連結・切り離しを行う列車が多い。2017年3月4日のダイヤ改正より平日・土曜/休日とも京都駅 - 米原駅間のほぼすべての列車が12両編成に統一された(平日朝の京都発1本および夕方ラッシュ時の大阪始発は除く)。",
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"text": "琵琶湖線内は各駅に停車する。草津駅 - 京都駅間は内側線で運転されている。朝・深夜の一部列車をのぞきJR京都線・JR神戸線に直通し、JR京都線・JR神戸線内では高槻駅 - 大阪駅 - 西明石駅間(始発から朝ラッシュ時までは京都駅 - 長岡京駅 - 高槻駅 - 大阪駅 - 西明石駅間)で快速となる。JR宝塚線には直通しない。",
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"text": "朝ラッシュ時は米原・野洲発の系統のほか、安土発や草津線柘植発の列車もある。日中時間帯は1時間に4本(うち2本は京都駅 - 野洲駅間の区間系統)で運行されており、上り列車は京都駅を毎時07・22・37・52分の15分間隔で発車する。朝晩は長浜駅発着系統がある。2016年3月26日のダイヤ改正以前は東海旅客鉄道(JR東海)大垣駅発着の設定もあった。",
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"text": "221系・223系(1000番台・2000番台・6000番台)・225系(0番台・100番台)電車(いずれも網干総合車両所所属車)の6・8・10・12両編成で運転されている。京都駅発着の列車には4両編成で運行される列車があり、長浜駅・近江塩津駅発着の列車では米原駅で連結・切り離しをする列車もある。なおこれらいずれの普通列車にも女性専用車の設定はない。",
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"text": "草津線に直通する列車も朝夕に設定されており、吹田総合車両所京都支所所属の221系電車も使われている。草津線直通の列車は新快速との接続および草津駅の線路配線の関係で草津駅 - 京都駅間を原則外側線で運転する。また山科駅 - 京都駅間は湖西線の新快速・普通も運転されており、この区間の日中は1時間に11本の運転になる。",
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"text": "現在、定期列車はすべて電車で運転されている。",
"title": "使用車両"
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"text": "以下では、琵琶湖線の各駅の営業キロ・停車列車・接続路線についてを一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」を参照。",
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"text": "以下の区間で新駅を設置することが検討されている。",
"title": "駅一覧"
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"text": "このほか、南草津駅 - 瀬田駅間にも新駅設置が計画されていたが、草津市が新駅の設置計画を凍結する方針を2013年10月28日までに固めた。",
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] | 琵琶湖線(びわこせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、滋賀県米原市の米原駅から京都府京都市下京区の京都駅までの区間、および北陸本線のうち米原駅から滋賀県長浜市の長浜駅までの区間に付けられた愛称である。 | {{Pathnavbox|
{{Pathnav|東海道本線}}
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{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[ファイル:JR logo (west).svg|35px|link=西日本旅客鉄道]] 琵琶湖線
|路線色 = #0072ba
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|画像説明 = [[大津駅]]に進入する[[JR西日本223系電車|223系電車]]による[[新快速]]
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'''琵琶湖線'''(びわこせん)は、[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)が管轄する[[東海道本線]]のうち、[[滋賀県]][[米原市]]の[[米原駅]]から[[京都府]][[京都市]][[下京区]]の[[京都駅]]までの区間、および[[北陸本線]]のうち米原駅から滋賀県[[長浜市]]の[[長浜駅]]までの区間に付けられた[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称|愛称]]である。
== 概要 ==
JR西日本の[[京阪神]]エリアの路線網([[アーバンネットワーク]])の一角を成す路線である。[[琵琶湖]]の東岸を走り、[[滋賀県]]湖東・湖南地区の各都市と[[京都市|京都]]を結ぶ、滋賀県の主要路線である。京都・[[大阪市|大阪]]方面への通勤・通学に利用され、[[大津市]]や[[草津市]]など京都・大阪に近い沿線は[[ベッドタウン]]として開発されている<ref>{{Cite web|和書|title=JR琵琶湖線で「集住」競う 沿線自治体、通勤に照準 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUF218BX0R21C21A2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-01-07 |access-date=2023-01-13 |language=ja}}</ref>。多くの列車が[[JR京都線]]、[[JR神戸線]]へと直通運転しているほか、[[新快速]]を中心に最長で長浜駅以北の[[敦賀駅]]([[福井県]][[敦賀市]])方面に至る列車が設定されている。また、[[山科駅]] - [[石山駅]]間で、[[京阪京津線]]・[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]([[京阪大津線|大津線]])、[[近江八幡駅]] - 米原駅間で[[近江鉄道本線]]・[[近江鉄道八日市線|八日市線]]と並行しているものの、いずれも地域内輸送が中心であり、運賃や経路・速度・駅間距離・運転本数が違い過ぎることからいずれも競合する私鉄とはいえない。
ラインカラーは'''青'''({{Color|#0072ba|■}})で、JR京都線、JR神戸線と同様にJR西日本のコーポーレートカラーがそのまま採用されている。路線記号は '''A''' であるが、[[湖西線]]の列車が乗り入れる[[山科駅]] - 京都駅間は、重複して '''B''' も付与されている<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2014/08/page_5993.html 近畿エリア・広島エリアに「路線記号」を導入します] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2014年8月6日</ref>。
JR西日本の発足直後、米原駅 - [[大阪駅]]間の愛称を公募したところ、国鉄時代から俗に呼ばれていた「湖東線」<ref name="rp200309-038">{{Cite_journal|和書|title=1960年代初頭 湖東線臨電の思い出|date=2003-09|publisher=電気車研究会|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|issue=736|pages=38-39}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|明治期の長浜駅 - 大津駅間の建設時には「湖東線」の名称が見られる<ref>[[鉄道省]]『[{{NDLDC|960214/318}} 日本鉄道史 上編]』1921年、pp.505 - 513、[[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>。その後、[[東京駅]] - [[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]間の東海道本線全線に対し、京都駅 - 米原駅間の一部区間を指す俗称として「湖東線」と呼ばれており、東京への長距離列車に対して京都駅 - 米原駅間の列車を湖東線列車、または湖東ローカルなどと呼び、[[列車番号]]を900番台として区別していた。}}が1位であった<ref>「JR西の路線、愛称開始15年」『朝日新聞』、2003年1月29日。</ref>が、JR西日本は米原駅 - 大阪駅間の愛称を「JR京都線」と決定した。しかし、滋賀県や県議会から地域密着の路線名にして欲しいと強い要望があったことを受け、[[1988年]]2月5日に米原駅 - 京都駅間の愛称を「琵琶湖線」に変更し、1988年3月13日のダイヤ改正から使用を開始した<ref>[http://www.shigaken-gikai.jp/voices/cgi/voiweb.exe?ACT=203&KENSAKU=0&SORT=0&KTYP=0,1,2,3&KGTP=1,2&FYY=1988&TYY=1988&TITL_SUBT=%8F%BA%98a%82U%82R%94N%81@%82Q%8C%8E%92%E8%97%E1%89%EF%81i%91%E6%82P%8D%86%81`%91%E612%8D%86%81j%81%7C03%8C%8E25%93%FA-11%8D%86&HUID=1977&KGNO=&FINO=44&HATSUGENMODE=0&HYOUJIMODE=0&STYLE=0 昭和63年 2月定例会(第1号〜第12号)-03月25日-11号] - [[滋賀県議会]]会議録</ref>。[[1991年]]9月14日には[[北陸本線]]の[[田村駅]] - 長浜間が[[交流電化]]から[[直流電化]]に変更され、京都方面からの新快速・普通が直通するようになったことに合わせて、同線の米原駅 - 長浜駅間も琵琶湖線に加えられた。[[2006年]]10月21日には同線の長浜駅 - [[敦賀駅]]間も直流電化に変更され、各列車の運転区間も延長されたが、この区間は[[近江塩津駅]]の手前まで琵琶湖の湖岸線に並行しているものの、琵琶湖線に加えられていない。
当該区間では旅客案内上も「琵琶湖線」と案内され、基本的には「東海道(本)線」が使用されることはない(ただし、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される)。
なお、米原駅から長浜方面では敦賀方面行きを「琵琶湖線」ではなく「北陸本線」あるいは「北陸線」と案内することがある。また、山科駅 - 京都駅間では[[湖西線]]系統の列車も走るため、山科駅では草津・米原方面行きのみ「琵琶湖線」と案内し、京都・大阪方面行きは直通先の名称である「JR京都線」として案内される。
全区間がJR西日本[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|近畿統括本部]]の管轄であり、[[旅客営業規則]]の定める[[大都市近郊区間 (JR)|大都市近郊区間]]の「[[大都市近郊区間 (JR)#大阪近郊区間|大阪近郊区間]]」、および[[ICカード]][[乗車カード]]「[[ICOCA]]」エリアに含まれている<ref>[http://www.jr-odekake.net/icoca/area/map/all.html ご利用可能エリア|ICOCA:JRおでかけネット] - 西日本旅客鉄道</ref>。
=== 路線データ ===
* 管轄(事業種別):西日本旅客鉄道([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]])、[[日本貨物鉄道]]([[鉄道事業者#第二種鉄道事業者|第二種鉄道事業者]])
* 路線距離([[営業キロ]]):長浜駅 - 京都駅間 75.4 km
* [[軌間]]:1067 mm
* 駅数:23(起終点駅含む)
* 複線区間:
** 複々線:草津駅 - 京都駅間
** 複線:長浜駅 - 草津駅間
* 電化区間:全線電化(直流1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:複線自動閉塞式
* 保安装置:[[自動列車停止装置#拠点P|ATS-P]]および[[自動列車停止装置#ATS-S改良形|ATS-SW]](拠点P方式)
* [[運転指令所]]:[[大阪総合指令所]]
* [[列車運行管理システム]]:[[運行管理システム (JR西日本)|JR京都・神戸線運行管理システム]]
* 最高速度:
** 長浜駅 - 米原駅間:120 km/h
** 米原駅 - 京都駅間:130 km/h
* [[ICカード|IC]][[乗車カード]]対応区間
** [[ICOCA]]エリア:全線(全線[[PiTaPa|PiTaPaポストペイサービス]]対象区間)
== 沿線概況 ==
<!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#0072ba
|title-color=white
|collapse=yes
|top=
* キロ程の * は、[[東京駅]]からの営業キロ
----
|map=
{{BS|STR|||{{rint|ja|wkah}} [[北陸本線]]||}}
{{BS|eABZg+l|||''[[東海道本線]] 旧線''||}}
{{BS5|exSTR+l|exSTRq|BHF|||7.7|JR-A09 [[長浜駅]]||}}
{{BS5|exTRAJEKT||STR||||''[[太湖汽船|琵琶湖航路]]''||}}
{{BS5|exLSTR||BHF|||4.7|JR-A10 [[田村駅]]||}}
{{BS|BHF|2.4|JR-A11 [[坂田駅]]||}}
{{BS|STR||↑'''北陸本線'''||}}
{{BS3|STR+l|KRZu|STRq|||[[東海旅客鉄道|JR東海]]:[[東海道新幹線]]|}}
{{BS3|STR|STR|KDSTa||[[網干総合車両所]](米原)<ref group="#">網干総合車両所宮原支所米原派出所</ref>||}}
{{BS3|STR|ABZg+l|ABZqr|||JR東海:{{rint|ja|ccas}} [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]→||}}
{{BS5||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBq||O4=HUBq|KBHFa|O5=HUBeq|{{BSkm|0.0|445.9*}}|JR-A12 [[米原駅]] '''東海道本線'''↓||}}
{{BS5||STR|DST||LSTR||米原操車場||}}
{{BS5||STR|STR||LSTR|O5=POINTERg@fq|||[[近江鉄道]]:[[近江鉄道本線]]|}}
{{BS5||STRl|KRZu|STRq|KRZu|||JR東海:東海道新幹線|}}
{{BS5|||eKRWgl|exKRW+r|LSTR||||}}
{{BS5|||STR|exTUNNEL2|LSTR||''仏生山トンネル''||}}
{{BS5|||eKRWg+l|STRc2|O4=exKRWr|STR3||||}}
{{BS5|||STR|STR+1|STRc4||||}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|6.0|JR-A13 [[彦根駅]]||}}
{{BS3||STR|HST|||[[ひこね芹川駅]]|}}
{{BS3||STR|STRl|||近江鉄道本線|}}
{{BS|BHF|9.3|JR-A14 [[南彦根駅]]||}}
{{BS|BHF|12.4|JR-A15 [[河瀬駅]]||}}
{{BS|BHF|16.1|JR-A16 [[稲枝駅]]||}}
{{BS|BHF|19.8|JR-A17 [[能登川駅]]||}}
{{BS|TUNNEL1||腰越山トンネル||}}
{{BS|BHF|24.9|JR-A18 [[安土駅]]||}}
{{BS3||eABZg+l|xABZq+l|||近江鉄道:[[近江鉄道八日市線|八日市線]]|}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|KBHFe|O3=HUBeq|28.4|JR-A19 [[近江八幡駅]]||}}
{{BS|BHF|32.4|JR-A20 [[篠原駅 (滋賀県)|篠原駅]]||}}
{{BS3||eKRWgl|exKRW+r||||}}
{{BS3||hKRZWae|exKRZWu||家棟川橋梁・''隧道''||}}
{{BS3||eKRWg+l|exKRWr||||}}
{{BS|DST||網干総合車両所(野洲)<ref group="#">網干総合車両所宮原支所野洲派出所</ref>||}}
{{BS|BHF|38.0|JR-A21 [[野洲駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[野洲川]]|}}
{{BS|BHF|41.1|JR-A22 [[守山駅 (滋賀県)|守山駅]]||}}
{{BS|BHF|43.2|JR-A23 [[栗東駅]]||}}
{{BS|ABZg+l|||{{rint|ja|wkc}} [[草津線]]|}}
{{BS|BHF|45.5|JR-A24 [[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]||}}
{{BS|KRZWu|||[[草津川]]旧河道|}}
{{BS|hKRZWae|||草津川|}}
{{BS|BHF|48.0|JR-A25 [[南草津駅]]||}}
{{BS|BHF|50.7|JR-A26 [[瀬田駅 (滋賀県)|瀬田駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[淀川 (近畿)|瀬田川]]|}}
{{BS3||STR|STR+l|||[[京阪電気鉄道|京阪]]:[[京阪石山坂本線|石山坂本線]]|}}
{{BS3|exSTR+l|eABZgr|STR|||''[[日本電気硝子]] 専用線''}}
{{BS5|exKBSTaq|exSTRr|BHF|O3=HUBaq|BHF|O4=HUBeq||53.2|JR-A27 [[石山駅]]||}}
{{BS3|STR+l|KRZu|STRr|||[[京阪石山駅]]|}}
{{BS5||LSTR|eKRWgl|exKRW+r|O4=exSTR+l|exKBSTeq|||''[[東レ]]滋賀事業場 専用線''|}}
{{BS3|LSTR|STR|exENDEe|||[[京阪膳所駅]]|}}
{{BS3|BHF|BHF||{{BSkm|56.0|0.0#}}|JR-A28 [[膳所駅]]||}}
{{BS3|eKRWg+l|eKRWgr|||←''[[大津線]]''||}}
{{BS3|STR|eABZg2|exSTRc3||''東海道本線旧線''→||}}
{{BS5|exLSTR|BHF|eSTR+c1|exSTR+4|||''[[石場駅]]''|<ref group="#">営業キロは[[大津線]]の項目参照</ref>|}}
{{BS5|exLSTR|eBHF|STR|exSTR|||''紺屋関駅''||}}
{{BS5|exTRAJEKT|STR|BHF|exSTR||57.7|JR-A29 [[大津駅]]||}}
{{BS5|exKRW+l|eKRWgr|STR|exSTR|||''琵琶湖航路''||}}
{{BS5|exBHF|BHF|STR|exSTR|||''[[びわ湖浜大津駅]]''||}}
{{BS5|exSTRr|STR|STR|exSTR||||''[[江若鉄道]]''|}}
{{BS5|STRq|ABZgr|STR|exSTR||||京阪:石山坂本線|}}
{{BS5||STRl|KRZu|xKRZo|STR+r|||京阪:[[京阪京津線|京津線]]|}}
{{BS5|LOGO JRW kinki-A|tSTRc2|tSTR3a|exTUNNEL1|TUNNEL1||''[[逢坂山トンネル]]''||}}
{{BS5|tSTRc2|tSTR3+1|tSTRc4|exBHF|O4=HUBaq|BHF|O5=HUBeq|3.0#|''[[大谷駅 (滋賀県)|大谷駅]]''||}}
{{BS5|tSTR+1|O1=POINTERf@gq|STR+l|STRq|xKRZo|STRr||[[新逢坂山トンネル]]||}}
{{BS5|tSTRc3|O1=tSTRe|LSTR||exSTR2|exSTRc3||||}}
{{BS5|ABZg+4u|||exSTRc1|exSTR+4|||{{rint|ja|wkb}} [[湖西線]]|}}
{{BS5|STR+GRZq|LSTR|O2=GRZq|||exSTR+GRZq|||↑[[滋賀県]]/[[京都府]]↓|}}
{{BS5|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq|LOGO JRW kinki-A|LOGO JRW kinki-B|exSTR|62.2|JR-A30 [[山科駅]]|{{rint|kyoto|t}}[[京阪山科駅]]|}}
{{BS5|KRZo|STRr|STR+l|STRq|xKRZu||||}}
{{BS5|STR||STR||exDST|6.1#|''大塚信号所''||}}
{{BS5|tSTRa||STR||exBHF|8.4#|''山科駅''||}}
{{BS5|tSTR|tSTRc2|tSTR3a||xABZg+l|||{{rint|ja|wkd}} [[奈良線]]|}}
{{BS5|tSTR|tSTR+1|tSTRc4||BHF|13.3#|''[[稲荷駅]]''||}}
{{BS5|tSTR|O1=POINTERg@fq|tSTR||STR+l|KRZu||[[逢坂山トンネル#東山トンネル・新逢坂山トンネル|東山トンネル]]||}}
{{BS5|tSTRe|tSTRe||HST|O4=HUBaq|HST|O5=HUBeq|||[[東福寺駅]]|}}
{{BS5|KRZo|KRZo|STRq|STRr|STR|||京阪:[[京阪本線]]|}}
{{BS5|hKRZWae|hKRZWae|WASSERq|WASSERq|hKRZWae|||[[琵琶湖疏水]]・[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]|}}
{{BS5|STR2|STR2|O2=STRc3|STRc3||STR|O5=POINTERg@fq||''東海道本線旧線''|||}}
{{BS5|STRc1|STR2+4|O2=STRc1|STR2+4|O3=STRc3|STRc3|STR|||・奈良線|}}
{{BS5||STRc1|STR+4|O3=STRc1|STR2+4|STR3u|||||}}
{{BS5|exSTR+l|exSTRq|eKRZ|exSTRr+1|O4=STR+1u|STR+4|O5=POINTERg@fq|||JR東海:東海道新幹線|}}
{{BS5|exSTR||KRWgl+l|KRWgr+r|STR||||}}
{{BS5|exBHF|O1=HUBaq|KBHFa|O2=HUBq|BHF|O3=HUBq|KBHFe|O4=HUBtf|BHF|O5=HUBeq|{{BSkm|67.7|513.6*}}|JR-A31 [[京都駅]]|{{rint|kyoto|k}}|}}
{{BS5|exSPLa|KRWgl+l|KRWgr+r|KBHFa|O4=HUBe|STR|||[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=京都市電京都市電堀川線|京都市電堀川線]][[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=京都市電伏見線|京都市電伏見線]][[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=京都市電烏丸線|京都市電烏丸線]][[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=京都市電河原町線|京都市電河原町線]](京都駅前)|}}
{{BS5|exvLSTR|STR|STR|STRl|KRZo|||[[近畿日本鉄道|近鉄]]:{{rint|osaka|ktby}} [[近鉄京都線|京都線]]|}}
{{BS5|exvSTRr-STR|O1=STRq|STRr|STR|||||[[山陰本線]]({{rint|ja|wkes}} [[嵯峨野線]])|}}
{{BS5|exv-STRl|exSTRq|eABZg+r|||||東海道本線({{rint|ja|wkay}} [[JR京都線]])||}}
{{BS-colspan}}
|bottom=
----
{{Reflist|group="#"}}
}}
{{Main|東海道本線#米原駅 - 京都駅間}}
[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] - 京都駅間は[[複々線]]で、外側の2線(外側線)は主として[[特別急行列車|特急列車]]・[[貨物列車]]及び[[草津線]]直通の普通が使用し、内側の2線(内側線)は[[新快速]]・[[普通列車|普通]]([[高槻駅|高槻]]または[[京都駅|京都]]から快速)が使用している。ホームの両面とも客扱いするため、いずれの駅にも[[ホームドア]]も柵も設置されていない<ref group="注釈">瀬田駅に限っては外側線に停車する列車が運行されない時間帯にはロープが張られている。</ref>。基本的に外側線の通過列車は、京都駅以西の[[JR京都線]]や[[JR神戸線]]と異なり、特急及び貨物列車に限る運用がなされており、実質的に貨客分離となっているが、ラッシュ時を中心に外側線を走る新快速があり、また事故などでダイヤが乱れた場合には外側線を走る普通があるなど、京都駅以西の複々線区間と比較して柔軟な運用が行われている<ref group="注釈">ただし当該区間には[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]をのぞいて外側線同士で接続追越できる施設はない([[石山駅]]と[[膳所駅]]は貨物列車や回送列車の待避が、[[山科駅]]では外側線同士の通過追越が可能。)。また山科駅の外側線は通過線であり、ホームへの入線は、[[芦屋駅 (JR西日本)|芦屋駅]]と同様に速度制限を受けるほか、山科駅で合流する湖西線の列車は必ず外側下りホームに入線するため、湖西線のダイヤが乱れた場合は影響を受ける。内側外側間の転線は草津駅以外では膳所駅で下りの内側から外側へ、上りの外側から内側へとできるようになっている。</ref>。米原駅 - 京都駅間の全線で130 [[キロメートル毎時|km/h]]運転が可能であり、特に草津駅 - 京都駅間は内側線も130 km/hに対応している。[[南彦根駅]]・[[稲枝駅]]・[[篠原駅 (滋賀県)|篠原駅]]・[[守山駅 (滋賀県)|守山駅]]・[[栗東駅]]・[[南草津駅]]・[[瀬田駅 (滋賀県)|瀬田駅]]・[[大津駅]]は[[日本の鉄道信号|絶対信号機]]を持たないため[[停車場#停車場の定義|停留所]]に分類される。[[能登川駅]]で上り米原方面行きの列車、[[近江八幡駅]]で下り京都方面行きの列車がそれぞれ[[停車 (鉄道)#緩急接続|緩急接続]]ができるほか、[[河瀬駅]]・[[安土駅]]・[[野洲駅]]に中線があり普通列車の特急・貨物列車の待避や折り返しに使用される。野洲駅には[[網干総合車両所]]宮原支所野洲派出所がある。そのため野洲駅を始発・終着駅とする区間列車が多く設定されている。
[[ファイル:Biwako_Line_(1).JPG|thumb|none|山科付近を走行する貨物列車]]
{{-}}
== 運行形態 ==
{{Main2|貨物列車の運行形態|東海道本線#貨物列車}}
{{Main2|現行の各列車の停車駅は下図および「[[#駅一覧|駅一覧]]」節を}}
[[ファイル:TokaidoLineStops_JRW_osaka1_20180317.svg|760px|停車駅(JR京都線区間を含む)]]
{| class="wikitable" style="font-size:85%; text-align:center; float:right; margin-left:1em;"
|+日中1時間あたりの運転本数<br />(2022年3月12日現在)
!種別\駅名
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|長浜
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|米原
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|野洲
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|草津
!…
!colspan="2" style="width:1em;"|山科
!colspan="2" style="width:1em;"|京都
!…
|-
| rowspan="4" |新快速
|北陸本線←||colspan="16" style="background-color:#cdf;"|1本|| rowspan="6" |→JR京都線
|-
| colspan="8" | || colspan="9" style="background:#cdf;" |1本
|-
| colspan="11" | || colspan="6" style="background:#cdf;" |1本
|-
|colspan="14" style="text-align:right;"|湖西線← ||colspan="2" style="background-color:#cdf;"|1本
|-
|rowspan="2"|普通<br/>(京都線内快速)
|colspan="5"| ||colspan="12" style="background-color:#ccc"|2本
|-
|colspan="8"| ||colspan="9" style="background-color:#ccc"|2本
|-
|rowspan="1"|普通
|colspan="14" style="text-align:right;"|湖西線←||colspan="2" style="background:#ccc"|3本||colspan="2"|
|}
ダイヤは基本的に、[[京都駅]] - [[大阪駅]] - [[姫路駅]]間の[[JR京都線]]・[[JR神戸線]]と[[長浜駅]] - [[近江塩津駅]]・[[敦賀駅]]間の[[北陸本線]]の[[直流電化]]区間と一体的に組まれている。琵琶湖線内の列車種別は、一部の駅を通過する「新快速」と各駅に停車する「普通」が中心である。この2種別によるパターンダイヤが組まれており、日中は15 - 30分ヘッドの等時隔ダイヤとなっている。このほかに一部特別料金を必要とする[[優等列車]]も走る。
土曜・休日ダイヤの7時台に[[米原駅]]から[[野洲駅]]までを普通、野洲駅で新快速に種別を変更する京都・大阪・神戸方面行きの列車があった。[[2011年]][[3月11日]]までは平日朝に[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]] → 米原駅間・京都駅 → 野洲駅間でそれぞれ普通となる新快速が設定されていた。また、2007年3月3日までは平日午前中に米原駅 → 野洲駅間で普通列車となる京都・大阪・神戸方面行きの列車があった。2021年10月2日より長浜駅 - 米原駅間の新快速が日中時間帯1時間に1本の運行となった<ref>[https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210727_03_keihanshin.pdf 2021 年秋ダイヤ見直しについて ] - 西日本旅客鉄道近畿統括本部、2021年7月28日</ref>。
この区間のダイヤは、京都駅 - 草津駅間で普通(京阪神間快速電車の延長)が日中時間帯1時間に4本の運行となった[[1972年]][[3月15日]]改正が原型で、その後草津駅 - 野洲駅・米原駅間の増発が行われてきた。新快速の運転開始当時は、普通の中に割って入れたダイヤであったため、新快速と普通の乗り継ぎは考慮されていなかったが、その後の新快速の増発に合わせて米原方面への上り列車は草津駅や野洲駅で、京都方面への下り列車は朝晩に[[近江八幡駅]]で接続を取るダイヤが設定されてきた。[[2003年]][[12月1日]]の改正では新快速が停車しない中間駅からの所要時間短縮を目的に、日中の上り野洲行き新快速からの米原方面への普通、また近江八幡駅での米原方面からの下り普通から新快速への相互接続ダイヤを組んだが、京都方面への下りの場合、近江八幡駅や[[彦根駅]]での実質利用可能列車の減少というデメリットが大きいため、[[2008年]]3月15日改正で米原発の列車は京都駅に先着するダイヤに戻された。
夜間の車両収容は[[網干総合車両所]]宮原支所の野洲派出所・米原派出所の電留線を利用している。
=== 優等列車 ===
大阪方面から[[北陸地方|北陸]]方面への[[特別急行列車|特急列車]]は[[山科駅]]から[[湖西線]]に入り、米原駅から[[名古屋駅|名古屋]]方面へは[[東海道新幹線]]が並行するため、山科駅 - 米原駅間を走行する[[優等列車]]は、JR京都線と比べると本数は少ない。
2023年3月18日の改正ダイヤでは、米原駅 - 山科駅間を定期で運転される列車は以下のとおりで、特急「[[はるか (列車)|はるか]]」は野洲駅発着関西空港行2往復と草津発関西空港行き1本、特急「[[びわこエクスプレス]]」が米原駅発着1往復と大阪発草津行きが1本運転されているほかは、いずれも1日1往復の運転である。ただし、「びわこエクスプレス」は京都・大阪方面への通勤利用客を主な対象としているため土曜・休日ダイヤでは運転されていない。「はるか」は新快速と同一停車駅で、「びわこエクスプレス」は能登川駅以外の新快速停車駅に、「ひだ」は米原駅・草津駅・京都駅に停車する。山科駅 - 京都駅間はこれらに特急「[[サンダーバード (列車)|サンダーバード]]」など湖西線経由の列車が加わる。「サンダーバード」については湖西線の強風による迂回運転時には京都駅 - 長浜駅間の琵琶湖線全線での運行に変更され、米原駅に運転停車する以外は、琵琶湖線内は無停車で運行される。米原駅 - 長浜駅間には名古屋駅および米原駅と北陸を結ぶ特急「[[しらさぎ (列車)|しらさぎ]]」が名古屋駅・米原駅 - [[金沢駅]]間で運転されている。
* 寝台特急「[[サンライズ瀬戸]]」「[[サンライズ出雲]]」([[東京駅]] - [[高松駅 (香川県)|高松駅]]・[[出雲市駅]]間) - 但し、琵琶湖線内では米原駅に[[停車 (鉄道)#運転停車|運転停車]]するのみで、客扱いを行う停車駅はない。
* 特急「びわこエクスプレス」(米原駅・草津駅 - 大阪駅間)
* 特急「はるか」(野洲駅・草津駅 - [[関西空港駅]]間)
* 特急「[[ひだ (列車)|ひだ]]」([[高山駅]] - 大阪駅間)
これらの特急の自由席を米原駅 - 京都駅間で利用した場合、同区間を東海道新幹線の自由席を利用する場合と比較して特急料金が高くなる([[特別急行券#特定特急券|特定特急券]]の項目も参照)。
=== 新快速 ===
{{See also|新快速#東海道本線・山陽本線・北陸本線・赤穂線・湖西線|京阪神快速}}
新快速は、他社鉄道線と競合する京阪神間の速達輸送を目的に[[1970年]]より運行を開始した列車であり、現在の琵琶湖線区間には翌[[1971年]]から乗り入れている<ref name="rp200309-032">{{Cite_journal|和書|title=駆け抜けた"Blue Liner" 153系「新快速」|date=2003-09|publisher=電気車研究会|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|issue=736|pages=32-33}}</ref>。
北陸本線から琵琶湖線を経てJR京都線・JR神戸線方面へ直通運転を行っている。琵琶湖線内では長浜駅 - 彦根駅間は各駅に停車、彦根駅 - 京都駅間では一部の駅(彦根駅・能登川駅・近江八幡駅・野洲駅・守山駅・草津駅・南草津駅・石山駅・大津駅・山科駅)にのみ停車する快速運転を行う<ref group="注釈">この区間は、JR京都線・JR神戸線における快速と同等の位置付けとして、主要駅に加え乗降客数の多い駅にも停車する種別としての性格が強い。また、毎年8月の[[びわ湖大花火大会]]開催日には一部が膳所駅に臨時停車するほか、直通先のJR神戸線・JR京都線内の人身事故等でダイヤが大幅に乱れた際は、膳所駅を含む通過駅に臨時停車し、琵琶湖線内を各駅停車として運行することがある。</ref>。京都駅 - 草津駅間は列車により内側線または外側線を走るが、平日の朝ラッシュ時は外側線を走り、京都駅では0・6番のりばに停車する。
日中時間帯の琵琶湖線系統は1時間に3本(うち1本が野洲駅発着、1本が草津駅発着)で、運転間隔が広がる部分がある。これは京都駅 - 山科駅間の1時間に4本のうち、1本は湖西線直通で運行されているからである。京都駅 - 大阪駅 - 姫路駅間のJR京都線・神戸線と直通運転をしている。上り列車は京都駅を毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車する。
運転区間の拡大に合わせたダイヤ改正により運転時間の拡大も続き、[[1999年]][[5月10日]]に平日ダイヤの朝ラッシュ時に増発、2004年[[10月16日]]に平日ダイヤの夕ラッシュ時に増発と続き、[[2009年]][[3月14日]]には夜の大阪方面に向かう下り列車の増発も行われた。2011年[[3月12日]]の改正で[[南草津駅]]が新快速の停車駅になり、また、土曜・休日ダイヤのすべての新快速が京都駅 - 米原駅間で12両編成に統一された<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成23年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部 |date=2010-10-17 |url=http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf |format=PDF |accessdate=2017-03-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110124215220/http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/12/17/20101217_kinki.pdf |archivedate=2011-01-24}}</ref>。
全列車とも[[JR西日本223系電車|223系]]([[JR西日本223系電車#1000番台|1000番台]]および[[JR西日本223系電車#2000番台|2000番台]])・[[JR西日本225系電車|225系]]([[JR西日本225系電車#0番台|0番台]]および[[JR西日本225系電車#100番台|100番台]])電車(いずれも[[網干総合車両所]]所属)の8両または12両編成で運転される。北陸本線の区間はホーム有効長の関係で長浜駅発着は4両または8両編成、近江塩津駅・敦賀駅発着は4両編成で運転されるため、米原駅で[[増解結|車両の連結・切り離し]]を行う列車が多い。2017年3月4日のダイヤ改正より平日・土曜/休日とも京都駅 - 米原駅間のほぼすべての列車が12両編成に統一された(平日朝の京都発1本<ref group="注釈">湖西線直通編成を京都駅で切り離し</ref>および夕方ラッシュ時の大阪始発は除く)<ref>{{Cite press release |和書 |title=平成29年春ダイヤ改正について |publisher=西日本旅客鉄道近畿統括本部 |date=2016-12-16 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/items/161216_00_keihanshin.pdf |format=PDF |accessdate=2017-03-16 |archiveurl=|archivedate=}}</ref>。
米原駅を境に[[列車番号]]が変更される。以前は、平日のみ運行される米原発7時台の京都・大阪方面神戸・姫路行き(米原で長浜発の8両編成と近江塩津発の4両編成を連結する)は、長浜発の編成のみ米原駅で列車番号を変えていた(近江塩津発の編成と番号が揃えられる)。
事故などのトラブルでダイヤが乱れた場合や、ダイヤの乱れが見込まれる場合、米原駅で運転を打ち切り、米原駅以北と以南で別の編成を用いて運転することがある。
=== 普通 ===
{|style="float:right; font-size:85%; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;"
|-
|style="background:#ddd; text-align:center; border-bottom:solid 4px #0072ba;"|女性専用車
|-
|{{TrainDirection|京都|野洲}}
|-
|
{|class="wikitable" style="border:1px; font-size:85%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 0.5em;"
|-
|style="width:2em;"|1
|style="width:2em;"|2
|style="width:2em;"|3
|style="width:2em;"|4
|style="width:2em; background:#fcf"|5
|style="width:2em;"|6
|style="width:2em;"|7
|-
|}
|-
|注: 一部の207系では号車表示していない
|}
{{See also|京阪神快速|京阪神緩行線}}
琵琶湖線内は各駅に停車する。草津駅 - 京都駅間は内側線で運転されている。朝・深夜の一部列車をのぞきJR京都線・JR神戸線に直通し、JR京都線・JR神戸線内では[[高槻駅]] - 大阪駅 - [[西明石駅]]間<ref group="注釈">列車番号の末尾が「T」</ref>(始発から朝ラッシュ時までは京都駅 - 長岡京駅 - 高槻駅 - 大阪駅 - 西明石駅間<ref>列車番号の末尾が「M」</ref>)で快速となる。[[福知山線|JR宝塚線]]には直通しない。
朝ラッシュ時は米原・野洲発の系統のほか、[[安土駅|安土]]発や草津線[[柘植駅|柘植]]発の列車もある。日中時間帯は1時間に4本(うち2本は京都駅 - 野洲駅間の区間系統)で運行されており、上り列車は京都駅を毎時07・22・37・52分の15分間隔で発車する。朝晩は長浜駅発着系統がある。2016年3月26日のダイヤ改正以前は[[東海旅客鉄道]](JR東海)[[大垣駅]]発着の設定もあった。
[[JR西日本221系電車|221系]]・223系(1000番台・2000番台・[[JR西日本223系電車#編成|6000番台]])・[[JR西日本225系電車|225系]]([[JR西日本225系電車#0番台|0番台]]・[[JR西日本225系電車#100番台|100番台]])電車(いずれも[[網干総合車両所]]所属車)の6・8・10・12両編成で運転されている。京都駅発着の列車には4両編成で運行される列車があり、長浜駅・近江塩津駅発着の列車では米原駅で連結・切り離しをする列車もある。なおこれらいずれの普通列車にも[[女性専用車両|女性専用車]]の設定はない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jr-odekake.net/railroad/service/train_woman/ |title=女性専用車両:JRおでかけネット|accessdate=2015-7-11}}</ref>。
JR京都線直通列車の中には、運行全区間の各駅に停車する列車(京阪神緩行線)も少数存在する。京都発平日8時台の普通電車草津行きは、JR宝塚線[[新三田駅|新三田]]始発で運行されており、運行区間内の全駅に停車する。2004年10月11日までは土曜・休日ダイヤでも設定があり、2004年10月18日から2013年3月15日までは野洲駅発着の設定もあった<ref>野洲駅発着はJR宝塚線関連の運用のため、207系での運行であった。<!--[http://misahys19.xsrv.jp/kaisei_urban/2004.html もみじの「まとめノート」]--></ref><ref>『JR時刻表』2012年3月号、交通新聞社</ref>が、翌16日のダイヤ改正以降は西明石駅から直通する草津行きの1本のみとなった。2022年3月12日のダイヤ改正で新三田発草津行きに変更された<ref>『JTB時刻表』2022年3月号、JTBパブリッシング、p.196</ref>。[[JR西日本207系電車|207系]]または[[JR西日本321系電車|321系]]が使用されており、乗り入れ先線区の関係で女性専用車の設定がある(2002年12月7日からは、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで。2011年4月18日からは、平日・休日にかかわらず終日)<ref name="jrw_20021007">[http://replay.waybackmachine.org/20021203004309/http://www.westjr.co.jp/news/021017a.html 〜より快適な車内環境をめざして〜「女性専用車」を拡大します] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2002年10月7日(2002年12月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref name="jrw_20110304">[https://web.archive.org/web/20110514210609/http://www.westjr.co.jp/news/newslist/article/1175252_799.html 女性専用車の全日化・終日化について] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2011年3月4日(2011年5月14日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
[[草津線]]に直通する列車も朝夕に設定されており、[[吹田総合車両所]]京都支所所属の221系電車も使われている。草津線直通の列車は新快速との接続および草津駅の線路配線の関係で草津駅 - 京都駅間を原則外側線で運転する。また山科駅 - 京都駅間は[[湖西線]]の新快速・普通も運転されており、この区間の日中は1時間に11本の運転になる。
[[1989年]][[3月10日]]までは草津線直通の[[客車]]列車や彦根駅から北陸本線に直通する[[気動車]]列車も設定されていた。
=== 臨時列車 ===
; 大晦日終夜運転
: 琵琶湖線では、[[大晦日]]深夜から[[元日|元旦]]にかけて、京都駅 - 草津駅間で普通のみ約60分間隔で[[終夜運転]]が実施されていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2018/11/page_13417.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います |publisher=[[西日本旅客鉄道]] |date=2018-11-20 |accessdate=2018-12-10 }}</ref>。かつては、2004年度から2010年度まで京都駅 - 野洲駅間に拡大されたこともあったが、2011年度以降は草津駅 - 野洲駅間は草津行き1本を野洲まで臨時延長する形での運行に縮小され<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.westjr.co.jp/press/article/2011/11/page_1046.html |title=大晦日の終夜運転のお知らせ(京阪神地区)〜 大晦日深夜から元旦にかけて終夜運転を行います 〜 |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2011-11-18 |accessdate=2019-11-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111121170626/http://www.westjr.co.jp/press/article/2011/11/page_1046.html |archivedate=2011-11-21}}</ref>、のちに臨時列車の運行も取り止められ、2019年度は全線で取り止めになった<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.westjr.co.jp/press/article/2019/12/page_15240.html |title=大みそかの臨時列車運転のお知らせ(京阪神エリア) |publisher=西日本旅客鉄道 |date=2019-11-08 |accessdate=2023-01-28 }}</ref>。
=== 過去の列車 ===
; [[びわこエクスプレス|びわこライナー]]
: 通勤客向けの[[座席指定席|座席定員制]]の[[ホームライナー]]として[[1987年]]10月に運転を開始し([[1988年]]3月から定期列車化)、特急「[[サンダーバード (列車)|雷鳥]]」の[[間合い運用]]として米原駅 - 大阪駅間で休日をのぞいて1往復設定されていたが<ref name="rp200406">{{Cite_journal|和書|year=2004|month=6|title=特集・通勤ライナー|journal=鉄道ピクトリアル|issue=747|page=20|publisher=[[電気車研究会]]}}</ref><ref>[[今尾恵介]]・[[原武史]]『日本鉄道旅行歴史地図帳 - 全線・全駅・全優等列車-』8号・近畿、[[新潮社]]、2010年、p.50。{{ISBN2|978-4-10-790042-5}}。</ref>、2003年6月1日の改正で特急「びわこエクスプレス」に置き換えられ廃止された<ref>[https://web.archive.org/web/20031011124402/www.westjr.co.jp/news/newslist/article/030418a.html 特急「びわこエクスプレス」の運転、特急「はるか」の米原延長運転の開始] - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2003年4月18日(2003年10月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。車両は[[国鉄485系電車|485系]]が使用されていた。
:
; びわこハリウッド号
: [[2002年]]春と夏に、米原駅 - 大阪駅間で快速「びわこハリウッド号」の運転が行われた。[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]] (USJ) への集客を目的としたもので、特急「雷鳥」で使用していた485系の9両編成を使用して、全車[[座席指定席]]で運転された。途中の停車駅は新快速と同じであった。
:
; [[SL北びわこ号]]
: 1995年から[[10月]]および[[11月]]の[[日曜日]]や[[国民の祝日|祝日]]、[[ゴールデンウイーク]]などに米原駅 - [[木ノ本駅]]間で[[臨時列車]]「SL北びわこ号」が運行されていた。通過駅があるが、[[列車種別]]は快速ではない。2019年11月10日の運行が最後となった<ref name="press20210521">{{Cite press release|和書|title=「SL北びわこ号」の運行終了について|publisher=西日本旅客鉄道|date=2021-05-21|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210521_00_slkitabiwako.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2021-05-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210521060650/https://www.westjr.co.jp/press/article/items/210521_00_slkitabiwako.pdf|archivedate=2021-05-21}}</ref><ref name="kyoto20210521">{{Cite news|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/568827|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210522042938/https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/568827|title=関西唯一、SL北びわこ号の運行終了へ 窓開けられず感染対策の困難やコスト増加で|newspaper=京都新聞|date=2021-05-21|accessdate=2021-05-22|archivedate=2021-05-22}}</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現在の使用車両 ===
==== 特急列車 ====
; 電車
: [[JR西日本281系電車|281系]]・[[JR西日本271系電車|271系]]:2021年3月のダイヤ改正までは、米原駅 - 関西空港駅間の特急「はるか」として米原駅 - 京都駅間で運転されていた(ただし2020年の[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]流行以降は運休<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/press/article/items/200420_05_unkyu.pdf |format=PDF|title= 運転計画の変更について |publisher=JR西日本|date=2020-04-20|language=日本語|accessdate=2021-06-12}}</ref>)。ダイヤ改正以降は、野洲駅 - 関西空港駅間の特急「はるか」として野洲駅 - 京都駅間で運転されている<ref>『JTB時刻表』2021年3月号、JTBパブリッシング、p.120</ref>(しかし、こちらも2021年5月1日より一部が運休している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.westjr.co.jp/suspend/ ||title= 新型コロナウイルス発生に伴う運休について |publisher=JR西日本|author=JR西日本|date=2020|language=日本語|accessdate=2021-06-11}}</ref>)。
: [[JR西日本285系電車|285系]]:東京駅 - 高松駅・出雲市駅間の特急「サンライズ瀬戸」「サンライズ出雲」として米原駅 - 京都駅間で運転されているが、両駅も含め、琵琶湖線内の停車駅は存在しない。
: [[JR西日本681系電車|681系]]・[[JR西日本683系電車|683系]]:特急「びわこエクスプレス」1・4号として米原駅 - 京都駅間で運転されている。また、特急「サンダーバード」の迂回運転時に限り、米原駅 - 長浜駅間でも運転されている。
; 気動車
: [[JR西日本キハ189系気動車|キハ189系]]:特急「びわこエクスプレス」2号として京都駅から草津駅まで運転されている。
: [[JR東海HC85系気動車|HC85系]]:2023年3月のダイヤ改正より大阪駅 - 高山駅間の特急「ひだ」として米原駅 - 京都駅間で運転されている。
<gallery>
ファイル:JRW 281 Haruka 201200913.jpg|281系
ファイル:JR West 285 Series Sunrise Express Seto 20190915.jpg|285系
|681系
|683系
ファイル:JRW Series Kiha 189 Hamakaze 2.jpg|キハ189系
</gallery>
==== 普通・快速列車 ====
現在、定期列車はすべて[[電車]]で運転されている。
* [[JR西日本225系電車|225系]](0・100番台)([[網干総合車両所]])
** 0番台は2010年12月1日から、マイナーチェンジ車の100番台は2016年7月7日から、新快速・普通(途中の駅から快速・新快速になる列車も含む)で営業運転を開始した<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/234411/ 【JR西】225系営業運転開始] - 『鉄道ホビダス』[[ネコ・パブリッシング]] 鉄道投稿情報局 2010年12月3日</ref><ref>[https://railf.jp/news/2016/07/13/164000.html 225系100番台が営業運転を開始] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2016年7月13日</ref>。湖西線・草津線に直通する列車にも使用されている。6両編成は性能的には他と変わらないが、新快速は8両または8+4の12両で運行されるので非常時を除いて新快速には使用されないほか、湖西線・草津線での運用もない。
* [[JR西日本223系電車|223系]](1000・2000・6000番台)(網干総合車両所)、(2500・6000番台)(吹田総合車両所京都支所)
** 1000・2000番台は新快速・普通(途中の駅から快速・新快速になる列車も含む)に使用されている。湖西線・草津線に直通する列車にも使用されている。6両編成は性能的には他と変わらないが、新快速は8両または8+4の12両で運行されるので現在では非常時を除いて新快速には使用されないほか、湖西線・草津線での運用も無い。
** 2500・6000番台は車両の性能を221系に合わせて固定され、221系と共通運用することを前提としているため、新快速には使用されていない。2500番台と京都支所所属の6000番台は湖西線に直通する普通列車にしか使用されず、網干本所所属の6000番台は湖西線・草津線直通には使用されない<ref>[https://rail.hobidas.com/rmnews/463635/ 【221系と223系の併結運転が復活!】網干総合車両所に223系6000番代「BJ編成」が誕生] - 『鉄道ホビダス』[[ネコ・パブリッシング]] 鉄道投稿情報局 2023年6月6日</ref>。
* [[JR西日本221系電車|221系]](網干総合車両所、[[吹田総合車両所]]京都支所)
** 普通(途中の駅から快速になる列車も含む)に使用されている。
** 湖西線・草津線直通列車には京都支所所属車両のみが使用されている。網干本所所属車両は湖西線・草津線直通列車には使用されない。
* [[JR西日本207系電車|207系]]・[[JR西日本321系電車|321系]](網干総合車両所明石支所)
** 京都駅以西でも各駅に停車する平日朝の新三田発草津行き(2022年3月11日までは西明石発草津行き)普通(京阪神緩行線)で運転されている(厳密には回送で野洲まで運転。いずれも折返しは京都まで回送するが、後者は野洲派出所で[[夜間滞泊]]する)。<!--また、2013年3月まで存在したJR宝塚線直通新三田発草津行きにも、同形式が使用されていた。-->
** 321系が入る前は[[国鉄201系電車|201系]]も運行されており、2006年3月17日まで設定があった。また、2003年3月15日 - 8月14日の間は[[国鉄103系電車|103系]]も運行されていた。
* [[JR西日本521系電車|521系]]([[金沢総合車両所]])
** [[北陸本線]]内の地域輸送用として[[敦賀駅]]以北に直通可能な[[交直流電車]]が用いられ、長浜駅 - 米原駅間で普通として運転されている。ATS-Pを搭載したE編成のみが使われ、それ以外の車両は乗り入れない。
<gallery>
File:Series207-1000-Sanyo-Line.jpg|207系
File:Series-221-A1-Local.jpg|221系
File:JRW 223 series set J12 at Zeze Station 2019-11-16 (49905193603).jpg|223系2000番台
ファイル:Special rapid services on on tōkaidō main line 225 100.jpg|225系100番台
ファイル:JR West 321 Series D28 20190808.jpg|321系
File:WestJapanRailwayCompanyType521.JPG|521系
</gallery>
=== 過去の使用車両 ===
{{節スタブ}}
==== 特急列車 ====
; 電車
: [[国鉄381系電車|381系]]:大阪発着の特急「[[しなの (列車)|しなの]]」で使用。
: [[JR東海383系電車|383系]]:大阪発着の特急「しなの」で使用。
; 気動車
: [[JR東海キハ85系気動車|キハ85系]]:大阪駅 - 高山駅間の特急「(ワイドビュー)ひだ」として米原駅 - 京都駅間で運転されていたが、HC85系に置き換えられた。
<gallery>
ファイル:JRC 85 Hida 201200913.jpg|キハ85系
</gallery>
==== 普通・快速列車 ====
* [[国鉄113系電車|113系]](吹田総合車両所京都支所)
** 2004年10月15日までは米原駅 - 草津駅間でも運用され、JR東海大垣駅まで直通する列車でも運転されていた。
** 2023年4月1日まで湖西線・草津線に直通する列車で使用されていた。
* [[国鉄117系電車|117系]](吹田総合車両所京都支所)
** 1980年1月22日から1999年5月まで新快速で運用。
** 2023年4月1日まで湖西線・草津線に直通する列車で使用されていた。
* [[JR西日本125系電車|125系]](金沢総合車両所敦賀支所)
** 長浜駅 - 米原駅間で運行されていた。
<gallery>
ファイル:JRW113Series KitoC13 Green.JPG|113系
ファイル:Kuha117-305.JPG|117系
</gallery>
== 歴史 ==
{{Main2|路線・駅設置などの沿革については「[[東海道本線#年表]]」「[[北陸本線#年表]]」を、優等列車の沿革については「[[東海道本線優等列車沿革]]」を、普通列車(新快速・普通)の沿革については「[[京阪神快速#歴史]]」「[[京阪神緩行線#沿革]]」を}}
== 駅一覧 ==
以下では、琵琶湖線の各駅の営業キロ・停車列車・接続路線についてを一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「[[東海道本線#廃駅]]」を参照。
* 駅名
** {{JR特定都区市内|京}}は[[特定都区市内]]制度における京都市内の駅
** <nowiki>#</nowiki>:待避可能駅
* 停車駅
** 普通:すべての旅客駅に停車(表中省略)
*** 米原方面からの列車の一部はJR京都線京都駅または高槻駅から快速として運転
** 新快速:●印の駅は停車、|印の駅は通過
** 特急・急行:[[#優等列車|優等列車]]に挙げられている各列車記事参照。なお寝台特急は琵琶湖線内での停車駅なし
* 接続路線:駅名が異なる場合は⇒印で駅名を記す。
* [[駅ナンバリング|駅ナンバー]]は2018年3月より導入<ref>[http://www.westjr.co.jp/press/article/2016/07/page_8973.html 近畿エリアの12路線 のべ300駅に「駅ナンバー」を導入します!] - 西日本旅客鉄道ニュースリリース 2016年7月20日</ref>、北陸本線からの通し番号となっている。
{|class="wikitable" rules="all" style="font-size:86%;"
|-
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|正式路線名|height=6em}}
!rowspan="2" style="width:6em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅ナンバー<br /><ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/press/article/items/160720_01_ekinumber.pdf 「駅ナンバー」一覧表]}} - 西日本旅客鉄道、2016年7月20日</ref>
!rowspan="2" style="width:8em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅名・操車場名
!rowspan="2" style="width:2.5em; line-height:1.2em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|駅間<br />営業<br />キロ
!colspan="2"|累計<br />営業キロ
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba; background:#cdf;"|{{縦書き|新快速|height=4em}}
!rowspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|接続路線・備考
!rowspan="2" style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{縦書き|線路|height=3em}}
!rowspan="2" colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|所在地
|-
!style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{Nowrap|米原<br />から}}
!style="border-bottom:solid 3px #0072ba;"|{{Nowrap|[[東京駅|東京]]<br />から}}
|-
|rowspan="4" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|北陸本線|height=5em}}
!JR-A09
|[[長浜駅]]#
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|7.7
|style="text-align:center;"|-
|style="background:#cdf;"|●
|[[西日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JRW kinki-A.svg|17px|A]] [[北陸本線]]〈[[近江塩津駅|近江塩津]]・[[敦賀駅|敦賀]]方面〉
|rowspan="17" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|複線|height=4em}}
|rowspan="23" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[滋賀県]]|height=6em}}
|rowspan="2"|[[長浜市]]
|-
!JR-A10
|[[田村駅]]
|style="text-align:right;"|3.0
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|style="text-align:center;"|-
|style="background:#cdf;"|●
|
|-
!JR-A11
|[[坂田駅]]
|style="text-align:right;"|2.3
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|style="text-align:center;"|-
|style="background:#cdf;"|●
|
|rowspan="4"|[[米原市]]
|- style="height:2em;"
!rowspan="2"|JR-A12
|rowspan="2"|[[米原駅]]#
|rowspan="2" style="text-align:right;"|2.4
|rowspan="2" style="text-align:right;"|0.0
|rowspan="2" style="text-align:right;"|445.9
|rowspan="2" style="background:#cdf;"|●
|rowspan="2"|[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] [[東海道新幹線]]・{{JR海駅番号|CA}} [[東海道線 (名古屋地区)|東海道本線]]〈[[大垣駅|大垣]]・[[名古屋駅|名古屋]]方面〉(CA83)<br />[[近江鉄道]]:{{Color|#ff0000|■}} [[近江鉄道本線|本線]] (OR01)
|- style="height:2em;"
|rowspan="21" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東海道本線]]|height=10em}}
|-
!
|[[米原駅#米原操車場|米原操車場]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|447.0
|style="background:#cdf;"||
|※米原駅構内扱い
|-
!JR-A13
|[[彦根駅]]#
|style="text-align:right;"|4.9
|style="text-align:right;"|6.0
|style="text-align:right;"|451.9
|style="background:#cdf;"|●
|近江鉄道:{{Color|#ff0000|■}}本線 (OR04)
|rowspan="4"|[[彦根市]]
|-
!JR-A14
|[[南彦根駅]]
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:right;"|9.3
|style="text-align:right;"|455.2
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A15
|[[河瀬駅]]#
|style="text-align:right;"|3.1
|style="text-align:right;"|12.4
|style="text-align:right;"|458.3
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A16
|[[稲枝駅]]
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|16.1
|style="text-align:right;"|462.0
|style="background:#cdf;"||
|
|-
!JR-A17
|[[能登川駅]]#
|style="text-align:right;"|3.7
|style="text-align:right;"|19.8
|style="text-align:right;"|465.7
|style="background:#cdf;"|●
|
|[[東近江市]]
|-
!JR-A18
|[[安土駅]]#
|style="text-align:right;"|5.1
|style="text-align:right;"|24.9
|style="text-align:right;"|470.8
|style="background:#cdf;"||
|
|rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[近江八幡市]]
|-
!JR-A19
|[[近江八幡駅]]#
|style="text-align:right;"|3.5
|style="text-align:right;"|28.4
|style="text-align:right;"|474.3
|style="background:#cdf;"|●
|近江鉄道:{{Color|#00b050|■}} [[近江鉄道八日市線|八日市線]] (OR21)
|-
!JR-A20
|[[篠原駅 (滋賀県)|篠原駅]]
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|
|-
!JR-A21
|[[野洲駅]]#
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|
|[[野洲市]]
|-
!JR-A22
|[[守山駅 (滋賀県)|守山駅]]
|style="text-align:right;"|3.1
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|style="text-align:right;"|487.0
|style="background:#cdf;"|●
|
|colspan="2"|[[守山市]]
|-
!JR-A23
|[[栗東駅]]
|style="text-align:right;"|2.1
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|style="background:#cdf;"||
|
|[[栗東市]]
|-
!JR-A24
|[[草津駅 (滋賀県)|草津駅]]
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|style="text-align:right;"|491.4
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|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-C.svg|17px|C]] [[草津線]]
|rowspan="8" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|方向別複々線|height=12em}}
|rowspan="2"|[[草津市]]
|-
!JR-A25
|[[南草津駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
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|
|-
!JR-A26
|[[瀬田駅 (滋賀県)|瀬田駅]]
|style="text-align:right;"|2.7
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|
|rowspan="4"|[[大津市]]
|-
!JR-A27
|[[石山駅]]
|style="text-align:right;"|2.5
|style="text-align:right;"|53.2
|style="text-align:right;"|499.1
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|[[京阪電気鉄道]]:[[File:Number prefix Otsu lines.png|20px|OT]] {{color|#70c8e0|■}} [[京阪石山坂本線|石山坂本線]]([[京阪大津線|大津線]]) ⇒[[京阪石山駅]] (OT03)
|-
!JR-A28
|[[膳所駅]]
|style="text-align:right;"|2.8
|style="text-align:right;"|56.0
|style="text-align:right;"|501.9
|style="background:#cdf;"||
|京阪電気鉄道:[[File:Number prefix Otsu lines.png|20px|OT]] {{color|#70c8e0|■}}石山坂本線(大津線) ⇒[[京阪膳所駅]] (OT09)
|-
!JR-A29
|[[大津駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|57.7
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|
|-
!JR-A30
|[[山科駅]] {{JR特定都区市内|京}}
|style="text-align:right;"|4.5
|style="text-align:right;"|62.2
|style="text-align:right;"|508.1
|style="background:#cdf;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-B.svg|17px|B]] [[湖西線]]<ref group="※">湖西線の列車は運行形態上、全列車が京都駅に乗り入れている。</ref> (JR-B30)<br />[[京都市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway KyotoTozai.svg|17px|T]] [[京都市営地下鉄東西線|東西線]] (T07)<br />京阪電気鉄道:[[File:Number prefix Otsu lines.png|20px|OT]] {{Color|#aace24|■}} [[京阪京津線|京津線]](大津線) ⇒[[京阪山科駅]] (OT31)
|rowspan="2" style="width:1em; text-align:center;"|{{縦書き|[[京都府]][[京都市]]|height=7em}}
|[[山科区]]
|-
!JR-A31
|[[京都駅]] {{JR特定都区市内|京}}
|style="text-align:right;"|5.5
|style="text-align:right;"|67.7
|style="text-align:right;"|513.6
|style="background:#cdf;"|●
|西日本旅客鉄道:[[ファイル:JRW kinki-A.svg|17px|A]] 東海道本線([[JR京都線]])・[[ファイル:JRW kinki-E.svg|17px|E]] [[山陰本線]]([[嵯峨野線]]、JR-E01)・[[ファイル:JRW kinki-D.svg|17px|D]] [[奈良線]] (JR-D01)<br />東海旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|17px|■]] 東海道新幹線<br />[[近畿日本鉄道]]:{{近鉄駅番号|B}} [[近鉄京都線|京都線]] (B01)<br />京都市営地下鉄:[[ファイル:Subway KyotoKarasuma.svg|17px|K]] [[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]] (K11)
|[[下京区]]
|}
{{Reflist|group="※"}}
* 直営駅(9駅)
** 長浜駅・米原駅・彦根駅・野洲駅・草津駅・石山駅・大津駅・山科駅・京都駅
* 業務委託駅(12駅)
** [[JR西日本交通サービス]]
*** 南彦根駅・河瀬駅・稲枝駅・能登川駅・安土駅・近江八幡駅・篠原駅・守山駅・栗東駅・南草津駅・瀬田駅・膳所駅
* 無人駅(2駅)
** 田村駅・坂田駅
=== 新駅設置計画 ===
以下の区間で新駅を設置することが検討されている。
* 瀬田駅 - 石山駅間<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/travel/rail/news/OSK201108250036.html |title=JR琵琶湖線 大津市内の石山―瀬田間に新駅検討 |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2011-08-25 |archiveurl=https://archive.is/19hY |archivedate=2012-07-18}}</ref>
* 山科駅 - 京都駅間<ref>{{Cite news |url=http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0301ke80200.html |title=県内で3新駅検討 JR西日本 |newspaper=神戸新聞NEWS |publisher=神戸新聞社 |date=2005-03-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20050306171604/http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou05/0301ke80200.html |archivedate=2005-03-06}}</ref>
* 篠原駅 - 野洲駅間<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03 |url=http://www.city.yasu.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/4/matidukuri.pdf#page=17 |title=野洲市 まちづくりビジョン |format=PDF |publisher=野洲市 |accessdate=2020-04-27 }}</ref>
このほか、南草津駅 - 瀬田駅間にも新駅設置が計画されていたが<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20110808000113 |title=瀬田〜南草津間に新駅を計画 JR西日本 |newspaper=京都新聞 |publisher=京都新聞社 |date=2011年8月8日 |accessdate=2013年3月31日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111219072514/http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20110808000113 |archivedate=2011-12-19}}</ref>、草津市が新駅の設置計画を凍結する方針を2013年10月28日までに固めた<ref>{{Cite news |url=http://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20131029000016 |title=南草津―瀬田間の新駅凍結 草津市、JR西に伝達 |newspaper=京都新聞 |publisher=京都新聞社 |date=2013-10-29 |accessdate=2013-11-05}}</ref>。
=== 過去の接続路線 ===
* 京都駅:[[京都市電]]([[京都駅|京都駅前駅]])
** [[京都市電堀川線|堀川線]] - 1961年8月1日廃止
** [[京都市電伏見線|伏見線]] - 1970年4月1日廃止
** [[京都市電烏丸線|烏丸線]] - 1977年10月1日廃止
** [[京都市電河原町線|河原町線]] - 1978年10月1日廃止
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[今尾恵介]]監修『[[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線』8 関西1、[[新潮社]]、2008年。{{ISBN2|978-4-10-790026-5}}。
* 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 - 全線・全駅・全廃線』9 関西2、[[新潮社]]、2009年。{{ISBN2|978-4-10-790027-2}}。
* [[川島令三]]編著『東海道ライン 全線・全駅・全配線(8) 米原駅 - 大阪エリア』[[講談社]]、2009年。{{ISBN2|978-4-06-270016-0}}。
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[アーバンネットワーク]]
* [[京阪神快速]]
* [[京阪神緩行線]]
== 外部リンク ==
* [https://www.train-guide.westjr.co.jp/hokurikubiwako.html 北陸線・琵琶湖線:JR西日本 列車走行位置]
* [http://www.pref.shiga.lg.jp/c/kanjyosen/01.html 琵琶湖環状線構想の概要(北陸本線等直流化事業)] - 滋賀県
{{東海道本線関連路線}}
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{{西日本旅客鉄道近畿エリア}}
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[[Category:琵琶湖線|*]]
[[Category:近畿地方の鉄道路線]]
[[Category:西日本旅客鉄道の鉄道路線]]
[[Category:京都府の交通]]
[[Category:滋賀県の交通|ひわこせん]]
[[Category:中山道|鉄ひわこせん]]
[[Category:鉄道路線の愛称]] | 2003-03-15T05:51:29Z | 2023-12-06T00:50:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E7%B7%9A |
4,047 | DFT | DFT | [
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"title": null
}
] | DFT 離散フーリエ変換 — 信号処理の手法
密度汎関数理論 — 物性理論の用語
湛液型水耕 (英語: deep flow technique) — 養液栽培の手法
テスト容易化設計 — 回路設計の手法 | '''DFT'''
*[[離散フーリエ変換]] ({{lang-en|discrete Fourier transformation}})— 信号処理の手法
*[[密度汎関数理論]] ({{lang-en|density functional theory}})— 物性理論の用語
*[[湛液型水耕]] ({{lang-en|deep flow technique}}) — 養液栽培の手法
*テスト容易化設計 ({{lang-en|design for test}}) — 回路設計の手法
{{aimai}} | null | 2013-03-08T15:42:17Z | true | false | false | [
"Template:Lang-en",
"Template:Aimai"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/DFT |
4,048 | 整数 | 数学における整数(せいすう、英: integer, whole number, 独: Ganze Zahl, 仏: nombre entier, 西: número entero)は、1 とそれに 1 ずつ加えて得られる自然数 (1, 2, 3, 4, ...) 、これらに−1を乗じて得られる負数 (−1, −2, −3, −4, ...) 、および 0 の総称である。
整数の全体からなる集合は、一般に太字の Z {\displaystyle \mathbf {Z} } または黒板太字の Z {\displaystyle \mathbb {Z} } で表す。これはドイツ語 Zahlen(「数」の意・複数形)に由来する。
抽象代数学、特に代数的整数論では、しばしば「代数体の整数環」の元という意味で代数的整数あるいは「整数」という言葉を用いる。有理数全体の成す体はそれ自身が代数体の最も簡単な例であり、有理数体の代数体としての整数環すなわち、「有理数の中で整なもの」の全体の成す環は、本項でいう意味での整数全体の成す環である。一般の「整数」との区別のためにここでいう意味の整数を有理整数 (rational integer) と呼ぶことがある。
「もの」の個数という素朴な意味で理解される自然数の中では、足し算と掛け算は自由にできるが、引き算については「引かれる数が引く数よりも大きい」という前提を満たさねばならず、その意味では自由ではない。これを自由に行うために「負の整数」を導入して、数の範囲を拡張しようというのが整数の概念である。すなわち、
の形の方程式は、 a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} が整数ならば必ずただ一つの解を持つ。
自然数を「正の整数」とし、自然数 n に対して加法に関する逆元 −n を導入し、これを「負の整数」とする。「正の整数」「0」「負の整数」をあわせた数の中で普通に足し算・引き算・かけ算ができるように、また、「正の整数」に対する演算はもともとの自然数としてのそれであるように加法と乗法を定義することができる(足し算引き算を包摂して「加法」と呼んでいる)。
しかし、例えば 2 × x = 1 {\displaystyle 2\times x=1} となる整数 x {\displaystyle x} が存在しないように、依然として一般に除法は不自由なままである(自由にできるようにするためには有理数にまで数の範囲を広げなければならない)。
負の数について論じた最古の文献は、紀元前1世紀から紀元後2世紀に成立した古代中国の『九章算術』であり、0および負数の加減演算が扱われている。また、インドの数学者アリヤバータ (476 - 550) による今日『アーリヤバティーヤ』と呼ばれるテキストでは、負数の加法と減法の満たす規則が定められており、また負数は負債を表し、正数は収入を表すものとして表れている。数世紀のち、ペルシアの数学者アブル・ワファー (940 - 998) は負数同士の積が正数であることを記しているが、しかし依然として数は何らかの物理的な量に結び付けられており、負数が実存のものとして市民権を得るのは困難な状態であった。例えばフワーリズミー (783 - 850) は二次方程式を係数に負数が現れないように6種類に還元帰着することによって扱っている。
ヨーロッパで整数の概念が現れるのは遅く、よく知られた二整数の積に対する符号の規則は一般にステヴィン (1548 - 1620) に帰せられる。またダランベール (1717 - 1783) は、彼の百科全書において整数が危うい概念であると述べている。
自然数の成す同値類を用いた厳密な構成を行うことによる整数の概念の定式化が現れるのは、そこからさらに二つの世紀を待たねばならなかった。この構成を成した一人であるデデキント (1831 - 1916) は、整数全体の成す集合を表すのに K を用いたが、ブルバキによる Z {\displaystyle \mathbb {Z} } (ドイツ語で「数」を意味する "Zahlen" の頭文字)が普及するまで、ほかにもいくつかの規約が用いられていた。
加法についての五性質は、整数の全体 Z が加法に対してアーベル群となることを主張するものである。また、任意の整数 n は
なる形に書けるから、Z は 1 の生成する無限巡回群 ⟨1⟩ になる。特に Z は同型の違いを除いて唯一の無限巡回群である。
乗法についての四性質は、Z が乗法に関しては可換モノイドをなすことを言うものである。
零因子の非存在以外の全ての性質を合わせれば、整数の全体 Z は単位的可換環であることがわかる。整数全体の成す環は整数環と呼ばれる。例えば負の数同士の積が正となるという性質
は、整数の全体が環であることを用いれば、n を任意の整数とするとき、逆元の一意性による −(−n) = n と 0 が吸収元すなわち n × 0 = 0 = 0 × n = 0 となることなどを使って証明できる。
整数環 Z は零因子を持たない単位的可換環ゆえに整域である。逆元を持つ整数は {±1} の二つだけであり、Z から 0 を除いた集合は除法について閉じていないので、Z は体にならない。
乗法の逆演算としての通常の除法は Z 上で定義された演算とはならないけれども、しかし Z は除法の原理と呼ばれる性質「任意の整数a と任意の整数 b ≠ 0 に対して、a = qb + r かつ 0 ≦ r < |b| を満たす二つの整数q とr が存在する」が成り立つので、「余りのある除法」を定義することができて、Z はユークリッド整域となる。特に x と y の最大公約数が d のとき、ax + by = d を満たす整数 a, b が存在することはユークリッドの互除法などにより保証され
が成り立つから、Z が単項イデアル整域であることがわかる。ここから導かれる、任意の整数が単元を掛ける違いを除いて素数の積として一意に表されるという重要な事実は算術の基本定理と呼ばれ、Z が一意分解環であることを示す。
Z {\displaystyle \mathbf {Z} } における通常の大小関係
... < − 3 < − 2 < − 1 < 0 < 1 < 2 < 3 < ... {\displaystyle \ldots <-3<-2<-1<0<1<2<3<\ldots }
は、上にも下にも有界でない全順序関係であり、
が成り立つという意味で Z {\displaystyle \mathbf {Z} } の環構造と両立し、 Z {\displaystyle \mathbf {Z} } は順序環となる。0 より大きな元は「正」、0 より小さな元は「負」である。正の整数全体 N {\displaystyle \mathbf {N} } は、任意の整数 x {\displaystyle x} に対し x {\displaystyle x} または − x {\displaystyle -x} が N {\displaystyle \mathbf {N} } に属するという意味で Z {\displaystyle \mathbf {Z} } の賦値環である。
自然数の全体 N は減法について閉じていないが、上ではそれを補完するものとして負整数を導入し、整数の全体 Z を構成した。それと本質的には変わらないが、よく知られる方法としてここでは、減法を陽に持ち出さずに、自然数の加法と乗法のみから同値関係や商集合といった道具を使って、整数が厳密に構成できることを記しておく。なお、以下の構成では、自然数には 0 を含まないとする。
まず、直積集合 N = N × N = {(a, b) | a, b は自然数} を考える。N に同値関係 ∼ を
と定義することができる。ここで、N を同値関係 ∼ で類別した集合(商集合)N/∼ を考える。これは、互いに同値なもの全体の集合(同値類)を元とするような集合であり、直観的には互いに同値であるようなものを同一視する操作である。(a, b) ∈ N の属する同値類を [a, b] ∈ N/R と表すことにする。つまり、[a, b] は
となる集合である。同値類を [a, b] のように表すとき、(a, b) をこの同値類の代表元と呼ぶ。代表元は同値なものでありさえすれば、他のものに取り替えることができる。商集合 N/∼ に加法 + と乗法 × を
と定義すると、これらは代表元の取り方によらずに、同値類同士の演算としてうまく定義されていることが確かめられる。
このとき、[a, b] + [m, m] = [a + m, b + m] = [a, b] であるから、R = {(m, m) | m ∈ N} は N/∼ の加法に関する単位元である。
また、自然数 m に対して [m + 1, 1] を対応させる写像は単射で、
を満たす(準同型)から、 N は N/∼ に演算まで込めて埋め込める 。
記号の濫用ではあるが、自然数 m を埋め込んだ先と同一視して m = [m + 1, 1] と書くことにし、これを(正の)整数 m と呼ぶ 。
同様の埋め込みは、自然数 m に対して [1, m + 1] を対応させることでも得られるが、和と積は
となる。自然数 m に対し、新たな記号 −m を [1, m + 1] を表すものとして導入し、これを負整数 −m と呼ぶ 。
負整数同士の積が正整数になっていることが確認できる。
このとき、m + (−m) = [m + 1, 1] + [1, m + 1] = [m + 2, m + 2] = R だから、負整数 −m = [1, m + 1] は N/∼ においてはちょうど、正整数 m = [m + 1, 1] の加法に関する逆元になっている 。
R をあらためて 0 と書くことにして、N/∼ = {m, 0, −m | m ∈ N} を整数全体の集合と呼び、改めて Z と書くことにしよう。
このようにして整数の全体 Z が厳密に定義されたが、なお定義に従えば Z において結合法則や分配法則などの環の公理が満たされることが証明できる。
コンピュータの内部では電気的な信号の有無を 1 と 0 に割り当て、2進法を用いて整数を表現するのが基本である。通常は、2 バイト(16 ビット)または 4 バイト(32 ビット)の範囲で表現できる範囲の数を扱う。負の値を扱う場合は、2の補数表現などが用いられる。通常は有限の範囲の整数しか扱うことができないが、処理速度を犠牲にして無限の整数を扱う方法もある。
事務処理など金額などの大きな桁や 10 進小数を正確に扱う必要がある場合、二進化十進表現を用いる。 | [
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"text": "整数の全体からなる集合は、一般に太字の Z {\\displaystyle \\mathbf {Z} } または黒板太字の Z {\\displaystyle \\mathbb {Z} } で表す。これはドイツ語 Zahlen(「数」の意・複数形)に由来する。",
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},
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"text": "抽象代数学、特に代数的整数論では、しばしば「代数体の整数環」の元という意味で代数的整数あるいは「整数」という言葉を用いる。有理数全体の成す体はそれ自身が代数体の最も簡単な例であり、有理数体の代数体としての整数環すなわち、「有理数の中で整なもの」の全体の成す環は、本項でいう意味での整数全体の成す環である。一般の「整数」との区別のためにここでいう意味の整数を有理整数 (rational integer) と呼ぶことがある。",
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},
{
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"tag": "p",
"text": "「もの」の個数という素朴な意味で理解される自然数の中では、足し算と掛け算は自由にできるが、引き算については「引かれる数が引く数よりも大きい」という前提を満たさねばならず、その意味では自由ではない。これを自由に行うために「負の整数」を導入して、数の範囲を拡張しようというのが整数の概念である。すなわち、",
"title": "素朴な説明"
},
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"text": "の形の方程式は、 a {\\displaystyle a} , b {\\displaystyle b} が整数ならば必ずただ一つの解を持つ。",
"title": "素朴な説明"
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"text": "自然数を「正の整数」とし、自然数 n に対して加法に関する逆元 −n を導入し、これを「負の整数」とする。「正の整数」「0」「負の整数」をあわせた数の中で普通に足し算・引き算・かけ算ができるように、また、「正の整数」に対する演算はもともとの自然数としてのそれであるように加法と乗法を定義することができる(足し算引き算を包摂して「加法」と呼んでいる)。",
"title": "素朴な説明"
},
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"text": "しかし、例えば 2 × x = 1 {\\displaystyle 2\\times x=1} となる整数 x {\\displaystyle x} が存在しないように、依然として一般に除法は不自由なままである(自由にできるようにするためには有理数にまで数の範囲を広げなければならない)。",
"title": "素朴な説明"
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"text": "負の数について論じた最古の文献は、紀元前1世紀から紀元後2世紀に成立した古代中国の『九章算術』であり、0および負数の加減演算が扱われている。また、インドの数学者アリヤバータ (476 - 550) による今日『アーリヤバティーヤ』と呼ばれるテキストでは、負数の加法と減法の満たす規則が定められており、また負数は負債を表し、正数は収入を表すものとして表れている。数世紀のち、ペルシアの数学者アブル・ワファー (940 - 998) は負数同士の積が正数であることを記しているが、しかし依然として数は何らかの物理的な量に結び付けられており、負数が実存のものとして市民権を得るのは困難な状態であった。例えばフワーリズミー (783 - 850) は二次方程式を係数に負数が現れないように6種類に還元帰着することによって扱っている。",
"title": "概歴"
},
{
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"text": "ヨーロッパで整数の概念が現れるのは遅く、よく知られた二整数の積に対する符号の規則は一般にステヴィン (1548 - 1620) に帰せられる。またダランベール (1717 - 1783) は、彼の百科全書において整数が危うい概念であると述べている。",
"title": "概歴"
},
{
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"tag": "p",
"text": "自然数の成す同値類を用いた厳密な構成を行うことによる整数の概念の定式化が現れるのは、そこからさらに二つの世紀を待たねばならなかった。この構成を成した一人であるデデキント (1831 - 1916) は、整数全体の成す集合を表すのに K を用いたが、ブルバキによる Z {\\displaystyle \\mathbb {Z} } (ドイツ語で「数」を意味する \"Zahlen\" の頭文字)が普及するまで、ほかにもいくつかの規約が用いられていた。",
"title": "概歴"
},
{
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"text": "加法についての五性質は、整数の全体 Z が加法に対してアーベル群となることを主張するものである。また、任意の整数 n は",
"title": "代数構造"
},
{
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"text": "なる形に書けるから、Z は 1 の生成する無限巡回群 ⟨1⟩ になる。特に Z は同型の違いを除いて唯一の無限巡回群である。",
"title": "代数構造"
},
{
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"text": "乗法についての四性質は、Z が乗法に関しては可換モノイドをなすことを言うものである。",
"title": "代数構造"
},
{
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"text": "零因子の非存在以外の全ての性質を合わせれば、整数の全体 Z は単位的可換環であることがわかる。整数全体の成す環は整数環と呼ばれる。例えば負の数同士の積が正となるという性質",
"title": "代数構造"
},
{
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"text": "は、整数の全体が環であることを用いれば、n を任意の整数とするとき、逆元の一意性による −(−n) = n と 0 が吸収元すなわち n × 0 = 0 = 0 × n = 0 となることなどを使って証明できる。",
"title": "代数構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "整数環 Z は零因子を持たない単位的可換環ゆえに整域である。逆元を持つ整数は {±1} の二つだけであり、Z から 0 を除いた集合は除法について閉じていないので、Z は体にならない。",
"title": "代数構造"
},
{
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"text": "乗法の逆演算としての通常の除法は Z 上で定義された演算とはならないけれども、しかし Z は除法の原理と呼ばれる性質「任意の整数a と任意の整数 b ≠ 0 に対して、a = qb + r かつ 0 ≦ r < |b| を満たす二つの整数q とr が存在する」が成り立つので、「余りのある除法」を定義することができて、Z はユークリッド整域となる。特に x と y の最大公約数が d のとき、ax + by = d を満たす整数 a, b が存在することはユークリッドの互除法などにより保証され",
"title": "代数構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "が成り立つから、Z が単項イデアル整域であることがわかる。ここから導かれる、任意の整数が単元を掛ける違いを除いて素数の積として一意に表されるという重要な事実は算術の基本定理と呼ばれ、Z が一意分解環であることを示す。",
"title": "代数構造"
},
{
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"text": "Z {\\displaystyle \\mathbf {Z} } における通常の大小関係",
"title": "順序構造"
},
{
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"text": "... < − 3 < − 2 < − 1 < 0 < 1 < 2 < 3 < ... {\\displaystyle \\ldots <-3<-2<-1<0<1<2<3<\\ldots }",
"title": "順序構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "は、上にも下にも有界でない全順序関係であり、",
"title": "順序構造"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "が成り立つという意味で Z {\\displaystyle \\mathbf {Z} } の環構造と両立し、 Z {\\displaystyle \\mathbf {Z} } は順序環となる。0 より大きな元は「正」、0 より小さな元は「負」である。正の整数全体 N {\\displaystyle \\mathbf {N} } は、任意の整数 x {\\displaystyle x} に対し x {\\displaystyle x} または − x {\\displaystyle -x} が N {\\displaystyle \\mathbf {N} } に属するという意味で Z {\\displaystyle \\mathbf {Z} } の賦値環である。",
"title": "順序構造"
},
{
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"tag": "p",
"text": "自然数の全体 N は減法について閉じていないが、上ではそれを補完するものとして負整数を導入し、整数の全体 Z を構成した。それと本質的には変わらないが、よく知られる方法としてここでは、減法を陽に持ち出さずに、自然数の加法と乗法のみから同値関係や商集合といった道具を使って、整数が厳密に構成できることを記しておく。なお、以下の構成では、自然数には 0 を含まないとする。",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"text": "まず、直積集合 N = N × N = {(a, b) | a, b は自然数} を考える。N に同値関係 ∼ を",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"tag": "p",
"text": "と定義することができる。ここで、N を同値関係 ∼ で類別した集合(商集合)N/∼ を考える。これは、互いに同値なもの全体の集合(同値類)を元とするような集合であり、直観的には互いに同値であるようなものを同一視する操作である。(a, b) ∈ N の属する同値類を [a, b] ∈ N/R と表すことにする。つまり、[a, b] は",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"text": "となる集合である。同値類を [a, b] のように表すとき、(a, b) をこの同値類の代表元と呼ぶ。代表元は同値なものでありさえすれば、他のものに取り替えることができる。商集合 N/∼ に加法 + と乗法 × を",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"text": "と定義すると、これらは代表元の取り方によらずに、同値類同士の演算としてうまく定義されていることが確かめられる。",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"tag": "p",
"text": "このとき、[a, b] + [m, m] = [a + m, b + m] = [a, b] であるから、R = {(m, m) | m ∈ N} は N/∼ の加法に関する単位元である。",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"tag": "p",
"text": "また、自然数 m に対して [m + 1, 1] を対応させる写像は単射で、",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"text": "を満たす(準同型)から、 N は N/∼ に演算まで込めて埋め込める 。",
"title": "厳密な構成"
},
{
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"tag": "p",
"text": "記号の濫用ではあるが、自然数 m を埋め込んだ先と同一視して m = [m + 1, 1] と書くことにし、これを(正の)整数 m と呼ぶ 。",
"title": "厳密な構成"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "同様の埋め込みは、自然数 m に対して [1, m + 1] を対応させることでも得られるが、和と積は",
"title": "厳密な構成"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "となる。自然数 m に対し、新たな記号 −m を [1, m + 1] を表すものとして導入し、これを負整数 −m と呼ぶ 。",
"title": "厳密な構成"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "負整数同士の積が正整数になっていることが確認できる。",
"title": "厳密な構成"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "このとき、m + (−m) = [m + 1, 1] + [1, m + 1] = [m + 2, m + 2] = R だから、負整数 −m = [1, m + 1] は N/∼ においてはちょうど、正整数 m = [m + 1, 1] の加法に関する逆元になっている 。",
"title": "厳密な構成"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "R をあらためて 0 と書くことにして、N/∼ = {m, 0, −m | m ∈ N} を整数全体の集合と呼び、改めて Z と書くことにしよう。",
"title": "厳密な構成"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "このようにして整数の全体 Z が厳密に定義されたが、なお定義に従えば Z において結合法則や分配法則などの環の公理が満たされることが証明できる。",
"title": "厳密な構成"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "コンピュータの内部では電気的な信号の有無を 1 と 0 に割り当て、2進法を用いて整数を表現するのが基本である。通常は、2 バイト(16 ビット)または 4 バイト(32 ビット)の範囲で表現できる範囲の数を扱う。負の値を扱う場合は、2の補数表現などが用いられる。通常は有限の範囲の整数しか扱うことができないが、処理速度を犠牲にして無限の整数を扱う方法もある。",
"title": "コンピュータにおける整数表現"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "事務処理など金額などの大きな桁や 10 進小数を正確に扱う必要がある場合、二進化十進表現を用いる。",
"title": "コンピュータにおける整数表現"
}
] | 数学における整数は、1 とそれに 1 ずつ加えて得られる自然数 、これらに−1を乗じて得られる負数 、および 0 の総称である。 整数の全体からなる集合は、一般に太字の Z または黒板太字の Z で表す。これはドイツ語 Zahlen(「数」の意・複数形)に由来する。 抽象代数学、特に代数的整数論では、しばしば「代数体の整数環」の元という意味で代数的整数あるいは「整数」という言葉を用いる。有理数全体の成す体はそれ自身が代数体の最も簡単な例であり、有理数体の代数体としての整数環すなわち、「有理数の中で整なもの」の全体の成す環は、本項でいう意味での整数全体の成す環である。一般の「整数」との区別のためにここでいう意味の整数を有理整数 と呼ぶことがある。 | {{脚注の不足|date=2022年10月}}
{{記号文字|{{Unicode|ℤ}}}}
[[数学]]における'''整数'''(せいすう、{{lang-en-short|''integer''}}, ''whole number'', {{lang-de-short|''Ganze Zahl''}}, {{lang-fr-short|''nombre entier''}}, {{lang-es-short|''número entero''}})は、1 とそれに 1 ずつ加えて得られる[[自然数]] (1, 2, 3, 4, …) 、これらに−1を乗じて得られる[[負数]] (−1, −2, −3, −4, …) 、および 0 の総称である。
[[file:Number-line.svg|600px|center|整数は数直線上の格子点として視覚化される]]
整数の全体からなる[[集合]]は、一般に太字の <math>\mathbf Z</math> または[[黒板太字]]の <math>\mathbb Z</math> で表す。これはドイツ語 {{lang|de|''Zahlen''}}(「数」の意・複数形)に由来する。
[[抽象代数学]]、特に[[代数的整数論]]では、しばしば「[[整数環|代数体の整数環]]」の元という意味で[[代数的整数]]あるいは「整数」という言葉を用いる。有理数全体の成す体はそれ自身が[[代数体]]の最も簡単な例であり、有理数体の代数体としての整数環すなわち、「[[有理数]]の中で[[代数方程式|整]]なもの」の全体の成す環は、本項でいう意味での整数全体の成す環である。一般の「整数」との区別のためにここでいう意味の整数を'''有理整数''' {{lang|en|(rational integer)}} と呼ぶことがある<ref group="note">接頭辞「有理(的)」(rational) はそもそも「整数比」であるという意味なので、この呼称は自己循環的にもみえる。しかし、有理整数と呼ぶ場合の「有理」は「有理数の中で」という程度の意味の単なる符牒であって、「整数比」という本来の意味合いに拘るのは徒労である。</ref>。
== 素朴な説明 ==
「もの」の個数という素朴な意味で理解される自然数の中では、足し算と掛け算は自由にできるが、引き算については「引かれる数が引く数よりも大きい」という前提を満たさねばならず、その意味では自由ではない。これを自由に行うために「負の整数」を導入して、数の範囲を拡張しようというのが整数の概念である。すなわち、
:<math>a+x=b</math>
の形の方程式は、<math>a</math>, <math>b</math> が整数ならば必ずただ一つの解を持つ。
自然数を「正の整数」とし、[[自然数]] ''n'' に対して[[反数|加法に関する逆元]] −''n'' を導入し、これを「[[負の整数]]」とする。「正の整数」「0」「負の整数」をあわせた数の中で普通に足し算・引き算・かけ算ができるように、また、「正の整数」に対する演算はもともとの自然数としてのそれであるように加法と乗法を定義することができる(足し算引き算を包摂して「加法」と呼んでいる)。
:<math>a-b=a+(-b)</math>
しかし、例えば <math>2 \times x=1</math> となる整数 <math>x</math> が存在しないように、依然として一般に除法は不自由なままである(自由にできるようにするためには[[有理数]]にまで数の範囲を広げなければならない)。
== 概歴 ==
負の数について論じた最古の文献は、[[紀元前1世紀]]から[[2世紀|紀元後2世紀]]に成立した古代中国の『[[九章算術]]』であり、0および負数の加減演算が扱われている<ref>{{Harvtxt|足立|2013|pp=18-19}}</ref>。また、インドの数学者[[アリヤバータ]] (476 - 550) による今日『アーリヤバティーヤ』と呼ばれるテキストでは、負数の加法と減法の満たす規則が定められており、また負数は負債を表し、正数は収入を表すものとして表れている。数世紀のち、ペルシアの数学者[[アブル・ワファー]] (940 - 998) は負数同士の積が正数であることを記しているが、しかし依然として数は何らかの物理的な量に結び付けられており、負数が実存のものとして市民権を得るのは困難な状態であった。例えば[[フワーリズミー]] (783 - 850) は二次方程式を係数に負数が現れないように6種類に還元帰着することによって扱っている。
ヨーロッパで整数の概念が現れるのは遅く、よく知られた二整数の積に対する符号の規則は一般に[[シモン・ステヴィン|ステヴィン]] (1548 - 1620) に帰せられる。また[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]] (1717 - 1783) は、彼の[[百科全書]]において整数が危うい概念であると述べている。
{| class="wikitable" style="width:100%"
|+ ダランベール『百科全書』
|-
| style="width:50%" | {{訳語疑問点範囲|「負数に関する概念を正すには困難を伴うこと、および幾人かの賢人すらもまさに彼らの与えたいくつかの概念によって僅かばかり混乱を助長したことを認めねばなりません。負数が単に 0 より小さい量であると言うためには、負数自身は思い描くことのできぬものとして論を進めねばならないのです。1 と −1 は比較できないと主張し<ref group="note">古典的な逆理として「−1 < 1 のとき、これらの二数の逆数は元とは大きさが逆になるが、−1 の逆数は −1 で 1 の逆数は 1 だから、従って −1 > 1 が成り立つ」というものがある。この逆理は「二つの数の逆数はもとの数とは大きさが逆になる」という文の不完全さによるもので、これは「同符号の二数の逆数はもとの数とは大きさが逆になる」と明確化されるべきである。</ref> 1 と −1 との関係は −1 と 1 との関係と異なるものであるとすることは、二重に誤っています。……」|date=2012年5月}}
| style="width:50%" |« Il faut avouer qu'il n'est pas facile de fixer l'idée des quantités négatives, & que quelques habiles gens ont même contribué à l'embrouiller par les notions peu exactes qu'ils en ont données. Dire que la quantité négative est au-dessous du rien, c'est avancer une chose qui ne se peut pas concevoir. Ceux qui prétendent que 1 n'est pas comparable à - 1, & que le rapport entre 1 & -1 est différent du rapport entre - -1 & 1, sont dans une double erreur: 1(...) Il n'y a donc point réellement & absolument de quantité négative isolée: - 3 pris abstraitement ne présente à l'esprit aucune idée. »
|}
自然数の成す同値類を用いた[[#厳密な構成|厳密な構成]]を行うことによる整数の概念の定式化が現れるのは、そこからさらに二つの世紀を待たねばならなかった。この構成を成した一人である[[リヒャルト・デーデキント|デデキント]] (1831 - 1916) は、整数全体の成す集合を表すのに ''K'' を用いたが、[[ニコラ・ブルバキ|ブルバキ]]による <math>\mathbb Z</math>(ドイツ語で「数」を意味する "Zahlen" の頭文字)が普及するまで、ほかにもいくつかの規約が用いられていた<ref>{{en}} [http://jeff560.tripod.com/nth.html Earliest Uses of Symbols of Number Theory]</ref>。
== 代数構造 ==
{| class="wikitable" style="margin: 1ex auto 1ex auto;"
|+ 整数の集合における基本性質
! !! 加法 !! 乗法
|-
! 演算の[[閉性]]
| ''a'' + ''b'' は整数 || ''a'' × ''b'' は整数
|-
! [[結合法則|結合性]]
| ''a'' + (''b'' + ''c'') = (''a'' + ''b'') + ''c'' || ''a'' × (''b'' × ''c'') = (''a'' × ''b'') × ''c''
|-
! [[交換法則|可換性]]
| ''a'' + ''b'' = ''b'' + ''a'' || ''a'' × ''b'' = ''b'' × ''a''
|-
! [[中立元]]の存在性
| ''a'' + 0 = ''a'' ([[加法単位元|零元]])|| ''a'' × 1 = ''a'' ([[乗法単位元|単位元]])
|-
! [[逆元]]の存在性
| ''a'' + (−''a'') = 0([[反数]]) || ±1 × ±1 = 1 (それ以外は逆元無し)
|-
| colspan=3 |
|-
! [[分配法則|分配性]]
| colspan=2 align=center| ''a'' × (''b'' + ''c'') = (''a'' × ''b'') + (''a'' × ''c''), および (''a'' + ''b'')× ''c'' = ''a'' × ''c'' + ''b'' × ''c''
|-
! [[零因子]]がない
|| || ''a'' × ''b'' = 0 ならば ''a'' = 0 または ''b'' = 0
|}
加法についての五性質は、整数の全体 '''Z''' が加法に対して[[アーベル群]]となることを主張するものである。また、任意の整数 ''n'' は
:<math>n = \left\{\begin{align}[ll]
&\underbrace{\,1 + 1 + \cdots + 1\,}_{n \text{ times}} & (n > 0) \\
&0 & (n = 0) \\
&\underbrace{\!(-1) + \cdots + (-1)\!}_{|n| \text{ times}} & (n < 0)
\end{align}\right.</math>
なる形に書けるから、'''Z''' は 1 の生成する無限[[巡回群]] ⟨1⟩ になる。特に '''Z''' は[[群同型|同型]][[の違いを除いて]]唯一の無限巡回群である。
乗法についての四性質は、'''Z''' が乗法に関しては可換[[モノイド]]をなすことを言うものである。
零因子の非存在以外の全ての性質を合わせれば、整数の全体 '''Z''' は[[単位的環|単位的]][[可換環]]であることがわかる。整数全体の成す環は整数環と呼ばれる。例えば負の数同士の積が正となるという性質
: (−''a'') × (−''b'') = ''a'' × ''b''
は、整数の全体が[[環 (数学)|環]]であることを用いれば、''n'' を任意の整数とするとき、逆元の一意性による −(−''n'') = ''n'' と 0 が[[吸収元]]すなわち ''n'' × 0 = 0 = 0 × ''n'' = 0 となることなどを使って[[証明 (数学)|証明]]できる。
整数環 '''Z''' は零因子を持たない単位的可換環ゆえに[[整域]]である。逆元を持つ整数は {±1} の二つだけであり、'''Z''' から 0 を除いた集合は除法について閉じていないので、'''Z''' は[[可換体|体]]にならない。
乗法の逆演算としての通常の除法は '''Z''' 上で定義された演算とはならないけれども、しかし '''Z''' は[[除法の原理]]と呼ばれる性質「任意の整数''a'' と任意の整数 ''b'' ≠ 0 に対して、''a'' = ''qb'' + ''r'' かつ 0 ≦ ''r'' < |''b''| を満たす二つの整数''q'' と''r'' が存在する」が成り立つので、「余りのある除法」を定義することができて、'''Z''' は[[ユークリッド整域]]となる。特に ''x'' と ''y'' の最大公約数が ''d'' のとき、''ax'' + ''by'' = ''d'' を満たす整数 ''a'', ''b'' が存在することは[[ユークリッドの互除法]]などにより保証され
: (''x'') + (''y'') = (''d'')
が成り立つから、'''Z''' が[[単項イデアル整域]]であることがわかる。ここから導かれる、任意の整数が単元を掛ける違いを除いて素数の積として一意に表されるという重要な事実は[[算術の基本定理]]と呼ばれ、'''Z''' が[[一意分解環]]であることを示す。
== 順序構造 ==
<math>\mathbf Z</math> における通常の大小関係
<math>\ldots <-3<-2<-1<0<1<2<3<\ldots </math>
は、上にも下にも有界でない[[全順序関係]]であり、
# <math>a<b</math> かつ <math>c<d</math> ならば <math>a+c<b+d</math>,
# <math>a<b</math> かつ <math>0<c</math> ならば <math>ac<bc</math>
が成り立つという意味で <math>\mathbf Z</math> の環構造と両立し、<math>\mathbf Z</math> は[[順序環]]となる。0 より大きな元は「正」、0 より小さな元は「負」である。正の整数全体 <math>\mathbf N</math> は、任意の整数 <math>x</math> に対し <math>x</math> または <math>-x</math> が <math>\mathbf N</math> に属するという意味で <math>\mathbf Z</math> の[[付値環|賦値環]]である。
== 厳密な構成 ==
[[file:Relative numbers representation.svg|thumb|300px|right|格子点と整数との対応]]
自然数の全体 '''N''' は減法について閉じていないが、上ではそれを補完するものとして負整数を導入し、整数の全体 '''Z''' を構成した。それと本質的には変わらないが、よく知られる方法<ref>{{Harvtxt|エビングハウス他|2004}}</ref>としてここでは、減法を陽に持ち出さずに、自然数の加法と乗法のみから[[同値関係]]や商集合といった道具を使って、整数が厳密に構成できることを記しておく。なお、以下の構成では、自然数には 0 を含まないとする<ref group="note">つまり、整数の構成に際して、自然数に 0 を含んでも含まなくてもどちらでも構わないことも注意する必要がある。</ref>。
まず、[[直積集合]] '''N'''<sup>2</sup> = '''N''' × '''N''' = {(''a'', ''b'') | ''a'', ''b'' は自然数} を考える<ref name="equivalence" group="note">かなり技巧的な作業のように見えるが、自然数を二つの自然数の差として (''a'', ''b'') = ''a'' − ''b'' というつもりで書いてあるものとして読んで差し支えない。差が一定の自然数の組は無数にあるので、実際には [''a'', ''b''] = ''a'' − ''b'' と考えるべきだが、そう考えることに整合性があることを確かめるのが、多少抽象的であるが、途中で同値関係で割ったり、同値類の間に演算を導入したりする部分である。</ref>。'''N'''<sup>2</sup> に[[同値関係]] ∼ を
: (''a'', ''b'') ∼ (''c'', ''d'') ⇔ ''a'' + ''d'' = ''b'' + ''c''
と定義することができる。ここで、'''N'''<sup>2</sup> を同値関係 ∼ で類別した集合(商集合)'''N'''<sup>2</sup>/∼ を考える。これは、互いに同値なもの全体の集合(同値類)を元とするような集合であり、直観的には互いに同値であるようなものを同一視する操作である。(''a'', ''b'') ∈ '''N'''<sup>2</sup> の属する同値類を [''a'', ''b''] ∈ '''N'''<sup>2</sup>/''R'' と表すことにする。つまり、[''a'', ''b''] は
: [''a'', ''b''] = {(''c'', ''d'') ∈ '''N'''<sup>2</sup> | (''a'', ''b'') ∼ (''c'', ''d'')}
となる集合である。同値類を [''a'', ''b''] のように表すとき、(''a'', ''b'') をこの同値類の代表元と呼ぶ。代表元は同値なものでありさえすれば、他のものに取り替えることができる<ref name="equivalence" group="note" />。商集合 '''N'''<sup>2</sup>/∼ に加法 + と乗法 × を
: [''a'', ''b''] + [''c'', ''d''] = [''a'' + ''c'', ''b'' + ''d'']
: [''a'', ''b''] × [''c'', ''d''] = [''ac'' + ''bd'', ''ad'' + ''bc'']
と定義すると、これらは代表元の取り方によらずに、同値類同士の演算としてうまく定義されていることが確かめられる<ref name="equivalence" group="note" />。
このとき、[''a'', ''b''] + [''m'', ''m''] = [''a'' + ''m'', ''b'' + ''m''] = [''a'', ''b''] であるから、''R'' = {(''m'', ''m'') | ''m'' ∈ '''N'''} は '''N'''<sup>2</sup>/∼ の加法に関する[[単位元]]である。
また、自然数 ''m'' に対して [''m'' + 1, 1] を対応させる写像は[[単射]]で、
: [''m'' + 1, 1] + [''n'' + 1, 1] = [''m'' + ''n'' + 2, 2] = [(''m'' + ''n'') + 1, 1],
: [''m'' + 1, 1] × [''n'' + 1, 1] = [(''m'' + 1)(''n'' + 1) + 1, (''m'' + 1) + (''n'' + 1)] = [''mn'' + 1, 1]
を満たす([[準同型]])から、 '''N''' は '''N'''<sup>2</sup>/∼ に[[環準同型|演算まで込めて]]埋め込める
<ref group="note">0を自然数と認める場合、自然数 ''m'' に対して [''m'', 0] を対応させる写像が単射になる。
: [''m'', 0] + [''n'', 0] = [''m'' + ''n'', 0],
: [''m'', 0] × [''n'', 0] = [''mn'', 0]
を満たすので、演算まで込めて埋め込める。</ref>。
[[記号の濫用]]ではあるが、自然数 ''m'' を埋め込んだ先と同一視して ''m'' = [''m'' + 1, 1] と書くことにし、これを(正の)整数 ''m'' と呼ぶ
<ref group="note">0を自然数と認める場合、''m'' = [''m'', 0]と書く。</ref>。
同様の埋め込みは、自然数 ''m'' に対して [1, ''m'' + 1] を対応させることでも得られるが、和と積は
: [1, ''m'' + 1] + [1, ''n'' + 1] = [1, (''m'' + ''n'') + 1],
: [1, ''m'' + 1] × [1, ''n'' + 1] = [1 + (''m'' + 1)(''n'' + 1), (''m'' + 1) + (''n'' + 1)] = [''mn'' + 1, 1]
となる。自然数 ''m'' に対し、新たな記号 −''m'' を [1, ''m'' + 1] を表すものとして導入し、これを負整数 −''m'' と呼ぶ
<ref group="note">0を自然数と認める場合、0でない自然数 ''m'' に対して [0, ''m''] を対応させることで負の整数 −''m'' が構成できる。このとき、
: [0, ''m''] + [0, ''n''] = [0, ''m'' + ''n''],
: [0, ''m''] × [0, ''n''] = [''mn'', 0]
となる。</ref>。
負整数同士の積が正整数になっていることが確認できる。
このとき、''m'' + (−''m'') = [''m'' + 1, 1] + [1, ''m'' + 1] = [''m'' + 2, ''m'' + 2] = ''R'' だから、負整数 −''m'' = [1, ''m'' + 1] は '''N'''<sup>2</sup>/∼ においてはちょうど、正整数 ''m'' = [''m'' + 1, 1] の加法に関する逆元になっている
<ref group="note">0を自然数と認める場合、''m'' + (−''m'') = [''m'', 0] + [0, ''m''] = [''m'', ''m''] = ''R'' となり、やはり負の整数 −''m'' は '''N'''<sup>2</sup>/∼ において、正の整数 ''m''の加法に関する逆元になっている
</ref>。
''R'' をあらためて 0 と書くことにして、'''N'''<sup>2</sup>/∼ = {''m'', 0, −''m'' | ''m'' ∈ '''N'''} を整数全体の集合と呼び、改めて '''Z''' と書くことにしよう。
このようにして整数の全体 '''Z''' が厳密に定義されたが、なお定義に従えば '''Z''' において結合法則や分配法則などの環の公理が満たされることが証明できる。
== 一般化 ==
* [[二次の整数]]
** [[ガウス整数]]
** [[アイゼンシュタイン整数]]
== コンピュータにおける整数表現 ==
{{main|整数型}}
[[コンピュータ]]の内部では電気的な信号の有無を 1 と 0 に割り当て、[[二進法|2進法]]を用いて整数を表現するのが基本である。通常は、2 [[バイト (情報)|バイト]](16 [[ビット]])または 4 バイト(32 ビット)の範囲で表現できる範囲の数を扱う。負の値を扱う場合は、[[2の補数]]表現などが用いられる。通常は有限の範囲の整数しか扱うことができないが、処理速度を犠牲にして無限の整数を扱う方法もある。
事務処理など金額などの大きな桁や 10 進小数を正確に扱う必要がある場合、[[二進化十進表現]]を用いる。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{reflist|group=note}}
=== 出典 ===
{{reflist|2}}
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書
|author=足立恒雄|authorlink=足立恒雄
|date=2013-12-20
|title=数の発明
|publisher=[[岩波書店]]
|isbn=978-4-00-029619-9
|ref={{Harvid|足立|2013}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=彌永昌吉|authorlink=彌永昌吉
|date=1978-04-20
|title=数の体系
|volume=(下)
|series=岩波新書 黄版 43
|publisher=[[岩波書店]]
|isbn=978-4-00-420043-7
|ref={{Harvid|彌永|1978}}
}}
*{{Cite book|和書
|title=数
|volume=(上)
|edition=新装版
|series=シュプリンガー数学リーディングス 6
|author=H.‐D.エビングハウス他
|translator=成木 勇夫
|publisher=丸善出版
|year=2004-11
|isbn=978-4-621-06411-5
|ref={{Harvid|エビングハウス他|2004}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=高木貞治|authorlink=高木貞治
|date=1970-09-19
|title=数の概念
|edition=改版
|publisher=[[岩波書店]]
|isbn=978-4-00-005153-8
|ref={{Harvid|高木|1970}}
}}
**{{Cite book|和書
|author=高木貞治
|date=2019-10-20
|title=数の概念
|series=[[ブルーバックス]] B-2114
|publisher=[[講談社]]
|isbn=978-4-06-517067-0
|ref={{Harvid|高木|2019}}
}}
*{{Cite book|和書
|author=保江邦夫|authorlink=保江邦夫
|date=2002-12
|title=数の論理 マイナスかけるマイナスはなぜプラスか?
|series=ブルーバックス B-1397
|publisher=講談社
|isbn=978-4-06-257397-9
|ref={{Harvid|保江|2002}}
}}
== 関連項目 ==
{{Div col}}
*[[自然数]]
*[[剰余類環]]
*[[整数型]]
*[[ユークリッド整域]]
*[[有理数]]
{{Div col end}}
== 外部リンク ==
*{{Kotobank|整数}}
*{{MathWorld|title=Integer|urlname=Integer}}
{{数の体系}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:せいすう}}
[[Category:実数]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:数]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:数論]]
[[Category:整数|*]]
[[Category:整数の類|*せいすう]]
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[[Category:有理数]] | 2003-03-15T06:41:09Z | 2023-08-31T09:22:53Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B4%E6%95%B0 |
4,050 | ベアゼロ | ベアゼロは、春闘などの賃上げ交渉の際に、ベースアップ(ベア)がゼロとなること、つまり、全従業員に対して一律の賃上げが0円であることを意味する。
2002年のトヨタのベアゼロは、利益が1兆円を超えたにもかかわらず行われており、高瀬久直によれば同社の生産性基準原理への転換の象徴になったと評されている。
2009年にはNTTグループや、トヨタ自動車・ホンダ自動車・日産自動車などの自動車関連企業、パナソニック・日立製作所・NECなどの電機関連企業などがベアゼロを発表している。
2020年の春闘で、トヨタがメンバーシップ制から、個人につけられた評価によって給料に差が付く「ジョブ制」へと移行したことに伴うベアゼロを発表したことは「ベアゼロショック」と評された。
2021年の春闘では、コロナウイルスの感染拡大による業績悪化に伴い、日本航空・JR東海・SUBARUなどの企業がベアゼロを発表したほか、ホンダ・マツダ・三菱重工業などの労働組合がベアの要求を断念したことなどから「ベアゼロ春闘」などと評された。 | [
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] | ベアゼロは、春闘などの賃上げ交渉の際に、ベースアップ(ベア)がゼロとなること、つまり、全従業員に対して一律の賃上げが0円であることを意味する。 | '''ベアゼロ'''は、[[春闘]]などの賃上げ交渉の際に、[[ベースアップ]](ベア)がゼロとなること、つまり、全従業員に対して一律の賃上げが0円であることを意味する<ref>{{Cite web|和書|title=春闘とは?2020年ベアゼロ・昇給成功した企業の要因は?仕組みや要求内容の紹介|url=https://www.ashita-team.com/jinji-online/labor/10053|website=あしたの人事オンライン|date=2020-05-07|accessdate=2021-04-16|language=ja|last=jgrip}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=営業利益1兆円のNTTもベアはお預け、ボーナス前年並み-春闘妥結|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2009-03-19/KGQMXJ0D9L3501|website=Bloomberg.com|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=http://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/images/oz/contents/715_03.pdf|title=春闘と経営者団体― 日経連・日本経団連と IMF-JC を中心に|accessdate=2021年4月16日}}</ref>。
== 過去の事例 ==
2002年のトヨタのベアゼロは、利益が1兆円を超えたにもかかわらず行われており、高瀬久直によれば同社の生産性基準原理への転換の象徴になったと評されている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|title=たかが100円されど100円(上)(春闘小史・序章)|url=https://www.primec.co.jp/mediadetail/article/toyota/ty18|website=www.primec.co.jp|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref>。
2009年には[[NTTグループ]]や、[[トヨタ自動車]]・[[ホンダ自動車]]・[[日産自動車]]などの自動車関連企業、[[パナソニック]]・[[日立製作所]]・[[NEC]]などの電機関連企業などがベアゼロを発表している<ref>{{Cite web|和書|title=2009年自動車春闘集中回答、ベアゼロ続出―一時金5ヵ月割れも|自動車メーカー|紙面記事|url=https://www.netdenjd.com/articles/-/16461|website=日刊自動車新聞 電子版|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=asahi.com(朝日新聞社):電機も自動車も…一斉にベアゼロ回答 一時金も大幅削減 - 働けど貧困|url=http://www.asahi.com/special/08016/TKY200903180082.html|website=www.asahi.com|accessdate=2021-04-16}}</ref>。
2020年の春闘で、[[トヨタ]]がメンバーシップ制から、個人につけられた評価によって給料に差が付く「ジョブ制」へと移行したことに伴うベアゼロを発表したことは「ベアゼロショック」と評された<ref>{{Cite web|和書|title=自動車春闘、脱「ベア偏重」のなかトヨタベアゼロショック 「波及せず」も影響は|url=https://www.sankei.com/article/20200311-5G4X53OQ4BIDTNZUPXY7TFA6BY/|website=産経ニュース|date=2020-03-11|accessdate=2021-04-16|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=春闘2020…トヨタはベアゼロの総額8600円に、一時金は10年連続で満額|url=https://response.jp/article/2020/03/11/332518.html|website=レスポンス(Response.jp)|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=一律定昇廃止でトヨタは若手技術者に夢を見せられるか|url=https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01268/00016/|website=日経クロステック(xTECH)|accessdate=2021-04-16|language=ja|last=日経クロステック(xTECH)}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ春闘、7年ぶり「ベアゼロ」でも崩れる横並び昇給|url=https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00109/031100007/|website=日経ビジネス電子版|accessdate=2021-04-16|language=ja|last=日経ビジネス電子版}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ ベアゼロの衝撃~逆風下の春闘~ |サクサク経済Q&A| NHK NEWS WEB|url=https://www3.nhk.or.jp/news/special/sakusakukeizai/articles/20200312.html|website=www3.nhk.or.jp|accessdate=2021-04-16|last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ「ベアゼロ」が示す賃金制度改革の布石 {{!}} コロナショック、企業の針路|url=https://toyokeizai.net/articles/-/336970|website=東洋経済オンライン|date=2020-03-15|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ「ベアゼロ」の衝撃、本格化する賃金制度改革 {{!}} ベアに終止符を打つ動き|url=https://premium.toyokeizai.net/articles/-/23255|website=週刊東洋経済プラス|accessdate=2021-04-16|language=ja|first=木皮|last=透庸}}</ref>。
2021年の春闘では、[[コロナウイルス]]の感染拡大による業績悪化に伴い、[[日本航空]]・[[東海旅客鉄道|JR東海]]・[[SUBARU]]などの企業がベアゼロを発表したほか<ref>{{Cite web|和書|title=日航、ベアゼロ回答 一時金は検討継続―春闘:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210316092038/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031600994&g=eco|website=時事ドットコム|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=JR東海、8年ぶりベアゼロ 定昇は実施―21年春闘:時事ドットコム|url=https://web.archive.org/web/20210318071419/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031800975&g=eco|website=時事ドットコム|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=スバルは8年ぶりベアゼロ、経営悪化で要求しない労組も…トヨタは600円上回る : 経済 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20210317-OYT1T50237/|website=読売新聞オンライン|date=2021-03-17|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref>、[[ホンダ]]・[[マツダ]]・[[三菱重工業]]などの労働組合がベアの要求を断念したことなどから「ベアゼロ春闘」などと評された<ref>{{Cite web|和書|title=春闘、ベアゼロ妥結が相次ぐ 賃上げ率2%割り込む見方:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASP3K6QZZP3JULFA040.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ベアゼロ春闘 反転の道は?|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGH063SG0W1A300C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-03-15|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=全トヨタ労連、ベアゼロも容認 春闘の要求方針案:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASNDL6FQNNDLOIPE00J.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-04-16|language=ja}}</ref>。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==関連項目==
*[[賃金]]
{{DEFAULTSORT:へあせろ}}
[[Category:収入|へあせろ]] | 2003-03-15T06:54:04Z | 2023-12-04T19:20:13Z | false | false | false | [
"Template:Reflist",
"Template:Cite web"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A2%E3%82%BC%E3%83%AD |
4,051 | ベア | ベア、ベアー(bear、bare、Beer、Bea) | [
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}
] | ベア、ベアー(bear、bare、Beer、Bea) | {{wikt|ベア|bear|bare}}
'''ベア'''、'''ベアー'''(bear、bare、Beer、Bea)
<!-- 曖昧さ回避をする必要のある語にだけリンクを張ること -->
<!-- 記事のあるものだけ記載すること -->
== 一般 ==
; bear
# (物理的負担などを)支える、受け止めること。動詞形はベアリング。 →[[軸受]]
# [[クマ]](熊)。クマ科を構成する動物種の総称。以下は動物のクマに由来する用例。
* [[株式相場]]などの投機市場において、先行き値段が下がると見ること。クマが攻撃の時に手を上から下へたたきつける動作から来ている。対義語は[[ブル]]。
** 例:[[投資信託]]における「ベア型ファンド」。
* [[テディベア]](Teddy Bear)の略{{要出典|date=2017年1月}}。
* [[ツポレフ]]の[[戦略爆撃機]]、[[Tu-95 (航空機)|Tu-95]]の[[NATOコードネームの一覧_(航空機)#NATOコードネーム|NATOコードネーム]]。
* [[ゲイ・コミュニティ|LGBTコミュニティ]]のうち、「ベアコミュニティ」のこと。男性による同性愛・両性愛の一部の嗜好カテゴリーを指す。[[熊系]]参照。
; bare
* 衣服、覆いなどがない状態のこと。[[裸]]。例:[[ベアボーンキット]]、ベアドライブなど。
; その他
* [[ベースアップ]]の略。和製外来語。
== 地名 ==
* [[ベア (デラウェア州)]] - アメリカ合衆国・デラウェア州ニューキャッスル郡の[[国勢調査指定地域]](CDP)。
* {{仮リンク|ベア川|en|Bear River (Utah)}} - アメリカ合衆国・中西部の内陸河川。
* ベア島 - 北極圏にあるノルウェー領の島、[[ビュルネイ島]]の英語名。
== 人名 ==
{{see also|ベーア}}
;姓
* [[エリザベス・ベア]](Elizabeth Bear) - アメリカ合衆国の作家。
* [[グレッグ・ベア]](Greg Bear) - アメリカ合衆国の作家。
* [[パヤ・ベア]](Palya Bea) - ハンガリーの歌手。
* [[マックス・ベア (ジャーナリスト)]](Max Beer) - ドイツのユダヤ系ジャーナリスト、歴史家。国際社会主義者。
* [[マックス・ベア (ボクサー)]](Max Baer) - アメリカ合衆国のプロボクサー、俳優。
* [[ラルフ・ベア]](Ralph Baer) - アメリカ合衆国の発明家。ドイツ生まれ。
* [[ロバート・ベア]](Robert Baer) - アメリカ合衆国の元CIA要員。
;名
* [[ベア・グリルス]](Bear Grylls) - イギリスの作家、冒険家。
* [[ベア・ブライアント]](Bear Bryant) - アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手、コーチ。
== 作品名 ==
* [[Bare -ベア-]] - ミュージカル作品。
== 関連項目 ==
* {{intitle}}
* [[熊 (曖昧さ回避)]]
* [[くま]]
* [[ベアーズ]]
* [[ベーア]]
{{aimai}}
{{デフォルトソート:へあ}}
[[Category:英語の語句]]
[[Category:英語の地名]]
[[Category:英語の姓]]
[[Category:ドイツ語の姓]]
[[Category:ハンガリー語の姓]]
[[Category:ユダヤ人の姓]]
[[Category:英語の男性名]]
[[Category:人物の愛称]]
[[Category:スポーツの愛称]]
[[en:Bear (disambiguation)]]
[[de:Bear]]
[[es:Oso (desambiguación)]]
[[fr:Ours (homonymie)]]
[[is:Björn]]
[[it:Orso (disambigua)]]
[[nl:Bear]]
[[ru:Медведь (значения)]]
[[simple:Bear (disambiguation)]]
[[tr:Ayı (anlam ayrımı)]]
[[bs:Bare (čvor)]]
[[en:Bare]]
[[hr:Bare]]
[[fr:Bare]]
[[it:Bare]]
[[sr:Баре (вишезначна одредница)]]
[[de:BEA]]
[[en:Bea]]
[[eo:BEA]]
[[fr:BEA]]
[[it:BEA]]
[[pt:Bea (desambiguação)]]
[[sv:BEA]]
[[zh:BEA]] | null | 2022-10-01T17:40:47Z | true | false | false | [
"Template:仮リンク",
"Template:See also",
"Template:Intitle",
"Template:Aimai",
"Template:Wikt",
"Template:要出典"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A2 |
4,052 | 有理数 | 有理数(ゆうりすう、英: rational number)とは、整数の比(英: ratio)として表すことができる実数のことである。分母・分子ともに整数の分数(分母≠0)として表すことができる実数との説明もされる。整数は、分母が 1 の分数と考えることにより、有理数の特別な場合となる。
有理数は(十進法などの)位取り記数法で小数表示すると有限小数または循環小数のいずれかとなる(どちらになるかは基数に依存する。ある基数で有限小数となる有理数が別の基数では循環小数となること、あるいはその逆になることはある)。また、有理数は必ず有限正則連分数展開を持つ。
有理数全体からなる集合はしばしば、太字の Q で表す。これは、イタリア人数学者のペアノによって1895年に最初に表された、商(英: quotient)を意味するイタリア語: quoziente の頭文字に由来する。手書きなどの際には、黒板太字と言われる書体を用いた 構文解析に失敗 (SVG(ブラウザのプラグインで MathML を有効にすることができます): サーバー「http://localhost:6011/ja.wikipedia.org/v1/」から無効な応答 ("Math extension cannot connect to Restbase."):): \mathbb{Q} で示すことが多い。すなわち、
である(ただし、Z は整数全体からなる集合を表す)。ここで、各有理数に対して、その分数表示 a/b は一意でない(しかも無数にある)ことは留意すべき事実である。通常は個々の文脈に適した形を選んで利用する。公理的集合論の立場では、分数 a/b は整数の組 (a, b) の属する同値類(の代表元)を表しており(#形式的な構成を参照)、有理数全体からなる集合 Q は商体の最も初等的な例となっている。
距離空間としての有理数の完備化(適当な距離に関する「無限小数」展開を考えることに相当)することにより、実数や p進数が得られる(後述。あるいはコーシー列・デデキント切断等を参照)。有理数ではない実数は無理数と呼ばれる。また、すべての有理数係数多項式の根の全体は体を成し(Q の代数的閉包)、その元を代数的数と呼ぶ。
「有理数」という語は、英語: rational number の訳による。英: "rational" は「合理的な」「理に適う」「理性的な」の意である。対して、"rational" の語幹である 英: "ratio"(ギリシア語: λογος)は「比」を意味する。したがって「有比数」などと訳した方がよいのではという見解もあるが、明治の訳の際に英語を忠実に訳したため、現在の「有理数」となる。
数学の各所で、有理数体 Q を基礎とする(すなわち、Q 上定義される)概念に、「有理-」という接頭辞を付けて名付けることがしばしば行われる。例えば、有理数でもある代数的整数を「有理整数」(これはつまり、初等代数学で扱われる通常の整数のことにほかならない)という。あるいは、成分が有理数である行列を「有理行列」と言ったり、有理数係数の多項式を「有理多項式」と呼んだりする(「有理数体上の多項式」とも言う)。あるいは、成分が全て有理数である点を「有理点」と呼ぶ(代数群の有理点など)。
一方で、「有理-」という名称でありながら、前述のような意味ではないものもたくさんある。例えば、有理函数は基礎体が有理数体であるという意味ではなく、「多項式の比」になっている函数という意味である。同様に、有理代数曲線は有理数係数の代数曲線という意味ではない。
2つの有理数 a/b, c/d(a, b, c, d は整数、b, d はいずれも 0 でない)が等しいとは、整数の等式
が成り立つことを言い、このとき
と記す。加法 "+"、および乗法 "×" が
によって定まり、反数および逆数について
(ここでは b, c, d はいずれも 0 でない)が成り立つ(特に集合として
が成り立つ)。またこれにより、減法 "−" および除法 "÷"が
と定まる。故に、有理数全体 Q は四則演算について閉じている、体と呼ばれる代数系の一つであり、その中で最も身近な例の一つである。
集合論の形式により、整数全体 Z から有理数全体 Q を構成することができる。まず整数の順序対 (a, b) で b ≠ 0 であるものの全体 E = Z ×(Z − {0}) を考える。ここで E 上の関係 ∼ を
によって定めると、関係 ∼ は同値関係となる。 商集合 E/∼ を改めて Q と記して、Q における対 (a, b) の属する同値類を a/b と記すことにすると、この表記は一意ではなく、異なる代表元 (c, d) について
となる。このとき、Q における加法および乗法を前節で述べたように
で定めると、この加法と乗法は剰余類同士の演算として矛盾なく定義されている。実際、E における加法および乗法を
と定めると、(a, b) ∼ (a′, b'), (c, d) ∼ (c′, d') ならば
が成り立つので、Q における加法および乗法は剰余類 a/b, c/d 各々の代表元 (a, b), (c, d) のとり方に依らない。(0, 1), (1, 1) の属する同値類 0/1, 1/1 が Q における零元および単位元となることが確かめられ、マイナス元と逆元が上述のように得られるので、これで Q における上述のような四則が全て形式的に正当化される。また、写像 ι を
と定めると ι は単射で、E において (m, 1) + (n, 1) = (m + n, 1) および (m, 1) × (n, 1) = (mn, 1) が成り立つ(さらに ι(1) = 1/1 であるから ι は単位的環の準同型となる)から Z は ι によって演算まで込めて Q に埋め込まれる。そこで整数 m と剰余類 m/1 を同一視して Q は Z を含むものと考える。
以上の構成は、一般の整域の商体の構成にもほぼそのままに適用できる方法であり、したがって「Q は Z の商体である」などということができる。
既に述べたように、有理数全体は、通常の四則演算の下で体を成し、代数系 (Q, +, ×, 0, 1) は有理数体と呼ばれる。また、有理整数環 Z の商体である。加えて、有理数体 Q は標数 0 の体の中で最小のもので、標数 0 の素体と呼ばれる(すなわち、標数 0 の体は、Q に同型な部分体を含む)。Q の拡大体は一般に代数体、その元は代数的数と呼ばれ、特に代数的数全体は体を成し Q の代数的閉包 A(Q とも書く)となる。
Q は可算無限集合である(何故なら、分母と分子の組を二次元平面上の格子点と考え、例えばうずまき状に取り尽くしていけば、自然数全体に対応するからである)。実数全体 R は非可算なので、濃度の意味で(あるいはルベーグ測度の意味で)ほとんどの実数は無理数であることになる(可算性により Q のルベーグ測度は 0 となる)。
Q は通常の大小関係を順序として全順序集合であり、特に稠密順序集合となる。すなわち、2つの有理数の間には(それがいくら近い値だとしても)少なくとも1つ(従って無数の)有理数が存在する。実は逆に、全順序な稠密順序集合がさらに最大元も最小元も持たないならば、必ず Q と順序同型である。
有理数全体 Q は内在的には、通常の大小関係の定める順序に関して順序位相と呼ばれる位相を持ち、外因的には実数直線 R の(つまり、一次元ユークリッド空間 R としての)距離位相から定まる部分空間としての位相を持つが、実はこれらの位相は一致する。
有理数全体 Q は実数全体の成す集合 R の中で稠密である。これは、どの実数にも、いくらでも近い場所に有理数が存在することを意味する。これは距離空間として以下のように述べることもできる。
有理数全体 Q は、差の絶対値
を距離函数として距離空間となる。この距離により Q に位相が誘導されるが、それは R からの相対位相に他ならない。こうして得られる距離空間 (Q, d) は完全不連結である。また、完備距離空間とはならない。実は距離 d(x, y) := |x − y| による Q の完備化として、実数全体の集合 R が得られる。
この位相に関して有理数体 Q は位相体を成す。有理数全体の成す位相空間 Q は局所コンパクトではない空間の重要な例となっている。また唯一、孤立点を持たない可算な距離化可能空間となるものとして Q を特徴付けることができる。
一方、Q を位相体とする Q 上の距離は、これだけではない。素数 p と任意の非零整数 a に対して、p は a を割り切る p-冪の中で冪指数が最大のものとするとき、
と定める。さらに |a|p := 0 として、任意の有理数 a/b については
と定めたものを、有理数の p進絶対値と呼ぶ。このときさらに、差の絶対値
は p進距離と呼ばれる Q 上の距離函数を定める。距離空間 (Q, dp) はやはり完全不連結であり、完備ではないが、その完備化として p進数体 Qp が得られる。
オストロフスキーの定理によれば、Q 上の非自明な絶対値は同値の違いを除いて通常の絶対値か p進絶対値で尽くされる。 | [
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"text": "有理数(ゆうりすう、英: rational number)とは、整数の比(英: ratio)として表すことができる実数のことである。分母・分子ともに整数の分数(分母≠0)として表すことができる実数との説明もされる。整数は、分母が 1 の分数と考えることにより、有理数の特別な場合となる。",
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"text": "有理数は(十進法などの)位取り記数法で小数表示すると有限小数または循環小数のいずれかとなる(どちらになるかは基数に依存する。ある基数で有限小数となる有理数が別の基数では循環小数となること、あるいはその逆になることはある)。また、有理数は必ず有限正則連分数展開を持つ。",
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"text": "数学の各所で、有理数体 Q を基礎とする(すなわち、Q 上定義される)概念に、「有理-」という接頭辞を付けて名付けることがしばしば行われる。例えば、有理数でもある代数的整数を「有理整数」(これはつまり、初等代数学で扱われる通常の整数のことにほかならない)という。あるいは、成分が有理数である行列を「有理行列」と言ったり、有理数係数の多項式を「有理多項式」と呼んだりする(「有理数体上の多項式」とも言う)。あるいは、成分が全て有理数である点を「有理点」と呼ぶ(代数群の有理点など)。",
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"text": "一方で、「有理-」という名称でありながら、前述のような意味ではないものもたくさんある。例えば、有理函数は基礎体が有理数体であるという意味ではなく、「多項式の比」になっている函数という意味である。同様に、有理代数曲線は有理数係数の代数曲線という意味ではない。",
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"text": "と定まる。故に、有理数全体 Q は四則演算について閉じている、体と呼ばれる代数系の一つであり、その中で最も身近な例の一つである。",
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"text": "集合論の形式により、整数全体 Z から有理数全体 Q を構成することができる。まず整数の順序対 (a, b) で b ≠ 0 であるものの全体 E = Z ×(Z − {0}) を考える。ここで E 上の関係 ∼ を",
"title": "形式的な構成"
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"text": "以上の構成は、一般の整域の商体の構成にもほぼそのままに適用できる方法であり、したがって「Q は Z の商体である」などということができる。",
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"text": "既に述べたように、有理数全体は、通常の四則演算の下で体を成し、代数系 (Q, +, ×, 0, 1) は有理数体と呼ばれる。また、有理整数環 Z の商体である。加えて、有理数体 Q は標数 0 の体の中で最小のもので、標数 0 の素体と呼ばれる(すなわち、標数 0 の体は、Q に同型な部分体を含む)。Q の拡大体は一般に代数体、その元は代数的数と呼ばれ、特に代数的数全体は体を成し Q の代数的閉包 A(Q とも書く)となる。",
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"text": "Q は可算無限集合である(何故なら、分母と分子の組を二次元平面上の格子点と考え、例えばうずまき状に取り尽くしていけば、自然数全体に対応するからである)。実数全体 R は非可算なので、濃度の意味で(あるいはルベーグ測度の意味で)ほとんどの実数は無理数であることになる(可算性により Q のルベーグ測度は 0 となる)。",
"title": "抽象的性質"
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{
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"text": "Q は通常の大小関係を順序として全順序集合であり、特に稠密順序集合となる。すなわち、2つの有理数の間には(それがいくら近い値だとしても)少なくとも1つ(従って無数の)有理数が存在する。実は逆に、全順序な稠密順序集合がさらに最大元も最小元も持たないならば、必ず Q と順序同型である。",
"title": "抽象的性質"
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{
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"text": "有理数全体 Q は内在的には、通常の大小関係の定める順序に関して順序位相と呼ばれる位相を持ち、外因的には実数直線 R の(つまり、一次元ユークリッド空間 R としての)距離位相から定まる部分空間としての位相を持つが、実はこれらの位相は一致する。",
"title": "抽象的性質"
},
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"text": "有理数全体 Q は実数全体の成す集合 R の中で稠密である。これは、どの実数にも、いくらでも近い場所に有理数が存在することを意味する。これは距離空間として以下のように述べることもできる。",
"title": "抽象的性質"
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{
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"text": "有理数全体 Q は、差の絶対値",
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"text": "を距離函数として距離空間となる。この距離により Q に位相が誘導されるが、それは R からの相対位相に他ならない。こうして得られる距離空間 (Q, d) は完全不連結である。また、完備距離空間とはならない。実は距離 d(x, y) := |x − y| による Q の完備化として、実数全体の集合 R が得られる。",
"title": "抽象的性質"
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{
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"text": "この位相に関して有理数体 Q は位相体を成す。有理数全体の成す位相空間 Q は局所コンパクトではない空間の重要な例となっている。また唯一、孤立点を持たない可算な距離化可能空間となるものとして Q を特徴付けることができる。",
"title": "抽象的性質"
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{
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"tag": "p",
"text": "一方、Q を位相体とする Q 上の距離は、これだけではない。素数 p と任意の非零整数 a に対して、p は a を割り切る p-冪の中で冪指数が最大のものとするとき、",
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"text": "と定める。さらに |a|p := 0 として、任意の有理数 a/b については",
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"text": "と定めたものを、有理数の p進絶対値と呼ぶ。このときさらに、差の絶対値",
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"text": "は p進距離と呼ばれる Q 上の距離函数を定める。距離空間 (Q, dp) はやはり完全不連結であり、完備ではないが、その完備化として p進数体 Qp が得られる。",
"title": "抽象的性質"
},
{
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"tag": "p",
"text": "オストロフスキーの定理によれば、Q 上の非自明な絶対値は同値の違いを除いて通常の絶対値か p進絶対値で尽くされる。",
"title": "抽象的性質"
}
] | 有理数とは、整数の比として表すことができる実数のことである。分母・分子ともに整数の分数(分母≠0)として表すことができる実数との説明もされる。整数は、分母が 1 の分数と考えることにより、有理数の特別な場合となる。 | '''有理数'''(ゆうりすう、{{lang-en-short|''rational number''}})とは、[[整数]]の[[比]]({{lang-en-short|''ratio''}})として表すことができる[[実数]]のことである。分母・分子ともに整数の[[分数]]{{nowrap|(分母≠0)}}として表すことができる実数との説明もされる。[[整数]]は、分母が 1 の分数と考えることにより、有理数の特別な場合となる。
== 概要 ==
有理数は([[十進法]]などの)[[位取り記数法]]で[[小数]]表示すると[[小数#有限小数|有限小数]]または[[循環小数]]のいずれかとなる(どちらになるかは基数に依存する。ある基数で有限小数となる有理数が別の基数では循環小数となること、あるいはその逆になることはある)。また、有理数は必ず有限正則[[連分数]]展開を持つ。
有理数全体からなる集合はしばしば、太字の '''Q''' で表す。これは、イタリア人[[数学者]]の[[ジュゼッペ・ペアノ|ペアノ]]によって[[1895年]]に最初に表された、[[除法|商]]({{lang-en-short|''quotient''}})を意味する{{lang-it|''[[wikt:quoziente|quoziente]]''}} の頭文字に由来する<ref>[[Jean C. Baudet]] (2005), ''Mathématique et Vérité. Une philosophie du nombre'', Paris, éd. L'Harmattan, coll. « Ouverture philosophique », ISBN 978-2-296-39195-6, partie « Mais c'est quoi, un nombre ? », chap. « Les ensembles de nombres », note 11, p. [https://books.google.fr/books?id=M-eZiehB1HsC&output=html&q=%22Peano+en+1895+de+l%27italien+quoziente%22&pg=PA124&hl=ja 124] : « L'ensemble des nombres rationnels est généralement désigné par la lettre Q. [...] Notation proposée par Giuseppe Peano en 1895, de l'italien ''quoziente'' (quotient). »</ref>。手書きなどの際には、[[黒板太字]]と言われる書体を用いた <math>\mathbb{Q}</math> で示すことが多い。すなわち、
: <math>\mathbb{Q} = \left\{ {a \over b} \mid a, b \in \mathbb{Z}, b \ne 0 \right\}</math>
である(ただし、'''Z''' は整数全体からなる集合を表す)。ここで、各有理数に対して、その分数表示 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} は一意でない(しかも無数にある)ことは留意すべき事実である。通常は個々の文脈に適した形を選んで利用する。[[公理的集合論]]の立場では、分数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} は整数の組 {{math2|(''a'', ''b'')}} の属する[[同値類]](の代表元)を表しており([[#形式的な構成]]を参照)、有理数全体からなる集合 '''Q''' は[[商体]]の最も初等的な例となっている。
[[距離空間]]としての有理数の[[完備距離空間#完備化|完備化]](適当な距離に関する「無限小数」展開を考えることに相当)することにより、[[実数]]や [[p進数|''p''進数]]が得られる(後述。あるいは[[コーシー列]]・[[デデキント切断]]等を参照)。有理数ではない実数は[[無理数]]と呼ばれる。また、すべての有理数係数多項式の根の全体は[[可換体|体]]を成し('''Q''' の[[代数的閉包]])、その元を[[代数的数]]と呼ぶ。
== 用語の由来 ==
「有理数」という語は、{{lang-en|''rational number''}} の訳による。{{lang-en-short|"''rational''"}} は「合理的な」「理に適う」「理性的な」の意である。対して、"rational" の語幹である {{lang-en-short|"''ratio''"}}({{lang-el|''λογος''}})は「比」を意味する。したがって「有比数」などと訳した方がよいのではという見解もあるが<ref>[[一松信]]『{{math|{{sqrt|2}}}}の数学 無理数を見直す』海鳴社、1990年 ISBN 978-4875250562</ref><ref>[[志賀浩二]]『数の世界』[[岩波書店]]、1992年 ISBN 978-4001152722</ref><ref>[[長岡亮介 (数学者)|長岡亮介]]『本質の研究数学Ⅰ+A』[[旺文社]]、2004年 ISBN 978-4010332115</ref><ref>[[吉田武 (サイエンスライター)|吉田武]]『[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]の贈物 人類の至宝[[オイラーの等式|e{{sup|iπ}}=-1]]を学ぶ』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、2010年 ISBN 978-4486018636</ref><ref>吉田武『[[虚数]]の情緒 中学生からの全方位独学法』東海大学出版会、2000年 ISBN 978-4486014850</ref>、明治の訳の際に英語を忠実に訳したため<ref>{{Cite book|和書 |author=片野善一郎 |title=数学用語と記号ものがたり |publisher=[[裳華房]] |date=2003-08-25}}</ref>、現在の「有理数」となる。
数学の各所で、有理数体 '''Q''' を基礎とする(すなわち、'''Q''' 上定義される)概念に、「有理-」という接頭辞を付けて名付けることがしばしば行われる。例えば、有理数でもある[[代数的整数]]を「有理整数」(これはつまり、初等代数学で扱われる通常の整数のことにほかならない)という。あるいは、成分が有理数である[[行列 (数学)|行列]]を「有理行列」と言ったり、有理数係数の多項式を「有理多項式」と呼んだりする(「有理数体上の多項式」とも言う)。あるいは、成分が全て有理数である点を「[[有理点]]」と呼ぶ(代数群の有理点など)。
一方で、「有理-」という名称でありながら、前述のような意味ではないものもたくさんある。例えば、[[有理関数|有理函数]]は基礎体が有理数体であるという意味ではなく、「多項式の比」になっている函数という意味である。同様に、[[有理代数曲線]]は有理数係数の代数曲線という意味ではない。
== 演算 ==
{{main|分数|可換体}}
2つの有理数 {{math2|{{sfrac|''a''|''b''}}, {{sfrac|''c''|''d''}}}}({{math2|''a'', ''b'', ''c'', ''d''}} は整数、{{math2|''b'', ''d''}} はいずれも 0 でない)が'''等しい'''とは、整数の等式
: <math>ad-bc=0</math>
が成り立つことを言い、このとき
: <math>{a \over b} = {c \over d}</math>
と記す。[[加法]] "+"、および[[乗法]] "×" が
: <math>
{a \over b} + {c \over d} = {ad+bc \over bd},\quad
{a \over b} \times {c \over d} = {ac \over bd}
</math>
によって定まり、[[反数]]および[[逆数]]について
: <math>
- {a \over b} = {-a \over b} = {a \over -b},\quad \left( {c \over d} \right)^{-1} = {d \over c}
</math>
(ここでは {{math2|''b'', ''c'', ''d''}} はいずれも 0 でない)が成り立つ(特に集合として
: <math>\mathbb{Q}
= \left\{ {a \over b} \mid a \in \mathbb{N}, b \in \mathbb{Z}, b \ne 0 \right\}
= \left\{ {a \over b} \mid a \in \mathbb{Z}, b \in \mathbb{N} \right\}
</math>
が成り立つ)。またこれにより、[[減法]] "−" および[[除法]] "÷"が
: <math>
{a \over b} - {c \over d}
= {a \over b} +\left( - {c \over d} \right) = {ad-bc \over bd},\quad
{a \over b} \div {c \over d}
= {a \over b} \times \left( {c \over d} \right)^{-1} = {ad \over bc}
</math>
と定まる。故に、有理数全体 '''Q''' は[[四則演算]]について閉じている、[[可換体|体]]と呼ばれる[[代数的構造|代数系]]の一つであり、その中で最も身近な例の一つである。
== 形式的な構成 ==
{{main|商体}}
[[画像:RationalRepresentation.pdf|300px|thumb|各直線(の整数点)がそれぞれ1つの同値類(すなわち有理数)に対応する。どの直線も原点は含まないが、原点をはさんだ反対側は同じ同値類である(図では同じ色で塗ることでそれを表している)。]]
集合論の形式により、整数全体 '''Z''' から有理数全体 '''Q''' を構成することができる。まず整数の[[順序対]] {{math2|(''a'', ''b'')}} で {{math2|''b'' ≠ 0}} であるものの全体 ''E'' = '''Z''' ×('''Z''' − {0}) を考える。ここで ''E'' 上の関係 ∼ を
: <math>(a,b) \sim (c,d) \iff ad-bc=0 \quad (a,b,c,d \in \mathbb{Z}, b \neq 0, d \neq 0)</math>
によって定めると、関係 ∼ は[[同値関係]]となる。
商集合 ''E''/∼ を改めて '''Q''' と記して、'''Q''' における対 {{math2|(''a'', ''b'')}} の属する同値類を {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} と記すことにすると、この表記は一意ではなく、異なる代表元 {{math2|(''c'', ''d'')}} について
: <math>{a \over b} = {c \over d} \iff ad-bc=0</math>
となる。このとき、'''Q''' における加法および乗法を前節で述べたように
: <math>
{a \over b} + {c \over d} = {ad+bc \over bd},\quad
{a \over b} \times {c \over d} = {ac \over bd}
</math>
で定めると、この加法と乗法は剰余類同士の演算として[[well-defined|矛盾なく定義されている]]。実際、''E'' における加法および乗法を
: <math>
(a,b)+(c,d)=(ad+bc,bd),\quad
(a,b) \times (c,d) = (ac,bd)
</math>
と定めると、{{math2|(''a'', ''b'') ∼ (''a''′, ''b'''), (''c'', ''d'') ∼ (''c''′, ''d''')}} ならば
: <math>
(a,b)+(c,d) \sim (a',b')+(c',d'),\quad
(a,b) \times (c,d) \sim (a',b') \times (c',d')
</math>
が成り立つので、'''Q''' における加法および乗法は剰余類 {{math2|{{sfrac|''a''|''b''}}, {{sfrac|''c''|''d''}}}} 各々の代表元 {{math2|(''a'', ''b''), (''c'', ''d'')}} のとり方に依らない。{{math2|(0, 1), (1, 1)}} の属する同値類 {{math2|{{sfrac|0|1}}, {{sfrac|1|1}}}} が '''Q''' における[[加法単位元|零元]]および[[乗法単位元|単位元]]となることが確かめられ、[[反数|マイナス元]]と[[逆元]]が上述のように得られるので、これで '''Q''' における上述のような四則が全て形式的に正当化される。また、写像 ι を
:<math>\iota \colon \mathbb{Z} \to \mathbb{Q} = E /\sim{};\ m \mapsto {m \over 1}
</math>
と定めると ι は[[単射]]で、''E'' において {{math2|(''m'', 1) + (''n'', 1) {{=}} (''m'' + ''n'', 1)}} および {{math2|(''m'', 1) × (''n'', 1) {{=}} (''mn'', 1)}} が成り立つ(さらに ι(1) = {{sfrac|1|1}} であるから ι は単位的環の[[準同型]]となる)から '''Z''' は ι によって演算まで込めて '''Q''' に[[埋め込み (数学)|埋め込まれる]]。そこで整数 {{mvar|m}} と剰余類 {{math|{{sfrac|''m''|1}}}} を同一視して '''Q''' は '''Z''' を含むものと考える。
以上の構成は、一般の[[整域]]の[[商体]]の構成にもほぼそのままに適用できる方法であり、したがって「'''Q''' は '''Z''' の商体である」などということができる。
== 抽象的性質 ==
[[画像:Diagonal argument.svg|250px|thumb|有理数の数え上げの一例を図示したもの。やり方は他にもいろいろあるが、いずれにせよ有理数の可算性が分かる。]]
=== 基本性質 ===
既に述べたように、有理数全体は、通常の四則演算の下で[[可換体|体]]を成し、[[代数的構造|代数系]] {{math2|('''Q''', +, ×, 0, 1)}} は有理数体と呼ばれる。また、有理[[整数]]環 '''Z''' の[[商体]]である。加えて、有理数体 '''Q''' は[[標数]] 0 の体の中で最小のもので、標数 0 の[[標数#素整域・素体|素体]]と呼ばれる(すなわち、標数 0 の体は、'''Q''' に同型な部分体を含む)。'''Q''' の[[体の拡大|拡大体]]は一般に[[代数体]]、その元は[[代数的数]]と呼ばれ、特に代数的数全体は体を成し '''Q''' の[[代数的閉包]] '''A'''({{overline|'''Q'''}} とも書く)となる。
'''Q''' は[[可算集合|可算無限集合]]である(何故なら、分母と分子の組を二次元平面上の[[格子 (数学)|格子点]]と考え、例えばうずまき状に取り尽くしていけば、自然数全体に対応するからである)。実数全体 '''R''' は[[非可算集合|非可算]]なので、濃度の意味で(あるいは[[ルベーグ測度]]の意味で)ほとんどの実数は無理数であることになる(可算性により '''Q''' のルベーグ測度は 0 となる)。
'''Q''' は通常の大小関係を順序として[[全順序]]集合であり、特に[[稠密関係|稠密順序集合]]となる。すなわち、2つの有理数の間には(それがいくら近い値だとしても)少なくとも1つ(従って無数の)有理数が存在する。実は逆に、全順序な稠密順序集合がさらに最大元も最小元も持たないならば、必ず '''Q''' と[[順序同型]]である。
=== 位相的性質 ===
有理数全体 '''Q''' は内在的には、通常の大小関係の定める順序に関して[[順序集合#順序位相|順序位相]]と呼ばれる位相を持ち、外因的には[[実数直線]] '''R''' の(つまり、一次元[[ユークリッド空間]] '''R'''{{sup|1}} としての)距離位相から定まる[[相対位相|部分空間としての位相]]を持つが、実はこれらの位相は一致する。
有理数全体 '''Q''' は実数全体の成す集合 '''R''' の中で[[稠密集合|稠密]]である。これは、どの実数にも、いくらでも近い場所に有理数が存在することを意味する。これは[[距離空間]]として以下のように述べることもできる。
有理数全体 '''Q''' は、差の絶対値
: <math>d(x,y):=|x-y|</math>
を距離函数として距離空間となる。この距離により '''Q''' に位相が誘導されるが、それは '''R'''{{sup|1}} からの相対位相に他ならない。こうして得られる距離空間 {{math2|('''Q''', ''d'')}} は[[完全不連結空間|完全不連結]]である。また、[[完備距離空間]]とはならない。実は距離 {{math2|''d''(''x'', ''y'') :{{=}} {{abs|''x'' − ''y''}}}} による '''Q''' の完備化として、実数全体の集合 '''R''' が得られる。
この位相に関して有理数体 '''Q''' は[[位相体]]を成す。有理数全体の成す位相空間 '''Q''' は[[局所コンパクト空間|局所コンパクト]]ではない空間の重要な例となっている。また唯一、[[孤立点]]を持たない[[可算集合|可算]]な[[距離化定理|距離化可能空間]]となるものとして '''Q''' を特徴付けることができる。
一方、'''Q''' を位相体とする '''Q''' 上の距離は、これだけではない。[[素数]] {{mvar|p}} と任意の非零整数 {{mvar|a}} に対して、{{mvar|p{{sup|n}}}} は {{mvar|a}} を割り切る ''p''-冪の中で冪指数が最大のものとするとき、
: <math>|a|_p := p^{-n}</math>
と定める。さらに {{math2|{{abs|''a''}}{{sub|''p''}} :{{=}} 0}} として、任意の有理数 {{math|{{sfrac|''a''|''b''}}}} については
: <math>\left|\frac{a}{b}\right|_p := \frac{|a|_p}{|b|_p}</math>
と定めたものを、有理数の [[p進絶対値|''p''進絶対値]]と呼ぶ。このときさらに、差の絶対値
: <math>d_p(x-y)=|x-y|_p</math>
は ''p''進距離と呼ばれる '''Q''' 上の[[距離函数]]を定める。距離空間 {{math2|('''Q''', ''d{{sub|p}}'')}} はやはり完全不連結であり、完備ではないが、その完備化として [[p進数|''p''進数]]体 {{math|'''Q'''{{sub|''p''}}}} が得られる。
[[オストロフスキーの定理]]によれば、'''Q''' 上の非自明な[[付値|絶対値]]は同値の[[違いを除いて]]通常の絶対値か ''p''進絶対値で尽くされる。
== 脚注 ==
<!--=== 注釈 ===
{{Notelist}}-->
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[高木貞治]]『数の概念』[[岩波書店]]、1970年、ISBN 4-00-005153-9
== 関連項目 ==
{{commonscat|Rational numbers}}
{{Wiktionary|有理数}}
* [[無理数]]
* [[大域体]]
== 外部リンク ==
* {{MathWorld|title=Rational Number|urlname=RationalNumber}}
{{代数的数}}
{{数の体系}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ゆうりすう}}
[[Category:有理数|*]]
[[Category:数]]
[[Category:実数]]
[[Category:代数的数]]
[[Category:初等数学]]
[[Category:数論]]
[[Category:数学に関する記事]] | 2003-03-15T07:17:50Z | 2023-09-26T17:06:46Z | false | false | false | [
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"Template:Math",
"Template:Lang-en",
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"Template:Overline",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%90%86%E6%95%B0 |
4,054 | 逆格子空間 | 逆格子空間(ぎゃくこうしくうかん、英: reciprocal lattice space)は逆格子ベクトルによって構成される空間のこと。実空間の周期性が反映される。逆空間、運動量空間、波数空間、k空間と言うこともある。
実空間と逆格子空間の関係は数学的にはフーリエ変換そのものであり、格子たとえば結晶の周期性を見ることができる。また物理的には位置と運動量、あるいは位置と波数の関係になっている。
光やX線の散乱は固体の結晶面の間隔とブラッグの法則で決まるが、逆格子空間を使うと便利なことがある。たとえば逆格子点の位置に光の強め合うスポットができるなど。
また固体中の電子の動きを見る場合、重要なのは位置よりも運動量の二乗に比例するエネルギーであるため、固体物理学での逆格子空間の用途は広い。
結晶では原子の周期的配列による並進対称性のため、一電子の固有関数(ブロッホ関数)、結晶格子の基準振動、そのほかの集団運動のモードなどが全て、波数で指定される平面波 e i k ⋅ r {\displaystyle e^{i\mathbf {k} \cdot \mathbf {r} }} に似た形を持ち、対応するエネルギーまたは振動数も波数についての関数であるため、波数空間は特に重要な意味を持つ。 バンド理論では、ポテンシャルの周期性の影響を調べるのに逆格子空間を用いると便利である。 | [
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] | 逆格子空間は逆格子ベクトルによって構成される空間のこと。実空間の周期性が反映される。逆空間、運動量空間、波数空間、k空間と言うこともある。 実空間と逆格子空間の関係は数学的にはフーリエ変換そのものであり、格子たとえば結晶の周期性を見ることができる。また物理的には位置と運動量、あるいは位置と波数の関係になっている。 光やX線の散乱は固体の結晶面の間隔とブラッグの法則で決まるが、逆格子空間を使うと便利なことがある。たとえば逆格子点の位置に光の強め合うスポットができるなど。 また固体中の電子の動きを見る場合、重要なのは位置よりも運動量の二乗に比例するエネルギーであるため、固体物理学での逆格子空間の用途は広い。 結晶では原子の周期的配列による並進対称性のため、一電子の固有関数(ブロッホ関数)、結晶格子の基準振動、そのほかの集団運動のモードなどが全て、波数で指定される平面波 e i k ⋅ r に似た形を持ち、対応するエネルギーまたは振動数も波数についての関数であるため、波数空間は特に重要な意味を持つ。
バンド理論では、ポテンシャルの周期性の影響を調べるのに逆格子空間を用いると便利である。 | {{出典の明記|date=2013年5月4日 (土) 11:10 (UTC)}}
[[File:Rcprwrld2.png|thumb|right|300px|2次元結晶とその逆格子]]
'''逆格子空間'''(ぎゃくこうしくうかん、{{lang-en-short|reciprocal lattice space}})は[[逆格子ベクトル]]によって構成される[[空間]]のこと。[[実空間]]の周期性が反映される。'''逆空間'''、'''運動量空間'''、'''波数空間'''、'''k空間'''と言うこともある。
実空間と逆格子空間の関係は数学的には[[フーリエ変換]]そのものであり、格子たとえば結晶の周期性を見ることができる。また物理的には[[位置]]と[[運動量]]、あるいは[[位置]]と[[波数]]の関係になっている。
光やX線の散乱は固体の結晶面の間隔と[[ブラッグの法則]]で決まるが、逆格子空間を使うと便利なことがある。たとえば逆格子点の位置に光の強め合うスポットができるなど。
また[[固体]]中の電子の動きを見る場合、重要なのは位置よりも運動量の二乗に比例する[[エネルギー]]であるため、[[固体物理学]]での逆格子空間の用途は広い。
結晶では原子の周期的配列による並進対称性のため、一電子の固有関数([[ブロッホ関数]])、結晶格子の[[基準振動]]、そのほかの集団運動の[[モード (物理学)|モード]]などが全て、波数で指定される[[平面波]]<math>e^{i\mathbf{k}\cdot \mathbf{r}}</math>に似た形を持ち、対応するエネルギーまたは振動数も波数についての関数であるため、波数空間は特に重要な意味を持つ。
[[バンド理論]]では、[[ポテンシャル]]の周期性の影響を調べるのに逆格子空間を用いると便利である。
==関連項目==
*[[ブリュアンゾーン]]
*[[フェルミ面]]
*[[物性物理学]]
*[[バンド理論]]
*[[バンド構造]]
*[[第一原理バンド計算]]
*[[k空間]]
{{DEFAULTSORT:きやくこうしくうかん}}
[[Category:物理数学]]
[[Category:固体物理学]]
[[Category:結晶学]]
[[Category:数学に関する記事]]
[[Category:格子点]] | null | 2020-01-19T03:31:19Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E6%A0%BC%E5%AD%90%E7%A9%BA%E9%96%93 |
4,055 | 都営地下鉄三田線 |
三田線(みたせん)は、東京都品川区の目黒駅から板橋区の西高島平駅までを結ぶ、東京都交通局が運営する鉄道路線(都営地下鉄)である。『鉄道要覧』による名称は6号線三田線。開業当初は「都営6号線」と称した(後述)。一般的に都営三田線と呼ばれることが多い。
路線名の由来は名称制定時の終着駅である三田駅(港区芝)付近の地名三田から。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ブルー」(青)、路線記号はI。
東京特別区部の南部から日比谷・大手町などの都心部を経由し、北西部の板橋区まで、おおむね南北を弓なりに(西に向いた逆C字型)走る路線である。
東急目黒線・東急新横浜線・相鉄新横浜線・相鉄本線・相鉄いずみ野線と直通運転を行っている(詳細は#運転を参照)。
この路線は高島平駅側より開業したが、起点は目黒駅(2000年9月26日 - )である。ワンマン運転を実施しており、保安装置としてホームドア(京三製作所製のホームドア)を全駅に装備している(#駅設備を参照)。
収支状況は、2004年度決算で純損益が約16億2,131万6,000円の赤字、2005年度決算で約14億8,247万4,000円の黒字、2006年度決算で約21億6,957万6,000円の黒字、2015年度決算で約58億3,153万円の黒字と着実に改善している。
目黒 - 白金高輪間 (2.3 km) は東京メトロ南北線と線路(施設)を共用しており、東京地下鉄が第一種鉄道事業者、東京都交通局が第二種鉄道事業者となっている。このため、列車の最高運転速度はこの区間に限り南北線に合わせて80 km/hとなっているほか、運賃計算方式に特例がある(「東京メトロ南北線#運賃計算の特例」を参照)。
本路線の建設は、1957年(昭和32年)の建設省告示第835号「東京都市計画高速鉄道網」において5号線(現在の東京メトロ東西線)の分岐線として示された大手町 - 下板橋間の計画が元となっている。当初は帝都高速度交通営団が事業者となり、建設および開通後の営業を担当する予定であった。1960年(昭和35年)3月ごろより、5号分岐線の建設が具体的に検討され始めた。この路線は都電の水道橋線(新常盤橋 - 春日町間)、白山線(春日町 - 白山上間)、巣鴨線(白山上 - 巣鴨車庫間)および板橋線(巣鴨車庫 - 旧・下板橋間)とほぼ重なるルートで、18系統(神田橋 - 志村坂上間)・35系統(田村町一丁目 - 巣鴨車庫間)が運転されているため、東京都交通局による建設・営業が望ましいとされた。
1962年(昭和37年)1月に開かれた首都圏整備委員会・建設省・運輸省による会談において、5号分岐線の建設が正式に決定。続いて運輸大臣・東京都知事・営団総裁による会談が開かれ、都交通局による事業化が内定した。
同年6月8日運輸大臣提出の都市交通審議会答申第6号において分岐線は6号線として切り離され、5号線について営団が、6号線について都交通局が建設・営業する方針が正式に決定された。6号線は西馬込方面より五反田・田町(三田駅)・日比谷・春日町(当時の都電水道橋線・白山線停留場名。開業後の春日駅)・巣鴨および板橋区大和町(やまとちょう。当時の都電志村線停留場名。開業後の板橋本町駅付近)の各方面を経て、東武東上線上板橋駅および志村(当初は都電志村線の志村橋終点付近を想定。後に現・高島平駅に変更。)付近の各方面へ至る路線として示された。軌間は1435 mm(標準軌)を採用し、西馬込駅 - 泉岳寺駅間と馬込検車場(現・馬込車両検修場)は1号線(現・都営浅草線)と共用する予定であった。
1962年10月には6号線について、東京急行電鉄(東急電鉄)および東武鉄道(東上線)との直通・相互乗り入れ運転計画が検討された。6号線の軌間を1067 mm(狭軌)に変更し、東急側は泉岳寺駅から別線(仮称・東急泉岳寺線)として建設予定であった桐ケ谷駅まで、途中駅を五反田駅のみとして延伸し、池上線を経由して(旧)田園都市線(当時の名称。2018年現在の大井町線)と接続した上で直通運転、東武側は上板橋駅で6号線と接続した上で埼玉県方面と直通運転する計画が提示された。軌間変更を打診された都交通局はこの計画に難色を示したが、運輸省による調整にて6号線のうち泉岳寺 - 西馬込間のみを、既に押上 - 人形町間で開通していた1号線(浅草線)延長区間に編入して標準軌で、残りの区間を東急・東武相互乗り入れ対応として狭軌で建設することが決定された。
しかし、東武から「大和町駅(やまとちょうえき・板橋区) - 上板橋駅間は運転需要対応困難である上、上板橋駅を乗り入れのために改良する余裕がない。」との申し入れがあったことを受けて、1964年(昭和39年)1月31日に同区間の建設を取りやめて、志村駅から埼玉県北足立郡大和町(やまとまち。現・埼玉県和光市)の東武東上線大和町駅(やまとまちえき、現・和光市駅)まで延伸して接続した上で相互乗り入れを行う計画に改訂された。東急は前述の泉岳寺線を、東武は志村駅 - 大和町駅間の連絡線(東武東上支線。板橋区が1969年(昭和44年)3月に実施した住居表示により高島平の町名が発足し、同年8月に都営地下鉄6号線志村駅が高島平駅に改称されてからは仮称・東武高島平線として予定されていた。)を建設するという内容の各社分掌も盛り込まれた。この合意に基づき、同年11月には3事業者により「6号線建設および相互直通運転に関する覚書」が締結された。この間、都交通局は1964年3月に大手町 - 巣鴨間の地方鉄道敷設免許について営団からの譲受を申請した。さらに同年10月に泉岳寺 - 大手町間および巣鴨 - 志村間の免許申請を行い、3区間とも認可され、同年12月18日に泉岳寺 - 志村間の地方鉄道敷設免許が交付された。東京都(交通局)は、営団地下鉄へ567万4,250円を支払うことで譲渡を受けている。
一方、軌間変更により都交通局では馬込検車場の共用ができなくなったことから、6号線専用の車両基地が新たに必要になり、公団住宅蓮根団地西側の用地を蓮根検車場として使用する計画を追加したが、後に志村検車場(現・志村車両検修場)の設置に変更された(計画変更の経緯は後述)。
上記の経緯から、都交通局と東急は建設計画について歩調を合わせる考えを示し、また都交通局と東武はATSを共同で開発するなどの協力体制が採られた。その上で都交通局は6号線(三田線)について車体寸法や保安装置などの面で東武鉄道の規格を踏襲する「6号線直通車両規格」を制定し、直通運転実施路線は東武東上本線・東武東上支線(高島平線)・都営三田線・東急泉岳寺線・池上線・大井町線・田園都市線(未成線以外は2019年現在の線路名称による)となることが一度は決定した。
ところが、翌1965年(昭和40年)1月に東急は突如として6号線(三田線)への乗り入れ計画を中止する意向を示した。距離的にも時間的にも乗客の利便増進に資するものではないという東急の経営判断によるものであった。東急はその代替として営団3号線(銀座線)への乗り入れを目指す計画に変更したため、泉岳寺線計画は撤回された。これにより6号線(三田線)南側の直通運転計画は宙に浮いた。
三田駅以南の計画が定まらないまま、都営地下鉄6号線は東武東上線との相互乗り入れを準備しつつ、当面の間志村(高島平)駅 - 三田駅間のみで営業することになり、1968年(昭和43年)から1973年(昭和48年)にかけて開通した。1968年12月の巣鴨 ‐ 志村間開通時に導入された6000形の行先方向幕には志木・大和町・上福岡・川越市など、東武東上線相互乗り入れを想定したコマも含まれている。しかしその数年後には東武鉄道も、都心へ向けて大きく迂回するルートであること、および池袋駅に乗り入れないため、東武百貨店をはじめとした池袋地区の開発に資さず、東上線にとっての線増効果をもたらさないと見込まれることを理由として、営団8号線(有楽町線)に乗り入れ先を変更する旨を都交通局に通知した。この件で都交通局は東急・東武に対して抗議を行ったが、結局は両社の意向に押し切られた。
高島平駅 - 西高島平駅間は前述の通り東武高島平線であったが、都交通局が高島平西部へのアクセス路線として1973年(昭和48年)4月28日に東武鉄道から免許を譲り受け、着工・延伸することになった。なお、都市計画の上ではその後も西高島平 - 和光市間(3.3 km)の都市高速鉄道第6号線は廃止されておらず、東京都の都市計画図などには西高島平以遠の6号線のルートが記載されている。
東急泉岳寺線桐ヶ谷 - 東武東上線大和町(やまとまち)間の3事業者による路線建設計画・相互乗り入れ運転計画策定当時の1964年に都交通局が制作した都営地下鉄6号線の案ダイヤの中で一番有力なものとされたのは、東武東上線内での列車は、日本住宅公団による霞ヶ丘団地および上野台団地の最寄駅で引き上げ線も用意されている上福岡駅で折り返す列車を多数設定する(一部の列車は川越市駅・東松山駅まで運転)内容であった。当時、上福岡駅の2駅手前であった志木駅でも折り返しは可能であり、東急の乗り入れ計画中止後に都交通局で作られた都営地下鉄の案ダイヤでは、志木駅折り返し列車を多数設定していたものもあった。
一方東武側の案ダイヤは、都心側において当初は泉岳寺駅(東急との乗り入れ計画策定時点)、後に御成門駅(東急との乗り入れ計画中止後)で折り返す列車を軸に、一部東急線方面に向かわせる内容であった。また東急側の案ダイヤでは新板橋駅で折返す列車を基本とし、一部志村駅(高島平駅)発着や東武線方面に直通することをそれぞれ検討していた。
東急では泉岳寺線に関して、五反田駅を高々架から地下に移設した上で泉岳寺駅 - 五反田駅間で1号線(浅草線)と並行させ(前述の通り、途中駅は都営地下鉄の仮称・二本榎駅、すなわち高輪台駅のみで、東急線に途中駅は設けない)、五反田駅以西は戦時中に廃止していた桐ケ谷駅(大崎広小路駅と戸越銀座駅の中間に位置していた)を大崎広小路駅の代替として復活し、戸越銀座駅付近まで新規路線を建設して既存の池上線と接続する計画を立てていた。戸越銀座駅以西については旗の台駅を改良して、池上線と(旧)田園都市線(大井町線)との連絡線を設けて接続し、二子玉川園駅(現・二子玉川駅)を経て、そのまま現・田園都市線長津田駅に直通する計画であった。
泉岳寺線の開業と同時に池上線の桐ケ谷駅 - 五反田駅間は廃止が計画されていた。6号線から乗り入れてくる列車の東急線内折り返しは鷺沼駅および長津田駅(および将来的には一部の列車を当時延伸計画中であった中央林間駅まで延長)で計画されていた。
1972年(昭和47年)3月1日運輸大臣提出の都市交通審議会答申第15号において6号線の新たな延伸計画が立てられ、「桐ヶ谷方面-大和町(和光市)方面」が「大宮市西部...浦和市西部-戸田市西部-高島平-清正公前(現・白金高輪駅)...港北ニュータウン(横浜市)」に改められ、和光市駅-高島平駅間の東武高島平線計画は正式に撤回された。1971年に発表された当初の港北ニュータウン計画では、都営地下鉄6号線を西馬込から港北ニュータウンを経由して中山駅まで延伸する計画が盛り込まれていた。計画書には横浜市営4号線とともに東京6号線が鉄道計画の根幹をなしており、相当に具体的な駅の設置場所とともに東京6号線の延伸が必須であるという書き方がなされている。 しかし1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号において、この計画は目黒駅止まりとなり、東急目蒲線と相互乗り入れを行うことが決まり、同時に三田線の港北ニュータウン延伸計画は撤回された。この決定を受けて、以前制定していたが事実上廃止となった「6号線直通車両規格」とは別の「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線との直通車両申し合わせ事項」と称する新たな直通車両規格を、都交通局他2者において新たに制定した。
一方北側については、1976年(昭和51年)5月に開業した西高島平駅から北進し、荒川を橋梁で渡り、新大宮バイパスの上下線間にあった当時未開通の自動車専用道路予定地を活用して北上し、国鉄武蔵野線西浦和駅を通り、大宮市西部(現在のさいたま市西区)まで延伸するという計画が立てられた。しかし、都外への延伸は沿線自治体議会の理解を要することや、1985年9月30日の国鉄埼京線開業の影響もあり、上記の運輸政策審議会答申第7号でこの計画は削除され、1990年以降同ルートには首都高速5号池袋線の延伸区間と首都高速埼玉大宮線が順次開通した。
以上の経緯を経て、東急との乗り入れは当初計画の泉岳寺線・池上線・田園都市線(後の大井町線)から目黒線へと、対象路線は変わったものの実現することとなった。これを受け、東京都交通局では1989年(平成元年)3月30日に三田 - 清正公前(仮称時・現在の白金高輪)間 1.7 kmの第1種鉄道事業免許を、清正公前 - 目黒間 2.3 km は第2種鉄道事業免許の申請を行い、同年5月24日に事業免許を取得した。この免許交付時点で、目黒延伸は1995年(平成7年)10月開業予定とされていた。各種手続きを経た、1992年(平成4年)7月17日に延伸区間の建設工事に着手した。
合わせて、三田線は開業から20年ほどが経過していることから、営団(当時)・東急・東京都の3者間で相互直通車両規格を定め、三田線の保安装置ATC化・列車無線の更新・乗り入れ車両は8両編成とするなどが盛り込まれた(ただし、目黒開業時点での8両編成化は見送られた)。
なお、1964年(昭和39年)12月に取得していた泉岳寺 - 三田間の地方鉄道敷設免許は、1972年(昭和47年)に清正公前 - 三田間に変更する起業目論見変更申請の状態となっていたが、清正公前以南の路線ルートが正式に決まっていないことから、処分保留となっていた。前述の免許取得と同時処分により、前述した泉岳寺 - 三田間の第一種鉄道事業免許の廃止許可と、起業目論見変更申請は交通局に返付された。
当初は1995年度の開業を予定(前述)していたが、建設工事の遅れから1997年度→1999年度、最終的には2000年度(2000年秋)まで延期した。2000年(平成12年)1月24日にはトンネル完成式およびレール締結式が実施された。最終的に東京6号線は西高島平駅 - 目黒駅間の路線として、2000年9月26日に全線開通した。
なお、乗り入れに先立って1999年(平成11年)12月3日に保安装置をT形ATSからATC方式に切り替え、列車無線を誘導無線(IR)方式から空間波無線(SR)方式に切り替えた。2000年(平成12年)4月からは自動列車運転装置(ATO)を使用開始したほか、乗り入れ直前の9月22日からは車掌乗務を省略したワンマン運転を開始した。ワンマン運転時のホーム上の安全確保のため、全駅にホームゲートを導入したことで各駅の停車時分が増加するが、ATCの導入による最高速度を向上(70 km/h→75 km/h) させることで、従来からの運転時分を確保した。
港北ニュータウン地区への鉄道建設についても、2008年6月22日に乗り入れ先の東急目黒線列車運転区間が武蔵小杉駅から日吉駅まで延伸され、同駅にて連絡する横浜市営地下鉄グリーンラインが港北ニュータウンを抜けて中山駅までを結ぶという形で実現された。
なお、営業区間確定前の東京都の公式文書において、三田線の正式な起点は上記の理由から泉岳寺駅となっていた。そのため関係官庁に届け出る文書では未成線である泉岳寺駅 - 三田駅間を加えた実キロ数が記入していたものもあったが、目黒開業時までに正式起点を目黒駅に改め、実キロ数も泉岳寺駅起点のものから目黒駅起点のものに書き換えられた。
東急目黒線は、2023年3月18日に開業した東急新横浜線・相鉄新横浜線を経由して相鉄本線・いずみ野線への直通運転が開始されている。後述するように乗り入れ対応の車両である6500形の導入計画を有している。また、東急目黒線の武蔵小杉駅の乗降客数の著しい増加と、新規に乗り入れる予定の相鉄に合わせて、この乗り入れ開始時までに三田線の8両編成化が計画されており、地上設備についても8両編成対応に順次改修を予定している。
6300形3次車については、相鉄直通対応工事を実施する予定との報道が2018年にあったが、その後2022年にコスト高などを理由に消極的と報道された。
相鉄側では21000系が目黒線・三田線・南北線・埼玉高速鉄道直通対応として製造され、東急側でも3020系を新造しており、また東急目黒線所属の既存車両(3000系と5080系)も8両編成化して相鉄直通対応を実施した。また、都交通局の車両においても8両編成の新型車両6500形を13本導入している。
三田線については、2019年時点では東急新横浜線側への乗り入れを先行して調整している段階であり、その調整の終了後に相鉄・東急・東京都交通局の3者間で乗り入れ協議を開始することになっている。相鉄 - 東急 - 都営地下鉄の3者直通列車運転も終日されるが、都交通局側では6500形の投入が行われてはいるものの、落成時点では6500形は相鉄直通対応ではない(相鉄直通対応準備工事のみ実施)ことから、相鉄側では当面は片乗り入れとし、運用する車両も6500形の対応工事実施までは東急車と相鉄車のみとなる。
これに先立ち、都交通局では相鉄との相互乗り入れの準備として、「ダイヤ作成支援システム三田線 相鉄線乗入れ改修委託」を日立製作所と随意契約の上で見積をしていることが2020年12月に明らかとなった。また、2021年には相鉄21000系第1編成が、まずは東急に貸し出されて各種試験を実施し、元住吉検車区や東急目黒線への入線試験を実施した後に、三田線にも入線試験を実施した。三田線入線試験実施期間中は志村車両検修場に留置していた。
三田線は、東京都交通局が担当する志村(現・高島平) - 三田間を、全6区間に分けて建設を行った。
その後、西高島平 - 高島平間、三田 - 白金高輪間が建設されている。
地下区間の建設にあたっては、首都高速道路やほぼ全区間にわたって共同溝の計画、また地上道路の立体交差(高架橋方式の橋脚またはアンダーパス道路)の計画があり、三田線トンネルと競合しないよう配慮した構造とした。
志村坂上 - 千石間は中山道・白山通り(国道17号)の道路下を、白山 - 神保町間は白山通り(都道301号)の道路下を、大手町 - 三田間は日比谷通りの道路下を、開削工法によって建設した。道路下から大きく外れる千石 - 白山間、神保町 - 大手町間は民有地の地下を通過することから、シールド工法(後述)によって建設した。巣鴨駅の南側では、駅前の巣鴨橋(国道17号が山手線・山手貨物線を跨ぐ橋)が三田線の建設工事に支障することから、橋の架け替えが実施された。
大手町駅(厳密には日本橋川の神田橋付近)から日比谷駅にかけては千代田線との並行区間(同時施工・営団が東京都から受託施工)となっており、日比谷通りの地下を千代田線は東側、三田線は西側(皇居側)を通っており、両線のトンネルが一体構造となっている。日比谷通りの幅員の制約により、千代田線と三田線の駅を並べて設置することはできないことから、約2 kmの並行区間に約500 m間隔で駅を設置することとし、千代田線大手町駅、三田線大手町駅、千代田線二重橋前駅、三田線日比谷駅、千代田線日比谷駅が交互に設けられている。
当初終点であった三田駅は地上用地の制約から、行き止まり駅ながら上下2段式のホーム構造で、折り返しには芝公園駅の三田駅寄りに設置した両渡り分岐器を使用して単線並列運転を行っていた。これは泉岳寺方面への延伸を想定した暫定的なものとしたが、この状態は目黒方面の延伸まで約27年間続いた。
一部区間ではシールド工法や特殊な工法を採用している。
志村坂上駅より北西側、西高島平駅までの区間は地上高架線となっていて、三田線は都営地下鉄の路線で最長距離の地上区間 (5.2 km) を持つ。志村坂上駅 - 志村三丁目駅 - 蓮根駅 - 西台駅の間ではS字カーブが連続するが、これは本路線の計画段階において、志村地域のルートが幾度も変更された名残りである。
1962年(昭和37年)に都市交通審議会答申第6号で示された北側の終端「志村」へ至るルートは、当時営業中の都電志村線(41系統)を踏襲する形で、現在の志村坂上駅からそのまま中山道を北上し、板橋区長後二丁目(現・坂下二丁目)で新河岸川に架かる志村橋の手前へと至るものであった。ところが、その後埼玉県方面への延伸を検討した際、志村坂上から北上して地下方式のまま河川をくぐり抜けるためには勾配が急になり過ぎることと、新河岸川・荒川の河川下工事が地質上困難で莫大な費用が掛かることが判明した。このため、志村坂上以北は地上に高架線を建設して、河川を橋梁で越えるように計画変更を目論んだが、中山道沿いには支障物件が多かったため、ルートを西側に変更して、現在の志村三丁目駅 - 蓮根駅を経由し、そのまま北上して蓮根三丁目の蓮根橋手前へ至り、そこに「志村駅」を設置する案が策定された。
その後1964年(昭和39年)に「志村駅」における6号線と東武東上線の相互乗り入れ計画が盛り込まれ、翌1965年(昭和40年)には板橋区土地区画整理事業により、旧徳丸ヶ原水田地区に大規模団地を造成する方針が決定した。これにより増加が見込まれる地域住民のアクセスの便を考慮し、また先述の計画変更で取り止めとなった馬込検車場使用計画の代替として、公団住宅蓮根団地の西側、志村西台町(現・高島平一丁目付近)に建設を予定していた車庫へ向かう引込線用地の一部を本線に転用し、車庫建設地を同町内北部(現・高島平九丁目に位置する志村車両検修場)に再度変更した上で、西台駅 - 高島平駅に至る現在のルートを形成することになった。以上の経緯により、地上区間において連続する急カーブが設けられることになった。
S字カーブ区間の最小曲線半径は、志村坂上 - 志村三丁目間が298メートル(制限速度60 km/h)、志村三丁目 - 蓮根間が211メートル(制限速度50 km/h)、蓮根 - 西台間が162メートル(制限速度40 km/h)となっている。また1976年(昭和51年)5月6日開業の高島平 - 西高島平駅間は一部を除きスラブ軌道となっている。
目黒駅から東急目黒線・東急新横浜線を経由し、相鉄新横浜線の西谷駅より相鉄本線の海老名駅及び相鉄いずみ野線の湘南台駅まで相互直通運転を実施している。白金高輪駅を起・終点とする列車の大部分は同駅で埼玉高速鉄道線・南北線からの目黒方面発着の列車との接続がほとんどとられている。ラッシュ時には高島平駅を始発・終着とする列車(出・入庫列車)がある。2017年3月25日のダイヤ改正までは御成門駅折り返しもあった。
ATOを装備しており、基本的にATOを使用して自動運転を行っている。
2004年12月23日から2009年まで、臨時列車「みなとみらい号」が高島平駅 - 横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅間で運行されていた。末期を除いて行楽シーズンに1 - 2か月に1回の割合で設定されていた。この列車には特製のヘッドマークを取り付けていた。三田線内は各駅停車であった。
大晦日の終夜運転を開業から1972年までと1986年以降実施している。2000年以降はこの時のみ目黒駅発着の列車が運転されている。また、2014年より水道橋駅が最寄りの東京ドームでのコンサートイベントへの対応として、一部時間帯で終夜運転列車を増発して以降は、新板橋駅発着(2014年度のみ)や1往復のみ三田駅発着の列車も設定されている(2014年度に設定開始。2014年度のみ新板橋駅発着、2015年度は高島平駅発着。2016年度、2017年度は南行西高島平駅発、北行高島平駅着で設定。目黒駅発着列車と同様に終夜運転のみの設定であり、芝公園駅南方の非常渡り線を使用して転線している)。なお、2016年度より終夜運転の本数が縮小され、これまで基本的に30分間隔(1時台のうち、三田駅発着列車が入る場合を除く)であったものを、午前2時台 - 4時台の間は1時間間隔に減便した。
終夜運転以外では、8月に行われるいたばし花火大会では2010年頃まではこの時しか運転されない巣鴨駅発着が臨時運転されていたが、後に巣鴨駅発着は御成門駅発着に延長され消滅した。しかし、御成門行きもこの時限り運転される列車である。
2006年9月25日より東急目黒線直通列車の一部が東急線内にて急行列車としての運行を開始した。東急線区間で急行運転が開始された後も、三田線内は全列車が各駅停車での運転となっている。また、三田線内では都営6300形においては日吉方面行き急行を除いて種別表示を行わないが、他の車両では「各駅停車」または「各停」と表示される。
日中は30分サイクルのパターンダイヤであり、三田線内(西高島平駅 - 白金高輪駅間)は6分間隔である。30分に相鉄線海老名駅発着が1本(東急線内急行)、東急線日吉駅発着が2本、白金高輪駅発着が2本運転される。このうち、東急線内急行運転の列車は白金高輪駅での南北線列車との接続を行わない。新横浜駅周辺で大規模イベントが開催される場合は日吉駅発着列車が新横浜駅まで延長運転される。
2008年6月22日のダイヤ改正までは、日中は西高島平 - 白金高輪間と西高島平 - 武蔵小杉間が交互に運転されていた。
2016年10月21日のダイヤ改正では、平日の朝に高島平 - 御成門間で1往復増発された。これにより、2008年6月22日のダイヤ改正で消滅した通常ダイヤにおける定期列車の御成門駅発着が復活したが、2017年3月25日のダイヤ改正で東急目黒線直通列車に変更され再度消滅した。ただし、御成門駅発着列車自体は前述のいたばし花火大会開催時の臨時列車で設定されている。
2020年(令和2年)度の朝ラッシュ時最混雑区間(南行、西巣鴨→巣鴨間)のピーク時(7:40 - 8:40)の混雑率は129%である。
都営地下鉄の4路線では最も輸送人員が少ない路線であるが、6両編成であり他路線と同様に混雑する。板橋区内の11駅は一日平均乗降人員が4万人を下回るが新板橋駅まで接続路線がなく、山手線と接続する巣鴨駅までの区間が最混雑区間となっている。
開業以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
東京都交通局(都営地下鉄)では第10号線(→都営地下鉄新宿線)用の車両として、1971年(昭和46年)に10-000形試作車を製作、電機子チョッパ制御や電気指令式ブレーキ、車内信号式自動列車制御装置(ATC)など当時最新の機器が搭載されたため、6号線(→都営地下鉄三田線)において性能確認試験が行われた。この当時、第10号線(→都営地下鉄新宿線)は建設中であったことから、三田線と新宿線では軌間が異なるが、10-000形試作車には6000形用の台車(軌間 1,067 mm)と主電動機を装着していた。
また、10号線(→都営地下鉄新宿線)では、乗務員の疲労軽減や安全性の向上を目的としてATOの導入を計画、10-000形試作車には三菱電機製の車上プログラム方式ATOが搭載された。1972年(昭和47年)初めから6号線(→都営地下鉄三田線)本蓮沼 - 志村三丁目間(南行線、約2 km)に10号線用の試作信号保安設備(車内信号式ATC含む)を併設し、終電後に線路閉鎖を行って各種試験・測定を行った。性能確認試験は、昼間時間帯には志村検車場(当時)で実施され、本線上で必要な走行試験はすべて前述の夜間終電後に実施した。走行試験は1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)まで、およそ2年間実施された。
どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号の末尾アルファベットで区別されており、「T」が都交車両(21T - 89Tの奇数番号)、「K」が東急車両(01K - 48K)、「G」が相鉄車両(31G - 43G)となっている(「S」は東京メトロ、「M」は埼玉高速)。 なお、東急車・相鉄車の運用は、三田線運用と南北線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:35Gと36G)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。
列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)にも掲載されている。
なお、三田線内では南行列車(目黒・日吉方面)の列車番号は偶数番号となっており、例えば「21T」運用では北行列車(西高島平方面)は「xx21T」、南行列車は「xx20T」となる。
また、東急線内の列車番号は6桁の数字で表記され、上3桁が運用番号を表している。400番台が都営車両・200番台が東急・600番台は相鉄の車両となっており(300番台は東京メトロ・500番台は埼玉高速鉄道車両)、例えば「31T」運用の場合は東急線内では「431」となる。
また各事業者間の走行距離調整の関係上、東急・相鉄両者の車両は東急線に乗り入れない列車にも使用されており、高島平 - 西高島平間の短区間列車にもそれぞれの車両が充当されている。
目黒駅は東急電鉄、白金台駅と白金高輪駅は東京地下鉄、それ以外の各駅(三田 - 西高島平間)は東京都交通局の管轄駅のため、駅設備は管轄している各事業者に準じたものが使用されている。東京地下鉄の管轄2駅ではガラス張りの準密閉式フルハイトタイプのホームドアを使用しており、それ以外の駅では東急管轄の目黒駅を含めてハーフハイトタイプのホームゲートを使用している。
発車メロディは白金台駅・白金高輪駅を除く全ての駅で南北線開業時に用意された音楽(いわゆる「音無川の流れ」)を使用していたが、2023(令和5)年2月4日から新高島平駅を皮切りに他の都営地下鉄3線で使用している曲に順次変更され、3月18日までに完了した。
設備の信頼性向上と、2022年度以降に実施する8両編成化に対応するため、2019年(令和元年)6月17日より各駅にて日立製作所製のホームドアを交換する工事を順次行い、2022年5月11日に日比谷駅を最後に完了した・。
交換工事は各駅につき2、3か月程度の工期を必要としており、交換中は、まず工期に入る前にホームドアを開放した状態のままにしたのち、一旦それを撤去し、仮設の固定柵と警備員で対応していた。 | [
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"text": "三田線(みたせん)は、東京都品川区の目黒駅から板橋区の西高島平駅までを結ぶ、東京都交通局が運営する鉄道路線(都営地下鉄)である。『鉄道要覧』による名称は6号線三田線。開業当初は「都営6号線」と称した(後述)。一般的に都営三田線と呼ばれることが多い。",
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"text": "路線名の由来は名称制定時の終着駅である三田駅(港区芝)付近の地名三田から。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ブルー」(青)、路線記号はI。",
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"text": "この路線は高島平駅側より開業したが、起点は目黒駅(2000年9月26日 - )である。ワンマン運転を実施しており、保安装置としてホームドア(京三製作所製のホームドア)を全駅に装備している(#駅設備を参照)。",
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"text": "収支状況は、2004年度決算で純損益が約16億2,131万6,000円の赤字、2005年度決算で約14億8,247万4,000円の黒字、2006年度決算で約21億6,957万6,000円の黒字、2015年度決算で約58億3,153万円の黒字と着実に改善している。",
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"text": "目黒 - 白金高輪間 (2.3 km) は東京メトロ南北線と線路(施設)を共用しており、東京地下鉄が第一種鉄道事業者、東京都交通局が第二種鉄道事業者となっている。このため、列車の最高運転速度はこの区間に限り南北線に合わせて80 km/hとなっているほか、運賃計算方式に特例がある(「東京メトロ南北線#運賃計算の特例」を参照)。",
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"text": "本路線の建設は、1957年(昭和32年)の建設省告示第835号「東京都市計画高速鉄道網」において5号線(現在の東京メトロ東西線)の分岐線として示された大手町 - 下板橋間の計画が元となっている。当初は帝都高速度交通営団が事業者となり、建設および開通後の営業を担当する予定であった。1960年(昭和35年)3月ごろより、5号分岐線の建設が具体的に検討され始めた。この路線は都電の水道橋線(新常盤橋 - 春日町間)、白山線(春日町 - 白山上間)、巣鴨線(白山上 - 巣鴨車庫間)および板橋線(巣鴨車庫 - 旧・下板橋間)とほぼ重なるルートで、18系統(神田橋 - 志村坂上間)・35系統(田村町一丁目 - 巣鴨車庫間)が運転されているため、東京都交通局による建設・営業が望ましいとされた。",
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"text": "1962年(昭和37年)1月に開かれた首都圏整備委員会・建設省・運輸省による会談において、5号分岐線の建設が正式に決定。続いて運輸大臣・東京都知事・営団総裁による会談が開かれ、都交通局による事業化が内定した。",
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"text": "同年6月8日運輸大臣提出の都市交通審議会答申第6号において分岐線は6号線として切り離され、5号線について営団が、6号線について都交通局が建設・営業する方針が正式に決定された。6号線は西馬込方面より五反田・田町(三田駅)・日比谷・春日町(当時の都電水道橋線・白山線停留場名。開業後の春日駅)・巣鴨および板橋区大和町(やまとちょう。当時の都電志村線停留場名。開業後の板橋本町駅付近)の各方面を経て、東武東上線上板橋駅および志村(当初は都電志村線の志村橋終点付近を想定。後に現・高島平駅に変更。)付近の各方面へ至る路線として示された。軌間は1435 mm(標準軌)を採用し、西馬込駅 - 泉岳寺駅間と馬込検車場(現・馬込車両検修場)は1号線(現・都営浅草線)と共用する予定であった。",
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"text": "1962年10月には6号線について、東京急行電鉄(東急電鉄)および東武鉄道(東上線)との直通・相互乗り入れ運転計画が検討された。6号線の軌間を1067 mm(狭軌)に変更し、東急側は泉岳寺駅から別線(仮称・東急泉岳寺線)として建設予定であった桐ケ谷駅まで、途中駅を五反田駅のみとして延伸し、池上線を経由して(旧)田園都市線(当時の名称。2018年現在の大井町線)と接続した上で直通運転、東武側は上板橋駅で6号線と接続した上で埼玉県方面と直通運転する計画が提示された。軌間変更を打診された都交通局はこの計画に難色を示したが、運輸省による調整にて6号線のうち泉岳寺 - 西馬込間のみを、既に押上 - 人形町間で開通していた1号線(浅草線)延長区間に編入して標準軌で、残りの区間を東急・東武相互乗り入れ対応として狭軌で建設することが決定された。",
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"text": "しかし、東武から「大和町駅(やまとちょうえき・板橋区) - 上板橋駅間は運転需要対応困難である上、上板橋駅を乗り入れのために改良する余裕がない。」との申し入れがあったことを受けて、1964年(昭和39年)1月31日に同区間の建設を取りやめて、志村駅から埼玉県北足立郡大和町(やまとまち。現・埼玉県和光市)の東武東上線大和町駅(やまとまちえき、現・和光市駅)まで延伸して接続した上で相互乗り入れを行う計画に改訂された。東急は前述の泉岳寺線を、東武は志村駅 - 大和町駅間の連絡線(東武東上支線。板橋区が1969年(昭和44年)3月に実施した住居表示により高島平の町名が発足し、同年8月に都営地下鉄6号線志村駅が高島平駅に改称されてからは仮称・東武高島平線として予定されていた。)を建設するという内容の各社分掌も盛り込まれた。この合意に基づき、同年11月には3事業者により「6号線建設および相互直通運転に関する覚書」が締結された。この間、都交通局は1964年3月に大手町 - 巣鴨間の地方鉄道敷設免許について営団からの譲受を申請した。さらに同年10月に泉岳寺 - 大手町間および巣鴨 - 志村間の免許申請を行い、3区間とも認可され、同年12月18日に泉岳寺 - 志村間の地方鉄道敷設免許が交付された。東京都(交通局)は、営団地下鉄へ567万4,250円を支払うことで譲渡を受けている。",
"title": "建設経緯"
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{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "一方、軌間変更により都交通局では馬込検車場の共用ができなくなったことから、6号線専用の車両基地が新たに必要になり、公団住宅蓮根団地西側の用地を蓮根検車場として使用する計画を追加したが、後に志村検車場(現・志村車両検修場)の設置に変更された(計画変更の経緯は後述)。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "上記の経緯から、都交通局と東急は建設計画について歩調を合わせる考えを示し、また都交通局と東武はATSを共同で開発するなどの協力体制が採られた。その上で都交通局は6号線(三田線)について車体寸法や保安装置などの面で東武鉄道の規格を踏襲する「6号線直通車両規格」を制定し、直通運転実施路線は東武東上本線・東武東上支線(高島平線)・都営三田線・東急泉岳寺線・池上線・大井町線・田園都市線(未成線以外は2019年現在の線路名称による)となることが一度は決定した。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "ところが、翌1965年(昭和40年)1月に東急は突如として6号線(三田線)への乗り入れ計画を中止する意向を示した。距離的にも時間的にも乗客の利便増進に資するものではないという東急の経営判断によるものであった。東急はその代替として営団3号線(銀座線)への乗り入れを目指す計画に変更したため、泉岳寺線計画は撤回された。これにより6号線(三田線)南側の直通運転計画は宙に浮いた。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "三田駅以南の計画が定まらないまま、都営地下鉄6号線は東武東上線との相互乗り入れを準備しつつ、当面の間志村(高島平)駅 - 三田駅間のみで営業することになり、1968年(昭和43年)から1973年(昭和48年)にかけて開通した。1968年12月の巣鴨 ‐ 志村間開通時に導入された6000形の行先方向幕には志木・大和町・上福岡・川越市など、東武東上線相互乗り入れを想定したコマも含まれている。しかしその数年後には東武鉄道も、都心へ向けて大きく迂回するルートであること、および池袋駅に乗り入れないため、東武百貨店をはじめとした池袋地区の開発に資さず、東上線にとっての線増効果をもたらさないと見込まれることを理由として、営団8号線(有楽町線)に乗り入れ先を変更する旨を都交通局に通知した。この件で都交通局は東急・東武に対して抗議を行ったが、結局は両社の意向に押し切られた。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "高島平駅 - 西高島平駅間は前述の通り東武高島平線であったが、都交通局が高島平西部へのアクセス路線として1973年(昭和48年)4月28日に東武鉄道から免許を譲り受け、着工・延伸することになった。なお、都市計画の上ではその後も西高島平 - 和光市間(3.3 km)の都市高速鉄道第6号線は廃止されておらず、東京都の都市計画図などには西高島平以遠の6号線のルートが記載されている。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "東急泉岳寺線桐ヶ谷 - 東武東上線大和町(やまとまち)間の3事業者による路線建設計画・相互乗り入れ運転計画策定当時の1964年に都交通局が制作した都営地下鉄6号線の案ダイヤの中で一番有力なものとされたのは、東武東上線内での列車は、日本住宅公団による霞ヶ丘団地および上野台団地の最寄駅で引き上げ線も用意されている上福岡駅で折り返す列車を多数設定する(一部の列車は川越市駅・東松山駅まで運転)内容であった。当時、上福岡駅の2駅手前であった志木駅でも折り返しは可能であり、東急の乗り入れ計画中止後に都交通局で作られた都営地下鉄の案ダイヤでは、志木駅折り返し列車を多数設定していたものもあった。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "一方東武側の案ダイヤは、都心側において当初は泉岳寺駅(東急との乗り入れ計画策定時点)、後に御成門駅(東急との乗り入れ計画中止後)で折り返す列車を軸に、一部東急線方面に向かわせる内容であった。また東急側の案ダイヤでは新板橋駅で折返す列車を基本とし、一部志村駅(高島平駅)発着や東武線方面に直通することをそれぞれ検討していた。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 20,
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"text": "東急では泉岳寺線に関して、五反田駅を高々架から地下に移設した上で泉岳寺駅 - 五反田駅間で1号線(浅草線)と並行させ(前述の通り、途中駅は都営地下鉄の仮称・二本榎駅、すなわち高輪台駅のみで、東急線に途中駅は設けない)、五反田駅以西は戦時中に廃止していた桐ケ谷駅(大崎広小路駅と戸越銀座駅の中間に位置していた)を大崎広小路駅の代替として復活し、戸越銀座駅付近まで新規路線を建設して既存の池上線と接続する計画を立てていた。戸越銀座駅以西については旗の台駅を改良して、池上線と(旧)田園都市線(大井町線)との連絡線を設けて接続し、二子玉川園駅(現・二子玉川駅)を経て、そのまま現・田園都市線長津田駅に直通する計画であった。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "泉岳寺線の開業と同時に池上線の桐ケ谷駅 - 五反田駅間は廃止が計画されていた。6号線から乗り入れてくる列車の東急線内折り返しは鷺沼駅および長津田駅(および将来的には一部の列車を当時延伸計画中であった中央林間駅まで延長)で計画されていた。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "1972年(昭和47年)3月1日運輸大臣提出の都市交通審議会答申第15号において6号線の新たな延伸計画が立てられ、「桐ヶ谷方面-大和町(和光市)方面」が「大宮市西部...浦和市西部-戸田市西部-高島平-清正公前(現・白金高輪駅)...港北ニュータウン(横浜市)」に改められ、和光市駅-高島平駅間の東武高島平線計画は正式に撤回された。1971年に発表された当初の港北ニュータウン計画では、都営地下鉄6号線を西馬込から港北ニュータウンを経由して中山駅まで延伸する計画が盛り込まれていた。計画書には横浜市営4号線とともに東京6号線が鉄道計画の根幹をなしており、相当に具体的な駅の設置場所とともに東京6号線の延伸が必須であるという書き方がなされている。 しかし1985年(昭和60年)7月11日の運輸政策審議会答申第7号において、この計画は目黒駅止まりとなり、東急目蒲線と相互乗り入れを行うことが決まり、同時に三田線の港北ニュータウン延伸計画は撤回された。この決定を受けて、以前制定していたが事実上廃止となった「6号線直通車両規格」とは別の「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線との直通車両申し合わせ事項」と称する新たな直通車両規格を、都交通局他2者において新たに制定した。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "一方北側については、1976年(昭和51年)5月に開業した西高島平駅から北進し、荒川を橋梁で渡り、新大宮バイパスの上下線間にあった当時未開通の自動車専用道路予定地を活用して北上し、国鉄武蔵野線西浦和駅を通り、大宮市西部(現在のさいたま市西区)まで延伸するという計画が立てられた。しかし、都外への延伸は沿線自治体議会の理解を要することや、1985年9月30日の国鉄埼京線開業の影響もあり、上記の運輸政策審議会答申第7号でこの計画は削除され、1990年以降同ルートには首都高速5号池袋線の延伸区間と首都高速埼玉大宮線が順次開通した。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "以上の経緯を経て、東急との乗り入れは当初計画の泉岳寺線・池上線・田園都市線(後の大井町線)から目黒線へと、対象路線は変わったものの実現することとなった。これを受け、東京都交通局では1989年(平成元年)3月30日に三田 - 清正公前(仮称時・現在の白金高輪)間 1.7 kmの第1種鉄道事業免許を、清正公前 - 目黒間 2.3 km は第2種鉄道事業免許の申請を行い、同年5月24日に事業免許を取得した。この免許交付時点で、目黒延伸は1995年(平成7年)10月開業予定とされていた。各種手続きを経た、1992年(平成4年)7月17日に延伸区間の建設工事に着手した。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "合わせて、三田線は開業から20年ほどが経過していることから、営団(当時)・東急・東京都の3者間で相互直通車両規格を定め、三田線の保安装置ATC化・列車無線の更新・乗り入れ車両は8両編成とするなどが盛り込まれた(ただし、目黒開業時点での8両編成化は見送られた)。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "なお、1964年(昭和39年)12月に取得していた泉岳寺 - 三田間の地方鉄道敷設免許は、1972年(昭和47年)に清正公前 - 三田間に変更する起業目論見変更申請の状態となっていたが、清正公前以南の路線ルートが正式に決まっていないことから、処分保留となっていた。前述の免許取得と同時処分により、前述した泉岳寺 - 三田間の第一種鉄道事業免許の廃止許可と、起業目論見変更申請は交通局に返付された。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "当初は1995年度の開業を予定(前述)していたが、建設工事の遅れから1997年度→1999年度、最終的には2000年度(2000年秋)まで延期した。2000年(平成12年)1月24日にはトンネル完成式およびレール締結式が実施された。最終的に東京6号線は西高島平駅 - 目黒駅間の路線として、2000年9月26日に全線開通した。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "なお、乗り入れに先立って1999年(平成11年)12月3日に保安装置をT形ATSからATC方式に切り替え、列車無線を誘導無線(IR)方式から空間波無線(SR)方式に切り替えた。2000年(平成12年)4月からは自動列車運転装置(ATO)を使用開始したほか、乗り入れ直前の9月22日からは車掌乗務を省略したワンマン運転を開始した。ワンマン運転時のホーム上の安全確保のため、全駅にホームゲートを導入したことで各駅の停車時分が増加するが、ATCの導入による最高速度を向上(70 km/h→75 km/h) させることで、従来からの運転時分を確保した。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "港北ニュータウン地区への鉄道建設についても、2008年6月22日に乗り入れ先の東急目黒線列車運転区間が武蔵小杉駅から日吉駅まで延伸され、同駅にて連絡する横浜市営地下鉄グリーンラインが港北ニュータウンを抜けて中山駅までを結ぶという形で実現された。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "なお、営業区間確定前の東京都の公式文書において、三田線の正式な起点は上記の理由から泉岳寺駅となっていた。そのため関係官庁に届け出る文書では未成線である泉岳寺駅 - 三田駅間を加えた実キロ数が記入していたものもあったが、目黒開業時までに正式起点を目黒駅に改め、実キロ数も泉岳寺駅起点のものから目黒駅起点のものに書き換えられた。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "東急目黒線は、2023年3月18日に開業した東急新横浜線・相鉄新横浜線を経由して相鉄本線・いずみ野線への直通運転が開始されている。後述するように乗り入れ対応の車両である6500形の導入計画を有している。また、東急目黒線の武蔵小杉駅の乗降客数の著しい増加と、新規に乗り入れる予定の相鉄に合わせて、この乗り入れ開始時までに三田線の8両編成化が計画されており、地上設備についても8両編成対応に順次改修を予定している。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "6300形3次車については、相鉄直通対応工事を実施する予定との報道が2018年にあったが、その後2022年にコスト高などを理由に消極的と報道された。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "相鉄側では21000系が目黒線・三田線・南北線・埼玉高速鉄道直通対応として製造され、東急側でも3020系を新造しており、また東急目黒線所属の既存車両(3000系と5080系)も8両編成化して相鉄直通対応を実施した。また、都交通局の車両においても8両編成の新型車両6500形を13本導入している。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "三田線については、2019年時点では東急新横浜線側への乗り入れを先行して調整している段階であり、その調整の終了後に相鉄・東急・東京都交通局の3者間で乗り入れ協議を開始することになっている。相鉄 - 東急 - 都営地下鉄の3者直通列車運転も終日されるが、都交通局側では6500形の投入が行われてはいるものの、落成時点では6500形は相鉄直通対応ではない(相鉄直通対応準備工事のみ実施)ことから、相鉄側では当面は片乗り入れとし、運用する車両も6500形の対応工事実施までは東急車と相鉄車のみとなる。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "これに先立ち、都交通局では相鉄との相互乗り入れの準備として、「ダイヤ作成支援システム三田線 相鉄線乗入れ改修委託」を日立製作所と随意契約の上で見積をしていることが2020年12月に明らかとなった。また、2021年には相鉄21000系第1編成が、まずは東急に貸し出されて各種試験を実施し、元住吉検車区や東急目黒線への入線試験を実施した後に、三田線にも入線試験を実施した。三田線入線試験実施期間中は志村車両検修場に留置していた。",
"title": "建設経緯"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "三田線は、東京都交通局が担当する志村(現・高島平) - 三田間を、全6区間に分けて建設を行った。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "その後、西高島平 - 高島平間、三田 - 白金高輪間が建設されている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "地下区間の建設にあたっては、首都高速道路やほぼ全区間にわたって共同溝の計画、また地上道路の立体交差(高架橋方式の橋脚またはアンダーパス道路)の計画があり、三田線トンネルと競合しないよう配慮した構造とした。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "志村坂上 - 千石間は中山道・白山通り(国道17号)の道路下を、白山 - 神保町間は白山通り(都道301号)の道路下を、大手町 - 三田間は日比谷通りの道路下を、開削工法によって建設した。道路下から大きく外れる千石 - 白山間、神保町 - 大手町間は民有地の地下を通過することから、シールド工法(後述)によって建設した。巣鴨駅の南側では、駅前の巣鴨橋(国道17号が山手線・山手貨物線を跨ぐ橋)が三田線の建設工事に支障することから、橋の架け替えが実施された。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "大手町駅(厳密には日本橋川の神田橋付近)から日比谷駅にかけては千代田線との並行区間(同時施工・営団が東京都から受託施工)となっており、日比谷通りの地下を千代田線は東側、三田線は西側(皇居側)を通っており、両線のトンネルが一体構造となっている。日比谷通りの幅員の制約により、千代田線と三田線の駅を並べて設置することはできないことから、約2 kmの並行区間に約500 m間隔で駅を設置することとし、千代田線大手町駅、三田線大手町駅、千代田線二重橋前駅、三田線日比谷駅、千代田線日比谷駅が交互に設けられている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "当初終点であった三田駅は地上用地の制約から、行き止まり駅ながら上下2段式のホーム構造で、折り返しには芝公園駅の三田駅寄りに設置した両渡り分岐器を使用して単線並列運転を行っていた。これは泉岳寺方面への延伸を想定した暫定的なものとしたが、この状態は目黒方面の延伸まで約27年間続いた。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "一部区間ではシールド工法や特殊な工法を採用している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "志村坂上駅より北西側、西高島平駅までの区間は地上高架線となっていて、三田線は都営地下鉄の路線で最長距離の地上区間 (5.2 km) を持つ。志村坂上駅 - 志村三丁目駅 - 蓮根駅 - 西台駅の間ではS字カーブが連続するが、これは本路線の計画段階において、志村地域のルートが幾度も変更された名残りである。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "1962年(昭和37年)に都市交通審議会答申第6号で示された北側の終端「志村」へ至るルートは、当時営業中の都電志村線(41系統)を踏襲する形で、現在の志村坂上駅からそのまま中山道を北上し、板橋区長後二丁目(現・坂下二丁目)で新河岸川に架かる志村橋の手前へと至るものであった。ところが、その後埼玉県方面への延伸を検討した際、志村坂上から北上して地下方式のまま河川をくぐり抜けるためには勾配が急になり過ぎることと、新河岸川・荒川の河川下工事が地質上困難で莫大な費用が掛かることが判明した。このため、志村坂上以北は地上に高架線を建設して、河川を橋梁で越えるように計画変更を目論んだが、中山道沿いには支障物件が多かったため、ルートを西側に変更して、現在の志村三丁目駅 - 蓮根駅を経由し、そのまま北上して蓮根三丁目の蓮根橋手前へ至り、そこに「志村駅」を設置する案が策定された。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "その後1964年(昭和39年)に「志村駅」における6号線と東武東上線の相互乗り入れ計画が盛り込まれ、翌1965年(昭和40年)には板橋区土地区画整理事業により、旧徳丸ヶ原水田地区に大規模団地を造成する方針が決定した。これにより増加が見込まれる地域住民のアクセスの便を考慮し、また先述の計画変更で取り止めとなった馬込検車場使用計画の代替として、公団住宅蓮根団地の西側、志村西台町(現・高島平一丁目付近)に建設を予定していた車庫へ向かう引込線用地の一部を本線に転用し、車庫建設地を同町内北部(現・高島平九丁目に位置する志村車両検修場)に再度変更した上で、西台駅 - 高島平駅に至る現在のルートを形成することになった。以上の経緯により、地上区間において連続する急カーブが設けられることになった。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "S字カーブ区間の最小曲線半径は、志村坂上 - 志村三丁目間が298メートル(制限速度60 km/h)、志村三丁目 - 蓮根間が211メートル(制限速度50 km/h)、蓮根 - 西台間が162メートル(制限速度40 km/h)となっている。また1976年(昭和51年)5月6日開業の高島平 - 西高島平駅間は一部を除きスラブ軌道となっている。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "目黒駅から東急目黒線・東急新横浜線を経由し、相鉄新横浜線の西谷駅より相鉄本線の海老名駅及び相鉄いずみ野線の湘南台駅まで相互直通運転を実施している。白金高輪駅を起・終点とする列車の大部分は同駅で埼玉高速鉄道線・南北線からの目黒方面発着の列車との接続がほとんどとられている。ラッシュ時には高島平駅を始発・終着とする列車(出・入庫列車)がある。2017年3月25日のダイヤ改正までは御成門駅折り返しもあった。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "ATOを装備しており、基本的にATOを使用して自動運転を行っている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2004年12月23日から2009年まで、臨時列車「みなとみらい号」が高島平駅 - 横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅間で運行されていた。末期を除いて行楽シーズンに1 - 2か月に1回の割合で設定されていた。この列車には特製のヘッドマークを取り付けていた。三田線内は各駅停車であった。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "大晦日の終夜運転を開業から1972年までと1986年以降実施している。2000年以降はこの時のみ目黒駅発着の列車が運転されている。また、2014年より水道橋駅が最寄りの東京ドームでのコンサートイベントへの対応として、一部時間帯で終夜運転列車を増発して以降は、新板橋駅発着(2014年度のみ)や1往復のみ三田駅発着の列車も設定されている(2014年度に設定開始。2014年度のみ新板橋駅発着、2015年度は高島平駅発着。2016年度、2017年度は南行西高島平駅発、北行高島平駅着で設定。目黒駅発着列車と同様に終夜運転のみの設定であり、芝公園駅南方の非常渡り線を使用して転線している)。なお、2016年度より終夜運転の本数が縮小され、これまで基本的に30分間隔(1時台のうち、三田駅発着列車が入る場合を除く)であったものを、午前2時台 - 4時台の間は1時間間隔に減便した。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "終夜運転以外では、8月に行われるいたばし花火大会では2010年頃まではこの時しか運転されない巣鴨駅発着が臨時運転されていたが、後に巣鴨駅発着は御成門駅発着に延長され消滅した。しかし、御成門行きもこの時限り運転される列車である。",
"title": "運転"
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{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "2006年9月25日より東急目黒線直通列車の一部が東急線内にて急行列車としての運行を開始した。東急線区間で急行運転が開始された後も、三田線内は全列車が各駅停車での運転となっている。また、三田線内では都営6300形においては日吉方面行き急行を除いて種別表示を行わないが、他の車両では「各駅停車」または「各停」と表示される。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "日中は30分サイクルのパターンダイヤであり、三田線内(西高島平駅 - 白金高輪駅間)は6分間隔である。30分に相鉄線海老名駅発着が1本(東急線内急行)、東急線日吉駅発着が2本、白金高輪駅発着が2本運転される。このうち、東急線内急行運転の列車は白金高輪駅での南北線列車との接続を行わない。新横浜駅周辺で大規模イベントが開催される場合は日吉駅発着列車が新横浜駅まで延長運転される。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2008年6月22日のダイヤ改正までは、日中は西高島平 - 白金高輪間と西高島平 - 武蔵小杉間が交互に運転されていた。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2016年10月21日のダイヤ改正では、平日の朝に高島平 - 御成門間で1往復増発された。これにより、2008年6月22日のダイヤ改正で消滅した通常ダイヤにおける定期列車の御成門駅発着が復活したが、2017年3月25日のダイヤ改正で東急目黒線直通列車に変更され再度消滅した。ただし、御成門駅発着列車自体は前述のいたばし花火大会開催時の臨時列車で設定されている。",
"title": "運転"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2020年(令和2年)度の朝ラッシュ時最混雑区間(南行、西巣鴨→巣鴨間)のピーク時(7:40 - 8:40)の混雑率は129%である。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "都営地下鉄の4路線では最も輸送人員が少ない路線であるが、6両編成であり他路線と同様に混雑する。板橋区内の11駅は一日平均乗降人員が4万人を下回るが新板橋駅まで接続路線がなく、山手線と接続する巣鴨駅までの区間が最混雑区間となっている。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "開業以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。",
"title": "利用状況"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "東京都交通局(都営地下鉄)では第10号線(→都営地下鉄新宿線)用の車両として、1971年(昭和46年)に10-000形試作車を製作、電機子チョッパ制御や電気指令式ブレーキ、車内信号式自動列車制御装置(ATC)など当時最新の機器が搭載されたため、6号線(→都営地下鉄三田線)において性能確認試験が行われた。この当時、第10号線(→都営地下鉄新宿線)は建設中であったことから、三田線と新宿線では軌間が異なるが、10-000形試作車には6000形用の台車(軌間 1,067 mm)と主電動機を装着していた。",
"title": "車両"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、10号線(→都営地下鉄新宿線)では、乗務員の疲労軽減や安全性の向上を目的としてATOの導入を計画、10-000形試作車には三菱電機製の車上プログラム方式ATOが搭載された。1972年(昭和47年)初めから6号線(→都営地下鉄三田線)本蓮沼 - 志村三丁目間(南行線、約2 km)に10号線用の試作信号保安設備(車内信号式ATC含む)を併設し、終電後に線路閉鎖を行って各種試験・測定を行った。性能確認試験は、昼間時間帯には志村検車場(当時)で実施され、本線上で必要な走行試験はすべて前述の夜間終電後に実施した。走行試験は1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)まで、およそ2年間実施された。",
"title": "車両"
},
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"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "どの列車がどの車両で運転されるかは列車番号の末尾アルファベットで区別されており、「T」が都交車両(21T - 89Tの奇数番号)、「K」が東急車両(01K - 48K)、「G」が相鉄車両(31G - 43G)となっている(「S」は東京メトロ、「M」は埼玉高速)。 なお、東急車・相鉄車の運用は、三田線運用と南北線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:35Gと36G)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。",
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"text": "列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)にも掲載されている。",
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"text": "なお、三田線内では南行列車(目黒・日吉方面)の列車番号は偶数番号となっており、例えば「21T」運用では北行列車(西高島平方面)は「xx21T」、南行列車は「xx20T」となる。",
"title": "車両"
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"text": "また、東急線内の列車番号は6桁の数字で表記され、上3桁が運用番号を表している。400番台が都営車両・200番台が東急・600番台は相鉄の車両となっており(300番台は東京メトロ・500番台は埼玉高速鉄道車両)、例えば「31T」運用の場合は東急線内では「431」となる。",
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"text": "また各事業者間の走行距離調整の関係上、東急・相鉄両者の車両は東急線に乗り入れない列車にも使用されており、高島平 - 西高島平間の短区間列車にもそれぞれの車両が充当されている。",
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"text": "目黒駅は東急電鉄、白金台駅と白金高輪駅は東京地下鉄、それ以外の各駅(三田 - 西高島平間)は東京都交通局の管轄駅のため、駅設備は管轄している各事業者に準じたものが使用されている。東京地下鉄の管轄2駅ではガラス張りの準密閉式フルハイトタイプのホームドアを使用しており、それ以外の駅では東急管轄の目黒駅を含めてハーフハイトタイプのホームゲートを使用している。",
"title": "駅設備"
},
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"text": "発車メロディは白金台駅・白金高輪駅を除く全ての駅で南北線開業時に用意された音楽(いわゆる「音無川の流れ」)を使用していたが、2023(令和5)年2月4日から新高島平駅を皮切りに他の都営地下鉄3線で使用している曲に順次変更され、3月18日までに完了した。",
"title": "駅設備"
},
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"text": "設備の信頼性向上と、2022年度以降に実施する8両編成化に対応するため、2019年(令和元年)6月17日より各駅にて日立製作所製のホームドアを交換する工事を順次行い、2022年5月11日に日比谷駅を最後に完了した・。",
"title": "ホームドア更新"
},
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"text": "交換工事は各駅につき2、3か月程度の工期を必要としており、交換中は、まず工期に入る前にホームドアを開放した状態のままにしたのち、一旦それを撤去し、仮設の固定柵と警備員で対応していた。",
"title": "ホームドア更新"
}
] | 三田線(みたせん)は、東京都品川区の目黒駅から板橋区の西高島平駅までを結ぶ、東京都交通局が運営する鉄道路線(都営地下鉄)である。『鉄道要覧』による名称は6号線三田線。開業当初は「都営6号線」と称した(後述)。一般的に都営三田線と呼ばれることが多い。 路線名の由来は名称制定時の終着駅である三田駅(港区芝)付近の地名三田から。車体および路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「ブルー」(青)、路線記号はI。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{更新|date=2023年3月24日 (金) 18:22 (UTC)}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名=[[File:PrefSymbol-Tokyo.svg|20px|東京都交通局|link=東京都交通局]] 三田線
|路線色=#0079c2
|ロゴ=File:Toei Mita line symbol.svg
|ロゴサイズ=40px
|画像= Toei6500wiki.jpg
|画像サイズ=300px <!-- 車両記事ではなく「路線記事」ですから三田線内の画像をお願いします。-->
|画像説明=三田線の[[東京都交通局6500形電車 (鉄道)|6500形電車]]<br/>(2022年11月、[[新高島平駅]])
|国={{JPN}}
|所在地=[[東京都]]
|種類=[[地下鉄]]
|路線網=[[都営地下鉄]]
|起点=[[目黒駅]]
|終点=[[西高島平駅]]
|駅数=27駅
|輸送実績=
|1日利用者数=
|路線記号=I
|路線番号=6号線
|路線色3={{Legend2|#0079c2|ブルー}}
|開業=[[1968年]][[12月27日]]
|全通=[[2000年]][[9月26日]]
|休止=
|廃止=
|所有者=[[東京地下鉄]](目黒-白金高輪間 第1種)<br />[[東京都交通局]](白金高輪-西高島平間 第1種)
|運営者=東京都交通局(目黒-白金高輪間 第2種、白金高輪-西高島平間 第1種)
|車両基地=[[志村車両検修場]]
|使用車両=[[#車両|車両]]を参照
|路線構造=
|路線距離=26.5 [[キロメートル|km]]
|軌間=1,067 [[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])
|線路数=[[複線]]
|複線区間=全区間
|電化方式=[[直流電化|直流]]1500 [[ボルト (単位)|V]]、[[架空電車線方式]]
|最大勾配=35 ‰<ref name="PIC2001-7-26">{{Cite journal|和書|author=篠澤政一(東京都交通局電車部運転課)|title=輸送と運転|journal=鉄道ピクトリアル|date=2001-07-10|volume=51|issue=第7号(通巻704号)|page=26|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref>
|最小曲線半径=160 m<ref name="PIC2001-7-26" /><br />(白金台駅 - 白金高輪駅間)<ref name="PIC2001-7-26" /><br />161 m<ref name="PIC2001-7-26"/><br />(白金高輪駅 - 三田駅間)<ref name="PIC2001-7-26" />
|閉塞方式=[[車内信号]]閉塞式
|保安装置=[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]
|最高速度=白金高輪 - 西高島平間最高速度75 [[キロメートル毎時|km/h]]<br />目黒 - 白金高輪間最高速度80 km/h
|路線図=File:Linemap of Tokyo Metropolitan Government Bureau of Transportation Mita Line.PNG
}}
'''三田線'''(みたせん)は、[[東京都]][[品川区]]の[[目黒駅]]から[[板橋区]]の[[西高島平駅]]までを結ぶ、[[東京都交通局]]が運営する[[鉄道路線]]([[都営地下鉄]])である。『[[鉄道要覧]]』による名称は'''6号線三田線'''<ref group="注釈">「[http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1011683001.html 東京都交通局告示 東京都地下高速電車の路線の名称及び区間]」では「三田線」と定められている。</ref>。開業当初は「'''都営6号線'''」と称した([[#沿革|後述]])。一般的に'''都営三田線'''と呼ばれることが多い。
路線名の由来は名称制定時の終着駅である[[三田駅 (東京都)|三田駅]]([[港区 (東京都)|港区]][[芝 (東京都港区)|芝]])付近の地名[[三田 (東京都港区)|三田]]から。車体および路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「ブルー」(青)、路線記号は'''I'''<ref group="注釈">m'''I'''ta。頭文字の'''M'''は[[東京メトロ丸ノ内線]]で使用。[[東京の地下鉄]]において、路線記号がローマ字表記の頭文字になっていないのは、三田線のほか[[都営地下鉄大江戸線]] (o'''E'''do)、[[東京メトロ半蔵門線]] (han'''Z'''omon) がある。</ref>。
== 概要 ==
東京特別区部の南部から[[日比谷]]・[[大手町 (千代田区)|大手町]]などの[[都心]]部を経由し、北西部の板橋区まで、おおむね南北を弓なりに(西に向いた逆C字型)走る路線である。
[[東急目黒線]]・[[東急新横浜線]]・[[相鉄新横浜線]]・[[相鉄本線]]・[[相鉄いずみ野線]]と[[直通運転]]を行っている(詳細は[[#運転]]を参照)。
この路線は[[高島平駅]]側より開業したが、起点は目黒駅([[2000年]][[9月26日]] - )である。[[ワンマン運転]]を実施しており、保安装置として[[ホームドア]]([[京三製作所]]製のホームドア<ref group="注釈">8両化による更新前は「ホームゲートシステム」と呼ばれる日立製作所および東京都交通局による公称を使用していた[http://www.hitachi.co.jp/universaldesign/products/business/homegate/]</ref>)を全駅に装備している([[#駅設備]]を参照)。
収支状況は、[[2004年]]度決算で純損益が約16億2,131万6,000円の赤字<ref>{{PDFlink|[http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/16kosoku.pdf 『平成16年度東京都高速電車事業会計決算審査意見書』]}}の5ページ目</ref>、[[2005年]]度決算で約14億8,247万4,000円の黒字<ref>{{PDFlink|[http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/18kouketu_7kosoku.pdf 『平成17年度東京都高速電車事業会計決算審査意見書』]}}の7ページ目</ref>、[[2006年]]度決算で約21億6,957万6,000円の黒字<ref>{{PDFlink|[http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/05kessankikin/18kouketu/18kousoku.pdf 『平成18年度東京都高速電車事業会計決算審議意見書』]}}の7ページ目</ref>、[[2015年]]度決算で約58億3,153万円の黒字<ref>{{PDFlink|[http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/05kessankikin/27kouketu/2707kousoku.pdf 平成27年度東京都高速電車事業会計決算審査意見書]}}東京都監査事務局 2016年10月5日</ref>と着実に改善している。
<!--都営地下鉄の路線では唯一[[軌間]]が[[狭軌]]である。 →狭軌の定義は標準軌(1435 mm)より狭いというだけです。新宿線も狭軌ということになります。-->
=== 路線データ ===
{| {{Railway line header}}
{{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#0079c2}}
{{BS-table}}
{{BS3|||HST|||[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]|}}
{{BS3|||LSTR||||}}
{{BS3|||tSTRa|||↑[[東急電鉄|東急]]:[[File:Tokyu MG line symbol.svg|15px|MG]] [[東急目黒線|目黒線]]|}}
{{BS5||||O3=HUBrg|tBHF|O4=HUBeq||0.0|I-01 [[目黒駅]]|{{rint|tokyo|n}} [[東京メトロ南北線|南北線]]|}}
{{BS5||STRq|STRq|O3=HUB|tKRZ|STRq|||←[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[埼京線]]・[[湘南新宿ライン]]→|}}
{{BS5|STR+l|STRq|BHFq|O3=HUBe|tKRZ|STRq|||←JR東:[[山手線]]→|}}
{{BS5|LSTR|||tBHF||1.3|I-02 [[白金台駅]]|{{rint|tokyo|n}} [[東京メトロ南北線|南北線]]|}}
{{BS5||||tABZgl|tSTR+r|||↑[[東京地下鉄]]:{{rint|tokyo|n}} [[東京メトロ南北線|南北線]]→|}}
{{BS5||||tXBHF-L|tXBHF-R|2.3|I-03 [[白金高輪駅]]|{{rint|tokyo|n}} [[東京メトロ南北線|南北線]]|}}
{{BS7|||||tSTR|tSTR2|tSTRc3||||}}
{{BS7||||tSTR+r|O4=POINTER+1|tSTR|tSTRc1|tSTR+4|||←[[都営地下鉄]]:{{rint|tokyo|a}} [[都営地下鉄浅草線|浅草線]]↓|}}
{{BS7|STR+4|O1=POINTERg@fq|LSTR||tSTR|tSTR||tLSTR|||←JR東:[[京浜東北線]]↓|}}
{{BS7|XBHF-L|O1=HUBaq|XBHF-R|O2=HUBq||O3=HUBq|tBHF|O4=HUBq|tBHF|O5=HUBeq|||4.0|I-04 [[三田駅 (東京都)|三田駅]]||}}
{{BS7|KRZt|KRZt|tSTRq|tSTRr|tSTR|||||←[[田町駅]]|}}
{{BS7|LSTR|LSTR|||tBHF|||4.6|I-05 [[芝公園駅]]||}}
{{BS5|||tSTRq|tKRZt|tSTRq|||←都営地下鉄:{{rint|tokyo|e}} [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]→|}}
{{BS3|||tBHF|5.3|I-06 [[御成門駅]]||}}
{{BS3|||tBHF|6.4|I-07 [[内幸町駅]]||}}
{{BS7|LSTR|LSTR||tSTR+l|tKRZt|tSTRq||||↓東京地下鉄:{{rint|tokyo|c}} [[東京メトロ千代田線|千代田線]]→|}}
{{BS7|STR|STR||O3=HUBrg|tBHF|O4=HUBeq|tSTR||||||}}
{{BS7|KRZt|KRZt|tBHFq|O3=HUB|tKRZt|tKRZt|tSTRq||||←東京地下鉄:{{rint|tokyo|h}} [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]→|}}
{{BS7|STR|STR||O3=HUBtl|tSTR|O4=HUBq|tBHF|O5=HUBeq|||7.3|I-08 [[日比谷駅]]||}}
{{BS7|KRZt|KRZt|tHSTq|O3=HUB|tKRZt|tKRZt|tSTRq||||←東京地下鉄:{{rint|tokyo|y}} [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]→|}}
{{BS7|XBHF-L|O1=HUBaq|XBHF-R|O2=HUBq||O3=HUBrf|tSTR|tSTR|||||←[[有楽町駅]]|}}
{{BS7|STR3|STR3||tHST|tSTR|||||[[二重橋前駅]]|}}
{{BS3||tSTR|tSTR||||}}
{{BS5|tSTR+4||O2=HUBrg|tSTR|O3=HUBq|tBHF|O4=HUBeq||8.2|I-09 [[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]||}}
{{BS5|tKRZt|tBHFq|O2=HUB|tKRZt|tKRZt|tSTRq|||←東京地下鉄:{{rint|tokyo|t}} [[東京メトロ東西線|東西線]]→|}}
{{BS5|tSTR||O2=HUBtl|tBHF|O3=HUBeq|tSTR|||||}}
{{BS5|tKRZt|tBHFq|O2=HUB|tKRZt|tKRZt|tSTR+r|||←東京地下鉄:{{rint|tokyo|z}} [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]↓|}}
{{BS5|tBHF|O1=HUBaq|tSTRc2|O2=HUBrf|tSTR3|O3=tSTRc2|tSTR3|O4=tSTRc2|tSTR3|||←東京地下鉄:{{rint|tokyo|m}} [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]↑|}}
{{BS5|tSTRr|tSTR+1|tSTR+1|O3=tSTRc4|tSTR+1|O4=tSTRc4|tSTRc4||||}}
{{BS3|tSTRr|tSTR|tSTR||||}}
{{BS3|tSTR+l|tKRZt|tSTRr||||}}
{{BS5||tSTR|tBHF|O3=HUBaq||O4=HUBlg||9.6|I-10 [[神保町駅]]||}}
{{BS5||tSTRl|tKRZt|tBHFq|O4=HUB|tSTRq|||↑東京地下鉄:{{rint|tokyo|z}} [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]→|}}
{{BS5||tSTRq|tKRZt|tBHFq|O4=HUBe|tSTRq|||←都営地下鉄:{{rint|tokyo|s}} [[都営地下鉄新宿線|新宿線]]→|}}
{{BS|tSTR||||}}
{{BS5|||tBHF|O3=HUBaq||O4=HUBlg||10.6|I-11 [[水道橋駅]]||}}
{{BS5|||tKRZ|STRq|O4=HUB|STRq|||←JR東:[[中央線快速|中央線(快速)]]→|}}
{{BS5|||tKRZ|BHFq|O4=HUBe|STRq|||←JR東:[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]→|}}
{{BS7||||tSTR|||tLSTR||||}}
{{BS7||||tSTR||tSTRc2|tSTR3|O7=POINTERg@fq|||↑↓東京地下鉄:{{rint|tokyo|n}} [[東京メトロ南北線|南北線]]|}}
{{BS7||||tSTR||tSTR+1|tSTRc4||||}}
{{BS7|||tSTReq|tKRZ|STRq|tKRZ|HSTq|O7=HUBa|||←東京地下鉄:{{rint|tokyo|m}} [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]→|}}
{{BS7||||tSTR||O5=HUBrg|tHST|O6=HUBq||O7=HUBrf|||[[後楽園駅]]|}}
{{BS7||||tKRZt|tBHFq|O5=HUB|tKRZt|tSTRq|||←都営地下鉄:{{rint|tokyo|e}} [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]→|}}
{{BS7||||tBHF|O4=HUBaq||O5=HUBrf|tSTR||11.3|I-12 [[春日駅 (東京都)|春日駅]]||}}
{{BS5|||tKRZt|tSTRq|tSTRr||||}}
{{BS|tBHF|12.7|I-13 [[白山駅 (東京都)|白山駅]]||}}
{{BS|tBHF|13.7|I-14 [[千石駅]]||}}
{{BS3||O1=HUBrg|tBHF|O2=HUBeq||14.6|I-15 [[巣鴨駅]]||}}
{{BS5|STRq|STRq|O2=HUB|tKRZ|STRq||||←JR東:湘南新宿ライン→|}}
{{BS5|STRq|BHFq|O2=HUBe|tKRZ|STRq||||←JR東:山手線→|}}
{{BS|tSTR|||← [[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|13px|link=都電荒川線]] [[都電荒川線|東京さくらトラム(都電荒川線)]]<!--「荒川線」としない-->→|}}
{{BS5|||mtKRZ|uBHFq|O4=HUBa|uSTRq|||[[新庚申塚停留場]]|}}
{{BS5|||tBHF|O3=HUBaq||O4=HUBrf||16.0|I-16 [[西巣鴨駅]]||}}
{{BS|tKRZ|||←JR東:[[赤羽線]](埼京線)→|}}
{{BS|tBHF|17.0|I-17 [[新板橋駅]]||}}
{{BS|tBHF|17.9|I-18 [[板橋区役所前駅]]||}}
{{BS|tBHF|19.1|I-19 [[板橋本町駅]]||}}
{{BS|tBHF|20.0|I-20 [[本蓮沼駅|本蓮沼駅]]||}}
{{BS|tBHF|21.1|I-21 [[志村坂上駅]]||}}
{{BS|tSTRe||||}}
{{BS|BHF|22.0|I-22 [[志村三丁目駅]]||}}
{{BS|BHF|23.2|I-23 [[蓮根駅|蓮根駅]]||}}
{{BS|BHF|24.0|I-24 [[西台駅]]||}}
{{BS3|KDSTa|STR|||[[志村車両検修場]]||}}
{{BS3|STRl|ABZg+r|||||}}
{{BS|BHF|25.0|I-25 [[高島平駅]]||}}
{{BS|BHF|25.7|I-26 [[新高島平駅]]||}}
{{BS|KBHFe|26.5|I-27 [[西高島平駅]]||}}
|}
|}
*路線距離([[営業キロ]]):26.5 [[キロメートル|km]]
**目黒 - 白金高輪間2.3 km(第二種)、白金高輪 - 西高島平間24.2 km
*[[軌間]]:1067 [[ミリメートル|mm]]
*駅数:27駅(起終点駅含む)
*複線区間:全線
*電化区間:全線(直流1500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]])
*地上区間:志村坂上 - 西高島平間
*[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:[[車内信号]]閉塞式
*保安装置:[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]]・[[自動列車運転装置|ATO]](基本的に自動運転)
*[[列車無線]]方式:空間波無線 (SR) 方式
**[[漏洩同軸ケーブル]] (LCX) を使用したものである。
*最高運転速度:白金高輪 - 西高島平間75 [[キロメートル毎時|km/h]]、目黒 - 白金高輪間80 km/h
*[[表定速度]]:30.8 km/h<ref name="aramashi2020">{{Cite journal|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201109043025/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/pdf/kotsu_aramashi_2020.pdf|archivedate=2020-11-09|title=営業線の概要|date=2020-09|publisher=東京都交通局|journal=都営交通のあらまし2020|format=PDF|pages=2|accessdate=2021-03-06}}</ref>
*全線所要時分:52分10秒<ref name="aramashi2020"/>
*[[車両基地]]:[[志村車両検修場]]
目黒 - [[白金高輪駅|白金高輪]]間 (2.3 km) は[[東京メトロ南北線]]と線路(施設)を共用しており、[[東京地下鉄]]が[[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]、東京都交通局が[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]となっている。このため、列車の最高運転速度はこの区間に限り南北線に合わせて80 km/hとなっているほか、運賃計算方式に特例がある(「[[東京メトロ南北線#運賃計算の特例]]」を参照)。
== 沿革 ==
* [[1962年]]([[昭和]]37年)
** [[6月8日]]:[[都市交通審議会答申第6号]]において第6号線(西馬込 - 泉岳寺 - 大手町 - 巣鴨 - 志村間及び大和町(板橋区) - 上板橋間)が答申される<ref name="Hibiya-Const117">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.117 - 120。</ref>。
** [[8月29日]]:建設省告示第2187号により、前述の第6号線は'''都市計画第6号線'''(東京都市高速鉄道第6号線)として、[[都市計画]]が決定する<ref name="Hibiya-Const117"/>。
* [[1964年]](昭和39年)
** [[1月31日]]:都市交通審議会は前述の第6号答申の変更を行い、第6号線の大和町(板橋区) - 上板橋間の分岐線を廃止し、志村からさらに西進して埼玉県大和町(現・和光市)に延伸、第6号線は桐ケ谷 - 泉岳寺 - (現在の都営三田線ルート) - 志村 - 埼玉県大和町方面間とし、西馬込 - 泉岳寺間は第1号線に振り替えられる<ref name="Hibiya-Const167">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.167 - 168。</ref>。
** [[3月31日]]:東京都が、[[帝都高速度交通営団]]が所有していた巣鴨 - 大手町間の地方鉄道敷設免許譲受を申請<ref name="Hibiya-Const169">[[#Hibiya-Con|東京地下鉄道日比谷線建設史]]、pp.169 - 170。</ref>。
** [[4月10日]]:東京都が、泉岳寺 - 大手町間ならびに巣鴨 - 志村(現・高島平)間の地方鉄道敷設を申請。
** [[12月16日]]:前述の路線ルート変更後の第6号線桐ケ谷 - 泉岳寺 - 志村 - 埼玉県大和町間(30.5 km)が都市計画路線の変更認可を受ける<ref name="Hibiya-Const167"/>。
** [[12月18日]]:3月と4月に申請した敷設免許の取得と免許譲受が許可され<ref name="Hibiya-Const169"/>、東京都に志村(現・高島平) - 三田( - 泉岳寺)間の地方鉄道敷設免許が交付される。
* [[1965年]](昭和40年)[[12月11日]]:都営6号線建設工事開始。
* [[1968年]](昭和43年)[[12月27日]]:'''都営6号線'''として[[巣鴨駅|巣鴨]] - 志村(現・[[高島平駅|高島平]])間 (10.4 km) 開業。[[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|6000形]]電車が4両編成で営業運転開始。当時同電車の帯色は「赤」だった。
* [[1969年]](昭和44年)[[8月1日]]:志村駅を高島平駅に改称。
* [[1970年]](昭和45年)7月:[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]を導入(当線は青)<ref name="RP268_35" />。この後6000形電車の帯色が「赤」から「青」へ変更された。
* [[1972年]](昭和47年)
** [[5月14日]]:6両編成の運行を開始<ref name="RP268_35" />。
** [[6月30日]]:[[日比谷駅|日比谷]] - 巣鴨間 (7.3 km) 開業<ref name="RP268_35">{{Cite journal|和書|author=豊田純男(東京都交通局高速電車建設本部計画部計画第一課)|title=都営地下鉄6号線巣鴨-日比谷間開通|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1972-08-01|volume=22|issue=第8号(通巻第268号)|pages=35 - 40|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。
** [[8月29日]]:東京都が、[[東武鉄道]]が所有していた[[和光市駅|和光市]] - 高島平間の地方鉄道敷設免許のうち、三園町(現・西高島平) - 高島平間について譲受するための申請を行う。
* [[1973年]](昭和48年)
**[[4月28日]]:三園町 - 高島平間の地方鉄道敷設免許譲受。
** [[11月27日]]:[[三田駅 (東京都)|三田]] - 日比谷間 (3.3 km) 開業<ref>{{Cite news |title=日比谷-三田間 来る27日に開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1973-11-23 |page=1 }}</ref>。
** [[12月31日]]:労働争議により、都営地下鉄の大晦日から元日にかけての[[終夜運転]]を中止。
* [[1976年]](昭和51年)[[5月6日]]:高島平 - [[西高島平駅|西高島平]]間 (1.5 km) 開業<ref>{{Cite news |title=都営地下鉄6号線全線開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1976-05-07 |page=1 }}</ref>。新高島平駅、西高島平駅には、都営地下鉄初めてとなる自動改札機を試験設置。
* [[1978年]](昭和53年)[[7月1日]]:'''都営三田線'''に改称。
* [[1985年]](昭和60年)[[7月11日]]:[[運輸政策審議会答申第7号]]において、都営6号線の目黒延伸が確定する<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>。
* [[1986年]](昭和61年)12月31日:三田線の大晦日 - 元日終夜運転を再開。
* [[1988年]](昭和63年)[[8月18日]]:帝都高速度交通営団と「営団7号線目黒ー清正公前鉄道線路を都6号線が使用することに関する基本事項についての覚書」を結ぶ<ref name="RJ414_145">[[#RJ414|『鉄道ジャーナル』通巻414号、p.145]]</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** [[3月30日]]:東京都が、三田 - 清正公前(現・[[白金高輪駅|白金高輪]])間の第1種鉄道事業免許ならびに清正公前 - 目黒間の第2種鉄道事業免許を申請する<ref name="RJ414_146">[[#RJ414|『鉄道ジャーナル』通巻414号、p.146]]</ref><ref name="TOEI90th-427">東京都交通局『東京都交通局90年史』年表pp.427 - 430。</ref>。
** [[5月6日]]:6000形1編成(6両)を冷房化<ref name="RP1990-10EX">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1990年10月臨時増刊号新車年鑑1990年版pp.185・296・297。</ref>。三田線で初めての冷房車となる<ref name="RP1990-10EX"/>。
** [[5月24日]]:3月30日に申請した鉄道事業免許が東京都に交付される<ref name="RJ414_146"/><ref name="TOEI90th-427"/>。同時に泉岳寺 - 三田間の第1種鉄道事業免許が廃止される<ref name="Tokyo-History-80th-458">東京都交通局『東京都交通局80年史』pp.458 - 462。</ref>。この時点で、目黒延伸は[[1995年]](平成7年)10月開業予定とされていた<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>。
* [[1992年]](平成4年)[[7月17日]]:三田 - 清正公前間の建設工事に着手<ref name="TOEI90th-427"/>。
* [[1993年]](平成5年)[[6月23日]]:[[東京都交通局6300形電車|6300形]]電車営業運転開始。
* [[1994年]](平成6年)[[11月1日]]:全線で[[中波放送|AM放送]]を受信できるサービスを導入<ref>{{Cite news |title=都営地下鉄の車内でニュースや音楽--11月1日スタート |newspaper=[[毎日新聞]](東京朝刊/社会) |date=1994-10-14 |location=[[東京都]] |publisher=[[毎日新聞社]] |page=27 }}</ref>。
* [[1999年]](平成11年)
** [[3月29日]]:高島平駅にホームゲート(ハーフハイト型[[ホームドア]])を試験設置<ref name="gate1999">{{Cite journal|和書|author=東京都交通局信号通信課設備改良係|title = 都営三田線へ設置するホームゲート(可動式ホーム柵)|date=1999-05|publisher=社団法人日本地下鉄協会|journal=SUBWAY|issue=117|ISSN=02895668|pages=41-46}}</ref><ref name="TOEI90th-434">東京都交通局『東京都交通局90年史』年表pp.436 - 437。</ref>。
** 8月:ホームゲートの設置を開始。
** [[11月28日]]:6000形電車が営業運転終了<ref name="TOEI90th-438"/>、翌[[11月29日|29日]]から6300形電車のみでの運転となる<ref>{{Cite news |title=三田線6000形、28日引退 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1999-11-11 |page=3 }}</ref>。
** [[12月3日]]:信号保安設備がT形[[自動列車停止装置|ATS]]から[[自動列車制御装置|新CS-ATC]]に<ref name="TOEI90th-434"//>、[[列車無線]]が[[誘導無線]]から空間波無線に更新。同時に駅自動放送を変更。同日より水道橋駅の非常渡り線を使用停止(直後に撤去)。
* [[2000年]](平成12年)
** [[1月24日]]:建設中の三田 - 白金高輪間のトンネル完成およびレール締結式が実施される<ref name="TOEI90th-434"/>。[[3月28日]]には列車入線試験が実施される<ref name="TOEI90th-438">東京都交通局『東京都交通局90年史』年表pp.438 - 440。</ref>。
** [[4月20日]]:正式名称を都営三田線から'''三田線'''に改める。
** 4月:全線で[[自動列車運転装置|ATO]]による自動運転を開始。
** [[8月10日]]:全駅においてホームゲートの設置を完了<ref name="TOEI90th-438"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-51.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20001017204631/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-51.htm|title=〜Here Comes the Platform Gate!!~ 都営三田線ホームゲートの設置予定について|archivedate=2000-10-17|accessdate=2022-01-23|publisher=東京都交通局|language=日本語|deadlinkdate=2022年1月}}</ref>。
** [[9月22日]]:直通運転準備のダイヤ改正<ref name="TOEI90th-438"/>、同時に[[ワンマン運転]]開始<ref name="TOEI90th-438"/>。ただし、三田 - 目黒間は非営業扱い。同日より東急車の運用を開始。
** [[9月26日]]:三田 - 目黒間 (4.0 km) 開業(全線開業)<ref name="pr20000207">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20040205175209/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-s02.html|language=日本語|title=平成12年9月26日 営団南北線 溜池山王・目黒間、都営三田線 三田・目黒間開業 東急目黒線との相互直通運転開始 開業区間の運賃及び相互直通運転に伴う運行形態を決定|publisher=帝都高速度交通営団/東京急行電鉄/東京都交通局|date=2000-08-30|accessdate=2020-12-12|archivedate=2004-02-05}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-88.htm|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010609225822/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/topics/topics01-88.htm|language=日本語|title=都営三田線ダイヤ改正とワンマン運転の実施について|publisher=東京都交通局|date=2000-08-30|accessdate=2022-01-23|archivedate=2001-06-09}}</ref><ref name="交通20000927">{{Cite news |title=営団南北線・都営三田線 目黒延伸、全線が開業 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=2000-09-27 |page=1 }}</ref>。[[東急目黒線]]と相互[[直通運転]]開始<ref name="pr20000207"/><ref name="交通20000927"/>。
* [[2004年]](平成16年)[[12月23日]]:[[臨時列車]]として、6300形電車を使用した「[[みなとみらい号]]」が[[東急東横線]]経由で[[横浜高速鉄道みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]まで運転される。以後2009年12月まで、祝日や夏休み期間を中心として断続的に運転された。
* [[2006年]](平成18年)[[9月25日]]:東急目黒線で急行列車の運転を開始<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/060619_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201115072426/https://www.tokyu.co.jp/file/060619_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2006年9月25日(月)、東横線・目黒線など5路線でダイヤ改正を実施します 目黒線で急行運転を開始し、目黒〜武蔵小杉間の所要時間を5分短縮 東横線でも武蔵小杉〜日吉間の高架化により日中の所要時間を短縮|publisher=東京急行電鉄|date=2006-06-19|accessdate=2020-12-12|archivedate=2020-11-15}}</ref>。三田線内は各駅に停車。
* [[2008年]](平成20年)[[6月22日]]:東急目黒線[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]] - [[日吉駅 (神奈川県)|日吉]]間延伸開業に伴い、相互直通運転を日吉まで延長<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/080418-1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201116090223/https://www.tokyu.co.jp/file/080418-1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=6月22日(日)、東急目黒線を日吉駅へ延伸、鉄道ネットワークを拡充します 目黒線・東横線のダイヤ改正を実施し、利便性を向上させます|publisher=東京急行電鉄|date=2008-04-18|accessdate=2020-12-12|archivedate=2020-11-16}}</ref>。
* [[2015年]](平成27年)[[3月12日]]:[[白金台駅]]・白金高輪駅の発車メロディがリニューアルされる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150302_21.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510120512/https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150302_21.pdf|format=PDF|language=日本語|title=南北線の発車メロディをリニューアル! 各駅に新しい発車メロディを導入します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-02|accessdate=2020-12-12|archivedate=2019-05-10}}</ref>。両駅を管轄する[[東京地下鉄|東京メトロ]]が南北線の発車メロディをリニューアルしたことによる。
* [[2022年]]([[令和]]4年)
** [[5月11日]]:都営三田線全24駅のホームドア更新が、日比谷駅を最後に完了<ref name="press20220511">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_mita.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220514135500/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_mita.html|title=都営三田線全24駅のホームドア更新完了|archivedate=2022-05-14|accessdate=2022-05-14|publisher=東京都交通局|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。
** [[5月14日]]:[[東京都交通局6500形電車 (鉄道)|6500形]]の運行を開始<ref name="press20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/i/2021/sub_i_2022012710265_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127094809/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/i/2021/sub_i_2022012710265_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=都営三田線において8両編成の新型車両「6500形」の運行を開始します 〜よりスマートに。より快適に。新しい「三田線の顔」デビュー〜|publisher=東京都交通局|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref name="news20220511" />。一部列車で8両編成での運行を開始<ref name="news20220511">{{Cite news|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/176579|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220518213105/https://www.tokyo-np.co.jp/article/176579|title=三田線 8両で出発進行 14日から新型車両 やっと痛勤から解放?!|newspaper=東京新聞|date=2022-05-11|accessdate=2022-05-18|archivedate=2022-05-18}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** [[2月4日]]:三田線各駅の[[発車メロディー|発車サイン音]]を3月18日のダイヤ改正までに順次リニューアル<ref name="news20230131">{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2023/sub_i_2023013110814_h.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230131052917/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2023/sub_i_2023013110814_h.html|title=三田線の発車サイン音(発車メロディ)のリニューアルについて|publisher=東京都交通局|date=2023-01-31|accessdate=2023-01-31|archivedate=2022-01-31}}</ref>。
** [[3月18日]]:[[東急新横浜線]]・[[相模鉄道#現有路線|相鉄線]]と相互直通運転開始<ref name="news20220127">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2021/sub_p_2022012710271_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127072550/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2021/sub_p_2022012710271_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月(予定)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業!鉄道がもっと便利になります ~神奈川県央地域及び横浜市西部から東京・埼玉に至る広域的な鉄道ネットワークの形成~|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2022/sub_p_2022121610731_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216211910/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2022/sub_p_2022121610731_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2023年3月18日(土)相鉄新横浜線・東急新横浜線開業に伴い形成される 広域鉄道ネットワークの直通運転形態および主な所要時間について|publisher=相模鉄道/東急電鉄/東京地下鉄/東京都交通局/埼玉高速鉄道/東武鉄道/西武鉄道|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2022/sub_p_2022121610732_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221216064305/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2022/sub_p_2022121610732_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=都営地下鉄三田線のダイヤ改正について|publisher=都営交通|date=2022-12-16|accessdate=2022-12-16|archivedate=2022-12-16}}</ref>。
== 建設経緯 ==
<!-- 車両基地のリンク先を車両基地での記述や https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/service/organization.html に合わせました(実体は同じなのに違う名前で記事が作られるのを防ぐため)-->
[[ファイル:Toei mita line 6312.jpg|200px|thumb|right|保安装置ATS・三田駅発着時代(1999年・新高島平駅)]]
=== 当初の計画 ===
本路線の建設は、[[1957年]](昭和32年)の[[都市交通審議会答申第1号#建設省告示第835号「東京都市計画高速鉄道網」|建設省告示第835号「東京都市計画高速鉄道網」]]において5号線(現在の[[東京メトロ東西線]])の分岐線として示された大手町 - 下板橋<ref group="注釈">この計画では東武東上線下板橋駅までの建設が想定されていた。</ref>間の計画が元となっている。当初は[[帝都高速度交通営団]]が事業者となり、建設および開通後の営業を担当する予定であった。[[1960年]](昭和35年)3月ごろより、5号分岐線の建設が具体的に検討され始めた<ref name=":1">{{Cite book|author=新宿区立新宿歴史博物館・板橋区立郷土資料館・編|title=トラム(路面電車)とメトロ(地下鉄)|date=1998年7月|year=|accessdate=|publisher=}}</ref>。この路線は[[東京都電車|都電]]の水道橋線(新常盤橋 - 春日町間)、白山線(春日町 - 白山上間)、巣鴨線(白山上 - 巣鴨車庫間)および板橋線(巣鴨車庫 - 旧・下板橋間<ref group="注釈">下板橋停留場はこの時点で既に廃止されている。都交通局では近傍の板橋五丁目停留場を板橋線と志村線の便宜上境界としていた。なお、下板橋停留場は中山道上に設置されていて、東武東上線[[下板橋駅]]とは位置が異なる。</ref>)とほぼ重なるルートで<ref>『日本鉄道旅行地図帳 5号 東京』新潮社、2008年</ref>、18系統(神田橋 - 志村坂上間)・35系統(田村町一丁目<ref group="注釈">[[内幸町駅]]付近。</ref> - 巣鴨車庫間)が運転されているため、東京都交通局による建設・営業が望ましいとされた。
[[1962年]](昭和37年)1月に開かれた首都圏整備委員会・建設省・運輸省による会談において、5号分岐線の建設が正式に決定。続いて運輸大臣・[[東京都知事]]・営団総裁による会談が開かれ、都交通局による事業化が内定した<ref name=":1" />。
同年6月8日運輸大臣提出の[[都市交通審議会答申第6号]]において分岐線は6号線として切り離され、5号線について営団が、6号線について都交通局が建設・営業する方針が正式に決定された。6号線は西馬込方面より[[五反田駅|五反田]]・田町([[三田駅 (東京都)|三田駅]])・[[日比谷駅|日比谷]]・[[春日 (文京区)|春日町]](当時の都電水道橋線・白山線停留場名。開業後の[[春日駅 (東京都)|春日駅]])・[[巣鴨駅|巣鴨]]および[[板橋区]][[大和町 (板橋区)|大和町]](やまとちょう。当時の[[都電志村線]]停留場名。開業後の[[板橋本町駅]]付近)の各方面を経て、[[東武東上本線|東武東上線]][[上板橋駅]]および志村(当初は都電志村線の志村橋終点<ref group="注釈">板橋区長後二丁目(現・坂下二丁目)の国道17号線(中山道)新河岸川志村橋橋梁南隣に設置されていた。</ref>付近を想定。後に現・[[高島平駅]]に変更。)付近の各方面へ至る路線として示された。[[軌間]]は1435 mm([[標準軌]])を採用し、[[西馬込駅]] - [[泉岳寺駅]]間と馬込検車場(現・[[馬込車両検修場]])は1号線(現・[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]])と共用する予定であった。
=== 東急電鉄・東武東上線との相互乗り入れ計画 ===
1962年10月には6号線について、東京急行電鉄([[東急電鉄]])および[[東武鉄道]]([[東武東上本線|東上線]])との直通・相互乗り入れ運転計画が検討された。6号線の軌間を1067 mm([[狭軌]])に変更し、東急側は[[泉岳寺駅]]から別線(仮称・東急泉岳寺線)として建設予定であった[[桐ケ谷駅]]まで、途中駅を[[五反田駅]]のみとして延伸し、[[東急池上線|池上線]]を経由して(旧)田園都市線(当時の名称。2018年現在の[[東急大井町線|大井町線]])と接続した上で直通運転、東武側は上板橋駅で6号線と接続した上で埼玉県方面と直通運転する計画が提示された。軌間変更を打診された都交通局はこの計画に難色を示したが、運輸省による調整にて6号線のうち泉岳寺 - 西馬込間のみを、既に[[押上駅|押上]] - [[人形町駅|人形町]]間で開通していた1号線(浅草線)延長区間に編入して標準軌で、残りの区間を東急・東武相互乗り入れ対応として狭軌で建設することが決定された<ref name=":1" />。
しかし、東武から「大和町駅(やまとちょうえき・板橋区) - 上板橋駅間は運転需要対応困難である上、上板橋駅を乗り入れのために改良する余裕がない。」との申し入れがあったことを受けて、[[1964年]](昭和39年)1月31日<ref name=":0">『東武鉄道百年史』934-935頁 東武鉄道、1998年</ref>に同区間の建設を取りやめて、志村駅から埼玉県北足立郡大和町(やまとまち。現・埼玉県[[和光市]])の[[東武東上本線|東武東上線]]大和町駅(やまとまちえき、現・[[和光市駅]])まで延伸して接続した上で相互乗り入れを行う計画に改訂された。東急は前述の泉岳寺線を、東武は志村駅 - 大和町駅間の連絡線(東武東上支線。板橋区が[[1969年]](昭和44年)3月に実施した住居表示により[[高島平]]の町名が発足し<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/031/031257.html|title=板橋区ホームページ「住居表示実施証明書」|accessdate=2018年8月30日|publisher=板橋区}}</ref>、同年8月に都営地下鉄6号線志村駅が[[高島平駅]]に改称されてからは仮称・東武高島平線として予定されていた。)を建設するという内容の各社分掌も盛り込まれた。この合意に基づき、同年11月には3事業者により「6号線建設および相互直通運転に関する覚書」が締結された。この間、都交通局は1964年3月に大手町 - 巣鴨間の地方鉄道敷設免許について営団からの譲受を申請した<ref name="Hibiya-Const169"/>。さらに同年10月に泉岳寺 - 大手町間および巣鴨 - 志村間の免許申請を行い、3区間とも認可され、同年12月18日に泉岳寺 - 志村間の地方鉄道敷設免許が交付された<ref name=":1" />。東京都(交通局)は、営団地下鉄へ567万4,250円を支払うことで譲渡を受けている<ref name="Hibiya-Const169"/>。
一方、軌間変更により都交通局では馬込検車場の共用ができなくなったことから、6号線専用の[[車両基地]]が新たに必要になり、公団住宅[[蓮根団地]]西側の用地を蓮根検車場として使用する計画を追加したが、後に志村検車場(現・[[志村車両検修場]])の設置に変更された([[#地上区間|計画変更の経緯は後述]])。
上記の経緯から、都交通局と東急は建設計画について歩調を合わせる考えを示し、また都交通局と東武はATSを共同で開発するなどの協力体制が採られた。その上で都交通局は6号線(三田線)について車体寸法や保安装置などの面で東武鉄道の規格を踏襲する「6号線直通車両規格」を制定し、直通運転実施路線は東武東上本線・東武東上支線(高島平線)・都営三田線・東急泉岳寺線・池上線・大井町線・田園都市線(未成線以外は2019年現在の線路名称による)となることが一度は決定した。
ところが、翌[[1965年]](昭和40年)1月に東急は突如として6号線(三田線)への乗り入れ計画を中止する意向を示した。距離的にも時間的にも乗客の利便増進に資するものではないという東急の経営判断によるものであった。東急はその代替として営団3号線([[東京メトロ銀座線|銀座線]])<ref group="注釈">後に営団11号線([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]])に変更された。</ref>への乗り入れを目指す計画に変更したため、泉岳寺線計画は撤回された。これにより6号線(三田線)南側の直通運転計画は宙に浮いた。
三田駅以南の計画が定まらないまま、都営地下鉄6号線は東武東上線との相互乗り入れを準備しつつ、当面の間志村(高島平)駅 - 三田駅間のみで営業することになり、[[1968年]](昭和43年)から[[1973年]](昭和48年)にかけて開通した。1968年12月の巣鴨 ‐ 志村間開通時に導入された6000形の行先方向幕には[[志木駅|志木]]・大和町・上福岡・川越市など、東武東上線相互乗り入れを想定したコマも含まれている<ref name=":1" /><ref group="注釈">「大和町」の幕を掲示した6000形の写真は東京都交通局で所蔵されていて、2018年11月に三田線開通50周年を記念して駅構内に掲出されたポスターに掲載されている。</ref>。しかしその数年後には東武鉄道も、都心へ向けて大きく迂回するルートであること、および[[池袋駅]]に乗り入れないため、[[東武百貨店]]をはじめとした池袋地区の開発に資さず、東上線にとっての線増効果をもたらさないと見込まれることを理由として、営団8号線([[東京メトロ有楽町線|有楽町線]])<ref group="注釈">後に、路線計画上は13号線経由での8号線直通に変更された。</ref>に乗り入れ先を変更する旨を都交通局に通知した<ref name=":0" /><ref>佐藤信之『東京圏都市鉄道プロジェクト』鉄道ピクトリアル2013年7月号別冊、電気車研究会、P.58</ref><ref group="注釈">この通知がなされた時期について「1968年(昭和43年)」とする資料があるが、「高島平」の地名は1969年(昭和44年)3月1日に板橋区が行った住居表示および、東京都交通局が同年8月1日に「志村駅」を「高島平駅」に改称したことにより成立したもので、1968年の時点では存在していない。一方、東武高島平線の仮称が使われていた時期があり、『東武鉄道百年史』によれば用地取得も相当進んでいたと記録されているため、1968年の段階における都交通局への乗り入れ先変更通知には疑義のある状態となっている。
1968年10月には営団8号線池袋 - 成増(開業時は営団成増駅、現:[[地下鉄成増駅]])間の鉄道事業免許が交付されているが、この段階では大和町駅までの乗り入れおよび相互直通運転は構想されていなかった。「和光市史」において、営団は当初大和町内の米軍基地跡に車庫を設置し、出入庫引き込み線のみを東上線に沿って建設する構想を立てていたが、町が反発し、1970年(昭和45年)4月に営団に対して旅客扱いを求める要望書を提出したと記録されている。この資料からも、東武鉄道による都交通局への乗り入れ変更申し入れがそれ以前に行われたとする記載には齟齬のある状態となっている。
和光市 - 成増間の鉄道事業免許については、第13号線として1975年(昭和50年)10月に申請され、翌1976年(昭和51年)8月に交付された。[[和光市駅]]の項目も参照。</ref>。この件で都交通局は東急・東武に対して[[抗議]]を行ったが、結局は両社の意向に押し切られた。
高島平駅 - [[西高島平駅]]<ref group="注釈">東武鉄道における仮称は「三園町」(みそのちょう)、都交通局における開通前の仮称は「笹目橋」(ささめばし)。「高島平×丁目」という名称も検討されていた。</ref>間は前述の通り東武高島平線であったが、都交通局が高島平西部へのアクセス路線として[[1973年]](昭和48年)[[4月28日]]に東武鉄道から免許を譲り受け、着工・延伸することになった。なお、[[都市計画]]の上ではその後も西高島平 - 和光市間(3.3 km)の都市高速鉄道第6号線は廃止されておらず<ref>{{Cite book |和書 |title=大江戸線建設物語 |author=大江戸線建設物語編纂委員会 |publisher=成山堂書店 |date=2015-07-08 |page=5 |isbn=978-4-425-96231-0}}</ref>、東京都の都市計画図などには西高島平以遠の6号線のルートが記載されている。
==== 東急・東武相互乗り入れ計画時の案ダイヤ ====
東急泉岳寺線桐ヶ谷 - 東武東上線大和町(やまとまち)間の3事業者による路線建設計画・相互乗り入れ運転計画策定当時の1964年に都交通局が制作した都営地下鉄6号線の案ダイヤの中で一番有力なものとされたのは、東武東上線内での列車は、日本住宅公団による[[霞ヶ丘団地]]および[[上野台団地]]の最寄駅で引き上げ線も用意されている[[上福岡駅]]で折り返す列車を多数設定する(一部の列車は[[川越市駅]]・[[東松山駅]]<ref group="注釈">当時は[[森林公園駅 (埼玉県)|森林公園駅]]は未開業であり、また当時の東松山駅は列車の折り返しが可能な線路配線であった。</ref>まで運転)内容であった。当時、上福岡駅の2駅手前であった志木駅<ref group="注釈">現在は5駅手前。当時は[[柳瀬川駅]]、[[みずほ台駅]]、[[ふじみ野駅]]の3駅は未開業であった。</ref>でも折り返しは可能であり、東急の乗り入れ計画中止後に都交通局で作られた都営地下鉄の案ダイヤでは、志木駅折り返し列車を多数設定していたものもあった<ref name="himitsu" /><ref group="注釈">東京都交通局OBの篠原力が『今だから話せる都営地下鉄の秘密』で語った案ダイヤによると、複数あった案ダイヤの中から志木駅折り返しを中心としたものをごく簡潔な説明で取り上げている。また、東武側の折り返し駅を志木駅とした場合、三田線側の折り返し駅は御成門駅とすることで両者の走行距離のバランスが取れると言う旨の解説も簡潔ながら書かれている(これは当初案の東武側折り返し駅を上福岡駅とした場合は三田線側では終端駅を予定していた泉岳寺駅でバランスが取れると言うことでもある)</ref>。
一方東武側の案ダイヤは、都心側において当初は[[泉岳寺駅]](東急との乗り入れ計画策定時点)、後に[[御成門駅]](東急との乗り入れ計画中止後)で折り返す列車を軸に、一部東急線方面に向かわせる内容であった。また東急側の案ダイヤでは[[新板橋駅]]で折返す列車を基本とし、一部志村駅([[高島平駅]])発着や東武線方面に直通することをそれぞれ検討していた<ref name="himitsu" />。
==== 東急泉岳寺線の建設計画 ====
東急では泉岳寺線に関して、五反田駅を高々架から地下に移設した上で泉岳寺駅 - [[五反田駅]]間で1号線(浅草線)と並行させ(前述の通り、途中駅は都営地下鉄の仮称・二本榎駅、すなわち[[高輪台駅]]のみで、東急線に途中駅は設けない)、五反田駅以西は戦時中に廃止していた桐ケ谷駅([[大崎広小路駅]]と[[戸越銀座駅]]の中間に位置していた)を大崎広小路駅の代替として復活し、戸越銀座駅付近まで新規路線を建設して既存の池上線と接続する計画を立てていた。戸越銀座駅以西については[[旗の台駅]]を改良して、池上線と(旧)田園都市線([[東急大井町線|大井町線]])との連絡線を設けて接続し、二子玉川園駅(現・[[二子玉川駅]])を経て、そのまま現・[[東急田園都市線|田園都市線]][[長津田駅]]に直通する計画であった。
泉岳寺線の開業と同時に池上線の桐ケ谷駅 - 五反田駅間は廃止が計画されていた<ref group="注釈">この廃止計画に関連して、既存区間の戸越銀座駅 - 桐ケ谷駅間も泉岳寺線に取り付けるため、別線に切り換える予定であった。</ref>。6号線から乗り入れてくる列車の東急線内折り返しは[[鷺沼駅]]および長津田駅(および将来的には一部の列車を当時延伸計画中であった[[中央林間駅]]まで延長)で計画されていた。
=== 新たな延伸計画とその撤回 ===
[[1972年]](昭和47年)3月1日運輸大臣提出の[[都市交通審議会答申第15号]]において6号線の新たな延伸計画が立てられ、「桐ヶ谷方面-大和町(和光市)方面<ref group="注釈">埼玉県北足立郡大和町は1970年(昭和45年)10月31日に市制施行され「[[和光市]]」と改称された。それを受けて東武東上線大和町駅は同年12月20日「[[和光市駅]]」に改称された。</ref>」が「[[大宮市]]西部…[[浦和市]]西部-[[戸田市]]西部-高島平-清正公前(現・[[白金高輪駅]])…[[港北ニュータウン]]([[横浜市]])」に改められ、和光市駅-高島平駅間の東武高島平線計画は正式に撤回された。1971年に発表された当初の港北ニュータウン計画では、都営地下鉄6号線を西馬込から港北ニュータウンを経由して[[中山駅 (神奈川県)|中山駅]]まで延伸する計画が盛り込まれていた。計画書には横浜市営4号線とともに東京6号線が鉄道計画の根幹をなしており、相当に具体的な駅の設置場所とともに東京6号線の延伸が必須であるという書き方がなされている<ref group="注釈">出典は、財団法人日本都市計画学会『KOH NEW TOWN COMMUNICATION STUDIES 1971-1972』1971、25-27ページおよび211-213ページ。
:同書25ページ「2-6-2 計画鉄道の広域ルート」には「港北ニュータウンに関連する新設鉄道計画の通過地点及び建設予定年次は下記のとおりである。」として、「3)東京からの鉄道新線」が掲げられている。同書同ページの内容では
:*ルート (大宮西部 - 高島平 - 日比谷 - 三田 - 港北ニュータウン - 神奈川西部)
:*建設時期 昭和60年
:*答申 昭和47年3月1日都営地下鉄6号線(高島平 - 巣鴨間開通)の延伸として、大宮西部から港北ニュータウンまで答申された。
:''(前掲書25ページより引用)''
:と記載されている。さらに同書同ページ「2-6-3 計画鉄道のニュータウン内ルート」において、
::停車駅 3号線 A.B.C.D.
:: 4号線 E.B.C.
:: 6号線 E.C.F
:''(前掲書25ページより引用)''
:という停車駅まで明記されている。なお、アルファベットと現在設置されている駅の対照は、A.[[中川駅 (神奈川県)|中川]]、B.[[センター北駅|センター北]]、C.[[センター南駅|センター南]]、D.[[仲町台駅|仲町台]]、E.[[北山田駅 (神奈川県)|北山田]]、F.[[都筑ふれあいの丘駅|都筑ふれあいの丘]]''(本対照表は引用者の注記)''である。
:加えて、前掲書213ページでは、東京6号線のルートを目黒 - [[都立大学駅|都立大学]] - [[等々力駅|等々力]] - [[武蔵新城駅|武蔵新城]] - E - B - C - F - 中山と断定的に記している。</ref>。
しかし[[1985年]](昭和60年)[[7月11日]]の[[運輸政策審議会答申第7号]]において、この計画は[[目黒駅]]止まりとなり、[[東急目蒲線]]と相互乗り入れを行うことが決まり、同時に三田線の港北ニュータウン延伸計画は撤回された<ref group="注釈">西馬込以南の延伸については、同答申において東京1号線(浅草線)の計画として記されているが、[[2000年]][[1月27日]]の[[運輸政策審議会答申第18号]]で削除されている。</ref>。この決定を受けて、以前制定していたが事実上廃止となった「6号線直通車両規格」とは別の「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線との直通車両申し合わせ事項」と称する新たな直通車両規格を、都交通局他2者<ref group="注釈">当時は埼玉高速鉄道は設立されていなかったため「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線との直通車両申し合わせ事項」の名称であったが、同社が設立後に東急目黒線に乗り入れることとなったことから、埼玉高速鉄道も直通車両規格に参加したため、「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線との直通車両申し合わせ事項」に改称した。なお、相模鉄道との相互直通運転実施に伴い、2023年までに同社もこの直通車両規格の制定に参加した上で「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線・相鉄線との直通車両申し合わせ事項」に再度改称した。</ref>において新たに制定した。
一方北側については、[[1976年]](昭和51年)5月に開業した西高島平駅から北進し、[[荒川 (関東)|荒川]]を橋梁で渡り<ref name="no6_arakawa" group="注釈">参議院建設委員会 - 2号 昭和45年12月3日 において、当時の運輸大臣[[橋本龍太郎]]は、河川を地下方式でくぐる場合の工事費用の増大を理由に、高架軌道により延伸する構想であることを明らかにしている。</ref><ref group="注釈">鉄道ファン1976年8月号における東京都交通局の投稿でも、荒川を橋で渡ることになっている。</ref>、[[新大宮バイパス]]の上下線間にあった当時未開通の自動車専用道路予定地を活用して北上し<ref name="no6_chijo" group="注釈">運輸大臣の諮問機関・都市交通審議会の委員で国鉄総裁でもある [[磯崎叡]] が、参議院予算委員会 - 4号 昭和48年3月16日 にて答弁。また自動車専用道路予定地の活用案については、磯崎をはじめ、運輸省鉄道監督局長 山口真弘 が衆議院予算委員会第五分科会 - 5号 昭和46年2月24日 にて同様のことを答弁している。</ref>、国鉄[[武蔵野線]][[西浦和駅]]を通り<ref>{{cite journal|和書 |journal=鉄道ピクトリアル |title=武蔵野線試乗記 |author=巴川享則 |year=1973 |month=07 |publisher=電気車研究会}}</ref>、大宮市西部(現在の[[さいたま市]][[西区 (さいたま市)|西区]])まで延伸するという計画が立てられた。しかし、都外への延伸は沿線自治体議会の理解を要することや、[[1985年]][[9月30日]]の国鉄[[埼京線]]開業の影響もあり<ref name="himitsu">{{Cite book|和書 |title=今だから話せる都営地下鉄の秘密|author=篠原力|publisher=[[洋泉社]]|date=2011-10-06|isbn=9784862487698|pages=91-94}}</ref>、上記の運輸政策審議会答申第7号でこの計画は削除され、[[1990年]]以降同ルートには[[首都高速5号池袋線]]の延伸区間と[[首都高速埼玉大宮線]]が順次開通した。
=== 全線開通、東急目黒線との相互乗り入れ実現 ===
以上の経緯を経て、東急との乗り入れは当初計画の泉岳寺線・池上線・田園都市線(後の大井町線)から目黒線へと、対象路線は変わったものの実現することとなった。これを受け、東京都交通局では[[1989年]](平成元年)3月30日に[[三田駅 (東京都) |三田]] - 清正公前(仮称時・現在の[[白金高輪駅|白金高輪]])間 1.7 kmの第1種鉄道事業免許を、清正公前 - [[目黒駅|目黒]]間 2.3 km は第2種鉄道事業免許の申請を行い、同年5月24日に事業免許を取得した<ref name="TOEI90th-112">東京都交通局『東京都交通局90年史』pp.112 - 113。</ref><ref name="TOEI90th-427"/>。この免許交付時点で、目黒延伸は[[1995年]](平成7年)10月開業予定とされていた<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>。各種手続きを経た、[[1992年]](平成4年)[[7月17日]]に延伸区間の建設工事に着手した<ref name="TOEI90th-112"/><ref name="TOEI90th-427"/>。
合わせて、三田線は開業から20年ほどが経過していることから、営団(当時)・東急・東京都の3者間で相互直通車両規格<ref group="注釈">相互直通車両規格の制定時の正式名は「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線の直通車両申し合わせ事項」(現・「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線との車両申し合わせ事項」。将来的には「相互直通運転における東急目黒線・南北線・三田線・埼玉高速鉄道線・相鉄線との車両申し合わせ事項」に改称予定)。なお、以前に制定されて事実上失効した「6号線直通車両規格」とは無関連である。</ref>を定め<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>、三田線の保安装置ATC化・列車無線の更新・乗り入れ車両は8両編成とするなどが盛り込まれた<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>(ただし、目黒開業時点での8両編成化は見送られた)。
なお、[[1964年]](昭和39年)12月に取得していた泉岳寺 - 三田間の地方鉄道敷設免許は、[[1972年]](昭和47年)に清正公前 - 三田間に変更する起業目論見変更申請の状態となっていたが<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>、清正公前以南の路線ルートが正式に決まっていないことから、処分保留となっていた<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>。前述の免許取得と同時処分により、前述した泉岳寺 - 三田間の第一種鉄道事業免許の廃止許可と、起業目論見変更申請は交通局に返付された<ref name="Tokyo-History-80th-458"/>。
当初は1995年度の開業を予定(前述)していたが、建設工事の遅れから1997年度→1999年度、最終的には2000年度(2000年秋)まで延期した<ref name="TOEI90th-112"/><ref name="TOEI90th-430">東京都交通局『東京都交通局90年史』年表pp.430 - 433。</ref>。2000年(平成12年)1月24日にはトンネル完成式およびレール締結式が実施された<ref name="TOEI90th-112"/>。最終的に東京6号線は西高島平駅 - 目黒駅間の路線として、[[2000年]]9月26日に全線開通した。
なお、乗り入れに先立って1999年(平成11年)12月3日に保安装置をT形ATSからATC方式に切り替え<ref name="TOEI90th-114">東京都交通局『東京都交通局90年史』pp.114 - 117。</ref>、[[列車無線]]を[[誘導無線]](IR)方式から空間波無線(SR)方式に切り替えた。2000年(平成12年)4月からは自動列車運転装置(ATO)を使用開始<ref name="TOEI90th-114"/>したほか、乗り入れ直前の[[9月22日]]からは[[車掌]]乗務を省略した[[ワンマン運転]]を開始した<ref name="TOEI90th-114"/>。ワンマン運転時のホーム上の安全確保のため、全駅にホームゲートを導入したことで各駅の停車時分が増加するが<ref name="TOEI90th-114"/>、ATCの導入による最高速度を向上(70 km/h→75 km/h) させることで、従来からの運転時分を確保した<ref name="TOEI90th-114"/>。
港北ニュータウン地区への鉄道建設についても、[[2008年]][[6月22日]]に乗り入れ先の東急目黒線列車運転区間が[[武蔵小杉駅]]から[[日吉駅 (神奈川県)|日吉駅]]まで延伸され、同駅にて連絡する[[横浜市営地下鉄グリーンライン]]が港北ニュータウンを抜けて中山駅までを結ぶという形で実現された。
なお、営業区間確定前の東京都の公式文書において、三田線の正式な起点は上記の理由から泉岳寺駅となっていた。そのため関係[[官庁]]に届け出る文書では[[未成線]]である泉岳寺駅 - 三田駅間を加えた実キロ数が記入していたものもあったが、目黒開業時までに正式起点を目黒駅に改め、実キロ数も泉岳寺駅起点のものから目黒駅起点のものに書き換えられた。
=== 編成の増強と相模鉄道への乗り入れ実現 ===
東急目黒線は、2023年3月18日に開業した[[東急新横浜線]]・[[相鉄新横浜線]]を経由して[[相鉄本線]]・[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]]への直通運転が開始されている。後述するように乗り入れ対応の車両である6500形の導入計画を有している。また、東急目黒線の武蔵小杉駅の乗降客数の著しい増加と、新規に乗り入れる予定の相鉄に合わせて、この乗り入れ開始時までに三田線の8両編成化が計画されており、地上設備についても8両編成対応に順次改修を予定している<ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/enq/customer/pdf/customer-may_30.pdf 都営交通お客様センター等に寄せられたお客様の声(平成30年5月分速報値)] - 東京都交通局公式ホームページ</ref><ref>[http://www.toseikaikaku.metro.tokyo.jp/kaigi17/02-4_koutu/kaigisiryou.pdf 見える化改革報告書「地下鉄」交通局 平成30年7月12日(p.30)] - 東京都都政改革本部公式ホームページ</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/232818 都営三田線「8両化」乗り入れ各社はどう動く?新車は近畿車輛が落札、目黒線も駅改修進む] - 東洋経済オンライン。2018年7月30日発信、同年8月20日閲覧。</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=pRbJEaJGf_c 都営三田線 8両編成車両導入を検討] - TOKYO MXTV公式YouTubeニュース。2018年8月19日発信、同年同月24日閲覧。</ref>。
6300形3次車については、相鉄直通対応工事を実施する予定との報道が2018年にあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/232818|author=小林 拓矢|title=都営三田線「8両化」乗り入れ各社はどう動く?|website=東洋経済オンライン|date=2018-08-10|accessdate=2022-05-12}}</ref>が、その後2022年にコスト高などを理由に消極的と報道された<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/514991|author=小佐野 景寿|title=都営三田線・目黒線、「8両化」と相鉄線直通の行方|website=東洋経済オンライン|date=2022-02-26|accessdate=2022-05-12}}</ref>。
相鉄側では[[相鉄20000系電車|21000系]]が目黒線・三田線・南北線・埼玉高速鉄道直通対応として製造され、東急側でも[[東急3020系電車|3020系]]<ref>日本鉄道車両機械技術協会発行協会誌『R&m』2019年2月号 p.48</ref>を新造しており、また東急目黒線所属の既存車両(3000系と5080系)も8両編成化して相鉄直通対応を実施した。また、都交通局の車両においても8両編成の新型車両6500形を13本導入している<ref name=":4">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2020/sub_p_202010289373_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201029102041/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2020/sub_p_202010289373_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=都営三田線 8両編成の新型車両「6500形」を導入します|publisher=東京都交通局|date=2020-10-29|accessdate=2020-10-29|archivedate=2020-10-29}}</ref>。
三田線については、2019年時点では東急新横浜線側への乗り入れを先行して調整している段階<ref>[http://shin-yoko.net/2019/01/28/tokyu_sotetsu2019/ <都営三田線>相鉄・東急直通線の新横浜駅まで乗り入れへ「調整を進める」] - 新横浜新聞。2019年1月28日発信、同年5月6日閲覧。</ref>であり、その調整の終了後に相鉄・東急・東京都交通局の3者間で乗り入れ協議を開始することになっている。相鉄 - 東急 - 都営地下鉄の3者直通列車運転も終日される<ref group="注釈">[https://trafficnews.jp/post/86513 「相鉄・東急直通線」開業で渋谷・目黒方面のダイヤはどうなる? 今ある資料から予想してみた] - 。乗りものニュース。2019年5月30日発信、同年7月10日閲覧。有料記事の文章に「東急との直通運転に関する話し合いがまとまり次第、相鉄との話し合いに移ることが報道されている」と書かれていた。</ref>が、都交通局側では6500形の投入が行われてはいるものの、落成時点では6500形は相鉄直通対応ではない(相鉄直通対応準備工事のみ実施)ことから、相鉄側では当面は片乗り入れとし、運用する車両も6500形の対応工事実施までは東急車と相鉄車のみとなる。
これに先立ち、都交通局では相鉄との相互乗り入れの準備として、「ダイヤ作成支援システム三田線 相鉄線乗入れ改修委託」を日立製作所と随意契約の上で見積をしていることが2020年12月に明らかとなった<ref>[https://www.njss.info/offers/view/16876665/ ダイヤ作成支援システム三田線相鉄線乗入れ改修委託【02-20923】] - 入札情報サービス。2021年9月16に閲覧。東京都での契約番号は02-20923となっている。</ref>。また、2021年には相鉄21000系第1編成が、まずは東急に貸し出されて各種試験を実施し、[[元住吉検車区]]や東急目黒線への入線試験を実施した後に、三田線にも入線試験を実施した。三田線入線試験実施期間中は[[志村車両検修場]]に留置していた<ref>ネコ・パブリッシングカンパニー「鉄おも!」2021年12月号 pp.54</ref>。
== 沿線概況 ==
三田線は、東京都交通局が担当する志村(現・高島平) - 三田間を、全6区間に分けて建設を行った<ref name="TokyoKotsu-History70th-152">東京都交通局『東京都交通局70年史』p.152。</ref><ref name="TokyoKotsu-History80th-170">東京都交通局『東京都交通局80年史』pp.169 - 170。</ref>。
* 第1期 志村 - 新板橋間
* 第2期 新板橋 - 巣鴨間(第1・2期同時開業<ref name="TokyoKotsu-History70th-152"/>)
* 第3期 巣鴨 - 水道橋間
* 第4期 水道橋 - 大手町間
* 第5期 大手町 - 日比谷間(第3 - 5期同時開業<ref name="TokyoKotsu-History80th-170"/>)
* 第6期 日比谷 - 三田間
その後、西高島平 - 高島平間、三田 - 白金高輪間が建設されている。
=== 地下区間 ===
地下区間の建設にあたっては、[[首都高速道路]]<ref group="注釈">新板橋 - 本蓮沼間([[首都高速中央環状線]]・[[首都高速5号池袋線]])、大手町 - 芝公園間の連続高架道路(未完成)。</ref>やほぼ全区間にわたって[[共同溝]]の計画、また地上道路の立体交差(高架橋方式の橋脚またはアンダーパス道路)の計画があり、三田線トンネルと競合しないよう配慮した構造とした<ref name="JCMA1969-2">日本建設機械化協会『建設の機械化』1969年2月号「都営地下鉄第6号線の建設計画」pp.8 - 13。</ref>。
志村坂上 - 千石間は[[中山道]]・[[白山通り]]([[国道17号]])の道路下を、白山 - 神保町間は白山通り([[東京都道301号白山祝田田町線|都道301号]])の道路下を、大手町 - 三田間は[[日比谷通り]]の道路下を、[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]によって建設した<ref name="rp196902"/><ref name="PIC1969-10">鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1969年10月号「都営地下鉄第6号線巣鴨 -日比谷 - 三田間の計画概要」pp.26 - 29。</ref><ref name="Fan1974-3">交友社『鉄道ファン』1974年3月号「都営地下鉄6号線 1号線と連絡」pp.90 - 95。</ref>。道路下から大きく外れる千石 - 白山間、神保町 - 大手町間は民有地の地下を通過することから、[[シールドトンネル|シールド工法]](後述)によって建設した。巣鴨駅の南側では、駅前の巣鴨橋(国道17号が[[山手線]]・山手貨物線を跨ぐ橋)が三田線の建設工事に支障することから、橋の架け替えが実施された<ref name="JCMA1969-2"/>。
大手町駅(厳密には[[日本橋川]]の[[神田橋 (日本橋川)|神田橋]]付近)から日比谷駅にかけては[[東京メトロ千代田線|千代田線]]との並行区間(同時施工・[[帝都高速度交通営団|営団]]が東京都から受託施工)となっており、日比谷通りの地下を千代田線は東側、三田線は西側([[皇居]]側)を通っており、両線のトンネルが一体構造となっている<ref name="Chiyoda-Const40-567">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.40・431 - 432・558 - 567。</ref>。日比谷通りの幅員の制約により、千代田線と三田線の駅を並べて設置することはできないことから、約2 kmの並行区間に約500 m間隔で駅を設置することとし、千代田線大手町駅、三田線大手町駅、千代田線[[二重橋前駅]]、三田線日比谷駅、千代田線日比谷駅が交互に設けられている<ref name="Chiyoda-Const40-567"/>。
当初終点であった三田駅は地上用地の制約から、行き止まり駅ながら上下2段式のホーム構造で、折り返しには[[芝公園駅]]の三田駅寄りに設置した両渡り分岐器を使用して[[単線並列]]運転を行っていた<ref name="Fan1974-3"/>。これは泉岳寺方面への延伸を想定した暫定的なものとしたが<ref name="Fan1974-3"/>、この状態は目黒方面の延伸まで約27年間続いた。
一部区間ではシールド工法や特殊な工法を採用している<ref name="JCMA1969-2"/>。
; シールドトンネル区間
:* いずれのシールドトンネルは圧気工法、人力による手掘り式[[シールドマシン|シールド機械]]である<ref name="PIC1969-10"/>。
:* 千石 - 白山間の白山工区の延長836.85 mのうち773.35 m(白山シールド)<ref name="Dobokusekou1971-2">山海堂『土木施工』1971年2月号施工研究「パイロットシールドを先進させた複線シールドトンネルの施工 - 都営地下鉄6号線白山工区 - 」pp.11 - 22。</ref>。シールド機外径10.72 mの大断面複線シールド<ref name="Dobokusekou1971-2"/><ref name="koutsuu327">[{{NDLDC|2248547/1}} 交通技術 第27巻第5号 都営地下鉄6号線巣鴨-三田間の建設現況 、1972年5月1日発行、33ページ~36ページ、交通協力会]</ref>。
:** この区間には、三田線に沿って通る[[旧白山通り]](国道17号)があるが、鉄道の曲線と合わないこと、交通量が多く車線規制を伴う開削工法ができないことから、東寄りの住宅街の地下をシールドトンネルで通過している<ref name="Dobokusekou1971-2"/>。千石駅から南東方向へ向かい、国道17号を横切って東側の住宅街の地下を通り、白山駅の手前で国道17号を横切って同駅に至る<ref name="Dobokusekou1971-2"/><ref group="注釈">地図やグーグルマップなどでは、三田線の千石 - 白山間は旧白山通りの地下を通過しているが、これは誤りである。</ref>。
:** この区間は[[地下水]]が豊富な場所であり、地上への影響を避けるため慎重な工法が求められた<ref name="Dobokusekou1971-2"/>。このため、先行して両端からパイロットトンネル(直径2.6 mのシールドトンネル・先導トンネル)を施工して地下水位を低下させてから本体シールドを施工した<ref name="Dobokusekou1971-2"/>。
:* 水道橋 - 神保町間の西神田工区の延長631.0 mのうち402.0 m(西神田シールド)<ref name="DOBOKU1969-8-2">土木技術社『土木技術』1972年1月号工事報告「都営地下鉄6号線西神田シールド工事」pp.88 - 95。</ref>。シールド機外径7.2 mの単線並列シールド<ref name="DOBOKU1969-8-2"/>。
:** 白山通り([[東京都道301号白山祝田田町線|都道301号]])三崎町交差点から神保町交差点手前までの単線並列シールドで、地上道路は交通量が非常に多いことや病院・学校が密集している地域であることから、シールド工法で施工した<ref name="DOBOKU1969-8-2"/>。
:* 神保町 - 大手町間の錦町工区の延長423.843 mのうち344.843 m(錦町シールド)<ref name="JCMA1969-8-2">日本建設機械化協会『建設の機械化』1969年8月号「都営地下鉄6号線錦町シールド工事」pp.17 - 21。</ref>。シールド機外径10.72mの大断面複線シールド<ref name="JCMA1969-8-2"/><ref name="koutsuu327" />。
:** [[学士会|学士会館]]裏手にある東京都交通局錦町変電所・換気所下 - 神田橋手前付近([[神田錦町]])<ref name="JCMA1969-8-2"/>。シールド通過地点の近くにある複数の地上ビルには、建物防護工を施工した<ref name="JCMA1969-8-2"/>。
; 凍結工法(河底横断箇所)
:* 水道橋駅の南側、[[水道橋 (神田川)|水道橋]]下・[[神田川 (東京都)|神田川]]河底部(延長39.0 m)では両岸に[[ケーソン工法|ケーソン(潜函)]]を沈下させ、その間約23.0 mを凍結させることで掘削した<ref name="JCMA1972-12">日本建設機械化協会『建設の機械化』1972年12月号「都営地下鉄6号線三田 - 巣鴨間の施工実績」pp.46 - 13。</ref><ref name="koutsuu327" />。
:* 神保町 - 大手町間、神田橋工区の[[日本橋川]]河底部・延長83.2 m<ref name="JCMA1969-8-1">日本建設機械化協会『建設の機械化』1969年8月号「都営地下鉄6号線神田橋付近における凍結工法」pp.13 - 16。</ref>。半径170 mの急曲線に位置する場所で、施工区間に立坑3基(総延長20.6 m)を建築し、その間を凍結させることで掘削した<ref name="JCMA1969-8-1"/>。この場所は[[神田橋 (日本橋川)|神田橋]]・[[首都高速都心環状線]][[神田橋出入口]](外回り出口)の真下にあたる<ref name="JCMA1969-8-1"/><ref name="JCMA1972-12"/><ref name="koutsuu327" />。なお、三田線と並行する千代田線も同様の凍結工法で施工している<ref name="Chiyoda-Const550">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.550 - 557。</ref>。
:* 芝公園駅の南側(芝公園駅A1・A2出口への連絡通路含む)、芝園橋下・[[渋谷川|古川]]河底部(延長55.0 m)では、凍結工法併用水平鋼管矢板圧入工法(後者はアーマー工法とも呼ばれる)を採用した<ref name="Tunnnel1972-9">日本トンネル技術協会『トンネルと地下』1972年2月号「鋼管圧入と凍結で河底を抜く - 都営地下鉄芝園橋 - 」pp.49 - 60。</ref><ref name="JCMA1972-12"/><ref name="Dobokusekou1973-7">山海堂『土木施工』1973年7月号「河川横断大断面トンネル工法 - アーマー工法 - (都営地下鉄6号線芝園橋工区)」pp.67 - 73。</ref><ref name="koutsuu327" />。これは当工区の西側(上流側)に古い下水道管があることと東側(下流側)にはガス管があり、そのまま凍結工法を施工した場合、下水管・ガス管が損傷するおそれがあるためである<ref name="JCMA1972-12"/><ref name="Tunnnel1972-9"/>。また、三田線トンネルの建設と並行して、西側には共同溝が同時施工されている<ref name="Dobokusekou1973-7"/>。
:** 両岸に立坑を建設して河底を凍結させ、三田駅側の立坑から特殊圧入機(油圧ジャッキ)を使用して直径26.7 cmの鋼管(アーマー管)を河川横断部33 m(6.6 m長を5本溶接)に渡って連続圧入し、これをトンネル掘削の[[支保工]]とするものである<ref name="Dobokusekou1973-7"/>。また、河川横断部の凍結させた地盤の支持、また河底からの水の浸水防止を図るものでもあり、さらに支保工として上床板から下床板に向かってトンネルを構築する逆巻工法で施工した<ref name="Tunnnel1972-9"/><ref name="JCMA1972-12"/><ref name="Dobokusekou1973-7"/>。鋼管(アーマー管)は三田線トンネル・共同溝上部に53本(幅18.408 m)、左右側部に33本ずつ(天地方向11.682 m)、計119本が圧入された<ref name="Tunnnel1972-9"/><ref name="Dobokusekou1973-7"/>。
; 三田 - 白金高輪間
: 延伸区間のうち、白金高輪 - 目黒間および共同使用駅となる白金高輪駅の建設・設計は営団地下鉄(当時)に委託した<ref name="JREA1998-9">日本鉄道技術協会『JREA』1998年9月号「都営地下鉄三田 - 清正公前間建設工事」pp.30 - 33。</ref>。東京都交通局では上下2段の開削トンネルを施工する芝工区(延長150 m286)と上下2段のシールドトンネルを掘削する三田シールド工区(延長1,310 m)を施工した<ref name="JREA1998-9"/>。
: 芝工区は、三田駅の白金高輪寄り 42 m の改造工事と、地上には多数のビルが立ち並んでおり、建設工事に支障する[[中層建築物|中層ビル]]8棟をアンダーピニング(下受け)しながら上下2段の開削トンネルを構築する普通部108 mから構成される<ref name="JREA1998-9"/>。
: 三田シールド工区は、白金高輪から三田駅方面に向かって2本のシールドトンネルを施工する区間である<ref name="JREA1998-9"/>。技術の進歩によりシールドマシンは機械式の泥水加圧式シールド機2基が使用され、掘削区間には半径160 mの急曲線、35‰の急勾配があり、これらに対応した中折れ機構を備えている<ref name="JREA1998-9"/>。この区間は民有地の地下を通過すること、また通過する地上道路(港区特別区道第1024号など)の道幅が狭いことから、上下2段の単線並列(縦列)シールドトンネルで施工した<ref name="JREA1998-9"/>。
=== 地上区間 ===
[[志村坂上駅]]より北西側、西高島平駅までの区間は地上高架線となっていて、三田線は都営地下鉄の路線で最長距離の地上区間 (5.2 km) を持つ。志村坂上駅 - [[志村三丁目駅]] - [[蓮根駅]] - [[西台駅]]の間ではS字カーブが連続するが、これは本路線の計画段階において、志村地域のルートが幾度も変更された名残りである。
1962年(昭和37年)に[[都市交通審議会答申第6号]]で示された北側の終端「志村」へ至るルートは、当時営業中の[[都電志村線]](41系統)を踏襲する形で、現在の志村坂上駅からそのまま[[中山道]]を北上し、[[板橋区]]長後二丁目(現・[[坂下 (板橋区)|坂下]]二丁目)で新河岸川に架かる志村橋の手前へと至るものであった<ref name="rp199608">{{cite journal
|和書
|year=1996
|month=08
|journal=鉄道ピクトリアル
|title=高島平という街と都営三田線 -田圃からの大化け-
|author=西野 保行
|publisher=電気車研究会
}}</ref>。ところが、その後埼玉県方面<ref group="注釈">1962年の時点では、後の高島平地域開発の根拠となる旧徳丸ヶ原地区土地区画整理事業はまだ決定していなかった。当時都営バスが運行されていた、中山道沿いに板橋区舟渡町、埼玉県北足立郡戸田町(現・[[戸田市]])、[[蕨市]]方面に至るルートが想定されていた。</ref>への延伸を検討した際、志村坂上から北上して地下方式のまま河川をくぐり抜けるためには勾配が急になり過ぎることと、新河岸川・荒川の河川下工事が地質上困難で莫大な費用が掛かることが判明した<ref name="rp199608"/>。このため、志村坂上以北は地上に高架線を建設して、河川を橋梁で越えるように計画変更を目論んだが、中山道沿いには支障物件が多かったため、ルートを西側に変更して、現在の志村三丁目駅 - 蓮根駅を経由し、そのまま北上して[[蓮根 (板橋区)|蓮根]]三丁目の蓮根橋手前へ至り、そこに「志村駅」を設置する案が策定された。<ref name="rp199608"/>
その後1964年(昭和39年)に「志村駅」における6号線と東武東上線の相互乗り入れ計画が盛り込まれ、翌1965年(昭和40年)には板橋区土地区画整理事業により、旧徳丸ヶ原水田地区に大規模団地を造成する方針が決定した<ref name="rp199608"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/062/attached/attach_62231_3.pdf|title=板橋区ホームページ「高島平地域のまちづくりについて」PDFファイル|accessdate=2018年8月28日|publisher=板橋区}}</ref>。これにより増加が見込まれる地域住民のアクセスの便を考慮し、また先述の計画変更で取り止めとなった馬込検車場使用計画の代替として、公団住宅蓮根団地の西側、志村西台町(現・高島平一丁目付近)に建設を予定していた車庫へ向かう引込線用地の一部を本線に転用し、車庫建設地を同町内北部(現・高島平九丁目に位置する志村車両検修場)に再度変更した上で、西台駅 - 高島平駅に至る現在のルートを形成することになった<ref name="rp199608"/><ref group="注釈">高島平方面を本線とすることが決定した段階で、蓮根橋方面へ至る計画は消滅している。</ref>。以上の経緯により、地上区間において連続する急カーブが設けられることになった。
S字カーブ区間の最小曲線半径は、志村坂上 - 志村三丁目間が298メートル(制限速度60 km/h)<ref name="rp196902">{{cite journal |和書 |journal=鉄道ピクトリアル |title=都営地下鉄6号線巣鴨=志村間開通 |author=松本 成男 |publisher=電気車研究会 |year=1969 |month=02}}</ref>、志村三丁目 - 蓮根間が211メートル(制限速度50 km/h)<ref name="rp196902"/>、蓮根 - 西台間が162メートル(制限速度40 km/h)<ref name="rp196902"/>となっている。また[[1976年]](昭和51年)[[5月6日]]開業の高島平 - 西高島平駅間は一部を除き[[スラブ軌道]]となっている。
== 運転 ==
{|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:center; float:right;"
|+ 日中の運行パターン<br /><small>(目黒 - 白金高輪の線路共用区間を走る南北線の列車を含む)</small>
|-
!colspan="3"|系統\駅名
!直通先
!style="width:1em;"|目黒
!…
!style="width:1em;"|白金高輪
!…
!style="width:1em;"|西高島平
|-
!rowspan="7"|運行<br />本数
|rowspan="3" style="width:1em; background:#006ab8; color:#fff;"|三田線
|style="background:pink;"|<small>東急線内</small><br />急行
|style="text-align:right;"|←海老名
|colspan="5" style="background:pink;"|2本
|-
|style="background:lightblue;"|<small>東急線内</small><br />各停
|style="text-align:right;"|←日吉
|colspan="5" style="background:lightblue;"|4本
|-
|style="background:#006ab8; color:#fff;"|<small>(白金高輪折り返し)</small>
|colspan="3"|
|colspan="3" style="background:#006ab8; color:#fff;"|4本
|-
|rowspan="4" style="width:1em; background:#00ac9b;"|南北線
|rowspan="2" style="background:pink;"|<small>東急線内</small><br />急行
|rowspan="2" style="text-align:right;"|←新横浜
|colspan="3" style="background:#00ac9b;"|1本
|colspan="2" style="text-align:left;"|浦和美園→
|-
|colspan="3" style="background:#00ac9b;"|1本
|colspan="2" style="text-align:left;"|赤羽岩淵→
|-
|rowspan="3" style="background:lightblue;"|<small>東急線内</small><br />各停
|rowspan="2" style="text-align:right;"|←日吉
|colspan="3" style="background:#00ac9b;"|2本
|colspan="2" style="text-align:left;"|浦和美園→
|-
|colspan="3" style="background:#00ac9b;"|2本
|colspan="2" style="text-align:left;"|赤羽岩淵→
|}
目黒駅から[[東急目黒線]]・[[東急新横浜線]]を経由し、[[相鉄新横浜線]]の[[西谷駅]]より[[相鉄本線]]の[[海老名駅]]及び[[相鉄いずみ野線]]の[[湘南台駅]]まで相互直通運転を実施している。白金高輪駅を起・終点とする列車の大部分は同駅で埼玉高速鉄道線・南北線からの目黒方面発着の列車との接続がほとんどとられている。ラッシュ時には高島平駅を始発・終着とする列車(出・入庫列車)がある。2017年3月25日のダイヤ改正までは[[御成門駅]]折り返しもあった。
[[自動列車運転装置|ATO]]を装備しており、基本的にATOを使用して自動運転を行っている。
[[2004年]][[12月23日]]から2009年まで、臨時列車「[[みなとみらい号]]」が高島平駅 - [[横浜高速鉄道みなとみらい線]][[元町・中華街駅]]間で運行されていた。末期を除いて行楽シーズンに1 - 2か月に1回の割合で設定されていた。この列車には特製の[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]を取り付けていた。三田線内は各駅停車であった。
大晦日の[[終夜運転]]を開業から[[1972年]]までと[[1986年]]以降実施している。2000年以降はこの時のみ目黒駅発着の列車が運転されている。また、2014年より水道橋駅が最寄りの東京ドームでのコンサートイベントへの対応として、一部時間帯で終夜運転列車を増発して以降は、新板橋駅発着(2014年度のみ)や1往復のみ三田駅発着の列車も設定されている(2014年度に設定開始。2014年度のみ新板橋駅発着、2015年度は高島平駅発着。2016年度、2017年度は南行西高島平駅発、北行高島平駅着で設定。目黒駅発着列車と同様に終夜運転のみの設定であり、芝公園駅南方の非常渡り線を使用して転線している)<ref group="注釈">東京都交通局が2014年および2015年、2016年、2017年に発表した終夜運転のダイヤより。この増発列車は、白金高輪駅発着となる場合は引き上げ線の使用方法で東京メトロとの調整が必要となり、また御成門駅発着となると都営浅草線との連絡ができなくなることから、変則的に三田駅発着として設定された。</ref>。なお、2016年度より終夜運転の本数が縮小され、これまで基本的に30分間隔(1時台のうち、三田駅発着列車が入る場合を除く)であったものを、午前2時台 - 4時台の間は1時間間隔に減便した。
終夜運転以外では、8月に行われる[[いたばし花火大会]]では2010年頃まではこの時しか運転されない巣鴨駅発着が臨時運転されていたが、後に巣鴨駅発着は御成門駅発着に延長され消滅した。しかし、御成門行きもこの時限り運転される列車である。
[[2006年]][[9月25日]]より東急目黒線直通列車の一部が東急線内にて[[急行列車]]としての運行を開始した。東急線区間で急行運転が開始された後も、三田線内は全列車が'''[[各駅停車]]'''での運転となっている。また、三田線内では都営6300形においては日吉方面行き急行を除いて種別表示を行わないが、他の車両では「各駅停車」または「各停」と表示される。
日中は30分サイクルのパターンダイヤであり、三田線内(西高島平駅 - 白金高輪駅間)は6分間隔である。30分に相鉄線海老名駅発着が1本(東急線内急行)、東急線日吉駅発着が2本、白金高輪駅発着が2本運転される。このうち、東急線内急行運転の列車は白金高輪駅での南北線列車との接続を行わない。[[新横浜駅]]周辺で大規模イベントが開催される場合は日吉駅発着列車が新横浜駅まで延長運転される。
[[2008年]][[6月22日]]のダイヤ改正までは、日中は西高島平 - 白金高輪間と西高島平 - 武蔵小杉間が交互に運転されていた。
2016年10月21日のダイヤ改正では、平日の朝に高島平 - 御成門間で1往復増発された<ref>[http://response.jp/article/2016/09/21/282186.html 都営地下鉄、三田線御成門発着の列車増発 10月21日] - レスポンス、2016年9月21日</ref>。これにより、2008年6月22日のダイヤ改正で消滅した通常ダイヤにおける定期列車の御成門駅発着が復活したが、2017年3月25日のダイヤ改正で東急目黒線直通列車に変更され再度消滅した。ただし、御成門駅発着列車自体は前述のいたばし花火大会開催時の臨時列車で設定されている。
== 利用状況 ==
[[2020年]](令和2年)度の朝ラッシュ時最混雑区間(南行、[[西巣鴨駅|西巣鴨]]→[[巣鴨駅|巣鴨]]間)のピーク時(7:40 - 8:40)の[[混雑率]]は'''129%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210709075924/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|archivedate=2021-07-09|accessdate=2021-07-09|publisher=国土交通省|page=3|format=PDF|language=日本語}}</ref>。
都営地下鉄の4路線では最も輸送人員が少ない路線であるが、6両編成であり他路線と同様に混雑する。板橋区内の11駅は一日平均乗降人員が4万人を下回るが新板橋駅まで接続路線がなく、山手線と接続する巣鴨駅までの区間が最混雑区間となっている。
開業以降の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
{| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;"
|-
|+輸送実績推移
!rowspan="2"|年度
!rowspan="2"|輸送人員<ref>[http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/information/service/subway.html 都営地下鉄 路線別輸送人員の推移(一日平均)] - 東京都交通局</ref><ref>[https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/passengers.html 都営地下鉄 地下鉄関連情報 各駅乗降人員一覧] - 東京都交通局</ref>
!colspan="4"|最混雑区間輸送実績<ref>『都市交通年報』各年度版</ref>
!rowspan="2"|特記事項
|-
! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:%
|-
|1968年(昭和43年)
|style="background-color: #ccffcc;"|66,269
| || || ||
|style="text-align:left;"|12月27日、巣鴨駅 - [[高島平駅|志村駅]]間開業
|-
|1970年(昭和45年)
| 89,931
| || || ||
|
|-
|1972年(昭和47年)
|
| || || ||
|style="text-align:left;"|6月30日、日比谷駅 - 巣鴨駅間開業
|-
|1973年(昭和48年)
|
| 15 || 12,600 || 22,562 || '''179'''
|style="text-align:left;"|11月27日、三田駅 - 日比谷駅間開業
|-
|1975年(昭和50年)
| 358,890
| 15 || 12,600 || 25,560 || style="background-color: #ffcccc;"|'''203'''
|
|-
|1980年(昭和55年)
| 416,535
| 17 || 14,280 || style="background-color: #ffcccc;"|28,120 || '''197'''
|
|-
|1985年(昭和60年)
| 452,927
| 17 || 14,280 || 24,813 || '''174'''
|
|-
|1989年(平成元年)
|
| 17 || 14,280 || 24,300 || '''170'''
|
|-
|1990年(平成{{0}}2年)
| 500,635
| 17 || 14,280 || 23,730 || '''166'''
|
|-
|1991年(平成{{0}}3年)
|
| 17 || 14,280 || 21,680 || '''152'''
|
|-
|1992年(平成{{0}}4年)
|
| 17 || 14,280 || 21,775 || '''152'''
|
|-
|1993年(平成{{0}}5年)
|
| 17 || 14,280 || 23,470 || '''164'''
|
|-
|1994年(平成{{0}}6年)
|
| 17 || 14,280 || 21,422 || '''150'''
|
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| 484,725
| 17 || 14,280 || || '''172'''
|
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
|
| 17 || 14,280 || 23,140 || '''162'''
|
|-
|1997年(平成{{0}}9年)
|
| 17 || 14,280 || 27,085 || '''190'''
|
|-
|1998年(平成10年)
|
| 17 || 14,280 || 24,965 || '''175'''
|
|-
|1999年(平成11年)
|
| 17 || 14,280 || 21,960 || '''154'''
|
|-
|2000年(平成12年)
| 467,824
| 20 || 16,800|| 22,965 || '''134'''
|style="text-align:left;"|9月26日、目黒駅 - 三田駅間開業、東急目黒線直通運転開始
|-
|2001年(平成13年)
|
| || || || '''138'''
|
|-
|2002年(平成14年)
|
| 20 || 16,800 || 21,952 || '''131'''
|
|-
|2003年(平成15年)
|
| 19 || 15,960 || style="background-color: #ccffff;"|20,799 || '''130'''
|
|-
|2004年(平成16年)
|
| 19 || 15,960 || || '''138'''
|
|-
|2005年(平成17年)
| 513,229
| 19 || 15,960 || || '''143'''
|
|-
|2006年(平成18年)
|
| 19 || 15,960 || 23,186 || '''145'''
|
|-
|2007年(平成19年)
|
| 19 || 15,960 || 26,183 || '''164'''
|
|-
|2008年(平成20年)
|
| 18 || 15,120 || 22,199 || '''147'''
|
|-
|2009年(平成21年)
|
| 18 || 15,120 || 21,012 || '''139'''
|
|-
|2010年(平成22年)
| 564,345
| 18 || 15,120 || 22,533 || '''149'''
|
|-
|2011年(平成23年)
|
| 18 || 15,120 || 21,953 || '''145'''
|
|-
|2012年(平成24年)
|
| 18 || 15,120 || 22,311 || '''148'''
|
|-
|2013年(平成25年)
|
| 18 || 15,120 || 22,260 || '''147'''
|
|-
|2014年(平成26年)
|
| 19 || 15,960 || 23,883 || '''149'''
|
|-
|2015年(平成27年)
|
| 20 || 16,800 || 25,070 || '''157'''
|
|-
|2016年(平成28年)
|
| 20 || 16,800 || 26,165 || '''156'''
|
|-
|2017年(平成29年)
|
| 20 || 16,800 || 26,164 || '''156'''
|
|-
|2018年(平成30年)
| 672,738
| 20 || 16,800 || 26,546 || '''158'''
|
|-
|2019年(令和元年)
|style="background-color: #ffcccc;"|678,499
| 20 || 16,800 || 27,118 || '''161'''
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|
| 20 || 16,800 || 21,726 || style="background-color: #ccffff;"|'''129'''
|
|}
== 車両 ==
=== 自局車両 ===
* [[東京都交通局6500形電車 (鉄道)|6500形]](8両編成)
*: 2022年(令和4年)5月14日より運用開始<ref name="press20220127" /><ref name=":4" />。
* [[東京都交通局6300形電車|6300形]](6両編成)
*: 1993年(平成5年)6月23日より運用開始。
<gallery>
Toei_Series6500-6502.jpg|6500形
Toei-Type6300-6332.jpg|6300形
</gallery>
==== 過去の車両 ====
* [[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|6000形]]
* [[東京都交通局10-000形電車|10-000形(試作車)]](開業前の走行試験)
[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]])では第10号線(→[[都営地下鉄新宿線]])用の車両として、[[1971年]](昭和46年)に10-000形試作車を製作、[[電機子チョッパ制御]]や[[電気指令式ブレーキ]]、[[車内信号]]式[[自動列車制御装置]](ATC)など当時最新の機器が搭載されたため、6号線(→都営地下鉄三田線)において性能確認試験が行われた<ref name="Hoikusha1982">保育社カラーブックス 日本の私鉄21「都営地下鉄」(1982年発行)p.118。</ref>。この当時、第10号線(→[[都営地下鉄新宿線]])は建設中であったことから、三田線と新宿線では軌間が異なるが、10-000形試作車には6000形用の[[鉄道車両の台車|台車]](軌間 1,067 mm)と主電動機を装着していた。
また、10号線(→都営地下鉄新宿線)では、乗務員の疲労軽減や安全性の向上を目的としてATOの導入を計画、10-000形試作車には三菱電機製の車上プログラム方式ATOが搭載された<ref name="Rail-e1972-11">信号保安協会「信号保安」1972年11月号「都営地下鉄10号線のATOの試験」pp.17 - 21。</ref><ref name="JREA1973-5">日本鉄道技術協会「JREA」1973年5月号「都営地下鉄10-000形車両とATO装置」pp.16 - 20。</ref>。1972年(昭和47年)初めから6号線(→都営地下鉄三田線)[[本蓮沼駅|本蓮沼]] - [[志村三丁目駅|志村三丁目]]間(南行線、約2 km)に10号線用の試作信号保安設備(車内信号式ATC含む)を併設し、終電後に[[線路閉鎖]]を行って各種試験・測定を行った<ref name="Rail-e1972-11"/>。性能確認試験は、昼間時間帯には志村検車場(当時)で実施され、本線上で必要な走行試験はすべて前述の夜間終電後に実施した<ref name="Hoikusha1982"/>。走行試験は1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)まで、およそ2年間実施された<ref name="Hoikusha1982"/>。
<gallery>
Toei6121 2.jpg|6000形
Toei-subway 10-000 series prototype.jpg|10-000形(試作車)<br />新宿線に転属後
</gallery>
=== 乗り入れ車両 ===
; [[東急電鉄]]
:* [[東急2020系電車#3020系|3020系]](8両編成)
:* [[東急5000系電車_(2代)#5080系|5080系]](8両編成)
:* [[東急3000系電車 (2代)|3000系]](8両編成)
:
<gallery>
File:Tokyu-railway-3122F-20221217-135040.jpg|3020系
Tokyu-Series5080-5187F 8cars.jpg|5080系
Tokyu-Series3000-3813.jpg|3000系
</gallery>
; [[相模鉄道]]
:* [[相鉄20000系電車#21000系|21000系]](8両編成)
:
<gallery>
ファイル:相鉄20000系 21106F.jpg|21000系
</gallery>
=== 共用区間走行車両 ===
; [[東京地下鉄]](東京メトロ)
:* [[営団9000系電車|9000系]](6・8両編成)
:
<gallery>
Tokyo_Metro_9122_Tamagawa 20170710.jpg|9000系(5次車)
Tokyo-Metro-Series9000R-Lot-1.jpg|9000系(B修工事施工車)
Tokyo-Metro-Series9000-Lot-2.jpg|9000系(1-4次車)
</gallery>
; [[埼玉高速鉄道]]
:* [[埼玉高速鉄道2000系電車|2000系]](6両編成)
:
<gallery>
Saitama-Series2000 2107.jpg|2000系
</gallery>
=== 列車番号と車両運用 ===
どの列車がどの車両で運転されるかは[[列車番号]]の末尾アルファベットで区別されており、「'''T'''」が都交車両(21T - 89Tの奇数番号)、「'''K'''」が東急車両(01K - 48K)、「'''G'''」が相鉄車両(31G - 43G)<ref>{{Cite web|和書|title=相鉄と東急が3月18日改正後のダイヤを発表 東急車の相鉄横浜駅入線も |url=https://www.tetsudo.com/column/438/ |publisher=鉄道コム |date=2023-02-19 |accessdate=2023-06-07}}</ref>となっている(「'''S'''」は東京メトロ、「'''M'''」は埼玉高速)。
なお、東急車・相鉄車の運用は、三田線運用と南北線運用とで別々に組まれ、奇数番号(東急線内基準)が三田線運用、偶数番号(同)が南北線・埼玉高速線運用となっている。そのため、奇数番号と奇数番号+1の偶数番号(例:35Gと36G)を同一車両で運転されていることから一部の運用番号が欠番となっている。
列車番号は『MY LINE 東京時刻表』([[交通新聞社]])にも掲載されている。
なお、三田線内では南行列車(目黒・日吉方面)の列車番号は偶数番号となっており、例えば「21T」運用では北行列車(西高島平方面)は「xx21T」、南行列車は「xx20T」となる。
また、東急線内の列車番号は6桁の数字で表記され、上3桁が運用番号を表している。400番台が都営車両・200番台が東急・600番台は相鉄の車両となっており(300番台は東京メトロ・500番台は埼玉高速鉄道車両)、例えば「31T」運用の場合は東急線内では「431」となる。
また各事業者間の走行距離調整の関係上、東急・相鉄両者の車両は東急線に乗り入れない列車にも使用されており、高島平 - 西高島平間の短区間列車にもそれぞれの車両が充当されている。
== 駅一覧 ==
* 駅番号は北行方向(目黒から西高島平の方向)に増加。
* 全駅[[東京都]]内に所在。
* 全列車が各駅に停車。
* 目黒駅 - 白金高輪駅間は、東京メトロ南北線と線路及び駅施設を共用している(ただし[[#路線データ|路線データ]]で記した通り、同区間の線路を保有しているのは第一種鉄道事業者の東京地下鉄で、東京都交通局はその線路で旅客運送を行う第二種鉄道事業者)。
{| class="wikitable" rules="all"
|-
!style="width:4em; border-bottom:3px solid #0079c2;"|駅番号
!style="width:11em; border-bottom:3px solid #0079c2;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #0079c2;"|駅間キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:3px solid #0079c2;"|累計キロ
!style="border-bottom:3px solid #0079c2;"|接続路線・備考
!style="width:1em; border-bottom:solid 3px #0079c2; line-height:1.2em;"|{{縦書き|地上/地下|height=6em}}
!style="border-bottom:3px solid #0079c2;"|所在地
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="3"|[[File:Tokyu MG line symbol.svg|18px|MG]] [[東急目黒線]]・[[ファイル:Tokyu SH line symbol.svg|18px|SH]] [[東急新横浜線]]・[[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄新横浜線]]経由 [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄本線]][[海老名駅]]、 [[ファイル:Sotetsu line symbol.svg|18px|SO]] [[相鉄いずみ野線]][[湘南台駅]]まで
|-
!I-01
|[[目黒駅]]<ref group="*">目黒駅は他社接続の共同使用駅で、東急電鉄の管轄駅である。</ref>
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|[[東急電鉄]]:[[ファイル:Tokyu_MG_line_symbol.svg|18px|MG]] '''目黒線 (MG01)(直通運転:上記参照)'''<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]] (N-01・共用)<br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 22)
|rowspan="21" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|地下区間|height=8em}}
|[[品川区]]
|-
!I-02
|[[白金台駅]]<ref group="*" name="metro">白金台駅・白金高輪駅は他社接続の共同使用駅で、東京地下鉄の管轄駅である。</ref>
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|1.3
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] 南北線 (N-02・共用)
|rowspan="5"|[[港区 (東京都)|港区]]
|-
!I-03
|[[白金高輪駅]]<ref group="*" name="metro" />
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|2.3
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] 南北線 (N-03・共用・改札内連絡)
|-
!I-04
|[[三田駅 (東京都)|三田駅]]
|style="text-align:right;"|1.7
|style="text-align:right;"|4.0
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-08)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]]([[田町駅]]:JY 27・JK 22)
|-
!I-05
|[[芝公園駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|4.6
|
|-
!I-06
|[[御成門駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|5.3
|
|-
!I-07
|[[内幸町駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|6.4
|
|rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]]
|-
!I-08
|[[日比谷駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|7.3
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-08)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-09)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]]([[有楽町駅]]:Y-18)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線(有楽町駅:JY 30・JK 25)<br />''地下通路で[[銀座駅]]・[[東銀座駅]]に連絡''<ref group="*">銀座駅・東銀座駅との連絡業務は行っていない。</ref>
|-
!I-09
|[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|8.2
|東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-18) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg|18px|T]] [[東京メトロ東西線|東西線]] (T-09) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] 千代田線 (C-11) ・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-08)
|-
!I-10
|[[神保町駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|9.6
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|S]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] (S-06)<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] 半蔵門線 (Z-07)
|-
!I-11
|[[水道橋駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|10.6
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]](JB 17)
|rowspan="4"|[[文京区]]
|-
!I-12
|[[春日駅 (東京都)|春日駅]]<br />{{Smaller|([[文京区役所|文京シビックセンター]]前)}}
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|11.3
|都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-07)<br />東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] 丸ノ内線・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] 南北線(後楽園駅:M-22・N-11)
|-
!I-13
|[[白山駅 (東京都)|白山駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|12.7
|
|-
!I-14
|[[千石駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|13.7
|
|-
!I-15
|[[巣鴨駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|14.6
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 11)
|rowspan="2"|[[豊島区]]
|-
!I-16
|[[西巣鴨駅]]
|style="text-align:right;"|1.4
|style="text-align:right;"|16.0
|[[東京都交通局]]:[[File:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|18px|SA]] [[都電荒川線|都電荒川線(東京さくらトラム)]]([[新庚申塚停留場]]:SA 20)
|-
!I-17
|[[新板橋駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|17.0
|東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]]([[板橋駅]]:JA 13)<ref group="*">板橋駅とは定期券のみ連絡業務を行っている。</ref>
|rowspan="11"|[[板橋区]]
|-
!I-18
|[[板橋区役所前駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|17.9
|
|-
!I-19
|[[板橋本町駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|19.1
|
|-
!I-20
|[[本蓮沼駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|20.0
|
|-
!I-21
|[[志村坂上駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|21.1
|
|-
!I-22
|[[志村三丁目駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|22.0
|
|rowspan="6" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|地上区間|height=8em}}
|-
!I-23
|[[蓮根駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|23.2
|
|-
!I-24
|[[西台駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|24.0
|車両基地所在駅
|-
!I-25
|[[高島平駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|25.0
|
|-
!I-26
|[[新高島平駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|25.7
|
|-
!I-27
|[[西高島平駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|26.5
|
|}
{{Reflist|group="*"}}
* 西巣鴨駅 - 新板橋駅間で[[北区 (東京都)|北区]]内を通るが、同区内に三田線の駅は設置されていない。
== 駅設備 ==
目黒駅は[[東急電鉄]]、白金台駅と白金高輪駅は[[東京地下鉄]]、それ以外の各駅(三田 - 西高島平間)は東京都交通局の管轄駅のため、駅設備は管轄している各事業者に準じたものが使用されている。東京地下鉄の管轄2駅ではガラス張りの[[ホームドア#フルスクリーンタイプ|準密閉式フルハイトタイプのホームドア]]を使用しており、それ以外の駅では東急管轄の目黒駅を含めて[[ホームドア#可動式ホーム柵|ハーフハイトタイプのホームゲート]]を使用している。
[[発車メロディ]]は[[白金台駅]]・[[白金高輪駅]]を除く全ての駅で[[東京メトロ南北線|南北線]]開業時に用意された音楽(いわゆる「[[発車メロディ#東京都交通局(都営地下鉄三田線)・東急電鉄(目黒線)・埼玉高速鉄道|音無川の流れ]]」<!-- 正式な曲名では無いが、通称として呼称。 -->)を使用していたが、2023(令和5)年2月4日から新高島平駅を皮切りに他の都営地下鉄3線で使用している曲に順次変更され、3月18日までに完了した<ref name="news20230131" />。
== ホームドア更新 ==
[[File:Toei-subway-I23-Hasune-station-platform-20191220-145840.jpg|thumb|[[蓮根駅]]に設置された更新後のホームドア]]
設備の信頼性向上と、2022年度以降に実施する8両編成化に対応するため<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=三田線へのホームドアの更新工事について|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_mita.html|publisher=東京都交通局|accessdate=2019-08-05|archive-url=https://web.archive.org/web/20190805152034/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/home_door/door_mita.html |archive-date=2019-08-05 |language=ja}}</ref>、2019年(令和元年)6月17日より各駅にて[[日立製作所]]製<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=都市交通における効率的で安全なワンマン運転支援システム|url=https://www.hitachihyoron.com/jp/archive/2000s/2001/08.html|publisher=日立製作所|accessdate=2020-04-10|language=ja}}</ref>のホームドアを交換する工事を順次行い、2022年5月11日に日比谷駅を最後に完了した<ref name="press20220511" />・<ref>[https://web.archive.org/web/20190805152043/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/kanren/pdf/door_mita01.pdf 三田線ホームドア運用開始予定日(令和元年度)]</ref>。
交換工事は各駅につき2、3か月程度の工期を必要としており、交換中は、まず工期に入る前にホームドアを開放した状態のままにしたのち、一旦それを撤去し、仮設の固定柵と[[警備員]]で対応していた<ref name=":2"/>。
== 今後の予定 ==
*[[2023年]][[3月18日]]に[[東急新横浜線]]が開業し、[[西高島平駅]]方面からの都営地下鉄三田線車両は東急目黒線日吉駅から[[新横浜駅]]まで相互乗り入れするが、その先の[[相模鉄道]]とは、当面の間は、[[二俣川駅]]を経て[[湘南台駅]]および[[海老名駅]]まで乗り入れるものの、東急および相鉄車両による乗り入れ(相鉄とは当面片乗り入れであるが、都営6500形には列車無線の台座のみ用意されたり、転落防止幌の取り付け台座が設けられたりしている<ref name="train202301">MODELERS FILE「東京都交通局 6500形電車 スマートさとモダンさをシンプルなデザインで表現した三田線最新鋭車」P28-39</ref>など、相鉄線直通対応準備工事がなされている)となる。
*白金高輪駅から、[[品川駅]]方面への新線に([[東京メトロ南北線#延伸計画(都心部・品川地下鉄構想)|都心部・品川地下鉄構想]])については、東京メトロが、2022年3月28日付で国土交通大臣より第一種鉄道事業許可を受けた<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001472839.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220328101602/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001472839.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京地下鉄株式会社「有楽町・南北線の延伸」に係る鉄道事業許可について 〜有楽町線・南北線の延伸により、国際競争力の強化の拠点である臨海副都心やリニア中央新幹線の始発駅となる品川駅とのアクセス利便性が向上します〜|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|date=2022-03-28|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-28}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220328_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220328101242/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews220328_2.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜より便利で持続可能な社会を目指して〜 有楽町線延伸(豊洲・住吉間)及び南北線延伸(品川・白金高輪間)の鉄道事業許可を受けました〈所要時間短縮により、交通利便性・速達性が向上〉|publisher=東京地下鉄|date=2022-03-28|accessdate=2022-03-28|archivedate=2022-03-28}}</ref>が、この時点で東京都交通局はこの区間に関する第二種鉄道事業許可を受けていないため、完成時点でどのような運行形態になるかは<!--都交がまったく乗り入れないか、その時点で第二種とするか、単に車両の乗り入れか-->未定である。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=東京都交通局|title=東京都交通局80年史|publisher=交通局80年史編さん委員会|year=1992}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_hibiya.html/|date=1969-01-31|title=東京地下鉄道日比谷線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Hibiya-Con}}
* {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_chiyoda.html/|date=1983-06-30|title=東京地下鉄道千代田線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Chiyoda-Con}}
* {{Cite book|和書|author=逸見正則|title=建設の機械化|chapter=都営地下鉄第6号線の建設計画|publisher=[[日本建設機械施工協会|日本建設機械化協会]]|issue=1969年2月}}
* {{Cite book|和書|author1=遠藤浩三|author2=佐々木道雄|title=建設の機械化|chapter=都営地下鉄6号線神田橋付近における凍結工法|publisher=日本建設機械化協会|issue=1969年8月号}}
* {{Cite book|和書|author=遠藤浩三|title=建設の機械化|chapter=都営地下鉄6号線錦町シールド工事|publisher=日本建設機械化協会|issue=1969年8月号}}
* {{Cite book|和書|author=北本正司|title=建設の機械化|chapter=都営地下鉄6号線三田 - 巣鴨間の施工実績|publisher=日本建設機械化協会|issue=1972年12月号}}
* [[山海堂 (出版社)|山海堂]]『[[土木施工]]』
** 1971年2月号施工研究「パイロットシールドを先進させた複線シールドトンネルの施工 - 都営地下鉄6号線白山工区 - 」(福島 義男・岩田 一昭・東京都交通局高速電車建設本部第四建設事務所)
** 1973年7月号「河川横断大断面トンネル工法 - アーマー工法 - (都営地下鉄6号線芝園橋工区)」(石倉 克司・吉田 弘 西松建設芝園橋出張所)
* 土木技術社『[[土木技術 (雑誌)|土木技術]]』1972年1月号工事報告「都営地下鉄6号線西神田シールド工事」(村田 浩・有薗 励・東京都交通局高速電車建設本部第五建設事務所)
* {{Cite book|和書|author1=石川徹|author2=石津政男|author3=溝淵教明|title=トンネルと地下|chapter=鋼管圧入と凍結で河底を抜く - 都営地下鉄芝園橋 - |issue=1972年2月|publisher=日本トンネル技術協会}}
* [[日本鉄道技術協会]]「JREA」1998年9月号「都営地下鉄三田 - 清正公前間建設工事」(三木 克彦・中村 茂之・舘 宏明・東京都交通局新宿建設事務所)
* 『MY LINE 東京時刻表』各号([[交通新聞社]])
* {{Cite book|和書|author=[[佐藤信之 (評論家)|佐藤信之]] |date=2001-04|title=[[鉄道ジャーナル]]|chapter=鉄道・軌道整備に対する助成制度の概要 事例紹介(28)帝都高速度交通営団南北線について|volume=35|issue=4|pages=144-146|publisher=[[鉄道ジャーナル社]]|ref=RJ414}}
* {{Cite news|coauthors=河尻定|title=悲劇の都営三田線 大手町駅が「大手町」にない理由|newspaper=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|date=2014-04-25|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2301E_T20C14A4000000/|accessdate=2015-07-02}}
* {{Cite book|和書|author1=新宿区立新宿歴史博物館|author2=板橋区立郷土資料館|title=トラム(路面電車)とメトロ(地下鉄)|publisher=新宿区教育委員会|date=1998-07|pages=61-63}}
* {{Cite book|和書|author=平田一彦|title=鉄道ピクトリアル|chapter=審議会答申等にみる東武東上線都心直通運転の経緯|issue=2018年7月臨時増刊|pages=112-117|year=2018}}
== 関連項目 ==
* [[日本の鉄道路線一覧]]
* [[神奈川東部方面線]]
* [[東京メトロ南北線]]
* [[東急目黒線]] - [[東急新横浜線]]
* [[相鉄新横浜線]] - [[相鉄本線]] - [[相鉄いずみ野線]]
* [[みなとみらい号]]
* [[東武東上本線|東武東上本線・高島平線]]
* [[東急池上線|東急池上線・泉岳寺線]]
* [[未成線]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stops/popup_mita.html 都営三田線停車駅 | 東京都交通局]
* {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20010612163433/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/mitap/mita-pa.pdf |title=生まれ変わる地下鉄三田線パンフレット}}(東京都交通局)
* {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20000707020400/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/chika/index.html |title=伸びゆく地下鉄 都営三田線延伸部}}(東京都交通局)
{{東京の地下鉄路線}}
{{東京都営交通}}
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[[Category:関東地方の鉄道路線|みたせん]]
[[Category:都営地下鉄の鉄道路線|みたせん]] | 2003-03-15T07:33:39Z | 2023-12-25T14:36:59Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E4%B8%89%E7%94%B0%E7%B7%9A |
4,056 | MRTG | MRTG (Multi Router Traffic Grapher) は、ルータなどネットワーク機器が送受信したデータの量(トラフィック)をグラフによって可視化するプログラム。グラフ部分をPNGフォーマット、付帯情報をHTMLフォーマットで出力するため、ウェブサーバと連携して結果を表示することが可能である。もともとはルータを対象として開発されたためこの名前となった。
SNMPマネージャとして動作し、SNMPエージェントであるネットワーク機器やサーバ機からネットワーク・トラフィック情報を取得し、それをINPUTとOUTPUTの2系列としてグラフ上にプロットする。
高い柔軟性を持ち、データとしてはネットワーク・トラフィックだけでなく、SNMPで取得可能な他の情報(CPU Load Average、Disk使用率、メモリ空き容量等)や、外部コマンドの実行結果を利用することができる。
欠点としては、1つのグラフで必ず2系列のデータを用いなければならないため、3系列以上のグラフが作成できない。 (気温などの)マイナス値を測定できないこと等がある。
緑色のグラフは、ネットワーク機器のINPUTトラフィック 青色のグラフがOUTPUTとなっている。
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] | MRTG は、ルータなどネットワーク機器が送受信したデータの量(トラフィック)をグラフによって可視化するプログラム。グラフ部分をPNGフォーマット、付帯情報をHTMLフォーマットで出力するため、ウェブサーバと連携して結果を表示することが可能である。もともとはルータを対象として開発されたためこの名前となった。 SNMPマネージャとして動作し、SNMPエージェントであるネットワーク機器やサーバ機からネットワーク・トラフィック情報を取得し、それをINPUTとOUTPUTの2系列としてグラフ上にプロットする。 高い柔軟性を持ち、データとしてはネットワーク・トラフィックだけでなく、SNMPで取得可能な他の情報や、外部コマンドの実行結果を利用することができる。 欠点としては、1つのグラフで必ず2系列のデータを用いなければならないため、3系列以上のグラフが作成できない。
(気温などの)マイナス値を測定できないこと等がある。 | '''MRTG''' (Multi Router Traffic Grapher) は、[[ルータ]]など[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機器が送受信したデータの量(トラフィック)をグラフによって可視化する[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]。グラフ部分を[[Portable Network Graphics|PNG]]フォーマット、付帯情報をHTMLフォーマットで出力するため、[[Webサーバ|ウェブサーバ]]と連携して結果を表示することが可能である。もともとはルータを対象として開発されたためこの名前となった。
[[SNMP]]マネージャとして動作し、SNMPエージェントであるネットワーク機器やサーバ機からネットワーク・トラフィック情報を取得し、それをINPUTとOUTPUTの2系列としてグラフ上にプロットする。
高い柔軟性を持ち、データとしてはネットワーク・トラフィックだけでなく、SNMPで取得可能な他の情報(CPU Load Average、Disk使用率、メモリ空き容量等)や、外部コマンドの実行結果を利用することができる。
欠点としては、1つのグラフで必ず2系列のデータを用いなければならないため、3系列以上のグラフが作成できない。
(気温などの)マイナス値を測定できないこと等がある。
== トラフィック ==
緑色のグラフは、ネットワーク機器のINPUTトラフィック<br/>
青色のグラフがOUTPUTとなっている。
[[ファイル:MRTG.png]]
== 外部リンク ==
* MRTG:: https://oss.oetiker.ch/mrtg/
* 日本語公式サイト::http://www.mrtg.jp/
[[Category:オープンソースソフトウェア]]
[[Category:ネットワーク・アナライザ]]
[[Category:ネットワーク管理]] | null | 2023-01-17T19:56:33Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/MRTG |
4,058 | Simple Network Management Protocol | Simple Network Management Protocol(簡易ネットワーク管理プロトコル、またはシンプル ネットワーク マネージメント プロトコル、SNMP)は、DARPAモデルに準じたIPネットワーク上のネットワーク機器を監視(モニタリング)・制御するための情報の通信方法を定める通信プロトコルである。
巨大なネットワーク上で、数多くの機器の状態を把握するためには、この規格化されたプロトコルを使い、機器からの情報を集めて監視や制御を行う。コンピュータ等の能動的な機器以外にもルータやハブなどもSNMPを使って監視することが出来る。
SNMPに関する最初のRFCは1988年に登場した。
プロトコルを管理情報の構造から分離することにより、SNMPはネットワーク上の非常に多種多様なサブシステムを容易にモニターできるようになった。それはOSI参照モデルの全ての層を超えて、データベースやe-mail、J2EE参照モデルなどにまでその範囲を拡大している。
SNMPのフレームワークの構造は、マスターエージェント、サブエージェント、マネージャからなる3つの主要な要素から構成されている。
SNMP v1 (SNMP version 1) で、次の5つのProtocol Data Unit (PDU) が定義されている。
それ以降のバージョンで、次のPDU が追加されている。
SNMP は、OSI参照モデルのアプリケーション層 (第7層) に相当する。
SNMP は、下位プロトコルとしてUDP を使用する。一般的に、エージェントが161番ポートを、マネージャが162番ポートを使用している。
管理対象の機器をエージェントと呼ぶ (スイッチ、ルータ、ホストなど)。
エージェントは、その役割から次の2つに分類される。
マスター・エージェントは、1つ以上のサブ・エージェントを監視することができる。
エージェントは、Management Information Base(MIB; 管理情報ベース) と呼ばれる一種のデータベースを持つ。
ネットワークを管理するシステムをマネージャ (管理ステーション) と呼ぶ。これはクライアント・サーバ型のクライアントに相当する。
マネージャは、主に次のような管理操作を行う。
SNMP v1 は、主に次のRFCで定義されている。
SNMP v1 は、パスワードに相当するコミュニティ文字列がクリア・テキストで通信されるため、セキュリティの脆弱性が指摘されている。
SNMP v2、SNMP v2p (RFC 1441 - RFC 1452) は、機能性、セキュリティ、機密性が改善され、マネージャからマネージャへの通信をサポートしている。SNMP v2は、GETNEXT の代わりとしてGETBULK を導入した。しかし、SNMP v2 のセキュリティ・システムは複雑であり、広く採用されていない。
SNMP v2c (RFC 1901 - RFC 1908) は、論争の多かったSNMP v2 の新しいセキュリティ・モデルを採用する代わりに、SNMP v1 のコミュニティを改善している。このドラフト案がSNMP v2 のデファクトスタンダードとなっている。
SNMP v2u (RFC 1909 - RFC 1910) は、SNMP v2 の複雑さを受けないように、セキュリティに最大限の妥協を試みている。この変形はSNMP v2* として商品化され、SNMP v3 のセキュリティの枠組みとして採用されている。
SNMP v3 (RFC 3411 - RFC 3418, STD0062) は、SNMP の最新版である (2004年現在)。IETF は、SNMP v3 の登場によって旧式のSNMP が不要 (Obsolete) になると考えている。
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] | Simple Network Management Protocolは、DARPAモデルに準じたIPネットワーク上のネットワーク機器を監視(モニタリング)・制御するための情報の通信方法を定める通信プロトコルである。 | {{Infobox networking protocol
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| osilayer = [[アプリケーション層]]
}}
{{Infobox networking protocol
| name = Secure SNMP
| rfcs = 6353
| ports = 10161, 10162(トラップ)
| osilayer = [[アプリケーション層]]
}}
{{IPstack}}
'''Simple Network Management Protocol'''(簡易ネットワーク管理プロトコル、またはシンプル ネットワーク マネージメント プロトコル、SNMP)は、[[DARPAモデル]]に準じた[[IPネットワーク]]上のネットワーク機器を監視('''モニタリング''')・制御するための情報の通信方法を定める[[通信プロトコル]]である。
== 概要と基本コンセプト ==
巨大なネットワーク上で、数多くの機器の状態を把握するためには、この規格化されたプロトコルを使い、機器からの情報を集めて監視や制御を行う。コンピュータ等の能動的な機器以外にも[[ルータ]]や[[ハブ (ネットワーク機器)|ハブ]]などもSNMPを使って監視することが出来る。
SNMPに関する最初の[[Request for Comments|RFC]]は[[1988年]]に登場した。
プロトコルを管理情報の構造から分離することにより、SNMPはネットワーク上の非常に多種多様なサブシステムを容易にモニターできるようになった。それは[[OSI参照モデル]]の全ての層を超えて、[[データベース]]やe-mail、J2EE参照モデルなどにまでその範囲を拡大している。
SNMPのフレームワークの構造は、マスターエージェント、サブエージェント、マネージャからなる3つの主要な要素から構成されている。
; マスターエージェント : IPアドレスによって特定可能なネットワーク上のノード上のシステムで、ルータや[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]といったようなものがマスターエージェントと呼ばれる。典型的なマスターエージェントはプロトコルの構文解析や出力の整形などを行うのみである。
; サブエージェント : あるシステム内に複数の管理可能なサブシステムが含まれている場合、マスターエージェントは受け取った要求を、一つまたは複数のサブエージェントに渡す。各サブエージェントはそれぞれがサブシステムに対応していて、サブシステムに対する監視や管理のインタフェースとなっている。マスターエージェントとサブエージェントが外部から見たときに単純な一つのエージェントとみなせるような場合には、それらの役割はまとめて扱われることもある。
; マネージャ : クライアント・サーバ型で言うところのクライアントに相当する。管理者やアプリケーションによる管理操作はここからリクエストとして送出される他、各エージェントからの[[SNMPのトラップ|トラップ]]を受信したりする。
== 管理情報ベース(= Management Information Base, MIB) ==
{{Main|管理情報ベース}}
== アーキテクチャ ==
SNMP v1 (SNMP version 1) で、次の5つの[[Protocol Data Unit]] (PDU) が定義されている。
* GET REQUEST: 一部の管理情報を取得するときに使用する
* GETNEXT REQUEST: 連続する管理情報を取得するときに使用する
* GET RESPONSE
* SET REQUEST: 管理するサブシステムに対して変更を加えるときに使用する
* TRAP ('''トラップ'''): 管理するサブシステムに関する警告や非同期イベントの通知に使用する
それ以降のバージョンで、次の[[Protocol Data Unit|PDU]] が追加されている。
* GETBULK REQUEST: 高速に複数の管理情報を取得するときに使用する
* INFORM: マネージャからマネージャへの通信するときに使用する
SNMP は、[[OSI参照モデル]]の[[アプリケーション層]] (第7層) に相当する。
SNMP は、下位プロトコルとして[[User Datagram Protocol|UDP]] を使用する。一般的に、エージェントが161番ポートを、マネージャが162番ポートを使用している。
=== エージェント ===
管理対象の機器を'''エージェント'''と呼ぶ (スイッチ、[[ルータ]]、[[ホスト (ネットワーク)|ホスト]]など)。
エージェントは、その役割から次の2つに分類される。
# マスター・エージェント
# サブ・エージェント
'''マスター・エージェント'''は、1つ以上の'''サブ・エージェント'''を監視することができる。
エージェントは、Management Information Base(MIB; [[管理情報ベース]]) と呼ばれる一種のデータベースを持つ。
=== マネージャ ===
ネットワークを管理するシステムを'''マネージャ''' (管理ステーション) と呼ぶ。これは[[クライアント・サーバ型]]のクライアントに相当する。
マネージャは、主に次のような管理操作を行う。
* エージェントへ'''リクエスト''' (要求) を送信し、その'''レスポンス''' (応答) を受信する
* エージェントから'''トラップ''' (通知) を受信する
=== SNMP version 1 ===
'''SNMP v1''' は、主に次のRFCで定義されている。
* {{IETF RFC|1065}} - TCP/IPネットワーク上の管理情報の種類と構造
* {{IETF RFC|1066}} - TCP/IPネットワーク管理のためのMIBの最初の定義
* {{IETF RFC|1156}} - RFC1066の改訂
* {{IETF RFC|1158}} - MIB-II と呼ばれるネットワーク機器の持つべき標準データ構造の定義
* {{IETF RFC|1213}} - RFC1158の改訂
* {{IETF RFC|1067}} - 簡易ネットワーク管理プロトコル (SNMP)の最初の定義(現在はobsoleted)
* {{IETF RFC|1157}} - 簡易ネットワーク管理プロトコル (SNMP) RFC1067を置き換えてこちらが現在の標準
SNMP v1 は、[[パスワード]]に相当する'''コミュニティ'''文字列がクリア・テキストで通信されるため、セキュリティの脆弱性が指摘されている。
=== SNMP version 2 ===
'''SNMP v2'''、'''SNMP v2p''' ({{IETF RFC|1441}} - {{IETF RFC|1452}}) は、機能性、セキュリティ、機密性が改善され、マネージャからマネージャへの通信をサポートしている。SNMP v2は、GETNEXT の代わりとしてGETBULK を導入した。しかし、SNMP v2 のセキュリティ・システムは複雑であり、広く採用されていない。
'''SNMP v2c''' ({{IETF RFC|1901}} - {{IETF RFC|1908}}) は、論争の多かったSNMP v2 の新しいセキュリティ・モデルを採用する代わりに、SNMP v1 の'''コミュニティ'''を改善している。このドラフト案がSNMP v2 の'''[[デファクトスタンダード]]'''となっている。
'''SNMP v2u''' ({{IETF RFC|1909}} - {{IETF RFC|1910}}) は、SNMP v2 の複雑さを受けないように、セキュリティに最大限の妥協を試みている。この変形は'''SNMP v2*''' として商品化され、SNMP v3 のセキュリティの枠組みとして採用されている。
=== SNMP version 3 ===
'''SNMP v3''' ({{IETF RFC|3411}} - {{IETF RFC|3418}}, '''STD0062''') は、SNMP の最新版である ([[2004年]]現在)。[[Internet Engineering Task Force|IETF]] は、SNMP v3 の登場によって旧式のSNMP が不要 (Obsolete) になると考えている。
実際にSNMP を実装するときは、複数のバージョンをサポートすることが多い ({{IETF RFC|3584}} 参照)。
SNMPv3は以下の点でセキュリティレベルがSNMPv2cと比較して向上している。
*メッセージの完全性(メッセージが改ざんされていないかのチェック)
*認証(HMAC-MD5やHMAC-SHAを使ったメッセージ送信元の認証)
*暗号化(DESや3DES、ないしはAESによるメッセージの暗号化)
== 補足事項 ==
* 典型的なマスター・エージェントはプロトコルの構文解析や出力の整形などを行うのみである。
* マスター・エージェントとサブ・エージェントが外部から見たときに単純な一つのエージェントとみなせるような場合には、それらの役割はまとめて扱われることもある。
* プロトコルを管理情報の構造から分離することにより、SNMP は多種多様なサブシステムを容易に監視できるようになった。それは[[OSI参照モデル]]の全ての層を超えて、[[データベース]]や'''電子メール'''、'''J2EE参照モデル'''など、その範囲を拡大している。
* [[Request for Comments]] (RFC) は、[[Internet Engineering Task Force]] (IETF) によって公開されている規格文書である。
* SNMP に関する最初の[[Request for Comments|RFC]] は1988年に提出された。
* SNMP v2 はセキュリティに関する意見の不一致によって、広く採用されていない。
* SNMP v2c は"Community-Based Simple Network Management Protocol version 2"であり、非公式だがSNMP v1.5 として知られていた。
* SNMP v2u は"User-Based Simple Network Management Protocol version 2"である。
== 参考文献 ==
* SNMPバイブル―インターネット管理への実践ガイド (Professional Computing Series), William Stallings,アジソンウェスレイパブリッシャーズジャパン, 1994/11, ISBN 978-4795296510
* 入門SNMP ダグラス・R. マウロ (著), ケビン・J. シュミット オライリー・ジャパン, 2002/7/1, ISBN 978-4873110905
* 実践SNMP教科書―ネットワーク管理ツールの開発と活用 (IT TEXT), 山居 正幸, CQ出版, 2005/3, ISBN 978-4789818759
* マスタリングTCP/IP SNMP編, 緒方亮・鈴木暢・矢野ミチル(共著), オーム社, 2005/9, ISBN 978-4274066078
== 外部リンク ==
* [http://www.rfc-editor.org/ RFC-Editor Webpage (英文)]
* [http://www.snmp.com/FAQs/snmp-faq-part1.txt SNMP old FAQ part 1, 2 Jul 2003 (英文)]
* [http://www.snmp.com/FAQs/snmp-faq-part2.txt SNMP old FAQ part 2, 2 Jul 2003(英文)]
* [http://www.snmp.com/FAQs/ Simple Network Management Protocol FAQ, 2017 (英文)]
* RFC (すべて英文):
** {{IETF RFC|1065}} - ''Obsolete'' -Structure and Identification of Management Information for TCP/IP-based internets
** {{IETF RFC|1066}} - ''Obsolete'' - Management Information Base for Network Management of TCP/IP-based internets
** {{IETF RFC|1067}} - ''Obsolete'' - A Simple Network Management Protocol
** {{IETF RFC|1098}} - ''Obsolete'' - A Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|1155}} - Structure and Identification of Management Information for TCP/IP-based Internets
** {{IETF RFC|1156}} - Management Information Base for Network Management of TCP/IP-based internets
** {{IETF RFC|1157}} - A Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|1158}} - ''Obsolete'' - Management Information Base for Network Management of TCP/IP-based internets: MIB-II
** {{IETF RFC|1441}} - Introduction to version 2 of the Internet-standard Network Management Framework
** {{IETF RFC|1448}} - ''Obsolete'' - Protocol Operations for version 2 of the Simple Network Management Protocol (SNMPv2)
** {{IETF RFC|1449}} - ''Obsolete'' - Transport Mappings for version 2 of the Simple Network Management Protocol (SNMPv2)
** {{IETF RFC|1213}} - Management Information Base for Network Management of TCP/IP-based internets: MIB-II
** {{IETF RFC|1905}} - ''Obsolete'' - Protocol Operations for Version 2 of the Simple Network Management Protocol (SNMPv2)
** {{IETF RFC|1906}} - ''Obsolete'' - Transport Mappings for Version 2 of the Simple Network Management Protocol (SNMPv2)
** {{IETF RFC|1907}} - ''Obsolete'' - Management Information Base for Version 2 of the Simple Network Management Protocol (SNMPv2)
** {{IETF RFC|2262}} - ''Obsolete'' - Message Processing and Dispatching for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|2265}} - ''Obsolete'' - View-based Access Control Model (VACM) for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|2271}} - ''Obsolete'' - An Architecture for Describing SNMP Management Frameworks
** {{IETF RFC|2272}} - ''Obsolete'' - Message Processing and Dispatching for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|2275}} - ''Obsolete'' - View-based Access Control Model (VACM) for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|2570}} - ''Obsolete'' - Introduction to Version 3 of the Internet-standard Network Management Framework
** {{IETF RFC|2571}} - ''Obsolete'' - An Architecture for Describing SNMP Management Framework
** {{IETF RFC|2572}} - ''Obsolete'' - Message Processing and Dispatching for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|2573}} - ''Obsolete'' - SNMP Applications
** {{IETF RFC|2574}} - ''Obsolete'' - User-based Security Model (USM) for version 3 of the Simple Network Management Protocol (SNMPv3)
** {{IETF RFC|2575}} - ''Obsolete'' - View-based Access Control Model (VACM) for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|2576}} - ''Obsolete'' - Coexistence between Version 1, Version 2, and Version 3 of the Internet-standard Network Management Framework
** {{IETF RFC|2741}} - ''Memo'' - Agent Extensibility (AgentX) Protocol Version 1
** {{IETF RFC|3410}} - Informational - Introduction and Applicability Statements for Internet Standard Management Framework
** {{IETF RFC|3411}} - Standard 62 - An Architecture for Describing Simple Network Management Protocol (SNMP) Management Frameworks
** {{IETF RFC|3412}} - Standard 62 - Message Processing and Dispatching for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|3413}} - Standard 62 - Simple Network Management Protocol (SNMP) Application
** {{IETF RFC|3414}} - Standard 62 - User-based Security Model (USM) for version 3 of the Simple Network Management Protocol (SNMPv3)
** {{IETF RFC|3415}} - Standard 62 - View-based Access Control Model (VACM) for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|3416}} - Standard 62 - Version 2 of the Protocol Operations for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|3417}} - Standard 62 - Transport Mappings for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|3418}} - Standard 62 - Management Information Base (MIB) for the Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|3512}} - Informational- Configuring Networks and Devices with Simple Network Management Protocol (SNMP)
** {{IETF RFC|3584}} - Best Current Practice- Coexistence between Version 1, Version 2, and Version 3 of the Internet-standard Network Management Framework
==関連項目==
*[[管理情報ベース]](Management Information Base, MIB)
*[[オブジェクト識別子]](Object IDentifier, OID)
{{OSI}}
{{Normdaten}}
[[Category:アプリケーション層プロトコル]]
[[Category:ネットワーク管理]]
[[Category:システム管理]]
[[Category:インターネット標準]]
[[Category:マルチエージェントシステム]]
[[Category:RFC|1067]]
[[Category:長大な項目名]] | 2003-03-15T08:01:04Z | 2023-10-31T16:44:12Z | false | false | false | [
"Template:Infobox networking protocol",
"Template:IPstack",
"Template:Main",
"Template:IETF RFC",
"Template:OSI",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Simple_Network_Management_Protocol |
4,059 | 高井戸 | 高井戸(たかいど)は、東京都杉並区にある地名。現在の町丁名では、上高井戸一丁目から三丁目まで、高井戸西一丁目から三丁目まで、高井戸東一丁目から四丁目まで、下高井戸一丁目から五丁目まで存在する。
杉並区の最南部に位置する地域。現在の町名では上高井戸、高井戸西、高井戸東、下高井戸の4地域に分かれる。京王井の頭線富士見ヶ丘駅から京王線下高井戸駅、京王線八幡山駅の範囲の地域である。 | [
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] | 高井戸(たかいど)は、東京都杉並区にある地名。現在の町丁名では、上高井戸一丁目から三丁目まで、高井戸西一丁目から三丁目まで、高井戸東一丁目から四丁目まで、下高井戸一丁目から五丁目まで存在する。 | {{Pathnav|日本|東京都|杉並区|frame=1}}
[[ファイル:高井戸IC航空写真1989.jpg|thumb|right|環八中の橋交差点の航空写真。右が首都高速道路4号線、左は中央道。{{国土航空写真}}]]
'''高井戸'''(たかいど)は、[[東京都]][[杉並区]]にある地名。現在の町丁名では、'''[[上高井戸]]'''一丁目から三丁目まで、'''[[高井戸西]]'''一丁目から三丁目まで、'''[[高井戸東]]'''一丁目から四丁目まで、'''[[下高井戸]]'''一丁目から五丁目まで存在する。
== 地理 ==
杉並区の最南部に位置する地域。現在の町名では上高井戸、高井戸西、高井戸東、下高井戸の4地域に分かれる。[[京王井の頭線]][[富士見ヶ丘駅]]から[[京王線]][[下高井戸駅]]、京王線[[八幡山駅]]の範囲の地域である。
== 隣接する自治体 ==
* [[世田谷区]]
== 地域内の町名 ==
* [[高井戸東]]
* [[高井戸西]]
* [[下高井戸]]
* [[上高井戸]]
== 歴史 ==
{{seealso|高井戸町}}
* [[日本列島の旧石器時代|旧石器時代]] - 高井戸東遺跡(高井戸東三丁目)のローム層から出土した[[石器]]から、紀元前3万年ころに、人類が住んでいたことが確認される。
* [[縄文時代]]中期 - 塚山遺跡(下高井戸五丁目)から、この時代の[[土器]]が出土する。
* [[1559年]]([[永禄]]2年) - [[北条氏]]家臣の領地であった。
* [[安土桃山時代]] - (旧)高井戸村は[[上高井戸村]]・[[下高井戸村]]の二村に分かれた。
* [[1602年]]([[慶長]]7年) - [[甲州街道]]が建設され、[[高井戸宿]]という[[宿場町]]となった。
* [[1604年]](慶長9年) - 高井戸宿は上高井戸宿・下高井戸宿の二つとなる。
:現在の[[首都高速4号新宿線|首都高速4号線]]と甲州街道の交差部、[[一里塚]]の案内板がある辺りが下高井戸宿、その西、[[東京都道311号環状八号線|環八通り]]と交わる辺りが上高井戸宿であった。
* [[1652年]]([[慶安]]5年) - [[玉川上水]]が開削された際、立ち退きをせまられた7件の農家が別の土地に移り住んで開拓し、[[中高井戸村]]を形成する。
:村としては上高井戸、高井戸西、高井戸東が上高井戸村、下高井戸と[[浜田山]]が下高井戸村、[[松庵]]の一部が中高井戸村の範囲である。
* 明治2年2月9日(1869年3月21日)- [[品川県]]所属となる(品川県新設)。
* 明治4年11月14日(1871年12月25日) - [[東京府]]所属となる(東京府新設)。
* 明治5年1月22日(1872年3月1日) - [[神奈川県]]所属となる(神奈川県編入)。
** 8月19日(9月21日) - 東京府へ再編入。
* [[1873年]](明治6年)3月18日 - 東京府第8大区5小区所属となる(朱引外大小区改正)。
* [[1878年]](明治11年)7月 - 東京府[[東多摩郡]]所属となる([[郡区町村編制法]]施行)。
* [[1879年]](明治12年) - 大区小区制が廃止され、上高井戸村および下高井戸村は2村による連合村となり、[[大宮前新田]]、中高井戸村、松庵村、久ヶ山村は4村による連合村となる(東京府数町村連合会規則による連合村。)。
* [[1889年]](明治22年)[[5月1日]] - [[東多摩郡]]上高井戸村、下高井戸村、大宮前新田、松庵村、久我山村および中高井戸村が合併し、東多摩郡'''[[高井戸町|高井戸村]]'''となる。
* [[1896年]](明治29年)4月1日 - 豊多摩郡高井戸村となる。
* [[1926年]]([[大正]]15年)[[7月1日]] - 町制施行し、[[豊多摩郡]]'''[[高井戸町]]'''となる。
:この頃、当地での[[四谷丸太]]の植林が終了する。
* [[1932年]]([[昭和]]7年)[[10月1日]] - [[東京市]][[杉並区]]に新設合併される。
* [[1954年]](昭和29年) - [[上水道]]が敷設され、[[村山貯水池]]から送水される。
* [[1969年]](昭和44年) - 当地区に[[住居表示]]が実施され、上高井戸一~三丁目、高井戸西一~三丁目、高井戸東一~四丁目、下高井戸一~五丁目が成立(上高井戸と高井戸西は3月1日、高井戸東と下高井戸は7月1日の成立)。
== 施設 ==
* [[杉並清掃工場]] - 建設に際し周辺住民の大規模な反対運動が、最終処分場を有する[[江東区]]民の感情を傷つけ、杉並区から発生するごみの受入を実力で阻止した、[[東京ゴミ戦争]]の発端となったことで知られる。
* [[杉並区立高井戸小学校]]
* [[杉並区立高井戸東小学校]]
* [[杉並区立高井戸中学校]]
* [[日本年金機構]]本部(旧[[社会保険庁]]業務センター)
* 高井戸[[温泉]] 美しの湯
* 高井戸遺跡
* [[塚山公園 (杉並区)|塚山公園]]
* [[浴風会本館]] - [[内田祥三]]、[[土岐達人]]の設計。1926年竣工。2001年、[[東京都選定歴史的建造物]]に指定された。
* [[芝田山部屋]] - 第62代[[横綱]]:[[大乃国康]]が創設した相撲部屋
== 企業 ==
* 日本[[ヒューレット・パッカード]] ※本社があったが、2011年に江東区へ移転
* [[アジレント・テクノロジー]]高井戸オフィス(昔のHPの半導体部門)※2006年に撤退
* [[ミサワホーム]]株式会社本館
* [[山崎製パン]]杉並工場
* [[ケンコーマヨネーズ]]本社
== 交通 ==
* [[京王井の頭線]]
* [[首都高速道路]][[高井戸インターチェンジ|高井戸出入口]]
* [[中央自動車道]][[高井戸インターチェンジ|高井戸出口]]
* [[国道20号]]([[甲州街道]])
* [[東京都道14号新宿国立線]](東八道路)
* [[東京都道311号環状八号線]](環八通り)
* [[人見街道]]
* [[井ノ頭通り]]
* 上高井戸一丁目交差点(甲州街道と環八通りの[[交差点]])
== 外部リンク ==
* [http://www.city.suginami.tokyo.jp/ 杉並区]
{{杉並区の町名}}
{{japan-geo-stub}}
{{DEFAULTSORT:たかいと}}
[[Category:武蔵国]]
[[Category:杉並区の地理]] | 2003-03-15T08:05:17Z | 2023-08-27T23:32:20Z | false | false | false | [
"Template:Pathnav",
"Template:国土航空写真",
"Template:Seealso",
"Template:杉並区の町名",
"Template:Japan-geo-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BA%95%E6%88%B8 |
4,060 | オリエンタルランド | 株式会社オリエンタルランド(英: Oriental Land Co., Ltd.、略称:OLC)は、千葉県浦安市に本社を置き、米国のウォルト・ディズニー・カンパニーとのライセンス契約により東京ディズニーリゾート(TDR)を経営する京成グループの企業。後述の歴史的経緯から、千葉県も出資するため第三セクターでもある。日経平均株価並びにTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。傘下の事業者を含めて「オリエンタルランドグループ」と称することがある。
元々は純粋な事業会社として各施設の運営を直接行っていたが、現在は東京ディズニーランド(TDL)、東京ディズニーシー(TDS)の運営と同時にTDR関連事業、およびその他の事業を行うグループ各社を統括する事業持株会社となっている。
設立当時から、京成電鉄と三井不動産が二大株主であり、両社が多くの役員などを出向させていた。しかし三井不動産は2010年(平成22年)を最後に役員の出向をやめており、また出資比率も10%以下に引き下げている。また、千葉県を始めとする自治体も出資しており、公共団体の出資比率は合計で4.36%である(2016年3月末現在)。2022年現在、筆頭株主である京成電鉄の株保有率は約22%となっている。京成電鉄の持分法適用関連会社であり京成グループの企業であるが、米国ディズニー社との契約上「K'SEI GROUP」ロゴは使用されない。
傘下の企業は、2016年3月末現在、連結子会社14社、持分法適用会社4社、合わせて18社となっている。また、業務提携先として米国Disney Enterprises, Inc.、シルク・ドゥ・ソレイユ、日本郵政などがあるがシルク・ドゥ・ソレイユは、2011年に提携を解消した。
オリエンタルランド社は米国ディズニー社とのライセンス契約によって、ディズニーパークなどディズニー関連事業の運営を行っている。しかし米国ディズニー社によるオリエンタルランドへの出資や、資本協力、株式持ち合いなど資本提携は一切行われておらず、オリエンタルランドが公開している投資家情報では「世界で唯一、ディズニーとの資本関係が一切ないディズニーリゾート事業運営会社である」と発表している。
テーマパーク事業運営では、1982年(昭和57年)設立のウォルト・ディズニー・アトラクション・ジャパン(WDAJ:ディズニーの4事業子会社のひとつディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツの子会社)が、2つの東京ディズニーリゾートテーマパークの運営に親密に関わっており、メンテナンス、企画、運営などほぼ全ての面で関与している。また日本におけるディズニー関連の著作権や版権ビジネスはディズニー100%子会社のウォルト・ディズニー・ジャパン(WDJ)が担当しているため、TDR内の各種版権もWDJの管理であり、オリエンタルランドは東京ディズニーリゾートの実務面の運営のみを行なっている。
オリエンタルランドの主要取引銀行は、みずほ銀行、三井住友信託銀行。会計監査は有限責任あずさ監査法人が担当している。
オリエンタルランドはフジサンケイグループとも関係がある。産業経済新聞社とは、所有するディズニーホテルの朝刊サービスに関する契約を結んでいる。フジテレビジョンとは、グループ会社の一つであるOLC・ライツ・エンタテインメントを通じて「ネポスこどもCLUB」を共同制作したり、全国ネット枠のスポンサーを務めるなどに加えて、「お台場冒険王」の際には宣伝広告を設置したり、お台場・東京ディズニーリゾート間の無料送迎バスを運行するなど、積極的な協力関係を取っている。なお、フジテレビはディズニーと包括的なパートナー契約を締結している。
「株式会社オリエンタルランド(以下、OLC)」が設立されたのは、1960年(昭和35年)7月1日に京成電鉄が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設(このレジャー施設の当時の仮称がオリエンタルランド)を計画し、社長の旧友であった三井不動産社長に共同事業者として声をかけたのがきっかけである。元々当時の京成社長、川﨑千春は自社のみで計画を遂行しようとしたが、銀行を含めて信用が担保できず、三井グループである三井不動産などに声をかけた。これにより京成電鉄、三井不動産、朝日土地興業(船橋ヘルスセンター、後に三井不動産に吸収合併)の3社が均等に出資することでOLCは設立。東京・上野の京成電鉄本社内の一角に事務所を設置し、初代社長は川﨑が就任した。
京成電鉄が、都心部 - オリエンタルランド(現在の舞浜・新浦安付近) - 船橋港 - 稲毛海岸 - 千葉港 - 千葉寺という新規鉄道路線(現・JR京葉線の原型)を計画及び免許申請をしており、オリエンタルランド計画は、この新規路線の沿線開発の一つであった。
この時点ではOLCはディズニーランドの招致は明言しておらず、「東洋一のレジャーランドを浦安沖に建設する」と述べており、実際に1974年(昭和49年)に千葉県が承認したオリエンタルランド(前述のレジャー施設仮称)の基本計画では「ホールエリア」・「プレイランド」・「スイミングガーデン」・「スポーツクラブ」の4つの施設群からなるレジャー施設建設を予定しているとの内容になっており、中にはドーム球場やゴルフ場の建設も盛り込まれるなど、現在の舞浜地域(東京ディズニーリゾート)の姿とは大幅に異なるものであった。
OLC社長となった川﨑は、当初谷津遊園拡張の際にバラ園を新設する構想を練っていた(この事業は後に京成バラ園芸の設立につながる)。京成OBで仲の良かった読売新聞社社主の正力松太郎にも声をかけたのだと言う。そのバラ園に飾るバラを買い付けに訪米した際、開業後間もないディズニーランドを訪れ、感銘を受けたのだった。川﨑は帰国後、レジャーランド計画にアメリカのディズニーランドを招致するという明確な方針を示し実現へ動いた。当初、川崎は後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)や東武鉄道などとの合弁で千葉県我孫子町(現・我孫子市)・沼南町(後に柏市と合併)の手賀沼一帯にディズニーランドを招致することを計画しており、起工式まで行ったが、合弁会社の経営トラブルに加え、高度経済成長による手賀沼の水質悪化が問題となり、手賀沼への招致を断念。合弁会社に参画していた前述の3社が候補地を浦安沖に切り換えてディズニーランド誘致を進めた経緯があった。
埋立による土地の造成には、公有水面埋立法に基づき県知事の許可を得る必要があった。当時の千葉県知事は友納武人であり、三井不動産社長の江戸英雄と二人三脚で進んでいった。この時取られた方式は「出洲方式」と呼ばれる方法で、埋め立て事業費は不動産会社と県が2対1の割合で負担する。完成した造成地は県有地として千葉県が売却し、その益金は出資比率に応じて分配される。
特に、現場での漁業協同組合との補償交渉を取り仕切ったのが、江戸の推薦でOLCに入社した高橋政知である。高橋自身は名門の家の生まれで東大の卒論を英語で書くほどのエリートであったが、持ち前の豪放磊落な性格が功を奏し、漁民への補償や千葉県からの土地払い下げまでは順調に進んでいった。一方、朝日新聞はこの開発を問題視し、『追跡・湾岸開発』という検証本を出版するに至る。また、首都圏新空港の候補地として、河野一郎に目をつけられたこともある。
その後、京成電鉄は本業の不振などからディズニーランド招致をすべてOLCに委託することとなる。ディズニーランド招致交渉に支援的であった京成電鉄と違い、もう一方の親会社である三井不動産は住宅等の土地開発を第一に考え、ディズニーランド招致には反対の立場をとっていたため、ディズニーランド招致を妨害することもあった。この時期に当時千葉県知事だった川上紀一の汚職事件(川上五千万円念書事件)が発覚したこともあって、第94回国会などでは野党議員を巻き込んで質疑にも上っている。この頃、三菱グループでも三菱地所が富士山の麓にディズニーランドを招致しようと誘致活動を展開していた。
なお、創業当初は100万坪を埋め立てると宣伝しており、山本周五郎の小説『青べか物語』でも「沖の百万坪」という言及がある。完了した造成工事では260万坪の面積を埋め立てたが、上記の事情から次々と住宅地として処分され、最終的には63万坪余りが遊園地用地として残され、それもホテル用地などに取られたため、TDL開業時には純粋な遊園地として使用されている土地はさらに少ないものとなった。
三菱地所との誘致合戦に競り勝ち、ディズニーとの交渉は1974年(昭和49年)に開始されたが、先行して開園していた奈良ドリームランドの著作権侵害問題もあり、最初は門前払いに近い扱いであった。ディズニーから提示された条件はディズニーは建設費・運営費等を一切支払わず、ロイヤルティとして売り上げの10%を回収すると言う当時の日本の常識からは法外なものだった。交渉は何度も決裂寸前の様相を呈し、一時は修復も危ぶまれる状況に陥った。最終的には、親会社である三井不動産の意向を無視する形で、高橋が条件を飲み、高橋の顔をたてるために50年契約だった条件を1割減じて45年とさせた。こうして1979年(昭和54年)4月30日にウォルト・ディズニー・プロダクション(後のディズニー・エンタプライゼズ・インク)との業務提携契約を取り交わした。
その後、ディズニーによる技術・ノウハウ提供を受け、1983年(昭和58年)4月15日東京ディズニーランドが開園を迎えた。開園初日は18,063人が来園した。当初はシンデレラ城の前でオープニングセレモニーを行う予定としていたが、当日の天気は雨だったため、止む無くワールドバザールの中に変更して行われた。
1983年(昭和58年)4月15日に「東京ディズニーランド」を開園させ来園者数を順調にのばし、初年度目標を超える1036万人の入園者を迎えた。
その後も「つくば科学博」の開催による相乗効果などにより入園者数を大きく伸ばし、バブル景気に影響されて全国各地に建設された遊園地の中でも、強い独自色を発揮し、着実に入園者数を増やしていった。
1986年(昭和61年)1月米国ディズニー社は、OLCに対して舞浜地区全体の開発を目指した「東京ディズニーワールド構想」を提案。OLCでの検討の末1988年(昭和63年)4月15日の「東京ディズニーランド開園5周年記者会見」で「第二パーク構想」について発表した。
しかし、第二パーク構想は、「ディズニーMGMスタジオ・ツアー」(現・ディズニー・ハリウッド・スタジオ)をモデルした施設を建設することで米国ディズニー社との間で一旦結んだ契約を白紙撤回するなどの様々な問題–米国ディズニー社に対する違約金の支払いなど–解決しなければならない案件が数多く存在し、米国ディズニー社と日本側のオリエンタルランド社両社の長時間の協議・調整を必要とした。第二パークの建設は、TDL15周年のタイミングで着工に漕ぎ着けていたが、前述の問題や近隣に予定していた墓地公園を巡っての浦安市とのトラブルなどもあり、「東京版ディズニーワールド構想」を最終的な形に仕上げるには、その後10年もの歳月を要する事となった。現在、東京ディズニーリゾートを構成している「東京ディズニーランド」、「東京ディズニーシー」、「イクスピアリ」、「ボン・ヴォヤージュ」など、日本版ディズニーワールドである東京ディズニーリゾートの全体像はこのようにして決まっていった。
2000年(平成12年)1月1日に「リゾート宣言」を発表、これは第二パークの開園に向けて「テーマパーク」から「テーマリゾート」への転換を目指して出された。また、1月6日には日本経済新聞に全面見開き広告「リゾート宣言。」を掲載し、日本初となるテーマリゾートの誕生を印象付けさせた。
2000年(平成12年)7月7日「イクスピアリ」・「キャンプ・ネポス」・「ディズニーアンバサダーホテル」が開業し、今まで空き地が広がっていた舞浜駅前に一つの街が誕生した。
2001年(平成13年)3月1日は「ボン・ヴォヤージュ」が開業。2001年(平成13年)7月27日には「ディズニーリゾートライン」が開業。2001年(平成13年)9月4日「東京ディズニーシー」、及びパーク一体型ホテル「東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ」がそれぞれ開業し「東京ディズニーリゾート (TDR)」が正式に開業した。
舞浜地区開発が一通り終了した後の事業展開として、日本国内のディズニーストアの経営(ディズニー日本法人から引継。その後再び米国ディズニー社へ帰属)、日本国内におけるミュージカル「ディズニーライブ!」の公演、その他にも子会社を通じたレストラン経営や映画制作事業への参入、低価格ホテルパーム&ファウンテンテラスホテルの開業など、舞浜地区に依存しない利益確保の方法を開拓している。
2008年(平成20年)4月15日からのTDL開園25周年を契機に、3つ目のディズニーホテル「東京ディズニーランドホテル」の開業や、シルク・ドゥ・ソレイユ専用常設劇場「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」(現在の舞浜アンフィシアター)など、TDRのさらなる開発も目指している。
なお、2011年(平成23年)3月までに首都圏以外の大都市中心部において、ディズニーの屋内型エンターテイメント施設を建設する計画を進めていたが、期待する収益が上げられないと判断して計画の中止を発表した。
2010年代後半からディズニーリゾートの飲食施設で使用する野菜の自社生産を開始しており、2023年現在、千葉県袖ケ浦市と北海道弟子屈町、山梨県北杜市で直営農場を展開している。
2020年に新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことで、オリエンタルランドは2020年度決算で1996年の上場以来初となる最終赤字に転落した。
2021年6月1日現在
※2023年6月29日付人事異動による
・代表取締役会長(兼)CEO
高野由美子
他の会社役員に関する詳細は「オリエンタルランド会社概要 役員一覧」を参照のこと。
TDRを含む世界のディズニーリゾート・ディズニーパークでは従業員のことを「キャスト」、入場客のことを「ゲスト」と呼ぶ。カストーディアル・キャスト(清掃・案内を担当するキャスト)においては「カスト」と呼ぶこともある。また、「キャスト」の本来の意味であるショーの出演者はキャストと呼ばず「出演者」または「エンターテイナー」という呼び方をする。ただし、彼らも広義では一般従業員と同じく「キャスト」であり、人事上では「キャスト」の名称が使われる場合もある。なお、「キャスト」の呼称はOLCに所属する従業員だけではなく、OLCグループ各社の従業員、協力会社従業員等のうち、TDRの業務に従事している者全般に対して使用される。
これは、「パークは青空を背景とした巨大なステージであり、従業員はそのステージ上でそれぞれ配役された役割を演じるキャストである」というウォルト・ディズニーの考えに由来している。そのため、ゲストが入れるエリアは「オン・ステージ」(舞台)、関係者専用区域を「バックステージ」(舞台裏・楽屋)、キャストが配属される各部署を「ロケーション」と呼ぶなど、映画・演劇用語が使用される。初期研修後各ロケーションに配属される際には「あなたの配役は-」と記載された辞令を渡すなど、この考え方による用法は徹底しているという。
キャストは「いらっしゃいませ」とは言わず、原則「こんにちは(おはようございます・こんばんは)」と迎える。これは「いらっしゃいませ」とキャストに言われてもゲストには返す言葉がなく、会話が成立しないためである。また「カスト」に限らず、すべてのキャストはゴミを見つけたら直ちに清掃することになっている。これは「1つのごみが全体を汚くする」という理念をウォルトが持っていたことに由来し、外で乳幼児が這い歩きしても安全なようにと教育されている。閉園後を担当するのは夜勤の「ナイトカストーディアル・キャスト」で、このスタッフたちは、閉園直後の0時から開園直前の7時まで、パークの道路すべてを自営浄水場で再生された水で水洗いする。もちろんそれだけの人数が存在し機材もある。それによって、いつもパークがきれいに保たれている。いかに訪れた人々を迎えるか、どのように接すれば喜んでもらえるか、の教育に力を入れている。
直営でなく、ライセンス契約上、マニュアルの遵守が要請されること、日本人の国民性などが相俟って、世界のディズニーパークの中で、精緻なマニュアルを一番忠実に実施していると評されている。
TDRで働く多くのキャストは、OLCの準社員(パートタイマー、アルバイト)・テーマパーク社員(契約社員)、いわゆる非正規雇用の従業員である。時給制契約により雇用される。パーク内の多くの職種に配され、ゲストが出会うキャストの多くはこの準社員である。当初はパーク内で働くキャストに占める正社員の割合は少なくなかったが、現在はその多くを準社員に行わせている(準社員だけでパークは動かせるとまで評されている)。 福利厚生面で見ると累積勤務時間による昇給制度や優待パスポート、シルク・ドゥ・ソレイユ シアター(廃止)、東京「ZED」鑑賞券、賞与の支給や社会保険への加入(厚生年金及びオリエンタルランド健康保険組合。法令に基づき、週労働時間が正社員の4分の3以上のキャストは雇用形態に関わらずすべて対象である)、そしてクリスマスや正月など深夜開園がある際の仮泊所、OLCの福利厚生施設の特典(浦安市内や首都圏には社員証提示で料金割引き等がある店舗が多数存在する)利用権利、年に一度閑散期にある“勤労感謝の日(サンクスデー)”は、パークは閉園後キャストに開放される(この日のみ19時で早終いとなり、開放中の運営は正社員によって為される。時間は20時15分から22時45分)などがある。アルバイト従業員は、ディズニーパークの一員として仕事ができる環境に魅力を感じ、採用希望を抱く人が応募するため、前述の待遇に満足感を覚える従業員が多いという。ただ、その仕事内容は多岐に渡り、担当する通常業務に加え、案内・清掃・遺失物・迷子の対応、さらには厳しい管理下の接客姿勢など、会社側のキャスト1人に対する仕事の量・質の要求は非常に高い。そのため離職者も数多くおり、会社側は、アルバイト従業員の確保に常に力を置いている。
UAゼンセン傘下の「オリエンタルランド労働組合(オリエンタルランド・フレンドシップ・ソサエティー、略称:OFS)」が組織されている。OFSは従来正社員をその組織対象とする労働組合で、2007年(平成19年)3月31日現在の組合員数は1,950名となっていたが、2017年4月より非正規労働者も対象とする労働協約の改定を行い、2万名以上いる従業員のうち約8割を組織するようになった。OFSはUAゼンセンの方針により労使協調路線を採り、どちらかといえば社員会に近いスタンスで運営されている。グループ内の連結子会社で組合は組織されていない。一方、通告無しの解雇や偽装請負疑惑との訴えもある。2014年3月にはついに、「なのはなユニオン」傘下の“闘う”労働組合「オリエンタルランドユニオン」が結成された。
なお、準社員は5段階の職級に分けられ、下から M / A / G / I / C(メイク、アクション、成長、進歩、キャプテンの略と説明されている)と区分されていてそれぞれ○キャストと呼称されている。新規入社の準社員はMキャストとされ、OJT(研修)を約2-5日行いデビューという形になる。Mキャスト期間(入社日の翌月末まで)を過ぎると原則的にAキャストに昇格する。最上位職級のCキャストに関しては時給制であるという以外は、ほぼテーマパーク社員や正社員と同じ業務を行っている部署もある。全てのキャストの頂点にあるのが「東京ディズニーリゾート・アンバサダー」である。
同じ職種の場合、人員確保のため一定期間においてロケーションの変更は容易である。また、規定の勤務をこなしながら異なる職種の体験をできる制度も存在する。例えば、アトラクション担当のキャストが商品販売担当のキャストを同時期にこなす、というものである。
また、当初は一部の職種にのみ存在したが、後に適用される職種が拡大された「テーマパーク社員」制度もある。テーマパーク社員は、準社員の監督・指導など、パーク運営業務の第一次的責任を担う「スーパーバイザー(Superviser―監督者。略名SV)」の候補(I-A区分)として採用されワーキングリード (Working Lead) として勤務に就く、その後選考により昇格した場合はスーパーバイザー(II区分)として、原則1年間の月給制契約により雇用される(更新等に所定の条件がある)。また、「専門業務従事者」として「ファイヤー(防火管理者)」や「ナース(看護師)」などの職種もスーパーバイザーとしての契約があるが、こちらはII区分へのステップアップはない。
準社員からテーマパーク社員や正社員に雇用される場合もあるが、テーマパーク社員へは G / I / Cキャストで正社員からの推薦が必要になる。正社員への登用に至っては I / Cキャストでマネージャー職の正社員からの推薦が必要と非常にハードルが高く、ごく一部だけの実績があるだけである。2008年(平成20年)に正社員にまで昇り詰めた準社員は数名程度である。そのため、テーマパーク業務の知識を持たない正社員が増えてしまっている現状がある。しかしながら、東証一部上場企業の正社員にアルバイトからなることを考えれば相応のハードルであり、ファーストフード店やコンビニエンスストアなどといった、数千から数万規模の店舗を有し、店舗数に応じて社員が必要不可欠である上場企業とは単純に比較できない。
OLCが公表している、2007年(平成19年)4月1日現在のテーマパーク社員・準社員数は16,200名。職種による差はあるが、準社員の入れ替わりは激しい。入れ替わりが激しい理由としては、仕事の負担感に比して時給が安いなどの現実的な面と、学生の場合は授業やゼミなど学業、そして就職等との兼ね合いで辞めざるを得なくなるケースも多い。
ただ、一旦辞めても期間を置いて「再入社」という形で戻ってくるキャストも多く、中には退職・再入社を何度も繰り返す者もいる。これは、退社後一年以内の再入社は、以前の累積勤務時間が引き継がれ、時給の昇給や前述の職級等で有利になるためである。また、他の職種に鞍替えしたい場合には一旦退職して、面接からやり直さなければならないことも退職・再入社が多い一因となっている。
コスチュームはワードローブビルですべて貸し出しとなっており、イシュー・カウンターよりコスチュームを借り(人手を介する煩雑さを解消するため、RFIDが導入されて、一旦貸与がされたら後は保管所から自分で手続きして返還・帯出ができる様になった)、イシュー・ロッカー内のドレッシング・ルームで着替えて仕事に就く。なお、コスチュームに着替えて勤務するキャストには「着替手当」が付くという。
また、ショー出演者(エンターテイナー)の着替えや着付け等は、エンターテイナー専用のドレッシング・ルーム(楽屋)でおこなわれているため、準社員、テーマパーク社員、正社員のすべてを含めた通常のキャストは担当部署のキャスト(エンターテイメント関連)でなければ見ることも関わることもできないという。これにより、多くの他の部署の準社員が入れ替わりが頻繁に行われても、エンターテイメント関連の秘密が流出せずに保持されるよう徹底した管理が行われている。
OLCは、ディズニーとの契約上、TDRの運営企業としてCMや広告などには一切その企業名が掲載されない。ただし、求人広告には労働関係法規のため、またパークの入場と宿泊をセットにした「東京ディズニーリゾート・バケーションパッケージ」関連の配布用印刷物等にはOLCが第二種旅行業(当初は横浜市にあるTDR総合予約センターを店舗として神奈川県に登録されていたが、現在は舞浜の住所に登録が変更となったため、千葉県に登録されている。登録番号は千葉県知事登録旅行業第2-810号)として予約受付を行うため、旅行業法等によりその企業名が記載されている。また、広告の出稿はディズニーではなく、OLCが行っている。
新聞では主に全国紙に掲載される。まれに地方紙にも掲載されることがある。参加企業の広告と抱き合わせで掲載されることもある。雑誌については、Hanakoなどの総合情報誌のほか、ZAITENなどビジネス誌にも出稿している。
スポットCMは、首都圏の民放キー局及び首都圏以外の政令指定都市(特に静岡県など)を中心に放映されており、新規アトラクションの告知やイベントの告知、TDLもしくはTDSの施設全体の宣伝など、内容は様々である。地方では、新規アトラクション導入か、春などの閑散期、夏休みなどの繁忙期を除いてスポットCMはめったに放送されない。なお、スポットCMの取り扱いについては、広告代理店にすべて委託されている。
以前は特定の番組のスポンサー(全国ネット)になるということはめったになかったが、2006年(平成18年)秋ごろから、全国ネットのテレビ番組にスポンサーとして広告出稿を行っており、提供クレジットに「Tokyo Disney Resort」のロゴを出すようになっている。
ちなみに、TDL開園前もCMは流された。TDLのテーマソングである「東京ディズニーランド・イズ・ユア・ランド」(Tokyo Disneyland Is Your Land )にあわせてパークの風景が出され、最後は前売券の販売告知になっているものであった。なお、これは麻木久仁子のCMデビュー作でもある。また、TDS開園前には、「ディズニーの海へ」と題して、テーマポートと同じ数である7種類のCMが放映された。なお、このCMはOLCが一社提供でスポンサーを務める「夢の通り道」(日本テレビ)の中で再度放映された。
2008年(平成20年)9月現在、JFN系列のラジオ局において「共通時報」を提供している。また、2008年(平成20年)9月15日にはTOKYO FMのラジオ番組「東京ディズニーリゾートpresents 25th Anniversary FANTASTIC AUTUMN!」を一社提供した。ベイエフエムでは1991年(平成3年)より土曜・日曜朝の「Disney Weekend Break(ディズニー・ウィークエンド・ブレイク)」、平日午前中放送の「IKSPIARI story(イクスピアリ・ストーリー)」を提供している(2010年代に終了)。また、2013年(平成25年)3月までは平日に時報スポットCMの提供もあった。
首都圏の鉄道各駅に加えて、鉄道車内や吊り広告に広告が掲載される。
在京民放5局や千葉テレビ放送でスポットCMが放送されている。
TDL・TDS内にあるいくつかの施設(レストラン・アトラクション・サービス施設など)には、一業種一社を原則として、国内の大手企業がスポンサーとしてついている。これは、「参加企業制度」と呼ばれるもので、パーク内で配布されるパンフレットに企業名を掲載したり、施設の出入口などに企業名が記された看板を掲げたり、コマーシャルなどの広告宣伝活動にパーク内の風景やキャラクターを使用する権利を与える代わりに、企業から建設資金や運営資金などの援助を行うものである。なお、同様の制度は、キッザニア東京の「スポンサーシップ」(オフィシャルスポンサー・シアターサポーター・協賛企業)やユニバーサル・スタジオ・ジャパンの「コーポレート・マーケティング・パートナーズ」にも見られる。ただし、「コーポレート・マーケティング・パートナーズ」では一業種で複数の企業が参加している。
ちなみに、この「参加企業制度」参加表明の第一号は、松下電器産業(現:パナソニックホールディングス)である。これは、創業者である松下幸之助が、ウォルト・ディズニーの思想に共鳴し、ディズニーランドの経営に強い興味を示したからである。その後、松下幸之助が日本の歴史を紹介するアトラクションとして、松下電器の提供でミート・ザ・ワールドを建設させた話は有名である(後に松下電器はこのアトラクションの提供を終了、2002年(平成14年)に運営終了)。またOLCから打診を受け、参加企業として参加表明をしたのはキリンビールが第一号である。なお、当時、松下電器もキリンビールも参加表明をしただけであって、スポンサー契約締結第一号は明治乳業である。
また、スポンサー契約の一環として、日本航空を「オフィシャルエアライン」、JCBを「オフィシャルカード」としている。
日本航空では、子会社であるジャルツアーズのパッケージツアー「JALSTAGE」で「JALで行く東京ディズニーリゾート」が独自に設定されており、ツアー利用客専用の羽田空港とパーク間の無料送迎バスをはじめ、ショー鑑賞券やディズニーキャラクターが使われている景品などの特典が用意されている。また、JALの羽田空港発着路線がある都市にはJALとOLC共同でプロモーション活動を行うこともある。
一方、JCBは目立った特典といえば毎年12月に行われる、カード利用者を対象とした約3万人規模の「JCBマジカル」程度である。また、レジのそばにJCBのロゴとJCBカードが使える旨が書かれたプレートが貼られているため、パーク内ではJCBカードしか使えないと思っているゲストも少なくない(ただし1990年代までは本当にJCBカードしか使えなかった。園内にある三井銀行→さくら銀行(当時)のATMによるキャッシングのみ)。現在はJCB以外のクレジットカードも利用することができ、3万円未満の一括払いであればサインレスという点も同じで、利用する面で特にJCBが優遇されているようなことはない。一方で、JCBギフトカードをパーク内で利用することはできない(ボン・ヴォヤージュ、イクスピアリ、ディズニーホテルでは利用できる店舗が存在する)。ちなみに、世界のディズニーパークの中で、JCBがオフィシャルカードになっているのは東京ディズニーリゾートのみで、他のテーマパークではディズニーとスポンサー契約を結んでいる「VISA」がオフィシャルカードになっている。また、イクスピアリではオリコのブランドで提携カードを発行しているほか、非接触決済方式にはMasterCardコンタクトレスを採用している。
また、東京ディズニーリゾート内で販売される商品に、参加企業のロゴマークを付ける事例もある。現在、東京ディズニーリゾートで販売されている菓子などの食品には、製造者名ではなく、OLCが各製造会社に割り当てたコードだけが明記されている。これは、購入客からの全ての問い合わせをOLCが管理するためとされており、一種のプライベートブランドとも言える。ただし、回収や代金払い戻しなどが生じた場合は製造者名を公表する。しかし、参加企業である「ユーハイム」が製造した商品には製造者名は明記されてはいないものの、ユーハイムのロゴマークや、ユーハイムが東京ディズニーリゾートの参加企業であることを知らせるメッセージが印刷されている。
OLCはスポンサー関係維持の観点から、一部のスポンサー企業との間で株式持ち合いを行っている(2022年6月時点でキッコーマン・日本航空・山崎製パンの3社)。なお、ANAホールディングスのようにスポンサーの同業企業との間で株式持ち合いを行っているケースもある。
なお、近年では、この参加企業制度に対して、費用に見合った広告宣伝効果があるのかと疑問視する声があることも事実で、2006年(平成18年)9月には6社が同時に契約更新を打ち切るなど、その影響がすでに見られている。また、この事態に対応するため、OLCは、従来は禁止していた「商品名」を記した看板を設置できるよう、スポンサー契約条件の緩和などを検討している。ちなみに、海外のディズニーパークでも各国の大手企業がスポンサーとしてついている。中には、本田技研工業のように香港ディズニーランドなどの海外のディズニーパークとだけスポンサー契約を結んでいる企業もある。
2008年(平成20年)4月16日の千葉日報の記事によると、TDL25周年の記念式典の後に行われた記者会見の中で、OLCの加賀見俊夫会長が、ディズニーブランドの施設を東南アジアに建設する計画があることを発表している。場所や規模、建設時期についての明言は避けたが、すでに調査が進められているとのことである。アジア地区にはすでに東京に加えて香港にもディズニーパークがあるが、加賀見会長はそれら施設とのすみわけは十分可能であると述べた。加えて私見として、スキーやスイミングなどの参加型施設の展開も視野に入れていることを明かした。ただし、下記の新規事業計画の断念に、この計画も含まれる可能性はある。
OLCは2007年(平成19年)5月に「中期経営計画」を発表した。その中で、2011年(平成23年)3月までに首都圏以外の大都市中心部において、ディズニーと屋内型エンターテイメント施設を共同開発する目標を掲げていた。
2008年(平成20年)1月1日の西日本新聞の記事によると、OLCが世界初業態の屋内型娯楽施設を、福岡市内にも開設する方向で候補地の最終調整に入ったこと、場所は福岡地所が運営する「キャナルシティ博多」の東側に一帯約1ヘクタールに建設が予定されている「第二キャナルシティ(仮称)」が最有力で、九州新幹線鹿児島ルートが全線開業する2011年をめどに開設する意向と報じられた。新施設の内容はディズニーとも協議中で未定だが、既存のテーマパーク型ではなく、建物内部でディズニーキャラクターを使ったショーや飲食、物販の提供を中心に据える方針とのことであった。絶叫型のコースターは設置しない方向という。オリエンタルランドの投資額は200億から300億円の見通し。入場者は年間数百万人を想定している。ただし、大阪への進出計画と同様に、OLCは「具体的なことは何も決まっていない」と発表していた。
2008年(平成20年)10月7日、OLCは規模に見合った収益が見込めず、事業性が乏しいことを理由に、ディズニーと屋内型エンターテイメント施設を共同開発する目標を断念し、計画の検討作業を終了することを明らかにした。
2008年(平成20年)12月5日、OLCは日本郵政とJR西日本が共同開発し、2012年開業予定のJR大阪駅前大阪中央郵便局改築を核とする再開発超高層複合ビル内に建設される劇場をOLCがテナントとして経営・運営することを正式に発表した。上演内容は「これから検討する」としており、一部の報道であったディズニーやシルク・ドゥ・ソレイユの公演については「現在のところは無い」と発表している。しかし、再開発ビルの開業時期が遅れる見通しとなったことから、2010年(平成22年)5月18日に契約を解除した。
2021年1月1日現在 | [
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"text": "株式会社オリエンタルランド(英: Oriental Land Co., Ltd.、略称:OLC)は、千葉県浦安市に本社を置き、米国のウォルト・ディズニー・カンパニーとのライセンス契約により東京ディズニーリゾート(TDR)を経営する京成グループの企業。後述の歴史的経緯から、千葉県も出資するため第三セクターでもある。日経平均株価並びにTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。傘下の事業者を含めて「オリエンタルランドグループ」と称することがある。",
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"text": "元々は純粋な事業会社として各施設の運営を直接行っていたが、現在は東京ディズニーランド(TDL)、東京ディズニーシー(TDS)の運営と同時にTDR関連事業、およびその他の事業を行うグループ各社を統括する事業持株会社となっている。",
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"text": "設立当時から、京成電鉄と三井不動産が二大株主であり、両社が多くの役員などを出向させていた。しかし三井不動産は2010年(平成22年)を最後に役員の出向をやめており、また出資比率も10%以下に引き下げている。また、千葉県を始めとする自治体も出資しており、公共団体の出資比率は合計で4.36%である(2016年3月末現在)。2022年現在、筆頭株主である京成電鉄の株保有率は約22%となっている。京成電鉄の持分法適用関連会社であり京成グループの企業であるが、米国ディズニー社との契約上「K'SEI GROUP」ロゴは使用されない。",
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"text": "傘下の企業は、2016年3月末現在、連結子会社14社、持分法適用会社4社、合わせて18社となっている。また、業務提携先として米国Disney Enterprises, Inc.、シルク・ドゥ・ソレイユ、日本郵政などがあるがシルク・ドゥ・ソレイユは、2011年に提携を解消した。",
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"text": "オリエンタルランド社は米国ディズニー社とのライセンス契約によって、ディズニーパークなどディズニー関連事業の運営を行っている。しかし米国ディズニー社によるオリエンタルランドへの出資や、資本協力、株式持ち合いなど資本提携は一切行われておらず、オリエンタルランドが公開している投資家情報では「世界で唯一、ディズニーとの資本関係が一切ないディズニーリゾート事業運営会社である」と発表している。",
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"text": "テーマパーク事業運営では、1982年(昭和57年)設立のウォルト・ディズニー・アトラクション・ジャパン(WDAJ:ディズニーの4事業子会社のひとつディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツの子会社)が、2つの東京ディズニーリゾートテーマパークの運営に親密に関わっており、メンテナンス、企画、運営などほぼ全ての面で関与している。また日本におけるディズニー関連の著作権や版権ビジネスはディズニー100%子会社のウォルト・ディズニー・ジャパン(WDJ)が担当しているため、TDR内の各種版権もWDJの管理であり、オリエンタルランドは東京ディズニーリゾートの実務面の運営のみを行なっている。",
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"text": "オリエンタルランドの主要取引銀行は、みずほ銀行、三井住友信託銀行。会計監査は有限責任あずさ監査法人が担当している。",
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"text": "オリエンタルランドはフジサンケイグループとも関係がある。産業経済新聞社とは、所有するディズニーホテルの朝刊サービスに関する契約を結んでいる。フジテレビジョンとは、グループ会社の一つであるOLC・ライツ・エンタテインメントを通じて「ネポスこどもCLUB」を共同制作したり、全国ネット枠のスポンサーを務めるなどに加えて、「お台場冒険王」の際には宣伝広告を設置したり、お台場・東京ディズニーリゾート間の無料送迎バスを運行するなど、積極的な協力関係を取っている。なお、フジテレビはディズニーと包括的なパートナー契約を締結している。",
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"text": "「株式会社オリエンタルランド(以下、OLC)」が設立されたのは、1960年(昭和35年)7月1日に京成電鉄が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設(このレジャー施設の当時の仮称がオリエンタルランド)を計画し、社長の旧友であった三井不動産社長に共同事業者として声をかけたのがきっかけである。元々当時の京成社長、川﨑千春は自社のみで計画を遂行しようとしたが、銀行を含めて信用が担保できず、三井グループである三井不動産などに声をかけた。これにより京成電鉄、三井不動産、朝日土地興業(船橋ヘルスセンター、後に三井不動産に吸収合併)の3社が均等に出資することでOLCは設立。東京・上野の京成電鉄本社内の一角に事務所を設置し、初代社長は川﨑が就任した。",
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"text": "京成電鉄が、都心部 - オリエンタルランド(現在の舞浜・新浦安付近) - 船橋港 - 稲毛海岸 - 千葉港 - 千葉寺という新規鉄道路線(現・JR京葉線の原型)を計画及び免許申請をしており、オリエンタルランド計画は、この新規路線の沿線開発の一つであった。",
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"text": "この時点ではOLCはディズニーランドの招致は明言しておらず、「東洋一のレジャーランドを浦安沖に建設する」と述べており、実際に1974年(昭和49年)に千葉県が承認したオリエンタルランド(前述のレジャー施設仮称)の基本計画では「ホールエリア」・「プレイランド」・「スイミングガーデン」・「スポーツクラブ」の4つの施設群からなるレジャー施設建設を予定しているとの内容になっており、中にはドーム球場やゴルフ場の建設も盛り込まれるなど、現在の舞浜地域(東京ディズニーリゾート)の姿とは大幅に異なるものであった。",
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"text": "OLC社長となった川﨑は、当初谷津遊園拡張の際にバラ園を新設する構想を練っていた(この事業は後に京成バラ園芸の設立につながる)。京成OBで仲の良かった読売新聞社社主の正力松太郎にも声をかけたのだと言う。そのバラ園に飾るバラを買い付けに訪米した際、開業後間もないディズニーランドを訪れ、感銘を受けたのだった。川﨑は帰国後、レジャーランド計画にアメリカのディズニーランドを招致するという明確な方針を示し実現へ動いた。当初、川崎は後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)や東武鉄道などとの合弁で千葉県我孫子町(現・我孫子市)・沼南町(後に柏市と合併)の手賀沼一帯にディズニーランドを招致することを計画しており、起工式まで行ったが、合弁会社の経営トラブルに加え、高度経済成長による手賀沼の水質悪化が問題となり、手賀沼への招致を断念。合弁会社に参画していた前述の3社が候補地を浦安沖に切り換えてディズニーランド誘致を進めた経緯があった。",
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"text": "埋立による土地の造成には、公有水面埋立法に基づき県知事の許可を得る必要があった。当時の千葉県知事は友納武人であり、三井不動産社長の江戸英雄と二人三脚で進んでいった。この時取られた方式は「出洲方式」と呼ばれる方法で、埋め立て事業費は不動産会社と県が2対1の割合で負担する。完成した造成地は県有地として千葉県が売却し、その益金は出資比率に応じて分配される。",
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"text": "特に、現場での漁業協同組合との補償交渉を取り仕切ったのが、江戸の推薦でOLCに入社した高橋政知である。高橋自身は名門の家の生まれで東大の卒論を英語で書くほどのエリートであったが、持ち前の豪放磊落な性格が功を奏し、漁民への補償や千葉県からの土地払い下げまでは順調に進んでいった。一方、朝日新聞はこの開発を問題視し、『追跡・湾岸開発』という検証本を出版するに至る。また、首都圏新空港の候補地として、河野一郎に目をつけられたこともある。",
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"text": "その後、京成電鉄は本業の不振などからディズニーランド招致をすべてOLCに委託することとなる。ディズニーランド招致交渉に支援的であった京成電鉄と違い、もう一方の親会社である三井不動産は住宅等の土地開発を第一に考え、ディズニーランド招致には反対の立場をとっていたため、ディズニーランド招致を妨害することもあった。この時期に当時千葉県知事だった川上紀一の汚職事件(川上五千万円念書事件)が発覚したこともあって、第94回国会などでは野党議員を巻き込んで質疑にも上っている。この頃、三菱グループでも三菱地所が富士山の麓にディズニーランドを招致しようと誘致活動を展開していた。",
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"text": "なお、創業当初は100万坪を埋め立てると宣伝しており、山本周五郎の小説『青べか物語』でも「沖の百万坪」という言及がある。完了した造成工事では260万坪の面積を埋め立てたが、上記の事情から次々と住宅地として処分され、最終的には63万坪余りが遊園地用地として残され、それもホテル用地などに取られたため、TDL開業時には純粋な遊園地として使用されている土地はさらに少ないものとなった。",
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"paragraph_id": 16,
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"text": "三菱地所との誘致合戦に競り勝ち、ディズニーとの交渉は1974年(昭和49年)に開始されたが、先行して開園していた奈良ドリームランドの著作権侵害問題もあり、最初は門前払いに近い扱いであった。ディズニーから提示された条件はディズニーは建設費・運営費等を一切支払わず、ロイヤルティとして売り上げの10%を回収すると言う当時の日本の常識からは法外なものだった。交渉は何度も決裂寸前の様相を呈し、一時は修復も危ぶまれる状況に陥った。最終的には、親会社である三井不動産の意向を無視する形で、高橋が条件を飲み、高橋の顔をたてるために50年契約だった条件を1割減じて45年とさせた。こうして1979年(昭和54年)4月30日にウォルト・ディズニー・プロダクション(後のディズニー・エンタプライゼズ・インク)との業務提携契約を取り交わした。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "その後、ディズニーによる技術・ノウハウ提供を受け、1983年(昭和58年)4月15日東京ディズニーランドが開園を迎えた。開園初日は18,063人が来園した。当初はシンデレラ城の前でオープニングセレモニーを行う予定としていたが、当日の天気は雨だったため、止む無くワールドバザールの中に変更して行われた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "1983年(昭和58年)4月15日に「東京ディズニーランド」を開園させ来園者数を順調にのばし、初年度目標を超える1036万人の入園者を迎えた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "その後も「つくば科学博」の開催による相乗効果などにより入園者数を大きく伸ばし、バブル景気に影響されて全国各地に建設された遊園地の中でも、強い独自色を発揮し、着実に入園者数を増やしていった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1986年(昭和61年)1月米国ディズニー社は、OLCに対して舞浜地区全体の開発を目指した「東京ディズニーワールド構想」を提案。OLCでの検討の末1988年(昭和63年)4月15日の「東京ディズニーランド開園5周年記者会見」で「第二パーク構想」について発表した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "しかし、第二パーク構想は、「ディズニーMGMスタジオ・ツアー」(現・ディズニー・ハリウッド・スタジオ)をモデルした施設を建設することで米国ディズニー社との間で一旦結んだ契約を白紙撤回するなどの様々な問題–米国ディズニー社に対する違約金の支払いなど–解決しなければならない案件が数多く存在し、米国ディズニー社と日本側のオリエンタルランド社両社の長時間の協議・調整を必要とした。第二パークの建設は、TDL15周年のタイミングで着工に漕ぎ着けていたが、前述の問題や近隣に予定していた墓地公園を巡っての浦安市とのトラブルなどもあり、「東京版ディズニーワールド構想」を最終的な形に仕上げるには、その後10年もの歳月を要する事となった。現在、東京ディズニーリゾートを構成している「東京ディズニーランド」、「東京ディズニーシー」、「イクスピアリ」、「ボン・ヴォヤージュ」など、日本版ディズニーワールドである東京ディズニーリゾートの全体像はこのようにして決まっていった。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)1月1日に「リゾート宣言」を発表、これは第二パークの開園に向けて「テーマパーク」から「テーマリゾート」への転換を目指して出された。また、1月6日には日本経済新聞に全面見開き広告「リゾート宣言。」を掲載し、日本初となるテーマリゾートの誕生を印象付けさせた。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "2000年(平成12年)7月7日「イクスピアリ」・「キャンプ・ネポス」・「ディズニーアンバサダーホテル」が開業し、今まで空き地が広がっていた舞浜駅前に一つの街が誕生した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "2001年(平成13年)3月1日は「ボン・ヴォヤージュ」が開業。2001年(平成13年)7月27日には「ディズニーリゾートライン」が開業。2001年(平成13年)9月4日「東京ディズニーシー」、及びパーク一体型ホテル「東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ」がそれぞれ開業し「東京ディズニーリゾート (TDR)」が正式に開業した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "舞浜地区開発が一通り終了した後の事業展開として、日本国内のディズニーストアの経営(ディズニー日本法人から引継。その後再び米国ディズニー社へ帰属)、日本国内におけるミュージカル「ディズニーライブ!」の公演、その他にも子会社を通じたレストラン経営や映画制作事業への参入、低価格ホテルパーム&ファウンテンテラスホテルの開業など、舞浜地区に依存しない利益確保の方法を開拓している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)4月15日からのTDL開園25周年を契機に、3つ目のディズニーホテル「東京ディズニーランドホテル」の開業や、シルク・ドゥ・ソレイユ専用常設劇場「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」(現在の舞浜アンフィシアター)など、TDRのさらなる開発も目指している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "なお、2011年(平成23年)3月までに首都圏以外の大都市中心部において、ディズニーの屋内型エンターテイメント施設を建設する計画を進めていたが、期待する収益が上げられないと判断して計画の中止を発表した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2010年代後半からディズニーリゾートの飲食施設で使用する野菜の自社生産を開始しており、2023年現在、千葉県袖ケ浦市と北海道弟子屈町、山梨県北杜市で直営農場を展開している。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "2020年に新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことで、オリエンタルランドは2020年度決算で1996年の上場以来初となる最終赤字に転落した。",
"title": "沿革"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "2021年6月1日現在",
"title": "主な組織"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "※2023年6月29日付人事異動による",
"title": "主な組織"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "・代表取締役会長(兼)CEO",
"title": "主な組織"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "高野由美子",
"title": "主な組織"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "他の会社役員に関する詳細は「オリエンタルランド会社概要 役員一覧」を参照のこと。",
"title": "主な組織"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "TDRを含む世界のディズニーリゾート・ディズニーパークでは従業員のことを「キャスト」、入場客のことを「ゲスト」と呼ぶ。カストーディアル・キャスト(清掃・案内を担当するキャスト)においては「カスト」と呼ぶこともある。また、「キャスト」の本来の意味であるショーの出演者はキャストと呼ばず「出演者」または「エンターテイナー」という呼び方をする。ただし、彼らも広義では一般従業員と同じく「キャスト」であり、人事上では「キャスト」の名称が使われる場合もある。なお、「キャスト」の呼称はOLCに所属する従業員だけではなく、OLCグループ各社の従業員、協力会社従業員等のうち、TDRの業務に従事している者全般に対して使用される。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "これは、「パークは青空を背景とした巨大なステージであり、従業員はそのステージ上でそれぞれ配役された役割を演じるキャストである」というウォルト・ディズニーの考えに由来している。そのため、ゲストが入れるエリアは「オン・ステージ」(舞台)、関係者専用区域を「バックステージ」(舞台裏・楽屋)、キャストが配属される各部署を「ロケーション」と呼ぶなど、映画・演劇用語が使用される。初期研修後各ロケーションに配属される際には「あなたの配役は-」と記載された辞令を渡すなど、この考え方による用法は徹底しているという。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "キャストは「いらっしゃいませ」とは言わず、原則「こんにちは(おはようございます・こんばんは)」と迎える。これは「いらっしゃいませ」とキャストに言われてもゲストには返す言葉がなく、会話が成立しないためである。また「カスト」に限らず、すべてのキャストはゴミを見つけたら直ちに清掃することになっている。これは「1つのごみが全体を汚くする」という理念をウォルトが持っていたことに由来し、外で乳幼児が這い歩きしても安全なようにと教育されている。閉園後を担当するのは夜勤の「ナイトカストーディアル・キャスト」で、このスタッフたちは、閉園直後の0時から開園直前の7時まで、パークの道路すべてを自営浄水場で再生された水で水洗いする。もちろんそれだけの人数が存在し機材もある。それによって、いつもパークがきれいに保たれている。いかに訪れた人々を迎えるか、どのように接すれば喜んでもらえるか、の教育に力を入れている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "直営でなく、ライセンス契約上、マニュアルの遵守が要請されること、日本人の国民性などが相俟って、世界のディズニーパークの中で、精緻なマニュアルを一番忠実に実施していると評されている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "TDRで働く多くのキャストは、OLCの準社員(パートタイマー、アルバイト)・テーマパーク社員(契約社員)、いわゆる非正規雇用の従業員である。時給制契約により雇用される。パーク内の多くの職種に配され、ゲストが出会うキャストの多くはこの準社員である。当初はパーク内で働くキャストに占める正社員の割合は少なくなかったが、現在はその多くを準社員に行わせている(準社員だけでパークは動かせるとまで評されている)。 福利厚生面で見ると累積勤務時間による昇給制度や優待パスポート、シルク・ドゥ・ソレイユ シアター(廃止)、東京「ZED」鑑賞券、賞与の支給や社会保険への加入(厚生年金及びオリエンタルランド健康保険組合。法令に基づき、週労働時間が正社員の4分の3以上のキャストは雇用形態に関わらずすべて対象である)、そしてクリスマスや正月など深夜開園がある際の仮泊所、OLCの福利厚生施設の特典(浦安市内や首都圏には社員証提示で料金割引き等がある店舗が多数存在する)利用権利、年に一度閑散期にある“勤労感謝の日(サンクスデー)”は、パークは閉園後キャストに開放される(この日のみ19時で早終いとなり、開放中の運営は正社員によって為される。時間は20時15分から22時45分)などがある。アルバイト従業員は、ディズニーパークの一員として仕事ができる環境に魅力を感じ、採用希望を抱く人が応募するため、前述の待遇に満足感を覚える従業員が多いという。ただ、その仕事内容は多岐に渡り、担当する通常業務に加え、案内・清掃・遺失物・迷子の対応、さらには厳しい管理下の接客姿勢など、会社側のキャスト1人に対する仕事の量・質の要求は非常に高い。そのため離職者も数多くおり、会社側は、アルバイト従業員の確保に常に力を置いている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "UAゼンセン傘下の「オリエンタルランド労働組合(オリエンタルランド・フレンドシップ・ソサエティー、略称:OFS)」が組織されている。OFSは従来正社員をその組織対象とする労働組合で、2007年(平成19年)3月31日現在の組合員数は1,950名となっていたが、2017年4月より非正規労働者も対象とする労働協約の改定を行い、2万名以上いる従業員のうち約8割を組織するようになった。OFSはUAゼンセンの方針により労使協調路線を採り、どちらかといえば社員会に近いスタンスで運営されている。グループ内の連結子会社で組合は組織されていない。一方、通告無しの解雇や偽装請負疑惑との訴えもある。2014年3月にはついに、「なのはなユニオン」傘下の“闘う”労働組合「オリエンタルランドユニオン」が結成された。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "なお、準社員は5段階の職級に分けられ、下から M / A / G / I / C(メイク、アクション、成長、進歩、キャプテンの略と説明されている)と区分されていてそれぞれ○キャストと呼称されている。新規入社の準社員はMキャストとされ、OJT(研修)を約2-5日行いデビューという形になる。Mキャスト期間(入社日の翌月末まで)を過ぎると原則的にAキャストに昇格する。最上位職級のCキャストに関しては時給制であるという以外は、ほぼテーマパーク社員や正社員と同じ業務を行っている部署もある。全てのキャストの頂点にあるのが「東京ディズニーリゾート・アンバサダー」である。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "同じ職種の場合、人員確保のため一定期間においてロケーションの変更は容易である。また、規定の勤務をこなしながら異なる職種の体験をできる制度も存在する。例えば、アトラクション担当のキャストが商品販売担当のキャストを同時期にこなす、というものである。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "また、当初は一部の職種にのみ存在したが、後に適用される職種が拡大された「テーマパーク社員」制度もある。テーマパーク社員は、準社員の監督・指導など、パーク運営業務の第一次的責任を担う「スーパーバイザー(Superviser―監督者。略名SV)」の候補(I-A区分)として採用されワーキングリード (Working Lead) として勤務に就く、その後選考により昇格した場合はスーパーバイザー(II区分)として、原則1年間の月給制契約により雇用される(更新等に所定の条件がある)。また、「専門業務従事者」として「ファイヤー(防火管理者)」や「ナース(看護師)」などの職種もスーパーバイザーとしての契約があるが、こちらはII区分へのステップアップはない。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "準社員からテーマパーク社員や正社員に雇用される場合もあるが、テーマパーク社員へは G / I / Cキャストで正社員からの推薦が必要になる。正社員への登用に至っては I / Cキャストでマネージャー職の正社員からの推薦が必要と非常にハードルが高く、ごく一部だけの実績があるだけである。2008年(平成20年)に正社員にまで昇り詰めた準社員は数名程度である。そのため、テーマパーク業務の知識を持たない正社員が増えてしまっている現状がある。しかしながら、東証一部上場企業の正社員にアルバイトからなることを考えれば相応のハードルであり、ファーストフード店やコンビニエンスストアなどといった、数千から数万規模の店舗を有し、店舗数に応じて社員が必要不可欠である上場企業とは単純に比較できない。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "OLCが公表している、2007年(平成19年)4月1日現在のテーマパーク社員・準社員数は16,200名。職種による差はあるが、準社員の入れ替わりは激しい。入れ替わりが激しい理由としては、仕事の負担感に比して時給が安いなどの現実的な面と、学生の場合は授業やゼミなど学業、そして就職等との兼ね合いで辞めざるを得なくなるケースも多い。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "ただ、一旦辞めても期間を置いて「再入社」という形で戻ってくるキャストも多く、中には退職・再入社を何度も繰り返す者もいる。これは、退社後一年以内の再入社は、以前の累積勤務時間が引き継がれ、時給の昇給や前述の職級等で有利になるためである。また、他の職種に鞍替えしたい場合には一旦退職して、面接からやり直さなければならないことも退職・再入社が多い一因となっている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "コスチュームはワードローブビルですべて貸し出しとなっており、イシュー・カウンターよりコスチュームを借り(人手を介する煩雑さを解消するため、RFIDが導入されて、一旦貸与がされたら後は保管所から自分で手続きして返還・帯出ができる様になった)、イシュー・ロッカー内のドレッシング・ルームで着替えて仕事に就く。なお、コスチュームに着替えて勤務するキャストには「着替手当」が付くという。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "また、ショー出演者(エンターテイナー)の着替えや着付け等は、エンターテイナー専用のドレッシング・ルーム(楽屋)でおこなわれているため、準社員、テーマパーク社員、正社員のすべてを含めた通常のキャストは担当部署のキャスト(エンターテイメント関連)でなければ見ることも関わることもできないという。これにより、多くの他の部署の準社員が入れ替わりが頻繁に行われても、エンターテイメント関連の秘密が流出せずに保持されるよう徹底した管理が行われている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの運営"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "OLCは、ディズニーとの契約上、TDRの運営企業としてCMや広告などには一切その企業名が掲載されない。ただし、求人広告には労働関係法規のため、またパークの入場と宿泊をセットにした「東京ディズニーリゾート・バケーションパッケージ」関連の配布用印刷物等にはOLCが第二種旅行業(当初は横浜市にあるTDR総合予約センターを店舗として神奈川県に登録されていたが、現在は舞浜の住所に登録が変更となったため、千葉県に登録されている。登録番号は千葉県知事登録旅行業第2-810号)として予約受付を行うため、旅行業法等によりその企業名が記載されている。また、広告の出稿はディズニーではなく、OLCが行っている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "新聞では主に全国紙に掲載される。まれに地方紙にも掲載されることがある。参加企業の広告と抱き合わせで掲載されることもある。雑誌については、Hanakoなどの総合情報誌のほか、ZAITENなどビジネス誌にも出稿している。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "スポットCMは、首都圏の民放キー局及び首都圏以外の政令指定都市(特に静岡県など)を中心に放映されており、新規アトラクションの告知やイベントの告知、TDLもしくはTDSの施設全体の宣伝など、内容は様々である。地方では、新規アトラクション導入か、春などの閑散期、夏休みなどの繁忙期を除いてスポットCMはめったに放送されない。なお、スポットCMの取り扱いについては、広告代理店にすべて委託されている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "以前は特定の番組のスポンサー(全国ネット)になるということはめったになかったが、2006年(平成18年)秋ごろから、全国ネットのテレビ番組にスポンサーとして広告出稿を行っており、提供クレジットに「Tokyo Disney Resort」のロゴを出すようになっている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、TDL開園前もCMは流された。TDLのテーマソングである「東京ディズニーランド・イズ・ユア・ランド」(Tokyo Disneyland Is Your Land )にあわせてパークの風景が出され、最後は前売券の販売告知になっているものであった。なお、これは麻木久仁子のCMデビュー作でもある。また、TDS開園前には、「ディズニーの海へ」と題して、テーマポートと同じ数である7種類のCMが放映された。なお、このCMはOLCが一社提供でスポンサーを務める「夢の通り道」(日本テレビ)の中で再度放映された。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)9月現在、JFN系列のラジオ局において「共通時報」を提供している。また、2008年(平成20年)9月15日にはTOKYO FMのラジオ番組「東京ディズニーリゾートpresents 25th Anniversary FANTASTIC AUTUMN!」を一社提供した。ベイエフエムでは1991年(平成3年)より土曜・日曜朝の「Disney Weekend Break(ディズニー・ウィークエンド・ブレイク)」、平日午前中放送の「IKSPIARI story(イクスピアリ・ストーリー)」を提供している(2010年代に終了)。また、2013年(平成25年)3月までは平日に時報スポットCMの提供もあった。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "首都圏の鉄道各駅に加えて、鉄道車内や吊り広告に広告が掲載される。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "在京民放5局や千葉テレビ放送でスポットCMが放送されている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの広告展開"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "TDL・TDS内にあるいくつかの施設(レストラン・アトラクション・サービス施設など)には、一業種一社を原則として、国内の大手企業がスポンサーとしてついている。これは、「参加企業制度」と呼ばれるもので、パーク内で配布されるパンフレットに企業名を掲載したり、施設の出入口などに企業名が記された看板を掲げたり、コマーシャルなどの広告宣伝活動にパーク内の風景やキャラクターを使用する権利を与える代わりに、企業から建設資金や運営資金などの援助を行うものである。なお、同様の制度は、キッザニア東京の「スポンサーシップ」(オフィシャルスポンサー・シアターサポーター・協賛企業)やユニバーサル・スタジオ・ジャパンの「コーポレート・マーケティング・パートナーズ」にも見られる。ただし、「コーポレート・マーケティング・パートナーズ」では一業種で複数の企業が参加している。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ちなみに、この「参加企業制度」参加表明の第一号は、松下電器産業(現:パナソニックホールディングス)である。これは、創業者である松下幸之助が、ウォルト・ディズニーの思想に共鳴し、ディズニーランドの経営に強い興味を示したからである。その後、松下幸之助が日本の歴史を紹介するアトラクションとして、松下電器の提供でミート・ザ・ワールドを建設させた話は有名である(後に松下電器はこのアトラクションの提供を終了、2002年(平成14年)に運営終了)。またOLCから打診を受け、参加企業として参加表明をしたのはキリンビールが第一号である。なお、当時、松下電器もキリンビールも参加表明をしただけであって、スポンサー契約締結第一号は明治乳業である。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "また、スポンサー契約の一環として、日本航空を「オフィシャルエアライン」、JCBを「オフィシャルカード」としている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "日本航空では、子会社であるジャルツアーズのパッケージツアー「JALSTAGE」で「JALで行く東京ディズニーリゾート」が独自に設定されており、ツアー利用客専用の羽田空港とパーク間の無料送迎バスをはじめ、ショー鑑賞券やディズニーキャラクターが使われている景品などの特典が用意されている。また、JALの羽田空港発着路線がある都市にはJALとOLC共同でプロモーション活動を行うこともある。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "一方、JCBは目立った特典といえば毎年12月に行われる、カード利用者を対象とした約3万人規模の「JCBマジカル」程度である。また、レジのそばにJCBのロゴとJCBカードが使える旨が書かれたプレートが貼られているため、パーク内ではJCBカードしか使えないと思っているゲストも少なくない(ただし1990年代までは本当にJCBカードしか使えなかった。園内にある三井銀行→さくら銀行(当時)のATMによるキャッシングのみ)。現在はJCB以外のクレジットカードも利用することができ、3万円未満の一括払いであればサインレスという点も同じで、利用する面で特にJCBが優遇されているようなことはない。一方で、JCBギフトカードをパーク内で利用することはできない(ボン・ヴォヤージュ、イクスピアリ、ディズニーホテルでは利用できる店舗が存在する)。ちなみに、世界のディズニーパークの中で、JCBがオフィシャルカードになっているのは東京ディズニーリゾートのみで、他のテーマパークではディズニーとスポンサー契約を結んでいる「VISA」がオフィシャルカードになっている。また、イクスピアリではオリコのブランドで提携カードを発行しているほか、非接触決済方式にはMasterCardコンタクトレスを採用している。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "また、東京ディズニーリゾート内で販売される商品に、参加企業のロゴマークを付ける事例もある。現在、東京ディズニーリゾートで販売されている菓子などの食品には、製造者名ではなく、OLCが各製造会社に割り当てたコードだけが明記されている。これは、購入客からの全ての問い合わせをOLCが管理するためとされており、一種のプライベートブランドとも言える。ただし、回収や代金払い戻しなどが生じた場合は製造者名を公表する。しかし、参加企業である「ユーハイム」が製造した商品には製造者名は明記されてはいないものの、ユーハイムのロゴマークや、ユーハイムが東京ディズニーリゾートの参加企業であることを知らせるメッセージが印刷されている。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "OLCはスポンサー関係維持の観点から、一部のスポンサー企業との間で株式持ち合いを行っている(2022年6月時点でキッコーマン・日本航空・山崎製パンの3社)。なお、ANAホールディングスのようにスポンサーの同業企業との間で株式持ち合いを行っているケースもある。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "なお、近年では、この参加企業制度に対して、費用に見合った広告宣伝効果があるのかと疑問視する声があることも事実で、2006年(平成18年)9月には6社が同時に契約更新を打ち切るなど、その影響がすでに見られている。また、この事態に対応するため、OLCは、従来は禁止していた「商品名」を記した看板を設置できるよう、スポンサー契約条件の緩和などを検討している。ちなみに、海外のディズニーパークでも各国の大手企業がスポンサーとしてついている。中には、本田技研工業のように香港ディズニーランドなどの海外のディズニーパークとだけスポンサー契約を結んでいる企業もある。",
"title": "東京ディズニーリゾートの参加企業制度"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)4月16日の千葉日報の記事によると、TDL25周年の記念式典の後に行われた記者会見の中で、OLCの加賀見俊夫会長が、ディズニーブランドの施設を東南アジアに建設する計画があることを発表している。場所や規模、建設時期についての明言は避けたが、すでに調査が進められているとのことである。アジア地区にはすでに東京に加えて香港にもディズニーパークがあるが、加賀見会長はそれら施設とのすみわけは十分可能であると述べた。加えて私見として、スキーやスイミングなどの参加型施設の展開も視野に入れていることを明かした。ただし、下記の新規事業計画の断念に、この計画も含まれる可能性はある。",
"title": "新規事業展開"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "OLCは2007年(平成19年)5月に「中期経営計画」を発表した。その中で、2011年(平成23年)3月までに首都圏以外の大都市中心部において、ディズニーと屋内型エンターテイメント施設を共同開発する目標を掲げていた。",
"title": "新規事業展開"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)1月1日の西日本新聞の記事によると、OLCが世界初業態の屋内型娯楽施設を、福岡市内にも開設する方向で候補地の最終調整に入ったこと、場所は福岡地所が運営する「キャナルシティ博多」の東側に一帯約1ヘクタールに建設が予定されている「第二キャナルシティ(仮称)」が最有力で、九州新幹線鹿児島ルートが全線開業する2011年をめどに開設する意向と報じられた。新施設の内容はディズニーとも協議中で未定だが、既存のテーマパーク型ではなく、建物内部でディズニーキャラクターを使ったショーや飲食、物販の提供を中心に据える方針とのことであった。絶叫型のコースターは設置しない方向という。オリエンタルランドの投資額は200億から300億円の見通し。入場者は年間数百万人を想定している。ただし、大阪への進出計画と同様に、OLCは「具体的なことは何も決まっていない」と発表していた。",
"title": "新規事業展開"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)10月7日、OLCは規模に見合った収益が見込めず、事業性が乏しいことを理由に、ディズニーと屋内型エンターテイメント施設を共同開発する目標を断念し、計画の検討作業を終了することを明らかにした。",
"title": "新規事業展開"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "2008年(平成20年)12月5日、OLCは日本郵政とJR西日本が共同開発し、2012年開業予定のJR大阪駅前大阪中央郵便局改築を核とする再開発超高層複合ビル内に建設される劇場をOLCがテナントとして経営・運営することを正式に発表した。上演内容は「これから検討する」としており、一部の報道であったディズニーやシルク・ドゥ・ソレイユの公演については「現在のところは無い」と発表している。しかし、再開発ビルの開業時期が遅れる見通しとなったことから、2010年(平成22年)5月18日に契約を解除した。",
"title": "新規事業展開"
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"text": "2021年1月1日現在",
"title": "関連企業"
}
] | 株式会社オリエンタルランドは、千葉県浦安市に本社を置き、米国のウォルト・ディズニー・カンパニーとのライセンス契約により東京ディズニーリゾート(TDR)を経営する京成グループの企業。後述の歴史的経緯から、千葉県も出資するため第三セクターでもある。日経平均株価並びにTOPIX Large70の構成銘柄の一つ。傘下の事業者を含めて「オリエンタルランドグループ」と称することがある。 | {{Pathnav|京成電鉄|frame=1}}
{{出典の明記|date=2016年8月}}
{{基礎情報 会社
|社名 = 株式会社オリエンタルランド
|英文社名 = Oriental Land Co., Ltd.
|ロゴ = [[File:Oriental Land logo.svg|250px]]
|画像 = [[File:Oriental Land.jpg|300px]]
|画像説明 = 本社入口
|種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]
|機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref group="広報">[http://www.olc.co.jp/ja/sustainability/governance/governance.html コーポレート・ガバナンス] - 株式会社オリエンタルランド</ref>
|市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 4661 | 1996年12月11日<ref name="chibanippo19961212">{{Cite news |title=初値8850円の人気 オリエンタルランドが上場 |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=1996-12-12}}</ref>}}
|略称 = OLC
|国籍 = {{JPN}}
|本社郵便番号 = 279-8511
|本社所在地 = [[千葉県]][[浦安市]][[舞浜]]1番地1
|本店郵便番号 =
|本店所在地 =
|設立 = [[1960年]]([[昭和]]35年)[[7月11日]]<ref name="chibanippo2010712">{{Cite news |title=地元へ感謝込めごみ拾い OLC、創立50周年で |newspaper=千葉日報 |page=16 |publisher=千葉日報社 |date=2010-07-12}}</ref>
|業種 = サービス業
|事業内容 = テーマパークの経営、運営および、[[不動産賃貸業]]等
|代表者 = [[加賀見俊夫]]([[代表取締役]]兼[[取締役会]]議長) <br />[[髙野由美子]] (代表取締役[[会長]]兼[[最高経営責任者|CEO]])<br />[[吉田謙次]](代表取締役[[社長]]兼[[最高執行責任者|COO]]兼社長[[執行役員]])
|資本金 = 632億112万7000円<br />(2021年3月31日時点)<ref group="広報">[http://www.olc.co.jp/ja/company/profile.html 会社概要 | オリエンタルランドについて | オリエンタルランドグループ]</ref><ref group="広報" name="gyoseki">[http://www.olc.co.jp/ir/data.html 業績データ推移 | 業績・財務情報 | 株主・投資家の皆様へ | オリエンタルランドグループ]</ref>
|発行済株式総数 = 3億6369万160株<br />(2021年3月31日時点)<ref name="ir">{{Cite web|和書|url= http://www.olc.co.jp/ja/ir/latest/main/00/teaserItems2/00/linkList/0/link/s2021-04.pdf |title= 2021年3月期 決算短信〔日本基準〕(連結) |publisher= 株式会社オリエンタルランド |accessdate= 2021-05-29 |date= 2021-04-28 }}</ref>
|売上高 = 連結:1705億8100万円<br />単体:1460億1500万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/>
|営業利益 = 連結:△459億8900万円<br />単体:△364億500万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/>
|経常利益 = 連結:△492億500万円<br />単体:△391億8400万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/>
|純利益 = 連結:△541億9000万円<br />単体:△372億2600万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/>
|純資産 = 連結:7599億4800万円<br />単体:7153億9800万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/>
|総資産 = 連結:1兆404億6500万円<br />単体:1兆14億6900万円<br />(2021年3月期)<ref name="ir"/>
|従業員数 = 連結:8,782名<br />単体:5,375名<br />(2022年3月31日現在)
|決算期 = [[3月31日|3月末日]]
|会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]]<ref>[http://www.olc.co.jp/ja/csr/structure/governance.html コーポレートガバナンス] 2021年1月3日閲覧</ref>
|主要株主 = [[京成電鉄]] 22.15%<br />[[日本マスタートラスト信託銀行]] 10.41%<br />[[三井不動産]] 6.65%<br />[[千葉県]] 4.03%<br />[[日本カストディ銀行]] 1.38%<br />[[第一生命保険]] 1.31%<br />(2022年9月30日現在)<ref group="広報">{{Cite web|和書|date= 2021-09-30|url=http://www.olc.co.jp/ja/ir/stockshares/stock.html|title= 株式情報|publisher= 株式会社オリエンタルランド|accessdate=2022-04-07}}</ref>
|主要子会社 = [[イクスピアリ (企業)|イクスピアリ]] 100%<br />[[ミリアルリゾートホテルズ]] 100%<br />[[舞浜リゾートライン]] 100%<br />[[舞浜コーポレーション]] 100%<br />[[グリーンアンドアーツ]] 100%<br />[[フォトワークス]] 100%<br />[[デザインファクトリー (千葉県)|デザインファクトリー]] 100%<br />[[ベイフードサービス]] 100%<br />[[リゾートコスチューミングサービス]] 100%<br />[[MBM (ビルメンテナンス会社)|MBM]] 100%<br />[[Mテック]] 100%<br />[[ブライトンコーポレーション]] 100%<br />(2015年4月1日現在)<ref group="広報">{{Cite web|和書|date= 2015-04-01|url= http://www.olc.co.jp/company/groupcompany/|title= OLCグループ会社一覧|publisher= 株式会社オリエンタルランド|accessdate=2016-02-09}}</ref>
|関係する人物 = [[川崎千春|川﨑千春]](創業者・初代[[代表取締役]]社長)<br />[[高橋政知]](二代目代表取締役社長)<br />[[森光明]](三代目代表取締役社長)<br />[[加藤康三]](四代目代表取締役社長)<br />[[加賀見俊夫]](五代目代表取締役社長、代表取締役[[会長]]兼[[最高経営責任者|CEO]])<br />[[福島祥郎]](六代目代表取締役社長兼[[最高執行責任者|COO]])
|外部リンク = https://www.olc.co.jp/
|特記事項 =
}}
'''株式会社オリエンタルランド'''({{Lang-en-short|Oriental Land Co., Ltd.}}、略称:'''OLC''')は、[[千葉県]][[浦安市]]に本社を置き、[[アメリカ合衆国|米国]]の[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]との[[ライセンス]]契約により'''[[東京ディズニーリゾート]]'''(TDR)を経営する[[京成グループ]]の[[企業]]。後述の歴史的経緯から、千葉県も出資するため[[第三セクター]]でもある。[[日経平均株価]]並びに[[TOPIX Large70]]の構成銘柄の一つ<ref>{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/news/1044/nlsgeu0000050uqm-att/mei_12_size.pdf 「TOPIXニューインデックスシリーズ」の定期選定結果及び構成銘柄一覧]}} jpx.co.jp 2020年10月7日公表 2021年10月8日閲覧。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=銘柄一覧 |url=https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/component?idx=nk225 |website=日経平均プロフィル |access-date=2023-04-15 |publisher=日本経済新聞社}}</ref>。傘下の事業者を含めて「'''オリエンタルランドグループ'''」と称することがある。
== 概要 ==
元々は純粋な事業会社として各施設の運営を直接行っていたが、現在は[[東京ディズニーランド]](TDL)、[[東京ディズニーシー]](TDS)の運営と同時にTDR関連事業、およびその他の事業を行うグループ各社を統括する[[持株会社|事業持株会社]]となっている。
設立当時から、[[京成電鉄]]と[[三井不動産]]が二大[[株主]]であり、両社が多くの役員などを出向させていた。しかし三井不動産は[[2010年]]([[平成]]22年)を最後に役員の出向をやめており、また出資比率も10%以下に引き下げている。また、[[千葉県]]を始めとする自治体も出資しており、公共団体の出資比率は合計で4.36%である(2016年3月末現在)。2022年現在、筆頭株主である京成電鉄の株保有率は約22%となっている。[[京成電鉄]]の[[持分法]]適用[[関連会社]]であり[[京成グループ]]の企業であるが<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sbbit.jp/article/cont1/31848 |title=「最弱私鉄」だった京成電鉄が絶好調、その理由はインバウンドとディズニーだけでない |accessdate=2016-03-10 |author=寺尾淳 |date=2016-03-10 |work=ビジネス+IT |publisher=SBクリエイティブ株式会社 |page=1 |language=日本語}}</ref>、米国ディズニー社との契約上「K'SEI GROUP」ロゴは使用されない。
傘下の企業は、2016年3月末現在、連結子会社14社、持分法適用会社4社、合わせて18社となっている。また、業務提携先として米国Disney Enterprises, Inc.、[[シルク・ドゥ・ソレイユ]]、[[日本郵政]]などがあるがシルク・ドゥ・ソレイユは、2011年に提携を解消した。
オリエンタルランド社は米国ディズニー社とのライセンス契約によって、[[ディズニーパーク]]などディズニー関連事業の運営を行っている。しかし米国ディズニー社によるオリエンタルランドへの[[出資]]や、資本協力、株式持ち合いなど資本提携は一切行われておらず、オリエンタルランドが公開している投資家情報では「世界で唯一、ディズニーとの資本関係が一切ないディズニーリゾート事業運営会社である」と発表している<ref group="広報">[http://www.olc.co.jp/ir/stock.html 株式情報] - オリエンタルランド公式サイト 2011年(平成23年)9月30日時点</ref>。
テーマパーク事業運営では、[[1982年]](昭和57年)設立の[[ウォルト・ディズニー・アトラクションズ|ウォルト・ディズニー・アトラクション・ジャパン]](WDAJ:ディズニーの4事業子会社のひとつ[[ディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツ]]の子会社)が、2つの東京ディズニーリゾートテーマパークの運営に親密に関わっており、メンテナンス、企画、運営などほぼ全ての面で関与している。また日本におけるディズニー関連の著作権や版権ビジネスはディズニー100%子会社の[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]](WDJ)が担当しているため、TDR内の各種版権もWDJの管理であり、オリエンタルランドは東京ディズニーリゾートの実務面の運営のみを行なっている。
オリエンタルランドの主要取引銀行は、[[みずほ銀行]]、[[三井住友信託銀行]]。[[会計監査]]は[[有限責任あずさ監査法人]]が担当している。
オリエンタルランドは[[フジサンケイグループ]]とも関係がある。[[産業経済新聞社]]とは、所有する[[ディズニーホテル]]の[[朝刊]]サービスに関する契約を結んでいる。[[フジテレビジョン]]とは、グループ会社の一つである[[OLC・ライツ・エンタテインメント]]を通じて「[[ネポスこどもCLUB]]」を共同制作したり、[[ニュース系列|全国ネット]]枠の[[スポンサー]]を務めるなどに加えて、「[[お台場冒険王]]」の際には宣伝広告を設置したり、お台場・東京ディズニーリゾート間の無料送迎バスを運行するなど、積極的な協力関係を取っている。なお、フジテレビはディズニーと包括的なパートナー契約を締結している。
== 沿革 ==
; 設立から東京ディズニーランド開園まで
「株式会社オリエンタルランド(以下、OLC)」が設立されたのは、[[1960年]](昭和35年)[[7月1日]]に[[京成電鉄]]が[[千葉県]]浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設(このレジャー施設の当時の仮称がオリエンタルランド)を計画し、社長の旧友であった[[三井不動産]]社長に共同事業者として声をかけたのがきっかけである。元々当時の京成社長、[[川崎千春|川﨑千春]]は自社のみで計画を遂行しようとしたが、銀行を含めて信用が担保できず、[[三井グループ]]である三井不動産などに声をかけた。これにより京成電鉄、三井不動産、朝日土地興業([[船橋ヘルスセンター]]、後に三井不動産に吸収合併)の3社が均等に出資することでOLCは設立。[[東京都|東京]]・[[上野]]の京成電鉄本社内の一角に事務所を設置し、初代社長は川﨑が就任した<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=TDLワールドバザールの隠れグラフィック…東京ディズニーリゾート誕生秘話<2>|url=https://hochi.news/articles/20181230-OHT1T50083.html|website=スポーツ報知|date=2019-01-01|accessdate=2020-06-12|publisher=}}</ref><ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.moneypost.jp/614718|title=三井が三菱に一矢報いた「ディズニー誘致合戦」の大逆転劇|accessdate=2020年1月4日|publisher=マネーポスト・週刊ポスト(2020年1月4日作成)}}</ref>。
京成電鉄が、都心部 - オリエンタルランド(現在の舞浜・新浦安付近) - 船橋港 - 稲毛海岸 - 千葉港 - 千葉寺という新規鉄道路線(現・JR[[京葉線]]の原型)を計画及び免許申請をしており、オリエンタルランド計画は、この新規路線の沿線開発の一つであった。
この時点ではOLCはディズニーランドの招致は明言しておらず、「東洋一のレジャーランドを浦安沖に建設する」と述べており、実際に[[1974年]](昭和49年)に千葉県が承認したオリエンタルランド(前述のレジャー施設仮称)の基本計画では「ホールエリア」・「プレイランド」・「スイミングガーデン」・「スポーツクラブ」の4つの施設群からなるレジャー施設建設を予定しているとの内容になっており、中には[[ドーム球場]]や[[ゴルフ場]]の建設も盛り込まれるなど、現在の舞浜地域(東京ディズニーリゾート)の姿とは大幅に異なるものであった<ref>{{Cite web|和書|title=手賀沼ディズニー計画!? TDR開業40年で意外な歴史を探る 千葉 |url=https://www.nhk.or.jp/shutoken/chiba/article/011/98/ |website=NHK千葉放送局 |access-date=2023-04-16 |publisher=日本放送協会 |date=2023-04-14 |author=岡本基良}}</ref>。
OLC社長となった川﨑は、当初[[谷津遊園]]拡張の際にバラ園を新設する構想を練っていた(この事業は後に[[京成バラ園芸]]の設立につながる)。京成OBで仲の良かった[[読売新聞社]]社主の[[正力松太郎]]にも声をかけたのだと言う。そのバラ園に飾るバラを買い付けに訪米した際、開業後間もないディズニーランドを訪れ、感銘を受けたのだった。川﨑は帰国後、レジャーランド計画にアメリカの[[ディズニーランド]]を招致するという明確な方針を示し実現へ動いた<ref>「森の清談 [[森喜朗]] ゲスト加賀見俊夫」『月刊BOSS』2009年4月号<br />なお、加賀見はオープンの直後から[[森喜朗]]と関わりを持ち、後年森がホスト役となった対談も行われている。森自身も孫を連れて何度も訪問しているリピーターの一人である。</ref>。当初、川崎は後楽園スタヂアム(現・[[東京ドーム (企業)|東京ドーム]])や[[東武鉄道]]などとの合弁で千葉県我孫子町(現・[[我孫子市]])・[[沼南町]](後に[[柏市]]と合併)の[[手賀沼]]一帯にディズニーランドを招致することを計画しており、起工式まで行ったが、合弁会社の経営トラブルに加え、[[高度経済成長]]による手賀沼の水質悪化が問題となり、手賀沼への招致を断念。合弁会社に参画していた前述の3社が候補地を浦安沖に切り換えてディズニーランド誘致を進めた経緯があった<ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーランド逃した我孫子の残念な歴史|url=https://toyokeizai.net/articles/-/258607|website=東洋経済新報|date=2019-01-10|accessdate=2020-08-04|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=8月末で閉園する「としまえん」 私鉄系遊園地はさらに淘汰される時代へ|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08040559/|website=週刊新潮|accessdate=2020-08-04|publisher=|date=2020-08-04}}</ref>。{{Main|手賀沼ディズニーランド}}
埋立による土地の造成には、[[公有水面埋立法]]に基づき県知事の許可を得る必要があった。当時の[[千葉県知事一覧|千葉県知事]]は[[友納武人]]であり、三井不動産社長の[[江戸英雄]]と二人三脚で進んでいった。この時取られた方式は「出洲方式」と呼ばれる方法で、埋め立て事業費は不動産会社と県が2対1の割合で負担する。完成した造成地は県有地として千葉県が売却し、その益金は出資比率に応じて分配される<ref group="注釈">加賀見によれば、埋立に当たった[[ゼネコン]]に対しても「土地ができたら払うよ」などと見得を切ったが、この話を聞いた森喜朗は「サギみたいな話ですよね(笑)」などと応じている。加賀見は「でしょうね(笑)。でも全部、支払いはきちんとやってきましたから。」と応じた。</ref>。
特に、現場での[[漁業協同組合]]との補償交渉を取り仕切ったのが、江戸の推薦でOLCに入社した[[高橋政知]]である。高橋自身は名門の家の生まれで[[東京大学|東大]]の[[卒業論文|卒論]]を英語で書くほどのエリートであったが、持ち前の豪放磊落な性格が功を奏し<ref group="注釈">2000年代に社長を務めた[[加賀見俊夫]]は森との対談で、高橋を「怖いもの知らずですよ。誰がなんと言おうと、ガーンと進んじゃうんですからね。だからこそ、こういうことができたと思うんですよ」と述べている。</ref>、漁民への補償や千葉県からの土地払い下げまでは順調に進んでいった<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=浦安の漁師たちに“夢の陸地”を約束…東京ディズニーリゾート誕生秘話<3>|url=https://hochi.news/articles/20181230-OHT1T50090.html|website=スポーツ報知|date=2019-01-01|accessdate=2020-06-12|publisher=}}</ref>。一方、[[朝日新聞]]はこの開発を問題視し、『追跡・湾岸開発』という検証本を出版するに至る。また、首都圏新空港の候補地として、[[河野一郎]]に目をつけられたこともある<ref group="注釈">後に千葉県内陸部に落ち着き、[[成田国際空港|成田空港]]として開港する。</ref>。
その後、京成電鉄は本業の不振などからディズニーランド招致をすべてOLCに委託することとなる。ディズニーランド招致交渉に支援的であった京成電鉄と違い、もう一方の親会社である三井不動産は住宅等の土地開発を第一に考え、ディズニーランド招致には反対の立場をとっていたため、ディズニーランド招致を妨害することもあった。この時期に当時千葉県知事だった[[川上紀一]]の[[汚職]]事件([[川上五千万円念書事件]])が発覚したこともあって、第94回[[国会 (日本)|国会]]などでは野党議員を巻き込んで質疑にも上っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=109414103X00319810302¤t=6|title=第94回国会 参議院 決算委員会 第3号 昭和56年3月2日|accessdate=2020年1月4日|publisher=国会会議録検索システム}}</ref>。この頃、[[三菱グループ]]でも[[三菱地所]]が[[富士山]]の麓にディズニーランドを招致しようと誘致活動を展開していた<ref name=":0" /><ref name=":2" />。
なお、創業当初は100万坪を埋め立てると宣伝しており、[[山本周五郎]]の小説『青べか物語』でも「沖の百万坪」という言及がある<ref group="注釈">加賀見俊夫自身が森喜朗とのインタビューで『青べか物語』に言及している。</ref>。完了した造成工事では260万坪の面積を埋め立てたが、上記の事情から次々と住宅地として処分され<ref group="注釈">創業当時は浦安周辺は鉄道空白地帯であったが、[[東京メトロ東西線|東西線]]、続いて[[京葉線]]の建設により都心に程近い良好な宅地に変貌していった。</ref>、最終的には63万坪余りが遊園地用地として残され、それもホテル用地などに取られたため、TDL開業時には純粋な遊園地として使用されている土地はさらに少ないものとなった。
三菱地所との誘致合戦に競り勝ち<ref name=":0" />、ディズニーとの交渉は1974年(昭和49年)に開始されたが、先行して開園していた[[奈良ドリームランド]]の著作権侵害問題<ref>{{Cite journal |和書 |title=ディズニーランド30周年でこっちは夢の跡になった「奈良ドリームランド」 |journal=週刊新潮 |issue=2013年8月29日号 |publisher=新潮社 |page={{要ページ番号|date=2016年9月}} |date=2013-08-22}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=加賀見俊夫 |title=海を超える想像力 東京ディズニーリゾート誕生の物語 |publisher=講談社 |page={{要ページ番号|date=2016年9月}} |date=2003-03-24 |isbn=4-06-211722-3}}</ref>もあり、最初は門前払いに近い扱いであった。ディズニーから提示された条件はディズニーは建設費・運営費等を一切支払わず、ロイヤルティとして売り上げの10%を回収すると言う当時の日本の常識からは法外なものだった。交渉は何度も決裂寸前の様相を呈し、一時は修復も危ぶまれる状況に陥った。最終的には、親会社である三井不動産の意向を無視する形で、高橋が条件を飲み、高橋の顔をたてるために50年契約だった条件を1割減じて45年とさせた。こうして[[1979年]](昭和54年)[[4月30日]]に[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ウォルト・ディズニー・プロダクション]](後のディズニー・エンタプライゼズ・インク)との業務提携契約を取り交わした。
その後、ディズニーによる技術・[[ノウハウ]]提供を受け、1983年(昭和58年)4月15日東京ディズニーランドが開園を迎えた<ref name="chibanippo1993416">{{Cite news |title=東京ディズニーランド 華やかに10周年 1億3千万人が足運ぶ |newspaper=千葉日報 |pages=1, 16 |publisher=千葉日報社 |date=1993-04-16}}</ref>。開園初日は18,063人が来園した。当初は[[シンデレラ城]]の前でオープニングセレモニーを行う予定としていたが、当日の天気は雨だったため、止む無く[[ワールドバザール]]の中に変更して行われた<ref>{{Cite web|和書|title=35年前に“初来日”したミッキーマウス…東京ディズニーリゾート誕生秘話<1>|url=https://hochi.news/articles/20181230-OHT1T50080.html|website=スポーツ報知|date=2019-01-01|accessdate=2020-06-12|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ミッキーは「伝説の雨男」 天気で振り返るディズニー40周年の歴史 |url=https://news.ntv.co.jp/category/culture/b7ee9669818b4d8691ec8aeff54ed0c3 |website=日テレNEWS |access-date=2023-04-15 |author=日本テレビ |date=2023-04-13}}</ref>。
; 東京ディズニーランド開園から東京ディズニーリゾート誕生まで
[[1983年]](昭和58年)[[4月15日]]に「東京ディズニーランド」を開園させ来園者数を順調にのばし<ref name="chibanippo1993416"/>、初年度目標を超える1036万人の入園者を迎えた。
その後も「[[国際科学技術博覧会|つくば科学博]]」の開催による相乗効果などにより入園者数を大きく伸ばし、[[バブル景気]]に影響されて全国各地に建設された[[遊園地]]の中でも、強い独自色を発揮し、着実に入園者数を増やしていった。
[[1986年]](昭和61年)1月米国ディズニー社は、OLCに対して[[舞浜]]地区全体の開発を目指した「東京ディズニーワールド構想」を提案。OLCでの検討の末1988年(昭和63年)4月15日の「東京ディズニーランド開園5周年記者会見」で「第二パーク構想」について発表した<ref name="chibanippo1988416">{{Cite news |title=第2ディズニーランド建設へ 高橋社長が計画公表 |newspaper=千葉日報 |pages=1, 11 |publisher=千葉日報社 |date=1988-04-16}}</ref>。
しかし、第二パーク構想は、「ディズニーMGMスタジオ・ツアー」(現・[[ディズニー・ハリウッド・スタジオ]])をモデルした施設を建設することで米国ディズニー社との間で一旦結んだ契約を白紙撤回するなどの様々な問題<ref>{{Cite web|和書|title=東京ディズニーシーは“幻”になる可能性があった。9月4日で19周年、今解き明かす「第2パーク構想」の真実|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f5038eec5b6578026c91a60|website=ハフポスト|date=2020-09-04|accessdate=2020-09-04|publisher=}}</ref>–米国ディズニー社に対する違約金の支払いなど–解決しなければならない案件が数多く存在し、米国ディズニー社と日本側のオリエンタルランド社両社の長時間の協議・調整を必要とした。第二パークの建設は、TDL15周年のタイミングで着工に漕ぎ着けていたが、前述の問題や近隣に予定していた[[墓園|墓地公園]]を巡っての浦安市とのトラブル{{Efn|詳細は当時の浦安市長である[[熊川好生]]を参照のこと。その後、墓地公園の建設予定地を[[日の出 (浦安市)|日の出]]地区に変更する代わりに舞浜地区には[[浦安市運動公園]]を建設することで解決したが、この一件が原因となり、1998年に市長の後任として、[[松崎秀樹]]が就任するまで、OLCと浦安市の関係は険悪状態になってしまった<ref>{{Cite web|和書|title=墓地公園 |url=https://www.city.urayasu.lg.jp/shisetsu/sonota/saijo/../../../shisetsu/sonota/saijo/1005653.html |website=浦安市 |access-date=2022-05-16}}</ref><ref name=":3">{{Cite web|和書|title=浦安市とオリエンタルランドとの“知られざる関係”。松崎秀樹前市長が語る「ディズニー成人式はこうして実現した!」 |url=https://ure.pia.co.jp/articles/-/1313384 |website=ウレぴあ総研 |date=2022-01-27 |accessdate=2022-01-30 |author=舞浜新聞 |pages=1,3}}</ref>。}}<ref name=":3" />などもあり、「東京版ディズニーワールド構想」を最終的な形に仕上げるには、その後10年もの歳月を要する事となった。現在、[[東京ディズニーリゾート]]を構成している「[[東京ディズニーランド]]」、「[[東京ディズニーシー]]」、「[[イクスピアリ]]」、「[[ボン・ヴォヤージュ (ディズニーショップ)|ボン・ヴォヤージュ]]」など、日本版ディズニーワールドである[[東京ディズニーリゾート]]の全体像はこのようにして決まっていった。
; 東京ディズニーリゾート(TDR)誕生から現在
[[2000年]](平成12年)[[1月1日]]に「リゾート宣言」を発表、これは第二パークの開園に向けて「テーマパーク」から「テーマリゾート」への転換を目指して出された。また、[[1月6日]]には[[日本経済新聞]]に全面見開き広告「リゾート宣言。」を掲載し、日本初となるテーマリゾートの誕生を印象付けさせた。
2000年(平成12年)[[7月7日]]「イクスピアリ」・「[[キャンプ・ネポス]]<ref group="注釈">2008年(平成20年)5月6日に営業を終了している。{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20080511181353/http://www.campnepos.com/|title=キャンプ・ネポス|accessdate=2023年6月28日}}</ref>」・「[[ディズニーアンバサダーホテル]]」が開業し、今まで空き地が広がっていた[[舞浜駅]]前に一つの街が誕生した。
[[2001年]](平成13年)[[3月1日]]は「ボン・ヴォヤージュ」が開業。2001年(平成13年)[[7月27日]]には「[[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]」が開業<ref name="chibanippo2001727">{{Cite news |title=「ディズニーリゾートライン」完成 堂本知事「乗り心地はいい」 |newspaper=千葉日報 |pages=16, 19 |publisher=千葉日報社 |date=2001-07-27}}</ref>。2001年(平成13年)[[9月4日]]「東京ディズニーシー」、及びパーク一体型ホテル「[[東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ]]」がそれぞれ開業し「東京ディズニーリゾート (TDR)」が正式に開業した<ref name="chibanippo200195">{{Cite news |title=「冒険の海」オープン 東京ディズニーシー 虹色の花火 船出を祝福 |newspaper=千葉日報 |pages=1, 16, 19 |publisher=千葉日報社 |date=2001-09-05}}</ref>。
舞浜地区開発が一通り終了した後の事業展開として、日本国内の[[ディズニーストア]]の経営(ディズニー日本法人から引継。その後再び米国ディズニー社へ帰属)、日本国内におけるミュージカル「ディズニーライブ!」の公演、その他にも子会社を通じたレストラン経営や映画制作事業への参入、低価格ホテル[[パーム&ファウンテンテラスホテル]]の開業など、舞浜地区に依存しない利益確保の方法を開拓している。
2008年(平成20年)4月15日からのTDL開園25周年を契機に、3つ目の[[ディズニーホテル]]「[[東京ディズニーランドホテル]]」の開業や、[[シルク・ドゥ・ソレイユ]]専用常設劇場「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」(現在の[[舞浜アンフィシアター]])など、TDRのさらなる開発も目指している。
なお、2011年(平成23年)3月までに[[首都圏 (日本)|首都圏]]以外の大都市中心部において、ディズニーの屋内型エンターテイメント施設を建設する計画を進めていたが、期待する収益が上げられないと判断して計画の中止を発表した<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.olc.co.jp/resources/pdf/news/2008/20081007_02.pdf 「都市型エンターテイメント施設」検討作業終了について]}} - オリエンタルランド ニュースリリース 2008年10月7日</ref>。
2010年代後半からディズニーリゾートの飲食施設で使用する野菜の自社生産を開始しており、2023年現在、千葉県[[袖ケ浦市]]と[[北海道]][[弟子屈町]]、[[山梨県]][[北杜市]]で直営農場を展開している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20170418-6D4KQSQFQFK6ZGDZORM3OM5HK4/|title=オリエンタルランドが北杜に直営農場 県産野菜をTDRに|accessdate=2020年2月12日|publisher=産経新聞(2017年4月18日作成)}}</ref>。
2020年に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルスのパンデミック]]が発生したことで、オリエンタルランドは2020年度決算で1996年の上場以来初となる最終赤字に転落した<ref name="nhk01">{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210428/k10013003151000.html|title=オリエンタルランド 1996年の上場以来初の最終赤字決算 |newspaper=NHK|publisher=NHKオンライン|date=2021-04-28|accessdate=2021-10-28}}</ref>。
=== 年表 ===
* [[1960年]](昭和35年)[[7月11日]] - 三井不動産、京成電鉄、朝日土地興業(後に三井不動産に吸収合併)の3社による出資で設立。資本金2億5000万円、社員3名、本社は東京都[[台東区]]上野の京成電鉄本社(2009年(平成21年)現在、[[ヨドバシカメラ]]マルチメディア上野がある場所)5階の一角に設置<ref name=":1" />。
* [[1961年]](昭和36年)1月 - [[川崎千春|川﨑千春]]社長(京成電鉄社長:当時)が、ウォルト・ディズニー・プロダクションズ(現在のウォルト・ディズニー・カンパニー)を訪問。
* [[1964年]](昭和39年)9月 - 浦安沖の海面埋め立て造成工事を開始。
* [[1970年]](昭和45年)3月 - 千葉県から埋立地(レジャー施設用地・住宅用地)の分譲を開始。
* [[1971年]](昭和46年)7月 - 浦安沖の漁業権が全面放棄される。
* [[1972年]](昭和47年)1月 - レジャー施設「オリエンタルランド」の基本構想まとまる。
* [[1973年]](昭和48年)8月 - 「オリエンタルランド基本計画」を千葉県に提出。
* [[1974年]](昭和49年)
** 8月 - 千葉県が「オリエンタルランド(レジャー施設)基本計画書」を承認。
** 12月 - [[ドン・B・テータム]]会長、[[E・カードン・ウォーカー]]社長(どちらも当時)らウォルト・ディズニー・プロダクションズ首脳が来日し、OLCとの業務提携について基本的に合意。
* [[1975年]](昭和50年)11月 - 浦安沖の海面埋め立て造成工事が完了。
* [[1977年]](昭和52年)
** 3月 - 正式名称を「東京ディズニーランド」に決定。
** 7月 - 東京ディズニーランドへの参加企業招致活動を開始。
* [[1978年]](昭和53年)
** 8月 - [[高橋政知]]が代表取締役社長に就任。
** 11月 - ウォルト・ディズニー・プロダクションズと業務提携に関する基本的合意が成立。
* [[1979年]](昭和54年)
** 3月 - [[東葛飾郡]]浦安町美浜地区(現在の浦安市美浜)にショッピングセンター「[http://www.maihamacorporation.co.jp/business/shopping.html ユニモール]」を開業。
** 4月 - ウォルト・ディズニー・プロダクションズとの間で、東京ディズニーランドのライセンス・設計・建設・運営に関する業務提携契約を締結。
** 9月 - ディズニーが「日本ウォルト・ディズニー・プロダクションズ」(現 ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社)を設立。
** 11月 - 東葛飾郡浦安町富岡地区(現在の浦安市富岡)にショッピングセンター「パークスクエア」を開業。
* [[1981年]](昭和56年)9月 - 本社事務所を浦安へ移転。
* 1983年(昭和58年)4月15日 - '''[[東京ディズニーランド]]が開園'''<ref name="chibanippo1993416"/>。
* 1986年(昭和61年)
** [[7月20日]] - 「[[東京ベイ舞浜ホテル ファーストリゾート|サンルートプラザ東京(現:東京ベイ舞浜ホテル ファーストリゾート)]]」内に、商品販売店舗「[[ディズニーファンタジー (ディズニーショップ)|ディズニーファンタジー]]」を出店、[[東京ディズニーリゾート・オフィシャルホテル|東京ディズニーランド・オフィシャルホテル]]内での商品販売事業に進出。
* 1986年(昭和61年)度 - 開園4年目で初の黒字となる<ref name="chibanippo1987625">{{Cite news |title=開園4年目で初の黒字に 東京ディズニーランド オ社株主総会・取締役会 |newspaper=千葉日報 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=1987-06-25}}</ref>。
* [[1988年]](昭和63年)
** 4月15日 - 第二パーク計画について発表<ref name="chibanippo1988416"/>。
** [[6月25日]] - 高橋政知が代表取締役会長に就任、後任に[[日本興業銀行]]出身の[[森光明]]が就任<ref name="mainichi1988625">{{Cite news |title=人 オリエンタルランドの三代目社長に就任する 森光明さん |newspaper=毎日新聞 |page=24 |publisher=毎日新聞社 |date=1988-06-25}}</ref>。
** [[9月10日]] - [[ジェットコースター]]の[[連結器]]が外れて車両が後退する事故が発生<ref name="chibanippo1988911">{{Cite news |title=ジェットコースター 連結器外れ後戻り 東京ディズニーランド |newspaper=千葉日報 |page=15 |publisher=千葉日報社 |date=1988-09-11}}</ref>。
* [[1989年]]([[平成]]元年)
** [[8月1日]] - 「オリエンタルランド交通」を「[[東京ベイシティ交通]]」に社名変更<ref name="asahi198981">{{Cite news |title=今日から社名変更し東京ベイシティ交通 浦安市のバス会社オリエンタルランド交通 |newspaper=朝日新聞 |page=27 |publisher=朝日新聞社 |date=1989-08-01}}</ref>。
* [[1991年]](平成3年)
** [[1月1日]] - 本格的な作業推進を目的として、社内に「第二パーク検討部」を設置<ref name="chibanippo199118">{{Cite news |title=オ社、Dランド未利用地開発で「第2パーク検討委」発足 |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=1991-01-08}}</ref>。
** [[9月5日]] - 「高橋・ウェルズ会談」で映画スタジオをベースにした第二パーク中止の方針をディズニー社に正式に通知、白紙に戻って新しいパークの開発に着手。
** [[7月23日]] - 第二パークのコンセプトとして、アイデア段階の「[[東京ディズニーシー]]」コンセプトがディズニー社から提示。
* [[1992年]](平成4年)
** [[1月9日]] - 森社長が[[心筋梗塞]]で急死<ref name="chibanippo1992112">{{Cite news |title=森オリエンタルランド社長急逝 |newspaper=千葉日報 |page=19 |publisher=千葉日報社 |date=1992-01-12}}</ref>。
** [[1月28日]] - 高橋会長が取締役社長職を臨時兼務<ref name="chibanippo1992129">{{Cite news |title=高橋会長が社長兼務 オリエンタルランド |newspaper=千葉日報 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=1992-01-29}}</ref>。
** [[6月23日]] - [[千葉県庁]]出身の[[加藤康三]]が代表取締役社長に就任<ref name="mainichi1992624">{{Cite news |title=オリエンタルランド社長に就任 加藤康三さん 10年目の転換期に |newspaper=毎日新聞 |page=8 |publisher=毎日新聞社 |date=1992-06-24}}</ref>。
* [[1993年]](平成5年)
** 1月28日 - 第二パークを含めた舞浜地区マスタープランがディズニー社から提示。
** 1993年(平成5年)度 - 千葉県内高額所得法人ランキングで[[千葉銀行]]を抜いて初の1位となる<ref name="chibanippo1994819">{{Cite news |title=県内高額所得法人 千葉銀、2位後退 首位オリエンタルランド |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=1994-08-19}}</ref><ref name="asahi1994824">{{Cite news |title=93年度高額所得ランキング 初の1位 オリエンタルランド |newspaper=朝日新聞 |page=24 |publisher=朝日新聞社 |date=1994-08-24}}</ref><ref name="mainichi1994818">{{Cite news |title=高額所得法人ランキング オリエンタルランド1位に |newspaper=毎日新聞 |page=20 |publisher=毎日新聞社 |date=1994-08-18}}</ref>。
* [[1994年]](平成6年)
** [[2月14日]] - 100%出資子会社「[[舞浜コーポレーション]]」を設立<ref name="asahi1994216">{{Cite news |title=オリエンタルランド 新規事業展開 子会社を設立 |newspaper=朝日新聞 |page=26 |publisher=朝日新聞社 |date=1994-02-16}}</ref>。
** [[3月10日]] - 1000万株を増資<ref name="asahi1994311">{{Cite news |title=オリエンタルランド 一千万株の増資を終了 |newspaper=朝日新聞 |page=27 |publisher=朝日新聞社 |date=1994-03-11}}</ref>。
* [[1995年]](平成7年)
** [[2月28日]] - 東京ディズニーシー基本計画作業を開始。
** 6月 - [[加賀見俊夫]]が代表取締役社長に、加藤康三が代表取締役会長に就任。
* [[1996年]](平成8年)
** [[1月29日]] - 東京ディズニーシー基本計画作業総括のプレゼンテーションを実施。
** 4月30日 - ディズニー・エンタープライゼズ・インクとの間で「東京ディズニーシー・テーマパーク」および「東京ディズニーシー・ホテル」のライセンス・設計・建設・運営に関する業務提携契約を締結。
** [[6月12日]] - 100%出資子会社「[[舞浜リゾートホテルズ]]」を設立<ref name="chibanippo1996613">{{Cite news |title=ホテル運営会社を設立 オリエンタルランド社 |newspaper=千葉日報 |page=16 |publisher=千葉日報社 |date=1996-06-13}}</ref>。
** [[12月11日]] - [[東京証券取引所]]第一部に株式上場<ref name="chibanippo19961212"/>。
* [[1997年]](平成9年)
** [[4月9日]] - 100%出資子会社「[[舞浜リゾートライン]]」を設立<ref name="chibanippo1997411">{{Cite news |title=舞浜のモノレール事業 新会社名決める オリエンタルランド |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=1997-04-11}}</ref>。
** [[11月26日]] - 「東京ディズニーシー」基本プランを正式発表。
** [[12月8日]] - 100%出資子会社「[[グリーンアンドアーツ]]」を設立。
* [[1998年]](平成10年)
** [[6月15日]] - 100%出資子会社「[[フォトワークス]]」、「[[デザインファクトリー (千葉県)|デザインファクトリー]]」、「[[ベイフードサービス]]」を設立<ref name="chibanippo1998616">{{Cite news |title=舞浜コーポレーション 3社に分社化 事業の需要増に対応 |newspaper=千葉日報 |page=3 |publisher=千葉日報社 |date=1998-06-16}}</ref>。
** [[9月30日]] - ディズニー・エンタプライゼズ・インクとの間で、ディズニーアンバサダーホテルのライセンス・建設・運営に関する業務提携契約を締結。
** [[10月6日]] - ディズニー・エンタプライゼズ・インクとの間で「ディズニーリゾートライン」のライセンス・設計・建設・運営に関する業務提携契約を締結、舞浜リゾートラインがディズニーリゾートラインの建設を着工。
* [[1999年]](平成11年)
** [[2月4日]] - 100%出資子会社「[[舞浜ビジネスサービス]]」を設立<ref name="chibanippo199925">{{Cite news |title=障害者の雇用を促進 舞浜ビジネスサービス設立 浦安のオリエンタルランド |newspaper=千葉日報 |page=16 |publisher=千葉日報社 |date=1999-02-05}}</ref>。
** [[3月4日]] - 100%出資子会社「[[イクスピアリ (企業)|イクスピアリ]]」を設立。
** [[10月20日]] - 100%出資子会社「[[アールシー・ジャパン]]」を設立。
* 2000年(平成12年)
** 1月1日 - '''「リゾート宣言」を発表し「[[東京ディズニーリゾート]]」が誕生'''、初代「[[アンバサダー (ディズニー)|東京ディズニーリゾート・アンバサダー]]」が就任。
** 1月6日 - [[日本経済新聞]]に全面見開き広告「リゾート宣言」を掲載。
** 2月 - [[三菱商事]]、レインフォレスト・カフェ・インクの2社との合弁契約を締結、同2社はアールシー・ジャパンに出資し、同社はOLCの完全子会社から連結子会社に。
** 7月7日 - '''イクスピアリ・[[ディズニーアンバサダーホテル]]・[[キャンプ・ネポス]]が開業'''、ディズニーアンバサダーホテル内に商品販売店舗「[[フェスティバル・ディズニー]]」を出店、[[ディズニーホテル]]内での商品販売事業に進出。
** 10月6日 - 100%出資子会社「[[リゾートクリーニングサービス]]」を設立。
* 2001年(平成13年)
** 3月1日 - '''[[ボン・ヴォヤージュ (ディズニーショップ)|ボン・ヴォヤージュ]]が開業'''
** [[6月8日]] - 100%出資子会社「[[舞浜ビルメンテナンス]]」、「[[オーエルシー・キッチンテクノ]]」を設立。
** 7月27日 - 舞浜リゾートラインが'''[[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]を開業'''<ref name="chibanippo2001727"/>。
** 9月4日 - '''[[東京ディズニーシー]]が開園、[[東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ]]が開業'''<ref name="chibanippo200195"/>。
* [[2002年]](平成14年)
** [[4月1日]] - 「ウォルト・ディズニー・インターナショナル・ジャパン」100%出資子会社「[[リテイルネットワークス]]」の全株式を取得し完全子会社化、同時にディズニーとライセンス契約を締結し日本国内の[[ディズニーストア]]の経営に着手<ref name="chibanippo2002411">{{Cite news |title=株式取得で事業移管 ディズニーストア オリエンタルランド グループ会社運営へ |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2002-04-11}}</ref>。
** [[9月24日]] - 加藤康三が代表取締役会長を退任。
** [[10月8日]] - 「ジャパン・ソサエティ賞」を受賞。
** [[11月8日]] - [[東京ディズニーランド]]、東京ディズニーシー合わせて3億人目の入園者が来園<ref name="chibanippo2002119">{{Cite news |title=ディズニーランドとシー 入園者3億人に |newspaper=千葉日報 |pages=1, 16 |publisher=千葉日報社 |date=2002-11-09}}</ref>。
** [[12月10日]] - 100%出資子会社「[[Eプロダクション]]」を設立。
* [[2003年]](平成15年)
** [[5月26日]] - 100%出資子会社「[[OLC・ライツ・エンタテインメント]]」を設立。
** [[12月3日]] - 日本郵政公社(現:[[日本郵政]])との業務提携契約を締結<ref name="chibanippo2003124">{{Cite news |title=子供向け郵便グッズ店 イクスピアリ内に開設 郵政公社とOLC提携 |newspaper=千葉日報 |page=3 |publisher=千葉日報社 |date=2003-12-04}}</ref>。
** [[12月5日]] - 「[[スペースマウンテン]]」で脱輪事故が発生し<ref name="chibanippo2003126">{{Cite news |title=コースター脱輪 TDL けが人はなし シャフト折れる |newspaper=千葉日報 |page=19 |publisher=千葉日報社 |date=2003-12-06}}</ref>、2004年(平成16年)2月18日まで運転を中止<ref name="chibanippo200425">{{Cite news |title=18日に運転再開 TDL・スペースマウンテン 事故関係社員ら17人処分 |newspaper=千葉日報 |page=19 |publisher=千葉日報社 |date=2004-02-05}}</ref>。
* [[2004年]](平成16年)
** 10月20日 - 「[[浦安ブライトンホテル]]」・「[[新浦安オリエンタルホテル]]」・「[[パーム&ファウンテンテラスホテル]]」・「[[ホテルエミオン東京ベイ]]」の4つのホテルとの間で、新たな提携ホテルプログラム「[[東京ディズニーリゾート・パートナーホテル]]」の参加に関する契約を締結<ref name="chibanippo20041021">{{Cite news |title=浦安の4ホテルとパートナーを提携 OLC |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2004-10-21}}</ref>。
* [[2005年]](平成17年)
** [[2月25日]] - 舞浜リゾートラインが'''[[パーム&ファウンテンテラスホテル]]を開業'''。
** [[4月13日]] - 「[[シルク・ドゥ・ソレイユ|シルク・ドゥ・ソレイユ (Cirque du Soleil) ]]専用常設劇場」建設を、Cirque du Soleil、ディズニーとの3社間で合意、契約を締結<ref name="chibanippo2005414">{{Cite news |title=ディズニーリゾートに常設劇場 オリエンタルランド 劇団シルク社と契約 08年度に開業独自ショーで |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2005-04-14}}</ref>。
** [[5月20日]] - [[読売新聞]]の報道により、[[1984年]](昭和59年)より行われてきた[[暴力団]]系[[右翼]]関連企業との不透明な利益供与が発覚した<ref name="uyoku" />。
** [[6月29日]] - 加賀見俊夫が会長兼・[[最高経営責任者]] (CEO) 、[[福島祥郎]]が社長兼・[[最高執行責任者]] (COO) 、[[長岡彰夫]]が副社長兼・最高戦略責任者(CSO: チーフ・ストラテジー・オフィサー)に就任(3者とも代表取締役)。
** [[7月29日]] - 100%出資子会社「[[Mテック]]」を設立。
** [[9月1日]] - イクスピアリ内の[[シネマコンプレックス]]「AMCイクスピアリ16」の経営権を AMC Entertainment International, Inc.から取得し直営化<ref name="chibanippo200591">{{Cite news |title=シネコン営業権AMCから取得 オリエンタルランド |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2005-09-01}}</ref>(経営は[[イクスピアリ (企業)|イクスピアリ]]が担当)。
* [[2006年]](平成18年)
** [[2月6日]] - 3つ目のディズニーホテルの名称を「[[東京ディズニーランドホテル]]」に決定。
** 3月1日 - 新規事業として、全国でディズニーキャラクターを使ったミュージカル公演「[[ディズニーライブ!]]」の興業運営、およびシルク・ドゥ・ソレイユの東京ディズニーリゾート常設公演の準備作業を行う部署として「シアトリカル事業部」を設置。
** 3月10日 - [[京成電鉄]]との業務・資本提携契約を締結<ref name="chibanippo2006311">{{Cite news |title=OLCが京成株取得 両社チーム、新事業を検討 3%超保有で連携強化 |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2006-03-11}}</ref>。
** [[4月18日]] - [[舞浜アンフィシアター|シルク・ドゥ・ソレイユ専用常設劇場]]の建設工事が開始<ref name="chibanippo200419">{{Cite news |title=常設劇場の建設着工 OLC 08年度開業 関係者で安全祈願祭 |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2006-04-19}}</ref>。
** 10月6日 - [[三菱商事]]の[[子会社]]で、スープカフェ[[スープストックトーキョー|Soup Stock Tokyo]]を経営する[[スマイルズ]]の、第三者割当増資による新株式をすべて引き受け資本参加、OLCの[[持分法|持分法適用会社]]に。
** [[11月1日]] - 東京ディズニーランド、東京ディズニーシー合わせて4億人目のゲストが来園<ref name="chibanippo2006112">{{Cite news |title=4億人突破 TDLとTDSの入園者 |newspaper=千葉日報 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=2006-11-02}}</ref>。
* [[2007年]](平成19年)
** [[6月26日]] - [[東京ディズニーランドホテル]]の開業日を2008年(平成20年)7月8日に決定
** [[7月30日]] - [[ニチレイ|ニチレイフーズ]]との間で、東京ディズニーランド(シアターオーリンズ)・東京ディズニーシー(ニューヨーク・デリ)における8月23日からのスポンサー契約を締結<ref name="chibanippo2007731">{{Cite news |title=スポンサー計26社に OLC テーマパーク「ニチレイ」と契約 広告効果に安定収入も |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2007-07-31}}</ref>。
** [[10月1日]] - 建設中のシルク・ドゥ・ソレイユ専用常設劇場の正式名称「[[舞浜アンフィシアター|シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京]]」と、開業日「2008年10月1日」を発表。
* 2008年(平成20年)
** [[1月8日]] - 金属疲労による亀裂で<ref name="chibanippo2008131">{{Cite news |title=折損事故は金属疲労亀裂 TDL山車事故 会長と社長の報酬減額 |newspaper=千葉日報 |page=18 |publisher=千葉日報社 |date=2008-01-31}}</ref>、パレードの公演中に山車から支柱落下事故が発生<ref name="chibanippo200819">{{Cite news |title=フロートから支柱落下 浦安市のTDL パレード公演中に |newspaper=千葉日報 |page=19 |publisher=千葉日報社 |date=2008-01-09}}</ref>。パレードを全面中止<ref name="chibanippo2008110">{{Cite news |title=パレード全面中止 支柱落下でTDL 山車46台総点検 |newspaper=千葉日報 |page=18 |publisher=千葉日報社 |date=2008-01-10}}</ref>。
** [[4月21日]] - TDL内の[[ベビーセンター]]で3月27日、4月3日、9日、19日に各日一個ずつ[[明治乳業]]の賞味期限切れ「明治ベビーフード 赤ちゃん村 麦茶」を販売していたことが発覚<ref name="chibanippo2008422">{{Cite news |title=賞味期限切れ麦茶4箱販売 OLC、回収へ |newspaper=千葉日報 |page=19 |publisher=千葉日報社 |date=2008-04-22}}</ref>。
** 5月6日 - '''「キャンプ・ネポス」運営終了'''。
** [[6月3日]] - 「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」が竣工し報道陣に公開<ref name="chibanippo200864">{{Cite news |title=専用劇場が完成 シルク・ドゥ・ソレイユ TDR10月オープン |newspaper=千葉日報 |pages=1, 15 |publisher=千葉日報社 |date=2008-06-04}}</ref>。また同劇場で行われるレジデントショーのタイトル『ZED』を発表。
** [[7月8日]] - '''[[東京ディズニーランドホテル]]が開業'''<ref name="chibanippo200879">{{Cite news |title=TDRに3番目の直営ホテル “夢と魔法の空間” 開業セレモニー盛大に |newspaper=千葉日報 |page=15 |publisher=千葉日報社 |date=2008-07-09}}</ref>。
** [[8月6日]] - 「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」『ZED』トライアウト公演が始まる。
** 10月1日 - '''「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」開業、レジデントショー『ZED』開幕'''、ガラ・プレミア(こけら落とし公演)を実施<ref name="chibanippo2008102">{{Cite news |title=シルク・ドュ・ソレイユ「ZED」公演スタート 浦安のTDR |newspaper=千葉日報 |pages=1, 4 |publisher=千葉日報社|date=2008-10-02}}</ref>。
** 11月2日-11月10日 - 直営レストラン「ロティズ・ハウス」にて[[賞味期限]]の切れた[[鴨肉]]を使用し、食べた男性が[[腹痛]]を起こした事故が発生<ref name="chibanippo20081113">{{Cite news |title=賞味期限切れ鴨肉で腹痛 浦安、TDRレストラン |newspaper=千葉日報 |page=18 |publisher=千葉日報社|date=2008-11-13}}</ref>。
** 12月22日 - 救急車を車検切れのまま走行させていたして管理担当達14人が書類送検される<ref name="chibanippo20081223">{{Cite news |title=管理担当ら14人書類送検 TDR救急車の車検切れ走行 |newspaper=千葉日報 |page=19 |publisher=千葉日報社|date=2008-12-23}}</ref>。
* [[2009年]](平成21年)
** [[2月5日]] - [[Eプロダクション]]を吸収合併し、[[OLC・ライツ・エンタテインメント]]を今年度中に売却もしくは解散することを取締役会で決定。
** [[3月24日]] - [[上西京一郎]]が社長兼・COO、[[砂山起一]]、[[柴洋二郎]]が副社長に就任(3者とも代表取締役)する人事が発表された。異動は4月1日付けで行われ、6月下旬の株主総会の承認をもって決定となる。
** 4月1日 - [[Eプロダクション]]を[[簡易組織再編行為#簡易吸収合併|簡易合併]]([[会社法]]第796条第3項)、[[OLC・ライツ・エンタテインメント]]を解散。
* [[2010年]](平成22年)
** [[8月27日]] - 東京ディズニーランド、東京ディズニーシー合わせて5億人目の入園者が来園<ref name="chibanippo2012828-1">{{Cite news |title=入園者が5億人突破 TDLとTDS |newspaper=千葉日報 |page=1 |publisher=千葉日報社 |date=2012-08-28}}</ref>。
* [[2011年]](平成23年)
** [[3月11日]] - [[東日本大震災]]の影響で[[東京ディズニーリゾート]]が一時休園。リゾート自体も多くの被害を受けた。オリエンタルランドは、総額2億円に加え、復興支援リストバンドの収益と5月14日までの入場者数×300円を義援金として送ると発表している。
** [[3月28日]] - イクスピアリのみ営業を再開<ref name="chibanippo2011326">{{Cite news |title=イクスピアリ営業再開へ 28日、住民の生活支援兼ねて |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2011-03-26}}</ref>。
** 4月15日 - 東京ディズニーランド、運営再開<ref name="chibanippo2011416">{{Cite news |title=ディズニーランド営業再開 |newspaper=千葉日報 |pages=1, 4, 10 |publisher=千葉日報社 |date=2011-04-16}}</ref>。
** [[4月28日]] - 東京ディズニーシー、運営再開<ref name="chibanippo2011429">{{Cite news |title=1カ月半ぶり歓声 新作水上ショー開始 開演前に3千人 TDS再開 |newspaper=千葉日報 |pages=1, 10 |publisher=千葉日報社 |date=2011-04-29}}</ref>。
** [[12月31日]] - シルク・ドゥ・ソレイユ、レジデントショー『ZED』終了<ref name="chibanippo2011726">{{Cite news |title=ZED年末で公演終了 客足低迷、震災響く オリエンタルランド |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2011-07-26}}</ref>。「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」閉鎖。
* [[2012年]](平成24年)
** [[5月28日]] - 「[[レイジングスピリッツ]]」で安全バーが開いたまま動きだし、乗客が2週間程度の怪我を負う転落事故が発生<ref name="chibanippo2012530">{{Cite news |title=安全バー下がらず 男性飛び降りけが TDSアトラクション |newspaper=千葉日報 |page=20 |publisher=千葉日報社 |date=2012-05-30}}</ref>。同事故の影響で6月13日まで「レイジングスピリッツ」は運航休止<ref name="chibanippo2012615">{{Cite news |title=コースター営業再開 TDS |newspaper=千葉日報 |page=10 |publisher=千葉日報社 |date=2012-06-15}}</ref>。
** 9月1日 - 旧「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」が多目的ホール「[[舞浜アンフィシアター]]」として新装開業<ref name="chibanippo2012828-10">{{Cite news |title=来月から貸しホールで再出発 大型スクリーンや幕を新設 TDR、常設劇場を改修 |newspaper=千葉日報 |page=10 |publisher=千葉日報社 |date=2012-08-28}}</ref>。
* [[2013年]](平成25年)
** [[3月29日]] - 「[[長谷工コーポレーション]]」100%出資子会社「ブライトンコーポレーション」の全株式を取得し完全子会社化し「[[ブライトンホテルズ]]」の経営権を取得<ref name="chibanippo2013227">{{Cite news |title=ブライトンホテルを買収 子会社が全株式取得へ オリエンタルランド |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社 |date=2013-02-27}}</ref>。
* [[2014年]](平成26年)
** [[4月12日]] - [[東京ディズニーランド]]、東京ディズニーシー合わせて6億人目の入園者が来園<ref name="chibanippo201413">{{Cite news |title=入園者が6億人突破 TDLとTDS |newspaper=千葉日報 |pages=1, 10 |publisher=千葉日報社 |date=2014-04-13}}</ref>。
* 2015年(平成27年)
** [[10月27日]] - 「[[東京ディズニーシー]]」のアトラクションの人工河川で清掃作業の男性アルバイトの死亡事故が発生<ref name="asahi20151027">{{Cite news |title=バイトの男性が人工河川で死亡 東京ディズニーシー |newspaper=朝日新聞 |page=12 |publisher=朝日新聞社 |date=2015-10-27}}</ref>。
** [[12月1日]] - 「[[イクスピアリ (企業)|イクスピアリ]]」のサーバーから[[10月17日]]〜[[11月4日]]に2,432人分の個人情報が流出した可能性があると発表<ref name="asahi2015122">{{Cite news |title=イクスピアリで個人情報流出か |newspaper=朝日新聞 |page=37 |publisher=朝日新聞社|date=2015-12-02}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** 4月1日 - 入園料を値上げ<ref name="asahi201641">{{Cite news |title=渋い顔、値上げの春 ディズニー、ガリガリ君… |newspaper=朝日新聞 |page=10 |publisher=朝日新聞社 |date=2016-04-01}}</ref><ref name="chibanippo201629">{{Cite news |title=ディズニー値上げへ 3年連続 4月、大人7400円に |newspaper=千葉日報 |page=4 |publisher=千葉日報社|date=2016-02-09}}</ref>。
** [[6月1日]] - [[パーム&ファウンテンテラスホテル]]を改装し、東京ディズニーセレブレーションホテルを開業<ref name="asahi201663">{{Cite news |title=TDR新ホテル、価格抑えて提供 1部屋1泊2万円台も |newspaper=朝日新聞 東京B |page={{要ページ番号|date=2016年9月}} |publisher=朝日新聞社|date=2016-06-03}}</ref>。
** 11月7日 - いちご農園を竣工(北海道弟子屈町)。
* 2017年(平成29年)
** 2月21日 - 内閣府が支援する「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」行動宣言に賛同<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/news_olc-3362917412446828701/main/0/link/20170321_3.pdf|title=株式会社オリエンタルランド 「輝く女性の活躍を加速する男性リーダーの会」行動宣言への賛同について|accessdate=2021-06-04|publisher=株式会社オリエンタルランド|date=2017-03-21}}</ref>。
* 2018年(平成30年)
** 6月14日 - ディズニー社とのライセンス契約を2076年まで延長を決定<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=「東京ディズニーシー大規模拡張プロジェクト」基本計画の合意およびディズニー社とのライセンス契約の延長について {{!}} OLCグループ {{!}} ニュースリリース {{!}} 株式会社オリエンタルランド|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/auto_20180613463843h.html|website=www.olc.co.jp|accessdate=2021-06-04|date=2018-06-14}}</ref>。
** 9月17日 - イクスピアリにオリエンタルランド準社員を対象とした「OLCキャリア・カレッジ」開設<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=「OLCキャリア・カレッジ」開設のお知らせ {{!}} OLCグループ {{!}} ニュースリリース {{!}} 株式会社オリエンタルランド|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/20180927h.html|website=www.olc.co.jp|accessdate=2021-06-04|date=2018-09-27}}</ref>。
** 11月13日 - 出演者から提訴されている訴訟の第一回口頭弁論が行われる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/20181113_01/main/0/link/20181113_01.pdf|title=当社が提訴されている訴訟について|accessdate=2021-06-04|date=2018-11-13|publisher=株式会社オリエンタルランド}}</ref>。
** 12月3日 - 「平成30年度地球温暖化防止活動環境大臣表彰」受賞<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=「平成30 年度地球温暖化防止活動環境大臣表彰」受賞のお知らせ {{!}} OLCグループ {{!}} ニュースリリース {{!}} 株式会社オリエンタルランド|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/20181203_01h.html|website=www.olc.co.jp|accessdate=2021-06-04|date=2018-12-03}}</ref>。
* 2019年(平成31年/[[令和]]元年)
** 2月1日 - 下半期以降に新たな雇用区分「テーマパークオペレーション社員」導入<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=新たな雇用区分「テーマパークオペレーション社員」の導入について {{!}} OLCグループ {{!}} ニュースリリース {{!}} 株式会社オリエンタルランド|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/20190201_01h.html|website=www.olc.co.jp|accessdate=2021-06-04}}</ref>。
** 6月26日 - フォトキーカードの重複により一部ゲストの間で他人の写真が見れる状況にあったと発表<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/20190626_01/main/0/link/20190626_01.pdf|title=お客様写真データ流出に関するお詫び|accessdate=2021-06-04|publisher=株式会社オリエンタルランド}}</ref>。
* 2020年(令和2年)
** 6月5日 - 「株式会社オリエンタルランド・イノベーションズ」設立<ref group="広報">{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/ja/news/news_olc/2020060502/main/0/link/20200605_02.pdf|title=「株式会社オリエンタルランド・イノベーションズ」の設立について|accessdate=2021-06-04|publisher=株式会社オリエンタルランド}}</ref>。
* [[2021年]](令和3年)
** [[3月20日]] - 日曜日・祝日・[[ゴールデンウィーク]]などの繁忙期におけるチケット価格を高めに設定する[[ダイナミック・プライシング|変動価格制]]を導入<ref>{{Cite news|title=東京ディズニーランド・シーのチケット、祝日など高めに|url=https://jp.reuters.com/article/tokyo-disney-olc-idJPKBN28W13C|work=ロイター通信|date=2020-12-22|accessdate=2021-01-06}}</ref>。
** 6月29日-上西京一郎が代表取締役を退任し、特別顧問に就任。これに伴い、吉田謙次が代表取締役社長兼COOに就任。
* 2023年(令和5年)
** 4月1日 - 男女別に定められていたキャストの制服や身だしなみの規定を順次廃止<ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーランドとシー、制服の性別を選択制に…髪形や化粧の男女別表記も廃止 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230322-OYT1T50262/ |website=読売新聞 |date=2023-03-22 |access-date=2023-03-23}}</ref>。
** 4月3日 - 同日株式取引分から[[日経平均株価]]の構成銘柄に採用<ref>{{Cite web|和書|title=日経平均銘柄入れ替え、オリランド、ルネサスエ、JALを採用 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-03-03/RQXNLODWLU6801 |website=Bloomberg.com |access-date=2023-03-03 |author=田村康剛、林純子 |date=2023-03-03}}</ref>。
** 6月29日-加賀見俊夫が代表取締役会長及びCEOを退任したことで、代表取締役兼取締役会議長となる。これに伴い、高野由美子が代表取締役社長兼CEOに就任、あわせて加賀見が行っていた経営や執行の業務を社長兼最高執行責任者である吉田謙次が担当する<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC1980W0Z10C23A5000000/#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BA%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%88TDR%EF%BC%89%E3%82%92,%E4%BC%9A%E8%AD%B0%E9%95%B7%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%81%A8%E3%81%A9%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%80%82 オリエンタルランド、加賀見氏がCEO退任 議長専念],2023年5月19日,日本経済新聞</ref>。
== 主な組織 ==
2021年6月1日現在<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=組織図 {{!}} 会社概要 {{!}} オリエンタルランドについて {{!}} 株式会社オリエンタルランド|url=http://www.olc.co.jp/ja/company/profile/organization.html|website=www.olc.co.jp|accessdate=2021-06-04}}</ref>
*経営戦略本部
**経営戦略部
**サステナビリティ推進部
**デジタル戦略部
**IT統括部
**リゾート開発部
* 事業開発部
* 総務部
* 事業法務部
* 人事本部
** 人事部
** 労務安全衛生部
** キャスティング部
* 経理部
* 社会活動推進部
* 広報部
* 食の安全監理室
* ビジネスソリューション部
* CS推進部
* スポンサーマーケティングアライアンス部
* マーケティング本部
** マーケティング企画部
** マーケティング開発部
**マーケティング・コミュニケーション部
**リゾートエクスペリエンス推進部
* 運営本部
** 運営監理部
*** アトラクション運営部
*** パークサービス運営部
*** セキュリティ部
* エンターテイメント本部
** エンターテイメント企画室
*** ショー開発部
*** ショープロダクション部
*** ショー運営部
* フード本部
** フード総括室
** フード開発販売部
**フード調達部
* 商品本部
** 商品管理部
** 商品開発部
** 商品販売部
* 技術本部
** 安全品質監理室
** 技術管理部
*** 設計建設部
*** アトラクション技術部
*** ファシリティ技術部
***設備部
***MTC
* 第8テーマポート推進本部
**第8テーマポートプロジェクト統括部
***第8テーマポート建設部
*シアトリカル事業部(舞浜アンフィシアター(旧シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京)等)
*グループ会社(MTCを除く)
* 監査部
=== 役員 ===
※2023年6月29日付人事異動による<ref>{{Cite web|和書|title=役員一覧 {{!}} 会社概要 {{!}} オリエンタルランドについて {{!}} 株式会社オリエンタルランド |url=https://www.olc.co.jp/ja/company/profile/board.html |website=www.olc.co.jp |access-date=2023-06-29}}</ref>
==== 代表取締役 ====
* 代表取締役(兼)取締役会議長
: [[加賀見俊夫]]
'''・'''代表取締役会長(兼)CEO
[[髙野由美子|高野由美子]]
* 代表取締役社長(兼)COO
: [[吉田謙次]]
他の会社役員に関する詳細は「[http://www.olc.co.jp/ja/company/profile/board.html オリエンタルランド会社概要 役員一覧]」を参照のこと。
==== 歴代社長 ====
* [[川崎千春|川﨑千春]](創業者・初代社長・初代会長)
* [[高橋政知]](二代社長・二代会長)
* [[森光明]](三代社長)<ref group="注釈">[[日本興業銀行]]出身。</ref>
* [[加藤康三]](四代社長・三代会長)<ref group="注釈">1928年12月12日生まれ。[[東京大学]][[農学部]]卒業後、[[千葉県]]職員を経て就任。退任後は2002年まで会長を務め、2011年3月26日死去。</ref>
* [[加賀見俊夫]](五代社長、四代会長)
* [[福島祥郎]](六代社長)
* [[上西京一郎]](七代社長)
* [[吉田謙次]](八代社長・現職)
== 所有資産 ==
; 2016年(平成28年)6月現在の所有資産
* [[東京ディズニーランド]]
*: 所有・経営・運営:自社(夜間と昼間一部警備、一部従業員用施設運営は子会社に委託)
* [[東京ディズニーシー]]
*: 所有・経営・運営:自社(夜間と昼間一部警備、一部従業員用施設運営は子会社に委託)
* [[ディズニーアンバサダーホテル]]
*: 所有:自社、経営・運営:[[ミリアルリゾートホテルズ]]
* [[東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ]]
*: 所有:自社、経営・運営:ミリアルリゾートホテルズ
* [[東京ディズニーランドホテル]]
*: 所有:自社、経営:ミリアルリゾートホテルズ
* [[東京ディズニーセレブレーションホテル]]
*: 建物所有:ミリアルリゾートホテルズ、土地所有:[[都市再生機構|独立行政法人都市再生機構]]、経営・運営:[[ブライトンホテルズ|ブライトンコーポレーション]]
* [[イクスピアリ]]
*: 所有:自社、経営・運営:[[イクスピアリ (企業)|イクスピアリ]]
* [[ボン・ヴォヤージュ (ディズニーショップ)|ボン・ヴォヤージュ]]
*: 所有・経営・運営:自社
* [[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]
*: 所有・経営・運営:[[舞浜リゾートライン]]
* [[ディズニーリゾートクルーザー]]
** 白ナンバー 所有:各ホテル(ディズニーホテル・オフィシャルホテル)、運行管理:[[大新東]]
** 緑ナンバー 所有、運行:[[京成トランジットバス]]
* [[舞浜アンフィシアター]]
*: 所有・経営:自社(シアトリカル事業部)
== 東京ディズニーリゾートの運営 ==
=== 「キャスト」と「ゲスト」 ===
TDRを含む世界のディズニーリゾート・ディズニーパークでは従業員のことを「[[従業員|キャスト]]」、入場客のことを「ゲスト」と呼ぶ。カストーディアル・キャスト(清掃・案内を担当するキャスト)においては「カスト」と呼ぶこともある。また、「キャスト」の本来の意味であるショーの出演者はキャストと呼ばず「出演者」または「エンターテイナー」という呼び方をする。ただし、彼らも広義では一般従業員と同じく「キャスト」であり、人事上では「キャスト」の名称が使われる場合もある。なお、「キャスト」の呼称はOLCに所属する従業員だけではなく、OLCグループ各社の従業員、協力会社従業員等のうち、TDRの業務に従事している者全般に対して使用される。
これは、「パークは青空を背景とした巨大なステージであり、従業員はそのステージ上でそれぞれ配役された役割を演じるキャストである」という[[ウォルト・ディズニー]]の考えに由来している。そのため、ゲストが入れるエリアは「オン・ステージ」(舞台)、関係者専用区域を「バックステージ」(舞台裏・楽屋)、キャストが配属される各部署を「ロケーション」と呼ぶなど、映画・演劇用語が使用される。初期研修後各ロケーションに配属される際には「あなたの配役は-」と記載された辞令を渡すなど、この考え方による用法は徹底しているという。
キャストは「いらっしゃいませ」とは言わず、原則「こんにちは(おはようございます・こんばんは)」と迎える。これは「いらっしゃいませ」とキャストに言われてもゲストには返す言葉がなく、会話が成立しないためである。また「カスト」に限らず、すべてのキャストはゴミを見つけたら直ちに清掃することになっている。これは[[割れ窓理論|「1つのごみが全体を汚くする」という理念]]をウォルトが持っていたことに由来し、外で乳幼児が這い歩きしても安全なようにと教育されている。閉園後を担当するのは夜勤の「ナイトカストーディアル・キャスト」で、このスタッフたちは、閉園直後の0時から開園直前の7時まで、パークの道路すべてを自営浄水場で再生された水で水洗いする。もちろんそれだけの人数が存在し機材もある。それによって、いつもパークがきれいに保たれている。いかに訪れた人々を迎えるか、どのように接すれば喜んでもらえるか、の教育に力を入れている。
直営でなく、[[ライセンス]]契約上、マニュアルの遵守が要請されること、日本人の国民性などが相俟って、世界のディズニーパークの中で、精緻なマニュアルを一番忠実に実施していると評されている。
=== 「キャスト」の雇用環境 ===
TDRで働く多くのキャストは、OLCの準社員([[パートタイマー]]、[[アルバイト]])・[[契約社員|テーマパーク社員(契約社員)]]、いわゆる[[非正規雇用]]の従業員である。時給制契約により雇用される。パーク内の多くの職種に配され、ゲストが出会うキャストの多くはこの準社員である。当初はパーク内で働くキャストに占める[[正社員]]の割合は少なくなかったが、現在はその多くを[[準社員]]に行わせている(準社員だけでパークは動かせるとまで評されている)。 福利厚生面で見ると累積勤務時間による昇給制度や優待パスポート、シルク・ドゥ・ソレイユ シアター(廃止)、東京「ZED」鑑賞券、[[賞与]]の支給や[[社会保険]]への加入([[厚生年金]]及びオリエンタルランド[[健康保険組合]]。法令に基づき、週[[労働時間]]が正社員の4分の3以上のキャストは雇用形態に関わらずすべて対象である)、そしてクリスマスや[[正月]]など深夜開園がある際の仮泊所、OLCの[[福利厚生施設]]の特典(浦安市内や首都圏には社員証提示で料金割引き等がある店舗が多数存在する)利用権利、年に一度閑散期にある“勤労感謝の日(サンクスデー)”は、パークは閉園後キャストに開放される(この日のみ19時で早終いとなり、開放中の運営は正社員によって為される。時間は20時15分から22時45分)などがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20200115-OHT1T50219.html|title=OLCがアルバイトをもてなすサンクスデーがTDS閉園後に開催…会長、社長がハイタッチで歓迎|accessdate=2020年1月16日|publisher=スポーツ報知(2020年1月15日作成)}}</ref>。アルバイト従業員は、ディズニーパークの一員として仕事ができる環境に魅力を感じ、採用希望を抱く人が応募するため、前述の待遇に満足感を覚える従業員が多いという。ただ、その仕事内容は多岐に渡り、担当する通常業務に加え、案内・清掃・遺失物・迷子の対応、さらには厳しい管理下の接客姿勢など、会社側のキャスト1人に対する仕事の量・質の要求は非常に高い。そのため離職者も数多くおり、会社側は、アルバイト従業員の確保に常に力を置いている。
[[全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟|UAゼンセン]]傘下の「オリエンタルランド労働組合(オリエンタルランド・フレンドシップ・ソサエティー、略称:'''OFS''')」が組織されている。OFSは従来[[正社員]]をその組織対象とする[[労働組合]]で、2007年(平成19年)[[3月31日]]現在の組合員数は1,950名となっていたが、2017年4月より非正規労働者も対象とする[[労働協約]]の改定を行い、2万名以上いる従業員のうち約8割を組織するようになった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ14I9Y_U7A310C1MM8000/ オリエンタルランド、非正規2万人を組合員に 人手確保] 2017年3月15日付[[日本経済新聞]]</ref>。OFSはUAゼンセンの方針により[[労使協調]]路線を採り、どちらかといえば社員会に近いスタンスで運営されている。グループ内の連結子会社で組合は組織されていない。一方、通告無しの解雇や偽装請負疑惑との訴えもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://biz-journal.jp/2014/06/post_5190_2.html |title=ディズニーランド、疲弊する現場にキャストらが会社と争い 突然解雇や偽装請負疑惑も |work=Business Journal |publisher=サイゾー |date=2014-06-22 |accessdate=2016-09-14}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.j-cast.com/2014/05/23205633.html |title=長年働いたパフォーマー7人が「偽装請負」主張 ディズニーランド側「そうした事実はない」 |newspaper=J-CASTニュース |publisher=ジェイ・キャスト |date=2014-05-23 |accessdate=2016-09-14}}</ref>。2014年3月にはついに、「[[全国コミュニティ・ユニオン連合会|なのはなユニオン]]」傘下の“闘う”労働組合「オリエンタルランドユニオン」が結成された。
なお、準社員は5段階の職級に分けられ、下から M / A / G / I / C(メイク、アクション、成長、進歩、キャプテンの略と説明されている)と区分されていてそれぞれ○キャストと呼称されている。新規入社の準社員はMキャストとされ、[[OJT]](研修)を約2-5日行いデビューという形になる。Mキャスト期間(入社日の翌月末まで)を過ぎると原則的にAキャストに昇格する。最上位職級のCキャストに関しては時給制であるという以外は、ほぼテーマパーク社員や正社員と同じ業務を行っている部署もある。全てのキャストの頂点にあるのが「[[アンバサダー (ディズニー)|東京ディズニーリゾート・アンバサダー]]」である。
同じ職種の場合、人員確保のため一定期間においてロケーションの変更は容易である。また、規定の勤務をこなしながら異なる職種の体験をできる制度も存在する。例えば、アトラクション担当のキャストが商品販売担当のキャストを同時期にこなす、というものである。
また、当初は一部の職種にのみ存在したが、後に適用される職種が拡大された「テーマパーク社員」制度もある。テーマパーク社員は、準社員の監督・指導など、パーク運営業務の第一次的責任を担う「スーパーバイザー(Superviser―監督者。略名SV)」の候補(I-A区分)として採用されワーキングリード (Working Lead) として勤務に就く、その後選考により昇格した場合はスーパーバイザー(II区分)として、原則1年間の月給制契約により雇用される(更新等に所定の条件がある)。また、「専門業務従事者」として「ファイヤー([[防火管理者]])」や「ナース([[看護師]])」などの職種もスーパーバイザーとしての契約があるが、こちらはII区分へのステップアップはない。
準社員からテーマパーク社員や正社員に雇用される場合もあるが、テーマパーク社員へは G / I / Cキャストで正社員からの推薦が必要になる。正社員への登用に至っては I / Cキャストでマネージャー職の正社員からの推薦が必要と非常にハードルが高く、ごく一部だけの実績があるだけである。2008年(平成20年)に正社員にまで昇り詰めた準社員は数名程度である。そのため、テーマパーク業務の知識を持たない正社員が増えてしまっている現状がある。しかしながら、東証一部上場企業の正社員にアルバイトからなることを考えれば相応のハードルであり、ファーストフード店やコンビニエンスストアなどといった、数千から数万規模の店舗を有し、店舗数に応じて社員が必要不可欠である上場企業とは単純に比較できない。
OLCが公表している、2007年(平成19年)4月1日現在のテーマパーク社員・準社員数は16,200名。職種による差はあるが、準社員の入れ替わりは激しい。入れ替わりが激しい理由としては、仕事の負担感に比して時給が安いなどの現実的な面と、学生の場合は授業や[[ゼミ]]など学業、そして就職等との兼ね合いで辞めざるを得なくなるケースも多い。
ただ、一旦辞めても期間を置いて「再入社」という形で戻ってくるキャストも多く、中には退職・再入社を何度も繰り返す者もいる。これは、退社後一年以内の再入社は、以前の累積勤務時間が引き継がれ、時給の昇給や前述の職級等で有利になるためである。また、他の職種に鞍替えしたい場合には一旦退職して、面接からやり直さなければならないことも退職・再入社が多い一因となっている。
コスチュームは[[ワードローブ]]ビルですべて貸し出しとなっており、イシュー・カウンターよりコスチュームを借り(人手を介する煩雑さを解消するため、[[RFID]]が導入されて、一旦貸与がされたら後は保管所から自分で手続きして返還・帯出ができる様になった)、イシュー・ロッカー内のドレッシング・ルームで着替えて仕事に就く。なお、コスチュームに着替えて勤務するキャストには「着替手当」が付くという。
また、ショー出演者(エンターテイナー)の着替えや着付け等は、エンターテイナー専用のドレッシング・ルーム(楽屋)でおこなわれているため、準社員、テーマパーク社員、正社員のすべてを含めた通常のキャストは担当部署のキャスト([[エンターテイメント]]関連)でなければ見ることも関わることもできないという。これにより、多くの他の部署の準社員が入れ替わりが頻繁に行われても、エンターテイメント関連の秘密が流出せずに保持されるよう徹底した管理が行われている。
=== その他の運営関連 ===
* オリエンタルランドは東京ディズニーリゾートにおける一部の清掃業務に関して1984年(昭和59年)から右翼関連会社への外部委託を行っていた。なお、実際にはこの会社から別の会社へ業務が丸投げされていたことが報道された。この件に関して最高裁判所は「'''右翼団体幹部への謝礼、贈答である'''」との認識を示した上で、再委託料との差額に関しては'''税金の申告漏れ'''であるとの指摘を行った<ref name="uyoku">{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/101009/trl1010091952000-n1.htm |title=オリエンタルランドの敗訴確定、右翼関連会社への外部委託をめぐり - 最高裁 |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |date=2010-10-09 |accessdate=2010-10-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101012152338/http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/101009/trl1010091952000-n1.htm |archivedate=2010-10-12 }}</ref>。
* 「別世界」の雰囲気を壊さないために、迷子の呼び出しなどの放送が一切行われない。迷子の届けについては、各部署のキャストに[[業務無線]]で一斉指令が流れ、保安担当のキャストである「セキュリティー・オフィサー」を中心に全員が通常業務をこなしつつ探す。
*: 例外として、ゲストの家族の身体・生命の安全に関わる重大な緊急事態で「大至急連絡を取りたい」と依頼があった場合や、救護室収容のゲストが病院等に緊急搬送される際に、同行者などが見つからず連絡が取れない場合などに限り、'''「東京ディズニーランド(シー)よりお知らせいたします。○○県よりお越しの○○様、お近くのキャストまでお知らせ下さい」'''とパーク内に一斉放送が流される。また雷雨など、パーク全域でゲスト(及びキャスト)の行動を制限する必要がある場合、公共交通機関が大規模に不通になってしまった場合などにも放送が行われることがあり、「ページング」と呼称されている。なお、試験放送については毎朝、開園前に実施されている。ちなみに、非常放送設備は通常放送の設備とは分離されており、非常放送が行われるときは屋外の通常放送はすべて停止する。非常放送はバックステージでもオンステージと同じ放送を聞くことができるようになっている。また、主要な放送設備はすべて非常電源で保護されており、停電になっても5-6時間は放送が可能であり、停電になっても通常放送のBGMは流れ続ける。
* 一般募集を行っていない会員制レストラン「[[クラブ33]]」の存在、大口スポンサー関係者専用ラウンジの設置、バックステージ施設や業務内容のほとんどが英語名で表現されている(例:休憩を「ブレイク」と呼ぶ、すべての施設には内部で通用するアルファベット3文字の「[[3レターコード]]」が割り当てられている)点が「アメリカ的」と評される。
* 俗に言われる「すべてのゲストがVIPである」というスローガンは、「キャストはすべてのゲストをVIPと思い、自分が対応している相手に、できる最高のもてなしを提供すべし」といった趣旨のものであり、パークのすべてのサービスがVIP用になっているという意味である。通常のサービスを超えて特別な対応を行うのは、要人([[天皇]][[皇后]]を始め[[皇族]]や[[王族]]・[[内閣総理大臣|総理大臣]]や[[閣僚]]など一部の警護対象者、および[[国賓]]・[[公賓]]として来日している外国の首脳・閣僚、一部の[[セレブリティ]]など。キャストにはゲストに対しての緘口令が敷かれることもある)に対してだけであり、これは、優遇というよりも対象人物の安全確保や、対象人物の入園による混乱等に起因する事故防止等の保安上の理由が大きい。一介の[[芸能人]]や[[国会議員]]レベルの政治家では特別対応を受けることはできない。ただし、状況によりレストラン等では現場の判断で一般のゲストから離れた席を案内する等の配慮は行われている。
* 京成グループで、同社の[[BMK推進運動]](接客レベル向上の取り組み)にも参加するが、ディズニーとの契約上、キャストは勤務中においてディズニーから許可を受けたアイテム以外は着用することができない。また、雰囲気にそぐわないためからか、他のグループ各社が行っているような幟旗の掲示や、社員が運動のPRバッジをつけたりすることは関係会社すべてにおいて行われていない。なお、OLCのディズニーブランドの施設では、ディズニーから導入された独自の接客マナー向上・表彰制度(グッド・コーテシー・アワード)が存在するという。
* 長年に渡り、親会社の京成電鉄株式よりもオリエンタルランド株式の[[時価総額]]の方が高いというねじれ現象が発生しており<ref group="注釈">実際に2023年時点で京成電鉄の時価総額は8000億円なのに対し、オリエンタルランドの時価総額は約9兆円と10倍以上の差が開いている。</ref>、オリエンタルランドの株式を2割保有している京成電鉄を買収すれば自動的にオリエンタルランドを安価で支配できるため、2005年2月に発生した[[ライブドア]]による[[ニッポン放送]]の[[ニッポン放送の経営権問題|買収騒動]]ではこの点が識者などから強く指摘された<ref>{{Cite web|和書|title=あなたの会社が「敵対的M&A」に巻き込まれたとき |url=https://jinjibu.jp/article/detl/keyperson/39/ |website=日本の人事部 |access-date=2023-04-23 |publisher=HRビジョン |date=2005-06-20 |author=村山弘美}}</ref><ref name=":4">{{Cite web|和書|title=東京ディズニー40周年、資本のねじれが拡大の一途-時価総額は10倍超 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-04-19/RQRYDTT1UM1B01 |website=Bloomberg.com |access-date=2023-04-23 |date=2023-04-20 |author=日向貴彦}}</ref>。これを受けて、オリエンタルランドは経営権取得目的の敵対的買収に対抗するため、2005年や2008年などに自社株の[[株式公開買付け]](TOB)を実施し、[[筆頭株主]]である[[京成電鉄]]が保有する自社株の一部を買い戻し、京成電鉄の出資比率を低下させているが、根本的な解決には至っていない<ref name=":4" /><ref>{{Cite web|和書|title=オリランド:自己株式420万株をTOBで取得へ-京成電鉄が応募 |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2008-05-22/K19Q920UQVIA01 |website=Bloomberg.com |access-date=2023-04-23 |date=2008-05-22 |author=赤間信行}}</ref>。
* ディズニーの世界を作るために、例えば「ランド・シーの各パークごとにディズニーキャラクターは一体しか存在しないようにする」、「いわゆる「[[スーツアクター|中の人]]」を絶対に存在しないように扱う」など、キャラクターの扱いに関して、アイデンティティを維持するよう徹底しているという。
* 東京ディズニーリゾート周辺の道路もオリエンタルランドの私有地([[私道]])となっており、維持管理も同社が行っている。これは浦安市が直接管理してしまうと管理費用が高額になるのを避けるための措置であり、オリエンタルランドが道路管理している部分の[[防護柵 (道路)|ガードレール]]や[[道路標識]]は同社独自のデザインや塗装などが施されている<ref name=":3" />。
=== 事故・事件 ===
* 2001年(平成13年)
** [[9月11日]]
**: [[アメリカ同時多発テロ事件]]の影響により、以降TDR全域にわたり警備体制を強化した。この後、徐々にパークにて手荷物検査をスタートし、パークはもとより、特にエントランス周辺における犯罪や事故が激減したこともあり、現在ランドには手荷物検査所も設け、シーと共に半永久的に実施中。
* 2001年(平成13年)[[11月11日]]
**: [[東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ]]の屋上に取り付けられていたクリスマス用の電飾がショートし、ぼやが発生した。けが人などはなかった。
* 2003年(平成15年)
** 12月5日
**: TDLのパーク内にあるアトラクション「[[スペースマウンテン]]」で走行中に車両後部の車軸が折れ、脱輪する事故が発生した<ref name="chibanippo2003126"/>。
**: 原因は、1995年(平成7年)9月に車輪の軸受部分の設計サイズを、従来の[[ヤード・ポンド法]]から[[メートル法]]に変更した際、図面の修正や管理が適切に行われなかったため、新旧2種類の図面が混在することとなり、軸受に合わない車軸が旧図面で発注されてしまったためである。
**: その結果、軸受と車軸との間に想定値以上の隙間が発生し、車軸に無理な負担がかかったため、車軸が折損してしまった。2004年(平成16年)2月18日まで運転を中止<ref name="chibanippo200425"/>。
* 2004年(平成16年)
** [[10月22日]]
**: TDSで開業以来初めての大規模な[[停電]]が発生した。午後3時40分頃に発生したこの停電は、復旧のめどが立たず、OLCは午後6時での臨時閉園を決定した。当日入園していた客に対しては、入場料の払い戻し、もしくは無料パスポートの配布が直ちに行われた。また、合わせてTDLへの入場無料の措置がとられ、[[東京ディズニーシー・ステーション駅|東京ディズニーシー・ステーション]]から[[東京ディズニーランド・ステーション駅|東京ディズニーランド・ステーション]]までの区間で「[[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン|ディズニーリゾートライン]]」が無料で乗車できる措置が取られた。
* [[2005年]](平成17年)
** [[1月4日]]
**: TDLやTDSの「年間パスポート」の顧客情報が流出した可能性があるとの調査結果を発表した。流出した個人情報は、121,607人分(2000年(平成12年)10月 - 2004年(平成16年)12月・推定)で、氏名・住所・電話番号・生年月日・性別・有効期限・パスポート番号が含まれていた。流出した時期は不明。2001年(平成13年)以降にパスポートを購入した10人に対し、2004年(平成16年)[[12月23日]]から[[12月29日|29日]]に「有効期限が切れる前に代金を口座に振り込め」などの電話があったという。OLCは、ネットワーク経由での社外からのハッキングや、パスポート作成窓口での抜き取りの可能性はないとしている。データベースへ情報を登録する作業担当者やメンテナンス担当者、ダイレクトメールの送付を行う外部業者の可能性が考えられる。
** 5月20日
**: [[読売新聞]]の報道により、1984年(昭和59年)から行われてきた[[暴力団]]系[[右翼]]関連企業との不透明な利益供与が発覚した<ref name="uyoku" />。
* 2006年(平成18年)
** [[9月28日]]
**: [[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[京葉線]]鍛冶橋変電所配電盤焼失事故による運転見合わせの影響により、TDR各施設のかなりの数のキャスト(従業員)の出勤が困難となり、TDL・TDS合わせ68あるアトラクションのうち、開園時19が稼動できない事態となった(その後約2時間ですべてが稼動)。 また、ゲストのアクセスも代替ルートである[[東京地下鉄|東京メトロ]][[東京メトロ東西線|東西線]]の大混雑を中心に多大な影響を与えた。
* 2007年(平成19年)
** [[1月18日]]
**: TDL内のレストラン「[[東京ディズニーランドのレストランの一覧#イーストサイド・カフェ|イーストサイド・カフェ]]」にて提供された前菜「カプレーゼ(モッツァレラチーズとトマトの前菜)」のうち、9食に賞味期限が[[1月17日]]となっている[[モッツァレッラ|モッツァレラチーズ]]を使用していたことが18日午後2時10分に判明した。OLCは、判明後直ちに提供を一時中止、新たに賞味期限内のチーズが納品されたことにより、提供を再開し、この事実を翌[[1月19日]]に自ら公表し、浦安保健所などに届出を行った。OLCの自社調査によると、原因は自社倉庫の納品担当者が当日の日付を1月17日と勘違いし、賞味期限切れに気付かないまま当該チーズを出庫・納品していたことに加え、店舗担当者が本来行われるべき納品されたチーズの日付確認及び商品検収記録簿への記載を行わないまま使用し、本来の納品フローと異なる対応をしたためである。
** [[2月9日]]
**: リゾート内レストラン及びホテルの予約受付を2月一杯中断した。横浜の総合予約センターで1月末の予約管理システム更新時に発生した原因不明の[[コンピューターシステム]]ダウンのため。
** [[3月18日]]
**: [[緊急自動車#緊急自動車の走行|緊急走行]]中のOLC診療所所属・TDL配置の[[救急車]]とトラックが浦安市運動公園前交差点で衝突し、救急車が横転。運転・添乗していたセキュリティキャストと添乗していた看護師(ナースキャスト)、搬送中のゲスト3名の6名中被搬送者とナース、計4名が軽傷を負った<ref>{{Cite news |url=https://www.47news.jp/CN/200703/CN2007031801000453.html |title=TDR救急車が衝突、横転-女子中学生ら4人軽傷 |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |date=2007-03-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130606120801/http://www.47news.jp/CN/200703/CN2007031801000453.html |archivedate=2013-06-06}}</ref>。
** [[7月31日]]
**: 映画「[[パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド]]」にちなんだキャンペーン「パイレーツ・テイスティートレジャー」がアンバサダーホテルのHPで告知されたが、このキャンペーン用のFlashや各ページの背景にゲーム「[[ファイナルファンタジーXI]]」内のものが使用されていることが判明し、運営者である[[ミリアルリゾートホテルズ]]が同HPに謝罪文を掲載した。外部の委託デザイナーのいたずら心とは言え、権利関係に厳しいディズニーによる無断借用として注目されたこの騒動は、発生からわずか数日で収束した。権利者である[[スクウェア・エニックス]]は特にコメントを出していない<ref>{{Cite news |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0708/01/news033.html |title=ディズニーホテル、FF画像の無断利用で謝罪 |newspaper=ITmediaニュース |publisher=アイティメディア |date=2007-08-01 |accessdate=2016-09-14}}</ref>。
* 2007年(平成19年)[[10月30日]]
**: リゾート内で開催されたパレードやショーをビデオカメラで撮影したDVDをインターネットオークションサイトで販売したとして、東京都の会社員/千葉県の無職の合計男女4人(当時、29、36、24、52)が著作権法違反で逮捕された。2008年1月千葉地方裁判所で有罪判決がでた。
** [[12月9日]]
**: 午後6時10分ごろ、TDLのパーク内にあるアトラクションを動かすための圧縮空気製造システムに障害が発生し、41あるアトラクションのうち、最大で26が非常停止した。ほとんどのアトラクションで非常用電源などのバックアップシステムを作動させ、車両を乗降口まで移動させたものの、「[[スペース・マウンテン]]」などではキャストが乗客を誘導し、非常用通路などを使って避難させた。けが人はなかった。アトラクションの一斉停止は雷や地震などの天災を除くと1983年(昭和58年)の開園以来、初めてのことだという。OLC広報部によると、電気系統でシステム障害が発生し、停電になったという。午後9時ごろまでに22が復旧したが、「[[ミクロアドベンチャー!]]」などの残り3は午後10時の閉園まで復旧しなかった。当時、パーク内には約4万人のゲストがいた。パーク内の照明やレストラン、ショップなどに影響はなく、花火やパレードなどは予定通り実施された。TDSには影響はなく、翌日は通常通り営業した。原因は新たに稼働を開始したCEP(セントラルエネルギープラント)棟([[変電所]]を管理するコントロールシステム)への移行据付時に担当業者による配線ミスがあったため、安全装置が作動し、アトラクションで使用される圧縮空気の製造装置への送電が自動的に停止したためだという。
* 2008年(平成20年)
** [[1月3日]]
**: 午後2時30分ごろ、TDLのパーク内にあるアトラクション「[[東京ディズニーランドのアトラクションの一覧#スイスファミリー・ツリーハウス|スイスファミリー・ツリーハウス]]」の3階屋根でぼやが発生した。アトラクション内に5つある樹上の部屋のうち、ベッドルーム(約40[[平方メートル|m<sup>2</sup>]])にあるわら製の天井の一部(約17m<sup>2</sup>)を焼き、約30分後にキャストが消火器で消し止めた。屋根のわらには防燃材が塗られていた。出火当時、アトラクション内には約100人のゲストがいたものの、[[火災報知器]]が作動したため、キャストの誘導によりアトラクションの外へと避難した。けが人はなかった。この日、TDL内には約6万人のゲストがいた。出火場所はゲストの通路近くにあり、周囲には火の気がないことから、[[浦安警察署|千葉県浦安警察署]]や[[浦安市消防本部]]などは、たばこの投げ捨てが原因による[[放火及び失火の罪|失火]]、もしくは不審火の可能性を視野にいれ、詳しい出火原因を調べている。付近にある電気系統に異常は見られなかった。浦安市消防本部の消防車2台も現場へ出動したが特に混乱はなく、パークはこのアトラクションを除いて予定通り午後10時まで営業した。翌日も通常通り営業した。出火元となったアトラクションについては、修復を行ったうえで運営を再開した。OLCによると1983年(昭和58年)の開園以来、TDLのアトラクションでの火災は初めてという。1989年(平成元年)5月にはパーク内にあるレストランの厨房でぼやがあった。
** 1月8日
**: 午後2時20分ごろ、TDLで行われていた昼のパレード「[[ディズニー・ドリームス・オン・パレード"ムービン・オン"]]」の17台ある[[フロート]]のうち、11台目に取り付けられていた、長さ約3mの鉄製の支柱が真ん中付近で折れ、支柱に取り付けられていた飾りとともに崩れ落ちる事故が発生した<ref name="chibanippo200819"/>。
**: 支柱と[[繊維強化プラスチック]]製の[[惑星]]型の飾りを含めた総重量は約300kgあり、[[シンデレラ城]]付近でパレードを歩道から観覧していたゲストのすぐ目の前に落下したが、ゲスト・キャストを含めケガ人はなかった。パレードは約5分間の中断ののち、落下した飾りが撤去されて一部を除き再開した。
**: この日、TDL内には約1万8000人のゲストがいた。パークは予定通り午後7時まで営業し、翌日も通常通り営業した。
**: この事故を受けOLCは、8日には夜のパレード「[[東京ディズニーランド・エレクトリカルパレード・ドリームライツ]]」を、9日から11日まで昼・夜の2つのパレードをそれぞれ中止し、全46台あるフロートの安全点検を行った<ref name="chibanippo2008110"/>。
**: 12日から2つのパレードともに、安全が確認されたフロートのみを使って再開されている12日はムービン・オンが天候不良のため中止となり、[[レイニーデイ・ファン]]が再開1つめのパレードとなった。
**: 原因は金属疲労によって発生した微細な亀裂で<ref name="chibanippo2008131"/>、パレードのフロート製作・点検・整備を受託している東宝映像美術が2007年(平成19年)10月に実施した年1回の定期点検で、非破壊検査を本来同検査を実施する資格のない同社従業員が実施したため、その段階であったであろう亀裂を発見できず、結果的に亀裂が拡大して破断したためである。
** 4月21日
**: TDL施設内の[[ベビーセンター]]内で3月27日、4月3日、9日、19日に各日一個ずつ[[明治乳業]]の賞味期限切れ「明治ベビーフード 赤ちゃん村 麦茶」を販売していたことが発覚<ref name="chibanippo2008422"/>。原因はキャストのチェックミス。
** 9月1日
**: 東京ディズニーリゾートのパーク内への一脚・三脚・ハードケースなどのカメラ補助機材が持ち込み禁止となった。
** 9月10日
**: OLC診療所所属・TDS配置の救急車が車検切れの状態で公道を走行していたことが判明した<ref name="chibanippo2008911">{{Cite news |title=TDRの救急車 車検切れで走行 |newspaper=千葉日報 |page=19 |publisher=千葉日報社 |date=2008-09-11}}</ref>。同車両が車検が切れた状態で公道を走行していたのは2008年(平成20年)3月から9月と見られ、OLCが事実を確認した段階で所轄の警察署に届け出たことから明らかになった<ref name="chibanippo2008911"/><ref>{{Cite news |url=https://mainichi.jp/select/jiken/news/20080910k0000e040066000c.html |title=東京ディズニーリゾート:救急車、車検切れで数カ月走行 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2008-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080913131753/http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080910k0000e040066000c.html |archivedate=2008-09-13}}</ref>。
**: [[12月22日]]に車検切れのまま走行させていたして管理担当達14名が書類送検される<ref name="chibanippo20081223"/>。
** [[11月2日]] - 11月10日
**: 直営レストラン「ロティズ・ハウス」にて[[賞味期限]]の切れた[[鴨肉]]を使用し、食べた男性が[[腹痛]]を起こした事故が発生<ref name="chibanippo20081113"/>。
** [[11月24日]] - [[11月27日]]
**: [[舞浜アンフィシアター|シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京]]で賞味期限切れの[[コカコーラ]]([[ノーカロリーコカ・コーラ|カロリーフリー]])46杯を販売していたことを発表した。コーラは劇場内の飲食物販売コーナーのタンク内で原液に炭酸、飲用水を混ぜ、300[[立方ミリメートル|mm<sup>3</sup>]]容器入りを、300円で販売。従業員は、賞味期限が2008年(平成20年)[[11月23日]]だった原液を使ってコーラを11月24日に34杯、11月27日に12杯売った。劇場内の飲食物は1日2回、従業員が賞味期限の点検することになっているが、見過ごしていたのが原因であった<ref>{{Cite news |url=https://www.47news.jp/CN/200811/CN2008112801000783.html |title=オリエンタルランド、賞味期限切れコーラ46杯を販売 |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |date=2008-11-28 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140322212255/http://www.47news.jp/CN/200811/CN2008112801000783.html |archivedate=2014-03-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.olc.co.jp/important/20081128_01.pdf |title=シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京における賞味期限切れ「コーラ(カロリーフリー)」販売に関するお知らせとお詫び |format=PDF |publisher=オリエンタルランド |date=2008-11-28 |accessdate=2016-09-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081230120722/http://www.olc.co.jp/important/20081128_01.pdf |archivedate=2008-12-30}}</ref>。
* 2011年(平成23年)
** [[3月12日]]
**: 前日に起きた[[東日本大震災]]の影響により施設点検を行うため、[[東京ディズニーリゾート]]の運営を見合わせることを発表した<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.olc.co.jp/wpmu/wp-content/blogs.dir/2/files/2011/03/20110311_01.pdf 本日の地震の影響による明日のパーク運営について]}} - オリエンタルランド ニュースリリース 2011年3月11日</ref>。運営再開は2011年[[3月21日]]を目途に発表するとのことであった<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.olc.co.jp/wpmu/wp-content/blogs.dir/2/files/2011/03/20110312【3月13日以降のパーク運営について】.pdf 3月13日以降のパーク運営について]}} - オリエンタルランド ニュースリリース 2011年3月12日</ref><ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.olc.co.jp/wpmu/wp-content/blogs.dir/2/files/2011/03/20110314_01.pdf 3月14日時点における「東北地方太平洋沖地震」の影響に関するお知らせ]}} - オリエンタルランド ニュースリリース 2011年3月14日</ref>。その後、[[東京電力]]の電力供給力の低下とそれに伴い実施された[[計画停電]]の影響で、再開の見通しが立たないまま施設のほとんどで休業が続けられた。その後4月15日にはTDLが<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.olc.co.jp/wpmu/wp-content/blogs.dir/2/files/2011/04/20110412_011.pdf 「東京ディズニーランド®」の運営再開について]}} - オリエンタルランド ニュースリリース 2011年4月12日</ref>、4月28日にはTDSが再開<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.olc.co.jp/wpmu/wp-content/blogs.dir/2/files/2011/04/20110420_03.pdf 「東京ディズニーシー®」運営再開および「東京ディズニーランド®」夜間運営開始のお知らせ]}} - オリエンタルランド ニュースリリース 2011年4月20日</ref>。順次運営を正常化した。
* 2012年(平成24年)
**: 「[[レイジングスピリッツ]]」で安全バーが開いたまま動きだし、乗客が2週間程度の怪我を負う転落事故が発生<ref name="chibanippo2012530"/>。
**: 同事故の影響で[[6月13日]]まで「レイジングスピリッツ」は運航休止<ref name="chibanippo2012615"/>。
* 2013年(平成25年)
** [[6月20日]]
**: [[週刊文春]](2013年6月27日号)に、「東京ディズニーランドの食品が危ない!」という記事が掲載された<ref>{{NAID|40019665231}}</ref>。
**: ディズニーシー名物「ギョウザドッグ」は原料も加工も中国、「ケーキにカビ」「赤ちゃん用麦茶は賞味期限切れ」「使用禁止添加物クッキー」・・・という見出しの記事だった。
* [[2015年]](平成27年)
** 10月27日
**: 10月27日早朝、東京ディズニーシー内のアトラクション「ヴェネツィアン・ゴンドラ」で、夜間清掃を担当する[[MBM (ビルメンテナンス会社)|MBM]]所属の男性が人工河川に転落し、水死した<ref name="asahi20151027"/><ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/article/20151027-F26TL7LWQNKATELKKAFREIZBXU/ |title=ディズニーシーの人工河川にアルバイト男性の遺体 「ヴェネツィアン・ゴンドラ」 清掃中に事故死か |newspaper=産経ニュース |publisher=産経新聞社 |date=2015-10-27 |accessdate=2015-10-30}}</ref>。
* [[2019年]](平成31年)
** 2月5日
**: 同社の男性社員が詐欺の容疑で[[埼玉県警察|埼玉県警]][[所沢警察署|所沢署]]に逮捕された。逮捕容疑は結婚する意思がないのに[[所沢市]]在住の女性と結婚を前提に交際し、前年11月30日と12月3日に女性から現金計635万円をだまし取った疑い。男性社員は「だましたことは間違いない」と容疑を認めた<ref>{{Cite news |url=https://www.saitama-np.co.jp/articles/358 |title=オリエンタルランド社員を逮捕 妻子いるも交際女性から635万円詐取容疑 連絡取れず女性が所沢署に相談 |newspaper=埼玉新聞 |publisher=埼玉新聞社 |date=2019-02-05 |accessdate=2019-02-06}}</ref>。同社広報部は逮捕を受けて「事実関係を確認し、厳正に対処する」とのコメントを出した<ref>{{Cite news |url=https://www.sankei.com/affairs/news/190205/afr1902050037-n1.html |title=ロマンス詐欺容疑、TDL運営会社の社員逮捕 埼玉・所沢 |newspaper=産経ニュース |publisher=産経新聞社 |date=2019-02-05 |accessdate=2019-02-06}}</ref>。
* [[2022年]](令和4年)
** 3月29日
**: 2013年から約5年間、契約社員(パートとの報道も)の女性に対し上司らがパワハラを行い、心身に苦痛を受けたとして、千葉地方裁判所は同社の[[安全配慮義務]]違反を認め、会社側に88万円の支払いを命じた<ref>[https://www.bengo4.com/c_18/n_14304/ 「ディズニーランドのキャストパワハラ訴訟、オリエンタルランドに88万円の賠償命令」]【弁護士ドットコム】2022年3月29日付</ref><ref>[https://mainichi.jp/articles/20220329/k00/00m/040/137000c 「オリエンタルランドに88万円賠償命令」]【毎日新聞】2022年3月29日付</ref>。2023年6月28日、控訴審判決で東京高等裁判所は、女性の主張について事実として認められないか、違法とまでは言えないと判断し、一審判決を取り消し、女性の請求を棄却した<ref>{{Cite news|url=https://nordot.app/1046714719577784555|title=TDL出演女性、逆転敗訴 東京高裁、パワハラ認めず|newspaper=共同通信|date=2023-06-28|accessdate=2023-06-28}}</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
** 2月6日
**: オリエンタルランド傘下の[[ブライトンホテルズ|ブライトンコーポレーション]]が運営している[[ディズニーホテル]]「[[東京ディズニーセレブレーションホテル]]」の派遣社員が勤務時間中にホテル内のレストランでジュースを手にふざけている動画を撮影。[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]に投稿し、拡散していることが報じられ、同社が動画投稿の事実を認めた上で再発防止に務めるコメントを出す事態になった<ref>{{Cite web|和書|title=人気ディズニーホテル ふざける従業員動画拡散 事実と認め「再発防止に努める」 |url=https://www.sponichi.co.jp/society/news/2023/02/06/kiji/20230206s00042000358000c.html |website=スポーツニッポン |access-date=2023-02-07 |date=2023-02-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ディズニーホテルで悪ふざけ 従業員が不適切動画 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023020600985&g=eco |website=時事通信 |access-date=2023-02-07 |date=2023-02-06}}</ref>。
** 6月9日
**: 東京ディズニーランドのアトラクション「[[ウエスタンリバー鉄道]]」のミシシッピ号に搭載されているボイラーの性能検査有効期間が2023年5月18日で切れているにもかかわらず、同年6月5日までの19日間運行していたことが同月6日に判明したとして、謝罪した<ref>{{Cite web|和書|title=東京ディズニーランド「ウエスタンリバー鉄道」ボイラー検査期限切れで運行 謝罪コメントを発表 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2282376/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2023-06-09 |date=2023-06-09}}</ref>。
== 東京ディズニーリゾートの広告展開 ==
OLCは、ディズニーとの契約上、TDRの運営企業としてCMや広告などには一切その企業名が掲載されない。ただし、求人広告には労働関係法規のため、またパークの入場と宿泊をセットにした「東京ディズニーリゾート・バケーションパッケージ」関連の配布用印刷物等にはOLCが第二種旅行業(当初は[[横浜市]]にあるTDR総合予約センターを店舗として[[神奈川県]]に登録されていたが、現在は舞浜の住所に登録が変更となったため、[[千葉県]]に登録されている。登録番号は[[千葉県知事]]登録旅行業第2-810号<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jata-net.or.jp/jata_n/090525/090522_admit.htm |title=入脱会一覧・会員データ変更(平成21年5月22日付)/社団法人 日本旅行業協会 |accessdate=2017-09-16}}</ref>)として予約受付を行うため、[[旅行業法]]等によりその企業名が記載されている。また、広告の出稿はディズニーではなく、OLCが行っている。
=== 新聞・雑誌 ===
[[新聞]]では主に[[全国紙]]に掲載される。まれに[[地方紙]]にも掲載されることがある。参加企業の広告と抱き合わせで掲載されることもある。[[雑誌]]については、[[Hanako]]などの総合情報誌のほか、[[ZAITEN]]などビジネス誌にも出稿している。
=== テレビ ===
[[スポットCM]]は、[[首都圏 (日本)|首都圏]]の民放キー局及び首都圏以外の[[政令指定都市]](特に[[静岡県]]など)を中心に放映されており、新規アトラクションの告知やイベントの告知、TDLもしくはTDSの施設全体の宣伝など、内容は様々である。地方では、新規アトラクション導入か、春などの閑散期、夏休みなどの繁忙期を除いてスポットCMはめったに放送されない。なお、スポットCMの取り扱いについては、[[広告代理店]]にすべて委託されている。
以前は特定の番組の[[スポンサー]]([[ニュース系列|全国ネット]])になるということはめったになかったが、2006年(平成18年)秋ごろから、全国ネットのテレビ番組にスポンサーとして広告出稿を行っており、提供クレジットに「Tokyo Disney Resort」のロゴを出すようになっている。
ちなみに、TDL開園前もCMは流された。TDLのテーマソングである「東京ディズニーランド・イズ・ユア・ランド」(''Tokyo Disneyland Is Your Land'' )にあわせてパークの風景が出され、最後は前売券の販売告知になっているものであった。なお、これは[[麻木久仁子]]のCMデビュー作でもある。また、TDS開園前には、「ディズニーの海へ」と題して、テーマポートと同じ数である7種類のCMが放映された。なお、このCMはOLCが[[一社提供]]でスポンサーを務める「[[夢の通り道]]」([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])の中で再度放映された。
=== ラジオ ===
2008年(平成20年)9月現在、[[全国FM放送協議会|JFN系列]]のラジオ局において「共通時報」を提供している。また、2008年(平成20年)9月15日には[[エフエム東京|TOKYO FM]]の[[ラジオ番組]]「東京ディズニーリゾートpresents 25th Anniversary FANTASTIC AUTUMN!」を一社提供した。[[ベイエフエム]]では1991年(平成3年)より土曜・日曜朝の「Disney Weekend Break(ディズニー・ウィークエンド・ブレイク)」、平日午前中放送の「IKSPIARI story(イクスピアリ・ストーリー)」を提供している(2010年代に終了)。また、2013年(平成25年)3月までは平日に時報スポットCMの提供もあった。
=== 街頭広告 ===
首都圏の鉄道各駅に加えて、鉄道車内や[[吊り広告]]に広告が掲載される。
=== 提供番組 ===
; [[テレビ番組|テレビ]]
[[在京テレビジョン放送局|在京民放5局]]や[[千葉テレビ放送]]でスポットCMが放送されている。
; ラジオ番組
* [[全国FM放送協議会|JFN]]時報(土曜・日曜の5:00-13:00に1時間交代で [[全国FM放送協議会|JFN]]系列、2008年4月 - )
; 過去の提供番組
* ディズニー・ウィークエンド・ブレイク(土曜・日曜の7:55-8:00、[[ベイエフエム]])
* イクスピアリ・ストーリー(月 - 木の9:57-10:00、同上)
* ホテルズ・スタイル(月 - 木の13:57-14:00、同上)
* ディズニーホテルズ・スタイル(木曜11:35-11:40、同上)
* [[スティッチ!]]([[テレビ朝日]]系列)
* [[Disney Time]]([[テレビ東京]]系列・[[金曜日]]のみ)
* [[アナザースカイ (テレビ番組)|アナザースカイ]](日本テレビ系列・2019年4月 - 10月)
* [[夢の通り道]](日曜21:54-22:00、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[一社提供]])
== 東京ディズニーリゾートの参加企業制度 ==
TDL・TDS内にあるいくつかの施設([[レストラン]]・[[アトラクション (遊園地)|アトラクション]]・[[サービス]]施設など)には、一業種一社を原則として、国内の大手企業が[[スポンサー]]としてついている。これは、「参加企業制度」と呼ばれるもので、パーク内で配布される[[パンフレット]]に企業名を掲載したり、施設の出入口などに企業名が記された看板を掲げたり、[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]などの広告宣伝活動にパーク内の風景や[[キャラクター]]を使用する権利を与える代わりに、企業から建設資金や運営資金などの援助を行うものである。なお、同様の制度は、[[キッザニア東京]]の「スポンサーシップ」(オフィシャルスポンサー・シアターサポーター・協賛企業)や[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]の「コーポレート・マーケティング・パートナーズ」にも見られる。ただし、「コーポレート・マーケティング・パートナーズ」では一業種で複数の企業が参加している。
ちなみに、この「参加企業制度」参加表明の第一号は、松下電器産業(現:[[パナソニックホールディングス]])である。これは、創業者である[[松下幸之助]]が、[[ウォルト・ディズニー]]の思想に共鳴し、ディズニーランドの経営に強い興味を示したからである。その後、松下幸之助が日本の歴史を紹介するアトラクションとして、松下電器の提供で[[東京ディズニーランドのアトラクションの一覧#ミート・ザ・ワールド|ミート・ザ・ワールド]]を建設させた話は有名である(後に松下電器はこのアトラクションの提供を終了、2002年(平成14年)に運営終了)。またOLCから打診を受け、参加企業として参加表明をしたのは[[麒麟麦酒|キリンビール]]が第一号である。なお、当時、松下電器もキリンビールも参加表明をしただけであって、スポンサー契約締結第一号は[[明治乳業]]である。
また、スポンサー契約の一環として、[[日本航空]]を「オフィシャルエアライン」、[[ジェーシービー|JCB]]を「オフィシャルカード」としている。
日本航空では、子会社である[[ジャルパック|ジャルツアーズ]]の[[パッケージツアー]]「JALSTAGE」で「JALで行く東京ディズニーリゾート」が独自に設定されており、ツアー利用客専用の[[東京国際空港|羽田空港]]とパーク間の無料送迎バスをはじめ、ショー鑑賞券やディズニーキャラクターが使われている景品などの特典が用意されている。また、JALの[[東京国際空港|羽田空港]]発着路線がある都市にはJALとOLC共同でプロモーション活動を行うこともある。{{main|[[日本航空#ディズニーとの関係]]}}
一方、JCBは目立った特典といえば毎年12月に行われる、カード利用者を対象とした約3万人規模の「JCBマジカル」程度である<ref>{{Cite web|和書|title=JCB、合計30,000名様に当たる「JCB マジカル クリスマス 2023」キャンペーンを開始 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000720.000011361.html |website=PR TIMES |date=2022-12-26 |access-date=2023-05-25 |author=株式会社ジェーシービー}}</ref>。また、[[キャッシュレジスター|レジ]]のそばにJCBのロゴとJCBカードが使える旨が書かれたプレートが貼られているため、パーク内ではJCBカードしか使えないと思っているゲストも少なくない(ただし1990年代までは本当にJCBカードしか使えなかった。<!--JCBは園内で使える唯一のカードという宣伝がなされていた-->園内にある[[三井銀行]]→[[さくら銀行]](当時)のATMによるキャッシングのみ)。現在はJCB以外のクレジットカードも利用することができ、3万円未満の一括払いであればサインレスという点も同じで、利用する面で特にJCBが優遇されているようなことはない。一方で、JCBギフトカードをパーク内で利用することはできない(ボン・ヴォヤージュ、イクスピアリ、[[ディズニーホテル]]では利用できる店舗が存在する)。ちなみに、世界の[[ディズニーパーク]]の中で、JCBがオフィシャルカードになっているのは東京ディズニーリゾートのみで、他のテーマパークではディズニーとスポンサー契約を結んでいる「[[Visa|VISA]]」がオフィシャルカードになっている。また、イクスピアリでは[[オリエントコーポレーション|オリコ]]のブランドで[[提携カード]]を発行しているほか、非接触決済方式には[[MasterCardコンタクトレス]]を採用している。{{main|[[ジェーシービー#東京ディズニーリゾートとの関係]]}}
また、東京ディズニーリゾート内で販売される商品に、参加企業の[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]を付ける事例もある。現在、東京ディズニーリゾートで販売されている菓子などの食品には、製造者名ではなく、OLCが[[製造所固有記号|各製造会社に割り当てたコード]]だけが明記されている。これは、購入客からの全ての問い合わせをOLCが管理するためとされており、一種の[[プライベートブランド]]とも言える。ただし、回収や代金払い戻しなどが生じた場合は製造者名を公表する。しかし、参加企業である「[[ユーハイム]]」が製造した商品には製造者名は明記されてはいないものの、ユーハイムのロゴマークや、ユーハイムが東京ディズニーリゾートの参加企業であることを知らせるメッセージが印刷されている。
OLCはスポンサー関係維持の観点から、一部のスポンサー企業との間で[[株式持ち合い]]を行っている(2022年6月時点で[[キッコーマン]]・日本航空・[[山崎製パン]]の3社)。なお、[[ANAホールディングス]]のようにスポンサーの同業企業との間で株式持ち合いを行っているケースもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://disclosure2dl.edinet-fsa.go.jp/searchdocument/pdf/S100OI12.pdf?sv=2020-08-04&st=2023-05-06T23%3A58%3A44Z&se=2032-06-29T15%3A00%3A00Z&sr=b&sp=rl&sig=9v8tstI0AEwZxeTCWIMK3KSBGVciUTppldZPm9aJOpE%3D |title=第62期有価証券報告書 |access-date=2023-05-25 |publisher=金融庁 |author=株式会社オリエンタルランド |date=2022-06-29 |website=EDINET |pages=57-58}}</ref>。
なお、近年では、この参加企業制度に対して、費用に見合った広告宣伝効果があるのかと疑問視する声があることも事実で、2006年(平成18年)9月には6社が同時に契約更新を打ち切るなど、その影響がすでに見られている。また、この事態に対応するため、OLCは、従来は禁止していた「商品名」を記した看板を設置できるよう、スポンサー契約条件の緩和などを検討している。ちなみに、海外のディズニーパークでも各国の大手企業がスポンサーとしてついている。中には、[[本田技研工業]]のように[[香港ディズニーランド]]などの海外のディズニーパークとだけスポンサー契約を結んでいる企業もある。
== 新規事業展開 ==
<!-- === 事業化が正式発表されたもの === -->
=== 事業化検討中とされているもの ===
==== 海外展開 ====
2008年(平成20年)[[4月16日]]の[[千葉日報]]の記事によると、TDL25周年の記念式典の後に行われた記者会見の中で、OLCの[[加賀見俊夫]]会長が、ディズニーブランドの施設を[[東南アジア]]に建設する計画があることを発表している。場所や規模、建設時期についての明言は避けたが、すでに調査が進められているとのことである。アジア地区にはすでに東京に加えて[[香港]]にも[[ディズニーパーク]]があるが、加賀見会長はそれら施設とのすみわけは十分可能であると述べた。加えて私見として、[[スキー]]や[[水泳|スイミング]]などの参加型施設の展開も視野に入れていることを明かした。ただし、下記の新規事業計画の断念に、この計画も含まれる可能性はある。
=== 過去に事業化が検討されたもの ===
==== ディズニーブランドによる屋内型アミューズメント施設 ====
OLCは2007年(平成19年)5月に「中期経営計画」を発表した。その中で、2011年(平成23年)3月までに[[首都圏 (日本)|首都圏]]以外の大都市中心部において、ディズニーと屋内型エンターテイメント施設を共同開発する目標を掲げていた。
2008年(平成20年)1月1日の[[西日本新聞]]の記事によると、OLCが世界初業態の屋内型娯楽施設を、[[福岡市]]内にも開設する方向で候補地の最終調整に入ったこと、場所は[[福岡地所]]が運営する「[[キャナルシティ博多]]」の東側に一帯約1ヘクタールに建設が予定されている「第二キャナルシティ(仮称)」が最有力で、[[九州新幹線|九州新幹線鹿児島ルート]]が全線開業する2011年をめどに開設する意向と報じられた<ref>{{Cite news |url=https://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/display/5392/ |title=ディズニー 福岡進出へ 運営会社最終調整 初の屋内型施設 第2キャナル最有力 |newspaper=西日本新聞 |publisher=西日本新聞社 |date=2008-01-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080107112519/http://www.nishinippon.co.jp/news/wordbox/display/5392/ |archivedate=2008-01-07}}</ref>。新施設の内容はディズニーとも協議中で未定だが、既存のテーマパーク型ではなく、建物内部でディズニーキャラクターを使ったショーや飲食、物販の提供を中心に据える方針とのことであった。絶叫型のコースターは設置しない方向という。オリエンタルランドの投資額は200億から300億円の見通し。入場者は年間数百万人を想定している。ただし、大阪への進出計画と同様に、OLCは「具体的なことは何も決まっていない」と発表していた。
[[2008年]](平成20年)[[10月7日]]、OLCは規模に見合った収益が見込めず、事業性が乏しいことを理由に、ディズニーと屋内型エンターテイメント施設を共同開発する目標を断念し、計画の検討作業を終了することを明らかにした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2008/10/08028218.html|title=屋内型ディズニー施設の事業化を断念 オリエンタルランド|publisher=J-CASTニュース|accessdate= 2020-4-18}}</ref>。
==== 大阪駅前再開発ビル ====
2008年(平成20年)12月5日、OLCは[[日本郵政]]と[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]が共同開発し、2012年開業予定の[[大阪駅|JR大阪駅]]前[[大阪中央郵便局]]改築を核とする[[都市再開発|再開発]][[超高層ビル|超高層]]複合ビル内に建設される劇場をOLCがテナントとして経営・運営することを正式に発表した<ref group="広報">{{PDFlink|[http://www.olc.co.jp/resources/pdf/news/2008/20081205_01.pdf 「大阪駅西地区開発計画に導入される劇場の運営について」]}} - オリエンタルランド ニュースリリース 2008年12月5日</ref>。上演内容は「これから検討する」としており、一部の報道であったディズニーやシルク・ドゥ・ソレイユの公演については「現在のところは無い」と発表している。しかし、再開発ビルの開業時期が遅れる見通しとなったことから、2010年(平成22年)[[5月18日]]に契約を解除した<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFL1807O_Y0A510C1000000/ |title=オリエンタルランド、大阪の劇場運営白紙に |newspaper=日本経済新聞 電子版 |publisher=日本経済新聞社 |date=2010-05-18 |accessdate=2016-06-19}}</ref>。
== 関連企業 ==
2021年1月1日現在<ref group="広報">{{Cite web|和書|title=グループ会社一覧 {{!}} オリエンタルランドについて {{!}} 株式会社オリエンタルランド|url=http://www.olc.co.jp/ja/company/groupcompany.html|website=www.olc.co.jp|accessdate=2021-06-04}}</ref>
=== 連結対象子会社 ===
* [[ミリアルリゾートホテルズ]]
*[[舞浜リゾートライン]]
*[[イクスピアリ (企業)|イクスピアリ]]
*[[舞浜コーポレーション]]
* [[グリーンアンドアーツ]]
* [[フォトワークス]]
* [[デザインファクトリー (千葉県)|デザインファクトリー]]
* [[ベイフードサービス]]
*[[リゾートクリーニングサービス|リゾートコスチューミングサービス]]
*[[MBM (ビルメンテナンス会社)|MBM]](旧・舞浜ビルメンテナンス)
* [[Mテック]]
*オリエンタルランド・イノベーションズ
*[[ブライトンホテルズ|ブライトンコーポレーション]]
=== 持分法適用会社 ===
* 下記3社は[[京成電鉄]]の連結子会社であり、いずれも「K'SEI GROUP」ロゴを使用している。
** [[東京ベイシティ交通]]
** [[京成トランジットバス]]
** [[舞浜リゾートキャブ]]
=== 過去の関連企業 ===
==== 解散・合併・清算 ====
* [[Eプロダクション]]
* [[OLC・ライツ・エンタテインメント]]
*[[オーエルシー・キッチンテクノ]]
==== OLCグループを離脱 ====
* [[スマイルズ]]
* [[アールシー・ジャパン]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==== 広報資料・プレスリリースなど一次資料 ====
{{Reflist|group="広報"|2}}
== 関連項目 ==
<!--関連する項目、及び主要取引会社など-->
* [[東京ディズニーリゾート]]
** [[東京ディズニーランド]]
** [[東京ディズニーシー]]
* [[舞浜コーポレーション]]
* [[ミリアルリゾートホテルズ]]
** [[ディズニーアンバサダーホテル]]
** [[東京ディズニーシー・ホテルミラコスタ]]
** [[パーム&ファウンテンテラスホテル]]
** [[東京ディズニーランドホテル]]
* [[舞浜リゾートライン]]
** [[舞浜リゾートラインディズニーリゾートライン]]
* [[イクスピアリ (企業)|イクスピアリ(企業)]]
** [[イクスピアリ]]
** [[ピッタゼロゼロ]]
** [[アルキメデス・スパイラル]]
** [[5th Alley Studio]]
* [[グリーンアンドアーツ]]
* [[フォトワークス]]
* [[デザインファクトリー (千葉県)|デザインファクトリー]]
* [[ベイフードサービス]]
** [[ローソン]]
** [[デイリーヤマザキ]]
* [[舞浜ビジネスサービス]]
* [[リゾートクリーニングサービス]]
* [[MBM (ビルメンテナンス会社)]]
* [[オーエルシー・キッチンテクノ]]
* [[リテイルネットワークス]]
** [[ディズニーストア]]
* [[Eプロダクション]]
* [[OLC・ライツ・エンタテインメント]]
** [[キャンプ・ネポス]]
** [[ネポス・ナポス]]
* [[Mテック]]
* [[アールシー・ジャパン]]
* [[東宝映像美術]]
* [[東京ベイシティ交通]]
* [[舞浜リゾートキャブ]]
* [[京成トランジットバス]]
* [[ファースト・ファシリティーズ]]
* [[市川環境エンジニアリング]]
* [[誠和企画]]
* [[なのはなユニオン]]
* [[オリエンタルランド・ユニオン]]
* [[ミッキーマウス・クラブ]] - 京成グループが一社提供だった時期があった。
== 外部リンク ==
{{ウィキプロジェクトリンク|東京ディズニーリゾート}}
{{Portal ディズニー}}
* [https://www.olc.co.jp/ オリエンタルランド]
* {{Twitter|OLCGROUP}}
* {{Facebook|olcgroup.jp}}
** [[東京ディズニーリゾート]]に関連する事業
*** [https://www.tokyodisneyresort.jp/ 【公式】東京ディズニーリゾート・オフィシャルウェブサイト]
** 東京ディズニーリゾート以外でディズニーに関連する事業
*** [https://www.disney.co.jp/eventlive.html イベント・ライブ|ディズニー公式]
{{東京ディズニーリゾート}}
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[[Category:オリエンタルランドグループ|*]]
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4,063 | テーマパーク | テーマパーク(英語: theme park)は、日本では、特定のテーマ(特定の国の文化や、物語、映画、時代)をベースに全体が演出された観光施設を指す。娯楽やレジャー、知的好奇心を触発する各種趣向などを盛り込み、遊園地、動物園、水族館、博物館、ホテル、商業施設などを併設することもある。なお、日本以外の国においてはテーマパークと遊園地は区別されていないことが多い。
従来の行楽地は、その地域の観光名所にちなんだ内容に重点をおく場合もあったものの、多くにおいて定型の遊具や施設を設置するなどして、専ら行楽客がそれらで遊ぶという形態がとられており、そこには一貫性が無かった。テーマパークはそういった従来の「一貫性の無い行楽施設」との差別化を図るため、明確なテーマを掲げて遊具や施設、個々のみやげ物に至るまで、一貫性を持たせた行楽施設群である。その多くは複数の建物からなるなど、施設的にも大規模なものとなる傾向があるが、屋内型施設などに「ミニテーマパーク」などとして、所定のテーマに沿ったアトラクションを提供する施設も見られる。
テーマパークの性格は多種多様である。総合テーマを決めた遊園地という性格の強いもの(代表例は東京ディズニーランド)から、娯楽という側面を加えながらも社会教育や研究を重視した野外博物館的な性格のもの(代表例は博物館明治村やリトルワールド)や職業体験ができるもの(キッザニア)まで、さまざまなテーマパークがある。
17世紀頃英仏などで市民公園にメリーゴーランドのような遊機具が設置されて遊園地の歴史が始まり、その後1843年に開設されたデンマークのチボリ公園、1950年開設のオランダのEftelingパーク、さらに同じ頃にカリフォルニアの一家族が始めたナッツベリーファームなどが開業した。
そして1955年、ウォルト・ディズニーが白雪姫などアニメ制作で培った演出技法を駆使し、初代ディズニーランドを開業させた。これが本格的なテーマパークの始まりとされている。
奈良県奈良市にあった奈良ドリームランド(1961年開園)、愛知県犬山市にある博物館明治村(1965年開園)や京都市の東映太秦映画村(1975年開園)、高松市の四国村(1976年開園)が、日本のテーマパークの草分けとも言えるが、日本においてこの言葉が一般化し、ビジネスモデルとして知られるようになったのは、1983年千葉県浦安市に開業した東京ディズニーランド (TDL) で用いられるようになってからである。
バブル景気の頃から1990年代中頃にかけて、通称リゾート法といわれる総合保養地域整備法(1987年制定)にも後押しされて、全国各地に観光の目玉とするためテーマパークと銘打った様々な施設が計画、建設されたが、十分なリピーターを獲得するだけの魅力に乏しい施設も多く、開業後・開業時に平成不況になった影響もあって来場者が不足し、各地で民事再生法や会社更生法などの適用が相次ぐこととなった。テーマパークの成功のためには、コンテンツの魅力と充実が求められる。特に、アメリカで一般的である余暇ハシゴ図式(=Travel-career needs(1992):Tourism:P261)などによる具体的検証が求められる。余暇ハシゴ図式は、アメリカで用いられるテーマパークのリピーター確保の基礎理論であり、こうした研究が充分されていないことは、観光系大学の課題でもある。第三セクター方式のテーマパークでは、全体の事業計画が定まらず、個々の関連施設は一定の事業利益を挙げるも全体の運営が立ち行かなくなったものも散見される。このような背景として、テーマパークの運営に関する基礎理論が学ばれておらず、適切に状況の分析や計画がなされずに損害が拡大したことも指摘される。
長崎の歴史とオランダの紹介という独自のテーマを掲げてテーマパークの先駆け的存在であった長崎オランダ村の閉鎖と再開の失敗による倒産は象徴的なものであるが、新潟ロシア村、柏崎トルコ文化村、富士ガリバー王国の3テーマパークの設立に参画し融資を行って破綻した新潟中央銀行や、第三セクター方式により設立した石炭の歴史村や夕張リゾートの開発や運営の失敗を伴って財政再建団体となった北海道夕張市などテーマパーク事業関係者には痛手を受けたものは少なくない。
日本においては、千葉県浦安市にある東の代表東京ディズニーリゾート(TDR)と大阪市此花区にある西の代表ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)はテーマパーク業界で東西でそれぞれ一人勝ちの様相を呈している。
テーマパークは複合行楽施設としての側面が強く、例えば東京ディズニーリゾートの東京ディズニーランド、東京ディズニーシーではアトラクションを含む遊具施設だけでなく、飲食店、みやげ物などの販売店も行楽施設内にあるほか、周辺地域にも宿泊施設、ショッピングモール、劇場施設があり、各施設間の移動手段の整備といった総合的なサービスを提供している。こういった統合型のサービスを提供するにはそれだけで大規模な土地が必要となり、大都市圏ではそれだけの土地を新規に確保するのは難しい。また一方このような大規模で総合的なテーマパークを運営していくためには膨大な数の行楽客を受け入れねばならず、初期投資も巨額に上るが、地方ではそれだけの土地を開発する負担に対応できるだけの財力が無い場合も少なくない。
こういった大型行楽施設とは別の方向性として、都市部の大型商業施設の1フロアやその一部を占有する形で、屋内型の「ミニテーマパーク」と呼ばれる施設も首都圏・大都市圏で2000年代より増加傾向が見られる。これら都市部のミニテーマパークは公共交通機関などによる交通の便が良く、また商業施設の利用者がついでに立ち寄る事もできるようアトラクション数や所要時間は少ない・短いなどの配慮が見られ、また屋内施設であることから全天候型施設としても人気を集める。
ミニテーマパークと呼ばれるものの中にはフードテーマパーク、レトロテーマパークなどといったスタイルも多いが、「働く事を体験する」という職業体験型テーマパークキッザニアや、自動車のショールーム内にアトラクションを設けたMEGAWEBのように、既存行楽施設から完全にかけ離れた様式も登場している。施設規模も小さいことからテナントとしても扱い易く、大型商業施設新設の際に導入されて集客が図られたり、また既存施設でもシーズンごとにアトラクション内容を入れ替え、リピーター獲得が行われたりしている。
遊園地・テーマパークの評論家である佐々木隆は、テーマパークを以下の8種類に分類している。
綜合ユニコム「全国の主要レジャー・集客施設 入場者数ランキング 2017」より
レジャー産業を調査している米TEA社が2019年5月22日に発表した、2018年の世界のテーマパークの集客数を記載する。
米国誌フォーブスが選んだ「世界10大テーマパーク」(2006年6月1日) | [
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"text": "テーマパーク(英語: theme park)は、日本では、特定のテーマ(特定の国の文化や、物語、映画、時代)をベースに全体が演出された観光施設を指す。娯楽やレジャー、知的好奇心を触発する各種趣向などを盛り込み、遊園地、動物園、水族館、博物館、ホテル、商業施設などを併設することもある。なお、日本以外の国においてはテーマパークと遊園地は区別されていないことが多い。",
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"text": "従来の行楽地は、その地域の観光名所にちなんだ内容に重点をおく場合もあったものの、多くにおいて定型の遊具や施設を設置するなどして、専ら行楽客がそれらで遊ぶという形態がとられており、そこには一貫性が無かった。テーマパークはそういった従来の「一貫性の無い行楽施設」との差別化を図るため、明確なテーマを掲げて遊具や施設、個々のみやげ物に至るまで、一貫性を持たせた行楽施設群である。その多くは複数の建物からなるなど、施設的にも大規模なものとなる傾向があるが、屋内型施設などに「ミニテーマパーク」などとして、所定のテーマに沿ったアトラクションを提供する施設も見られる。",
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"text": "テーマパークの性格は多種多様である。総合テーマを決めた遊園地という性格の強いもの(代表例は東京ディズニーランド)から、娯楽という側面を加えながらも社会教育や研究を重視した野外博物館的な性格のもの(代表例は博物館明治村やリトルワールド)や職業体験ができるもの(キッザニア)まで、さまざまなテーマパークがある。",
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"text": "17世紀頃英仏などで市民公園にメリーゴーランドのような遊機具が設置されて遊園地の歴史が始まり、その後1843年に開設されたデンマークのチボリ公園、1950年開設のオランダのEftelingパーク、さらに同じ頃にカリフォルニアの一家族が始めたナッツベリーファームなどが開業した。",
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"text": "そして1955年、ウォルト・ディズニーが白雪姫などアニメ制作で培った演出技法を駆使し、初代ディズニーランドを開業させた。これが本格的なテーマパークの始まりとされている。",
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"text": "奈良県奈良市にあった奈良ドリームランド(1961年開園)、愛知県犬山市にある博物館明治村(1965年開園)や京都市の東映太秦映画村(1975年開園)、高松市の四国村(1976年開園)が、日本のテーマパークの草分けとも言えるが、日本においてこの言葉が一般化し、ビジネスモデルとして知られるようになったのは、1983年千葉県浦安市に開業した東京ディズニーランド (TDL) で用いられるようになってからである。",
"title": "日本のテーマパーク"
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"text": "バブル景気の頃から1990年代中頃にかけて、通称リゾート法といわれる総合保養地域整備法(1987年制定)にも後押しされて、全国各地に観光の目玉とするためテーマパークと銘打った様々な施設が計画、建設されたが、十分なリピーターを獲得するだけの魅力に乏しい施設も多く、開業後・開業時に平成不況になった影響もあって来場者が不足し、各地で民事再生法や会社更生法などの適用が相次ぐこととなった。テーマパークの成功のためには、コンテンツの魅力と充実が求められる。特に、アメリカで一般的である余暇ハシゴ図式(=Travel-career needs(1992):Tourism:P261)などによる具体的検証が求められる。余暇ハシゴ図式は、アメリカで用いられるテーマパークのリピーター確保の基礎理論であり、こうした研究が充分されていないことは、観光系大学の課題でもある。第三セクター方式のテーマパークでは、全体の事業計画が定まらず、個々の関連施設は一定の事業利益を挙げるも全体の運営が立ち行かなくなったものも散見される。このような背景として、テーマパークの運営に関する基礎理論が学ばれておらず、適切に状況の分析や計画がなされずに損害が拡大したことも指摘される。",
"title": "日本のテーマパーク"
},
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"text": "長崎の歴史とオランダの紹介という独自のテーマを掲げてテーマパークの先駆け的存在であった長崎オランダ村の閉鎖と再開の失敗による倒産は象徴的なものであるが、新潟ロシア村、柏崎トルコ文化村、富士ガリバー王国の3テーマパークの設立に参画し融資を行って破綻した新潟中央銀行や、第三セクター方式により設立した石炭の歴史村や夕張リゾートの開発や運営の失敗を伴って財政再建団体となった北海道夕張市などテーマパーク事業関係者には痛手を受けたものは少なくない。",
"title": "日本のテーマパーク"
},
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"text": "日本においては、千葉県浦安市にある東の代表東京ディズニーリゾート(TDR)と大阪市此花区にある西の代表ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)はテーマパーク業界で東西でそれぞれ一人勝ちの様相を呈している。",
"title": "日本のテーマパーク"
},
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"text": "テーマパークは複合行楽施設としての側面が強く、例えば東京ディズニーリゾートの東京ディズニーランド、東京ディズニーシーではアトラクションを含む遊具施設だけでなく、飲食店、みやげ物などの販売店も行楽施設内にあるほか、周辺地域にも宿泊施設、ショッピングモール、劇場施設があり、各施設間の移動手段の整備といった総合的なサービスを提供している。こういった統合型のサービスを提供するにはそれだけで大規模な土地が必要となり、大都市圏ではそれだけの土地を新規に確保するのは難しい。また一方このような大規模で総合的なテーマパークを運営していくためには膨大な数の行楽客を受け入れねばならず、初期投資も巨額に上るが、地方ではそれだけの土地を開発する負担に対応できるだけの財力が無い場合も少なくない。",
"title": "日本のテーマパーク"
},
{
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"text": "こういった大型行楽施設とは別の方向性として、都市部の大型商業施設の1フロアやその一部を占有する形で、屋内型の「ミニテーマパーク」と呼ばれる施設も首都圏・大都市圏で2000年代より増加傾向が見られる。これら都市部のミニテーマパークは公共交通機関などによる交通の便が良く、また商業施設の利用者がついでに立ち寄る事もできるようアトラクション数や所要時間は少ない・短いなどの配慮が見られ、また屋内施設であることから全天候型施設としても人気を集める。",
"title": "日本のテーマパーク"
},
{
"paragraph_id": 11,
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"text": "ミニテーマパークと呼ばれるものの中にはフードテーマパーク、レトロテーマパークなどといったスタイルも多いが、「働く事を体験する」という職業体験型テーマパークキッザニアや、自動車のショールーム内にアトラクションを設けたMEGAWEBのように、既存行楽施設から完全にかけ離れた様式も登場している。施設規模も小さいことからテナントとしても扱い易く、大型商業施設新設の際に導入されて集客が図られたり、また既存施設でもシーズンごとにアトラクション内容を入れ替え、リピーター獲得が行われたりしている。",
"title": "日本のテーマパーク"
},
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"text": "遊園地・テーマパークの評論家である佐々木隆は、テーマパークを以下の8種類に分類している。",
"title": "テーマパークの分類"
},
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"text": "綜合ユニコム「全国の主要レジャー・集客施設 入場者数ランキング 2017」より",
"title": "テーマパーク集客人員"
},
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"text": "レジャー産業を調査している米TEA社が2019年5月22日に発表した、2018年の世界のテーマパークの集客数を記載する。",
"title": "テーマパーク集客人員"
},
{
"paragraph_id": 15,
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"text": "米国誌フォーブスが選んだ「世界10大テーマパーク」(2006年6月1日)",
"title": "テーマパーク集客人員"
}
] | テーマパークは、日本では、特定のテーマ(特定の国の文化や、物語、映画、時代)をベースに全体が演出された観光施設を指す。娯楽やレジャー、知的好奇心を触発する各種趣向などを盛り込み、遊園地、動物園、水族館、博物館、ホテル、商業施設などを併設することもある。なお、日本以外の国においてはテーマパークと遊園地は区別されていないことが多い。 | {{Otheruses2|日本でいうところのテーマパーク|その他のテーマパークなど|テーマパーク (ゲーム)|フードテーマパーク|レトロテーマパーク|遊園地|博物館}}
{{出典の明記|date=2019年8月}}
{{ウィキプロジェクトリンク|テーマパーク}}
[[File:USJ 2018.09-24.jpg|thumb|[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]|200px]]
'''テーマパーク'''({{Lang-en|theme park}})は、[[日本]]では、特定のテーマ(特定の国の文化や、物語、映画、時代)をベースに全体が演出された[[観光]][[施設]]を指す。娯楽やレジャー、知的好奇心を触発する各種趣向などを盛り込み、[[遊園地]]<ref>{{Cite web|title=Best Amusement Parks In Japan|url=https://arrestedworld.com/amusement-parks-in-japan/|website=arrestedworld.com|accessdate=2021-01-15|language=en-US|publisher=}}</ref>、[[動物園の一覧|動物園]]、[[水族館の一覧|水族館]]、[[博物館]]<ref>{{Cite web|title=Best Museums In Japan|url=https://arrestedworld.com/technology-museums-in-tokyo/|website=arrestedworld.com|date=2019-02-27IST19:09:43+05:30|accessdate=2021-01-15|language=en-US|publisher=}}</ref>、[[ホテル]]、[[店#概要|商業施設]]などを併設することもある。なお、日本以外の国においてはテーマパークと遊園地は区別されていないことが多い。
== 概説 ==
[[File:Enchanted Storybook Castle of Shanghai Disneyland.jpg|275px|right|thumb|[[上海ディズニーランド]]]]
従来の[[行楽地]]は、その地域の[[観光名所]]<ref>{{Cite web|title=49 Best Places In Japan To Visit {{!}} ArrestedWorld|url=https://arrestedworld.com/places-in-japan/|website=arrestedworld.com|date=2020-08-03IST22:30:00+05:30|accessdate=2021-01-15|language=en-US}}</ref>にちなんだ内容に重点をおく場合もあったものの、多くにおいて定型の[[遊具]]や施設を設置するなどして、専ら行楽客がそれらで遊ぶという形態がとられており、そこには一貫性が無かった。テーマパークはそういった従来の「一貫性の無い行楽施設」との[[差別化]]を図るため、明確なテーマを掲げて遊具や施設、個々のみやげ物に至るまで、一貫性を持たせた行楽施設群である。その多くは複数の建物からなるなど、施設的にも大規模なものとなる傾向があるが、屋内型施設などに「ミニテーマパーク」などとして、所定のテーマに沿ったアトラクションを提供する施設も見られる。
テーマパークの性格は多種多様である。総合テーマを決めた[[遊園地]]という性格の強いもの(代表例は東京ディズニーランド)から、娯楽という側面を加えながらも社会教育や研究を重視した[[野外博物館]]的な性格のもの(代表例は[[博物館明治村]]や[[リトルワールド]])や[[職業体験]]ができるもの([[キッザニア]])まで、さまざまなテーマパークがある。
[[17世紀]]頃英仏などで市民公園に[[メリーゴーランド]]のような遊機具が設置されて[[遊園地]]の歴史が始まり、その後[[1843年]]に開設された[[デンマーク]]の[[チボリ公園]]、[[1950年]]開設の[[オランダ]]のEftelingパーク、さらに同じ頃に[[カリフォルニア州|カリフォルニア]]の一家族が始めた[[ナッツベリーファーム]]などが開業した。
そして[[1955年]]、[[ウォルト・ディズニー]]が[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]など[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]制作で培った演出技法を駆使し、初代[[ディズニーランド]]を開業させた。これが本格的なテーマパークの始まりとされている。
== 日本のテーマパーク ==
=== 起源 ===
[[奈良県]][[奈良市]]にあった[[奈良ドリームランド]]([[1961年]]開園)、[[愛知県]][[犬山市]]にある[[博物館明治村]]([[1965年]]開園)や[[京都市]]の[[東映太秦映画村]]([[1975年]]開園)、[[高松市]]の[[四国村]]([[1976年]]開園)が、日本のテーマパークの草分けとも言えるが、日本においてこの言葉が一般化し、ビジネスモデルとして知られるようになったのは、[[1983年]][[千葉県]][[浦安市]]に開業した[[東京ディズニーランド]] (TDL) で用いられるようになってからである{{Efn|東京ディズニーランドでは娯楽施設のある区画<!--駐車場などを除く-->をテーマパークと称していた。書籍のタイトルに見られるものでは、[[根本祐二]]『テーマ・パーク時代の到来 魅力ある地域創造のニュービジネス』(ダイヤモンド社、1990年)が早い時期のものである。}}。
=== 日本での流行と失墜 ===
[[バブル景気]]の頃から1990年代中頃にかけて、通称[[リゾート]]法といわれる[[総合保養地域整備法]]([[1987年]]制定)にも後押しされて、全国各地に観光の目玉とするためテーマパークと銘打った様々な施設が計画、建設されたが、十分な[[リピーター]]を獲得するだけの魅力に乏しい施設も多く、開業後・開業時に[[平成不況]]になった影響もあって来場者が不足し、各地で[[民事再生法]]や[[会社更生法]]などの適用が相次ぐこととなった。テーマパークの成功のためには、コンテンツの魅力と充実が求められる。特に、アメリカで一般的である余暇ハシゴ図式(=Travel-career needs(1992):Tourism:P261)などによる具体的検証が求められる。余暇ハシゴ図式は、アメリカで用いられるテーマパークのリピーター確保の基礎理論であり、こうした研究が充分されていないことは、観光系大学の課題でもある。[[第三セクター]]方式のテーマパークでは、全体の事業計画が定まらず、個々の関連施設は一定の事業利益を挙げるも全体の運営が立ち行かなくなったものも散見される。このような背景として、テーマパークの運営に関する基礎理論が学ばれておらず、適切に状況の分析や計画がなされずに損害が拡大したことも指摘される。
長崎の歴史とオランダの紹介という独自のテーマを掲げてテーマパークの先駆け的存在であった[[長崎オランダ村]]の閉鎖と再開の失敗による倒産は象徴的なものであるが、[[新潟ロシア村]]、[[柏崎トルコ文化村]]、[[富士ガリバー王国]]の3テーマパークの設立に参画し融資を行って破綻した[[新潟中央銀行]]や、第三セクター方式により設立した[[石炭の歴史村]]や[[夕張リゾート]]の開発や運営の失敗を伴って[[財政再建団体]]となった[[北海道]][[夕張市]]などテーマパーク事業関係者には痛手を受けたものは少なくない。
日本では、[[千葉県]][[浦安市]]にある[[東京ディズニーリゾート]](TDR)と[[大阪市]][[此花区]]にある[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]](USJ)が、テーマパーク業界において東西でそれぞれ一人勝ちの様相を呈している。
<!--
その[[東京ディズニーリゾート]]も2004年度、2005年度は来場者数が2年連続前年度比で減少、2006年度は前年度比で来場者数が増加したものの、今後の状況を楽観視はできなくなっている。とりわけ[[世界金融危機 (2007年-) |世界金融危機]]を発端とする不景気の影響で地方のテーマパークの営業環境は一段と厳しくなっている。
テーマパークをあらためて定義づけるとすれば、従来のように(わが国では現在も)、[[機械]]、[[花]]、[[プール]]、小さな[[動物園]]などを適当にレイアウトしただけの遊園地では不可能な、非日常的な情感や感動を呼び起こして滞在時間と消費額を伸ばし、なによりリピートや口コミを喚起する思い出を持ち帰ってもらうために、全体または各エリアの環境、[[アトラクション (遊園地)|アトラクション]]、機械周辺、飲食物販施設またメニューや商品にいたるまで、演出ツールとして特定のテーマ(単一、複数、抽象、具象など)や雰囲気を設定した遊園地の進化形、とすることができよう。したがって、歴史文化自然などの在来の集客資源を備えた観光施設や屋内外博物館、あるいは[[ラーメン]]や[[ケーキ]]など単一業種だけを集積したうえある種の情緒を呼び起こす演出を施した商業施設、さらに体験ゲームの興味を強めるために仕掛けが張り巡ぐされた「都市型テーマパーク」等々までテーマパークの範疇とするのは、遊園地の進化形としての本来のテーマパークがわが国でも実現し進化していくという期待に照らして歓迎すべきこととは言えない。
-->
=== ミニテーマパーク ===
テーマパークは複合行楽施設としての側面が強く、例えば[[東京ディズニーリゾート]]の[[東京ディズニーランド]]、[[東京ディズニーシー]]ではアトラクションを含む遊具施設だけでなく、飲食店、みやげ物などの販売店も行楽施設内にあるほか、周辺地域にも[[宿泊施設]]、ショッピングモール、劇場施設があり、各施設間の移動手段の整備といった総合的なサービスを提供している。こういった統合型のサービスを提供するにはそれだけで大規模な土地が必要となり、大都市圏ではそれだけの土地を新規に確保するのは難しい。また一方このような大規模で総合的なテーマパークを運営していくためには膨大な数の行楽客を受け入れねばならず、初期投資も巨額に上るが、地方ではそれだけの土地を開発する負担に対応できるだけの財力が無い場合も少なくない。
こういった大型行楽施設とは別の方向性として、都市部の大型商業施設の1フロアやその一部を占有する形で、屋内型の「ミニテーマパーク」と呼ばれる施設も首都圏・大都市圏で2000年代より増加傾向が見られる。これら都市部のミニテーマパークは[[公共交通機関]]などによる交通の便が良く、また商業施設の利用者がついでに立ち寄る事もできるようアトラクション数や所要時間は少ない・短いなどの配慮が見られ、また屋内施設であることから全天候型施設としても人気を集める。
ミニテーマパークと呼ばれるものの中には[[フードテーマパーク]]、[[レトロテーマパーク]]などといったスタイルも多いが、「働く事を体験する」という職業体験型テーマパーク[[キッザニア]]や、自動車のショールーム内にアトラクションを設けた[[MEGAWEB]]のように、既存行楽施設から完全にかけ離れた様式も登場している。施設規模も小さいことからテナントとしても扱い易く、大型商業施設新設の際に導入されて集客が図られたり、また既存施設でもシーズンごとにアトラクション内容を入れ替え、リピーター獲得が行われたりしている。
== テーマパークの分類 ==
遊園地・テーマパークの評論家である佐々木隆は、テーマパークを以下の8種類に分類している<ref>{{Cite web|和書|author=佐々木隆|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/7010/|title=テーマ別おすすめテーマパーク|website=All About|date=2012-09-03|accessdate=2022-11-13}}</ref>。
# キャラクターテーマパーク
# キッズテーマパーク
# [[フードテーマパーク]]
# 温泉テーマパーク
# 時代再現テーマパーク
# 映画・ドラマのテーマパーク
# 街の再現テーマパーク
# その他のテーマパーク
== 日本の主なテーマパーク一覧 ==
=== 北海道・東北 ===
<!--50音順に追記してください-->
* [[白い恋人パーク]](北海道[[札幌市]]) - 白い恋人
* [[スパリゾートハワイアンズ]](福島県いわき市) - ハワイ
* [[登別伊達時代村]]([[北海道]][[登別市]])- 江戸時代、戦国時代、忍者、日本文化
=== 関東 ===
<!--50音順に追記してください-->
* [[あしかがフラワーパーク]]([[栃木県]][[足利市]]) - 花
* [[いばらきフラワーパーク]](茨城県石岡市) - 花
* [[ふなばしアンデルセン公園]](千葉県船橋市) - ヨーロッパ
* [[サンリオピューロランド]](東京都[[多摩市]]) - [[サンリオキャラクター]]
* [[スモールワールズ]](東京都[[江東区]]) - ミニチュア
* [[西武園ゆうえんち]](埼玉県所沢市) - レトロカルチャー
* [[キッザニア東京]](東京都江東区) - 子どもの職業体験
* [[グリムの森]](栃木県[[下野市]])- [[グリム童話]]
* [[東京ジョイポリス]](東京都港区) - セガ
* [[東京ディズニーランド]] ([[千葉県]][[浦安市]]) - [[ウォルト・ディズニー|ディズニー]]
* [[東京ディズニーシー]](千葉県浦安市) - ディズニー
* [[東京ドイツ村]] (千葉県[[袖ケ浦市]]) - [[ドイツ]]
* [[東京ドームシティアトラクションズ]](東京都文京区)
* [[東武ワールドスクウェア]](栃木県日光市) - ミニチュア
* [[ナムコ・ナンジャタウン]](東京都豊島区) - レトロ&フード、アニメ
* [[日光江戸村]](栃木県[[日光市]])- 江戸時代、戦国時代、忍者、日本文化
* [[メッツァ (テーマパーク)|メッツァ]](埼玉県[[飯能市]]) - [[ムーミン]]と[[北ヨーロッパ|北欧]]の景観
* [[大理石村ロックハート城]](群馬県吾妻郡高山村) - 石と西洋の城
* [[横浜・八景島シーパラダイス]](神奈川県横浜市) - 海
=== 中部 ===
* [[忍野 しのびの里]](山梨県南都留郡)- 忍者、戦国時代、日本文化
* [[掛川花鳥園]](静岡県掛川市)
* [[富士急ハイランド]](山梨県吉田市)- パーク全体にはテーマ性は無いが園内「リサとガスパールタウン」「トーマスランド」「NARUTO×BORUTO 富士 木ノ葉隠れの里」がテーマエリア
* [[ラグナシア]](愛知県[[蒲郡市]]) - 海
* [[博物館明治村]](愛知県[[犬山市]])
* [[リトルワールド]](愛知県犬山市)
* [[レゴランド・ジャパン]](愛知県[[名古屋市]][[港区 (名古屋市)|港区]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20220329-ZQZMVEP4RFKPRGPZXHLPWU34XY/|title=レゴブロックで点字知って 名古屋のテーマパークで|publisher=産経ニュース|date=2022-03-29|accessdate=2022-03-29}}</ref> - [[レゴブロック]]
* [[ジブリパーク]](愛知県長久手市) - スタジオジブリ
* [[ともいきの国 伊勢忍者キングダム|伊勢時代村]](三重県伊勢市)- 戦国時代、忍者、日本文化、安土桃山時代
=== 北陸 ===
* [[日本元気劇場]]([[石川県]][[加賀市]])- 日本文化
=== 近畿 ===
<!--50音順に追記してください-->
* [[アドベンチャーワールド]] ([[和歌山県]][[西牟婁郡]][[白浜町]]) - 動物
* [[ジオラマ・京都・JAPAN]]([[京都府]][[京都市]][[右京区]])- [[鉄道模型]]
* [[志摩スペイン村]]([[三重県]][[志摩市]])- [[スペイン]]
* [[キッザニア甲子園]]([[兵庫県]][[西宮市]]) - 子どもの職業体験
* [[太陽公園]](兵庫県[[姫路市]])
* [[東映太秦映画村]]([[京都府]][[京都市]][[右京区]])- [[日本史]]・[[時代劇]]撮影所など
* [[ナガシマスパーランド]](三重県[[桑名市]])
* [[ポルトヨーロッパ]](和歌山県[[和歌山市]]) - ヨーロッパの港町
* [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]](USJ、[[大阪府]][[大阪市]][[此花区]]) - [[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド映画]]撮影所など
* [[ひらかたパーク]](大阪府[[枚方市]])
=== 中国・四国 ===
* NEWレオマワールド(香川県丸亀市)
=== 九州・沖縄 ===
<!--50音順に追記してください-->
* 有田ポーセリンパーク([[佐賀県]][[西松浦郡]][[有田町]])<ref>[https://www.arita-touki.com/ 有田ポーセリンパーク]</ref>
* [[南都 (沖縄県の企業)|おきなわワールド]] 文化王国・玉泉洞([[沖縄県]][[南城市]]) - 沖縄の[[自然]]・歴史文化など
* [[ハーモニーランド]] ([[大分県]][[速見郡]][[日出町]])- サンリオキャラクター
* [[ハウステンボス]] (長崎県[[佐世保市]]) - [[オランダ]]を含む[[ヨーロッパ]]
* 琉球村(沖縄県恩納村) - 琉球文化
* [[肥前夢街道]]([[佐賀県]][[嬉野市]])
* [[メルヘン村]](佐賀県[[武雄市]])
=== かつて存在したテーマパーク ===
<!--50音順に追記してください-->
* [[赤城高原牧場クローネンベルク]](群馬県前橋市)
* [[アクアリゾート ルネスかなざわ]](石川県金沢市)
* [[アジアパーク]](熊本県荒尾市)
* [[天城いのしし村]](静岡県伊豆市)
* [[アメージングスクエア]](東京都足立区)
* [[阿波大正浪漫 バルトの庭]]([[徳島県]][[鳴門市]]) - 映画「[[バルトの楽園]]」
* [[石鎚芸術村チロルの森]] (愛媛県西条市)
* [[石原プロワールド・西部警察]](北海道小樽市)
* [[市倉ファーム]] (愛媛県西条市)
* [[いぬたま・ねこたま]](東京都世田谷区)
* [[石廊崎ジャングルパーク]](静岡県南伊豆町)
* [[いわき仏の里]](福島県いわき市)
* [[ウェスタン村]](栃木県日光市)
* [[ウルトラマンランド]](熊本県[[荒尾市]])
* [[愛媛わんわん村]](愛媛県重信町)
* [[エルンテ大洲]](愛媛県大洲市)
* [[小樽超魔術館]](北海道小樽市)
* [[観光名所小樽よしもと]](北海道小樽市)
* [[柏崎トルコ文化村]](新潟県柏崎市)
* [[加賀百万石時代村]](石川県加賀市)
* [[神奈川フィッシングパーク]](神奈川県相模原市)
* [[鎌倉シネマワールド]](神奈川県鎌倉市)
* [[北の都芦別]]〔北海道芦別市)
* [[九州わんわん王国]](熊本県荒尾市)
* [[倉敷チボリ公園]](岡山県倉敷市)
* [[グリュック王国]](北海道帯広市)
* [[呉ポートピアランド]](広島県呉市)
* [[香嵐渓ヘビセンター]](愛知県豊田市)
* [[ゴールドパーク串木野]](鹿児島県串木野市)
* [[四国ニュージーランド村]](香川県仲多度郡満濃町)
* [[しましまタウン]]([[神奈川県]][[川崎市]][[高津区]]、[[愛知県]][[名古屋市]][[千種区]]など日本国内7箇所)
* [[J-WORLD TOKYO]](東京都豊島区)- 週刊少年ジャンプ
* [[新宿ジョイポリス]](東京都新宿区)
* [[スペースワールド]] ([[福岡県]][[北九州市]][[八幡東区]])
* [[チチヤスハイパーク]](広島県廿日市市)
* [[天華園]]([[北海道]][[登別市]])
* [[ていれぎの里]](愛媛県西条市)
* [[東京セサミプレイス]](東京都あきる野市)
* [[東京マリン]](東京都足立区)
* [[道頓堀極楽商店街]](大阪府大阪市)
* [[とうほくニュージーランド村]] (岩手県奥州市)
* [[長崎オランダ村]](長崎県西彼町)
* [[名古屋港イタリア村]](愛知県名古屋市)
* [[行川アイランド]](千葉県[[勝浦市]])
* [[ナムコ・ワンダーエッグ]](東京都世田谷区)
* [[新潟ロシア村]](新潟県笹神村)
* [[ネイチャーランド 沼田ドイツ村 ケイニッヒ・クロルト]](群馬県[[沼田市]])
* [[ネイブルランド]](福岡県大牟田市)
* [[広島ニュージーランド村]](広島県安芸高田市)
* [[びわ湖わんわん王国]](滋賀県守山市)
* [[フォルテ西条]](愛媛県西条市)
* [[福岡歴史の町 忍者村]](福岡県福岡市)
* [[富士ガリバー王国]](山梨県上九一色村)
* [[MAZARIA]](東京都豊島区)
* [[むしむしランド]] (北海道新十津川町)
* MEGAWEB(東京都江東区) - トヨタ自動車
* [[山口ニュージーランド村]](山口県美祢市)
* [[横浜ジョイポリス]](神奈川県横浜市)
* [[ワープステーション江戸]](茨城県つくばみらい市)
=== 休園中のテーマパーク ===
<!--50音順に追記してください-->== 世界のテーマパーク一覧 ==
{{main|{{仮リンク|世界の遊園地・テーマパーク一覧|en|List of amusement parks}}}}
=== 北米 ===
* [[ディズニーランド・リゾート]] ([[アメリカ合衆国|米国]]・[[カリフォルニア州|カリフォルニア]])
** [[ディズニーランド]]
** [[ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー]]
* [[ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート]] (米国・[[フロリダ州|フロリダ]])
** [[マジック・キングダム]]
** [[ディズニー・ハリウッド・スタジオ]]
** [[ディズニー・アニマル・キングダム]]
** [[エプコット]]
* [[ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド]] (米国・カリフォルニア)
* {{仮リンク|パラマウント カナダズ ワンダーランド|en|Canada's Wonderland}} ([[カナダ]])
* [[ユニバーサル・オーランド・リゾート]] (米国・フロリダ)
** [[ユニバーサル・スタジオ・フロリダ]]
** [[アイランズ・オブ・アドベンチャー]]
* [[レゴランド]] ([[デンマーク]]・ビルン、[[イギリス]]・ウィンザー、米国・カリフォルニア、[[ドイツ]]・[[ギュンツブルク]])
=== 欧州 ===
* [[ディズニーランド・パリ]] ([[フランス]]・[[パリ]])
** [[ディズニーランド・パーク (パリ)|ディズニーランド・パーク]]
** [[ウォルト・ディズニー・スタジオ・パーク]]
* [[シックスフラッグス]]
* {{仮リンク|パラマウント・ロンドン|en|Paramount London}} ([[イギリス]])
* {{仮リンク|ポートアベンチャー|es|PortAventura}} ([[スペイン]])
* [[ヨーロッパ・パーク]] ([[ドイツ]])
* [[プレジャー・ビーチ・ブラックプール]] (イギリス)
* [[チボリ公園|チボリガーデンズ]] ([[デンマーク]]・[[コペンハーゲン]])
* [[アステリックス・パーク]] (フランス・[[パリ]]郊外)
* [[シテ・ド・レスパス]] (フランス・[[トゥールーズ]]郊外)
* [[夢の島 (モスクワ)]] ([[ロシア]]・[[モスクワ]])
=== アジア ===
*[[上海ディズニーリゾート]]
**[[上海ディズニーランド]] ([[中華人民共和国|中国]]・[[上海|上海市]])
* [[香港ディズニーランド・リゾート]]
**[[香港ディズニーランド]] (中国・[[香港|香港特別行政区]])
**[[インスピレーションレーク]]
* [[杭州ハローキティ楽園]](中国・[[浙江省]])
*[[ユニバーサル・北京・リゾート]]
**[[ユニバーサル・スタジオ・北京]](中国・[[北京市]])
* [[ユニバーサル・スタジオ・シンガポール]]
* [[ユニバーサル・スタジオ・ドバイランド]] [[アラブ首長国連邦|UAE]]
* [[IMG ワールド・オブ・アドベンチャー]] [[アラブ首長国連邦|UAE]]
* {{仮リンク|六福村|zh|六福村主題遊樂園}} ([[台湾]]・[[新竹県]])
* {{仮リンク|小人国|zh|小人國主題樂園}} (台湾・[[桃園県]])
* [[ロッテワールド]] ([[大韓民国|韓国]]・[[ソウル特別市|ソウル]]および[[釜山広域市|釜山]])
* [[エバーランド]] (韓国)
* [[レゴランド・コリア・リゾート]] (韓国)
* [[小矮人王国]] (中国)
* [[石景山遊楽園]](中国)
*[[レゴランド・マレーシア]]([[マレーシア]]・[[ジョホール州]])
*[[サンウェイ・ラグーン]]([[マレーシア]]・[[セランゴール州]])
*[[コロンビア・ピクチャーズ・アクアバース]]([[タイ王国|タイ]]・バンサライ。2022年10月開業予定)<ref>{{Cite web|和書|title=ソニー、タイでコロンビア映画のテーマパーク開園へ-1年遅れで |url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-09-15/RI9P2TDWLU6801 |website=Bloomberg.com |access-date=2022-09-24 |date=2022-09-16}}</ref>
=== アフリカ ===
*[[ゴールド・リーフ・シティ]]([[南アフリカ共和国]])
=== オセアニア ===
*[[パロネラ・パーク]]([[オーストラリア]])
== テーマパーク集客人員 ==
=== 日本のテーマパーク集客人員(2016年度) ===
綜合ユニコム「全国の主要レジャー・集客施設 入場者数ランキング 2017」より<ref>http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/7223.html</ref>{{Efn|ERA社やフォーブスと数字の乖離があり、調査方法が異なっていると見られる。※元データには、公園や複合商業施設などテーマパークに分類されないものも含む。}}
<!--# [[サンシャインシティ]] 東京 30,000,000(商業施設などを含む)よくある複合商業施設-->
# 東京ディズニーランド・東京ディズニーシー 千葉県浦安市 30,004,000
<!--# [[ホークスタウン]] 福岡 10,430,000(ホテル、ショッピングモール含む)よくある複合商業施設-->
# ユニバーサル・スタジオ・ジャパン 大阪府大阪市 14,600,000
<!--# 東京ドームシティアトラクションズ(ラクーア含む) 東京 8,000,000よくある遊園地+複合商業施設-->
<!--# [[横浜八景島シーパラダイス]] 5,260,000よくある遊園地+水族館+商業施設-->
# ハウステンボス 長崎 2,894,000
<!--# [[長島温泉]] 三重 3,960,000よくある遊園地+商業施設-->
<!--# [[恩賜上野動物園]] 東京 3,390,000よくある遊園地+動物園+商業施設-->
<!--# [[よこはまコスモワールド]] 横浜 3,100,000よくある遊園地+商業施設-->
<!--# [[国営昭和記念公園]] 東京 2,850,000公園-->
<!--# [[ハーバーシティ蘇我|フェスティバルウォーク蘇我]] 2,850,000よくある複合商業施設-->
=== 世界のテーマパーク集客順位 ===
==== 米TEA社による世界のテーマパークの集客人員 ====
レジャー産業を調査している米TEA社が2019年5月22日に発表した、2018年の世界のテーマパークの集客数を記載する。<ref>{{Cite web|url=http://www.teaconnect.org/images/files/328_669153_190522.pdf|title=GLOBAL ATTRACTIONS ATTENDANCE REPORT|accessdate=2019-09-04|publisher=}}</ref>
:1. [[マジック・キングダム]] [[フロリダ]] [[アメリカ合衆国|米国]] 20,859,000
:2. [[ディズニーランド]] [[アナハイム]] 米国 18,666,000
:3. [[東京ディズニーランド]] [[千葉県]]・[[浦安市]] 日本 17,907,000
:4. [[東京ディズニーシー]] 千葉県・浦安市 日本 14,651,000
:5. [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]] [[大阪府]][[大阪市]]・[[此花区]] 日本 14,300,000
:6. [[ディズニー・アニマル・キングダム]] フロリダ 米国 13,750,000
:7. [[エプコット]] フロリダ 米国 12,444,000
:8. [[上海ディズニーランド]] [[上海]] [[中華人民共和国|中国]] 11,800,000
:9. [[ディズニー・ハリウッド・スタジオ]] フロリダ 米国 11,258,000
:10. [[珠海長隆海洋王国]] [[珠海市]] 中国 10,830,000
:11. [[ユニバーサル・スタジオ・フロリダ]] フロリダ 米国 10,708,000
:12. [[ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー]] アナハイム 米国 9,861,000
:13. [[ディズニーランド・パリ]] [[パリ]] [[フランス]] 9,843,000
:14. [[アイランズ・オブ・アドベンチャー]] フロリダ 米国 9,788,000
:15. [[ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド]] [[カリフォルニア州|カリフォルニア]] 9,147,000
:16. [[香港ディズニーランド]] [[香港]] [[中華人民共和国|中国]] 6,700,000
:17. [[ロッテワールド]] [[ソウル特別市|ソウル]] [[大韓民国|韓国]] 5,960,000
:18. [[ナガシマスパーランド]] [[三重県]][[桑名市]] 5,920,000
:19. [[エバーランド]] [[京畿道]]・[[龍仁市]] 韓国 5,850,000
:20. [[香港海洋公園]] 香港 中国 5,800,000
:21. ヨーロッパ・パーク ルスト [[ドイツ]] 5,720,000
:22. [[エフテリング]] [[北ブラバント州]] [[オランダ]] 5,400,000
:23. [[ウォルト・ディズニー・スタジオ・パーク]] パリ フランス 5,298,000
:24. [[チボリ公園|チボリガーデンズ]] [[コペンハーゲン]] [[デンマーク]] 4,850,000
:25. 長隆歓楽世界 [[広州市]] 中国 4,680,000
==== フォーブスが選んだ世界10大テーマパーク ====
米国誌[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]が選んだ「世界10大テーマパーク」(2006年6月1日)<ref>http://biz.163.com/06/0615/06/2JL07P8500020QFC.html{{リンク切れ|date=2022年11月}}</ref>
# :マジック・キングダム(アメリカ)
# :東京ディズニーランド(日本)
# :ディズニーランド パリ(フランス)
# :エバーランド(韓国)
# :ブラックプールプレジャービーチ(イギリス)
# :チボリガーデン(コペンハーゲン・デンマーク)
# :オーシャンパーク(香港)
# :ヨーロッパパーク(ドイツ)
# :パラマウントカナダズワンダーランド(カナダ)
# :ポートアベンチャー(スペイン)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Amusement parks}}
* [[遊園地]]
* [[博物館]]
* [[美術館]]
* [[マンガ・アニメミュージアム]]
* [[農業公園]]
* [[国際博覧会|万国博覧会]]
* [[フードテーマパーク]]
* [[レトロテーマパーク]]
{{日本のテーマパーク}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てえまはあく}}
[[Category:テーマパーク|*]]
[[Category:日本の観光]]
[[Category:遊園地]]
[[Category:レジャー施設]] | 2003-03-15T08:47:58Z | 2023-11-12T01:07:46Z | false | false | false | [
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"Template:日本のテーマパーク",
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"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF |
4,064 | 認証 | 認証(にんしょう)とは、何かによって、対象の真正性を確認する行為を指す。
法律上用いられる意味においては、ある行為または文書が正当な手続・方式でなされたことを公の機関が証明することをいう。
個々の製品に対して個別に認証するのではなく、型式に対して認証する。携帯電話等の通信機器や自動車、電気用品等、同一規格、同一仕様で量産される工業製品に対して適用される。
認証行為は認証対象によって分類され、認証対象が人間である場合には相手認証(本人認証)、メッセージである場合にはメッセージ認証、時刻の場合には時刻認証と呼ぶ。 単に認証と言った場合には相手認証を指す場合が多い。
相手認証とはある人が他の人に自分が確かに本人であると納得させるをいう。 A氏がB氏に自分が本当にAである事を証明するとき、BはAを認証すると言い、Aを被認証者、Bを認証者と呼ぶ。 被認証者、認証者の事を証明者(prover)、検証者(verifier)とも呼ぶ(Aが本当にAである事を「証明」し、その証明が正しいかどうかをBが「検証」するので)。
認証者は被認証者の証明に納得した場合、認証者は被認証者の証明を「受理」(accept)したといい、そうでない場合は「棄却」(reject)したという。
相手認証はその目的によって分類され、主なものに資格認証と属性認証がある。資格認証とは、何らかのサービスを受ける際にその資格があるかどうかを確認する為に行われる認証行為の事である。例えば選挙権がある事を証明する為に投票所入場券を提示したり、コンピュータにログインする権限がある事を証明する為にIDコードとパスワードの入力を行なったり、自動車の運転資格がある事(すなわち免許を持っている事)を証明する為に免許証提示を行なったりする。属性認証とは被認証者の属性(年齢、性別等)の正当性を確認する為に行われ、例として酒や煙草を購入する際に成人であることを証明する認証行為(年齢認証)がある。
前述の選挙権がある事を保証する為の認証行為は、投票を行う資格がある事を証明する資格認証であるのと同時に、選挙権があるという属性を証明する属性認証でもある。
また相手認証はその方法によってCertification(サーティフィケーション)とAuthentication(オーセンティケーション)とに分類される。 Certificationは被認証者が認証場所に直接アクセスして行う認証の事で、 それに対しAuthenticationは被認証者が認証場所に直接アクセスする事無く遠隔地から電子的に受ける認証の事である。
なお、Certificationであっても認証者の方は認証場所に直接アクセスするとは限らない(代わりに認証装置が認証を行う)。
Certificationは主に次の目的で行われる。
認証者は何らかの権限者(システム管理者、市役所の担当官)や、権限者の代行者(門番等)である事が多い。
Certificationは主として次の方法で行われる。
米国の核攻撃命令、日本の銀行オンライン取引(一部先進行)などでは、パスワードの代わりに乱数表を用いて認証を行う。例えば、「上から3段目の左から4文字目から、下に3数字読んで下さい」など。
Authenticationとは、被認証者が認証場所に直接アクセスせずに遠隔地から電子的に行う認証である。
Authenticationも、Certificationと同じく何らかの道具・書類・施設を利用・閲覧・入場する際に、被認証者に利用・閲覧・入場の権限があることを確認するために行う。しかし、Authenticationは電子的な行為なので、利用される道具や施設も電子的なもの(ウェブ・アプリケーション、リモート・サーバなど)である。
Authenticationは何らかの電子データ(パスワードや公開鍵秘密鍵ペア)を用いて行われるので、事前に被認証者と電子データとを対応づけておく必要がある。 被認証者(の名前)と電子データとの対応関係が取れていないと、他人になりすまして電子データを使ったり、一人が複数の電子データを使って一人二役を行ったりするという攻撃が防げなくなり、認証行為が全く意味をもたなくなってしまう。
したがって、被認証者と電子データとの対応を、確実に確保する必要がある。 対応づけはCertificationを通して行われる。 認証者は被認証者を事前にCertificationして本人性を確認し、それによって被認証者と電子データとを対応づける。 Authenticationを行う際に、認証者は対応表から電子データを逆引きし、被認証者が誰であるのかを特定する。 認証者が被認証者をAuthenticateする方法は、大きく分けて2通りある。
第1の方法は、被認証者が認証者に、秘密鍵をもっていることによって得られる何らかの能力の証明を行う方法である。第2の方法は、被認証者が認証者に、被認証者の公開鍵に対応する秘密鍵の知識の証明を行う方法である。
能力の証明を用いたAuthenticationで代表的なものは、電子署名を用いた方法である。まず認証者は乱数 r を選び、r を被認証者に送信する。被認証者は r を受け取ったら、r に対する電子署名 s を作成し、s を認証者に送信する。認証者は s が r の正しい署名であるか否かを確認する。s が r の正しい署名であれば認証者は証明を受理し、そうでなければ棄却する。
知識の証明を用いた認証方式には、Schnorrが提案したSchnorr認証(英語版)方式など、様々な方法がある。
メッセージ認証はメッセージの同一性の保証であり、コンピュータウイルス、不正侵入等を使った破壊行為によりメッセージが変更されていない事を保証する為の手続きをメッセージ認証という。メッセージ認証の代表的な方式はメッセージ認証符号(MAC)を用いたものである。
メッセージ m {\displaystyle m} に対しそのハッシュ値 x = H ( m ) {\displaystyle x=H(m)} を計算し、 x {\displaystyle x} を( m {\displaystyle m} よりセキュアな場所に)保管する。 m {\displaystyle m} が改竄されて別のメッセージ m ′ {\displaystyle m'} になっていた場合、 x ≠ H ( m ′ ) {\displaystyle x\not =H(m')} なのでメッセージが改竄された事が分かる。
時刻認証とはある物事が確かにその時刻にあった・起こった事を保証する為に行う認証行為の事である。 代表的な方法としてタイムスタンプを用いた方法がある。
リスクベース認証とは、ユーザーのIPアドレス、OS・ブラウザの種類やバージョン、時間等の環境を分析し、普段と異なるアクセスに対して、追加認証を行うことにより、不正アクセスを防ぐ認証方式である。IPアドレスはIPヘッダ、OS・ブラウザの種類やバージョンはHTTPヘッダのUser-Agentより取得可能であり、ユーザーの操作を必要としないパッシブ認証として、利便性が高い。 | [
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"text": "Authenticationは何らかの電子データ(パスワードや公開鍵秘密鍵ペア)を用いて行われるので、事前に被認証者と電子データとを対応づけておく必要がある。 被認証者(の名前)と電子データとの対応関係が取れていないと、他人になりすまして電子データを使ったり、一人が複数の電子データを使って一人二役を行ったりするという攻撃が防げなくなり、認証行為が全く意味をもたなくなってしまう。",
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"text": "したがって、被認証者と電子データとの対応を、確実に確保する必要がある。 対応づけはCertificationを通して行われる。 認証者は被認証者を事前にCertificationして本人性を確認し、それによって被認証者と電子データとを対応づける。 Authenticationを行う際に、認証者は対応表から電子データを逆引きし、被認証者が誰であるのかを特定する。 認証者が被認証者をAuthenticateする方法は、大きく分けて2通りある。",
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"text": "第1の方法は、被認証者が認証者に、秘密鍵をもっていることによって得られる何らかの能力の証明を行う方法である。第2の方法は、被認証者が認証者に、被認証者の公開鍵に対応する秘密鍵の知識の証明を行う方法である。",
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"text": "能力の証明を用いたAuthenticationで代表的なものは、電子署名を用いた方法である。まず認証者は乱数 r を選び、r を被認証者に送信する。被認証者は r を受け取ったら、r に対する電子署名 s を作成し、s を認証者に送信する。認証者は s が r の正しい署名であるか否かを確認する。s が r の正しい署名であれば認証者は証明を受理し、そうでなければ棄却する。",
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"title": "認証 (セキュリティ)"
}
] | 認証(にんしょう)とは、何かによって、対象の真正性を確認する行為を指す。 | {{出典の明記|date=2021-10-03 11:28(UTC)}}
'''認証'''(にんしょう)とは、何かによって、対象の真正性を確認する行為を指す。
== 法律での認証 ==
[[法律]]上用いられる意味においては、ある行為または文書が正当な手続・方式でなされたことを公の機関が証明することをいう。
;[[日本国憲法]]
:*[[国務大臣]]その他の官吏の任免、全権委任状および[[大使]]および公使の信任状、恩赦、批准書等については、[[天皇]]の認証を必要とし、かかる認証を受ける官職は[[認証官]]と呼ばれる(天皇の[[国事行為]]の一つ、[[日本国憲法第7条]]第5号)。
;行政庁の認証
:*自動車分解整備事業に関する認証([[道路運送車両法]])
;認証法人:設立は、所轄庁の認証による。[[認可法人]]より簡易である。
:*[[特定非営利活動法人]](NPO法人)・[[宗教法人]]。
;[[公証人]]の認証を受ける文書([[証書]])
:*[[株式会社]]の[[定款]]
:*定款以外の私署証書
:*公正証書
{{節スタブ}}
== 型式認証 ==
{{main|型式認証}}
個々の製品に対して個別に認証するのではなく、型式に対して認証<ref>型式認証は特定の国で製品の販売許可を得る際に要求されるものであるため、求められる要件は国ごとに異なる。</ref>する。[[携帯電話]]等の[[通信機器]]や[[自動車]]、[[家電機器|電気用品]]等、同一[[規格]]、同一[[仕様]]で量産される[[工業製品]]に対して適用される。
== 認証 (セキュリティ) ==
{{コンピュータセキュリティ}}
=== 認証行為 ===
認証行為は認証対象によって分類され、認証対象が人間である場合には'''相手認証(本人認証)'''、メッセージである場合には'''メッセージ認証'''、時刻の場合には'''時刻認証'''と呼ぶ。
単に認証と言った場合には相手認証を指す場合が多い。
==== 相手認証 ====
'''相手認証'''とはある人が他の人に自分が確かに本人であると納得させるをいう。
A氏がB氏に自分が本当にAである事を証明するとき、BはAを'''認証'''すると言い、Aを'''被認証者'''、Bを'''認証者'''と呼ぶ。
被認証者、認証者の事を'''証明者'''({{lang|en|prover}})、'''検証者'''({{lang|en|verifier}})とも呼ぶ(Aが本当にAである事を「証明」し、その証明が正しいかどうかをBが「検証」するので)。
認証者は被認証者の証明に納得した場合、認証者は被認証者の証明を「受理」({{lang|en|accept}})したといい、そうでない場合は「棄却」({{lang|en|reject}})したという。
相手認証はその目的によって分類され、主なものに'''資格認証'''と'''属性認証'''がある。資格認証とは、何らかのサービスを受ける際にその資格があるかどうかを確認する為に行われる認証行為の事である。例えば選挙権がある事を証明する為に投票所入場券を提示したり、コンピュータにログインする権限がある事を証明する為にIDコードとパスワードの入力を行なったり、自動車の運転資格がある事(すなわち免許を持っている事)を証明する為に免許証提示を行なったりする。属性認証とは被認証者の属性(年齢、性別等)の正当性を確認する為に行われ、例として酒や煙草を購入する際に成人であることを証明する認証行為(年齢認証)がある。
前述の選挙権がある事を保証する為の認証行為は、投票を行う資格がある事を証明する資格認証であるのと同時に、選挙権があるという属性を証明する属性認証でもある。
また相手認証はその方法によって'''{{lang|en|Certification}}'''('''{{lang|en-JP-Kata|サーティフィケーション}}''')と'''{{lang|en|Authentication}}'''('''{{lang|en-JP-Kata|オーセンティケーション}}''')とに分類される。
{{lang|en|Certification}}は被認証者が認証場所に直接アクセスして行う認証の事で、
それに対し{{lang|en|Authentication}}は被認証者が認証場所に直接アクセスする事無く遠隔地から電子的に受ける認証の事である。
なお、{{lang|en|Certification}}であっても認証者の方は認証場所に直接アクセスするとは限らない(代わりに認証装置が認証を行う)。
==== {{lang|en|Certification}} ====
{{lang|en|Certification}}は主に次の目的で行われる。
* 何らかの道具(計算機、核爆弾等)・書類・施設(計算機室、企業のビル、軍事施設等)を利用・閲覧・入場する際、被認証者に利用・閲覧・入場の権限がある事を確認する。
* {{lang|en|Authentication}}の事前準備。特に[[公開鍵基盤|PKI]]における事前登録手続き。被認証者を何らかの電子データ(ID、パスワード、公開鍵、口座番号)を対応づける。
認証者は何らかの権限者(システム管理者、市役所の担当官)や、権限者の代行者(門番等)である事が多い。
{{lang|en|Certification}}は主として次の方法で行われる。
* 知識:パスワードや個人識別番号 (PIN) など。そのパスワードやPINを所有者以外は知らないことが前提となる。{{lang|en|WYK}}({{lang|en|WHAT YOU KNOW}}:あなたが知っている事)認証とも呼ばれる。<!-- 情報の提示方法自体はWYK認証、顔写真が載っていて目での確認を伴うならWYA認証との複合 -->
* 所有物:[[スマートカード]]や[[セキュリティトークン|トークン]]など。アカウントの所有者だけが必要なスマートカードやトークンを持っていることが前提となる。{{lang|en|WYH}}({{lang|en|WHAT YOU HAVE}}:あなたが持っている物)認証とも呼ばれる。
* 生体('''バイオメトリック認証'''):本人固有の身体情報([[指紋]]、[[声紋]]、[[網膜]]、[[虹彩]]の特徴など)。{{lang|en|WYA}}({{lang|en|WHAT YOU ARE}}:あなたが何であるか)認証とも呼ばれる。
米国の核攻撃命令、日本の銀行オンライン取引(一部先進行)などでは、パスワードの代わりに乱数表を用いて認証を行う。例えば、「上から3段目の左から4文字目から、下に3数字読んで下さい」など。<!-- WYH認証 -->
==== Authentication ====
{{lang|en|Authentication}}とは、被認証者が認証場所に直接アクセスせずに遠隔地から電子的に行う認証である。
{{lang|en|Authentication}}も、{{lang|en|Certification}}と同じく何らかの道具・書類・施設を利用・閲覧・入場する際に、被認証者に利用・閲覧・入場の権限があることを確認するために行う。しかし、{{lang|en|Authentication}}は電子的な行為なので、利用される道具や施設も電子的なもの(ウェブ・アプリケーション、リモート・サーバなど)である。
{{lang|en|Authentication}}は何らかの電子データ(パスワードや公開鍵秘密鍵ペア)を用いて行われるので、事前に被認証者と電子データとを対応づけておく必要がある。
被認証者(の名前)と電子データとの対応関係が取れていないと、他人になりすまして電子データを使ったり、一人が複数の電子データを使って一人二役を行ったりするという攻撃が防げなくなり、認証行為が全く意味をもたなくなってしまう。<!--本人認証としては意味をもたないが、同一人物性の保証としては意味をもつ。例えばパスワード認証の場合、2回の認証を行った際、2回とも同じパスワードを使ったかどうかで2回の認証を受けたのが同一人物であるかどうかが確認できる。lしかし、認証者とパスワードとの対応を取らない限り、認証を受けたのが具体的には誰なのかは分からない。-->
したがって、被認証者と電子データとの対応を、確実に確保する必要がある。
対応づけは{{lang|en|Certification}}を通して行われる。
認証者は被認証者を事前に{{lang|en|Certification}}して本人性を確認し、それによって被認証者と電子データとを対応づける。
{{lang|en|Authentication}}を行う際に、認証者は対応表から電子データを逆引きし、被認証者が誰であるのかを特定する。
<!--
{{lang|en|Authentication}}の最も簡単な方法として、パスワードを使うもの('''パスワード認証''')がある。
しかし、単純なパスワード認証には次の2つの欠点がある。
* 認証者のマシンの利用者なら、誰でも被認証者のパスワードを見ることができてしまう。
* 通信路を盗聴すると、パスワードを見ることができてしまう。
[[UNIX]]では、一つ目の欠点を解決したもう少し賢いパスワード認証を採用している。
UNIXでは認証者のマシンにはパスワードそのものではなく
-->
認証者が被認証者を{{lang|en|Authenticate}}する方法は、大きく分けて2通りある。
第1の方法は、被認証者が認証者に、秘密鍵をもっていることによって得られる何らかの能力の証明を行う方法である。第2の方法は、被認証者が認証者に、被認証者の公開鍵に対応する秘密鍵の知識の証明を行う方法である。<!-- ←この二つは本質的には同じではないか。 -->
能力の証明を用いた{{lang|en|Authentication}}で代表的なものは、[[電子署名]]を用いた方法である。まず認証者は乱数 ''r'' を選び、''r'' を被認証者に送信する。被認証者は ''r'' を受け取ったら、''r'' に対する電子署名 ''s'' を作成し、''s'' を認証者に送信する。認証者は ''s'' が ''r'' の正しい署名であるか否かを確認する。''s'' が ''r'' の正しい署名であれば認証者は証明を受理し、そうでなければ棄却する。
知識の証明を用いた認証方式には、[[:en:Claus P. Schnorr|{{lang|de|Schnorr}}]]が提案した{{仮リンク|Schnorr認証|en|Schnorr signature}}方式など、様々な方法がある。
==== メッセージ認証 ====
メッセージ認証はメッセージの同一性の保証であり、[[コンピュータウイルス]]、不正侵入等を使った破壊行為によりメッセージが変更されていない事を保証する為の手続きをメッセージ認証という。メッセージ認証の代表的な方式は'''[[メッセージ認証符号]]'''(MAC)を用いたものである。
メッセージ<math>m</math>に対しそのハッシュ値<math>x=H(m)</math>を計算し、<math>x</math>を(<math>m</math>よりセキュアな場所に)保管する。<math>m</math>が改竄されて別のメッセージ<math>m'</math>になっていた場合、<math>x \not = H(m')</math>なのでメッセージが改竄された事が分かる。
<!-- MAC と MIC の説明 -->
==== 時刻認証 ====
'''時刻認証'''とはある物事が確かにその時刻にあった・起こった事を保証する為に行う認証行為の事である。
代表的な方法として'''[[タイムスタンプ]]'''<ref>電子文書のハッシュ値をタイムスタンプ内に保存することで、その時刻にデータが存在したこと(存在証明)と、確定時刻以降にデータの改ざんが行われていないこと(完全性証明)が可能となる。</ref>を用いた方法がある。
==== リスクベース認証 ====
'''リスクベース認証'''とは、ユーザーのIPアドレス、OS・ブラウザの種類やバージョン、時間等の環境を分析し、普段と異なるアクセスに対して、追加認証を行うことにより、不正アクセスを防ぐ認証方式である。IPアドレスは[[IPヘッダ]]、OS・ブラウザの種類やバージョンは[[Hypertext Transfer Protocol|HTTPヘッダ]]の[[ユーザーエージェント|User-Agent]]より取得可能<ref>リスクベース認証[[特許]] JP4616352, JP4746709, JP4964338, JP4918170, JP5216904, JP5456842, US8347368[https://patents.google.com/patent/US8347368], US9021555[https://patents.google.com/patent/US9021555], CN101167079[https://patents.google.com/patent/CN101167079]</ref>であり、ユーザーの操作を必要としないパッシブ認証として、利便性が高い<ref>{{Cite web|author=嘉藤隆也|date=2006-03-29|url=https://patents.google.com/patent/US8347368|title=Accuracy of user validation is improved '''without reducing user's convenience'''.|publisher={{US patent|8347368}}|accessdate=2013-01-01}}</ref>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[印章]]
* [[ハッシュ関数]]
* [[暗号]]
* [[署名]] - [[電子署名]]
* [[暗号理論]]
* 人の[[記憶]]
* [[RFID]]
* [[Javaカード]]
* [[デジタルアイデンティティ]]
* [[認可 (セキュリティ)]]
* [[合言葉]]
* [[IEEE 802.1X]] - [[コンピュータネットワーク]]における、認証の[[通信プロトコル]]
* [[ユーザ認証]](本人認証)
* [[身分証明書|ID]](身分証明)
* [[パスワード]]
* [[バイオメトリクス認証]](生体認証)
* [[ICカード]](集積回路)
* [[ワンタイムパスワード]]
* [[コールバック]]
* [[シングルサインオン]](SSO)
* [[アクセス制御]](セキュリティの方式)
* [[認証マーク]]
* [[第三者認証]]
{{Normdaten}}
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[[Category:セキュリティ技術]]
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[[Category:認証技術|*にんしよう]] | 2003-03-15T08:50:10Z | 2023-11-02T13:09:33Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%A8%BC |
4,068 | 快傑のーてんき | 『快傑のーてんき』(かいけつのーてんき)は、ダイコンフィルム製作による、自主制作実写作品名および作中に登場する変身ヒーロー名。
1977年に東映が製作した特撮ヒーロー作品『快傑ズバット』をモチーフとしたパロディ作品であり、主人公である早川健を、同製作グループの中心人物であった武田康廣(現・ガイナックス統括本部長)が演じている。
モチーフとなった「快傑ズバット」自体、ニヒルな主人公が活躍する日活無国籍アクションのテイストを取り入れた異色作であったが、「のうてんき」ではそのストーリー展開を踏襲しつつ、ニヒルな役どころの主人公を愛嬌のある武田が脳天気なコスチュームで無理やり演じるという怪作である。
第一作のみ「のうてんき」と表記され、それ以降は「のーてんき」と長音の表記になる。
本作品主人公の「のーてんき」は映像作品を飛び出し、長年にわたり演者である武田康廣の第2の顔としてもてはやされている。そのため近年のSF系イベントなどでものうてんきのコスチュームで登場したり、自身のサインなどにものーてんきの似顔絵を入れている。2001年の日本SF大会では、ステージイベントのみではあるが愛娘と共に親子2代の「のーてんき」として登場し、場内の喝采を浴びた。またCS放送のチャンネルであるMONDO21の番組『侵略放送パンドレッタ』にも同コスチュームで登場し、ダイコンフィルム作品の紹介を行った。
アニパロ誌、ファンロードの『今月の見たいもの&見せましょう』のコーナーにて読者から『桑田次郎調快傑のーてんき』が投稿され、のーてんき役の武田康廣が気に入り漫画化を熱望、マンガ・ファンロードにて『快傑のーてんき 荒野に燃ゆる薔薇』のタイトルで読み切り作品として掲載されている。本作品の作者の緋本こりんは、後に日本航空123便墜落事故の犠牲者となっている。
1998年のテレビアニメ「彼氏彼女の事情」(製作・ガイナックス、監督・庵野秀明)11話Aパートにおいて女子高生のキャラクターが一瞬、のーてんきに変貌する。 | [
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] | 『快傑のーてんき』(かいけつのーてんき)は、ダイコンフィルム製作による、自主制作実写作品名および作中に登場する変身ヒーロー名。 | 『'''快傑のーてんき'''』(かいけつのーてんき)は、[[DAICON FILM|ダイコンフィルム]]製作による、自主制作実写作品名および作中に登場する変身ヒーロー名。
== 概要 ==
[[1977年]]に[[東映]]が製作した特撮ヒーロー作品『[[快傑ズバット]]』をモチーフとした[[パロディ]]作品であり、主人公である早川健を、同製作グループの中心人物であった[[武田康廣]](現・[[ガイナックス]]統括本部長)が演じている。
モチーフとなった「快傑ズバット」自体、ニヒルな主人公が活躍する[[日活]][[無国籍アクション]]のテイストを取り入れた異色作であったが、「のうてんき」ではそのストーリー展開を踏襲しつつ、ニヒルな役どころの主人公を愛嬌のある武田が脳天気なコスチュームで無理やり演じるという怪作である。
== 作品紹介 ==
第一作のみ「のうてんき」と表記され、それ以降は「のーてんき」と長音の表記になる。
; 快傑のうてんき
: [[1982年]][[8月]] [[8ミリ映画|8ミリフィルム]] 上映時間約15分
: サブタイトルは「'''危うし少女、メカケの恐怖'''」
: 親友、飛鳥五郎を悪の組織"バッカー"に殺された探偵、早川健は、親友を殺した犯人に復讐するため流浪の旅を続ける。旅の途中で立ち寄った街でヤクザにからまれていたユリという少女を助けるが、彼女を[[妾]]にしようと狙っていた議員の黒川はバッカーの幹部であり、若竹組の沢村とナイフ使いの"ヤッパのジョー"を送り込んできた。早川はヤッパのジョーとの勝負には勝つものの、沢村の銃弾に襲われる。再びユリに危機が迫るが、バイク(実際は、[[スズキ・ジェンマ]]50というスクーターを改造したもの<ref>映画撮影中のスチールより。</ref>)に乗ったのうてんきが登場。悪を一掃し、街には再び平和が戻る。
:* 当時、ダイコンフィルムでは[[1982年]]開催の[[日本SF大会]]「TOKON8」での上映に向け、「[[愛國戰隊大日本]]」や「[[帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令]]」といった本格的な特撮パロディーを製作していたが、その合間の息抜きとしてこの作品を作ったという経緯がある。
:* 公式に「息抜き」と表現されるだけあり、ダイコンフィルムの他作品が大規模な製作体制と綿密な準備が行われたのに対し、本作品は比較してチープな出来となっている。また、丁度時間の取れたメンバーが製作に参加し、その場のノリで指揮を執るケースが多かったため、本作品では監督だけで12人もクレジットされている。
:* [[ゼネラルプロダクツ]]で販売された「DAICON FILM作品」のビデオソフトには、おまけ(現在の映像特典的な扱い)で、メインの作品のついでに本作品が収録されていた。
:
; 快傑のーてんき2 純愛港町篇
: [[1984年]][[3月]] 8ミリフィルム 上映時間約23分。
; 快傑のーてんきin USA
: [[1984年]][[6月]] [[ビデオテープレコーダー|VTR]] 上映時間約9分。
; ロールプレイングのーてんきin ソウル
: [[1988年]][[8月]] VTR 上映時間不明。
:* 同年開催の日本SF大会[[群馬県|群馬]]大会のために上演された。
:* ロールプレイングとうたってはいるが、実際はアドベンチャーゲーム方式で、ストーリーがある程度進行したところで選択肢があらわれ、客に選ばせた。選んだ展開次第ではのーてんきが死んでしまい。白髪白髭のキャラが現れ「死んでしまうとは情けない〜」ということで再度選択肢が与えられた。
== 登場キャラクター ==
; 怪傑のーてんき・早川 健([[武田康廣]])
: 親友の飛鳥五郎を殺したバッカー一味に復讐するため近畿圏内を旅して仇を探している。必殺技「のーてんフラッシュ」は使うほどにのーてんきの知性を消耗させるという設定となっていた。
; 飛鳥 五郎([[岡田斗司夫]])
: 早川健の親友。
; 早乙女 由香利
: 花売り娘。
; M
: バッカー幹部の一人。
; ヤッパのジョー
: Mの用心棒。
; 死神伯爵
: バッカー幹部の一人。
; ドクトル・マッド
: 死神伯爵の部下。メカのーてんきを開発。
; 霧隠悪衛門
: 神伯爵の用心棒。巨大手裏剣を使う。
; メカのーてんき
: 全身に武器を備え、手はロケットパンチ、ガウォークに変形する。のーてんきよりもコッテ牛3頭分強いが、おつむの程度はおなじ。
== 後日談 ==
本作品主人公の「のーてんき」は映像作品を飛び出し、長年にわたり演者である武田康廣の第2の顔としてもてはやされている。そのため近年のSF系イベントなどでものうてんきのコスチュームで登場したり、自身のサインなどにものーてんきの似顔絵を入れている。[[2001年]]の日本SF大会では、ステージイベントのみではあるが愛娘と共に親子2代の「のーてんき」として登場し、場内の喝采を浴びた。また[[CS放送]]のチャンネルである[[MONDO21]]の番組『[[侵略放送パンドレッタ]]』にも同コスチュームで登場し、ダイコンフィルム作品の紹介を行った。
== 漫画化 ==
アニパロ誌、[[ファンロード]]の『今月の見たいもの&見せましょう』のコーナーにて読者から『[[桑田次郎]]調快傑のーてんき』が投稿され、のーてんき役の武田康廣が気に入り漫画化を熱望、マンガ・ファンロードにて『快傑のーてんき 荒野に燃ゆる薔薇』のタイトルで読み切り作品として掲載されている。本作品の作者の緋本こりんは、後に[[日本航空123便墜落事故]]の犠牲者となっている。
== 他作品への登場 ==
1998年のテレビアニメ「[[彼氏彼女の事情]]」(製作・ガイナックス、監督・[[庵野秀明]])11話Aパートにおいて女子高生のキャラクターが一瞬、のーてんきに変貌する。
== 脚注・出典 ==
<references />
== 外部リンク ==
*[http://www.gainax.co.jp/anime/daicon/notenki.html 快傑のーてんき オフィシャルページ]
*[http://www.gainax.co.jp/takeda/index.html GAINAX取締役統括本部長室]
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[[Category:日本のSFアクション映画]]
[[Category:日本のコメディ映画]]
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[[Category:ガイナックス]] | null | 2022-06-05T05:35:20Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB%E5%82%91%E3%81%AE%E3%83%BC%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%8D |
4,069 | 電気工学 | 電気工学(でんきこうがく、英: electrical engineering)は、電気や磁気、光(電磁波)の研究や応用を取り扱う工学分野である。電気磁気現象が広汎な応用範囲を持つ根源的な現象であるため、通信工学、電子工学をはじめ、派生した技術でそれぞれまた学問分野を形成している。電気の特徴として「エネルギーの輸送手段」としても「情報の伝達媒体」としても大変有用であることが挙げられる。この観点から、前者を「強電」、後者を「弱電」と二分される。
電気は17世紀初めごろには科学の興味の対象となっていた。世界初の電気工学者は「ベルソリウム」を設計したウィリアム・ギルバートといわれている。ベルソリウムは静電気を帯びている物体を検出する機器である。彼はまた、磁力と静電気を明確に区別した最初の人物であり、「electricity(エレクトリシティ)」(電気)という用語を確立した人物と言われている。1775年、アレッサンドロ・ボルタは電荷を蓄える電気盆を世に知らしめ、1800年には電池の先駆けであるボルタ電池を開発した。
しかし、電気に関する研究が本格化するのは19世紀になってからである。ゲオルグ・オームは1827年、導体における電流と電位差の関係を定式化した(オームの法則)。1831年、マイケル・ファラデーは電磁誘導現象を発見した。ジェームズ・クラーク・マクスウェルは電気と磁気の統一理論を確立し、1873年に “Electricity and Magnetism”(抄訳「電気と磁気」)という論文を発表した。
そのころ、電気の研究は物理学の一分野とみなされていた。電気工学が大学の学科となるのは19世紀末ごろである。1882年、ダルムシュタット工科大学が世界初の電気工学科を創設した。また同年、マサチューセッツ工科大学でも物理学部で電気工学の学位を選択できるようになった。1883年、ダルムシュタット工科大学とコーネル大学で世界初の電気工学のカリキュラムを導入し、1885年にはイギリス初の電気工学科がユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに創設された。1886年、アメリカ合衆国初の電気工学科をミズーリ大学コロンビア校が創設した。日本では、工部省工学寮工学校電信科が1871年に発足しているが、これが東京大学工芸学部と統合されて帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)となったのは1886年のことだった。
同じころ、電気工学は劇的な発展を遂げる。1882年、トーマス・エジソンはマンハッタンの59の顧客に直流110ボルトの電力を供給する世界初の電力供給網を完成させた。1884年、チャールズ・アルジャーノン・パーソンズが蒸気タービンを発明し、これが今日では電力の80%を生み出している。1887年、ニコラ・テスラは、エジソンの直流方式と競合する交流による電力供給方式について複数の特許を取得している。その後、直流と交流のどちらが送電方式としてふさわしいかについて、エジソンとテスラの間で電流戦争と呼ばれる激しい対立が生じた。この対立は結局、送電効率と送電距離の長さという面で優れていた交流の勝利に終わった。
この2人は、他にも様々な業績を残している。テスラは誘導電動機や多相交流について業績を残し、後の研究に影響を与えた。エジソンは電信で業績を残し、特に株価を電信で知らせ、それを紙テープに記録に残す装置 stock ticker を製品化し、その収益でゼネラル・エレクトリック社が生まれた。しかし、19世紀末には電気工学にさらなる進展をもたらす重要な人々が登場しつつあった。
ラジオの開発においては、多数の科学者や発明家が無線技術や電子工学に貢献している。1881年、ハインリヒ・ヘルツは電磁波の発生と検出を行う電気装置を製作して極超短波の実験を行った。1895年、ニコラ・テスラはニューヨーク市内の自身の実験室から発信した電波をウェストポイントで受信する実験に成功した(距離は80.4km)。1897年、フェルディナント・ブラウンはオシロスコープの一部としてブラウン管を発明し、これが後のテレビを生むことになる。ジョン・フレミングは1904年、最初の真空管(二極管)を発明した。2年後、ロベルト・フォン・リーベン(英語版)とリー・ド・フォレストがそれぞれ独自に増幅効果のある三極管を発明した。
1895年、グリエルモ・マルコーニはヘルツの無線技術をさらに進展させた。まず彼は約1.5マイルの距離での無線信号の送受信実験を行った。1901年12月、マルコーニは地表面の曲率に影響されない無線電波を送信し、大西洋を横断する無線通信に成功した(距離は約3400km)。
1920年、アルバート・ハル(英語版)がマグネトロンを開発し、1946年のパーシー・スペンサーによる電子レンジ開発の元となった。1934年、イギリス軍はレーダー(これもマグネトロンを応用したもの)の開発に着手し、1936年8月にはBawdseyで世界初のレーダー基地の運用が始まった。
1941年、コンラート・ツーゼは世界初のプログラム可能な完全自動計算機Z3を公開した。1946年にはジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーのENIACが続き、コンピュータ時代が始まった。コンピュータの計算能力によって、様々な新技術の開発が可能となり、アポロ計画とその月面着陸もコンピュータがあるからこそ可能になった。
1947年、ウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンがトランジスタを発明し、より小型の機器を開発する電子工学や半導体工学への道が開かれた。
電気工学の源流は基礎理論としての電気回路学と実用としての電力工学である。次に情報の伝達の観点から通信工学が派生する。通信工学の発展の過程で増幅器、高周波発振のための真空管が発達し、1940年ごろの半導体による固体増幅素子の発明があり電子工学が生まれる。電子工学の利用方法として論理演算の機械化が可能になり、ここからコンピュータを利用した情報工学が起こる。また電気回路学の周波数応答の研究から、制御工学が派生している。
電力工学は、電気のエネルギーとしての利用に関する工学である。エネルギーの発生としての発電と電力流通としての送電が2大テーマで、高電圧・大電流に耐えうる電力回路、絶縁体などの電気材料について取り扱う。変圧器、発電機、発動機、高電圧工学、パワーエレクトロニクスなどを含む。多くの国では、発電・送電・配電の電力網を政府が維持管理している。利用者は電力網からエネルギーを購入でき、自前で発電するコストを抑えることができる。電力工学者は電力網および電力網に接続する電力システムの設計や保守を研究している。電力システムは電力網に電力を供給するものと電力網から電力を引き出すものがある(あるいは、両方同時に行うものもある)。電力網に接続しない電力システムも研究対象である。リアルタイムのフィードバックにより電力需要の急増に対応し停電を防ぐ人工衛星制御の電力システムなどが今後の研究課題である。
情報通信に関する分野で、電気通信、電磁気学がある。情報を一地点から別な地点に送るためには、同軸ケーブル、光ケーブルや自由空間などの伝送路を必要とする。これら伝送路はマクスウェルの方程式をはじめとする電磁気学の法則を用いて正確に記述することができる。自由空間での通信の場合、伝送に適した搬送周波数に情報を変換した搬送波の形にする必要があり、それを変調と呼ぶ。変調方式には振幅変調、周波数変調などの技法がある。変調方式によってシステムのコストと性能は異なり、両者のバランスを工学者や技術者が注意深く調整する。
システムの伝送特性が決まると、次に送信機と受信機の設計を行う。送信と受信の機能を兼ね備えた機器をトランシーバーと呼ぶ。送信機の設計にあたっては、電力消費が信号強度と密接に関連している点が重要である。送信機の信号強度が不十分な場合、雑音によって情報が失われることになる。
通信工学の一分野として無線通信を対象とする無線工学がある。電磁気学の応用としてアンテナの指向性、利得に関する研究が主要テーマである。
真空中、固体中や電界中、磁界中などにおける電子のふるまいを解明、理論化し、またそれをもとに、種々の電子素子、装置などの制御を行う技術。抵抗器、キャパシタ、インダクタ、トランジスタ、ダイオード、その他の半導体素子などの電子回路素子モデルをつくる。このモデルを使う目的は、回路のシミュレーションを行うためであり、その部分的な回路を組み合わせて大規模な回路を作り上げることができる。
第二次世界大戦以前は、電子工学は無線工学とほぼ同義で、応用範囲は電気通信やレーダー、ラジオ、初期のテレビなどに限られていた。戦後、民生用電子機器が開発されるようになり、テレビ、音響機器、コンピュータ、マイクロプロセッサなどの開発と共に電子工学も発展していった。1950年代末には無線工学と電子工学は完全に別の分野と認識されるようになった。
1959年の集積回路の発明以前、電子回路は個別の部品を組み合わせて構築されていた。当然ながら回路の実装に要する空間も電力も大きく、動作速度は遅かった。それでも、今もそのような回路実装の用途がある。一方集積回路はトランジスタを中心とした微小な電子部品をひとまとめにして、小さなチップ内に回路を構成する。これによってコンピュータなどの電子機器の性能が向上していった。
半導体素子の微細化の絶え間ない進展は、VLSI製造プロセスの発展をもたらし、完全なシステムをひとつのチップに実装する技術を実現した。マイクロプロセッサはこの進展の成果で、コンピュータ工学の関連分野とかかわる。
材質に着目すると「半導体工学」だが、製造技術に着目すると「マイクロエレクトロニクス」と呼ばれる。これらはほぼ同義だが、マイクロエレクトロニクスは必ずしも半導体集積回路に限定されない。
シリコンなどの半導体ウェハーを化学的に製造する技術を含み、化学や材料工学と密接に関連する。また、微細な設計にあたっては量子力学的知識も要求される。
電子(電気)と光子(光)の両方を取り扱う電子工学の一分野は光エレクトロニクスまたはオプトエレクトロニクスと呼ばれる。この分野で扱う光ケーブルは高速な通信システムの開発とインターネットの発展をもたらした。
電気計測工学は、電気的特性の正確な測定に関する分野。電気回路・電子回路の測定を行うと、被測定回路の電圧や電流に影響を与えることが避けられない。測定技術の目的は、測定回路の影響を最小化あるいは補償することである。この分野には物質の電気的特性を利用するセンサや電気=機械的な測定手段も含まれる。前者の例としては圧力を測定するピエゾ圧電素子や温度を測定する温度に依存する電気抵抗素子がある。これらのセンサは制御工学においても用いることができる。
計測工学は、圧力、流れ、温度といった物理量を測定する機器の設計を扱う。そういった測定機器の設計には、電磁気学だけでなく様々な物理学の知識を必要とする。例えば、スピード測定器はドップラー効果を応用して近づいてくる自動車の速度を測定する。同様に熱電対はペルティエ-ゼーベック効果を応用して2地点間の温度差を測定する。
計測は単独ではなく、より大きな電気システムのセンサとして使われることが多い。例えば、溶鉱炉の温度を一定に保つシステムで熱電対を利用するといった場合である。このため、計測工学と制御工学は組み合わせて扱われることが多い。
制御工学は様々な力学系をモデル化し、システムの振る舞いを望んだ形にするための制御装置の設計を行う。そのような制御装置の実装にあたって、電子回路、デジタル信号処理、マイクロコントローラ、PLCなどを使うこともある。制御工学には、旅客機のフライトシステムから自動車のクルーズコントロールまで、様々な応用がある。また、ファクトリーオートメーションでも重要な役目を果たしている。
制御システムの設計においては、フィードバックを多用する。例えば、クルーズコントロールにおいては自動車の速度を継続的に監視しフィードバックし、それによってエンジンの出力を調整している。制御理論では、あるフィードバックがあったときのシステムの応答を求めることができる。
信号処理は信号の解析や操作を扱う分野である。信号には連続的に変化するアナログ信号と、離散的な値をとるデジタル信号がある。アナログ信号の場合、信号処理は音声信号などの増幅やフィルタリング、電気通信における信号の変調や復調を扱う。デジタル信号の場合、信号処理は標本化された信号の圧縮や誤り検出訂正を扱う。
デジタル信号処理は、既存のアナログのシステムがデジタルのシステムに置換されていくにつれて、その応用範囲が電力、通信、放送、医療など急激に拡大している。
かつてアナログ信号処理はアナログのハードウェアで実装されたシステムの設計を数学的に表すだけのものだったが、デジタル信号処理は設計を数学的に記述するだけでなく、ハードウェア問題とは独立してそのまま(ソフトウェアまたはハードウェアへの埋め込みで)実装することもできるようになった。そのためデジタル信号処理は重要性を増しつつある。
信号と信号が運んでいる情報には強い関係があり、信号処理は情報処理と等価でもある。それが信号処理に幅広い用途がある理由である。DSPチップは、テレビ、ラジオ、携帯機器、音響機器、ノイズリダクションアルゴリズム、MP3プレーヤー、GPSカーナビゲーション、各種画像処理・音響処理・音声処理システムといった様々な電子機器に組み込まれている。
計算機工学は計算機の設計に関連する分野であり、電気工学とは電子式の計算機の設計という分野で関連づいている。新規ハードウェアの設計、携帯情報端末の設計、コンピュータを利用した生産システムの設計などがある。システムソフトウェアも計算機工学で扱う場合があるが、複雑なソフトウェアシステムの設計はソフトウェア工学の領域であり、両者は異なる分野とされている。パーソナルコンピュータの設計はこの分野のごく一部であり、コンピュータ的アーキテクチャの電子機器はゲーム機やDVDプレーヤーなど様々なものがある。
メカトロニクスは電気工学と機械工学の融合した工学分野である。電気機械式システムは様々な領域で利用されている。例えば、ファクトリーオートメーション、空調システム、航空機や自動車の各種サブシステムなどである。CDプレーヤーの記録トラックを追尾するためのレーザーの精密な位置決めは、振動や焦点のずれ、ディスク媒体の変形等を補償するよう設計された電子回路によって初めて実現できたものである。
微視的なメカトロニクスとしてMEMSがあり、今後発展が見込まれている。例えば、自動車のエアバッグの作動タイミングを決定する仕組み、プロジェクタの映像をより鮮明にする仕組み、高精細インクジェットプリンターのインク噴射ノズルなどがMEMSの応用である。
医用生体工学は、医療機器の設計を扱う関連分野である。人工呼吸器、MRIスキャナー、心電図モニターなどの医療用装置だけでなく、人工内耳、心臓ペースメーカー、人工心臓といった体内に埋め込む機器もある。
電気技術者の道具と理論は、数学および物理学を基礎にしている。特に電気現象の基礎として電磁気学、電気回路の解析手法である回路理論が必要不可欠である。また、量子力学、信号処理、制御理論、計算機科学などの知見も重要である。
電磁気学がほかの日常生活に関わっている例としては、携帯電話のアンテナの設計、磁気共鳴画像スキャナにおいて電磁石の正確な配置調整により電磁場の形成を制御することがあげられる。さらに電磁気学により実現できた技術として電子レンジがある。
世界的規模では「The Institute of Electrical and Electronics Engineers (IEEE)米国電気電子学会」が電気関連の研究者の間で著名かつ最も有力な学会である。IEEEは非営利の研究団体であり、規格書、出版物や定期刊行物の発行や学会やワークショップの開催を行っている。IEEEの学会誌は数十種類に及ぶ各論に分かれて発行されている。IEEEは事実上世界最大の学会である。 海外では他に英国の「The Institute of Electrical Engineers (IEE)」がよく知られている。
日本の研究団体としては電力エネルギーに関係する分野では電気学会 (IEEJ) が、通信システム・電子デバイス・情報処理ではこれら分野を網羅する電子情報通信学会 (IEICE) が有名である。また電子工学分野では応用物理学会 (JSAP)、情報工学分野では情報処理学会 (IPSJ) で活動する研究者も多い。 | [
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"text": "電気工学(でんきこうがく、英: electrical engineering)は、電気や磁気、光(電磁波)の研究や応用を取り扱う工学分野である。電気磁気現象が広汎な応用範囲を持つ根源的な現象であるため、通信工学、電子工学をはじめ、派生した技術でそれぞれまた学問分野を形成している。電気の特徴として「エネルギーの輸送手段」としても「情報の伝達媒体」としても大変有用であることが挙げられる。この観点から、前者を「強電」、後者を「弱電」と二分される。",
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"text": "電気は17世紀初めごろには科学の興味の対象となっていた。世界初の電気工学者は「ベルソリウム」を設計したウィリアム・ギルバートといわれている。ベルソリウムは静電気を帯びている物体を検出する機器である。彼はまた、磁力と静電気を明確に区別した最初の人物であり、「electricity(エレクトリシティ)」(電気)という用語を確立した人物と言われている。1775年、アレッサンドロ・ボルタは電荷を蓄える電気盆を世に知らしめ、1800年には電池の先駆けであるボルタ電池を開発した。",
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"text": "しかし、電気に関する研究が本格化するのは19世紀になってからである。ゲオルグ・オームは1827年、導体における電流と電位差の関係を定式化した(オームの法則)。1831年、マイケル・ファラデーは電磁誘導現象を発見した。ジェームズ・クラーク・マクスウェルは電気と磁気の統一理論を確立し、1873年に “Electricity and Magnetism”(抄訳「電気と磁気」)という論文を発表した。",
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"text": "そのころ、電気の研究は物理学の一分野とみなされていた。電気工学が大学の学科となるのは19世紀末ごろである。1882年、ダルムシュタット工科大学が世界初の電気工学科を創設した。また同年、マサチューセッツ工科大学でも物理学部で電気工学の学位を選択できるようになった。1883年、ダルムシュタット工科大学とコーネル大学で世界初の電気工学のカリキュラムを導入し、1885年にはイギリス初の電気工学科がユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに創設された。1886年、アメリカ合衆国初の電気工学科をミズーリ大学コロンビア校が創設した。日本では、工部省工学寮工学校電信科が1871年に発足しているが、これが東京大学工芸学部と統合されて帝国大学工科大学(後の東京大学工学部)となったのは1886年のことだった。",
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"text": "同じころ、電気工学は劇的な発展を遂げる。1882年、トーマス・エジソンはマンハッタンの59の顧客に直流110ボルトの電力を供給する世界初の電力供給網を完成させた。1884年、チャールズ・アルジャーノン・パーソンズが蒸気タービンを発明し、これが今日では電力の80%を生み出している。1887年、ニコラ・テスラは、エジソンの直流方式と競合する交流による電力供給方式について複数の特許を取得している。その後、直流と交流のどちらが送電方式としてふさわしいかについて、エジソンとテスラの間で電流戦争と呼ばれる激しい対立が生じた。この対立は結局、送電効率と送電距離の長さという面で優れていた交流の勝利に終わった。",
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"text": "この2人は、他にも様々な業績を残している。テスラは誘導電動機や多相交流について業績を残し、後の研究に影響を与えた。エジソンは電信で業績を残し、特に株価を電信で知らせ、それを紙テープに記録に残す装置 stock ticker を製品化し、その収益でゼネラル・エレクトリック社が生まれた。しかし、19世紀末には電気工学にさらなる進展をもたらす重要な人々が登場しつつあった。",
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"text": "ラジオの開発においては、多数の科学者や発明家が無線技術や電子工学に貢献している。1881年、ハインリヒ・ヘルツは電磁波の発生と検出を行う電気装置を製作して極超短波の実験を行った。1895年、ニコラ・テスラはニューヨーク市内の自身の実験室から発信した電波をウェストポイントで受信する実験に成功した(距離は80.4km)。1897年、フェルディナント・ブラウンはオシロスコープの一部としてブラウン管を発明し、これが後のテレビを生むことになる。ジョン・フレミングは1904年、最初の真空管(二極管)を発明した。2年後、ロベルト・フォン・リーベン(英語版)とリー・ド・フォレストがそれぞれ独自に増幅効果のある三極管を発明した。",
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"text": "1895年、グリエルモ・マルコーニはヘルツの無線技術をさらに進展させた。まず彼は約1.5マイルの距離での無線信号の送受信実験を行った。1901年12月、マルコーニは地表面の曲率に影響されない無線電波を送信し、大西洋を横断する無線通信に成功した(距離は約3400km)。",
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"text": "1920年、アルバート・ハル(英語版)がマグネトロンを開発し、1946年のパーシー・スペンサーによる電子レンジ開発の元となった。1934年、イギリス軍はレーダー(これもマグネトロンを応用したもの)の開発に着手し、1936年8月にはBawdseyで世界初のレーダー基地の運用が始まった。",
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"text": "1941年、コンラート・ツーゼは世界初のプログラム可能な完全自動計算機Z3を公開した。1946年にはジョン・プレスパー・エッカートとジョン・モークリーのENIACが続き、コンピュータ時代が始まった。コンピュータの計算能力によって、様々な新技術の開発が可能となり、アポロ計画とその月面着陸もコンピュータがあるからこそ可能になった。",
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"text": "1947年、ウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンがトランジスタを発明し、より小型の機器を開発する電子工学や半導体工学への道が開かれた。",
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"text": "電気工学の源流は基礎理論としての電気回路学と実用としての電力工学である。次に情報の伝達の観点から通信工学が派生する。通信工学の発展の過程で増幅器、高周波発振のための真空管が発達し、1940年ごろの半導体による固体増幅素子の発明があり電子工学が生まれる。電子工学の利用方法として論理演算の機械化が可能になり、ここからコンピュータを利用した情報工学が起こる。また電気回路学の周波数応答の研究から、制御工学が派生している。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "電力工学は、電気のエネルギーとしての利用に関する工学である。エネルギーの発生としての発電と電力流通としての送電が2大テーマで、高電圧・大電流に耐えうる電力回路、絶縁体などの電気材料について取り扱う。変圧器、発電機、発動機、高電圧工学、パワーエレクトロニクスなどを含む。多くの国では、発電・送電・配電の電力網を政府が維持管理している。利用者は電力網からエネルギーを購入でき、自前で発電するコストを抑えることができる。電力工学者は電力網および電力網に接続する電力システムの設計や保守を研究している。電力システムは電力網に電力を供給するものと電力網から電力を引き出すものがある(あるいは、両方同時に行うものもある)。電力網に接続しない電力システムも研究対象である。リアルタイムのフィードバックにより電力需要の急増に対応し停電を防ぐ人工衛星制御の電力システムなどが今後の研究課題である。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "情報通信に関する分野で、電気通信、電磁気学がある。情報を一地点から別な地点に送るためには、同軸ケーブル、光ケーブルや自由空間などの伝送路を必要とする。これら伝送路はマクスウェルの方程式をはじめとする電磁気学の法則を用いて正確に記述することができる。自由空間での通信の場合、伝送に適した搬送周波数に情報を変換した搬送波の形にする必要があり、それを変調と呼ぶ。変調方式には振幅変調、周波数変調などの技法がある。変調方式によってシステムのコストと性能は異なり、両者のバランスを工学者や技術者が注意深く調整する。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "システムの伝送特性が決まると、次に送信機と受信機の設計を行う。送信と受信の機能を兼ね備えた機器をトランシーバーと呼ぶ。送信機の設計にあたっては、電力消費が信号強度と密接に関連している点が重要である。送信機の信号強度が不十分な場合、雑音によって情報が失われることになる。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "通信工学の一分野として無線通信を対象とする無線工学がある。電磁気学の応用としてアンテナの指向性、利得に関する研究が主要テーマである。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "真空中、固体中や電界中、磁界中などにおける電子のふるまいを解明、理論化し、またそれをもとに、種々の電子素子、装置などの制御を行う技術。抵抗器、キャパシタ、インダクタ、トランジスタ、ダイオード、その他の半導体素子などの電子回路素子モデルをつくる。このモデルを使う目的は、回路のシミュレーションを行うためであり、その部分的な回路を組み合わせて大規模な回路を作り上げることができる。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "第二次世界大戦以前は、電子工学は無線工学とほぼ同義で、応用範囲は電気通信やレーダー、ラジオ、初期のテレビなどに限られていた。戦後、民生用電子機器が開発されるようになり、テレビ、音響機器、コンピュータ、マイクロプロセッサなどの開発と共に電子工学も発展していった。1950年代末には無線工学と電子工学は完全に別の分野と認識されるようになった。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "1959年の集積回路の発明以前、電子回路は個別の部品を組み合わせて構築されていた。当然ながら回路の実装に要する空間も電力も大きく、動作速度は遅かった。それでも、今もそのような回路実装の用途がある。一方集積回路はトランジスタを中心とした微小な電子部品をひとまとめにして、小さなチップ内に回路を構成する。これによってコンピュータなどの電子機器の性能が向上していった。",
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"text": "半導体素子の微細化の絶え間ない進展は、VLSI製造プロセスの発展をもたらし、完全なシステムをひとつのチップに実装する技術を実現した。マイクロプロセッサはこの進展の成果で、コンピュータ工学の関連分野とかかわる。",
"title": "電気工学と関連分野の発展"
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"text": "材質に着目すると「半導体工学」だが、製造技術に着目すると「マイクロエレクトロニクス」と呼ばれる。これらはほぼ同義だが、マイクロエレクトロニクスは必ずしも半導体集積回路に限定されない。",
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"text": "シリコンなどの半導体ウェハーを化学的に製造する技術を含み、化学や材料工学と密接に関連する。また、微細な設計にあたっては量子力学的知識も要求される。",
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"text": "電子(電気)と光子(光)の両方を取り扱う電子工学の一分野は光エレクトロニクスまたはオプトエレクトロニクスと呼ばれる。この分野で扱う光ケーブルは高速な通信システムの開発とインターネットの発展をもたらした。",
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"text": "電気計測工学は、電気的特性の正確な測定に関する分野。電気回路・電子回路の測定を行うと、被測定回路の電圧や電流に影響を与えることが避けられない。測定技術の目的は、測定回路の影響を最小化あるいは補償することである。この分野には物質の電気的特性を利用するセンサや電気=機械的な測定手段も含まれる。前者の例としては圧力を測定するピエゾ圧電素子や温度を測定する温度に依存する電気抵抗素子がある。これらのセンサは制御工学においても用いることができる。",
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"text": "計測工学は、圧力、流れ、温度といった物理量を測定する機器の設計を扱う。そういった測定機器の設計には、電磁気学だけでなく様々な物理学の知識を必要とする。例えば、スピード測定器はドップラー効果を応用して近づいてくる自動車の速度を測定する。同様に熱電対はペルティエ-ゼーベック効果を応用して2地点間の温度差を測定する。",
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"text": "計測は単独ではなく、より大きな電気システムのセンサとして使われることが多い。例えば、溶鉱炉の温度を一定に保つシステムで熱電対を利用するといった場合である。このため、計測工学と制御工学は組み合わせて扱われることが多い。",
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"text": "制御システムの設計においては、フィードバックを多用する。例えば、クルーズコントロールにおいては自動車の速度を継続的に監視しフィードバックし、それによってエンジンの出力を調整している。制御理論では、あるフィードバックがあったときのシステムの応答を求めることができる。",
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"text": "デジタル信号処理は、既存のアナログのシステムがデジタルのシステムに置換されていくにつれて、その応用範囲が電力、通信、放送、医療など急激に拡大している。",
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"text": "計算機工学は計算機の設計に関連する分野であり、電気工学とは電子式の計算機の設計という分野で関連づいている。新規ハードウェアの設計、携帯情報端末の設計、コンピュータを利用した生産システムの設計などがある。システムソフトウェアも計算機工学で扱う場合があるが、複雑なソフトウェアシステムの設計はソフトウェア工学の領域であり、両者は異なる分野とされている。パーソナルコンピュータの設計はこの分野のごく一部であり、コンピュータ的アーキテクチャの電子機器はゲーム機やDVDプレーヤーなど様々なものがある。",
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"text": "メカトロニクスは電気工学と機械工学の融合した工学分野である。電気機械式システムは様々な領域で利用されている。例えば、ファクトリーオートメーション、空調システム、航空機や自動車の各種サブシステムなどである。CDプレーヤーの記録トラックを追尾するためのレーザーの精密な位置決めは、振動や焦点のずれ、ディスク媒体の変形等を補償するよう設計された電子回路によって初めて実現できたものである。",
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"text": "微視的なメカトロニクスとしてMEMSがあり、今後発展が見込まれている。例えば、自動車のエアバッグの作動タイミングを決定する仕組み、プロジェクタの映像をより鮮明にする仕組み、高精細インクジェットプリンターのインク噴射ノズルなどがMEMSの応用である。",
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"text": "日本の研究団体としては電力エネルギーに関係する分野では電気学会 (IEEJ) が、通信システム・電子デバイス・情報処理ではこれら分野を網羅する電子情報通信学会 (IEICE) が有名である。また電子工学分野では応用物理学会 (JSAP)、情報工学分野では情報処理学会 (IPSJ) で活動する研究者も多い。",
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] | 電気工学は、電気や磁気、光(電磁波)の研究や応用を取り扱う工学分野である。電気磁気現象が広汎な応用範囲を持つ根源的な現象であるため、通信工学、電子工学をはじめ、派生した技術でそれぞれまた学問分野を形成している。電気の特徴として「エネルギーの輸送手段」としても「情報の伝達媒体」としても大変有用であることが挙げられる。この観点から、前者を「強電」、後者を「弱電」と二分される。 | [[File:Inokashira_line_kugayama_electrical_substation.JPG|thumb|電気工学は、複雑な電力系の設計から…]]
[[File:HitachiJ100A.jpg|right|thumb|… 電子回路の設計まで含む。]]
'''電気工学'''(でんきこうがく、{{lang-en-short|electrical engineering}})は、[[電気]]や[[磁気]]、[[光]]([[電磁波]])の研究や応用を取り扱う[[工学]]分野である。電気磁気現象が広汎な応用範囲を持つ根源的な現象であるため、[[通信工学]]、[[電子工学]]をはじめ、派生した技術でそれぞれまた学問分野を形成している。電気の特徴として「[[エネルギー]]の輸送手段」としても「[[情報]]の伝達媒体」としても大変有用であることが挙げられる。この観点から、前者を「[[強電]]」、後者を「[[弱電]]」と二分される。
== 歴史 ==
[[File:M Faraday Th Phillips oil 1842.jpg|thumb|140px|right|[[マイケル・ファラデー]]の発見が電動機技術の基盤を築いた。]]
[[電気]]は17世紀初めごろには科学の興味の対象となっていた。世界初の電気工学者は「ベルソリウム」<ref group="注釈">{{lang-en-short|versorium}}</ref>を設計した[[ウィリアム・ギルバート (物理学者)|ウィリアム・ギルバート]]といわれている。ベルソリウムは[[静電気]]を帯びている物体を検出する機器である。彼はまた、[[磁力]]と静電気を明確に区別した最初の人物であり、「electricity(エレクトリシティ)」(電気)という用語を確立した人物と言われている<ref>{{cite web | title = William Gilbert (1544–1603) | work = Pioneers in Electricity | url = http://www.magnet.fsu.edu/education/tutorials/pioneers/gilbert.html | accessdate = 2007-05-13 }}</ref>。1775年、[[アレッサンドロ・ボルタ]]は電荷を蓄える[[電気盆]]を世に知らしめ、1800年には[[電池]]の先駆けである[[ボルタ電池]]を開発した<ref>Vaunt Design Group. (2005).[http://www.ideafinder.com/history/inventors/volta.htm ''Inventor Alessandro Volta Biography.''] Troy MI: The Great Idea Finder. Accessed 21 March 2008.</ref>。
しかし、電気に関する研究が本格化するのは19世紀になってからである。[[ゲオルグ・オーム]]は1827年、導体における[[電流]]と[[電圧|電位差]]の関係を定式化した([[オームの法則]])。1831年、[[マイケル・ファラデー]]は[[電磁誘導]]現象を発見した。[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]は電気と[[磁気]]の統一[[マクスウェルの方程式|理論]]を確立し、1873年に “Electricity and Magnetism”(抄訳「電気と磁気」)という論文を発表した<ref>{{cite encyclopedia| encyclopedia = Encyclopedia Britannica | edition = 11 | year = 1911 | article = "Ohm, Georg Simon", "Faraday, Michael" and "Maxwell, James Clerk"}}</ref>。
=== 電気工学教育の誕生と電力の商業化 ===
[[File:Thomas Edison, 1878.jpg|thumb|upright|left|[[トーマス・エジソン]]は世界初の大規模電力供給網を構築した。]]
そのころ、電気の研究は[[物理学]]の一分野とみなされていた。電気'''工学'''が大学の学科となるのは19世紀末ごろである。1882年、[[ダルムシュタット工科大学]]が世界初の電気工学科を創設した。また同年、[[マサチューセッツ工科大学]]でも物理学部で電気工学の学位を選択できるようになった<ref>{{cite book | author = Weber, Ernst | coauthors= Frederik Nebeker | title = The Evolution of Electrical Engineering: A Personal Perspective | publisher = IEEE Press | year = 1994 | isbn = 0-7803-1066-7 }}</ref>。1883年、ダルムシュタット工科大学と[[コーネル大学]]で世界初の電気工学のカリキュラムを導入し、1885年にはイギリス初の電気工学科が[[ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン]]に創設された<ref>{{cite web | title = Welcome to ECE! | work = Cornell University - School of Electrical and Computer Engineering | url = http://www.ece.cornell.edu | accessdate = 2005-12-29 }}</ref>。1886年、アメリカ合衆国初の電気工学科を[[ミズーリ大学コロンビア校]]が創設した<ref>{{cite book | author = Ryder, John | coauthors= Donald G. Fink | title = Engineers and Electrons | publisher = IEEE Press | year = 1984 | isbn = 0-87942-172-X }}</ref>。日本では、[[工部大学校|工部省工学寮工学校電信科]]が1871年に発足しているが、これが[[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]工芸学部と統合されて帝国大学工科大学(後の[[東京大学]]工学部)となったのは1886年のことだった<ref>{{PDFlink|http://www.t.u-tokyo.ac.jp/epage/department/pdf/20080321DenkiPamph_GB0321_PDF1.pdf}}</ref>。
[[File:N.Tesla.JPG|right|upright|thumb|[[ニコラ・テスラ]]は長距離送電網を実現可能とした。]]
同じころ、電気工学は劇的な発展を遂げる。1882年、[[トーマス・エジソン]]はマンハッタンの59の顧客に[[直流]]110ボルトの電力を供給する世界初の電力供給網を完成させた。1884年、[[チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ]]が[[蒸気タービン]]を発明し、これが今日では[[電力]]の80%を生み出している。1887年、[[ニコラ・テスラ]]は、エジソンの直流方式と競合する[[交流]]による電力供給方式について複数の特許を取得している。その後、直流と交流のどちらが送電方式としてふさわしいかについて、エジソンとテスラの間で[[電流戦争]]と呼ばれる激しい対立が生じた。この対立は結局、送電効率と送電距離の長さという面で優れていた交流の勝利に終わった。
この2人は、他にも様々な業績を残している。テスラは[[誘導電動機]]や[[三相交流|多相交流]]について業績を残し、後の研究に影響を与えた。エジソンは電信で業績を残し、特に株価を電信で知らせ、それを紙テープに記録に残す装置 stock ticker を製品化し、その収益で[[ゼネラル・エレクトリック]]社が生まれた。しかし、19世紀末には電気工学にさらなる進展をもたらす重要な人々が登場しつつあった<ref>{{cite web | title = History | work = National Fire Protection Association (NFPA) | url = http://www.nfpa.org/itemDetail.asp?categoryID=500&itemID=18020&URL=About%20Us/History | accessdate = 2006-01-19 }} ''(published 1996 in the NFPA Journal)''</ref>。
=== 無線工学の勃興 ===
[[ラジオ]]の開発においては、多数の科学者や[[発明家]]が無線技術や電子工学に貢献している。1881年、[[ハインリヒ・ヘルツ]]は[[電磁波]]の発生と検出を行う電気装置を製作して[[極超短波]]の実験を行った。1895年、ニコラ・テスラはニューヨーク市内の自身の実験室から発信した電波を[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]で受信する実験に成功した(距離は80.4km)<ref>Leland Anderson, "''Nikola Tesla On His Work With Alternating Currents and Their Application to Wireless Telegraphy, Telephony, and Transmission of Power''", Sun Publishing Company, LC 92-60482, ISBN 0-9632652-0-2 (''ed''. [http://www.tfcbooks.com/tesla/nt_on_ac.htm excerpts available online])</ref>。1897年、[[フェルディナント・ブラウン]]は[[オシロスコープ]]の一部として[[ブラウン管]]を発明し、これが後の[[テレビ]]を生むことになる<ref>{{cite web | title = Karl Ferdinand Braun | url = https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1909/braun/biographical/ | accessdate = 2006-09-10 }}</ref>。[[ジョン・フレミング]]は1904年、最初の[[真空管]](二極管)を発明した。2年後、{{仮リンク|ロベルト・フォン・リーベン|en|Robert von Lieben}}と[[リー・ド・フォレスト]]がそれぞれ独自に増幅効果のある[[三極管]]を発明した<ref>{{cite web | title = History of Amateur Radio | work = What is Amateur Radio? | url = http://www.amateurradio.uni-halle.de/hamradio.en.html | accessdate = 2006-01-18 }}</ref>。
1895年、[[グリエルモ・マルコーニ]]はヘルツの無線技術をさらに進展させた。まず彼は約1.5マイルの距離での無線信号の送受信実験を行った。1901年12月、マルコーニは地表面の曲率に影響されない無線電波を送信し、大西洋を横断する無線通信に成功した(距離は約3400km)<ref>[https://www.nobelprize.org/prizes/physics/1909/marconi/biographical/ Marconi's biography at Nobelprize.org] retrieved 21 June 2008.</ref>。
=== その後の進展 ===
1920年、{{仮リンク|アルバート・ハル|en|Albert W. Hull}}が[[マグネトロン]]を開発し、1946年の[[パーシー・スペンサー]]による[[電子レンジ]]開発の元となった<ref>{{cite web | title = Albert W. Hull (1880–1966) | work = IEEE Global History Network | url = http://www.ieeeghn.org/wiki/index.php/Albert_W._Hull | accessdate = 2009-10-31 }}</ref><ref>{{cite web | title = Who Invented Microwaves? | url = http://www.gallawa.com/microtech/history.html | accessdate = 2006-01-22 }}</ref>。1934年、イギリス軍は[[レーダー]](これもマグネトロンを応用したもの)の開発に着手し、1936年8月には[[:en:Bawdsey|Bawdsey]]で世界初のレーダー基地の運用が始まった<ref>{{cite web | title = Early Radar History | work = Peneley Radar Archives | url = http://www.penleyradararchives.org.uk/history/introduction.htm | accessdate = 2006-01-22 }}</ref>。
1941年、[[コンラート・ツーゼ]]は世界初のプログラム可能な完全自動計算機[[Zuse Z3|Z3]]を公開した<ref>{{cite web | title = The Z3 | url = http://irb.cs.tu-berlin.de/~zuse/Konrad_Zuse/en/Rechner_Z3.html | accessdate = 2006-01-18 }}</ref>。1946年には[[ジョン・プレスパー・エッカート]]と[[ジョン・モークリー]]の[[ENIAC]]が続き、コンピュータ時代が始まった<ref>{{cite web | title = The ENIAC Museum Online | url = http://www.seas.upenn.edu/~museum/guys.html | accessdate = 2006-01-18 }}</ref>。コンピュータの計算能力によって、様々な新技術の開発が可能となり、[[アポロ計画]]とその[[月面着陸]]もコンピュータがあるからこそ可能になった。
1947年、[[ウィリアム・ショックレー]]、[[ジョン・バーディーン]]、[[ウォルター・ブラッテン]]が[[トランジスタ]]を発明し、より小型の機器を開発する[[電子工学]]や[[半導体工学]]への道が開かれた。
== 電気工学と関連分野の発展 ==
電気工学の源流は基礎理論としての電気回路学と実用としての電力工学である。次に情報の伝達の観点から通信工学が派生する。通信工学の発展の過程で増幅器、高周波発振のための真空管が発達し、1940年ごろの半導体による固体増幅素子の発明があり電子工学が生まれる。電子工学の利用方法として論理演算の機械化が可能になり、ここからコンピュータを利用した[[情報工学]]が起こる。また電気回路学の周波数応答の研究から、制御工学が派生している。
=== 電力工学 ===
{{Main|電力工学}}
[[File:Power pole.jpg|thumb|電柱]]
電力工学は、電気のエネルギーとしての利用に関する工学である。エネルギーの発生としての[[発電]]と[[電力流通]]としての送電が2大テーマで、高[[電圧]]・大[[電流]]に耐えうる[[電力回路]]、[[絶縁体]]などの[[電気材料]]について取り扱う。[[変圧器]]、[[発電機]]、[[発動機]]、高電圧工学、[[パワーエレクトロニクス]]などを含む。多くの国では、[[発電]]・[[送電]]・[[配電]]の[[電力網]]を政府が維持管理している。利用者は電力網からエネルギーを購入でき、自前で発電するコストを抑えることができる。電力工学者は電力網および電力網に接続する電力システムの設計や保守を研究している。電力システムは電力網に電力を供給するものと電力網から電力を引き出すものがある(あるいは、両方同時に行うものもある)。電力網に接続しない電力システムも研究対象である。リアルタイムのフィードバックにより電力需要の急増に対応し停電を防ぐ人工衛星制御の電力システムなどが今後の研究課題である。
=== 通信工学 ===
{{Main|通信工学}}
[[ファイル:Goldstone DSN antenna.jpg|サムネイル|[[ディープスペースネットワーク]]で使用される巨大な[[パラボラアンテナ]]]]
情報通信に関する分野で、[[電気通信]]、電磁気学がある。[[情報]]を一地点から別な地点に送るためには、[[同軸ケーブル]]、[[光ケーブル]]や[[自由空間]]などの[[伝送路]]を必要とする。これら伝送路は[[マクスウェルの方程式]]をはじめとする電磁気学の法則を用いて正確に記述することができる。自由空間での通信の場合、伝送に適した搬送周波数に情報を変換した[[搬送波]]の形にする必要があり、それを[[変調]]と呼ぶ。変調方式には[[振幅変調]]、[[周波数変調]]などの技法がある。変調方式によってシステムのコストと性能は異なり、両者のバランスを工学者や技術者が注意深く調整する。
システムの伝送特性が決まると、次に[[送信機]]と[[受信機]]の設計を行う。送信と受信の機能を兼ね備えた機器を[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]と呼ぶ。送信機の設計にあたっては、電力消費が信号強度と密接に関連している点が重要である。送信機の信号強度が不十分な場合、雑音によって情報が失われることになる。
==== 無線工学 ====
{{Main|無線工学}}
通信工学の一分野として無線通信を対象とする無線工学がある。[[電磁気学]]の応用としてアンテナの指向性、利得に関する研究が主要テーマである。
=== 電子工学 ===
{{Main|電子工学}}
[[ファイル:Raspberry Pi 4 Model B - Top.jpg|サムネイル|「[[Raspberry Pi]]」の[[回路基板]]]]
真空中、固体中や電界中、磁界中などにおける電子のふるまいを解明、理論化し、またそれをもとに、種々の電子素子、装置などの制御を行う技術。[[抵抗器]]、[[キャパシタ]]、[[インダクタ]]、[[トランジスタ]]、[[ダイオード]]、その他の[[半導体素子]]などの[[電子回路]]素子モデルをつくる。このモデルを使う目的は、回路の[[シミュレーション]]を行うためであり、その部分的な回路を組み合わせて大規模な回路を作り上げることができる。
第二次世界大戦以前は、電子工学は[[無線工学]]とほぼ同義で、応用範囲は[[電気通信]]や[[レーダー]]、[[ラジオ]]、初期の[[テレビ]]などに限られていた。戦後、民生用電子機器が開発されるようになり、テレビ、音響機器、[[コンピュータ]]、[[マイクロプロセッサ]]などの開発と共に電子工学も発展していった。1950年代末には[[無線工学]]と[[電子工学]]は完全に別の分野と認識されるようになった。
1959年の[[集積回路]]の発明以前、電子回路は個別の部品を組み合わせて構築されていた。当然ながら回路の実装に要する空間も[[電力]]も大きく、動作速度は遅かった。それでも、今もそのような回路実装の用途がある。一方[[集積回路]]は[[トランジスタ]]を中心とした微小な電子部品をひとまとめにして、小さなチップ内に回路を構成する。これによって[[コンピュータ]]などの電子機器の性能が向上していった。
==== 半導体工学 ====
{{Main|半導体工学}}
[[File:80486dx2-large.jpg|thumb|[[マイクロプロセッサ]]]]
[[半導体素子]]の微細化の絶え間ない進展は、VLSI製造プロセスの発展をもたらし、完全な[[システム]]をひとつのチップに実装する技術を実現した。[[マイクロプロセッサ]]はこの進展の成果で、[[計算機工学|コンピュータ工学]]の関連分野とかかわる。
材質に着目すると「半導体工学」だが、製造技術に着目すると「[[マイクロエレクトロニクス]]」と呼ばれる。これらはほぼ同義だが、マイクロエレクトロニクスは必ずしも'''半導体'''[[集積回路]]に限定されない。
[[シリコン]]などの半導体ウェハーを化学的に製造する技術を含み、化学や[[材料工学]]と密接に関連する。また、微細な設計にあたっては[[量子力学]]的知識も要求される。
==== 光エレクトロニクス ====
{{Main|光エレクトロニクス}}
[[電子]](電気)と[[光子]](光)の両方を取り扱う電子工学の一分野は光エレクトロニクスまたはオプトエレクトロニクスと呼ばれる。この分野で扱う[[光ケーブル]]は高速な通信システムの開発と[[インターネット]]の発展をもたらした。
=== 電気計測工学・計測工学 ===
{{Main|電気計測工学|計測工学}}
電気計測工学は、電気的特性の正確な測定に関する分野。[[電気回路]]・[[電子回路]]の測定を行うと、被測定回路の[[電圧]]や[[電流]]に影響を与えることが避けられない。測定技術の目的は、測定回路の影響を最小化あるいは[[補償]]することである。この分野には物質の電気的特性を利用する[[センサ]]や電気=[[機械]]的な測定手段も含まれる。前者の例としては[[圧力]]を測定するピエゾ[[圧電素子]]や[[温度]]を測定する温度に依存する[[電気抵抗]]素子がある。これらのセンサは[[制御工学]]においても用いることができる。
[[ファイル:H-system.JPG|サムネイル|[[スピードガン|速度測定器]]を応用した[[速度違反自動取締装置]]]]
計測工学は、圧力、[[流れ]]、温度といった物理量を測定する機器の設計を扱う。そういった測定機器の設計には、[[電磁気学]]だけでなく様々な物理学の知識を必要とする。例えば、[[スピード測定器]]は[[ドップラー効果]]を応用して近づいてくる自動車の速度を測定する。同様に[[熱電対]]は[[熱電効果|ペルティエ-ゼーベック効果]]を応用して2地点間の温度差を測定する。
計測は単独ではなく、より大きな電気システムのセンサとして使われることが多い。例えば、溶鉱炉の温度を一定に保つシステムで熱電対を利用するといった場合である。このため、計測工学と制御工学は組み合わせて扱われることが多い。
=== 制御工学 ===
{{Main|制御工学}}
[[ファイル:HTV-2 Kounotori 2 approaches the grapple position.jpg|サムネイル|[[ISS]]に接近する[[宇宙ステーション補給機]]。[[制御システム]]は[[宇宙飛行]]において重要な役目を果たしている。]]
制御工学は様々な[[力学系]]をモデル化し、システムの振る舞いを望んだ形にするための制御装置の設計を行う。そのような制御装置の実装にあたって、電子回路、[[デジタル信号処理]]、[[マイクロコントローラ]]、[[プログラマブルロジックコントローラ|PLC]]などを使うこともある。制御工学には、[[旅客機]]のフライトシステムから[[自動車]]の[[クルーズコントロール]]まで、様々な応用がある。また、[[ファクトリーオートメーション]]でも重要な役目を果たしている。
制御システムの設計においては、[[フィードバック]]を多用する。例えば、クルーズコントロールにおいては自動車の[[速度]]を継続的に監視しフィードバックし、それによってエンジンの出力を調整している。[[制御理論]]では、あるフィードバックがあったときのシステムの応答を求めることができる。
=== 信号処理 ===
{{Main|信号処理}}
[[File:Bayer pattern on sensor.svg|thumb|[[べイヤーフィルター]]と[[撮像素子]]による、ピクセル毎に1色ずつの情報から、ピクセル毎にRGBの情報がある画像データを生成するのも信号処理の応用のひとつである。]]
信号処理は[[信号 (電気工学)|信号]]の解析や操作を扱う分野である。信号には連続的に変化する[[アナログ信号]]と、離散的な値をとる[[デジタル信号]]がある。アナログ信号の場合、信号処理は音声信号などの[[増幅]]や[[フィルタ回路|フィルタリング]]、電気通信における信号の[[変調]]や[[復調]]を扱う。デジタル信号の場合、信号処理は標本化された信号の[[データ圧縮|圧縮]]や[[誤り検出訂正]]を扱う。
[[デジタル信号処理]]は、既存のアナログのシステムがデジタルのシステムに置換されていくにつれて、その応用範囲が電力、通信、放送、医療など急激に拡大している。
かつて[[アナログ信号処理]]はアナログのハードウェアで実装されたシステムの設計を数学的に表すだけのものだったが、[[デジタル信号処理]]は設計を数学的に記述するだけでなく、ハードウェア問題とは独立してそのまま(ソフトウェアまたはハードウェアへの埋め込みで)実装することもできるようになった。そのためデジタル信号処理は重要性を増しつつある。
信号と信号が運んでいる情報には強い関係があり、信号処理は情報処理と等価でもある。それが信号処理に幅広い用途がある理由である。[[デジタルシグナルプロセッサ|DSP]]チップは、テレビ、ラジオ、携帯機器、音響機器、[[ノイズリダクション]]アルゴリズム、[[デジタルオーディオプレーヤー|MP3プレーヤー]]、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]][[カーナビゲーション]]、各種[[画像処理]]・[[音響信号処理|音響処理]]・[[音声処理]]システムといった様々な電子機器に組み込まれている。
=== 計算機工学 ===
{{Main|計算機工学}}
[[File:Palm IIIxe PDA.jpg|thumb|[[携帯情報端末]]]]
計算機工学は計算機の設計に関連する分野であり、電気工学とは電子式の計算機の設計という分野で関連づいている<ref group="注釈">計算機を実現する方法には様々あり、電子式の計算機の他にも、[[DNAコンピュータ]]や[[光コンピュータ]]や[[量子コンピュータ]]などがある。</ref>。新規[[ハードウェア]]の設計、[[携帯情報端末]]の設計、コンピュータを利用した生産システムの設計などがある。[[システムソフトウェア]]も計算機工学で扱う場合があるが、複雑なソフトウェアシステムの設計は[[ソフトウェア工学]]の領域であり、両者は異なる分野とされている。[[パーソナルコンピュータ]]の設計はこの分野のごく一部であり、コンピュータ的アーキテクチャの電子機器は[[ゲーム機]]や[[DVDプレーヤー]]など様々なものがある。
== 関連する学問分野 ==
[[メカトロニクス]]は電気工学と[[機械工学]]の融合した工学分野である。電気機械式システムは様々な領域で利用されている。例えば、[[ファクトリーオートメーション]]、[[空気調和|空調システム]]、[[航空機]]や自動車の各種サブシステムなどである。[[CDプレーヤー]]の記録[[トラック (記録媒体)|トラック]]を追尾するための[[レーザー]]の精密な位置決めは、[[振動]]や[[焦点 (光学)|焦点]]のずれ、[[ディスクメディア|ディスク媒体]]の変形等を補償するよう設計された電子回路によって初めて実現できたものである。
微視的なメカトロニクスとして[[MEMS]]があり、今後発展が見込まれている。例えば、自動車の[[エアバッグ]]の作動タイミングを決定する仕組み、[[プロジェクタ]]の映像をより鮮明にする仕組み、高精細[[インクジェットプリンター]]のインク噴射ノズルなどがMEMSの応用である。
[[医用生体工学]]は、[[医療機器]]の設計を扱う関連分野である<ref>{{Cite journal|title=医療分野における電気・電子工学への期待|author=上野照剛|journal=電気学会誌|publisher=電気学会|volume=124|issue=4|pages=208-209|date=2004|doi=10.1541/ieejjournal.124.208}}</ref>。[[人工呼吸器]]、[[核磁気共鳴画像法|MRIスキャナー]]、[[心電図]]モニターなどの医療用装置だけでなく、[[人工内耳]]、[[心臓ペースメーカー]]、[[人工心臓]]といった体内に埋め込む機器もある。
電気技術者の道具と理論は、[[数学]]および[[物理学]]を基礎にしている。特に電気現象の基礎として[[電磁気学]]、電気回路の解析手法である回路理論が必要不可欠である。また、[[量子力学]]、[[信号処理]]、[[制御理論]]、[[計算機科学]]などの知見も重要である。
電磁気学がほかの日常生活に関わっている例としては、[[携帯電話]]の[[アンテナ]]の設計、[[核磁気共鳴画像法|磁気共鳴画像]]スキャナにおいて[[電磁石]]の正確な配置調整により[[電磁場]]の形成を制御することがあげられる。さらに電磁気学により実現できた技術として[[電子レンジ]]がある。
== 学会 ==
世界的規模では「[[IEEE|The Institute of Electrical and Electronics Engineers]] (IEEE)米国電気電子学会」が電気関連の研究者の間で著名かつ最も有力な学会である。IEEEは非営利の研究団体であり、[[規格]]書、出版物や定期刊行物の発行や学会やワークショップの開催を行っている。IEEEの学会誌は数十種類に及ぶ各論に分かれて発行されている。IEEEは事実上世界最大の学会である。
海外では他に英国の「The Institute of Electrical Engineers (IEE)」がよく知られている。
日本の研究団体としては電力エネルギーに関係する分野では[[電気学会]] (IEEJ) が、通信システム・電子デバイス・情報処理ではこれら分野を網羅する[[電子情報通信学会]] (IEICE) が有名である。また電子工学分野では[[応用物理学会]] (JSAP)、情報工学分野では[[情報処理学会]] (IPSJ) で活動する研究者も多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* [[高木純一]]『電気の歴史 ― 計測を中心として ―』オーム社、1967年。
* [[山崎俊雄]]、木本忠昭『新版 電気の技術史』オーム社、1992年。ISBN 978-4-27412-914-8
* 岩本洋『絵でみる電気の歴史 ― 図版300枚で物語る電気の発見の旅』オーム社、2003年。ISBN 978-4-27494-323-2
* [[高橋雄造]]『電気の歴史 人と技術のものがたり』東京電機大学出版局、2011年。ISBN 978-4-50111-560-9
* 矢田恒二『電気技術発展の秘話: 技術を陰で支えた人々』オーム社、2020年。ISBN 978-4-27422-524-6
== 関連項目 ==
* [[エレクトロニクス用語一覧]]
* [[EDA (半導体)|EDA]]
* [[IEEE]]
* [[国際電気標準会議]] (IEC)
* [[電気工事士]]
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Electrical engineering}}
{{Wikibooks}}
* [http://www.power-academy.jp/ 電気工学の基礎知識や全国の大学・研究室紹介 | パワーアカデミー]
* [http://www.ieeeghn.org/ IEEE Global History Network] ウィキベースのIEEEの歴史に関するリソース。
* [http://www.iec.ch/ 国際電気標準会議(IEC)]
* {{Kotobank}}
{{Engineering fields}}
{{電気電力}}
{{テクノロジー史}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんきこうかく}}
[[Category:電気工学|*]]
[[Category:ウィリアム・ギルバート (物理学者)]] | 2003-03-15T10:42:43Z | 2023-08-14T03:49:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E5%B7%A5%E5%AD%A6 |
4,074 | タマちゃん | タマちゃんは、2002年8月に多摩川に現れたオスのアゴヒゲアザラシの愛称である。当時は1歳前後のこどもで、体長は約1メートル前後であった。
2002年8月、多摩川の丸子橋付近に出現。新聞やニュース等でも取り上げられ、話題となった。その後、神奈川県横浜市港北区の鶴見川の大綱橋付近や同市西区の帷子川の横浜駅近くなどに出没。鶴見川や帷子川は典型的な都市河川として水質が悪いと思われていたため、市民から大丈夫かという不安の声も出たが、それは杞憂に終わった。いずれの河川も海水と真水が混じり合った汽水域を持ち、タマちゃんのエサとなるエビや魚が豊富であるため、遡上出没したのではないかと解説された。タマちゃんの動向が報道されることにより、市民の関心が薄かった都市河川や東京湾の状況に関心を持たせる効果を生んだ。
当時の内閣総理大臣である小泉純一郎も内閣府内のインタビューでコメントするなどメディアで話題となり、2002年新語・流行語大賞の年間大賞に選出されている。
タマちゃんはアゴヒゲアザラシの迷入個体だったが、結局無理な捕獲は、ショック死させる可能性が高いことと、野生のアザラシに近づくのは危険であるため、静観の対応がとられた。
2003年以降、タマちゃんと見られるアゴヒゲアザラシが埼玉県朝霞市の荒川(JR武蔵野線荒川橋梁上流側の秋ヶ瀬マリーナとその周辺)に出没し、翌2004年前半まで見かけられ、ブームが継続する。しかし、同年4月以降は姿を消し、同年7月にはタマちゃんは海に還ったという報道もされているが、その行方は定かではない。
「タマちゃんフィーバー」とマスコミに形容されるように、タマちゃんにあやかるような様々な企画が展開された。
2003年2月、横浜市西区より特別住民票を与えられ西区の名誉区民となった。登録名はニシ タマオ。住所は西区西平沼町帷子川護岸、生年月日は不詳、性別はオス。なお、住民票発行の根拠となる法律は存在せず、法的には市町村や特別区が配付する広報印刷物の一種にすぎない。これに関して、在日外国人20人がコメディアンのデーブ・ガタリッジの主催で「動物を住民登録するのなら私たち人間にこそ住民票を」とアザラシのコスプレをして抗議行動を行う一幕もあった。
これ以後、各地で海獣を中心とした野生動物が一定期間出没した事で特別住民票を発行する自治体が相次いだ(2009年に釧路市で出没したラッコのクーちゃん等多数)。
タマちゃんを題材とする楽曲(殆どがアマチュア歌手・作家によるインディーズ盤)が作られた。経緯は不明であるが「タマちゃん音頭」という同名異曲が多数作られている。
テレビ朝日系列で放送されたテレビアニメ『釣りバカ日誌』第26話「ハマちゃん家にタマちゃんがやってきた!の巻(前編)」(2003年6月28日放送)・第27話「ハマちゃん家にタマちゃんがやってきた!の巻(後編)」(2003年7月5日放送)において、アニメ出演を果たした。
2002年8月7日、多摩川に迷入したアゴヒゲアザラシが撮影され、ビデオがフジテレビに持ち込まれニュースやワイドショーで取り上げられる。PR会社「プラップジャパン」がこれに目をつけ、素早いPR展開方法、批判を受けない上手な動物活用、河川事業PRの盛り込み方など緊急検討し、10日、国交省京浜河川事務所に、流域住民向けのアザラシによる河川事業PR計画を提案した。「いなくなる前に」という制約もあってか異例の即採用となった。16日にはアザラシ情報のページが開設され防災用カメラで映像中継も用意されるとアクセスが殺到し、メディアも連日取り上げるようになった。
プラップジャパンは、タマちゃん人気のみでは意味がなく、京浜河川事務所のメッセージを伝える機会であるとし、マスコミや住民対応についても助言していた。想定問答集を作り職員が同じ対応になるようにした。取材時に水質について質問があれば単に水質のみを答えるのではなく「多摩川の汚れの主な原因は生活排水なので、住民の意識でもっときれいにすることができる」と添えるよう教えた。この主張にしたがって記事やニュースを報道してもらえれば成功ということになる。また関係機関との調整やアザラシが死亡した場合の対応なども助言していた。
その結果、マスコミに取り上げられた件数(パブリシティ)8月15日〜9月15日の1ヶ月で在京TV局135番組、全国紙98紙。雑誌も含めた2ヶ月間の広告換算額 84億円。タマちゃんニュースに関連して、多摩川の水質浄化、自然環境や「親水事業」への理解や関心を扱った多数の報道。ウェブサイトのアクセス数を増やし市民の意見を集められたこと。などの十分な成果をおさめた。
京浜河川事務所は成果を国交省内の広報コンテストで発表し、裏方としてPR計画を進めたプラップジャパンもPRの目的が達成でき、自社の成功事例として紹介している。
タマちゃんの出没から1ヶ月経過した2002年9月には、宮城県本吉郡歌津町(現在の南三陸町)で別のアザラシが出没し、ウタちゃんと名付けられるなどアザラシ追っかけブームが発生。これ以降、東日本地域を中心とする太平洋・日本海沿岸各地で野生のアザラシやアシカ科(キタオットセイ等)・イルカなどが出没する度に報じられるようになった。
2006年9月にはタマちゃんが出没した荒川と並行する新河岸川沿いの川越市の田畑で衰弱した野生のキタオットセイの子供が発見され(しんちゃんと名付けられる)、上野動物園職員が捕獲・収容後、鴨川シーワールドで半年ほど加療して2007年3月に銚子沖で放流された事例もある。
2011年10月上旬、埼玉県志木市の荒川の秋ヶ瀬取水堰付近にタマちゃん以来7年半ぶりにアザラシが出現。10月10日にテレビ朝日らが報道し、翌11日・12日は東京キー局(NNN系列では情報ライブ ミヤネ屋のytvのクルーを含む)・テレ玉・NHKさいたま放送局と主要新聞社の取材陣が秋ヶ瀬取水堰そばの堤防に集結し、報道を見た数十人の近隣住民らがマイカーや自転車で見物に訪れる事態となっている。なお、見物人の増加により、取水堰の管理用地や道路上に路上駐車する車が現れたため、秋ヶ瀬取水堰の管理所では車の移動や河川への立ち入り禁止を促す警告放送を実施している。
当初の報道ではタマちゃんの再来とする媒体もあった。が、報道各社の取材で別の種類のゴマフアザラシだとする各地の水族館職員の証言が相次いでいる。
このアザラシは志木あらちゃんの名前で特別住民票が交付されることになった。
2012年11月25日開催のタウンページ協賛ゆるキャラ(R)グランプリ2012に、「志木あらちゃん」が志木市商工会のキャラクターである「カッピー」と共にエントリーした。
2011年10月25日時点で、NHK・在京キー局での志木あらちゃんに関する報道は102番組で合計7時間47分30秒に及び、これら一連の報道による志木市への広告効果は、ニホンモニターの試算によればCMスポット料金換算で75億円に上る。これは2011年度の志木市の広報活動予算の約324年分に相当するとされる。
2013年3月7日、鳥取県鳥取市の湖山池でワモンアザラシの子供と思われるアザラシが発見された。湖山池は長さ3キロメートルの湖山川で海と繋がった汽水であり、そこから迷い込んだと推測されている。鳥取市では同年9月から湖山池を中心とした会場で「水と緑のオアシスとっとり2013(第30回全国都市緑化フェア)」が開催予定であり、鳥取県知事平井伸治は、それにちなんで「コヤマみどり(コヤちゃん)」と命名。県の公式サイト内に専用ページ「コヤちゃんねる」が設置された。
同月12日には鳥取市からコヤちゃんに特別住民票が交付された。市長の竹内功は「末永く湖山池に住んで、緑化フェアの盛り上げに一役も二役もかって頂きたい」とコメントしている。 | [
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"text": "タマちゃんは、2002年8月に多摩川に現れたオスのアゴヒゲアザラシの愛称である。当時は1歳前後のこどもで、体長は約1メートル前後であった。",
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"text": "2002年8月、多摩川の丸子橋付近に出現。新聞やニュース等でも取り上げられ、話題となった。その後、神奈川県横浜市港北区の鶴見川の大綱橋付近や同市西区の帷子川の横浜駅近くなどに出没。鶴見川や帷子川は典型的な都市河川として水質が悪いと思われていたため、市民から大丈夫かという不安の声も出たが、それは杞憂に終わった。いずれの河川も海水と真水が混じり合った汽水域を持ち、タマちゃんのエサとなるエビや魚が豊富であるため、遡上出没したのではないかと解説された。タマちゃんの動向が報道されることにより、市民の関心が薄かった都市河川や東京湾の状況に関心を持たせる効果を生んだ。",
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"text": "当時の内閣総理大臣である小泉純一郎も内閣府内のインタビューでコメントするなどメディアで話題となり、2002年新語・流行語大賞の年間大賞に選出されている。",
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"text": "タマちゃんはアゴヒゲアザラシの迷入個体だったが、結局無理な捕獲は、ショック死させる可能性が高いことと、野生のアザラシに近づくのは危険であるため、静観の対応がとられた。",
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"text": "2003年以降、タマちゃんと見られるアゴヒゲアザラシが埼玉県朝霞市の荒川(JR武蔵野線荒川橋梁上流側の秋ヶ瀬マリーナとその周辺)に出没し、翌2004年前半まで見かけられ、ブームが継続する。しかし、同年4月以降は姿を消し、同年7月にはタマちゃんは海に還ったという報道もされているが、その行方は定かではない。",
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"text": "「タマちゃんフィーバー」とマスコミに形容されるように、タマちゃんにあやかるような様々な企画が展開された。",
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"text": "2003年2月、横浜市西区より特別住民票を与えられ西区の名誉区民となった。登録名はニシ タマオ。住所は西区西平沼町帷子川護岸、生年月日は不詳、性別はオス。なお、住民票発行の根拠となる法律は存在せず、法的には市町村や特別区が配付する広報印刷物の一種にすぎない。これに関して、在日外国人20人がコメディアンのデーブ・ガタリッジの主催で「動物を住民登録するのなら私たち人間にこそ住民票を」とアザラシのコスプレをして抗議行動を行う一幕もあった。",
"title": "タマちゃんに乗じた企画"
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"text": "これ以後、各地で海獣を中心とした野生動物が一定期間出没した事で特別住民票を発行する自治体が相次いだ(2009年に釧路市で出没したラッコのクーちゃん等多数)。",
"title": "タマちゃんに乗じた企画"
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"text": "タマちゃんを題材とする楽曲(殆どがアマチュア歌手・作家によるインディーズ盤)が作られた。経緯は不明であるが「タマちゃん音頭」という同名異曲が多数作られている。",
"title": "タマちゃんに乗じた企画"
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"text": "テレビ朝日系列で放送されたテレビアニメ『釣りバカ日誌』第26話「ハマちゃん家にタマちゃんがやってきた!の巻(前編)」(2003年6月28日放送)・第27話「ハマちゃん家にタマちゃんがやってきた!の巻(後編)」(2003年7月5日放送)において、アニメ出演を果たした。",
"title": "タマちゃんに乗じた企画"
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"text": "2002年8月7日、多摩川に迷入したアゴヒゲアザラシが撮影され、ビデオがフジテレビに持ち込まれニュースやワイドショーで取り上げられる。PR会社「プラップジャパン」がこれに目をつけ、素早いPR展開方法、批判を受けない上手な動物活用、河川事業PRの盛り込み方など緊急検討し、10日、国交省京浜河川事務所に、流域住民向けのアザラシによる河川事業PR計画を提案した。「いなくなる前に」という制約もあってか異例の即採用となった。16日にはアザラシ情報のページが開設され防災用カメラで映像中継も用意されるとアクセスが殺到し、メディアも連日取り上げるようになった。",
"title": "タマちゃんとPR会社"
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"text": "プラップジャパンは、タマちゃん人気のみでは意味がなく、京浜河川事務所のメッセージを伝える機会であるとし、マスコミや住民対応についても助言していた。想定問答集を作り職員が同じ対応になるようにした。取材時に水質について質問があれば単に水質のみを答えるのではなく「多摩川の汚れの主な原因は生活排水なので、住民の意識でもっときれいにすることができる」と添えるよう教えた。この主張にしたがって記事やニュースを報道してもらえれば成功ということになる。また関係機関との調整やアザラシが死亡した場合の対応なども助言していた。",
"title": "タマちゃんとPR会社"
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"text": "その結果、マスコミに取り上げられた件数(パブリシティ)8月15日〜9月15日の1ヶ月で在京TV局135番組、全国紙98紙。雑誌も含めた2ヶ月間の広告換算額 84億円。タマちゃんニュースに関連して、多摩川の水質浄化、自然環境や「親水事業」への理解や関心を扱った多数の報道。ウェブサイトのアクセス数を増やし市民の意見を集められたこと。などの十分な成果をおさめた。",
"title": "タマちゃんとPR会社"
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"text": "京浜河川事務所は成果を国交省内の広報コンテストで発表し、裏方としてPR計画を進めたプラップジャパンもPRの目的が達成でき、自社の成功事例として紹介している。",
"title": "タマちゃんとPR会社"
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"text": "タマちゃんの出没から1ヶ月経過した2002年9月には、宮城県本吉郡歌津町(現在の南三陸町)で別のアザラシが出没し、ウタちゃんと名付けられるなどアザラシ追っかけブームが発生。これ以降、東日本地域を中心とする太平洋・日本海沿岸各地で野生のアザラシやアシカ科(キタオットセイ等)・イルカなどが出没する度に報じられるようになった。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"text": "2006年9月にはタマちゃんが出没した荒川と並行する新河岸川沿いの川越市の田畑で衰弱した野生のキタオットセイの子供が発見され(しんちゃんと名付けられる)、上野動物園職員が捕獲・収容後、鴨川シーワールドで半年ほど加療して2007年3月に銚子沖で放流された事例もある。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"text": "2011年10月上旬、埼玉県志木市の荒川の秋ヶ瀬取水堰付近にタマちゃん以来7年半ぶりにアザラシが出現。10月10日にテレビ朝日らが報道し、翌11日・12日は東京キー局(NNN系列では情報ライブ ミヤネ屋のytvのクルーを含む)・テレ玉・NHKさいたま放送局と主要新聞社の取材陣が秋ヶ瀬取水堰そばの堤防に集結し、報道を見た数十人の近隣住民らがマイカーや自転車で見物に訪れる事態となっている。なお、見物人の増加により、取水堰の管理用地や道路上に路上駐車する車が現れたため、秋ヶ瀬取水堰の管理所では車の移動や河川への立ち入り禁止を促す警告放送を実施している。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"text": "当初の報道ではタマちゃんの再来とする媒体もあった。が、報道各社の取材で別の種類のゴマフアザラシだとする各地の水族館職員の証言が相次いでいる。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"text": "このアザラシは志木あらちゃんの名前で特別住民票が交付されることになった。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"text": "2012年11月25日開催のタウンページ協賛ゆるキャラ(R)グランプリ2012に、「志木あらちゃん」が志木市商工会のキャラクターである「カッピー」と共にエントリーした。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"text": "2011年10月25日時点で、NHK・在京キー局での志木あらちゃんに関する報道は102番組で合計7時間47分30秒に及び、これら一連の報道による志木市への広告効果は、ニホンモニターの試算によればCMスポット料金換算で75億円に上る。これは2011年度の志木市の広報活動予算の約324年分に相当するとされる。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"text": "2013年3月7日、鳥取県鳥取市の湖山池でワモンアザラシの子供と思われるアザラシが発見された。湖山池は長さ3キロメートルの湖山川で海と繋がった汽水であり、そこから迷い込んだと推測されている。鳥取市では同年9月から湖山池を中心とした会場で「水と緑のオアシスとっとり2013(第30回全国都市緑化フェア)」が開催予定であり、鳥取県知事平井伸治は、それにちなんで「コヤマみどり(コヤちゃん)」と命名。県の公式サイト内に専用ページ「コヤちゃんねる」が設置された。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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"paragraph_id": 22,
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"text": "同月12日には鳥取市からコヤちゃんに特別住民票が交付された。市長の竹内功は「末永く湖山池に住んで、緑化フェアの盛り上げに一役も二役もかって頂きたい」とコメントしている。",
"title": "経緯が類似する他の出没動物"
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] | タマちゃんは、2002年8月に多摩川に現れたオスのアゴヒゲアザラシの愛称である。当時は1歳前後のこどもで、体長は約1メートル前後であった。 | {{Otheruses|アザラシ|その他|玉ちゃん}}
[[ファイル:Asaka Tama-chan In Ara River 1.jpg|thumb|right|300px|荒川の秋ヶ瀬マリーナに現れたタマちゃん]]
'''タマちゃん'''は、[[2002年]]8月に[[多摩川]]に現れた[[雄|オス]]の[[アゴヒゲアザラシ]]の愛称である。当時は1歳前後のこどもで、体長は約1メートル前後であった<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO36850710U8A021C1000000/ ひょっこり現れた人気者]日本経済新聞(2018年10月26日)2020年2月27日閲覧</ref>。
== 概要 ==
[[2002年]][[8月]]、多摩川の[[丸子橋]]付近に出現。新聞やニュース等でも取り上げられ、話題となった。その後、[[神奈川県]][[横浜市]][[港北区]]の[[鶴見川]]の大綱橋付近や同市[[西区 (横浜市)|西区]]の[[帷子川]]の[[横浜駅]]近くなどに出没。鶴見川や帷子川は典型的な都市河川として水質が悪いと思われていたため、市民から大丈夫かという不安の声も出たが、それは杞憂に終わった。いずれの河川も海水と真水が混じり合った[[汽水域]]を持ち、タマちゃんのエサとなるエビや魚が豊富であるため、遡上出没したのではないかと{{誰に|date=2020年2月}}解説された。タマちゃんの動向が報道されることにより、市民の関心が薄かった都市河川や[[東京湾]]の状況に関心を持たせる効果を生んだ。
当時の[[内閣総理大臣]]である[[小泉純一郎]]も[[内閣府]]内の[[インタビュー]]でコメントするなどメディアで話題となり、2002年[[新語・流行語大賞]]の年間大賞に選出されている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00019 |title=新語・流行語大賞|agency=ユーキャン|accessdate=2020年2月27日}}</ref>。
タマちゃんは[[アゴヒゲアザラシ]]の迷入個体だったが、結局無理な捕獲は、[[ショック死]]させる可能性が高いことと、野生のアザラシに近づくのは危険であるため、静観の対応がとられた。
[[2003年]]以降、タマちゃんと見られるアゴヒゲアザラシが[[埼玉県]][[朝霞市]]の[[荒川 (関東)|荒川]]([[東日本旅客鉄道|JR]][[武蔵野線]][[荒川橋梁 (武蔵野線)|荒川橋梁]]上流側の秋ヶ瀬マリーナ<ref>{{Cite web|和書|url=https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/00033/contents/0009.htm |title=船舶の河川航行に関する調査研究報告書 |website=日本財団図書館 |accessdate=2022-01-22}}</ref>とその周辺)に出没し、翌[[2004年]]前半まで見かけられ、ブームが継続する。しかし、同年4月以降は姿を消し、同年[[7月]]にはタマちゃんは海に還ったという報道もされている<ref>[[2004年]][[7月14日]]付[[読売新聞]]</ref>が、その行方は定かではない。
=== タマちゃんが確認された期間と河川 ===
* [[2002年]][[8月7日]] - 2002年[[8月17日]] - 多摩川
* 2002年[[8月25日]] - 2002年[[8月30日]] - 鶴見川
* 2002年[[9月12日]] - 2002年[[9月13日]] - 帷子川
* 2002年[[9月15日]] - 2002年[[9月24日]] - [[大岡川 (神奈川県)|大岡川]]
* 2002年[[9月29日]] - [[2003年]][[3月14日]] - 帷子川
* 2003年[[4月20日]] - 2003年[[4月23日]] - [[中川]]
* 2003年[[4月30日]] - 2004年4月12日 - 荒川
* 最後に確認されたのは[[2004年]][[4月12日]]午前2時のライブ映像。'''以後の消息は不明。'''
== タマちゃんに乗じた企画 ==
「タマちゃんフィーバー」とマスコミに形容されるように、タマちゃんにあやかるような様々な企画が展開された。
=== 特別住民票 ===
2003年2月、横浜市西区より[[特別住民票]]を与えられ西区の[[名誉市民|名誉区民]]となった。登録名は'''ニシ タマオ'''<ref name="shikoku-np">{{Cite news|title=タマちゃんに「住民票」/住所は横浜市西区|newspaper=四国新聞社|date=2003-02-06|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20030206000292|accessdate=2016-12-08}}</ref>。住所は西区西平沼町帷子川護岸、生年月日は不詳、性別はオス<ref name="shikoku-np" />。なお、[[住民票]]発行の根拠となる法律は存在せず、法的には市町村や特別区が配付する広報印刷物の一種にすぎない。これに関して、[[日本の外国人|在日外国人]]20人が[[コメディアン]]のデーブ・ガタリッジの主催で「動物を住民登録するのなら私たち人間にこそ住民票を」とアザラシの[[コスプレ]]をして抗議行動を行う一幕もあった<ref>{{Cite news|date=2003-02-22|newspaper=47NEWS|title=「私たちにも住民票を」 タマちゃん扮し在日外国人|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111021112219/http://www.47news.jp/CN/200302/CN2003022201000257.html|url=http://www.47news.jp/CN/200302/CN2003022201000257.html|agency=[[共同通信]]|accessdate=2008-03-06|archivedate=2011年10月21日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
これ以後、各地で海獣を中心とした野生動物が一定期間出没した事で特別住民票を発行する自治体が相次いだ([[2009年]]に[[釧路市]]で出没した[[ラッコ]]の[[クーちゃん]]等多数)。
=== タマちゃんを題材にした歌 ===
タマちゃんを題材とする楽曲(殆どがアマチュア歌手・作家による[[インディーズ]]盤)が作られた。経緯は不明であるが「タマちゃん音頭」という同名異曲が多数作られている。
* タマちゃんソング(作詞:[[ZIZI]]、作曲:[[SUYAKIN]])
* タマちゃん(2002年9月26日発売、歌:[[泉沙池]]、作詞曲:[[Reon]])
* たまたまたまちゃん(2002年10月30日発売、歌:[[すぎはらまゆ]])
* タマちゃんが来た夏(2002年11月26日発売、歌:[[風の子]](当時女子大生の香取良美と作詞・作曲の[[鍋島呂夢]]のデュオ))
* タマチャン音頭(2003年8月15日発売、作詞:[[中山のぼる]]、作曲:[[佐瀬寿一]])
* タマちゃん音頭〜帷子川編〜(歌:[[美月歌織]]、作詞:[[西山陽]]、作曲:[[よしむらあきら]]。「人生かたつむり」のカップリング)
* タマちゃん音頭(歌:太陽昇・[[幼稚園|幼稚園児]]、作詞は[[染井芳一]])
* タマちゃん音頭(作詞・作曲は[[理容店]]経営・音楽家の[[小山章雄]])
* タマちゃん音頭(作詞:西和彦、作曲は[[西和彦]]と[[長男]]の西まさよし)
* タマちゃん音頭([[川西杏]]作詞・作曲・歌)
* タマちゃん音頭([[久仁京介]]作詞・[[西村孝輔]]作編曲・歌:西たまき)
* ゾウアザラシ([[モーリー・ロバートソン]]が自身のバンド「疾風怒涛る」にて)
* 西玉夫(2015年11月11日発売、[[水曜日のカンパネラ]]「ジパング」より)
=== アニメ出演 ===
[[テレビ朝日]]系列で放送されたテレビアニメ『[[釣りバカ日誌#テレビアニメ|釣りバカ日誌]]』第26話「ハマちゃん家にタマちゃんがやってきた!の巻(前編)」(2003年6月28日放送)・第27話「ハマちゃん家にタマちゃんがやってきた!の巻(後編)」(2003年7月5日放送)において、アニメ出演を果たした<ref>[https://web.archive.org/web/20031005110452/http://www.yomiuri.co.jp/hochi/geinou/jun/o20030626_120.htm タマちゃんがアニメに登場 テレビ朝日系「釣りバカ日誌」]、[[スポーツ報知]]、2003年6月26日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。
== タマちゃんとPR会社 ==
[[2002年]][[8月7日]]、多摩川に迷入したアゴヒゲアザラシが撮影され、ビデオが[[フジテレビジョン|フジテレビ]]に持ち込まれニュースやワイドショーで取り上げられる。[[PR会社]]「[[プラップジャパン]]」がこれに目をつけ、素早いPR展開方法、批判を受けない上手な動物活用、河川事業PRの盛り込み方など緊急検討し、10日、[[国土交通省|国交省]]京浜河川事務所に、流域住民向けのアザラシによる河川事業PR計画を提案した。「いなくなる前に」という制約もあってか異例の即採用となった。16日にはアザラシ情報のページが開設され防災用カメラで映像中継も用意されるとアクセスが殺到し、メディアも連日取り上げるようになった。
プラップジャパンは、タマちゃん人気のみでは意味がなく、京浜河川事務所のメッセージを伝える機会であるとし、マスコミや住民対応についても助言していた。想定問答集を作り職員が同じ対応になるようにした。取材時に水質について質問があれば単に水質のみを答えるのではなく「多摩川の汚れの主な原因は生活排水なので、住民の意識でもっときれいにすることができる」と添えるよう教えた。この主張にしたがって記事やニュースを報道してもらえれば成功ということになる。また関係機関との調整やアザラシが死亡した場合の対応なども助言していた。
その結果、マスコミに取り上げられた件数([[パブリシティ]])8月15日〜9月15日の1ヶ月で在京TV局135番組、全国紙98紙。雑誌も含めた2ヶ月間の広告換算額 84億円。タマちゃんニュースに関連して、多摩川の水質浄化、自然環境や「親水事業」への理解や関心を扱った多数の報道。ウェブサイトのアクセス数を増やし市民の意見を集められたこと。などの十分な成果をおさめた。
京浜河川事務所は成果を国交省内の広報コンテストで発表し、裏方としてPR計画を進めたプラップジャパンもPRの目的が達成でき、自社の成功事例として紹介している<ref>{{Cite news|date=2002-11-21|newspaper=47NEWS|title=タマちゃん効果は84億円 京浜事務所の知名度アップ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141023094702/http://www.47news.jp/CN/200211/CN2002112101000421.html|url=http://www.47news.jp/CN/200211/CN2002112101000421.html|agency=共同通信|accessdate=2014-10-23|archivedate=2014年10月23日|deadurldate=2017年9月}}</ref><ref>あなたは「PR」を知っていますか?PRの手法とその発想法 {{Cite web|和書|url=http://www.city.kawasaki.jp/200/cmsfiles/contents/0000009/9624/jsi03_02kouenkaisiryo.pdf#page=22|title=アゴヒゲアザラシ「タマちゃん」PRプロジェクト|accessdate=2014-10-23|format=PDF|publisher=川崎市|page=22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141023110639/http://www.city.kawasaki.jp/200/cmsfiles/contents/0000009/9624/jsi03_02kouenkaisiryo.pdf#page=22|archivedate=2014年10月23日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>2007年10月7日 TBS がっちりマンデー!! [http://www.tbs.co.jp/gacchiri/archives/20071007/3.html PR成功例CASE4 タマちゃん騒動]</ref>。
== 経緯が類似する他の出没動物 ==
タマちゃんの出没から1ヶ月経過した2002年9月には、[[宮城県]][[本吉郡]][[歌津町]](現在の[[南三陸町]])で別のアザラシが出没し、[[ウタちゃん]]と名付けられるなど[[アザラシ]]追っかけブームが発生。これ以降、東日本地域を中心とする太平洋・日本海沿岸各地で野生のアザラシや[[アシカ科]]([[キタオットセイ]]等)・[[イルカ]]などが出没する度に報じられるようになった。
2006年9月にはタマちゃんが出没した荒川と並行する[[新河岸川]]沿いの[[川越市]]の田畑で衰弱した野生の[[キタオットセイ]]の子供が発見され(しんちゃんと名付けられる)、[[上野動物園]]職員が捕獲・収容後、[[鴨川シーワールド]]で半年ほど加療して2007年3月に銚子沖で放流された事例もある。
=== 2011年10月に荒川に出没したアザラシ ===
{{wikinews|埼玉県内の荒川にアザラシが姿を現す}}
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[[2011年]][[10月]]上旬、[[埼玉県]][[志木市]]の[[荒川 (関東)|荒川]]の[[秋ヶ瀬取水堰]]付近にタマちゃん以来7年半ぶりにアザラシが出現。10月10日に[[テレビ朝日]]ら<!--テレ玉が最初という説もあり-->が報道し、翌11日・12日は東京[[キー局]]([[Nippon News Network|NNN]]系列では[[情報ライブ ミヤネ屋]]の[[讀賣テレビ放送|ytv]]のクルーを含む)・[[テレビ埼玉|テレ玉]]・[[NHKさいたま放送局]]と主要新聞社の取材陣が秋ヶ瀬取水堰そばの堤防に集結し、報道を見た数十人の近隣住民らがマイカーや自転車で見物に訪れる事態となっている。なお、見物人の増加により、取水堰の管理用地や道路上に路上駐車する車が現れたため、秋ヶ瀬取水堰の管理所では車の移動や河川への立ち入り禁止を促す警告放送を実施している。
当初の報道ではタマちゃんの再来とする媒体もあった<ref name="Sponichi1">{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/10/12/kiji/K20111012001805450.html|title=“タマちゃん”再来?荒川に「アラちゃん」出現|accessdate=2011-10-12|date=2011-10-12|work=スポニチ Sponichi Annex 社会|publisher=(株)オウケイウェイヴ|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140813062549/http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/10/12/kiji/K20111012001805450.html|archivedate=2014年8月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。が、報道各社の取材で別の種類の[[ゴマフアザラシ]]だとする各地の水族館職員の証言が相次いでいる。
このアザラシは'''志木あらちゃん'''の名前で特別住民票が交付されることになった<ref>{{Cite news|title=「志木あらちゃん」荒川のアザラシに住民票 埼玉・志木市|newspaper=日本経済新聞|date=2011-10-18|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1801P_Y1A011C1CC0000/|accessdate=2017-08-05}}</ref>。
2012年11月25日開催のタウンページ協賛[[ゆるキャラ]](R)グランプリ2012に、「志木あらちゃん」が志木市商工会のキャラクターである「カッピー」と共にエントリーした<ref>[http://www.yurugp.jp/vote/detail.php?id=00000713 カッピー/志木あらちゃん] - ゆるキャラグランプリ2012</ref>。
[[2011年]][[10月25日]]時点で、[[日本放送協会|NHK]]・在京キー局での志木あらちゃんに関する報道は102番組で合計7時間47分30秒に及び、これら一連の報道による志木市への広告効果は、[[ニホンモニター]]の試算によれば[[コマーシャルメッセージ|CM]][[スポットCM|スポット]]料金換算で75億円に上る。これは2011年度の志木市の広報活動予算の約324年分に相当するとされる<ref>{{Cite news|date=2011-10-26|newspaper=スポニチアネックス|title=「志木あらちゃん」広告効果75億円 ゆるキャラにも|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150822071746/http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/10/26/kiji/K20111026001893540.html|url=http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/10/26/kiji/K20111026001893540.html|accessdate=2012-01-19|archivedate=2015年8月22日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。
=== 2013年3月に湖山池に出没したアザラシ ===
[[2013年]][[3月7日]]、[[鳥取県]][[鳥取市]]の[[湖山池]]でワモンアザラシの子供と思われるアザラシが発見された。湖山池は長さ3キロメートルの湖山川で海と繋がった汽水であり、そこから迷い込んだと推測されている。鳥取市では同年9月から湖山池を中心とした会場で「水と緑のオアシスとっとり2013(第30回[[全国都市緑化フェア]])」が開催予定であり、鳥取県知事[[平井伸治]]は、それにちなんで「コヤマみどり(コヤちゃん)」と命名<ref>{{Cite news|date=2013-03-15|newspaper=朝日新聞デジタル|title=湖山池を守る「コヤマみどり」です アザラシ命名 鳥取|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130525042828/http://www.asahi.com/national/update/0311/OSK201303100125.html|url=http://www.asahi.com/national/update/0311/OSK201303100125.html|accessdate=2013-03-18|archivedate=2013年5月25日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。県の公式サイト内に専用ページ「コヤちゃんねる」が設置された。
同月12日には鳥取市からコヤちゃんに特別住民票が交付された。市長の[[竹内功]]は「末永く湖山池に住んで、緑化フェアの盛り上げに一役も二役もかって頂きたい」とコメントしている<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/area/tottori/news/20130313ddlk31040484000c.html |title=アザラシ:「コヤマみどり」に初住民票 鳥取・湖山池で話題 /鳥取 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2013-03-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130513163957/http://mainichi.jp/area/tottori/news/20130313ddlk31040484000c.html |archivedate=2013年5月13日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
* [https://web.archive.org/web/20140408123249/http://www.pref.tottori.lg.jp/koyachannel/ コヤちゃんねる(鳥取県)](2014年4月8日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[動物の愛称一覧]]
* [[パナウェーブ研究所]] - 「タマちゃんのことを想う会」を称する活動をした。
* [[FNNスーパーニュース]] - タマちゃんが多摩川に出現したことを速報し、以後も最も大きく取りあげたと思われる報道番組。
** [[黒住祐子]] - 2002年の新語・流行語大賞受賞者の一人(上記番組のリポーター)
* [[少年アシベ]] - タマちゃんが認知される以前にアザラシの存在を広めた作品。
* [[おたる水族館]] - アゴヒゲアザラシ3頭飼育中。[[報道番組]]で飼育員によるコメントも放送された。
* [[ナカちゃん]] - [[那賀川]]に現れたアゴヒゲアザラシ。
== 外部リンク ==
* {{NHK放送史|D0009030313_00000|たまちゃん人気}}
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[[Category:アザラシの個体]]
[[Category:2002年の日本]]
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4,080 | 日本の地理 | 日本の地理(にほんのちり)では、日本の地理についての概略を記す。
日本は、島国すなわち領土がすべて島から成る国である。
日本の領土は、日本列島(本州・北海道・九州・四国などが主たる島)を中心に、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島が最大の島)、そして北東に位置する北方領土と、6,852の島から成っている。その中で、日本列島は広いところで300km程度の幅があり、長さは3500km程ある。
地理学上の分類ではないが、国土交通省は、日本を構成する6,852の島に「本土」と「離島」の2つの区分けを設けている。すなわち、北海道・本州・四国・九州・沖縄本島の5島を「本土」、これら5島を除く6,847島を「離島」としている。
令和5年2月28日、国土地理院は日本全国の島の数を「1万4125島」と発表した。「島」として数えたのは「法令等に基づく島のほか、地図に描画された陸地のうち自然に形成されたと判断した周囲長0.1km以上の陸地」とした。海上保安庁が昭和62年に発表した「6852島」を大きく上回るが、国土地理院は「測量技術の進歩による地図表現の詳細化が大きく影響している」と述べている。
島国である日本は、ユーラシア大陸東端の極東・東アジアの沿岸沖、また太平洋北西の沿海部に位置し、全体として弧状列島を形成している。
この弓形状の日本の国土は、総面積が約37.8万kmで世界第62位である。 その約70%が山岳地帯で、その約67%が森林である(国土面積は日本政府が領有権を主張する領域)。
日本は島国であるとともに、国土の約73%を山地が占める山国でもある。そのため日本の河川は流路延長に比し川床勾配が急で、大陸を流れる川と違い一気に流れ下る川が多い。しかも多雨地帯にある。したがって侵食力が強く山地では深いV字谷を、盆地や平野など山地からの出口には扇状地を発達させていることが多い。また河口付近には厚い堆積層からなる平野を形成している。中部地方から東北地方にかけては河岸段丘を発達させていることが多い。
世界的な地理学はヨーロッパ大陸やアメリカ大陸などを模式地として研究が進められてきた。そのため日本の実情と合わないこともある。たとえば台地もそのひとつである。日本で言う台地は扇状地や浅い海底が隆起したものであって洪積台地と分類されるものが大半を占めている。この詳細は台地を参照のこと。
日本周辺の海はひとつに繋がっているが、東側および南側が太平洋(ただし、日本ではほとんど用いないが、小笠原諸島以西の太平洋はフィリピン海と呼ぶのが世界的には普通である。)、北西側が日本海、西側が東シナ海、北東側がオホーツク海と呼ばれている。本州と四国の間の海は特に瀬戸内海と呼ばれており、多数の島々が点在する。海流について見てみると、日本列島の南側を黒潮(日本海流)と呼ばれる暖かい海流が流れている。北からやってくる親潮(千島海流)と三陸沖から常磐沖でぶつかって好漁場をつくっている。一方、黒潮の分流である対馬海流が対馬海峡から日本海に流れ込んでいる。
日本の気候は、列島の中央を縦走する山岳地帯を境に太平洋に面している地域と日本海に面している地域とで大きく異なる。北海道と本州の高原地帯が亜寒帯、南西諸島の一部は熱帯、それ以外の地域は温帯に属しているが、南北で気温差が大きい。
冬は、冷たい北西季節風が強く、日本海側は雪が多い。一方の太平洋側は、晴天に恵まれて空気の乾いた状態が続く。 気温の変化は次第に北上していき、冬から春、春から夏へと移り変わる。 長雨の時期である梅雨の後、晴れが多く高温多湿の夏を迎える。8月後半の残暑と入れ替わりに、秋雨と台風の季節を迎える。
※社会的な日本の区分や、生活に関する地域分類については、日本の地域を参照のこと。
アジア(ユーラシア大陸)の東方(欧米から見れば極東)の沿海部にある4つの弧状列島(千島列島、日本列島、琉球列島、伊豆・小笠原諸島)から成り立っていて、太平洋の西部にある島国である。日本海を挟んでロシア、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、大韓民国(韓国)と隣り合っている。東シナ海を挟んでは中華人民共和国(中国)および中華民国(台湾)と隣り合っている。また、南側で太平洋〈フィリピン海〉を隔てて米領北マリアナ諸島と隣り合っている。
日本の周辺は全て海であり、島国である。そのため他国と陸上において接していない。周辺は海であるが、樺太が日本本土から43キロメートル の位置にあり、ロシアが日本から一番近い他国の領土である。
日本では、人口の5割が国土の14%ほどの平野に集中している。また、特に東京都、大阪市、名古屋市を中心とする地域(三大都市圏)に日本の人口の5割弱が集中している。このような人口の差により、過疎化・過密化といった問題が発生している。
また人口の変動においては、現在増加から減少に転じている大きな転換期にあり、「人口減少社会」が政治的・社会的に問題になりつつある。世代別では、第二次世界大戦後2回のベビーブームに生まれた世代が突出して多いほか、世界的に見ても65歳以上の高齢者の割合が高い(高齢化)。また出生率は低く、世界的に見ても15歳以下の年少人口の割合が低い(少子化)。
山地が73%を占める。山間部に規模の小さな盆地が、沿海部に小規模な平野が広がっており、狭い平野や盆地に人口、耕地、都市機能、経済機能などが集中している。特に太平洋ベルト地帯には前述の都市機能や経済基盤などが集中している。そのため地政学的リスクが高く、1970年代から集中する機能を分散させる計画が持ち上がったが、未だに実行段階には達していない。ただし企業が本社を地方都市に移すなど、一部に分散の動きがある。
土地利用の内訳(2012年)
国土に占める森林面積の割合は、先進国かつミニ国家ではない一定以上の面積を持つ国の中ではかなり高く、他に7割前後を占めるのはスウェーデン、フィンランドなど数少ない。これは農地や宅地などに利用できない険しい山岳地帯が多いことも示しており、土地利用や都市計画などにおける制限は多い。森林率は確かな統計がある20世紀中盤以降、ほぼ横ばいで推移している。
27,820 km (1993年の調査による)
日本周辺の海はひとつに繋がっているが、東側および南側が太平洋、西北側が日本海、西側が東シナ海、北東側がオホーツク海である。世界的には伊豆諸島および小笠原諸島と南西諸島とに挟まれた海域はフィリピン海と呼称されるが、日本ではこの呼称は浸透していない。日本政府の公文書においても太平洋とされている。本州と四国に挟まれた海域は瀬戸内海と呼ばれている。
日本列島の南側を黒潮(日本海流)と呼ばれる暖かい海流が流れている。北からやってくる親潮(千島海流)が三陸沖から常磐沖でぶつかって好漁場をつくっている(潮目)。一方、黒潮の分流が対馬海峡から日本海南部〜東部に流れ込んでいる。これが対馬海流である。対馬海流は津軽海峡および宗谷海峡から太平洋に抜けているのだが、日本海側の気候に大きな影響を与えている。このほかには、間宮海峡から日本海北部にリマン海流が流れ込んでいる。
「鉱物の博物館」と形容されるほど大抵の鉱物を産出するが、商業化するには規模が小さく採算性に劣るものがほとんどである。ただしコンクリートや鉄鉱石を精錬するのに必要なな石灰石は国内の需要以上を現在も産出し続けており、またヨウ素は世界でも有数の産出量を誇る。また日本では石油は採れないという認識が広く伝わっているが、日本海沿岸にはまとまった量の石油が埋蔵されて居り、盛んに採掘が行われた。しかし数十年前に採掘できる石油のほとんどを採り尽くしてしまい現在ではほとんどの地域で採算が取れない為、採掘が中止されているが、一部ではごく小規模な油田から地上に時々湧出する採掘できない原油は農産物などに被害をもたらし厄介者扱いされている。2003年度現在、液化石油ガスは、国内の需要の約33%。天然ガスは国内の需要の約3.5%を産出している。
古くは全国各地で金が産出され貨幣や物品、建造物などに使用されていた。これはマルコ・ポーロが、日本を「黄金の国 ジパング」と書き記したゆえんとも言われているが、江戸時代から明治時代にかけて海外に大量に流出し、現在ではそのほとんどがなくなっている。また、銀や銅、鉄なども金の場合と同様現在ではほとんど払底している。しかし鉄を主とする金属精錬・加工の技術は現在も高水準を保ち続けており、輸入される金属資源によってそれらの技術が生かされている。
海底資源に関しては金属鉱物はもとよりメタンハイドレートや天然ガスなどが大量に埋蔵されていることが確認されている。また、レアメタルに含まれる希少金属の埋蔵も確認されている。
農産物では、米(主食用自給率100%、その他95%。2007年)を別としてほとんどの品目の自給率が100%を割っており、輸入なくして日本の食糧需要を賄うことは困難な状況である。
日本の気候は、
という4つの大きな性質がある。
大陸であれば乾燥帯に入る中緯度に位置するが、島嶼であるため湿潤な海洋性気団の影響を受けやすく、降水量は概ね年間1,000mm以上であり、北陸・東海・紀伊半島・四国・南九州の外海沿岸部では2,000mmを超え、紀伊半島南東部では4,000mm近いところがある。また、暖流である黒潮や対馬海流、寒流である親潮が天候に影響を与える地域がある。
北海道と本州の山岳地帯の一部は亜寒帯、本州の大部分・九州・四国・南西諸島の北部は温帯、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島・八重山列島・多良間島・沖大東島は熱帯に属する。なお、温帯の中でも小笠原諸島・伊豆諸島・南西諸島北部・南九州などは亜熱帯と称される場合もある。年平均気温は札幌9°C、東京16°C、那覇22°Cである。
典型的に用いられる大まかな気候区分では、北海道と本州の日本海側は日本海側気候とされ、冬季の雪と夏季に時折フェーン現象による高温が起こるのが特徴。北海道から九州にかけての太平洋側は太平洋岸気候とされ、夏期に降水量が多く冬季に晴天となるのが特徴。西日本の瀬戸内海沿岸は瀬戸内海式気候、本州の内陸部は中央高地気候で、それぞれ降水量が年間を通して少なく、中央高地式気候では更に気温変化が大きいのが特徴である。
冬は、シベリア高気圧からの冷たく乾いた北西季節風が強く吹く。この季節風は、日本海を流れる温暖な対馬海流により湿った風に変質して雪雲を生じ、それが山岳地帯にぶつかる日本海側の地域は雪や曇りの日が多い。新潟県や北陸地方の山間部は毎年2 - 3mの積雪があり、世界的な豪雪地帯として知られている。一方で雨蔭となる太平洋側は、晴天に恵まれるが「からっ風」と呼ばれる強風が吹き、空気の乾いた状態が続く。また時々、強い低気圧により荒天に見舞われることがある。
春および秋は、季節風の影響が弱く、移動性の高気圧や低気圧によって、周期的に天気が移り変わる。春一番や木枯らしなどに特徴づけられるように、低気圧や前線の通過に伴って季節の波が何度となく訪れ、寒暖晴雨を繰り返しながら徐々に季節が変わってゆく。
初夏から盛夏への過渡期には、梅雨前線と呼ばれる停滞前線の影響で南から順に「梅雨」と呼ばれる雨季が始まる(梅雨入り)。梅雨の時期は概ねしとしととした長雨が続き、時折まとまった大雨も起こりつつ、5月下旬から7月下旬にかけて1ヶ月半程度続く。なお、伊豆・小笠原と北海道では曇天が続く場合があるが長続きせず、梅雨はない。
梅雨が終わる(梅雨明け)と、本格的な夏となる。高温湿潤な太平洋高気圧によって安定した晴れが続く。例年7月中旬から9月上旬の晴天時には、内陸を中心に気温が上昇して広範囲で30°Cを超える上、湿度も70%以上と高い。しばしば「高温多湿」と表現されるその暑さは、乾燥しているインドや中近東での摂氏30度よりも体感温度や不快指数が高く、体力を消耗させる。また、晴天の日でも夕方以降は、しばしば夕立と呼ばれる夏特有の雷を伴うにわか雨が降る。北海道や東北は比較的寒冷だが、夏の暑さと適度な雨が水稲作を可能にしており、品種改良の寄与もあって20世紀終盤からいわゆる「米どころ」となっているが、数年に一度のやませや長梅雨による冷夏の年には、冷害により稲が不作となる。
盛夏から初秋にかけての期間には、北日本や東日本を中心に「秋雨」と呼ばれる間欠的な雨期となる。また同時期に、本土では台風の襲来が増加する。なお、南西諸島では6月から10月頃まで長期間台風の襲来が多い。
日本家屋と呼ばれるような日本の伝統的な住宅は、夏の高温多湿や台風に適応するため、部屋を壁で仕切らず風通しを良くして涼を呼ぶようにつくられている。襖(ふすま)や障子という取り外し可能な建具を用い、床を高くして畳を敷いた床にしたのもこのような気候に対処するための工夫と考えられている。しかし、1960-70年代の高度経済成長期を境に伝統的な住宅は急減し、新築の建築物は壁と扉で構成されるものが圧倒的で、鉄筋コンクリート構造のものも多くなっている。加えて、住宅やオフィスで冷暖房を行った気密性の高い部屋に暮らすようになり、特に都市ではそれが当たり前になっている。こういった住宅環境の変化と都市の高密度化により、大都市や近郊ではヒートアイランド現象が発生していて、冬季の温暖化が顕著であるほか、夏の気温押し上げが問題となっている。
日本付近はプレートテクトニクスの考え方によればユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの4つのプレートがせめぎ合う境界域にあたり、造山活動が活発な新期造山帯(環太平洋造山帯)に含まれている。表土は最も古い岐阜県・長野県付近でも約2億4000万年前のもので、地質学的に見ても新しい地層である。
そのため火山の噴火が各地で度々発生するとともに、マグニチュード7から8クラスの地震を周期的に経験している。マグニチュード4クラスの地震に限って見てみるとほぼ毎日と言えるほど頻繁に発生していて、「地震大国」といえる。またプレートの動きに伴い、国土全体を縦横に活断層が走っており、都市を大地震が直撃することも多い。
しかし火山地帯であるがために温泉に恵まれていて、それらは大抵著名な行楽地となっていて国立公園や国定公園に指定されている。国土全体が火山の噴火や大陸移動、堆積作用などの活動で形成されたため険しい山地が多く、河川も短いため、各地で土砂災害が起こりやすい。
日本で多い災害
日本は、四季の変化によって多彩な生物や自然に恵まれている。特に生物相の豊富さは優れており、多くの分類群において日本の種数はヨーロッパ全土や北アメリカより多い。たとえばシダ植物は日本に630種あり、これはヨーロッパ(152)やアメリカ合衆国とカナダ(406)よりはるかに多く、熱帯域にあるタイ、インドシナ三国にほぼ匹敵する。
高度経済成長期以降の食卓の変化や海外の農産品の輸入問題などさまざまな要因により、20世紀後半に農林水産業が急激に変化した。林業衰退による人工林の放置、環境変化や乱獲・密漁などによる漁業資源の減少などが大きな問題となっている。
生態系においても、明治時代以降外来種による生態系の変化が起こり、トキやニホンオオカミの絶滅に代表されるような生物多様性の低下が起こっている。また、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど人間の生活への影響も出ている。
環境問題
国際協定
4つの主要な島 と、地方区分ごとに見た各地の地理の概要や特徴的な地形を記述する。
北海道:日本列島を構成する主要な4つの島の中で2番目に大きい島である。
この北海道本島とその付随する島(利尻島、礼文島、奥尻島、天売島、焼尻島、渡島大島、渡島小島等)から成る地方公共団体(都道府県)も「北海道」であり、47都道府県で唯一の「道」である。
この「北海道」1道から成る地方を北海道地方と言う。その面積は日本の総面積の約2割 (22.9%) にあたる83,456.75 kmである。
本州:日本列島を構成する主要な4つの島の中で最大の島である。
面積は227,942.83 kmで、北海道の面積の約3倍、そしてイギリスのグレートブリテン島よりも広く、世界の島の中では面積は第7位である。
東北地方、関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方に分類され、その分け方にはいくつかの異論があり統一的なものは存在しない。
東北地方は本州北部に位置する。この地域の本州は北アメリカプレートに載っており、西からはユーラシアプレート、東からは太平洋プレートに押されて隆起した奥羽山脈が中央を南北に走っている。さらに他の山地や盆地も南北方向に広がっている。奥羽山脈やその他の山地から流れ出した河川の中流部に盆地が、下流部に平野が形成されている。それらは日本の農業生産の中心地域である。東北地方の火山は奥羽山脈の西側にある。東北地方の東方沖に日本海溝が南北に走っている。日本海溝の西側には規模の大きな地震の震源域がある。
関東地方は東北地方の南、中部地方の東に位置する。北と西は山地に、東と南は海に囲まれた日本で一番広い関東平野を中心とした地域である。関東地方はフォッサマグナの中にある地域で、地質構造が複雑である。東京、横浜、川崎、さいたま、千葉といった大都市やそれらのベッドタウンが集中している南部は人口が多い。
中部地方は本州の中央部を占めている。この地方のほとんどはユーラシアプレートに載っているが、東部では北アメリカプレートと衝突している。その境界をフォッサマグナといい新潟県糸魚川市と静岡県静岡市を結んだ線がその西縁とされ糸魚川静岡構造線と呼ばれる。さらにこの地域のユーラシアプレートはフィリピン海プレートの沈み込みも受けており、それらの複雑な動きから著しい造山活動が行われ、日本アルプスとして知られている飛騨(北アルプス)、木曽(中央アルプス)、赤石(南アルプス)の各山脈が形成された。それはまた東海地震や東南海地震の原因と指摘されている。その沈み込みは南海トラフとして知られており、駿河湾内では駿河トラフとも呼ばれている。
近畿地方は中部地方の西、中国地方の東。中央構造線が紀伊半島をほぼ東西に横切っている。大台ヶ原山は大台ヶ原ともいい、日本では珍しい隆起準平原である。
中国地方は本州の西部と瀬戸内海の島々の一部、日本海の島々からなる。瀬戸内海を挟んで四国の北側に位置する。
四国:日本列島を構成する主要な4つの島の中で4番目に大きな島である。
面積は18,297.74 kmで、九州の約半分の面積である。この島と瀬戸内海の一部の島々をまとめて四国地方あるいは単に四国と呼ぶ。四国には4つの県が置かれている。
四国はユーラシアプレートに載っており、その南方沖でフィリピン海プレートの沈み込みを受けている。その境界に生じた付加体が陸化しているので地質の分布は東西の帯状に広がり、北部の方が南部よりも古い時代の地層である。四国の気候は中央を東西に走る四国山地により太平洋側と瀬戸内海側とで異なる。太平洋側は温暖で多雨であるが、瀬戸内海側は温暖ではあるが少雨である。
九州:日本列島を構成する主要な4つの島の中で3番目に大きな島である。九州島とも呼ぶ。
面積は36,731.56 kmで、北海道の半分弱の面積で、本州と四国の西に位置する。
この九州島とその付随する島、薩南諸島(鹿児島県の領域)を含めて「九州」と呼ぶ。「九州の最高峰」というとき一般には薩南諸島に含まれる屋久島の宮之浦岳が挙げられる。さらに南西諸島(沖縄県の領域)を合わせて「九州地方」と言う。「九州地方」には沖縄県を含めるのが各百科事典では一般的である。なお、次の一覧は便宜上、次項の「南西諸島」に属する項目を除いた。
南西諸島は九州の南に位置する島弧であり、ユーラシアプレートにフィリピン海プレートが沈み込むことで生じている。太平洋(世界的な地理学ではフィリピン海)と東シナ海を画している。
なお、南西諸島の中で沖縄県に属する島は160である。主要な島を列挙。
伊豆諸島・小笠原諸島は本州の南に位置する島弧であり、フィリピン海プレートに太平洋プレートが沈み込むことで生じている。沈み込んでいるところを伊豆・小笠原海溝という。伊豆諸島の島々や西之島は南本州海嶺の頂上部である。小笠原諸島の聟島諸島、父島諸島、母島諸島はその西側にある小笠原トラフによって南本州海嶺と隔てられている。行政区分では東京都、地方区分では関東地方に含まれる。 | [
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"text": "日本の地理(にほんのちり)では、日本の地理についての概略を記す。",
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"text": "日本は、島国すなわち領土がすべて島から成る国である。",
"title": "概略"
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"text": "日本の領土は、日本列島(本州・北海道・九州・四国などが主たる島)を中心に、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島が最大の島)、そして北東に位置する北方領土と、6,852の島から成っている。その中で、日本列島は広いところで300km程度の幅があり、長さは3500km程ある。",
"title": "概略"
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"text": "地理学上の分類ではないが、国土交通省は、日本を構成する6,852の島に「本土」と「離島」の2つの区分けを設けている。すなわち、北海道・本州・四国・九州・沖縄本島の5島を「本土」、これら5島を除く6,847島を「離島」としている。",
"title": "概略"
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"text": "令和5年2月28日、国土地理院は日本全国の島の数を「1万4125島」と発表した。「島」として数えたのは「法令等に基づく島のほか、地図に描画された陸地のうち自然に形成されたと判断した周囲長0.1km以上の陸地」とした。海上保安庁が昭和62年に発表した「6852島」を大きく上回るが、国土地理院は「測量技術の進歩による地図表現の詳細化が大きく影響している」と述べている。",
"title": "概略"
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"text": "島国である日本は、ユーラシア大陸東端の極東・東アジアの沿岸沖、また太平洋北西の沿海部に位置し、全体として弧状列島を形成している。",
"title": "概略"
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"text": "この弓形状の日本の国土は、総面積が約37.8万kmで世界第62位である。 その約70%が山岳地帯で、その約67%が森林である(国土面積は日本政府が領有権を主張する領域)。",
"title": "概略"
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"text": "日本は島国であるとともに、国土の約73%を山地が占める山国でもある。そのため日本の河川は流路延長に比し川床勾配が急で、大陸を流れる川と違い一気に流れ下る川が多い。しかも多雨地帯にある。したがって侵食力が強く山地では深いV字谷を、盆地や平野など山地からの出口には扇状地を発達させていることが多い。また河口付近には厚い堆積層からなる平野を形成している。中部地方から東北地方にかけては河岸段丘を発達させていることが多い。",
"title": "概略"
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"text": "世界的な地理学はヨーロッパ大陸やアメリカ大陸などを模式地として研究が進められてきた。そのため日本の実情と合わないこともある。たとえば台地もそのひとつである。日本で言う台地は扇状地や浅い海底が隆起したものであって洪積台地と分類されるものが大半を占めている。この詳細は台地を参照のこと。",
"title": "概略"
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{
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"text": "日本周辺の海はひとつに繋がっているが、東側および南側が太平洋(ただし、日本ではほとんど用いないが、小笠原諸島以西の太平洋はフィリピン海と呼ぶのが世界的には普通である。)、北西側が日本海、西側が東シナ海、北東側がオホーツク海と呼ばれている。本州と四国の間の海は特に瀬戸内海と呼ばれており、多数の島々が点在する。海流について見てみると、日本列島の南側を黒潮(日本海流)と呼ばれる暖かい海流が流れている。北からやってくる親潮(千島海流)と三陸沖から常磐沖でぶつかって好漁場をつくっている。一方、黒潮の分流である対馬海流が対馬海峡から日本海に流れ込んでいる。",
"title": "概略"
},
{
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"text": "日本の気候は、列島の中央を縦走する山岳地帯を境に太平洋に面している地域と日本海に面している地域とで大きく異なる。北海道と本州の高原地帯が亜寒帯、南西諸島の一部は熱帯、それ以外の地域は温帯に属しているが、南北で気温差が大きい。",
"title": "概略"
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"text": "冬は、冷たい北西季節風が強く、日本海側は雪が多い。一方の太平洋側は、晴天に恵まれて空気の乾いた状態が続く。 気温の変化は次第に北上していき、冬から春、春から夏へと移り変わる。 長雨の時期である梅雨の後、晴れが多く高温多湿の夏を迎える。8月後半の残暑と入れ替わりに、秋雨と台風の季節を迎える。",
"title": "概略"
},
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"text": "※社会的な日本の区分や、生活に関する地域分類については、日本の地域を参照のこと。",
"title": "概略"
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{
"paragraph_id": 13,
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"text": "アジア(ユーラシア大陸)の東方(欧米から見れば極東)の沿海部にある4つの弧状列島(千島列島、日本列島、琉球列島、伊豆・小笠原諸島)から成り立っていて、太平洋の西部にある島国である。日本海を挟んでロシア、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、大韓民国(韓国)と隣り合っている。東シナ海を挟んでは中華人民共和国(中国)および中華民国(台湾)と隣り合っている。また、南側で太平洋〈フィリピン海〉を隔てて米領北マリアナ諸島と隣り合っている。",
"title": "概略"
},
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"text": "日本の周辺は全て海であり、島国である。そのため他国と陸上において接していない。周辺は海であるが、樺太が日本本土から43キロメートル の位置にあり、ロシアが日本から一番近い他国の領土である。",
"title": "概略"
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"tag": "p",
"text": "日本では、人口の5割が国土の14%ほどの平野に集中している。また、特に東京都、大阪市、名古屋市を中心とする地域(三大都市圏)に日本の人口の5割弱が集中している。このような人口の差により、過疎化・過密化といった問題が発生している。",
"title": "概略"
},
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"text": "また人口の変動においては、現在増加から減少に転じている大きな転換期にあり、「人口減少社会」が政治的・社会的に問題になりつつある。世代別では、第二次世界大戦後2回のベビーブームに生まれた世代が突出して多いほか、世界的に見ても65歳以上の高齢者の割合が高い(高齢化)。また出生率は低く、世界的に見ても15歳以下の年少人口の割合が低い(少子化)。",
"title": "概略"
},
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"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "山地が73%を占める。山間部に規模の小さな盆地が、沿海部に小規模な平野が広がっており、狭い平野や盆地に人口、耕地、都市機能、経済機能などが集中している。特に太平洋ベルト地帯には前述の都市機能や経済基盤などが集中している。そのため地政学的リスクが高く、1970年代から集中する機能を分散させる計画が持ち上がったが、未だに実行段階には達していない。ただし企業が本社を地方都市に移すなど、一部に分散の動きがある。",
"title": "概略"
},
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"text": "土地利用の内訳(2012年)",
"title": "概略"
},
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"tag": "p",
"text": "国土に占める森林面積の割合は、先進国かつミニ国家ではない一定以上の面積を持つ国の中ではかなり高く、他に7割前後を占めるのはスウェーデン、フィンランドなど数少ない。これは農地や宅地などに利用できない険しい山岳地帯が多いことも示しており、土地利用や都市計画などにおける制限は多い。森林率は確かな統計がある20世紀中盤以降、ほぼ横ばいで推移している。",
"title": "概略"
},
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"text": "27,820 km (1993年の調査による)",
"title": "概略"
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"text": "日本周辺の海はひとつに繋がっているが、東側および南側が太平洋、西北側が日本海、西側が東シナ海、北東側がオホーツク海である。世界的には伊豆諸島および小笠原諸島と南西諸島とに挟まれた海域はフィリピン海と呼称されるが、日本ではこの呼称は浸透していない。日本政府の公文書においても太平洋とされている。本州と四国に挟まれた海域は瀬戸内海と呼ばれている。",
"title": "概略"
},
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"tag": "p",
"text": "日本列島の南側を黒潮(日本海流)と呼ばれる暖かい海流が流れている。北からやってくる親潮(千島海流)が三陸沖から常磐沖でぶつかって好漁場をつくっている(潮目)。一方、黒潮の分流が対馬海峡から日本海南部〜東部に流れ込んでいる。これが対馬海流である。対馬海流は津軽海峡および宗谷海峡から太平洋に抜けているのだが、日本海側の気候に大きな影響を与えている。このほかには、間宮海峡から日本海北部にリマン海流が流れ込んでいる。",
"title": "概略"
},
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"text": "「鉱物の博物館」と形容されるほど大抵の鉱物を産出するが、商業化するには規模が小さく採算性に劣るものがほとんどである。ただしコンクリートや鉄鉱石を精錬するのに必要なな石灰石は国内の需要以上を現在も産出し続けており、またヨウ素は世界でも有数の産出量を誇る。また日本では石油は採れないという認識が広く伝わっているが、日本海沿岸にはまとまった量の石油が埋蔵されて居り、盛んに採掘が行われた。しかし数十年前に採掘できる石油のほとんどを採り尽くしてしまい現在ではほとんどの地域で採算が取れない為、採掘が中止されているが、一部ではごく小規模な油田から地上に時々湧出する採掘できない原油は農産物などに被害をもたらし厄介者扱いされている。2003年度現在、液化石油ガスは、国内の需要の約33%。天然ガスは国内の需要の約3.5%を産出している。",
"title": "概略"
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"text": "古くは全国各地で金が産出され貨幣や物品、建造物などに使用されていた。これはマルコ・ポーロが、日本を「黄金の国 ジパング」と書き記したゆえんとも言われているが、江戸時代から明治時代にかけて海外に大量に流出し、現在ではそのほとんどがなくなっている。また、銀や銅、鉄なども金の場合と同様現在ではほとんど払底している。しかし鉄を主とする金属精錬・加工の技術は現在も高水準を保ち続けており、輸入される金属資源によってそれらの技術が生かされている。",
"title": "概略"
},
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"text": "海底資源に関しては金属鉱物はもとよりメタンハイドレートや天然ガスなどが大量に埋蔵されていることが確認されている。また、レアメタルに含まれる希少金属の埋蔵も確認されている。",
"title": "概略"
},
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"text": "農産物では、米(主食用自給率100%、その他95%。2007年)を別としてほとんどの品目の自給率が100%を割っており、輸入なくして日本の食糧需要を賄うことは困難な状況である。",
"title": "概略"
},
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"text": "日本の気候は、",
"title": "概略"
},
{
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"text": "という4つの大きな性質がある。",
"title": "概略"
},
{
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"text": "大陸であれば乾燥帯に入る中緯度に位置するが、島嶼であるため湿潤な海洋性気団の影響を受けやすく、降水量は概ね年間1,000mm以上であり、北陸・東海・紀伊半島・四国・南九州の外海沿岸部では2,000mmを超え、紀伊半島南東部では4,000mm近いところがある。また、暖流である黒潮や対馬海流、寒流である親潮が天候に影響を与える地域がある。",
"title": "概略"
},
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"text": "北海道と本州の山岳地帯の一部は亜寒帯、本州の大部分・九州・四国・南西諸島の北部は温帯、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島・八重山列島・多良間島・沖大東島は熱帯に属する。なお、温帯の中でも小笠原諸島・伊豆諸島・南西諸島北部・南九州などは亜熱帯と称される場合もある。年平均気温は札幌9°C、東京16°C、那覇22°Cである。",
"title": "概略"
},
{
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"text": "典型的に用いられる大まかな気候区分では、北海道と本州の日本海側は日本海側気候とされ、冬季の雪と夏季に時折フェーン現象による高温が起こるのが特徴。北海道から九州にかけての太平洋側は太平洋岸気候とされ、夏期に降水量が多く冬季に晴天となるのが特徴。西日本の瀬戸内海沿岸は瀬戸内海式気候、本州の内陸部は中央高地気候で、それぞれ降水量が年間を通して少なく、中央高地式気候では更に気温変化が大きいのが特徴である。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 32,
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"text": "冬は、シベリア高気圧からの冷たく乾いた北西季節風が強く吹く。この季節風は、日本海を流れる温暖な対馬海流により湿った風に変質して雪雲を生じ、それが山岳地帯にぶつかる日本海側の地域は雪や曇りの日が多い。新潟県や北陸地方の山間部は毎年2 - 3mの積雪があり、世界的な豪雪地帯として知られている。一方で雨蔭となる太平洋側は、晴天に恵まれるが「からっ風」と呼ばれる強風が吹き、空気の乾いた状態が続く。また時々、強い低気圧により荒天に見舞われることがある。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 33,
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"text": "春および秋は、季節風の影響が弱く、移動性の高気圧や低気圧によって、周期的に天気が移り変わる。春一番や木枯らしなどに特徴づけられるように、低気圧や前線の通過に伴って季節の波が何度となく訪れ、寒暖晴雨を繰り返しながら徐々に季節が変わってゆく。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "初夏から盛夏への過渡期には、梅雨前線と呼ばれる停滞前線の影響で南から順に「梅雨」と呼ばれる雨季が始まる(梅雨入り)。梅雨の時期は概ねしとしととした長雨が続き、時折まとまった大雨も起こりつつ、5月下旬から7月下旬にかけて1ヶ月半程度続く。なお、伊豆・小笠原と北海道では曇天が続く場合があるが長続きせず、梅雨はない。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "梅雨が終わる(梅雨明け)と、本格的な夏となる。高温湿潤な太平洋高気圧によって安定した晴れが続く。例年7月中旬から9月上旬の晴天時には、内陸を中心に気温が上昇して広範囲で30°Cを超える上、湿度も70%以上と高い。しばしば「高温多湿」と表現されるその暑さは、乾燥しているインドや中近東での摂氏30度よりも体感温度や不快指数が高く、体力を消耗させる。また、晴天の日でも夕方以降は、しばしば夕立と呼ばれる夏特有の雷を伴うにわか雨が降る。北海道や東北は比較的寒冷だが、夏の暑さと適度な雨が水稲作を可能にしており、品種改良の寄与もあって20世紀終盤からいわゆる「米どころ」となっているが、数年に一度のやませや長梅雨による冷夏の年には、冷害により稲が不作となる。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "盛夏から初秋にかけての期間には、北日本や東日本を中心に「秋雨」と呼ばれる間欠的な雨期となる。また同時期に、本土では台風の襲来が増加する。なお、南西諸島では6月から10月頃まで長期間台風の襲来が多い。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "日本家屋と呼ばれるような日本の伝統的な住宅は、夏の高温多湿や台風に適応するため、部屋を壁で仕切らず風通しを良くして涼を呼ぶようにつくられている。襖(ふすま)や障子という取り外し可能な建具を用い、床を高くして畳を敷いた床にしたのもこのような気候に対処するための工夫と考えられている。しかし、1960-70年代の高度経済成長期を境に伝統的な住宅は急減し、新築の建築物は壁と扉で構成されるものが圧倒的で、鉄筋コンクリート構造のものも多くなっている。加えて、住宅やオフィスで冷暖房を行った気密性の高い部屋に暮らすようになり、特に都市ではそれが当たり前になっている。こういった住宅環境の変化と都市の高密度化により、大都市や近郊ではヒートアイランド現象が発生していて、冬季の温暖化が顕著であるほか、夏の気温押し上げが問題となっている。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "日本付近はプレートテクトニクスの考え方によればユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの4つのプレートがせめぎ合う境界域にあたり、造山活動が活発な新期造山帯(環太平洋造山帯)に含まれている。表土は最も古い岐阜県・長野県付近でも約2億4000万年前のもので、地質学的に見ても新しい地層である。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "そのため火山の噴火が各地で度々発生するとともに、マグニチュード7から8クラスの地震を周期的に経験している。マグニチュード4クラスの地震に限って見てみるとほぼ毎日と言えるほど頻繁に発生していて、「地震大国」といえる。またプレートの動きに伴い、国土全体を縦横に活断層が走っており、都市を大地震が直撃することも多い。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "しかし火山地帯であるがために温泉に恵まれていて、それらは大抵著名な行楽地となっていて国立公園や国定公園に指定されている。国土全体が火山の噴火や大陸移動、堆積作用などの活動で形成されたため険しい山地が多く、河川も短いため、各地で土砂災害が起こりやすい。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "日本で多い災害",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "日本は、四季の変化によって多彩な生物や自然に恵まれている。特に生物相の豊富さは優れており、多くの分類群において日本の種数はヨーロッパ全土や北アメリカより多い。たとえばシダ植物は日本に630種あり、これはヨーロッパ(152)やアメリカ合衆国とカナダ(406)よりはるかに多く、熱帯域にあるタイ、インドシナ三国にほぼ匹敵する。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "高度経済成長期以降の食卓の変化や海外の農産品の輸入問題などさまざまな要因により、20世紀後半に農林水産業が急激に変化した。林業衰退による人工林の放置、環境変化や乱獲・密漁などによる漁業資源の減少などが大きな問題となっている。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "生態系においても、明治時代以降外来種による生態系の変化が起こり、トキやニホンオオカミの絶滅に代表されるような生物多様性の低下が起こっている。また、ニホンザルやイノシシが市街地に出没するなど人間の生活への影響も出ている。",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "環境問題",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 46,
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"text": "国際協定",
"title": "概略"
},
{
"paragraph_id": 47,
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"text": "4つの主要な島 と、地方区分ごとに見た各地の地理の概要や特徴的な地形を記述する。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "北海道:日本列島を構成する主要な4つの島の中で2番目に大きい島である。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "この北海道本島とその付随する島(利尻島、礼文島、奥尻島、天売島、焼尻島、渡島大島、渡島小島等)から成る地方公共団体(都道府県)も「北海道」であり、47都道府県で唯一の「道」である。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "この「北海道」1道から成る地方を北海道地方と言う。その面積は日本の総面積の約2割 (22.9%) にあたる83,456.75 kmである。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "本州:日本列島を構成する主要な4つの島の中で最大の島である。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "面積は227,942.83 kmで、北海道の面積の約3倍、そしてイギリスのグレートブリテン島よりも広く、世界の島の中では面積は第7位である。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "東北地方、関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方に分類され、その分け方にはいくつかの異論があり統一的なものは存在しない。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "東北地方は本州北部に位置する。この地域の本州は北アメリカプレートに載っており、西からはユーラシアプレート、東からは太平洋プレートに押されて隆起した奥羽山脈が中央を南北に走っている。さらに他の山地や盆地も南北方向に広がっている。奥羽山脈やその他の山地から流れ出した河川の中流部に盆地が、下流部に平野が形成されている。それらは日本の農業生産の中心地域である。東北地方の火山は奥羽山脈の西側にある。東北地方の東方沖に日本海溝が南北に走っている。日本海溝の西側には規模の大きな地震の震源域がある。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "関東地方は東北地方の南、中部地方の東に位置する。北と西は山地に、東と南は海に囲まれた日本で一番広い関東平野を中心とした地域である。関東地方はフォッサマグナの中にある地域で、地質構造が複雑である。東京、横浜、川崎、さいたま、千葉といった大都市やそれらのベッドタウンが集中している南部は人口が多い。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "中部地方は本州の中央部を占めている。この地方のほとんどはユーラシアプレートに載っているが、東部では北アメリカプレートと衝突している。その境界をフォッサマグナといい新潟県糸魚川市と静岡県静岡市を結んだ線がその西縁とされ糸魚川静岡構造線と呼ばれる。さらにこの地域のユーラシアプレートはフィリピン海プレートの沈み込みも受けており、それらの複雑な動きから著しい造山活動が行われ、日本アルプスとして知られている飛騨(北アルプス)、木曽(中央アルプス)、赤石(南アルプス)の各山脈が形成された。それはまた東海地震や東南海地震の原因と指摘されている。その沈み込みは南海トラフとして知られており、駿河湾内では駿河トラフとも呼ばれている。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "近畿地方は中部地方の西、中国地方の東。中央構造線が紀伊半島をほぼ東西に横切っている。大台ヶ原山は大台ヶ原ともいい、日本では珍しい隆起準平原である。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "中国地方は本州の西部と瀬戸内海の島々の一部、日本海の島々からなる。瀬戸内海を挟んで四国の北側に位置する。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "四国:日本列島を構成する主要な4つの島の中で4番目に大きな島である。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "面積は18,297.74 kmで、九州の約半分の面積である。この島と瀬戸内海の一部の島々をまとめて四国地方あるいは単に四国と呼ぶ。四国には4つの県が置かれている。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "四国はユーラシアプレートに載っており、その南方沖でフィリピン海プレートの沈み込みを受けている。その境界に生じた付加体が陸化しているので地質の分布は東西の帯状に広がり、北部の方が南部よりも古い時代の地層である。四国の気候は中央を東西に走る四国山地により太平洋側と瀬戸内海側とで異なる。太平洋側は温暖で多雨であるが、瀬戸内海側は温暖ではあるが少雨である。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "九州:日本列島を構成する主要な4つの島の中で3番目に大きな島である。九州島とも呼ぶ。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "面積は36,731.56 kmで、北海道の半分弱の面積で、本州と四国の西に位置する。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "この九州島とその付随する島、薩南諸島(鹿児島県の領域)を含めて「九州」と呼ぶ。「九州の最高峰」というとき一般には薩南諸島に含まれる屋久島の宮之浦岳が挙げられる。さらに南西諸島(沖縄県の領域)を合わせて「九州地方」と言う。「九州地方」には沖縄県を含めるのが各百科事典では一般的である。なお、次の一覧は便宜上、次項の「南西諸島」に属する項目を除いた。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "南西諸島は九州の南に位置する島弧であり、ユーラシアプレートにフィリピン海プレートが沈み込むことで生じている。太平洋(世界的な地理学ではフィリピン海)と東シナ海を画している。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "なお、南西諸島の中で沖縄県に属する島は160である。主要な島を列挙。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "伊豆諸島・小笠原諸島は本州の南に位置する島弧であり、フィリピン海プレートに太平洋プレートが沈み込むことで生じている。沈み込んでいるところを伊豆・小笠原海溝という。伊豆諸島の島々や西之島は南本州海嶺の頂上部である。小笠原諸島の聟島諸島、父島諸島、母島諸島はその西側にある小笠原トラフによって南本州海嶺と隔てられている。行政区分では東京都、地方区分では関東地方に含まれる。",
"title": "主要な島と特徴的な地形"
}
] | 日本の地理(にほんのちり)では、日本の地理についての概略を記す。 | '''日本の地理'''(にほんのちり)では、[[日本]]の[[地理]]についての概略を記す。
[[ファイル:Satellite View of Japan 1999.jpg|thumb|[[日本]]は、[[極東]]そして東[[アジア]]の沿岸沖に位置し、6,852の'''[[島]]'''で構成される[[島国]]である。<ref group="注" name="example">『'''[[国土交通省]]'''』による区分け '''6,852島'''([[本土]] '''5島''' ・ [[離島]] '''6,847島''')。出典: 『'''国土交通省'''』サイト 離島振興課 離島とは(島の基礎知識){{Cite web|和書 |url=http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/ritoutoha.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2015年8月22日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071113053915/http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/ritoutoha.html |archivedate=2007年11月13日 |deadlinkdate=2017年10月}} 2009年11月27日閲覧。
<br />ただし、「[[島]]」について、地理学上はこのような分類・区分けはない。<br />【参考】 '''日本の[[島]]の面積順に上位10島''' ⇒ [[本州]]、[[北海道]]、[[九州]]、[[四国]]、[[択捉島]]、[[国後島]]、[[沖縄本島]]、[[佐渡島]]、[[奄美大島]]、[[対馬]]。( [[国立天文台]] 編 '''[[理科年表]]''' 平成19年版 P565、ISBN 4621077635 )</ref><br />島国すなわち[[領土]]がすべて島から成る国である日本で<ref name="example2">【参考】 [[島国一覧]]('''[[領土]]'''がすべて'''[[島]]'''で構成される国)</ref>、最大の島である[[本州]]は<ref name="example3">[http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/200910/shima/shima.htm 平成21年10月1日時点の'''島面積'''より] {{Wayback|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/200910/shima/shima.htm |date=20120615054602 }} [[国土地理院]] (注:表中の「沖縄島 おきなわじま」は、通称名「[[沖縄本島]]」の正式名称)</ref>、世界の島の中では面積が第7位である<ref group="注" name="example4">
世界の'''[[島]]'''の面積順位より抜粋 出典:'''[[:en:List of islands by area|List of islands by area]]'''
:第1位 [[グリーンランド]]
----
:第5位 [[バフィン島]] ([[カナダ]]) '''''*''''' 人口10,745人(2006年) - 本州の2.23倍、[[日本]]の1.34倍の面積
:第6位 [[スマトラ島]] ([[インドネシア共和国]])
:第7位 '''[[本州]]'''
:第8位 [[ビクトリア島]] ([[カナダ]]) '''''*''''' 人口1,707人(2001年) - 本州の95%、日本の57%の面積
:第9位 [[グレートブリテン島]] ([[イギリス]]([[イングランド]]・[[スコットランド]]・[[ウェールズ]]))
----
:第20位 [[アイルランド島]] ([[アイルランド共和国]]および[[イギリス]]([[北アイルランド]]))
:第21位 '''[[北海道]]'''
:第23位 [[樺太]]
:第25位 [[セイロン島]] ([[スリランカ]])
:第26位 [[タスマニア州|タスマニア島]] ([[オーストラリア]])
:第27位 [[デヴォン島]] ([[カナダ]]) '''''*''''' 世界最大の[[無人島]] - 本州の24%、北海道の66%、九州の1.49倍、四国の3.01倍の面積
:第28位 [[アレクサンダー島]] ([[イギリス]]・[[チリ]]・[[アルゼンチン]]が領有権を主張) '''''*''''' 無人島
----
:第32位 [[アクセルハイバーグ島]] ([[カナダ]])、第33位 [[メルヴィル島 (カナダ)|メルヴィル島]] ([[カナダ]]) '''''*''''' 2つとも無人島
:第36位 [[スピッツベルゲン島]] ([[ノルウェー]]) '''''*''''' [[スヴァールバル条約]]調印国の国民であれば、国籍問わず誰でも、出入りが自由(出入国管理なし・[[パスポート]]不要)で、居住ができ、仕事ができる島
:第37位 '''[[九州]]'''
:第38位 [[台湾]] ([[中華民国]]) '''''*''''' [[中国]]([[中華人民共和国]])が領有権を主張
----
:第40位 [[プリンスオブウェールズ島 (カナダ)|プリンスオブウェールズ島]] ([[カナダ]]) '''''*''''' 無人島
:第42位 [[海南島]] ([[中国]]([[中華人民共和国]]))
:第45位 [[シチリア]] ([[イタリア]])
:第46位 [[サマーセット島]] ([[カナダ]]) '''''*''''' 無人島
:第48位 [[サルデーニャ]] ([[イタリア]])
:第49位 [[バナナル島]] ([[ブラジル]]) '''''*''''' 川の中の島では世界最大
:第50位 '''[[四国]]'''</ref>。''(*)'' 写真は[[日本列島]]]]
[[File:Fareast islands satellite picture of The Blue Marble.jpg|thumb|【参考】 [[極東]]・沿海部の島々。衛星画像 ''左から(北から)順に主なもの''<br />
[[コマンドルスキー諸島]]、[[千島列島]]、[[樺太|樺太島]]、'''日本列島'''、[[南西諸島]]、[[台湾]]、[[フィリピン諸島]]、[[ボルネオ島]]、[[スラウェシ島]]<ref group="注">参考:これらの中で「世界の島の面積順位」第30位までの[[島]] ⇒ '''第3位・[[ボルネオ島]]'''([[インドネシア]]・[[マレーシア]]・[[ブルネイ]] 3ヶ国の[[領土]]である島)、'''第7位・[[本州]]'''(日本最大の島)、'''第11位・[[スラウェシ島]]'''(インドネシアで面積第4位の島)、'''第15位・[[ルソン島]]'''([[フィリピン]]最大の島)、'''第19位・[[ミンダナオ島]]'''(フィリピンで面積第2位の島)、'''第21位・[[北海道]]'''(日本で面積第2位の島)、'''第23位・[[樺太|樺太島]]'''([[ロシア]]最大の島)。出典:[[:en:List of islands by area|世界の島の面積順位・英語版]] </ref>。''Photo by [[:en:The Blue Marble|NASA's Blue Marble project]]'' ''(*)'' 左端は[[カムチャツカ半島]]]]
== 概略 ==
{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
[[日本]]は、[[島国]]すなわち'''[[領土]]'''がすべて'''[[島]]'''から成る国である<ref name="example2" /><ref name="example3" /><ref>【参考】 [[サンフランシスコ平和条約]]の'''[[s:サンフランシスコ条約草案|草案における日本の領土について ⇒]]'''</ref>。
日本の領土は、[[日本列島]]([[本州]]・[[北海道]]・[[九州]]・[[四国]]などが主たる[[島]])を中心に、南に延びる[[伊豆諸島|伊豆]]・[[小笠原諸島]]、南西に延びる[[南西諸島]]([[沖縄本島]]が最大の[[島]])、そして北東に位置する[[北方地域|北方領土]]と、'''6,852'''の'''[[島]]'''から成っている<ref group="注" name="example" /><ref group="注">【参考】 [[日本]]最古の[[歴史書]] 『'''[[古事記]]'''』 ([[712年]]献上) では、「'''日本'''」を、「'''大八島国'''」(おおやしまのくに)と呼び、次の「'''八つの[[島]]'''」の総称としている([[国産み#島産み]])
<br />登場順に、現代の呼称表記で、[[淡路島|'''淡路'''(あわじ)]]、'''[[四国]]'''、[[隠岐諸島|'''隠岐'''(おき)]]、'''[[九州]]'''、[[壱岐島|'''壱岐'''(いき)]]、[[対馬|'''対馬'''(つしま)]]、[[佐渡島|'''佐渡''']]、'''[[本州]]'''、以上 '''8島'''。(この後さらに'''6島'''が紹介される。これら'''14島'''の原文での呼称表記は [[国産み#比較表]] を参照)
<br />『'''[[日本書紀]]'''』 ([[720年]]完成)では、「'''日本'''」を、「'''大八洲国'''」(おおやしまのくに)と表記している。
<br />なお、「'''大八島国・大八洲国'''」の意味は、「八つの[[島]]から成る国」ではなく、「'''多くの[[島]]から成る国'''」とされる。'''''(*)'''''
<br />すなわち、古代日本そして日本の神話において、「'''八'''」は'''聖数'''、漠然と'''数が大きいこと'''、'''多いこと'''、その'''例え'''として用いられた([[8#その他 8 に関すること]])。('''例''': 「'''八重桜'''(やえざくら)」、「'''八百万'''(やおよろず)の神 ''多くの神'' 」、「千代(ちよ)に'''八千代'''(やちよ)に ''永遠に'' 」、「'''八雲'''(やくも) ''幾重にも折り重なった雲'' 」、等々)
<br />'''''(*)''''' [[広辞苑]]・[[大辞林]]・[[大辞泉]]等も、「多くの[[島]]から成る国」をその意味としている。
</ref>。その中で、日本列島は広いところで300km程度の幅があり、長さは3500km程ある<ref>{{Citation|title=世界大百科事典|contribution=日本列島|publisher=平凡社|year=2009}}</ref>。
[[地理学]]上の分類ではないが、[[国土交通省]]は、日本を構成する'''6,852'''の'''[[島]]'''に「[[本土]]」と「[[離島]]」の2つの区分けを設けている。すなわち、[[北海道]]・[[本州]]・[[四国]]・[[九州]]・[[沖縄本島]]の'''5島'''を「本土」、これら5島を除く'''6,847島'''を「離島」としている<ref group="注" name="example" /><ref group="注" name="example4" />。
[[令和5年]][[2月28日]]、[[国土地理院]]は日本全国の島の数を「'''1万4125島'''」と発表した<ref>[https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/pressrelease20230228.html 我が国の島を数えました]</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20230228-GTM4ZFFMQNOOVKRLPOYXZCIHXY/ 日本の島の数倍増、1万4125に 北方領土は衛星画像で調査]</ref>。「島」として数えたのは「法令等に基づく島のほか、地図に描画された陸地のうち自然に形成されたと判断した周囲長0.1km以上の陸地」とした。[[海上保安庁]]が[[昭和62年]]に発表した「6852島」を大きく上回るが、国土地理院は「測量技術の進歩による地図表現の詳細化が大きく影響している」と述べている。
島国である日本は、[[ユーラシア大陸]]東端の[[極東]]・東[[アジア]]の沿岸沖、また[[太平洋]]北西の沿海部に位置し、全体として[[列島#弧状列島|弧状列島]]を形成している。
この[[弓 (武器)|弓]]形状の日本の国土は、総[[面積]]が約'''37.8万'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で[[国の面積順リスト|世界第62位]]である。<ref name="geospatial"/> その約70%が山岳地帯で、その約67%が森林である(国土面積は日本政府が領有権を主張する領域)。
日本は[[島国]]であるとともに、国土の約73%を山地が占める山国でもある。そのため日本の[[川|河川]]は流路延長に比し川床勾配が急で、大陸を流れる川と違い一気に流れ下る川が多い。しかも多雨地帯にある。したがって侵食力が強く山地では深い[[V字谷]]を、[[盆地]]や[[平野]]など山地からの出口には[[扇状地]]を発達させていることが多い。また河口付近には厚い堆積層からなる平野を形成している。中部地方から東北地方にかけては[[河岸段丘]]を発達させていることが多い。
世界的な地理学は[[ヨーロッパ大陸]]や[[アメリカ大陸]]などを模式地として研究が進められてきた。そのため日本の実情と合わないこともある。たとえば台地もそのひとつである。日本で言う台地は扇状地や浅い海底が隆起したものであって'''洪積台地'''と分類されるものが大半を占めている。この詳細は[[台地]]を参照のこと。
日本周辺の海はひとつに繋がっているが、東側および南側が[[太平洋]](ただし、日本ではほとんど用いないが、小笠原諸島以西の太平洋は[[フィリピン海]]と呼ぶのが世界的には普通である。)、北西側が[[日本海]]、西側が[[東シナ海]]、北東側が[[オホーツク海]]と呼ばれている。[[本州]]と[[四国]]の間の海は特に[[瀬戸内海]]と呼ばれており、多数の島々が点在する。[[海流]]について見てみると、[[日本列島]]の南側を[[黒潮]](日本海流)と呼ばれる暖かい海流が流れている。北からやってくる[[親潮]](千島海流)と[[三陸沖]]から常磐沖でぶつかって好漁場をつくっている。一方、黒潮の分流である[[対馬海流]]が[[対馬海峡]]から日本海に流れ込んでいる。
日本の気候は、列島の中央を縦走する山岳地帯を境に太平洋に面している地域と日本海に面している地域とで大きく異なる。[[北海道]]と本州の高原地帯が[[亜寒帯]]、南西諸島の一部は[[熱帯]]、それ以外の地域は[[温帯]]に属しているが、南北で気温差が大きい。
[[冬]]は、冷たい北西[[季節風]]が強く、日本海側は[[雪]]が多い。一方の太平洋側は、晴天に恵まれて空気の乾いた状態が続く。
気温の変化は次第に北上していき、冬から春、春から夏へと移り変わる。
長雨の時期である[[梅雨]]の後、晴れが多く高温多湿の夏を迎える。8月後半の残暑と入れ替わりに、[[秋雨]]と[[台風]]の季節を迎える。
{{Indent|※''社会的な日本の区分や、生活に関する地域分類については、[[日本の地域]]を参照のこと。''}}
=== 位置 ===
[[File:Topographic90deg N0E90.png|thumb|日本列島と周辺の地形図]]
[[アジア]]([[ユーラシア大陸]])の東方([[欧米]]から見れば[[極東]])の沿海部にある4つの弧状[[列島]]([[千島列島]]、[[日本列島]]、[[琉球列島]]、[[伊豆諸島|伊豆]]・[[小笠原諸島]])から成り立っていて、[[太平洋]]の西部にある[[島国]]である。[[日本海]]を挟んで[[ロシア]]、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)、[[大韓民国]](韓国)と隣り合っている。[[東シナ海]]を挟んでは[[中華人民共和国]](中国)および[[中華民国]](台湾)と隣り合っている。また、南側で[[太平洋]]〈[[フィリピン海]]〉を隔てて米領[[北マリアナ諸島]]と隣り合っている。
日本の周辺は全て[[海]]であり、[[島国]]である。そのため他国と陸上において接していない。周辺は海であるが、[[樺太]]が日本本土から43キロメートル<ref name="karafuto.yuzhno">[https://www.mofa.go.jp/Mofaj/press/iken/03/souryouji/yuzhno03.html 外務省 総領事館ほっとライン ユジノサハリンスク 日本に一番近い外国は「ロシア」]</ref> の位置にあり、[[ロシア]]が日本から一番近い他国の領土である<ref name="karafuto.yuzhno" />。
{{座標一覧|節=位置}}
;'''経度と緯度から見た位置'''
{{see also|日本の端の一覧}}
:: 日本の端を[[緯度]][[経度]]によって示す。
:;最東端
::東京都 [[南鳥島]]({{Coord|24|16|59|N|153|59|11|E|type:landmark_region:JP-13|name=日本最東端}})
:;最西端
::沖縄県 [[トゥイシ]]<ref name="kyodo" />({{Coord|24|27|05|N|122|55|57|E|type:landmark_region:JP-47|name=日本最西端}}<ref name="yaeyama" />)
::*最西端は長らく[[与那国島]]の[[西崎]](いりざき)とされてきたが、2019年に基本図とされる国土地理院の2万5千分の1地形図が改訂され、与那国島の北北西約260mに位置するトゥイシが日本最西端の地点となった<ref name="kyodo">[https://ryukyushimpo.jp/kyodo/entry-933982.html 日本最西端、北北西へ 沖縄県・与那国島の岩を地形図に] 琉球新報、2019年6月11日閲覧。</ref><ref name="yaeyama">[https://www.yaeyama-nippo.co.jp/archives/7447 日本最西端、260メートル先へ 与那国島の岩を地形図に] 八重山日報、2019年6月11日閲覧。</ref>。
:;最南端
::東京都 [[沖ノ鳥島]]({{Coord|20|25|31|N|136|4|11|E|type:landmark_region:JP-13|name=日本最南端}})
:;最北端
::北海道 [[択捉島]][[カモイワッカ岬]]({{Coord|45|33|28|N|148|45|14|E|type:landmark_region:JP-1|name=日本最北端}})
::*[[北方地域|北方領土]]を除く最北端は、北海道 [[稚内市]] [[弁天島 (稚内市)|弁天島]]([[宗谷岬]])(北緯45度31分35秒・東経141度56分27秒)
:<!--リスト分断防止-->
;'''周辺の海洋'''
:{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[排他的経済水域]]については韓国、中国および台湾、ロシアと係争がある。
:*[[日本の排他的経済水域]]: EEZを合わせて約447万km<sup>2</sup>。<ref>[https://www1.kaiho.mlit.go.jp/JODC/ryokai/ryokai_setsuzoku.html 日本の領海等概念図]、海上保安庁海洋情報部</ref> 海岸線から 200 海里([[マイル]])。
:*[[領海]] : 海岸線から 12 海里。ただし、[[宗谷海峡]]、[[津軽海峡]]、[[対馬海峡]]西水道および東水道、[[大隅海峡]]の5つの[[国際海峡|特定海域]]については 3 海里としている。
:*[[海岸|海岸線]] : 全長 33,889 km ([[海上保安庁]]調べ)
;海外領土・自治領
:現在の日本にはいわゆる[[海外領土]]や[[自治領]]は存在しない。
=== 面積 ===
[[File:Japan-Archipelago-Outlined-Islands-Map.png|thumb|240px|日本列島の地形と海底地形図]]
<!--:;総計([[領域]]面積) :377,973 km<sup>2</sup>-->
*領土 :377,973.89 km<sup>2</sup> <ref name="geospatial">{{Cite web|和書|title=令和元年全国都道府県市区町村別面積調(10月1日時点)2020年 |url=https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO-title.htm |publisher=[[国土地理院]] |access-date=3 January 2021 |language=ja |date=25 December 2020 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210101044323/https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO-title.htm |archive-date=January 1, 2021}}</ref><ref>{{Cite book|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20220101.pdf|title=令和4年全国都道府県市区町村別面積調(1月1日時点)|chapter=第Ⅱ章 都道府県別面積|page=5|date=2022年3月23日|publisher=国土交通省 国土地理院|format=PDF|accessdate=2022-03-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220323125218/https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/backnumber/GSI-menseki20220101.pdf|archivedate=2022年3月23日|url-status=live}}</ref>
**土 :87.93099%
**海 :12.06901%
;'''他地域との広さの比較'''
{{see also|国の面積順リスト}}
:[[モンタナ州]]より僅かに狭い。ヨーロッパの国なら[[ノルウェー|属領を含むノルウェー]]よりも狭く、[[ドイツ]]より僅かに広い。アジアの国々と比べると[[ウズベキスタン]]や[[イラク]]よりもやや狭く、[[マレーシア]]や[[ベトナム]]よりは広い。アフリカの国々では[[ジンバブエ]]より狭く[[コンゴ共和国]]よりは若干広い。
=== 人口 ===
{{main|日本の人口統計}}{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
日本では、人口の5割が国土の14%ほどの[[平野]]に集中している。また、特に[[東京都]]、[[大阪市]]、[[名古屋市]]を中心とする地域([[三大都市圏]])に日本の人口の5割弱が集中している。このような人口の差により、[[過疎化]]・[[過密|過密化]]といった問題が発生している。
また人口の変動においては、現在増加から減少に転じている大きな転換期にあり、「人口減少社会」が政治的・社会的に問題になりつつある。世代別では、第二次世界大戦後2回の[[ベビーブーム]]に生まれた世代が突出して多いほか、世界的に見ても65歳以上の高齢者の割合が高い([[高齢化]])。また[[出生率]]は低く、世界的に見ても15歳以下の年少人口の割合が低い([[少子化]])。
*総計 : 126,925,843 人
*男 : 62,110,764 人
*女 : 64,815,079 人
=== 地勢 ===
[[File:Geofeatures map of Japan ja.svg|thumb|280px|主要地形]]{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
山地が73%を占める。山間部に規模の小さな盆地が、沿海部に小規模な平野が広がっており、狭い平野や盆地に人口、耕地、都市機能、経済機能などが集中している。特に[[太平洋ベルト]]地帯には前述の都市機能や経済基盤などが集中している。そのため[[地政学]]的リスクが高く、1970年代から集中する機能を分散させる計画が持ち上がったが、未だに実行段階には達していない。ただし企業が本社を地方都市に移すなど、一部に分散の動きがある。
==== 最低点と最高点 ====
*最低点 :[[八戸鉱山]] 標高 約-160 m(地上の最低点)(露天掘り鉱山であり地形が変わる可能性が高いため概数)
*最高点 :[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]([[剣ヶ峰 (富士山)|剣ヶ峰]]) 標高 3,776 m
==== 河川と湖 ====
*最も長い川 : [[信濃川]] - 367 km
*最も流域面積の広い川 : [[利根川]] - 16,829 km<sup>2</sup>
*最も広い湖 : [[琵琶湖]] - 670.33 km<sup>2</sup>
*最も周囲長の長い湖 : [[霞ヶ浦]] - 249.5 km
*最も深い湖 : [[田沢湖]] - 423.0 m
*最も水面標高の高い湖 : [[中禅寺湖]] - 標高1,269 m(人造湖を含まずかつ4 km<sup>2</sup>以上のものの中で)
**⇒ 河川については[[川|日本の河川]]も参照のこと。
**⇒ 湖については[[日本の湖の一覧|日本の湖]]も参照のこと。
==== 土地利用 ====
{{Pie chart
|caption = 土地利用の内訳(2012年)
|label1 = 森林 |value1 = 66.3 |color1 = #006400
|label2 = 農用地 |value2 = 12.0 |color2 = #8b4513
|label3 = 宅地 |value3 = 5.0 |color3 = #ffd700
|label4 = 道路 |value4 = 3.6 |color4 = #696969
|label5 = 水面・河川・水路 |value5 = 3.5 |color5 = #40e0d0
|label6 = 原野等 |value6 = 0.9 |color6 = #9acd32
|label7 = その他 |value7 = 8.6 |color7 = #ffffff
}}
国土に占める[[森林]]面積の割合は、[[先進国]]かつ[[ミニ国家]]ではない一定以上の面積を持つ国の中ではかなり高く、他に7割前後を占めるのは[[スウェーデン]]、[[フィンランド]]など数少ない。これは農地や宅地などに利用できない険しい山岳地帯が多いことも示しており、土地利用や都市計画などにおける制限は多い。森林率は確かな統計がある20世紀中盤以降、ほぼ横ばいで推移している。
;総面積 約37万8千 km<sup>2</sup> の利用内訳 [https://www.stat.go.jp/data/nihon/g0101.html 総務省統計局 国土の利用状況] による。
:*[[森林]] : 66.3%
:*[[農地|農用地]] : 12.0%
:*[[住宅地|宅地]] : 5.0%
:*[[道路]] : 3.6%
:*水面・[[河川]]・[[水路]] : 3.5%
:*原野等 : 0.9%
:*その他 : 8.6%
:(以上[[2012年]]の調査による)
:*民有地:162,549km<sup>2</sup>
:**うち宅地 : 15,858km<sup>2</sup> (9.76%)
:**うち田 : 27,276km<sup>2</sup> (16.72%)
:**うち畑 : 24,962km<sup>2</sup> (15.36%)
:**うち山林 : 78,777km<sup>2</sup> (48.46%)
:*自然公園面積 : 53,692.32km<sup>2</sup>
:*都市公園面積 : 998.41km<sup>2</sup>
:(以上[[2003年]]の調査による)
==== 灌漑面積 ====
{{see also|日本の農業}}
27,820 km<sup>2</sup> ([[1993年]]の調査による)
===海===
[[File:Japan_Relief_Map_of_Land_and_Seabed.png|thumb|240px|日本近海海底地形図と日本列島]]{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
日本周辺の海はひとつに繋がっているが、東側および南側が[[太平洋]]、西北側が[[日本海]]、西側が[[東シナ海]]、北東側が[[オホーツク海]]である。世界的には[[伊豆諸島]]および[[小笠原諸島]]と[[南西諸島]]とに挟まれた海域は[[フィリピン海]]と呼称されるが、日本ではこの呼称は浸透していない。日本政府の公文書においても太平洋とされている。[[本州]]と[[四国]]に挟まれた海域は[[瀬戸内海]]と呼ばれている。
日本列島の南側を[[黒潮]]([[日本海流]])と呼ばれる暖かい海流が流れている。北からやってくる[[親潮]]([[千島海流]])が三陸沖から常磐沖でぶつかって好漁場をつくっている(潮目)。一方、黒潮の分流が[[対馬海峡]]から日本海南部〜東部に流れ込んでいる。これが[[対馬海流]]である。対馬海流は津軽海峡および宗谷海峡から太平洋に抜けているのだが、日本海側の気候に大きな影響を与えている。このほかには、[[間宮海峡]]から日本海北部に[[リマン海流]]が流れ込んでいる。
=== 天然資源・主な産出物 ===
{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
「鉱物の博物館」と形容されるほど大抵の[[鉱物]]を産出するが、商業化するには規模が小さく採算性に劣るものがほとんどである。ただし[[コンクリート]]や[[鉄鉱石]]を[[精錬]]するのに必要なな[[石灰石]]は国内の需要以上を現在も産出し続けており、また[[ヨウ素]]は世界でも有数の産出量を誇る。また日本では[[石油]]は採れないという認識が広く伝わっているが、[[日本海]]沿岸にはまとまった量の石油が埋蔵されて居り、盛んに採掘が行われた。しかし数十年前に採掘できる石油のほとんどを採り尽くしてしまい現在ではほとんどの地域で採算が取れない為、採掘が中止されているが、一部ではごく小規模な油田から地上に時々湧出する採掘できない原油は農産物などに被害をもたらし厄介者扱いされている。2003年度現在、[[液化石油ガス]]は、国内の需要の約33%。[[天然ガス]]は国内の需要の約3.5%を産出している。
古くは全国各地で[[金]]が産出され[[貨幣]]や物品、[[建造物]]などに使用されていた。これは[[マルコ・ポーロ]]が、日本を「黄金の国 [[ジパング]]」と書き記したゆえんとも言われているが、[[江戸時代]]から[[明治|明治時代]]にかけて海外に大量に流出し、現在ではそのほとんどがなくなっている。また、[[銀]]や[[銅]]、[[鉄]]なども金の場合と同様現在ではほとんど払底している。しかし鉄を主とする[[金属]]精錬・加工の技術は現在も高水準を保ち続けており、輸入される金属資源によってそれらの技術が生かされている<ref group="注">最近では[[携帯電話]]、[[電子機器]]などから回収される[[金]]などの[[貴金属]]は天然の鉱山より単位重量あたりの含有率が高く[[都市鉱山]]と呼ばれ注目を浴びている。</ref>。
[[海底資源]]に関しては金属鉱物はもとより[[メタンハイドレート]]や[[天然ガス]]などが大量に埋蔵されていることが確認されている。また、[[レアメタル]]に含まれる希少金属の埋蔵も確認されている。
農産物では、[[米]](主食用自給率100%、その他95%。2007年)を別としてほとんどの品目の[[自給率]]が100%を割っており、輸入なくして日本の食糧需要を賄うことは困難な状況である。
=== 気候 ===
{{Main|日本の気候}}{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
日本の気候は、
#[[島嶼]]であるため、全般に[[気温]]変化が穏やかで[[降水量]]が多い[[海洋性気候]]を呈する。
#国土が長大であるため、南北で[[気温]]に大きな違いがある。
#列島の中央を縦走する山岳地帯を境にして、太平洋に面している地域([[太平洋側]])と日本海に面している地域([[日本海側]])とで[[天候]]が大きく異なる。
#中緯度の[[大陸]]東岸に位置するため、[[季節風]](モンスーン)の影響を強く受ける。
という4つの大きな性質がある。
大陸であれば[[乾燥帯]]に入る中緯度に位置するが、島嶼であるため湿潤な海洋性[[気団]]の影響を受けやすく、降水量は概ね年間1,000mm以上であり、[[北陸地方|北陸]]・[[東海地方|東海]]・[[紀伊半島]]・[[四国]]・[[南九州]]の外海沿岸部では2,000mmを超え、紀伊半島南東部では4,000mm近いところがある。また、暖流である[[黒潮]]や[[対馬海流]]、寒流である[[親潮]]が天候に影響を与える地域がある。
[[北海道]]と[[本州]]の山岳地帯の一部は[[亜寒帯]]、本州の大部分・[[九州]]・[[四国]]・[[南西諸島]]の北部は[[温帯]]、[[火山列島]]・[[南鳥島]]・[[沖ノ鳥島]]・[[八重山列島]]・[[多良間島]]・[[沖大東島]]は[[熱帯]]に属する。なお、温帯の中でも[[小笠原諸島]]・[[伊豆諸島]]・南西諸島北部・[[南九州]]などは[[亜熱帯]]と称される場合もある。年平均気温は札幌9℃、東京16℃、那覇22℃である。
典型的に用いられる大まかな気候区分では、北海道と本州の日本海側は[[日本海側気候]]とされ、冬季の雪と夏季に時折[[フェーン現象]]による高温が起こるのが特徴。北海道から九州にかけての太平洋側は[[太平洋岸気候]]とされ、夏期に降水量が多く冬季に晴天となるのが特徴。西日本の瀬戸内海沿岸は[[瀬戸内海式気候]]、本州の内陸部は[[中央高地気候]]で、それぞれ降水量が年間を通して少なく、中央高地式気候では更に気温変化が大きいのが特徴である。
[[冬]]は、[[シベリア高気圧]]からの冷たく乾いた北西[[季節風]]が強く吹く。この季節風は、日本海を流れる温暖な対馬海流により湿った風に変質して雪雲を生じ、それが山岳地帯にぶつかる日本海側の地域は[[雪]]や[[曇り]]の日が多い。[[新潟県]]や[[北陸地方]]の山間部は毎年2 - 3mの積雪があり、世界的な[[豪雪]]地帯として知られている。一方で[[雨蔭]]となる太平洋側は、晴天に恵まれるが「[[からっ風]]」と呼ばれる強風が吹き、空気の乾いた状態が続く。また時々、強い[[低気圧]]により[[荒天]]に見舞われることがある。
[[春]]および[[秋]]は、季節風の影響が弱く、移動性の[[高気圧]]や低気圧によって、周期的に天気が移り変わる。[[春一番]]や[[木枯らし]]などに特徴づけられるように、低気圧や[[前線 (気象)|前線]]の通過に伴って季節の波が何度となく訪れ、寒暖晴雨を繰り返しながら徐々に季節が変わってゆく。
初夏から盛夏への過渡期には、梅雨前線と呼ばれる[[停滞前線]]の影響で南から順に「[[梅雨]]」と呼ばれる雨季が始まる(梅雨入り)。梅雨の時期は概ねしとしととした長雨が続き、時折まとまった大雨も起こりつつ、5月下旬から7月下旬にかけて1ヶ月半程度続く。なお、伊豆・小笠原と北海道では曇天が続く場合があるが長続きせず、梅雨はない。
梅雨が終わる(梅雨明け)と、本格的な[[夏]]となる。高温湿潤な[[太平洋高気圧]]によって安定した晴れが続く。例年7月中旬から9月上旬の晴天時には、内陸を中心に気温が上昇して広範囲で30℃を超える上、湿度も70%以上と高い。しばしば「高温多湿」と表現されるその暑さは、乾燥しているインドや中近東での摂氏30度よりも[[体感温度]]や[[不快指数]]が高く、体力を消耗させる。また、晴天の日でも夕方以降は、しばしば[[夕立]]と呼ばれる夏特有の[[雷]]を伴うにわか雨が降る。北海道や東北は比較的寒冷だが、夏の暑さと適度な雨が[[稲作|水稲作]]を可能にしており、[[品種改良]]の寄与もあって20世紀終盤からいわゆる「米どころ」となっているが、数年に一度の[[やませ]]や長梅雨による[[冷夏]]の年には、[[冷害]]により稲が不作となる。
盛夏から初秋にかけての期間には、[[北日本]]や[[東日本]]を中心に「[[秋雨]]」と呼ばれる間欠的な雨期となる。また同時期に、本土では[[台風]]の襲来が増加する。なお、南西諸島では6月から10月頃まで長期間台風の襲来が多い。
[[日本家屋]]と呼ばれるような日本の伝統的な住宅は、夏の高温多湿や台風に適応するため、部屋を[[壁]]で仕切らず風通しを良くして涼を呼ぶようにつくられている。[[襖]](ふすま)や[[障子]]という取り外し可能な建具を用い、床を高くして[[畳]]を敷いた床にしたのもこのような気候に対処するための工夫と考えられている。しかし、1960-70年代の[[高度経済成長]]期を境に伝統的な住宅は急減し、新築の建築物は壁と[[扉]]で構成されるものが圧倒的で、[[鉄筋コンクリート構造]]のものも多くなっている。加えて、住宅やオフィスで[[空気調和|冷暖房]]を行った気密性の高い部屋に暮らすようになり、特に都市ではそれが当たり前になっている。こういった住宅環境の変化と都市の高密度化により、大都市や近郊では[[ヒートアイランド現象]]が発生していて、冬季の温暖化が顕著であるほか、夏の気温押し上げが問題となっている。
=== 自然 ===
{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
日本付近は[[プレートテクトニクス]]の考え方によれば[[ユーラシアプレート]]、[[北アメリカプレート]]、[[太平洋プレート]]、[[フィリピン海プレート]]の4つのプレートがせめぎ合う境界域にあたり、造山活動が活発な[[新期造山帯]]([[環太平洋造山帯]])に含まれている。表土は最も古い岐阜県・長野県付近でも約2億4000万年前のもので、[[地質学]]的に見ても新しい地層である。
そのため[[火山]]の噴火が各地で度々発生するとともに、[[マグニチュード]]7から8クラスの[[地震]]を周期的に経験している。マグニチュード4クラスの地震に限って見てみるとほぼ毎日と言えるほど頻繁に発生していて、「地震大国」といえる。またプレートの動きに伴い、国土全体を縦横に[[断層|活断層]]が走っており、都市を大地震が直撃することも多い。
しかし火山地帯であるがために[[温泉]]に恵まれていて、それらは大抵著名な行楽地となっていて[[国立公園]]や[[国定公園]]に指定されている。国土全体が火山の噴火や[[プレートテクトニクス|大陸移動]]、堆積作用などの活動で形成されたため険しい山地が多く、河川も短いため、各地で土砂災害が起こりやすい。
'''日本で多い災害'''
*[[火山]]の噴火
*[[地震]]、[[津波]]
*[[熱帯低気圧]]や[[台風]](6月〜10月)
*洪水や土砂災害などの[[水害]](梅雨や秋雨、台風のほか、夏の集中豪雨の際に発生する)
*[[雪#雪害|雪害]](主に本州の日本海側)
*[[冷害]](数年に一度、夏の北日本で発生する)
=== 環境 ===
{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
日本は、[[四季]]の変化によって多彩な生物や自然に恵まれている。特に[[生物相]]の豊富さは優れており、多くの分類群において日本の種数はヨーロッパ全土や北アメリカより多い。たとえば[[シダ植物]]は日本に630種あり、これはヨーロッパ(152)やアメリカ合衆国とカナダ(406)よりはるかに多く、熱帯域にあるタイ、インドシナ三国にほぼ匹敵する。
高度経済成長期以降の食卓の変化や海外の農産品の輸入問題などさまざまな要因により、20世紀後半に農林水産業が急激に変化した。林業衰退による人工林の放置、環境変化や乱獲・密漁などによる漁業資源の減少などが大きな問題となっている。
[[生態系]]においても、明治時代以降[[外来種]]による生態系の変化が起こり、[[トキ]]や[[ニホンオオカミ]]の絶滅に代表されるような[[生物多様性]]の低下が起こっている。また、[[ニホンザル]]や[[イノシシ]]が市街地に出没するなど人間の生活への影響も出ている。
'''環境問題'''
*自動車の排気ガスによる[[大気汚染]]
*湖や河川の富栄養化
*[[栽培漁業]]の過密化によって起こされている沿岸海域の富栄養化
*外国から入ってくる動物、魚、昆虫、植物の爆発的な増殖によって脅かされる在来種の存続(生態系の破壊)
*[[林業]]の衰退による人工林の荒廃⇒洪水の増加、生態系の崩壊
'''国際協定'''
*[[二酸化炭素]]削減などを目標とした[[京都議定書]]を批准済み。
{{節スタブ}}
=== 交通 ===
{{main|日本の交通}}
*[[高速道路]]、[[国道]]、[[都道府県道]]、各市町村の管理による[[公道]]、[[高速鉄道]]を含む[[鉄道]]、[[航路]]や[[航空路]]が全国に整備されており、一部の[[離島]]や僻地を別とすれば交通の便には問題がない。
*大都市では[[地下鉄]]などが市民の足となっている。特に[[東京]]の地下鉄はクモの巣のように張り巡らされている。
*[[本州]]と[[四国]]の間は3ルートの[[本州四国連絡橋]]で繋がれている。本州と北海道は[[青函トンネル]]で、本州と九州は3つの[[関門トンネル]]と[[関門橋]]で連絡されている。
== 主要な島と特徴的な地形 ==
{{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}}
4つの主要な[[島]] <ref group="注" name="example4" /> と、地方区分ごとに見た各地の地理の概要や特徴的な地形を記述する。
=== 北海道 ===
[[ファイル:Japan Hokkaido Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[北海道]]]]
[[北海道]]:[[日本列島]]を構成する主要な4つの[[島]]の中で2番目に大きい島である<ref name="example3" /><ref group="注" name="example4" />。
この'''北海道本島'''と'''その付随する島'''([[利尻島]]、[[礼文島]]、[[奥尻島]]、[[天売島]]、[[焼尻島]]、[[渡島大島]]、[[渡島小島]]等)から成る[[地方公共団体]]([[都道府県]])も「'''北海道'''」であり、47[[都道府県]]で唯一の「'''[[道 (行政区画)|道]]'''」である。
この「北海道」'''1道'''から成る[[日本の地域|地方]]を'''北海道地方'''と言う。その面積は[[日本]]の総面積の約2割 (22.9%) にあたる83,456.75 km<sup>2</sup>である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/200910/ichiran.htm |title=平成21年10月1日 都道府県別面積 |accessdate=2012年12月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100525221050/http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO/200910/ichiran.htm |archivedate=2010年5月25日 |deadlinkdate=2019年4月 }}</ref>。
*都道府県:[[北海道]]
*主な都市:[[札幌市]]、[[旭川市]]、[[函館市]]、[[釧路市]]、[[苫小牧市]]、[[帯広市]]、[[小樽市]]、[[北見市]]、[[江別市]] など<!--人口順、10万人以上の都市-->
*平野:[[十勝平野]]、[[石狩平野]]、[[天塩平野]]、[[釧路平野]]、[[頓別平野]]、[[勇払平野]]、[[岩内平野]]、[[函館平野]] など
*台地:[[根釧台地]] など
*湿地:[[釧路湿原]]、[[サロベツ原野]] など
*山地・山脈:[[日高山脈]]、[[石狩山地]]、[[天塩山地]]、[[夕張山地]]、[[北見山地]]、[[増毛山地]]、[[狩場山地]] など
*丘陵:[[宗谷丘陵]]、[[白糠丘陵]]、[[馬追丘陵]] など
*山:[[大雪山]]、[[十勝岳]]、[[雌阿寒岳|阿寒岳]]、[[羅臼岳]]、[[羊蹄山]]、[[利尻岳]]、[[幌尻岳]]、[[昭和新山]] など
*峡谷:[[定山渓]]、[[層雲峡]] など
*盆地:[[上川盆地]]、[[名寄盆地]]、[[富良野盆地]]、[[北見盆地]] など
*河川:[[石狩川]]、[[十勝川]]、[[釧路川]]、[[天塩川]] など
*湖:[[支笏湖]]、[[洞爺湖]]、[[阿寒湖]]、[[摩周湖]]、[[クッチャロ湖]]、[[ウトナイ湖]]、[[サロマ湖]]、[[風蓮湖]] など
*海域:[[オホーツク海]]、[[内浦湾]]、[[石狩湾]]、[[津軽海峡]]、[[宗谷海峡]]、[[根室海峡]] など
*半島:[[知床半島]]、[[渡島半島]](松前半島、亀田半島を含む)、[[根室半島]]、[[積丹半島]]、[[野付半島]] など
*岬・崎:[[知床岬]]、[[襟裳岬]]、[[宗谷岬]]、[[野寒布岬]]、[[納沙布岬]]、[[積丹岬]]、[[チキウ岬]] など
*島:[[択捉島]]、[[国後島]]、[[色丹島]]、[[歯舞群島]]、[[礼文島]]、[[利尻島]]、[[奥尻島]] など
*海溝(トラフ):[[千島海溝]]
=== 本州 ===
[[ファイル:Japan Honshu Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[本州]]]]
[[本州]]:[[日本列島]]を構成する主要な4つの[[島]]の中で最大の島である<ref name="example3" />。
面積は227,942.83 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、[[北海道]]の面積の約3倍、そして[[イギリス]]の[[グレートブリテン島]]よりも広く、世界の島の中では面積は第7位である<ref group="注" name="example4" />。
東北地方、関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方に分類され、その分け方にはいくつかの異論があり統一的なものは存在しない。
{{main|日本の地域}}
==== 東北地方 ====
[[ファイル:Japan Tohoku Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[東北地方]]]]
[[東北地方]]は[[本州]]北部に位置する。この地域の本州は[[北アメリカプレート]]に載っており、西からは[[ユーラシアプレート]]、東からは[[太平洋プレート]]に押されて隆起した[[奥羽山脈]]が中央を南北に走っている。さらに他の[[山地]]や[[盆地]]も南北方向に広がっている。奥羽山脈やその他の山地から流れ出した河川の中流部に盆地が、下流部に平野が形成されている。それらは日本の農業生産の中心地域である。東北地方の火山は奥羽山脈の西側にある。東北地方の東方沖に[[日本海溝]]が南北に走っている。日本海溝の西側には規模の大きな地震の震源域がある。
*都道府県:[[青森県]]、[[秋田県]]、[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[山形県]]、[[福島県]]
*主な都市:[[仙台市]]、[[郡山市]]、[[いわき市]]、[[秋田市]]、[[盛岡市]]、[[青森市]]、[[福島市]]、[[山形市]]、[[八戸市]]、[[弘前市]]、[[石巻市]]、[[鶴岡市]]、[[会津若松市]]、[[一関市]]、[[奥州市]]、[[酒田市]]など<!--人口順、10万人以上の都市および県庁所在地-->
*平野:[[津軽平野]]、[[青森平野]]、[[三本木原]]、[[秋田平野]]、[[能代平野]]、[[庄内平野]]、[[仙台平野]] など
*湿地:[[尾瀬ヶ原]]、[[田代山湿原]] など
*山地・山脈:[[奥羽山脈]]、[[津軽山地]]、[[恐山山地]]、[[白神山地]]、[[真昼山地]]、[[出羽山地]]、[[太平山地]]、[[朝日山地]]、[[丁岳山地]]、[[飯豊山地]]、[[神室山地]]、[[越後山脈]] など
*高地・高原:[[北上高地]]、[[阿武隈高地]]、[[磐梯高原]]、[[会津高原]]、[[尾瀬]] など
*丘陵:[[下北丘陵]]、[[笹森丘陵]]、[[白河丘陵]] など
*山:[[岩木山]]、[[八甲田山]]、[[岩手山]]、[[早池峰山]]、[[鳥海山]]、[[蔵王連峰|蔵王山]]、[[月山]]、[[朝日岳 (山形県・新潟県)|朝日岳]]、[[吾妻山]]、[[飯豊山]]、[[安達太良山]]、[[磐梯山]]、[[燧ケ岳]] など
*盆地:[[横手盆地]]、[[大館盆地]]、[[雫石盆地]]、[[花輪盆地]]、[[鷹巣盆地]]、[[北上盆地]]、[[山形盆地]]、[[米沢盆地]]、[[新庄盆地]]、[[会津盆地]]、[[安積原野|郡山盆地]]、[[福島盆地]] など
*河川:[[最上川]]、[[阿武隈川]]、[[北上川]]、[[米代川]]、[[雄物川]]、[[奥入瀬川]]、[[岩木川]]、[[阿賀川]]、[[只見川]] など
*湖沼:[[十和田湖]]、[[十三湖]]、[[小川原湖]]、[[田沢湖]]、[[猪苗代湖]]、[[桧原湖]]、[[伊豆沼]] など
*滝:[[秋保大滝]] など
*海域:[[陸奥湾]]、[[仙台湾]]、[[津軽海峡]] など
*海岸:[[三陸海岸]] など
*半島:[[下北半島]]、[[津軽半島]]、[[男鹿半島]]、[[牡鹿半島]] など
*岬・崎:[[大間崎]]、[[尻屋崎]]、[[竜飛崎]]、[[入道崎]] など
*島:[[飛島 (山形県)|飛島]]、[[金華山 (宮城県)|金華山]]、[[田代島]]、[[網地島]]、[[出島 (宮城県)|出島]]、[[江島 (宮城県)|江島]]、[[宮戸島]]、[[浦戸諸島]]、[[大島 (宮城県気仙沼市)|大島]] など
*海溝(トラフ):[[日本海溝]]
==== 関東地方 ====
[[ファイル:Japan Kanto Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[関東地方]]]]
[[関東地方]]は東北地方の南、中部地方の東に位置する。北と西は山地に、東と南は海に囲まれた日本で一番広い[[関東平野]]を中心とした地域である。関東地方は[[フォッサマグナ]]の中にある地域で、地質構造が複雑である。[[特別区|東京]]、[[横浜市|横浜]]、[[川崎市|川崎]]、[[さいたま市|さいたま]]、[[千葉市|千葉]]といった大都市やそれらの[[ベッドタウン]]が集中している南部は人口が多い。
*都道府県:[[茨城県]]、[[栃木県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]、[[東京都]]、[[千葉県]]、[[神奈川県]]
*主な都市:[[特別区|東京23区]]、[[横浜市]]、[[川崎市]]、[[さいたま市]]、[[千葉市]]、[[相模原市]]、[[船橋市]]、[[八王子市]]、[[宇都宮市]]、[[川口市]]、[[松戸市]]、[[市川市]]、[[横須賀市]]、[[町田市]]、[[藤沢市]]、[[柏市]]、[[前橋市]]、[[水戸市]]、[[つくば市]]、[[土浦市]] など<!--人口順、35万人以上の都市および県庁所在地-->
*平野・平地:[[関東平野]]、[[足柄平野]]、[[九十九里平野]]、[[那須野が原]](扇状地) など
*台地:[[武蔵野台地]]、[[下末吉台地]]、[[相模野台地]]、[[下総台地]]、[[常陸台地]] など
*湿地:[[尾瀬ヶ原]]、[[戦場ヶ原]]、[[渡良瀬遊水地]]、[[見沼|見沼田んぼ]]、[[水郷]]、[[東京湾]]の[[干潟]] など
*山地・山脈:[[関東山地]]、[[足尾山地]]、[[八溝山地]]、[[奥秩父山塊|秩父山地]]、[[丹沢山地]]、[[三国山脈]]、[[大佐飛山地|下野山地]]、[[奥羽山脈]]、[[阿武隈高地]] など
*高地・高原:[[浅間高原]]、[[奥日光]]([[中禅寺湖]]畔、[[戦場ヶ原]])、[[那須高原]]、[[尾瀬]] など
*丘陵:[[多摩丘陵]]、[[房総丘陵]]、[[大磯丘陵]]、[[喜連川丘陵|塩那丘陵]]、[[宇都宮丘陵]]、[[比企丘陵]]、[[狭山丘陵]] など
*山:[[浅間山]]、[[日光白根山]]、[[草津白根山]]、[[那須岳]]、[[高原山]]、[[甲武信ヶ岳]]、[[谷川岳]]、[[男体山]]、[[八溝山]]、[[筑波山]]、[[大山 (神奈川県)|大山]]、[[箱根山]]、[[丹沢山]]、[[雲取山]]、[[高尾山]] など
*盆地:[[沼田盆地]]、[[秩父盆地]]、[[秦野盆地]] など
*河川:[[利根川]]、[[多摩川]]、[[相模川]]、[[酒匂川]]、[[荒川 (関東)|荒川]]、[[鬼怒川]]、[[那珂川]]、[[久慈川]] など
*湖沼:[[霞ヶ浦]]、[[北浦]]、[[中禅寺湖]]、[[芦ノ湖]]、[[奥多摩湖]]、[[相模湖]]、[[津久井湖]]、[[宮ヶ瀬湖]]、[[丹沢湖]]、[[印旛沼]] など
*滝:[[華厳滝|華厳ノ滝]]、[[袋田の滝]] など
*海域:[[東京湾]]、[[相模湾]]、[[鹿島灘]]、[[浦賀水道]] など
*海岸:[[大洗海岸]]、[[九十九里浜]] など
*半島:[[房総半島]]、[[三浦半島]] など
*岬・崎:[[犬吠埼]]、[[野島崎]]、[[富津岬]]、[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]、[[真鶴岬]] など
*島:[[#伊豆・小笠原諸島|伊豆・小笠原諸島]]、[[仁右衛門島]]、[[城ヶ島]]、[[江の島]]、[[猿島]]、[[八景島]](人工島) など
*海溝(トラフ):[[相模トラフ]]、[[日本海溝]]
==== 中部地方 ====
[[ファイル:Japan Chubu Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[中部地方]]]]
[[中部地方]]は[[本州]]の中央部を占めている。この地方のほとんどは[[ユーラシアプレート]]に載っているが、東部では[[北アメリカプレート]]と衝突している。その境界を[[フォッサマグナ]]といい[[新潟県]][[糸魚川市]]と[[静岡県]][[静岡市]]を結んだ線がその西縁とされ'''[[糸魚川静岡構造線]]'''と呼ばれる。さらにこの地域のユーラシアプレートは[[フィリピン海プレート]]の沈み込みも受けており、それらの複雑な動きから著しい造山活動が行われ、[[日本アルプス]]として知られている[[飛騨山脈|飛騨]](北アルプス)、[[木曽山脈|木曽]](中央アルプス)、[[赤石山脈|赤石]](南アルプス)の各山脈が形成された。それはまた[[東海地震]]や[[東南海地震]]の原因と指摘されている。その沈み込みは[[南海トラフ]]として知られており、駿河湾内では駿河トラフとも呼ばれている。
*都道府県:[[新潟県]]、[[富山県]]、[[長野県]]、[[山梨県]]、[[静岡県]]、[[石川県]]、[[岐阜県]]、[[愛知県]]、[[福井県]]
*主な都市:[[名古屋市]]、[[新潟市]]、[[浜松市]]、[[静岡市]]、[[金沢市]]、[[豊田市]]、[[富山市]]、[[岐阜市]]、[[長野市]]、[[一宮市]]、[[豊橋市]]、[[岡崎市]]、[[春日井市]]、[[長岡市]]、[[福井市]]、[[富士市]]、[[松本市]]、[[甲府市]] など<!--人口順、20万人以上の都市および県庁所在地-->
*平野:[[濃尾平野]]、[[金沢平野]]、[[越後平野]]、[[富山平野]]([[新川平野]]、[[射水平野]]、[[砺波平野]])、[[黒部川扇状地]]、[[庄川扇状地]]、[[福井平野]]、[[高田平野]]、[[豊橋平野]]、[[岡崎平野]] など
*湿地:[[尾瀬ヶ原]] など
*山地・山脈:[[飛騨山脈]]、[[木曽山脈]]、[[赤石山脈]]、[[越後山脈]]、[[身延山地]]、[[両白山地]] など
*高地・高原:[[上高地]]、[[乗鞍高原]]、[[弥陀ヶ原 (立山)|弥陀ヶ原高原]]、[[妙高高原]]、[[朝霧高原]]、[[蓼科高原]]、[[清里高原]]、[[中央高地]] など
*丘陵:[[東頸城丘陵]]、[[魚沼丘陵]] など
*山:[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]]、[[北岳]]、[[塩見岳]]、[[赤石岳]]、[[乗鞍岳]]、[[御嶽山]]、[[甲武信ヶ岳]]、[[八ヶ岳]]、[[穂高岳]]、[[槍ヶ岳]]、[[白馬岳]]、[[立山]]、[[剱岳]]、[[薬師岳]]、[[木曽駒ヶ岳]]、[[浅間山]]、[[白山]]、[[妙高山]]、[[苗場山]] など
*盆地:[[甲府盆地]]、[[諏訪盆地]]、[[松本盆地]]、[[上田盆地]]、[[長野盆地]]、[[筑北盆地]]、[[佐久盆地]]、[[伊那盆地]]、[[高山盆地]] など
* 河川:[[信濃川]]、[[木曽川]]、[[狩野川]]、[[富士川]]、[[天竜川]]、[[大井川]]、[[手取川]]、[[小矢部川]]、[[神通川]]、[[常願寺川]]、[[黒部川]]、[[九頭竜川]]、[[阿賀野川]]、[[庄川]]、[[荒川 (羽越)|荒川]] など
*湖沼:[[諏訪湖]]、[[山中湖]]、[[河口湖]]、[[精進湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]、[[本栖湖]]、[[浜名湖]]、[[加茂湖]]、[[仁科三湖]]、[[三方五湖]]、[[野尻湖]] など
*滝:[[称名滝]]、[[ハンノキ滝]]、[[剱大滝]]、[[養老の滝]]、[[浄蓮の滝]] など
*海域:[[伊勢湾]]、[[三河湾]]、[[相模灘]]、[[駿河湾]]、[[遠州灘]]、[[富山湾]]、[[佐渡海峡]] など
*海岸:[[親不知]]、[[雨晴海岸]]、[[東尋坊]]、[[内灘砂丘]] など
*半島:[[伊豆半島]]、[[知多半島]]、[[渥美半島]]、[[能登半島]] など
*岬・崎:[[生地鼻]]、[[石廊崎]]、[[御前崎]]、[[伊良湖岬]]、[[珠洲岬]]、[[越前岬]] など
*島:[[佐渡島]]、[[粟島 (新潟県)|粟島]]、[[能登島]]、[[舳倉島]] など
*海溝(トラフ):[[南海トラフ]](駿河湾内の南海トラフを特に[[駿河トラフ]]という)、[[富山深海長谷|富山トラフ]](富山湾から北海道沖までの深海長谷)
==== 近畿地方 ====
[[ファイル:Japan Kansai Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[近畿地方]]]]
[[近畿地方]]は中部地方の西、中国地方の東。[[中央構造線]]が[[紀伊半島]]をほぼ東西に横切っている。[[大台ヶ原山]]は大台ヶ原ともいい、日本では珍しい[[地形輪廻#準平原|隆起準平原]]である。
*都道府県:[[三重県]]、[[滋賀県]]、[[京都府]]、[[兵庫県]]、[[大阪府]]、[[奈良県]]、[[和歌山県]]
*主な都市:[[大阪市]]、[[神戸市]]、[[京都市]]、[[堺市]]、[[姫路市]]、[[東大阪市]]、[[西宮市]]、[[尼崎市]]、[[枚方市]]、[[豊中市]]、[[和歌山市]]、[[奈良市]]、[[吹田市]]、[[高槻市]]、[[大津市]]、[[四日市市]]、[[明石市]]、[[津市]]、[[茨木市]]、[[八尾市]]、[[加古川市]] など<!--人口順、25万人以上の都市および県庁所在地-->
*平野:[[大阪平野]]、[[播州平野]]、[[伊勢平野]] など
*台地:[[上町台地]] など
*山地・山脈:[[鈴鹿山脈]]、[[紀伊山地]] など
*丘陵:[[千里丘陵]] など
*山:[[比叡山]]、[[伊吹山]]、[[氷ノ山]]、[[大台ヶ原山]]、[[八経ヶ岳]](八剣山)、[[金剛山 (金剛山地)|金剛山]]、[[生駒山]]、[[大峰山]]、[[大和三山]]([[畝傍山]]、[[香具山]]、[[耳成山]]) など
*盆地:[[京都盆地]]、[[奈良盆地]]、[[近江盆地]]、[[伊賀盆地]]、[[亀岡盆地]] など
*河川:[[淀川 (近畿)|淀川]]、[[熊野川]]、[[紀の川]]、[[由良川]]、[[大和川]]、[[加古川]]、[[宮川 (三重県)|宮川]] など
*湖沼:[[琵琶湖]] など
*滝:[[那智滝]] など
*海域:[[大阪湾]]、[[若狭湾]]、[[伊勢湾]]、[[熊野灘]]、[[紀伊水道]]、[[播磨灘]] など
*海岸:[[天橋立]]、志摩半島の[[リアス式海岸]] など
*半島:[[紀伊半島]]、[[丹後半島]]、[[志摩半島]] など
*岬・崎:[[潮岬]]、[[大王崎]]、[[志摩町御座|御座岬]]、[[経ヶ岬]] など
*島:[[淡路島]]、[[家島諸島]] など
==== 中国地方 ====
[[ファイル:Japan Chugoku Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[中国地方]]]]
[[中国地方]]は[[本州]]の西部と[[瀬戸内海]]の島々の一部、[[日本海]]の島々からなる。瀬戸内海を挟んで[[四国]]の北側に位置する。
*都道府県:[[鳥取県]]、[[島根県]]、[[岡山県]]、[[広島県]]、[[山口県]]
*主な都市:[[広島市]]、[[岡山市]]、[[倉敷市]]、[[福山市]]、[[下関市]]、[[呉市]]、[[山口市]]、[[鳥取市]]、[[松江市]]、[[東広島市]]、[[宇部市]]、[[周南市]]、[[米子市]]、[[尾道市]]、[[出雲市]]、[[岩国市]]など<!--人口順、10万人以上の都市および県庁所在地-->
*平野:[[鳥取平野]]、[[出雲平野]]、[[岡山平野]] など
*山地:[[中国山地]] など
*山:[[大山 (鳥取県)|大山]]、[[扇ノ山]]、[[氷ノ山]]、[[那岐山]]、[[蒜山]] など
*盆地:[[津山盆地]]、[[三次盆地]] など
*河川:[[太田川]]、[[日野川]]、[[江の川]]、[[高梁川]]、[[旭川 (岡山県)|旭川]]、[[吉井川]]、[[千代川]]、[[錦川]] など
*湖沼:[[宍道湖]]、[[中海]]、[[児島湖]] など
*海域:[[音戸瀬戸]]、[[備讃瀬戸]]、[[水島灘]]、[[備後灘]]、[[安芸灘]]、[[広島湾]]、[[周防灘]]、[[関門海峡]]、[[響灘]] など
*海岸:[[鳥取砂丘]] など
*半島:[[島根半島]]、[[児島半島]] など
*岬・崎:[[日御碕]] など
*島:[[隠岐島]]、[[竹島 (島根県)|竹島]]、[[江田島]]、[[厳島]]、[[因島]]、[[屋代島]](周防大島) など
=== 四国 ===
[[ファイル:Japan Shikoku Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[四国]]]]
[[四国]]:[[日本列島]]を構成する主要な4つの[[島]]の中で4番目に大きな島である<ref name="example3" /><ref group="注" name="example4" />。
面積は18,297.74 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、[[九州]]の約半分の面積である。この島と[[瀬戸内海]]の一部の島々をまとめて'''[[四国|四国地方]]'''あるいは単に'''四国'''と呼ぶ。四国には4つの[[県]]が置かれている。
四国はユーラシアプレートに載っており、その南方沖でフィリピン海プレートの沈み込みを受けている。その境界に生じた付加体が陸化しているので地質の分布は東西の帯状に広がり、北部の方が南部よりも古い時代の地層である。四国の気候は中央を東西に走る四国山地により太平洋側と瀬戸内海側とで異なる。太平洋側は温暖で多雨であるが、瀬戸内海側は温暖ではあるが少雨である。
*都道府県:[[徳島県]]、[[香川県]]、[[愛媛県]]、[[高知県]]
*主な都市:[[松山市]]、[[高松市]]、[[高知市]]、[[徳島市]]、[[今治市]]、[[新居浜市]]、[[丸亀市]] など<!--人口順、10万人以上の都市および県庁所在地-->
*平野:[[松山平野]]、[[新居浜平野]]、[[讃岐平野]]、[[徳島平野]]、[[高知平野]] など
*台地:[[秋吉台]] など
*山地・山脈:[[四国山地]]、[[讃岐山脈]]、[[石鎚山脈]]、[[剣山山地]] など
*山:[[石鎚山]]、[[剣山]]、[[瓶ヶ森]]、[[三嶺]] など
*盆地:[[大洲盆地]] など
*河川:[[吉野川 (代表的なトピック)|吉野川]]、[[四万十川]]、[[那賀川]]、[[仁淀川]]、[[物部川]]、[[奈半利川]] など
*海域:[[来島海峡]]、[[伊予灘]]、[[燧灘]]、[[豊後水道]]、[[土佐湾]]、[[紀伊水道]] など
*半島:[[佐田岬半島]]、[[高縄半島]] など
*岬・崎:[[室戸岬]]、[[足摺岬]]、[[佐田岬]] など
*島:[[小豆島]]、[[防予諸島]]、[[芸予諸島]]、[[塩飽諸島]] など
*海溝(トラフ):[[南海トラフ]]
=== 九州 ===
[[ファイル:Japan Kyushu Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[九州]]]]
[[九州]]:[[日本列島]]を構成する主要な4つの[[島]]の中で3番目に大きな島である<ref name="example3" /><ref group="注" name="example4" />。'''九州島'''とも呼ぶ。
面積は36,731.56 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]で、[[北海道]]の半分弱の面積で、[[本州]]と[[四国]]の西に位置する。
この九州島とその付随する[[島]]、[[薩南諸島]]([[鹿児島県]]の領域)を含めて「'''九州'''」と呼ぶ<ref>「九州」『コンサイス日本地名事典』三省堂、第4版、1998年、396頁</ref>。「九州の最高峰」というとき一般には薩南諸島に含まれる屋久島の[[宮之浦岳]]が挙げられる。さらに[[南西諸島]]([[沖縄県]]の領域)を合わせて「'''九州地方'''」と言う。「'''九州地方'''」には'''沖縄県を含める'''のが各百科事典では一般的である<ref>『世界大百科事典 7』、188-189頁。</ref>。なお、次の一覧は便宜上、次項の「南西諸島」に属する項目を除いた。
*都道府県:[[福岡県]]、[[佐賀県]]、[[長崎県]]、[[熊本県]]、[[大分県]]、[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]
*主な都市:[[福岡市]]、[[北九州市]]、[[熊本市]]、[[鹿児島市]]、[[大分市]]、[[宮崎市]]、[[長崎市]]、[[久留米市]]、[[佐世保市]]、[[佐賀市]]など<!--人口順、政令市・中核市および施行時特例市-->
*平野:[[福岡平野]]、[[筑紫平野]]、[[熊本平野]]、[[宮崎平野]]、[[肝属平野]] など
*台地:[[平尾台]]、[[上場台地]]、[[シラス台地]] など
*山地:[[九州山地]]、[[筑紫山地]] など
*高地・高原:[[長者原]]、[[えびの高原]] など
*山:[[阿蘇山]]、[[桜島]]、[[開聞岳]]、[[英彦山]]、[[雲仙岳]]、[[霧島山]]、[[久住山]]、[[由布岳]]、[[経ヶ岳 (佐賀県・長崎県)|経ヶ岳]]、[[脊振山]]、[[国見岳 (熊本県・宮崎県)|国見岳]]、[[祖母山]] など
*峡谷:[[耶馬渓]]、[[九酔渓]]、[[菊池渓谷]]、[[蘇陽峡]]、[[高千穂峡]] など
*盆地:[[人吉盆地]]、[[大口盆地]]、[[都城盆地]]、[[日田盆地]]、[[由布院盆地]]、[[玖珠盆地]]など
*河川:[[松浦川]]、[[筑後川]]、[[球磨川]]、[[大野川]]、[[大分川]]、[[山国川]]、[[遠賀川]]、[[白川 (熊本県)|白川]]、[[川内川]]、[[五ヶ瀬川]]、[[大淀川]] など
*湖沼:[[池田湖]] など
*海域:[[玄界灘]]、[[周防灘]]、[[豊後水道]]、[[対馬海峡]]、[[関門海峡]]、[[大隅海峡]]、[[博多湾]]、[[唐津湾]]、[[大村湾]]、[[有明海]]、[[八代海]]、[[鹿児島湾]]、[[志布志湾]]、[[別府湾]] など
*半島:[[東松浦半島]]、[[国東半島]]、[[島原半島]]、[[薩摩半島]]、[[大隅半島]]、[[北松浦半島]]、[[西彼杵半島]]、[[長崎半島]] など
*岬・崎:[[波戸岬]]、[[野母崎]]、[[野間岬]]、[[長崎鼻]]、[[坊ノ岬]]、[[佐多岬]]、[[都井岬]]、[[長崎鼻 (鹿児島県)|長崎鼻]]、[[鶴御崎]]、[[関崎]] など
*島:[[壱岐島]]、[[対馬島|対馬]]、[[平戸島]]、[[五島列島]]、[[天草諸島]]、[[甑島列島]]、[[上三島]]など
=== 南西諸島 ===
[[ファイル:Japan Nansei-Shoto Map Chikei.gif|thumb|right|300px|[[南西諸島]]]]
[[南西諸島]]は[[九州]]の南に位置する[[島弧]]であり、[[ユーラシアプレート]]に[[フィリピン海プレート]]が沈み込むことで生じている。[[太平洋]](世界的な[[地理学]]ではフィリピン海)と[[東シナ海]]を画している。
なお、南西諸島の中で[[沖縄県]]に属する島は160である<ref>[http://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/tochitai/tousho.html 沖縄県の島しょ別面積一覧] ([[沖縄県]]を構成する160の[[島]]の名称と面積の一覧表) 沖縄県土地対策課。</ref>。主要な島を列挙。
*都道府県:[[沖縄県]]、[[鹿児島県]]([[薩南諸島]])
*主な都市:[[西之表市]]、[[奄美市]]、[[うるま市]]、[[沖縄市]]、[[浦添市]]、[[那覇市]]、[[宮古島市]]、[[石垣市]] など<!--(1)主要な島の中心都市(ただし沖縄本島は10万人以上の都市)(2)北東から南西へ-->
*台地:[[琉球石灰岩]]台地(沖縄本島ほか)
*山:[[宮之浦岳]]、[[中之島 (鹿児島県)|御岳]]、[[与那覇岳]]、[[於茂登岳]] など
*河川:[[比謝川]]、[[浦内川]] など
*海域:[[東シナ海]]、[[フィリピン海]]、[[大隅海峡]]、[[トカラ海峡]]、[[宮古海峡]]、[[名護湾]]、[[金武湾]] など
*半島:[[本部半島]] など
*岬・崎:[[辺戸岬]] 、部瀬名岬、[[西崎]] など
*島
**[[大隅諸島]]
***[[屋久島]]、[[種子島]]、[[口永良部島]]、[[馬毛島]]
**[[トカラ列島]]
**[[奄美群島]]
***[[奄美大島]]、[[喜界島]]、[[加計呂麻島]]、[[請島]]、[[与路島]]、[[徳之島]]、[[沖永良部島]]、[[与論島]]
**[[沖縄諸島]]
***[[沖縄本島]]:本島周辺島嶼は約19島。
***[[伊平屋伊是名諸島|伊平屋・伊是名諸島]]、[[慶良間諸島|慶良間]]・[[粟国諸島]]、[[渡名喜村|渡名喜島]]、[[久米島]] など
**[[先島諸島]]
***[[宮古列島]]
****[[宮古島]]、[[伊良部島]]、[[多良間島]] など
***[[八重山列島]]
****[[石垣島]]、[[竹富島]]、[[西表島]]、[[波照間島]]、[[与那国島]] など
***[[尖閣諸島]]
**[[大東諸島]]
*海溝(トラフ):[[南西諸島海溝]]、[[沖縄トラフ]]
=== 伊豆・小笠原諸島 ===
[[ファイル:Map_of_ogasawara_islands_ja.png|thumb|right|300px|[[南方諸島]]]]
[[伊豆諸島]]・[[小笠原諸島]]は[[本州]]の南に位置する[[島弧]]であり、[[フィリピン海プレート]]に[[太平洋プレート]]が沈み込むことで生じている。沈み込んでいるところを[[伊豆・小笠原海溝]]という。[[伊豆諸島]]の島々や[[西之島]]は[[南本州海嶺]]の頂上部である。小笠原諸島の[[聟島諸島]]、[[父島諸島]]、[[母島諸島]]はその西側にある[[小笠原トラフ]]によって[[南本州海嶺]]と隔てられている。行政区分では東京都、地方区分では[[関東地方]]に含まれる。
*山:[[三原山]]、[[御蔵島|御山]]、[[摺鉢山 (東京都)|摺鉢山]] など
*島
**[[伊豆諸島]]
***[[伊豆大島]]、[[利島]]、[[新島]]、[[式根島]]、[[神津島]]、[[三宅島]]、[[御蔵島]]、[[八丈島]]、[[青ヶ島]]、[[ベヨネース列岩]]、[[須美寿島]]、[[鳥島 (八丈支庁)|鳥島]]、[[孀婦岩]]
**[[小笠原諸島]]
***[[聟島列島]]
****[[聟島]]、[[嫁島]]
***[[父島列島]]
****[[父島]]、[[兄島]]、[[弟島]]
***[[母島列島]]
****[[母島]]、[[姉島]]、[[妹島]]
***[[火山列島]](硫黄列島)
****[[北硫黄島]]、[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]、[[南硫黄島]]
***[[西之島]]、[[南鳥島]]、[[沖ノ鳥島]]
*海溝:[[伊豆・小笠原海溝]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[画像:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}}
{{commonscat|Geography of Japan}}
* [[日本]]
* [[島]]、[[島国]]、[[島国一覧|世界の島国(領土が島のみで構成されている国)一覧]]
* [[日本列島]]、[[本土]]、[[離島]]、[[四島]]
* 日本の分野別専門項目
** [[島の一覧#日本を形成している島とその周辺の主な島|島国である日本を構成している主な島々]]
** [[平野|日本の平野]]、[[日本の山]]、[[川|日本の河川]]、[[日本の湖の一覧|日本の湖]]、[[盆地|日本の盆地]]
** [[日本の地域]]、[[東日本]]、[[西日本]]
** [[日本の交通]]
** [[日本の経済]]
** [[日本の農業]]
** [[日本の地方公共団体一覧]]
** [[都道府県]]
** [[都道府県の面積一覧]]
** [[Portal:日本の都道府県|日本の都道府県]]
** [[日本の観光地]]
** [[日本の首都]]
** [[政令指定都市]]
** [[全国市町村一覧]]
* その他の地域区分
** [[広域関東圏]]・[[両毛]]・[[上信越]]・[[関越]]・[[三遠南信]]・[[北近畿]]・[[南紀]]・[[九州・山口地方]]・[[沖縄諸島|沖縄]]
* [[アジアの地理]]、[[アジア]]、[[東アジア]]
* [[国の一覧 (大陸別)]]
* [[世界の地理]]
* [[島の一覧|世界の島の一覧]]
* [[日本の島の一覧]]
* [[:en:List of islands by area|世界の島の面積順位]]
* [[s:サンフランシスコ条約草案|サンフランシスコ条約草案]](日本の領土について)
== 外部リンク ==
* [https://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MENCHO-title.htm 全国都道府県市区町村別面積調] [[国土地理院]]
{{日本関連の項目}}
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{{DEFAULTSORT:にほんのちり}}
[[Category:日本の地理|*]] | 2003-03-15T11:24:54Z | 2023-12-12T23:44:03Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9C%B0%E7%90%86 |
4,081 | 都道府県 | 都道府県(とどうふけん、英語:prefecture(s))は、日本の広域的地方公共団体である「都」「道」「府」「県」の総称。 現在は47都道府県が存在し、その内訳は1都1道2府43県(都:東京都の1、道:北海道の1、府:京都府および大阪府の2、県:それら以外の43)である。
市町村(しちょうそん)とともに普通地方公共団体の一種。
都道府県とは、日本における行政区画の一つである。
市町村が「基礎的な地方公共団体」(地方自治法2条4項)とされるのに対して、都道府県は「市町村を包括する広域の地方公共団体」(同条5項)とされ、広域にわたる事務や市町村に関する連絡事務などを処理する。
日本全国は、1724市町村(792市、743町、189村)及び23特別区(東京都区部)にくまなく分けられ、全ての市町村および特別区は47都道府県(1都、1道、2府、43県)のいずれか一つに包括されている、二段階の地方制度である。
都道府県には、議決機関として議会(都道府県議会)、執行機関として知事(知事部局)を置く。そのほか、公安委員会(都道府県公安委員会)と警察本部、教育委員会、選挙管理委員会、監査委員などの委員会および委員とその事務部局を置く。都道府県は自治権を有し、条例・規則を制定し、地方税・負担金などを賦課・徴収し、地方債を発行する権能を有する。
都道府県の行政事務の中枢となる組織及び庁舎を都道府県庁(地方自治法上は、都道府県の事務所という。)といい、都道府県内の1都市(都道府県庁所在地)に設置されている。その都市名は、都道府県名と同じ県もあれば、異なる県もある(#名称参照)。
1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に合わせて同日に地方自治法も施行され、都道府県と市町村を中心とする地方自治制度が開始した。地方自治法には、統一的な都道府県制度が定められた。ただし、都道府県のうち、都は、特別区に対する一定の調整権限を有することが特徴的である。府県の間には法律上の違いはなく、名称の違いはもっぱら歴史的なものである。道は、地方自治法上は府県と同じ扱いであるが、府県とは若干異なる警察組織を有するほか(警察法46条・51条)、河川法(96条)、道路法(88条)などには道についての特例がある。
日本の都道府県のうち一部をいう場合、北海道が含まれない場合は「都府県」、東京都が含まれない場合は「道府県」などという用法もある。
江戸時代の幕藩体制の時代には、領国支配・分割統治が行われていたが、明治維新により、段階を経ながら中央集権体制が確立されていった。
1871年(明治4年)の廃藩置県に前後して、順次設置された府・県・庁・都のいずれにおいても、内務省によって任命された官選知事が行政を司り、国の地方行政機関として位置付けられていた。一方、それぞれに民選議会が設置されており、ある程度の地方自治が存在した。
1868年(慶応4年・明治元年)、江戸幕府の直轄領(幕領・旗本の領地)が明治政府の直轄領になった。政府は三都(江戸・大坂・京)や、開港5港などを管轄する重要地域を府とし、それ以外を県として、府に「知府事」が、県に「知県事」が置かれた。藩はそのまま大名(諸侯)が治めた。
1869年9月1日(明治2年7月25日)、かねてより諸侯から出されていた版籍奉還の願い出を受け入れ、諸侯を代替わりさせた上で知藩事として引き続き各藩の統治を任せた(廃止された藩もある)。
この時点で、諸侯は領地と領民に対する統治権を全て天皇に奉還したことになっているものの、実質的な地方支配体制は、幕藩体制の江戸幕府の地位を明治政府が引継ぎ大名の役名や任地などの名称が変更されただけであり、府藩県三治制と呼ばれる(府県のみ直轄)。
1869年9月29日(明治2年8月24日)の太政官布告によって、京都府・東京府・大阪府以外は全て県と称することが決まり、前後して他の府(神奈川府・新潟府・越後府・甲斐府・度会府・奈良府・箱館府・長崎府)が県に名称変更した。なお、この太政官布告前は、東京府は江戸府と呼ばれており、同時に江戸から東京に改称された。
1871年8月29日(明治4年7月14日)に行われた廃藩置県により、藩は県となって、全国が明治政府の直轄となった。結果的に、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県となる。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったため、飛び地が全国各地に見られ、府県行政に支障を来たしていた。同年12月にはこれを整理合併(第1次府県統合)し、1使3府72県となった。
1876年(明治9年)に県の大規模合併(第2次府県統合)が行われて37府県まで減ったが、各地で分割運動が起こった結果、1庁(北海道庁)3府(東京府・京都府・大阪府)43県となった。この時期には、1878年(明治11年)の地方三新法制定や、1889年(明治22年)から1890年(明治23年)にかけての市制・町村制・郡制・府県制の制定など、地方制度の整備が試行錯誤的に進められている。1888年(明治21年)の香川県分立以降、県の合併・分割は一切行われず、1943年(昭和18年)に正式に内地編入された樺太庁が追加されたほか、同年、東京府が東京都となり現在に至っている(終戦時、1都(東京都)2庁(北海道庁・樺太庁)2府(京都府・大阪府)43県)。
なお、1902年(明治35年)、内務省は47道府県から19県を廃止して28道府県に統合する内容の「府県廃置法律案」を計画していた。1903年(明治36年)11月には第一次桂太郎内閣により閣議決定され、翌1904年(明治37年)4月をもって施行される予定であった。しかし同年12月の衆議院の解散や1904年2月の日露戦争勃発により議会への提出には至らず、結局成立しなかった。
廃藩置県後、県の長官は「知県事」から「県令」と改称され、京都府・東京府・大阪府など府の長官は「知府事」から「知事」と改称された。1886年(明治19年)以後は、両者とも「知事」と呼ばれた。府知事や県令(県知事)は、内務省から派遣される官僚であった。一方で、1878年(明治11年)に制定された地方三新法の1つである府県会規則(北海道には適用されなかった)によって府県会が置かれることになり、地方自治の主体としての性格も併せ持った。
1889年(明治22年)に市制が始まるが、市を代表するのは市会であり、現在のように市長ではなかった。ただし、「県」下の市には「市会推薦市長」が存在したのに対し、「府」下の市(東京市・京都市・大阪市)には市長は存在せず、府知事がその役を兼務した。これら3市では、1898年(明治31年)10月になって初めて市長が生まれた。
国の地方行政官庁としての府県は、勅令である「地方官官制」によって、地方自治体としては法律である「府県制」(明治23年 法律第35号:明治32年、法律第64号で全面改正)によって規定されている。
沖縄県は、「県」が設置される経緯が、他の42県と異なっている。
「北海道」という呼称は、1869年(明治2年)7月の開拓使設置と同年、「松前地」および「蝦夷地」と呼ばれた地域を改称し、北海道11国86郡を制定したのに始まる。これは律令制の下で68の国を五畿七道に区分した用法と整合する。渡島国の一部については廃藩置県で成立した館県が弘前県に吸収・青森県の一部となっていたが後に開拓使に移管。1882年(明治15年)に開拓使が廃止されて道内を三分する函館県・札幌県・根室県の3県が設置されたが、1886年(明治19年)に廃止され「北海道庁」が設置された。
当時、北海道庁の管轄域を「北海道」と呼んだが、「北海道」は単なる地域呼称・地方名であり、現在のような「道」という自治体名ではない(内地編入された樺太における樺太庁の命名法と共通する)。従って、地方行政官庁として他の府県と並列するときには「庁府県」という表現が用いられた。
北海道庁官制(明治19年 勅令第83号(後に全面改正))によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる官職とした。1901年(明治34年)、北海道会法(明治34年 法律第2号)および北海道地方費法(明治34年 法律第3号)が公布されて議会が設置され、「北海道地方費」という名称の法人格を持つ地方自治体となった。なお、北海道会は府県会と比べて議会の権限は狭かった。その後、樺太(共通法1条2項では内地に含まれた)における法令上の特例が廃止され、新たに樺太庁が正式に加わり2庁となった。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日、東京都制(昭和18年法律第89号)の施行により、東京市は東京府に吸収され「東京都」となり、市制と自治権を剥奪された。東京都官制(昭和18年勅令第504号)により「東京都長官」が長とされ、東京都を設置した内務官僚である大達茂雄が、その初代長官に任命された。
東京都制によって都議会が設置され、旧・東京市内の各区にも区会が置かれたが、特に区部に対する国の統制は強力だった。
戦後、1946年(昭和21年)9月の府県制改正により、北海道会法と北海道地方費法が廃止されて府県制に統合され、同法は道府県制と改題された。この改正法の附則の規定により従来北海道地方費と呼んできた自治体を「道」と呼ぶものとされた。
1947年(昭和22年)5月3日の地方自治法施行とともに、北海道庁官制も廃止され、地方行政官庁であった北海道庁も、普通地方公共団体の一つである「北海道」となった。
1947年(昭和22年)4月、日本国憲法第92条で予定された法律として地方自治法が公布された。この中で都道府県は、以前の「中央政府の下部機関」という立場ではなく、市町村と同様の「普通地方公共団体」に位置づけられ、議会議員のみならず知事も選挙によって選ばれることになった。ただし、1947年(昭和22年)4月に実施された最初の知事公選はまだ成立していなかった地方自治法ではなく、前述の府県制(道府県制)・東京都制改正で地方長官について公選制が導入されたことを根拠に行われた。この時点で、1都(東京都)1道(北海道)2府(京都府・大阪府)42県。その後、1972年(昭和47年)にアメリカから返還された沖縄に沖縄県が置かれ、再び43県となっている。
都道府県知事が公選となる一方で、戦前に起源を持つ機関委任事務制度は2000年(平成12年)に廃止されるまで長く存続した。都道府県は、普通地方公共団体として市町村と対等であるが、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、広域にわたるもの、市町村に関する連絡調整に関するもの及びその規模又は性質において一般の市町村が処理することが適当でないと認められるものを処理する(地方自治法(第2条第5項))。
しかし、「都・道・府・県」という「単位」の定義が地方自治法には明記されておらず、現在の都道府県名は同法第3条第1項の「地方公共団体の名称は、従来の名称による」という規定に基づいて使われている。ただし、「都」については単なる名称ではなく、「道府県」とは異なる性格を有する。すなわち、地方自治法上、「都」の「区」は「特別区」とされており(地方自治法281条1項)、「道府県」とは異なる取扱いである。なお、道府県であっても大都市地域における特別区の設置に関する法律に基づき特別区を設置することは可能であり、特別区を包括する道府県は、地方自治法その他の法令の規定の適用については、原則として「都」とみなされる(同法10条)。ただし法令上、「都」とみなされるだけであって、改称のための法律が制定されない限り、自動的に名称が変更されることはない。
沖縄県は1945年(昭和20年)から(正式にはサンフランシスコ講和条約が発効した1952年(昭和27年)4月28日から)1972年(昭和47年)のアメリカによる占領下では、日本の統治下になかったため、この時期における沖縄の扱いは微妙であり、国会では「琉球政府」、「南西諸島」などの呼称が使用され、都道府県の数では「1都1道2府42県」の「46都道府県」などと数えられ、沖縄は県の数として含められていない。
沖縄復帰を前に制定された「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」では、かつての沖縄県が「地方自治法に定める県として存続する」ものとされた。
樺太庁が法令上廃止されるのは、1946年6月1日に国家行政組織法が施行されたことによるものであるが、日本の統治下でなくなった1945年の時点で事実上消滅している。
都道府県を合併したり、新しく都道府県を設置したりすることを「廃置分合」といい、次のように分けられる。
廃置分合については、都道府県の設置・廃止を伴わずに区域のみを変更する「境界変更」(市町村の所属都道府県の転属を含む)と併せて、地方自治法第6条及び第6条の2に規定されている。
法律による(第6条第1項)。この法律は、憲法95条に定める「一の地方公共団体のみに適用される特別法」(地方自治特別法)であると解されるので、関係都道府県において住民投票を行い、それぞれ過半数の賛成を得なければ効力を生じない(詳細な規定は地方自治法第261条・第262条)。
平成16年法律第57号による改正で、簡略な方法による合体・編入の手続きが新設された。
に限って、
という手続きによることができるようにしたものである(地方自治法第6条の2)。
これは、長野県山口村と岐阜県中津川市との合併の際に、都道府県にまたがる市町村の合体(新設合併)には法律の制定が必要なこと(後述)がクローズアップされたことや、道州制導入の前段としての自主的な都道府県合併を促す必要があるとの趣旨で設けられたものである。
都道府県の境界変更も、廃置分合と同じく法律(地方自治特別法)によることを原則とするが、次のような場合は「自ら変更する」こととなっている(地方自治法第6条第2項)。
この2つの場合においては、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定めることとなる(第7条第3項)。
市町村の境界変更と同じく、市町村の区域に変更があったことに伴う変更であるからである。
一の市町村又は一の郡の全体が他の都道府県に編入されるときも、都道府県の境界変更であり、法律によることとなる(昭和25年9月9日付け)。
異なる都道府県に所属する市町村が廃止され、その区域に市町村が設置される場合は、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定める(第7条第3項)。
従来、都道府県の境界を越える市町村の合体(複数の市町村を廃止して、その区域に新たに市町村を設置すること)にも、第6条第1項により、新たに制定される法律によるものとされていた(昭和28年6月29日付け 自行行発第195号)。
そのためもあり、2005年(平成17年)の長野県山口村と岐阜県中津川市との合併は、中津川市への編入という形をとることになった。それを契機として、平成16年法律第57号による改正により、都道府県の境界にわたる市町村の境界変更の手続きと同様の簡易な手続きによることとされた。
1876年(明治9年)に大規模合併が実施された県では分割運動が起こって再度分割された県も存在するが、1888年(明治21年)末に香川県が愛媛県から分離されて以来、都道府県の分割は実施されていない。
しかし今もなお、都道府県の分割を求める声が市町村長や都道府県知事やネット上などで見られる。ここでは、市町村長や都道府県知事が県の分割や分離を示唆している都道府県を挙げる。
地図上の配置を示す。北海道と沖縄県は別枠とした。
上の地図で不明瞭、または省略されている主な離島の所属は以下の通り。
以下に現代の日本の初等教育で扱われる地方区分ごとに分類した都道府県の一覧を示す。このほかの地方区分については日本の地域を参照。
表(庁府県設置当時の庁舎所在地と郡)からも明らかなように、都道府県名の原則は庁舎所在地である。ただし、県名の根拠となった地名が以下に該当する場合には都道府県名は庁舎所在地の現在の市名と一致しない。
1888年(明治21年)以降都道府県名の地名部分に変更が無く、都道府県名が定着した現在においては、都道府県名の地名部分のみで都道府県の領域全体を指す(例えば「青森」で青森という都市ではなく青森県全体を指す)用法が一般に用いられるが、本来は領域の一部分のみを示す地名である。特に県名が庁舎所在地の市名と一致しない場合には、県名が元々から領域全体を指す地名であると誤解されていることが多い。現行都道府県名の地名部分が都道府県の領域全体を示しているのは北海道と愛媛県のみである。
都府県名に庁舎所在地を用いる原則は、府藩県三治制における命名規則を廃藩置県後にも継承したものと考えられる。江戸時代を通じて藩の命名に統一方針があったとは認められず(そもそも「藩」という呼称自体が当時の正式なものではない)、城下町名(例えば「鹿児島藩」)、令制国名などの広域地名(例えば「薩摩藩」)、藩主の姓(例えば「島津藩」)のいずれを称するかは定まっていなかった。庁舎所在地の都市名や村名(ごく一部で例外的に郡名、県や府では令制国名も使用)を用いる命名のみが専ら用いられるようになったのは府藩県三治制以降である。
その後、廃藩置県直後の第1次府県統合の際およびその直後(約7箇月以内)に、「都市名」に基づく県名を「郡名」などに改称した事例が数多くあり、その具体的な理由は必ずしも明らかでない。なお、この改称が戊辰戦争における「順逆」を表示するという明確な政治的意思に基づいて行われたとする説(賞罰的県名説)があるが、この説には「順逆」の評価基準が明確でない、政治的意思の存在が論証できないなどの問題点がある。
第1次府県統合直後の改称以降、県庁舎の移転に伴わない県名の変更は例外的である。統廃合に際しても、いずれかの県庁舎が継承される場合には、その県名も継承している(廃藩置県#第1次府県統合から第2次府県統合までの異動の「統合」「編入」および廃藩置県#第2次府県統合の「編入」参照)。明白な例外は、管轄地域全体を象徴する「雅称」を県名とした石鉄県と神山県が合併する際に新たな「雅称」として愛媛県と命名した事例と、同じく「雅称」であった白川県を原則通りの熊本県に改名した事例の2例のみである。例外に準ずる事例も、廃止された新川県・足羽県・名東県を復活する際に元の県名ではなく富山県・福井県・徳島県とした3例に限られる。第2次府県統合以降には、県庁舎を他の都市に移転した事例(栃木県)や県名の根拠となる地名が消滅した事例(島根郡や神奈川町の合併消滅など)においても県名は変更されていない。
都道府県名の省略表記として、行政機関の種別を示す「都」・「府」・「県」を省いて地名部分のみにした「青森」「東京」のような呼び方も用いられる。ただし北海道は「地名+機関種別」という構造の呼称ではなく、それ自体が地名である「北海道」を行政機関名としても使っているものであるため、「北海」だけを切り分けて使うことはない。(参照:北海道#概要)
また、主に文字数が限られる新聞の見出しなどの場面で、来訪を表す「来」や帰着を表す「帰」などと都道府県地名の1文字を組み合わせた二字熟語、たとえば「来熊」(熊本県)、「帰阪」(大阪府)、「在京」(東京都、京都府)などの表現が使用されることがある。(参照:二字熟語による往来表現の一覧)
都道府県の英語訳としては『prefecture』が使われるが、この単語は中央政府から派遣される県知事(prefect)の管轄範囲という語感を伴っており(類似例: フランス)、知事公選制となった戦後においてはこの単語は語感に沿わないものになっているが、戦前からの慣例で今でも使われ続けている。樺太庁は外地である期間のほうが長かったが、台湾や朝鮮とは異なり内地水準の『prefecture』で呼ばれた。同様に北海道庁も戦前は『prefecture』を用いたが、道となった現在は『Hokkaido』のみで表すこともある。なお、東京都の場合には『metropolis』も用いられる。
多くの都道府県は都道府県旗、都道府県章、シンボルマークなどを制定している。これらは国民体育大会などの行事で用いられるほか、都道府県の施設で掲揚されたり、都道府県が管理する施設の標識に用いられたりしている。
また多くの都道府県では、「県の花」、「県の木」、「県の鳥」を定めている。中には、「県の魚」「県の獣」を定めているところもある。詳細は都道府県のシンボルの一覧を参照。
そのほかのシンボルについては、以下を参照。 | [
{
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"text": "都道府県(とどうふけん、英語:prefecture(s))は、日本の広域的地方公共団体である「都」「道」「府」「県」の総称。 現在は47都道府県が存在し、その内訳は1都1道2府43県(都:東京都の1、道:北海道の1、府:京都府および大阪府の2、県:それら以外の43)である。",
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},
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"text": "市町村(しちょうそん)とともに普通地方公共団体の一種。",
"title": null
},
{
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"text": "都道府県とは、日本における行政区画の一つである。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 3,
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"text": "市町村が「基礎的な地方公共団体」(地方自治法2条4項)とされるのに対して、都道府県は「市町村を包括する広域の地方公共団体」(同条5項)とされ、広域にわたる事務や市町村に関する連絡事務などを処理する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 4,
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"text": "日本全国は、1724市町村(792市、743町、189村)及び23特別区(東京都区部)にくまなく分けられ、全ての市町村および特別区は47都道府県(1都、1道、2府、43県)のいずれか一つに包括されている、二段階の地方制度である。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 5,
"tag": "p",
"text": "都道府県には、議決機関として議会(都道府県議会)、執行機関として知事(知事部局)を置く。そのほか、公安委員会(都道府県公安委員会)と警察本部、教育委員会、選挙管理委員会、監査委員などの委員会および委員とその事務部局を置く。都道府県は自治権を有し、条例・規則を制定し、地方税・負担金などを賦課・徴収し、地方債を発行する権能を有する。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 6,
"tag": "p",
"text": "都道府県の行政事務の中枢となる組織及び庁舎を都道府県庁(地方自治法上は、都道府県の事務所という。)といい、都道府県内の1都市(都道府県庁所在地)に設置されている。その都市名は、都道府県名と同じ県もあれば、異なる県もある(#名称参照)。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 7,
"tag": "p",
"text": "1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に合わせて同日に地方自治法も施行され、都道府県と市町村を中心とする地方自治制度が開始した。地方自治法には、統一的な都道府県制度が定められた。ただし、都道府県のうち、都は、特別区に対する一定の調整権限を有することが特徴的である。府県の間には法律上の違いはなく、名称の違いはもっぱら歴史的なものである。道は、地方自治法上は府県と同じ扱いであるが、府県とは若干異なる警察組織を有するほか(警察法46条・51条)、河川法(96条)、道路法(88条)などには道についての特例がある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "日本の都道府県のうち一部をいう場合、北海道が含まれない場合は「都府県」、東京都が含まれない場合は「道府県」などという用法もある。",
"title": "概要"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "江戸時代の幕藩体制の時代には、領国支配・分割統治が行われていたが、明治維新により、段階を経ながら中央集権体制が確立されていった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "1871年(明治4年)の廃藩置県に前後して、順次設置された府・県・庁・都のいずれにおいても、内務省によって任命された官選知事が行政を司り、国の地方行政機関として位置付けられていた。一方、それぞれに民選議会が設置されており、ある程度の地方自治が存在した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "1868年(慶応4年・明治元年)、江戸幕府の直轄領(幕領・旗本の領地)が明治政府の直轄領になった。政府は三都(江戸・大坂・京)や、開港5港などを管轄する重要地域を府とし、それ以外を県として、府に「知府事」が、県に「知県事」が置かれた。藩はそのまま大名(諸侯)が治めた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "1869年9月1日(明治2年7月25日)、かねてより諸侯から出されていた版籍奉還の願い出を受け入れ、諸侯を代替わりさせた上で知藩事として引き続き各藩の統治を任せた(廃止された藩もある)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "この時点で、諸侯は領地と領民に対する統治権を全て天皇に奉還したことになっているものの、実質的な地方支配体制は、幕藩体制の江戸幕府の地位を明治政府が引継ぎ大名の役名や任地などの名称が変更されただけであり、府藩県三治制と呼ばれる(府県のみ直轄)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "1869年9月29日(明治2年8月24日)の太政官布告によって、京都府・東京府・大阪府以外は全て県と称することが決まり、前後して他の府(神奈川府・新潟府・越後府・甲斐府・度会府・奈良府・箱館府・長崎府)が県に名称変更した。なお、この太政官布告前は、東京府は江戸府と呼ばれており、同時に江戸から東京に改称された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "1871年8月29日(明治4年7月14日)に行われた廃藩置県により、藩は県となって、全国が明治政府の直轄となった。結果的に、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県となる。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったため、飛び地が全国各地に見られ、府県行政に支障を来たしていた。同年12月にはこれを整理合併(第1次府県統合)し、1使3府72県となった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "1876年(明治9年)に県の大規模合併(第2次府県統合)が行われて37府県まで減ったが、各地で分割運動が起こった結果、1庁(北海道庁)3府(東京府・京都府・大阪府)43県となった。この時期には、1878年(明治11年)の地方三新法制定や、1889年(明治22年)から1890年(明治23年)にかけての市制・町村制・郡制・府県制の制定など、地方制度の整備が試行錯誤的に進められている。1888年(明治21年)の香川県分立以降、県の合併・分割は一切行われず、1943年(昭和18年)に正式に内地編入された樺太庁が追加されたほか、同年、東京府が東京都となり現在に至っている(終戦時、1都(東京都)2庁(北海道庁・樺太庁)2府(京都府・大阪府)43県)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "なお、1902年(明治35年)、内務省は47道府県から19県を廃止して28道府県に統合する内容の「府県廃置法律案」を計画していた。1903年(明治36年)11月には第一次桂太郎内閣により閣議決定され、翌1904年(明治37年)4月をもって施行される予定であった。しかし同年12月の衆議院の解散や1904年2月の日露戦争勃発により議会への提出には至らず、結局成立しなかった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "廃藩置県後、県の長官は「知県事」から「県令」と改称され、京都府・東京府・大阪府など府の長官は「知府事」から「知事」と改称された。1886年(明治19年)以後は、両者とも「知事」と呼ばれた。府知事や県令(県知事)は、内務省から派遣される官僚であった。一方で、1878年(明治11年)に制定された地方三新法の1つである府県会規則(北海道には適用されなかった)によって府県会が置かれることになり、地方自治の主体としての性格も併せ持った。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "1889年(明治22年)に市制が始まるが、市を代表するのは市会であり、現在のように市長ではなかった。ただし、「県」下の市には「市会推薦市長」が存在したのに対し、「府」下の市(東京市・京都市・大阪市)には市長は存在せず、府知事がその役を兼務した。これら3市では、1898年(明治31年)10月になって初めて市長が生まれた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "国の地方行政官庁としての府県は、勅令である「地方官官制」によって、地方自治体としては法律である「府県制」(明治23年 法律第35号:明治32年、法律第64号で全面改正)によって規定されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "沖縄県は、「県」が設置される経緯が、他の42県と異なっている。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "「北海道」という呼称は、1869年(明治2年)7月の開拓使設置と同年、「松前地」および「蝦夷地」と呼ばれた地域を改称し、北海道11国86郡を制定したのに始まる。これは律令制の下で68の国を五畿七道に区分した用法と整合する。渡島国の一部については廃藩置県で成立した館県が弘前県に吸収・青森県の一部となっていたが後に開拓使に移管。1882年(明治15年)に開拓使が廃止されて道内を三分する函館県・札幌県・根室県の3県が設置されたが、1886年(明治19年)に廃止され「北海道庁」が設置された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "当時、北海道庁の管轄域を「北海道」と呼んだが、「北海道」は単なる地域呼称・地方名であり、現在のような「道」という自治体名ではない(内地編入された樺太における樺太庁の命名法と共通する)。従って、地方行政官庁として他の府県と並列するときには「庁府県」という表現が用いられた。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "北海道庁官制(明治19年 勅令第83号(後に全面改正))によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる官職とした。1901年(明治34年)、北海道会法(明治34年 法律第2号)および北海道地方費法(明治34年 法律第3号)が公布されて議会が設置され、「北海道地方費」という名称の法人格を持つ地方自治体となった。なお、北海道会は府県会と比べて議会の権限は狭かった。その後、樺太(共通法1条2項では内地に含まれた)における法令上の特例が廃止され、新たに樺太庁が正式に加わり2庁となった。",
"title": "歴史"
},
{
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"text": "第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)7月1日、東京都制(昭和18年法律第89号)の施行により、東京市は東京府に吸収され「東京都」となり、市制と自治権を剥奪された。東京都官制(昭和18年勅令第504号)により「東京都長官」が長とされ、東京都を設置した内務官僚である大達茂雄が、その初代長官に任命された。",
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"text": "東京都制によって都議会が設置され、旧・東京市内の各区にも区会が置かれたが、特に区部に対する国の統制は強力だった。",
"title": "歴史"
},
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"text": "戦後、1946年(昭和21年)9月の府県制改正により、北海道会法と北海道地方費法が廃止されて府県制に統合され、同法は道府県制と改題された。この改正法の附則の規定により従来北海道地方費と呼んできた自治体を「道」と呼ぶものとされた。",
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"text": "1947年(昭和22年)5月3日の地方自治法施行とともに、北海道庁官制も廃止され、地方行政官庁であった北海道庁も、普通地方公共団体の一つである「北海道」となった。",
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"text": "1947年(昭和22年)4月、日本国憲法第92条で予定された法律として地方自治法が公布された。この中で都道府県は、以前の「中央政府の下部機関」という立場ではなく、市町村と同様の「普通地方公共団体」に位置づけられ、議会議員のみならず知事も選挙によって選ばれることになった。ただし、1947年(昭和22年)4月に実施された最初の知事公選はまだ成立していなかった地方自治法ではなく、前述の府県制(道府県制)・東京都制改正で地方長官について公選制が導入されたことを根拠に行われた。この時点で、1都(東京都)1道(北海道)2府(京都府・大阪府)42県。その後、1972年(昭和47年)にアメリカから返還された沖縄に沖縄県が置かれ、再び43県となっている。",
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"text": "都道府県知事が公選となる一方で、戦前に起源を持つ機関委任事務制度は2000年(平成12年)に廃止されるまで長く存続した。都道府県は、普通地方公共団体として市町村と対等であるが、都道府県は市町村を包括する広域の地方公共団体として、広域にわたるもの、市町村に関する連絡調整に関するもの及びその規模又は性質において一般の市町村が処理することが適当でないと認められるものを処理する(地方自治法(第2条第5項))。",
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"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "法律による(第6条第1項)。この法律は、憲法95条に定める「一の地方公共団体のみに適用される特別法」(地方自治特別法)であると解されるので、関係都道府県において住民投票を行い、それぞれ過半数の賛成を得なければ効力を生じない(詳細な規定は地方自治法第261条・第262条)。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "平成16年法律第57号による改正で、簡略な方法による合体・編入の手続きが新設された。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "に限って、",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "という手続きによることができるようにしたものである(地方自治法第6条の2)。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "これは、長野県山口村と岐阜県中津川市との合併の際に、都道府県にまたがる市町村の合体(新設合併)には法律の制定が必要なこと(後述)がクローズアップされたことや、道州制導入の前段としての自主的な都道府県合併を促す必要があるとの趣旨で設けられたものである。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "都道府県の境界変更も、廃置分合と同じく法律(地方自治特別法)によることを原則とするが、次のような場合は「自ら変更する」こととなっている(地方自治法第6条第2項)。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "この2つの場合においては、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定めることとなる(第7条第3項)。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "市町村の境界変更と同じく、市町村の区域に変更があったことに伴う変更であるからである。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "一の市町村又は一の郡の全体が他の都道府県に編入されるときも、都道府県の境界変更であり、法律によることとなる(昭和25年9月9日付け)。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "異なる都道府県に所属する市町村が廃止され、その区域に市町村が設置される場合は、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定める(第7条第3項)。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "従来、都道府県の境界を越える市町村の合体(複数の市町村を廃止して、その区域に新たに市町村を設置すること)にも、第6条第1項により、新たに制定される法律によるものとされていた(昭和28年6月29日付け 自行行発第195号)。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "そのためもあり、2005年(平成17年)の長野県山口村と岐阜県中津川市との合併は、中津川市への編入という形をとることになった。それを契機として、平成16年法律第57号による改正により、都道府県の境界にわたる市町村の境界変更の手続きと同様の簡易な手続きによることとされた。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "1876年(明治9年)に大規模合併が実施された県では分割運動が起こって再度分割された県も存在するが、1888年(明治21年)末に香川県が愛媛県から分離されて以来、都道府県の分割は実施されていない。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "しかし今もなお、都道府県の分割を求める声が市町村長や都道府県知事やネット上などで見られる。ここでは、市町村長や都道府県知事が県の分割や分離を示唆している都道府県を挙げる。",
"title": "廃置分合"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "地図上の配置を示す。北海道と沖縄県は別枠とした。",
"title": "都道府県一覧"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "上の地図で不明瞭、または省略されている主な離島の所属は以下の通り。",
"title": "都道府県一覧"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "以下に現代の日本の初等教育で扱われる地方区分ごとに分類した都道府県の一覧を示す。このほかの地方区分については日本の地域を参照。",
"title": "都道府県一覧"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "表(庁府県設置当時の庁舎所在地と郡)からも明らかなように、都道府県名の原則は庁舎所在地である。ただし、県名の根拠となった地名が以下に該当する場合には都道府県名は庁舎所在地の現在の市名と一致しない。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1888年(明治21年)以降都道府県名の地名部分に変更が無く、都道府県名が定着した現在においては、都道府県名の地名部分のみで都道府県の領域全体を指す(例えば「青森」で青森という都市ではなく青森県全体を指す)用法が一般に用いられるが、本来は領域の一部分のみを示す地名である。特に県名が庁舎所在地の市名と一致しない場合には、県名が元々から領域全体を指す地名であると誤解されていることが多い。現行都道府県名の地名部分が都道府県の領域全体を示しているのは北海道と愛媛県のみである。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "都府県名に庁舎所在地を用いる原則は、府藩県三治制における命名規則を廃藩置県後にも継承したものと考えられる。江戸時代を通じて藩の命名に統一方針があったとは認められず(そもそも「藩」という呼称自体が当時の正式なものではない)、城下町名(例えば「鹿児島藩」)、令制国名などの広域地名(例えば「薩摩藩」)、藩主の姓(例えば「島津藩」)のいずれを称するかは定まっていなかった。庁舎所在地の都市名や村名(ごく一部で例外的に郡名、県や府では令制国名も使用)を用いる命名のみが専ら用いられるようになったのは府藩県三治制以降である。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "その後、廃藩置県直後の第1次府県統合の際およびその直後(約7箇月以内)に、「都市名」に基づく県名を「郡名」などに改称した事例が数多くあり、その具体的な理由は必ずしも明らかでない。なお、この改称が戊辰戦争における「順逆」を表示するという明確な政治的意思に基づいて行われたとする説(賞罰的県名説)があるが、この説には「順逆」の評価基準が明確でない、政治的意思の存在が論証できないなどの問題点がある。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "第1次府県統合直後の改称以降、県庁舎の移転に伴わない県名の変更は例外的である。統廃合に際しても、いずれかの県庁舎が継承される場合には、その県名も継承している(廃藩置県#第1次府県統合から第2次府県統合までの異動の「統合」「編入」および廃藩置県#第2次府県統合の「編入」参照)。明白な例外は、管轄地域全体を象徴する「雅称」を県名とした石鉄県と神山県が合併する際に新たな「雅称」として愛媛県と命名した事例と、同じく「雅称」であった白川県を原則通りの熊本県に改名した事例の2例のみである。例外に準ずる事例も、廃止された新川県・足羽県・名東県を復活する際に元の県名ではなく富山県・福井県・徳島県とした3例に限られる。第2次府県統合以降には、県庁舎を他の都市に移転した事例(栃木県)や県名の根拠となる地名が消滅した事例(島根郡や神奈川町の合併消滅など)においても県名は変更されていない。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "都道府県名の省略表記として、行政機関の種別を示す「都」・「府」・「県」を省いて地名部分のみにした「青森」「東京」のような呼び方も用いられる。ただし北海道は「地名+機関種別」という構造の呼称ではなく、それ自体が地名である「北海道」を行政機関名としても使っているものであるため、「北海」だけを切り分けて使うことはない。(参照:北海道#概要)",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "また、主に文字数が限られる新聞の見出しなどの場面で、来訪を表す「来」や帰着を表す「帰」などと都道府県地名の1文字を組み合わせた二字熟語、たとえば「来熊」(熊本県)、「帰阪」(大阪府)、「在京」(東京都、京都府)などの表現が使用されることがある。(参照:二字熟語による往来表現の一覧)",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "都道府県の英語訳としては『prefecture』が使われるが、この単語は中央政府から派遣される県知事(prefect)の管轄範囲という語感を伴っており(類似例: フランス)、知事公選制となった戦後においてはこの単語は語感に沿わないものになっているが、戦前からの慣例で今でも使われ続けている。樺太庁は外地である期間のほうが長かったが、台湾や朝鮮とは異なり内地水準の『prefecture』で呼ばれた。同様に北海道庁も戦前は『prefecture』を用いたが、道となった現在は『Hokkaido』のみで表すこともある。なお、東京都の場合には『metropolis』も用いられる。",
"title": "名称"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "多くの都道府県は都道府県旗、都道府県章、シンボルマークなどを制定している。これらは国民体育大会などの行事で用いられるほか、都道府県の施設で掲揚されたり、都道府県が管理する施設の標識に用いられたりしている。",
"title": "シンボル"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "また多くの都道府県では、「県の花」、「県の木」、「県の鳥」を定めている。中には、「県の魚」「県の獣」を定めているところもある。詳細は都道府県のシンボルの一覧を参照。",
"title": "シンボル"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "そのほかのシンボルについては、以下を参照。",
"title": "シンボル"
}
] | 都道府県は、日本の広域的地方公共団体である「都」「道」「府」「県」の総称。
現在は47都道府県が存在し、その内訳は1都1道2府43県である。 市町村(しちょうそん)とともに普通地方公共団体の一種。 | {{dablink|[[日本]]国外の事例については「[[地方政府]]」、「[[都]]」、「[[道 (行政区画)]]」、「[[府 (行政区画)]]」、「[[県]]」、「[[州]]」などを参照。}}
{{日本の統治機構}}
'''都道府県'''(とどうふけん、[[英語]]:prefecture(s)<ref>ただし、[[東京都]]はprefecturesに含まれるが、Tokyo Metropolisと表現する。</ref>)は、[[日本]]の[[地方公共団体|広域的地方公共団体]]である「'''[[都]]'''」「'''[[道 (行政区画)|道]]'''」「'''[[府_(行政区画)|府]]'''」「'''[[県]]'''」の総称。
現在は'''47都道府県'''が存在し、その内訳は'''1都1道2府43県'''(都:[[東京都]]の1、道:[[北海道]]の1、府:[[京都府]]および[[大阪府]]の2、県:それら以外の43)である。
'''[[市町村]]'''(しちょうそん)とともに[[普通地方公共団体]]の一種。
== 概要 ==
[[ファイル:Japanese Prefectural Emblem.png|right|400px|thumb|[[都道府県章]]]]
都道府県とは、日本における[[行政区画]]の一つである。
市町村が「基礎的な地方公共団体」([[地方自治法]][[s:地方自治法 第一編 総則#2|2条4項]])とされるのに対して、都道府県は「市町村を包括する広域の地方公共団体」(同条5項)とされ、広域にわたる事務や市町村に関する連絡事務などを処理する。
日本全国は、'''1724市町村'''('''792市'''、'''743町'''、'''189村''')及び'''23[[特別区]]'''('''[[東京都区部]]''')にくまなく分けられ、全ての市町村および特別区は'''47都道府県'''('''1都'''、'''1道'''、'''2府'''、'''43県''')のいずれか一つに包括されている<ref>[https://www.e-stat.go.jp/municipalities/number-of-municipalities 市町村数を調べる|政府統計の総合窓口](2020年10月29日閲覧)</ref>、二段階の地方制度である。
都道府県には、議決機関として[[日本の地方議会|議会(都道府県議会)]]、執行機関として[[都道府県知事|知事]](知事部局)を置く。そのほか、[[公安委員会]](都道府県公安委員会)と[[警察本部]]、[[教育委員会]]、[[選挙管理委員会]]、[[監査委員]]などの委員会および委員とその事務部局を置く。都道府県は[[自治権]]を有し、[[条例]]・規則を制定し、[[地方税]]・負担金などを賦課・徴収し、[[地方債]]を発行する権能を有する。
都道府県の行政事務の中枢となる組織及び[[役所|庁舎]]を都道府県庁(地方自治法上は、都道府県の事務所という。)といい、都道府県内の1都市([[都道府県庁所在地]])に設置されている。その都市名は、都道府県名と同じ県もあれば、異なる県もある([[#名称]]参照)。
[[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月3日]]の[[日本国憲法]]施行に合わせて同日に[[地方自治法]]も施行され、都道府県と市町村を中心とする[[地方自治]]制度が開始した。地方自治法には、統一的な都道府県制度が定められた。ただし、都道府県のうち、都は、特別区に対する一定の調整権限を有することが特徴的である。府県の間には法律上の違いはなく、名称の違いはもっぱら歴史的なものである<ref>塩野宏、行政法Ⅲ第3版、137頁、有斐閣、[[2006年]]</ref>。道は、地方自治法上は府県と同じ扱いであるが、府県とは若干異なる警察組織を有するほか([[警察法]]46条・51条)、[[河川法]](96条)、[[道路法]](88条)などには道についての特例がある。
日本の都道府県のうち一部をいう場合、北海道が含まれない場合は「都府県」、東京都が含まれない場合は「道府県」などという用法もある。
== 歴史 ==
=== 明治期の制度改変 ===
[[江戸時代]]の[[幕藩体制]]の時代には、領国支配・分割統治が行われていたが、[[明治維新]]により、段階を経ながら[[中央集権]]体制が確立されていった。
[[1871年]]([[明治]]4年)の[[廃藩置県]]に前後して、順次設置された府・県・庁・都のいずれにおいても、[[内務省 (日本)|内務省]]によって任命された官選知事が行政を司り、国の地方行政機関として位置付けられていた。一方、それぞれに民選[[議会]]が設置されており、ある程度の[[地方自治]]が存在した。
==== 府県 ====
[[1868年]]([[慶応]]4年・明治元年)、[[江戸幕府]]の直轄領([[幕領]]・[[旗本]]の領地)が明治[[政府]]の直轄領になった。政府は[[三都]]([[江戸]]・[[大坂]]・[[京都|京]])や、[[条約港#日本|開港5港]]などを管轄する重要地域を[[府 (行政区画)|府]]とし、それ以外を[[県]]として、府に「知府事」が、県に「知県事」が置かれた。[[藩]]はそのまま[[大名]](諸侯)が治めた。
[[1869年]][[9月1日]](明治2年[[7月25日 (旧暦)|7月25日]])、かねてより諸侯から出されていた[[版籍奉還]]の願い出を受け入れ、諸侯を代替わりさせた上で[[知藩事]]として引き続き各藩の統治を任せた(廃止された藩もある)。
この時点で、諸侯は領地と領民に対する統治権を全て[[天皇]]に奉還したことになっているものの、実質的な地方支配体制は、[[幕藩体制]]の[[江戸幕府]]の地位を明治政府が引継ぎ大名の役名や任地などの名称が変更されただけであり、[[府藩県三治制]]と呼ばれる(府県のみ直轄)。
[[1869年]][[9月29日]](明治2年[[8月29日 (旧暦)|8月24日]])の太政官布告によって、[[京都府]]・[[東京府]]・[[大阪府]]以外は全て県と称することが決まり、前後して他の府([[神奈川府]]・[[新潟府]]・[[越後府]]・[[甲斐府]]・[[度会府]]・[[奈良府]]・[[箱館府]]・[[長崎府]])が県に名称変更した。なお、この太政官布告前は、東京府は[[江戸府]]と呼ばれており、同時に江戸から東京に改称された。
[[1871年]][[10月13日|8月29日]](明治4年[[8月29日 (旧暦)|7月14日]])に行われた[[廃藩置県]]により、藩は県となって、全国が明治政府の直轄となった。結果的に、1使([[開拓使]])3府(東京府・京都府・大阪府)302県となる。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったため、[[飛び地]]が全国各地に見られ、府県行政に支障を来たしていた。同年12月にはこれを整理合併([[廃藩置県#第1次府県統合|第1次府県統合]])し、1使3府72県となった。
[[1876年]](明治9年)に県の大規模合併([[廃藩置県#第2次府県統合|第2次府県統合]])が行われて37府県まで減ったが、各地で分割運動が起こった結果、1庁([[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]])3府(東京府・京都府・大阪府)43県となった。この時期には、[[1878年]](明治11年)の[[地方三新法]]制定や、[[1889年]](明治22年)から[[1890年]](明治23年)にかけての[[市制]]・[[町村制]]・[[郡制]]・[[府県制]]の制定など、地方制度の整備が試行錯誤的に進められている。1888年(明治21年)の香川県分立以降、県の合併・分割は一切行われず<ref group="注">大規模な境界変更としては1893年(明治26年)に多摩地方が神奈川県から東京府へ編入された事例があるが、府県自体の設置や廃止は伴っていない。</ref>、[[1943年]](昭和18年)に正式に[[内地]]編入された[[樺太庁]]が追加されたほか、同年、東京府が[[東京都]]となり現在に至っている(終戦時、1都(東京都)2庁(北海道庁・樺太庁)2府(京都府・大阪府)43県)。
[[ファイル:府県廃置法律案附図.jpg|サムネイル|300px|府県廃置法律案に基づく28道府県の構想図。赤線が新たな府県境、黄線が従来の府県境を表す。]]
なお、[[1902年]](明治35年)、[[内務省 (日本)|内務省]]は47道府県から19県を廃止して28道府県に統合する内容の「[[府県廃置法律案]]」を計画していた<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=府県廃置法律案(解散ノ為提出ニ至ラサリシモノ)|url=https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M0000000000000239850.html|website=国立公文書館 デジタルアーカイブ|accessdate=2020-12-31|language=ja|publisher=独立行政法人 国立公文書館}}</ref><ref group="注">ただし厳密には、法律案には北海道と沖縄県については記載がない。なお、当時の北海道は府県制とは別の「北海道地方費」が公法人で、[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]が統治していた。また「沖縄県」は[[1879年]](明治12年)に発足したが、[[1909年]](明治42年)までは他県のような府県制が施行されていなかった。</ref>。[[1903年]](明治36年)11月には第一次[[桂太郎]][[内閣]]により[[閣議 (日本)|閣議]]決定され<ref name=":6">{{Cite journal|和書|date=2010-03|title=第一次桂太郎内閣下の府県廃合計画と福岡世徳・松江市長の上京活動 (松江市史研究1)|url=https://coc.lib.shimane-u.ac.jp/1217|journal=松江市史研究|volume=1|pages=3-31|publisher=松江市教育委員会|author=竹永三男|accessdate=2023-04-25}}</ref>、翌[[1904年]](明治37年)4月をもって施行される予定であった。しかし同年12月の[[解散 (議会)|衆議院の解散]]や1904年2月の[[日露戦争]]勃発<ref name=":12">{{Cite web|和書|url=https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm|title=日露戦争関連年表|accessdate=2021-01-02|publisher=国立公文書館 アジア歴史資料センター|website=日露戦争特別展}}</ref>により[[帝国議会|議会]]への提出には至らず、結局成立しなかった<ref>{{Cite web|和書|title=北関東3県は「宇都宮県」に 幻の28道府県案|エンタメ!|NIKKEI STYLE|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO91885620Y5A910C1000000|website=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-12-19|language=ja|last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>{{sfn|齊藤忠光|2013|p=17}}。
廃藩置県後、県の長官は「知県事」から「県令」と改称され、京都府・東京府・大阪府など府の長官は「知府事」から「知事」と改称された。[[1886年]](明治19年)以後は、両者とも「[[知事]]」と呼ばれた。府知事や県令(県知事)は、[[内務省 (日本)|内務省]]から派遣される[[官僚]]であった。一方で、[[1878年]](明治11年)に制定された地方三新法の1つである[[府県会規則]](北海道には適用されなかった)によって府県会が置かれることになり、[[地方自治]]の主体としての性格も併せ持った。
[[1889年]](明治22年)に[[市制]]が始まるが、[[市]]を代表するのは[[市会]]であり、現在のように[[市長]]ではなかった。ただし、「県」下の市には「市会推薦市長」が存在したのに対し、「府」下の市([[東京市]]・[[京都市]]・[[大阪市]])には市長は存在せず、府知事がその役を兼務した。これら3市では、[[1898年]](明治31年)10月になって初めて市長が生まれた。{{see also|市制特例}}
国の地方行政官庁としての府県は、[[勅令]]である「地方官官制」によって、[[地方公共団体|地方自治体]]としては[[法律]]である「[[府県制]]」(明治23年 法律第35号:明治32年、法律第64号で全面改正)によって規定されている。
[[沖縄県]]は、「県」が設置される経緯が、他の42県と異なっている。
{{See also|沖縄県の歴史#琉球処分}}
==== 庁 ====
「[[北海道]]」という呼称は、[[1869年]](明治2年)[[7月 (旧暦)|7月]]の[[開拓使]]設置と同年、「[[和人地|松前地]]」および「蝦夷地」と呼ばれた地域を改称し、[[北海道 (令制)|北海道11国86郡]]を制定したのに始まる。これは[[律令制]]の下で68の[[令制国|国]]を[[五畿七道]]に区分した用法と整合する。[[渡島国]]の一部については廃藩置県で成立した[[松前藩#館県|館県]]が弘前県に吸収・[[青森県]]の一部となっていたが後に開拓使に移管。[[1882年]](明治15年)に開拓使が廃止されて道内を三分する[[函館県]]・[[札幌県]]・[[根室県]]の3県が設置されたが、[[1886年]](明治19年)に廃止され「[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]」が設置された。
当時、北海道庁の管轄域を「北海道」と呼んだが、「北海道」は単なる地域呼称・[[地方]]名であり、現在のような「道」という自治体名ではない([[内地]]編入された[[樺太]]における[[樺太庁]]の命名法と共通する)。従って、地方行政官庁として他の府県と並列するときには「庁府県」という表現が用いられた。
北海道庁官制(明治19年 勅令第83号(後に全面改正))によって北海道庁長官を他府県の知事に当たる官職とした。[[1901年]](明治34年)、[[北海道会法]](明治34年 法律第2号)および[[北海道地方費法]](明治34年 法律第3号)が公布されて議会が設置され、「北海道地方費」という名称の[[法人]]格を持つ地方自治体となった。なお、北海道会は府県会と比べて議会の権限は狭かった。その後、樺太([[共通法]]1条2項では[[内地]]に含まれた)における法令上の特例が廃止され、新たに[[樺太庁]]が正式に加わり2庁となった。
=== 昭和期の制度改変 ===
==== 都 ====
[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]](昭和18年)[[7月1日]]、[[東京都制]](昭和18年法律第89号)の施行により、[[東京市]]は[[東京府]]に吸収され「[[東京都]]」となり、市制と自治権を剥奪された。東京都官制(昭和18年勅令第504号)により「東京都長官」が長とされ、東京都を設置した[[内務省 (日本)|内務]]官僚である[[大達茂雄]]が、その初代長官に任命された。
東京都制によって都議会が設置され、旧・東京市内の各区にも区会が置かれたが、特に区部に対する国の統制は強力だった。
==== 道府県 ====
戦後、[[1946年]](昭和21年)9月の府県制改正により、[[北海道会法]]と[[北海道地方費法]]が廃止されて府県制に統合され、同法は道府県制と改題された。この改正法の附則の規定により従来北海道地方費と呼んできた自治体を「道」と呼ぶものとされた。
[[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]の地方自治法施行とともに、北海道庁官制も廃止され、地方行政官庁であった北海道庁も、普通地方公共団体の一つである「北海道」となった。
=== 地方自治法施行以後 ===
==== 都道府県 ====
[[1947年]](昭和22年)4月、[[日本国憲法]]第92条で予定された法律として[[地方自治法]]が公布された。この中で都道府県は、以前の「中央政府の下部機関」という立場ではなく、[[市町村]]と同様の「[[普通地方公共団体]]」に位置づけられ、議会議員のみならず[[知事]]も[[選挙]]によって選ばれることになった。ただし、[[1947年]](昭和22年)4月に実施された最初の知事公選はまだ成立していなかった地方自治法ではなく、前述の府県制(道府県制)・東京都制改正で地方長官について公選制が導入されたことを根拠に行われた。この時点で、1都(東京都)1道(北海道)2府(京都府・大阪府)42県。その後、[[1972年]](昭和47年)に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から返還された沖縄に[[沖縄県]]が置かれ、再び43県となっている。
都道府県知事が公選となる一方で、戦前に起源を持つ[[機関委任事務]]制度は[[2000年]](平成12年)に廃止されるまで長く存続した。都道府県は、普通地方公共団体として市町村と対等であるが、都道府県は[[市町村]]を包括する広域の地方公共団体として、広域にわたるもの、市町村に関する連絡調整に関するもの及びその規模又は性質において一般の市町村が処理することが適当でないと認められるものを処理する(地方自治法(第2条第5項))。
しかし、「都・道・府・県」という「単位」の定義が地方自治法には明記されておらず、現在の都道府県名は同法第3条第1項の「地方公共団体の名称は、従来の名称による」という規定に基づいて使われている。ただし、「都」については単なる名称ではなく、「道府県」とは異なる性格を有する。すなわち、地方自治法上、「都」の「区」は「[[特別区]]」とされており(地方自治法281条1項)、「道府県」とは異なる取扱いである。なお、道府県であっても[[大都市地域における特別区の設置に関する法律]]に基づき特別区を設置することは可能であり、特別区を包括する道府県は、地方自治法その他の法令の規定の適用については、原則として「都」とみなされる(同法10条)。ただし法令上、「都」とみなされるだけであって、改称のための法律が制定されない限り、自動的に名称が変更されることはない。
==== 沖縄県 ====
[[沖縄県]]は[[1945年]](昭和20年)から(正式には[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]が発効した[[1952年]](昭和27年)[[4月28日]]から)[[1972年]](昭和47年)の[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカによる占領下]]では、日本の統治下になかったため、この時期における沖縄の扱いは微妙であり、[[国会 (日本)|国会]]では「[[琉球政府]]」、「[[南西諸島]]」などの呼称が使用され、都道府県の数では「1都1道2府42県」の「46都道府県」などと数えられ、沖縄は県の数として含められていない<ref>国会議事録第6回衆議院地方行政委員会10号(昭和24年11月25日)門司委員、あるいは国会議事録第38回参議院文教委員会9号(昭和36年03月09日)[[矢嶋三義]]など多数 </ref>。
[[沖縄復帰]]を前に制定された「[[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]]」では、かつての沖縄県が「地方自治法に定める県として存続する」ものとされた。
==== 樺太庁 ====
樺太庁が法令上廃止されるのは、[[1946年]][[6月1日]]に[[国家行政組織法]]が施行されたことによるものであるが、日本の統治下でなくなった1945年の時点で事実上消滅している。
==== 都道府県数の推移と略年表 ====
{| class="wikitable" style="font-size:94%; line-height:1.2em"
!年月日!!総数・内訳<sup>※</sup>!!備考!!制度
|-
|{{Nowrap|[[1868年]][[8月2日]]<br />([[慶応]]4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]])}}||– (2府)||最初の府県として[[箱館府]]、[[京都府]]設置。<br />以降、政府直轄地が順次府県となる||rowspan="4"|[[府藩県三治制]]
|-
|colspan="3"|
|-
|[[1869年]][[9月20日]]<br />(明治2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]])||–||([[開拓使]]設置)
|-
|colspan="3"|
|- style="border-top:2px solid Black"
|[[1871年]][[10月13日|8月29日]]<br />(明治4年[[8月29日 (旧暦)|7月14日]])||305 (3府302県)||[[廃藩置県]]。北海道の一部を除く国内全域が府県となる||rowspan="16"|廃藩置県および<br />府県統合による<br />移行期
|-
|colspan="3"|
|-
|[[1872年]][[1月2日]]<br />(明治4年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]])||75 (3府72県)||[[廃藩置県#第1次府県統合|第一次府県統合]]終了時点
|-
|colspan="3"|
|-
|[[1875年]][[12月20日]]||62 (3府59県)||第二次府県統合前
|-
|colspan="3"|
|-
|[[1876年]][[8月21日]]||38 (3府35県)||[[廃藩置県#第2次府県統合|第二次府県統合]]終了時点。廃藩置県後では最少の府県数
|-
|[[1879年]][[4月4日]]||39 (3府36県)||[[沖縄県]]設置
|-
|[[1880年]][[3月2日]]||rowspan="2"|40 (3府37県)||[[徳島県]]分立
|-
|[[1881年]][[2月7日]]||[[堺県]]編入、[[福井県]]分立
|-
|1881年[[9月12日]]||41 (3府38県)||[[鳥取県]]分立
|-
|[[1882年]][[2月8日]]||44 (3府41県)||開拓使を[[三県一局時代|3つの県]]に移行
|-
|[[1883年]][[5月9日]]||47 (3府44県)||[[富山県]]、[[佐賀県]]、[[宮崎県]]分立
|-
|[[1886年]][[1月26日]]||45 (3府41県1庁)||3つの県を[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]に移行
|-
|[[1887年]][[11月4日]]||46 (3府42県1庁)||[[奈良県]]分立
|-
|[[1888年]][[12月3日]]||'''47''' (3府43県1庁)||[[香川県]]分立
|- style="border-top:2px solid Black"
|[[1891年]]7月1日 - <br />[[1899年]]7月1日||同上||[[府県制]]が順次施行、北海道と沖縄を除く3府42県が「自治体」となる||rowspan="7"|府県制
|-
|[[1901年]]||同上||北海道庁に北海道会法・北海道地方費法施行 ※自治体格となる
|-
|[[1909年]]4月1日||同上||沖縄県に府県制施行
|-
|[[1943年]][[1月20日]]||48 (3府43県2庁)||([[樺太庁]]の内地編入を閣議決定)
|-
|[[1943年]][[7月1日]]||48 (1都2府43県2庁)||東京府を[[東京都]]に移行
|-
|[[1945年]]||46 (1都2府42県1庁)||沖縄県がアメリカ施政下に入る。樺太がソビエト連邦施政下に入る。
|-
|[[1946年]][[11月15日]]||46 (1都1道2府42県)||府県制改正法の施行により北海道庁が北海道に移行
|- style="border-top:2px solid Black"
|[[1947年]][[5月3日]]||同上||[[地方自治法]]施行により都道府県が「普通地方公共団体」となる||rowspan="3"|地方自治法下
|-
|[[1972年]][[5月15日]]||'''47''' (1都1道2府43県)||[[沖縄返還]]により沖縄県が復帰
|-
|現在||同上||–
|-
|colspan="4"|※総数の推移についての注意:沖縄は1879年まで、北海道は1882年まで算入していない。<br />※開拓使、[[戦前]]の[[外地]]は除いた。樺太庁を含まない場合、1943年1月20日から1945年まで総数47となる。
|}
== 制度 ==
=== 議決機関 ===
*[[地方議会|議会]] - 事務局
=== 都道府県に納める税 ===
{{Col|
*[[道府県民税|都道府県民税]]
*[[事業税]]
*[[自動車税]]
*[[自動車取得税]]
*[[固定資産税]] (都のみ課税(23区内で)
|
*[[地方消費税]]
*[[不動産取得税]]
*[[軽油引取税]]
*[[道府県たばこ税|都道府県たばこ税]]
|
*[[ゴルフ場利用税]]
*[[鉱区税]]
*[[狩猟税]]
}}
== 廃置分合 ==
都道府県を合併したり、新しく都道府県を設置したりすることを「廃置分合」といい、次のように分けられる。
*複数の都道府県を廃止して、新たに都道府県を設置する(合体)。
*一の都道府県を廃止して、その区域を他の都道府県の区域とする(編入)。
*一の都道府県を廃止して、その区域に複数の都道府県を設置する(分割)。
*都道府県の区域の一部を分けて、都道府県を新設する(分立)。
廃置分合については、都道府県の設置・廃止を伴わずに区域のみを変更する「境界変更」([[市町村]]の所属都道府県の転属を含む)と併せて、[[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第一章 通則#6|地方自治法第6条]]及び[[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第一章 通則#6の2|第6条の2]]に規定されている。
=== 廃置分合の原則的な手続き ===
法律による(第6条第1項)。この法律は、[[日本国憲法第95条|憲法95条]]に定める「一の地方公共団体のみに適用される特別法」(地方自治特別法)であると解されるので、関係都道府県において住民投票を行い、それぞれ過半数の賛成を得なければ効力を生じない(詳細な規定は[[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第十四章 補則#261|地方自治法第261条]]・[[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第十四章 補則#262|第262条]])。
=== 合体と編入の例外 ===
平成16年法律第57号による改正で、簡略な方法による合体・編入の手続きが新設された。
*複数の都道府県を廃止して、その区域全部に新しい都道府県を設置するとき
*一の都道府県を廃止して、その区域全部を他の一の都道府県の区域とするとき
に限って、
*関係都道府県の議会の議決により申請し、
*国会の承認を経て内閣が定める。
という手続きによることができるようにしたものである(地方自治法第6条の2)。
これは、[[長野県]][[山口村 (長野県)|山口村]]と[[岐阜県]][[中津川市]]との合併の際に、都道府県にまたがる市町村の合体(新設合併)には法律の制定が必要なこと(後述)がクローズアップされたことや、[[道州制]]導入の前段としての自主的な都道府県合併を促す必要があるとの趣旨で設けられたものである。
=== 廃置分合と知事・議会議員 ===
*合体の場合、関係都道府県の知事と議会議員は失職し、新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。
*編入の場合、編入された都道府県の知事と議員は失職するが、編入をした都道府県の知事と議員は失職しない。
*分割の場合、廃止される都道府県の知事と議員は失職し、分割後に新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。
*分立の場合、分離前の都道府県の知事と議員は失職せず、分離されて新しく設置された都道府県で知事選挙と議員選挙が実施される。
=== 境界変更 ===
都道府県の境界変更も、廃置分合と同じく法律(地方自治特別法)によることを原則とするが、次のような場合は「自ら変更する」こととなっている(地方自治法第6条第2項)。
*都道府県の境界でもある市町村の境界に変更があったとき
*都道府県の境界にわたって市町村の設置があったとき
この2つの場合においては、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定めることとなる([[s:地方自治法 第二編 普通地方公共団体 第一章 通則#7|第7条第3項]])。
*従来地方公共団体の区域に属しなかった地域を市町村の区域に編入したとき
市町村の境界変更と同じく、市町村の区域に変更があったことに伴う変更であるからである。
=== 所属都道府県の変更 ===
一の市町村又は一の郡の全体が他の都道府県に編入されるときも、都道府県の境界変更であり、法律によることとなる(昭和25年9月9日付け)。
=== 都道府県にまたがる市町村の合体 ===
異なる都道府県に所属する市町村が廃止され、その区域に市町村が設置される場合は、関係する市町村・都道府県が、それぞれ議会の議決を経て申請し、総務大臣が定める(第7条第3項)。
従来、都道府県の境界を越える市町村の合体(複数の市町村を廃止して、その区域に新たに市町村を設置すること)にも、第6条第1項により、新たに制定される法律によるものとされていた(昭和28年6月29日付け 自行行発第195号)。
そのためもあり、[[2005年]]([[平成]]17年)の長野県山口村と岐阜県中津川市との合併は、中津川市への編入という形をとることになった。それを契機として、平成16年法律第57号による改正により、都道府県の境界にわたる市町村の境界変更の手続きと同様の簡易な手続きによることとされた。
=== 分割論が存在する地域 ===
[[1876年]](明治9年)に大規模合併が実施された県では分割運動が起こって再度分割された県も存在するが、[[1888年]](明治21年)末に[[香川県]]が[[愛媛県]]から分離されて以来、都道府県の分割は実施されていない。
しかし今もなお、都道府県の分割を求める声が市町村長や都道府県知事やネット上などで見られる。ここでは、市町村長や都道府県知事が県の分割や分離を示唆している都道府県を挙げる。
;[[福井県]]
:[[2006年]](平成18年)3月上旬に、[[嶺南]](若狭地方)に当たる[[敦賀市]]や[[小浜市]]の[[市長]]が「(もし[[道州制]]が敷かれる際に、)[[嶺北]](越前地方)が北陸州へ入るなら、嶺北とは縁を切っても近畿州へ入る」と発言し、嶺南の福井県からの脱退を示唆している。
{{See also|日本の道州制論議#北陸}}
;[[長野県]]
:[[筑摩県]]が分割されて長野県に編入されて以来、分割を求める動きが度々出ている。両県の合併後、県内地理教育唱歌として作られた「[[信濃の国]]」が事実上の県歌として広く歌われ、県民意識統合の象徴とされた(1968年、正式に県歌として制定)。
{{See also|長野県#地域的特徴}}
;[[山口県]][[下関市]]、[[福岡県]][[北九州市]]
:[[関門海峡]]の両岸に位置する下関市と北九州市が合併して、山口県や福岡県、さらには道州制の[[州]]にも属しない「[[関門特別市]]」を結成する動きがある。
{{See also|道州制#各地別の論議}}
;[[兵庫県]]
:[[五畿七道]](五畿八道)のうち[[畿内]]・[[山陰道]]・[[山陽道]]・[[南海道]]に跨り(47都道府県中最多)、[[令制国]]では[[摂津国]]・[[丹波国]]・[[但馬国]]・[[播磨国]]・[[美作国]]・[[備前国]]・[[淡路国]]の7ヶ国に跨り(北海道の11ヶ国に次ぐ)、それぞれ異なる歴史や風土を持っているために分離論がある。7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家と形容された「[[ユーゴスラビア]]」になぞらえた「[[ヒョーゴスラビア]]」という渾名さえある<ref>{{cite news|url=https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201808/0011576140.shtml|title=兵庫ってヒョーゴスラビア連邦 SNS投稿に反響|newspaper=[[神戸新聞]]|date=2018/8/25|accessdate=2018-12-19}}2018年8月の記事だが、文中には「"ヒョーゴスラビア"は数年前にもネット上で話題になった」との記述もある。</ref>。
;[[北海道]]
{{See also|北海道#分県構想}}
:北海道は、九州7県や東北6県よりも広大だが、[[北海道知事一覧|北海道知事]]は一人しかいない。「知事一人では広大な北海道の地域の課題に目が行き届かない」「県庁と市町村の距離が短くなり、地域の実情に合った弾力的な行政対応ができる」として、複数の県に分割する構想が出ている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=北海道"分県論"が浮上 「新幹線が伸びないのは知事が1人しかいないせい」という指摘も|url=https://www.huffingtonpost.jp/2016/01/08/hokkaido-divide_n_8936798.html|website=ハフポスト|date=2016-01-08|accessdate=2021-09-05|language=ja}}</ref>。[[2016年]](平成28年)[[1月7日]]の[[毎日新聞]]で、[[北海道議会]]の「[[自由民主党 (日本)|自民党]]・道民会議」が私的機関「北海道分県研究会」を設立し、道を複数の県に分ける「分県」案についての議論を開始したと報じられた<ref name=":0" />。[[8月10日]]の[[北海道新聞]]で、同研究会のまとめた報告書の素案が報じられ、「北海道分県研究会」会長の喜多龍一道議が内容を公表している<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=http://www.kitaryu.com/wp-content/uploads/2020/04/download1.pdf|title=北海道の未来に、熱く!|accessdate=2021-09-06|publisher=喜多龍一|format=PDF}}</ref>。研究会では、病院・診療所などの医療機関や大学・短大など教育機関の約4割が[[札幌市]]にあるなど、経済・行政・文化的機能が一極集中している現状を改善することを目指している<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=北海道分県案を知事に提出 道議有志「3ないし2県」|url=https://sputniknews.jp/20161111/3002814.html|website=jp.sputniknews.com|accessdate=2021-09-05|language=ja}}</ref>。研究会の参加メンバーからは、[[北海道新幹線]]を[[九州新幹線]]と比較すると、九州では知事7人が連携したためすぐ伸びたとの分析があり、北海道新幹線がなかなか伸びないのは、知事が1人だけしかいないせいではないかという意見も出ており、発言力の弱さが指摘されている<ref name=":0" />。研究会会長の喜多龍一道議は、「九州には7人の知事、県議会議長、経済団体トップがいる。まとまって動いた時のパワーを想像してもらいたい」と述べており、分県によって知事・県議会議長・経済団体トップが増えることで、北海道の全国的な存在感が高まるという<ref>{{Cite web|和書|title=もしも北海道が4県になったら 自民道議ら「分県」提言:朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASJDF6DCBJDFIIPE03L.html|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-09-05|language=ja}}</ref>。
:当初は「札幌県、函館県、釧路県、旭川県」の4分割案と「[[道南|道南県]]、[[道央|道央県]]、[[道北|道北県]]、[[オホーツク総合振興局|オホーツク県]]、[[十勝総合振興局|十勝県]]、[[釧路総合振興局|釧路]]・[[根室振興局|根室県]]」の6分割案が出ていたが<ref name=":0" />、「県の自立力保持」の観点から難しいと判断された<ref name=":1" />。[[共同通信社|共同通信]]の報道によると、研究会は、2016年11月11日、「道央県・道南県、道北県、道東県」の3分割案(必ずしも[[北海道#総合振興局・振興局(支庁)|振興局]]単位の分県になるとは限らない)と「道東県とそれ以外」の東西2分割案を盛り込んだ報告書を[[高橋はるみ]]知事(当時)に提出した<ref name=":1" /><ref name=":2" />。分県には[[住民投票]]で道民の過半数の同意を得て、[[特別法]]を制定する必要がある<ref name=":2" />。かつて北海道では、1882年(明治15年)2月8日の[[開拓使]]廃止から1886年(明治19年)1月26日の[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]設置まで、「札幌県、函館県、根室県」の3県と[[農商務省 (日本)|農商務省]]北海道事業管理局が置かれた[[三県一局時代]]があった。
== 都道府県一覧 ==
地図上の配置を示す。北海道と沖縄県は別枠とした。
{{日本の都道府県 imagemap}}
{{clear}}
上の地図で不明瞭、または省略されている主な離島の所属は以下の通り。
* [[択捉島]]、[[国後島]]、[[色丹島]] - 北海道
* [[礼文島]]、[[利尻島]]、[[奥尻島]] - 北海道
* [[佐渡島]] - 新潟県
* [[伊豆諸島]]、[[小笠原諸島]] - 東京都
* [[隠岐諸島]] - 島根県
* [[淡路島]] - 兵庫県
* [[備讃諸島]] - 岡山県、香川県
* [[芸予諸島]] - 広島県、愛媛県
* [[防予諸島]] - 山口県、愛媛県
* [[対馬]]、[[壱岐]]、[[平戸島]]、[[五島列島]] - 長崎県
* [[天草諸島]] - 熊本県、鹿児島県
* [[甑島列島]] - 鹿児島県
* [[薩南諸島]]([[大隅諸島]]、[[トカラ列島]]、[[奄美群島]]) - 鹿児島県
* [[琉球諸島]]([[沖縄諸島]]、[[先島諸島]])、[[大東諸島]] - 沖縄県
=== 地方別 ===
以下に現代の日本の初等教育で扱われる地方区分ごとに分類した都道府県の一覧を示す。このほかの地方区分については[[日本の地域]]を参照。
{| class="wikitable" style="font-size:95%;"
|-style="white-space:nowrap;"
| style="padding:0px; background-color:#dcedff;" rowspan="9" |[[ファイル:Regions and Prefectures of Japan 2023-02-11 23.06.28.png|350x350ピクセル]]
![[日本列島|島嶼]]
!地方!!都道府県
|-
|北海道
|{{Color sample|#FF8082}} 北海道地方||[[北海道]]
|-
|rowspan="5"|[[本州]]
|{{Color sample|#FFFF80}} [[東北地方]]||[[青森県]] [[岩手県]] [[宮城県]] [[秋田県]] [[山形県]] [[福島県]]
|-
|{{Color sample|#77D9A8}} [[関東地方]]||[[茨城県]] [[栃木県]] [[群馬県]] [[埼玉県]] [[千葉県]] [[東京都]] [[神奈川県]]
|-
|{{Color sample|#8BFFE8}} [[中部地方]]||[[新潟県]] [[富山県]] [[石川県]] [[福井県]] [[山梨県]] [[長野県]] [[岐阜県]] [[静岡県]] [[愛知県]]
|-
|{{Color sample|#990099}} [[近畿地方]]||[[三重県]] [[滋賀県]] [[京都府]] [[大阪府]] [[兵庫県]] [[奈良県]] [[和歌山県]]
|-
|{{Color sample|#FFCA80}} [[中国地方]]||[[鳥取県]] [[島根県]] [[岡山県]] [[広島県]] [[山口県]]
|-
|四国
|{{Color sample|#C9ACE6}} [[四国|四国地方]]|| style="white-space:nowrap;" |[[徳島県]] [[香川県]] [[愛媛県]] [[高知県]]
|-
| style="white-space:nowrap;" |九州
| style="white-space:nowrap;" |{{Color sample|#84919E}} [[九州・沖縄|九州・沖縄地方]]||[[福岡県]] [[佐賀県]] [[長崎県]] [[熊本県]] [[大分県]] [[宮崎県]] [[鹿児島県]] [[沖縄県]]
|}
=== 基礎データ ===
<div class="small">
* 最大都市は各都道府県内で最多の人口を有する都市。(最新の推計人口。北海道は住民基本台帳人口。)
* 人口および人口密度は2020年(令和2年)10月1日時点の[[国勢調査]]、面積は同年の[[国土交通省]][[国土地理院]]が公表した「全国都道府県市区町村別面積調」による。いずれも[[北方地域|北方領土]]と[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]]は除く。
* [[市町村]]数は最後の変更があった2014年(平成26年)4月5日時点。[[政令指定都市]]の[[行政区]]は除き、東京都の[[特別区]]は含む。北方領土は除く。
* [[国会 (日本)|国会]]定数は2022年(令和4年)7月時点。※印:参議院議員の定数は、鳥取県と島根県、徳島県と高知県がそれぞれ[[参議院合同選挙区|合区]]で2議席。
</div>
{| class="sortable wikitable" style="line-height:1.4em; font-size:95%;"
|+
|-
! style="white-space:nowrap;" | [[ISO 3166-2:JP|ISO]]
[[全国地方公共団体コード|JIS番号]]
! 都道府県
! 読み
! class="unsortable" style="white-space:nowrap;" | [[都道府県庁所在地]]
! class="unsortable" | 最大都市
! class="unsortable" | [[都道府県旗|旗]]
! {{Nowrap|[[日本の地域|地方]]}}
! [[都道府県の人口一覧|人口]]<br />(人)
! [[都道府県の面積一覧|面積]]<br />(km<sup>2</sup>)
! style="white-space:nowrap;" | [[人口密度]]<br />(人/km<sup>2</sup>)
! style="white-space:nowrap;" | [[日本の地方公共団体一覧|市町村]]数
! style="white-space:nowrap;" | [[国会 (日本)|国会]]定数<br />[[衆議院小選挙区制選挙区一覧|衆]] / [[参議院議員通常選挙|参]]
|-
| 01
! {{Display none|01}}[[北海道]]
| style="font-size:small" | ほっかいどう
| [[札幌市]]
| 札幌市
| {{flagicon|北海道}}
| style="white-space:nowrap;" | 北海道
| align="right" | 5,224,614
| align="right" | 83,424.44
| align="right" | 66.6
| align="right" | 179
| 12 / 6
|-
| 02
! {{Display none|02}}[[青森県]]
| style="font-size:small" | あおもりけん
| [[青森市]]
| 青森市
| {{flagicon|青森県}}
| 東北
| align="right" | 1,237,984
| align="right" | 9,645.64
| align="right" | 128.4
| align="right" | 40
| {{0}}3 / 2
|-
| 03
! {{Display none|03}}[[岩手県]]
| style="font-size:small" | いわてけん
| [[盛岡市]]
| 盛岡市
| {{flagicon|岩手県}}
| 東北
| align="right" | 1,210,534
| align="right" | 15,275.01
| align="right" | 79.3
| align="right" | 33
| {{0}}3 / 2
|-
| 04
! {{Display none|04}}[[宮城県]]
| style="font-size:small" | みやぎけん
| [[仙台市]]
| 仙台市
| {{flagicon|宮城県}}
| 東北
| align="right" | 2,301,996
| align="right" | 7,282.29
| align="right" | 316.1
| align="right" | 35
| {{0}}6 / 2
|-
| 05
! {{Display none|05}}[[秋田県]]
| style="font-size:small" | あきたけん
| [[秋田市]]
| 秋田市
| {{flagicon|秋田県}}
| 東北
| align="right" | 959,502
| align="right" | 11,637.52
| align="right" | 82.5
| align="right" | 25
| {{0}}3 / 2
|-
| 06
! {{Display none|06}}[[山形県]]
| style="font-size:small" | やまがたけん
| [[山形市]]
| 山形市
| {{flagicon|山形県}}
| 東北
| align="right" | 1,068,027
| align="right" | 9,323.15
| align="right" | 114.6
| align="right" | 35
| {{0}}3 / 2
|-
| 07
! {{Display none|07}}[[福島県]]
| style="font-size:small" | ふくしまけん
| [[福島市]]
| [[郡山市]]
| {{flagicon|福島県}}
| 東北
| align="right" | 1,833,152
| align="right" | 13,784.14
| align="right" | 133.0
| align="right" | 59
| {{0}}5 / 2
|-
| 08
! {{Display none|08}}[[茨城県]]
| style="font-size:small" | いばらきけん
| [[水戸市]]
| 水戸市
| {{flagicon|茨城県}}
| 関東
| align="right" | 2,867,009
| align="right" | 6,097.39
| align="right" | 470.2
| align="right" | 44
| {{0}}7 / 4
|-
| 09
! {{Display none|09}}[[栃木県]]
| style="font-size:small" | とちぎけん
| [[宇都宮市]]
| 宇都宮市
| {{flagicon|栃木県}}
| 関東
| align="right" | 1,933,146
| align="right" | 6,408.09
| align="right" | 301.7
| align="right" | 25
| {{0}}5 / 2
|-
| 10
! {{Display none|10}}[[群馬県]]
| style="font-size:small" | ぐんまけん
| [[前橋市]]
|[[高崎市]]
| {{flagicon|群馬県}}
| 関東
| align="right" | 1,939,110
| align="right" | 6,362.28
| align="right" | 304.8
| align="right" | 35
| {{0}}5 / 2
|-
| 11
! {{Display none|11}}[[埼玉県]]
| style="font-size:small" | さいたまけん
| [[さいたま市]]
| さいたま市
| {{flagicon|埼玉県}}
| 関東
| align="right" | 7,344,765
| align="right" | 3,797.75
| align="right" | 1,934.0
| align="right" | 63
| 15 / 8
|-
| 12
! {{Display none|12}}[[千葉県]]
| style="font-size:small" | ちばけん
| [[千葉市]]
| 千葉市
| {{flagicon|千葉県}}
| 関東
| align="right" | 6,284,480
| align="right" | 5,157.57
| align="right" | 1,218.5
| align="right" | 54
| 13 / 6
|-
| 13
! {{Display none|13}}[[東京都]]
| style="font-size:small" | とうきょうと
| [[東京都区部]]
| 東京都区部
| {{flagicon|東京都}}
| 関東
| align="right" | 14,047,594
| align="right" | 2,194.03
| align="right" | 6,402.6
| align="right" | 62
| 25 / 12
|-
| 14
! style="white-space:nowrap;" | {{Display none|14}}[[神奈川県]]
| style="font-size:small; white-space:nowrap;" | かながわけん
| [[横浜市]]
| 横浜市
| {{flagicon|神奈川県}}
| 関東
| align="right" | 9,237,337
| align="right" | 2,416.11
| align="right" | 3,823.2
| align="right" | 33
| 18 / 8
|-
| 15
! {{Display none|15}}[[新潟県]]
| style="font-size:small" | にいがたけん
| [[新潟市]]
| 新潟市
| {{flagicon|新潟県}}
| 中部
| align="right" | 2,201,272
| align="right" | 12,583.96
| align="right" | 174.9
| align="right" | 30
| {{0}}6 / 2
|-
| 16
! {{Display none|16}}[[富山県]]
| style="font-size:small" | とやまけん
| [[富山市]]
| 富山市
| {{flagicon|富山県}}
| 中部
| align="right" | 1,034,814
| align="right" | 4,247.58
| align="right" | 243.6
| align="right" | 15
| {{0}}3 / 2
|-
| 17
! {{Display none|17}}[[石川県]]
| style="font-size:small" | いしかわけん
| [[金沢市]]
| 金沢市
| {{flagicon|石川県}}
| 中部
| align="right" | 1,132,526
| align="right" | 4,186.21
| align="right" | 270.5
| align="right" | 19
| {{0}}3 / 2
|-
| 18
! {{Display none|18}}[[福井県]]
| style="font-size:small" | ふくいけん
| [[福井市]]
| 福井市
| {{flagicon|福井県}}
| 中部
| align="right" | 766,863
| align="right" | 4,190.52
| align="right" | 183.0
| align="right" | 17
| {{0}}2 / 2
|-
| 19
! {{Display none|19}}[[山梨県]]
| style="font-size:small" | やまなしけん
| [[甲府市]]
| 甲府市
| {{flagicon|山梨県}}
| 中部
| align="right" | 809,974
| align="right" | 4,465.27
| align="right" | 181.4
| align="right" | 27
| {{0}}2 / 2
|-
| 20
! {{Display none|20}}[[長野県]]
| style="font-size:small" | ながのけん
| [[長野市]]
| 長野市
| {{flagicon|長野県}}
| 中部
| align="right" | 2,048,011
| align="right" | 13,561.56
| align="right" | 151.0
| align="right" | 77
| {{0}}5 / 2
|-
| 21
! {{Display none|21}}[[岐阜県]]
| style="font-size:small" | ぎふけん
| [[岐阜市]]
| 岐阜市
| {{flagicon|岐阜県}}
| 中部
| align="right" | 1,978,742
| align="right" | 10,621.29
| align="right" | 186.3
| align="right" | 42
| {{0}}5 / 2
|-
| 22
! {{Display none|22}}[[静岡県]]
| style="font-size:small" | しずおかけん
| [[静岡市]]
| [[浜松市]]
| {{flagicon|静岡県}}
| 中部
| align="right" | 3,633,202
| align="right" | 7,777.35
| align="right" | 467.2
| align="right" | 35
| {{0}}8 / 4
|-
| 23
! {{Display none|23}}[[愛知県]]
| style="font-size:small" | あいちけん
| style="white-space:nowrap;" | [[名古屋市]]
| 名古屋市
| {{flagicon|愛知県}}
| 中部
| align="right" | 7,542,415
| align="right" | 5,173.07
| align="right" | 1,458.0
| align="right" | 54
| 15 / 8
|-
| 24
! {{Display none|24}}[[三重県]]
| style="font-size:small" | みえけん
| [[津市]]
| [[四日市市]]
| {{flagicon|三重県}}
| 近畿
| align="right" | 1,770,254
| align="right" | 5,774.49
| align="right" | 306.6
| align="right" | 29
| {{0}}4 / 2
|-
| 25
! {{Display none|25}}[[滋賀県]]
| style="font-size:small" | しがけん
| [[大津市]]
| 大津市
| {{flagicon|滋賀県}}
| 近畿
| align="right" | 1,413,610
| align="right" | 4,017.38
| align="right" | 351.9
| align="right" | 19
| {{0}}4 / 2
|-
| 26
! {{Display none|26}}[[京都府]]
| style="font-size:small" | きょうとふ
| [[京都市]]
| 京都市
| {{flagicon|京都府}}
| 近畿
| align="right" | 2,578,087
| align="right" | 4,612.20
| align="right" | 559.0
| align="right" | 26
| {{0}}6 / 4
|-
| 27
! {{Display none|27}}[[大阪府]]
| style="font-size:small" | おおさかふ
| [[大阪市]]
| 大阪市
| {{flagicon|大阪府}}
| 近畿
| align="right" | 8,837,685
| align="right" | 1,905.32
| align="right" | 4,638.4
| align="right" | 43
| 19 / 8
|-
| 28
! {{Display none|28}}[[兵庫県]]
| style="font-size:small" | ひょうごけん
| [[神戸市]]
| 神戸市
| {{flagicon|兵庫県}}
| 近畿
| align="right" | 5,465,002
| align="right" | 8,401.02
| align="right" | 650.5
| align="right" | 41
| 12 / 6
|-
| 29
! {{Display none|29}}[[奈良県]]
| style="font-size:small" | ならけん
| [[奈良市]]
| 奈良市
| {{flagicon|奈良県}}
| 近畿
| align="right" | 1,324,473
| align="right" | 3,690.94
| align="right" | 358.8
| align="right" | 39
| {{0}}3 / 2
|-
| 30
! {{Display none|30}}[[和歌山県]]
| style="font-size:small" | わかやまけん
| [[和歌山市]]
| 和歌山市
| {{flagicon|和歌山県}}
| 近畿
| align="right" | 922,584
| align="right" | 4,724.65
| align="right" | 195.3
| align="right" | 30
| {{0}}3 / 2
|-
| 31
! {{Display none|31}}[[鳥取県]]
| style="font-size:small" | とっとりけん
| [[鳥取市]]
| 鳥取市
| {{flagicon|鳥取県}}
| 中国
| align="right" | 553,407
| align="right" | 3,507.14
| align="right" | 157.8
| align="right" | 19
| {{0}}2 / ※
|-
| 32
! {{Display none|32}}[[島根県]]
| style="font-size:small" | しまねけん
| [[松江市]]
| 松江市
| {{flagicon|島根県}}
| 中国
| align="right" | 671,126
| align="right" | 6,707.89
| align="right" | 100.1
| align="right" | 19
| {{0}}2 / ※
|-
| 33
! {{Display none|33}}[[岡山県]]
| style="font-size:small" | おかやまけん
| [[岡山市]]
| 岡山市
| {{flagicon|岡山県}}
| 中国
| align="right" | 1,888,432
| align="right" | 7,114.33
| align="right" | 265.4
| align="right" | 27
| {{0}}5 / 2
|-
| 34
! {{Display none|34}}[[広島県]]
| style="font-size:small" | ひろしまけん
| [[広島市]]
| 広島市
| {{flagicon|広島県}}
| 中国
| align="right" | 2,799,702
| align="right" | 8,479.65
| align="right" | 330.2
| align="right" | 23
| {{0}}7 / 4
|-
| 35
! {{Display none|35}}[[山口県]]
| style="font-size:small" | やまぐちけん
| [[山口市]]
| [[下関市]]
| {{flagicon|山口県}}
| 中国
| align="right" | 1,342,059
| align="right" | 6,112.54
| align="right" | 219.6
| align="right" | 19
| {{0}}4 / 2
|-
| 36
! {{Display none|36}}[[徳島県]]
| style="font-size:small" | とくしまけん
| [[徳島市]]
| 徳島市
| {{flagicon|徳島県}}
| 四国
| align="right" | 719,559
| align="right" | 4,146.75
| align="right" | 173.5
| align="right" | 24
| {{0}}2 / ※
|-
| 37
! {{Display none|37}}[[香川県]]
| style="font-size:small" | かがわけん
| [[高松市]]
| 高松市
| {{flagicon|香川県}}
| 四国
| align="right" | 950,244
| align="right" | 1,876.78
| align="right" | 506.3
| align="right" | 17
| {{0}}3 / 2
|-
| 38
! {{Display none|38}}[[愛媛県]]
| style="font-size:small" | えひめけん
| [[松山市]]
| 松山市
| {{flagicon|愛媛県}}
| 四国
| align="right" | 1,334,841
| align="right" | 5,676.19
| align="right" | 235.2
| align="right" | 20
| {{0}}4 / 2
|-
| 39
! {{Display none|39}}[[高知県]]
| style="font-size:small" | こうちけん
| [[高知市]]
| 高知市
| {{flagicon|高知県}}
| 四国
| align="right" | 691,527
| align="right" | 7,103.63
| align="right" | 97.4
| align="right" | 34
| {{0}}2 / ※
|-
| 40
! {{Display none|40}}[[福岡県]]
| style="font-size:small" | ふくおかけん
| [[福岡市]]
| 福岡市
| {{flagicon|福岡県}}
| 九州
| align="right" | 5,135,214
| align="right" | 4,986.51
| align="right" | 1,029.8
| align="right" | 60
| 11 / 6
|-
| 41
! {{Display none|41}}[[佐賀県]]
| style="font-size:small" | さがけん
| [[佐賀市]]
| 佐賀市
| {{flagicon|佐賀県}}
| 九州
| align="right" | 811,442
| align="right" | 2,440.69
| align="right" | 332.5
| align="right" | 20
| {{0}}2 / 2
|-
| 42
! {{Display none|42}}[[長崎県]]
| style="font-size:small" | ながさきけん
| [[長崎市]]
| 長崎市
| {{flagicon|長崎県}}
| 九州
| align="right" | 1,312,317
| align="right" | 4,130.98
| align="right" | 317.7
| align="right" | 21
| {{0}}4 / 2
|-
| 43
! {{Display none|43}}[[熊本県]]
| style="font-size:small" | くまもとけん
| [[熊本市]]
| 熊本市
| {{flagicon|熊本県}}
| 九州
| align="right" | 1,738,301
| align="right" | 7,409.46
| align="right" | 234.6
| align="right" | 45
| {{0}}4 / 2
|-
| 44
! {{Display none|44}}[[大分県]]
| style="font-size:small" | おおいたけん
| [[大分市]]
| 大分市
| {{flagicon|大分県}}
| 九州
| align="right" | 1,123,852
| align="right" | 6,340.76
| align="right" | 177.2
| align="right" | 18
| {{0}}3 / 2
|-
| 45
! {{Display none|45}}[[宮崎県]]
| style="font-size:small" | みやざきけん
| [[宮崎市]]
| 宮崎市
| {{flagicon|宮崎県}}
| 九州
| align="right" | 1,069,576
| align="right" | 7,735.22
| align="right" | 138.3
| align="right" | 26
| {{0}}3 / 2
|-
| 46
! {{Display none|46}}[[鹿児島県]]
| style="font-size:small" | かごしまけん
| [[鹿児島市]]
| 鹿児島市
| {{flagicon|鹿児島県}}
| 九州
| align="right" | 1,588,256
| align="right" | 9,187.06
| align="right" | 172.9
| align="right" | 43
| {{0}}4 / 2
|-
| 47
! {{Display none|47}}[[沖縄県]]
| style="font-size:small" | おきなわけん
| [[那覇市]]
| 那覇市
| {{flagicon|沖縄県}}
| 沖縄
| align="right" | 1,467,480
| align="right" | 2,282.59
| align="right" | 642.9
| align="right" | 41
| {{0}}4 / 2
|}
== 名称 ==
=== 命名根拠 ===
{| class="wikitable floatright" style="text-align:center; font-size:small; line-height:1.1em;"
|+現行都道府県の起源である庁府県の<br/>設置当時の庁舎所在地と郡<ref group="注">地名部分を維持したまま種別のみ変更されたものについてのみ変更前まで遡っている。地名部分が同じ県が一旦廃止されている場合は復活したときの庁舎。東京・京都・大阪の郡としては[[江戸城]]・[[二条城]]・[[大坂城|大阪城]]の郡を記した。</ref>
!!!庁府県!!所在郡!!所在地!!現所在地
|-
|||[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]||[[札幌郡]]||[[札幌市|札幌]]
| rowspan="8" |
|-
| rowspan="6" |[[東北地方|東<br />北]]|| style="background:#ffcccc" |[[青森県]]||[[津軽郡 (陸奥国)|津軽郡]]|| style="background:#ffcccc" |[[青森市|青森]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[岩手県]]||style="background:#ccccff"|[[岩手郡]]||[[盛岡市|盛岡]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[宮城県]]||style="background:#ccccff"|[[宮城郡]]||[[仙台市|仙台]]
|-
|style="background:#ffccff"|[[秋田県]]||style="background:#ffccff"|[[秋田郡]]||style="background:#ffccff"|[[秋田市|秋田]]<ref group="注" name="capnamechg" />
|-
|style="background:#ffcccc"|[[山形県]]||[[村山郡]]||style="background:#ffcccc"|[[山形市|山形]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[福島県]]||[[信夫郡]]||style="background:#ffcccc"|[[福島市|福島]]
|-
|rowspan="7"|[[関東地方|関<br/>東]]||style="background:#ccccff"|[[茨城県]]||style="background:#ccccff"|[[茨城郡]]||[[水戸市|水戸]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[栃木県]]||[[都賀郡]]||style="background:#ffcccc"|[[栃木市|栃木]]||[[宇都宮市|宇都宮]]<ref group="注">[[栃木県庁の移転]]を参照。</ref>
|-
|style="background:#ccccff"|[[群馬県]]||style="background:#ccccff"|[[群馬郡]]||[[高崎市|高崎]]||[[前橋市|前橋]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[埼玉県]]||style="background:#ccccff"|[[埼玉郡]]||[[岩槻市|岩槻]]<ref group="注">埼玉県設置時には岩槻が県庁所在地に予定されていたが浦和に仮庁舎が設置され、岩槻に移転することなくそのまま浦和が県庁所在地として定着した。浦和は埼玉郡ではなく足立郡である。</ref>||[[さいたま市|さいたま]]<ref group="注">県庁所在地であった浦和市が大宮市、与野市と合併して成立した市である。後に、当初の県庁所在予定地であった岩槻市を編入している。</ref>
|-
|style="background:#ffccff"|[[千葉県]]||style="background:#ffccff"|[[千葉郡]]||style="background:#ffccff"|[[千葉市|千葉]]||
|-
|style="background:#ffcccc"|[[東京府]]||[[豊島郡 (武蔵国)|豊島郡]]||style="background:#ffcccc"|[[東京市|東京]]||[[新宿区|新宿]]<ref group="注">新宿区も旧東京市の一部であり、現在の都庁の所在地は旧淀橋区で、東京市編入前は豊島郡(後の南豊島郡⇒豊多摩郡)であった。</ref>
|-
|style="background:#ffcccc"|[[神奈川県|神奈川府]]||[[橘樹郡]]||style="background:#ffcccc"|[[神奈川区|神奈川]]||[[横浜市|横浜]]<ref group="注">市町村名としての「神奈川」は消えたが、現在は横浜市「神奈川区」が県名の根拠地に存在する。</ref>
|-
|rowspan="9"|[[中部地方|中<br/>部]]||style="background:#ffcccc"|[[新潟県|新潟府]]||[[蒲原郡]]||style="background:#ffcccc"|[[新潟市|新潟]]||rowspan="2"|
|-
|style="background:#ffcccc"|[[富山県]]||[[新川郡]]||style="background:#ffcccc"|[[富山市|富山]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[石川県]]||style="background:#ccccff"|[[石川郡 (石川県)|石川郡]]||[[美川町 (石川県)|美川]]||[[金沢市|金沢]]<ref group="注" name=":0" />
|-
|style="background:#ffcccc"|[[福井県]]||[[足羽郡]]||style="background:#ffcccc"|[[福井市|福井]]||rowspan="6"|
|-
|style="background:#ccccff"|[[山梨県]]||style="background:#ccccff"|[[山梨郡]]||[[甲府市|甲府]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[長野県]]||[[水内郡]]||style="background:#ffcccc"|[[長野市|長野]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[岐阜県]]||[[厚見郡]]||style="background:#ffcccc"|[[岐阜市|岐阜]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[静岡県]]||[[安倍郡]]||style="background:#ffcccc"|[[静岡市|静岡]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[愛知県]]||style="background:#ccccff"|[[愛知郡 (愛知県)|愛知郡]]||[[名古屋市|名古屋]]
|-
|rowspan="7"|[[近畿地方|近<br/>畿]]||style="background:#ccccff"|[[三重県]]||style="background:#ccccff"|[[三重郡]]||[[四日市市|四日市]]||[[津市|津]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[滋賀県]]||style="background:#ccccff"|[[滋賀郡]]||[[大津市|大津]]||rowspan="3"|
|-
|style="background:#ffcccc"|[[京都府]]||[[葛野郡]]||style="background:#ffcccc"|[[京都市|京都]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[大阪府]]||[[東成郡]]||style="background:#ffcccc"|[[大阪市|大阪]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[兵庫県]]||[[八部郡]]||style="background:#ffcccc"|[[兵庫区|兵庫]]||[[神戸市|神戸]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[奈良県]]||[[添上郡]]||style="background:#ffcccc"|[[奈良市|奈良]]||rowspan="15"|
|-
|style="background:#ffcccc"|[[和歌山県]]||[[名草郡]]||style="background:#ffcccc"|[[和歌山市|和歌山]]
|-
|rowspan="5"|[[中国地方|中<br/>国]]||style="background:#ffcccc"|[[鳥取県]]||[[邑美郡]]||style="background:#ffcccc"|[[鳥取市|鳥取]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[島根県]]||style="background:#ccccff"|[[島根郡]]||[[松江市|松江]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[岡山県]]||[[御野郡]]||style="background:#ffcccc"|[[岡山市|岡山]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[広島県]]||[[沼田郡]]||style="background:#ffcccc"|[[広島市|広島]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[山口県]]||[[吉敷郡]]||style="background:#ffcccc"|[[山口市|山口]]
|-
|rowspan="4"|[[四国地方|四<br/>国]]||style="background:#ffcccc"|[[徳島県]]||[[名東郡]]||style="background:#ffcccc"|[[徳島市|徳島]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[香川県]]||style="background:#ccccff"|[[香川郡]]||[[高松市|高松]]
|-
|[[愛媛県]]||[[温泉郡]]||[[松山市|松山]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[高知県]]||[[土佐郡]]||style="background:#ffcccc"|[[高知市|高知]]
|-
|rowspan="7"|[[九州地方|九<br/>州]]||style="background:#ffcccc"|[[福岡県]]||[[早良郡]]||style="background:#ffcccc"|[[福岡市|福岡]]
|-
|style="background:#ffccff"|[[佐賀県]]||style="background:#ffccff"|[[佐賀郡]]||style="background:#ffccff"|[[佐賀市|佐賀]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[長崎県|長崎府]]||[[彼杵郡]]||style="background:#ffcccc"|[[長崎市|長崎]]
|-
|style="background:#ffcccc"|[[熊本県]]||[[飽田郡]]||style="background:#ffcccc"|[[熊本市|熊本]]
|-
|style="background:#ccccff"|[[大分県]]||style="background:#ccccff"|[[大分郡]]||[[大分市|府内]]||[[大分市|大分]]<ref group="注" name="capnamechg">大分と宮崎は県設置より後で県庁所在地名を郡名に合わせて改称している。秋田も明治に入ってからの郡名への改称だが、県設置より前である。</ref>
|-
|style="background:#ccccff"|[[宮崎県]]||style="background:#ccccff"|[[宮崎郡]]||[[宮崎市|上別府]]||[[宮崎市|宮崎]]<ref group="注" name="capnamechg" />
|-
|style="background:#ffccff"|[[鹿児島県]]||style="background:#ffccff"|[[鹿児島郡]]||style="background:#ffccff"|[[鹿児島市|鹿児島]]||rowspan="2"|
|-
|||[[沖縄県]]||[[島尻郡]]||[[那覇市|那覇]]
|}
表(庁府県設置当時の庁舎所在地と郡)からも明らかなように、都道府県名の原則は庁舎所在地である。ただし、県名の根拠となった地名が以下に該当する場合には都道府県名は庁舎所在地の現在の市名と一致しない。
* 庁舎所在地の「都市名」と一致しない「郡名」である場合(表で「所在郡」欄が青系に着色されている県、ただし都市名を後から改称した2県を除く)<ref group="注">[[廃藩置県#第1次府県統合|第1次府県統合]]以降に庁舎所在地の「郡名」を県名とした事例で県として現存しないもの(一旦廃止されて異なる県名で復活したものを含む)は[[磐井県#沿革|磐井県]]・[[置賜県#沿革|置賜県]]・[[磐前県#沿革|磐前県]]・[[新治県#沿革|新治県]]・[[印旛県#概要|印旛県]]・[[入間県#沿革|入間県]]・[[足柄県#沿革|足柄県]]・[[新川県#概要|新川県]]・[[足羽県#沿革|足羽県]]・[[筑摩県#沿革|筑摩県]]・[[額田県#沿革|額田県]]・[[度会県#歴史|度会県]]・[[犬上県#沿革|犬上県]]・[[飾磨県#概要|飾磨県]]・[[北条県#設廃|北条県]]・[[小田県#概要|深津県]]・[[小田県#概要|小田県]]・[[名東県#沿革|名東県]]・[[三潴県#沿革|三潴県]]の19例(深津県→小田県は庁舎移転による改称なので正味18県)ある。</ref>。
* 庁舎の現在の所在地ではない場合([[栃木県#近・現代|栃木県]]・[[群馬県#明治|群馬県]]・[[埼玉県#明治|埼玉県]]・[[三重県#度会府設置|三重県]])<ref group="注" name=":0">[[石川県#近代|石川県]]は現在の県庁所在地ではない美川(現・白山市)の所属郡が根拠であるが、現所在地の金沢も同じく石川郡内である。</ref><ref group="注">前橋市内の現[[群馬県#明治|群馬県]]庁所在地は、律令以来群馬郡に属していたが、明治初期には[[東群馬郡#前橋の所属郡の問題|実質的に勢多郡と一体の地域]]に含まれており、最終的にはそれに合わせて郡が再設定されたので、ここでは「現在の所在地の郡名ではない」に該当するものとみなした。</ref><ref group="注">県名の根拠である庁舎所在地が実際の所在地ではない事例は[[廃藩置県#第1次府県統合|第1次府県統合]]から[[廃藩置県#第2次府県統合|第2次府県統合]]までの間には多く、現存しない例としては予定地名を用いた[[水沢県]]・[[印旛県]]・[[深津県]]や隣接地名を用いた[[木更津県]]・[[浜田県]]などがある(短期間で齟齬が解消されるなど、該当するかどうかが自明でない事例が多いため、全てを過不足なく列挙することは困難)。</ref>。
* 都市合併などにより「市」としては現存しない場合([[東京都の歴史#明治維新から第二次世界大戦まで|東京都]]・[[神奈川県#県の沿革|神奈川県]]・[[兵庫県#県域の変遷|兵庫県]])。
* 「都市名」でも「郡名」でもない場合([[北海道#概要|北海道]]・[[愛媛県#由来|愛媛県]]・[[沖縄県#名称|沖縄県]])<ref group="注">「都市名」でも「郡名」でもない地名が用いられた現存しない事例は、[[廃藩置県#第1次府県統合|第1次府県統合]]以降では[[石鉄県#沿革|石鉄県]]・[[神山県_(日本)#概要|神山県]]・[[熊本県の歴史#廃藩置県|白川県]]の3例ある。ほかに[[七尾県#沿革|七尾県]]の例では「都市の通称=城の名称」が用いられている。</ref>。
[[1888年]](明治21年)以降都道府県名の地名部分に変更が無く、都道府県名が定着した現在においては、都道府県名の地名部分のみで都道府県の領域全体を指す(例えば「青森」で青森という都市ではなく青森県全体を指す)用法が一般に用いられるが、本来は領域の一部分のみを示す地名である。特に県名が庁舎所在地の市名と一致しない場合には、県名が元々から領域全体を指す地名であると誤解されていることが多い。現行都道府県名の地名部分が都道府県の領域全体を示しているのは[[北海道#概要|北海道]]と[[愛媛県#由来|愛媛県]]のみである。
都府県名に庁舎所在地を用いる原則は、[[府藩県三治制#名称と管轄区域|府藩県三治制における命名規則]]を[[廃藩置県]]後にも継承したものと考えられる。江戸時代を通じて[[藩#藩の呼び方(藩名)|藩の命名]]に統一方針があったとは認められず(そもそも「藩」という呼称自体が当時の正式なものではない)、[[城下町]]名(例えば「鹿児島藩」)、[[令制国]]名などの広域地名(例えば「薩摩藩」)、藩主の姓(例えば「島津藩」)のいずれを称するかは定まっていなかった。庁舎所在地の都市名や村名(ごく一部で例外的に郡名、県や府では令制国名も使用<ref group="注">具体的には、令制国全体が旧幕府領であった[[佐渡県]]、[[飛騨県]]、[[甲斐府]]、戊辰戦争の戦後処理の役割もあった[[越後府]]、比較的狭い範囲に多数点在していた直轄地(主に旧旗本領)を管轄していた[[河内県 (日本)|河内県]]、[[摂津県]]、[[三河県 (日本)|三河県]]があり、類例として[[武蔵知県事]]、[[常陸知県事]]、[[下総知県事]]、[[上総安房知県事]]があるが、佐渡県が[[廃藩置県#第1次府県統合|第1次府県統合]]まで残ったのを除いて、[[廃藩置県]]よりも前に改称や統合で無くなっている。</ref>)を用いる命名のみが専ら用いられるようになったのは[[府藩県三治制]]以降である。
その後、[[廃藩置県]]直後の[[廃藩置県#第1次府県統合|第1次府県統合]]の際およびその直後(約7箇月以内)に、「都市名」に基づく県名を「郡名」などに改称した事例が数多くあり、その具体的な理由は必ずしも明らかでない。なお、この改称が[[戊辰戦争]]における「順逆」を表示するという明確な政治的意思に基づいて行われたとする説([[賞罰的県名説]])があるが、この説には[[賞罰的県名説#「忠勤藩」「曖昧藩」「朝敵藩」の区分|「順逆」の評価基準が明確でない]]、[[賞罰的県名説#「政治的意思」の当否|政治的意思の存在が論証できない]]などの問題点がある。
[[廃藩置県#第1次府県統合から第2次府県統合までの異動|第1次府県統合直後の改称]]以降、県庁舎の移転に伴わない県名の変更は例外的である。統廃合に際しても、いずれかの県庁舎が継承される場合には、その県名も継承している([[廃藩置県#第1次府県統合から第2次府県統合までの異動]]の「統合」「編入」および[[廃藩置県#第2次府県統合]]の「編入」参照)。明白な例外は、管轄地域全体を象徴する「雅称」を県名とした[[石鉄県#沿革|石鉄県]]と[[神山県_(日本)#概要|神山県]]が合併する際に新たな「雅称」として[[愛媛県#由来|愛媛県]]と命名した事例と、同じく「雅称」であった[[熊本県の歴史#廃藩置県|白川県]]を原則通りの[[熊本県#近代|熊本県]]に改名した事例の2例のみである。例外に準ずる事例も、廃止された[[新川県#概要|新川県]]・[[足羽県#沿革|足羽県]]・[[名東県#沿革|名東県]]を復活する際に元の県名ではなく[[富山県#明治時代(置県以前)|富山県]]・[[福井県#近代|福井県]]・[[徳島県#「徳島県」と「名東県」|徳島県]]とした3例に限られる。[[廃藩置県#第2次府県統合|第2次府県統合]]以降には、県庁舎を他の都市に移転した事例([[栃木県#近・現代|栃木県]])や県名の根拠となる地名が消滅した事例([[島根郡#近世以降の沿革|島根郡]]や[[神奈川町#歴史|神奈川町]]の合併消滅など)においても県名は変更されていない。
=== 省略表現 ===
都道府県名の省略表記として、行政機関の種別を示す「都」・「府」・「県」を省いて地名部分のみにした「青森」「東京」のような呼び方も用いられる。ただし北海道は「地名+機関種別」という構造の呼称ではなく、それ自体が地名である「北海道」を行政機関名としても使っているものであるため、「北海」だけを切り分けて使うことはない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/yurai.html|title=「北海道」の由来|publisher=北海道立文書館|date=2022-01-20|accessdate=2022-12-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20200415065815/https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-nd8e613237260|title=「北海道はなぜ“北海”と略さないのか?」#シラベルカ2|publisher=NHK札幌放送局|date=2020-04-14|accessdate=2022-12-30}}</ref>。(参照:[[北海道#概要]])
また、主に文字数が限られる新聞の見出しなどの場面で、来訪を表す「来」や帰着を表す「帰」などと都道府県地名の1文字を組み合わせた二字熟語、たとえば「来熊」(熊本県)、「[[:wikt:帰阪|帰阪]]」(大阪府)、「[[:wikt:在京|在京]]」(東京都、京都府)などの表現が使用されることがある<ref>柴田武『生きている日本語』講談社、1988年、237-239頁 {{ISBN2|978-4-06-158835-6}}</ref>。(参照:[[二字熟語による往来表現の一覧]])
=== 都道府県の英訳名 ===
都道府県の[[英語]]訳としては『prefecture』が使われるが、この単語は[[中央政府]]から派遣される[[都道府県知事|県知事]](prefect)の管轄範囲という語感を伴っており(類似例: [[フランス]])、知事公選制となった[[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]においてはこの単語は語感に沿わないものになっているが、[[戦前#日本|戦前]]からの慣例で今でも使われ続けている。[[樺太庁]]は外地である期間のほうが長かったが、台湾や朝鮮とは異なり内地水準の『prefecture』で呼ばれた。同様に[[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]も戦前は『prefecture』を用いたが、[[北海道|道]]となった現在は『Hokkaido』のみで表すこともある。なお、[[東京都]]の場合には『metropolis』も用いられる。
== シンボル ==
多くの都道府県は[[都道府県旗]]、[[都道府県章]]、[[シンボルマーク]]などを制定している。これらは[[国民体育大会]]などの行事で用いられるほか、都道府県の施設で掲揚されたり、都道府県が管理する施設の標識に用いられたりしている。
また多くの都道府県では、「県の[[花]]」、「県の[[木]]」、「県の[[鳥]]」を定めている。中には、「県の[[魚類|魚]]」「県の[[動物|獣]]」を定めているところもある。詳細は[[都道府県のシンボルの一覧]]を参照。
そのほかのシンボルについては、以下を参照。
* [[歌]] - [[都道府県民歌]]
* [[記念日]] - [[都道府県民の日]]
* [[マスコットキャラクター]] - [[:Category:都道府県のマスコット|都道府県のマスコット]]
* [[石]] - [[県の石]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
==参考文献==
* {{Cite journal|和書|author=齊藤忠光 |title=府県廃置法律案附図【大日本帝国全図】 |journal=地図 |issn=0009-4897 |publisher=日本地図学会 |year=2013 |volume=51 |issue=3 |pages=3_17-3_18 |naid=130005281792 |doi=10.11212/jjca.51.3_17 |url=https://doi.org/10.11212/jjca.51.3_17 |ref=harv}}
== 関連項目 ==
{{表3列
|'''都道府県別データ'''
*[[都道府県庁所在地]]
*[[都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位]]
*[[都道府県知事]]
*[[都道府県の面積一覧]]
*[[都道府県の人口一覧]]
*[[過去の都道府県の人口一覧]]
*[[県民経済計算]]
*[[ISO 3166-2:JP]]
*[[都道府県人会]]
*[[地方自治体に関する日本一の一覧]]
|'''その他'''
*[[府県制]]
*[[府県廃置法律案]]
*[[県民性]]
*[[都道府県独立国家論]]
*[[日本の地域]]
*[[日本の地理]]
*[[日本列島]]
*[[内地]]
*[[令制国]]
*[[国府]]
*[[国衙]]
*[[市町村]]
|
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画像:2020 Japan Census population prefectures.svg|2020年(令和2年)時点の[[都道府県の人口一覧|都道府県別人口]]を表した図。
画像:一人当たり県民所得.png|2019年(令和元年)時点の[[県民経済計算|1人当たり県民所得]]を表した図。
画像:都道府県別合計特殊出生率.png|2000年(平成12年)、<br />2005年(平成17年)、<br />2010年(平成22年)、<br />2018年(平成30年)時点の都道府県別[[合計特殊出生率]]を表した図。
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}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Prefectures of Japan}}
*[https://www.stat.go.jp/data/k-sugata/index.html 総務省統計局 - 統計でみる都道府県のすがた]
*[https://mansion-uru.jp/sumitai-machi-ranking/ 2018年住みたい街ランキング]
*[https://uub.jp/map/ 都道府県について]
{{日本の都道府県}}
{{日本関連の項目}}
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4,083 | アドベンチャーワールド | アドベンチャーワールドは、和歌山県西牟婁郡白浜町にある動物園、水族館、遊園地が一体になったテーマパークである。
大阪府松原市に本社を置く株式会社丸末(不動産・建設業)の関連会社である株式会社アワーズ (AWS) が運営している。
1978年4月22日のオープン当初は「南紀白浜ワールドサファリ」という名称であった。
「人間(ひと)と動物と自然とのふれあい」をテーマに、日々新たなことに取り組み挑戦する。動物園・水族館・遊園地の3つを併せ持つ全国でも珍しいスタイルのテーマパークである。
園内には数々の施設があるが、ジャイアントパンダの飼育展示、広大な敷地に放し飼いにされた動物たちの中をケニア号が進むサファリツアー、イルカやアシカのショー、食事タイムなど、自然界を代表する動物が総覧できる。
ゴールデンウィークや夏休み期間中には夜間営業も行われており、昼間とは違う動物たちの姿を見ることができる。また、夜間営業中は夜間感動ののイルカショー「LOVESナイトマリンライブ」が開催され花火が打ち上げられるなど、昼間のショーとはまた違った趣向で楽しめる。
パーク内では動物をテーマにしたレストランやカフェがあり、園内の動物たちや白浜半島にちなんだ土産物も多数販売されている。子供たちだけでなく大人でも楽しめるイベントや学術的なツアーもあり、2〜3世代のファミリー・カップル・夫婦などが楽しむ姿の目立つ施設である。
広大なサファリゾーンでは、1周約1500m(約25分)の列車型牽引バス「ケニア号」・1人〜3人乗りの自転車・2階建てバス・ゴルフ用カートやジープなどの乗物を使って周遊する。ケニア号以外はすべてオプションであり、窓口で料金を支払う必要がある。徒歩でも1.5kmほどのコースを自由に散策することができる。ただしライオンやクマなどの猛獣ゾーンへはゲートがあり、徒歩・自転車・カートでの立ち入りができない。
事前予約すれば、キリンやサイなど様々な動物とふれあったり、ライオンなど肉食動物を見学するなど、様々なツアーに参加することができる。 また、ツアーに参加しなくても、サファリの草食動物ゾーンで自動販売機で有料のエサを購入すれば、キリン、ムフロン、ラクダ、エミュー、カンガルーなどにエサを与えることができる。また、指定時間に当該場所に行けば、予約なしでアフリカゾウ、サイ、ライオンへのエサやりイベント(有料)にも参加できる。
夜間営業期間中には「ナイトサファリツアー」もある。
ふれあい広場だけでも小規模な動物園と同程度規模があり、人間が歩く部分にマーラ、シカ、クジャク、アヒルなどが放されていて、エサを与えたり(有料)ふれあいを楽しむことが出来る。また、柵の中にいるケープペンギンやカピバラなどの動物も、非常に近い距離で見ることが出来る。
アドベンチャーワールドは、中国成都市の成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地日本支部として活動している。同基地との協力で進められているジャイアントパンダの繁殖研究事業(ブリーディングローン)では、2018年9月までに17頭の繁殖実績があり、2017年6月までに15頭育成している。これは、出産頭数、成長した子供の数、ともに中国本土を除けば世界最多である。また、中国国内以外で、双子のジャイアントパンダを両方とも育てることに成功した初めての施設である(2010年9月7日に、アドベンチャーワールドと同じく、成都大熊猫繁育研究基地と提携しているスペインのマドリード動物園で双子のジャイアントパンダが生まれた。この2頭は2011年1月10日現在、無事に生育している)。
日本では、2021年8月18日現在、東京都恩賜上野動物園の4頭、神戸市立王子動物園の1頭、アドベンチャーワールドの4頭を合わせて9頭のジャイアントパンダが飼育されていて、アドベンチャーワールドでは屋根の無い空間で自由に過ごすジャイアントパンダを見ることもできる。希少動物センターPANDA LOVEとブリーディングセンターに分かれて暮らしている。
なお、前述の通り、アドベンチャーワールドは成都大熊猫繁育研究基地の日本支部を兼ねているので、現在飼育されているジャイアントパンダは、子供も含めてすべて中国の成都大熊猫繁育研究基地本部の所有である。
和歌山県警では、交通安全意識向上のため、2019年(令和元年)7月11日にジャイアントパンダの彩浜に「交通安全和歌山夢大使」を委嘱。彩浜は、ポスターやグッズに登場して交通安全を啓発した。2022年7月からは、「わかやま夏の交通安全運動」に合わせ、彩浜に変わって妹の楓浜が「交通安全和歌山夢大使」に就任した。
また、白浜町では、このジャイアントパンダを最大の集客材料と位置づけており、白浜町役場には「パンダの町白浜」の掲示が行われている。
地元を走る特急くろしおに使用されていた381系にパンダシート(撮影用の席)が設置されていたり、2018年8月1日現在ジャイアントパンダのイラストが描かれた列車が運行されている。また、路線バスを運行する明光バスでは、ジャイアントパンダのイラストが描かれたバスを運行している(2010年10月9日現在、1台運行)。
【 】内は、アドベンチャーワールドで誕生したパンダの誕生順で、名前は全て2文字目を「浜」に統一している。1番目の良浜と6番目の生後すぐ死去したパンダを除き、永明は14頭の父親。永明には梅梅の双子の姉(蜀蘭、シューラン)との間で人工授精により、2002年に中国・蘭州動物園で生まれた子(蘭宝、ランバオ、雄)もいたが、2012年8月30日死去している。
※1 良浜は梅梅が中国で妊娠し日本で出産した子なので、永明との血縁関係は無い。 ※2 彩浜はNHK総合テレビで放送された『ファミリーヒストリー』でパンダの家系が紹介された。
(死去もしくは移送とは関係なく誕生順に記載)
※幸浜の双子の弟は、2005年8月24日午前4時9分に誕生。出生時の体重が66gと非常に小さかったこともあり、翌8月25日午前2時27分に死去。わずか24時間にも満たない生涯であったが、AWでは愛浜と明浜をAW生まれの7頭目・8頭目と公式発表しており、名前はないもののこの亡き弟ジャイアントパンダは、AWで生まれた歴とした6頭目のジャイアントパンダである。
※2008年9月13日に生まれた双子の梅浜と永浜は、日本初の飼育下3世代目(梅梅-良浜-梅浜・永浜)のジャイアントパンダである。
※永明・良浜・梅梅の3頭には、2011年3月に仁坂吉伸和歌山県知事より「和歌山県勲功爵(くんこうしゃく=わかやまでナイト)」の称号が贈られている。和歌山電鐵貴志川線貴志駅のたま駅長に続いて2例目で、パンダの家族を増やしたことで和歌山県の魅力を全国に発信した功績をたたえてのものである。
イルカと泳げるスペシャルアトラクションがある。
2009年10月20日、公式サイトにて、「10月13日にメスの赤ちゃんが誕生した」と発表され(生後2ヶ月の映像)、ミライと名付けられたが、2014年5月16日に死亡したため、現在は見られない。2013年にはオスの赤ちゃんが誕生した。2014年にオスのアークティクが肝癌で死亡したため、2015年3月に大阪市天王寺動物園よりホッキョクグマのゴーゴ(雄)の借入が決定した。
ペンギンは海獣館、屋外展示場の二ヶ所に分けて8種類(エンペラーペンギン、キングペンギン、ジェンツーペンギン、アデリーペンギン、ヒゲペンギン、イワトビペンギン、ケープペンギン、フェアリーペンギン)・約470羽を飼育しており、世界有数の規模である。
特にエンペラーペンギンについては、日本国内で飼育している施設がアドベンチャーワールドと名古屋港水族館のみで、さらに国内で唯一繁殖に成功している(世界的に見ても、エンペラーペンギンの孵化に成功したのはアドベンチャーワールド、アメリカ合衆国サンディエゴのシーワールド、中国大連市の老虎灘海洋公園極地館の3園館しかない)。
2019年10月1日、公式サイトにて、「10月1日にエンペラーペンギンのヒナが孵化した」と発表された(同園で13例目の孵化である)。
かつてはシャチのショーも有名であったが、2005年に最後の個体が死亡したため現在は行われていない。
1978年にワールドサファリとして開業する5日前には、アメリカ・カリフォルニア州のマリンワールド・アフリカUSA(現シックス・フラッグス・ディスカバリー・キングダム)より「キアヌ」(メス・体長6m・体重3t)を搬入。当時のワールドサファリにはイルカをようやく調教できる程度の新人トレーナーしかおらず、同伴して来日したアメリカ人トレーナーが担当して開業初日からショーに出演した。キアヌが習得していた種目はまだ少なかったが、当時はイルカでさえも実物を見たことがない観客がほとんどであったため、キアヌの巨体とその一挙一動に歓声が上がった。
ショー(マリンライブ)のほか、尾びれで客席に大量の水を飛ばす「海水のプレゼント」、ライブ終了後にシャチをライブプールに残し自由に観察できる「オルカウォッチング」、シャチをプールサイドに呼び寄せて解説する「オルカ教室」、プールサイドに上がってシャチに触ることができる「オルカ・ファーストコンタクト」などのコーナーがあった。
2003年5月にはマリンライブの主力として活躍していた「ラン」(1990年にアイスランドより搬入)の妊娠が確認された。ランは2004年8月26日に出産したが、初産だったためか産まれた子を見るなり驚いて拒絶してしまい、さらに父親の「キュウ」(1997年に太地町より搬入)も興奮して攻撃を加えてしまったことで子は頭蓋骨骨折の重傷を負い、治療の甲斐なく2日後の8月28日午後1時20分に死亡した。また、ランも後を追うように同日の深夜に死亡し、キュウも9月18日に死亡した。2頭の死因は急性細菌感染症であった。
その後は「ゴロー」(1985年に太地町より搬入したオス)の1頭だけが残っていたが、2005年1月18日に体調不良に陥り、1月21日午後9時20分に死亡した。この他、断続的に「ベンケイ」「ウシワカ」「ルカ」「アイ」という個体も飼育されていた。末期に飼育されていたルカ・ゴロー・ラン・キュウの4頭の精子・卵子は将来的な人工授精に備えて死後も保存されている。
イルカ・クジラのショーは『マリンライブ』と呼ばれる。BGM主体でMCを使わないのが特徴である。ライブ映像をステージ中央の大型モニターに映し出しながら進行し、トレーナーと海獣たちの息の合ったスピーディな演出が見もの。このBGMを収録したオリジナルのCDが園内・ECサイトで販売されている。入場チケットのみで見れる通常定期公演「Smiles」、年末年始・GW・夏休み等ナイトアドベンチャー期のみ行われる有料ナイトマリンライブ「Loves」がある。
以前、『アシカライブ』と呼ばれ、寸劇仕立てで行われていたアシカのショーは、現在『アニマルアクション』というショーの一部になっている。このライブには他の種類の動物も多く出演し、色々な動きを見せるライブである。こちらもBGM主体でMCを使わず、トレーナーのジェスチャーパフォーマンスで進める形となっている。
アドベンチャーワールドのゴールデンウィークと夏休み期間の見どころは、夜間営業時間帯に行なわれるこのイベントである。前座を含めて約1時間弱のこのライブは2006年ゴールデンウィークにはオープン以来の観客で賑わい、新聞などで報道された。イルカ・クジラ・アシカ・その他の海獣たちがフル登場し最大10名以上のトレーナーが出演する。そこでは、トレーナーと動物たちが日ごろからコミュニケーションを取りあい練習を積んできた成果を存分に見ることができる。
2年制の野生動物管理学科と1年制の野生動物短期科がある。 アドベンチャーワールド敷地内にあり、直接飼育員から毎日のようにパーク内で動物の専門実習を受けられる日本唯一の施設である。
現場での実習の他教室では、基礎獣医学、基礎畜産学、生物学、動物園学等を学ぶ。
動物の専門知識の他、英会話、ビジネスマナー、実務コンピュータ、接遇話法、ズーマネジメント等の授業が受けられる。 卒業年には選んだパーク内の動物についてそれぞれのテーマで卒業研究を行なうことができる。
年に一度はアメリカやオーストラリアでのAWS動物学院海外研修旅行があり、現地の動物飼育現場や野生動物について学ぶ。
その他、各分野から専門家を国内外から招き、特別講演などもある。
卒業生はアドベンチャーワールドを始め、日本全国の動物飼育現場などで活躍している。 | [
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"paragraph_id": 8,
"tag": "p",
"text": "事前予約すれば、キリンやサイなど様々な動物とふれあったり、ライオンなど肉食動物を見学するなど、様々なツアーに参加することができる。 また、ツアーに参加しなくても、サファリの草食動物ゾーンで自動販売機で有料のエサを購入すれば、キリン、ムフロン、ラクダ、エミュー、カンガルーなどにエサを与えることができる。また、指定時間に当該場所に行けば、予約なしでアフリカゾウ、サイ、ライオンへのエサやりイベント(有料)にも参加できる。",
"title": "動物園"
},
{
"paragraph_id": 9,
"tag": "p",
"text": "夜間営業期間中には「ナイトサファリツアー」もある。",
"title": "動物園"
},
{
"paragraph_id": 10,
"tag": "p",
"text": "ふれあい広場だけでも小規模な動物園と同程度規模があり、人間が歩く部分にマーラ、シカ、クジャク、アヒルなどが放されていて、エサを与えたり(有料)ふれあいを楽しむことが出来る。また、柵の中にいるケープペンギンやカピバラなどの動物も、非常に近い距離で見ることが出来る。",
"title": "動物園"
},
{
"paragraph_id": 11,
"tag": "p",
"text": "アドベンチャーワールドは、中国成都市の成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地日本支部として活動している。同基地との協力で進められているジャイアントパンダの繁殖研究事業(ブリーディングローン)では、2018年9月までに17頭の繁殖実績があり、2017年6月までに15頭育成している。これは、出産頭数、成長した子供の数、ともに中国本土を除けば世界最多である。また、中国国内以外で、双子のジャイアントパンダを両方とも育てることに成功した初めての施設である(2010年9月7日に、アドベンチャーワールドと同じく、成都大熊猫繁育研究基地と提携しているスペインのマドリード動物園で双子のジャイアントパンダが生まれた。この2頭は2011年1月10日現在、無事に生育している)。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
"paragraph_id": 12,
"tag": "p",
"text": "日本では、2021年8月18日現在、東京都恩賜上野動物園の4頭、神戸市立王子動物園の1頭、アドベンチャーワールドの4頭を合わせて9頭のジャイアントパンダが飼育されていて、アドベンチャーワールドでは屋根の無い空間で自由に過ごすジャイアントパンダを見ることもできる。希少動物センターPANDA LOVEとブリーディングセンターに分かれて暮らしている。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "なお、前述の通り、アドベンチャーワールドは成都大熊猫繁育研究基地の日本支部を兼ねているので、現在飼育されているジャイアントパンダは、子供も含めてすべて中国の成都大熊猫繁育研究基地本部の所有である。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "和歌山県警では、交通安全意識向上のため、2019年(令和元年)7月11日にジャイアントパンダの彩浜に「交通安全和歌山夢大使」を委嘱。彩浜は、ポスターやグッズに登場して交通安全を啓発した。2022年7月からは、「わかやま夏の交通安全運動」に合わせ、彩浜に変わって妹の楓浜が「交通安全和歌山夢大使」に就任した。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
"paragraph_id": 15,
"tag": "p",
"text": "また、白浜町では、このジャイアントパンダを最大の集客材料と位置づけており、白浜町役場には「パンダの町白浜」の掲示が行われている。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
"paragraph_id": 16,
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"text": "地元を走る特急くろしおに使用されていた381系にパンダシート(撮影用の席)が設置されていたり、2018年8月1日現在ジャイアントパンダのイラストが描かれた列車が運行されている。また、路線バスを運行する明光バスでは、ジャイアントパンダのイラストが描かれたバスを運行している(2010年10月9日現在、1台運行)。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
"paragraph_id": 17,
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"text": "【 】内は、アドベンチャーワールドで誕生したパンダの誕生順で、名前は全て2文字目を「浜」に統一している。1番目の良浜と6番目の生後すぐ死去したパンダを除き、永明は14頭の父親。永明には梅梅の双子の姉(蜀蘭、シューラン)との間で人工授精により、2002年に中国・蘭州動物園で生まれた子(蘭宝、ランバオ、雄)もいたが、2012年8月30日死去している。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
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"text": "※1 良浜は梅梅が中国で妊娠し日本で出産した子なので、永明との血縁関係は無い。 ※2 彩浜はNHK総合テレビで放送された『ファミリーヒストリー』でパンダの家系が紹介された。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
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"text": "(死去もしくは移送とは関係なく誕生順に記載)",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
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"text": "※幸浜の双子の弟は、2005年8月24日午前4時9分に誕生。出生時の体重が66gと非常に小さかったこともあり、翌8月25日午前2時27分に死去。わずか24時間にも満たない生涯であったが、AWでは愛浜と明浜をAW生まれの7頭目・8頭目と公式発表しており、名前はないもののこの亡き弟ジャイアントパンダは、AWで生まれた歴とした6頭目のジャイアントパンダである。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
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"text": "※2008年9月13日に生まれた双子の梅浜と永浜は、日本初の飼育下3世代目(梅梅-良浜-梅浜・永浜)のジャイアントパンダである。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
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"text": "※永明・良浜・梅梅の3頭には、2011年3月に仁坂吉伸和歌山県知事より「和歌山県勲功爵(くんこうしゃく=わかやまでナイト)」の称号が贈られている。和歌山電鐵貴志川線貴志駅のたま駅長に続いて2例目で、パンダの家族を増やしたことで和歌山県の魅力を全国に発信した功績をたたえてのものである。",
"title": "ジャイアントパンダの育成"
},
{
"paragraph_id": 23,
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"text": "イルカと泳げるスペシャルアトラクションがある。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 24,
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"text": "2009年10月20日、公式サイトにて、「10月13日にメスの赤ちゃんが誕生した」と発表され(生後2ヶ月の映像)、ミライと名付けられたが、2014年5月16日に死亡したため、現在は見られない。2013年にはオスの赤ちゃんが誕生した。2014年にオスのアークティクが肝癌で死亡したため、2015年3月に大阪市天王寺動物園よりホッキョクグマのゴーゴ(雄)の借入が決定した。",
"title": "水族館"
},
{
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"text": "ペンギンは海獣館、屋外展示場の二ヶ所に分けて8種類(エンペラーペンギン、キングペンギン、ジェンツーペンギン、アデリーペンギン、ヒゲペンギン、イワトビペンギン、ケープペンギン、フェアリーペンギン)・約470羽を飼育しており、世界有数の規模である。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 26,
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"text": "特にエンペラーペンギンについては、日本国内で飼育している施設がアドベンチャーワールドと名古屋港水族館のみで、さらに国内で唯一繁殖に成功している(世界的に見ても、エンペラーペンギンの孵化に成功したのはアドベンチャーワールド、アメリカ合衆国サンディエゴのシーワールド、中国大連市の老虎灘海洋公園極地館の3園館しかない)。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "2019年10月1日、公式サイトにて、「10月1日にエンペラーペンギンのヒナが孵化した」と発表された(同園で13例目の孵化である)。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 28,
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"text": "かつてはシャチのショーも有名であったが、2005年に最後の個体が死亡したため現在は行われていない。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 29,
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"text": "1978年にワールドサファリとして開業する5日前には、アメリカ・カリフォルニア州のマリンワールド・アフリカUSA(現シックス・フラッグス・ディスカバリー・キングダム)より「キアヌ」(メス・体長6m・体重3t)を搬入。当時のワールドサファリにはイルカをようやく調教できる程度の新人トレーナーしかおらず、同伴して来日したアメリカ人トレーナーが担当して開業初日からショーに出演した。キアヌが習得していた種目はまだ少なかったが、当時はイルカでさえも実物を見たことがない観客がほとんどであったため、キアヌの巨体とその一挙一動に歓声が上がった。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "ショー(マリンライブ)のほか、尾びれで客席に大量の水を飛ばす「海水のプレゼント」、ライブ終了後にシャチをライブプールに残し自由に観察できる「オルカウォッチング」、シャチをプールサイドに呼び寄せて解説する「オルカ教室」、プールサイドに上がってシャチに触ることができる「オルカ・ファーストコンタクト」などのコーナーがあった。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 31,
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"text": "2003年5月にはマリンライブの主力として活躍していた「ラン」(1990年にアイスランドより搬入)の妊娠が確認された。ランは2004年8月26日に出産したが、初産だったためか産まれた子を見るなり驚いて拒絶してしまい、さらに父親の「キュウ」(1997年に太地町より搬入)も興奮して攻撃を加えてしまったことで子は頭蓋骨骨折の重傷を負い、治療の甲斐なく2日後の8月28日午後1時20分に死亡した。また、ランも後を追うように同日の深夜に死亡し、キュウも9月18日に死亡した。2頭の死因は急性細菌感染症であった。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "その後は「ゴロー」(1985年に太地町より搬入したオス)の1頭だけが残っていたが、2005年1月18日に体調不良に陥り、1月21日午後9時20分に死亡した。この他、断続的に「ベンケイ」「ウシワカ」「ルカ」「アイ」という個体も飼育されていた。末期に飼育されていたルカ・ゴロー・ラン・キュウの4頭の精子・卵子は将来的な人工授精に備えて死後も保存されている。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "イルカ・クジラのショーは『マリンライブ』と呼ばれる。BGM主体でMCを使わないのが特徴である。ライブ映像をステージ中央の大型モニターに映し出しながら進行し、トレーナーと海獣たちの息の合ったスピーディな演出が見もの。このBGMを収録したオリジナルのCDが園内・ECサイトで販売されている。入場チケットのみで見れる通常定期公演「Smiles」、年末年始・GW・夏休み等ナイトアドベンチャー期のみ行われる有料ナイトマリンライブ「Loves」がある。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "以前、『アシカライブ』と呼ばれ、寸劇仕立てで行われていたアシカのショーは、現在『アニマルアクション』というショーの一部になっている。このライブには他の種類の動物も多く出演し、色々な動きを見せるライブである。こちらもBGM主体でMCを使わず、トレーナーのジェスチャーパフォーマンスで進める形となっている。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "アドベンチャーワールドのゴールデンウィークと夏休み期間の見どころは、夜間営業時間帯に行なわれるこのイベントである。前座を含めて約1時間弱のこのライブは2006年ゴールデンウィークにはオープン以来の観客で賑わい、新聞などで報道された。イルカ・クジラ・アシカ・その他の海獣たちがフル登場し最大10名以上のトレーナーが出演する。そこでは、トレーナーと動物たちが日ごろからコミュニケーションを取りあい練習を積んできた成果を存分に見ることができる。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "2年制の野生動物管理学科と1年制の野生動物短期科がある。 アドベンチャーワールド敷地内にあり、直接飼育員から毎日のようにパーク内で動物の専門実習を受けられる日本唯一の施設である。",
"title": "水族館"
},
{
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"tag": "p",
"text": "現場での実習の他教室では、基礎獣医学、基礎畜産学、生物学、動物園学等を学ぶ。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 38,
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"text": "動物の専門知識の他、英会話、ビジネスマナー、実務コンピュータ、接遇話法、ズーマネジメント等の授業が受けられる。 卒業年には選んだパーク内の動物についてそれぞれのテーマで卒業研究を行なうことができる。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 39,
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"text": "年に一度はアメリカやオーストラリアでのAWS動物学院海外研修旅行があり、現地の動物飼育現場や野生動物について学ぶ。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 40,
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"text": "その他、各分野から専門家を国内外から招き、特別講演などもある。",
"title": "水族館"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "卒業生はアドベンチャーワールドを始め、日本全国の動物飼育現場などで活躍している。",
"title": "水族館"
}
] | アドベンチャーワールドは、和歌山県西牟婁郡白浜町にある動物園、水族館、遊園地が一体になったテーマパークである。 大阪府松原市に本社を置く株式会社丸末(不動産・建設業)の関連会社である株式会社アワーズ (AWS) が運営している。 1978年4月22日のオープン当初は「南紀白浜ワールドサファリ」という名称であった。 | {{右|{{Infobox mapframe|type=point}}}}
[[ファイル:Aws-nanki.jpg|thumb|350px|[[南紀白浜空港]]から見た全景]]
'''アドベンチャーワールド'''は、[[和歌山県]][[西牟婁郡]][[白浜町]]にある[[動物園]]、[[水族館]]、[[遊園地]]が一体になった[[テーマパーク]]である。
[[大阪府]][[松原市]]に[[本社]]を置く[[株式会社]][[丸末]]([[不動産業|不動産]]・[[建設業]])の関連会社である株式会社アワーズ (AWS) が運営している。
[[1978年]][[4月22日]]のオープン当初は「南紀白浜ワールドサファリ」という名称であった。
== 概要 ==
「人間(ひと)と動物と自然とのふれあい」をテーマに、日々新たなことに取り組み挑戦する。動物園・水族館・遊園地の3つを併せ持つ全国でも珍しいスタイルのテーマパークである。
園内には数々の施設があるが、[[ジャイアントパンダ]]の飼育展示、広大な敷地に放し飼いにされた動物たちの中をケニア号が進むサファリツアー、イルカやアシカのショー、食事タイムなど、自然界を代表する動物が総覧できる。
[[ゴールデンウィーク]]や[[夏休み]]期間中には夜間営業も行われており、昼間とは違う動物たちの姿を見ることができる。また、夜間営業中は夜間感動ののイルカショー「LOVESナイトマリンライブ」が開催され花火が打ち上げられるなど、昼間のショーとはまた違った趣向で楽しめる。
パーク内では動物をテーマにしたレストランやカフェがあり、園内の動物たちや白浜半島にちなんだ土産物も多数販売されている。子供たちだけでなく大人でも楽しめるイベントや学術的なツアーもあり、2〜3世代のファミリー・カップル・夫婦などが楽しむ姿の目立つ施設である。
== 沿革 ==
*1977年 - 株式会社ワールドサファリ設立。
*1978年4月22日 - 動物園と水族館を合わせたレジャー施設「南紀白浜ワールドサファリ」として開園。
*1979年 - 遊園地施設を導入、日本動物園水族館協会加盟。
*1983年 - 「アドベンチャーワールド」に改名。
*1986年 - 日本博物館協会加盟。
*1988年 - 成都動物園よりジャイアントパンダ2頭を導入。
*1990年 - 株式会社アドベンチャーワールド設立。
*2000年 - ワールドサファリとアドベンチャーワールドを合併しアワーズに社名変更。
*2020年5月 - [[みさき公園]]([[大阪府]][[泉南郡]][[岬町]])内の動物園と水族館が3月31日で閉園したことに伴って、園内で飼育されていた動物の受け入れを開始<ref name="misaki" />。
*2021年2月24日 - みさき公園からの動物の受け入れを完了。受け入れた動物は37種(およそ300頭)<ref name="misaki">[https://news.yahoo.co.jp/articles/16330a93f38aec17fbc2717e0f276fc997215b6d アドベンチャーワールド「みさき公園」からの動物受け入れ完了]-THE PAGE 2021年2月25日</ref>で、閉園の時点で飼育されていた動物の総数(およそ450頭)の2/3に相当する。
*2022年11月11日 - 鳥インフルエンザ発生。同月25日営業再開。
== 動物園 ==
{{動物園
|名称=アドベンチャーワールド<br />ADVENTURE WORLD
|画像=[[ファイル:NankiShirahamaAdventureWorld_giraffe.JPG|240px|]]
|正式名称=
|愛称=
|前身=
|専門分野=[[サファリパーク]]・[[ジャイアントパンダ]]の繁殖
|事業主体=民間
|管理運営=株式会社アワーズ
|開園=1978年
|所在地郵便番号=
|所在地=
}}
*サファリワールド - 肉食動物ゾーン、草食動物ゾーンのツアー
*パンダラブ - ジャイアントパンダの展示施設
*ブリーディングセンター - ジャイアントパンダの繁殖施設
*[[犬|わんわん]]ガーデン‐イエイヌ
*ふれあい広場 - [[コビトカバ]]、カピバラ、小型サル、[[チンパンジー]]、家禽、インコなどがいる。
*ふれあいの里 Red Wood Images
*[[フラミンゴ]]広場 - [[フラミンゴ]]の他に[[レッサーパンダ]]もいる。
*ゾウふれあい広場 - [[アジアゾウ]]がいる。
*HORSE CAMP‐ウマ、猛禽類
=== サファリゾーン&ナイトサファリ ===
広大なサファリゾーンでは、1周約1500m(約25分)の[[トレーラーバス|列車型牽引バス]]「ケニア号」・1人〜3人乗りの[[自転車]]・[[2階建てバス]]・ゴルフ用カートや[[ジープ]]などの乗物を使って周遊する。ケニア号以外はすべてオプションであり、窓口で料金を支払う必要がある。徒歩でも1.5kmほどのコースを自由に散策することができる。ただし[[ライオン]]や[[クマ]]などの猛獣ゾーンへはゲートがあり、徒歩・自転車・カートでの立ち入りができない。
事前予約すれば、キリンやサイなど様々な動物とふれあったり、ライオンなど肉食動物を見学するなど、様々なツアーに参加することができる。
また、ツアーに参加しなくても、サファリの草食動物ゾーンで自動販売機で有料のエサを購入すれば、[[キリン]]、[[ムフロン]]、[[ラクダ]]、[[エミュー]]、[[カンガルー]]などにエサを与えることができる。また、指定時間に当該場所に行けば、予約なしで[[アフリカゾウ]]、[[サイ]]、[[ライオン]]へのエサやりイベント(有料)にも参加できる。
夜間営業期間中には「ナイトサファリツアー」もある。
=== ふれあい広場 ===
ふれあい広場だけでも小規模な動物園と同程度規模があり、人間が歩く部分に[[マーラ (動物)|マーラ]]、[[シカ]]、[[クジャク]]、[[アヒル]]などが放されていて、エサを与えたり(有料)ふれあいを楽しむことが出来る。また、柵の中にいる[[ケープペンギン]]や[[カピバラ]]などの動物も、非常に近い距離で見ることが出来る。
== ジャイアントパンダの育成 ==
<!-- [[ファイル:NankiShirahamaAdventureWorld_giantpanda.JPG|thumb|240px|[[ジャイアントパンダ]]の愛浜と明浜]]-->
[[File:Japan Wakayama-prefecture Shirahama-town AdventureWorld GiantPanda Kaihin and Youhin.JPG|thumb|[[ジャイアントパンダ]]の海浜と陽浜]]
アドベンチャーワールドは、[[中華人民共和国|中国]][[成都市]]の[[成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地]]日本支部として活動している<ref>[http://cybozushiki.cybozu.co.jp/?p=5046 日本一パンダが生まれるアドベンチャーワールドに「専門家はいらない」。飼育員のチームワーク術] - サイボウズ式(2012年11月9日)</ref>。同基地との協力で進められている[[ジャイアントパンダ]]の繁殖研究事業([[ブリーディングローン]])では、2018年9月までに17頭の繁殖実績があり、2017年6月までに15頭育成している<ref>[http://pandababy-aws.com/breeding/research.html アドベンチャーワールドの繁殖研究]</ref>。これは、出産頭数、成長した子供の数、ともに中国本土を除けば世界最多である。また、中国国内以外で、双子のジャイアントパンダを両方とも育てることに成功した初めての施設である(2010年9月7日に、アドベンチャーワールドと同じく、成都大熊猫繁育研究基地と提携しているスペインのマドリード動物園で双子のジャイアントパンダが生まれた。この2頭は2011年1月10日現在、無事に生育している)<ref>[http://www.panda.org.cn/yf/net_web/s2_2.html 大熊猫科研、繁育成果]</ref>。
日本では、2021年8月18日現在、[[東京都恩賜上野動物園]]の4頭、[[神戸市立王子動物園]]の1頭、アドベンチャーワールドの4頭を合わせて9頭のジャイアントパンダが飼育されていて、アドベンチャーワールドでは屋根の無い空間で自由に過ごすジャイアントパンダを見ることもできる。希少動物センターPANDA LOVEとブリーディングセンターに分かれて暮らしている。
<!--3頭一度に中国に帰ってしまったので、いったんコメントアウトします
中国本土以外の動物園で5頭も飼育されているのはここだけであり、これは世界一の規模である。-->
なお、前述の通り、アドベンチャーワールドは成都大熊猫繁育研究基地の日本支部を兼ねているので、現在飼育されているジャイアントパンダは、子供も含めて'''すべて'''中国の成都大熊猫繁育研究基地本部の所有である。
[[和歌山県警]]では、交通安全意識向上のため、[[2019年]](令和元年)7月11日にジャイアントパンダの彩浜に「交通安全和歌山夢大使」を委嘱。彩浜は、ポスターやグッズに登場して交通安全を啓発した。[[2022年]]7月からは、「わかやま夏の交通安全運動」に合わせ、彩浜に変わって妹の楓浜が「交通安全和歌山夢大使」に就任した<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sankei.com/article/20220714-6WLDHJZXNRJVPO32TBOPIDKSKM/ |title= パンダ楓浜、交通安全夢大使に 白浜AW |publisher= [[産経新聞]]|date=2022-07-14 |accessdate=2022-07-14}}</ref>。
また、[[白浜町]]では、このジャイアントパンダを最大の集客材料と位置づけており、白浜町役場には[[:ファイル:Shiramamamatiyakuba.jpg|「パンダの町白浜」の掲示]]が行われている。
地元を走る特急[[くろしお (列車)|くろしお]]に使用されていた381系にパンダシート(撮影用の席)が設置されていたり、2018年8月1日現在ジャイアントパンダのイラストが描かれた列車が運行されている<ref>[[JR西日本287系電車|287系]]のパンダくろしお編成である</ref>。また、路線バスを運行する[[明光バス]]では、ジャイアントパンダのイラストが描かれたバスを運行している(2010年10月9日現在、1台運行)。
【 】内は、アドベンチャーワールドで誕生したパンダの誕生順で、名前は全て2文字目を「浜」に統一している。1番目の良浜と6番目の生後すぐ死去したパンダを除き、永明は14頭の父親。永明には梅梅の双子の姉(蜀蘭、シューラン)との間で人工授精により、2002年に中国・[[蘭州市|蘭州]]動物園で生まれた子(蘭宝、ランバオ、雄)もいたが、2012年8月30日死去している。
=== 現在飼育されているジャイアントパンダ ===
*良浜(ラウヒン)雌・2000年9月6日アドベンチャーワールドにて誕生【1】(父:哈藍、母:梅梅)
*[[結浜]](ユイヒン)雌・2016年9月18日アドベンチャーワールドにて誕生【16】(父:永明、母:良浜)
*彩浜(サイヒン)雌・2018年8月14日アドベンチャーワールドにて誕生【17】(父:永明、母:良浜)双子で生まれたが、1頭目出産から約29時間後の16日未明に2頭目の死産が判明<ref>[https://www.nikkansports.com/general/news/201808160000862.html 和歌山の赤ちゃんパンダ授乳確認 双子の1頭は死産][[日刊スポーツ]]2018年8月16日閲覧</ref><ref>[https://www.sankei.com/article/20180818-QPYG54WJDZMH7PJHVKDBMPJNGI/ 赤ちゃんパンダ授乳2回確認 和歌山・アドベンチャーワールド][[産経新聞]]2018年8月18日閲覧</ref>。
*楓浜(フウヒン)雌・2020年11月22日アドベンチャーワールドにて誕生【18】(父:永明、母:良浜)性別は雄と判定されたが、生後1か月となる12月22日に雌に訂正。24日から来年2月23日まで名前を募集<ref>[https://news.yahoo.co.jp/articles/417f9eb7e5a792a22332c3a4d3055b34749ad878 和歌山パンダの赤ちゃん 性別は「雌」でした アドベンチャーワールドが発表]YAHOO!JAPANニュース2020年12月22日閲覧</ref>。2021年3月2日、3つの名前候補(「光浜(コウヒン)」「咲浜(ショウヒン)」「楓浜(フウヒン)」)を発表し、翌々日の4日から11日までインターネットで投票を実施。3月18日に最も得票数の多かった楓浜に決定した<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000275.000040302.html 「パンダの赤ちゃん名前募集」3つの名前候補発表!!「光浜(こうひん)」「咲浜(しょうひん)」「楓浜(ふうひん)」 「パンダの赤ちゃん名前投票」を開催:2021年3月4日㈭~11日㈭]PR TIMES2021年3月2日閲覧</ref><ref>{{Cite web|和書|title=パンダの赤ちゃん、名前は楓浜(ふうひん)に…主婦「響きがかわいい」 : 社会 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20210318-OYT1T50141/|website=読売新聞オンライン|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-18|language=ja}}</ref>。
※1 良浜は梅梅が中国で妊娠し日本で出産した子なので、永明との血縁関係は無い。
※2 彩浜は[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送された『[[ファミリーヒストリー]]』でパンダの家系が紹介された。
=== 過去飼育されていたジャイアントパンダ ===
(死去もしくは移送とは関係なく誕生順に記載)
*辰辰(シンシン) 雄・一時借用、1988年9月19日からアドベンチャーワールド(以下、'''AW''')で飼育(1989年1月10日に中国へ帰国)
*慶慶(ケイケイ) 雌・一時借用、1988年9月19日からAWで飼育(1989年1月10日に中国へ帰国)
*蓉浜(ヨウヒン) 雌・1992年9月4日成都動物園にて誕生(1997年7月17日にAWにて死去)
*永明(エイメイ)雄・1992年9月14日[[北京動物園]](中国)にて誕生、1994年9月6日からAWで飼育(2023年2月22日(水)に成都へ)
*梅梅(メイメイ)雌・1994年8月31日成都大熊猫繁育研究基地(中国)にて誕生、2000年7月7日からAWで飼育<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN77747WN77PXLB004.html |title=和歌山)七夕の贈り物 パンダの永明と良浜 |date=2020-07-08 |accessdate=2020-07-08 |publisher=朝日新聞デジタル}}</ref>(2008年10月15日(水)午前5時29分にAWにて死去)
*雄浜(ユウヒン) 雄・2001年12月17日AWにて誕生【2】(父:永明、母:梅梅、2004年6月21日に成都大熊猫繁育研究基地本部(以下、'''成都''')へ)
*隆浜(リュウヒン)雄・2003年9月8日AWにて誕生【3】(父:永明、母:梅梅、2007年10月27日に成都へ)
*秋浜(シュウヒン)雄・2003年9月8日AWにて誕生【4】(同上/隆浜と双子、2007年10月27日に成都へ)
*幸浜(コウヒン)雄・2005年8月23日AWにて誕生【5】(父:永明、母:梅梅、2010年3月15日に成都へ)
*(名前なし) 雄・2005年8月24日AWにて誕生【6】(父:永明、母:梅梅、2005年8月25日に死去:幸浜と双子※)
*愛浜(アイヒン)雌・2006年12月23日AWにて誕生【7】(父:永明、母:梅梅、2012年12月14日に成都へ)
*明浜(メイヒン)雄・2006年12月23日AWにて誕生【8】(同上/愛浜と双子、2012年12月14日に成都へ、2014年に柳州(リュウシュウ)動物園へ<ref>[http://www.pandafoundation.com/jp/news/pandanew/2014-04-09/2400.html 柳州動物園に成都パンダがやって来ました——明浜の運動場初体験] 成都ジャイアントパンダ繁殖研究基金会(2014-04-08)</ref>)
*梅浜(メイヒン)雌・2008年9月13日AWにて誕生【9】(父:永明、母:良浜、2013年2月26日に成都へ)
*永浜(エイヒン)雄・2008年9月13日AWにて誕生【10】(同上/梅浜と双子、2013年2月26日に成都へ)
*海浜(カイヒン)雄・2010年8月11日AWにて誕生【11】(父:永明、母:良浜、2017年6月5日に成都へ)
*陽浜(ヨウヒン)雌・2010年8月11日AWにて誕生【12】(同上/海浜と双子、2017年6月5日に成都へ)
*[[優浜]](ユウヒン)雌・2012年8月10日AWにて誕生【13】(父:永明、母:良浜、双子だったがもう1頭は死産、2017年6月5日に成都へ)
*[[桜浜]](オウヒン)雌・2014年12月2日アドベンチャーワールドにて誕生【14】(父:永明、母:良浜、双子の姉、2023年2月22日に成都へ)
*[[桃浜]](トウヒン)雌・2014年12月2日アドベンチャーワールドにて誕生【15】(父:永明、母:良浜、双子の妹、2023年2月22日に成都へ)
※幸浜の双子の弟は、[[2005年]][[8月24日]]午前4時9分に誕生。出生時の体重が66gと非常に小さかったこともあり、翌8月25日午前2時27分に死去。わずか24時間にも満たない生涯であったが、AWでは愛浜と明浜をAW生まれの7頭目・8頭目と公式発表しており、名前はないもののこの亡き弟ジャイアントパンダは、AWで生まれた歴とした6頭目のジャイアントパンダである。
※2008年9月13日に生まれた双子の梅浜と永浜は、日本初の飼育下3世代目(梅梅-良浜-梅浜・永浜)のジャイアントパンダである。
※永明・良浜・梅梅の3頭には、2011年3月に[[仁坂吉伸]]和歌山県知事より「和歌山県勲功爵(くんこうしゃく=わかやまでナイト)」の称号が贈られている。[[和歌山電鐵]][[和歌山電鐵貴志川線|貴志川線]][[貴志駅]]の[[たま (猫の駅長)|たま駅長]]に続いて2例目で、パンダの家族を増やしたことで和歌山県の魅力を全国に発信した功績をたたえてのものである<ref>「[https://web.archive.org/web/20110307151336/http://www.asahi.com/national/update/0304/OSK201103040200.html パンダにナイトの称号 たま駅長に続き第2号 和歌山県]」 asahi.com([[朝日新聞]])2011年3月6日。(2011年3月7日のアーカイブ)</ref>。
== 水族館 ==
{{水族館
|名称=アドベンチャーワールド<br />ADVENTURE WORLD
|画像=[[ファイル:NankiShirahamaAdventureWorld.JPG|240px|]]
|正式名称=
|愛称=
|前身=
|専門分野=[[水族館]]
|事業主体=民間
|管理運営=株式会社アワーズ
|開園=1978年
|所在地郵便番号=
|所在地=
}}
*[http://www.aws-s.com/seazoo/index.html 海獣館] - 屋内型水族館で[[ホッキョクグマ]]、[[ペンギン]]、[[オットセイ]]、[[アザラシ]]などの展示
*ビッグオーシャン - [[イルカ]]や[[クジラ]]のショーなど
*マリンウェーブ - [[イルカ]]とのふれあいイベントなど
*アニマルランド - [[アシカ]]や[[カワウソ]]のショーなど
イルカと泳げるスペシャルアトラクションがある。
=== ホッキョクグマの飼育 ===
2009年10月20日、[http://aws-s.com/topics/detail.php?id=top001&c=3 公式サイトにて、]「10月13日にメスの赤ちゃんが誕生した」と発表され([http://www.youtube.com/watch?v=gyWybF1qu0s 生後2ヶ月の映像])、ミライと名付けられた<ref>[http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=177608 赤ちゃん同じ日に誕生 ホッキョクグマとペンギン]AGARA紀伊民報 2009年10月23日</ref>が、2014年5月16日に死亡したため、現在は見られない。2013年にはオスの赤ちゃんが誕生した。2014年にオスのアークティクが肝癌で死亡したため、2015年3月に[[大阪市天王寺動物園]]より[[ホッキョクグマ]]の[[ゴーゴ (ホッキョクグマ)|ゴーゴ]](雄)の借入が決定した。
=== ペンギンの飼育 ===
[[ファイル:NankiShirahamaAdventureWorld_penguin.JPG|thumb|240px|[[エンペラーペンギン]]と[[アデリーペンギン]]]]
[[ペンギン]]は[http://www.aws-s.com/seazoo/index.html 海獣館]、屋外展示場の二ヶ所に分けて8種類([[エンペラーペンギン]]、[[キングペンギン]]、[[ジェンツーペンギン]]、[[アデリーペンギン]]、[[ヒゲペンギン]]、[[イワトビペンギン]]、[[ケープペンギン]]、[[フェアリーペンギン]])・約470羽を飼育しており、世界有数の規模である。
特に[[エンペラーペンギン]]については、日本国内で飼育している施設がアドベンチャーワールドと[[名古屋港水族館]]のみで、さらに国内で唯一繁殖に成功している(世界的に見ても、[[エンペラーペンギン]]の孵化に成功したのはアドベンチャーワールド、[[アメリカ合衆国]][[サンディエゴ]]の[[シーワールド]]、[[中国]][[大連市]]の[[老虎灘海洋公園極地館]]<ref>「[http://www.xinhua.jp/socioeconomy/politics_economics_society/265830/ 中国初 コウテイペンギンの繁殖に成功=大連の動物園]」([[毎日中国経済]])2010年11月26日。</ref>の3園館しかない)。
2019年10月1日、公式サイトにて、「10月1日に[[エンペラーペンギン]]のヒナが孵化した」と発表された(同園で13例目の孵化である)<ref>[http://aws-s.com/topics/detail.php?id=top362 2013年10月17日、エンペラーペンギンの赤ちゃんが誕生しました!]</ref>。
=== シャチの飼育 ===
かつては[[シャチ]]のショーも有名であったが、[[2005年]]に最後の個体が死亡したため現在は行われていない。
[[1978年]]にワールドサファリとして開業する5日前には、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア州]]のマリンワールド・アフリカUSA(現[[シックス・フラッグス|シックス・フラッグス・ディスカバリー・キングダム]])より「キアヌ」(メス・体長6m・体重3t)を搬入。当時のワールドサファリには[[イルカ]]をようやく調教できる程度の新人トレーナーしかおらず、同伴して来日したアメリカ人トレーナーが担当して開業初日からショーに出演した。キアヌが習得していた種目はまだ少なかったが、当時はイルカでさえも実物を見たことがない観客がほとんどであったため、キアヌの巨体とその一挙一動に歓声が上がった<ref name="谷口">谷口一久・大出庸子『いつか、オルカ』アワーズ 2007年 ISBN 978-4-9903598-1-2</ref>。
ショー(マリンライブ)のほか、尾びれで客席に大量の水を飛ばす「海水のプレゼント」、ライブ終了後にシャチをライブプールに残し自由に観察できる「オルカウォッチング」、シャチをプールサイドに呼び寄せて解説する「オルカ教室」、プールサイドに上がってシャチに触ることができる「オルカ・ファーストコンタクト」などのコーナーがあった<ref name="谷口"/>。
[[2003年]][[5月]]にはマリンライブの主力として活躍していた「ラン<ref>[[鴨川シーワールド]]で2006年に生まれたシャチの「ラン」とは別個体である。</ref>」([[1990年]]に[[アイスランド]]より搬入)の妊娠が確認された。ランは[[2004年]][[8月26日]]に出産したが、初産だったためか産まれた子を見るなり驚いて拒絶してしまい、さらに父親の「キュウ」([[1997年]]に[[太地町]]より搬入)も興奮して攻撃を加えてしまったことで子は頭蓋骨骨折の重傷を負い、治療の甲斐なく2日後の[[8月28日]]午後1時20分に死亡した。また、ランも後を追うように同日の深夜に死亡し、キュウも[[9月18日]]に死亡した。2頭の死因は急性細菌感染症であった<ref name="谷口"/>。
その後は「ゴロー」([[1985年]]に太地町より搬入したオス)の1頭だけが残っていたが、2005年[[1月18日]]に体調不良に陥り、[[1月21日]]午後9時20分に死亡した<ref name="谷口"/>。この他、断続的に「ベンケイ」「ウシワカ」「ルカ」「アイ」という個体も飼育されていた。末期に飼育されていたルカ・ゴロー・ラン・キュウの4頭の精子・卵子は将来的な人工授精に備えて死後も保存されている<ref name="谷口"/>。
=== マリンライブ&アニマルアクション ===
イルカ・クジラの[[ショー]]は『マリンライブ』と呼ばれる。BGM主体で[[司会|MC]]を使わないのが特徴である。[[中継方式|ライブ]]映像をステージ中央の大型モニターに映し出しながら進行し、トレーナーと[[海獣]]たちの息の合ったスピーディな演出が見もの。このBGMを収録したオリジナルの[[コンパクトディスク|CD]]が園内・[[ECサイト]]で販売されている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=アドベンチャーワールド公式Your Smile シングルCD: 生活雑貨・インテリア雑貨オンラインショップ |url=https://www.ec-aws.com/shop/g/g2010717700207/ |website=www.ec-aws.com |access-date=2022-09-18}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=アドベンチャーワールド公式Shine on you シングルCD: 生活雑貨・インテリア雑貨オンラインショップ |url=https://www.ec-aws.com/shop/g/g2010722410009/ |website=www.ec-aws.com |access-date=2022-09-18}}</ref>。入場チケットのみで見れる通常定期公演「'''Smiles'''」、年末年始・GW・夏休み等ナイトアドベンチャー期のみ行われる有料ナイトマリンライブ「'''Loves'''」がある。
以前、『アシカライブ』と呼ばれ、寸劇仕立てで行われていたアシカのショーは、現在『'''アニマルアクション'''』というショーの一部になっている。このライブには他の種類の動物も多く出演し、色々な動きを見せるライブである。こちらもBGM主体で[[司会|MC]]を使わず、トレーナーのジェスチャーパフォーマンスで進める形となっている。
=== 光と音のパフォーマンス ナイトマリンライブ ===
アドベンチャーワールドの[[ゴールデンウィーク]]と夏休み期間の見どころは、夜間営業時間帯に行なわれるこのイベントである。前座を含めて約1時間弱のこのライブは[[2006年]][[ゴールデンウィーク]]にはオープン以来の観客で賑わい、新聞などで報道された。イルカ・クジラ・アシカ・その他の海獣たちがフル登場し最大10名以上のトレーナーが出演する。そこでは、トレーナーと動物たちが日ごろからコミュニケーションを取りあい練習を積んできた成果を存分に見ることができる。
=== AWS動物学院 ===
:2000年に開設されたアドベンチャーワールド付属の飼育員養成の[[教育施設]]。
2年制の[http://aws-s.com/aaa/kannrika-gakusyuu.html 野生動物管理学科]と1年制の[http://aws-s.com/aaa/tannkika.html 野生動物短期科]がある。
[http://aws-s.com/ アドベンチャーワールド]敷地内にあり、直接飼育員から毎日のようにパーク内で動物の専門実習を受けられる日本唯一の施設である。
現場での実習の他教室では、基礎獣医学、基礎畜産学、生物学、動物園学等を学ぶ。
動物の専門知識の他、英会話、ビジネスマナー、実務コンピュータ、接遇話法、ズーマネジメント等の授業が受けられる。
卒業年には選んだパーク内の動物についてそれぞれのテーマで卒業研究を行なうことができる。
年に一度はアメリカやオーストラリアでの[http://aws-s.com/aaa/kaigai.html AWS動物学院海外研修旅行]があり、現地の動物飼育現場や野生動物について学ぶ。
その他、各分野から専門家を国内外から招き、特別講演などもある。
卒業生はアドベンチャーワールドを始め、日本全国の動物飼育現場などで活躍している。
== 遊園地(プレイゾーン) ==
*[[観覧車]]、[[ローラーコースター]]など。土休日やピーク期にはフリーパスが発売されるが、それ以外の平日では1回300~700円程度のチケットを個別に購入する必要がある。また、乗り物自体があまり稼働していないこともある。
{{節スタブ}}
== その他施設 ==
*飲食店・ギフトショップ
*ファミリー広場 - 猛禽類がいる。また、[[ラクダ]]や[[ポニー]]に乗れる。ラクダは小学生以上、ポニーは身長135cm以下の子供が対象。
== 交通 ==
*[[白浜駅]]から[[明光バス]]で約10分。
*[[大阪駅]]より高速バス。
*[[南紀白浜空港]]から[[タクシー]]で約10分、路線バスも運行。自転車で1時間弱。
== 歴代CMイメージソング ==
*[[五十嵐浩晃]] - 1991年「[[街は恋人|'''CHANCE MAKER''']]」、1992年「'''はるかなる国へ'''」と2年連続でCMイメージソングを歌唱。
*[[森川美穂]] - 1993年、開園15周年記念のCMイメージソング「'''ナチュラルで行こう'''」を歌唱。
*宮川真奈美 - CMイメージソング「'''Always Together'''」<ref>{{Cite web|和書|title=アドベンチャーワールド公式Always Together シングルCD: 生活雑貨・インテリア雑貨オンラインショップ |url=https://www.ec-aws.com/shop/g/g2010717700214/ |website=www.ec-aws.com |access-date=2022-09-18}}</ref>を1996年から歌唱。2000年に後述「TRUE MY FRIEND」に交代になるも、2001年からは「TRUE MY FRIEND」と交互に2004年までの間使用され、2016年・2017年にはリバイバルで使用された。公式YouTubeには「いつも一緒に」のサブタイトルが冠され、オリジナル音源が公開されている<ref>{{Citation|title=アドベンチャーワールドオリジナルソング『Always Together (いつも一緒に)』|url=https://www.youtube.com/watch?v=UfG9ehZDK7Y|language=ja-JP|access-date=2022-09-17}}</ref>。
*川島郁子 - CMイメージソング「'''TRUE MY FRIEND'''」を2000年から歌唱。前述の「Always Together」と2004年まで交互にCMソングとして使用。
*高岡陽子 - CMイメージソング「'''Shine on you〜輝き続けて〜'''」<ref name=":1" />を2005年から2008年まで歌唱。2010年・2012年にはリバイバルで使用され、2014年・2017年には英語バージョンが流された。
<!--*[[田村直美]] - 二代目イメージソングを手がけていた歌手{{要出典|date=2020年3月}}(当時[[ユニバーサルミュージック (日本)|ポリドールレコード]]に所属)。-->
*[[鎌田純子]] - CMイメージソング「'''Thank you all〜いつもありがとう〜'''」<ref>{{Cite web|和書|title=アドベンチャーワールド公式Thank you all シングルCD: 生活雑貨・インテリア雑貨オンラインショップ |url=https://www.ec-aws.com/shop/g/g4582223360087/ |website=www.ec-aws.com |access-date=2022-09-18}}</ref>を2008年から歌唱。2009年夏に初来園、夏の夜間営業最終日の「ナイトマリンライブ」フィナーレが開催される中、ショーとライブのコラボレーションを行った。2009年には「Always Together」以来制作されたアップテンポRemixがCMで流された。
*[[SANISAI]] - CMイメージソング「'''YOUR SMILE〜笑顔をみせて〜'''」<ref name=":0" />を2017年から歌唱。「マリンライブ」にて使用されている。
*[[平原綾香]]
**CMイメージソング「'''[[My Classics 3|ラヴ・ラプソディー]]'''」<ref>{{Cite web|和書|title=アドベンチャーワールド公式ラブ・ラプソディ シングルCD: 生活雑貨・インテリア雑貨オンラインショップ |url=https://www.ec-aws.com/shop/g/g4582114156836/ |website=www.ec-aws.com |access-date=2022-09-18}}</ref>を2010年から2013年まで歌唱。2016年・2017年にはリバイバルで使用された。2015年ナイトマリンライブ「LOVES」にサプライズゲストとして登場、「ラヴ・ラプソディー」を歌唱。
**[[2018年]]、CMイメージソング「'''[[Dear Music 〜15th Anniversary Album〜|Smile Song]]'''」、開園40周年記念CMイメージソング「'''[[はじめまして (平原綾香のアルバム)|5つの魔法]]'''」<ref>{{Cite web|和書|title=アドベンチャーワールド公式5つの魔法 シングルCD: 生活雑貨・インテリア雑貨オンラインショップ |url=https://www.ec-aws.com/shop/g/g4988031271117/ |website=www.ec-aws.com |access-date=2022-09-18}}</ref>を作詞・作曲・歌唱。平原は同年[[8月11日]]に開催された「40th Anniversary LOVES スペシャルナイト」と[[12月22日]]に開催された「40th Anniversary LOVES クリスマススペシャルナイト」にサプライズ出演。それぞれ「5つの魔法」「[[Jupiter (平原綾香の曲)|Jupiter]]」他4曲を歌唱、ショーとライブのコラボレーションを行った。公式YouTubeに「5つの魔法」の音源を使用したプロモーション映像2編が公開されている<ref>{{Citation|title=アドベンチャーワールドプロモーション映像 「愛があれば大丈夫」編|url=https://www.youtube.com/watch?v=4MVl_hSj_IU|language=ja-JP|access-date=2022-09-17}}</ref><ref>{{Citation|title=アドベンチャーワールドプロモーション映像「ともに未来へ」編|url=https://www.youtube.com/watch?v=k__KrQ5hgio|language=ja-JP|access-date=2022-09-17}}</ref>。
== 関連項目 ==
{{Commonscat}}
*山本末男 - 運営会社・株式会社アワーズの創業者・現会長。同施設の発起人の一人でもある。
*[[大末建設]] - 上記の人物と創業者を同じくする中堅建設会社。[[双日]]・[[セコム]]等、[[三菱UFJ銀行|旧UFJ銀行]]グループの支援下にあり、現在経営再建の途上。
*[[白浜町]]
*[[くじらの博物館]]
*[[和歌山マリーナシティ]]
*[[みさき公園]] - 園内で飼育されていた動物の大半を2020年度中に受け入れたのは、1957年4月1日の開園当初から運営を続けてきた[[南海電気鉄道]]が、2020年3月31日付で運営から撤退したことによる。撤退後の2021年以降に、大阪府泉南郡岬町営の自然公園として再オープンの予定。
*[[かんさい情報ネットten!]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]])- 現在のスポンサー
*[[関西テレビ放送]] - 過去に天気予報のスポンサー(映像・BGM)になっていたことがある(現在はスポンサー枠を返上)。
*[[テレビ大阪]] - 過去にお天気情報のスポンサー(映像・BGM)になっていたことがある(~2010年3月31日)。
*[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]] - 天気予報のスポンサー(映像・BGM)になっている(水曜日の20時56分頃)。
*[[和歌山県の観光地]]
== 外部リンク ==
*[https://www.aws-s.com/ アドベンチャーワールド]
*{{Twitter|aws_official}}
*{{Facebook|adventureworld.official}}
*{{Instagram|adventureworld_official}}
*{{TikTok|adventureworldofficial}}
*{{YouTube|c=UCVEmpbL5VzfXsULPFeRsj4Q}}
*[https://www.marusue.com/ 株式会社丸末]
*[https://www.aws-s.com/aaa/ AWS動物学院]
*[https://scc36.com/ 島ヶ原カントリークラブ]
*[https://web.archive.org/web/20160518164410/http://haruka-chu.com/index.html 南紀白浜 アドベンチャーワールドnavi]{{リンク切れ|date=2022年1月}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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{{日本動物園水族館協会}}
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{{日本の水族館}}
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[[Category:日本の動物園]]
[[Category:日本の水族館]]
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[[Category:1978年開設の博物館]]
[[Category:白浜町の地理]] | 2003-03-15T11:47:56Z | 2023-11-07T09:46:31Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89 |
4,084 | 日本史の出来事一覧 | 日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上の主な出来事を年代順に記述する。
戦後の占領期(1945年(昭和20年) - 1952年(昭和27年))についてはGHQも参照。 | [
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"text": "戦後の占領期(1945年(昭和20年) - 1952年(昭和27年))についてはGHQも参照。",
"title": "現代"
}
] | 日本史の出来事一覧(にほんしのできごといちらん)では、日本の歴史上の主な出来事を年代順に記述する。 小学校学習指導要領に定める、「社会科」で取り上げるべき人物については、下線を引いた。 | {{複数の問題
| 未検証 = 2011-3
| 宣伝 = 2011-3
| 独自研究 = 2011-3
| 雑多な内容の箇条書き = 2021-10
| 精度 =2021-10
}}
'''日本史の出来事一覧'''(にほんしのできごといちらん)では、[[日本の歴史]]上の主な出来事を年代順に記述する。
*[[小学校]][[学習指導要領]]に定める、「[[社会 (教科)|社会科]]」で取り上げるべき人物については、<span style=decoration:underline;"><u>下線</u></span>を引いた。
== 古代 ==
=== 旧石器時代・縄文時代 ===
{{Main|日本列島の旧石器時代|縄文時代}}
*[[紀元前]]2万年頃 [[ホモ・サピエンス|現生人類]]が入植する。
*[[紀元前35世紀|紀元前3500年]]頃 [[三内丸山遺跡]]に定住型の大規模集落が形成される。
*[[紀元前15世紀|紀元前1500年]]頃 [[山形県]]の[[三崎山遺跡]]において青銅刀が使用される。
*[[紀元前10世紀|紀元前1000年]]頃 [[亀ヶ岡石器時代遺跡|亀ヶ岡遺跡]]などで[[遮光器]][[土器]]が盛んに作られる。
*[[紀元前660年]]頃 伝説によれば、初代天皇の[[神武天皇]]が即位。
=== 弥生時代 ===
{{Main|弥生時代|弥生時代の主な出来事}}
*[[紀元前1000年]]頃 [[菜畑遺跡]]や[[板付遺跡]]などで[[水耕栽培|水稲栽培]]が始まる。
*[[紀元前700年]]頃 [[福岡県]]の[[今川遺跡]]において[[遼寧式銅剣]]の鋒と茎から再加工されたと思われる銅鏃と銅鑿が製作される。
*[[紀元前300年]]頃 [[吉野ケ里遺跡]]に大規模な[[環濠集落]]が形成される。
*[[57年]] [[倭]][[奴国]]王、[[後漢]]に遣使し、[[光武帝]]から[[印綬]]を受ける。
*[[107年]] 倭[[伊都国|面土国]]王[[帥升]]、後漢に遣使。
*[[180年]]頃? [[倭国大乱]]が勃発。
*[[239年]] [[邪馬台国]]の女王<span style="text-decoration:underline;">[[卑弥呼]]</span>、[[魏 (三国)|魏]]に遣使し、[[明帝 (漢)|明帝]]から金印紫綬を受ける。
**同じ頃 [[邪馬台国]]と[[狗奴国]]の抗争。
*[[266年]] 邪馬台国の[[台与]]が[[西晋]]に遣使。
=== 古墳時代・飛鳥時代 ===
{{Main|古墳時代|飛鳥時代#年表}}
*[[4世紀]]中頃 [[ヤマト王権]]の成立?。
*[[369年]]<ref>銘文の「泰◾️四年」が東晋の[[太和 (東晋)|太和]]四年であるとした場合(詳細は[[七支刀#年紀考証|七支刀の年紀考証]]を参照)</ref> [[百済]]の[[近肖古王]]が倭王([[神功皇后]]?)に[[七支刀]]を献上する。
*[[391年]] - [[404年]] [[ヤマト王権]]による[[朝鮮半島]]侵攻(第一次[[倭・高句麗戦争]])。
*[[413年]] - [[5世紀]]末頃 しばしば[[南北朝時代 (中国)|中国南朝]]に遣使([[倭の五王]])。
*[[443年]]<ref>『[[古事記]]』の[[倭の五王#『古事記』『日本書紀』の紀年との対応関係|天皇崩年干支]]を基準とした[[允恭天皇|允恭]]5年</ref> [[允恭地震]]。
*[[456年]] 史料にて確認できる最初の[[安康天皇|天皇]][[暗殺]]([[眉輪王の変]])。
*[[463年]] [[吉備氏の乱]]。
*[[464年]]<ref>『[[日本書紀]]』では[[雄略天皇|雄略]]7年とする、異説あり</ref> 第二次[[倭・高句麗戦争]]。
*[[479年]] [[雄略天皇]]死後における王位継承戦争([[星川皇子の乱]])。
*[[6世紀]]初頃 [[継体天皇#仁徳系統断絶について|仁徳王統の断絶]]に起因する[[ヤマト王権]]の弱体化および一系列の内乱。
**[[512年]] [[伽耶]](任那)4県を[[百済]]に譲渡。
**[[527年]] [[磐井の乱]]。
**[[531年]] [[辛亥の変]]。
**[[534年]] [[武蔵国造の乱]]。
*[[538年]](一説に[[552年]]) [[百済]]の[[聖王 (百済)|聖王]]、[[仏像]]及び[[三蔵|経綸]]を献ず([[儒教]]伝来、[[仏教公伝]])。
*[[540年]] 伽耶(任那)問題で[[大伴金村]]失脚。
*552年 [[蘇我稲目]]と[[物部尾輿]]が[[仏教公伝|崇仏争論]]を展開。
*[[562年]] 伽耶(任那)が[[新羅]]により滅亡。
*[[587年]] [[丁未の乱|丁未の変]]により[[蘇我馬子]]が[[物部守屋]]を滅ぼす。
*[[592年]] [[崇峻天皇]]の[[崇峻天皇#暗殺|暗殺]]。
*[[593年]] - [[622年]] 初の[[女性天皇]]である[[推古天皇]]が即位し、<span style="text-decoration:underline;">[[聖徳太子]]</span>の[[摂政]]開始。
**593年 [[四天王寺]]造立。
**[[603年]] [[冠位十二階]]を制定。
**[[604年]] [[十七条憲法]]を制定。
**[[607年]] <span style="text-decoration:underline;">[[小野妹子]]</span>を[[隋]]に遣わす。
**607年 [[法隆寺]]の創建。
*[[600年]] 史料上初の[[遣隋使]]派遣([[隋書]]より)。
*[[630年]] [[犬上御田鍬]]を[[唐]]に派遣。[[遣唐使]]の初め。
*[[645年]]([[大化]]元年) <span style="text-decoration:underline;">[[天智天皇|中大兄皇子]]</span>と<span style="text-decoration:underline;">[[藤原鎌足|中臣鎌足]]</span>による[[蘇我氏]]宗家誅滅([[乙巳の変]])。[[大化の改新]]始まる。
**[[646年]](大化2年) [[改新の詔]]
*[[660年]] 百済が唐・新羅に滅ぼされ、百済人が日本に渡来。
*[[663年]] [[白村江の戦い]]
*[[668年]] [[高句麗]]が唐・新羅に滅ぼされ、高句麗人が日本に渡来([[高麗神社]])。
*[[672年]] [[壬申の乱]]。[[飛鳥京]]に[[遷都]]する。
*[[683年]]頃 [[富本銭]]を鋳造する。
*[[684年]] [[八色の姓]]を制定する。[[白鳳地震]]。
*[[694年]] [[藤原京]]に遷都する。
*[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年) [[大宝律令]]の成立。[[倭国]]、国号を日本に改める。
*[[708年]]([[和銅]]元年) 銀銭及び銅銭を鋳造する([[和同開珎]])。
=== 奈良時代 ===
{{Main|奈良時代}}
*[[710年]](和銅3年) [[平城京]]に遷都する。
*[[712年]](和銅5年) 『[[古事記]]』の成立。
*[[718年]]([[養老]]2年) [[養老律令]]の成立(実施は[[757年]]([[天平宝字]]元年)から)。
*[[720年]](養老4年) 『[[日本書紀]]』の成立。
*<span style="text-decoration:underline;">[[行基]]</span>ら、[[僧侶]]による社会事業が諸国で行われる。
*[[723年]](養老7年) [[三世一身法]]を定める。
*[[727年]]([[神亀]]4年) [[渤海使]]が初めて渡来。
*[[729年]](神亀6年) [[長屋王の変]]
*[[729年]]([[天平]]元年) <span style="text-decoration:underline;">[[聖武天皇]]</span>の后に[[光明皇后|光明子(光明皇后)]]を冊立。
*[[740年]](天平12年) [[藤原広嗣の乱]]
*[[741年]](天平13年。一説に[[738年]]) 聖武天皇が諸国に[[国分寺|国分寺・国分尼寺]]建立の詔。
*[[743年]](天平15年) [[墾田永年私財法]]を定める。
*[[744年]](天平16年) [[大伴駿河麻呂]]が[[蝦夷]]征討を命じられる([[蝦夷征討|三十八年戦争]])。
*[[752年]]([[天平勝宝]]4年) [[東大寺]][[大仏]]の開眼供養。
*[[754年]](天平勝宝6年) 唐僧<span style="text-decoration:underline;">[[鑑真]]</span>、来朝して[[律宗]]を伝える。
*[[757年]]([[天平宝字]]元年) [[橘奈良麻呂の乱]]
*[[759年]](天平宝字3年)頃 『[[万葉集]]』の成立。
*[[764年]](天平宝字8年) [[藤原仲麻呂の乱|藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)]]
*[[765年]]([[天平神護]]元年) [[道鏡]]、[[太政大臣]]禅師となる。
*[[769年]]([[神護景雲]]3年) [[宇佐八幡宮神託事件]]
*[[782年]]([[延暦]]元年) [[氷上川継の乱]]
*[[784年]](延暦3年) [[長岡京]]に遷都する。
*[[788年]](延暦7年) [[最澄]]が[[延暦寺]]建立。
=== 平安時代 ===
{{See also|平安時代#年表}}
*[[794年]](延暦13年) [[平安京]]に遷都する。
*[[801年]](延暦20年) [[坂上田村麻呂]]、[[蝦夷]]を平定する。
*[[805年]](延暦24年) [[徳政相論]]が行われる。
*[[810年]]([[弘仁]]元年) [[蔵人所]]を置く。
*[[810年]](弘仁元年) [[薬子の変]]
*[[816年]](弘仁7年)[[空海]]が[[金剛峯寺]]を建立。 このころ[[検非違使]]を置く。
*[[833年]]([[天長]]10年) [[令義解]]の撰上。
*[[842年]]([[承和 (日本)|承和]]9年) [[承和の変]]([[藤原氏]]による他氏排斥の始まり)
*[[858年]]([[天安 (日本)|天安]]2年) [[藤原良房]]、人臣として初めて摂政となる。
*[[866年]]([[貞観 (日本)|貞観]]8年) [[応天門の変]]
*[[869年]](貞観11年) [[貞観地震]]
*[[878年]]([[元慶]]2年) [[元慶の乱]]
*[[887年]]([[仁和]]3年) [[藤原基経]]、[[関白]]となる(関白の初め)。[[仁和地震]]
*[[摂関政治]]の始まり
*[[888年]](仁和4年) [[阿衡事件]]
*[[893年]]?([[寛平]]5年) 初めて[[滝口武者|滝口武者(滝口の武士)]]を置く。
*[[武士]]の登場
*[[894年]](寛平6年) 遣唐使を廃止する。
*[[901年]]([[昌泰]]4年) [[昌泰の変]]([[菅原道真]]、[[大宰権帥]]に左遷される。)
*[[905年]]([[延喜]]5年) 『[[古今和歌集]]』の成立。
*[[927年]]([[延長 (元号)|延長]]5年) [[延喜式]]の撰上(施行は[[967年]]([[康保]]4年)から)。
*[[935年]]([[承平 (日本)|承平]]5年) - [[941年]]([[天慶]]4年) [[承平天慶の乱]]
**[[937年]](承平7年) [[官符]]を下して、[[平将門]]を追捕せしむ。
**[[939年]]([[天慶]]2年) [[平将門]]の乱
**[[939年]](天慶2年) [[藤原純友]]の乱(天慶の乱)
**[[940年]](天慶3年) [[平貞盛]]・押領使[[藤原秀郷]]ら、平将門を誅する。
**941年(天慶4年) [[源経基]]・追捕使[[小野好古]]ら、藤原純友を誅する。
*939年(天慶2年) - 941年(天慶4年) [[天慶の乱 (出羽国)]]
*[[969年]]([[安和]]2年) [[安和の変]]
*[[988年]]([[永延]]2年) [[尾張国|尾張]]の[[郡司]]・[[百姓]]ら、[[国守]][[藤原元命]]の非政を訴える([[国司苛政上訴]])。
*[[1000年]] - [[1014年]]頃 <span style="text-decoration:underline;">[[清少納言]]</span>の『[[枕草子]]』、<span style="text-decoration:underline;">[[紫式部]]</span>の『[[源氏物語]]』が成立する。
*[[1017年]]([[寛仁]]元年) <span style="text-decoration:underline;">[[藤原道長]]</span>、[[太政大臣]]となる。
*[[1019年]](寛仁3年) [[刀伊の入寇]]
*[[1028年]]([[長元]]元年) [[平忠常の乱]]。[[東国]]に[[河内源氏]]が進出。
*[[1051年]]([[永承]]6年) [[前九年の役]]起こる。
*[[1069年]]([[延久]]元年) [[延久の荘園整理令]]。初めて[[記録荘園券契所]]を置く。
*[[1073年]](延久5年) 院の蔵人所を置く。
*[[1083年]]([[永保]]3年) [[後三年の役]]起こる。
*[[1086年]]([[応徳]]3年) [[白河天皇|白河上皇]]、[[院政]]を始める。
*[[1096年]]([[嘉保]]3年) [[永長地震]]
*[[1098年]]([[承徳]]2年) [[源義家]]、[[昇殿]]を許される(初めて武士が[[殿上人]]となる)。
*[[1108年]]([[天仁]]元年) [[平正盛]]が[[源義親]]を誅する([[源義親の乱]])。
*[[1132年]]([[長承]]元年) [[平忠盛]]、昇殿を許される。
*[[1156年]]([[保元]]元年) [[保元の乱]]
*[[1159年]]([[平治]]元年) [[平治の乱]]
*[[1167年]]([[仁安 (日本)|仁安]]2年) <span style="text-decoration:underline;">[[平清盛]]</span>、太政大臣となる。
*[[1169年]](仁安4年/[[嘉応]]元年。または[[1179年]]([[治承]]3年)) [[後白河天皇|後白河法皇]]の編による『[[梁塵秘抄]]』が成立。
*[[1173年]] [[日宋貿易]]起きる。
*[[1175年]] [[法然]]が[[称名念仏|専修念仏]]を唱え始める([[鎌倉仏教]]の始まり)。
*[[1177年]]([[治承]]元年) [[鹿ケ谷の陰謀]]
*[[1180年]](治承4年) - [[1185年]]([[寿永]]4年) [[治承・寿永の乱]](源平合戦)
**1180年(治承4年)4月 [[以仁王]]、[[伊勢平氏|平家]]追討の[[令旨]]を発し、[[源頼政]]らとともに挙兵する([[以仁王の挙兵]])。
**1180年(治承4年)6月 [[福原京#福原行幸|福原行幸]]
**1180年(治承4年)8月 <span style="text-decoration:underline;">[[源頼朝]]</span>、[[伊豆国]]で挙兵する([[石橋山の戦い]])。
**1180年(治承4年)10月 [[富士川の戦い]]
**[[1181年]](治承5年)1月 [[南都焼討]]
**[[1183年]](寿永2年)5月 [[倶利伽羅峠の戦い]]
**1183年(寿永2年)11月 [[水島の戦い]]
**[[1184年]](寿永3年)1月 [[宇治川の戦い]]
**1184年(寿永3年)2月 <span style="text-decoration:underline;">[[源義経]]</span>ら、[[摂津国]][[福原京|福原]]で平家軍に大勝する([[一ノ谷の戦い]])。
**1185年(寿永4年)2月 [[屋島の戦い]]
**1185年(寿永4年)3月 [[壇ノ浦の戦い]](平家滅亡)
*[[1189年]]([[文治]]5年)7月 - 同年9月 [[奥州合戦]]
**1189年(文治5年)8月 [[阿津賀志山の戦い]]
== 中世 ==
=== 鎌倉時代 ===
{{See also|鎌倉時代#年表}}
*1184年(寿永3年) 頼朝、[[鎌倉]]に[[公文所]]・[[問注所]]を置く。
*1185年(文治元年) 頼朝、[[文治の勅許]]を得て、諸国に[[守護]]と[[地頭]]を置く。
*[[1192年]]([[建久]]3年) 頼朝、[[征夷大将軍]]に任ぜられる。
*[[1200年]]([[正治]]2年) [[梶原景時の変]]
*[[1203年]]([[建仁]]3年) [[比企能員の変]]。[[北条時政]]が初めて[[執権]]に就く。
*[[1205年]]([[元久]]2年) [[牧氏事件]]
*[[1212年]]([[建暦]]2年) [[鴨長明]]の『[[方丈記]]』が成立。
*[[1213年]]([[建保]]元年) [[和田合戦]]
*[[1219年]](建保7年) [[源実朝]]、[[公暁]]に暗殺され、源氏将軍が断絶。
*[[1220年]]([[承久]]2年) [[慈円]]の『[[愚管抄]]』が成立。
*[[1221年]](承久3年) [[承久の乱]]
*[[1224年]]([[元仁]]元年) [[伊賀氏事件]]
*[[1226年]]([[嘉禄]]2年) [[九条頼経]]が征夷大将軍に就任([[摂家将軍]]の開始)。
*[[1232年]]([[貞永]]元年) [[北条泰時]]、[[御成敗式目|御成敗式目(貞永式目)]]を制定する。
*[[1247年]]([[宝治]]元年) [[宝治合戦]]
*[[1252年]]([[建長]]4年) [[宗尊親王]]が征夷大将軍に就任([[宮将軍]]の開始)。
*[[1260年]] [[琉球国王|琉球王]][[英祖王統|英祖]]が即位したと伝わる。
*[[1268年]]([[文永]]5年) [[北条時宗]]が[[執権]]に就く。
*[[1272年]](文永9年) [[二月騒動]]
*[[元寇]](蒙古襲来)
**[[1274年]](文永11年) [[元寇#文永の役|文永の役]]
**[[1281年]]([[弘安]]4年) [[元寇#弘安の役|弘安の役]]
*[[1285年]](弘安8年) [[霜月騒動]](岩戸合戦)
*[[1286年]](弘安9年) [[両統迭立]]の議、起こる(翌年、[[大覚寺統]]の[[後宇多天皇]]が譲位し、[[持明院統]]の[[伏見天皇]]が即位。)。
*[[1290年]]([[正応]]元年) [[浅原事件]]
<!--未検証 *[[1291年]] [[元 (王朝)|元]]が[[琉球]]に侵攻-->
*[[1293年]]([[永仁]]元年) [[平禅門の乱]]。[[鎌倉大地震]]。
*[[1297年]](永仁5年) [[永仁の徳政令]]
*[[1305年]]([[嘉元]]3年) [[嘉元の乱]]
*[[1317年]]([[文保]]元年) [[文保の和談]]
*[[1324年]]([[正中 (日本)|正中]]元年) [[正中の変]]
*[[1325年]](正中2年) [[安藤氏の乱]]
*[[1331年]]?(元弘元年) [[卜部兼好|卜部兼好(吉田兼好)]]の『[[徒然草]]』が成立。
*1331年([[元弘]]元年) - [[1333年]](元弘3年) [[元弘の乱]]
**1331年(元弘元年) [[後醍醐天皇]]、[[山城国]][[笠置山 (京都府)|笠置山]]で挙兵する。
**1333年(元弘3年)5月11日 [[小手指原の戦い]]
**1333年(元弘3年)5月12日 [[久米川の戦い]]
**1333年(元弘3年)5月15日 [[分倍河原の戦い (鎌倉時代)|分倍河原の戦い]]
**1333年(元弘3年)5月16日 [[関戸の戦い]]
**1333年(元弘3年)5月22日 [[東勝寺合戦]]。[[北条高時]]ら、自害して鎌倉幕府が滅亡。
*1331年(元弘元年) [[光厳天皇]]が即位する([[北朝 (日本)|北朝]]の初め)。
=== 室町時代 ===
{{Main|室町時代}}
==== 建武の新政 ====
*1333年(元弘3年) [[護良親王]]、征夷大将軍となる。
*1333年(元弘3年) [[記録所]]・[[雑訴決断所]]・[[武者所]]を置く。
*[[1334年]]([[建武 (日本)|建武]]元年) [[建武の新政]]。後醍醐天皇による[[親政]]。
*1334年(建武元年) 『[[二条河原の落書]]』が掲げられる。
*[[1335年]](建武2年) [[中先代の乱]]
*[[1336年]]([[延元]]元年(北朝 建武3年)) [[建武の乱]]
**1336年(延元元年(北朝 建武3年)) [[多々良浜の戦い]]
**1336年(延元元年(北朝 建武3年)) [[湊川の戦い]]で、[[楠木正成]]が戦死。
==== 南北朝時代 ====
{{Main|南北朝時代 (日本)}}
;[[南朝 (日本)|南朝]]
*1336年(延元元年) 後醍醐天皇、[[吉野]]へ還幸([[南朝 (日本)|南朝]]の初め)。
*[[1339年]](延元4年) [[北畠親房]]の『[[神皇正統記]]』が成立。
*[[1348年]]([[正平 (日本)|正平]]3年(北朝 [[貞和]]4年)) [[四條畷の戦い]]
;[[北朝 (日本)|北朝]]
*1336年(北朝 建武3年) [[足利尊氏]]、[[是円]]・[[真恵]]らに命じて『[[建武式目]]』を制定し、政権の骨格を示す。
*[[1338年]](北朝 [[暦応]]元年) 足利尊氏、征夷大将軍に補任され、[[京都]]に幕府を開く([[室町幕府]])。
*[[1349年]](北朝 貞和5年) [[鎌倉府]]設置。
*[[1350年]](北朝 [[観応]]元年) - [[1352年]](北朝 観応3年)[[観応の擾乱]]
*[[1352年]](北朝 [[文和]]元年) [[武蔵野合戦]]
*[[1361年]](北朝 [[康安]]元年、南朝[[正平 (日本)|正平]]16年) [[正平地震]]。
*[[1368年]](北朝 [[応安]]元年) [[武蔵平一揆|武蔵平一揆の乱]]。[[寺社本所領事|応安の半済令]]を施行する。
*[[1378年]](北朝 [[永和 (日本)|永和]]4年) <span style="text-decoration:underline;">[[足利義満]]</span>、京都[[室町通]]今出川付近に新邸([[花の御所]])を造営し始める。
*[[1379年]](北朝 [[康暦]]元年) [[康暦の政変]]
*[[1389年]](北朝 [[康応]]元年) - [[1390年]](北朝 明徳元年) [[土岐康行の乱]]
*[[1391年]](北朝 明徳2年) [[明徳の乱]]
*[[1392年]]([[元中]]9年(北朝 明徳3年)) [[明徳の和約|南北朝合一(明徳の和約)]]
==== 室町時代 ====
*[[1394年]]([[応永]]元年) 足利義満、[[太政大臣]]となる。
*[[1399年]](応永6年) [[応永の乱]]
*[[1400年]](応永7年) [[大塔合戦]]
*[[1401年]](応永8年) [[日明貿易]](勘合貿易)の開始([[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]18年)まで)。
*[[1416年]](応永23年) [[上杉禅秀の乱]]
*[[1419年]](応永26年) [[応永の外寇]]
*[[1428年]]([[正長]]元年) [[正長の土一揆]]
*[[1429年]](正長2年)
**[[播磨の国一揆]]
**[[大和永享の乱]]
**[[尚巴志王]]が琉球を統一し、[[琉球王国]]が興る。
*[[1438年]]([[永享]]10年) - [[1439年]](永享11年) [[永享の乱]]
*[[1440年]](永享12年) [[結城合戦]]
*[[1441年]]([[嘉吉]]元年)
**[[嘉吉の乱|嘉吉の乱(嘉吉の変)]]
**[[嘉吉の徳政一揆]]
*[[1443年]](嘉吉3年) [[禁闕の変]]
*1443年(嘉吉3年) [[嘉吉条約]]
*[[1454年]]([[享徳]]3年) - [[1483年]]([[文明 (日本)|文明]]14年) [[享徳の乱]](東国における[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の始まりとする説もある)
*1455年(享徳4年) [[鎌倉公方]][[足利成氏]]、鎌倉府から[[古河府]]に遷座。
*[[1457年]]([[長禄]]元年) [[コシャマインの戦い]]。[[太田道灌]]が[[江戸城]]築城。
*[[1458年]](長禄2年) 東国に[[古河公方]]と[[堀越公方]]が並立。
*[[1466年]]([[文正]]元年) [[文正の政変]]
==== 戦国時代 ====
{{Main|戦国時代 (日本)}}
{{See also|日本の合戦一覧#戦国時代}}
*[[1467年]]([[応仁]]元年) - [[1477年]]([[文明 (日本)|文明]]9年) [[応仁の乱]] ([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]始まる)
*[[1485年]](文明17年) - [[1493年]]([[明応]]2年) [[山城国一揆]]
*[[1486年]](文明18年) <span style="text-decoration:underline;">[[雪舟]]</span>、『山水長巻』を完成させる。
*[[1487年]]([[長享]]元年) - [[1505年]]([[永正]]2年) [[長享の乱]]
*1487年(長享元年) - [[1491年]]([[延徳]]3年) [[長享・延徳の乱]]
*[[1488年]](長享2年) [[加賀一向一揆]]
*[[1489年]](延徳元年) <span style="text-decoration:underline;">[[足利義政]]</span>、[[慈照寺|銀閣]]を完成させる([[慈照寺]]の創建は、翌[[1490年]](延徳2年))。
*1493年(明応2年)
**[[明応の政変]]により[[細川政権 (戦国時代)|細川政権]]確立(これを戦国時代の始まりとする説もある)。
**[[北条早雲]]が堀越公方を滅ぼす。
*[[1498年]](明応7年) [[明応地震]]
*[[1507年]](永正4年) [[永正の錯乱]]
*[[1510年]](永正7年) [[李氏朝鮮|朝鮮]]で[[日本人]]居留民が[[三浦の乱]]を起こす。
*[[1523年]]([[大永]]3年) 明で[[細川氏]]と[[大内氏]]が[[寧波の乱]]を起こす。
*[[1531年]]([[享禄]]4年) [[享禄・天文の乱|享禄の乱]]
*[[1532年]]([[天文 (元号)|天文]]元年) - [[1535年]](天文4年) [[享禄・天文の乱|天文の乱]]
*[[1536年]](天文5年) [[法華一揆|天文法華の乱]]
*[[1538年]](天文7年) [[国府台合戦]]
*[[1543年]](天文12年、一説に[[1542年]](天文11年)) [[ポルトガル人]]、[[大隅国]][[種子島]]に漂着し、[[鉄砲伝来|鉄砲を伝える]]。
*[[1546年]](天文15年) [[河越城の戦い]]
*[[1549年]](天文18年) [[江口の戦い]]。[[三好政権]]確立。
*1549年(天文18年) [[イエズス会]]の<span style="text-decoration:underline;">[[フランシスコ・ザビエル]]</span>、[[薩摩国]][[鹿児島市|鹿児島]]に上陸し、[[日本のキリスト教史|キリスト教を伝える]]。
*[[1550年代]] [[南蛮貿易]]はじまる。
*[[1553年]](天文22年) - [[1564年]]([[永禄]]7年) [[川中島の戦い]]
*[[1555年]]([[弘治 (日本)|弘治]]元年) [[厳島の戦い]]
*[[1560年]]([[永禄]]3年) [[桶狭間の戦い]]
*[[1564年]](永禄7年) [[稲葉山城の戦い]]
*[[1565年]](永禄8年) [[永禄の変]]
*[[1568年]](永禄11年) <span style="text-decoration:underline;">[[織田信長]]</span>、[[足利義昭]]を奉じて入京し、[[織田政権]]確立。
*[[1570年]]([[元亀]]元年) [[姉川の戦い]]
*1570年(元亀元年) [[布部山の戦い]]
*1571年(元亀2年) 信長、[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山を焼き討ち]]する。
*1572年(元亀3年) [[三方ヶ原の戦い]]
*[[1573年]]([[天正]]元年) [[槇島城の戦い]]。信長、足利義昭を追放して、室町幕府が実質的に滅亡。
== 近世 ==
=== 安土桃山時代 ===
{{Main|安土桃山時代}}
{{See also|日本の合戦一覧#安土桃山時代}}
*1573年(天正元年) [[一乗谷城の戦い]]
*1573年(天正元年) [[小谷城の戦い]]
*[[1575年]](天正3年) [[長篠の戦い]]
*[[1576年]](天正4年) [[安土城]]の築城開始。
*1576年(天正4年) [[天王寺の戦い (1576年)|天王寺の戦い]]
*[[1582年]](天正10年) [[甲州征伐]]
*1582年(天正10年) <u>[[明智光秀]]が</u>[[本能寺の変]]を起こす。
*1582年(天正10年) [[山崎の戦い]] - [[清洲会議]]
*1582年(天正10年) [[天正壬午の乱]]
*1582年(天正10年) - [[1590年]](天正18年) [[天正遣欧使節]]が渡来。
*1582年(天正10年) - [[1598年]](慶長3年) [[太閤検地]]
*[[1583年]](天正11年) [[賤ヶ岳の戦い]]
*1583年(天正11年) [[大坂城]]の築城開始。
*1583年(天正11年) [[北条氏政]]が古河公方を滅ぼす。
*[[1584年]](天正12年) [[小牧・長久手の戦い]]
*[[1585年]](天正13年) <span style="text-decoration:underline;">[[豊臣秀吉|羽柴秀吉(豊臣秀吉)]]</span>、[[関白]]となり[[豊臣政権]]確立(翌年、[[太政大臣]]となり、[[豊臣氏|豊臣]]の姓を賜う。)。
*[[1586年]](天正13年11月) [[天正地震]]([[帰雲城]]埋没、[[長浜城 (近江国)|長浜城]]倒壊)。
*[[1587年]](天正15年) 豊臣秀吉、[[バテレン追放令]]を定め、[[カトリック教会]]の[[宣教師]]を追放する。
*[[1588年]](天正16年) 足利義昭、[[朝廷 (日本)|朝廷]]に征夷大将軍を返上する。
*1588年(天正16年) 秀吉、[[刀狩|刀狩令]]を定める。
*1590年(天正18年) [[小田原征伐]]。[[宇都宮仕置]]、[[奥州仕置]](豊臣秀吉の東国平定、全国統一)。
*[[1591年]](天正19年) 豊臣秀吉が[[千利休]]に[[切腹]]を命じる。
*1591年(天正19年) 豊臣秀吉、[[身分統制令]]を定め、[[士農工商]]の身分体系を確定する。
*[[1592年]]([[文禄]]元年) [[人掃令]]を定め、全国の戸口調査を行う。
*[[文禄・慶長の役]](朝鮮出兵)
**1592年(文禄元年) - [[1593年]](文禄2年) 文禄の役
**[[1597年]]([[慶長]]2年) - 1598年(慶長3年) 慶長の役
*[[1596年]](慶長元年) [[サン=フェリペ号事件]]。[[慶長伏見地震]]により[[伏見城]]が大破。
*1598年(慶長3年) 秀吉、伏見城(後の桃山)で没する。
*[[1600年]](慶長5年) [[関ヶ原の戦い]]、[[イングランド王国|イングランド]]・[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]の[[貿易]][[商人]]([[イングランド人]][[ウィリアム・アダムス|ウィリアム・アダムズ]]、[[オランダ人]][[ヤン・ヨーステン]]など)が日本に上陸。
=== 江戸時代 ===
{{Main|江戸時代}}
;初期
*[[1601年]](慶長6年) [[慶長小判|慶長金]]・[[慶長丁銀|慶長銀]]鋳造開始。
*[[1603年]](慶長8年)
**<span style="text-decoration:underline;">[[徳川家康]]</span>、伏見城で征夷大将軍の[[将軍宣下|宣下]]を受け、[[江戸幕府]]を開く。
**現在の[[二条城]]が築城され、将軍宣下に伴う賀儀が挙行される。
*[[1605年]](慶長10年) [[徳川秀忠|<u>徳川秀忠</u>]]、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。
*[[1609年]](慶長14年)
**[[琉球侵攻]]。琉球王国は[[薩摩藩]]の支配下に入る
**朝鮮と[[己酉約条]]を結ぶ
**[[猪熊事件]]
*[[1611年]](慶長16年) [[慶長三陸地震]]。
*[[1613年]](慶長18年) [[仙台藩]]が[[慶長遣欧使節]]を派遣。
*[[1614年]](慶長19年) - [[1615年]](慶長20年) [[大坂の陣]]
**1614年(慶長19年) 大坂冬の陣
**1615年(慶長20年) 大坂夏の陣。豊臣氏滅ぶ。
*1615年([[元和 (日本)|元和]]元年) [[武家諸法度]](元和令)、[[禁中並公家諸法度]]を定める。
*[[1616年]](元和2年) [[ヨーロッパ|欧]]船の来航を平戸・長崎に制限する。
*[[1618年]](元和4年) [[鳥取藩]]の[[商人]]が幕府より[[日本海]]に浮かぶ[[鬱陵島]]への渡海免許を得る。
*[[1622年]](元和8年) [[元和の大殉教]]
*[[1623年]](元和9年) <span style="text-decoration:underline;">[[徳川家光]]</span>、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。
*[[1624年]]([[寛永]]元年) [[スペイン人]]の来航を禁じる。
*1625年(寛永2年)[[熊本地震 (1625年)|熊本地震]]
*[[1628年]](寛永5年)[[踏絵]]の制度が始まる
*[[1629年]](寛永6年) [[紫衣事件]]、[[後水尾天皇]]退位
*[[1633年]](寛永10年) [[奉書船]]以外の海外渡航を禁じ、海外渡航者の帰国を制限する(第一次[[鎖国|鎖国令]])。
*[[1635年]](寛永12年) [[柳川一件]]
*1635年(寛永12年) [[参勤交代]]制を確立する。
*[[1636年]](寛永13年) [[浅草]]・[[芝 (東京都港区)|芝]]・[[坂本 (大津市)|坂本]]で[[寛永通宝|寛永通寳]]鋳造開始、[[江戸時代の三貨制度|三貨体制]]確立。
*[[1637年]](寛永14年) - [[1638年]](寛永15年) [[島原の乱]](島原、天草一揆)
*[[1639年]](寛永16年) ポルトガル人の来航を禁じる、[[鎖国]]が完成する。
*[[1641年]](寛永18年) オランダ人を長崎[[出島]]に移す(鎖国の完成)。
*[[1642年]](寛永19年)頃 [[寛永の大飢饉]]
*[[1643年]](寛永20年) [[田畑永代売買禁止令]]を定める。
*[[1651年]]([[慶安]]4年) [[由井正雪]]の乱([[慶安の変]])
*[[1657年]]([[明暦]]3年)[[明暦の大火]]、[[徳川光圀]]が『[[大日本史]]』の編纂を開始([[1906年]]完成)。
*[[寛文]]の二大美事(武家諸法度の改定(寛文令))
**[[1663年]](寛文3年) [[殉死]]を禁じる。
**[[1665年]](寛文5年) [[大名]]の[[人質]]を廃止する。
*[[1666年]](寛文6年) [[オランダ風説書]](現存する邦文最古のもの)の初め。
*[[1669年]](寛文9年) [[シャクシャインの戦い]]
* [[1670年]](寛文10年) [[紀州藩]]の[[ウンシュウミカン|蜜柑]]船が[[小笠原諸島]]を発見。
;中期
*[[1682年]]([[天和 (日本)|天和]]2年) [[井原西鶴]]、『[[好色一代男]]』を発表。
*[[1683年]](天和3年) [[八百屋お七]]事件
*[[1684年]](貞享元年) [[渋川春海]]、[[貞享暦]]を作る。
*[[1687年]](貞享4年) [[生類憐れみの令]]を定める。
*[[1690年]]([[元禄]]3年) [[湯島聖堂]]が設立される。
*[[1692年]](元禄5年) 日本と朝鮮の間で、現在の鬱陵島をめぐる領土問題が発生([[竹島一件]])。
*[[1695年]](元禄8年) 元禄の貨幣吹替、[[元禄小判|元禄金]]・[[元禄丁銀|元禄銀]]の品位を下げ、通貨量を増大。
*[[1697年]](元禄10年) [[宮崎安貞]]、『[[農業全書]]』を刊行する。
*[[1701年]](元禄14年) [[赤穂事件]]
*[[1703年]](元禄16年) <span style="text-decoration:underline;">[[近松門左衛門]]</span>の『[[曾根崎心中]]』、[[文楽|人形浄瑠璃]]により初演される。[[元禄地震]]。
*[[1707年]]([[宝永]]4年) [[宝永地震]]。[[富士山 (代表的なトピック)|富士山]][[宝永大噴火]]([[宝永山]]誕生)
*[[正徳の治]]
**[[1709年]](宝永6年) [[間部詮房]]・[[新井白石]]を登用する。
**[[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]2年) [[勘定吟味役]]を再び設置する。
**[[1715年]](正徳5年) [[海舶互市新例]]を定める。
*[[享保の改革]]
**[[1716年]]([[享保]]元年)[[徳川吉宗]]、征夷大将軍となる。
**[[1717年]](享保2年) [[大岡忠相]]を[[町奉行|町奉行(江戸南町奉行)]]に登用する。
**[[1721年]](享保6年) [[目安箱]]を設置する。
**[[1722年]](享保7年) [[上米の制]]を定める。
**[[1723年]](享保8年) [[足高の制]]を定める。
**[[1742年]]([[寛保]]2年) [[公事方御定書|公事方御定書(御定書百箇条)]]を定める。
*[[1753年]]([[宝暦]]3年) 幕府が薩摩藩に対し、[[木曽三川]]の改修を命ずる([[宝暦治水事件]])
*[[1754年]](宝暦4年) 公事方御定書完成
*[[1758年]](宝暦8年) [[宝暦事件]]
*[[1767年]]([[明和]]4年) [[明和事件]]
*[[田沼時代]]
**1767年(明和4年) [[田沼意次]]、[[側用人]]となる。
**[[1771年]](明和8年) [[八重山地震|八重山地震津波]]。
**[[1772年]]([[安永 (元号)|安永]]元年) 田沼意次、[[老中]]となる。
**[[1782年]]([[天明]]2年) [[下総国]][[印旛沼]]を開墾する([[1786年]](天明6年)に中止。)。
**[[1784年]](天明4年) [[蝦夷地]]開拓を企図し、調査させる。
**[[1785年]](天明5年) [[手賀沼]]を開墾する(翌年完成、洪水にて流失。)。
**[[1786年]](天明6年) 田沼意次、罷免される(翌年、[[減封]]され、[[相良城]]を収公される。)。
*[[1774年]](安永3年) [[杉田玄白]]と[[前野良沢]]、『[[解体新書]]』を刊行する。
*[[1783年]](天明3年) [[浅間山]]が噴火([[天明大噴火]])
*1783年(天明3年) - [[1788年]](天明8年) [[天明の大飢饉]]
*[[寛政の改革]]
**[[1787年]](天明7年) [[松平定信]]、老中筆頭となり、[[倹約令]]を発する。
**[[1789年]]([[寛政]]元年) [[棄捐令]]を定める。
**[[1790年]](寛政2年) [[寛政異学の禁]]により[[朱子学]]以外の学問を禁じる。
**[[1791年]](寛政3年) [[江戸]]に[[町会所]]を建て、[[七分積金制]]を創設。
**[[1792年]](寛政4年) [[林子平]]の『[[海国兵談]]』(前年に出版)による筆禍事件。
*[[尊号一件|尊号一件(尊号事件)]]
**1789年(寛政元年) [[光格天皇]]が実父[[閑院宮典仁親王|典仁親王]]に[[太上天皇]]の尊号を贈ろうとするも、幕府に拒絶される。
**1791年(寛政3年) [[一条輝良]]、新たに関白となり、再度幕府に要求。
**[[1793年]](寛政5年) [[議奏]][[中山愛親]]ら、[[関東]]へ下向して幕府の審問を受け、免職される。
*[[1788年]](天明8年) 京都[[天明の大火]]、[[皇居]]炎上する。
*[[1789年]](寛政元年) [[クナシリ・メナシの戦い]]。
*1791年(寛政3年) [[アメリカ合衆国|米国]]商船[[レディ・ワシントン (ブリッグ)|レディ・ワシントン]]号が、[[紀伊大島]]に来航。
*1792年(寛政4年) [[ロシア帝国|ロシア]]使節[[アダム・ラクスマン]]、[[伊勢国|伊勢]]の漂民[[大黒屋光太夫]]を伴い蝦夷地根室に来航、通商を要求するも幕府は拒絶。[[島原大変肥後迷惑]]。
*[[1797年]](寛政9年) [[グレートブリテン王国|イギリス]]船、蝦夷地室蘭に来航。
*1797年(寛政9年) [[昌平坂学問所]](聖堂)を官学校とする。
*[[1798年]](寛政10年) [[本居宣長]]、『[[古事記伝]]』を完成させる。[[最上徳内]]と[[近藤重蔵]]が[[択捉島]]探検。
;後期
*[[1802年]]([[享和]]2年) [[十返舎一九]]、『[[東海道中膝栗毛]]』を発表。
*[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年) ロシア使節[[ニコライ・レザノフ]]、長崎に来航し通商を要求。
*[[1805年]](文化2年) [[関東取締出役]]設置。
*[[1807年]](文化4年) 箱館奉行を廃止し、[[松前奉行]]を置く。
*[[1808年]](文化5年)
**[[東京湾|江戸湾(東京湾)]]沿岸の[[砲台]]修築を起工する。
**[[間宮林蔵]]が[[樺太]]を探検し[[間宮海峡|間宮海峡(タタール海峡)]]を発見する。
**[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]の[[軍艦]][[フェートン (帆走フリゲート)|フェートン号]]が長崎に来航して補給を強要、オランダ人を人質に捕り、[[長崎奉行]][[松平康英 (長崎奉行)|松平康英]]が切腹([[フェートン号事件]])。
*[[1811年]](文化8年) ロシアの軍艦艦長[[ヴァシーリー・ゴロヴニーン|ヴァシーリー・ゴローニン]]、[[国後島]]で捕らえられる([[ゴローニン事件]])。
*[[1814年]](文化11年) [[曲亭馬琴]]、『[[南総里見八犬伝]]』を発表。
*[[1821年]]([[文政]]4年) [[伊能忠敬]]、『[[大日本沿海輿地全図]]』を完成させる。
*[[1824年]](文政7年) [[イギリス人]]船員が[[常陸国]]大津浜に上陸し、[[水戸藩]]の尋問を受ける([[大津浜事件]])。
*[[1825年]](文政8年) [[異国船打払令]](外国船打払令、異国船無二念打払令)。
*[[1828年]](文政11年) [[オランダ商館]]付の[[ドイツ人]][[医師]][[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]に諜報の嫌疑がかけられ、連座した[[天文方]]の[[高橋景保]]ら処罰される([[シーボルト事件]])。
*[[1831年]]([[天保]]2年) [[葛飾北斎]]、『[[富嶽三十六景]]』を発表。
*[[1833年]](天保4年) [[歌川広重]]、『[[東海道五十三次 (浮世絵)|東海道五十三次]]』を発表。
*1833年(天保4年) - 1839年(天保10年) [[天保の大飢饉]]
*[[1834年]](天保5年) [[水野忠邦]]、老中となる。
*[[1835年]](天保6年) [[竹島事件]]。
*[[1837年]](天保8年)
**[[大塩平八郎の乱]]
**[[生田万の乱]]
**アメリカ船モリソン号、漂民を伴い[[相模国]][[浦賀]]に入港するも、打払令により撃退される([[モリソン号事件]])。
*[[1839年]](天保10年) [[蛮社の獄]]
*[[天保の改革]]
**[[1842年]](天保13年) 天保[[薪水給与令]]
*[[1844年]]([[弘化]]元年) [[オランダ]]国王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]、将軍[[徳川家慶]]に親書を送り開国を勧告する。
*[[1846年]](弘化3年) アメリカ使節[[ジェームズ・ビドル]]、[[相模国]][[浦賀]]に来航し通商を要求。
;末期(幕末)
{{Main|幕末}}
*[[1853年]]([[嘉永]]6年)
**<u>[[マシュー・ペリー]]</u>率いるアメリカ[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|東インド艦隊]]の軍艦四隻が大統領[[ミラード・フィルモア]]の国書を携え[[江戸湾]]来航([[黒船来航]])。
**[[エフィム・プチャーチン]]率いるロシアの軍艦四隻が長崎来航。
*[[1854年]](嘉永7年/[[安政]]元年)
**[[日米和親条約]]調印([[下田市|下田]]・[[函館市|箱館]]の開港)
**[[日英和親条約]]調印(長崎・箱館の開港)
**[[安政東海地震]]、[[安政南海地震]]
*[[1855年]](安政2年) [[安政江戸地震]]([[安政の大地震]])、[[日露和親条約]]調印。
*[[1856年]](安政3年) アメリカ領事[[タウンゼント・ハリス]]が下田に着任。[[日蘭和親条約]]調印。
*[[1858年]](安政5年)
**[[南紀派]]の[[井伊直弼]]、[[大老]]となる。
**[[日米修好通商条約]]調印(神奈川・長崎・[[新潟港|新潟]]・[[神戸港|兵庫]]の開港)。
*1858年(安政5年) - [[1859年]](安政6年) [[安政の大獄]]
*1859年(安政6年) 横浜に[[外国人居留地]]を造成。
*[[1860年]](安政7年/[[万延]]元年)
**[[桜田門外の変]]
**幕府が[[咸臨丸]]で[[万延元年遣米使節]]を派遣。[[勝海舟]]などが乗船
*[[1861年]](万延2年/[[文久]]元年)
**[[ロシア軍艦対馬占領事件]]
**[[東禅寺事件]]
*[[1862年]](文久2年)
**[[坂下門外の変]]
**[[寺田屋事件]](寺田屋騒動)
**[[生麦事件]]
*[[文久の改革]]
**[[将軍後見職]]に[[徳川慶喜|徳川(一橋)慶喜]]、[[政事総裁職]]に[[松平春嶽]]が就任。
**[[蕃書調所]]を[[洋書調所]]と改める。
**[[幕府陸軍]]の設置や[[三兵戦術]]を導入。
**[[千歳丸 (江戸幕府)|千歳丸]]を[[清]]に派遣。
*[[1863年]](文久3年)
**[[薩英戦争]]
**[[八月十八日の政変]]
**[[生野の変]]
**[[天誅組の変]]
**[[井土ヶ谷事件]]。
*[[1864年]](文久4年/[[元治]]元年)
**[[天狗党の乱|水戸天狗党の乱]]
**[[池田屋事件]]
**[[禁門の変]]
**[[四国連合艦隊下関砲撃事件]]
**[[鎌倉事件]]
*[[長州征討]]
**1864年(元治元年) 第一次長州征討
**[[1866年]]([[慶応]]2年) 第二次長州征討
*1866年(慶応2年)
**[[坂本龍馬]]の斡旋により[[薩長同盟]]締結。
**徳川慶喜、征夷大将軍となる。
*[[1867年]](慶応3年) [[近江屋事件]]。[[大政奉還]]・[[王政復古 (日本)|王政復古]]により江戸幕府が実質的に滅亡。
*[[1868年]](慶応4年/[[明治]]元年)
**[[五箇条の御誓文]]
**[[神仏分離|神仏分離令]]
**[[府藩県三治制]]
**「明治」に改元
*1868年(慶応4年/明治元年) - [[1869年]](明治2年) [[戊辰戦争]]
**1868年(慶応4年1月) [[鳥羽・伏見の戦い]]
**1868年(慶応4年3月) [[甲州勝沼の戦い]]
**1868年(慶応4年閏3月) [[江戸開城]](江戸城無血開城)
**1868年(慶応4年閏4月) [[会津戦争]]
**1868年(慶応4年5月) [[北越戦争]]
**1868年(慶応4年5月) [[上野戦争]]
**1868年(慶応4年7月) [[秋田戦争]]
**1868年(明治元年10月) [[箱館戦争]](函館戦争)(五稜郭の戦い)
== 近代 ==
=== 明治期===
{{See also|明治#年表}}
* 1869年(明治2年)
**[[東京奠都]]
**[[版籍奉還]]
**蝦夷から[[北海道]]に改称
**[[太政官]]制発足(二官六省)
* [[1870年]](明治3年)
** [[大教宣布]]
* [[1871年]](明治4年)
**[[廃藩置県]]
**[[日清修好条規]]締結
**[[岩倉使節団]]の派遣
**[[郵便|郵便制度]]施行
* [[1872年]](明治5年)
**[[田畑永代売買禁止令]]廃止
**[[学制]]公布
**[[汐留駅 (国鉄)|新橋]]から[[桜木町駅|横浜]]間に日本初の[[鉄道]]が開通。
**琉球王国が[[琉球藩]]となる。
* [[1873年]](明治6年)
**[[太陽暦]]採用
**[[徴兵令]]公布
**[[五榜の掲示]]の撤廃により、[[キリスト教]]を解禁。
**[[地租改正]]
**[[明治六年政変]]
* [[1874年]](明治7年)
**[[板垣退助]]らが下野し、[[愛国公党]]を設立、[[民撰議院設立建白書]]を提出。
**[[台湾出兵]]
**[[佐賀の乱]]
**北海道に[[屯田兵]]制を導入。
* [[1877年]](明治10年)[[西南戦争]]
* [[1878年]](明治11年)[[紀尾井坂の変]]
* 1875年(明治8年)
**[[平民苗字必称義務令]]公布
**[[愛国社 (1875年-1880年)|愛国社]]設立
**[[立憲政体の詔書|立憲政体の詔]]により、[[元老院 (日本)|元老院]]・[[大審院]]・[[地方官会議]]を設置。
**[[樺太・千島交換条約]]締結
**[[江華島事件]]
* 1876年(明治9年)
**[[日朝修好条規]]締結
**[[秩禄処分]]
**[[廃刀令|帯刀禁止令]]公布
**[[金禄公債|金禄公債証書]]交付
**[[神風連の乱]]
**[[秋月の乱]]
**[[萩の乱]]
* 1877年(明治10年)
** [[東京大学 (1877-1886)|東京大学]]設立。
** [[西南戦争]]
* [[1879年]](明治12年)
** [[琉球処分]]により[[沖縄県]]設置。
* [[1881年]](明治14年)
**[[明治十四年の政変]]
**[[国会開設の詔]]
**[[自由党 (日本 1881-1884)]]結成。
**[[開拓使官有物払下げ事件]]
* 激化事件([[自由民権運動]])
** 1881年(明治14年)[[秋田事件]]
** [[1882年]](明治15年)[[福島事件]]
** [[1883年]](明治16年)[[高田事件]]
** [[1884年]](明治17年)[[加波山事件]]、[[秩父事件]]、[[名古屋事件]]
** [[1885年]](明治18年)[[大阪事件]]
** [[1886年]](明治19年)[[静岡事件]]
* 1882年(明治15年)[[立憲改進党]]結成。
* 1883年(明治16年)[[鹿鳴館]]が建立。
* 1885年(明治18年)[[天津条約 (1885年4月)|天津条約]]締結。[[内閣制度]]が発足し、太政官制廃止。[[山手線]]が開業。
* 1886年(明治19年)[[ノルマントン号事件]]、[[学校令]]公布。
* [[1887年]](明治20年)[[気象庁|中央気象台]]発足。
* [[1888年]](明治21年)[[市制町村制]]施行。[[枢密院 (日本)|枢密院]]設置。
* [[1889年]](明治22年)[[大日本帝国憲法]]発布、[[東海道本線]]全線開通、[[任天堂]]建立、[[熊本地震 (1889年)|熊本地震]]。
* [[1890年]](明治23年)
**[[第1回衆議院議員総選挙]]実施
**[[自由党 (日本 1890-1898)|立憲自由党]]結成。
**第1回[[帝国議会]]開会。
* [[1891年]](明治24年)
**[[足尾銅山鉱毒事件]]
**[[大津事件]]
**[[濃尾地震]]
* [[1894年]](明治27年)[[日英通商航海条約]]締結([[領事裁判権]]撤廃)、[[日清戦争]]。
* [[1895年]](明治28年)
**[[下関条約]]締結
**[[台湾総督府]]設置
**[[三国干渉]]
* [[1896年]](明治29年)[[明治三陸地震]]
* [[1897年]](明治30年)[[貨幣法]]が公布され、[[金本位制]]が確立する。
* [[1898年]](明治31年)[[第1次大隈内閣]]成立(日本初の[[政党内閣]])。
* [[1899年]](明治32年)[[著作権]]保護等を定めた[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]に加盟。
* [[1900年]](明治33年)[[立憲政友会]]結成。[[軍部大臣現役武官制]]導入。
* [[1901年]](明治34年)[[官営八幡製鐵所]]建設。
* [[1902年]](明治35年)[[日英同盟]]締結。[[教科書疑獄事件]]により学校教科書が[[国定教科書|国定化]]される。[[八甲田雪中行軍遭難事件]]。
* [[1904年]](明治37年)[[日露戦争]]。
* [[1905年]](明治38年)
**[[ポーツマス条約]]署名
**[[桂・タフト協定]]
**[[日比谷焼打事件]]
**[[統監府|韓国統監府]]設置。
**[[芸予地震]]
**[[夏目漱石]]が[[吾輩は猫である]]を出版。
* [[1906年]](明治39年)
** [[日本社会党 (1906)|日本社会党]]結成(日本初の合法的社会主義政党)
** [[鉄道国有法]]制定
** [[夏目漱石]]が[[坊つちやん]]を出版。
* [[1907年]](明治40年)
** [[ハーグ密使事件]]
** [[日仏協約]]締結。
* [[1908年]](明治41年)[[赤旗事件]]。[[高平・ルート協定]]締結。
* [[1909年]](明治42年)[[伊藤博文暗殺事件]]。
* [[1910年]](明治43年)
**[[日韓併合条約]]締結。
**韓国統監府を[[朝鮮総督府]]に改組
**[[幸徳事件]]([[大逆事件]]の始まり)。
* [[1911年]](明治44年)
** [[工場法 (日本)|工場法]]公布 (施行は1916年)
** [[日米通商航海条約]]改正([[関税自主権]]回復)。
* [[1912年]](明治45年)[[明治天皇]]崩御、[[大正]]に改元。[[近代オリンピック]]に[[日本]]が初参加([[1912年ストックホルムオリンピック]])。
=== 大正期 ===
{{See also|大正#年表}}
* 1912年 (大正元年)
** [[二個師団増設問題]]
* [[1913年]](大正2年)[[沖縄県庁放火事件]]。[[護憲運動|第一次護憲運動]]([[大正政変]])。
* [[1914年]](大正3年)[[シーメンス事件]]。[[第一次世界大戦]](〜[[1918年]])
{{see also|第一次世界大戦下の日本}}
* [[1915年]](大正4年)[[対華21カ条要求]]。[[全国高等学校野球選手権大会|第一回全国高等学校野球選手権大会]]開催。
* [[1917年]](大正6年)
**日本初の[[アニメーション映画]]、[[芋川椋三玄関番の巻]]が公開。
* [[1918年]](大正7年)
**[[米騒動]]
**第一次世界大戦が終戦。
**[[ロシア革命]]に干渉するため[[シベリア出兵|シベリアに出兵]]。
**[[原内閣|原敬内閣]]成立([[政党内閣]]が本格化)。
**[[スペイン風邪]]流行。
* [[1919年]](大正8年)
**[[パリ講和会議]]に参加。
**[[三・一運動]]
**[[関東軍]]設置。
* [[1920年]](大正9年)
**[[国際連盟]]に加盟、[[常任理事国 (国際連盟)|常任理事国]]となる。
**第一回[[メーデー]]開催。
**初の[[国勢調査]]実施。
* [[1921年]](大正10年)[[原敬暗殺事件]]。
* [[1922年]](大正11年)
** [[シベリア出兵]]
** [[全国水平社]]結成。
* [[1923年]](大正12年)
**[[関東大震災]]発生。
**[[亀戸事件]]、[[甘粕事件]]
**[[虎ノ門事件]]
* [[1924年]](大正13年)[[護憲運動|第二次護憲運動]]([[護憲三派]]形成)。
* [[1925年]](大正14年)
**[[日ソ基本条約]]締結
**[[NHKラジオ]]放送開始
**[[治安維持法]]及び[[普通選挙法]]制定
**[[鶴見騒擾事件]]
**[[五・三〇事件]]
* [[1926年]](大正15年)[[大正天皇]]崩御、[[昭和]]に改元。
=== 昭和戦前期 ===
{{See also|昭和#略年表}}
*[[1927年]](昭和2年)
**[[昭和金融恐慌]]発生。
**[[東方会議 (1927年)|東方会議]]に基づき[[山東出兵|第1次山東出兵]]。
**[[上野駅|上野]]から[[浅草駅|浅草]]間に[[日本の地下鉄|日本初の地下鉄]]開業。
*[[1928年]](昭和3年)
**[[三・一五事件]]
**[[済南事件]]
**[[張作霖爆殺事件]]
**全国に[[特別高等警察]](特高)を設置。
**[[不戦条約|パリ不戦条約]]締結
**[[ラジオ体操]]始まる。
*[[1930年]](昭和5年)
**前年の[[世界恐慌]]の影響を受け[[昭和恐慌]]が発生。
**[[ロンドン海軍軍縮会議]]に参加。
**[[濱口首相遭難事件]]([[統帥権|統帥権干犯問題]])
*[[1931年]](昭和6年)
**[[中村大尉事件]]
**[[柳条湖事件]]
**[[満州事変]]
**[[東京国際空港|羽田空港]]開港
**[[宮沢賢治]]が[[雨ニモマケズ]]を出版
*[[1932年]](昭和7年)
**[[桜田門事件]]
**[[第一次上海事変]]
**[[血盟団事件]]
**[[五・一五事件]]([[犬養毅]]暗殺)
**[[満州国]]建国。
**[[日満議定書]]締結。
*[[1933年]](昭和8年)
**国際連盟を脱退
**[[塘沽協定]]により満州事変終結。
**[[滝川事件]]
*[[1934年]](昭和9年) [[帝人事件]]、[[函館大火]]。
*[[1935年]](昭和10年) [[天皇機関説]]問題、[[相沢事件]]。
*[[1936年]](昭和11年)
**[[二・二六事件]]
**[[阿部定事件]]
*[[1937年]](昭和12年)
**[[盧溝橋事件]]、[[第二次上海事変]]([[日中戦争]]([[支那事変]])勃発)。
**[[南京事件]]
**[[矢内原忠雄|矢内原事件]]
{{See also|日中戦争関係年表}}
*[[1938年]](昭和13年)
**[[張鼓峰事件]]
**[[近衛声明|第一次近衛声明]]
**[[国家総動員法]]
**[[臨時通貨法]]制定
**[[津山事件]]
*[[1939年]](昭和14年)
**[[第二次世界大戦]]開戦(〜[[1945年]])
**[[ノモンハン事件]]
**[[価格等統制令]]公布。
*[[1940年]](昭和15年)
**[[仏印進駐|北部仏印進駐]]
**[[日独伊三国軍事同盟]]成立
**[[汪兆銘政権]]との間で[[日華基本条約]]締結。
**[[大政翼賛会]]発足。
*[[1941年]](昭和16年)
**[[ゾルゲ事件]]
**[[日ソ中立条約]]締結
**[[中原会戦]]
**[[仏印進駐|南部仏印進駐]]
**[[南方作戦]]発動により[[マレー作戦]]と[[真珠湾攻撃]]開始、[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])始まる。
{{See also|太平洋戦争の年表}}
*[[1942年]](昭和17年)
**4月 日本本土に初空襲([[ドーリットル空襲]])
**6月 [[ミッドウェー海戦]]
**8月 [[ガダルカナル島の戦い]]
*[[1943年]](昭和18年)
**5月 [[アッツ島の戦い]]
**9月 同盟国[[イタリア]]が[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に降伏。
**10月 [[学徒出陣]]壮行会
**11月 [[大東亜会議]]開催。
*[[1944年]](昭和19年)
**3月 [[インパール作戦]]
**4月 [[大陸打通作戦]]
**6月 [[サイパンの戦い]]
**7月 [[グアムの戦い (1944年)|グアムの戦い]]
**12月 [[昭和東南海地震]]発生。
*1945年(昭和20年)
**2月 [[硫黄島の戦い]]
**3月10日 [[東京大空襲]]。
**3月 米軍が[[慶良間諸島]]に上陸し、[[沖縄戦]]開始。
**4月 米軍が[[沖縄本島]]に上陸
**5月 同盟国[[ドイツ]]が連合国に降伏。
**7月 連合国が[[ポツダム宣言]]発表。
**8月6日 [[広島市への原子爆弾投下]]。
**8月8日 [[ソ連対日参戦]]。
**8月9日 [[長崎市への原子爆弾投下]]。
**8月10日 [[ポツダム宣言]]受諾の決定。
**8月14日 [[ポツダム宣言]]受諾。
**8月15日 [[宮城事件]]、[[玉音放送]]。
**8月18日 [[占守島の戦い]]
**8月24日 [[浮島丸事件]]
**9月2日 [[日本の降伏文書|降伏文書]]調印。
**9月3日 [[ソビエト連邦]]が[[北方地域|北方領土]]占領。
**11月 [[財閥解体]]指令。[[日本社会党]]結成。
**12月 [[選挙法]]改正により[[女性参政権]]が確立。[[日本共産党]]の合法化。
== 現代 ==
=== 昭和戦後期 ===
{{See also|昭和#略年表}}
''戦後の占領期(1945年(昭和20年) - 1952年(昭和27年))については[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]も参照。''
* [[:Category:1946年の日本|1946年(昭和21年)]]
**[[人間宣言|天皇の人間宣言]]
**[[公職追放]]の開始(〜1948年)
**[[伊豆諸島]]返還([[本土復帰]])
**[[極東軍事裁判]]開廷
**'''[[日本国憲法]]'''公布(1947年(昭和22年)5月施行)
**[[太宰治]]が[[走れメロス]]を出版
**[[農地改革]]
* [[:Category:1947年の日本|1947年(昭和22年)]]
** [[学校教育法]]・[[地方自治法]]の制定
* [[:Category:1948年の日本|1948年(昭和23年)]]
** [[昭和電工事件]]
* [[:Category:1949年の日本|1949年(昭和24年)]]
** [[労働組合法]]制定
** [[湯川秀樹]]がノーベル賞を貰い、日本初のノーベル賞受賞者になる
* [[:Category:1951年の日本|1951年(昭和26年)]]
**''' [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]] ''' ・''' [[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約|(旧)日米安全保障条約]] ''' 締結
* [[:Category:1952年の日本|1952年(昭和27年)]]
** '''[[日本国との平和条約|主権回復]] '''
** [[血のメーデー事件]] - [[破壊活動防止法]](破防法)制定の契機。
**[[吐噶喇列島|トカラ列島]]返還
**警察予備隊が[[保安隊]]に改組。
*[[1953年]]([[昭和]]28年)
** 日本でテレビ放送開始
**[[奄美群島]]返還
*[[1954年]](昭和29年)
** ''' [[自衛隊]] ''' 発足
**[[第五福竜丸]]事件
*[[1955年]](昭和30年)
**[[日本民主党]]と[[自由党 (日本 1950-1955)]]が合同し''' [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] ''' 結成(''' [[55年体制]] ''' )
**[[イタイイタイ病]]発生
**[[関税及び貿易に関する一般協定|GATT]]に加盟
* [[:Category:1956年の日本|1956年(昭和31年)]]
**''' [[日ソ共同宣言]] ''' 発効
**[[国際連合と日本|国際連合に加盟]]
*[[1958年]]([[1958年|昭和33年]])
**[[東京タワー]]完成
* [[:Category:1960年の日本|1960年(昭和35年)]]
** ''' [[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|(新)日米安全保障条約]] ''' 発効
**[[安保闘争|安保反対闘争]]
**[[カラーテレビ]]放送開始
*[[1961年]](昭和36年)
** ''' [[国民皆保険]] ''' 実現
*[[1962年]](昭和37年)
**[[全国総合開発計画]]策定
*1963年 (昭和38年)
**GATT12条国から11条国へ移行
*[[:Category:1964年の日本|1964年(昭和39年)]]
**[[東海道新幹線]]開業
**''' [[1964年東京オリンピック]] ''' 開催
**[[公明党]]結成
**日本が[[国際通貨基金|IMF]]14条国から8条国に移行
**[[経済協力開発機構|OECD]]に加盟
*[[1965年]](昭和40年)
** ''' [[日韓基本条約]] ''' 締結
*[[1967年]](昭和42年)
**[[公害対策基本法]]制定
*[[1968年]](昭和43年)
**[[東名高速道路]]開業
**[[小笠原諸島]]返還
**[[三億円事件]]
*[[1969年]](昭和44年)
**[[東大安田講堂事件]] ([[日本の学生運動]]、[[全共闘]])
**長寿アニメ[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]が放送開始
*[[:Category:1970年の日本|1970年(昭和45年)]]
**[[日本万国博覧会]](大阪万博)開催
*[[:Category:1971年の日本|1971年(昭和46年)]]
** [[マクドナルド]]日本第1号店開店 ([[ファストフード]]の普及)
*[[:Category:1972年の日本|1972年(昭和47年)]]
** [[1972年札幌オリンピック|札幌オリンピック]]
**[[あさま山荘事件]]
** ''' [[沖縄返還]] '''
** ''' [[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]] ''' 調印
*[[:Category:1973年の日本|1973年(昭和48年)]]
** ''' [[オイルショック]] '''
**[[変動相場制]]移行
*[[1974年]]([[昭和49年]])
**[[佐藤栄作]]が[[ノーベル賞]]受賞
**[[セブンイレブン]]日本第1号店開店 ([[コンビニエンスストア]]の普及)
*[[1976年]]([[昭和51年]])
**[[ロッキード事件]] ([[三角大福中]]時代)
*[[1978年]](昭和53年)
**[[第二次オイルショック]]
**[[成田国際空港|成田空港]]開港
**[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]締結
*[[1979年]](昭和54年)
**[[大学共通第1次学力試験]]導入
**対中国[[政府開発援助|ODA]]開始(〜2018年)
*[[1982年]](昭和57年)
**[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線]]開業
*[[1983年]](昭和58年)
**[[ファミリーコンピュータ]]発売 ([[ゲーム機]]の普及)
*[[1985年]](昭和60年)
**[[三公社]]民営化
**[[日本航空123便墜落事故]]
*[[1986年]](昭和61年)
**[[男女雇用機会均等法]]成立 (女性の社会進出進む)
** ''' [[バブル景気]] ''' 始まる
*[[1987年]](昭和62年)
**[[国鉄分割民営化]]
*[[1988年]](昭和63年)
**[[リクルート事件]]
**[[青函トンネル]]と[[瀬戸大橋]]が開業
*[[1989年]](昭和64年)
**[[昭和天皇]]崩御、[[明仁|皇太子明仁親王]]が天皇に[[践祚]]
**[[平成]]に改元
=== 平成期 ===
{{See also|平成#年表}}
* [[:Category:1989年の日本|1989年(平成元年)]]
** [[消費税]]施行
*[[1991年]](平成3年)
** [[バブル経済]] 崩壊 ([[平成不況]]へ)
*[[:Category:1992年の日本|1992年(平成4年)]]
** [[PKO協力法]]成立([[自衛隊海外派遣]]本格化)
*[[1993年]](平成5年)
** [[非自民連立政権]] (''' [[55年体制]]の終焉''' )
**[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]開幕
**[[環境基本法]]制定
*[[1994年]](平成6年)
**[[政治改革四法]]成立
*[[:Category:1995年の日本|1995年(平成7年)]]
** [[阪神・淡路大震災]]([[兵庫県南部地震]])
**[[地下鉄サリン事件]] ([[オウム真理教事件]])
**「戦後50年」の''' [[村山談話]] '''
**[[Windows 95]]の発売 ([[インターネット]]の一般家庭への普及開始)
*[[:Category:1997年の日本|1997年(平成9年)]]
**[[神戸連続児童殺傷事件]]
*[[:Category:1998年の日本|1998年(平成10年)]]
** [[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]
** [[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]結成
*[[:Category:1999年の日本|1999年(平成11年)]]
**[[国旗及び国歌に関する法律]]成立・施行
**[[東海村JCO臨界事故]]
** ''' [[自公連立政権]] ''' 発足
**インターネット掲示板[[2ちゃんねる]]開設
*[[2000年の日本|2000年(平成12年)]]
**[[第26回主要国首脳会議]](沖縄サミット)
*[[:Category:2001年の日本|2001年(平成13年)]]
**[[中央省庁再編]]
**[[日本における衛星放送|BSデジタルテレビ放送]]が放送開始
*[[:Category:2002年の日本|2002年(平成14年)]]
** [[2002 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ 日韓大会]]
**初の[[日朝首脳会談]]
*[[:Category:2003年の日本|2003年(平成15年)]]
**[[日本の地上デジタルテレビ放送|地上デジタルテレビ放送]]が放送開始(東京、大阪、名古屋)
**[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)設立
**[[自衛隊イラク派遣]]
*[[2005年]]([[平成]]17年)
**[[京都議定書]]発効
**[[JR福知山線脱線事故]]
**日本の[[人口]]が戦後初めて減少
*[[2006年]](平成18年)
**[[教育基本法]]改正
*[[2007年]](平成19年)
**[[郵政民営化]] ([[聖域なき構造改革]])
**[[国民投票法]]成立
*[[2008年]](平成20年)
**[[リーマン・ショック]]
**[[iPhone]]が日本で発売 ([[スマートフォン]]の普及が始まる)
**[[第34回主要国首脳会議]](北海道洞爺湖サミット)
*[[2009年]] (平成21年)
** [[自公連立政権]]から''' [[民社国連立政権]] ''' に政権交代 ([[自由民主党 (日本)|自民党]]が結成以来初めて第1党から転落)
**[[裁判員制度]]開始
*[[2010年]] (平成22年)
**[[尖閣諸島中国漁船衝突事件]]
*[[2011年の日本|2011年(平成23年)]]
** ''' [[東日本大震災]] ''' ([[東北地方太平洋沖地震]])
**[[福島第一原子力発電所事故]]
**[[LINE (アプリケーション)]]運用開始
**[[アナログ放送]]が放送終了([[岩手県]]、[[宮城県]]、[[福島県]]は2012年に終了)
** [[Hikakin]]がYouTubeチャンネル「HikakinTV」を開設 ([[YouTube]]の普及が始まる)
*[[2012年の日本|2012年(平成24年)]]
** 3年間弱に及ぶ[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]中心の政権が終わり再び[[自公連立政権]]に
*[[2016年の日本|2016年(平成28年)]]
**[[共通番号制度]] (マイナンバー制度)運用開始
**[[第42回先進国首脳会議]](伊勢志摩サミット)
**[[バラク・オバマの広島訪問]]
*[[2017年の日本|2017年(平成29年)]]
** [[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の後継政党である[[民進党]]が分裂
=== 令和期 ===
{{See also|令和#年表}}
*[[:Category:2019年の日本|2019年 (令和元年)]]
**[[明仁]]が[[徳仁]]に生前譲位し[[令和]]に改元・[[即位礼正殿の儀#令和の即位礼正殿の儀|即位礼正殿の儀]]
*[[2020年の日本|2020年(令和2年)]]
** ''' [[日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況 |新型コロナウイルス感染症]] (COVID-19)''' の流行
*[[2021年の日本|2021年(令和3年)]]
**[[デジタル庁]]発足
**[[2020年東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|東京パラリンピック]]開催
*[[2022年の日本|2022年(令和4年)]]
**民法改正で成人年齢が20歳から18歳に引き下げ
**[[安倍晋三銃撃事件]]
**[[旧統一教会問題]]
**[[2022年ロシアのウクライナ侵攻による経済的影響]]や[[円安]]の進行等による顕著な物価高騰
*[[2023年の日本|2023年(令和5年)]]
**[[こども家庭庁]]発足
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=[[井上幸治]] |title=図説日本の歴史 全18巻 |publisher=[[集英社]] |date=1974 |isbn= |ref=Inoue1974}}
* {{Cite book|和書|author=瀧澤武雄,西脇康 |title=日本史小百科 貨幣 |publisher=[[東京堂出版]] |date=1999 |isbn=978-4490203530 |ref=Takizawa1999}}
* {{Cite book|和書|author=寒川旭 |title=地震の日本史 |publisher=[[中公新書]] |date=2007 |isbn=978-4121919229 |ref=Sangawa2007}}
* {{Cite book|和書|editor=[[東京学芸大学]]日本史研究室 |title=日本史年表 増補5版 |publisher=東京堂出版 |date=2007 |isbn=978-4-490-20858-0 |ref=TokyogakugeiUniv}}
* {{Cite book|和書|editor=『[[歴史読本]]』編集部|title=総図解よくわかる日本史 |publisher=[[新人物往来社]] |date=2009 |isbn=978-4-404-03725-1 |ref=Inoue2009}}
== 関連項目 ==
*[[日本の歴史]]
*[[日本史時代区分表]]
*[[日本の合戦一覧]]
*[[日本が関与した戦争一覧]]
*[[大日本帝国の戦闘一覧]]
*[[戦前・戦中期日本の言論弾圧の年表]]
*[[沖縄県の歴史]]
*[[アイヌの歴史]]
{{日本関連の項目}}
{{デフォルトソート:にほんしのてきこといちらん}}
[[Category:日本の歴史|*]]
[[Category:日本史の一覧|*てきこと]]
[[Category:日本の年表|*]] | 2003-03-15T11:47:58Z | 2023-12-22T11:20:27Z | false | false | false | [
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Reflist",
"Template:Cite book",
"Template:日本関連の項目",
"Template:複数の問題",
"Template:Main",
"Template:See also"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
4,088 | 阪神本線 | 本線(ほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県神戸市中央区の元町駅までを結ぶ阪神電気鉄道(阪神)の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。
なお、本項目において単に「梅田駅」とあるのは現在の大阪梅田駅を、「鳴尾駅」は現在の鳴尾・武庫川女子大前駅を、「三宮駅」は現在の神戸三宮駅を、それぞれ指す。
大阪・キタの大阪梅田駅から神戸最大の繁華街に位置する神戸三宮駅を経由して元町駅まで至る。開業は1905年(明治38年)と古く、日本における都市間電気鉄道(インターアーバン)の先駆けとも言える路線である。当初は私設鉄道法ではなく軌道法に基づいて建設された路面電車として開業しており、当路線を皮切りに軌道法に基づいた私鉄路線が日本全国で次々と開業した。尼崎駅と大阪難波駅を結ぶ阪神なんば線とともに阪神電鉄の主要路線であり、阪神なんば線を経由することで、難波や道頓堀といった大阪・ミナミの繁華街にもアクセスすることができる。沿線の甲子園駅前には阪神タイガースの本拠地である阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)があり、試合やイベントがある際は多くの利用者で混雑する。
大阪・梅田と神戸・三宮の間を結んでいる鉄道路線は他にJR神戸線(東海道本線)と阪急神戸本線があるが、本路線は阪神間を結ぶ鉄道路線の中では最も海寄りを通り、路線敷設の経緯から線形はあまり良くなく駅数も最も多い。そのため普通用車両は後続の急行列車から逃げ切るために加減速性能が高くなっており、ジェットカーと称される。また、その車体色から急行用は赤胴車、普通用は青胴車と呼ばれる(阪神電気鉄道#走行性能も参照)。平均閉塞区間間隔は日本の大手私鉄では最短の240mで、「待たずに乗れる」多くの列車をさばくのに役立っている。
元町駅からは、阪神が第二種鉄道事業者として旅客輸送を行っている阪神神戸高速線と直通運転しており、同線を介して大阪梅田駅から山陽電気鉄道本線の山陽姫路駅まで直通する「直通特急」を運行している。終点の元町駅は1面2線構造の地下駅で全ての列車が神戸高速線に直通するため、実質的には途中駅のような扱いである。また、阪神なんば線を経由して大阪難波駅から近鉄難波線・奈良線とも相互直通運転を行なっており、神戸三宮駅から近鉄奈良駅まで直通する快速急行を運行している。ただし本路線を介した山陽電気鉄道と近鉄の相互直通運転は行われていない。
混雑地域を通ることから連続立体交差事業が盛んで、起点側の大阪梅田駅 - 福島駅(を少し過ぎた大阪環状線との交差部分手前)間、及び終点側の岩屋駅 - 元町駅間は地下化され、それ以外の区間でもほぼすべての区間が高架化されている。地上区間とされているのは武庫川駅の前後と堀切信号場 - 宮川の手前(打出駅より神戸側すぐ)、芦屋駅の前後、西灘駅 - 岩屋駅間(高架線と地下線との間を繋いでいる勾配の途中にある岩屋踏切の前後)のみである。そのため、踏切は全線でも尼崎市の武庫川駅(大阪梅田駅から12.0km)東隣にある武庫川堤防道路と交差する武庫川駅踏切と、芦屋市内の7箇所、そして先述の西灘駅 - 岩屋駅間にある岩屋踏切の、計9箇所のみとなっている(駅構内の係員専用通路を除く)。
起点は大阪梅田駅であるが、キロポストは神戸三宮駅から大阪梅田駅に向かってキロ数が増えていく。また、神戸三宮駅 - 元町駅のキロポストは、湊川への延伸線として開業した名残で、湊川駅を起点とした距離が記されている。
国土交通省への届出上の路線名は「阪神」を冠さない「本線」である。
現在大掛かりな駅改良工事を行っている大阪梅田駅を出ると、ハービスENT、ハービスOSAKAの地下を通り南下、国道2号の地下をJR東西線と並走する形で福島駅へと着く。福島駅を過ぎて福島小学校のあたりで地上に出て、すぐにJR大阪環状線の高架橋の下を潜りながら高架橋を上り、阪神電気鉄道の本社がある高架駅の野田駅に着く。
野田駅から先は昭和50年代までに高架化された区間であり、明治時代の路線建設時に資金の殆どをつぎ込むほどの難工事であった淀川の鉄橋などを通り抜け、また北へ南へと線路は蛇行しながら高架区間を進む。杭瀬駅を過ぎると左側には徐々に阪神なんば線の線路が近づいてくるが、この阪神なんば線との間にある大きな公園(小田南公園)はユニチカ発祥の地として知られる大日本紡績尼崎工場の跡地であり、将来的に阪神鳴尾浜球場に代わる阪神タイガースの二軍本拠地と球団寮・室内練習場などが整備される予定である。大物駅で阪神なんば線と合流する。
次の尼崎駅までの間は阪神なんば線が本線の南側を並走するが、尼崎駅手前で本線下り線は尼崎車庫のある南側へ寄って、一度地平に下りた阪神なんば線をオーバークロスして同駅5番線・6番線に入線する。当初の計画では、現在の尼崎駅1番線ホームを阪神なんば線上り線ホームとし、阪神なんば線上り線が本線上下線をオーバークロスして大物駅に向かうことを想定していたため、両駅間はそのまま高架線とせず、本線は上下線ともに一旦地平へと下り再び高架橋を上る構造とされた。下り線は付け替えられた一方、上り線は旧来のまま一旦地平に下りてすぐ高架線を上っているため、大物駅から尼崎駅方を見ると、上下線が阪神なんば線を巻き込みながら上下左右に大きく離れているのが見える。
尼崎駅から武庫川駅までは1990年代に高架化された区間であるが、旧来の線路に沿って高架化したため、この区間も北へ南へと蛇行しながら進む。武庫川橋梁に設けられた駅である武庫川駅の手前でようやく初めて踏切を通過、そして武庫川駅(橋梁)を過ぎると、かつては地上区間だった名残で一旦地平に下りる。2017年に武庫川駅から甲子園駅まで高架化されたが、武庫川線との連絡線が分岐する武庫川信号場だけは高架化されなかったためこの僅かな区間のみ地平で、武庫川信号場を過ぎると再び高架線を上る。鳴尾・武庫川女子大前駅は高架化され、新しいホームへと移った。甲子園駅も高架化に併せて大掛かりな駅改良工事が行われ、ホーム幅は従来のほぼ倍となるなど大きく変貌を遂げた。甲子園駅を過ぎると、甲子園球場を南側に見つつ、名神高速道路を潜るため一旦地平に下りて久寿川駅を通過、その後は急勾配で再び高架線を上り、阪急今津線との接続駅である今津駅に着く。線路は廃止された西宮東口駅のホーム遺構を横目に過ぎると、西宮戎神社の最寄駅でもある西宮駅に着く。そのまま香櫨園駅を過ぎて、西宮市と芦屋市の市境にある堀切信号場まで高架線が続く。西宮市から神戸市東灘区・灘区の沿線には酒蔵が点在し、灘五郷と呼ばれる日本を代表する酒所の一つとして知られる。
芦屋市内は多くが地平区間のため踏切も多く残されているが、打出駅を過ぎると盛土で高架となっている区間もあり、所々線路の下をアンダーパスで貫かれている道路もある。過去に何回も風水害に遭った経験から盛土の高架とされたようだが、経緯ははっきりしない。芦屋駅は武庫川駅と同じくホームの下に芦屋川が流れており、またこの芦屋川沿い一帯は風致地区に指定されているため邸宅が多く建ち並んでいる高級住宅地でもある。芦屋駅から先、魚崎駅までは本線では最も新しく高架化した区間であり、2019年11月30日に上下線ともに高架化された。魚崎駅から先も延々と高架が続くが、線路は北に進路を変える。次の住吉駅から石屋川駅までの高架橋は阪神最古の高架橋でもある。その途中の御影駅で急カーブして西へほぼ直進する。日本初の高架車庫である石屋川車庫の横を抜けながら暫く高架は続く。西灘駅は高架駅であるが、西灘駅のすぐ西側を流れる西郷川は天井川のため、線路の側道は大阪寄りにある駅改札口付近から神戸方面に向かって上り坂となっており、西灘駅の神戸寄りホーム端部はほぼ地平レベルとなっている。西郷川の西側はそのまま平地となっているため線路も地平となり、ここで神戸市内唯一の踏切である岩屋踏切を通過する。この岩屋踏切を過ぎるとすぐに線路は下り坂となり、次の岩屋駅では掘割となっている。岩屋駅ホームに接するトンネルに入ると、ここから先は延々と地下線が続く。
岩屋駅から先は、かつて『日本一ホーム幅が狭い』と言われた春日野道駅の手前で再び国道2号の地下を通り、そのまま神戸側のターミナル駅である神戸三宮駅へと到着する。神戸三宮駅はかつて三宮駅と称していた時代は南側の3番線が折り返し線であったが、駅改良工事が終了した現在は折り返し線を中央に挟んだ頭端式でもある島式ホームへと改造されている。神戸三宮駅を過ぎると、島式ホーム1面のみの、かつての終着駅である元町駅へと辿り着く。かつては殆どの普通が元町駅で折り返していたが、現在は早朝・深夜の一部の普通を除き全ての列車が、そのまま接続している神戸高速線へと直通している。
他社線との直通運転を盛んに行っており、神戸側では1968年から神戸高速線を経由して神戸市を横断し、その先の山陽電気鉄道本線(以下、山陽方面)とも相互直通運転している。この際の列車種別は「直通特急」や「特急」などの上位種別に限定し、速達性を確保している。また、神戸三宮駅 - 元町駅間には山陽電気鉄道のS特急と普通が乗り入れてくる。また、これとは別に大阪側では尼崎駅から分岐する阪神なんば線を介して近鉄(以下、近鉄方面)との相互直通運転を2009年から実施している。さらには、阪神なんば線を介して近鉄特急も2014年3月22日から団体臨時列車として本路線への乗り入れを開始した(運行は特定の土曜・休日のみで、朝8時台に神戸三宮駅発、夕方に神戸三宮駅着で運行)。
かつては一つの路線としては列車種別が非常に多く、他社線と相互乗り入れをしていることも相まってダイヤは複雑なものとなっていた。特に、この列車種別は単なる上下関係ではなく、一部の下位種別は上位種別が停車する駅を通過するものがあること(「千鳥停車」と呼ばれる)や、同一種別であっても上りと下り・曜日・時間帯によって停車駅が異なるケースが多く、不慣れな利用者にはわかりづらかった。しかし、2009年3月の阪神なんば線延伸開業に伴うダイヤ改正では本線では準急を休止させるなど列車種別が整理され、現在は比較的シンプルなダイヤとなっている。ただ、千鳥停車は現在でも多く設定されており、平日朝ラッシュ時を中心に、直通特急・快速急行・区間特急・区間急行で行われている。また、その平日朝ラッシュ時においても大阪梅田行きの優等列車は基本的に大阪梅田駅まで先着するダイヤが組まれているほか、かつては甲子園駅を出ると大阪梅田駅まで無停車であった区間特急を尼崎駅・野田駅にも停車させるなど、混雑の平準化が図られている。
2010年代以降、特に首都圏の大手私鉄各社で導入が進んでいる有料座席定員制列車については、阪神の場合、特急は本線区間での乗車時間は長くて30分台であること、日中も含めて運行本数が多いことから設定は見送られてきたが、2022年12月末から2023年1月末にかけての金曜日夜間に、試験的に大阪梅田発青木行き夜間有料臨時列車「らくやんライナー」を運行した(後述)。
車両は、主に「特急」や「急行」などで用いる6両編成の赤胴車と、高い加減速性能を求められる「普通」限定で用いる4両編成の青胴車(ジェットカー)の2種類に分けられているのが特徴である。
平日日中の各区間の1時間あたりの基本的な運行本数は下表のとおりである。
平日朝ラッシュ時では、直通特急、区間特急(上りのみ)、快速急行、区間急行、普通を12分サイクルで運行するのを基本とする。停車駅の多い区間特急や区間急行を設定することで、日中は優等列車が通過する駅にも優等列車を停車させることで利便性を向上させ、きめ細かな通勤需要に応えることを目指している。その他、平日では日中から夜間にかけて、土曜・休日では朝から夕方にかけてそれぞれ10分サイクルで運行しているが、朝や夜間は12分サイクルで運行し快速急行の尼崎駅での連結・切り離し作業時間を確保している。
1998年に設定された種別で「直特」と略されることがある。「特急」と同様、最上位の種別として扱われており、乗車券のみで乗車可能である。途中停車駅は、尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・魚崎駅・御影駅・神戸三宮駅である。本線内の停車駅は「特急」と同じであるが、例外的に平日朝ラッシュ時の一部の大阪梅田行きが甲子園駅を通過する(代わりにその時間帯は区間特急が甲子園駅に停車する)。
ほぼ終日設定されており(大阪梅田発最終列車は22:36)、日中は1時間あたり4本(10分ないし20分間隔)が運転されている。全列車が山陽方面に直通し、大阪梅田駅 - 山陽姫路駅間で運転されるが、早朝・深夜において本線内では尼崎駅・西宮駅・御影駅を始発、または尼崎駅・御影駅を終着とする列車もある。車両は阪神・山陽の6両編成が用いられるが、山陽車両の比率が高い。
終日にわたって運転される種別であり、本線の全区間で通過運転を行い前述の「直通特急」とともに本線の最上位の種別を構成する。日中では前後の「直通特急」に挟まれる形で1時間あたり2本(30分間隔)が運転され、特急系統は「直通特急」と合わせて10分ヘッドのダイヤ構成となっている。
1954年9月のダイヤ改正で登場。登場当初は日中に20分間隔で、途中三宮駅のみに停車し、梅田駅 - 元町駅間を27分で結んだ。その後は西宮駅・芦屋駅・御影駅にも停車する代わりに急行は基本的に梅田駅 - 西宮駅間に短縮することで、以後現在に続く体系となった(詳細は後述)。
本種別も山陽方面との直通が基本であるが、「直通特急」とは異なり山陽側の終着駅は須磨浦公園駅までであるほか、神戸三宮駅 - 須磨浦公園駅間は各駅停車となるのが違いである。大阪梅田駅 - 須磨浦公園駅間で運転される列車のほか、一部に大阪梅田駅 - 東須磨駅間も設定されている。また、神戸高速線内発着列車として大阪梅田駅 - 高速神戸駅または新開地駅間の列車が設定されているほか、線内運転として深夜の下りには大阪梅田発神戸三宮行きが、土曜・休日早朝上りには神戸三宮発大阪梅田行きが、それぞれ設定されている。原則として阪神の車両を使用するが、一部の特急は直通特急の折り返しによる運用の都合で山陽の車両を使用する。
2001年のダイヤ改正まで、2000系以前の車両による特急運用時に限り専用マークを掲げて運転されていた。現在では、高校野球開催期間中の特急充当車に専用の標識板を掲示している(2013年春までは山陽電鉄の車両の運用による阪神特急を除く)。甲子園球場で阪神タイガースの主催試合が開催される時は、タイガースのマークが描かれた標識板を阪神(直通特急および阪神特急運用時)・山陽電鉄の車両にそれぞれ掲示する。
このほか、2016年3月のダイヤ改正までは、土曜・休日を中心に神戸三宮駅 - 高速神戸駅・新開地駅・東須磨駅・須磨浦公園駅で区間運転する「特急」があった。この特急は折り返しによる運用であり、同区間では各駅に停車するため実質は「普通」であったが、表示幕が対応していなかったため、敢えて「特急」として運転された。
平日朝ラッシュ時に「直通特急」とともに運転される種別で、上り方向のみに7本設定されている。全列車が御影発大阪梅田行きで運転され、大阪梅田駅1番線に到着後は回送として折り返す。なお、ラッシュ時に運転される優等列車のため混雑することから、大阪側から4両目に阪神電車で唯一女性専用車両が設定されている。
現行ダイヤでは名前の通り、各駅に連続停車する区間と通過運転を行う区間がある。後者で上位種別である直通特急・特急の停車駅を通過する「千鳥停車」が見られ、直通特急が停車する西宮駅を通過する。2012年までは野田駅も、2016年までは尼崎駅もそれぞれ通過していた。
全列車が御影駅で神戸三宮方面からの普通と接続し、青木駅では後続の快速急行と直通特急の待避を行っている。車両は阪神の6両編成を用いる。
1981年のダイヤ改正で芦屋駅を始発駅として1本が設定されたのが始まりである。その後神戸側の始発駅を三宮駅に変更して運転区間を延長したほか、何度か増発や停車駅変更が行われた。この時期は全区間で通過運転を行い、現在のように連続停車する区間はなく、また、ほぼ阪神本線全線を走るため「区間特急」という名称には、やや違和感のある運行形態であった。「特急」とは異なる停車パターンで運転されていたのは同じで(芦屋駅のみ両方が停車)、特急より停車駅が少なかった時もある。2009年ダイヤ改正では区間特急と直通特急との続行ダイヤから芦屋駅と甲子園駅で次の快速急行に連絡するダイヤに変更され、始発駅が青木駅となり運転区間が短縮され、連続停車区間が出現した。その後2012年ダイヤ改正では野田駅にも停車し、2016年ダイヤ改正では運転区間が拡大され御影駅が始発駅となり、また魚崎駅・尼崎駅も停車駅となるなど、列車の趣旨にも若干の変化が見られる。
平日ではあるが年末のため土曜・休日ダイヤとされた2014年12月29日には、通勤輸送にも配慮して初めて臨時区間特急を4本運転した。
神戸三宮駅と阪神なんば線大阪難波駅を経由して近鉄奈良線を結ぶ速達列車であり、早朝・深夜を除きほぼ終日運行されている。
基本的には神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運転される。ただ、一部例外もあり、上り(近鉄奈良方面行き)では平日朝と土休日夕方には大和西大寺行きや、大阪難波駅にて準急または普通に変更しそのまま近鉄線に直通する大阪難波行きがそれぞれあるほか、下り(神戸三宮行き)では平日朝に尼崎始発や甲子園始発がある。なお、近鉄線内で障害が発生した場合は、近鉄線内には乗り入れず西九条駅発着に変更されることがある。全列車が尼崎駅から阪神なんば線に入るため本線の大阪梅田駅 - 尼崎駅間には乗り入れないが、ほとんどの列車が尼崎駅で大阪梅田駅発着の急行ないし区間急行と接続することで大阪梅田方面との利便性も確保されており、尼崎駅 - 西宮駅間で本数が減少する急行を補完している。
急行よりも上位で特急よりも下位にあたる列車種別(停車駅数的には区間特急と特急の間)であるが、特急などの上位種別列車に抜かされることはない。阪神の現行種別の中でも時間帯によって停車駅が異なることが顕著である。平日朝ラッシュ時は武庫川駅・今津駅を通過するほか、ホームの問題(詳細は各駅記事参照)から特急停車駅である御影駅と平日朝ラッシュ時を除いて芦屋駅を通過しており、事実上の千鳥停車となっている。
平日は朝ラッシュ時から日中にかけてが6両編成で、平日夕ラッシュ時以降と土曜・休日はほぼ全ての列車が8両編成で運行されている。一方、阪神なんば線や近鉄方面へ直通する列車は尼崎駅から最長である10両編成で運行することもあるため、近鉄線乗り入れ開始当時と比べると数は減ったものの尼崎駅で連結・切り離し作業を行うことがあり、この作業中に大阪梅田方面発着の列車が後から追いついて先に発車することがある。
先述の車両数の違いのほか、車両に関しても阪神車両(18m・3扉)、近鉄車両(21m・4扉)ともに運用に入るため、列車によりホームでの乗車位置(阪神車は青色○、近鉄車は赤色△で案内)が異なる。ただし、阪神車か近鉄車かの運用は固定されている(車両形式までは固定されていない)ため、どちらの車両を使用するかは、駅の発車標または2018年3月17日より配信を開始したスマートフォンアプリ『阪神アプリ』で確認が可能である(現在は駅の時刻表には記載はない)。
種別自体は1983年12月のダイヤ改正にて、梅田駅 - 西宮駅間の急行を延長する形で登場。当初は休日日中のみの運行で、また西宮駅 - 三宮駅間ノンストップであった(梅田行きに限り、当初は青木駅に停車して特急を待避するダイヤで運行)。1987年12月より平日日中にも拡大、同時に梅田行きの青木駅待避がなくなった。その後、1998年2月のダイヤ改正で直通特急の運転開始・日中10分間隔の実施により、日中は梅田駅 - 西宮駅間の急行に置き換えられ、代わりに平日夕方ラッシュ時間帯(17 - 19時台)に本線全般で運転される通勤時間帯の直通特急を補完する中長距離速達種別という位置付けとして存在した。
2009年3月の阪神なんば線開通に伴い現在に似た運行形態に変更され、梅田駅 - 尼崎駅間の運行は取り止められ、青木駅と岩屋駅を通過し芦屋駅と魚崎駅に停車する形になった。
2012年3月20日ダイヤ改正で、土曜・休日のみ上りは初発から3列車が神戸高速線新開地発近鉄奈良行きへと変更された(いずれも阪神の車両で運転)。
2016年3月19日ダイヤ改正より、神戸三宮駅到着後は回送として尼崎車庫へ折り返していた列車を営業列車化して神戸三宮発尼崎行き・大阪難波行き・大和西大寺行きをそれぞれ増発した。
2019年3月20日より、基本的に7時から20時までの間に限り、車掌が携帯するタブレット端末を使用して、日本語と英語、一部は中国語と韓国語でも多言語自動放送を行っている。
2020年3月14日ダイヤ改正より、朝と夜間で増発を行い、上りは全ての列車を大阪難波駅まで快速急行として運転する。また、土曜・休日は殆どの列車が8両編成となり、併せて殆どの列車で連結・切り離し作業を省略したため所要時間も短縮された一方で、ホーム有効長の問題から芦屋駅は土曜・休日に限り通過に変更した。また、この改正で平日日中のうち武庫川駅に停車する列車は今津駅にも停車となった。なお、8両編成での運転に備えて、近鉄との直通運転開始後、西宮駅と芦屋駅以外の快速急行停車駅では近鉄8両編成が停車できる170m程度へのホーム延伸工事を行った。
2022年12月17日のダイヤ改正で、平日夕ラッシュ時も8両編成となったため、芦屋駅の停車が平日朝ラッシュのみとなり、平日日中にあった武庫川駅・今津駅・芦屋駅の全てに停車する列車は消滅した。また平日は日中時間帯の運転が、毎時2本に削減された。土曜・休日ダイヤにあった朝の新開地発近鉄奈良行きは全て神戸三宮始発に変更され、新開地駅 - 神戸三宮駅間での運転は再び消滅した。
大阪梅田駅 - 尼崎駅・甲子園駅・西宮駅間に設定される種別である。平日の日中と土曜・休日の19時すぎまでは大阪梅田駅 - 西宮駅間の列車と大阪梅田駅 - 尼崎駅間の列車を交互に運転し、そのうち尼崎駅発着の列車が同駅で快速急行と接続する。基本は大阪梅田駅 - 西宮駅間の運転だが、土曜・休日の夜間は主に大阪梅田駅 - 甲子園駅間の運転となる。
毎年8月に行われるなにわ淀川花火大会開催当日の終了時間後に急行が姫島駅に臨時停車する。また、西宮えびす開催日には土曜・休日の夜間の甲子園駅発着の列車が運転区間を延長して西宮駅発着で運転されるほか、甲子園球場でのイベント開催日にも同様に一部が西宮駅発着に変更されることがある。
2009年3月20日改正前は、平日の昼間と深夜時間帯は梅田駅 - 西宮駅間(一部は梅田駅 - 甲子園駅間)、朝ラッシュと夜間では梅田駅 - 三宮駅間で運転されていた。朝ラッシュの一部列車は神戸高速鉄道線、山陽電鉄線内にも乗り入れをしていた(下り一部は東須磨駅、須磨浦公園駅まで、上り一部は東須磨駅、新開地駅から)。当時は、平日下り早朝に三宮発、神戸高速鉄道線新開地・山陽電鉄線東須磨行きの急行が合計5本あった。この急行は通過駅がなく各駅停車であるが、終着駅で折り返し梅田行き急行として運転される列車であり、急行系車両を使用しているため種別を「急行」として運転していた。平日下り三宮方面へ向かう急行は直通特急に追い抜かれることなく、三宮駅まで先着していたが、平日朝ラッシュ時の上りの急行は青木駅で区間特急と直通特急に、夜間の上りの急行は甲子園駅で直通特急に追い抜かれていた。土曜・休日については日中は梅田駅 - 西宮駅間、夜間は梅田駅 - 甲子園駅間のみの運転で、西宮駅以西の運用はなかった。
2006年10月28日のダイヤ改正では、従来の上りに加え、下りのすべての急行も大石駅に停車するようになった。
2009年3月20日ダイヤ改正で西宮駅以西の運転が一旦廃止され、運転区間は終日梅田駅 - 西宮駅間に短縮された。併せて福島駅が通過駅、今津駅が停車駅となり、朝のラッシュ時の運転は区間急行に置き換えられる形で休止された。平日夕方 - 夜間の上り急行は甲子園駅で直通特急や快速急行と接続する。
2016年3月19日のダイヤ改正で、平日の深夜に運転されていた最終の梅田発御影行き特急が急行に変更されたため、平日深夜の下り1本のみだが西宮駅 - 御影駅間で定期の急行が復活した(西宮駅 - 御影駅間停車駅は特急と同じ)。
2022年12月17日のダイヤ改正では、平日日中の快速急行が毎時3本から毎時2本に削減されることに伴い、同時間帯では大阪梅田駅 - 尼崎駅間の急行のうち毎時1本が西宮駅まで延長された(平日日中の尼崎駅 - 西宮駅間は1時間あたり快速急行2本・急行4本)。また、平日朝7時台の下り2本が区間急行に変更されたほか、2016年に設定された平日深夜の大阪梅田発御影行きが廃止された(これにより急行は再び大阪梅田駅 - 西宮駅間のみとなった)。
平日朝ラッシュ時、急行に代わって大阪梅田駅 - 甲子園駅間および青木駅 → 大阪梅田駅間に設定される種別である。停車駅は、急行の停車駅に加えて福島駅、千船駅、鳴尾・武庫川女子大前駅が加わる。青木発大阪梅田行き2本以外は全て甲子園駅発着である。上りは大阪梅田駅まで先着する。下りは尼崎駅で快速急行と接続し、尼崎駅から快速急行を利用することで後続の直通特急よりも神戸三宮駅へ先着できる。また、終着の甲子園駅では直通特急と接続する。
区間急行の種別自体は2001年3月10日のダイヤ改正で一度廃止されたが、2006年10月28日のダイヤ改正で復活したものである。
阪神なんば線開業直前は平日朝ラッシュ時に甲子園発梅田行きが8本運転されており、途中で鳴尾駅・武庫川駅・尼崎駅・野田駅に停車し、一部を除いて尼崎駅で区間特急に、野田駅で直通特急に追い抜かれるダイヤを組んでいた。また、2001年に一度廃止されるまでは、姫島駅にも停車していた。同時間帯に走っていた急行とは少し異なり、鳴尾駅に停車した代わりに福島駅は通過していたが、朝の通勤時間帯における上り急行の混雑緩和と甲子園駅からの着席サービスを図る、他社でいう「通勤急行」の様な位置付けであった。
2009年3月20日のダイヤ改正で福島駅・千船駅が停車駅に加えられ、当該区間の急行を置き換える形で梅田発の下りも設定された。
2020年3月14日のダイヤ改正で、平日朝ラッシュ時の上り大阪梅田行き急行2本が区間急行に置き換えられ青木駅始発となり、停車駅に芦屋駅、西宮駅、今津駅が追加された。
2022年12月のダイヤ改正では、平日朝ラッシュ時の大阪梅田発急行2本が区間急行に置き換えられた。
各駅に停車する種別。車両は原則として加減速性能の高い4両編成の「ジェットカー」が使用されるが、一部時間帯に運転される神戸三宮駅 - 新開地駅・東須磨駅・須磨浦公園駅間の列車には急行系車両が使用される。これらの急行系車両を使う列車は前述の通り特急の折り返し運用によるもので、長らく各駅停車の「特急」として運転されていたが、2016年3月19日のダイヤ改正に合わせて急行系車両にも新たに『普通 神戸三宮』などの表示幕を追加し、「普通」に統一された。
終日、原則として大阪梅田駅 - 高速神戸駅間で運転されているが、日中の一部列車は尼崎駅で車両交換を行う。かつては元町駅にて折り返し運転を行っていたが、1998年2月15日のダイヤ改正で高速神戸駅まで延長された(ただし、それ以前の1991年改正から既に夕方ラッシュ時に高速神戸駅で折り返す運用も設定されていた)。延長された理由は、運行本数の増加により元町駅での折り返し時間に余裕がなくなったこと、そのダイヤ改正で運行開始した直通特急の一部が西元町駅を通過扱いとしたこと、高速神戸駅で新開地方面の列車接続をするため等である。また、時間帯によっては途中の尼崎駅・西宮駅・御影駅・神戸三宮駅・元町駅を始発・終着駅とする列車も設定されている。石屋川駅行きは2022年12月ダイヤ改正で廃止された。
緩急接続は、基本的に尼崎駅で急行・快速急行(平日朝の大阪梅田行きは区間急行、早朝・深夜時間帯は直通特急・特急)に、千船駅と尼崎センタープール前駅で特急・直通特急の、御影駅で快速急行の、それぞれ通過待ちを行う。西宮駅では早朝・深夜の一部列車を除いて直通特急・特急と快速急行または西宮駅発着の急行に、御影駅と高速神戸駅でそれぞれ直通特急・特急に接続する。加えて下りは野田駅で急行(平日朝ラッシュ時は千船駅で区間急行)に接続するほか、早朝・夜間に甲子園駅で直通特急・特急に接続する列車、大阪梅田駅発甲子園駅止まりの急行から接続を受ける列車もある。
2009年3月20日実施のダイヤ改正で、2006年10月28日改正時から実施されていたジェットカーによる山陽電鉄東須磨駅までの乗り入れ運用が廃止された。ただし新開地駅までの乗り入れは継続している(早朝から朝にかけて平日3本、土休日2本と土休日夜に1本)。
5700系や5500系リノベーション車両には乗降扉の横に自動ドアボタンが設置されており、これらの車両で運用する列車のうち緩急接続や通過列車の待避で長時間(2分以上)停車する駅においては、車内温度維持のため乗降客がドアを開閉する半自動扱いとしている。なお、半自動扱いをした場合は、発車直前に自動扱いに切り替えて一旦ドアを全開閉する。
阪神本線内は神戸三宮駅 - 元町駅間のみの運転で、上りは朝に、下りは深夜に運転されている。下りは神戸三宮発山陽姫路行きが、上りは高砂発神戸三宮行きが運転されている。山陽の車両のみで運転されている。
阪神本線内は神戸三宮駅 - 元町駅間のみの運転で、朝・夕以降(土曜・休日は僅かだが日中にも)に神戸三宮駅 - 山陽姫路駅間で運転されている。神戸三宮発ではほとんどが山陽姫路行きだが、東須磨行き、東二見行き、飾磨行きもわずかに設定されている。なお、ごく一部の列車を除いて大石駅まで回送され同駅で折り返している。須磨浦公園以西へ直通する列車は山陽の車両のみで運転されている。
準急は、2009年3月20日改正によって本線では運行が休止された種別である。 休止直前は、平日の朝夕ラッシュ時間帯に運転される種別となっていた。朝ラッシュ時は主に下りは梅田発の尼崎・甲子園行き、上りは石屋川駅・御影駅・西宮駅・甲子園発の梅田行きが運転され、夕ラッシュは梅田駅 - 尼崎駅・甲子園駅間で運転が行われていた。それ以前には下り大石駅始発もあったが、こちらは大石駅から東須磨駅までの各駅停車であり、急行系車両使用という理由で準急の種別表示で運転されていた。
朝夕ラッシュ時間帯の普通を補完する種別で、ジェットカーよりも加減速性能の低い急行系車両での運転のため、一部の駅を通過としたが、乗車機会の確保のため停車駅が多く、梅田駅 - 西宮駅間では淀川駅・大物駅・尼崎センタープール前駅(但し平日朝の梅田行きは停車)・久寿川駅・西宮東口駅(のち廃止)以外の駅には全て停車しており、2駅連続で通過する区間はなかった。西宮駅以遠はダイヤ改正時に停車駅が見直されることがあり一定していなかったが、ホーム有効長が4両分のみであった住吉駅は通過していた。急行系種別と千鳥停車を行っていた。
2006年10月28日のダイヤ改正より、上り準急が打出駅に停車し、香櫨園駅が通過となった(打出駅のホームが延伸され6両編成対応になったことと、香櫨園駅に区間特急が停車するようになったため)。この時の通過駅は淀川駅、大物駅、尼崎センタープール前駅(上りは停車)、久寿川駅、香櫨園駅、芦屋駅、青木駅、住吉駅のみであった。また、同改正前は最長で山陽電鉄東須磨駅まで運転されていた下り準急は、すべて尼崎駅・甲子園駅までに運転区間が縮小された。
停車駅が多い上に特急などの待避も多く所要時間がかかるため乗車率が低迷していたことから、2009年3月20日の阪神なんば線開業に伴う改正で休止とし、準急種別は阪神なんば線 - 近鉄奈良線間の相互直通列車に限定して用いられる(同時に阪神なんば線には「区間準急」が登場)ことになり、本線における準急は消滅した。準急が停車していた深江駅・打出駅・今津駅では、代替で区間特急が新規で停車するようになった。
なお、1980年代までは休日の昼間、梅田駅 - 甲子園駅間(一部は尼崎駅まで)に設定されていた。これらは「不定期列車」としての運転であり、冬季(12月 - 2月)は運休となっていた。また、1963年2月から1968年4月まではダイヤの関係で梅田 - 甲子園間の一部の不定期準急にジェットカーを使用していた列車もあった。
1990年頃まで準急は5両編成で運転されていた。このため、準急にはR車や両運転台車両だった3301型が多く充当されていた。普通の終日4両編成化を機に、これまで特急・急行は6両編成、区間急行・準急は5両編成だった優等列車をすべて6両編成に統一したことから、準急にも8000系が充当されるようになった。
臨時特急は、阪神甲子園球場でのイベント開催当日(主に春・夏の高校野球大会、プロ野球試合によるもの)に、大阪梅田駅 - 甲子園駅間で運転される。大阪梅田発はイベント開催直前のみ、甲子園発は原則として同終了後のみの運転で、定期の直通特急・特急の直前に発車するよう予め運行時刻が設定されている。現在はウェブサイトで予め大阪梅田発のみ発車時刻を公表している。
阪神なんば線開業までは停車駅は区間特急と同じで、実質的に途中無停車の直行列車だった。
阪神なんば線開業後は甲子園発大阪梅田行きのみ尼崎駅に停車し大阪難波方面へのアクセスに配慮しているが、大阪梅田発甲子園行きは現在も甲子園駅まで無停車で運転されている。甲子園発は、阪神甲子園球場の観客数に合わせて大阪梅田行きのみ最大4本が運転されるが、阪神なんば線方面への直通列車は運転されない(阪神側は甲子園駅に押し寄せる数万人の乗客を効率的に捌かなければならないことを理由に挙げている)。
甲子園発の運転本数と発車時刻は、いずれも甲子園駅駅長が当日のイベントの動向と想定される乗客数を見計らった上で決定し、運転指令に指示を出している。球場の入場者数や試合の展開などもチェックしており、例えばタイガースが大差でリードされるような展開では「試合中でも7回ぐらいから帰宅ラッシュが始まる」ため早めに臨時特急を動かすが、一方でタイガースが勝利した場合は「ヒーローインタビューや六甲おろしの合唱などが終わってから観客が動く」ため、臨時特急の発車時刻も少し遅めにするといった細かい調整を行っている。
2023年11月23日、神戸と大阪で阪神タイガースとオリックス・バファローズの優勝パレードが同時開催されたことに合わせ、元町発大阪梅田行き臨時特急を1本運行した。この列車は途中、神戸三宮駅のみに停車し、それ以降は終着の大阪梅田駅までノンストップで運行された。車両は1000系1201F「日本一特別ラッピングトレイン」を使用し、車内も特別装飾とした。なお、車両は臨時特急と表示されたが、駅での表示は『貸切』であった。当日は阪神タイガースの優勝パレードが午前に神戸で、午後に大阪で開催されたため、臨時特急もそれに合わせて神戸から大阪へと移動する阪神ファンのために上り1本のみ運行した。なお、オリックス・バファローズの優勝パレードは阪神タイガースとは逆の行程で実施された。
臨時快速急行は、毎年8月上旬のみなとこうべ海上花火大会開催日と、12月上旬 - 中旬の神戸ルミナリエ開催期間中のうち、土曜・日曜の夜間の上り(神戸三宮駅発)のみ設定される(2020年以降はいずれも中止のため設定なし)。定期列車での近鉄奈良行き最終が発車後に、尼崎駅始発の阪神なんば線の定期列車(区間準急・普通も含む)を延長する形で、本線は臨時快速急行として運転する。なお、駅の発車標、阪神車両・近鉄車両いずれも『臨時快速急行』の表示は用意されていないため、定期列車同様に『快速急行』または『快急』と表示して運用している。
停車駅は土曜・休日における定期列車の快速急行と同一である。
近鉄との相互直通運転を開始した2009年の12月に初めて設定された。以降、毎年神戸ルミナリエの時期のみの運転であったが、2015年からは、毎年8月上旬のみなとこうべ海上花火大会の開催日にも設定された。
このほか、平日ダイヤでは初めての臨時快速急行が、天理教教祖誕生祭に合わせて、2011年4月18日に神戸三宮8時53分発天理行きが1本運転された。この列車は8時50分頃に神戸三宮駅に到着する定期列車の快速急行の折り返しであり、通常は回送として尼崎車庫へ向かう列車であったが当日は客扱いとした。列車側の方向幕では種別表示のみの「快速急行」とし、正面に「大阪難波経由天理行」と書かれたヘッドマークが取り付けられた。駅の案内表示では「快速急行 難 波」とし、「難波から臨時急行天理行きになります」の注意表示が併記されていた。2012年以降も、この神戸三宮8時53分発天理行き臨時快速急行は継続して運転され、天理教の月次祭(毎月26日)に合わせ、毎年3月から年内にかけての毎月26日のみ、当日が平日ダイヤ適用日である場合に限り運転された(当日が土曜・休日ダイヤ適用日の場合は運転せず)。また2011年同様、特製ヘッドマークを装着している。なお、この神戸三宮8時53分発は2016年3月のダイヤ改正で定期列車化され、快速急行大和西大寺行きとして運転されているほか、平日の天理教祭典日に限り大和西大寺駅から天理行き臨時急行に変更して天理駅まで延長運転する「天理臨」も継続され(専用のヘッドマークも用意)、2021年7月3日の近鉄のダイヤ変更で平日の毎日、大和西大寺駅から天理行き急行に変更して天理駅まで運転されるようになった。
臨時急行は、臨時特急や臨時快速急行と同じように、阪神甲子園球場でのイベント開催日のほか、神戸ルミナリエやみなとこうべ海上花火大会、十日えびすといった沿線での大きなイベント開催時の土曜・休日にも運転される。甲子園駅を境に、臨時特急が大阪梅田方面のみに運転されるのに対し、臨時急行は神戸三宮方面のみに運転される。停車駅は、大阪梅田駅 - 西宮駅間は定期の急行と同じで、西宮駅 - 神戸三宮駅間は直通特急・特急と同じである。
阪神甲子園球場でのイベント開催日には、イベント終了後に甲子園発神戸三宮行きが運転されることがある。なお、この神戸三宮行きは定期列車の運転区間延長ではなく、臨時特急と同じく定期列車とは別立てでの運行(尼崎車庫から当駅までは回送)である。また、既に「急行」の節で述べた通り、球場でのイベントが土曜・休日のプロ野球のナイター試合であった場合、線路容量の関係で試合終了前後の定期の大阪梅田駅 - 甲子園駅間の急行を西宮駅まで延長する。
一方、神戸ルミナリエなどほかの沿線での大きなイベント開催時の土曜・休日の夜間に運転される臨時急行は、大阪梅田駅 - 甲子園駅間の急行を、神戸三宮駅発または西宮駅発着として延長した区間が臨時急行として運転される。
大阪梅田発西宮行きは、大阪梅田駅から西宮駅までそのまま『急行』として運転される。一方、神戸三宮発に関しては、2009年3月のダイヤ改正までは、梅田駅 - 神戸三宮駅間で定期運行されていた急行の停車駅から大石駅を抜いた駅(西宮駅以西は芦屋駅・青木駅・御影駅・岩屋駅)に停車していたが、同改正で西宮駅以西における急行の定期運行は無くなったため、現在は大阪梅田駅 - 西宮駅間は定期の急行、西宮駅 - 神戸三宮駅間は定期の特急の停車駅(芦屋駅・魚崎駅・御影駅)に停車する形で運行されている。神戸三宮発または西宮発は、甲子園駅(定期運行時の始発駅)到着直前に、列車の方向幕はそれまでの『臨急 梅 田』から『急行 梅 田』(LED表示車は『臨急 大阪梅田』から『急行 大阪梅田』)へと変更される。また、甲子園駅では定期列車と同じく直通特急・特急の発車後の出発であるため、甲子園駅までは先着するものの、尼崎駅・大阪梅田駅へは後続の直通特急・特急が先着する。
かつて、2009年3月ダイヤ改正から2012年3月ダイヤ改正までは、土曜・休日の夕方の梅田駅 - 尼崎駅間の急行(尼崎駅で快速急行と接続)は、引上げ線の容量の都合から尼崎駅で折り返さず、回送列車として甲子園駅まで送り込まれた上で同駅構内の引き上げ線で折り返していた。特に阪神甲子園球場での催事がある日に限り、この折り返し回送列車のうち一部を客扱いさせた上で尼崎駅まで臨時急行として運行させることがあった(下の画像参照)。この臨時急行は、尼崎駅から先は定期の急行として運用されるが、甲子園駅 → 尼崎駅間は元々回送列車のスジをそのまま利用していたため、武庫川駅は通過した。また、尼崎駅到着直前に、列車の方向幕はそれまでの『臨急 梅田』から『急行 梅田』へと変更した。
このほか、2015年の夏の高校野球開催期間中には、前もって早朝から混雑が予想された特定の日に限り、朝5時台から6時台にかけて梅田発甲子園行きの臨時急行を例外的に増発した。2016年も同様に、公式ウェブサイトでは夏の大会開催期間中の当日が準決勝戦・決勝戦である日を除く土曜・日曜・祝日に限り朝6時台に梅田発甲子園行きを2本増発するとアナウンスされたが、実際には15日以降も閉幕まで平日でも主に朝5時台に増発が行われた。2017年からコロナ禍となる直前までの2019年にかけても、開催期間中はお盆休みの土曜・休日ダイヤ運転日を中心に始発前の4時58分から6時25分までの間に6本の増発が行われた。なお、この梅田発甲子園行きの臨時急行は、列車・駅での表示はともに『臨急』とせず『急行』として運行した。2020年以降はコロナ禍で高校野球でも指定席が設けられたこともあり、早朝の臨時急行は運行されていない。
阪神では初となる、有料座席定員制列車。『夜間有料臨時列車(らくやんライナー)』と称する。
2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも金曜日)に、大阪梅田発青木行き臨時列車として、大阪梅田駅20:19発(1号)、21:43発(3号)の計2本を試験運行した。停車駅は野田・尼崎・武庫川・甲子園・西宮・香櫨園・打出・芦屋の各駅で、うち大阪梅田駅と野田駅のみ乗車専用とし、尼崎駅以遠の停車駅は全て降車専用とした。1号は千船駅に運転停車し(通過扱い)、3号は尼崎駅にて直通特急に追い抜かれるダイヤであった。終着の青木駅には4番線に入線し、3番線を特急列車(1号は姫路行き直通特急、3号は高速神戸行き特急)が通過したのちに引き込み線に入り、1番線を経由して回送で折り返した(1号はそのまま大阪梅田駅まで回送され、駅到着後に改めて3号として運用された。3号は尼崎車庫まで回送)。車両は各日とも9300系を使用。定員は各車両とも30名で1列車180名(うち大阪梅田駅で150名、野田駅で30名の発売枠をそれぞれ設定)とし、必ず着席できるようにした。なお、神戸三宮寄り先頭車である6号車は野田駅乗車客専用とし、大阪梅田駅では1 - 5号車のみ乗車可能(但し車両間の移動は禁止)とした。乗車整理券は1乗車200円で支払いは現金のみとし、大阪梅田駅では1番ホームで乗車前に係員が、野田駅では発車後に車内で乗務員が、それぞれ料金を徴収した。駅の発車標や車両では『貸切』と表示し(駅では発車時刻も表示。先頭車両には『らくやんライナー』の副標も掲出)、ドアは各車両とも最後尾(大阪梅田寄り)のみ開閉させ、各車両に1名ずつ開閉ドア付近に乗務員を配置した。なお、運行初日であった2022年12月23日は、1号では早くから乗車希望の行列ができたため当初発車10分前からとしていた乗車整理券の発売を急遽繰り上げ20:00前から発売した。
今後に向けた参考とするため、乗車整理券裏面の二次元コードを読み取るかたちで利用客へのアンケートを実施した。
本線は、当初軌道線(路面電車)として開業した。しかしそれまでの軌道線が市街地交通としての役割しか果たしていなかったのに対し、阪神電気鉄道は都市間交通としての電車に注目し、それを阪神間に投入することにした。
そもそも阪神間には東海道本線がすでに存在するため、それを運営する逓信省鉄道作業局(後、運輸省→国土交通省)から並行路線の私設鉄道法に基づく鉄道敷設免許は下りる見込みは低く、ならば路面電車扱いにして内務省(後、建設省→国土交通省)から認可を取ろうということになり、それも本来軌道なら道路上に敷設しなければならないところ、一部でも路面区間(この場合御影や神戸など)があればいいということで認められたものである。そして阪神電気鉄道に対する認可後、京阪電気鉄道・箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)・大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)・京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)・京王電気軌道(現在の京王電鉄)・京成電気軌道(現在の京成電鉄)など、次々とこの類型の形による私鉄会社が誕生することになった。
ルート選定に関しては、東海道本線が阪神間をほぼ周辺集落を無視した直線ルートで敷設したのに対し、乗客獲得のため尼崎や西宮など、梅田街道・中国街道・西国街道沿いの市街地をできるだけ縫うようなものとなった。その結果、同じような条件で敷設された阪急宝塚本線や京阪本線などと同様に曲線区間が多くなり、株式会社をもじって「カーブ式会社」と揶揄される要因ともなった。
1905年(明治38年)4月12日、大阪出入橋駅 - 神戸筒井通駅間で阪神電気鉄道の営業が開始されたが、当時の軌道法では最高速度が8マイル/時(12.9km/h)とされていた所、同社は当時の車両(1形など)に速度計が無いことを利用して大幅にそれを上回る速度違反を行い、開業当初から表定速度20.4km/h で走り大阪出入橋 - 神戸雲井通間を1時間半で結んだ。東海道本線の列車による同区間(大阪駅 - 三ノ宮駅間)の所要時間は50分に対し阪神電気鉄道は60分(最初期は90分)で、国鉄が途中停車3駅なところを32駅も停車するなど利便性が良く、阪神電気鉄道開業後に国鉄のこの区間の乗客が約1/3に減少したという。
なお1911年には軌道法に基づく最高速度が25マイル/時(40km/h)となる(現在も変わらず)が、それでも阪神電気鉄道は当時阪神間所要時間を63分に短縮(表定速度29km/h)していたため、速度違反なのは変わらなかった。しばらく後に「新設軌道」という新しい軌道線区分(軌道線であるものの鉄道線並みの速度が出せる)ができて、ようやく速度違反でなくなった。
大正に入って、第一次世界大戦の辺りになると尼崎が工業都市化し、また西宮や芦屋付近は住宅地となって、乗客数は急増した。しかし軌道法に基づき単行運転を強いられた阪神電気鉄道では輸送力強化は容易でなく、苦肉の策として半急行として阪神間を四区間に分割、そのうち一区間を通過する電車を設定した。これによって阪神間58分へのスピードアップが果たされるとともに車両の運用効率が上がり、運転間隔を詰め2割の輸送力強化へつなげることができた。
それでも、抜本的な改革となる増結運転を実施するための交渉は内務省など監督官庁の間で続けられ、1913年に申請を出した後、まず専用軌道区間で、 1921年からは全線での2両運転が許可された。これには大阪府と兵庫県の知事が政府に沿線住民の陳情書を提出するなどの働きかけも行っている。またこれに伴い、1920年には総括制御が可能な301形が投入され、2両運転開始とともに1921年11月7日同線初の急行電車(阪神間56分)も設定されている。
なお、1920年に並行して阪神急行電鉄(阪急)神戸本線が開通し、「速くて空いている阪急電車」のキャッチコピーで梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 神戸(上筒井)駅間を50分→25分(1934年7月より)で結ぶようになると、梅田駅 - 三宮駅(現在の神戸三宮駅)間に60分前後を要していた阪神電気鉄道では危機感を強め、線形の関係でスピードアップは容易でなかったものの、1933年(昭和8年)までに併用軌道を廃して全線を専用軌道化して全線を35分で走破する特急の運転を開始(野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅に停車)し、さらには「またずにのれる阪神電車」をキャッチコピーとして電車の頻発運転(4分毎に急行→特急と普通を運転)も行い、対抗した。
また都市間のみならず沿線でも、阪急とは激しい乗客誘致合戦が繰り広げられた。詳しくは阪神急行電鉄#開業後の阪神電気鉄道との対立を参照のこと。
路線の専用軌道化を推し進めるに当たり、神戸の併用軌道区間については当初高架線によって解消を計画していたが、市の要請で地下線に変更した。同じ様に高架線での神戸三宮乗り入れを計画していた阪急は、地下線への計画変更に終始反対していて長らく工事に取り掛かることができなかったため、先に市街地への乗り入れを果たすことが競争で優位に立つ要因であると判断し、阪神電気鉄道側は譲歩したと見られている。
1933年に三宮駅への乗り入れを果たした後、阪急の三宮駅乗り入れを控えた1936年には中心地の元町乗り入れを達成し、「大阪の中心から神戸の中心へまたずにのれる」とアピールした。なお、1934年に三宮駅から先の区間の敷設免許を申請した際には、湊川駅まで延伸して山陽電気鉄道と接続する予定であったが、資材と予算の都合もあり、元町駅までを突貫工事で完成させて当面の措置としたといわれている。
なお阪神電気鉄道は、本線の線形の不利を補おうと、第二阪神線なる別線を張り付けでの複々線化も一時は検討していた。その計画は結果的には頓挫したが、一部は伝法線(→西大阪線→阪神なんば線)として開業している。さらに上記の元町駅・湊川駅への延伸も、本来はこの計画の一環として計画されたものであった。
同社はまた、阪神国道(今の国道2号)上に路面電車を敷設する計画が上がった際には、阪急以上の脅威となる可能性を危惧し、積極的に介入を行った。これは1927年に阪神国道電軌として開業し、翌年には阪神へ合併され、同社の国道線となっている(1975年までに全線廃止)。
戦後は1954年 - 1963年の一時期にかけて、3011形を使った梅田駅 - 元町駅間を三宮駅のみ停車で27分運転(三宮駅までは25分)という特急も設定したりしている。当時、阪急線で梅田駅 - 三宮駅間を走る特急の所要時間が十三駅、西宮北口駅停車で28分であり、また国電(国鉄電車)の急行電車(1958年から快速電車へ呼称変更)が24分で大阪駅 - 三ノ宮駅間を途中無停車(後に芦屋駅にも停車)で結んでいたので、若干国鉄には劣るものの線形の悪い阪神電鉄線の優等列車が、阪急線のそれを所要時間で凌ぐことになった。
特急は昼間のみ20分間隔で設定されたが、阪神間の途中駅の需要を取り込むため、1960年からは昼間10分間隔に増発される一方で西宮駅、芦屋駅、御影駅にも停車するようになった。1963年2月1日改正より昼間は12分間隔となり、1998年2月15日改正まで35年間続いた。
1964年に伝法線が西大阪線と改称され、大阪環状線と接する西九条駅まで延伸されたが、翌1965年には大阪南部から神戸方面への速達効果を狙い、同線との直通列車である「西大阪線特急」が設定された。しかし利用が低迷し、1974年に廃止されている。
阪神では湊川駅への延伸免許を、戦後もしばらく保有し続けていた。昭和30年代に入り神戸市が市電の代替も兼ねて、神戸市に乗り入れる各私鉄を地下線で接続する計画をたて、1958年に神戸高速鉄道を発足させてそれを具体化させると、阪神では件の延伸免許を失効させる代わりに、同社線への直通を行うことが決められた。
1968年に東西線(現:阪神神戸高速線)が開通し、阪神は予定どおり同線への直通と、それを介しての山陽電気鉄道本線との直通運転を開始した。
1998年2月の直通特急運転開始までは、以下のような運用であった。
1998年2月改正で直通特急が設定され、全面的な相互直通運転が実施されるようになり、2001年に山陽からの大石駅折り返し列車は廃止された。
2001年のダイヤ改正では、直通特急が増発され、沿線の住宅開発やユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) のオープンに伴い、全ての直通特急・特急が尼崎駅・魚崎駅に停車するようになった。阪神なんば線開業を目前にした2009年1月下旬ごろから駅名表示板の意匠変更(青地に白抜き文字)や、駅の自動放送、接近・発車メロディの更新が行われた。
2009年3月には阪神なんば線の開業により、三宮から難波、それに近鉄難波線・奈良線を経て奈良方面との相互直通運転が開始され、同時に、三宮駅から阪神なんば線を経由して近鉄奈良駅とを結ぶ優等列車として快速急行が日中毎時3往復新設され、前述の西大阪線特急廃止から約34年と4か月ぶりに西九条駅を経由の優等列車が設定された。その後も阪神間とミナミや近鉄奈良線沿線との間の利用増加に伴い、列車の増発が行われた。さらに、駅のホームを延長し、2020年3月14日より土曜・休日の快速急行は一部列車を除き8両編成で本線に直通するようになった。
2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも金曜日)には、阪神では初となる、有料座席定員制列車を試験運行した。『夜間有料臨時列車(らくやんライナー)』と称し、各日とも大阪梅田発青木行き臨時列車を2便運行した。 | [
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"text": "本線(ほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県神戸市中央区の元町駅までを結ぶ阪神電気鉄道(阪神)の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。",
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"text": "なお、本項目において単に「梅田駅」とあるのは現在の大阪梅田駅を、「鳴尾駅」は現在の鳴尾・武庫川女子大前駅を、「三宮駅」は現在の神戸三宮駅を、それぞれ指す。",
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"text": "大阪・キタの大阪梅田駅から神戸最大の繁華街に位置する神戸三宮駅を経由して元町駅まで至る。開業は1905年(明治38年)と古く、日本における都市間電気鉄道(インターアーバン)の先駆けとも言える路線である。当初は私設鉄道法ではなく軌道法に基づいて建設された路面電車として開業しており、当路線を皮切りに軌道法に基づいた私鉄路線が日本全国で次々と開業した。尼崎駅と大阪難波駅を結ぶ阪神なんば線とともに阪神電鉄の主要路線であり、阪神なんば線を経由することで、難波や道頓堀といった大阪・ミナミの繁華街にもアクセスすることができる。沿線の甲子園駅前には阪神タイガースの本拠地である阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)があり、試合やイベントがある際は多くの利用者で混雑する。",
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"text": "大阪・梅田と神戸・三宮の間を結んでいる鉄道路線は他にJR神戸線(東海道本線)と阪急神戸本線があるが、本路線は阪神間を結ぶ鉄道路線の中では最も海寄りを通り、路線敷設の経緯から線形はあまり良くなく駅数も最も多い。そのため普通用車両は後続の急行列車から逃げ切るために加減速性能が高くなっており、ジェットカーと称される。また、その車体色から急行用は赤胴車、普通用は青胴車と呼ばれる(阪神電気鉄道#走行性能も参照)。平均閉塞区間間隔は日本の大手私鉄では最短の240mで、「待たずに乗れる」多くの列車をさばくのに役立っている。",
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"text": "元町駅からは、阪神が第二種鉄道事業者として旅客輸送を行っている阪神神戸高速線と直通運転しており、同線を介して大阪梅田駅から山陽電気鉄道本線の山陽姫路駅まで直通する「直通特急」を運行している。終点の元町駅は1面2線構造の地下駅で全ての列車が神戸高速線に直通するため、実質的には途中駅のような扱いである。また、阪神なんば線を経由して大阪難波駅から近鉄難波線・奈良線とも相互直通運転を行なっており、神戸三宮駅から近鉄奈良駅まで直通する快速急行を運行している。ただし本路線を介した山陽電気鉄道と近鉄の相互直通運転は行われていない。",
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"text": "混雑地域を通ることから連続立体交差事業が盛んで、起点側の大阪梅田駅 - 福島駅(を少し過ぎた大阪環状線との交差部分手前)間、及び終点側の岩屋駅 - 元町駅間は地下化され、それ以外の区間でもほぼすべての区間が高架化されている。地上区間とされているのは武庫川駅の前後と堀切信号場 - 宮川の手前(打出駅より神戸側すぐ)、芦屋駅の前後、西灘駅 - 岩屋駅間(高架線と地下線との間を繋いでいる勾配の途中にある岩屋踏切の前後)のみである。そのため、踏切は全線でも尼崎市の武庫川駅(大阪梅田駅から12.0km)東隣にある武庫川堤防道路と交差する武庫川駅踏切と、芦屋市内の7箇所、そして先述の西灘駅 - 岩屋駅間にある岩屋踏切の、計9箇所のみとなっている(駅構内の係員専用通路を除く)。",
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"text": "起点は大阪梅田駅であるが、キロポストは神戸三宮駅から大阪梅田駅に向かってキロ数が増えていく。また、神戸三宮駅 - 元町駅のキロポストは、湊川への延伸線として開業した名残で、湊川駅を起点とした距離が記されている。",
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"text": "国土交通省への届出上の路線名は「阪神」を冠さない「本線」である。",
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"text": "現在大掛かりな駅改良工事を行っている大阪梅田駅を出ると、ハービスENT、ハービスOSAKAの地下を通り南下、国道2号の地下をJR東西線と並走する形で福島駅へと着く。福島駅を過ぎて福島小学校のあたりで地上に出て、すぐにJR大阪環状線の高架橋の下を潜りながら高架橋を上り、阪神電気鉄道の本社がある高架駅の野田駅に着く。",
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"text": "野田駅から先は昭和50年代までに高架化された区間であり、明治時代の路線建設時に資金の殆どをつぎ込むほどの難工事であった淀川の鉄橋などを通り抜け、また北へ南へと線路は蛇行しながら高架区間を進む。杭瀬駅を過ぎると左側には徐々に阪神なんば線の線路が近づいてくるが、この阪神なんば線との間にある大きな公園(小田南公園)はユニチカ発祥の地として知られる大日本紡績尼崎工場の跡地であり、将来的に阪神鳴尾浜球場に代わる阪神タイガースの二軍本拠地と球団寮・室内練習場などが整備される予定である。大物駅で阪神なんば線と合流する。",
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"text": "次の尼崎駅までの間は阪神なんば線が本線の南側を並走するが、尼崎駅手前で本線下り線は尼崎車庫のある南側へ寄って、一度地平に下りた阪神なんば線をオーバークロスして同駅5番線・6番線に入線する。当初の計画では、現在の尼崎駅1番線ホームを阪神なんば線上り線ホームとし、阪神なんば線上り線が本線上下線をオーバークロスして大物駅に向かうことを想定していたため、両駅間はそのまま高架線とせず、本線は上下線ともに一旦地平へと下り再び高架橋を上る構造とされた。下り線は付け替えられた一方、上り線は旧来のまま一旦地平に下りてすぐ高架線を上っているため、大物駅から尼崎駅方を見ると、上下線が阪神なんば線を巻き込みながら上下左右に大きく離れているのが見える。",
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"text": "尼崎駅から武庫川駅までは1990年代に高架化された区間であるが、旧来の線路に沿って高架化したため、この区間も北へ南へと蛇行しながら進む。武庫川橋梁に設けられた駅である武庫川駅の手前でようやく初めて踏切を通過、そして武庫川駅(橋梁)を過ぎると、かつては地上区間だった名残で一旦地平に下りる。2017年に武庫川駅から甲子園駅まで高架化されたが、武庫川線との連絡線が分岐する武庫川信号場だけは高架化されなかったためこの僅かな区間のみ地平で、武庫川信号場を過ぎると再び高架線を上る。鳴尾・武庫川女子大前駅は高架化され、新しいホームへと移った。甲子園駅も高架化に併せて大掛かりな駅改良工事が行われ、ホーム幅は従来のほぼ倍となるなど大きく変貌を遂げた。甲子園駅を過ぎると、甲子園球場を南側に見つつ、名神高速道路を潜るため一旦地平に下りて久寿川駅を通過、その後は急勾配で再び高架線を上り、阪急今津線との接続駅である今津駅に着く。線路は廃止された西宮東口駅のホーム遺構を横目に過ぎると、西宮戎神社の最寄駅でもある西宮駅に着く。そのまま香櫨園駅を過ぎて、西宮市と芦屋市の市境にある堀切信号場まで高架線が続く。西宮市から神戸市東灘区・灘区の沿線には酒蔵が点在し、灘五郷と呼ばれる日本を代表する酒所の一つとして知られる。",
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"text": "芦屋市内は多くが地平区間のため踏切も多く残されているが、打出駅を過ぎると盛土で高架となっている区間もあり、所々線路の下をアンダーパスで貫かれている道路もある。過去に何回も風水害に遭った経験から盛土の高架とされたようだが、経緯ははっきりしない。芦屋駅は武庫川駅と同じくホームの下に芦屋川が流れており、またこの芦屋川沿い一帯は風致地区に指定されているため邸宅が多く建ち並んでいる高級住宅地でもある。芦屋駅から先、魚崎駅までは本線では最も新しく高架化した区間であり、2019年11月30日に上下線ともに高架化された。魚崎駅から先も延々と高架が続くが、線路は北に進路を変える。次の住吉駅から石屋川駅までの高架橋は阪神最古の高架橋でもある。その途中の御影駅で急カーブして西へほぼ直進する。日本初の高架車庫である石屋川車庫の横を抜けながら暫く高架は続く。西灘駅は高架駅であるが、西灘駅のすぐ西側を流れる西郷川は天井川のため、線路の側道は大阪寄りにある駅改札口付近から神戸方面に向かって上り坂となっており、西灘駅の神戸寄りホーム端部はほぼ地平レベルとなっている。西郷川の西側はそのまま平地となっているため線路も地平となり、ここで神戸市内唯一の踏切である岩屋踏切を通過する。この岩屋踏切を過ぎるとすぐに線路は下り坂となり、次の岩屋駅では掘割となっている。岩屋駅ホームに接するトンネルに入ると、ここから先は延々と地下線が続く。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 13,
"tag": "p",
"text": "岩屋駅から先は、かつて『日本一ホーム幅が狭い』と言われた春日野道駅の手前で再び国道2号の地下を通り、そのまま神戸側のターミナル駅である神戸三宮駅へと到着する。神戸三宮駅はかつて三宮駅と称していた時代は南側の3番線が折り返し線であったが、駅改良工事が終了した現在は折り返し線を中央に挟んだ頭端式でもある島式ホームへと改造されている。神戸三宮駅を過ぎると、島式ホーム1面のみの、かつての終着駅である元町駅へと辿り着く。かつては殆どの普通が元町駅で折り返していたが、現在は早朝・深夜の一部の普通を除き全ての列車が、そのまま接続している神戸高速線へと直通している。",
"title": "沿線概況"
},
{
"paragraph_id": 14,
"tag": "p",
"text": "他社線との直通運転を盛んに行っており、神戸側では1968年から神戸高速線を経由して神戸市を横断し、その先の山陽電気鉄道本線(以下、山陽方面)とも相互直通運転している。この際の列車種別は「直通特急」や「特急」などの上位種別に限定し、速達性を確保している。また、神戸三宮駅 - 元町駅間には山陽電気鉄道のS特急と普通が乗り入れてくる。また、これとは別に大阪側では尼崎駅から分岐する阪神なんば線を介して近鉄(以下、近鉄方面)との相互直通運転を2009年から実施している。さらには、阪神なんば線を介して近鉄特急も2014年3月22日から団体臨時列車として本路線への乗り入れを開始した(運行は特定の土曜・休日のみで、朝8時台に神戸三宮駅発、夕方に神戸三宮駅着で運行)。",
"title": "運行形態"
},
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"text": "かつては一つの路線としては列車種別が非常に多く、他社線と相互乗り入れをしていることも相まってダイヤは複雑なものとなっていた。特に、この列車種別は単なる上下関係ではなく、一部の下位種別は上位種別が停車する駅を通過するものがあること(「千鳥停車」と呼ばれる)や、同一種別であっても上りと下り・曜日・時間帯によって停車駅が異なるケースが多く、不慣れな利用者にはわかりづらかった。しかし、2009年3月の阪神なんば線延伸開業に伴うダイヤ改正では本線では準急を休止させるなど列車種別が整理され、現在は比較的シンプルなダイヤとなっている。ただ、千鳥停車は現在でも多く設定されており、平日朝ラッシュ時を中心に、直通特急・快速急行・区間特急・区間急行で行われている。また、その平日朝ラッシュ時においても大阪梅田行きの優等列車は基本的に大阪梅田駅まで先着するダイヤが組まれているほか、かつては甲子園駅を出ると大阪梅田駅まで無停車であった区間特急を尼崎駅・野田駅にも停車させるなど、混雑の平準化が図られている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 16,
"tag": "p",
"text": "2010年代以降、特に首都圏の大手私鉄各社で導入が進んでいる有料座席定員制列車については、阪神の場合、特急は本線区間での乗車時間は長くて30分台であること、日中も含めて運行本数が多いことから設定は見送られてきたが、2022年12月末から2023年1月末にかけての金曜日夜間に、試験的に大阪梅田発青木行き夜間有料臨時列車「らくやんライナー」を運行した(後述)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 17,
"tag": "p",
"text": "車両は、主に「特急」や「急行」などで用いる6両編成の赤胴車と、高い加減速性能を求められる「普通」限定で用いる4両編成の青胴車(ジェットカー)の2種類に分けられているのが特徴である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 18,
"tag": "p",
"text": "平日日中の各区間の1時間あたりの基本的な運行本数は下表のとおりである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 19,
"tag": "p",
"text": "平日朝ラッシュ時では、直通特急、区間特急(上りのみ)、快速急行、区間急行、普通を12分サイクルで運行するのを基本とする。停車駅の多い区間特急や区間急行を設定することで、日中は優等列車が通過する駅にも優等列車を停車させることで利便性を向上させ、きめ細かな通勤需要に応えることを目指している。その他、平日では日中から夜間にかけて、土曜・休日では朝から夕方にかけてそれぞれ10分サイクルで運行しているが、朝や夜間は12分サイクルで運行し快速急行の尼崎駅での連結・切り離し作業時間を確保している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 20,
"tag": "p",
"text": "1998年に設定された種別で「直特」と略されることがある。「特急」と同様、最上位の種別として扱われており、乗車券のみで乗車可能である。途中停車駅は、尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・魚崎駅・御影駅・神戸三宮駅である。本線内の停車駅は「特急」と同じであるが、例外的に平日朝ラッシュ時の一部の大阪梅田行きが甲子園駅を通過する(代わりにその時間帯は区間特急が甲子園駅に停車する)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 21,
"tag": "p",
"text": "ほぼ終日設定されており(大阪梅田発最終列車は22:36)、日中は1時間あたり4本(10分ないし20分間隔)が運転されている。全列車が山陽方面に直通し、大阪梅田駅 - 山陽姫路駅間で運転されるが、早朝・深夜において本線内では尼崎駅・西宮駅・御影駅を始発、または尼崎駅・御影駅を終着とする列車もある。車両は阪神・山陽の6両編成が用いられるが、山陽車両の比率が高い。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 22,
"tag": "p",
"text": "終日にわたって運転される種別であり、本線の全区間で通過運転を行い前述の「直通特急」とともに本線の最上位の種別を構成する。日中では前後の「直通特急」に挟まれる形で1時間あたり2本(30分間隔)が運転され、特急系統は「直通特急」と合わせて10分ヘッドのダイヤ構成となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 23,
"tag": "p",
"text": "1954年9月のダイヤ改正で登場。登場当初は日中に20分間隔で、途中三宮駅のみに停車し、梅田駅 - 元町駅間を27分で結んだ。その後は西宮駅・芦屋駅・御影駅にも停車する代わりに急行は基本的に梅田駅 - 西宮駅間に短縮することで、以後現在に続く体系となった(詳細は後述)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "本種別も山陽方面との直通が基本であるが、「直通特急」とは異なり山陽側の終着駅は須磨浦公園駅までであるほか、神戸三宮駅 - 須磨浦公園駅間は各駅停車となるのが違いである。大阪梅田駅 - 須磨浦公園駅間で運転される列車のほか、一部に大阪梅田駅 - 東須磨駅間も設定されている。また、神戸高速線内発着列車として大阪梅田駅 - 高速神戸駅または新開地駅間の列車が設定されているほか、線内運転として深夜の下りには大阪梅田発神戸三宮行きが、土曜・休日早朝上りには神戸三宮発大阪梅田行きが、それぞれ設定されている。原則として阪神の車両を使用するが、一部の特急は直通特急の折り返しによる運用の都合で山陽の車両を使用する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "2001年のダイヤ改正まで、2000系以前の車両による特急運用時に限り専用マークを掲げて運転されていた。現在では、高校野球開催期間中の特急充当車に専用の標識板を掲示している(2013年春までは山陽電鉄の車両の運用による阪神特急を除く)。甲子園球場で阪神タイガースの主催試合が開催される時は、タイガースのマークが描かれた標識板を阪神(直通特急および阪神特急運用時)・山陽電鉄の車両にそれぞれ掲示する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "このほか、2016年3月のダイヤ改正までは、土曜・休日を中心に神戸三宮駅 - 高速神戸駅・新開地駅・東須磨駅・須磨浦公園駅で区間運転する「特急」があった。この特急は折り返しによる運用であり、同区間では各駅に停車するため実質は「普通」であったが、表示幕が対応していなかったため、敢えて「特急」として運転された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "平日朝ラッシュ時に「直通特急」とともに運転される種別で、上り方向のみに7本設定されている。全列車が御影発大阪梅田行きで運転され、大阪梅田駅1番線に到着後は回送として折り返す。なお、ラッシュ時に運転される優等列車のため混雑することから、大阪側から4両目に阪神電車で唯一女性専用車両が設定されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "現行ダイヤでは名前の通り、各駅に連続停車する区間と通過運転を行う区間がある。後者で上位種別である直通特急・特急の停車駅を通過する「千鳥停車」が見られ、直通特急が停車する西宮駅を通過する。2012年までは野田駅も、2016年までは尼崎駅もそれぞれ通過していた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "全列車が御影駅で神戸三宮方面からの普通と接続し、青木駅では後続の快速急行と直通特急の待避を行っている。車両は阪神の6両編成を用いる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "1981年のダイヤ改正で芦屋駅を始発駅として1本が設定されたのが始まりである。その後神戸側の始発駅を三宮駅に変更して運転区間を延長したほか、何度か増発や停車駅変更が行われた。この時期は全区間で通過運転を行い、現在のように連続停車する区間はなく、また、ほぼ阪神本線全線を走るため「区間特急」という名称には、やや違和感のある運行形態であった。「特急」とは異なる停車パターンで運転されていたのは同じで(芦屋駅のみ両方が停車)、特急より停車駅が少なかった時もある。2009年ダイヤ改正では区間特急と直通特急との続行ダイヤから芦屋駅と甲子園駅で次の快速急行に連絡するダイヤに変更され、始発駅が青木駅となり運転区間が短縮され、連続停車区間が出現した。その後2012年ダイヤ改正では野田駅にも停車し、2016年ダイヤ改正では運転区間が拡大され御影駅が始発駅となり、また魚崎駅・尼崎駅も停車駅となるなど、列車の趣旨にも若干の変化が見られる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "平日ではあるが年末のため土曜・休日ダイヤとされた2014年12月29日には、通勤輸送にも配慮して初めて臨時区間特急を4本運転した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "神戸三宮駅と阪神なんば線大阪難波駅を経由して近鉄奈良線を結ぶ速達列車であり、早朝・深夜を除きほぼ終日運行されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "基本的には神戸三宮駅 - 近鉄奈良駅間で運転される。ただ、一部例外もあり、上り(近鉄奈良方面行き)では平日朝と土休日夕方には大和西大寺行きや、大阪難波駅にて準急または普通に変更しそのまま近鉄線に直通する大阪難波行きがそれぞれあるほか、下り(神戸三宮行き)では平日朝に尼崎始発や甲子園始発がある。なお、近鉄線内で障害が発生した場合は、近鉄線内には乗り入れず西九条駅発着に変更されることがある。全列車が尼崎駅から阪神なんば線に入るため本線の大阪梅田駅 - 尼崎駅間には乗り入れないが、ほとんどの列車が尼崎駅で大阪梅田駅発着の急行ないし区間急行と接続することで大阪梅田方面との利便性も確保されており、尼崎駅 - 西宮駅間で本数が減少する急行を補完している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 34,
"tag": "p",
"text": "急行よりも上位で特急よりも下位にあたる列車種別(停車駅数的には区間特急と特急の間)であるが、特急などの上位種別列車に抜かされることはない。阪神の現行種別の中でも時間帯によって停車駅が異なることが顕著である。平日朝ラッシュ時は武庫川駅・今津駅を通過するほか、ホームの問題(詳細は各駅記事参照)から特急停車駅である御影駅と平日朝ラッシュ時を除いて芦屋駅を通過しており、事実上の千鳥停車となっている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "平日は朝ラッシュ時から日中にかけてが6両編成で、平日夕ラッシュ時以降と土曜・休日はほぼ全ての列車が8両編成で運行されている。一方、阪神なんば線や近鉄方面へ直通する列車は尼崎駅から最長である10両編成で運行することもあるため、近鉄線乗り入れ開始当時と比べると数は減ったものの尼崎駅で連結・切り離し作業を行うことがあり、この作業中に大阪梅田方面発着の列車が後から追いついて先に発車することがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "先述の車両数の違いのほか、車両に関しても阪神車両(18m・3扉)、近鉄車両(21m・4扉)ともに運用に入るため、列車によりホームでの乗車位置(阪神車は青色○、近鉄車は赤色△で案内)が異なる。ただし、阪神車か近鉄車かの運用は固定されている(車両形式までは固定されていない)ため、どちらの車両を使用するかは、駅の発車標または2018年3月17日より配信を開始したスマートフォンアプリ『阪神アプリ』で確認が可能である(現在は駅の時刻表には記載はない)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "種別自体は1983年12月のダイヤ改正にて、梅田駅 - 西宮駅間の急行を延長する形で登場。当初は休日日中のみの運行で、また西宮駅 - 三宮駅間ノンストップであった(梅田行きに限り、当初は青木駅に停車して特急を待避するダイヤで運行)。1987年12月より平日日中にも拡大、同時に梅田行きの青木駅待避がなくなった。その後、1998年2月のダイヤ改正で直通特急の運転開始・日中10分間隔の実施により、日中は梅田駅 - 西宮駅間の急行に置き換えられ、代わりに平日夕方ラッシュ時間帯(17 - 19時台)に本線全般で運転される通勤時間帯の直通特急を補完する中長距離速達種別という位置付けとして存在した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "2009年3月の阪神なんば線開通に伴い現在に似た運行形態に変更され、梅田駅 - 尼崎駅間の運行は取り止められ、青木駅と岩屋駅を通過し芦屋駅と魚崎駅に停車する形になった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "2012年3月20日ダイヤ改正で、土曜・休日のみ上りは初発から3列車が神戸高速線新開地発近鉄奈良行きへと変更された(いずれも阪神の車両で運転)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "2016年3月19日ダイヤ改正より、神戸三宮駅到着後は回送として尼崎車庫へ折り返していた列車を営業列車化して神戸三宮発尼崎行き・大阪難波行き・大和西大寺行きをそれぞれ増発した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "2019年3月20日より、基本的に7時から20時までの間に限り、車掌が携帯するタブレット端末を使用して、日本語と英語、一部は中国語と韓国語でも多言語自動放送を行っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日ダイヤ改正より、朝と夜間で増発を行い、上りは全ての列車を大阪難波駅まで快速急行として運転する。また、土曜・休日は殆どの列車が8両編成となり、併せて殆どの列車で連結・切り離し作業を省略したため所要時間も短縮された一方で、ホーム有効長の問題から芦屋駅は土曜・休日に限り通過に変更した。また、この改正で平日日中のうち武庫川駅に停車する列車は今津駅にも停車となった。なお、8両編成での運転に備えて、近鉄との直通運転開始後、西宮駅と芦屋駅以外の快速急行停車駅では近鉄8両編成が停車できる170m程度へのホーム延伸工事を行った。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "2022年12月17日のダイヤ改正で、平日夕ラッシュ時も8両編成となったため、芦屋駅の停車が平日朝ラッシュのみとなり、平日日中にあった武庫川駅・今津駅・芦屋駅の全てに停車する列車は消滅した。また平日は日中時間帯の運転が、毎時2本に削減された。土曜・休日ダイヤにあった朝の新開地発近鉄奈良行きは全て神戸三宮始発に変更され、新開地駅 - 神戸三宮駅間での運転は再び消滅した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "大阪梅田駅 - 尼崎駅・甲子園駅・西宮駅間に設定される種別である。平日の日中と土曜・休日の19時すぎまでは大阪梅田駅 - 西宮駅間の列車と大阪梅田駅 - 尼崎駅間の列車を交互に運転し、そのうち尼崎駅発着の列車が同駅で快速急行と接続する。基本は大阪梅田駅 - 西宮駅間の運転だが、土曜・休日の夜間は主に大阪梅田駅 - 甲子園駅間の運転となる。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "毎年8月に行われるなにわ淀川花火大会開催当日の終了時間後に急行が姫島駅に臨時停車する。また、西宮えびす開催日には土曜・休日の夜間の甲子園駅発着の列車が運転区間を延長して西宮駅発着で運転されるほか、甲子園球場でのイベント開催日にも同様に一部が西宮駅発着に変更されることがある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "2009年3月20日改正前は、平日の昼間と深夜時間帯は梅田駅 - 西宮駅間(一部は梅田駅 - 甲子園駅間)、朝ラッシュと夜間では梅田駅 - 三宮駅間で運転されていた。朝ラッシュの一部列車は神戸高速鉄道線、山陽電鉄線内にも乗り入れをしていた(下り一部は東須磨駅、須磨浦公園駅まで、上り一部は東須磨駅、新開地駅から)。当時は、平日下り早朝に三宮発、神戸高速鉄道線新開地・山陽電鉄線東須磨行きの急行が合計5本あった。この急行は通過駅がなく各駅停車であるが、終着駅で折り返し梅田行き急行として運転される列車であり、急行系車両を使用しているため種別を「急行」として運転していた。平日下り三宮方面へ向かう急行は直通特急に追い抜かれることなく、三宮駅まで先着していたが、平日朝ラッシュ時の上りの急行は青木駅で区間特急と直通特急に、夜間の上りの急行は甲子園駅で直通特急に追い抜かれていた。土曜・休日については日中は梅田駅 - 西宮駅間、夜間は梅田駅 - 甲子園駅間のみの運転で、西宮駅以西の運用はなかった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "2006年10月28日のダイヤ改正では、従来の上りに加え、下りのすべての急行も大石駅に停車するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "2009年3月20日ダイヤ改正で西宮駅以西の運転が一旦廃止され、運転区間は終日梅田駅 - 西宮駅間に短縮された。併せて福島駅が通過駅、今津駅が停車駅となり、朝のラッシュ時の運転は区間急行に置き換えられる形で休止された。平日夕方 - 夜間の上り急行は甲子園駅で直通特急や快速急行と接続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "2016年3月19日のダイヤ改正で、平日の深夜に運転されていた最終の梅田発御影行き特急が急行に変更されたため、平日深夜の下り1本のみだが西宮駅 - 御影駅間で定期の急行が復活した(西宮駅 - 御影駅間停車駅は特急と同じ)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "2022年12月17日のダイヤ改正では、平日日中の快速急行が毎時3本から毎時2本に削減されることに伴い、同時間帯では大阪梅田駅 - 尼崎駅間の急行のうち毎時1本が西宮駅まで延長された(平日日中の尼崎駅 - 西宮駅間は1時間あたり快速急行2本・急行4本)。また、平日朝7時台の下り2本が区間急行に変更されたほか、2016年に設定された平日深夜の大阪梅田発御影行きが廃止された(これにより急行は再び大阪梅田駅 - 西宮駅間のみとなった)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "平日朝ラッシュ時、急行に代わって大阪梅田駅 - 甲子園駅間および青木駅 → 大阪梅田駅間に設定される種別である。停車駅は、急行の停車駅に加えて福島駅、千船駅、鳴尾・武庫川女子大前駅が加わる。青木発大阪梅田行き2本以外は全て甲子園駅発着である。上りは大阪梅田駅まで先着する。下りは尼崎駅で快速急行と接続し、尼崎駅から快速急行を利用することで後続の直通特急よりも神戸三宮駅へ先着できる。また、終着の甲子園駅では直通特急と接続する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "区間急行の種別自体は2001年3月10日のダイヤ改正で一度廃止されたが、2006年10月28日のダイヤ改正で復活したものである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線開業直前は平日朝ラッシュ時に甲子園発梅田行きが8本運転されており、途中で鳴尾駅・武庫川駅・尼崎駅・野田駅に停車し、一部を除いて尼崎駅で区間特急に、野田駅で直通特急に追い抜かれるダイヤを組んでいた。また、2001年に一度廃止されるまでは、姫島駅にも停車していた。同時間帯に走っていた急行とは少し異なり、鳴尾駅に停車した代わりに福島駅は通過していたが、朝の通勤時間帯における上り急行の混雑緩和と甲子園駅からの着席サービスを図る、他社でいう「通勤急行」の様な位置付けであった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "2009年3月20日のダイヤ改正で福島駅・千船駅が停車駅に加えられ、当該区間の急行を置き換える形で梅田発の下りも設定された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "2020年3月14日のダイヤ改正で、平日朝ラッシュ時の上り大阪梅田行き急行2本が区間急行に置き換えられ青木駅始発となり、停車駅に芦屋駅、西宮駅、今津駅が追加された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "2022年12月のダイヤ改正では、平日朝ラッシュ時の大阪梅田発急行2本が区間急行に置き換えられた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "各駅に停車する種別。車両は原則として加減速性能の高い4両編成の「ジェットカー」が使用されるが、一部時間帯に運転される神戸三宮駅 - 新開地駅・東須磨駅・須磨浦公園駅間の列車には急行系車両が使用される。これらの急行系車両を使う列車は前述の通り特急の折り返し運用によるもので、長らく各駅停車の「特急」として運転されていたが、2016年3月19日のダイヤ改正に合わせて急行系車両にも新たに『普通 神戸三宮』などの表示幕を追加し、「普通」に統一された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "終日、原則として大阪梅田駅 - 高速神戸駅間で運転されているが、日中の一部列車は尼崎駅で車両交換を行う。かつては元町駅にて折り返し運転を行っていたが、1998年2月15日のダイヤ改正で高速神戸駅まで延長された(ただし、それ以前の1991年改正から既に夕方ラッシュ時に高速神戸駅で折り返す運用も設定されていた)。延長された理由は、運行本数の増加により元町駅での折り返し時間に余裕がなくなったこと、そのダイヤ改正で運行開始した直通特急の一部が西元町駅を通過扱いとしたこと、高速神戸駅で新開地方面の列車接続をするため等である。また、時間帯によっては途中の尼崎駅・西宮駅・御影駅・神戸三宮駅・元町駅を始発・終着駅とする列車も設定されている。石屋川駅行きは2022年12月ダイヤ改正で廃止された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "緩急接続は、基本的に尼崎駅で急行・快速急行(平日朝の大阪梅田行きは区間急行、早朝・深夜時間帯は直通特急・特急)に、千船駅と尼崎センタープール前駅で特急・直通特急の、御影駅で快速急行の、それぞれ通過待ちを行う。西宮駅では早朝・深夜の一部列車を除いて直通特急・特急と快速急行または西宮駅発着の急行に、御影駅と高速神戸駅でそれぞれ直通特急・特急に接続する。加えて下りは野田駅で急行(平日朝ラッシュ時は千船駅で区間急行)に接続するほか、早朝・夜間に甲子園駅で直通特急・特急に接続する列車、大阪梅田駅発甲子園駅止まりの急行から接続を受ける列車もある。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "2009年3月20日実施のダイヤ改正で、2006年10月28日改正時から実施されていたジェットカーによる山陽電鉄東須磨駅までの乗り入れ運用が廃止された。ただし新開地駅までの乗り入れは継続している(早朝から朝にかけて平日3本、土休日2本と土休日夜に1本)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "5700系や5500系リノベーション車両には乗降扉の横に自動ドアボタンが設置されており、これらの車両で運用する列車のうち緩急接続や通過列車の待避で長時間(2分以上)停車する駅においては、車内温度維持のため乗降客がドアを開閉する半自動扱いとしている。なお、半自動扱いをした場合は、発車直前に自動扱いに切り替えて一旦ドアを全開閉する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "阪神本線内は神戸三宮駅 - 元町駅間のみの運転で、上りは朝に、下りは深夜に運転されている。下りは神戸三宮発山陽姫路行きが、上りは高砂発神戸三宮行きが運転されている。山陽の車両のみで運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "阪神本線内は神戸三宮駅 - 元町駅間のみの運転で、朝・夕以降(土曜・休日は僅かだが日中にも)に神戸三宮駅 - 山陽姫路駅間で運転されている。神戸三宮発ではほとんどが山陽姫路行きだが、東須磨行き、東二見行き、飾磨行きもわずかに設定されている。なお、ごく一部の列車を除いて大石駅まで回送され同駅で折り返している。須磨浦公園以西へ直通する列車は山陽の車両のみで運転されている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "準急は、2009年3月20日改正によって本線では運行が休止された種別である。 休止直前は、平日の朝夕ラッシュ時間帯に運転される種別となっていた。朝ラッシュ時は主に下りは梅田発の尼崎・甲子園行き、上りは石屋川駅・御影駅・西宮駅・甲子園発の梅田行きが運転され、夕ラッシュは梅田駅 - 尼崎駅・甲子園駅間で運転が行われていた。それ以前には下り大石駅始発もあったが、こちらは大石駅から東須磨駅までの各駅停車であり、急行系車両使用という理由で準急の種別表示で運転されていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "朝夕ラッシュ時間帯の普通を補完する種別で、ジェットカーよりも加減速性能の低い急行系車両での運転のため、一部の駅を通過としたが、乗車機会の確保のため停車駅が多く、梅田駅 - 西宮駅間では淀川駅・大物駅・尼崎センタープール前駅(但し平日朝の梅田行きは停車)・久寿川駅・西宮東口駅(のち廃止)以外の駅には全て停車しており、2駅連続で通過する区間はなかった。西宮駅以遠はダイヤ改正時に停車駅が見直されることがあり一定していなかったが、ホーム有効長が4両分のみであった住吉駅は通過していた。急行系種別と千鳥停車を行っていた。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "2006年10月28日のダイヤ改正より、上り準急が打出駅に停車し、香櫨園駅が通過となった(打出駅のホームが延伸され6両編成対応になったことと、香櫨園駅に区間特急が停車するようになったため)。この時の通過駅は淀川駅、大物駅、尼崎センタープール前駅(上りは停車)、久寿川駅、香櫨園駅、芦屋駅、青木駅、住吉駅のみであった。また、同改正前は最長で山陽電鉄東須磨駅まで運転されていた下り準急は、すべて尼崎駅・甲子園駅までに運転区間が縮小された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "停車駅が多い上に特急などの待避も多く所要時間がかかるため乗車率が低迷していたことから、2009年3月20日の阪神なんば線開業に伴う改正で休止とし、準急種別は阪神なんば線 - 近鉄奈良線間の相互直通列車に限定して用いられる(同時に阪神なんば線には「区間準急」が登場)ことになり、本線における準急は消滅した。準急が停車していた深江駅・打出駅・今津駅では、代替で区間特急が新規で停車するようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "なお、1980年代までは休日の昼間、梅田駅 - 甲子園駅間(一部は尼崎駅まで)に設定されていた。これらは「不定期列車」としての運転であり、冬季(12月 - 2月)は運休となっていた。また、1963年2月から1968年4月まではダイヤの関係で梅田 - 甲子園間の一部の不定期準急にジェットカーを使用していた列車もあった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1990年頃まで準急は5両編成で運転されていた。このため、準急にはR車や両運転台車両だった3301型が多く充当されていた。普通の終日4両編成化を機に、これまで特急・急行は6両編成、区間急行・準急は5両編成だった優等列車をすべて6両編成に統一したことから、準急にも8000系が充当されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "臨時特急は、阪神甲子園球場でのイベント開催当日(主に春・夏の高校野球大会、プロ野球試合によるもの)に、大阪梅田駅 - 甲子園駅間で運転される。大阪梅田発はイベント開催直前のみ、甲子園発は原則として同終了後のみの運転で、定期の直通特急・特急の直前に発車するよう予め運行時刻が設定されている。現在はウェブサイトで予め大阪梅田発のみ発車時刻を公表している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 71,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線開業までは停車駅は区間特急と同じで、実質的に途中無停車の直行列車だった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 72,
"tag": "p",
"text": "阪神なんば線開業後は甲子園発大阪梅田行きのみ尼崎駅に停車し大阪難波方面へのアクセスに配慮しているが、大阪梅田発甲子園行きは現在も甲子園駅まで無停車で運転されている。甲子園発は、阪神甲子園球場の観客数に合わせて大阪梅田行きのみ最大4本が運転されるが、阪神なんば線方面への直通列車は運転されない(阪神側は甲子園駅に押し寄せる数万人の乗客を効率的に捌かなければならないことを理由に挙げている)。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 73,
"tag": "p",
"text": "甲子園発の運転本数と発車時刻は、いずれも甲子園駅駅長が当日のイベントの動向と想定される乗客数を見計らった上で決定し、運転指令に指示を出している。球場の入場者数や試合の展開などもチェックしており、例えばタイガースが大差でリードされるような展開では「試合中でも7回ぐらいから帰宅ラッシュが始まる」ため早めに臨時特急を動かすが、一方でタイガースが勝利した場合は「ヒーローインタビューや六甲おろしの合唱などが終わってから観客が動く」ため、臨時特急の発車時刻も少し遅めにするといった細かい調整を行っている。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 74,
"tag": "p",
"text": "2023年11月23日、神戸と大阪で阪神タイガースとオリックス・バファローズの優勝パレードが同時開催されたことに合わせ、元町発大阪梅田行き臨時特急を1本運行した。この列車は途中、神戸三宮駅のみに停車し、それ以降は終着の大阪梅田駅までノンストップで運行された。車両は1000系1201F「日本一特別ラッピングトレイン」を使用し、車内も特別装飾とした。なお、車両は臨時特急と表示されたが、駅での表示は『貸切』であった。当日は阪神タイガースの優勝パレードが午前に神戸で、午後に大阪で開催されたため、臨時特急もそれに合わせて神戸から大阪へと移動する阪神ファンのために上り1本のみ運行した。なお、オリックス・バファローズの優勝パレードは阪神タイガースとは逆の行程で実施された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 75,
"tag": "p",
"text": "臨時快速急行は、毎年8月上旬のみなとこうべ海上花火大会開催日と、12月上旬 - 中旬の神戸ルミナリエ開催期間中のうち、土曜・日曜の夜間の上り(神戸三宮駅発)のみ設定される(2020年以降はいずれも中止のため設定なし)。定期列車での近鉄奈良行き最終が発車後に、尼崎駅始発の阪神なんば線の定期列車(区間準急・普通も含む)を延長する形で、本線は臨時快速急行として運転する。なお、駅の発車標、阪神車両・近鉄車両いずれも『臨時快速急行』の表示は用意されていないため、定期列車同様に『快速急行』または『快急』と表示して運用している。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 76,
"tag": "p",
"text": "停車駅は土曜・休日における定期列車の快速急行と同一である。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "近鉄との相互直通運転を開始した2009年の12月に初めて設定された。以降、毎年神戸ルミナリエの時期のみの運転であったが、2015年からは、毎年8月上旬のみなとこうべ海上花火大会の開催日にも設定された。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 78,
"tag": "p",
"text": "このほか、平日ダイヤでは初めての臨時快速急行が、天理教教祖誕生祭に合わせて、2011年4月18日に神戸三宮8時53分発天理行きが1本運転された。この列車は8時50分頃に神戸三宮駅に到着する定期列車の快速急行の折り返しであり、通常は回送として尼崎車庫へ向かう列車であったが当日は客扱いとした。列車側の方向幕では種別表示のみの「快速急行」とし、正面に「大阪難波経由天理行」と書かれたヘッドマークが取り付けられた。駅の案内表示では「快速急行 難 波」とし、「難波から臨時急行天理行きになります」の注意表示が併記されていた。2012年以降も、この神戸三宮8時53分発天理行き臨時快速急行は継続して運転され、天理教の月次祭(毎月26日)に合わせ、毎年3月から年内にかけての毎月26日のみ、当日が平日ダイヤ適用日である場合に限り運転された(当日が土曜・休日ダイヤ適用日の場合は運転せず)。また2011年同様、特製ヘッドマークを装着している。なお、この神戸三宮8時53分発は2016年3月のダイヤ改正で定期列車化され、快速急行大和西大寺行きとして運転されているほか、平日の天理教祭典日に限り大和西大寺駅から天理行き臨時急行に変更して天理駅まで延長運転する「天理臨」も継続され(専用のヘッドマークも用意)、2021年7月3日の近鉄のダイヤ変更で平日の毎日、大和西大寺駅から天理行き急行に変更して天理駅まで運転されるようになった。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 79,
"tag": "p",
"text": "臨時急行は、臨時特急や臨時快速急行と同じように、阪神甲子園球場でのイベント開催日のほか、神戸ルミナリエやみなとこうべ海上花火大会、十日えびすといった沿線での大きなイベント開催時の土曜・休日にも運転される。甲子園駅を境に、臨時特急が大阪梅田方面のみに運転されるのに対し、臨時急行は神戸三宮方面のみに運転される。停車駅は、大阪梅田駅 - 西宮駅間は定期の急行と同じで、西宮駅 - 神戸三宮駅間は直通特急・特急と同じである。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 80,
"tag": "p",
"text": "阪神甲子園球場でのイベント開催日には、イベント終了後に甲子園発神戸三宮行きが運転されることがある。なお、この神戸三宮行きは定期列車の運転区間延長ではなく、臨時特急と同じく定期列車とは別立てでの運行(尼崎車庫から当駅までは回送)である。また、既に「急行」の節で述べた通り、球場でのイベントが土曜・休日のプロ野球のナイター試合であった場合、線路容量の関係で試合終了前後の定期の大阪梅田駅 - 甲子園駅間の急行を西宮駅まで延長する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 81,
"tag": "p",
"text": "一方、神戸ルミナリエなどほかの沿線での大きなイベント開催時の土曜・休日の夜間に運転される臨時急行は、大阪梅田駅 - 甲子園駅間の急行を、神戸三宮駅発または西宮駅発着として延長した区間が臨時急行として運転される。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "大阪梅田発西宮行きは、大阪梅田駅から西宮駅までそのまま『急行』として運転される。一方、神戸三宮発に関しては、2009年3月のダイヤ改正までは、梅田駅 - 神戸三宮駅間で定期運行されていた急行の停車駅から大石駅を抜いた駅(西宮駅以西は芦屋駅・青木駅・御影駅・岩屋駅)に停車していたが、同改正で西宮駅以西における急行の定期運行は無くなったため、現在は大阪梅田駅 - 西宮駅間は定期の急行、西宮駅 - 神戸三宮駅間は定期の特急の停車駅(芦屋駅・魚崎駅・御影駅)に停車する形で運行されている。神戸三宮発または西宮発は、甲子園駅(定期運行時の始発駅)到着直前に、列車の方向幕はそれまでの『臨急 梅 田』から『急行 梅 田』(LED表示車は『臨急 大阪梅田』から『急行 大阪梅田』)へと変更される。また、甲子園駅では定期列車と同じく直通特急・特急の発車後の出発であるため、甲子園駅までは先着するものの、尼崎駅・大阪梅田駅へは後続の直通特急・特急が先着する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "かつて、2009年3月ダイヤ改正から2012年3月ダイヤ改正までは、土曜・休日の夕方の梅田駅 - 尼崎駅間の急行(尼崎駅で快速急行と接続)は、引上げ線の容量の都合から尼崎駅で折り返さず、回送列車として甲子園駅まで送り込まれた上で同駅構内の引き上げ線で折り返していた。特に阪神甲子園球場での催事がある日に限り、この折り返し回送列車のうち一部を客扱いさせた上で尼崎駅まで臨時急行として運行させることがあった(下の画像参照)。この臨時急行は、尼崎駅から先は定期の急行として運用されるが、甲子園駅 → 尼崎駅間は元々回送列車のスジをそのまま利用していたため、武庫川駅は通過した。また、尼崎駅到着直前に、列車の方向幕はそれまでの『臨急 梅田』から『急行 梅田』へと変更した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "このほか、2015年の夏の高校野球開催期間中には、前もって早朝から混雑が予想された特定の日に限り、朝5時台から6時台にかけて梅田発甲子園行きの臨時急行を例外的に増発した。2016年も同様に、公式ウェブサイトでは夏の大会開催期間中の当日が準決勝戦・決勝戦である日を除く土曜・日曜・祝日に限り朝6時台に梅田発甲子園行きを2本増発するとアナウンスされたが、実際には15日以降も閉幕まで平日でも主に朝5時台に増発が行われた。2017年からコロナ禍となる直前までの2019年にかけても、開催期間中はお盆休みの土曜・休日ダイヤ運転日を中心に始発前の4時58分から6時25分までの間に6本の増発が行われた。なお、この梅田発甲子園行きの臨時急行は、列車・駅での表示はともに『臨急』とせず『急行』として運行した。2020年以降はコロナ禍で高校野球でも指定席が設けられたこともあり、早朝の臨時急行は運行されていない。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "阪神では初となる、有料座席定員制列車。『夜間有料臨時列車(らくやんライナー)』と称する。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも金曜日)に、大阪梅田発青木行き臨時列車として、大阪梅田駅20:19発(1号)、21:43発(3号)の計2本を試験運行した。停車駅は野田・尼崎・武庫川・甲子園・西宮・香櫨園・打出・芦屋の各駅で、うち大阪梅田駅と野田駅のみ乗車専用とし、尼崎駅以遠の停車駅は全て降車専用とした。1号は千船駅に運転停車し(通過扱い)、3号は尼崎駅にて直通特急に追い抜かれるダイヤであった。終着の青木駅には4番線に入線し、3番線を特急列車(1号は姫路行き直通特急、3号は高速神戸行き特急)が通過したのちに引き込み線に入り、1番線を経由して回送で折り返した(1号はそのまま大阪梅田駅まで回送され、駅到着後に改めて3号として運用された。3号は尼崎車庫まで回送)。車両は各日とも9300系を使用。定員は各車両とも30名で1列車180名(うち大阪梅田駅で150名、野田駅で30名の発売枠をそれぞれ設定)とし、必ず着席できるようにした。なお、神戸三宮寄り先頭車である6号車は野田駅乗車客専用とし、大阪梅田駅では1 - 5号車のみ乗車可能(但し車両間の移動は禁止)とした。乗車整理券は1乗車200円で支払いは現金のみとし、大阪梅田駅では1番ホームで乗車前に係員が、野田駅では発車後に車内で乗務員が、それぞれ料金を徴収した。駅の発車標や車両では『貸切』と表示し(駅では発車時刻も表示。先頭車両には『らくやんライナー』の副標も掲出)、ドアは各車両とも最後尾(大阪梅田寄り)のみ開閉させ、各車両に1名ずつ開閉ドア付近に乗務員を配置した。なお、運行初日であった2022年12月23日は、1号では早くから乗車希望の行列ができたため当初発車10分前からとしていた乗車整理券の発売を急遽繰り上げ20:00前から発売した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "今後に向けた参考とするため、乗車整理券裏面の二次元コードを読み取るかたちで利用客へのアンケートを実施した。",
"title": "運行形態"
},
{
"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "本線は、当初軌道線(路面電車)として開業した。しかしそれまでの軌道線が市街地交通としての役割しか果たしていなかったのに対し、阪神電気鉄道は都市間交通としての電車に注目し、それを阪神間に投入することにした。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "そもそも阪神間には東海道本線がすでに存在するため、それを運営する逓信省鉄道作業局(後、運輸省→国土交通省)から並行路線の私設鉄道法に基づく鉄道敷設免許は下りる見込みは低く、ならば路面電車扱いにして内務省(後、建設省→国土交通省)から認可を取ろうということになり、それも本来軌道なら道路上に敷設しなければならないところ、一部でも路面区間(この場合御影や神戸など)があればいいということで認められたものである。そして阪神電気鉄道に対する認可後、京阪電気鉄道・箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)・大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)・京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)・京王電気軌道(現在の京王電鉄)・京成電気軌道(現在の京成電鉄)など、次々とこの類型の形による私鉄会社が誕生することになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "ルート選定に関しては、東海道本線が阪神間をほぼ周辺集落を無視した直線ルートで敷設したのに対し、乗客獲得のため尼崎や西宮など、梅田街道・中国街道・西国街道沿いの市街地をできるだけ縫うようなものとなった。その結果、同じような条件で敷設された阪急宝塚本線や京阪本線などと同様に曲線区間が多くなり、株式会社をもじって「カーブ式会社」と揶揄される要因ともなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "1905年(明治38年)4月12日、大阪出入橋駅 - 神戸筒井通駅間で阪神電気鉄道の営業が開始されたが、当時の軌道法では最高速度が8マイル/時(12.9km/h)とされていた所、同社は当時の車両(1形など)に速度計が無いことを利用して大幅にそれを上回る速度違反を行い、開業当初から表定速度20.4km/h で走り大阪出入橋 - 神戸雲井通間を1時間半で結んだ。東海道本線の列車による同区間(大阪駅 - 三ノ宮駅間)の所要時間は50分に対し阪神電気鉄道は60分(最初期は90分)で、国鉄が途中停車3駅なところを32駅も停車するなど利便性が良く、阪神電気鉄道開業後に国鉄のこの区間の乗客が約1/3に減少したという。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "なお1911年には軌道法に基づく最高速度が25マイル/時(40km/h)となる(現在も変わらず)が、それでも阪神電気鉄道は当時阪神間所要時間を63分に短縮(表定速度29km/h)していたため、速度違反なのは変わらなかった。しばらく後に「新設軌道」という新しい軌道線区分(軌道線であるものの鉄道線並みの速度が出せる)ができて、ようやく速度違反でなくなった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "大正に入って、第一次世界大戦の辺りになると尼崎が工業都市化し、また西宮や芦屋付近は住宅地となって、乗客数は急増した。しかし軌道法に基づき単行運転を強いられた阪神電気鉄道では輸送力強化は容易でなく、苦肉の策として半急行として阪神間を四区間に分割、そのうち一区間を通過する電車を設定した。これによって阪神間58分へのスピードアップが果たされるとともに車両の運用効率が上がり、運転間隔を詰め2割の輸送力強化へつなげることができた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 95,
"tag": "p",
"text": "それでも、抜本的な改革となる増結運転を実施するための交渉は内務省など監督官庁の間で続けられ、1913年に申請を出した後、まず専用軌道区間で、 1921年からは全線での2両運転が許可された。これには大阪府と兵庫県の知事が政府に沿線住民の陳情書を提出するなどの働きかけも行っている。またこれに伴い、1920年には総括制御が可能な301形が投入され、2両運転開始とともに1921年11月7日同線初の急行電車(阪神間56分)も設定されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "なお、1920年に並行して阪神急行電鉄(阪急)神戸本線が開通し、「速くて空いている阪急電車」のキャッチコピーで梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 神戸(上筒井)駅間を50分→25分(1934年7月より)で結ぶようになると、梅田駅 - 三宮駅(現在の神戸三宮駅)間に60分前後を要していた阪神電気鉄道では危機感を強め、線形の関係でスピードアップは容易でなかったものの、1933年(昭和8年)までに併用軌道を廃して全線を専用軌道化して全線を35分で走破する特急の運転を開始(野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅に停車)し、さらには「またずにのれる阪神電車」をキャッチコピーとして電車の頻発運転(4分毎に急行→特急と普通を運転)も行い、対抗した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "また都市間のみならず沿線でも、阪急とは激しい乗客誘致合戦が繰り広げられた。詳しくは阪神急行電鉄#開業後の阪神電気鉄道との対立を参照のこと。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 98,
"tag": "p",
"text": "路線の専用軌道化を推し進めるに当たり、神戸の併用軌道区間については当初高架線によって解消を計画していたが、市の要請で地下線に変更した。同じ様に高架線での神戸三宮乗り入れを計画していた阪急は、地下線への計画変更に終始反対していて長らく工事に取り掛かることができなかったため、先に市街地への乗り入れを果たすことが競争で優位に立つ要因であると判断し、阪神電気鉄道側は譲歩したと見られている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 99,
"tag": "p",
"text": "1933年に三宮駅への乗り入れを果たした後、阪急の三宮駅乗り入れを控えた1936年には中心地の元町乗り入れを達成し、「大阪の中心から神戸の中心へまたずにのれる」とアピールした。なお、1934年に三宮駅から先の区間の敷設免許を申請した際には、湊川駅まで延伸して山陽電気鉄道と接続する予定であったが、資材と予算の都合もあり、元町駅までを突貫工事で完成させて当面の措置としたといわれている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 100,
"tag": "p",
"text": "なお阪神電気鉄道は、本線の線形の不利を補おうと、第二阪神線なる別線を張り付けでの複々線化も一時は検討していた。その計画は結果的には頓挫したが、一部は伝法線(→西大阪線→阪神なんば線)として開業している。さらに上記の元町駅・湊川駅への延伸も、本来はこの計画の一環として計画されたものであった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 101,
"tag": "p",
"text": "同社はまた、阪神国道(今の国道2号)上に路面電車を敷設する計画が上がった際には、阪急以上の脅威となる可能性を危惧し、積極的に介入を行った。これは1927年に阪神国道電軌として開業し、翌年には阪神へ合併され、同社の国道線となっている(1975年までに全線廃止)。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 102,
"tag": "p",
"text": "戦後は1954年 - 1963年の一時期にかけて、3011形を使った梅田駅 - 元町駅間を三宮駅のみ停車で27分運転(三宮駅までは25分)という特急も設定したりしている。当時、阪急線で梅田駅 - 三宮駅間を走る特急の所要時間が十三駅、西宮北口駅停車で28分であり、また国電(国鉄電車)の急行電車(1958年から快速電車へ呼称変更)が24分で大阪駅 - 三ノ宮駅間を途中無停車(後に芦屋駅にも停車)で結んでいたので、若干国鉄には劣るものの線形の悪い阪神電鉄線の優等列車が、阪急線のそれを所要時間で凌ぐことになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 103,
"tag": "p",
"text": "特急は昼間のみ20分間隔で設定されたが、阪神間の途中駅の需要を取り込むため、1960年からは昼間10分間隔に増発される一方で西宮駅、芦屋駅、御影駅にも停車するようになった。1963年2月1日改正より昼間は12分間隔となり、1998年2月15日改正まで35年間続いた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 104,
"tag": "p",
"text": "1964年に伝法線が西大阪線と改称され、大阪環状線と接する西九条駅まで延伸されたが、翌1965年には大阪南部から神戸方面への速達効果を狙い、同線との直通列車である「西大阪線特急」が設定された。しかし利用が低迷し、1974年に廃止されている。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 105,
"tag": "p",
"text": "阪神では湊川駅への延伸免許を、戦後もしばらく保有し続けていた。昭和30年代に入り神戸市が市電の代替も兼ねて、神戸市に乗り入れる各私鉄を地下線で接続する計画をたて、1958年に神戸高速鉄道を発足させてそれを具体化させると、阪神では件の延伸免許を失効させる代わりに、同社線への直通を行うことが決められた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 106,
"tag": "p",
"text": "1968年に東西線(現:阪神神戸高速線)が開通し、阪神は予定どおり同線への直通と、それを介しての山陽電気鉄道本線との直通運転を開始した。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 107,
"tag": "p",
"text": "1998年2月の直通特急運転開始までは、以下のような運用であった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 108,
"tag": "p",
"text": "1998年2月改正で直通特急が設定され、全面的な相互直通運転が実施されるようになり、2001年に山陽からの大石駅折り返し列車は廃止された。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 109,
"tag": "p",
"text": "2001年のダイヤ改正では、直通特急が増発され、沿線の住宅開発やユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) のオープンに伴い、全ての直通特急・特急が尼崎駅・魚崎駅に停車するようになった。阪神なんば線開業を目前にした2009年1月下旬ごろから駅名表示板の意匠変更(青地に白抜き文字)や、駅の自動放送、接近・発車メロディの更新が行われた。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 110,
"tag": "p",
"text": "2009年3月には阪神なんば線の開業により、三宮から難波、それに近鉄難波線・奈良線を経て奈良方面との相互直通運転が開始され、同時に、三宮駅から阪神なんば線を経由して近鉄奈良駅とを結ぶ優等列車として快速急行が日中毎時3往復新設され、前述の西大阪線特急廃止から約34年と4か月ぶりに西九条駅を経由の優等列車が設定された。その後も阪神間とミナミや近鉄奈良線沿線との間の利用増加に伴い、列車の増発が行われた。さらに、駅のホームを延長し、2020年3月14日より土曜・休日の快速急行は一部列車を除き8両編成で本線に直通するようになった。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 111,
"tag": "p",
"text": "2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも金曜日)には、阪神では初となる、有料座席定員制列車を試験運行した。『夜間有料臨時列車(らくやんライナー)』と称し、各日とも大阪梅田発青木行き臨時列車を2便運行した。",
"title": "歴史"
}
] | 本線(ほんせん)は、大阪府大阪市北区の大阪梅田駅から兵庫県神戸市中央区の元町駅までを結ぶ阪神電気鉄道(阪神)の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はHS。 なお、本項目において単に「梅田駅」とあるのは現在の大阪梅田駅を、「鳴尾駅」は現在の鳴尾・武庫川女子大前駅を、「三宮駅」は現在の神戸三宮駅を、それぞれ指す。 | {{pp-vandalism|small=yes}}
{{Infobox 鉄道路線
|路線名 = [[File:Hanshin-logo.svg|35px|link=阪神電気鉄道]] 本線
|路線色 = #1f64b1
|ロゴ = Number prefix Hanshin line.svg
|ロゴサイズ = 40px
|画像 = Hanshin-Series5700-5705F.jpg
|画像サイズ =
|画像説明 = [[大物駅]]に進入する[[阪神5700系電車|5700系電車]]
|国 = {{JPN}}
|所在地 = [[大阪府]]、[[兵庫県]]
|起点 = [[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]
|終点 = [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]
|駅数 = 33駅
|路線記号 = HS
|開業 = [[1905年]][[4月12日]]
|全通 = [[1936年]][[3月18日]]
|廃止 =
|所有者 = [[阪神電気鉄道]]
|運営者 = 阪神電気鉄道
|車両基地 = [[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎車庫]]、[[阪神電気鉄道石屋川車庫|石屋川車庫]]
|使用車両 = [[#使用車両|使用車両]]の節を参照
|路線距離 = 32.1 [[キロメートル|km]]
|軌間 = 1,435 [[ミリメートル|mm]] ([[標準軌]])
|線路数 = [[複線]]
|電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]]
|閉塞方式 = 自動閉塞式
|保安装置 = [[自動列車停止装置#AF軌道回路方式(連続照査型)|阪神型ATS]]
|最高速度 = 106 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="2020hbh-p37">{{Cite book|和書|title=2020ハンドブック阪神|publisher=阪神電気鉄道|year=2020|month=08|page=37|url=https://www.hanshin.co.jp/handbook/pdf/2020/handbook_all.pdf#page=20|format=PDF|accessdate=2021-08-09}}</ref>
|路線図 = Hanshin Electric Railway Linemap.svg
}}
'''本線'''(ほんせん)は、[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]の[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]から[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]までを結ぶ[[阪神電気鉄道]](阪神)の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''HS'''。
なお、本項目において単に「梅田駅」とあるのは現在の大阪梅田駅を、「鳴尾駅」は現在の[[鳴尾・武庫川女子大前駅]]を、「三宮駅」は現在の[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]]を、それぞれ指す。
== 概要 ==
{{Main2|「[[#歴史|歴史]]」および「[[#沿線概況|沿線概況]]」の節も}}
大阪・[[キタ]]の[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]から神戸最大の[[繁華街]]に位置する[[三宮駅|神戸三宮駅]]を経由して[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]まで至る。開業は[[1905年]](明治38年)と古く、日本における都市間電気鉄道([[インターアーバン]])の先駆けとも言える路線である。当初は[[私設鉄道法]]ではなく[[軌道法]]に基づいて建設された[[路面電車]]として開業しており、当路線を皮切りに軌道法に基づいた[[私鉄]]路線が日本全国で次々と開業した<ref>{{Cite web|和書|title=【今日は何の日?】阪神本線が開業 「都市と都市を結ぶ電車」は日本初 |url=https://trafficnews.jp/post/106329 |website=乗りものニュース |date=2021-04-12 |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]と[[大阪難波駅]]を結ぶ[[阪神なんば線]]とともに阪神電鉄の主要路線であり、阪神なんば線を経由することで、[[難波]]や[[道頓堀]]といった大阪・[[ミナミ]]の繁華街にもアクセスすることができる。沿線の[[甲子園駅]]前には[[阪神タイガース]]の本拠地である[[阪神甲子園球場]]([[兵庫県]][[西宮市]])があり<ref>{{Cite web|和書|title=交通アクセス |url=https://www.hanshin.co.jp/koshien/access/traffic.html |website=阪神甲子園球場 |access-date=2023-01-18}}</ref>、試合やイベントがある際は多くの利用者で混雑する<ref>{{Cite web|和書|title=阪神・甲子園駅の野球ファン輸送は「神業」だ |url=https://toyokeizai.net/articles/-/136194 |website=東洋経済オンライン |date=2016-09-19 |access-date=2023-01-18 |language=ja}}</ref>。
大阪・[[梅田]]と神戸・[[三宮]]の間を結んでいる鉄道路線は他に[[JR神戸線]]([[東海道本線]])と[[阪急神戸本線]]があるが、本路線は[[阪神間]]を結ぶ鉄道路線の中では最も海寄りを通り、路線敷設の経緯から[[線形 (路線)|線形]]はあまり良くなく駅数も最も多い<ref group="注">全33駅のうち、[[大阪府]]にある駅が6駅、[[兵庫県]]にある駅が27駅と、兵庫県の方が駅数が多い([[#駅一覧|駅一覧]]の節も参照)。</ref>。そのため普通用車両は後続の急行列車から逃げ切るために加減速性能が高くなっており、[[ジェットカー]]と称される。また、その車体色から急行用は[[赤胴車]]、普通用は青胴車と呼ばれる([[阪神電気鉄道#走行性能]]も参照)。平均[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]区間間隔は日本の[[大手私鉄]]では最短の240mで、「待たずに乗れる」多くの列車をさばくのに役立っている{{要出典|date=2023年1月}}。
<!---阪神間の3路線の中では最も乗車時間が長くなるものの、運転本数の多さに加え、地下駅から地上(あるいは地下街)までの距離の短さや、大阪梅田駅での乗り換えのしやすさ(特にOsaka Metro御堂筋線・四つ橋線)から利便性は高く、トータルでは最速となるケースも多い{{要出典|date=2023年1月}}。--->
元町駅からは、阪神が[[第二種鉄道事業者]]として旅客輸送を行っている[[阪神神戸高速線]]と[[直通運転]]<!--自社路線に対しても使う-->しており、同線を介して大阪梅田駅から[[山陽電気鉄道本線]]の[[山陽姫路駅]]まで直通する「[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]」を運行している。終点の元町駅は1面2線構造の地下駅で全ての列車が神戸高速線に直通するため<ref>{{Cite web|和書|title=元町駅 |url=https://rail.hanshin.co.jp/station/motomachi.html |website=阪神電車 |publisher=阪神電気鉄道 |access-date=2023-01-24}}</ref>、実質的には途中駅のような扱いである。また、阪神なんば線を経由して大阪難波駅から[[近鉄難波線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]とも[[直通運転|相互直通運転]]を行なっており、神戸三宮駅から[[近鉄奈良駅]]まで直通する[[快速急行]]を運行している。ただし本路線を介した[[山陽電気鉄道]]と[[近畿日本鉄道|近鉄]]の相互直通運転は行われていない。
混雑地域を通ることから[[連続立体交差事業]]が盛んで、起点側の大阪梅田駅 - [[福島駅 (阪神)|福島駅]](を少し過ぎた[[大阪環状線]]との交差部分手前)間、及び終点側の[[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]] - 元町駅間は地下化され、それ以外の区間でもほぼすべての区間が高架化されている{{refnest|group="注"|2019年時点で阪神本線全長に対する立体化区間の割合は約95%である<ref>{{Cite web|和書|title=鉄道が高架化される意義 ~阪神電鉄の高架事業に思う~ |url=https://news.yahoo.co.jp/byline/iharakaoru/20191201-00153115|publisher=Yahoo!japanニュース|date=2019-12-01|accessdate=2020-03-13}}</ref>。}}。地上区間とされているのは[[武庫川駅]]の前後と[[堀切信号場]] - 宮川の手前([[打出駅]]より神戸側すぐ)、[[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]の前後、[[西灘駅]] - 岩屋駅間(高架線と地下線との間を繋いでいる勾配の途中にある岩屋踏切の前後)のみである<ref>[http://rail.hanshin.co.jp/service/anzen/pdf/2009/anzen_7.pdf 「安全報告書2009」18頁] - 阪神電気鉄道公式ホームページ</ref>。そのため、[[踏切]]は全線でも[[尼崎市]]の[[武庫川駅]](大阪梅田駅から12.0km)東隣にある[[武庫川]]堤防道路と交差する武庫川駅踏切と、芦屋市内の7箇所<ref group="注">実際は芦屋市内においても大半の区間が立体交差化(本線は盛土高架、道路がアンダーパス)されている。</ref>、そして先述の西灘駅 - 岩屋駅間にある岩屋踏切の、計9箇所のみとなっている(駅構内の係員専用通路を除く)。
起点は大阪梅田駅であるが、[[距離標|キロポスト]]は神戸三宮駅から大阪梅田駅に向かってキロ数が増えていく。また、神戸三宮駅 - 元町駅のキロポストは、湊川への延伸線として開業した名残で、湊川駅を起点とした距離が記されている。
国土交通省への届出上の路線名は「阪神」を冠さない「本線」である<ref group="注">[[京阪本線]]・[[南海本線]]はそれぞれの社名を冠した路線名が正式名称である。また、乗り入れ先の山陽電気鉄道本線も「山陽」を冠さない「本線」が正式名称である。</ref>。
=== 路線データ ===
* 路線距離([[営業キロ]]):32.1 km
* [[軌間]]:[[標準軌|1435 mm]]
* 駅数:33駅(起終点駅含む)、2信号所
* 複線区間:全線{{Refnest|group="注"|大物駅-尼崎駅間は阪神なんば線の複線と並列している。}}
* 電化区間:全線電化([[直流電化|直流]]1500 V)
* [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式
* 営業最高速度:106 km/h<ref name="2020hbh-p37" />
* 最大編成両数:8両(快速急行〈一部を除く〉のみ。その他は6両)
* 混雑率:88%(2020年度:出屋敷駅→尼崎駅間 7:32 - 8:32)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001413544.pdf#page=5|title=最混雑区間における混雑率(令和2年度)|date=2021-07-09|accessdate=2022-03-03|publisher=国土交通省|page=5|format=PD}}</ref>
== 沿線概況 ==
<!-- 凡例に則りHUBを接続範囲とします -->
{{BS-map
|title=停車場・施設・接続路線
|title-bg=#1f64b1
|collapse=yes
|title-color=white
|map=
{{BS|||| [[西日本旅客鉄道|JR西]]:{{rint|ja|wko}} [[大阪環状線]]|}}
{{BS5|||STR+r|STR||||←JR西:[[東海道本線]]({{rint|ja|wkay}} [[JR京都線]])|}}
{{BS5|tSTR2+r|KBHF4|O2=HUBa|STR|STR|tSTR|||[[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]] [[阪急電鉄|阪急]]:各本線<ref group="#">{{rint|osaka|hkg}} [[阪急京都本線|京都本線]]・{{rint|osaka|hko}} [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・{{rint|osaka|hkb}} [[阪急神戸本線|神戸本線]]</ref>|}}
{{BS5|exSTR2+r|tABZ4+fx3|O2=lBHF|P2=HUBlf|BHF|O3=HUBtf-2|BHF|O4=HUBlg-L|tSTR|||←JR西:[[梅田貨物線]] [[大阪駅]]|}}
{{BS5|extSTR+1u|exSTR+4|O2=tSTRe@g|P2=STRc2|STR3|O3=STRc2|P3=HUB-R|STR3|O4=HUBx-L|tBHF|O5=HUBeq|||[[北新地駅]]|}}
{{BS5|xtKRZ|KRZr+1u|O2=STRc2|STR3+1+c4|O3=HUB-R|STRc4|O4=HUB-L|tSTR|||JR西:東海道本線({{rint|ja|wkab}} [[JR神戸線|JR神戸]]・{{rint|ja|wkg}} [[福知山線|宝塚線]])|}}
{{BS5|extSTR|SHI1r|O2=v-STR+1|exKBHFa|O3=STRc4|P3=HUBlf-R|tKBHFa|O4=HUBrf-L|tSTR|0.0|HS 01 [[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]|{{rint|osaka|m}}([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]) [[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=大阪市電|大阪市電]]|}}
{{BS5|extSTR|vSTR|exSTR|O3=extSTRc2|etABZg3|tSTR|||{{rint|osaka|t}}([[東梅田駅]]) {{rint|osaka|y}}([[西梅田駅]])|}}
{{BS5|extSTR|vSTR|exABZg+1xu|tSTR|O4=extSTRc4|tSTR|O5=POINTERg@fq|||JR西:{{rint|ja|wkht}} [[JR東西線]]|}}
{{BS5|extSTR|vSTR|exBHF|tSTR|tSTR|0.8|''[[出入橋駅]]''|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=大阪市電|大阪市電]]-1949|}}
{{BS5|extSTRl|evKRZt|exKRZt|etKRZt|etKRZt|||[[なにわ筋線]]→|}}
{{BS5||vSTR|exBHF|tBHF|tSTR|1.1|HS 02 [[福島駅 (阪神)|福島駅]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=大阪市電|大阪市電]]|}}
{{BS5||vSTR-BHF|exSTR|O3=tSTRc2|tSTR3|tBHF|||[[福島駅 (JR西日本)|福島駅]](JR)/[[新福島駅]]|}}
{{BS5||vSTR|xABZg+1u||tSTR|||||}}
{{BS5||vSTRl|KRZvu|vSTRq|KRZvu|||JR西:{{rint|ja|wko}} 大阪環状線・梅田貨物線|}}
{{BS5||O1=HUBrg|uexKBHFa|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq||tSTR|2.3|HS 03 [[野田駅 (阪神)|野田駅]]|{{rint|osaka|s}}([[野田阪神駅]])[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=大阪市電|大阪市電]]|}}
{{BS5|uexSTRq|O1=HUB|uexABZgr|STR||tSTR|||''[[阪神北大阪線|北大阪線]]''|}}
{{BS5|tBHFq|O1=HUBe|uxmKRZt|KRZt|tSTRq|tSTRr|||[[海老江駅]]|}}
{{BS3|uexSTR|STR||||''[[阪神国道線|国道線]]''|}}
{{BS3|uexLSTR|BHF||3.3|HS 04 [[淀川駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[淀川 (近畿)|淀川]]|}}
{{BS|BHF|4.4|HS 05 [[姫島駅]]||}}
{{BS|eBHF|5.6|''大和田駅''|-1921|}}
{{BS|hKRZWae|||[[神崎川 (大阪府・兵庫県)|神崎川]]|}}
{{BS|BHF|5.9|HS 06 [[千船駅]]||}}
{{BS|eBHF|5.9|''佃駅''|-1921|}}
{{BS3|WASSERq|hKRZWae+GRZq|GRZq|||[[左門殿川]] ↑[[大阪府]]|}}
{{BS|STR|||↓[[兵庫県]]|}}
{{BS3|uexLSTR|BHF||6.8|HS 07 [[杭瀬駅]]||}}
{{BS3|uexKRWg+l|uexKRWr|O2=STR|||''[[杭瀬駅|杭瀬連絡線]]''||}}
{{BS3|uexLSTR|STR||||''国道線''|}}
{{BS3||STR|tKHSTa|||A28 [[近鉄奈良駅]]|}}
{{BS3||STR|LSTR|||[[近畿日本鉄道|近鉄]]:{{rint|osaka|ktam}} [[近鉄難波線|難波]]・{{rint|osaka|ktan}} [[近鉄奈良線|奈良線]]系統|}}<!--正確には大阪線を含むため「系統」と表現-->
{{BS3||STR|tHST|||HS 41/A01 [[大阪難波駅]]|}}
{{BS3||STR|LSTR|||{{rint|osaka|hsn}} [[阪神なんば線]]|}}
{{BS3||XBHF-L|XBHF-R|8.0|HS 08 [[大物駅]]||}}
{{BS3||eKRZo|eKRZo|||''[[日本国有鉄道|国鉄]]:[[福知山線]](尼崎港線)''|}}
{{BS5|||STR|KRWgl|KRW+r||||}}
{{BS5|||XBHF-L|XBHF-R|DST|8.9|HS 09 [[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]||}}
{{BS5|||STR|KRWg+l|KRWr||[[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎工場・尼崎車庫]]||}}
{{BS3||KRWg+l|KRWr||||}}
{{BS3||BHF|O2=HUBaq|uexKBHFa|O3=HUBeq|10.1|HS 10 [[出屋敷駅]]||}}
{{BS3||STR|uexSTRl|||''[[阪神尼崎海岸線|尼崎海岸線]]''|}}
{{BS|BHF|10.8|HS 11 [[尼崎センタープール前駅]]||}}
{{BS3|WASSERq|WASSERq|O2=hBHFae|P2=HUBaq|WASSERq|O3=HUBlg|12.0|HS 12 [[武庫川駅]]|[[武庫川]]|}}
{{BS5|ENDExaq|kABZq2|KRZo+k3|BHFq|O4=HUBe||||{{rint|osaka|hsg}} [[阪神武庫川線|武庫川線]]|}}
{{BS|kABZg+4||||}}
{{BS|DST||[[武庫川信号場]]||}}
{{BS|BHF|13.2|HS 13 [[鳴尾・武庫川女子大前駅]]||}}
{{BS3||uexSTRq|O2=hBHFae|uexSTRq|14.1|HS 14 [[甲子園駅]]|''[[阪神甲子園線|甲子園線]]''|}}
{{BS|BHF|14.8|HS 15 [[久寿川駅]]||}}
{{BS3|exKRW+l|exKRWgr|O2=STR|||||}}
{{BS5|HUBrg|exBHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|||15.4|HS 16 [[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]||}}
{{BS5|KBHFxeq|O1=HUBe|exSTRr|STR|||||[[阪急電鉄|阪急]]:{{rint|osaka|hkz}} [[阪急今津線|今津線]]|}}
{{BS|eBHF|16.3|''[[西宮東口駅]]''|-2001|}}
{{BS|BHF|16.7|HS 17 [[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]|2001-|}}
{{BS|eBHF|16.9|''西宮駅''|-2001|}}
{{BS|eBHF|17.1|''戎駅''||}}
{{BS|BHF|17.8|HS 18 [[香櫨園駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[夙川]]|}}
{{BS3||ABZg+l|KDSTeq||[[堀切保線基地]]||}}
{{BS|DST||[[堀切信号場]]||}}
{{BS|BHF|19.0|HS 19 [[打出駅]]||}}
{{BS|BHF|20.2|HS 20 [[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]||}}
{{BS|hKRZWae|||[[芦屋川]]|}}
{{BS|BHF|21.5|HS 21 [[深江駅 (兵庫県)|深江駅]]||}}
{{BS|BHF|22.6|HS 22 [[青木駅]]||}}
{{BS3|HUBrg|BHF|O2=HUBeq||23.8|HS 23 [[魚崎駅]]||}}
{{BS3|HUB|hKRZWae||||[[住吉川 (兵庫県)|住吉川]]|}}
{{BS3|uBHFq|O1=HUBe|mKRZu||||[[神戸新交通]]:{{BSsplit|{{駅番号s|#9686BD|white|R}} [[神戸新交通六甲アイランド線|六甲アイランド線]]| (六甲ライナー)}}|}}
{{BS5|||eABZgl|O3=STR|exSTRq|exSTR+r||||}}
{{BS5|||BHF||exBHF|24.6|HS 24 [[住吉駅 (阪神)|住吉駅]]||}}
{{BS5|||BHF||exBHF|25.1|HS 25 [[御影駅 (阪神)|御影駅]]||}}
{{BS5|||BHF||exBHF|25.7|HS 26 [[石屋川駅]]||}}
{{BS5|||hKRZWae|WASSERq|exhKRZWae|||[[石屋川]]}}
{{BS5|||STR|exKDSTa|exSTR||''東明車庫''||}}
{{BS5|||KRWgl|KRW+r|O4=exKRWl|exKRWg+r||||}}
{{BS5|||STR|KDSTe|exSTR||[[阪神電気鉄道石屋川車庫|石屋川車庫]]||}}
{{BS5|||BHF||exBHF|26.6|HS 27 [[新在家駅]]|(2) 1930-|}}
{{BS5|||STR||exBHF||''新在家駅''|(1) -1930|}}
{{BS5|||hKRZWae|WASSERq|exhKRZWae|||[[都賀川]]}}
{{BS5|||BHF||exBHF|27.6|HS 28 [[大石駅]]||}}
{{BS5||uexLSTR|eABZg+l|O3=STR|exSTRq|exSTRr||||}}
{{BS5||uexSTRl|emKRZo|uexBHFq|O4=HUBa|uexSTR+r|||''国道線''|}}
{{BS5|||BHF|O3=HUBaq||O4=HUBrf|uexSTR|28.2|HS 29 [[西灘駅]]||}}
{{BS5|||hKRZWae||uexSTR||}}
{{BS5|||eHST||uexSTR||''西灘駅''|(震災時仮駅)|}}
{{BS5|||xABZg2|O3=STR2|STRc3|uexSTR|||}}
{{BS5|||exSTR|O3=STRc1|STR+4|uexSTR|||}}
{{BS5|||exBHF|STR|uexSTR||''岩屋駅(旧)''|-1933?|}}<!-- 1933年に新線に切り換えられたので、旧線上の駅などは1934年以後は存在しえない。-->
{{BS5|||exBHF|tSTRa|uexSTR||''岩屋東口駅''|-1933?|}}
{{BS5|||exSTR|tBHFea|uexSTR|{{BSkm|28.8|0.0*}}|HS 30 [[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]]||}}
{{BS5|||exBHF|tSTR|uexSTR||''岩屋西口駅''|-1933?|}}
{{BS5|||exSTR|tSTR|uexHST|||''[[東神戸駅]]''|}}
{{BS3||exBHF|tSTR|0.6*|''脇浜駅''|-1933|}}
{{BS3||exKRZu|etKRZ|||''[[神戸臨港線]]''|}}
{{BS3||exSTR|tBHF|29.9|HS 31 [[春日野道駅 (阪神)|春日野道駅]]|(2)[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=神戸市電|神戸市電]] 1934-|}}
{{BS3||exBHF|tSTR|1.1*|''春日野道駅''|(1)[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=神戸市電|神戸市電]] -1933|}}
{{BS3||exhKRZWae|tKRZW|||[[生田川|新生田川]]|}}
{{BS3||exBHF|tSTR||''[[新川駅 (阪神)|新生田川駅]]''|-1933|}}<!-- [[新川駅 (阪神)]]のノート参照-->
{{BS3||exBHF|tSTR||''旭通駅''|-1933|}}
{{BS3|STR+4|exSTR|tSTR|||JR西:東海道本線({{rint|ja|wkab}} JR神戸線)|}}
{{BS5|STR+r|STR|exSTR|tSTR||||阪急:{{rint|osaka|hkb}} 神戸本線|}}
{{BS5|STR|STR|exSTR|tSTR|uSTR+l|||神戸新交通:{{BSsplit|{{駅番号s|#9686BD|white|P}} [[神戸新交通ポートアイランド線|ポートアイランド線]]| (ポートライナー)}}|}}
{{BS5|STR|BHF|O2=HUBa|exSTR|tSTR|uKBHFe|O5=HUBa|||[[三ノ宮駅]]/[[三宮駅]]|}}
{{BS5|BHF|O1=GRZq|P1=HUBaq|STR|O2=HUBtg|exBHF|O3=HUBq|tBHF|O4=HUBq|HUBrf|{{BSkm|31.2|2.5*}}|HS 32 [[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]]|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=神戸市電|神戸市電]]|}}
{{BS5|STR|STR|exSTR|tSTR||||{{rint|kobe|s}}([[三宮駅]]) {{rint|kobe|k}}([[三宮・花時計前駅]])|}}
{{BS5|STR2|STR2|O2=STRc3|exSTRl|O3=STRc3|etKRZ|exKBHFeq|2.8*|''[[滝道駅]](神戸駅)''|[[ファイル:BSicon exTRAM.svg|14px|link=神戸市電|神戸市電]]|}}
{{BS5|STRc1|STR+4|O2=STRc1|P2=POINTERg@fq|STR+4|tSTR||||阪急:{{rint|osaka|hkk}} [[阪急神戸高速線|神戸高速線]]|}}
{{BS3|STR|STR|tSTR|O3=POINTERg@fq||'''本線'''||}}
{{BS3|tSTRa|BHF|O2=HUBaq|tBHF+GRZq|O3=HUBeq|32.1|HS 33 [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]||}}
{{BS3|tLSTR|STR|tSTR|O3=POINTERg@fq|||{{rint|osaka|hsk}} [[阪神神戸高速線|神戸高速線]]|}}
{{BS3|tLSTR|STR|tHST|||HS 34 [[西元町駅]]|}}
{{BS3|tSTR2|STR2|tSTR3|O3=STRc3|||||}}
{{BS3|tSTRc1|tABZ+14|O2=STRc1|STRl+4|||JR西:東海道本線({{rint|ja|wkab}} JR神戸線)|}}
{{BS|tHST|||HS 35 [[高速神戸駅]]|}}
{{BS|tLSTR|||{{rint|osaka|hsk}} 神戸高速線|}}
{{BS|tHST|||HS 39 [[西代駅]]|}}
{{BS|LSTR|||{{rint|kobe|sym}} [[山陽電気鉄道|山電]]:[[山陽電気鉄道本線|本線]]|}}
{{BS|KHSTe|||SY 43 [[山陽姫路駅]]|}}
{{BS-colspan}}
-----
{{Reflist|group="#"}}
}}
{{出典の明記|date=2023年2月|section=1}}
現在大掛かりな駅改良工事を行っている[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]を出ると、[[ハービスENT]]、[[ハービスOSAKA]]の地下を通り南下、[[国道2号]]の地下を[[JR東西線]]と並走する形で[[福島駅 (阪神)|福島駅]]へと着く。福島駅を過ぎて[[大阪市立福島小学校|福島小学校]]のあたりで地上に出て{{refnest|group="注"|福島駅が移転・地下化される前は、旧[[出入橋駅]]付近で地上に出て北寄りに向かい、現在は[[ラグザ大阪]]が建つ旧福島駅を過ぎてJR大阪環状線まで近づいたあと再び南下し現在の線路と接続しており、S字カーブしていた{{sfn|川島令三|1992|p=67}}。}}、すぐにJR[[大阪環状線]]の高架橋の下を潜りながら高架橋を上り<ref group="注">本線の開業は大阪環状線(当時は西成鉄道)より後であるため、大阪環状線が高架化する[[1964年]]までは、今とは逆に本線が大阪環状線を乗り越えていた。現在の本線と国道2号との間にある歩道が、かつての本線の跡地に当たる。</ref>、阪神電気鉄道の本社がある高架駅の[[野田駅 (阪神)|野田駅]]に着く。
野田駅から先は昭和50年代までに高架化された区間であり、[[明治]]時代の路線建設時に資金の殆どをつぎ込むほどの難工事であった[[淀川 (近畿)|淀川]]の鉄橋などを通り抜け、また北へ南へと線路は蛇行しながら高架区間を進む。[[杭瀬駅]]を過ぎると左側には徐々に[[阪神なんば線]]の線路が近づいてくるが、この阪神なんば線との間にある大きな公園(小田南公園)は[[ユニチカ]]発祥の地として知られる大日本紡績尼崎工場の跡地であり<ref>[https://www2.city.amagasaki.hyogo.jp/bunkazai/siseki/dainihon_boseki/dainihon_boseki.html 大日本紡績尼崎工場の跡] - 尼崎市ホームページ</ref>、将来的に[[阪神鳴尾浜球場]]に代わる[[阪神タイガース (ファーム)|阪神タイガースの二軍]]本拠地と球団寮・室内練習場などが整備される予定である<ref>{{Cite news |title=阪神2軍本拠が鳴尾浜から尼崎市に移転 利便性も向上、25年2月供用開始 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202105140001332.html |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2021-05-15 |accessdate=2021-05-15 |archiveurl= |archivedate= }}</ref><ref>{{Cite news |title=【阪神】2軍施設移転で阪神が尼崎市と基本協定を締結 |url=https://hochi.news/articles/20210521-OHT1T51103.html |newspaper=[[スポーツ報知]] |publisher=[[報知新聞社]] |date=2021-05-21 |accessdate=2021-05-21 |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。[[大物駅]]で[[阪神なんば線]]と合流する。
次の[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]までの間は阪神なんば線が本線の南側を並走するが、尼崎駅手前で本線下り線は[[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎車庫]]のある南側へ寄って、一度地平に下りた阪神なんば線をオーバークロスして同駅5番線・6番線に入線する。当初の計画では、現在の尼崎駅1番線ホームを阪神なんば線上り線ホームとし、阪神なんば線上り線が本線上下線をオーバークロスして大物駅に向かうことを想定していたため、両駅間はそのまま高架線とせず<ref group="注">尼崎駅の高架化は[[1963年]]だが、大物駅の高架化は[[1978年]]である。</ref>、本線は上下線ともに一旦地平へと下り再び高架橋を上る構造とされた{{sfn|川島令三|1992|p=68}}。下り線は付け替えられた一方、上り線は旧来のまま一旦地平に下りてすぐ高架線を上っているため、大物駅から尼崎駅方を見ると、上下線が阪神なんば線を巻き込みながら上下左右に大きく離れているのが見える。
尼崎駅から[[武庫川駅]]までは1990年代に高架化された区間であるが、旧来の線路に沿って高架化したため、この区間も北へ南へと蛇行しながら進む。[[武庫川]]橋梁に設けられた駅である武庫川駅の手前でようやく初めて踏切を通過、そして武庫川駅(橋梁)を過ぎると、かつては地上区間だった名残で一旦地平に下りる。2017年に武庫川駅から[[甲子園駅]]まで高架化されたが、[[阪神武庫川線|武庫川線]]との[[連絡線]]が分岐する[[武庫川信号場]]だけは高架化されなかったためこの僅かな区間のみ地平で、武庫川信号場を過ぎると再び高架線を上る。[[鳴尾・武庫川女子大前駅]]は高架化され、新しいホームへと移った。甲子園駅も高架化に併せて大掛かりな駅改良工事が行われ、ホーム幅は従来のほぼ倍となるなど大きく変貌を遂げた。甲子園駅を過ぎると、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]を南側に見つつ、[[名神高速道路]]を潜るため一旦地平に下りて[[久寿川駅]]を通過、その後は急勾配で再び高架線を上り、[[阪急今津線]]との接続駅である[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]に着く。線路は廃止された[[西宮東口駅]]のホーム遺構を横目に過ぎると、[[西宮神社|西宮戎神社]]の最寄駅でもある[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]に着く。そのまま[[香櫨園駅]]を過ぎて、[[西宮市]]と[[芦屋市]]の市境にある[[堀切信号場]]まで高架線が続く。西宮市から神戸市[[東灘区]]・[[灘区]]の沿線には[[酒蔵]]が点在し、[[灘五郷]]と呼ばれる日本を代表する酒所の一つとして知られる。
芦屋市内は多くが地平区間のため踏切も多く残されているが、[[打出駅]]を過ぎると盛土で高架となっている区間もあり、所々線路の下をアンダーパスで貫かれている道路もある。過去に何回も風水害に遭った経験から盛土の高架とされたようだが、経緯ははっきりしない{{sfn|川島令三|1992|p=71}}。[[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]は武庫川駅と同じくホームの下に[[芦屋川]]が流れており、またこの芦屋川沿い一帯は[[風致地区]]に指定されているため邸宅が多く建ち並んでいる[[高級住宅地]]でもある。芦屋駅から先、[[魚崎駅]]までは本線では最も新しく高架化した区間であり、2019年11月30日に上下線ともに高架化された<ref name="press191101">{{Cite press release |和書 |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2721 |title=阪神本線住吉・芦屋間連続立体交差事業 11月30日始発から魚崎駅~芦屋駅間上り線を高架に切替え ~これにより、神戸市内の11か所の踏切がなくなります~ |publisher=[[阪神電気鉄道]] |date=2019-11-01 |accessdate=2019-11-01 }}</ref>。魚崎駅から先も延々と高架が続くが、線路は北に進路を変える。次の[[住吉駅 (阪神)|住吉駅]]から[[石屋川駅]]までの高架橋は阪神最古の高架橋でもある{{sfn|川島令三|1992|p=71}}。その途中の[[御影駅 (阪神)|御影駅]]で急カーブして西へほぼ直進する。日本初の高架車庫である[[阪神電気鉄道石屋川車庫|石屋川車庫]]の横を抜けながら暫く高架は続く。[[西灘駅]]は高架駅であるが、西灘駅のすぐ西側を流れる西郷川は[[天井川]]のため、線路の側道は大阪寄りにある駅改札口付近から神戸方面に向かって上り坂となっており、西灘駅の神戸寄りホーム端部はほぼ地平レベルとなっている。西郷川の西側はそのまま平地となっているため線路も地平となり、ここで神戸市内唯一の踏切である岩屋踏切を通過する。この岩屋踏切を過ぎるとすぐに線路は下り坂となり、次の[[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]]では掘割となっている。岩屋駅ホームに接するトンネルに入ると、ここから先は延々と地下線が続く。
岩屋駅から先は、かつて『日本一ホーム幅が狭い』と言われた[[春日野道駅 (阪神)|春日野道駅]]の手前で再び国道2号の地下を通り、そのまま神戸側のターミナル駅である[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]]へと到着する。神戸三宮駅はかつて三宮駅と称していた時代は南側の3番線が折り返し線であったが、駅改良工事が終了した現在は折り返し線を中央に挟んだ頭端式でもある島式ホームへと改造されている。神戸三宮駅を過ぎると、島式ホーム1面のみの、かつての終着駅である[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]へと辿り着く。かつては殆どの普通が元町駅で折り返していたが、現在は早朝・深夜の一部の普通を除き全ての列車が、そのまま接続している[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]へと直通している。
== 運行形態 ==
{{See also|阪神電気鉄道のダイヤ改正}}
他社線との直通運転を盛んに行っており、神戸側では1968年から[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]<ref group="注">2010年10月1日に運営形態が変更される前は「[[神戸高速鉄道]]東西線」。</ref>を経由して神戸市を横断し、その先の[[山陽電気鉄道本線]](以下、山陽方面)とも相互直通運転している。この際の列車種別は「直通特急」や「特急」などの上位種別に限定し、速達性を確保している。また、[[三宮駅|神戸三宮駅]] - [[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]間には山陽電気鉄道の[[山陽電気鉄道本線#S特急|S特急]]と普通が乗り入れてくる<!-- 山陽特急は2009年3月20日改正で高速神戸以西のみの運転となり、更に現在は運転区間が東二見以西のみの運転となっている。 --->。また、これとは別に大阪側では[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]から分岐する[[阪神なんば線]]を介して近鉄(以下、近鉄方面)との相互直通運転を2009年から実施している。さらには、阪神なんば線を介して[[近鉄特急]]も2014年3月22日から団体臨時列車として本路線への乗り入れを開始した<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20140123.pdf 阪神三宮から近鉄沿線の観光地へ 近鉄特急車両(22600系)による団体向け臨時列車を3月22 日から運行開始します]}} - 阪神電気鉄道、2014年1月23日。</ref><ref>[http://www.asahi.com/articles/ASG3N36MFG3NPTIL008.html 三宮―賢島間に初の直通列車 阪神と近鉄、観光シフト] - 朝日新聞、2014年3月22日。</ref>(運行は特定の土曜・休日のみで、朝8時台に神戸三宮駅発、夕方に神戸三宮駅着で運行)。
かつては一つの路線としては[[列車種別]]が非常に多く、他社線と相互乗り入れをしていることも相まってダイヤは複雑なものとなっていた。特に、この列車種別は単なる上下関係ではなく、一部の下位種別は上位種別が停車する駅を通過するものがあること(「[[停車 (鉄道)#千鳥停車|千鳥停車]]」と呼ばれる)や、同一種別であっても上りと下り・曜日・時間帯によって停車駅が異なるケースが多く、不慣れな利用者にはわかりづらかった<ref group="注">閑散時間帯はパターンが一定しており、停車駅が異なるケースは定期的な利用者が多いラッシュ時間帯にほぼ限られた。かつてあった例としては、特急の甲子園駅停車は平日は夜間のみ・休日は夕方以降、急行の武庫川駅・今津駅停車は平日は夜間のみ・休日は夕方以降、下り準急は特急停車駅である芦屋駅を通過、上り準急は朝のみ尼崎センタープール前駅にも停車、など。そのため、かつての駅の標準発車時刻表には数多くの記号(●や◇など)が付けられていた。</ref>。しかし、2009年3月の阪神なんば線延伸開業に伴うダイヤ改正では本線では準急を休止させるなど列車種別が整理され、現在は比較的シンプルなダイヤとなっている。ただ、千鳥停車は現在でも多く設定されており、平日朝ラッシュ時を中心に、直通特急<ref group="注">区間特急が運行される時間帯のみ上り列車が甲子園駅を通過する。</ref>・快速急行<ref group="注">特急停車駅である芦屋駅と御影駅を通過する(芦屋駅は平日朝ラッシュ時に限り停車)。また、平日朝ラッシュ時以外は武庫川駅と今津駅にも停車する。</ref>・区間特急<ref group="注">特急停車駅である西宮駅を通過する。また、快速急行が通過する時間帯である平日朝ラッシュ時に今津駅に停車する。</ref>・区間急行<ref group="注">区間特急停車駅である深江駅・打出駅・香櫨園駅を通過する。</ref>で行われている。また、その平日朝ラッシュ時においても大阪梅田行きの優等列車は基本的に<ref group="注">現行では区間急行を含めて、乗車した列車が大阪梅田駅に先着するダイヤを組んでいる。但し、区間特急は2016年3月のダイヤ改正で御影駅始発へと変更された際に、青木駅で後続の直通特急と快速急行を待避するようになった。</ref>大阪梅田駅まで先着するダイヤが組まれているほか、かつては甲子園駅を出ると大阪梅田駅まで無停車であった区間特急を尼崎駅・野田駅にも停車させるなど、混雑の平準化が図られている。
[[2010年代]]以降、特に首都圏の大手私鉄各社で導入が進んでいる[[ホームライナー|有料座席定員制列車]]については、阪神の場合、特急は本線区間での乗車時間は長くて30分台であること、日中も含めて運行本数が多いことから設定は見送られてきたが、[[2022年]]12月末から[[2023年]]1月末にかけての金曜日夜間に、試験的に大阪梅田発青木行き夜間有料臨時列車「'''らくやんライナー'''」を運行した([[#らくやんライナー|後述]])。
車両は、主に「特急」や「急行」などで用いる6両編成の[[赤胴車]]と、高い加減速性能を求められる「普通」限定で用いる4両編成の青胴車([[ジェットカー]])の2種類に分けられているのが特徴である。
平日日中の各区間の1時間あたりの基本的な運行本数は下表のとおりである。
{| class="wikitable" style="font-size:85%;"
|+平日日中の運行パターン
|-
!colspan="2" | 種別\駅名
!style="width:1em;"| 大阪梅田
! …
!colspan="2" style="width:1em;"| 尼崎
! …
!colspan="2" style="width:1em;"| 西宮
! …
!colspan="2" style="width:1em;"| 神戸三宮
!style="width:1em;"| 元町
! 直通先
! 備考
|- style="text-align:center;"
!rowspan="7" style="width:1em;"| 運行範囲
|rowspan="2" |直通特急
|colspan="11" style="background-color:OrangeRed" | 2本
| style="text-align:left;"| →山陽姫路
|
|- style="text-align:center;"
|colspan="11" style="background-color:LightYellow" | 2本
| style="text-align:left;"| →山陽姫路
| 神戸高速線内は各駅に停車
|- style="text-align:center;"
|style="background-color:OrangeRed" |特急
|colspan="11" style="background-color:OrangeRed" | 2本
| style="text-align:left;"| →須磨浦公園
|
|- style="text-align:center;"
| style="background-color:LightCyan" | 快速急行
| colspan="3" style="text-align:right; background-color:white"| 近鉄奈良←
| colspan="6" style="background-color:LightCyan" | 2本<ref group="注" name="holiday3-3">土曜・休日は3本</ref>
| colspan="3" style="background-color:white"|
|
|- style="text-align:center;"
| rowspan="2" style="background-color:Coral" | 急行
| colspan="6" style="background-color:Coral" | 4本<ref group="注" name="holiday3-3" />
| colspan="6" style="background-color:white"|
|
|- style="text-align:center;"
| colspan="3" style="background-color:Coral" | 2本<ref group="注" name="holiday3-3" />
| colspan="9" style="background-color:white"|
|
|- style="text-align:center;"
| style="background-color:DodgerBlue" |普通
| colspan="11" style="background-color:DodgerBlue" | 6本
| style="text-align:left;"| →高速神戸
|
|}
平日朝ラッシュ時では、直通特急、区間特急(上りのみ)、快速急行、区間急行、普通を12分サイクルで運行するのを基本とする。停車駅の多い区間特急や区間急行を設定することで、日中は優等列車が通過する駅にも優等列車を停車させることで利便性を向上させ、きめ細かな通勤需要に応えることを目指している。その他、平日では日中から夜間にかけて、土曜・休日では朝から夕方にかけてそれぞれ10分サイクルで運行しているが、朝や夜間は12分サイクルで運行し快速急行の尼崎駅での連結・切り離し作業時間を確保している。
=== 列車種別 ===
{{出典の明記|date=2019年12月|section=1}}
[[ファイル:Hanshin railway map.png|thumb|500px|none|停車駅(※2016年時点であるため現在とは異なる。また区間急行は福島駅にも停車する)]]
==== 直通特急 ====
{{Main|直通特急 (阪神・山陽)}}
[[ファイル:HS8523-Ltd.EXPRESS.jpg|サムネイル|8000系8523Fによる直通特急(鳴尾・武庫川女子大前駅)]]
1998年に設定された種別で「直特」と略されることがある。「特急」と同様、最上位の種別として扱われており、乗車券のみで乗車可能である。途中停車駅は、尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・魚崎駅・御影駅・神戸三宮駅である。本線内の停車駅は「特急」と同じであるが、例外的に平日朝ラッシュ時の一部の大阪梅田行きが甲子園駅を通過する(代わりにその時間帯は区間特急が甲子園駅に停車する)。
ほぼ終日設定されており(大阪梅田発最終列車は22:36)、日中は1時間あたり4本(10分ないし20分間隔)が運転されている。全列車が山陽方面に直通し、大阪梅田駅 - [[山陽姫路駅]]間で運転されるが、早朝・深夜において本線内では尼崎駅・西宮駅・御影駅を始発、または尼崎駅・御影駅を終着とする列車もある。車両は阪神・山陽の6両編成が用いられるが、山陽車両の比率が高い。
<!--山陽本線の営業距離が阪神本線の概ね2倍であるため、概ね山陽車両2:阪神車両1の割合で運用されている-->
<!-- wikipediaは利用ガイドではないので大まかな時間帯で結構です。また、直通特急についてはこの記事とは別に直通特急 (阪神・山陽)という記事がありますので(山陽電鉄にも関わるような)詳細はそちらで記述した方がよいでしょう。-->
==== 特急(阪神特急) ====
終日にわたって運転される種別<ref group="注">平日朝ラッシュ時はほぼ「直通特急」だが、8時台と9時台とで大阪梅田発東須磨行き特急が2本ある。</ref>であり、本線の全区間で通過運転を行い前述の「直通特急」とともに本線の最上位の種別を構成する。日中では前後の「直通特急」に挟まれる形で1時間あたり2本(30分間隔)が運転され、特急系統は「直通特急」と合わせて10分ヘッドのダイヤ構成となっている。
[[1954年]]9月のダイヤ改正で登場。登場当初は日中に20分間隔で、途中三宮駅のみに停車し、梅田駅 - 元町駅間を27分で結んだ。その後は西宮駅・芦屋駅・御影駅にも停車する代わりに急行は基本的に梅田駅 - 西宮駅間に短縮することで、以後現在に続く体系となった(詳細は[[#ノンストップ特急の設定|後述]])。
本種別も山陽方面との直通が基本であるが、「直通特急」とは異なり山陽側の終着駅は[[須磨浦公園駅]]までであるほか、神戸三宮駅 - 須磨浦公園駅間は各駅停車となるのが違いである。大阪梅田駅 - 須磨浦公園駅間で運転される列車のほか、一部に大阪梅田駅 - 東須磨駅間も設定されている。また、神戸高速線内発着列車として大阪梅田駅 - 高速神戸駅または新開地駅間の列車が設定されているほか、線内運転として深夜の下りには大阪梅田発神戸三宮行きが、土曜・休日早朝上りには神戸三宮発大阪梅田行きが、それぞれ設定されている。原則として阪神の車両を使用するが、一部の特急は直通特急の折り返しによる運用の都合で山陽の車両を使用する。
2001年のダイヤ改正まで、2000系以前の車両による特急運用時に限り専用マークを掲げて運転されていた。現在では、[[日本の高校野球|高校野球]]開催期間中の特急充当車に専用の標識板を掲示している(2013年春までは山陽電鉄の車両の運用による阪神特急を除く)。甲子園球場で[[阪神タイガース]]の主催試合が開催される時は、タイガースのマークが描かれた標識板を阪神(直通特急および阪神特急運用時)・山陽電鉄の車両にそれぞれ掲示する。
このほか、2016年3月のダイヤ改正までは、土曜・休日を中心に神戸三宮駅 - 高速神戸駅・新開地駅・東須磨駅・須磨浦公園駅で区間運転する「特急」があった。この特急は折り返しによる運用であり、同区間では各駅に停車するため実質は「普通」であったが、表示幕が対応していなかった<ref group="注">突発的な運用に対応するため『普通』のみが記された表示幕は備えていたが、行き先まで記された普通の表示幕は備えていなかった。</ref>ため、敢えて「特急」として運転された。
<gallery widths="210px" heights="200px" perrow="3">
ファイル:阪神電気鉄道7846.JPG|翼形の特急マーク。2000系の全車廃車直前まで使用されていた。
ファイル:阪神3561.jpg|高校野球開催中のみ使用された、特別な特急マーク。
ファイル:Sumaura-koen 20170401.JPG|[[阪神9300系電車]]の須磨浦公園行き先表示<br>「公園」の表記が小さい。
</gallery>
==== 区間特急 ====
平日朝ラッシュ時に「直通特急」とともに運転される種別で、上り方向のみに7本設定されている。全列車が[[御影駅 (阪神)|御影]]発大阪梅田行きで運転され、大阪梅田駅1番線に到着後は[[回送]]として折り返す。なお、ラッシュ時に運転される優等列車のため混雑することから、大阪側から4両目に阪神電車で唯一[[女性専用車両]]が設定されている。
現行ダイヤでは名前の通り、各駅に連続停車する区間と通過運転を行う区間がある。後者で上位種別である直通特急・特急の停車駅を通過する「千鳥停車」が見られ、直通特急が停車する西宮駅を通過する。2012年までは野田駅も、2016年までは尼崎駅もそれぞれ通過していた。
全列車が御影駅で神戸三宮方面からの普通と接続し、青木駅では後続の快速急行と直通特急の待避を行っている。車両は阪神の6両編成を用いる。
1981年のダイヤ改正で芦屋駅を始発駅として1本が設定されたのが始まりである。その後神戸側の始発駅を三宮駅に変更して運転区間を延長したほか、何度か増発や停車駅変更が行われた。この時期は全区間で通過運転を行い、現在のように連続停車する区間はなく、また、ほぼ阪神本線全線を走るため「区間特急」という名称には、やや違和感のある運行形態であった。「特急」とは異なる停車パターンで運転されていたのは同じで(芦屋駅のみ両方が停車)、特急より停車駅が少なかった時もある。2009年ダイヤ改正では区間特急と直通特急との続行ダイヤから芦屋駅と甲子園駅で次の快速急行に連絡するダイヤに変更され、始発駅が青木駅となり運転区間が短縮され、連続停車区間が出現した。その後2012年ダイヤ改正では野田駅にも停車し<ref>{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201201206N1.pdf 3月20日(火・祝)全線のダイヤ改正を実施!]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース、2012年1月20日</ref>、2016年ダイヤ改正では運転区間が拡大され御影駅が始発駅となり、また魚崎駅・尼崎駅も停車駅となる<ref name="hansin20160120">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20160120daiyakaisei.pdf 3月19日(土) 全線のダイヤ改正を実施!]}} - 阪神電気鉄道、2016年1月20日</ref>など、列車の趣旨にも若干の変化が見られる。
平日ではあるが年末のため土曜・休日ダイヤとされた2014年12月29日には、通勤輸送にも配慮して初めて臨時区間特急を4本運転した。
==== 快速急行 ====
神戸三宮駅と阪神なんば線[[大阪難波駅]]を経由して[[近鉄奈良線]]を結ぶ速達列車であり、早朝・深夜を除きほぼ終日運行されている。
基本的には神戸三宮駅 - [[近鉄奈良駅]]間で運転される。ただ、一部例外もあり、上り(近鉄奈良方面行き)では平日朝と土休日夕方には大和西大寺行き{{refnest | group="注" |平日朝の大和西大寺行きは、終着の大和西大寺駅にて[[近鉄橿原線#急行|急行]][[天理駅|天理]]行きへと種別変更するため、厳密に言えば近鉄[[近鉄橿原線|橿原線]]・[[近鉄天理線|天理線]]経由天理行きである。なお、毎月26日の月次祭など[[天理教]]での祭典日に限り、特製ヘッドマークを掲出する<ref name="tenrikyo20210726">{{Cite web|和書|format=PDF |title=【平日ダイヤ】天理教祭典日の運転について |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/5a0cc54e0a800f4c7742461e311fde188d087734.pdf |website=[[天理教]]輸送部 |date=2022-12-16 |accessdate=2022-12-17 |language=ja |archiveurl= |archivedate= }}</ref>。}}や、大阪難波駅にて準急または普通に変更しそのまま近鉄線に直通する大阪難波行きがそれぞれあるほか、下り(神戸三宮行き)では平日朝に尼崎始発<ref group="注">実際は近鉄線内と阪神なんば線内では尼崎行き普通として運転し、尼崎駅で神戸三宮行き快速急行に変更する。</ref>や甲子園始発がある。なお、近鉄線内で障害が発生した場合は、近鉄線内には乗り入れず[[西九条駅]]発着に変更されることがある。全列車が尼崎駅から阪神なんば線に入るため本線の大阪梅田駅 - 尼崎駅間には乗り入れないが、ほとんどの列車が尼崎駅で大阪梅田駅発着の急行ないし区間急行と接続することで大阪梅田方面との利便性も確保されており、尼崎駅 - 西宮駅間で本数が減少する急行を補完している。
急行よりも上位で特急よりも下位にあたる列車種別(停車駅数的には区間特急と特急の間)であるが、特急などの上位種別列車に抜かされることはない。阪神の現行種別の中でも時間帯によって停車駅が異なることが顕著である。平日朝ラッシュ時は武庫川駅・今津駅を通過するほか、ホームの問題(詳細は各駅記事参照)から特急停車駅である[[御影駅 (阪神)|御影駅]]と平日朝ラッシュ時を除いて[[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]を通過しており、事実上の千鳥停車となっている。
平日は朝ラッシュ時から日中にかけてが6両編成で、平日夕ラッシュ時以降と土曜・休日はほぼ全ての列車が8両編成で運行されている。一方、阪神なんば線や近鉄方面へ直通する列車は尼崎駅から最長である10両編成で運行することもあるため、近鉄線乗り入れ開始当時と比べると数は減ったものの尼崎駅で連結・切り離し作業を行うことがあり、この作業中に大阪梅田方面発着の列車が後から追いついて先に発車することがある。
先述の車両数の違いのほか、車両に関しても阪神車両(18m・3扉)、近鉄車両(21m・4扉)ともに運用に入るため、列車によりホームでの乗車位置(阪神車は青色'''○'''、近鉄車は赤色'''△'''で案内)が異なる。ただし、阪神車か近鉄車かの運用は固定されている(車両形式までは固定されていない)ため、どちらの車両を使用するかは、駅の[[発車標]]または2018年3月17日より配信を開始したスマートフォンアプリ『阪神アプリ』で確認が可能である(現在は駅の時刻表には記載はない)。
種別自体は[[1983年]]12月のダイヤ改正にて、梅田駅 - 西宮駅間の急行を延長する形で登場。当初は休日日中のみの運行で、また西宮駅 - 三宮駅間ノンストップであった(梅田行きに限り、当初は青木駅に停車して特急を待避するダイヤで運行)。[[1987年]]12月より平日日中にも拡大、同時に梅田行きの青木駅待避がなくなった。その後、[[1998年]]2月のダイヤ改正で直通特急の運転開始・日中10分間隔の実施により、日中は梅田駅 - 西宮駅間の急行に置き換えられ、代わりに平日夕方ラッシュ時間帯(17 - 19時台)に本線全般で運転される通勤時間帯の直通特急を補完する中長距離速達種別という位置付けとして存在した。
2009年3月の阪神なんば線開通に伴い現在に似た運行形態に変更され、梅田駅 - 尼崎駅間の運行は取り止められ、青木駅と岩屋駅を通過し芦屋駅と魚崎駅に停車する形になった。
2012年3月20日ダイヤ改正で、土曜・休日のみ上りは初発から3列車が[[阪神神戸高速線|神戸高速線]]新開地発近鉄奈良行きへと変更された(いずれも阪神の車両で運転)。
2016年3月19日ダイヤ改正より、神戸三宮駅到着後は[[回送]]として[[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎車庫]]へ折り返していた列車を営業列車化して神戸三宮発尼崎行き<ref group="注">尼崎駅から種別を普通に変更。</ref>・大阪難波行き<ref group="注">平日のみ運転、大阪難波駅から種別を普通に変更。</ref>・[[大和西大寺駅|大和西大寺]]行き<ref group="注">平日のみ運転、大和西大寺駅から急行として[[天理駅]]まで延長運転(2021年6月まで延長運転は平日の[[天理教]]祭典日のみ。[[#臨時快速急行|臨時快速急行]]の節も参照)。</ref>をそれぞれ増発した。
[[2019年]][[3月20日]]より、基本的に7時から20時までの間に限り、車掌が携帯する[[タブレット (コンピュータ)|タブレット端末]]を使用して、日本語と英語、一部は中国語と韓国語でも多言語自動放送を行っている<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2501 |title=~訪日外国人のお客様にも快適にご利用いただける阪神電車を目指して~ 車内多言語自動放送の導入など、インバウンド施策を進めます |publisher=阪神電気鉄道 |date=2019-03-18 |accessdate=2019-03-20}}</ref>。
2020年3月14日ダイヤ改正より、朝と夜間で増発を行い、上りは全ての列車を大阪難波駅まで快速急行として運転する<ref group="注">夜間の尼崎行きは、大阪難波行きに変更。平日の朝と夜間に設定されている大阪難波行きは、大阪難波駅で準急ないし普通に変更し、近鉄線にそのまま直通。</ref>。また、土曜・休日は殆どの列車が8両編成となり<ref group="注">本線での営業列車における8両編成の運行は、開業以来初めてとなる。</ref>、併せて殆どの列車で連結・切り離し作業を省略したため所要時間も短縮された一方で、ホーム有効長の問題から芦屋駅は土曜・休日に限り通過に変更した<ref group="注">平日は停車を継続。</ref>。また、この改正で平日日中のうち武庫川駅に停車する列車は今津駅にも停車となった<ref name="hanshin20200121">{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20200121-daiya.pdf |title=3月14日(土)全線のダイヤ改正を実施します! |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-01-21 |accessdate=2020-01-21 }}</ref>。なお、8両編成での運転に備えて、近鉄との直通運転開始後、西宮駅と芦屋駅以外の快速急行停車駅では近鉄8両編成が停車できる170m程度へのホーム延伸工事を行った<ref group="注">西宮駅は高架化の際にホーム[[有効長]]を200m程度としており、直通運転開始時には既に対応済みであった。甲子園駅と神戸三宮駅は駅改良工事の際に併せて一部のホームを延伸し対応。このほか、2018年から2020年春にかけて、ホームの延伸工事を武庫川駅(西改札への連絡通路の一部をホームに転用)・今津駅(高架化の際に160m程度とされたが大阪側に再延伸)・魚崎駅(直通運転開始前に130m程度とされたが大阪側に再延伸)の各駅で実施した。</ref>。
2022年12月17日のダイヤ改正で、平日夕ラッシュ時も8両編成となったため、芦屋駅の停車が平日朝ラッシュのみとなり、平日日中にあった武庫川駅・今津駅・芦屋駅の全てに停車する列車は消滅した。また平日は日中時間帯の運転が、毎時2本に削減された。土曜・休日ダイヤにあった朝の新開地発近鉄奈良行きは全て神戸三宮始発に変更され、新開地駅 - 神戸三宮駅間での運転は再び消滅した<ref name="hanshin20221012">{{Cite press release|和書|title=2022年12月17日(土)にダイヤ改正を実施します ~朝・夕ラッシュ時間帯の利便性向上とご利用状況に応じた運転本数の見直しを行います~|publisher=阪神電気鉄道|date=2022-10-12|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221012-unyu-daiyakaisei-2.pdf|format=PDF|access-date=2022-10-13}}</ref>。
<gallery widths="200">
ファイル:HS1000-RAPID.EXPRESS.jpg|阪神車によって運行される快速急行(香櫨園駅)
ファイル:KT.RAPID-EXPRESS.jpg|近鉄車によって運行される快速急行(鳴尾・武庫川女子大前駅)
ファイル:Hanshin Kintetsu Rapid Express.jpg|近鉄線内での快速急行幕と阪神電鉄線内での快速急行幕には違いがある。(上が阪神仕様、下が近鉄仕様)
</gallery>
==== 急行 ====
[[ファイル:HS 8219 KOSHIEN.jpg|サムネイル|8000系8219Fによる急行電車(鳴尾・武庫川女子大前駅)]]
大阪梅田駅 - 尼崎駅・甲子園駅・西宮駅間に設定される種別である。平日の日中と土曜・休日の19時すぎまでは大阪梅田駅 - 西宮駅間の列車と大阪梅田駅 - 尼崎駅間の列車を交互に運転し、そのうち尼崎駅発着の列車が同駅で快速急行と接続する。基本は大阪梅田駅 - 西宮駅間の運転だが、土曜・休日の夜間は主に大阪梅田駅 - 甲子園駅間の運転となる。
毎年8月に行われる[[なにわ淀川花火大会]]開催当日の終了時間後に急行が姫島駅に臨時停車する<!-- 2008年から? -->。また、[[西宮神社|西宮えびす]]開催日には土曜・休日の夜間の甲子園駅発着の列車が運転区間を延長して西宮駅発着で運転されるほか、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]でのイベント開催日にも同様に一部が西宮駅発着に変更されることがある<ref group="注">毎年7月から9月上旬の[[阪神タイガース]]公式戦は土曜・休日も含め全て[[ナイター]]で行われる(暑さ対策として)ため、試合終了前後の甲子園駅の引き上げ線は(尼崎車庫からの出庫した)当駅始発の臨時特急が使用することから、その時間帯に限り甲子園駅止まりの急行を西宮行きに変更する。</ref>。
2009年3月20日改正前は、平日の昼間と深夜時間帯は梅田駅 - 西宮駅間(一部は梅田駅 - 甲子園駅間)、朝ラッシュと夜間では梅田駅 - 三宮駅間で運転されていた。朝ラッシュの一部列車は神戸高速鉄道線、山陽電鉄線内にも乗り入れをしていた(下り一部は東須磨駅、須磨浦公園駅まで、上り一部は東須磨駅、新開地駅から)。当時は、平日下り早朝に三宮発、神戸高速鉄道線新開地・山陽電鉄線東須磨行きの急行が合計5本あった。この急行は通過駅がなく各駅停車であるが、終着駅で折り返し梅田行き急行として運転される列車であり、急行系車両を使用しているため種別を「急行」として運転していた。平日下り三宮方面へ向かう急行は直通特急に追い抜かれることなく、三宮駅まで先着していたが、平日朝ラッシュ時の上りの急行は青木駅で区間特急と直通特急に、夜間の上りの急行は甲子園駅で直通特急に追い抜かれていた。土曜・休日については日中は梅田駅 - 西宮駅間、夜間は梅田駅 - 甲子園駅間のみの運転で、西宮駅以西の運用はなかった。
2006年10月28日のダイヤ改正では、従来の上りに加え、下りのすべての急行も大石駅に停車するようになった。
2009年3月20日ダイヤ改正で西宮駅以西の運転が一旦廃止され、運転区間は終日梅田駅 - 西宮駅間に短縮された。併せて福島駅が通過駅、今津駅が停車駅となり、朝のラッシュ時の運転は区間急行に置き換えられる形で休止された。平日夕方 - 夜間の上り急行は甲子園駅で直通特急や快速急行と接続する。
2016年3月19日のダイヤ改正で、平日の深夜に運転されていた最終の梅田発御影行き特急が急行に変更されたため、平日深夜の下り1本のみだが西宮駅 - 御影駅間で定期の急行が復活した(西宮駅 - 御影駅間停車駅は特急と同じ)<ref name="hansin20160120" />。
2022年12月17日のダイヤ改正では、平日日中の快速急行が毎時3本から毎時2本に削減されることに伴い、同時間帯では大阪梅田駅 - 尼崎駅間の急行のうち毎時1本が西宮駅まで延長された(平日日中の尼崎駅 - 西宮駅間は1時間あたり快速急行2本・急行4本)。また、平日朝7時台の下り2本が区間急行に変更されたほか、2016年に設定された平日深夜の大阪梅田発御影行きが廃止された(これにより急行は再び大阪梅田駅 - 西宮駅間のみとなった)<ref name="hanshin20221012" />。
==== 区間急行 ====
平日朝ラッシュ時、急行に代わって大阪梅田駅 - 甲子園駅間および青木駅 → 大阪梅田駅間に設定される種別である。停車駅は、急行の停車駅に加えて福島駅、千船駅、鳴尾・武庫川女子大前駅が加わる。青木発大阪梅田行き2本以外は全て甲子園駅発着である。上りは大阪梅田駅まで先着する。下りは尼崎駅で快速急行と接続し、尼崎駅から快速急行を利用することで後続の直通特急よりも神戸三宮駅へ先着できる。また、終着の甲子園駅では直通特急と接続する。
区間急行の種別自体は2001年3月10日のダイヤ改正で一度廃止されたが、2006年10月28日のダイヤ改正で復活したものである。
阪神なんば線開業直前は平日朝ラッシュ時に甲子園発梅田行きが8本運転されており、途中で鳴尾駅・武庫川駅・尼崎駅・野田駅に停車し、一部を除いて尼崎駅で区間特急に、野田駅で直通特急に追い抜かれるダイヤを組んでいた。また、2001年に一度廃止されるまでは、姫島駅にも停車していた。同時間帯に走っていた急行とは少し異なり、鳴尾駅に停車した代わりに福島駅は通過していたが、朝の通勤時間帯における上り急行の混雑緩和と甲子園駅からの着席サービスを図る、他社でいう「通勤急行」の様な位置付けであった。
2009年3月20日のダイヤ改正で福島駅・千船駅が停車駅に加えられ、当該区間の急行を置き換える形で梅田発の下りも設定された。
2020年3月14日のダイヤ改正で、平日朝ラッシュ時の上り大阪梅田行き急行2本が区間急行に置き換えられ[[青木駅]]始発となり、停車駅に[[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]、[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]、[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]が追加された<ref name="hanshin20200121" />。
2022年12月のダイヤ改正では、平日朝ラッシュ時の大阪梅田発急行2本が区間急行に置き換えられた。
==== 普通(阪神普通) ====
各駅に停車する種別。車両は原則として加減速性能の高い4両編成の「[[ジェットカー]]」が使用されるが、一部時間帯に運転される神戸三宮駅 - 新開地駅・東須磨駅・須磨浦公園駅間の列車には急行系車両が使用される。これらの急行系車両を使う列車は前述の通り[[#特急(阪神特急)|特急]]の折り返し運用によるもので、長らく各駅停車の「特急」として運転されていたが、2016年3月19日のダイヤ改正に合わせて急行系車両にも新たに『'''普通''' 神戸三宮』などの表示幕を追加し、「普通」に統一された<ref group="注">なお、神戸三宮駅と元町駅のホームでは、通常の時刻表とは別に、急行系車両を使用する普通のみの時刻表が掲示されている(6両編成での運用のため)。</ref>。
終日、原則として大阪梅田駅 - 高速神戸駅間で運転されているが、日中の一部列車は尼崎駅で車両交換を行う。かつては元町駅にて折り返し運転を行っていたが、1998年2月15日のダイヤ改正で高速神戸駅まで延長された(ただし、それ以前の1991年改正から既に夕方ラッシュ時に高速神戸駅で折り返す運用も設定されていた)。延長された理由は、運行本数の増加により元町駅での折り返し時間に余裕がなくなったこと、そのダイヤ改正で運行開始した直通特急の一部が西元町駅を通過扱いとしたこと、高速神戸駅で新開地方面の列車接続をするため等である。また、時間帯によっては途中の尼崎駅・西宮駅・御影駅・神戸三宮駅・元町駅を始発・終着駅とする列車も設定されている。石屋川駅行きは2022年12月ダイヤ改正で廃止された。
緩急接続は、基本的に尼崎駅で急行・快速急行(平日朝の大阪梅田行きは区間急行、早朝・深夜時間帯は直通特急・特急)に、千船駅と尼崎センタープール前駅で特急・直通特急の、御影駅で快速急行の、それぞれ通過待ちを行う。西宮駅では早朝・深夜の一部列車を除いて直通特急・特急と快速急行または西宮駅発着の急行に、御影駅と高速神戸駅でそれぞれ直通特急・特急に接続する。加えて下りは野田駅で急行(平日朝ラッシュ時は千船駅で区間急行)に接続するほか、早朝・夜間に甲子園駅で直通特急・特急に接続する列車、大阪梅田駅発甲子園駅止まりの急行から接続を受ける列車もある。
2009年3月20日実施のダイヤ改正で、2006年10月28日改正時から実施されていたジェットカーによる山陽電鉄東須磨駅までの乗り入れ運用が廃止された。ただし新開地駅までの乗り入れは継続している(早朝から朝にかけて平日3本、土休日2本と土休日夜に1本)。
[[阪神5700系電車|5700系]]や[[阪神5500系電車#リニューアル工事|5500系リノベーション車両]]には乗降扉の横に[[自動ドア#ボタン式半自動|自動ドア]]ボタンが設置されており、これらの車両で運用する列車のうち緩急接続や通過列車の待避で長時間(2分以上)停車する駅においては、車内温度維持のため乗降客がドアを開閉する半自動扱いとしている<ref group="注">[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]拡大防止のため、2020年3月下旬以降は半自動扱いを取り止めており、コロナ感染症の分類が[[感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律#感染症の分類|5類]]相当に引き下げられた後も継続されている。</ref>。なお、半自動扱いをした場合は、発車直前に自動扱いに切り替えて一旦ドアを全開閉する。
==== S特急 ====
阪神本線内は神戸三宮駅 - 元町駅間のみの運転で、上りは朝に、下りは深夜に運転されている。下りは神戸三宮発山陽姫路行きが、上りは高砂発神戸三宮行きが運転されている。山陽の車両のみで運転されている。
==== 普通(山陽普通)====
阪神本線内は神戸三宮駅 - 元町駅間のみの運転で、朝・夕以降(土曜・休日は僅かだが日中にも)に神戸三宮駅 - 山陽姫路駅間で運転されている。神戸三宮発ではほとんどが山陽姫路行きだが、東須磨行き、東二見行き、飾磨行きもわずかに設定されている。<!--2017年のダイヤ改正までは霞ヶ丘行きも設定されていた。→2017年に改正はない。-->なお、ごく一部の列車を除いて大石駅まで回送され同駅で折り返している。須磨浦公園以西へ直通する列車は山陽の車両のみで運転されている。
==== 準急(休止) ====
準急は、2009年3月20日改正によって本線では運行が休止された種別である。
休止直前は、平日の朝夕ラッシュ時間帯に運転される種別となっていた。朝ラッシュ時は主に下りは梅田発の尼崎・甲子園行き、上りは石屋川駅・御影駅・西宮駅・甲子園発の梅田行きが運転され、夕ラッシュは梅田駅 - 尼崎駅・甲子園駅間で運転が行われていた。それ以前には下り大石駅始発もあったが、こちらは大石駅から東須磨駅までの各駅停車であり、急行系車両使用という理由で準急の種別表示で運転されていた。
朝夕ラッシュ時間帯の普通を補完する種別で、ジェットカーよりも加減速性能の低い急行系車両での運転のため、一部の駅を通過としたが、乗車機会の確保のため停車駅が多く、梅田駅 - 西宮駅間では淀川駅・大物駅・尼崎センタープール前駅(但し平日朝の梅田行きは停車)・久寿川駅・西宮東口駅(のち廃止)以外の駅には全て停車しており、2駅連続で通過する区間はなかった。西宮駅以遠はダイヤ改正時に停車駅が見直されることがあり一定していなかったが、ホーム有効長が4両分のみであった住吉駅は通過していた。急行系種別と千鳥停車を行っていた。
2006年10月28日のダイヤ改正より、上り準急が打出駅に停車し、香櫨園駅が通過となった(打出駅のホームが延伸され6両編成対応になったことと、香櫨園駅に区間特急が停車するようになったため)。この時の通過駅は淀川駅、大物駅、尼崎センタープール前駅(上りは停車)、久寿川駅、香櫨園駅、芦屋駅、青木駅、住吉駅のみであった。また、同改正前は最長で山陽電鉄東須磨駅まで運転されていた下り準急は、すべて尼崎駅・甲子園駅までに運転区間が縮小された。
停車駅が多い上に特急などの待避も多く所要時間がかかるため乗車率が低迷していたことから、2009年3月20日の阪神なんば線開業に伴う改正で休止とし<ref name="20090320kaisei">{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20090116-2.pdf 阪神なんば線【3月20日(金・祝)】の開通に伴うダイヤ改正の実施!]}} - 阪神電気鉄道プレスリリース 2009年1月16日</ref>、準急種別は阪神なんば線 - 近鉄奈良線間の相互直通列車に限定して用いられる(同時に阪神なんば線には「区間準急」が登場)ことになり、本線における準急は消滅した。準急が停車していた深江駅・打出駅・今津駅では、代替で区間特急が新規で停車するようになった。
なお、1980年代までは休日の昼間、梅田駅 - 甲子園駅間(一部は尼崎駅まで)に設定されていた。これらは「不定期列車」としての運転であり、冬季(12月 - 2月)は運休となっていた。また、1963年2月から1968年4月まではダイヤの関係で梅田 - 甲子園間の一部の不定期準急にジェットカーを使用していた列車もあった。
1990年頃まで準急は5両編成で運転されていた。このため、準急にはR車や両運転台車両だった3301型が多く充当されていた。普通の終日4両編成化を機に、これまで特急・急行は6両編成、区間急行・準急は5両編成だった優等列車をすべて6両編成に統一したことから、準急にも8000系が充当されるようになった。
=== 臨時列車 ===
==== 臨時特急 ====
臨時特急は、[[阪神甲子園球場]]でのイベント開催当日(主に[[選抜高等学校野球大会|春]]・[[全国高等学校野球選手権大会|夏]]の[[日本の高校野球|高校野球]]大会、[[日本プロ野球|プロ野球]]試合によるもの)に、大阪梅田駅 - 甲子園駅間で運転される。大阪梅田発はイベント開催直前のみ、甲子園発は原則として同終了後のみの運転で、定期の直通特急・特急の直前に発車するよう予め運行時刻が設定されている。現在はウェブサイトで予め大阪梅田発のみ発車時刻を公表している<ref name="press230512">{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/1a493dfdbeacf11ed56e4901e331e7fa5da85db8.pdf |title=野球開催に伴う臨時列車の運転について(5/12~14) |publisher=阪神電気鉄道 |date=2023-05-12 |accessdate=2023-05-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230512134237/https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/1a493dfdbeacf11ed56e4901e331e7fa5da85db8.pdf |archivedate=2023-05-12 }}</ref>。
阪神なんば線開業までは停車駅は区間特急と同じで、実質的に途中無停車の[[直行便|直行列車]]だった。
阪神なんば線開業後は甲子園発大阪梅田行きのみ尼崎駅に停車し大阪難波方面へのアクセスに配慮しているが、大阪梅田発甲子園行きは現在も甲子園駅まで無停車で運転されている<ref name="press230512" />。甲子園発は、阪神甲子園球場の観客数に合わせて大阪梅田行きのみ最大4本<ref group="注">[[2016年]][[9月22日]]([[水樹奈々]]のコンサート開催に伴うもの)は甲子園行きが運行されなかった一方で、梅田行きが5本運行された(5本目は、1本目の車両が梅田駅に到着後、甲子園まで折り返し回送されて運行された)など例外も存在する。</ref>が運転されるが、阪神なんば線方面への直通列車は運転されない(阪神側は甲子園駅に押し寄せる数万人の乗客を効率的に捌かなければならないことを理由に挙げている<ref>[http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001802949.shtml 帰りは乗り換えを 甲子園発臨時電車は梅田行き] - 神戸新聞 2009年4月7日</ref>)。
[[ファイル:HS8248-Ltd.EXPRESS.jpg|サムネイル|8000系8248Fによる臨時特急(鳴尾・武庫川女子大前駅)]]
甲子園発の運転本数と発車時刻は、いずれも甲子園駅駅長が当日のイベントの動向と想定される乗客数を見計らった上で決定し、運転指令に指示を出している。球場の入場者数や試合の展開などもチェックしており、例えばタイガースが大差でリードされるような展開では「試合中でも7回ぐらいから帰宅ラッシュが始まる」ため早めに臨時特急を動かすが、一方でタイガースが勝利した場合は「[[ヒーローインタビュー]]や[[阪神タイガースの歌|六甲おろし]]の合唱などが終わってから観客が動く」ため、臨時特急の発車時刻も少し遅めにするといった細かい調整を行っている<ref>[https://www.sankei.com/article/20180924-3QVTQDCSD5LJ7CCDTQSFK6L4FA/ お家芸(1)阪神ファンを「神業」輸送 試合展開で決める臨時特急、車内通り抜け乗り継ぎ] - 産経WEST・2018年9月24日</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/136194 阪神・甲子園駅の野球ファン輸送は「神業」だ] - 東洋経済ONLINE・2016年9月19日</ref>。
[[2023年]][[11月23日]]、神戸と大阪で阪神タイガースと[[オリックス・バファローズ]]の優勝パレードが同時開催されたことに合わせ、元町発大阪梅田行き臨時特急を1本運行した。この列車は途中、神戸三宮駅のみに停車し、それ以降は終着の大阪梅田駅までノンストップで運行された。車両は1000系1201F「日本一特別ラッピングトレイン」を使用し、車内も特別装飾とした<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20231120-unyu-pare-do.pdf |title=「兵庫・大阪連携 阪神タイガース、オリックス・バファローズ優勝記念パレード」 開催時に「元町、神戸三宮から大阪梅田までノンストップ」の臨時列車を運転します |publisher=[[阪神電気鉄道]] |date=2023-11-21 |accessdate=2023-11-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231121084239/https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20231120-unyu-pare-do.pdf |archivedate=2023-11-21 }}</ref>。なお、車両は臨時特急と表示されたが、駅での表示は『貸切』であった。当日は阪神タイガースの優勝パレードが午前に神戸で、午後に大阪で開催されたため、臨時特急もそれに合わせて神戸から大阪へと移動する阪神ファンのために上り1本のみ運行した。なお、オリックス・バファローズの優勝パレードは阪神タイガースとは逆の行程で実施された。
==== 臨時快速急行 ====
臨時快速急行は、毎年8月上旬の[[みなとこうべ海上花火大会]]開催日と、12月上旬 - 中旬の[[神戸ルミナリエ]]開催期間中のうち、土曜・日曜の夜間の上り(神戸三宮駅発)のみ設定される([[2020年]]以降はいずれも中止のため設定なし)。定期列車での近鉄奈良行き最終が発車後に、尼崎駅始発の阪神なんば線の定期列車(区間準急・普通も含む)を延長する形で、本線は臨時快速急行として運転する。なお、駅の発車標、阪神車両・近鉄車両いずれも『臨時快速急行』の表示は用意されていないため、定期列車同様に『快速急行』または『快急』と表示して運用している。
停車駅は土曜・休日における定期列車の快速急行と同一である<ref>{{PDFlink|[http://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20091201.pdf 神戸ルミナリエ特別運転について]}} - プレスリリース</ref><ref name="press190717" /><ref name="press191126">{{Cite press release|和書|format=PDF |url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/bb423c4fe665f3b5ef1743c9caa5f209f630e3cf.pdf |title=「神戸ルミナリエ」開催時の土・日曜日(12/7・8・14・15)に神戸三宮発の臨時列車を運転します |publisher=阪神電気鉄道 |date=2019-11-26 |accessdate=2019-11-26}}</ref>。
近鉄との相互直通運転を開始した2009年の12月に初めて設定された。以降、毎年神戸ルミナリエの時期のみの運転であったが、2015年からは、毎年8月上旬の[[みなとこうべ海上花火大会]]の開催日にも設定された<ref name="press160729">{{Cite press release |和書 |title= 沿線の花火大会(8/6)・夏の高校野球大会期間中(8/7から15日間の土休日ダイヤ運行日)に臨時列車を運転します(PDF/295KB) |publisher=阪神電気鉄道 |date=2016-07-29 |url=http://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/6900f282f6d1cffef24df22f5a4f814ea5bbdf83.pdf |format=PDF |accessdate=2016-08-06 }}</ref><ref name="press190717">{{Cite web|和書|title= 沿線の花火大会における特別運転及びお盆期間の運転ダイヤについて |publisher=阪神電気鉄道 |date=2019-07-17 |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/2625 |accessdate=2019-08-12 }}</ref>。
<!--2015年は1本が、2016年以降は3本が、それぞれ運転されている。-->
<!--神戸ルミナリエ開催期間中の土曜・日曜4日間の夜間、神戸三宮駅 → 近鉄奈良駅間の運転で、2009年は1本が、2010年から2014年までは2本が設定された<ref group="注">2009年は尼崎駅始発最終(21:52発)を、2010年と2011年はそれに加えて尼崎駅始発20:51発を、それぞれ神戸三宮駅始発に変更・延長。2012年以降は尼崎駅始発最終の延長と、その1本前に尼崎行き(尼崎より普通大和西大寺行き)を運転。</ref>。2015年はそれまでの臨時急行のほとんどを置き換える形で5本が設定された<ref>{{Cite press release |title=「神戸ルミナリエ」開催期間中の土・日曜(12/5・6・12・13)に、神戸三宮発の臨時列車を運転します。今年は快速急行を大幅増発! |publisher=阪神電気鉄道 |date=2015-11-25 |url=http://rail.hanshin.co.jp/webadmin/upload/temp/855a4d1d8f0388cbc354696a8eff8bfc035ed829.pdf |format=PDF |accessdate=2015-12-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151208100757/http://rail.hanshin.co.jp/webadmin/upload/temp/855a4d1d8f0388cbc354696a8eff8bfc035ed829.pdf |archivedate=2015-12-08 }}</ref>が、2016年は3本となっている<ref>{{Cite press release |title= 「神戸ルミナリエ」開催中の土・日曜(12/3・4・10・11)は、神戸三宮発の臨時列車を運転します。 神戸三宮発臨時快速急行なら、阪神なんば線へ乗換不要! お帰りの際も悠々楽々!! |publisher=阪神電気鉄道 |date=2016-11-25 |url=http://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/ccfa09a28435d6ccf24bb49f12e1c64809d83301.pdf |format=PDF |accessdate=2016-12-04 }}</ref>。-->
このほか、平日ダイヤでは初めての臨時快速急行が、[[天理教]]教祖誕生祭に合わせて、2011年4月18日に神戸三宮8時53分発[[天理駅|天理]]行きが1本運転された<ref name="hhhd20110414">{{Cite press release |和書 |title=阪神三宮駅→近鉄天理駅 臨時直通列車の運転について 〜4月18日(月)運転〜 |publisher=阪神電気鉄道 |date=2011-04-11 |url=https://www.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201104143N2.pdf |format=PDF |accessdate=2019-05-25 }}</ref><ref name="railfjp20110419">[https://railf.jp/news/2011/04/19/185700.html 阪神三宮発,天理行の臨時列車運転] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2011年4月19日</ref>。この列車は8時50分頃に神戸三宮駅に到着する定期列車の快速急行の折り返しであり、通常は[[回送]]として[[阪神電気鉄道尼崎工場|尼崎車庫]]へ向かう列車であったが当日は客扱いとした。列車側の[[方向幕]]では<!--青表示の「快急 天 理」の設定がなかったため-->種別表示のみの「快速急行」<ref name="railfjp20110419" />とし、正面に「大阪難波経由天理行」と書かれた[[方向幕#ヘッドマーク|ヘッドマーク]]が取り付けられた<ref name="hhhd20110414" /><ref name="railfjp20110419" />。駅の案内表示では「快速急行 難 波」とし、「難波から臨時急行天理行きになります」の注意表示が併記されていた。2012年以降も、この神戸三宮8時53分発天理行き臨時快速急行は継続して運転され、天理教の月次祭(毎月26日)に合わせ、毎年3月から年内にかけての毎月26日のみ、当日が平日ダイヤ適用日である場合に限り運転された(当日が土曜・休日ダイヤ適用日の場合は運転せず)。また2011年同様、特製ヘッドマークを装着している。なお、この神戸三宮8時53分発は2016年3月のダイヤ改正で定期列車化され、快速急行大和西大寺行きとして運転されている<ref name="hansin20160120" />ほか、平日の天理教祭典日に限り大和西大寺駅から天理行き臨時急行に変更して天理駅まで延長運転する「天理臨」も継続され(専用のヘッドマークも用意)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/wp-content/uploads/d11b32b09802532033efde226f5641f2.pdf |title=神戸三宮-近鉄天理間の臨時直通列車の運転について |format=PDF |publisher=天理教公式サイト |date=2020-03-03 |accessdate=2020-03-10 }}</ref>、2021年7月3日の近鉄のダイヤ変更で平日の毎日、大和西大寺駅から天理行き急行に変更して天理駅まで運転されるようになった<ref name="tenrikyo20210726" />。
==== 臨時急行 ====
臨時急行は、臨時特急や臨時快速急行と同じように、阪神甲子園球場でのイベント開催日のほか、神戸ルミナリエやみなとこうべ海上花火大会、[[西宮神社#十日えびす|十日えびす]]といった沿線での大きなイベント開催時の土曜・休日にも運転される。甲子園駅を境に、臨時特急が大阪梅田方面のみに運転されるのに対し、臨時急行は神戸三宮方面のみに運転される。停車駅は、大阪梅田駅 - 西宮駅間は定期の急行と同じで、西宮駅 - 神戸三宮駅間は直通特急・特急と同じである<ref name="press191126" />。
阪神甲子園球場でのイベント開催日には、イベント終了後に甲子園発神戸三宮行きが運転されることがある。なお、この神戸三宮行きは定期列車の運転区間延長ではなく、臨時特急と同じく定期列車とは別立てでの運行(尼崎車庫から当駅までは回送)である。また、既に「[[#急行|急行]]」の節で述べた通り、球場でのイベントが土曜・休日のプロ野球のナイター試合であった場合、線路容量の関係で試合終了前後の定期の大阪梅田駅 - 甲子園駅間の急行を西宮駅まで延長する。
一方、神戸ルミナリエなどほかの沿線での大きなイベント開催時の土曜・休日の夜間に運転される臨時急行は、大阪梅田駅 - 甲子園駅間の急行<ref group="注">大阪梅田駅 - 甲子園駅間の急行は平日早朝・夜間(一部)と土曜・休日の夜間(23時台の大阪梅田駅発を除く)のみ運転。</ref>を、神戸三宮駅発<ref name="press190717" /><ref name="press191126" />または西宮駅発着<ref name="hanshin20200107">{{Cite press release |和書 |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20200107-ebisu-kyukou.pdf |title=1月11日(土)に急行を延長運転します ~西宮神社『十日えびす』ご参詣に便利です~ |publisher=阪神電気鉄道 |date=2020-01-07 |accessdate=2020-01-07 }}</ref>として延長した区間が臨時急行として運転される。
<!--神戸ルミナリエ期間中の土曜・日曜に関しては、2012年のダイヤ改正以降は2014年までは甲子園駅始発20:55発 - 21:19発と21:55発の計4本を神戸三宮駅始発に変更・延長、2015年は甲子園駅始発21:55発1本のみ神戸三宮駅始発に変更・延長、2016年は3日・10日のみ甲子園駅始発22:07発1本のみ神戸三宮駅始発に変更・延長。みなとこうべ海上花火大会開催日では、2015年は臨時快速急行のあとに21:15発 - 22:39発まで8本、2016年は臨時快速急行に挟まれる形で5本、2017年は4本、それぞれ運転。だが、2019年では土曜日のみ1本のみの運転に縮小された。-->
大阪梅田発西宮行きは、大阪梅田駅から西宮駅までそのまま『'''{{Colors|red|white|急行}}'''』として運転される。一方、神戸三宮発に関しては、2009年3月のダイヤ改正までは、梅田駅 - 神戸三宮駅間で定期運行されていた急行の停車駅から大石駅を抜いた駅(西宮駅以西は芦屋駅・青木駅・御影駅・岩屋駅)に停車していたが、同改正で西宮駅以西における急行の定期運行は無くなったため、現在は大阪梅田駅 - 西宮駅間は定期の急行、西宮駅 - 神戸三宮駅間は定期の特急の停車駅(芦屋駅・魚崎駅・御影駅)に停車する形で運行されている<ref group="注">その後、西宮以西の急行は、2016年3月19日改正から2022年12月17日改正までの間のみ、それまで運行されていた平日深夜の大阪梅田発御影行き(最終)特急を置き換える形で運行されていた。</ref>。神戸三宮発または西宮発は、甲子園駅(定期運行時の始発駅)到着直前に、列車の[[方向幕]]はそれまでの『'''{{Colors|red|white|臨急}}''' 梅 田』から『'''{{Colors|red|white|急行}}''' 梅 田』(LED表示車は『'''{{Colors|white|orange|臨急}}''' 大阪梅田』から『'''{{Colors|white|orange|急行}}''' 大阪梅田』)へと変更される。また、甲子園駅では定期列車と同じく直通特急・特急の発車後の出発であるため、甲子園駅までは先着するものの、尼崎駅・大阪梅田駅へは後続の直通特急・特急が先着する<ref name="press191126" /><ref name="hanshin20200107" />。
かつて、2009年3月ダイヤ改正から2012年3月ダイヤ改正までは、土曜・休日の夕方の梅田駅 - 尼崎駅間の急行(尼崎駅で快速急行と接続)は、引上げ線の容量の都合から尼崎駅で折り返さず、[[回送|回送列車]]として甲子園駅まで送り込まれた上で同駅構内の引き上げ線で折り返していた。特に阪神甲子園球場での催事がある日に限り、この折り返し回送列車のうち一部を[[回送|客扱い]]させた上で尼崎駅まで臨時急行として運行させることがあった(下の画像参照)。この臨時急行は、尼崎駅から先は定期の急行として運用されるが、甲子園駅 → 尼崎駅間は元々回送列車の[[ダイヤグラム#ダイヤ図|スジ]]をそのまま利用していたため、武庫川駅は通過した。また、尼崎駅到着直前に、列車の方向幕はそれまでの『'''{{Colors|red|white|臨急}}''' 梅田』から『'''{{Colors|red|white|急行}}''' 梅田』へと変更した。
このほか、2015年の[[第97回全国高等学校野球選手権大会|夏の高校野球]]開催期間中には、前もって早朝から混雑が予想された特定の日に限り、朝5時台から6時台にかけて梅田発甲子園行きの臨時急行を例外的に増発した<ref>[https://www.sankei.com/article/20150812-F4GLL75DA5I6NPUB227CDJW4PI/ さながら“清宮電車”!? 阪神電鉄が13日早朝から臨時電車運行 早実戦で] - [[産経新聞]]、2015年8月12日付、2015年8月19日閲覧。</ref>。2016年も同様に、公式ウェブサイトでは[[第98回全国高等学校野球選手権大会|夏の大会]]開催期間中の当日が準決勝戦・決勝戦である日を除く土曜・日曜・祝日に限り朝6時台に梅田発甲子園行きを2本増発するとアナウンスされた<ref name="press160729" />が、実際には15日以降も閉幕まで平日でも主に朝5時台に増発が行われた。2017年からコロナ禍となる直前までの2019年にかけても、開催期間中はお盆休みの土曜・休日ダイヤ運転日を中心に始発前の4時58分から6時25分までの間に6本の増発が行われた<ref>{{Cite web|和書|url=http://rail.hanshin.co.jp/webadmin/upload/temp/87f3e4806cc26a78fd1bd481689bd79c90aea3eb.pdf |title=全国高校野球選手権大会の臨時列車について |format=PDF|publisher=阪神電気鉄道 |date=2017-08-10 |accessdate=2017-08-13 }}</ref><ref>{{Cite news |url=https://railf.jp/news/2018/08/14/164000.html |title=阪神,早朝時間帯に臨時急行列車を運転 |newspaper=鉄道ニュース |publisher=[[交友社]] |date=2018-08-14 |accessdate=2019-08-11 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/90c5cb3700dfbd52e10422e57b283d08faf4f9b7.pdf |title=第101回 全国高校野球選手権大会の臨時列車について |format=PDF|publisher=阪神電気鉄道 |date=2019-08-08 |accessdate=2019-08-11 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://rail.hanshin.co.jp/uploads/info/72493fadd22161ba7cb2c2894d6deeb87fc445b8.pdf |title=第101回 全国高校野球選手権大会の臨時列車について |format=PDF|publisher=阪神電気鉄道 |date=2019-08-16 |accessdate=2019-08-18 }}</ref>。なお、この梅田発甲子園行きの臨時急行は、列車・駅での表示はともに『'''{{Colors|red|white|臨急}}'''』とせず『'''{{Colors|red|white|急行}}'''』として運行した<ref name="rmnews170822">{{Cite news |url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2017/08/post_1592.html |title=【阪神】「高校野球」に伴う臨時急行運転 |newspaper=RM News([[レイルマガジン]]) |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |date=2017-08-22 |accessdate=2017-08-22 }}</ref>。2020年以降はコロナ禍で高校野球でも指定席が設けられたこともあり、早朝の臨時急行は運行されていない。
<!--[[第99回全国高等学校野球選手権大会|夏の大会]]期間中の8月11日から20日にかけて、土曜・休日ダイヤであった11日 - 15日と19日・20日には毎日6本が、平日ダイヤの16・17日にも毎日5本が、それぞれ運転され(18日は運転なし)<ref>{{Cite web|和書|url=http://rail.hanshin.co.jp/webadmin/upload/temp/87f3e4806cc26a78fd1bd481689bd79c90aea3eb.pdf |title=全国高校野球選手権大会の臨時列車について |format=PDF|publisher=阪神電気鉄道 |date=2017-08-10 |accessdate=2017-08-13 }}</ref><ref name="rmnews170822">{{Cite news |url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2017/08/post_1592.html |title=【阪神】「高校野球」に伴う臨時急行運転 |newspaper=RM News([[レイルマガジン]]) |publisher=[[ネコ・パブリッシング]] |date=2017-08-22 |accessdate=2017-08-22 }}</ref>、2018年もお盆休み期間中を中心に始発前の4時58分から朝6時30分までの間に増発が行われた。-->
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ファイル:Hanshin railway's extra expreass (1).jpg|かつてあった、休日夕方の臨時急行梅田行き(甲子園駅)
ファイル:Hanshin railway's extra expreass (3).jpg|同列車の車体側面の方向幕(甲子園駅)
ファイル:Hanshin railway's extra expreass (2).jpg|甲子園駅2番ホームにあった反転フラップ式発車標(現存せず)。武庫川駅は通過扱い
ファイル:Hanshin railway's extra expreass (4).jpg|尼崎駅到着後の同列車は、急行梅田行きに変更(尼崎駅)
ファイル:Hanshin railway's extra expreass (5).jpg|同列車の車体側面の方向幕(尼崎駅)
</gallery>
==== らくやんライナー ====
阪神では初となる、[[ホームライナー|有料座席定員制列車]]。『夜間有料臨時列車(らくやんライナー)』と称する。
2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも金曜日)に、大阪梅田発青木行き[[臨時列車]]として、大阪梅田駅20:19発(1号)、21:43発(3号)の計2本を試験運行した。停車駅は野田・尼崎・武庫川・甲子園・西宮・香櫨園・打出・芦屋の各駅で、うち大阪梅田駅と野田駅のみ乗車専用とし、尼崎駅以遠の停車駅は全て降車専用とした。1号は千船駅に運転停車し(通過扱い)、3号は尼崎駅にて直通特急に追い抜かれるダイヤであった。終着の青木駅には4番線に入線し、3番線を特急列車(1号は姫路行き直通特急、3号は高速神戸行き特急)が通過したのちに引き込み線に入り、1番線を経由して回送で折り返した(1号はそのまま大阪梅田駅まで回送され、駅到着後に改めて3号として運用された。3号は尼崎車庫まで回送)。車両は各日とも9300系を使用。定員は各車両とも30名で1列車180名(うち大阪梅田駅で150名、野田駅で30名の発売枠をそれぞれ設定)とし、必ず着席できるようにした<ref group="注">9300系の座席定員は先頭車46名・中間車50名(クロスシート部は32名)。</ref>。なお、神戸三宮寄り先頭車である6号車は野田駅乗車客専用とし、大阪梅田駅では1 - 5号車のみ乗車可能(但し車両間の移動は禁止)とした。乗車整理券は1乗車200円で支払いは現金のみとし、大阪梅田駅では1番ホームで乗車前に係員が、野田駅では発車後に車内で乗務員が、それぞれ料金を徴収した。駅の発車標や車両では『'''貸切'''』と表示し(駅では発車時刻も表示。先頭車両には『らくやんライナー』の副標も掲出)、ドアは各車両とも最後尾(大阪梅田寄り)のみ開閉させ、各車両に1名ずつ開閉ドア付近に乗務員を配置した。なお、運行初日であった2022年12月23日は、1号では早くから乗車希望の行列ができたため当初発車10分前からとしていた乗車整理券の発売を急遽繰り上げ20:00前から発売した<ref name="norinews123521">{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/123521 |title=阪神初の「課金列車」に長蛇の列 「らくやんライナー」200円で”絶対座れる阪神”大盛況の現場 |publisher=乗りものニュース |date=2022-12-24 |accessdate=2022-12-24 }}</ref>。
今後に向けた参考とするため、乗車整理券裏面の[[二次元コード]]を読み取るかたちで利用客への[[アンケート]]を実施した<ref>{{Cite press release |和書 |format=PDF |url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221201-unyu-rakuyanraina.pdf |title=【期間限定】夜間有料臨時列車(らくやんライナー)の運行について |publisher=[[阪神電気鉄道]] |date=2022-12-01 |accessdate=2022-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20221201060432/https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20221201-unyu-rakuyanraina.pdf |archivedate=2022-12-01 }}</ref>。
== 使用車両 ==
=== 現在の車両 ===
==== 自社車両 ====
; 優等列車用
:* [[阪神1000系電車|1000系]]
:* [[阪神9000系電車|9000系]]
:* [[阪神8000系電車|8000系]]
:* [[阪神9300系電車|9300系]]
; 普通列車用
:* [[阪神5001形電車 (2代)|5001形(2代)]]
:* [[阪神5500系電車|5500系]]
:* [[阪神5550系電車|5550系]]
:* [[阪神5700系電車|5700系]]
==== 山陽電気鉄道 ====
* [[山陽電気鉄道3000系電車|3000系]]
* [[山陽電気鉄道3000系電車#3050系|3050系]]
* [[山陽電気鉄道5000系電車|5000系]]
* [[山陽電気鉄道5030系電車|5030系]]
* [[山陽電気鉄道6000系電車|6000系]]
==== 近畿日本鉄道 ====
* [[近鉄9020系電車|9020系・9820系]]
* [[近鉄1220系電車|1026系(1026F - 1029F)・1252系(1271F - 1277F)]]
* [[近鉄5800系電車|5800系]]
* [[近鉄5820系電車|5820系]]
* [[近鉄22600系電車|22600系]](Ace・[[近鉄特急|特急用車両]]、当面は団体臨時列車のみ)
=== 過去の車両 ===
==== 自社車両 ====
; 優等列車用
:* [[阪神2000系電車|2000系]]
:* [[阪神8701・8801・8901形電車|8701・8801・8901形]]
:* [[阪神3000系電車|3000系]]
:* [[阪神3801・3901形電車|3801・3901形]]
:* [[阪神7001・7101形電車|7001・7101形]]
:* [[阪神7801・7901形電車|7801・7901形]]
:* [[阪神3521形電車|3521形]]
:* [[阪神3601・3701形電車|7601・7701形]]
:* [[阪神3601・3701形電車|3601・3701形]]
:* [[阪神3301形・3501形電車|3301形・3501形]]
:* [[阪神3011形電車#3561・3061形|3561・3061形]]
:* [[阪神3011形電車|3011形]]
:* [[阪神7890・7990形電車|7890・7990形]]
:* [[阪神7861・7961形電車|7861・7961形]]
; 普通列車用
:* [[阪神5131形・5331形電車|5131形・5331形]]
:* [[阪神5311形電車|5311形]]
:* [[阪神5261形電車|5261形]]
:* [[阪神5231形電車|5231形]]
:* [[阪神5151形電車|5151形]]
:* [[阪神5101形・5201形電車|5101形・5201形]]
:* [[阪神5001形電車 (初代)|5001形(初代)]]
; 小型旧性能車 <!--ジェットカー登場以前 -->
:* [[阪神1001形電車|1001形・1101形・1111形・1121形・1141形]]
:* [[阪神851形電車|851形・861形・881形]]
:* [[阪神801形電車|801形・831形]]
:* [[阪神601形電車|601形]]
:* [[阪神701形電車|701形]]
:* [[阪神301形電車|301形・311形・321形・331形・291形]]
:* [[阪神51形電車|51形]]
:* [[阪神1形電車|1形]]
==== 山陽電気鉄道 ====
* [[山陽電気鉄道2000系電車|2000系]]
* [[山陽電気鉄道2700系電車|2700系]]
* [[山陽電気鉄道2300系電車|2300系]]
* [[山陽電気鉄道3000系電車#3200系|3200形]]
== 歴史 ==
=== 戦前 ===
{{出典の明記|date=2019年12月|section=1}}
==== 開業までの経緯 ====
本線は、当初[[軌道 (鉄道)|軌道]]線([[路面電車]])として開業した。しかしそれまでの軌道線が市街地交通としての役割しか果たしていなかったのに対し、阪神電気鉄道は都市間交通としての電車に注目し、それを阪神間に投入することにした。
そもそも阪神間には[[東海道本線]]がすでに存在するため、それを運営する[[逓信省]]鉄道作業局(後、[[運輸省]]→[[国土交通省]])から並行路線の[[私設鉄道法]]に基づく鉄道敷設免許は下りる見込みは低く、ならば路面電車扱いにして[[内務省 (日本)|内務省]](後、[[建設省]]→国土交通省)から認可を取ろうということになり、それも本来軌道なら道路上に敷設しなければならないところ、一部でも路面区間(この場合[[御影 (神戸市)|御影]]や神戸など)があればいいということで認められたものである。そして阪神電気鉄道に対する認可後、[[京阪電気鉄道]]・[[箕面有馬電気軌道]](現在の[[阪急電鉄]])・[[大阪電気軌道]](現在の[[近畿日本鉄道]])・京浜電気鉄道(現在の[[京浜急行電鉄]])・京王電気軌道(現在の[[京王電鉄]])・京成電気軌道(現在の[[京成電鉄]])など、次々とこの類型の形による[[私鉄]]会社が誕生することになった。
ルート選定に関しては、東海道本線が阪神間をほぼ周辺集落を無視した直線ルートで敷設したのに対し、乗客獲得のため[[尼崎市|尼崎]]や[[西宮市|西宮]]など、[[梅田街道]]・[[中国街道]]・[[西国街道]]沿いの市街地をできるだけ縫うようなものとなった。その結果、同じような条件で敷設された阪急[[阪急宝塚本線|宝塚本線]]や[[京阪本線]]などと同様に曲線区間が多くなり、[[株式会社]]をもじって「カーブ式会社」と揶揄される要因ともなった。
==== 開業後の速度違反 ====
[[1905年]](明治38年)[[4月12日]]、大阪出入橋駅 - 神戸筒井通駅間で阪神電気鉄道の営業が開始されたが、当時の[[軌道法]]では最高速度が8[[マイル毎時|マイル/時]](12.9km/h)とされていた所、同社は当時の車両([[阪神1形電車|1形]]など)に速度計が無いことを利用して大幅にそれを上回る速度違反を行い、開業当初から[[表定速度]]20.4km/h で走り大阪出入橋 - 神戸雲井通間を1時間半で結んだ。東海道本線の列車による同区間(大阪駅 - 三ノ宮駅間)の所要時間は50分に対し阪神電気鉄道は60分(最初期は90分)で、国鉄が途中停車3駅なところを32駅も停車するなど利便性が良く、阪神電気鉄道開業後に国鉄のこの区間の乗客が約1/3に減少したという<ref>福原俊一『日本の電車物語 旧性能電車編 創業時から初期高性能電車まで』JTBパブリッシング、2007年。ISBN 978-4-533-06867-6。p.43-44</ref>。
なお1911年には軌道法に基づく最高速度が25マイル/時(40km/h)となる(現在も変わらず)が、それでも阪神電気鉄道は当時阪神間所要時間を63分に短縮(表定速度29km/h)していたため、速度違反なのは変わらなかった。しばらく後に「[[専用軌道|新設軌道]]」という新しい軌道線区分(軌道線であるものの[[鉄道線]]並みの速度が出せる)ができて、ようやく速度違反でなくなった。
==== 輸送力強化と阪急との競合 ====
大正に入って、[[第一次世界大戦]]の辺りになると尼崎が工業都市化し、また西宮や[[芦屋市|芦屋]]付近は住宅地となって、乗客数は急増した。しかし軌道法に基づき単行運転を強いられた阪神電気鉄道では輸送力強化は容易でなく、苦肉の策として半急行として阪神間を四区間に分割、そのうち一区間を通過する電車を設定した<ref name="RP633">『鉄道ピクトリアル』No.633 p.15。</ref>。これによって阪神間58分へのスピードアップが果たされるとともに<ref>[{{新聞記事文庫|url|0100107341|title=阪神、阪急の序幕戦 (一〜三)|oldmeta=00097134}} 阪神、阪急の序幕戦]</ref>車両の運用効率が上がり、運転間隔を詰め2割の輸送力強化へつなげることができた。
それでも、抜本的な改革となる増結運転を実施するための交渉は内務省など監督官庁の間で続けられ、1913年に申請を出した後、まず専用軌道区間で、 1921年からは全線での2両運転が許可された。これには大阪府と兵庫県の知事が政府に沿線住民の陳情書を提出するなどの働きかけも行っている。またこれに伴い、1920年には[[総括制御]]が可能な[[阪神301形電車|301形]]が投入され、2両運転開始とともに1921年11月7日同線初の急行電車(阪神間56分)も設定されている<ref name="RP633" />。
なお、1920年に並行して[[阪神急行電鉄]](阪急)[[阪急神戸本線|神戸本線]]が開通し、「速くて空いている阪急電車」のキャッチコピーで梅田駅(現在の大阪梅田駅) - 神戸(上筒井)駅間を50分→25分(1934年7月より)で結ぶようになると、梅田駅 - 三宮駅(現在の神戸三宮駅)間に60分前後を要していた阪神電気鉄道では危機感を強め、線形の関係でスピードアップは容易でなかったものの、[[1933年]](昭和8年)までに[[併用軌道]]を廃して全線を[[専用軌道]]化して全線を35分で走破する特急の運転を開始(野田駅・尼崎駅・甲子園駅・西宮駅・芦屋駅・御影駅に停車)し、さらには「'''またずにのれる阪神電車'''」をキャッチコピーとして電車の頻発運転(4分毎に急行→特急と普通を運転)も行い、対抗した。
また都市間のみならず沿線でも、阪急とは激しい乗客誘致合戦が繰り広げられた。詳しくは[[阪神急行電鉄#開業後の阪神電気鉄道との対立]]を参照のこと。
==== 神戸市街の地下線化 ====
路線の専用軌道化を推し進めるに当たり、神戸の併用軌道区間については当初高架線によって解消を計画していたが、市の要請で地下線に変更した。同じ様に高架線での神戸[[三宮]]乗り入れを計画していた阪急は、地下線への計画変更に終始反対していて長らく工事に取り掛かることができなかったため、先に市街地への乗り入れを果たすことが競争で優位に立つ要因であると判断し、阪神電気鉄道側は譲歩したと見られている。
1933年に三宮駅への乗り入れを果たした後、阪急の三宮駅乗り入れを控えた1936年には中心地の[[元町 (神戸市)|元町]]乗り入れを達成し、「大阪の中心から神戸の中心へまたずにのれる」とアピールした。なお、1934年に三宮駅から先の区間の敷設免許を申請した際には、湊川駅まで延伸して[[山陽電気鉄道]]と接続する予定であったが、資材と予算の都合もあり、元町駅までを突貫工事で完成させて当面の措置としたといわれている。
なお阪神電気鉄道は、本線の線形の不利を補おうと、[[第二阪神線]]なる別線を張り付けでの[[複々線]]化も一時は検討していた。その計画は結果的には頓挫したが、一部は[[阪神なんば線|伝法線(→西大阪線→阪神なんば線)]]として開業している。さらに上記の元町駅・湊川駅への延伸も、本来はこの計画の一環として計画されたものであった。
同社はまた、阪神国道(今の[[国道2号]])上に[[路面電車]]を敷設する計画が上がった際には、阪急以上の脅威となる可能性を危惧し、積極的に介入を行った。これは1927年に[[阪神国道電軌]]として開業し、翌年には阪神へ合併され、同社の[[阪神国道線|国道線]]となっている(1975年までに全線廃止)。
=== 戦後 ===
{{出典の明記|date=2019年12月|section=1}}
==== ノンストップ特急の設定 ====
戦後は1954年 - 1963年の一時期にかけて、[[阪神3011形電車|3011形]]を使った梅田駅 - 元町駅間を三宮駅のみ停車で27分運転(三宮駅までは25分)という特急も設定したりしている。当時、阪急線で梅田駅 - 三宮駅間を走る特急の所要時間が十三駅、西宮北口駅停車で28分であり、また[[国電]]([[日本国有鉄道|国鉄]]電車)の[[京阪神快速|急行電車]](1958年から[[快速列車|快速電車]]へ呼称変更)が24分で大阪駅 - 三ノ宮駅間を途中無停車(後に芦屋駅にも停車)で結んでいたので、若干国鉄には劣るものの線形の悪い阪神電鉄線の優等列車が、阪急線のそれを所要時間で凌ぐことになった。
特急は昼間のみ20分間隔で設定されたが、阪神間の途中駅の需要を取り込むため、1960年からは昼間10分間隔に増発される一方で西宮駅、芦屋駅、御影駅にも停車するようになった。1963年2月1日改正より昼間は12分間隔となり、1998年2月15日改正まで35年間続いた。
==== 西大阪線特急 ====
{{Main|阪神なんば線#西大阪線特急}}
1964年に伝法線が西大阪線と改称され、[[大阪環状線]]と接する[[西九条駅]]まで延伸されたが、翌1965年には大阪南部から神戸方面への速達効果を狙い、同線との直通列車である「西大阪線特急」が設定された。しかし利用が低迷し、1974年に廃止されている。
==== 神戸高速鉄道・山陽電気鉄道との直通運転 ====
阪神では湊川駅への延伸免許を、戦後もしばらく保有し続けていた。昭和30年代に入り[[神戸市]]が[[神戸市電|市電]]の代替も兼ねて、神戸市に乗り入れる各私鉄を地下線で接続する計画をたて、1958年に[[神戸高速鉄道]]を発足させてそれを具体化させると、阪神では件の延伸免許を失効させる代わりに、同社線への直通を行うことが決められた。
1968年に[[阪神神戸高速線|東西線(現:阪神神戸高速線)]]が開通し、阪神は予定どおり同線への直通と、それを介しての[[山陽電気鉄道本線]]との直通運転を開始した。
1998年2月の直通特急運転開始までは、以下のような運用であった。
* 阪神側からの列車は、終日、特急が直通していた。朝夕の時間帯には急行も、早朝深夜の時間帯には普通(新開地まで)も直通していた。行先は高速神戸駅、新開地駅、東須磨駅、須磨浦公園駅であった。直通先では各駅に停車していたが、種別表示は阪神電鉄線内の種別表示のままで、これは現在でも同じである。
*阪神側からは、昼間の場合、1時間あたり特急5本すべてが高速神戸駅または新開地駅まで直通し、うち3本(1968年の直通運転開始時点では2本)が須磨浦公園駅まで直通した。
* 山陽電鉄線からは、昼間の場合、1時間に2本が大石駅まで直通した(阪急側も同様に1時間あたり2本が六甲駅まで直通した)。山陽電鉄側からも原則として特急が乗り入れたが、普通が乗り入れることもあった。昼間以外の時間帯では三宮駅始発・終着の列車も存在した。1991年4月改正まで阪神電鉄線内では各駅に停車していたが、1991年4月改正より、山陽電鉄線からの直通列車は全て西灘駅を通過するようになった。種別表示は山陽電鉄線内の種別表示のままであった。
*阪神本線では6両が最長編成であったため、阪急のような7両編成(後に8両編成)が山陽電鉄線に直通できないというような編成長の制約はなかった。
1998年2月改正で[[直通特急 (阪神・山陽)|直通特急]]が設定され、全面的な相互直通運転が実施されるようになり、2001年に山陽からの大石駅折り返し列車は廃止された<ref group="注">ただし、山陽電鉄方面からの阪神神戸三宮行きは、神戸三宮駅到着後は大石駅との間を[[回送]]で往復し再び神戸三宮駅始発として山陽電鉄方面への営業運転に入っているため、現在でも大石駅までの山陽電鉄車両の入線は継続している。</ref>。
==== 2000年代以降 ====
2001年のダイヤ改正では、直通特急が増発され、沿線の住宅開発や[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]] (USJ) のオープンに伴い、全ての直通特急・特急が尼崎駅・魚崎駅に停車するようになった。阪神なんば線開業を目前にした2009年1月下旬ごろから駅名表示板の意匠変更(青地に白抜き文字)や、駅の[[駅自動放送|自動放送]]、[[発車メロディ#接近メロディ|接近]]・[[発車メロディ]]の更新が行われた。
2009年3月には阪神なんば線の開業により、三宮から[[難波]]、それに[[近畿日本鉄道|近鉄]][[近鉄難波線|難波線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]を経て[[奈良市|奈良]]方面との[[直通運転|相互直通運転]]が開始され、同時に、三宮駅から阪神なんば線を経由して[[近鉄奈良駅]]とを結ぶ優等列車として快速急行が日中毎時3往復新設され、前述の西大阪線特急廃止から約34年と4か月ぶりに西九条駅を経由の優等列車が設定された。その後も阪神間と[[ミナミ]]や近鉄奈良線沿線との間の利用増加に伴い、列車の増発が行われた。さらに、駅のホームを延長し、2020年3月14日より土曜・休日の快速急行は一部列車を除き8両編成で本線に直通するようになった。
2022年12月23日と2023年1月6日・13日・20日(いずれも金曜日)には、阪神では初となる、[[ホームライナー|有料座席定員制列車]]を試験運行した。『夜間有料臨時列車(らくやんライナー)』と称し、各日とも大阪梅田発青木行き[[臨時列車]]を2便運行した<ref name="norinews123521" />。
=== 年表 ===
* [[1905年]]([[明治]]38年)
** [[4月12日]] [[出入橋駅]] - 神戸駅(初期は神戸雲井通とも案内)間開業。
** [[4月21日]] 今津駅(現在の久寿川駅。現在の今津駅は当時未開業) - 西宮駅間に西宮東口駅、西宮駅 - 打出駅間に戎駅開業。
** [[5月23日]] 出屋敷駅 - 武庫川駅(尼崎センタープール前駅は当時未開業)間の蓬川駅廃止。
** [[7月10日]] 新生田川駅 - 神戸駅間の旭通駅廃止。
* [[1906年]](明治39年)[[12月21日]] 梅田駅 - 出入橋駅間を延伸開業。大阪側の起点が梅田駅となる。
* [[1907年]](明治40年)
** [[2月20日]] 西宮駅 - 打出駅(香櫨園駅は当時未開業)間の戎駅廃止。
** [[4月1日]] 西宮駅 - 打出駅間に香枦園駅開業。
* [[1908年]](明治41年)
** 当線を歌った「[[電車唱歌|阪神電車唱歌]]」作曲。
** [[11月27日]] 岩屋駅 - 春日野道駅間に脇浜駅開業。
* [[1912年]]([[大正]]元年)[[11月1日]] 神戸側終点を雲井通(三宮)から加納町(滝道)まで延伸。加納町(滝道)に[[滝道駅]]を設置、従来の神戸駅(神戸雲井通)を三宮駅に改称。滝道駅は三宮駅に代わって「神戸駅」とも呼ばれた。
* [[1921年]](大正10年)[[1月5日]] 大和田駅と佃駅を統合し千船駅開業。
* [[1924年]](大正13年)[[8月1日]] 鳴尾駅 - 今津駅(現在の久寿川駅)間に[[臨時駅]]として甲子園駅開業。
* [[1925年]](大正14年)[[5月30日]] 稗島駅を姫島駅に改称。
* [[1926年]](大正15年)
** [[7月16日]] 甲子園駅が通年営業となる。
** [[12月19日]] 今津駅(初代)を久寿川駅と改称し、久寿川駅 - 西宮東口駅間に[[阪急今津線]]との接続駅として今津駅(2代目)開業。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[7月1日]] [[阪神国道電軌]](のちの[[阪神国道線]]。1975年廃止)開業に伴い、本線の大石駅 - 岩屋駅間へ国道電軌の接続駅として西灘駅開業。
* [[1929年]](昭和4年)[[7月27日]] 東明駅 - 大石駅間の(旧)新在家駅を廃止。御影駅を高架化により移転。
* [[1930年]](昭和5年)[[2月11日]] 東明駅を(新)新在家駅へ改称。
* [[1933年]](昭和8年)[[6月17日]] 神戸側の地下新線(岩屋駅 - 神戸駅間)開業。岩屋以西を地下線として岩屋駅 - 三宮駅 - 滝道(神戸)駅間地上線の営業廃止。[[鉄道省|省線]][[三ノ宮駅]]近くの地下へ新たな神戸側終点となる神戸駅を設置する。同日より梅田駅 - 神戸駅間で特急の運転を開始。
* [[1934年]](昭和9年)[[5月1日]] 岩屋駅 - 神戸駅間に春日野道駅開業(なお、地下新線開業前の旧線にも同名駅が存在した)。
* [[1936年]](昭和11年)[[3月18日]] 神戸側終点を元町駅まで延伸。同時に神戸駅を三宮駅へ改称。
* [[1938年]](昭和13年)[[7月5日]] [[阪神大水害]]により、神戸市内の地下線が土砂で埋まるなど、甚大な被害を受ける。
* [[1939年]](昭和14年)[[3月21日]] 梅田駅地下化。0.3km延長。
* [[1943年]](昭和18年)[[11月21日]] 武庫川信号場新設。
* [[1945年]](昭和20年)
** 福島駅休止。
** [[3月28日]] 戦禍により三宮駅 - 元町駅間営業休止{{refnest|group="注"|地下区間を軍需工場として転用するためだったという<ref>{{cite news |title=大戦末期、神戸中心部に地下軍需工場 秘密裏に阪神電鉄の線路接収 |newspaper=神戸新聞 |date=2015-08-14 |url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201508/0008303867.shtml |accessdate=2015-08-15}}</ref>。}}。
** 6月25日 戦時臨時運転(急行の運転を中止し、普通のみとする)を実施。
** 11月3日 三宮駅 - 元町駅間営業再開(下り線のみ)。
** 12月30日 急行運転を再開(戦後の電鉄界では日本初)。
* [[1946年]](昭和21年)[[3月1日]] 三宮駅 - 元町駅間、上り線の営業再開。梅田駅 - 元町駅間直通運転再開。
* [[1948年]](昭和23年)[[10月26日]] 福島駅営業再開。梅田駅 - 福島駅間の出入橋駅廃止。
* [[1952年]](昭和27年)[[9月14日]] 出屋敷駅 - 武庫川駅間に(臨)尼崎センタープール前駅開業。
* [[1954年]](昭和29年)[[9月15日]] 3011系による、阪神間をノンストップで結ぶ特急の運転を開始。
* [[1961年]](昭和36年)[[12月8日]] 野田高架線建設工事が完成、野田駅高架化。
* [[1963年]](昭和38年)[[12月1日]] 昼間の運転間隔を10分から12分に変更。尼崎センタープール前駅が通年営業となる。
* [[1964年]](昭和39年)[[4月10日]] 尼崎駅高架化。
* [[1965年]](昭和40年)[[9月15日]] 西大阪線(現在の阪神なんば線)に直通する[[阪神なんば線#西大阪線特急|西大阪線特急]]を元町駅 - 西九条駅間で運転開始。
* [[1967年]](昭和42年)
** [[7月2日]] 石屋川駅 - 西灘駅間を高架化。<!-- http://www.hanshin.co.jp/company/about/history04.html にある1968年4月15日は上下線とも切替えられた日? -->大石駅を移転。[[新在家車庫]](旧・東明車庫)を廃止し[[石屋川車庫]]を開設。
** [[11月12日]] 架線電圧を600Vから1500Vに昇圧。
* [[1968年]](昭和43年)
** [[3月17日]] ATS設置。
** [[3月20日]] 神戸高速鉄道・山陽電気鉄道との直通運転を開始(元町駅より西は回送扱い)。西大阪線特急の神戸側発着駅を元町駅から三宮駅に変更。
** [[4月7日]] 神戸高速鉄道・山陽電気鉄道との直通営業運転を開始。
** [[4月18日]] 石屋川車庫(初代)が完成。
* [[1969年]](昭和44年)[[3月31日]] 新淀川橋梁が完成、線路付け替え。野田駅 - 姫島駅間高架化。
* [[1970年]](昭和45年)
** [[9月21日]] 武庫川駅 - 尼崎センタープール前駅間高架化。
** [[11月24日]] 特急、急行の一部で6両運転開始。
* [[1971年]](昭和46年)
** 4月1日 全車両に[[列車選別装置|列車種類選別装置]]を設置、使用開始。
** 6月7日 全踏切道の自動化完了。
** 8月3日 全駅に自動券売機(一部の駅は単能式のみ)、光学式乗車券印刷発行機を設置完了。
* [[1972年]](昭和47年)[[10月10日]] 全踏切道(車両通行禁止の踏切を除く)に踏切障害物検知装置の設置完了。
* [[1973年]](昭和48年)[[11月26日]] 特急、夜間を除く急行の全列車6両連結運転開始。
* [[1974年]](昭和49年)12月1日 西大阪線特急を利用低迷から廃止。
* [[1977年]](昭和52年)[[12月27日]] 全線を軌道法に基づく軌道から[[地方鉄道法]]に基づく鉄道に変更。
* [[1978年]](昭和53年)[[6月10日]] 大物駅 - 姫島駅間を高架化。
* [[1983年]](昭和58年)[[1月15日]] 甲子園駅 - 久寿川間の下り線を高架化<ref>{{Cite news |title=高架仮下り線を15日から使用へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1983-01-13 |page=1 }}</ref>。
* [[1984年]](昭和59年)
**[[3月31日]] 甲子園駅 - 久寿川駅間を高架化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nishi.or.jp/shisei/shinogaiyo/nishinomiyashishi/ayumi.html |title=市のあゆみ|publisher=[[西宮市]] |accessdate=2019-01-13 }}</ref>。
**[[7月16日]] 梅田駅 - 野田駅間の地下化工事が着工される<ref>[https://www.hanshin.co.jp/fukumarudori57/about.html ABOUT | ふくまる通り57] - 阪神電気鉄道</ref>。
* [[1991年]]([[平成]]3年)7月 尼崎駅 - 武庫川駅の下り線が高架化<ref name="kotsu19931225">{{Cite news |title=阪神武庫川-尼崎間 上り線も立体化完了 来月使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-12-25 |page=1 }}</ref>
* [[1993年]](平成5年)[[9月5日]] 梅田駅 - 野田駅間を地下新線に切り替え<ref name="kotsu19930823">{{Cite news |title=阪神電鉄・梅田-野田間 来月5日から地下新線に 6踏切除去 交通渋滞を大幅解消へ |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-08-23 |page=1 }}</ref>。福島駅地下化{{R|kotsu19930823}}。
* [[1994年]](平成6年)[[1月23日]] 尼崎駅 - 武庫川駅間の上り線が高架線に切り替えられ、上下線が高架化される{{R|kotsu19931225}}。
* [[1995年]](平成7年)
** [[1月17日]] [[兵庫県南部地震]]([[阪神・淡路大震災]])で甚大な被害を受け全線が不通となる<ref name="交通950119">{{Cite news |title=阪神間の鉄道分断状態 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-01-19 |page=1 }}</ref>。
** [[1月18日]] 梅田駅 - 甲子園駅間が復旧し開通{{R|交通950119}}。
** [[1月26日]] 甲子園駅 - 青木駅間が復旧し開通<ref>{{Cite news |title=神戸市内へ乗り入れ 震災後初めて 阪神、青木まで運転再開 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-01-27 |page=1 }}</ref>。
** [[2月1日]] 三宮駅 - 元町駅間が復旧し開通(運転区間は高速神戸駅まで)<ref name="RJ354">{{Cite journal|和書 |date = 1996-04 |title = 阪神大震災から1年 |journal = [[鉄道ジャーナル]] |volume = 30 |issue = 4 |pages = 86-88 |publisher = [[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。
** [[2月7日]] 震災で御影駅で脱線した列車を尼崎車庫に回送中、尼崎駅構内の[[分岐器|ポイント]]で12両中前から6両目から9両目の計4両が脱線<ref name="交通950208">{{Cite news |title=回送列車が脱線 阪神尼崎駅構内 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-02-08 |page=3 }}</ref>。始発から正午まで全線で大幅運休{{R|交通950208}}。
*** 事故列車は御影駅構内で震災により被災した[[阪神8000系電車|8000系]]6両編成2本を繋いだ12両で、自力走行できない6両(8219F)を前の6両(8215F)に連結し、当日未明に御影駅から修理のため尼崎車庫まで10km/hで回送していたが、後部車両の台車の空気バネが破損していたこと、さらに制動に使用する空気を圧縮するコンプレッサーも使用できなかった<ref>{{Cite news |title=空気バネ作動せず 阪神脱線事故原因 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1995-02-09 |page=3 }}</ref>。そのためポイント通過中に車両が異常動揺を起こし脱線した。結局、後部車両はクレーンで撤去され午前10時まで電車の出庫ができなかった。
** 2月11日 青木駅 - 御影駅間が復旧し開通<ref name="RJ354"/>。
** 2月20日 岩屋駅 - 三宮駅間が復旧し開通<ref name="RJ354"/>。
** [[3月1日]] 西灘駅 - 岩屋駅間が復旧し開通<ref name="RJ354"/>。
** [[6月26日]] 御影駅 - 西灘駅間が復旧し全線開通<ref name="RJ354"/>。
*** ただし、この段階では神戸高速鉄道・山陽電気鉄道が全線復旧を果たしておらず、山陽の車両が3本程新開地以東に閉じ込められていた。これらの車両は[[神戸高速鉄道東西線]]の[[高速長田駅]] - [[新開地駅]]が復旧する[[8月13日]]まで、大石駅・[[六甲駅]](阪急神戸本線) - 新開地駅の運転に充当された。
** 11月 堀切信号場新設。
* [[1996年]](平成8年)[[3月20日]] 石屋川車庫が再建され完全復旧<ref>{{cite news |和書|title=阪神電鉄 3月20日ダイヤ改正 被災の施設、車両全て復旧 |newspaper=交通新聞 |date=1996-02-27 |publisher=交通新聞社 |page=5 }}</ref>。
* [[1998年]](平成10年)[[2月15日]] 梅田駅 - 山陽姫路駅間に直通特急「姫路ライナー」・「大阪ライナー」を運転開始。昼間の快速急行が梅田駅 - 西宮駅(土曜・休日は甲子園駅)間の急行に差し替えられる<ref>{{Cite news |title=阪神山陽電鉄 直通特急の運転開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1998-02-17 |page=3 }}</ref>。
* [[2001年]](平成13年)
** [[2月17日]] 住吉 - 魚崎の上り線が高架線に切り替えられる<ref name="RJ415">{{Cite journal|和書 |date = 2001-05-01 |title = Railway Topics |journal = 鉄道ジャーナル |issue = 5 |volume = 35 |publisher = 鉄道ジャーナル社 |pages = 98-99 }}</ref>。
** [[3月3日]] 戦後に略字表記となっていた香枦園駅を旧字体を用いた香櫨園駅に改称<ref name="RJ415"/>。西宮駅を200m東側(大阪梅田寄り)に移設・高架化したことに伴い、今津駅 - 西宮駅間の[[西宮東口駅]]を統合廃止。
** [[3月10日]] 西宮駅の高架工事が完成する。直通特急を尼崎駅・魚崎駅終日停車とし、昼間には西元町駅・大開駅にも停車する列車も新設される<ref>{{Cite journal ja-jp |author=鶴通孝 |year=2001 |month=5 |title=関西私鉄 王国復権の道(1.姫路直通を大増発した阪神)|journal=[[鉄道ジャーナル]] |serial= 通巻415号 |page= 63 |publisher=[[鉄道ジャーナル社]] }}</ref>。区間急行の種別廃止。
* [[2002年]](平成14年)[[11月9日]] 住吉 - 魚崎の下り線が高架線に切り替えになり、上下線が高架化<ref name="rail fan2003-02">{{Cite journal|和書 |author = 外山勝彦 |date = 2003-02-01 |title = 鉄道記録帳2002年11月 |journal = RAIL FAN |issue = 2 |volume = 50 |publisher = 鉄道友の会 |pages = 21 }}</ref><ref>{{cite news |title=阪神・住吉-魚崎間高架化 9日から切り替え |newspaper=神戸新聞 |date=2002-11-07 |url=http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sougou/021107ke82100.html |accessdate=2012-09-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20021221035250/http://www.kobe-np.co.jp:80/kobenews/sougou/021107ke82100.html |archivedate=2002-12-21 }}</ref>。
* [[2006年]](平成18年)[[10月28日]] 下り準急の甲子園駅以西運転取りやめ、区間急行種別復活、山陽姫路行き直通特急の最終便の発車時刻の繰り下げ(23:00発)などを実施。
* [[2009年]](平成21年)3月20日 阪神なんば線(旧:西大阪線)西九条駅 - 大阪難波駅間開業に伴い、本線と阪神なんば線・[[近鉄難波線]]・[[近鉄奈良線|奈良線]]相互間で直通運転を開始。同時に本線の快速急行は梅田駅 - 尼崎駅間の運転を、急行は西宮駅 - 三宮駅間の運転を休止し、快速急行はなんば線直通列車用の種別となる。また準急種別はなんば線内の運用に限定し、本線での運転を休止。
* [[2012年]](平成24年)3月20日 快速急行の運転区間を神戸高速線新開地駅まで拡大(土曜・休日上りのみ)。三宮駅発着の快速急行を夜間に1本増発(尼崎駅始発を延長)。区間特急の停車駅に野田を追加(停車は翌21日以降)。
* [[2014年]](平成26年)4月1日 三宮駅を神戸三宮駅に改称、全駅に[[駅ナンバリング]]を導入<ref name="holdings20130430">{{PDFlink|[http://holdings.hankyu-hanshin.co.jp/ir/data/SR201304304N1.pdf 阪神「三宮」を「神戸三宮」に駅名変更のうえ、駅ナンバリングを導入し、全てのお客さまに分かりやすい駅を目指します]}} - 阪急阪急ホールディングス、2013年4月30日。</ref>。
* [[2015年]](平成27年)
** [[3月14日]] 武庫川駅 - 甲子園駅間の下り線が高架化。鳴尾駅ホーム(下り線のみ)が高架化<ref>{{Cite web|和書|url=http://web.pref.hyogo.jp/hsk06/naruohtopikkusu.html |title=阪神本線連続立体交差事業(鳴尾工区) / 最新トピックス |publisher=兵庫県 |date=2015-10-05 |accessdate=2016-01-13}}</ref>。
** [[12月12日]] 魚崎駅 - 芦屋駅間の下り線が高架化<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/1588 |title=阪神本線 住吉・芦屋間連続立体交差事業 魚崎駅 - 芦屋駅間下り線を高架に切替え 2015年12月12日始発から |publisher=阪神電鉄 |date=2015-11-10 |accessdate=2015-11-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/project/urban/rittai/hanshinrenritsu.html |title=阪神本線 住吉・芦屋間連続立体交差事業 |publisher=神戸市 |accessdate=2015-11-10}}</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
** [[3月19日]] 区間特急を御影発とし停車駅に魚崎駅・尼崎駅を追加<ref name="hansin20160120" />。
* [[2017年]](平成29年)3月18日 武庫川駅 - 甲子園駅間の上り線が高架化<ref>{{Cite press release |和書 |title=阪神本線連続立体交差事業(鳴尾工区) 2017年3月18日始発から、甲子園駅 - 武庫川駅間上り線を高架に切替え 甲子園・武庫川駅間の線路が全て高架となります |url=http://www.hanshin.co.jp/company/press/detail/1797 |publisher=阪神電鉄 |date=2016-12-27 |accessdate=2016-12-27}}</ref>。
* [[2019年]]([[令和]]元年)
** [[10月1日]] 梅田駅を大阪梅田駅に、鳴尾駅を鳴尾・武庫川女子大前駅に、それぞれ改称<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20190730-ekimei.pdf|format=PDF|title=10月1日から「梅田」と「鳴尾」の駅名を変更します|publisher=阪神電鉄|date=2019-07-30|accessdate=2019-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190730035842/https://www.hanshin.co.jp/company/press/pdf/20190730-ekimei.pdf|archivedate=2019-07-30}}</ref>。
** [[11月30日]] 魚崎駅 - 芦屋駅間の上り線が高架化<ref name="press191101" />。
* [[2020年]](令和2年)
** [[3月14日]] ダイヤ改正。快速急行は平日日中も今津駅に停車、土曜・休日に8両編成での運行開始、芦屋駅を土曜・休日のみ通過に変更。青木発の区間急行が設定され、停車駅に青木駅・芦屋駅・西宮駅・今津駅を追加<ref name="hanshin20200121" />。
* [[2022年]](令和4年)
** [[12月17日]] ダイヤ改正。快速急行を平日日中毎時2本に減便し、夕方以降も8両編成での運行に変更。深夜時間帯を減便し、終電を繰り上げ。
** [[12月23日]] 初の[[ホームライナー|有料座席定員制列車]]『らくやんライナー』を運行開始(2023年1月20日まで。平日ダイヤで運行する金曜日のみ)<ref name="norinews123521" />。
== 駅一覧 ==
<div style="font-size:90%;">
<!-- 2009年ダイヤ改正以降は区間特急は直通特急・特急より下位の種別 -->
; 凡例
:●:停車、▲:時間帯・列車により停車、△:臨時停車の場合あり、
:|・↓・↑:通過、↓・↑片方向のみ運転
:普通:全駅に停車(表中省略)。S特急は当線内では神戸三宮駅 - 元町駅で運転され、両駅に停車する。
:区間特急:平日朝に大阪梅田行きのみ運転、区間急行:平日朝のみ運転、快速急行:神戸三宮発着。
:<nowiki>#</nowiki>印のある駅は列車待避可能駅
:[[駅ナンバリング|駅番号]]は2014年4月より導入<ref name="holdings20130430" />。
{| class="wikitable" rules="all" style="font-size:95%;"
|-
!style="width:4em; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|駅番号
!style="width:12em; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|駅名
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|駅間<br />キロ
!style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|営業<br />キロ
!style="width:1em; background:#fc9; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|{{縦書き|区間急行|height=4.5em}}
!style="width:1em; background:#fb7; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|{{縦書き|急行|height=4.5em}}
!style="width:1em; background:#9cf; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|{{縦書き|快速急行|height=4.5em}}
!style="width:1em; background:#c9f; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|{{縦書き|区間特急|height=4.5em}}
!style="width:1em; background:#fcc; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|{{縦書き|特急|height=4.5em}}
!style="width:1em; background:#f96; border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|{{縦書き|直通特急|height=4.5em}}
!style="border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|接続路線・備考
!colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #1f64b1;"|所在地
|-
!HS 01
|[[大阪梅田駅 (阪神)|大阪梅田駅]]
|style="text-align:center;"|-
|style="text-align:right;"|0.0
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"|●
| rowspan="7" style="width:1em; text-align:center; vertical-align:bottom;" |{{縦書き|阪神なんば線経由近鉄線直通}}
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|style="text-align:center; background:#f96;"|●
|[[阪急電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kyōto line.svg|18px|HK]] [[阪急京都本線|京都本線]]<ref group="*">運転系統としての「京都本線」。同線の正式な起点は「[[十三駅]]」。</ref>・[[ファイル:Number prefix Hankyu Takarazuka line.svg|18px|HK]] [[阪急宝塚本線|宝塚本線]]・[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸本線|神戸本線]]([[大阪梅田駅 (阪急)|大阪梅田駅]]: HK-01)<br>[[大阪市高速電気軌道]]:[[ファイル:Osaka Metro Midosuji line symbol.svg|15px|M]] [[Osaka Metro御堂筋線|御堂筋線]]([[梅田駅 (Osaka Metro)|梅田駅]]: M16)・[[ファイル:Osaka Metro Tanimachi line symbol.svg|15px|T]] [[Osaka Metro谷町線|谷町線]]([[東梅田駅]]: T20)・[[ファイル:Osaka Metro Yotsubashi line symbol.svg|15px|Y]] [[Osaka Metro四つ橋線|四つ橋線]]([[西梅田駅]]: Y11)<br />[[西日本旅客鉄道]]:{{JR西路線記号|K|A}} [[東海道本線]]([[JR京都線]]・[[JR神戸線]])・{{JR西路線記号|K|G}} [[福知山線|JR宝塚線]]・{{JR西路線記号|K|F}} [[おおさか東線]]・{{JR西路線記号|K|O}} [[大阪環状線]]([[大阪駅]]: JR-A47・JR-G47・JR-F01・JR-O11)・{{JR西路線記号|K|H}} [[JR東西線]]([[北新地駅]]: JR-H44)
|rowspan="6" colspan="2" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[大阪府]][[大阪市]]|height=12em}}
|[[北区 (大阪市)|北区]]
|-
!HS 02
|[[福島駅 (阪神)|福島駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|O}} 大阪環状線([[福島駅 (JR西日本)|福島駅]]: JR-O12)・{{JR西路線記号|K|H}} JR東西線([[新福島駅]]: JR-H45)
|rowspan="3"|[[福島区]]
|-
!HS 03
|[[野田駅 (阪神)|野田駅]]#
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|2.3
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"|●
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|大阪市高速電気軌道:[[ファイル:Osaka Metro Sennichimae line symbol.svg|15px|S]] [[Osaka Metro千日前線|千日前線]]([[野田阪神駅]]: S11)<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|H}} JR東西線([[海老江駅]]: JR-H46)
|-
!HS 04
|[[淀川駅]]
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|3.3
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 05
|[[姫島駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|4.4
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|style="text-align:center; background:#fb7;"|△
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|''急行は[[なにわ淀川花火大会]]開催日に上下線一部列車が臨時停車''
|rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[西淀川区]]
|-
!HS 06
|[[千船駅]]#
|style="text-align:right;"|1.5
|style="text-align:right;"|5.9
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 07
|[[杭瀬駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|6.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|colspan="3"|[[兵庫県]]<br>[[尼崎市]]
|-
!colspan="4" style="border-top:2px solid #999;"|近鉄線<br/>直通区間
|colspan="10" style="border-top:2px solid #999;"|○[[阪神なんば線#快速急行|快速急行]]が[[近鉄奈良線]][[近鉄奈良駅]]まで直通運転<ref group="*">大阪難波行きは大阪難波駅で準急または普通に変更し、近鉄奈良線まで直通運転。</ref>。<br /> ※阪神なんば線および近鉄線直通列車のうち、準急・区間準急・普通には本線直通列車はない<ref group="*">但し、平日朝の普通尼崎行きの一部に、尼崎駅から快速急行神戸三宮行きに変更し本線に直通する列車がある。</ref>(停車駅は[[阪神なんば線]]参照)。
|-
!HS 08
|[[大物駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|8.0
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|[[阪神電気鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神なんば線]](一部直通運転:上記参照)
|rowspan="28" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|兵庫県|height=6em}}
|colspan="2" rowspan="5"|尼崎市
|-
!HS 09
|[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]#
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|8.9
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"|●
|style="text-align:center; background:#9cf;"|●
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|style="text-align:center; background:#f96;"|●
|阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] 阪神なんば線
|-
!HS 10
|[[出屋敷駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|10.1
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 11
|style="width:6.5em;"|[[尼崎センタープール前駅]]#
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|10.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 12
|[[武庫川駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|12.0
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"|●
|style="text-align:center; background:#9cf;"|▲
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神武庫川線|武庫川線]]<br />''快速急行は平日の日中以降と土休日停車''
|-
!
|[[武庫川信号場]]
|style="text-align:right;"|-
|style="text-align:right;"|-
|style="text-align:center; background:#fc9;"||
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|''武庫川線との連絡線が上り線から分岐、上下線間に渡り線はない''
|rowspan="8"colspan="2"|[[西宮市]]
|-
!HS 13
|[[鳴尾・武庫川女子大前駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|13.2
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 14
|[[甲子園駅]]#
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|14.1
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"|●
|style="text-align:center; background:#9cf;"|●
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|style="text-align:center; background:#f96;"|▲
|''直通特急は平日朝ラッシュ時の上りの一部を除いて停車''
|-
!HS 15
|[[久寿川駅]]
|style="text-align:right;"|0.7
|style="text-align:right;"|14.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↑
|style="text-align:center; background:#fb7;"||
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 16
|[[今津駅 (兵庫県)|今津駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|15.4
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"|●
|style="text-align:center; background:#9cf;"|▲
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|阪急電鉄:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急今津線|今津線]] (HK-21)<br />''快速急行は平日の日中以降と土休日停車''
|-
!HS 17
|[[西宮駅 (阪神)|西宮駅]]#
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|16.7
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center; background:#fb7;"|●
|style="text-align:center; background:#9cf;"|●
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|style="text-align:center; background:#f96;"|●
|
|-
!HS 18
|[[香櫨園駅]]
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|17.8
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↑
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!
|[[堀切信号場]]
|style="text-align:right;"|-
|style="text-align:right;"|-
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↑
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|''保線基地の出入線が下り線から分岐、上下線の渡り線もある''
|-
!HS 19
|[[打出駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|19.0
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↑
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|rowspan="2"colspan="2"|[[芦屋市]]
|-
!HS 20
|[[芦屋駅 (阪神)|芦屋駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|20.2
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"|▲
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|style="text-align:center; background:#f96;"|●
|''快速急行は平日朝ラッシュ時停車''
|-
!HS 21
|[[深江駅 (兵庫県)|深江駅]]
|style="text-align:right;"|1.3
|style="text-align:right;"|21.5
|style="text-align:center; background:#fc9;"|↑
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|rowspan="13" style="width:1em; text-align:center; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[神戸市]]|height=6em}}
|rowspan="6" style="white-space:nowrap;"|[[東灘区]]
|-
!HS 22
|[[青木駅]]#
|style="text-align:right;"|1.1
|style="text-align:right;"|22.6
|style="text-align:center; background:#fc9;"|●
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center; background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 23
|[[魚崎駅]]
|style="text-align:right;"|1.2
|style="text-align:right;"|23.8
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"|●
|style="text-align:center;background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|style="text-align:center; background:#f96;"|●
|[[神戸新交通]]:{{駅番号s|#9686BD|white|R}} [[神戸新交通六甲アイランド線|六甲アイランド線]] (R02)
|-
!HS 24
|[[住吉駅 (阪神)|住吉駅]]
|style="text-align:right;"|0.8
|style="text-align:right;"|24.6
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center;background:#c9f;"|↑
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 25
|[[御影駅 (阪神)|御影駅]]#
|style="text-align:right;"|0.5
|style="text-align:right;"|25.1
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center;background:#c9f;"|●
|style="text-align:center; background:#fcc;"|●
|style="text-align:center; background:#f96;"|●
| <!--''快速急行は駅ホームが延伸できないために通過''-->
|-
!HS 26
|[[石屋川駅]]
|style="text-align:right;"|0.6
|style="text-align:right;"|25.7
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|-
!HS 27
|[[新在家駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|26.6
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#fcc;"||
|style="text-align:center; background:#f96;"||
|
|rowspan="4"|[[灘区]]
|-
!HS 28
|[[大石駅]]#
|style="text-align:right;"|1.0
|style="text-align:right;"|27.6
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center; background:#9cf;"||
|style="text-align:center;"|
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|[[西灘駅]]
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|[[岩屋駅 (兵庫県)|岩屋駅]]
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|-
!HS 31
|[[春日野道駅 (阪神)|春日野道駅]]
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|rowspan="3"|[[中央区 (神戸市)|中央区]]
|-
!HS 32
|[[三宮駅#阪神電気鉄道(神戸三宮駅)|神戸三宮駅]]
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|style="text-align:center;"|
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|style="text-align:center; background:#f96;"|●
|阪急電鉄:[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] 神戸本線・[[ファイル:Number prefix Hankyu Kōbe line.svg|18px|HK]] [[阪急神戸高速線|神戸高速線]] (HK-16)<br />神戸新交通:{{駅番号s|#9686BD|white|P}} [[神戸新交通ポートアイランド線|ポートアイランド線]]([[三宮駅]]:P01)<br />[[神戸市営地下鉄]]:[[ファイル:Subway KobeSeishin.svg|15px|S]] [[神戸市営地下鉄西神・山手線|西神・山手線]] (三宮駅:S03)、[[ファイル:Subway KobeKaigan.svg|15px|K]] [[神戸市営地下鉄海岸線|海岸線]]([[三宮・花時計前駅]]:K01)<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|A}} 東海道本線(JR神戸線)([[三ノ宮駅]]:JR-A61)
|-
!HS 33
|[[元町駅 (兵庫県)|元町駅]]
|style="text-align:right;"|0.9
|style="text-align:right;"|32.1
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
|style="text-align:center;"|
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|阪神電気鉄道:[[ファイル:Number prefix Hanshin line.svg|18px|HS]] [[阪神神戸高速線|神戸高速線]](直通運転)<br />西日本旅客鉄道:{{JR西路線記号|K|A}} 東海道本線(JR神戸線)(JR-A62)<br />神戸市営地下鉄:[[ファイル:Subway KobeKaigan.svg|15px|K]] 海岸線([[旧居留地・大丸前駅]]:K02)
|-
!colspan="4"|直通運転区間
|colspan="10"|○普通…神戸高速線[[新開地駅]]まで<br />○特急…[[山陽電気鉄道本線|山陽電鉄本線]][[須磨浦公園駅]]まで<br />○直通特急…山陽電鉄本線[[山陽姫路駅]]まで
|}
{{Reflist|group="*"}}
</div>
* 神戸高速線・山陽電鉄本線内の停車駅は直通特急については「[[直通特急 (阪神・山陽)]]」を参照。直通特急以外は両線内とも各駅に停車。
=== 廃駅・廃止信号所 ===
*[[出入橋駅]](梅田駅 - 福島駅間):1948年10月26日廃止
*大和田駅(姫島駅 - 杭瀬駅間):1921年1月5日に佃と統合して千船駅となる
*佃駅(姫島駅 - 杭瀬駅間):1912年1月5日に大和田と統合して千船駅となる
*千船信号場(千船駅 - 杭瀬駅間) :1977年ごろ廃止
*蓬川駅(出屋敷駅 - 尼崎センタープール前駅(当時未開業)間):1905年5月23日廃止
*[[西宮東口駅]](今津駅 - 西宮駅間):2001年3月3日に西宮駅へ統合廃止
*戎駅(西宮駅 - 香櫨園駅(当時未開業)間):1901年2月20日廃止
*新在家駅(旧駅、新在家(当時は東明)駅 - 大石駅間):1929年7月27日廃止
*脇浜駅(岩屋駅 - 春日野道駅間):1933年6月17日廃止
*[[新川駅 (阪神)|新生田川駅]](春日野道駅 - 三宮駅間):1933年6月17日廃止
*旭通駅(春日野道駅 - 三宮駅間):1905年7月10日廃止
*[[三ノ宮駅]](旧駅):1933年6月17日廃止
*[[滝道駅]](通称:神戸駅、神戸側ターミナル):1933年6月17日廃止
=== 過去の接続路線 ===
*梅田駅:阪急[[阪急北野線|北野線]]・[[大阪市電]](阪神前)
*出入橋駅(廃駅):大阪市電
*野田駅:阪神[[阪神北大阪線|北大阪線]]・阪神[[阪神国道線|国道線]]・大阪市電(野田阪神電車前)
*杭瀬駅:阪神国道線北杭瀬への連絡線(旅客営業なし)
*出屋敷駅:阪神[[阪神尼崎海岸線|尼崎海岸線]]
*甲子園駅:[[阪神甲子園線]]
*西灘駅:阪神国道線
*滝道駅(廃止):[[神戸市電]]
*三宮駅:神戸市電(三宮阪神前)
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book | 和書 | author = 今尾恵介(監修) | title = [[日本鉄道旅行地図帳]] - 全線・全駅・全廃線 | publisher = [[新潮社]] | volume = 9 関西2 | year = 2009 | id = ISBN 978-4-10-790027-2 | ref = imao }}
* {{Cite book | 和書 | author = 川島令三 | title = [[全国鉄道事情大研究]] - 神戸編 | publisher = [[草思社]] | year = 1992 | id = ISBN 978-4-7942-0452-3 | ref = harv}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Hanshin Main Line}}
*[[日本の鉄道路線一覧]]
*[[阪神国道線]](1927年 - 1975年に存在していた並行路線)
**[[阪神国道電軌]]
*[[阪急神戸本線]](並行する競合路線)
*[[JR神戸線]](同上)
{{阪神電気鉄道の路線}}
{{デフォルトソート:はんしんほんせん}}
[[Category:近畿地方の鉄道路線|ほんせん]]
[[Category:阪神電気鉄道|路ほんせん]]
[[Category:大阪府の交通]]
[[Category:兵庫県の交通]]
[[Category:阪神間]] | 2003-03-15T12:26:09Z | 2023-12-21T12:59:44Z | false | false | false | [
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"Template:阪神電気鉄道の路線",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E6%9C%AC%E7%B7%9A |
4,090 | 鉄道路線 | 鉄道路線(てつどうろせん)とは、出発地(起点)と目的地(終点)の間に敷設された鉄道の線路の区間である。広義では、列車が運行される運転系統や、愛称を付けられた区間も(鉄道)路線という。
鉄道路線は相互に連絡し合い、迂回路を形成して網の目状になることにより、初めて鉄道網となる。
狭義では、後述のように法令に基づいて定められたものが路線である。
ただし実際の列車は狭義の路線に従って運行されるとは限らず、一つの路線が複数の運転系統によって用いられたり、一つの運転系統が複数の路線をまたいでいたりする。たとえば京浜東北線のような複数の路線にかかわる運転系統についても、広義の意味で「路線」と呼ばれる。
また、東海道本線の一部区間をJR京都線とするような、狭義の路線に一致しない区間に愛称(路線愛称)をつけることも多くなっており、これらも「路線」と呼ばれる。
山手線のように、路線と運転系統の両方に用いられ、両者が一致していない名称もある(同項目冒頭参照)。
日本の法令上は、列車の運転系統にはかかわらず、公式に規定された起点と終点の間が一つの路線である。
鉄道事業法(昭和61年法律第92号)第4条で、鉄道事業の許可を受けようとする者が、国土交通大臣に提出する申請書に記載すべき項目として「予定する路線」がある。
鉄道事業法施行規則(昭和62年運輸省令第6号)第3条には、上記の「予定する路線」について記載しなければならない事項として「起点及び終点」、「主要な経過地」を挙げている。
日本国有鉄道(国鉄)時代の路線の名称は、「国有鉄道線路名称」を元にしていた。国鉄分割民営化後は、各社が定めた「線路名称」で規定されている。私鉄においてもこれと同様の規定がされている。
鉄道路線は以下のように分類される。 | [
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] | 鉄道路線(てつどうろせん)とは、出発地(起点)と目的地(終点)の間に敷設された鉄道の線路の区間である。広義では、列車が運行される運転系統や、愛称を付けられた区間も(鉄道)路線という。 鉄道路線は相互に連絡し合い、迂回路を形成して網の目状になることにより、初めて鉄道網となる。 | {{出典の明記|date=2019年6月}}
'''鉄道路線'''(てつどうろせん)とは、出発地(起点)と目的地(終点)の間に敷設された[[鉄道]]の[[線路 (鉄道)|線路]]の区間である。広義では、[[列車]]が運行される[[運行系統|運転系統]]や、[[愛称]]を付けられた区間も(鉄道)路線という。
鉄道路線は相互に連絡し合い、<!--三本以上繋がって-->[[迂回路]]を形成して網の目状になることにより、初めて'''鉄道網'''となる。
== 概要 ==
[[ファイル:TokaidoLineStops JRE 20180317.svg|サムネイル|東海道本線東京駅-熱海駅間の運転系統図]]
狭義では、後述のように法令に基づいて定められたものが'''路線'''である。
ただし実際の列車は狭義の路線に従って運行されるとは限らず、一つの路線が複数の運転系統によって用いられたり、一つの運転系統が複数の路線をまたいでいたりする。たとえば[[京浜東北線]]のような複数の路線にかかわる運転系統についても、広義の意味で「路線」と呼ばれる。
また、[[東海道本線]]の一部区間を[[JR京都線]]とするような、狭義の路線に一致しない区間に愛称(路線愛称)をつけることも多くなっており、これらも「路線」と呼ばれる。
[[山手線]]のように、路線と運転系統の両方に用いられ、両者が一致していない名称もある(同項目冒頭参照)。
== 日本の法令上の鉄道路線 ==
日本の法令上は、列車の運転系統にはかかわらず、公式に規定された起点と終点の間が一つの路線である。
[[鉄道事業法]](昭和61年法律第92号)第4条で、[[鉄道事業者|鉄道事業]]の許可を受けようとする者が、[[国土交通大臣]]に提出する申請書に記載すべき項目として「予定する路線」がある。
鉄道事業法施行規則(昭和62年運輸省令第6号)第3条には、上記の「予定する路線」について記載しなければならない事項として「起点及び終点」、「主要な経過地」を挙げている。<!-- 定義等あまりよく分かりませんのでとりあえず法令があげておきます。加筆お願いします。-->
== 日本の鉄道路線の名称 ==
{{see also|鉄道路線の名称}}
[[日本国有鉄道]](国鉄)時代の路線の名称は、「[[国鉄・JR線路名称一覧|国有鉄道線路名称]]」を元にしていた。[[国鉄分割民営化]]後は、各社が定めた「線路名称」で規定されている。[[私鉄]]においてもこれと同様の規定がされている。
== 鉄道路線の分類 ==
鉄道路線は以下のように分類される。
* [[本線]] - [[支線]] - ([[盲腸線]])
* [[幹線]] - [[地方交通線]] - [[特定地方交通線]]
* 営業線 - 計画線 - 建設線 - [[未成線]] - 休止線 - [[廃線]]
* [[運行系統|系統路線]] (正式な分類ではなく、[[愛称]]によって汎く認知されている路線。詳細は「[[鉄道路線の名称#路線の系統名称・愛称]]」を参照)
== 鉄道路線の一覧 ==
{{see also|Category:鉄道路線}}
* [[日本の鉄道路線一覧]] ([[日本の鉄道路線一覧 あ-か行|あ-か行]] - [[日本の鉄道路線一覧 さ-な行|さ-な行]] - [[日本の鉄道路線一覧 は-わ行|は-わ行]])
* [[日本の地域別鉄道路線一覧]]
** [[北海道の鉄道路線]]
** [[東北地方の鉄道路線]]
** [[関東地方の鉄道路線]]
** [[中部地方の鉄道路線]]
** [[近畿地方の鉄道路線]]
** [[中国地方の鉄道路線]]
** [[四国の鉄道路線]]
** [[九州の鉄道路線]]
* [[日本の廃止鉄道路線一覧]]
* [[韓国の鉄道路線一覧]]
* [[イギリスの鉄道路線一覧]]
<!--
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}-->
== 関連項目 ==
* [[路線図]]
* [[鉄道路線の名称]]
** [[国鉄・JR線路名称一覧]]
* [[世界の鉄道一覧]]
{{rail-stub}}
{{DEFAULTSORT:てつとうろせん}}
[[Category:鉄道路線|*]] | null | 2023-07-23T14:58:21Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:See also",
"Template:Rail-stub"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%81%93%E8%B7%AF%E7%B7%9A |
4,091 | 日本の鉄道路線一覧 | 日本の鉄道路線一覧(にっぽんのてつどうろせんいちらん)は、日本の鉄道路線を五十音順に並べたものである。
この一覧では、記事名に会社名等が冠されているものについては原則として会社名等の部分を外し、線路名称のみで50音順に並べている。ただし、正式の線路名称に会社名等が冠されている場合は、それを含めた名称で並べ、会社名等を外した線名でも重ねて記載した。
また、利用者の検索の便を図るため、正式の線路名称のほか、愛称、通称が設定されているものについても記載した。
以下の項目も参照: | [
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] | 日本の鉄道路線一覧(にっぽんのてつどうろせんいちらん)は、日本の鉄道路線を五十音順に並べたものである。 この一覧では、記事名に会社名等が冠されているものについては原則として会社名等の部分を外し、線路名称のみで50音順に並べている。ただし、正式の線路名称に会社名等が冠されている場合は、それを含めた名称で並べ、会社名等を外した線名でも重ねて記載した。 また、利用者の検索の便を図るため、正式の線路名称のほか、愛称、通称が設定されているものについても記載した。 以下の項目も参照: 日本の地域別鉄道路線一覧 - 地域別に並んでいる。
日本の廃止鉄道路線一覧 - 廃止された鉄道路線が地域別に並んでいる。 | <!--編集注:記入の際には、地域別に並んでいる[[日本の地域別鉄道路線一覧]]にも書き込んで下さい。-->
'''日本の鉄道路線一覧'''(にっぽんのてつどうろせんいちらん)は、[[日本]]の[[鉄道路線]]を[[五十音順]]に並べたものである。
この一覧では、記事名に会社名等が冠されているものについては原則として会社名等の部分を外し、線路名称のみで50音順に並べている。ただし、正式の線路名称に会社名等が冠されている場合は、それを含めた名称で並べ、会社名等を外した線名でも重ねて記載した。
また、利用者の検索の便を図るため、正式の線路名称のほか、[[愛称]]、[[通称]]が設定されているものについても記載した。
以下の項目も参照:
*[[日本の地域別鉄道路線一覧]] - 地域別に並んでいる。
*[[日本の廃止鉄道路線一覧]] - 廃止された鉄道路線が地域別に並んでいる。
__NOTOC__
{| border="0" cellpadding="5" cellspacing="0" class=toc
|-
|colspan="3"|'''日本の鉄道路線一覧'''
|-
|[[日本の鉄道路線一覧 あ-か行|あ-か行]]
|[[日本の鉄道路線一覧 さ-な行|さ-な行]]
|[[日本の鉄道路線一覧 は-わ行|は-わ行・英数字]]
|}
== 関連項目 ==
*[[日本の鉄道駅一覧]]、[[日本の鉄道事業者一覧]]、[[日本の鉄道]]
*[[日本]]、[[日本の地域]]、[[日本の地理]]
{{DEFAULTSORT:にほんのてつとうろせんいちらん}}
[[Category:日本の鉄道路線一覧|*]]
[[Category:日本の鉄道路線|*]]
[[Category:日本の鉄道関連一覧]]
[[Category:日本の地理一覧|てつとうろせんいちらん]]
[[zh:日本鐵路線一覽]] | 2003-03-15T12:37:34Z | 2023-08-05T10:54:21Z | false | false | false | [] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E8%B7%AF%E7%B7%9A%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
4,093 | 小澤征悦 | 小澤 征悦(おざわ ゆきよし、1974年〈昭和49年〉6月6日 - )は、日本の俳優、タレント、コメンテーター。
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身。TOM company所属。身長183 cm。妻はNHKアナウンサーの桑子真帆。 | [
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] | 小澤 征悦は、日本の俳優、タレント、コメンテーター。 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身。TOM company所属。身長183 cm。妻はNHKアナウンサーの桑子真帆。 | {{ActorActress
| 芸名 = 小澤 征悦
| ふりがな = おざわ ゆきよし
| 画像ファイル = Yukiyoshi Ozawa 20151205.jpg
| 画像サイズ =
| 画像コメント = 2015年、ワシントンD.C.にて
| 本名 =
| 別名義 =
| 出生地 = {{USA}}<br />[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 = 183 [[センチメートル|cm]]
| 血液型 = [[O型]]
| 生年 = 1974
| 生月 = 6
| 生日 = 6
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 職業 = [[俳優]]、[[タレント]]、[[コメンテーター]]
| ジャンル =
| 活動期間 = [[1998年]] -
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[桑子真帆]]([[2021年]] - )
| 著名な家族 = [[小澤開作]](祖父)<br />[[小澤征爾]](父)<br />[[入江美樹]](母)<br />[[小澤征良]](姉)<br>[[小澤俊夫]](伯父)<br>[[小澤幹雄]](叔父)<br>[[小沢健二]](従兄)
| 事務所 = [[TOM company]]
| 公式サイト = [https://tomcompany.jp/actor/yukiyoshi-ozawa/ 公式プロフィール]
| 主な作品 = '''テレビドラマ'''<br />『[[さくら (2002年のテレビドラマ)|さくら]]』<br />『[[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]]』<br />『[[篤姫 (NHK大河ドラマ) |篤姫]]』<br />『[[もみ消して冬〜わが家の問題なかったことに〜]]』<br />『[[ハケン占い師アタル]]』<br />『[[いだてん〜東京オリムピック噺〜]]』<br />『[[パパがも一度恋をした#テレビドラマ|パパがも一度恋をした]]』<hr />'''映画'''<br />『[[釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!]]』<br />『[[相棒 -劇場版II- 警視庁占拠! 特命係の一番長い夜]]』<br />『[[るろうに剣心 (実写映画)#るろうに剣心 京都大火編 / 伝説の最期編|るろうに剣心 伝説の最期編]]』<br />『[[水上のフライト]]』<!--皆が認める代表作品を入力-->
| アカデミー賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 =
| セザール賞 =
| エミー賞 =
| ジェミニ賞 =
| ゴールデングローブ賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| グラミー賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 =
| トニー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| その他の賞 =
| 備考 =
}}
'''小澤 征悦'''(おざわ ゆきよし、[[1974年]]〈[[昭和]]49年〉[[6月6日]] - )は、[[日本]]の[[俳優]]、[[タレント]]、[[コメンテーター]]。
[[アメリカ合衆国]][[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]出身。[[TOM company]]所属。身長183 [[センチメートル|cm]]。妻は[[日本放送協会|NHK]]アナウンサーの[[桑子真帆]]。
== 人物 ==
*[[成城学園初等学校]]、[[成城学園中学校高等学校]]、[[成城大学]]卒業。
*父は[[指揮者]]の[[小澤征爾]]。母は元モデルで女優の[[入江美樹]]。姉は[[エッセイスト]]の[[小澤征良]]<ref group="注釈">姉の名のSeiraが父の名の'''Sei'''jiと母の名のVe'''ra'''を継ぎ足して命名されていたため、征悦が生まれたときは「今度はSei'''ji'''と'''Ve'''raを足してJiveと命名するつもりか」とのジョークが米国の新聞に掲載された。</ref>。従兄にミュージシャンの[[小沢健二]]がいる。
*趣味は[[バスケットボール]]と[[読書]]。
*2021年9月1日、父・征爾の86回目の誕生日に[[日本放送協会|NHK]]アナウンサーの[[桑子真帆]]と結婚したことを明らかにした<ref>{{Cite news|url= https://hochi.news/articles/20210901-OHT1T51163.html |title= 小澤征悦とNHK・桑子真帆アナが結婚…父・征爾氏の86歳誕生日に |newspaper= スポーツ報知 |publisher= 報知新聞社 |date= 2021-09-01 |accessdate= 2021-09-01 }}</ref>。翌9月2日、自身がコメンテーターを務める『[[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])で結婚を生報告した<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/09/02/kiji/20210902s00041000228000c.html |title= 小澤征悦 NHK桑子真帆アナとの結婚生報告 祝福に照れ笑い「実感ないけど…落ち着いた気持ち」 |newspaper= スポニチアネックス |publisher= |date= 2021-09-02 |accessdate= 2021-09-02 }}</ref>。
*2022年1月2日放送の日本テレビ系[[はじめまして!一番遠い親戚さん]]にて、[[岸恵子]]と13親等、[[DAIGO]]、[[北川景子]]夫妻と35親等離れた親戚であることが判明した。またその関係から[[加山雄三]]、[[ジョン・レノン]]、[[オノ・ヨーコ]]夫妻、[[松任谷正隆]]、[[松任谷由実]]夫妻、[[黒木瞳]]、[[千葉雄大]]とも遠戚関係となった。
== 出演 ==
<!-- バラエティー番組の単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 -->
=== テレビドラマ ===
* [[大河ドラマ]]([[日本放送協会|NHK]])
**[[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]](1998年) - [[沖田総司]] 役
** [[義経 (NHK大河ドラマ)|義経]](2005年) - [[源義仲]] 役
** [[篤姫 (NHK大河ドラマ) |篤姫]](2008年) - [[西郷隆盛]] 役
** [[いだてん〜東京オリムピック噺〜]](2019年) - [[三島弥太郎]] 役
* 最後のサムライ河井継之助(1999年、[[テレビ朝日]])
* 乳房 THE BREAST(2000年、[[CBCテレビ|中部日本放送]])
* サスペンス喜劇 瓜二つ(2002年、[[北海道放送]]・[[TBSテレビ|TBS]])
* [[フレンズ (2002年のテレビドラマ)|フレンズ]](2002年、TBS・[[文化放送 (韓国)|韓国MBC]])
* [[連続テレビ小説]] [[さくら (2002年のテレビドラマ)|さくら]](2002年、NHK) - 桂木慶介 役
* 人情届けます 江戸・娘飛脚(2003年、NHK) - 清太郎 役
* ひまわりさん(TBS) - 真島純平 役
** ひまわりさん(2004年)
** ひまわりさん2(2005年)
* [[シェエラザード (浅田次郎)|シェエラザード〜海底に眠る永遠の愛〜]](2004年、NHK)
* [[HTBスペシャルドラマ]] うみのほたる(2005年、[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]) - 主演・水野光二 役
* [[女の一代記]](2005年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - [[内藤法美]] 役
* [[里見八犬伝 (2006年のテレビドラマ)|里見八犬伝]](2006年、TBS) - 犬山道節忠與 役
* [[おいしいプロポーズ]](2006年、TBS)
* [[ちいさこべ]](2006年、NHK)
* [[堀部安兵衛 (テレビドラマ)|堀部安兵衛]](2007年、NHK) - [[堀部武庸|堀部安兵衛]] 役
* 2夜連続ドラマスペシャル [[李香蘭 (テレビドラマ)|李香蘭]](2007年、[[テレビ東京]]) - [[児玉英水]] 役
* [[天国と地獄 (テレビドラマ)|天国と地獄]](2007年、テレビ朝日)
* [[ドラマW]]([[WOWOW]])
** [[6時間後に君は死ぬ]](2008年9月28日) - 手塚祐介 役
** [[横山秀夫サスペンス]]「誤報」(2010年3月21日) - 占部徹也 役
** [[なぜ君は絶望と闘えたのか]](2010年9月25日・26日) - 東野茂樹 役
** 死刑基準(2011年9月25日) - 大伴浩二郎 役
** [[パンドラ (テレビドラマ)#パンドラIII 革命前夜|パンドラIII 革命前夜]](2011年10月2日 - 11月20日) - 鏑木光太 役
** [[向田邦子 イノセント]] 三角波(2012年4月5日)
* [[パナソニック|パナソニックドラマスペシャル]] [[あるがままの君でいて]](2008年、TBS)
* [[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]](2009年 - 2011年、NHK) - [[夏目漱石]] 役
* テレビ朝日50周年ドラマスペシャル [[警官の血#テレビドラマ|警官の血]](2009年2月8日、テレビ朝日) - 早瀬勇作 役
* [[金曜プレステージ]] [[木枯し紋次郎]](2009年、フジテレビ) - 小判鮫の金蔵 役
* [[わたしが子どもだったころ (テレビ番組)|わたしが子どもだったころスペシャル]] 「指揮者 小澤征爾」再現ドラマ(2009年6月3日、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK-BShi]]) - [[小澤開作]] 役
* [[アンタッチャブル〜事件記者・鳴海遼子〜]](2009年、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]・テレビ朝日) - 鳴海洸至 役
* [[シスター_(テレビドラマ)|シスター]](2009年12月11日・18日、NHK) - 成瀬生馬 役
* [[福岡発地域ドラマ|福岡発ドラマスペシャル]] [[母さんへ|母 (かか)さんへ]](2009年12月11日、NHK九州沖縄 / 2010年2月11日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - 神村哲也 役
* [[必殺仕事人2010]](2010年7月10日、テレビ朝日) - 風間右京乃助 役
* [[蒼穹の昴]](2010年、NHK-BShi) - 岡圭之介 役
* [[忠臣蔵〜その男、大石内蔵助]](2010年12月25日、テレビ朝日系) - 堀部安兵衛 役
* [[LADY〜最後の犯罪プロファイル〜]](2011年1月 - 3月、TBS) - 藤堂壮一郎 役
* [[遺恨あり 明治十三年 最後の仇討]](2011年2月26日、テレビ朝日) - 一瀬直久 役
* [[ブラック・ジャック (実写版)#単発ドラマ(2011年・岡田将生版)|ヤング ブラック・ジャック]](2011年4月23日、日本テレビ) - 桐生直樹 役
* [[鬼平外伝 熊五郎の顔]] - 信太郎と洲走の熊五郎 二役
** (2011年11月19日、[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]) ※先行放送
** (2012年2月11日、[[時代劇専門チャンネル]] / [[松竹]])
* [[ドラマ10]] [[タイトロープの女]](2012年1月 - 2月、NHK) - 永沢吉行 役
* 向田邦子ドラマスペシャル [[蛇蝎のごとく#2012年版|蛇蝎のごとく]](2012年3月14日、テレビ東京) - 石沢清孝 役
* [[ハンチョウ〜警視庁安積班〜]](TBS) - 尾崎誠 役
** シリーズ5(2012年4月 - 6月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/28276/ |title=安積が警視庁へ! 「ハンチョウ」シリーズの第5弾が4月からスタート! |publisher=Smartザテレビジョン |date=2012-02-21 |accessdate=2015-05-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/news/detail/29308/ |title=“完全アウェー”の「ハンチョウ」シリーズ5がいよいよスタート!! |publisher=Smartザテレビジョン |date=2012-04-02 |accessdate=2015-05-08}}</ref>
** シリーズ6(2013年1月 - 3月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2018897/full/ |title=ドラマ『ハンチョウ』半年で再登板 佐々木蔵之介「また、異動?」 |publisher=[[ORICON STYLE]] |date=2012-11-20 |accessdate=2016-01-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2020347/full/ |title=佐々木蔵之介、スカイツリーにドラマヒット祈願 |publisher=[[ORICON STYLE]] |date=2013-01-07 |accessdate=2016-01-09}}</ref>
* [[東野圭吾ミステリーズ]] 最終話「再生魔術の女」(2012年9月20日、フジテレビ) - 根岸峰和 役
* [[親父がくれた秘密〜下荒井5兄弟の帰郷〜]](2012年9月12日、テレビ東京) - 下荒井大洋 役
* [[レジデント〜5人の研修医]](2012年10月 - 12月、TBS) - 宮島一樹 役
* [[プレミアムよるドラマ]] [[POWER GAME〜パワーゲーム〜]](2013年8月 - 9月、[[NHK BSプレミアム]]) - 主演・城崎信也 役
* [[ハニー・トラップ (テレビドラマ)|ハニー・トラップ]](2013年10月 - 12月、フジテレビ) - 穂積宗広 役<ref>{{Cite web|和書|author =毎日新聞デジタル|url =https://mantan-web.jp/article/20130905dog00m200020000c.html|title =AKIRA:仲間由紀恵と強力タッグ GTOとごくせんのカリスマ教師が夫婦に|date=2013-9-5|accessdate=2013-10-21}}</ref>
* テレビ朝日開局55周年記念番組 [[オリンピックの身代金 (奥田英朗)#テレビドラマ|オリンピックの身代金]](2013年11月30日・12月1日、テレビ朝日) - 仁井薫 役
* [[30分だけの愛]](2014年1月2日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 稲葉満 役
* [[金曜プレステージ]] HAMU-公安警察の男-(2014年1月14日、フジテレビ) - 世良田相馬 役
* [[TEAM -警視庁特別犯罪捜査本部-]](2014年4月 - 6月、テレビ朝日) - 主演・佐久晋吾 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2034360/full/ |title=小澤征悦、民放連続ドラマ初主演 『相棒』後番組の主役は管理官 |publisher=[[ORICON STYLE]] |date=2014-02-23 |accessdate=2016-01-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2036104/full/ |title=小澤征悦、男だらけの撮影現場を満喫「部活の延長」 |publisher=[[ORICON STYLE]] |date=2014-04-07 |accessdate=2016-01-10}}</ref>
* フジテレビ開局55周年記念スペシャルドラマ [[東京にオリンピックを呼んだ男]](2014年10月11日、フジテレビ) - [[八田一朗]] 役
* [[すべてがFになる#テレビドラマ|すべてがFになる]](2014年10月 - 12月、フジテレビ) - 喜多北斗 役
* [[金曜ロードSHOW!]]特別ドラマ Dr.ナースエイド(2014年11月7日、日本テレビ) - 主演・森健 役
* 松本清張 二夜連続ドラマスペシャル・第一夜 [[坂道の家#2014年版|松本清張〜坂道の家]](2014年12月6日、テレビ朝日) - 川添直樹 役
* [[怪奇恋愛作戦]] 第1・2話(2015年1月10日・17日、テレビ東京系) - 廻博士 役
* [[硝子の葦#テレビドラマ|硝子の葦 〜garasu no ashi〜]] (2015年2月21日 - 3月14日、WOWOW) - 澤木昌弘 役<ref>{{Cite news|url=https://www.cinra.net/news/20150117-garasunoashi|title=相武紗季主演ドラマ『硝子の葦』から裸のポスター公開、追加キャスト9人も判明|date=2015-01-17|accessdate=2015-01-17|CINRA.NET}}</ref>
* [[水曜ミステリー9]]春の特選サスペンス [[事故調 (小説)|事故調]](2015年4月1日、テレビ東京) - 主演・黒木浩一 役<ref>{{Cite press release| 和書| title = 放映間近! 横溝正史ミステリ大賞作家の『事故調』が待望のテレビドラマ化!! | publisher = PR TIMES(元記事:[[KADOKAWA]])| date = 2015-03-24| url = http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001401.000007006.html| accessdate = 2015-04-19}}</ref>
* [[クリミナル・マインド FBI行動分析課|クリミナル・マインド]] 国際捜査班 シーズン1第4話「死神のささやき(Whispering Death)」(2016年4月6日、アメリカCBS/2017年3月7日、WOWOW)- リョウ・ミランテ(Ryo Mirrante) 役 *日本語吹替も担当
* [[獄の棘#テレビドラマ|ヒトヤノトゲ〜獄の棘〜]](2017年3月19日 - 4月23日、[[WOWOW]]) - 名久井惣一 役<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/212324|title=窪田正孝が初の刑務官役に、刑務所の闇に迫るWOWOWドラマ3月より放送|newspaper=映画ナタリー|date=2016-12-08|accessdate=2016-12-08}}</ref>
* [[花実のない森]](2017年3月29日、テレビ東京) ‐ 楠尾英通 役
* [[マッサージ探偵ジョー]](2017年4月8日 - 7月2日、テレビ東京) - 金石徹(マネー) 役<ref>{{Cite web|和書|title=中丸雄一、ドラマ『マッサージ探偵ジョー』主演!客を恍惚の世界へ|work=[[マイナビニュース]]|url=https://news.mynavi.jp/article/20170205-a011/|date=2017-2-5|accessdate=2017-2-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017-3-27|url=https://www.oricon.co.jp/news/2088131/full/|title=KAT-TUN中丸、セクシーシーンを満喫?「ずっと女性の身体を触ってた」|work=[[ORICON NEWS]]|accessdate=2017-3-28}}</ref>
* [[女の勲章#2017年版|女の勲章]](2017年4月15日・16日、フジテレビ) - 曾根英生 役<ref>{{Cite web|和書|date=2017-02-17 |url=http://www.cinemacafe.net/article/2017/02/17/47170.html |title=玉木宏が女を翻弄!松嶋菜々子主演「女の勲章」豪華キャスト発表|publisher=cinemacafe |accessdate=2017-02-24}}</ref>
*[[ドラマミステリーズ 〜カリスマ書店員が選ぶ珠玉の一冊〜]]「情けは人の…」(2017年4月22日、フジテレビ) - 赤堀 役<ref>{{Cite web|和書|title=ドラマ・ミステリーズ - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇|url=http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-61666|website=テレビドラマデータベース|accessdate=2021-03-07|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ドラマミステリーズ ~カリスマ書店員が選ぶ珠玉の一冊~|url=https://www.fujitv.co.jp/b_hp/mysteries/index.html|website=フジテレビ|accessdate=2021-03-07|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=大泉洋&土屋太鳳&向井理、犬童一心演出のオムニバスミステリーで主演に|url=https://www.cinemacafe.net/article/2017/03/29/48205.html|website=cinemacafe.net|accessdate=2021-03-07|language=ja}}</ref>
* [[昔話法廷]] 第8話「さるかに合戦」裁判(2017年8月15日、NHK Eテレ) ‐ 弁護人・生駒孝 役
* [[トットちゃん!]](2017年10月 - 12月、テレビ朝日) - シイナさん(椎名昭造) 役<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2092113/full/ |title= 黒柳徹子の半生が“帯ドラマ”に 『トットちゃん』松下奈緒、山本耕史ら出演者発表 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2017-06-09 |accessdate= 2017-06-09 }}</ref>
* [[都庁爆破!]](2018年1月2日、TBS) - 丸山尚人 役<ref>{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20171201-550432/|title=優香、長谷川博己の妻役に!『都庁爆破!』和田正人・早見あかりらも出演|publisher=マイナビニュース|date=2017-12-01|accessdate=2017-12-01}}</ref>
* [[もみ消して冬〜わが家の問題なかったことに〜]](2018年1月13日 - 3月17日、日本テレビ) - 北沢博文 役<ref>{{Cite news |title=山田涼介「もみ消して冬」でエリート警察官に!波瑠&小澤征悦&中村梅雀も出演 |newspaper=[[映画.com]] |date=2017-11-06 |url=http://eiga.com/news/20171106/12/ |accessdate=2017-12-03}}</ref>
** もみ消して冬 2019夏 〜夏でも寒くて死にそうです〜(2019年6月29日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/330332|title=山田涼介主演ドラマ「もみ消して冬」続編が夏放送、北沢家にAI導入|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]]|date=2019-05-06|accessdate=2019-06-30}}</ref>
* 炎上弁護人(2018年12月15日、NHK) - 北坂史郎 役<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/6000/306479.html |title=真木よう子さん主演『炎上弁護人』制作開始! |work=NHK |author=|publisher=[[日本放送協会|NHK]]|date=2018-10-04|accessdate=2018-10-07}}</ref>
* [[釣りバカ日誌#テレビドラマ|釣りバカ日誌〜新米社員 浜崎伝助〜瀬戸内海で大漁! 結婚式大パニック編]](2019年1月4日、テレビ東京) - 戸高仁 役
* [[ハケン占い師アタル]](2019年1月17日 - 3月14日、テレビ朝日) - 上野誠治 役<ref>{{Cite web|和書|title=杉咲花主演×遊川和彦脚本の新ドラマ『ハケン占い師アタル』放送決定 志田未来、間宮祥太朗ら共演|url=https://realsound.jp/movie/2018/11/post-284487.html|accessdate=2018-11-28}}</ref>
* [[離婚なふたり]](2019年4月5日・12日、テレビ朝日) - 東雲哲郎 役<ref>{{Cite web|和書| url = https://mdpr.jp/news/detail/1829708 | title = 小澤征悦&松本まりか、“怪演”に監督太鼓判 熱いオファーで出演決定〈離婚なふたり〉| date = 2019-03-17| website = モデルプレス| publisher = ネットネイティブ| accessdate = 2019-03-31}}</ref>
* [[アフロ田中シリーズ#テレビドラマ|アフロ田中]](2019年7月6日 - 9月7日、WOWOW) - 鈴木真治 役<ref>{{Cite news|url= https://natalie.mu/eiga/news/331774 |title= 賀来賢人主演「アフロ田中」新キャスト発表、ヒロインの夏帆は数年ぶりロングヘア |newspaper= 映画ナタリー |publisher= ナターシャ |date= 2019-05-17 |accessdate= 2019-05-28 }}</ref>
*[[監査役野崎修平|頭取 野崎修平]](2020年1月 - 2月、WOWOW) - 京極春樹 役<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.cinemacafe.net/article/2019/10/31/64223.html| title = 織田裕二主演「野崎修平」続編放送 風間俊介ら新キャストも| date = 2019-10-31| website = cinemacafe.net| publisher = イード| accessdate = 2019-11-12}}</ref>
* [[パパがも一度恋をした]](2020年2月1日 - 3月22日、東海テレビ・フジテレビ) - 主演・山下吾郎 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/359909|title=「パパがも一度恋をした」ドラマ化! 主演は小澤征悦、妻役は塚地武雅&本上まなみ|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=ナターシャ|date=2019-12-18|accessdate=2019-12-18}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2151262/full/|title=ドランクドラゴン・塚地武雅が連ドラ初“ヒロイン”「全力で演じる」 本上まなみと二人一役に挑戦|newspaper=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2019-12-18|accessdate=2019-12-18}}</ref>
* [[S.W.A.T. (テレビドラマ)|S.W.A.T.]] シーズン3第13話「液体らしく」(2020年6月26日、[[スーパー!ドラマTV]]) - サトウ 役
*[[となりのチカラ]](2022年1月20日 - 3月31日、[[テレビ朝日]]) - 木次学 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/450687|title=「となりのチカラ」松本潤の隣や真上、真下の部屋に住む人は?隣人キャスト解禁|website=[[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]]|work=ナターシャ|date=2021-10-25|accessdate=2021-10-25}}</ref>
* [[義経のスマホ]](2022年5月24日 - 6月6日、NHK) - [[弁慶]] 役
* [[新・信長公記〜ノブナガくんと私〜#テレビドラマ|新・信長公記〜クラスメイトは戦国武将〜]](2022年7月24日 - 9月25日、読売テレビ・日本テレビ) - [[徳川家康]] 役 <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2238553/full/|title=なにわ男子・西畑大吾“同期”永瀬廉とドラマ共演 『新・信長公記』キャスト決定|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン#企業グループ|oricon ME]]|date=2022-06-15|accessdate=2022-06-15}}</ref>
* [[罠の戦争]](2023年1月16日 - 3月27日、関西テレビ・フジテレビ) - 鷹野聡史 役<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20221203-2528596/|title=小澤征悦『罠の戦争』で草なぎ剛の友人代議士役に 宮澤エマ・坂口涼太郎らも出演|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2022-12-03|accessdate=2022-12-03}}</ref>
* [[Dr.チョコレート]](2023年4月22日 - 6月24日、日本テレビ) - 残高 / 座間味和直 役<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20230315-2625431/|title=坂口健太郎主演『Dr.チョコレート』に葵わかな、鈴木紗理奈、前田旺志郎ら|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2023-03-15|accessdate=2023-03-15}}</ref>
* [[警部補ダイマジン#テレビドラマ|警部補ダイマジン]](2023年7月7日 - 9月1日、テレビ朝日) - 占部貴教 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/527247|title=生田斗真主演「警部補ダイマジン」に小澤征悦、シシド・カフカ、浜野謙太が出演|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-05|accessdate=2023-06-05}}</ref>
* [[ノンレムの窓#ノンレムの窓 2023 夏|ノンレムの窓 2023 夏]] 第1話「夕暮れ時の葛藤」(2023年7月8日、日本テレビ) - 主演・野本久 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/530863|title=バカリズム原案の短編ドラマ「ノンレムの窓」第4弾放送、主演は小澤征悦・夏帆・瀬戸康史|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-30|accessdate=2023-06-30}}</ref>
=== 映画 ===
* 豚の報い(1999年)
* [[ざわざわ下北沢]](2000年)
* [[東京マリーゴールド]](2001年)
* [[ホタル (映画)|ホタル]](2001年)
* [[釣りバカ日誌13 ハマちゃん危機一髪!]](2002年)
* [[ほたるの星]](2004年)
* [[隠し剣 鬼の爪]](2004年)
* [[雪に願うこと]](2006年)
* [[犯人に告ぐ]](2007年)
* [[クライマーズ・ハイ]](2008年) - 安西燐太郎(成長後)役
* [[劔岳 点の記]](2009年) - 玉井大尉 役
* [[BALLAD 名もなき恋のうた]](2009年) - 安長 役
* [[わたし出すわ]](2009年) - 保利満 役
* ワカラナイ WHERE ARE YOU?(2009年)
* [[相棒 -劇場版II- 警視庁占拠! 特命係の一番長い夜]](2010年) - 八重樫哲也 役
* [[はやぶさ 遥かなる帰還]](2012年) - 鎌田悦也 役
* [[脳男#映画|脳男]](2013年) - 伊能 役
* [[許されざる者 (2013年の映画)|許されざる者]](2013年) - 堀田佐之助 役
* [[るろうに剣心 (実写映画)#るろうに剣心 京都大火編 / 伝説の最期編|るろうに剣心 伝説の最期編]](2014年) - [[伊藤博文]] 役
* [[ホットロード#映画|ホットロード]](2014年) - 鈴木 役<ref>キャスト出典。[https://mdpr.jp/cinema/detail/1362020 能年玲奈主演「ホットロード」、主要キャスト全て発表](2014年5月13日)、モデルプレス、2014年5月13日閲覧。</ref>
* [[ジョーカー・ゲーム]](2015年) - 神永 役<ref>{{Cite news | url = http://eiga.com/news/20140912/6/| title = 亀梨和也主演「ジョーカー・ゲーム」公開は15年1月31日に決定!追加キャストも発表| newspaper = | publisher = 映画.com| date = 2014-09-12| accessdate = 2016-05-05}}</ref>
* [[エイプリルフールズ]](2015年) - ホラ吹きオーナーシェフ 役
* [[海難1890]](2015年) - 藤本源太郎 役
* [[探検隊の栄光]](2015年) - ディレクター 役<ref>{{Cite web|和書|url=http://eiga.com/news/20150703/14/|title=藤原竜也主演作「探検隊の栄光」、10月16日公開決定|publisher=映画,com|date=2015-07-03|accessdate=2015-07-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0072956|title=藤原竜也「記憶が飛ぶくらい」過酷な秘境ロケ!『探検隊の栄光』映画化|publisher=シネマトゥデイ|date=2015-05-06|accessdate=2015-05-07}}</ref>
* {{仮リンク|JUKAI -樹海-|en|The Forest (2016 film)}}(2016年) - ミチ 役<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.sanspo.com/article/20150628-BMUWRGIK3FPCNPK3WEIQKK4U6A/ |title= 小澤征悦、大感激ハリウッドデビュー!オーディションで大役獲得 |publisher= SANSPO.COM |date= 2015-06-28 |accessdate= 2015-06-28 }}</ref>
* [[64(ロクヨン)#映画|64-ロクヨン- 前編/後編]](2016年) - 御倉 役
* [[海よりもまだ深く]](2016年) - 福住 役
* [[グリーングラス]] 日智国際共同制作映画(2018年)
* [[引っ越し大名!]](犬童一心 監督、2019年8月30日公開) - 山里一郎太 役<ref>{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0106895|title=星野源の時代劇、引っ越し大名は及川光博!濱田岳・松重豊ら共演|publisher=シネマトゥデイ|date=2019-02-18|accessdate=2019-02-18}}</ref>
*[[弥生、三月-君を愛した30年-]](遊川和彦 監督、2020年3月20日公開)- 白井卓磨 役<ref>{{Cite web|和書|title=波瑠&成田凌:映画「弥生、三月-君を愛した30年-」で初共演&ダブル主演 「同期のサクラ」遊川和彦監督が30年間描く|url=https://mantan-web.jp/article/20191027dog00m200036000c.html|website=MANTANWEB(まんたんウェブ)|accessdate=2019-11-03|language=ja-JP}}</ref>
* [[一度死んでみた]](浜崎慎治 監督、2020年3月20日公開) - 渡部 役<ref name="oricon2150011">{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2150011/full/|title=広瀬すず主演『一度死んでみた』 佐藤健、池田エライザ、西野七瀬ら追加キャスト23人発表|newspaper=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2019-12-02|accessdate=2019-12-02}}</ref>
*[[水上のフライト]](兼重淳 監督、2020年11月13日公開) - 宮本浩 役<ref>{{Cite news|url=https://mdpr.jp/cinema/detail/1957477|title=杉野遥亮ら、中条あやみ主演映画「水上のフライト」追加キャスト発表<本人コメント>|newspaper=[[モデルプレス]]|publisher=株式会社ネットネイティブ|date=2020-02-06|accessdate=2020-02-06}}</ref>
* [[KAPPEI|KAPPEI カッペイ]](平野隆 監督、2022年3月18日公開) - 英雄 役<ref>{{Cite web|和書| title = 「KAPPEI」実写版キャストに伊藤英明、上白石萌歌、西畑大吾ら、公開日も決定 | publisher = 映画ナタリー| date = 2021-11-17| url = https://natalie.mu/eiga/news/453794 | accessdate = 2021-11-17}}</ref>
* [[キングダム2 遥かなる大地へ]](2022年7月15日公開、東宝 / ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント) - 呉慶 役<ref>{{Cite web2|url=https://www.oricon.co.jp/news/2227083/full/|title=実写映画『キングダム2』ヒョウ公将軍役は豊川悦司 武将キャスト発表|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2022-03-08|accessdate=2022-03-08}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/469383|title=Mr.Childrenが「キングダム2」主題歌書き下ろし、タイトルは「自分でもびっくりするフレーズでした」|newspaper=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-14|accessdate=2022-03-15}}</ref>
* GREEN GRASS〜生まれかわる命〜(イグナシオ・ルイス 監督、2023年9月22日公開予定) - 福永佑介 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/537993|title=死後の世界でさまよう息子と悲しむ父、日本・チリ合作映画「GREEN GRASS」予告|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-08-23|accessdate=2023-08-23}}</ref>
=== WEBドラマ(ネットドラマ)[編集] ===
* プリズン・オフィサー 第1話(2015年、[[BeeTV]]) - 加藤隆則 役
* [[ミス・シャーロック/Miss Sherlock]](2018年、[[Hulu]])- 双葉健人 役
* [[GAME OF SPY]](2022年初夏配信予定、[[Amazon Prime Video]])- 香月政晴 役
=== 舞台 ===
* [[さくら (2002年のテレビドラマ)|さくら]](2003年、[[明治座]]) - 桂木慶介 役
* ワニを素手でつかまえる方法(2004年、[[PARCO劇場]])
* [[幽霊はここにいる]](2006年、まつもと市民芸術劇場)
* [[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]](2010年10月3日 - 27日、[[日生劇場]]) - マルクス・ブルータス 役
* [[二都物語#舞台|二都物語]](2013年4月3日 - 30日、[[東急シアターオーブ]]) - マナコ 役
=== ラジオ番組 ===
* [[RADIO DONUTS|BMW FREUDE FOR LIFE]](2023年2月4日、J-WAVE) - ナビゲーター
=== 教養番組 ===
* [[奇跡の地球物語〜近未来創造サイエンス]](テレビ朝日) - ナビゲーター
** 1時間SP 第37回「中国・氷の洞窟万年氷河」(2010年7月11日)
** 2週連続SP 第90、91回「コモド竜島」(2011年9月4日、11日)
* 世界文化賞2011 第23回高松宮殿下記念世界文化賞([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - [[小澤征爾]]・征悦の父子対談
=== トーク番組 ===
*28周年記念・[[徹子の部屋]]日曜拡大版 「テレビ朝日開局45周年記念特別番組」(2004年2月1日)[[黒柳徹子]]・[[坪井直樹]](テレビ朝日アナウンサー)と共に司会
=== ナレーション ===
* [[歴史秘話ヒストリア]]「幕末 殿様たちの恋・夢・涙」(2008年7月23日、[[NHK大阪放送局|NHK大阪]]) - [[島津斉彬]]編担当
* [[日智国際共同制作映画]]「アメリカ・ワイルド」(2018年)
=== 吹き替え ===
* [[キングスマン:ファースト・エージェント]](2021年12月24日公開、[[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]) - オックスフォード公 役〈[[レイフ・ファインズ]]〉<ref>{{Cite web|和書|work=アニメイトタイムズ|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1597304152|title=声優・梶裕貴さん&俳優・小澤征悦さん、スパイアクション映画『キングスマン:ファースト・エージェント』日本語吹替版に出演決定! コメントも到着|accessdate=2020-08-14}}</ref>
=== その他 ===
* [[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ]] ([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[2018年]][[10月]]から不定期で随時、コメンテーターとして出演)
* [[突然ですが占ってもいいですか?]](2021年11月24日、[[フジテレビ]])
=== CM ===
* [[セイコーエプソン]] 写真のはがきで、会いましょう。(カラリオスペシャルコンテンツ) - ナレーション
* [[ハウス食品]] ザ・カリー(ザ・カリー登場編)
* [[三菱自動車]] [[三菱・コルト (曖昧さ回避)|コルト]]
** 女性ドライブ篇
** デザイン篇
** 安全篇、環境篇、フリーチョイス篇 - ナレーション
* SUZUKI [[シボレー・クルーズ]]/[[シボレー・オプトラ]]/[[シボレー・MW]]
* [[UHA味覚糖]] さけるグミVSなが〜いさけるグミ編
* [[田辺三菱製薬]] ウルソウコン
* [[弁護士ドットコム]] クラウドサイン「さらば、ハンコ。」篇(2019年)<ref>{{Cite web|和書|title=「クラウドサイン」初のテレビCMが放映開始。小澤征悦さんがハンコ役で「電子契約」に挑む|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000031.000044347.html|website=[[PR TIMES]]|author=[[弁護士ドットコム]]株式会社|publisher=株式会社PR TIMES|date=2019-10-23|accessdate=2019-10-28}}</ref>
* [[日本郵便]] [[ゆうパック]] 参田家シリーズ - パパ 役
* [[サントリー]]『パーフェクトサントリービール』 (2021年 - 2022年)
* [[日本スポーツ振興センター]] [[スポーツ振興くじ]]「BIG」(2023年)<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20230817-2745998/|title=小澤征悦、花魁姿の石田ゆり子にした“お願い”明かす「すごい暴挙に出まして(笑)」|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2023-08-17|accessdate=2023-08-17}}</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 外部リンク ==
* [https://tomcompany.jp/actor/yukiyoshi-ozawa/ 小澤征悦] - [[TOM company]]
* {{allcinema name|294290|小澤征悦}}
* {{NHK人物録|D0009070722_00000}}
* {{TVer talent|t022329}}
{{エランドール賞新人賞}}
{{actor-stub}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:おさわ ゆきよし}}
[[Category:日本の男優]]
[[Category:日本の舞台俳優]]
[[Category:小澤家|ゆきよし]]
[[Category:成城大学出身の人物]]
[[Category:成城学園中学校高等学校出身の人物]]
[[Category:ロシア系日本人]]
[[Category:サンフランシスコ出身の人物]]
[[Category:1974年生]]
[[Category:存命人物]] | 2003-03-15T12:46:15Z | 2023-11-19T16:03:21Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E6%82%A6 |
4,094 | 日本の鉄軌道事業者一覧 | 日本の鉄軌道事業者一覧(にほんのてつきどうじぎょうしゃいちらん)は、日本の鉄道事業者・軌道事業者を地域別に列挙したものである。第三セクター鉄道や公営交通、地下鉄やモノレールなど形態別の事業者の一覧は「形態別一覧」の節で挙げた個別の項目を参照されたい。
以下は特記なければ鉄道事業者であり、軌道事業者や鉄軌道を兼営する事業者については個別にその旨を注記する。
以下の各項目を参照のこと。経営形態別一覧は「鉄道事業者」も参照のこと。
公有民営方式による第三種鉄道事業者は除く。
以下の一覧では、事業者名は原則として本店・本社が位置する都道府県に記載する。ただし、運営路線が位置する都道府県に本店・本社がない場合は路線がある都道府県に配置し、その旨を注記する。
鉄道廃止・譲渡と同時に(他事業も含め)廃業または解散した事業者。
鉄道廃止・譲渡後も存続している(あるいは存続していた)事業者。
鉄道廃止・譲渡後も社名を変更せず、社名に「鉄道」「電鉄」等を残している会社もある。なお、全国でみられる「(地域名)交通」と名乗るバス会社は鉄道事業を行っているか、以前に行っていた会社もあるが、発足当初からバス専業で鉄道事業を行ったことがない会社もある。千葉交通、東野交通、草軽交通、北恵那交通、江若交通などは鉄道事業廃止後に社名を「(地域名)交通」に変更した。 | [
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"text": "以下の一覧では、事業者名は原則として本店・本社が位置する都道府県に記載する。ただし、運営路線が位置する都道府県に本店・本社がない場合は路線がある都道府県に配置し、その旨を注記する。",
"title": "その他(地域別)"
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"text": "鉄道廃止・譲渡と同時に(他事業も含め)廃業または解散した事業者。",
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"text": "鉄道廃止・譲渡後も存続している(あるいは存続していた)事業者。",
"title": "鉄道事業から撤退した事業者"
},
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"text": "鉄道廃止・譲渡後も社名を変更せず、社名に「鉄道」「電鉄」等を残している会社もある。なお、全国でみられる「(地域名)交通」と名乗るバス会社は鉄道事業を行っているか、以前に行っていた会社もあるが、発足当初からバス専業で鉄道事業を行ったことがない会社もある。千葉交通、東野交通、草軽交通、北恵那交通、江若交通などは鉄道事業廃止後に社名を「(地域名)交通」に変更した。",
"title": "鉄道事業から撤退した事業者"
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] | 日本の鉄軌道事業者一覧(にほんのてつきどうじぎょうしゃいちらん)は、日本の鉄道事業者・軌道事業者を地域別に列挙したものである。第三セクター鉄道や公営交通、地下鉄やモノレールなど形態別の事業者の一覧は「形態別一覧」の節で挙げた個別の項目を参照されたい。 以下は特記なければ鉄道事業者であり、軌道事業者や鉄軌道を兼営する事業者については個別にその旨を注記する。 | '''日本の鉄軌道事業者一覧'''(にほんのてつきどうじぎょうしゃいちらん)は、日本の[[鉄道事業者]]・[[軌道法|軌道事業者]]を地域別に列挙したものである。第三セクター鉄道や公営交通、地下鉄やモノレールなど形態別の事業者の一覧は「[[#形態別一覧|形態別一覧]]」の節で挙げた個別の項目を参照されたい。
以下は特記なければ鉄道事業者であり、軌道事業者や鉄軌道を兼営する事業者については個別にその旨を注記する。
{{TOC limit|3}}
== 形態別一覧 ==
以下の各項目を参照のこと。経営形態別一覧は「[[鉄道事業者#鉄軌道事業者の経営形態|鉄道事業者]]」も参照のこと。
=== 事業規模や経営形態 ===
* [[JR]]
* [[大手私鉄]]
* [[準大手私鉄]]
* [[第三セクター鉄道#第三セクター鉄道会社一覧|第三セクター鉄道]]
* [[臨海鉄道]]
* [[公営交通]]
=== 軌道や車両の方式 ===
* [[日本の地下鉄#日本の地下鉄路線|地下鉄]]
* [[日本の路面電車一覧|路面電車]](軌道)
* [[日本のモノレール|モノレール]](跨座式・懸垂式)
* [[新交通システム]]
** [[自動案内軌条式旅客輸送システム#日本のAGT路線一覧|AGT]](案内軌条式)
** [[ガイドウェイバス#日本|ガイドウェイバス]](案内軌条式)
** [[HSST#営業路線|HSST]](浮上式)
* [[トロリーバス#現存路線|トロリーバス]](無軌条電車)
* [[ケーブルカー#日本のケーブルカー一覧|ケーブルカー]](鋼索鉄道)
* [[日本の索道#日本の普通索道一覧|ロープウェイ・ゴンドラリフト]](普通索道)
<!-- 一覧への誘導が目的のため、事業者の一覧がある項目のみリンクする -->
== JRグループ ==
* [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)
* [[東日本旅客鉄道]](JR東日本)
* [[東海旅客鉄道]](JR東海)
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)
* [[四国旅客鉄道]](JR四国)
* [[九州旅客鉄道]](JR九州)
* [[日本貨物鉄道]](JR貨物)
== 大手私鉄 ==
{{Main|大手私鉄}}
{{Columns-start}}
=== 関東地方 ===
* [[小田急電鉄]]
* [[京王電鉄]]
* [[京成電鉄]]
* [[京浜急行電鉄]]
* [[相模鉄道]]
* [[西武鉄道]]
* [[東急電鉄]] - 鉄軌道事業兼営
* [[東京地下鉄]](東京メトロ)
* [[東武鉄道]]
=== 中部地方 ===
* [[名古屋鉄道]] - 鉄軌道事業兼営
{{Column}}
=== 近畿地方 ===
* [[近畿日本鉄道]]{{Efn|中部地方にも路線を持つが、本社は大阪府にあるため近畿地方に記載。}} - 鉄軌道事業兼営
* [[京阪電気鉄道]] - 鉄軌道事業兼営
* [[南海電気鉄道]]
* [[阪急電鉄]]
* [[阪神電気鉄道]]
=== 九州地方 ===
* [[西日本鉄道]]
{{Columns-end}}
== 準大手私鉄 ==
{{Main|準大手私鉄}}
=== 関東地方 ===
* [[新京成電鉄]]
=== 近畿地方 ===
* [[北大阪急行電鉄]]
* [[神戸高速鉄道]]
* [[山陽電気鉄道]]
* [[泉北高速鉄道]]
== 公営事業者 ==
{{See also|公営交通}}
公有民営方式による第三種鉄道事業者は除く。
{{Columns-start}}
=== 北海道 ===
* [[札幌市交通局]] - 鉄軌道事業兼営
* [[函館市企業局交通部]] - 軌道事業者
=== 東北地方 ===
* [[仙台市交通局]]
=== 関東地方 ===
* [[東京都交通局]] - 鉄軌道事業兼営
* [[横浜市交通局]]
=== 中部地方 ===
* [[名古屋市交通局]]
{{Column}}
=== 近畿地方 ===
* [[京都市交通局]]
* [[神戸市交通局]]
=== 九州地方 ===
* [[鹿児島市交通局]] - 軌道事業者
* [[熊本市交通局]] - 軌道事業者
* [[福岡市交通局]]
{{Columns-end}}
== その他(地域別) ==
以下の一覧では、事業者名は原則として本店・本社が位置する都道府県に記載する。ただし、運営路線が位置する都道府県に本店・本社がない場合は路線がある都道府県に配置し、その旨を注記する。
=== 北海道 ===
* [[札幌市交通事業振興公社]] - 軌道運送事業者
* [[道南いさりび鉄道]]
=== 東北地方 ===
{{Columns-start}}
==== 青森県 ====
* [[青い森鉄道]]
* [[青森県]]<!-- 青い森鉄道線の第三種鉄道事業者 -->
* [[弘南鉄道]]
* [[道の駅みんまや#管理団体|青函トンネル記念館]]<!-- 青函トンネル竜飛斜坑線の第一種鉄道事業者 -->
* [[津軽鉄道]]
* [[八戸臨海鉄道]]
==== 岩手県 ====
* [[IGRいわて銀河鉄道|アイジーアールいわて銀河鉄道]]<!-- 国土交通省への届出上の名称は「アイジーアール」 -->
* [[岩手開発鉄道]]
* [[三陸鉄道]]
==== 宮城県 ====
* [[仙台空港鉄道]]
* [[仙台臨海鉄道]]
{{Column}}
==== 秋田県 ====
* [[秋田内陸縦貫鉄道]]
* [[秋田臨海鉄道]]
* [[由利高原鉄道]]
==== 山形県 ====
* [[山形鉄道]]
==== 福島県 ====
* [[会津鉄道]]
* [[阿武隈急行]]
* [[福島県]]<!-- 只見線(一部区間)の第三種鉄道事業者 -->
* [[福島交通]]
* [[福島臨海鉄道]]
{{Columns-end}}
=== 関東地方 ===
{{Columns-start}}
==== 茨城県 ====
* [[鹿島臨海鉄道]]
* [[関東鉄道]]
* [[筑波観光鉄道]]
* [[ひたちなか海浜鉄道]]
==== 栃木県 ====
* [[宇都宮市]] - 軌道整備事業者
* [[宇都宮ライトレール]] - 軌道運送事業者
* [[芳賀町]] - 軌道整備事業者
* [[真岡鐵道]]
* [[野岩鉄道]]
==== 群馬県 ====
* [[上信電鉄]]
* [[上毛電気鉄道]]
* [[わたらせ渓谷鐵道]]
==== 埼玉県 ====
* [[埼玉高速鉄道]]
* [[埼玉新都市交通]]
* [[秩父鉄道]]
==== 千葉県 ====
* [[いすみ鉄道]]
* [[小湊鉄道]]
* [[京葉臨海鉄道]]
* [[芝山鉄道]]
* [[千葉都市モノレール]] - 軌道事業者
* [[千葉ニュータウン鉄道]]
* [[銚子電気鉄道]]
* [[東葉高速鉄道]]
* [[成田空港高速鉄道]]{{Efn|name="HeadOfficeIsInTokyo"|路線は全て千葉県内に位置するが、本社は東京都にある。}}
* [[成田高速鉄道アクセス]]
* [[北総鉄道]]
* [[舞浜リゾートライン]]
* [[山万]]{{Efn|name="HeadOfficeIsInTokyo"}}
* [[流鉄]]
{{Column}}
==== 東京都 ====
* [[首都圏新都市鉄道]]
* [[高尾登山電鉄]]
* [[多摩都市モノレール]] - 軌道事業者
* [[東京モノレール]]
* [[東京臨海高速鉄道]]
* [[御岳登山鉄道]]
* [[ゆりかもめ (企業)|ゆりかもめ]] - 鉄軌道事業兼営
==== 神奈川県 ====
* [[江ノ島電鉄]]
* [[大山観光電鉄]]
* [[神奈川臨海鉄道]]
* [[湘南モノレール]]
* [[横浜高速鉄道]]
* [[横浜シーサイドライン]] - 軌道事業者
* [[箱根登山鉄道]]
{{Columns-end}}
=== 中部地方 ===
{{Columns-start}}
==== 新潟県 ====
* [[えちごトキめき鉄道]]
* [[北越急行]]
==== 富山県 ====
* [[あいの風とやま鉄道]]
* [[黒部峡谷鉄道]]
* [[立山黒部貫光]]
* [[富山市]] - 軌道整備事業者
* [[富山地方鉄道]] - 鉄軌道事業兼営
* [[万葉線 (企業)|万葉線]] - 鉄軌道事業兼営
==== 石川県 ====
* [[IRいしかわ鉄道]]
* [[のと鉄道]]
* [[北陸鉄道]]
==== 福井県 ====
* [[えちぜん鉄道]]
* [[福井鉄道]] - 鉄軌道事業兼営
==== 山梨県 ====
* [[富士急行|富士山麓電気鉄道]]
==== 長野県 ====
* [[アルピコ交通]]
* [[上田交通#上田電鉄|上田電鉄]]
* [[しなの鉄道]]
* [[長野電鉄]]
==== 岐阜県 ====
* [[明知鉄道]]
* [[西濃鉄道]]
* [[樽見鉄道]]
* [[長良川鉄道]]
* [[養老線管理機構]]
* [[養老鉄道]]
{{Column}}
==== 静岡県 ====
* [[伊豆急行]]
* [[伊豆箱根鉄道]]
* [[遠州鉄道]]
* [[大井川鐵道]]
* [[岳南電車]]
* [[静岡鉄道]]
* [[十国峠]]
* [[天竜浜名湖鉄道]]
==== 愛知県 ====
* [[愛知環状鉄道]]
* [[愛知高速交通]] - 軌道事業者
* [[上飯田連絡線]]
* [[衣浦臨海鉄道]]
* [[中部国際空港連絡鉄道]]
* [[東海交通事業]]
* [[豊橋鉄道]] - 鉄軌道事業兼営
* [[名古屋ガイドウェイバス]] - 軌道事業者
* [[名古屋臨海高速鉄道]]
* [[名古屋臨海鉄道]]
==== 三重県 ====
* [[伊賀市]]
* [[伊賀鉄道]]
* [[伊勢鉄道]]
* [[三岐鉄道]]
* [[四日市あすなろう鉄道]]
* [[四日市市]]
{{Columns-end}}
=== 近畿地方 ===
{{Columns-start}}
==== 滋賀県 ====
* [[近江鉄道]]
* [[甲賀市]]
* [[信楽高原鐵道]]
* [[比叡山鉄道]]
==== 京都府 ====
* [[WILLER TRAINS]](京都丹後鉄道)
* [[叡山電鉄]]
* [[北近畿タンゴ鉄道]]
* [[鞍馬寺]]
* [[京福電気鉄道]] - 鉄軌道事業兼営
* [[嵯峨野観光鉄道]]
* [[丹後海陸交通]]
==== 大阪府 ====
* [[大阪外環状鉄道]]
* [[大阪港トランスポートシステム]]
* [[大阪市高速電気軌道]] (Osaka Metro) - 鉄軌道事業兼営
* [[大阪モノレール]]
* [[関西高速鉄道]]
* [[新関西国際空港]]
* [[中之島高速鉄道]]
* [[西大阪高速鉄道]]
* [[阪堺電気軌道]] - 軌道事業者
* [[水間鉄道]]
{{Column}}
==== 兵庫県 ====
* [[神戸新交通]] - 鉄軌道事業兼営
* [[神戸電鉄]]
* [[こうべ未来都市機構]]
* [[能勢電鉄]]
* [[北条鉄道]]
* [[六甲山観光]]
==== 奈良県 ====
* [[奈良生駒高速鉄道]]
==== 和歌山県 ====
* [[紀州鉄道]]{{Efn|路線は全て和歌山県内に位置するが、本社は東京都にある。}}
* [[和歌山県]]
* [[和歌山電鐵]]
{{Columns-end}}
=== 中国地方 ===
{{Columns-start}}
==== 鳥取県 ====
* [[智頭急行]]
* [[八頭町]]
* [[若桜町]]
* [[若桜鉄道]]
==== 島根県 ====
* [[一畑電車]]
==== 岡山県 ====
* [[井原鉄道]]
* [[岡山電気軌道]] - 軌道事業者
* [[水島臨海鉄道]]
{{Column}}
==== 広島県 ====
* [[スカイレールサービス]] - 軌道事業者
* [[広島高速交通]] - 鉄軌道事業兼営
* [[広島電鉄]] - 鉄軌道事業兼営
==== 山口県 ====
* [[錦川鉄道]]
{{Columns-end}}
=== 四国地方 ===
{{Columns-start}}
==== 徳島県 ====
* [[阿佐海岸鉄道]]
==== 香川県 ====
* [[四国ケーブル]]
* [[高松琴平電気鉄道]]
{{Column}}
==== 愛媛県 ====
* [[伊予鉄道]] - 鉄軌道事業兼営
==== 高知県 ====
* [[土佐くろしお鉄道]]
* [[とさでん交通]] - 軌道事業者
{{Columns-end}}
=== 九州地方 ===
{{Columns-start}}
==== 福岡県 ====
* [[甘木鉄道]]
* [[北九州高速鉄道]] - 軌道事業者
* [[北九州市]]
* [[皿倉登山鉄道]]
* [[筑豊電気鉄道]]
* [[平成筑豊鉄道]]
==== 佐賀県 ====
* [[佐賀・長崎鉄道管理センター]]
==== 長崎県 ====
* [[島原鉄道]]
* [[長崎電気軌道]] - 軌道事業者
* [[松浦鉄道]]
{{Column}}
==== 熊本県 ====
* [[くま川鉄道]]
* [[熊本電気鉄道]]
* [[肥薩おれんじ鉄道]]
* [[南阿蘇鉄道]]
* [[南阿蘇鉄道管理機構]]
==== 大分県 ====
* [[ラクテンチ]]
{{Columns-end}}
==== 沖縄県 ====
* [[沖縄都市モノレール]] - 軌道事業者
== 鉄道事業から撤退した事業者 ==
{{See also|Category:かつて存在した日本の鉄道事業者}}
=== 廃業・解散等 ===
鉄道廃止・譲渡と同時に(他事業も含め)廃業または解散した事業者。
{{Columns-list|2|
* [[北海道ちほく高原鉄道]]
* [[雄別鉄道]]
* [[釧路開発埠頭]]
* [[寿都鉄道]]
* [[くりはら田園鉄道]]
* [[江名鉄道]]
* [[磐梯急行電鉄]](沼尻鉄道・日本硫黄観光鉄道)
* [[千葉急行電鉄]]
* [[日立電鉄]]
* [[帝都高速度交通営団]](民営化され[[東京地下鉄]]に)
* [[ドリーム開発ドリームランド線|ドリーム開発]](ドリーム交通)
* [[桃花台新交通]]
* [[神岡鉄道]]
* [[伊那電気鉄道]]
* [[富山ライトレール]]([[富山地方鉄道]]に合併)
* [[三重交通|三重電気鉄道]]
* [[京都高速鉄道]]
* [[大阪市交通局]](民営化され[[大阪市高速電気軌道]]に)
* [[三木鉄道]]
* [[北神急行電鉄]]
* [[北丹鉄道]]
* [[野上電気鉄道]]
* [[屋島登山鉄道]]
* [[土佐電気鉄道]]([[とさでん交通]]が継承)
* [[玉野市営電気鉄道]]
* [[山鹿温泉鉄道]]
* [[鹿本鉄道]]
* [[九州肥筑鉄道]]
* [[高千穂鉄道]]
* [[糸満馬車軌道]]
}}
=== 存続事業者 ===
鉄道廃止・譲渡後も存続している(あるいは存続していた)事業者。
==== バス事業者として存続 ====
鉄道廃止・譲渡後も社名を変更せず、社名に「鉄道」「電鉄」等を残している会社もある。なお、全国でみられる「(地域名)交通」と名乗るバス会社は鉄道事業を行っているか、以前に行っていた会社もあるが、発足当初からバス専業で鉄道事業を行ったことがない会社もある{{Efn|例として、[[岩手県交通]](ただし前身会社のうち岩手中央バスは元鉄道事業者)、[[宮城交通]](ただし前身会社のうち宮城バス・仙南交通は元鉄道事業者)、[[神奈川中央交通]]、[[滋賀交通]]、[[京都交通 (亀岡)|(旧)京都交通]](およびそれらを継承した[[京都交通 (舞鶴)|(新)京都交通]]および[[京阪京都交通]])、[[奈良交通]]、[[広島交通]]、[[防長交通]]、[[高知県交通]]、[[南国交通]]など。}}。[[千葉交通]]、[[東野交通]]、[[草軽交通]]、[[北恵那交通]]、[[江若交通]]などは鉄道事業廃止後に社名を「(地域名)交通」に変更した。
{{Columns-list|2|
* [[旭川電気軌道]]
* [[士別軌道]]
* [[夕張鉄道]]
* 定山渓鉄道(現・[[じょうてつ]])
* [[下北交通]]
* [[十和田観光電鉄]]
* [[南部鉄道]](鉄道廃止後[[南部バス]]に。2017年に[[岩手県北自動車|岩手県北バス]]に事業譲渡)
* [[秋田中央交通]]
* [[羽後交通]]
* [[秋田市交通局]](軌道廃止後もバス事業を存続していたが、2016年廃止)
* [[花巻電鉄]](現・[[岩手県交通]])
* [[仙台鉄道]](現・[[宮城交通]])
* [[仙北鉄道]](現・[[宮城交通]])
* [[秋保電気鉄道]](現・[[宮城交通]])
* [[庄内交通]]
* 山形交通(後にバス事業を[[山交バス (山形県)|山交バス]]に分社し、[[ヤマコー]]となる)
* [[東野鉄道]](鉄道廃止後[[東野交通]]となり、2018年に[[関東自動車 (栃木県)|関東自動車]]に合併)
* [[茨城交通]]
* [[成宗電気軌道|成田鉄道]](現・[[千葉交通]])
* [[九十九里鉄道]]
* [[山梨交通]]
* [[草軽電気鉄道]](現・[[草軽交通]])
* [[蒲原鉄道]]
* [[新潟交通]]
* [[越後交通]]
* 頸城鉄道(現・[[頸城自動車]])
* 加越能鉄道(現・[[加越能バス]])
* [[尾小屋鉄道]](現・[[北鉄加賀バス]])
* 北恵那鉄道(現・[[北恵那交通]])
* [[東濃鉄道]](2代目)
* [[三重交通]](鉄道部門は三重電気鉄道に分社化後[[近畿日本鉄道]]へ継承)
* [[江若鉄道]](現・[[江若交通]])
* 姫路市交通局(モノレール廃止後の2007年に[[姫路市企業局交通事業部]]となったが、2010年に交通事業撤退)
* [[淡路交通]]
* [[有田鉄道]]
* [[日ノ丸自動車]]
* [[米子電車軌道]](軌道廃止後に[[日ノ丸自動車]]に合併)
* [[西大寺鉄道]](現・[[両備ホールディングス|両備バス]])
* 中国鉄道(現・[[中鉄バス]])
* [[下津井電鉄]]
* [[井笠鉄道]](2012年に倒産。[[井笠バスカンパニー]]が継承)
* [[鞆鉄道]]
* [[尾道鉄道]](1970年に[[中国バス]]に合併)
* [[船木鉄道]]
* [[防石鉄道]](1992年に[[防長交通]]に合併)
* [[長門鉄道]](1975年に[[サンデン交通]]に合併)
* [[山陽電気軌道]](現・サンデン交通)
* [[琴平参宮電鉄]]
* [[北九州市交通局]]
* [[熊延鉄道]](現・[[熊本バス]])
* [[大分交通]]
* [[宮崎交通]]
* [[鹿児島交通]]
}}
==== その他 ====
{{Columns-list|2|
* [[十勝鉄道]](運送事業者として存続)
* 三菱鉱業(現・[[三菱マテリアル]])
* [[三菱石炭鉱業]](後に南大夕張炭鉱として清算業務)
* [[北海道拓殖鉄道]](運送事業者として存続)
* [[北海道炭礦汽船]](石炭商社として存続)
* 太平洋石炭販売輸送(現・[[新太平洋商事]])
* 南部縦貫鉄道(現・[[南部縦貫]]。業務請負事業者として存続)
* 筑波鉄道(現・[[関鉄筑波商事]])
* [[鹿島鉄道]](賃貸業として存続)
* 都市基盤整備公団(現・[[都市再生機構]])
* 奥多摩電気鉄道(現・[[奥多摩工業]])
* [[東京都地下鉄建設]]
* 日立運輸東京モノレール(現・[[ロジスティード]])
* [[鶴見臨港鉄道]](現・東亜リアルエステート。不動産業として存続)
* [[こどもの国 (横浜市)|こどもの国協会]]
* 南武鉄道(現・[[太平洋不動産]])
* [[善光寺白馬電鉄]](運送事業者として存続)
* [[関西電力]]
* [[上田交通]](鉄道事業を分社化した[[上田電鉄]]へ移管。不動産業として存続)
* [[富士急行]](鉄道事業を分社化した[[富士山麓電気鉄道]]へ移管。会社は存続)
* [[岳南鉄道]](鉄道事業を分社化した[[岳南電車]]へ移管。不動産業として存続)
* [[名古屋市交通局協力会]]
* 揖斐川電気(現・[[イビデン]])
* [[加悦鉄道]](現・宮津海陸運輸)
* [[神戸住環境整備公社]]
* [[別府鉄道]](不動産賃貸業として存続)
* [[日本無軌道電車]]
* [[兵衛向陽閣|兵衛旅館]](館内連絡用のケーブルカー、旅館は存続)
* 同和鉱業(現・[[DOWAホールディングス]])
* [[岡山臨港鉄道]](現・[[岡山臨港]])
* [[小倉鉄道]](歯車メーカーとして存続)
* [[沖縄県営鉄道]]
* [[沖縄電気]]
* [[沖縄軌道]]
}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
<!--
=== 出典 ===
{{Reflist}}-->
== 関連項目 ==
* [[鉄道]]
* [[鉄道事業者]]
* [[日本の鉄道]]
* [[日本の地下鉄]]
== 外部リンク ==
* 「[https://www.mlit.go.jp/statistics/details/tetsudo_list.html 鉄道関係情報・データ]」- 国土交通省。「鉄道事業者一覧」「鉄軌道開業一覧」「整備中の鉄軌道一覧」「鉄軌道の廃止実績」等
[[Category:日本企業の一覧 (分野別)|てつとう]]
[[Category:日本の鉄道事業者|*]]
[[Category:日本の鉄道関連一覧|にほんのてつとうしきようしや]] | 2003-03-15T12:47:33Z | 2023-11-02T03:45:36Z | false | false | false | [
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"Template:See also",
"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E8%BB%8C%E9%81%93%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E8%80%85%E4%B8%80%E8%A6%A7 |
4,095 | 水族館 | 水族館(すいぞくかん、英: aquarium)とは、主として海や河川・湖沼などの水中や水辺で生活する生物(水族)を展示・収集している施設である。
主に陸上で暮らしている生き物を展示している施設は一般的に動物園と呼ばれるが、展示する生物の生息場所によって呼称が変わる訳ではなく、水族館も動物を展示している為動物園に含まれる。また、日本の多くの施設は博物館法に該当する為、博物館である。
水族館では魚介類や無脊椎動物、両生類、海獣類、爬虫類といった動物や、水草などがガラスやプラスチックといった透明な水槽に入れられ、公開されている。規模は大小さまざまであるが、多くは多種類・大型の水槽を売りにしている。
海獣(イルカ、アシカなど)によるショーなどをしている水族館もあり、これらのショーが水族館の目玉になっている場合も見受けられる。また、単独で存在する水族館以外に、動物園の中の1施設として存在する所、遊園地のような遊具が設置・併設されている所(複合施設の中の1つ)もある。
海浜・湖畔・川辺に近いところに立地している場合が多いが、海岸から遠い都心のビルなどの場所に立地している施設もある。
海浜や湖畔などの近くに立地する理由として、「水槽用の水・餌となる生き物の確保が簡単で、低コストで済む」「水辺に暮らす生き物の調査・研究がしやすい」などが多く挙がる。また「広い土地の確保が都市部では難しい」「海の近くの方が景観的にも良い」などの理由もある。
水族館が作られるようになった経緯にはそれぞれ異なる4つ流れがあり、それらが独立ではなく相互に関係しながら発展していった。
1つはホーム・アクアリウムの流れである。1665年のサミュエル・ピープスによるパラダイスフィッシュ飼育の紹介や、1718年のルイ・ルナールによる『魚、エビ、カニの彩色図鑑』出版などに喚起されて、17世紀のヨーロッパにおいて熱帯魚飼育ブームが起こった。魚を健康的に飼育する方法の研究という科学的な視点や、魚の絵を描くためという芸術的な視点からもホーム・アクアリウムの需要が生じ、このブームに伴って水槽設備の開発も進んだ。このような水槽設備の開発に携わった人物として、アクアリウムの名付け親でもあり、海洋生物の画集を出版したフィリップ・ヘンリー・ゴスや、水槽の水の循環装置を開発したウィリアム・アルフォード・ロイドなどがいる。このようなホーム・アクアリウムによる水槽での魚の飼育技術の向上や水槽の開発という流れの中、1830年に博物学者のド・モリンズはフランスのボルドーにおいて、世界初の水族館の一つであるとされる、水槽に入れた魚や貝を並べた展示を行った。
もう1つは、18世紀の近代科学の発展に伴って発生した博物学の一分野である動物学の流れである。1828年にロンドン動物学協会によってロンドン動物園が建設されたことを契機として、動物学の研究に伴う教育の一環としてその研究施設を一般公開するという考えが広まり、その後、この動物園の付属施設として水族館が作られるようになった。初期のものは、フランスの国立自然史博物館であるジャルダン・デ・プラントの爬虫類コーナーに小さな水槽が並べられた程度のものであったが、1853年には世界初の水族館の一つとされるロンドン動物園併設のフィッシュハウスのような本格的な水族館に発展していった。
また、18世紀のヨーロッパでは産業革命の流れにおいて、その成果を誇示し国威を発揚するために万国博覧会をはじめとした博覧会が多く開催されていた。1851年のロンドン万国博覧会で行なわれた鋳鉄のフレームにガラスをはめ込んだ水槽を使用した魚の展示のように、水槽と水生生物の展示はしばしば博覧会の目玉とされた。後年、日本において1897年の第2回水産博覧会で展示された水族館が博覧会終了後に移築されて水族館として継続的な展示が行われたように、博覧会による話題性も伴って多くの水族館が建設される切っ掛けとなった。
最後の1つは、大学をはじめとする教育研究機関が建設した臨海実験所の流れである。18世紀後半、海洋資源の開発のために水産学の研究が盛んとなり、水産学の基礎である生物学の教育、研究のために必須の施設として臨海実験所が建設された。世界初の海洋実験所は1872年に建てられたナポリ海洋実験所であり、次いで1886年に東京大学の付属設備として三崎臨海実験所が建てられた。これらの臨海実験所では研究のために海洋生物を飼育する水槽や図書館等の設備が充実しており、研究費を賄う目的で入場料を徴収して水槽や標本等を公開するという事が行われていた。また、臨海研究所は海に面した景観のよい場所に建設されることが多かったため、後年には付属の水族館や博物館を伴う総合的な観光施設が作り上げられることもあった。第二次世界大戦前の日本の水族館はその1/3が国立大学の臨海実験所付属のものであったように、臨海実験所は水族館の普及に対して大きな役割を果たしていた。
世界初の水族館が、何かという事には諸説あるが、1830年に博物学者のド・モリンズがフランスのボルドーで行った、魚介を入れた水槽の展示を世界初の水族館とするのが定説となっている。しかし、これは水槽を並べただけの単純なものであったため、その規模や施設などから1853年に作られたロンドン動物園のフィッシュ・ハウスが世界初の水族館であるという見方もある。
1853年、ロンドン動物園の付属施設として開館したフィッシュ・ハウスは、多くの温室と同じような設計が施されていた。P・T・バーナムはロンドン動物園の水族館に続き、1856年に早くもアメリカで初めての水族館を、ニューヨークのブロードウェイにある彼の設立したバーナム博物館(英語版)の一部として開館したが、バーナム博物館は1868年に焼失した。1859年には、ボストンにボストン水族館(英語版)が開館した。その後ヨーロッパでは、パリのジャルダン・ダクリマタシオンやウィーンのアクアリウム・サロン(共に1860年)、ハンブルクのハンブルク動物園(英語版)の一部としてのMarine Aquarium Temple(1864年)、アルフレート・ブレームが設立したベルリンのベルリン水族館(1869年)、ブライトンのブライトン水族館(1872年)など、いくつかの水族館が開館した。
旧ベルリン水族館は1869年に開館した。旧ベルリン水族館はベルリン動物園の場所ではなく、ベルリンの大通りであるウンター・デン・リンデン沿いという都市の中心部に建設された。水族館の初めの責任者は、1866年から1874年までの間ハンブルク動物園の責任者であったアルフレート・ブレームであり、彼は1874年までその職に務めた。ベルリン水族館は教育に重点を置いており、水族館の一部は天然の岩で作られ洞窟のように設計されていた。この天然石で作られた洞窟はGeologische Grotteと呼ばれ、これは「地球の地殻の外層」を表している。この洞窟はまた、アザラシのための鳥とプールが特色であった。旧ベルリン水族館は3階建の建物であり、2階に魚の入った水槽が置かれ、機械やタンクは1階に設置されていた。3階には、ブルームの特別な関心のために鳥の入った巨大な鳥小屋が置かれ、その周りには哺乳類の檻が置かれていた。この施設は1910年に閉館した。
アムステルダム動物園(英語版)のアルティス水族館は、1882年、ビクトリア朝風の建物内に建設され、1997年に改築された。19世紀末に建設されたアルティス水族館は当時最高水準の技術であると考えられていた。
日本で初めて作られた水族館は、1882年に開園した上野動物園に併設された「観魚室(うをのぞき)」と呼ばれる小さな淡水のアクアリウムである。その敷地面積は17.5坪であり、15ほどの水槽が置かれていた。その後、1897年の第2回水産博覧会において兵庫県の和田岬に設置された遊園地である「和楽園」に水族館が併設され、ここで初めて「水族館」という名称が用いられた。東京大学教授であり「水族館の父」と呼ばれる飯島魁によって設計されたこの水族館は、淡水水族館であった観魚室と異なり濾過循環設備を備えた本格的な海水水族館であった。博覧会に併設された施設であったため博覧会の終了とともに和田岬の施設は閉館したものの、同県の湊川神社に移築されて1910年までの間営業していた。文部科学省が所管する日本動物園水族館協会では、この和田岬の水族館を日本の水族館の原点であるとしており、神戸市立須磨海浜水族園では、日本における水族館発祥の地は神戸であるとしている。2021年現在、日本で最も歴史の長い水族館は、1913年開館の魚津水族館である。
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] | 水族館とは、主として海や河川・湖沼などの水中や水辺で生活する生物(水族)を展示・収集している施設である。 主に陸上で暮らしている生き物を展示している施設は一般的に動物園と呼ばれるが、展示する生物の生息場所によって呼称が変わる訳ではなく、水族館も動物を展示している為動物園に含まれる。また、日本の多くの施設は博物館法に該当する為、博物館である。 水族館では魚介類や無脊椎動物、両生類、海獣類、爬虫類といった動物や、水草などがガラスやプラスチックといった透明な水槽に入れられ、公開されている。規模は大小さまざまであるが、多くは多種類・大型の水槽を売りにしている。 海獣(イルカ、アシカなど)によるショーなどをしている水族館もあり、これらのショーが水族館の目玉になっている場合も見受けられる。また、単独で存在する水族館以外に、動物園の中の1施設として存在する所、遊園地のような遊具が設置・併設されている所(複合施設の中の1つ)もある。 海浜・湖畔・川辺に近いところに立地している場合が多いが、海岸から遠い都心のビルなどの場所に立地している施設もある。 海浜や湖畔などの近くに立地する理由として、「水槽用の水・餌となる生き物の確保が簡単で、低コストで済む」「水辺に暮らす生き物の調査・研究がしやすい」などが多く挙がる。また「広い土地の確保が都市部では難しい」「海の近くの方が景観的にも良い」などの理由もある。 | {{独自研究|date=2010年12月}}
[[画像:Okinawa Churaumi Aquarium.jpg|thumb|250px|[[沖縄県]]の[[沖縄美ら海水族館]]の大水槽]]
'''水族館'''(すいぞくかん、{{lang-en-short|aquarium}})とは、主として[[海]]や[[河川]]・[[湖沼]]などの[[水中]]や[[水辺]]で生活する[[生物]]([[生活型 (水生生物)|水族]])を展示・収集している[[施設]]である。
主に陸上で暮らしている生き物を展示している施設は一般的に[[動物園]]と呼ばれるが、展示する生物の生息場所によって呼称が変わる訳ではなく、水族館も動物を展示している為動物園に含まれる。また、日本の多くの施設は[[博物館法]]に該当する為、[[博物館]]である。
水族館では[[魚介類]]や[[無脊椎動物]]、[[両生類]]、[[海獣|海獣類]]、[[爬虫類]]といった[[動物]]や、[[水草]]などが[[ガラス]]や[[プラスチック]]といった透明な[[水槽]]に入れられ、公開されている。規模は大小さまざまであるが、多くは多種類・大型の水槽を売りにしている。
海獣([[イルカ]]、[[アシカ]]など)によるショーなどをしている水族館もあり、これらのショーが水族館の目玉になっている場合も見受けられる。また、単独で存在する水族館以外に、[[動物園]]の中の1施設として存在する所、遊園地のような遊具が設置・併設されている所(複合施設の中の1つ)もある。
海浜・湖畔・川辺に近いところに立地している場合が多いが、[[海岸]]から遠い[[都心]]の[[オフィスビル|ビル]]などの場所に立地している施設もある。
海浜や湖畔などの近くに立地する理由として、「水槽用の水・餌となる生き物の確保が簡単で、低コストで済む」「水辺に暮らす生き物の調査・研究がしやすい」などが多く挙がる。また「広い土地の確保が都市部では難しい」「海の近くの方が景観的にも良い」などの理由もある。
== 歴史 ==
{{See also|アクアリウム#歴史と発展}}
=== 前史 ===
[[ファイル:Philip Henry Gosse - British Sea-Anemone and Corals (Plate V).jpg|thumb|150px|ゴスによる海洋生物のイラスト]]
[[ファイル:Hyogo ikesu.jpg|サムネイル|水族館の前身とも言える江戸時代の「兵庫の生洲」。[[摂津名所図会]]より。不漁時に市場に供給するほか、多種多様の魚が見られる名所として知られた{{r|兵庫生洲跡の碑}}。]]
水族館が作られるようになった経緯にはそれぞれ異なる4つ流れがあり、それらが独立ではなく相互に関係しながら発展していった<ref name=hori5/>。
1つはホーム・アクアリウムの流れである。1665年の[[サミュエル・ピープス]]による[[パラダイスフィッシュ]]飼育の紹介や、1718年のルイ・ルナールによる『魚、エビ、カニの彩色図鑑』出版などに喚起されて、17世紀のヨーロッパにおいて熱帯魚飼育ブームが起こった<ref>[[#suzuki1994|鈴木 (1994)]] 3-5頁。</ref>。魚を健康的に飼育する方法の研究という科学的な視点や、魚の絵を描くためという芸術的な視点からもホーム・アクアリウムの需要が生じ、このブームに伴って水槽設備の開発も進んだ<ref name=hori4>[[#hori1998|堀 (1998)]] 4頁。</ref>。このような水槽設備の開発に携わった人物として、アクアリウムの名付け親でもあり、海洋生物の画集を出版した[[フィリップ・ヘンリー・ゴス]]や、水槽の水の循環装置を開発したウィリアム・アルフォード・ロイドなどがいる<ref>[[#suzuki1994|鈴木 (1994)]] 8-9頁。</ref>。このようなホーム・アクアリウムによる水槽での魚の飼育技術の向上や水槽の開発という流れの中、1830年に博物学者のド・モリンズはフランスの[[ボルドー]]において、世界初の水族館の一つであるとされる、水槽に入れた魚や貝を並べた展示を行った<ref name=hori3>[[#hori1998|堀 (1998)]] 3頁。</ref>。
もう1つは、18世紀の近代科学の発展に伴って発生した[[博物学]]の一分野である[[動物学]]の流れである。1828年にロンドン動物学協会によって[[ロンドン動物園]]が建設されたことを契機として、動物学の研究に伴う教育の一環としてその研究施設を一般公開するという考えが広まり<ref>[[#ozawa1996|小沢ほか (1996)]] 138頁。</ref>、その後、この動物園の付属施設として水族館が作られるようになった<ref name=hori4/>。初期のものは、フランスの国立自然史博物館であるジャルダン・デ・プラントの爬虫類コーナーに小さな水槽が並べられた程度のものであったが<ref name=hori3/>、1853年には世界初の水族館の一つとされるロンドン動物園併設のフィッシュハウスのような本格的な水族館に発展していった<ref name=hakurankai>{{Cite web|和書|url=https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1878-2.html|title=博覧会-近代技術の展示場 【コラム】アクアリウム|publisher=国立国会図書館|accessdate=2011-11-20}}</ref>。
また、18世紀のヨーロッパでは[[産業革命]]の流れにおいて、その成果を誇示し国威を発揚するために[[国際博覧会|万国博覧会]]をはじめとした[[博覧会]]が多く開催されていた<ref>[[#ooizumi2007|大泉ほか (2007)]] 14頁。</ref>。[[1851年]]の[[ロンドン万国博覧会 (1851年)|ロンドン万国博覧会]]で行なわれた[[鋳鉄]]のフレームにガラスをはめ込んだ水槽を使用した魚の展示のように、水槽と水生生物の展示はしばしば博覧会の目玉とされた<ref name=hori5>[[#hori1998|堀 (1998)]] 5頁。</ref>。後年、日本において1897年の第2回水産博覧会で展示された水族館が博覧会終了後に移築されて水族館として継続的な展示が行われたように<ref name=suzuki49/>、博覧会による話題性も伴って多くの水族館が建設される切っ掛けとなった<ref name=hori5/>。
[[ファイル:京都大学白浜水族館.JPG|thumb|[[和歌山県]][[白浜町]]の[[京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館]]]]
最後の1つは、大学をはじめとする教育研究機関が建設した臨海実験所の流れである。18世紀後半、海洋資源の開発のために[[水産学]]の研究が盛んとなり、水産学の基礎である生物学の教育、研究のために必須の施設として臨海実験所が建設された。世界初の海洋実験所は1872年に建てられたナポリ海洋実験所であり、次いで1886年に東京大学の付属設備として三崎臨海実験所が建てられた<ref name=hori16>[[#hori1998|堀 (1998)]] 16頁。</ref><ref name=inaba68>[[#inaba2006|稲葉 (2006)]] 68頁。</ref>。これらの臨海実験所では研究のために海洋生物を飼育する水槽や図書館等の設備が充実しており、研究費を賄う目的で入場料を徴収して水槽や標本等を公開するという事が行われていた<ref name=hori1617/><ref name=ozawa240/>。また、臨海研究所は海に面した[[景観]]のよい場所に建設されることが多かったため、後年には付属の水族館や博物館を伴う総合的な観光施設が作り上げられることもあった<ref name=hori1617>[[#hori1998|堀 (1998)]] 16-17頁。</ref>。[[第二次世界大戦]]前の日本の水族館はその1/3が国立大学の臨海実験所付属のものであったように、臨海実験所は水族館の普及に対して大きな役割を果たしていた<ref name=ozawa240>[[#ozawa1996|小沢ほか (1996)]] 240頁。</ref>。
=== 初期の水族館 ===
世界初の水族館が、何かという事には諸説あるが、1830年に博物学者のド・モリンズがフランスの[[ボルドー]]で行った、魚介を入れた水槽の展示を世界初の水族館とするのが定説となっている<ref name=hori3/>。しかし、これは水槽を並べただけの単純なものであったため、その規模や施設などから1853年に作られた[[ロンドン動物園]]のフィッシュ・ハウスが世界初の水族館であるという見方もある<ref name=hakurankai/>。
1853年、[[ロンドン動物園]]の付属施設として開館したフィッシュ・ハウスは、多くの[[温室]]と同じような設計が施されていた<ref name=Brunner>{{cite book | last = Brunner | first = Bernd | title = The Ocean at Home | publisher = Princeton Architectural Press | year = 2003 | location = New York | isbn = 1-56898-502-9 | pages = 99}}</ref>。[[P・T・バーナム]]はロンドン動物園の水族館に続き、1856年に早くもアメリカで初めての水族館を、[[ニューヨーク]]の[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]にある彼の設立した{{仮リンク|バーナム博物館|en|Barnum's American Museum}}の一部として開館したが<ref name=Brunner/>、バーナム博物館は1868年に焼失した<ref name="citsub">{{Cite web|url=http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=950DE3DF123FE533A25755C2A9669D94649FD7CF|title=CIty and Suburban News|accessdate=2011-11-10|date=1885-10-26|work=The New York Times}}</ref>。1859年には、[[ボストン]]に{{仮リンク|ボストン水族館|en|Boston Aquarial Gardens}}が開館した<ref name=Brunner/>。その後ヨーロッパでは、[[パリ]]の[[アクリマタシオン庭園|ジャルダン・ダクリマタシオン]]や[[ウィーン]]のアクアリウム・サロン(共に1860年)、[[ハンブルク]]の{{仮リンク|ハンブルク動物園|en|Zoological Garden of Hamburg}}の一部としてのMarine Aquarium Temple(1864年)、[[アルフレート・ブレーム]]が設立した[[ベルリン]]のベルリン水族館(1869年)、[[ブライトン]]のブライトン水族館(1872年)など、いくつかの水族館が開館した<ref name=Brunner/>。
[[ファイル:Detroit aquarium 1890-1910.jpg|thumb|デトロイト水族館の様々な水槽。アメリカ、ミシガン州(1900年頃)]]
旧ベルリン水族館は1869年に開館した。旧ベルリン水族館は[[ベルリン動物園]]の場所ではなく、ベルリンの[[大通り]]である[[ウンター・デン・リンデン]]沿いという都市の中心部に建設された。水族館の初めの責任者は、1866年から1874年までの間ハンブルク動物園の責任者であった[[アルフレート・ブレーム]]であり、彼は1874年までその職に務めた<ref name=Hoage69>Strehlow, Harro, "Zoos and Aquariums of Berlin" in ''New World, New Animals: From Menagerie to Zoological Park in the Nineteenth Century'', Hoage, Robert J. and Deiss, William A. (ed.), Johns Hopkins University Press, Baltimore, 1996, p.69. ISBN 0-8018-5110-6</ref>。ベルリン水族館は[[教育]]に重点を置いており、水族館の一部は天然の岩で作られ洞窟のように設計されていた。この天然石で作られた洞窟は''Geologische Grotte''と呼ばれ、これは「[[地球]]の[[地殻]]の外層」を表している。この洞窟はまた、[[アザラシ]]のための[[鳥]]とプールが特色であった。旧ベルリン水族館は3階建の建物であり、2階に魚の入った水槽が置かれ、機械やタンクは1階に設置されていた。3階には、ブルームの特別な関心のために鳥の入った巨大な鳥小屋が置かれ、その周りには哺乳類の檻が置かれていた。この施設は1910年に閉館した<ref name=Hoage70>Strehlow, Harro, "Zoos and Aquariums of Berlin" in ''New World, New Animals: From Menagerie to Zoological Park in the Nineteenth Century'', Hoage, Robert J. and Deiss, William A. (ed.), Johns Hopkins University Press, Baltimore, 1996, p.70. ISBN 0-8018-5110-6</ref>。
{{仮リンク|アムステルダム動物園|en|Artis}}のアルティス水族館は、1882年、ビクトリア朝風の建物内に建設され、1997年に改築された。19世紀末に建設されたアルティス水族館は当時最高水準の技術であると考えられていた<ref>{{Cite web|author=Van Bruggen, A.C.|title=Notes on the Buildings of Amsterdam Zoo|url=http://www.zoonews.ws/IZN/319/IZN-319.htm#amst|publisher=International Zoo News Vol.49/6 (No.319)|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080411023210/http://www.zoonews.ws/IZN/319/IZN-319.htm|archivedate=2008-04-11|year=2002|month=9|accessdate=2008-12-24}}</ref>。
[[ファイル:Oita Ecological Aquarium Marine Palace 1960s.png|thumb|[[大分マリーンパレス水族館|大分生態水族館マリーンパレス]](1960年代)]]
日本で初めて作られた水族館は、1882年に開園した[[上野動物園]]に併設された「観魚室(うをのぞき)」と呼ばれる小さな淡水の[[アクアリウム]]である<ref name=Kisling298>Kawata, Ken, "Zoological Gardens of Japan", in ''Zoo and Aquarium History: Ancient Collections to Zoological Gardens'', Kisling, Vernon N. (ed.), CRC Press, Boca Raton, 2001, p.298. ISBN 0-8493-2100-X</ref><ref>[[#suzuki1994|鈴木 (1994)]] iii頁。</ref>。その敷地面積は17.5坪であり、15ほどの水槽が置かれていた<ref>[[#suzuki1994|鈴木 (1994)]] 21-22頁。</ref>。その後、1897年の第2回水産博覧会において[[兵庫県]]の[[和田岬]]に設置された遊園地である[[神戸市立須磨海浜水族園#神戸の水族館の歴史|「和楽園」に水族館]]が併設され、ここで初めて「水族館」という名称が用いられた<ref>[[#suzuki1994|鈴木 (1994)]] 47頁。</ref>。東京大学教授であり「水族館の父」と呼ばれる[[飯島魁]]によって設計されたこの水族館は、淡水水族館であった観魚室と異なり濾過循環設備を備えた本格的な海水水族館であった<ref>[[#suzuki1994|鈴木 (1994)]] 47-48、53-54頁。</ref>。博覧会に併設された施設であったため博覧会の終了とともに和田岬の施設は閉館したものの、同県の[[湊川神社]]に移築されて1910年までの間営業していた<ref name=suzuki49>[[#suzuki1994|鈴木 (1994)]] 49頁。</ref>。[[文部科学省]]が所管する[[日本動物園水族館協会]]では、この和田岬の水族館を日本の水族館の原点であるとしており<ref name=suzuki49/>、[[神戸市立須磨海浜水族園]]では、日本における水族館発祥の地は神戸であるとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120418025833/http://sumasui.jp/cont/cont05/umi2404/u240401.htm |title=須磨海浜水族館の過去、現在、未来|author=安井幸男|publisher=[[神戸市立須磨海浜水族園|須磨海浜水族館]]|accessdate=2011-11-20}}</ref>。2021年現在、日本で最も歴史の長い水族館は、[[1913年]]開館の[[魚津水族館]]である。
== 世界の水族館・日本の水族館 ==
{{see|水族館の一覧|日本の水族館}}
世界の水族館の総数は[[2010年代]]初頭において約500館と推定され、うち2割が日本に立地すると言われている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.all-creatures.org/ha/saveDolphins/aquariumreport.pdf|author=杉坂ゆかり・辺見栄|title=日本の施設で飼育されているイルカたち―水族館はイルカの飼育に適しているか?―|publisher=[[ヘルプアニマルズ]]|date=2013-07|accessdate=2015-06-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150606092131/http://www.all-creatures.org/ha/saveDolphins/aquariumreport.pdf|archivedate=2015-06-06}}</ref>。
=== 大きい水槽を持つ水族館 ===
[[画像:Male whale shark at Georgia Aquarium.jpg|thumb|250px|アメリカ、[[ジョージア水族館]]の大水槽を泳ぐ[[ジンベエザメ]]]]
: ※ 堀込水槽・野外水槽・プール(鯨類水槽)の類を除く。
::(日本におけるランキングは「[[日本の水族館#規模|日本の水族館]]」を参照)
{| class="wikitable"
!順位!!名称!!国名!!開館年!!水量
|-
!1
|[[ジョージア水族館]]||{{USA}}||2005年||style="text-align:right"|23,500[[トン]]
|-
!2
|[[珠海長隆海洋王国]]||{{PRC}}||2014年||style="text-align:right"| 22,700トン
|-
!3
|[[シー・ウィズ・ニモ&フレンズ]]||{{USA}}||2007年||style="text-align:right"| 22,000トン
|-
|-
!4
|[[シー・アクアリウム]]||{{SGP}}||2012年||style="text-align:right"| 18,000トン
|-
|-
!5
|[[アトランティス・ザ・パーム|ロストチェンバー水族館]]||{{UAE}}||2008年||style="text-align:right"|11,000トン
|-
!6
|{{ill2|ナウシカ国立海洋センター|en|Nausicaá Centre National de la Mer}}||{{FRA}}||2018年||style="text-align:right"|10,000トン
|-
!6
|[[ドバイ・モール|ドバイ水族館]]||{{UAE}}||2008年||style="text-align:right"|10,000トン
|-
!8
|[[沖縄美ら海水族館]]||{{JPN}}||2002年||style="text-align:right"|7,500トン
|-
!9
|{{ill2|オセアノグラフィック|en|L'Oceanogràfic}}||{{ESP}}||2003年||style="text-align:right"|7,000トン
|-
!10
|{{ill2|国立海洋生物博物館|en|National Museum of Marine Biology and Aquarium}}||{{ROC}}||2000年||style="text-align:right"|5,700トン
|}
<!--リスボン水族館の総容量は6000トンと記載されていたが実際は5000トン https://www.google.com/search?rlz=1C9BKJA_enJP837JP837&hl=ja&sxsrf=ALeKk033kvjzJexMLgn6ZVIGvWWkxWRfPA%3A1601491404661&ei=zNF0X93pJ8WHr7wP4KuQgAg&q=lisbon+aquarium+5000&oq=Lisbon&gs_lcp=ChNtb2JpbGUtZ3dzLXdpei1zZXJwEAEYADIECCMQJzIECCMQJzICCAAyAggAMgIIADICCAAyAggAMgIIADoHCCMQ6gIQJ1CFyRFYoM0RYOXZEWgEcAB4AYABpgiIAaMMkgEHNS0xLjAuMZgBAKABAbABD8ABAQ&sclient=mobile-gws-wiz-serp -->
== 水族館を舞台とした作品 ==
*[[動物の謝肉祭]] - [[カミーユ・サン=サーンス]]の組曲
*[[海洋天堂]] - [[ジェット・リー]]主演の映画
*[[ドルフィンブルー フジ、もういちど宙へ]] - [[松山ケンイチ]] [[高畑充希]]主演映画
*[[美ら海からの年賀状]] - [[時任三郎]] [[比嘉愛未]]主演ドラマ
*[[流れ星 (2010年のテレビドラマ)|流れ星]] - [[竹野内豊]] [[上戸彩]]主演ドラマ
*[[水族館の板前さん]] - 末羽瑛の小説
*[[海獣の子供]] - [[五十嵐大介]]の漫画
*[[みずいろミュージアム]] - あさみゆとり の漫画
*[[じんべえ]] - [[あだち充]]原作漫画および[[田村正和]] [[松たか子]]主演ドラマ
*[[水族館ガール]] - [[木宮条太郎]]原作小説、天樹あおい作画漫画、オーディオブック、[[桐谷健太]] [[松岡茉優]]主演ドラマ
*[[白い砂のアクアトープ]] - アニメ
*[[みんなの水族館]] - [[ニンテンドーDS]]用ゲームソフト
== 出典 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|refs=
<ref name="兵庫生洲跡の碑">{{Cite web|和書
| url = http://www.city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/hyogo/shoukai/rekishi/history_5_2.html
| archiveurl = https://web.archive.org/web/20150402163740/city.kobe.lg.jp/ward/kuyakusho/hyogo/shoukai/rekishi/history_5_2.html
| title = 兵庫生洲跡の碑
| publisher = [[神戸市]]
| accessdate = 2015-3-27
| archivedate = 2015-4-2
| deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>
}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=稲葉一男 |title=下田臨海実験センターの現状と我が国の大学臨海施設のあり方について (<特集>「現場から(4)附属学校教育局・共同教育研究施設」) |journal=筑波フォーラム |issn=03851850 |publisher=筑波大学 |year=2006 |month=jun |issue=73 |pages=68-72 |naid=120000843571 |url=https://hdl.handle.net/2241/11865 |ref=inaba2006}}
* {{Cite book|和書|author=大泉楯、小堀徹、坪井 善昭、鳴海祐幸、原田公明|year=2007|title=[広さ][長さ][高さ]の構造デザイン|publisher=建築技術|id={{ISBN2|4-7677-0116-3}}。ISBN 978-4-7677-0116-5|ref=ooizumi2007}}
* {{Cite book|和書|editor=小沢紀美子、木谷要治、木俣美樹男、佐島群巳、鈴木善次、高橋明子|year=1996|title=環境教育指導事典|publisher=国土社|isbn=4-337-65205-1|ref=ozawa1996}}
* {{Cite book|和書|author=鈴木克美|year=1994|title=水族館への招待―魚と人と海|publisher=丸善|series=丸善ライブラリー|isbn=4-621-05112-1|ref=suzuki1994}}
* {{Cite book|和書|author=堀由紀子|year=1998|title=水族館のはなし|publisher=岩波書店|series=岩波新書|isbn=4-00-430575-6|ref=hori1998}}
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Public aquariums}}
{{Wiktionary|水族館}}
* [[アクアリウム]]
* [[日本動物園水族館協会]]
* [[動物園]]
* [[博物館]]
* [[魚類]]
* [[魚の一覧]]
* [[日プラ]] 水族館の巨大[[アクリル樹脂]]水槽パネルの70パーセントを製造。
* [[特別:CategoryTree/水族館|水族館カテゴリのカテゴリツリー]]
{{動物の権利}}
{{博物館法の博物館}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:すいそくかん}}
[[Category:水族館|*]]
[[Category:レジャー施設]] | 2003-03-15T12:52:55Z | 2023-11-26T11:27:04Z | false | false | false | [
"Template:Cite web",
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%97%8F%E9%A4%A8 |
4,096 | 征夷大将軍 | 征夷大将軍(、旧字体: 征夷大將軍)は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)。
朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降は、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任し公権力の行使も認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。
飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍などさまざまにあった。また「大将軍」については、下毛野古麻呂、大伴安麻呂、大伴旅人などが蝦夷征討以外の目的で任じられた。
蝦夷征討の初めての大将軍は、藤原宇合が持節大将軍に補任された。その後、奈良末期に、紀古佐美が征東大将軍に補任され、その後、大伴弟麻呂が初めて「征夷大将軍」に任命された。
この征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹がなどの役職が置かれ、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などが置かれた。
大伴弟麻呂の後任の「征夷大将軍」に坂上田村麻呂が任じられ、阿弖流為を降して勇名を馳せた。しかし、その後は征夷大将軍への補任は途絶え、次の文室綿麻呂は征夷将軍に任ぜられた。なお平安中期に藤原忠文が征東大将軍に任ぜられたが、これは平将門討伐のためであって、蝦夷征討を目的としたものではなかった。
平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が、一時的な空白を挟みながら続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。
なお、この3幕府の間、源頼朝から徳川慶喜に至るまで将軍の官位は従一位~正二位であり、圧倒的な権威と地位を持った。補佐役にあたる執権、管領、大老はおおむね従四位どまりであった。これは現代の叙勲では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相当する格差である。将軍は補佐役以下に実権を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の権威は圧倒的であった。
征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つである。「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年)3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初となる。養老4年(720年)9月29日には多治比縣守が持節征夷将軍に任じられ、同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河が任じられた。天平9年(737年)に持節大使に任じられた藤原麻呂は従三位に補任されていた。「大使」はまた別に「将軍」とも呼ばれた。
「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に任命された大伴家持であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年)12月7日に辞見した紀古佐美である。
延暦10年(791年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に就任。延暦12年(793年)2月17日、「征東使」は「征夷使」と改められる。
延暦13年(794年)1月1日、『日本紀略』にある「征夷将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うた」の記述が、「征夷将軍(征夷大将軍)」の初見とされる。弟麻呂の副使(副将軍)は坂上田村麻呂だった。
延暦16年(797年)11月5日、坂上田村麻呂が征夷大将軍に昇格。田村麻呂は胆沢の蝦夷のアテルイを撃破し、捕虜として京へ送った。田村麻呂は従三位(のちに正三位)へ補任された。
弘仁2年(811年)4月17日には陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際し征夷将軍に任じられ、同年閏12月11日には蝦夷征討の終了を奏上した。弘仁5年(814年)11月17日、綿麻呂は再度征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。
頼朝は朝廷に対し、大将軍への任官を求め、朝廷は検討の結果、「征夷大将軍」へ補任した(建久3年、1192年)。
また以下の説もある。
源頼朝の一族(河内源氏)は軍事を家業として朝廷に仕える軍事貴族であった。しかし、伊豆の流人生活から東国武士団を率いて反平氏の旗を揚げた。頼朝の当初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」を築き上げ、京都の朝廷では元号を養和と改元したが、頼朝は、そのまま治承の年号を使用した 。その後、朝廷との関係も含め、先行する平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。
建久元年(1190年)、頼朝は右近衛大将(右大将)に任官したが、近衛大将は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も経ぬうちに辞任した。この右大将は官位相当こそ高いものの、源義仲の征東大将軍のように武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位ではなく、また奥州藤原氏の鎮守府将軍のように東国に独立の勢力圏を擁するに相応しい地位でもない。
そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。坂東の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。
つまり、
を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であったという見方もできる。
しかし、頼朝にとって征夷大将軍職は、奥州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、奥州合戦を経て実際に任官した建久3年(1192年)にはすでに必要なくなっていたという見方もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執せず、2年後には辞官の意向を示している。
また、嫡男の頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官されており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する比企能員の変の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが窺える。
ただ、頼家の弟実朝の家督継承の際にはまず征夷大将軍に任官されている。これはクーデターである比企能員の変によって頼家やその嫡子一幡が存命する中で実朝を擁立した北条氏や、幕府を統御し実朝を諸国守護の任に当たらせようと考えた後鳥羽上皇にとって、鎌倉殿実朝の権威化という点で重要な意味を持ち、なおかつ無官の実朝にも任官できる令外官である征夷大将軍が好都合な官職だったからだと考えられている。
頼朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相当する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政権状態を残しつつ全国に武家支配政権を形作ったため、以降その神格化とともに天下人としての征夷大将軍の称号が徐々に浸透していく。また、後年に至るまで執権・管領・大老などの幕府次席職の官位は従四位止まりであり、(実権が伴わないとしても)将軍のみが隔絶して高い権威として全ての武士の上に君臨する慣習も、この時期に確立されている。
これらの通説を覆す新史料として、『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかった。それによると頼朝が望んだのは、「前右府」の号に代わる「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった)。
頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている。また、将軍職が武家にとり、戦いを指揮統制する地位で重んじられ、それらの上に立ちまとめる「大将軍」が、武門の棟梁として指揮統制するのに重要だったという説がある。
また、頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる点については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は頼朝が3月27日の除目で正四位下に叙されたことを源義経の使者が知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを後白河が検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、後白河から与えられるはずであった全ての官職を辞退して叙位のみを受けたことが記されている。この『吾妻鏡』と『玉葉』の記述を説明するには、後白河が既に終わった合戦の戦功として征夷将軍(=征夷大将軍)を与えようとしたものの頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わって久しい当時において、後白河・頼朝が共に征夷大将軍を名誉的な官職と見なし、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性がある。
さらに、寿永以後頼朝の征夷大将軍補任までの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できず、鎌倉殿の持つ権限は特定の官職によるものではなく、寿永二年十月宣旨や文治の勅許等、鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝・頼家・実朝3代の征夷大将軍自体は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている。
ただし実朝に関してはそれ以前に朝官の経歴が皆無の者を征夷大将軍に任じた例がなく、さらに実朝が元服以前だったことを考慮するとその任官は前例を見ない緊急事態の中での特異な措置だったと言え、任官時にすでに公卿だった頼朝・頼家と比べればその特異性は明白であって、鎌倉殿を征夷大将軍と一体視する概念は実朝期に成立するとされている。
鎌倉時代以降、幕府の政治力は徐々に高まっていった。しかし頼朝の実子として鎌倉殿・将軍に就いた源頼家は権臣の北条氏に比企能員の変で幽閉・暗殺され、その北条氏によって擁立され鎌倉殿・将軍に就いた頼家の弟の源実朝は頼家の子の公暁に暗殺された。
頼朝の直系血統が絶えると、公卿の条件に適う将軍を関東内で戴くことができなくなったため、当初北条氏は皇族の将軍就位を求めたが、後鳥羽上皇に拒絶された。このため頼朝妹の血統をもつ摂関家から2歳の三寅を鎌倉殿に迎え、北条政子(従二位)が後見した。
正室となったのは頼家の娘であり、実朝正室西八条禅尼の猶子であった竹御所であった。三寅は6年後に元服した後に藤原頼経を名乗り征夷大将軍に就くが、実権は乏しく、傀儡であったと見られている。しかし北条泰時死後の混乱につけこみ、反得宗家の御家人を糾合して長子北条経時の執権就任に反対するなどの動きを見せた。この直後、子の藤原頼嗣が6歳で元服し、将軍職を譲らされるが、これはその影響であったと見られている。しかし頼経はその後も隠然とした勢力を保ち、名越光時ら反得宗勢力と連携して北条時頼と対立し(宮騒動)、その直後京都に送還された。また頼嗣も、僧了行らの謀反事件の煽りを受けて廃位されている。
その後、皇族が将軍として迎えられ、いわゆる「宮将軍」となったが、「得宗専制」と称される幕府の中では、得宗家の傀儡に過ぎなかったという見方が支配的である。六代将軍宗尊親王は正室の密通事件が発生する中で謀反の嫌疑をかけられて京都に送還され、七代将軍惟康親王は自身の地位を持明院統と大覚寺統による両統迭立問題に翻弄された形となり『増鏡』において「将軍宮こに流され」と表現されるように、ほぼ罪人扱いで京都に追放されている。久明親王は理由は不明であるが33歳で辞任して京都に戻り、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡とともに出家した。
元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、天皇公家の親政と国衙復活を目指したが、その時期に征夷大将軍に就任したのが護良親王、成良親王で、鎌倉時代後期の宮将軍以降は皇族が将軍であるのが常識だった。だがその後、後醍醐の建武政権は恩賞や領地を巡り、武家との対立が勃発した。足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は北朝を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。
だが、室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職を嫡男の足利義持へ譲ったのちも、権力は治天の位置を占めた義満に集中したままだった。
応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し、細川管領と斯波義将ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し、義満の政庁北山第も現・金閣を残し取り壊した。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった。
足利義教の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その殺害と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の足利義尚は実権回復を図り六角氏討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。
南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍として名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。
将軍足利義材は義尚の果たせなかった六角親征に成功したが、これで自信を高めたことで細川政元と対立し、畠山征伐として河内に出兵した留守にクーデターを起こされ将軍職を失った(明応の政変)。幕政は細川氏支配が確立し、また幕府と将軍の全国統治の権力は消滅して室町幕府は畿内を支配する地方政権となる。
武家に対する将軍の権威はある程度は残ったが、戦国大名が成立して、将軍は有力大名の意向には逆らいにくく、敵対すると大永元年(1521年)頃から出奔逃亡し京都に常にとどまれず「流れ公方」と嘲笑された。将軍の守護補任権が断続的になり天皇の国司任命が復活し、官位の朝廷取次権限が行使できず直奏となり、将軍権力が縮小した。
天文22年(1553年)、13代将軍の義輝は三好政権を成立させた三好長慶に反撃を試み、洛外の近江国朽木に追放され、5年後和睦し戻ったが、永禄8年5月(1565年6月)永禄の変で二条御所を軍勢で襲われ殺害され、将軍といえども不犯の存在ではなくなった。そのため、弟の足利義昭は織田信長の協力を得て、三好政権が擁立した14代将軍足利義栄が急死する中、奉じられ上洛し15代将軍となり、室町幕府を再建し畿内支配を復活させた。
だが、義昭は室町幕府創設時からの伝統の、武田信玄など他の有力大名との複数提携を目指したためやがて信長と対立、義昭は信長へ兵を挙げたが捕らえられ京都から追放された。室町幕府は官僚の奉公衆の伊勢氏など多くは明智光秀に引き継がれ実質消滅した。だが足利家の家職化した将軍を朝廷は積極的に解官せず、その後の織豊政権は、征夷大将軍・幕府体制とは違う政権樹立をしたので、義昭は豊臣政権の初めに辞官するまで将軍職だった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣政権内での対抗勢力を一掃した徳川家康は、豊臣氏に従属しない独自の公儀としての立場を確立するため、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就く。
そして早くも2年後には嫡男の徳川秀忠に将軍職を譲り、将軍職を家職として今後も徳川家が代々武家の棟梁であり続けることを示した。
後に江戸幕府と呼ばれるようになるこの徳川政権では、かつての鎌倉幕府や室町幕府では常体化した権臣の力が将軍のそれを凌駕するような事態は一切生じなかった。
しかし幕末になると開国問題を契機として朝廷の権威と雄藩の政治力が高まり、それと共に将軍の公儀としての力は失墜、公武合体や大政委任論で公儀の再定義を試みるが行き詰まる。
慶応3年(1867年)、徳川慶喜は征夷大将軍を辞任、名目上の「大政」権を朝廷に返上(大政奉還)しつつ、引き続き日本最大の領主である徳川家当主が公議政体の実質的主宰者たらんことを狙った。しかし直後の王政復古の大号令で慶喜を締め出した新政権が発足、同時に征夷大将軍や関白など天皇親政を掣肘する官職は廃止された。
內大臣源朝󠄁󠄁臣
左中辨藤原朝󠄁󠄁臣光廣傳宣 權大納言藤原朝󠄁󠄁臣兼勝宣 奉 敕件人宜爲征夷大將軍者
慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉
(訓読)
内大臣源朝臣(徳川家康)
左中弁藤原朝臣(烏丸)光広伝へ宣り、権大納言藤原朝臣(広橋)兼勝宣る。 勅を奉るに、件の人、宜しく征夷大将軍と為すべし者
慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉る。
源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が交代するという源平交代思想や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという源氏将軍説が存在した。しかし実際には、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、清和源氏以外に藤原氏や皇族、後嵯峨源氏も就任しており、平氏を自称していた織田信長も天皇によって征夷大将軍に推任されたとされる(三職推任)など、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。また征夷大将軍ならば源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。
豊臣秀吉は、戦国時代を統一して天下人となりながら、他の天下人である源頼朝や足利氏、徳川家康と違って征夷大将軍になる事はなかった。その為、実は秀吉も征夷大将軍の就任を目指していたが、出自の関係から結局なることができなかったとする説が、江戸時代の儒学者である林羅山著書の『豊臣秀吉譜』において、秀吉は将軍になるために前将軍の足利義昭の養子になろうとしたが失敗したとする逸話が書かれ広まった。しかしそれは徳川幕府称賛のための捏造という指摘もある。また、秀吉は摂家の人事紛争に乗じ近衛前久の猶子となることで、征夷大将軍の就任よりも困難である関白への就任を実現させている。公家以外の身分で関白に就任したのは豊臣秀吉が初であり、朝廷にとっては征夷大将軍就任よりも関白就任の方が遥かに抵抗感が強かったとされる。そもそも秀吉は朝廷から公卿就任時に、征夷大将軍の兼任を勧められていたと記載する史料もある。
なお、織田・豊臣期の征夷大将軍に関しては、当時の人々の間に征夷大将軍は足利家の家職と認識されており、源氏出身か否かとは別の意味で「将軍職は足利家以外にありえない」という概念が存在していたために、京都を追放されて実権を失った足利義昭が征夷大将軍として認められ続け、朝廷も積極的な解任を行わなかったとする見方もある。 | [
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"text": "征夷大将軍(、旧字体: 征夷大將軍)は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹(たいじゅ)。",
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"text": "朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降は、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿(三位以上)へ時間の前後はあるが補任し公権力の行使も認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。",
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"text": "飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍などさまざまにあった。また「大将軍」については、下毛野古麻呂、大伴安麻呂、大伴旅人などが蝦夷征討以外の目的で任じられた。",
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"text": "蝦夷征討の初めての大将軍は、藤原宇合が持節大将軍に補任された。その後、奈良末期に、紀古佐美が征東大将軍に補任され、その後、大伴弟麻呂が初めて「征夷大将軍」に任命された。",
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"text": "この征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹がなどの役職が置かれ、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などが置かれた。",
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"text": "大伴弟麻呂の後任の「征夷大将軍」に坂上田村麻呂が任じられ、阿弖流為を降して勇名を馳せた。しかし、その後は征夷大将軍への補任は途絶え、次の文室綿麻呂は征夷将軍に任ぜられた。なお平安中期に藤原忠文が征東大将軍に任ぜられたが、これは平将門討伐のためであって、蝦夷征討を目的としたものではなかった。",
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"text": "平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が、一時的な空白を挟みながら続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。",
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"text": "なお、この3幕府の間、源頼朝から徳川慶喜に至るまで将軍の官位は従一位~正二位であり、圧倒的な権威と地位を持った。補佐役にあたる執権、管領、大老はおおむね従四位どまりであった。これは現代の叙勲では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相当する格差である。将軍は補佐役以下に実権を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の権威は圧倒的であった。",
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"text": "征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つである。「東夷」に対する将軍としては、和銅2年(709年)3月6日に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初となる。養老4年(720年)9月29日には多治比縣守が持節征夷将軍に任じられ、同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河が任じられた。天平9年(737年)に持節大使に任じられた藤原麻呂は従三位に補任されていた。「大使」はまた別に「将軍」とも呼ばれた。",
"title": "歴史"
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"text": "「征東将軍」の初見は、延暦3年(784年)2月に任命された大伴家持であり、「征東大将軍」の初見は、延暦7年(788年)12月7日に辞見した紀古佐美である。",
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"text": "延暦10年(791年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に就任。延暦12年(793年)2月17日、「征東使」は「征夷使」と改められる。",
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"text": "延暦13年(794年)1月1日、『日本紀略』にある「征夷将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うた」の記述が、「征夷将軍(征夷大将軍)」の初見とされる。弟麻呂の副使(副将軍)は坂上田村麻呂だった。",
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"text": "延暦16年(797年)11月5日、坂上田村麻呂が征夷大将軍に昇格。田村麻呂は胆沢の蝦夷のアテルイを撃破し、捕虜として京へ送った。田村麻呂は従三位(のちに正三位)へ補任された。",
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"text": "弘仁2年(811年)4月17日には陸奥按察使だった文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際し征夷将軍に任じられ、同年閏12月11日には蝦夷征討の終了を奏上した。弘仁5年(814年)11月17日、綿麻呂は再度征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。",
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"text": "頼朝は朝廷に対し、大将軍への任官を求め、朝廷は検討の結果、「征夷大将軍」へ補任した(建久3年、1192年)。",
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"text": "また以下の説もある。",
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"text": "源頼朝の一族(河内源氏)は軍事を家業として朝廷に仕える軍事貴族であった。しかし、伊豆の流人生活から東国武士団を率いて反平氏の旗を揚げた。頼朝の当初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」を築き上げ、京都の朝廷では元号を養和と改元したが、頼朝は、そのまま治承の年号を使用した 。その後、朝廷との関係も含め、先行する平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。",
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"text": "そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。坂東の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。",
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"text": "つまり、",
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"text": "を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であったという見方もできる。",
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"text": "また、嫡男の頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官されており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する比企能員の変の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが窺える。",
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"text": "頼朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相当する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政権状態を残しつつ全国に武家支配政権を形作ったため、以降その神格化とともに天下人としての征夷大将軍の称号が徐々に浸透していく。また、後年に至るまで執権・管領・大老などの幕府次席職の官位は従四位止まりであり、(実権が伴わないとしても)将軍のみが隔絶して高い権威として全ての武士の上に君臨する慣習も、この時期に確立されている。",
"title": "歴史"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "これらの通説を覆す新史料として、『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかった。それによると頼朝が望んだのは、「前右府」の号に代わる「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『吾妻鏡』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『玉葉』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった)。",
"title": "歴史"
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"text": "頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10世紀 - 11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている。また、将軍職が武家にとり、戦いを指揮統制する地位で重んじられ、それらの上に立ちまとめる「大将軍」が、武門の棟梁として指揮統制するのに重要だったという説がある。",
"title": "歴史"
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"text": "また、頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる点については、『吾妻鏡』建久3年(1192年)7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年(1184年)4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は頼朝が3月27日の除目で正四位下に叙されたことを源義経の使者が知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、義仲討伐の戦功として、藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを後白河が検討したものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年(1184年)2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、後白河から与えられるはずであった全ての官職を辞退して叙位のみを受けたことが記されている。この『吾妻鏡』と『玉葉』の記述を説明するには、後白河が既に終わった合戦の戦功として征夷将軍(=征夷大将軍)を与えようとしたものの頼朝が辞退したと解する他なく、平安時代初期の蝦夷征討が終わって久しい当時において、後白河・頼朝が共に征夷大将軍を名誉的な官職と見なし、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性がある。",
"title": "歴史"
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"text": "さらに、寿永以後頼朝の征夷大将軍補任までの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できず、鎌倉殿の持つ権限は特定の官職によるものではなく、寿永二年十月宣旨や文治の勅許等、鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝・頼家・実朝3代の征夷大将軍自体は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や宮将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている。",
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"text": "ただし実朝に関してはそれ以前に朝官の経歴が皆無の者を征夷大将軍に任じた例がなく、さらに実朝が元服以前だったことを考慮するとその任官は前例を見ない緊急事態の中での特異な措置だったと言え、任官時にすでに公卿だった頼朝・頼家と比べればその特異性は明白であって、鎌倉殿を征夷大将軍と一体視する概念は実朝期に成立するとされている。",
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"text": "鎌倉時代以降、幕府の政治力は徐々に高まっていった。しかし頼朝の実子として鎌倉殿・将軍に就いた源頼家は権臣の北条氏に比企能員の変で幽閉・暗殺され、その北条氏によって擁立され鎌倉殿・将軍に就いた頼家の弟の源実朝は頼家の子の公暁に暗殺された。",
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"text": "頼朝の直系血統が絶えると、公卿の条件に適う将軍を関東内で戴くことができなくなったため、当初北条氏は皇族の将軍就位を求めたが、後鳥羽上皇に拒絶された。このため頼朝妹の血統をもつ摂関家から2歳の三寅を鎌倉殿に迎え、北条政子(従二位)が後見した。",
"title": "歴史"
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"text": "正室となったのは頼家の娘であり、実朝正室西八条禅尼の猶子であった竹御所であった。三寅は6年後に元服した後に藤原頼経を名乗り征夷大将軍に就くが、実権は乏しく、傀儡であったと見られている。しかし北条泰時死後の混乱につけこみ、反得宗家の御家人を糾合して長子北条経時の執権就任に反対するなどの動きを見せた。この直後、子の藤原頼嗣が6歳で元服し、将軍職を譲らされるが、これはその影響であったと見られている。しかし頼経はその後も隠然とした勢力を保ち、名越光時ら反得宗勢力と連携して北条時頼と対立し(宮騒動)、その直後京都に送還された。また頼嗣も、僧了行らの謀反事件の煽りを受けて廃位されている。",
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"text": "その後、皇族が将軍として迎えられ、いわゆる「宮将軍」となったが、「得宗専制」と称される幕府の中では、得宗家の傀儡に過ぎなかったという見方が支配的である。六代将軍宗尊親王は正室の密通事件が発生する中で謀反の嫌疑をかけられて京都に送還され、七代将軍惟康親王は自身の地位を持明院統と大覚寺統による両統迭立問題に翻弄された形となり『増鏡』において「将軍宮こに流され」と表現されるように、ほぼ罪人扱いで京都に追放されている。久明親王は理由は不明であるが33歳で辞任して京都に戻り、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡とともに出家した。",
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"text": "元弘の乱で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は、天皇公家の親政と国衙復活を目指したが、その時期に征夷大将軍に就任したのが護良親王、成良親王で、鎌倉時代後期の宮将軍以降は皇族が将軍であるのが常識だった。だがその後、後醍醐の建武政権は恩賞や領地を巡り、武家との対立が勃発した。足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は北朝を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。",
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"text": "だが、室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職を嫡男の足利義持へ譲ったのちも、権力は治天の位置を占めた義満に集中したままだった。",
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"text": "応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し、細川管領と斯波義将ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し、義満の政庁北山第も現・金閣を残し取り壊した。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった。",
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"text": "足利義教の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その殺害と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の足利義尚は実権回復を図り六角氏討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。",
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"text": "南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍として名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。",
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"text": "将軍足利義材は義尚の果たせなかった六角親征に成功したが、これで自信を高めたことで細川政元と対立し、畠山征伐として河内に出兵した留守にクーデターを起こされ将軍職を失った(明応の政変)。幕政は細川氏支配が確立し、また幕府と将軍の全国統治の権力は消滅して室町幕府は畿内を支配する地方政権となる。",
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"text": "武家に対する将軍の権威はある程度は残ったが、戦国大名が成立して、将軍は有力大名の意向には逆らいにくく、敵対すると大永元年(1521年)頃から出奔逃亡し京都に常にとどまれず「流れ公方」と嘲笑された。将軍の守護補任権が断続的になり天皇の国司任命が復活し、官位の朝廷取次権限が行使できず直奏となり、将軍権力が縮小した。",
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"text": "天文22年(1553年)、13代将軍の義輝は三好政権を成立させた三好長慶に反撃を試み、洛外の近江国朽木に追放され、5年後和睦し戻ったが、永禄8年5月(1565年6月)永禄の変で二条御所を軍勢で襲われ殺害され、将軍といえども不犯の存在ではなくなった。そのため、弟の足利義昭は織田信長の協力を得て、三好政権が擁立した14代将軍足利義栄が急死する中、奉じられ上洛し15代将軍となり、室町幕府を再建し畿内支配を復活させた。",
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"text": "だが、義昭は室町幕府創設時からの伝統の、武田信玄など他の有力大名との複数提携を目指したためやがて信長と対立、義昭は信長へ兵を挙げたが捕らえられ京都から追放された。室町幕府は官僚の奉公衆の伊勢氏など多くは明智光秀に引き継がれ実質消滅した。だが足利家の家職化した将軍を朝廷は積極的に解官せず、その後の織豊政権は、征夷大将軍・幕府体制とは違う政権樹立をしたので、義昭は豊臣政権の初めに辞官するまで将軍職だった。",
"title": "歴史"
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"text": "慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣政権内での対抗勢力を一掃した徳川家康は、豊臣氏に従属しない独自の公儀としての立場を確立するため、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就く。",
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"text": "そして早くも2年後には嫡男の徳川秀忠に将軍職を譲り、将軍職を家職として今後も徳川家が代々武家の棟梁であり続けることを示した。",
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"text": "後に江戸幕府と呼ばれるようになるこの徳川政権では、かつての鎌倉幕府や室町幕府では常体化した権臣の力が将軍のそれを凌駕するような事態は一切生じなかった。",
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"text": "しかし幕末になると開国問題を契機として朝廷の権威と雄藩の政治力が高まり、それと共に将軍の公儀としての力は失墜、公武合体や大政委任論で公儀の再定義を試みるが行き詰まる。",
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"text": "慶応3年(1867年)、徳川慶喜は征夷大将軍を辞任、名目上の「大政」権を朝廷に返上(大政奉還)しつつ、引き続き日本最大の領主である徳川家当主が公議政体の実質的主宰者たらんことを狙った。しかし直後の王政復古の大号令で慶喜を締め出した新政権が発足、同時に征夷大将軍や関白など天皇親政を掣肘する官職は廃止された。",
"title": "歴史"
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"text": "內大臣源朝󠄁󠄁臣",
"title": "歴史"
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"text": "左中辨藤原朝󠄁󠄁臣光廣傳宣 權大納言藤原朝󠄁󠄁臣兼勝宣 奉 敕件人宜爲征夷大將軍者",
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"text": "慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉",
"title": "歴史"
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"text": "(訓読)",
"title": "歴史"
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"text": "内大臣源朝臣(徳川家康)",
"title": "歴史"
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"text": "左中弁藤原朝臣(烏丸)光広伝へ宣り、権大納言藤原朝臣(広橋)兼勝宣る。 勅を奉るに、件の人、宜しく征夷大将軍と為すべし者",
"title": "歴史"
},
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"paragraph_id": 54,
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"text": "慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉る。",
"title": "歴史"
},
{
"paragraph_id": 55,
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"text": "源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏(桓武平氏)と源氏(清和源氏)が交代するという源平交代思想や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという源氏将軍説が存在した。しかし実際には、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、清和源氏以外に藤原氏や皇族、後嵯峨源氏も就任しており、平氏を自称していた織田信長も天皇によって征夷大将軍に推任されたとされる(三職推任)など、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。また征夷大将軍ならば源氏長者のような印象があるが、これは足利義満以降の事である。",
"title": "征夷大将軍に関する説とそれ以外の武家政権"
},
{
"paragraph_id": 56,
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"text": "豊臣秀吉は、戦国時代を統一して天下人となりながら、他の天下人である源頼朝や足利氏、徳川家康と違って征夷大将軍になる事はなかった。その為、実は秀吉も征夷大将軍の就任を目指していたが、出自の関係から結局なることができなかったとする説が、江戸時代の儒学者である林羅山著書の『豊臣秀吉譜』において、秀吉は将軍になるために前将軍の足利義昭の養子になろうとしたが失敗したとする逸話が書かれ広まった。しかしそれは徳川幕府称賛のための捏造という指摘もある。また、秀吉は摂家の人事紛争に乗じ近衛前久の猶子となることで、征夷大将軍の就任よりも困難である関白への就任を実現させている。公家以外の身分で関白に就任したのは豊臣秀吉が初であり、朝廷にとっては征夷大将軍就任よりも関白就任の方が遥かに抵抗感が強かったとされる。そもそも秀吉は朝廷から公卿就任時に、征夷大将軍の兼任を勧められていたと記載する史料もある。",
"title": "征夷大将軍に関する説とそれ以外の武家政権"
},
{
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"text": "なお、織田・豊臣期の征夷大将軍に関しては、当時の人々の間に征夷大将軍は足利家の家職と認識されており、源氏出身か否かとは別の意味で「将軍職は足利家以外にありえない」という概念が存在していたために、京都を追放されて実権を失った足利義昭が征夷大将軍として認められ続け、朝廷も積極的な解任を行わなかったとする見方もある。",
"title": "征夷大将軍に関する説とそれ以外の武家政権"
}
] | 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん、は、「征夷大将軍」を指す。朝廷の令外官の一つであり、武人の最高栄誉職である。唐名は大樹。 朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ補任することで、源頼朝以降は、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて公卿へ時間の前後はあるが補任し公権力の行使も認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに幕府政治と呼ばれる。 | {{redirect|将軍職|その他の用法|将軍 (曖昧さ回避)}}
[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|thumb|230px|江戸幕府を創設した[[徳川家康]]<br />(在任:慶長8年 - 同10年)]]
{{読み仮名|'''征夷大将軍'''|せいいたいしょうぐん|{{旧字体|'''征夷大將軍'''}}}}は、「[[征夷]](=[[蝦夷]]を[[征伐|征討]]する)[[大将軍]]」を指す。[[朝廷 (日本)|朝廷]]の[[令外官]]の一つであり、[[武士|武人]]の最高栄誉職である{{Efn|'''[[鎮守将軍]]'''と同格。}}。[[唐名]]は'''大樹'''(たいじゅ)。
朝廷は、武人を歴史的に朝廷を支えたことが際立った征夷大将軍へ[[補任]]することで、[[源頼朝]]以降は、武家の棟梁と認めることが通例となった。合わせて[[公卿]]([[三位]]以上){{Efn|[[源頼朝]]以降は例外が無い。}}へ時間の前後はあるが[[補任]]され公権力の行使や荘園所有なども正当に認められた存在だった。この将軍が首班となる政治体制はのちに[[幕府]]政治と呼ばれる。
== 概要 ==
[[飛鳥時代]]・[[奈良時代]]以来、[[東北地方]]の[[蝦夷征討]]事業を指揮する臨時の[[官職]]は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍などさまざまにあった。また「[[大将軍]]」については、[[下毛野古麻呂]]、[[大伴安麻呂]]、[[大伴旅人]]などが[[蝦夷征討]]以外の目的で任じられた。
[[蝦夷征討]]の初めての[[大将軍]]は、[[藤原宇合]]が持節大将軍に補任された。その後、奈良末期に、[[紀古佐美]]が[[征東大将軍]]に補任され、その後、[[大伴弟麻呂]]が初めて「征夷大将軍」に任命された。
この征夷大将軍(征夷将軍)の下には、[[征夷副将軍]]・[[征夷軍監]]・[[征夷軍曹]]がなどの役職が置かれ、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などが置かれた。
[[坂上田村麻呂]]は大伴弟麻呂の後任の「征夷大将軍」に任じられ、[[アテルイ|阿弖流為]]を降して勇名を馳せた。
しかし、その後の征夷の将軍は、次の[[文室綿麻呂]]は征夷将軍に任ぜられ、征夷大将軍への補任の例は途絶えた,<ref>なお平安中期に[[藤原忠文]]が征東大将軍に任ぜられたが、これは[[平将門]]討伐のためであって、蝦夷征討を目的としたものではなかった。</ref>。<!--なお従来、[[源義仲]]が平安末期、征夷大将軍に任ぜられたとされてきたが、[[#近年明らかになった新事実|後述]]のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍である。-->
[[源頼朝]]は[[平氏政権]]・[[奥州藤原氏]]を滅ぼして[[武家政権]]([[幕府]])を創始し、朝廷へ「[[大将軍]]」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例として任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする[[鎌倉幕府]]・[[室町幕府]]・[[江戸幕府]]が、一時的な空白を挟みながら続いた。[[慶応]]3年([[1867年]])[[徳川慶喜]]の[[大政奉還]]を受けた[[明治新政府]]が[[王政復古の大号令]]を発し、征夷大将軍職は廃止された。
なお、この三幕府の間、源頼朝から徳川慶喜に至るまで将軍の官位は[[公卿]]の中でも従一位~正二位に任じられ、公権力の行使が正当に認められ、圧倒的な権威と地位を持った<ref>なお徳川三家、三卿の当主も同じく公卿(従二位〜従三位)に任じられた。</ref>。将軍を補佐する執権、管領、大老はおおむね従四位どまりであった<ref>これは現代の叙勲では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相当する格差である。</ref><ref>将軍は補佐役以下に実権を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の権威は圧倒的であった。</ref>。
== 歴史 ==
=== 奈良・平安時代 ===
征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つである。「東夷」に対する将軍としては、[[和銅]]2年([[709年]])[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]に陸奥鎮東将軍に任じられた[[巨勢麻呂]]が最初となる<ref group="注釈">同時に[[佐伯石湯]]が征越後蝦夷将軍に任じられた。</ref>。[[養老]]4年([[720年]])[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]には[[多治比縣守]]が持節征夷将軍に任じられ<ref group="注釈">養老4年9月28日に陸奥[[按察使]]の[[上毛野広人]]が殺害され、翌29日に[[多治比縣守]]が持節征夷将軍に任命された。</ref>、同日、「北狄」に対する持節[[鎮狄将軍]]に[[阿倍駿河]]が任じられた。天平9年(737年)に持節大使に任じられた[[藤原麻呂]]は従三位に補任されていた。「[[大使]]」はまた別に「将軍」とも呼ばれた。
「征東将軍」の初見は、[[延暦]]3年([[784年]])2月に任命された[[大伴家持]]であり、「[[征東大将軍]]」の初見は、延暦7年([[788年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]に辞見した[[紀古佐美]]である<ref group="注釈">紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。</ref><ref group="注釈">将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば[[藤原宇合]]の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。</ref>。
延暦10年([[791年]])[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]に、[[大伴弟麻呂]]が征東大使<ref group="注釈">「征東大使」として、他に[[藤原継縄]]や[[藤原小黒麻呂]]などの任命例もある。</ref>に就任。延暦12年([[793年]])[[2月17日 (旧暦)|2月17日]]、「征東使」は「征夷使」と改められる。
延暦13年([[794年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、『[[日本紀略]]』にある「'''征夷将軍'''の大伴弟麻呂に[[節刀]]を賜うた」の記述が、「'''征夷将軍(征夷大将軍)'''」の初見とされる。弟麻呂の副使([[副将軍]])は[[坂上田村麻呂]]だった。
延暦16年([[797年]])[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]、[[坂上田村麻呂]]が'''征夷大将軍'''に昇格。田村麻呂は[[胆沢]]の蝦夷の[[アテルイ]]を撃破し、捕虜として京へ送った。田村麻呂は[[従三位]](のちに[[正三位]])へ補任された。
[[弘仁]]2年([[811年]])[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]には[[陸奥按察使]]だった[[文室綿麻呂]]が、蝦夷との交戦に際し征夷将軍<ref group="注釈">他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、[[文室綿麻呂]]に限っては節刀を授かっていない。</ref>に任じられ、同年閏[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]には蝦夷征討の終了を奏上した。弘仁5年([[814年]])[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]、綿麻呂は再度征夷将軍に任じられたものの、実際には征討は行われなかった。
=== 源頼朝 ===
[[ファイル:Minamoto no Yoritomo.jpg|thumb|230px|鎌倉幕府を創設した[[源頼朝]]<br />([[神護寺三像|伝源頼朝像]]、在職期間:建久3年 - 建久10年)]]
頼朝は朝廷に対し、[[大将軍]]への任官を求め、朝廷は検討の結果、「征夷大将軍」へ補任した([[建久]]3年、[[1192年]])。
* 朝廷は、坂上田村麻呂の任官が吉例であり、朝廷を支え、高い官位に相応しいと判断した。
また以下の説もある。
==== 東国の独立政権 ====
[[源頼朝]]の一族([[河内源氏]])は軍事を家業として朝廷に仕える[[軍事貴族]]であった。しかし、[[伊豆]]の流人生活から[[東国]][[武士団]]を率いて反平氏の旗を揚げた。頼朝の当初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」を築き上げ、京都の朝廷では元号を[[養和]]と改元したが、頼朝は、そのまま[[治承]]の年号を使用した{{Sfn|綱野善彦|1997|pp=34-35}} 。その後、朝廷との関係も含め、先行する[[平氏政権]]・[[源義仲]]・[[奥州藤原氏]]地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。
* 平氏政権は、既存の[[貴族]]の[[家格]]秩序に従って官位昇進をし、天皇の外戚として朝廷の権力を掌握する道を選んだが、平氏の繁栄を誇示するだけになり、地方の実効支配者としての武士の代表としてうまく機能しなかった。これに対し、頼朝は東国の一定の独立性は保ちつつ朝廷に武家権力としての自主的統治権を認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
* [[平氏]]を追い落として[[京都]]を制圧した源義仲は、200年以上前に存在した征東大将軍に[[任官]]された。征東大将軍の官名は東方を征伐する職務を示すもので、東国の頼朝に対抗する義仲の意図が推定される。義仲を滅ぼした頼朝もまたこれに匹敵する称号を望むこととなる。
* 当時の[[東北地方]]は、朝廷の支配が及ばない[[奥州藤原氏]]の独立した地方政権だった{{Sfn|綱野善彦|1997|pp=19-31}}。奥州藤原氏は[[鎮守府将軍]]の地位を得て、[[陸奥国]]・[[出羽国]]における[[軍政]]という形での地方統治権を認められ100年支配した{{Sfn|高橋富雄|1987|pp=56-57}}。辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の現地[[司令官]]という性格を持つが故に在京の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。頼朝自身も鎌倉に留まり続け、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の独立性を保持しようとした。
==== 近衛大将から征夷大将軍へ ====
[[建久]]元年([[1190年]])、頼朝は[[近衛大将|右近衛大将]](右大将)に[[任官]]したが、[[近衛大将]]は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も経ぬうちに辞任した。この右大将は[[官位相当制|官位相当]]こそ高いものの、源義仲の征東大将軍のように武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位ではなく、また奥州藤原氏の鎮守府将軍のように東国に独立の勢力圏を擁するに相応しい地位でもない。
そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。[[坂東]]の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。
つまり、
* 東国武士の棟梁たる'''[[鎌倉殿]]'''という私的地位
* [[守護]]([[追捕使]])・[[地頭]]を全国に置き、軍事・警察権を掌握する'''日本国惣追捕使・日本国惣地頭'''という公的地位
* 右大将として認知された、[[家政機関]]を'''政所'''などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限
を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であったという見方もできる。
==== 征夷大将軍の意義 ====
しかし、頼朝にとって征夷大将軍職は、奥州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、[[奥州合戦]]を経て実際に任官した[[建久]]3年([[1192年]])にはすでに必要なくなっていたという見方もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執せず、2年後には辞官の意向を示している<ref>[[石井良助]] 『大化改新と鎌倉幕府の成立』創文社 1958年 p.87-91 </ref>{{Efn|建久3年(1192年)の征夷大将軍就任で下文が「将軍家政所下文」に変わったが、建久5年10月以降に再度、文書の形式が「前右大将家政所下文」に戻る。これを頼朝が征夷大将軍辞官の意思表示をしたための変更と解釈する説である。一方で高橋富雄は「辞任ならば終官が最も重んじられ『前将軍』が使用されるはずだがそうではなく、『前右大将』が使用されたのは、その方が権威があるからに過ぎない」として辞任否定説を取る{{Sfn|高橋富雄|1987|pp=65-66}}。また、受理されたか否かも別問題でこれも論争があり、石井良助は『[[尊卑分脈]]』の頼朝の建久3年(1192年)7月将軍就任記述の後、同5年10月10日条に「辞将軍」とあることから、頼朝が実際に将軍を辞任したとの説を取る。}}。
また、嫡男の[[源頼家|頼家]]は家督継承にあたり、まず[[近衛府|左近衛中将]]、次いで[[衛門府|左衛門督]]に[[任官]]されており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する[[比企能員の変]]の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが窺える。
ただ、頼家の弟[[源実朝|実朝]]の家督継承の際にはまず征夷大将軍に任官されている。これはクーデターである比企能員の変によって頼家やその嫡子[[一幡]]が存命する中で実朝を擁立した[[北条氏]]や、幕府を統御し実朝を諸国守護の任に当たらせようと考えた[[後鳥羽上皇]]にとって、鎌倉殿実朝の権威化という点で重要な意味を持ち、なおかつ無官の実朝にも任官できる令外官である征夷大将軍が好都合な官職だったからだと考えられている{{Sfn|山本みなみ|2021|pp=131-133}}。
頼朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相当する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政権状態を残しつつ全国に武家支配政権を形作ったため、以降その神格化とともに'''天下人'''としての征夷大将軍の称号が徐々に浸透していく。また、後年に至るまで執権・管領・大老などの幕府次席職の官位は従四位止まりであり、(実権が伴わないとしても)将軍のみが隔絶して高い権威として全ての武士の上に君臨する慣習も、この時期に確立されている。
==== 近年明らかになった新事実 ====
これらの[[通説]]を覆す新[[史料]]として、『三槐荒涼抜書要』<ref group="注釈">『[[山槐記]]』([[中山忠親]]の日記)と『[[荒涼記]]』([[藤原資季]]の日記)から[[除目]]・諸行事・諸事について抄出したもの。『山槐記』からの抜粋に[[藤原定能]]の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能・資季の子孫と察せられる。</ref>所収の『[[山槐記]]』建久3年([[1192年]])7月9日条および12日条に頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が見つかった。それによると頼朝が望んだのは、「前右府」の号に代わる「[[大将軍]]」であり、それを受けた朝廷で「[[平宗盛#反乱の激化と畿内惣官|惣官]]」「[[征東大将軍]]」「征夷大将軍」「[[上将軍]]」の4つの候補が提案されて検討された結果、[[平宗盛]]の任官した「惣官」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、[[坂上田村麻呂]]の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷が消去法で「征夷大将軍」を選んだことが明らかとなった。そのため、頼朝が「征夷大将軍」を望んだという前提で、「征夷」に重点を置いた解釈がされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている(同時に、義仲が任官したのも『[[吾妻鏡]]』などの伝える「征夷大将軍」ではなく、『[[玉葉]]』に記されている「征東大将軍」であったことが明らかとなった){{Sfn|櫻井|2004}}<ref name="下村">{{Harvnb|関口|2018|pp=20-40|loc=下村周太郎「そもそも、源頼朝は征夷大将軍を望んでいなかった?」}}</ref>。
頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、[[10世紀]] - [[11世紀]]の鎮守府将軍を先祖に持つ[[平貞盛|貞盛流]][[平氏#高望王流|平氏]]・[[平良文|良文流]]平氏・[[藤原秀郷|秀郷流]][[藤原氏]]・[[源頼義|頼義流]][[清和源氏|源氏]]などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・[[源行家]]・[[源義経]]などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の武門の棟梁となり、[[奥州合戦]]においても意識的に鎮守府「将軍」[[源頼義]]の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている<ref>{{Harvnb|西田|2009}}{{要ページ番号|date=2015年6月}}</ref><ref>{{Harvnb|川合|2009}}{{要ページ番号|date=2015年6月}}</ref><ref>川合康「鎌倉幕府の成立時期を再検討する」『じっきょう地歴・公民科資料』76号、2013年。/所収:{{Citation|和書|last=川合|first=康|title=院政期武士社会と鎌倉幕府|publisher=吉川弘文館|year=2019|pages=277-278}}</ref>。また、将軍職が武家にとり、戦いを指揮統制する地位で重んじられ、それらの上に立ちまとめる「大将軍」が、武門の棟梁として指揮統制するのに重要だったという説がある<ref name="下村" />。
また、頼朝が征夷大将軍を望んだものの[[後白河天皇|後白河法皇]]に阻まれたとされる点については、『[[吾妻鏡]]』建久3年([[1192年]])7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」等の記述から長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の[[寿永]]3年([[1184年]])4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は頼朝が3月27日の[[除目]]で[[正四位下]]に叙されたことを[[源義経]]の使者が知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば、義仲討伐の戦功として、[[藤原忠文]]の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることを後白河が検討したものの、議論によって[[叙位]]のみとなったとされている。ところが『[[玉葉]]』の寿永3年([[1184年]])2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって、後白河から与えられるはずであった全ての官職を辞退して叙位のみを受けたことが記されている。この『吾妻鏡』と『玉葉』の記述を説明するには、後白河が既に終わった合戦の戦功として征夷将軍(=征夷大将軍)を与えようとしたものの頼朝が辞退したと解する他なく、[[平安時代]]初期の蝦夷征討が終わって久しい当時において、後白河・頼朝が共に征夷大将軍を名誉的な官職と見なし、「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職としては認識してはいなかった可能性がある。
さらに、寿永以後頼朝の征夷大将軍補任までの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が、京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できず、鎌倉殿の持つ権限は特定の官職によるものではなく、[[寿永二年十月宣旨]]や[[文治の勅許]]等、[[鎌倉殿]]が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権等各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝・頼家・実朝3代の征夷大将軍自体は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、[[河内源氏]][[嫡流]]が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿([[摂家将軍]])を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した[[執権]][[北条氏]]ら[[鎌倉幕府]]側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつけた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍や[[宮将軍]]への継承を求め、[[承久の乱]]後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている{{Sfn|北村|2005|pp=137-194}}。
ただし実朝に関してはそれ以前に朝官の経歴が皆無の者を征夷大将軍に任じた例がなく、さらに実朝が[[元服]]以前だったことを考慮するとその任官は前例を見ない緊急事態の中での特異な措置だったと言え、任官時にすでに[[公卿]]だった頼朝・頼家と比べればその特異性は明白であって、鎌倉殿を征夷大将軍と一体視する概念は実朝期に成立するとされている{{Sfn|山本みなみ|2021|p=133}}。
=== 摂家将軍・宮将軍 ===
[[鎌倉時代]]以降、幕府の政治力は徐々に高まっていった。しかし頼朝の実子として鎌倉殿・将軍に就いた[[源頼家]]は権臣の北条氏に[[比企能員の変]]で幽閉・暗殺され、その北条氏によって擁立され鎌倉殿・将軍に就いた頼家の弟の[[源実朝]]は頼家の子の公暁に暗殺された。
頼朝の直系血統が絶えると、[[公卿]]の条件に適う将軍を関東内で戴くことができなくなったため、当初北条氏は皇族の将軍就位を求めたが、[[後鳥羽上皇]]に拒絶された<ref name="親王将軍期の鎌倉幕府祭祀">{{Cite journal|和書|author=竹ヶ原康弘 |date=2014-12 |url=http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/2717 |title=親王将軍期鎌倉幕府祭祀・祈禱に関する考察 |journal=年報新人文学 |ISSN=1883-1524 |publisher=北海学園大学大学院文学研究科 |volume=11 |pages=148-175 |CRID=1050001337523315968}}</ref>。このため頼朝妹の血統をもつ摂関家から2歳の三寅を鎌倉殿に迎え、[[北条政子]]([[従二位]])が後見した。
正室となったのは頼家の娘であり、実朝正室[[西八条禅尼]]の猶子であった[[竹御所]]であった{{sfn|山本幸司|2001|p=169-171}}。三寅は6年後に元服した後に[[藤原頼経]]を名乗り征夷大将軍に就くが、実権は乏しく、傀儡であったと見られている<ref name="摂家将軍頼経期を中心に">{{Cite journal|和書|author=竹ヶ原康弘 |date=2013-12 |url=http://hokuga.hgu.jp/dspace/handle/123456789/2630 |title=鎌倉幕府の「祭祀」に関する一考察 : 摂家将軍頼経期を中心に |journal=年報新人文学 |ISSN=1883-1524 |publisher=北海学園大学大学院文学研究科 |volume=10 |pages=120-153 |CRID=1050564287476724608}}</ref>。しかし[[北条泰時]]死後の混乱につけこみ、反[[得宗]]家の御家人を糾合して長子北条経時の執権就任に反対するなどの動きを見せた{{sfn|山本幸司|2001|p=277-278}}。この直後、子の[[藤原頼嗣]]が6歳で元服し、将軍職を譲らされるが、これはその影響であったと見られている{{sfn|山本幸司|2001|p=277-278}}。しかし頼経はその後も隠然とした勢力を保ち{{sfn|近藤成一|2016|p=56-57}}、[[北条光時|名越光時]]ら反得宗勢力と連携して[[北条時頼]]と対立し([[宮騒動]])、その直後京都に送還された{{sfn|山本幸司|2001|p=277-278}}{{sfn|近藤成一|2016|p=58}}。また頼嗣も、僧[[了行]]らの謀反事件の煽りを受けて廃位されている<ref>{{Cite journal|和書|author=湯浅吉美|url=https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2021/01/kyoudo_kanagawa051_yuasa.pdf|title=『吾妻鏡』に見える天変記事を読む : 鎌倉武士は天変をどう受け止めたか |journal=郷土神奈川|issue=51|year=2013|page=39}}</ref>{{sfn|山本幸司|2001|p=294-297}}。
その後、皇族が将軍として迎えられ、いわゆる「[[宮将軍]]」となったが、「[[得宗専制]]」と称される幕府の中では、得宗家の傀儡に過ぎなかったという見方が支配的である<ref name="親王将軍期の鎌倉幕府祭祀"/>。六代将軍[[宗尊親王]]は正室の密通事件が発生する中で謀反の嫌疑をかけられて京都に送還され{{sfn|近藤成一|2016|p=89-90}}、七代将軍[[惟康親王]]は自身の地位を[[持明院統]]と[[大覚寺統]]による[[両統迭立]]問題に翻弄された形となり『[[増鏡]]』において「将軍宮こに流され」と表現されるように、ほぼ罪人扱いで京都に追放されている<ref name="親王将軍期の鎌倉幕府祭祀"/>。[[久明親王]]は理由は不明であるが33歳で辞任して京都に戻り、[[守邦親王]]は[[鎌倉幕府]]の滅亡とともに出家した<ref name="親王将軍期の鎌倉幕府祭祀"/>。
=== 建武政権・室町時代の将軍 ===
[[ファイル:Ashikaga Takauji Jōdo-ji.jpg|thumb|230px|室町幕府を創設した[[足利尊氏]]<br />([[浄土寺]]所蔵の伝足利尊氏像、在職期間:延元3年 - 延文3年)]]
[[元弘の乱]]で鎌倉幕府を打倒した[[後醍醐天皇]]は、天皇公家の親政と国衙復活を目指したが、その時期に征夷大将軍に就任したのが[[護良親王]]、[[成良親王]]で、鎌倉時代後期の[[宮将軍]]以降は皇族が将軍であるのが常識だった{{Sfn|関口|2018|pp=80-81|loc=[[鈴木由美]]「足利将軍家誕生は、「源氏の嫡流」の復活だったのか?」}}。だがその後、後醍醐の建武政権は恩賞や領地を巡り、武家との対立が勃発した。[[足利尊氏]]の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は[[北朝 (日本)|北朝]]を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。
だが、[[室町幕府]]3代将軍[[足利義満]]は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は[[武家]]の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である[[室町殿]]や[[大御所]]が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職を嫡男の[[足利義持]]へ譲ったのちも、権力は[[治天]]の位置を占めた義満に集中したままだった。
応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し、細川管領と[[斯波義将]]ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し、義満の政庁[[北山第]]も現・[[金閣]]を残し取り壊した{{Sfn|今谷明|1990|pp=110-168}}。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった{{Sfn|今谷明|1990|pp=198-203}}。
[[足利義教]]の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その殺害と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の[[足利義尚]]は実権回復を図り[[六角氏]]討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[北畠顕家]]が鎮守府将軍を鎮守府大将軍として名乗ることを認められているが、これは[[清華家]]の家格を有する[[北畠家]]にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。
=== 戦国時代の将軍 ===
将軍[[足利義稙|足利義材]]は義尚の果たせなかった六角親征に成功したが、これで自信を高めたことで[[細川政元]]と対立し、畠山征伐として河内に出兵した留守にクーデターを起こされ将軍職を失った([[明応の政変]])。幕政は細川氏支配が確立し、また幕府と将軍の全国統治の権力は消滅して室町幕府は畿内を支配する地方政権となる。
武家に対する将軍の権威はある程度は残ったが、戦国大名が成立して、将軍は有力大名の意向には逆らいにくく、敵対すると大永元年(1521年)頃から出奔逃亡し京都に常にとどまれず「流れ公方」と嘲笑された{{Sfn|今谷明|1990|pp=203-204}}。将軍の守護補任権が断続的になり天皇の[[国司]]任命が復活し、官位の朝廷取次権限が行使できず直奏となり、将軍権力が縮小した{{Sfn|今谷明|1993|pp=174-175}}。
天文22年(1553年)、13代将軍の義輝は[[三好政権]]を成立させた[[三好長慶]]に反撃を試み、洛外の[[近江国]][[朽木]]に追放され、5年後和睦し戻ったが、永禄8年5月(1565年6月)[[永禄の変]]で[[二条御所]]を軍勢で襲われ殺害され、将軍といえども不犯の存在ではなくなった。そのため、弟の[[足利義昭]]は[[織田信長]]の協力を得て、三好政権が擁立した14代将軍[[足利義栄]]が急死する中、奉じられ上洛し15代将軍となり、室町幕府を再建し畿内支配を復活させた。
だが、義昭は室町幕府創設時からの伝統の、[[武田信玄]]など他の有力大名との複数提携を目指したためやがて信長と対立、義昭は信長へ兵を挙げたが捕らえられ京都から追放された。室町幕府は官僚の奉公衆の[[伊勢氏]]など多くは[[明智光秀]]に引き継がれ実質消滅した。だが足利家の家職化した将軍を朝廷は積極的に解官せず{{Sfn|木下|2014|pp=359-361・363-364}}、その後の織豊政権は、征夷大将軍・幕府体制とは違う政権樹立をしたので、義昭は豊臣政権の初めに辞官するまで将軍職だった。
=== 江戸時代の将軍 ===
[[File:Shogun-Hearing-in-Fukiage-by-Toyohara-Chikanobu-1889.png|thumb|300px|[[江戸城]][[吹上御苑|吹上]]で将軍が訴訟を審理する絵。[[楊洲周延]]画]]
[[ファイル:Tokugawa_yoshinobu.jpg|thumb|230px|最後の将軍となった[[徳川慶喜]]<br />(在任:慶応2年 - 同3年)]]
慶長5年(1600年)の[[関ヶ原の戦い]]に勝利し、[[豊臣政権]]内での対抗勢力を一掃した[[徳川家康]]は、豊臣氏に従属しない独自の[[公儀]]としての立場を確立するため、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就く。
そして早くも2年後には嫡男の[[徳川秀忠]]に将軍職を譲り、将軍職を[[家職]]として今後も[[徳川家]]が代々[[武家の棟梁]]であり続けることを示した。
後に[[江戸幕府]]と呼ばれるようになるこの徳川政権では、かつての鎌倉幕府や室町幕府では常体化した権臣の力が将軍のそれを凌駕するような事態は一切生じなかった。
しかし[[幕末]]になると[[開国]]問題を契機として朝廷の権威と[[雄藩]]の政治力が高まり、それと共に将軍の公儀としての力は失墜、[[公武合体]]や[[大政委任論]]で公儀の再定義を試みるが行き詰まる。
[[慶応]]3年(1867年)、[[徳川慶喜]]は征夷大将軍を辞任、名目上の「大政」権を朝廷に返上([[大政奉還]])しつつ、引き続き日本最大の領主である徳川家当主が[[公議政体論|公議政体]]の実質的主宰者たらんことを狙った。しかし直後の[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]で慶喜を締め出した新政権が発足、同時に征夷大将軍や[[関白]]など天皇親政を掣肘する官職は廃止された。
{{Quotation|
內大臣源朝󠄁󠄁臣
左中辨藤原朝󠄁󠄁臣光廣傳宣 權大納言藤原朝󠄁󠄁臣兼勝宣 奉 敕件人宜爲征夷大將軍者
慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉
(訓読)
[[内大臣]]源朝臣(徳川家康)
[[弁官|左中弁]][[烏丸光広|藤原朝臣(烏丸)光広]]伝へ<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>の</rt><rp>)</rp></ruby>り、[[大納言|権大納言]][[広橋兼勝|藤原朝臣(広橋)兼勝]]<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>の</rt><rp>)</rp></ruby>る。 <br />勅を<ruby><rb>奉</rb><rp>(</rp><rt>うけたまわ</rt><rp>)</rp></ruby>るに、<ruby><rb>件</rb><rp>(</rp><rt>くだん</rt><rp>)</rp></ruby>の人、<ruby><rb>宜</rb><rp>(</rp><rt>よろ</rt><rp>)</rp></ruby>しく征夷大将軍と為すべし<ruby><rb>者</rb><rp>(</rp><rt>てへり</rt><rp>)</rp></ruby>
慶長八年二月十二日 中務大輔兼右大史算博士[[壬生孝亮|小槻宿禰孝亮]]<ruby><rb>奉</rb><rp>(</rp><rt>うけたまわ</rt><rp>)</rp></ruby>る。
|徳川家康への将軍宣下(官宣旨)|日光東照宮文書}}
== 征夷大将軍に関する説とそれ以外の武家政権 ==
=== 源平交代思想と源氏将軍 ===
源頼朝が東国の軍政(地方統治権)という意味に注目し征夷大将軍という官職を望んだという説以外にも、日本史上の武家政権は、平氏([[平氏#高望王流|桓武平氏]])と[[源氏]]([[清和源氏]])が交代するという[[源平交代思想]]や、源氏であることが征夷大将軍に任ぜられる条件であるという[[源氏将軍]]説が存在した。しかし実際には、頼朝以降に限っても、[[摂家将軍]]や[[皇族将軍]]の例があり、[[清和源氏]]以外に[[藤原氏]]や[[皇族]]、後嵯峨源氏も就任しており、[[平氏#高望王流|平氏]]を自称していた[[織田信長]]も天皇によって征夷大将軍に推任されたとされる([[三職推任問題|三職推任]])など、征夷大将軍になれるのは源氏に限られている訳ではない。また征夷大将軍ならば[[源氏長者]]のような印象があるが、これは[[足利義満]]以降の事である。
=== 豊臣秀吉 ===
[[豊臣秀吉]]は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を統一して[[天下人]]となりながら、他の天下人である源頼朝や足利氏、徳川家康と違って征夷大将軍になる事はなかった。その為、実は秀吉も征夷大将軍の就任を目指していたが、出自の関係から結局なることができなかったとする説が、江戸時代の儒学者である[[林羅山]]著書の『豊臣秀吉譜』において、秀吉は将軍になるために前将軍の[[足利義昭]]の[[養子]]になろうとしたが失敗したとする逸話が書かれ広まった。しかしそれは徳川幕府称賛のための捏造という指摘もある<ref name="堀新2013">堀新「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか?」『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年。</ref>。また、秀吉は摂家の人事紛争に乗じ[[近衛前久]]の[[猶子]]となることで、征夷大将軍の就任よりも困難である[[関白]]への就任を実現させている。公家以外の身分で関白に就任したのは豊臣秀吉が初であり、朝廷にとっては征夷大将軍就任よりも関白就任の方が遥かに抵抗感が強かったとされる。そもそも秀吉は朝廷から公卿就任時に、征夷大将軍の兼任を勧められていたと記載する史料もある{{Efn|『[[多聞院日記]]』天正12年(1584年)10月16日条にある、公卿就任の際に、朝廷から征夷大将軍を兼任するよう勧められたが断ったという記述による。}}{{Sfn|堀|2010|p=89}}<ref name="堀新2013"/><ref>鈴木眞哉『NHK歴史番組を斬る!』洋泉社〈歴史新書y〉、2012年、154-155頁。</ref>。
なお、織田・豊臣期の征夷大将軍に関しては、当時の人々の間に征夷大将軍は足利家の[[家職]]と認識されており、源氏出身か否かとは別の意味で「将軍職は足利家以外にありえない」という概念が存在していたために、京都を追放されて実権を失った[[足利義昭]]が征夷大将軍として認められ続け、朝廷も積極的な解任を行わなかったとする見方もある{{Sfn|木下|2014|pp=359-361・363-364}}。
== 征夷大将軍の一覧 ==
===注===
* 源頼朝以前については、[[蝦夷]]征討使の長官にして、征夷大将軍に準じる性質のものを全て採録した。古例の場合、「大使」は「大将軍」と同義であるとされる。
===一覧===
{|class="wikitable" style="font-size:small"
!歴代
!名
!補任
!解任
!備考<ref group="注釈">官位は、将軍補任時と解任時。及び没後の贈官位。</ref>
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!colspan="5"|古例(源頼朝以前)
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|—||[[巨勢麻呂]]||[[和銅]]2年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]<br>(709年4月19日)||—||'''鎮東将軍'''<br>[[左大弁]][[正四位下]]
|-
|—||[[多治比県守]]||[[養老]]4年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]<br>(720年11月3日)||養老5年4月<br>(721年5月)||'''持節征夷将軍'''<br>[[播磨国|播磨]][[按察使]]正四位下
|-
|—||[[藤原宇合]]||[[神亀]]元年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]<br>(724年5月4日)||神亀2年閏1月<br>(725年3月)||'''持節大将軍'''<br>[[式部卿]][[正四位上]]
|-
|—||[[藤原麻呂]]||[[天平]]9年1月<br>(737年2月)||—||'''持節大使'''<br>[[参議]][[従三位]]兼[[兵部卿]]
|-
|—||[[藤原継縄]]||[[宝亀]]11年[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]<br>(780年5月7日)||—||'''征東大使'''<br>[[中納言]]従三位兼兵部卿
|-
|—||[[藤原小黒麻呂]]||宝亀11年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]<br>(780年10月25日) ||[[天応 (日本)|天応]]元年8月<br>(781年9月) ||'''持節征東大使'''<br>参議[[正四位下]]兼[[衛士府|右衛士督]]
|-
|—||[[大伴家持]]||[[延暦]]3年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]<br>(784年3月19日)||延暦4年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]<br>(785年10月5日)||'''持節征東将軍'''<br>[[中納言]][[従三位]]兼[[春宮大夫]]陸奥按察使 → 同左
|-
|—||[[紀古佐美]]||延暦7年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]<br>(788年8月11日) ||延暦8年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]<br>(789年10月1日)||'''征東大将軍'''(『[[公卿補任]]』は征夷大将軍に作る)<br>[[参議]][[左大弁]][[正四位下]]兼春宮大夫 → 同左
|-
|—|||[[大伴弟麻呂]]||延暦10年[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]<br>(791年8月17日) ||延暦14年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]<br>(795年2月23日)||初め'''征東大使'''、延暦13年(794年)'''征夷大将軍'''として初見<br>[[従四位下]] → [[従三位]]・勲二等
|-
|—||rowspan="2"|[[坂上田村麻呂]]||延暦16年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]<br>(797年11月27日) ||延暦20年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]<br>(801年12月7日)||rowspan="2"|陸奥出羽[[按察使]][[従四位下]]兼[[陸奥国|陸奥守]] → [[大納言]][[正三位]]<br>[[贈位|贈]][[従二位]]
|-
|(還任)||延暦23年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]<br>(804年3月13日)||[[大同 (日本)|大同]]5年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]?<br>(810年10月11日?)
|-
|—||rowspan="2"|[[文室綿麻呂]]||[[弘仁]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]<br>(811年5月12日) ||—||rowspan="2"|'''征夷将軍'''<br>[[参議]]正四位上[[大蔵卿]]兼陸奥出羽按察使 → 参議[[従三位]]
|-
|(還任)||弘仁4年[[5月30日 (旧暦)|5月30日]]<br>(813年7月1日)||弘仁7年<br>(816年)
|-
|—||[[藤原忠文]]||[[天慶]]3年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]<br>(940年2月29日)||天慶3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]<br>(940年6月23日) ||'''征東大将軍'''<br>[[参議]][[正四位下]][[修理大夫]]兼[[右衛門督]]
|-
|—||[[源義仲|源義仲<br>(木曾義仲)]]||[[寿永]]3年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]<br>(1184年2月23日)||寿永3年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]<br>(1184年3月4日) ||'''征東大将軍'''<br>[[従四位下]][[伊予国|伊予守]]
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!colspan="5"|鎌倉
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|[[鎌倉将軍一覧|鎌倉]]:1||[[源頼朝]]||[[建久]]3年[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]<br>(1192年8月21日) ||建久10年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]<br>(1199年2月9日)||建久5年(1194年)解任の説あり。<br>[[正二位]]前[[権大納言]] → 同左
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|鎌倉:2||[[源頼家]]||[[建仁]]2年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]<br>(1202年8月12日) ||建仁3年[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]<br>(1203年10月13日)||[[従二位]][[左衛門督]] → [[正二位]]
|-
|鎌倉:3||[[源実朝]]||建仁3年9月7日<br>(1203年10月13日) ||[[建保]]7年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]<br>(1219年2月13日)||[[従五位下]] → [[右大臣]][[正二位]][[左近衛大将]]
|-
|鎌倉:4||[[藤原頼経|藤原頼経<br>(九条頼経)]]||[[嘉禄]]2年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]<br>(1226年2月25日) ||[[寛元]]2年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]]<br>(1244年6月5日)||[[摂家将軍]]、[[九条道家]]の子。<br>[[正五位下]][[近衛府|右近衛権少将]] → [[正二位]]前権大納言
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|鎌倉:5||[[藤原頼嗣|藤原頼嗣<br>(九条頼嗣)]]||寛元2年4月28日<br>(1244年6月5日) ||[[建長]]4年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]<br>(1252年3月31日)||摂家将軍、藤原頼経の子。<br>[[従五位上]]右近衛権少将 → [[従三位]][[左近衛中将]]
|-
|鎌倉:6||[[宗尊親王]]||建長4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]<br>(1252年5月10日) ||[[文永]]3年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]<br>(1266年8月21日)||[[宮将軍]]、[[後嵯峨天皇]]の[[皇子]]。<br>三品 → [[一品親王|一品]][[中務卿]]
|-
|鎌倉:7||[[惟康親王]]<ref group="改">惟康王→源惟康→惟康親王</ref>||文永3年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]<br>(1266年8月25日) ||[[正応]]2年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]<br>(1289年9月29日)||宮将軍、宗尊親王の王子。<br>[[従四位下]] → 二品
|-
|鎌倉:8||[[久明親王]]||正応2年[[10月9日 (旧暦)|10月9日]]<br>(1289年10月24日) ||[[徳治]]3年[[8月4日 (旧暦)|8月4日]]<br>(1308年8月20日)||宮将軍、[[後深草天皇]]の[[皇子]]。<br>三品 → [[一品親王|一品]][[式部卿]]
|-
|鎌倉:9||[[守邦親王]]||徳治3年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]<br>(1308年8月26日) ||[[正慶]]2年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]<br>(1333年7月4日)||宮将軍、久明親王の王子。<br>三品 → 二品
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!colspan="5"|建武
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|[[建武政権|建武]]||[[護良親王]]||[[元弘]]3年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]<br>(1333年7月25日) ||元弘3年9月<br>(1333年10月) ||宮将軍、[[後醍醐天皇]]の皇子。<br>二品[[兵部省|兵部卿]] → 同左
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|建武||[[成良親王]]||[[建武 (日本)|建武]]2年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]<br>(1335年8月19日) ||建武3年2月<br>(1336年3月)||宮将軍、後醍醐天皇の皇子。<br>[[上野国|上野]][[国司|太守]]四品 → 同左
|-
|建武||[[足利尊氏]]<ref group="改">高氏→尊氏</ref>||建武2年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]<br>(1335年8月27日)||建武2年[[11月26日 (旧暦)|11月26日]]?<br>(1336年1月9日?) ||'''征東将軍'''<br>[[中先代の乱]]討伐に伴う東下を追認する形で補任される。
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!colspan="5"|室町(南朝)
|-
|[[足利将軍一覧|室町]]:1||足利尊氏||建武5年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]<br>(1338年9月24日) ||[[正平 (日本)|正平]]7年[[2月6日 (旧暦)|閏2月6日]]<br>(1352年3月22日)||[[正二位]][[権大納言]]
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|[[南朝 (日本)|南朝]]||[[興良親王]]||[[延元]]4年<br>(1339年) ||—||宮将軍、護良親王の王子。<br>二品[[兵部卿]]?
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|南朝||[[宗良親王]]||[[正平 (日本)|正平]]7年[[2月6日 (旧暦)|閏2月6日]]<br>(1352年3月22日) ||—||宮将軍('''征東将軍'''か)、後醍醐天皇の皇子。<br>[[一品親王|一品]][[式部卿]] → 同左
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|室町:1<br>(還任)||足利尊氏||[[観応]]3年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]<br>(1352年8月20日) ||[[延文]]3年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]<br>(1358年6月7日)||足利尊氏の還任。<br>[[正二位]][[権大納言]]<br>贈従一位太政大臣
|-
|室町:2||[[足利義詮]]||延文3年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]<br>(1359年1月7日) ||[[貞治]]6年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]<br>(1367年12月28日)||[[参議]][[従三位]][[左近衛中将]] → [[正二位]][[権大納言]]<br>贈[[従一位]][[左大臣]]
|-
|室町:3||[[足利義満]]||[[応安]]元年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]<br>(1369年2月7日) ||[[応永]]元年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]<br>(1395年1月8日)||[[従五位下]][[左馬頭]] → [[准三宮]][[従一位]]前[[左大臣]]<br>将軍解任後、[[太政大臣]]
|-
|南朝||([[尹良親王]]) ||[[元中]]3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]?<br>(1386年9月2日?) ||—||宮将軍、宗良親王の王子という。<br>同時代史料に見えないため、実在が疑問視されている。
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|室町:4||[[足利義持]]||[[応永]]元年[[12月17日 (旧暦)|12月17日]]<br>(1395年1月8日) ||応永30年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]<br>(1423年4月28日)||[[正五位下]][[左近衛中将]] → [[従一位]]前[[内大臣]]<br>贈太政大臣
|-
|室町:5||[[足利義量]]||応永30年3月18日<br>(1423年4月28日) ||応永32年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]<br>(1425年3月17日)||正五位下[[右近衛中将]] → [[参議]][[正四位下]]右近衛中将<br>贈従一位[[左大臣]]
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|室町:6||[[足利義教]]<ref group="改">義宣→義教</ref>||[[正長]]2年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]<br>(1429年4月18日) ||[[嘉吉]]元年[[6月24日 (旧暦)|6月24日]]<br>(1441年7月12日)||参議左近衛中将[[従四位下]] → 従一位前左大臣<br>贈太政大臣
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|室町:7||[[足利義勝]]||嘉吉2年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]<br>(1442年12月19日) ||嘉吉3年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]<br>(1443年8月16日)||正五位下左近衛中将 → 従四位下左近衛中将<br>贈左大臣従一位
|-
|室町:8||[[足利義政]]<ref group="改">義成→義政</ref>||[[文安]]6年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]<br>(1449年5月21日) ||[[文明 (日本)|文明]]5年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]<br>(1474年1月7日)||[[正五位下]][[左馬頭]] → [[准三宮]]従一位前左大臣<br>贈太政大臣
|-
|室町:9||[[足利義尚]]<ref group="改">義尚→義煕</ref>||文明5年12月19日<br>(1474年1月7日) ||[[長享]]3年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]<br>(1489年4月26日)||従五位下左近衛中将 → 従一位[[内大臣]][[右近衛大将]]<br>贈太政大臣
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|室町:10||[[足利義稙|足利義材]]<ref group="改" name="yoshitane">義材→義尹→義稙</ref>||[[延徳]]2年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]<br>(1490年7月22日) ||[[明応]]2年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]<br>(1493年8月11日)||[[従四位下]][[右近衛中将]] → [[参議]]右近衛中将従四位下
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|室町:11||[[足利義澄]]<ref group="改">義高→義遐→義澄</ref>||明応3年[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]<br>(1495年1月23日) ||[[永正]]5年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]<br>(1508年5月15日)||[[正五位下]][[左馬頭]] → 参議[[従三位]][[左近衛中将]]<br>贈[[従一位]][[太政大臣]]
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|室町:10<br>(還任)||[[足利義稙]]<ref group="改" name="yoshitane"/>||永正5年[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]<br>(1508年7月28日) ||[[大永]]元年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]<br>(1522年1月22日)||足利義材の還任。<br>従三位[[権大納言]] → [[従二位]]権大納言<br>贈従一位太政大臣
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|室町:12||[[足利義晴]]||大永元年12月25日<br>(1522年1月22日) ||[[天文 (元号)|天文]]15年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]<br>(1547年1月11日)||[[正五位下]][[左馬頭]] → 従三位権大納言[[右近衛大将]]<br>贈従一位[[左大臣]]
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|室町:13||[[足利義輝]]<ref group="改">義藤→義輝</ref>||天文15年12月20日<br>(1547年1月11日) ||[[永禄]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]<br>(1565年6月17日)||[[従四位下]]左馬頭 → [[参議]][[左近衛中将]]従四位下<br>贈従一位左大臣
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|室町:14||[[足利義栄]]<ref group="改">義親→義栄</ref>||永禄11年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]<br>(1568年3月6日)||永禄11年9月<br>(1568年10月) ||[[従五位下]]左馬頭 → 同左
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|室町:15||[[足利義昭]]<ref group="改">義秋→義昭</ref>||永禄11年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]<br>(1568年11月7日) ||[[天正]]16年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]<br>(1588年2月9日)<!-- 室町幕府崩壊は1573年だが、公式記録「公卿補任」では1588年まで在職。-->||参議左近衛中将従四位下 → 従三位権大納言<br>将軍解任後、[[准三宮]]
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!colspan="5"|江戸
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|[[徳川将軍一覧|江戸]]:1||[[徳川家康]]<ref group="改">松平元信→松平元康→徳川家康</ref>||[[慶長]]8年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]<br>(1603年3月24日) ||慶長10年[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]<br>(1605年6月2日)||[[従一位]][[右大臣]] → [[従一位]]前右大臣<br>将軍解任後、[[太政大臣]]。贈[[正一位]]東照大権現
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|江戸:2||[[徳川秀忠]]||慶長10年4月16日<br>(1605年6月2日) ||[[元和 (日本)|元和]]9年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<br>(1623年8月23日)||[[内大臣]][[正二位]][[右近衛大将]] → [[従一位]][[右大臣]]右近衛大将<br>将軍解任後、太政大臣。贈正一位
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|江戸:3||[[徳川家光]]||元和9年7月27日<br>(1623年8月23日) ||[[慶安]]4年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]<br>(1651年6月8日)||内大臣正二位右近衛大将 → 従一位左大臣右近衛大将<br>太政大臣宣下固辞。贈[[太政大臣]][[正一位]]
|-
|江戸:4||[[徳川家綱]]||慶安4年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]<br>(1651年9月10日) ||[[延宝]]8年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]<br>(1680年6月4日)||内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将<br>贈太政大臣正一位
|-
|江戸:5||[[徳川綱吉]]||延宝8年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]<br>(1680年8月12日) ||[[宝永]]6年[[1月10日 (旧暦)|1月10日]]<br>(1709年2月19日)||内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将<br>贈太政大臣正一位
|-
|江戸:6||[[徳川家宣]]<ref group="改">綱豊→家宣</ref>||宝永6年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]<br>(1709年5月11日) ||[[正徳 (日本)|正徳]]2年[[10月14日 (旧暦)|10月14日]]<br>(1712年11月12日)||内大臣正二位右近衛大将 → 同左<br>贈太政大臣正一位
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|江戸:7||[[徳川家継]]||正徳3年[[3月4日 (旧暦)|3月4日]]<br>(1713年3月29日) ||正徳6年[[4月30日 (旧暦)|4月30日]]<br>(1716年6月19日)||内大臣正二位右近衛大将 → 同左<br>贈太政大臣正一位
|-
|江戸:8||[[徳川吉宗]]<ref group="改">松平頼方→徳川吉宗</ref>||[[享保]]元年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]<br>(1716年9月3日) ||[[延享]]2年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]<br>(1745年10月20日)||内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位<br>贈太政大臣正一位
|-
|江戸:9||[[徳川家重]]||延享2年[[10月7日 (旧暦)|10月7日]]<br>(1745年10月31日) ||[[宝暦]]10年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]<br>(1760年6月25日)||内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位<br>贈太政大臣正一位
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|江戸:10||[[徳川家治]]||宝暦10年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]<br>(1760年8月12日) ||[[天明]]6年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]<br>(1786年9月29日)||内大臣正二位右近衛大将 → 右大臣正二位右近衛大将<br>贈太政大臣正一位
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|江戸:11||[[徳川家斉]]||天明7年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]<br>(1787年4月23日) ||[[天保]]8年[[4月2日 (旧暦)|4月2日]]<br>(1837年5月6日)||内大臣正二位右近衛大将 → 従一位太政大臣<br>贈正一位
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|江戸:12||[[徳川家慶]]||天保8年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]<br>(1837年9月4日) ||[[嘉永]]6年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]<br>(1853年7月27日)||従一位左大臣左近衛大将 → 同左<br>贈太政大臣正一位
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|江戸:13||[[徳川家定]]<ref group="改">家祥→家定</ref>||嘉永6年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]<br>(1853年11月23日) ||[[安政]]5年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]<br>(1858年8月14日)||内大臣正二位右近衛大将 → 内大臣従一位右近衛大将<br>贈太政大臣正一位
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|江戸:14||[[徳川家茂]]<ref group="改">慶福→家茂</ref>||安政5年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]<br>(1858年11月30日) ||[[慶応]]2年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]<br>(1866年8月29日)||内大臣正二位右近衛大将 → 従一位右大臣右近衛大将<br>贈太政大臣正一位
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====改名====
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
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* {{Citation|和書|editor-last=関口|editor-first=崇史|title=征夷大将軍の研究最前線|others=日本史史料研究会 監修|publisher=[[洋泉社]]|series=歴史新書y |date=2018-04|isbn=978-4-800314581}}
* {{Cite book|和書|author=山本みなみ|authorlink=山本みなみ|title=史伝 北条義時|publisher=小学館|year=2021|isbn=978-4-093888455|ref={{SfnRef|山本みなみ|2021}} }}
== 関連項目 ==
* [[外交称号]]
** [[日本国王]]
** [[日本国大君]]
* 次席たる官職
** [[副将軍]]
* [[征西大将軍]]
* [[征東大将軍]]
* [[鎮狄将軍]]
* [[征討大将軍]]
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* [[車騎将軍]]
* [[衛将軍]]
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* [[上覧相撲]]
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== 外部リンク ==
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4,097 | 南方熊楠 | 南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。
生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。
1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。
民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。
フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。
柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称され、現代では「知の巨人」との評価もある。
現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。
熊楠の学問は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。
1893年(明治25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表した。また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学、宗教学、セクソロジーなどを独学した。さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ(英語版)』に次々と寄稿した。
生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。
帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。
※日付は1872年まで旧暦
慶応3年(1867年)4月15日、和歌山城城下町の橋丁(現・和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる。南方家は、海南市にある藤白神社を信仰していた。藤白神社には熊野神が籠るといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」と熊野の「熊」そして、この大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読んで成長した。学問に興味を持ったのも幼年期からで父親の前妻の兄が学文好きだったので、その残した書籍を読んでおり、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を諳んじていた。父弥兵衛は熊楠の様子を見て「この子だけは学問をさせようということで、随分学問を奨励して呉れた」と熊楠は語っている。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通わせてもらっていた。他にも漢学塾、心学塾にも通っている。
1873年(明治6年)、雄小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学。
1874年(明治7年)頃、近所の産婦人科佐竹宅で『和漢三才図会』を初めて見る。数え10歳の時に売りに出ていたものを父にねだったが買ってもらえなかった。
1876年(明治9年)、雄小学校卒業、鍾秀学校に入学。
しかし父からあまり書籍を買ってもらえなかったため、岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶しながらの筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等をも筆写も本格的に行う。これにより熊楠の生涯にわたり筆写で行なう学問スタイルが培われた。
1879年(明治12年)、和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)が創設され同校に入学。教師鳥山啓から博物学を勧められ、薫陶を受ける(のちに鳥山啓は華族女学校教師となる。行進曲『軍艦』の作詞者として知られる)。5月~7月、『和歌山新聞』の記事の抜粋ノートを作成する。12月、作文「祝文」「火ヲ慎ム文」を書く。
1880年(明治13年)4月、作文「教育ヲ主トスル文」を書く。9月、 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる。
1882年(明治14年)2月1日、『和漢三才図会』を写し終える。「南方熊楠辞」と題した書き込みは、家族内の問題に悩み「その積もる所終に発して病となり、今に全くは癒えざるぞ憂き」という言葉が見える。春には、父母、弟の常楠とともに高野山金剛峯寺を訪れて、弘法大師一千年忌の名宝展を見る。この目録の筆写を5月23日に作成。
1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現・開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門(のちの東京大学)入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バークレイが菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し、標本・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどから成る備忘録をつけている。
1884年(明治17年)9月、大学予備門に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。郷里では、父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業していた。
1885年(明治18年)1月1日、現在残された日記はこの日から始まり1941年12月の死去までほぼ毎日つけられている。4月、一人で鎌倉から江ノ島に旅行。海辺の動物を採取し、貝類を購入する。4月29日、日記に「余一昨日より頭痛始まり今日なほ已まず」と書き込む。5月12日、大森貝塚を訪れ、土器、骨片を拾う。6月、この頃から翌年にかけて『当世書生気質』『南総里見八犬伝』を一冊ずつ買い足して読んでいる。6月14日、眼病を理由に三学期の試験を欠席することを決定する。7月、日光に旅行。動物、植物、化石、鉱物を採集している。
12月29日 期末試験で代数1課目だけが合格点に達しなかったため落第。予備門を中退。
1886年(明治19年)1月、『佳人之奇遇』4冊を購入。2月、和歌山へ帰郷。4月、羽山繁太郎の誘いを受け日高郡に旅行する。
心機一転し自由な学問ができる新天地を求め留学を決意。当時外国に留学するには莫大な費用がかかったが、その頃の南方家の財力は頂点に達しており問題はなかった。父親は当初熊楠の留学に反対していたものの徐々に熊楠の熱意に理解を示し、最終的に留学を後押ししたという。10月20日より4日間『和歌山新聞』に送別会の広告が掲載される。26日、和歌山市内の松寿亭で送別会が開かれる。参加者は熊楠を入れて16人。このときの熊楠の演説に関しては草稿が残されている。12月22日に横浜港を出航して渡米。船内で中国人乗客と筆談する。
1887年(明治20年)1月8日に米国サンフランシスコ着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。8月にミシガン州農業大学(ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学)入学。当初は商業を学ぶ予定だったが次第に「商買の事」から離れていった。ミシガン州立大学は一流大学であったが、熊楠は大学に入らず、例によって「自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、曠野林中に遊びて自然を観察す(履歴書)」という生活を送る。
熊楠は邦文のものは当時東京にいた弟の常楠から送ってもらい、英文のものは自ら購入して多くの書物や雑誌を読破していった。
1888年(明治21年)、寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、シカゴの地衣類学者ウィリアム・ワート・カルキンズ(wikidata)(英: William Wirt Calkins)に師事して標本作製を学ぶ。
この採集→整理記載→標本作りという生活スタイルは子供の頃に昆虫や藻などを空の弁当箱に詰めたことに始まって、学生時代、アメリカ放浪記を経て帰国後の那智隠遁棲期、田辺定住、そして晩年まで変わることはなかった。これは自分の病(癇癪など)を自覚した熊楠が自らに施した対症療法であろうと指摘されている。
1889年4月、てんかんの発作がおきる。日記によれば1886年10月以来のこと。8月19日、アナーバーにいるミシガン大学の日本人留学生に回覧するため、熊楠が手書きで発行した一部だけの個人新聞『珍事評論』第1号を発行。第3号まで発行。
1890年3月、プリニウス『博物誌』(ラテン語)を購入する。5月、タイラー『原始文化』、ハーバート・スペンサー『社会学原理』などを購入。5月から11月にかけてヒューロン川の川辺や付近の森林で高等植物、菌類を中心に盛んに採集を行う。12月、シカゴのアマチュア植物学者カルキンスから菌類の標本を送られ、連日、分類目録を作成する。
1891年(明治24年)1月、カルキンスから地衣類60種一箱の標本を送られる。同年5月、フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。中国人の江聖聡が経営する食品店で住み込みで働く。新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡が入る。
7月、ピトフォラ・オエドゴニアを採集する。9月にはキューバに渡り採集旅行。石灰岩生地衣を発見(ウィリアム・カルキンスから標本を送られたウィリアム・ニランデルにより、新種として「Gyalecta cubana(ギアレクタ・クバーナ)」と命名されるが、正式に発表されず)。
1892年(明治25年)1月、フロリダに戻り江聖聡と再び同居。9月に渡英した。日本を飛び出してから6年の歳月が流れ、熊楠は25歳になっていた。9月28日、イギリスで、8月8日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける。
1893年(明治26年)、科学雑誌『ネイチャー』10月5日号に初めて論文「極東の星座」を、同10月12日号に論文「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿。オーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。
10月30日、自らの生涯にかけがいのない存在となる人物、土宜法龍と巡り合う。仏教を中心とした宗教論、哲学論で熱論を交わす。12月、土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る。
1894年(明治27年)、 『ネイチャー』5月17日号に論文「コムソウダケに関する最古の記録」を、12月27日号に論文「『指紋』法の古さについて1」を寄稿。これらの論文はいずれも熊楠の中に蓄積された和漢の知識を駆使して書かれたものである。いわば「東洋の知」をもって英国の学会に切り込んだのである。こうした一連の仕事によって熊楠の名は英国の識者たちに知られるようになった。
1895年(明治28年)、フレデリック・ヴィクター・ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る。『ネイチャー』6月27日号に論文「網の発明」を寄稿。またこの年の4月より「ロンドン抜書」を開始する。
1896年(明治29年)2月27日に母・すみが亡くなった。『ネイチャー』2月6日号に論文「驚くべき音響1」を寄稿。
1897年(明治30年)1月、シュレーゲルに落斯馬(ロスマ)のことについて手紙を送る。このあといわゆる「ロスマ論争」に発展。 3月、ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。6月、熊楠の日記中に孫文が友情のしるしとして「海外逢知音」を書き付ける。
11月8日、大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こす。12月、大英博物館より入館証を返してもらい読書を再開する。
1898年12月夕方、大英博物館の閲覧室で女性の高声を制し、監督官との口論の末、追い出される。14日、大英博物館から追放の通知を受ける。
1899年1月31日、常楠よりの手紙を読み「此夜不眠」。仕送りを当年限りで打ち切るという内容の前年12月21日付の常楠書簡が残されており、このことかと思われる。3月、南ケンジントン博物館での日本書の題号翻訳の仕事を始める。6月3日付の『N&Q』に同誌初めての投稿「神童」が掲載される。
1900年(明治33年)10月15日、14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(大阪府泉南郡岬町)、次いで和歌山市の円珠院に居住する。翌1901年(明治34年)、孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。
1902年(明治35年)、熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。『ネイチャー』7月17日号に論文「ピトフォラ・オエドゴニア」を寄稿。12月、プルタルコス『対比列伝』英訳の読書を再開する。ルソー『告白』をフランス原書で読み始める。
1903年(明治36年)、論文『燕石考』完成。『ネイチャー』4月30日号に論文「日本の発見」を、7月30日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿。7月18日付の土宜法龍宛の手紙の中にいわゆる「南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する。8月8日、この日付の土宜法龍宛の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅の思想について説明する。
1904年(明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格とその死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才と退行』を読み始める。カービーの『エストニアの英雄』を読み始める。
1905年(明治38年)4月より夜寝る前にシェイクスピア全集を読むことを日課とし、興が乗ると翌日朝にも続けて読んだ。日記に掲載されているだけでも23作品をこの時期に読破している。6月、ディキンズとの共訳『方丈記』の掲載された『王立アジア協会雑誌』1冊と抜刷11冊が送られる。
1906年(明治39年)2月、アーサー・リスターからジェップを通じて熊楠の送った47種の日本産変形菌の同定に関する手紙が送られる。7月、 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。6月、タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種として記載された。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの。
1907年(明治40年)、前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を起こす。6月24日に長男熊弥誕生。2月8日より「田辺抜書」を開始する。田辺図書館、田辺中学、法輪寺、闘鶏神社などで借りた本の妙写。9月、バートン版の『アラビアン・ナイト』12冊を購入し、就寝前に読み耽る。
1908年(明治41年)、『ネイチャー』11月26日号に論文「魚類に生える藻類」を寄稿。
1909年(明治42年)9月 、新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。
1910年(明治43年)、紀伊教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日、家宅侵入で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという。『ネイチャー』6月23日号に論文「粘菌の変形体の色1」を寄稿。
1911年(明治44年)、柳田國男との文通が始まり、1913年まで続いた。8月7日、この日付の柳田國男宛書簡で「植物棲態学 ecology」という言葉を用いる。11月12日柳田宛書簡では「エコロジー」、11月19日川村竹治宛書簡でも「エコロギー」という言葉を用いている。9月、柳田が『南方二書』を出版。10月13日、長女文枝誕生。
1912年(明治45年/大正元年)、田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。
1913年(大正2年)、柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。この時の模様は柳田の著書「故郷70年」に詳しい。柳田は親友:松本烝治を伴って熊楠宅を訪れた。前述のように熊楠は泥酔していた。そして松本に対して「こいつの親爺は知っている、松本荘一郎で、いつか撲ったことがある」というようなことをいい出した。 ただし「故郷70年」によると面会は1911年になっている。
1914年(大正3年)、1月から1923年11月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー』1月15日号に論文「古代の開頭手術」を寄稿。なお同年には第一次世界大戦が始まった。
1915年(大正4年)、アメリカ農務省の植物学者スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査。『N&Q』に「戦争に使われた動物」を掲載。
1916年(大正5年) 、田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。7月9日、自宅の柿の木で粘菌新属を発見。
1917年9月頃よりロシア語を独習し始める。雑誌に「ミイラについて」を掲載。11月頃から「馬に関する民俗と伝説」について調べ始める。
1918年5月頃、盛んに松葉蘭の研究と文通を行う。12月、「蛇に関する民俗と伝説」の執筆を始める。
1919年9月24日、『大阪毎日新聞』に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載される。
1920年(大正9年)2月、『集古』庚申一号に「なぞなぞ」を掲載。8月、土宜法龍の招きで小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する。
1921年(大正10年)、粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ(ドイツ語版)”(Minakatella longifila、「長い糸の南方の粘菌」の意。現在の標準和名はミナカタホコリ)と命名される。命名者はロンドン自然史博物館の粘菌学者グリエルマ・リスターであった。2月、『現代』に「桑名徳蔵と橋抗岩の話」を掲載。また同誌7号から「鳥を食うて王となった話」を連載。
4月26日、南方植物研究所の発起人について、その後の追加を含めて原敬総理大臣以下28名の名前が『牟婁新報』に掲載される。9月、「蠍の生きたのが来着」連載。10月、第2回の高野山訪問。12月、「犬に関する民俗と伝説」の執筆を始める。
1922年(大正11年)、南方植物研究所設立資金募集のため上京。多くの名士、知人と面会する。7月、日光に採集旅行。11月、植物研究所の基金が集まったことを理由に常楠が仕送りを停止する。
1923年4月、『N&Q』への投稿論文「鷲石考」を書く。9月、リスター宛てに日本産粘菌141種の目録を送る。
1924年3月頃、バートン版『アラビアン・ナイト』を連日読み、索引を追補。5月、「十二支考」等の論文の版権料として中村古峡から500円を半金として受け取る。
1925年(大正14年)、長男熊弥が精神異常を発症し、入院のち自宅療養。6月、「人柱の話」を連載。
1926年(大正15年/昭和元年)2月、『南方閑話』が刊行。5月、『南方随筆』刊行。イタリアの菌類学者ブレサドラ大僧正(ジアコーモ・ブレッサドーラ)の『菌図譜』("Iconographia Mycologica")の出版に際し、名誉委員に推される。11月、熊楠が品種選定した粘菌標品37属90点を東宮(のちの昭和天皇)に進献する。
1927年、「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」と「「田辺名物考」について」掲載。10月、『彗星』に「続『一代男輪講』の掲載を開始。以後、三田村鳶魚らの『西鶴輪講』に対する多数の注釈を同誌に発表。
1928年10月、妹尾官林で植物の採集と図記を行なう。
1929年(昭和4年)6月1日、 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦「長門」艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠はキャラメルの大きな空箱に入れて献上した。
1930年(昭和5年)6月、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する。植物採集減る。
1933年、「今井君の「大和本草の菌類」に注記す」を掲載。
1934年、『ドルメン』に「地突き唄の文句」を連載。11月、神島の植物を調査し、「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作製する。
1935年(昭和10年)8月、神島に渡って久邇宮多嘉王と妃・息子に講話する。12月24日、 神島が国の天然記念物に指定される。
1936年、『牟婁新聞』に「新庄村合併について」を連載。
1939年、「訳本『源氏物語』の普及について」を『日本』に12回連載する。
1940年(昭和15年)11月10日、学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を受けるが、歩行不自由の理由で断る。
1941年(昭和16年)12月29日、自宅にて永眠。死因は萎縮腎であった。満74歳没(享年75)。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られた。
1929年(昭和4年)6月1日に昭和天皇を神島に迎え、「長門」艦上で進講(天皇の前で学問の講義をすること)を行なった。
昭和天皇は皇太子時代から一貫して生物学に強い関心を持ち、とりわけ興味を示したのが、海産生物のヒドロ虫と粘菌(変形菌)の分類学的研究であった。
熊楠の粘菌学の一番弟子であった小畔四郎は昭和天皇の博物学等の担当者・服部広太郎の甥の上司という関係で、服部から生物学講義のための粘菌の標本を見たいとの依頼を受けた。1926年2月、小畔から熊楠に手紙で、この機会に粘菌標本を40-50種類献上してはと相談した。これに対し、熊楠は37属90点を、目録・表啓文・二種の粘菌図譜とともに11月10日に進献した。この90点は日本の粘菌を研究する上で基本となる種を網羅する目的で選ばれた。
1929年3月5日、服部広太郎が熊楠邸を来訪して仮定の形で進講を打診。4月25日、進講の決定を知らせる服部広太郎の手紙が届く。
1929年6月1日午前8時、御召艦長門が田辺湾に姿を現す。熊楠は正午過ぎ田辺から漁船に乗り新庄村尊重たちと神島近海で待っていた。天皇は5時30分に長門に畠島から帰艦し、熊楠の進講を受ける。
熊楠はウガ、地衣グアレクタ・クバナ、海洞に棲息する蜘蛛、ナキオカヤドカリ、隠花植物標本帖、菌類図譜、粘菌標本を持参。この内、蜘蛛、ナキオカヤドカリ、粘菌標本を献上した。粘菌標本は110点にのぼり、先の進献で漏れた普通種と稀産種、変種が中心で増補するのが目的だったと思われる。入れた箱は大きなボール紙製のキャラメル箱に入れて献上した。これは蓋が開けやすいためといわれてるが、自ら持参するのに軽いものを選んだとも考えられる。
熊楠が所持した標本は国立科学博物館に寄贈され、今は筑波実験植物園にある。
一周年の1930年6月1日に行幸記念碑が神島に建立された。
1962年、白浜を訪れた昭和天皇は田辺湾に浮かぶ神島を見て思いを馳せ、熊楠との一期一会を懐かしみ
「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」
と詠んだ。その和歌が刻まれた御製碑は、1965年に設立された南方熊楠記念館の前庭に立っている。
熊楠は博物学者として紹介されることが多いが、時代としては既に博物学は解体されており、熊楠の活動はその面では完全に植物学の分野に収まる。熊楠の専門分野はいわゆる隠花植物である。東京時代にアメリカのカーチスという学者が生涯に菌類を6000点収集したとの話を聞いて、自分は7000点を集めることを決心したとの逸話がある。
しかしながら、熊楠が生涯で最も時間をかけていたのは、実は顕花植物の収集であったらしい。渡米前には日光などで、またアメリカでも各地で植物採集を行い、帰国後は和歌山県南部の各地で多量の植物採集を行い、それらの標本は、保存状態はともあれ、多くが残されている。初期のものは台紙に張った正式な押し葉標本の形に整えられているものが多いが、後期のものの多くは新聞紙に挟まれただけである。またいくつかには詳細な書き込みや細部の図がつけられており、そのようなものからも彼がしっかりとした植物学者としての知識を持っていたことがうかがえる。ただし、熊楠自身は高等植物に関して専門家であると発言していない。しかし、自然保護運動にせよ、隠花植物の研究にせよ、高等植物に関する知識がその下地を作っていたのであろう。
熊楠については粘菌のことが取り上げられることが多いが、熊楠自身は隠花植物全般を専門にしていた。熊楠は非常に多くの標本を作製し、それらを図として残した。
淡水藻類についても多くのプレパラート標本が作られたのはわかっている。ただし、この分野については熊楠が発表したものも少なく、また標本の保存もよくないため、詳しいことはわかっていない。
菌類のうち、キノコについても熊楠は多くの努力を費やした。乾燥標本も多く作成したが、熊楠はキノコの彩色図に専門的な記載文をつけたものを3,500枚も作成した。熊楠の標本を検討した粘菌学者の萩原博光はこれについて「南方ほど多くの図と記載文を残した研究者は少ないだろう」と述べているという。
粘菌については、熊楠は古くから関心を持っていたのは間違いないが、初期にはむしろ植物や淡水藻類に努力を傾けており、標本の様子などから見て、その精力が注がれたのは田辺に居を定めてからであるらしい。熊楠は6,000点以上の変形菌の標本を残し、数度にわたって変形菌目録を発表した。熊楠が発見した新種は10種ほどがあり、中でもミナカタホコリには熊楠の名が残されたことでよく知られる。しかし、萩原は熊楠の先進性を別のところに認めている。ミナカタホコリは生きた樹木の樹皮に発生するもので、このような環境に生息する変形菌の研究は1970年代以降に注目されるようになったものであり、また1990年代に注目されるようになった冬季に発生する粘菌にも熊楠が注目していたことがわかっている。
このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものから判断すると、熊楠が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは、出版された論文をもって正式な業績と見なす科学の世界では致命的である。たとえば粘菌の分野では、熊楠は数度にわたって目録を発表しており、熊楠以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加した。これだけでも熊楠は変形菌研究の歴史に大きな名を残している。しかし、例えば熊楠は「新種」を記載してはおらず、熊楠の手による新種は、全て他の研究者によって発表されたものである。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、熊楠に対しては「優れた観察者およびコレクター」(萩原(1999),p.245)という評価しかできない。
国立科学博物館筑波実験植物園植物研究部長の細矢剛は、『菌類図譜』について「記載方法が自己流で内容にもムラがある」ため生物学的な価値は高くないと指摘しつつ、においや味についても書き込んでいるのは熊楠自身のためのデータベース的な役割だったのではないかと推測し、文化的価値を認めている。ワタリウム美術館館長の和多利恵津子は『南方熊楠菌類図譜』(新潮社)においてアート作品としての面を評価している。
『ネイチャー』誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている。 これについては、熊楠が目指していた菌類図説がもし発表されていれば、また評価は違ったかも知れない。ただ、熊楠自身の残したメモや日記、手紙類から、熊楠の学問について推測するための努力は今も続けられている。
熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。更に猥談が挟み込まれることも多く、柳田國男はそうした熊楠の論文に度々苦言を呈した。しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプしていくのだ。(中略)話題と話題がなめらかに接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」「文章に猥談を突入させることによって、彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造をもつことになる。」と分析。「こういう構造をもった文章でなければ、熊楠は書いた気がしなかったのだ。手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、また熊楠の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」とも述べている。
1903年7月18日に土宜法龍との書簡の中で記されたマンダラ。書簡の中で図で記されている。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した。
概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。
熊楠の考えるマンダラとは「森羅万象」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある。
熊楠は自然保護運動における先達としても評価されている。
1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年(明治40年)から神社合祀反対運動を起こした。
特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。熊楠はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点で極めて先進的であった。
この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、2004年(平成16年)に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。
熊楠は子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていた。この伝説については、一部分を丸暗記して筆写した可能性はあるが、105巻すべてをそのまま記憶して筆写したというのは虚構である。むしろ本を借りてきて写し書くことによって内容を隅から隅まで記憶していったというのが正確だろう。
熊楠は自身の記憶法については土宜法龍(真言宗僧侶)に書簡で述べている。それを簡単にまとめると以下のようになる。
日本の雑誌に論考を発表するようになってからも、必要なデータがどの本のどのページにあるか記憶していて、いきなりそのページをぱっとあけたり、原稿を書くときも、覚えていることを頭の中で組み立ててすらすらと書いていった。
蔵の中へ出たり入ったりしていてどこに何ページということはちゃんと覚えていた。よく「何ページにあるとおもったら、やっぱりあった」と言って喜んでいた。
田辺在住の知人野口利太郎は熊楠と会話した際、“某氏”の話が出た。熊楠は即座に「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんなことをしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている。
元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方を色々調べたことがあった。その後、熊楠と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほど経って今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ熊楠は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれるが、研究が進展した現在、伝記を著した唐澤太輔は、南方が『華厳経』そのものを読んでいた形跡がないことを指摘しており、また友人土宜法龍は「仏教の有名な寓話(譬喩)を無理やり持ち出してきているだけで、教理をしっかり押さえていない(大意)」と批判指摘している 。
さすがの熊楠も老化には勝てず、晩年は記憶力低下に対して様々な策を講じていた。本の内容を即座に検索できる索引の作成、自身の発表していた和文論文の利用。さらにどうしても思い出せないときは知人に手紙を宛てて文献の出典などを聞いていた。 夜中の離れの書斎で独り言を言っていた。夜通し喋っており「このぐらいのことがおぼえられませんかね、バカやろう」「南方先生はバカだから」と言っていた。晩年はさすがに覚えていても忘れて、それを涙をこぼして歯がゆがった。「どうしてこんなことになったのかな」といった。
語学には極めて堪能で、十数言語(ときに、二十数言語)解したと言われる。中でも英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語について、専門書を読み込む読解力を有していた。また、ギリシア語、ロシア語などに関しても、ある程度学習したと考えられる。ただし、話したり書いたりしていることが確かめられる外国語は英語のみであり(参考文献では他言語も引用していた)、十数言語を「自由に操った」というのは伝説と考えられる。
語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。
英語運用能力が知識人として十分であったことは大英博物館スタッフや文学者アーサー・モリソンを含むイギリス知識人との交友や、『全集』の400ページに及ぶ英語論文が示している。
フランス語も著作での引用から、多数の文献を読みこなすに十分な読解力があったと評価してよい。
ドイツ語、イタリア語、スペイン語はいずれも「ロンドン抜書」での筆写量はそれなりの量に及ぶが、論述での利用はかなり少なくなる。
サンスクリット語については、熊楠の知識が土宜法龍との出会いを取り持った可能性がある。
ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・ヴィクター・ディキンズは『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと、熊楠を大学に呼び出す。熊楠はページをめくるごとにディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し、推敲するよう命じる。日本語に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは、30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂。熊楠もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て、「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本にはいない」と怒鳴り返す。その場は喧嘩別れに終わるが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディキンズは、それから終生、熊楠を友人として扱った。
長男の熊弥、長女の文枝ともに子がいなかったため、熊楠直系の子孫は途絶えた。熊楠の実弟である常楠の家系は、世界一統という造り酒屋として現在も続いている。
「南方熊楠顕彰会」関係者を中心に「熊楠日記」等の研究や評伝が刊行されている。 | [
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"text": "南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。",
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"text": "生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。",
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"text": "1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。",
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"text": "民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。",
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"text": "フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。",
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"text": "柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称され、現代では「知の巨人」との評価もある。",
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"text": "現在の和歌山県和歌山市に生まれ、東京での学生生活の後に渡米。さらにイギリスに渡って大英博物館で研究を進めた。多くの論文を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を在野で過ごした。",
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"text": "熊楠の学問は博物学、民俗学、人類学、植物学、生態学など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、書斎や那智山中に籠っていそしんだ研究からは、曼荼羅にもなぞらえられる知識の網が生まれた。",
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"text": "1893年(明治25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『ネイチャー』誌上での星座に関する質問に答えた「東洋の星座」を発表した。また大英博物館の閲覧室において「ロンドン抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や考古学、宗教学、セクソロジーなどを独学した。さらに世界各地で発見、採集した地衣・菌類や、科学史、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『ノーツ・アンド・クエリーズ(英語版)』に次々と寄稿した。",
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"text": "生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。",
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"text": "帰国後は、和歌山県田辺町(現・田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい種70種を発見し、また自宅の柿の木では新しい属となった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『太陽』『日本及日本人』などの雑誌に数多くの論文を発表した。",
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"text": "※日付は1872年まで旧暦",
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"text": "慶応3年(1867年)4月15日、和歌山城城下町の橋丁(現・和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる。南方家は、海南市にある藤白神社を信仰していた。藤白神社には熊野神が籠るといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」と熊野の「熊」そして、この大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。生家には商品の鍋や釜を包むための反古紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読んで成長した。学問に興味を持ったのも幼年期からで父親の前妻の兄が学文好きだったので、その残した書籍を読んでおり、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を諳んじていた。父弥兵衛は熊楠の様子を見て「この子だけは学問をさせようということで、随分学問を奨励して呉れた」と熊楠は語っている。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通わせてもらっていた。他にも漢学塾、心学塾にも通っている。",
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"text": "1873年(明治6年)、雄小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学。",
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"text": "1874年(明治7年)頃、近所の産婦人科佐竹宅で『和漢三才図会』を初めて見る。数え10歳の時に売りに出ていたものを父にねだったが買ってもらえなかった。",
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"text": "1876年(明治9年)、雄小学校卒業、鍾秀学校に入学。",
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"text": "しかし父からあまり書籍を買ってもらえなかったため、岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶しながらの筆写を始める。この他12歳迄に『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』等をも筆写も本格的に行う。これにより熊楠の生涯にわたり筆写で行なう学問スタイルが培われた。",
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"text": "1879年(明治12年)、和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)が創設され同校に入学。教師鳥山啓から博物学を勧められ、薫陶を受ける(のちに鳥山啓は華族女学校教師となる。行進曲『軍艦』の作詞者として知られる)。5月~7月、『和歌山新聞』の記事の抜粋ノートを作成する。12月、作文「祝文」「火ヲ慎ム文」を書く。",
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"text": "1880年(明治13年)4月、作文「教育ヲ主トスル文」を書く。9月、 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる。",
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"text": "1882年(明治14年)2月1日、『和漢三才図会』を写し終える。「南方熊楠辞」と題した書き込みは、家族内の問題に悩み「その積もる所終に発して病となり、今に全くは癒えざるぞ憂き」という言葉が見える。春には、父母、弟の常楠とともに高野山金剛峯寺を訪れて、弘法大師一千年忌の名宝展を見る。この目録の筆写を5月23日に作成。",
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"text": "1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現・開成高校)入学。当時の共立学校は大学予備門(のちの東京大学)入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、クラスメートに幸田露伴の弟の成友らもおり、高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バークレイが菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し、標本・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどから成る備忘録をつけている。",
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"text": "1884年(明治17年)9月、大学予備門に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、寺石正路、芳賀矢一、山田美妙、本多光太郎などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。郷里では、父・弥右衛門が南方酒造(後の世界一統)を創業していた。",
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"text": "1885年(明治18年)1月1日、現在残された日記はこの日から始まり1941年12月の死去までほぼ毎日つけられている。4月、一人で鎌倉から江ノ島に旅行。海辺の動物を採取し、貝類を購入する。4月29日、日記に「余一昨日より頭痛始まり今日なほ已まず」と書き込む。5月12日、大森貝塚を訪れ、土器、骨片を拾う。6月、この頃から翌年にかけて『当世書生気質』『南総里見八犬伝』を一冊ずつ買い足して読んでいる。6月14日、眼病を理由に三学期の試験を欠席することを決定する。7月、日光に旅行。動物、植物、化石、鉱物を採集している。",
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"text": "12月29日 期末試験で代数1課目だけが合格点に達しなかったため落第。予備門を中退。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 24,
"tag": "p",
"text": "1886年(明治19年)1月、『佳人之奇遇』4冊を購入。2月、和歌山へ帰郷。4月、羽山繁太郎の誘いを受け日高郡に旅行する。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 25,
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"text": "心機一転し自由な学問ができる新天地を求め留学を決意。当時外国に留学するには莫大な費用がかかったが、その頃の南方家の財力は頂点に達しており問題はなかった。父親は当初熊楠の留学に反対していたものの徐々に熊楠の熱意に理解を示し、最終的に留学を後押ししたという。10月20日より4日間『和歌山新聞』に送別会の広告が掲載される。26日、和歌山市内の松寿亭で送別会が開かれる。参加者は熊楠を入れて16人。このときの熊楠の演説に関しては草稿が残されている。12月22日に横浜港を出航して渡米。船内で中国人乗客と筆談する。",
"title": "来歴"
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"text": "1887年(明治20年)1月8日に米国サンフランシスコ着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。8月にミシガン州農業大学(ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学)入学。当初は商業を学ぶ予定だったが次第に「商買の事」から離れていった。ミシガン州立大学は一流大学であったが、熊楠は大学に入らず、例によって「自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、曠野林中に遊びて自然を観察す(履歴書)」という生活を送る。",
"title": "来歴"
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"text": "熊楠は邦文のものは当時東京にいた弟の常楠から送ってもらい、英文のものは自ら購入して多くの書物や雑誌を読破していった。",
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"text": "1888年(明治21年)、寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、シカゴの地衣類学者ウィリアム・ワート・カルキンズ(wikidata)(英: William Wirt Calkins)に師事して標本作製を学ぶ。",
"title": "来歴"
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"text": "この採集→整理記載→標本作りという生活スタイルは子供の頃に昆虫や藻などを空の弁当箱に詰めたことに始まって、学生時代、アメリカ放浪記を経て帰国後の那智隠遁棲期、田辺定住、そして晩年まで変わることはなかった。これは自分の病(癇癪など)を自覚した熊楠が自らに施した対症療法であろうと指摘されている。",
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"text": "1889年4月、てんかんの発作がおきる。日記によれば1886年10月以来のこと。8月19日、アナーバーにいるミシガン大学の日本人留学生に回覧するため、熊楠が手書きで発行した一部だけの個人新聞『珍事評論』第1号を発行。第3号まで発行。",
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"text": "1890年3月、プリニウス『博物誌』(ラテン語)を購入する。5月、タイラー『原始文化』、ハーバート・スペンサー『社会学原理』などを購入。5月から11月にかけてヒューロン川の川辺や付近の森林で高等植物、菌類を中心に盛んに採集を行う。12月、シカゴのアマチュア植物学者カルキンスから菌類の標本を送られ、連日、分類目録を作成する。",
"title": "来歴"
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"text": "1891年(明治24年)1月、カルキンスから地衣類60種一箱の標本を送られる。同年5月、フロリダ州ジャクソンヴィル市に移り、生物を調査。中国人の江聖聡が経営する食品店で住み込みで働く。新発見の緑藻を科学雑誌『ネイチャー』に発表、ワシントンD.C.の国立博物館から譲渡してほしい旨の連絡が入る。",
"title": "来歴"
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"text": "7月、ピトフォラ・オエドゴニアを採集する。9月にはキューバに渡り採集旅行。石灰岩生地衣を発見(ウィリアム・カルキンスから標本を送られたウィリアム・ニランデルにより、新種として「Gyalecta cubana(ギアレクタ・クバーナ)」と命名されるが、正式に発表されず)。",
"title": "来歴"
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"text": "1892年(明治25年)1月、フロリダに戻り江聖聡と再び同居。9月に渡英した。日本を飛び出してから6年の歳月が流れ、熊楠は25歳になっていた。9月28日、イギリスで、8月8日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける。",
"title": "来歴"
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"text": "1893年(明治26年)、科学雑誌『ネイチャー』10月5日号に初めて論文「極東の星座」を、同10月12日号に論文「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿。オーガスタス・ウォラストン・フランクスと知り合い大英博物館に出入りするようになる。考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。",
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"text": "10月30日、自らの生涯にかけがいのない存在となる人物、土宜法龍と巡り合う。仏教を中心とした宗教論、哲学論で熱論を交わす。12月、土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る。",
"title": "来歴"
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"text": "1894年(明治27年)、 『ネイチャー』5月17日号に論文「コムソウダケに関する最古の記録」を、12月27日号に論文「『指紋』法の古さについて1」を寄稿。これらの論文はいずれも熊楠の中に蓄積された和漢の知識を駆使して書かれたものである。いわば「東洋の知」をもって英国の学会に切り込んだのである。こうした一連の仕事によって熊楠の名は英国の識者たちに知られるようになった。",
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"text": "1895年(明治28年)、フレデリック・ヴィクター・ディキンズと知り合う。大英博物館で東洋図書目録編纂係としての職を得る。『ネイチャー』6月27日号に論文「網の発明」を寄稿。またこの年の4月より「ロンドン抜書」を開始する。",
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"text": "1896年(明治29年)2月27日に母・すみが亡くなった。『ネイチャー』2月6日号に論文「驚くべき音響1」を寄稿。",
"title": "来歴"
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"text": "1897年(明治30年)1月、シュレーゲルに落斯馬(ロスマ)のことについて手紙を送る。このあといわゆる「ロスマ論争」に発展。 3月、ロンドンに亡命中の孫逸仙(孫文)と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。6月、熊楠の日記中に孫文が友情のしるしとして「海外逢知音」を書き付ける。",
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"text": "11月8日、大英博物館で日本人への人種差別を受け暴力事件を起こす。12月、大英博物館より入館証を返してもらい読書を再開する。",
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"text": "1898年12月夕方、大英博物館の閲覧室で女性の高声を制し、監督官との口論の末、追い出される。14日、大英博物館から追放の通知を受ける。",
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"text": "1899年1月31日、常楠よりの手紙を読み「此夜不眠」。仕送りを当年限りで打ち切るという内容の前年12月21日付の常楠書簡が残されており、このことかと思われる。3月、南ケンジントン博物館での日本書の題号翻訳の仕事を始める。6月3日付の『N&Q』に同誌初めての投稿「神童」が掲載される。",
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"text": "1900年(明治33年)10月15日、14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院(大阪府泉南郡岬町)、次いで和歌山市の円珠院に居住する。翌1901年(明治34年)、孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。",
"title": "来歴"
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"text": "1902年(明治35年)、熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。『ネイチャー』7月17日号に論文「ピトフォラ・オエドゴニア」を寄稿。12月、プルタルコス『対比列伝』英訳の読書を再開する。ルソー『告白』をフランス原書で読み始める。",
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"text": "1903年(明治36年)、論文『燕石考』完成。『ネイチャー』4月30日号に論文「日本の発見」を、7月30日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿。7月18日付の土宜法龍宛の手紙の中にいわゆる「南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する。8月8日、この日付の土宜法龍宛の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅の思想について説明する。",
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"text": "1904年(明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格とその死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才と退行』を読み始める。カービーの『エストニアの英雄』を読み始める。",
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"text": "1905年(明治38年)4月より夜寝る前にシェイクスピア全集を読むことを日課とし、興が乗ると翌日朝にも続けて読んだ。日記に掲載されているだけでも23作品をこの時期に読破している。6月、ディキンズとの共訳『方丈記』の掲載された『王立アジア協会雑誌』1冊と抜刷11冊が送られる。",
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"text": "1906年(明治39年)2月、アーサー・リスターからジェップを通じて熊楠の送った47種の日本産変形菌の同定に関する手紙が送られる。7月、 田辺の闘鶏神社宮司田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。6月、タブノキ(クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種として記載された。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの。",
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"paragraph_id": 50,
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"text": "1907年(明治40年)、前年末発布の神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を起こす。6月24日に長男熊弥誕生。2月8日より「田辺抜書」を開始する。田辺図書館、田辺中学、法輪寺、闘鶏神社などで借りた本の妙写。9月、バートン版の『アラビアン・ナイト』12冊を購入し、就寝前に読み耽る。",
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"text": "1908年(明治41年)、『ネイチャー』11月26日号に論文「魚類に生える藻類」を寄稿。",
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"text": "1909年(明治42年)9月 、新聞『牟婁新報』に神社合祀反対の論陣を張る。",
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"paragraph_id": 53,
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"text": "1910年(明治43年)、紀伊教育会主催の講習会場に酩酊状態で押し入り、翌日、家宅侵入で逮捕。監獄で新種の粘菌を発見したという。『ネイチャー』6月23日号に論文「粘菌の変形体の色1」を寄稿。",
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"paragraph_id": 54,
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"text": "1911年(明治44年)、柳田國男との文通が始まり、1913年まで続いた。8月7日、この日付の柳田國男宛書簡で「植物棲態学 ecology」という言葉を用いる。11月12日柳田宛書簡では「エコロジー」、11月19日川村竹治宛書簡でも「エコロギー」という言葉を用いている。9月、柳田が『南方二書』を出版。10月13日、長女文枝誕生。",
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"text": "1912年(明治45年/大正元年)、田辺湾神島(かしま)が保安林に指定される。",
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"paragraph_id": 56,
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"text": "1913年(大正2年)、柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。この時の模様は柳田の著書「故郷70年」に詳しい。柳田は親友:松本烝治を伴って熊楠宅を訪れた。前述のように熊楠は泥酔していた。そして松本に対して「こいつの親爺は知っている、松本荘一郎で、いつか撲ったことがある」というようなことをいい出した。 ただし「故郷70年」によると面会は1911年になっている。",
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"text": "1914年(大正3年)、1月から1923年11月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー』1月15日号に論文「古代の開頭手術」を寄稿。なお同年には第一次世界大戦が始まった。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 58,
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"text": "1915年(大正4年)、アメリカ農務省の植物学者スウィングルが田辺を来訪し、神島を共同調査。『N&Q』に「戦争に使われた動物」を掲載。",
"title": "来歴"
},
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"paragraph_id": 59,
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"text": "1916年(大正5年) 、田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。7月9日、自宅の柿の木で粘菌新属を発見。",
"title": "来歴"
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"text": "1917年9月頃よりロシア語を独習し始める。雑誌に「ミイラについて」を掲載。11月頃から「馬に関する民俗と伝説」について調べ始める。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 61,
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"text": "1918年5月頃、盛んに松葉蘭の研究と文通を行う。12月、「蛇に関する民俗と伝説」の執筆を始める。",
"title": "来歴"
},
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"paragraph_id": 62,
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"text": "1919年9月24日、『大阪毎日新聞』に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載される。",
"title": "来歴"
},
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"paragraph_id": 63,
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"text": "1920年(大正9年)2月、『集古』庚申一号に「なぞなぞ」を掲載。8月、土宜法龍の招きで小畔四郎らと高野山の菌類などを調査する。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "1921年(大正10年)、粘菌新属を“ミナカテルラ・ロンギフィラ(ドイツ語版)”(Minakatella longifila、「長い糸の南方の粘菌」の意。現在の標準和名はミナカタホコリ)と命名される。命名者はロンドン自然史博物館の粘菌学者グリエルマ・リスターであった。2月、『現代』に「桑名徳蔵と橋抗岩の話」を掲載。また同誌7号から「鳥を食うて王となった話」を連載。",
"title": "来歴"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "4月26日、南方植物研究所の発起人について、その後の追加を含めて原敬総理大臣以下28名の名前が『牟婁新報』に掲載される。9月、「蠍の生きたのが来着」連載。10月、第2回の高野山訪問。12月、「犬に関する民俗と伝説」の執筆を始める。",
"title": "来歴"
},
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"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "1922年(大正11年)、南方植物研究所設立資金募集のため上京。多くの名士、知人と面会する。7月、日光に採集旅行。11月、植物研究所の基金が集まったことを理由に常楠が仕送りを停止する。",
"title": "来歴"
},
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"paragraph_id": 67,
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"text": "1923年4月、『N&Q』への投稿論文「鷲石考」を書く。9月、リスター宛てに日本産粘菌141種の目録を送る。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 68,
"tag": "p",
"text": "1924年3月頃、バートン版『アラビアン・ナイト』を連日読み、索引を追補。5月、「十二支考」等の論文の版権料として中村古峡から500円を半金として受け取る。",
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"paragraph_id": 69,
"tag": "p",
"text": "1925年(大正14年)、長男熊弥が精神異常を発症し、入院のち自宅療養。6月、「人柱の話」を連載。",
"title": "来歴"
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{
"paragraph_id": 70,
"tag": "p",
"text": "1926年(大正15年/昭和元年)2月、『南方閑話』が刊行。5月、『南方随筆』刊行。イタリアの菌類学者ブレサドラ大僧正(ジアコーモ・ブレッサドーラ)の『菌図譜』(\"Iconographia Mycologica\")の出版に際し、名誉委員に推される。11月、熊楠が品種選定した粘菌標品37属90点を東宮(のちの昭和天皇)に進献する。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 71,
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"text": "1927年、「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」と「「田辺名物考」について」掲載。10月、『彗星』に「続『一代男輪講』の掲載を開始。以後、三田村鳶魚らの『西鶴輪講』に対する多数の注釈を同誌に発表。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 72,
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"text": "1928年10月、妹尾官林で植物の採集と図記を行なう。",
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"paragraph_id": 73,
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"text": "1929年(昭和4年)6月1日、 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦「長門」艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠はキャラメルの大きな空箱に入れて献上した。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 74,
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"text": "1930年(昭和5年)6月、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する。植物採集減る。",
"title": "来歴"
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"text": "1933年、「今井君の「大和本草の菌類」に注記す」を掲載。",
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"text": "1934年、『ドルメン』に「地突き唄の文句」を連載。11月、神島の植物を調査し、「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作製する。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 77,
"tag": "p",
"text": "1935年(昭和10年)8月、神島に渡って久邇宮多嘉王と妃・息子に講話する。12月24日、 神島が国の天然記念物に指定される。",
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"text": "1936年、『牟婁新聞』に「新庄村合併について」を連載。",
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"paragraph_id": 79,
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"text": "1939年、「訳本『源氏物語』の普及について」を『日本』に12回連載する。",
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"paragraph_id": 80,
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"text": "1940年(昭和15年)11月10日、学術功労者として東京での紀元二千六百年記念式典への招聘を受けるが、歩行不自由の理由で断る。",
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"paragraph_id": 81,
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"text": "1941年(昭和16年)12月29日、自宅にて永眠。死因は萎縮腎であった。満74歳没(享年75)。田辺市稲成町の真言宗高山寺に葬られた。",
"title": "来歴"
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"paragraph_id": 82,
"tag": "p",
"text": "1929年(昭和4年)6月1日に昭和天皇を神島に迎え、「長門」艦上で進講(天皇の前で学問の講義をすること)を行なった。",
"title": "昭和天皇への進講"
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{
"paragraph_id": 83,
"tag": "p",
"text": "昭和天皇は皇太子時代から一貫して生物学に強い関心を持ち、とりわけ興味を示したのが、海産生物のヒドロ虫と粘菌(変形菌)の分類学的研究であった。",
"title": "昭和天皇への進講"
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{
"paragraph_id": 84,
"tag": "p",
"text": "熊楠の粘菌学の一番弟子であった小畔四郎は昭和天皇の博物学等の担当者・服部広太郎の甥の上司という関係で、服部から生物学講義のための粘菌の標本を見たいとの依頼を受けた。1926年2月、小畔から熊楠に手紙で、この機会に粘菌標本を40-50種類献上してはと相談した。これに対し、熊楠は37属90点を、目録・表啓文・二種の粘菌図譜とともに11月10日に進献した。この90点は日本の粘菌を研究する上で基本となる種を網羅する目的で選ばれた。",
"title": "昭和天皇への進講"
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"paragraph_id": 85,
"tag": "p",
"text": "1929年3月5日、服部広太郎が熊楠邸を来訪して仮定の形で進講を打診。4月25日、進講の決定を知らせる服部広太郎の手紙が届く。",
"title": "昭和天皇への進講"
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{
"paragraph_id": 86,
"tag": "p",
"text": "1929年6月1日午前8時、御召艦長門が田辺湾に姿を現す。熊楠は正午過ぎ田辺から漁船に乗り新庄村尊重たちと神島近海で待っていた。天皇は5時30分に長門に畠島から帰艦し、熊楠の進講を受ける。",
"title": "昭和天皇への進講"
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{
"paragraph_id": 87,
"tag": "p",
"text": "熊楠はウガ、地衣グアレクタ・クバナ、海洞に棲息する蜘蛛、ナキオカヤドカリ、隠花植物標本帖、菌類図譜、粘菌標本を持参。この内、蜘蛛、ナキオカヤドカリ、粘菌標本を献上した。粘菌標本は110点にのぼり、先の進献で漏れた普通種と稀産種、変種が中心で増補するのが目的だったと思われる。入れた箱は大きなボール紙製のキャラメル箱に入れて献上した。これは蓋が開けやすいためといわれてるが、自ら持参するのに軽いものを選んだとも考えられる。",
"title": "昭和天皇への進講"
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"paragraph_id": 88,
"tag": "p",
"text": "熊楠が所持した標本は国立科学博物館に寄贈され、今は筑波実験植物園にある。",
"title": "昭和天皇への進講"
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"paragraph_id": 89,
"tag": "p",
"text": "一周年の1930年6月1日に行幸記念碑が神島に建立された。",
"title": "昭和天皇への進講"
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"paragraph_id": 90,
"tag": "p",
"text": "1962年、白浜を訪れた昭和天皇は田辺湾に浮かぶ神島を見て思いを馳せ、熊楠との一期一会を懐かしみ",
"title": "昭和天皇への進講"
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{
"paragraph_id": 91,
"tag": "p",
"text": "「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」",
"title": "昭和天皇への進講"
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{
"paragraph_id": 92,
"tag": "p",
"text": "と詠んだ。その和歌が刻まれた御製碑は、1965年に設立された南方熊楠記念館の前庭に立っている。",
"title": "昭和天皇への進講"
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{
"paragraph_id": 93,
"tag": "p",
"text": "熊楠は博物学者として紹介されることが多いが、時代としては既に博物学は解体されており、熊楠の活動はその面では完全に植物学の分野に収まる。熊楠の専門分野はいわゆる隠花植物である。東京時代にアメリカのカーチスという学者が生涯に菌類を6000点収集したとの話を聞いて、自分は7000点を集めることを決心したとの逸話がある。",
"title": "学問"
},
{
"paragraph_id": 94,
"tag": "p",
"text": "しかしながら、熊楠が生涯で最も時間をかけていたのは、実は顕花植物の収集であったらしい。渡米前には日光などで、またアメリカでも各地で植物採集を行い、帰国後は和歌山県南部の各地で多量の植物採集を行い、それらの標本は、保存状態はともあれ、多くが残されている。初期のものは台紙に張った正式な押し葉標本の形に整えられているものが多いが、後期のものの多くは新聞紙に挟まれただけである。またいくつかには詳細な書き込みや細部の図がつけられており、そのようなものからも彼がしっかりとした植物学者としての知識を持っていたことがうかがえる。ただし、熊楠自身は高等植物に関して専門家であると発言していない。しかし、自然保護運動にせよ、隠花植物の研究にせよ、高等植物に関する知識がその下地を作っていたのであろう。",
"title": "学問"
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"paragraph_id": 95,
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"text": "熊楠については粘菌のことが取り上げられることが多いが、熊楠自身は隠花植物全般を専門にしていた。熊楠は非常に多くの標本を作製し、それらを図として残した。",
"title": "学問"
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"paragraph_id": 96,
"tag": "p",
"text": "淡水藻類についても多くのプレパラート標本が作られたのはわかっている。ただし、この分野については熊楠が発表したものも少なく、また標本の保存もよくないため、詳しいことはわかっていない。",
"title": "学問"
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"paragraph_id": 97,
"tag": "p",
"text": "菌類のうち、キノコについても熊楠は多くの努力を費やした。乾燥標本も多く作成したが、熊楠はキノコの彩色図に専門的な記載文をつけたものを3,500枚も作成した。熊楠の標本を検討した粘菌学者の萩原博光はこれについて「南方ほど多くの図と記載文を残した研究者は少ないだろう」と述べているという。",
"title": "学問"
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"paragraph_id": 98,
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"text": "粘菌については、熊楠は古くから関心を持っていたのは間違いないが、初期にはむしろ植物や淡水藻類に努力を傾けており、標本の様子などから見て、その精力が注がれたのは田辺に居を定めてからであるらしい。熊楠は6,000点以上の変形菌の標本を残し、数度にわたって変形菌目録を発表した。熊楠が発見した新種は10種ほどがあり、中でもミナカタホコリには熊楠の名が残されたことでよく知られる。しかし、萩原は熊楠の先進性を別のところに認めている。ミナカタホコリは生きた樹木の樹皮に発生するもので、このような環境に生息する変形菌の研究は1970年代以降に注目されるようになったものであり、また1990年代に注目されるようになった冬季に発生する粘菌にも熊楠が注目していたことがわかっている。",
"title": "学問"
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"text": "このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものから判断すると、熊楠が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは、出版された論文をもって正式な業績と見なす科学の世界では致命的である。たとえば粘菌の分野では、熊楠は数度にわたって目録を発表しており、熊楠以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加した。これだけでも熊楠は変形菌研究の歴史に大きな名を残している。しかし、例えば熊楠は「新種」を記載してはおらず、熊楠の手による新種は、全て他の研究者によって発表されたものである。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、熊楠に対しては「優れた観察者およびコレクター」(萩原(1999),p.245)という評価しかできない。",
"title": "学問"
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"text": "国立科学博物館筑波実験植物園植物研究部長の細矢剛は、『菌類図譜』について「記載方法が自己流で内容にもムラがある」ため生物学的な価値は高くないと指摘しつつ、においや味についても書き込んでいるのは熊楠自身のためのデータベース的な役割だったのではないかと推測し、文化的価値を認めている。ワタリウム美術館館長の和多利恵津子は『南方熊楠菌類図譜』(新潮社)においてアート作品としての面を評価している。",
"title": "学問"
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"text": "『ネイチャー』誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている。 これについては、熊楠が目指していた菌類図説がもし発表されていれば、また評価は違ったかも知れない。ただ、熊楠自身の残したメモや日記、手紙類から、熊楠の学問について推測するための努力は今も続けられている。",
"title": "学問"
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"text": "熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。更に猥談が挟み込まれることも多く、柳田國男はそうした熊楠の論文に度々苦言を呈した。しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプしていくのだ。(中略)話題と話題がなめらかに接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」「文章に猥談を突入させることによって、彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造をもつことになる。」と分析。「こういう構造をもった文章でなければ、熊楠は書いた気がしなかったのだ。手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、また熊楠の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」とも述べている。",
"title": "学問"
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"text": "1903年7月18日に土宜法龍との書簡の中で記されたマンダラ。書簡の中で図で記されている。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した。",
"title": "南方マンダラ"
},
{
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"text": "概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「物不思議」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「心不思議」、そして両者が交わるところである「事不思議」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「理不思議」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の大不思議」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「萃点(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという。",
"title": "南方マンダラ"
},
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"text": "熊楠の考えるマンダラとは「森羅万象」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある。",
"title": "南方マンダラ"
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"text": "熊楠は自然保護運動における先達としても評価されている。",
"title": "自然保護運動"
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"text": "1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年(明治40年)から神社合祀反対運動を起こした。",
"title": "自然保護運動"
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"text": "特に、田辺湾の小島である神島の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は天然記念物に指定され、後に昭和天皇が行幸する地となった。熊楠はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する生物群集として島を生態学的に論じたこともあり、その点で極めて先進的であった。",
"title": "自然保護運動"
},
{
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"text": "この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先がけとして高く評価されており、2004年(平成16年)に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。",
"title": "自然保護運動"
},
{
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"text": "熊楠は子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていた。この伝説については、一部分を丸暗記して筆写した可能性はあるが、105巻すべてをそのまま記憶して筆写したというのは虚構である。むしろ本を借りてきて写し書くことによって内容を隅から隅まで記憶していったというのが正確だろう。",
"title": "記憶力"
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"text": "熊楠は自身の記憶法については土宜法龍(真言宗僧侶)に書簡で述べている。それを簡単にまとめると以下のようになる。",
"title": "記憶力"
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"text": "日本の雑誌に論考を発表するようになってからも、必要なデータがどの本のどのページにあるか記憶していて、いきなりそのページをぱっとあけたり、原稿を書くときも、覚えていることを頭の中で組み立ててすらすらと書いていった。",
"title": "記憶力"
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"text": "蔵の中へ出たり入ったりしていてどこに何ページということはちゃんと覚えていた。よく「何ページにあるとおもったら、やっぱりあった」と言って喜んでいた。",
"title": "記憶力"
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"text": "田辺在住の知人野口利太郎は熊楠と会話した際、“某氏”の話が出た。熊楠は即座に「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんなことをしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている。",
"title": "記憶力"
},
{
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"text": "元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方を色々調べたことがあった。その後、熊楠と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほど経って今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ熊楠は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという。旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を書き写した筆写魔(ただし『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれるが、研究が進展した現在、伝記を著した唐澤太輔は、南方が『華厳経』そのものを読んでいた形跡がないことを指摘しており、また友人土宜法龍は「仏教の有名な寓話(譬喩)を無理やり持ち出してきているだけで、教理をしっかり押さえていない(大意)」と批判指摘している 。",
"title": "記憶力"
},
{
"paragraph_id": 116,
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"text": "さすがの熊楠も老化には勝てず、晩年は記憶力低下に対して様々な策を講じていた。本の内容を即座に検索できる索引の作成、自身の発表していた和文論文の利用。さらにどうしても思い出せないときは知人に手紙を宛てて文献の出典などを聞いていた。 夜中の離れの書斎で独り言を言っていた。夜通し喋っており「このぐらいのことがおぼえられませんかね、バカやろう」「南方先生はバカだから」と言っていた。晩年はさすがに覚えていても忘れて、それを涙をこぼして歯がゆがった。「どうしてこんなことになったのかな」といった。",
"title": "記憶力"
},
{
"paragraph_id": 117,
"tag": "p",
"text": "語学には極めて堪能で、十数言語(ときに、二十数言語)解したと言われる。中でも英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、スペイン語について、専門書を読み込む読解力を有していた。また、ギリシア語、ロシア語などに関しても、ある程度学習したと考えられる。ただし、話したり書いたりしていることが確かめられる外国語は英語のみであり(参考文献では他言語も引用していた)、十数言語を「自由に操った」というのは伝説と考えられる。",
"title": "語学力"
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"paragraph_id": 118,
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"text": "語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。",
"title": "語学力"
},
{
"paragraph_id": 119,
"tag": "p",
"text": "英語運用能力が知識人として十分であったことは大英博物館スタッフや文学者アーサー・モリソンを含むイギリス知識人との交友や、『全集』の400ページに及ぶ英語論文が示している。",
"title": "語学力"
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{
"paragraph_id": 120,
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"text": "フランス語も著作での引用から、多数の文献を読みこなすに十分な読解力があったと評価してよい。",
"title": "語学力"
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"paragraph_id": 121,
"tag": "p",
"text": "ドイツ語、イタリア語、スペイン語はいずれも「ロンドン抜書」での筆写量はそれなりの量に及ぶが、論述での利用はかなり少なくなる。",
"title": "語学力"
},
{
"paragraph_id": 122,
"tag": "p",
"text": "サンスクリット語については、熊楠の知識が土宜法龍との出会いを取り持った可能性がある。",
"title": "語学力"
},
{
"paragraph_id": 123,
"tag": "p",
"text": "ロンドン大学事務総長の職にあったフレデリック・ヴィクター・ディキンズは『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと、熊楠を大学に呼び出す。熊楠はページをめくるごとにディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し、推敲するよう命じる。日本語に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは、30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂。熊楠もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て、「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本にはいない」と怒鳴り返す。その場は喧嘩別れに終わるが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディキンズは、それから終生、熊楠を友人として扱った。",
"title": "語学力"
},
{
"paragraph_id": 124,
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"text": "長男の熊弥、長女の文枝ともに子がいなかったため、熊楠直系の子孫は途絶えた。熊楠の実弟である常楠の家系は、世界一統という造り酒屋として現在も続いている。",
"title": "家族"
},
{
"paragraph_id": 125,
"tag": "p",
"text": "「南方熊楠顕彰会」関係者を中心に「熊楠日記」等の研究や評伝が刊行されている。",
"title": "南方熊楠を題材とした作品"
}
] | 南方 熊楠は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。 1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。 民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。 フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。 柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称され、現代では「知の巨人」との評価もある。 | {{脚注の不足|date=2016年8月21日 (日) 07:49 (UTC)}}
{{Infobox 学者
|名前 = {{ruby|南方|みなかた}} {{ruby|熊楠|くまぐす}}
|画像 = Minakata-Kumagusu.jpg
|画像サイズ = 230px
|画像説明 = 御前進講の際の記念撮影(昭和4年6月1日)
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1867|5|18|no}}
|生誕地 = {{JPN}}・[[紀伊国]][[和歌山市|和歌山城下]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1867|05|18|1941|12|29}}
|死没地 = {{JPN}}・[[和歌山県]][[西牟婁郡]][[田辺町 (和歌山県)|田辺町]]
|死因 =
|居住 = {{USA1891}}<br/>{{GBR}}
|国籍 = {{JPN}}
|出身校 =
|配偶者 = 松枝
|両親 = [[父親|父]]:弥右衛門<br/>[[母親|母]]:すみ
|子供 = 長男:熊弥<br/>長女:文枝
|時代 =
|活動地域 =
|研究分野 = [[博物学]]<br/>[[生物学]](特に[[菌類学]])<br/>[[民俗学]]
|研究機関 = [[大英博物館]]
|学位 =
|称号 =
|特筆すべき概念 =
|主な業績 = [[変形菌|粘菌]]の研究
|主要な作品 = 『十二支考』<br/>『南方随筆』など
|影響を受けた人物 =
|影響を与えた人物 = 小畔四郎<br/>[[柳田國男]]
|学会 =
|主な受賞歴 =
}}
'''南方 熊楠'''(みなかた くまぐす、[[1867年]][[5月18日]]([[慶応]]3年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]) - [[1941年]]([[昭和]]16年)[[12月29日]])は、[[日本]]の[[博物学|博物学者]]・[[生物学|生物学者]]・[[民俗学|民俗学者]]。
生物学者としては[[変形菌|粘菌]]の研究で知られているが、[[キノコ]]、[[藻類]]、[[苔|コケ]]、[[シダ植物|シダ]]などの研究もしており、さらに[[高等生物|高等]]植物や[[昆虫]]、小動物の採集も行なっていた<ref>松居竜五・岩崎仁編『南方熊楠の森』(方丈堂出版、2005年)4〜13頁</ref>。そうした調査に基づいて[[生態学]]([[エコロジー|ecology]])を早くから日本に導入した。
[[1929年]]には[[昭和天皇]]に[[内奏|進講]]し、粘菌[[標本 (分類学)|標品]]110種類を進献している<ref name=":jiten">{{Cite book|title=南方熊楠大辞典|date=2012年1月30日|year=|publisher=勉誠出版}}</ref>。
民俗学研究上の主著として『[[十二支]]考』『南方随筆』などがある。その他にも、投稿論文、ノート、[[日記]]のかたちで学問的成果が残されている。
[[フランス語]]、[[イタリア語]]、[[ドイツ語]]、[[ラテン語]]、[[英語]]、[[スペイン語]]に長けていた他、[[漢文]]の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した<ref name="名前なし-1">田村義也「語学力」(『南方熊楠大事典』129-133頁)</ref>。言動や[[性格]]が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の[[逸話]]を残している<ref>飯倉照平「熊楠伝説」、『南方熊楠大事典』(勉誠出版、2012年)124〜129頁などを参照。</ref>。
[[柳田國男]]から「'''日本人の可能性の極限'''」と称され<ref name=":0" />、現代では「知の巨人」との評価もある<ref name="よみほっと20211024">『[[読売新聞]]』よみほっと(日曜別刷り)2021年10月24日1面【ニッポン絵ものがたり】南方熊楠「菌類図譜」F.4198</ref>。
== 概説 ==
現在の[[和歌山県]][[和歌山市]]に生まれ、[[東京]]での学生生活の後に[[アメリカ合衆国|渡米]]。さらに[[イギリス]]に渡って[[大英博物館]]で研究を進めた。多くの[[論文]]を著し、国内外で大学者として名を知られたが、生涯を[[在野]]で過ごした。
熊楠の学問は[[博物学]]、[[民俗学]]、[[人類学]]、[[植物学]]、[[生態学]]など様々な分野に及んでおり、その学風は、一つの分野に関連性のある全ての学問を知ろうとする膨大なものであり、[[書斎]]や[[那智山 (山)|那智山]]中に籠っていそしんだ研究からは、[[曼荼羅]]にもなぞらえられる知識の網が生まれた。
[[1893年]]([[明治]]25年)のイギリス滞在時に、科学雑誌『[[ネイチャー]]』誌上での[[星座]]に関する質問に答えた「[[東洋]]の星座」を発表した。また大英博物館の閲覧室において「[[ロンドン]]抜書」と呼ばれる9言語の書籍の筆写からなるノートを作成し、人類学や[[考古学]]、[[宗教学]]、[[性科学|セクソロジー]]などを独学した。さらに世界各地で発見、採集した[[地衣類|地衣]]・菌類や、[[科学史]]、民俗学、人類学に関する英文論考を、『ネイチャー』と『{{仮リンク|ノーツ・アンド・クエリーズ|en|Notes and Queries}}』に次々と寄稿した。
生涯で『ネイチャー』誌に51本の論文が掲載されており、これは現在に至るまで単著での掲載本数の歴代最高記録となっている。
帰国後は、和歌山県[[田辺町 (和歌山県)|田辺町]](現・[[田辺市]])に居住し、[[柳田國男]]らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化学(民俗学)を展開した。菌類の研究では新しい[[種 (分類学)|種]]70種を発見し、また自宅の[[カキノキ|柿]]の木では新しい[[属 (分類学)|属]]となった粘菌を発見した。民俗学研究では、『人類雑誌』『郷土研究』『[[太陽 (博文館)|太陽]]』『[[日本及日本人]]』などの雑誌に数多くの論文を発表した。
== 来歴 ==
※日付は1872年まで[[旧暦]]
[[慶応]]3年([[1867年]])[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]、[[和歌山城]][[城下町]]の橋丁(現・和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む[[南方弥兵衛]](後に弥右衛門と改名)、すみの次男として生まれる{{Efn|熊楠の生まれた時、父弥兵衛は39歳、母住が30歳であった。ちなみに、この二人の間には、長男藤吉、長女くま、次男熊楠、三男常楠、次女藤枝、四男楠次郎の6人が生まれている。生誕地は橋丁二十二番地、その跡地に当たる駐車場の角に、和歌山市によって熊楠の胸像が1994年に建てられている{{sfn|飯倉|2006|p=2}}。}}。南方家は、[[海南市]]にある[[藤白神社]]を信仰していた。藤白神社には[[熊野権現|熊野神]]が籠るといわれる子守楠神社があり、藤白の「藤」と[[熊野]]の「熊」そして、この大[[クスノキ|楠]]の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという風習がある。南方家の子どもたちは、全て藤白神社から名を授けてもらっているが、熊楠は特に体が弱かったため、「熊」と「楠」の二文字を授かった。生家には商品の鍋や釜を包むための[[反古]]紙が山と積まれており、熊楠は、反古に書かれた絵や文字を貪り読んで成長した。学問に興味を持ったのも幼年期からで父親の前妻の兄が学文好きだったので、その残した書籍を読んでおり、学校に入る前から大抵の漢字の音訓を諳んじていた<ref name=":jiten" />。父弥兵衛は熊楠の様子を見て「この子だけは学問をさせようということで、随分学問を奨励して呉れた」と熊楠は語っている。そのため熊楠は就学前に[[寺子屋]]に通わせてもらっていた<ref name=":jiten" />。他にも[[漢学塾]]、[[心学]]塾にも通っている<ref name=":jiten" /><ref name="jiten6">{{Cite book|title=南方熊楠大事典(第六部 年譜)|date=2012年1月30日|year=|publisher=勉誠出版}}</ref>。
1873年([[明治]]6年)、{{Ruby|雄|おの}}小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学<ref name="jiten6" />。
1874年(明治7年)頃、近所の産婦人科佐竹宅で『[[和漢三才図会]]』を初めて見る。[[数え年|数え]]10歳の時に売りに出ていたものを父にねだったが買ってもらえなかった<ref name="jiten6" />。
1876年(明治9年)、雄小学校卒業、鍾秀学校{{Efn|速成中学校(旧制の[[高等小学校]]と同じ)で希望者のみ入学した。}}に入学。
しかし父からあまり書籍を買ってもらえなかったため<ref name=":jiten" />、岩井屋・津村多賀三郎から『和漢三才図会』105巻を借覧、記憶しながらの'''[[写本|筆写]]'''を始める。この他12歳迄に『[[本草綱目]]』『諸国[[名所図会]]』『[[大和本草]]』等をも筆写も本格的に行う<ref name="jiten6" />。これにより熊楠の生涯にわたり筆写で行なう学問スタイルが培われた<ref name=":jiten" />。
1879年(明治12年)、和歌山中学校(現、[[和歌山県立桐蔭高等学校|和歌山県立桐蔭高校]])が創設され同校に入学<ref name="jiten6" />。教師[[鳥山啓]]から博物学を勧められ、薫陶を受ける(のちに鳥山啓は[[華族女学校]]教師となる。[[軍艦行進曲|行進曲『軍艦』]]の作詞者として知られる)。5月~7月、『和歌山新聞』の記事の抜粋ノートを作成する<ref name="jiten6" />。12月、作文「祝文」「火ヲ慎ム文」を書く<ref name="jiten6" />。
1880年(明治13年)4月、作文「教育ヲ主トスル文」を書く<ref name="jiten6" />。9月、 英語の本を参考にし、和漢の書籍と見比べて自作の教科書『動物学』を書き上げる。
1882年(明治14年)2月1日、『和漢三才図会』を写し終える。「南方熊楠辞」と題した書き込みは、家族内の問題に悩み「その積もる所終に発して病となり、今に全くは癒えざるぞ憂き」という言葉が見える<ref name="jiten6" />。春には、父母、弟の常楠とともに[[高野山]][[金剛峯寺]]を訪れて、[[空海|弘法大師]]一千年忌の名宝展を見る。この目録の筆写を5月23日に作成<ref name="jiten6" />。
=== 上京 ===
1883年(明治16年)、和歌山中学校を卒業し上京。[[神田 (千代田区)|神田]]の[[共立学校]](現・[[開成中学校・高等学校|開成高校]])入学。当時の共立学校は[[東京大学 (1877-1886)|大学予備門]](のちの[[東京大学]])入学を目指して主として英語によって教授する[[予備校|受験予備校]]の一校で、クラスメートに[[幸田露伴]]の弟の[[幸田成友|成友]]らもおり、[[高橋是清]]からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者[[マイルズ・ジョセフ・バークリー|バークレイ]]が菌類6,000点を集めたと知り、それを超える7,000点の採集を志し<ref name="よみほっと20211024"/>、[[標本 (分類学)|標本]]・図譜を作ろうと思い立った。またこの頃、手紙の控えなどから成る[[備忘録]]をつけている<ref name="jiten6" />。
1884年(明治17年)9月、大学予備門に入学。同窓生には塩原金之助([[夏目漱石]])、正岡常規([[正岡子規]])、[[秋山真之]]、[[寺石正路]]、[[芳賀矢一]]、[[山田美妙]]、[[本多光太郎]]などがいた。学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れる。郷里では、父・弥右衛門が南方酒造(後の[[世界一統]])を創業していた。
1885年(明治18年)1月1日、現在残された日記はこの日から始まり1941年12月の死去までほぼ毎日つけられている<ref name="jiten6" />。4月、一人で[[鎌倉]]から[[江ノ島]]に旅行。海辺の動物を採取し、[[貝類]]を購入する。4月29日、日記に「余一昨日より頭痛始まり今日なほ已まず」と書き込む。5月12日、[[大森貝塚]]を訪れ、[[土器]]、骨片を拾う。6月、この頃から翌年にかけて『[[当世書生気質]]』『[[南総里見八犬伝]]』を一冊ずつ買い足して読んでいる。6月14日、眼病を理由に三学期の試験を欠席することを決定する。7月、[[日光市|日光]]に旅行。動物、植物、[[化石]]、[[鉱物]]を採集している<ref name="jiten6" />。
12月29日 期末試験で[[代数学|代数]]1課目だけが合格点に達しなかったため[[落第]]<ref name=":2">{{Cite book|title=漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人|date=2019年4月3日|year=|publisher=鳥影社}}</ref><ref name="jiten6" />。予備門を中退。
=== 米・英に留学 ===
[[image:Minakata Kumagusu.JPG|thumb|220px|1891年 アメリカ合衆国にて]]
1886年(明治19年)1月、『[[佳人之奇遇]]』4冊を購入。2月、和歌山へ帰郷。4月、羽山繁太郎の誘いを受け[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]]に旅行する<ref name="jiten6" />。
心機一転し自由な学問ができる新天地を求め留学を決意。当時外国に留学するには莫大な費用がかかったが、その頃の南方家の財力は頂点に達しており問題はなかった<ref name=":2" />。父親は当初熊楠の留学に反対していたものの徐々に熊楠の熱意に理解を示し、最終的に留学を後押ししたという。10月20日より4日間『和歌山新聞』に送別会の広告が掲載される。26日、和歌山市内の松寿亭で送別会が開かれる。参加者は熊楠を入れて16人。このときの熊楠の演説に関しては草稿が残されている<ref name="jiten6" />。12月22日に[[横浜港]]を出航して渡米。船内で中国人乗客と筆談する<ref name="jiten6" />。
1887年(明治20年)1月8日に米国[[サンフランシスコ]]着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。8月にミシガン州農業大学([[ミシガン州]][[ランシング (ミシガン州)|ランシング市]]、現・[[ミシガン州立大学]])入学。当初は商業を学ぶ予定だったが次第に「商買の事」から離れていった<ref name=":2" />。ミシガン州立大学は一流大学であったが、熊楠は大学に入らず、例によって「自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、曠野林中に遊びて自然を観察す(履歴書)」という生活を送る<ref name=":2" />。
熊楠は邦文のものは当時東京にいた弟の常楠から送ってもらい、英文のものは自ら購入して多くの書物や雑誌を読破していった<ref name=":2" />。
[[画像:British Museum from NE.JPG|thumb|250px|大英博物館]]
1888年(明治21年)、寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。ミシガン州[[アナーバー|アナーバー市]]に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、[[シカゴ]]の[[地衣類]]学者{{仮リンク|ウィリアム・ワート・カルキンズ|wikidata|Q21388469}}({{lang-en-short|William Wirt Calkins}})<ref>[http://herbarium.unc.edu/Collectors/Calkins.htm Collectors of the UNC Herbarium]{{en icon}} - [[ノースカロライナ大学チャペルヒル校]][[植物標本館]]({{仮リンク|ノースカロライナ植物園|en|North Carolina Botanical Garden}}の一部門でもある。)</ref><ref>{{Wayback|url=http://wwn.inhs.illinois.edu/~ksc/Malacologists/CalkinsW.W.html|title=William Wirt Calkins|date=20190313132507}}{{en icon}} - {{仮リンク|イリノイ州自然史調査所|en|Illinois Natural History Survey}}</ref>に師事して標本作製を学ぶ。
この採集→整理記載→標本作りという生活スタイルは子供の頃に昆虫や藻などを空の弁当箱に詰めたことに始まって、学生時代、アメリカ放浪記を経て帰国後の那智隠遁棲期、[[田辺市|田辺]]定住、そして晩年まで変わることはなかった。これは自分の病([[癇癪]]など)を自覚した熊楠が自らに施した対症療法であろうと指摘されている<ref name=":2" />。
1889年4月、[[てんかん]]の発作がおきる。日記によれば1886年10月以来のこと。8月19日、アナーバーにいるミシガン大学の日本人留学生に回覧するため、熊楠が手書きで発行した一部だけの個人新聞『珍事評論』第1号を発行。第3号まで発行<ref name="jiten6" />。
1890年3月、[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]『[[博物誌]]』([[ラテン語]])を購入する。5月、[[エドワード・バーネット・タイラー|タイラー]]『[[原始文化]]』、[[ハーバート・スペンサー]]『[[社会学]]原理』などを購入<ref name="jiten6" />。5月から11月にかけてヒューロン川の川辺や付近の森林で[[高等植物]]、菌類を中心に盛んに採集を行う。12月、シカゴのアマチュア植物学者カルキンスから菌類の標本を送られ、連日、分類目録を作成する<ref name="jiten6" />。
1891年(明治24年)1月、カルキンスから地衣類60種一箱の標本を送られる<ref name="jiten6" />。同年5月、[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンヴィル市]]に移り、生物を調査。中国人の江聖聡が経営する食品店で住み込みで働く。新発見の[[緑藻]]を科学雑誌『[[ネイチャー]]』に発表、[[ワシントンD.C.]]の[[国立自然史博物館 (アメリカ)|国立博物館]]から譲渡してほしい旨の連絡が入る。
7月、ピトフォラ・オエドゴニアを採集する<ref name="jiten6" />。9月には[[キューバ]]に渡り採集旅行。[[石灰岩]]生地衣を発見(ウィリアム・カルキンスから標本を送られた[[ウィリアム・ナイランダー|ウィリアム・ニランデル]]により、新種として「''Gyalecta cubana''(ギアレクタ・クバーナ)」と命名されるが、正式に発表されず)<ref>{{Cite journal|和書|author=松居竜五 |title=ジャクソンヴィルにおける南方熊楠 |date=2009-06-30 |publisher=[[龍谷大学]] |journal=龍谷大学国際社会文化研究所紀要 |issue=11 |naid=110008739278 |pages=210-228 |ref=harv}}</ref>。
1892年(明治25年)1月、フロリダに戻り江聖聡と再び同居。9月に渡英した。日本を飛び出してから6年の歳月が流れ、熊楠は25歳になっていた<ref name=":2" />。9月28日、イギリスで、8月8日に死去した父・弥右衛門の訃報を受ける。
1893年(明治26年)、科学雑誌『ネイチャー』10月5日号に初めて論文「極東の星座」を、同10月12日号に論文「動物の[[保護色]]に関する中国人の先駆的観察」を寄稿。[[オーガスタス・ウォラストン・フランクス]]と知り合い[[大英博物館]]に出入りするようになる。考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。
10月30日、自らの生涯にかけがいのない存在となる人物、[[土宜法龍]]と巡り合う。[[仏教]]を中心とした宗教論、[[哲学]]論で熱論を交わす。12月、土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る<ref name="jiten6" />。
1894年(明治27年)、 『ネイチャー』5月17日号に論文「コムソウダケに関する最古の記録」を、12月27日号に論文「『[[指紋]]』法の古さについて1」を寄稿。これらの論文はいずれも熊楠の中に蓄積された和漢の知識を駆使して書かれたものである。いわば「[[東洋]]の知」をもって英国の学会に切り込んだのである。こうした一連の仕事によって熊楠の名は英国の識者たちに知られるようになった<ref name=":2" />。
1895年(明治28年)、[[フレデリック・ヴィクター・ディキンズ]]と知り合う。大英博物館で東洋図書[[目録]]編纂係としての職を得る。『ネイチャー』6月27日号に論文「網の発明」を寄稿。またこの年の4月より「ロンドン抜書」を開始する<ref name="jiten6" />。
[[画像:Sunyatsen1.jpg|180px|thumb|孫文]]
1896年(明治29年)2月27日に母・すみが亡くなった。『ネイチャー』2月6日号に論文「驚くべき音響1」を寄稿。
1897年(明治30年)1月、[[ヘルマン・シュレーゲル|シュレーゲル]]に落斯馬(ロスマ)のことについて手紙を送る。このあといわゆる「ロスマ論争<ref group="注釈">中国[[明]]代の辞書『正字通』にある「落斯馬」という動物が[[イッカク]]であると書いたシュレーゲルに対し、熊楠は[[セイウチ]]であると主張した論争。熊楠が勝利。</ref>」に発展<ref name="jiten6" />。 3月、ロンドンに[[亡命]]中の孫逸仙([[孫文]])と知り合い、親交を始める(孫文32歳、熊楠31歳)。6月、熊楠の日記中に孫文が友情のしるしとして「海外逢知音」を書き付ける<ref name="jiten6" />。
11月8日、大英博物館で日本人への[[人種差別]]を受け暴力事件を起こす。12月、大英博物館より入館証を返してもらい読書を再開する<ref name="jiten6" />。
1898年12月夕方、大英博物館の閲覧室で女性の高声を制し、監督官との口論の末、追い出される。14日、大英博物館から追放の通知を受ける<ref name="jiten6" />。
1899年1月31日、常楠よりの手紙を読み「此夜不眠」。仕送りを当年限りで打ち切るという内容の前年12月21日付の常楠書簡が残されており、このことかと思われる<ref name="jiten6" />。3月、南ケンジントン博物館での日本書の題号翻訳の仕事を始める<ref name="jiten6" />。6月3日付の『N&Q』に同誌初めての投稿「[[神童]]」が掲載される<ref name="jiten6" />。
=== 紀南、植物採集・研究 ===
1900年(明治33年)10月15日、14年ぶりに日本に帰国。大阪の理智院([[大阪府]][[泉南郡]][[岬町]])、次いで和歌山市の円珠院に居住する。翌1901年(明治34年)、孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。
1902年(明治35年)、熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。[[田辺市|田辺]]を永住の地と定める。多屋勝四郎らと知り合う。『ネイチャー』7月17日号に論文「ピトフォラ・オエドゴニア」を寄稿。12月、[[プルタルコス]]『[[対比列伝]]』英訳の読書を再開する。[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]『[[告白 (ルソー)|告白]]』をフランス原書で読み始める<ref name="jiten6" />。
1903年(明治36年)、論文『[[燕石]]考』完成。『ネイチャー』4月30日号に論文「日本の発見」を、7月30日号に論文「ホオベニタケの分布」を寄稿。7月18日付の土宜法龍宛の手紙の中にいわゆる「南方マンダラ」の図を描き、「いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙をなす」ことを説明する。8月8日、この日付の土宜法龍宛の手紙の中で、引き続き独自の曼荼羅の思想について説明する<ref name="jiten6" />。
1904年(明治37年)、田辺に家を借りる。2月、マイアーズの『人格とその死後存続』を読み始める。5月、ヒルシュの『天才と退行』を読み始める。カービーの『[[エストニア]]の英雄』を読み始める<ref name="jiten6" />。
1905年(明治38年)4月より夜寝る前に[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]全集を読むことを日課とし、興が乗ると翌日朝にも続けて読んだ。日記に掲載されているだけでも23作品をこの時期に読破している<ref name="jiten6" />。6月、ディキンズとの共訳『[[方丈記]]』の掲載された『王立アジア協会雑誌』1冊と抜刷11冊が送られる。
1906年(明治39年)2月、[[アーサー・リスター]]からジェップを通じて熊楠の送った47種の日本産変形菌の同定に関する手紙が送られる<ref name="jiten6" />。7月、 田辺の[[闘鶏神社]][[宮司]]田村宗造の四女松枝と結婚(熊楠40歳、松枝28歳)。6月、[[タブノキ]](クスノキ科)の朽ち木から採集した粘菌の一種が新種として[[記載]]された。熊楠が発見した10種の新種粘菌のうち最初のもの{{Efn|発見場所は、稲荷村(現・田辺市)の糸田にある猿神[[祠]](古くは山王権現社と呼ばれていた)で、高山寺のある[[台地]]の会津川に臨む見晴らしの良い場所にあった{{sfn|飯倉|2006|p=206}}。}}。
1907年(明治40年)、前年末発布の[[神社合祀令]]に対し、[[神社合祀#合祀反対運動|神社合祀反対運動]]を起こす。6月24日に長男熊弥誕生{{sfn|飯倉|2006|p=200}}。2月8日より「田辺抜書」を開始する。田辺図書館、田辺中学、[[法輪寺]]、[[闘鶏神社]]などで借りた本の妙写<ref name="jiten6" />。9月、バートン版の『[[千夜一夜物語|アラビアン・ナイト]]』12冊を購入し、就寝前に読み耽る<ref name="jiten6" />。
1908年(明治41年)、『ネイチャー』11月26日号に論文「魚類に生える藻類」を寄稿。
1909年(明治42年)9月 、新聞『[[牟婁郡|牟婁]]新報』に神社合祀反対の論陣を張る。
[[画像:Kunio_Yanagita.jpg|thumb|180px|柳田國男(1940年頃)]]
1910年(明治43年)、[[紀伊]]教育会主催の講習会場に[[酔っ払い|酩酊]]状態で押し入り、翌日、[[住居侵入罪|家宅侵入]]で逮捕。[[監獄]]で新種の粘菌を発見したという。『ネイチャー』6月23日号に論文「粘菌の変形体の色1」を寄稿。
1911年(明治44年)、柳田國男との文通が始まり、1913年まで続いた。8月7日、この日付の柳田國男宛書簡で「植物棲態学 ecology」という言葉を用いる。11月12日柳田宛書簡では「エコロジー」、11月19日川村竹治宛書簡でも「エコロギー」という言葉を用いている<ref name="jiten6" />。9月、柳田が『南方二書』を出版。10月13日、長女文枝誕生。
1912年(明治45年/[[大正]]元年)、[[田辺湾]][[神島_(和歌山県)|神島]](かしま)が[[保安林]]に指定される。
1913年(大正2年)、柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する(熊楠47歳、柳田39歳)。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。この時の模様は柳田の著書「故郷70年」に詳しい。柳田は親友:[[松本烝治]]を伴って熊楠宅を訪れた。前述のように熊楠は泥酔していた。そして松本に対して「こいつの親爺は知っている、松本荘一郎で、いつか撲ったことがある」というようなことをいい出した。 ただし「故郷70年」によると面会は1911年になっている。
1914年(大正3年)、1月から1923年11月まで『太陽』に「十二支考」を連載。『ネイチャー』1月15日号に論文「古代の開頭手術」を寄稿。なお同年には[[第一次世界大戦]]が始まった。
1915年(大正4年)、[[アメリカ農務省]]の植物学者[[ウォルター・T・スウィングル|スウィングル]]<ref>{{Cite journal|和書|author=松居竜五 |title=南方熊楠宛スウィングル書簡について |date=2005-03-25 |publisher=龍谷大学 |journal=龍谷大学国際社会文化研究所紀要 |issue=7 |naid=110004628956 |pages=149-156 |ref=harv}}</ref>が田辺を来訪し、神島を共同調査。『N&Q』に「戦争に使われた動物」を掲載<ref name="jiten6" />。
1916年(大正5年) 、田辺に常楠(弟)の名義で家を買う。7月9日、自宅の柿の木で粘菌新属を発見<ref name="ML">[http://minakatakumagusu.web.fc2.com/01minakatatei.html 南方熊楠顕彰会>ゆかりの地]</ref>。
1917年9月頃よりロシア語を独習し始める<ref name="jiten6" />。雑誌に「[[ミイラ]]について」を掲載。11月頃から「馬に関する民俗と伝説」について調べ始める<ref name="jiten6" />。
1918年5月頃、盛んに[[松葉蘭]]の研究と文通を行う<ref name="jiten6" />。12月、「蛇に関する民俗と伝説」の執筆を始める<ref name="jiten6" />。
1919年9月24日、『[[大阪毎日新聞]]』に7回にわたって「百科学者」と題した熊楠の伝記が掲載される<ref name="jiten6" />。
1920年(大正9年)2月、『集古』庚申一号に「なぞなぞ」を掲載。8月、土宜法龍の招きで小畔四郎<ref>[http://henkeikin.org/people-1.html 変形菌分類学研究者 - 日本変形菌研究会]</ref>らと高野山の菌類などを調査する。
1921年(大正10年)、粘菌新属を“{{仮リンク|ミナカタホコリ|de|Minakatella longifila|label=ミナカテルラ・ロンギフィラ}}”(''Minakatella longifila''、「長い糸の南方の粘菌」の意。現在の[[標準和名]]はミナカタホコリ)<ref>[http://www.discoverlife.org/mp/20q?search=Minakatella+longifila Minakatella longifila G. Lister -- Discover Life]</ref><ref>[http://www.gbif.org/species/3215040 Minakatella longifila G.Lister, 1921 - Checklist View]</ref>と命名される<ref name="ML" />。命名者は[[ロンドン自然史博物館]]の粘菌学者[[グリエルマ・リスター]]<ref>[http://www.wansteadwildlife.org.uk/index.php?option=com_content&view=article&id=118&Itemid=219 Gulielma Lister - Wanstead's Wildlife]{{en icon}}</ref><ref>[http://henkeikin.org/people-2.html 変形菌分類学研究者の紹介(国外) - 日本変形菌研究会]</ref>であった。2月、『現代』に「桑名徳蔵と橋抗岩の話」を掲載。また同誌7号から「鳥を食うて王となった話」を連載<ref name="jiten6" />。
4月26日、南方植物研究所の発起人について、その後の追加を含めて[[原敬]][[内閣総理大臣|総理大臣]]以下28名の名前が『牟婁新報』に掲載される。9月、「[[サソリ|蠍]]の生きたのが来着」連載。10月、第2回の高野山訪問<ref name="jiten6" />。12月、「犬に関する民俗と伝説」の執筆を始める<ref name="jiten6" />。
1922年(大正11年)、南方植物研究所設立資金募集のため上京。多くの名士、知人と面会する<ref name="jiten6" />。7月、日光に採集旅行<ref name="jiten6" />。11月、植物研究所の基金が集まったことを理由に常楠が仕送りを停止する<ref name="jiten6" />。
1923年4月、『N&Q』への投稿論文「鷲石考」を書く<ref name="jiten6" />。9月、リスター宛てに日本産粘菌141種の目録を送る<ref name="jiten6" />。
1924年3月頃、バートン版『アラビアン・ナイト』を連日読み、索引を追補。5月、「十二支考」等の論文の版権料として[[中村古峡]]から500円を半金として受け取る<ref name="jiten6" />。
1925年(大正14年)、長男熊弥が精神異常を発症し、入院のち自宅療養。6月、「[[人柱]]の話」を連載<ref name="jiten6" />。
1926年(大正15年/[[昭和]]元年)2月、『南方閑話』が刊行。5月、『南方随筆』刊行。[[イタリア]]の菌類学者ブレサドラ<ref>{{Cite journal|和書|author=雲藤等 |title=『南方熊楠全集』(平凡社)と書翰原本との異同 : 上松蓊宛・平沼大三郎宛書翰を中心に |journal=社学研論集 |issn=1348-0790 |publisher=[[早稲田大学]]大学院社会科学研究科 |year=2012 |month=sep |volume=20 |pages=139-155 |naid=120005300994 |url=https://hdl.handle.net/2065/39625}}(18)の異同を参照。</ref>大僧正([[ジアコーモ・ブレッサドーラ]])の『菌図譜』<ref>[[紀田順一郎]][http://hanaha-hannari.jp/emag/data/kida-junichirou01.html 「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」]においては、ブレサドラの『菌誌』とも。</ref>("''Iconographia Mycologica''")の出版に際し、名誉委員に推される<ref>[http://minakatakumagusu.web.fc2.com/PDF/ichiran03.pdf 南方熊楠顕彰館所蔵資料・蔵書一覧(南方熊楠顕彰館2012) 5.関連]p.14の"関連0958"に資料名として『ブレサドラ菌図譜』とあわせて「名誉賛助名簿」とある。</ref>。11月、熊楠が品種選定した粘菌標品37属90点を[[東宮]](のちの[[昭和天皇]])に進献する<ref name="jiten6" />。
1927年、「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」と「「田辺名物考」について」掲載。10月、『彗星』に「続『一代男輪講』の掲載を開始。以後、[[三田村鳶魚]]らの『西鶴輪講』に対する多数の注釈を同誌に発表<ref name="jiten6" />。
1928年10月、妹尾官林で植物の採集と図記を行なう<ref name="jiten6" />。
1929年(昭和4年)6月1日、 紀南[[行幸]]の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦「[[長門 (戦艦)|長門]]」艦上で進講。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は[[キリ|桐]]の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠は[[キャラメル]]の大きな空箱に入れて献上した。
1930年(昭和5年)6月、天皇行幸を記念して自詠自筆の記念碑を神島に建立する。植物採集減る。
1933年、「今井君の「[[大和本草]]の菌類」に注記す」を掲載<ref name="jiten6" />。
1934年、『ドルメン』に「地突き唄の文句」を連載。11月、神島の植物を調査し、「田辺湾神島顕著樹木所在図」を作製する<ref name="jiten6" />。
1935年(昭和10年)8月、神島に渡って[[多嘉王|久邇宮多嘉王]]と妃・息子に講話する<ref name="jiten6" />。12月24日、 神島が国の[[天然記念物]]に指定される。
1936年、『牟婁新聞』に「[[新庄町 (田辺市)|新庄村]]合併について」を連載<ref name="jiten6" />。
1939年、「訳本『[[源氏物語]]』の普及について」を『日本』に12回連載する。
1940年(昭和15年)11月10日、学術功労者として東京での[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年記念式典]]への招聘を受けるが、歩行不自由の理由で断る<ref name="jiten6" />。
1941年(昭和16年)12月29日、自宅にて永眠。死因は萎縮腎であった。満{{没年齢|1867|5|18|1941|12|29}}([[享年]]75)。田辺市稲成町の[[真言宗]][[高山寺 (田辺市)|高山寺]]に葬られた。
==昭和天皇への進講==
1929年(昭和4年)6月1日に昭和天皇を[[神島 (和歌山県)|神島]]に迎え、「長門」艦上で進講([[天皇]]の前で学問の講義をすること)を行なった<ref name=":sinkou">{{Cite book|title=南方熊楠大事典(第二部 生涯)|date=2012年1月|year=|publisher=勉誠出版|ref=sinkou}}</ref>。
昭和天皇は[[皇太子]]時代から一貫して[[生物学]]に強い関心を持ち、とりわけ興味を示したのが、[[海産物|海産生物]]の[[ヒドロ虫]]と粘菌(変形菌)の分類学的研究であった<ref name=":sinkou" />。
熊楠の粘菌学の一番弟子であった小畔四郎は昭和天皇の博物学等の担当者・服部広太郎の甥の上司という関係で、服部から生物学講義のための粘菌の標本を見たいとの依頼を受けた。1926年2月、小畔から熊楠に手紙で、この機会に粘菌標本を40-50種類献上してはと相談した。これに対し、熊楠は37属90点を、目録・表啓文・二種の粘菌図譜とともに11月10日に進献した。この90点は日本の粘菌を研究する上で基本となる種を網羅する目的で選ばれた<ref name=":sinkou" />。
1929年3月5日、服部広太郎が熊楠邸を来訪して仮定の形で進講を打診。4月25日、進講の決定を知らせる服部広太郎の手紙が届く<ref name=":sinkou" />。
1929年6月1日午前8時、[[御召艦]]長門が田辺湾に姿を現す。熊楠は正午過ぎ田辺から漁船に乗り新庄村尊重たちと神島近海で待っていた。天皇は5時30分に長門に畠島から帰艦し、熊楠の進講を受ける<ref name=":sinkou" />。
熊楠はウガ、地衣グアレクタ・クバナ、海洞に棲息する[[クモ|蜘蛛]]、ナキオカ[[ヤドカリ]]、[[隠花植物]]標本帖、菌類図譜、粘菌標本を持参。この内、蜘蛛、ナキオカヤドカリ、粘菌標本を献上した。粘菌標本は110点にのぼり、先の進献で漏れた普通種と稀産種、変種が中心で増補するのが目的だったと思われる。入れた箱は大きなボール紙製のキャラメル箱に入れて献上した。これは蓋が開けやすいためといわれてるが、自ら持参するのに軽いものを選んだとも考えられる<ref name=":sinkou" />。
熊楠が所持した標本は[[国立科学博物館]]に寄贈され、今は[[筑波実験植物園]]にある<ref name=":sinkou" />。
一周年の1930年6月1日に行幸記念碑が神島に建立された<ref name=":sinkou" />。
1962年、[[白浜町|白浜]]を訪れた昭和天皇は田辺湾に浮かぶ神島を見て思いを馳せ、熊楠との一期一会を懐かしみ
「雨にけふる神島を見て[[紀伊の国]]の生みし南方熊楠を思ふ」
と詠んだ。その[[和歌]]が刻まれた[[御製]]碑は、1965年に設立された[[南方熊楠記念館]]の前庭に立っている<ref>{{Cite book|title=南方熊楠大事典(第三部 人名録)|date=2012年1月|year=|publisher=勉誠出版}}</ref>。
== 学問 ==
=== 生物学 ===
熊楠は博物学者として紹介されることが多いが、時代としては既に博物学は解体されており、熊楠の活動はその面では完全に[[植物学]]の分野に収まる。熊楠の専門分野はいわゆる[[隠花植物]]である。東京時代にアメリカの[[モーゼス・アシュレー・カーティス|カーチスという学者]]が生涯に菌類を6000点収集したとの話を聞いて、自分は7000点を集めることを決心したとの逸話がある{{sfn|飯倉|2006|p=36}}。
しかしながら、熊楠が生涯で最も時間をかけていたのは、実は[[顕花植物]]の収集であったらしい。渡米前には[[日光市|日光]]などで、またアメリカでも各地で植物採集を行い、帰国後は和歌山県南部の各地で多量の植物採集を行い、それらの標本は、保存状態はともあれ、多くが残されている{{sfn|飯倉|2006|p=277}}。初期のものは台紙に張った正式な[[押し葉標本]]の形に整えられているものが多いが、後期のものの多くは新聞紙に挟まれただけである。またいくつかには詳細な書き込みや細部の図がつけられており、そのようなものからも彼がしっかりとした植物学者としての知識を持っていたことがうかがえる。ただし、熊楠自身は高等植物に関して専門家であると発言していない。しかし、自然保護運動にせよ、隠花植物の研究にせよ、高等植物に関する知識がその下地を作っていたのであろう。
熊楠については粘菌のことが取り上げられることが多いが、熊楠自身は隠花植物全般を専門にしていた。熊楠は非常に多くの標本を作製し、それらを図として残した。
淡水[[藻類]]についても多くの[[プレパラート|プレパラート標本]]が作られたのはわかっている。ただし、この分野については熊楠が発表したものも少なく、また標本の保存もよくないため、詳しいことはわかっていない。
菌類のうち、キノコについても熊楠は多くの努力を費やした。乾燥標本も多く作成したが、熊楠はキノコの彩色図に専門的な記載文をつけたものを3,500枚も作成した。熊楠の標本を検討した粘菌学者の萩原博光はこれについて「南方ほど多くの図と記載文を残した研究者は少ないだろう」と述べているという{{sfn|飯倉|2006|p=279}}。
粘菌については、熊楠は古くから関心を持っていたのは間違いないが、初期にはむしろ植物や淡水藻類に努力を傾けており、標本の様子などから見て、その精力が注がれたのは田辺に居を定めてからであるらしい{{sfn|飯倉|2006|p=273}}。熊楠は6,000点以上の変形菌の標本を残し、数度にわたって変形菌目録を発表した。熊楠が発見した新種は10種ほどがあり、中でもミナカタホコリには熊楠の名が残されたことでよく知られる。しかし、萩原は熊楠の先進性を別のところに認めている。ミナカタホコリは生きた[[木|樹木]]の[[樹皮]]に発生するもので、このような環境に生息する変形菌の研究は1970年代以降に注目されるようになったものであり、また1990年代に注目されるようになった冬季に発生する粘菌にも熊楠が注目していたことがわかっている<ref>萩原(1999)、p.244</ref>。
==== 評価 ====
このように、広範囲の分野に多くの研究を行っており、その残されたものから判断すると、熊楠が高度な専門家であったことは間違いない。しかしながら、熊楠はこれらの分野において、ほとんど論文を発表していない。これは、出版された論文をもって正式な業績と見なす[[科学]]の世界では致命的である。たとえば粘菌の分野では、熊楠は数度にわたって目録を発表しており、熊楠以前には日本から36種しか記録されていなかった日本の粘菌相に178種を追加した。これだけでも熊楠は変形菌研究の歴史に大きな名を残している。しかし、例えば熊楠は「新種」を記載してはおらず、熊楠の手による新種は、全て他の研究者によって発表されたものである。これはキノコの分野でも同じであり、そういった観点からは、熊楠に対しては「優れた観察者および[[コレクション|コレクター]]」(萩原(1999),p.245)という評価しかできない。
[[国立科学博物館]][[筑波実験植物園]]植物研究部長の細矢剛は、『菌類図譜』について「記載方法が自己流で内容にもムラがある」ため生物学的な価値は高くないと指摘しつつ、においや味についても書き込んでいるのは熊楠自身のための[[データベース]]的な役割だったのではないかと推測し、文化的価値を認めている<ref name="よみほっと20211024"/>。[[ワタリウム美術館]]館長の和多利恵津子は『南方熊楠菌類図譜』(新潮社)においてアート作品としての面を評価している<ref name="よみほっと20211024"/>。
『ネイチャー』誌に掲載された論文の数は約50報、日本人最高記録保持者となっている{{Efn|{{要出典範囲|当時の『ネイチャー』誌における投稿論文は、現在の[[査読]]を行わない読者投稿欄のようなものであった|date=2015年1月}}。}}。
これについては、熊楠が目指していた菌類図説がもし発表されていれば、また評価は違ったかも知れない。ただ、熊楠自身の残したメモや日記、手紙類から、熊楠の学問について推測するための努力は今も続けられている。
=== 論文 ===
熊楠の手による論文はきちんとした[[起承転結]]が無く、結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。更に[[猥談]]が挟み込まれることも多く、[[柳田國男]]はそうした熊楠の論文に度々苦言を呈した。しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、一つ一つの論理に散漫なところはまったくなく、こうした熊楠の論文の傾向を[[中沢新一]]は研究と同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を落ち着かせるために重要だったためと分析している。「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプしていくのだ。(中略)話題と話題がなめらかに接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」「文章に猥談を突入させることによって、彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入しているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造をもつことになる。」と分析。「こういう構造をもった文章でなければ、熊楠は書いた気がしなかったのだ。手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、熊楠の中では、自分の[[大脳]]にたえまなく発生する分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、また熊楠の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」とも述べている。
== 南方マンダラ ==
1903年7月18日に[[土宜法龍]]との書簡の中で記された[[マンダラ]]。書簡の中で図で記されている<ref name=":0">{{Cite book|title=唐澤太輔「南方熊楠 日本人の可能性の極限」|date=2015年4月|year=|publisher=中央公論新社〈[[中公新書]]〉}}</ref>。この図において熊楠は多くの線を使って、この世界は因果関係が交錯し、更にそれがお互いに連鎖して世界の現象になって現れると説明した<ref name=":1">{{Cite book|title=南方熊楠大事典|date=2012年1月|year=|publisher=勉誠出版}}</ref>。
概要は、わたしたちの生きるこの世界は、物理学などによって知ることのできる「'''物不思議'''」という領域、心理学などによって研究可能な領域である「'''心不思議'''」、そして両者が交わるところである「'''事不思議'''」という領域、更に推論・予知、いわば第六感で知ることができるような領域である「'''理不思議'''」で成り立ってる。そして、これらは人智を超えて、もはや知ることが不可能な「大日如来の'''大不思議'''」によって包まれている。「大不思議」には内も外もなく区別も対立もない。それは「完全」であるとともに「無」である。この図の中心に当たる部分(イ)を熊楠は「'''萃点'''(すいてん)」と名付けている。それは様々な因果が交錯する一点である熊楠によると、「萃点」からものごとを考えることが、問題解決の最も近道であるという<ref name=":0" />。
熊楠の考えるマンダラとは「[[森羅万象]]」を指すのである。それは決して観念的なものではない。今ここにありのままに実体として展開している世界そのものにある<ref name=":1" />。
== 自然保護運動 ==
熊楠は[[自然保護]]運動における先達としても評価されている。
1906年(明治39年)末に布告された「[[神社合祀#明治末期委の神社合祀|神社合祀令]]」によって土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる「[[鎮守の森]]」)が伐採されて固有の[[生態系]]が破壊されてしまうことを憂い、翌1907年(明治40年)から神社合祀反対運動を起こした。
特に、田辺湾の小島である[[神島 (和歌山県)|神島]]の保護運動に力を注いだ。結果としてこの島は[[天然記念物]]に指定され、後に[[昭和天皇]]が行幸する地となった。熊楠はこの島の珍しい植物を取り上げて保護を訴えたが、地域の自然を代表する[[生物群集]]として島を[[生態学]]的に論じたこともあり、その点で極めて先進的であった。
この運動は自然保護運動、あるいは[[エコロジー]]活動の先がけとして高く評価されており、2004年([[平成]]16年)に[[世界遺産]](文化遺産)にも登録された[[熊野古道]]が今に残る端緒ともなっている<ref>[http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=7001 和歌山県神社庁公式サイト 鬪鷄神社]</ref>。{{seealso|神島 (和歌山県)}}
== 記憶力 ==
熊楠は子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した能力をもっていた。<br>この伝説については、一部分を丸暗記して筆写した可能性はあるが、105巻すべてをそのまま記憶して筆写したというのは虚構である。むしろ本を借りてきて写し書くことによって内容を隅から隅まで記憶していったというのが正確だろう<ref name=":0" />。
熊楠は自身の記憶法については[[土宜法龍]]([[真言宗]]僧侶)に書簡で述べている。それを簡単にまとめると以下のようになる<ref name=":0" />。
#自分の理解したことを並べて分類する。
#分類したまとまりを互いに関連させ連想のネットワークを作る。
#それらを繰り返す。
日本の雑誌に論考を発表するようになってからも、必要なデータがどの本のどのページにあるか記憶していて、いきなりそのページをぱっとあけたり、原稿を書くときも、覚えていることを頭の中で組み立ててすらすらと書いていった<ref name=":2" />。
蔵の中へ出たり入ったりしていてどこに何ページということはちゃんと覚えていた。よく「何ページにあるとおもったら、やっぱりあった」と言って喜んでいた<ref name=":3">{{Cite book|title=南方文枝「父 南方熊楠を語る」、付神社合祀反対運動未公刊史料|date=1981年・昭和56年7月|year=|publisher=日本エディタースクール出版部}}</ref>。
田辺在住の知人野口利太郎は熊楠と会話した際、“某氏”の話が出た。熊楠は即座に「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、先祖の先祖にはこんなことがあり、こんなことをしていた」ということを話した。野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは全く不思議だった」と述べている。
元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、南方を色々調べたことがあった。その後、熊楠と一緒に飲んだが、他へ転任して20年ほど経って今度は署長として田辺へ着任した時、挨拶に行ったところ熊楠は小川の名前を覚えていたどころか、飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで覚えていて話したという。[[旧制中学]]入学前に『[[和漢三才図会]]』『[[本草綱目]]』『諸国名所図会』『[[大和本草]]』『[[太平記]]』を書き写した筆写魔(ただし『和漢三才図会』のみは筆写完了は旧制中学在学中)であり、また、旧制中学在学中には漢訳[[大蔵経]]を読破したといわれるが、研究が進展した現在、伝記を著した唐澤太輔は、南方が『[[華厳経]]』そのものを読んでいた形跡がないことを指摘しており、また友人土宜法龍は「仏教の有名な寓話(譬喩)を無理やり持ち出してきているだけで、教理をしっかり押さえていない(大意)」と批判指摘している {{refnest|{{Cite journal|和書|author=唐澤太輔 |title=〈研究論文 ワーキングペーパー 報告書〉「南方曼陀羅」と『華厳経』の接点 |journal=2015年度 研究活動報告書 |publisher=龍谷大学世界仏教文化研究センター |year=2016 |month=mar |pages=191 |naid=120005969550 |url=https://hdl.handle.net/10519/7027}} }}。
さすがの熊楠も老化には勝てず、晩年は記憶力低下に対して様々な策を講じていた。本の内容を即座に検索できる索引の作成、自身の発表していた和文論文の利用。さらにどうしても思い出せないときは知人に手紙を宛てて文献の出典などを聞いていた<ref name=":0" />。
<br>夜中の離れの書斎で独り言を言っていた。夜通し喋っており「このぐらいのことがおぼえられませんかね、バカやろう」「南方先生はバカだから」と言っていた。晩年はさすがに覚えていても忘れて、それを涙をこぼして歯がゆがった。「どうしてこんなことになったのかな」といった<ref name=":3" />。
== 語学力 ==
語学には極めて堪能で、十数言語(ときに、二十数言語)解したと言われる<ref name=":jiten" />。中でも[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[イタリア語]]、[[ラテン語]]、[[スペイン語]]について、専門書を読み込む読解力を有していた。また、[[ギリシア語]]、[[ロシア語]]などに関しても、ある程度学習したと考えられる。ただし、話したり書いたりしていることが確かめられる外国語は英語のみであり(参考文献では他言語も引用していた)、十数言語を「自由に操った」というのは伝説と考えられる<ref name="名前なし-1"/>。
語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。
英語運用能力が知識人として十分であったことは大英博物館スタッフや文学者[[アーサー・モリスン|アーサー・モリソン]]を含むイギリス知識人との交友や、『全集』の400ページに及ぶ英語論文が示している<ref name=":jiten" />。
フランス語も著作での引用から、多数の文献を読みこなすに十分な読解力があったと評価してよい<ref name=":jiten" />。
ドイツ語、イタリア語、スペイン語はいずれも「ロンドン抜書」での筆写量はそれなりの量に及ぶが、論述での利用はかなり少なくなる<ref name=":jiten" />。
[[サンスクリット|サンスクリット語]]については、熊楠の知識が土宜法龍との出会いを取り持った可能性がある<ref name=":jiten" />。
[[ロンドン大学]]事務総長の職にあった[[フレデリック・ヴィクター・ディキンズ]]<ref>[https://1000ya.isis.ne.jp/1210.html 『日本学者フレデリック・ヴィクター・ディキンズ』秋山勇造 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇]</ref>は『[[竹取物語]]』を英訳した草稿に目を通してもらおうと、熊楠を大学に呼び出す。熊楠はページをめくるごとにディキンズの不適切な翻訳部分を指摘し、推敲するよう命じる。日本語に精通して翻訳に自信を持っていたディキンズは、30歳年下の若造の不躾な振る舞いに「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」と激昂。熊楠もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て、「権威に媚び、明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本にはいない」と怒鳴り返す。その場は喧嘩別れに終わるが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディキンズは、それから終生、熊楠を友人として扱った。
== 人物 ==
[[image:Minakata-to-Koaze.jpg|thumb|300px|南方熊楠と一番弟子の小畔四郎。(大正4年)]]
* 奇行が多かったことで知られる。異常な[[癇癪]]持ちであり、一度怒り出すと手がつけられないほど凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から頭を抱えていた。熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、自分が生物学などの学問に打ち込むことは、それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、柳田國男宛の書簡で書いている。
*[[多汗症]]から、薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。[[田辺市|田辺]]の山中で採集を行った際、[[ふんどし]]だけの裸で山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために「てんぎゃん」(紀州[[方言]]で[[天狗]]のこと)と呼ばれたという話も残る。
**裸になるのは6月頃から9月半ばまでだった。裸は裸でも普通の人とは違い、盛夏には邪魔になるものは全部取り除け、一糸まとわぬ、それこそ生まれたままの姿になった<ref name=":3" />。
* 渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、天下の男といわれたい」という決意の[[都々逸]]を残している。この留学は[[徴兵]]で子供を失うことを危惧していた父と、徴兵による画一的な指導を嫌った熊楠との間で利害の一致を見たために実現したと考えられている。
* 幼少のころは興味のない科目には全く目を向けず散漫な態度を教師に叱られ、大学時代も勉学に打ち込む同級生を傍目に「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と大学教育に見切りをつける。
* [[ネコ|猫]]好きであったことで有名。ロンドン留学から帰国後、猫を飼い始める。名前は一貫して'''チョボ六'''。ロンドン時代は、掛け布団がわりに猫を抱いて寝ていたという。のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を連れてきては猫の体を松枝に洗ってもらった。
* 熊楠は、柳田國男に{{仮リンク|ジョージ・ゴム|en|Laurence Gomme}}(George Laurence Gomme)編『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。
* [[ホメロス]]の『[[オデュッセイア]]』が中世日本にも伝わり、[[幸若舞]]などにもなっている説話『[[百合若大臣]]』に翻案されたという説を唱えた。
* 生涯定職に就かなかったためにろくに収入がなく、父の遺産や[[醸造業|造り酒屋]]として成功していた弟・常楠の援助に頼りっきりだった。常楠は、奇行が多い上に何かにつけて自分に援助を求めてくる兄を快く思っておらず、研究所設立のため資金集めをしていたときに遺産相続の問題で衝突して以降、生涯絶縁状態になった。熊楠が危篤の際には[[電報]]を受けて駆けつけたが、臨終には間に合わなかった。
* 口から[[胃]]の内容物を自在に[[嘔吐]]できる[[反芻]]胃を持つ体質で、小学校時代もケンカをすると“パッ”と吐いた{{sfn|飯倉|1974|p=290}}。そのため、ケンカに負けたことがなかったという。
* 蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ贈呈されたものであっても返却したという。また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」<ref>「[[平家蟹]]の話」</ref>とのことばも残している。ただし、残されている蔵書のほとんどはシミ一つなく色褪せない状態で保存されているという<ref>紀田(1994)</ref>。
* 酒豪であり、友人とともに盛り場に繰り出して芸者をあげて馬鹿騒ぎをするのが何よりも好きだった。酔って喧嘩をして警察の世話になるなど、酒にまつわる失敗も少なくなかった。
*[[江戸川乱歩]]や[[岩田準一]]とともに[[男色]]([[衆道]])関連の文献研究を熱心に行ったことでも知られている。戦前の日本では男色行為は決して珍しいことではなかったが、熊楠自身にそういった経験があったかどうかは不明である。
* 当時の人間にしては珍しく、比較的多くの[[写真]]が残っているため、写真に撮られるのが好きだったといわれている。
* 臨終の際、医者を呼ぶかと問われると「紫の花が消えるから」と拒否したという<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://www.wakayama-edc.big-u.jp/etc/furusato/es_t16.pdf |title=資料 |publisher=和歌山県教育センター学びの丘 |accessdate=2018-04-28}}</ref>。
* 熊楠の脳は[[大阪大学]][[医学部]]に[[ホルマリン|ホルマリン漬け]]として保存されている。熊楠本人は[[幽体離脱]]や[[幻覚]]などを度々体験していたため、死後自分の脳を調べてもらうよう要望していた。[[核磁気共鳴画像法|MRI]]で調べたところ右側頭葉奥の[[海馬 (脳)|海馬]]に萎縮があり、それが幻覚の元になった可能性があるといわれる。
* 甘いもの、特に[[あんパン]]が好物で、好きな人にもよくあげたという。近所の子供にもあげていた<ref name=":3" />。
*初対面の人や大勢の前で話すのが不得手で羞恥・恐怖心をまぎらすため[[ビール]]を鯨飲したが昭和には酒を止めた。娘の文枝によれば、深酒して[[孫文]]の手紙を騙しとられたのが理由と述べている。タバコは[[ゴールデンバット]]や吸い口のついた[[敷島 (たばこ)|敷島]]だった。[[ブランチ (食事)|ブランチ]]はバターを塗った[[食パン]]が中心だった。他に好物は[[ニラ]]の味噌汁、[[食肉|肉]]類(特にステーキ)、[[ウナギ]]の蒲焼き、[[鶏]]のレバー、[[空豆]]の醤油煮、鶏の天ぷら。苦手なものは[[刺身]]で、理由は[[寄生虫]]を心配したため<ref>大本泉『作家のごちそう帖』([[平凡社新書]] 2014年)pp.33-42</ref>。
*徹夜のときはアンパン6つと決まっていた<ref name=":3" />。
*洋服は最初のボタンをかけ違えば最後までうまく合わないからと嫌って、四季を通じて和服だった<ref name=":3" />。
*風呂が好きだった。ぬるめの湯船に目をつむって長時間過ごすのが常だった。何か構想を練るときの憩いの場所であった。二時間ぐらい入っていた。気に入った人がくると自分が風呂に入っているときは、風呂のところにたたせてぬくもりながら二時間ぐらい話していた<ref name=":3" />。
*朝8時に研究室から出て寝室に入り、夕方6時に熟睡から覚めて研究室に入る夜型の生活を送っていた。このため昼間の訪問客は常に[[門前払い]]をされており、人間嫌いと評されていた<ref>世界的植物学者、奇行の巨人死去『東京日日新聞』(昭和16年12月30日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p747 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年</ref>。
== エピソード ==
* 手紙でも原稿などを書き出したら決して[[紙背文書|反故]]にせず、書き損じて破ったりするような事も一切なく、続けて一気に書いた。休むにしても2時間程で起き出して、夜中の何時であっても構う事は無かった<ref name=":3" />。
* 机の上では書き物をせず、[[畳]]の上で何も敷かずに描いていた。手紙を書く時も[[座布団]]を除けて畳の上へ巻き紙を置き、座って書いた。若いうちは机にしたりテーブルにしていたが、晩年は足の具合が悪いので畳だった<ref name=":3" />。
* 本を読んだり書き物をしている時は八畳の[[離れ]]で過ごし、そこから一切出る事が無かった。「飯も言うてくるな」と自分に食事をさせるなと言ったが、そのうち出てきて「今朝から飯食ったか」と食べたかどうかさえ覚えていない程、没頭していた<ref name=":3" />。
* 夏は離れの部屋でうたた寝する程度の就寝習慣で、[[蚊帳]]に入って寝たことがなく、大抵は起きて過ごしていた。このような睡眠時間であっても3日くらいは大丈夫だった<ref name=":3" />。
* 熊楠が飼っていた[[カメ|亀]]は[[2001年]](平成13年)7月まで生きていた。正確な年齢はわからないものの、100歳程といわれる。
* 1941年(昭和16年)11月2日、[[海南市]]藤白にいる熊弥に、『日本動物図鑑』を届けたことが日記にある。11月16日、『[[今昔物語]]』上巻(辻本尚古堂、1896年、江戸時代の井沢長秀注本を活字にしたもの)に「此今昔物語二冊、代金三円、昭和十六年一月十六日東京[[神田神保町]]一誠堂書店より購収、娘文枝ニ与フル者也、南方熊楠」と書き入れた。12月8日の[[真珠湾攻撃]]の報道を知っていたかどうか、当日には何の記載もない{{sfn|飯倉|2006|pp=334-335}}。
* 大英博物館の図書館で閲覧者に人種差別発言を受けた熊楠は大勢の前で[[頭突き]]を喰らわせ3か月の入館禁止となった。1年後に再度同じ者を殴打したため博物館から追放されたが、学才を惜しむ有力イギリス人たちから嘆願書が出され復職した。
* [[電灯]]が嫌いで常に[[提灯]]を使用していたが、ある時、本棚へかけて燃えだす[[ぼや]]を起こしてしまい、これをきっかけに電灯を使うようになった<ref name=":3" />。
* 熊楠が昼寝中に来客があった時の事、留守だと言うのだが伸ばした両足が玄関から見え、居留守だと分かっていた。客が「本当なのですか」と尋ねると「本人自身でそう言ってるので間違いなし」と答えるので家の者たちは冷や汗をかいた<ref name=":3" />。
* [[ストーブ]]は無かったため、妻はいつ熊楠が起きてもいいように火鉢に[[炭団]]をくべて暖をとり、お茶はいつでも沸いているようにしていた<ref name=":3" />。
* 風呂から上がっても濡れた体を拭くこともせず[[浴衣]]も着ずに裸でいたので、妻が風呂から台所まで[[ゴザ]]を敷き詰めていた。寒い日でも変わらずに同じ行動をしていた<ref name=":3" />。
== 著作 ==
=== 生前刊行本 ===
*『南方二書』柳田國男編(私家版小冊子) 1911年
*『南方閑話』坂本書店 1926年
*『南方随筆』[[岡茂雄|岡書院]] 1926年
*『続南方随筆』岡書院 1926年
=== 全集・選集・日記 ===
*『南方熊楠全集』全12巻 乾元社 1951〜1952年
*『南方熊楠全集』全10巻別巻2 平凡社 1971〜1975年
*『南方熊楠選集』全6巻別巻1 平凡社 1984年
*『南方熊楠日記』全4巻 長谷川興蔵編、八坂書房 1987〜1989年
=== 書簡集 ===
*『南方熊楠書簡集』紀南文化財研究会編、紀南文化財研究会(紀南郷土叢書・第11輯) 1981年 → 増補版1988年
*『南方熊楠書簡抄 宮武省三宛』笠井清編、[[吉川弘文館]] 1988年
*『南方熊楠書簡 盟友毛利清雅へ』中瀬喜陽編、日本エディタースクール出版部 1988年
*『門弟への手紙 上松蓊へ』中瀬喜陽編、日本エディタースクール出版部 1990年
*『竹馬の友 小笠原誉至夫宛書簡』長谷川興蔵・小笠原謙三編、[[八坂書房]] 1993年
*『南方熊楠書翰 高山寺蔵 土宜法龍宛1893-1922』奥山直司・雲藤等・神田英昭編、[[藤原書店]] 2010年
*『キノコ四天王 樫山嘉一宛南方熊楠書簡』吉川壽洋編、南方熊楠記念館 2011年
=== 往復書簡集 ===
*『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集』飯倉照平編、平凡社 1976年/[[平凡社ライブラリー]](上・下) 1994年
*『南方熊楠・[[土宜法龍|土宜法竜]] 往復書簡』中瀬喜陽・長谷川興蔵編、八坂書房 1991年
*『南方熊楠男色談義 岩田準一 往復書簡』長谷川興蔵・月川和雄編、八坂書房 1991年
*『南方熊楠・リスター往復書簡』 山本幸憲編、南方熊楠邸保存顕彰会 1994年
*『南方熊楠・平沼大三郎 往復書簡〈大正15年〉』南方熊楠顕彰館(南方熊楠資料叢書) 2007年
*『南方熊楠・小畔四郎 往復書簡(全4巻)』南方熊楠顕彰館(南方熊楠資料叢書) 2008〜2011年
=== 著作(編者版)===
*『南方熊楠随筆集』[[益田勝実]]編、筑摩書房〈筑摩叢書〉 1968年/[[ちくま学芸文庫]] 1994年
*『十二支考』全3巻 飯倉照平校訂、[[平凡社東洋文庫]] 1972〜73年、ワイド版2006年
*『南方熊楠文集』全2巻 [[岩村忍]]編、平凡社東洋文庫 1979年、ワイド版2006年
*『熊楠漫筆 南方熊楠未刊文集』飯倉照平・鶴見和子・長谷川興蔵編、八坂書房 1991年
*『南方熊楠コレクション』全5巻 中沢新一編・解説、河出書房新社〈[[河出文庫]]〉 1991〜92年、新装版2015年
*:I 南方マンダラ、II 南方民俗学、III 浄のセクソロジー、IV 動と不動のコスモロジー、V 森の思想
*『十二支考』(上・下)[[宮田登]]解説、[[岩波文庫]] 1994年、ワイド版2003年
*『南方熊楠 珍事評論』長谷川興蔵・武内善信校訂、平凡社 1995年
*『南方熊楠 履歴書 ほか』〈人間の記録84〉日本図書センター 1999年
=== 英文著作(編訳版)===
*『南方熊楠英文論考 「ネイチャー」誌篇』 飯倉照平監修・松居竜五・田村義也・中西須美訳、集英社 2005年<!--以下は目次
*東洋の星座 星をグループ化して星座とすること M.A.B 著
**東洋の星座
**東洋の科学史に関する小論
**動物の保護色に関する中国人の先駆的観察
**コムソウダケに関する最古の記述
**[[蛙]]の知能
**宵の明星と暁の明星
**網の発明
**アミミドロに関する最古の記述
**コノハムシに関する中国人の先駆的記述
**[[虻]]と[[蜂]]に関するフォークロア.古代人のブーゴニア俗信についての質問 C.R.オステン=サッケン著
**蜂に関する東洋の俗信.牛から生まれた蜂の古説(ブーゴニア)とハナアブの関係 C.R.オステン=サッケン著
**琥珀の起源についての中国人の見解.『古代人のブーゴニア伝説の解説への追補』6中国と日本の文献に登場するハナアブ C.R.オステン=サッケン 著
**ブーゴニア俗信に関する注記
**中国古代文明に関する小論
**北方に関する中国人の俗信について
**洞窟に関する中国人の俗信
**幽霊に関する論理的矛盾
**拇印考
**「指紋」法の古さについて. 1
**「指紋」法
**「指紋」法の古さについて. 2
**マンドレイク
**さまよえるユダヤ人
**驚くべき音響
**死者の婚礼
**ロマス論争
**シュレーゲルから南方熊楠宛書簡(四通)
**セイウチ
**ムカデクジラ
**ムカデクジラ. 1.ムカデクジラ W.F.シンクレア 著
**ムカデクジラ. 2
**スコロペンドラ・ケタケア. 1.スコロペンドラ・ケタケア ジェイムズ・リッチー 著
**スコロペンドラ・ケタケア C.C.B 著
**スコロペンドラ・ケタケア ジェイムズ・リッチー 著
**スコロペンドラ・ケタケア. 2.スコロペンドラ・ケタケア コンスタンス・ラッセル 著
**スコロペンドラ・ケタケア. 3
**日本の発見
**日本におけるタブー体系概要
**日本におけるタブー体系
**日本の発見
**日本の記録にみえる食人の形跡
**隠花植物研究
**ピトフォラ・オエドゴニア.ピトフォラの分布
**G.S.ウェスト 著
**ピトフォラの分布
**ホオベニタケの分布
**ジョージ・マッシー 著
**魚類に生える藻
**ジョージ・マッシー 著
**粘菌の変形体の色
**雑纂1-俗信・伝統医術
**貝合戦による占いについて
**虫に刺されることによる後天的[[免疫]]
**頭蓋の人為的な変形、および一妻多夫制に関する習俗のいくつか
**魔よけの籠
**石、真珠、骨が増えるとされること
**古代の開頭手術
**雑纂2-自然科学など
**エン麦の黒穂菌を画家の顔料として使うこと
**水平器の発明
**中国のペスト
**ライオンの天敵
**トウモロコシ
**インディアン・コーン
**中国の蟹災害
**タコの酢とクラゲのアラック
**「オロコマ」という奇妙な哺乳類
**花粉を運ぶコウモリと鳥
※以下は、続編『南方熊楠英文論考 「ノーツ アンド クエリーズ」誌篇』の目次
*神童
**水平器の発明
**セイウチ
**中国の医学
**[[ビーバー]]と[[ニシキヘビ]]
**参考文献を求む
**泳ぐ貝
**さまよえるユダヤ人
**トウモロコシ
**空飛ぶ盃
**手書きの文字でできた絵. 1
**手書きの文字でできた絵. 2
**神跡考〈神々の足跡など〉. 1
**神跡考〈神々の足跡など〉. 2
**神跡考〈神々の足跡など〉. 3
**神跡考〈神々の足跡など〉. 4
**神跡考〈神々の足跡など〉. 5
**燕石考〈燕石伝説の起源〉
**日本の猿. 1
**日本の猿. 2
**日本の猿. 3
**日本の猿. 4
**フクロウ
**一枚歯. 1
**一枚歯. 2
**魔法の輪
**フォークロアか植物学か
**蛇の脚の伝説
**不孝な息子の話
**不孝な息子の話 A・コリングウッド・リー 著
**類人猿
**パロ・デ・コブラ
**参考文献を求む
**三位一体の主日のフォークロア
**耳のなかのノミ
**言語の親近性
**牛に赤い布
**カモシカと赤い布
**ゴブリンの爪
**嫉妬の水
**中国の幽霊
**ユダヤの結婚式でグラスを割ること
**鬼市
**マンゴスチンの模様
**日本の嘘つき名人
**ウナギのフォークロア
**求愛のための棒
**寵愛を受ける者への妬み
**盗みが罪とならないこと
**日本におけるイスラム教
**月の暈と雨
**船乗りシンドバッド
**コウモリによる略奪
**コウモリ
**矢を折ること
**「命の星」のフォークロア. 1
**「命の星」のフォークロア. 2
**丸. 1
**丸. 2
**月と蟹
**ヤギの血とダイアモンドリトアニアのフォークロア
**海藻には雨が必要か
**蜂と吉日
**蜂のフォークロア
**虎のフォークロアとポープ
**ガンジー・リリー
**親不孝者の息子
**カラスが「雨に抗して鳴く」
**生まれながらにして歯が生えていること
**死んだ動物を木や壁に掛ける. 1
**死んだ動物を木や壁に掛ける. 2
**死んだ動物を木や壁に掛ける. 3
**蛇がミルクを飲むこと
**ディアボロ
**子どもたちが怖がる名前
**東洋の飛行機械. 1
**東洋の飛行機械. 2
**飛行伝説
**幽霊船
**くしゃみにまつわる迷信
**処女マリアの木の実
**バートンの『憂鬱の解剖』に見られる中国の諺. 1
**バートンの『憂鬱の解剖』に見られる中国の諺. 2
**生きている死者
**聖ガラシアの木の実
**楯に描かれた蠅
**子どもが自分の運命を占う
**ないがしろにされる父親
**婚姻関係. 1
**婚姻関係. 2
**婚姻関係. 3
**妻の腹に羊を描いた男
**殺人者の前で死体が血を流すこと
**目隠しをされた男-日本の類話. 1
**目隠しをされた男-日本の類話. 2
**馬の幽霊
**双子とテレパシー。英文目次を分離したいが、記載する価値見出せず、コメントアウト-->
*『南方熊楠英文論考 「ノーツ アンド クエリーズ」誌篇』 飯倉照平監修・松居竜五・田村義也・中西須美・志村真幸・[[南條竹則]]・前島志保訳、[[集英社]] 2014年<ref>英国科学誌での熊楠の研究に、志村真幸『南方熊楠のロンドン 国際学術雑誌と近代科学の進歩』[[慶應義塾大学出版会]]、2020年 がある。</ref>
=== 復刻版 ===
*『南方随筆』萩原星文館 1943年
*『南方随筆 正・続』復刻版 沖積舎 1992年
*『南方二書 原本翻刻』南方熊楠邸保存顕彰会 2006年
=== 資料・目録 ===
*『南方熊楠菌誌』第1・2巻 小林義雄編・解説、八坂書房 1987-89年 ※熊楠の英文記載・和文解説
**『南方熊楠菌誌』第1巻〜第5巻 同上、南方熊楠記念館 1989-96年 ※改訂版
*『南方熊楠菌類彩色図譜百選』小林義雄編、学伸社エンタプライズ 1989年
*『南方熊楠記念館蔵品目録 資料・蔵書篇』南方熊楠記念館 1998年
*『南方熊楠変形菌標本目録』萩原光博編、南方熊楠顕彰館 1999年
*『南方熊楠邸蔵書目録』南方熊楠資料研究会編、南方熊楠邸保存顕彰会 2004年
*『南方熊楠邸資料目録』南方熊楠資料研究会編、南方熊楠邸保存顕彰会 2005年
*『南方熊楠プレパラート標本目録』萩原光博編、南方熊楠顕彰館 2005年
*『南方熊楠菌類図譜』[[ワタリウム美術館]]編・萩原博光解説、[[新潮社]] 2007年 ※120枚を厳選。
== 評価・顕彰 ==
[[File:南方熊楠胸像.JPG|thumb|橋丁にある熊楠の胸像]]
[[File:Minakata_kumagusu_kensyoukan%26kyutei.JPG|thumb|南方熊楠顕彰館(和歌山県田辺市)]]
*1946年秋に[[満州]]より引揚帰国した岡田桑三は、渋沢敬三に南方熊楠顕彰事業開始を働きかけ、およそ1年後の1947年10月、熊楠と親交のあった[[杉村楚人冠]]の子息で[[朝日新聞]]記者であった杉村武の尽力で、朝日新聞社会議室で渋沢の呼びかけによるミナカタソサエティ準備会が開催され、渋沢が会長に、岡田が代表幹事に指名された。昭和天皇が、1948年に渋沢に熊楠の標本の現状を質したことも、ソサエティによる戦後初期の顕彰活動にはずみをつけた。ソサエティによる活動成果には、乾元社版「南方熊楠全集」の編纂・刊行と「ミナカタ・クマグス展」1951年の開催が挙げられる。
* 1962年(昭和37年)5月、[[白浜町]]を行幸した昭和天皇は御宿所の屋上から神島を眺めて[[御製]]「'''雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ'''」を詠んでいる。これは、昭和天皇が民間人を詠んだ最初の歌であった。この歌碑は、白浜町の南方熊楠記念館のある番所山に建てられている。
* 1965年(昭和40年)4月、白浜町の絶景の地である「番所山」に、熊楠の娘婿である岡本清造([[日本大学]]経済学部教授・水産経済学者)や地元関係者の尽力により「南方熊楠記念館」が開館、主要な遺品、資料が展示されている(運営は公益財団法人南方熊楠記念館)。
* 1980年代に入り南方再評価の動きが生じ、1987年(昭和62年)地元和歌山県田辺市では、熊楠の業績を顕彰し、あわせてその終の栖となった旧邸を保存することを目的として、1987年(昭和62年)6月に「南方熊楠邸保存顕彰会(現・南方熊楠顕彰会)」が発足、1989年(平成元年)から募金活動を展開した。田辺市は、顕彰会が集めた寄附金とふるさと創生資金を基金として積み立て、その利息を財源として邸内の資料の調査研究(南方熊楠邸資料研究会)や整理保存、南方熊楠賞の制定・実施、南方を訪ねての開催、南方邸の公開等、熊楠の業績を顕彰する事業を南方熊楠邸保存顕彰会とともに官民協働で実施した。2000年(平成12年)に長女文枝が亡くなった後、その遺志によって旧邸と蔵書・資料はすべて田辺市に遺贈された。これを契機として、熊楠の遺産を恒久的に保存し、その思想および学問活動に関する調査・研究を行うとともに、その成果を発信するための拠点として旧邸の隣地に[[南方熊楠顕彰館]]を建設、旧邸を熊楠存命時のすがたに改修した。その建設・改修資金には基金が充てられた。なお、熊楠没後邸内に残されていた資料は、遺族の段階で、一部が[[南方熊楠記念館]]に、高等植物標本を除く植物標本は[[国立科学博物館]]植物研究部に移管されたが、高等植物標本とほとんどの蔵書・資料は南方熊楠顕彰館が引き継いでいる。
* 出生地[[和歌山市]]では、橋丁の生誕の地に南方熊楠の[[胸像]]を建てている。
* 1990年に週刊少年漫画誌である『[[週刊少年ジャンプ]]』において、[[岸大武郎]]により『[[てんぎゃん -南方熊楠伝-]]』というタイトルで、熊楠の半生がその奇行・暴れぶりから研究現場での苦闘まで鮮やかに漫画化された。本作は実娘である文枝からも好評で、熊楠の自宅に小学生が見学に訪れるなど反響もあったものの、編集担当者であった[[椛島良介]]の異動などにより、第2部の準備までできていたが、あえなく第一部で終了となった<ref>https://www.youtube.com/watch?v=UJLa7Vl4b6A&t=4976s</ref>。
<!-- しかし、短命とはいえ、当時の週刊少年ジャンプは、大人から子供まで幅広い読者層を持っていたため、熊楠の名が大人から子供まであまねく知れ渡るようになり、その博識や奇行ぶりから熊楠に興味を持った人は多く、テレビではバラエティや教養番組に採り上げられるなど、半ば熊楠ブームと呼ばれるような現象が起こった。その点では熊楠という人物開拓に最も貢献した作品の一つともいえる。-->
* 2017年は南方熊楠生誕150年となり、田辺市は熊楠の功績をたたえ名誉市民の称号を贈ることとなった<ref>{{Cite news |title=知の巨人に和歌山・田辺市が名誉市民章授与 10月22日、紀南文化会館で南方熊楠生誕150周年記念式典 - 産経WEST |newspaper=産経新聞 |date=2017-09-27 |author= |url=https://www.sankei.com/article/20170927-JEJTPM3RCBNZDNFNVGM6LW2QTQ/ |accessdate=2018-10-16}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.agara.co.jp/news/daily/?i=341710|title=「熊楠は日本人の夢」 生誕150周年で中沢新一さんら|newspaper =[[紀伊民報]]|date=2017-02-22|accessdate=2017-02-24}}</ref>。
== 家族 ==
[[ファイル:Sun Yat Sen in Wakayama Japan 1901.png|サムネイル|熊楠(後列左)と[[孫文]](中央)。孫文の両脇に熊楠の弟たち、孫文の前に熊楠の甥。後列右は横浜華僑の[[温炳臣]]]]
* 父:南方弥右衛門(1829-1892) - 南方酒造(現:[[世界一統]])創業者<ref>[http://www.sekaiitto.co.jp/shiru/kumagusu_kakei.html 清酒 世界一統-知られざる巨人-南方熊楠-南方熊楠と世界一統の歩み]</ref>。入野村(現[[川辺町]]入野)の向畑庄兵衛の次男で、南方家の娘と結婚し、南方弥兵衛となる<ref name="nakase">[http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten_nakase_ch2.html II 南方熊楠をめぐる人名目録]南方熊楠を知る辞典</ref>。南方家は雑賀屋(さいかや)と呼ばれた商家で、[[西南戦争]]の好況で巨利を得、和歌山県で5番目といわれる資産家<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=DPu2DgAAQBAJ&pg=PT78 縛られた巨人、南方熊楠 -何によって縛られていたか]『天皇と日本国憲法(毎日新聞出版): 反戦と抵抗のための文化論』[[なかにし礼]]、[[PHP研究所]], Mar 7, 2014</ref>。妻に先立たれ、熊楠たちの母となる西村すみと再婚。長男に家督を譲ったのち弥右衛門を名乗る。明治17年(1884年)に南方酒造(のち世界一統)を創業、明治23年(1888年)に三男が継承。
* 母:すみ - 旧姓西村。紀州藩医師徳田諄庵の遠縁<ref name="nakase"/>。
* 兄:藤吉(1859-1924) - 明治11年(1878年)より家督を継ぎ弥兵衛を名乗る。好色気ままのため破産するだろうという父親の予言通り、妾を5人囲い、相場に手を出して明治30年に[[破産]]し、弟・常楠の世話になる(『南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡)』より)<ref name="rireki5">[http://www.minakatella.net/letters/rirekisho5.html 南方熊楠 履歴書(口語訳5)ロンドンに渡る]Mikumano.net</ref><ref>[http://www.minakatella.net/letters/rirekisho13.html 南方熊楠 履歴書(口語訳13)母と兄]Mikumano.net</ref>。
* 姉:垣内くま(1864-1924) - 東京小石川の垣内家に嫁ぐ。熊楠によると、和歌山で有数の美女。三味線を引きながら頓死<ref name="nakase"/>
* 弟:常楠(1870-1954) - 世界一統第2代社長。東京専門学校(現[[早稲田大学]])卒。父親から自分の跡を継ぐべき者と信頼され、父没後本家として酒造を継ぐ<ref name="rireki5"/>。熊楠には長兄の破産の影響で困窮し仕送りできなくなったとしていたが、のちにそれが嘘であり、熊楠の分の遺産まで使っていたことがわかり、熊楠を嘆かせた(『南方熊楠 履歴書(矢吹義夫宛書簡)』より)<ref>[http://www.minakatella.net/letters/rirekisho15.html 南方熊楠 履歴書(口語訳15)帰国]Mikumano.net</ref><ref>[http://www.minakatella.net/letters/rirekisho16.html 南方熊楠 履歴書(口語訳16)和歌山]Mikumano.net</ref>。常楠側は海外留学中の支援で熊楠分の遺産は使い果たしたという理解であり、研究ばかりで稼ぎのない兄に不満があったとされる<ref>[https://mainichi.jp/articles/20170320/ddl/k30/070/275000c 熊楠を支えた弟/和歌山]『毎日新聞』2017年3月20日</ref>。和歌山市会議員。妻・ます(旧姓中野)との間に2児。
* 妹:藤枝(1872-1887) - 16歳で夭折
* 弟:西村楠次郎(1876-1921)
* 妻:松枝(1876-1921) - 鬪雞神社の社司・田村宗造の四女で、明治39年(1906年)に結婚、娘とともに晩年の熊楠を助けて『菌類図譜』などの研究活動を手伝った<ref>[http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/exhibition-guide/corner5/corner5-3 南方熊楠の家族と日常]南方熊楠記念館</ref>。
* 長男:熊弥(1907-1960) - 1907年(明治40年)6月24日生まれる。幼名・蟇六。[[高知高等学校 (旧制)|旧制高知高校]]受験中に[[精神病]]を発症し、50代半ば(1960年)で死去{{sfn|飯倉|2006|p=359}}。
* 長女:文枝(1911-2000) - 1911年(明治44年)10月13日生まれる。1946年(昭和21年)に岡本清造と結婚する。2000年(平成12年)没{{sfn|飯倉|2006|p=337,360}}。
=== 子孫 ===
長男の熊弥、長女の文枝ともに子がいなかったため、熊楠直系の子孫は途絶えた。熊楠の実弟である常楠の家系は、[[世界一統]]という造り酒屋として現在も続いている。
== 主要論文 ==
* [https://doi.org/10.1537/ase1887.23.446 涅齒に就て] 東京人類學會雜誌 Vol.23 (1907-1908) No.270 P446-452, {{DOI|10.1537/ase1887.23.446}}
* [https://doi.org/10.15281/jplantres1887.22.260_317 本邦産粘菌類目録] 植物学雑誌 Vol.22 (1908) No.260 P317-323, {{DOI|10.15281/jplantres1887.22.260_317}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1887.26.63 本邦に於ける動物崇拜追加] 東京人類學會雜誌 Vol.26 (1910-1911) No.296 P63-65, {{DOI|10.1537/ase1887.26.63}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1887.26.189 山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事] 東京人類學會雜誌 Vol.26 (1910-1911) No.299 P189-196, {{DOI|10.1537/ase1887.26.189}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1887.26.215 西暦九世紀の支那書に載たる「シンダレラ」物語 異れる民族間に存する類似古話の比較研究] 東京人類學會雜誌 Vol.26 (1910-1911) No.300 P215-228, {{DOI|10.1537/ase1887.26.215}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.28.559 秘魯國に漂着せる日本入] 人類學雜誌 Vol.28 (1912-1913) No.10 P.559-561, {{DOI|10.1537/ase1911.28.559}}
* [https://doi.org/10.15281/jplantres1887.27.321_407 訂正本邦産粘菌類目録] 植物学雑誌 Vol.27 (1913) No.321 P407-417, {{DOI|10.15281/jplantres1887.27.321_407}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.29.169 厠神] 人類學雜誌 Vol.29 (1914) No.5 P169-174, {{DOI|10.1537/ase1911.29.169}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.30.137 詛言に就て] 人類學雜誌 Vol.30 (1915) No.4 P137-144, {{DOI|10.1537/ase1911.30.137}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.30.417 一枚齒―齒が生た産れ兒] 人類學雜誌 Vol.30 (1915) No.11 P417-425, {{DOI|10.1537/ase1911.30.417}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.31.47 眼と吭に佛有りと云ふ事] 人類學雜誌 Vol.31 (1916) No.2 P47-49, {{DOI|10.1537/ase1911.31.47}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.32.5_141 山の神に就て] 人類學雜誌 Vol.32 (1917) No.5 P141-143, {{DOI|10.1537/ase1911.32.5_141}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.33.19 親の言葉に背く子の話] 人類學雜誌 Vol.33 (1918) No.1 P19-22, {{DOI|10.1537/ase1911.33.19}}
* [https://doi.org/10.1537/ase1911.34.251 西神と十二獣に就て] 人類學雜誌 Vol.34 (1919) No.8 P251-260, {{DOI|10.1537/ase1911.34.251}}
* [https://doi.org/10.15281/jplantres1887.41.41 現今本邦ニ産スト知レタ粘菌種ノ目録] 植物学雑誌 Vol.41 (1927) No.482 P41-47, {{DOI|10.15281/jplantres1887.41.41}}
== 南方熊楠を題材とした作品 ==
「南方熊楠顕彰会」関係者を中心に「熊楠日記」等の研究や評伝が刊行されている。
=== 評伝・評論 ===
* 『新潮日本文学アルバム58 南方熊楠』[[神坂次郎]]編・評伝、[[新潮社]]、1995年 - 写真多数の入門書。
* 『南方熊楠アルバム』中瀬喜陽・長谷川興蔵編{{Efn|写真多数の図版本。長谷川興蔵(1924-1992)は、編集者として生涯かけ平凡社・八坂書房で著作資料の校訂を担当した。}}、八坂書房、1990年、新装版2004年
* 『南方熊楠 森羅万象に挑んだ巨人』 中瀬喜陽監修、平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉、2012年
* 『南方熊楠 人と思想』飯倉照平編、平凡社、1974年 - 基本文献
* 『南方熊楠百話』飯倉照平・長谷川興蔵<ref>遺著に『[http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/publ/hasegawa/ 長谷川興蔵集 南方熊楠が撃つもの]』南方熊楠資料研究会</ref>編、八坂書房、1991年
* [[飯倉照平]]『南方熊楠 梟のごとく黙坐しおる』[[ミネルヴァ書房]]〈[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]〉、2006年
* 中瀬喜陽編著『南方熊楠、独白 熊楠自身の語る年代記』河出書房新社、1992年
* [[中瀬喜陽]]『覚書 南方熊楠』八坂書房、1993年
* 南方文枝 『父 南方熊楠を語る』聞き手[[谷川健一]]、日本エディタースクール、1981年
** 南方(岡本)文枝『素顔の南方熊楠』谷川健一・中瀬喜陽編、[[朝日文庫]](改訂版)、1994年
** 『父を語る 柳田国男と南方熊楠』 谷川健一編{{Efn|同じ谷川健一編で、熊楠を柳田国男・折口信夫と比較論考した『南方熊楠、その他』(思潮社、1991年)がある。}}、[[冨山房]]インターナショナル(新版)、2010年
* 岡本清造『岳父・南方熊楠』飯倉照平・[[原田健一]]編、平凡社、1995年
* [[松居竜五]]・[[ワタリウム美術館]]編 『クマグスの森―南方熊楠の見た宇宙』新潮社〈[[とんぼの本]]〉、2007年
* [[進士五十八]] [https://doi.org/10.5363/tits.11.9_3 「南方熊楠 博物学者」『学術の動向』]Vol.11 (2006) No.9 P3, {{DOI|10.5363/tits.11.9_3}}
* 三好正史 [https://doi.org/10.11349/rcmcjs.4.38 「明治人の語学力」『近代日本の創造史』]Vol.4 (2007) P38-39, {{DOI|10.11349/rcmcjs.4.38}}
=== 小説 ===
*[[佐藤春夫]]『近代神仙譚 南方熊楠』 乾元社、1952年 / [[河出文庫]]、2017年
*[[神坂次郎]]『縛られた巨人 南方熊楠の生涯』 [[新潮社]]、1987年 / [[新潮文庫]]、1991年
*[[津本陽]]『巨人伝』 [[文藝春秋]]、1989年 / [[文春文庫]](上下)、1992年。大河評伝小説
*[[阿井景子]]『超人』 講談社 1985年。改題『花千日の紅なく 南方熊楠と妻』 集英社文庫 1989年
*[[東郷隆]]『名探偵クマグスの冒険』集英社、2008年。ロンドン時代の熊楠の活躍を描く
*[[山田風太郎]]「風の中の蝶」-『明治波濤歌』に収録。新潮社、河出文庫、ちくま文庫ほか
*[[千秋寺亰介]]([[飛鳥昭雄]])「怨霊記」シリーズ、徳間書店
; 南方熊楠が脇役として登場
*[[矢作俊彦]]+[[司城志朗]]『[[海から来たサムライ]]』角川書店
**全面改稿・改題し『サムライ・ノングラータ』ソフトバンク文庫
*[[江戸川乱歩]] 「緑衣の鬼」。[[松村喜雄]]『乱歩おじさん 江戸川乱歩論』([[晶文社]]、1992年)157頁より
: この作品に登場する在野の粘菌学者夏目菊太郎は熊楠をモデルにしている。
*[[辻真先]]『超人探偵南方熊楠』光文社文庫、1996年
=== 漫画 ===
*[[水木しげる]]『[[猫楠]]』 [[講談社]](上下)、1992年。[[角川ソフィア文庫|角川文庫ソフィア]]、1996年、講談社〈水木しげる漫画大全集080〉、2014年
*[[岸大武郎]]『[[てんぎゃん -南方熊楠伝-]]』 [[集英社]]、1991年
*[[内田春菊]]『クマグスのミナカテラ』 新潮文庫、1999年
*[[荒俣宏]]監修 / シナリオ・千葉幹夫 / 画・[[みやぞえ郁雄]]『南方熊楠 自然を愛した人間博物館』
*:[[小学館]]版学習まんが人物館、1996年、ISBN 4-09-270104-7
*シナリオ・[[亀井宏]] / 画・小島利明『狂気か天才か 南方熊楠 [[エコロジー]]の先駆者』
*:コミック巨人再発見1・三友社出版、1995年
*[[長谷邦夫]]『南方熊楠 永遠なるエコロジー曼荼羅の光芒 [[民話]]・粘菌・[[密教]]』
*:Diamond comics コミック世紀の巨人・[[ダイヤモンド社]] 1992年
=== 映画 ===
*[[山本政志]]監督『熊楠・KUMAGUSU』(主演[[渡辺哲]]、[[町田町蔵]]、出演[[泉谷しげる]]・[[室井滋]]ほか、1991年6月に撮影開始、10月完成予定であったが資金難で中止。2007年10月、弁慶映画祭において[[パイロット版]]を上映)
*[[神坂次郎]]企画・製作・脚本『南方熊楠・その人と生涯』(教育映画)
=== 浪曲 CD ===
*玉川太福「熊楠、いざ、ロンドン参上!」作 行田憲司 曲師 玉川みね子 誠文社 岡本企画
*玉川太福「柳田国男 いざ、熊楠邸参上!」作 行田憲司 曲師 玉川みね子 誠文社 岡本企画
=== DVD ===
*『学問と情熱 南方熊楠 萃点は見えたか…』 [[紀田順一郎]](総合監修)、[[室田日出男]](ナレーター) [[紀伊國屋書店]]
*:DVDは下記をタイトル改題し、廉価再版した。
* 元版:[[谷川健一]]監修『ビデオ評伝シリーズ 第1巻 南方熊楠 学問と情熱』 紀伊國屋書店 1997年
== 関連文献 ==
; 単行本
* [[中山太郎 (民俗学者)|中山太郎]]『学界偉人南方熊楠』[[冨山房]]、1943年
* [[平野威馬雄]]『博物学者 南方熊楠の生涯』牧書房、1944年
** 新版『大[[博物学]]者 南方熊楠の生涯』 [[リブロポート]]、1982年
* 平野威馬雄『くまぐす外伝』濤書房、1972年/誠文図書、1982年/[[ちくま文庫]]、1991年 - 読み易い評伝
* [[笠井清]]『南方熊楠』 [[吉川弘文館]]〈[[人物叢書]]〉、1967年、新装版1985年、オンデマンド版2022年
* 同『南方熊楠 人と学問』 吉川弘文館、1980年
* 同『南方熊楠 親しき人々』 吉川弘文館、1982年
* 同『南方熊楠外伝』 吉川弘文館、1986年
* [[鶴見和子]]編著『日本民俗文化大系(4) 南方熊楠-地球志向の比較学』 講談社、1978年
**『南方熊楠 地球志向の比較学』 [[講談社学術文庫]]、1981年。上記解説を増訂
**『<small>コレクション鶴見和子曼荼羅(5)</small> 南方熊楠のコスモロジー』 藤原書店、1998年。上記を改訂収録
*鶴見和子『南方熊楠 萃点の思想 未来のパラダイム転換に向けて』 [[藤原書店]]、2001年、新版2021年。巻末に松居竜五と対談「南方曼陀羅をめぐって」
* 松居竜五編『南方熊楠の謎 鶴見和子との対話』 藤原書店、2015年{{Efn|著者没後に刊、編者ほか3名による共著。}}
* [[松居竜五]]『南方熊楠 <small>一切智の夢</small>』[[朝日選書]]、1991年
* 松居竜五『南方熊楠 複眼の学問構想』[[慶應義塾大学出版会]]、2016年
* [[中沢新一]]『森のバロック』[[せりか書房]]、1992年/講談社学術文庫(抄版)、2006年
* 中沢新一『熊楠の星の時間』講談社選書メチエ、2016年 - 第26回[[南方熊楠賞]]記念出版
* 高沢明良『南方熊楠物語 信念を貫いた自由人の生涯』評伝社、1991年 - 中高生向けの伝記
* [[高橋康雄]]『心に不思議あり 南方熊楠 人と思想』 JICC出版局、1992年 - 中高年生向けの研究
* 保永貞夫『南方熊楠 自然保護のさきがけ』 講談社火の鳥伝記文庫、1993年 - 中高生向けの伝記
* 仁科悟朗『南方熊楠の生涯』 [[新人物往来社]]、1994年
* [[米山俊直]]『クニオとクマグス』 河出書房新社、1995年
* 近藤俊文『天才の誕生 あるいは南方熊楠の人間学』岩波書店、1996年
* 飯倉照平『南方熊楠 森羅万象を見つめた少年』岩波ジュニア新書、1996年 - 中高生向けの伝記
* [[後藤正人 (法制史学者)|後藤正人]]『南方熊楠の思想と運動』 世界思想社、2002年
* 千田智子『森と建築の空間史 南方熊楠と近代日本』 東信堂、2002年
* 原田健一『南方熊楠 進化論・政治・性』 平凡社、2003年
* 神坂次郎『南方熊楠の宇宙 末吉安恭との交流』 四季社、2005年
* 橋爪博幸『南方熊楠と「事の学」』鳥影社、2005年
* 松居竜五・岩崎仁編『南方熊楠の森』方丈堂出版、2005年 - [[CD-ROM]]付き
* 武内善信『闘う南方熊楠 「エコロジー」の先駆者』[[勉誠出版]]、2012年
* 飯倉照平『南方熊楠の説話学』勉誠出版、2013年
* 唐澤太輔『南方熊楠の見た夢』勉誠出版、2014年
* 唐澤太輔『南方熊楠 日本人の可能性の極限』[[中公新書]]、2015年
* 杉山和也『南方熊楠と説話学』平凡社〈ブックレット 書物をひらく〉、2017年
* 環栄賢『密教的世界と熊楠』[[春秋社]]、2018年
* [[伊藤慎吾]]・飯倉義之・広川英一郎『怪人熊楠、妖怪を語る』三弥井書店、2019年
* 伊藤慎吾『南方熊楠と日本文学』勉誠出版、2020年
* [[鎌田東二]]『南方熊楠と[[宮沢賢治]] 日本的スピリチュアリティの系譜』[[平凡社新書]]、2020年
* [[安藤礼二]]『熊楠 生命と霊性』河出書房新社、2020年
* [[志村真幸]]『熊楠と幽霊』[[集英社インターナショナル]]新書、2021年
* 志村真幸『未完の天才 南方熊楠』講談社現代新書、2023年
* 嶋本隆光『南方熊楠と猫とイスラーム』[[京都大学学術出版会]]:学術選書、2023年
* [[戸矢学]]『熊楠の神 熊野異界と海人族伝説』方丈社、2022年
* [[荒俣宏]]・環栄賢編『南方熊楠の図譜』[[青弓社]]、1991年12月 - 全9名の論考
* 『<small>新文芸読本</small> 南方熊楠』河出書房新社、1993年4月 - 南方熊楠小伝ほか全8章
* 『[http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten.html 南方熊楠を知る事典]』[[講談社現代新書]]、1993年4月 - 松居竜五・[[中瀬喜陽]]ほか編
* 『南方熊楠 開かれる巨人』河出書房新社、2017年11月 - 論考集
* 『南方熊楠とアジア』勉誠出版〈アジア遊学144〉、2011年 - 執筆者は[[小峯和明]]ほか23名
* 『南方熊楠大事典』松居竜五・田村義也編、勉誠出版、2012年
; 雑誌特集
* 『太陽 特集 奇想天外な巨人、南方熊楠』平凡社、1990年11月号、荒俣宏・[[田中優子]]ほか
**ムック『南方熊楠 奇想天外の巨人』[[平凡社]]〈コロナブックス〉 1995年
* 『特集 南方熊楠 [[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』 1992年7月号 [[青土社]]
* 『特集 南方熊楠 [[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]]』 2008年1月号 青土社
* 『國文學 特集 南方熊楠「ナチュラルヒストリーの文体」』 2005年8月号 学燈社
* 『科学 特集 南方熊楠「森の巨人がまいた胞子」』2013年8月号 岩波書店
* 『[[kotoba]] 特集 南方熊楠 「知の巨人」の全貌』2015年春号 集英社
<!--* [[ワタリウム美術館]]編・萩原博光解説『南方熊楠菌類図譜』[[新潮社]]、2007年
** [[萩原博光]]・[[長沢栄史]]編集・解説『菌類彩色図譜百選』 学伸社エンタプライズ 1989年 - 大部な豪華
** 小林義雄編『南方熊楠菌誌 (全2巻)』八坂書房、1987-89年 かぶっているのでコメントアウト-->
{{botanist|Minakata}}
== 脚注==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |editor=飯倉照平 |title=南方熊楠 人と思想 |publisher=[[平凡社]] |date=1974 |ref={{SfnRef|飯倉|1974}} }}
* 飯倉照平・長谷川興蔵編 『南方熊楠百話』 八坂書房、1991年
*[[紀田順一郎]]編 『日本博覧人物史―データベースの黎明』 [[ジャストシステム]]、1994年 - 人物列伝で項目収録
* 萩原博光 「南方粘菌学を探る(1)」- 『熊楠研究』第1号(南方熊楠資料研究会、1999年)所収、
* {{Cite book |和書 |author=飯倉照平 |title=南方熊楠―梟のごとく黙坐しおる |publisher=ミネルヴァ書房 |series=[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]] |date=2006-11 |isbn=462304761X |ref={{SfnRef|飯倉|2006}} }}
== 関連項目 ==
{{ウィキプロジェクトリンク|生物|[[画像:Panda template.gif|37px]]}}
{{Commons&cat}}
=== 人物 ===
* [[中井芳楠]] - 熊楠と親交のあった銀行家、教育者。
* [[佐藤春夫]] - 和歌山新宮出身の詩人。熊楠最初の評伝小説『近代神仙譚』を著した。
* [[土宜法龍]] - 親交のあった[[真言宗]]の[[僧侶]]。長年、往復書簡を交わした。
* [[末吉麦門冬]] - 交流があった。
* [[岩田準一]] - 竹久夢二の弟子。熊楠とは男色研究の分野で交流があった。
== 外部リンク ==
* [http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/ 南方熊楠記念館]
* [https://www.minakata.org/ 南方熊楠顕彰館/南方熊楠邸/和歌山県田辺市/南方曼荼羅/博物学・民俗学]
* [https://web.archive.org/web/20171223160649/http://minakatakumagusu.web.fc2.com/ 南方熊楠顕彰会]
* [http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/ 南方熊楠資料研究会]
* {{青空文庫著作者|93|南方 熊楠}}
* [http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/family/okamoto.html 岡本清造『岳父・南方熊楠』]
* [http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten_nakase_ch2.html 『南方熊楠を知る事典』]
* [https://www.youtube.com/@kumagusu30206 『南方熊楠顕彰館(南方熊楠邸)-Minakata Kumagusu Archives(youtubeチャンネル)]
* [https://www.youtube.com/watch?v=UJLa7Vl4b6A&t=4976s 『南方熊楠顕彰館館長講演会「南方熊楠顕彰館はなぜ田辺にあるのか」(2023年3月5日)』]
* {{kotobank}}
* {{kotobank|南方 熊楠}}
{{Normdaten}}
{{Portal bar|アジア|日本|和歌山県|イギリス|生物学|民俗学|植物|人物伝}}
{{デフォルトソート:みなかた くまくす}}
[[Category:南方熊楠|*]]
[[Category:19世紀日本の博物学者]]
[[Category:20世紀日本の博物学者]]
[[Category:19世紀日本の生物学者]]
[[Category:20世紀日本の生物学者]]
[[Category:19世紀日本の民俗学者]]
[[Category:20世紀日本の民俗学者]]
[[Category:戦前日本の学者]]
[[Category:日本の自然保護活動家]]
[[Category:日本のネイチャーライター]]
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:神道に関連する人物]]
[[Category:大英博物館の人物]]
[[Category:和歌山県立桐蔭高等学校出身の人物]]
[[Category:開成中学校・高等学校出身の人物]]
[[Category:紀伊国の人物]]
[[Category:和歌山県出身の人物]]
[[Category:1867年生]]
[[Category:1941年没]] | 2003-03-15T13:04:15Z | 2023-12-21T10:25:55Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0 |
4,098 | 船橋競馬場駅 | 船橋競馬場駅(ふなばしけいばじょうえき)は、千葉県船橋市宮本八丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS24。
島式ホーム2面4線の地上駅で、橋上駅舎を有している。以前は、現行のららぽーとTOKYO-BAYへの無料送迎バス発着所があるあたりに相対式2面2線のホームがあったが、橋上駅舎化する際に現在地へ移設。駅全体がカーブにかかっており、カーブの外側に当たる1番線が本線扱いとなる。そのため上りは通過列車の他、停車列車も優等列車を待避しない場合は1番線を通る。
周辺の競馬場や商業施設に関連して特急が臨時停車することもある。2002年のダイヤ改正までは、この駅以東(京成佐倉駅・京成成田駅方面)を各駅に停車する急行が運転されていた。
2021年度の1日平均乗降人員は17,122人である。京成線内69駅中第20位。
近年の1日平均乗降人員および乗車人員は下表の通りである。
駅北口より約1.3 kmの位置に総武線の東船橋駅があり、駅南口より約1 kmの位置に京葉線の南船橋駅がある。駅東側には国道296号、県道8号、県道15号が通る。駅南側には京葉道路(IC)、東関東自動車道(IC)、国道14号(千葉街道)、国道357号(東京湾岸道路)が通る。 | [
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] | 船橋競馬場駅(ふなばしけいばじょうえき)は、千葉県船橋市宮本八丁目にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS24。 | {{駅情報
|社色 = #15c
|文字色 =
|駅名 = 船橋競馬場駅
|画像 = 船橋競馬場駅南口駅舎.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅名看板変更後(2020年12月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = ふなばしけいばじょう
|ローマ字 = Funabashikeibajō<!-- 駅名標の表記に従う -->
|副駅名 =
|前の駅 = KS23 [[大神宮下駅|大神宮下]]
|駅間A = 0.8
|駅間B = 1.0
|次の駅 = [[谷津駅|谷津]] KS25
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|24|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線|本線]]
|キロ程 = 27.2
|起点駅 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所在地 = [[千葉県]][[船橋市]]宮本八丁目42番1号
|座標 = {{coord|35|41|23.11|N|139|59|52.57|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 2面4線
|開業年月日 = [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月21日]]<ref name="history1401">石本祐吉 『京成の駅 今昔・昭和の面影』 [[JTBパブリッシング]]、2014年1月。{{ISBN2|978-4533095535}}</ref>
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 17,122
|統計年度 = 2021年
|乗換 =
|備考 =
}}
{{駅情報
|社色 = #ccc
|文字色 = #000
|駅名 = 京成花輪<ref group="注釈" name="hanawa">谷津遊園地駅の廃止後の1950年に船橋競馬場前駅に改称された。</ref>
|画像 =
|pxl =
|画像説明 =
|よみがな =けいせいはなわ
|ローマ字 = KEISEI-HANAWA
|駅番号 =
|所属事業者 = [[京成電鉄|京成電気軌道]]<ref group="注釈">谷津遊園地駅の廃止後の1945年に京成電鉄に社名変更した。</ref>
|所属路線 = [[京成谷津支線|谷津支線]]
|隣の駅 = self
|前の駅 =
|駅間A =
|駅間B =
|次の駅 =(1.2km) [[谷津遊園地駅|谷津遊園地]] ►
|キロ程 = 0.0
|起点駅 = 京成花輪
|所在地 =
|座標 =
|駅構造 = [[地上駅]]
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|備考 =
}}
[[ファイル:Funabashi-Keibajo-Sta-N.JPG|thumb|北口外観(2018年9月)]]
[[ファイル:Keisei Funabashikeibajo sta 002.jpg|thumb|南口外観(駅名看板更新前 2012年4月)]]
[[ファイル:船橋競馬場のパドック.jpg|thumb|駅名の由来となっている[[船橋競馬場]](パドック)]]
'''船橋競馬場駅'''(ふなばしけいばじょうえき)は、[[千葉県]][[船橋市]][[宮本 (船橋市)|宮本]]八丁目にある、[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS24'''。
== 歴史 ==
{{出典の明記|section=1|date=2011年12月|ソートキー=駅}}
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月21日]] - [[京成谷津支線|谷津支線]]開業時に分岐駅として'''花輪駅'''の名で開業<ref name="history1401" />。
* [[1931年]](昭和6年)[[11月18日]] - '''京成花輪駅'''に改称<ref name="ryokochizucho3">[[日本鉄道旅行地図帳]]3号 関東1([[今尾恵介]] 監修 [[新潮社]] 2008年7月18日発行 ISBN 9784107900210 )37頁</ref>。
* [[1934年]] (昭和9年) [[6月22日]] - 谷津支線廃止。
* [[1950年]](昭和25年)[[7月5日]] - '''船橋競馬場前駅'''に改称<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[1955年]](昭和30年)[[11月3日]] - 後の駅名の「センター」の由来である[[船橋ヘルスセンター]]が開業。
* [[1963年]](昭和38年)[[12月1日]] - '''センター競馬場前駅'''に改称<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[1974年]](昭和49年)12月 - 駅前踏切を挟んで谷津方に約150メートル東に移転。橋上駅舎化、[[プラットホーム#島式ホーム|島式ホーム]](この時は実質[[プラットホーム#相対式ホーム|相対式ホーム]])2面2線となる<ref name="history1401"/>。
* [[1977年]](昭和52年)[[5月5日]] - 船橋ヘルスセンターが閉鎖。
* [[1978年]](昭和53年) - 待避設備が完成。島式ホーム2面4線となる<ref name="history1401"/>。
* [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]] - '''船橋競馬場駅'''に改称<ref>{{Cite journal|和書 |date=1987-05 |journal=[[鉄道ジャーナル]] |volume=21 |issue=6 |pages=104 |publisher=鉄道ジャーナル社}}</ref>。
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]2面4線の[[地上駅]]で、[[橋上駅|橋上駅舎]]を有している。以前は、現行の[[ららぽーとTOKYO-BAY]]への[[無料送迎バス]]発着所があるあたりに相対式2面2線のホームがあった<ref group="注釈">この場所は[[経度|東経]]140度線のちょうど真上に位置したため、「経線上にある駅」として一部の科学愛好者の間で知られていた。</ref>が、橋上駅舎化する際に現在地へ移設。駅全体が[[線形 (路線)|カーブ]]にかかっており、カーブの外側に当たる1番線が本線扱いとなる。そのため上りは通過列車の他、停車列車も[[優等列車]]を待避しない場合は1番線を通る。
周辺の競馬場や商業施設に関連して[[特別急行列車|特急]]が臨時停車することもある。2002年のダイヤ改正までは、この駅以東([[京成佐倉駅]]・[[京成成田駅]]方面)を各駅に停車する急行が運転されていた。
=== のりば ===
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠。新京成線も表記あり -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1・2
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]方面
|-
!3・4
|style="text-align:center"|下り
|[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成成田駅|京成成田]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]・[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|}
* カーブの影響により、奇数番線(1・3番線)が主本線、偶数番線(2・4番線)が待避線となっている。
* 上表の路線名は[[京成成田空港線|成田空港線]]開業後の旅客案内の名称に基づいている。
<gallery>
Keisei Funabashikeibajo sta 004.jpg|改札口(2012年4月)
Keisei-railway-KS24-Funabashi-keibajo-station-platform-20170823-175257.jpg|1・2番線ホーム(2017年8月)
Keisei-railway-KS24-Funabashi-keibajo-station-sign-20170823-175135.jpg|1・2番線駅名標(2017年8月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[2021年]]度の1日平均[[乗降人員]]は'''17,122人'''である<ref name="keiseijoko">[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.html 駅別乗降人員(2021年度1日平均)]、京成電鉄ホームページ、2022年5月21日閲覧</ref>。京成線内69駅中第20位。
近年の1日平均乗降人員および乗車人員は下表の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
|+年度別一日平均乗降・乗車人員
!年度
!colspan=2|1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!colspan=2|1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑]</ref>
|-
|1995年(平成{{0}}7年)
| ||
|10,338||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_6.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成8年)</ref>
|-
|1996年(平成{{0}}8年)
| ||
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|18,651||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0411/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成15年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
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|2004年(平成16年)
|19,241||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0511/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成16年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
| 9,722 ||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成17年)</ref>
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|2005年(平成17年)
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|9,976||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_2.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成18年)</ref>
|-
|2006年(平成18年)
|19,409||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0711/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成18年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,826||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n_1.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成19年)</ref>
|-
|2007年(平成19年)
|18,804||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0811/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,488||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成20年)</ref>
|-
|2008年(平成20年)
|19,405||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/0910/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成20年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,807||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成21年)</ref>
|-
|2009年(平成21年)
|18,908||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1010/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成21年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会ホームページ、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,541||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成22年)</ref>
|-
|2010年(平成22年)
|19,080||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1110/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成22年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,620||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成23年)</ref>
|-
|2011年(平成23年)
|18,706||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1210/keisei.pdf 京成電鉄]}} - 平成23年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,454||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成24年)</ref>
|-
|2012年(平成24年)
|18,500||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1310/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成24年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,339||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h25/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成25年)</ref>
|-
|2013年(平成25年)
|18,718||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1410/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成25年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
|9,451||<ref>{{XLSlink|[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h26/documents/111n.xls 111 民鉄等駅別1日平均運輸状況]}} - 千葉県統計年鑑(平成26年)</ref>
|-
|2014年(平成26年)
|19,198||<ref>{{PDFlink|[http://www.train-media.net/report/1511/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成26年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2016年6月6日閲覧。</ref>
| ||
|-
|2015年(平成27年)
|19,847||<ref>{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1610/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成27年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2021年3月16日閲覧。</ref>
| ||
|-
|2016年(平成28年)
|20,176||<ref>{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1710/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成28年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2021年3月16日閲覧。</ref>
| ||
|-
|2017年(平成29年)
|20,611||<ref>{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1810/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成29年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2021年3月16日閲覧。</ref>
| ||
|-
|2018年(平成30年)
|20,872||<ref>{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/1910/keisei.pdf 京成電鉄]}}、平成30年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2021年3月16日閲覧。</ref>
| ||
|-
|2019年(令和元年)
|20,709||<ref>{{PDFlink|[https://www.train-media.net/report/2010/keisei.pdf 京成電鉄]}}、令和元年度1日平均乗降人員・通過人員、関東交通広告協議会公式サイト、2021年8月30日閲覧。</ref>
| ||
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|15,763||
| ||
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|17,122||<ref name="keiseijoko" />
|8,642||
|}
== 駅周辺 ==
駅北口より約1.3 kmの位置に[[中央・総武緩行線|総武線]]の[[東船橋駅]]があり、駅南口より約1 kmの位置に[[京葉線]]の[[南船橋駅]]がある。駅東側には[[国道296号]]、[[千葉県道8号船橋我孫子線|県道8号]]、[[千葉県道15号千葉船橋海浜線|県道15号]]が通る。駅南側には[[京葉道路]]([[花輪インターチェンジ|IC]])、[[東関東自動車道]]([[谷津船橋インターチェンジ|IC]])、[[国道14号]]([[千葉街道]])、[[国道357号]]([[東京湾岸道路]])が通る。
=== 北口 ===
{{See also|東船橋駅#駅周辺}}
[[ファイル:Chiba Prefectural Funabashi Senior High School.jpg|thumb|[[千葉県立船橋高等学校]]]]
* [[国税庁]] 船橋[[税務署]]
* [[千葉県立船橋高等学校]]
* [[船橋市立宮本中学校]]
* [[船橋市立宮本小学校]]
* 船橋宮本郵便局
* [[茂侶神社]]
* [[了源寺 (船橋市)|了源寺]]
=== 南口 ===
{{See also|南船橋駅#駅周辺}}
[[ファイル:LaLaport TOKYO-BAY.jpg|thumb|[[ららぽーとTOKYO-BAY]]]]
[[ファイル:Vivit.png|thumb|[[ビビット南船橋]]]]
* [[船橋警察署]] 浜町交番
* 船橋浜町郵便局
* [[ららぽーとTOKYO-BAY]]
* [[ビビット南船橋]]
* [[京成バス]][[京成バス習志野出張所|船橋営業所花輪車庫]]・[[京成バス新習志野高速営業所|貸切センター]]跡地([[2015年]]下記の各店が開業)
** [[コーナン]] 船橋花輪インター店
** [[トーホー]] せんどば船橋店
** [[イエローハット]] 船橋花輪インター店
** 船橋[[ドライバースタンド|2りんかん]]
** [[ニコニコレンタカー]] YH船橋花輪インター店
* [[イケア|IKEA]] TOKYO-BAY(本社併設)
* [[ユアサ・フナショク]](本社)
* [[船橋競馬場]]
** [[サテライト船橋|船橋場外]]([[競輪場外車券売場]]「サテライト船橋」・[[オートレース]]場外車券売場「オートレース船橋」)
** [[オーケー]]船橋競馬場店
== バス路線 ==
[[ファイル:Keiseibus 7559 LaLaPort-Shuttlebus.jpg|thumb|[[ららぽーとTOKYO-BAY]]への無料送迎バス]]
{|class="wikitable"
!のりば!!系統!!主要経由地!!行先!!運行会社!!備考
|-
| rowspan="5" |船橋競馬場駅||rowspan="2"|船72||ららぽーと東口||[[南船橋駅]]|| rowspan="5" |[[京成バスシステム]]|| rowspan="2" |平日1本のみ
|-
|[[大神宮下駅|大神宮下駅前通り]]||[[京成船橋駅]]
|-
| rowspan="3" |ら01||ららぽーと東口||[[南船橋駅]]||1日2本のみ
|-
|谷津駅・谷津七丁目||[[津田沼駅]]|| rowspan="2" |1日1本のみ
|-
|谷津駅・谷津七丁目・[[津田沼駅]]
|[[東船橋駅]]
|}
* 南口よりららぽーとTOKYO-BAYへの無料送迎バスが発着している。
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急
::: '''通過'''(船橋競馬場で大レースが開催される場合は臨時停車することがある)
:: {{Color|#ee86a1|■}}快速
::: [[京成船橋駅]] (KS22) - '''船橋競馬場駅 (KS24)''' - [[京成津田沼駅]] (KS26)
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[大神宮下駅]] (KS23) - '''船橋競馬場駅 (KS24)''' - [[谷津駅]] (KS25)<ref>[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/railmap/railmap.pdf 京成電鉄ホームページ(路線図)]</ref>
=== かつて存在した路線 ===
; 京成電気軌道
: 谷津支線
:: '''京成花輪駅''' - [[谷津遊園地駅]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Funabashi-Keibajo Station}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[新鎌ヶ谷駅]] - 東経140度上にある駅。
* [[競馬場前駅]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/funabashikeibajo.php 船橋競馬場駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
{{京成本線}}
{{DEFAULTSORT:ふなはしけいはしよう}}
[[Category:日本の鉄道駅 ふ|なはしけいはしよう]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:船橋市の鉄道駅]]
[[Category:1927年開業の鉄道駅]] | 2003-03-15T13:11:55Z | 2023-09-08T01:41:11Z | false | false | false | [
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"Template:脚注ヘルプ"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%A9%8B%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E9%A7%85 |
4,099 | 谷津駅 | 谷津駅(やつえき)は、千葉県習志野市谷津にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS25。
島式ホーム1面2線を有する地上駅。駅舎は駅ホームの真上にあり、下総台地縁の海食崖上にせり出している。北側の入口は台地面に開いているため、あまり段差がないが、南側の入口はかつての海岸線方向に向いているため、海食崖の足元の地上面と駅舎の間を国道14号(千葉街道)をまたぐ階段で上り下りを行うことになる。こうした駅舎構造から、当駅は、下総台地の台地面に位置する谷津五丁目と、台地の足元の埋立地である谷津四丁目を結ぶ、主要な歩行者通路としても機能している。この階段には2000年代に入ってからエスカレーターとエレベーターが設置されているほか、京成電鉄駅ビルの「谷津スクエア」とも直結している。その他、駅舎とホームを連絡するエレベーターも設置されている。
京成本線は当駅より上り方向(西側)は海岸の低地を走っており、下り方向(東側)に向けて、北東に切れ込んだ旧谷津村の谷を経て下総台地の上に乗り上げていくことになる。
1986年(昭和61年)4月に旧・住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)による谷津パークタウン壱番街への入居が開始されると、当駅の乗降客数は増加し、さらに谷津パークタウン弐番街・参番街への入居とともに当駅の乗降客数は急激に増加した。しかし、1998年(平成10年)に谷津パークタウン住民がかつてから望んでいたJR津田沼駅 - 谷津パークタウン間のバス路線(京成バス・谷津パークタウン線)が開通したことや、谷津パークタウンの賃貸住宅への入居者が減少したことなどにより当駅の利用者数は一時に比べて減少していたが、2007年(平成19年)より奏の杜地区の土地区画整理事業が進み再び増加傾向にある。地元からは快速停車駅に再昇格させるべく運動も起きている。
2021年度の一日平均乗降人員は8,968人 で、京成線内69駅中第39位であった。
近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。
駅南口に習志野市南部エリア最大の谷津保健病院と東京湾岸リハビリテーション病院があるため、駅前の利便性から多数の診察客が乗降しており、その関係で駅前に医療系・薬事関係の店舗が多数出店している。南口階段下には京成電鉄の園芸部門子会社である京成フラワーの温室を備えた大型店舗が谷津遊園に来園する観光客向けにあり、同園閉鎖後も営業を続けていたが、2006年(平成18年)になって駅舎内の仮店舗に一時移動して再開発を開始し、敷地を有効活用した2階建て駅ビル『谷津スクエア』が2007年(平成19年)8月初旬に開業した。これは国道拡幅の計画も絡んでおり、当駅周辺では一部で既に拡幅が完了し、一部で用地が買収されるなどの準備がされている。
駅北口の津田沼駅方面では2007年(平成19年)から35ヘクタール(ha)に及ぶ大規模な土地区画整理事業(奏の杜プロジェクト)が始まっており、将来的には7000人程度の定住人口を見込んでいる。この地域の旧町名は谷津(やつ)であったが、習志野市が開発プロジェクト名を採り入れた奏の杜(かなでのもり)という新町名を導入している。
駅北口より約1.3 kmの位置に東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線(総武快速線・総武緩行線)の津田沼駅があり、駅南口より約1 kmの位置に東日本旅客鉄道(JR東日本)京葉線(武蔵野線)の南船橋駅がある。駅東側には国道296号、千葉県道8号船橋我孫子線、千葉県道15号千葉船橋海浜線が通る。駅南側には京葉道路(花輪インターチェンジ)、東関東自動車道(谷津船橋インターチェンジ)、国道14号(千葉街道)、国道357号(東京湾岸道路)が通る。
南口の国道14号(谷津駅前交番前)に「谷津駅」バス停があるほか、国道14号を千葉方面に徒歩5分程の東京湾岸リハビリテーション病院前に「谷津2丁目」バス停がある。
また、平和交通の銀座駅、東京駅から深夜急行バスが谷津駅バス停に停車するが降車のみで乗車はできない。平和交通の津田沼・ららぽーとTOKYO-BAY線は、谷津駅前の国道14号を走行するが、バス停は設置されていない。
• 谷津駅(京成バスシステム)
• 谷津2丁目(京成バス)
かつては京成バス旧船橋営業所花輪車庫への入出庫線として、津53:谷津二丁目 - 新習志野駅が早朝(出庫)・深夜(入庫)のみ設定されていたが、花輪車庫移転に伴い、2012年12月22日限りで廃止された。 | [
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"text": "2021年度の一日平均乗降人員は8,968人 で、京成線内69駅中第39位であった。",
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"text": "近年の1日平均乗車人員推移は下表の通り。",
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"text": "駅北口の津田沼駅方面では2007年(平成19年)から35ヘクタール(ha)に及ぶ大規模な土地区画整理事業(奏の杜プロジェクト)が始まっており、将来的には7000人程度の定住人口を見込んでいる。この地域の旧町名は谷津(やつ)であったが、習志野市が開発プロジェクト名を採り入れた奏の杜(かなでのもり)という新町名を導入している。",
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] | 谷津駅(やつえき)は、千葉県習志野市谷津にある、京成電鉄本線の駅である。駅番号はKS25。 | {{混同|八津駅|x1=秋田県仙北市にある秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線の}}
{{駅情報
|社色 = #1155cc
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|駅名 = 谷津駅
|画像 = Yatsu-STA.jpg
|pxl = 300px
|画像説明 = 駅舎南口(2021年6月)
|地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}}
|よみがな = やつ
|ローマ字 = Yatsu
|副駅名 =
|前の駅 = KS24 [[船橋競馬場駅|船橋競馬場]]
|駅間A = 1.0
|駅間B = 1.5
|次の駅 = [[京成津田沼駅|京成津田沼]] KS26
|電報略号 =
|駅番号 = {{駅番号r|KS|25|#005aaa|4||#005aaa}}
|所属事業者 = [[京成電鉄]]
|所属路線 = {{color|#005aaa|■}}[[京成本線|本線]]
|キロ程 = 28.2
|起点駅 = [[京成上野駅|京成上野]]
|所在地 = [[千葉県]][[習志野市]]谷津五丁目4番5号
|座標 = {{coord|35|41|7.1|N|140|0|27.2|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title}}
|駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]])
|ホーム = 1面2線
|開業年月日 = [[1921年]]([[大正]]10年)[[7月17日]]
|廃止年月日 =
|乗車人員 =
|乗降人員 = 8,968
|統計年度 = 2021年<!--リンク不要-->
|乗換 =
|備考 =
}}
[[ファイル:Yatsu Station building - Sep 2 2019 15 38 20 967000.jpeg|thumb|北口外観(2019年9月)]]
'''谷津駅'''(やつえき)は、[[千葉県]][[習志野市]]谷津にある、[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KS25'''。
== 歴史 ==
{{出典の明記|section=1|date=2011年12月|ソートキー=駅}}
* [[1921年]]([[大正]]10年)[[7月17日]] - '''谷津海岸駅'''として開業。開業時のホームは単式ホーム[[プラットホーム#千鳥式ホーム|千鳥]]配置の2面2線式([[踏切#構内踏切|構内踏切]]を挟んで下りホームが船橋寄り、上りホームが津田沼寄りに出ていた)<ref name="keiseikonjyaku">JTBキャンブックス『京成の駅 今昔・昭和の面影』([[石本祐吉]]・著 2014年2月1日初版発行)93-94頁</ref>。
* [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月21日]]から[[1934年]](昭和9年)[[6月22日]]までは、京成遊園地(後の谷津遊園)のために[[京成谷津支線|支線]]が存在し、その支線上に谷津遊園地駅が存在した<ref>[[日本鉄道旅行地図帳]]3号 関東1([[今尾恵介]] 監修 [[新潮社]] 2008年7月18日発行 ISBN 9784107900210 )38頁</ref>。
* [[1936年]](昭和11年)[[4月10日]] - 支線の廃線に伴い、'''谷津遊園駅'''と名称変更<ref name="ryokochizucho3">[[日本鉄道旅行地図帳]]3号 関東1([[今尾恵介]] 監修 [[新潮社]] 2008年7月18日発行 ISBN 9784107900210 )37頁</ref>。
* [[1939年]](昭和14年) - 戦時下のため'''谷津海岸駅'''と名称変更<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[1948年]](昭和23年)[[4月1日]] - 再び'''谷津遊園駅'''と名称変更<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[1967年]](昭和42年) - 改良工事により橋上駅舎化、ホームが現在の形になる<ref name="keiseikonjyaku"/>。
* [[1984年]](昭和59年)[[11月24日]] - [[1982年]](昭和57年)に谷津遊園が閉園したため'''谷津駅'''に名称変更<ref name="ryokochizucho3"/>。
* [[1985年]](昭和60年)10月 - 特急の停車駅から外れる。
* [[2002年]]([[平成]]14年)[[10月12日]] - 急行に代わって快速が設定され、快速停車駅から外れたため普通列車のみが停車する駅となる。
* [[2009年]](平成21年)[[4月27日]] - 駅舎とホームを連絡する車椅子対応エレベーターが設置される。
* [[2023年]]([[令和]]5年)ー 改札付近に[[発車標|LCD式発車標]]が設置される。
<gallery>
Keisei Yatsu Branch Trace.jpg|当駅(谷津海岸駅)と谷津遊園地駅 位置図(1947年8月)<br />『国土交通省「国土画像情報(カラー空中写真)」(配布元:[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1 国土地理院地図・空中写真閲覧サービス)]』<!--名義表記は掲載条件-->
Keisei Electric Railway Yatsu-yuen station 1985.jpg|谷津遊園駅であった頃の駅名標
</gallery>
== 駅構造 ==
[[島式ホーム]]1面2線を有する[[地上駅]]。駅舎は駅ホームの真上にあり、[[下総台地]]縁の[[崖|海食崖]]上にせり出している。北側の入口は台地面に開いているため、あまり段差がないが、南側の入口はかつての[[海岸|海岸線]]方向に向いているため、海食崖の足元の地上面と駅舎の間を[[国道14号]]([[千葉街道]])をまたぐ[[階段]]で上り下りを行うことになる。こうした駅舎構造から、当駅は、下総台地の台地面に位置する谷津五丁目と、台地の足元の埋立地である谷津四丁目を結ぶ、主要な歩行者通路としても機能している。この階段には[[2000年代]]に入ってから[[エスカレーター]]と[[エレベーター]]が設置されているほか、京成電鉄[[駅ビル]]の「谷津スクエア」とも直結している。その他、駅舎とホームを連絡するエレベーターも設置されている。
京成本線は当駅より上り方向(西側)は海岸の[[低地]]を走っており、下り方向(東側)に向けて、北東に切れ込んだ旧谷津村の谷を経て下総台地の上に乗り上げていくことになる。
=== のりば ===
<!-- 2018年5月時点での新サインシステムに基づいたホームの案内標の表記に準拠。新京成線も表記あり -->
{|class="wikitable"
!番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先
|-
!1
|rowspan="2"|[[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 京成本線
|style="text-align:center"|上り
|[[京成船橋駅|京成船橋]]・[[日暮里駅|日暮里]]・[[京成上野駅|京成上野]]・[[押上駅|押上]]・[[File:Toei Asakusa line symbol.svg|15px|A]] [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]方面
|-
!2
|style="text-align:center"|下り
|[[京成津田沼駅|京成津田沼]]・[[京成成田駅|京成成田]]・[[File:Pictograms-nps-airport.svg|16px]] [[成田空港駅|成田空港]]・[[京成千葉駅|京成千葉]]・[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|15px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]方面
|}
* 上表の路線名は[[京成成田空港線|成田空港線]]開業後の旅客案内の名称に基づいている。
<gallery>
Yatsu-STA Gate.jpg|改札口(2021年6月)
Yatsu-STA Home.jpg|ホーム(2021年6月)
Keisei-railway-KS25-Yatsu-station-sign-20150407.jpg|駅名標(2015年4月)
Yatsu-Sta-1.JPG|駅舎と1番線ホーム 左のコンクリート擁壁が下総台地縁の海食崖(2013年8月)
</gallery>
== 利用状況 ==
[[1986年]](昭和61年)4月に旧・[[住宅・都市整備公団]](現・[[都市再生機構]])による谷津パークタウン壱番街への入居が開始されると、当駅の乗降客数は増加し、さらに谷津パークタウン弐番街・参番街への入居とともに当駅の乗降客数は急激に増加した。しかし、[[1998年]](平成10年)に谷津パークタウン住民がかつてから望んでいたJR[[津田沼駅]] - 谷津パークタウン間のバス路線([[京成バス]]・[[京成バス船橋営業所#谷津パークタウン線|谷津パークタウン線]])が開通したことや、谷津パークタウンの賃貸住宅への入居者が減少したことなどにより当駅の利用者数は一時に比べて減少していたが、[[2007年]](平成19年)より奏の杜地区の土地区画整理事業が進み再び増加傾向にある。地元からは快速停車駅に再昇格させるべく運動も起きている。
[[2021年]]度の一日平均乗降人員は'''8,968人'''<ref>[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.html 京成電鉄 駅別乗降人員]</ref> で、京成線内69駅中第39位であった。
近年の1日平均'''乗車'''人員推移は下表の通り。
{|class="wikitable" style="text-align:right"
!年度
!1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref>
!1日平均<br />乗車人員<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/ 千葉県統計年鑑]</ref>
|-
|1998年(平成10年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h11.html#11 千葉県統計年鑑(平成11年)]</ref> 7,366
|-
|1999年(平成11年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h12/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成12年)]</ref> 7,055
|-
|2000年(平成12年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h13/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成13年)]</ref> 6,829
|-
|2001年(平成13年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h14/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成14年)]</ref> 6,647
|-
|2002年(平成14年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h15/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成15年)]</ref> 6,343
|-
|2003年(平成15年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h16/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成16年)]</ref> 5,937
|-
|2004年(平成16年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h17/index.html#11 千葉県統計年鑑(平成17年)]</ref> 5,752
|-
|2005年(平成17年)
|
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h18.html#11 千葉県統計年鑑(平成18年)]</ref> 5,668
|-
|2006年(平成18年)
|11,650
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h19.html#11 千葉県統計年鑑(平成19年)]</ref> 5,669
|-
|2007年(平成19年)
|11,603
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h20.html#11 千葉県統計年鑑(平成20年)]</ref> 5,713
|-
|2008年(平成20年)
|11,387
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h21/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成21年)]</ref> 5,640
|-
|2009年(平成21年)
|11,234
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h22/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成22年)]</ref> 5,573
|-
|2010年(平成22年)
|11,235
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h23/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成23年)]</ref> 5,576
|-
|2011年(平成23年)
|11,022
|<ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/toukei/toukeidata/nenkan/nenkan-h24/index.html#a11 千葉県統計年鑑(平成24年)]</ref> 5,472
|-
|2012年(平成24年)
|11,125
|
|-
|2013年(平成25年)
|11,188
|
|-
|2014年(平成26年)
|10,864
|
|-
|2015年(平成27年)
|10,861
|
|-
|2016年(平成28年)
|10,824
|
|-
|2017年(平成29年)
|10,906
|
|-
|2018年(平成30年)
|11,115
|
|-
|2019年(令和元年)
|11,033
|
|-
|2020年(令和{{0}}2年)
|8,559
|
|-
|2021年(令和{{0}}3年)
|8,968
|4,508
|}
== 駅周辺 ==
[[ファイル:Yatsu-Higata mudflat Aerial photograph.1989.jpg|thumb|1989年代の当駅周辺 谷津干潟を残し埋立と都市化が進行<small>({{国土航空写真}}。1989年撮影の2枚を合成作成。)</small>]]
駅南口に習志野市南部エリア最大の谷津保健病院と東京湾岸リハビリテーション病院があるため、駅前の利便性から多数の診察客が乗降しており、その関係で駅前に医療系・薬事関係の店舗が多数出店している。南口階段下には京成電鉄の園芸部門子会社である[[京成フラワー]]の[[温室]]を備えた大型店舗が谷津遊園に来園する観光客向けにあり、同園閉鎖後も営業を続けていたが、2006年(平成18年)になって駅舎内の仮店舗に一時移動して[[都市再開発|再開発]]を開始し、敷地を有効活用した2階建て[[駅ビル]]『谷津スクエア』が2007年(平成19年)8月初旬に開業した。これは国道拡幅の計画も絡んでおり、当駅周辺では一部で既に拡幅が完了し、一部で用地が買収されるなどの準備がされている。
駅北口の津田沼駅方面では[[2007年]](平成19年)から35ヘクタール(ha)に及ぶ大規模な土地区画整理事業(奏の杜プロジェクト)が始まっており、将来的には7000人程度の定住人口を見込んでいる。この地域の旧町名は谷津(やつ)であったが、習志野市が開発プロジェクト名を採り入れた奏の杜(かなでのもり)という新町名を導入している<ref>「「奏の杜」に町名変更 議案一転可決 習志野市議会」2012年09月29日付 東京 朝刊 ちば首都圏</ref>。
=== 周辺交通 ===
駅北口より約1.3 kmの位置に[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]([[横須賀・総武快速線|総武快速線]]・[[中央・総武緩行線|総武緩行線]])の[[津田沼駅]]があり、駅南口より約1 kmの位置に東日本旅客鉄道(JR東日本)[[京葉線]]([[武蔵野線]])の[[南船橋駅]]がある。駅東側には[[国道296号]]、[[千葉県道8号船橋我孫子線]]、[[千葉県道15号千葉船橋海浜線]]が通る。駅南側には[[京葉道路]]([[花輪インターチェンジ]])、[[東関東自動車道]]([[谷津船橋インターチェンジ]])、[[国道14号]]([[千葉街道]])、[[国道357号]]([[東京湾岸道路]])が通る。
=== 北口 ===
{{See also|津田沼駅#駅周辺}}
[[ファイル:Narashino cityscape at night; 2016(cropped).jpg|thumb|[[奏の杜]]地区周辺のマンション群]]
* 習志野市中央消防署谷津奏の杜出張所
* 習志野市立谷津図書館
* [[習志野市立第一中学校]]
* [[習志野市立谷津小学校]]
* [[津田沼中央総合病院]]([[救急指定病院]])
* 奏の杜フォルテ(forte)
** [[ベルク (企業)|ベルク]]フォルテ津田沼店(核店舗)
** [[サンドラッグ]]津田沼南口薬局
* [[くすりの福太郎]]津田沼南口店
* [[ピーターパン (製パン)|ピーターパン]]奏の杜店
* 谷津奏の杜公園(オレンジロード)
=== 南口 ===
{{See also|南船橋駅#駅周辺}}
[[ファイル:Tsudanuma High School.JPG|thumb|[[千葉県立津田沼高等学校]]]]
[[ファイル:YatsuRoseGarden20110828.jpg|thumb|[[谷津バラ園]](入園ゲート)]]
* 谷津スクエア([[駅ビル]]) - 京成電鉄が運営しており、 1階店舗には京成フラワーの店舗ほか、開業当初から[[コミニティー京成]]のフランチャイズ店舗(くすりの福太郎、[[ファミリーマート]]等)が営業。
**[[習志野警察署]] 谷津交番 - 駅南口東隣の国道14号線沿いから移転入居。
* 習志野市谷津公民館
* [[千葉県立津田沼高等学校]]
* [[習志野市立向山小学校]]
* [[習志野市立谷津南小学校]]
* [[習志野市立袖ケ浦西小学校]]
* [[谷津保健病院]](救急指定病院)
* 東京湾岸リハビリテーション病院
* 習志野谷津郵便局
* [[ヨークマート]] 谷津店
* [[マツモトキヨシ]] 谷津店
* [[クリエイトSDホールディングス|クリエイト薬局]] 習志野谷津店
* [[セントラルスポーツ|セントラルフィットネスクラブ]] 谷津
* 谷津公園([[谷津バラ園]]) - 旧[[谷津遊園]]の一部。
** [[読売ジャイアンツ|読売巨人軍]]発祥の地の碑 - 谷津遊園の一角に練習場があった。
* 谷津干潟公園([[谷津干潟]]) - 干潟は国指定谷津[[鳥獣保護区]]、[[ラムサール条約]]登録地、[[日本の重要湿地500]]指定地。
== バス路線 ==
南口の国道14号(谷津駅前交番前)に「谷津駅」バス停があるほか、国道14号を千葉方面に徒歩5分程の東京湾岸リハビリテーション病院前に「谷津2丁目」バス停がある。
また、[[平和交通 (千葉県)|平和交通]]の銀座駅、東京駅から深夜急行バスが'''谷津駅'''バス停に停車するが降車のみで乗車はできない。平和交通の津田沼・ららぽーとTOKYO-BAY線は、谷津駅前の国道14号を走行するが、バス停は設置されていない。
• '''谷津駅'''(京成バスシステム)
* 東11・ら01:南船橋駅 / 津田沼駅 / 東船橋駅 ※南船橋駅行きは1日2本、そのほかは1日1本のみ
• '''谷津2丁目'''(京成バス)
* [[京成バス新都心営業所#谷津線|津71・津72]]:谷津干潟 / 津田沼駅
* 津73・津74:新都心営業所 / 津田沼駅
かつては京成バス旧船橋営業所花輪車庫への入出庫線として、津53:谷津二丁目 - 新習志野駅が早朝(出庫)・深夜(入庫)のみ設定されていたが、花輪車庫移転に伴い、2012年12月22日限りで廃止された。
== 隣の駅 ==
; 京成電鉄
: [[File:Number prefix Keisei.svg|15px|KS]] 本線
:: {{Color|#049c5e|■}}快速特急・{{Color|#e8334a|■}}特急・{{Color|#21ade5|■}}通勤特急・{{Color|#ee86a1|■}}快速
:::; 通過
:: {{Color|#595757|■}}普通
::: [[船橋競馬場駅]] (KS24) - '''谷津駅 (KS25)''' - [[京成津田沼駅]] (KS26)<ref>[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/railmap/railmap.pdf 京成電鉄ホームページ(路線図)]</ref>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
{{commonscat|Yatsu Station (Chiba)}}
* [[日本の鉄道駅一覧]]
* [[京成谷津支線]]
* [[谷津遊園]]
== 外部リンク ==
* [https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/yatsu.php 谷津駅|電車と駅の情報|京成電鉄]
{{京成本線}}
{{DEFAULTSORT:やつ}}
[[Category:千葉県の鉄道駅]]
[[Category:日本の鉄道駅 や|つ]]
[[Category:京成電鉄の鉄道駅]]
[[Category:1921年開業の鉄道駅]]
[[Category:習志野市の交通|やつえき]]
[[Category:習志野市の建築物]]
[[Category:千葉県の駅ビル]] | null | 2023-04-06T11:40:28Z | false | false | false | [
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"Template:出典の明記"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B4%A5%E9%A7%85 |
4,101 | Uniform Resource Locator | Uniform Resource Locator(ユニフォーム リソース ロケータ、URL)または、統一資源位置指定子(とういつしげんいちしていし)とは、インターネット上のリソース(資源)を特定するための形式的な記号の並び。WWWをはじめとするインターネットアプリケーションにおいて提供されるリソースを、主にその所在を表記することで特定する。なお、ここでいう、「リソース」とは、(主にインターネット上の)データやサービスを指し、例えばウェブページの保存場所や電子メールの宛先といったものがそうである。
ティム・バーナーズ=リーが1991年に発表した論文でUniversal Resource Locatorと命名し、初期はその名が使われたが、現在の正式名称は、「Uniform Resource Locator」である。
URLを含む一般概念としてURIがある。
URLはリソースの場所を特定する「住所」のようなものだと例えられることがある。また、日本ではURLのことを「アドレス」と呼ぶことがあるが、これは、MACアドレスやIPアドレスなどと紛らわしく、技術用語としては、好まれてはいない。
「https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia」は典型的なURLの例である。URLはこのような特徴的な形式の文字列であり、WWWが普及した今日にあっては頻繁に目にするものである。
上のURLは「ウィキペディア日本語版の中にあるウィキペディアについて説明している項目」というリソースを特定する。
一般にURLは
という形をしている。スキーム名としてはプロトコル名が用いられていることが多いがそれに限らない。RFC 1738には次のスキーム名が定義されている。
IANAに登録されたスキームが公式に認められたスキームであると見なされており、RFC 7595で登録手続きなどについて規定されている。この他にもjavascriptスキーム(この後ろに書かれた内容がJavaScript言語によって書かれたスクリプトであることを示す)のように広く普及している非公式なスキームもある。
URLの、スキーム名以降の部分はスキームごとに定められた規則に従う。例えば、電子メールの宛先を表すmailtoスキームのURLの場合、
のようになっており、先に挙げたhttpsスキームの例とは大きく異なっている。
httpsやftpのような特定のホストにIP接続する類のスキームでは次のような共通の形式が使われている。この表記では、接続するプロトコルは、呼び出している機能のプロトコルと同じものが使用される。
WHATWGがURL Living Standardを策定している。これは、RFC 3986やその他URLに関係するRFCを置き換える標準仕様である。ただし、廃止などにする手続きが行われたわけではないので、各種RFCも状態としては有効である。
なお、cURL作者のDaniel SteinbergはURL Standardについても不十分という意見を発している。
URLに関連するRFC(およびその邦訳)には次のものがある。
{{IETF RFC|1983}}による"address"の語釈は次の通り(プレーンテキストの原文に太字の効果を付与し、1行文字数などの体裁を調整)。
先頭の2文の大意は、「インターネットにおけるアドレスには主に4種類ある。電子メールアドレス、IPアドレス、MACアドレス、そしてURLである」となるが、参考までに、TR X 0055:2002による訳を次に引用する(太字は引用者)。
W3Cが発行しているURLについての文書には次のものがある。
恒久リンク(英: permanent link)とは恒久的なURLのこと。主にコンテンツ管理システム、とりわけブログツールにおいて、個々の記事へのURLが更新作業を繰り返しても変わらないしくみを意味する。一般的に、URLは永久に変化しないことが好ましい。
特定の記事あるいはウエブページに対する直接リンク(直リンクとも呼ばれる)が増大するにつれ、一方でリンク切れ(英: dead link)の大量発生も大きな問題となっている。そのような事態を避けるためコンテンツの更新作業が行われ、なおかつ更新履歴が保存されるシステムにおいて、有効なコンテンツへのURLが変動しないように、データへの参照番号などを固定化するとともに参照方法を簡略化し、URLが冗長にならないことが望ましいとされる。
そのための特殊な手法としてApacheウエブサーバの場合、mod_rewriteを使ってURLを書き換える、PATH_INFOからパラメータを取得してプログラムを動作させるなどがある。特にmod_rewriteの場合は、PHPによる動的コンテンツを静的なhtmlコンテンツに見せかけることが容易にできてしまう。またPATH_INFO方式の場合は動的コンテンツをサブディレクトリに見せかけることができる。このほかいわゆる携帯サイトではURLを短縮化する様々な工夫が施されるようになっている。いずれにしてもURLのみならずオリジナルのファイル拡張子を隠蔽することで、スクリプトを画像や音楽ファイルのように装うなど悪用のおそれもあるので、ホスティングサーバにおいては利用が制限されるケースが多い。 | [
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"text": "Uniform Resource Locator(ユニフォーム リソース ロケータ、URL)または、統一資源位置指定子(とういつしげんいちしていし)とは、インターネット上のリソース(資源)を特定するための形式的な記号の並び。WWWをはじめとするインターネットアプリケーションにおいて提供されるリソースを、主にその所在を表記することで特定する。なお、ここでいう、「リソース」とは、(主にインターネット上の)データやサービスを指し、例えばウェブページの保存場所や電子メールの宛先といったものがそうである。",
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"text": "httpsやftpのような特定のホストにIP接続する類のスキームでは次のような共通の形式が使われている。この表記では、接続するプロトコルは、呼び出している機能のプロトコルと同じものが使用される。",
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"text": "先頭の2文の大意は、「インターネットにおけるアドレスには主に4種類ある。電子メールアドレス、IPアドレス、MACアドレス、そしてURLである」となるが、参考までに、TR X 0055:2002による訳を次に引用する(太字は引用者)。",
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"text": "恒久リンク(英: permanent link)とは恒久的なURLのこと。主にコンテンツ管理システム、とりわけブログツールにおいて、個々の記事へのURLが更新作業を繰り返しても変わらないしくみを意味する。一般的に、URLは永久に変化しないことが好ましい。",
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"text": "特定の記事あるいはウエブページに対する直接リンク(直リンクとも呼ばれる)が増大するにつれ、一方でリンク切れ(英: dead link)の大量発生も大きな問題となっている。そのような事態を避けるためコンテンツの更新作業が行われ、なおかつ更新履歴が保存されるシステムにおいて、有効なコンテンツへのURLが変動しないように、データへの参照番号などを固定化するとともに参照方法を簡略化し、URLが冗長にならないことが望ましいとされる。",
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"title": "恒久リンク"
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] | Uniform Resource Locatorまたは、統一資源位置指定子(とういつしげんいちしていし)とは、インターネット上のリソース(資源)を特定するための形式的な記号の並び。WWWをはじめとするインターネットアプリケーションにおいて提供されるリソースを、主にその所在を表記することで特定する。なお、ここでいう、「リソース」とは、(主にインターネット上の)データやサービスを指し、例えばウェブページの保存場所や電子メールの宛先といったものがそうである。 ティム・バーナーズ=リーが1991年に発表した論文でUniversal Resource Locatorと命名し、初期はその名が使われたが、現在の正式名称は、「Uniform Resource Locator」である。 URLを含む一般概念としてURIがある。 URLはリソースの場所を特定する「住所」のようなものだと例えられることがある。また、日本ではURLのことを「アドレス」と呼ぶことがあるが、これは、MACアドレスやIPアドレスなどと紛らわしく、技術用語としては、好まれてはいない。 | {{WikipediaPage|URL|Help:URL}}
{{redirect|URL}}
{{複数の問題
| 出典の明記 = 2021年3月
| 更新 = 2021年3月
}}
[[ファイル:Opera 9 address bar when at Wikipedia secure.png|thumb|500px|ブラウザーに表示された、[[w:en:MainPage|WIKIPEDIA 英語版 メインページ]]のURL]]
'''Uniform Resource Locator'''(ユニフォーム リソース ロケータ、'''URL''')または、'''統一資源位置指定子'''(とういつしげんいちしていし)とは、[[インターネット]]上の[[リソース (WWW)|リソース]](資源)を特定するための形式的な記号の並び。[[World Wide Web|WWW]]をはじめとするインターネットアプリケーションにおいて提供されるリソースを、主にその所在を表記することで特定する。なお、ここでいう、「'''リソース'''」とは、(主にインターネット上の)データやサービスを指し、例えば[[ウェブページ]]の保存場所や[[電子メール]]の宛先といったものがそうである。
[[ティム・バーナーズ=リー]]が[[1991年]]に発表した論文{{Full|date=2012年10月}}でUniversal Resource Locatorと命名し、初期はその名が使われたが<ref>高田敏弘、[http://www-linac.kek.jp/WWW.html#sec-url World-Wide Web] 第2版、1994年1月21日</ref>、現在の正式名称は、「'''<u>Uniform</u> Resource Locator'''」である。
URLを含む一般概念として[[Uniform Resource Identifier|URI]]がある<ref>{{IETF RFC|1630}}</ref>。
URLはリソースの場所を特定する「[[住所]]」のようなものだと例えられることがある。{{要出典範囲|また、[[日本]]ではURLのことを「'''アドレス'''」と呼ぶことがあるが、これは、[[MACアドレス]]や[[IPアドレス]]などと紛らわしく、'''<u>技術用語としては'''</u>、好まれてはいない|date=2020年6月}}。
== URLの形式 ==
=== 例 ===
{|style="float:right;margin:0 0 0 5px;font-size:smaller;background-color:#DCDCDC" border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" summary="URLの形式"
|'''https''':||//'''ja.wikipedia.org'''||'''/wiki/Wikipedia'''
|-align="center"
|↑||↑||↑
|-align="center"
|||||||パス名
|-align="center"
|||||[[ホスト名]]||([[ディレクトリ]]名を含む)
|-
|colspan="3"|スキーム([[通信プロトコル|プロトコル]]名ではない)
|}
「<code><nowiki>https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia</nowiki></code>」は典型的なURLの例である。URLはこのような特徴的な形式の文字列であり、WWWが普及した今日にあっては頻繁に目にするものである。
上のURLは「[[ウィキペディア日本語版]]の中にある[[ウィキペディア]]について説明している項目」というリソースを特定する。
* [[スキーム]]名 <code>https</code>はこのリソース(項目)を入手する為には[[HTTPS]]を使うべきであることを表す。
* <code>ja.wikipedia.org</code>はこのリソースが保管されている[[ホスト名|ホスト]]を表すホスト名である。
* 残りの<code>/wiki/Wikipedia</code>の部分は最終的にリソースを特定するための詳細である。ホストの[[ファイルシステム]]内での[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]名あるいは[[ディレクトリ]]名に対応する場合が多いが、そうでない場合もある。
* 大まかに言えば、上のURLは「'''ja.wikipedia.org'''というコンピュータに接続して'''HTTPS'''の決まり事に従って'''/wiki/Wikipedia'''という名前のデータを要求すれば目的の物が手に入る」と読むことができる。
* なお、スキーム名の後のダブルスラッシュ<code>//</code>の2文字は有意義に使われる機会が少ない。2009年10月、URLの提案者であるティム・バーナーズ=リーは「できることなら取り除きたい」と発言している<ref>{{Cite news2|language=en|url=https://bits.blogs.nytimes.com/2009/10/12/the-webs-inventor-regrets-one-small-thing/|title=The Web's Inventor Regrets One Small Thing|last=Lohr|first=Steve|newspaper=The New York Times|date=12 October 2009|access-date=5 January 2021}}</ref>。
=== 一般形式 ===
一般にURLは
(スキーム名)''':'''(スキームごとに定められた何かの表現形式)
という形をしている。スキーム名としては[[通信プロトコル|プロトコル]]名が用いられていることが多いがそれに限らない。{{IETF RFC|1738}}には次のスキーム名が定義されている。
* ftp - [[File Transfer Protocol|FTP]]のためのスキーム
* http - [[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]のためのスキーム
** 2000年5月、{{IETF RFC|2818}}でhttps([[HTTPS]]のためのスキーム)が追加された
* gopher - [[Gopher]]プロトコルのためのスキーム
* [[mailto]] - [[電子メール]]の宛先を表すためのスキーム
* news - [[ネットニュース]](Usenet)のためのスキーム
* nntp - [[NNTP]]を使用したネットニュースのためのスキーム
* telnet - [[Telnet]]接続を表すためのスキーム
* wais - [[Wide Area Information Server|Wide Area Information Servers]]
* file - [[ファイルシステム]]の中のディレクトリやファイルを参照するためのスキーム
* prospero - [[Prospero Directory Service]]
[[Internet Assigned Numbers Authority|IANA]]に登録されたスキーム<ref>[https://www.iana.org/assignments/uri-schemes/uri-schemes.xhtml Uniform Resource Identifier (URI) Schemes], IANA</ref>が公式に認められたスキームであると見なされており、{{IETF RFC|7595}}で登録手続きなどについて規定されている。この他にもjavascriptスキーム(この後ろに書かれた内容が[[JavaScript]]言語によって書かれたスクリプトであることを示す)のように広く普及している非公式なスキームもある<ref>[[インターネットドラフト]]: [https://tools.ietf.org/html/draft-hoehrmann-javascript-scheme-03 The 'javascript' resource identifier scheme draft-hoehrmann-javascript-scheme-03]</ref>。
URLの、スキーム名以降の部分はスキームごとに定められた規則に従う。例えば、電子メールの宛先を表すmailtoスキームのURLの場合、
<nowiki>mailto:[email protected]</nowiki>
<!-- 上のアドレスは{{IETF RFC|2606}}により例示用に予約されているので、実在のアドレスと衝突して困るというようなことはないでしょう -->のようになっており、先に挙げたhttpsスキームの例とは大きく異なっている。
httpsやftpのような特定のホストに[[Internet Protocol|IP]]接続する類のスキームでは次のような共通の形式が使われている。この表記では、接続するプロトコルは、呼び出している機能のプロトコルと同じものが使用される。
//<user>:<password>@<host>:<port>/<url-path>?<query-string>
* <code><user></code> - ホストに接続するときに使うユーザー名。必要がなければ省略可。
* <code><password></code> - ユーザー名に対応するパスワード。必要がなければ省略可。
* <code><host></code> - [[ホスト名]]、[[Fully Qualified Domain Name|FQDN]]または[[IPアドレス]]
<nowiki>https://192.168.10.2/</nowiki> ← IPv4の場合
<nowiki>https://[fe80::a1b3:125d:c1f8:4781]/</nowiki> ← IPv6の場合
* <code><port></code> - 接続先ポート番号。ホストのどのポートに接続するかを表す。スキームが[[デフォルト (コンピュータ)|デフォルト]]のポート番号を規定している場合は省略してもよい。
* <code><url-path></code> - ホストに要求するパス。ホストのファイルシステムにおけるパスと対応する場合が多いが、そうでない場合もある。必要がなければ省略可。
*<code><query-string></code> - 接続先が利用するパラメータ。<code>?</code>に続いて任意の形式でデータを記述する<ref>"any optionally followed by U+003F (?) and a URL-query string." [https://url.spec.whatwg.org/#url-writing URL Living Standard ver.2021-03-23] </ref>。省略可。正式名は「<dfn>[https://url.spec.whatwg.org/#url-query-string URL-query string]」。</dfn>
== 標準 ==
[[WHATWG]]が[https://url.spec.whatwg.org/ URL Living Standard]を策定している。これは、{{IETF RFC|3986}}やその他URLに関係するRFCを置き換える標準仕様である。ただし、廃止などにする手続きが行われたわけではないので、各種RFCも状態としては有効である。
なお、[[cURL]]作者のDaniel SteinbergはURL Standardについても不十分という意見を発している<ref>{{Cite web|和書|url=http://postd.cc/my-url-isnt-your-url/|title=私のURLはあなたのURLとは違う : curl作者の語る、URLの仕様にまつわる苦言|accessdate=2017-05-24|last=Steinberg|first=Daniel|date=2016-06-03|publisher=POSTD}}</ref>。
=== RFC ===
URLに関連する[[Request for Comments|RFC]](およびその邦訳)には次のものがある。
* {{IETF RFC|1738}} - Uniform Resource Locators(URL)
* {{IETF RFC|1808}} - Relative Uniform Resource Locators
* {{IETF RFC|2396}} - Uniform Resource Identifiers(URI):Generic Syntax(旧)
** [http://www.y-adagio.com/public/standards/tr_uri_2396/rfc2396-toc.htm TS X 0097:2004] - 統一資源識別子(URI) 共通構文 標準仕様書(TS)
* {{IETF RFC|3305}} - [https://www.w3.org/TR/2001/NOTE-uri-clarification-20010921/ URIs, URLs, and URNs: Clarifications and Recommendations 1.0]
* {{IETF RFC|3986}} - Uniform Resource Identifier(URI):Generic Syntax
* {{IETF RFC|7595}} (BCP 35) - Guidelines and Registration Procedures for URI Schemes
* {{IETF RFC|8820}} - URI Design and Ownership
* {{IETF RFC|1983}} - Internet Users' Glossary
** [http://www.y-adagio.com/public/standards/tr_interm_1983/rfc1983-toc.htm TR X 0055:2002] - インターネット利用者のための用語 標準情報(TR)
<nowiki>RFC 1983</nowiki>による"'''address'''"の語釈は次の通り([[プレーンテキスト]]の原文に'''太字'''の効果を付与し、1行文字数などの体裁を調整)。
{{Squote|There are four types of '''addresses''' in common use within the Internet. They are email address; IP, internet or Internet address; hardware or MAC address; and '''URL'''. See also: email address, IP address, internet address, MAC address, '''Uniform Resource Locator'''.}}
先頭の2文の大意は、「インターネットにおける'''アドレス'''には主に4種類ある。[[電子メール]]アドレス、[[IPアドレス]]、[[MACアドレス]]、そして'''URL'''である」となるが、参考までに、TR X 0055:2002による訳を次に引用する('''太字'''は引用者)。
{{Squote|インターネット(the Internet)内部で共通に使用する'''アドレス'''には4つの型がある。それらは、電子メールアドレス、IPアドレス又はインターネットアドレス、ハードウェアアドレス又はMACアドレス、及び'''URL'''とする。"2.147 email address"、"2.252 IP address"、"2.229 internet address"、"2.287 MAC address"及び"2.479 '''Uniform Resource Locator'''('''URL''')"も参照すること。}}
=== W3C Documents ===
[[W3C]]が発行しているURLについての文書には次のものがある。
*[https://www.w3.org/TR/url/ URL] (2017年、ワーキンググループノート): WHATWG URL Standardのスナップショットとなっている。
== {{vanc|恒久リンク|パーマネントリンク}} ==
'''恒久リンク'''<ref>{{Cite web|和書
|url=http://e-class.center.yuge.ac.jp/jdk_docs/django1.4/intro/tutorial03.html
|title=はじめてのDjangoアプリ作成 その3
|author=日本Djangoユーザ会
|accessdate=2019-08-24
|website=Djangoドキュメント
}}</ref>({{lang-en-short|permanent link}})とは恒久的なURLのこと。主に[[コンテンツ管理システム]]、とりわけ[[ブログ]]ツールにおいて、個々の記事へのURLが更新作業を繰り返しても変わらないしくみを意味する。一般的に、URLは永久に変化しないことが好ましい<ref>{{Cite web|url=https://www.w3.org/Provider/Style/URI.html|title=Hypertext Style: Cool URIs don't change.|accessdate=2017-02-19|author=Tim BL|authorlink=ティム・バーナーズ=リー|publisher=[[World Wide Web Consortium|W3C]]|language=英語}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kanzaki.com/docs/Style/URI|title=クールなURIは変わらない -- Style Guide for Online Hypertext|accessdate=2017-02-19|author=Tim BL|authorlink=ティム・バーナーズ=リー}}</ref>。
特定の記事あるいはウエブページに対する直接リンク([[直リンク]]とも呼ばれる)が増大するにつれ、一方で'''[[リンク切れ]]'''<ref>{{cite journal|和書
|author=藤田節子
|date=2010-12-01
|title=失われていくインターネット上の参照文献 図書館情報学分野の雑誌論文に参照されたインターネット文献の入手可能性の分析調査
|url=https://doi.org/10.1241/johokanri.53.492
|journal=情報管理|volume=53|issue=9|pages=492-503
|publisher=国立研究開発法人 [[科学技術振興機構]]
|accessdate=2019-08-24
|doi=10.1241/johokanri.53.492
}}</ref>({{lang-en-short|dead link}})の大量発生も大きな問題となっている。そのような事態を避けるためコンテンツの更新作業が行われ、なおかつ更新履歴が保存されるシステムにおいて、有効なコンテンツへのURLが変動しないように、データへの参照番号などを固定化するとともに参照方法を簡略化し、URLが冗長にならないことが望ましいとされる。
そのための特殊な手法として[[Apache HTTP Server|Apacheウエブサーバ]]の場合、'''mod_rewrite'''を使ってURLを書き換える、PATH_INFOからパラメータを取得してプログラムを動作させるなどがある。特にmod_rewriteの場合は、PHPによる動的コンテンツを静的なhtmlコンテンツに見せかけることが容易にできてしまう。またPATH_INFO方式の場合は動的コンテンツをサブディレクトリに見せかけることができる。このほかいわゆる[[携帯電話|携帯]]サイトではURLを短縮化する様々な工夫が施されるようになっている。いずれにしてもURLのみならずオリジナルのファイル拡張子を隠蔽することで、[[スクリプト言語|スクリプト]]を画像や音楽ファイルのように装うなど悪用のおそれもあるので、[[ホスティングサーバ]]においては利用が制限されるケースが多い。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist}}
== 関連項目 ==
* [[Internationalized Resource Identifier]](IRI)
* [[Uniform Resource Identifier]](URI)
* [[Uniform Resource Name]](URN)
* [[短縮URL]]
* [[名前空間]]
* [[パーセントエンコーディング]]
* [[メールアドレス]]
== 外部リンク ==
* [https://url.spec.whatwg.org/ URL Living Standard]
* [https://triple-underscore.github.io/URL-ja.html URL Living Standard (日本語訳)]
{{Normdaten}}
[[Category:Uniform Resource Locator|*]]
[[Category:RFC|1738]]
[[Category:識別子]]
[[Category:ティム・バーナーズ=リー]] | 2003-03-15T13:20:45Z | 2023-11-26T19:28:02Z | false | false | false | [
"Template:複数の問題",
"Template:IETF RFC",
"Template:Squote",
"Template:脚注ヘルプ",
"Template:Cite news2",
"Template:Full",
"Template:Cite web",
"Template:WikipediaPage",
"Template:Vanc",
"Template:Redirect",
"Template:要出典範囲",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Reflist",
"Template:Cite journal",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/Uniform_Resource_Locator |
4,102 | 旅客 | 旅客(りょかく、英: passenger)とは、乗り物に乗っている人のうち乗員以外の人のこと。乗客(じょうきゃく)とも。
旅客とは、何らかの目的地に移動するために鉄道・バス・タクシーや船(旅客船)や航空機(旅客機)等に乗車・乗船・搭乗している人々の中で、乗員(=その乗り物を運行するために乗り込んでいる人々。運転手、操縦者、車掌、船員、パイロット、客室乗務員 等々、運転者・操縦者および様々なサービス担当者 等々)を除いた人々のことである。
旅客は、運賃を支払って交通機関の乗車券等を購入し、乗車券などに記載された目的地まで運ばれる。旅客と交通機関の間で行われるチケットと代金のやりとりを含む一連の行為は、法的には、旅客と交通機関との間に、目的地まで運送(※)することに関する契約が結ばれ、その契約が履行された、と見なされる(※ 旅客営業規則等では、「旅客の運送」という用語が使われている)。これを旅客輸送という。旅客を目的地まで運送できない場合には、契約不履行である為、交通機関側には運賃の払戻(はらいもどし)の義務が生ずる。 | [
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] | 旅客とは、乗り物に乗っている人のうち乗員以外の人のこと。乗客(じょうきゃく)とも。 | {{出典の明記|date=2021年3月}}
'''旅客'''(りょかく、{{lang-en-short|passenger}})とは、[[乗り物]]に乗っている人のうち[[乗組員|乗員]]以外の人のこと。'''乗客'''(じょうきゃく)とも。
== 概説 ==
旅客とは、何らかの目的地に移動するために[[鉄道]]・[[バス (交通機関)|バス]]・[[タクシー]]や[[船]]([[旅客船]])や[[航空機]]([[旅客機]])等に乗車・乗船・搭乗している人々の中で、[[乗組員|乗員]](=その乗り物を運行するために乗り込んでいる人々。[[運転手]]、[[動力車操縦者|操縦者]]、[[車掌]]、[[船員]]、[[パイロット (航空)|パイロット]]、[[客室乗務員]] 等々、運転者・操縦者および様々なサービス担当者 等々)を除いた人々のことである。
旅客は、[[運賃]]を支払って[[交通機関]]の[[乗車券]]等を購入し、乗車券などに記載された目的地まで運ばれる。旅客と交通機関の間で行われるチケットと代金のやりとりを含む一連の行為は、法的には、旅客と交通機関との間に、目的地まで[[運送]](※)することに関する[[契約]]が結ばれ、その契約が履行された、と見なされる(※ [[旅客営業規則]]等では、「旅客の<u>運送</u>」という用語が使われている)。これを[[旅客輸送]]という。旅客を目的地まで運送できない場合には、契約不履行である為、交通機関側には運賃の払戻(はらいもどし)の義務が生ずる。
<Gallery>
File:Passengers in Amtrak lounge car of San Joaquin (train) 2014.jpg|鉄道の旅客
File:Passengers on a Boat.JPG|船舶の旅客
File:Aircraft cabin A330 KLM Northwest 2008 PD 01.JPG|航空機の旅客
</Gallery>
== 関連項目 ==
* [[交通]]
* [[運輸業]]
* [[公共交通機関]]
* [[貨物]] - [[貨物輸送]]
* [[物流]]
* [[旅行]]
{{Normdaten}}
[[Category:交通|りよかく]] | 2003-03-15T13:28:31Z | 2023-09-09T01:14:56Z | false | false | false | [
"Template:出典の明記",
"Template:Lang-en-short",
"Template:Normdaten"
] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E5%AE%A2 |
4,104 | くぅ〜ちゃん | くぅ〜ちゃん(2001年4月18日 - 不明)は、ロングコート・チワワ種の雌の動物タレントである。日本ペットモデル協会所属。
2002年8月末から神谷佳成企画のアイフルのテレビCMで、清水章吾との共演で話題になった。これまでに写真集、絵本、CDが発売されている。
2006年4月、アイフルの不法取立てが社会問題化し、金融庁から全店舗の業務停止命令を受けたタイミングで、CMから降板した。
2003年度のCM総合研究所調べによるテレビCMタレント・キャラクターの好感度ランキングで総合10位、オリジナルキャラクター部門ではNOVAうさぎに次いで2位に入るなど、金融系としては珍しく好評を博したこのCMはシリーズ化され、チワワの一大ブームを巻き起こした。くぅ〜ちゃんをイラスト化したキャラクター「ちわフル」も登場した。
CM総合研究所調べの2004年度のCM好感度調査では、1位に「くぅ〜ちゃん 帰宅編」、6位に「くぅ〜ちゃん 散髪編」、7位に「くぅ〜ちゃん ペンキ編」と、くぅ〜ちゃんが出演するアイフルのテレビCMがトップテンに3作ランクインした。
妹の名前はすもも。
好物はとりのささみ。
2006年、2匹の子犬「たんぽぽ」(オス)と「ひまわり」(メス)を出産。 | [
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] | くぅ〜ちゃんは、ロングコート・チワワ種の雌の動物タレントである。日本ペットモデル協会所属。 2002年8月末から神谷佳成企画のアイフルのテレビCMで、清水章吾との共演で話題になった。これまでに写真集、絵本、CDが発売されている。 2006年4月、アイフルの不法取立てが社会問題化し、金融庁から全店舗の業務停止命令を受けたタイミングで、CMから降板した。 | {{Infobox 著名な生物のプロフィール
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== 人気 ==
[[2003年]]度の[[CM総合研究所]]調べによるテレビCM[[タレント]]・[[キャラクター]]の好感度ランキングで総合10位、オリジナルキャラクター部門では[[NOVAうさぎ]]に次いで2位に入るなど、[[金融系]]としては珍しく好評を博したこのCMはシリーズ化され、チワワの一大ブームを巻き起こした。くぅ〜ちゃんをイラスト化したキャラクター「ちわフル」も登場した。
CM総合研究所調べの[[2004年]]度のCM好感度調査では、1位に「くぅ〜ちゃん 帰宅編」、6位に「くぅ〜ちゃん 散髪編」、7位に「くぅ〜ちゃん ペンキ編」と、くぅ〜ちゃんが出演するアイフルのテレビCMがトップテンに3作ランクインした。
== プロフィール ==
妹の名前はすもも。
好物はとりの[[鶏肉|ささみ]]。
2006年、2匹の子犬「たんぽぽ」(オス)と「ひまわり」(メス)を出産<ref>「高齢出産 くぅ〜ちゃん「2児の母」に 子育てに夢中だが父親は…」『週刊朝日』第112巻第4号、2007年2月2日、136ページ。</ref>。
== 作品 ==
=== 写真集 ===
* くるくるくぅー 癒し犬くぅーちゃんフォトブック
: 撮影:藤田政明 ソニー・マガジンズ 2003年 ISBN 4-7897-2000-4
=== CD ===
* いつも、いっしょ。〜for Dogs & Human〜
: 2003年8月27日、東芝EMI、TOCT-25126
: ジャケット写真にくぅ〜ちゃんを起用。くぅ〜ちゃんのテーマ「いつも、いっしょ。」(楯直己)収録。
=== DVD ===
* くぅ〜ちゃんとこいぬ シンフォレスト
: 2007年2月22日
== 出典 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[動物の愛称一覧]]
* [[清水章吾]]
== 外部リンク ==
* {{Wayback |url=http://www.petmodel.jp/qoo.php |title=くぅ〜ちゃん情報!!(日本ペットモデル協会)}}
* [http://www.synforest.co.jp/dvd/SDA71/ DVD『くぅ〜ちゃんとこいぬ』](シンフォレスト)
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4,105 | 乗車券 | 乗車券(じょうしゃけん)は、鉄道車両やバスに旅客が乗るためのチケット。一般に旅客運送契約に基づき運送を請求することのできる権利を証明又は表章する(すなわち交通機関を利用するための)有価証券をいう。
日常語では「切符」と呼ばれるが、「切符」の意味の範囲は「乗車券」より広い。詳細は切符を参照。
旅客の運送に対して、交通事業者との間に契約を結び、運賃を支払うことによって発行される。一括してプリペイドカード(乗車カード)等によって支払われる場合もあり、この場合は、乗車券を購入せず、下車時に精算することで交通機関を利用することができる。
運送中は携帯が義務付けられ、係員が提示を求めた際には、遅滞なく提示する義務を負う。
乗車券は主に鉄道や路線バスなどの陸上公共交通機関で使われる用語で、船の場合には乗船券(じょうせんけん)、航空会社の場合には航空券(こうくうけん)という。
なお、JRの連絡船の切符は「鉄道網と一体の輸送機関」という位置づけから、航路でありながら鉄道の乗車券として扱われ、「乗船券」とは呼ばれない。
旅行会社ではJRの乗車券類(JR券)と航空券以外のものを総称して「船車券」(せんしゃけん)と呼ぶものがあるが、これは旅行会社からの支払額を記入した小切手・バウチャー同様の存在でもあり、乗車券類と引き換えないと乗車出来ないケースがある。
乗車券には運送の内容の相違と相互対応して多くの種類がある。なお、乗車券は座乗して運送される権利に関する証券であるが、急行券や寝台券、座席指定券のように特定の状態で運送される権利に関する証券が特殊料金券(料金券)として別に設けられることも多い。
普通乗車券(Ordinary ticket)とは、標準的な賃率に基づく運賃により発券された乗車券をいう。なお、Local ticketも普通乗車券と訳されるが意味が異なる(後述)。
割引乗車券(Reduced ticket)とは、標準的な賃率よりも幾分割引されて発売される乗車券をいう。割引乗車券は乗客の運賃負担力、公益目的、割引による利用客の勧誘など様々な目的で設けられる。定期乗車券(定期券)、回数乗車券(回数券)、団体乗車券などである。
目的地までの片道の乗車券を片道乗車券、往券と復券が連続している乗車券を往復乗車券という。
多数の公衆が利用し混合乗車する場合の乗車券を乗合乗車券(普通乗車券)、一室または一車両を貸し切りにする場合の乗車券を貸切乗車券という。
普通乗車券(Local ticket)とは、運送が同一の路線のみに限られた乗車券(自線乗車券)をいう。
連帯乗車券(Interline ticket)とは、運送が数個の路線(または船舶航路)にまたがる乗車券(通し乗車券)をいう。
硬券(こうけん)は硬い厚紙で作られた乗車券のことで、鉄道などの乗車券として古くから用いられた。定義は曖昧だが、柔らかめの硬券を「半硬券」と称することもある。
あらかじめ発駅と着駅とが印刷された券を準備しなければならず、非常に沢山の種類の券を準備する必要があった。硬券を準備するための収納器具を硬券差(硬券ホルダーとも)という。需要がそれほど見込めない駅に対しにはいくつかの着駅を券面に予め印刷しておき、その駅の直下部を切り落として使う準常備式乗車券や、発駅・着駅が未記入の補充型乗車券も見られた。
切符に日付を入れる際には、古くからダッチングマシンと呼ばれる機械を用いて日付けを入れていた。しかし現在はメンテナンスに手間がかかることや、コスト削減のため、スタンプを使用している会社も少なくない。
切符は着駅ごとに1枚ずつ順番に番号を割り当て、番号順に発券、残っている券の一番若い番号を調べ、前日の番号と対比することで発券枚数を把握した。
1836年、イギリスのニューカッスル・アンド・カーライル鉄道のミルトン駅駅長であったトーマス・エドモンソンが上記の発売方式とともに考案した。当時は合理的な方式であり、1840年代からイギリスを始めヨーロッパに普及していった。
日本において近年では自動券売機や発券端末の台頭により、2019年(平成31年)4月で自社製造を終了した北海道旅客鉄道(JR北海道)を最後に、JR各社では定期販売を取りやめており、また、他の事業者でも硬券は廃れる傾向にある。しかしながら現在でも島原鉄道、三岐鉄道、近江鉄道、伊勢鉄道などのように一部の鉄道会社では日常的に使われている(発券端末未導入や自動券売機で入場券が購入できないなどの理由による)ほか、通常は硬券を販売していない会社でも記念切符としてセットなどの形で発売されることもある。
日本ではサイズは基本的にA型、B型、C型、D型の4種類である。
軟券(なんけん)は薄く軟らかい紙を使用した乗車券のことである。鉄道創始期から乗車券として用いられ、硬券が普及した後は定期券などの着駅で回収しない乗車券や、記入事項の多い乗車券、特殊な取扱いを伴う乗車券など、硬券が不向きな乗車券に用いられたが、こちらもロール紙の普及により数を減らしている。
現在では各種補充券や常備券(予め工場で印刷された乗車券・特急券類のこと)などで目にすることができる。
自動券売機では、ロール紙などをセットし、発券する際にプリンターで印字している。紙質は硬券より薄く軟らかいが、軟券よりやや硬い。
自動改札機が導入されている地域(事業者)の場合、多くは裏側に磁気による記録面があり、自動券売機やマルス端末で発券される際に必要な情報が記録されて、自動改札機や自動精算機等で読み取られる。
磁気カードに代わる新世代のカードとして、1997年にユーバスカードが登場。その後、2001年のSuicaを皮切りに普及しつつある。プラスチック製のカードを改札機のIC端末に接触させることで改札口を通過する。従来の使い捨てカードとは異なり、カード内の残高が不足してきたら運賃を補充することで何度も繰り返し使えることが最大の特徴と言える。その反面、カードに残高が印字されず、駅や専用の端末以外で残高を確認できないと言ったデメリットも抱えている。
また、乗車用のICカードを発行せずとも、おサイフケータイなどのようなスマートフォンや、タッチ決済に対応したクレジットカードなどの媒体を使って乗車が可能となる例もある。
自動改札機の読み取り部にQRコードをかざし、コードを改札機に読み取らせることで改札口を通過するもの。コードはロール紙等に印刷されたもののほか、携帯電話/スマートフォン等の画面に表示したものを使用することもある。日本の鉄道類では北九州モノレール・沖縄都市モノレール(ゆいレール)などで採用例がある。また、航空券では広く使われている。
2022年11月、JR東日本はQRコードでの乗車を発表した。2024年から予定されている。
アメリカ合衆国や台湾など日本国外の地下鉄や路面電車等の公共交通機関においては、紙製の乗車券ではなく、回収して何度も使われるプラスチックや金属製の乗車券や、トークン(token)と呼ばれる専用のコインを用いるところがある。
いわゆる電子チケットや、スマートフォンのアプリを乗車券として利用する例もある。日本では、ジョルダン『乗換案内』のモバイルチケット、ハイウェイバスドットコム・高速バスネットのWEB乗車券などがバス会社を中心に普及している。
日本の鉄道の場合、「乗車券」は普通列車の普通車自由席を利用する運送(普通運賃)のためのものであり、急行列車や特別車両などを利用するための特別急行券、急行券、グリーン券、寝台券などの「特別車室券」等(いわゆる「料金券」)と区別される。JRでは旅客営業制度上、正式には乗車券類と呼んでおり(入場券は含まれない)、一般には「切符」(JRでの営業案内上はひらがな書きで「きっぷ」)と呼ばれている。
日本の旧・官設鉄道/鉄道省/日本国有鉄道(国鉄)では、創業の1872年(明治5年)から1969年(昭和44年)までは、後述の長距離フェリーや国際線航空券同様に等級制(1960年〈昭和35年〉まで三等級制、1969年〈昭和44年〉まで二等級制)が取られており、運賃や特急・急行料金自体に格差がつけられていた。
合理化の影響で、鉄道においても昭和後期からワンマン列車が増えており、下車時に運賃箱へ運賃分の現金を直接投入させることにより、駅での乗車券の発行を省くケースがある。1971年(昭和46年)に日立電鉄線(2005年に路線廃止)で始まったもので、現在ではJRや多くの鉄道事業者で導入されている。
乗車券の大きさは各社局ほぼ同一であり、おおよそ以下の5種類になる。
上記の他にも国鉄・JRには用途に応じて様々な大きさのものが規定されているが、切符の廃止やマルス端末での発券に統合されたことなどによって特殊指定共通券(第四~六種)に集約され、現在では、ほとんど見られない。なお、各社局が発売する記念乗車券類には多種多様な大きさ・形状のものがある。
一般路線バスの場合、乗車する際に乗車券を発券する場合が少ない(多くの場合、乗車時、あるいは降車時に運賃を直接現金や回数券、バスカードなどで支払う)ため乗車券はあまり一般的ではないが、西鉄バスや北海道中央バス、豊鉄バス等では、主要バスターミナルの窓口または券売機にて、初乗りから乗車券を発売している。これは事前購入をすることによるスムーズな降車と車内での両替を少なくする効果がある。また、観光地を抱える東海バスグループ、箱根登山バス、アルピコ交通では、対キロ運賃制のバス乗車に不慣れな乗客のために、案内を兼ねて乗車券を購入の上での乗車を呼びかけている。その他、観光地のバス利用には、旅行代理店で発行するクーポン類も存在する。また走行距離の長い高速バスなどでは、乗車券を発券する場合が多い。
なお、予約制の一部高速バスでは、インターネット予約後、ウェブ決済で表示される乗車票ページをパソコンに接続したプリンターで印刷したものや、コンビニエンスストアで多機能端末(ローソン、ファミリーマート)や代行収納サービス(セブン-イレブン)を利用して運賃を支払い、レジで打ち出される控え証を乗車券とする場合もある。
基本的には利用する区間の運送のために発行されるが、高速バスなど座席が指定されているものなどは座席指定券と同等の機能を持つ場合もある。また、一部の路線バスで、鉄道の場合における急行列車に相当するバスが運行される場合があり、乗車時に急行料金を徴する場合もある。
以下では主として鉄道の乗車券を扱う。
旅客運送契約に基づき運送を請求する債権を証明又は表章する証券である。通常、無記名の普通乗車券は有価証券で、権利の移転と行使に当該証券が必要となる。ただし、使用開始(入鋏)後の乗車券は、譲渡ができないため、証拠証券に過ぎないものと解されている。
鉄道営業法は、別段の定めのある場合のほかは、乗車券を所持しない旅客の乗車を禁じている(ただし、兵庫県の北条鉄道などは乗車券を発行していないため、下車駅で支払う形式をとっている)。
また、鉄道運輸規程によると、乗車券は通用区間中いずれの部分に付いても効力を有するものとされ、原則として途中下車が可能である。ただし、鉄道事業者が別段の定めをすれば例外が認められる。詳しくは途中下車の項を参照のこと。
旅客運送契約の内容は、JR各社では運送約款である旅客営業規則で定められる。私鉄各社はそれぞれ独自に同様の運送約款を定めている(例:近畿日本鉄道における往復乗車券の有効期間は、復片に限り片道乗車券の2倍である)が、JR各社の旅客営業規則の内容に相当程度準拠している場合もある。
運賃は目的地に運送することに対する対価であるので、その目的が完遂されればどれだけ遅延が生じても払い戻しはなされない。払い戻しは基本的に旅行中止の場合に限られる(JR旅客営業規則第282条 - 289条)。
不通などによらない任意の旅行中止の場合は、払い戻し手数料がかかる。また、一度だけ同じ種類の乗車券に変更することができる(いずれも乗車券の有効期間内である場合に可能)。旅行開始後の場合は、有効期間内で未使用区間の営業キロが101km以上ある場合に限り、使用済みの区間の運賃と払い戻し手数料を差し引いた分が払い戻される。
旅客営業規則等によると、JRや私鉄では、キセル乗車などで不正に乗車券を使用したり、特別料金を免れたりした場合には、所持していた乗車券などを無効として回収するほか、乗車区間がわかっている場合はその区間の、不明な場合は別に定める区間に対して、以下の運賃・料金が請求される。
さらに、常習で行っていた場合や悪質な場合は損害賠償を請求されたり、詐欺罪や建造物侵入罪(駅施設への無断立入とみなされる場合がある)で処罰される可能性もある。
乗車券を紛失した場合、旅客営業規則第7章第3節第3款「乗車券類の紛失」に基づき以下の措置が取られる。
なお、運賃を再度支払った場合、旅行終了駅にて再収受証明書の交付を請求することができ、1年以内に紛失した乗車券類が発見された時にはその発見した乗車券類と再収受証明書を駅窓口に提示することで、再発行を行った乗車券の払い戻しを行うことが可能となっている。
以上のように、乗車券の紛失は、実際に乗車した区間の運賃より高額の支払いが必要になる場合があるので、注意が必要である。その例として、東日本旅客鉄道(JR東日本)では、乗車券紛失防止の啓発ポスターで「出発駅から3倍の運賃をお支払いいただくこともございます」と警告している。乗車券が盗難にあった場合も紛失に準ずる扱いとなる。
新駅・新路線の開業・開通や、新型車両の導入、施設の改良などのほか、路線の廃止など事業者にとっての節目となる出来事や、新年など社会的に慶祝すべき事柄を記念して発行する乗車券類を記念乗車券という。同様の目的・理由で発行される「記念入場券」もある。
観光路線などでは「乗車の記念」「観光の記念」で発行されるものもある。また、定員制のイベント列車の「乗車の記念」というものもある。
多くの場合、普通乗車券として発行されるが、国鉄を中心に1970年代頃は急行券・特急券等の料金券で発行された例も見られた。極めて珍しい事例として、定期券で発売されたこともある。
戦前から1960年代までは1枚もので、初乗り運賃相当の乗車券として販売されるケースが多く見られたが、その後に複数枚をセットにして販売されるものが増え、高額化する傾向になった。1970年代頃からは、大きさや形状、デザインも個性的なものが出現し、紙以外の素材を用いたり、立体的な造形にしたりしたものまで発売され、ピンバッジなどの記念グッズと組み合わせて販売されるものもある。
1990年代になると発売数が減少する一方、乗車カードの普及により記念カードの形で発行される事例が増えた。2000年代以降は交通系ICカードの普及に伴う磁気カードの廃止に伴い、再び紙の記念切符が発行される例がある。また製造コストの高さから発行数は少ないが、記念ICカードを発行する事業者も現れている。
以上の様に発売件数は減少したものの、高額化の傾向は維持されており、近年は特に、硬券乗車券もしくは入場券を大量にセット化された商品が目立つ。
入場券と同様に、縁起の良い駅名を組み合わせた乗車券が人気を集めることもある。代表的なものには以下がある。
ロンドンの地下鉄やバスには乗車券のほか、地下鉄やバスに1日乗り放題の「トラベルカード」やプリペイド式磁気カードの「オイスターカード」などがある。ロンドン地下鉄の乗車券は自動券売機で購入する(オイスターカードも自動券売機でチャージできる)。ロンドン地下鉄には下車時の乗り越し精算のシステムはなく確実に目的地までの乗車券を購入する必要があり乗り越すと罰金が科せられる。
フランス国鉄の運賃は、時季、曜日、出発時間帯等で細かく設定されており、割引料金もいくつか存在する。フランス国鉄の乗車券は、予約(座席指定等)を伴う乗車券はその列車のみ、座席指定のない乗車券は刻印機での刻印から原則7日以内(最終日の24時まで)が使用期限となっている。なお、フランス国鉄のサイト上で購入されるEチケットについては刻印は不要である。
ローマ地下鉄の乗車券には1回券(B.I.T.)、1日券(B.I.G.)、3日券(B.T.I.)、1週間券(C.I.S.)がある。ローマ地下鉄の乗車券は駅構内の自動券売機や窓口だけでなくタバッキ(駅周辺のタバコ屋)でも販売されている。
ウィーン地下鉄(ウーバーン)の乗車券は各駅に設置されている自動券売機で購入できる。オーストリアの公共交通機関では改札口又は車内での乗車券への刻印が義務付けられており、検札員の確認時に誤った乗車券を持っていると罰金が科せられる。
船の場合、長距離フェリーや外洋航路のように、長時間の航海を行う航路では、特等・1等・2等と船内の設備に差をつける等級制を採っていることが多い。この場合、特等運賃、1等運賃、2等運賃の形になり、運賃自体の格差が設定されており、日本の鉄道でいうグリーン券や寝台券などの付加料金が含まれた形とは別の形態である。
鉄道連絡船を含むフェリーの場合、自動車を航送する場合には、自動車航送料に運転手一人分の2等運賃が含まれており、上級船室を利用したい場合には、上級船室に空席があれば2等運賃と1等・特等運賃の差額を支払うことで、上級船室に変更可能である。
但し、短距離のフェリーや渡船などのように等級制を採用していない場合には、鉄道・バスなどの乗車券と同じ形となる。外洋航路の場合、いわゆる賄い料(食事代)を含む形態を取る場合もある。
券面にミシン目が入った乗船券を発行している航路もある。乗船時に半分を切り取って回収し、下船時に半券を回収する。短距離の渡船では運賃を直接収受し、乗船券を発行しない航路もある。
一般に、発行形態は他のものと変わらないが、フェリーにおいては「航送指示書」をもって乗船券に代える場合もある。また、短距離のシャトル航路以外では、乗船時に幼児を含む同行者全員の乗船名簿を記載する必要がある。これは海上保安庁の通達によって義務づけられており、不実の情報を記載すると万一の遭難の際に身元確認が困難になる。よって「乗船券」は航空券同様に「記名式の有価証券」と言える。鉄道連絡船では青函連絡船がこれに該当し、乗船名簿記入が義務づけられていた。
乗船客の優先順位を決めるのに乗船名簿を利用する例もあり、実際に青函連絡船では鉄道からの乗り継ぎ客を優先的に乗船させるため、列車内で通常とは違う色(もしくは「特」等のマーク入り)の乗船名簿を配布し、乗り継ぎ客とそれ以外の客を区別する方法が取られていた。 | [
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"text": "自動改札機が導入されている地域(事業者)の場合、多くは裏側に磁気による記録面があり、自動券売機やマルス端末で発券される際に必要な情報が記録されて、自動改札機や自動精算機等で読み取られる。",
"title": "乗車券の素材"
},
{
"paragraph_id": 25,
"tag": "p",
"text": "磁気カードに代わる新世代のカードとして、1997年にユーバスカードが登場。その後、2001年のSuicaを皮切りに普及しつつある。プラスチック製のカードを改札機のIC端末に接触させることで改札口を通過する。従来の使い捨てカードとは異なり、カード内の残高が不足してきたら運賃を補充することで何度も繰り返し使えることが最大の特徴と言える。その反面、カードに残高が印字されず、駅や専用の端末以外で残高を確認できないと言ったデメリットも抱えている。",
"title": "乗車券の素材"
},
{
"paragraph_id": 26,
"tag": "p",
"text": "また、乗車用のICカードを発行せずとも、おサイフケータイなどのようなスマートフォンや、タッチ決済に対応したクレジットカードなどの媒体を使って乗車が可能となる例もある。",
"title": "乗車券の素材"
},
{
"paragraph_id": 27,
"tag": "p",
"text": "自動改札機の読み取り部にQRコードをかざし、コードを改札機に読み取らせることで改札口を通過するもの。コードはロール紙等に印刷されたもののほか、携帯電話/スマートフォン等の画面に表示したものを使用することもある。日本の鉄道類では北九州モノレール・沖縄都市モノレール(ゆいレール)などで採用例がある。また、航空券では広く使われている。",
"title": "乗車券の素材"
},
{
"paragraph_id": 28,
"tag": "p",
"text": "2022年11月、JR東日本はQRコードでの乗車を発表した。2024年から予定されている。",
"title": "乗車券の素材"
},
{
"paragraph_id": 29,
"tag": "p",
"text": "アメリカ合衆国や台湾など日本国外の地下鉄や路面電車等の公共交通機関においては、紙製の乗車券ではなく、回収して何度も使われるプラスチックや金属製の乗車券や、トークン(token)と呼ばれる専用のコインを用いるところがある。",
"title": "乗車券の素材"
},
{
"paragraph_id": 30,
"tag": "p",
"text": "いわゆる電子チケットや、スマートフォンのアプリを乗車券として利用する例もある。日本では、ジョルダン『乗換案内』のモバイルチケット、ハイウェイバスドットコム・高速バスネットのWEB乗車券などがバス会社を中心に普及している。",
"title": "乗車券の素材"
},
{
"paragraph_id": 31,
"tag": "p",
"text": "日本の鉄道の場合、「乗車券」は普通列車の普通車自由席を利用する運送(普通運賃)のためのものであり、急行列車や特別車両などを利用するための特別急行券、急行券、グリーン券、寝台券などの「特別車室券」等(いわゆる「料金券」)と区別される。JRでは旅客営業制度上、正式には乗車券類と呼んでおり(入場券は含まれない)、一般には「切符」(JRでの営業案内上はひらがな書きで「きっぷ」)と呼ばれている。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 32,
"tag": "p",
"text": "日本の旧・官設鉄道/鉄道省/日本国有鉄道(国鉄)では、創業の1872年(明治5年)から1969年(昭和44年)までは、後述の長距離フェリーや国際線航空券同様に等級制(1960年〈昭和35年〉まで三等級制、1969年〈昭和44年〉まで二等級制)が取られており、運賃や特急・急行料金自体に格差がつけられていた。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 33,
"tag": "p",
"text": "合理化の影響で、鉄道においても昭和後期からワンマン列車が増えており、下車時に運賃箱へ運賃分の現金を直接投入させることにより、駅での乗車券の発行を省くケースがある。1971年(昭和46年)に日立電鉄線(2005年に路線廃止)で始まったもので、現在ではJRや多くの鉄道事業者で導入されている。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 34,
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"text": "乗車券の大きさは各社局ほぼ同一であり、おおよそ以下の5種類になる。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 35,
"tag": "p",
"text": "上記の他にも国鉄・JRには用途に応じて様々な大きさのものが規定されているが、切符の廃止やマルス端末での発券に統合されたことなどによって特殊指定共通券(第四~六種)に集約され、現在では、ほとんど見られない。なお、各社局が発売する記念乗車券類には多種多様な大きさ・形状のものがある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 36,
"tag": "p",
"text": "一般路線バスの場合、乗車する際に乗車券を発券する場合が少ない(多くの場合、乗車時、あるいは降車時に運賃を直接現金や回数券、バスカードなどで支払う)ため乗車券はあまり一般的ではないが、西鉄バスや北海道中央バス、豊鉄バス等では、主要バスターミナルの窓口または券売機にて、初乗りから乗車券を発売している。これは事前購入をすることによるスムーズな降車と車内での両替を少なくする効果がある。また、観光地を抱える東海バスグループ、箱根登山バス、アルピコ交通では、対キロ運賃制のバス乗車に不慣れな乗客のために、案内を兼ねて乗車券を購入の上での乗車を呼びかけている。その他、観光地のバス利用には、旅行代理店で発行するクーポン類も存在する。また走行距離の長い高速バスなどでは、乗車券を発券する場合が多い。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 37,
"tag": "p",
"text": "なお、予約制の一部高速バスでは、インターネット予約後、ウェブ決済で表示される乗車票ページをパソコンに接続したプリンターで印刷したものや、コンビニエンスストアで多機能端末(ローソン、ファミリーマート)や代行収納サービス(セブン-イレブン)を利用して運賃を支払い、レジで打ち出される控え証を乗車券とする場合もある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 38,
"tag": "p",
"text": "基本的には利用する区間の運送のために発行されるが、高速バスなど座席が指定されているものなどは座席指定券と同等の機能を持つ場合もある。また、一部の路線バスで、鉄道の場合における急行列車に相当するバスが運行される場合があり、乗車時に急行料金を徴する場合もある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 39,
"tag": "p",
"text": "以下では主として鉄道の乗車券を扱う。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 40,
"tag": "p",
"text": "旅客運送契約に基づき運送を請求する債権を証明又は表章する証券である。通常、無記名の普通乗車券は有価証券で、権利の移転と行使に当該証券が必要となる。ただし、使用開始(入鋏)後の乗車券は、譲渡ができないため、証拠証券に過ぎないものと解されている。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 41,
"tag": "p",
"text": "鉄道営業法は、別段の定めのある場合のほかは、乗車券を所持しない旅客の乗車を禁じている(ただし、兵庫県の北条鉄道などは乗車券を発行していないため、下車駅で支払う形式をとっている)。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 42,
"tag": "p",
"text": "また、鉄道運輸規程によると、乗車券は通用区間中いずれの部分に付いても効力を有するものとされ、原則として途中下車が可能である。ただし、鉄道事業者が別段の定めをすれば例外が認められる。詳しくは途中下車の項を参照のこと。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 43,
"tag": "p",
"text": "旅客運送契約の内容は、JR各社では運送約款である旅客営業規則で定められる。私鉄各社はそれぞれ独自に同様の運送約款を定めている(例:近畿日本鉄道における往復乗車券の有効期間は、復片に限り片道乗車券の2倍である)が、JR各社の旅客営業規則の内容に相当程度準拠している場合もある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 44,
"tag": "p",
"text": "運賃は目的地に運送することに対する対価であるので、その目的が完遂されればどれだけ遅延が生じても払い戻しはなされない。払い戻しは基本的に旅行中止の場合に限られる(JR旅客営業規則第282条 - 289条)。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 45,
"tag": "p",
"text": "不通などによらない任意の旅行中止の場合は、払い戻し手数料がかかる。また、一度だけ同じ種類の乗車券に変更することができる(いずれも乗車券の有効期間内である場合に可能)。旅行開始後の場合は、有効期間内で未使用区間の営業キロが101km以上ある場合に限り、使用済みの区間の運賃と払い戻し手数料を差し引いた分が払い戻される。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 46,
"tag": "p",
"text": "旅客営業規則等によると、JRや私鉄では、キセル乗車などで不正に乗車券を使用したり、特別料金を免れたりした場合には、所持していた乗車券などを無効として回収するほか、乗車区間がわかっている場合はその区間の、不明な場合は別に定める区間に対して、以下の運賃・料金が請求される。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 47,
"tag": "p",
"text": "さらに、常習で行っていた場合や悪質な場合は損害賠償を請求されたり、詐欺罪や建造物侵入罪(駅施設への無断立入とみなされる場合がある)で処罰される可能性もある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 48,
"tag": "p",
"text": "乗車券を紛失した場合、旅客営業規則第7章第3節第3款「乗車券類の紛失」に基づき以下の措置が取られる。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 49,
"tag": "p",
"text": "なお、運賃を再度支払った場合、旅行終了駅にて再収受証明書の交付を請求することができ、1年以内に紛失した乗車券類が発見された時にはその発見した乗車券類と再収受証明書を駅窓口に提示することで、再発行を行った乗車券の払い戻しを行うことが可能となっている。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 50,
"tag": "p",
"text": "以上のように、乗車券の紛失は、実際に乗車した区間の運賃より高額の支払いが必要になる場合があるので、注意が必要である。その例として、東日本旅客鉄道(JR東日本)では、乗車券紛失防止の啓発ポスターで「出発駅から3倍の運賃をお支払いいただくこともございます」と警告している。乗車券が盗難にあった場合も紛失に準ずる扱いとなる。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 51,
"tag": "p",
"text": "新駅・新路線の開業・開通や、新型車両の導入、施設の改良などのほか、路線の廃止など事業者にとっての節目となる出来事や、新年など社会的に慶祝すべき事柄を記念して発行する乗車券類を記念乗車券という。同様の目的・理由で発行される「記念入場券」もある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 52,
"tag": "p",
"text": "観光路線などでは「乗車の記念」「観光の記念」で発行されるものもある。また、定員制のイベント列車の「乗車の記念」というものもある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 53,
"tag": "p",
"text": "多くの場合、普通乗車券として発行されるが、国鉄を中心に1970年代頃は急行券・特急券等の料金券で発行された例も見られた。極めて珍しい事例として、定期券で発売されたこともある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 54,
"tag": "p",
"text": "戦前から1960年代までは1枚もので、初乗り運賃相当の乗車券として販売されるケースが多く見られたが、その後に複数枚をセットにして販売されるものが増え、高額化する傾向になった。1970年代頃からは、大きさや形状、デザインも個性的なものが出現し、紙以外の素材を用いたり、立体的な造形にしたりしたものまで発売され、ピンバッジなどの記念グッズと組み合わせて販売されるものもある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 55,
"tag": "p",
"text": "1990年代になると発売数が減少する一方、乗車カードの普及により記念カードの形で発行される事例が増えた。2000年代以降は交通系ICカードの普及に伴う磁気カードの廃止に伴い、再び紙の記念切符が発行される例がある。また製造コストの高さから発行数は少ないが、記念ICカードを発行する事業者も現れている。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 56,
"tag": "p",
"text": "以上の様に発売件数は減少したものの、高額化の傾向は維持されており、近年は特に、硬券乗車券もしくは入場券を大量にセット化された商品が目立つ。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 57,
"tag": "p",
"text": "入場券と同様に、縁起の良い駅名を組み合わせた乗車券が人気を集めることもある。代表的なものには以下がある。",
"title": "日本の乗車券"
},
{
"paragraph_id": 58,
"tag": "p",
"text": "ロンドンの地下鉄やバスには乗車券のほか、地下鉄やバスに1日乗り放題の「トラベルカード」やプリペイド式磁気カードの「オイスターカード」などがある。ロンドン地下鉄の乗車券は自動券売機で購入する(オイスターカードも自動券売機でチャージできる)。ロンドン地下鉄には下車時の乗り越し精算のシステムはなく確実に目的地までの乗車券を購入する必要があり乗り越すと罰金が科せられる。",
"title": "イギリスの乗車券"
},
{
"paragraph_id": 59,
"tag": "p",
"text": "フランス国鉄の運賃は、時季、曜日、出発時間帯等で細かく設定されており、割引料金もいくつか存在する。フランス国鉄の乗車券は、予約(座席指定等)を伴う乗車券はその列車のみ、座席指定のない乗車券は刻印機での刻印から原則7日以内(最終日の24時まで)が使用期限となっている。なお、フランス国鉄のサイト上で購入されるEチケットについては刻印は不要である。",
"title": "フランスの乗車券"
},
{
"paragraph_id": 60,
"tag": "p",
"text": "ローマ地下鉄の乗車券には1回券(B.I.T.)、1日券(B.I.G.)、3日券(B.T.I.)、1週間券(C.I.S.)がある。ローマ地下鉄の乗車券は駅構内の自動券売機や窓口だけでなくタバッキ(駅周辺のタバコ屋)でも販売されている。",
"title": "イタリアの乗車券"
},
{
"paragraph_id": 61,
"tag": "p",
"text": "ウィーン地下鉄(ウーバーン)の乗車券は各駅に設置されている自動券売機で購入できる。オーストリアの公共交通機関では改札口又は車内での乗車券への刻印が義務付けられており、検札員の確認時に誤った乗車券を持っていると罰金が科せられる。",
"title": "オーストリアの乗車券"
},
{
"paragraph_id": 62,
"tag": "p",
"text": "船の場合、長距離フェリーや外洋航路のように、長時間の航海を行う航路では、特等・1等・2等と船内の設備に差をつける等級制を採っていることが多い。この場合、特等運賃、1等運賃、2等運賃の形になり、運賃自体の格差が設定されており、日本の鉄道でいうグリーン券や寝台券などの付加料金が含まれた形とは別の形態である。",
"title": "乗船券・航空券"
},
{
"paragraph_id": 63,
"tag": "p",
"text": "鉄道連絡船を含むフェリーの場合、自動車を航送する場合には、自動車航送料に運転手一人分の2等運賃が含まれており、上級船室を利用したい場合には、上級船室に空席があれば2等運賃と1等・特等運賃の差額を支払うことで、上級船室に変更可能である。",
"title": "乗船券・航空券"
},
{
"paragraph_id": 64,
"tag": "p",
"text": "但し、短距離のフェリーや渡船などのように等級制を採用していない場合には、鉄道・バスなどの乗車券と同じ形となる。外洋航路の場合、いわゆる賄い料(食事代)を含む形態を取る場合もある。",
"title": "乗船券・航空券"
},
{
"paragraph_id": 65,
"tag": "p",
"text": "券面にミシン目が入った乗船券を発行している航路もある。乗船時に半分を切り取って回収し、下船時に半券を回収する。短距離の渡船では運賃を直接収受し、乗船券を発行しない航路もある。",
"title": "乗船券・航空券"
},
{
"paragraph_id": 66,
"tag": "p",
"text": "一般に、発行形態は他のものと変わらないが、フェリーにおいては「航送指示書」をもって乗船券に代える場合もある。また、短距離のシャトル航路以外では、乗船時に幼児を含む同行者全員の乗船名簿を記載する必要がある。これは海上保安庁の通達によって義務づけられており、不実の情報を記載すると万一の遭難の際に身元確認が困難になる。よって「乗船券」は航空券同様に「記名式の有価証券」と言える。鉄道連絡船では青函連絡船がこれに該当し、乗船名簿記入が義務づけられていた。",
"title": "乗船券・航空券"
},
{
"paragraph_id": 67,
"tag": "p",
"text": "乗船客の優先順位を決めるのに乗船名簿を利用する例もあり、実際に青函連絡船では鉄道からの乗り継ぎ客を優先的に乗船させるため、列車内で通常とは違う色(もしくは「特」等のマーク入り)の乗船名簿を配布し、乗り継ぎ客とそれ以外の客を区別する方法が取られていた。",
"title": "乗船券・航空券"
}
] | 乗車券(じょうしゃけん)は、鉄道車両やバスに旅客が乗るためのチケット。一般に旅客運送契約に基づき運送を請求することのできる権利を証明又は表章する(すなわち交通機関を利用するための)有価証券をいう。 日常語では「切符」と呼ばれるが、「切符」の意味の範囲は「乗車券」より広い。詳細は切符を参照。 | {{Otheruses||同名のボードゲーム|チケット・トゥ・ライド|主に無人駅やワンマン列車で発行される「乗車駅証明書」|乗車整理券}}
{{右|
[[ファイル:Nsb billett trondheim-hell.jpg|thumb|300px|none|[[ノルウェー]]鉄道での事例。トロンハイム・ヘル間の二等席往復乗車券]]
}}
'''乗車券'''(じょうしゃけん)は、[[鉄道車両]]や[[バス (交通機関)|バス]]<ref>[https://www.chitetsu.co.jp/?page_id=897 乗車券一覧(鉄道・バス)] [[富山地方鉄道]](2021年9月9日閲覧)</ref>に[[旅客]]が乗るための[[切符|チケット]]。一般に[[旅客運送]][[契約]]に基づき[[運送]]を請求することのできる[[権利]]を証明又は[[表章]]する(すなわち[[交通機関]]を利用するための)[[有価証券]]をいう。
日常語では「[[切符]]」と呼ばれるが、「切符」の意味の範囲は「乗車券」より広い。詳細は[[切符]]を参照。
== 概要 ==
旅客の運送に対して、交通事業者との間に契約を結び、[[運賃]]を支払うことによって発行される。一括して[[プリペイドカード]]([[乗車カード]])等によって支払われる場合もあり、この場合は、乗車券を購入せず、下車時に精算することで交通機関を利用することができる。
運送中は携帯が義務付けられ、係員が提示を求めた際には、遅滞なく提示する義務を負う。
乗車券は主に鉄道や[[路線バス]]などの陸上[[公共交通機関]]で使われる用語で、[[船]]の場合には'''乗船券'''(じょうせんけん)、[[航空会社]]の場合には'''[[航空券]]'''(こうくうけん)という。
なお、[[JR]]の[[鉄道連絡船|連絡船]]の[[切符]]は「鉄道網と一体の輸送機関」という位置づけから、航路でありながら鉄道の乗車券として扱われ、「乗船券」とは呼ばれない。
[[旅行会社]]ではJRの乗車券類(JR券)と航空券以外のものを総称して「'''船車券'''」(せんしゃけん)と呼ぶものがあるが、これは旅行会社からの支払額を記入した[[小切手]]・[[バウチャー]]同様の存在でもあり、乗車券類と引き換えないと乗車出来ないケースがある。
== 乗車券の種類 ==
{{右|
[[ファイル:Jr-frikae-jyosya.jpg|thumb|150px|none|振替乗車票]]
}}
乗車券には運送の内容の相違と相互対応して多くの種類がある<ref>{{Cite book |和書 |author=増井幸雄 |year=1939 |title=新訂陸運 |page=161|publisher=[[千倉書房]] }}</ref>。なお、乗車券は座乗して運送される権利に関する証券であるが、[[急行券]]や[[寝台券]]、[[座席指定席|座席指定]]券のように特定の状態で運送される権利に関する証券が特殊料金券(料金券)として別に設けられることも多い<ref name="masui166" />。
=== 普通乗車券と割引乗車券 ===
[[普通乗車券]](Ordinary ticket)とは、標準的な賃率に基づく運賃により発券された乗車券をいう<ref name="masui163">{{Cite book |和書 |author=増井幸雄 |year=1939 |title=新訂陸運 |page=163|publisher=千倉書房 }}</ref>。なお、Local ticketも普通乗車券と訳されるが意味が異なる<ref name="masui161" />(後述)。
割引乗車券(Reduced ticket)とは、標準的な賃率よりも幾分割引されて発売される乗車券をいう<ref name="masui163" />。割引乗車券は乗客の運賃負担力、公益目的、割引による利用客の勧誘など様々な目的で設けられる<ref name="masui166">{{Cite book |和書 |author=増井幸雄 |year=1939 |title=新訂陸運 |page=166|publisher=千倉書房 }}</ref>。[[定期乗車券]](定期券)、[[回数乗車券]](回数券)、[[団体乗車券]]などである。
=== 片道乗車券と往復乗車券 ===
目的地までの片道の乗車券を片道乗車券、往券と復券が連続している乗車券を往復乗車券という<ref name="masui162">{{Cite book |和書 |author=増井幸雄 |year=1939 |title=新訂陸運 |page=162|publisher=千倉書房 }}</ref>。
=== 乗合乗車券と貸切乗車券 ===
多数の公衆が利用し混合乗車する場合の乗車券を乗合乗車券(普通乗車券)、一室または一車両を貸し切りにする場合の乗車券を貸切乗車券という<ref name="masui162" />。
=== 普通乗車券と連帯乗車券 ===
普通乗車券(Local ticket)とは、運送が同一の路線のみに限られた乗車券(自線乗車券)をいう<ref name="masui161">{{Cite book |和書 |author=増井幸雄 |year=1939 |title=新訂陸運 |page=161|publisher=千倉書房 }}</ref>。
連帯乗車券(Interline ticket)とは、運送が数個の路線(または船舶航路)にまたがる乗車券(通し乗車券)をいう<ref name="masui163" />。
=== 企画乗車券 ===
*[[企画乗車券]]
**[[特別企画乗車券]] - [[青春18きっぷ]]など
**[[周遊きっぷ]]など
== 乗車券の素材 ==
=== 硬券 ===
'''硬券'''(こうけん)は硬い厚紙で作られた乗車券のことで、鉄道などの乗車券として古くから用いられた。定義は曖昧だが、柔らかめの硬券を「半硬券」と称することもある。
あらかじめ発駅と着駅とが印刷された券を準備しなければならず、非常に沢山の種類の券を準備する必要があった。硬券を準備するための収納器具を硬券差(硬券ホルダーとも)という。需要がそれほど見込めない駅に対しにはいくつかの着駅を券面に予め印刷しておき、その駅の直下部を切り落として使う準常備式乗車券や、発駅・着駅が未記入の補充型乗車券も見られた。
[[File:DATING MACHINE (5022115235).jpg|thumb|right|ダッチングマシン]]
切符に日付を入れる際には、古くから[[ダッチングマシン]]と呼ばれる機械を用いて日付けを入れていた。しかし現在はメンテナンスに手間がかかることや、コスト削減のため、スタンプを使用している会社も少なくない。
切符は着駅ごとに1枚ずつ順番に番号を割り当て、番号順に発券、残っている券の一番若い番号を調べ、前日の番号と対比することで発券枚数を把握した。
[[1836年]]、[[イギリス]]のニューカッスル・アンド・カーライル鉄道のミルトン駅駅長であった[[トーマス・エドモンソン]]が上記の発売方式とともに考案した。当時は合理的な方式であり、1840年代からイギリスを始め[[ヨーロッパ]]に普及していった。
日本において近年では自動券売機や発券端末の台頭により、[[2019年]]([[平成]]31年)4月で自社製造を終了した[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)<ref>{{Cite web|和書|url=https://jrhokkaido.co.jp/kitanodaichi-challenge/|title=答えて乗って応募して! 北の大地からの挑戦状|JR北海道|accessdate=2021-06-06|publisher=北海道旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201216153419/https://jrhokkaido.co.jp/kitanodaichi-challenge/|archivedate=2020-12-16}}</ref>を最後に、JR各社では定期販売を取りやめており、また、他の事業者でも硬券は廃れる傾向にある。しかしながら現在でも[[島原鉄道]]、三岐鉄道、近江鉄道、伊勢鉄道などのように一部の鉄道会社では日常的に使われている<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/national/20210622-OYT1T50083/ 「硬券」頑固に現役…島原鉄道] [[読売新聞]]オンライン(2021年6月22日配信)2021年9月9日閲覧</ref>(発券端末未導入や自動券売機で入場券が購入できないなどの理由による)ほか、通常は硬券を販売していない会社でも記念切符としてセットなどの形で発売されることもある<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210607/k10013067631000.html 【ビジネス特集】静かに広がる「硬券」ブーム?][[日本放送協会|NHK]](2021年6月7日配信)2021年9月9日閲覧</ref>。
日本ではサイズは基本的にA型、B型、C型、D型の4種類である。
=== 軟券 ===
[[File:Seishunn18kippu-jyoubikenn.jpg|thumb|200px|かつて発売されていた「[[青春18きっぷ]]」常備券(赤券)平成22年夏]]
'''軟券'''(なんけん)は薄く軟らかい紙を使用した乗車券のことである。鉄道創始期から乗車券として用いられ、硬券が普及した後は[[定期乗車券|定期券]]などの着駅で回収しない乗車券や、記入事項の多い乗車券、特殊な取扱いを伴う乗車券など、硬券が不向きな乗車券に用いられたが、こちらもロール紙の普及により数を減らしている。
現在では各種[[補充券]]や'''常備券'''(予め工場で印刷された乗車券・特急券類のこと<ref group="注">発券端末が普及した現在では、簡易委託駅発行の乗車券が中心である。</ref>)などで目にすることができる。
=== ロール紙 ===
[[File:The Sugar Cane Train Ticket 1997-04-25.jpg|thumb|200px|ロール紙の乗車券]]
[[自動券売機]]では、ロール紙などをセットし、発券する際にプリンターで印字している。紙質は硬券より薄く軟らかいが、軟券よりやや硬い。
[[自動改札機]]が導入されている地域(事業者)の場合、多くは裏側に磁気による記録面があり、自動券売機や[[マルス (システム)|マルス]]端末で発券される際に必要な情報が記録されて、自動改札機や[[自動精算機]]等で読み取られる。
=== ICカード ===
<!--IC乗車券に関しては下記のリンク先でお書きください。-->
{{Main|乗車カード}}
磁気カードに代わる新世代のカードとして、1997年に[[ユーバスカード]]が登場。その後、2001年の[[Suica]]を皮切りに普及しつつある。プラスチック製のカードを改札機のIC端末に接触させることで改札口を通過する。従来の使い捨てカードとは異なり、カード内の残高が不足してきたら運賃を補充することで何度も繰り返し使えることが最大の特徴と言える。その反面、カードに残高が印字されず、駅や専用の端末以外で残高を確認できないと言ったデメリットも抱えている。
また、乗車用のICカードを発行せずとも、[[おサイフケータイ]]などのような[[スマートフォン]]や、[[非接触型決済#EMVコンタクトレス決済方式|タッチ決済に対応したクレジットカード]]などの媒体を使って乗車が可能となる例もある。
=== QRコード ===
自動改札機の読み取り部に[[QRコード]]をかざし、コードを改札機に読み取らせることで改札口を通過するもの。コードはロール紙等に印刷されたもののほか、[[携帯電話]]/[[スマートフォン]]等の画面に表示したものを使用することもある。日本の鉄道類では[[北九州高速鉄道|北九州モノレール]]・[[沖縄都市モノレール]](ゆいレール)などで採用例がある。また、[[航空券]]では広く使われている。
2022年11月、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]はQRコードでの乗車を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2211/08/news141.html|title=JR東日本、QRコード改札を全線に導入へ まずは2024年度に東北エリアから|accessdate=2022-11-08|publisher=ねとらぼ}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://nordot.app/956001597616766976|title=JR東、QRコード改札実用化へ 首都圏以外で2024年春から|accessdate=2022-11-08|publisher=共同通信}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tetsudo.com/news/2779/|title=JR東、2024年度にQRコード乗車サービスを提供へ|accessdate=2022-11-08|publisher=鉄道コム}}</ref>。2024年から予定されている。
=== その他の素材 ===
[[アメリカ合衆国]]や[[台湾]]など日本国外の[[地下鉄]]や[[路面電車]]等の公共交通機関においては、紙製の乗車券ではなく、回収して何度も使われる[[プラスチック]]や[[金属]]製の乗車券や、'''[[代用貨幣|トークン]]'''(token)と呼ばれる専用のコインを用いるところがある。
いわゆる[[電子チケット]]や、スマートフォンの[[アプリケーション|アプリ]]を乗車券として利用する例もある。日本では、[[ジョルダン (企業)|ジョルダン]]『[[乗換案内]]』のモバイルチケット、[[ハイウェイバスドットコム]]・[[高速バスネット]]のWEB乗車券などがバス会社を中心に普及している。
== 日本の乗車券 ==
=== 鉄道 ===
[[File:JNR Regular ticket 1966.jpg|thumb|right|250 px|国鉄時代の普通乗車券([[1966年]])]]
日本の鉄道の場合、「乗車券」は[[普通列車]]の[[普通車 (鉄道車両)|普通車]][[自由席]]を利用する運送(普通運賃)のためのものであり、[[急行列車]]や特別車両などを利用するための[[特別急行券]]、急行券、[[グリーン券]]、寝台券などの「特別車室券」等(いわゆる「料金券」)と区別される。JRでは旅客営業制度上、正式には'''乗車券類'''と呼んでおり([[入場券]]は含まれない)、一般には「'''切符'''」(JRでの営業案内上はひらがな書きで「きっぷ」)と呼ばれている<ref>{{Cite web|和書|author=[[古谷あつみ]] |date=2016-2-18 |url=http://toyokeizai.net/articles/-/105399?page=2 |title=「きっぷ」と「切符」の違いを知っていますか |work=東洋経済オンライン |publisher=[[東洋経済新報社]] |page=2 |accessdate=2016-2-19}}</ref>。
日本の旧・[[鉄道省|官設鉄道/鉄道省]]/[[日本国有鉄道]](国鉄)では、創業の[[1872年]]([[明治]]5年)から[[1969年]](昭和44年)までは、後述の長距離[[フェリー]]や国際線航空券同様に[[等級 (鉄道車両)|等級制]]([[1960年]]〈昭和35年〉まで三[[等級 (鉄道車両)|等級]]制、1969年〈昭和44年〉まで二等級制)が取られており、運賃や特急・急行料金自体に格差がつけられていた。<!--(1等が2等の2倍、2等が3等の2倍に設定されていた。)-->
[[合理化]]の影響で、鉄道においても昭和後期から[[ワンマン運転|ワンマン列車]]が増えており、下車時に[[運賃箱]]へ運賃分の[[現金]]を直接投入させることにより、駅での乗車券の発行を省くケースがある。[[1971年]](昭和46年)に[[日立電鉄線]](2005年に路線廃止)で始まったもので、現在ではJRや多くの[[鉄道事業者]]で導入されている。
乗車券の大きさは各社局ほぼ同一であり、おおよそ以下の5種類になる。
[[File:Ticket from Shuzenji to Odawara 19621105.jpg|thumb|200 px|「A型券」(3cm×5.75cm)]]
[[File:Ticket Tozan from Kazamatsuri to Yumoto.jpg|thumb|200 px|「B型券」(2.5cm×5.75cm)]]
[[File:Odoriko Ticket from Atagawa to Odawara.jpg|thumb|200 px|「D型券」(3cm×8.75cm)指定席券だが大きさは同じ]]
[[File:Round-trip ticket Araya-sta.jpg|thumb|連絡往復乗車券 120mm マルス券]]
* 3 cm×5.75 cm
*: イギリスの[[トーマス・エドモンソン|T・エドモンソン]]が[[#硬券|硬券]]を考案した際に採用したサイズ(1 3/16 インチ × 2 1/4 インチ)<ref>{{Cite book|和書|author=徳江茂|year=1994|title=きっぷの話|publisher=成山堂書店|id=ISBN 4-425-76011-5}}</ref> の乗車券で、「A型券」または「[[エドモンソン式乗車券|エドモンソン券]]」とも呼ばれる。乗車券の大きさとしては最もポピュラーなもので、現在でも[[自動券売機]]用として広く使われている。
* 2.5 cm×5.75 cm
*: [[戦前]]に用紙節約のために考案された。「B型券」とも呼ばれ、現在は多くの私鉄で乗車券や入場券(共に硬券の場合)などに使われている。
* 6 cm×8.75 cm
*:「C型券」とも呼ばれている。かつては特急券と寝台券を合体した切符などに用いられたが、現在は極一部の私鉄で使用されているのみとなっている。
* 3 cm×8.75 cm
*: 「D型券」とも呼ばれており、現在では一部の私鉄での往復乗車券や記念乗車券・入場券などに使われている。昭和40年代 - 50年代頃には[[座席指定券]]や寝台券などにも使用されていた。
* 5.75 cm×8.5 cm
*: 定期乗車券として一般的な大きさで、JRでは「特殊指定共通券第六種」として規定されている。また、{{読み仮名|[[マルス (システム)|MARS]]|マルス}}端末で発券される乗車券類(いわゆる「マルス券」)のうち短いほうのものも同じ大きさ(こちらは「特殊指定共通券第四種」)である。
* 5.75 cm×12 cm
*: 「マルス券」のうち長いほうのもので、「特殊指定共通券第五種」として規定されている。「[[青春18きっぷ]]」などの企画乗車券や、[[寝台券]]、一部の[[私鉄]]連絡乗車券などに用いられている。
上記の他にも国鉄・JRには用途に応じて様々な大きさのものが規定されているが、切符の廃止やマルス端末での発券に統合されたことなどによって特殊指定共通券(第四~六種)に集約され、現在では、ほとんど見られない。なお、各社局が発売する記念乗車券類には多種多様な大きさ・形状のものがある。
=== 路線バス ===
[[File:Ticket JR Hokkaido Bus.jpg|thumb|right|<small>[[ジェイ・アール北海道バス|JR北海道バス]]の乗車券(硬券)</small>]]
[[ファイル:BusTicket_04p0822sa.jpg|thumb|right|<small>[[ジェイアール東海バス|JR東海バス]][[東名ハイウェイバス|東名高速線]]の乗車券(車内発券)。いわゆるロール紙だが、[[東海旅客鉄道]](JR東海)の鉄道乗車券と同様に "JR" "C" の地紋が入る。</small>]]
一般[[路線バス]]の場合、乗車する際に乗車券を発券する場合が少ない(多くの場合、乗車時、あるいは降車時に運賃を直接現金や回数券、[[バスカード]]などで支払う)ため乗車券はあまり一般的ではないが、<!--大手では→大手の基準が曖昧。大手私鉄グループという意味なら西鉄は当てはまるが、北海道中央バスは比較的大きいとはいえそもそも大手バス事業者という概念が確立されていない-->[[西鉄バス]]や[[北海道中央バス]]、[[豊鉄バス]]等では、主要[[バスターミナル]]の窓口または券売機にて、初乗りから乗車券を発売している。これは事前購入をすることによるスムーズな降車と車内での[[両替]]を少なくする効果がある。また、観光地を抱える[[東海自動車|東海バス]]グループ、[[箱根登山バス]]、[[アルピコ交通]]では、対キロ運賃制のバス乗車に不慣れな乗客のために、案内を兼ねて乗車券を購入の上での乗車を呼びかけている。その他、観光地のバス利用には、旅行代理店で発行する[[クーポン]]類も存在する。また走行距離の長い[[高速バス]]などでは、乗車券を発券する場合が多い。
なお、予約制の一部高速バスでは、[[インターネット]]予約後、ウェブ決済で表示される乗車票ページを[[パソコン]]に接続した[[プリンター]]で印刷したものや、[[コンビニエンスストア]]で[[マルチメディアステーション|多機能端末]]([[ローソン]]、[[ファミリーマート]])や代行収納サービス([[セブン-イレブン]])を利用して運賃を支払い、[[POSシステム|レジ]]で打ち出される控え証を乗車券とする場合もある。
基本的には利用する区間の運送のために発行されるが、高速バスなど座席が指定されているものなどは[[座席指定券]]と同等の機能を持つ場合もある。また、一部の路線バスで、鉄道の場合における[[急行列車]]に相当するバスが運行される場合があり、乗車時に[[急行券|急行料金]]を徴する場合もある。
=== 乗車券の法令と規則 ===
以下では主として鉄道の乗車券を扱う。
==== 法的性質 ====
旅客運送契約に基づき運送を請求する債権を証明又は表章する[[証券]]である。通常、無記名の普通乗車券は[[有価証券]]で、権利の移転と行使に当該証券が必要となる。ただし、使用開始(入鋏)後の乗車券は、譲渡ができないため、[[証拠証券]]に過ぎないものと解されている。
[[鉄道営業法]]は、別段の定めのある場合のほかは、乗車券を所持しない旅客の乗車を禁じている(ただし、[[兵庫県]]の[[北条鉄道]]などは乗車券を発行していないため、下車駅で支払う形式をとっている)。
また、[[鉄道運輸規程]]によると、乗車券は通用区間中いずれの部分に付いても効力を有するものとされ、原則として[[途中下車]]が可能である。ただし、鉄道事業者が別段の定めをすれば例外が認められる。詳しくは途中下車の項を参照のこと。
旅客運送契約の内容は、JR各社では[[約款|運送約款]]である[[旅客営業規則]]で定められる。私鉄各社はそれぞれ独自に同様の運送約款を定めている(例:[[近畿日本鉄道]]における往復乗車券の有効期間は、復片に限り片道乗車券の2倍である)が、JR各社の旅客営業規則の内容に相当程度準拠している場合もある。
==== 払い戻しに関する規定 ====
運賃は目的地に運送することに対する対価であるので、その目的が完遂されればどれだけ遅延が生じても払い戻しはなされない。払い戻しは基本的に旅行中止の場合に限られる(JR旅客営業規則第282条 - 289条)。
* 旅行開始前の段階で列車が運転されないなどの理由で旅行を中止する場合は、運賃・料金が全額無手数料で払い戻される。
*: また、不通区間をJR旅客鉄道以外の手段で別途旅行する場合は、予め不乗証明書の交付を受けることで、旅行後に不乗区間の運賃が払い戻される。
* 旅行開始後は、到着が2時間以上遅れた場合、及び遅延により目的地に向かう列車に1時間以上接続を欠く場合、もしくはそれらが確実である場合に旅行を中止するとき、出発駅か途中駅まで無賃送還を受けることができる(途中下車をしていない場合)。この場合、運賃は出発地まで戻る場合は全額、途中駅まで引き返す場合は出発駅から下車駅までの運賃を差し引いた差額が払い戻される。[[回数乗車券]]で出発駅までの無賃送還を受ける場合、使用を取り消してその券片を再度利用できる。
*: 料金は払い戻しの対象ではないが、送還の際には同級の車両に乗車できる。なお、急行・特急の到着が2時間以上遅れた場合は急行・特急料金も払い戻しの対象となる。
* [[定期乗車券]]・回数乗車券は、5日以上連続で不通となった区間を含む場合に、不通日数分の有効期間延長か払い戻し(定期券は不通日数分の日割り、回数券の場合は発売額から使用枚数相当額を差し引いた分)を受けられる。
不通などによらない任意の旅行中止の場合は、払い戻し手数料がかかる。また、一度だけ同じ種類の乗車券に変更することができる(いずれも乗車券の有効期間内である場合に可能)。旅行開始後の場合は、有効期間内で未使用区間の営業キロが101km以上ある場合に限り、使用済みの区間の運賃と払い戻し手数料を差し引いた分が払い戻される。
==== 乗車券などの不正使用の場合の取り扱い ====
旅客営業規則等によると、JRや私鉄では、[[不正乗車|キセル乗車]]などで不正に乗車券を使用したり、特別料金を免れたりした場合には、所持していた乗車券などを無効として回収するほか、乗車区間がわかっている場合はその区間の、不明な場合は別に定める区間に対して、以下の運賃・料金が請求される。
*普通乗車券の場合: 普通運賃とその2倍の増運賃(料金を含む場合は当該料金と2倍の増料金を含む)=(普通運賃+料金)×3
*定期乗車券の場合: 有効期間開始日から発見当日まで一日一回往復利用したものとして、普通運賃とその2倍の増運賃(料金を含む場合は当該料金と2倍の増料金を含む)=(普通運賃+料金)×日数×2×3
さらに、常習で行っていた場合や悪質な場合は損害賠償を請求されたり、[[詐欺罪]]や建造物侵入罪(駅施設への無断立入とみなされる場合がある)で処罰される可能性もある。
==== 乗車券類を紛失した場合の取り扱い ====
乗車券を紛失した場合、旅客営業規則第7章第3節第3款「乗車券類の紛失」に基づき以下の措置が取られる。
*係員が紛失の事実を認定することが出来た場合 : 全乗車区間における普通運賃を収受する。
*係員が紛失の事実を認定することが出来ない場合 : 前項の不正乗車と同様の扱いを行うが、3倍の増運賃を支払うのは乗車駅から現在駅までのみとなる。
なお、運賃を再度支払った場合、旅行終了駅にて再収受証明書の交付を請求することができ、1年以内に紛失した乗車券類が発見された時にはその発見した乗車券類と再収受証明書を駅窓口に提示することで、再発行を行った乗車券の払い戻しを行うことが可能となっている。
以上のように、乗車券の紛失は、実際に乗車した区間の運賃より高額の支払いが必要になる場合があるので、注意が必要である。その例として、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)では、乗車券紛失防止の啓発[[ポスター]]で「出発駅から3倍の運賃をお支払いいただくこともございます」と警告している。乗車券が盗難にあった場合も紛失に準ずる扱いとなる。
=== 記念乗車券 ===
[[ファイル:A Commemorative Ticket of Tokyo Olympicgames.jpg|thumb|250px|[[1964年東京オリンピック|オリンピック]] 東京大会 記念乗車券 ([[東京都交通局]])]]
新駅・新路線の開業・開通や、新型車両の導入、施設の改良などのほか、路線の廃止など事業者にとっての節目となる出来事や、新年など社会的に慶祝すべき事柄を記念して発行する乗車券類を'''記念乗車券'''という。同様の目的・理由で発行される「記念[[入場券]]」もある。
観光路線などでは「乗車の記念」「観光の記念」で発行されるものもある。また、定員制のイベント列車の「乗車の記念」というものもある。
多くの場合、普通乗車券として発行されるが、国鉄を中心に[[1970年代]]頃は急行券・特急券等の料金券で発行された例も見られた。極めて珍しい事例として、定期券で発売されたこともある<ref group="注">[[西日本鉄道]]において[[1974年]]に大牟田線開業50周年を記念して、また、[[阪急電鉄]]において、[[1976年]]に[[阪急6300系電車|6300系]]の[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞記念で発売された例がある。</ref>。
戦前から[[1960年代]]までは1枚もので、初乗り運賃相当の乗車券として販売されるケースが多く見られたが、その後に複数枚をセットにして販売されるものが増え、高額化する傾向になった。1970年代頃からは、大きさや形状、デザインも個性的なものが出現し、紙以外の素材を用いたり、立体的な造形にしたりしたものまで発売され、[[ピンバッジ]]などの記念グッズと組み合わせて販売されるものもある。
[[1990年代]]になると発売数が減少する一方、[[乗車カード]]の普及により記念カードの形で発行される事例が増えた。2000年代以降は交通系[[ICカード]]の普及に伴う磁気カードの廃止に伴い、再び紙の記念切符が発行される例がある。また製造コストの高さから発行数は少ないが、記念ICカードを発行する事業者も現れている。
以上の様に発売件数は減少したものの、高額化の傾向は維持されており、近年は特に、硬券乗車券もしくは入場券を大量にセット化された商品が目立つ。
=== 縁起物の乗車券 ===
入場券と同様に、縁起の良い[[鉄道駅|駅名]]を組み合わせた乗車券が人気を集めることもある。代表的なものには以下がある。
* [[豊富駅]] → [[徳満駅]] ([[宗谷本線]])「豊かさに富み、徳満ちる」
* [[愛国駅]] → [[幸福駅]] 「愛国(愛の国)から幸福へ」鉄道廃止後も[[十勝バス]]においてバス乗車券として発売されている。
* [[新生駅 (北海道)|新生駅]] → [[大樹駅]] 「新しく生まれ大きな樹へ」(成熟を祈るもの)
* [[大正駅 (北海道)|大正駅]] → 幸福駅 「たいそう(大正)幸福に」
*: いずれも[[1987年]]に[[廃線]]となった[[広尾線]]において人気を集めた乗車券。特に愛国→幸福の乗車券に関しては、路線の廃止後もレプリカが愛国駅で売られている。
* [[足寄駅]] → [[愛冠駅]] 「愛のカップ(冠)ル」
*: [[2006年]]の[[ふるさと銀河線]]廃止後は足寄発のもののみが売られている。
* [[勝田駅]] → [[金上駅]]([[ひたちなか海浜鉄道湊線]])「勝った・金運を上げる」
* [[取手駅]] → [[大宝駅]]([[関東鉄道常総線]])「大きな宝(大宝)を取って(取手)」
* [[宝積寺駅]] → [[大金駅]]([[烏山線]])「宝を積んで大金持ち」
* [[銚子駅]] → [[本銚子駅]]([[銚子電気鉄道|銚子電鉄]])「本調子」
* [[京成小岩駅]] → [[京成成田駅]]「恋は成り立つ」
* [[京成八幡駅]] → [[京成高砂駅]]「やがて八幡様で高砂や~」
*: いずれも[[京成本線]]。[[京成電鉄]]が[[1999年]]に発売した[[バレンタインデー]]記念乗車券として上記2種類を組み合わせて発売された。
* [[福生駅]] → [[金子駅]]([[青梅線]]・[[八高線]])
* [[鶴見駅]] → [[亀有駅]]([[京浜東北線]]・[[常磐緩行線]])「[[ツル|鶴]]は千年[[カメ|亀]]は万年」の[[ことわざ]]にちなみ、[[#記念乗車券|記念乗車券]]や[[オレンジカード]]も販売されたことがあった。
* [[ゆめが丘駅]] → [[希望ヶ丘駅]] ([[相模鉄道]])「夢・希望」
* [[鶴舞駅]] → [[亀崎駅]]([[中央本線]]・[[武豊線]])「鶴は千年亀は万年」にちなんだもの
* [[金山駅 (愛知県)|金山駅]] → [[鶴舞駅]]([[中央本線]])「金の山に鶴が舞う」
* [[桜駅 (愛知県)|桜駅]] → [[栄生駅]]([[名鉄名古屋本線]])「桜咲こう」
* [[栄生駅]] → [[金山駅 (愛知県)|金山駅]](名鉄名古屋本線)
* [[厚狭駅]] → [[目出駅]]([[山陽本線]]、[[小野田線]])「朝(厚狭)からめで(目出)たい」
* [[鶴羽駅]] → [[丸亀駅]]([[高徳線]]・[[予讃線]])「鶴は千年亀は万年」にちなんだもの
* [[半家駅]] → [[増毛駅]]([[予土線]]・[[留萌本線]])「ハゲ(半家)がフサフサに([[脱毛症#増毛|増毛]])」実際には2万円以上の高額となる。
* [[今福駅]] → [[大学駅]]([[松浦鉄道]])
* [[愛野駅 (長崎県)|愛野駅]] → [[吾妻駅]]([[島原鉄道]])「愛しの(愛野)吾が妻」
* [[真幸駅]] → [[吉松駅]] → [[鶴丸駅]]([[肥薩線]]・[[吉都線]])縁起の良い文字が並ぶ。
* [[追分駅 (台中市)|追分駅]] → [[成功駅]]([[台湾鉄路管理局]])「追分成功」=点を追い上げ成功する
* [[永康駅]] → [[保安駅]]([[台湾鉄路管理局]])「永保安康」=健康で安らかな暮らしを永遠に保つ
* [[福吉駅]] → [[大入駅]]([[筑肥線]])「福」と「吉」が大入り
* [[落出駅|落出バス停]] → 郷角バス停・大成バス停([[愛媛県]][[久万高原町]]営バス)「ごうかく」行ならびに「大成」行。[[国鉄バス]]・[[四国旅客鉄道|JR四国]][[松山高知急行線]]からの転換路線で、転換前からは販売していた。
== イギリスの乗車券 ==
ロンドンの地下鉄やバスには乗車券のほか、地下鉄やバスに1日乗り放題の「トラベルカード」やプリペイド式磁気カードの「オイスターカード」などがある<ref>[[JTB]]パブリッシング『ララチッタ ロンドン(2015年版)』128頁</ref>。ロンドン地下鉄の乗車券は自動券売機で購入する(オイスターカードも自動券売機でチャージできる)<ref name="London">JTBパブリッシング『ララチッタ ロンドン(2015年版)』129頁</ref>。ロンドン地下鉄には下車時の乗り越し精算のシステムはなく確実に目的地までの乗車券を購入する必要があり乗り越すと罰金が科せられる<ref name="London" />。
== フランスの乗車券 ==
[[フランス国鉄]]の運賃は、時季、曜日、出発時間帯等で細かく設定されており、割引料金もいくつか存在する<ref name="France">JTBパブリッシング『ララチッタ フランス』(2015年)4頁</ref>。フランス国鉄の乗車券は、予約(座席指定等)を伴う乗車券はその列車のみ、座席指定のない乗車券は刻印機での刻印から原則7日以内(最終日の24時まで)が使用期限となっている<ref name="France" />。なお、フランス国鉄のサイト上で購入されるEチケットについては刻印は不要である<ref name="France" />。
== イタリアの乗車券 ==
[[ローマ地下鉄]]の乗車券には1回券(B.I.T.)、1日券(B.I.G.)、3日券(B.T.I.)、1週間券(C.I.S.)がある<ref name="Rome">JTBパブリッシング『ララチッタ ローマ・[[フィレンツェ]](2017年版)』57頁</ref>。ローマ地下鉄の乗車券は駅構内の自動券売機や窓口だけでなく[[タバッキ]](駅周辺のタバコ屋)でも販売されている<ref name="Rome" />。
== オーストリアの乗車券 ==
[[ウィーン地下鉄]](ウーバーン)の乗車券は各駅に設置されている自動券売機で購入できる<ref name="Austria">JTBパブリッシング『ララチッタ ウィーン・[[プラハ]](2016年版)』15頁</ref>。オーストリアの公共交通機関では改札口又は車内での乗車券への刻印が義務付けられており、検札員の確認時に誤った乗車券を持っていると罰金が科せられる<ref name="Austria" />。
== 乗船券・航空券 ==
=== 乗船券 ===
船の場合、長距離フェリーや[[外洋航路]]のように、長時間の航海を行う航路では、特等・1等・2等と船内の設備に差をつける等級制を採っていることが多い。この場合、特等運賃、1等運賃、2等運賃の形になり、運賃自体の格差が設定されており、日本の鉄道でいうグリーン券や寝台券などの付加料金が含まれた形とは別の形態である。
[[鉄道連絡船]]を含むフェリーの場合、[[自動車]]を航送する場合には、自動車航送料に[[運転手]]一人分の2等運賃が含まれており、上級船室を利用したい場合には、上級船室に空席があれば2等運賃と1等・特等運賃の差額を支払うことで、上級船室に変更可能である。
但し、短距離のフェリーや渡船などのように等級制を採用していない場合には、鉄道・バスなどの乗車券と同じ形となる。外洋航路の場合、いわゆる賄い料(食事代)を含む形態を取る場合もある。<!--なお、いわゆる豪華客船の場合、交通機関というよりは海上を動く高級ホテルに近い形態を取る場合がある。-->
券面にミシン目が入った乗船券を発行している航路もある。乗船時に半分を切り取って回収し、下船時に半券を回収する。短距離の渡船では運賃を直接収受し、乗船券を発行しない航路もある。
一般に、発行形態は他のものと変わらないが、フェリーにおいては「航送指示書」をもって乗船券に代える場合もある。また、短距離のシャトル航路以外では、乗船時に[[幼児]]を含む同行者全員の[[乗船名簿]]を記載する必要がある。これは[[海上保安庁]]の通達によって義務づけられており、不実の情報を記載すると万一の[[遭難]]の際に身元確認が困難になる。よって「乗船券」は[[航空券]]同様に「記名式の有価証券」と言える。鉄道連絡船では[[青函連絡船]]がこれに該当し、乗船名簿記入が義務づけられていた。
乗船客の優先順位を決めるのに乗船名簿を利用する例もあり、実際に青函連絡船では鉄道からの乗り継ぎ客を優先的に乗船させるため、列車内で通常とは違う色(もしくは「特」等のマーク入り)の乗船名簿を配布し、乗り継ぎ客とそれ以外の客を区別する方法が取られていた。
<gallery>
ファイル:SNF_OtaruMaizuru.jpg|[[新日本海フェリー]][[小樽港|小樽]]・[[舞鶴港|舞鶴]]航路の乗船券(乗船・下船時に半券回収済み)
ファイル:FerryTicket_Oshidomari-Wakkanai.jpg|[[ハートランドフェリー]][[稚内港|稚内]]・[[利尻島|利]][[礼文島|礼]]航路の乗船券
File:乗船券IMGP0067.JPG|[[種子島]][[島間港]]から[[屋久島]][[宮之浦港 (屋久島町)|宮之浦港]]に就航している貨客船、人のみ乗船券
File:航送許可証IMGP0584.JPG|厳密には乗船券にはならないのだが、車両を乗船([[航送]])させるための航送券も乗船券の一種。
File:乗船券DSC02148.JPG|貨客船二等乗船券
File:新さつま乗船券IMGP0591.JPG|貨物船乗船券(ドライバー用)
</gallery>
=== 航空券・搭乗券 ===
{{main|航空券}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
<references />
== 関連項目 ==
{{commons|Category:Rail transport tickets|乗車券}}
*[[退蔵益]]
* [[一日乗車券]]
* [[切符]]
** [[入場券]]
** [[テンパズル]]
** [[手回り品切符]]
* [[パンチ (文房具)|パンチ]]
* [[ダッチングマシン]]
* [[不足賃]](乗り越し精算)
* [[最長片道切符]]
* [[世界一周航空券]]
* [[定期乗車券]]
* [[補充券]]
* [[改札]]
* [[自動改札機]]
* [[搭乗]]
* [[信用乗車方式]]
* [[事務管理コード]]
==外部リンク==
* {{Kotobank|2=日本大百科全書(ニッポニカ)}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しようしやけん}}
[[Category:交通]]
[[Category:鉄道運賃と切符]]
[[Category:チケット]] | 2003-03-15T13:35:56Z | 2023-11-12T05:35:15Z | false | false | false | [
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E8%BB%8A%E5%88%B8 |
4,106 | ボヘミアの醜聞 | 『ボヘミアの醜聞』(ボヘミアのしゅうぶん、原題:"A Scandal in Bohemia")は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの1つで、56ある短編小説のうち最初に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年7月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes ) に収録された。
長編『緋色の研究』『四つの署名』に続いて発表されたシャーロック・ホームズシリーズの第3作目。「ボヘミアの醜聞」をはじめとするシリーズの短編は『ストランド・マガジン』に連載され、シドニー・パジェットの挿絵とともに読者の支持を得た。日本語版では、訳者により「ボヘミア国王の醜聞」という邦題も使用される。
シャーロック・ホームズには、いつでも「あの女性」と呼ぶ人がいる。
1888年3月20日、結婚して開業医に戻っていた伝記作家のジョン・H・ワトスンは、往診の帰り道に独身時代に私立諮問探偵のシャーロック・ホームズと共同生活を送っていたベーカー街221Bの前を通り掛かる。懐かしさから部屋を訪ねると、再会したホームズはワトスンを観察し、やや肥ったことから結婚生活が似合っているようだと評し、さらに最近ワトスンが風邪を引いたことなどを言い当てる。そして上質な紙の手紙を見せ、間もなく依頼人が来ると話す。やがて立派な馬車が乗り付け、顔に仮装用のマスクを付けた身長2mはあるであろう大男が部屋に通されてきた。
マスクの男はフォン・クラム伯爵と名乗り、ボヘミア王家の問題で代理人としてきたと言うが、ホームズは伯爵の正体がボヘミア国王その人であると見抜く。伯爵はボヘミア王であると認めてマスクを取り、依頼の内容を語り出す。
5年前、王太子であった王はアイリーン・アドラーと交際していた。アイリーンはコントラルト歌手でオペラのプリマドンナである。王は近くスカンディナヴィアの王女と結婚することが決まったのだが、そこへアイリーンが、二人で撮影した写真を王女へ送りつける、と脅迫してきたのである。写真が送られれば破談は必至であり、王は写真を取り戻すために人を雇う。しかし、家捜しや強盗をさせたにもかかわらず、写真を見つけることはできなかった。写真を送ると予告された婚約発表の日が迫り、自らホームズへ依頼に来たのであった。
写真を取り戻す依頼を引き受けたホームズは、馬丁に変装して情報を集め、ゴドフリー・ノートンという弁護士の男が毎日アイリーンを訪ねていることを知る。ホームズがアイリーンの家を見張っていると、訪ねてきたノートンとアイリーンが馬車でどこかへ出発する。ホームズが後を追うと、馬車はセント・モニカ教会に着く。教会にはアイリーン、ノートン、牧師の3人がおり、入ってきた馬丁(ホームズ)に協力を要請する。これはホームズにとっても想定外の出来事で、アイリーンとノートンが結婚する立会人をさせられてしまったのだった。 結婚した二人が新婚旅行などで出かけると取り戻すのは難しくなる。ホームズはすぐに行動を起こすことを決め、ワトスンに助力を頼む。写真が家の中にあると推理し、アイリーン自身にその場所を教えてもらおうというのである。
家へ戻ってきたアイリーンが馬車から降りようとしたとき、周囲で男たちの喧嘩が始まった。喧嘩に巻き込まれそうになったアイリーンを、聖職者に変装したホームズが守ろうとして、負傷する。顔から大量の血を流して倒れたホームズは、アイリーンの家へと運び込まれた。
一部始終を見守っていたワトスンは、ホームズの合図で発炎筒を家の中に放り込み、野次馬たちと声を合わせて火事だと叫ぶ。その声を聞き、立ちこめる煙を見たアイリーンは、とっさに最も大事なもの、写真を取り出そうとしてしまい、ホームズにその隠し場所を知られる。ホームズの負傷は家へ入りこむための芝居であり、喧嘩をはじめた男たちや野次馬は、みなホームズが手配していたのである。
隠し場所を知ったホームズは、明日ボヘミア王と一緒に家を訪ねて写真を取り戻すことにして、ワトスンと二人でベーカー街へ戻る。ホームズがドアの前で鍵を開けようとしたとき、通行人の青年から「おやすみなさい。」と声をかけられる。しかし、青年が誰なのかはホームズにも分からなかった。
翌日、ホームズとワトスンは王を伴いアイリーンの家を訪れるが、アイリーンの姿はない。残っていた使用人から、アイリーンはノートンと共に大陸へ旅立ったという伝言を聞かされる。慌てて確認した隠し場所には、手紙とアイリーン1人だけの写真が残されていた。昨日の騒動の後、負傷した聖職者がホームズだと気付いたアイリーンは、男装してベーカー街まで尾行し正体を確認すると、挨拶の声をかけて立ち去ったのであった。手紙には、夫ノートンと相談した結果、ホームズが相手では逃げるしかないと考え、姿を消すと書かれていた。王と撮った写真に関しては、結婚した身であり悪用する意図はもはやなく、お守りとして手元におきたいという。その代わりとして、アイリーン1人だけの写真を、手紙と共に残していったのだった。
アイリーンの手紙を読んだ王は、身分さえ釣り合っていたなら立派な王妃になっただろう、と嘆息する。ホームズは写真を取り戻すことができなかったと謝罪するが、王は写真は焼いたも同然で、依頼は果たされたと述べ、とりあえずの謝礼として填めていたエメラルドの指輪を渡そうとする。しかしホームズは、王の持ち物にはもっと貴重なものがあり、それが欲しいと言う。その貴重なものとは、アイリーンの写真であった。
この事件以降、ホームズが女性の知恵を馬鹿にすることはなくなった。ホームズにとって、アイリーン・アドラーはいつでも「あの女性」なのである。
この事件の発生年代については、作中に「1888年3月20日」と明記されているが、1887年や1889年だとする説もある。1888年3月20日は火曜日である。しかし、ボヘミア王の婚約発表が次の月曜日の予定だと聞いたホームズは「まだ3日間の余裕がある」と答えているため、本当に火曜日の出来事なのか、年代は正しいのか研究の余地がある。正典60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリング=グールドの説では、1887年5月20日の金曜日から5月22日の日曜日までの事件としている。グラナダ版ドラマではボヘミア王が「金曜日にはロンドンを立たなければならない」と説明している。この事件の時点でワトスンが結婚生活を送っている相手は、『四つの署名』で出会ったメアリー・モースタンだと考えられているが、ベアリング=グールドはメアリー説を否定し、「ボヘミアの醜聞」は『四つの署名』より以前の事件であり、結婚生活を送っている相手はメアリーではなく1人目の妻であるとした。この説では、再会したワトスンに対し太ったことを指摘して、結婚が似合っていると評したホームズの発言は、実際にはもう少し前、おそらく短編「ライゲートの大地主」の際の出来事だとしている。
作中に依頼人として登場する「ボヘミア王」が、誰をモデルにしているかについては諸説ある。当時のボヘミア王はフランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848年 - 1916年)であったが、1830年生まれのため年齢的に該当しない。フランツ・ヨーゼフ1世の息子ルドルフ大公(1858年生まれ)とする説、甥のフランツ・フェルディナント大公(1863年生まれ)とする説、後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(1859年生まれ)とする説、後のイギリス王アルバート・エドワード皇太子(1841年生まれ)とする説がある。定説となっているものはないが、事件発生時の年齢だけを考慮すると4人の中ではルドルフ大公の可能性が高くなるとする説や、1889年に起きたルドルフ大公の心中事件とこの短編の類似性を指摘する説などが存在する。 ただし、本作における「ボヘミア」が、実在のチェコと同一国家であるという明白な記述は無く、架空の国の可能性もある。国内にドイツ語圏が存在するなど、当時オーストリア帝国統治下にあったチェコと重なる点もあるが、イギリス文学において「ボヘミア」とは、シェイクスピアの『冬物語』では「海岸を持つ国」と描写されるなど架空の要素が目立つ。同様に、本作及び『未婚の貴族』で挙げられる「スカンジナヴィア国王」も架空であり、スカンジナヴィアは一部統一されていた時期はあったものの、そういう名の王国は存在しなかった。
アイリーン・アドラーは、ホームズが「あの女性 (the woman)」とただひとり定冠詞をつけて呼ぶ特別な存在である(事件について話す時は「アイリーン・アドラー」と名前でいう場合もある)。ホームズはアイリーンを初めて見たときの感想として、「男が命をかけても惜しくないほどの、美しく心ひかれる顔をした女性」とワトスンに語った。作中、ワトスンはホームズがアイリーンに恋愛に似た感情を抱いているわけではないと書いているが、シャーロキアンの間では、やはり恋愛に似た感情を持っていたのではないかとする説と、ワトスンの書いた通りで、唯一能力的に敵わなかった女性として特別なのだとする説に分かれる。事件の終わりにホームズがアイリーンの写真を欲しがった理由についても、ブロマイドとして手元に置きたかったという説、変装した彼女と再会したときに見破るためとする説、完全に成功できなかった事件の自戒のためだとする説などに解釈が分かれている。 なお、ホームズ自身は「悪魔の足」で「自分は人を愛したことはない」と告白している。
ベアリング=グールドは1962年に発表したホームズの伝記の中で、大空白時代にホームズとアイリーンが再会して同居生活を送り、息子を儲けたことにしている。この設定は1976年のテレビ映画『シャーロック・ホームズ イン・ニューヨーク』でも使用された。
なお、ワトスンはアイリーンは『ボヘミアの醜聞』の話を書きまとめている時点で死亡していると認識しており、前書き的な冒頭部分で「故アイリーン・アドラー(the late Irene Adler)」という記述がある。
執筆当初は「A Scandal of Bohemia」という題名だった。題名や作品の雰囲気などに、オペラ『ラ・ボエーム』の原作小説で、アンリ・ミュルジェールが1848年に書いた『ボエーム生活情景』から影響を受けている可能性が指摘されている。
作中、ベーカー街の下宿の女主人がターナー夫人 (Mrs.Turner) となっている。 シリーズではこの場面をのぞき下宿の女主人はハドスン夫人 (Mrs.Hudson) であるため、その正体については諸説ある。リチャード・ランセリン・グリーンは、短編「空き家の冒険」の原稿に、ターナー夫人と書いた後にハドスン夫人へ訂正している箇所があるため、同様の書き誤りであるとしている。 | [
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"text": "『ボヘミアの醜聞』(ボヘミアのしゅうぶん、原題:\"A Scandal in Bohemia\")は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの1つで、56ある短編小説のうち最初に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年7月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes ) に収録された。",
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] | 『ボヘミアの醜聞』は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの1つで、56ある短編小説のうち最初に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年7月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes ) に収録された。 長編『緋色の研究』『四つの署名』に続いて発表されたシャーロック・ホームズシリーズの第3作目。「ボヘミアの醜聞」をはじめとするシリーズの短編は『ストランド・マガジン』に連載され、シドニー・パジェットの挿絵とともに読者の支持を得た。日本語版では、訳者により「ボヘミア国王の醜聞」という邦題も使用される。 | {{Portal 文学}}
{{シャーロック・ホームズ|1891年|シャーロック・ホームズの冒険|ボヘミア国王|1888年?([[#年代学|後述]])|アイリーン・アドラーからの脅迫}}
『'''ボヘミアの醜聞'''』(ボヘミアのしゅうぶん、原題:"{{en|''A Scandal in Bohemia''}}")は、イギリスの小説家、[[アーサー・コナン・ドイル]]による短編小説。[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の1つで、56ある短編小説のうち最初に発表された作品である。『[[ストランド・マガジン]]』1891年7月号初出。1892年発行の短編集『[[シャーロック・ホームズの冒険]]』(''The Adventures of Sherlock Holmes'' ) に収録された<ref name="JT">ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、315頁</ref>。
長編『[[緋色の研究]]』『[[四つの署名]]』に続いて発表されたシャーロック・ホームズシリーズの第3作目。「ボヘミアの醜聞」をはじめとするシリーズの短編は『ストランド・マガジン』に連載され、[[シドニー・パジェット]]の挿絵とともに読者の支持を得た。日本語版では、訳者により「'''ボヘミア国王の醜聞'''」という邦題も使用される。
== あらすじ ==
[[ファイル:A Scandal in Bohemia-01.jpg|thumb|200px|right|ホームズとワトスン - [[シドニー・パジェット]]画、『ストランド・マガジン』に掲載された最初の挿絵]]
[[ファイル:A Scandal in Bohemia-09.jpg|thumb|200px|“Good-night, Mister Sherlock Holmes.”聖職者に変装したホームズ、ワトスン、男装のアイリーン - シドニー・パジェット画、「ストランド・マガジン」掲載の挿絵]]
[[シャーロック・ホームズ]]には、いつでも「あの女性」と呼ぶ人がいる。
1888年3月20日、結婚して開業医に戻っていた伝記作家の[[ジョン・H・ワトスン]]は、往診の帰り道に独身時代に私立諮問探偵のシャーロック・ホームズと共同生活を送っていた[[ベーカー街221B]]の前を通り掛かる。懐かしさから部屋を訪ねると、再会したホームズはワトスンを観察し、やや肥ったことから結婚生活が似合っているようだと評し、さらに最近ワトスンが風邪を引いたことなどを言い当てる。そして上質な紙の手紙を見せ、間もなく依頼人が来ると話す。やがて立派な馬車が乗り付け、顔に仮装用のマスクを付けた身長2mはあるであろう大男が部屋に通されてきた。
マスクの男はフォン・クラム伯爵と名乗り、ボヘミア王家の問題で代理人としてきたと言うが、ホームズは伯爵の正体がボヘミア国王<ref>本作品発表当時、[[ボヘミア王国]]は[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア・ハンガリー帝国]]領であり、単独のボヘミア王は実在しない。</ref>その人であると見抜く。伯爵はボヘミア王であると認めてマスクを取り、依頼の内容を語り出す。
5年前、王太子であった王は[[アイリーン・アドラー]]と交際していた。アイリーンは[[コントラルト]]歌手でオペラのプリマドンナである。王は近く[[スカンディナヴィア]]の王女と結婚することが決まったのだが、そこへアイリーンが、二人で撮影した写真を王女へ送りつける、と脅迫してきたのである。写真が送られれば破談は必至であり、王は写真を取り戻すために人を雇う。しかし、家捜しや強盗をさせたにもかかわらず、写真を見つけることはできなかった。写真を送ると予告された婚約発表の日が迫り、自らホームズへ依頼に来たのであった。
写真を取り戻す依頼を引き受けたホームズは、馬丁に変装して情報を集め、ゴドフリー・ノートンという弁護士の男が毎日アイリーンを訪ねていることを知る。ホームズがアイリーンの家を見張っていると、訪ねてきたノートンとアイリーンが馬車でどこかへ出発する。ホームズが後を追うと、馬車はセント・モニカ教会に着く。教会にはアイリーン、ノートン、牧師の3人がおり、入ってきた馬丁(ホームズ)に協力を要請する。これはホームズにとっても想定外の出来事で、アイリーンとノートンが結婚する立会人をさせられてしまったのだった。
結婚した二人が新婚旅行などで出かけると取り戻すのは難しくなる。ホームズはすぐに行動を起こすことを決め、ワトスンに助力を頼む。写真が家の中にあると推理し、アイリーン自身にその場所を教えてもらおうというのである。
家へ戻ってきたアイリーンが馬車から降りようとしたとき、周囲で男たちの喧嘩が始まった。喧嘩に巻き込まれそうになったアイリーンを、聖職者に変装したホームズが守ろうとして、負傷する。顔から大量の血を流して倒れたホームズは、アイリーンの家へと運び込まれた。
一部始終を見守っていたワトスンは、ホームズの合図で発炎筒を家の中に放り込み、野次馬たちと声を合わせて火事だと叫ぶ。その声を聞き、立ちこめる煙を見たアイリーンは、とっさに最も大事なもの、写真を取り出そうとしてしまい、ホームズにその隠し場所を知られる。ホームズの負傷は家へ入りこむための芝居であり、喧嘩をはじめた男たちや野次馬は、みなホームズが手配していたのである。
隠し場所を知ったホームズは、明日ボヘミア王と一緒に家を訪ねて写真を取り戻すことにして、ワトスンと二人でベーカー街へ戻る。ホームズがドアの前で鍵を開けようとしたとき、通行人の青年から「おやすみなさい。」と声をかけられる。しかし、青年が誰なのかはホームズにも分からなかった。
翌日、ホームズとワトスンは王を伴いアイリーンの家を訪れるが、アイリーンの姿はない。残っていた使用人から、アイリーンはノートンと共に大陸へ旅立ったという伝言を聞かされる。慌てて確認した隠し場所には、手紙とアイリーン1人だけの写真が残されていた。昨日の騒動の後、負傷した聖職者がホームズだと気付いたアイリーンは、男装してベーカー街まで尾行し正体を確認すると、挨拶の声をかけて立ち去ったのであった。手紙には、夫ノートンと相談した結果、ホームズが相手では逃げるしかないと考え、姿を消すと書かれていた。王と撮った写真に関しては、結婚した身であり悪用する意図はもはやなく、お守りとして手元におきたいという。その代わりとして、アイリーン1人だけの写真を、手紙と共に残していったのだった。
アイリーンの手紙を読んだ王は、身分さえ釣り合っていたなら立派な王妃になっただろう、と嘆息する。ホームズは写真を取り戻すことができなかったと謝罪するが、王は写真は焼いたも同然で、依頼は果たされたと述べ、とりあえずの謝礼として填めていたエメラルドの指輪を渡そうとする。しかしホームズは、王の持ち物にはもっと貴重なものがあり、それが欲しいと言う。その貴重なものとは、アイリーンの写真であった。
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== 研究 ==
===年代学===
[[ファイル:A Scandal in Bohemia-03.jpg|thumb|200px|right|マスクをして現れたボヘミア王 - シドニー・パジェット画、「ストランド・マガジン」掲載の挿絵]]
この事件の発生年代については、作中に「1888年3月20日」と明記されているが、1887年や1889年だとする説もある<ref name="JT" />。1888年3月20日は火曜日である。しかし、ボヘミア王の婚約発表が次の月曜日の予定だと聞いたホームズは「まだ3日間の余裕がある」と答えているため、本当に火曜日の出来事なのか、年代は正しいのか研究の余地がある。[[シャーロック・ホームズシリーズ#正典と外典|正典]]60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリング=グールドの説では、1887年5月20日の金曜日から5月22日の日曜日までの事件としている<ref name="BG">コナン・ドイル著、ベアリング=グールド解説と注『詳注版 シャーロック・ホームズ全集3』小池滋監訳、筑摩書房〈ちくま文庫〉、1997年、184-262頁</ref>。グラナダ版ドラマではボヘミア王が「金曜日にはロンドンを立たなければならない」と説明している。この事件の時点でワトスンが結婚生活を送っている相手は、『[[四つの署名]]』で出会った[[メアリー・モースタン]]だと考えられている<ref name="グリーン">コナン・ドイル著、リチャード・ランセリン・グリーン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第3巻 シャーロック・ホームズの冒険』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1998年、485-506頁</ref><ref>マシュー・バンソン編著『シャーロック・ホームズ百科事典』日暮雅通監訳、原書房、1997年、280-281頁</ref>が、ベアリング=グールドはメアリー説を否定し、「ボヘミアの醜聞」は『四つの署名』より以前の事件であり、結婚生活を送っている相手はメアリーではなく1人目の妻であるとした。この説では、再会したワトスンに対し太ったことを指摘して、結婚が似合っていると評したホームズの発言は、実際にはもう少し前、おそらく短編「[[ライゲートの大地主]]」の際の出来事だとしている<ref name="BG" />。
===ボヘミア王===
作中に依頼人として登場する「ボヘミア王」<ref>作中でホームズは依頼人を「Wilhelm Gottsreich Sigismond von Ormstein, Grand Duke of Cassel-Felstein, and hereditary King of Bohemia」と呼んだ。</ref>が、誰をモデルにしているかについては諸説ある。当時のボヘミア王は[[フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)|フランツ・ヨーゼフ1世]](在位:1848年 - 1916年)であったが、1830年生まれのため年齢的に該当しない。フランツ・ヨーゼフ1世の息子[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ大公]](1858年生まれ)とする説、甥の[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]](1863年生まれ)とする説、後のドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](1859年生まれ)とする説、後のイギリス王[[エドワード7世 (イギリス王)|アルバート・エドワード皇太子]](1841年生まれ)とする説がある<ref name="BG" />。定説となっているものはないが、事件発生時の年齢だけを考慮すると4人の中ではルドルフ大公の可能性が高くなるとする説<ref name="BG" />や、1889年に起きたルドルフ大公の心中事件とこの短編の類似性を指摘する説<ref>笹野史隆「ボヘミア王のモデル」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、811-812頁</ref>などが存在する。
ただし、本作における「ボヘミア」が、実在のチェコと同一国家であるという明白な記述は無く、架空の国の可能性もある。国内にドイツ語圏が存在するなど、当時オーストリア帝国統治下にあったチェコと重なる点もあるが、イギリス文学において「ボヘミア」とは、シェイクスピアの『冬物語』では「海岸を持つ国」と描写されるなど架空の要素が目立つ。同様に、本作及び『未婚の貴族』で挙げられる「スカンジナヴィア国王」も架空であり、スカンジナヴィアは一部統一されていた時期はあったものの、そういう名の王国は存在しなかった。
===ホームズとアイリーン・アドラー===
アイリーン・アドラーは、ホームズが「あの女性 (the woman)」とただひとり定冠詞をつけて呼ぶ特別な存在である(事件について話す時は「アイリーン・アドラー」と名前でいう場合もある<ref>「花婿失踪事件」・「青い紅玉」の冒頭部、「最後の挨拶」の終盤など。</ref>)。ホームズはアイリーンを初めて見たときの感想として、「男が命をかけても惜しくないほどの、美しく心ひかれる顔をした女性<ref>原文 I only caught a glimpse of her at the moment, but she was a lovely woman, with a face that a man might die for.</ref>」とワトスンに語った。作中、ワトスンはホームズがアイリーンに恋愛に似た感情を抱いているわけではないと書いているが、[[シャーロキアン]]の間では、やはり恋愛に似た感情を持っていたのではないかとする説と、ワトスンの書いた通りで、唯一能力的に敵わなかった女性として特別なのだとする説に分かれる<ref>平賀三郎「アイリーン・アドラーの履歴書」『ホームズまるわかり事典 『緋色の研究』から『ショスコム荘』まで』平賀三郎編著、青弓社、2009年、15-16頁</ref>。事件の終わりにホームズがアイリーンの写真を欲しがった理由についても、ブロマイドとして手元に置きたかったという説、変装した彼女と再会したときに見破るためとする説、完全に成功できなかった事件の自戒のためだとする説などに解釈が分かれている<ref name="BG" /><ref>翠川こかげ「アイリーン・アドラー」『ホームズまるわかり事典 『緋色の研究』から『ショスコム荘』まで』平賀三郎編著、青弓社、2009年、12-14頁</ref>。
なお、ホームズ自身は「[[悪魔の足]]」で「自分は人を愛したことはない」と告白している。
ベアリング=グールドは1962年に発表したホームズの伝記の中で、[[空き家の冒険#大空白時代|大空白時代]]にホームズとアイリーンが再会して同居生活を送り、息子を儲けたことにしている<ref>W・S・ベアリング=グールド『シャーロック・ホームズ ガス燈に浮かぶその生涯』小林司・東山あかね訳、河出書房新社〈河出文庫〉、1987年、284-292頁</ref>。この設定は1976年のテレビ映画『シャーロック・ホームズ イン・ニューヨーク』でも使用された<ref>マシュー・バンソン編著『シャーロック・ホームズ百科事典』日暮雅通監訳、原書房、1997年、10-11頁</ref>。
なお、ワトスンは'''アイリーンは『ボヘミアの醜聞』の話を書きまとめている時点で死亡している'''と認識しており、前書き的な冒頭部分で「故アイリーン・アドラー(the late Irene Adler)」という記述がある。
===その他===
執筆当初は「A Scandal '''of''' Bohemia」という題名だった。題名や作品の雰囲気などに、オペラ『[[ラ・ボエーム (プッチーニ)|ラ・ボエーム]]』の原作小説で、[[アンリ・ミュルジェール]]が1848年に書いた『[[ボエーム|ボエーム生活情景]]』から影響を受けている可能性が指摘されている<ref name="グリーン" />。
作中、ベーカー街の下宿の女主人が'''ターナー夫人''' (Mrs.Turner) となっている<ref>直後にホームズが彼女を「下宿のおかみ(landlady)」と呼んでいるので使用人などではない。</ref>。
シリーズではこの場面をのぞき下宿の女主人は[[ハドスン夫人]] (Mrs.Hudson) であるため、その正体については諸説ある。リチャード・ランセリン・グリーンは、短編「[[空き家の冒険]]」の原稿に、ターナー夫人と書いた後にハドスン夫人へ訂正している箇所があるため、同様の書き誤りであるとしている<ref name="グリーン" />。
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* {{青空文庫|000009|226|新字新仮名|ボヘミアの醜聞}}(大久保ゆう訳)
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[[Category:シャーロック・ホームズシリーズの短編小説]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%98%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%86%9C%E8%81%9E |
4,108 | テツandトモ |
テツandトモ(テツアンドトモ)は、ニチエンプロダクションに所属する日本のお笑いコンビ。
初期は『テツ&トモ』という表記もあったが、『テツandトモ』の表記が正しい(姓名判断の結果を受けて変更したとされる)。
赤・青の揃いのジャージを着てトモがギターを弾き、テツがおかしな踊りをして「なんでだろう〜」と連呼しながら日常の何気ない疑問について繰り広げる漫談で有名になった。また、その後CDを発売するなど歌にも力を入れたことから、全国各地で老若男女楽しめるお笑いと歌のステージを展開している。「なんでだろう〜」のフレーズは、2003年のタイアップ効果により同年の流行語となり、新語・流行語大賞にも選ばれた。漫談の中でトモが立川談志などのモノマネを披露する事もある(似ていない事をネタにしている)。
☆はダウンロード限定シングル。
2009年7月、Dpaがデジタルテレビジョン放送普及推進・アナログテレビジョン放送終了啓発を目的とした「日本全国地デジで元気!」イベントを開始した際、「地デジ芸人」に選ばれた。以後、村井まりらとともに全国各地で行われている同イベントに参加し、地デジPRを行っている。また、2010年2月14日に放送された『笑点』(日本テレビ系)で演芸コーナーに主演した際、「日本全国地デジで元気!」のワッペンをつけたジャージで登場し、地デジカも演芸コーナーに出演した。 | [
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] | テツandトモ(テツアンドトモ)は、ニチエンプロダクションに所属する日本のお笑いコンビ。 初期は『テツ&トモ』という表記もあったが、『テツandトモ』の表記が正しい(姓名判断の結果を受けて変更したとされる)。 | {{Infobox お笑いコンビ
| コンビ名 = テツandトモ
| 画像 = [[ファイル:Tetsuandtomo-shimbashi-sept2018a.JPG|280px|左からテツ、トモ]]
| キャプション = 左からテツ、トモ
| メンバー = テツ<br />トモ
| 別名 = テツトモ
| 結成年 = [[1998年]]
| 解散年 = ‐
| 事務所 = [[ニチエンプロダクション]]
| 活動時期 = 1998年 - <!-- 解散した年 -->
| 師匠 =
| 出身 = 山形県
| 影響 =
| 出会い = [[日本大学藝術学部]]演劇学科
| 旧コンビ名 = テツ&トモ
| 現在の活動状況= テレビ・ライブなど
| 芸種 = [[漫才]]、音楽パフォーマンス
| ネタ作成者 = 両者
| 現在の代表番組= [[今夜はなまらナイト]]<br />伊予路てくてく
| 過去の代表番組= [[おねぇさまのおせっかい代理店。 ファニーカンパニー!]]<br />[[タモリのボキャブラ天国|ボキャブラ天国シリーズ]]<br />[[F2スマイル]]<br />[[日曜スタジオパーク]]など
| 同期 = [[トータルテンボス]]<br/>[[AMEMIYA]]<br/>[[永井佑一郎]]<br />[[サンドウィッチマン (お笑いコンビ)|サンドウィッチマン]]<br />鈴木Q太郎([[ハイキングウォーキング]])など
| 受賞歴 = [[1999年]] [[爆笑オンエアバトル]]第1回チャンピオン大会 準優勝<br />[[2001年]] 国立演芸場花形演芸大賞銀賞<br />[[2002年]] 国立演芸場花形演芸大賞金賞<br />[[2003年]] [[新語・流行語大賞]]
| 公式サイト = [https://nichien-pro.jp/comedian/379.html プロフィール]
}}
{{Infobox Musician
| Name = テツandトモ
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{{Infobox YouTube personality
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'''テツandトモ'''(テツアンドトモ)は、[[ニチエンプロダクション]]に所属する日本の[[お笑いタレント|お笑いコンビ]]。
初期は『テツ&トモ』という表記もあったが、『テツandトモ』の表記が正しい([[姓名判断]]の結果を受けて変更したとされる)。
== メンバー ==
=== テツ ===
[[ファイル:Tetsuandtomo-shimbashi-sept2018-tetsu.JPG|thumb|テツ]]
* 本名:'''中本 哲也'''(なかもと てつや<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 ">週刊文春2023年2月23日号「新・家の履歴書」第819回・テツ(テツandトモ)p86-89</ref>、{{生年月日と年齢|1970|5|9}}<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/> - )主に[[ボケ (漫才)|ボケ]]担当。
* [[滋賀県]][[大津市]](旧[[滋賀郡]][[志賀町 (滋賀県)|志賀町]])出身<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>、志賀町立木戸小学校 志賀町立志賀中学校、[[滋賀県立石山高等学校]]、[[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学藝術学部]]演劇学科演技コース卒業<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。[[ABO式血液型|血液型]]A型。赤いジャージを着て踊る。愛称は'''テッちゃん'''。
* 実家は琵琶湖から徒歩5分という場所にあり、両親、5歳年下の妹、父方の祖父母との6人暮らしだった。子供の頃、両親は国道を挟んだ実家の向かいで喫茶店「コーヒーショップRIKYU」を経営していた。時期は不明だが、その後店を閉店して店の隣に工場を建て、両親は精密機械メーカーの部品作りの会社を経営した<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* 1977年に小学校に入学後は、在来線の湖西線を使って電車通学(一駅のみ)し、生徒数が少なかったため同級生とは6年間同じクラスだった。子供の頃から目立ちたがり屋で誰かを喜ばせたいという性格だったため、率先して学級委員をやったりレクリエーションで張り切るなどした。両親が喫茶店を出していたこともあり、当時の将来の夢は料理人だった<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* 子供の頃からの[[五木ひろし]]の大ファンである。これは父親が元々五木の大ファンだったことが影響し、当時本人も五木の歌を聴いたりカラオケで歌っていた。小学6年生の時、母親に勧められて子供たちが参加するテレビ歌番組『ちびっこものまね紅白歌合戦』に応募。当日は、白組のトリとして五木ひろしの「[[契り (五木ひろしの曲)|契り]]」を熱唱した。以後、ちびっこ系歌番組に色々と出るようになり、将来は歌手になりたいと思い始める<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* 中学校に入学すると、目立ちたがりなことからサッカー部、応援団、生徒会など色々と参加<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。関西ローカルの一般参加の演芸番組『[[素人名人会]]』([[毎日放送]])で歌を披露して賞金3万円をもらった。その賞金でモーリスのアコースティックギターを購入(このギターは2023年2月現在、相方のトモが使っている)。
* 県立石山高校に進学後もサッカー部に所属し、応援団長も担当。2年次の文化祭ではクラスでの演劇『[[オイディプス王]]』で主役を演じた。皆で舞台を作り上げることに面白味を感じ、本番では表現することに感動を覚えた。またこの頃は、五木ひろしのような歌手を目指すなら、「(公演などで披露する)芝居も学ぶ必要がある」と考えていた<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。なお、石山高校時代の同級生に、[[声優]]の[[ゆきのさつき]]がいる。
* 大学進学の際、地元の[[国立大学]]である[[滋賀大学]][[教育学部]]と、[[日本大学藝術学部]]を受験して両大学に合格したが、最終的に演劇の道を志して日本大学へ進学した{{efn|進路を考えて「体育教師」と「芝居もできる歌手」のどちらを目指すかを迷いながらの受験だった。日芸を選んだのは、高校の文化祭での感動が大きかったことが決め手だった<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。}}。
* 大学入学後、ミュージカル研究会に所属。生活費を稼ぐため、ガードマン、喫茶店、サッカー教室のコーチなどバイトに明け暮れた。[[1991年]](大学3年生の頃)、日本大学藝術学部在学生を中心に結成した「劇団BQMAP」の旗揚げに参加。旗揚げ公演は裏方スタッフとしての参加だったが後日役者に転向し、徐々に看板役者としてメイン格の役を演じるようになった<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。この頃、後に声優となる[[前田剛]]や[[竹内順子]]とも共演していた。
* 大学卒業後も就職せずに20代は「劇団BQMAP」で舞台役者として活動を続けながらバイト三昧の生活を送った<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。当時一番続いたバイトは、池袋にあったフランス料理店「パリの朝市」で、この店は後に妻となる女性と出会った場所でもある<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。トモとのコンビ結成でお笑いの道に進むため、[[1997年]]の公演を最後に「劇団BQMAP」を脱退。
* デビュー当時は、出身高校である[[滋賀県立石山高等学校|石山高校]]のジャージを着ていた。
* 2004年5月9日に婚姻届を出し、翌年2月に長男、2008年に長女、2013年に次男が誕生し、2023年2月現在は3児(2男1女)の父である<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* 嫁とはコロナになる前から常にソーシャルディスタンスをとっている。
* 2008年に妻の実家があった場所([[埼玉県]][[新座市]]とされる)に新築の家を建て、2023年2月現在は夫婦、子どもたち3人、妻の両親の7人で暮らしている<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。この家は総額1億円の3階建ての家とされ、地元では「なんでだろう御殿」と呼ばれている。
* 面長の顔から、「自己紹介の歌」では「[[奇面組]]の[[一堂零]]」「[[モアイ像]]」「[[アゴ勇]]」「[[山形県]]」と歌われている。
* 落語家の[[三遊亭円楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]]はテツと顔が似ている事から親交があり、『[[笑点]]』の演芸コーナーで何度かコラボしている。
* 営業では椅子やギターに畳など、様々なものを顎の上に乗せてバランスを取る芸を披露している。
* [[M-1グランプリ]]2002の決勝へ進出した際、[[松本人志]]([[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]])から「赤いジャージの子は友達としては100点」と絶賛された。
* 実母は[[日本舞踊]]の[[家元]]で<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>、若手時代に「あんたの動きは気持ち悪い」と言われ、日本舞踊の所作を踏まえた動きを教わった。
* [[めちゃ×2イケてるッ!|めちゃイケ]]の[[笑わず嫌い王決定戦]]に出演してから、[[初詣!爆笑ヒットパレード]]にて[[岡村隆史]]([[ナインティナイン]])とコラボダンスをするのが恒例となっている。
* 演歌歌手・[[水森かおり]]は、テツと同じく子供時代に『ちびっこものまね紅白歌合戦』に出場しており、偶然共演したこともある。その後2003年の紅白で出演者として再会したことがきっかけとなり、以降時々カラオケに行くなど交流するようになった<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
=== トモ ===
[[ファイル:Tetsuandtomo-shimbashi-sept2018-tomo.JPG|thumb|トモ]]
* 本名:'''石澤 智幸'''(いしざわ ともゆき、{{生年月日と年齢|1970|05|10}} - )主に[[ツッコミ (漫才)|ツッコミ]]担当。
* [[山形県]][[山形市]]出身。[[山形大学附属幼稚園]]卒園、[[山形大学附属小学校]]、[[山形大学附属中学校]]、[[日本大学山形高等学校]]<ref>{{Cite web|和書|date=2018/01/27 |accessdate=2019/02/20 |title=甲子園!! |url=http://gree.jp/tomo_tandt/blog/entry/1415016121 |website=トモ(テツandトモ)公式ブログ}}</ref>、[[日本大学藝術学部]]演劇学科卒業。血液型B型<ref>{{Cite web|和書|title=年間約200本のステージを沸かせる。テツandトモの人生を楽しむ「なんでだろう」|url=https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/kakijiro35|website=www.e-aidem.com|accessdate=2019-08-30|language=ja|publisher=}}</ref>。青いジャージを着て、本来はテツの持ち物であるギターを弾いている。ネタの作曲も担当している。
* デビュー当初は出身高校である日本大学山形高等学校のジャージを着ていたため、地元では英雄扱いだった。
* 元[[フジテレビジョン|フジテレビ]]アナウンサーの[[武田祐子]]は[[幼稚園]]から[[中学校]]までの同級生で、[[演出家]]、[[劇作家]]、[[俳優]]の[[後藤ひろひと]]は[[小学校]]、[[中学校]]の先輩。[[俳優]]の[[畠中洋]]は高校の先輩。
* 結成前の[[1991年]]ごろ、『[[星期六我家的電視・三宅裕司の天下御免ね!]]』内の素人パフォーマンスコーナー「岸谷五朗の日比谷公開堂」に、「チョビひげ次郎(トモ)」「モンキー・チャム」という2人組のグループ『モンチョビ2』としてしばしば登場していた。また、[[1996年]]には『[[NHKのど自慢]]』の[[東京都]][[中野区]]大会に出場してチャンピオンとなる{{efn|テツによると、この回でトモは[[山本譲二]]の「[[みちのくひとり旅]]」を歌唱した模様。一方歌手を目指していたテツも20代の頃に『のど自慢』に何度も応募したが一度も当たらなかったという<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。}}。
* 特技は[[詩吟]]。詩吟の経験のせいか、演歌歌手のように小節(こぶし)の入った歌い方をする。声量と歌唱力の評価は高い。
* 「似てない[[ものまね]]」が特技(自己紹介の歌でも、テツから「特技は似てないものまねよ♪」と振られてものまねを披露する。後述の[[立川談志]]の他にも[[石橋貴明]]([[とんねるず]])や[[マギー司郎]]などのレパートリーがある)。
* [[ボルシチ]]が苦手。
* [[高所恐怖症]]で、広島へ向かうために乗った飛行機において離陸した直後に叫びながら横の席にいたテツの手を握り締めたほど。
* 2009年11月頃から視力低下のためプライベートでは黒縁眼鏡を着用している。近年はテレビ出演時やネタ中にも青縁の眼鏡を着用する。
== 概要 ==
{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2015年1月}}
[[赤]]・[[青]]の揃いの[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]を着てトモが[[ギター]]を弾き、テツがおかしな踊りをして「なんでだろう〜」と連呼しながら日常の何気ない疑問について繰り広げる[[漫談]]で有名になった。また、その後CDを発売するなど歌にも力を入れたことから、全国各地で老若男女楽しめるお笑いと歌のステージを展開している<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。「なんでだろう〜」のフレーズは、[[2003年]]のタイアップ効果により同年の[[流行語]]となり、[[新語・流行語大賞]]にも選ばれた。漫談の中でトモが立川談志などの[[モノマネ]]を披露する事もある(似ていない事をネタにしている)。
* 2人は日本大学芸術学部で出会った<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。因みに2人は同い年で誕生日も1日違い。
* 大学時代に同期たちとカラオケに行った際、テツとはお互いに演歌や歌謡曲が好きなことが判明。以降同期たちとカラオケに行く時は、よくテツと[[狩人]]の「[[あずさ2号]]」をデュエットした<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* 27歳の時、大学の友人の結婚式の余興で2人でデュオを組み、「[[サライ (曲)|サライ]]」の[[替え歌]](「末永くお幸せに」的な歌詞)を歌った。当時テツは演歌歌手志望でトモは俳優志望だったが、披露宴に出席していた事務所関係者になぜか芸人としてスカウトされた。約2ヶ月間説得は続き、事務所側から「芸人として売れたら歌(CD等)だって出せるよ」と言われ、2人で悩んだ末芸人としてデビューすることにした<ref>{{Cite web|和書|title=テツandトモ,生みの親Hさん(*^^*)。|url=https://web.archive.org/web/20210924042555/https://lineblog.me/tetsu_and_tomo/archives/9450294.html|website=テツandトモ 公式ブログ|accessdate=2021-09-24|language=ja}}</ref><ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* 事務所所属後は、試行錯誤して漫才やコントなどをやってみたが全く受けない日々が続いた。その後1998年5月にトモがトイレに行った際、不意にメロディ(「なんでだろう〜」の部分)が頭の中に降りてきて、テツに伝えたことから「なんでだろう〜」のネタが生まれた<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。「なんでだろう〜」のネタをやり始めてからネタ見せ番組などのオーディションに受かるようになり、お客さんに大ウケするようになった<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* 2003年1月から『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』とタイアップした[[主題歌|エンディングテーマ]]「[[なんでだろう 〜こち亀バージョン〜|テツandトモのなんでだろう〜両さんバージョン〜]]」でブレイクし、翌月発売の[[シングル]]CD「[[なんでだろう 〜こち亀バージョン〜]]」がヒットした。
* [[1999年]]から[[2003年]]まで『[[爆笑オンエアバトル]]』([[日本放送協会|NHK]])へ出演し、23戦20勝という高記録を出した。
* 一時期[[ニチエンプロダクション]]から離れ、株式会社J.M.Pという事務所へ所属していた事がある(後にニチエンへ復帰)。
* [[第54回NHK紅白歌合戦|NHK紅白歌合戦]]で、[[はなわ]]との合同により「[[佐賀県 (曲)|佐賀県]]なんでだろうスペシャル合体ヴァージョン」で出場した<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。
* [[2005年]][[7月21日]]には「哲智」の[[アーティスト]]名で「おいら。」をリリース。芸人ではなくアーティストとして歌うため、[[黒]]の[[背広|スーツ]]に[[白]]の[[シャツ]]で歌唱する。
* テツは元々俳優の他に歌手志望、トモはのど自慢チャンピオンの経験という過去を持つこともあり芸人の中では特に歌唱力が高い。
* 第2回[[M-1グランプリ]]([[2002年]]度)にて決勝進出。漫才の既成概念を破壊した「[[弾き語り]]パフォーマンス」を披露し、鞄などの大道具も使用した。松本人志は「これは難しいですね。赤いジャージの子は友達としては100点なんですけど、これを漫才ととるか、っていうところですよね。あとこれを4、50分やられたらものすごく面白くなると思う。時間的なものもありますかね」と評し、立川談志は「お前らはここに出てくる奴じゃないよ。もういいよ。俺褒めてんだぜ。分かってるよな?」との芸そのものを否定しているようにも受け取れる発言をしたため、司会の[[西川きよし]]からフォローされた。結果は6位。談志はその後、2008年に行われたテツandトモ結成10年記念ライブに参加した。ノリノリでなんでだろうの踊りを披露している。
* [[ラーメンズ]]とは過去に合同ライブを開くほど親交があり、テツトモが彼らの公演に足を運ぶ姿も多々目撃されている。また、ラーメンズのビデオ『news-NEWS』(公演の舞台裏を収録したもの)にも出演している。
* 同じくコンビ名に「アンド」を入れている[[タカアンドトシ]]と間違われる事があり、本人たちもネタにしている。
* [[NHK山形放送局]]制作の『[[今夜はなまらナイト]]』には、当初山形市出身のトモのみが出演。その後テツも加わって現在は毎回コンビとして出演し県内で高い人気を集めている。そのため2008年8月の山形[[花笠祭り]]最終日にゲストとして呼ばれ、山車に上がった。
* [[2009年]]7月の『[[キズナ食堂]]』に[[一発屋|一発屋芸人]]として出演し、他の一発屋とは違って複数の番組で全く同じネタを常に求められていたテレビ出演を辛かったと語り、持ちネタや貯金が少しずつ増えていく今が一番充実していると締めくくっている。
* [[2010年]]には[[清水國明|清水国明]]、[[原田伸郎]]、[[宇津木妙子]]、[[田尾安志]]らと共に[[テレビショッピング研究所]]の「青汁三昧」のCMに出演。なお、29分の通販番組ではインタビュー取材を受けている。
* 舞台でジャージを着るようになったのは、ネタ見せのオーディションに落ち続けた若手時代に「少しでも目立つように」と考えたことがきっかけ。その時はお互いの高校のジャージを着て、当初数回着たら舞台衣装を変えるつもりだったが、脱ぎそびれてそのままジャージで活動するようになった<ref name=" 「新・家の履歴書」20230223 "/>。その後2002年の初め頃から、ジャージは特注品で1着10万円のものを着用するようになった。オリジナルデザインでロゴ入りワッペンがつけられているほか、ピンマイクを左右両方に取り付けられる等のカスタマイズが加えられている<ref>[https://news.1242.com/article/280684 テツandトモ、トレードマークのジャージの値段をカミングアウト] - ニッポン放送NEWS ONLINE・2021年3月26日</ref>。
* 2020年10月、公式YouTubeチャンネル開設。
* [[春風亭一之輔]]は日本大学の後輩、スケジュールが詰まっている一之輔に代わって仕事を得ている。『[[笑点]]』の演芸コーナーで共演した。
== 代表曲 ==
; なんでだろう 〜こち亀バージョン〜
: 作詞はテツandトモ、作曲は石澤智幸、編曲は[[三沢またろう]]。メジャーデビュー曲であり、アニメ『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』のエンディングテーマに一時期使用。オリコン最高位10位。20万枚以上を売り上げた。
; なんでだろう音頭
: 作詞・作曲は石澤智幸、編曲は高見優。持ち芸の「なんでだろう」を音頭バージョンにした曲。
; 大田区でプロポーズ
: 作詞・作曲は[[つんく♂]]、編曲は高橋諭一。テツandトモがつんく♂([[シャ乱Q]])に依頼して出来た曲。
== 主な持ち芸 ==
; なんでだろう
: 「○○が○○するのはなんでだろ〜♪」といった形式で普段は意識されにくい世の中の素朴な疑問を歌う。なお、現在出演しているNHK山形の「今夜はなまらナイト」では山形弁で「なすてだべ〜」に変わる。[https://web.archive.org/web/20080408020344/http://www.nhk.or.jp/namara/ 番組ホームページ] でその模様も収録した動画が公開されている。ありふれた日常の出来事が元となっていることから、[[あるあるネタ]]の変形とも言える。嘉門達夫がアンサーソングとして疑問に答えるという曲を発表した。元々は本人たちも答えも一緒に歌っていた(例:トモ「テツの顎がこんなに長いのなんでだろう?」→テツ「遺伝だろう」など)が、「答えはあえて出さない方が面白い」との考えで今の形となった)。
; かならずいるんだよね
: 1番と2番があり、1番は「自動販売機のボタンを同時に2つ押す奴」などと現実に起こる出来事をトモが歌いテツがジェスチャーを行うというもの。2番は1番で歌った内容をパロディー化して「自動販売機のボタンを同時に全部押す奴」などと絶対にありえない出来事を歌い、ジェスチャーをやろうとする・あるいはジェスチャーを行ってからツッコミを入れるというものになっている。時間の都合などによって2番は省略される場合もある。
; 必要ないもの
: 「壊れかけのラジオ」「二千円札」など必要ないものを歌う。メロディーは[[ピンク・レディー]]の「[[S・O・S]]」。
; せつないね
: 「別れの挨拶をしてバスに乗ったのになかなかバスが出発しない時」「僕(トモ)も結構動いているのにテレビを見たら映ってなかった時」など、ありがちな切ない出来事を歌う。
; ちょっとだけ恥ずかしいことがある
: 「後姿で知り合いだと思って声を掛けたら知らない人だった時」など、少し恥ずかしくなるような出来事を歌う。
; そんなわけないだろう
; ついついやりたくなっちゃう
: 「インターネットで自分の名前を検索」などやってしまいがちな出来事を歌う。
; 全部ウソなのよ
: 「先生が『怒らないから本当のことを言いなさい』と言う時」「『俺テスト勉強全然してない』と言う奴」など嘘っぱちなことを歌う。ちなみにテツが「(初恋の人の)名前はオサムです〜♪」と歌ったあと、慌てた様子で「全部ウソなのよ〜♪」と歌い出すパターンもある。
; 当て振り(顔芸)シリーズ
;* 笑点のテーマ、[[古畑任三郎]]のテーマ、「[[タイガーマスク]]」の主題歌、「[[北斗の拳 (テレビアニメ)|北斗の拳]]」の主題歌([[クリスタルキング]]「[[愛をとりもどせ!!]]」)、[[アヴェ・マリア]]、[[あまちゃん]]のテーマ
; どどんまい
: [[小学館]]の[[学年誌]]による公募で選ばれたネタで、落ち込んだ相手を励ますときに用いる。
; わたしたち怒っているんです
; 何が出来るかな?
: 「何が出来るかな?」と歌いながらテツが[[バルーンアート]]をする。
; ショートソング(替え歌)
: ある著名な歌の替え歌でちょっとしたボケをはさむ。ネタとネタとの間に多く、特にモノマネ芸が多い。
== 受賞歴 ==
* 2001年 平成12年度 国立演芸場 花形演芸大賞 銀賞
* 2002年 平成13年度 国立演芸場 花形演芸大賞 金賞
== 出演 ==
<!-- 単発のゲスト出演の記載は不要。レギュラーや司会・冠番組等のみ記述お願いします。プロジェクト:芸能人参照。 -->
=== テレビ番組 ===
* [[タモリのボキャブラ天国|家族そろってボキャブラ天国]](フジテレビ、1998年4月 - 9月)
** 続!ボキャブラ天国(フジテレビ、1998年 - 1999年)
** 歌うボキャブラ天国(フジテレビ、1999年
* [[爆笑オンエアバトル]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])戦績20勝3敗 最高501KB ゴールドバトラー認定
** 番組放送2回目となる1999年4月4日放送回で初オンエア。以降も順調にオンエアを重ね、2003年7月11日放送回で20勝を達成。20回目のオンエアを果たすのは彼らが初となる。また、15回目のオンエアから20回目のオンエアまで彼らが最多勝利数を塗り替え続けている<ref group="注釈">2003年11月21日放送回で[[江戸むらさき (お笑いコンビ)|江戸むらさき]]が21勝目を達成。これにより最多勝利数の塗り替えは彼らに受け継がれる事となった。</ref>。その後、紅白歌合戦に出場後の2004年2月20日放送回に出場し、その期待からオンエアは間違いないと思われたが、結果は345KBでオフエアだった。通常回ではこの回が最後の挑戦回となり、番組を卒業する事となった。
** 番組初期はネタの最後に顔芸を披露していたが、2000年7月30日放送回で初のオフエアを経験した事で顔芸を封印し、2001年3月11日放送の第3回チャンピオン大会のセミファイナルで久々に披露した。この回を最後に番組で顔芸を行わなくなった。
** 下記の様に第1回から第5回まで5大会連続でチャンピオン大会に出場。第5回まで皆勤でチャンピオン大会に出場しているのは彼らのみである<ref group="注釈">第3回までは彼らの他に[[アンジャッシュ]]、[[アンタッチャブル (お笑いコンビ)|アンタッチャブル]]、[[号泣 (お笑いコンビ)|号泣]]の3組が皆勤でチャンピオン大会に出場していたが、第4回チャンピオン大会ではアンジャッシュとアンタッチャブルは2001年度の成績は2勝1敗と振るわず、号泣は年間4勝を達成したが合計KBが足らずその後に高得点を狙ったが、連敗してしまいチャンピオン大会には出場できなかった。</ref>。
*** 第1回チャンピオン大会 決勝2位
*** 第2回チャンピオン大会 本選8位
*** 第3回チャンピオン大会 セミファイナル8位敗退
*** 第4回チャンピオン大会 セミファイナル7位敗退
*** 第5回チャンピオン大会 ファイナル7位
* [[エンタの神様]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])キャッチコピーは「国民的人気お笑いコンビ」→「赤と青の打ち上げ花火」
* [[めちゃ×2イケてるッ!|めちゃ<sup>2</sup>イケてるッ!]](フジテレビ)「なんでだろう?」のコーナー等
* 伊予路てくてく([[NHK松山放送局|NHK愛媛]]、2002年11月 - 2013年6月)
* [[日曜スタジオパーク]](NHK総合、2003年4月 - 2005年3月) - 司会
* [[桃太郎電鉄シリーズ#サイコロまかせ!桃鉄の旅|サイコロまかせ!桃鉄の旅]]([[旅チャンネル]]、2006年12月 - 2007年11月)
** ご当地グルメバトル!桃鉄の旅(旅チャンネル、2007年12月 - 2008年5月)
* [[笑いの金メダル]]([[朝日放送テレビ|朝日放送]])
* [[F2スマイル]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2005年4月4日 - 9月30日) - 「笑う!通販」木曜日
* [[BSどーもくんワールド]]([[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]、2006年4月 - 2007年3月)
** [[BSななみDEどーも]](NHK BS2、2007年4月 - 2011年3月)
** [[みんなDEどーもくん!]]([[NHK BSプレミアム]]、2011年4月 - 2012年3月)
* [[笑点]](日本テレビ)
* [[ペケ×ポン]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2009年 - 2015年)「旬モノはどれだ 」旬を過ぎた芸人部屋レギュラー
* [[Eテレ0655&2355|Eテレ0655]]([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]、2011年 - )おはようソング「これを知ってるといばれるの唄 時事・経済用語編、間違えやすい日本語編、海外では通じない和製英語編」をトモが歌唱
* [[おねぇさまのおせっかい代理店。 ファニーカンパニー!]]([[富山テレビ放送|富山テレビ]]、2011年1月 - 2012年2月)
* [[テツトモアイドル予備校]]([[ミュージック・ジャパンTV|MJTV]]、2011年7月 - 2011年12月(6回))
* [[ワラッチャオ!]](NHK BSプレミアム、2013年10月 - 2017年3月)あるある名人会
* [[ニッポンど真ん中!]]([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|JNN]]中部6局[[ブロックネット]]、2014年4月 - 2015年3月)
* [[ウッティタウン6丁目]]([[テレビ山梨]]、2016年1月 - 2020年3月) - 月曜レギュラー
=== ラジオ番組 ===
* [[今夜はなまらナイト]]シリーズ([[NHK山形放送局|NHK山形ローカル]]、2007年 - 2012年)当初は山形県出身のトモが単独出演・途中からテツも参加。
* テツandトモのなんでだラジオ!(2020年 - 、[[山形放送]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20230418053019/https://lineblog.me/tetsu_and_tomo/archives/9428990.html|title=ラジオ・レギュラー番組が始まります!|publisher=lineblog|author=テツandトモ|date=2020-10-12|accessdate=2020-11-06}}</ref>
=== テレビドラマ ===
* [[バカヤロー! 私、怒ってます#テレビドラマ|バカヤロー!1999 ニッポン人の怒り爆裂ストレス解消3連発]](日本テレビ、1999年9月26日) - 本人役
* [[こころ (2003年のテレビドラマ)|こころ]]([[連続テレビ小説|NHK連続テレビ小説]]、2003年) - 本人役
* [[地域発ドラマ]]([[NHK BSプレミアム]])
** お米のなみだ([[NHK仙台放送局]]開局80周年特集ドラマ 、2008年10月19日/NHK プレミアム「東北発地域ドラマ」、2012年2月18日)
** 山形発地域ドラマ「[[私の青おに]]」([[NHK山形放送局|NHK山形]]、2015年11月18日) - 吉原 役(トモのみ、「石澤智幸」名義)
* [[まっつぐ〜鎌倉河岸捕物控〜]](NHK総合、2010年4月17日 - 8月14日) - 梅吉・繁三役
* [[朝ドラ殺人事件|大河ドラマ大作戦]](NHK総合、2012年8月) - 落武者役
=== テレビアニメ ===
* [[ゴー!ゴー!キッチン戦隊クックルン|すすめ!キッチン戦隊クックルン]](NHK Eテレ、2015年1月6日)
=== NHK紅白歌合戦出場歴 ===
{| class="wikitable"
|-
! 年度/放送回!! 回!! 曲目!! 出演順!! 対戦相手!! 備考
|-
|[[2003年]](平成15年)/[[第54回NHK紅白歌合戦|第54回]]||初||佐賀県なんでだろう<br />〜スペシャル合体バージョン〜||19/30||[[Every Little Thing]]||はなわと合同で出演
|}
; 注意点
* 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
== CM ==
* [[ハドソン]] 「[[桃太郎電鉄12 西日本編もありまっせー!]]」(2003年)
* 青汁三昧(2010年)
* [[那須どうぶつ王国]](2012年)
* お宝中古市場(2013年)
* [[2014年滋賀県知事選挙|滋賀県知事選挙]](2014年、PRCM)
* [[モスバーガー]]「異国の地でナンタコス編(野崎智子と共演)」(2018年)
* [[日清食品]]「[[日清ラ王]]」(2022年)
== PV出演 ==
* [[fripSide]] “Two souls -toward the truth-”(2015年12月2日発売、[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン]])
* [[チャットモンチー]] “[[Magical Fiction]]”(2017年4月5日発売、[[キューンミュージック]]) - これが縁となりチャットモンチー完結となる、こなそんフェス2018、2日目(2018年7月22日)舞台での共演を果たし、チャットモンチーなんでだろうを披露する。
== ディスコグラフィー ==
=== シングル(CD・ダウンロード) ===
☆は[[音楽配信|ダウンロード]]限定シングル。
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!style="width:31%;"|収録曲
!備考
|-
|1st
|2003年2月5日
| '''[[なんでだろう 〜こち亀バージョン〜]]'''
|PCCA-80015
|
|オリコン最高10位
|-
|2nd
|2003年11月19日
| '''大田区でプロポーズ'''
|PCCA-70057
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# 大田区でプロポーズ
# なんでだろうクリスマス
# 大田区でプロポーズ(オリジナル・カラオケ)
# なんでだろうクリスマス(オリジナル・カラオケ)</div></div>
|[[つんく♂]]プロデュース
|-
|3rd
|2004年8月18日
| '''[[サイボウの不思議/最初から今まで]]'''
|PCCA-70085
|
|オリコン最高64位
|-
|4th
|2005年7月21日
| '''おいら。'''
|FKCM-1001
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# おいら。
# おいら。(オリジナル・カラオケ)
# おいら。(インストゥルメンタル)</div></div>
|
|-
|5th
|2011年9月21日
| '''少年のままで'''
|MYCR-1189
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# 少年のままで【作詞:[[松本一起]]/作曲:[[淺野勝盛]]】
# 少年のままで(Instrumental)
# 少年のままで(Tetsu version)
# 少年のままで(Tomo Version)</div></div>
|
|-
|6th
|2014年02月26日
| '''桜前線'''
|WPCL-11745
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# 桜前線 [4:42]【作詞:[[渡辺なつみ (作詞家)|渡辺なつみ]]/作曲:[[浜圭介]]/編曲:[[三浦一年]]】
# 故郷ばんざい [4:22]【作詞:渡辺なつみ/作曲:浜圭介/編曲:三浦一年】
# 桜前線(オリジナル・カラオケ)
# 故郷ばんざい(オリジナル・カラオケ)</div></div>
|オリコン最高95位
|-
|7th
|2014年10月15日
| '''ほろ酔いブルース'''
|WPCL-12014
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# ほろ酔いブルース
# 桜前線
# 故郷ばんざい
# 君とこのふるさとで
# ほろ酔いブルース(オリジナル・カラオケ)
# 桜前線(オリジナル・カラオケ)
# 故郷ばんざい(オリジナル・カラオケ)
# 君とこのふるさとで(オリジナル・カラオケ)</div></div>
|オリコン最高143位
|-
|8th
|2014年10月15日
| '''泥の中の蛍/おんなじ空の下'''
|WPCL-12329
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# 泥の中の蛍 [4:01]【作詞:渡辺なつみ/作曲:浜圭介/編曲:[[野澤孝智]]】
# おんなじ空の下 [3:57]【作詞:渡辺なつみ/作曲:浜圭介/編曲:家原正樹】
# ほろ酔いブルース [3:32]【作詞:渡辺なつみ/作曲:浜圭介/編曲:三浦一年】
# 桜前線 [4:42]【作詞:渡辺なつみ/作曲:浜圭介/編曲:三浦一年】
# 泥の中の蛍(オリジナル・カラオケ)
# おんなじ空の下(オリジナル・カラオケ)
# ほろ酔いブルース(オリジナル・カラオケ)
# 桜前線(オリジナル・カラオケ)</div></div>
|オリコン最高93位
|-
|9th
|2016年06月22日
| '''[[NHKみんなのうた]]「[[とろろおくらめかぶなっとう]]」'''
|WPCL-12402
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# とろろおくらめかぶなっとう(NHK「みんなのうた」ヴァージョン)[2:24]【作詞:つじぞー☆/作曲:サワグチカズヒコ】
# アッハッハ! [2:27]【作詞:渡辺なつみ/作曲:浜圭介/編曲:家原正樹】
# とろろおくらめかぶなっとう(フル・ヴァージョン)[2:57]
# とろろおくらめかぶなっとう(オリジナル・カラオケ)
# アッハッハ!(オリジナル・カラオケ)</div></div>
|オリコン圏外
|-
|10th
|2017年4月25日
| '''[[少年アシベ#主題歌(第2作)|GO! GO! 大好きがいっぱい]]'''☆
|(品番なし)
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# GO! GO! 大好きがいっぱい [3:53]【作詞:渡辺なつみ/作曲:家原正樹、小久保祐希/編曲:家原正樹】
# GO! GO! 大好きがいっぱい(TVサイズ・ヴァージョン)[0:47]
# GO! GO! 大好きがいっぱい(オリジナル・カラオケ)[3:50]
</div></div>
|NHK Eテレ『[[少年アシベ GO! GO! ゴマちゃん]]』第2期(第33話 - 第64話)オープニングテーマ
|-
|11th
|2022年10月19日
| '''愛しい人よ'''
|TECA-22063
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# 愛しい人よ
# あなたがくれたもの
# 愛しい人よ(オリジナル・カラオケ)
# 愛しい人よ(メロ入りカラオケ)
# あなたがくれたもの(オリジナル・カラオケ)
</div></div>
|オリコン最高176位
|-
|}
=== アルバム(CD・ダウンロード) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
!style="width:31%;"|収録曲
!備考
|-
|1st
|2003年6月18日
| '''テツandトモの「マンボ大漁節」ってなんでだろう'''
|GPCT-1001
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# なんでだろう音頭 [3:01]【作詞・作曲:トモ/編曲:[[高見優]]】
# マンボ大漁節 [3:09]【作詞:ハチヤン・K/作曲:塚田満穂/編曲:[[吉川慶]]】
# なんでだろう 〜マンボ・バージョン〜 [4:05]
# なんでだろう 〜クラシック・バージョン〜 [4:08]
# なんでだろう 〜盆踊りバージョン〜 [2:23]
# なんでだろう 〜方言バージョン〜 [2:01]
# [[あずさ2号]]([[狩人]]のカバー)[5:03]
# なんでだろう音頭(オリジナル・カラオケ)
# マンボ大漁節(オリジナル・カラオケ)
# なんでだろう〜クラシック・インストゥルメンタル・バージョン〜 [2:44]</div></div>
|オリコン最高35位
|-
|2nd
|2008年10月29日
| '''旅〜僕たちの風景'''
|PCCA-01913
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# 僕たちの風景 [4:05]
# 青森にて [4:59]
# 遠くをみつめて [3:57]
# 新たなる一歩 [4:10]
# 旅の向こう [4:59]</div></div>
|10周年記念アルバム
|-
|3rd
|2017年7月12日
| '''20周年でなんでだろう'''
|WPZL-31323/4<br/>(初回限定盤)<br/>WPCL-12673<br/>(通常盤)
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲(通常盤)</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# なんでだろう(20周年記念厳選バージョン)
# GO! GO! 大好きがいっぱい
# GO! GO! 大好きがいっぱい<TVバージョン>
# とろろおくらめかぶなっとう
# おんなじ空の下
# 泥の中の蛍
# ほろ酔いブルース
# 桜前線
# マンボ大漁節
# 色んななんでだろうpart1(Live at シアターD [[1999年|1999.]][[6月20日|06.20]])
# なんでだろう(20周年記念厳選バージョン)<オリジナル・カラオケ>
# GO! GO! 大好きがいっぱい<オリジナル・カラオケ>
# GO! GO! 大好きがいっぱい<TVバージョン(オリジナル・カラオケ)>
# とろろおくらめかぶなっとう<オリジナル・カラオケ>
# おんなじ空の下<オリジナル・カラオケ>
# 泥の中の蛍<オリジナル・カラオケ>
# ほろ酔いブルース<オリジナル・カラオケ>
# 桜前線<オリジナル・カラオケ>
# マンボ大漁節<オリジナル・カラオケ>
# なんでだろう<カラオケ・バージョン></div></div>
|20周年記念ベストアルバム
|-
|
|2019年10月2日
| '''テツandトモの 元気になれるの なんでだろう?'''
|
|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;">
<div class="NavHead" style="text-align:center;">収録曲</div>
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
# なんでだろう〈カラオケボックス・バージョン〉
# なんでだろう〈ダンス・リミックス・バージョン〉
# マンボ大漁節〈Newバージョン〉
# ちっちゃなたいそう / 佐藤弘道、テツandトモ
# でっかい体操 / 佐藤弘道、テツandトモ
# [[ビューティフル・ネーム]]([[ゴダイゴ]]のカバー)
# [[あずさ2号]]([[狩人]]のカバー)
# この道の向こう</div></div>
|
|-
|}
=== ビデオ(VHS・DVD) ===
{|class="wikitable" style="font-size:small;"
|-
!
!発売日
!タイトル
!規格品番
|-
|1st
|1998年12月21日
| '''テツandトモの世の中何でだろう'''
|VPVF-61003:VHS
|-
|2nd
|2003年04月16日<br>2003年4月23日
| '''爆笑オンエアバトル テツandトモ'''
|PCVE-11981:VHS<br>PCBE-50526:DVD
|-
|}
=== 参加作品 ===
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|-
!発売日
!タイトル
!規格品番
!作品
|-
|2003年03月19日
| こち亀百歌選〜主題歌ベストコレクション〜
|PCCA-01869
|なんでだろう 〜こち亀バージョン〜
|-
|2003年12月17日
| M-1グランプリ 2001完全版 〜そして伝説は始まった〜
|YRBY-50010/1
| -
|-
|2005年02月23日
| エンタの神様 ベストセレクション Vol.3
|VPVF-68427<br>VPBF-12260
| -
|-
|2005年10月19日
| 輝け!週刊少年アニメ王・増刊号
|PCCG-00692
| -
|-
|2006年08月25日
| 地上波で出来ないTVシリーズ お笑いでポン! DVDデラックス
|TSDS-75508
| -
|-
|2008年03月26日
| [[歌合戦 〜桃太郎電鉄20周年記念アルバム〜]]
|YRCN-95010
| 菜の花鉄道
|-
|2008年07月16日
| お笑い芸人★SONG STYLE
|PCCS-00038
| -
|-
|2009年11月26日
| [[桃太郎電鉄2010 戦国・維新のヒーロー大集合!の巻]]
|RVL-SMTJ-JPN
| 星を降る空を探して
|-
|2010年7月15日
| [[桃太郎電鉄タッグマッチ 友情・努力・勝利の巻!]]
|ULJM05677
| 訪れ川
|-
|2012年04月27日
| ぱちんこ CR 桃太郎電鉄 ひらけ! キングボンビジョンの巻 -Original Sound Track-
|PCCR-90056
|Railway In Starlight<br>夜明けのホライズン
|-
|2016年12月22日
| [[桃太郎電鉄2017 たちあがれ日本!!]]
|CTR-P-AKQJ
| ささやかな明日
|-
|2020年5月13日
| [[佐藤弘道]]「ひろみちお兄さんの体あそび げんきスイッチオン!」
|KICG-8422
| つんつくオバケがつんつくつん
|-
|2022年2月14日
|THE 1st SINGLES{{Efn|[[MELOGAPPA]]による「誰もが知っている“あの芸人さん”の“あのネタ”が本格的な音楽作品となり、ファーストシングルとなった」プロジェクト<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.billboard-japan.com/d_news/detail/109269/2 |title=お笑いネタフレーズをJ-POPに昇華、MELOGAPPAプロデュース第1弾「なんでだろう (feat.テツandトモ)」 |access-date=2023-01-30 |publisher=ビルボードジャパン}}</ref>。}}「なんでだろう feat.テツandトモ」
|(デジタル・ダウンロード)
|なんでだろう feat.テツandトモ
|-
|}
== ミュージックビデオ ==
{|class="wikitable" style="font-size:smaller;"
|-
! 監督
! 曲名
|-
| 大熊一成
| 「なんでだろう音頭」「大田区でプロポーズ」
|-
| 小林一幾
| 「ほろ酔いブルース」
|}
== イベント ==
2009年7月、[[デジタル放送推進協会|Dpa]]がデジタルテレビジョン放送普及推進・アナログテレビジョン放送終了啓発を目的とした「日本全国地デジで元気!」イベントを開始した際、「地デジ芸人」に選ばれた。以後、[[村井真里|村井まり]]らとともに全国各地で行われている同イベントに参加し、地デジPRを行っている。また、2010年2月14日に放送された『[[笑点]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系)で演芸コーナーに主演した際、「日本全国地デジで元気!」の[[ワッペン]]をつけたジャージで登場し、[[地デジカ]]も演芸コーナーに出演した。
== 参考文献 ==
* 山田ルイ53世『一発屋芸人の不本意な日常』朝日新聞出版、2019年。{{ISBN2|978-4022515889}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ドサ回り]]
== 外部リンク ==
* [https://nichien-pro.jp/comedian/379.html テツandトモ | ニチエンプロダクション]
* [https://wmg.jp/tetsuandtomo/ テツandトモ | Warner Music Japan]
* {{facebook|テツandトモ-429764840416138}}
* {{Wayback|url=http://gree.jp/tetsu_tandt/ |title=テツ(テツandトモ) 公式ブログ |date=*}}
* {{Wayback|url=http://gree.jp/tomo_tandt/ |title=トモ(テツandトモ) 公式ブログ |date=20210618100143}}
* {{Ameba ブログ|tetsu-and-tomo-tomo|テツandトモ トモオフィシャルブログ「人生・毎日 ♪なんでだろう〜」}}
* {{Ameba ブログ|tetsu-and-tomo-tetsu|テツandトモ テツオフィシャルブログ「今日も元気になんでだろう?」}}
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4,111 | 流行語 | 流行語(りゅうこうご、英:Buzzword/Buzzwords)は、流行した語(単語、言葉)やフレーズ。初出と同時に流行する場合もあるが、期間をおいてから他の事由を契機として流行する場合もある。
敗戦直後に全国巡幸をした昭和天皇が奉迎者との対話がなかなか成立せず「あっそう」が流行語になる。近年では、ニュースなどで繰り返し放送されるもの(「想定内」や「クールビズ」)や、ベストセラー書籍のタイトル(「バカの壁」、「負け犬の遠吠え」、「国家の品格」)なども広く耳目を集めやすくなってきている。1984年に自由国民社が「新語・流行語大賞」を設けて、毎年12月最初の平日に表彰式を行っている。同社発行の『現代用語の基礎知識』には入賞語以外にも当節の流行語が記載されている。
なお、この賞の名称から誤解されることがあるが、「流行語の全てが新語」というわけではない。新しく生まれた流行語は一時だけのものとして死語(廃語)と化すことも多いが、一般的な語彙として定着していくものもある。 逆に言えば、現在普通に使われている語彙の中には、かつての流行語もある。また、一過性の流行や事件を表す語は、日常的には使われなくなっても、そのことを表す歴史用語として残ることもある。一過性の「流行」と思われたものが継続し、それを表す「流行語」も継続的に使われ続けることがある。後から振り返ってみれば単に、新しく現れたものに新しい名前を付けただけであり、流行語とは思えなくなる。以前から存在した流行語は、もとの使用状況に戻ることが多いが、希に、使い古された感から忌避され、別の語に取って代わられることがある。
千石保によれば、流行語とは別に、時代語とでも呼ぶべきものがある。流行語が、「みんなが使っていて面白そうだから」程度の動機で採用され、一過性のものであるのに対して、時代語は、その時代の人間関係の在り方を反映したものとなり、採用しない者には、仲間外れなどの制裁が科せられる。
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] | 流行語(りゅうこうご、英:Buzzword/Buzzwords)は、流行した語(単語、言葉)やフレーズ。初出と同時に流行する場合もあるが、期間をおいてから他の事由を契機として流行する場合もある。 | {{複数の問題
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'''流行語'''(りゅうこうご、英:[[:en:Buzzword|Buzzword/Buzzwords]])は、[[流行]]した[[語]](単語、言葉)や[[句|フレーズ]]。初出と同時に流行する場合もあるが、期間をおいてから他の事由を契機として流行する場合もある。
== 概要 ==
敗戦直後に全国巡幸をした昭和天皇が奉迎者との対話がなかなか成立せず「あっそう」が流行語になる。近年では、ニュースなどで繰り返し放送されるもの(「想定内」や「[[クールビズ]]」)や、ベストセラー書籍のタイトル(「[[バカの壁]]」、「[[負け犬|負け犬の遠吠え]]」、「[[国家の品格]]」)なども広く耳目を集めやすくなってきている。[[1984年]]に[[自由国民社]]が「[[新語・流行語大賞]]」を設けて、毎年12月最初の平日に表彰式を行っている。同社発行の『[[現代用語の基礎知識]]』には入賞語以外にも当節の流行語が記載されている。
なお、この賞の名称から誤解されることがあるが、「流行語の全てが[[造語|新語]]」というわけではない。新しく生まれた流行語は一時だけのものとして死語([[廃語]])と化すことも多いが、一般的な[[語彙]]として定着していくものもある。
逆に言えば、現在普通に使われている語彙の中には、かつての流行語もある。また、一過性の流行や[[事件]]を表す語は、日常的には使われなくなっても、そのことを表す[[歴史用語]]として残ることもある。一過性の「流行」と思われたものが継続し、それを表す「流行語」も継続的に使われ続けることがある。後から振り返ってみれば単に、新しく現れたものに新しい名前を付けただけであり、流行語とは思えなくなる。以前から存在した流行語は、もとの使用状況に戻ることが多いが、希に、使い古された感から忌避され、別の語に取って代わられることがある。
[[千石保]]によれば、流行語とは別に、[[時代語]]とでも呼ぶべきものがある。流行語が、「みんなが使っていて面白そうだから」程度の動機で採用され、一過性のものであるのに対して、時代語は、その時代の[[人間関係]]の在り方を反映したものとなり、採用しない者には、[[仲間外れ]]などの[[制裁]]が科せられる。
例えば、現代の[[若者語]]には、[[曖昧語]]が多いという。
== 流行語のイベント ==
; 日本
* [[新語・流行語大賞]]
* [[ネット流行語大賞]]
* [[ワード・オブ・ザ・イヤー]](朝日新聞社主催)
* [[今年の新語]]([[三省堂]]主催)
* [[大辞泉が選ぶ新語大賞]]([[小学館]]主催)
* [[女子中高生ケータイ流行語大賞]]
; アジア
* [[漢語盤点]] - 中国語のイベント
* {{ill2|台灣年度代表字大選|zh|台灣年度代表字大選}}
* {{ill2|中国流行語|zh|中国流行语}}
; ヨーロッパ
* [[ドイツの流行語大賞]]
* festival du mot - フランスの町[[ラ・シャリテ=シュル=ロワール]]で開催される言葉の祭典。この祭典中に流行語を発表する。
; アメリカ合衆国
* [[:en:Word of the year|Word of the year]]
== 関連項目 ==
* [[広告]]
* [[俗語]]
* [[バズワード]]
* [[インフルエンサー]]
* [[死語]]
* [[コマーシャルメッセージ#CMから生まれた流行語|コマーシャルから生まれた流行語]]
{{日本語}}
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[[category:風俗]]
[[category:社会言語学]]
[[category:言葉の文化]]
[[category:日本語の文化]]
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] | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E8%A1%8C%E8%AA%9E |
4,112 | フォークロック | フォークロック(英語: folk rock)は、音楽のジャンルの一つで、フォークとロックの要素を融合した音楽を指す。全盛期は1960年代半ばから1970年代前半である。フォーク音楽に、電気楽器を導入したことで誕生したとされている。
フォークロックは、1960年代半ば、北アメリカで生まれた。ボブ・ディランがブリティッシュ・インヴェイジョンのグループ、アニマルズの「朝日のあたる家」を聴いたことが、きっかけとなった。1965年のニューポート・フォーク・フェスティバル(英語版)で、ボブ・ディランはエレクトリック・ギターを含むロック・バンドといっしょに演奏し、激しいブーイングを浴びた。当初、聴衆の側から音楽的堕落、世俗や機械文明への迎合といった反発があったことから、当時の若者によるフォークの解釈を知ることができる。1965年、フォークスタイルの楽曲にエレクトリック・ギターを取り入れたバーズの「ミスター・タンブリン・マン」、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」などのヒット曲が生まれ、フォークロックは北アメリカにおける主要な音楽ジャンルとなった.。バーズはピート・シーガーの曲「ターン!ターン!ターン!」もヒットさせた。
この北アメリカでの動きに触発され、イギリスやケルト圏でも様々なフォークロックの様式が見られるようになった。スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、ブルターニュなど、各地域の民俗音楽とロックの融合が図られた。この音楽的試みには、フォーク・ミュージック(民俗音楽)とロック双方の分野のミュージシャンが取り組んだ。そして更に、ヨーロッパの他の地域でもフォークロックに取り組む音楽家が現れてきた。ウディ・ガスリーとピート・シーガー、および戦前1930年代の左翼人民戦線運動から生まれた文化に強く影響を受けている。
都市を拠点としてフォークソングを歌い始めたのは、アルマナック・シンガーズであった。このグループは、1930年代後期から1940年代初期にかけて、ガスリー、シーガー、リー・ヘイズ他、メンバーを替えつつ活動した。第二次世界大戦下を経て1947年に、シーガーとヘイズは、ロニー・ギルバート、フレッド・ヘルマンと組み、ウィーヴァーズを結成する。ウィーヴァーズは、レッドベリーの「アイリーン」をカバーし大ヒットさせ、この分野は一般大衆の間に広がっていった。文学で1950年代に隆盛をきわめたビート・ジェネレーションは、ジャズと密接な関係を持つ一方、ボブ・ディランらその後のフォーク・シンガー達に大きな影響をもたらした。
彼らは1950年代初期の赤狩りに巻きこまれ、1955年、ピート・シーガーは下院非米活動委員会で、彼の思想的な所属を証言することを拒否したことで、有罪判決を受けた。シーガーらのサウンド、および民俗音楽や社会問題を題材とした楽曲は、キングストン・トリオ、チャド・ミッチェル・トリオや、ピーター・ポール&マリー、モダン・フォーク・カルテットなどに影響を与えた。彼らの歌詞や音楽性は、プロテスト・フォークやブロードサイド・バラッド(時事問題を扱う社会性の強い歌)の発展に大きく寄与した。 1963年のワシントン大行進には、ボブ・ディランや俳優マーロン・ブランドらが参加している。
ブリティッシュ・インヴェイジョンの現象は、フォーク・ロック誕生の直接的な要因となった。ビートルズやローリング・ストーンズ、その他のバンドが、ロックには創造的な媒体として可能性があることをアメリカのミュージシャンに改めて認識させた。
アメリカ合衆国で最もフォークロックが活動的であったのは1960年代中頃から1970年代中頃だった。これはヒッピー現象とほぼ時を同じくする。ボブ・ディランやそれ以前のウディ・ガスリーらのミュージシャンのフォークソング、フォーク・リヴァイヴァルにおけるボーカル・グループ、ロックなどの要素が融合され、さらにハンク・ウィリアムズらの古いカントリーからの影響も見られるようになった。
また、ママス&パパスやスコット・マッケンジー、ジェファーソン・エアプレインらもヒットを放った。1970年代にはジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーンら、80年代にはスザンヌ・ヴェガ、トレイシー・チャップマンら、90年代以降には4ノン・ブロンズ、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーらが活躍した。
ボブ・ディランらを刺激した、アメリカの反体制的な文学ビート・ジェネレーションは、モダン・ジャズを愛好し、イギリスのモッズ文化誕生のきっかけの一つにもなった。戦後世代のイギリスの若者の間でのフォークやロック、ブルース、ブルース・ロックのブームは、本国アメリカ同様1960年代半ば以降深まった。
ビートルズやローリング・ストーンズらを中心としたブリティッシュ・インヴェイジョンは、アメリカ、イギリスのフォーク・ロックの隆盛に、大きな影響を与えた。フォーク・ミュージシャンによる取り組みでは、ドノヴァンが1965年デビュー、1966年(イギリス発売は1967年)ドノヴァンはアルバム「サンシャイン・スーパーマン」を発表。この年からプロデュースを担当するミッキー・モストが初期サイケデリック・ロックの影響をここに持ち込みアレンジに工夫を凝らした。
1968年ペンタングル結成。フォークソロ歌手ジャッキー・マクシーとそのギタリストバート・ヤンシュ、ジョン・レンボーンに、ドラムスとウッド・ベースはジャズ奏者で、アコースティック楽器を電気増幅で音量を大きくした、ジャズ色のあるアレンジでトラディショナル・ブリティッシュ・フォークやオリジナルを演奏した。1962年創業でフォーク作品中心に販売していたトランスアトランティック・レコード(en)と契約、この頃はイギリスで「エレクトリック・フォーク」(Electric Folk) とも呼んでいた。
1967年デビューのフェアポート・コンヴェンションはイギリス独自のフォーク・ロックを提示した。1970年スティーライ・スパンは、フェアポート・コンヴェンションを脱退したアシュリー・ハッチングスが結成した。ギター奏者マーティン・カーシーが参加。アルバム『テン・マン・モップ、あるいはレザヴォア・バトラー氏捲土重来』発表後、ハッチングスとカーシーは脱退、スティーライ・スパンはマディ・プライヤーを中心にドラムス担当を加入させトラディショナル・フォークをロック寄りにしたフォークロックを展開した。
マーティン・カーシーは再び伝承民謡でソロ活動の基本に戻り、平行してアシュリー・ハッチングスらのセッションやブラス・モンキーに参加し現在に至る。左派系のトピック・レコードは、フォークのレコードを多数発表した。そしてヒッピー・バンド、インクレディブル・ストリング・バンドのようなイギリスのフォークロックにおける試みは、サイケ・フォークへ繋がっていく。
スウェーデンではガルバナ、ジェゼベル、ビョルン&ベニーなどが活躍した。フランスのフォークロックでは、La Bamboche、Tri Yannらが活動した。アイルランドでは、ヴァン・モリソンとゼムが活躍した。後年、ザ・ポーグスらがアイルランド民謡とパンク・ロックを結び合わせた。
ドイツのフォーク・ロックには、ザ・オライリー&ザ・パッディがいた。ノルウェーでは、ゴーテが、ノルウェーの伝承文学のひとつであるスティーヴ(stev、即興詩)とロックの融合が試みられた。ルーマニアにおいては、1962年に結成されたトランシルヴァニア・フェニックスや、スピタルル・デ・ウルジェンツァとモルドバのズドッブ・シ・ズドッブらは、民族音楽とロックを融合した楽曲を発表した。
1960年代後半、GS時代のカバーとしては「今日を生きよう」をカバーしたテテンプターズ、PPMの「500マイル」をカバーしたザ・スパイダース、 フォーク・サイドでは、「ベリー・ラスト・デイ」(PPM)のトワ・エ・モワ、ママス&パパス「夢のカリフォルニア」のモダン・フォーク・フェローズなどがあげられる。アメリカのバーズ、ラヴィン・スプーンフルなどを経てカバー/コピーから吸収し、日本の民謡(フォーク)を取り入れた寺内タケシとバニーズ、などのバンドやフォーク・グループが登場し、マイク眞木「バラが咲いた」の作詞・作曲を浜口庫之助が担当。村井邦彦、いずみたくらが新しい日本のポップス・ロック音楽を模索していた。
1969年11月村井邦彦が日本コロムビアとの契約から発足、村井は先行して1967年作曲家業を開始、作詞家山上路夫、安井かずみなどと共作し、様々なバンドやミュージシャンのプロデュースと編曲家を務めている。アルファ初期には赤い鳥、ガロなどが在籍、他社東芝音工に村井と山上が楽曲提供したトワ・エ・モワなど カレッジ・フォーク系とも呼ぶミュージシャンたちと制作作業を行った。
フォーク系ミュージシャンは他に岡林信康、高田渡、加川良、フォーク・クルセダーズ、ソルティ・シュガー、五つの赤い風船、遠藤賢司、あがた森魚、頭脳警察、初期のRCサクセション、上條恒彦と六文銭、森山良子、トワ・エ・モワ、五つの赤い風船、マイク眞木、ザ・リガニーズ、ふきのとうなどが活躍した。70年代前半には、井上陽水、吉田拓郎が大ヒットを放った。荒井由実は1975年に、ばんばんに「いちご白書をもう一度」を提供した。1970年代後半には、ニューミュージックの登場により、フォークロックは衰退していった。
アメリカ、カナダのフォークロック音楽家
一般的にはフォークロックに分類されていないが、その傾向が見られるソロ・ミュージシャンとバンド。
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"text": "また、ママス&パパスやスコット・マッケンジー、ジェファーソン・エアプレインらもヒットを放った。1970年代にはジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーンら、80年代にはスザンヌ・ヴェガ、トレイシー・チャップマンら、90年代以降には4ノン・ブロンズ、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーらが活躍した。",
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"text": "マーティン・カーシーは再び伝承民謡でソロ活動の基本に戻り、平行してアシュリー・ハッチングスらのセッションやブラス・モンキーに参加し現在に至る。左派系のトピック・レコードは、フォークのレコードを多数発表した。そしてヒッピー・バンド、インクレディブル・ストリング・バンドのようなイギリスのフォークロックにおける試みは、サイケ・フォークへ繋がっていく。",
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"text": "1960年代後半、GS時代のカバーとしては「今日を生きよう」をカバーしたテテンプターズ、PPMの「500マイル」をカバーしたザ・スパイダース、 フォーク・サイドでは、「ベリー・ラスト・デイ」(PPM)のトワ・エ・モワ、ママス&パパス「夢のカリフォルニア」のモダン・フォーク・フェローズなどがあげられる。アメリカのバーズ、ラヴィン・スプーンフルなどを経てカバー/コピーから吸収し、日本の民謡(フォーク)を取り入れた寺内タケシとバニーズ、などのバンドやフォーク・グループが登場し、マイク眞木「バラが咲いた」の作詞・作曲を浜口庫之助が担当。村井邦彦、いずみたくらが新しい日本のポップス・ロック音楽を模索していた。",
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"text": "フォーク系ミュージシャンは他に岡林信康、高田渡、加川良、フォーク・クルセダーズ、ソルティ・シュガー、五つの赤い風船、遠藤賢司、あがた森魚、頭脳警察、初期のRCサクセション、上條恒彦と六文銭、森山良子、トワ・エ・モワ、五つの赤い風船、マイク眞木、ザ・リガニーズ、ふきのとうなどが活躍した。70年代前半には、井上陽水、吉田拓郎が大ヒットを放った。荒井由実は1975年に、ばんばんに「いちご白書をもう一度」を提供した。1970年代後半には、ニューミュージックの登場により、フォークロックは衰退していった。",
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] | フォークロックは、音楽のジャンルの一つで、フォークとロックの要素を融合した音楽を指す。全盛期は1960年代半ばから1970年代前半である。フォーク音楽に、電気楽器を導入したことで誕生したとされている。 | {{Infobox Music genre
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'''フォークロック'''({{Lang-en|'''folk rock'''}})は、[[音楽]]の[[ジャンル]]の一つで、[[フォークソング|フォーク]]と[[ロック (音楽)|ロック]]の要素を融合した音楽を指す。全盛期は[[1960年代]]半ばから[[1970年代]]前半である。フォーク音楽に、[[電気楽器]]を導入したことで誕生したとされている。
== 歴史 ==
フォークロックは、1960年代半ば、[[北アメリカ]]で生まれた。[[ボブ・ディラン]]が[[ブリティッシュ・インヴェイジョン]]のグループ、アニマルズの「朝日のあたる家」を聴いたことが、きっかけとなった。[[1965年]]の{{仮リンク|ニューポート・フォーク・フェスティバル|en|Newport Folk Festival}}で、[[ボブ・ディラン]]は[[エレクトリック・ギター]]を含むロック・バンドといっしょに演奏し、激しい[[ブーイング]]を浴びた<ref>[http://time.com/3968092/bob-dylan-electric-newport/ ディラン エレクトリック・ニューポート] time.com 2023年12月1日閲覧</ref>。当初、聴衆の側から音楽的堕落、世俗や機械文明への迎合といった反発があったことから、当時の若者によるフォークの解釈を知ることができる。1965年、フォークスタイルの楽曲に[[エレクトリック・ギター]]を取り入れた[[バーズ (アメリカのバンド)|バーズ]]の「[[ミスター・タンブリン・マン]]」、ディランの「[[ライク・ア・ローリング・ストーン]]」などのヒット曲が生まれ、フォークロックは北アメリカにおける主要な音楽ジャンルとなった.<ref>{{cite web|title=Folk-Rock Overview|website=[[AllMusic]]|url=https://www.allmusic.com/subgenre/folk-rock-ma0000002593|accessdate=06 February 2020}}</ref><ref>{{cite book|author=Gendron, Bernard.|page=180|year=2002|title=Between Montmartre and the Mudd Club: Popular Music and the Avant-Garde|publisher=University Of Chicago Press|isbn=0-226-28737-8}}</ref>。バーズはピート・シーガーの曲「ターン!ターン!ターン!」もヒットさせた<ref>[https://www.allmusic.com/album/turn%21-turn%21-turn%21-mw0000202812/credits Turn! Turn! Turn! (To Everything There Is a Season)] 2023-10-24閲覧</ref>。
この北アメリカでの動きに触発され、[[イギリス]]や[[ケルト人|ケルト圏]]でも様々なフォークロックの様式が見られるようになった。[[スコットランド]]、[[ウェールズ]]、[[コーンウォール]]、[[ブルターニュ]]など、各地域の民俗音楽とロックの融合が図られた。この音楽的試みには、フォーク・ミュージック(民俗音楽)とロック双方の分野の[[音楽家|ミュージシャン]]が取り組んだ。そして更に、[[ヨーロッパ]]の他の地域でもフォークロックに取り組む音楽家が現れてきた。[[ウディ・ガスリー]]{{Efn|「{{仮リンク|我が祖国 (ウディ・ガスリーの曲)|label=我が祖国|en|This Land Is Your Land}}」で知られる。アーロ・ガスリーの父親。}}と[[ピート・シーガー]]、および戦前[[1930年代]]の左翼[[人民戦線]]運動から生まれた文化に強く影響を受けている。
都市を拠点としてフォークソングを歌い始めたのは、[[アルマナック・シンガーズ]]であった。このグループは、1930年代後期から[[1940年代]]初期にかけて、[[ウディ・ガスリー|ガスリー]]、[[ピート・シーガー|シーガー]]、リー・ヘイズ他、メンバーを替えつつ活動した。[[第二次世界大戦]]下を経て[[1947年]]に、シーガーとヘイズは、ロニー・ギルバート、フレッド・ヘルマンと組み、[[ウィーヴァーズ]]を結成する。ウィーヴァーズは、[[レッドベリー]]の「アイリーン」をカバーし大ヒットさせ、この分野は一般大衆の間に広がっていった。[[文学]]で[[1950年代]]に隆盛をきわめた[[ビート・ジェネレーション]]は、ジャズと密接な関係を持つ一方、ボブ・ディランらその後のフォーク・シンガー達に大きな影響をもたらした。
彼らは1950年代初期の[[赤狩り]]に巻きこまれ、[[1955年]]、[[ピート・シーガー]]は下院非米活動委員会で、彼の思想的な所属を証言することを拒否したことで、有罪判決を受けた<ref>[https://prospect.org/culture/recalling-pete-seeger-s-controversial-performance-smothers-brothers-show-50-years-ago/ P Seeger controversial performance] 2023年12月1日閲覧</ref>。シーガーらのサウンド、および民俗音楽や[[社会問題]]を題材とした楽曲は、[[キングストン・トリオ]]、[[チャド・ミッチェル・トリオ]]や、ピーター・ポール&マリー、モダン・フォーク・カルテットなどに影響を与えた。彼らの歌詞や音楽性は、プロテスト・フォークやブロードサイド・バラッド(時事問題を扱う社会性の強い歌)の発展に大きく寄与した。
[[1963年]]のワシントン大行進には、[[ボブ・ディラン]]や俳優[[マーロン・ブランド]]らが参加している。
ブリティッシュ・インヴェイジョンの現象は、フォーク・ロック誕生の直接的な要因となった。[[ビートルズ]]や[[ローリング・ストーンズ]]、その他のバンドが、ロックには創造的な媒体として可能性があることをアメリカのミュージシャンに改めて認識させた。
=== アメリカ ===
アメリカ合衆国で最もフォークロックが活動的であったのは1960年代中頃から1970年代中頃だった。これは[[ヒッピー]]{{Efn|反戦平和を主張した。グレイトフル・デッドやジョン・レノン、ニール・ヤングら多くのミュージシャンも強い影響を受けている。}}現象とほぼ時を同じくする。ボブ・ディランやそれ以前のウディ・ガスリーらのミュージシャンのフォークソング、[[フォークソング#フォーク・リヴァイヴァル|フォーク・リヴァイヴァル]]におけるボーカル・グループ、ロックなどの要素が融合され、さらに[[ハンク・ウィリアムズ]]らの古いカントリーからの影響も見られるようになった。
また、[[ママス&パパス]]や[[スコット・マッケンジー]]、[[ジェファーソン・エアプレイン]]らもヒットを放った。1970年代にはジャクソン・ブラウン、ブルース・スプリングスティーンら、80年代にはスザンヌ・ヴェガ、トレイシー・チャップマンら、90年代以降には4ノン・ブロンズ、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーらが活躍した。
=== イギリス ===
ボブ・ディランらを刺激した、アメリカの反体制的な文学ビート・ジェネレーションは、[[モダン・ジャズ]]を愛好し、イギリスの[[モッズ]]文化誕生のきっかけの一つにもなった。戦後世代のイギリスの若者の間でのフォークやロック、ブルース、ブルース・ロックのブームが、1960年代に到来した。
ビートルズやローリング・ストーンズらを中心としたブリティッシュ・インヴェイジョンは、アメリカ、イギリスのフォーク・ロックの隆盛に、大きな影響を与えた<ref>{{cite web|title=Folk-Rock Overview|website=[[AllMusic]]|url=https://www.allmusic.com/subgenre/folk-rock-ma0000002593|accessdate=03 March 2020}}</ref>。フォーク・ミュージシャンによる取り組みでは、[[ドノヴァン]]が1965年デビュー、1966年(イギリス発売は1967年)ドノヴァンはアルバム「[[サンシャイン・スーパーマン]]」を発表。この年からプロデュースを担当する[[ミッキー・モスト]]が初期[[サイケデリック・ロック]]の影響をここに持ち込みアレンジに工夫を凝らした。
1968年[[ペンタングル]]結成。フォークソロ歌手[[ジャッキー・マクシー]]とそのギタリスト[[バート・ヤンシュ]]、[[ジョン・レンボーン]]に、ドラムスとウッド・ベースはジャズ奏者で、アコースティック楽器を電気増幅で音量を大きくした、ジャズ色のあるアレンジでトラディショナル・ブリティッシュ・フォークやオリジナルを演奏した<ref>{{cite web|title=British Folk-Rock Overview|website=[[AllMusic]]|url={{Allmusic|class=explore|id=style/d7741|pure_url=yes}}|accessdate=06 February 2020}}</ref>。1962年創業でフォーク作品中心に販売していたトランスアトランティック・レコード([[:en:Transatlantic Records|en]])と契約、この頃はイギリスで「エレクトリック・フォーク」(Electric Folk) とも呼んでいた。
1967年デビューの[[フェアポート・コンヴェンション]]はイギリス独自のフォーク・ロックを提示した。1970年[[スティーライ・スパン]]は、フェアポート・コンヴェンションを脱退したアシュリー・ハッチングスが結成した。ギター奏者[[マーティン・カーシー]]が参加。アルバム『[[テン・マン・モップ、あるいはレザヴォア・バトラー氏捲土重来]]』発表後、ハッチングスとカーシーは脱退、スティーライ・スパンは[[マディ・プライヤー]]を中心にドラムス担当を加入させトラディショナル・フォークをロック寄りにしたフォークロックを展開した。
マーティン・カーシーは再び伝承民謡でソロ活動の基本に戻り、平行してアシュリー・ハッチングスらのセッションや[[ブラス・モンキー]]に参加し現在に至る。左派系のトピック・レコードは、フォークのレコードを多数発表した。そしてヒッピー・バンド、[[インクレディブル・ストリング・バンド]]のようなイギリスのフォークロックにおける試みは、サイケ・フォークへ繋がっていく。
=== 西欧、南欧、北欧、東欧 ===
スウェーデンではガルバナ、ジェゼベル、ビョルン&ベニーなどが活躍した<ref>[https://bandcamp.com/tag/swedish-folk-rock Swedish folk rock] 2023年11月1日閲覧</ref>。[[フランス]]のフォークロックではTri Yannらが活動した。[[アイルランド]]では、ヴァン・モリソン{{Efn|「ブラウンアイド・ガール」などが有名である}}とゼム{{Efn|代表曲はグロリア。}}が活躍した。後年、[[ザ・ポーグス]]らがアイルランド民謡と[[パンク・ロック]]を結び合わせた。
[[ドイツ]]のフォーク・ロックには、オライリー・バンド、ダルタニアンらがいた。[[ノルウェー]]では、[[ゴーテ]]が、ノルウェーの[[口承文学|伝承文学]]のひとつであるスティーヴ(stev、即興詩)とロックの融合が試みられた。東欧の[[ルーマニア]]では、[[1962年]]に結成された[[トランシルヴァニア・フェニックス]]や、[[スピタルル・デ・ウルジェンツァ]]が活動した。また、ウクライナの西方に位置する[[モルドバ]]の[[ズドッブ・シ・ズドッブ]]は、民族音楽とロックを融合した楽曲を発表した。
=== 日本のフォークロック ===
1960年代後半、GS時代のカバーとしては「今日を生きよう」をカバーしたテ[[テンプターズ]]<ref>[http://music-calendar.jp/2017102501 ] 2023年10月28日閲覧</ref>、[[ピーター・ポール&マリー|PPM]]の「[[500マイルもはなれて|500マイル]]」をカバーした[[ザ・スパイダース]]、 フォーク・サイドでは、「ベリー・ラスト・デイ」(PPM)のトワ・エ・モワ、[[ママス&パパス]]「[[夢のカリフォルニア (曲)|夢のカリフォルニア]]」のモダン・フォーク・フェローズなどがあげられる。アメリカの[[バーズ (アメリカのバンド)|バーズ]]、[[ラヴィン・スプーンフル]]などを経てカバー/コピーから吸収し、日本の[[民謡]](フォーク)を取り入れた[[寺内タケシとバニーズ]]、などのバンドやフォーク・グループが登場し、マイク眞木「[[バラが咲いた]]」の作詞・作曲を[[浜口庫之助]]が担当。村井邦彦{{Efn|「エメラルドの伝説」「夜と朝の間に」などを作曲}}、[[いずみたく]]らが新しい日本のポップス・ロック音楽を模索していた。
<!-- などに寄稿すが[[グループ・サウンズ]]の範囲から(1965年)以降の日本のフォークロック起源について自身の考察から簡単な説明と将来の判断を仰ぐ議論提起の一節を添えている。でレコード・デビュー。その(1984年・角川書店)中の発言について作詞家を持つが、「ニューミュージック」の起源とされる推定期間が長く([[2016年]]時点からの考察と視点)、作曲やアレンジ(編曲)について省略されたこの記述内容には注意を要し(結婚前ミューの実績など)、疑念を抱かざるを得ない以前の国内ポップス楽曲の傾向については、デビューしたレーベル[[アルファレコード]](以下「アルファ」)の社歴と動向から一部の流れを読み解くことが出来る(アルファレコードの初期時代の参考サンプル・[[コンピレーション・アルバム]]に『ソフトロックドライヴィン・栄光の朝 -->
[[1969年]]11月[[村井邦彦]]が[[日本コロムビア]]との契約から発足、村井は先行して[[1967年]]作曲家業を開始、作詞家[[山上路夫]]、[[安井かずみ]]などと共作し、様々なバンドやミュージシャンのプロデュースと編曲家を務めている。アルファ初期には[[赤い鳥 (フォークグループ)|赤い鳥]]、[[ガロ (フォークグループ)|ガロ]]{{Efn|代表曲は「学生街の喫茶店」}}などが在籍、他社[[EMIミュージック・ジャパン|東芝音工]]に村井と山上が楽曲提供した[[トワ・エ・モワ]]など [[カレッジ・フォーク]]系{{Efn|「[[カレッジ・フォーク]]」は、一説には東芝音工が考案した用語、宣伝キャッチコピーとされる。日本のフォーク系音楽ミュージシャンなどの説明とアングラ・フォークなど区別に他社レーベルなども使用した。用語として1970年を前後する時期(昭和40年代)に活躍したコーラス、ハーモニーに主点を置くフォークのミュージシャンやグループなどに用いられることが多い。}}とも呼ぶミュージシャンたちと制作作業を行った。
フォーク系ミュージシャンは他に岡林信康、高田渡、加川良、フォーク・クルセダーズ、ソルティ・シュガー、五つの赤い風船、遠藤賢司、あがた森魚、頭脳警察、初期のRCサクセション、上條恒彦と六文銭、[[森山良子]]、トワ・エ・モワ、[[五つの赤い風船]]、[[マイク眞木]]、[[ザ・リガニーズ]]、ふきのとうなどが活躍した。70年代前半には、[[井上陽水]]、[[吉田拓郎]]が大ヒットを放った。荒井由実は[[1975年]]に、ばんばんに「いちご白書をもう一度」を提供した。1970年代後半には、ニューミュージックの登場により、フォークロックは衰退していった。
<!-- 「サムライ」はイージーリスニング/ラウンジです
グループ・サウンズではアメリカ系フォークロックを反映したなどがいた。1960年代に日本のフォークロックという視点から、残されている録音発表された作品について触れると[[ザ・サベージ]]、[[ヴィレッジ・シンガーズ]]などがその特徴を揃え、[[ジャズ]]・[[器楽曲|インストゥルメンタル]]から転じジャズ・[[ボサノヴァ]]・[[ギタリスト]]・伊勢昌之作曲の楽曲「風船」を発表した[[ミッキーカーチス&サムライ|ミッキー・カーチスとザ・サムライズ]]-->
== 主なミュージシャン ==
=== 米国/カナダ ===
;ソロ・シンガー
アメリカ、カナダのフォークロック音楽家
;[[ボブ・ディラン]]<ref>The Official Bob Dylan Site [https://www.bobdylan.com Bob Dylan] 2023年10月24日閲覧</ref>
;[[ニール・ヤング]]{{Efn|バッファロー・スプリングフィールド、CSN&Yなどに在籍した。
カナダ出身。1972年の「孤独の旅路」が全米1位を記録}}
;[[バリー・マクガイア]]{{Efn|「イヴ・オブ・ディストラクション」がヒットした。}}
;メラニー{{Efn|72年に「ブランニュー・キー」がヒットしたヒッピー系女性シンガー。}}
:ウッドストック・フェスティバルに出演。
;バフィー・セントメリー{{Efn|「ユニバーサル・ソルジャー」は反戦歌として知られている。カナダの女性歌手。}}
:『[[いちご白書]]』の主題歌「[[サークル・ゲーム (ジョニ・ミッチェルの曲)|サークル・ゲーム]]」(ジョニ・ミッチェル作詞作曲)で知られる、ネイティヴ・アメリカン系の女性フォークシンガー。
;[[ホセ・フェリシアーノ]]<ref>[https://www.allmusic.com/artist/jos%C3%A9-feliciano-mn0000271113 Jose Feliciano] allmusic. 2023年11月6日閲覧</ref>
;[[リッチー・ヘヴンス]]
;[[ジョニ・ミッチェル]]{{Efn|「サークル・ゲーム」「青春の光と影」の作曲者。「ヘルプ・ミー」がヒット。70年代半ば以降は、売れ線を無視したアート志向のアルバムを発表した。}}
:カナダ出身。
;[[ティム・ハーディン]]
;[[ティム・バックリー]]
;[[ロジャー・マッギン]]
;[[ギリアン・ウェルチ]]
:マンハッタン出身、ロサンジェルス育ち。ブルーグラス、オールドタイム、ネオトラディショナル・カントリーのシンガーソングライター。
;[[フィル・オクス]]<ref>[https://www.allmusic.com/artist/phil-ochs-mn0000333634 Phil Ochs] AllMusic. 2023年11月2日閲覧</ref>
:1940年、テキサス州エル・パソ出身。トピカルソング・シンガー。
;[[アーロ・ガスリー]]{{Efn|ウディ・ガスリーの息子。}}
;[[ドン・マクリーン]]{{Efn|「アメリカン・パイ」が大ヒットした。}}
;[[ジム・クロウチ]]
:1943年、[[フィラデルフィア]]出身。1973年飛行機事故で死去。
;[[レナード・コーエン]]
:カナダ モントリオール出身。詩人、小説家、シンガーソングライター。
;[[ジュディ・コリンズ]]
;[[ポール・サイモン]]
:「母と子の絆」がヒット。
;[[アート・ガーファンクル]]
;[[ハリー・チェイピン]]
;[[フレッド・ニール]]
;[[ジェリー・ジェフ・ウォーカー]]
:ミスター・ボージャングルを作曲したシンガーソングライター。
;[[ジェシ・コリン・ヤング]]
:元ヤングブラッズ。
;ジョン・セバスチャン
;[[ゴードン・ライトフット]]
:カナダのシンガーソングライター。1938年生まれ。1950年代後半に活動開始。
;ロボ
:「片思いと僕」を発表。
;[[ウォーレン・ジボン]]{{Efn|1978年に「ワーウルブズ・イン・ロンドン」がヒットした。}}
;[[ジョーン・バエズ]]
;[[ジュディ・シル]]
;[[ジョン・プライン]]
;[[スティーヴ・グッドマン]]
;[[ジャクソン・ブラウン]]
;[[ブルース・スプリングスティーン]]
;[[スザンヌ・ヴェガ]]
;[[トレイシー・チャップマン]]
;[[リンダ・パーハクス]]
;[[ジョアンナ・ニューサム]]
==== グループ ====
;[[イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー]]<ref>{{cite web|url=https://www.allmusic.com/artist/england-dan-john-ford-coley-mn0000196993/biography|title=England Dan & John Ford Coley : Biography|website=AllMusic| access-date=2 November 2023}}</ref>
;[[インディゴ・ガールズ]]
:1985年にジョージア州で結成したデュオ。
;[[グレイト・ビッグ・シー]]
:カナダのフォークロック・バンド。北アメリカにおける初期のフォークロックに良く類似している。
;[[グレープス・オブ・ラズ]]
:カナダのフォークロック・バンド。1983年結成、1992年解散。
;[[CSN&Y]]
;[[ケイト&アナ・マグリガル]]
;[[ケルタエ]]
:[[ケープブレトン島]]と[[ニューファンドランド島]]の民俗音楽を融合させたケルト・フォークロック・バンド。それぞれの伝承曲の持ち味を残しつつ、ロックやジャズの要素を含んでいる。
;[[サイモン&ガーファンクル]]
;[[サウザー・ヒルマン・フューレイ・バンド]]<ref>[https://www.allmusic.com/album/the-souther-hillman-furay-band-mw0000221448 Souther Hillman Furay band] Allmusic.com 2023年12月1日閲覧</ref>
;[[シールズ&クロフツ]]
;[[シックス・ペンス・ノン・ザ・リッチャー]]
;[[スピリット・オブ・ザ・ウェスト]]
:カナダのバンド。北アメリカにおける初期のフォークロックに良く類似している。
;[[ザ・ダックス]]
:ニール・ヤングのロック・バンド。1977年に活動。
;[[タートルズ (アメリカのバンド)|タートルズ]]
:1965年にカリフォルニアで結成。「ハッピー・トゥゲザー」や[[ボブ・ディラン]]の「[[悲しきベイブ]]」のカバーがヒット。
;[[ニュー・クリスティ・ミンストレルズ]]
;[[バーズ (アメリカのバンド)|バーズ]]
;[[バッファロー・スプリングフィールド]]
;[[ザ・バンド]]
;[[ピーター・ポール&マリー]]
;[[ファッグス]]
;[[4ノン・ブロンズ]]
;[[フラタニティー・オブ・マン]]{{Efn|映画「イージー・ライダー」のサントラ盤収録}}
;[[ボー・ブラメルズ]]
:[[1963年]]に[[サンフランシスコ]]で結成。[[ビートルズ]]などのイギリスのバンドに影響を受けている。
;[[ホーリー・モーダル・ラウンダーズ]]
;[[ママス&パパス]]
;ミミ&[[リチャード・ファリーニャ]]
;[[ヤングブラッズ (1960年代のバンド)|ヤングブラッズ]]
;[[ラヴィン・スプーンフル]]
;[[ロギンス&メッシーナ]]
==== その他(USA) ====
一般的にはフォークロックに分類されていないが、その傾向が見られるソロ・ミュージシャンとバンド。
;[[グィック・シルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス]]
;[[グレイトフル・デッド]]
:1965年にサンフランシスコで結成。フォーク、ブルーグラス、ブルース、カントリー、ジャズなどを融合させたサイケデリックロック・バンド。
;[[ソニー&シェール]]
:1960年代の男女デュオ。
;[[ジェファーソン・エアプレイン]]
:1965年にサンフランシスコで結成。活動当初はフォークロックを指向していたが、やがてサイケデリックロックへと転身した。
;[[モビー・グレープ]]
:[[1966年]]にカリフォルニアで結成。ジャズ、カントリー、ブルースなどを融合させたサイケデリックロック・バンド。
;[[ラヴ (バンド)|ラヴ]]
:[[1965年]]にロサンジェルスで結成。ロックンロール、ガレージロック、フォークなどを融合させたサイケデリックロック・バンド。
=== イギリス/アイルランド ===
==== シンガーソングライター ====
; [[キャット・スティーヴンス]]
; [[ヴァン・モリソン]]
:[[チーフタンズ]]とフォークロックの楽曲を共同制作している。
; [[ディック・ゴーハン]]
:英国のフォーク、フォークロックのミュージシャン。
; [[アル・スチュアート]]
; [[ビリー・ブラッグ]]
; [[ジャッキー・マクシー]]
; [[ドノヴァン]]
; [[リチャード・トンプソン (ミュージシャン)|リチャード・トンプソン]] : フェアポート・コンヴェンションの創設メンバーの一人。フォークロックのギタリストとしても著名。
; [[ロイ・ハーパー]]
:英国のフォーク歌手。
; [[エディ・リーダー]]
; [[アン・ブリッグス]]
; [[フィラモア・リンカーン]]
; [[ルーシー・ローズ]]
; [[ロジャー・ウィテッカー]]
; [[アンディ・ホワイト(SSW)]]
:シンガーソングライター。1962年、[[北アイルランド]]の[[ベルファスト]]生まれ。1985年デビュー。
; [[ゴードン・ギルトラップ]]
:[[イギリス|英国]]の著名な[[ギタリスト]]。1948年生まれ。フォークロック以外にも、フォーク、ロック、ブルースなど、多彩な分野で活動している。
; [[エイミー・マクドナルド]]
:1987年生まれ。[[スコットランド]]出身の[[シンガーソングライター]]。
==== グループ ====
;アメリカ(UK)
;[[インクレディブル・ストリング・バンド]]
:1965年、結成。サイケデリックなフォーク・バンドとして知られているが、フォークロック・バンドとして活動を開始した。
;[[エナジー・ オーチャード]]
:アイルランドのフォークロック・バンド。1980年代後半、[[北アイルランド]]の[[ベルファスト]]で結成。
;[[カパーケリー]]
:スコットランドのフォーク・バンド。
;[[ザ・コアーズ]]
:1991年に結成した、アイルランドのフォークロック・バンド。
;[[サンダークラップ・ニューマン]]
;[[スティーライ・スパン]]
:イギリスのフォークロック・バンド。1970年に結成され、2006年現在も活動中。
;[[シャーリー&ドリーコリンズ]]
:代表作は、アンセムズインエデン。姉がドリー、妹がシャーリー。
;ヴィグラス&オズボーン{{Efn|「秋はひとりぼっち」が1972年に日本でヒット。}}
;[[ドクター・ストレンジリー・ストレンジ]](アイルランド)
;[[ドリーム・アカデミー]]
;[[ティラノザウルス・レックス]]
<!-- wiki英語版に掲載なし ;[[ピクト (バンド)|ピクト]](The Picts)
:スコットランドのフォークロック・バンド。1997年結成。-->
;[[ファイブ・ハンド・リール]]
;[[フェア・グラウンド・アトラクション]]ヒット曲「パーフェクト」。
;[[フェアポート・コンヴェンション]] : [[1967年]]にイギリスで結成したフォークロック・バンド。ウェストコースト風のカバーから活動を開始したが、イギリス民謡を取り込んでいくようになった。
;[[フォザリンゲイ]]
;フォレスト
;[[プランクシティ]] : 1972年に結成されたアイルランドのフォーク・バンド。
;[[ヘッジホッグ・パイ]] : ブリティッシュ・トラッドをベースとしたプログレッシブ・ロック色が強いバンド。
;[[ペンタングル]] : 1967年にイギリスで結成したフォークロック・バンド。
;[[ザ・ポーグス]] : アイルランド人のシェイン・マガウアンを中心として1982年に結成された、イギリスのフォークロック・バンド。
;[[ホースリップス]] : アイルランドの[[ジグ (音楽)|ジグ]]、[[リール (ダンス)|リール]]、をベースとしたケルトロック・バンド。
;[[マグナ・カルタ (バンド)|マグナ・カルタ]] : 1969年にロンドンで結成したフォークバンド。
;[[ランリグ]] : スコットランドのフォークロック・バンド。1973年に結成。[[スコットランド・ゲール語|ゲール語]]によるロックを演奏する。
;[[リンディスファーン (バンド)|リンディスファーン]] : イギリスのフォークロック・バンド。
;[[ルネッサンス (バンド)|ルネッサンス]] : イギリス民謡とクラシック音楽をベースとしたプログレッシブ・ロック・バンド。1969年にイギリスで結成。
==== その他(UK) ====
;[[レヴェラーズ]] : イギリスのロック・バンド。ノン・フォークとされているが、フェアポート・コンヴェンションとも共演している。1988年結成。イギリス民謡とパンクロックを混合。
;[[ジェスロ・タル]] : イギリスのプログレッシブ・ロック・バンド。全ての楽曲にフォークの要素がある訳ではないが、『神秘の森』(Song From The Wood、1977年)、『逞しい馬』(Heavy Horses、1978年)、『ストーム・ウォッチ~北海油田の謎』(Stormwatch、1979年)は、フォークロックの分野に属する。
;[[ストローブス]] : 1964年にイギリスで結成したロック・バンド。ブルーグラス・バンドとして活動を開始し、一時、[[リック・ウェイクマン]]が参加していたことがある。フォークロックや、プログレッシブロックなど多様な音楽性を表現し、労働党を支持した「パート・オブ・ユニオン」(1972)のヒットがある。
;[[ホリーズ]]「バス・ストップ」など
;[[エルトン・ジョン]]「ユア・ソング」など
;[[ジョージ・ハリスン]]「ギヴ・ミー・ラヴ」など
;[[ジョン・レノン]]「[[平和を我等に]]」(ギヴ・ピース・ア・チャンス)など
;[[ニック・カーショウ]]「ザ・リドル」
===西欧/北欧===
;[[パーソンズ・パック]] : スウェーデンのフォークロック・バンド。<ref> [https://www.theaudiodb.com/artist/129779-Perssons-Pack?view=4 Perssons Pack] theaudiodb.com 2023年12月4日閲覧</ref>。
;[[グンドゥラ・クラウス]] : ドイツのフォーク・バイオリスト。1992年にデビュー。ロサンゼルスでブルーグラスやケイジャン音楽を学び、アイルランドでアイルランド民謡やフォークロックを学んだ。
;[[ロイツマ]] : フィンランドのフォークユニット。
===オセアニア===
;[[レッドガム]] : オーストラリアのフォークロック・バンド{{Efn|1983年に「アイム・オンリー19」がオーストラリアのナショナル・チャートで1位の大ヒットになった}}。
<!-- フォークロックに分類されるのは疑問があり、コメントアウト。KAT;[[:en:Kazuki Tomokawa]] (Japan)-->
<!--
* 『アローン・トゥゲザー ロックの扉を通って』 著 北中正和 而立書房 ASIN B000J93QK8 1976年発行-->
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[ネオフォーク]]
* [[フォークソング]]
* [[ニュー・フォーク]]
* [[カントリー・ミュージック]]
* [[ブルーグラス]]
* [[ポップ・フォーク]]
* [[ターボ・フォーク]]:旧ユーゴのフォーク
{{フォーク・ミュージック}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふおおくろつく}}
[[Category:ロックのジャンル]]
[[Category:フォーク (ポピュラー音楽)]] | 2003-03-15T13:50:13Z | 2023-12-04T04:39:27Z | false | false | false | [
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