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1727年
1727年(1727 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1727年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1727}} {{year-definition|1727}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[享保]]12年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2387年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[雍正]]5年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4060年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[保泰]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2269年 - 2270年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1139年 - 1140年 * [[ユダヤ暦]] : 5487年 - 5488年 * [[ユリウス暦]] : 1726年12月21日 - 1727年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1727}} == できごと == * [[8月14日]]-[[10月17日]]、イギリスで[[1727年イギリス総選挙|総選挙]]。[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]内閣の与党ウォルポール派ホイッグの大勝。 * [[ブラジル]]に[[コーヒー]]導入。 * [[ロシア]]、清間で[[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]が締結される。 == 誕生 == {{see also|Category:1727年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月25日]] - [[アルマン=ルイ・クープラン]]、[[作曲家]]、[[オルガニスト]](+ [[1789年]]) * [[3月30日]] - [[トンマーゾ・トラエッタ]]、作曲家(+ [[1779年]]) * [[5月14日]] - [[トマス・ゲインズバラ]]、[[画家]](+ [[1788年]]) == 死去 == {{see also|Category:1727年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月31日]] - [[アイザック・ニュートン]]、[[科学者]](* [[1643年]]) * [[5月17日]] - [[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]、[[ロシア帝国]][[女帝]](* [[1684年]]) * [[6月11日]] - [[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]、[[イギリス]][[国王|王]](* [[1660年]]) * [[8月14日]] - [[ウィリアム・クロフト]]、作曲家・オルガニスト(* [[1678年]]) * [[8月27日]] - [[アールト・デ・ヘルデル]]、[[画家]](* [[1645年]]) == フィクションのできごと == * [[ジャンヌ=アントワネット・ポワソン]]が暖炉越しに10代目ドクターと会話する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1727}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1727ねん}} [[Category:1727年|*]]
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1642年
1642年(1642 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1642年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1642}} {{year-definition|1642}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]19年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2302年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]15年 ** [[清]]{{Sup|*}} : [[崇徳]]7年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]20年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3975年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[陽和]]8年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]5年 * [[仏滅紀元]] : 2184年 - 2185年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1051年 - 1052年 * [[ユダヤ暦]] : 5402年 - 5403年 * [[ユリウス暦]] : 1641年12月22日 - 1642年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1642}} == できごと == * [[イングランド内戦]](-[[1649年]]){{要出典|date=2021-03}} *[[ピューリタン革命]]([[清教徒革命]]) (-[[1649年]]){{要出典|date=2021-04}} * [[アベル・タスマン]]、[[オランダ東インド会社]]の指令により調査航海へ出発。[[タスマニア]]島、[[ニュージーランド]]を発見(-[[1643年]]) * [[ゲルク派]]が[[チベット]]を制覇。[[ダライ・ラマ]]を長とする政府「[[ガンデンポタン]]」成立。 * [[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]「[[夜警 (絵画)|夜警]]」製作。 === 日本 === * [[1月4日]](寛永18年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[蝦夷国]][[松前藩]]、第3代藩主[[松前氏広]]が襲封 * [[参勤交代]]が全ての[[大名]]に義務づけられる。 * [[寛永の大飢饉]](-[[1643年]]) == 誕生 == {{see also|Category:1642年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]] - [[メフメト4世]]、[[オスマン帝国]]第19代[[スルタン]](+ [[1693年]]) * [[4月15日]] - [[スレイマン2世]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Suleyman-II-Ottoman-sultan Süleyman II Ottoman sultan] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、オスマン帝国第20代スルタン(+ [[1691年]]) * [[6月1日]](寛永19年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]) - [[山口素堂]]、[[俳人]](+ [[1716年]]) * [[8月14日]] - [[コジモ3世]]、[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]](+ [[1723年]]) * [[12月19日]](寛永19年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[松平直矩]]、「[[引っ越し大名!|引っ越し大名]]」とあだ名された[[大名]](+ [[1695年]]) * [[井原西鶴]]、[[浮世草子]]・[[人形浄瑠璃]]作者、[[俳人]](+ [[1693年]]) * [[関孝和]]、[[数学者]](+ [[1708年]]) * [[石濤]]、画家(+ [[1707年]]) == 死去 == {{see also|Category:1642年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月8日]] - [[ガリレオ・ガリレイ]]、[[物理学者]]、[[天文学者]]、[[哲学者]](* [[1564年]]) * [[2月7日]](寛永19年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[安楽庵策伝]]、[[落語]]の祖とされる[[僧]](* [[1554年]]) * [[7月3日]] - [[マリー・ド・メディシス]]、[[フランス君主一覧|フランス王]][[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の王妃、フランス王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の母(* [[1573年]]) * [[8月18日]] - [[グイド・レーニ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Guido-Reni Guido Reni Italian painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](* [[1575年]]) * [[9月17日]](寛永19年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]]) - [[英勝院|お梶の方(英勝院)]]、[[徳川家康]]の[[側室]](* [[1578年]]) * [[12月4日]] - [[リシュリュー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Armand-Jean-du-Plessis-cardinal-et-duc-de-Richelieu Armand-Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu French cardinal and statesman] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、フランスの[[枢機卿]]、[[政治家]](* [[1585年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1642}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1642ねん}} [[Category:1642年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1642%E5%B9%B4
4,256
合衆国
合衆国(がっしゅうこく)とは、英語における政体呼称の一つである“United States”の、漢字文化圏での対訳語とされる語である。“United Provinces”の訳語としても用いられることもある。国名に用いられ、現在はアメリカ合衆国(英: United States of America、米国)とメキシコ合衆国(西: Estados Unidos Mexicanos、墨国)の2か国がある。古くは前者のみであり、単に合衆国(United States)と呼ぶ場合はアメリカ合衆国を指すことが多い。メキシコ国内においても、合衆国を意味するスペイン語: Estados Unidosは、自国ではなく米国を指す言葉として用いられることが通常である。 United Statesとは、複数のState(州、国、邦)の連合体を意味し、現代の日本語に直訳すれば「連合諸州(諸国・諸邦)」、「連邦」と同じ意味合いとなる。しかしながら、江戸時代末期(幕末)以降、現代に至るまで日本の政府・社会一般では一貫して「合衆国」を用いている。「連邦」の語はFederationの訳語として当てることが多い(ロシア連邦、セントクリストファー・ネイビス連邦など)。 「合衆国」が使われる以前の“United States of America”の漢字表記としては、日本では「アメリカ共和政治」、「アメリカ合同国」、中国では「美理哥合省国」「兼摂列邦」「育奈士迭」(United Statesの音訳)などがある。参考までに、“United Kingdom”は「連合王国」と(イギリスの日本語での正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」)、“United Nations”は「国際連合」「連合国」と訳されるように、現代ではUnitedは「連合」と訳されることが多い。 1844年に米清間で締結された望厦条約の中国語文において「合衆国」表記が採用された。これがペリー来航時かその少し前に日本に伝わり、広まったとする。 単に合州国と書くべきところを合衆国と、誤って表記したという説。“United States”を直訳すれば合州国という表現が適切であり、合衆国という訳にはならないとして、支持する者もいる。本多勝一が自著『アメリカ合州国』で主張している。 「合衆」(がっしゅう)は幕末から明治初期に日本で発案された訳語で、本来的な意味としては「共和制」(Republic:君主のいない、民衆から元首を選ぶ制度)、ないしは「民主主義」(democracy, democratic)の古い訳語(前身)であり、そもそも“United States”の直訳語ではない、とする説。「合衆制度により治められる国」の意となる。由来は周礼・春官大宗伯の「大封之禮、合衆也」から。この説によれば、中国語へも日本語から輸出されたこととなる。高島俊男はこの説が正しいとしており、「合州国」の誤記説を唱える本多勝一を批判している。 この訳語は中国にいた宣教師ブリッジマンによって作られ、それが日本語に転用(輸入)された、とする説。合衆国とは「衆国を合わせた」という意味を表し、「衆国」とは大衆によって運営される国(共和政体)のことを指すという。ブリッジマンは、当時中国在住の外国人の間で読まれていたChinese Repository 1845, Jan. ART. VIIIに下記のように書いている。 本多も、ブリッジマン(中国名:裨治文)に『亜美理駕合衆国志略』という著書(1846年)があることを指摘し、「合衆国」は中国語に色々あった訳語の一つであり、合衆共治国(共和国)を略した意訳であろうと推定しており、日本もこれを借用したものとする。 「合衆」は「複数のものを合わせてひとつにする」という意味で、 Unitedの訳とする。和田光弘は、「合衆」の意味に「民主」や「共和」の意味を読み込む見解に対し、松山棟庵『地学事始』(1870年)などが、「United Kingdom」(イギリス)を「合衆王国」と訳していることを指摘する。イギリスを「合衆王国」とする例は、福沢諭吉『西洋事情・初編三』(1866年)、アルバニイ・ホンブランク著 鈴木唯一訳『英政如何』(1868年)、村田文夫『西洋聞見録. 前編 巻之中-下』(1869年)などにも見える。 合わさった衆(多数の)国(state, 州)、とUnited Statesを直訳したものである。 望厦条約より前の1844年正月の、広州巡撫からの上奏文に「該國係二十六虜爲一國、故有合衆國之名」とある。 また、先述したChinese Repository 1845, Jan. ART. VIIIには条約翻訳者による注記として とあり、「United States の訳として合衆国を当ててみたが少し違う」との印象を持っていたと推察される。加えて「同じ条約内で State と Nation を同じ『国』を使って表すのでよくない」と不満を述べている。しかし望厦条約で採用され、以降「合衆国」がアメリカの公式漢字名として定着してしまった。 2021年現在、合衆国として存続するのは2か国だけである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "合衆国(がっしゅうこく)とは、英語における政体呼称の一つである“United States”の、漢字文化圏での対訳語とされる語である。“United Provinces”の訳語としても用いられることもある。国名に用いられ、現在はアメリカ合衆国(英: United States of America、米国)とメキシコ合衆国(西: Estados Unidos Mexicanos、墨国)の2か国がある。古くは前者のみであり、単に合衆国(United States)と呼ぶ場合はアメリカ合衆国を指すことが多い。メキシコ国内においても、合衆国を意味するスペイン語: Estados Unidosは、自国ではなく米国を指す言葉として用いられることが通常である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "United Statesとは、複数のState(州、国、邦)の連合体を意味し、現代の日本語に直訳すれば「連合諸州(諸国・諸邦)」、「連邦」と同じ意味合いとなる。しかしながら、江戸時代末期(幕末)以降、現代に至るまで日本の政府・社会一般では一貫して「合衆国」を用いている。「連邦」の語はFederationの訳語として当てることが多い(ロシア連邦、セントクリストファー・ネイビス連邦など)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「合衆国」が使われる以前の“United States of America”の漢字表記としては、日本では「アメリカ共和政治」、「アメリカ合同国」、中国では「美理哥合省国」「兼摂列邦」「育奈士迭」(United Statesの音訳)などがある。参考までに、“United Kingdom”は「連合王国」と(イギリスの日本語での正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」)、“United Nations”は「国際連合」「連合国」と訳されるように、現代ではUnitedは「連合」と訳されることが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1844年に米清間で締結された望厦条約の中国語文において「合衆国」表記が採用された。これがペリー来航時かその少し前に日本に伝わり、広まったとする。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "単に合州国と書くべきところを合衆国と、誤って表記したという説。“United States”を直訳すれば合州国という表現が適切であり、合衆国という訳にはならないとして、支持する者もいる。本多勝一が自著『アメリカ合州国』で主張している。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "「合衆」(がっしゅう)は幕末から明治初期に日本で発案された訳語で、本来的な意味としては「共和制」(Republic:君主のいない、民衆から元首を選ぶ制度)、ないしは「民主主義」(democracy, democratic)の古い訳語(前身)であり、そもそも“United States”の直訳語ではない、とする説。「合衆制度により治められる国」の意となる。由来は周礼・春官大宗伯の「大封之禮、合衆也」から。この説によれば、中国語へも日本語から輸出されたこととなる。高島俊男はこの説が正しいとしており、「合州国」の誤記説を唱える本多勝一を批判している。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "この訳語は中国にいた宣教師ブリッジマンによって作られ、それが日本語に転用(輸入)された、とする説。合衆国とは「衆国を合わせた」という意味を表し、「衆国」とは大衆によって運営される国(共和政体)のことを指すという。ブリッジマンは、当時中国在住の外国人の間で読まれていたChinese Repository 1845, Jan. ART. VIIIに下記のように書いている。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本多も、ブリッジマン(中国名:裨治文)に『亜美理駕合衆国志略』という著書(1846年)があることを指摘し、「合衆国」は中国語に色々あった訳語の一つであり、合衆共治国(共和国)を略した意訳であろうと推定しており、日本もこれを借用したものとする。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「合衆」は「複数のものを合わせてひとつにする」という意味で、 Unitedの訳とする。和田光弘は、「合衆」の意味に「民主」や「共和」の意味を読み込む見解に対し、松山棟庵『地学事始』(1870年)などが、「United Kingdom」(イギリス)を「合衆王国」と訳していることを指摘する。イギリスを「合衆王国」とする例は、福沢諭吉『西洋事情・初編三』(1866年)、アルバニイ・ホンブランク著 鈴木唯一訳『英政如何』(1868年)、村田文夫『西洋聞見録. 前編 巻之中-下』(1869年)などにも見える。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "合わさった衆(多数の)国(state, 州)、とUnited Statesを直訳したものである。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "望厦条約より前の1844年正月の、広州巡撫からの上奏文に「該國係二十六虜爲一國、故有合衆國之名」とある。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、先述したChinese Repository 1845, Jan. ART. VIIIには条約翻訳者による注記として", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "とあり、「United States の訳として合衆国を当ててみたが少し違う」との印象を持っていたと推察される。加えて「同じ条約内で State と Nation を同じ『国』を使って表すのでよくない」と不満を述べている。しかし望厦条約で採用され、以降「合衆国」がアメリカの公式漢字名として定着してしまった。", "title": "語の由来" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2021年現在、合衆国として存続するのは2か国だけである。", "title": "「合衆国」と称する国" } ]
合衆国(がっしゅうこく)とは、英語における政体呼称の一つである“United States”の、漢字文化圏での対訳語とされる語である。“United Provinces”の訳語としても用いられることもある。国名に用いられ、現在はアメリカ合衆国とメキシコ合衆国の2か国がある。古くは前者のみであり、単に合衆国と呼ぶ場合はアメリカ合衆国を指すことが多い。メキシコ国内においても、合衆国を意味するスペイン語: Estados Unidosは、自国ではなく米国を指す言葉として用いられることが通常である。
'''合衆国'''(がっしゅうこく)とは、[[英語]]における政体呼称の一つである“United States”の、[[漢字文化圏]]での対訳語とされる語である。“United Provinces”の訳語としても用いられることもある。国名に用いられ、現在は[[アメリカ合衆国]]({{lang-en-short|United States of America|links-no}}、米国)と[[メキシコ|メキシコ合衆国]]({{lang-es-short|Estados Unidos Mexicanos|links-no}}、墨国)の2か国がある。古くは前者のみであり、単に合衆国(United States)と呼ぶ場合はアメリカ合衆国を指すことが多い。メキシコ国内においても、合衆国を意味する{{lang-es|Estados Unidos|links=no}}は、自国ではなく米国を指す言葉として用いられることが通常である。 == 概要 == United Statesとは、複数のState(州、国、邦)の連合体を意味し、現代の日本語に直訳すれば「連合諸州(諸国・諸邦)」、「[[連邦]]」と同じ意味合いとなる。しかしながら、江戸時代末期(幕末{{efn2|例えば[[日米和親条約]]の正式名称は「日本國米利堅合衆國和親條約」であり、U.S.A.は「米利堅合衆國」と訳されている}})以降、現代に至るまで日本の政府・社会一般では一貫して「合衆国」を用いている{{efn2|なお、United Statesを「合州国」と訳す著述家もおり、その代表者は[[本多勝一]]であり、本多にならう者も決して少なくない。ただし、本多は著書の中でこの表記は自分の趣味で行っているものであり、U.S.A.の正式名称の変更を意図するものではないと断りを入れている。}}。「連邦」の語は[[w:Federation|Federation]]の訳語として当てることが多い{{efn2|アメリカ合衆国でも政府機関の中には[[連邦捜査局]](Federal Bureau of Investigation, FBI)や[[連邦航空局]](Federal Aviation Administration, FAA)のように「Federal」(連邦)が使用されているものがある。}}([[ロシア連邦]]、[[セントクリストファー・ネイビス|セントクリストファー・ネイビス連邦]]など)。 「合衆国」が使われる以前の“United States of America”の漢字表記としては、日本では「アメリカ共和政治」{{sfn|宮澤|2003|pp=109-110}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/2-8.html |title=箕作省吾『新製輿地全図』1844年 |website=新製輿地全図 |publisher=Tulips - 筑波大学附属図書館 |accessdate=2022-11-17 |quote=地図中、北アメリカ大陸に「北亞墨利加」と縦書きされ、その左横に「共和政治」とある。}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/denshi.html |title=電子展示 |website=古地図の世界 |publisher=Tulips - 筑波大学附属図書館 |accessdate=2022-11-17}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/opac/volume/1552093 |title=新製輿地全圖 |website=Tulips - 筑波大学附属図書館 |accessdate=2022-11-17}}</ref>、「アメリカ合同国」<ref>新発田収蔵『新訂坤輿略全図』1852年<br />{{Cite web|和書|url=http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/exhibit-2004/contents.html |title=2 世界図編 - 2.1.3 日本人による北方図 - 新訂坤輿略全圖 / 新發田収藏 (資料解説) |website=蘆田文庫特別展 |publisher=明治大学図書館 |accessdate=2022-11-17}}</ref>、中国では「美理哥合省国」「兼摂列邦」「育奈士迭」(United Statesの音訳{{sfn|斎藤|1971|p=4}})などがある。参考までに、“United Kingdom”は「連合王国」と([[イギリス]]の日本語での正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」){{efn2|明治から昭和初期において、イギリスの説明として「合衆王国」を用いる例が教科書や新聞等で散見される。}}、“United Nations”は「国際連合」「連合国」と訳されるように、現代ではUnitedは「連合」と訳されることが多い。 == 語の由来 == === 望厦条約説 === 1844年に[[アメリカ合衆国|米]][[清]]間で締結された[[望厦条約]]の中国語文において「合衆国」表記が採用された。これが[[黒船来航|ペリー来航]]時かその少し前に日本に伝わり、広まったとする{{sfn|宮澤|2003|p=135}}<ref>{{Cite book|和書|editor1=川島 真 |editor2=服部龍二 |title=東アジア国際政治史 |date=2007-06-10 |publisher=名古屋大学出版会 |isbn=978-4-8158-0561-6 |page=10 |id=Cコード C3031}}</ref>。 === 「合州国」の誤記説 === 単に合'''州'''国と書くべきところを合'''衆'''国と、誤って表記したという説。“United States”を直訳すれば合州国という表現が適切であり、合衆国という訳にはならないとして、支持する者もいる。[[本多勝一]]が自著『[[アメリカ合州国]]』で主張している。 === 「『合衆=共和制』+国」説 === 「合衆」(がっしゅう)は幕末から明治初期に日本で発案された訳語で、本来的な意味としては「[[共和制]]」(Republic:君主のいない、民衆から元首を選ぶ制度)、ないしは「[[民主主義]]」(democracy, democratic)の古い訳語(前身)であり、そもそも“United States”の直訳語ではない、とする説。「合衆制度により治められる国」の意となる。由来は[[周礼]]・春官大宗伯の「大封之禮、合衆也」<ref>[[s:zh:周禮/春官宗伯#大宗伯之職|周禮 春官宗伯 大宗伯之職]] 「大封之禮,合眾也。」 Wikisource.</ref>から。この説によれば、中国語へも日本語から輸出されたこととなる。[[高島俊男]]はこの説が正しいとしており、「合州国」の誤記説を唱える[[本多勝一]]を批判している。 === 「合+『衆国=共和制』」説 === この訳語は中国にいた宣教師[[イライジャ・コールマン・ブリッジマン|ブリッジマン]]によって作られ、それが日本語に転用(輸入)された、とする説。合衆国とは「衆国を合わせた」という意味を表し、「衆国」とは大衆によって運営される国(共和政体)のことを指すという。ブリッジマンは、当時中国在住の外国人の間で読まれていたChinese Repository 1845, Jan. ART. VIII{{efn2|name="The Chinese Repository Volume 14"|発行年から''The Chinese Repository Volume 14''と類推される<ref>[[s:en:The Chinese Repository]] Wikisource.<br />[[media:The Chinese Repository - Volume 14.pdf]] Wikimedia.<br />ART. VIII. Journal of Occurrences p.55, l.10-11(PDFでのページ番号は71/613)</ref>。}}に下記のように書いている。 {{Quote|the United States are designed{{sic|?}} as the Hoh Chung Kwoh | | |Chinese Repository 1845, Jan. ART. VIII<ref>{{Cite book|和書|editor=中国古籍文化研究所 |title=中国古籍流通学の確立 流通する古籍・流通する文化 |year=2007 |month=4 |publisher=雄山閣 |series=アジア地域文化学叢書 |isbn=978-4-6390-1973-2 |page=155}}</ref>}} 本多も、ブリッジマン(中国名:裨治文)に『亜美理駕合衆国志略』という著書(1846年)があることを指摘し、「合衆国」は中国語に色々あった訳語の一つであり、合衆共治国(共和国)を略した意訳であろうと推定しており、日本もこれを借用したものとする{{efn2|[[本多勝一]]『アメリカ合州国』{{Full citation needed|date=2022年11月}}(朝日新聞社)第7刷以降の「付録3」。同『新・アメリカ合州国』<ref>{{Cite book|和書|author=本多勝一 |authorlink=本多勝一 |title=新・アメリカ合州国 |year=2003 |month=6 |publisher=朝日新聞社 |series=朝日文芸文庫 ほ 1-40 |isbn=978-4-0226-1419-3 |page=313}}</ref>。なお同書で、[[齋藤毅 (図書館員)|斎藤毅]]「合衆国はなぜ合州国と書かないのか」{{sfn|斎藤|1971}}も同様に中国からの輸入説をとるものとして紹介されている。}}。 === 「『合衆=United』+国」説 === 「合衆」は「複数のものを合わせてひとつにする」という意味で、 Unitedの訳とする{{sfn|宮澤|2003|p=106}}。[[和田光弘]]は、「合衆」の意味に「民主」や「共和」の意味を読み込む見解に対し、[[松山棟庵]]『地学事始』(1870年)などが、「United Kingdom」([[イギリス]])を「合衆王国」と訳していることを指摘する<ref>{{Cite book|和書|author=和田光弘 |authorlink=和田光弘 |title=植民地から建国へ 19世紀初頭まで |date=2019-04-20 |publisher=岩波書店 |series=岩波新書 |isbn=978-4-00-431770-8 |page={{要ページ番号|date=2021年10月}} |oclc=1102184789}}</ref>。イギリスを「合衆王国」とする例は、[[福沢諭吉]]『西洋事情・初編三』(1866年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://iiif.lib.keio.ac.jp/FKZ/F7-A02-03/pdf/F7-A02-03.pdf#page=19 |format=PDF |title=西洋事情. 初編. 三 |page=35 |website=デジタルで読む福澤諭吉 - 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション Digital Collections of Keio University Libraries |publisher=慶應義塾大学 |accessdate=2022-11-17 |quote=l.6 阿爾蘭ヲ併セテ合衆王國ト稱ス○(現代語訳:阿爾蘭(アイルランド)を併せて合衆王国と称す。)}}(PDFでのページ番号は19/53)</ref>、アルバニイ・ホンブランク著 鈴木唯一訳『英政如何』(1868年)<ref>[{{NDLDC|782924}} 英政如何. 1] 国立国会図書館デジタルコレクション</ref>、村田文夫『西洋聞見録. 前編 巻之中-下』(1869年)<ref>[{{NDLDC|761264}} 西洋聞見録. 前編 巻之中-下] 国立国会図書館デジタルコレクション</ref>などにも見える<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?featureCode=all&searchWord=%E5%90%88%E8%A1%86%E7%8E%8B%E5%9C%8B&fulltext=1&viewRestricted=0 |title=合衆王國 - 検索結果 |website=国立国会図書館デジタルコレクション |publisher=国立国会図書館 |accessdate=2022-11-17}}</ref>。 === 「合+『衆国=States』」説 === '''合'''わさった'''衆'''(多数の)'''国'''(state, 州)、とUnited Statesを直訳したものである。 [[望厦条約]]より前の[[1844年]]正月の、広州巡撫からの上奏文に「該國係二十六虜爲一國、故有合衆國之名」とある。 また、先述したChinese Repository 1845, Jan. ART. VIII{{efn2|name="The Chinese Repository Volume 14"}}には条約翻訳者による注記として {{Quote|in the 34 articles, the United States are designated as the Hoh Chung Kwoh, the literal meaning of which characters is either, "the united all nation" or "the union of all nations", they do not, however, in any sense express the "United States". | | |Chinese Repository 1845, Jan. ART. VIII}} とあり、「United States の訳として合衆国を当ててみたが少し違う」との印象を持っていたと推察される{{sfn|千葉|2003|pp=222-223}}。加えて「同じ条約内で State と Nation を同じ『国』を使って表すのでよくない」と不満を述べている。しかし望厦条約で採用され、以降「合衆国」がアメリカの公式漢字名として定着してしまった。 == 「合衆国」と称する国 == === 合衆国と称する国 === 2021年現在、合衆国として存続するのは2か国だけである。 * [[アメリカ合衆国]]([[1776年]] - ) * [[メキシコ|メキシコ合衆国]]([[1824年]] - 〈途中一時変更の後〉 - )※スペイン語国名には{{es|Estados Unidos}}(合衆国)があるが、英語国名“United Mexican States”では“United”と“States”の2語が連続していない。 === 合衆国(United States)と称していた国 === * [[ベルギー合衆国]](現:[[ベルギー|ベルギー王国]])([[1790年]]) * [[イオニア諸島合衆国]]([[1815年]] - [[1864年]]) * [[中央アメリカ連邦共和国]]([[1824年]] - [[1839年]]) * [[コロンビア合衆国]](現:[[コロンビア|コロンビア共和国]] ※[[大コロンビア]]ではない)([[1863年]] - [[1886年]]) * [[ベネズエラ]]([[1864年]] - [[1953年]]) * [[ブラジル|ブラジル連邦]]([[1889年]] - [[1968年]]) * [[インドネシア連邦共和国]]([[1949年]] - [[1950年]]) === 合衆国(United Provinces)と称していた国 === * {{仮リンク|ヌエバ・グラナダ諸州連合|en|United Provinces of New Granada}}([[1810年]] - [[1816年]]) * [[アルゼンチン]](1816年 - [[1853年]]) * 中央アメリカ諸州連合([[1823年]] - [[1824年]]) - [[中央アメリカ連邦共和国]] の前身 * [[カナダ]]([[1841年]] - [[1867年]]) * [[中央統合諸州]]([[1859年]] - [[1860年]]) * {{仮リンク|アグラ・オウド諸州連合|en|United Provinces of Agra and Oudh}}([[1902年]] - [[1921年]]) - 現在の[[ウッタル・プラデーシュ州]] * {{仮リンク|英領インド諸州連合|en|United Provinces of British India}}(1921年 - [[1937年]]) - 現在のウッタル・プラデーシュ州 * {{仮リンク|諸州連合 (1937-1950)|label=諸州連合|en|United Provinces (1937–50)}}(1937年 - [[1950年]]) - 現在のウッタル・プラデーシュ州 * [[黒竜江嫩江聯合省]]([[1947年]]) === 国家構想 === * [[アフリカ合衆国]] * [[ヨーロッパ合衆国]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|30em}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|author=宮澤俊雅 |title=「US漢号」覚書 : 「合衆国」考 |date=2003-02-28 |publisher=北海道大学文学研究科 |journal=北海道大学文学研究科紀要 |volume=109 |hdl=2115/34040 |pages=101-157 |ref={{sfnref|宮澤|2003}} }} * {{Cite journal|和書|author=千葉謙悟 |title=the United Statesと「合衆國」-中西言語文化接触の視点から- |year=2003 |publisher=早稲田大学大学院文学研究科 |journal=英文学フランス文学ドイツ文学ロシヤ文学中国文学 |volume=49 |issn=1341-7525 |hdl=2065/8485 |pages=217-227 |ref={{sfnref|千葉|2003}} }} * {{Cite journal|和書|author=斎藤毅 |authorlink=齋藤毅 (図書館員) |title=合衆国はなぜ合州国と書かないのか |date=1971-01-20 |publisher=国立国会図書館 |journal=参考書誌研究 |volume=2 |id={{NDLJP|3050848}} |ref={{sfnref|斎藤|1971}} }} == 関連項目 == * {{節リンク|外国地名および国名の漢字表記一覧|アメリカ合衆国}} {{デフォルトソート:かつしゆうこく}} [[Category:政体]]
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1632年
1632年(1632 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
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1632年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1632}} {{year-definition|1632}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛永]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2292年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[崇禎]]5年 ** [[後金]]{{Sup|*}} : [[天聡]]6年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[仁祖]]10年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3965年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[徳隆]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2174年 - 2175年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1041年 - 1042年 * [[ユダヤ暦]] : 5392年 - 5393年 * [[ユリウス暦]] : 1631年12月22日 - 1632年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1632}} == できごと == * [[4月15日]]([[旧暦]][[4月5日 (旧暦)|4月5日]]) - [[レヒ川の戦い]]{{要出典|date=2021-02}}。 * [[11月16日]]([[11月6日 (旧暦)|旧暦11月6日]]) - [[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]。[[スウェーデン]]王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ・アドルフ]]戦死。[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ女王]]が即位。 * [[ガリレオ・ガリレイ]]、『天文対話』を刊行。 * [[アンソニー・ヴァン・ダイク|ヴァン・ダイク]]が[[イングランド]]に渡り、[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]の[[宮廷画家]]となる。 * [[ホンタイジ]](太宗)が部下の[[ダハイ]](達海)に命じて[[満洲文字]]の表記を改良。 * [[江戸幕府]]の[[大御所]]・[[徳川秀忠]]が薨去。 == 誕生 == {{see also|Category:1632年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月8日]] - [[ザミュエル・フォン・プーフェンドルフ]]、[[ドイツ]]の[[法学者一覧|法学者]](+ [[1694年]]) * [[2月18日]] - [[ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィターリ]]、[[イタリア]]の[[ヴァイオリニスト]]・[[歌手]]・[[作曲家]](+ [[1692年]]) * [[8月29日]] - [[ジョン・ロック]]、[[イギリス]]の[[哲学者]]・[[政治学|政治思想家]](+ [[1704年]]) * [[10月20日]] - [[クリストファー・レン]]、イギリスの[[建築家]](+ [[1723年]]) * [[10月24日]] - [[アントニ・ファン・レーウェンフック]]、[[オランダ]]のアマチュア[[生物学|生物学者]](+ [[1723年]]) * [[10月31日]]受洗 - [[ヨハネス・フェルメール]]、オランダの[[画家]](+ [[1675年]]) * [[11月23日]] - [[ジャン・マビヨン]]、[[フランス]]の[[史学史]]家(+ [[1707年]]) * [[11月24日]] - [[バールーフ・デ・スピノザ]]、オランダの哲学者、[[神学者]](+ [[1677年]]) * [[11月28日]] - [[ジャン=バティスト・リュリ]]、イタリア出身のフランスの作曲家(+ [[1687年]]) * [[円空]]、[[僧]]・[[仏師]](+ [[1695年]]) == 死去 == {{see also|Category:1632年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> *[[1月31日]](寛永8年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]) - [[三好為三]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期の[[武将]]、[[旗本]](* [[1536年]]) * [[2月23日]] - [[ジャンバティスタ・バジーレ]]、[[詩人]]、[[軍人]](* [[1575年]]?) * [[3月14日]](寛永9年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[徳川秀忠]]、[[江戸幕府]]第2代[[征夷大将軍]](* [[1579年]]) * [[3月15日]](寛永9年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[森川重俊]]、老中(* [[1584年]]) * [[4月30日]] - [[ティリー伯ヨハン・セルクラエス]]、軍人(* [[1559年]]) * [[10月31日]](寛永9年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[飯田直景]]、[[加藤清正]]の家臣、[[日本槍柱七本]]の一人(* [[1565年]]?) * [[11月6日]] - [[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]、[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン国王]](* [[1594年]]) * [[11月27日]] - [[ジョン・エリオット (1592年生の政治家)|ジョン・エリオット]]、イングランドの[[政治家]](* [[1592年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1632}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1632ねん}} [[Category:1632年|*]]
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1866年
1866年(1866 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。 ※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
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1866年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1866}} {{year-definition|1866}} == 他の紀年法 == * 干支:[[丙寅]] * 日本([[天保暦]]) ** [[慶応]]元年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]] - 慶応2年[[11月25日 (旧暦)|11月25日]] ** [[皇紀]]2526年 * [[清]]:[[同治]]4年11月15日 - 同治5年11月25日 * [[朝鮮]] <!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし--> ** [[李氏朝鮮]] : [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]3年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4199年 * ベトナム([[阮朝]]):[[嗣徳]]19年 * [[仏滅紀元]]:2408年 - 2409年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1282年8月13日 - 1283年8月23日 * [[ユダヤ暦]]:5626年4月14日 - 5627年4月23日 * [[修正ユリウス日]](MJD):2602 - 2966 * [[リリウス日]](LD):103443 - 103807 <div style="font-size:smaller"> ※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br /> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1866}} == できごと == === 1月 === * [[1月12日]] - 英国で[[王立航空協会]]([[:en:Royal Aeronautical Society|Royal Aeronautical Society]])設立{{要出典|date=2021-02}}。 * [[ドストエフスキー]]「[[罪と罰]]」連載開始 * [[1月30日]] - [[浅草]]の大火で[[雷門]]が焼失。慶応元年12月14日午後10時ごろ、浅草三軒町から出火して浅草一円を焼いた。<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45963_21736.html 『幕末維新懐古談』高村光雲]青空文庫</ref> === 2月 === * [[2月4日]] - [[メリー・ベーカー・エディ]]が聖書で大怪我から回復 * [[2月13日]] - [[ジェシー・ジェイムズ]]が最初の銀行強盗に成功('''銀行強盗の日''') === 3月 === * [[3月7日]]([[慶応]]2年[[1月21日 (旧暦)|1月21日]]) - [[薩長同盟]]成立 * [[3月8日]] - [[丙寅教獄]]: [[李氏朝鮮]]でフランス人宣教師他[[カトリック教会|カトリック教徒]]の虐殺が始る * [[3月9日]](慶応2年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[坂本龍馬襲撃事件]](寺田屋事件) === 4月 === * [[4月4日]] - [[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]暗殺未遂([[キエフ]]) * [[4月8日]] - [[イタリア王国]]と[[プロイセン王国]]が[[オーストリア帝国]]に対抗する同盟を結成 * [[4月9日]] - 米国で[[公民権法 (1866年)|公民権法]]([[:en:Civil Rights Act of 1866]])成立 * [[4月10日]] - [[米国動物虐待防止協会]]設立 === 5月 === * [[5月2日]] - {{仮リンク|チンチャ諸島戦争|es|Guerra hispano-sudamericana|en|Chincha Islands War}}: [[カヤオの戦い]]([[:en:Battle of Callao|Battle of Callao]]) * [[5月16日]] ** 米国で[[ルートビア]]が商品化 ** 米国議会が[[5セント硬貨 (アメリカ合衆国)|5セント硬貨]]発行を決定 * [[5月28日]] - 初めての病院用[[救急車]]が運用開始(米国[[シンシナティ]]) * [[5月30日]] - [[ベドルジハ・スメタナ]]歌劇「[[売られた花嫁]]」初演([[プラハ]]) === 6月 === * [[6月5日]] - [[冥王星]]が[[遠日点]]に到達(次回は[[2113年]]) * [[6月8日]] - [[カナダ議会|自治領カナダ議会]]が初会合 * [[6月13日]] - 米国で[[アメリカ合衆国憲法修正第14条|憲法修正第14条]]が提案(批准成立[[1868年]]) * [[6月15日]] - [[普墺戦争]]: [[プロイセン王国]]が[[オーストリア帝国]]および[[ドイツ連邦]]諸国に宣戦布告 * [[6月20日]] - 普墺戦争: [[イタリア王国]]がオーストリアに宣戦布告 * [[6月25日]](慶応2年[[5月13日 (旧暦)|5月13日]]) - 幕府が英米仏蘭との[[改税約書]](江戸条約)に調印(7月1日実施) * [[6月27日]] - 普墺戦争: {{仮リンク|ランゲンザルツァの戦い|de|Schlacht bei Langensalza}} * [[6月28日]] - 英国で[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|スタンリー]]第3次内閣成立 === 7月 === * [[7月1日]] - [[ルーマニア]]で最初の憲法施行 * [[7月3日]] **[[普墺戦争]]: [[ケーニヒグレーツの戦い]]: [[プロイセン王国|プロイセン]]軍が[[オーストリア帝国|オーストリア]]軍に大勝 **[[プロイセン衆議院]]の総選挙。ビスマルク政府支持派が大勝。自由主義派は過半数を失う。 * [[7月6日]] - [[イギリス]]で第3次[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー伯爵]]内閣([[保守党 (イギリス)|保守党]]政権)成立 * [[7月18日]](慶応2年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[第二次長州征伐]]: 幕府軍と長州軍の戦闘開始 * [[7月20日]] - [[普墺戦争]]: [[リッサ海戦]] * [[7月24日]] - [[レコンストラクション]]: [[テネシー州]]が[[アメリカ連合国]]諸州ではじめて[[アメリカ合衆国]]に復帰 * [[7月25日]] ** 米国議会が[[元帥 (アメリカ合衆国)|陸軍元帥]]を認可: [[ユリシーズ・グラント]]が初の元帥となる ** [[デヴィッド・ファラガット]]が初の海軍大将(Full Admiral)となる * [[7月27日]] - [[大西洋横断電信ケーブル]]完成 * [[7月28日]] - 米国で[[メートル法]]が合法化 * [[7月29日]](慶応2年[[6月18日 (旧暦)|6月18日]]) - [[第二次長州征伐]]: 長州軍が浜田城を占領 * [[7月30日]](慶応2年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) - [[蝦夷地|蝦夷]][[松前藩]]、第13代藩主[[松前徳広]]が襲封 === 8月 === * [[8月20日]] - [[南北戦争]]: [[アンドリュー・ジョンソン|ジョンソン]]大統領が終結を公式に宣言 * [[8月23日]] - [[普墺戦争]]: [[プラハ条約 (1866年)|プラハ条約]]: [[ドイツ連邦]]解体 * [[8月29日]](慶応2年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[第二次長州征伐]]: [[徳川家茂]]が出陣中に病死 * 8月終わり、プロイセンと北ドイツ諸国が[[北ドイツ連邦]]規約を締結。北ドイツ連邦憲法制定議会設置を合意。 === 9月 === * [[9月9日]](慶応2年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[第二次長州征伐]]: 長州軍が小倉城を占領 === 10月 === * [[10月12日]] - [[ウィーン条約 (1866年)|ウィーン条約]]: [[オーストリア帝国]]が[[ヴェネツィア]]を[[イタリア王国]]に割譲 * [[10月14日]] - [[丙寅洋擾]]: フランスが[[丙寅教獄]]の報復として朝鮮を攻撃し[[江華島]]を占拠 * [[10月31日]](慶応2年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]) - [[徳川家茂]]葬儀([[増上寺]]) === 11月 === * [[11月17日]] - [[アンブロワーズ・トマ]]歌劇「[[ミニョン]]」初演([[オペラ=コミック座]]) === 12月 === * [[12月12日]] - 英国オーク炭坑で爆発事故([[:en:The Oaks explosion|The Oaks explosion]])(死者338名、英国第二の炭坑事故) * [[12月21日]] - 世界初の[[魚雷]](Minenschiff)が完成 === 日付不詳 === * [[アルフレッド・ノーベル]]が[[ダイナマイト]]を発明 * [[福澤諭吉]]「[[西洋事情]](巻之一)」刊行 == 誕生 == {{see also|Category:1866年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月5日]] - [[ラモン・カザス]]、[[画家]](+ [[1932年]]) * [[1月8日]] - [[ハリス・ライアン]]、[[電子工学]]研究者(+ [[1934年]]) * [[1月13日]] - [[ヴァシリー・カリンニコフ]]、[[作曲家]](+ [[1901年]]) * [[1月15日]] - [[ナータン・セーデルブロム]]、[[キリスト教]]聖職者(+ [[1931年]]) * [[1月17日]](慶応元年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[松方幸次郎]]、[[実業家]](+ [[1950年]]) * [[1月23日]](慶応元年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]) - [[川島浪速]]、[[大陸浪人]](+ [[1949年]]) * [[1月29日]] - [[ロマン・ロラン]]、小説家(+ [[1944年]]) * [[2月16日]] - [[ヨハン・シュトラウス3世]]、[[音楽家]](+ [[1939年]]) * [[2月16日]] - [[ビリー・ハミルトン]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1940年]]) * [[1月14日]] - [[ヤーン・ポスカ]]、政治家 (+[[1920年]]) * [[2月18日]](慶応2年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[中川小十郎]]、[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[立命館大学]]創設者(+ [[1944年]]) * [[2月25日]] - [[ベネデット・クローチェ]]、[[哲学者]](+ [[1952年]]) * [[2月26日]](慶応2年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]])- [[河口慧海]]、[[仏教学者]]・[[探検家]](+ [[1945年]]) * [[3月17日]](慶応2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[野口幽香]]、幼児教育者・社会事業家(+ [[1950年]]) * [[3月21日]](慶応2年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]]) - [[若槻禮次郎]]、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]、[[政治家]](+ [[1949年]]) * [[4月1日]] - [[フェルッチョ・ブゾーニ]]、作曲家(+ [[1924年]]) * [[4月10日]](慶応2年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[寺崎広業]]、[[日本画家]](+ [[1919年]]) * [[4月13日]] - [[ブッチ・キャシディ]]、[[ガンマン]]・[[無法者]](+ [[1908年]]) * [[4月14日]] - [[アン・サリヴァン]]、[[ヘレン・ケラー]]の[[家庭教師]]として知られる教育者(+ [[1936年]]) * [[4月24日]](慶応2年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[石井菊次郎]]、日本の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]](+ [[1945年]]) * [[5月12日]] - [[グスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェン]]、[[探検家]](+ [[1910年]]) * [[5月13日]] - [[オトカル・ノヴァーチェク]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ [[1900年]]) * [[5月17日]] - [[エリック・サティ]]、フランスの作曲家(+ [[1925年]]) * [[6月26日]] - [[ジョージ・ハーバート (第5代カーナヴォン伯)]]、[[イギリス]]の貴族(+ [[1923年]]) * [[6月29日]](慶応2年[[5月17日 (旧暦)|5月17日]]) - [[高楠順次郎]]、[[仏教学者]](+ [[1945年]]) * [[7月1日]] - [[チャールズ・ダベンポート]]、[[生物学者]](+ [[1944年]]) * [[7月20日]](慶応2年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) - [[二宮忠八]]、[[飛行機]][[技術者]](+ [[1936年]]) * [[7月21日]] - [[マット・キルロイ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1940年]]) * [[7月28日]] - [[ビアトリクス・ポター]]、イギリスの絵本作家(+ [[1943年]]) * [[8月9日]](慶応2年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[黒田清輝]]、[[画家]](+ [[1924年]]) * [[8月12日]] - [[ハシント・ベナベンテ]]、[[劇作家]](+ [[1954年]]) * [[8月19日]](慶応2年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]) - [[中村不折]]、[[洋画家]]・[[書家]](+ [[1943年]]) * [[9月1日]] - [[ジェームス・J・コーベット]]、アメリカのボクサー(+ [[1933年]]) * [[9月3日]] - [[鳳凰馬五郎]]、[[大相撲]]元力士・[[大関]](+ [[1907年]]) * [[9月9日]] - [[ロジャー・フライ]]、画家・芸術[[批評家]](+ [[1934年]]) * [[9月21日]] - [[シャルル・ジュール・アンリ・ニコル]]、[[細菌学|細菌学者]](+ [[1936年]]) * 9月21日 - [[ハーバート・ジョージ・ウェルズ]]、[[SF作家]](+ [[1946年]]) * [[9月25日]] - [[トーマス・ハント・モーガン]]、[[遺伝学|遺伝学者]](+ [[1945年]]) * [[10月6日]] - [[レジナルド・フェッセンデン]]、[[発明家]](+ [[1932年]]) * [[10月12日]] - [[ラムゼイ・マクドナルド]]、[[イギリスの首相]](+ [[1937年]]) * [[11月11日]](慶応2年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - [[藤井健次郎]]、[[植物学者]]・[[遺伝学者]](+ [[1952年]]) * [[11月12日]](慶応2年[[10月6日 (旧暦)|10月6日]]) - [[孫文]]、中国の革命家(+ [[1925年]]) * [[11月20日]] - [[ケネソー・マウンテン・ランディス]]、MLB[[コミッショナー]](+ [[1944年]]) * [[11月21日]](慶応2年[[10月15日 (旧暦)|10月15日]]) - [[小錦八十吉 (初代)]]、大相撲第17代[[横綱]](+ [[1914年]]) * [[11月26日]] - [[ヒュー・ダフィー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1954年]]) * [[11月30日]] - [[ロバート・ブルーム]]、[[古人類学|古人類学者]](+ [[1951年]]) * [[12月11日]] - [[アントワーヌ・メイエ]]、[[言語学者]](+ [[1936年]]) * [[12月12日]] - [[アルフレート・ヴェルナー]]、[[化学者]](+ [[1919年]]) * [[12月16日]] - [[ワシリー・カンディンスキー]]、[[画家]](+ [[1944年]]) * [[12月29日]] - [[ガス・ウェイイング]]、メジャーリーガー(+ [[1955年]]) == 死去 == {{see also|Category:1866年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月16日]] - [[フィニアス・クインビー]]、[[ニューソート]]指導者(* [[1802年]]) * [[1月31日]] - [[フリードリヒ・リュッケルト]]、[[詩人]](* [[1788年]]) * [[2月28日]](慶応2年[[1月14日 (旧暦)|1月14日]]) - [[高島秋帆]]、[[砲術|砲術家]](* [[1798年]]) * [[3月11日]](慶応2年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[赤禰武人]]、[[奇兵隊]]総管(* [[1838年]]) * [[3月24日]] - [[マリー・アメリー・ド・ブルボン]]、[[フランス王国|フランス王]][[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の妃(* [[1782年]]) * [[3月28日]](慶応2年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[河合耆三郎]]、[[新選組]]勘定方(* [[1838年]]) * [[4月26日]] - [[ヘルマン・ゴルトシュミット]]、[[天文学者]](* [[1802年]]) * [[5月11日]] - [[ジョージ・バジャー]]、第12代[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1795年]]) * [[5月22日]](慶応2年[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]) - [[吉良の仁吉]]、[[幕末]]の[[侠客]](* [[1839年]]) * [[6月6日]](慶応2年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[松前崇広]]、[[老中]]、[[蝦夷地]][[松前藩]]第12代藩主(* [[1829年]]) * [[6月20日]](慶応2年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[市川小團次 (4代目)|四代目市川小團次]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1812年]]) * [[7月20日]] - [[ベルンハルト・リーマン]]、[[数学者]](* [[1826年]]) * [[8月29日]](慶応2年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]) - [[徳川家茂]]、[[江戸幕府]]第14代[[征夷大将軍]](* [[1846年]]) * [[9月5日]] - [[ジュール・デュピュイ]]、[[経済学者]](* [[1804年]]) * [[9月25日]] - [[カール・ヘンケ]]、天文学者(* [[1793年]]) * [[10月5日]] - [[レオポルト・フォン・ヘニング]]、[[哲学|哲学者]](* [[1791年]]) * [[10月18日]] - [[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]、[[医師]]・[[博物学|博物学者]](* [[1796年]]) * [[10月26日]](慶応2年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]]) - [[海保漁村]]、[[儒学者]](* [[1798年]]) * [[11月14日]] - [[ミゲル1世 (ポルトガル王)|ミゲル1世]]、[[ポルトガル]]王(* [[1802年]]) * [[11月23日]] - [[ケイヴ・ジョンソン]]、第15代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1793年]]) * [[12月1日]] - [[ジョージ・エベレスト]]、[[探検家]](* [[1790年]]) * [[12月3日]] - [[ヤン・ヴァーツラフ・カリヴォダ]]、作曲家(* [[1801年]]) * [[12月4日]](慶応2年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[お由羅の方]]、[[薩摩藩|薩摩藩主]][[島津斉興]]の[[側室]]・[[お由羅騒動]]首謀者(* [[1795年]]) * [[12月19日]] - [[ミハイル・ペトラシェフスキー]]、[[社会主義|社会主義者]](* [[1821年]]) == フィクションのできごと == * [[3月3日]] - 同日夜、元[[アメリカ連合国#軍事|南軍]][[南北戦争の騎兵#南軍騎兵隊|騎兵隊]]大尉ジョン・カーターが、[[アリゾナ州|アリゾナ]]の砂漠で[[アパッチ族|アパッチ]]の襲撃から逃れている最中に[[火星]]へと旅立つ。(小説『[[火星のプリンセス]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= エドガー・ライス・バローズ|authorlink=エドガー・ライス・バローズ |title = 合本版・火星シリーズ 第1集 火星のプリンセス |publisher = [[東京創元社]] |year = 1999 |pages = 21-37 |isbn = 978-4-488-60139-3}}</ref> * 2代目ドクターとジェイミーが科学者エドワードによりこの時代に転送される。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1866}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1866ねん}} [[Category:1866年|*]]
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1670年
1670年(1670 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1670年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1670}} {{year-definition|1670}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛文]]10年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2330年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]9年 *** [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏政権]]{{Sup|*}} : [[永暦 (南明)|永暦]]24年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]11年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4003年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景治]]8年 * [[仏滅紀元]] : 2212年 - 2213年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1080年 - 1081年 * [[ユダヤ暦]] : 5430年 - 5431年 * [[ユリウス暦]] : 1669年12月22日 - 1670年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1670}} == できごと == * [[4月14日]](寛文10年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]) - [[箱根町|箱根]][[芦ノ湖]]に[[箱根用水]](深良用水)の全長1,200メートルの隧道が貫通。 * [[5月]] - [[カナダ]]:[[ハドソン湾会社]]設立。現存する北米最古の会社。 * [[10月5日]]~[[10月6日|6日]](寛文10年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]~[[8月23日 (旧暦)|23日]]) - [[近畿地方]]を大風雨([[暴風雨]])が襲い、[[瀬戸内海]]東部では[[高潮]]が発生<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈3〉[[安土桃山時代]]~[[江戸時代]]|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33703-8|author=[[伊藤和明]]|page=14}}</ref>。[[軍学者]]の[[山鹿素行]]は、この災害をまとめてその日記に、[[播磨国|播磨]]・[[摂津国|摂津]]([[兵庫県]]南東部・[[大阪府]]西部)両国で2143人死亡、家屋流失949戸、[[船舶]]の損壊7323艘と記録した<ref>小倉一徳編、[[力武常次]]、竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 86頁:寛文10.8.23 近畿地方大風雨」、池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代前期 381頁:〇二十二、三日」、荒川秀俊ほか編「日本高潮史料 29頁~30頁:寛文十年八月二十三日」、黒田義隆著「明石市史 上巻>年表 39頁:1670寛文10.8.3」、[[国立国会図書館デジタルコレクション]]「国史叢書・玉露叢2 巻第廿一 13頁(15コマ):一、去る廿三日に……」[https://www.bosaijoho.net/2022/04/05/2020%e5%b9%b4%e4%bb%a4%e5%92%8c2%e5%b9%b410%e6%9c%88%e3%81%ae%e5%91%a8%e5%b9%b4%e7%81%bd%e5%ae%b3/]</ref>。 * [[ロシア]]:[[ステンカ・ラージンの乱]](-[[1671年]])。 == 誕生 == {{see also|Category:1670年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月24日]] - [[ウィリアム・コングリーヴ]]([[w:William Congreve|William Congreve]]){{要出典|date=2021-03}}、[[劇作家]](+ [[1729年]]) * [[5月12日]] - [[アウグスト2世 (ポーランド王)|強健王アウグスト2世]]、[[ポーランド]][[国王|王]]、[[ザクセン選帝侯]](+ [[1733年]]) * [[7月18日]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ]]、[[作曲家]]、[[チェロ]]奏者(+ [[1747年]]) * [[11月20日]]受洗 - [[バーナード・デ・マンデヴィル]]、[[哲学者]]、[[風刺]][[作家]](+ [[1733年]]) * [[11月30日]] - [[ジョン・トーランド (自由思想家)|ジョン・トーランド]]([[w:John Toland|John Toland]])、[[自由思想|自由思想家]](+ [[1722年]]) * [[12月]] - [[ジャン=バティスト・デュボス]]、[[聖職者]]、[[歴史家]](+ [[1742年]]) * [[浅野長広]]、[[浅野長矩]]の弟(+ [[1734年]]) * [[堀部武庸]]、[[赤穂浪士]](+ [[1703年]]) * [[倉橋武幸]]、赤穂浪士(+ 1703年) * [[富森正因]]、赤穂浪士(+ 1703年) * [[不破正種]]、赤穂浪士(+ 1703年) * [[アントニオ・カルダーラ]]、作曲家(+ [[1736年]]) * [[ヨハン・カスパール・フェルディナント・フィッシャー]]、作曲家(+ [[1746年]]) * [[ターロック・オキャロラン]]、作曲家、[[ハープ]]奏者(+ [[1738年]]) == 死去 == {{see also|Category:1670年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月19日]] - [[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]、[[デンマーク]]王(* [[1609年]]) * [[3月10日]] - [[ヨハン・ルドルフ・グラウバー]]、[[薬剤師]]、[[化学者]](* [[1604年]]) * [[4月26日]]([[寛文]]10年[[3月7日 (旧暦)|3月7日]]) - [[関口氏心]]、[[柔術家]](* [[1598年]]) * [[5月21日]] - [[ニッコロ・ズッキ]]、[[イエズス会]]士、[[天文学者]](* [[1586年]]) * [[5月23日]] - [[フェルディナンド2世・デ・メディチ]]、[[トスカーナ大公]](* [[1610年]]) * [[6月30日]] - [[ヘンリエッタ・アン・ステュアート]]、[[イングランド]]王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]の妹(* [[1644年]]) * [[7月16日]](寛文10年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[北条氏長]]、[[旗本]]、[[軍学者]](* [[1609年]]) * [[9月16日]] - [[ウィリアム・ペン (イングランド海軍)|ウィリアム・ペン卿]]、イングランド[[提督]](* [[1621年]]) * [[11月3日]] - [[サロモン・ファン・ロイスダール]]、[[画家]](* [[1602年]]) * [[11月15日]] - [[コメニウス]]、[[宗教家]](* [[1592年]]) * [[11月21日]] - [[ヴィルヘルム7世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム7世]]、[[ヘッセン=カッセル方伯]](* [[1651年]]) * [[12月16日]] - [[バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト]]、[[肖像]][[画家]](* [[1613年]]) * [[ジョヴァンニ・ベネデット・カスティリョーネ]]([[w:Giovanni Benedetto Castiglione|Giovanni Benedetto Castiglione]])、画家(* [[1616年]]頃) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1670}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1670ねん}} [[Category:1670年|*]]
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1653年
1653年(1653 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1653年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1653}} {{year-definition|1653}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[承応]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2313年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[順治]]10年 ** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]7年 ** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]) : [[定武]]8年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]4年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3986年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[慶徳]]5年、[[盛徳 (黎朝)|盛徳]]元年2月 - *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]16年 * [[仏滅紀元]] : 2195年 - 2196年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1063年 - 1064年 * [[ユダヤ暦]] : 5413年 - 5414年 * [[ユリウス暦]] : 1652年12月22日 - 1653年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1653}} == できごと == * [[4月4日]] - [[11月15日]] - [[日本]]・[[江戸時代]]:[[玉川兄弟]]が[[玉川上水]]を開削([[1654年]]通水開始) * [[4月20日]] - [[イングランド共和国]]:[[オリバー・クロムウェル]]、[[クーデター]]で[[ランプ議会 (イングランド内戦)|ランプ議会]]([[長期議会]])を解散。[[7月4日]]に[[ベアボーンズ議会]]を召集。 *[[9月26日]] - [[西日本]]一帯([[九州]]西部から[[中国地方]]西部)が[[暴風雨]]に襲われた。[[徳川家綱]]の事蹟を記録した「厳有院殿御実紀・巻六」の承応二年八月の項に、“十三日”として“肥後熊本、洪水の注進あり。八万四千百六十石程その害蒙り。人畜多く溺死せりとぞ”。また“廿六日”として“安芸広島。長門の萩。このほど洪水の注進あり”。と記されている<ref>[[国立国会図書館]]・近代デジタルライブラリー「[https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_772967.pdf?pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=&pdfOutputRanges=49 続国史大系 第11巻・徳川実紀 第3編・厳有院殿御実紀 巻六・承応二年八月 90頁~91頁]」、 細川藩政史研究会編「熊本藩年表稿 74頁:承応2年」、大田報助編「毛利十一代史 第1冊・巻之四・泰厳公記・承応二:243頁」、広島市編「広島市史 第1巻・浅野氏時代(玄徳院)・第四節 承応の洪水と明暦の大火 363頁:承応の洪水」、小倉一德編、[[力武常次]]+竹田厚監修「日本の自然災害・第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史・2.近世の災害 84頁:西日本暴風・洪水」[http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6575.html]</ref>。この暴風雨により、特に[[熊本]]では多くの死者が出た。[[広島市]]付近でも被害は大きく、死者約5,000人<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈3〉[[安土桃山時代]]~[[江戸時代]]|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33703-8|author=[[伊藤和明]]|page=12}}</ref>。 * [[12月12日]] - イングランド共和国:オリバー・クロムウェル、ベアボーンズ議会を解散。[[12月16日]]に『[[統治章典]]』が公布され[[護国卿]]となる(-[[1658年]])。 * [[ムガル帝国]]:[[タージ・マハル]]竣工。 == 誕生 == {{see also|Category:1653年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月17日]] - [[アルカンジェロ・コレッリ]]、[[作曲家]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1713年]]) * [[4月2日]] - [[ジョージ (カンバーランド公)|カンバーランド公ジョージ]]、[[デンマーク]]王[[クリスチャン5世 (デンマーク王)|クリスチャン5世]]の弟、[[イングランド王国|イングランド]]女王[[アン (イギリス女王)|アン]]の夫(+ [[1708年]]) * [[5月8日]] - [[クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラール]]、[[スペイン継承戦争]]を指揮した[[軍人]](+ [[1734年]]) * [[6月1日]]受洗 - [[ゲオルク・ムッファト]]、作曲家(+ [[1704年]]) * [[7月5日]] - [[トーマス・ピット]]([[w:Thomas Pitt|Thomas Pitt]])、[[貿易]][[商人]](+ [[1726年]]) * [[7月25日]] - [[アゴスティーノ・ステッファーニ]]、[[聖職者]]、[[外交官]]、作曲家(+ [[1728年]]) * [[9月1日]]受洗 - [[ヨハン・パッヘルベル]]、作曲家、[[オルガニスト]](+ [[1706年]]) * 月日不明 - [[近松門左衛門]]、[[劇作家]](+ [[1725年]]) * 月日不明 - [[フランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ]]([[w:François Pétis de la Croix|François Pétis de la Croix]])、[[東洋学|東洋学者]](+ [[1713年]]) == 死去 == {{see also|Category:1653年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]](承応元年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[宝樹院 (徳川家光側室)|お楽の方(宝樹院)]]、[[徳川家光]]の[[側室]]、[[徳川家綱]]の母(* [[1621年]]) * [[2月19日]] - [[ルイージ・デ・ロッシ]]、作曲家(* [[1597年]]頃) * [[2月21日]](承応2年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]) - [[愛姫|愛姫(陽徳院)]]、[[伊達政宗]]の[[正室]](* [[1568年]]) * [[3月24日]] - [[ザムエル・シャイト]]、作曲家(* [[1587年]]) * [[5月26日]] - [[ロバート・フィルマー]]、[[イングランド]]の[[政治思想家]](* [[1588年]]) * [[6月1日]] - [[リチャード・ディーン]]([[w:Richard Deane|Richard Deane]])、軍人(* [[1610年]]) * [[7月10日]] - [[ガブリエル・ノーデ]]、[[人文学|人文学者]]、[[司書]](* [[1600年]]) * [[7月21日]](承応2年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[伊奈忠治]]、[[関東郡代]](* [[1592年]]) * [[9月3日]] - [[クラウディウス・サルマシウス]]([[w:Claudius Salmasius|Claudius Salmasius]])、[[古典]][[学者]](* [[1588年]]) * 月日不明 - [[アルテミジア・ジェンティレスキ]]、[[女性画家]](* [[1593年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|1653}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1653ねん}} [[Category:1653年|*]]
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1750年
1750年(1750 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1750年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1750}} {{year-definition|1750}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚午]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛延]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2410年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]15年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]26年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4083年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]11年 * [[仏滅紀元]] : 2292年 - 2293年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1163年 - 1164年 * [[ユダヤ暦]] : 5510年 - 5511年 * [[ユリウス暦]] : 1749年12月21日 - 1750年12月20日 {{clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1750}} == できごと == * [[ヴォルテール]]、[[サンスーシ宮殿]]に滞在(-[[1753年]]){{要出典|date=2021-03}}。 * [[李氏朝鮮]]にて軍制改革実施。 * [[フィリピン]]にて[[マラカニアン宮殿]]竣工。 * [[江戸幕府]]、諸国の人口調査(第6回、詳細は「[[江戸時代の日本の人口統計]]」参照)。[[百姓]]の[[苗字帯刀]]禁止。 == 誕生 == {{see also|Category:1750年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> === 人物 === * [[1月18日]](寛延2年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[小田野直武]]、[[洋風画]]家(+ [[1780年]]) * [[2月13日]](寛延3年[[1月7日 (旧暦)|1月7日]]) - [[蔦屋重三郎]]、[[版元]](+ [[1797年]]) * [[3月5日]](寛延3年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]) - [[朽木昌綱]]、[[丹波国|丹波]][[福知山藩]]主(+ [[1802年]]) *[[5月13日]] - [[ロレンツォ・マスケローニ]]、[[イタリア]]の[[数学者]](+ [[1800年]]) * [[5月31日]] - [[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク|ハルデンベルク]]、[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[政治家]](+ [[1822年]]) * [[6月24日]] - [[デオダ・ドゥ・ドロミュー]]、[[地質学者]]・[[鉱物学者]](+ [[1801年]]) * [[7月2日]] - [[フランソワ・ユーベル]]、[[博物学者]](+ [[1831年]]) * [[8月18日]] - [[アントニオ・サリエリ]]、[[イタリア]]の[[作曲家]](+ [[1825年]]) * [[8月19日]] - [[ヨハン・ゲオルク・アウグスト・ガレッティ]]、[[歴史学者]]・[[地理学者]](+ [[1828年]]) * [[9月8日]]([[寛延]]3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[谷風梶之助 (2代)|2代目谷風梶之助]]、[[大相撲]][[力士]]、第4代[[横綱]](+ [[1795年]]) * [[11月18日]](寛延3年[[10月20日 (旧暦)|10月20日]]) - [[古賀精里]]、[[儒学者]](+ [[1817年]]) * [[アントニオ・ロセッティ]]、作曲家、[[コントラバス]]奏者(+ [[1792年]]) * [[仙厓義梵]]、[[画僧]](+ [[1817年]]) === 人物以外(動物など) === * [[アドワイチャ]]、[[アルダブラゾウガメ]]、[[ロバート・クライブ]]のペット(+ [[2006年]]) == 死去 == {{see also|Category:1750年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月28日]](寛延3年[[4月23日 (旧暦)|4月23日]]) - [[桜町天皇]]、第115代[[天皇]](* [[1720年]]) * [[7月28日]] - [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]、作曲家(* [[1685年]]) * [[7月31日]] - [[ジョアン5世 (ポルトガル王)|ジョアン5世]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]][[国王]](* [[1689年]]) * [[8月20日]](寛延3年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[西川祐信]]、[[浮世絵師]](* [[1671年]]) * [[8月27日]](寛延3年[[7月26日 (旧暦)|7月26日]]) - [[阿部正喬]]、[[老中]](* [[1672年]]) * [[10月3日]] - [[マティアス・ゲオルク・モン]]、作曲家、[[オルガニスト]](* [[1717年]]) * [[10月16日]] - [[シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス]]、作曲家、[[リュート]]奏者(* [[1687年]]) * [[11月20日]] - [[モーリス・ド・サックス]]、[[軍人]](* [[1696年]]) * [[12月1日]] - [[ヨハン・ドッペルマイヤー]]、[[天文学者]](* [[1677年]]) * [[12月21日]] - [[エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1691-1750)|エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブランシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル]]、[[神聖ローマ帝国]][[皇后]](* [[1691年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1750}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1750ねん}} [[Category:1750年|*]]
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4,262
1685年
1685年(1685 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
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1685年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1685}} {{year-definition|1685}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[貞享]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2345年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]24年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]11年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4018年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]6年 * [[仏滅紀元]] : 2227年 - 2228年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1096年 - 1097年 * [[ユダヤ暦]] : 5445年 - 5546年 * [[ユリウス暦]] : 1684年12月22日 - 1685年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1685}} == できごと == * [[2月6日]] - [[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]が[[イングランド]]・[[スコットランド]]・[[アイルランド]]王に即位{{要出典|date=2021-04}}。 * [[6月20日]] - 初代[[モンマス公爵]][[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェイムズ・スコット]]がジェームズ2世に対して反乱を起こす([[モンマスの反乱]])。 * [[7月6日]] - [[セッジムーアの戦い]]。ジェームズ2世、モンマス公の軍を破り捕虜とする。 * [[7月5日]] - モンマス公処刑。 * [[10月18日]] - [[フォンテーヌブローの勅令]]発布([[ナントの勅令]]破棄) * [[10月29日]] - [[ポツダム勅令 (1685年)|ポツダム勅令]]が[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]により発布。 * [[浄瑠璃]]『[[出世景清]]』が初演。 * [[ジャン=バティスト・ド・ラ・サール]]により世界初の師範学校が[[ランス (マルヌ県)|ランス]]に設立。 * [[イングランド王国|イングランド]]で{{仮リンク|1685年イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, 1685}}。 == 誕生 == {{see also|Category:1685年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月7日]] - [[ジョージ・クリフォード3世]]、[[銀行家]]、[[オランダ東インド会社|東インド会社]]出資者(+ [[1760年]]) * [[1月18日]]([[貞享]]元年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[松平直知]]、[[越前国|越前]][[福井藩]]分家第2代当主(+ [[1704年]]) * [[2月23日]] - [[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]、[[作曲家]](+ [[1759年]]) * [[3月12日]] - [[ジョージ・バークリー]]、哲学者・僧侶(+ [[1753年]]) * [[3月16日]](貞享2年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[吉良義周]]、[[高家 (江戸時代)|高家]][[旗本]](+ [[1706年]]) * [[3月17日]] - [[ジャン=マルク・ナティエ]]、[[画家]](+ [[1766年]]) * [[3月21日]] - [[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]、作曲家(+ [[1750年]]) * [[6月2日]] - [[ヨナス・アルストロマー]]([[:en:Jonas Alströmer|Jonas Alströmer]])、[[貴族]]、[[実業家]](+ [[1761年]]) * [[6月10日]](貞享2年[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]) - [[黒田宣政]]、[[筑前国|筑前]][[福岡藩]]第5代藩主(+ [[1744年]]) * [[6月23日]] - [[アントニオ・ベルナッキ]]、[[カストラート]]・作曲家(+ [[1756年]]) * [[6月30日]] - [[ジョン・ゲイ]]、[[詩人]]・[[劇作家]](+ [[1732年]]) * [[10月1日]] - [[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]、[[神聖ローマ帝国]]皇帝(+ [[1740年]]) * [[10月12日]](貞享2年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[石田梅岩]]、思想家(+ [[1744年]]) * [[10月26日]] - [[ドメニコ・スカルラッティ]]、作曲家(+ [[1757年]]) * [[12月8日]] - [[ヨハン・マリア・ファリナ]](ジョヴァンニ・マリア・ファリーナ)、[[香水]]職人(+ [[1766年]]) * [[12月12日]] - [[ロドヴィコ・ジュスティーニ]]([[:en:Lodovico Giustini|Lodovico Giustini]])、作曲家・[[鍵盤楽器]]奏者(+ [[1743年]]) * 月日不詳 - [[月光院]]、[[徳川家継]]生母(+ [[1752年]]) * 月日不詳 - [[小堀政房]]、[[近江国|近江]][[近江小室藩|小室藩]]第4代藩主(+ [[1713年]]) * 月日不詳 - [[ジャック・ルイエ]]、作曲家(+ [[1748年]]) * 月日不詳 - [[竹腰正武]]、[[尾張藩]]附家老・[[美濃国|美濃]][[今尾藩|今尾領]]第5代領主(+ [[1760年]]) * 月日不詳 - [[シャルル・クレッサン]]([[:en:Charles Cressent|Charles Cressent]])、[[家具]]職人・[[彫刻家]](+ [[1768年]]) * 月日不詳 - [[ピエール・デフォンテーヌ]]([[:en:Pierre Desfontaines|Pierre Desfontaines]])、[[ジャーナリスト]]・[[翻訳家]]・[[歴史家]](+ [[1745年]]) * 月日不詳 - [[クロード・ジョゼフ・ジョフロア]]([[:en:Claude Joseph Geoffroy|Claude Joseph Geoffroy]])、[[エティーヌ・F・ジョフロア|エティエンヌ・ジョフロア]]の弟、[[化学者]](+ [[1752年]]) == 死去 == {{see also|Category:1685年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月6日]] - [[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]、[[イングランド君主一覧|イングランド王]](* [[1630年]]) * [[3月26日]](貞享2年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]) - [[後西天皇]]、第111代[[天皇]](* [[1638年]]) * [[6月19日]]([[貞享]]2年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]) - [[北条氏宗]]、[[河内国|河内]][[狭山藩]]第3代藩主(* [[1619年]]) * [[7月13日]](貞享2年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[八橋検校]]、作曲家、箏曲演奏家(* [[1614年]]) * [[7月15日]] - 初代[[モンマス公爵]][[ジェイムズ・スコット (初代モンマス公爵)|ジェイムズ・スコット]]、貴族、[[軍人]](* [[1649年]]) * [[10月16日]](貞享2年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]])- [[内藤義概]]、[[陸奥国|陸奥]][[磐城平藩]]第3代藩主(* [[1614年]]) * [[10月23日]](貞享2年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]) - [[山鹿素行]]、[[儒学者]]・[[軍学者]](* [[1622年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1685}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1685ねん}} [[Category:1685年|*]]
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1886年
1886年(1886 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。明治19年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1886年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。明治19年。
{{年代ナビ|1886}} {{year-definition|1886}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[丙戌]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]19年 ** [[皇紀]]2546年 * [[清]]:[[光緒]]11年11月27日 - 光緒12年12月7日 * [[朝鮮]] ** [[朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]23年 ** [[開国 (李氏朝鮮)|開国]]495年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4219年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]) ** [[同慶 (阮朝)|同慶]]乙酉年11月27日 - 12月30日 ** 同慶元年1月1日 - 12月7日 * [[仏滅紀元]]:2428年 - 2429年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1303年3月25日 - 1304年4月4日 * [[ユダヤ暦]]:5646年4月24日 - 5647年4月4日 * [[修正ユリウス日]](MJD):9907 - 10271 * [[リリウス日]](LD):110748 - 111112 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1886}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[第三次英緬戦争]]: [[ビルマ]]が[[英領インド]]に併合 * [[1月5日]] - [[ロバート・ルイス・スティーヴンソン]]『[[ジキル博士とハイド氏]]』出版 * [[1月18日]] - 英国でホッケー協会創立(近代[[フィールドホッケー|ホッケー]]誕生) * [[1月26日]] - [[北海道庁 (1886-1947)|北海道庁]]設置([[三県一局時代|根室県・札幌県・函館県]]廃止) * [[1月28日]] ** 陸軍師団番号制定: 各6[[鎮台]]に師団番号を付与 ** 英国で[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー]]内閣(1期目)辞職 * [[1月29日]] - [[カール・ベンツ]]が世界初のガソリン自動車の特許を取得(ベンツ・パテント・モーターカー(3輪)) === 2月 === * [[2月1日]] - 英国で[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]内閣(3期目)成立 * [[2月23日]] ** 世界初の[[クラシファイド広告]]を英『[[タイムズ]]』紙が掲載 ** [[アルミニウム]]の工業精錬法が確立([[ホール・エルー法]]) * [[2月24日]] - [[公文式 (勅令)|公文式]]制定(官報26日) === 3月 === * [[3月2日]] - [[帝国大学令]]公布: 東京大学を[[帝国大学|帝國大學]]に改称改組(法・医・文・理・工の5分科大学) * [[3月8日]] - [[ゴットリープ・ダイムラー]]らが世界初の4輪ガソリン自動車を発明 * [[3月18日]] - [[参謀本部条例]]改正: 陸海軍統合部門として参謀本部を設置し陸軍部・海軍部設置 * [[3月22日]] - 共立女子職業学校(後の[[共立女子大学]])創立 * [[3月23日]] - [[ピョートル・チャイコフスキー]][[マンフレッド交響曲]]初演([[モスクワ]])(露暦3月11日) * [[3月26日]] ** 英国初の[[火葬]]実施 ** [[ヴィルヘルム・シュタイニッツ]]が世界初の[[チェス]]公式チャンピオンとなる ** 米国[[シアトル]]で[[:en:Seattle riot of 1886|反シナ暴動]] ** [[物集高見]]『言文一致』刊行 === 4月 === * [[4月6日]] - 英独間で西太平洋の勢力範囲を協定([[ベルリン宣言 (1886年)|ベルリン宣言]]) * [[4月8日]] - 英[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]首相が[[アイルランド統治法]]案を提出(6月8日否決) * [[4月10日]] - [[小学校令]]・[[中学校令]]・[[師範学校令]]公布 * [[4月20日]] - [[メートル条約]]加入(1885年)を公布 * [[4月25日]] - [[ジークムント・フロイト]]が[[ウィーン]]で開業 * [[4月29日]] - [[華族世襲財産法]]公布 === 5月 === * [[5月1日]] ** 第1回[[条約改正]]会議開催 ** [[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察署]]設置 ** 米国・カナダの労働組合連盟([[:en:Federation of Organized Trades and Labor Unions|FOTLU]])が[[ゼネラル・ストライキ]]を実施 * [[5月8日]] - 米国[[アトランタ]]で[[コカ・コーラ]]販売開始 * [[5月10日]] - [[教科用図書検査条例]]制定 * [[5月19日]] - [[カミーユ・サン=サーンス]][[交響曲第3番 (サン=サーンス)|交響曲第3番]]初演([[ロンドン]]) * [[5月20日]] - [[浅草|浅草公園]]開園式(改良工事完成) === 6月 === * [[6月2日]] - 米[[グロバー・クリーブランド|クリーブランド]]大統領が米大統領として初めて在職中に結婚 * [[6月3日]] - 元[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]員による[[箱根離宮]]落成式襲撃計画が発覚([[静岡事件]]) * [[6月5日]] - [[ジュネーヴ条約|万国赤十字条約]]に加入 * [[6月8日]] - 英国議会が[[アイルランド統治法]]を否決 * [[6月10日]] - ニュージーランド北島[[タラウェラ山]]が大噴火(死者120名) * [[6月12日]] - [[バイエルン王国|バイエルン]]国王[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]が拘束・廃位される(翌日死亡) * [[6月25日]] - [[薬局方#日本薬局方 Pharmacopoea Japonica|日本薬局方]]制定 * [[6月26日]] - アンリ・モアッサンが初めてフッ素の単離に成功。 * [[6月28日]] - [[カナダ太平洋鉄道]]開業、初の大陸横断列車が[[モントリオール]]を出発。 === 7月 === * [[7月13日]] - [[本初子午線経度計算方及標準時ノ件]]発布(1888年1月1日より[[日本標準時間#歴史|日本標準時間]]を適用) * [[7月20日]] - 英国で[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]内閣辞職 * [[7月24日]] - 英国の[[ビルマ]]における主権を[[清]]が追認([[ビルマ条約 (1866年)|ビルマ条約]]) * [[7月25日]] - 英国で[[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー]]内閣(2期目)成立 === 8月 === * [[8月1日]] - 英国が[[ケルマディック諸島]]を併合 * [[8月4日]] - [[コロンビア共和国]]成立 * [[8月13日]] ** [[登記法]]公布(施行1887年2月1日): [[公文式 (勅令)|公文式]]による法律第1号 ** [[長崎事件]]: 上陸した[[清国]]水兵数名が遊郭で酩酊乱暴し警察に逮捕される * [[8月15日]] - [[長崎事件]]: 数百名の清国水兵と警察官が乱闘し死傷者がでる === 9月 === * [[9月1日]] - [[チャリネ曲馬団]](Giuseppe Chiarini)が来日興行 * [[9月4日]] - [[インディアン戦争]]: [[ジェロニモ]]が降伏 * [[9月6日]] - [[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が[[殊勲章 (英国)|殊勲章]]([[:en:Distinguished Service Order|DSO]])を制定 *9月7日 - [[機務六条]]が定められる。 * [[9月9日]] - [[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約]]作成 * [[9月14日]] - 米国で[[タイプライター]]リボンの特許取得(George K. Anderson) * September 16, 1886 - Nanay Rosing lives in Philippines (d. 2019) * === 10月 === * [[10月6日]] - [[スペイン]]が[[キューバ]]で奴隷制を廃止 * [[10月16日]] - 戸籍登記書式制定(明治19年式戸籍) * [[10月24日]] ** [[ノルマントン号事件]] ** [[東京医会]]結成([[松本良順]]) * [[10月27日]] - [[モデスト・ムソルグスキー]]交響詩『[[禿山の一夜]]』初演([[サンクトペテルブルク]])(露暦10月15日)<!--リムスキー=コルサコフ改訂版--> * [[10月28日]] - [[自由の女神 (アメリカ ニューヨーク)|自由の女神像]]完成 * [[10月30日]] - [[アフリカ分割]]: [[英領東アフリカ]]と[[独領東アフリカ]]の境界を協定 === 11月 === * [[11月4日]] ** [[小笠原島庁]]設置 ** [[関西法律学校]](後の[[関西大学]])創立 * [[11月5日]] - 伊勢屋丹治呉服店(後の[[伊勢丹]])開業(神田旅籠町) * [[11月15日]] - [[万国赤十字条約]]への加盟(6月5日)を公布 * [[11月17日]] - [[日本赤十字社|博愛社]]病院(後の[[日本赤十字社病院]])開院([[飯田町駅|麹町区飯田町]]) * [[11月24日]] - 戸籍取扱手続制定(明治19年式戸籍) * [[11月30日]] - [[フォリー・ベルジェール]]が[[レヴュー (演芸)|レヴュー]]を開演 === 12月 === * [[12月2日]] - [[東京図書館]]新築 (現[[東京藝術大学]]音楽学部赤レンガ2号館) * [[12月6日]] - [[婦人矯風会]]創立 == 誕生 == {{see also|Category:1886年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[木下利玄]]、[[歌人]](+ [[1925年]]) * [[1月4日]] - [[高畠素之]]、社会思想家(+ [[1928年]])   * [[1月8日]] - [[掛谷宗一]]、[[数学者]](+ [[1947年]]) * [[1月11日]] - [[エルザ・レントシュミット]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1969年]]) * [[1月18日]] - [[アントワーヌ・ペヴスナー]]、[[美術家]]・[[画家]](+ [[1962年]]) * [[1月14日]] - [[ヒュー・ロフティング]]、児童文学作家(+ [[1947年]]) * [[1月24日]] - [[ヘンリー・キング]]、映画監督 (+ [[1982年]]) * [[1月25日]] - [[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]、[[指揮者]]・[[作曲家]](+ [[1954年]]) * [[1月27日]] - [[ラダ・ビノード・パール]]、インド人法学者・[[極東国際軍事裁判]][[判事]](+ [[1967年]]) * [[1月28日]] - [[八木秀次]]、工学者・実業家・政治家(+ [[1976年]]) * [[2月2日]] - [[エルンスト・ツィナー]]、[[天文学者]](+ [[1970年]]) * [[2月6日]] - [[アルベルト・ゲレーロ]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](+ [[1959年]]) * [[2月10日]] - [[平塚らいてう]](平塚雷鳥)、婦人運動家(+ [[1971年]]) * [[2月18日]] - [[市河三喜]]、[[英語学者]](+ [[1970年]]) * [[2月20日]] - [[石川啄木]]、歌人・[[詩人]](+ [[1912年]]) * 2月20日 - [[クン・ベーラ]]、[[ハンガリー共産党]]の指導者(+ [[1939年]]) * 2月20日 - [[石田礼助]]、[[実業家]]、第5代国鉄総裁(+ [[1978年]]) * [[2月23日]] - [[アルバート・サモンズ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1957年]]) * [[2月28日]] - [[マックス・ファスマー]]、[[言語学者]](+ [[1962年]]) * [[3月1日]] - [[オスカー・ココシュカ]]、[[画家]](+ [[1980年]]) * [[3月2日]] - [[ウィリス・オブライエン]]、[[SFX]]作家(+ [[1962年]]) * [[3月8日]] - [[エドワード・カルビン・ケンダル]]、[[化学者]](+ [[1972年]]) * [[3月13日]] - [[フランク・ベーカー (1886年生の内野手)|フランク・ベーカー]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手(+ [[1963年]]) * [[3月18日]] - [[クルト・コフカ]]、[[心理学者]](+ [[1941年]]) * [[3月19日]] - [[原石鼎]]、[[俳人]](+ [[1951年]]) * [[3月24日]] - [[エドワード・ウェストン]]、[[写真家]](+ [[1958年]]) * 3月24日 - [[中村吉右衛門 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(+ [[1954年]]) * [[3月27日]](ユリウス暦3月15日)- [[セルゲイ・キーロフ]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の側近として知られた[[ソビエト連邦|ソ連]]の政治家(+ [[1934年]]) * 3月27日 - [[ミース・ファン・デル・ローエ]]、[[建築家]](+ [[1969年]]) * [[3月30日]] - [[清水藤太郎]]、[[薬学者]](+ [[1976年]]) * [[4月10日]] - [[ジョニー・ヘイズ]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1965年]]) * [[4月12日]] - [[井上日召]]、右翼活動家(+ [[1967年]]) * [[4月15日]] - [[タデウシュ・クチシェバ]]、[[ポーランド軍]][[少将]](+ [[1947年]]) * 4月15日 - [[アメデエ・オザンファン]]、[[画家]](+ [[1966年]]) * [[4月19日]] - [[大島浩]]、[[外交官]](+ [[1975年]]) * [[5月2日]] - [[ゴットフリート・ベン]]、[[詩人]](+ [[1956年]]) * [[5月10日]] - [[カール・バルト]]、[[神学者]](+ [[1968年]]) * 5月10日 - [[オラフ・ステープルドン]]、[[小説家]]・[[哲学|哲学者]](+ [[1950年]]) * [[5月13日]] - [[ジョゼフ・アクロン]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1943年]]) * 5月13日 - [[池田蕉園]]、[[日本画家]](+ [[1917年]]) * [[5月16日]] - [[アーネスト・バージェス]]、[[都市社会学|都市社会学者]](+ [[1966年]]) * [[5月17日]] - [[アルフォンソ13世 (スペイン王)|アルフォンソ13世]]、[[スペイン]][[国王]](+ [[1941年]]) * 5月17日 - [[ワルワーラ・ブブノワ]]、[[美術家]](+ [[1983年]]) * [[5月20日]] - [[高村智恵子]]、画家(+ [[1938年]]) * [[5月21日]] - [[松旭斎天勝]]、[[マジシャン (奇術)|奇術師]](+ [[1944年]]) * 5月21日 - [[古今亭今輔 (4代目)]]、[[落語家]](+ [[1935年]]) * [[5月24日]] - [[ポール・パレー]]、指揮者(+ [[1979年]]) * [[5月26日]] - [[アル・ジョルソン]]、[[歌手]]・[[俳優]](+ [[1950年]]) * [[6月2日]] - [[安川第五郎]]、[[実業家]](+ [[1976年]]) * [[6月3日]] - [[石坂泰三]]、[[実業家]]、[[第一生命]]社長、[[東芝]]社長、[[日本経済団体連合会|経団連]]会長(+ [[1975年]]) * [[6月5日]] - [[クルト・ハーン]]、[[教育者]](+ [[1974年]]) * 6月5日 - [[富本憲吉]]、[[陶芸家]](+ [[1963年]]) * [[6月7日]] - [[アンリ・コアンダ]]、[[航空機]]開発者(+ [[1972年]]) * [[6月8日]] - [[今井登志喜]]、[[歴史学者]](+ [[1950年]]) * [[6月9日]] - [[山田耕筰]]、作曲家(+ [[1965年]]) * [[6月10日]] - [[早川雪洲]]、[[俳優]](+ [[1973年]]) * [[6月11日]] - [[岡本一平]]、漫画家(+ [[1948年]]) * [[6月12日]] - [[ラウル・ハウスマン]]、[[画家]]・[[詩人]]・[[写真家]](+ [[1971年]]) * 6月12日 - [[内藤多仲]]、[[建築家]](+ [[1970年]]) * [[6月18日]] - [[ジョージ・マロリー]]、[[登山家]](+ [[1924年]]) * 6月18日 - [[デービッド・M・S・ワトソン]]、[[生物学者]](+ [[1973年]]) * [[6月28日]] - [[アロイーズ・コルバス]]、[[画家]](+ [[1964年]]) * [[6月29日]] - [[ロベール・シューマン]]、元[[フランスの首相|フランス首相]](+ [[1963年]]) * [[7月1日]] - [[佐藤緑葉]]、小説家(+ [[1960年]]) * [[7月3日]] - [[レイモンド・スプルーアンス]]、[[アメリカ海軍]]の[[大将]](+ [[1969年]]) * 7月3日 - [[ジョヴァンニ・バッチスタ・カプロニ]]、[[航空機]]開発者、[[カプロニ]]創業者(+ [[1957年]]) * [[7月4日]] - [[八田與一]]、[[技術者]](+ [[1942年]]) * [[7月5日]] - [[ウィレム・ドレース]]、元[[オランダの首相|オランダ首相]](+ [[1988年]]) * [[7月10日]] - [[高島象山]]、[[易者]](+ [[1959年]]) * [[7月23日]] - [[ヴァルター・ショットキー]]、[[物理学者]](+ [[1976年]]) * [[7月24日]] - [[谷崎潤一郎]]、小説家(+ 1965年) * [[7月25日]] - [[リチャード・クドウ]]、[[動物学|動物学者]](+ [[1967年]]) * [[7月31日]] - [[ラリー・ドイル]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1974年]]) * [[8月7日]] - [[ビル・マケシュニー]]、メジャーリーガー(+ [[1965年]]) * [[8月15日]] - [[カール・コルシュ]]、[[社会主義]]思想家(+ [[1961年]]) * [[8月19日]] - [[長谷川零余子]]、[[俳人]](+ [[1928年]]) * [[8月20日]] - [[パウル・ティリッヒ]]、神学者(+ [[1965年]]) * [[8月24日]] - [[エーヴ・フランシス]]、[[俳優|女優]](+ [[1980年]]) * [[8月27日]] - [[レベッカ・クラーク]]、作曲家・[[ヴィオラ]]奏者(+ [[1979年]]) * [[8月28日]] - [[勝沼精蔵]]、[[医学者]](+ [[1963年]]) * [[9月1日]] - [[オトマール・シェック]]、作曲家(+ [[1957年]]) * [[9月6日]] - [[エドガー・ルビン]]、心理学者(+ [[1951年]]) * [[9月9日]] - [[ドッツ・ミラー]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1923年]]) * [[9月13日]] - [[ロバート・ロビンソン]]、[[化学者]](+ [[1975年]]) * [[9月14日]] - [[ヤン・マサリク]]、[[チェコスロヴァキア]]外相(+ [[1948年]]) * 9月14日 - [[スタンリー・ケッチェル]]、[[プロボクサー]](+ [[1910年]]) * [[9月16日]] - [[ジャン・アルプ]]、[[彫刻家]]・[[画家]]・[[詩人]](+ [[1966年]]) * [[9月25日]] - [[メイ・サットン]]、[[テニス]]選手(+ [[1975年]]) * [[9月26日]] - [[アーチボルド・ヒル]]、[[生理学|生理学者]](+ [[1977年]]) * 9月26日 - [[古泉千樫]]、[[歌人]](+ [[1927年]]) * [[10月2日]] - [[ロバート・トランプラー]]、天文学者(+ [[1956年]]) * [[10月4日]] - [[エーリッヒ・フェルギーベル]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[通信兵大将]](+ [[1944年]]) * [[10月5日]] - [[徳川義親]]、[[尾張徳川家]]第19代当主(+ [[1976年]]) * [[10月6日]] - [[エドヴィン・フィッシャー]]、[[ピアニスト]](+ [[1960年]]) * [[10月7日]] - [[カール・フォン・ピュックラー=ブルクハウス]]、ナチス・ドイツ[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]将軍(+ [[1945年]]) * [[10月8日]] - [[吉井勇]]、[[歌人]]・[[脚本家]](+ 1960年) * [[10月9日]] - [[ルーブ・マーカード]]、メジャーリーガー(+ [[1980年]]) * [[10月16日]] - [[ダヴィド・ベン=グリオン]]、[[イスラエル]]首相(+ [[1973年]]) * 10月16日 - [[ボリス・エイヘンバウム]]、[[文芸学]]者(+ [[1959年]]) * [[10月20日]] - [[フレデリック・バートレット]]、[[心理学者]](+ [[1969年]]) * [[10月21日]] - [[カール・ポランニー]]、[[経済学者]](+ [[1964年]]) * [[10月26日]] - [[ハンス・ブラウン]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1918年]]) * [[11月1日]] - [[松井須磨子]]、[[俳優|女優]](+ [[1919年]]) * 11月1日 - [[萩原朔太郎]]、詩人(+ [[1942年]]) * 11月1日 - [[ヘルマン・ブロッホ]]、小説家(+ [[1951年]]) * [[11月4日]] - [[山本冬郷]]、俳優(+ 没年不明) * [[11月6日]] - [[エドワード・オーウェン]]、[[陸上競技]]選手(+ [[1949年]]) * [[11月13日]] - [[太田正孝]]、[[大蔵省|大蔵]]官僚・政治家(+ [[1982年]]) * [[11月15日]] - [[ルネ・ゲノン]]、[[神秘学|神秘学者]](+ [[1951年]]) * [[11月17日]] - [[アロン・ニムゾヴィッチ]]、[[チェス]]選手(+ [[1939年]]) * [[11月20日]] - [[カール・フォン・フリッシュ]]、動物学者(+ [[1982年]]) * [[11月21日]] - [[ハロルド・ニコルソン]]、[[外交官]]・作家(+ [[1968年]]) * [[11月27日]] - [[藤田嗣治]]、画家(+ [[1968年]]) * [[12月1日]] - [[朱徳]]、[[中華人民共和国]][[元帥]](+ [[1976年]]) * 12月1日 - [[レックス・スタウト]]、[[推理作家]](+ [[1975年]]) * 12月1日 - [[飛田穂洲]]、[[野球評論家]]・[[学生野球]]指導者(+ [[1965年]]) * [[12月3日]] - [[マンネ・シーグバーン]]、[[物理学者]](+ [[1978年]]) * [[12月5日]] - [[吉本吉兵衛]]、[[吉本興業ホールディングス|吉本興業]]創業者(+ 1924年) * [[12月6日]] - [[大川周明]]、思想家(+ [[1957年]]) * [[12月8日]] - [[ディエゴ・リベラ]]、画家(+ 1957年) * [[12月13日]] - [[徳川圀順]]、第7代[[貴族院議長 (日本)|貴族院議長]]・第7代[[日本赤十字社]]社長(+ [[1969年]]) * [[12月18日]] - [[タイ・カッブ]]、[[メジャーリーグベースボール]]選手(+ [[1961年]]) * [[12月30日]] - [[オースティン・オスマン・スパー]]、[[画家]](+ [[1956年]]) * 月日不明 - [[久野久 (ピアニスト)|久野久]]、ピアニスト(+ [[1925年]]) == 死去 == {{see also|Category:1886年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月7日]] - [[リチャード・ダッド]]、[[画家]](* [[1817年]]) * [[1月11日]] - [[小野梓]]、[[法学者]]・東京専門学校(現、[[早稲田大学]])創立者のひとり(* [[1852年]]) * [[1月17日]] - [[アミルカレ・ポンキエッリ]]、[[オペラ]]作曲家(* [[1834年]]) * 1月17日 - [[ポール・ボードリー]]、画家(* [[1828年]]) * [[1月24日]] - [[有栖川宮幟仁親王]]、日本の[[皇族]](* [[1812年]]) * [[2月12日]] - [[ランドルフ・コールデコット]]、[[イラストレーター]]・[[美術家]](* [[1846年]]) * [[3月2日]] - [[尾上多見蔵 (2代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1800年]]) * [[3月9日]] - [[ウィリアム・スミス・クラーク]]、[[植物学|植物学者]]・[[札幌農学校]]初代教頭(* [[1826年]]) * [[4月10日]] - [[木戸松子]]、[[木戸孝允]]の妻(* [[1843年]]) * [[5月11日]] - [[茂山千五郎]]、[[狂言師]](* [[1810年]]) * [[5月15日]] - [[エミリー・ディキンソン]]、[[詩人]](* [[1830年]]) * [[5月23日]] - [[レオポルト・フォン・ランケ]]、[[歴史家]](* [[1795年]]) * 5月23日 - [[伊地知正治]]、[[薩摩藩|薩摩藩士]]・[[宮中顧問官]](* [[1828年]]) * [[6月13日]] - [[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]、[[バイエルン王国|バイエルン]]王(* [[1845年]]) * [[6月21日]] - [[ダニエル・ダングラス・ホーム]]、[[霊媒]](* [[1833年]]) * [[6月23日]] - [[江崎邦助]]、[[コレラ]]の感染防止に尽力した[[警察官]](* [[1861年]]) * [[7月31日]] - [[フランツ・リスト]]、作曲家(* [[1811年]]) * [[8月8日]] - 初代[[橘家圓三郎]]、[[落語家]](* [[1828年]]) * [[8月16日]] - [[ラーマクリシュナ]]、[[宗教家]](* [[1836年]]) * [[8月18日]] - [[エトガー・バウアー]]、[[政治学者]]・[[ジャーナリスト]](* [[1820年]]) * [[9月11日]] - [[エドゥアルト・フレーゲル]]、[[商人]]・[[探検家]](* [[1855年]]) * [[9月16日]] - [[デュカス公爵ルイ]]、[[フランス]]外相(* [[1819年]]) * [[10月7日]] - [[ウィリアム・バーンズ (言語学者)|ウィリアム・バーンズ]]、[[言語学|言語学者]](* [[1811年]]) * [[10月14日]] - [[本因坊秀甫]]、[[棋士 (囲碁)|囲碁棋士]](* [[1838年]]) * [[10月21日]] - [[ホセ・エルナンデス]]、[[詩人]](* [[1834年]]) * [[11月8日]] - [[フレッド・アーチャー]]、[[騎手]](* [[1857年]]) * [[11月14日]] - [[ベギエ・ド・シャンクルトワ]]、[[鉱物学|鉱物学者]](* [[1820年]]) * [[11月18日]] - [[チェスター・A・アーサー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Chester-A-Arthur Chester A. Arthur president of United States] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、第21代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1829年]]) * [[11月]] - [[関東綱五郎]]、[[侠客]](* [[1822年]]) * [[12月3日]] - [[箕作秋坪]]、[[蘭学者]](* [[1826年]]) * [[12月26日]] - [[テオドール・オッポルツァー]]、[[天文学者]](* [[1841年]]) * [[12月30日]] - [[ジョージ・フレッチャー・モー]]、[[探検家]]・[[著述家]](* [[1798年]]) == フィクションのできごと == * 10月14日 - 鵙屋春琴が死去する。58歳没。([[谷崎潤一郎]]「[[春琴抄]]」) * シリーズ4「[[アガサ・クリスティ]]失踪の謎」に登場したカントリー・ハウスの主人が[[マラリア]]に感染する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1886}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1886ねん}} [[Category:1886年|*]]
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4,265
1874年
1874年(1874 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。明治7年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1874年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。明治7年。
{{年代ナビ|1874}} {{year-definition|1874}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[甲戌]] * [[日本]](月日は一致) ** [[明治]]7年 ** [[皇紀]]2534年 * [[清]]:[[同治]]12年11月13日 - 同治13年11月23日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]11年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4207年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]26年11月13日 - 嗣徳27年11月23日 * [[仏滅紀元]]:2416年 - 2417年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1290年11月12日 - 1291年11月22日 * [[ユダヤ暦]]:5634年4月12日 - 5635年4月23日 * [[修正ユリウス日]](MJD):5524 - 5888 * [[リリウス日]](LD):106365 - 106729 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> maddie was here and so was frey == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1874}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[増上寺]]が焼失 * [[1月14日]] - 右大臣[[岩倉具視]]暗殺未遂([[喰違の変]]) * [[1月15日]] - [[警視庁 (内務省)|東京警視庁]]設置 * [[1月17日]] - [[民選議院設立建白書]]提出([[板垣退助]]・[[後藤象二郎]]ら) * [[1月20日]] - [[六郷橋#左内橋|六郷川渡橋]]開通 * [[1月23日]] - [[軍旗#大日本帝国陸軍|軍旗親授式]] * [[1月28日]] - [[青山御所]](後の[[赤坂迎賓館]])設置 === 2月 === * [[2月1日]] - [[佐賀の乱]]([[江藤新平]]ら) * [[2月2日]] - [[銀座煉瓦街]]の欧風道路が完成 * [[2月3日]] - [[米国聖公会]] のウィリアムズ主教によって私塾・立教学校が開かれる(後の[[立教大学]]) * [[2月17日]] - 英国で[[第1次グラッドストン内閣]]([[自由党 (イギリス)|自由党]])が総辞職 * [[2月21日]] - 英国で[[第2次ディズレーリ内閣]]([[保守党 (イギリス)|保守党]])成立 * [[2月24日]] - [[ハワイ王国]]で[[カラカウア]]王が即位 * [[浅草橋]]竣工 === 3月 === * [[3月13日]] - [[女子師範学校]](後の[[お茶の水女子大学]])設置(翌年開校) === 4月 === * [[4月2日]] - [[明六雑誌]]創刊 * [[4月5日]] - [[ヨハン・シュトラウス2世]]喜歌劇「[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]」初演([[アン・デア・ウィーン劇場]]) * [[4月10日]] - [[立志社 (政治団体)|立志社]]設立([[板垣退助]]ら) * [[4月13日]] - [[江藤新平]]斬首刑 * [[4月15日]] - [[フランス]]・[[パリ]]にて[[第1回印象派展]]開催(〜5月15日) * [[4月16日]] - [[デイヴィッド・リヴィングストン|リヴィングストン博士]]の遺体が[[サウサンプトン]]に到着 === 5月 === * [[5月11日]]-[[東海道本線]]の[[大阪駅|大阪-]][[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]駅間が仮開業。 * [[5月22日]] - [[台湾出兵]](征台の役) * [[5月29日]] - [[スイス]]で憲法(現行)が発効 === 6月 === * [[6月8日]] - [[ニコライ堂]]主教館竣工 * [[6月23日]] - 北海道[[屯田兵]]制度創設 === 7月 === * [[7月1日]] - 米国初の[[動物園]]が[[フィラデルフィア]]に開園 * [[7月3日]] - [[三宅島]]噴火(死者1名) * [[7月28日]] - [[華族会館]]開館式 * [[7月31日]] - [[浅草文庫]](後の[[帝国図書館]])開館([[書籍館]]を移転) === 8月 === * [[8月5日]] - [[郵便貯金]]開始 * [[8月18日]] - [[医制]]発布 * [[浅草]][[雷門]]・[[新橋 (東京都港区)|新橋]]間に二階建馬車が運行(千里軒)<!-- 25日以前: 8月25日には轢き殺された人が出ている--> === 9月 === * [[9月9日]] - 二階建馬車禁止令 * [[9月22日]] - [[電信条例]]布告 * [[9月24日]] - [[朝野新聞]]創刊(公文通誌改題) === 10月 === * [[10月6日]] - [[厩橋]]竣工 * [[10月9日]] - [[万国郵便連合]]設立 * [[10月10日]] -[[フィジー]]が英国の植民地となる * [[10月11日]] - [[汐留駅 (国鉄)|新橋駅]]で脱線事故(日本初の鉄道事故) * [[10月13日]] - [[会計年度]]改正(来る12月より7月 - 6月制に移行) * [[10月30日]] - [[屯田兵例則]]制定 === 11月 === * [[11月2日]] - [[読売新聞|讀賣新聞]]創刊 * [[11月15日]] - [[犬吠埼灯台]]点灯 * [[11月18日]] - 米国クリーブランドで[[万国婦人矯風会]]([[:en:Woman's Christian Temperance Union|Woman's Christian Temperance Union]])設立 * [[11月20日]] - [[小野組]]閉店 === 12月 === * [[12月1日]] - 清国で[[光緒帝]](徳宗)即位( - [[1908年]])(摂政は[[東太后]]( - [[1881年]])と[[西太后]]( - [[1889年]]) * [[12月9日]] - 地球上からの[[金星の太陽面通過]]が起こった<ref>{{Cite web |url=http://astro.ukho.gov.uk/nao/transit/V_1874/index.html |title=1874 December 9th Transit of Venus |publisher=HM Nautical Almanac Office |accessdate=2017-09-16 }}</ref>。 * [[12月19日]] - [[島田組]]閉店 * [[12月24日]] - [[東京英語学校]]設置([[開成学校]]英語部が分離独立) === 日付不詳 === * [[ブリタニック (客船・初代)|SSブリタニック号]]建造{{要出典|date=2021-04}} == 誕生 == {{see also|Category:1874年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[香取秀真]]、[[鋳金]]工芸作家・[[歌人]](+ [[1954年]]) * [[1月6日]] - [[フレッド・ニブロ]]、[[映画監督]]・[[脚本家]](+ [[1948年]]) * [[1月18日]] - [[森田正馬]]、[[医学者]]、[[森田療法]]を創始(+ [[1938年]]) * [[1月19日]] - [[常陸山谷右エ門]]、[[大相撲]]第19代[[横綱]](+ [[1922年]]) * [[1月22日]] - [[ジェイ・ヒューズ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1924年]]) * [[1月24日]] - [[芳沢謙吉]]、外交官(+ [[1965年]]) * [[1月25日]] - [[サマセット・モーム]]、[[作家]]・[[ 劇作家]](+ [[1965年]]) * [[2月1日]] - [[フーゴ・フォン・ホーフマンスタール]]、[[劇作家]](+ [[1929年]]) * [[2月22日]] - [[高浜虚子]]、俳人(+ [[1959年]]) * 2月22日 - [[ビル・クレム]]、[[メジャーリーグ]]審判(+ [[1951年]]) * [[2月24日]] - [[ホーナス・ワグナー]]、元[[メジャーリーガー]](+ [[1955年]]) * [[3月9日]] - [[梨本宮守正王]]、皇族(+ [[1951年]]) * [[3月17日]] - [[キンチェム]]、[[競走馬]](+ [[1887年]]) * [[3月18日]] - [[ニコライ・ベルジャーエフ]]、[[哲学者]](+ [[1948年]]) * [[3月18日]] - [[稲田龍吉]]、[[医学者]](+ [[1950年]]) * [[3月24日]] - [[ハリー・フーディーニ]]、[[マジシャン (奇術)|マジシャン]](+ [[1926年]]) * [[4月7日]] - [[鈴木梅太郎]]、化学者(+ [[1943年]]) * [[4月16日]] - [[渡辺錠太郎]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]・[[政治家]](+ [[1936年]]) * [[4月21日]] - [[ゴットフリート・ウィルヘルム・ヴィッツァー]]、[[撮影技師]](+[[1944年]]) * [[4月25日]] - [[グリエルモ・マルコーニ]]、無線通信開発者(+ [[1937年]]) * [[4月28日]] - [[カール・クラウス (作家)|カール・クラウス]]、[[作家]]・[[ジャーナリスト]](+ [[1936年]]) * [[5月7日]] - [[河井醉茗]]、[[詩人]](+ [[1965年]]) * [[5月9日]] - [[ハワード・カーター]]、考古学者(+ [[1939年]]) * [[5月29日]] - [[ギルバート・ケイス・チェスタートン]]、[[推理作家]](+ [[1936年]] ) * [[6月5日]] - [[ジャック・チェスブロ]]、メジャーリーガー(+ [[1931年]]) * [[6月19日]] - [[久留島武彦]]、[[児童文学者]](+ [[1960年]]) * [[7月3日]] - [[ユハン・アンデショーン]]、[[地質学者]]・[[考古学者]](+ 1960年) * [[7月6日]] - [[佐藤紅緑]]、[[作家]]・[[俳人]](+ [[1949年]]) * [[7月7日]] - [[喜多六平太 (14世)]]、[[喜多流]][[能楽師]](+ [[1971年]]) * [[7月28日]] - [[エルンスト・カッシーラー]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1945年]]) * [[8月9日]] - [[レイナルド・アーン]]、作曲家(+ [[1947年]]) * [[8月10日]] - [[ハーバート・フーヴァー]]、第31代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1964年]]) * [[8月17日]] - [[岡田武松]]、[[気象学者]](+ [[1956年]]) * [[8月22日]] - [[マックス・シェーラー]]、[[哲学者]](+ [[1928年]]) * [[8月31日]] - [[エドワード・ソーンダイク]]、[[心理学者]]・[[教育学者]](+ [[1949年]]) * [[9月5日]] - [[ナップ・ラジョイ]]、メジャーリーガー(+ [[1959年]]) * [[9月13日]] - [[アルノルト・シェーンベルク]]、作曲家(+ [[1951年]]) * [[9月21日]] - [[グスターヴ・ホルスト]]、作曲家(+ [[1934年]]) * 9月21日 - [[菱田春草]]、[[日本画家]](+ [[1911年]]) * [[10月9日]] - [[ニコライ・リョーリフ]]、[[画家]](+ [[1947年]]) * [[10月13日]] - [[平山清次]]、[[天文学者]](+ [[1943年]]) * [[10月30日]] - [[上田敏]]、詩人(+ [[1916年]]) * [[11月13日]] - [[真島利行]]、[[化学者]](+ [[1962年]]) * [[11月19日]] - [[鹿子木孟郎]]、[[洋画家]](+ [[1941年]]) * [[11月30日]] - [[ウィンストン・チャーチル]]、[[イギリス首相]](+ [[1965年]]) * 11月30日 - [[L・M・モンゴメリ]]、作家(+ [[1942年]]) * [[12月23日]] - [[和田英作]]、[[洋画家]](+ [[1959年]]{{sfn|静岡県立美術館|1998|p=147}}) * [[12月28日]] - [[田澤稲舟]]、[[小説家]](+ [[1896年]]) == 死去 == {{see also|Category:1874年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月9日]] - [[ジュール・ミシュレ]]、フランスの[[歴史家]](* [[1798年]]) * [[2月13日]] - [[ヨハン・ブルグミュラー]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]](* [[1806年]]) * [[2月27日]] - [[カルロス・マヌエル・デ・セスペデス]]、[[キューバ]]の[[革命家]](* [[1819年]]) * [[3月1日]] - [[斎藤墨湖]]、[[画家]]・[[茶人]](* [[1772年]]) * [[3月8日]] - [[ミラード・フィルモア]]、[[政治家]]、第13代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1800年]]) * [[4月13日]] - [[江藤新平]]、[[明治維新]]の[[元勲]](* [[1834年]]) * [[5月29日]] - [[小政]]、[[俠客]](* [[1842年]]) * [[9月12日]] - [[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[政治家]]・[[歴史家]]、フランス首相(* [[1787年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1874}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1874ねん}} [[Category:1874年|*]]
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レーザーディスク
レーザーディスク (LaserDisc, LD) は、直径30cmの光ディスクに両面で最大2時間のアナログ映像を記録できるビデオディスク規格である。メディアは再生のみ可能でLPレコード並みに大きい反面、VHSより高画質であり、主にマニアや富裕層において普及した。両面記録されている長時間の動画ではディスクの裏返しが必要で、視聴が一旦途切れるという欠点がある。2000年頃から手軽に高画質な映像が視聴できるDVDが一般層にも普及したことにより、役割を終えた。 1972年(昭和47年)9月にオランダのフィリップスが光学式ビデオディスク規格としてVLP (Video Long Play) 方式、同年12月にアメリカ合衆国のMCAがディスコビジョン(英語版)方式を発表し、1974年(昭和49年)9月に両社の規格が統合されて「フィリップス/MCA方式」として発表された。MCAはこの研究開発事業をDiscoVision Associates (DVA) に分社化し、IBMの出資を受ける。1978年(昭和53年)12月にアメリカで製品化され、フィリップスの子会社マグナボックスがオランダで製造した世界初となる家庭用LDプレーヤー「マグナビジョン」VH-8000を、DVAが「ジョーズ」や「アバ」など約50のセルビデオタイトルをDiscoVisionレーベルで発売した。 一方、1972年よりビデオディスクの研究を進めていた音響機器メーカーのパイオニアが、石塚庸三のリーダーシップで1978年に甲府市の半導体研究所にDVAと合弁会社ユニバーサルパイオニア株式会社 (UPC) を設立したうえ、LDプレーヤーおよび光ディスクの開発と製造から事業参画し、アメリカ市場で1979年(昭和54年)2月に業務用LDプレーヤーPR-7820、1980年(昭和55年)6月に家庭用LDプレーヤーVP-1000を発売。日本では1981年(昭和56年)10月にパイオニアが所沢工場で製造したLD-1000の発売によって市販化した。 しかしながら、カリフォルニア州にあったDVAの光ディスクのプレス過程で埃など細かな異物が混入するなど歩留まり率が低く、VH-8000も不良品交換が続いたことから、1981年には規格提唱者のDVAとフィリップスは収益化が困難と判断し、市販化から2年弱でハードとソフト双方の製造事業から撤退する。高度なクリーンルームにフルオートメーション設備を備えた最新鋭の光ディスク製造工場として甲府工場を新設したユニバーサルパイオニアのDVA持分をパイオニアが買収してパイオニアビデオ株式会社に社名を変更し、パイオニアがレーザーディスクの盟主へ入れ代わってコストダウンによる普及を推進することになった。この経緯から、日本国内における「レーザーディスク」は、パイオニアの登録商標とされている。発売前にマーケティングの専門家たちに相談し、一橋大学の田内幸一教授(当時)からのレーザーを前面に出してレーザーディスクではどうかとの提案が採用され、命名された。パイオニア以外のメーカーでは規格名であるレーザービジョン (LaserVision, LV) が用いられていた。1989年(平成元年)10月にパイオニアが「レーザーディスク」の商標を無償開放したことで他メーカーも使用できるようになったが、使用有無は各メーカーに委ねられた。また、パイオニアでは「絵の出るレコード」というキャッチコピーも使われていた。 民生用は再生のみであるが、業務用では1990年代前半に録画(追記または書換)可能なメディアと機種が開発・販売された(パイオニア:LaserRecorder VDR-V100、VDR-V1000、ソニー:LVR-6000A、ティアック:LV-200Aなど)。 1981年当時、日本市場のビデオディスクは松下電器産業(現:パナソニック)、東芝、三菱電機をはじめとする電機メーカー12社がビデオデッキ市場でVHS方式を広めた実績がある日本ビクター(現:JVCケンウッド)が開発したVHDを支持しており、LDプレーヤーは1983年までパイオニア一社のみが販売するという規格争いを繰り広げることになる。VHDはレコード盤技術の応用でプレーヤーやディスクの製造コストが低廉で、VHSと同様に松下電器の販売力から市場制覇が期待されていたが、水平解像度が240本程度であるうえにピックアップが接触式で耐久性や機能拡張性に難があること、そして市販化が1983年(昭和58年)4月と遅れをとったため、価格面を除いて優位性が見られず、1984年よりソニー、日立製作所、日本コロムビア、ティアック、日本マランツ、三洋電機、日本楽器製造(現:ヤマハ)、東芝、三菱電機、日本電気ホームエレクトロニクスなどがパイオニアの技術供与を受け、LDプレーヤーの製造販売に参入する。1985年(昭和60年)以降、ビデオディスクのシェアの過半数をLDが獲得したことでVHDとの規格争いに勝利した(詳細は「VHD#ビデオディスクの規格争い」を参照)。 最初期のLDプレーヤーはピックアップの読み取りにヘリウムネオンレーザーを使用し、モーターなどの部品なども大型であり、エントリーモデルの価格帯が14万円前後だったVHDプレーヤーと比べて20万円前後と高価であった。1984年にパイオニアとシャープの共同開発で半導体レーザーの実装化に成功し、VHDとの規格争いで参入メーカーが増加して量産化したことでコストの問題を解決させたことが、VHDとの規格争いでLDを勝利に導いたと言われる。1985年(昭和60年)に10万円を切る価格で発売された日本楽器製造(現:ヤマハ)のLV-X1を皮切りに、パイオニア、ソニー、松下電器産業、ケンウッド(現:JVCケンウッド)といった各社から「ロッキュッパモデル」と言われた69,000円台の普及価格帯のLDプレーヤーやCD/LDコンパチプルプレーヤーが次々と登場し、バブル景気の1990年代前半はローエンド機からマイクミキサー内蔵のLDカラオケやスピーカー・コンポ一体型のハイエンド機まで多種多彩な機種が発売されていた。 LDソフトは、パイオニアがセルビデオ製作会社として山梨パイオニア(後のパイオニアLDC、現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)を設立し、ハリウッドや日本の映画会社などからフィルムの供給を受けて製品化する体制をいち早く確立した。メインとなった映画ソフトは製造コストや版権料から7,000円 - 1万円前後の価格設定で発売されていたが、1980年代終盤からパイオニアLDCが中心となって「エバーグリーンシリーズ」「ブロックバスター」などと称して5,000円を切る価格帯で次々と人気ソフトを発売するようになる。一方でテレビアニメなどのシリーズ作品を複数枚のLDに全話収録して一括販売する「LD-BOX」というボックス・セット形態の高額商品や、OVA、歌手のライブビデオも数多く発売され、コアなファンやマニアを取り込んでユーザー層を拡大させていった。 1992年(平成4年)頃からは、それまでの映画ソフトで主流だった画面のトリミングをやめ、できるだけ劇場公開時の画面サイズに忠実なワイドスクリーンサイズの画面で映画ソフトを次々に発売して映画マニアを中心にユーザー層を厚くした。1本の映画をワイドスクリーンとテレビサイズの2パターンの商品で発売するなどマニアックなラインナップがなされたものも多い。これらの中には、DVD-Videoで発売されているソフトでは見ることができない画面サイズのものもあった。同じ映画ソフトが何種類も発売されていることから当時の一般的ユーザーを混乱させる副作用も生ずるなど、1990年代前半を最盛期としてユーザーを拡大した。多くの映画、音楽、ドキュメンタリー、アニメ、スポーツ、そのほか各種のコンテンツがLDで発売された。 ハイターゲット向けのアニメ作品のビデオ市場も大きく、1991年に発売された『炎の転校生』(ポニーキャニオン)のOVA版のみ唯一LDの独占販売から初めたため、オリジナル・レーザー・アニメーションの略語である「OLA」が用いられている。一定数の売上を得られ、LDプレーヤーもある程度は普及したものの、レンタルビデオ版の流通ができないなどVHS視聴で充分なライトユーザーを囲い込みできず、結局は1992年にVHS版(セル・レンタル同時)も発売されることになった。パイオニアLDCが製作・発売したOVA『天地無用!』や『神秘の世界エルハザード』もLDの購買層を意識したハイターゲット指向の作風やクオリティであったが、VHS版と同時リリースとなっている。なお、また、レーザーディスクと同時期に発展したアダルトアニメは黎明期の『くりぃむレモン』よりVHSとLDの併売が多く見られたが、アダルトビデオはレンタルビデオでの流通が主流であるため、VHSと比べLD版で発売されたタイトルは少数であった。 パイオニアはレーザーディスクのマルチメディア化も志向し、LDのデジタル音声領域にCD-ROMと同様のデジタルデータを記録した「LD-ROM」によるレーザーアクティブを投入した。業務用としてはレーザーバーコードシステムと連携したLD-V540などが投入され、産業用・教育用などで利用されていた。1980年代にパイオニアが自社パソコンとして発売していたMSXパソコン「palcom」PX-7などとの連携でLDゲームをプレイできたが、これはLDのデジタル音声規格が策定される以前から存在していたものであり、LD-ROM規格とは異なる。後にパイオニアはMacintosh互換機MPCシリーズを販売し、対応したLDプレーヤーCLD-PC10を発表したが、LD-ROMとの連携はほとんど重視されなかった。 1982年(昭和57年)にパイオニアによって業務用カラオケの市販が開始され、スナックバー (飲食店)など酒場を中心に8トラックテープなどの音声と歌本を組み合わせたカラオケに代わって大ヒットとなり、レーザーディスクに関するビジネスの中心となった。人気曲が繰り返し再生されるカラオケは、ランダムアクセスによる頭出し再生に優れる点とディスクの摩耗が発生しない非接触式ピックアップの特徴が特に生きる分野だった。既にVTRカラオケのソフトを発売していた東映芸能ビデオが既存コンテンツをLD化したのをはじめ、テープカラオケの販売大手だった第一興商やJHC(1996年(平成8年)倒産)がソフトの供給を開始し、他社も参入した。また、チェンジャーデッキを使ったシステムや、複数台のチェンジャーを使って複数の個室に映像を配信するシステムも開発された。カラオケLDソフトの出荷金額がピークになったのは1990年(平成2年)の982億円(この年のLDソフト全体の出荷金額は1,357億円、カラオケで全体の72%を占めた)、LDソフト全体の出荷金額のピークは1991年(平成3年)の1,361億円だった。 一般家庭用のLDソフトは販売専用という戦略をとり、1993年に解禁されるまではレンタルは全面禁止であり、可処分所得が高い者向けの嗜好品とみなされてVHSやDVDビデオのように幅広く普及はしなかった。そのため、子供向けのビデオソフトは映画や童謡などのカラオケ、学習教材を除いてほとんど発売されなかった。 業務用カラオケの分野においてはカラオケボックスやカラオケルームの登場で客層の若年化が進むにつれ、新曲配信のスピードが重要視されるようになり、1991年(平成3年)のバブル崩壊に伴う景気悪化により酒場での需要が減った。1992年(平成4年)には、ISDNを用いた通信カラオケJOYSOUND(エクシング)が登場した。これにより、LDカラオケの欠点である「かさばる」「(オートチェンジャーがない場合の)ディスクの取り換えが面倒」「新曲収録までに時間がかかる」という問題が解消され、新曲リリースからLD化までに1 - 2ヶ月かかるLDカラオケは苦戦を強いられるようになっていった。 発売されるソフトの種類と量が増える一方で、生産ラインの少なさが次第に影響し始めた。1994年 - 1995年頃には、一部の人気商品を除いてほとんどの商品が初回ラインのみの生産で終了するようになり、発売と同時に販売元品切れとなるソフトが続出。新譜として発売された月に廃盤で入荷不可という奇妙な商品も相次いで出現した。需要に供給が全く追いつかない状態となる一方で、それまでは高額だったビデオテープソフトの低価格化と安定供給が進み、ユーザーのLD離れが始まった。なお、アニメLDソフトでは1980年代後半の時点でここで述べられたような供給体制の不備が一部のビデオ雑誌で指摘されていた。レーザーカラオケと一緒に粗製乱造され、画質マニアのLD離れも衰退の要因となった。 やがて1996年(平成8年)にCDと同じ12cmサイズのDVD-Video規格(DVDビデオ)が登場した。最初期のソフトラインナップはLDと同じく、ディスクメディアのポテンシャルを引き出すための高品質なオーケストラコンサートやBGV、代表的なブロックバスター作品というバリエーションであり、出足が鈍かった。しかし1997年にはパイオニアLDCやバンダイビジュアルなどがOVAのDVDをLDと併せて発売するようになり、1998年より洋画作品をLDで数多く発売していたパイオニアLDC(2000年頃までタッチストーン・ピクチャーズ系中心)やソニー・ピクチャーズ(当初よりコロムビア映画の他、ビデオソフトでCIC・ビクター ビデオが販売元だったユニバーサル映画作品のDVDソフト販売元にもなっている)、ワーナー・ホーム・ビデオといった洋画メジャー系のコンテンツを中心に、比較的廉価な価格帯で充実したソフトを発売するようになった。例えばブロックバスター作品の場合、LDソフトでは一作品5,000円 - 8,000円程度の価格帯が主流だったのに対し、DVDソフトは当初でも3,900円 - 6,000円程度だった。こうして、DVDと比べると大型で再生機器への負担が大きい上、画質も大したことがないLDはその地位を急速に奪われていく。 1999年(平成11年)頃からはVAIOやiMacなどでDVD-ROMドライブが搭載される家庭用パソコンが、2000年(平成12年)3月には当時のDVDプレーヤーよりも安価でDVD-Videoが視聴できる家庭用ゲーム機「PlayStation 2」が発売され、DVD-Videoの再生環境は爆発的な普及を遂げることになる。DVD-Videoはレンタルビデオが容認されていたこと(これはコピーガードを標準規格として採用できたことが大きい)が追い風となり、ソフト市場やレンタルビデオ店も加速度的に膨張した。これによって大部分の映像ソフト・レコード会社がLDの制作・発売を終了し、LDは最後まで映像メディアの主役となることはなかった。 LDからDVDへの過渡期である1996年から2000年(平成12年)にかけて、同一タイトルをLDとDVDで併売するスタイルがパイオニアLDCやバンダイビジュアルが発売元の洋画(ブロックバスター作品)とOVAを中心に見られた。 過去に発売されたLDソフトの映像を視聴するだけの機器になりつつあった2002年(平成14年)、パイオニアがLDプレーヤー事業から撤退する報道があったものの、消費者からの要望があったために細々と生産・販売を継続する方針を取った。 また、映像作品の売り上げ実績の統計を取ってきた社団法人日本映像ソフト協会(JVA)によると、2003年の時点において売り上げの大半がカラオケを占めており、それ以外のジャンルでは返品によるマイナス計上が目立っていた。このため、2004年以降の統計は廃止された。 一方、カラオケは、スタジオ収録や楽曲のオリジナル音源とプロモーションビデオなどのアーティスト本人出演映像を収録できる点から、演歌・歌謡曲をはじめとする「定番曲」を繰り返し再生する用途では一定の評価を得られており、ランニングコストから通信カラオケ機器導入に消極的な一部のパブ・居酒屋・カラオケスナックといった飲食店や、壮年者を中心としたカラオケファン(歌謡曲愛好家)が自宅で楽しむなど根強い需要が2000年代に入っても残っていた。しかし新曲対応の鈍さが最大の弱点であることは変わらず、2004年(平成16年)に登場したBBサイバーダムが過去に自社(第一興商)や日本コロムビアなどが制作したLDカラオケの映像や音源をストリーミング配信する機能を盛り込み、クオリティ面での不利が払拭されたため、この領域の衰退に拍車をかけた。 ソニー・松下電器産業などはLDプレーヤーを1999年度(平成11年度)までに販売終了・撤退し、DVDへ軸足を完全に移した。それ以後、パイオニアだけが以下の機種をLDプレーヤー最終機種として発売していた。 これらは発売後モデルチェンジをすることなく、10年以上にわたり細々と生産・販売を続けていた。しかし2009年(平成21年)1月14日、上記4機種について合計約3000台をもって生産終了すると発表した。 その後、生産予定台数に達したものの、DVL-919とCLD-R5の2機種については、一部の注文が複数の販売店に重複したことで若干数のキャンセルが発生したため、同年7月28日から追加販売を実施したが、同年9月25日に追加販売分も完売したことを発表した。これらの機種は2009年(平成21年)の生産終了後、最低8年間は修理に必要な補修部品を保有するほか、過去の機種でも補修部品に在庫があれば修理に応じる体制を併せて発表した。 なお、LDプレーヤーの最終機種としては、DVL-919よりも2か月後の1998年(平成10年)12月に発売されたDVDコンパチブルのプレステージモデル「DVL-H9」が存在する。発売当時のLDプレーヤー・DVDプレーヤーのリファレンス(プレステージ)モデルに搭載された映像回路を両方搭載の上、最新機能も盛り込ませた贅を尽くした高価格機種であり、2002年(平成14年)6月に生産終了、2003年(平成15年)頃にカタログ掲載から消えている。 2007年(平成19年)3月、市場衰退により世界唯一のLDのプレスメーカーとなったメモリーテックが製造ラインを廃止。これによりレーザーディスクの歴史は幕を下ろした。最後まで制作を続けたのはテイチクの家庭向け市販カラオケソフト(20cm LDシングル)「音多ステーション」シリーズであり、2007年(平成19年)3月発売の三門忠司の楽曲が収録された規格番号「22DK-1018」まで、毎月4タイトル以上の新譜ソフトの発売を続けた。 2006年(平成18年)12月に発売した演歌歌手・川中美幸の『金沢の雨』などが収録された規格番号「22DK-995」がラストプレスとなり、製造ライン終了に伴う式典を行った。 2015年(平成27年)9月15日、「世界初の産業用レーザディスク(LD)プレーヤ」PR-7820(第00201号)、「世界初の半導体レーザを使用した民生用レーザディスク(LD)プレーヤ」LD-7000(第00202号)、「世界初のLD/CDコンパチブルプレーヤ」CLD-9000(第00203号)の3機種が国立科学博物館による重要科学技術史資料(未来技術遺産)として登録された。 2020年(令和2年)11月、LDプレーヤーの補修用性能部品の在庫が無くなったことから、パイオニアもアフターサービスを終了した。 日本電子機械工業会により、EIAJ CP-3302(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(レーザービジョン 60Hz/525ラインM/NTSC))で、LVフォーマットとして規格が定められていたが、1999年1月以降は国際電気標準会議によって国際規格に定められた、IEC 60857 Ed.1.0 Pre-recorded optical reflective video disk system ‘Laser Vision’ 60Hz/525 lines-M/NTSC(録画済み光反射ビデオディスク装置 'レーザビジョン’ 60Hz/525ライン-M/NTSC)が使用されている。 LVフォーマットのディスクは厚さ1.2mmのポリメチルメタクリレート(PMMA:硬質アクリル樹脂)の記録面に反射膜(アルミニウム)を蒸着したのち保護膜を塗布した2枚の円盤を貼り合わせたもので、2.5mmの厚みがある。アクリル樹脂は吸湿により反りが発生するため、片面記録であってもダミーのディスクを貼り合わせるので両面張り合わせディスクが基本である。直径30cmと20cmの2種類が存在するが、20cmディスクにはCDと同じポリカーボネートを使用した張り合わせ無しの薄型(厚さ1.2mm)も存在する。これは「LDシングル」と呼ばれ、非対応のプレーヤーでは厚さを調整するスペーサ(LDシングルアダプター)を重ねて使用する必要がある。なお、通常のディスクは盤面が銀色で、末期に登場したレンタル専用商品は金色にして区別している。 CDと同様、信号の記録は非常に細かい楕円形のくぼみ(ピット)で行われている。ピット幅は0.4μm、深さは0.1μm。ピットの列をトラックと呼び、トラックピッチは1.67μm、最短ピット長は約0.5μmである。このピットがディスク表面に内側から外側に向かって螺旋状に並び、ダイレクトFM変調したNTSC信号をスライスした矩形波に従って記録されている。このピット数はCLV片面ディスクで300億個に達する。 両面記録ディスクではA面/B面と呼ぶ。レコードと違ってピックアップはディスクの下にあるため、実際に再生されるのは裏面の記録内容で、レーベルに記載されている面と実際に信号が記録されている面は逆である。なお、反対側の面を再生するにはレコードのようにプレーヤーから取り出してひっくり返す必要があるが、後にディスクを取り出さずに連続再生できる、ピックアップがU字形に移動する両面再生プレーヤーも発売された。初搭載したのは海外市場でCED及びTED、日本国内ではVHD陣営に属しビデオディスクに於いては多くのノウハウを持つ三洋電機が1987年にレーザーディスク陣営参入第一弾として、満を持して発表したSLV-J1(AV対応モデル)とSLV-J2(カラオケ対応モデル)だった。 映像はアナログ(ダイレクトFM変調)方式を採用し、記録はレーザー光を使って読み出す。当初はピックアップに波長632.8nmの赤色ガスレーザー(ヘリウムネオンレーザー)を採用しており、LD-7000から波長780nmの赤外線半導体レーザーを採用した。映像はNTSCのビデオ帯域が4.2MHzのため、1MHzあたり80本の計算で水平解像度336本となる。CAV方式では内周部336本から始まり外周部440本になり、平均して水平解像度400本以上と言われる。CLV方式では常時330本前後になる。直径30cmのディスクではCAV方式(回転数1800rpm)の標準ディスクで片面30分、CLV方式(回転数1800 - 600rpm)の長時間ディスクで片面1時間の映像を記録できる。 トラックは螺旋状に記録されており、CAV方式の場合、NTSCの1フレーム(1/30秒)の情報が螺旋の1周に記録されている(30回転/秒=1800rpm)。一時停止は1周を繰り返し再生、コマ送りは順次前後の1周に移動、変速再生はトラックの読み出し間隔を変更という仕組みになっている。また、CAV方式では全ての画面(フレーム)に番号が振られており(フレームナンバー)、このフレームナンバーで希望のシーンを探す「フレームサーチ」が使用できた。一方、CLV方式では一定の線速度で記録されているため、トラックとフレームの間に物理的な関連はなく、正逆サーチ以外の特殊再生はできなかった。 LDプレーヤーにおいてディスク上に記録されたピットを検出するピックアップの制御は、レーザー光を正確に反射面に集光するためのフォーカス制御、正確に記録トラックをトレースするためのトラッキング制御のほか、アナログ信号の時間軸変動を抑制するための時間軸制御が必要となる。LD-7000では時間軸制御をピックアップで光学的に行っていたが、1986年(昭和61年)発売のLD-S1ではフレームメモリを搭載して電子回路で代替した。これにより、ピックアップの制御がCDプレーヤーと同様のトラッキングとフォーカスの2軸になったほか、フレームメモリを用いてCLVディスクでも静止画やコマ送りなどの特殊再生が可能になった。後に普及価格帯のLDプレーヤーにもデジタルTBCが搭載された。 LDフォーマットはNTSCの全ての帯域をそのまま記録していると表現されることもあり、映像信号についてはアナログ方式なのでDVD-Videoのような圧縮が一切ないのが特徴である。この点からDVDのMPEG-2による圧縮ノイズを嫌い、LDの画質を好む人もいる。特にコマ送り、正逆サーチなどの特殊再生ではLDが優れている。音質についてはデジタル記録であれば、圧縮がないLDのほうが完全に優位に立っている(ただし、DVDにおいて音声トラックがPCMで記録されていれば、同等である)。 MUSE規格でハイビジョン映像を記録した拡張規格「Hi-Vision LD」もあり、Hi-Vision LD対応プレーヤーで再生できる。 このほか、映像・音声以外のサブコード領域に映画の台詞や英語字幕や歌の歌詞などの情報を記録した「LDグラフィックス(LD-G)」も存在する。 CAV形式で片面に54000枚の静止画を収録可能な利点を生かしてデータベースの媒体としての利用も行われたほか、静止画と動画を1つの作品に混在させて「映像を見る」ことと「本を読む」ことを一緒にした表現形式の映像出版の試みも存在したがCD-ROM方式に端を発する電子出版にとって代わられた。 音声は開発当初はアナログ(FM変調)のみだった。1984年(昭和59年)に世界初のCD/LDコンパチブルプレーヤーCLD-9000を市場に投入するに併せ、CD規格に準拠したデジタル音声(EFM音声信号:44.1kHz/16ビットリニアPCM)が2MHz以下の未使用帯域に追加された。 1987年(昭和62年)にCD VIDEO(CDV)が新規に市場投入するのに併せて、CD-DAと同様のTOC情報が合わせて記録されたデジタル音声付レーザーディスクが一般的となった。「LaserVisionマーク」「CD VIDEOマーク」「DigitalSoundマーク」の3つがジャケットやディスクに併記されている。当初はこのタイプのディスクを「CD VIDEO LD」と呼んでいたが、元となるCDV規格が思ったように普及しなかったことから、1989年(平成元年)頃からは「LASERDISCマーク」と「DigitalAudioマーク」の併記されたものがTOC付きLDと認識され、主流となった。 映画ソフトの外装にドルビー・サラウンドの記載がされるようになると、アナログ音声トラックやデジタル音声トラックにもドルビーサラウンドの信号もそのまま記録されたので、それに適合するAVセンター(AVアンプ)を用いてドルビー・サラウンドやドルビー・プロロジックなどのサラウンド音声が再生できるようになったが、1994年(平成6年)には映画館で採用され始めていたドルビーデジタルが、1997年(平成9年)にはDTSといったデジタルサラウンドが導入されたほか、ハイビジョンで製作されたマスターテープを用いたり、ワイド画面でワイドスクリーン作品をより高解像度で鑑賞できるように画面の横幅を3⁄4に圧縮したスクイーズ方式も一部ソフトで採用された。音質/画質は大きく向上し、これらの技術はDVDにも引き継がれている。 特にドルビーデジタルは、初期DVDソフトの音質がLD収録のものより劣ると言われていたため、ビットレートをLDの384kbpsからDVDは最大448kbpsまで引き上げることでLDを上回る音質を達成している。 ドルビーデジタル対応LDは、デジタル音声領域にPCM方式ドルビーサラウンド、アナログ音声のRchにドルビーデジタル(5.1chサラウンド)、LchにFM方式モノラルで音声が収録されているため、ドルビーデジタル音声で再生するには、ドルビーデジタル(AC-3)RF出力の付いているLDプレーヤーと、アナログ音声トラックのRchに高周波変調して記録されているドルビーデジタル(AC-3)RF信号を元のドルビーデジタル音声信号に変換できるRFデモジュレーター搭載AVセンター(AVアンプ)が必要である。RFデモジュレーター非搭載AVセンターで再生する場合では、デフォルトでPCMデジタル音声トラックのドルビー・プロロジックかドルビー・プロロジックIIによるサラウンド音声、または選択によるアナログ音声トラックのLch(モノラル)での再生になる。サラウンド・プロセッサー非搭載アンプのみで再生する場合では、デフォルトでPCMデジタル音声トラック(2chステレオ)または選択によるアナログ音声トラックLch(モノラル)での再生になる。再生に際して注意を要することは、アナログ音声トラックRchに記録されている信号は適切にデコードされないと雑音として発せられる、ということである。 このドルビーデジタル(AC-3)RFデモジュレーターは一部の高級AVセンター、またはサラウンド・プロセッサーにしか内蔵されておらず、最近のAVセンターにはデコーダーしか内蔵されていない場合が多いのは、最早ドルビーデジタル(AC-3)音声信号付LDよりもDVD/BDの再生に主眼が置かれているからである。また、単体でのRFデモジュレーターはいくつかのメーカーで生産されていたが、最後期のLDプレーヤーの生産終了を待つこと無くいち早く生産終了しているため、中古品ショップまたはオークション以外での入手は極めて困難である。 なお、日本生産盤では滅多に見かけることのないDTS対応LDは、デジタル音声領域にDTS音声信号が収録されているため、光出力端子(S/PDIF)のあるモデルとDTS音声を再生できるAVセンターまたはプロセッサー/デコーダーがあれば一部の機種を除いて再生可能であるが、未対応AVセンターではDTS音声信号はノイズとしてしか再生されず、アナログサラウンド音声かアナログステレオ音声のみでの再生を選択することになる。 LDフォーマットが市場へ投入された当初は「半永久的に劣化しない」という表現を使っていたが、1980年代中頃からこの表現は中止された。レーザーディスクに使用されたアクリル樹脂は吸湿性が高く、空気中の水蒸気を加水・吸着することによって一部のディスクでアルミ記録面が劣化し、ノイズが発生した。原因は当時、まだアルミ蒸着技術が確立しておらず、製造時にミクロ単位の異物が混入したことによるものだった。一部のメーカーは良品との交換対応を余儀なくされ、劣化対策は当時メーカーにとって急務だった。 その後、アルミ蒸着技術の確立・精度向上と共にこの事象がほぼ解決されたのは1980年代半ば頃であり、1980年代前半に製造されたディスクにはホワイトスノー・スノーノイズなどとも呼ばれるノイズが乗っているものがある。なお、酸化保護膜付加・防錆加工・接着剤の材質改善といった改良が加えられた経年劣化対策済みのディスクでも、ごくわずかながらも劣化は進行する。 一般家庭の保存環境下ではLDシングルを除く一般的なLDの平均寿命は30 - 50年程度とされ、材質にポリカーボネートを使用し平均寿命が30 - 100年程度とされるLDシングル、およびCD、DVD、BDに比べ短い。このような経緯から、後に開発されたDVD規格などでは「半永久的に劣化しない」という表現は消えている。レーザーディスクの生産を終了してから長期間経過しているが、劣化したディスクは盤面を見ても判断がつかず、実際に映像を視聴してみるまでノイズの有無は分からない。 1987年(昭和62年)にS端子が発表された後、それ以降に発売されたLDプレーヤーでは多くの場合、RCA端子(コンポジット)出力に加えてS端子出力も備わっている。しかし必ずしもS端子で接続したほうが画質が良いとは限らない。 VHSや8ミリビデオなど、輝度(Y)信号と色(C)信号が分離記録されている場合はS端子で接続したほうがY/C混合・Y/C分離が発生しないため画質が向上する。しかしLDの場合はもともとコンポジット信号で記録されているのでY/C分離は避けられない。プレーヤーとテレビモニタをコンポジットで接続すればモニタでY/C分離することになり、S端子で接続すればプレーヤーでY/C分離することになるため、モニタのY/C分離性能のほうがよい場合はコンポジットで接続する方が画質が向上する。 中・低価格帯でS端子を持つプレーヤーでは、ディスクから読み取ったコンポジット信号がそのまま出力されているわけではなく、プレーヤー内部でY/C分離したものをS端子に出力する一方で再度Y/C混合したものをコンポジット出力しているものが多い。これはコストダウンが理由である。このようなプレーヤーでは、S端子で接続したほうがよい。高級機種では、このようなことをしていないという意味で「ダイレクトコンポジット出力」などと謳っているものもある。しかし高級機器である以上、Y/C分離の性能には優れているため、矛盾した機能でもある。また、歴代のLDプレーヤーで最高級機とされるLD-X1は、Y/C分離した信号をデジタル処理して高画質化を図っているため、ダイレクトコンポジット出力ができない。 なお、DVDコンパチブル機の一部はコンポーネント端子を備えるが、同端子からのLDの画像は白黒になってしまうため、この方法での正常な再生はできない。 レーザーディスクカラオケ(LDカラオケ)は、カラオケ楽曲と歌詞のテロップやイメージ映像を合わせて収録したソフトであり、通信カラオケの原型となったものである。 日本コロムビア、テイチクエンタテインメントなど複数の邦楽レコード会社では家庭用カラオケソフトが制作・発売され、マイクミキサーを経由することで自宅でカラオケを楽しめるようになっている。 2007年(平成19年)3月までは、個人向けに20cmのカラオケソフトが細々と発売され続けたほか、レーザーディスク衰退後もDVDへフォーマットを変えて市販されている。 従来のVTRとは異なり、ランダムアクセスを可能としたLDはゲーム用途にも活用された。 1991年10月1日にナムコが開発・リリースした業務用ゲーム機器ギャラクシアンでは、背景映像とゲーム概要を説明するために採用され、後にこの作品シリーズである28人版(ナムコ・ワンダーエッグ)、6人版(ゲームセンター向け機器)にも採用された。 ジョージ・ルーカス率いるルーカスフィルムは1980年代初頭からノンリニア編集機の開発を始めており、1984年の全米放送事業者協会展示会にてEditDroid(英語版)を発表した。これは複数のレーザーディスクプレーヤーを使用することにより、ノンリニア編集を可能とするコンピューターベースの機器であった。画期的な機器ではあったが、性能が不安定であったり編集の制約があったりするなどの不備も目立ち、結局は24台を製造したのみにとどまった。また、この機種はスター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還の宣材映像とともに大々的に宣伝されていたのにもかかわらず顧客となり得る同業他社はジョージ・ルーカスが映画の編集にこの機種を使用していないことに落胆し購入を躊躇ったという。最終的には1993年に事業ごとアビッド・テクノロジーへ売却された。その結果、『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』はこの機種を使用して編集が行われた最後の作品となった。 1991年9月に、三洋電機、ソニー、東芝、パイオニア、松下電器産業の5社がMUSE方式を採用したHi-Vision LDの仕様を発表。映像信号帯域8.1MHzにアナログ帯域圧縮したMUSE信号を記録し、レーザー波長=670nm、NA=0.55のピックアップを用いて読み出す。これにより、直径30cmのディスク片面で60分、両面120分の長時間再生可能なフォーマットを確立した。 EIAJ CP-3303(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(ハイビジョンLD 60Hz/1125ラインMUSE)として規格が定められていたが、2004年9月に廃止されている。 ディスクの特性は、LVフォーマットとして制定されたEIAJ CP-3302(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(レーザービジョン 60Hz/525ラインM/NTSC))に準拠しているが、MUSE方式に合わせて一部変更が加えられている。 CAVディスクの角速度は1映像フレーム期間で1回転、CLVディスクの線速度は13.8m/s - 15.2m/s。トラックピッチは1.1±0.1μmとLVフォーマットより狭くなっており、MUSE信号、時間軸基準パイロット信号、EFM音声信号(オプション)が周波数分割多重記録(FDM記録)されている。 音声は、MUSE信号の垂直ブランキング期間に多重されているMUSE音声信号の他に、CD規格に準拠したEFM音声信号を追加多重することが可能となっている。 これらの信号は、LVフォーマットよりも短波長の670nm赤色レーザーで読み取られ、NTSC(MUSE)FMアナログ信号に復調後、A/D変換されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "レーザーディスク (LaserDisc, LD) は、直径30cmの光ディスクに両面で最大2時間のアナログ映像を記録できるビデオディスク規格である。メディアは再生のみ可能でLPレコード並みに大きい反面、VHSより高画質であり、主にマニアや富裕層において普及した。両面記録されている長時間の動画ではディスクの裏返しが必要で、視聴が一旦途切れるという欠点がある。2000年頃から手軽に高画質な映像が視聴できるDVDが一般層にも普及したことにより、役割を終えた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)9月にオランダのフィリップスが光学式ビデオディスク規格としてVLP (Video Long Play) 方式、同年12月にアメリカ合衆国のMCAがディスコビジョン(英語版)方式を発表し、1974年(昭和49年)9月に両社の規格が統合されて「フィリップス/MCA方式」として発表された。MCAはこの研究開発事業をDiscoVision Associates (DVA) に分社化し、IBMの出資を受ける。1978年(昭和53年)12月にアメリカで製品化され、フィリップスの子会社マグナボックスがオランダで製造した世界初となる家庭用LDプレーヤー「マグナビジョン」VH-8000を、DVAが「ジョーズ」や「アバ」など約50のセルビデオタイトルをDiscoVisionレーベルで発売した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一方、1972年よりビデオディスクの研究を進めていた音響機器メーカーのパイオニアが、石塚庸三のリーダーシップで1978年に甲府市の半導体研究所にDVAと合弁会社ユニバーサルパイオニア株式会社 (UPC) を設立したうえ、LDプレーヤーおよび光ディスクの開発と製造から事業参画し、アメリカ市場で1979年(昭和54年)2月に業務用LDプレーヤーPR-7820、1980年(昭和55年)6月に家庭用LDプレーヤーVP-1000を発売。日本では1981年(昭和56年)10月にパイオニアが所沢工場で製造したLD-1000の発売によって市販化した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかしながら、カリフォルニア州にあったDVAの光ディスクのプレス過程で埃など細かな異物が混入するなど歩留まり率が低く、VH-8000も不良品交換が続いたことから、1981年には規格提唱者のDVAとフィリップスは収益化が困難と判断し、市販化から2年弱でハードとソフト双方の製造事業から撤退する。高度なクリーンルームにフルオートメーション設備を備えた最新鋭の光ディスク製造工場として甲府工場を新設したユニバーサルパイオニアのDVA持分をパイオニアが買収してパイオニアビデオ株式会社に社名を変更し、パイオニアがレーザーディスクの盟主へ入れ代わってコストダウンによる普及を推進することになった。この経緯から、日本国内における「レーザーディスク」は、パイオニアの登録商標とされている。発売前にマーケティングの専門家たちに相談し、一橋大学の田内幸一教授(当時)からのレーザーを前面に出してレーザーディスクではどうかとの提案が採用され、命名された。パイオニア以外のメーカーでは規格名であるレーザービジョン (LaserVision, LV) が用いられていた。1989年(平成元年)10月にパイオニアが「レーザーディスク」の商標を無償開放したことで他メーカーも使用できるようになったが、使用有無は各メーカーに委ねられた。また、パイオニアでは「絵の出るレコード」というキャッチコピーも使われていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "民生用は再生のみであるが、業務用では1990年代前半に録画(追記または書換)可能なメディアと機種が開発・販売された(パイオニア:LaserRecorder VDR-V100、VDR-V1000、ソニー:LVR-6000A、ティアック:LV-200Aなど)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1981年当時、日本市場のビデオディスクは松下電器産業(現:パナソニック)、東芝、三菱電機をはじめとする電機メーカー12社がビデオデッキ市場でVHS方式を広めた実績がある日本ビクター(現:JVCケンウッド)が開発したVHDを支持しており、LDプレーヤーは1983年までパイオニア一社のみが販売するという規格争いを繰り広げることになる。VHDはレコード盤技術の応用でプレーヤーやディスクの製造コストが低廉で、VHSと同様に松下電器の販売力から市場制覇が期待されていたが、水平解像度が240本程度であるうえにピックアップが接触式で耐久性や機能拡張性に難があること、そして市販化が1983年(昭和58年)4月と遅れをとったため、価格面を除いて優位性が見られず、1984年よりソニー、日立製作所、日本コロムビア、ティアック、日本マランツ、三洋電機、日本楽器製造(現:ヤマハ)、東芝、三菱電機、日本電気ホームエレクトロニクスなどがパイオニアの技術供与を受け、LDプレーヤーの製造販売に参入する。1985年(昭和60年)以降、ビデオディスクのシェアの過半数をLDが獲得したことでVHDとの規格争いに勝利した(詳細は「VHD#ビデオディスクの規格争い」を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最初期のLDプレーヤーはピックアップの読み取りにヘリウムネオンレーザーを使用し、モーターなどの部品なども大型であり、エントリーモデルの価格帯が14万円前後だったVHDプレーヤーと比べて20万円前後と高価であった。1984年にパイオニアとシャープの共同開発で半導体レーザーの実装化に成功し、VHDとの規格争いで参入メーカーが増加して量産化したことでコストの問題を解決させたことが、VHDとの規格争いでLDを勝利に導いたと言われる。1985年(昭和60年)に10万円を切る価格で発売された日本楽器製造(現:ヤマハ)のLV-X1を皮切りに、パイオニア、ソニー、松下電器産業、ケンウッド(現:JVCケンウッド)といった各社から「ロッキュッパモデル」と言われた69,000円台の普及価格帯のLDプレーヤーやCD/LDコンパチプルプレーヤーが次々と登場し、バブル景気の1990年代前半はローエンド機からマイクミキサー内蔵のLDカラオケやスピーカー・コンポ一体型のハイエンド機まで多種多彩な機種が発売されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "LDソフトは、パイオニアがセルビデオ製作会社として山梨パイオニア(後のパイオニアLDC、現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)を設立し、ハリウッドや日本の映画会社などからフィルムの供給を受けて製品化する体制をいち早く確立した。メインとなった映画ソフトは製造コストや版権料から7,000円 - 1万円前後の価格設定で発売されていたが、1980年代終盤からパイオニアLDCが中心となって「エバーグリーンシリーズ」「ブロックバスター」などと称して5,000円を切る価格帯で次々と人気ソフトを発売するようになる。一方でテレビアニメなどのシリーズ作品を複数枚のLDに全話収録して一括販売する「LD-BOX」というボックス・セット形態の高額商品や、OVA、歌手のライブビデオも数多く発売され、コアなファンやマニアを取り込んでユーザー層を拡大させていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1992年(平成4年)頃からは、それまでの映画ソフトで主流だった画面のトリミングをやめ、できるだけ劇場公開時の画面サイズに忠実なワイドスクリーンサイズの画面で映画ソフトを次々に発売して映画マニアを中心にユーザー層を厚くした。1本の映画をワイドスクリーンとテレビサイズの2パターンの商品で発売するなどマニアックなラインナップがなされたものも多い。これらの中には、DVD-Videoで発売されているソフトでは見ることができない画面サイズのものもあった。同じ映画ソフトが何種類も発売されていることから当時の一般的ユーザーを混乱させる副作用も生ずるなど、1990年代前半を最盛期としてユーザーを拡大した。多くの映画、音楽、ドキュメンタリー、アニメ、スポーツ、そのほか各種のコンテンツがLDで発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ハイターゲット向けのアニメ作品のビデオ市場も大きく、1991年に発売された『炎の転校生』(ポニーキャニオン)のOVA版のみ唯一LDの独占販売から初めたため、オリジナル・レーザー・アニメーションの略語である「OLA」が用いられている。一定数の売上を得られ、LDプレーヤーもある程度は普及したものの、レンタルビデオ版の流通ができないなどVHS視聴で充分なライトユーザーを囲い込みできず、結局は1992年にVHS版(セル・レンタル同時)も発売されることになった。パイオニアLDCが製作・発売したOVA『天地無用!』や『神秘の世界エルハザード』もLDの購買層を意識したハイターゲット指向の作風やクオリティであったが、VHS版と同時リリースとなっている。なお、また、レーザーディスクと同時期に発展したアダルトアニメは黎明期の『くりぃむレモン』よりVHSとLDの併売が多く見られたが、アダルトビデオはレンタルビデオでの流通が主流であるため、VHSと比べLD版で発売されたタイトルは少数であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "パイオニアはレーザーディスクのマルチメディア化も志向し、LDのデジタル音声領域にCD-ROMと同様のデジタルデータを記録した「LD-ROM」によるレーザーアクティブを投入した。業務用としてはレーザーバーコードシステムと連携したLD-V540などが投入され、産業用・教育用などで利用されていた。1980年代にパイオニアが自社パソコンとして発売していたMSXパソコン「palcom」PX-7などとの連携でLDゲームをプレイできたが、これはLDのデジタル音声規格が策定される以前から存在していたものであり、LD-ROM規格とは異なる。後にパイオニアはMacintosh互換機MPCシリーズを販売し、対応したLDプレーヤーCLD-PC10を発表したが、LD-ROMとの連携はほとんど重視されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)にパイオニアによって業務用カラオケの市販が開始され、スナックバー (飲食店)など酒場を中心に8トラックテープなどの音声と歌本を組み合わせたカラオケに代わって大ヒットとなり、レーザーディスクに関するビジネスの中心となった。人気曲が繰り返し再生されるカラオケは、ランダムアクセスによる頭出し再生に優れる点とディスクの摩耗が発生しない非接触式ピックアップの特徴が特に生きる分野だった。既にVTRカラオケのソフトを発売していた東映芸能ビデオが既存コンテンツをLD化したのをはじめ、テープカラオケの販売大手だった第一興商やJHC(1996年(平成8年)倒産)がソフトの供給を開始し、他社も参入した。また、チェンジャーデッキを使ったシステムや、複数台のチェンジャーを使って複数の個室に映像を配信するシステムも開発された。カラオケLDソフトの出荷金額がピークになったのは1990年(平成2年)の982億円(この年のLDソフト全体の出荷金額は1,357億円、カラオケで全体の72%を占めた)、LDソフト全体の出荷金額のピークは1991年(平成3年)の1,361億円だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一般家庭用のLDソフトは販売専用という戦略をとり、1993年に解禁されるまではレンタルは全面禁止であり、可処分所得が高い者向けの嗜好品とみなされてVHSやDVDビデオのように幅広く普及はしなかった。そのため、子供向けのビデオソフトは映画や童謡などのカラオケ、学習教材を除いてほとんど発売されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "業務用カラオケの分野においてはカラオケボックスやカラオケルームの登場で客層の若年化が進むにつれ、新曲配信のスピードが重要視されるようになり、1991年(平成3年)のバブル崩壊に伴う景気悪化により酒場での需要が減った。1992年(平成4年)には、ISDNを用いた通信カラオケJOYSOUND(エクシング)が登場した。これにより、LDカラオケの欠点である「かさばる」「(オートチェンジャーがない場合の)ディスクの取り換えが面倒」「新曲収録までに時間がかかる」という問題が解消され、新曲リリースからLD化までに1 - 2ヶ月かかるLDカラオケは苦戦を強いられるようになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "発売されるソフトの種類と量が増える一方で、生産ラインの少なさが次第に影響し始めた。1994年 - 1995年頃には、一部の人気商品を除いてほとんどの商品が初回ラインのみの生産で終了するようになり、発売と同時に販売元品切れとなるソフトが続出。新譜として発売された月に廃盤で入荷不可という奇妙な商品も相次いで出現した。需要に供給が全く追いつかない状態となる一方で、それまでは高額だったビデオテープソフトの低価格化と安定供給が進み、ユーザーのLD離れが始まった。なお、アニメLDソフトでは1980年代後半の時点でここで述べられたような供給体制の不備が一部のビデオ雑誌で指摘されていた。レーザーカラオケと一緒に粗製乱造され、画質マニアのLD離れも衰退の要因となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "やがて1996年(平成8年)にCDと同じ12cmサイズのDVD-Video規格(DVDビデオ)が登場した。最初期のソフトラインナップはLDと同じく、ディスクメディアのポテンシャルを引き出すための高品質なオーケストラコンサートやBGV、代表的なブロックバスター作品というバリエーションであり、出足が鈍かった。しかし1997年にはパイオニアLDCやバンダイビジュアルなどがOVAのDVDをLDと併せて発売するようになり、1998年より洋画作品をLDで数多く発売していたパイオニアLDC(2000年頃までタッチストーン・ピクチャーズ系中心)やソニー・ピクチャーズ(当初よりコロムビア映画の他、ビデオソフトでCIC・ビクター ビデオが販売元だったユニバーサル映画作品のDVDソフト販売元にもなっている)、ワーナー・ホーム・ビデオといった洋画メジャー系のコンテンツを中心に、比較的廉価な価格帯で充実したソフトを発売するようになった。例えばブロックバスター作品の場合、LDソフトでは一作品5,000円 - 8,000円程度の価格帯が主流だったのに対し、DVDソフトは当初でも3,900円 - 6,000円程度だった。こうして、DVDと比べると大型で再生機器への負担が大きい上、画質も大したことがないLDはその地位を急速に奪われていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)頃からはVAIOやiMacなどでDVD-ROMドライブが搭載される家庭用パソコンが、2000年(平成12年)3月には当時のDVDプレーヤーよりも安価でDVD-Videoが視聴できる家庭用ゲーム機「PlayStation 2」が発売され、DVD-Videoの再生環境は爆発的な普及を遂げることになる。DVD-Videoはレンタルビデオが容認されていたこと(これはコピーガードを標準規格として採用できたことが大きい)が追い風となり、ソフト市場やレンタルビデオ店も加速度的に膨張した。これによって大部分の映像ソフト・レコード会社がLDの制作・発売を終了し、LDは最後まで映像メディアの主役となることはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "LDからDVDへの過渡期である1996年から2000年(平成12年)にかけて、同一タイトルをLDとDVDで併売するスタイルがパイオニアLDCやバンダイビジュアルが発売元の洋画(ブロックバスター作品)とOVAを中心に見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "過去に発売されたLDソフトの映像を視聴するだけの機器になりつつあった2002年(平成14年)、パイオニアがLDプレーヤー事業から撤退する報道があったものの、消費者からの要望があったために細々と生産・販売を継続する方針を取った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、映像作品の売り上げ実績の統計を取ってきた社団法人日本映像ソフト協会(JVA)によると、2003年の時点において売り上げの大半がカラオケを占めており、それ以外のジャンルでは返品によるマイナス計上が目立っていた。このため、2004年以降の統計は廃止された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、カラオケは、スタジオ収録や楽曲のオリジナル音源とプロモーションビデオなどのアーティスト本人出演映像を収録できる点から、演歌・歌謡曲をはじめとする「定番曲」を繰り返し再生する用途では一定の評価を得られており、ランニングコストから通信カラオケ機器導入に消極的な一部のパブ・居酒屋・カラオケスナックといった飲食店や、壮年者を中心としたカラオケファン(歌謡曲愛好家)が自宅で楽しむなど根強い需要が2000年代に入っても残っていた。しかし新曲対応の鈍さが最大の弱点であることは変わらず、2004年(平成16年)に登場したBBサイバーダムが過去に自社(第一興商)や日本コロムビアなどが制作したLDカラオケの映像や音源をストリーミング配信する機能を盛り込み、クオリティ面での不利が払拭されたため、この領域の衰退に拍車をかけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ソニー・松下電器産業などはLDプレーヤーを1999年度(平成11年度)までに販売終了・撤退し、DVDへ軸足を完全に移した。それ以後、パイオニアだけが以下の機種をLDプレーヤー最終機種として発売していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらは発売後モデルチェンジをすることなく、10年以上にわたり細々と生産・販売を続けていた。しかし2009年(平成21年)1月14日、上記4機種について合計約3000台をもって生産終了すると発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "その後、生産予定台数に達したものの、DVL-919とCLD-R5の2機種については、一部の注文が複数の販売店に重複したことで若干数のキャンセルが発生したため、同年7月28日から追加販売を実施したが、同年9月25日に追加販売分も完売したことを発表した。これらの機種は2009年(平成21年)の生産終了後、最低8年間は修理に必要な補修部品を保有するほか、過去の機種でも補修部品に在庫があれば修理に応じる体制を併せて発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、LDプレーヤーの最終機種としては、DVL-919よりも2か月後の1998年(平成10年)12月に発売されたDVDコンパチブルのプレステージモデル「DVL-H9」が存在する。発売当時のLDプレーヤー・DVDプレーヤーのリファレンス(プレステージ)モデルに搭載された映像回路を両方搭載の上、最新機能も盛り込ませた贅を尽くした高価格機種であり、2002年(平成14年)6月に生産終了、2003年(平成15年)頃にカタログ掲載から消えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)3月、市場衰退により世界唯一のLDのプレスメーカーとなったメモリーテックが製造ラインを廃止。これによりレーザーディスクの歴史は幕を下ろした。最後まで制作を続けたのはテイチクの家庭向け市販カラオケソフト(20cm LDシングル)「音多ステーション」シリーズであり、2007年(平成19年)3月発売の三門忠司の楽曲が収録された規格番号「22DK-1018」まで、毎月4タイトル以上の新譜ソフトの発売を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)12月に発売した演歌歌手・川中美幸の『金沢の雨』などが収録された規格番号「22DK-995」がラストプレスとなり、製造ライン終了に伴う式典を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2015年(平成27年)9月15日、「世界初の産業用レーザディスク(LD)プレーヤ」PR-7820(第00201号)、「世界初の半導体レーザを使用した民生用レーザディスク(LD)プレーヤ」LD-7000(第00202号)、「世界初のLD/CDコンパチブルプレーヤ」CLD-9000(第00203号)の3機種が国立科学博物館による重要科学技術史資料(未来技術遺産)として登録された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)11月、LDプレーヤーの補修用性能部品の在庫が無くなったことから、パイオニアもアフターサービスを終了した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本電子機械工業会により、EIAJ CP-3302(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(レーザービジョン 60Hz/525ラインM/NTSC))で、LVフォーマットとして規格が定められていたが、1999年1月以降は国際電気標準会議によって国際規格に定められた、IEC 60857 Ed.1.0 Pre-recorded optical reflective video disk system ‘Laser Vision’ 60Hz/525 lines-M/NTSC(録画済み光反射ビデオディスク装置 'レーザビジョン’ 60Hz/525ライン-M/NTSC)が使用されている。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "LVフォーマットのディスクは厚さ1.2mmのポリメチルメタクリレート(PMMA:硬質アクリル樹脂)の記録面に反射膜(アルミニウム)を蒸着したのち保護膜を塗布した2枚の円盤を貼り合わせたもので、2.5mmの厚みがある。アクリル樹脂は吸湿により反りが発生するため、片面記録であってもダミーのディスクを貼り合わせるので両面張り合わせディスクが基本である。直径30cmと20cmの2種類が存在するが、20cmディスクにはCDと同じポリカーボネートを使用した張り合わせ無しの薄型(厚さ1.2mm)も存在する。これは「LDシングル」と呼ばれ、非対応のプレーヤーでは厚さを調整するスペーサ(LDシングルアダプター)を重ねて使用する必要がある。なお、通常のディスクは盤面が銀色で、末期に登場したレンタル専用商品は金色にして区別している。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "CDと同様、信号の記録は非常に細かい楕円形のくぼみ(ピット)で行われている。ピット幅は0.4μm、深さは0.1μm。ピットの列をトラックと呼び、トラックピッチは1.67μm、最短ピット長は約0.5μmである。このピットがディスク表面に内側から外側に向かって螺旋状に並び、ダイレクトFM変調したNTSC信号をスライスした矩形波に従って記録されている。このピット数はCLV片面ディスクで300億個に達する。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "両面記録ディスクではA面/B面と呼ぶ。レコードと違ってピックアップはディスクの下にあるため、実際に再生されるのは裏面の記録内容で、レーベルに記載されている面と実際に信号が記録されている面は逆である。なお、反対側の面を再生するにはレコードのようにプレーヤーから取り出してひっくり返す必要があるが、後にディスクを取り出さずに連続再生できる、ピックアップがU字形に移動する両面再生プレーヤーも発売された。初搭載したのは海外市場でCED及びTED、日本国内ではVHD陣営に属しビデオディスクに於いては多くのノウハウを持つ三洋電機が1987年にレーザーディスク陣営参入第一弾として、満を持して発表したSLV-J1(AV対応モデル)とSLV-J2(カラオケ対応モデル)だった。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "映像はアナログ(ダイレクトFM変調)方式を採用し、記録はレーザー光を使って読み出す。当初はピックアップに波長632.8nmの赤色ガスレーザー(ヘリウムネオンレーザー)を採用しており、LD-7000から波長780nmの赤外線半導体レーザーを採用した。映像はNTSCのビデオ帯域が4.2MHzのため、1MHzあたり80本の計算で水平解像度336本となる。CAV方式では内周部336本から始まり外周部440本になり、平均して水平解像度400本以上と言われる。CLV方式では常時330本前後になる。直径30cmのディスクではCAV方式(回転数1800rpm)の標準ディスクで片面30分、CLV方式(回転数1800 - 600rpm)の長時間ディスクで片面1時間の映像を記録できる。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "トラックは螺旋状に記録されており、CAV方式の場合、NTSCの1フレーム(1/30秒)の情報が螺旋の1周に記録されている(30回転/秒=1800rpm)。一時停止は1周を繰り返し再生、コマ送りは順次前後の1周に移動、変速再生はトラックの読み出し間隔を変更という仕組みになっている。また、CAV方式では全ての画面(フレーム)に番号が振られており(フレームナンバー)、このフレームナンバーで希望のシーンを探す「フレームサーチ」が使用できた。一方、CLV方式では一定の線速度で記録されているため、トラックとフレームの間に物理的な関連はなく、正逆サーチ以外の特殊再生はできなかった。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "LDプレーヤーにおいてディスク上に記録されたピットを検出するピックアップの制御は、レーザー光を正確に反射面に集光するためのフォーカス制御、正確に記録トラックをトレースするためのトラッキング制御のほか、アナログ信号の時間軸変動を抑制するための時間軸制御が必要となる。LD-7000では時間軸制御をピックアップで光学的に行っていたが、1986年(昭和61年)発売のLD-S1ではフレームメモリを搭載して電子回路で代替した。これにより、ピックアップの制御がCDプレーヤーと同様のトラッキングとフォーカスの2軸になったほか、フレームメモリを用いてCLVディスクでも静止画やコマ送りなどの特殊再生が可能になった。後に普及価格帯のLDプレーヤーにもデジタルTBCが搭載された。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "LDフォーマットはNTSCの全ての帯域をそのまま記録していると表現されることもあり、映像信号についてはアナログ方式なのでDVD-Videoのような圧縮が一切ないのが特徴である。この点からDVDのMPEG-2による圧縮ノイズを嫌い、LDの画質を好む人もいる。特にコマ送り、正逆サーチなどの特殊再生ではLDが優れている。音質についてはデジタル記録であれば、圧縮がないLDのほうが完全に優位に立っている(ただし、DVDにおいて音声トラックがPCMで記録されていれば、同等である)。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "MUSE規格でハイビジョン映像を記録した拡張規格「Hi-Vision LD」もあり、Hi-Vision LD対応プレーヤーで再生できる。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このほか、映像・音声以外のサブコード領域に映画の台詞や英語字幕や歌の歌詞などの情報を記録した「LDグラフィックス(LD-G)」も存在する。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "CAV形式で片面に54000枚の静止画を収録可能な利点を生かしてデータベースの媒体としての利用も行われたほか、静止画と動画を1つの作品に混在させて「映像を見る」ことと「本を読む」ことを一緒にした表現形式の映像出版の試みも存在したがCD-ROM方式に端を発する電子出版にとって代わられた。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "音声は開発当初はアナログ(FM変調)のみだった。1984年(昭和59年)に世界初のCD/LDコンパチブルプレーヤーCLD-9000を市場に投入するに併せ、CD規格に準拠したデジタル音声(EFM音声信号:44.1kHz/16ビットリニアPCM)が2MHz以下の未使用帯域に追加された。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)にCD VIDEO(CDV)が新規に市場投入するのに併せて、CD-DAと同様のTOC情報が合わせて記録されたデジタル音声付レーザーディスクが一般的となった。「LaserVisionマーク」「CD VIDEOマーク」「DigitalSoundマーク」の3つがジャケットやディスクに併記されている。当初はこのタイプのディスクを「CD VIDEO LD」と呼んでいたが、元となるCDV規格が思ったように普及しなかったことから、1989年(平成元年)頃からは「LASERDISCマーク」と「DigitalAudioマーク」の併記されたものがTOC付きLDと認識され、主流となった。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "映画ソフトの外装にドルビー・サラウンドの記載がされるようになると、アナログ音声トラックやデジタル音声トラックにもドルビーサラウンドの信号もそのまま記録されたので、それに適合するAVセンター(AVアンプ)を用いてドルビー・サラウンドやドルビー・プロロジックなどのサラウンド音声が再生できるようになったが、1994年(平成6年)には映画館で採用され始めていたドルビーデジタルが、1997年(平成9年)にはDTSといったデジタルサラウンドが導入されたほか、ハイビジョンで製作されたマスターテープを用いたり、ワイド画面でワイドスクリーン作品をより高解像度で鑑賞できるように画面の横幅を3⁄4に圧縮したスクイーズ方式も一部ソフトで採用された。音質/画質は大きく向上し、これらの技術はDVDにも引き継がれている。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "特にドルビーデジタルは、初期DVDソフトの音質がLD収録のものより劣ると言われていたため、ビットレートをLDの384kbpsからDVDは最大448kbpsまで引き上げることでLDを上回る音質を達成している。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ドルビーデジタル対応LDは、デジタル音声領域にPCM方式ドルビーサラウンド、アナログ音声のRchにドルビーデジタル(5.1chサラウンド)、LchにFM方式モノラルで音声が収録されているため、ドルビーデジタル音声で再生するには、ドルビーデジタル(AC-3)RF出力の付いているLDプレーヤーと、アナログ音声トラックのRchに高周波変調して記録されているドルビーデジタル(AC-3)RF信号を元のドルビーデジタル音声信号に変換できるRFデモジュレーター搭載AVセンター(AVアンプ)が必要である。RFデモジュレーター非搭載AVセンターで再生する場合では、デフォルトでPCMデジタル音声トラックのドルビー・プロロジックかドルビー・プロロジックIIによるサラウンド音声、または選択によるアナログ音声トラックのLch(モノラル)での再生になる。サラウンド・プロセッサー非搭載アンプのみで再生する場合では、デフォルトでPCMデジタル音声トラック(2chステレオ)または選択によるアナログ音声トラックLch(モノラル)での再生になる。再生に際して注意を要することは、アナログ音声トラックRchに記録されている信号は適切にデコードされないと雑音として発せられる、ということである。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "このドルビーデジタル(AC-3)RFデモジュレーターは一部の高級AVセンター、またはサラウンド・プロセッサーにしか内蔵されておらず、最近のAVセンターにはデコーダーしか内蔵されていない場合が多いのは、最早ドルビーデジタル(AC-3)音声信号付LDよりもDVD/BDの再生に主眼が置かれているからである。また、単体でのRFデモジュレーターはいくつかのメーカーで生産されていたが、最後期のLDプレーヤーの生産終了を待つこと無くいち早く生産終了しているため、中古品ショップまたはオークション以外での入手は極めて困難である。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なお、日本生産盤では滅多に見かけることのないDTS対応LDは、デジタル音声領域にDTS音声信号が収録されているため、光出力端子(S/PDIF)のあるモデルとDTS音声を再生できるAVセンターまたはプロセッサー/デコーダーがあれば一部の機種を除いて再生可能であるが、未対応AVセンターではDTS音声信号はノイズとしてしか再生されず、アナログサラウンド音声かアナログステレオ音声のみでの再生を選択することになる。", "title": "規格" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "LDフォーマットが市場へ投入された当初は「半永久的に劣化しない」という表現を使っていたが、1980年代中頃からこの表現は中止された。レーザーディスクに使用されたアクリル樹脂は吸湿性が高く、空気中の水蒸気を加水・吸着することによって一部のディスクでアルミ記録面が劣化し、ノイズが発生した。原因は当時、まだアルミ蒸着技術が確立しておらず、製造時にミクロ単位の異物が混入したことによるものだった。一部のメーカーは良品との交換対応を余儀なくされ、劣化対策は当時メーカーにとって急務だった。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "その後、アルミ蒸着技術の確立・精度向上と共にこの事象がほぼ解決されたのは1980年代半ば頃であり、1980年代前半に製造されたディスクにはホワイトスノー・スノーノイズなどとも呼ばれるノイズが乗っているものがある。なお、酸化保護膜付加・防錆加工・接着剤の材質改善といった改良が加えられた経年劣化対策済みのディスクでも、ごくわずかながらも劣化は進行する。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "一般家庭の保存環境下ではLDシングルを除く一般的なLDの平均寿命は30 - 50年程度とされ、材質にポリカーボネートを使用し平均寿命が30 - 100年程度とされるLDシングル、およびCD、DVD、BDに比べ短い。このような経緯から、後に開発されたDVD規格などでは「半永久的に劣化しない」という表現は消えている。レーザーディスクの生産を終了してから長期間経過しているが、劣化したディスクは盤面を見ても判断がつかず、実際に映像を視聴してみるまでノイズの有無は分からない。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)にS端子が発表された後、それ以降に発売されたLDプレーヤーでは多くの場合、RCA端子(コンポジット)出力に加えてS端子出力も備わっている。しかし必ずしもS端子で接続したほうが画質が良いとは限らない。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "VHSや8ミリビデオなど、輝度(Y)信号と色(C)信号が分離記録されている場合はS端子で接続したほうがY/C混合・Y/C分離が発生しないため画質が向上する。しかしLDの場合はもともとコンポジット信号で記録されているのでY/C分離は避けられない。プレーヤーとテレビモニタをコンポジットで接続すればモニタでY/C分離することになり、S端子で接続すればプレーヤーでY/C分離することになるため、モニタのY/C分離性能のほうがよい場合はコンポジットで接続する方が画質が向上する。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "中・低価格帯でS端子を持つプレーヤーでは、ディスクから読み取ったコンポジット信号がそのまま出力されているわけではなく、プレーヤー内部でY/C分離したものをS端子に出力する一方で再度Y/C混合したものをコンポジット出力しているものが多い。これはコストダウンが理由である。このようなプレーヤーでは、S端子で接続したほうがよい。高級機種では、このようなことをしていないという意味で「ダイレクトコンポジット出力」などと謳っているものもある。しかし高級機器である以上、Y/C分離の性能には優れているため、矛盾した機能でもある。また、歴代のLDプレーヤーで最高級機とされるLD-X1は、Y/C分離した信号をデジタル処理して高画質化を図っているため、ダイレクトコンポジット出力ができない。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "なお、DVDコンパチブル機の一部はコンポーネント端子を備えるが、同端子からのLDの画像は白黒になってしまうため、この方法での正常な再生はできない。", "title": "注意点" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "レーザーディスクカラオケ(LDカラオケ)は、カラオケ楽曲と歌詞のテロップやイメージ映像を合わせて収録したソフトであり、通信カラオケの原型となったものである。", "title": "主な用途" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "日本コロムビア、テイチクエンタテインメントなど複数の邦楽レコード会社では家庭用カラオケソフトが制作・発売され、マイクミキサーを経由することで自宅でカラオケを楽しめるようになっている。 2007年(平成19年)3月までは、個人向けに20cmのカラオケソフトが細々と発売され続けたほか、レーザーディスク衰退後もDVDへフォーマットを変えて市販されている。", "title": "主な用途" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "従来のVTRとは異なり、ランダムアクセスを可能としたLDはゲーム用途にも活用された。", "title": "主な用途" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1991年10月1日にナムコが開発・リリースした業務用ゲーム機器ギャラクシアンでは、背景映像とゲーム概要を説明するために採用され、後にこの作品シリーズである28人版(ナムコ・ワンダーエッグ)、6人版(ゲームセンター向け機器)にも採用された。", "title": "主な用途" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ジョージ・ルーカス率いるルーカスフィルムは1980年代初頭からノンリニア編集機の開発を始めており、1984年の全米放送事業者協会展示会にてEditDroid(英語版)を発表した。これは複数のレーザーディスクプレーヤーを使用することにより、ノンリニア編集を可能とするコンピューターベースの機器であった。画期的な機器ではあったが、性能が不安定であったり編集の制約があったりするなどの不備も目立ち、結局は24台を製造したのみにとどまった。また、この機種はスター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還の宣材映像とともに大々的に宣伝されていたのにもかかわらず顧客となり得る同業他社はジョージ・ルーカスが映画の編集にこの機種を使用していないことに落胆し購入を躊躇ったという。最終的には1993年に事業ごとアビッド・テクノロジーへ売却された。その結果、『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険』はこの機種を使用して編集が行われた最後の作品となった。", "title": "主な用途" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1991年9月に、三洋電機、ソニー、東芝、パイオニア、松下電器産業の5社がMUSE方式を採用したHi-Vision LDの仕様を発表。映像信号帯域8.1MHzにアナログ帯域圧縮したMUSE信号を記録し、レーザー波長=670nm、NA=0.55のピックアップを用いて読み出す。これにより、直径30cmのディスク片面で60分、両面120分の長時間再生可能なフォーマットを確立した。", "title": "Hi-Vision LD" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "EIAJ CP-3303(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(ハイビジョンLD 60Hz/1125ラインMUSE)として規格が定められていたが、2004年9月に廃止されている。", "title": "Hi-Vision LD" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ディスクの特性は、LVフォーマットとして制定されたEIAJ CP-3302(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(レーザービジョン 60Hz/525ラインM/NTSC))に準拠しているが、MUSE方式に合わせて一部変更が加えられている。", "title": "Hi-Vision LD" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "CAVディスクの角速度は1映像フレーム期間で1回転、CLVディスクの線速度は13.8m/s - 15.2m/s。トラックピッチは1.1±0.1μmとLVフォーマットより狭くなっており、MUSE信号、時間軸基準パイロット信号、EFM音声信号(オプション)が周波数分割多重記録(FDM記録)されている。", "title": "Hi-Vision LD" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "音声は、MUSE信号の垂直ブランキング期間に多重されているMUSE音声信号の他に、CD規格に準拠したEFM音声信号を追加多重することが可能となっている。", "title": "Hi-Vision LD" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "これらの信号は、LVフォーマットよりも短波長の670nm赤色レーザーで読み取られ、NTSC(MUSE)FMアナログ信号に復調後、A/D変換されている。", "title": "Hi-Vision LD" } ]
レーザーディスク は、直径30cmの光ディスクに両面で最大2時間のアナログ映像を記録できるビデオディスク規格である。メディアは再生のみ可能でLPレコード並みに大きい反面、VHSより高画質であり、主にマニアや富裕層において普及した。両面記録されている長時間の動画ではディスクの裏返しが必要で、視聴が一旦途切れるという欠点がある。2000年頃から手軽に高画質な映像が視聴できるDVDが一般層にも普及したことにより、役割を終えた。
{{pathnav|メディア (媒体)|記録媒体|光ディスク|frame=1}} {{ディスクメディア |名称 = レーザーディスク |略称 = LaserDisc, LD |ロゴ = [[ファイル:Laserdisc logo.svg|200px]] |画像 = [[ファイル:LDDVDComparison-mod.png|180px]] |画像コメント = レーザーディスク(左)と[[DVD]](右) |種類 = [[光ディスク]] |容量 = 30cm LD * [[CAV]]:片面30[[分]]、両面60分 * [[CLV]]:片面60分、両面120分 20cm LD * CAV:片面14分、両面28分 * CLV:片面20分、両面40分 LDシングル * CAV:14分 * CLV:20分 |フォーマット=[[アナログ]](映像・音声)<br />[[デジタル]](音声) |コーデック= |読み込み速度= |書き込み速度= |回転速度=CAV:1800[[rpm (単位)|rpm]]<br />CLV:1800 - 600rpm |読み取り方法=632.8[[ナノメートル|nm]]赤色[[ヘリウムネオンレーザー|He-Neレーザー]](初期)<br />780nm[[赤外線]][[半導体レーザー]] |書き込み方法= |書き換え= |回転制御=CAV、CLV |策定=[[フィリップス]]、[[ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ|MCA]] |用途=映像、音楽、ゲームなど |ディスク径=30[[センチメートル|cm]]、20cm |大きさ=300×300×2.5[[ミリメートル|mm]]<br />200×200×2.5mm<br />200×200×1.2mm(LDシングル) |重さ=約480グラム(30cm LD) |上位=[[#Hi-Vision LD|Hi-Vision LD]]<br />[[DVD]] |下位=[[VHS]]<br />[[ベータマックス]] |関連=[[VHD]](競合規格) }} '''レーザーディスク''' ('''LaserDisc''', '''LD''') は、直径30[[センチメートル|cm]]の[[光ディスク]]に両面で最大2[[時間 (単位)|時間]]の[[アナログ]]映像を記録できる[[ビデオディスク]]規格である。ディスクは[[レコード|LPレコード]]並みに大きい反面、同時期に普及していたビデオ規格の[[VHS]]より高画質であり、主に[[マニア]]や[[富裕層]]において普及した。両面記録されている長時間の動画ではディスクの裏返しが必要で、視聴が一旦途切れるという欠点がある。 民生用は再生のみであるが、業務用では1990年代前半に録画(追記または書換)可能なメディアと機種が開発・販売された{{Efn|パイオニア:LaserRecorder VDR-V100、VDR-V1000、ソニー:LVR-6000A、ティアック:LV-200Aなど}}。 2000年頃から手軽に高画質な映像が視聴できる[[DVD]]が一般層にも普及したことにより、役割を終えた。 == 名称 == 日本国内における「レーザーディスク」は、パイオニアの[[商標|登録商標]]とされている<ref>「LaserDisc」は1980年7月8日出願、1983年11月25日登録([https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-1980-055782/0D641E1E7072D116B103BE45EDD67DC00D25F1DFFE7596675A1C24525C4170C2/40/ja 第1637043号])。「レーザーディスク」は1982年4月20日出願、1990年11月30日登録([https://www.j-platpat.inpit.go.jp/c1800/TR/JP-1982-033303/D20B58BC106E59D0E711A4B96D3B6290A1D4D3CD7803CBF22D6A253B7846332B/40/ja 第2284421号])。</ref>{{Efn|発売前に[[マーケティング]]の専門家たちに相談し、[[一橋大学]]の[[田内幸一]]教授(当時)からの[[レーザー]]を前面に出してレーザーディスクではどうかとの提案が採用され、命名された<ref>神尾、p.211。原文では「一橋大学の田之内教授」。</ref>。}}。パイオニア以外のメーカーでは規格名である'''レーザービジョン''' ('''LaserVision''', '''LV''') が用いられていた。[[1989年]]([[平成]]元年)10月にパイオニアが「レーザーディスク」の[[商標]]を無償開放したことで他メーカーも使用できるようになった<ref>荒井、p.259</ref>が、使用有無は各メーカーに委ねられた。また、パイオニアでは「絵の出る[[レコード]]」という[[キャッチコピー]]も使われていた<ref name="AVWatch20220419">{{Cite news|author=市川二朗|date=2022-04-19|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/review/review/1403675.html|title=【レビュー】 君は知っているか!? 「LD」を四半世紀ぶりに再生してみた|newspaper=AV Watch|publisher=インプレス|accessdate=2022-08-25}}</ref>。 == 歴史 == === 黎明期 === [[1972年]]([[昭和]]47年)9月に[[オランダ]]の[[フィリップス]]が光学式[[ビデオディスク]]規格としてVLP (Video Long Play) 方式、同年12月に[[アメリカ合衆国]]の[[ミュージック・コーポレーション・オブ・アメリカ|MCA]]が{{仮リンク|ディスコビジョン|en|DiscoVision}}方式を発表し、[[1974年]](昭和49年)9月に両社の規格が統合されて「フィリップス/MCA方式」として発表された。MCAはこの研究開発事業をDiscoVision Associates (DVA) に分社化し、[[IBM]]の出資を受ける。[[1978年]](昭和53年)12月にアメリカで製品化され、フィリップスの[[子会社]][[マグナボックス]]がオランダで製造した世界初となる家庭用[[レーザーディスクプレーヤー|LDプレーヤー]]「マグナビジョン」'''VH-8000'''を、DVAが「[[ジョーズ]]」や「[[アバ]]」など約50のセルビデオタイトルをDiscoVisionレーベルで発売した。しかしながら、カリフォルニア州にあったDVAの光ディスクのプレス過程で埃など細かな異物が混入するなど[[歩留まり]]率が低く、VH-8000も不良品交換が続いたことから、1981年には規格提唱者のDVAとフィリップスは収益化が困難と判断し、市販化から2年弱でハードとソフト双方の製造事業から撤退する。 日本では、1972年よりビデオディスクの研究を進めていた音響機器メーカーの[[パイオニア]]が、[[石塚庸三]]のリーダーシップで1978年に[[甲府市]]の半導体研究所にDVAと[[合弁会社]]ユニバーサルパイオニア株式会社 (UPC) を設立したうえ、LDプレーヤーおよび[[光ディスク]]の開発と製造から事業参画し、アメリカ市場で[[1979年]](昭和54年)2月に業務用LDプレーヤー'''[[:en:Pioneer PR7820|PR-7820]]'''、[[1980年]](昭和55年)6月に家庭用LDプレーヤー'''VP-1000'''を発売。日本では[[1981年]](昭和56年)10月にパイオニアが所沢工場で製造した'''LD-1000'''の発売によって市販化した。そしてDVAとフィリップスの撤退により、高度な[[クリーンルーム]]にフルオートメーション設備を備えた最新鋭の光ディスク製造工場として甲府工場を新設した、ユニバーサルパイオニアのDVA持分をパイオニアが買収してパイオニアビデオ株式会社に社名を変更し、普及を推進することになった。 === 規格争い === 1981年当時、日本市場のビデオディスクは松下電器産業(現:[[パナソニック]])、東芝、三菱電機をはじめとする[[電機メーカー]]12社が[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]市場で[[VHS]]方式を広めた実績がある[[日本ビクター]](現:[[JVCケンウッド]])が開発した[[VHD]]を支持しており、[[レーザーディスクプレーヤー|LDプレーヤー]]は1983年までパイオニア一社のみが販売するという[[規格争い]]を繰り広げることになる。VHDはレコード盤技術の応用でプレーヤーやディスクの製造コストが低廉で、VHSと同様に松下電器の販売力から市場制覇が期待されていたが、[[水平解像度]]が240本程度であるうえにピックアップが接触式で耐久性や機能拡張性に難があること、そして市販化が[[1983年]]([[昭和]]58年)4月と遅れをとったため、価格面を除いて優位性が見られず、1984年より[[ソニー]]、[[日立製作所]]、[[日本コロムビア]]、[[ティアック]]、[[日本マランツ]]、[[三洋電機]]、日本楽器製造(現:[[ヤマハ]])、[[東芝]]、[[三菱電機]]、[[日本電気ホームエレクトロニクス]]などがパイオニアの技術供与を受け、LDプレーヤーの製造販売に参入する。[[1985年]](昭和60年)以降、ビデオディスクの[[市場占有率|シェア]]の過半数をLDが獲得したことでVHDとの規格争いに勝利した(詳細は「[[VHD#ビデオディスクの規格争い]]」を参照)。 === 普及 === 最初期のLDプレーヤーはピックアップの読み取りに[[ヘリウムネオンレーザー]]を使用し、モーターなどの部品なども大型であり、エントリーモデルの価格帯が14万円前後だったVHDプレーヤーと比べて20万円前後と高価であった。1984年にパイオニアと[[シャープ]]の共同開発で[[半導体レーザー]]の実装化に成功し、VHDとの規格争いで参入メーカーが増加して量産化したことでコストの問題を解決させたことが、VHDとの規格争いでLDを勝利に導いたと言われる<ref>神尾、pp.208-209</ref>。1985年(昭和60年)に10万円を切る価格で発売された日本楽器製造(現:[[ヤマハ]])のLV-X1を皮切りに、パイオニア、ソニー、松下電器産業、[[ケンウッド]](現:JVCケンウッド)といった各社から「ロッキュッパモデル」と言われた69,000円台の普及価格帯のLDプレーヤーや[[コンパクトディスク|CD]]/LDコンパチプルプレーヤーが次々と登場し、バブル景気の1990年代前半はローエンド機からマイクミキサー内蔵のLDカラオケやスピーカー・コンポ一体型のハイエンド機まで多種多彩な機種が発売されていた。 LDソフトは、パイオニアが[[セルビデオ]]製作会社として[[NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン|山梨パイオニア(後のパイオニアLDC、現NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン)]]を設立し、ハリウッドや日本の映画会社などからフィルムの供給を受けて製品化する体制をいち早く確立した。メインとなった[[映画]]ソフトは製造コストや版権料から7,000円 - 1万円前後の価格設定で発売されていたが、[[1980年代]]終盤からパイオニアLDCが中心となって「エバーグリーンシリーズ」「[[ブロックバスター (映画)|ブロックバスター]]」などと称して5,000円を切る価格帯で次々と人気ソフトを発売するようになる。一方で[[テレビアニメ]]などの[[シリーズ (作品)|シリーズ]]作品を複数枚のLDに全話収録して一括販売する「[[ボックス・セット#LD-BOX|LD-BOX]]」という[[ボックス・セット]]形態の高額商品や、[[OVA]]、歌手のライブビデオも数多く発売され、コアな[[ファン]]や[[マニア]]を取り込んでユーザー層を拡大させていった。 [[1992年]]([[平成]]4年)頃からは、それまでの映画ソフトで主流だった画面の[[トリミング (映画映像の用語)|トリミング]]をやめ、できるだけ劇場公開時の画面サイズに忠実な[[画面アスペクト比#スコープサイズ|ワイドスクリーン]]サイズの画面で映画ソフトを次々に発売して映画マニアを中心にユーザー層を厚くした。1本の映画をワイドスクリーンとテレビサイズの2パターンの商品で発売するなどマニアックなラインナップがなされたものも多い。これらの中には、[[DVD-Video]]で発売されているソフトでは見ることができない画面サイズのものもあった。同じ映画ソフトが何種類も発売されていることから当時の一般的ユーザーを混乱させる[[副作用]]も生ずるなど、[[1990年代]]前半を最盛期としてユーザーを拡大した。多くの映画、[[音楽]]、[[ドキュメンタリー]]、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[スポーツ]]、そのほか各種のコンテンツがLDで発売された。 [[男性向けアニメ|ハイターゲット向けのアニメ作品]]のビデオ市場も大きく、1991年に発売された『[[炎の転校生#OVA版|炎の転校生]]』([[ポニーキャニオン]])の[[OVA]]版のみ唯一LDの独占販売から初めたため、'''オリジナル・レーザー・アニメーション'''の[[略語]]である「OLA」が用いられている。一定数の売上を得られ、LDプレーヤーもある程度は普及したものの、レンタルビデオ版の流通ができないなどVHS視聴で充分なライトユーザーを囲い込みできず、結局は1992年にVHS版(セル・レンタル同時)も発売されることになった。パイオニアLDCが製作・発売したOVA『[[天地無用!]]』や『[[神秘の世界エルハザード]]』もLDの購買層を意識したハイターゲット指向の作風やクオリティであったが、VHS版と同時リリースとなっている。なお、また、レーザーディスクと同時期に発展した[[アダルトアニメ]]は黎明期の『[[くりぃむレモン]]』よりVHSとLDの併売が多く見られたが、[[アダルトビデオ]]は[[レンタルビデオ]]での流通が主流であるため、VHSと比べLD版で発売されたタイトルは少数であった。 パイオニアはレーザーディスクのマルチメディア化も志向し、LDの[[デジタル]]音声領域に[[CD-ROM]]と同様のデジタルデータを記録した「LD-ROM」による[[レーザーアクティブ]]を投入した。業務用としてはレーザーバーコードシステムと連携したLD-V540などが投入され、産業用・教育用などで利用されていた。1980年代にパイオニアが自社[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]として発売していた[[MSX]]パソコン「palcom」PX-7などとの連携でLDゲームをプレイできたが、これはLDのデジタル音声規格が策定される以前から存在していたものであり、LD-ROM規格とは異なる。後にパイオニアは[[Macintosh互換機]][[MPC (パーソナルコンピュータ)|MPCシリーズ]]を販売し、対応したLDプレーヤーCLD-PC10を発表したが、LD-ROMとの連携はほとんど重視されなかった。 <!-- また、1980年代にはコンピュータゲームの映像の表示にレーザーディスクが用いられるようになった<ref name="famitsu20211214">{{Cite news|url=https://www.famitsu.com/news/202112/14243563.html|title=ファミコン時代から未来のゲーム音楽まで語る! 野田クリスタルさんと桜井政博さん初対談企画、Spotifyゲーム音楽対談・場外戦【後編】|newspaper=ファミ通.com|publisher=KADOKAWA Game Linkage|date=2021-12-14|accessdate=2022-08-25}}</ref>。具体的な仕組みはプレイヤーが映像に合わせて進行方向などを指示し、失敗したときは専用の画面に切り替わるというものであり、実写映像が用いられたものもあった{{R|famitsu20211214}}。当初は画質の良さからもてはやされたものの、単調なゲーム性や故障の頻発から短命に終わった。 --> === カラオケ業界への進出 === [[1982年]](昭和57年)にパイオニアによって業務用[[カラオケ]]の市販が開始され、[[スナックバー (飲食店)]]など酒場を中心に[[8トラックテープ]]などの音声と歌本を組み合わせたカラオケに代わって大ヒットとなり、レーザーディスクに関するビジネスの中心となった。人気曲が繰り返し再生されるカラオケは、ランダムアクセスによる頭出し再生に優れる点とディスクの摩耗が発生しない非接触式ピックアップの特徴が特に生きる分野だった。既にVTRカラオケのソフトを発売していた[[東映ビデオ|東映芸能ビデオ]]が既存コンテンツをLD化したのをはじめ、テープカラオケの販売大手だった[[第一興商]]やJHC([[1996年]](平成8年)倒産)がソフトの供給を開始し、他社も参入した{{sfn|松村|p=202-203}}。また、[[チェンジャーデッキ]]を使ったシステムや、複数台のチェンジャーを使って複数の個室に映像を配信するシステムも開発された{{sfn|松村|p=202-203}}。カラオケLDソフトの出荷金額がピークになったのは[[1990年]](平成2年)の982億円(この年のLDソフト全体の出荷金額は1,357億円、カラオケで全体の72%を占めた)、LDソフト全体の出荷金額のピークは[[1991年]](平成3年)の1,361億円だった{{sfn|松村|p=202-203}}。 === 衰退 === 一般家庭用のLDソフトは販売専用という戦略をとり、1993年に解禁されるまでは[[レンタルビデオ|レンタル]]は全面禁止<!--この点はVHDも同じ-->{{efn|レンタルが禁じられた理由として、当時はコピーガード技術が発展途上で、通常再生時の画質に悪影響を与えることから、LDソフトにコピーガードを施すことができなかったためである。同様の理由に加え、画質が良いことから海賊版の作成に悪用されることが多く、対策として一部映画会社では映画の題名が表示される部分に「ディスク用映像」のテロップを入れていた。}}であり、[[可処分所得]]が高い者向けの[[嗜好品]]とみなされてVHSやDVDビデオのように幅広く普及はしなかった<ref name="ORICON20070520">{{Cite web|和書|title=LDの生産が全世界で終了。最終プレスは川中美幸 |url=https://www.oricon.co.jp/news/44602/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2022-08-25|date=2007-05-20 }}</ref>。そのため、子供向けのビデオソフトは映画や童謡などのカラオケ、学習教材を除いてほとんど発売されなかった。 業務用カラオケの分野においては[[カラオケボックス]]{{efn|同志社大学の小林啓志によると、1985年にうどん屋の経営者がカラオケ機材を店内に持ち込んだところ客から苦情が来たため、機材をトラックのコンテナに積んだのがカラオケボックスの始まりとされている{{sfn|小林|p=75}}。}}やカラオケルームの登場で客層の若年化が進むにつれ、新曲配信のスピードが重要視されるようになり{{sfn|小林|pp=75-79}}、[[1991年]](平成3年)の[[バブル崩壊]]に伴う景気悪化により酒場での需要が減った。[[1992年]](平成4年)には、[[ISDN]]を用いた[[通信カラオケ]][[JOYSOUND]]([[エクシング]])が登場した<ref name="Nikkei20161207">{{Cite web|和書|title=早すぎたソフト自販機「TAKERU」の謎を解く|MONO TRENDY|NIKKEI STYLE |url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO10108850Q6A131C1000000?channel=ASH02004 |website=NIKKEI STYLE |access-date=2022-08-11 |date=2016/12/7 |publisher=日本経済新聞社・日経BP社|author=平野亜矢}}</ref>。これにより、LDカラオケの欠点である「かさばる」「(オートチェンジャーがない場合の)ディスクの取り換えが面倒」「新曲収録までに時間がかかる」という問題が解消され{{sfn|小林|p=79}}、新曲リリースからLD化までに1 - 2ヶ月かかるLDカラオケは苦戦を強いられるようになっていった{{sfn|松村|p=202-203}}。 発売されるソフトの種類と量が増える一方で、生産ラインの少なさが次第に影響し始めた。[[1994年]] - [[1995年]]頃には、一部の人気商品を除いてほとんどの商品が初回ラインのみの生産で終了するようになり、発売と同時に販売元品切れとなるソフトが続出。新譜として発売された月に廃盤で入荷不可という奇妙な商品も相次いで出現した。需要に供給が全く追いつかない状態となる一方で、それまでは高額だったビデオテープソフトの低価格化と安定供給が進み、ユーザーのLD離れが始まった。なお、アニメLDソフトでは1980年代後半の時点でここで述べられたような供給体制の不備が一部のビデオ雑誌で指摘されていた{{要出典|date=2009年1月}}。レーザーカラオケと一緒に粗製乱造され、画質マニアのLD離れも衰退の要因となった。 やがて[[1996年]](平成8年)にCDと同じ12cmサイズの[[DVD-Video]]規格(DVDビデオ)が登場した{{R|AVWatch20220419}}。最初期のソフトラインナップはLDと同じく、ディスクメディアのポテンシャルを引き出すための高品質な[[オーケストラ]][[演奏会|コンサート]]や[[BGV]]、代表的なブロックバスター作品というバリエーションであり、出足が鈍かった。しかし[[1997年]]にはパイオニアLDCや[[バンダイビジュアル]]などが[[OVA]]の[[DVD]]をLDと併せて発売するようになり、[[1998年]]より洋画作品をLDで数多く発売していたパイオニアLDC(2000年頃まで[[タッチストーン・ピクチャーズ]]系中心)や[[ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント (日本)|ソニー・ピクチャーズ]](当初より[[コロムビア映画]]の他、ビデオソフトで[[パラマウント映画#日本法人|CIC・ビクター ビデオ]]が販売元だった[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル映画]]作品のDVDソフト販売元にもなっている)、[[ワーナー・ホーム・ビデオ]]といった洋画メジャー系のコンテンツを中心に、比較的廉価な価格帯で充実したソフトを発売するようになった。例えばブロックバスター作品の場合、LDソフトでは一作品5,000円 - 8,000円程度の価格帯が主流だったのに対し、DVDソフトは当初でも3,900円 - 6,000円程度だった。こうして、DVDと比べると大型で再生機器への負担が大きい{{efn|ライターの市川二朗はニュースサイト「AV Watch」に寄せた記事の中で「直径30cm、厚さ2.5mmで500g近い重さの分厚いアクリル盤を、毎分1,800回で高速回転させるというのは物理的に無理があり、プレーヤーの故障頻度が高かった。」と解説しており、再生中に本体に触れるとキャビネットが激しく振動していたと述べている{{R|AVWatch20220419}}。}}上、画質も大したことがない{{efn|ライターの市川二朗はニュースサイト「AV Watch」に寄せた記事の中で、レーザーディスクはコンポジット信号を用いていたためスペック上はアナログテレビと変わらず、デジタル画質の[[Video Graphics Array|VGA]]に相当すると述べている{{R|AVWatch20220419}}。}}LDはその地位を急速に奪われていく{{R|AVWatch20220419}}。 1999年(平成11年)頃からは[[VAIO]]や[[iMac]]などで[[DVD-ROM]]ドライブが搭載される家庭用パソコンが、[[2000年]](平成12年)3月には当時の[[DVDプレーヤー]]よりも安価でDVD-Videoが視聴できる家庭用[[ゲーム機]]「[[PlayStation 2]]」が発売され、DVD-Videoの再生環境は爆発的な普及を遂げることになる。DVD-Videoは[[レンタルビデオ]]が容認されていたこと(これは[[コピーガード]]を標準規格として採用できたことが大きい)が追い風となり、ソフト市場やレンタルビデオ店も加速度的に膨張した。これによって大部分の[[映像ソフト会社|映像ソフト]]・レコード会社がLDの制作・発売を終了し、LDは最後まで映像メディアの主役となることはなかった{{efn|たとえば、社団法人日本映像ソフト協会(JVA)が公表した2001年1~12月におけるビデオソフトの売上実績のうち、売上金が宇の構成比においては、全体の51.7%をDVDビデオが占めた一方、レーザーディスクは1.3%だった<ref>{{Cite web|和書|title=JVA、2001年ビデオソフト売上を発表 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20020320/jva.htm |website=av.watch.impress.co.jp |access-date=2022-08-25|date=2002年3月20日}}</ref>。}}。 LDからDVDへの過渡期である1996年から2000年(平成12年)にかけて、同一タイトルをLDとDVDで併売するスタイルがパイオニアLDCや[[バンダイビジュアル]]が発売元の[[映画|洋画]](ブロックバスター作品)とOVAを中心に見られた。 過去に発売されたLDソフトの映像を視聴するだけの機器になりつつあった[[2002年]](平成14年)、パイオニアがLDプレーヤー事業から撤退する報道があったものの<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/0205/23/njbt_01.html パイオニア、LDプレーヤー事業から撤退へ] IT Media、2002年5月23日</ref><ref>[https://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20020524/pioneer.htm パイオニア、LDプレーヤーの生産を終了の方向で検討] AV Watch、2002年5月24日</ref>、消費者からの要望があったために細々と生産・販売を継続する方針を取った<ref>[https://www.watch.impress.co.jp/av/docs/20020524/pioneer.htm パイオニア、LDプレーヤーの製造・販売を継続へ ―事業継続の要望が数十件寄せられる] AV Watch、2002年7月23日</ref>。 また、映像作品の売り上げ実績の統計を取ってきた社団法人[[日本映像ソフト協会]](JVA)によると、2003年の時点において売り上げの大半がカラオケを占めており、それ以外のジャンルでは返品によるマイナス計上が目立っていた<ref>{{Cite web|和書|title=JVA、2003年上半期のビデオソフト売上を発表 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20030910/jva.htm |website=av.watch.impress.co.jp |access-date=2022-08-25}}</ref>。このため、2004年以降の統計は廃止された<ref>{{Cite web|和書|title=JVA、2003年ビデオソフト売上を過去最高の3,506億円と発表 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20040317/jva.htm |website=av.watch.impress.co.jp |access-date=2022-08-25}}</ref>。 一方、カラオケは、[[レコーディングスタジオ|スタジオ]]収録や楽曲のオリジナル音源と[[プロモーションビデオ]]などの[[歌手|アーティスト]]本人出演映像を収録できる点から、[[演歌]]・[[歌謡曲]]をはじめとする「定番曲」を繰り返し再生する用途では一定の評価を得られており、[[ランニングコスト]]から通信カラオケ機器導入に消極的な一部の[[パブ]]・[[居酒屋]]・カラオケ[[スナックバー (飲食店)|スナック]]といった[[飲食店]]や、[[壮年|壮年者]]を中心としたカラオケファン(歌謡曲愛好家)が自宅で楽しむなど根強い需要が[[2000年代]]に入っても残っていた。しかし新曲対応の鈍さが最大の弱点であることは変わらず、[[2004年]](平成16年)に登場した[[DAM (カラオケ)|BBサイバーダム]]が過去に自社([[第一興商]])や[[日本コロムビア]]などが制作したLDカラオケの映像や音源を[[ストリーミング]]配信する機能を盛り込み、クオリティ面での不利が払拭されたため、この領域の衰退に拍車をかけた。 === 終焉 === ソニー・松下電器産業などはLDプレーヤーを1999年度(平成11年度)までに販売終了・撤退し、DVDへ軸足を完全に移した。それ以後、パイオニアだけが以下の機種をLDプレーヤー最終機種として発売していた。 * DVL-919 - 1998年10月発売。スタンダードモデルのDVDコンパチブル(一体型)プレーヤー。当機以前よりDVDコンパチブルモデルは[[CD-DA]]に加え、[[CD+G|CDグラフィックス]]/[[ビデオCD]]の再生に対応している。 * DVL-K88 - 1998年1月発売。同時発売のDVL-909(DVL-919の前機種)にボーカルマイク端子やキーコントロールなどカラオケ機能を付け加えた。 * DVK-900 - 1998年10月発売。LD時代より実質的に継承した、[[スピーカー]]・[[アンプ (音響機器)|アンプ]]がプレーヤーと一体化したテレビ台型の大型媒体であるDVD[[オールインワン]]カラオケシステム。 * CLD-R5 - 1996年9月発売。CD-DAとのコンパチブル型エントリー機。 これらは発売後モデルチェンジをすることなく、10年以上にわたり細々と生産・販売を続けていた。しかし[[2009年]](平成21年)[[1月14日]]、上記4機種について合計約3000台をもって生産終了すると発表した<ref name="ld_info">[http://pioneer.jp/support/oshirase_etc/ld_info/ レーザーディスクプレーヤーをご愛用のお客様へ〜レーザーディスクプレーヤー生産終了のお知らせ〜] パイオニア、2009年1月14日(2020年11月17日更新)</ref><ref>{{Cite web|和書|title=パイオニア、レーザーディスクプレーヤーの生産を終了 |url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20090114/pioneer.htm |website=av.watch.impress.co.jp |access-date=2022-08-25}}</ref>。 その後、生産予定台数に達したものの、DVL-919とCLD-R5の2機種については、一部の注文が複数の販売店に重複したことで若干数のキャンセルが発生したため、同年7月28日から追加販売を実施したが<ref name="AV Watch">[https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/305383.html パイオニア、生産完了のLDプレーヤー2機種を販売再開 -直販サイトで若干数販売。「キャンセル発生のため」] AV Watch、2009年7月28日</ref>、同年9月25日に追加販売分も完売したことを発表した<ref name="ld_info2">[https://jpn.pioneer/ja/support/oshirase_etc/ld_info/ レーザーディスクプレーヤーをご愛用のお客様へ〜生産・追加販売終了のお知らせ〜] パイオニア、2009年9月25日</ref>。これらの機種は2009年(平成21年)の生産終了後、最低8年間は修理に必要な補修部品を保有するほか、過去の機種でも補修部品に在庫があれば修理に応じる体制を併せて発表した<ref>[https://jpn.pioneer/ja/support/oshirase_etc/ld_info/qa.php 本件についてのQ&A] パイオニア、2009年9月15日</ref>。 なお、LDプレーヤーの最終機種としては、DVL-919よりも2か月後の1998年(平成10年)12月に発売されたDVDコンパチブルの[[プレステージ (マーケティング手法)|プレステージ]]モデル「DVL-H9」が存在する。発売当時のLDプレーヤー・DVDプレーヤーのリファレンス(プレステージ)モデルに搭載された映像回路を両方搭載の上、最新機能も盛り込ませた贅を尽くした高価格機種であり、2002年(平成14年)6月に生産終了、2003年(平成15年)頃にカタログ掲載から消えている。 2007年(平成19年)3月、市場衰退により世界唯一のLDのプレスメーカーとなった[[メモリーテック]]が製造ラインを廃止{{R|ORICON20070520}}。これによりレーザーディスクの歴史は幕を下ろした{{R|ORICON20070520}}。最後まで制作を続けたのは[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]の家庭向け市販カラオケソフト(20cm LDシングル)「音多ステーション」シリーズであり、2007年(平成19年)3月発売の[[三門忠司]]の楽曲が収録された規格番号「22DK-1018」<ref>{{Cite web|和書|title=カラオケ倶楽部>新譜情報|url=https://www.teichiku.co.jp/karaoke/nr/shousai/nr0703.html |publisher=テイチク|date=2007年3月|access-date=2022-08-25}}</ref>まで、毎月4タイトル以上の新譜ソフトの発売を続けた。 [[2006年]](平成18年)12月に発売した[[演歌歌手]]・[[川中美幸]]の『[[金沢の雨]]』などが収録された規格番号「22DK-995」がラストプレスとなり、製造ライン終了に伴う式典を行った{{R|ORICON20070520}}。 [[2015年]](平成27年)9月15日、「世界初の産業用レーザディスク(LD)プレーヤ」PR-7820(第00201号)、「世界初の半導体レーザを使用した民生用レーザディスク(LD)プレーヤ」LD-7000(第00202号)、「世界初のLD/CDコンパチブルプレーヤ」CLD-9000(第00203号)の3機種が[[国立科学博物館]]による[[重要科学技術史資料]](未来技術遺産)として登録された<ref name=kakaku>[https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/79486.pdf AIBO、8ビットパソコン、レーザーディスクプレーヤ、タカヂアスターゼなど25件の「重要科学技術史資料(愛称:未来技術遺産)」の登録と登録証授与式について]、[[国立科学博物館]]、2015年9月1日</ref><ref>[https://jpn.pioneer/ja/corp/news/press/index/1936 レーザーディスクプレーヤー3機種が、国立科学博物館の未来技術遺産に登録]、パイオニア、2015年9月2日</ref>。 [[2020年]]([[令和]]2年)11月、LDプレーヤーの補修用性能部品の在庫が無くなったことから、パイオニアも[[アフターサービス]]を終了した<ref name="ld_info"/>。 == 規格 == [[ファイル:LaserdiscModulation.png|thumb|200px|ダイレクトFM変調による記録方式]] [[電子情報技術産業協会|日本電子機械工業会]]により、EIAJ CP-3302(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(レーザービジョン 60Hz/525ラインM/NTSC))で、LVフォーマットとして規格が定められていたが<ref name=" 廃止JEITA">[https://home.jeita.or.jp/tsc/tsc-haisi.html 廃止JEITA規格について]、社団法人[[電子情報技術産業協会]]、2007年9月</ref>、1999年1月以降は[[国際電気標準会議]]によって[[国際規格]]に定められた、IEC 60857 Ed.1.0 Pre-recorded optical reflective video disk system ‘Laser Vision’ 60Hz/525 lines-M/NTSC(録画済み光反射ビデオディスク装置 'レーザビジョン’ 60Hz/525ライン-M/NTSC)が使用されている<ref>[https://webdesk.jsa.or.jp/books/W11M0090/index/?bunsyo_id=IEC+60857+Ed.+1.0%3A1986 IEC 60857 Ed. 1.0:1986 (b) Pre-recorded optical reflective videodisk system 'Laser vision' 60 Hz/525 lines - M/NTSC]、[[日本規格協会|JSA]] GROUP Webdesk</ref>。 LVフォーマットのディスクは厚さ1.2[[ミリメートル|mm]]のポリメチルメタクリレート(PMMA:硬質[[アクリル樹脂]])の記録面に反射膜([[アルミニウム]])を[[蒸着]]したのち保護膜を塗布した2枚の円盤を貼り合わせたもので、2.5mmの厚みがある。アクリル樹脂は吸湿により反りが発生するため、片面記録であってもダミーのディスクを貼り合わせるので両面張り合わせディスクが基本である。直径30cmと20cmの2種類が存在するが、20cmディスクにはCDと同じ[[ポリカーボネート]]を使用した張り合わせ無しの薄型(厚さ1.2mm)も存在する。これは「LDシングル」と呼ばれ、非対応のプレーヤーでは厚さを調整するスペーサ(LDシングルアダプター)を重ねて使用する必要がある。なお、通常のディスクは盤面が銀色で、末期に登場したレンタル専用商品は金色にして区別している。 CDと同様、信号の記録は非常に細かい楕円形のくぼみ(ピット)で行われている。ピット幅は0.4[[マイクロメートル|μm]]、深さは0.1μm。ピットの列を[[トラック (記録媒体)|トラック]]と呼び、トラックピッチは1.67μm、最短ピット長は約0.5μmである。このピットがディスク表面に内側から外側に向かって[[螺旋]]状に並び、[[周波数変調|ダイレクトFM変調]]した[[NTSC]]信号をスライスした[[矩形波]]に従って記録されている。このピット数は[[CLV]]片面ディスクで300億個に達する。 両面記録ディスクではA面/B面と呼ぶ。レコードと違ってピックアップはディスクの下にあるため、実際に再生されるのは裏面の記録内容で、[[レコードレーベル|レーベル]]に記載されている面と実際に信号が記録されている面は逆である。なお、反対側の面を再生するにはレコードのようにプレーヤーから取り出してひっくり返す必要があるが、後にディスクを取り出さずに連続再生できる、ピックアップがU字形に移動する両面再生プレーヤーも発売された。初搭載したのは海外市場で[[:en:Capacitance Electronic Disc|CED]]及び[[:en:Television Electronic Disc|TED]]、日本国内ではVHD陣営に属しビデオディスクに於いては多くのノウハウを持つ[[三洋電機]]が[[1987年]]にレーザーディスク陣営参入第一弾として、満を持して発表した'''SLV-J1'''(AV対応モデル)と'''SLV-J2'''(カラオケ対応モデル)だった。<!--愛称はLevin。両面再生機能は「ジェットターン」と呼ばれた。この名称は1990年代後半から2000年代にかけて同社の排気循環型[[サイクロン掃除機]]のシリーズ名に使われた。--> === 映像 === 映像は[[アナログ]](ダイレクトFM変調)方式を採用し、記録はレーザー光を使って読み出す。当初はピックアップに[[波長]]632.8[[ナノメートル|nm]]の赤色[[気体レーザー|ガスレーザー]]([[ヘリウムネオンレーザー]])を採用しており、'''LD-7000'''から波長780nmの[[赤外線]][[半導体レーザー]]を採用した。映像はNTSCのビデオ[[帯域幅|帯域]]が4.2[[メガヘルツ|MHz]]のため、1MHzあたり80本の計算で水平解像度336本となる。[[CAV]]方式では内周部336本から始まり外周部440本になり、平均して水平解像度400本以上と言われる。[[CLV]]方式では常時330本前後になる。直径30cmのディスクではCAV方式(回転数1800[[rpm (単位)|rpm]])の標準ディスクで片面30分、CLV方式(回転数1800 - 600rpm)の長時間ディスクで片面1時間の映像を記録できる。 トラックは螺旋状に記録されており、CAV方式の場合、NTSCの1[[コマ (映画・漫画)|フレーム]](1/30秒)の情報が螺旋の1周に記録されている(30回転/秒=1800rpm)。一時停止は1周を繰り返し再生、コマ送りは順次前後の1周に移動、変速再生はトラックの読み出し間隔を変更という仕組みになっている。また、CAV方式では全ての画面(フレーム)に番号が振られており(フレームナンバー)、このフレームナンバーで希望のシーンを探す「フレームサーチ」が使用できた。一方、CLV方式では一定の線速度で記録されているため、トラックとフレームの間に物理的な関連はなく、正逆サーチ以外の特殊再生はできなかった。 LDプレーヤーにおいてディスク上に記録されたピットを検出するピックアップの制御は、レーザー光を正確に反射面に集光するためのフォーカス制御、正確に記録トラックをトレースするための[[トラッキング]]制御のほか、アナログ信号の時間軸変動を抑制するための時間軸制御が必要となる{{sfn|松村|p=154-157}}。LD-7000では時間軸制御をピックアップで光学的に行っていたが、[[1986年]](昭和61年)発売の'''LD-S1'''ではフレームメモリを搭載して[[電子回路]]で代替した{{sfn|松村|p=191}}。これにより、ピックアップの制御がCDプレーヤーと同様のトラッキングとフォーカスの2軸になったほか、フレームメモリを用いてCLVディスクでも静止画やコマ送りなどの特殊再生が可能になった{{sfn|松村|p=191}}。後に普及価格帯のLDプレーヤーにもデジタル[[タイムベースコレクタ|TBC]]が搭載された。 LDフォーマットはNTSCの全ての帯域をそのまま記録していると表現されることもあり、[[映像信号]]についてはアナログ方式なのでDVD-Videoのような圧縮が一切ないのが特徴である。この点からDVDの[[MPEG-2]]による圧縮ノイズを嫌い、LDの画質を好む人もいる。特にコマ送り、正逆サーチなどの特殊再生ではLDが優れている。音質については[[デジタル]]記録であれば、圧縮がないLDのほうが完全に優位に立っている(ただし、DVDにおいて音声トラックがPCMで記録されていれば、同等である)。 [[Multiple Sub-Nyquist Sampling Encoding|MUSE規格]]で[[ハイビジョン]]映像を記録した拡張規格「[[#Hi-Vision LD|Hi-Vision LD]]」もあり、Hi-Vision LD対応プレーヤーで再生できる。 このほか、映像・音声以外のサブコード領域に映画の台詞や英語字幕や歌の歌詞などの情報を記録した「LDグラフィックス('''LD-G''')」も存在する。 CAV形式で片面に54000枚の静止画を収録可能な利点を生かしてデータベースの媒体としての利用も行われたほか<ref name="nakayama"/><ref>{{Cite journal|和書|author=芳賀日向, 山内民興 |title=静止画像検索とハイビジョンへの収録 (<特集> 美術館・博物館のドキュメンテーション) |journal=情報の科学と技術 |issn=0913-3801 |publisher=情報科学技術協会 |year=1992 |volume=42 |issue=7 |pages=615-621 |naid=110002827594 |doi=10.18919/jkg.42.7_615 |url=https://doi.org/10.18919/jkg.42.7_615 |accessdate=2021-08-01}}</ref>、静止画と動画を1つの作品に混在させて「映像を見る」ことと「本を読む」ことを一緒にした表現形式の映像出版の試みも存在したがCD-ROM方式に端を発する[[電子出版]]にとって代わられた<ref name="nakayama">{{Cite journal|和書|author=中山市太郎 |title=アナログからデジタルへ : レーザーディスク静止画映像出版初期の表現手法 |journal=桜美林論考. 言語文化研究 |issn=2185-0674 |publisher=桜美林大学 |year=2012 |month=mar |volume=1 |pages=39-56 |naid=110007875697 |url=http://id.nii.ac.jp/1598/00000729/ |accessdate=2021-08-01}}</ref>。 === 音声 === [[ファイル:LD-mark.svg|thumb|200px|LaserVision/LASER DISCマーク]] 音声は開発当初はアナログ(FM変調)のみだった。[[1984年]](昭和59年)に世界初のCD/LDコンパチブルプレーヤー'''CLD-9000'''を市場に投入するに併せ、CD規格に準拠したデジタル音声([[Eight-to-fourteen modulation|EFM]]音声信号:44.1[[キロヘルツ|kHz]]/16ビット[[パルス符号変調#種類|リニアPCM]])が2MHz以下の未使用帯域に追加された。 [[1987年]](昭和62年)にCD VIDEO([[CDビデオ|CDV]])が新規に市場投入するのに併せて、CD-DAと同様の[[目次|TOC]]情報が合わせて記録されたデジタル音声付レーザーディスクが一般的となった。「LaserVisionマーク」「CD VIDEOマーク」「DigitalSoundマーク」の3つがジャケットやディスクに併記されている。当初はこのタイプのディスクを「CD VIDEO LD」と呼んでいたが、元となるCDV規格が思ったように普及しなかったことから、[[1989年]](平成元年)頃からは「LASERDISCマーク」と「DigitalAudioマーク」の併記されたものがTOC付きLDと認識され、主流となった。 映画ソフトの外装に[[ドルビー・サラウンド]]の記載がされるようになると、アナログ音声トラックやデジタル音声トラックにもドルビーサラウンドの信号もそのまま記録されたので、それに適合するAVセンター([[アンプ (音響機器)#AVアンプ|AVアンプ]])を用いてドルビー・サラウンドやドルビー・プロロジックなどのサラウンド音声が再生できるようになったが、1994年(平成6年)には映画館で採用され始めていた[[ドルビーデジタル]]が、1997年(平成9年)には[[デジタル・シアター・システムズ|DTS]]といったデジタル[[サラウンド]]が導入されたほか、ハイビジョンで製作されたマスターテープを用いたり、ワイド画面でワイドスクリーン作品をより高解像度で鑑賞できるように画面の横幅を{{分数|3|4}}に圧縮した[[スクイーズ]]方式も一部ソフトで採用された。音質/画質は大きく向上し、これらの技術はDVDにも引き継がれている。 特にドルビーデジタルは、初期DVDソフトの音質がLD収録のものより劣ると言われていたため、[[ビットレート]]をLDの384[[キロ|k]][[ビット毎秒|bps]]からDVDは最大448kbpsまで引き上げることでLDを上回る音質を達成している。 ドルビーデジタル対応LDは、デジタル音声領域にPCM方式[[ドルビーサラウンド]]、アナログ音声のRchにドルビーデジタル(5.1chサラウンド)、LchにFM方式モノラルで音声が収録されているため、ドルビーデジタル音声で再生するには、ドルビーデジタル(AC-3)RF出力の付いているLDプレーヤーと、アナログ音声トラックのRchに高周波変調して記録されているドルビーデジタル(AC-3)RF信号を元のドルビーデジタル音声信号に変換できるRFデモジュレーター搭載AVセンター(AVアンプ)が必要である。RFデモジュレーター非搭載AVセンターで再生する場合では、デフォルトでPCMデジタル音声トラックのドルビー・プロロジックかドルビー・プロロジックIIによるサラウンド音声、または選択によるアナログ音声トラックのLch(モノラル)での再生になる。サラウンド・プロセッサー非搭載アンプのみで再生する場合では、デフォルトでPCMデジタル音声トラック(2chステレオ)または選択によるアナログ音声トラックLch(モノラル)での再生になる。再生に際して注意を要することは、アナログ音声トラックRchに記録されている信号は適切にデコードされないと雑音として発せられる、ということである。 このドルビーデジタル(AC-3)RFデモジュレーターは一部の高級AVセンター、またはサラウンド・プロセッサーにしか内蔵されておらず、最近のAVセンターにはデコーダーしか内蔵されていない場合が多いのは、最早ドルビーデジタル(AC-3)音声信号付LDよりもDVD/BDの再生に主眼が置かれているからである。また、単体でのRFデモジュレーターはいくつかのメーカーで生産されていたが、最後期のLDプレーヤーの生産終了を待つこと無くいち早く生産終了しているため、[[古物商|中古品ショップ]]または[[オークション]]以外での入手は極めて困難である。 なお、日本生産盤では滅多に見かけることのないDTS対応LDは、デジタル音声領域にDTS音声信号が収録されているため、光出力端子([[S/PDIF]])のあるモデルとDTS音声を再生できるAVセンターまたはプロセッサー/デコーダーがあれば一部の機種を除いて再生可能であるが、未対応AVセンターではDTS音声信号はノイズとしてしか再生されず、アナログサラウンド音声かアナログステレオ音声のみでの再生を選択することになる。 == 注意点 == === ディスクの劣化 === LDフォーマットが市場へ投入された当初は「半永久的に[[劣化]]しない」という表現を使っていたが、1980年代中頃からこの表現は中止された。レーザーディスクに使用されたアクリル樹脂は[[吸湿性]]が高く、空気中の[[水蒸気]]を加水・吸着することによって一部のディスクでアルミ記録面が劣化し、[[ノイズ]]が発生した。原因は当時、まだアルミ蒸着技術が確立しておらず、製造時にミクロ単位の異物が混入したことによるものだった{{sfn|松村|p=172-174}}。一部のメーカーは良品との交換対応を余儀なくされ、劣化対策は当時メーカーにとって急務だった。 その後、アルミ蒸着技術の確立・精度向上と共にこの事象がほぼ解決されたのは1980年代半ば頃であり、1980年代前半に製造されたディスクにはホワイトスノー・[[スノーノイズ]]などとも呼ばれるノイズが乗っているものがある{{sfn|松村|p=172-174}}。なお、酸化保護膜付加・防錆加工・接着剤の材質改善といった改良が加えられた経年劣化対策済みのディスクでも、ごくわずかながらも劣化は進行する。 一般家庭の保存環境下ではLDシングルを除く一般的なLDの[[平均寿命]]は30 - 50年程度とされ、材質に[[ポリカーボネート]]を使用し平均寿命が30 - 100年程度とされるLDシングル、およびCD、DVD、[[Blu-ray Disc|BD]]に比べ短い。このような経緯から、後に開発されたDVD規格などでは「半永久的に劣化しない」という表現は消えている。レーザーディスクの生産を終了してから長期間経過しているが、劣化したディスクは盤面を見ても判断がつかず、実際に映像を視聴してみるまでノイズの有無は分からない。 === S端子による映像出力 === 1987年(昭和62年)に[[S端子]]が発表された後、それ以降に発売されたLDプレーヤーでは多くの場合、[[RCA端子]]([[コンポジット映像信号|コンポジット]])出力に加えてS端子出力も備わっている。しかし必ずしもS端子で接続したほうが画質が良いとは限らない。 VHSや[[8ミリビデオ]]など、[[輝度]](Y)信号と[[色]](C)信号が分離記録されている場合はS端子で接続したほうがY/C混合・Y/C分離が発生しないため画質が向上する。しかしLDの場合はもともとコンポジット信号で記録されているのでY/C分離は避けられない。プレーヤーとテレビモニタをコンポジットで接続すればモニタでY/C分離することになり、S端子で接続すればプレーヤーでY/C分離することになるため、モニタのY/C分離性能のほうがよい場合はコンポジットで接続する方が画質が向上する。 中・低価格帯でS端子を持つプレーヤーでは、ディスクから読み取ったコンポジット信号がそのまま出力されているわけではなく、プレーヤー内部でY/C分離したものをS端子に出力する一方で再度Y/C混合したものをコンポジット出力しているものが多い。これはコストダウンが理由である。このようなプレーヤーでは、S端子で接続したほうがよい。高級機種では、このようなことをしていないという意味で「ダイレクトコンポジット出力」などと謳っているものもある。しかし高級機器である以上、Y/C分離の性能には優れているため、矛盾した機能でもある。また、歴代のLDプレーヤーで最高級機とされる'''LD-X1'''は、Y/C分離した信号をデジタル処理して高画質化を図っているため、ダイレクトコンポジット出力ができない。 なお、DVDコンパチブル機の一部は[[コンポーネント端子]]を備えるが、同端子からのLDの画像は[[モノクローム|白黒]]になってしまうため、この方法での正常な再生はできない。 == 主な用途 == ===LDカラオケ=== レーザーディスクカラオケ(LDカラオケ)は、カラオケ楽曲と歌詞のテロップやイメージ映像を合わせて収録したソフトであり、[[通信カラオケ]]の原型となったものである。 [[日本コロムビア]]、[[テイチクエンタテインメント]]など複数の邦楽レコード会社では家庭用カラオケソフトが制作・発売され、マイクミキサーを経由することで自宅でカラオケを楽しめるようになっている。 [[2007年]](平成19年)3月までは、個人向けに20cmのカラオケソフトが細々と発売され続けたほか、レーザーディスク衰退後もDVDへフォーマットを変えて市販されている。 === ゲームへの利用 === {{Main|レーザーディスクゲーム}} [[ファイル:Pioneer-LaserActive-Set-FL.jpg|thumb|180px|[[レーザーアクティブ]](北米版)]] 従来のVTRとは異なり、ランダムアクセスを可能としたLDは[[ゲーム]]用途にも活用された。 * リモコンを利用したLDプレーヤー単体でプレイ可能なゲーム。類似するものにDVDやBD、UMDで展開される[[プレーヤーズゲーム]]がある。 * 家庭用[[ホビーパソコン]]であるMSXパソコンでコントロールして遊ぶゲーム。アナログ音声部に[[データレコーダ]]形式のプログラムを収録している。 * [[アーケードゲーム]]にもLDは採用され、[[1983年]](昭和58年)から1980年代中盤までにかけてLD再生機能を用いたゲームがいくつかのゲームメーカーからリリースされ、独特なプレイ方法のLDゲームは一つのジャンルを形成した。当時の家庭用ゲーム機ではできなかった「高画質の動画再生」という特徴を備えていたが基本的に映像の切り替えしかできない機種のため、多くは単調なゲーム性だった。古くは『[[忍者ハヤテ]]』、後に[[ガンシューティングゲーム]]の『[[マッドドッグマックリー]]』などが稼働している。一部のメーカーは高画質の動画再生という点に着目し、[[野球拳]]や[[脱衣麻雀]]などに応用した。 * LDに[[CD-ROM]]互換データを記録した新規格「LD-ROM」を使用した周辺機器[[レーザーアクティブ]]は、1993年(平成5年)8月にパイオニアから発売された{{Sfn|レトロゲーム愛好会|2020|p=208|loc=レーザーディスクとメガドライブが奇跡の融合}}。これは前面スロットに[[コンシューマーゲーム]]機の[[PCエンジン]]と[[メガドライブ]]の機能を持つ各専用オプションをに差し込ことで対応する{{Sfn|レトロゲーム愛好会|2020|p=208|loc=レーザーディスクとメガドライブが奇跡の融合}}。しかし、両ハードともCD-ROMが普及しつつあり、レーザーアクティブが高価だったこと、ゲームショップが積極的に扱わなかったなどの理由により、ソフトはあまり供給されなかった{{efn|LD-ROM<sup>2</sup>用ソフト14本、MEGA-LD用ソフト24本{{Sfn|レトロゲーム愛好会|2020|p=208|loc=レーザーディスクとメガドライブが奇跡の融合}}。}}。 1991年10月1日にナムコが開発・リリースした業務用ゲーム機器[[ギャラクシアン3|ギャラクシアン<sup>3</sup>]]では、背景映像とゲーム概要を説明するために採用され、後にこの作品シリーズである28人版([[ナムコ・ワンダーエッグ]])、6人版(ゲームセンター向け機器)にも採用された。 === ノンリニア編集への利用 === [[ジョージ・ルーカス]]率いる[[ルーカスフィルム]]は1980年代初頭から[[ノンリニア編集]]機の開発を始めており、1984年の[[全米放送事業者協会]]展示会にて{{仮リンク|EditDroid|en|EditDroid}}を発表した。これは複数のレーザーディスクプレーヤーを使用することにより、ノンリニア編集を可能とするコンピューターベースの機器であった。画期的な機器ではあったが、性能が不安定であったり編集の制約があったりするなどの不備も目立ち、結局は24台を製造したのみにとどまった。また、この機種は[[スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還]]の宣材映像とともに大々的に宣伝されていたのにもかかわらず顧客となり得る同業他社は[[ジョージ・ルーカス]]が映画の編集にこの機種を使用していないことに落胆し購入を躊躇ったという。最終的には1993年に事業ごと[[アビッド・テクノロジー]]へ売却された。その結果、『[[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険]]』はこの機種を使用して編集が行われた最後の作品となった。 == Hi-Vision LD == {{ディスクメディア |名称=ハイビジョンLD |略称=Hi-Vision LD |ロゴ= |画像= |画像コメント= |種類=光ディスク |容量=CLV:片面60分、両面120分 |フォーマット=[[Multiple Sub-Nyquist Sampling Encoding|MUSE方式]](映像・音声)<br />[[デジタル]](音声・オプション) |コーデック= |読み込み速度=13.8[[メートル毎秒|m/s]] - 15.2m/s |書き込み速度= |回転速度= |読み取り方法=670nm赤色レーザー |書き込み方法= |書き換え= |回転制御=CAV、CLV |策定=三洋電機、ソニー、東芝、パイオニア、松下電器産業 |用途=映像、音楽 |ディスク径=30cm |大きさ=300×300×2.5mm |重さ= |上位= |下位= |関連= }} [[1991年]]9月に、三洋電機、ソニー、東芝、パイオニア、松下電器産業の5社が[[Multiple Sub-Nyquist Sampling Encoding|MUSE方式]]を採用したHi-Vision LDの仕様を発表。映像信号帯域8.1MHzにアナログ帯域圧縮したMUSE信号を記録し、レーザー波長=670nm、[[開口数|NA]]=0.55のピックアップを用いて読み出す。これにより、直径30cmのディスク片面で60分、両面120分の長時間再生可能なフォーマットを確立した。 EIAJ CP-3303(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(ハイビジョンLD 60Hz/1125ラインMUSE)として規格が定められていたが、2004年9月に廃止されている<ref name=" 廃止JEITA"/>。 === 規格 === ディスクの特性は、LVフォーマットとして制定されたEIAJ CP-3302(光学反射式再生専用ビデオディスクシステム(レーザービジョン 60Hz/525ラインM/NTSC))に準拠しているが、MUSE方式に合わせて一部変更が加えられている。 CAVディスクの[[角速度]]は1映像フレーム期間で1回転、CLVディスクの線速度は13.8[[メートル毎秒|m/s]] - 15.2m/s。トラックピッチは1.1±0.1μmとLVフォーマットより狭くなっており、MUSE信号、時間軸基準パイロット信号、EFM音声信号(オプション)が[[周波数分割多重化|周波数分割多重記録]](FDM記録)されている。 音声は、MUSE信号の垂直ブランキング期間に多重されているMUSE音声信号の他に、CD規格に準拠したEFM音声信号を追加多重することが可能となっている。 これらの信号は、LVフォーマットよりも短波長の670nm赤色レーザーで読み取られ、NTSC(MUSE)FMアナログ信号に[[復調]]後、[[アナログ-デジタル変換回路|A/D変換]]されている。 == 年表 == [[ファイル:LaserRecorder.jpg|thumb|200px|書き換え型LaserRecorder]] [[ファイル:PIONEER CLD-01 1992.jpg|thumb|right|200px|レーザーディスクプレーヤー<br/>CLD-01(1992年)]] * [[1970年]] - パイオニアがビデオディスクの研究を開始。 * [[1972年]] ** 9月 - オランダのフィリップスが光学式ビデオディスク「VLP(Video Long Play)」を発表。 ** 12月 - アメリカのMCAが光学式ビデオディスク「Disco Vision」を発表。 * [[1974年]]9月 - フィリップスとMCAが協議をし、フィリップス/MCA方式として両方式を統一。 * [[1975年]] - [[ドイツ]]の[[ベルリン]]で行なわれたフィリップス/MCA方式のデモにより、パイオニアが自社のビデオディスクに同方式を採用を決定。 * [[1977年]]10月 - パイオニアとMCAの共同出資でユニバーサル・パイオニア株式会社(UPC)を設立。 * [[1978年]]12月 - フィリップスの子会社マグナボックスがアメリカ合衆国でVLPプレーヤー「マグナビジョン」'''VH-8000'''を発売。家庭用としては世界初のLDプレーヤーとなったが、[[ジョージア州]][[アトランタ|アトランタ市]]限定のテスト販売で、販売台数は3ヶ月で385台<ref>神尾、p.146</ref>。 * [[1979年]]2月 - UPCがアメリカで事実上の業務用第1号機PR-7820を発売。 * [[1980年]] ** 4月 - パイオニアがレーザーディスクの商標を採用。 ** 6月 - アメリカでUPCが民生用機'''VP-1000'''を発売。 ** 11月 - パイオニア、フィリップス、MCA、[[IBM]]による「レーザービジョンアソシエーション」がアメリカで設立される。 * [[1981年]][[10月9日]] - パイオニアが初の日本向けの家庭用機'''LD-1000'''を発売。同時にソフト70タイトルをリリース<ref>伊藤隆紹「ソフト不足に泣く情報の革命児ビデオディスク」『[[創 (雑誌)|創]]』1982年8・9月合併号、p.45</ref>。 * [[1982年]] ** 4月 - UPCがパイオニアの100%子会社となり、パイオニアビデオ株式会社(PVC)に改称。 ** 10月 - パイオニアがカラオケ向けのプレーヤーを発売し、1983年春から業務用カラオケ機器販売大手の[[第一興商]]がレーザーディスクを取り扱う。 * [[1983年]] ** 6月 - [[アーケードゲーム]]市場で世界初のレーザーディスクゲーム『[[ドラゴンズレア]]』がアメリカ合衆国で稼働される。 ** 11月 - ピックアップに従来のガスレーザーチューブに代わり、新開発の半導体レーザーを採用した'''LD-7000'''を発売したことにより、プレーヤーの小型化と低価格化が進む。 ** 12月 - ソニーがLDの参入を発表し、翌1984年4月からパイオニアLD-7000の[[OEM]]供給でレーザーマックスのブランドを用いてプレーヤー'''LDP-150'''を発売。 * [[1984年]] ** 5月 - パイオニアからLDプレーヤーと接続可能なMSXパソコン「PX-7」が発売され、家庭向けにもレーザーディスクゲームが発売。 ** 6月 - 日本を中心とした[[アジア太平洋]]地域で「レーザービジョンアソシエーションパシフィック協会」(LVAP協会)を設立。38社が加盟。 ** 9月 - パイオニアが初のCDとLDのコンパチブルプレーヤー'''CLD-9000'''を発売。同時にLDにデジタル音声がオプション規格として盛り込まれる。 ** 12月 - それまでカラオケ向けで使われてきた20cmのディスクが一般向けソフトにも採用。 * [[1985年]] ** 2月 - [[日立製作所]]と[[日本コロムビア]]([[デノン|DENONブランド]])がパイオニアのOEM供給でプレーヤーを発売。 ** 3月 - [[日本マランツ]]がパイオニアのOEM供給でコンパチブルプレーヤーを発売。 ** 6月 - ソニーが初のパイオニアOEMに依存しない自社開発LDプレーヤーである'''LDP-515'''(AV対応モデル)及び'''LDP-505'''(カラオケ対応モデル)を同時発売。それまでの水平解像度350本が370本に。 ** 6月 - [[パラマウント映画]]と[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル映画]]の権利を持つ[[ユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ|CIC]]がLDにソフト供給。これにより、アメリカの映画会社7大メジャーが出揃う。それまでLDに供給しなかったのは、VCRソフトがVHDの開発者である日本ビクターとの合弁会社「[[パラマウント映画#日本法人|CIC・ビクター ビデオ]]」からVHDソフトのみを販売されていたためである。 ** 11月 - 日本楽器製造(現:[[ヤマハ]])が自社開発の'''LV-X1'''を発表しLDプレーヤーに参入。LDプレーヤーとしては初めて10万円を切り、水平解像度400本を達成した。 * [[1986年]] ** 長時間ディスク(CLV)では不可能だった静止画やコマ送り、スロー再生などの特殊再生をデジタルメモリの搭載によって可能にした初のLDプレーヤー'''LD-S1'''が、パイオニアより発売。 ** [[ティアック]]がレーザービデオディスクレコーダの試作品「LV-200A」を発表<ref>{{産業技術史資料データベース|100210021182|レーザビデオディスクシステム「LV-200A」}}</ref>。 ** 10月 - [[クラレ]]鹿島工場がレーザーディスク生産を開始。VLP方式生みの親であるフィリップスからの技術を導入した。 * [[1987年]] ** 松下電器産業(現:[[パナソニック]])が[[CDビデオ]](CDV)が再生できるプレーヤー'''LX-300'''を発表しLDプレーヤーに参入。 ** 5月 - [[テレビアニメ]]『[[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]]』全話を収録した50枚組のソフトが[[キティ・フィルム]]より発売。[[ボックス・セット#LD-BOX|LD-BOX]]と呼ばれる商品形態の第1号<ref>増田弘道『アニメビジネスがわかる』 [[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]]、[[2007年]]、p130</ref>である。 ** 三洋電機が自動両面再生機能を初めて搭載した'''SLV-J1'''及び'''SLV-J2'''を同時発表しLDプレーヤーに参入。 * [[1988年]] - LDを2枚収納可能で4面連続再生機能を備えたLDプレーヤー'''LD-W1'''(22万円、[[物品税]]廃止に伴い20万3400円に改定)がパイオニアより発売。 * [[1989年]] ** 4月 - [[トエミ・メディア|東芝EMI御殿場工場]]がレーザーディスク生産を開始。 ** 10月 - パイオニアと[[ケイディディ|KDD]](後の[[KDDI]])が書き換え型(リライタブル)レーザーディスクを共同開発したことを発表。 ** 11月 - パイオニアが自社の商標だったレーザーディスクを他社に無償開放。 ** 11月 - [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニーグループ]]静岡工場(後の[[ソニー・ミュージックソリューションズ]]静岡プロダクションセンター)がレーザーディスク生産を開始。 ** 12月 - LD-ROMを発表。 * [[1990年]]2月 - レーザービジョンディスクと呼ばれるフィリップス/MCA方式を開発したフィリップスが、同方式を今後はレーザーディスクシステムと呼ぶことを発表。 * [[1991年]] ** 8月 - ソフトの生産が1億枚を突破。 ** 9月 - 三洋電機、ソニー、東芝、パイオニア、松下電器産業の5社が[[ハイビジョン#アナログハイビジョン|MUSE方式]]を採用したHi-Vision LDの仕様を発表。 * [[1993年]] ** 5月12日 - ソニーがHi-Vision LDプレーヤー'''HIL-C1'''(60万円)を発売([[グッドデザイン賞]]受賞<ref>[http://www.g-mark.org/award/describe/20119 ビデオディスクプレーヤー [ハイビジョンLDプレーヤー HIL-C1]]、Good Design Award</ref>)。 ** 7月 - パイオニアがHi-Vision LDプレーヤー'''HLD-1000'''(65万円)を発売。 ** [[8月20日]] - LD-ROMプレーヤーの[[レーザーアクティブ]]がパイオニアより発売。 ** 10月 - それまで全面禁止だった[[レンタルビデオ|LDレンタル]]を一部のソフトに限り解禁。 * [[1994年]]11月 - ソニーがHi-Vision LDプレーヤー'''HIL-C2EX'''(29万8000円)を発売。 * [[1995年]]1月 - パイオニアがHi-Vision LDプレーヤー'''HLD-X0'''(80万円)を発売。 * [[1996年]] ** 10月 - パイオニアがHi-Vision LDプレーヤー'''HLD-X9'''(35万円)を発売。 ** [[11月1日]] - 東芝と松下電器産業が世界初のDVDプレーヤーを発売。 ** [[11月22日]] - パイオニアがLDと[[DVD]]のコンパチブルプレーヤー'''DVL-9'''を発売。 * [[1998年]]4月 - 東芝EMI御殿場工場がレーザーディスク製造事業から撤退。 * [[1999年]] - [[三菱樹脂]]のLD製造子会社ダイヤディスク株式会社が解散。レーザーディスク製造事業からも撤退。 * [[2000年]]9月 - [[クラレ]]がレーザーディスク製造事業から撤退。 * [[2002年]]5月 - パイオニアがLDプレーヤー事業から撤退する報道がなされたが、7月に事業継続を表明。 * [[2003年]]4月 - パイオニアビデオ株式会社(PVC)が分割され、光ディスク製造事業から撤退。 * [[2004年]]3月 - [[日本コロムビア|コロムビアデジタルメディア]]がレーザーディスク製造事業から撤退。 * [[2007年]]3月 - [[メモリーテック]]がレーザーディスク(20cm、LDシングル盤)製造ラインを停止。クラレより譲渡された設備で、世界で唯一のレーザーディスク生産ラインだった。 * [[2009年]] ** 1月14日 - パイオニアはユーザーからの要望でLDプレーヤー事業を継続してきたが、[[プラズマディスプレイ]]事業の撤退・整理に伴う損失処理に加え、[[世界金融危機]]の発生で事業全般の業績が急激に悪化したことが影響し、LD事業の撤退を発表<ref name="ld_info"/>。DVL-919などの4機種合計3000台の製造をもって事業終焉となり、以後は小売店の流通在庫限りの発売と修理受付のみとなる<ref>{{Cite news|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/20090114/pioneer.htm|title=パイオニア、レーザーディスクプレーヤーの生産を終了|newspaper=AV Watch|publisher=インプレス|date=2009-01-14|accessdate=2022-10-11}}</ref>。 ** 7月28日 - DVL-919、CLD-R5の受注キャンセル分の追加発売を自社オンラインストアで開始したが<ref name="AV Watch"/>、同年9月25日までに追加販売分も完売<ref name="ld_info2"/>。名実共にレーザーディスクの誕生から'''37年'''の歴史に幕を閉じることとなった。 * [[2015年]]9月 - [[国立科学博物館]]の定める[[重要科学技術史資料]](未来技術遺産)としてPR-7820(第00201号)、LD-7000(第00202号)、CLD-9000(第00203号)の3機種が登録される<ref name=kakaku/>。 * [[2020年]]11月 - レーザーディスクプレーヤーの補修用性能部品の在庫が無くなったことから、[[アフターサービス]]を終了<ref name="ld_info"/>。 == エピソード == * 商標公開される前の1984年にリリースされた[[吉幾三]]の『'''[[俺ら東京さ行ぐだ|{{ルビ|俺|お}}ら東京さ行ぐだ]]'''』の第3コーラスの歌詞中に、「'''♪レーザーディスクは何者だ?'''」のフレーズがある(田舎者がレーザーディスクの存在を知らないという設定)。当時は販売不振の最中であり、パイオニアはその感謝の証として吉に同社のレーザーディスクプレーヤーを贈った<ref>「パイオニア『レーザーディスクとはこういうものです』──吉幾三さんにVD贈る」『[[日経産業新聞]]』1985年2月27日付、8頁。</ref>。その後しばらくの間、吉は音楽番組で同曲を歌う際「♪レーザーディスクは'''化け物だ!'''」と歌っていたほか、提供スポンサーがパイオニアであった『[[夜も一生けんめい。]]』にゲスト出演した際には「♪レーザーディスクは'''パイオニア!'''」と歌った。 * 1989年公開のアメリカ映画『[[バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2]]』の劇中で描かれた未来世界の2015年には、レーザーディスクが大量にスクラップされ山積みとなっている場面がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * [[林正儀]]『AV新時代を拓く レーザービジョンディスク入門』[[啓学出版]]、1985年8月 * 荒井敏由紀『[ドキュメント] 孤立からの逆転 パイオニア1vs13の賭け』[[日本能率協会]]、1990年6月1日、ISBN 4-8207-0643-8 * 本多晋介『パイオニアLD戦略会議室』[[日本文芸社]]、1991年10月1日、ISBN 4-537-02266-3 * 神尾健三『画の出るレコードを開発せよ!』[[草思社]]、1995年4月25日、ISBN 4-7942-0603-8 * 佐藤正明『映像メディアの世紀』[[日経BP]]、1999年10月29日、ISBN 4-8222-4159-9 * 日置敏昭「[https://doi.org/10.3169/itej1978.48.283 ハイビジョンLD(MUSE方式ハイビジョンビデオディスク)規格]」『テレビジョン学会誌』48巻3号、1994年、pp.283-286, {{doi|10.3169/itej1978.48.283}}, {{naid|110003704503}} * {{Cite journal|和書|author=松村純孝 |url=http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/085.pdf |format=PDF |title=LD(レーザディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査 |journal=国立科学博物館技術の系統化調査報告 |issue=21集 |publisher=国立科学博物館 |year=2014 |pages=145-216 |ref={{harvid|松村}}}} *{{Cite journal|date=2010-03-15|title=カラオケのマーケティング史 : パイオニアの事例を中心に|url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007426|journal=同志社商学|volume=61|issue=6|pages=56–81|author=小林啓志|ref={{harvid|小林}}}} *{{Cite book |和書 |author=レトロゲーム愛好会 |date=2020-08-28|title=メガドライブコンプリートガイドデラックス With マークⅢ|publisher=主婦の友インフォス |isbn=978-4-07-442206-7|ref={{SfnRef|レトロゲーム愛好会|2020}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Laserdisc}} * [[アナログディスク]] * [[映像機器]] * [[レーザーディスクプレーヤー]] * [[オンキヨーホームエンターテイメント]] - パイオニアのホームAV事業の承継会社 * [[カラオケ]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.pioneer.co.jp/ld/history/index.html |title=LD History |date=20020602043623}}、パイオニア * [https://jp.pioneer-audiovisual.com/support/purpose/manual_catalog/manualdl/product_select_n.php?cat_cd=5&sub_cd=11 ブルーレイ・DVD・LDプレーヤー:LDプレーヤー一覧 | 取扱説明書ダウンロード]、[[オンキヨーホームエンターテイメント]] * [http://www.laserdiscarchive.co.uk/default.htm LaserDisc UK Web Site](英語) * [https://www.lddb.com/ LaserDisc Database](英語) * {{Wayback|url=http://www.stereosound.co.jp/hivi/meiki/meiki1.html |title=HLD-X0:LDプレーヤー、パイオニア|藤原陽祐と銘機 |date=20130417090335}}、[[ステレオサウンド]] * {{産業技術史資料データベース分野別|9062|レーザーディスク技術}} {{光ディスク}} {{Video storage formats}} {{DEFAULTSORT:れえさあていすく}} [[Category:レーザーディスク|*]] [[Category:ビデオディスク]] [[Category:光学機器]] [[Category:パイオニアの製品]] [[Category:フィリップスの製品]] [[Category:登録商標]] [[Category:MSX]] [[Category:コンピュータゲーム流通]]
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1887年
1887年(1887 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。明治20年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1887年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。明治20年。
{{年代ナビ|1887}} {{year-definition|1887}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[丁亥]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]20年 ** [[皇紀]]2547年 * [[清]]:[[光緒]]12年12月8日 - 光緒13年11月17日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]24年 ** [[開国 (李氏朝鮮)|開国]]496年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4220年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[同慶 (阮朝)|同慶]]元年12月8日 - 同慶2年11月17日 * [[仏滅紀元]]:2429年 - 2430年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1304年4月5日 - 1305年4月15日 * [[ユダヤ暦]]:5647年4月5日 - 5648年4月16日 * [[修正ユリウス日]](MJD):10272 - 10636 * [[リリウス日]](LD):111113 - 111477 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1887}} == できごと == === 1月 === * [[1月1日]] - [[中央気象台]]発足{{要出典|date=2021-03}} * [[1月20日]] -米上院が海軍の[[真珠湾]]使用を承認([[ハワイ王国]]からの獲得は11月) * [[1月22日]] - [[東京電燈]]会社が市内配電を開始 === 2月 === * [[2月5日]] - [[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]歌劇「[[オテロ (ヴェルディ)|オテロ]]」初演([[スカラ座]]) * [[2月8日]] - [[郵便徽章]]制定([[〒]]) * [[2月15日]] ** [[国民之友]]創刊([[徳富蘇峰]]) ** [[トバエ|Tôbaé]]創刊([[ジョルジュ・ビゴー]]) * [[2月23日]] - 仏・伊の地中海沿岸で地震(M6.0,死者2000名) === 3月 === * [[3月3日]] - [[アン・サリヴァン]]が[[ヘレン・ケラー]]の教育を開始 * [[3月23日]] - [[所得税法]]公布 === 4月 === * [[4月4日]] - 米国で初めての女性市長が誕生([[:en:Susanna M. Salter|Susanna M. Salter]]) * [[4月18日]] - [[仙台市|仙台]]に第二高等中学校([[第二高等学校 (旧制)|旧制第二高等学校]])および[[金沢市|金沢]]に第四高等中学校([[第四高等学校 (旧制)|旧制第四高等学校]])が設置。 * [[4月30日]] - [[ヘルマン・ロエスレル]]「日本帝国憲法草案」を起草 === 5月 === * [[5月14日]] - [[取引所条例]]公布 * [[5月20日]] ** [[学位令]]公布 ** 博愛社が[[日本赤十字社]]に改称 * [[5月27日]] - パリで[[オペラ=コミック座]]焼失(死者200名)<!--400名説あり--> * [[中江兆民]]「[[三酔人経綸問答]]」刊行 === 6月 === * [[6月18日]] ** [[独露再保障条約]]締結 ** [[利根運河]]通水式 * [[6月21日]] - [[大英帝国]]で[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]在位50周年式典 === 7月 === * [[7月11日]] - 東海道線[[桜木町駅|横浜]]・[[国府津駅|国府津]]間が開業 * [[7月23日]] - 東京火災保険(後の[[安田火災海上保険]])設立 * [[7月26日]] - [[ルドヴィコ・ザメンホフ]]「[[Unua Libro]]」出版(初の[[エスペラント]]文法書)(エスペラント誕生の日) === 8月 === * [[8月20日]] - 帝国砲艦[[鳥海 (砲艦)|鳥海]]進水式(民間造船所での最初の建造) * [[8月26日]] - [[徳川家康]]の関東入国から300年を記念し、[[上野恩賜公園|上野公園]]にて東京開市三百年祭を開催 * [[8月31日]] - トーマス・エジソンが白熱電灯の特許を獲得 * 反省会雑誌(後の[[中央公論]])創刊 === 9月 === * [[9月16日]] - [[東洋大学|哲学館]](後の[[東洋大学]])創立([[井上円了]]) * [[9月17日]] - [[井上馨]]外相が辞任 * [[9月27日]] - [[エミール・ベルリナー]]が[[レコード|グラモフォン]]の特許を取得 * [[9月28日]] - [[1887年黄河洪水|黄河流域で洪水被害]]、'''死者90万人以上''' === 10月 === * [[10月4日]] - 図画取調掛が[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]]に、音楽取調掛が[[東京音楽学校 (旧制)|東京音楽学校]]に改称 * [[10月17日]]‐[[横浜市]]が日本最初の近代[[水道]]として、給水開始。 * [[10月31日]] - [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]「[[スペイン奇想曲]]」初演([[ペテルブルク]]) === 11月 === * [[11月29日]] - ロンドンで[[血の日曜日事件 (1887年)|血の日曜日事件]]([[:en:Bloody Sunday (1887)|Bloody Sunday]]) * [[11月29日]] - 米国が[[真珠湾]]を[[ハワイ王国]]より獲得 === 12月 === * [[12月1日]] - [[マカオ]]の統治権を[[ポルトガル]]が[[清]]より獲得 * [[12月2日]] - 仏[[ジュール・グレヴィ|グレヴィ]]大統領辞任 * [[12月9日]] - [[吾妻橋]]開橋式([[隅田川]]初の鉄橋) * [[12月10日]] - 東京ホテル設立(1890年に[[帝国ホテル]]として開業) * [[12月19日]] - [[日本橋蛎殻町]]で大火(焼失1690戸,[[江戸三座|中島座]]より出火) * [[12月25日]] - [[保安条例]]公布(即日実行) * [[12月28日]] - [[新聞紙条例]]・[[版権条例]]改正 === 日付不詳 === * アメリカ、自治植民地会議が始まる * [[フランス領インドシナ]]連邦成立 == 誕生 == {{see also|Category:1887年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月1日]] - [[ヴィルヘルム・カナリス]]、[[ドイツ海軍]]軍人、[[アプヴェーア|国防軍情報部]]部長(+ [[1945年]]) * [[1月3日]] - [[アウグスト・マッケ]]、[[画家]](+ [[1914年]]) * [[1月5日]] - [[バーナード・リーチ]]、[[陶芸]]家・画家(+ [[1979年]]) * [[1月15日]] - [[笹部新太郎]]、植物学者(* [[1978年]]) * [[1月16日]] - [[葛西善蔵]]、[[小説家]](+ [[1928年]]) * [[1月28日]] - [[アルトゥール・ルービンシュタイン]]、[[ピアニスト]](+ [[1982年]]) * 1月28日 - [[ロバート・フランクリン・ストラウド]]、犯罪者・[[鳥類]]研究家(+ [[1963年]]) * [[1月29日]] - [[高堂国典]]、[[俳優]](+ [[1960年]]) * [[2月3日]] - [[ゲオルク・トラークル]]、[[詩人]](+ [[1914年]]) * [[2月8日]] - [[鳥養利三郎]]、電気工学者(+ [[1976年]]) * [[2月9日]] - [[土田麦僊]]、[[日本画家]](+ [[1936年]]) * 2月9日 - [[菅野力夫]]、[[探検家]](+ [[1963年]]) * 2月9日 - [[ヘイニー・ジマーマン]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1969年]]) * [[2月11日]] - [[折口信夫]]、[[民俗学者]](+ [[1953年]]) * [[2月13日]] - [[チャート・ゲーザ]]、[[作家]]・[[音楽家]]・[[医師]](+ [[1919年]]) * [[2月17日]] - [[レーヴィ・マデトヤ]]、[[作曲家]](+ [[1947年]]) * [[2月21日]] - [[阿南惟幾]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]軍人・政治家(+ [[1945年]]) * [[2月22日]] - [[松本泰]]、[[小説家]]・[[推理作家]](+ [[1939年]]) * [[2月26日]] - [[ピート・アレクサンダー]]、元メジャーリーガー(+ [[1950年]]) * [[2月28日]] - [[ウィリアム・ゾラック]]、[[彫刻家]](+ [[1966年]]) * [[3月1日]] - [[パーシヴァル・ワイルド]]、[[作家]]・[[劇作家]](+ [[1953年]]) * [[3月5日]] - [[エイトル・ヴィラ=ロボス]]、作曲家(+ [[1959年]]) * [[3月19日]] - [[ホセ・メンデス]]、野球選手(+ [[1928年]]) * [[3月20日]] - [[ハルトフ・ハンバーガー]]、野球選手(+ [[1924年]]) * [[3月22日]] - [[中山晋平]]、作曲家(+ [[1952年]]) * 3月22日 - チコ・マルクス、[[コメディアン]]・[[マルクス兄弟]](+ [[1961年]]) * [[3月23日]] - [[ヨゼフ・チャペック]]、画家・[[作家]](+ [[1945年]]) * [[3月23日]] - [[フアン・グリス]]、画家(+ [[1927年]]) * 3月23日 - [[フェリックス・ユスポフ]]、[[ロシア帝国]]の[[貴族]](+ [[1967年]]) * [[3月24日]] - [[ロスコー・アーバックル]]、[[俳優]](+ [[1933年]]) * 3月24日 - [[赤木正雄]]、[[土木工学者]](+ [[1972年]]) * 3月24日 - [[岡田春夫 (初代)|岡田春夫]]、元衆議院副議長[[岡田春夫]]の父・[[立憲民政党]]衆議院議員(+ [[1937年]]) * [[3月25日]] - [[南雲忠一]]、海軍軍人(+ [[1944年]]) * [[4月1日]] - [[レナード・ブルームフィールド]]、[[言語学者]](+ [[1949年]]) * [[4月3日]] - [[鳳谷五郎 (横綱)|鳳谷五郎]]、[[大相撲]]第24代[[横綱]](+ [[1956年]]) * [[4月8日]] - [[小原国芳]]、[[教育者]]、[[玉川学園]]の創立者(+ [[1977年]]) * [[4月10日]] - [[バーナード・ウッセイ]]、[[生理学|生理学者]](+ [[1971年]]) * [[4月16日]] - [[君島一郎 (銀行家)|君島一郎]]、元[[朝鮮銀行]]副総裁・野球研究者(+ [[1975年]]) * [[4月21日]] - [[ジョー・マッカーシー]]、[[メジャーリーグ]]監督(+ [[1978年]]) * [[5月2日]] - [[エディ・コリンズ]]、メジャーリーガー(+ [[1951年]]) * [[5月11日]] - [[パウル・ウィトゲンシュタイン]]、ピアニスト(+ [[1961年]]) * [[5月31日]] - [[サン=ジョン・ペルス]]、詩人(+ [[1975年]]) * [[6月5日]] - [[石井鶴三]]、[[彫刻家]]・[[洋画家]](+ [[1973年]]) * 6月5日 - [[ルース・ベネディクト]]、[[文化人類学]]者(+ [[1948年]]) * [[6月14日]] - [[山脇敏子]]、洋画家・[[服飾]][[手芸]]家・[[教育者]](+ [[1960年]]) * [[6月18日]] - [[岩崎輝弥]]、[[実業家]]・[[日本]]の[[鉄道ファン]]の先駆者(+ [[1956年]]) * 6月18日 - [[松本治一郎]]、実業家、政治家(+ [[1966年]]) * [[6月20日]] - [[クルト・シュヴィッタース]]、[[芸術家]]・画家(+ [[1948年]]) * [[6月22日]] - [[ジュリアン・ハクスリー]]、[[生物学者]](+ [[1975年]]) * [[6月23日]] - [[ラインハルト・ゲーリング]]、[[劇作家]](+ [[1936年]]) * [[6月25日]] - [[カリンティ・フリジェシュ]]、[[作家]]・[[翻訳家]]・[[ジャーナリスト]](+ [[1938年]]) * [[7月3日]] - [[中村彝]]、[[画家]](+ [[1924年]]) * [[7月7日]] - [[マルク・シャガール]]、画家(+ [[1985年]]) * [[7月13日]] - [[小絲源太郎]]、[[洋画家]](+ [[1978年]]) * [[7月16日]] - [[ジョー・ジャクソン (野球)]]、メジャーリーグベースボール選手(+ [[1951年]]) * [[7月18日]] - [[ヴィドクン・クヴィスリング]]、[[ノルウェー]]の指導者(+ [[1945年]]) * [[7月20日]] - [[東原玉造]]、[[競馬]]騎手・調教師(+ [[1955年]]) * [[7月22日]] - [[グスタフ・ヘルツ]]、[[物理学者]](+ [[1975年]]) * [[7月27日]] - [[山本有三]]、作家(+ [[1974年]]) * [[7月28日]] - [[片山哲]]、第46代内閣総理大臣(+ [[1978年]]) * 7月28日 - [[マルセル・デュシャン]]、[[美術家]](+ [[1968年]]) * [[7月29日]] - [[重光葵]]、外交官・政治家(+ [[1957年]]) * [[7月31日]] - [[牛島満]]、[[太平洋戦争]]期の[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]][[軍人]]・[[陸軍大将]](+ [[1945年]]) * [[8月12日]] - [[エルヴィン・シュレーディンガー]]、[[物理学者]](+ [[1961年]]) * [[8月14日]] - [[荒畑寒村]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%8D%92%E7%95%91%E5%AF%92%E6%9D%91-27796|title=荒畑寒村(あらはたかんそん)とは - コトバンク|accessdate=2021-02-17|last=|first=|website=コトバンク|publisher=|language=ja-JP}}</ref>、[[労働運動|労働運動家]](+ [[1981年]]) * [[8月17日]] - [[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]、[[オーストリア・ハンガリー帝国]]最後の皇帝(+ [[1922年]]) * [[8月23日]] - [[フリードリッヒ・ザンデル]]、宇宙工学者(+ [[1933年]]) * [[8月24日]] - [[ハリー・フーパー]]、メジャーリーガー(+ [[1974年]]) * [[9月12日]] - [[堅山南風]]、[[日本画家]](+ [[1980年]]) * [[9月14日]] - [[パウル・コハンスキ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]]・[[編曲家]](+ [[1934年]]) * [[9月24日]] - [[中塚一碧楼]]、[[俳人]](+ [[1946年]]) * [[10月7日]] - [[ル・コルビュジエ]]、[[建築家]](+ [[1965年]]) * [[10月13日]] - [[小出楢重]]、[[画家]](+[[1931年]]) * [[10月13日]] - [[ヨゼフ・ティソ]]、[[第二次世界大戦]]期の[[スロバキア]]の指導者(+ [[1947年]]) * [[10月18日]] - [[ドニー・ブッシュ]]、メジャーリーガー(+ [[1972年]]) * [[10月20日]] - [[九条武子]]、教育者・[[歌人]](+ [[1928年]]) * 10月20日 - [[朝香宮鳩彦王]]、皇族・陸軍軍人(+ [[1981年]]) * [[10月30日]] - [[ゲオルク・ハイム]]、[[詩人]](+ [[1912年]]) * [[10月31日]] - [[蔣介石]]、政治家(+ [[1975年]]) * [[11月6日]] - [[星島二郎]]、政治家・第47代衆議院議長(+ [[1980年]]) * 11月6日 - [[ウォルター・ジョンソン]]、元メジャーリーガー(+ [[1946年]]) * [[11月15日]] - [[芦田均]]、外交官・第47代内閣総理大臣(+ [[1959年]]) * 11月15日 - [[ジョージア・オキーフ]]、[[画家]](+ [[1986年]]) * [[11月25日]] - [[ニコライ・ヴァヴィロフ]]、[[植物学者]]・[[遺伝学者]](+ [[1943年]]) * [[11月27日]] - [[本間雅晴]]、陸軍軍人(+ [[1946年]]) * [[12月3日]] - [[東久邇宮稔彦王]]、[[皇族]]・[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]軍人・第43代内閣総理大臣(+ [[1990年]]) * [[12月6日]] - [[水上瀧太郎]]、[[小説家]]・評論家(+ [[1940年]]) * [[12月15日]] - [[宮沢胤勇]]、政治家・実業家(+ [[1966年]]) * [[12月17日]] - [[竹内京治]]、政治家(+ [[1966年]]) * [[12月21日]] - [[サイ・ウィリアムズ]]、メジャーリーガー(+ [[1974年]]) * [[12月22日]] - [[シュリニヴァーサ・ラマヌジャン]]、[[数学者]](+ [[1920年]]) * [[12月25日]] - [[高木八尺]]、アメリカ研究者(+ [[1984年]]) * [[12月29日]] - [[信時潔]]、作曲家(+ [[1965年]]) == 死去 == {{see also|Category:1887年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月3日]] - [[岡部長寛]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第12代藩主(* [[1809年]]) * [[2月8日]] - [[ジム・カートライト]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]]・[[アウトロー]](* [[1848年]]) * [[2月16日]] - [[ウィリアム・クラーク・イーストレイク]]、[[歯科医]](* [[1834年]]) * [[2月18日]] - [[中山みき]]、[[天理教]][[教祖]](* [[1798年]]) * [[2月27日]] - [[アレクサンドル・ボロディン]]、作曲家(* [[1833年]]) * [[3月7日]] - [[長谷川延年]]、[[篆刻|篆刻家]]・[[随筆家]](* [[1803年]]) * 3月7日 - [[黒田長溥]]、第11代[[福岡藩|福岡藩主]](* [[1811年]]) * [[3月10日]] - [[井上井月]]、[[俳人]](* [[1822年]]?) * [[3月17日]] - [[キンチェム]]、[[競走馬]](* [[1874年]]) * [[4月2日]] - [[中島登]]、[[新選組]]隊士(* [[1838年]]) * [[4月5日]] - [[イワン・クラムスコイ]]、[[画家]](* [[1837年]]) * [[5月11日]] - [[ジャン・バティスト・ブサンゴー]]、[[化学者]](* [[1802年]]) * [[5月19日]] - [[矢野玄道]]、[[国学|国学者]](* [[1823年]]) * [[5月20日]] - [[アレクサンドル・ウリヤノフ]]、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]の兄(* [[1866年]]) * [[6月17日]] - [[ヒューゴ・ビルイェル]]、[[画家]](* [[1854年]]) * [[6月25日]] - [[ジェイムズ・スピード]]、[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1812年]]) * [[7月3日]] - [[クレー・アリソン]]、西部開拓時代のアウトロー(* [[1840年]]) * [[7月18日]] - [[ロバート・マーサー・タリアフェロー・ハンター]]、 第2代[[アメリカ連合国国務長官]]・第18代[[アメリカ合衆国下院|アメリカ合衆国下院議長]](* [[1809年]]) * [[8月1日]] - [[ミハイル・カトコフ]]、[[ジャーナリスト]](* [[1818年]]) * [[8月8日]] - [[アレクサンダー・ウィリアム・ドニファン]]、[[アメリカ陸軍]]の軍人(* [[1808年]]) * [[8月12日]] - [[羽倉可亭]]、[[書画|書画家]]・篆刻家(* [[1799年]]) * [[8月19日]] - [[アルヴァン・クラーク]]、[[望遠鏡]][[技術者]](* [[1804年]]) * [[8月20日]] - [[ジュール・ラフォルグ]]、[[詩人]](* [[1860年]]) * [[9月16日]] - [[境川浪右衛門]]、[[大相撲]]第14代[[横綱]](* [[1841年]]) * [[10月17日]] - [[グスタフ・キルヒホフ]]、[[物理学者]](* [[1824年]]) * [[11月8日]] - [[ドク・ホリデイ]]、ガンマン(* [[1851年]]) * [[11月28日]] - [[グスタフ・フェヒナー]]、物理学者・[[哲学|哲学者]](* [[1801年]]) * [[12月6日]] - [[島津久光]]、[[薩摩藩]]主[[島津忠義]]の父(* [[1817年]]) * [[12月22日]] - [[谷村一正]]、[[長州藩]]士・[[宮内官僚]](* [[1841年]]、墓所は[[青山霊園]]だが[[無縁墳墓]]) * [[12月24日]] - [[ダニエル・マニング]]、[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1831年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1887}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1887ねん}} [[Category:1887年|*]]
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1892年
1892年(1892 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。明治25年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1892年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。明治25年。
{{年代ナビ|1892}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 19 | 年代 = 1890 | 年 = 1892 }} {{year-definition|1892}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[壬辰]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]25年 ** [[皇紀]]2552年 * [[清]]:[[光緒]]17年12月2日 - 光緒18年11月13日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]29年 ** [[開国 (李氏朝鮮)|開国]]501年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4225年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[成泰]]3年12月2日 - 成泰4年11月13日 * [[仏滅紀元]]:2434年 - 2435年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1309年5月30日 - 1310年6月11日 * [[ユダヤ暦]]:5652年4月1日 - 5653年4月12日 * [[修正ユリウス日]](MJD):12098 - 12463 * [[リリウス日]](LD):112939 - 113304 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1892}} == できごと == === 1月 === * [[1月5日]] - [[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]の写真撮影に成功 * [[1月28日]] - [[予戒令]]公布 * [[1月29日]] - [[コカ・コーラ社]]創立 === 2月 === * [[2月15日]] - [[第2回衆議院議員総選挙]]([[品川弥二郎]]内相の[[選挙干渉]]が問題化) * [[2月22日]] - [[オスカー・ワイルド]]「[[ウィンダミア婦人の扇]]」初演 === 3月 === * [[3月11日]] - [[品川弥二郎]]内相が引責辞任 === 4月 === * [[4月10日]] - [[神田 (千代田区)|神田]]で大火(焼失4029戸・死者24名)<ref>[{{NDLDC|1920337/210}} 神田の大火]新聞集成明治編年史第三卷、林泉社、1936-1940</ref> * [[4月15日]] - [[ゼネラル・エレクトリック]]社設立(エジソン・ゼネラル・エレクトリックと[[トムソン・ヒューストン・エレクトリック]]が合併) === 5月 === * [[5月2日]] - [[帝国議会|第3特別議会]]召集 * [[5月20日]] - [[グレート・ウェスタン鉄道]]が[[広軌]]上のものとしては最後の運行を行う。 * [[5月21日]] - [[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ]]歌劇「[[道化師 (オペラ)|道化師]]」初演(ミラノ) * [[5月22日]] - [[歯磨剤|歯磨きチューブ]]が発明される(Washington Sheffield) * [[5月28日]] - 自然保護団体[[シエラクラブ]]設立 * [[アサヒビール]]発売(大阪麦酒会社) === 6月 === * [[6月7日]] - 野球の[[代打]]が初めて行われる(前年に制定) * [[6月17日]] ** [[日本赤十字社病院]]新築開院式 ** [[スイス]]で[[ブリエンツ・ロートホルン鉄道]]開通 * [[6月18日]] - [[ハワイ王国]]で[[マカダミアナッツ]]栽培開始(原産はオーストラリア) * [[6月21日]] - [[鉄道敷設法]]公布 === 7月 === * [[7月25日]] - 徳島県で[[明治25年の台風#山岳崩壊|保瀬の大崩落]]が発生 * [[7月30日]] - [[第1次松方内閣]]総辞職 === 8月 === * [[8月8日]] - [[第2次伊藤内閣]]成立 * [[8月15日]] - 英国で第4次[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]内閣成立 * [[8月24日]] - [[グディソン・パーク]]開場 * [[8月27日]] - [[メトロポリタン歌劇場]]火災 === 9月 === * [[9月7日]] - 現行のボクシングの基礎となる[[クインズベリー・ルール]]を適用した初のボクシング公式試合が開催。 * [[9月13日]] - 英[[アームストン曲馬団]](Harmston's circus)が来日興行開始 * [[9月26日]] - [[スーザ吹奏楽団]]第1回公演 === 10月 === * [[10月1日]] - [[シカゴ大学]]開校(設立は[[1890年]]) * [[10月8日]] - [[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]][[前奏曲嬰ハ短調 (ラフマニノフ)|前奏曲嬰ハ短調]]初演(モスクワ) * [[10月12日]] - 米国で[[忠誠の誓い (アメリカ)|忠誠の誓い]]の暗誦が初めて行われる * [[10月21日]] - [[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]博士夫妻帰国(在日33年) === 11月 === * [[11月1日]] - [[萬朝報]]創刊([[黒岩涙香]]) * [[11月6日]] - [[ホームズ彗星]]が発見される * [[11月8日]] - [[1892年アメリカ合衆国大統領選挙|米国大統領選挙]]で[[グロバー・クリーブランド]]が勝利(返り咲き) * [[11月12日]] - [[市村座]]([[下谷]])開場式 * [[11月23日]] - [[ピエール・ド・クーベルタン]]が[[近代オリンピック|オリンピック]]を提唱 * [[11月25日]] - [[帝国議会|第4議会]]召集 * [[11月30日]] ** [[伝染病研究所]]設立([[北里柴三郎]]・[[福澤諭吉]]) ** 軍艦「[[千島 (通報艦)|千島]]」が英商船と衝突・沈没(死者74名)([[千島艦事件]])<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/525443748cb8e61ce375bc292baa75e43603ac59|title=軍艦側の被害がなぜ大きい? 商船と衝突して損傷した軍艦たち(dragoner) |newspaper= Yahoo!ニュース|date=2017-06-20|accessdate=2020-11-29}}</ref> === 12月 === * [[12月9日]] - [[東京湾]]北部でM6.2クラスの地震発生 * [[12月18日]] ** [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]バレエ「[[くるみ割り人形]]」初演([[マリインスキー劇場]]) ** [[アントン・ブルックナー|ブルックナー]][[交響曲第8番 (ブルックナー)|交響曲第8番]]初演([[ウィーン楽友協会]]) * [[12月27日]] - [[セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂]]起工 ==芸術・文化== ===1892年の宗教=== *[[2月3日]]、[[出口なお]]に艮の金神が帰神([[大本教]]) == 誕生 == {{see also|Category:1892年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月3日]] - [[J・R・R・トールキン]]、小説家(+ [[1973年]]) * [[1月8日]] - [[堀口大学]]、[[詩人]]・[[フランス文学者]](+ [[1981年]]) * [[1月14日]] - [[マルティン・ニーメラー]]、[[ルーテル教会|ルター派]][[牧師]]・[[神学者]](+ [[1984年]]) * [[1月15日]] - [[西條八十]]、詩人、仏文学者(+ [[1970年]]) * [[1月28日]] - [[エルンスト・ルビッチ]]、ドイツ出身の[[映画監督]](+ [[1947年]]) * [[1月31日]] - [[尾崎喜八]]、[[詩人]]・[[随筆家]](+ [[1984年]]) * [[2月1日]] - [[子母沢寛]]、[[小説家]](+ [[1968年]]) * [[2月5日]] - [[栃木山守也]]、[[大相撲]]第27代[[横綱]](+ [[1959年]]) * [[2月6日]] - [[上田穣]]、[[天文学者]](+ [[1976年]]) * [[2月7日]] - [[ヤン・スメテルリン]]、[[ピアニスト]](+ [[1967年]]) * [[2月15日]] - [[ジェームズ・フォレスタル]]、初代[[アメリカ合衆国国防長官]](+ [[1949年]]) * [[2月22日]] - [[本告辰二]]、[[大陸浪人]](+ [[1916年]]) * [[2月23日]] - [[アグネス・スメドレー]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1950年]]) * [[2月25日]] - [[加藤勘十]]、[[政治家]]・労働運動家(+ [[1978年]]) * [[2月27日]] - [[佐伯達夫]]、[[野球選手]]・第3代[[日本高等学校野球連盟]]会長(+ [[1980年]]) * [[2月28日]] - [[福田平八郎]]、[[日本画家]](+ [[1974年]]) * [[2月29日]] - [[岸本水府]]、[[川柳]]作家(+ [[1965年]]) * [[3月1日]] - [[芥川龍之介]]、小説家(+ [[1927年]]) * [[3月2日]] - [[杉野芳子]]、[[ファッションデザイナー]]・教育者(+ [[1978年]]) * 3月2日 - [[ニコライ・ネフスキー]]、[[言語学者]]・[[民俗学者]](+ [[1937年]]) * [[3月30日]] - [[野坂参三]]、[[日本共産党]]の指導者(+ [[1993年]]) * 3月30日 - [[フォルトゥナート・デペーロ]]、[[画家]]・[[デザイナー]]・[[彫刻家]](+ [[1960年]]) * [[4月1日]] - [[大ノ里萬助]]、[[大相撲]][[力士]](+ [[1938年]]) * [[4月9日]] - [[佐藤春夫]]、[[小説家]]・[[詩人]](+ [[1964年]]) * [[4月12日]] - [[ヘンリー・ダーガー]]、『[[非現実の王国で]]』の作者(+ [[1973年]]) * [[5月3日]] - [[ジョージ・パジェット・トムソン]]、[[物理学者]](+ [[1975年]]) * [[5月7日]] - [[ヨシップ・ブロズ・チトー]]、[[ユーゴスラビア]]大統領(+ 1980年) * [[5月9日]] - [[ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇帝[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]]の皇后(+ [[1989年]]) * [[5月10日]] - [[山口青邨]]、[[俳人]](+ [[1988年]]) * [[5月27日]] - [[澤田正二郎]]、[[舞台]][[俳優]](+ [[1929年]]) * [[6月23日]] - [[ミェチスワフ・ホルショフスキ]]、[[ピアニスト]](+ [[1993年]]) * [[6月26日]] - [[パール・S・バック|パール・バック]]、小説家(+ 1973年) * [[6月27日]] - [[木内克]]、[[彫刻家]](+ [[1977年]]) * [[7月12日]] - [[ブルーノ・シュルツ]]、[[小説家]]・[[画家]](+ [[1942年]]) * [[7月15日]] - [[ヴァルター・ベンヤミン]]、[[文芸評論家]]・文化史家(+ [[1940年]]) * [[7月23日]] - [[ハイレ・セラシエ1世]]、[[エチオピア帝国]]最後の皇帝(+ [[1975年]]) * [[8月1日]] - [[成田きん]]、[[きんさんぎんさん]]の姉(+ [[2000年]]) * 8月1日 - [[蟹江ぎん]]、きんさんぎんさんの妹(+ [[2001年]]) * [[8月6日]] - [[フート・ギブソン]]、俳優(+ [[1962年]]) * [[8月11日]] - [[吉川英治]]、小説家(+ [[1962年]]) * [[8月12日]] - [[レイ・シャーク]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1970年]]) * [[8月14日]] - [[カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ]]、[[作曲家]]・[[ピアニスト]]・[[評論家]](+ [[1988年]]) * [[8月15日]] - [[ルイ・ド・ブロイ]]、物理学者(+ [[1987年]]) * [[8月17日]] - [[山口多聞]]、海軍軍人(+ [[1942年]]) * [[8月28日]] - [[藤森成吉]]、[[小説家]]・[[劇作家]](+ [[1977年]]) * [[9月4日]] - [[ヘルムート・プレスナー]]、[[哲学者]]・[[社会学者]](+ [[1985年]]) * [[9月5日]] - [[ヨーゼフ・シゲティ|ヨゼフ・シゲティ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1973年]]) * [[9月6日]] - [[エドワード・アップルトン]]、[[物理学者]](+ [[1965年]]) * [[9月8日]] - [[ハインリッヒス・スクーヤ]]、[[藻類学|藻類学者]]・[[植物学者]](+ [[1972年]]) * [[9月11日]] - [[ピント・コルヴィグ]]、俳優・声優・アニメーター・漫画家(+ [[1967年]]) * 9月11日 - [[千賀康治]]、[[政治家]](+ 1956年) * [[9月28日]] - [[エルマー・ライス]]、[[脚本家]](+ 1967年) * [[10月3日]] - [[モーリス・マレシャル]]、[[チェリスト]](+ [[1964年]]) * [[10月5日]] - [[渋沢秀雄]]、[[実業家]]・[[随筆家]](+ [[1984年]]) * [[10月9日]] - [[水原秋桜子]]、俳人・医学博士(+ [[1981年]]) * [[10月17日]] - [[ハーバート・ハウエルズ]]、作曲家(+ [[1983年]]) * [[10月19日]] - [[イルマリ・ハンニカイネン]]、作曲家・ピアニスト(+ [[1955年]]) * [[10月21日]] - [[リディア・ロポコワ]]、[[バレエ]]ダンサー(+ [[1981年]]) * [[10月23日]] - [[ガンモ・マルクス]]、[[マルクス兄弟]]の四男(+ [[1977年]]) * [[10月24日]] - [[マリウス・カサドシュ]]、[[ヴァイオリニスト]]・[[作曲家]](+ 1981年) * [[10月31日]] - [[アレクサンドル・アレヒン]]、[[チェス]]選手(+ [[1946年]]) * [[11月3日]] - [[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]、[[落語家]](+ [[1971年]]) * [[11月8日]] - [[平林初之輔]]、[[作家]]・[[文芸評論家]](+ [[1931年]]) * [[11月16日]] - [[郭沫若]]、[[政治家]]・[[文学者]](+ [[1978年]]) * [[11月19日]] - [[エベレット・スコット]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1960年]]) * [[11月20日]] - [[末川博]]、[[民法学者]](+ [[1977年]]) * [[11月25日]] - [[中澤不二雄]]、元野球選手(+ [[1965年]]) * [[12月4日]] - [[フランシスコ・フランコ・バーモンデ]]、[[スペイン]]の軍人・政治家(+ [[1975年]]) * [[12月15日]] - [[武藤章]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人(+ [[1948年]]) == 死去 == {{see also|Category:1892年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]] - [[ジョージ・ビドル・エアリー]]、[[天文学者]](* [[1801年]]) * [[1月14日]] - [[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)]]、[[イギリス]]の王族(* [[1864年]]) * [[1月21日]] - [[ジョン・クーチ・アダムズ]]、天文学者・[[数学者]](* [[1819年]]) * [[1月23日]] - [[植木枝盛]]、[[思想家]]・[[政治家]](* [[1857年]]) * [[1月31日]] - [[チャールズ・ハッドン・スポルジョン]]、[[バプテスト派]][[牧師]](* [[1834年]]) * [[2月16日]] - [[ヘンリー・ウォルター・ベイツ]]、[[博物学|博物学者]](* [[1825年]]) * [[2月23日]] - [[ルイ・ヴィトン]]、仏 ルイ・ヴィトン社創業者(* [[1821年]]) * [[3月6日]] - [[エドワーズ・ピアポント]]、第33代[[アメリカ合衆国司法長官]](* [[1817年]]) * [[3月11日]] - [[アーチボルド・クーパー]]、[[化学者]](* [[1831年]]) * [[3月13日]] - [[ルートヴィヒ4世 (ヘッセン大公)]](* [[1837年]]) * [[3月26日]] - [[ウォルト・ホイットマン]]、[[詩人]](* [[1819年]]) * [[4月22日]] - [[エドゥアール・ラロ]]、[[作曲家]](* [[1823年]]) * [[5月5日]] - [[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン]]、化学者(* [[1818年]]) * [[5月29日]] - [[バハーウッラー]]、[[バハイ教]]教祖(* [[1817年]]) * [[5月30日]] - [[ルイス・ラザファード]]、天文学者(* [[1816年]]) * [[6月9日]] - [[月岡芳年]]、[[浮世絵|浮世絵師]](* [[1839年]]) * [[6月13日]] - [[ヨハン・エドゥアルト・エルトマン]]、[[哲学|哲学者]](* [[1805年]]) * [[6月29日]] - [[アメデ・ムーシェ]]、天文学者(* [[1821年]]) * [[7月12日]] - [[アレクサンダー・カートライト]]、近代[[野球]]のルール考案者(* [[1820年]]) * [[7月20日]] - [[松井つね]]、[[新選組]]局長[[近藤勇]]の正妻(* [[1837年]]) * [[8月18日]] - [[ジュール・ペロー]]、[[バレエ]][[ダンサー]]・[[振付師]](* [[1810年]]) * [[8月23日]] - [[デオドロ・ダ・フォンセカ]]、初代[[ブラジル連邦共和国大統領]](* [[1823年]]) * [[9月10日]] - [[志田林三郎]]、[[物理学者]]・[[電気工学|電気工学者]](* [[1855年]]) * [[9月17日]] - [[ルドルフ・フォン・イェーリング]]、[[法学者]](* [[1818年]]) * [[10月6日]] - [[アルフレッド・テニスン]]、詩人(* [[1809年]]) * [[10月12日]] - [[エルネスト・ルナン]]、[[思想|思想家]](* [[1823年]]) * [[10月28日]] - [[フェリックス・オットー・デッソフ]]、[[指揮者]](* [[1835年]]) * [[10月30日]] - [[オリガ・ニコラエヴナ (ヴュルテンベルク王妃)|オリガ・ニコラエヴナ]]、[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク王]][[カール1世 (ヴュルテンベルク王)|カール1世]]の妃(* [[1822年]]) * [[11月8日]] - [[ゴットフリード・ワグネル]]、[[技術者]](* [[1831年]]) * [[11月9日]] - [[ジョージ・スペンサー=チャーチル (第8代マールバラ公)]]、イギリスの貴族(* [[1844年]]) * [[11月11日]] - [[山田顕義]]、初代[[司法省 (日本)|司法大臣]]・[[日本大学]]創設者(* [[1844年]]) * [[12月4日]] - [[大場久八]]、[[博徒]](* [[1814年]]) * [[12月6日]] - [[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]、[[発明家]]・[[技術者]](* [[1816年]]) * [[12月18日]] - [[リチャード・オーウェン]]、[[生物学者]](* [[1804年]]) * [[12月20日]] - [[伊達宗城]]、[[政治家]]・[[宇和島藩]]藩主(* [[1818年]]) * [[12月28日]] - [[山本覚馬]]、[[会津藩]]士・砲術家(* [[1828年]]) == フィクションのできごと == * ジャック・ハークネスが[[エリス島]]で心臓を撃ち抜かれ絶命する。このとき、自身が不死身になっていることを知る。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) * 大知性体が雪を利用した世界征服を企む。(ドラマ『ドクター・フー』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1892}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1892ねん}} [[Category:1892年|*]]
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合金
合金(ごうきん、英: alloy)とは、単一の金属元素からなる純金属に対して、複数の金属元素あるいは金属元素と非金属元素から成る金属様のものをいう。純金属に他の元素を添加し組成を調節することで、機械的強度、融点、磁性、耐食性、自己潤滑性といった性質を変化させ材料としての性能を向上させた合金が生産されて様々な用途に利用されている。 一言に合金といっても様々な状態があり、完全に溶け込んでいる固溶体、結晶レベルでは成分の金属がそれぞれ独立している共晶、原子のレベルで一定割合で結合した金属間化合物などがある。合金の作製方法には、単純に数種類の金属を溶かして混ぜ合わせる方法や、原料金属の粉末を混合して融点以下で加熱する焼結法、化学的手法による合金めっき、ボールミル装置を使用して機械的に混合するメカニカルアロイングなどがある。ただし、全ての金属が任意の割合で合金となるわけではなく、合金を得られる組成の範囲については、物理的・化学的に制限(あるいは最適点)が存在する。 合金の成分のうちのある元素が主成分と見なせる場合、その元素の名を冠して、“マグネシウム合金”・“アルミニウム合金”などと呼ぶ。ただし、歴史的、あるいは商標として独自の名称をもつ合金も多い。例えば、黄銅は銅(金属元素)と亜鉛(金属元素)の合金で、鋼は鉄を主体とした合金という意味がある。また、主要成分元素の数が2つなら2元合金、3つなら3元合金、4つなら4元合金...と呼ぶ。主体となる金属によって、合金鋼、銅合金、ニッケル合金...と呼ぶ。 鉄合金の場合、過剰あるいは僅少な炭素添加のものは歴史的に鋳鉄、純鉄と呼ばれ、それらの総称として鉄鋼材料という呼び方がある。鋼の原義は0.6mass%を中心にその前後の炭素量のものを鋼(刃金)と呼び、金属組織的にはマルテンサイト構造と呼ばれるものであり、合金工具鋼においてはその伝統が引き継がれたが、オーステナイト系ステンレス鋼が開発されるにあたり、炭素を必須とした合金以外でも鋼と呼ばれるようになった。ただし、これが鉄を主体とした合金であることには変わりなく、鉄含有量が50%以上の鉄が含有されているものでも鋼と表現する以外にも、鉄合金あるいは鉄基合金とよんでも学術的にはいっこうに差し支えはない。このように歴史的紆余曲折があり鋼の定義は難しいものになっている。 合金は、組成によって融点や各温度での結晶構造が変化する。このため、主要な合金については様々な組成と温度での合金の状態をまとめた図が作られている。この図を状態図とよぶ。特に、鋼に関するFe-C系状態図は有名である。鋼のなかでも特殊鋼は添加元素も複雑になり、特に工具鋼はもっとも複雑な合金系に属し、最近の熱力学による状態図計算アルゴリズムあるいは人工知能分野のニューラルネットワーク技術の進展(マテリアルズ・インフォマティクス)により10以上の元素種を制御する合金設計を行うことで達成されている。本材料は塑性加工のみならず潤滑油や有機物を介した摩擦機構一般分野の摺動部品への適用も始まっており先端分野ですそのが広い応用が期待されている。。 一般に純金属は弾性限界(永久変形が生じる応力)が小さい。というのは通常の金属結晶は不完全な部分(転位)を含んでおり、転位の移動による変形が小さな応力でおこりやすいためである。合金化によって、結晶を構成する金属元素と大きさの違う金属元素に置換させたり、結晶のなかに小さな元素を侵入させたりして、結晶のひずみを作ることによって、転位の移動をしにくくして機械的強度(硬さ、引張り強度)を向上させることができる。ジュラルミン・鋼などの合金がその例である。鋼などの機械的強度の改善の主流は、マルテンサイトという特殊な組織変化を熱処理により起こし最大5倍以上強化するが、これも合金化で達成される好例である。鋼は幅広い産業に大量に用いられる用途なので合金化による強度改善の効果の総量は計り知れないものがあり、熱処理前は比較的加工がしやすい事も産業界へ多大な寄与をする。合金化や熱処理あるいはそれに冷間加工を組み合わせた処理により鋼より強度増幅効果をもつものはない。 金属元素のなかには、Crのように、その酸化物が、皮膜(不動態)を作り内部までの酸化の進行を防ぐ性質をもつものがあり、それらの金属の添加により耐食性のある合金とすることが行われる。ステンレスが例である。 磁性材料は磁場と磁束密度の関数でその性能が表現され、交流磁場をかけた場合、0となる原点を比較的通りやすいものを軟質磁性材料といい、原点を通り難いもので、たとえば磁場を0にしても磁束密度があるいわゆる着磁した状態が強いものを硬質磁性材料と呼ぶが、この呼び名は焼入れ前の柔らかい鋼の特徴と焼入れ後の硬い鋼の磁性的特徴からきたことが出発点となっている。 熱膨張率の制御も磁気特性が深く関わっている。通常の金属は冷却すると単調に収縮する場合が大半であるが、鉄はγ→α変態点で結晶構造や磁気特性が変わることで一瞬膨張する。この効果を合金化して所定の温度範囲で金属の基本的な冷却による収縮効果を、先の膨張効果によって相殺することで、その温度範囲では熱膨張率がゼロになるという他の固体物質では見られない状況を作り出すことが出来る。 共晶をつくる合金(例えばSn-Pbなど)では、それぞれの単独の金属の融点に比べて合金の融点を下げることができるため、より低融点の金属を得ることができる。このため、二種類の金属を接した状態で加熱すると、それぞれ単独の金属では融点に達しない温度であっても、接している部分から合金となって融けてゆく現象が起こる。たとえば、低融点の金属を加熱して液体とし、そこに高融点の金属を固体のまま投入することで、融かし込んで合金を作ることができる。太古から青銅作りなどで経験則的に利用されていた。 略記号の詳細は周期表を参照。
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合金とは、単一の金属元素からなる純金属に対して、複数の金属元素あるいは金属元素と非金属元素から成る金属様のものをいう。純金属に他の元素を添加し組成を調節することで、機械的強度、融点、磁性、耐食性、自己潤滑性といった性質を変化させ材料としての性能を向上させた合金が生産されて様々な用途に利用されている。 一言に合金といっても様々な状態があり、完全に溶け込んでいる固溶体、結晶レベルでは成分の金属がそれぞれ独立している共晶、原子のレベルで一定割合で結合した金属間化合物などがある。合金の作製方法には、単純に数種類の金属を溶かして混ぜ合わせる方法や、原料金属の粉末を混合して融点以下で加熱する焼結法、化学的手法による合金めっき、ボールミル装置を使用して機械的に混合するメカニカルアロイングなどがある。ただし、全ての金属が任意の割合で合金となるわけではなく、合金を得られる組成の範囲については、物理的・化学的に制限(あるいは最適点)が存在する。
'''合金'''(ごうきん、{{lang-en-short|[[wikt:alloy|alloy]]}})とは、単一の[[金属]]元素からなる純金属に対して、複数の金属元素あるいは金属元素と[[非金属]]元素から成る金属様のものをいう。純金属に他の元素を添加し組成を調節することで、機械的強度、[[融点]]、[[磁性]]、耐食性、自己潤滑性といった性質を変化させ材料としての性能を向上させた合金が生産されて様々な用途に利用されている。 一言に合金といっても様々な状態があり、完全に溶け込んでいる[[固溶体]]、結晶レベルでは成分の金属がそれぞれ独立している[[共晶]]、原子のレベルで一定割合で結合した[[金属間化合物]]などがある。合金の作製方法には、単純に数種類の金属を溶かして混ぜ合わせる方法や、原料金属の粉末を混合して融点以下で加熱する[[焼結]]法、化学的手法による合金[[めっき]]、[[ボールミル]]装置を使用して機械的に混合する[[メカニカルアロイング]]などがある。ただし、全ての金属が任意の割合で合金となるわけではなく、合金を得られる組成の範囲については、物理的・化学的に制限(あるいは最適点)が存在する。 == 合金名 == 合金の成分のうちのある元素が主成分と見なせる場合、その元素の名を冠して、“[[マグネシウム合金]]”・“[[アルミニウム合金]]”などと呼ぶ。ただし、歴史的、あるいは商標として独自の名称をもつ合金も多い。例えば、[[黄銅]]は[[銅]](金属元素)と[[亜鉛]](金属元素)の合金で、[[鋼]]は[[鉄]]を主体とした合金という意味がある。また、主要成分元素の数が2つなら2元合金、3つなら3元合金、4つなら4元合金…と呼ぶ。主体となる金属によって、[[合金鋼]]、銅合金、ニッケル合金…と呼ぶ。 === 鋼 === 鉄合金の場合、過剰あるいは僅少な[[炭素]]添加のものは歴史的に鋳鉄、純鉄と呼ばれ、それらの総称として鉄鋼材料という呼び方がある。鋼の原義は0.6mass%を中心にその前後の炭素量のものを鋼(刃金)と呼び、金属組織的には[[マルテンサイト|マルテンサイト構造]]と呼ばれるものであり、合金工具鋼においてはその伝統が引き継がれたが、オーステナイト系ステンレス鋼が開発されるにあたり、炭素を必須とした合金以外でも鋼と呼ばれるようになった。ただし、これが鉄を主体とした合金であることには変わりなく、鉄含有量が50%以上の鉄が含有されているものでも鋼と表現する以外にも、鉄合金あるいは鉄基合金とよんでも学術的にはいっこうに差し支えはない。このように歴史的紆余曲折があり鋼の定義は難しいものになっている。 == 合金状態図 == 合金は、組成によって融点や各温度での結晶構造が変化する。このため、主要な合金については様々な組成と温度での合金の状態をまとめた図が作られている。この図を[[状態図]]とよぶ。特に、鋼に関する[[Fe-C系状態図]]は有名である。鋼のなかでも特殊鋼は添加元素も複雑になり、特に工具鋼はもっとも複雑な合金系に属し、最近の熱力学による状態図計算アルゴリズムあるいは人工知能分野のニューラルネットワーク技術の進展(マテリアルズ・インフォマティクス)により10以上の元素種を制御する合金設計を行うことで達成されている。本材料は塑性加工のみならず潤滑油や有機物を介した摩擦機構一般分野の摺動部品への適用も始まっており先端分野ですそのが広い応用が期待されている。<ref>[http://www.sokeizai.or.jp/japanese/publish/200706/200712hitachi.pdf 高張力鋼成形性に優れた次世代冷間金型用鋼の開発]素形材センター</ref>。 == 合金化の目的と概要 == === 機械的強度の改善(析出硬化・他) === 一般に純金属は弾性限界(永久変形が生じる応力)が小さい。というのは通常の金属結晶は不完全な部分([[転位]])を含んでおり、転位の移動による変形が小さな応力でおこりやすいためである。合金化によって、結晶を構成する金属元素と大きさの違う金属元素に置換させたり、結晶のなかに小さな元素を侵入させたりして、結晶のひずみを作ることによって、転位の移動をしにくくして機械的強度(硬さ、引張り強度)を向上させることができる。[[ジュラルミン]]・鋼などの合金がその例である。[[鋼]]などの機械的強度の改善の主流は、マルテンサイトという特殊な組織変化を熱処理により起こし最大5倍以上強化するが、これも合金化で達成される好例である。[[鋼]]は幅広い産業に大量に用いられる用途なので合金化による強度改善の効果の総量は計り知れないものがあり、熱処理前は比較的加工がしやすい事も産業界へ多大な寄与をする。合金化や熱処理あるいはそれに冷間加工を組み合わせた処理により鋼より強度増幅効果をもつものはない。 === 耐食性の向上 === 金属元素のなかには、[[クロム|Cr]]のように、その酸化物が、皮膜([[不動態]])を作り内部までの酸化の進行を防ぐ性質をもつものがあり、それらの金属の添加により耐食性のある合金とすることが行われる。ステンレスが例である。 === 磁性および熱膨張率の制御 === 磁性材料は磁場と磁束密度の関数でその性能が表現され、交流磁場をかけた場合、0となる原点を比較的通りやすいものを軟質磁性材料といい、原点を通り難いもので、たとえば磁場を0にしても磁束密度があるいわゆる着磁した状態が強いものを硬質磁性材料と呼ぶが、この呼び名は[[焼入れ]]前の柔らかい鋼の特徴と焼入れ後の硬い鋼の磁性的特徴からきたことが出発点となっている。 熱膨張率の制御も磁気特性が深く関わっている。通常の金属は冷却すると単調に収縮する場合が大半であるが、鉄はγ→α変態点で結晶構造や磁気特性が変わることで一瞬膨張する。この効果を合金化して所定の温度範囲で金属の基本的な冷却による収縮効果を、先の膨張効果によって相殺することで、その温度範囲では熱膨張率がゼロになるという他の固体物質では見られない状況を作り出すことが出来る。 === 融点の低下 === [[共晶]]をつくる合金(例えばSn-Pbなど)では、それぞれの単独の金属の融点に比べて合金の融点を下げることができるため、より低融点の金属を得ることができる。このため、二種類の金属を接した状態で加熱すると、それぞれ単独の金属では融点に達しない温度であっても、接している部分から合金となって融けてゆく現象が起こる。たとえば、低融点の金属を加熱して液体とし、そこに高融点の金属を固体のまま投入することで、''融かし込んで''合金を作ることができる。太古から[[青銅]]作りなどで[[経験則]]的に利用されていた。 == 合金の種類(合金名索引) == 略記号の詳細は[[周期表]]を参照。 {| class="wikitable sortable" |- ! 名称 ! 分類 ! 成分 ! 用途 |- | [[鋼]](はがね) *[[高張力鋼]](ハイテン) *[[工具鋼]](ハイス、ダイス鋼) *[[刃物鋼]] | 鉄合金 | Fe-C | 構造材、刃具他 |- | [[クルップ鋼]] | 合金鋼 | ニッケルクロム鋼に<br />[[浸炭]]処理 | [[装甲]]。[[クルップ]]社が開発 |- | [[クロムモリブデン鋼]] | 合金鋼 | Fe-Cr-Mo | 構造部材、管材 |- | [[マンガンモリブデン鋼]] | 合金鋼 | Fe-Mn-Mo | 構造部材、管材 |- | [[安来鋼]] | 合金鋼 | 工具鋼などの難易な素材製造性<br />[[特殊鋼]] | 刃物、工具、金型材料、電子磁性材料、耐食耐熱材料 |- | [[ステンレス鋼]] | 鉄合金 | Fe-Ni-Cr | 構造材、容器、配管 |- | [[マルエージング鋼]] | 鉄合金 | Fe-18 - 30Ni(Co,Mo) | 航空宇宙用構造材、ゴルフクラブヘッド素材 |- | [[42アロイ]] | 鉄合金 | Fe-42Ni |低膨張率合金、 ICリードフレーム材 |- | [[インバー]] | 鉄合金 | Fe-36Ni | 時計部品、実験装置 |- | [[コバール]] | 鉄合金 | Fe-29Ni-17Co | 低膨張率合金 |- | [[センダスト]] | 鉄合金 | Fe-9.5Si-5.5Al | 高透磁率合金、磁気ヘッド |- | [[パーメンデュール]] | 鉄合金 | Fe-Co | 高透磁率合金 |- | [[ケイ素鋼]] | 鉄合金 | Fe-Si | 高透磁率合金 |- | [[KS鋼]] | 鉄合金 | Fe-Co-W-Cr | 磁石材料 |- | [[スピーゲル]]アイゼン | 鉄合金 | Fe-15Mn | 脱酸剤・脱硫剤 |- | [[黄銅]](真鍮:しんちゅう) | 銅合金 | 60Cu-40Zn他 | バルブ、軸受、貨幣 |- | [[丹銅]] | 銅合金 | Cu-5 - 20Zn | 建材、装身具 |- | [[トムバック]] | 銅合金 | Cu-15Zn | 貨幣、装身具 |- | [[洋白]](洋銀) | 銅合金 | Cu-27Zn-18Ni | 食器・バネ・金管楽器、貨幣 |- | [[青銅]] | 銅合金 | Cu-Sn | 軸受 |- | [[白銅]](キュプロニッケル) | 銅合金 | Cu-Ni | 貨幣 |- | [[赤銅 (合金)|赤銅]] | 銅合金 | Cu-Au | 工芸用材料 |- | [[コンスタンタン]] | 銅合金 | 55Cu-45Ni | ひずみゲージ、熱電対 |- | [[ノルディック・ゴールド]] | 銅合金 | 89Cu-5Al-5Zn-1Sn | 貨幣 |- | [[クニフェ]] | 銅合金 | 60Cu-20Ni-20Fe | 電球内のリード線 |- | [[ジュラルミン]] | アルミ合金 | Al-Cu等 | 自動車部品・航空機や電車の外殻 |- | [[シルミン]] | アルミ合金 | Al-Si共晶 | 鋳造材料(AC-3) |- | [[ハステロイ]] | ニッケル合金 | 50Ni-Mo-Cr-Fe | 耐熱・耐食 |- | [[モネル]] | ニッケル合金 | 63Ni-28 - 34Cu | 耐熱・耐食 |- | [[インコネル]] | ニッケル合金 | 72Ni-15Cr-Fe他 | 耐熱合金 |- | [[ニクロム]] | ニッケル合金 | 80Ni-20Cr他 | 電熱合金 |- | [[サンプラチナ]] | ニッケル合金 | 85Ni-11Cr-3Ag-他 | 眼鏡、歯科治療材料、装飾品 |- | [[パーマロイ]] | ニッケル合金 | Ni-Fe | 磁気ヘッドなど |- | [[マグネシウム合金]] | その他 | Mg-Al他 | 筐体 |- | [[チタン合金]] | その他 | Ti-6Al-4V他 | 人体埋込型医療器具、航空機部品、工業器具部材 |- | [[形状記憶合金]] | その他 | Ni-Ti等 | 眼鏡フレーム、下着、エンジン部品 |- | [[ステライト]](タロナイト) | その他 | Co-30Cr-10W他 | 刃具・表面処理材料 |- | [[フェロマンガン]] | その他 | Mn-Fe | 脱酸剤・脱硫剤 |- | [[はんだ]] | その他 | Pb-Sn他 | 接合(低融点合金) |- | [[活字合金]] | その他 | Pb-Sn-Sb | 印刷用活字 |- | [[ウッドメタル]] | その他 | 50Bi-27Pb-13Sn-10Cd | 低融点合金(融点約70℃) |- | [[ガリンスタン]] | その他 | 68.5Ga-21.5In-10Sn | 低融点合金(融点約−19℃) |- | [[ナトリウムカリウム合金]] | その他 | Na-K | 低融点合金(融点約20 - −10℃)、[[高速増殖炉]]の熱媒体 |- | [[ピューター]] | その他 | Sn-Sb | 工芸用鋳物材料 |- | [[バビットメタル]] | その他 | Sn-Cu他 | [[軸受合金]] |- | [[超硬合金]] | その他 | WC/Co | 切削刃具他 |- | [[ウィディア]] | その他 | WC/Co | 超硬合金。クルップ社の商標 |- | [[ホワイトゴールド]] | その他 | Au-Ni-Pd | 装飾品、貨幣 |- | [[スターリングシルバー]] | その他 | Ag-Cu | 食器、装飾品、貨幣 |- | [[ミッシュメタル]] | その他 | Ce-La他 | 発火石 |- | [[アマルガム]] | その他 | Hg-Au他 | めっき |- | [[硬鉛]] | その他 | Pb-Sb他 | 鉛管、電極 |- |[[ビワライト]]<ref>http://biwalite.shiga-vl.jp/biwalite.html 硫化物を分散させた鉛フリー快削青銅鋳物JIS規格案</ref> |銅合金 |93Cu-4Sn-2Zn-0.5Ni-0.5S |水道管など既存鉛銅合金の代替 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[規則合金]] * [[不規則合金]] * [[アモルファス金属]] * [[金属学]](金属工学) * [[物性物理学]] * [[機械材料]] * [[ヒューム‐ロザリーの法則]] * [[近藤効果]] ==外部リンク== {{Wiktionary}} {{Commonscat}} {{kotobank}} {{合金}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうきん}} [[Category:合金|*こうきん]] [[Category:金属工学]]
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パンダ
パンダ (panda) は、ネコ目(食肉目)に属するジャイアントパンダ(クマ科)とレッサーパンダ(レッサーパンダ科)の2種の総称。熊猫(シュウマオ)とも。ただし単にパンダといった場合、ジャイアントパンダのことを指すことが多い。 ジャイアントパンダとレッサーパンダは食肉目に属しながらともに草食適応を果たした種であるが、Ledje and Arnason(1996a, b)の分子系統解析などにより両者は近縁ではないと結論づけられている。中国を代表する動物だが、生息地は四川省の一部などと狭く、中国全土に生息しているわけではない。 単にパンダといった場合にはジャイアントパンダのことを指すことが多い。しかし、先に西洋に報告されたのは1821年に博物学者に知られることとなったレッサーパンダ (Hardwicke,1826) で、ジャイアントパンダが報告される (David,1869) まで唯一のパンダとして知られていた。 先に発見されたレッサーパンダに対して「パンダ」と命名され、後に類縁関係にあると見做されたジャイアントパンダが発見されたことを受けて、従来のパンダをレトロニムでレッサーパンダ(英lesser panda 「小さい方のパンダ」の意)と呼ぶようになったという経緯がある。 パンダの語源は明らかでないが、ネパール語のnigalya ponyaだといわれている(nigalyaは竹、ponyaは母指球あるいは爪を意味するponjaに由来)。 中国語では、パンダを熊猫(繁体字: 熊貓、簡体字: 熊猫、拼音: xióngmāo)、ジャイアントパンダを大熊猫(繁体字: 大熊貓、簡体字: 大熊猫)、レッサーパンダを小熊猫(繁体字: 小熊貓、簡体字: 小熊猫)と呼ぶ。これらの使い分けは、本項のパンダと同様である。「熊猫」の字義に着目すると、ジャイアントパンダと体格などの共通点に乏しい「猫」の字が使われていることは不可解であるが、原義はレッサーパンダのことだということを念頭に置けば理解しやすい。なお、現在の台湾ではジャイアントパンダの方は「猫熊」と呼ばれている。 ジャイアントパンダとレッサーパンダの類縁関係については現生種が少ないこともあり長く議論が行われた。 ジャイアントパンダとレッサーパンダは高度に草食適応を示す種で、ともに竹を主食にしており、それを掴むため前肢の橈側手根骨が肥大化している。このことから、これら2種は近縁と考えられ、パンダ科(Ailuridae、先に発見されたレッサーパンダ属が模式のためレッサーパンダ科とも)が置かれることもあった。クマ科やアライグマ科に入れられるときも、2種が近縁であることを前提として論じられることが多かった。 しかし、ジャイアントパンダについてはDavid(1869)やDavis(1964)の解剖学的分析によりクマ科の系統に近縁な種とされ、分子情報を用いた研究からもそれが明かになった。一方でレッサーパンダの進化的類縁関係については21世紀になってからも議論が続いたが、2010年代にはレッサーパンダはイタチ上科の中でスカンク科に続いて2番目に分岐した系統であるとみられるに至った。ジャイアントパンダはクマ科、レッサーパンダはレッサーパンダ科(現生種はレッサーパンダのみ)に分類されている。この両科の関係は遠い。2種の共通点は収斂進化によるものだったことが判明している。 M.J.Salesaらによる系統を、絶滅種を除くなどして簡略化。なお、『ネコ目』に書かれている分類と異なり、スカンク科を置いていない。 レッサーパンダ科(Ailuridae)は訳が違うだけでかつてのパンダ科と同じ科だが、現在のレッサーパンダ科に含まれるのはレッサーパンダおよび近縁と考えられる化石種のみである。
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パンダ (panda) は、ネコ目(食肉目)に属するジャイアントパンダ(クマ科)とレッサーパンダ(レッサーパンダ科)の2種の総称。熊猫(シュウマオ)とも。ただし単にパンダといった場合、ジャイアントパンダのことを指すことが多い。 ジャイアントパンダとレッサーパンダは食肉目に属しながらともに草食適応を果たした種であるが、Ledje and Arnasonの分子系統解析などにより両者は近縁ではないと結論づけられている。中国を代表する動物だが、生息地は四川省の一部などと狭く、中国全土に生息しているわけではない。
{{Otheruses}} {{生物分類表 |名称 = パンダ |画像 = [[ファイル:Giant panda01 960.jpg|250px]] [[ファイル:Ailurus fulgens Cerza.JPG|250px]] |画像キャプション = {{jbr|[[ジャイアントパンダ]](上)と|[[レッサーパンダ]](下)}} |省略 = 哺乳綱 |綱 = [[哺乳綱]] [[w:Mammalia|Mammalia]] |目 = [[ネコ目]] [[w:Carnivora|Carnivora]] |科 = '''パンダ科'''(廃止)<br>Ailuridae in old sense |和名 = パンダ、熊猫 |英名 = Panda |下位分類名 = 属 |下位分類 = * [[ジャイアントパンダ属]] [[w:Ailuropoda|Ailuropoda]] * [[レッサーパンダ属]] [[w:Ailurus|Ailurus]] * 他、絶滅属が数属 }} '''パンダ''' (panda) は、[[ネコ目]](食肉目)に属する'''[[ジャイアントパンダ]]'''([[クマ科]])と'''[[レッサーパンダ]]'''([[レッサーパンダ科]])の2種の総称。'''熊猫'''(シュウマオ)とも。ただし単にパンダといった場合、ジャイアントパンダのことを指すことが多い<ref>{{Cite journal|title=パンダという名前|journal=https://www.amazon.co.jp/dp/B09S231X2L?ref_=pe_3052080_397514860}}</ref>。 ジャイアントパンダとレッサーパンダは食肉目に属しながらともに草食適応を果たした種であるが、Ledje and Arnason(1996a, b)の分子系統解析などにより両者は近縁ではないと結論づけられている<ref name="sato">{{Cite journal|和書|author=佐藤淳, Wolsan Mieczyslaw|url=https://doi.org/10.11238/mammalianscience.52.23 |title=レッサーパンダ(''Ailurus fulgens'')の進化的由来 |journal=哺乳類科学|date=2012|volume=52|issue=1|pages=23-40|publisher= [[日本哺乳類学会]]|doi=10.11238/mammalianscience.52.23|accessdate=2019-11-16}}</ref>。[[中華人民共和国|中国]]を代表する動物だが、生息地は[[四川省]]の一部などと狭く、中国全土に生息しているわけではない。 == 呼称 == 単にパンダといった場合にはジャイアントパンダのことを指すことが多い。しかし、先に西洋に報告されたのは1821年に博物学者に知られることとなったレッサーパンダ (Hardwicke,1826) で、ジャイアントパンダが報告される (David,1869) まで唯一のパンダとして知られていた<ref name="sato" />。 先に発見されたレッサーパンダに対して「[[パンダ (フランス語)|パンダ]]」と命名され、後に類縁関係にあると見做されたジャイアントパンダが発見されたことを受けて、従来のパンダを[[レトロニム]]でレッサーパンダ({{small|英lesser panda 「小さい方のパンダ」の意}})と呼ぶようになったという経緯がある<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/otona/study/animal/110622.htm |title=「ボクが元祖!!」レッサーパンダ : 動物たちのヒミツ箱 : 初めてのこだわり : 新おとな総研 |newspaper=[[YOMIURI ONLINE]] |publisher=[[読売新聞社]] |date=2011-06-22 |accessdate=2013-08-11 |archiveurl=https://archive.is/20130811135519/http://www.yomiuri.co.jp/otona/study/animal/110622.htm |archivedate=2013-08-11}}</ref>。 [[パンダ (フランス語)|パンダ]]の語源は明らかでないが、ネパール語のnigalya ponyaだといわれている(nigalyaは竹、ponyaは母指球あるいは爪を意味するponjaに由来)<ref name="sato" />。 [[中国語]]では、パンダを'''熊猫'''({{繁体字|熊貓}}、{{簡体字|熊猫}}、{{ピンイン|xióngmāo}})、ジャイアントパンダを'''大熊猫'''({{繁体字|大熊貓}}、{{簡体字|大熊猫}})、レッサーパンダを'''小熊猫'''({{繁体字|小熊貓}}、{{簡体字|小熊猫}})と呼ぶ。これらの使い分けは、本項のパンダと同様である。「熊猫」の字義に着目すると、ジャイアントパンダと体格などの共通点に乏しい「[[ネコ|猫]]」の字が使われていることは不可解であるが、原義はレッサーパンダのことだということを念頭に置けば理解しやすい。なお、現在の[[台湾]]ではジャイアントパンダの方は「猫熊」と呼ばれている。 == パンダの系統問題 == ジャイアントパンダとレッサーパンダの類縁関係については現生種が少ないこともあり長く議論が行われた<ref name="sato" />。 === 分子系統学等による解明 === ジャイアントパンダとレッサーパンダは高度に草食適応を示す種で、ともに竹を主食にしており、それを掴むため前肢の橈側手根骨が肥大化している<ref name="sato" />。このことから、これら2種は近縁と考えられ、'''パンダ科'''(Ailuridae、先に発見されたレッサーパンダ属が[[模式]]のためレッサーパンダ科とも)が置かれることもあった。[[クマ科]]や[[アライグマ科]]に入れられるときも、2種が近縁であることを前提として論じられることが多かった。 しかし、ジャイアントパンダについてはDavid(1869)やDavis(1964)の解剖学的分析によりクマ科の系統に近縁な種とされ、分子情報を用いた研究からもそれが明かになった<ref name="sato" />。一方でレッサーパンダの進化的類縁関係については21世紀になってからも議論が続いたが、2010年代にはレッサーパンダはイタチ上科の中でスカンク科に続いて2番目に分岐した系統であるとみられるに至った<ref name="sato" />。ジャイアントパンダは[[クマ科]]、レッサーパンダは[[レッサーパンダ科]](現生種はレッサーパンダのみ)に分類されている。この両科の関係は遠い。2種の共通点は[[収斂進化]]によるものだったことが判明している。 === パンダを含む系統 === M.J.Salesaらによる系統を<ref>{{Citation | url = http://www.pnas.org/cgi/reprint/0504899102v1.pdf | archiveurl = https://web.archive.org/web/20070930222116/pnas.org/cgi/reprint/0504899102v1.pdf | format = PDF | author = Salesa MJ et al. | title = Evidence of a false thumb in a fossil carnivore clarifies the evolution of pandas | periodical = [[米国科学アカデミー紀要|Proc Natl Acad Sci USA]] | date = 2005年12月30日 | accessdate = 2007-6-4 | archivedate = 2007年9月30日 }}</ref>、絶滅種を除くなどして簡略化。なお、『[[ネコ目]]』に書かれている分類と異なり、[[スカンク科]]を置いていない。 レッサーパンダ科(Ailuridae)は訳が違うだけでかつてのパンダ科と同じ科だが、現在のレッサーパンダ科に含まれるのはレッサーパンダおよび近縁と考えられる化石種のみである。 * '''クマ'''下目 ** '''クマ'''科 *** '''ジャイアントパンダ''' *** その他のクマ科+[[鰭脚類]] * イタチ小目 ** [[レッサーパンダ科]] ** その他のイタチ小目 *** [[イタチ科]] *** [[アライグマ科]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ビントロング]](ジャコウネコ科。中国名が'''熊猫'''又は熊狸、英名がBear cat) == 外部リンク == ;ジャイアントパンダ :{{Commons&cat-inline|Ailuropoda melanoleuca|Ailuropoda melanoleuca|ジャイアントパンダ}} :{{Wikispecies-inline|Ailuropoda melanoleuca|ジャイアントパンダ}} :{{Wiktionary-inline|ジャイアントパンダ}} ;レッサーパンダ :{{Commons&cat-inline|Ailurus fulgens|Ailurus fulgens|レッサーパンダ}} :{{Wikispecies-inline|Ailurus fulgens|レッサーパンダ}} :{{Wiktionary-inline|レッサーパンダ}} {{デフォルトソート:はんた}} [[Category:食肉目]]
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金属間化合物
金属間化合物(きんぞくかんかごうぶつ、英: intermetallic compound)は、2種類以上の金属によって構成される化合物。構成元素の原子比は整数である。成分元素と異なる特有の物理的・化学的性質を示す。構成元素が非金属である場合もあり、例として二ホウ化マグネシウム(MgB2, B: ホウ素は非金属)がある。MgB2 は2001年に転移温度 39 ケルビンの超伝導物質であることが分かり、一躍注目を浴びた。 金属間化合物の種類には、下記のようなものがある。
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金属間化合物(きんぞくかんかごうぶつ、英: intermetallic compound)は、2種類以上の金属によって構成される化合物。構成元素の原子比は整数である。成分元素と異なる特有の物理的・化学的性質を示す。構成元素が非金属である場合もあり、例として二ホウ化マグネシウム(MgB2, B: ホウ素は非金属)がある。MgB2 は2001年に転移温度 39 ケルビンの超伝導物質であることが分かり、一躍注目を浴びた。 金属間化合物の種類には、下記のようなものがある。 電子化合物 – 化合物の形成に原子価電子数が重要な役割を示す。 σ相化合物、ラーベス相化合物 – 成分金属元素が密に詰まるような結晶構造を持つ。 電気化学的化合物 – 電気陰性度差の大きな金属間にでき、原子価の法則に従う。
{{出典の明記|date=2023年1月4日 (水) 11:54 (UTC)}} [[ファイル:Cr11Ge19_crystals.jpg|右|サムネイル|262x262ピクセル|<center>Cr<sub>11</sub>Ge<sub>19</sub></center>]] '''金属間化合物'''(きんぞくかんかごうぶつ、{{lang-en-short|intermetallic compound}})は、2種類以上の[[金属]]によって構成される化合物。構成[[元素]]の[[原子]]比は整数である。成分元素と異なる特有の物理的・化学的性質を示す。構成元素が非金属である場合もあり、例として[[二ホウ化マグネシウム]](MgB<SUB>2</SUB>, B: [[ホウ素]]は非金属)がある。MgB<SUB>2</SUB> は[[2001年]]に[[転移温度]] 39 [[ケルビン]]の[[超伝導]]物質であることが分かり、一躍注目を浴びた。 金属間化合物の種類には、下記のようなものがある。 * [[電子化合物]] &ndash; 化合物の形成に原子価電子数が重要な役割を示す。 * [[σ相化合物]]、[[ラーベス相化合物]] &ndash; 成分金属元素が密に詰まるような結晶構造を持つ。 * [[電気化学的化合物]] &ndash; 電気陰性度差の大きな金属間にでき、原子価の法則に従う。 == 関連項目 == * [[金属学]](金属工学) * [[物性物理学]] * [[無機化学]] * [[合金]] * [[固溶体]] * [[ヒューム‐ロザリーの法則]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きんそくかんかこうふつ}} [[Category:金属]] [[Category:無機化合物]] [[Category:化合物]]
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4,273
規則合金
規則合金(きそくごうきん、英語: ordered alloy)は合金において、各構成金属元素の配置が規則的なもの。つまり、周期的境界条件があり、単位胞が定義できる。
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規則合金は合金において、各構成金属元素の配置が規則的なもの。つまり、周期的境界条件があり、単位胞が定義できる。
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4,274
11世紀
11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。 11世紀は、西アジアでトルコ系のイスラム王朝のガズニ朝やセルジューク朝の台頭が著しく、前者は北インドに侵入しインドのイスラム化の契機をつくり、後者は東ローマ帝国を打ち破って、小アジアにまで勢力を伸ばした。北アフリカのモロッコ近辺ではムラービト朝などベルベル人のイスラム王朝の台頭が始まって、レコンキスタを停滞させる一方、サハラ交易で繁栄したガーナ王国を滅ぼした。 東ヨーロッパでは東ローマ帝国が第一次ブルガリア帝国を征服してバルカン半島全土を回復して最盛期を迎えるが、11世紀後半に入ると衰退に転じ、国内の反乱やセルジューク朝、ノルマン人などの外敵に悩まされることになる。西ヨーロッパでは教皇権が伸長する一方、東西教会の分裂が起こっている。また、東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスが教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端で、十字軍の遠征が開始された。 東南アジア、南インドでは、1025年を境にシュリーヴィジャヤ王国が衰退し、チョーラ朝、クディリ王国が全盛を極めた。東アジアでは、北宋の経済的繁栄は続くものの、遼や西夏への歳幣の負担と社会的格差の進行が重くのしかかり、王安石の改革が始まった。 日本では平安時代中期から後期の初めにあたる。院政の開始以降を中世に区分する場合がある。11世紀の前半から中葉にかけては、藤原北家による摂関政治が全盛を極めたが、地方では国司苛政上訴が行なわれ、小領主の有力武士が台頭していた。名目的な寄進荘園に課税するなど税の公平さを保つために荘園整理令が行なわれたが、反面ここで公認された荘園はそれまでの公田の中に税の取得権が荘園領主にある農地が散在した形態から一円領域化してまとまった経営領域と化し、国衙に納税する公領と対等の権利主体としての地位を獲得する。ここで荘園と公領の領域などを巡る武力紛争が多発する事態となり、双方の現地管理人として武力紛争への対応能力のある武士が任命されることが多くなり、武士の在地領主化が進行した。11世紀の後半になると藤原氏の力が及ばない後三条天皇の親政が契機となり、院政がはじまった。院政は受領が紛争当事者となることで調停不能になった荘園公領間の紛争の調停者として権力を高め、また院自らも荘園領主として広大な荘園を集積した。こうして荘園と公領が併存して地方社会の統治単位となる荘園公領制はこの院政期を通じて発展していくことになる。
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11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{centurybox}} [[ファイル:Hugo-v-cluny heinrich-iv mathilde-v-tuszien cod-vat-lat-4922 1115ad.jpg|220px|right|thumb|[[カノッサの屈辱]]。教皇権の伸長は皇帝権との間で衝突を生み出し、叙任権闘争を激化させた。画像は[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]](中央)と、破門された彼を[[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]にとりなす[[マティルデ・ディ・カノッサ|トスカーナ女伯マティルデ]](右)と[[クリュニーのユーグ|クリュニー修道院長ユーグ]]。]] [[ファイル:Bayeux Tapestry scene57 Harold death.jpg|220px|right|thumb|[[バイユーのタペストリー]]。画像は[[ヘイスティングズの戦い]]におけるイングランド王[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]の死の場面。この戦いに勝利した[[ノルマンディー公]]ギヨーム2世がイングランド王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]になる。]] [[ファイル:Louvre MosanReliquary.jpg|180px|right|thumb|[[マーストリヒト]]大聖堂宝物室の写本外装。[[聖遺物]]崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれる[[マース川]]流域の[[低地地方]]で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在は[[ルーヴル美術館]]にある。]] [[ファイル:Murasaki Shikibu Nikki Emaki (Fujita Art Museum) 2.jpg|thumb|right|300px|[[藤原道長]]。御堂関白とも通称された道長の時代に[[摂関政治]]は頂点に達した。画像は『[[紫式部日記]]』藤田家本第5段から1008年の[[一条天皇]]の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。]] [[ファイル:Genji emaki TAKEKAWA Large.jpg|300px|right|thumb|[[紫式部]]と『[[源氏物語]]』。[[かな文字]]の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」([[徳川美術館]]蔵)。]] [[File:Gosannen kassen ekotoba - Scroll 1 part 14.jpg|right|thumb|300px|奥州の反乱。[[東北地方]]での大規模な反乱は摂関政治に馴れた都人を驚かした。画像は[[前九年の役]]に続く[[後三年の役]]を14世紀に描いた『後三年合戦絵詞』。武家の棟梁[[源義家]]が雁の列の乱れから敵の伏兵を見破った場面([[東京国立博物館]]蔵)。]] [[ファイル:Phoenix Hall Repaired.jpg|270px|right|thumb|[[宇治市|宇治]]の[[平等院|平等院鳳凰堂]]。末法思想の高まりとともに[[阿弥陀仏]]の[[極楽浄土]]に往生すること([[浄土思想]])が求められた。平等院は[[関白]][[藤原頼通]]によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師[[定朝]]の手による阿弥陀仏が安置されている。]] [[File:Emperor Shirakawa.jpg|thumb|right|220px|[[院政]]の出現。皇位継承の安定を図り、外戚勢力を抑制する狙いから天皇が退位してから「[[治天の君]]」として実権を握る院政が[[白河天皇|白河上皇]](法皇)により始められた。画像は[[国立国会図書館]]所蔵の白河法皇の肖像画。]] [[ファイル:The Fugong Temple Wooden Pagoda.jpg|thumb|right|180px|遼の[[応県木塔]]。[[山西省]]応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。]] [[ファイル:B Song Dynasty Cao Empress Sitting with Maids.JPG|thumb|right|200px|[[慶暦の治]]。4代皇帝[[仁宗 (宋)|仁宗]]の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏([[慈聖光献曹皇后]])の肖像([[台湾]][[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]蔵)。]] [[ファイル:Wang Anshi.jpg|thumb|right|180px|北宋の宰相・[[王安石]]。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、[[司馬光]]らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。]] [[ファイル:Guo Xi - Early Spring (large).jpg|thumb|right|180px|[[山水画]]の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭煕らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は[[台北]]国立[[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]蔵の[[郭煕]]の「早春図」。]] [[File:北宋汝窯青瓷蓮花式溫碗.tif|thumb|right|270px|{{仮リンク|汝窯|en|Ru ware}}[[青磁]]。宋では透明感を持つ釉薬が開発されるとともに無駄を省いた簡素な形状の磁器が愛好された。特に河南省臨汝付近で焼かれた宮廷用の磁器は汝官窯と呼ばれ、「神品」と呼ばれるほどの質の高さを誇った。画像は台北国立故宮博物院所蔵の「{{仮リンク|北宋汝窯青磁蓮花式温碗|zh|北宋汝窯青瓷蓮花式溫碗}}」。]] [[ファイル:Yulin Cave 3 w wall Manjusri (Western Xia).jpg|thumb|right|200px|[[西夏]]時代の[[敦煌]]。画像は敦煌楡林窟第3窟壁画「[[文殊菩薩]]」。[[仏教]]信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。]] [[ファイル:Tháp Dương Long.JPG|270px|right|thumb|[[チャンパ王国]]の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像は[[ビンディン省]][[タイソン県]]にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。]] [[ファイル:Khajuraho5.jpg|200px|right|thumb|[[カジュラーホー]]のパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。[[チャンデーラ朝]]のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。]] [[image:سلطان محمود غزنوی.JPG|thumb|right|270px|[[ムスリム|イスラム教徒]]のインド進出。トルコ系の[[ガズナ朝]]を皮切りにイスラム教徒はインド土着の勢力を圧倒し支配を拡大していった。画像は[[プラティハーラ朝]]を滅ぼしたガズナ朝の君主[[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]の宮廷。]] [[ファイル:Shahnameh3-1.jpg|200px|right|thumb|『[[シャー・ナーメ]](王書)』。11世紀初めに[[フェルドウスィー]]によってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像は[[サファヴィー朝]]時代の『シャー・ナーメ』の写本。]] [[ファイル:Avicenna-miniatur.png|thumb|right|200px|[[イブン・スィーナー]]。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方[[イスラム世界]]を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。]] [[ファイル:Kharaghan.jpg|200px|right|thumb|「{{仮リンク|ハラガーン双子塔|en|Kharraqan towers}}」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のある[[ガズヴィーン]]は[[イラン]]の[[カスピ海]]南岸の街で、近郊には「暗殺教団」[[ニザール派]]の[[アラムート]]要塞もある。]] [[File:Assassination of Nizam al-Mulk.jpg|270px|right|thumb|[[ニザームルムルク]]暗殺。セルジューク朝の君主[[マリク・シャー]]に仕え、宰相として善政を行い『統治の書』の執筆でも知られるが、最後は宮廷の内紛に巻き込まれ暗殺された。画像は『[[集史]]』の写本の挿絵。]] [[ファイル:Egyptian - Lusterware Plate with Bird Motif - Walters 482036.jpg|200px|right|thumb|商業都市[[フスタート]]。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られた[[ラスター彩]]陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である([[メリーランド州]][[ボルチモア]]の[[ウォルターズ美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Astrolabio andalusí Toledo 1067 (M.A.N.) 04.jpg|thumb|right|200px|[[イスラム科学|イスラム天文学]]。9世紀から始まったイスラム科学の興隆は10世紀から11世紀に一つの頂点を迎えた。画像はイベリア半島で作成された1067年の記名がある「{{仮リンク|アル・サーリのアストロラーベ|es|Astrolabio de al-Sahlî}}」(スペイン国立考古学博物館蔵)。]] [[File:Burgos - Estatua del Cid 08.jpg|thumb|right|200px|[[エル・シッド]]。[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]の征服で[[レコンキスタ]]の時代を代表する英雄ではあるが、[[カスティーリャ]]王[[アルフォンソ6世]]との確執など波乱に富んだ一生を送った。画像はエル・シッドの故郷ビバールにほど近い[[ブルゴス]]に建てられたエル・シッドの銅像。]] [[File:Basileios II, BNM, MS. gr. 17 Fol. 3r.jpg|thumb|right|200px|ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)。この別名で知られる皇帝バシレイオス2世のもとで東ローマ帝国はブルガリア人を制圧しバルカン半島の覇者に返り咲いた。画像は『{{仮リンク|バシレイオス2世の詩編|fr|Psautier de Basile II}}』。]] [[ファイル:Empress_Zoe_mosaic_Hagia_Sophia.jpg|thumb|300px|転換期に立つ東ローマ帝国。マケドニア朝の血統はゾエとテオドラの二人の皇女の配偶者をめぐって錯綜した。画像は[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]]内の[[モザイク]]画で、中央のキリストを挟んで、皇后となった[[ゾエ (東ローマ女帝)|ゾエ]]とその夫君である東ローマ皇帝[[コンスタンティノス9世モノマコス|コンスタンティノス9世]]の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。]] [[ファイル:Alexius I.jpg|thumb|right|200px|東ローマ皇帝[[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス1世]]の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。]] [[ファイル:1099 Siege of Jerusalem.jpg|thumb|200px|[[第1回十字軍]]。西ヨーロッパの[[キリスト教徒]]は血みどろの戦いにより聖地[[エルサレム]]を[[イスラム教|イスラム]]勢力から奪還した。画像は13世紀に描かれた[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦]]の細密画。]] [[ファイル:Telamones Tula.jpg|thumb|right|230px|[[トゥーラ・シココティトラン]]。10世紀から11世紀に栄えた[[メキシコ]]の[[後古典期]]の遺跡で、伝承では[[トルテカ帝国]]の都だとされている。]] '''11世紀'''(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、[[西暦]][[1001年]]から西暦[[1100年]]までの100年間を指す[[世紀]]。[[2千年紀]]における最初の世紀である。 == 11世紀の歴史 == === イスラム圏 === 11世紀は、[[西アジア]]で'''[[チュルク|トルコ]]系のイスラム王朝'''の[[ガズニ朝]]や[[セルジューク朝]]の台頭が著しく、前者は[[北インド]]に侵入し'''インドのイスラム化'''の契機をつくり、後者は[[東ローマ帝国]]を打ち破って、小アジアにまで勢力を伸ばした。[[北アフリカ]]の[[モロッコ]]近辺では[[ムラービト朝]]など[[ベルベル人]]のイスラム王朝の台頭が始まって、[[レコンキスタ]]を停滞させる一方、[[サハラ交易]]で繁栄した[[ガーナ王国]]を滅ぼした。 === ヨーロッパ === [[東ヨーロッパ]]では東ローマ帝国が[[第一次ブルガリア帝国]]を征服してバルカン半島全土を回復して最盛期を迎えるが、11世紀後半に入ると衰退に転じ、国内の反乱やセルジューク朝、[[ノルマン人]]などの外敵に悩まされることになる。[[西ヨーロッパ]]では'''教皇権が伸長'''する一方、'''[[東西教会の分裂]]'''が起こっている。また、東ローマ帝国皇帝[[アレクシオス1世コムネノス]]が[[教皇]][[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]に救援を依頼したことが発端で、'''[[十字軍の遠征]]'''が開始された。 === 東アジア・東南アジア === [[東南アジア]]、[[南インド]]では、1025年を境に[[シュリーヴィジャヤ王国]]が衰退し、[[チョーラ朝]]、[[クディリ王国]]が全盛を極めた。[[東アジア]]では、[[北宋]]の経済的繁栄は続くものの、[[遼]]や[[西夏]]への歳幣の負担と社会的格差の進行が重くのしかかり、[[王安石]]の改革が始まった。 ==== 日本 ==== 日本では[[平安時代]]中期から後期の初めにあたる。[[院政]]の開始以降を[[中世]]に区分する場合がある。11世紀の前半から中葉にかけては、藤原北家による'''[[摂関政治]]'''が全盛を極めたが、地方では[[国司苛政上訴]]が行なわれ、小領主の有力[[武士]]が台頭していた。名目的な寄進[[荘園 (日本)|荘園]]に課税するなど税の公平さを保つために[[荘園整理令]]が行なわれたが、反面ここで公認された荘園はそれまでの公田の中に税の取得権が荘園領主にある農地が散在した形態から一円領域化してまとまった経営領域と化し、[[国衙]]に納税する公領と対等の権利主体としての地位を獲得する。ここで荘園と公領の領域などを巡る武力紛争が多発する事態となり、双方の現地管理人として武力紛争への対応能力のある武士が任命されることが多くなり、武士の在地領主化が進行した。11世紀の後半になると藤原氏の力が及ばない[[後三条天皇]]の親政が契機となり、'''院政'''がはじまった。院政は受領が紛争当事者となることで調停不能になった荘園公領間の紛争の調停者として権力を高め、また院自らも荘園領主として広大な荘園を集積した。こうして荘園と公領が併存して地方社会の統治単位となる[[荘園公領制]]はこの院政期を通じて発展していくことになる。 == できごと == * [[東ローマ帝国]]の全盛期。 * [[セルジューク朝]]トルコの成立と拡張、東ローマ帝国の衰退始まる。 * [[東西教会の分裂]]と西方での[[教皇権]]の全盛。 * [[十字軍]]遠征の開始。 * [[ノルマン人]]の勢力拡大続く。 * [[北インド]]に[[ガズニ朝]]侵攻、以後北インド[[イスラム教|イスラム]]化へ。[[南インド]]の[[チョーラ朝]]の全盛。 * [[北アフリカ]]の[[ムラービト朝]]台頭。 * 日本では[[院政]]の開始。[[荘園整理令]]。 * 英語圏最古の大学である[[オックスフォード大学]]創立。 ---- === 1000年代 === {{main|1000年代}} * [[1001年]] ** 北宋が成都府路・梓州路・夔州路・利州路を統合して川峡四路(四川路)を設置、これが[[四川]]の名称の始まり。 * [[1002年]] ** イングランド王[[エゼルレッド2世 (イングランド王)|エゼルレッド2世]]無思慮王が国内のデーン人を虐殺。 * [[1003年]] ** [[寂照]]が北宋に渡り皇帝[[真宗 (宋)|真宗]]から紫衣と円通大師の号を賜与される。 * [[1004年]] ** [[澶淵の盟]]。 ** [[江西省]]昌南鎮が皇帝真宗の命により[[景徳鎮市|景徳鎮]]と改名する。 * [[1005年]] ** [[ファーティマ朝]]カリフの[[ハーキム]]が[[カイロ]]に「知恵の家(ダール・アル・イルム)」を設置。 * [[1006年]] ** [[おおかみ座]]に[[超新星]]([[SN 1006]])出現。 *** 明るさは太陽と月を除いて史上最高の-9等級と推定される。後世で[[藤原定家]]が『[[明月記]]』に記録した他に各国で記録あり。 ** 高麗の論山{{仮リンク|灌燭寺弥勒菩薩立像|ko|논산 관촉사 석조미륵보살입상}}(恩津弥勒)が完成する(968年 - )。 ** [[カラハン朝]]のユースフ・カディル・ハンが仏教王国[[ホータン王国|ホータン]](于闐)を占領する。 ** [[ズィヤール朝]]君主カーブース・ブン・ワシュムギールの命により[[ゴンバデ・カーブース]]が建設される。 * [[1007年]] ** [[藤原道長]]が大和[[金峯神社 (吉野町)|金峯山]]に埋経をする(金峰山[[経塚]])。 ** 神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]が[[バンベルク]]司教座を設置し、大聖堂を建設する。 ** [[ハンマード朝]]の君主{{仮リンク|ハンマード・イブン・ブルッギン|en|Hammad ibn Buluggin}}が[[ベニ・ハンマードの城塞]]を建設する。 * [[1008年]] ** 北宋皇帝真宗が[[泰山]]で[[封禅]]の儀を行う。 ** バグラト3世が[[グルジア王国]]を統一する。 *** この王のもとで都[[クタイシ]]の[[バグラティ大聖堂]]が建設される。 ** 最古の完全体[[ヘブライ語聖書]]である「[[レニングラード写本]]」が作成される。 ** 『[[紫式部日記]]』で言及される[[紫式部]]『[[源氏物語]]』の最古の記事(寛弘5年11月1日)。 * [[1009年]] ** [[ベトナム]]にて[[李公蘊]]が[[李朝 (ベトナム)|李朝]]を建てる。 *** 翌年には都を[[華閭]](ホアルー)から[[昇龍]](タンロン、現[[ハノイ]])に遷す。 ** ファーティマ朝カリフのハーキムの命令で[[エルサレム]]の[[聖墳墓教会]]が破壊される。 === 1010年代 === {{main|1010年代}} * [[1010年]] ** [[フェルドウスィー]]による[[イラン]]最大の民族[[叙事詩]]『[[シャー・ナーメ]]』が完成する。 * [[1011年]] - 一条天皇が譲位し[[三条天皇]]が即位する。 * [[1012年]] ** 宋の皇帝真宗の命で[[福建省]]で栽培されていた[[占城稲]](占城米)を江南各地に移植する。 ** {{仮リンク|ロムアルド|en|Romuald}}により[[アペニン山脈]]に{{仮リンク|カマルドリ|en|Camaldoli}}修道院が創建される。 * [[1013年]] ** デンマーク王[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]](双叉髭王)がエゼルレッド2世に勝利してイングランド王になる。 ** [[チョーラ朝]]の[[ラージャラージャ1世]]が北宋に最初の使者を送る。 * [[1014年]] ** クロンターフの戦いで、[[アイルランド]]上王[[ブライアン・ボル]]が[[ヴァイキング]]を破り、これ以降アイルランドへの侵入が収束する。 ** [[クレディオンの戦い|クレディオン峠の戦い]]で、東ローマ皇帝[[バシレイオス2世]]が[[ブルガリア皇帝]][[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]に勝利。 * [[1015年]] - キエフ大公ウラジーミル1世死去。その息子[[スヴャトポルク1世]]が兄弟の[[ボリスとグレブ]]を殺害して大公となる。 * [[1016年]] ** [[ジャワ]]の[[クディリ]]王[[ダルマヴァンシャ王|ダルマヴァンシャ]]が娘の結婚式に乗じて襲来した地方領主ウラウリに殺害される。 *** ワトゥガル宮殿が破壊され、クディリ朝は一時断絶(大破局(プララヤ(Pralaya))。 ** [[ノヴゴロド公]][[ヤロスラフ1世]]が兄弟のスヴャトポルクを倒しキエフ大公となる。 *** この時期にスラブ民族最古の法典である『[[ルースカヤ・プラウダ (キエフ大公国)|ルースカヤ・プラウダ]]』の「ヤロスラフ法典」が編纂される。 ** [[デンマーク]]王子[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌーズ]](クヌート)がイングランド王に即位 ** 三条天皇が譲位し[[後一条天皇]]が即位。外祖父の[[藤原道長]]が摂政となる。 * [[1017年]] ** [[チョーラ朝]]の[[ラージェンドラ1世]]が[[シュリーヴィジャヤ王国|シュリーヴィジャヤ]]征討の艦隊を派遣。 *** その途中でチョーラ朝は[[スリランカ]]島に上陸して都の[[アヌラーダプラ]]ほか島の大部分を征服。 *** [[シンハラ人]]は首都をアヌラーダプラから[[ポロンナルワ]]に遷都し、以後ここに多くの仏教建築がなされる。 ** カラハン朝のアフマド・トゥガン・ハンが[[天山ウイグル王国]]を撃退し[[トルファン]]まで進軍。 ** 藤原道長が摂政と氏長者を嫡男の[[藤原頼通|頼通]]に譲る。[[敦明親王]]が自ら東宮辞退を申し出る(小一条院)。 * [[1018年]] ** [[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]が{{仮リンク|ストラスクライド王国|en|Kingdom of Strathclyde}}の王位を継承し、[[スコットランド]]のほぼ全域を支配。 ** バシレイオス2世が第1次[[ブルガリア]]帝国を滅ぼし、東ローマ帝国が[[バルカン半島]]のほぼ全域を奪回。 ** [[ガズニ朝]]のマフムードがインド遠征で[[カナウジ]]を占領し[[プラティハーラ朝]]を滅ぼす。 ** 藤原道長の娘威子が後一条天皇の后となり、祝宴にて「望月の歌」が詠まれる。 ** 遼の陳国公主がこの年に亡くなり[[内モンゴル]][[通遼市]]の{{仮リンク|陳国公主墓|zh|辽代陈国公主与驸马合葬墓}}に葬られる。 * [[1019年]] ** [[刀伊の入寇]]。 ** ダルマヴァンシャ王の娘婿[[アイルランガ王|アイルランガ]]がプランタス川河口にてクディリ朝(イサナ朝)を復興する。 === 1020年代 === {{main|1020年代}} * [[1020年]] - 遼と高麗が和平を結び、高麗は遼の服属国となる。 * [[1020年]]頃 - [[ライヒェナウ島|ライヒェナウ派]]による「{{仮リンク|バンベルクの黙示録|en|Bamberg Apocalypse}}」が作られる。 * [[1021年]] ** ファーティマ朝カリフのハーキムが消息不明となる。 *** ハーキムの子ザーヒルがカリフとなり、姉シットゥ・アル・ムルクが摂政となる。 *** ハーキムの代理人であった[[ドゥルーズ派]]の祖で[[イマーム]]のハムザ・イブン・アリが迫害を受ける。 ** [[カナダ]]・[[ニューファンドランド島]]の[[ランス・オ・メドー]]遺跡出土の木片が伐採された年がこの年に当たる。 *** この遺跡はヴァイキングによるものとされ、この年までにはヨーロッパ系人種が北アメリカ大陸に入植していたことの証拠となる。 * [[1022年]] ** 藤原道長による[[法成寺]]の落慶供養。 ** フランス王ロベール2世の命により[[オルレアン]]で[[異端者]]に対する最初の火刑が行われる。 * [[1023年]] - 北宋で[[交子]]が紙幣として発行される(世界最古の紙幣)。 * [[1024年]] - [[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]死亡、[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]ドイツ王を継承。 * [[1025年]] ** チョーラ朝のラージェンドラ1世が再びシュリーヴィジャヤ征討の艦隊を派遣。 ** [[ピャスト家]]の[[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]]が初代の[[ポーランド]]王に選ばれる。 ** 東ローマ皇帝バシレイオス2世が死去。 *** 弟の[[コンスタンティノス8世]]が即位。東ローマ帝国の大幅な拡張は休止する。 *** この時期までに、東方領土をめぐるビザンツ文学の英雄叙事詩『[[ディゲネス・アクリタス]]』が編纂される。 ** [[イブン・スィーナー]]が『{{仮リンク|医学典範|en|The Canon of Medicine}}(アル・カーヌーン・フィ・アル・ティッブ)』を完成させる。 * [[1026年]] - ソランキ朝のビームデーヴ1世により[[グジャラート]]地方{{仮リンク|モデラの太陽寺院|en|Sun Temple, Modhera}}が建立される。 * [[1027年]] ** [[エルヌ]]教会会議(トゥールージュ会議)で「神の休戦({{仮リンク|トレウガ・デイ|en|Treuga Dei}})」が布告される。 ** イングランド王クヌートがローマ歴訪で、神聖ローマ皇帝コンラート2世の戴冠式に参加。 * [[1028年]] ** 藤原道長死去。[[藤原行成]]死去。 ** [[平忠常の乱]]( - [[1031年]])。 ** イングランド王でデンマーク王でもある[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌート]]がノルウェーの王位も兼任する([[北海帝国]]の成立)。 === 1030年代 === {{main|1030年代}} * [[1030年]] ** 神聖ローマ皇帝[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]が[[シュパイアー大聖堂]]の建設を命じる。 ** [[アザーズの戦い (1030年)|アザーズの戦い]]で東ローマ帝国が{{仮リンク|ミルダース朝|en|Mirdasid dynasty}}に敗北。 * [[1031年]] ** [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]の[[カリフ]]である{{仮リンク|ヒシャーム3世|en|Hisham III of Córdoba}}が廃位により追放され、[[後ウマイヤ朝]]滅亡。 ** [[サラゴサ王国]]・[[トレド王国]]・[[セビリア王国]]などのムスリム系群小国家([[タイファ]])が乱立する。 ** 東ローマ帝国の将軍{{仮リンク|ゲオルギオス・マニアケス|en|George Maniaces}}が[[シャンルウルファ|エデッサ]]をミルダース朝の領主から奪還。 * [[1032年]] ** チベット系[[タングート]]族の西平王[[李徳明]]の死により[[李元昊]]が後を継ぐ。 ** ブルグント王家が断絶し、神聖ローマ皇帝コンラート2世がブルグントを併合。 *** 神聖ローマ皇帝は中世ドイツの王・イタリア王・ブルグント王を兼任することになる。 * [[1032年]]頃 ** シーア派系民兵組織が[[シリア]]の[[ハッラーン]]を襲いこの地の[[サービア教徒]]共同体が壊滅し離散する。 * [[1033年]] ** 北宋で皇帝[[仁宗]]の[[郭皇后 (宋仁宗)|郭皇后]]が廃され、これをめぐり論争が起こる([[慶暦の党議]])。新たに[[慈聖光献曹皇后|曹皇后]]を冊立。 * [[1035年]] ** [[ナバラ王国|ナバラ]]王[[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世]](大王)死去。遺領配分からナバラ・[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]・[[アラゴン王国|アラゴン]]各王国が分裂する。 ** 北海帝国のクヌート大王死去。[[マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世]]がノルウェー王として独立し北海帝国が崩壊する。 * [[1036年]] ** 後一条天皇が崩御し、[[後朱雀天皇]]が即位。 ** 西平王李元昊が北宋から粛州・瓜州・沙州を奪う。同年に[[西夏文字]]を制定させる。 * [[1037年]] - クディリのアイルランガ王が東部ジャワ再統一を完成し、カマラギャンに遷都。 * [[1038年]] ** ベーメン公ブレチスラフ1世によりポーランドの都[[グニェズノ]]と[[ポズナニ]]が略奪される。 *** ポーランド公[[カジミェシュ1世]]が都をグニェズノから[[クラクフ]]に移動する。 ** 東ローマ帝国将軍ゲオルギオス・マニアケスによるシチリア島東部の再征服。 ** トルコ人[[トゥグリル・ベク]]が[[ニーシャープール]]の戦いでガズナ朝に大勝し、[[セルジューク朝]]を興す。 ** [[カイラワーン]]のイブン・ヤーシーンに共鳴した信徒がセネガル川流域で宗教団体ムラービトゥーンを結成。 ** 西平王李元昊が帝号(景宗)を名乗り、[[西夏]]が建国される。 * [[1039年]] ** 北宋で「皇宋通宝」が鋳造される(これは日本で発見された埋蔵渡来銭で最も量が多いもの)。 === 1040年代 === {{main|1040年代}} * [[1040年代]] ** 日本で[[公田官物率法]]が制定され、[[国司苛政上訴]]が収束する。 * [[1040年]] ** [[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]がスコットランド王[[ダンカン1世]]を殺害し王位を奪う。 ** [[ダンダーナカーンの戦い]]で、セルジューク朝がガズナ朝に勝利しイランに進出する。 * [[1041年]] - カラハン朝が東西に分裂。 * [[1042年]] ** 東ローマ皇帝[[ミカエル5世]]が政変で廃位され、ゾエと[[テオドラ (東ローマ女帝)|テオドラ]]の姉妹の皇女が共同女帝に立てられる。 ** インドの[[ヴィクラマシーラ寺院]]の[[アティーシャ]]が[[チベット]]の[[グゲ王国]]に入国しトリン寺に滞在する。 * [[1043年]] - [[慶暦の治|慶暦の改革]]により[[范仲淹]]・[[欧陽脩]]らが抜擢される。欧陽脩が『[[朋友|朋友論]]』を執筆。 * [[1044年]] ** [[慶暦の和約]]。 ** [[アノーヤター]]王が即位し、[[パガン朝]]の発展が始まる。 ** ポーランドの[[ヴィエリチカ岩塩坑]]が開かれる。 * [[1045年]] ** 後朱雀天皇が崩御し、[[後冷泉天皇]]が即位。 ** 東ローマ帝国がバグラト朝アルメニア王国を滅ぼし都アニを占領。[[アルメニア人のディアスポラ]]が生じる。 ** [[エドワード懺悔王]](証聖王)がテムズ川上流に[[ウェストミンスター寺院|ウェストミンスター聖堂]]を建立( - [[1050年]])。 ** 東ローマ皇帝コンスタンティノス9世によりコンスタンティノポリス大学が再編される。 * [[1046年]] ** {{仮リンク|スートリ教会会議|en|Council of Sutri}}で神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]が三教皇の鼎立を終わらせる。 ** キエフ大公[[ヤロスラフ1世]]の公子フセヴォロド(後の[[フセヴォロド1世]])と東ローマ皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの{{仮リンク|皇女アナスタシア|ru|Мономахиня}}の結婚。 * [[1047年]] - 遼の[[欽哀蕭皇后|章聖皇太后]]により内モンゴル自治区慶州の白塔(遼釈迦仏舎利塔)が建立される。 * [[1048年]] - ノルマン人が北アフリカの[[チュニス]]を占領( - [[1058年]])。 === 1050年代 === {{main|1050年代}} * [[1050年]]頃 -ソランキー朝の王妃ウダヤマティにより[[グジャラート州]][[パータン]]の[[ラーニー・キ・ヴァーヴ]](王妃の階段井戸)が造られる。 * [[1051年]] ** [[前九年の役]]( - [[1062年]])。 ** フランス王[[アンリ1世 (フランス王)|アンリ1世]]とキエフ大公の公女[[アンナ・ヤロスラヴナ]]が結婚する。 ** [[キエフ・ペチェールシク大修道院]](キエフ・洞窟大修道院)が建立される。 * [[1052年]] - [[最澄]]に仮託した著作『末法燈明記』などではこの年([[永承]]7年)を[[末法]]元年とした。 ** 『周書異記』に依拠して[[釈尊]]の入滅を[[穆王 (周)|周の穆王]]52年(紀元前949年)とし、正法1000年像法1000年説によりこの年を算定した。 * [[1053年]] ** [[藤原頼通]]により[[宇治市|宇治]]の[[平等院|平等院鳳凰堂]](阿弥陀堂)が建立される。 ** {{仮リンク|チヴィターテの戦い|en|Battle of Civitate}}に勝利したノルマン人が[[教皇]][[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]を捕虜とする。教皇は捕虜のまま翌年に死去。 * [[1054年]] ** コンスタンティノポリスで[[東西教会の分裂|東西教会の相互破門事件]](大シスマ)。 *** 教皇使節フンベルトゥスと[[コンスタンディヌーポリ総主教|コンスタンティノポリス総主教]][[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ミカエル1世ケルラリオス]]の両者によって発生。 ** [[7月4日]][[おうし座]]に超新星([[SN 1054]])出現。後の「[[かに星雲]](M1)」。 * [[1055年]] - セルジューク朝軍が[[バグダード]]に入城し、[[ブワイフ朝]]の勢力を追い払う。 * [[1056年]] ** ムラービトゥーンのアブー・バクル・イブン・ウマルが指導者となり[[ムラービト朝]]が成立。 ** 遼の章聖皇太后の弟[[蕭孝穆]]により山西省応県の仏宮寺釈迦塔([[応県木塔]])が建立される。 ** 東ローマ女帝テオドラが死去し、マケドニア朝の血統は断絶。元老院議員[[ミカエル6世ストラティオティコス]]が後継の皇帝となる。 * [[1057年]] ** [[ランファナンの戦い]]で、スコットランド王ダンカン1世の子[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム]]がマクベスを倒す。 ** 東ローマ皇帝[[ミカエル6世ストラティオティコス]]が政変で廃位され、[[イサキオス1世コムネノス]]が皇帝となる。 * [[1058年]] ** セルジューク朝のトゥグリル・ベクが[[スルタン]]を称す。 ** 王安石が皇帝仁宗に万言書「仁宗皇帝に上 (たてまつ) るの書」で政治改革を表明。 * [[1059年]] ** 教皇[[ニコラウス2世]]により教皇選挙([[コンクラーベ]])は[[枢機卿]]団によってのみ行われることが定められる。 ** 教皇ニコラウス2世らのメルフィ会議により[[ロベルト・イル・グイスカルド]]のアプリア・カラブリア・シチリア公位が認められる。 === 1060年代 === {{main|1060年代}} * [[1060年]]頃 - 現存最古の[[神社建築]]である[[宇治上神社]]が建立される。 * [[1061年]] ** [[ノルマン人による南イタリア征服|ノルマン人によるシチリア島征服]]が始まる( - 1091年)。 ** イギリスの貴婦人リシュエルディス・デ・ファヴェルシュが「{{仮リンク|ウォルシンガムの聖母マリア|en|Our Lady of Walsingham}}」の[[聖母の出現|出現]]を幻視し、この地が巡礼地となる。 * [[1062年]] - ムラービト朝の君主{{仮リンク|ユースフ・イブン・ターシュフィーン|en|Yusuf ibn Tashfin}}が即位する。 * [[1063年]] ** 北宋で仁宗が死去し、従兄弟の子が即位し[[英宗 (宋)|英宗]]となり、[[濮議]]が起こる。 ** 北宋の欧陽脩が『集古録』を執筆する。 ** 吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属する。 ** [[源頼義]]が[[鎌倉]]由比郷鶴岡に[[石清水八幡宮]]を勧請する([[鶴岡八幡宮]]の創建)。 * [[1064年]] ** セルジューク朝が東ローマ領となっていたアルメニアを占領。 ** パレルモ沖海戦で、ピサがイスラム軍に勝利する。 *** これを記念してギリシア人ブスケトゥス(Buschetus)の設計による[[ピサ大聖堂]]が着工される。 * [[1065年]]以降 ** [[カタルーニャ]]の{{仮リンク|サンタ・セシリア・デ・グラネラ教会礼拝堂|ca|Santa Cecília de Granera}}が建立される。 * [[1066年]] ** イングランドで[[エドワード懺悔王]](証聖王)が死去、[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]が即位。 ** [[スタンフォード・ブリッジの戦い]]。 *** ノルウェー王ハーラル3世がイングランド王位を請求して、この戦いでハロルド2世に敗北。 ** [[ヘースティングスの戦い]]。 *** [[ノルマンディー]]公ギヨーム2世がハロルド2世を倒し[[イングランド]]制圧、[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]として即位([[ノルマン・コンクエスト]])。 *** ノルマン・コンクエストを描いた「[[バイユーのタペストリー]]」にはこの年に接近した[[ハレー彗星]]も描かれている。 * [[1067年]] ** [[テューリンゲンの君主一覧|チューリンゲン方伯]]が[[ヴァルトブルク城]]を築く。 ** [[ニザーム・アルムルク]]によりバグダードに[[ニザーミーヤ学院]]が創設される。 * [[1068年]] ** 後冷泉天皇が崩御し、[[後三条天皇]]が即位。 ** [[アリタ川の戦い (1068年)|アリタ川の戦い]]で[[ポロヴェツ]]人がキエフ大公・チェルニゴフ公・ペレヤスラヴリ公に勝利する。 * [[1069年]] ** [[北宋]]で[[王安石]]の改革が始まり、[[制置三司条例司|制置三司條例司]]が設置される。 *** この改革で「熙寧新法」と呼ばれる[[青苗法]](1069年)・[[市易法]](1072年)・[[募役法]](1070年)・その他が施行される。 ** 後三条天皇が[[延久の荘園整理令]]を発布し、[[記録荘園券契所]]を設置。 ** 秦致貞による最古の「[[聖徳太子絵伝]](旧[[法隆寺]]東院絵殿障子絵・現[[東京国立博物館]]法隆寺館蔵)」が描かれる。 * [[1069年]]頃 ** [[ユースフ・ハーッス・ハージブ]]による最初期の[[テュルク語]]文学『[[クタドゥグ・ビリグ]]』が書かれる。 === 1070年代 === {{main|1070年代}} * [[1070年]] ** [[東チャールキヤ朝|東チャールキヤ王]]クロトゥンガがクロトゥンガ・チョーラ1世として即位、東チャールキヤ朝が[[チョーラ朝]]を継ぐ形で合併される。 ** スリランカで国王[[ウィジャヤバーフ1世]]がチョーラ朝勢力を追放する。 ** [[ノルウェー]]国王オーラヴ3世ヒッレが交易都市[[ベルゲン]]を建設する。 ** 北宋の[[周敦頤]]が『[[太極図説]]』を撰述する。 ** [[延久蝦夷合戦]]。 * [[1071年]] ** [[マンツィケルトの戦い]]。 *** 東ローマ皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス|ロマノス4世]]が[[セルジューク朝]][[スルタン]]の[[アルプ・アルスラーン]]に大敗し捕虜となる。 *** ロマノス4世の廃位により東ローマ皇帝[[ミカエル7世ドゥーカス]]が即位。またこれ以後[[小アジア]]に[[トルコ人]]が定住し始める。 ** 東ローマ帝国のイタリア最後の拠点[[バーリ]]がノルマン人に征服される。 ** ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーンが新都[[マラケシュ]]を建設する。 * [[1073年]] ** 後三条天皇が崩御し、[[白河天皇]]が即位。 ** 教皇[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が選出され、[[グレゴリウス改革]]が始まる。 ** セルジューク朝の[[マリク・シャー]]の招聘により[[ウマル・ハイヤーム]]が[[メルブ]]の天文台所長となる。 ** 東ローマ皇帝[[ミカエル7世ドゥーカス|ミカエル7世]]のもとで宦官{{仮リンク|ニケフォリツィス|en|Nikephoritzes}}が政府首班になる。 *** 穀物販売業を国営化したことで物価上昇し、[[ソリドゥス金貨]]の金保有率が大幅に下落する。 * [[1074年]] ** 藤原頼通が死去、[[上東門院|上東門院彰子]]が死去。 ** セルジューク朝のマリク・シャーが都を[[エスファハーン]]に定める。 ** 北宋で銅銭([[宋銭]])の輸出を解禁する。 * [[1075年]] ** 教皇グレゴリウス7世による「{{仮リンク|ディクタトゥス・パパエ|en|Dictatus papae}}(教皇令27ヶ条)」が布告される。 ** ミラノの大火で聖堂が焼失し、その混乱に乗じて{{仮リンク|パタリア運動|en|Pataria}}の指導者{{仮リンク|エルレンバルドゥス|en|Erlembald}}が暗殺される。 ** [[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]][[元首]]ドメニコ・セルヴォと東ローマ帝国皇女[[テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナ|テオドラ]]の結婚。 ** 北宋と李朝大越との戦い( - [[1076年]])。 * [[1075年]]頃 ** [[チャド湖]]周辺の首長国を統合した[[フマイ]]が、{{仮リンク|セフワ朝|en|Sayfawa dynasty}}[[カネム・ボルヌ帝国]]を建国する。 * [[1076年]] ** [[白河天皇]]が[[法勝寺]]([[六勝寺]]の最初)を建立する。 ** [[李常傑]]率いる[[李朝]]大越軍が如月江・富良江の戦いで北宋軍を破る。 ** [[アンセルムス]]が『{{仮リンク|モノロギオン|fr|monologion}}』を執筆。 ** セルジューク朝がファーティマ朝からエルサレムを奪う。 ** ムラービト朝が[[ガーナ王国]]を滅ぼす。 * [[1077年]] ** [[カノッサの屈辱]]で、教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の破門を解除。 ** [[ルーム・セルジューク朝]]が成立。 ** [[マフムード・カーシュガリー]]による最初の[[トルコ語]]辞典『トルコ語集成({{仮リンク|ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク|tr|Divânu Lügati't-Türk}})』が作られる ** [[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]が教皇に対抗し「[[ヒスパニア]]皇帝」を名乗る。 *** アルフォンソ6世により[[サンチアゴ・デ・コンポステーラ]]大聖堂建設が始まる( - [[1211年]])。 ** [[ノルマンディー]]の[[バイユー大聖堂]]が奉献される。「[[バイユーのタペストリー]]」が完成する。 * [[1078年]] ** 東ローマ皇帝[[ミカエル7世ドゥーカス|ミカエル7世]]が政変で退位し、[[ニケフォロス3世ボタネイアテス|ニケフォロス3世]]が即位。[[カラブリュエの戦い]]。 ** イングランド王ウィリアム1世がロンドンに要塞を建設する([[ロンドン塔]]の始まり)。 ** ローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を布告する。 ** 堀河天皇の同母姉[[媞子内親王]](郁芳門院)が最初の[[准母|准母立后]](尊称皇后)となる。 * [[1079年]] ** [[蘇軾]]が「湖州謝表」(『東坡[[烏台詩案]]』所収)の筆禍事件で[[黄州]]に追放される。 ** [[高麗王]][[文宗 (高麗王)|文宗]]から日本への[[医師招請事件]]( - 1080年)。 === 1080年代 === {{main|1080年代}} * [[1080年]] ** 北宋の神宗による[[元豊の改革]]。 ** [[ブリクセン]]教会会議で、皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世を廃位し、対立教皇クレメンス3世を擁立。 ** ルーベンにより[[キリキア・アルメニア王国]]が建国される。 ** アラブ系天文学者[[ザルカーリー]]により作られた「{{仮リンク|トレド天文表|en|Toledan Tables}}」はこの年を基軸にしている。 * [[1081年]] ** 北宋に[[拂菻]]国王滅力伊霊改撒の使者が到着する。 *** 滅力伊霊改撒は東ローマ皇帝ミカエル7世かニケフォロス3世を指すと考えられる。 ** 東ローマ皇帝ニケフォロス3世が反乱により退位させられ、[[アレクシオス1世コムネノス]]が即位。 *** [[コムネノス王朝|コムネノス朝]]が始まり、軍事貴族の土地所有権・徴税権を大幅に認める[[プロノイア制]]が拡がる。 ** 延暦寺の僧徒が園城寺を襲い焼き打ちにする([[永保]]元年の焼き討ち)。 * [[1082年]] ** 東ローマ皇帝アレクシオス1世が[[金印勅書]]で[[ヴェネツィア]]への免税特権を認める。 ** 東ローマ帝国の哲学者ヨハネス・イタロスが異端として糾弾される。 ** 戒覚が北宋に渡り皇帝神宗から紫衣を賜与される。 ** 蘇軾が「[[行書黄州寒食詩巻]]」や「[[赤壁賦|前赤壁賦]]」「[[赤壁賦|後赤壁賦]]」を書き上げる。 * [[1083年]] - [[後三年の役]]( - [[1087年]])。 * [[1084年]] ** 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマを制圧し、擁立した対立教皇クレメンス3世から改めて帝冠を受ける。 *** [[ロベルト・イル・グイスカルド]]の{{仮リンク|ローマ略奪 (1084年)|en|Sack of Rome (1084)|label=ローマ略奪}}。 **** 皇帝ハインリヒ4世に幽閉されていた教皇グレゴリウス7世がロベルト・イル・グイスカルドに救出される。 **** グレゴリウス7世は南イタリアの[[サレルノ]]に亡命。翌1085年にその地で客死。 ** [[ケルンのブルーノ]]が[[グランド・シャルトリューズ]]を設立([[カルトジオ会]]の創設)。 ** 司馬光が『[[資治通鑑]]』を完成させる([[1065年]] - )。 * [[1085年]] ** [[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]による[[トレド]]征服。 ** [[プシェミスル家]]の[[ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王)|ヴラチスラフ2世]]が初代の[[ボヘミア]]王に選ばれる。 ** イングランド王ウィリアム1世により「[[ドゥームズデイ・ブック]]」が作成される。 ** 北宋で神宗の死去により哲宗即位。宣仁太后が摂政となり旧法党が復権(元祐更化 - 1093年)。 * [[1086年]] ** 北宋で王安石・司馬光が相次いで死去。 ** [[白河天皇]]が第73代[[堀河天皇]]に譲位し、上皇として[[院政]]を開始し[[鳥羽離宮]]を造営。 ** ウィリアム1世が「ソールズベリーの宣誓」を行う。 ** [[サグラハスの戦い]]でムラービト軍がカスティーリャ王アルフォンソ6世を破る。 ** セルジューク朝の君主マリク・シャーと宰相ニザーム・アルムルクにより[[エスファハーンのジャーメ・モスク]]南ドームが着工される。 * [[1087年]] ** [[ジェノヴァ]]と[[ピサ]]の艦隊が[[ズィール朝]]の都[[マフディーヤ]]を占領する。 ** ウィリアム1世が死去し、[[ウィリアム2世 (イングランド王)|ウィリアム2世]]がイングランド王に即位。 ** 北宋で[[西安碑林博物館|西安碑林]]が創建される。 * [[1088年]] ** [[クリュニーのユーグ|第6代修道院長ユーグ]]により{{仮リンク|クリュニー第三聖堂|en|Cluny III}}の建設が始まる( - [[1130年]])。 ** 北宋の[[沈括]]が随筆『[[夢渓筆談]]』を書き始める( - [[1095年]])。 * [[1088年]]頃 - [[ボローニャ大学]]が創建される。 === 1090年代 === {{main|1090年代}} * [[1090年]] ** [[ニザール派]]指導者の[[ハサン・サッバーフ]]が[[アラムート]]要塞を占領する。 ** カスティーリャ王アルフォンソ6世の娘婿ラモン・デ・ボルゴーニャにより[[アビラ]]の城壁が建設される。 ** 白河上皇の最初の[[熊野詣|熊野御幸]]、[[聖護院]]の僧[[増誉]]を[[熊野三山検校]]に任ずる。 * [[1090年]]頃 - [[ヴェネツィア]]の[[サン・マルコ大聖堂]]が完成する([[1063年]] - )。 * [[1091年]] - [[マリツァ川]]流域の{{仮リンク|レブニオンの戦い|en|Battle of Levounion}}。 ** 東ローマ皇帝アレクシオス1世が支援した[[ポロヴェツ]]族に[[ペチェネグ]]族が敗北し、部族集団が壊滅。 * [[1092年]] - セルジューク朝宰相ニザーム・アルムルクが暗殺される。セルジューク朝君主のマリク・シャーが病没。 * [[1093年]] ** 北宋で宣仁太后の死去により哲宗の親政が始まり、新法党が復権({{仮リンク|紹聖の紹述|zh|绍圣绍述}} - 1100年)。 ** {{仮リンク|マリア・ラーハのベネディクト会修道院|en|Maria Laach Abbey}}が創設される。 * [[1094年]] ** ファーティマ朝カリフのムスタンスィルの死去により、ムスタアリーがカリフとなり兄弟のニザールは廃嫡される。 ** [[エル・シッド]]が[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]をイスラム教徒から奪回する。 ** [[出羽国]]にて平師妙・師季父子が反乱を起こす。 ** [[大宰権帥]][[藤原伊房]]が職権を利用して遼と私貿易を行ったことにより解任される。 * [[1095年]] ** ローマ教皇[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]による[[クレルモン教会会議]]。 *** セルジューク朝の攻撃を受けていた東ローマ皇帝アレクシオス1世の救援要請を受け、対イスラム教徒戦への参加を呼びかける。 ** [[ニザーミーヤ学院]]教授[[ガザーリー]]が回心し辞職、『哲学者の自己矛盾』を執筆。 * [[1096年]] ** [[第1回十字軍]]出発。 ** [[民衆十字軍]]が[[キボトシュの戦い]](ドラコンの戦い)で壊滅する。 ** ドイツ・[[ラインラント]]各地で[[反ユダヤ主義|ユダヤ人虐殺]]が発生。 *** 逃亡したユダヤ人の多くは[[ポーランド]]公[[ヴワディスワフ1世ヘルマン]]のもとで庇護される。 ** [[掖庭の獄]]。 ** [[永長の大田楽]]。[[永長地震]]。 * [[1097年]] ** 北宋で[[洛獄]]・[[同文館の獄]]が相次いで起こる。 ** [[ニカイア攻囲戦]]、[[ドリュラエウムの戦い]]。[[ルーム・セルジューク朝]]が[[ニカイア]]から[[コンヤ]]へ都を遷す。 * [[1098年]] ** [[ノルウェー]]王マグヌス3世(裸足王)が[[オークニー諸島]]・[[マン島]]・[[ヘブリディーズ諸島]]を占領しスコットランドを屈服させる。 ** [[モレームのロベール]]がシトー修道院を設立([[シトー会]]の創設)。 ** 十字軍のアンティオキア占領。これに乗じてファーティマ朝がセルジューク朝からエルサレム奪還。 * [[1099年]] ** [[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦]]で十字軍がファーティマ朝に勝利し占領。[[エルサレム王国]]成立。 *** この時期までに[[アンティオキア公国]]・[[トリポリ伯国]]・[[エデッサ伯国]]など[[十字軍国家]]が成立する。 ** 白河天皇の皇子で[[仁和寺]]の[[覚行法親王|覚行]]が[[親王宣下]]を受け、最初の[[法親王]]となる。 === 1100年代 === {{main|1100年代}} * [[1100年]] **北宋で哲宗の死去により徽宗即位。[[欽聖皇后|欽聖太后]]が摂政となり新法・旧法両党から登用し融和を促す( - 1101年)。 ** [[イングランド王国]]、[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]が国王に即位( - [[1135年]]) == 架空のできごと == * 11世紀 - [[ニーシャプール]]のイマーム・ムワッファクの許で、同時期に三人の優れた学生が学んでいた。そのうちの一人は、後に[[セルジューク朝]]の[[ワズィール]](宰相)となった[[ニザームルムルク]]であり、一人は[[暗殺教団]]([[ニザール派]])の指導者となった[[ハサン・サッバーフ]]であり、もう一人は科学者であり著名な詩人となった[[ウマル・ハイヤーム]]である(イランの伝説)。 * 11世紀前半 - イングランドのマーシア伯レオフリックの夫人ゴダイヴァは、夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を馬に乗ったまま裸で行進し、それを見事果して夫に重税を取り除かせた(ロジャー・オブ・ウェンドーヴァーの年代記、『歴史の花』の挿話)。 * 1000年頃 - ノルマンディー公夫人は、長らく神に子供が授かるよう祈り続けたが効果がなく、絶望のあまりそれを悪魔に願ったところすぐさま聞き入れられ、生まれた子はロベール(仏語でロベール、英語でロバート)と名付けられた。しかしそれが呪われた悪夢の日々の始まりであった(元の話は中世の「[[悪魔ロバート]]」伝説。1769年までには『ノルマンディーの無怖公リシャールとその子、悪魔ロベール史話)』にまとめられ、悪魔公と呼ばれた[[ノルマンディー公]][[ロベール1世 (ノルマンディー公)|ロベール1世]]の事績と結び付けられた。やがて[[ジャコモ・マイアベーア]]によるオペラ「[[悪魔のロベール]]」などへ発展する)。 * 1003年以降 - 日本人僧[[寂照]]が仏道修行のため渡宋し[[清涼山]]に赴くが、麓に長い石橋があって人づてに聞くと容易に渡れるものではないという。しばし待つと牡丹の花咲き乱れる中から獅子が登場し、舞を舞いながら[[文殊菩薩]]の霊験を示していく(能「[[石橋 (能)|石橋]]」)。 * 1019年頃以降 - [[石山寺]]参詣の道行きで、安居院法印はさる女性から[[紫式部]]の霊の供養を依頼される。石山寺で『[[源氏物語]]』を書いた罪障浄化のため法印が供養を行うと、紫式部の霊が出現し感謝を述べ舞を舞う(能「[[源氏供養]]」)。 * 1021年以降 - イングランド生まれのロブ・コールが医師になる志を持ち、当時最高の医学を求め[[エスファハーン]]の[[イブン・スィーナー]]のもとへと旅立つ(ノア・ゴードン『ペルシアの彼方へ 千年医師物語』)。 * 1025年 - 洛北[[紫野]]の[[雲林院]]菩提講にて190歳の大宅世継と180歳の夏山繁樹がそこに集まった聴衆に向けて昔語りをする(『[[大鏡]]』)。 * 1026年 - 宋の仁宗の治世のこの年、都の[[開封]]へ科挙の試験を受けに来た趙行徳であったが、偶々出会った西夏人の女性の逞しさに魅了され、図らずも試験を放擲し西夏に向かう。西夏の部隊に生け捕りにされ、外人部隊へと編入されるなど辛酸を舐めるが、やがてその学識と胆力を買われ部隊長に重用されていく([[井上靖]]『[[敦煌 (小説)|敦煌]]』)。 * 1040年 - スコットランドの将軍[[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]が{{仮リンク|三人の魔女|en|Three Witches}}たちから「王になる」との予言を受け、国王[[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]を殺害する([[シェークスピア]]『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』)。 * 1057年以降 - [[前九年の役]]で[[安倍頼時]]が倒されると、二人の息子[[安倍貞任|貞任]]・[[安倍宗任|宗任]]が一族の再起をかけて奮戦する。彼らの母岩手はその資金を募るためとは言え非道な殺人や強盗を繰り返していた。しかしある時殺害した女性が自分の娘である恋絹だと判明すると絶望のあまり谷底に身を投じて絶命する([[近松半二]]の[[人形浄瑠璃]]『奥州安達原』の四段「一つ家」ほか「[[黒塚]]伝説」)。 * [[1058年]] - 洪大尉、[[伏魔殿]]を開き、百八の魔星を解き放つ(『[[水滸伝]]』) * 1075年 - 1094年 - 陸奥国掾岩城正氏の子である厨子王が関白[[藤原師実]]の知己を得て[[丹後国|丹後]]の国司に赴任し、かつて厨子王とその姉安寿に虐待を加えた[[山椒大夫]]に復讐を果たす([[説教節]]「山椒大夫」/[[森鷗外]]『山椒大夫』)。 * [[1084年]]以降 - [[園城寺]](三井寺)の[[戒壇]]設立を[[延暦寺]]衆徒に妨害されてきた[[頼豪]][[阿闍梨]]が、死後に怨念のあまりネズミとなって延暦寺の経文や代々の重宝を食い散らかし復讐を果たす(『平家物語』『太平記』)。 * [[1099年]] - [[シオン修道会]]は、この年に設立されたヨーロッパの秘密結社である。1975年にパリ国立図書館で『秘密文書』として知られる資料が発見されるまで、シオン修道会の会員に多くの歴史的偉人が含まれていたことは知られていなかった([[ダン・ブラウン]]『[[ダ・ヴィンチ・コード]]』)。 == 人物 == === キリスト教世界 === ==== 神聖ローマ帝国 ==== * [[ノートカー]]([[950年]] - [[1022年]]) - [[ザンクト・ガレン修道院]]付属学校の教師・古典ラテン文学を[[古高ドイツ語]]に翻訳しドイツ語正書法を確立 * {{仮リンク|ベルンヴァルト|en|Bernward of Hildesheim}}([[960年]] - [[1022年]]) - [[ヒルデスハイム]]司教・聖マリア大聖堂と聖ミカエル教会を造営・「聖ベルンヴァルトの青銅扉」でも有名 * [[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]](黒王)([[1017年]] - [[1056年]]) - ローマ王(ドイツ王)で神聖ローマ皇帝(在位[[1039年]] - [[1056年]])・スートリ教会会議で三教皇を罷免 * [[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]([[1050年]] - [[1106年]]) - ローマ王で神聖ローマ皇帝(在位[[1056年]] - [[1105年]])・[[カノッサの屈辱]]で教皇グレゴリウス7世に敗北 * [[ヘルマヌス・コントラクトゥス]]([[1013年]] - [[1054年]]) - 音楽理論家・作曲家・天文学者・歴史家・肢体不自由だったがライヒェナウ修道院で活躍 * {{仮リンク|ヒルザウのヴィルヘルム|de|Wilhelm von Hirsau}}([[1030年]]頃 - [[1091年]]) - ベネディクト会系修道院長・ドイツにおける[[修道院改革]]の中心人物 * [[ブレーメンのアダム]](11世紀後半) - 年代記作者・[[ブレーメン]]大聖堂付属神学校校長・北欧諸国への宣教を記録した『ブレーメン教会史』が有名 ==== イタリア ==== * [[ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス9世]]([[1012年]]頃 - [[1055年]]以降) - ローマ教皇(在位[[1032年]] - [[1048年]]まで断続的)・教皇位に三度就任したことで有名 * [[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]([[1002年]] - [[1054年]]) - ローマ教皇(在位[[1049年]] - [[1054年]])・フンベルトゥスを東ローマ帝国に特使として派遣 * [[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]([[1020年]] - [[1085年]]) - ローマ教皇(在位[[1073年]] - [[1085年]])・グレゴリウス改革を推進し[[カノッサの屈辱]]に勝利 * [[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]([[1035年]] - [[1099年]]) - ローマ教皇(在位[[1088年]] - [[1099年]])・[[クレルモン教会会議]]で[[十字軍]]を勧請する * {{仮リンク|モワイヤンムーティエのフンベルトゥス|en|Humbert of Silva Candida}}([[1000年]]頃 - [[1061年]]) - 枢機卿・ベネディクト会士・教皇特使として東ローマ帝国に派遣されて相互破門事件を起こす * [[ペトルス・ダミアニ]]([[1007年]] - [[1072年]]) - 枢機卿・ベネディクト会士・グレゴリウス改革の中心人物・著作に『ゴモラの書』『秘蹟論』がある * {{仮リンク|ロムアルドゥス|en|Romuald}}([[952年]] - [[1027年]]) - 修道士・カゼンティーノの森に隠修士の庵「サクロ・エーレモ」を結び{{仮リンク|カマルドリ修道会|en|Camaldolese}}を創設 * [[グイード・ダレッツォ]]([[991年]]/[[992年]] - [[1050年]]) - 修道士・音楽教師・現在につながる[[楽譜]][[記譜法]]を発明する * [[ロベルト・イル・グイスカルド]]([[1015年]] - [[1085年]]) - ノルマン人傭兵で後に中世[[シチリア王国]]を建てる[[オートヴィル家]]の首領 * [[コンスタンティヌス・アフリカヌス]]([[1017年]] - [[1087年]]) - 北アフリカ出身の修道士・アラビア医学を翻訳紹介し[[サレルノ大学]]を基礎づける * [[マティルデ・ディ・カノッサ]]([[1046年]]? - [[1115年]]) - トスカーナ女伯・叙任権闘争では教皇派・「カノッサの屈辱」のカノッサ城の所有者 ==== フランス ==== * [[アダルベロン (ラン司教)|アダルベロン]]([[947年]] - [[1030年]]) - [[ラン (フランス)|ラン]]司教・「[[ロベール2世 (フランス王)|ロベール王]]に捧げる歌」で中世社会の「祈る人」「戦う人」「働く人」の三身分を定式化 * {{仮リンク|ラウル・グラベール|fr|Raoul Glaber}}([[985年]] - [[1047年]]) - [[ブルゴーニュ]]地方の修道士・年代記作者・著作『歴史』では紀元千年の社会が活写されている * [[モレームのロベール]]([[1029年]]頃 - [[1111年]]) - [[シャンパーニュ]]地方出身の修道士・[[アルベリック]]や[[ステファン・ハーディング]]らと[[シトー会]]を設立 * [[ケルンのブルーノ]]([[1030年]]頃 - [[1101年]]) - ドイツ出身の修道士・[[ランス大聖堂]]付属学校校長・[[カルトジオ会]]の創設者・教皇ウルバヌス2世の助言者 * [[ラシ (学者)|トロワのラシ]]([[1040年]] - [[1105年]]) - ユダヤ人の[[ラビ]]・[[シャンパーニュ伯]]に庇護され十字軍により壊滅したユダヤ人の学問研究を再建する * [[コンピエーニュのロスケリヌス]]([[1050年]]頃 - [[1125年]]頃) - フランスの哲学者・神学者・[[唯名論]]の創始者とされ弟子[[アベラルドゥス]]にも影響 ==== イングランド ==== * [[ゴダイヴァ夫人]]([[990年]]頃 - [[1067年]]) - イングランドの貴族女性・夫[[マーシア]]伯による[[コヴェントリー]]への圧政に抵抗した挿話で有名 * [[クヌート1世 (イングランド王)|クヌート]](クヌーズ2世)([[995年]] - [[1035年]]) - [[イングランド]]王・[[デンマーク]]王・[[ノルウェー]]王を兼ねた[[北海帝国]]の君主 * [[エドワード懺悔王]](証聖王)([[1004年]]頃 - [[1066年]]) - イングランドのアングロ・サクソン系国王(在位[[1042年]] - [[1066年]]) * [[カンタベリーのランフランクス|ランフランクス]]([[1005年]]頃 - [[1089年]]) - [[カンタベリー大司教]]・ベック修道院付属学校校長・ウィリアム1世の統治にも協力する * [[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]]([[1022年]] - [[1066年]]) - イングランド最後のアングロ・サクソン系国王(在位[[1066年]])・[[ヘイスティングズの戦い]]で敗死 * [[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]](征服王)([[1027年]] - [[1087年]]) - [[ノルマンディー公]]・イングランド王(在位[[1035年]] - [[1087年]])・[[ノルマン朝]]の祖 * [[アンセルムス]]([[1033年]] - [[1109年]]) - [[カンタベリー大司教]]・神学者・哲学者であり「[[スコラ学]]の父」・著作に『モノロギオン』がある ==== スコットランド ==== * [[ダンカン1世 (スコットランド王)|ダンカン1世]]([[1001年]] - [[1040年]]) - スコットランド王(在位[[1031年]] - [[1040年]])・王国の領土を拡大するがマクベスに殺害される * [[マクベス (スコットランド王)|マクベス]]([[1005年]] - [[1057年]]) - スコットランド王(在位[[1040年]] - [[1057年]])・ダンカン1世を殺害・シェークスピアの悲劇で有名 ==== 北欧 ==== * [[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ]](? - [[1022年]]?) - スウェーデン王(在位[[994年]]? - [[1022年]]?)・キリスト教(カトリック教会)を受容 * [[オーラヴ2世 (ノルウェー王)|オーラヴ2世]]([[995年]] - [[1030年]]) - ノルウェー王(在位[[1015年]] - [[1028年]])・キリスト教化を進め[[聖人]](聖王)となる * [[ハーラル3世]](苛烈王)([[1015年]] - [[1066年]]) - ノルウェー王(在位[[1046年]] - [[1066年]])・[[スタンフォード・ブリッジの戦い]]で敗死する ==== 東ローマ帝国 ==== * [[バシレイオス2世|バシレイオス2世ブルガロクトノス]]([[958年]] - [[1025年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝最盛期の皇帝(在位[[976年]] - [[1025年]]) * [[ゾエ (東ローマ女帝)|ゾエ]]([[978年]]頃 - [[1050年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝の女帝(在位[[1042年]])・三代の皇帝の皇后ともなる([[1028年]] - [[1050年]]) * [[テオドラ (東ローマ女帝)|テオドラ]]([[995年]] - [[1056年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝の女帝(在位[[1042年]]、[[1055年]] - [[1056年]])・ゾエと一時共同統治 * [[コンスタンティノス9世モノマコス]]([[1000年]] - [[1055年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝の皇帝(在位[[1042年]] - [[1055年]])・ゾエの三人目の夫 * [[ロマノス4世ディオゲネス]](? - [[1072年]]) - 東ローマ帝国ドゥーカス朝の皇帝(在位[[1068年]] - [[1071年]])・マンツィケルトの戦いで敗北 * [[アレクシオス1世コムネノス|アレクシオス1世]]([[1048年]] - [[1118年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[1081年]] - [[1118年]])・[[コムネノス]]朝の祖・十字軍対策に苦慮しつつ帝国を再建 * [[新神学者シメオン]]([[949年]] - [[1022年]]) - 聖ママス修道院長・神学者・二度の追放を受けながら復権・『神の愛への讃歌』ほかの著作がある * [[ミハイル1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ミカエル1世ケルラリオス]] ([[1000年]]頃 - [[1059年]]) - [[コンスタンティノポリス総主教]](在位[[1043年]] - [[1059年]])・教皇特使と対立し相互破門事件起こす * {{仮リンク|ニケタス・ステタトス|en|Niketas Stethatos}}([[1005年]]頃 - [[1090年]]頃) - ストゥスディオス修道院長・『聖シメオン伝』を執筆・反ラテン派の代表でもあった * [[ミカエル・プセルロス]]([[1018年]]頃 - [[1078年]]頃) - 東ローマ帝国マケドニア朝の政治家・哲学者・歴史家として『年代記』を記録 * [[ヨハネス・スキュリツェス]]([[1040年]]代初頭 - [[1101年]]以降) - 東ローマ帝国の歴史家・その著作『歴史概観』はマドリード挿絵写本で知られる * {{仮リンク|ヨハネス・イタロス|en|John Italus}}([[1050年]]? - [[1112年]]) - 東ローマ帝国の哲学者・プセルロスの弟子・過度に哲学に傾斜したことで異端として糾弾される ==== 東欧 ==== * [[サムイル (ブルガリア皇帝)|サムイル]]([[958年]] - [[1014年]]) - 第一次ブルガリア帝国の皇帝(在位[[997年]] - [[1014年]])・クリディオン峠の戦いで東ローマ軍に敗北 * [[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]](勇敢王)([[966年]]/[[967年]] - [[1025年]]) - [[ピャスト朝]]のポーランド国王(在位[[992年]] - [[1025年]])・[[ベーメン]]や[[マイセン]]に領土拡大 * [[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]([[975年]] - [[1038年]]) - [[ハンガリー]]の建国者(在位[[997年]] - [[1038年]])・ハンガリーのキリスト教化を進める * [[ヤロスラフ1世]](賢公)([[978年]]頃 - [[1054年]]) - [[キエフ大公]](在位[[1016年]] - [[1054年]])・『[[ルースカヤ・プラウダ (キエフ大公国)|ルースカヤ・プラウダ]]』(ルーシ法典)を整備 * {{仮リンク|キエフのアントニー|en|Anthony of Kiev}}([[983年]] - [[1073年]]) - [[キエフ・ペチェールシク大修道院|キエフ洞窟(ペチェルスキー)修道院]]の創設者・フェオドシーとともにロシア修道制を確立 * [[シュチェパヌフのスタニスラウス]]([[1030年]] - [[1079年]]) - [[クラクフ]]司教・ポーランド国王[[ボレスワフ2世 (ポーランド王)|ボレスワフ2世]]の戴冠を行うが後に反目して殺害される ==== 十字軍国家 ==== * [[隠者ピエール]](? - [[1115年]]) - フランス出身の聖職者・十字軍本隊に先立ち[[民衆十字軍]]を率いてエルサレムを目指すが失敗する * [[アデマール・ド・モンテイユ]](? - [[1098年]]) - フランスの[[ル・ピュイ=アン=ヴレ|ル・ピュイ]]司教・教皇特使として第1回十字軍の精神的指導者となる * {{仮リンク|シャルトルのフーシェ|en|Fulcher of Chartres}}([[1058年]]頃 - [[1127年]]) - フランス出身の聖職者・第1回十字軍に参加し『十字軍史』を執筆 * [[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]([[1060年]]頃 - [[1100年]]) - 第1回十字軍の指導者の一人で[[エルサレム]]の初代聖墓守護者 * {{仮リンク|ピサのダゴベルト|en|Dagobert of Pisa}}(? - [[1105年]]) - [[ピサ]]大司教・ピサ艦隊を率い第1回十字軍を支援・のちにラテン系エルサレム総大司教となる ==== イベリア半島 ==== * [[サンチョ3世 (ナバラ王)|サンチョ3世ガルセス]](大王)([[10世紀]] - [[1035年]]) - [[ナバラ王国|ナバラ国王]](在位[[1004年]] - [[1035年]])・婚姻政策でイベリア半島北部の諸国の祖となる * [[アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ6世]]([[1040年]]以前 - [[1109年]]) - [[レオン王国|レオン国王]](在位[[1065年]] - [[1109年]])・[[カスティーリャ王国|カスティーリャ国王]](在位[[1072年]] - [[1109年]]) * [[エル・シッド]](ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール)([[1045年]]? - [[1099年]]) - [[レコンキスタ]]で活躍したカスティーリャの騎士 === イスラム世界 === * [[フェルドウスィー]]([[934年]] - [[1025年]]) - [[サーマーン朝]]・[[ガズナ朝]]時代に活躍した[[ペルシャ語]]詩人・『[[シャー・ナーメ]]』を書く * [[アブー・アル=カースィム・アッ=ザフラウィー|アブー・アル・カースィム・アッ・ザフラウィー]]([[936年]] - [[1013年]]) - [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]の医師・医学百科事典『解剖の書』を執筆・外科用器具も考案 * [[サアーリビー]]([[960年]] - [[1038年]]) - [[ニーシャープール]]出身の文献学者・詩人たちの業績を『ヤティーマ・アッ・ダフル』『心の果実』にまとめる * [[イブン・アル=ハイサム|イブン・アル・ハイサム]]([[965年]] - [[1040年]]) - [[バスラ]]出身の数学者・天文学者・物理学者・『光学の書』を著し「[[光学]]の父」と呼ばれる * [[アル・ハマザーニー]]([[969年]] - [[1007年]]) - [[ハマダーン]]出身の詩人・著作家・[[マカーマ]](語り物)の創始者・「時代の驚異」と呼ばれる * [[マフムード (ガズナ朝)|マフムード]]([[971年]] - [[1030年]]) - [[ガズナ朝]]の[[スルタン]](在位[[997年]] - [[1030年]])・インド遠征でプラティハーラ朝を滅ぼす * [[アブー・ライハーン・アル・ビールーニー|アル・ビールーニー]]([[973年]] - [[1048年]]) - [[ホラズム]]出身の著述家・天文書『マスウード宝典』や地理書『インド誌』など多方面で活躍 * アル・マーワルディー([[978年]] - [[1058年]]) - シャーフィイー法学派の法学者・アッバース朝カリフに仕え『統治の諸規則』をまとめた * [[イブン・スィーナー]]([[980年]] - [[1037年]]) - [[ブハラ]]出身の学者・[[哲学者]]としては『治癒の書』、[[医師]]としては『医学典範』がある * カーブース・ブン・ワシュムギール(? - [[1012年]]) - [[ズィヤール朝]]の君主(在位[[978年]] - [[1012年]])・[[ゴンバデ・カーブース]]を建設・詩人である * [[ハーキム]]([[985年]] - [[1021年]]) - [[ファーティマ朝]]第6代カリフ(在位[[996年]] - [[1021年]])・残酷さと奇矯さで有名・[[ドゥルーズ派]]では救世主 * シットゥ・アル・ムルク([[970年]] - [[1023年]]) - ファーティマ朝第7代カリフのザーヒルの摂政・失踪したハーキムの姉で前政権の施策を転換 * [[トゥグリル・ベク]]([[993年]] - [[1063年]]) - セルジューク朝初代[[スルタン]](在位[[1038年]] - [[1063年]])・[[ニーシャプール]]を都とする * [[イブン・ハズム]]([[994年]] - [[1064年]]) - 後ウマイヤ朝時代の法学者・文学者・『諸宗派に関する書』『[[鳩の頸飾り]]』などの著作がある * イブン・ブトラーン([[1001年]]頃 - [[1066年]]) - バグダードで活躍した[[ネストリウス派]]キリスト教徒の医師・『[[健康全書]]』に影響を与える * [[イブン・ザイドゥーン]]([[1003年]] - [[1071年]]) - 後ウマイヤ朝の政治家・詩人としてザジャル形式をまとめる・王女[[ワッラーダ]]との相聞歌も有名 * [[ナースィル・ホスロー]]([[1003年]] - [[1061年]]) - ペルシアの詩人・神学者・詩集『ディーワーン』や旅行記『{{仮リンク|サファル・ナーメ|en|Safarnama}}』がある * [[マフムード・カーシュガリー]]([[1005年]]? - [[1102年]]?) - カラハン朝の王族・アッバース朝に逃れ『テュルク語辞典』をカリフに献呈する * アブー・バクル・イブン・ウマル(? - [[1087年]]) - ムラービト朝第4代[[アミール]](在位[[1056年]] - [[1087年]])・[[ガーナ王国]]征服 * ユースフ・イブン・ターシュフィーン([[1009年]]? - [[1106年]]) - ムラービト朝第5代アミール(在位[[1061年]] - [[1106年]])・[[イベリア半島]]制圧 * [[ニザーム・アル・ムルク]]([[1017年]] - [[1092年]]) - セルジューク朝全盛期の宰相・マリク・シャーを補佐し[[ニザーミーヤ学院]]を創設 * [[ユースフ・ハーッス・ハージブ]]([[1018年]]/[[1019年]]頃 - [[1092年]]) - カラハン朝の大侍従・『クタドゥグ・ビリグ(幸福に関する知恵)』を著す * {{仮リンク|カイ・カーウース|en|Kay Kāvus}}([[1021年]] - [[1082年]]) - [[ズィヤール朝]]の君主・息子ギーラーン・シャーへの教訓書『カーブースの書』を書き残す * [[ソロモン・イブン・ガビーロール]]([[1021年]]/[[1022年]]頃 - [[1058年]]/[[1070年]]頃) - スペインのユダヤ教徒の哲学者・主著は『生命の源』 * [[アルプ・アルスラーン]]([[1029年]] - [[1072年]]) - セルジューク朝第2代スルタン(在位[[1064年]] - [[1072年]])・[[マンツィケルトの戦い]]で勝利 * [[スライマーン・イブン・クタルミシュ]](? - [[1086年]]) - [[ルーム・セルジューク朝]]の始祖(在位[[1077年]] - [[1086年]])・小アジア各地を占領 * [[ウマル・ハイヤーム]] ([[1048年]]? - [[1131年]]?) - セルジューク朝時代のペルシアの天文学者・『[[ルバイヤート]]』の詩人 * [[マリク・シャー]]([[1055年]] - [[1092年]]) - セルジューク朝第3代スルタン(在位[[1072年]] - [[1092年]])・王朝の全盛期を現出 * [[クルチ・アルスラーン1世]](? - [[1107年]]) - ルーム・セルジューク朝の第2代スルタン(在位[[1092年]] - [[1107年]])・第1回十字軍の急襲に苦慮する * [[ハサン・サッバーフ]](? - [[1124年]]) - [[イスマーイール派]]・[[ニザール派]]開祖でいわゆる[[暗殺教団]]の最初の指導者 === 南アジア・チベット === * ダンガ(? - [[1008年]]頃) - [[インド]]の[[チャンデーラ朝]]の君主(在位[[950年]]頃 - [[1008年]]頃)・[[カジュラーホー]]寺院を建立 * [[ラージェンドラ1世]](? - [[1044年]]) - 南インドの[[チョーラ朝]]の王(在位[[1016年]] - [[1044年]])・マレー半島やスマトラ島を征服 * [[アティーシャ]]([[982年]] - [[1054年]]) - インドの[[ヴィクラマシーラ大学|ヴィクラマシーラ寺院]]の学頭・[[チベット]]に招かれ[[チベット仏教]]中興の祖となる * ドムトゥン([[1005年]] - [[1064年]]) - [[チベット仏教|チベット]]の僧侶・アティーシャをチベットに招聘し弟子になる・カダム派の祖となる * ナローパ([[1016年]] - [[1100年]]) - インドの僧侶・[[ナーランダ僧院]]で活躍・「ナローパの六法」と呼ぶ後期密教は[[カギュ派]]に影響を与える * ドルジェタク(11世紀) - チベットの僧侶・インドのナーランダ僧院で学び仏典のチベット語訳を行う・呪術に長けた異能の人物とされる * [[ソーマデーヴァ]](11世紀) - [[カシミール]]出身の詩人・『[[ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティカー|屍鬼二十五話]]』を含む説話集『カター・サリット・サーガラ』を編纂 * クリシュナ・ミシュラ(11世紀) - [[チャンデーラ朝]]の詩人・[[サンスクリット語]]劇『プラボーダチャンドローダヤ(悟りの月の出)』で知られる * [[ビルハナ]](11世紀) - カシミール出身で[[後期チャールキヤ朝]]の詩人・戯曲『カルナスンダリー』や詩集 『チャウラ・パンチャーシカ』がある * [[ウィジャヤバーフ1世]]([[1039年]] - [[1100年]]) - スリランカの王(在位[[1055年]] - [[1100年]])・チョーラ朝を駆逐し仏教を再建する * ヴィクラマーディティヤ6世(? - [[1126年]]) - 後期チャールキヤ朝の君主(在位[[1076年]] - [[1126年]])・50年の治世で王朝の最盛期をもたらす === 東南アジア === * [[ダルマヴァンシャ王|ダルマヴァンシャ]](? - [[1016年]]) - [[ジャワ]]・[[クディリ朝]]の王(在位[[991年]] - [[1016年]])・領土拡大するが反乱で殺される・アイルランガは娘婿 * [[アイルランガ王|アイルランガ]](? - [[1052年]]?) - ジャワ・クディリ朝の王(在位[[1019年]] - [[1052年]]?)・東部ジャワを統一し王国を再建 * [[アノーヤター]]([[1015年]] - [[1078年]]) - [[パガン朝]]の初代の王(在位[[1044年]] - [[1078年]])・[[モン族]]を押さえ[[ビルマ族]]を統一・[[上座部仏教]]を導入 === 東アジア === ==== 北宋 ==== * [[寇準]]([[961年]] - [[1023年]]) - 北宋の宰相・南遷を拒絶して真宗皇帝の契丹親征を主張し[[澶淵の盟]]にもちこむ * [[王欽若]]([[962年]] - [[1025年]]) - 北宋の宰相・遼の南進に際しては南遷を主張・真宗に[[封禅]]を勧め『[[冊府元亀]]』の編纂も行う * [[林逋]]([[967年]] - [[1028年]]) - 北宋の詩人・西湖中の孤山に隠棲し詩作した・『林和靖先生詩集』がある * [[真宗 (宋)|真宗]]([[968年]] - [[1022年]]) - 北宋の第3代皇帝(在位[[997年]] - [[1022年]])・遼と澶淵の盟を結ぶ・[[泰山]]での[[封禅]]も有名 * 張君房(生没年不詳) - 北宋の道士・真宗皇帝の命で[[道蔵]]「大宋天宮宝蔵」を編纂し後に要約本「[[雲笈七籤]]」を撰述 * 范寛(活躍時期11世紀前半) - 北宋の山水画家・山林に分け入り自然観察を重視・代表作に「谿山行旅図」がある * [[范仲淹]]([[989年]] - [[1052年]]) - 北宋の政治家・仁宗に仕え「君子の朋党」を称す・「龍図老子」と呼ばれ「先憂後楽」の語でも有名 * [[畢昇]](? - [[1052年]]頃) - 北宋の技術者・慶暦年間に膠泥[[活字]]を用いて印刷を行ったとされる * [[欧陽脩]]([[1007年]] - [[1072年]]) - 北宋の政治家・詩人・文学者・歴史学者・[[唐宋八大家]]の一人・『[[新五代史]]』『[[新唐書]]』を編纂 * [[韓琦]]([[1008年]] - [[1072年]]) - 北宋の政治家・仁宗から神宗に仕える・四川の飢饉や西夏の侵攻に対処し王安石の改革には反対 * [[蘇洵]]([[1009年]] - [[1066年]]) - 北宋の文人で唐宋八大家の一人・[[蘇軾]]と[[蘇轍]]兄弟の父・著作に『蘇老泉全集』がある * [[邵雍]]([[1011年]] - [[1077年]]) - 北宋の儒学者・北宋の五子の一人・官途にはつかず市井で活躍・[[易学]]に詳しく「[[先天図]]」を大成 * [[周敦頤]]([[1017年]] - [[1073年]]) - 北宋の儒学者・[[宋学]]の祖とされる・『[[太極図説]]』の著者・北宋の五子の一人 * [[曹国舅]](曹佾)([[1018年]] - [[1089年]]) - 北宋の仙人・八仙の一人・北宋の仁宗皇帝の[[慈聖光献曹皇后|曹皇后]]の弟である縁で「国舅」という * [[曾鞏]]([[1019年]] - [[1083年]]) - 北宋の政治家・散文家・唐宋八大家の一人・著作に『元豊類藁』がある・[[曾布]]は異母弟 * [[司馬光]]([[1019年]] - [[1086年]]) - 北宋の政治家([[旧法党]])・元祐更化で新法を廃止・歴史学者として『[[資治通鑑]]』がある * [[張載]]([[1020年]] - [[1077年]]) - 北宋の儒学者・宋学の「周程張朱」の一人として名を成す・北宋の五子の一人 * [[王安石]]([[1021年]] - [[1086年]]) - 北宋の政治家([[新法党]])・神宗のもとで熙寧新法を実施・唐宋八大家の一人 * [[郭煕]]([[1023年]]頃 - [[1085年]]頃) - 北宋の山水画家・李成と並んで「[[李郭派|李郭]]」と呼ばれる・代表作に「早春図」がある * [[沈括]]([[1030年]] - [[1094年]]) - 北宋の政治家・学者・『[[夢渓筆談]]』は[[中国の科学技術史]]の記録として重要 * 呂恵卿([[1032年]] - [[1111年]]) - 北宋の政治家・司農寺長官として王安石の改革を支えるがのちに反目する * [[宣仁皇后|宣仁太后]]([[1032年]] - [[1093年]]) - 北宋の英宗の皇后(高氏)・神宗の死後に哲宗の[[摂政]]となり旧法党の元祐更化を支持 * [[程顥]]([[1032年]] - [[1085年]]) - 北宋の政治家・儒学者・弟の[[程頤]]とともに「二程子」と称される・北宋の五子の一人 * [[程頤]]([[1033年]] - [[1107年]]) - 北宋の政治家・儒学者・兄の[[程顥]]とともに「二程子」と称される・北宋の五子の一人 * [[章惇]]([[1035年]] - [[1105年]]) - 北宋の政治家・哲宗の親政(紹聖の紹述)とともに新法を復活し旧法党を弾圧する * [[曾布]]([[1036年]] - [[1107年]]) - 北宋の政治家・曾鞏の異母弟・章惇失脚後の新法党の中心となり向太后政権を支える * [[蘇軾]]([[1037年]] - [[1101年]]) - 北宋の政治家・文人として唐宋八大家の一人・書家として[[宋の四大家]]の一人・代表作に「赤壁賦」がある * [[蘇轍]]([[1039年]] - [[1112年]]) - 北宋の政治家・文人として唐宋八大家の一人・蘇軾の弟・『欒城集』ほかの著作がある * [[黄庭堅]]([[1045年]] - [[1105年]]) - 北宋の文学者・書家・画家・書家・宋の四大家の一人・代表作に「[[伏波神祠詩巻]]」がある * [[神宗 (宋)|神宗]]([[1048年]] - [[1085年]]) - 北宋の第6代皇帝(在位[[1067年]] - [[1085年]])・王安石の新法を支持し元豊の改革を推進 * [[欽聖皇后|欽聖太后]]([[1046年]] - [[1101年]]) - 北宋の神宗の皇后(向氏)・哲宗の死後に徽宗の摂政となり新法党と旧法党の融和を図る * [[李公麟]]([[1049年]] - [[1006年]]) - 北宋の画家・進士となり諸官を歴任後に竜眠山に隠棲し竜眠と号す・代表作に「[[五馬図巻]]」がある * [[米芾]]([[1051年]] - [[1107年]]) - 北宋の文学者・書家・画家・収蔵家・宋の四大家の一人・代表作に「蜀素帖」がある ==== 遼 ==== * [[聖宗 (遼)|聖宗]]([[971年]] - [[1031年]]) - [[遼]]の第6代皇帝(在位[[982年]] - [[1031年]])・北宋と澶淵の盟を結ぶ ==== 西夏 ==== * [[李元昊]]([[1003年]] - [[1048年]]) - [[西夏]]の初代皇帝(景宗)(在位[[1032年]] - [[1048年]])・北宋と[[慶暦の和約]]を結ぶ ==== 大越 ==== * [[李公蘊]]([[974年]] - [[1028年]]) - [[李朝 (ベトナム)|李朝]]大越国の初代国王(太祖)(在位[[1010年]] - [[1028年]]) * [[李常傑]]([[1019年]] - [[1105年]]) - 李朝大越国の武将・宦官・太宗から仁宗に仕える・チャンパや北宋と戦いを勝利に導いた名将 === 日本 === * [[赤染衛門]]([[956年]]頃? - [[1041年]]以後) - 一条天皇の中宮[[藤原彰子|彰子]]の[[女房]]・歌人・『[[栄花物語]]』の作者か? * [[藤原実資]]([[957年]] - [[1046年]]) - 公卿・右大臣(賢人右府)・日記『[[小右記]]』はこの時代の重要資料 * [[藤原保昌]]([[958年]] - [[1036年]]) - 武将・摂津守・[[和泉式部]]の夫・『[[今昔物語集]]』などにある盗賊[[袴垂]]との挿話でも知られる * [[寂照]]([[962年]]頃? - [[1034年]]) - 天台宗の僧・円通大師・渡宋してその地で客死・能「[[石橋 (能)|石橋]]」でも知られる * [[藤原道長]]([[966年]] - [[1027年]]) - 公卿・[[摂政]]・[[内覧]]・通称は御堂[[関白]]・[[摂関政治]]の最盛期 * [[藤原公任]]([[966年]] - [[1041年]]) - 公卿・[[四納言|寛弘の四納言]]の一人・『[[和漢朗詠集]]』の選者 * [[平忠常]]([[967年]]?/[[975年]]? - [[1031年]]) - 武将・[[房総平氏]]の祖・[[受領]]との対立から反乱を起こす([[平忠常の乱]]) * [[藤原行成]]([[972年]] - [[1027年]]) - 公卿・寛弘の四納言の一人・書家で「[[三蹟]]」の一人・「白氏詩巻」などが残る * [[紫式部]]([[973年]]? - [[1016年]]) - 一条天皇の中宮彰子の女房・『源氏物語』作者・『[[紫式部日記]]』がある * [[藤原伊周]]([[974年]] - [[1010年]]) - 公卿・[[内大臣]]・[[長徳の変]]を起こす・定子や隆家の同母兄 * [[和泉式部]]([[978年]]頃 - ?) - 一条天皇の中宮彰子の女房・家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』がある * [[藤原隆家]]([[979年]] - [[1044年]]) - 公卿・[[中納言]]・[[大宰権帥]]となり[[刀伊の入寇]]を撃退 * [[定朝]](? - [[1057年]]) - [[仏師]]・[[宇治]]の[[平等院鳳凰堂]][[阿弥陀如来]]像を造る・[[寄木造]]技法の完成者とされる * [[源頼義]]([[988年]] - [[1075年]]) - 武将・[[河内源氏]]棟梁・[[平忠常の乱|長元の乱]]や[[前九年の役]]を平定 * [[能因]]([[988年]] - [[1050年]]/[[1058年]]) - 僧侶・歌人・歌集『能因集』や歌学書『能因歌枕』があり各地を遍歴した[[数寄者]]でもあった * [[藤原明衡]]([[989年]]? - [[1066年]]) - 儒学者・文人・詩文では『[[本朝文粋]]』『本朝秀句』を編修・『[[新猿楽記]]』などもある * [[藤原頼通]]([[992年]] - [[1074年]]) - 公卿・摂政・関白・[[藤原道長]]の長男・[[宇治]]の[[平等院鳳凰堂]]を建立 * [[藤原教通]]([[996年]] - [[1075年]]) - 公卿・関白・藤原道長の五男・兄頼通と対立するも後に[[藤氏長者]]を譲られる・後三条天皇に接近 * [[頼豪]]([[1002年]] - [[1084年]]) - 天台宗の僧・[[阿闍梨]]・白河天皇の帰依を受け[[園城寺]]の[[戒壇|戒壇院]]設立を図るが挫折・怨霊伝説あり * [[源隆国]]([[1004年]] - [[1077年]]) - 公卿・[[大納言]](宇治大納言)・『[[今昔物語集]]』などの編纂に関与? * [[菅原孝標女]]([[1008年]] - [[1059年]]以降?) - 受領の娘・宮中の女房・『[[更級日記]]』の作者・『浜松中納言物語』の作者か? * [[成尋]]([[1011年]] - [[1081年]]) - 天台宗の僧・善慧大師・阿闍梨・渡宋してその地で客死・『[[参天台五台山記]]』を残す・[[成尋阿闍梨母|その母]]も歌人で有名 * [[源経信]]([[1016年]] - [[1097年]]) - 公卿・大納言(桂大納言)・歌人・『[[後拾遺和歌集|後拾遺集]]』を批判した『難後拾遺』ほか日記『[[帥記]]』がある * [[安倍貞任]]([[1019年]]? - [[1062年]]) - 武将・[[陸奥国]][[安倍氏]]の棟梁・[[前九年の役]]を起こす・厨川柵の戦いで敗れて討たれた * [[藤原経清]](? - [[1062年]]) - 豪族・陸奥国亘理郡の在庁官人(亘理権大夫)・藤原清衡の父 * [[増誉]]([[1032年]] - [[1116年]]) - 天台宗の僧・天台座主・白河院の[[熊野]]参詣の先達をつとめ初代[[熊野三山検校]]に任じられる・[[聖護院]]を建立 * [[永観 (僧)|永観]]([[1033年]] - [[1111年]]) - [[三論宗]]の僧・[[東大寺]]別当・京都[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]]中興の祖となり[[専修念仏]]の先駆者となる * [[後三条天皇]]([[1034年]] - [[1073年]]) - 第71代天皇(在位[[1068年]] - [[1072年]])・摂関家を押さえ「延久の善政」を行う * [[源義家]]([[1039年]] - [[1106年]]) - 武将・河内源氏棟梁・源頼義の長男・[[後三年の役]]を平定する * [[大江匡房]]([[1041年]] - [[1111年]])- 公卿・儒学者・『江家次第』『遊女記』『傀儡子記』『[[洛陽田楽記]]』の著者 * [[白河天皇]]([[1053年]] - [[1129年]]) - 第72代天皇(在位[[1072年]] - [[1086年]])・[[太上天皇|上皇]]([[法皇]])として[[院政]]を開始 * 戒覚(生没年不詳)- 天台宗の僧・渡宋してその地で客死か・宋の神宗皇帝に謁見しその旅程を『渡宋記』に書き残す * [[清原家衡]](? - [[1106年]]) - 武将・[[出羽国]][[出羽清原氏|清原氏]]の棟梁・後三年の役を起こし源義家に討たれる * [[藤原清衡]]([[1056年]] - [[1128年]]) - 武将・[[奥州藤原氏]]の祖・清原家衡は異父弟・[[平泉]]に居を構え[[中尊寺]]を建立 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 11 | 年代 = 1000 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:11せいき}} [[Category:11世紀|*]]
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10世紀
10世紀(じっせいき)は、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。
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10世紀(じっせいき)は、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{centurybox}} [[ファイル:Gu Hongzhong's Night Revels, Detail 1.jpg|thumb|300px|江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図([[北京]][[故宮博物館]]蔵)」。[[五代十国]][[南唐]]の後主[[李煜]]時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。]] [[ファイル:Spain Andalusia Cordoba BW 2015-10-27 13-54-14.jpg|thumb|300px|「世界の宝石」[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]。画像はコルドバにある[[メスキータ]]の円柱の森。10世紀末までに歴代の[[後ウマイヤ朝]]カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。]] [[File:Gui, archevêque de Rouen, traitant avec Rollon.jpg|thumb|right|280px|[[ノルマンディー公]][[ロロ]]。もともとは北欧の[[ヴァイキング]]の指導者であったが、西フランク王から[[セーヌ川]]河口の領土を分与され定着した。彼の直系子孫に[[ノルマン朝]]初代の[[イングランド]]王[[ウィリアム1世]]がおり、この血脈は現在のイギリス王室にまでつながっている。画像は[[ルーアン]]司教ギーに迎えられるロロ。]] '''10世紀'''(じっせいき)は、[[西暦]][[901年]]から西暦[[1000年]]までの100年間を指す[[世紀]]。[[1千年紀]]における最後の世紀である。 == できごと == [[ファイル:Kitano Tenjin Engi Emaki - Jokyo - Thunder God2.jpg|thumb|420px|[[清涼殿落雷事件]]。この落雷は[[昌泰の変]]で[[大宰府]]に流された[[菅原道真]]の怨霊によるものと恐れられ、道真は[[北野天満宮]]の祭神となった。画像は「北野天神縁起絵巻」。]] [[File:将門塚 - panoramio (1).jpg|thumb|right|270px|[[承平天慶の乱]]。平安京での政争をよそに地方では在地領主となった皇親やその他の門流が勢力を拡大していた。[[平将門]]や[[藤原純友]]の反乱もその現れであったが、反乱は鎮圧された。画像は東京[[大手町 (千代田区)|大手町]]にある[[平将門の首塚]]。]] [[File:Nakifudo Engi Abe no Seimei.jpg|thumb|right|270px|[[平安京]]と「[[物の怪]]」。平安京の統治機構が弛緩するとともに、度重なる天災や疫病に疲弊した人々はその原因となる「物の怪」を一層恐れるようになり、[[密教]]による[[加持祈祷]]や[[陰陽道]]に基づく[[物忌み]]や[[方違え]]を重視するようになった。画像は[[陰陽師]][[安倍晴明]]の疫病神調伏を描く「泣不動縁起絵巻(京都・[[清浄華院]]蔵)」。]] [[ファイル:Akihagi-jō 2.jpg|thumb|270px|[[かな文字]]の誕生。日本独特の美意識の発展とともにかな文字が成立し、和様の書が生まれた。画像は万葉仮名から平仮名へと移行する段階の「草仮名」で書かれた「[[秋萩帖]]([[東京国立博物館]]蔵)」で[[小野道風]]によるものと伝わる。]] [[ファイル:MongolHuntersSong.jpg|thumb|right|270px|[[契丹]]人の伸張。[[ウイグル]]帝国の崩壊や、唐王朝滅亡後の混乱で内陸アジアで勢力を拡大したのがモンゴル系の契丹人であった。その後、五代から宋にかけての華北政権を威圧し国勢を整えることになる。画像は契丹人を描いた「胡人出猟図」(台北[[国立故宮博物院]]蔵)。]] [[File:Feng Dao, WuShuangPu (1694, 1996).jpg|thumb|right|200px|乱世の宰相[[馮道]]。五代十国時代の[[後晋]]から[[後周]]の時代の政治家で、五朝八姓十一君に仕えたことで有名。後世、[[朱子学]]の立場からは変節漢として評判が悪いが、[[李卓吾]]のような思想家の評価は高い。画像は明代にまとめられた『[[無雙譜]]』の挿絵に描かれた長楽老馮道。]] [[ファイル:Song Taizu.jpg|thumb|right|200px|[[北宋|宋]]の建国。唐の滅亡以後、半世紀にわたる[[五代十国]]の混乱にあった中国も[[趙匡胤]]が宋の初代皇帝太祖として即位するに及び安定した時代を迎えた。画像は台北[[国立故宮博物院]]所蔵の太祖趙匡胤の肖像。]] [[ファイル:Porphyrogenetus.jpg|thumb|200px|[[マケドニア朝ルネサンス]]。画像はキリストから加冠される皇帝[[コンスタンティノス7世]]の象牙彫刻(ロシア・[[プーシキン美術館]]蔵)。東ローマ帝国では古典研究が盛んになり、この皇帝自ら著作『儀式について』『{{仮リンク|帝国統治論|en|De Administrando Imperio}}』を残している。]] [[File:IMG 1552-20070425-great-lavra-a.JPG|thumb|right|270px|[[アトス山]]。この時期に東ローマ皇帝の庇護を受けてアトスの修道生活が展開した。画像は最も古い{{仮リンク|メギスティ・ラブラ修道院|en|Great Lavra}}の教会入り口から望む、[[アトスのアサナシオス|アトスのアタナシオス]]に植えられたとされる樹齢1000年以上の[[イトスギ]](サイプレス)。]] [[ファイル:Vasnetsov Bapt Vladimir.jpg|thumb|200px|聖公[[ウラディーミル1世]]の洗礼。東ローマ皇女アンナとの結婚を期に洗礼を受けキリスト教(東方正教会)に改宗しロシア・ウクライナ史に大きな影響を与えた。画像は[[キエフ]]の[[聖ヴォロディームィル大聖堂|聖ウラディーミル大聖堂]](聖ヴォロディームィル大聖堂)にある[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]の壁画。]] [[ファイル:Holy Roman Empire Crown (Imperial Treasury)2.jpg|thumb|200px|[[神聖ローマ帝国]]の成立。[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が皇帝となり以後代々のドイツ君主が神聖ローマ皇帝位を占めることになった。画像はこの世紀に作られた神聖ローマ帝国の帝冠([[ウィーン]]・[[ホーフブルク宮殿]]蔵)。]] [[ファイル:B Escorial 93v.jpg|thumb|200px|紀元1000年のヨーロッパ。新しい世紀の到来は期待と不安が混じったものだった。画像は950年代に描かれたスペインのサン・ミジャン修道院のベアトゥス『[[黙示録]]注解』[[写本]]([[エル・エスコリアル修道院]]蔵)。]] [[ファイル:Chronicon Pictum P040 Szent István elfogatja Gyulát.JPG|thumb|250px|マジャール人の定着。遊牧民族マジャール人もパンノニア平原に定着し、紀元1000年にはキリスト教を受容して[[ハンガリー王国]]を成立させている。画像はハンガリー初代国王[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]がジュラの街を制圧したことを描く14世紀の年代記の挿絵。]] [[ファイル:Jelling gr kl Stein.JPG|thumb|right|270px|[[イェリング墳墓群]]。デンマークの[[ハーラル1世|ハーラル青歯王]]がキリスト教への改宗したことを記念して[[ルーン文字]]で刻まれた石碑である。]] [[File:Monasterboice West Cross West Face 2013 09 27.jpg|thumb|right|200px|[[ケルト十字架]]。ヴァイキングの襲撃も一段落したこの世紀、タラの王を中心に[[アイルランド]]復興が進められた。画像は{{仮リンク|モナスターボイス|en|Monasterboice}}修道院遺構で、アイルランド特有の「ハイクロス」と呼ばれるケルト十字架が今も聳えている。]] [[File:Chichen Itza '2010 07.jpg|thumb|right|250px|[[チチェン・イツァ]]遺跡。マヤ文明を代表する遺跡で8世紀までに衰退した後に、10世紀に改めて盛んに建設が行われた。画像は[[ククルカン]]の頭部彫刻が付随した「金星の台座」でその先には「エルカスティージョ(ククルカン神殿)」を眺めることができる。]] [[File:Ceremonial Knife (Tumi) MET DP214165.jpg|right|thumb|200px|[[シカン文化]]。ペルー北岸に発展した文化で10世紀から11世紀にはバタン・グランデを中心に金属工芸や織物の産業が組織化されていた。画像はこの文化を代表する「ツミ」と呼ばれる儀式用の刀剣([[メトロポリタン美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Al-Azhar (inside) 2006.jpg|thumb|right|200px|[[アズハル大学]]。ファーティマ朝時代にカイロのアズハル・モスク付属大学として設置された世界で最も古い大学である。]] [[File:Plate Buwayhid.JPG|thumb|right|200px|[[ブワイフ朝]]の統治。バグダードを制圧すると衰勢のアッバース朝を組み込みイラン・イラクを支配下に置いた。画像はブワイフ朝時代のイランで作られた陶器(ニューヨーク・[[メトロポリタン美術館]]蔵)。]] [[ファイル:UZ Bukhara Samanid-mausoleum.jpg|thumb|right|200px|[[サーマーン朝]]の発展。この王朝の時代に東方イスラム世界でのペルシア文化の復興が進んだ。画像は[[ブハラ]]にある中央アジア最古の建造物[[イスマーイール・サーマーニー廟]]。]] [[ファイル:Shiva as the Lord of Dance LACMA edit.jpg|thumb|right|200px|[[チョーラ朝]]芸術の最盛期。画像はこの時代を代表する「舞踏の王」ナタラージャとしての[[シヴァ]]神像([[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Prambanan Complex 1.jpg|thumb|right|250px|[[プランバナン寺院群]]。[[ジャワ島]]で繁栄した[[古マタラム王国]]のバリトゥン王時代に着工され、続く王ダクサによって完成をみた[[ヒンドゥー教]]の大寺院。]] * 日本では[[平安時代]]中期に差し掛かるころである。[[律令国家]]体制を支えていた[[古墳時代]]以来の在地首長階層と彼らに率いられていた伝統的な地域共同体が急速に没落し、それに依存していた[[班田]]や[[戸籍]]による地方統治や税収が困難となる。この地方社会の変動への対策として地方に赴く筆頭国司([[受領]])に大きな権限を与え、あらたに経済力を握り台頭してきた[[富豪層]]を[[負名]]に編成し、[[田堵]]として[[公田]]経営を請け負わせる[[王朝国家]]体制への社会変動で律令制は形骸化した。受領の国衙統治において私的武力を蓄えた富豪層を統制する軍事警察力を担う階層として[[武士]]が登場することで中世社会への変化が本格的に生じる。 ---- === 900年代 === {{main|900年代}} * [[900年]]頃 ** [[ヴァイキング]]により[[スコットランド]]の「{{仮リンク|ガロウェイの遺宝|en|Galloway Hoard}}」が埋蔵される。 * [[901年]] ** [[藤原時平]]により[[菅原道真]]が[[大宰府]]へ左遷される([[昌泰の変]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/7644?p=1|title=第60代・醍醐天皇の皇位継承と昌泰の変 |publisher=WEB歴史街道|date=2020-05-18|accessdate=2020-12-29}}</ref>。 *** 元号が「[[昌泰]]」から「[[延喜]]」に替わる([[延喜の治]])。 *** [[六国史]]の最後となる『[[日本三代実録]]』が完成する。 ** 唐の[[昭宗]]皇帝が[[長安]]から[[李茂貞]]支配の[[鳳翔県|鳳翔]]に逃亡( - [[903年]])。 ** [[ウシュマル]]の大競技場がチャン・チャク・カクナル・アハウ王によって奉献される。 * [[902年]] ** {{仮リンク|鄭買嗣|zh|鄭買嗣}}が[[南詔]]を滅ぼし、大長和を建国する。 ** [[延喜の荘園整理令]]により院宮王臣家が[[荒田]]閉地を請占するを禁ずる。 *** 同年、最後の[[班田]]が行われ、班田は以後断絶する。 ** [[アグラブ朝]]が[[タオルミナ]]を占領し、東ローマ帝国の[[シチリア]]支配が終わる。 * [[903年]] ** 大宰府にて菅原道真死去。 ** 唐の昭宗が、李茂貞支配の鳳翔から、[[朱全忠]]支配の長安に帰還。 * [[904年]] ** [[朝鮮半島]]で[[弓裔]]が[[摩震]](のち[[泰封]])を建てる。 ** 唐の昭宗が長安から朱全忠の指示で[[洛陽]]に遷都。昭宗が殺害され、息子の哀帝が擁立される。 * [[905年]] ** 唐で九曲池の変と、[[白馬の禍]]が起きる。 ** 『[[延喜式]]』編纂開始。[[紀貫之]]・[[紀友則]]・[[壬生忠岑]]らが『[[古今和歌集]]』を撰進。 ** [[アッバース朝]]が[[トゥールーン朝]]を滅ぼす。 ** 東ローマ皇帝[[レオーン6世]]の「四婚問題」が起こる。 * [[906年]] ** [[マジャール人]]により[[モラビア王国]]が滅亡。 ** [[モースル]]の[[ハムダーン朝]]が独立。 * [[907年]] ** 宣武[[節度使]]の朱全忠が[[唐]]を滅ぼし[[後梁]]を建国。[[五代十国]]時代の始まり。 ** [[契丹]]([[遼]])の[[耶律阿保機]]が即位。 ** 日本で『[[延喜格]]』が完成する。 *** 909年には『延喜格』を頒下、910年には諸国に『延喜格』を写させる。 ** [[ルーシ・ビザンツ条約 (907)|ルーシ・ビザンツ条約]]([[ルーシ・ビザンツ条約 (911)|911年に改定]])。 *** この通商条約により「[[ヴァリャーグからギリシアへの道]]」が完成する。 ** ポジョニ([[ブラチスラヴァ]])の戦いでマジャール人が東フランクに勝利。 * [[909年]] ** [[チュニジア]]で[[アグラブ朝]]を滅ぼして、[[シーア派]]の[[ファーティマ朝]]が成立。 *** ファーティマ朝の[[ウバイドゥッラー・マフディー・ビッラー|ウバイドゥッラー]]がカリフとなり、東西に2人のカリフが分立。 ** [[メキシコ]]の[[チャパス州]][[トニナー]]の記念碑101号に暦日が記録される。 *** この記録を最後に[[古典期]][[マヤ]]諸都市が放棄されたとみられ記録は途絶、以後は[[後古典期]]と呼ばれる。 === 910年代 === {{main|910年代}} * [[910年]] ** フランス中東部[[ブルゴーニュ地方]]に[[クリュニー修道院]]が設立される。 *** [[ギヨーム1世 (アキテーヌ公)|アキテーヌ公ギヨーム1世]]が{{仮リンク|ベルノー|en|Berno of Cluny}}に初代修道院長を任命する。 ** [[イベリア半島]]の[[レオン王国]]で[[ガルシア1世 (レオン王)|ガルシア1世]]が即位し領土拡張を開始。 * [[911年]] ** [[東フランク王国]]で[[カロリング朝]]が断絶。 *** [[フランケン大公]][[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート1世]]が東フランク王に選出され、[[フランケン朝]]([[コンラディン家]])が成立。 ** [[サン=クレール=シュール=エプト条約]]で、[[ノルマン人]]の首長[[ロロ]]が[[ノルマンディー公国]]を樹立。 * [[912年]] - 『延喜式』の編集を促進させる。 * [[913年]] ** 東ローマ帝国で[[コンスタンティノス7世]]が即位(- 959年)。 ** [[ブルガリア]]王[[シメオン1世]]がコンスタンティノポリスに入城し皇帝を称す。 ** [[後ウマイヤ朝]]の[[アブド・アッラフマーン3世]]が[[アルカサル (セビリア)|セビリアのアルカサル(要塞)]]を建設。 * [[914年]] ** [[オルドーニョ2世]]が即位し[[オビエド]]から[[レオン (スペイン)|レオン]]に遷都([[アストゥリアス王国]]が[[レオン王国]]となる)。 ** 東ローマ帝国で首都総主教{{仮リンク|ニコラオス・ミュスティコス|en|Nicholas Mystikos}}が失脚し、母后{{仮リンク|ゾエ・カルボノプシナ|en|Zoe Karbonopsina}}が摂政となる。 ** [[三善清行]]が醍醐天皇に『[[意見十二箇条]]』を提出する。 * [[915年]] ** [[十和田火山]]の爆発。秋田県の[[胡桃館遺跡]]はこの時埋没した[[官衙]]の遺跡。 ** [[ガリリャーノ川]]の戦いで、ローマ教皇とイタリア諸侯([[アルベリーコ1世・ディ・スポレート|スポレート公]]など)連合軍がイスラム教徒を撃退。 *** その功績によりイタリア王[[ベレンガリオ1世]]が皇帝として認められる。 * [[916年]] - [[ラーシュトラクータ朝]]インドラ3世の北伐により[[プラティハーラ朝]]の都[[カナウジ]]が陥落する。 * [[917年]] - ドイツの[[部族大公]]国として[[シュヴァーベン公国]]が成立する。 * [[918年]] ** 朝鮮半島で[[太祖 (高麗王)|王建]]が泰封を滅ぼして[[高麗]]を建国。 ** 遼の耶律阿保機が[[臨潢府|上京臨潢府]](皇都)を新都に定める。 * [[919年]] ** [[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]](捕鳥王)が東フランク王に即位し、[[ザクセン朝]]([[リウドルフィング家]])が成立。 ** ヴァイキングがフランスの[[ブルターニュ]]地方[[ゲランド]]に上陸する。 === 920年代 === {{main|920年代}} * [[920年]] - 遼の[[耶律阿保機]]が[[契丹文字]]を制定させる。 * [[920年]]頃 - 中国[[内蒙古自治区]]トルキ山遼墓の「彩色木棺」が作られる。 * [[921年]] ** アッバース朝カリフの[[ムクタディル]]が[[アフマド・イブン・ファドラーン]]らの使節を[[ヴォルガ・ブルガール]]に派遣する。 ** ボン条約により東フランク王ハインリヒ1世と西フランク王シャルル3世が王位を相互承認。 ** [[空海]]に「弘法」の[[大師 (僧)|大師]]号が贈られる。 * [[922年]] ** 西フランク王シャルル3世が廃位され、[[ロベール1世 (西フランク王)|ロベール1世]]が西フランク王となる。 ** アフマド・イブン・ファドラーン使節団が[[ボルガル]]に到着、ヴォルガ・ブルガールが公式にイスラム教を受容する。 ** バグダードでイスラム神秘主義者{{仮リンク|アル・ハラージュ|en|Al-Hallaj}}が異端者として処刑される。 * [[923年]] - [[李存勗]](荘宗)が後梁を滅ぼし、洛陽を都に[[後唐]]を建国。 * [[924年]] -[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]が全[[イングランド]]の王として即位( - [[939年]]) * [[925年]]頃 - [[トミスラヴ (クロアチア王)|トミスラヴ]]が最初の[[クロアチア王国 (925年-1102年)|クロアチア王]]となる。 * [[926年]] ** 契丹(遼)が[[渤海 (国)|渤海]]を滅ぼす。 ** {{仮リンク|興教門の変|zh|興教門之變}}で後唐の荘宗が殺害され[[李嗣源]](明宗)が即位。都を洛陽から[[開封]]に遷し、[[馮道]]を宰相とする。 * [[927年]] ** [[アラヴィー朝]]を倒し[[カスピ海]]南岸に[[ズィヤール朝]]が成立。 ** [[ブルガリア正教会]]が[[独立正教会]]となり、ブルガリア総主教位が東方の各総主教から承認される。 * [[928年]] ** ジャワ東部に[[クディリ朝]]が成立。 ** [[バグラトゥニ朝アルメニア]]の都がシラカヴァンから[[カルス (都市)|カルス]]に遷される。 * [[929年]] ** [[後ウマイヤ朝]]の[[アブド・アッラフマーン3世]]が[[カリフ]]を称し、東中西に三人のカリフが鼎立する。 ** 東フランク王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]が[[ベーメン]](ボヘミア)公[[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公)|ヴァーツラフ1世]]を臣従させる。 === 930年代 === {{main|930年代}} * [[930年]] ** [[清涼殿落雷事件]]。[[醍醐天皇]]が没し第61代[[朱雀天皇]]が即位。[[藤原忠平]]が[[摂政]]就任。 ** [[イスマーイール派]]の分派カルマト派の信者が[[メッカ]]の[[カーバ神殿]]から[[黒石]]を奪取( - 951年)。 ** [[アイスランド]]で世界最古の近代[[議会]]「[[アルシング]]」が創設。 * [[932年]] ** イラン系[[シーア派]]の[[ブワイフ朝]]が興る。 ** [[スポレト]]公[[アルベリーコ2世]]がその母[[マロツィア]]のローマ支配を覆し、[[ポルノクラシー]]が終わる。 * [[933年]] - [[ユーラブルグント王国|上ブルグント王国]]が[[キスユラブルグント王国|下ブルグント王国]]を併合する([[アルル王国]])。 * [[934年]] - 修道士エベルハルトによりスイス・{{仮リンク|アインジーデルン|en|Einsiedeln}}の{{仮リンク|ベネディクト会修道院|en|Einsiedeln Abbey}}が創設される。 * [[935年]] ** [[平将門]]・[[藤原純友]]による[[承平天慶の乱]]が始まる(- 941年)。 ** [[呉越]]国の使者蔣承勲が来日。 *** 翌年には左大臣[[藤原忠平]]が蔣承勲に託して呉越国王[[銭鏐]]への書状を送る。 ** 高麗が[[新羅]]を滅ぼす。 ** [[エジプト]]総督[[ムハンマド・ブン・トゥグジュ]]が自立し、[[イフシード朝]]が興る。 * 935年頃 ** [[紀貫之]]が最初の仮名日記である『[[土佐日記]]』を著す。 * [[936年]] ** 高麗が[[後百済]]を滅ぼして朝鮮半島を統一する。 ** [[石敬瑭]]が後唐を滅ぼし[[後晋]]を建国。建国に協力した契丹(遼)が後晋から[[燕雲十六州]]を獲得する。 ** [[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が東フランク王に即位する。 ** 伝承ではイラン東北部[[ホラサン]]地方からインドの[[グジャラート]]地方に[[ゾロアスター教]]徒が移住する([[パールシー]]の起源)。 * [[937年]] ** 中国の[[雲南省|雲南]]地方でタイ系の[[段思平]]が[[大理国]]を建国する。 ** ブルナンブルフの戦いでイングランド王[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]がスコットランド・ストラスクライド・ダブリンの連合軍に勝利。 * [[939年]] ** [[ベトナム]]で[[呉権]]が<!-- 最初の独立王朝である …… 一応、万春国があるのでコメントアウト-->[[呉朝]]を建国。 ** [[シマンカスの戦い]]で、キリスト教国連合軍が後ウマイヤ軍を破る。 === 940年代 === {{main|940年代}} * [[940年]] - 平将門が「新皇」を名乗り自立するが、[[平貞盛]]・[[藤原秀郷]]らに討たれ乱は鎮圧される。[[寛朝]]により[[成田山新勝寺]]が建立される。 * 940年頃 - イスラム教に改宗したサトゥク・ボグラ・ハンが[[ベラサグン]]を都として[[カラハン朝]]を建国。 * [[941年]] - 藤原純友の乱が終わる。藤原忠平が[[関白]]就任。 * [[943年]] - シーア派(イスマーイール派)に接近した[[サーマーン朝]]のナスル2世が廃位され息子のヌーフ1世が即位。 * [[944年]] ** 東ローマ皇帝[[ロマノス1世レカペノス]]の[[シャンルウルファ|エデッサ]]占領 *** これにより獲得した「[[キリスト]]の[[自印聖像]](エデッサのマンディリオン)」をコンスタンティノポリスに移送する。 ** ロマノス1世レカペノスが廃位され、コンスタンティノス7世が正帝に復帰。 *** この文人皇帝は学者を集め、自らも『{{仮リンク|帝国統治論|en|De Administrando Imperio}}』『{{仮リンク|儀式の書|en|De Ceremoniis}}』他を執筆し、「[[マケドニア朝ルネサンス]]」の中心として活躍。 * [[945年]] ** キエフ大公[[イーゴリ1世]]が[[ドレヴリャーネ族]]に殺害される。 *** 幼少の息子[[スヴャトスラフ1世]]が後継となり、その母[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]が摂政となる。 * [[946年]] ** 朱雀天皇が譲位し、第62代[[村上天皇]]が即位([[天暦の治]])。 ** ブワイフ朝の[[バグダード]]入城。 *** ムイッズ・ウッダウラが[[アッバース朝]]カリフからアミール・アルウマラー(大[[アミール]])の称号を得る。[[イクター制]]を導入。 ** [[契丹]]の[[耶律堯骨]](太宗)が大梁(開封)を陥落させ[[後晋]]を滅ぼす。 ** 高麗で[[946年白頭山噴火|白頭山大噴火]]。 * [[947年]] ** 契丹が華北を放棄し帰還の途上で耶律堯骨が病死、[[開封]]を占領した劉知遠が[[後漢]]を建国。 ** 菅原道真を祭神とする[[北野天満宮]]が創建される。 === 950年代 === {{main|950年代}} * [[950年]] - [[村上天皇]]が内裏歌合を催行。 * 950年頃 ** [[トンガ]]が{{仮リンク|トゥイ・トンガ|en|Tuʻi Tonga}}により統一される。 ** [[チャンデーラ朝]]のダンガ王が即位し、[[プラティーハーラ朝]]から独立。 ** クシ系アガウ族の女族長グディットにより[[アクスム王国]]が滅ぼされる。 * [[951年]] ** 村上天皇が『[[後撰集]]』の編纂を下命。市聖[[空也]]により西光寺(現在の[[六波羅蜜寺]])が創建される。[[醍醐寺]]五重塔が完成する。 ** [[郭威]]が後漢を滅ぼし、[[後周]]を建国。 ** 東フランク王オットー1世のイタリア遠征。[[ブルグントのアーデルハイト]]と結婚しイタリア王を兼任する。 ** フランスの[[ル・ピュイ]]司教ゴデスカルクによる最古の[[サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路|サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼]]の記録がされる。 * [[953年]] ** 東フランク王オットー1世に対する息子[[リウドルフ (シュヴァーベン大公)|リウドルフ]]と娘婿[[コンラート (ロートリンゲン公)|コンラート赤毛公]]の反乱。 ** 東フランク王オットー1世の使者としてゴルツェのヨハネスが後ウマイヤ朝に派遣される( - 956年)。 * [[954年]] ** 高平の戦いで、後周が[[北漢]]に勝利する。 ** イングランド王[[エドレッド]]がヨーク王エリックを倒し[[デーンロウ]]を征服。 ** 東フランク王オットー1世が末弟の[[ケルン大司教ブルーノ]]を[[ロートリンゲン公]]に封じる([[帝国教会政策]]の始まり)。 ** 『ハザール書簡』が交わされる( - [[961年]])。 *** 後ウマイヤ朝ユダヤ人[[ワズィール]]の[[ハスダイ・イブン・シャプルト]]とハザールのヨセフ・カガンとの間で交わされたもの。 * [[955年]] ** 東フランク王[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が[[レヒフェルトの戦い]]で[[マジャル人]]に勝利する。 ** [[後周]]の[[柴栄|世宗]]が[[廃仏]]を行う(顕徳の廃仏、[[三武一宗の法難]]の最後)。 ** [[呉越]]王[[銭弘俶]]が八万四千宝塔を鋳造し頒布。 * [[957年]] - [[キエフ大公国]]王母[[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]]が[[東方正教会]]に帰依する。 * [[958年]] ** 高麗で[[科挙]]制度が採用される。 ** [[皇朝十二銭]]の最後「[[乾元大宝]]」が鋳造発行される。 *** 「乾元大宝」の鋳造発行が停止された[[963年]]以後、江戸時代の「[[慶長通宝]]」まで日本の公鋳貨幣は途絶えることになる。 === 960年代 === {{main|960年代}} * [[960年]] ** [[ミェシュコ1世]]が[[ピャスト朝]][[ポーランド王国]]を建てる。 ** カラハン朝のテュルク系民族がイスラム教に集団改宗する。 ** [[陳橋の変]]で帝位についた[[趙匡胤]](太祖)が[[北宋|宋]]を建てる。 ** 平安遷都以来初めて[[内裏]]が全焼する([[天徳 (日本)|天徳]]4年の内裏焼亡)。 * 960年代 ** 東ローマ帝国で最古の[[百科事典]]『[[スーダ辞典]]』が編纂される(- 970年代)。 * [[961年]] ** 後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世が死去、息子[[ハカム2世]]がカリフとして即位。 *** このカリフは文化支援に熱心であり、彼の治世で蔵書60万巻がコルドバの宮廷図書館に収集された。 ** イベリア半島で[[カスティーリャ王国|カスティーリャ伯領]]成立。 ** 東ローマ帝国が[[クレタ島]]を奪回。 * [[962年]] ** 東フランク王オットー1世が[[ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]から帝冠を受け、[[神聖ローマ帝国]]が成立する。 ** [[アフガニスタン]]でトルコ系の[[ガズナ朝]]が成立。 * [[963年]] ** 東ローマ皇帝[[ロマノス2世]]が死去、その皇后[[テオファノ]]と結婚した将軍[[ニケフォロス2世フォカス|ニケフォロス2世]]が皇帝となる。 ** [[アトスのアサナシオス|アトスのアタナシオス]]が東ローマ皇帝ニケフォロス2世から勅許を得て、[[アトス山]]にメギスティ・ラヴラ修道院を建設する。 * [[965年]] ** 北欧[[デンマーク]]の[[ハラール青歯王]]が洗礼を受ける。 ** 神聖ローマ皇帝オットー1世が[[マイセン辺境伯]]を設置する。 ** [[キエフ大公]][[スヴャトスラフ1世]]の遠征により[[サルケル]]と[[イティル]]が攻略され[[ハザール]]が滅ぼされる。 * [[966年]] ** ベトナムで[[丁部領]]により[[丁朝]]が成立。 ** [[性空]]が[[播磨国]][[書写山]]に入山し、[[圓教寺]](西国三十三所霊場の一つ)を創建。 ** [[リシャール1世 (ノルマンディー公)|ノルマンディー公リシャール1世]]がベネディクト会の修道院を[[モン・サン=ミシェル]]島に建てる。 * [[967年]] ** 村上天皇が死去し、第63代[[冷泉天皇]]が即位。[[藤原実頼]]が関白就任。 ** 神聖ローマ帝国の使節としてクレモナ司教[[リュートプランド (クレモナ司教)|リュートプランド]]がコンスタンティノポリスを訪問。 * [[968年]] ** [[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]]ニケフォロス2世が[[アンティオケイア|アンティオキア]]を占領。 *** 東ローマ帝国はヘラクレイオス帝以来約330年ぶりにイスラム勢力からアンティオキアを奪回する。 ** 神聖ローマ皇帝オットー1世が[[マクデブルク]]大司教座を設置する。 ** [[レオン王国]]北西[[ガリシア]]に上陸したヴァイキングをガリシア貴族ロセンドらが撃退する。 ** 後ウマイヤ朝で「{{仮リンク|ムギーラの小箱|fr|pyxide d'al-Mughira}}([[ルーヴル美術館]]蔵)」が作られる。 ** [[丁部領]]が[[十二使君の乱]]を平定し、[[丁朝]][[ベトナム|大瞿越]]を建国する。 * [[969年]] ** [[ファーティマ朝]]がエジプトに進出して[[イフシード朝]]を滅ぼす。 ** [[安和の変]]が起こる。 *** [[源満仲]]の讒言により[[左大臣]][[源高明]]が左遷される *** 冷泉天皇が譲位し、第64代[[円融天皇]]が即位。藤原実頼が摂政就任。 ** 高麗の使節が[[対馬国]]にくる。 ** 東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスが暗殺され、甥の[[ヨハネス1世ツィミスケス]]が即位する。 === 970年代 === {{main|970年代}} * [[970年]] ** [[藤原伊尹]]が摂政就任。 ** [[源為憲]]の『[[口遊]]』がまとめられる。 *** 『口遊』の「雲太、和二、京三」の数え歌で知られる[[出雲大社]]の巨大社殿はこの時期に存在したか。 ** ファーティマ朝の[[ムイッズ]]により[[カイロ]]のアズハル・モスクと付属の[[マドラサ]]が建てられる。 *** このマドラサは現存するイスラム最古の大学である[[アズハル大学]]の前身。 * [[971年]] ** 宋が[[南漢]]を滅ぼす。 ** [[シリストラ]]の戦いで、東ローマ皇帝[[ヨハネス1世ツィミスケス]]がキエフ大公[[スヴャトスラフ1世]]の軍を撃破する。 * [[972年]] ** [[藤原兼通]]が関白就任。 ** [[ペチェネグ]]族が[[ドニエプル川]]河畔で[[キエフ大公]]軍を壊滅させ、[[スヴャトスラフ1世]]を戦死させる。 ** 神聖ローマ皇帝オットー2世と東ローマ帝国皇女[[テオファヌ]]の結婚。 * [[973年]] ** [[デカン高原]]で[[タイラ2世]]が[[ラーシュトラクータ朝]]を倒し[[後期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]を再興する。 ** ファーティマ朝が[[イフリーキヤ]]の[[マフディーヤ]]からエジプトの[[カイロ]]に遷都。 ** [[クリュニー修道院]]院長{{仮リンク|マヨルス|en|Majolus of Cluny}}がアラブ人海賊により南フランスの{{仮リンク|フラクシネートゥム|en|Fraxinetum}}で拉致される。 *** {{仮リンク|トゥールトゥールの戦い|en|Battle of Tourtour}}で{{仮リンク|プロヴァンス伯ギョーム1世|en|William I of Provence}}が報復として南フランスからアラブ人を駆逐。 * [[975年]] ** 宋で最初の[[殿試]]が行われる。 ** 宋が[[南唐]]を滅ぼし[[金陵]]を占領。 ** 東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが[[アレッポ]]ほかシリア・パレスティナを占領。 * [[976年]] ** 東ローマ皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが死去、マケドニア朝嫡流の[[バシレイオス2世]]が皇帝に即位( - [[1025年]])。東ローマ帝国は最盛期を迎える。 ** 神聖ローマ帝国が[[オーストリア]]に[[バーベンベルク家]]の辺境伯領を設ける。 ** 宋の太祖が急逝し、実弟趙光義が[[太宗 (宋)|太宗]]として即位([[千載不決の議]])。 * [[977年]] - [[兼明親王]]・[[昭平親王]]の皇籍復帰。藤原兼通死去、[[藤原頼忠]]の関白就任。 * [[978年]] ** 神聖ローマ皇帝オットー2世のパリ攻撃を西フランク王[[ロテール (西フランク王)|ロテール]]が撃退。 ** 銭弘俶が宋へ国を献じて[[呉越]]が滅亡する。 * [[979年]] - 宋の太宗が[[北漢]]を滅ぼして中国統一する。続く{{仮リンク|高粱河の戦い|zh|高梁河之战}}で宋は遼に敗北し燕雲十六州の回復を断念。 === 980年代 === {{main|980年代}} * [[980年]] ** {{仮リンク|マルギュ・シュル・シエール|en|Margut-sur-Chiers}}条約で、神聖ローマ皇帝オットー2世と西フランク王ロテールが講和。 ** スウェーデン王[[エリク6世 (スウェーデン王)|エリク6世]](勝利王)が[[ウプサラ]]でデーン系ヴァイキングに勝利する(フェリスヴェトリルの戦い)。 ** 平安京の[[羅城門]]が倒壊し、以後は再建されず。 * 980年頃 - ドイツの[[エッセン]]大聖堂の「{{仮リンク|黄金の聖母子像|en|Golden Madonna of Essen}}」が作られる。 * [[981年]] - 西ガンガ朝のチャムンダラヤにより[[シュラバナベルゴーラ]]に[[ジャイナ教]]祖師[[バーフバリ (ジャイナ教)|ゴーマテーシュヴァラ(バーフバリ)]]の像が建てられる。 * [[982年]] - [[コロンナ岬の戦い]]で、神聖ローマ皇帝[[オットー2世]]軍が[[シチリア首長国]]に敗北する。 * [[982年]]頃 - [[慶滋保胤]] が『[[池亭記]]』を執筆。 * [[983年]] ** 北宋の太祖の命による『[[太平御覧]]』が完成する(977年 - )。 ** 中国で最初の[[大蔵経]]である開宝版大蔵経(蜀版大蔵経)が刊行される。 * [[984年]] ** 円融天皇が譲位し、第65代[[花山天皇]]が即位、花山新制の実施。 ** 遼で現存する薊県独楽寺の山門と観音閣が再建される。 ** 日本僧[[奝然]]が宋の太宗に拝謁し、法済大師号と大蔵経を賜与される。 * [[985年]] ** [[源信 (僧侶)|源信]]が『[[往生要集]]』をまとめる。 * [[986年]] ** {{仮リンク|岐溝関の戦い|zh|雍熙北伐}}(雍熙北伐)で宋が遼に大敗する。 ** [[寛和の変]]により、花山天皇が退位させられる。 ** 第66代[[一条天皇]]即位。[[藤原兼家]]が摂政就任。 * [[987年]] ** [[西フランク王国]]でカロリング朝が断絶し、[[サンリス]]諸侯会議が開かれる。 *** [[ロベール家]]の[[ユーグ・カペー]]が国王に選出され[[カペー朝]][[フランス王国]]が始まる。 ** [[バルセロナ伯]]ボレイ2世がカペー朝フランスから自立する。 * [[988年]] ** キエフ大公[[ウラディミル1世]]が東ローマ帝国領の[[クリミア半島]][[ケルソネソス]]を占領。 *** この地でウラディミル1世は東ローマ帝国皇女[[アンナ (キエフ大公妃)|アンナ]]と結婚し、[[東方正教会]]に改宗する。 *** キエフから送られた[[ヴァリャーグ|ヴァリャーグ人]]により、東ローマ帝国親衛隊({{仮リンク|ヴァラング隊|en|Varangian Guard}})が組織される。 ** [[世界創造紀元]]が東ローマ帝国ではじめて公式に使用される(この年は6496年と算定される)。 ** カイロのアズハル・モスク(972年完成)付属の[[アズハル大学]]が設置される。 ** ガズナ朝の[[サブク・ティギーン]]が北西インド・[[パンジャーブ]]地方の中心[[ペシャーワル]]を占領する。 * [[989年]] ** {{仮リンク|シャルー|en|Charroux, Vienne}}教会会議で最初の「{{仮リンク|神の平和|en|Peace and Truce of God}}」が布告される。 ** [[コンスタンティノポリス]]で地震、[[ハギア・ソフィア大聖堂]]の西側ドームのアーチが崩落する。 ** 「[[永祚の風]]」。 === 990年代 === {{main|990年代}} * [[990年]] ** 藤原兼家が関白就任。[[藤原道隆]]が摂政・関白就任。 ** 司教フベルトゥスによって[[シャルトル]]大聖堂付属学校が設立される([[シャルトル学派]]の始まり)。 * [[991年]] ** イングランドにノルウェー王[[オーラヴ1世 (ノルウェー王)|オーラヴ1世]]来襲する。デーンゲルドの徴収始まる。 ** [[一条天皇]]の生母で皇太后[[藤原詮子]]に「[[東三条院]]」の院号が贈られる([[女院]]の始まり)。 * [[993年]] ** [[延暦寺]]から[[慶祚]]ほか智証派([[円珍]]派)が山を下りて[[園城寺]]に入り、[[天台宗]]は延暦寺の山門派と、園城寺の寺門派に分裂する。 ** この頃[[清少納言]]が『[[枕草子]]』を記す(成立年代については諸説あり)。 * [[995年]] ** [[藤原道兼]]が関白に就任するが、就任後12日で死亡し「七日関白」と称される。 ** [[藤原道長]]が[[内覧]]となり、事実上の摂政となる。その直後に道長は[[右大臣]]・[[藤原氏長者]]に補される。 * [[996年]] ** [[長徳の変]]により[[中関白家]]の[[藤原伊周]]・[[藤原隆家|隆家]]兄弟が失脚する。 ** [[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]]がフランス王として即位、しかし再婚問題が原因で教皇[[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]に破門される。 * [[997年]] ** ハンガリー大公ゲーザの死により息子[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]が後を継ぐ。 ** 後ウマイヤ朝の大臣アル・マンスールが[[サンチアゴ・デ・コンポステーラ]]大聖堂を破壊する。 ** ノルウェー王[[オーラヴ1世]]がニーダロス(現[[トロンハイム]])を都に定める。 ** 北宋の太宗の命により王著が[[法帖]]『淳化閣帖』を編纂する。 ** 奄美島人(高麗人説もあり)が対馬・壱岐に来襲([[新羅の入寇#長徳の入寇|長徳の入寇]])。 * 998年 ** ヴェネツィアが[[アドリア海]]沿岸の[[ダルマチア]]を支配下に置く。 * 999年 ** カラハン朝のイリグ・ハンが[[ブハラ]]を占領しサーマン朝を滅ぼす。 ** [[長保]]元年の[[内裏]]焼亡。 ** [[祇園御霊会]]で、雑芸者の無骨法師が[[大嘗会]]の標山を模した作山([[山鉾]]の原型)を引く。 ** [[スヴォルドの海戦]]。 *** ノルウェー王オーラヴ1世がデンマーク王・スウェーデン王・[[ラーデ]]侯の連合軍に敗北し戦死。 === 1000年代 === {{main|1000年代}} * [[1000年]] ** イシュトヴァーン1世が戴冠式を行い、正式に[[ハンガリー王国]]が成立する。 ** {{仮リンク|グニェズノ教会会議|en|Congress of Gniezno}}が開催され、ポーランド最初の[[グニェズノ]][[大司教区]]が設置される ** ヴェネツィア元首ピエトロ・オルセオロ2世により[[昇天祭]]において「海との結婚」の儀式が初めて行われる。 ** [[ファーティマ朝]]カリフの[[ハーキム]]が宦官の宰相{{仮リンク|バルジャワーン|en|Barjawan}}を暗殺し実権を握る。 ** 『チャム王家年代記』によるとヴィジャヤ朝[[チャンパ王国]]が成立する。 ** 一条天皇の女御彰子を中宮とし、先立の中宮定子を皇后とする(一帝二后)。 * 1000年頃 - [[アイスランド]]人の[[レイフ・エリクソン]]がヨーロッパ系としてはじめて[[北アメリカ大陸]]に到達。 ** この地は[[ヴィンランド]]と名づけられ、入植活動が行われる。[[ニューファンドランド]]の[[ランス・オ・メドー]]遺跡がそれに相当するか。 == 架空のできごと == * 10世紀 - フランスの[[ポワトゥー]]地方の領主として[[リュジニャン家]]が登場するが、この家の始祖は下半身が蛇である妖精[[メリュジーヌ]]を妻としていた。メリュジーヌの力により居城のリュジニャン城も建てられている(「メリュジーヌ伝説」)。 * 928年 - 旅の僧安珍が清姫に懸想され逃亡するも、紀州[[道成寺]]の大鐘の中で蛇体と化した清姫に焼き尽くされる(『[[大日本国法華験記]]』ほか「[[安珍・清姫伝説]]」)。 * 928年 - [[五代十国]][[後唐]]では国王と王妃の間は冷え切っていた。王妃に毒を盛る国王、皇太子と不倫する王妃、そしてそれをとりまく人々。この年の秋、城一面が菊の花で覆いつくされた中で催される豪奢な饗宴は、王家をめぐる陰謀と内乱の始まりだった(原作は[[曹禺]]の『雷雨』、[[張芸謀]]監督の映画「[[王妃の紋章]]」でも有名)。 * 930年 - [[信貴山]]の命蓮が祈祷により、[[転輪聖王]]の金輪を転がす剣の[[護法善神|護法童子]]を遣わし、醍醐天皇の病気を平癒させる(『[[信貴山縁起]]絵巻』)。 * 930年以前 - 皇子の身の上ながら盲目のため疎まれた[[蝉丸]]は父である[[醍醐天皇]]に捨てられ、[[逢坂山]]にて出家生活を営んでいた。そこへ同じく異形の者だということで捨てられ放浪していた姉の皇女逆髪が蝉丸のもとを訪れ、不幸の境遇を慰めあう(能『[[蝉丸 (能)|蝉丸]]』)。 * 939年以前 - [[近江国]][[三上山]]の[[百足]]が[[琵琶湖]]の龍神に依頼された[[藤原秀郷]](俵藤太)によって討たれる(『[[太平記]]』ほか「百足退治伝説」)。 * 940年 - 平安京で晒し首にされた[[平将門]]の首級が関東を目指して舞い上がり空中を飛行し[[武蔵国]][[豊島郡 (武蔵国)|豊嶋郡]]芝崎村(東京都千代田区大手町)に落下する(「[[平将門の首塚]]伝説」)。 * 940年以降 - 平将門の娘[[滝夜叉姫]]は一族郎党が滅ぼされた中にあって生き残り、[[貴船神社]]で復讐の成就を祈願し、[[下総]]の相馬の古御所に拠って朝廷転覆の謀略を巡らせることとなる([[山東京伝]]の読本『善知鳥安方忠義伝』)。 * 956年 - [[藤原師輔]]が内裏から退出して二条大宮「あははの辻」にて[[百鬼夜行]]に遭遇するも「[[尊勝仏頂|尊勝陀羅尼]]」を誦して難を逃れる(『[[大鏡]]』)。 * 960年 - この年に[[莆田市|興化軍]][[城廂区|莆田県]][[秀嶼区|湄州島]]の都巡林愿の六女として生まれた黙娘は、幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かった。16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし28歳の時に官吏の父が海難に遭い行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ、航海と商業の守護神[[媽祖]]となったという(「媽祖の伝説」)。 * 970年 - [[信濃国]][[戸隠]]の鬼女紅葉が勅命を受けた[[平維茂]]によって討たれる(能『[[紅葉狩 (能)|紅葉狩]]』や小説『[[北向山霊験記戸隠山鬼女紅葉退治之傳全]]』ほか「[[紅葉伝説]]」)。 * 976年 - [[比叡山]]の稚児であった梅若丸が人買いの信夫藤太により連れ出され、奥州に行く途上に[[隅田川]]の近辺で病に倒れ12歳で死去。その後その母が安否を尋ね隅田川に来た時に霊となった梅若丸が出現する([[木母寺]]の伝承・能『[[隅田川 (能)|隅田川]]』ほか松若丸伝説)。 * 980年以前 - [[平安京]]の[[朱雀大路]]の南端にある[[羅生門]]はかねてから荒廃が著しく、楼門の二階には行き場のない遺体が放置されていた。ある若い下人がこの門を上がり、暗がりの中で死んだ女性の髪を梳く老婆に遭遇する(原典は『[[今昔物語集]]』、これをもとに[[芥川龍之介]]の小説『[[羅生門]]』が創られる)。 * 995年 - [[丹波国]][[大江山]]の[[酒呑童子]]が勅命を受けた[[源頼光]]と[[頼光四天王]]によって討たれる(「[[酒呑童子]]伝説」)。 * 996年以降 - [[神聖ローマ皇帝]][[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]のもとへ無実の罪で斬首にされた夫の首を携え無念を晴らすべく伯爵夫人が現れる。夫人は皇帝の面前での[[神明裁判]]で熱せられた鉄塊を握りしめ身の潔白を訴え勝利を勝ち取る(「オットーの審判伝説」)。 * 999年以前 - オーリヤックのジェルベールが、コルドバのアラブ人から魔術を学びその技により悪魔と契約する。やがて彼は[[シルウェステル2世 (ローマ教皇)|シルウェステル2世]]として教皇となる(「教皇シルヴェステル2世の悪魔伝説」)。 == 人物 == === 東アジア === ==== 唐 ==== * [[崔胤]](? - [[904年]]) - 唐末の宰相・李茂貞から皇帝[[昭宗]]奪還のため朱全忠と結び宦官勢力を殲滅・後年朱全忠に殺される * [[裴枢]]([[841年]] - [[905年]]) - 唐末の宰相・朱全忠により他の高官とともに白馬で虐殺される([[白馬の禍]]) * [[李振 (五代)|李振]](? - [[923年]]) - 唐末五代の政治家・朱全忠の腹心・唐の[[昭宗 (唐)|昭宗]]を弑逆し朱全忠に白馬での高官殺害を進言する * [[李茂貞]]([[856年]] - [[924年]]) - 唐末五代の節度使・皇帝昭宗を擁して[[鳳翔県|鳳翔]]遷都を企てるも挫折・唐滅亡後は独立 ==== 五代十国 ==== [[ファイル:Emperor Taizu of Later Liang Zhu Wen.jpg|サムネイル|朱全忠]] * [[朱全忠]]([[852年]] - [[912年]]) - 五代[[後梁]]の初代皇帝(太祖)(在位[[907年]] - [[912年]])・門閥貴族を根絶し唐を滅ぼす * [[李存勗]]([[885年]] - [[926年]]) - 五代[[後唐]]の初代皇帝(荘宗)(在位[[923年]] - [[926年]])・[[李克用]]の息子・[[洛陽]]に遷都 * [[李嗣源]]([[926年]] - [[933年]]) - 五代後唐の第2代皇帝(明宗)(在位[[926年]] - [[933年]])・李克用の義子・荘宗を倒し開封に遷都・馮道を登用 * [[石敬瑭]]([[892年]] - [[942年]]) - 五代[[後晋]]の初代皇帝(高祖)(在位[[936年]] - [[942年]])・[[燕雲十六州]]を遼に割譲 * [[劉知遠]]([[895年]] - [[948年]]) - 五代[[後漢 (五代)|後漢]]の初代皇帝(高祖)(在位[[947年]] - [[948年]])・遼の華北撤退後に建国 * [[郭威]]([[904年]] - [[954年]]) - 五代[[後周]]の初代皇帝(太祖)(在位[[950年]] - [[954年]])・後漢の[[劉承祐|隠帝]]を倒し建国 * [[柴栄]]([[921年]] - [[959年]]) - 五代後周の第2代皇帝(世宗)(在位[[954年]] - [[959年]])・五代随一の名君・[[三武一宗の法難|後周の法難]](廃仏)を実施 * [[王建 (前蜀)|王建]]([[847年]] - [[918年]]) - 十国[[前蜀]]の初代皇帝(高祖)(在位[[907年]] - [[918年]])・田令孜を倒して四川で独自勢力を築く * [[銭鏐]]([[852年]] - [[932年]]) - 十国[[呉越]]の初代皇帝(太祖)(在位[[907年]] - [[932年]])・銭塘や江海塘の修理や日本への遣使で有名 * [[李煜]]([[937年]] - [[978年]]) - 十国[[南唐]]の末代皇帝(後主)(在位[[961年]] - [[975年]])・[[詞]]文学の大成者だが宋に国を滅ぼされる * [[布袋]](? - [[917年]]?) - 唐末五代の禅僧・本名は契此か・[[弥勒菩薩]]の化身とされ日本では[[七福神]]の一人とされる * 張承業([[845年]] - [[922年]]) - 唐末五代の宦官・唐滅亡後は李克用に近侍・李存勗の皇帝就任には反対し諫死する * [[楊凝式]]([[873年]] - [[954年]]) - [[五代十国]]時代の官僚・書家として「古意帖」「乞花帖」「韮花帖」がある * [[馮道]]([[882年]] - [[954年]]) - 五代十国時代の政治家・[[中国の宰相|宰相]]・五朝八姓十一君に仕えたことは毀誉褒貶が激しい * 欧陽炯([[896年]] - [[971年]]) - 十国[[前蜀]][[後蜀]]から北宋の詞人・『花間集』序を執筆し「花間派」を代表する * 董源(生没年不詳) - 十国南唐の宮廷画家・江南の風景を描いた山水画に優れ「瀟湘図巻」「夏山図巻」などの伝承作がある * 巨然(生没年不詳) - 十国南唐から北宋の画家・董源の弟子・南唐滅亡後は開封に移る・「層巌叢樹図」などの伝承作がある * 顧閎中([[910年]]頃 - [[980年]]) - 十国南唐の画家・李煜に命じられ描いた「韓煕載夜宴図」は南唐の爛熟を示す画として名高い ==== 北宋 ==== * [[ファイル:Portrait de Song Taizu.jpg|サムネイル|趙匡胤]][[趙匡胤]]([[927年]] - [[976年]]) - 北宋の初代皇帝(太祖)(在位[[960年]] - [[976年]])・[[陳橋の変]]で皇帝に擁立される * [[太宗 (宋)|趙匡義]]([[939年]] - [[997年]]) - 北宋の第2代皇帝(太宗)(在位[[976年]] - [[997年]])・[[北漢]]を討ち中華を再統一 * [[趙普]]([[922年]] - [[992年]]) - 北宋の政治家・宰相・趙匡胤に仕え陳橋の変での活躍で北宋の建国に貢献した * 李昉([[925年]] - [[996年]]) - 北宋の政治家・宰相・太宗に命じられ『[[太平広記]]』『[[太平御覧]]』『[[文苑英華]]』を編纂 * [[陳摶|陳希夷]](? - [[984年]]/[[989年]]) - 五代宋初の隠士・儒仏道三教の調和を説く・紫微斗数や河洛理数などの占術を創始したか * [[楊業]](? - [[986年]]) - 北漢から北宋に帰順した武将・遼との戦いに従事・『[[楊家将演義]]』では楊一族の始祖として活躍 ==== 契丹 ==== * [[耶律阿保機]]([[872年]] - [[926年]]) - 契丹(遼)の初代皇帝(太祖)(可汗在位[[907年]] - 皇帝在位[[916年]] - [[926年]])・渤海を滅ぼす * [[述律皇后|月里朶]]([[879年]] - [[953年]]) - 契丹(遼)の初代皇后(淳欽述律皇后)(皇后在位[[907年]] - [[926年]]・皇太后在位[[926年]] - [[953年]])・夫太祖の建国と次男太宗の治世を助ける * [[耶律突欲]]([[899年]] - [[936年]]) - 契丹(遼)の皇太子・[[東丹国]]国王(在位[[926年]] - [[930年]])・父太祖、弟太宗と共に渤海を滅ぼす * [[耶律堯骨]]([[902年]] - [[947年]]) - 契丹(遼)の第2代皇帝(太宗)(在位[[927年]] - [[947年]])・後晋を滅ぼす * [[世宗 (遼)|耶律兀欲]]([[919年]] - [[951年]]) - 契丹(遼)の第3代皇帝(世宗)(在位[[947年]] - [[951年]])・中央集権化の改革を行う * [[穆宗 (遼)|耶律述律]]([[931年]] - [[969年]]) - 契丹(遼)の第4代皇帝(穆宗)(在位[[951年]] - [[969年]])・従兄世宗の一族を粛正 * [[景宗 (遼)|耶律明扆]]([[948年]] - [[982年]]) - 契丹(遼)の第5代皇帝(景宗)(在位[[969年]] - [[982年]])・[[太原]]の[[沙陀族]]政権[[北漢]]と結び配下とする * [[聖宗 (遼)|耶律文殊奴]]([[972年]] - [[1031年]]) - 契丹(遼)の第6代皇帝(聖宗)(在位[[982年]] - [[1031年]])・[[北宋]]と[[澶淵の盟]]を結び契丹の全盛期を現出 ==== 朝鮮 ==== * [[太祖 (高麗王)|王建]]([[877年]] - [[943年]]) - 高麗の初代国王(太祖)(在位[[918年]] - [[943年]])・[[新羅]]や[[後百済]]を滅ぼす ==== 日本 ==== [[ファイル:Roku Son'ō Tsunemoto.jpg|サムネイル|[[源経基]]]] * [[菅原道真]]([[845年]] - [[903年]]) - 公卿・[[右大臣]]・昌泰の変で失脚・怨霊伝説から[[天満宮]]の祭神とされる * [[三善清行]]([[847年]] - [[919年]]) - 公卿・[[参議]]・漢学者・『延喜格式』の編纂に参加・『[[意見封事十二箇条]]』でも有名 * [[藤原時平]]([[871年]] - [[909年]]) - 公卿・左大臣・昌泰の変の首謀者・最初の[[荘園整理令]]を行い[[延喜の治]]の端緒となる * [[藤原忠平]]([[880年]] - [[949年]]) - 公卿・摂政・関白・[[太政大臣]]・藤原時平や[[藤原仲平]]の弟・[[延喜の治]]を指導 * [[藤原利仁]](生没年不詳) - 武将・鎮守府将軍・武蔵守ほか各地の地方官を歴任・『今昔物語集』の説話や伝説で有名 * [[紀貫之]]([[872年]]? - [[945年]]) - 官人・木工権頭・『土佐日記』作者・『古今和歌集』選者 * [[平将門]](? - [[940年]]) - 武将・承平天慶の乱では関東で「新皇」を名乗る・怨霊伝説から神田明神などの祭神とされる * [[藤原秀郷]](生没年不詳) - 武将・鎮守府将軍・平将門追討の功績で有名・近江三上山の百足退治伝説でも知られる。 * [[小野好古]]([[884年]] - [[968年]]) - 公卿・参議・大宰大弐・追捕使長官として藤原純友を追討 * [[藤原純友]]([[893年]]? - [[941年]]) - 官人・伊予掾・承平天慶の乱では瀬戸内海で海賊を率い国府を襲う * [[小野道風]]([[894年]] - [[967年]]) - 官人・内蔵頭・書家で「[[三蹟]]」の一人・「[[智証大師諡号勅書]]」などが残る * [[藤原実頼]]([[900年]] - [[970年]]) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・北家小野宮流の祖・[[天暦の治]]を指導・安和の変の首謀者か * [[空也]]([[903年]] - [[972年]]) - 僧侶・[[浄土教]]の先駆者として「市聖」と呼ばれる・[[六波羅蜜寺]]開山 * [[藤原師輔]]([[909年]] - [[960年]]) - 公卿・右大臣(九条右大臣)・北家九条流の祖・天暦の治を指導 * [[性空]]([[910年]] - [[1007年]]) - 天台宗の僧・書写上人・[[播磨国]][[圓教寺 (姫路市)|書写山円教寺]]開山で[[花山天皇|花山法皇]]の尊崇を受ける * [[源順]]([[911年]] - [[983年]]) - 学者・歌人・日本最古の分類体辞典『[[和名類聚抄]]』を編纂・[[梨壺の五人]]の一人 * [[丹波康頼]]([[912年]] - [[995年]]) - 医師・日本最古の医学書『[[医心方]]』を編纂 * [[良源]](慈恵大師)([[912年]] - [[985年]]) - [[天台座主]]・通称は元三大師・[[比叡山]][[延暦寺]]の中興の祖 * [[源満仲]]([[912年]] - [[997年]]) - 武将・[[鎮守府将軍]]・[[摂津源氏]]/[[大和源氏]]/[[河内源氏]]の祖 * [[源高明]]([[914年]] - [[983年]]) - 公卿・左大臣(西宮左大臣)・安和の変で失脚・有職故実の書『[[西宮記]]』を残す * [[寛朝]]([[916年]] - [[998年]]) - 真言宗の僧侶(大僧正)・東寺長者・京都[[遍照寺 (京都市)|遍照寺]]開山・平将門調伏で[[成田山新勝寺]]を開く * [[源博雅]]([[918年]] - [[980年]]) - 公卿(皇后宮権大夫)・[[雅楽]]家・「博雅三位」と呼ばれる名手で笛や琵琶にまつわる伝説も多い * [[安倍晴明]]([[921年]] - [[1005年]]) - [[陰陽師]]・天文博士・神秘的な人物として伝説化される * [[藤原兼家]]([[929年]] - [[990年]]) - 公卿・摂政・関白・太政大臣・藤原道長の父・[[寛和の変]]で一条天皇を擁立 * [[慶滋保胤]]([[933年]]以後 - [[1002年]]) - 文人・儒学者で『池亭記』・『[[日本往生極楽記]]』の著者 * [[藤原道綱母]]([[936年]]? - [[995年]]) - 藤原兼家の妻の一人・藤原倫寧の娘・『[[蜻蛉日記]]』を残す * [[奝然]]([[938年]] - [[1016年]]) - 入宋僧・宋の太宗に引見される・京都[[清涼寺]]の開祖 * [[源信 (僧侶)|源信]]([[942年]] - [[1017年]]) - [[天台宗]]の僧侶・良源の弟子・『[[往生要集]]』著者 * [[藤原佐理]]([[944年]] - [[998年]]) - 公卿・[[参議]]・書家で「三蹟」の一人・「詩懐紙」「離洛帖」などが残る * [[源頼光]]([[948年]] - [[1021年]]) - 武将・藤原摂関家の家司・[[大江山]][[酒呑童子]]征伐伝説で知られる * [[藤原道隆]]([[953年]] - [[995年]]) - 公卿・摂政・関白([[中関白家|中関白]])・藤原兼家の長男・伊周や定子の父 * [[藤原道長]]([[966年]] - [[1027年]]) - 公卿・摂政・[[内覧]]・通称は御堂関白・藤原兼家の四男・摂関政治の最盛期 * [[清少納言]]([[966年]]頃 - [[1025年]]?) - 一条天皇の中宮[[定子]]の[[女房]]・『枕草子』作者 === イスラム世界 === ==== サーマーン朝 ==== * [[イスマーイール・サーマーニー]](? - [[907年]]) - サーマーン朝のアミール(在位[[892年]] - [[907年]])・サーマーン朝の全盛期 ==== カラハン朝 ==== * [[サトゥク・ボグラ・ハン]](? - [[993年]]) - カラハン朝の君主(在位[[920年]] - [[958年]])・テュルク系民族の集団改宗を行ったという ==== ガズナ朝 ==== [[ファイル:Pınarbaşı 5.JPG|サムネイル|アルプテギーン]] * [[アルプテギーン]]([[925年]]? - [[963年]]) - ガズナ朝の建国者(在位[[962年]] - [[963年]])・サーマーン朝のホラーサーン総督から自立する ==== ブワイフ朝 ==== * {{ill2|ムイッズッダウラ・ブワイヒー|en|Mu'izz al-Dawla|label=ブワイフ家のムイッズッダウラ}}(? - [[967年]]) - [[イラク]]の[[ブワイフ朝]]の初代[[大アミール]](在位[[945年]] - [[967年]])・[[イクター制]]を導入 ==== ファーティマ朝 ==== * [[アブー=アブドゥッラー|アブー・アブドゥッラー]](? - [[911年]]/[[912年]]) - [[マグリブ]]の[[イスマーイール派]]の教宣員・[[ファーティマ朝]]建国の功臣 * [[ウバイドゥッラー・マフディー・ビッラー|ウバイドゥッラー]]([[873年]] - [[934年]]) - ファーティマ朝の初代カリフ(在位[[909年]] - [[934年]])・[[アグラブ朝]]を倒し[[チュニジア]]に建国 * [[ムイッズ]]([[932年]] - [[975年]]) - ファーティマ朝の第4代カリフ(在位[[953年]] - [[975年]])・[[イフリーキヤ]]から[[カイロ]]に遷都 * [[ジャウハル]](? - [[992年]]) - ファーティマ朝の将軍・カリフのムイッズに仕える・[[イフシード朝]]を倒しエジプトにカイロを建設 * {{仮リンク|アル・アズィーズ・ビラー|en|Al-Aziz Billah|label=アズィーズ}}([[955年]] - [[996年]]) - ファーティマ朝の第5代カリフ(在位[[975年]] - [[996年]])・アズハルモスク付属の[[アズハル学院]]を創設 ==== 後ウマイヤ朝 ==== * [[アブド・アッラフマーン3世]]([[889年]] - [[961年]]) - 後ウマイヤ朝の初代カリフ(在位[[929年]] - [[961年]])・王朝の最盛期・[[ザフラー宮殿]]を造営 * [[ファイル:MonAlhakenII01.jpg|サムネイル|ハカム2世]][[ハカム2世]]([[914年]] - [[976年]]) - 後ウマイヤ朝の第2代カリフ(在位[[961年]] - [[976年]])・首都[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]の図書館に約40万冊の書物を蒐集した * [[マンスール (後ウマイヤ朝宰相)|マンスール]]([[938年]] - [[1002年]]) - 後ウマイヤ朝の大臣・カリフの[[ヒシャーム2世]]に代わり実権を握る・キリスト教諸国に大勝 ==== 学者・詩人 ==== * [[ルーダキー]]([[850年]]代初頭 - [[940年]]頃) - サーマーン朝の[[ペルシア語]]詩人・ペルシア詩の確立者であり『[[カリーラとディムナ]]』他がある * {{仮リンク|アル=ハッラージュ|en|Al-Hallaj}}([[857年]]/[[858年]] - [[922年]]) - ペルシアのイスラム神秘主義者・神人合一の神秘体験を説き異端として処刑される * [[アル・ラーズィー]]([[865年]] - [[925年]]) - ペルシアの錬金術師・化学者・哲学者・医師・[[四体液説]]の誤りを証明 * [[ファーラービー]]([[870年]]? - [[950年]]) - ファーラーブ出身のイスラム哲学者・数学者・[[アリストテレス]]に次ぐ「第二の師」とも呼ばれる * {{仮リンク|アブー・ハサン・アル=アシュアリー|en|Abu Hasan al-Ash'ari|label=アシュアリー}}([[873年]] - [[935年]]) - イスラム神学者・[[ムウタズィラ学派]]ジュッバーイーの弟子だったが離反し[[アシュアリー学派]]の祖となる * [[サアディア・ベン・ヨセフ|サアディア・ガオン]]([[882年]]/[[892年]] - [[942年]]) - バビロニアのスーラにあるユダヤ学院長・[[カライ派]]を論駁し旧約聖書のアラビア語訳を完成 * [[アフマド・イブン・ファドラーン|イブン・ファドラーン]](活躍時期[[921年]] - [[922年]]) - アッバース朝の使節として各地を旅行し『[[ヴォルガ・ブルガール]]旅行記』を残す * [[マスウーディー]]([[896年]] - [[956年]]) - バグダード出身の歴史地理学者・「アラブのヘロドトス」・著作に『[[黄金の牧場と宝石の鉱山]]』がある * [[アブー・アル・ファラジュ・アル・イスファハーニー|アブル・ファラジュ]]([[897年]] - [[967年]])- [[エスファハーン]]生身の学者・アラブ人の詩歌の記録をまとめた『{{仮リンク|歌の書(キターブ・アル・アガニ)|en|Kitab al-Aghani}}』を残す * [[アブド・アル・ラフマン・アル・スーフィー]]([[903年]] - [[986年]]) - ブワイフ朝で活躍した天文学者・『[[星座の書]]』『[[アストロラーベ]]の使用法』がある * {{仮リンク|イブン・ハウカル|en|Ibn Hawqal}}(? - [[978年]]頃) - ニシビス出身の地理学者・インドからアフリカまで遍歴・著書に『大地の姿』(『諸道諸国志』)がある * [[アブル・タイーブ・ムタナッビー|アル・ムタナッビー]]([[915年]] - [[965年]]) - [[クーファ]]出身のアラビア語詩人・「預言者を僭称する者」の別名あり・華麗な作品が多いが殺害される * {{仮リンク|ブズルク・ブン・シャフリヤール|en|Al-Ramhormuzi}}(10世紀後半) - イスラム航海者・インド洋の航海者に伝わる説話を『{{仮リンク|インドの驚異譚|fr|Livre des merveilles de l'Inde}}』でまとめる * {{仮リンク|アブ・マンスール・ムアファック|en|Abu Mansur Muwaffaq}}(10世紀後半) - 薬事学者・ペルシアやインドを旅行し『治療の正しい諸性質の基礎の書』を執筆 * [[ダキーキー]]([[930年]]/[[940年]] - [[978年]]頃) - サーマーン朝で活躍したペルシア語詩人・フィルドウスィーに先行し影響を与える * [[イブン・ナディーム]]([[932年]]頃 - [[990年]]) - [[バグダード]]の書籍商・当時この地にあったアラビア語書籍の目録『[[フィフリスト]]』を著す * [[フェルドウスィー]]([[934年]] - [[1025年]]) - サーマーン朝・[[ガズナ朝]]で活躍したペルシア語詩人・イラン民族叙事詩『[[シャー・ナーメ]]』を書く * [[タヌーヒー]]([[939年]] - [[994年]]) - [[バスラ]]出身の法官・著作家・イスラム世界の[[説話]]を集めた『座談の糧』で知られる * [[イブン・スィーナー]]([[980年]] - [[1037年]]) - [[ブハラ]]出身の[[哲学者]]・[[科学者]]・[[医師]]としては『医学典範』『治癒の書』がある === 南アジア === * {{仮リンク|チャムンダラヤ|en|Chavundaraya}}([[940年]] - [[989年]]) - インドの西ガンガ朝の政治家・軍人・建築家・詩人・シュラバナベルゴラのゴーマティーシュヴァラ像を建立 * [[タイラ2世]](? - [[997年]]) - [[インド]]の[[後期チャールキヤ朝]]の初代の君主(在位[[973年]] - [[997年]])・[[ラーシュトラクータ朝]]を滅ぼす * [[ファイル:Rajaraja mural-2.jpg|サムネイル|ラージャラージャ1世(右)と[[グル]]・{{仮リンク|カルヴラール|en|Karuvurar}}]][[ラージャラージャ1世]](? - [[1014年]]頃) - インドの[[チョーラ朝]]の君主(在位[[985年]] - [[1014年]]頃)・チョーラ朝最盛期の王 * {{仮リンク|ゴーラクシャナータ|en|Gorakhnath}}(10世紀) - インド北部の宗教家・「[[ハタ・ヨーガ]]」の創始者で『シッダ・シッダーンタ・パダッティ』の作者とされる === キリスト教世界 === ==== フランス王国 ==== * {{仮リンク|クリュニーのベルノー|en|Berno of Cluny}}([[850年]] - [[927年]]) - [[クリュニー修道院]]初代院長・[[アキテーヌ公]][[ギヨーム1世 (アキテーヌ公)|ギヨーム1世]]の援助で修道院を建立 * [[ロロ]](徒歩王)([[860年]]頃 - [[933年]]) - [[ノルマン人]]の族長・初代[[ノルマンディー公]](在位[[911年]] - [[933年]]) * {{仮リンク|クリュニーのオド|en|Odo of Cluny}}([[879年]] - [[942年]]) - [[クリュニー修道院]]2代院長・教会刷新運動を進め俗界権力の容喙を拒絶 * {{仮リンク|ゴルツェのヨハネス|en|John of Gorze}}([[900年]] - [[974年]]) - ゴルツェ修道院院長・修道院改革をロレーヌ地方からドイツに広げる * [[ユーグ・カペー]]([[941年]] - [[996年]]) - フランスの初代国王・[[カペー朝]]の祖(在位[[987年]] - [[996年]])・神聖ローマ皇帝オットー1世の甥 * [[ロベール2世 (フランス王)|ロベール2世]](敬虔王)([[972年]] - [[1031年]]) - フランス国王(在位[[996年]] - [[1031年]])・[[ベルト・ド・ブルゴーニュ|ベルト]]との結婚で教皇から破門される ==== 神聖ローマ帝国 ==== * [[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]](捕鳥王)([[876年]] - [[936年]]) - ザクセン朝の祖・ドイツ(東フランク)王(在位[[919年]] - [[936年]]) * [[ファイル:Ottone I di Sassonia.png|サムネイル|神聖ローマ皇帝オットー1世]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]](大帝)([[912年]] - [[973年]]) - ザクセン朝の東フランク王・初代[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]](在位[[962年]] - [[973年]])・マジャール人を撃退 * [[ブルグントのアーデルハイト]]([[931年]]/[[932年]] - [[999年]]) - 神聖ローマ皇帝オットー1世の皇后・息子夫妻の死後はオットー3世の摂政となる * [[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]([[955年]] - [[983年]]) - ザクセン朝の神聖ローマ皇帝(在位[[973年]] - [[983年]])・東ローマ皇女[[テオファヌ]]と結婚 * [[テオファヌ]]([[960年]] - [[991年]]) - 神聖ローマ皇帝オットー2世の皇后・東ローマ皇帝の姪・夫君死後は息子のオットー3世の摂政となる * [[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]([[980年]] - [[1002年]]) - ザクセン朝の神聖ローマ皇帝(在位[[996年]] - [[1002年]])・古代ローマへの憧憬からイタリア遠征を行う * [[ロスヴィータ]]([[935年]]頃 - [[973年]]頃) - ドイツのベネディクト会律修修女・オットー朝ルネサンスを代表するラテン語劇作家・詩人 ==== イタリア ==== * [[ベレンガーリオ1世 (イタリア王)|ベレンガーリオ1世]]([[850年]]? – [[924年]]) - フリウリ辺境伯・イタリア王・ガリリャーノ川の戦いで勝利し西ローマ皇帝(在位[[915年]] - [[924年]])となる * [[マロツィア]]([[890年]]頃 - [[932年]]/[[937年]]) - ローマの女性政治家・その教皇庁支配は[[ポルノクラシー]](娼婦政治)と呼ばれる * [[リュートプランド (クレモナ司教)|クレモナのリウュートプランド]]([[922年]]頃 - [[972年]]) - [[クレモナ]]司教・東ローマ帝国の宮廷に派遣され『コンスタンティノポリス使節記』を残す * [[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]([[937年]] - [[964年]]) - ローマ教皇(在位[[955年]] - [[964年]])・オットー1世を神聖ローマ皇帝として戴冠 * [[シルウェステル2世]]([[950年]]? - [[1003年]]) - ローマ教皇(在位[[999年]] - [[1003年]])・オットー3世の家庭教師・数学者・天文学者でもある * [[ウーゴ (トスカーナ辺境伯)|ウーゴ]]([[953年]]/[[954年]] - [[1001年]])・[[トスカーナ]][[辺境伯]](在位 [[969年]] - [[1001年]])・統治機構を改変した公正な政治は後世の[[ダンテ]]の称賛を受けた ==== 東ローマ帝国 ==== * [[レオーン6世]](ソフォス)([[866年]] - [[912年]]) - 東ローマ帝国[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア朝]]の皇帝(在位[[886年]] - [[912年]])・「バシリカ法典」編纂や四婚問題で知られる * {{仮リンク|コンスタンティノス・ケファラス|de|Konstantinos Kephalas}}(10世紀初頭) - 東ローマ帝国の文人・古代からの詩文を集めた『[[ギリシア詞華集]](パラティン詞華集)』を編纂する * [[コンスタンティノス7世]](ポルフュロゲネトス)([[905年]]? - [[959年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝の皇帝(在位[[913年]] - [[920年]]、[[944年]] - [[959年]]) * [[ニケフォロス2世フォカス]]([[913年]] - [[969年]]) - 東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位[[963年]] - [[969年]])・シリアのアンティオキアを奪回 * [[ヨハネス1世ツィミスケス]]([[925年]] - [[976年]]) - 東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位[[969年]] - [[976年]])・先帝に続き東方領土を拡大 * [[テオファノ]]([[941年]]頃 - ?) - 東ローマ皇帝ロマノス2世の皇后・続く皇帝ニケフォロス2世の皇后・東ローマ帝国史上最大の悪女とも言われる * [[ファイル:Basilios II.jpg|サムネイル|東ローマ皇帝バシレイオス2世]][[バシレイオス2世]](ブルガロクトノス)([[958年]] - [[1025年]]) - 東ローマ帝国マケドニア朝最盛期の皇帝(在位[[976年]] - [[1025年]]) * [[アトスのアサナシオス|アトスのアタナシオス]]([[920年]]頃 - [[1000年]]頃) - 東ローマ帝国の修道士・[[アトス山]]に[[メギスティス・ラヴラ修道院]]を建立し聖地の名を高める * [[シメオン・メタフラスト|シメオン・メタフラテス]](10世紀後半) - 東ローマ帝国の神学者・『聖人伝(メノロギオン)』ほか祈祷文など多くの著作で知られる ==== 東欧 ==== * [[シメオン1世]]([[864年]] - [[927年]]) - ブルガリア国王(在位[[893年]] - [[913年]])・ブルガリア皇帝(在位[[913年]] - [[927年]]) * [[ボゴミル派|ボゴミル]](10世紀前半) - ブルガリア支配下の西マケドニアの司祭・異端パウロ派の影響から善悪二元論のボゴミル派を創設 * [[トミスラヴ (クロアチア王)|トミスラヴ]](? - [[928年]]) - [[クロアチア]]の初代国王([[925年]] - [[928年]])・マジャール人やフランク人を抑えて独立を達成する * [[オリガ (キエフ大公妃)|オリガ]](? - [[969年]]) - キエフ大公国第2代大公[[イーゴリ1世]]の妃・第3代大公[[スヴャトスラフ1世]]の摂政・キリスト教(東方正教会)を受容 * [[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア公)|ヴァーツラフ1世]]([[907年]] - [[935年]]) - [[プシェミスル朝]]の[[ボヘミア公]](在位[[921年]] - [[935年]])・都[[プラハ]]に[[聖ヴィート大聖堂]]を建立 * [[ミェシュコ1世]]([[935年]]? - [[992年]]) - [[ピャスト朝]]の初代[[ポーランド]]国王(在位[[963年]] - [[992年]])・キリスト教(カトリック教会)を受容 * [[ファイル:Titulyarnik - Sviatoslav.png|サムネイル|キエフ大公スヴャトスラフ1世]][[スヴャトスラフ1世]]([[942年]]頃 - [[972年]]) - [[キエフ大公]](在位[[945年]] - [[972年]])・[[ハザール王国]]を滅ぼし、キエフ・ルーシの最大版図を築く * {{仮リンク|ナレクのグレゴリオス|en|Gregory of Narek}}([[951年]] - [[1003年]]/[[1010年]]) - アルメニアの修道士・神学者・詩文に優れ『哀歌』の名で知られる祈祷書を執筆 * [[ウラディミル1世]](聖公)([[956年]] - [[1015年]]) - [[キエフ大公]](在位[[980年]] - [[1015年]])・キリスト教(東方正教会)を受容 * [[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]([[975年]] - [[1038年]]) - [[ハンガリー]]の建国者(在位[[997年]] - [[1038年]])・キリスト教(カトリック教会)を受容 * [[プラハのアダルベルト]]([[956年]] - [[997年]]) - [[プラハ]]司教・東欧各地(ボヘミア・ハンガリー・ポーランド)に宣教・殉教して守護聖人とされる ==== 北欧 ==== * [[ゴーム老王|ゴーム]](老王)(? - [[958年]]?) - [[デンマーク国王]](在位[[936年]]? - [[985年]]?)・王妃との名を刻んだ[[イェリング墳墓群]]の石碑で有名 * [[ハーラル1世 (デンマーク王)|ハーラル1世]](青歯王)(? - [[986年]]?) - デンマーク国王(在位[[958年]]? - [[985年]]?)・キリスト教(カトリック教会)を受容 * [[オーラヴ1世 (ノルウェー王)|オーラヴ1世]]([[960年代]] - [[1000年]]) - ノルウェー国王(在位[[995年]] - [[1000年]])・キリスト教(カトリック教会)を受容 ==== アイスランド ==== * [[ファイル:Leif Ericson on the shore of Vinland.gif|サムネイル|レイフ・エリクソン]][[赤毛のエイリーク]]([[950年]]頃 - [[1003年]]頃) - [[ノルウェー]]生まれで[[アイスランド]]で活躍した航海者・[[グリーンランド]]を発見か * [[レイフ・エリクソン]] ([[970年]]頃 - [[1020年]]頃) - アイスランド生まれの[[ノルマン人]]航海者・[[アメリカ大陸]]を発見か・エイリークの息子 {{Clear}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注"}}--> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{仮リンク|ヴァレリー・ハンセン|en|Valerie Hansen}}著 赤根洋子訳『西暦一〇〇〇年 グローバリゼーションの誕生(''The Year 1000: When Explorers Connected the World—and Globalization Began'' )』 [[文藝春秋社]]、[[2021年]]。{{ISBN2|978-4163913704}} == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 10 | 年代 = 900 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:10せいき}} [[Category:10世紀|*]]
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9世紀
9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。 日本では平安時代前期にあたり、唐制に基づく律令制が衰退に向かい、戸籍に基づく人別課税から、田堵と呼ばれる実際に公田を請け負い経営している富豪層を負名として土地課税する制度に移行する。変動する在地社会を現実に即して統治するために現地派遣の国司の筆頭者に大幅な権限が付与され、受領と呼ばれるようになる。
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9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{centurybox}} [[ファイル:Viking Ship Museum - Oseberg ship - 3.jpg|thumb|250px|[[ヴァイキング]]時代の到来。巧みな航海術を駆使した北欧の海賊はヴァイキングと呼ばれ恐れられた。画像は[[ノルウェー]]のオーセベリ墳丘墓から出土した[[オーセベリ船|船葬用の船体]]([[オスロ]]の[[ヴァイキング船博物館 (オスロ)|ヴァイキング船博物館]]蔵)。]] [[ファイル:Wikinger.jpg|thumb|250px|[[イングランド]]を襲撃する[[デーン人]](ヴァイキング)。イングランド各地もデーン人の猛攻を受け、[[イーストアングリア]]の[[エドマンド殉教王|エドマンド王]]が殺害された。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。]] [[File:Spillings Silver Hoard 2 closeup.jpg|thumb|right|250px|{{仮リンク|スピリングスの秘宝|en|Spillings Hoard}}。[[ゴットランド島]]はヴァイキングの通商・貿易の拠点であり、それを裏付けるよう1999年にこの島の北端スピリングスでヴァイキング時代の宝物が大量に発見されている。大量の銀製品の他にイスラムや[[ハザール]]の貨幣も出土している。]] [[ファイル:Samara spiralovity minaret rijen1973.jpg|thumb|220px|[[マルウィヤ・ミナレット]](サーマッラーのミナレット)。[[アッバース朝]]第8代カリフの[[ムウタスィム]]が建築した[[サーマッラー]]の大モスク付属の螺旋式のミナレット。]] [[ファイル:Harun Al-Rashid and the World of the Thousand and One Nights.jpg|thumb|right|180px|[[ハールーン・アッラシード]]。アッバース朝最盛期のカリフで、『[[千夜一夜物語]]』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。]] [[ファイル:Maqamat hariri.jpg|thumb|220px|「[[知恵の館]](バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・[[マアムーン]]の治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画([[フランス国立図書館]]蔵)。]] [[File:مجسمه امیر یعقوب لیث صفاری در زابل.jpg|thumb|right|220px|[[銅細工師]]サッファール。アッバース朝の衰退に伴い最初にイラン人王朝を建てたのが[[ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール]]である。ヤアクーブは銅細工師から[[アイヤール]](イラン世界における任侠の徒)となり、貧者に尽くす[[義賊]]であったとの伝説もあり、今日でもイラン人の評判は高い。画像は[[デズフール]]にあるサッファールの銅像。]] [[ファイル:Manjusri Kumara (bodhisattva of wisdom), India, Pala dynesty, 9th century, stone, Honolulu Academy of Arts.jpg|thumb|200px|インド最後の仏教王朝の[[パーラ朝]]。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の[[文殊菩薩]]石像([[ホノルル美術館]])。]] [[ファイル:Jingangjing.jpg|thumb|250px|[[敦煌文書]]。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は[[大英博物館]]所蔵の「[[金剛般若波羅蜜経]]」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の[[懿宗]]の治世の868年に作成されたもの。]] [[File:Cover and page of Ennin's Diary - The Record of a Pilgrimage to China in Search of the Law 入唐求法巡禮行記.jpg|thumb|right|200px|『[[入唐求法巡礼行記]]』。日本僧[[円仁]]は[[最澄]]の下で天台教学を修めた後、遣唐留学生として中国に赴き詳細に渡る見聞をこの記録にまとめた。唐の[[武宗 (唐)|武宗]]による[[会昌の廃仏]]に遭遇するなど辛酸を舐めたが、それも含めてこの記録は晩唐の貴重な資料となっている。]] [[ファイル:Famen temple 25.jpg|thumb|right|250px|[[法門寺]]宝物。唐では武宗による会昌の廃仏以後も仏教は衰えを見せなかった。歴代皇帝の尊崇を集めた法門寺からは1987年に地下宮殿が発見され多くの宝物が出土した。画像は法門寺の金銀器の一つで{{仮リンク|禁止出境展覧文物|zh|禁止出境展览文物}}でもある「八重宝函」。]] [[File:Pressapochista4.jpg|thumb|right|220px|「海東の盛国」。[[靺鞨]]人と[[高句麗]]遺民により建国された[[渤海 (国)|渤海]]は、国王[[大仁秀]]と続く[[大彝震]]のもとで国力を増進し、唐や日本との良好な関係もあって、この時期「海東の盛国」と呼ばれた。画像は大彝震の年号「[[咸和 (渤海)|咸和]]」が刻まれた「咸和四年銘仏龕([[倉敷市]][[大原美術館]]蔵)」。]] [[ファイル:Taizokai.jpg|thumb|220px|[[密教]]招来。[[空海]]らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる[[胎蔵界]][[曼荼羅]]で京都[[東寺]]所蔵のもの。]] [[ファイル:Emperor Saga large.jpg|thumb|right|180px|崇文の治。[[薬子の変]]から[[承和の変]]までの嵯峨・淳和・仁明の三代の治世は、勅撰漢詩集の編纂にみられる文雅が重んじられた時代で、安定した政治が行われた。画像は[[三筆]]の一人でも名高い[[嵯峨天皇]]の肖像画([[御物]])。]] [[File:Nakatsuhime Yakushiji.jpg|thumb|right|180px|[[神仏習合]]の深化。奈良時代に始まった神仏習合の流れから、平安時代前期には日本古来の神々の像が作られるようになった。画像は[[薬師寺|薬師寺休ヶ岡八幡宮]]にある[[国宝]]・[[八幡三神]]の[[比売神]]([[応神天皇]]皇后の[[仲姫命]])の神像。]] [[File:Scène de l'Ise-monogatari par Nonomura Sōtatsu.jpg|thumb|right|220px|『[[伊勢物語]]』の世界。この物語の主人公は政治では不遇でありながら歌才に恵まれた貴公子[[在原業平]]がモデルとされている。画像は伝[[俵屋宗達]]の『伊勢物語図色紙』([[大和文華館]]蔵)六段芥川で業平が二条后高子を連れ出す場面。]] [[ファイル:Ban dainagon ekotoba.jpg|thumb|450px|[[応天門の変]]。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「[[伴大納言絵詞]]」([[出光美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Tiwanaku - Versunkener Hof.jpg|thumb|right|250px|[[ティワナク]]。[[ボリビア]]の[[ラパス県 (ボリビア)|ラパス県]]の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。]] [[ファイル:2002.12.29 18 Codz Poop Kabah Yucatan Mexico.jpg|thumb|right|250px|[[カバー (マヤ遺跡)|カバー]]遺跡。[[ユカタン半島]]北部の遺跡で、[[プウク式]]装飾で有名なコズ・ポープ神殿がある。画像は雨の神[[チャク]]神の仮面で覆われたコズ・ポープ神殿の[[ファサード]]で、裏手と側柱に9世紀の日付がなされている。]] [[File:KarlII monks.jpg|thumb|right|200px|[[カロリング朝|カロリング帝国]]の分裂。[[ヴェルダン条約]]と続く[[メルセン条約]]でカール大帝の遺領は三分割された。画像は両条約で西フランク王となった禿頭王シャルル2世の肖像で、フランス国立図書館所蔵の『{{仮リンク|ヴィヴィアンの聖書|en|First Bible of Charles the Bald}}』の細密画。]] [[ファイル:Siege of Paris (885–886).jpeg|thumb|250px|「[[パリ包囲戦 (885年-886年)|パリの戦い]]」。[[ウード (西フランク王)|パリ伯ウード]]は、885年に始まったヴァイキングの攻撃から[[パリ]]を死守し名声を高めた。画像は[[ジャン=ヴィクトール・シュネッツ]]の歴史画([[ヴェルサイユ宮殿]]「{{仮リンク|戦闘の回廊|en|Galerie des Batailles}}」蔵)。]] [[File:Alfred-jewel-ashmolean.jpg|thumb|right|200px|[[アルフレッド大王]]。デーン人を下しイングランドの再建に貢献したことでアングロ・サクソン史上唯一の「大王」の名がつけられた。画像は「AELFRED MEC HEHT GEWYRCAN(アルフレッドの命で作られた)」の銘を持つ「{{仮リンク|アルフレッドの宝飾|en|Alfred Jewel}}([[アシュモリアン博物館]]蔵)」。]] [[ファイル:Варяги.jpg|thumb|right|250px|[[ルーシ]]国家の成立。画像は[[スタラヤ・ラドガ|ラドガ]]にて東スラブ人と出会う[[ヴァリャーグ]]の[[リューリク]]一行を描いた[[ヴィクトル・ヴァスネツォフ]]の歴史画。]] [[File:Clasm Chludov.jpg|thumb|right|200px|[[イコノクラスム]]の継続。[[第2ニカイア公会議]]以降も、東ローマ帝国では断続的に聖像破壊運動は続いた。画像は{{仮リンク|クルドフ詩編|en|Chludov Psalter}}挿絵で、キリストの受難になぞらえて836年に[[コンスタンディヌーポリ総主教|コンスタンティノポリス総主教]]となったヨハンネス7世の破壊運動を描いている場面。]] [[ファイル:Apse mosaic Hagia Sophia Virgin and Child.jpg|thumb|right|200px|イコノクラスムの完全終結。東ローマ帝国では843年の[[コンスタンティノポリス]]での教会会議により聖画像崇敬派の勝利が確定し正教の教義が確認された。画像は870年頃に作られた[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア教会]][[アプス]]半ドームにある聖母子のモザイク画。]] [[ファイル:Kyrill&Method.jpg|thumb|right|200px|スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟は[[グラゴール文字]]を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟の[[イコン]](聖画像)。]] [[ファイル:Old Basilica in Pliska 2.JPG|thumb|right|250px|[[プリスカの戦い]]。プリスカは[[第一次ブルガリア帝国]]の都で、ここをめぐり東ローマ帝国と死闘を繰り広げた。811年にはバルビツィア峠でブルガリア皇帝[[クルム]]が東ローマ皇帝[[ニケフォロス2世]]を戦死させ大勝利を収めた。画像は現在の[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]遺跡。]] '''9世紀'''(きゅうせいき)は、[[西暦]][[801年]]から西暦[[900年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 [[ファイル:East-Hem 800ad.jpg|thumb|300px|9世紀初頭の世界地図([[東半球]])]] [[ファイル:East-Hem 900ad.jpg|thumb|300px|9世紀末の世界地図(東半球)]] == できごと == * 9世紀 ** [[ウクライナ]]西部[[ポジーリャ]]の「[[ズブルチの偶像]]」が建造される。 *** 東欧各地にキリスト教が伝播する以前の数少ない[[異教]]信仰の痕跡(四面神[[スヴェントヴィト]]と推定)。 === 800年代 === {{main|800年代}} * [[800年]]頃 ** [[チチカカ湖]]周辺の[[ティワナク文化]](ティワナクV期前半)が最盛期を迎える。 ** インドの[[ラージャスターン州]][[ジャイプル]]近郊にある[[チャンド・バオリ]]の階段井戸が建設される。 ** [[室生寺]]の五重塔が建立される。 * 801年 ** [[征夷大将軍]]の[[坂上田村麻呂]]が[[陸奥国|陸奥]]へ向かう。 ** [[畿内]]の[[班田]]を12年に一度とする。 ** [[バルセロナ]]包囲戦でカール大帝がイスラム勢力に勝利し[[バルセロナ伯]]を設置。 * 802年 ** {{仮リンク|ジャヤーヴァルマン2世|en|Jayavarman II}}が[[カンボジア]]を統一し、[[アンコール朝]]が成立。 ** 東ローマ帝国で女帝[[エイレーネー (東ローマ女帝)|エイレーネー]]が政変で廃位され、皇帝[[ニケフォロス1世]]が即位。 ** 坂上田村麻呂が[[胆沢城]]を築く。後に[[鎮守府 (古代)|鎮守府]]を置く。蝦夷の[[アテルイ|大墓公阿弖流為]]ら降伏する。 ** [[スコットランド]]北西[[ヘブリディーズ諸島]]の[[アイオナ修道院]]がヴァイキングに襲撃される(続く806年、825年にも)。 * 803年 ** カール大帝がアッバース朝の[[ハールーン・アッ=ラシード]]に派遣していた使節が[[アーヘン]]宮廷に戻る。 *** ハールーン・アッ=ラシードから贈られた象「[[アブル=アッバース]]」を伴っての帰国となる。 ** ハールーン・アッ=ラシードが[[ジャアファル]]を処刑。バルマク家一族を粛清。 ** 東ローマ皇帝ニケフォロス1世と西ローマ帝国カール大帝の講和({{仮リンク|ニケフォロスの平和|en|Pax Nicephori}})。 *** この講和により東ローマに服属しつつ、[[ヴェネツィア]]が事実上の独立を勝ち取る。 ** 坂上田村麻呂が[[志波城]]を築く。 * 804年 ** 坂上田村麻呂を再び征夷大将軍に任ずる。 ** [[最澄]]と[[空海]]が唐にわたる。 * 805年 ** 唐の皇帝[[順宗 (唐)|順宗]]が即位し政治改革を志す([[永貞 (唐)|永貞]]の革新)。 *** 宦官や保守派の巻き返しで退位させられ、息子の[[憲宗 (唐)|憲宗]]が即位。 *** {{仮リンク|王叔文|zh|王叔文}}・[[柳宗元]]・[[劉禹錫]]らの少壮官僚らが失脚({{仮リンク|ニ王八司馬事件|zh|二王八司马}})。 ** 最澄が[[天台宗]]を学んで帰国。 ** [[菅野真道]]と[[藤原緒嗣]]との間で「[[徳政相論]]」が行われる。 ** カール大帝によりアーヘン宮廷礼拝堂([[アーヘン大聖堂]])が完成し奉献される(796年 - )。 * 806年 ** [[桓武天皇]]が没し、第51代[[平城天皇]]が即位。 ** 空海が[[真言宗]]を学んで帰国。 ** カール大帝による「国王分割令」(ディヴィシオ・レグノールム)。 ** [[アッバース朝の小アジア侵攻 (806年)|アッバース朝の小アジア侵攻]]。 *** アッバース朝が東ローマ帝国から小アジアのティアナ・ヘラクレアを奪う。ラーフィー・イブヌル・ライスの反乱。 * 807年 ** [[伊予親王の変]]。 ** [[生野銀山]]が開坑される。 * 809年 ** ハールーン・アッ=ラシードが死去。 ** 平城天皇が譲位し、第52代[[嵯峨天皇]]が即位(崇文の治)。 === 810年代 === {{main|810年代}} * 810年 ** [[薬子の変]]。 *** 乱に先んじて[[蔵人所]]を設置。平城上皇が旧都平城京に出奔。 *** [[藤原仲成]]が射殺され、[[藤原薬子]]が自殺、嵯峨天皇側が勝利。 *** 平城上皇が出家、[[高岳親王]]が[[廃太子]]となる。 *** 嵯峨天皇が皇女の[[有智子内親王]]を[[斎王]]とする([[賀茂斎院]]の始まり)。 ** [[デンマーク]]王[[ゴズフレズ (デンマーク王)|ゴズフレズ]]がフランク王国支配の[[フリースラント]]を襲撃する。 * 811年 ** 東ローマ皇帝ニケフォロス1世が[[プリスカの戦い]]でブルガリアの[[クルム (ブルガリア皇帝)|クルム]]に敗北し戦死。 ** 征夷将軍[[文室綿麻呂]]が[[爾薩体村|爾薩体]]・[[閉伊郡|幣伊]]の二村の蝦夷を討つ(38年戦争終結)。 * 812年 ** 東ローマ皇帝ミカエル1世ランガベーがカール大帝を「フランク族の皇帝」として承認。 ** [[嵯峨天皇]]が[[神泉苑]]にて「花宴の節」を催す(記録に残る日本での[[桜]]の[[花見]]の初出)。 * 813年 ** [[ガリシア]]の[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]で{{仮リンク|隠者ペラーヨ|es|Ermitaño Pelayo}}が聖[[ヤコブ (ゼベダイの子)|ヤコブ]]の墓を発見したという。 ** アッバース朝6代カリフの[[アミーン]]が異母兄[[マアムーン]]に暗殺される。マアムーンが第7代カリフに即位。 * 814年 ** 日本最初の勅撰漢詩集『[[凌雲集]]』が成立。 ** 嵯峨天皇がその子女8人に源姓を賜い臣籍降下させる([[嵯峨源氏]]。賜姓[[源氏]]の始まり)。 ** カール大帝死去、息子の[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]が単独皇帝となる。 * 815年 - 東ローマ皇帝[[レオーン5世]]が再び聖像破壊令を出す(第二次[[イコノクラスム]] - 843年)。 * 816年 ** 空海が[[高野山]][[金剛峯寺]]を開基。[[泰範]]の処遇をめぐり空海と最澄が訣別。 ** [[アゼルバイジャン]]で{{仮リンク|ホッラム教徒|en|Khorramdin}}{{仮リンク|バーバク・ホッラムディン|en|Babak Khorramdin}}の反乱( - [[837年]])。 * 816年頃 - このころまでに[[検非違使]]が設置される。 * 817年 ** 唐の皇帝憲宗の命で淮南西道節度使の呉元済が討伐される。 ** 皇帝ルートヴィヒ1世が[[帝国整序令]]を発布。 * 818年 ** [[菅原清公]]らが『[[文華秀麗集]]』を編纂。 ** 嵯峨天皇が死刑停止の宣旨(『[[弘仁格]]』)を公布し死刑執行が停止される( - [[1156年]])。 ** 嵯峨天皇の命により天下の儀式・男女の衣服・拝礼作法などが唐風とされ、[[大内裏]]諸門の名称も和名から唐名に変更される。 * 819年 ** 皇帝憲宗に献じた[[韓愈]]の『[[論仏骨表]]』が勅勘を被り、韓愈が潮州刺史に左遷される。 ** 最澄が『[[顕戒論]]』を執筆する。 === 820年代 === {{main|820年代}} * 820年 ** 『[[弘仁格]]』と『[[弘仁式]]』が撰進される。 ** 東ローマ帝国で[[レオーン5世]]が暗殺され、皇帝[[ミカエル2世]]が即位しアモリア朝が成立。 *** 小アジアではこれに反対する[[スラヴ人トマス#反乱|スラブ人トマスの反乱]]が起きる。 * 821年 ** [[ホラサーン]]で[[ターヒル朝]]が自立する。 ** 唐と吐蕃との間で[[長慶会盟]]が結ばれる。唐の[[穆宗]]の妹太和公主が[[ウイグル]]の[[崇徳可汗]]と婚姻する。 ** 空海が[[讃岐国]][[満濃池]]の改修工事に着手する。 * 822年 ** 現存最古の説話集『[[日本現報善悪霊異記|日本霊異記]]』を[[景戒]]が編集。 ** 最澄が死去、その7日後に[[比叡山]]の大乗戒壇建立が勅許される。 ** 空海が[[東寺]]を賜与される。 ** マヤの[[コパン]]第17代王ウキト・トーク即位の記録がある祭壇Lの年代。 * 823年 ** 「[[唐蕃会盟碑]]」が建てられる。 ** 嵯峨天皇が譲位し、第53代[[淳和天皇]]が即位。 * 825年 ** [[イングランド]]で[[ウェセックス]]王国の[[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]王が[[マーシア]]を[[エランダン]]で破る。 ** 後ウマイヤ朝の[[アブド・アッラフマーン2世]]が[[ムルシア]]を建設。 * 825年頃 ** [[イニゴ・アリスタ]]がフランク王国に反乱を起こし[[ナバラ王国]]を建国。 * 827年 ** [[チュニジア]]の[[アグラブ朝]]が[[シチリア島]]征服に着手。 ** 菅原清公・[[良岑安世]]らが『[[経国集]]』を編纂。 ** 東ローマ皇帝[[ミカエル2世]]からフランク王国のルートヴィヒ1世に『[[偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース|偽ディオニュシオス]]文書』が贈られ[[サンドニ大聖堂]]に納められる。 * 828年 - エジプトの[[アレクサンドリア]]から[[マルコ (福音記者)|聖マルコ]]の遺骸が[[ヴェネツィア]]に運ばれる。 * 828年頃 - 空海が[[綜藝種智院]]を創設。 * 829年 - [[ウェセックス]]王国の[[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]がイングランドを統一。 === 830年代 === {{main|830年代}} * 830年頃 ** [[チェック人]](西スラブ族)のモイミール1世が[[モラビア王国]]建設。 ** 淳和天皇の命により空海が『[[十住心論]]』を撰述(略本が『秘蔵宝鑰』)。 * 830年 ** [[唐]]で[[牛僧孺]]と[[李徳裕]]が争う([[牛李の党争]])( - 844年)。 ** [[ハッラーン]]にて[[アッバース朝]]カリフの[[マアムーン]]が[[サービア教徒]]に遭遇する。 ** カリフのマアムーンが[[バグダード]]に「[[知恵の館]]([[バイト・アルヒクマ]])」を建設する。 *** ハッラーンに続きバグダードでのギリシア語文献からアラビア語への翻訳が盛んになる。 ** カロリング朝で父帝ルードヴィヒ1世に対する息子三兄弟のクーデタが起きる。 * 831年 ** 淳和天皇の命により[[滋野貞主]]が日本最古の[[類書]](百科事典)の『[[秘府略]]』を編纂する。 * 832年 ** カリフのマアムーンが[[クフ王のピラミッド]]の内部に調査隊を潜入させる。 ** [[南詔]]が[[ピュー]](驃)を滅ぼす。 * 833年 ** アッバース朝で[[ムウタスィム]]が[[カリフ]]に即位。トルコ人奴隷([[マムルーク]])で親衛隊を組織。 ** 『[[令義解]]』が撰集される。淳和天皇が譲位し、第54代[[仁明天皇]]が即位。 * 834年 ** 仁明天皇の勅により空海が宮中真言院にて最初の[[後七日御修法]]を行う。 ** [[ハザール]]が[[ドン川]]下流域に交易都市[[サルケル]]を建設。 *** 同時期ハザールの同盟国だった東ローマ帝国は黒海北岸に[[テマ・ケルソーノス]]を設置。 * 835年 ** 唐で[[甘露の変]]が起こる。 ** 高野山にて空海が死去。 * 836年 ** アッバース朝がバグダードから[[サーマッラー]]に遷都。 ** [[プラティーハーラ朝]]の[[ボージャ1世]]が北インドの中心地[[カナウジ]]を制圧。 * 837年 ** 唐の[[文宗 (唐)|文宗]]の命による「[[石経|開成石経]]」([[西安碑林博物館]]蔵)が完成する。 * 838年 ** [[小野篁]]を[[隠岐国]]に配流。 ** [[承和 (日本)|承和]]の[[遣唐使]](事実上の最後の遣唐使)で[[円仁]]が唐にわたる( - [[847年]])。 ** [[アモリオンの戦い]]。 * 839年 ** [[アマルフィ共和国]]が独立。 === 840年代 === {{main|840年代}} * 840年 ** [[藤原緒嗣]]らにより『[[日本後紀]]』が完成する。 ** [[ウイグル]]が[[キルギス人|キルギス]]の攻撃により崩壊。 *** 統一ウイグル国家の崩壊により、[[甘州ウイグル王国]]・[[天山ウイグル王国]]他の地域政権が成立。 *** この一部が[[カラ・ハン朝]]成立に合流。 ** イタリア・[[カンパニア]]地方の中心都市[[カプア]]がイスラム教徒によって焼き払われる。 * 841年 - [[フォントノワの戦い]]。 * 842年 ** [[ストラスブールの誓い]]。[[マコン]]の和平。 ** 嵯峨上皇が死去し、[[承和の変]]が起こる。 *** 皇太子[[恒貞親王]]が廃され、道康親王が太子となる。 *** [[橘逸勢]]・[[伴健岑]]らが配流となり、太子の外伯父[[藤原良房]]の勢力が拡大。 ** 吐蕃の[[ランダルマ]]王が暗殺され、後継者争いから吐蕃は分裂する。 * 843年 ** [[ヴェルダン条約]]で[[フランク王国]]が3つに分裂。 ** コンスタンティノポリス教会会議で聖像崇敬派の最終的な勝利が確定し、[[イコノクラスム]]が終結する。 *** 主催者は東ローマ皇帝[[ミカエル3世]]の母{{仮リンク|テオドラ (テオフィロスの皇后)|en|Theodora (wife of Theophilos)}}と総主教メトディオス1世。 *** このことを記念して「{{仮リンク|正教勝利の主日|en|Feast of Orthodoxy}}」が制定される。 ** [[ノルウェー]]のオーセベリ墳丘墓に[[オーセベリ船|船葬用の船体]]([[オスロ]]の[[ヴァイキング船博物館]]蔵)が埋められる。 ** [[文室宮田麻呂]]が乱を企てたとして[[伊豆]]に流される。 * 844年 - クラビホの戦いで[[アストゥリアス]]王[[ラミロ1世 (アストゥリアス王)|ラミロ1世]]がイスラム教徒に勝利。 * 845年 ** 唐の[[武宗 (唐)|武宗]]が仏教を弾圧([[会昌の廃仏]])。 *** 唐では[[祆教]]・[[摩尼教]]・[[景教]]などの外来の[[三夷教]]も弾圧される。 ** [[ハンブルク]]がデンマーク王ホリック率いるヴァイキングに襲撃される。 * 846年 - ローマを攻撃したイスラム軍を[[グイード1世・ディ・スポレート]]が撃退。 * 846年頃 ** [[ブハーリー]]が[[ハディース]]『真正集([[サヒーフ・アル=ブハーリー]])』を完成させる。 ** [[イブン・フルダーズベ]]がアラビア語として最古の地理文献である『諸道と諸国の書』を執筆。 *** この著作には東方諸国として「スィーン(支那=唐か)」「シーラ (新羅か) 」「[[ワクワク|ワークワーク]]([[倭国]]=日本か)」の記載がある。 * 847年 ** ローマで「[[ボルゴの火災]]」。 ** 円仁が唐から新羅船により日本に帰国。[[恵萼]]が唐僧[[義空]]を伴って唐から帰国、義空は嵯峨野[[檀林寺]]の開山となる。 * 849年 ** イタリアの[[ナポリ]]・[[アマルフィ]]・[[ガエータ|ガエタ]]の艦隊がイスラム艦隊に勝利([[オスティアの海戦]])。 ** 東ローマ皇帝ミカエル3世の叔父{{仮リンク|バルダス(東ローマ皇帝の叔父)|en|Bardas}}により[[コンスタンティノープル大学|コンスタンティノポリス大学]](マグナウラ宮殿大学)が再興される。 === 850年代 === {{main|850年代}} * 850年 - 仁明天皇が譲位し、第55代[[文徳天皇]]が即位。 * 850年頃 - 『{{仮リンク|偽イシドルス法令集|en|Pseudo-Isidore}}』が北フランスで編纂される。 ** この法令集には教皇[[首位権]]を説いた「[[コンスタンティヌスの寄進状]]」も含まれる。 * 851年 ** ジャングランの戦いで、[[ブルターニュ公|ブルターニュ王]]エリスポエが西フランク王[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]に勝利し独立を獲得。 ** [[常暁]]の奏上によりこの年から宮中で[[大元帥法]]が行われる。 * 853年 - 唐の商人[[欽良暉]]が[[博多]]から[[福州]]に[[円珍]]を送る。 * 855年 ** [[斉衡]]地震により[[奈良]]の[[東大寺]][[大仏]]の頭部が落下する。 ** [[ヴァランス (ドローム県)|ヴァランス]]教会会議で[[ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ]]が断罪される。 ** [[ウェセックス]]王[[エゼルウルフ]]が末子アルフレッドを連れてローマに巡礼する( - [[856年]])。 * 856年 ** 懐建可汗が唐から冊封を受けて[[天山ウイグル王国]]が成立する。 ** イランのダムガンで死者20万人の大地震([[ヘカトンピュロス]]の地震)。 * 858年 ** 文徳天皇が没し、第56代[[清和天皇]]が即位。 ** [[藤原良房]]が臣下としては初の[[摂政]]となる。 * 859年 ** 唐で[[裘甫の乱]]が起こる。 ** [[南詔]]王世隆が皇帝を自称する。 ** [[モロッコ]]・[[フェズ]]の[[カラウィーイーン大学]]が創設される。 ** [[剛勇のビョルン]]らヴァイキングによる地中海遠征( - 861年)。 === 860年代 === {{main|860年代}} * 860年 ** [[行教]]が[[清和天皇]]の命を受けて[[石清水八幡宮]]を創建。 ** [[ヴァリャーグ]]が東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻撃するも撃退される([[ルーシ・ビザンツ戦争]])。 * 861年 ** 日本で[[宣明暦]]が採用される。 *** 唐で822年に作成された暦で、1685年の[[貞享暦]]への改定まで使用され続ける。 ** [[ヴェズレー]]の[[サント=マドレーヌ大聖堂 (ヴェズレー)|サント=マドレーヌ大聖堂]]がベネディクト会士により建立される。 * 862年 ** 伝承では[[ノルマン人]]ルス族の[[リューリク]]が[[ノブゴロド公国]]を建国する。[[ロシア]]国家のはじまり。 ** [[フランドル家]]のボードゥアン1世が西フランク王シャルル2世の王女ジュディトと結婚し、初代[[フランドル伯|フランドル辺境伯]]となる。 * 863年 ** [[ララカオンの戦い]]で東ローマ帝国がアッバース朝アミールのウマル・アル=アクタに勝利。 ** [[東ローマ帝国]]の[[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]、[[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]](コンスタンティノス)兄弟が[[スラヴ人]]に対して[[キリスト教]]伝道を開始する。 ** ローマ教皇[[ニコラウス1世 (ローマ教皇)|ニコラウス1世]]が[[コンスタンティノポリス総主教]][[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]を破門にする。「フォティオスの教会分裂」の始まり( - [[867年]])。 ** [[神泉苑]]にて最初の[[御霊会]]が行われる(→[[869年]])。 * 864年 ** [[富士山_(代表的なトピック)|富士山]][[貞観大噴火]]。 *** 側火山である長尾山ほかが形成され、流れ出た青木ヶ原溶岩が[[青木ヶ原樹海|樹海]]のもとをなす。 *** [[剗の海]]が埋没し[[富士五湖]]の[[西湖 (富士五湖)|西湖]]・[[精進湖]]が形成される。 ** [[カスピ海]]南岸に[[アラヴィー朝]](ザイド朝)が成立。 ** 西フランク王シャルル2世によりヴァイキングに対する組織防衛や[[パリ造幣局|造幣局]]に関する{{仮リンク|ピトレ勅令|fr|Édit de Pîtres}}が出される。 ** [[コンク]]の修道士アリヴィスクスが[[アジャン]]教会所蔵の[[聖フォワ|聖女フォワ]]の[[聖遺物]]を窃取する( - [[875年]])。 * 864年頃 ** [[第一次ブルガリア帝国]]の[[ボリス1世]]がキリスト教に改宗する。 * 865年 ** デーン人[[大異教軍]]がイングランド東部[[イースト・アングリア]]に上陸し各地を制圧する。 *** 以後デーン人が[[七王国]]に侵入し、彼らの定住地[[デーンロウ]]を形成する。 ** [[高岳親王]](真如)が天竺行きの途上の羅越国にて死去する。入唐僧[[宗叡]]が帰国(入唐八家の最後の帰国)。 * 866年 ** [[応天門の変]]がおこる。応天門放火の罪で[[大納言]][[伴善男]]が流罪となる。 ** 日本最初の[[大師 (僧)|大師]]号として最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の号が贈られる。 * 867年 ** 東ローマ帝国で[[ミカエル3世]]が暗殺され[[アモリア朝]]が断絶。 *** 政変を起こした[[バシレイオス1世]]が単独皇帝に即位し[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア朝]]が成立。 ** コンスタンティノポリスの[[アヤソフィア|ハギア・ソフィア大聖堂]][[アプス]]半ドームの「玉座の聖母子像」のモザイクが造られる。 ** [[イラン]]に[[サッファール朝]]が興る。 * 868年 ** 唐で[[龐勛の乱]]が起こる。 ** [[エジプト]]に[[トゥールーン朝]]が興る。 ** 『[[熊野年代記]]』に記録された慶竜による最古の[[補陀落渡海]]。 * 869年 ** [[第4コンスタンティノポリス公会議]]による総主教フォティオスの追放( - 870年)。 ** デーン人大異教軍との戦いで[[イースト・アングリア]]王[[エドマンド殉教王|エドマンド]]が殉教する。 ** [[イラク]]で黒人奴隷が反乱を起こす([[ザンジュの乱]])。 ** 藤原良房・[[春澄善縄]]らにより『[[続日本後紀]]』が完成する。『[[貞観格]]』が撰進され施行される。 ** [[貞観地震]]発生、[[陸奥国]]を大津波が襲う。 ** 疫病を鎮めるため卜部日良麿が神泉苑南端で矛を立て、[[祇園社]]の神輿を出し、[[牛頭天王]]を祀る御霊会を行う([[祇園祭]]の始まり)。 ** 「石碑11号」に残る[[ティカル]]最後の王[[ハサウ・チャン・カウィール2世]]の[[マヤ文字]]の記録の年。 === 870年代 === {{main|870年代}} * 870年 - [[メルセン条約]]により中部フランクが東西に2分割される。 * 871年 ** [[アルフレッド大王|アルフレッド]]がイングランド王となる( - 899年)。 **『[[貞観式]]』が撰進され施行される。 * 873年 - サッファール朝がターヒル朝を倒し[[ホラーサーン]]地方を獲得。 * 874年 ** 唐の[[僖宗]]皇帝が[[法門寺]]に仏舎利ほかの宝物を寄進し封印する(法門寺地下宮殿宝物)。 ** 『[[植民の書]]』では[[ノルウェー]]人首領[[インゴールヴル・アルナルソン]]が最初の[[アイスランド]]定住したと伝える。 ** [[シーア派]]の第11代イマームの[[ハサン・アスカリー]]が[[サーマッラー]]で死去。 *** [[十二イマーム派]]では後継者となった息子の[[ムハンマド・ムンタザル]]が第12代[[イマーム]]となったとされる。 *** 父の葬儀を司式した後そのままムハンマド・ムンタザルは[[隠れイマーム]]([[ガイバ (イスラム教)|ガイバ]])となったと伝わる。 * 875年 ** [[聖宝]]が[[醍醐寺]]を創建。 ** 唐で[[黄巣]]の乱が起こる( - 884年)。 ** 中央アジア最初のイラン系イスラム王朝である[[サーマーン朝]]が興る。 *** [[サーマーン・フダー]]の子孫[[ナスル1世]]がアッバース朝から支配権を認められ、[[サマルカンド]]で自立する。 ** イタリアにおけるカロリング朝の断絶。 * 876年 ** 清和天皇が譲位し、第57代[[陽成天皇]]が即位。 ** [[正子内親王 (嵯峨天皇皇女)|淳和皇后]]が[[恒貞親王|恒寂]](恒貞親王)を開山に迎え[[大覚寺]](旧嵯峨院)が創建される。 ** アンデルナハの戦いで、東フランク王[[ルートヴィヒ3世 (東フランク王)|ルートヴィヒ3世]]ら三兄弟が西フランク王[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]]を撃退。 * 877年 ** トゥルーン朝が[[シリア]]を併合。 ** {{仮リンク|キエルジー勅令|fr|Capitulaire de Quierzy}}により西フランク王シャルル2世が諸侯の官職の世襲を認める。 ** ロカのヤルルン渓谷を叛徒に占領され吐蕃が滅亡する。 * 878年 ** {{仮リンク|エサンドゥーンの戦い(エディントンの戦い)|en|Battle of Edington}}で、イングランド王アルフレッドが[[ヴァイキング]]のデーン人の侵入を撃退。[[ウェドモーアの和議]]が結ばれる。 ** {{仮リンク|ギフレー1世|ca|Guifré el Pilós}}(多毛伯)が[[バルセロナ伯]]を世襲化する。 ** [[元慶の乱]]が起こり[[藤原保則]]が陸奥の蝦夷平定に派遣される。 ** [[広州大虐殺 (唐代)|広州大虐殺]]。 * 879年 ** {{仮リンク|コンスタンティノポリス教会会議|en|Fourth Council of Constantinople (Eastern Orthodox)}}による総主教フォティオスの復権( - 880年)。 ** [[ボソ (プロヴァンス王)|ボソ]]により[[キスユラブルグント王国|下ブルグント王国]]が独立し、プロヴァンス地方がその版図となる。 ** [[クロアティア]]の独立がローマ教皇ヨハネス8世に認められる。 ** 藤原基経らにより『[[日本文徳天皇実録]]』が完成する。 === 880年代 === {{main|880年代}} * 880年 ** [[リブモント条約]]により西フランク王国がロレーヌ西部を放棄。カロリング家の領土相続争いが決着する。 ** 黄巣が洛陽・長安を占領。皇帝僖宗は蜀に逃亡する。 * 881年 - [[ラインラント]]各地の都市が[[ヴァイキング]]に攻撃され、[[アーヘン]]では大聖堂が破壊される。 * 882年 ** 黄巣配下の[[朱全忠|朱温]]が唐軍に帰順し、「全忠」の名を与えられ宣武節度使となる。 ** [[オレグ (キエフ大公)|オレグ]]が[[リューリク]]の子[[イーゴリ1世|イーゴリ]]を擁して[[キエフ]]を占領し、[[キエフ大公国]]を建てる。 * 883年 ** 唐の皇帝僖宗が安化公主を南詔王隆舜に降嫁する。 ** [[モンテ・カッシーノ]]修道院がイスラム教徒サラセン人に破壊される。 * 884年 ** [[藤原基経]]によって陽成天皇が事実上廃位させられ、第58代[[光孝天皇]]が即位。 ** 王満渡の戦いで、黄巣が唐軍に大敗し逃亡、狼虎谷にて自殺する。 ** アショト1世が[[バグラトゥニ朝アルメニア]]王国を建国する。 * 885年 ** ノルマン人の[[パリ]]攻撃に対し[[ウード (西フランク王)|パリ伯ウード]]やパリ司教ゴズランらが篭城戦( - 886年)。 ** 宦官田令孜と節度使王重栄の対立から皇帝僖宗は鳳翔に逃亡。 * 886年 ** イングランド王アルフレッドが[[ロンドン]]を奪還し、デーン王グスルムとの間で協定を結ぶ。 * 887年 ** イタリアにおける[[カロリング朝]]断絶。 ** 源定省が皇籍復帰し親王宣下の後、皇太子となる。父の光孝天皇の死去とともに、第59代[[宇多天皇]]として即位。 *** [[藤原基経]]が初の[[関白]]となる。これに絡み[[阿衡事件]]が起こる。 ** [[仁和]]3年の[[浅間山]]大噴火。 * 888年 ** 最後の統一フランク王のカール3世(肥満王)が死去。 *** 統一フランク王国は分裂し、東フランクと[[ロタリンギア]]を[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]が、西フランクを[[ウード (西フランク王)|パリ伯ウード]]が、イタリアを[[フリウリ]]公[[ベレンガリオ1世]]が継承。 *** ルドルフ1世により[[ユーラブルグント王国|上ブルグント王国]]が独立し、スイス西部がその版図となる。 ** {{仮リンク|ミラッツォの戦い|en|Battle of Milazzo (888)}}で東ローマ帝国にアグラブ朝が勝利する。 ** 宇多天皇が[[仁和寺]]を創建。 * 889年 - [[高望王]]に平姓を賜う([[桓武平氏]])。 === 890年代 === {{main|890年代}} * 890年 - シリア北部に[[ハムダーン朝]]が成立。 * 891年 ** 藤原基経死去。宇多天皇は摂関を置かず、[[源能有]]・[[菅原道真]]らを登用して国政改革に着手([[寛平の治]])。 ** ルーヴァンの戦いで、東フランク王[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]がノルマン人ヴァイキングに大勝。 * 892年 ** [[朝鮮半島]]で[[甄萱]]が[[完山]](全州)に[[後百済]]を建てる。[[新羅]]が分裂への道を歩み始める。 ** アッバース朝がサーマッラーから再びバグダードに遷都。 ** 菅原道真により『[[類聚国史]]』が完成する。 * 892年頃 - 東ローマ皇帝[[レオーン6世]]により「バシリカ法典」が出される。 * 893年 ** ブルガリア王に[[シメオン1世]]が即位する。第一次ブルガリア帝国は全盛期を現出。 ** 唐に滞在中の留学僧中瓘が日本に宛てて遣唐使中止を奏上。 * 894年 - 菅原道真の進言により、[[遣唐使]]が廃止される。 * 895年 - 東国で7年間に及ぶ群盗蜂起([[寛平・延喜東国の乱]])が勃発。 * 896年 **[[パンノニア]](現ハンガリー)に首長[[アールパード]]に率いられた騎馬民族[[マジャル人]]が定住。 ** 教皇[[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]]の「[[死体裁判]]」が行われる。 *** この時代から次の10世紀を教皇庁の「鉄の時代」と呼び、教皇の権威は低下しローマは混乱が続く。 * 897年 - 父である宇多天皇より位を譲られて、第60代[[醍醐天皇]]が即位する。 ** 宇多天皇は譲位に際し[[帝王学]]の書である「[[寛平御遺誡]]」を醍醐天皇に与える。 * 898年 - [[古マタラム王国]]のバリトゥン王が即位。その治世で[[プランバナン寺院群]]を建立。 * 899年 ** [[藤原時平]]が[[左大臣]]に、菅原道真が[[右大臣]]に就任、両者の対立が激化。 ** カルマト派が[[クーファ]]近郊からイラク南部に勢力を拡大し反乱を起こす。 === 900年代 === {{main|900年代}} * 900年 ** [[バルフ]]の戦いでサーマーン朝の[[イスマーイール・サーマーニー|イスマーイール]]はサッファール朝の[[アムル・イブン・アル=ライス]]に勝利。 *** サーマーン朝は[[ホラーサーン]]と[[マー・ワラー・アンナフル]]を支配下に置き最盛期を迎える。 ** ランゴバルド系{{仮リンク|カプア公国|en|Principality of Capua}}が独立する。 ** [[甄萱]]が[[後百済]]を建国。 == 時代の動向 == === 東アジア === ==== 大陸 ==== ==== 朝鮮半島 ==== ==== 日本 ==== 日本では[[平安時代]]前期にあたり、唐制に基づく[[律令制]]が衰退に向かい、戸籍に基づく人別課税から、[[田堵]]と呼ばれる実際に公田を請け負い経営している[[富豪層]]を[[負名]]として土地課税する制度に移行する。変動する在地社会を現実に即して統治するために現地派遣の[[国司]]の筆頭者に大幅な権限が付与され、[[受領]]と呼ばれるようになる。 === 西アジア === === 南アジア === === 東南アジア === === ヨーロッパ === == 架空のできごと == * 800年 - 814年 - [[カール大帝]](シャルルマーニュ)の軍勢に、サラセン軍との戦さで数々の武勲を立てた騎士アジルールフォがいた。戦場にあっては勇猛果敢、謹厳極まる務めぶりで騎士の鑑ともいうべき存在である。しかしその白銀に輝く甲冑の中はからっぽの「不在の騎士」だった([[イタロ・カルヴィーノ]]『不在の騎士』)。 * 804年 - 遣唐留学僧として唐に渡った稀代の天才[[空海]]は予言をする猫の話から唐の皇帝の相次ぐ怪死事件が起きていることを知る。詩人[[白楽天]]らの協力を得て事件の経緯を探ると50年以上前に死んだ[[楊貴妃]]の存在が浮かび上がってくる([[夢枕獏]]『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』。[[チェン・カイコー]](陳 凱歌)監督の映画「[[空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎]]」も有名)。 * 807年 - [[塩鉄使]]李遜の甥李黄が長安の東市で牛車に乗った白衣の美女と知り合った。その屋敷に招かれ歓待されて三日間の後に、自宅に戻ると気分の悪さを覚え、身を横たえたが、うわごとを口にしながらやがて静かになった。家人が恐る恐るその様子を窺うと、李黄は頭を残して全身が溶けていた。女の家と思われた廃園にはとぐろを巻いた白い蛇がいるばかりであった(初出は中唐の谷神子([[鄭還古]])撰の『李黄』。後世の「[[白蛇伝]]」に発展する)。 * 809年 - 825年 - [[嵯峨天皇]]の御世、とある公卿の娘が深い妬みにとらわれ、[[貴船神社]]に7日間籠って「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈った。明神は哀れに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて[[淀川|宇治川]]に21日間浸れ」と告げた。そのようにして宇治川に21日間浸ると、明神の言ったとおり女は生きながら鬼になった。これが「[[宇治の橋姫]]」である。(『平家物語』剣巻ほか「宇治の橋姫」伝説。「[[丑の刻参り]]」にも影響する)。 * 844年 - クラビホの戦いで「ムーア人殺し」聖[[ヤコブ (ゼベダイの子)|ヤコブ]](サンティアゴ)が出現しキリスト教徒に勝利を導く(「聖ヤコブ出現伝説」)。 * 846年以前 - 唐の詩人[[白楽天]]が日本の知恵を試しに筑紫松浦潟に来訪。漁夫に扮した[[住吉明神]]が白楽天と対決して漢詩と和歌の競作を行い、最後には正体を顕わにして白楽天の乗った船を日本から押し戻す(謡曲「白楽天」)。 * 847年以前 - [[ハールーン・アッ=ラシード]]の孫で、[[ムウタスィム]]の息子である[[アッバース朝]]第9代カリフの{{仮リンク|ヴァテック|en|Al-Wathiq}}(ワーシィク)はこの世の快楽を極めんとして、放埓と残虐の限りを尽くした挙句、魔神の誘いに乗ってソロモン以前の宝物を手に入れるため、地の底の火の王国を訪れる([[ウィリアム・ベックフォード]]の[[ゴシック小説]]『ヴァテック』)。 * 850年頃 - [[エチオピア]]で、ヤギ飼いの少年[[カルディ]]が、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて修道僧に相談したところ、山腹の木に実る赤い[[コーヒー]]の実が原因と判り、その後修道院の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった(この話の原典とされるのは、[[レバノン]]の[[マロン派]]キリスト教徒ファウスト・ナイロニ (Faustus Nairon) の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に記載された[[コーヒーの歴史|コーヒー飲用の起源の伝説]])。 * 853年以前 - 病を得て死んだ[[藤原良相]](西三条大臣)が地獄の[[閻魔]]大王のもとに引き出されるが、地獄で裁判に携わっていた[[小野篁]]の取りなしにより蘇生した(『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」)。 * 855-858年 - ローマ教皇[[レオ4世 (ローマ教皇)|レオ4世]]の後継者としてヨハン・アングリクスが教皇となった。しかしその正体は男装した女性で、急な出産がきっかけで正体が明らかとなり、それがもとで死んだ([[オパヴァのマルティン]]ほか「[[女教皇ヨハンナ]]」伝説)。 * 860年 - [[文徳天皇]]の[[女御]]で[[清和天皇]]の母である[[藤原明子 (染殿后)]]に一目惚れした[[神護寺]]の[[僧正]][[真済]]が、死後、紺青色をした鬼あるいは天狗と化して彼女のもとに現れ悩ませる。そして比叡山無動寺の[[相応]]和尚に退治される(『天台南山無動寺建立和尚伝』ほか)。 * 865年 - [[平城天皇]]の皇子[[高丘親王]]が唐の広州の港を出て仏道修行のため[[天竺]]を目指すも各地を放浪し、人の言葉を話す儒良、夢を食う獏、下半身が鳥の女、ミイラ化した蜜人など不思議な一群に遭遇する([[澁澤龍彦|澁澤龍彥]]『高丘親王航海記』)。 * 895年 - 旅から戻った北欧の王オーヴァンディルは、異母弟フィヨルニルの裏切りにより、まだ幼い息子アムレートの見ている前で殺害される。辛うじて生き残ったアムレートは叔父フィヨルニルへの復讐と、叔父にとらわれた母グートルンを奪い返すことを胸に誓って、見知らぬ大海へと舟を漕ぎ出していく([[ロバート・エガース]]監督の映画「[[ノースマン 導かれし復讐者]]」。その元の話はデンマークの歴史家[[サクソ・グラマティクス]]『[[デンマーク人の事績]]』の「[[アムレート]]伝説」)。 * 9世紀末 - 中央アジアの[[ハザール王国]]の王はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教いずれの宗教に改宗するべき悩んでいた。この謎の国がいずれの宗教に改宗したのか不明のまま、キリスト教に改宗したとする『赤の書』、イスラム教に改宗したとする『緑の書』、ユダヤ教に改宗したという『黄色の書』が残された。一体この国はどんな国だったのか謎は深まるばかり([[ミロラド・パヴィチ]]の幻想小説『{{仮リンク|ハザール事典|en|Dictionary of the Khazars}}』)。 == 人物 == === キリスト教世界 === ==== フランク王国 ==== * [[カール大帝]]([[742年]] - [[814年]]) - フランク王(在位[[768年]] - [[814年]])・西ローマ皇帝(在位[[800年]] - [[814年]]) * [[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](敬虔王)([[778年]] - [[840年]]) - カール大帝の子でフランク王・西ローマ皇帝(在位[[814年]] - [[840年]]) * [[ロタール1世 (フランク王)|ロタール1世]]([[795年]] - [[855年]]) - ヴェルダン条約による[[中部フランク王国|中央フランク王]](在位[[843年]] - [[855年]]) * [[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]([[804年]] - [[876年]]) - ヴェルダン条約による[[東フランク王国|東フランク(ドイツ)王]](在位[[843年]] - [[876年]]) * [[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世(禿頭王)]]([[823年]] - [[877年]]) - ヴェルダン条約による[[西フランク王国|西フランク(フランス)]]王(在位[[843年]] - [[877年]]) * [[カール3世 (フランク王)|カール3世・シャルル肥満王]]([[839年]]頃 - [[888年]]) - 東西フランク王を兼任した最後の[[カロリング朝]]皇帝(在位[[881年]] - [[887年]]) * [[ウード (西フランク王)|ウード]]([[860年]]頃 - [[898年]]) - パリ伯・ノルマン人からパリを死守した功で西フランク国王となる(在位[[888年]] - [[898年]]) * {{仮リンク|メッツのオド|en|Odo of Metz}}([[742年]] - [[814年]]) - フランク王国の建築家・集中式プランの[[アーヘン大聖堂]]の宮廷礼拝堂を建設 * {{仮リンク|アニアーヌのベネディクトゥス|en|Benedict of Aniane}}([[750年]]頃 - [[821年]]) - 修道士・ルートヴィヒ敬虔王に近侍し[[ベネディクトゥス]]の修道規則を普及させる * {{仮リンク|オルレアンのテオドゥルフ|en|Theodulf of Orléans}}([[750年]]/[[760年]]頃 - [[821年]]) - オルレアン司教・詩人・ジェルミニー=デ=プレの小礼拝堂を建設 * [[アインハルト]]([[770年]]頃 - [[840年]]) - フランク王国宮廷学校教授・[[アルクイン]]の弟子・『カール大帝伝』の著者 * [[ラバヌス・マウルス・マグネンティウス]]([[780年]]頃 - [[856年]]) - [[マインツ]]大司教・『事物の本性』ほかを執筆・「ゲルマニアの教師」 * ヒンクマール([[806年]]頃 - [[882年]]) - [[ランス (マルヌ県)|ランス]]大司教・[[ランス大聖堂]]でのフランス王の塗油戴冠を定式化・『[[サンベルタン年代記]]』も執筆 * オルベのゴットシャルク([[808年]]頃 - [[867年]]頃) - 修道士・[[予定説|二重予定説]]を唱えヒンクマールらと対決するが異端の嫌疑を受け幽閉中に死去 * [[エリウゲナ|ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ]]([[810年]]? - [[877年]]?) - フランク王国宮廷学校校長・[[神学者]]・[[哲学者]]・『自然区分論』を著す * [[セドゥリウス・スコトゥス]](9世紀) - 修道士・『キリスト教徒の君主について』は「[[君主の鑑]]」の最も初期の作品とされる ==== イタリア ==== * [[ニコラウス1世 (ローマ教皇)|ニコラウス1世]]([[820年]]? - [[867年]]) - ローマ教皇(在位[[858年]] - [[867年]])・総主教フォティオスと対立 * [[ヨハネス8世 (ローマ教皇)|ヨハネス8世]](? - [[882年]]) - ローマ教皇(在位[[872年]] - [[882年]])・サラセン人の攻撃からローマを守る * [[フォルモスス (ローマ教皇)|フォルモスス]](? - [[896年]]) - ローマ教皇(在位[[891年]] - [[896年]])・いわゆる「死体裁判」で辱めを受ける ==== イングランド・スコットランド ==== * [[エグバート (ウェセックス王)|エグバート]]([[775年]]? - [[839年]]) - [[ウェセックス]]王(在位[[802年]] - [[839年]])・[[マーシア]]を破り[[イングランド]]を統一 * [[エゼルウルフ]](? - [[858年]]) - ウェセックス王(在位[[839年]] - [[858年]])・エグバードの子・アルフレッド大王の父 * [[アルフレッド大王]]([[849年]] - [[899年]]) - イングランド王(在位[[871年]] - [[899年]])・海軍を創設しデーン人を追い払う * [[ケネス1世 (スコットランド王)|ケネス・マカルピン]]([[810年]] - [[858年]]) - 最初の[[スコットランド]]王(在位[[848年]] - [[859年]])・[[アルバ王国]]を建設 ==== 東ローマ帝国 ==== * ゲオルギオス・シュンケロス(? - [[810年]]以降) - 東ローマ帝国の修道士・年代記作者・帝都総主教タラシオスに仕え『年代記選集』を執筆 * テオファネス([[752年]]頃 - [[818年]]頃) - 東ローマ帝国の修道士・年代記作者・この時代の記録として『テオファネスの[[年代記]]』は重要 * [[ニケフォロス1世]]([[760年]]? - [[811年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[802年]] - [[811年]])・[[アモリア朝]]の始祖・クルムに敗北し戦死する * [[レオーン5世]]アルメニオス(? - [[820年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[813年]] - [[820年]])・イコノクラスムを再開し総主教[[ニキフォロス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|ニケフォロス1世]]を解任 * {{仮リンク|テオドラ (テオフィロスの皇后)|en|Theodora (wife of Theophilos)|label=テオドラ}}([[815年]]頃 - [[867年]]以降) - 東ローマ皇帝[[テオフィロス]]の皇后・息子[[ミカエル3世]]の摂政として[[イコノクラスム]]を終結させる * [[バシレイオス1世]]([[827年]] - [[886年]]) - 東ローマ皇帝(在位[[867年]] - [[886年]])・ミカエル3世を倒し[[マケドニア王朝 (東ローマ)|マケドニア王朝]]を開く * [[フォティオス1世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|フォティオス]]([[820年]] - [[897年]]) - [[コンスタンディヌーポリ総主教|コンスタンティノポリス総主教]]・神学者・古典文献学者・『図書総覧』を著す・ローマ教皇と対立 * [[メトディオス (スラヴの(亜)使徒)|メトディオス]]([[826年]] - [[885年]]) - 東ローマ帝国の神学者・[[修道士]]・「スラブ人の使徒」・[[グラゴル文字]]を作る・キュリロスは弟 * [[キュリロス (スラヴの(亜)使徒)|キュリロス]]([[827年]] - [[869年]]) - 東ローマ帝国の神学者・修道士・「スラブ人の使徒」・[[グラゴル文字]]を作る・メトディオスは兄 ==== 東欧 ==== * [[クルム]]([[755年]] - [[814年]]) - [[ブルガリア]]国王(ハーン)(在位[[803年]] - [[814年]])・[[プリスカの戦い]]で東ローマ帝国を破り領土を拡大 * [[リューリク]](? - [[879年]]) - [[ヴァリャーグ]]([[ヴァイキング]])の一族で[[ノヴゴロド公国]]の建国者(在位[[864年]] - [[879年]]) * [[ラスチスラフ]](? - [[870年]]) - [[モラヴィア王国]]の国王(在位[[846年]] - [[870年]])・メトディオスとキュリロス兄弟の宣教を支援 * [[ボリス1世]](? - [[907年]]) - ブルガリア国王(在位[[852年]] - [[889年]])・キリスト教(東方正教)を受容し従来の宗教を弾圧 * [[オフリドのクリメント]]([[840年]]頃 - [[916年]]) - [[オフリド]]の[[主教]]・スラブ人へ東方正教を宣教・スラヴ語での説教や著述活動を行う * [[シメオン1世]]([[863年]]頃 - [[927年]]) - [[ブルガリア]]最盛期の君主・国王(在位[[893年]] - [[913年]])・皇帝(在位[[913年]] - [[927年]]) * [[オレグ (キエフ大公)|オレグ]](? - [[912年]]/[[922年]]) - リューリクの一族か・[[キエフ公国]]の建国者(在位[[882年]] - [[912年]])・[[ドニエプル川]]水系から[[黒海]]を支配 ==== 北欧 ==== * {{仮リンク|アンスガル|en|Ansgar}}([[801年]] - [[865年]]) - [[ハンブルク]]と[[ブレーメン]]の司教・北ヨーロッパ各地に宣教活動を行い「北方の使徒」と呼ばれる * [[ハールヴダン・ラグナルスソン]](? - [[877年]]) - [[デーン人]][[大異教軍]]の首領・[[ノーサンブリア]]から[[ダブリン]]を含めた地域を支配 * [[ハーラル1世 (ノルウェー王)|ハーラル1世]](美髪王)([[850年]]頃 - [[930年]]頃) - [[ノルウェー]]最初の統一国王(在位[[872年]]頃 - [[930年]]頃) ==== イベリア半島 ==== * [[アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ2世]]([[760年]] - [[842年]]) - [[アストゥリアス王国|アストゥリアス王]](在位[[791年]] - [[842年]])・半世紀に及ぶ治世で聖[[ヤコブ]]の墓が発見されたという * [[エウロギウス]]([[800年]] - [[859年]]) - [[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]のキリスト教聖職者・[[反イスラーム主義|反イスラム主義]]を唱え後ウマイヤ朝支配のもとで殉教する === イスラム世界 === ==== アッバース朝 ==== * [[ハールーン・アッラシード]]([[763年]] - [[809年]]) - [[アッバース朝]]第5代カリフ(在位[[786年]] - [[809年]])・王朝の全盛期を現出 * [[ジャアファル]]([[766年]]? - [[803年]]) - アッバース朝の政治家・名門バルマク家出身・権力を恣にしたがカリフにより一族とも殲滅される * [[ズバイダ]]([[768年]] - [[823年]]?) - アッバース朝第5代カリフのハールーン・アッラシードの正妃・第6代カリフの[[アミーン]]の母 * [[マアムーン]]([[786年]] - [[833年]]) - アッバース朝第7代カリフ(在位[[813年]] - [[833年]])・弟アミーンを倒す・「[[知恵の館]]」を設置 * [[ムウタスィム]]([[794年]] - [[842年]]) - アッバース朝第8代カリフ(在位[[833年]] - [[842年]])・バグダードから[[サーマッラー|サマッラー]]に遷都 * [[アリー・ブン・ムハンマド]](? - [[883年]]頃) - イラク南部での黒人反乱の[[ザンジュの乱]]の指導者・アッバース朝を弱体化させる ==== イラン系諸王朝 ==== * ターヒル・イブン・アル・フサイン(? - [[822年]]) - [[ターヒル朝]]の建国者(在位[[821年]] - [[822年]])・アッバース朝から最初に独立 * [[ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール]]([[840年]] - [[879年]]) - [[サッファール朝]]の建国者(在位[[867年]] - [[879年]])・[[アイヤール]](イラン世界における任侠の徒)出身 * [[ナスル1世|ナスル・イブン・アフマド]](? - [[892年]]) - [[サーマーン朝]]の建国者(在位[[875年]] - [[892年]])・ブハラを首都にマー・ワラー・アンナフルを支配 ==== その他の王朝 ==== * アフマド・ブン・トゥールーン([[835年]] - [[884年]]) - [[トゥールーン朝]]の建国者(在位[[868年]] - [[884年]])・エジプトとシリアで独自勢力を保つ。 ==== 宗教指導者 ==== * [[ムハンマド・ムンタザル]]([[868年]] - [[874年]]?) - [[シーア派]]([[十二イマーム派]])での第12代[[イマーム]]([[隠れイマーム]])・マフディー * ハムダーン・カルマト(? - [[899年]]頃) - カルマト派の指導者・[[イスマーイール派]]から分派しクーファを中心に独自の組織を形成し反乱を起こす ==== 学者・詩人 ==== * [[アブー・アル=アターヒヤ]]([[748年]] - [[828年]]) - [[アッバース朝]]最盛期に活躍した詩人・人生の様々な機微を詠み清貧を称賛する作風の詩を残す * [[アブー・ヌワース]]([[756年]] - [[814年]]) - [[アッバース朝]]最盛期に活躍した詩人・飲酒や少年愛などを享楽的な詩を歌ったことで知られる * シャーフィイー([[767年]] - [[820年]]) - イスラム法学者・[[シャーフィイー学派]]の祖・著作に『起源の書』がある * [[ジャーヒズ]]([[776年]] - [[869年]]頃) - アラブ古典散文学の確立者・著作に『けちんぼども』『動物の書』などがある * [[フワーリズミー]]([[780年]]/[[800年]] - [[845年]]/[[850年]]) - 「知恵の館」で活躍・地理学者・天文学者・数学者として移項の原則をまとめる * [[イブン・ハンバル]]([[780年]] - [[855年]]) - イスラム法学者・[[ハンバル学派]]の祖・著作に『ムスナド』がある * {{仮リンク|アリブ・アル・マムニア|en|Arib al-Ma'muniyya}}([[797年]]/[[798年]] - [[890年]]/[[891年]]) - バグダード宮廷の歌姫(カイナまたはキヤーナ)・歴代カリフの寵愛を受け長寿で知られる * {{仮リンク|アブー・マーシャル|en|Abu Ma'shar al-Balkhi}}([[787年]] - [[886年]]) - イスラム天文学者・占星術師・キンディーの弟子・著作に『大序説』がある * [[アブー・タンマーム]]([[788年]]頃/[[807年]]頃 - [[845年]]頃) - アッバース朝のカリフに仕えた詩人・遠征に従軍し『ハマーサ』を残す * [[キンディー]]([[801年]] - [[873年]]?) - 「知恵の館」で活躍・科学者・数学者・哲学者であり「アラブの哲学者」と呼ばれる * [[フナイン・イブン・イスハーク]]([[808年]]頃 - [[873年]]頃) - 「知恵の館」で活躍・主任翻訳官で[[ネストリウス派]]キリスト教徒 * [[アルフラガヌス|ファルガーニー]](9世紀前半) - 天文学者・『天の運動と天文知識の集成』やアストロラーベに関する著作がある * [[ムハンマド・アル=ブハーリー|ブハーリー]]([[810年]] - [[870年]]) - イスラム法学者・[[スンナ派]][[ハディース]]集の最高峰とされる『[[サヒーフ・アル=ブハーリー|真正集]]』の編纂者 * [[アッバース・イブン・フィルナス]]([[810年]] - [[887年]]) - 後ウマイヤ朝の[[博学者]]・技術者・気象実験やレンズの製法のほか空中滑空でも有名 * バラーズリー(? - [[892年]]頃) - 歴史学者・イスラム帝国の拡大を描いた『諸国征服史』や有名人の伝記集『貴族の系譜』がある * [[ヤアクービー|イブン・ワーディフ・ヤアクービー]](? - [[897年]]頃) - 歴史学者・シーア派の視点からを描いた『年代記』や歴史地理学の『諸国の書』がある * ジュッバーイー(? - [[915年]]) - イスラム神学者・合理主義的神学[[ムウタズィラ派]]の代表・アシュアリーは弟子だったが後に離反 * [[イブン・フルダーズベ]]([[820年]]頃 - [[912年]]) - アッバース朝のペルシャ系官僚・地理学者・アラビア語最古の地誌『諸道と諸国の書』を執筆 * [[サービト・イブン・クッラ]]([[826年]] - [[901年]]) - 「知恵の館」で活躍・[[ハッラーン]]の[[サービア教徒]]の出身・数学者として[[友愛数]]を発見 * [[タバリー]]([[838年]] - [[923年]]) - イスラム法学者・歴史学者として『諸使徒と諸王の歴史』がある * [[バッターニー]]([[850年]]? - [[929年]]) - シリアで活躍した天文学者・数学者・[[三角法]]の整理や私設天文台の設置で知られる === 南アジア・東南アジア・チベット === * ダルマパーラ(? - [[815年]]) - インドの[[パーラ朝]]の王(在位[[770年]] - [[815年]])・仏教を保護し[[ヴィクラマシーラ大学|ヴィクラマシーラ寺院]]を建立 * [[ゴーヴィンダ3世]](? - [[814年]]) - インドの[[ラーシュトラクータ朝]]の王(在位[[793年]] - [[814年]])・[[カナウジ]]からインド南端[[コモリン岬]]まで征服 * [[シャンカラ]]([[788年]]頃 - [[820年]]頃) - インドのヴェーダーンタ派の哲学者で不二一元論を提唱する・著作に『ブラフマ・スートラ注解』がある * ジャヤーヴァルマン2世(? - [[834年]]) - [[カンボジア]]の[[アンコール朝]]の建国者(在位[[802年]] - [[834年]])・[[シャイレーンドラ朝]]から独立 * [[アモーガヴァルシャ1世]]([[801年]] - [[878年]]) - インドのラーシュトラクータ朝の王(在位[[814年]] - [[878年]])・『カヴィーラージャ・マールガ』を執筆 * [[ティツク・デツェン]](レルパチェン)(? - [[841年]]) - チベットの吐蕃の王(在位[[815年]] - [[841年]])・唐との間に[[長慶会盟]]を結び仏教興隆に尽くすが暗殺される * [[ラン・ダルマ]]([[803年]]/[[809年]] - [[842年]]/[[843年]]) - チベットの吐蕃の王(在位[[841年]]? - [[842年]]/[[843年]])・ティツク・デツェンの弟・廃仏を行い暗殺される === 東アジア === ==== 唐 ==== * [[恵果]]([[746年]] - [[806年]]) - 唐の僧侶・真言宗第七祖・長安[[青龍寺 (西安市)|青龍寺]]住持・両部曼荼羅を大成・空海の師 * [[百丈懐海]]([[749年]] - [[814年]]) - 唐の僧侶・禅門の規範として『百丈[[清規]]』を定め勤労を尊重する自給自足の体制を確立した * [[裴度]]([[765年]] - [[839年]]) - 唐の政治家・宰相・[[憲宗 (唐)|憲宗]]に仕え淮南西道節度使の呉元済の乱を鎮圧させる・敬宗没後の文宗の擁立にも参与 * [[韓愈]]([[768年]] - [[824年]]) - 唐の文人[[士大夫]]・[[唐宋八大家]]の一人・皇帝憲宗の怒りに触れた『[[論仏骨表]]』がある * [[白居易]]([[772年]] - [[846年]]) - 唐の詩人・政治家・詩文集『[[白氏文集]]』があり「[[長恨歌]]」「琵琶行」が有名 * [[劉禹錫]]([[772年]] - [[842年]]) - 唐の詩人・政治家・柳宗元らと永貞の革新に関与するが失敗・詩では「竹枝詞」が有名 * [[柳宗元]]([[773年]] - [[819年]]) - 唐の詩人・政治家・唐宋八大家の一人・詩では「江雪」散文では「永州八記」が有名 * [[柳公権]]([[778年]] - [[865年]]) - 唐の政治家・書家・[[楷書]]に優れ「玄秘塔碑」などを残す * [[牛僧孺]]([[779年]] - [[847年]]) - 唐の政治家・科挙出身者の代表として牛李の党争を引き起こす * [[元稹]]([[779年]] - [[831年]]) - 唐の詩人・政治家・詩文集『元氏長慶集』や小説『鶯鶯伝』がある * [[圭峰宗密]]([[780年]] - [[841年]]) - 唐の禅僧・華厳五祖・「教禅一致」から著作『原人論』では儒仏道の「三教融合」を唱える * 王守澄(? - [[835年]]) - 唐の[[宦官]]・皇帝[[憲宗 (唐)|憲宗]]を暗殺したのち[[穆宗 (唐)|穆宗]]・[[敬宗 (唐)|敬宗]]・[[文宗 (唐)| 文宗]]を擁立・仇士良に倒される * 仇士良([[781年]] - [[843年]]) - 唐の宦官・[[甘露の変]]で李訓や鄭注を処刑し皇帝文宗を幽閉 * [[李徳裕]]([[787年]] - [[849年]]) - 唐の政治家・門閥貴族の代表として牛李の党争を引き起こす * [[李賀]]([[791年]] - [[817年]]) - 唐の詩人・「蘇小小歌」など幻想的な作品を残し「鬼才」と評される * [[呂洞賓]]([[798年]]? - ?) - 唐の道士・中国を代表する仙人の「[[八仙]]」の一人 * [[段成式]]([[803年]] - [[863年]]) - 唐の官僚・怪異をまとめた『[[酉陽雑俎]]』の著者 * [[杜牧]]([[803年]]- [[853年]]) - 唐の詩人・官僚・李商隠と共に「晩唐の李杜」とも称される * [[李商隠]]([[812年]] - [[858年]]) - 唐の詩人・官僚・杜牧と共に「晩唐の李杜」とも称される * [[武宗 (唐)|武宗]]([[814年]] - [[846年]]) - 唐の第18代皇帝(在位[[840年]] - [[846年]])・[[会昌の廃仏]]を行う * [[趙帰真]](? - [[846年]]) - 唐の道士・皇帝武宗に近侍し会昌の廃仏を進める・廃仏中止で斬殺される * [[宣宗 (唐)|宣宗]]([[810年]] - [[859年]]) - 唐の第19代皇帝(在位[[846年]] - [[859年]])・牛李の党争を抑え小康期をもたらす * 裘甫(? - [[860年]]) - 唐の反乱指導者・没落農民の出身で浙江にて[[裘甫の乱]]を起こすが王式により鎮圧される * 龐勛(? - [[868年]]) - 唐の反乱指導者・武寧藩鎮の軍人で桂州にて[[龐勛の乱]]を起こすが朱邪赤心に鎮圧される * [[臨済義玄]](?- [[867年]]) - 唐の[[禅僧]]で[[臨済宗]]の開祖・[[語録]]に『臨済録』がある・「臨済の喝」で有名 * [[張彦遠]]([[815年]]頃 - [[877年]]頃) - 唐の官僚・著述家・『[[歴代名画記]]』を著し画史の祖とされた * [[皮日休]]([[830年代]] - [[883年]]) - 唐の詩人・政治批判を多く含む詩文集『皮子文藪』がある・黄巣に与したが疑われ処刑される * [[韋荘]]([[836年]] - [[910年]]) - 唐の詩人・黄巣の乱で荒廃した長安を「{{仮リンク|秦婦吟|zh|秦婦吟}}」で歌う・後に[[王建 (前蜀)|王建]]の[[前蜀]]に仕える * 魚玄機([[844年]]頃 - [[871年]]頃) - 唐の女流詩人・女道士となり詩人[[温庭筠]]らと交わる・侍婢を殺した罪で処刑される * [[王仙芝]](? - [[878年]]) - 唐末の反乱指導者・黄巣の協力者・後に黄巣と別れるが反乱は鎮圧される * [[黄巣]](? - [[884年]]) - 唐末の反乱指導者・黄巣の乱を起こし大斉皇帝を名乗る(在位[[880年]] - [[884年]])・反乱は鎮圧される * 楊復恭(? - [[894年]]) - 唐末の宦官・[[僖宗]]没後に[[昭宗 (唐)|昭宗]]を擁立するが討伐される・「門生天子、定策国老」の語は有名 * [[李克用]]([[856年]] - [[908年]]) - 唐末の[[突厥]][[沙陀部]]出身の軍閥指導者で黄巣の乱を鎮圧・後唐の[[李存勗]](荘宗)の父 ==== 新羅 ==== * [[張保皐]]([[790年]]頃 - [[846年]]?) - 新羅の[[清海鎮]]大使・東シナ海に勢力を築き新羅の[[神武王]]を支援・日本僧[[円仁]]も経済援助する ==== 日本 ==== * [[桓武天皇]]([[737年]] - [[806年]]) - 第50代天皇(在位[[781年]] - [[806年]])・[[平安京]]遷都、蝦夷制圧を実施 * [[菅野真道]]([[741年]] - [[814年]]) - 公卿・[[参議]]・[[藤原緒嗣]]との[[徳政論争]]で有名・平安遷都を推進し『[[続日本紀]]』の編纂を行う * [[坂上田村麻呂]]([[758年]] - [[811年]]) - 征夷大将軍・[[大納言]]・陸奥国の蝦夷制圧に功績を残す * [[霊仙]]([[759年]]? - [[827年]]?) - 入唐僧・唐の憲宗により日本人唯一の[[三蔵法師]]の号を得る・帰国を許されず唐で死去 * [[藤原薬子]](? - [[810年]]) - [[尚侍]](女官)・兄の藤原仲成とともに平城上皇を擁して[[薬子の変]]を起こす * [[景戒]](生没年不詳) - 法相宗(薬師寺)の僧・日本最初の仏教説話集『[[日本霊異記]](日本国現報善悪霊異記)』の著者 * [[最澄]](伝教大師)([[767年]] - [[822年]]) - 入唐僧・天台宗の祖で比叡山延暦寺開山・著作に『顕戒論』がある * [[修円]](檉生禅師)([[771年]] - [[835年]]) - 法相宗の僧・興福寺別当・師の[[賢憬]]とともに大和国[[室生寺]]を創建する * [[空海]](弘法大師)([[774年]] - [[835年]]) - 入唐僧・真言宗の祖で高野山金剛峰寺開山・書家([[三筆]]の一人)・著作に『[[三教指帰]]』がある * [[藤原緒嗣]]([[774年]] - [[843年]]) - 公卿・左大臣(山本大臣)・[[菅野真道]]との徳政論争で有名・『[[日本後紀]]』や『[[新撰姓氏録]]』を編纂 * [[藤原冬嗣]]([[775年]] - [[826年]]) - 公卿・左大臣(閑院大臣)・最初の[[蔵人頭]]となる・『[[弘仁格式]]』や『[[内裏式]]』を編纂 * [[徳一]]([[781年]]? - [[842年]]?) - 法相宗の僧・[[恵日寺 (福島県磐梯町)|会津慧日寺]]開山・[[三一権実諍論]]で最澄と対決・著作に空海に宛てた『[[真言宗未決文]]』がある * [[清原夏野]]([[782年]] - [[837年]]) - 公卿・右大臣(双岡大臣)・[[親王任国]]制などを献策・『[[令義解]]』を編纂 * [[橘逸勢]]([[782年]]? - [[842年]]) - 官人・書家(三筆の一人)・遣唐使で唐に渡る・[[承和の変]]で流罪となる * [[嵯峨天皇]]([[786年]] - [[842年]]) - 第52代天皇(在位[[809年]] - [[823年]])・書家(三筆の一人) * [[橘嘉智子]]([[786年]] - [[850年]]) - 嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)・[[仁明天皇]]の母・橘氏を支援し[[学館院]]を設立 * [[円仁]](慈覚大師)([[794年]] - [[864年]]) - 入唐僧・天台山門派の祖・『[[入唐求法巡礼行記]]』を著す * [[高岳親王]](真如)([[799年]] - [[865年]]?) - 廃太子・空海の弟子となり入唐後さらに天竺を目指すが羅越国で没す * [[小野篁]]([[802年]] - [[853年]]) - [[公卿]]・[[参議]]・学者・歌人・遣唐副使の任免で衝突し隠岐へ流される * [[藤原良房]]([[804年]] - [[872年]]) - 公卿・太政大臣・人臣最初の[[摂政]]・承和の変や応天門の変に勝利し北家全盛を築く * [[伴善男]]([[811年]] - [[868年]]) - 公卿・大納言・応天門の変の犯人とされ伊豆に流される * [[円珍]](智証大師)([[814年]] - [[891年]]) - 入唐僧・天台寺門派の祖・長等山[[園城寺]](三井寺)を再興 * [[遍昭]](花山僧正)([[816年]] - [[890年]]) - 天台宗の僧・歌人([[六歌仙]]の一人)・花山の[[元慶寺]]を創建 * [[源融]]([[822年]] - [[895年]]) - 公卿・左大臣(河原左大臣)・賜姓源氏の一人([[嵯峨源氏]]の祖) * [[藤原保則]]([[825年]] - [[895年]]) - 公卿・参議・「好二千石」の良吏として知られ[[元慶の乱]]を寛政で鎮撫する * [[在原業平]]([[825年]] - [[880年]]) - [[蔵人頭]]・歌人(六歌仙の一人)・『[[伊勢物語]]』の主人公とされる * [[小野小町]](生没年不詳) - 女流歌人(六歌仙の一人)・絶世の美女とされ日本各地に伝説が残る * [[益信]](本覚大師)([[827年]] - [[906年]]) - 真言宗の僧・東密広沢流の祖で[[円成寺 (奈良市)|円成寺]]開山・[[仁和寺]]で宇多法皇を受戒 * [[相応 (僧)|相応]]([[831年]] - [[918年]]) - 天台宗の僧・比叡山での[[千日回峰行]]の祖とされ数々の霊験譚が伝えられている * [[聖宝]](理源大師)([[832年]] - [[909年]]) - 真言宗の僧・東密小野流の祖で[[醍醐寺]]開山・当山派[[修験道]]の祖 * [[藤原基経]]([[836年]] - [[891年]]) - 公卿・太政大臣・最初の[[関白]]・藤原良房の養子・陽成天皇を廃し光孝天皇を擁立 * [[安然]]([[841年]]? - [[915年]]?) - 天台宗の僧・[[東密]]に対する[[台密]]の教理を大成・著作に『悉曇蔵』などがある・通称は阿覚大師 * [[菅原道真]]([[845年]] - [[903年]]) - 公卿・右大臣・詩人・学者・宇多上皇の信任を得て昇進する・遣唐使を廃止 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 9 | 年代 = 800 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:9せいき}} [[Category:9世紀|*]]
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4,277
不規則合金
不規則合金(ふきそくごうきん、Random alloy):合金において、各構成金属元素の原子配置が不規則(ランダム)なもの。配置が乱れているので、周期的境界条件はなく、単位胞も定義できない。但し、各原子の位置までは乱れていないので、各原子の位置に関しての周期性は失っていない。このため、配置の乱れを無視し、原子位置のみに関しての単位胞は定義できる(この意味では、金属結晶としての性質を失ってはいない)。 特に、成分金属の種類が2である不規則合金のことを不規則二元合金 (Random binary alloy) という。
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不規則合金:合金において、各構成金属元素の原子配置が不規則(ランダム)なもの。配置が乱れているので、周期的境界条件はなく、単位胞も定義できない。但し、各原子の位置までは乱れていないので、各原子の位置に関しての周期性は失っていない。このため、配置の乱れを無視し、原子位置のみに関しての単位胞は定義できる(この意味では、金属結晶としての性質を失ってはいない)。 特に、成分金属の種類が2である不規則合金のことを不規則二元合金 という。
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構造相転移
構造相転移(こうぞうそうてんい、英語:structural phase transition)は、物質の持つ構造(その構造の状態:相)が、外的条件によって他の構造へ相転移すること。気相、液相、固相間の相転移や、結晶が対称性の異なる構造に変わる現象を構造相転移と呼ぶ。 構造相転移を引き起こす外的条件としては、温度、圧力、磁場、電場などが考えられる。
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構造相転移は、物質の持つ構造が、外的条件によって他の構造へ相転移すること。気相、液相、固相間の相転移や、結晶が対称性の異なる構造に変わる現象を構造相転移と呼ぶ。 構造相転移を引き起こす外的条件としては、温度、圧力、磁場、電場などが考えられる。
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相転移
相転移(そうてんい、英語: phase transition)とは、ある系の相(phase)が別の相へ変わることを指す。しばしば相変態(そうへんたい、英語: phase transformation)とも呼ばれる。熱力学または統計力学において、相はある特徴を持った系の安定な状態の集合として定義される。一般には物質の状態(固体、液体、気体)の相互変化として理解されるが、同相の物質中の物性変化(結晶構造や密度、磁性など)や基底状態の変化に対しても用いられる。相転移に現れる現象も単に「相転移」と呼ぶことがある。 何を持って「相」と定義するかは分野によって異なる。例えば平衡熱力学の範疇では、準安定状態を熱力学的状態として定義できないため、準安定状態の組を相として定義することもできない。準安定状態を扱うためには、準安定状態においても平衡状態と同様に温度や圧力などが定義でき、平衡熱力学の枠組みで扱えることを仮定するなどの工夫が必要になる。 系の相が多種多様に考えられるのと同様に、相転移の機構もまた、対象とする系とその相によって様々だが、相転移が起こる理由はその系にとってより安定な系の状態が現れたためである。その状態が安定かどうかは、例えば熱力学では温度や圧力、磁場、電場などの組み合わせによって決定されるが、微視的には原子や分子、あるいは核子や電子間の相互作用や、それらと場との相互作用などが寄与している。 相転移の顕著な例として、氷が水になったり水が水蒸気になったりする、固相や液相、気相の間の転移の他に、異なる多形や同素体への転移が挙げられる。炭酸カルシウムがヴァテライトからカルサイトやアラゴナイトへと変化したり、炭素がダイヤモンドからグラファイトへ変化したりするのがその例である。 他にも様々な相転移があり、その代表的な例として以下のものがある。 相転移を検出する技術としては、示差熱分析 (DTA) などがあり、例えば合金の構造相転移などに対して用いられる。 相転移を起こす温度や圧力などの状態量の値の組を転移点(変態点)と呼び、特に転移点上の温度を転移温度という。特定の物質において転移点は熱力学的状態により決定される値であり、たとえば特定の成分系の液相-気相転移点では圧力などの状態量が指定されれば、残りの状態量である温度、すなわち沸点は一意に決定される。このように相転移の状態値を温度-圧力の相図上では転移点は連続した線分を形成する。 転移点の例を次に示す。 相転移は大別すると準安定状態を持つ第一種相転移と、それを持たない第二種相転移 に分類される。 これとは別にポール・エーレンフェストの分類法では自由エネルギーの温度あるいは圧力の n 階微分が不連続点を有する場合を n 次相転移と呼ぶ。例えば、 1 階微分が不連続点を有する場合を一次相転移、2 階微分が不連続点を有する場合を二次相転移と呼ぶ。転移点が一次相転移か二次相転移かの別により「一次相転移点」、「二次相転移点」と呼び分ける場合もある。 一次相転移と第一種相転移とは一致するが、エーレンフェストの二次相転移の定義に該当しない高次相転移も第二種相転移には含まれる。なお、実験的には誤差の存在により自由エネルギーの高次の微分が連続なのか不連続なのかを見分けることが難しい場合が多いため、二次以上の高次の相転移を区別せずに「高次相転移」などと呼ぶこともある。 相転移は自発的に生じる場合もあるが、一次相転移のように準安定状態を持ちうる場合は、過熱状態や過冷却状態のように転移点を越えても相転移を生じない場合がある。このような準安定状態では何らかの外的要因で核となる新しい相が発生し、それが引き金となって系全体に相転移が波及する。 物質の三態の間の状態変化はいずれも代表的な第一種相転移であり、次のように呼び分けられる。 第一種相転移の転移点は圧力により変化する。物質固有の三重点以下の圧力では液相が存在しないため、蒸発や凝縮、融解や狭義の凝固は起こらない。また、臨界点以上の圧力では気相と液相の相違がなくなり、単一の相しか存在しない。 一次相転移点の前後では、エントロピーやモル熱容量(モル比熱)などが不連続である。そして、前後の化学ポテンシャル μ1, μ2 とは一致し、相転移の状態にある2つの相にはクラウジウス-クラペイロンの式が成立する。 第一種相転移は準安定状態を持つので固体表面や空間に浮遊する吸湿性の微小粒子やイオンなどの刺激するものが存在しないことが原因で過熱状態や過冷却状態のように転移点を越えても相転移を生じない場合がある。すなわち電子レンジで過熱した水の突沸や、放射線検出器の霧箱・泡箱の原理はこの第一種相転移の準安定状態に由来する。 物性としての蒸発のし易さ、し難さを「揮発性」・「不揮発性」という。液体の表面張力に打ち勝つ熱運動エネルギーを持つ分子は蒸発することができる。言い換えると、蒸発する分子は液体表面への付着についての仕事関数を超える力学エネルギーをもっている。したがって蒸発は液体の温度が高かったり、表面張力が低かったりするほど早く進行する。 また、理想気体あるいは理想液体では圧力に依存してその振る舞いを変えることはないが、実際の物質の場合には高圧になると気相と液相の振る舞いに相違がなくなる。その限界の転移点を「臨界点」と呼ぶ。その臨界点を超えた相の状態を超臨界状態と呼ぶ。 熱的現象としては第一種相転移が進行中の一成分系は圧力が一定の場合、系の温度が一定のままでの系外への熱の放出あるいは吸収が見られる。このような機構で生じる熱を転移熱(てんいねつ)または潜熱(せんねつ)とよぶ。そもそも熱の定義は物体に作用することで温度変化をもたらす物理量であり、一次相転移点以外の状態では熱の作用は温度変化をもたらすのでこの場合を顕熱とよび、一次相転移点において作用により温度変化を生じない場合を潜熱と呼び分けたことに由来するので、顕熱と潜熱とで物理量である熱として違いがあるわけではない。 相転移前後を状態1、状態2とした場合、それぞれの相の生成エンタルピー H1, H2の総量の差分だけ、転移熱が発生する。 転移熱の単位は質量あたりの熱量 (J/g) または物質量あたりの熱量 (J/mol) で示される。例えば、水の融解熱は 333.5 J/g、気化熱は 2256.7 J/g である。 次に転移熱に該当する熱現象を次に示す。 代表的な第二種相転移である物理現象としては、一部の構造相転移、磁気相転移、常伝導から超伝導状態への転移、液体ヘリウムの超流動状態などが挙げられる。一般に第二種相転移はある秩序変数が秩序‐無秩序へと転移する現象である。秩序変数としては結晶内の原子配列の規則化や磁性体の磁気的秩序等、多岐に渡る。 二次あるいは高次の相転移では化学ポテンシャルの一次導関数も連続である為、転移熱は発生せず、比体積の不連続点も発生しない。 一方、二次相転移では、化学ポテンシャルの二次導関数等は不連続で比熱や磁化率が転移点で不連続性を示す。そのほかにも第二種相転移点付近では物理量の異常性が現れ、それらは臨界現象と総称される。たとえば、比熱が第二種相転移点付近でギリシャ文字の λ の形のグラフを示して発散するケースはラムダ転移と呼ばれる。
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相転移とは、ある系の相(phase)が別の相へ変わることを指す。しばしば相変態とも呼ばれる。熱力学または統計力学において、相はある特徴を持った系の安定な状態の集合として定義される。一般には物質の状態(固体、液体、気体)の相互変化として理解されるが、同相の物質中の物性変化(結晶構造や密度、磁性など)や基底状態の変化に対しても用いられる。相転移に現れる現象も単に「相転移」と呼ぶことがある。
{{出典の明記|date=2011年8月}} [[Image:Phase change - ja.svg|thumb|right|200px|それぞれの[[相 (物質)|相]]と相転移の名前。]] '''相転移'''(そうてんい、{{lang-en|phase transition}})とは、ある[[系_(自然科学)|系]]の[[相 (物質)|相]](phase)が別の相へ変わることを指す。しばしば'''相変態'''(そうへんたい、{{lang-en|phase transformation}})とも呼ばれる。[[熱力学]]または[[統計力学]]において、相はある特徴を持った系の[[安定#自然科学、工学|安定]]な[[物質の状態|状態]]の[[集合]]として定義される。一般には[[物質の状態]]([[固体]]、[[液体]]、[[気体]])の相互変化として理解されるが、同相の物質中の物性変化([[結晶構造]]や[[密度]]、[[磁性]]など)や[[基底状態]]の変化に対しても用いられる。相転移に現れる現象も単に「相転移」と呼ぶことがある。 {{see also|物質の状態}} == 概要 == 何を持って「相」と定義するかは分野によって異なる。例えば[[熱力学的平衡|平衡]]熱力学の範疇では、[[準安定状態]]を熱力学的状態として定義できないため、準安定状態の組を相として定義することもできない。準安定状態を扱うためには、準安定状態においても平衡状態と同様に[[温度]]や[[圧力]]などが定義でき、平衡熱力学の枠組みで扱えることを仮定するなどの工夫が必要になる。 系の相が多種多様に考えられるのと同様に、相転移の機構もまた、対象とする系とその相によって様々だが、相転移が起こる理由はその系にとってより安定な系の状態が現れたためである。その状態が安定かどうかは、例えば熱力学では温度や圧力、[[磁場]]、[[電場]]などの組み合わせによって決定されるが、[[微視的]]には[[原子]]や[[分子]]、あるいは[[核子]]や[[電子]]間の[[相互作用]]や、それらと[[場]]との相互作用などが寄与している。 相転移の顕著な例として、[[氷]]が[[水]]になったり[[水]]が[[水蒸気]]になったりする、固相や液相、気相の間の転移の他に、異なる[[多形]]や[[同素体]]への転移が挙げられる。[[炭酸カルシウム]]が[[ヴァテライト]]から[[方解石|カルサイト]]や[[アラレ石|アラゴナイト]]へと変化したり、[[炭素]]が[[ダイヤモンド]]から[[グラファイト]]へ変化したりするのがその例である。 他にも様々な相転移があり、その代表的な例として以下のものがある。 *[[構造相転移]]([[気相]]、[[液相]]、[[固相]]間の転移など) *[[磁気相転移]]([[常磁性]]、[[強磁性]]、[[反強磁性]]などの間での転移) *[[金属-絶縁体転移]]([[モット転移]]など) *[[常伝導-超伝導転移]]([[超伝導]]) *[[常誘電体-強誘電体転移]] *[[インフレーション理論|真空の相転移]]([[宇宙論]]) 相転移を検出する技術としては、[[示差熱分析]] (DTA<ref group="注">{{lang-en-short|differential thermal analysis}}</ref>) などがあり、例えば[[合金]]の構造相転移などに対して用いられる。 == 転移点 == 相転移を起こす[[温度]]や[[圧力]]などの[[状態量]]の値の組を'''転移点'''('''変態点''')<ref group="注">{{lang-en-short|phase transition points}}</ref>と呼び、特に転移点上の温度を転移温度という。特定の物質において転移点は熱力学的状態により決定される値であり、たとえば特定の[[成分系]]の液相-気相転移点では圧力などの[[状態量]]が指定されれば、残りの状態量である温度、すなわち[[沸点]]は一意に決定される。このように相転移の状態値を温度-圧力の[[相図]]上では転移点は[[連続]]した[[線分]]を形成する。 転移点の例を次に示す。 * [[沸点]]、[[融点]]、昇華点、([[凝固点]]) * [[キューリー温度]]、[[ネール温度]] * [[ガラス転移点]]<ref group="注">スピングラス以外のガラス転移は相転移とは考えられていない。スピングラスについても,平衡相転移であるかどうかは議論の余地がある。</ref> * [[マルテンサイト変態|マルテンサイト変態点]] == 相転移の種類 == 相転移は大別すると[[準安定状態]]を持つ'''第一種相転移'''<ref group="注">{{lang-en-short|phase transition of the first kind}}</ref>と、それを持たない'''第二種相転移''' <ref group="注">{{lang-en-short|phase transition of the second kind}}</ref>に分類される。 これとは別に[[ポール・エーレンフェスト]]の分類法では[[自由エネルギー]]の[[温度]]あるいは[[圧力]]の ''n'' 階[[微分]]が[[不連続点]]を有する場合を '''''n'' 次相転移'''<ref group="注">{{lang-en-short|''n''-th order phase transition}}</ref>と呼ぶ。例えば、 1 階微分が不連続点を有する場合を'''一次相転移'''<ref group="注">{{lang-en-short|first-order phase transition}}</ref>、2 階微分が不連続点を有する場合を'''二次相転移'''<ref group="注">{{lang-en-short|second-order phase transition}}</ref>と呼ぶ。<ref group="注">[[#Schwabl|Schwabl (2006)]] p.332</ref>転移点が一次相転移か二次相転移かの別により「一次相転移点」、「二次相転移点」と呼び分ける場合もある。 一次相転移と第一種相転移とは一致するが、エーレンフェストの二次相転移の定義に該当しない高次相転移も第二種相転移には含まれる。なお、実験的には誤差の存在により自由エネルギーの高次の微分が連続なのか不連続なのかを見分けることが難しい場合が多いため、二次以上の高次の相転移を区別せずに「高次相転移」などと呼ぶこともある。 相転移は自発的に生じる場合もあるが、一次相転移のように準安定状態を持ちうる場合は、[[過熱 (相転移)|過熱]]状態や[[過冷却]]状態のように転移点を越えても相転移を生じない場合がある。このような準安定状態では何らかの外的要因で核となる新しい相が発生し、それが引き金となって系全体に相転移が波及する。 == 第一種相転移 == 物質の[[三態]]の間の[[状態変化]]はいずれも代表的な第一種相転移であり、次のように呼び分けられる。 {|class=wikitable !転移前の相!!転移後の相!!現象の呼称!!転移点の呼称!!転移熱の呼称 |- |rowspan=2|固相<br>([[固体]])||液相<br>(液体)||{{ruby|[[融解]]|ゆうかい}}||{{ruby|[[融点]]|ゆうてん}}||{{ruby|[[融解熱]]|ゆうかいねつ}} |- |気相<br>(気体)||{{ruby|[[昇華 (化学)|昇華]]|しょうか}}<br>{{ruby|[[気化]]|きか}}||{{ruby|[[昇華点]]|しょうかてん}}||{{ruby|[[昇華熱]]|しょうかねつ}} |- |rowspan=2|液相<br>([[液体]])||固相<br>(固体)||{{ruby|[[凝固]]|ぎょうこ}}<br>{{ruby|[[固化]]|こか}}||{{ruby|[[凝固点]]|ぎょうこてん}}||{{ruby|[[凝固熱]]|ぎょうこねつ}} |- |気相<br>(気体)||{{ruby|[[蒸発]]|じょうはつ}}<ref group="注">[[沸点]]において液体全体から[[蒸発]]が生じる場合は「[[沸騰]]」と呼ばれる。</ref><br>{{ruby|[[気化]]|きか}}||{{ruby|[[沸点]]|ふってん}}||{{ruby|[[蒸発熱]]|じょうはつねつ}}<br>{{ruby|[[気化熱]]|きかねつ}}とも呼ぶ。 |- |rowspan=2|気相<br>([[気体]])||液相<br>(液体)||{{ruby|[[凝縮]]|ぎょうしゅく}}<ref group="注">凝結と呼ばれる場合がある。特に[[固体]][[表面]]での凝縮は「[[結露]]」と呼ばれる。</ref><br>{{ruby|[[液化]]|えきか}}||(特になし)||{{ruby|[[凝縮熱]]|ぎょうしゅくねつ}} |- |固相<br>(固体)||[[凝華]]旧名:昇華(逆の転移と同名。[[凝固]]、[[凝縮|凝結]]、<ref>佐藤明子, 細矢治夫, ''化学と教育'', 49(10), p.651 (2001)</ref><ref>細矢治夫, ''化学と教育'', 61(7), p.366 (2013)</ref>と呼ばれることもある)||(特になし)||(特になし) |} 第一種相転移の転移点は[[圧力]]により変化する。物質固有の[[三重点]]以下の圧力では液相が存在しないため、蒸発や凝縮、融解や狭義の凝固は起こらない。また、[[臨界点]]以上の圧力では気相と液相の相違がなくなり、単一の相しか存在しない。 === 物理学的性質 === 一次相転移点の前後では、[[エントロピー]]やモル熱容量([[モル比熱]])などが[[不連続]]である。そして、前後の[[化学ポテンシャル]] μ<sub>1</sub>, μ<sub>2</sub> とは一致し、相転移の状態にある2つの相には[[クラウジウス-クラペイロンの式]]が成立する。 第一種相転移は準安定状態を持つので固体表面や空間に浮遊する[[吸湿性]]の微小粒子や[[イオン]]などの刺激するものが存在しないことが原因で[[過熱 (相転移)|過熱]]状態や[[過冷却]]状態のように転移点を越えても相転移を生じない場合がある。すなわち電子レンジで過熱した水の[[沸騰|突沸]]や、放射線検出器の[[霧箱]]・[[泡箱]]の原理はこの第一種相転移の準安定状態に由来する。 [[物性]]としての蒸発のし易さ、し難さを「揮発性」・「不揮発性」という。液体の[[表面張力]]に打ち勝つ[[熱運動]]エネルギーを持つ分子は蒸発することができる。言い換えると、蒸発する分子は液体表面への[[付着]]についての[[仕事関数]]を超える[[力学エネルギー]]をもっている。したがって蒸発は液体の温度が高かったり、表面張力が低かったりするほど早く進行する。 また、[[理想気体]]あるいは[[理想液体]]では圧力に依存してその振る舞いを変えることはないが、実際の物質の場合には高圧になると気相と液相の振る舞いに相違がなくなる。その限界の転移点を「臨界点」と呼ぶ。その臨界点を超えた相の状態を[[超臨界状態]]と呼ぶ。 === 転移熱 === 熱的現象としては第一種相転移が進行中の一成分系は圧力が一定の場合、系の温度が一定のままでの系外への熱の放出あるいは吸収が見られる。このような機構で生じる熱を{{読み仮名_ruby不使用|'''転移熱'''|てんいねつ}}<ref group="注">{{lang-en-short|heat of transition}}</ref>または{{読み仮名_ruby不使用|'''[[潜熱]]'''|せんねつ}}<ref group="注">{{lang-en-short|latent heat}}</ref>とよぶ。そもそも[[熱]]の定義は物体に[[作用]]することで[[温度]]変化をもたらす[[物理量]]であり、一次相転移点以外の状態では熱の作用は温度変化をもたらすのでこの場合を[[顕熱]]<ref group="注">{{lang-en-short|sensible heat}}</ref>とよび、一次相転移点において作用により温度変化を生じない場合を潜熱と呼び分けたことに由来するので、顕熱と潜熱とで物理量である熱として違いがあるわけではない。 相転移前後を状態<sub>1</sub>、状態<sub>2</sub>とした場合、それぞれの相の生成[[エンタルピー]] ''H''<sub>1</sub>, ''H''<sub>2</sub>の総量の差分だけ、転移熱が発生する。 転移熱の単位は質量あたりの[[熱量]] ([[ジュール|J]]/g) または物質量あたりの熱量 (J/[[mol]]) で示される。例えば、[[水]]の融解熱は 333.5 J/g、気化熱は 2256.7 J/g である。 次に転移熱に該当する熱現象を次に示す。 * '''[[蒸発熱]]'''('''気化熱'''、'''凝縮熱''') - 気相・液相間の第一種相転移 * '''融解熱'''('''凝固熱''')- 液相・固相間の第一種相転移 ==第二種相転移== 代表的な第二種相転移である物理現象としては、一部の[[構造相転移]]、[[磁気相転移]]、[[常伝導]]から[[超伝導]]状態への転移、[[液体ヘリウム]]の[[超流動]]状態などが挙げられる。一般に第二種相転移はある[[秩序変数]]が[[秩序]]‐[[無秩序]]へと転移する現象である。秩序変数としては結晶内の原子配列の規則化や磁性体の磁気的秩序等、多岐に渡る。 二次あるいは高次の相転移では[[化学ポテンシャル]]の一次導関数も[[連続]]である為、転移熱は発生せず、[[比体積]]の不連続点も発生しない。 一方、二次相転移では、化学ポテンシャルの二次導関数等は不連続で[[比熱]]や[[磁化率]]が転移点で不連続性を示す。そのほかにも第二種相転移点付近では物理量の異常性が現れ、それらは'''[[臨界現象]]'''と総称される。たとえば、比熱が第二種相転移点付近で[[ギリシャ文字]]の λ の形のグラフを示して[[発散]]するケースは'''[[ラムダ転移]]'''と呼ばれる。 == 関連図書 == *{{Cite book|和書 |author1=レフ・ランダウ|authorlink1=レフ・ランダウ|author2=エフゲニー・リフシッツ|authorlink2=エフゲニー・リフシッツ |title=統計物理学 |series=[[理論物理学教程]]|volume=上 |edition=第 3 版 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000057202}} *{{Cite book|和書 |author=レフ・ランダウ、エフゲニー・リフシッツ |title=統計物理学 |series=理論物理学教程|volume=下 |edition=第 3 版 |publisher=岩波書店 |isbn=978-4000057219}} *{{Cite book|和書 |author=ヴォルフガング・ゲプハルト、ウヴェ・クライ |title=相転移と臨界現象|series=物理学叢書 |publisher=[[吉岡書店]] |isbn=978-4842702421}} *{{Cite book|和書 |author=ユージン・スタンレー|authorlink=ユージン・スタンレー |title=相転移と臨界現象|edition=新装版 |publisher=[[東京図書]] |isbn=978-4489002410}} *{{Cite book|和書 |author=P.W.アンダーソン|authorlink=フィリップ・アンダーソン |title=凝縮系物理学の基本概念|series=物理学叢書 |publisher=吉岡書店 |isbn=978-4842702124}} *{{Cite book | author = author: Franz Schwabl, translator: William Brewer | title = Statistical Mechanics | url = http://www.springer.com/materials/book/978-3-540-32343-3 | publisher = Springer | language = English | edition = Second | year = 2006 | isbn = 978-3-540-32343-3 | ref = Schwabl }} * 西森秀稔:「相転移・臨界現象の統計物理学」、培風館、ISBN 978-4563024352(2005年11月)。 * 田崎晴明, 原隆, 岡本和夫 (編):「相転移と臨界現象の数理」、共立出版、ISBN 978-4320111080(2015年6月9日)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[熱力学]] *[[統計力学]] *[[物性物理学]] *[[物質科学]] *[[連続]]、[[不連続]] *[[境界]]、[[臨界状態|臨界]] *[[物理変化]] *[[相変化材料]] (PCM) {{物質の状態}} {{Condensed matter physics topics}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:そうてんい}} [[Category:相転移|*]] [[Category:変化]]
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棋士 (将棋)
棋士(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」「プロ棋士」ともいい、本将棋を職業(専業)とする人のこと。現代では日本将棋連盟に所属し、棋戦に参加する者を指す(狭義)。女性限定の制度による「女流棋士」(女流のプロ)やアマチュアへの普及・指導を担当する「指導棋士」は(狭義の)棋士ではない。 また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「選手」と呼んでいる。 なお、囲碁の専業プロも「棋士」と称しているため、区別のために「将棋棋士」と表現する場合もある。 江戸時代以前から素人玄人を問わず一般に将棋を指す者のことを「将棋指し」と言った。その後、大橋家・大橋分家・伊藤家の家元三家が将棋指衆として江戸幕府から扶持を与えられるようになり、将棋で収入を得るプロが確立された。これら家元三家に所属する者を「将棋師」と呼んだ。家元とは独立して在野で賭け将棋(真剣)をして収入を得ていた者もいたが、これらはただの将棋指しとして将棋師とは区別された。 江戸幕府の崩壊により将棋師は後ろ盾を失い、将棋師の系譜に属する者たち(家元の弟子筋の者たち)は、財界の支援者の援助を得たり、他の生業と並行して将棋を指したり、あるいは賭け将棋で生計を立てる真剣師となるなどして活動を続けた。この時代にはこれらの実力者たちを「棋客」などと呼んだ。 明治の中頃から新聞に将棋が掲載されるようになり、新聞社との契約で生計を立てる者が現れた(ほぼ全員が江戸時代の家元の弟子筋に当たる者である)。彼らは将棋団体や将棋専門紙を作り、離合集散を繰り返した。 1924年(大正13年)9月8日、ついに東京の将棋三団体が関根金次郎(十三世名人)の下で合併し、「東京将棋連盟」を結成した。1927年(昭和2年)には関西の将棋団体も合流して「日本将棋連盟」となり、1936年(昭和11年)に「将棋大成会」と改称、1947年(昭和22年)に現在の「日本将棋連盟」になる。統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ新聞紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や賞金による安定的な収入が得られるようになった。 将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに棋客に代わって、「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴(十五世名人)によれば、彼が少年の頃(昭和初期)には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。 実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。現在では、日本将棋連盟の「棋士」がプロの正式名称である。 昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、囲碁と同じく「初段からが専門棋士」だった。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった。 日本将棋連盟では、棋士(引退棋士を含む)に対して「棋士番号」を付与している(将棋棋士一覧 を参照)。 棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日であり、同日の時点での現役棋士と引退棋士に対し、棋士となった日(四段になった日 )が早い順番に、1番の金易二郎(名誉九段)を筆頭として通し番号としての棋士番号を付与した。このとき、1977年3月までに死去または退会した棋士に対しては棋士番号を付与しなかった。以後、毎年新たに棋士となった者に、順次、棋士番号を付与している。 なお、棋士番号制度導入後に日本将棋連盟を退会・廃業した棋士の棋士番号は欠番として扱っており、2022年11月2日現在、永作芳也に付与されていた139番・橋本崇載に付与されていた239番が欠番となっている。 注:太字は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、現時点で名乗ることのできるもの。※印は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、引退後に名乗ることのできるもの。 なお、以前は「前竜王」「前名人」という称号が存在していた。4と5の間の序列であり、前竜王と前名人が別人の場合、竜王または名人を失ってからの期間が短い方が上位となっていたが、1994年に米長邦雄前名人、佐藤康光前竜王が名乗って以来四半世紀にわたって誰も名乗ることがなく、有名無実化していたため、日本将棋連盟は2019年度をもって廃止することを発表した。 将棋ファンが棋士の名前を言う場合、以下のパターンがある。 1,2は中立的かややぞんざいなニュアンスで、対局を観戦するときや、対局レースにだれが勝ち上がるかといった会話のときに用いられる。3,4は丁寧な言い方でこれもよく用いられる。5は丁寧だが3,4よりは丁寧さでは劣り、その棋士と直接話したことがあるか、その棋士のかなりのファンであるか、棋士を相当目上視しているかのニュアンスがともなう。6はそのときのタイトルホルダーである棋士について、「王位と名人が今度当たりますよね」のように、代名詞的に用いるものである。棋士は一部のファンから非公式にあだ名がつけられており、スポーツ選手よろしくあだ名で呼ばれることがある。これは特にネット上で多い。棋士のあだ名は将棋用語ではないが、ネット上で対局を観戦する人にとっては将棋界のジャーゴンの一種になっている。 棋士と同じく日本将棋連盟に所属する者として、女流棋士と指導棋士もいる。女流棋士は日本女子プロ将棋協会(LPSA)に所属する者や、プロ将棋の団体に所属せずフリーで女流公式戦に参加している女流棋士もいる。女流棋士は棋士とは異なり女性限定の制度である。彼女らは四段の棋士としてプロ入りしていないため(狭義の)棋士ではない。 棋士が全員、日本将棋連盟の正会員であるのに対し、従来、女流棋士は正会員ではなかった。しかし、2010年11月12日の臨時総会で「女流四段以上またはタイトル経験者」という条件付きで女流棋士も正会員とすることが決議された。 指導棋士はアマチュアへの普及・指導を担当するが、正会員(棋士)ではない。かつては段位を「準棋士○段」としていたが、現行では「指導棋士○段」となっている。 棋士になるための現行の制度について解説する。 新進棋士奨励会に入会してプロを目指すのが、通常のコースである。新進棋士奨励会は、単に「奨励会」と呼ばれることが多い。 奨励会に入会するには、棋士の推薦が必要なほか、下部組織の研修会で所定の成績を挙げるか、入会試験に合格しなければいけない。多くの場合、奨励会入会時の段級位は6級である。所定の成績を収めるごとに、1級あるいは1段ずつ昇級昇段していく。三段に上がると、半年に1期(1回)行われる三段リーグに入り、上位2名もしくは次点(リーグ3位)を2回取ると、四段に昇段すると同時に棋士(連盟正会員)となる。 6級でも都道府県のアマチュアトップクラスか、それに近い棋力があると言われる。そのような少年少女のみが入会し、しのぎを削る奨励会であるが、四段になれるのは、入会者全体のおよそ15%ほどである。 瀬川晶司のプロ編入をきっかけに、アマチュア選手が棋士になる道筋が模索された。2014年4月に「プロ編入試験」が制度化された。同試験は、2019年10月に「棋士編入試験」と名称が変更された。この制度を利用すれば、アマチュア選手や女流棋士が、奨励会を経ることなく棋士となることが可能である。下記は、2021年2月5日現在の規定による。受験料は50万円(消費税を含まず)である。 アマチュアまたは女流棋士であって、棋士の公式戦にアマチュア枠や女流枠から出場し、以下のいずれかの基準を1つ満たすこと。加えて「四段以上の連盟正会員(=棋士)」の推薦を要する。 これまでに棋士編入試験受験資格を得たのは今泉健司、稲葉聡、加來博洋、折田翔吾、里見香奈、小山怜央の6名である。小山は唯一、奨励会の経験がないままで棋士編入試験の受験資格を得ている。小山を除く5名は奨励会退会者であり、この5名のうち稲葉以外の4名(今泉、加來、折田、里見)、また特例扱いの瀬川については、いずれも元奨励会三段である。 上記の棋士編入試験に女流棋士が合格した場合、日本将棋連盟は次のように規定し、合格者は女流棋戦とプロ棋士公式棋戦の両方への出場が認められる。 直接プロになる制度ではないが、奨励会の上位に編入できる制度がある。 棋士は自己の意思で引退や日本将棋連盟からの退会ができるが、引退後も退会しなければ、依然として正会員であり、現役棋士との違いは「公式戦を対局する資格を失う」のみである(「引退棋士」「退役棋士」と呼ばれる)。なお、1977年4月1日の棋士番号制度(上述)の制定以後、棋士が連盟を退会した例は永作芳也(1988年退会、当時32歳)と橋本崇載(2022年退会、当時39歳)の2名である。 自己の意思以外での引退の規定は下記の通りである。 1. フリークラス編入者の場合 2. フリークラス宣言者の場合 引退の日付は、引退が決まった年度に勝ち残っていた棋戦の最終対局日で、テレビ棋戦の場合は対局の放映日である(2010年2月24日改定)。 下記を参照。 2022年現在、中学生棋士(中学生で四段への昇段を決めた棋士)は以下の5人である。 上記のうち、谷川と藤井は中学2年であった(加藤は早生まれのため中学3年であった)。藤井は中学在学中に公式戦歴代記録を更新する29連勝を達成。段位も六段まで昇段し、全棋士参加棋戦で優勝を果たした。また、5人とも名人およびその他のタイトル獲得を経験しており、藤井は史上最年少20歳10か月での名人位獲得および史上最年少17歳11か月でのタイトル獲得を達成している。 上記の5人に続く記録として、16歳での四段昇段棋士を下記に挙げる。データから見ても、早熟な棋士は優秀な者が多い傾向にある。 棋士の主な収入源は棋戦に出場することで得られる対局料並びに賞金であるが、それ以外にも将棋教室(道場)の経営による収入や、将棋に関する著書から得られる印税、イベント出演・出張指導・詰将棋の作成などに対する謝礼などがある。出張指導・詰将棋の作成については日本将棋連盟が定めた規定の料金表がある。昭和30年代ごろまでは、升田幸三・大山康晴など多くの棋士が新聞社の嘱託社員を務め、新聞の将棋欄で自ら記事執筆も手掛けることで収入を得ていた。その他、2020年頃から自らのYouTubeチャンネルを開設し、YouTuber活動をおこなう棋士も複数見られる。 また兼業が禁止されていないため、現役棋士がプロ活動の傍ら将棋以外の職務で収入を得るケースもある。古くはタレントとしてアイアイゲーム等のバラエティー番組に出演した芹沢博文・歌手としてもおゆき等のヒット曲を飛ばした内藤國雄・囲碁棋士としてもプロ活動をしていた北村文男・ソフトウェア会社を経営していた武者野勝巳・投資活動で著名化した桐谷広人・大学教授を務める飯田弘之などの例があり、2023年5月時点の現役棋士にも、プロ雀士と兼業の鈴木大介・ソフトウェア会社社員と兼業の星野良生・情報工学の研究者と兼業の谷合廣紀など、女流棋士では医師と兼業の伊奈川愛菓・イベント会社を経営している香川愛生の例がある。 日本将棋連盟は、プロ養成棋士機関の新進棋士奨励会の最下位に属する6級が、アマチュアの全国大会に県代表として出場できるアマチュア三〜四段と同程度の実力という見解を示しており、これがプロとアマの棋力差の伝統的な指標となってきた。 昭和には花村元司や小池重明など、奨励会を経ずにプロ入りが認められた、また検討されたレベルのアマチュアも稀に出現したが、プロがアマチュアに負けることは大きな屈辱であると見なされていた。しかし平成に入るとアマチュアのレベルもあがり、アマ最強豪が公式棋戦でプロに勝つケースも増え、奨励会で三段まで上ったもののプロ入りが果たせなかった瀬川晶司は、アマチュアとしての活躍によりプロ公式棋戦に参加して優秀な成績をあげ、プロ編入試験受験の資格を得てプロになった。 2005年2月28日、アマチュア選手強豪の瀬川晶司が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出した。瀬川は1996年に奨励会の三段リーグを26歳の年齢制限によって退会したが、その後アマチュア選手としてプロの公式戦でも活躍し、銀河戦で当時A級八段の久保利明らを破るなど、対プロ戦で勝率7割を超える戦績をあげていた。 この嘆願書に対し、プロ(棋士)の間でも意見が分かれ、プロに伍する実力があるのだから瀬川のプロ編入を認めるべきだという立場と、三段リーグを勝ち抜けなかったのだから編入を認めるべきでないという立場に二分されていた。この問題は将棋界のみならず広く世間の耳目を集めた。 過去にアマチュアのプロ編入は、1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司が五段への編入試験を受けて合格し、プロ入りした例がある。ただし花村は奨励会を経験しておらず、奨励会退会者のプロ編入は前例がなかった。 2005年5月26日、棋士総会が行われ、特例として瀬川のフリークラス編入試験を実施することに決定した。6月16日、試験要項が発表され、六番勝負にて瀬川3勝でフリークラス四段を認めることとなった。瀬川は11月6日の第5局に勝利して3勝目を挙げ、プロ入りが決定して同日付で四段になった。またその後、前述の通りプロ編入制度が制定された。 2014年12月8日に、今泉健司が3勝(1敗)した事で、制度制定後初の合格者が誕生した。 2000年代にはコンピュータ将棋がプロ棋士相手に平手で互角に戦えるようになり、橋本崇載は飯田弘之らが開発したTACOSと2005年に、渡辺明(当時竜王)は保木邦仁が開発したBonanzaと2007年にそれぞれ対戦し、プロ棋士側が勝利したがいずれも接戦になった。 2010年代になるとコンピュータ将棋はプロ超えの能力を持つに至り、女流棋士の清水市代は2010年に「あから2010」(4つのソフトの多数決方式)に敗れ、棋士引退後の米長邦雄永世棋聖も2012年1月に(第1回)将棋電王戦としてボンクラーズと対戦し中盤のミスでコンピュータに敗れ、厳密な意味でのプロ棋士ではないものの、広義の棋士に勝利した。 そして2013年にはプロ棋士5人と第22回世界コンピュータ将棋選手権において優秀な成績を残した5つのソフトが団体戦を戦う第2回将棋電王戦が開催され、その第2局に登場した佐藤慎一四段がponanzaと対戦し、現役プロ棋士としては初の敗北を喫し、最終第5局ではA級棋士である三浦弘行八段が選手権1位であったGPS将棋に敗北、この第2回将棋電王戦はプロ棋士側の1勝3敗1分であった。その後、2017年にponanzaが当時の佐藤天彦名人に勝利した。
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"明治の中頃から新聞に将棋が掲載されるようになり、新聞社との契約で生計を立てる者が現れた(ほぼ全員が江戸時代の家元の弟子筋に当たる者である)。彼らは将棋団体や将棋専門紙を作り、離合集散を繰り返した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)9月8日、ついに東京の将棋三団体が関根金次郎(十三世名人)の下で合併し、「東京将棋連盟」を結成した。1927年(昭和2年)には関西の将棋団体も合流して「日本将棋連盟」となり、1936年(昭和11年)に「将棋大成会」と改称、1947年(昭和22年)に現在の「日本将棋連盟」になる。統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ新聞紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や賞金による安定的な収入が得られるようになった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに棋客に代わって、「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴(十五世名人)によれば、彼が少年の頃(昭和初期)には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。現在では、日本将棋連盟の「棋士」がプロの正式名称である。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、囲碁と同じく「初段からが専門棋士」だった。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本将棋連盟では、棋士(引退棋士を含む)に対して「棋士番号」を付与している(将棋棋士一覧 を参照)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日であり、同日の時点での現役棋士と引退棋士に対し、棋士となった日(四段になった日 )が早い順番に、1番の金易二郎(名誉九段)を筆頭として通し番号としての棋士番号を付与した。このとき、1977年3月までに死去または退会した棋士に対しては棋士番号を付与しなかった。以後、毎年新たに棋士となった者に、順次、棋士番号を付与している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、棋士番号制度導入後に日本将棋連盟を退会・廃業した棋士の棋士番号は欠番として扱っており、2022年11月2日現在、永作芳也に付与されていた139番・橋本崇載に付与されていた239番が欠番となっている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "注:太字は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、現時点で名乗ることのできるもの。※印は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、引退後に名乗ることのできるもの。", "title": "棋士の称号" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "なお、以前は「前竜王」「前名人」という称号が存在していた。4と5の間の序列であり、前竜王と前名人が別人の場合、竜王または名人を失ってからの期間が短い方が上位となっていたが、1994年に米長邦雄前名人、佐藤康光前竜王が名乗って以来四半世紀にわたって誰も名乗ることがなく、有名無実化していたため、日本将棋連盟は2019年度をもって廃止することを発表した。", "title": "棋士の序列" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "将棋ファンが棋士の名前を言う場合、以下のパターンがある。", "title": "棋士の呼称" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1,2は中立的かややぞんざいなニュアンスで、対局を観戦するときや、対局レースにだれが勝ち上がるかといった会話のときに用いられる。3,4は丁寧な言い方でこれもよく用いられる。5は丁寧だが3,4よりは丁寧さでは劣り、その棋士と直接話したことがあるか、その棋士のかなりのファンであるか、棋士を相当目上視しているかのニュアンスがともなう。6はそのときのタイトルホルダーである棋士について、「王位と名人が今度当たりますよね」のように、代名詞的に用いるものである。棋士は一部のファンから非公式にあだ名がつけられており、スポーツ選手よろしくあだ名で呼ばれることがある。これは特にネット上で多い。棋士のあだ名は将棋用語ではないが、ネット上で対局を観戦する人にとっては将棋界のジャーゴンの一種になっている。", "title": "棋士の呼称" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "棋士と同じく日本将棋連盟に所属する者として、女流棋士と指導棋士もいる。女流棋士は日本女子プロ将棋協会(LPSA)に所属する者や、プロ将棋の団体に所属せずフリーで女流公式戦に参加している女流棋士もいる。女流棋士は棋士とは異なり女性限定の制度である。彼女らは四段の棋士としてプロ入りしていないため(狭義の)棋士ではない。", "title": "女流棋士と指導棋士" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "棋士が全員、日本将棋連盟の正会員であるのに対し、従来、女流棋士は正会員ではなかった。しかし、2010年11月12日の臨時総会で「女流四段以上またはタイトル経験者」という条件付きで女流棋士も正会員とすることが決議された。", "title": "女流棋士と指導棋士" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "指導棋士はアマチュアへの普及・指導を担当するが、正会員(棋士)ではない。かつては段位を「準棋士○段」としていたが、現行では「指導棋士○段」となっている。", "title": "女流棋士と指導棋士" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "棋士になるための現行の制度について解説する。", "title": "棋士になるための道" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "新進棋士奨励会に入会してプロを目指すのが、通常のコースである。新進棋士奨励会は、単に「奨励会」と呼ばれることが多い。 奨励会に入会するには、棋士の推薦が必要なほか、下部組織の研修会で所定の成績を挙げるか、入会試験に合格しなければいけない。多くの場合、奨励会入会時の段級位は6級である。所定の成績を収めるごとに、1級あるいは1段ずつ昇級昇段していく。三段に上がると、半年に1期(1回)行われる三段リーグに入り、上位2名もしくは次点(リーグ3位)を2回取ると、四段に昇段すると同時に棋士(連盟正会員)となる。 6級でも都道府県のアマチュアトップクラスか、それに近い棋力があると言われる。そのような少年少女のみが入会し、しのぎを削る奨励会であるが、四段になれるのは、入会者全体のおよそ15%ほどである。", "title": "棋士になるための道" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "瀬川晶司のプロ編入をきっかけに、アマチュア選手が棋士になる道筋が模索された。2014年4月に「プロ編入試験」が制度化された。同試験は、2019年10月に「棋士編入試験」と名称が変更された。この制度を利用すれば、アマチュア選手や女流棋士が、奨励会を経ることなく棋士となることが可能である。下記は、2021年2月5日現在の規定による。受験料は50万円(消費税を含まず)である。", "title": "棋士になるための道" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アマチュアまたは女流棋士であって、棋士の公式戦にアマチュア枠や女流枠から出場し、以下のいずれかの基準を1つ満たすこと。加えて「四段以上の連盟正会員(=棋士)」の推薦を要する。", "title": "棋士になるための道" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これまでに棋士編入試験受験資格を得たのは今泉健司、稲葉聡、加來博洋、折田翔吾、里見香奈、小山怜央の6名である。小山は唯一、奨励会の経験がないままで棋士編入試験の受験資格を得ている。小山を除く5名は奨励会退会者であり、この5名のうち稲葉以外の4名(今泉、加來、折田、里見)、また特例扱いの瀬川については、いずれも元奨励会三段である。", "title": "棋士になるための道" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "上記の棋士編入試験に女流棋士が合格した場合、日本将棋連盟は次のように規定し、合格者は女流棋戦とプロ棋士公式棋戦の両方への出場が認められる。", "title": "棋士になるための道" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "直接プロになる制度ではないが、奨励会の上位に編入できる制度がある。", "title": "棋士になるための道" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "棋士は自己の意思で引退や日本将棋連盟からの退会ができるが、引退後も退会しなければ、依然として正会員であり、現役棋士との違いは「公式戦を対局する資格を失う」のみである(「引退棋士」「退役棋士」と呼ばれる)。なお、1977年4月1日の棋士番号制度(上述)の制定以後、棋士が連盟を退会した例は永作芳也(1988年退会、当時32歳)と橋本崇載(2022年退会、当時39歳)の2名である。", "title": "引退" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "自己の意思以外での引退の規定は下記の通りである。", "title": "引退" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1. フリークラス編入者の場合", "title": "引退" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2. フリークラス宣言者の場合", "title": "引退" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "引退の日付は、引退が決まった年度に勝ち残っていた棋戦の最終対局日で、テレビ棋戦の場合は対局の放映日である(2010年2月24日改定)。", "title": "引退" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "下記を参照。", "title": "将棋史上の代表的な棋士" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2022年現在、中学生棋士(中学生で四段への昇段を決めた棋士)は以下の5人である。", "title": "将棋史上の代表的な棋士" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "上記のうち、谷川と藤井は中学2年であった(加藤は早生まれのため中学3年であった)。藤井は中学在学中に公式戦歴代記録を更新する29連勝を達成。段位も六段まで昇段し、全棋士参加棋戦で優勝を果たした。また、5人とも名人およびその他のタイトル獲得を経験しており、藤井は史上最年少20歳10か月での名人位獲得および史上最年少17歳11か月でのタイトル獲得を達成している。", "title": "将棋史上の代表的な棋士" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "上記の5人に続く記録として、16歳での四段昇段棋士を下記に挙げる。データから見ても、早熟な棋士は優秀な者が多い傾向にある。", "title": "将棋史上の代表的な棋士" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "棋士の主な収入源は棋戦に出場することで得られる対局料並びに賞金であるが、それ以外にも将棋教室(道場)の経営による収入や、将棋に関する著書から得られる印税、イベント出演・出張指導・詰将棋の作成などに対する謝礼などがある。出張指導・詰将棋の作成については日本将棋連盟が定めた規定の料金表がある。昭和30年代ごろまでは、升田幸三・大山康晴など多くの棋士が新聞社の嘱託社員を務め、新聞の将棋欄で自ら記事執筆も手掛けることで収入を得ていた。その他、2020年頃から自らのYouTubeチャンネルを開設し、YouTuber活動をおこなう棋士も複数見られる。", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また兼業が禁止されていないため、現役棋士がプロ活動の傍ら将棋以外の職務で収入を得るケースもある。古くはタレントとしてアイアイゲーム等のバラエティー番組に出演した芹沢博文・歌手としてもおゆき等のヒット曲を飛ばした内藤國雄・囲碁棋士としてもプロ活動をしていた北村文男・ソフトウェア会社を経営していた武者野勝巳・投資活動で著名化した桐谷広人・大学教授を務める飯田弘之などの例があり、2023年5月時点の現役棋士にも、プロ雀士と兼業の鈴木大介・ソフトウェア会社社員と兼業の星野良生・情報工学の研究者と兼業の谷合廣紀など、女流棋士では医師と兼業の伊奈川愛菓・イベント会社を経営している香川愛生の例がある。", "title": "収入" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本将棋連盟は、プロ養成棋士機関の新進棋士奨励会の最下位に属する6級が、アマチュアの全国大会に県代表として出場できるアマチュア三〜四段と同程度の実力という見解を示しており、これがプロとアマの棋力差の伝統的な指標となってきた。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "昭和には花村元司や小池重明など、奨励会を経ずにプロ入りが認められた、また検討されたレベルのアマチュアも稀に出現したが、プロがアマチュアに負けることは大きな屈辱であると見なされていた。しかし平成に入るとアマチュアのレベルもあがり、アマ最強豪が公式棋戦でプロに勝つケースも増え、奨励会で三段まで上ったもののプロ入りが果たせなかった瀬川晶司は、アマチュアとしての活躍によりプロ公式棋戦に参加して優秀な成績をあげ、プロ編入試験受験の資格を得てプロになった。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2005年2月28日、アマチュア選手強豪の瀬川晶司が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出した。瀬川は1996年に奨励会の三段リーグを26歳の年齢制限によって退会したが、その後アマチュア選手としてプロの公式戦でも活躍し、銀河戦で当時A級八段の久保利明らを破るなど、対プロ戦で勝率7割を超える戦績をあげていた。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "この嘆願書に対し、プロ(棋士)の間でも意見が分かれ、プロに伍する実力があるのだから瀬川のプロ編入を認めるべきだという立場と、三段リーグを勝ち抜けなかったのだから編入を認めるべきでないという立場に二分されていた。この問題は将棋界のみならず広く世間の耳目を集めた。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "過去にアマチュアのプロ編入は、1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司が五段への編入試験を受けて合格し、プロ入りした例がある。ただし花村は奨励会を経験しておらず、奨励会退会者のプロ編入は前例がなかった。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2005年5月26日、棋士総会が行われ、特例として瀬川のフリークラス編入試験を実施することに決定した。6月16日、試験要項が発表され、六番勝負にて瀬川3勝でフリークラス四段を認めることとなった。瀬川は11月6日の第5局に勝利して3勝目を挙げ、プロ入りが決定して同日付で四段になった。またその後、前述の通りプロ編入制度が制定された。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2014年12月8日に、今泉健司が3勝(1敗)した事で、制度制定後初の合格者が誕生した。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2000年代にはコンピュータ将棋がプロ棋士相手に平手で互角に戦えるようになり、橋本崇載は飯田弘之らが開発したTACOSと2005年に、渡辺明(当時竜王)は保木邦仁が開発したBonanzaと2007年にそれぞれ対戦し、プロ棋士側が勝利したがいずれも接戦になった。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2010年代になるとコンピュータ将棋はプロ超えの能力を持つに至り、女流棋士の清水市代は2010年に「あから2010」(4つのソフトの多数決方式)に敗れ、棋士引退後の米長邦雄永世棋聖も2012年1月に(第1回)将棋電王戦としてボンクラーズと対戦し中盤のミスでコンピュータに敗れ、厳密な意味でのプロ棋士ではないものの、広義の棋士に勝利した。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "そして2013年にはプロ棋士5人と第22回世界コンピュータ将棋選手権において優秀な成績を残した5つのソフトが団体戦を戦う第2回将棋電王戦が開催され、その第2局に登場した佐藤慎一四段がponanzaと対戦し、現役プロ棋士としては初の敗北を喫し、最終第5局ではA級棋士である三浦弘行八段が選手権1位であったGPS将棋に敗北、この第2回将棋電王戦はプロ棋士側の1勝3敗1分であった。その後、2017年にponanzaが当時の佐藤天彦名人に勝利した。", "title": "アマチュアおよびコンピュータとの棋力差" } ]
棋士(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」「プロ棋士」ともいい、本将棋を職業(専業)とする人のこと。現代では日本将棋連盟に所属し、棋戦に参加する者を指す(狭義)。女性限定の制度による「女流棋士」(女流のプロ)やアマチュアへの普及・指導を担当する「指導棋士」は(狭義の)棋士ではない。 また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「選手」と呼んでいる。 なお、囲碁の専業プロも「棋士」と称しているため、区別のために「将棋棋士」と表現する場合もある。
{{複数の問題|出典の明記=2022-4}} {{Pathnav|将棋|frame=1}} {{将棋ヘッダ}} [[File:ShogiJapanSeriesFinalTokyo2014HabuWatanabe.jpg | thumb | [[羽生善治]](左)と[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]](右)]] '''棋士'''(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」「プロ棋士」ともいい、[[本将棋]]を[[職業]](専業)とする人のこと。現代では[[日本将棋連盟]]に所属し、[[棋戦 (将棋)|棋戦]]に参加する者を指す(狭義)。女性限定の制度による「[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]」(女流のプロ)やアマチュアへの普及・指導を担当する「[[指導棋士]]」は(狭義の)棋士ではない。 また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「'''選手'''」と呼んでいる。 なお、囲碁の専業プロも「[[棋士 (囲碁)|棋士]]」と称しているため、区別のために「'''将棋棋士'''」と表現する場合もある。 == 沿革 == === 新聞棋戦と日本将棋連盟の誕生 === 江戸時代以前から素人玄人を問わず一般に将棋を指す者のことを「[[将棋指し]]」と言った。その後、大橋家・大橋分家・伊藤家の家元三家が将棋指衆として江戸幕府から扶持を与えられるようになり、将棋で収入を得るプロが確立された。これら家元三家に所属する者を「'''将棋師'''」と呼んだ。家元とは独立して在野で賭け将棋(真剣)をして収入を得ていた者もいたが、これらはただの将棋指しとして将棋師とは区別された。 江戸幕府の崩壊により将棋師は後ろ盾を失い、将棋師の系譜に属する者たち(家元の弟子筋の者たち)は、財界の支援者の援助を得たり、他の生業と並行して将棋を指したり、あるいは賭け将棋で生計を立てる[[真剣師]]となるなどして活動を続けた。この時代にはこれらの実力者たちを「'''棋客'''」などと呼んだ。 明治の中頃から新聞に将棋が掲載されるようになり、新聞社との契約で生計を立てる者が現れた(ほぼ全員が江戸時代の家元の弟子筋に当たる者である)。彼らは将棋団体や将棋専門紙を作り、離合集散を繰り返した。 [[1924年]]([[大正]]13年)[[9月8日]]、ついに東京の将棋三団体が[[関根金次郎]](十三世名人)の下で合併し、「'''東京将棋連盟'''」を結成した。[[1927年]]([[昭和]]2年)には関西の将棋団体も合流して「'''日本将棋連盟'''」となり、[[1936年]](昭和11年)に「'''将棋大成会'''」と改称、[[1947年]](昭和22年)に現在の「'''日本将棋連盟'''」になる。統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ[[新聞]]紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や[[賞金]]による安定的な収入が得られるようになった。 === 「棋士」の誕生 === 将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに棋客に代わって、「'''専門棋士'''」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。[[大山康晴]](十五世名人)によれば、彼が少年の頃(昭和初期)には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。 実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。現在では、日本将棋連盟の「棋士」がプロの正式名称である。 昭和9年(1934年)に大阪で[[升田幸三]]が初段になった頃までは、[[囲碁]]と同じく「初段からが専門棋士」だった<REF>[[東公平]]『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36</REF>。その頃、それと並行して[[奨励会]]ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった<REF>[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]、[[原田泰夫]]、[[田辺忠幸]]『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220</REF>。 === 棋士番号 === 日本将棋連盟では、棋士(引退棋士を含む)に対して「棋士番号」を付与している(''[[将棋棋士一覧]]'' を参照)。 棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日であり、同日の時点での現役棋士と引退棋士に対し、棋士となった日(四段になった日<ref group="注釈">ただし、[[奨励会]]制度開始前に棋士になった場合は、初段になった時に「専門棋士開始」であったが、遡って「四段になった時がプロ棋士になった時」として適用している。</ref> )が早い順番に、1番の[[金易二郎]](名誉九段)を筆頭として通し番号としての棋士番号を付与した。このとき、1977年3月までに死去または退会した棋士に対しては棋士番号を付与しなかった。以後、毎年新たに棋士となった者に、順次、棋士番号を付与している。 なお、棋士番号制度導入後に日本将棋連盟を退会・廃業した棋士の棋士番号は欠番として扱っており、2022年11月2日現在、[[永作芳也]]に付与されていた139番・[[橋本崇載]]に付与されていた239番が欠番となっている。 === 所属 === 棋士・女流棋士は、東京の[[将棋会館]]か大阪の[[関西将棋会館]]のどちらか一方を主な対局地としており、東西のどちらに所属しているのかを、東京本部所属(または関東所属)、関西本部所属(または関西所属)として表す。対局者両名の所属が東西で分かれている場合には、序列上位者の対局地に下位者が赴き対局が行なわれることが多いが、順位戦等で対局地の割り当て均等化などの場合には必ずしもこの限りではない。東西の所属先の変更は任意で、年度の途中で所属を変更する者もいる。 == 棋士の称号 == *棋士は一般的に「氏名 段位」の形式で呼ばれる。 *ただし、タイトル保持者は「氏名 タイトル名」とタイトル名を称号として用いる。 *複数タイトル保持者の場合は、別格タイトルである竜王と名人が優先される(例:竜王と王位を保持する場合は単に「氏名 竜王」となる)。 {{See also|棋戦 (将棋)#竜王と名人}} *その他のタイトルを複数保持する者については保持しているタイトル名を全て並べて「氏名 王位・叡王・棋聖」のような形式(タイトルの順序はタイトル戦の公式な格付け順)で呼ぶ(2020年10月以降の将棋連盟における表記)。 **ただし、新聞などにおいてタイトル名を全て並べるのではなく「氏名 ○冠」という呼び方を継続しているのは、1997年以降に[[羽生善治]]が長らく「竜王・名人の双方を保持しない、複数タイトル保持者」だった時代の名残である。 **竜王戦を主催する[[読売新聞]]では、名人を含む他のどのタイトルよりも竜王が最優先になる。複数のタイトルを保持している場合は、竜王以外のタイトルの挑戦手合に関する報道では'''「(タイトル)保持者の竜王」'''という特殊な表現をする。 **名人戦と王将戦の2つのタイトルを主催する[[毎日新聞]]に限り、王将のタイトルを既に保持している者がA級順位戦を制して名人戦の挑戦者になった場合は同時に竜王を保持していても'''「氏名 王将」'''と表記する<ref>[https://mainichi.jp/articles/20230522/k00/00m/040/153000c 藤井聡太王将が最年少名人と7冠に王手 渡辺明名人から3勝 名人戦] - [[毎日新聞デジタル]] 2023年5月22日掲載。</ref>。{{see also|王将戦#エピソード|名人戦 (将棋)#1950年}} *この他、特別の称号として永世称号・名誉称号などを持つ棋士がいる。 === 永世称号・名誉称号など === 注:'''太字'''は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、現時点で名乗ることのできるもの。<br/>''※印''は現在の日本将棋連盟が公認している称号のうち、引退後に名乗ることのできるもの。 * [[竜王戦|竜王]] ** 永世竜王 - ''※[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]''、''※[[羽生善治]]'' * [[名人 (将棋)|名人]] ** 永世名人(○世名人) - '''[[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂]]'''(一世)、'''[[大橋宗古|二代大橋宗古]]'''(二世)、'''[[伊藤宗看 (初代)|初代伊藤宗看]]'''(三世)、'''[[大橋宗桂 (5代)|五代大橋宗桂]]'''(四世)、'''[[伊藤宗印 (2代)|二代伊藤宗印]]'''(五世)、'''[[大橋宗与 (3代)|三代大橋宗与]]'''(六世)、'''[[伊藤宗看 (3代)|三代伊藤宗看]]'''(七世)、'''[[大橋宗桂 (9代)|九代大橋宗桂]]'''(八世)、'''[[大橋宗英|六代大橋宗英]]'''(九世)、'''[[伊藤宗看 (6代)|六代伊藤宗看]]'''(十世)、'''[[伊藤宗印 (8代)|八代伊藤宗印]]'''(十一世)、'''[[小野五平]]'''(十二世)、'''[[関根金次郎]]'''(十三世)、'''[[木村義雄 (棋士)|木村義雄]]'''(十四世)、'''[[大山康晴]]'''(十五世)、'''[[中原誠]]'''(十六世)、'''[[谷川浩司]]'''(十七世)、''※[[森内俊之]]''(十八世)、''※羽生善治''(十九世) ** 実力制名人(実力制第○代名人)<ref group="注釈">実力制名人3期以上(もしくは抜群の成績で2期)で永世名人以外(すなわち5期未満)の70歳以上の引退棋士に贈られる称号である。したがって、実力制名人を獲得した者全員に贈られるわけではない。</ref> - '''[[塚田正夫]]'''(第二代)、'''[[升田幸三]]'''(第四代) ** 名誉名人 - '''[[小菅剣之助]]'''<ref group="注釈">一時名人に推挙されるも当時専業棋士でなかったため辞退。後に棋界統一に貢献したことで名誉名人を贈られた。</ref>、'''[[土居市太郎]]'''<ref group="注釈">関根名人在位時には関根を凌ぐ実力者であり、次期名人と目されていた。しかし、関根が実力名人制を導入したことにより、すでに全盛期を過ぎていた土居は名人になれず、名誉名人を贈られた。</ref> ** 大阪名人(関西名人)<ref group="注釈">江戸時代の家元制が崩壊してから日本将棋連盟が棋界の統一を終えるまでの間、現在の将棋連盟とは独立して活動していた関西の棋士が名乗った称号である。現在の日本将棋連盟は認めていない。</ref> - [[小林東伯斎]]、[[坂田三吉|坂田三吉(阪田三吉)]] ** 贈名人 - '''[[伊藤看寿]]'''<ref group="注釈">次期名人に内定し、先代の兄・三代伊藤宗看の養子となっていたが、兄より先に没したため、特例として没後に追贈された。</ref>、'''坂田三吉(阪田三吉)'''<ref group="注釈">大阪名人を名乗ったことが東京側から名人僭称とみなされて追放されていたが、後に和解。没後に名人が追贈された。</ref> * [[叡王戦|叡王]] ** 永世叡王 - * [[王位戦 (将棋)|王位]] ** 永世王位 - '''大山康晴'''、'''中原誠'''、''※羽生善治'' * [[王座戦 (将棋)|王座]] ** 名誉王座 - '''中原誠'''、''※羽生善治'' * [[棋王]] ** 永世棋王 - ''※羽生善治''、''※渡辺明'' * [[王将戦|王将]] ** 永世王将 - '''大山康晴'''、''※羽生善治'' ** 贈王将 - '''坂田(阪田)三吉'''<ref group="注釈">北条秀司の戯曲『王将』などで親しまれ、没後に追贈された。</ref> * [[棋聖戦 (将棋)|棋聖]] ** 永世棋聖 - '''大山康晴'''、'''中原誠'''、'''[[米長邦雄]]'''、''※羽生善治''、''※[[佐藤康光]]'' ** 棋聖 - [[天野宗歩]]<ref group="注釈">圧倒的な棋力から棋聖と呼ばれた江戸時代の棋士であり、十三世名人の関根金次郎によって公式に称号が追贈された。現在の棋聖戦は天野の称号に由来する。しかし、何らかの理由により現在の日本将棋連盟では天野の称号としてこれを使用していない。</ref> * [[十段戦 (将棋)|十段]] ** 永世十段 - '''大山康晴'''、'''中原誠''' ** 名誉十段 - '''塚田正夫'''<ref group="注釈">塚田は九段戦3連覇の実績によって永世九段となり、没後に名誉十段が追贈された。</ref> ** 十段 - '''[[徳川家康]]'''<ref group="注釈">初代大橋宗桂が徳川家康から将棋所(名人)に任ぜられて400年の節目を記念し、日本将棋連盟から追贈された。なお、段位としての十段であるとされる。</ref><ref group="注釈">また、家康は[[日本棋院]]からも[[囲碁殿堂]]に顕彰されている。</ref> * 九段<ref group="注釈">タイトルとしての九段と段位としての九段は明確に区別されてはおらず、称号も段位に準じて扱われる。</ref> ** 永世九段 - '''塚田正夫'''<ref group="注釈">永世九段の資格に基づいて九段を名乗ったが一般に段位として扱われている。</ref>、大山康晴<ref group="注釈">永世九段の資格を得た時点で段位がすでに九段であり、両者はことさら区別されてはいなかったので、日本将棋連盟で段位とは別に永世九段として扱われたことはない。</ref> ** 名誉九段<ref group="注釈">一般的には、タイトル戦の九段戦とは関係なく、段位としての九段の名誉称号とされている。</ref> - '''[[金易二郎]]'''<ref group="注釈">金が名誉九段になった時点では段位制度が八段までしかなく、九段と言えばタイトル戦の九段戦であった。したがって、タイトル称号としての名誉九段として与えられた可能性がある。しかし、いずれにしてもタイトルとしての九段と段位としての九段はほとんど区別されていなかったため、現在では段位とみなされている。</ref>、'''[[渡辺東一]]'''、'''[[加藤治郎 (棋士)|加藤治郎]]'''、'''[[高柳敏夫]]'''、'''[[佐瀬勇次]]''' * その他 ** 名誉NHK杯選手権者<ref group="注釈">一般棋戦NHK杯でのみ使われる称号である。</ref> - 羽生善治 == 棋士の序列 == # 竜王または名人。竜王と名人が別人の場合、他に保持しているタイトル数が多い方<ref name="matsumoto20190611">{{Cite web|和書|title=羽生善治九段は6位 藤井聡太七段は93位 将棋界の席次はどのようにして決まるか|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8c67ab3340c0375d39696089a2d5f3ee440f464b|website=Yahoo!ニュース 個人|accessdate=2020-08-15|language=ja|publisher=|author=松本博文|authorlink=松本博文|date=2019-6-11|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0815-1946-08/https://news.yahoo.co.jp:443/byline/matsumotohirofumi/20190611-00129656/|archivedate=2020-8-15}}</ref>。保持しているタイトル数が同じ場合は、棋士番号の小さい方が上位<ref name="matsumoto20190611" />。 # タイトル保持者。保持タイトル数の多い方<ref name="matsumoto20190611" />。保持しているタイトル数が同じ場合、日本将棋連盟が定める序列がより上位のタイトルを保持している方が上位<ref name="序列順" />。 # 永世名人襲位者<ref>{{Cite web|和書|title=谷川浩司名人(当時)「その日、連盟に着くまでの私は、正にルンルン気分であった」|url=https://shogipenclublog.com/blog/2016/03/28/tanigawa-20/|website=将棋ペンクラブログ|accessdate=2023-08-27}}</ref> # 永世称号襲位(就位)者。 # 永世称号資格者。永世称号資格を先に取得した方が上位<ref name="matsumoto20190611" />。 # 上記以外。高段者が上位。同段位の場合、より早くその段位になった者が上位<ref name="matsumoto20190611" />。 なお、以前は「前竜王」「前名人」という称号が存在していた。4と5の間の序列であり、前竜王と前名人が別人の場合、竜王または名人を失ってからの期間が短い方が上位となっていたが、1994年に米長邦雄前名人、佐藤康光前竜王が名乗って以来四半世紀にわたって誰も名乗ることがなく、有名無実化していたため、日本将棋連盟は2019年度をもって廃止することを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=将棋の「前竜王」や「前名人」の肩書廃止…20年以上、誰も名乗らず : 竜王戦 : 囲碁・将棋 : ニュース|url=https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/ryuoh/20200218-OYT1T50226/|website=読売新聞オンライン|date=2020-02-18|accessdate=2020-02-18|language=ja|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200218132336/https://www.yomiuri.co.jp/igoshougi/ryuoh/20200218-OYT1T50226/|archivedate=2020-2-18}}</ref>。 === 棋士の段位 === {{main|将棋の段級#棋士の昇段規定}} == 棋士の呼称 == ; 将棋ファンのプロ棋士に対する呼称 将棋ファンが棋士の名前を言う場合、以下のパターンがある。 #姓+名呼び捨て #姓のみ呼び捨て(一部の棋士は名のみ呼び捨て) #姓+段位/タイトル #姓+名+段位/タイトル #姓+先生 #タイトルのみ #あだ名 1,2は中立的かややぞんざいなニュアンスで、対局を観戦するときや、対局レースにだれが勝ち上がるかといった会話のときに用いられる。3,4は丁寧な言い方でこれもよく用いられる。5は丁寧だが3,4よりは丁寧さでは劣り、その棋士と直接話したことがあるか、その棋士のかなりのファンであるか、棋士を相当目上視しているかのニュアンスがともなう。6はそのときのタイトルホルダーである棋士について、「王位と名人が今度当たりますよね」のように、代名詞的に用いるものである。棋士は一部のファンから非公式にあだ名がつけられており、スポーツ選手よろしくあだ名で呼ばれることがある。これは特に[[インターネット|ネット]]上で多い。棋士のあだ名は将棋用語ではないが、ネット上で対局を観戦する人にとっては将棋界の[[ジャーゴン]]の一種になっている。 == 女流棋士と指導棋士 == 棋士と同じく日本将棋連盟に所属する者として、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]と[[指導棋士]]もいる。女流棋士は[[日本女子プロ将棋協会]](LPSA)に所属する者や、プロ将棋の団体に所属せずフリーで女流公式戦に参加している女流棋士もいる。女流棋士は棋士とは異なり女性限定の制度である。彼女らは四段の棋士としてプロ入りしていないため(狭義の)棋士ではない。 棋士が全員、日本将棋連盟の正会員であるのに対し、従来、女流棋士は正会員ではなかった。しかし、[[2010年]][[11月12日]]の[[日本将棋連盟#棋士総会|臨時総会]]で「女流四段以上またはタイトル経験者」という条件付きで女流棋士も正会員とすることが決議された<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2010/11/post_351.html 臨時総会について]日本将棋連盟 2010年11月12日</ref>。 指導棋士はアマチュアへの普及・指導を担当するが、正会員(棋士)ではない。かつては段位を「準棋士○段」としていたが、現行では「指導棋士○段」となっている。 == 棋士になるための道 == 棋士になるための現行の制度について解説する。 === 通常のコース === {{main|新進棋士奨励会}} 新進棋士奨励会に入会してプロを目指すのが、通常のコースである。新進棋士奨励会は、単に「奨励会」と呼ばれることが多い。 奨励会に入会するには、棋士の推薦が必要なほか、下部組織の研修会で所定の成績を挙げるか、入会試験に合格しなければいけない<ref group="注釈">後に名人となった[[丸山忠久]]でも、奨励会の入会試験で2度落ちている。</ref>。多くの場合、奨励会入会時の段級位は6級である。所定の成績を収めるごとに、1級あるいは1段ずつ昇級昇段していく<ref group="注釈">奨励会の段級位は、成績不振の場合には降級・降段することもある。</ref>。三段に上がると、半年に1期(1回)行われる三段リーグに入り、上位2名もしくは次点(リーグ3位)を2回取ると、四段に昇段すると同時に棋士(連盟正会員)となる。 6級でも都道府県のアマチュアトップクラスか、それに近い棋力があると言われる。そのような少年少女のみが入会し、しのぎを削る奨励会であるが、四段になれるのは、入会者全体のおよそ15%ほどである。 === 棋士編入試験制度 === {{main2|制度導入の経緯|#アマチュア選手プロ編入問題}} [[瀬川晶司]]のプロ編入をきっかけに、アマチュア選手が棋士になる道筋が模索された。2014年4月に「プロ編入試験」が制度化された<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=プロ編入試験についてのお知らせ|url=https://www.shogi.or.jp/news/2014/04/post_982.html|website=|accessdate=2020-01-30|language=ja|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200130073906/https://www.shogi.or.jp/news/2014/04/post_982.html|archivedate=2020-1-30}}</ref>。同試験は、2019年10月に「棋士編入試験<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=アマチュアの折田翔吾さん、棋士編入試験受験へ|url=https://www.shogi.or.jp/news/2019/10/post_1827.html|website=|accessdate=2020-01-30|language=ja|publisher=[[日本将棋連盟]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200130073729/https://www.shogi.or.jp/news/2019/10/post_1827.html|archivedate=2020-1-30}}</ref>」と名称が変更された<ref>「▲将棋△」『[[産経新聞]]』(東京本社)2019年11月11日付朝刊、12版、5面、囲碁・将棋欄。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ツイート|url=https://twitter.com/asahi_shogi/status/1189053977955975168|website=|date=2019-10-28|accessdate=2020-01-30|language=ja|last=|publisher=[[Twitter]]|author=朝日新聞将棋取材班|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0130-1635-40/https://twitter.com:443/asahi_shogi/status/1189053977955975168|archivedate=2020-1-30}}</ref>。この制度を利用すれば、アマチュア選手や女流棋士が、奨励会を経ることなく棋士となることが可能である。下記は、2021年2月5日現在の規定<ref>{{Cite web|和書|title=アマチュアの折田翔吾さん、棋士編入試験受験へ 【試験日追加決定】|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2019/10/post_1827.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2020-01-30|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=女流棋士・奨励会員・アマチュアにおける 棋戦優秀者への対応について|将棋ニュース|日本将棋連盟|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/post_1989.html|website=www.shogi.or.jp|accessdate=2021-02-16|language=ja}}</ref>による。受験料は50万円([[消費税法|消費税]]を含まず)である<ref name=":2" /><ref>{{Cite web|和書|title=アゲアゲ将棋ユーチューバー、五番勝負でプロに挑戦|url=https://www.asahi.com/articles/ASMCD761HMCDPTFC00Y.html|website=|accessdate=2020-01-30|language=ja|publisher=[[朝日新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200130075917/https://www.asahi.com/articles/ASMCD761HMCDPTFC00Y.html|archivedate=2020-1-30}}</ref>。 ;受験資格 アマチュアまたは女流棋士であって、棋士の公式戦にアマチュア枠や女流枠から出場し、以下のいずれかの基準を1つ満たすこと。加えて「四段以上の連盟正会員<ref name=":3" />(=棋士)」の推薦を要する<ref name=":2" />。 #最も良いところから見て10勝以上、かつその間の勝率が6割5分以上の成績を収めること<ref name=":2" /> #以下の各棋戦のいずれか1つにおいて所定の成績を収めること(2021年2月より追加)<ref>{{cite|url=https://www.shogi.or.jp/news/2021/02/post_1989.html|title=将棋ニュース - 女流棋士・奨励会員・アマチュアにおける 棋戦優秀者への対応について|publisher=日本将棋連盟 |date=2021年02月05日|accessdate=2022-05-31}}</ref> :::(下表を参照) {| class="wikitable" style="font-size:90%;text-align:center;white-space:nowrap;width:50%;" |- !colspan="2"|対象となる公式棋戦 ||colspan="2"|{{0}}出場枠の有無{{0}}||colspan="2"| 棋士編入試験 受験資格取得の要件 <span style="font-size:smaller;font-weight:normal">(必要な勝ち数の目安)</span> |- !rowspan="6"|{{縦書き|タイトル棋戦}} ![[竜王戦]] |アマチュア枠||{{0}}女流枠{{0}} |style="text-align:left"|ランキング戦 優勝 {{small|(6組の場合 6-7勝)}} |rowspan="12" style="text-align:left"|左記の各条件を満たさない場合に、<wbr>各公式棋戦を通じ、<wbr>最も良いところから見て'''10勝'''以上、<wbr>かつ、その間の'''勝率が6割5分'''以上<wbr>の成績を収めること<br>{{small|(勝敗数の例:<wbr> 10-5、12-6、13-7、15-8、17-9、など)}} |- ![[王位戦 (将棋)|王位戦]] | {{center|-}} ||女流枠 |style="text-align:left"| 挑戦者決定リーグ 入り {{small|(予選4-5勝)}} |- ![[王座戦 (将棋)|王座戦]] |{{center|-}}||女流枠 |style="text-align:left"| 挑戦者決定トーナメント ベスト8 {{small|(予選7-8勝+本戦1勝)}} |- ![[棋王戦 (将棋)|棋王戦]] |アマチュア枠||女流枠 |style="text-align:left"| 挑戦者決定トーナメント ベスト8 {{small|(予選4-5勝+本戦2勝)}} |- !{{0}}{{00}}[[叡王戦]] <ref group="注釈" name="叡王戦" /> |{{small|(アマチュア枠)}}||{{small|(女流枠)}}|| {{center|-}} |- ![[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]] |{{center|-}}||女流枠 |style="text-align:left"| 決勝トーナメント ベスト8 {{small|(予選7勝+本戦1勝)}} |- !rowspan="6"|{{縦書き|一般棋戦}} ![[朝日杯将棋オープン戦|朝日杯]] |アマチュア枠||女流枠 |style="text-align:left"| 本戦トーナメント ベスト4 {{small|(予選5-6勝+本戦2勝)}} |- ![[銀河戦]] |アマチュア枠||女流枠 |style="text-align:left"| 決勝トーナメント ベスト4 {{small|(ブロック戦3勝以上+本戦2勝)}} |- ![[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]] |{{center|-}}||女流枠 |style="text-align:left"| 本戦トーナメント ベスト4 {{small|(本戦4勝)}} |- ![[新人王戦 (将棋)|新人王戦]] |アマチュア枠||女流枠||style="text-align:left"| 優勝 {{small|(5-6勝)}} |- ![[YAMADAチャレンジ杯|YAMADA杯]] |アマチュア枠||{{center|-}}|| {{center|-}} |- ![[加古川青流戦]] |アマチュア枠||女流枠|| {{center|-}} |} * アマチュア選手の出場枠があるプロ公式棋戦は以下の8棋戦。 **タイトル棋戦:[[竜王戦]]・[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]・[[叡王戦]]<ref group="注釈" name="叡王戦">第3期・第4期・第5期にアマチュア枠と女流枠が設けられていた。2021年度開催の第6期及び2022年度開催の第7期はアマチュア枠・女流枠なし。</ref> **一般棋戦:[[朝日杯将棋オープン戦]]・[[銀河戦]]・[[新人王戦 (将棋)|新人王戦]]・[[YAMADAチャレンジ杯]]・[[加古川青流戦]] * 女流棋士の出場枠があるプロ公式棋戦は、YAMADAチャレンジ杯を除く上記7棋戦に以下の4棋戦を加えた11棋戦。 **[[王位戦 (将棋)|王位戦]]・[[王座戦 (将棋)|王座戦]]・[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]] および [[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯]] ;試験方法 * 受験希望者は、受験資格を満たした日から1か月以内に受験を申請しなければならない<ref name=":2" />。試験の内容はプロ棋士との対局5局で、3勝すれば合格となる。試験官となるプロ棋士は、棋士番号の大きい順、すなわち申請受理時点より直近に棋士になった順で選ばれる。申請が受理された月の2か月後から1か月に1局ずつ指され、受験者が3勝または3敗した時点で終了し、以降の対局は行われない<ref name=":2" />。 * 受験者が5対局の中で3勝すれば合格し、4月1日付もしくは10月1日付(いずれか近い日付)で棋士([[順位戦#フリークラス|フリークラス]]の四段)となる<ref name=":2" />。 * 持時間は3時間。第1局は振り駒で先手番・後手番を決定し、第2局以降は1局ごとに受験者が手番を交代する<ref name=":2" />。 {| class="wikitable floatright" style="font-size:85%;text-align:center;" |+棋士編入試験の受験資格を得た者 |- !colspan="2"|受験資格者<br>{{small|(受験資格を得た成績)}}||試験実施<br>年度||編入試験 結果<br>(5番勝負) |- |今泉健司||10勝4敗||[[2014年度の将棋界|2014]]||style="background-color:#FCC"|3勝1敗 / '''合格''' |- |稲葉聡||10勝4敗||(2016)||{{center|(申請せず)}} |- |加來博洋||10勝4敗||(2016)||{{center|(申請せず)}} |- |折田翔吾||10勝2敗||[[2019年度の将棋界|2019]]||style="background-color:#FCC"|3勝1敗 / '''合格''' |- |里見香奈||10勝4敗||[[2022年度の将棋界|2022]]{{small|<br>(8月-12月)}}|| 0勝3敗 / '''不合格''' |- |小山怜央||10勝5敗||[[2022年度の将棋界|2022]]{{small|<br>(11月-3月)}}||style="background-color:#FCC"|3勝1敗 / '''合格''' |- !colspan="4"|制度化以前(ともに6番勝負) |- |花村元司|| - ||1944||style="background-color:#FCC"|4勝2敗 / '''合格''' |- |瀬川晶司||17勝6敗||[[2005年度の将棋界|2005]]||style="background-color:#FCC"|3勝2敗 / '''合格''' |} ;実施状況 これまでに棋士編入試験受験資格を得たのは[[今泉健司]]、[[稲葉聡]]、加來博洋、[[折田翔吾]]、[[里見香奈]]、[[小山怜央]]の6名である<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49204110Q9A830C1CR8000/ 将棋の折田翔吾アマ、プロ編入受験へ] - 2019年9月7日閲覧。「''日本将棋連盟によると受験資格を得たのは4人目''」(斜体は引用者)</ref>。小山は唯一、奨励会の経験がないままで棋士編入試験の受験資格を得ている。小山を除く5名は奨励会退会者であり、この5名のうち稲葉以外の4名(今泉、加來<ref>[https://www.shogi.or.jp/event/2013/09/66_1.html 「第67回全日本アマチュア将棋名人戦」全国大会【開催報告】] - 2019年9月7日閲覧。「''第67代アマ名人となった加來博洋さん。奨励会の元三段で、(後略)''」(斜体、省略は引用者)</ref>、折田、里見)、また特例扱いの瀬川については、いずれも元[[新進棋士奨励会|奨励会]]三段である。 * 受験者から見た通算での棋戦成績は9勝6敗<ref>2022年度11月-3月の小山による実施まで。</ref>。 * 2014年9月、元奨励会三段の[[今泉健司]]が7月に竜王戦・朝日杯将棋オープン戦・銀河戦で良い所からみて10勝4敗(勝率7割1分4厘)で条件を満たし、第一号として受験<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2014/07/post_1031.html アマチュアの今泉健司さん、プロ編入試験受験へ]日本将棋連盟 2014年7月24日</ref>。12月8日に編入試験3勝を挙げ、通算3勝1敗で合格を果たした<ref name=":1">[https://www.shogi.or.jp/news/2014/12/post_1126.html 今泉健司氏、プロ合格]日本将棋連盟 2014年12月8日</ref>。翌2015年4月1日付で四段昇段し棋士となった。 * 2016年6月に[[稲葉聡]]と加來博洋が受験資格を満たしたが、権利を行使しなかった。 * 2019年8月に[[折田翔吾]]が銀河戦での勝利により良い所からみて10勝2敗(勝率8割3分3厘)で受験資格を満たし、受験を表明した<ref>[https://web.archive.org/web/20191101005826/https://www.jiji.com/jc/article?k=2019083000659&g=soc プロ編入試験の資格獲得=大阪の折田翔吾アマ-将棋] - 時事通信社 2019年8月30日</ref>。2020年2月25日に編入試験3勝を挙げ、通算3勝1敗で合格を果たした<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.asahi.com/articles/ASN2T62XPN2TUCVL02R.html|title = 将棋ユーチューバー折田さんプロ入り「信じられない」 |website = www.asahi.com|publisher = 朝日新聞|date = |accessdate = 2020-02-25}}</ref>。同2020年4月1日付で四段昇段し棋士となった。 *2022年5月に'''女流棋士の[[里見香奈]]'''が[[第48期棋王戦]]予選8組決勝で勝利し、公式棋戦で女性として初の本戦進出を達成すると同時に、良い所からみて10勝4敗(勝率7割1分4厘)で'''女流棋士・女性としては初めて受験資格を満たし'''、6月24日に棋士編入試験の受験申込が受理された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/09/post_2134.html |title=里見香奈女流四冠、棋士編入試験受験へ |publisher=日本将棋連盟 |date=2022-06-28 |accessdate=2023-01-11 }}</ref>。編入試験が行われる8月-12月と同時期に、里見は3つの防衛棋戦([[女流王座戦]]・[[女流王将戦]]・[[大山名人杯倉敷藤花戦|倉敷藤花戦]])と2つの挑戦棋戦([[清麗戦]]・[[白玲戦]])の5つの女流タイトル棋戦が編成されており、これらと並行しながらの編入試験が実施された。編入試験の結果、0勝3敗で里見は初の棋士編入試験不合格者となった。 *2022年9月13日、'''[[小山怜央]]'''が[[第16回朝日杯将棋オープン戦]]一次予選6組準決勝での勝利により、公式戦の成績を良い所からみて10勝5敗(勝率6割6分7厘)として「棋士編入試験」の受験資格を得た。小山は2016年度に[[新進棋士奨励会#三段編入試験|三段編入試験]]を受験したが不合格となっており、'''奨励会への入会経験なく棋士編入試験の受験資格を得たのは史上初'''となる。9月28日付で棋士編入試験の受験申込が受理され、2022年11月-翌2023年3月に前述の里見の時と同じ試験官5人により編入試験が行われる<ref>{{cite|url=https://www.shogi.or.jp/news/2022/09/post_2183.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20220930074514/https://www.shogi.or.jp/news/2022/09/post_2183.html|title=小山怜央アマ、棋士編入試験受験へ|将棋ニュース|日本将棋連盟|date=2022-09-30|access-date=2022-09-30|archive-date=2022-09-30}}</ref>。小山アマと前述の里見女流の二人の編入試験が立て続けで行なわれ<ref group="注釈">当初の予定では2022年11月-12月の期間で里見と小山の編入試験が並行して行なわれる予定であったが、小山の編入試験開始前の10月に里見の編入試験が終了する結果となり、両者の棋士編入試験が並行実施されることはなかった。</ref>、同一年度で初の複数人による編入試験の受験となった。2023年2月13日に編入試験3勝を挙げ、通算3勝1敗で合格を果たし、同2023年4月1日付で四段昇段し棋士となる。 *資格要件に迫る成績例 ** 2020年7月、[[西山朋佳]]女流三冠(当時)は、[[第92期棋聖戦 (将棋)|第92期棋聖戦]]一次予選凖決勝での勝利で直近の公式棋戦成績を10勝5敗(勝率6割6分7厘)とし、棋士編入試験の受験資格獲得相当の成績を挙げたが、当時の西山は女流棋士の資格を持たない奨励会員(三段)であったために編入試験の対象外であった。西山はその後、棋聖戦では女性として初めて二次予選に進出し、更に二次予選の決勝まで勝ち進んだがここで敗退し、公式棋戦で女性として初の本戦進出はならなかった。 ** 2022年9月、アマチュアの[[早咲誠和]]は[[第16回朝日杯将棋オープン戦]]の一次予選一次予選2回戦に勝利して、11年10ヶ月弱の期間をかけて直近の公式棋戦成績を良い所から見て12勝7敗(勝率6割3分2厘)とし、棋士編入試験の受験資格獲得まであと1勝としたが、同日午後の3回戦で敗戦し編入試験資格を逃している。 {{clear}} ;棋士編入する女流棋士の棋戦参加 上記の棋士編入試験に女流棋士が合格した場合、日本将棋連盟は次のように規定し、合格者は女流棋戦とプロ棋士公式棋戦の両方への出場が認められる。 {| class="wikitable" style="font-size:100%;text-align:left;" | ;女流棋士、女性奨励会員の棋戦参加について<ref>{{cite|url=https://www.shogi.or.jp/news/2019/08/post_1810.html|title=将棋ニュース - 女流棋士、女性奨励会員の棋戦参加について|publisher=日本将棋連盟|date=2019年08月07日|accessdate=2022-05-31}}</ref> :女流棋士がプロ棋士編入試験に合格した場合、また女性奨励会員が四段の資格を得た場合の規定を下記の通り決定いたしました。 :1.女流棋士がプロ棋士編入試験に合格した場合、女流棋戦、及びプロ棋士公式棋戦の'''両方に出場することが出来る'''。 :{{small|2.奨励会に所属している女性が四段に昇段をした場合、女流棋士申請を行うことが出来る。ただし、申請期間は昇段日から2週間以内とする}} |} === その他 === 直接プロになる制度ではないが、奨励会の上位に編入できる制度がある。 *[[新進棋士奨励会#三段編入試験|三段編入試験]] *[[新進棋士奨励会#初段受験制度|初段受験制度]] == 引退 == 棋士は自己の意思で引退や日本将棋連盟からの退会ができるが、引退後も退会しなければ、依然として正会員であり、現役棋士との違いは「公式戦を対局する資格を失う」のみである(「引退棋士」「退役棋士」と呼ばれる)。なお、1977年4月1日の棋士番号制度([[#棋士番号|上述]])の制定以後、棋士が連盟を退会した例は[[永作芳也]](1988年退会、当時32歳)と[[橋本崇載]](2022年退会、当時39歳)の2名である。 {{main|引退#将棋}} 自己の意思以外での引退の規定は下記の通りである。 1. フリークラス編入者の場合 :1:[[順位戦|フリークラス]]に編入された棋士(順位戦C級2組からの降格者、もしくは、フリークラス編入試験合格によるプロ昇格者)が次に該当した場合、引退となる。 ::* 編入後10年以内または満60歳の誕生日を迎えた年度が終了するまで(以下「年限」)に[[順位戦]]C級2組に上がれなかった場合 ::* または60歳を迎えた後にC級2組から降級した場合 ::(フリークラス編入者の順位戦復帰については「[[順位戦#フリークラス編入者の順位戦出場条件]]」を参照。) :2:ただし、<!-- 「年限」到達までに -->順位戦以外の棋戦で以下の表の成績を挙げた場合は、該当棋戦に限って翌年度も出場できる(2010年7月9日改定)<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2010/07/post_307.html フリークラス棋士の引退について]日本将棋連盟 2010年07月14日</ref>。 :{| class="wikitable" |- !colspan="2"|棋戦名!!次期の同一棋戦参加条件!!備考 |- |rowspan="2"|タイトル戦 |[[竜王戦]]||4組以上在籍<br />(5組在籍でも2年間は可<ref group="注釈">{{要出典|フリークラスに在籍できる最終年度の時点で5組に在籍し、かつ、当期竜王戦で6組に降級しないことが、翌期以降の出場条件である。|date=2023年9月}}</ref>) |rowspan="4"|「年限」到達時に<br/>・達成済みの成績、あるいは<br/>・進行中の棋戦での成績。<br/>「年限」到達後の達成も含まれる<ref group="注釈">「年限」到達者の「次期棋戦参加条件」として「銀河戦優勝」を含めているが、一方、フリークラス編入者の順位戦復帰条件の一つ「全棋士参加棋戦優勝」には「銀河戦優勝」が該当しており、「年限」到達前に「銀河戦優勝」を達成した場合は当該者は順位戦に復帰し現役続行となる。従って、ここで記載されている「年限」到達者の「次期棋戦参加条件」は「年限」到達後の達成を含む(ただし進行中の棋戦に限る)ことが判る。</ref>。 |- |[[王位戦 (将棋)|王位戦]]※、<br />[[王座戦 (将棋)|王座戦]]、<br />[[棋王戦 (将棋)|棋王戦]]、<br />[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]、<br />[[王将戦]]※||本戦ベスト4以上<br/><br/>※印の棋戦のベスト4は、<br/>{{0|}}リーグ残留の意。 |- |rowspan="2"|一般棋戦 |[[朝日杯将棋オープン戦|朝日杯]]、<br />[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]||本戦ベスト4以上 |- |[[銀河戦]]||優勝 または 準優勝 |- |} :この制度によって出場を続けることになった棋士はこれまでに3名いる。 :::[[藤倉勇樹]]([[第34期竜王戦]]-[[第35期竜王戦]]、いずれも5組在籍) :::[[桐山清澄]]([[第34期竜王戦]]-[[第35期竜王戦]]、いずれも5組在籍) :::[[川上猛]]([[第37期竜王戦]]-、4組在籍) <!-- :::[[伊奈祐介]]([[第37期竜王戦]]-、5組在籍) --> :*竜王戦5組残留による現役継続(竜王戦のみの出場資格)となった事例は、2019年度に[[第33期竜王戦]]で5組残留を決めた[[藤倉勇樹]]が初である。また同年度、[[桐山清澄]]も藤倉と同条件で竜王戦のみ出場資格を得た。藤倉と桐山の両名の事例は「現役継続制度」制定後、初の適用例となった。藤倉と桐山は2期連続5組残留で竜王戦のみの現役を続けたものの、4組に昇級出来ず引退となった。 :*竜王戦4組残留による現役継続(竜王戦のみの出場資格)となった事例は、2023年度に[[第36期竜王戦]]で4組残留を決めた[[川上猛]]が初である。 2. フリークラス宣言者の場合 :自ら[[順位戦#フリークラス宣言(転出)|フリークラス宣言]]をしてフリークラスへ転出した棋士が、転出後、順位戦在籍可能最短年数(転出の時点から仮に順位戦で全て降級・降級点ばかりを続けた場合のC級2組からの陥落までの年数)に15年を加えた年数が過ぎれば引退。または、満65歳の誕生日を迎えた年度が終了すれば引退。なお、フリークラス宣言者の場合は、上記の棋戦ごとの延長措置は適用されない<ref group="注釈">具体例として、2011年度以降にフリークラス宣言をして、2014年度の各棋戦の最終対局をもって引退が決まっていた[[淡路仁茂]]は、竜王戦で5組に在籍した状態で現役最終年度を終え、当年度も5組残留相当の成績を修めたものの、翌年度の竜王戦には出場できずに全公式戦を引退となった。尚、淡路はこの規定により、2014年度の最終対局(第28期竜王戦5組残留決定戦・対[[森雞二]])が、勝敗結果にかかわらず現役最終局となり、当該対局に勝利した事で、現役最後の対局を白星で飾るという将棋界では珍しい記録を残した。</ref>。 === 引退の日付 === 引退の日付は、引退が決まった年度に勝ち残っていた棋戦の最終対局日で、テレビ棋戦の場合は対局の放映日である(2010年2月24日改定)<ref group="注釈">改定前は、引退が決まった年度の末日(3月31日)とされていた。この規定改定は、引退間際に翌年度の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント|NHK杯戦]]の予選を通過した[[有吉道夫]]の引退予定変更とともに発表された。[[小阪昇]]は、この改定により、引退日が2010年7月14日まで延びた。</ref><ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2010/02/post_255.html 引退規定の変更について]日本将棋連盟 2010年02月25日</ref>。 == 将棋史上の代表的な棋士 == === タイトル経験者 === 下記を参照。 * [[棋戦 (将棋)#タイトル獲得記録|タイトル獲得記録]] - タイトル戦の[[番勝負]]に登場した全棋士の獲得回数・登場回数ランキング。 * [[将棋のタイトル在位者一覧]] - 各年・各タイトルの獲得者を年表形式で記述。 * [[将棋のタイトル戦結果一覧]] - 上記に加え、スコアと敗者の名前も記載。 === 歴代の強豪棋士 === ;* [[大橋宗桂 (初代)|初代大橋宗桂]] (1555-1634) :: [[徳川家康]]に仕え、[[将棋所]]を名乗ったことから初代[[名人 (将棋)|名人]]とされる。将棋家元三家の本流である、[[大橋家|大橋本家]]の祖(ほかは[[大橋分家]]、[[伊藤氏#伊藤家 (将棋)|伊藤家]])。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期の人物。 ;* [[伊藤宗看 (3代)|三代伊藤宗看]] (1706-1761) :: 七世名人。「'''鬼宗看'''」。[[詰め将棋]]作りでも知られ、将軍家に「将棋無双」を献上した。 ;* [[大橋宗英|六代大橋宗英]] (1756-1809) ::九世名人。通称「'''鬼'''」。「宗英以前に宗英無く、宗英以後にも宗英無し」と呼ばれ、負けにくい棋風から「近代将棋の祖」とされている。江戸時代後半に活躍。 ;* [[天野宗歩]] (1816-1859) :: 名人や将棋家当主(家元)にはならなかったものの、実力は高く評価されており、「'''[[棋聖 (将棋)|棋聖]]'''」と呼ばれる。[[幕末]]に活躍。 ;* [[坂田三吉]] (1870-1946) :: 明治から昭和の初期にかけて活動した棋士。贈名人・王将。その生涯が何度も映画化された。 ;* [[関根金次郎]] (1868-1946) ::十三世名人。明治から昭和の初期にかけて活躍した棋士であり、坂田三吉の最大のライバル。自ら名人位を退き、実力制名人制度を確立した。 ;* [[木村義雄 (棋士)|木村義雄]] (1905-1986) ::初の実力制名人(通算8期)。十四世名人。通称「'''常勝将軍'''」。第二次世界大戦の前後に活躍。 ;* [[升田幸三]] (1918-1991) ::初の三冠独占者。通算獲得タイトル7期(うち名人2期)。独創的な序盤戦術の開発のことを、自ら「'''新手一生'''」と呼称。 ;* [[大山康晴]] (1923-1992) ::升田から三冠すべてを奪い独占。また、初の四冠・五冠独占者。通算獲得タイトル80期(うち名人18期)。十五世名人。昭和期に長く活躍し、一時代を築く。通算1433勝(歴代2位)。タイトル戦連続19獲得・連続50出場記録、タイトル挑戦(66歳)・順位戦A級維持(69歳)の最年長記録。 ;* [[加藤一二三]] (1940-) :: 通算獲得タイトル8期(うち名人1期)。当時史上最年少となる14歳でのプロ棋士資格。連続昇級による18歳でのA級棋士と20歳での名人戦挑戦(最年少記録)。A級順位戦通算149勝(歴代1位)。62歳のA級在位(歴代2位)。初の1000敗達成。史上初の勤続60年。公式戦の生涯対局数は2505局(歴代1位)。通称「'''神武以来(じんむこのかた)の天才'''」。 ;* [[米長邦雄]] (1943-2012) ::四冠達成。通算獲得タイトル19期(うち名人1期)。永世棋聖。49歳での名人位獲得は史上最年長記録(「50歳名人」)。中原との対局数187局は同一カード対局数1位([[百番指し]]を参照)で、中原・米長時代とも呼ばれた。終盤の粘りから「'''泥沼流'''」と名付けられる。 ;* [[中原誠]] (1947-) ::五冠達成(六冠独占をかけて[[加藤一二三]]棋王に挑戦するも、阻まれる)。通算獲得タイトル64期(うち名人15期)。十六世名人。大山から次々とタイトルを奪うなど昭和後期から平成初期に活躍。1967年度には年間勝率.855を記録(歴代1位)。よどみない指し回しは「'''自然流'''」と称された。 ;* [[谷川浩司]] (1962-) ::四冠達成。通算獲得タイトル27期(うち名人5期)。十七世名人。21歳での名人位獲得は史上最年少記録。終盤の鋭い攻めは「'''光速の寄せ'''」と呼ばれる。 ;* [[羽生善治]] (1970-) ::ともに初となるタイトル七冠独占、永世七冠および名誉NHK杯選手権者資格の保持者。通算獲得タイトル99期(歴代1位、うち名人9期)。27年連続タイトル保持(歴代1位)。王座で同一タイトル獲得・連覇記録(19連覇を含む通算24期)。NHK杯で4連覇を含む11回優勝。通算勝利数1500勝は歴代1位(更新中)。平成期に活躍する「'''[[羽生世代]]'''」の第一人者。 ;* [[佐藤康光]] (1969-) ::通算獲得タイトル13期(うち名人2期)。永世棋聖資格者。読みの深さは「'''1秒間に1億と3手読む'''」と称されている。 ;* [[森内俊之]] (1970-) ::通算獲得タイトル12期(うち名人8期)。十八世名人資格者。名人戦で幾度となく羽生と激闘を繰り広げた。堅い指し筋から「'''鉄板流'''」と呼ばれる。 ;* [[渡辺明 (棋士)|渡辺明]] (1984-) ::通算獲得タイトル31期(うち名人3期)。永世竜王・永世棋王資格者。20歳で竜王を獲得し9連覇。 ;* [[豊島将之]] (1990-) ::史上9人目の三冠達成。史上4人目の「竜王・名人」。「'''序盤、中盤、終盤、隙がない」'''と評されるオールラウンドプレーヤー。 ;*[[藤井聡太]](2002-) ::史上最年少(14歳2か月)で四段昇段(プロ入り)を果たすと、そのまま無敗で公式戦最多連勝記録(29連勝)を樹立。10代での全棋士参加棋戦優勝・タイトル獲得・九段昇段、史上初のタイトル八冠独占をはじめ、史上最年少名人獲得、史上5人目の「竜王・名人」、史上2人目の七冠など多くの最年少記録を更新。 === 著名なアマチュア === ;* [[檜垣是安]] (生没年不明) ::[[雁木囲い]]の考案者とされる。初代伊藤宗看との間で行われた、「是安吐血の局」と呼ばれる一局が有名。 ;* [[小池重明]] (1947-1992) ::第34・35回全日本アマチュア名人戦のアマ名人。第6回読売アマ実力日本一優勝。「'''新宿の殺し屋'''」「プロ殺し」の異名を持つ。 <!-- === 史上最強の棋士に関する論議 === {{出典の明記|section="1"|date=2011年7月}} {{要出典範囲|宗英・宗歩に関しては現代の棋士に比べて知名度が圧倒的に劣るので議論になることは少ない。また日進月歩の[[定跡]]の進化の中で情報戦の様相を呈している現代将棋との棋譜からの比較は困難である。しかし天野宗歩は伝説的な棋士で、[[棋譜]]も多数残されている。当時の将棋界では傑出した実力者であったため、現存する棋譜は駒落ちの[[将棋の手合割|手合割]]のものが多いが、その実力は十分に窺うことが出来る。[[内藤國雄]]など現代の棋士の多くが宗歩の将棋を絶賛している。一方宗英も、「天野宗歩は強い。しかし一番強いのは宗英だ」と升田幸三がよく言っていたと伝えられるほどの存在である(なお宗英・宗歩と七世名人[[伊藤宗看_(3代)|三代伊藤宗看]]を加えた三者は、「三英傑」とも呼ばれる)。|date=2011年7月}} {{要出典範囲|木村は名人になってから10年の間、平手で負けたのは1局のみ。当時の強さは驚異的で現在では考えられないほどの国民的ヒーローでもあった。今に残る木村定跡をはじめ将棋界のレベルの向上に大きく貢献し名人の権威を高めた。|date=2011年7月}} {{要出典範囲|升田は史上初の三冠を達成し、主に序盤の戦い方に革命をもたらし「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。健康に問題があったこともあり、実績面では大山に大きく遅れをとってしまったが人気は高く、その現代的な感覚で今でもファンが多い。|date=2011年7月}}休場は多いものの1979年に引退するまでA級以上に連続31期とどまった。 実力制名人になった昭和以降で最も長期にわたってタイトル戦で活躍した棋士は大山である。当時は今よりはるかに棋士数も少なくタイトルや対局数が少ない時代であり現在と単純に比較はできないが(初タイトル獲得時は二冠しかなく、全盛期に入った1963年にようやく五冠になった)、通算獲得タイトル数80期、棋戦優勝124回、通算勝数1433勝は歴代1位。59年から71年までのタイトル戦70期のうち8割の56期を獲得している。最年長防衛(王将戦、59歳)、最年長挑戦(棋王戦、66歳)の記録をもつ。69歳で死去するまで連続45年44期A級に居続けた。羽生は著作『決断力』で「将棋史上最強の棋士が十五世名人の大山康晴先生であることは、誰もが認めるであろう」と語っている。 中原は大山より24歳ほど年下であるが直接対決では大山を圧倒した(中原107-55大山)。1968年には歴代1位となる年度最高勝率.855を達成し10年連続で勝率7割を超えた。2007年9月には史上2人目となる通算1300勝を達成している。獲得タイトル数64は大山、羽生に次いで歴代3位であるが全冠制覇は達成していない(上述の通り、六冠独占のチャンスが一度あったが逃している)。 {{要出典範囲|現在もタイトル数を増やしており期待がもたれているのは羽生である|date=2011年7月}}。1996年2月から7月まで史上初となる七冠独占を成し遂げた。2012年には獲得タイトル数を81期とし大山の記録超えを達成した。 また全盛期の大山・中原・羽生の強さを知る加藤一二三九段は著作『将棋名人血風録』で「最強は…羽生(善治)さんかな。他の人と比べ『これは歯が立たない』と感じる時がありました」と語っている。 |辞書の内容としては主観的すぎるので全体をコメントアウトする --> === 中学生棋士 === 2022年現在、中学生棋士(中学生で四段への昇段を決めた棋士<ref name=":0" />)は以下の5人である<ref name="renmei2016-9-3">{{Cite news|title=新四段誕生のお知らせ *藤井聡太(史上最年少四段)・大橋貴洸|newspaper=[[日本将棋連盟]]|date=2016-9-3|url=https://www.shogi.or.jp/news/2016/09/post_1449.html|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170312074947/https://www.shogi.or.jp/news/2016/09/post_1449.html|archivedate=2017-3-12}}</ref><ref name=":0">{{Cite news|title=将棋:14歳のプロ棋士誕生 最年少記録62年ぶり更新 - 毎日新聞|date=2016-9-3|url=https://mainichi.jp/articles/20160904/k00/00m/040/004000c|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180127055249/https://mainichi.jp/articles/20160904/k00/00m/040/004000c|archivedate=2018-1-27|work=[[毎日新聞]]}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[戦後]]に四段に昇段し、[[日本将棋連盟]]に確実なデータがある棋士を対象としている<ref name="renmei2016-9-3"/>。}}。 # [[藤井聡太]](2016年、14歳2か月・21世紀生まれの初めての棋士・名人在位中) # [[加藤一二三]](1954年、14歳7か月) # [[谷川浩司]](1976年、14歳8か月) # [[羽生善治]](1985年、15歳2か月) # [[渡辺明 (棋士)|渡辺明]](2000年、15歳11か月) 上記のうち、谷川と藤井は中学2年であった(加藤は[[学齢|早生まれ]]のため中学3年であった)。藤井は中学在学中に公式戦歴代記録を更新する29連勝を達成。段位も六段まで昇段し、全棋士参加棋戦で優勝を果たした<ref>{{Cite news|title=【将棋】藤井聡太五段が中学生初の棋戦優勝 朝日杯オープン、六段に昇段|date=2018-02-17|last=|first=|url=http://www.sankei.com/life/news/180217/lif1802170032-n1.html|accessdate=2018-04-11|publication-date=|language=ja-JP|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180219011003/http://www.sankei.com/life/news/180217/lif1802170032-n1.html|archivedate=2018-2-19|work=[[産経新聞]]}}</ref>。また、5人とも[[名人 (将棋)|名人]]およびその他のタイトル獲得を経験しており、藤井は'''史上最年少20歳10か月での名人位獲得'''および'''史上最年少17歳11か月でのタイトル獲得'''を達成している。 上記の5人に続く記録として、16歳での四段昇段棋士を下記に挙げる。データから見ても、早熟な棋士は優秀な者が多い傾向にある。 :6. [[佐々木勇気]](16歳1か月)(順位戦A級在籍経験あり) :7. [[塚田泰明]](16歳3か月)(順位戦A級在籍経験・王座獲得経験あり) :8. [[阿部光瑠]](16歳5か月) :9. [[森内俊之]](16歳7か月)(十八世名人資格保持) :10. [[屋敷伸之]](16歳8か月)(藤井に破られるまで31年間にわたりタイトル獲得最年少記録を保持・順位戦A級在籍経験・棋聖獲得経験あり) :11. [[大山康晴]](16歳9か月)(十五世名人) :12. [[増田康宏]](16歳10か月)(順位戦B級1組在籍経験あり) :13. [[豊島将之]](16歳11か月)(名人・竜王獲得経験あり・平成生まれの初めての棋士) == 収入 == {{see also|将棋界#獲得賞金と対局料}} 棋士の主な収入源は[[棋戦 (将棋)|棋戦]]に出場することで得られる対局料並びに賞金であるが、それ以外にも将棋教室(道場)の経営による収入や、将棋に関する著書から得られる[[印税]]、イベント出演・出張指導・[[詰将棋]]の作成などに対する謝礼などがある。出張指導・詰将棋の作成については日本将棋連盟が定めた規定の料金表がある<ref>[https://www.shogi.or.jp/link_pro/dispatch.html 棋士派遣] - 日本将棋連盟</ref>。昭和30年代ごろまでは、[[升田幸三]]・[[大山康晴]]など多くの棋士が新聞社の[[嘱託社員]]を務め、新聞の将棋欄で自ら記事執筆も手掛けることで収入を得ていた。その他、2020年頃から自らの[[YouTube]]チャンネルを開設し、[[YouTuber]]活動をおこなう棋士も複数見られる。 また兼業が禁止されていないため、現役棋士がプロ活動の傍ら将棋以外の職務で収入を得るケースもある。古くはタレントとして[[アイアイゲーム]]等のバラエティー番組に出演した[[芹沢博文]]・歌手としても[[おゆき (内藤国雄の曲)|おゆき]]等のヒット曲を飛ばした[[内藤國雄]]・[[囲碁棋士]]としてもプロ活動をしていた[[北村文男]]・ソフトウェア会社を経営していた[[武者野勝巳]]・投資活動で著名化した[[桐谷広人]]・大学教授を務める[[飯田弘之]]などの例があり、2023年5月時点の現役棋士にも、[[麻雀|プロ雀士]]と兼業の[[鈴木大介 (棋士)|鈴木大介]]・ソフトウェア会社社員と兼業の[[星野良生]]・[[情報工学]]の研究者と兼業の[[谷合廣紀]]など、[[女流棋士 (将棋)|女流棋士]]では[[医師]]と兼業の[[伊奈川愛菓]]・イベント会社を経営している[[香川愛生]]の例がある。 == アマチュアおよびコンピュータとの棋力差 == === アマチュアとプロの棋力差 === 日本将棋連盟は、プロ養成棋士機関の[[新進棋士奨励会]]の最下位に属する6級が、アマチュアの全国大会に県代表として出場できるアマチュア三〜四段と同程度の実力という見解を示しており<ref>[https://www.shogi.or.jp/faq/dan/ 段・級に関するご質問]日本将棋連盟</ref>、これがプロとアマの棋力差の伝統的な指標となってきた。 昭和には[[花村元司]]や[[小池重明]]など、奨励会を経ずにプロ入りが認められた、また検討されたレベルのアマチュアも稀に出現したが、プロがアマチュアに負けることは大きな屈辱であると見なされていた。しかし平成に入るとアマチュアのレベルもあがり、アマ最強豪が公式棋戦でプロに勝つケースも増え、奨励会で三段まで上ったもののプロ入りが果たせなかった[[瀬川晶司]]は、アマチュアとしての活躍によりプロ公式棋戦に参加して優秀な成績をあげ、プロ編入試験受験の資格を得てプロになった。 === アマチュア選手プロ編入問題 === 2005年2月28日、アマチュア選手強豪の[[瀬川晶司]]が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出した。瀬川は1996年に[[新進棋士奨励会|奨励会]]の三段リーグを26歳の年齢制限によって退会したが、その後アマチュア選手としてプロの公式戦でも活躍し、[[銀河戦]]で当時A級八段の[[久保利明]]らを破るなど、対プロ戦で勝率7割を超える戦績をあげていた。 この嘆願書に対し、プロ(棋士)の間でも意見が分かれ、プロに伍する実力があるのだから瀬川のプロ編入を認めるべきだという立場と、三段リーグを勝ち抜けなかったのだから編入を認めるべきでないという立場に二分されていた。この問題は将棋界のみならず広く世間の耳目を集めた。 過去にアマチュアのプロ編入は、[[1944年]](昭和19年)に真剣師の[[花村元司]]が五段への編入試験を受けて合格し、プロ入りした例がある。ただし花村は奨励会を経験しておらず、奨励会退会者のプロ編入は前例がなかった。 2005年5月26日、棋士総会が行われ、特例として瀬川の[[順位戦#フリークラス|フリークラス]]編入試験を実施することに決定した。6月16日、試験要項が発表され、六番勝負にて瀬川3勝でフリークラス四段を認めることとなった。瀬川は11月6日の第5局に勝利して3勝目を挙げ、プロ入りが決定して同日付で四段になった<ref>[https://web.archive.org/web/20050717013749/http://www.shogi.or.jp/osirase/segawa/youkou.html 瀬川晶司氏のプロ入りについて]日本将棋連盟</ref>。またその後、前述の通り[[#棋士編入試験制度|プロ編入制度]]が制定された。 2014年12月8日に、[[今泉健司]]が3勝(1敗)した事で、制度制定後初の合格者が誕生した<ref name=":1" />。 {{main|瀬川晶司#プロ入りまでの軌跡|瀬川晶司#編入試験の経過}} ===コンピュータとプロの棋力差=== {{main|コンピュータ将棋}} 2000年代にはコンピュータ将棋がプロ棋士相手に平手で互角に戦えるようになり、[[橋本崇載]]は[[飯田弘之]]らが開発した[[TACOS]]と2005年に、[[渡辺明 (棋士)|渡辺明]](当時竜王)は[[保木邦仁]]が開発した[[Bonanza]]と2007年にそれぞれ対戦し、プロ棋士側が勝利したがいずれも接戦になった。 2010年代になるとコンピュータ将棋はプロ超えの能力を持つに至り、女流棋士の[[清水市代]]は2010年に「あから2010」(4つのソフトの多数決方式)に敗れ、棋士引退後の[[米長邦雄]]永世棋聖も2012年1月に(第1回)将棋電王戦として[[ボンクラーズ]]と対戦し中盤のミスでコンピュータに敗れ、厳密な意味でのプロ棋士ではないものの、広義の棋士に勝利した。 そして2013年にはプロ棋士5人と[[世界コンピュータ将棋選手権|第22回世界コンピュータ将棋選手権]]において優秀な成績を残した5つのソフトが団体戦を戦う第2回[[将棋電王戦]]が開催され、その第2局に登場した[[佐藤慎一_(棋士)|佐藤慎一]]四段が[[ponanza]]と対戦し、現役プロ棋士としては初の敗北を喫し、最終第5局ではA級棋士である[[三浦弘行]]八段が選手権1位であった[[GPS将棋]]に敗北、この第2回将棋電王戦はプロ棋士側の1勝3敗1分であった。その後、2017年に[[ponanza]]が当時の[[佐藤天彦]]名人に勝利した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="序列順">叡王戦第5期までの序列は、叡王戦を序列3位とする「竜王戦、名人戦、'''叡王戦'''、王位戦、王座戦、棋王戦、王将戦、棋聖戦」の順。同第6期以降は、叡王戦を序列6位とする「竜王戦、名人戦、王位戦、王座戦、棋王戦、'''叡王戦'''、王将戦、棋聖戦」の順。同第8期以降は、叡王戦を序列4位とする「竜王戦、名人戦、王位戦、'''叡王戦'''、王座戦、棋王戦、王将戦、棋聖戦」の順。2021年6月4日実施の棋士総会で公表された「'''令和2年度'''事業'''報告書'''」および「'''令和3年度'''事業'''計画書'''」の中での掲出順で上記の違いを確認できる。なお、叡王戦の創設前および第2期以前は上記の序列順から叡王戦を省いた順。{{Cite web|url=https://www.shogi.or.jp/about/information_disclosure.html |title=情報公開 - 将棋連盟について |website=日本将棋連盟 |accessdate=2022-05-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220510223158/https://www.shogi.or.jp/about/information_disclosure.html |archivedate=2022-05-10}}</ref> }} ==関連項目== *[[将棋棋士一覧]] *[[将棋界]] *[[将棋指し]] *[[女流棋士 (将棋)]] *[[羽生世代]] *[[真剣師]] *[[百番指し]] *[[日本将棋大系]] ==外部リンク== *[https://www.shogi.or.jp/player/ 現役棋士一覧|棋士データベース|日本将棋連盟] *[https://www.shogi.or.jp/player/retirement.html 引退棋士一覧|棋士データベース|日本将棋連盟] *[https://www.shogi.or.jp/player/deceased.html 物故棋士一覧|棋士データベース|日本将棋連盟] {{日本将棋連盟所属棋士}} {{将棋の現役女流棋士}} {{将棋}} {{棋士の系統一覧}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きし}} [[Category:将棋界]] [[Category:将棋棋士|*]]
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アーティスト (曖昧さ回避)
アーティスト 英:artist、仏:artiste (アーティスト・アーチスト)は(美術家を含めた)芸術家の意。 音楽家のうち、「musician」が演奏家的な意味なのに対して創造性を重視して「アーティスト」と称される。
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アーティスト 英:artist、仏:artiste (アーティスト・アーチスト)は(美術家を含めた)芸術家の意。 音楽家のうち、「musician」が演奏家的な意味なのに対して創造性を重視して「アーティスト」と称される。 職人 (artist) パフォーマー - 舞台芸術家や芸人等のエンターテイナー。 ジ・アーティストは2011年公開のフランス映画。アカデミー作品賞受賞作品。 深海魚の夢は所詮、/アーティスト - vistlipの両A面シングル。「アーティスト」を収録。 アーティスト (テレビ番組) - TBS系列で放送されていた音楽番組。 ジ・アーティスト - プリンスが一時使っていた呼称。 ジェイコブ・アーティスト - アメリカの俳優。 芸能人 カルベジロールの日本での代表的製品名。
'''アーティスト''' 英:{{en|artist}}、仏:{{fr|artiste}} (アーティスト・アーチスト)は([[美術家]]を含めた)[[芸術家]]の意。 音楽家のうち、「musician」が演奏家的な意味なのに対して創造性を重視して「アーティスト」と称される。{{Main|音楽家#音楽家に関係する呼称}} ;artist(アーティスト) * [[職人]] ({{en|artist}}) * {{仮リンク|パフォーマー|wikidata|Q713200|redirect=1}}({{en|performing artist}}) - 舞台芸術家や[[芸人]]等のエンターテイナー。 * [[ジ・アーティスト]]({{fr|The Artist}})は2011年公開のフランス映画。アカデミー作品賞受賞作品。 * [[深海魚の夢は所詮、/アーティスト]] - vistlipの両A面シングル。「アーティスト」を収録。 * [[アーティスト (テレビ番組)]] - TBS系列で放送されていた音楽番組。 * ジ・アーティスト - [[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]が一時使っていた呼称。 * [[ジェイコブ・アーティスト]] - アメリカの俳優。 ;artiste * [[芸能人]] ;アーチスト * [[カルベジロール]]の日本での代表的製品名。 == 関連項目 == *{{prefix|アーティスト}} *{{intitle|アーティスト}} * [[アート (曖昧さ回避)]] * [[クリエイター]] {{aimai}} {{デフォルトソート:ああていすと}} [[Category:フランス語の語句]] [[Category:同名の作品]] [[Category:英語の姓]]
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フィリップス
コーニンクレッカ フィリップス(Koninklijke Philips N.V. 、英文正式表記:Royal Philips 、Euronext: PHIA , NYSE: PHG)は、ヘルスケア製品・医療関連機器を中心とする電気機器関連機器メーカーで、オランダのアムステルダムに本拠を置く多国籍企業である。 日本法人である株式会社フィリップス・ ジャパンは、東京都港区港南に所在。日本法人については、2017年10月に株式会社フィリップスエレクトロニクスジャパンから株式会社フィリップス・ジャパンに社名を変更した。 1891年に、オランダ、ザルトボメル出身の創業者ヘラルド・フィリップスがアイントホーフェン に従業員20名の電球工場を設立したのが源流である。1920年代にドゥカティの技術協力を受け、その後押しで 電球を欧州各地に販売して成功し、その後はラジオ受信機、蓄音機、電気通信装置などに拡大し、家電製品から軍需産業まで関与する総合エレクトロニクスメーカーとなった。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍に工場を接収され、また英米連合軍の爆撃で大きな被害を受けた。戦後は一層の多角化を進めたものの、次第に不採算事業の赤字に苦しむようになった。その後、選択と集中による事業の再構築によって、ヘルスケア・医療機器に経営資源を集中した。その結果、世界の主要電器メーカーの中で最も利益率が高い企業になっている。 日本では、電気かみそり(シェーバー)や電動歯ブラシで知名度が高い。それ以外ではコンピュータ断層撮影 (CT)、核磁気共鳴画像法 (MRI)、自動体外式除細動器 (AED)などの医療機器分野で高い技術力を持っている。かつては照明機器、半導体、AV機器(音響機器・映像機器)分野で知られ、コンパクトカセット、レーザーディスク (LD)、コンパクトディスク (CD)、DVD+R/RW、Blu-ray Discなどの開発、提唱元の一つとして知られていた。 インダストリアルデザインに凝った製品が多く、その分野でも先駆的存在であり、デザイナーを社内に多く擁しているのも特徴であった。初期型CDプレーヤー「CD-34」は、独自開発のスイングアーム式ピックアップ(弧を描く形でCDを読み取る方式)と、4fsオーバーサンプリング左右独立14bitDAC+ノイズシェイパー+デジタルフィルタの構成であった。アナログ的なアプローチをした音作りがなされていたことから、特にクラシック音楽ファンに人気を呼び、ソニー製「D-50」と並んでコンパクトディスクの普及に大きな役割を果たした。 2006年8月、フィリップスは採算の不安定な半導体部門の株式の8割を投資会社に売却すると発表した。半導体部門は家電、モバイル、車載機器の開発も行っており、売却後の同部門は同年9月1日、新会社NXPセミコンダクターズとして独立した。オーディオ・ホームエンタテイメント事業は2014年以降、楽器メーカーのギブソンに売却 された。また、創業以来の照明事業について2016年5月、フィリップスライティング(2018年にシグニファイに社名変更)として分社した(照明事業の日本法人は「フィリップスライティングジャパン合同会社」として分離、2019年「シグニファイジャパン合同会社」に名称変更)。この結果、現在のフィリップスは、ヘルスケア製品・医療関連機器に事業の大半が集中した企業へと変貌している。 現在、フィリップスはオランダプロサッカーリーグのPSVアイントホーフェンの冠スポンサーとなっている。 星と波が描かれたフィリップスのシールドは、1934年にオランダで初めて登場して商標登録され、たちまち世界中で知られるシンボルマークとなった。星は電球を量産化し世界中に送り出したフィリップスの先駆的役割を表したものである。また、波は電波を表し、初期に無線通信プラットフォームを実現したフィリップスの高い貢献を示唆している。後に円がデザインに加わるが、これは世界と人々を象徴している。 1953年には松下電器産業(現・パナソニックホールディングス)との合弁で松下電子工業(現在のパナソニック オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社、パナソニック コネクトおよびパナソニック ライティングデバイス)を設立した。また、1970年代前半までは松下電工で電気カミソリをライセンス生産しており、当時のナショナル電気カミソリは刃がフィリップス独特のものであった。 1980年代に入ると、経営が悪化した米スーパースコープ社を買収し、その関連会社の日本マランツも傘下にした(現在、マランツはフィリップスの資本から脱退)。マランツのブランドを利用しデジタルオーディオ製品に注力する。1980年代後半にはLHHシリーズという高級コンポーネントを自社ブランド(製造はマランツ)により、CDプレイヤーやアンプなどで発売した。そして最終的に高級オーディオはマランツ、ゼネラルオーディオはフィリップスとブランド分けし、1990年代中盤頃までは同社のデザイン技術を生かしたテレビやラジカセ、ビデオデッキといった民生品を国内向けに生産していた時期もあった。2006年11月、D&Mホールディングス(デノン、マランツの持株会社)に、Hi-Fiオーディオ部門を買収され、完全子会社化された。子会社化後の社名は「D&M Premium Sound Solutions」と改められた。日本国内でのAV関連事業は一時撤退し、その後、ヘッドフォン・インナーイヤフォンが燦坤(サンクン)日本電器によって輸入され、2009年4月より日本市場へ参入した。 2008年、呼吸器、睡眠治療器などを扱うフジ・レスピロニクス株式会社を傘下に入れ、2010年に同社の社名変更を行って「フィリップス レスピロニクス合同会社」とした。 現在の日本法人であるフィリップスジャパンは輸入販売やサポートを手がける会社であるが、高齢化が進む日本で対応するソリューションを創出する拠点として、2020年に「Philips Co-Creation Center」を仙台市に開設した。 また、2020年からは補聴器や人工内耳など聴覚機器を扱うヘルスケア企業デマント・ジャパンとライセンス契約を結びフィリップスヒアリングケアソリューションズとして補聴器業界に参入。2021年には神奈川県横浜市にフィリップス補聴器のコンセプトストアを補聴器販売店と共同出店している。 1980年代にはイメージキャラクターに千葉真一を起用し、CMや広告を展開した。
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コーニンクレッカ フィリップスは、ヘルスケア製品・医療関連機器を中心とする電気機器関連機器メーカーで、オランダのアムステルダムに本拠を置く多国籍企業である。 日本法人である株式会社フィリップス・ ジャパンは、東京都港区港南に所在。日本法人については、2017年10月に株式会社フィリップスエレクトロニクスジャパンから株式会社フィリップス・ジャパンに社名を変更した。
{{otheruses|ヘルスケア製品・医療関連機器メーカーのフィリップス}} {{基礎情報 会社 |社名=コーニンクレッカ フィリップス <br/>Koninklijke Philips N.V.<br/>(Royal Philips) |ロゴ=[[Image:Philips logo new.svg|250px|フィリップスのロゴ]] |画像=[[Image:HeadPhilips.jpg|250px]] |画像説明=フィリップス本社 |種類=[[株式会社]] |市場情報={{Euronext|PHIA}}<br />{{nyse|PHG}} |国籍={{NLD}} |郵便番号= |本社所在地=[[アムステルダム]]<br/>[[アイントホーフェン]](登記上の本店) |設立=[[1891年]] |業種=電気機器 |事業内容=ヘルスケア製品・医療関連機器の開発製造 |代表者= |資本金= |売上高=約177.8億ユーロ (2017年) |総資産=約253.15億ユーロ (2017年) |従業員数=115,392人 (2017年) |決算期= |主要株主= |主要子会社= |関係する人物= |外部リンク=[http://www.philips.com/ www.philips.com] |特記事項= }} '''[[コーニンクレッカ]] フィリップス'''(''Koninklijke Philips N.V.'' 、英文正式表記:''Royal Philips'' 、{{Euronext|PHIA}}, {{nyse|PHG}})は、ヘルスケア製品・医療関連機器を中心とする電気機器関連機器メーカーで、[[オランダ]]の[[アムステルダム]]に本拠を置く[[多国籍企業]]である。 日本法人である'''株式会社フィリップス・ ジャパン'''は、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[港南 (東京都港区)|港南]]に所在。日本法人については、2017年10月に株式会社フィリップスエレクトロニクスジャパンから株式会社フィリップス・ジャパンに社名を変更した<ref name="Japan name">{{Cite web|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000020.000019698.html|title=2017年10月1日社名変更のお知らせ|publisher=PR TIMES|date=2017-09-27|accessdate=2018-03-11}}</ref>。 == 沿革 == [[1891年]]に、[[オランダ]]、[[ザルトボメル]]出身の創業者ヘラルド・フィリップスが[[アイントホーフェン]]<ref name="clacamesenka43-66">『クラシックカメラ専科No.43、Viva!イタリア コンタレックスのすべて』p.66-69。</ref> に従業員20名の[[電球]]工場を設立したのが源流である。1920年代に[[ドゥカティ]]の技術協力を受け<ref name="clacamesenka43-66" />、その後押しで<ref name="clacamesenka43-66" /> 電球を[[ヨーロッパ|欧州]]各地に販売して成功し、その後は[[ラジオ]]受信機、[[蓄音機]]、電気通信装置などに拡大し、[[家庭用電気機械器具|家電製品]]から軍需産業まで関与する総合エレクトロニクスメーカーとなった。[[第二次世界大戦]]中、[[ドイツ国防軍|ナチス・ドイツ軍]]に工場を接収され、また[[連合国 (第二次世界大戦)|英米連合軍]]の爆撃で大きな被害を受けた。戦後は一層の多角化を進めたものの、次第に不採算事業の赤字に苦しむようになった。その後、選択と集中による事業の再構築によって、ヘルスケア・医療機器に経営資源を集中した。その結果、世界の主要電器メーカーの中で最も利益率が高い企業になっている。 日本では、[[剃刀|電気かみそり]](シェーバー)や電動[[歯ブラシ]]で知名度が高い。それ以外では[[コンピュータ断層撮影]] (CT)、[[核磁気共鳴画像法]] (MRI)、[[自動体外式除細動器]] (AED)などの医療機器分野で高い技術力を持っている。かつては[[照明|照明機器]]、[[半導体]]、[[オーディオ・ビジュアル|AV]]機器([[音響機器]]・[[映像機器]])分野で知られ、[[コンパクトカセット]]、[[レーザーディスク]] (LD)、[[コンパクトディスク]] (CD)、[[DVD+RWアライアンス|DVD+R/RW]]、[[Blu-ray Disc]]などの開発、提唱元の一つとして知られていた。 [[インダストリアルデザイン]]に凝った製品が多く、その分野でも先駆的存在であり、デザイナーを社内に多く擁しているのも特徴であった。初期型[[CDプレーヤー]]「CD-34」は、独自開発のスイングアーム式ピックアップ(弧を描く形でCDを読み取る方式)と、4fsオーバーサンプリング左右独立14bit[[デジタル-アナログ変換回路|DAC]]+ノイズシェイパー+[[ディジタルフィルタ|デジタルフィルタ]]の構成であった。アナログ的なアプローチをした音作りがなされていたことから、特に[[クラシック音楽]]ファンに人気を呼び、[[ソニー]]製「D-50」と並んでコンパクトディスクの普及に大きな役割を果たした。 [[2006年]]8月、フィリップスは採算の不安定な半導体部門の株式の8割を投資会社に売却すると発表した。半導体部門は家電、[[携帯電話|モバイル]]、車載機器の開発も行っており、売却後の同部門は同年9月1日、新会社[[NXPセミコンダクターズ]]として独立した。オーディオ・ホームエンタテイメント事業は[[2014年]]以降、[[楽器]]メーカーの[[ギブソン (楽器メーカー)|ギブソン]]に売却<ref>{{Cite web|和書|url=https://av.watch.impress.co.jp/docs/news/646462.html|title=Gibson、Philipsのオーディオ/ホームエンターテイメント事業を買収|publisher=AV Watch|date=2014-04-28|accessdate=2018-03-11}}</ref> された。また、創業以来の照明事業について[[2016年]]5月、フィリップスライティング([[2018年]]に[[シグニファイ]]に社名変更)として分社した<ref>{{cite web|url=http://fortune.com/2016/05/27/philips-lighting-ipo|title=Philips Lighting Shares Pop on IPO Debut|publisher=フォーチュン|language=英語|date=2016-05-27|accessdate=2018-03-11}}</ref>(照明事業の日本法人は「フィリップスライティングジャパン合同会社」として分離、[[2019年]]「シグニファイジャパン合同会社」に名称変更)。この結果、現在のフィリップスは、ヘルスケア製品・医療関連機器に事業の大半が集中した企業へと変貌している<ref>{{Cite web|和書|url=http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7906|title=ヘルスケア界の巨人フィリップスが仕掛けるビッグデータ戦争|publisher=Wedge Infinity|date=2016-10-08|accessdate=2018-03-11}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.results.philips.com/publications/ar17/downloads/pdf/en/PhilipsFullAnnualReport2017-English.pdf|title=Annual Report 2017|publisher=フィリップス|language=英語|format=PDF|accessdate=2018-03-11}}</ref>。 現在、フィリップスは[[エールディヴィジ|オランダプロサッカーリーグ]]の[[PSVアイントホーフェン]]の冠スポンサーとなっている。 星と波が描かれたフィリップスのシールドは、1934年にオランダで初めて登場して[[商標]]登録され、たちまち世界中で知られるシンボルマークとなった。星は[[電球]]を量産化し世界中に送り出したフィリップスの先駆的役割を表したものである。また、波は[[電波]]を表し、初期に無線通信プラットフォームを実現したフィリップスの高い貢献を示唆している。後に円がデザインに加わるが、これは世界と人々を象徴している。 == 日本における事業活動 == [[1953年]]には松下電器産業(現・[[パナソニックホールディングス]])との合弁で松下電子工業(現在の[[パナソニック オートモーティブ&インダストリアルシステムズ社]]、[[パナソニック コネクト]]および[[パナソニック ライティングデバイス]])を設立した。また、1970年代前半までは[[パナソニック電工|松下電工]]で電気カミソリをライセンス生産しており、当時のナショナル電気カミソリは刃がフィリップス独特のものであった。 [[1980年代]]に入ると、経営が悪化した米[[スーパースコープ (映画)|スーパースコープ]]社を買収し、その関連会社の[[日本マランツ]]も傘下にした(現在、マランツはフィリップスの資本から脱退)。マランツのブランドを利用しデジタルオーディオ製品に注力する。1980年代後半にはLHHシリーズという高級コンポーネントを自社ブランド(製造はマランツ)により、CDプレイヤーやアンプなどで発売した。そして最終的に高級オーディオはマランツ、ゼネラルオーディオはフィリップスとブランド分けし、[[1990年代]]中盤頃までは同社のデザイン技術を生かした[[テレビ]]や[[ラジオカセットレコーダー|ラジカセ]]、[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]といった民生品を国内向けに生産していた時期もあった。2006年11月、[[ディーアンドエムホールディングス|D&Mホールディングス]]([[デノン]]、マランツの[[持株会社]])に、[[Hi-Fi]]オーディオ部門を買収され、完全子会社化された。子会社化後の社名は「D&amp;M Premium Sound Solutions」と改められた。日本国内でのAV関連事業は一時撤退し、その後、[[ヘッドフォン]]・インナーイヤフォンが[[燦坤日本電器|燦坤(サンクン)日本電器]]によって輸入され、[[2009年]]4月より日本市場へ参入した。 [[2008年]]、呼吸器、睡眠治療器などを扱うフジ・レスピロニクス株式会社を傘下に入れ、2010年に同社の社名変更を行って「フィリップス レスピロニクス合同会社」とした<ref name="Japan name"/>。 現在の日本法人であるフィリップスジャパンは輸入販売やサポートを手がける会社であるが、高齢化が進む日本で対応するソリューションを創出する拠点として、[[2020年]]に「Philips Co-Creation Center」を[[仙台市]]に開設した<ref>[https://www.philips.co.jp/a-w/about-philips/co-creation-center.html フィリップス、Co-Creation Centerを開設] - Philips</ref><ref>[https://sendai-inc.com/lab/x-tech_5-philips/ 課題山積みの地方だからこそチャンスがある。 ヘルスケア×IT・ヘルステック領域を切り開く、フィリップスの挑戦] - SENDAI INC.</ref>。 また、2020年からは補聴器や人工内耳など聴覚機器を扱うヘルスケア企業[[デマント|デマント・ジャパン]]とライセンス契約を結びフィリップスヒアリングケアソリューションズ[https://www.hearingsolutions.philips.com/ja-jp]として補聴器業界に参入。2021年には神奈川県横浜市にフィリップス補聴器のコンセプトストアを補聴器販売店と共同出店している。 * [[名古屋大学]]と包括提携<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32209920V20C18A6L91000/ 「名大がフィリップスと提携 認知症や生活習慣病で」]『日本経済新聞』電子版(2018年6月25日)2018年7月12日閲覧</ref> * [[東北大学]]と予防医療などヘルスケア分野で包括提携<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32236390W8A620C1X12000/ 「フィリップスと東北大、企業も巻き込み病気予防」]『日本経済新聞』電子版(2018年6月26日)2018年6月28日閲覧</ref> == CM == [[1980年代]]にはイメージキャラクターに[[千葉真一]]を起用し、[[コマーシャルメッセージ|CM]]や[[広告]]を展開した。 ;その他 *[[大橋巨泉]](コーヒーメーカー) *[[星野仙一]](フィリシェーブ) *[[成宮寛貴]](メンズグルービング) *[[筧利夫]](ソニッケアー) *[[長友佑都]](メンズグルービング) *[[市川紗椰]](ディスプレイ) <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注釈"}} --> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *『クラシックカメラ専科No.43、Viva!イタリア コンタレックスのすべて』[[朝日ソノラマ]] == 関連項目 == * [[フレデリック・フィリップス]] *[[ヤン・ズヴァルテンディク]] * [[ルー・オッテンス]] - 後述する'''[[コンパクトカセット]]の発案者'''として知られる。 * [[フィリップス・レコード]] * [[コンパクトカセット]] ** [[デジタルコンパクトカセット]] * [[パナソニック]] ** [[パナソニック ライティングデバイス]](旧松下電子工業 管球・照明部門) * [[日本マランツ]] * [[マグナボックス]] * [[S/PDIF]] - Pはフィリップス (Philips)、Sは[[ソニー]] (Sony)を指す。 * [[ASML]] - 元子会社 * [[ASMインターナショナル]] - 元子会社 * [[NXPセミコンダクターズ]] - 元子会社 * [[シグニファイ]] - 2016年に分社 * [[センセオ]] - コーヒーメーカー * [[サエコ (企業)|サエコ]] - エスプレッソマシンメーカー。2009年7月に買収し子会社化。 * [[BenQ]] - 共同出資で光学ドライブ会社「Philips BenQ Digital Storage」(現Philips & Lite-On Digital Solutions)を設立。 * [[大橋巨泉インビテーション]]([[ゴルフ]]。[[1977年]]第1回に協賛) == 外部リンク == {{Commonscat|Philips}} * {{公式ウェブサイト}} * {{Twitter|PhilipsJapan|Philips Japan}} * {{facebook|PhilipsJapan|Philips Japan}} * {{YouTube|user =philipsjapan|Philips Japan}} {{AEX指数}} {{STOXX Europe}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふいりつふす}} [[Category:フィリップス|*]] [[Category:医療機器メーカー]] [[Category:オランダの電気機器メーカー]] [[Category:ユーロネクスト・アムステルダム上場企業]] [[Category:NYSE上場企業]] [[Category:アイントホーフェンの企業]] [[Category:アムステルダムの企業]] [[Category:オランダの多国籍企業]] [[Category:1891年設立の企業]]
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1791年
1791年(1791 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1791年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1791}} {{year-definition|1791}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[寛政]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2451年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]56年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[正祖]]15年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4124年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[西山朝]] : [[光中]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2333年 - 2334年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1205年 - 1206年 * [[ユダヤ暦]] : 5551年 - 5552年 * [[ユリウス暦]] : 1791年12月21日 - 1792年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1791}} == できごと == * [[3月]] - フランスで[[メートル法]]が規定 * [[3月4日]] - 米国で[[バーモント州|バーモント]]が14番目に州となる * [[5月3日]] - [[ポーランド王国]]で新憲法制定([[5月3日憲法]]) * [[8月6日]] - [[ベルリン]]で[[ブランデンブルク門]]竣工 * [[8月22日]] - ハイチで黒人奴隷の一斉蜂起。[[ハイチ革命]]のはじまり * [[9月30日]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]「[[魔笛]]」初演 * [[12月4日]] - 英国で「[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]」創刊(初の日曜新聞) * [[12月15日]] - 米国で[[権利章典 (アメリカ)|権利章典]]が発効 * [[清]]、[[グルカ]]遠征 * [[李氏朝鮮]]、[[洋学]]を禁止 * [[大黒屋光太夫]]が[[ロシア皇帝]][[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]に謁見。 === フランス === * [[6月20日]] - [[フランス革命]]: [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]一家がパリ脱出を図る[[ヴァレンヌ事件]] * [[7月17日]] - フランス革命: [[シャン・ド・マルスの虐殺]] * [[8月27日]] - フランス革命: [[神聖ローマ帝国]]・[[プロイセン王国]]が[[ピルニッツ宣言]] * [[9月3日]] - フランス革命: [[1791年憲法]]制定 == 誕生 == {{see also|Category:1791年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月10日]](寛政2年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]])- [[徳大寺実堅]]、[[江戸時代]]後期の[[公卿]](+ [[1858年]]) * [[1月15日]] - [[フランツ・グリルパルツァー]]、[[劇作家]](+ [[1872年]]) * [[1月28日]] - [[フェルディナン・エロルド]]、[[作曲家]](+ [[1833年]]) * 1月28日 - [[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|ジェームズ・スターリング]]、初代[[西オーストラリア州総督]]・[[イギリス海軍]][[将官|提督]](+ [[1865年]]) * [[2月10日]]([[寛政]]3年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]) - [[大田垣蓮月]]、[[歌人]](+ [[1875年]]) * [[2月15日]] - [[フランチェスコ・アイエツ]]、[[画家]](+ [[1882年]]) * [[2月16日]] - [[クロード・プイエ]]、[[物理学者]](+ [[1868年]]) * [[2月21日]] - [[カール・チェルニー]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1857年]]) * [[3月14日]](寛政3年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[鉄翁祖門]]、[[南画|南画家]](+ [[1872年]]) * [[4月4日]](寛政3年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[安積艮斎]]、[[朱子学者]](+ [[1861年]]) * [[4月23日]] - [[ジェームズ・ブキャナン]]、第15代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1868年]]) * [[4月27日]] - [[サミュエル・モールス|サミュエル・フィンレイ・ブリース・モールス]]、[[発明家]]、[[モールス符号]]の考案者(+ [[1872年]]) * [[5月13日]](寛政3年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[松浦熈]]、第10代[[平戸藩|平戸藩主]](+ [[1867年]]) * [[5月29日]](寛政3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]) - [[鹿持雅澄]]、[[国学者]](+ [[1858年]]) * [[6月17日]] - [[ロベルト・コフレシ]]、[[プエルトリコ]]の[[海賊]](+ [[1825年]]) * [[7月13日]] - [[アラン・カニンガム (植物学者)|アラン・カニンガム]]、[[植物学|植物学者]](+ [[1839年]]) * [[7月26日]] - [[フランツ・クサーヴァー・モーツァルト]]、作曲家(+ [[1844年]]) * [[9月5日]] - [[ジャコモ・マイアベーア]]、作曲家(+ [[1864年]]) * [[9月14日]] - [[フランツ・ボップ]]、[[言語学|言語学者]](+ [[1867年]]) * [[9月21日]] - [[セーチェーニ・イシュトヴァーン]]、[[ハンガリー王国]]の政治家(+ [[1860年]]) * [[9月22日]] - [[マイケル・ファラデー]]、[[科学者]](+ [[1867年]]) * [[9月23日]] - [[ヨハン・フランツ・エンケ]]、[[天文学者]](+ [[1865年]]) * [[9月26日]] - [[テオドール・ジェリコー]]、画家(+ [[1824年]]) * [[9月29日]](寛政3年[[9月2日 (旧暦)|9月2日]]) - [[真田幸貫]]、[[江戸幕府]][[老中]]・[[松代藩|松代藩主]](+ [[1852年]]) * [[10月3日]](寛政3年[[9月6日 (旧暦)|9月6日]]) - [[松平斉恒]]、第8代[[松江藩|松江藩主]](+ [[1822年]]) * [[10月4日]] - [[レオポルト・フォン・ヘニング]]、[[哲学|哲学者]](+ [[1866年]]) * [[10月10日]](寛政3年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[松平定永]]、[[白河藩|白河藩主]]・[[桑名藩|桑名藩主]](+ [[1838年]]) * [[12月1日]](寛政3年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[島津斉興]]、第10代[[薩摩藩|薩摩藩主]](+ [[1859年]]) * [[12月12日]] - [[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリア・ルイーザ]]、[[フランス]]皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]の皇后・[[パルマ公国]]女公(+ [[1847年]]) * [[12月24日]] - [[ウジェーヌ・スクリーブ]]、[[劇作家]]・[[小説家]](+ [[1861年]]) * [[12月26日]] - [[チャールズ・バベッジ]]、[[数学者]]、計算機科学者(+ [[1871年]]) * 月日不詳 - [[市川團十郎 (7代目)]]、[[歌舞伎]]役者(+ [[1859年]]) == 死去 == {{see also|Category:1791年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月2日]] - [[ジョン・ウェスレー]]、[[キリスト教]][[司祭]]・[[メソジスト]]運動指導者(* [[1703年]]) * [[4月2日]] - [[オノーレ・ミラボー]]、フランス革命の初期の指導者(* [[1749年]]) * [[4月24日]] - [[ベンジャミン・ハリソン (5世)|ベンジャミン・ハリソン]]、[[バージニア州知事]](* [[1726年]]) * [[5月9日]] - [[フランシス・ホプキンソン]]、[[アメリカ独立宣言]]署名者(* [[1737年]]) * [[6月4日]](寛政3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[葵小僧]]、[[江戸時代]]の[[盗賊]] * [[7月12日]](寛政3年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[毛利治親]]、第9代[[長州藩|長州藩主]](* [[1754年]]) * [[7月17日]](寛政3年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]) - [[松岡青蘿]]、[[俳人]](* [[1740年]]) * [[7月22日]](寛政3年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[津軽信明]]、第8代[[弘前藩|弘前藩主]](* [[1762年]]) * [[8月23日]] - [[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア]]、[[首飾り事件]]首謀者(* [[1756年]]) * [[10月16日]] - [[グリゴリー・ポチョムキン]]、[[ロシア帝国]]陸軍首席大将・[[クリミア]]総督(* [[1739年]]) * [[11月24日]](寛政3年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[中村歌右衛門 (初代)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1714年]]) * [[12月3日]](寛政3年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]) - [[酒井忠香]]、[[江戸幕府]][[若年寄]]・[[敦賀藩|敦賀藩主]](* [[1715年]]) * [[12月5日]] - [[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]、[[作曲家]](* [[1756年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1791}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1791ねん}} [[Category:1791年|*]]
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1790年代
1790年代(せんななひゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1790年から1799年までの10年間を指す十年紀。
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1790年代(せんななひゃくきゅうじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1790年から1799年までの10年間を指す十年紀。
{{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 18 | 年代 = 1790 | 年 = 1790 }} '''1790年代'''(せんななひゃくきゅうじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])1790年から1799年までの10年間を指す[[十年紀]]。 == できごと == === 1790年 === {{main|1790年}} * [[イマヌエル・カント]]『判断力批判』第1版出版。 === 1791年 === {{main|1791年}} * [[6月20日]] - [[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]一家が国外逃亡を図る[[ヴァレンヌ事件]]が勃発。 * 長さの単位[[メートル]]が規定される。 === 1792年 === {{main|1792年}} * [[3月]] - [[スウェーデン]]王[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]][[暗殺]]([[仮面舞踏会]])。 * [[9月21日]] - [[フランス]]にて[[フランス第一共和政|第一共和政]]が樹立。 * [[ロシア帝国|ロシア]]使節の[[アダム・ラクスマン|ラクスマン]]が日本を訪れる。 === 1793年 === {{main|1793年}} * [[6月2日]] - フランス、[[ジャコバン派]]が、国民公会から[[ジロンド派]]を追放し、[[マクシミリアン・ロベスピエール|ロベスピエール]]が権力を掌握。 * [[プロイセン王国|プロイセン]]、ロシアによる[[第二次ポーランド分割]]。 === 1794年 === {{main|1794年}} * [[プロイセン一般ラント法]]([[:de:Allgemeines Landrecht für die Preußischen Staaten]], ALR)。 * [[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]、『全知識学の基礎』出版。 === 1795年 === {{main|1795年}} * [[10月24日]] - [[列強]]による第三次ポーランド分割により[[ポーランド・リトアニア共和国]]消滅。 * [[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]] [[最小二乗法]]発見。 * [[清]]の[[乾隆帝]]、[[嘉慶帝]]に譲位。 === 1796年 === {{main|1796年}} * [[3月2日]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]、[[イタリア]]遠征の司令官に任命される。 * [[5月10日]] - [[フランス]]政府転覆を計画した[[フランソワ・ノエル・バブーフ]]らが逮捕される([[バブーフの陰謀]])。 * [[5月14日]] - [[エドワード・ジェンナー]]、初めて牛痘の接種を試みる。 * ガウスによる、[[平方剰余の相互法則]]の最初の証明。 === 1797年 === {{main|1797年}} * [[3月4日]] - [[ジョン・アダムズ]]、[[アメリカ合衆国]]第2代[[大統領]]に就任。 * [[6月29日]] - イタリアに[[チザルピーナ共和国]]が建国される。 * 世界最古の遊技[[折り紙]]の本、『[[秘傳千羽鶴折形]]』出版。 * フランス外相[[シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール|タレーラン]]、アメリカ代表に対して[[賄賂]]を要求([[XYZ事件]])。 === 1798年 === {{main|1798年}} * [[ラシュタット会議]](-1799年)。 * [[8月1日]] - ナポレオン、[[ナイルの海戦]]にて[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]率いるイギリス海軍に大敗。 * [[12月24日]] - 第二次対仏大同盟が結成。 === 1799年 === {{main|1799年}} * [[7月15日]] - [[エジプト]]にて[[ロゼッタ・ストーン]]が発見される。 * [[11月9日]] - ナポレオン、[[ブリュメールのクーデタ]]にてフランス政権を掌握。 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=2|世紀=11|年代=1000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:1790ねんたい}} [[Category:1790年代|*]]
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小説
小説(しょうせつ、英: fiction(総称),novel(長編),story(短編)、仏: roman(長編),nouvelle(中編),conte(短編))は、文学の形式の一つである。 小説には明確な定義や形式はなく、作者が描きたい人間や社会を自由に散文で表現する文学形態である。ロマンス(空想物語)やノベル(比較的現実性のある物語)など、現代で一般的に小説と呼ばれるものは、フィクション(想像による創作・虚構)と総称され、あくまでも事実を書いていく「ノンフィクション」(伝記・ルポルタージュ)と区別している。 ノベルはロバート・モリソンの「英華字典」(1822年刊)でnovelの見出しで「A small tale」と載り、その後、坪内逍遥が西洋の文学形態の変遷を踏まえ、『小説神髄』でnovelの訳語とした。その後、坪内逍遥に影響された二葉亭四迷が著した小説総論でリアリズムが主張された。 小説という言葉は、君主が国家や政治に対する志を書いた大説や、君主の命などを受けて編纂された国史に分類される伝統的な物語や説話に対して、個人が持つ哲学的概念や人生観などの主張を、一般大衆に、より具体的に分かりやすく表現して示す、小編の言説という意味を持たされて、坪内逍遙らによって作られて定着していったものとも言われている。 以前は、小説と物語の間には明確な区分があるとされてきた。 すなわち、“話の展開に内容から導かれる必然性があるもの”が小説であり、“内容とはかかわりなく偶然のつながりによって話を進めてゆく”のが物語という見方である。 言い換えると小説は「虚構の連続性と因果律のある話の構造」を持たねばならないことが条件とされた。 さらに発展して「話の展開と主人公の具体的な性格に必然的な関わりがあるのが小説。そうでないのが物語」とも言われた。 19世紀以降に小説の主題概念が強くなるために「小説」は主題、主人公の造形、話の展開の結びつきが密接であることを要求されてきた。 ただしこのような観念は、20世紀に入って『贋金造り』(アンドレ・ジッド)のような小説が登場するに至って、崩壊したといえよう。反小説なる小説まで登場した現代では、もはや何を以て小説とするかは一概に決めることはできない。 このように近代文学観の呪縛から離れてみれば、古代日本文学の『源氏物語』(紫式部)は、近代の心理小説に匹敵する描写がみられることが指摘されているし、古代ギリシャ文学の『ダフニスとクロエ』(ロンゴス)なども、「小説」的要素を持った最古の例のひとつといえよう。 ヨーロッパでは17世紀まで「小説」は、「小話」と長編の散文との間の、短い物語のジャンルとして考えられていた(現在の短編小説にあたる)。セルバンテスの『模範小説集(Novelas ejemplares、英語版)』は短篇の物語集であるが、それまでの散文形式にとらわれない、「新しい物語叙述」を創り出した。 セルバンテスの書いた『ドン・キホーテ』(1605-1615年)は作者の世界観を表現しながら、登場人物たちの成長や葛藤、心理の変化など、「個」に主眼においた近代的な作品であった。よって彼をもって「近代小説の祖」とする人もいる。また同様の理由で、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719年)も「近代小説の祖」といわれる。 近代小説の起源は、フランスで18世紀に流行した書簡体小説(手紙、あるいは手紙のやりとりという体裁の文学)から始まる。近代小説の発展は18世紀以降のイギリス、フランスなどでの中産階級の勃興と切り離すことができないとされている。すなわち、識字率の高い、比較的裕福な人たちが読者層となり、その独特のニーズに合わせて発展したと考えられている。 またイギリスで起こった産業革命により印刷術が発達し、さらに言論、出版の自由が社会的に保障されるようになってから次第に中産階級、労働者階級にも浸透していくことになる。 前近代中国において「小説」という用語が使われ始めたのは、図書目録上でのことだった(『漢書』「芸文志」)。しかもそれは、文学・芸術的な用語として生まれたのではなかった。「芸文志」には「街談・巷語、道聴・塗説する者が造る所なり」「諸子十家、その観るべきもの、ただ九家のみ」という記述がある。街巷で語られた話や道端で聞いたり言ったりしている者が作り上げたのが小説であるとされ、九流の諸子とは異なり、一ランク下のものと考えられていたことが分かる。 遡って、『荘子』「外物篇」には「小説を飾り以て縣令を干むるは、其の大達に於いて亦た遠し」とある。直訳すれば、取るに足りない言説で県令になることを求めるのは、その目標から遠い、となる。ここで言わんとすることは、手段と方法を合わせることで目的に到達することが出来るということである。 後漢になると、桓譚は、その著の『新論』中において、小説に対する議論を展開しているが、ここには大きな変化が見られる。つまり「かの小説家は残叢の小語を合し、近く譬喩を取り、以て短書を作り、治身理家に、観るべきの辞あり」と述べられているのである。ここで用いられている小説は、後代の小説と、似通った意味合いで用いられる。但し桓譚が用いている「短書」とは、なお軽慢の意があることは免れない。 中国で唯一の小説家皇帝曹丕のような例外はあるものの、古代中国での小説は以上のように上流階級から蔑まれる物であった。しかし、これ以降の時代には主に民衆から支持を得る形で小説が人気を得ていく。 六朝時代の小説は、内容的に神異的になり、志怪小説と呼ばれた。唐代の伝奇小説に至ると「奇」が勝ちをおさめた。魯迅が『中国小説史略』の中で指摘しているように、詩と同様に唐代で一変し、なお怪異を求める風は存したが、その文学性は格段に洗練された。つまり、唐代の「伝奇」は、従来のように怪異を叙述しながら、人事の機微までをも描き得ており、それは、前代の「志怪」の描ききれていないところであったのである。代表的なのは、『枕中記』や『霍小玉伝』である。また唐代には、通俗小説が出現し、後世の文学に多大な影響を与えた。 宋代には、庶民の社会生活を描写した「話本」が出現し、『碾玉観音』や『錯斬崔寧』などの代表作が作られた。宋代話本の特色は白話小説と呼ばれ、白話(口語)を用いて描写される点にある。よって、唐代の伝奇に比べて更に通俗的となった。 元曲が著しく発展した元代は、伊藤漱平によれば小説史に於いては不作の時代だったが、唐・宋伝奇の末流として、元初という小説不作の時代に開いた浪花(あだばな)ともいえる『嬌紅記(中国語版)』があるが、字数が唐・宋代のものより多いため小説長編化の途上の作品とされる。 明代以後、小説の発展は成熟期を迎えた。唐代の伝奇、宋代の話本の伝統を継承し、創作の題材上においては、歴史、怪異、英雄、世情を論ずることなく、すべてを網羅するようになった。明代の通俗小説は、長編と短編の二大潮流に分かれることとなる。長編小説は「四大奇書」を代表とする。短編小説は、馮夢龍、凌濛初編纂の「三言二拍」を代表とする。 清代の小説では、「紅楼夢」という中国長編小説の一大傑作が生まれた。 日本では、江戸時代に仮名草子、読本などはあったが、近代小説が誕生したのは明治時代以降である。Novelの訳語に「小説」という、江戸時代に曲亭馬琴たちを中心にして自作を表現するために使われていた中国由来の言葉をあて、従来の勧善懲悪を斥け、人情を映す文学作品として定義したのは坪内逍遙の『小説神髄』(1885年 - 1886年)である。その文学理論を実践したのが坪内逍遥の『当世書生気質』である。 もともと中国で国史・正史に対して、民間の俗話のことを「稗史小説」と呼んでいた。 1990年代末よりネット小説の試みが行われた。岩井俊二による映画「リリイ・シュシュのすべて」は岩井自身によるネット小説がもとになっている。村上龍の小説『共生虫』はインターネット上から注文すると紙の本に印刷して配達されるというオンデマンド出版の形態をとっていた。2003年には、携帯サイトに連載されていたYoshi著「Deep Love」シリーズが大ヒットした。2004年、匿名掲示板2ちゃんねる上で、投稿の形を取って発表された「電車男」が新潮社から書籍化された。現在、日本ではオンライン小説(web小説)と呼ばれている。 「インターネットの小説」はサイト上で読む小説であるが、この数年「デジタルノベル」と呼ばれるものも一般的である。デジタルノベルは、「サウンドノベル」「ビジュアルノベル」とも呼ばれ、インターネットの広がりで主にソフトウェアをダウンロードさせる形で提供される。本文と共に背景画、主要人物のキャラクター画が表示され、マウスクリックや実行キーを押すことで読み進めることが出来る。フリーウェア・シェアウェアそれぞれあるが、吉里吉里やLiveMaker、NScripterなどのデジタルノベル製作ソフトなどの登場で手軽に公開できるようになったことから、個人製作のフリーウェアが圧倒的に多い。ソフトウェア配布サイトのVectorなどでは、多数のデジタルノベルが公開されている。 個人製作といっても、本媒体のものと比べて必ずしも質が劣るわけではなく、出版するに充分値するようなものも多い。デジタルノベル製作ソフトには動画やBGM、画面効果を挿入できるものも多いため、それらを組み合わせて、優れた演出効果を出すこともある(オープニングやエンディングの映像など)。 近年は小説家になろうなどのインターネット上の発表を前提とする公開も目立っている。これは紙文化の時代のゲラ刷りや入稿や推敲といった旧来の小説成立プロセスを、大きく揺るがすものである。 小説は19世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されることが一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追求することが多かったが、小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるようになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を分けて考えるのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。 区分が具体的になってくるのは明治末年ごろの文壇からで、大正期のメディアの発達によってこれが具体化・固定化し、芥川賞・直木賞の制定によってひとつの度として捉えられるようになった。戦前から戦後のある時期までは、純文学は芸術性を指向し、大衆文学は通俗性・娯楽性を指向するものであるという区分が明確で、「自分のために書く小説、読者のために書く小説」といった言いかたをされることもあった。この時期は純文学の主流は私小説、大衆文学では時代小説であり、それを書く作家が固定していたのも特徴である。ただし当時から一人の作家について通俗的作品、芸術的作品と分類されることもあり、単純ではない。 現在では純文学、大衆文学の境界はあいまいで、双方の作品を発表する作家、一方から他方へと移行する作家、自作について特段の区分を求めない作家が多くなってきている。実態としては純文学・大衆文学の区別は掲載誌によって行うことが一般的である。 文学賞では、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学の賞であり、受賞作家・作品をみればある程度捉えられていた。しかし、芥川賞作家が娯楽作品を執筆することもあり(たとえば奥泉光、宇能鴻一郎)、作家名で判断することはできなくなっている。純文学作家の三島由紀夫も大衆文学を書いている。逆に大衆文学の作家が純文学的作品を書く例もある(筒井康隆など)。また、最近では芥川賞=純文学、直木賞=大衆文学と単純に言えない例も出てきた。第二次世界大戦後、中間小説という分類をおくこともあったが、現在ではほとんど死語であろう。 純文学小説の堕落と見る向きもあるが、19世紀的な芸術/娯楽という二項対立的分類が、現代文学の状況を正確に把握しきれなくなったためではないかという指摘もある。海外でもチャンドラーやグリーンのように通俗性を保ちつつ高度の芸術性を発揮する小説作品が少なくない。 内容・分野によれば、通俗恋愛小説、冒険小説、推理小説、時代小説、通俗歴史小説、サイエンス・フィクション、ファンタジー、ホラー小説、武侠小説などは大衆文学とすることが一般的であるが、これらの性格を持ちながら純文学とされる作品は戦前から少なくない。
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小説は、文学の形式の一つである。
{{出典の明記|date=2017年11月9日 (木) 08:37 (UTC)}} '''小説'''(しょうせつ、{{lang-en-short|[[:en:fiction|fiction]]}}(総称),{{lang|en|[[:en:novel|novel]]}}(長編),{{lang|en|[[:en:story|story]]}}(短編)、{{lang-fr-short|roman}}(長編),{{lang|fr|nouvelle|}}(中編),{{lang|fr|conte|}}(短編))は、[[文学]]の形式の一つである。 == 定義 == 小説には明確な定義や形式はなく、作者が描きたい人間や社会を自由に[[散文]]で表現する文学形態である。ロマンス(空想物語)やノベル(比較的現実性のある物語)など、現代で一般的に小説と呼ばれるものは、[[フィクション]](想像による創作・虚構)と総称され、あくまでも事実を書いていく「[[ノンフィクション]]」(伝記・ルポルタージュ)と区別している。 ノベルは[[ロバート・モリソン (宣教師)|ロバート・モリソン]]の「英華字典」([[1822年]]刊)でnovelの見出しで「A small tale」と載り、その後、[[坪内逍遥]]が西洋の文学形態の変遷を踏まえ、『[[小説神髄]]』でnovelの訳語とした。その後、坪内逍遥に影響された[[二葉亭四迷]]が著した[[小説総論]]で[[リアリズム]]が主張された。 == 起源 == === 小説か物語か === 小説という[[言葉]]は、[[君主]]が[[国家]]や[[政治]]に対する志を書いた[[大説]]や、君主の命などを受けて編纂された[[国史]]に分類される[[伝統]]的な[[物語]]や[[説話]]に対して、[[個人]]が持つ[[哲学]]的[[概念]]や人生観などの[[主張]]を、一般[[大衆]]に、より具体的に分かりやすく[[表現]]して示す、小編の[[言説]]という[[意味]]を持たされて、[[坪内逍遙]]らによって作られて定着していったものとも言われている。 以前は、小説と[[物語]]の間には明確な区分があるとされてきた。 すなわち、“話の展開に内容から導かれる必然性があるもの”が小説であり、“内容とはかかわりなく偶然のつながりによって話を進めてゆく”のが物語という見方である。 言い換えると小説は「虚構の連続性と因果律のある話の構造」を持たねばならないことが[[条件]]とされた。 さらに発展して「話の展開と主人公の具体的な性格に必然的な関わりがあるのが小説。そうでないのが物語」とも言われた。 [[19世紀]]以降に小説の主題概念が強くなるために「小説」は主題、主人公の造形、話の展開の結びつきが密接であることを要求されてきた。 ただしこのような観念は、[[20世紀]]に入って『贋金造り』([[アンドレ・ジッド]])のような小説が登場するに至って、崩壊したといえよう。反小説なる小説まで登場した現代では、もはや何を以て小説とするかは一概に決めることはできない。 このように近代文学観の呪縛から離れてみれば、古代[[日本文学]]の『[[源氏物語]]』([[紫式部]])は、近代の心理小説に匹敵する描写がみられることが指摘されているし、古代[[ギリシャ文学]]の『[[ダフニスとクロエ (ロンゴス)|ダフニスとクロエ]]』(ロンゴス)なども、「小説」的要素を持った最古の例のひとつといえよう。 === ヨーロッパの小説 === [[ヨーロッパ]]では[[17世紀]]まで「小説」は、「小話」と長編の散文との間の、短い物語のジャンルとして考えられていた(現在の短編小説にあたる)。[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]の『模範小説集(Novelas ejemplares、[[:en:Novelas ejemplares|英語版]])』は短篇の物語集であるが、それまでの散文形式にとらわれない、「新しい物語叙述」を創り出した。 セルバンテスの書いた『[[ドン・キホーテ]]』(1605-1615年)は作者の世界観を表現しながら、登場人物たちの成長や[[葛藤]]、[[心理]]の変化など、「個」に主眼においた近代的な作品であった。よって彼をもって「近代小説の祖」とする人もいる。また同様の理由で、[[ダニエル・デフォー|デフォー]]の『[[ロビンソン・クルーソー]]』(1719年)も「近代小説の祖」といわれる。 近代小説の[[起源]]は、[[フランス文学|フランス]]で18世紀に流行した[[書簡体小説]](手紙、あるいは手紙のやりとりという体裁の文学)から始まる。近代小説の発展は[[18世紀]]以降の[[イギリス文学|イギリス]]、フランスなどでの中産階級の勃興と切り離すことができないとされている。すなわち、識字率の高い、比較的裕福な人たちが読者層となり、その独特の[[ニーズ]]に合わせて発展したと考えられている。 またイギリスで起こった[[産業革命]]により印刷術が発達し、さらに言論、出版の自由が社会的に保障されるようになってから次第に中産階級、労働者階級にも浸透していくことになる。 === 中国の小説 === {{seealso|小説家 (諸子百家)|六朝から清末の文言小説 |白話小説}} 前近代中国において「小説」という[[用語]]が使われ始めたのは、[[図書目録]]上でのことだった(『[[漢書]]』「[[芸文志]]」<ref>漢書 卷三十 兿文志 第十 {{Wikisourcelang-inline|zh|漢書/卷030}}</ref>)。しかもそれは、[[文学]]・[[芸術]]的な用語として生まれたのではなかった。「芸文志」には「街談・巷語、道聴・塗説する者が造る所なり<ref>「小說家者流,蓋出於稗官。街談巷語,道聽塗說者之所造也。」</ref>」「[[諸子百家|諸子十家]]、その観るべきもの、ただ九家のみ<ref>「諸子十家,其可觀者九家而已。」</ref>」という記述がある。街巷で語られた話や道端で聞いたり言ったりしている者が作り上げたのが小説であるとされ、[[九流]]の諸子とは異なり、一ランク下のものと考えられていたことが分かる。 遡って、『[[荘子 (書物)|荘子]]』「外物篇<ref>雜篇 外物第二十六。雜篇は後世の撰述と推定されている。</ref>」には「'''小説'''を飾り以て縣令を干むるは、其の大達に於いて亦た遠し<ref>原文は「飾小說以干縣令、其於大達亦遠矣」{{Wikisourcelang-inline|zh|莊子/外物}}</ref>」とある。直訳すれば、取るに足りない言説で県令になることを求めるのは、その目標から遠い、となる。ここで言わんとすることは、手段と方法を合わせることで目的に到達することが出来るということである。 [[後漢]]になると、[[桓譚]]は、その著の『[[新論 (桓譚)|新論]]』中において、小説に対する議論を展開しているが、ここには大きな変化が見られる。つまり「かの'''小説家'''は残叢の小語を合し、近く譬喩を取り、以て短書を作り、治身理家に、観るべきの辞あり」と述べられているのである。ここで用いられている小説は、後代の小説と、似通った意味合いで用いられる。但し桓譚が用いている「短書」とは、なお軽慢の意があることは免れない。 中国で唯一の小説家皇帝[[曹丕]]のような例外はあるものの、古代中国での小説は以上のように上流階級から蔑まれる物であった。しかし、これ以降の時代には主に民衆から支持を得る形で小説が人気を得ていく。 [[六朝]]時代の小説は、内容的に神異的になり、[[志怪小説]]と呼ばれた。[[唐]]代の[[伝奇小説]]に至ると「奇」が勝ちをおさめた。[[魯迅]]が『中国小説史略』<ref>『中国小説史略』1/2 中島長文 訳 1997年 [[平凡社]] [[東洋文庫]] 1)ISBN 978-4582806182、 2)ISBN 978-4582806199。</ref><ref>『中国小説史略』上/下 [[今村与志雄]] 訳 1997年 [[ちくま学芸文庫]] 上)ISBN 978-4480083692、下)ISBN 978-4480083708。</ref>の中で指摘しているように、[[漢詩|詩]]と同様に唐代で一変し、なお怪異を求める風は存したが、その文学性は格段に洗練された。つまり、唐代の「伝奇」は、従来のように怪異を叙述しながら、人事の機微までをも描き得ており、それは、前代の「志怪」の描ききれていないところであったのである。代表的なのは、『[[枕中記]]』や『霍小玉伝』<ref>かくしょうぎょくでん、蒋防[[:zh:蔣防|(中国語版)]] (生没年不詳、一説に792-835年)作、後世ひろくながく愛読された。日本語訳は今村与志雄 訳がある。唐宋伝奇集 上『6 紫玉の釵―霍小玉伝』(今村与志雄 訳、1988年 岩波文庫)ISBN 978-4003203811、p.82-99 。</ref>である。また唐代には、通俗小説が出現し、後世の文学に多大な影響を与えた。 [[北宋|宋]]代には、庶民の社会生活を描写した「[[話本]]」が出現し、『碾玉観音』<ref>てんぎょくかんのん 京本通俗小説[[:zh:京本通俗小說|(中国語版)]] 第十巻。日本語訳は [[吉川幸次郎]] 訳がある、『玉の観音』 1958年 平凡社 中国古典文学全集7 p.3-12 。種本とされる『警世通言[[:zh:警世通言|(中国語版)]] 第八巻 崔待詔生死冤家』の日本語訳には [[松枝茂夫]] 訳 がある、『玉細工師崔寧 幽霊妻と暮らしたこと』 1960年 平凡社 中国古典文学大系25 p.86-100 。</ref>や『錯斬崔寧』<ref>さくざんさいねい 京本通俗小説 第十五巻。日本語訳は 吉川幸次郎 訳がある、『崔寧の不運』 1958年 平凡社 中国古典文学全集7 p.49-60 。種本とされる『醒世恒言[[:zh:醒世恒言|(中国語版)]] 第三十三巻 十五貫戯言成巧禍』の日本語訳には [[松枝茂夫]] 訳 がある、『十五貫の冗談から思わぬ禍を招いたこと』 1960年 平凡社 中国古典文学大系25 p.223-238 。</ref>などの代表作<ref>残存するのは、この2編のほか『菩薩蛮(ぼさつばん)』『西山一窟鬼(せいざんいっくつき)』『志誠張主管』『拗相公(ようしょうこう)』『馮玉梅(ふうぎょくばい)団円』の合わせて7編であり、中国古典文学全集7 及び中国古典文学大系25 のそれぞれに日本語訳されている。[[長沢規矩也]]は、「京本通俗小説」古写本の発見者 [[繆荃孫]]による偽作説を『書誌学論考』中に最初に論じており、松枝茂夫も中国古典文学大系25 p.527-528 で賛同しているが、これら7編が[[南宋]]から[[元 (王朝)|元]]代の作品であることは疑いの余地がないと述べている。</ref>が作られた。宋代話本の特色は[[白話小説]]と呼ばれ、[[白話]](口語)を用いて描写される点にある。よって、唐代の伝奇に比べて更に通俗的となった。 [[元曲]]が著しく発展した[[元 (王朝)|元]]代は、[[伊藤漱平]]によれば小説史に於いては不作の時代だったが、唐・宋伝奇の末流として、元初という小説不作の時代に開いた浪花(あだばな)ともいえる『{{仮リンク|嬌紅記|zh|嬌紅記}}<ref>きょうこうき、宋遠(梅洞と号す、宋末-元初、詳細不詳)作とされる。日本語訳は伊藤漱平 訳がある、平凡社 中国古典文学大系38 《今古奇観 下・嬌紅記》 1973年 p.359-451 。</ref>』があるが、字数が唐・宋代のものより多いため小説長編化の途上の作品とされる<ref>中国古典文学大系38 解説 p.483、p.489 。</ref>。 [[明]]代以後、小説の発展は成熟期を迎えた。唐代の伝奇、宋代の話本の伝統を継承し、創作の題材上においては、歴史、怪異、英雄、世情を論ずることなく、すべてを網羅するようになった。明代の通俗小説は、長編と短編の二大潮流に分かれることとなる。[[長編小説]]は「[[四大奇書]]」を代表とする。[[短編小説]]は、[[馮夢龍]]、[[凌濛初]]編纂の「[[三言二拍]]」を代表とする。 [[清]]代の小説では、「[[紅楼夢]]」という中国長編小説の一大傑作が生まれた。 === 日本の小説 === [[日本]]では、[[江戸時代]]に[[仮名草子]]、[[読本]]などはあったが、近代小説が誕生したのは[[明治時代]]以降である。'''Novel'''の訳語に「小説」という、江戸時代に[[曲亭馬琴]]たちを中心にして自作を表現するために使われていた中国由来の言葉をあて、従来の[[勧善懲悪]]を斥け、人情を映す文学作品として定義したのは[[坪内逍遙]]の『小説神髄』([[1885年]] - [[1886年]])である。その文学理論を実践したのが坪内逍遥の『[[当世書生気質]]』である。 もともと中国で国史・正史に対して、民間の俗話のことを「稗史小説」と呼んでいた。<!---国史などをさす「大説」に対して散文体の読み物のことを「小説」と呼んだ。--> {{See also|日本の近現代文学史}} == 媒体の拡がり == === 小説 === [[1990年代]]末よりネット小説の試みが行われた。[[岩井俊二]]による映画「[[リリイ・シュシュのすべて]]」は岩井自身によるネット小説がもとになっている。[[村上龍]]の小説『共生虫』はインターネット上から注文すると紙の本に印刷して配達されるという[[オンデマンド]]出版の形態をとっていた。[[2003年]]には、[[携帯電話|携帯]]サイトに連載されていた[[Yoshi]]著「[[Deep Love]]」シリーズが大ヒットした。[[2004年]]、匿名掲示板[[2ちゃんねる]]上で、投稿の形を取って発表された「[[電車男]]」が[[新潮社]]から書籍化された。現在、日本では[[オンライン小説|オンライン小説(web小説)]]と呼ばれている。 === デジタルノベル === 「インターネットの小説」はサイト上で読む小説であるが、この数年「[[デジタルノベル]]」と呼ばれるものも一般的である。デジタルノベルは、「[[サウンドノベル]]」「[[ビジュアルノベル]]」とも呼ばれ、インターネットの広がりで主にソフトウェアをダウンロードさせる形で提供される。本文と共に背景画、主要人物のキャラクター画が表示され、マウスクリックや実行キーを押すことで読み進めることが出来る。[[フリーウェア]]・[[シェアウェア]]それぞれあるが、[[吉里吉里]]や[[LiveMaker]]、[[NScripter]]などのデジタルノベル製作ソフトなどの登場で手軽に公開できるようになったことから、個人製作の[[フリーウェア]]が圧倒的に多い。ソフトウェア配布サイトの[[Vector]]などでは、多数のデジタルノベルが公開されている。 個人製作といっても、本媒体のものと比べて必ずしも質が劣るわけではなく、出版するに充分値するようなものも多い。デジタルノベル製作ソフトには動画やBGM、画面効果を挿入できるものも多いため、それらを組み合わせて、優れた演出効果を出すこともある(オープニングやエンディングの映像など)。 近年は[[小説家になろう]]などのインターネット上の発表を前提とする公開も目立っている。これは紙文化の時代のゲラ刷りや入稿や推敲といった旧来の小説成立プロセスを、大きく揺るがすものである。 == 分類 == === 長さ・発表形式による分類 === * [[短編小説]] ** [[掌編小説]] ** [[ショートショート]] * [[中編小説]] * [[長編小説]] * [[連載小説]] === 内容による分類 === * [[私小説]] * [[恋愛小説]] * [[青春小説]] * [[冒険小説]] ** 歴史冒険小説 ** [[秘境探検小説]] ** [[海洋冒険小説]] * [[推理小説]](ミステリー、ミステリとも) * [[サイエンス・フィクション]]小説(SF小説) ** [[ハードSF]]小説 ** [[スペースオペラ]]小説 ** [[サイバーパンク]]小説 ** [[スチームパンク]]小説 * [[ファンタジー]](幻想小説) * [[ホラー小説]](怪奇小説) ** [[怪談]] * [[歴史小説]]・[[時代小説]]・[[伝奇小説]] * [[武侠小説]] * [[児童文学]] ** [[童話]] ** [[絵本]] * [[官能小説]](劇画系、美少女系、耽美系などに分かれる。) * [[鬱小説]](読後感が不快な小説) * [[教養小説]] * 鍵小説 * 企業小説・[[経済小説]] * [[政治小説]] * [[ゴシック小説]] * [[スパイ小説]] * [[大河小説]] * [[心理小説]] * [[芸術家小説]] * [[学園小説]] * 紀実小説 * [[天皇小説]] === 特殊な分類 === * [[ライトノベル]] - 定義に関してはさまざまな考え方があり、業界内でも明確な基準は確立されていない。 * [[大衆小説]] - 純文学に対して娯楽性が高い小説。後述のとおり境界線があいまいな定義である。 === 純文学と大衆文学 === 小説は19世紀以降[[純文学]]的傾向のものと[[大衆小説]]的傾向のものとに分類されることが一般的となった。それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追求することが多かったが、小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるようになってくる。各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を分けて考えるのが一般的である。日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。 区分が具体的になってくるのは明治末年ごろの文壇からで、大正期のメディアの発達によってこれが具体化・固定化し、芥川賞・直木賞の制定によってひとつの度として捉えられるようになった。戦前から戦後のある時期までは、純文学は芸術性を指向し、大衆文学は通俗性・娯楽性を指向するものであるという区分が明確で、「自分のために書く小説、読者のために書く小説」といった言いかたをされることもあった。この時期は純文学の主流は私小説、大衆文学では時代小説であり、それを書く作家が固定していたのも特徴である。ただし当時から一人の作家について通俗的作品、芸術的作品と分類されることもあり、単純ではない。 現在では純文学、大衆文学の境界はあいまいで、双方の作品を発表する作家、一方から他方へと移行する作家、自作について特段の区分を求めない作家が多くなってきている。実態としては純文学・大衆文学の区別は掲載誌によって行うことが一般的である。 文学賞では、[[芥川龍之介賞|芥川賞]]は純文学、[[直木三十五賞|直木賞]]は大衆文学の賞であり、受賞作家・作品をみればある程度捉えられていた。しかし、芥川賞作家が娯楽作品を執筆することもあり(たとえば[[奥泉光]]、[[宇能鴻一郎]])、作家名で判断することはできなくなっている。純文学作家の三島由紀夫も大衆文学を書いている。逆に大衆文学の作家が純文学的作品を書く例もある(筒井康隆など)。また、最近では芥川賞=純文学、直木賞=大衆文学と単純に言えない例も出てきた。第二次世界大戦後、[[中間小説]]という分類をおくこともあったが、現在ではほとんど死語であろう。 純文学小説の堕落と見る向きもあるが、19世紀的な芸術/娯楽という二項対立的分類が、現代文学の状況を正確に把握しきれなくなったためではないかという指摘もある。海外でもチャンドラーやグリーンのように通俗性を保ちつつ高度の芸術性を発揮する小説作品が少なくない。 内容・分野によれば、通俗恋愛小説、冒険小説、推理小説、[[時代小説]]、通俗歴史小説、サイエンス・フィクション、ファンタジー、ホラー小説、武侠小説などは大衆文学とすることが一般的であるが、これらの性格を持ちながら純文学とされる作品は戦前から少なくない。 == 関連項目 == {{Wiktionary}} * [[大説]] * [[文学]] * [[小説家]] * [[日本文学]] * [[オンライン小説]] * [[ライトノベル]] * [[原稿用紙]] * [[人称#文学における人称|文学における人称]] === 作家一覧 === * [[小説家一覧]] * [[SF作家一覧]] * [[推理作家一覧]] * [[時代小説・歴史小説作家一覧]] * [[児童文学作家一覧]] == 注・出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 台灣師範大學國文學系楊昌年教授《現代小說》,三民書局 *《小說中國:晚清到當代的中文小說》,麥田出版,王德威,ISBN 957-708-093-6 * 郎瑛《七修類稿·辨證類》 * 见其《中国小说源流论》 * 高罗佩《武则天四大奇案》 {{Narrative}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようせつ}} [[Category:小説|*]]
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伽藍とバザール
『伽藍とバザール』(がらんとバザール、英: The Cathedral and the Bazaar、カテドラルとバザール)は、エリック・レイモンドによって書かれたオープンソースソフトウェア(OSS)のソフトウェア開発方式に関するエッセイおよび書籍である。 当記事では、Cathedralの訳語に伽藍、Bazaarの訳語にバザールを使用する。訳語については、「Cathedral」の日本語訳の節を参照されたい。 伽藍方式としてGNU Emacsの開発スタイル、バザール方式としてLinuxカーネルの開発スタイルとFetchmailのマネージメント経験を挙げ、ソースコードを常時公開して多くの利用者・開発者がソフトウェア開発に携わる開発手法のメリットを主張している(「ソースコードを常時公開して多くの利用者・開発者がソフトウェア開発に携わっている」、という点はGNU Emacsでも後者と全く同じである。従って主張されているメリットは、「伽藍方式」と「バザール方式」の違いのうち、それとは異なる点に由来する)。 1997年5月27日、ドイツのヴュルツブルクで開催されたLinux Kongressで講演の形で発表された。その後、1999年に書籍として出版された。原作書籍の表紙に描かれているイラストは、トレチャコフ美術館所蔵のリュボーフィ・ポポーワによる1913年の絵画『Composition with Figures』である。エッセイは2000年前後以降よりOpen Publication License 2.0の下で公開されている。日本語翻訳版は山形浩生が1999年に執筆し、オープンコンテント相当の制約で公開されている。 本書はオープンソース4部作となる『伽藍とバザール』『ノウアスフィアの開墾(英語版)』『魔法のおなべ(英語版)』および2011年現在未発表の『Weaving the Net of Indra』のうち、ソフトウェア関係者向けに書かれた最初のひとつである。 さまざまなソフトウェア開発の取り組みから学んだバザール方式の19の教訓を挙げ、それぞれがオープンソースソフトウェア開発における優れた開発手法に関する題目を述べている。 1998年、ネットスケープコミュニケーションズがNetscape Suiteのソースコードを公開することを後押しをして、Netscape SuiteがMozilla Application Suiteとして生まれ変わることとなった。このネットスケープコミュニケーションズのアクションはエリック・レイモンドをハッカー分野で著名にさせるに十分な出来事だった(そもそもエリック・レイモンドはジャーゴンファイルの編集(1990年以降)などで、もともとハッカー分野ではそれ以上著名になることはないくらいに著名な人物であり、正確にはハッカー以外に著名になった)。 1999年、Oreilly Mediaが初版を出版したものは、Open Publication Licenseでライセンスされ公開している著書が初めて商用書籍として販売された事例となった。 マーシャル・ポー(英語版)はエッセイ『The Hive』で、Wikipediaはバザール方式に似ていると述べた。ジミー・ウェールズ自身、バザール方式に触発されており、「大量の共同作業の可能性を目の当たりにした」と述べている。 1999年、ニコライ・ベズロコフ(英語版)はエリック・レイモンドのオープンソースソフトウェアに関する2件の批判的エッセイを掲載し、2つ目のエッセイは『A second look at The Cathedral and the Bazaar』として知られている。それらはエリック・レイモンドにより反論が提示されている。 「Cathedral」は「伽藍」と訳されているが、建築学の訳語としてはともかく、開発におけるヒエラルキーといったことも踏まえた宗教的意味あいを表現する言葉としては「大聖堂」に当たる。「伽藍」は仏教寺院の建物群を指す言葉で、エリック・レイモンドが意図した中央集権スタイルを意味する言葉としては、本来はそぐわない。これは建築家ル・コルビュジエの著作『When the Cathedral was White』が『伽藍が白かったとき』と訳されており、これを踏まえて山形浩生が訳したものである。建築学において伽藍をCathedralと訳すことは一般的である。
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『伽藍とバザール』は、エリック・レイモンドによって書かれたオープンソースソフトウェア(OSS)のソフトウェア開発方式に関するエッセイおよび書籍である。 当記事では、Cathedralの訳語に伽藍、Bazaarの訳語にバザールを使用する。訳語については、「Cathedral」の日本語訳の節を参照されたい。 伽藍方式としてGNU Emacsの開発スタイル、バザール方式としてLinuxカーネルの開発スタイルとFetchmailのマネージメント経験を挙げ、ソースコードを常時公開して多くの利用者・開発者がソフトウェア開発に携わる開発手法のメリットを主張している。
{{基礎情報 書籍 | title = 伽藍とバザール | orig_title = The Cathedral and the Bazaar: Musings on Linux and Open Source by an Accidental Revolutionary | author = [[エリック・レイモンド|Eric S. Raymond]] | translator = [[山形浩生]] | illustrator = [[リュボーフィ・ポポーワ|Liubov S. Popova]] | publisher = [[O'Reilly Media]] | published = 1999 | country = [[アメリカ合衆国]] | language = [[英語]] | id = ISBN 978-1565927247 | id2 = ISBN 978-4904807026 | id2type = 日本語訳版 | pages = 241 | website = [http://www.catb.org/~esr/writings/cathedral-bazaar/ www.catb.org] }} 『'''伽藍とバザール'''』(がらんとバザール、{{lang-en-short|''The Cathedral and the Bazaar''}}、カテドラルとバザール)は、[[エリック・レイモンド]]によって書かれた[[オープンソースソフトウェア]](OSS)のソフトウェア開発方式に関するエッセイおよび書籍である<ref name="catb" />。 当記事では、Cathedralの訳語に伽藍、Bazaarの訳語に[[バザール]]を使用する。訳語については、[[#「Cathedral」の日本語訳|「Cathedral」の日本語訳]]の節を参照されたい。 伽藍方式としてGNU Emacsの開発スタイル、バザール方式としてLinuxカーネルの開発スタイルとFetchmailのマネージメント経験を挙げ、ソースコードを常時公開して多くの利用者・開発者がソフトウェア開発に携わる開発手法のメリットを主張している(「ソースコードを常時公開して多くの利用者・開発者がソフトウェア開発に携わっている」、という点はGNU Emacsでも後者と全く同じである。従って主張されているメリットは、「伽藍方式」と「バザール方式」の違いのうち、それとは異なる点に由来する)。 == 歴史 == 1997年5月27日、[[ドイツ]]の[[ヴュルツブルク]]で開催された[[Linux Kongress]]で講演の形で発表された。その後、1999年に書籍として出版された。原作書籍の表紙に描かれているイラストは、[[トレチャコフ美術館]]所蔵の[[リュボーフィ・ポポーワ]]による1913年の絵画『''Composition with Figures''』である<ref name="o'reilly website listing">{{cite web|title=Colophon|url=http://shop.oreilly.com/product/9780596001087.do|work=The Cathedral & the Bazaar|publisher=O'Reily Media|accessdate=20 December 2011}}</ref>。エッセイは2000年前後以降より[[Open Publication License|Open Publication License 2.0]]の下で公開されている<ref name="catb">{{cite web|last=Raymond|first=Eric Steven|title=The Cathedral and the Bazaar|url=http://www.catb.org/~esr/writings/cathedral-bazaar/cathedral-bazaar/index.html|accessdate=18 April 2012}}</ref>。日本語翻訳版は[[山形浩生]]が1999年に執筆し、[[オープンコンテント]]相当の制約で公開されている。 本書はオープンソース4部作となる『伽藍とバザール』『{{仮リンク|ノウアスフィアの開墾|en|Homesteading the Noosphere}}』『{{仮リンク|魔法のおなべ|en|The Magic Cauldron}}』および2011年現在未発表の『Weaving the Net of Indra』のうち、ソフトウェア関係者向けに書かれた最初のひとつである。 <!-- 以下の節は冒頭の一文から展開される形で書かれているが、その冒頭の一文が出典としている原典には、伽藍方式とバザール方式が、トップダウン設計とボトムアップ設計であるとはどこにも書いてないので、虚偽出典として扱う。 == 伽藍とバザール == エッセイでは2つのソースコードを公開している[[ソフトウェア開発]]モデル、伽藍方式とバザール方式([[トップダウン設計とボトムアップ設計]])の取り組みについて述べている<ref name="catb" />。 伽藍方式は、ソフトウェアのリリース毎のソースコードは利用可能であるが、ソフトウェアの開発は閉鎖的な開発チームにより制限する。事例として[[GNUプロジェクト]]の[[GNU Emacs]]を挙げている。GNU Emacsはソースコードが公開された巨大で強力なテキストエディタであり、GNUプロジェクトの開発チームがソフトウェアを実装し、安定版でソースコード公開をしていた。 バザール方式は、ソースコードが[[インターネット]]を通して公開実装され、不特定多数の利用者・開発者によりソフトウェアの設計・実装を進める。バザール方式の事例として[[Linuxカーネル]]と[[Fetchmail]]を挙げている。エリック・レイモンドはLinuxカーネルのプロジェクトリーダーである[[リーナス・トーバルズ]]をバザール方式の先駆者として称賛している。また、自身のバザール方式の開発体験としてFetchmailプロジェクトに携わり、本書でその経験を述べている。 エッセイの主題はバザール方式におけるエリック・レイモンドが提起した[[リーナスの法則]]「十分な目玉があれば、全てのバグは洗い出される」である。バザール方式ではソースコードがより広く利用可能にすることで公開された試験・精査・検証となり、より迅速に全ての形状のバグを見つけることに繋がる。対称的に、伽藍方式ではバグを退治することに莫大な時間と労力を費やさなければならず、それ故に開発中のバージョンのソースコードは少数名の開発者しか利用することが出来ない。 [[C言語]]の[[コンパイラ]]である[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]と[[GNUコンパイラコレクション#EGCS|EGCS]]は伽藍方式とバザール方式の良い対比プロジェクトである。[[GNUプロジェクト]]のGCCは伽藍方式で開発が進められていたが開発速度と品質は著しくなく、有志のGCCから[[フォーク (ソフトウェア開発)|フォーク]]したEGCSはバザール方式で開発が進められておりGCCを上回り高機能・高品質であった<ref>{{cite web|title=Pentium Compiler FAQ|url=http://home.schmorp.de/pgcc-faq.html#egcs|accessdate=2018-03-26}}</ref>。1999年にGCCの開発主管は伽藍方式の旧チームを解散してバザール方式のEGCSチームに移った<ref name=egcs>{{ citation | last = Henkel-Wallace | first = David | title = A new compiler project to merge the existing GCC forks | url = https://gcc.gnu.org/news/announcement.html | date = August 15, 1997 | accessdate = May 25, 2012 |postscript=.}}</ref>。 --> == バザール方式の教訓 == さまざまなソフトウェア開発の取り組みから学んだバザール方式の19の教訓を挙げ、それぞれがオープンソースソフトウェア開発における優れた開発手法に関する題目を述べている<ref name="catb" />。 # 全ての良いソフトウェアは開発者の個人的な希望から始まる。 # 良いプログラマは何を書けば良いか知っている。凄いプログラマは何を書き直せば・何を再利用すれば良いか知っている。 # 破棄する計画を立てる。いずれにせよ、そうすることになる。<ref group="注釈">[[フレデリック・ブルックス]]の著書『[[人月の神話]]』からの引用</ref> # 適切な取り組みをしていれば、おかしな問題は自発的に主張してくる。 # ソフトウェアに興味がなくなった時には、ソフトウェアを手放して優秀な後継者に引き継ぎする。 # 利用者を共同開発者として扱うことは迅速な実装改善と効率的なデバッグの最短ルートである。 # {{仮リンク|Release early, release often|en|Release early, release often|label=素早く頻繁なリリース}}を実施し、顧客の話を聞く。 # 十分なベータテスターと共同開発者の基盤があれば、大半の問題はすぐに特定されて誰かが直す。 # 賢いデータ構造と愚かなソースコードは、その逆であるよりずっと良い成果を出す。 # あなたがベータテスターを最も有益な資産として扱うなら、彼らは最も有益な資産となり応えてくれる。 # 次の最適案は利用者による良いアイディアに気付かされる。後から出たアイディアの方が良いこともある。 # 大半の衝撃的で革新的な解決策は自身の問題の捉え方が間違っていることに気付くことから始まる。 # 完璧な設計はそれ以上の追加することがなくなった時ではなく、それ以上の削減することがなくなった時である。<ref group="注釈">[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]の発言より引用</ref> # 全てのツールは想像通りに便利であるべきであるが、本当に凄いツールは作者の想像を越えた便利さを与える。 # どんなゲートウェイソフトウェアを実装する場合でも、データストリームへの影響は可能な限り最小限に抑え、受け手が強制しない限りはデータを決して破棄しない。 # 自分の書き方が[[チューリング完全]]から外れているなら、[[糖衣構文|シンタックス・シュガー]]は手助けになる。 # セキュリティシステムのセキュリティはそれが秘密である時だけ意味を成す。見掛けのセキュリティには注意すること。 # おかしな問題を解決することは、おかしな問題を探すことから始まる。 # 開発コーディネーターが少なくともインターネットと同等に良質な交流手段を持って圧力をかけない先導手法を知っているなら、必然的に頭数は多い方が良い。 == 受容と影響 == 1998年、[[ネットスケープコミュニケーションズ]]が[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Suite]]のソースコードを公開することを後押しをして、Netscape Suiteが[[Mozilla Application Suite]]として生まれ変わることとなった<ref>{{cite web | title = Epilog: Netscape Embraces the Bazaar | url = http://www.catb.org/~esr/writings/cathedral-bazaar/cathedral-bazaar/ar01s13.html |accessdate=2018-03-26}}</ref><ref>{{cite book |title= Open Sources: Voices from the Open Source Revolution |chapter= Freeing the Source: The Story of Mozilla|author= Jim Hamerly and Tom Paquin with Susan Walton |edition= 1st |date= January 1999 |isbn= 1-56592-582-3 |url= http://oreilly.com/catalog/opensources/book/netrev.html|quote= Frank had done his homework, citing Eric Raymond's paper, "The Cathedral and the Bazaar," and talking to people in departments throughout the organization--from engineering to marketing to management.}}</ref><ref>{{citation |title= Interview: Frank Hecker |author= Louis Suárez-Potts |date= 1 May 2001 |publisher= openffice.org |url= http://www.openoffice.org/editorial/ec1May.html |quote= (Since it always gets mentioned in relation to Netscape's Mozilla decision, I should also note that Eric Raymond's paper "The Cathedral and the Bazaar" was referenced by me and others who were lobbying Netscape's management. In my opinion the paper's importance in the context of Netscape's decision was mainly that it provided some independent validation of ideas that were already being actively discussed and promoted within Netscape. If you've ever tried to promote a proposal within your organization, then you may have discovered that it's somewhat easier to do this if you can point to someone outside the organization who's saying the same thing.)}}</ref>。このネットスケープコミュニケーションズのアクションはエリック・レイモンドをハッカー分野で著名にさせるに十分な出来事だった<ref name="Williams2011">{{cite book|author=Sam Williams|title=Free as in Freedom &#91;Paperback&#93;: Richard Stallman's Crusade for Free Software|url=https://books.google.com/books?id=BB68Ql7ZY_AC&pg=PA161|date=30 November 2011|publisher="O'Reilly Media, Inc."|isbn=978-1-4493-2464-3|pages=161|quote=When Netscape CEO Jim Barksdale cited Raymond's 'Cathedral and the Bazaar' essay as a major influence upon the company's decision, the company instantly elevated Raymond to the level of hacker celebrity. Determined not to squander the opportunity, Raymond traveled west to deliver interviews, advise Netscape executives, and take part in the eventual party celebrating the publication of Netscape Navigator's source code.}}</ref>(そもそもエリック・レイモンドは[[ジャーゴンファイル]]の編集(1990年以降)などで、もともとハッカー分野ではそれ以上著名になることはないくらいに著名な人物であり、正確にはハッカー以外に著名になった)。 1999年、[[オライリー・メディア|Oreilly Media]]が初版を出版したものは、[[Open Publication License]]でライセンスされ公開している著書が初めて商用書籍として販売された事例となった<ref name="opl">[https://web.archive.org/web/20030424100429/http://www.catb.org/~esr/writings/cathedral-bazaar/cathedral-bazaar/ cathedral-bazaar]</ref>。 {{仮リンク|マーシャル・ポー|en|Marshall Poe}}はエッセイ『''The Hive''』で、[[Wikipedia]]はバザール方式に似ていると述べた<ref>{{Cite news |title=The Hive |publisher=The Atlantic |first=Marshall |last=Poe |date=September 2006 |url=https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2006/09/the-hive/5118/ |accessdate=2012-07-05}}</ref>。[[ジミー・ウェールズ]]自身、バザール方式に触発されており、「大量の共同作業の可能性を目の当たりにした」と述べている<ref>{{cite web|last1=Schiff|first1=Stacy|title=Annals of Information|url=http://www.newyorker.com/archive/2006/07/31/060731fa_fact|website=The New Yorker|accessdate=4 July 2014}}</ref>。 1999年、{{仮リンク|ニコライ・ベズロコフ|en|Nikolai Bezroukov}}はエリック・レイモンドのオープンソースソフトウェアに関する2件の批判的エッセイを掲載し、2つ目のエッセイは『''A second look at The Cathedral and the Bazaar''』として知られている<ref name="Kurbel2008">{{cite book|author=Karl Eugen Kurbel |title=The Making of Information Systems: Software Engineering and Management in a Globalized World|url=https://books.google.com/books?id=ggVaezlfOCcC&pg=PA222|accessdate=15 October 2012|date=23 June 2008 |publisher=Springer |isbn=978-3-540-79260-4 |pages=222–}}</ref><ref>Bezroukov, [http://firstmonday.org/htbin/cgiwrap/bin/ojs/index.php/fm/article/view/696/606 Open source software development as a special type of academic research: Critique of vulgar Raymondism]" Accessed 23 September 2010.</ref><ref>Bezroukov, [http://firstmonday.org/htbin/cgiwrap/bin/ojs/index.php/fm/article/view/708/618 A second look at ''The Cathedral and the Bazaar''] Accessed 23 September 2010.</ref><ref name="BergstraBurgess2007">{{cite book|author1=Jan Bergstra |author2=Mark Burgess |title=Handbook of Network and System Administration |url=https://books.google.com/books?id=NUoZ7fKOITQC&pg=PA202 |accessdate=15 October 2012 |date=19 December 2007 |publisher=Elsevier |isbn=978-0-444-52198-9 |pages=202–}}</ref>。それらはエリック・レイモンドにより反論が提示されている<ref>{{cite web|author=Eric S. Raymond|url=http://catb.org/~esr/writings/response-to-bezroukov.html|title=Response to Nikolai Bezroukov|accessdate=2018-03-26}}</ref>。 == 「Cathedral」の日本語訳 == 「Cathedral」は「[[伽藍]]」と訳されているが、建築学の訳語としてはともかく、開発におけるヒエラルキーといったことも踏まえた宗教的意味あいを表現する言葉としては「[[大聖堂]]」に当たる<ref>{{cite web|url=https://cruel.org/hotwired/raymondtext.html|title=Digital Freedom Interview Eric Steven Raymond|publisher=NTT-X||accessdate=2018-03-26}}</ref>。「伽藍」は仏教寺院の建物'''群'''を指す言葉で、エリック・レイモンドが意図した中央集権スタイルを意味する言葉としては、本来はそぐわない。これは建築家[[ル・コルビュジエ]]の著作『''When the Cathedral was White''』が『伽藍が白かったとき』と訳されており<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008857263-00|title=伽藍が白かったとき|publisher=国立国会図書館オンライン|quote=タイトル: '''伽藍'''が白かったとき [...] - 原タイトル: Quand les '''cathedrales''' etaient blanches|accessdate=2018-03-26}}</ref>、これを踏まえて[[山形浩生]]が訳したものである。建築学において伽藍をCathedralと訳すことは一般的である<ref>{{Cite web|和書|author=魚谷佳史|author2=丹羽博亨|date=1996-03|url=https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200902114442463597|title=近世京都日蓮宗本能寺の伽藍配置|publisher=J-GLOBAL|quote=近世京都日蓮宗本能寺の'''伽藍'''配置 - '''Cathedral''' layout in Hon-no Temple of Kyoto Nichiren sect of Recent Times.|accessdate=2018-03-26}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|36px]]}} * [http://www.catb.org/~esr/writings/cathedral-bazaar/ The Cathedral and the Bazaar] - [[エリック・レイモンド|Eric S. Raymond]] - 原文 * {{青空文庫|000029|227|新字新仮名|伽藍とバザール}} - [[山形浩生]] 日本語訳 {{FOSS}} {{DEFAULTSORT:からんとはさある}} [[Category:オープンソース文化・運動]] [[Category:ソフトウェア開発哲学]] [[Category:コンピュータの文献]] [[Category:エリック・レイモンド]]
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Graphics Interchange Format
Graphics Interchange Format(グラフィックス・インターチェンジ・フォーマット、略称GIF、ジフ)とはCompuServeのPICSフォーラムで提唱された画像ファイルフォーマットの一つ。LZW特許を使用した画像圧縮が可能。一般的に用いられている拡張子は.gif。「ギフ」または「ジー・アイ・エフ」と読まれることもあるがOxford Dictionaries USA Word of the Year 2012 に "GIF" が選出された際のインタビューにおいて設計者のスティーブ・ウィルハイトは「jif(ジフ)」が正しい読み方と述べている。 GIFは256色以下の画像を扱うことができる可逆圧縮形式のファイルフォーマットである。圧縮画像ファイルフォーマットでは歴史の長いもののひとつで、WebブラウザではJPEGと並んで標準的にサポートされる。圧縮形式の特性上、同一色が連続する画像の圧縮率が高くなるため、イラストやボタン画像など、使用色数の少ない画像への使用に適している。 GIF規格には1987年6月15日に公開されたGIF87aと1990年7月30日に公開されたGIF89aの2種類があり、GIF89aでは、透過GIFとGIFアニメーションがサポートされた。現在使われている規格はGIF89aである。GIFフォーマットの著作権はCompuServeが所有するが、その利用はライセンスフリーであったため、日本以外でのパソコン通信をはじめとする画像交換の標準フォーマットとして使われていた(日本ではパソコン通信時代はMAGやPiが主流だった)。ただし、圧縮技術としてLZWを使用しているため、後述する特許権の問題が発生した。 GIF画像ファイルにはGIF画像識別文字列が埋め込まれており、画像ファイルの最初の6文字は必ず「GIF87a」もしくは「GIF89a」で始まっている。 また、GIFフォーマットは以下の画像をサポートする。 GIFには以下のような特徴的な拡張が行われており、かつWebブラウザでの表示サポートも比較的良好であることから、これらの機能を利用するためにGIF形式が選択されることも多い。 なお、ほとんど用いられることはないが、非可逆圧縮もサポートしている。 また、Webサイトを作成する際、「1x1ピクセルの透過GIF」を利用したデザイン調整をおこなうことがあり、そのような画像はスペーサーGIF(英語版)と呼ばれる。 GIFは、データ圧縮アルゴリズムとして、1984年に発表されたLZWを使用しているが、このアルゴリズムについては米ユニシスが特許権を取得していた。この点に関し、ユニシスは当初はGIFにおけるLZWアルゴリズムの利用について利用料を請求しない方針を採っていたが、GIFフォーマットの利用が広まると、GIFにおけるLZWの利用について利用料を請求する方針に転換した。当初は企業のみを対象としていたが、フリーソフトウェアを開発する個人にまで利用料を請求するに至った。 この事により、GIF形式をサポートする画像編集ソフトウェアの制作者のみならず、そのソフトウェアを利用してGIF画像を制作した一般の利用者に対しても特許使用料が賦課される懸念が生じたため、GIF形式の特徴を備えたフリーな代替物としてPNGが開発された。 米国内では2003年6月20日にLZWの特許が失効し、日本国内でも2004年6月20日に特許が失効した。現在ではGIFは自由に使うことのできるフォーマットであると考えられている。そのため、GIFの利用者は再び増えており、一時的に公開が停止されていたGIFを生成・表示するソフトウェアも再公開されるようになっている。 しかし、特に2000年代以降はインターネットの回線速度や端末であるパソコンの表現能力の飛躍的な向上により、フルカラー対応の圧縮形式(JPEGやPNGなど)の需要が高まり、256色までしか対応できないGIFの使用頻度は減少することとなった。 前述の理由から静止画像としての需要は減少した一方で、簡易的なアニメーション画像形式としてのGIFは代替となるファイル形式がMNG、APNGなど複数乱立し規格争いが起こったこと、それに伴いウェブブラウザでのサポートが遅れたことなどから、GIFアニメーションが引き続き使用された。例として、バナーと呼ばれる広告表示用の画像は、広告媒体の入稿規定により、ファイル容量の上限と共にファイル形式をGIFで指定するものも多い。 2010年代以降はSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などにおいて手軽な画像リプライの投稿手段として積極的に用いられており、SNSを中心に単に「GIF」と言えばGIFアニメーションを指す用法が広まるなど、2020年代現在では「GIF」という言葉がアニメーション画像の代名詞、あるいは機能の名称として定着している。
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Graphics Interchange Format(グラフィックス・インターチェンジ・フォーマット、略称GIF、ジフ)とはCompuServeのPICSフォーラムで提唱された画像ファイルフォーマットの一つ。LZW特許を使用した画像圧縮が可能。一般的に用いられている拡張子は.gif。「ギフ」または「ジー・アイ・エフ」と読まれることもあるがOxford Dictionaries USA Word of the Year 2012 に "GIF" が選出された際のインタビューにおいて設計者のスティーブ・ウィルハイトは「jif(ジフ)」が正しい読み方と述べている。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} {{Infobox file format | name = Graphics Interchange Format | screenshot = [[ファイル:Rotating_earth_(large).gif|200px]] | caption = 自転する地球のGIFフォーマット画像。 | extension = <tt>.gif</tt> | mime = <tt>image/gif</tt> | type code = <tt>GIF </tt><br /><tt>GIFf</tt> | uniform type = com.compuserve.gif | magic = <code>GIF87a</code>/<code>GIF89a</code> | owner = [[CompuServe]] | genre = [[ビットマップ画像|ビットマップ]][[画像]] | container for = | contained by = | extended from = | extended to = }} '''{{en|Graphics Interchange Format}}'''(グラフィックス・インターチェンジ・フォーマット、略称'''GIF'''、ジフ)とは[[CompuServe]]のPICSフォーラムで提唱された[[画像ファイルフォーマット]]の一つ。[[Lempel–Ziv–Welch|LZW]][[特許]]を使用した画像[[データ圧縮|圧縮]]が可能。一般的に用いられている[[拡張子]]は<tt>.gif</tt>。「ギフ<ref>http://bits.blogs.nytimes.com/2013/05/23/battle-over-gif-pronunciation-erupts/</ref>」または「ジー・アイ・エフ」と読まれることもあるが{{en|Oxford Dictionaries USA Word of the Year 2012}} に "GIF" が選出された際のインタビューにおいて設計者の{{仮リンク|スティーブ・ウィルハイト|en|Steve Wilhite}}は「jif(ジフ)」が正しい読み方と述べている<ref>http://bits.blogs.nytimes.com/2013/05/21/an-honor-for-the-creator-of-the-gif/</ref>。 == 特徴 == GIFは256色以下の画像を扱うことができる[[可逆圧縮]]形式のファイルフォーマットである。圧縮画像ファイルフォーマットでは歴史の長いもののひとつで、[[ウェブブラウザ|Webブラウザ]]では[[JPEG]]と並んで標準的にサポートされる。圧縮形式の特性上、同一色が連続する画像の圧縮率が高くなるため、イラストやボタン画像など、使用色数の少ない画像への使用に適している。 [[ファイル:FILE Rio de Janeiro 2018 - A Arte Eletrônica na Época Disruptiva, Festival Internacional de Linguagem Eletrônica.gif|サムネイル|276x276ピクセル|Animated gif]] GIF規格には[[1987年]][[6月15日]]に公開された'''GIF87a'''と[[1990年]][[7月30日]]に公開された'''GIF89a'''の2種類があり、GIF89aでは、透過GIFと[[GIFアニメーション]]がサポートされた。現在使われている規格はGIF89aである。GIFフォーマットの[[著作権]]はCompuServeが所有するが、その利用はライセンスフリーであったため、[[日本]]以外での[[パソコン通信]]をはじめとする画像交換の標準フォーマットとして使われていた(日本ではパソコン通信時代は[[MAGフォーマット|MAG]]や[[Pi (画像圧縮)|Pi]]が主流だった)。ただし、圧縮技術として[[Lempel–Ziv–Welch|LZW]]を使用しているため、後述する特許権の問題が発生した。 GIF画像ファイルにはGIF画像識別文字列が埋め込まれており、画像ファイルの最初の6文字は必ず「GIF87a」もしくは「GIF89a」で始まっている。 また、GIFフォーマットは以下の画像をサポートする。 * 2色モノクロから16777216色 (= 2<sup>24</sup>) 中256色 (= 2<sup>8</sup>) までの色サポート * 1x1 から 65535x65535 (= (2<sup>16</sup> &minus; 1)<sup>2</sup>) までの画像サイズのサポート * 1つのファイルの中に複数の画像が格納可能 GIFには以下のような特徴的な拡張が行われており、かつWebブラウザでの表示サポートも比較的良好であることから、これらの機能を利用するためにGIF形式が選択されることも多い。 * 透過GIF - 特定色を透明化し、画像の背景を透過表示する。 * [[GIFアニメーション]] - 複数画像を1つのファイルに収録してアニメーション表示する。 * [[インターレース#静止画のインターレース|インターレースGIF]] - ファイル読み込みの進捗に合わせて段階的に画像を表示する。 なお、ほとんど用いられることはないが、[[非可逆圧縮]]もサポートしている。 また、Webサイトを作成する際、「1x1ピクセルの透過GIF」を利用したデザイン調整をおこなうことがあり、そのような画像は{{仮リンク|スペーサーGIF|en|Spacer GIF}}と呼ばれる。 == 特許問題とその顛末 == GIFは、データ圧縮アルゴリズムとして、[[1984年]]に発表された[[Lempel–Ziv–Welch|LZW]]を使用しているが、このアルゴリズムについては米[[ユニシス]]が特許権を取得していた。この点に関し、ユニシスは当初はGIFにおけるLZWアルゴリズムの利用について利用料を請求しない方針を採っていたが、GIFフォーマットの利用が広まると、GIFにおけるLZWの利用について利用料を請求する方針に転換した。当初は企業のみを対象としていたが、フリーソフトウェアを開発する個人にまで利用料を請求するに至った<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0811/16/news003.html |title=LZWに震え上がった10年前の人たち |publisher =[[ITmedia]] |work=ITmedia エンタープライズ |date=2008-11-16 |accessdate=2022-11-01}}</ref>。 この事により、GIF形式をサポートする画像編集ソフトウェアの制作者のみならず、そのソフトウェアを利用してGIF画像を制作した一般の利用者に対しても特許使用料が賦課される懸念が生じたため、GIF形式の特徴を備えたフリーな代替物として[[Portable Network Graphics|PNG]]が開発された。 米国内では[[2003年]][[6月20日]]にLZWの特許が失効し、日本国内でも[[2004年]]6月20日に特許が失効した。現在ではGIFは自由に使うことのできるフォーマットであると考えられている。そのため、GIFの利用者は再び増えており、一時的に公開が停止されていたGIFを生成・表示するソフトウェアも再公開されるようになっている。 しかし、特に[[2000年代]]以降は[[インターネット]]の[[ブロードバンドインターネット接続|回線速度]]や端末である[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の表現能力の飛躍的な向上により、フルカラー対応の圧縮形式(JPEGやPNGなど)の需要が高まり、256色までしか対応できないGIFの使用頻度は減少することとなった。 == アニメーション画像としての「GIF」 == {{See also|GIFアニメーション}} 前述の理由から静止画像としての需要は減少した一方で、簡易的なアニメーション画像形式としてのGIFは代替となるファイル形式が[[Multiple-image Network Graphics|MNG]]、[[Animated Portable Network Graphics|APNG]]など複数乱立し[[規格争い]]が起こったこと、それに伴い[[ウェブブラウザ]]でのサポートが遅れた<ref>主なウェブブラウザ全てがGIFに代わる次世代の共通のアニメーション画像形式をサポートするのは[[2020年]]の[[Microsoft Edge]]によるAPNG対応を待たなければならなかった。</ref>ことなどから、GIFアニメーションが引き続き使用された。例として、[[バナー]]と呼ばれる広告表示用の画像は、広告媒体の入稿規定により、ファイル容量の上限と共にファイル形式をGIFで指定するものも多い。 [[2010年代]]以降は[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)]]などにおいて手軽な[[画像リプ|画像リプライ]]の投稿手段として積極的に用いられており、SNSを中心に単に「GIF」と言えばGIFアニメーションを指す用法が広まるなど<ref>{{cite web |url=https://help.twitter.com/en/using-twitter/tweeting-gifs-and-pictures |title=How to post photos or GIFs on Twitter |publisher=X Corp. |access-date=2023-09-10}}</ref><ref>{{cite web |url=https://help.tumblr.com/hc/en-us/articles/231455068-Adding-Creating-GIFs |title=Adding & Creating GIFs |publisher=Tumblr |access-date=2023-09-10}}</ref><ref>{{cite web |url=https://support.giphy.com/hc/en-us/articles/360019674452-How-To-Make-A-GIF |title=How To Make A GIF |publisher=GIPHY |access-date=2023-09-10}}</ref>、[[2020年代]]現在では「GIF」という言葉がアニメーション画像の代名詞、あるいは機能の名称として定着している。 == 注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[GNU plotutils]] - LZW の代わりに[[連長圧縮|ランレングス圧縮]]を使う、疑似的なGIF形式を採用している。 * [[フロイド-スタインバーグ・ディザリング]] - 256色に減色する際によく使われるアルゴリズム。 * [[GIFの発音]] - GIF をどう発音するかについての論争。 == 外部リンク == * [http://www.w3.org/Graphics/GIF/spec-gif89a.txt GIF89a仕様書] {{en icon}}([[World Wide Web Consortium|W3C]]Webサイト内) * [https://www.w3.org/Graphics/GIF/spec-gif87.txt GIF87a仕様書] {{en icon}}([[World Wide Web Consortium|W3C]]Webサイト内) {{圧縮フォーマット}} [[Category:ラスターグラフィックス・ファイルフォーマット]] [[Category:オープンフォーマット]]
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バス (交通機関)
バス(Bus)は、大量の旅客輸送を目的に設計された乗り物である。 多くの地域において、バスの運転士になるには通常の運転免許に加え、特別な運転免許が必要とされる。 バスの起源は17世紀にフランスのブレーズ・パスカルが考案した「5ソルの馬車」と呼ばれる乗合馬車である。乗合馬車は前部に馬を操縦するための運転席を、後部に人員を輸送するための客室を備えていた。比較的安価な運賃で利用でき、一定の経路を時刻表にしたがって運行するなど現代のバスと共通する特徴を持っていた。なお辻馬車がタクシーの起源である。 現代まで続くバスの起源であり、かつ「バス」の名の由来となったのは1826年にフランス・ナントで運行を開始した乗合馬車である。ナント郊外で公衆浴場を経営していた退役軍人スタニスラス・ボードリーは、ナント市の中心部と浴場の間で送迎用の馬車を運行していた。ボードリーは市民が彼の馬車を浴場へのアクセスとは無関係な移動の手段として利用していることに気づき、乗合馬車の事業化に専念することにした。 同様の交通機関はomnibusの名とともにパリ(1828年)、ロンドン(1829年)、ニューヨーク(同)など世界中に広まった。 1831年、イギリスの発明家ゴールズワージー・ガーニーがロケット号の発想に触発され、蒸気機関を搭載した蒸気バス(Steam bus)を何台か制作し、チェルトナムとグロスターの間を走らせた。しかしこれは乗合馬車業者の反発にあってすぐに撤退。同年、ウォルター・ハンコックがロンドン市内でこの蒸気バスによる乗合バスの運行を開始し、その後5年間に亘って営業していたとされる。 1882年にはヴェルナー・フォン・ジーメンスが架線からの電気を動力とするエレクトロモトを試験運行した。その後各国で電気トロリーバスが用いられた。 1895年には世界初の内燃機関バス又はエンジン・バス(英語版)が用いられた。バスの車両は馬車によるものが19世紀末頃まで一般的であったが、自動車が発明されてからは専ら自動車が用いられることが多くなり、20世紀に入ってからは世界的に自動車によるバスが一般的となった。同一のデザインが世界中に現れ、バス製造は次第にグローバル化されている。 21世紀初頭には、圧縮天然ガス(Compressed natural gas)又はバイオディーゼルと同様、ハイブリッド・電気バス、燃料電池バス、再び電気バスへの関心が高まっている。 2010年頃から自動運転車の走行実験が行われている。2030年までには自動運転バスや自動運転シャトルの実用化を目指している。 「バス」の語源は、ラテン語で、「すべての人のために」という意味のomnibus(オムニブス)から来ている。スタニスラス・ボードリーが乗合馬車事業を始めたころ、ナント中心部のコメルス広場にはオムネ (OMNES) という帽子屋があり、「OMNES Omnibus」という看板をかかげていた。この看板が馬車乗り場の目印ともなったことから、馬車の方もオムニビュスと呼ばれるようになり、みんなのための車というvoiture omnibus という語が生まれた。ただしこの由来に関しては異説もある。乗合馬車#「オムニバス」の語源を参照。後にomnibusが英語読みで短縮されて「バス」となった。 本項では主に自動車によるバスの車両について解説を行うが、一概に自動車と言っても幾つかの分類がある。主な分類としてはエンジンの配置によるものや、内装、とりわけ床の構造によるもの、使用する動力によるものが挙げられる。 最も一般的なバスは1階建て非連節バスであり、より大規模な積載人数の2階建てバスおよび連節バス、より小規模な積載人数の中型バスおよびマイクロバス、長距離サービスにはコーチが用いられる。 動力源は内燃機関や電力が主流である。多くは内燃機関を用い、軽油ないしはガソリンなど石油精製物を使用する場合が多い。通常は軽油を燃料としたディーゼルエンジンが使われる。また日本の場合バス車両はどうしても出荷台数が少なく、専用に投資を行った際に採算を取ることが難しいものであり、従って自動車メーカーはエンジンやトランスミッションについてはできるだけ、より出荷台数の多いトラックとの部品の共用をはかっている。 大気汚染を防ぐために、天然ガス (CNG, LNG) やエタノールなどの代替燃料を使用することが少なくない。その場合タンクを天井に設置する必要性から、強度や重心の問題から難しかったが、新しい構材の使用や天然ガス・エタノール供給施設(スタンド)の増加などにより問題が解決され、徐々に普及が広まっている。 日本では、石油燃料が統制された第二次世界大戦期および戦後の混乱期に木炭を利用した木炭バス(薪バス)や蓄電池を動力源とした電気バスなどの例があるが、のちに石油燃料の供給が安定化したため廃れていった。大気汚染対策等の観点から、後に蓄電池を動力源としたバスが再び試用される。バスの黎明期には蒸気機関を動力として使用する蒸気バスも使用されたが、徐々に出力重量比の優れる内燃機関の性能、信頼性が向上したことで20世紀初頭に廃れた。 2009年、東京都市大学が水素燃料エンジンを搭載したバスの開発に成功した。日本自動車研究所の技術審査を通過して、国土交通省からナンバープレートを取得し、水素エンジン搭載バスとしては日本初となる公道での走行が可能となった。現在は、同大学のキャンパス間を移動するシャトルバスとして使用されている。 道路上に張られた架線から取り入れる電気を動力とし、電動機で走行するバスはトロリーバスと呼ばれる。なお、日本の法令ではトロリーバスは無軌道電車と呼ばれ、路面電車と同様に鉄道として扱われる。現在、日本国内にあるトロリーバスは専用道を利用するもののみであり、一般公道を走行するものは存在しない。 馬力は300から500馬力程度(超大型のネオプラン・メガライナーでも530馬力)で重量では遙かに軽い高級乗用車より同じか少し上といったところであるが、トルクは低速回転でも十分出るようになっている(もっとも、「馬力は低いが低速トルクは太い」という傾向は乗用車も含めディーゼル車の常である)。 エンジンの位置は、大きく分けて車両前部にあるもの、車両中央の床下にあるもの、車両後部にあるものの3種類に分類できる。 エンジンの位置は、自動車によるバスが登場してからかなりの長い間は全て車両前部にあった。これは乗合馬車の、前部に馬、後部に客室という構造に由来し、ボンネットバスとしてバスの主流であった。ボンネットバスは、運転席より前のフロントの部にエンジンを設けており、乗用車のようにボンネットにエンジンが格納されている。ボンネットを開けることでエンジンを管理できるため、保守や点検が容易であり扱いやすいだけでなく、エンジンの駆動音が客室に響きにくいため静音性が高い。しかしボンネットが前面にあることで、その部分に旅客が積載できず、多くの人員を輸送することを考えると空間的に無駄が生じていた。 バスが交通機関としての地位を獲得した頃、一部のバス路線では大量の需要が生じ、輸送力が限界となっていた。それだけでなく道路でも渋滞が起こるなど事情が悪化していたため、一台のバスでより多くの人員を輸送することが求められた。そのため前面に大きく場所を取っていたエンジンや、各駆動機関の位置を見直し、旅客空間を拡大する試みが行われた。 キャブオーバーバスはその結果開発されたバスの種類であり、乗車定員を増加させるために、ボンネットの横に運転席を設け、その後ろの車体全てを客室化したものである。これによって空間が拡大し、従来より多くの旅客を輸送できることとなった。しかしエンジンはカバーをつけて覆っただけのものであったため、客室への騒音やエンジンの放熱の面では不利であった。 そこでセンタアンダフロアエンジンバスと呼ばれる種類のバスが開発され、車体中央床下に水平式のエンジンを搭載した(この配置はミッドシップレイアウトと呼ばれる)。この種類のバスでは完全にボンネットに相当する突起が無くなったため、バスの寸法の大部分を客席にすることができた。しかし車体中央にエンジンがあるために、メンテナンス上の問題やシャシーの強度に関してやや劣る面があり、また中央部に扉を配置しにくい欠点もあった。 リアエンジンバスはエンジンを最後部に設けたものであるが、エンジンの配置の面から見ると最も登場が遅く、1950年代になってから開発された。これはリアエンジンリアドライブ (RR) 駆動を採用しており、フレームレス構造の普及に合わせて普及した。 路線バス用としては、1960年代以降水平式エンジンを採用したリアアンダフロアエンジンバスが登場する。この方式はエンジン直上まで座席を設けることができるため、室内空間の拡大につながり、その後の主流となる。しかし後述する低床化のため、床下にエンジンを設けることが出来なくなり、エンジンの設置方法に様々な工夫がされるようになる。 なお通常の自動車で一般的なフロントエンジン・フロントドライブ、いわゆるFFについては、これを採用すると運転席周りが狭くなるなどするほか、前輪への加重が過大となり、走行性能に悪影響を及ぼすおそれがある。 1930年代まではフレーム上に車体を造る方式であったが、1950年代以降、車両の大型化により、フレームを廃して車両外板と骨格をリベットで固定し外板にも強度を負担させるモノコック構造が主流となった。この技術は航空機製造技術を応用できるため、第二次世界大戦期の航空機製造技術の向上と相まって発展していった。日本では第二次世界大戦の終戦後に航空機の開発・生産が禁止されたことで航空機技術を取り入れたバス製造技術が発展した。 その後1970年代後半からは車体骨格と外板を単に溶接のみで張り合わせ、骨格だけに強度を負担させるスケルトン構造(別名バードケージ)が採用された。スケルトン構造はモノコック構造に比べて軽量であり、騒音や振動が少なく、また外板が強度を負担しないため車体外側に荷物入れや乗務員仮眠室などの大きな開口部を設けることができ、リベットがないため洗練されたスタイルの車体になるなどの数多くの利点があることから、2008年現在ではこのスケルトン構造が主流になっている。 その後バスを2台分繋げてしまう連節バスも製造された。2007年に上海で北京オリンピックのために製造されたBRTバスは3台分繋げたもので全長25mにも及び、収容可能人数は300にまで達した。 バスの車両は室内空間が大きいことから、広い空間を必要とした目的の車両に改造されるベースとなることも多い。移動献血車、移動図書館などが挙げられるが、これらは時にトラックなどをベースに改造されることもある。詳細は各車両の記事を参照して欲しい。 用途により様々であるが、通常、中央の通路を挟み、その両側に一人掛けまたは2人掛けの前向き座席が配置される。車両の構造などによっては、窓を背にする横向き座席や、進行方向に向かって後ろ向きの座席が設置されている車両もある。また、居住性の改善の為に、通路を2列として、独立した3列の前向き座席の配置例も見られる。 なお、中国など国土面積が広く、なおかつ航空機利用が一般に浸透していない国では、2 - 3段式の寝台を進行方向と平行に設置した寝台バスが用いられており、全行程で3 - 4日を要する長距離輸送に用いられている。日本の夜行高速バスでもフルリクライニングシートやスリーピングシートと呼ばれる睡眠を前提とした設計の座席の採用例はあるが、座席が完全に平坦になるわけではない。 座席収容数を大幅に増加させるため、二階建てのバスも存在する。 もともと路面から床高さは900mm程度が標準で、ドアステップは2 - 3段のものが多かった。しかし、乗合用途では乗降の改善の為に、更に床の高さを下げる努力が成された。先ずはサスペンションの高さを下げることと、低偏平率タイヤを採用することで2段ステップでの低床化が進む。これは最終的に1段ステップ、床高さ500mm前後のワンステップバスに改良された。さらに、エンジンおよび動力伝達機構の工夫でステップなし、床高さ300mm前後のノンステップバスが実現する。なお日本においては2000年に交通バリアフリー法が施行され、ノンステップバスの導入が進んでいる。また、運転台周辺は前方視界やサバイバルゾーンの確保のため、床面の嵩上げが施されていることが多い。 一方、貸切用あるいは長距離路線用の車両は、乗降性を気にする必要性が薄い。このため、逆に、客席床をかさ上げすることにより、視界をよくしたハイデッカー車が多数製造された。ハイデッカーよりさらに床をかさ上げしたスーパーハイデッカーも製造されている。 また、定員を増やしたり、高所からの遊覧を楽しんだりすることを目的とする2階建て構造とした例がある。 日本において、バスは乗合バス・貸切バス・特定バス・自家用バスの4種類に大別される。日本以外でも分類は異なる場合もあるものの用途は概ね同一である。 乗合バス(路線バス)や高速バスは、不特定多数の旅客から運賃を収受して運行する。設定路線や運行時刻を予め公開した時刻表に従って運行されるがことが多いが、小型のバス車両はより柔軟なデマンドバスとして用いられ得る。 定期バス輸送(英語版)は、多くの利用者が効率的に移動できるよう設計され、複数のドアを備えていることが多い。高速バスは、高速道路を走行して都市間を結ぶ。バス・ラピッド・トランジットは、Wright StreetCar(英語版)やIrisbusのCivisのように、連節バスや路面電車型のバス車両を用いることが多い。 貸切バスは、特定の組織・団体のみで用いるために貸し切られるバス。顧客との契約に応じて運行日程やコースを設定し、料金を収受して運行する。 特定バスは、主に特定の組織の従業員や学生等の送迎を担うバス。スクールバスやシャトルバス、福祉輸送バス等がこれに該当する。ただし貸切バスによって送迎バスの運行を行うことも可能である。 自家用バスの使用例としては、空港内での乗客や従業員の輸送にランプバスなどの専用バスが使用される。警察や軍隊は乗員の護送が必要な場合に装甲バスを用いる。献血車としてバス型の車両が用いられる場合もある。 宿泊施設や娯楽施設、教育機関、空港、工場のような各種施設では、従業員や利用者の送迎のため、自家用バス車両を保有することも多い。 事例としては少ないが、バスファンやレジャー目的などにより、個人でバスを購入し保有しているケースも存在する。 バスは、広告や宣伝、政治運動(Political campaign)、公共情報キャンペーン、パブリック・リレーションズを目的としても用いられる。バニラバスのように広報宣伝専用として使われるものと、他の目的で使うバスをラッピング車両として使う場合がある。 非連節バスは連節バスではないバスを指す。その中でも1階建てバスが最も一般的なバスである。 トロリーバスとは道路上空に張られた架線から取った電気を動力として走るバス。モータリゼーションによって廃れていったが、路面電車や地下鉄よりも建設費が安く、有害な排気ガスを排出しないので研究が続けられている。 蓄電池を搭載したバスで第二次世界大戦後の燃料の不足した時期やオイルショック後に一時期使用されたが、性能が低いのでその後廃れた。しかし、近年、リチウムイオン電池の性能向上により、有害な排気ガスを排出しないなどの利点により再び導入が増えつつある。 ハイブリッドバスはハイブリッドカーの一種で燃費の向上と排気ガスの有害物質の排出の削減を目的として1990年代に蓄圧式ハイブリッドと電気式ハイブリッドがそれぞれ開発されたが、蓄圧式は整備が煩雑で低床化に適さない事から普及せず、現在では電気式のみが普及する。電気式ハイブリッドにはシリーズ式のパラレル式の2系統があり、シリーズ式では発電機の駆動用にエンジンを使用するが、パラレル式ではエンジンで車輪を駆動して加速時に補助的に電動機を使用する。 1920年代から1940年代にかけて石油が逼迫した時期に使用された。 電気式ハイブリッドバスまたは電気バスの一種で発電のために燃料電池を備える。 ジャイロバスはフライホイールを使用してエネルギーを蓄える電気バス。 蒸気バスは蒸気自動車の一種で蒸気機関を動力として使用する。黎明期に使用されたが、徐々に出力重量比の優れる内燃機関の性能、信頼性が向上したことで20世紀初頭に廃れた。 連節バスは輸送量が大きいので使用される。道路交通法により、運行路線が限られるが、一部の路線で普及しつつある。
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"用途により様々であるが、通常、中央の通路を挟み、その両側に一人掛けまたは2人掛けの前向き座席が配置される。車両の構造などによっては、窓を背にする横向き座席や、進行方向に向かって後ろ向きの座席が設置されている車両もある。また、居住性の改善の為に、通路を2列として、独立した3列の前向き座席の配置例も見られる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、中国など国土面積が広く、なおかつ航空機利用が一般に浸透していない国では、2 - 3段式の寝台を進行方向と平行に設置した寝台バスが用いられており、全行程で3 - 4日を要する長距離輸送に用いられている。日本の夜行高速バスでもフルリクライニングシートやスリーピングシートと呼ばれる睡眠を前提とした設計の座席の採用例はあるが、座席が完全に平坦になるわけではない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "座席収容数を大幅に増加させるため、二階建てのバスも存在する。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "もともと路面から床高さは900mm程度が標準で、ドアステップは2 - 3段のものが多かった。しかし、乗合用途では乗降の改善の為に、更に床の高さを下げる努力が成された。先ずはサスペンションの高さを下げることと、低偏平率タイヤを採用することで2段ステップでの低床化が進む。これは最終的に1段ステップ、床高さ500mm前後のワンステップバスに改良された。さらに、エンジンおよび動力伝達機構の工夫でステップなし、床高さ300mm前後のノンステップバスが実現する。なお日本においては2000年に交通バリアフリー法が施行され、ノンステップバスの導入が進んでいる。また、運転台周辺は前方視界やサバイバルゾーンの確保のため、床面の嵩上げが施されていることが多い。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": 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"paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "自家用バスの使用例としては、空港内での乗客や従業員の輸送にランプバスなどの専用バスが使用される。警察や軍隊は乗員の護送が必要な場合に装甲バスを用いる。献血車としてバス型の車両が用いられる場合もある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "宿泊施設や娯楽施設、教育機関、空港、工場のような各種施設では、従業員や利用者の送迎のため、自家用バス車両を保有することも多い。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "事例としては少ないが、バスファンやレジャー目的などにより、個人でバスを購入し保有しているケースも存在する。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "バスは、広告や宣伝、政治運動(Political campaign)、公共情報キャンペーン、パブリック・リレーションズを目的としても用いられる。バニラバスのように広報宣伝専用として使われるものと、他の目的で使うバスをラッピング車両として使う場合がある。", "title": "用途" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "非連節バスは連節バスではないバスを指す。その中でも1階建てバスが最も一般的なバスである。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "トロリーバスとは道路上空に張られた架線から取った電気を動力として走るバス。モータリゼーションによって廃れていったが、路面電車や地下鉄よりも建設費が安く、有害な排気ガスを排出しないので研究が続けられている。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "蓄電池を搭載したバスで第二次世界大戦後の燃料の不足した時期やオイルショック後に一時期使用されたが、性能が低いのでその後廃れた。しかし、近年、リチウムイオン電池の性能向上により、有害な排気ガスを排出しないなどの利点により再び導入が増えつつある。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ハイブリッドバスはハイブリッドカーの一種で燃費の向上と排気ガスの有害物質の排出の削減を目的として1990年代に蓄圧式ハイブリッドと電気式ハイブリッドがそれぞれ開発されたが、蓄圧式は整備が煩雑で低床化に適さない事から普及せず、現在では電気式のみが普及する。電気式ハイブリッドにはシリーズ式のパラレル式の2系統があり、シリーズ式では発電機の駆動用にエンジンを使用するが、パラレル式ではエンジンで車輪を駆動して加速時に補助的に電動機を使用する。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1920年代から1940年代にかけて石油が逼迫した時期に使用された。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "電気式ハイブリッドバスまたは電気バスの一種で発電のために燃料電池を備える。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ジャイロバスはフライホイールを使用してエネルギーを蓄える電気バス。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "蒸気バスは蒸気自動車の一種で蒸気機関を動力として使用する。黎明期に使用されたが、徐々に出力重量比の優れる内燃機関の性能、信頼性が向上したことで20世紀初頭に廃れた。", "title": "バスの種類" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "連節バスは輸送量が大きいので使用される。道路交通法により、運行路線が限られるが、一部の路線で普及しつつある。", "title": "バスの種類" } ]
バス(Bus)は、大量の旅客輸送を目的に設計された乗り物である。 多くの地域において、バスの運転士になるには通常の運転免許に加え、特別な運転免許が必要とされる。
{{複数の問題 |出典の明記=2023-04 |正確性=2023-04 |独自研究=2023-04 }} '''バス'''(Bus)は、大量の[[旅客輸送]]を目的に設計された[[乗り物]]である。 多くの地域において、[[運転士|バスの運転士]]になるには通常の[[運転免許]]に加え、特別な運転免許が必要とされる。 == 歴史 == [[ファイル:Horse Bus in Trafalgar Square.jpg|thumb|180px|[[ロンドン]]の[[乗合馬車]]]] [[ファイル:Elektromote1882.jpg|thumb|180px|right|1882年、ドイツの[[エレクトロモト]]]] [[ファイル:TMBT Trolley bus.JPG|サムネイル|180x180ピクセル|[[トロリーバス]]]] [[ファイル:Thinktogether eCOM-10.jpg|thumb|180px|実験運行中の[[自動運転車|自動運転バス]](2022年)]] バスの起源は[[17世紀]]に[[フランス]]の[[ブレーズ・パスカル]]が考案した「[[5ソルの馬車]]」と呼ばれる[[乗合馬車]]である。乗合馬車は前部に馬を操縦するための運転席を、後部に人員を輸送するための客室を備えていた。比較的安価な運賃で利用でき、一定の経路を時刻表にしたがって運行するなど現代のバスと共通する特徴を持っていた。なお[[辻馬車]]が[[タクシー]]の起源である。 現代まで続くバスの起源であり、かつ「バス」の名の由来となったのは[[1826年]]にフランス・[[ナント]]で運行を開始した乗合馬車である。ナント郊外で[[公衆浴場]]を経営していた退役軍人[[スタニスラス・ボードリー]]は、ナント市の中心部と浴場の間で送迎用の馬車を運行していた。ボードリーは市民が彼の馬車を浴場へのアクセスとは無関係な移動の手段として利用していることに気づき、乗合馬車の事業化に専念することにした。 同様の交通機関はomnibusの名とともに[[パリ]](1828年)、[[ロンドン]](1829年)、[[ニューヨーク]](同)など世界中に広まった。 1831年、イギリスの発明家[[ゴールズワージー・ガーニー]]が[[ロケット号]]の発想に触発され、[[蒸気機関]]を搭載した[[蒸気バス]]([[:en:Steam bus|Steam bus]])を何台か制作し、[[チェルトナム]]と[[グロスター]]の間を走らせた。しかしこれは乗合馬車業者の反発にあってすぐに撤退。同年、[[ウォルター・ハンコック]]が[[ロンドン]]市内でこの蒸気バスによる乗合バスの運行を開始し、その後5年間に亘って営業していたとされる<ref>ロジャー・ブリッジマン『1000の発明・発見図鑑』丸善株式会社 2003年11月1日 p.&nbsp;128.</ref>。 1882年には[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]が[[架線]]からの電気を動力とする[[エレクトロモト]]を試験運行した。その後各国で電気[[トロリーバス]]が用いられた。 1895年には世界初の[[内燃機関]]バス又は{{仮リンク|エンジン・バス|en|Motor bus}}が用いられた。バスの車両は[[馬車]]によるものが19世紀末頃まで一般的であったが、[[自動車]]が発明されてからは専ら自動車が用いられることが多くなり、20世紀に入ってからは世界的に自動車によるバスが一般的となった。同一のデザインが世界中に現れ、[[コーチビルダー|バス製造]]は次第に[[グローバリゼーション|グローバル化]]されている。 21世紀初頭には、圧縮天然ガス([[:en:Compressed natural gas|Compressed natural gas]])又は[[バイオディーゼル]]と同様、[[ハイブリッドバス|ハイブリッド・電気バス]]、{{仮リンク|燃料電池バス|en|Fuel cell bus}}、再び[[電気バス]]への関心が高まっている。 2010年頃から[[自動運転車]]の走行実験が行われている。2030年までには自動運転バスや自動運転シャトルの実用化を目指している<ref>{{Cite web|和書|title=2030年の自動運転(2022年最新版)移動サービスはじめ自家用レベル4も|url=https://jidounten-lab.com/u_35404|accessdate=2022-10-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=日本モビリティ株式会社(2021年度事例)|url=https://www.nichimobi.com/お客様紹介 |accessdate=2022-10-03}}</ref>。 {{-}} == 語源 == [[ファイル:Toei bus K-D301.jpg|サムネイル|182x182ピクセル|[[日本]]のバス]] 「バス」の[[語源]]は、ラテン語で、「すべての人のために」という意味のomnibus([[オムニバス|オムニブス]])から来ている{{sfn|浅井建爾|2001|p=246}}。[[スタニスラス・ボードリー]]が乗合馬車事業を始めたころ、ナント中心部のコメルス広場にはオムネ (OMNES) という帽子屋があり、「OMNES Omnibus」という看板をかかげていた。この看板が馬車乗り場の目印ともなったことから、馬車の方もオムニビュスと呼ばれるようになり、みんなのための車というvoiture omnibus という語が生まれた。ただしこの由来に関しては異説もある。[[乗合馬車#「オムニバス」の語源]]を参照。後にomnibusが英語読みで短縮されて「バス」となった。 == 車両 == {{main|en:Bus manufacturing}} 本項では主に[[自動車]]によるバスの車両について解説を行うが、一概に自動車と言っても幾つかの分類がある。主な分類としては[[機関 (機械)|エンジン]]の配置によるものや、[[内装]]、とりわけ[[床]]の構造によるもの、使用する[[動力]]によるものが挙げられる。 最も一般的なバスは[[非連節バス#1階建てバス|1階建て非連節バス]]であり、より大規模な積載人数の[[2階建てバス]]および[[連節バス]]、より小規模な積載人数の[[ミディバス|中型バス]]および[[マイクロバス]]、長距離サービスには[[コーチ (バス)|コーチ]]が用いられる。 === 動力源 === [[ファイル:Sydney Buses (mo 1298) Custom Coaches 'Citaro' bodied Mercedes-Benz O405NH CNG on Loftus Street in Circular Quay (cropped).jpg|thumb|right|180px|[[オーストラリア]]、[[シドニー]]のバス。]][[ファイル:Electrically-powered bus from Osaka Blue Bus Scan10005.JPG|180px|thumb|[[大阪市営バス|大阪乗合自動車]]の[[電気バス]](1937年)]] [[ファイル:Charcoal-fired bus in Japan.JPG|thumb|180px|[[木炭バス]](1941年)]] 動力源は[[内燃機関]]や電力が主流である。多くは内燃機関を用い、[[軽油]]ないしは[[ガソリン]]など[[石油]]精製物を使用する場合が多い。通常は軽油を燃料とした[[ディーゼルエンジン]]が使われる。また日本の場合バス車両はどうしても出荷台数が少なく、専用に投資を行った際に採算を取ることが難しいものであり、従って自動車メーカーはエンジンやトランスミッションについてはできるだけ、より出荷台数の多い[[貨物自動車|トラック]]との部品の共用をはかっている<ref>広田 2008, pp.&nbsp;168–172.</ref>。 大気汚染を防ぐために、[[天然ガス]] (CNG, LNG) や[[エタノール]]などの代替燃料を使用することが少なくない。その場合タンクを天井に設置する必要性から、強度や重心の問題から難しかったが、新しい構材の使用や天然ガス・エタノール供給施設(スタンド)の増加などにより問題が解決され、徐々に普及が広まっている。 日本では、石油燃料が統制された[[第二次世界大戦]]期および戦後の混乱期に[[木炭]]を利用した[[木炭自動車|木炭バス]](薪バス)や[[蓄電池]]を動力源とした[[電気バス]]などの例があるが、のちに石油燃料の供給が安定化したため廃れていった。大気汚染対策等の観点から、後に蓄電池を動力源としたバスが再び試用される。バスの[[黎明期]]には[[蒸気機関]]を動力として使用する[[蒸気バス]]も使用されたが、徐々に[[出力重量比]]の優れる[[内燃機関]]の性能、信頼性が向上したことで20世紀初頭に廃れた。 [[2009年]]、[[東京都市大学]]が[[水素燃料エンジン]]を搭載したバスの開発に成功した。[[日本自動車研究所]]の技術審査を通過して、[[国土交通省]]から[[ナンバープレート]]を取得し、水素エンジン搭載バスとしては日本初となる[[公道]]での走行が可能となった<ref>[http://www.tcu.ac.jp/topics/details/20090407003.html 水素燃料エンジンバスの公道走行を実現]</ref><ref>[http://www.youtube.com/watch?v=96UPUk-HHVU 東京都市大学水素燃料エンジンバスの開発に成功]</ref>。現在は、同大学のキャンパス間を移動するシャトルバスとして使用されている。 道路上に張られた架線から取り入れる電気を動力とし、電動機で走行するバスは[[トロリーバス]]と呼ばれる{{sfn|浅井建爾|2001|p=246}}。なお、日本の法令ではトロリーバスは無軌道電車と呼ばれ{{sfn|浅井建爾|2001|p=246}}、[[路面電車]]と同様に[[鉄道]]として扱われる。現在、日本国内にあるトロリーバスは専用道を利用するもののみであり、一般公道を走行するものは存在しない。 馬力は300から500馬力程度(超大型のネオプラン・メガライナーでも530馬力)で重量では遙かに軽い高級乗用車より同じか少し上といったところであるが、トルクは低速回転でも十分出るようになっている(もっとも、「馬力は低いが低速トルクは太い」という傾向は乗用車も含めディーゼル車の常である)。 === エンジンの配置 === エンジンの位置は、大きく分けて車両前部にあるもの、車両中央の床下にあるもの、車両後部にあるものの3種類に分類できる。 エンジンの位置は、自動車によるバスが登場してからかなりの長い間は全て車両前部にあった。これは乗合馬車の、前部に馬、後部に客室という構造に由来し、[[ボンネットバス]]としてバスの主流であった。ボンネットバスは、運転席より前の[[フロント]]の部にエンジンを設けており、[[乗用車]]のように[[ボンネット (自動車)|ボンネット]]にエンジンが格納されている。ボンネットを開けることでエンジンを管理できるため、保守や点検が容易であり扱いやすいだけでなく、エンジンの駆動音が客室に響きにくいため静音性が高い。しかしボンネットが前面にあることで、その部分に旅客が積載できず、多くの人員を輸送することを考えると空間的に無駄が生じていた。 バスが交通機関としての地位を獲得した頃、一部のバス路線では大量の需要が生じ、輸送力が限界となっていた。それだけでなく[[道路]]でも[[渋滞]]が起こるなど事情が悪化していたため、一台のバスでより多くの人員を輸送することが求められた。そのため前面に大きく場所を取っていたエンジンや、各駆動機関の位置を見直し、旅客空間を拡大する試みが行われた。 [[キャブオーバーバス]]はその結果開発されたバスの種類であり、乗車定員を増加させるために、ボンネットの横に運転席を設け、その後ろの車体全てを客室化したものである。これによって空間が拡大し、従来より多くの旅客を輸送できることとなった。しかしエンジンはカバーをつけて覆っただけのものであったため、客室への騒音やエンジンの放熱の面では不利であった。 そこでセンタアンダフロアエンジンバスと呼ばれる種類のバスが開発され、車体中央床下に水平式のエンジンを搭載した(この配置はミッドシップレイアウトと呼ばれる)。この種類のバスでは完全にボンネットに相当する突起が無くなったため、バスの寸法の大部分を客席にすることができた。しかし車体中央にエンジンがあるために、メンテナンス上の問題やシャシーの強度に関してやや劣る面があり、また中央部に扉を配置しにくい欠点もあった。 リアエンジンバスはエンジンを最後部に設けたものであるが、エンジンの配置の面から見ると最も登場が遅く、[[1950年代]]になってから開発された。これは[[後ろ置きエンジン・後輪駆動配置|リアエンジンリアドライブ (RR) 駆動]]を採用しており、フレームレス構造の普及に合わせて普及した。 路線バス用としては、1960年代以降水平式エンジンを採用したリアアンダフロアエンジンバスが登場する。この方式はエンジン直上まで座席を設けることができるため、室内空間の拡大につながり、その後の主流となる。しかし後述する低床化のため、床下にエンジンを設けることが出来なくなり、エンジンの設置方法に様々な工夫がされるようになる。 なお通常の自動車で一般的な[[フロントエンジン・フロントドライブ]]、いわゆるFFについては、これを採用すると運転席周りが狭くなるなどするほか、前輪への加重が過大となり、走行性能に悪影響を及ぼすおそれがある<ref>広田 2008, pp.&nbsp;45–47.</ref>。 === 車体 === <!-- モノコック式とスケルトン式についての記述を行いたい +トラックの箱とは何が異なるのか--> ==== 車体構造 ==== 1930年代まではフレーム上に車体を造る方式であったが、1950年代以降、車両の大型化により、フレームを廃して車両外板と骨格を[[リベット]]で固定し外板にも強度を負担させる[[モノコック]]構造が主流となった。この技術は航空機製造技術を応用できるため、[[第二次世界大戦]]期の航空機製造技術の向上と相まって発展していった。日本では第二次世界大戦の終戦後に航空機の開発・生産が禁止されたことで航空機技術を取り入れたバス製造技術が発展した。 その後1970年代後半からは車体骨格と外板を単に[[溶接]]のみで張り合わせ、骨格だけに強度を負担させるスケルトン構造(別名バードケージ)が採用された。スケルトン構造はモノコック構造に比べて軽量であり、騒音や振動が少なく、また外板が強度を負担しないため車体外側に荷物入れや乗務員仮眠室などの大きな開口部を設けることができ、リベットがないため洗練されたスタイルの車体になるなどの数多くの利点があることから、2008年現在ではこのスケルトン構造が主流になっている。<ref>広田 2008, p.&nbsp;89 (おおよそこの段落全体の出典)</ref> その後バスを2台分繋げてしまう[[連節バス]]も製造された。2007年に上海で[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]のために製造された[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]バスは3台分繋げたもので全長25mにも及び、収容可能人数は300にまで達した<ref name="Jongo News">{{cite news |url=http://news.jongo.com/articles/07/0315/9180/OTE4MAmXAYhbF0.html |title=China's longest bus unveiled in Shanghai |publisher=Jongo.com |date=15 March 2007 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110930181821/http://news.jongo.com/articles/07/0315/9180/OTE4MAmXAYhbF0.html |archivedate=2011年9月30日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。 ==== 特殊車両 ==== バスの車両は室内空間が大きいことから、広い空間を必要とした目的の車両に改造されるベースとなることも多い。[[献血|移動献血車]]、[[移動図書館]]などが挙げられるが、これらは時に[[貨物自動車|トラック]]などをベースに改造されることもある。詳細は各車両の記事を参照して欲しい。 ==== 座席配置 ==== 用途により様々であるが、通常、中央の通路を挟み、その両側に一人掛けまたは2人掛けの前向き座席が配置される。車両の構造などによっては、窓を背にする横向き座席や、進行方向に向かって後ろ向きの座席が設置されている車両もある。また、居住性の改善の為に、通路を2列として、独立した3列の前向き座席の配置例も見られる。 なお、[[中華人民共和国|中国]]など国土面積が広く、なおかつ航空機利用が一般に浸透していない国では、2 - 3段式の寝台を進行方向と平行に設置した[[寝台自動車|寝台バス]]が用いられており、全行程で3 - 4日を要する長距離輸送に用いられている。日本の夜行高速バスでもフル[[リクライニングシート]]やスリーピングシートと呼ばれる睡眠を前提とした設計の座席の採用例はあるが、座席が完全に平坦になるわけではない。 座席収容数を大幅に増加させるため、二階建てのバスも存在する。 ==== 床構造 ==== [[ファイル:JRバス関東「プレミアムドリーム」1625.jpg|サムネイル|[[2階建てバス]]]] もともと路面から床高さは900mm程度が標準で、ドアステップは2 - 3段のものが多かった。しかし、乗合用途では乗降の改善の為に、更に床の高さを下げる努力が成された。先ずはサスペンションの高さを下げることと、低偏平率タイヤを採用することで2段ステップでの低床化が進む。これは最終的に1段ステップ、床高さ500mm前後の[[ワンステップバス]]に改良された。さらに、エンジンおよび動力伝達機構の工夫でステップなし、床高さ300mm前後の[[ノンステップバス]]が実現する。なお日本においては2000年に[[高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律|交通バリアフリー法]]が施行され、ノンステップバスの導入が進んでいる。また、運転台周辺は前方視界や[[クラッシャブルゾーン|サバイバルゾーン]]の確保のため、床面の嵩上げが施されていることが多い。 一方、貸切用あるいは長距離路線用の車両は、乗降性を気にする必要性が薄い。このため、逆に、客席床をかさ上げすることにより、視界をよくした[[ハイデッカー]]車が多数製造された。ハイデッカーよりさらに床をかさ上げしたスーパーハイデッカーも製造されている。 また、定員を増やしたり、高所からの遊覧を楽しんだりすることを目的とする[[2階建車両|2階建て]]構造とした例がある。 == 用途 == 日本において、バスは[[乗合バス]]・[[貸切バス]]・[[特定バス]]・[[自家用バス]]の4種類に大別される。日本以外でも分類は異なる場合もあるものの用途は概ね同一である。 === 乗合バス === [[ファイル:Linha Verde Curitiba BRT 02 2013 Est Marechal Floriano 5978.JPG|thumb|[[バス・ラピッド・トランジット|BRT]]の例([[ブラジル]]・[[クリチバ]]の{{仮リンク|Rede Integrada de Transporte|en|Rede Integrada de Transporte}})]] {{See also|公共バス}} [[乗合バス]](路線バス)や[[高速バス]]は、不特定多数の旅客から[[運賃]]を収受して運行する。設定路線や運行時刻を予め公開した[[時刻表]]に従って運行されるがことが多いが、小型のバス車両はより柔軟な[[デマンド型交通|デマンドバス]]として用いられ得る。 {{仮リンク|定期バス輸送|en|Public transport bus service}}は、多くの利用者が効率的に移動できるよう設計され、複数のドアを備えていることが多い。[[高速バス]]は、[[高速道路]]を走行して都市間を結ぶ。[[バス・ラピッド・トランジット]]は、{{仮リンク|Wright StreetCar|en|Wright StreetCar}}や[[イリスバス|Irisbus]]のCivisのように、連節バスや路面電車型のバス車両を用いることが多い。 {{Clear}} === 貸切バス === [[ファイル:Abashiri kankō kōtsū Ki230B 367 & Abashiri bus Ki230A 375.jpg|thumb|[[貸切バス]]([[観光バス]])の例([[網走観光交通]]・[[網走バス]])]] {{See also|観光バス|ツアーバス}} [[貸切バス]]は、特定の組織・団体のみで用いるために貸し切られるバス。顧客との契約に応じて運行日程やコースを設定し、料金を収受して運行する。 {{Clear}} === 特定バス === [[ファイル:PDG-LV234N2 Kanachu A303 Taito.jpg|thumb|従業員送迎バスの例([[神奈川中央交通]]による[[タイトー]]の従業員送迎バス)]] [[ファイル:Laidlaw school bus.jpg|thumb|[[スクールバス]]の例]] {{Main|特定バス}} [[特定バス]]は、主に特定の組織の従業員や学生等の送迎を担うバス。[[スクールバス]]や[[シャトルバス]]、福祉輸送バス等がこれに該当する。ただし貸切バスによって[[送迎バス]]の運行を行うことも可能である。 {{Clear}} === 自家用バス === [[ファイル:Neoplan bus at Sheremetyevo International Airport pic4.JPG|thumb|空港で使用されている専用バスの例]] [[ファイル:Jochukeibi.jpg|thumb|[[常駐警備車]]]] [[ファイル:Kenketsu car.jpg|thumb|献血バスの例([[日本赤十字社]])]] [[自家用バス]]の使用例としては、[[空港]]内での乗客や従業員の輸送にランプバスなどの専用バスが使用される。警察や軍隊は乗員の護送が必要な場合に[[装甲バス]]を用いる。[[献血バス|献血車]]としてバス型の車両が用いられる場合もある。 宿泊施設や娯楽施設、教育機関、空港、工場のような各種施設では、従業員や利用者の送迎のため、自家用バス車両を保有することも多い。 事例としては少ないが、[[バスファン]]や[[レジャー]]目的などにより、個人でバスを購入し保有しているケースも存在する<ref>{{Cite web|和書|title=SNSで話題! 路線バスをセカンドカーに!? バスの個人所有は簡単に出来るのか|url=https://kuruma-news.jp/post/270446|website=くるまのニュース|accessdate=2022-01-12|date=2020-07-01}}</ref>。 {{Clear}} === 広報宣伝 === [[ファイル:Kozushima community bus 01.jpg|サムネイル|218x218ピクセル|ラッピングバス(神津島村営バス)]] バスは、[[広告]]や[[宣伝]]、政治運動([[:en:Political campaign|Political campaign]])、公共情報キャンペーン、[[パブリック・リレーションズ]]を目的としても用いられる。[[バニラバス]]のように広報宣伝専用として使われるものと、他の目的で使うバスを[[ラッピング車両]]として使う場合がある。 == バスの種類 == === 非連節バス === {{main|非連節バス}} [[非連節バス]]は[[連節バス]]ではないバスを指す。その中でも[[非連節バス#1階建てバス|1階建てバス]]が最も一般的なバスである。 === トロリーバス === {{main|トロリーバス}} [[トロリーバス]]とは道路上空に張られた架線から取った電気を動力として走るバス。[[モータリゼーション]]によって廃れていったが、[[路面電車]]や[[地下鉄]]よりも建設費が安く、有害な排気ガスを排出しないので研究が続けられている。 === 電気バス === {{main|電気バス}} [[蓄電池]]を搭載したバスで第二次世界大戦後の燃料の不足した時期やオイルショック後に一時期使用されたが、性能が低いのでその後廃れた。しかし、近年、[[リチウムイオン電池]]の性能向上により、有害な排気ガスを排出しないなどの利点により再び導入が増えつつある。 === ハイブリッドバス === {{main|ハイブリッドカー}} ハイブリッドバスは[[ハイブリッドカー]]の一種で燃費の向上と排気ガスの有害物質の排出の削減を目的として1990年代に蓄圧式ハイブリッドと電気式ハイブリッドがそれぞれ開発されたが、蓄圧式は整備が煩雑で低床化に適さない事から普及せず、現在では電気式のみが普及する。電気式ハイブリッドにはシリーズ式のパラレル式の2系統があり、シリーズ式では発電機の駆動用にエンジンを使用するが、パラレル式ではエンジンで車輪を駆動して加速時に補助的に電動機を使用する。 === 木炭バス === {{main|木炭自動車}} 1920年代から1940年代にかけて石油が逼迫した時期に使用された。 === 燃料電池バス === {{main|燃料電池バス}} 電気式ハイブリッドバスまたは電気バスの一種で発電のために[[燃料電池]]を備える。 === ジャイロバス === {{main|ジャイロバス}} [[ジャイロバス]]は[[フライホイール・バッテリー|フライホイール]]を使用してエネルギーを蓄える[[電気バス]]。 === 蒸気バス === {{main|蒸気バス}} [[蒸気バス]]は[[蒸気自動車]]の一種で[[蒸気機関]]を動力として使用する。黎明期に使用されたが、徐々に[[出力重量比]]の優れる[[内燃機関]]の性能、信頼性が向上したことで20世紀初頭に廃れた。 === 連節バス === {{main|連節バス}} [[連節バス]]は輸送量が大きいので使用される。道路交通法により、運行路線が限られるが、一部の路線で普及しつつある。 == その他の特殊なバス == * [[ガイドウェイバス]]:一般のバスの特徴に加え、[[専用軌道]]を案内装置の誘導で走る(ハンドル操作が不要)ことのできるもの。日本の法規上では、専用軌道走行時は[[鉄道車両]]として扱われる。ドイツの[[エッセン]]、オーストラリアの[[アデレード・オーバーン|アデレード]]等が有名である。日本では[[2001年]]に[[名古屋ガイドウェイバス]][[名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線|ガイドウェイバス志段味線]]([[ゆとりーとライン]])が実用路線として開業した。 * [[IMTS]]:路面に埋め込まれた[[磁石]]をガイドとして走るバス。無人で隊列走行し、マニュアル操作で一般道にも乗り入れ可能である。日本の法規では、[[軌道 (鉄道)|軌道]]に沿って走るため、専用軌道走行時は鉄道車両として扱われる。2005年に開催された[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]の会場内交通機関として使用された。 * [[デュアル・モード・ビークル]]:道路と鉄道の鉄軌道の両方を走行する機能を備えた車両。[[1963年]]に[[日本国有鉄道]]がアンヒビアンバス(アンフィビアンは英語で[[両生類]]の意)の名で試作したが、実用化はされなかった。[[2004年]]から[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)により実用化に向けて試験中。 * トラックバス:[[貨物自動車|トラック]]を改造し、荷台の代わりに客室を設けたもの。製造費が安いために、東南アジア諸国では小規模輸送の主力として使われ、[[アメリカ合衆国]]では主に[[スクールバス]]に使われている。日本では一般的には使われていないが、昔の[[ボンネットバス]]を模したものや[[在日米軍]]の基地内で使われていることがある。 * ([[ポストバス]]) :郵便配達も行うバス。主にヨーロッパで使われる。 * [[旅客用雪上車]] : 雪道を走行するバス ([[大型特殊自動車]][[第二種運転免許]]必要) * [[フランス]]の[[モン・サン=ミシェル]]では、旅客送迎用のバスを転回するスペースを確保することが困難なため、バスの両端2箇所に運転席が設けられた特別なバスが運用されている。運転手が反対側の運転席に移動することで、転回することなく反対方向に発進できる。 <ref>{{cite web|author = Caetano Bus|url = http://caetanobus.pt/en/buses/double-end-steering/|title = Double End Steering|date=|accessdate = 2017年5月27日}}</ref><ref>{{cite web|author = Midlands Business News|url = http://www.midlandsbusinessnews.co.uk/british-engineering-firm-helps-to-solve-french-tourist-problem/|title = British engineering firm helps to solve french tourist problem|date= 2012年10月10日|accessdate = 2017年5月27日}}</ref> == 世界のバス == {{See also|Category:各国のバス交通|en:List of buses}} === アジア === * [[日本のバス]] ** [[日本のバス車両]] * [[韓国のバス]] == 事故 == {{See|バス事故}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author= [[浅井建爾]] |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author = [[広田民郎]] | year = 2008 | title = バスのすべて | publisher = グランプリ出版 | isbn = 978-4-87687-301-2}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|バス}} {{ウィキプロジェクトリンク|バス}} {{Commons|Bus|バス}} {{multimedia|バス画像}} {{div col|20em}} * [[路線バス]] / [[高速バス]] * [[貸切バス]] / [[観光バス]] / [[特定バス]] * [[バス・ラピッド・トランジット]] * [[コミュニティバス]] / [[廃止代替バス]] * [[バスステーション]] / [[バスターミナル]] * [[自転車キャリア]](バイクラックを搭載したバス) * [[バスファン]] * [[ロードトレイン (遊具)]] * {{仮リンク|Cutaway bus|en|Cutaway bus}} * {{仮リンク|Dollar van|en|Dollar van}} * {{仮リンク|Intercity bus driver|en|Intercity bus driver}} * {{仮リンク|架空のバス一覧|en|List of fictional buses}} * {{仮リンク|動力バス|en|Motor bus}} * {{仮リンク|香港小型バス|en|Public light bus}} {{div col end}} {{バス}} {{公共交通}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はす}} [[Category:バス|*]]
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唯一神教
唯一神教(ゆいいつしんきょう)
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唯一神教(ゆいいつしんきょう) "monotheism"の訳語。⇛一神教 絶対的一神教 "Unitarianism"の訳語。⇛ユニテリアン主義
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東京メトロ東西線
東西線(とうざいせん)は、東京都中野区の中野駅から千葉県船橋市の西船橋駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は5号線東西線。 路線名の由来は東京を東西に横断することから。車体及び路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカイブルー」(#009bbf、水色)、路線記号はT。 名称の通り東京都心部を東西に貫く路線であり、当路線の開業当時に混雑が激しかった中央線快速と総武線のバイパス路線として開業した。その西端の中野から大手町や日本橋などの東京都心部を経由しながらさらに東方向へ進み、旧江戸川以東の浦安 - 西船橋間は千葉県内となる。東西線は、帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄〈東京メトロ〉)では初めての東京都外(そして東京23区以外)への路線となった。また、東京メトロで唯一の千葉県内に延伸された路線である。東京都外へは、後に東京メトロ有楽町線・副都心線も埼玉県内に路線が延びたが、有楽町線・副都心線唯一の都外・23区外の駅である埼玉県南端の和光市駅は東武鉄道東上線の管理駅であるため、都外・23区外に東京地下鉄管理駅を持つのは東西線が唯一である。 新型コロナウイルス流行以前の2019年度における最混雑区間(木場駅→門前仲町駅)の混雑率は199%と、地下鉄のみならず日本の鉄道路線の中で最も混雑している路線であった。2021年度における平均輸送人員は日本の地下鉄で唯一100万人を上回った。コロナ後は、沿線に日本IBM、野村総研、大和総研などの情報通信業の事業者もあり、在宅比率も高くなり、混雑率は改善されている。 全長は30.8 kmで都営地下鉄大江戸線、横浜市営地下鉄ブルーラインに次いで日本の地下鉄の中で3番目に長い。当路線東側区間の南砂町駅付近 - 西船橋駅間は約14 kmという地下鉄としては長大な地上区間となっている(詳細は後節参照)。この地上区間の一部の駅には待避設備が設けられ、一部区間では最高速度100 km/hで日本の地下鉄路線初の快速運転が行われている。 西側で東日本旅客鉄道(JR東日本)中央線(各駅停車)の中野 - 三鷹間、東側でJR東日本総武線(各駅停車)の西船橋 - 津田沼間及び東葉高速鉄道東葉高速線の西船橋 - 東葉勝田台間と直通運転を行っており、車両は3社とも20 m級車両10両編成で統一されている。なお、西船橋 - 津田沼間の直通運転は朝夕ラッシュ時のみに限定され、それ以外の区間は終日直通運転が行われている(詳細は「直通運転」の節を参照)。 東西線は東京メトロ副都心線以外の全ての東京の地下鉄路線との接続駅を持つ。副都心線開業前は、全ての地下鉄路線と接続できていた。副都心線とは高田馬場駅 - 早稲田駅間で交差し、近傍に副都心線の西早稲田駅があるが、乗換・接続駅には指定されていない。 東京の地下鉄で起点と終点である両端の駅が地上駅となっているのは当路線と日比谷線、千代田線のみである。 本路線の建設費用は総額1,136億5,000万円である(1971年7月時点)。内訳は土木関係費が735億5,275万円、電気関係費が70億5,630万3,000円、車両関係費が145億1,530万3,000円、その他が185億2,564万4,000円となっている。 建設史では、中野 - 東陽町間、東陽町 - 西船橋間に分けても記載されている。中野 - 東陽町間の建設費用の総額は820億円であり、内訳は土木関係費が527億6,967万5,000円、電気関係費が46億2,818万6,000円、車両関係費が91億8,062万9,000円、その他が154億2,151万円となっている。東陽町 - 西船橋の建設費用の総額は316億5,000万円で、内訳は土木関係費が207億8,307万5,000円、電気関係費が24億2,811万7,000円、車両関係費が53億3,467万4,000円、その他が31億413万4,000円となっている。 ほとんどの区間は複線構造の開削工法で構築している。ただし、早稲田駅付近は地上道路の幅が狭いことから、駅は上下2層構造となっている。 飯田橋駅の中央本線架道橋横断部、九段下 - 竹橋 - 大手町付近、茅場町 - 門前仲町間の隅田川横断部(永代橋下流)と大島川西支川の福島橋横断部、洲崎川直下に構築する南砂町付近は締切築島または道路覆工の下に構築したケーソン(潜函)を沈下させる、潜函工法を使用している。門前仲町駅終端 - 木場駅 - 東陽町駅始端までの1,770.06 mの区間は、軟弱地盤なことから、営団地下鉄では初めての全円断面の単線シールド工法を使用した。 東西線は茅場町 - 門前仲町間で隅田川をトンネルで横断するが(前述)、以東は海抜ゼロメートル地帯を通ることから、浸水(洪水)対策を施している。 南砂町付近 - 西船橋間の地上区間は、東西線の大きな特色をなしている。地上区間を持つ日本国内の地下鉄路線は他にも多数存在し、また近年の直通運転の拡大により地上区間の走行距離が地下区間よりも長くなる列車は珍しくなくなったが、自社線内だけで全線の半分弱を占める約14 kmという長距離の地上区間を持つ地下鉄路線は東西線のみである。東西線の建設当初、現在の地上区間周辺は田畑であり、地上に路線を建設することもできたが、将来の市街地化を予測して高架線構造の採用に至った。当時、周辺の私鉄では市街地における地上線と道路の平面交差(踏切)の高架化要望が多数あり、実現に難航していることを見れば、当然の流れであった。その後、元々田畑だった地上区間部分も人口流入により、現在のような住宅が密集する市街地となった。 東西線は元々中央線快速と総武線のバイパスとしての役割を担って建設された。東西線開業によって総武線沿線から都心への所要時間は大幅に短縮され、東西線沿線のみならず起点の西船橋以遠のJR線からの中・長距離通勤客の流入で大変混雑するようになっている。さらに近年の線内利用者の増加に対応するため、以下の変化がもたらされた(各々の詳細については次章以降で詳述している)。 そのほか、平均乗車距離の長さ、朝と昼の混雑率の差、定期券利用客率の高さのいずれもが、東京メトロの路線ではトップクラスにある。都心部を走る地下鉄でありながら、郊外へ延びる通勤路線としての側面もある。 快速運転を考慮して、地上区間の最小曲線半径は500 mとなっている。線形が良い地上区間は軌道改良も行われており、現在では60 kgレールが採用されている。これはJR線では新幹線や主要幹線クラスに採用されるレールであり(一般的には50 kgNレールが主流)、大量高密度輸送と高速運転を支える要となっている。 A線(西船橋方面行き)を基準とすると、南砂町を出た列車は35 ‰の勾配(連続573.5 m)を上って地上に出て、左にカーブしながら一気に高架へ駆け上がる。左右のマンションや工場などの建造物群を抜けると、荒川中川橋梁という長いトラス橋を渡る。なお、東京地下鉄で荒川を横断する路線は東西線と千代田線だけである。橋の右隣(下流側)には清砂大橋という歩道を備えた道路橋が架かる。橋を渡る最中、西船橋方面行き(A線)の列車の右手には葛西臨海公園の大観覧車を、中野方面行き(B線)の列車は東京スカイツリー、晴天時には富士山を見ることができる。首都高速中央環状線をくぐった後に橋を渡り終え、直線で進み西葛西となる。南砂町から西葛西までは東京地下鉄で最も駅間距離が長い区間 (2.7 km) である。 西葛西を出ると、途中に左カーブを挟みつつマンション群の中を直線で進み、変電所の脇を通ると地下鉄博物館最寄の葛西となる。葛西駅は中央2線を通過線とする東海道新幹線静岡駅や東北新幹線宇都宮駅のような構内を持ち、快速の通過待ちが行われている。葛西を出ると、徐々に一軒家が目立ち始める中を直線で進み、左カーブのあと旧江戸川を第一江戸川橋梁で越え、東京都から千葉県に入る。右手(下流側)には東京ディズニーリゾートを、左手(上流側)には浦安橋と妙見島を見ることができる。そのあと再び左にカーブし浦安に入る。 浦安を出ると再び左カーブがあり、そのあと妙典手前まで長い直線となる。この直線区間には途中南行徳と行徳があり、左カーブの後は2駅を見通すことができる。列車は一軒家とマンションが混在する中を直線で進み、妙典に至る。妙典は2面4線のホームと深川検車区行徳分室への入出庫線を持ち、葛西と同じく快速の通過待ちが行われている。 妙典を出ると深川検車区行徳分室への入出庫線を乗り越え、B線との間隔が元に戻り江戸川を第二江戸川橋梁で渡り、東京外環自動車道と国道298号を越える。勾配を下った後、左にカーブして原木中山となる。原木中山は葛西と同じ構内配線を持つ。原木中山を出ると京葉道路を乗り越えて右カーブとなり、林立するマンションや住宅地の中を抜け、迫ってくる総武本線の線路を左手に見ながら徐々に地平に降りて西船橋となる。 現在の東西線の原型となる計画は、1917年(大正6年)に内務省に設置された「東京市内外交通調査委員会」の答申で示されたうちの一つで、「池袋 - 高田馬場 - 飯田橋 - 大手町 - 洲崎」としていた。1920年(大正9年)には東京鉄道に特許が下付されたが、1923年(大正12年)の関東大震災の後に他の路線とともに工事未着手を理由に特許が抹消された。 東西線の路線免許は、東京23区の前身にあたる東京市が戦前に計画した東京市営地下鉄6路線に遡(さかのぼ)り、大正14年内務省告示第56号に基づいて1925年(大正14年)5月16日に取得したものである。このうち現在の東西線にあたるのは、当時の第5号線「池袋駅 - 早稲田 - 飯田町 - 一ツ橋 - 東京駅 - 永代橋 - 洲崎」に至る14.2 kmの路線免許である。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線渋谷 - 巣鴨間と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の公債があり、財政悪化を懸念した当時の内務省と大蔵省の反対があり、許可を得ることができなかった。その後、特に建設計画は立てられず帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していたすべての路線免許は1941年(昭和16年)に営団地下鉄へ有償譲渡された。 一方、東陽町 - 西船橋に相当する区間には、戦前に東京成芝電気鉄道による免許申請がなされ、1927年(昭和2年)に交付されていた(起点の東陽町は「東平井」として記載、船橋市内は中山を経由)が、1940年(昭和15年)に失効となった。 1946年(昭和21年)1月より戦災復興院での復興計画案の一つとして地下鉄建設を計画し、12月7日に戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道」として5路線を告示した。このうちの都市計画第5号線が「中野駅 - 高田馬場駅 - 富坂町 - 水道橋駅 - 神保町 - 東京駅 - 日本橋 - 茅場町 - 東陽町」に至る15.7 kmの路線とされた。この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、1949年(昭和24年)4月28日に起業目論見変更認可を申請し、同年5月23日に認可を受けた。 その後、都市交通審議会答申第1号に基づいて、1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号により、都市計画第5号線は現在の路線と同じ「中野駅 - 高田馬場駅 - 戸塚町 - 飯田橋駅 - 大手町 -日本橋 - 茅場町 - 門前仲町 - 東陽町に至る本線」と「大手町 - 神保町 - 水道橋駅 - 春日町 - 白山 - 巣鴨駅 - 西巣鴨 - 板橋駅 - 下板橋に至る分岐線」(計24.2 km)に改訂された。 これを受け、営団地下鉄は1957年(昭和32年)6月18日に第5号線(東西線)の起業目論見変更認可申請と地方鉄道敷設免許の申請を行った。起業目論見変更認可申請は、1949年(昭和24年)5月に起業目論見変更認可を受けていた免許経路のうち、高田馬場 - 東陽町間および大手町 - 巣鴨間の経路を1957年(昭和32年)に改訂した経路に改める申請であり、これは1957年(昭和32年)8月13日に認可された。前記に含まれない(免許を取得をしていない)本線の中野 - 高田馬場間および分岐線の巣鴨 - 下板橋間の路線免許は、運輸大臣に免許申請を行った。同時に免許申請を行っていた第2号線(日比谷線)と第4号線(荻窪線)の路線免許は1958年(昭和33年)3月1日に交付されたが、第5号線は建設の見込みが立つまで保留とされた。 1960年(昭和35年)4月、東京都交通局から営団地下鉄に対して地下鉄5号線(東西線)中野 - 東陽町間および分岐線大手町 - 下板橋間の路線免許を交通局へ譲渡するよう申し入れがあった。これは都電の廃止に伴い、余剰人員の配置転換をする必要性があったためである。 営団地下鉄は1960年(昭和35年)8月2日、都市計画第5号線(東西線)中野 - 東陽町間および分岐線大手町 - 下板橋間の建設計画を決定し、1961年度(昭和36年度)から建設工事に着手することとした。営団地下鉄は、将来的に東西線と国鉄中央線間で相互直通運転することを計画し、1961年(昭和36年)8月に営団地下鉄総裁と国鉄総裁の間で東西線と中央線間で相互直通運転することに合意した。このため、営団地下鉄は1961年(昭和36年)8月21日(同年10月12日にも)に東西線の軌間を1,435 mm(標準軌)から直通運転に対応した1,067 mm(狭軌)に変更する起業目論見変更認可申請、前述の路線免許の追加申請を行った。そして、1961年(昭和36年)11月13日に起業目論見変更認可、11月14日に中野 - 高田馬場間の路線免許の交付があった。 東西線の建設計画より先に、1956年(昭和31年)に国鉄中央線の輸送力増強計画として、東京 - 三鷹間の複々線化と中央・総武緩行線の東京乗り入れが計画されたが、用地買収が難航し、実現はできなかった。そのほか、市ケ谷付近に短絡線を建設して中央・総武緩行線を東京乗り入れさせる計画も出されたが、計画中の東西線と中央・総武緩行線を乗り入れさせて都心に直通することが容易であるとの結論に至った。 1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号において、第5号線は「中野方面より高田馬場、飯田橋、大手町、茅場町及び東陽町の各方面を経て船橋方面に向かう路線」として示されたが、線形、経過地について引き続き検討するものとして、都市計画は保留とされた。1964年(昭和39年)1月31日、都市交通審議会は第5号線の東陽町 - 西船橋間に至る路線の経過地を浦安・行徳とし、西船橋で総武線と接続するよう答申が改訂された。営団地下鉄は同年3月27日に西船橋方面への延伸を正式に決定、4月9日に南砂町 - 山野町間(東陽町駅 - 西船橋駅間)の路線免許を申請し、翌1965年(昭和40年)6月7日には同区間の都市計画を決定、6月9日に路線免許の交付を受けた。このうち、中野 - 西船橋間は東西線として順次開業した。 この第6号答申によって、第5号線の分岐線 大手町 - 下板橋間は都営地下鉄(東京都交通局)6号線(→三田線)の一部として切り離された。1964年(昭和39年)2月7日に運輸省からの指示により、第6号線は正式に東京都が建設を行うこととし、営団地下鉄が所有していた大手町 - 巣鴨間の路線免許は東京都に譲渡すること、営団地下鉄は免許申請中の第5号分岐線の巣鴨 - 下板橋間の路線免許を取り下げることとされた。大手町 - 巣鴨間の路線免許は、東京都(交通局)から営団地下鉄に567万4,250円の支払いを受けることで譲渡した。営団地下鉄は同年3月30日に第5号分岐線の免許申請は取り下げ、営団地下鉄から東京都への路線免許譲渡は同年12月18日に認可された。 東陽町 - 西船橋間の建設にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている。 その後1968年(昭和43年)4月の答申第10号では、西船橋以東について東武鉄道野田線方面に至る路線とされたが、1972年(昭和47年)3月の答申第15号では西船橋 - 新船橋付近 - 飯山満 - 北習志野 - 八千代市中央部 - 勝田台を終点とする路線に改められた。営団地下鉄は1974年(昭和49年)3月22日、第5号線「営団勝田台線」西船橋 - 勝田台間(16.2 km)の延伸を正式に決定、同年3月30日に路線免許を申請した。営団地下鉄の計画では1976年(昭和51年)10月に建設工事に着手し、1979年(昭和54年)10月の開業を予定、建設費用は955億円を見込んだ。東西線(西船橋以西)とは直通運転を行い、途中の北習志野駅のみ停車する快速列車の運転も予定していた。 営団地下鉄としては、第7号線(南北線)や第13号線(副都心線)の建設の必要性があったが、当時の東京周辺で最も人口の増加が激しかった船橋市、八千代市などが千葉県とともに1973年(昭和48年)5月に「営団地下鉄東西線建設促進協議会」を結成し、「営団勝田台線」の建設陳情を営団地下鉄へ繰り返したことから、建設を決定したものである。しかし、建設に向けた手続きを進めるにあたり、特に沿線で競合関係となる京成電鉄から死活問題であるとして反対があり、また営団地下鉄の担当区域を大きく外れる(帝都高速度交通営団法 第1条「帝都高速度交通営団ハ東京都ノ区ノ存スル区域及其ノ附近ニ於ケル交通機関ノ整備拡充...」)との意見があり、路線免許取得は難航した。 1980年(昭和55年)7月19日、運輸省(当時)は次のような最終調整案をまとめ、地元に提示し了承を求めた。 最終的に、この案を基本として1981年(昭和56年)9月1日に東葉高速鉄道が設立され、同社が勝田台線の建設・経営を行うことが決定した。そして、東葉高速鉄道が地方鉄道敷設免許を申請したため、営団地下鉄は1982年(昭和57年)2月15日に勝田台線の路線免許申請を取り下げ、同年3月19日に東葉高速鉄道に地方鉄道敷設免許が交付された(以降は東葉高速鉄道の項目を参照)。 以下の路線と相互直通運転を行っている。 本節の解説では区間の区別のため中野駅 - 三鷹駅間を「中央線」、西船橋駅 - 津田沼駅間を「総武線」と記述する。 列車番号の末尾アルファベットは東京地下鉄保有車両が「S」、JR東日本保有車両が「K」、東葉高速鉄道保有車両は「T」となっている。ただし、搭載している保安装置の関係上、JR東日本保有車両は東葉高速線、東葉高速鉄道保有車両はJR線への乗り入れを行うことができない。そのため、三鷹駅 - 東葉勝田台駅を直通する列車はメトロ車に限定される。また、2020年(令和2年)3月14日改正ダイヤでは、東京地下鉄保有車両の7本が東葉高速線内で、東葉高速鉄道保有車両の3本が東京地下鉄線内でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。 平日のラッシュ時は総武線 - 東西線 - 中央線(津田沼駅 - 東西線経由 - 三鷹駅間)という運行も行われる。東西線経由の方が距離が短い。なお、両端の駅から同一会社の、それも同一の運転系統との直通という例は極めて稀である。この経路による通過連絡運輸の設定もある。 東京メトロ車については、中央・総武線、東葉高速線ともに直通可能だが、総武線津田沼駅から中野駅または中央線三鷹駅まで直通してきた列車が折り返し東葉高速線東葉勝田台行となる運用もあり、またその逆で東葉勝田台駅・八千代緑が丘駅発の列車が折り返し津田沼行となる運用も存在する。 平日の朝夕の直通のみ津田沼発三鷹行きと三鷹発津田沼行きには中央・総武線御茶ノ水経由と東西線経由の列車がある。 東西線では以下の種別の列車が運転されている。停車駅は「#駅一覧」を参照。 日本では架線集電の地下鉄として初の速達列車である。東西線はJR東日本(当時は旧国鉄)中央・総武線(各駅停車)の混雑緩和を目的に建設され、乗客の移行を促すために地上区間である東陽町駅 - 西船橋駅間の途中駅(通過駅のうち南砂町駅は地下駅)を通過する快速を登場させた。 東陽町駅 - 西船橋駅間で速達運転を行い、中野駅 - 東陽町駅間は各駅に停車する。また、直通運転する路線内では各駅に停車する。全列車が運行区間に東西線全区間を含んでおり、東西線の途中駅で折り返す快速列車は設定されていない。また、西船橋始発の列車も少ない。 なお、地上区間での認可最高速度は100 km/hで、これは地下鉄としては日本初、かつ現在も日本最速である。車両の設計最高速度は110 - 120 km/hである。 日中は中野駅 - 東葉勝田台駅間で1時間に4本(15分間隔)で運転されている。このため、この時間帯の運用は東京メトロ車と東葉高速車に限られる。また、日中の時間帯の東葉高速線はすべて快速となっているため、東葉高速線内の各駅から東西線の快速通過駅を利用する場合は、西船橋駅または浦安駅で各駅停車に乗り換える必要がある。また、平日朝・夕方以降については東西線内のみ運転の快速や中央・総武線(各駅停車)直通の三鷹駅・津田沼駅発着の快速も運転されており、この場合はJR車も運用されている。土休日は東葉高速線区間 - 中央線区間にのみ乗り入れる(総武線区間には乗り入れず、西船橋駅 - 三鷹駅間の設定もない)ため、JR車の三鷹駅直通運用はなく、東京メトロ車のみ三鷹駅まで直通する。なお、平日夕方と土休日朝において西船橋駅 - 中野駅間のJR車運用が少ないながら設定されている。津田沼直通運転時間帯は通勤快速と共に津田沼直通列車が優先される。 基本的に昼間帯は葛西駅で先を走る各駅停車を追い抜くが、朝、夕の一部は原木中山駅・妙典駅でも追い抜きを行っている。 かつては各駅停車の追い抜きは最高で2本までだったが、2017年3月の改正で、葛西駅・妙典駅・原木中山駅の3駅で各駅停車を追い抜く快速が1本設定された。また現行ダイヤでも、平日ダイヤ17時台に西船橋駅を発車する上りの快速1本は、原木中山駅、妙典駅(当駅始発)、葛西駅の3駅で各駅停車を追い抜く。 列車種別は基本的に赤色で表記される。 1969年に東西線で快速列車が導入された際には、停車パターンによって以下の3種類の呼称で区別された。ただし、これは内部の呼称とされ、公式には用いられていなかった。 1996年のダイヤ改正でA快速が廃止され、B快速が「快速」、C快速が「通勤快速」として正式に列車種別を分離した。 平日朝西行(中野方面)のみの運転で、西船橋駅 - 浦安駅間で速達運転を行い、浦安駅 - 中野駅間は各駅に停車する。また、直通運転する路線内では各駅に停車する。快速と同様に全列車が運行区間に東西線全区間を含んでおり、東西線の途中駅で折り返す列車は設定されていない。 1986年(昭和61年)11月1日に快速の停車パターンの一つ(浦安駅から各駅に停車の快速)として登場したが、1996年(平成8年)3月16日より通勤快速という名称になる。C快速時代には専用の種別幕はなく、始発駅から南行徳駅を通過するまで快速、南行徳駅 - 浦安駅間を走行中に各駅停車(種別無表示)に変更していた。前述の通り、2007年以降はダイヤ改正の度に運転時間帯が拡大しており、2007年3月19日から平日朝の最混雑時間帯に運行されていた快速がすべて通勤快速に変更され、2009年3月16日からは西船橋発朝6時 - 9時10分までのすべての速達列車が通勤快速となった。 中野方面行き快速と同様、通過駅がなくなる浦安駅 - 中野駅間での車両の種別表示はE231系以外、各駅停車表示となる。 車両によっては「通快」と略して表示される。「通勤快速」を英語で表記する際、その表現方法は統一されておらず、"Commuter Rapid"、"Commutation Rapid"、"Rapid Commuter"、"Com.Rapid"、と車両や駅ごとに異なる。種別は緑色とされることが多いが、全ての案内において統一されているわけではない。 一部の時間帯をのぞき、快速1本(朝のみ2本・通快含む)に対して2本であり、朝と夕方は3 - 5分間隔、日中は約5 - 8分間隔で運行されている。日中は1時間に8本のうち4本が中央線に乗り入れて三鷹駅 - 西船橋駅間で運転、残りの4本が中野駅 - 西船橋駅間での運転となる。ラッシュ時には東葉高速線や総武線津田沼駅発着の列車も運行されるほか、九段下駅(着のみ)・東陽町駅・浦安駅(2019年3月18日以降発のみ新設)・妙典駅発着の列車もある。日中は快速に抜かれない列車もある反面、夕方に1本、葛西と妙典の2駅で快速に抜かれる列車もある。 東西線だけでなく、東葉高速線でも速達運転を行う種別で、東陽町駅 - 東葉勝田台駅間で速達運転を行っていた。東西線内の停車駅は快速と同じ。廃止時点では平日の夕方に東葉勝田台行きのみ運行されていた。 車両や駅によっては「東快」と略して表示されていた。使用色、英語表示(TOYO Rapid、TOYO RAP.)も車両や駅ごとに異なっていた。 2014年(平成26年)3月15日のダイヤ改正で廃止され快速に変更された。 日中の各区間の1時間あたりの運行本数は下表のとおりである。 東西線の女性専用車は、2006年11月20日に乗り入れ先の総武線各駅停車および東葉高速鉄道線と同時に導入された。 平日午前6時57分以降に西船橋駅を発車する列車ならびに途中の妙典駅始発を含めて、進行方向最前部車両である10号車が女性専用車となる。実施区間は、東葉勝田台駅・津田沼駅→西船橋→大手町駅までであり、大手町駅到着または9時をもって女性専用車の取り扱いを終了する。 小学生以下の乗客または、障害を有する乗客とその介護者の乗客については性別を問わず乗車可能である。非常時やダイヤが大幅に乱れた場合などには女性専用車の実施を中止する。 設定当初は、終着の中野駅まで女性専用車が設定されていたが、大手町駅での流動が影響したこともあり、導入してわずか1週間強にあたる2006年11月29日に設定区間を大手町駅までに短縮した。 女性専用車が導入されている東京メトロの他路線においても、いわゆる菊名問題と同様のケースが生じているが、設定内容の変更などの対策は行われていない。 開業当初東西線で使用していた自動列車制御装置 (ATC) は地上信号式 (WS) で、原則として運転士が手動で制動(ブレーキ)を掛ける方式である。減速信号 (YG) 65 km/h、注意信号 (Y) 40 km/h、警戒信号 (YY) 25 km/hの速度制限が掛かる。通常の閉塞信号でも進行現示 (G) することがない信号機が多数存在した。減速信号は地上区間を中心に採用されていた。列車通過後の信号現示変化で、YG現示などが連続して表示される信号機もあった。東京地下鉄では日比谷線もこの方式であったが、両線とも現在車内信号式 (CS) に変更されている。 ATC更新工事により、05系のうち車内信号非対応で登場した車両には改造工事が行われた。また5000系と東葉1000形は共に老朽化が進んでいることから新ATC対応化はせずに、東葉1000形は2006年12月4日に、5000系も翌2007年3月17日にそれぞれ全車両が引退した。さらに2006年11月より有楽町線から転属している07系4編成にも、東西線の保安装置への改造が行われている。2006年10月中旬から2007年2月中旬頃までの終電後の夜間に、信号システム更新のための試運転が行われた。これにより首都圏で現在車内信号式を採用していない地下鉄は、都営地下鉄浅草線のみとなった。 直通先の東葉高速線はWS-ATCを使用しており、直通車はWS-ATCが搭載されている。 さらに東陽町 - 西船橋間の各停車駅では停車予告音が採用されており、ブレーキを掛けても停車するまで連続して鳴る。東京メトロで停車予告音を使用しているのはこの区間のみである。 どの列車がどの会社所属の車両で運用されるかは列車番号で判別できる。現在、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両、「T」が東葉高速車両、「K」がJR車両となっている。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)などにより確認ができる。 快速・通勤快速はRのアルファベットが付与されているが(例えば東京メトロ車両による快速列車の場合SRという表示になる)、JR線へ直通する列車には(津田沼駅・三鷹駅発着問わず)Rのアルファベットは付与されていない。 2017年度の1日平均輸送人員は1,450,000人であり、日本の地下鉄では最も輸送人員が多い。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 部分開業状態であった1966年10月12日付の朝日新聞が「相変らずガラ空き都心乗入れの地下鉄東西線」という見出しを掲載する時代もあったが、1970年代に路線が延伸すると混雑率の上昇は顕著となった。 特に総武緩行線津田沼までの直通運転開始後は、東西線西船橋口の利用客の増加は極めて大きかった。このため、1969年(昭和44年)8月25日から、混雑率の低い各駅停車2本を間引き、西船橋駅最混雑時間帯の列車を7両編成から8両または9両編成化を行って、輸送力増強を図った。さらに東西線開業後は地上区間の各駅停車の利用客が急増したことから、1975年(昭和50年)3月より朝ラッシュ時の各駅停車を10分間隔から5分間隔運転にした。 1977年(昭和52年)11月からは東西線向けとして8年ぶりに車両増備を行い、一部列車の10両編成運転を開始した。特に東陽町以東の地上区間(葛西、浦安、行徳地区)において、沿線開発による利用客の増加が著しいことから、西船橋→東陽町方面に向かう朝ラッシュ時最混雑時間帯(7:30 - 8:35)20本の列車を10両編成化することで、輸送力を約30%増強した。この1977年(昭和52年)時点の第1次輸送力増強計画には車両51両を新造し、約42億円を要した。 1979年(昭和54年)には第2次輸送力増強計画を実施し、同年10月1日からは車両23両を増備して、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたりの運転本数を21本(約2分50秒間隔)から24本(2分30秒間隔)に増発した。 1981年(昭和56年)には第3次輸送力増強計画を実施し、同年10月1日からは車両59両を増備(12両は新造、47両は千代田線から転属)して、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたりの運転本数を24本(2分30秒間隔)から27本(2分15秒間隔)に増発した。 第2次輸送力増強の費用は、車両23両の新造費用等で18億3,088万円であったが、第3次輸送力増強では車両基地の増線(行徳検車区が発足)や変電所設備の増強などを含み、総額は119億9,628万円の費用を要した。 このほか、営団地下鉄は1978年(昭和53年)に「東西線輸送力増強対策研究会」を設置し、将来の輸送需要を予測して車両増備、車両基地・信号設備の増強のほか、日本橋駅、茅場町駅、西船橋駅の改良工事が必要とされた。 銀座線と交差する日本橋駅は、東西線からの乗り換え客が増加したことから、銀座線のホームを島式1面からA線(渋谷方面)専用ホームを増設し、従来ホームをB線(浅草方面)専用ホームとした。さらに連絡通路の拡幅と増設を行った。1981年(昭和56年)4月に着工し、1985年(昭和60年)7月に完成、工事費用は43億8,000万円であった。 日比谷線と交差する茅場町駅は、東西線からの乗り換え客が増加したことから、日比谷線とのコンコースを拡大、日比谷線のホームは26m にわたってホーム幅を5.5 mから7.8 mに拡大した。さらに連絡階段とエスカレーターを増設した。1981年(昭和56年)2月に着工し、1984年(昭和59年)3月に完成、工事費用は15億9,700万円である。 西船橋駅は東西線開業時点で武蔵野線の建設計画があり、駅上部に武蔵野線の高架線を支える柱が設置できるよう準備されていた。しかし、武蔵野線および京葉線は当初の貨物線から旅客線となったため、京葉線の開業時には東西線への乗り換え客の増加が予想された。このため、東西線西船橋駅の中野方面行きホームを、約4 m拡幅し、駅施設および階段の拡幅を行った。1981年(昭和56年)11月に着工し、1985年(昭和60年)3月に完成、工事費用は13億9,800万円である。 1990年(平成2年)6月20日には東西線の自社車両はすべて10両編成化された。 2010年代においてもなお、東西線の朝ラッシュ時混雑率は、JR・私鉄も含めた首都圏の鉄道路線でもワーストクラスである。 2021年度の朝ラッシュ時の最混雑区間はB線、木場→門前仲町間であり、ピーク時(7:50 - 8:50)の混雑率は128%である。また、前年の2019年度における同区間のピーク時混雑率は199%である。 2017年より東京地下鉄公式サイトで公開された「朝ラッシュ時間帯の混雑状況について」では、木場駅を7:50 - 8:10頃に発車する列車が最も混雑する。車両中央部にあたる4号車と5号車は、他の車両と比較すると空いている。 1981年度から朝ラッシュ時のB線は毎時27本の高頻度運転がなされているが、これ以上の輸送力増強は困難である。1989年に都営地下鉄新宿線が、1990年に京葉線が当路線と並行する形で開業したことにより、1989年度に混雑率が200%程度まで緩和された。しかし、その後は輸送人員と混雑率が20年以上にわたって横ばい傾向となり、1999年度以降は東京の地下鉄で最も混雑する路線となった。 快速通過駅である葛西駅と西葛西駅は他路線と接続しない単独駅でありながら1日平均乗降人員が10万人を越えており、朝ラッシュ時に限り運転される通勤快速は、これらの駅にも停車することで混雑の平準化を図っている。 2007年度の1日平均通過人員は、門前仲町 - 木場間が655,312人で最も多く、茅場町 - 門前仲町間が655,307人でこれに匹敵する。東京メトロ全線で1日平均通過人員が60万人を超える区間を有する路線は、当路線のみである。これらの区間をピークに、両端の区間に進むに連れて通過人員が減少する。西船橋方面は緩やかに減少し、千葉県との県境を跨ぐ葛西 - 浦安間が401,499人、原木中山 - 西船橋間が272,588人である。一方、中野方面は日本橋 - 茅場町間が624,603人であるが大手町 - 日本橋間が518,132人、竹橋 - 大手町間が395,616人であり、竹橋 - 茅場町間で20万人以上通過人員が減少する。その後は緩やかに減少し、高田馬場 - 早稲田間が300,010人であるが落合 - 高田馬場間が148,320人と半分程度まで減少し、中野 - 落合間が132,742人で最も少ない。 こうした状況を受けて、2007年3月18日のダイヤ改正より朝ラッシュのピーク時間帯(西船橋発6:56 - 8:15)の「快速」が全列車「通勤快速」に変更された。これにより該当時間の全列車が浦安以西各駅停車となり、この時間帯の浦安→東陽町間の所要時間は、快速が8分、通勤快速と快速待避のない各停が11分、快速待避のある各停が13分であったが、全列車11分に統一された。この結果、各停への乗客の集中が緩和され、混雑の平準化が図られた。なお、対象の時間帯は元々ほとんどが通勤快速で、快速は東葉快速1本のみであった。 東西線では、混雑緩和・時差通勤を促進するため、以下のようなキャンペーンが実施されてきた。実施期間が冬期に限られていたのは、乗客が厚着することにより、ドア挟みの発生や乗降に時間が掛かりやすく、夏期に比べ遅延することが多いからである(いわゆる「着ぶくれ」)。 2007年12月10日から2008年2月29日までの平日には「東西線 早起き通勤キャンペーン」が実施された。対象区間は東陽町 - 浦安間で、期間中の朝の指定時間帯内に同区間を含むPASMOまたはSuica通勤定期券(通学定期券は対象外)で対象区間内の駅に置かれた専用端末にタッチすると、1日1回の「早起き通勤回数」がカウントされ、20回以上の利用者に先着で三菱UFJニコスギフトカード1000円分、40回以上で2000円分が贈られるというものである。 このキャンペーンは続編として通勤定期券だけでなく通学定期券も対象とした「東西線早起きキャンペーン」として2008年12月1日から2009年2月27日までの平日にも実施された。この年から対象が原木中山 - 門前仲町間のいずれかの駅からの乗車で南砂町 - 茅場町間のいずれかを含むPASMOまたはSuica定期券となり、時間帯によってカウントされる早起き通勤回数が変わる(前半30分は3カウント、後半30分は1カウント)ように、賞品が贈られるカウント数が50以上に変更され、賞品も通勤者向きにTokyo Metro To Me CARDのメトロポイント、通学者向きにオリジナルグッズが追加された。 2009年12月1日から2010年2月26日までの平日にも同様のキャンペーンが実施された。このキャンペーンでは、通勤者向けの賞品がTokyo Metro To Me CARDのメトロポイントと三菱UFJニコスギフトカード、通学者向けの賞品が文具セットとなった。また、50カウント未満でも20カウント以上を記録した利用者すべてに粗品がプレゼントされるようになった。 2010年12月1日から2011年2月28日までの平日にも同様のキャンペーンが実施されるが、実施区間が西船橋 - 門前仲町間に拡大され、JR総武線やJR武蔵野線から東西線へ乗り換える乗客も参加しやすくなった。 「東西線早起きキャンペーン」は以後も実施されており、2013年度から実施区間に東葉高速線が追加され、定期券以外の交通系ICカードでも参加可能になり、2015年には初めて4月から7月までの期間にも実施された。2017年9月25日からは土休日・年末年始をのぞく通年実施となった。 2019年4月1日からは、「東西線早起きキャンペーン」に代わる混雑緩和を目的としたキャンペーンとして、メトロポイントクラブ(メトポ)を活用した「東西線オフピークプロジェクト」を開始した。平日の朝ラッシュ時間帯を除く午前中に駅を出場または乗り換えると、入場時間に応じてポイント(メトポ)が進呈される(小児は、通常の半分のポイント進呈)。ただし、対象乗車駅は、東葉勝田台駅 - 門前仲町駅に限られる。事前にメトポに入会し参加登録したPASMOが必要。 営団時代の1991年10月16日から05系ワイドドア車を導入したが、5編成の投入に留まった。 東京メトロは2009年度の事業計画の中で、東西線の混雑緩和策としてオールワイドドア車10両編成の15000系を導入し、ラッシュ時間帯の列車に割り当てる方針を明らかにした。15000系は2010年から投入が開始され、同年5月7日から営業運転を開始した。そして、2011年度までに13編成130両が投入された。 東京メトロは2011年度事業計画の中で、上述のワイドドア車両再投入を含め、本格的に混雑緩和を行うため、ホームの拡幅や延伸、新たな線路やホームを増設することを明らかにした。具体的な計画は以下のものがあげられている。 その後、2013年12月2日のダイヤ改正で終電の運転区間を延長し、最終の東陽町行が妙典行に変更となった。 2015年度事業計画の中で、前記の計画に加え2019年度を目途に九段下駅の折り返し線を改良し、B線の九段下止まりの列車をA線へ折り返す際にB線と平面交差せずに折り返しできるよう工事を行うことを明らかにした。 また、東京メトロが2016年3月28日に発表した、2016年度から2018年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2018〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜』の中では、増発およびB修繕による予備車確保を目的に、2016年度にワイドドア車両が3編成増備されることが発表された。その増備車両として、15000系増備車が2017年上半期に導入されている。 2019年度から2021年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2021』では、茅場町駅のホーム延伸、木場駅のホーム拡幅など大規模改良に総額約1,200億円を使った輸送改善プロジェクトやオフピーク通勤通学の推進に取り組む事が記されている。 なお、新型コロナウイルス感染症の流行によるリモートワークや時差通勤の普及により、輸送人員が減少したため、当初予定していた木場駅の駅改良工事の無期限延期や南砂町駅での一部計画の見直しなどを行っている。 2015年5月から6月にかけて、従来のブザーに代わり向谷実作曲・編曲の発車メロディ(発車サイン音)を導入した(JR管轄の中野駅を除く)。九段下駅では爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い」、日本橋駅では民謡「お江戸日本橋」、それ以外の各駅ではA線(西船橋方面)で「A Day in the METRO」、B線(中野方面)で「Beyond the Metropolis」(いずれもオリジナル曲)を使用している。各駅のメロディはそれぞれ駅や地域の雰囲気に合わせた異なるものになっているが、原曲をもつ九段下駅と日本橋駅のメロディも含めて進行方向につなぐと1つの曲になるように制作されている。 この発車メロディの導入に合わせて、向谷が代表を務める音楽館からCDアルバム『東京メトロ東西線 発車メロディCollection』が同年5月13日に発売されている。同アルバムには実際に使用されているメロディのオリジナル音源や、神保彰・矢堀孝一・宮崎隆睦ら国内のトップミュージシャンが演奏に参加したアレンジバージョンなどが収録されている。 なお、これらとは別に2018年11月26日からは、放送装置が更新された車両より順次スイッチ制作の車載メロディの使用を開始している。曲はA線が「スカイブルー」(福嶋尚哉作曲)、B線が「アゲハ蝶のワルツ」(塩塚博作曲)である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東西線(とうざいせん)は、東京都中野区の中野駅から千葉県船橋市の西船橋駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は5号線東西線。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "路線名の由来は東京を東西に横断することから。車体及び路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカイブルー」(#009bbf、水色)、路線記号はT。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "名称の通り東京都心部を東西に貫く路線であり、当路線の開業当時に混雑が激しかった中央線快速と総武線のバイパス路線として開業した。その西端の中野から大手町や日本橋などの東京都心部を経由しながらさらに東方向へ進み、旧江戸川以東の浦安 - 西船橋間は千葉県内となる。東西線は、帝都高速度交通営団(現:東京地下鉄〈東京メトロ〉)では初めての東京都外(そして東京23区以外)への路線となった。また、東京メトロで唯一の千葉県内に延伸された路線である。東京都外へは、後に東京メトロ有楽町線・副都心線も埼玉県内に路線が延びたが、有楽町線・副都心線唯一の都外・23区外の駅である埼玉県南端の和光市駅は東武鉄道東上線の管理駅であるため、都外・23区外に東京地下鉄管理駅を持つのは東西線が唯一である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "新型コロナウイルス流行以前の2019年度における最混雑区間(木場駅→門前仲町駅)の混雑率は199%と、地下鉄のみならず日本の鉄道路線の中で最も混雑している路線であった。2021年度における平均輸送人員は日本の地下鉄で唯一100万人を上回った。コロナ後は、沿線に日本IBM、野村総研、大和総研などの情報通信業の事業者もあり、在宅比率も高くなり、混雑率は改善されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "全長は30.8 kmで都営地下鉄大江戸線、横浜市営地下鉄ブルーラインに次いで日本の地下鉄の中で3番目に長い。当路線東側区間の南砂町駅付近 - 西船橋駅間は約14 kmという地下鉄としては長大な地上区間となっている(詳細は後節参照)。この地上区間の一部の駅には待避設備が設けられ、一部区間では最高速度100 km/hで日本の地下鉄路線初の快速運転が行われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西側で東日本旅客鉄道(JR東日本)中央線(各駅停車)の中野 - 三鷹間、東側でJR東日本総武線(各駅停車)の西船橋 - 津田沼間及び東葉高速鉄道東葉高速線の西船橋 - 東葉勝田台間と直通運転を行っており、車両は3社とも20 m級車両10両編成で統一されている。なお、西船橋 - 津田沼間の直通運転は朝夕ラッシュ時のみに限定され、それ以外の区間は終日直通運転が行われている(詳細は「直通運転」の節を参照)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東西線は東京メトロ副都心線以外の全ての東京の地下鉄路線との接続駅を持つ。副都心線開業前は、全ての地下鉄路線と接続できていた。副都心線とは高田馬場駅 - 早稲田駅間で交差し、近傍に副都心線の西早稲田駅があるが、乗換・接続駅には指定されていない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東京の地下鉄で起点と終点である両端の駅が地上駅となっているのは当路線と日比谷線、千代田線のみである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "本路線の建設費用は総額1,136億5,000万円である(1971年7月時点)。内訳は土木関係費が735億5,275万円、電気関係費が70億5,630万3,000円、車両関係費が145億1,530万3,000円、その他が185億2,564万4,000円となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "建設史では、中野 - 東陽町間、東陽町 - 西船橋間に分けても記載されている。中野 - 東陽町間の建設費用の総額は820億円であり、内訳は土木関係費が527億6,967万5,000円、電気関係費が46億2,818万6,000円、車両関係費が91億8,062万9,000円、その他が154億2,151万円となっている。東陽町 - 西船橋の建設費用の総額は316億5,000万円で、内訳は土木関係費が207億8,307万5,000円、電気関係費が24億2,811万7,000円、車両関係費が53億3,467万4,000円、その他が31億413万4,000円となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ほとんどの区間は複線構造の開削工法で構築している。ただし、早稲田駅付近は地上道路の幅が狭いことから、駅は上下2層構造となっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "飯田橋駅の中央本線架道橋横断部、九段下 - 竹橋 - 大手町付近、茅場町 - 門前仲町間の隅田川横断部(永代橋下流)と大島川西支川の福島橋横断部、洲崎川直下に構築する南砂町付近は締切築島または道路覆工の下に構築したケーソン(潜函)を沈下させる、潜函工法を使用している。門前仲町駅終端 - 木場駅 - 東陽町駅始端までの1,770.06 mの区間は、軟弱地盤なことから、営団地下鉄では初めての全円断面の単線シールド工法を使用した。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東西線は茅場町 - 門前仲町間で隅田川をトンネルで横断するが(前述)、以東は海抜ゼロメートル地帯を通ることから、浸水(洪水)対策を施している。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "南砂町付近 - 西船橋間の地上区間は、東西線の大きな特色をなしている。地上区間を持つ日本国内の地下鉄路線は他にも多数存在し、また近年の直通運転の拡大により地上区間の走行距離が地下区間よりも長くなる列車は珍しくなくなったが、自社線内だけで全線の半分弱を占める約14 kmという長距離の地上区間を持つ地下鉄路線は東西線のみである。東西線の建設当初、現在の地上区間周辺は田畑であり、地上に路線を建設することもできたが、将来の市街地化を予測して高架線構造の採用に至った。当時、周辺の私鉄では市街地における地上線と道路の平面交差(踏切)の高架化要望が多数あり、実現に難航していることを見れば、当然の流れであった。その後、元々田畑だった地上区間部分も人口流入により、現在のような住宅が密集する市街地となった。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "東西線は元々中央線快速と総武線のバイパスとしての役割を担って建設された。東西線開業によって総武線沿線から都心への所要時間は大幅に短縮され、東西線沿線のみならず起点の西船橋以遠のJR線からの中・長距離通勤客の流入で大変混雑するようになっている。さらに近年の線内利用者の増加に対応するため、以下の変化がもたらされた(各々の詳細については次章以降で詳述している)。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "そのほか、平均乗車距離の長さ、朝と昼の混雑率の差、定期券利用客率の高さのいずれもが、東京メトロの路線ではトップクラスにある。都心部を走る地下鉄でありながら、郊外へ延びる通勤路線としての側面もある。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "快速運転を考慮して、地上区間の最小曲線半径は500 mとなっている。線形が良い地上区間は軌道改良も行われており、現在では60 kgレールが採用されている。これはJR線では新幹線や主要幹線クラスに採用されるレールであり(一般的には50 kgNレールが主流)、大量高密度輸送と高速運転を支える要となっている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "A線(西船橋方面行き)を基準とすると、南砂町を出た列車は35 ‰の勾配(連続573.5 m)を上って地上に出て、左にカーブしながら一気に高架へ駆け上がる。左右のマンションや工場などの建造物群を抜けると、荒川中川橋梁という長いトラス橋を渡る。なお、東京地下鉄で荒川を横断する路線は東西線と千代田線だけである。橋の右隣(下流側)には清砂大橋という歩道を備えた道路橋が架かる。橋を渡る最中、西船橋方面行き(A線)の列車の右手には葛西臨海公園の大観覧車を、中野方面行き(B線)の列車は東京スカイツリー、晴天時には富士山を見ることができる。首都高速中央環状線をくぐった後に橋を渡り終え、直線で進み西葛西となる。南砂町から西葛西までは東京地下鉄で最も駅間距離が長い区間 (2.7 km) である。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "西葛西を出ると、途中に左カーブを挟みつつマンション群の中を直線で進み、変電所の脇を通ると地下鉄博物館最寄の葛西となる。葛西駅は中央2線を通過線とする東海道新幹線静岡駅や東北新幹線宇都宮駅のような構内を持ち、快速の通過待ちが行われている。葛西を出ると、徐々に一軒家が目立ち始める中を直線で進み、左カーブのあと旧江戸川を第一江戸川橋梁で越え、東京都から千葉県に入る。右手(下流側)には東京ディズニーリゾートを、左手(上流側)には浦安橋と妙見島を見ることができる。そのあと再び左にカーブし浦安に入る。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "浦安を出ると再び左カーブがあり、そのあと妙典手前まで長い直線となる。この直線区間には途中南行徳と行徳があり、左カーブの後は2駅を見通すことができる。列車は一軒家とマンションが混在する中を直線で進み、妙典に至る。妙典は2面4線のホームと深川検車区行徳分室への入出庫線を持ち、葛西と同じく快速の通過待ちが行われている。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "妙典を出ると深川検車区行徳分室への入出庫線を乗り越え、B線との間隔が元に戻り江戸川を第二江戸川橋梁で渡り、東京外環自動車道と国道298号を越える。勾配を下った後、左にカーブして原木中山となる。原木中山は葛西と同じ構内配線を持つ。原木中山を出ると京葉道路を乗り越えて右カーブとなり、林立するマンションや住宅地の中を抜け、迫ってくる総武本線の線路を左手に見ながら徐々に地平に降りて西船橋となる。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "現在の東西線の原型となる計画は、1917年(大正6年)に内務省に設置された「東京市内外交通調査委員会」の答申で示されたうちの一つで、「池袋 - 高田馬場 - 飯田橋 - 大手町 - 洲崎」としていた。1920年(大正9年)には東京鉄道に特許が下付されたが、1923年(大正12年)の関東大震災の後に他の路線とともに工事未着手を理由に特許が抹消された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "東西線の路線免許は、東京23区の前身にあたる東京市が戦前に計画した東京市営地下鉄6路線に遡(さかのぼ)り、大正14年内務省告示第56号に基づいて1925年(大正14年)5月16日に取得したものである。このうち現在の東西線にあたるのは、当時の第5号線「池袋駅 - 早稲田 - 飯田町 - 一ツ橋 - 東京駅 - 永代橋 - 洲崎」に至る14.2 kmの路線免許である。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線渋谷 - 巣鴨間と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の公債があり、財政悪化を懸念した当時の内務省と大蔵省の反対があり、許可を得ることができなかった。その後、特に建設計画は立てられず帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していたすべての路線免許は1941年(昭和16年)に営団地下鉄へ有償譲渡された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、東陽町 - 西船橋に相当する区間には、戦前に東京成芝電気鉄道による免許申請がなされ、1927年(昭和2年)に交付されていた(起点の東陽町は「東平井」として記載、船橋市内は中山を経由)が、1940年(昭和15年)に失効となった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)1月より戦災復興院での復興計画案の一つとして地下鉄建設を計画し、12月7日に戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道」として5路線を告示した。このうちの都市計画第5号線が「中野駅 - 高田馬場駅 - 富坂町 - 水道橋駅 - 神保町 - 東京駅 - 日本橋 - 茅場町 - 東陽町」に至る15.7 kmの路線とされた。この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、1949年(昭和24年)4月28日に起業目論見変更認可を申請し、同年5月23日に認可を受けた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後、都市交通審議会答申第1号に基づいて、1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号により、都市計画第5号線は現在の路線と同じ「中野駅 - 高田馬場駅 - 戸塚町 - 飯田橋駅 - 大手町 -日本橋 - 茅場町 - 門前仲町 - 東陽町に至る本線」と「大手町 - 神保町 - 水道橋駅 - 春日町 - 白山 - 巣鴨駅 - 西巣鴨 - 板橋駅 - 下板橋に至る分岐線」(計24.2 km)に改訂された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これを受け、営団地下鉄は1957年(昭和32年)6月18日に第5号線(東西線)の起業目論見変更認可申請と地方鉄道敷設免許の申請を行った。起業目論見変更認可申請は、1949年(昭和24年)5月に起業目論見変更認可を受けていた免許経路のうち、高田馬場 - 東陽町間および大手町 - 巣鴨間の経路を1957年(昭和32年)に改訂した経路に改める申請であり、これは1957年(昭和32年)8月13日に認可された。前記に含まれない(免許を取得をしていない)本線の中野 - 高田馬場間および分岐線の巣鴨 - 下板橋間の路線免許は、運輸大臣に免許申請を行った。同時に免許申請を行っていた第2号線(日比谷線)と第4号線(荻窪線)の路線免許は1958年(昭和33年)3月1日に交付されたが、第5号線は建設の見込みが立つまで保留とされた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1960年(昭和35年)4月、東京都交通局から営団地下鉄に対して地下鉄5号線(東西線)中野 - 東陽町間および分岐線大手町 - 下板橋間の路線免許を交通局へ譲渡するよう申し入れがあった。これは都電の廃止に伴い、余剰人員の配置転換をする必要性があったためである。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "営団地下鉄は1960年(昭和35年)8月2日、都市計画第5号線(東西線)中野 - 東陽町間および分岐線大手町 - 下板橋間の建設計画を決定し、1961年度(昭和36年度)から建設工事に着手することとした。営団地下鉄は、将来的に東西線と国鉄中央線間で相互直通運転することを計画し、1961年(昭和36年)8月に営団地下鉄総裁と国鉄総裁の間で東西線と中央線間で相互直通運転することに合意した。このため、営団地下鉄は1961年(昭和36年)8月21日(同年10月12日にも)に東西線の軌間を1,435 mm(標準軌)から直通運転に対応した1,067 mm(狭軌)に変更する起業目論見変更認可申請、前述の路線免許の追加申請を行った。そして、1961年(昭和36年)11月13日に起業目論見変更認可、11月14日に中野 - 高田馬場間の路線免許の交付があった。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "東西線の建設計画より先に、1956年(昭和31年)に国鉄中央線の輸送力増強計画として、東京 - 三鷹間の複々線化と中央・総武緩行線の東京乗り入れが計画されたが、用地買収が難航し、実現はできなかった。そのほか、市ケ谷付近に短絡線を建設して中央・総武緩行線を東京乗り入れさせる計画も出されたが、計画中の東西線と中央・総武緩行線を乗り入れさせて都心に直通することが容易であるとの結論に至った。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号において、第5号線は「中野方面より高田馬場、飯田橋、大手町、茅場町及び東陽町の各方面を経て船橋方面に向かう路線」として示されたが、線形、経過地について引き続き検討するものとして、都市計画は保留とされた。1964年(昭和39年)1月31日、都市交通審議会は第5号線の東陽町 - 西船橋間に至る路線の経過地を浦安・行徳とし、西船橋で総武線と接続するよう答申が改訂された。営団地下鉄は同年3月27日に西船橋方面への延伸を正式に決定、4月9日に南砂町 - 山野町間(東陽町駅 - 西船橋駅間)の路線免許を申請し、翌1965年(昭和40年)6月7日には同区間の都市計画を決定、6月9日に路線免許の交付を受けた。このうち、中野 - 西船橋間は東西線として順次開業した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この第6号答申によって、第5号線の分岐線 大手町 - 下板橋間は都営地下鉄(東京都交通局)6号線(→三田線)の一部として切り離された。1964年(昭和39年)2月7日に運輸省からの指示により、第6号線は正式に東京都が建設を行うこととし、営団地下鉄が所有していた大手町 - 巣鴨間の路線免許は東京都に譲渡すること、営団地下鉄は免許申請中の第5号分岐線の巣鴨 - 下板橋間の路線免許を取り下げることとされた。大手町 - 巣鴨間の路線免許は、東京都(交通局)から営団地下鉄に567万4,250円の支払いを受けることで譲渡した。営団地下鉄は同年3月30日に第5号分岐線の免許申請は取り下げ、営団地下鉄から東京都への路線免許譲渡は同年12月18日に認可された。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "東陽町 - 西船橋間の建設にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "その後1968年(昭和43年)4月の答申第10号では、西船橋以東について東武鉄道野田線方面に至る路線とされたが、1972年(昭和47年)3月の答申第15号では西船橋 - 新船橋付近 - 飯山満 - 北習志野 - 八千代市中央部 - 勝田台を終点とする路線に改められた。営団地下鉄は1974年(昭和49年)3月22日、第5号線「営団勝田台線」西船橋 - 勝田台間(16.2 km)の延伸を正式に決定、同年3月30日に路線免許を申請した。営団地下鉄の計画では1976年(昭和51年)10月に建設工事に着手し、1979年(昭和54年)10月の開業を予定、建設費用は955億円を見込んだ。東西線(西船橋以西)とは直通運転を行い、途中の北習志野駅のみ停車する快速列車の運転も予定していた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "営団地下鉄としては、第7号線(南北線)や第13号線(副都心線)の建設の必要性があったが、当時の東京周辺で最も人口の増加が激しかった船橋市、八千代市などが千葉県とともに1973年(昭和48年)5月に「営団地下鉄東西線建設促進協議会」を結成し、「営団勝田台線」の建設陳情を営団地下鉄へ繰り返したことから、建設を決定したものである。しかし、建設に向けた手続きを進めるにあたり、特に沿線で競合関係となる京成電鉄から死活問題であるとして反対があり、また営団地下鉄の担当区域を大きく外れる(帝都高速度交通営団法 第1条「帝都高速度交通営団ハ東京都ノ区ノ存スル区域及其ノ附近ニ於ケル交通機関ノ整備拡充...」)との意見があり、路線免許取得は難航した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1980年(昭和55年)7月19日、運輸省(当時)は次のような最終調整案をまとめ、地元に提示し了承を求めた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "最終的に、この案を基本として1981年(昭和56年)9月1日に東葉高速鉄道が設立され、同社が勝田台線の建設・経営を行うことが決定した。そして、東葉高速鉄道が地方鉄道敷設免許を申請したため、営団地下鉄は1982年(昭和57年)2月15日に勝田台線の路線免許申請を取り下げ、同年3月19日に東葉高速鉄道に地方鉄道敷設免許が交付された(以降は東葉高速鉄道の項目を参照)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以下の路線と相互直通運転を行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "本節の解説では区間の区別のため中野駅 - 三鷹駅間を「中央線」、西船橋駅 - 津田沼駅間を「総武線」と記述する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "列車番号の末尾アルファベットは東京地下鉄保有車両が「S」、JR東日本保有車両が「K」、東葉高速鉄道保有車両は「T」となっている。ただし、搭載している保安装置の関係上、JR東日本保有車両は東葉高速線、東葉高速鉄道保有車両はJR線への乗り入れを行うことができない。そのため、三鷹駅 - 東葉勝田台駅を直通する列車はメトロ車に限定される。また、2020年(令和2年)3月14日改正ダイヤでは、東京地下鉄保有車両の7本が東葉高速線内で、東葉高速鉄道保有車両の3本が東京地下鉄線内でそれぞれ運用終了・夜間留置となる「外泊運用」が組まれている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "平日のラッシュ時は総武線 - 東西線 - 中央線(津田沼駅 - 東西線経由 - 三鷹駅間)という運行も行われる。東西線経由の方が距離が短い。なお、両端の駅から同一会社の、それも同一の運転系統との直通という例は極めて稀である。この経路による通過連絡運輸の設定もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "東京メトロ車については、中央・総武線、東葉高速線ともに直通可能だが、総武線津田沼駅から中野駅または中央線三鷹駅まで直通してきた列車が折り返し東葉高速線東葉勝田台行となる運用もあり、またその逆で東葉勝田台駅・八千代緑が丘駅発の列車が折り返し津田沼行となる運用も存在する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "平日の朝夕の直通のみ津田沼発三鷹行きと三鷹発津田沼行きには中央・総武線御茶ノ水経由と東西線経由の列車がある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "東西線では以下の種別の列車が運転されている。停車駅は「#駅一覧」を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本では架線集電の地下鉄として初の速達列車である。東西線はJR東日本(当時は旧国鉄)中央・総武線(各駅停車)の混雑緩和を目的に建設され、乗客の移行を促すために地上区間である東陽町駅 - 西船橋駅間の途中駅(通過駅のうち南砂町駅は地下駅)を通過する快速を登場させた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "東陽町駅 - 西船橋駅間で速達運転を行い、中野駅 - 東陽町駅間は各駅に停車する。また、直通運転する路線内では各駅に停車する。全列車が運行区間に東西線全区間を含んでおり、東西線の途中駅で折り返す快速列車は設定されていない。また、西船橋始発の列車も少ない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、地上区間での認可最高速度は100 km/hで、これは地下鉄としては日本初、かつ現在も日本最速である。車両の設計最高速度は110 - 120 km/hである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日中は中野駅 - 東葉勝田台駅間で1時間に4本(15分間隔)で運転されている。このため、この時間帯の運用は東京メトロ車と東葉高速車に限られる。また、日中の時間帯の東葉高速線はすべて快速となっているため、東葉高速線内の各駅から東西線の快速通過駅を利用する場合は、西船橋駅または浦安駅で各駅停車に乗り換える必要がある。また、平日朝・夕方以降については東西線内のみ運転の快速や中央・総武線(各駅停車)直通の三鷹駅・津田沼駅発着の快速も運転されており、この場合はJR車も運用されている。土休日は東葉高速線区間 - 中央線区間にのみ乗り入れる(総武線区間には乗り入れず、西船橋駅 - 三鷹駅間の設定もない)ため、JR車の三鷹駅直通運用はなく、東京メトロ車のみ三鷹駅まで直通する。なお、平日夕方と土休日朝において西船橋駅 - 中野駅間のJR車運用が少ないながら設定されている。津田沼直通運転時間帯は通勤快速と共に津田沼直通列車が優先される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "基本的に昼間帯は葛西駅で先を走る各駅停車を追い抜くが、朝、夕の一部は原木中山駅・妙典駅でも追い抜きを行っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "かつては各駅停車の追い抜きは最高で2本までだったが、2017年3月の改正で、葛西駅・妙典駅・原木中山駅の3駅で各駅停車を追い抜く快速が1本設定された。また現行ダイヤでも、平日ダイヤ17時台に西船橋駅を発車する上りの快速1本は、原木中山駅、妙典駅(当駅始発)、葛西駅の3駅で各駅停車を追い抜く。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "列車種別は基本的に赤色で表記される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1969年に東西線で快速列車が導入された際には、停車パターンによって以下の3種類の呼称で区別された。ただし、これは内部の呼称とされ、公式には用いられていなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1996年のダイヤ改正でA快速が廃止され、B快速が「快速」、C快速が「通勤快速」として正式に列車種別を分離した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "平日朝西行(中野方面)のみの運転で、西船橋駅 - 浦安駅間で速達運転を行い、浦安駅 - 中野駅間は各駅に停車する。また、直通運転する路線内では各駅に停車する。快速と同様に全列車が運行区間に東西線全区間を含んでおり、東西線の途中駅で折り返す列車は設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)11月1日に快速の停車パターンの一つ(浦安駅から各駅に停車の快速)として登場したが、1996年(平成8年)3月16日より通勤快速という名称になる。C快速時代には専用の種別幕はなく、始発駅から南行徳駅を通過するまで快速、南行徳駅 - 浦安駅間を走行中に各駅停車(種別無表示)に変更していた。前述の通り、2007年以降はダイヤ改正の度に運転時間帯が拡大しており、2007年3月19日から平日朝の最混雑時間帯に運行されていた快速がすべて通勤快速に変更され、2009年3月16日からは西船橋発朝6時 - 9時10分までのすべての速達列車が通勤快速となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "中野方面行き快速と同様、通過駅がなくなる浦安駅 - 中野駅間での車両の種別表示はE231系以外、各駅停車表示となる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "車両によっては「通快」と略して表示される。「通勤快速」を英語で表記する際、その表現方法は統一されておらず、\"Commuter Rapid\"、\"Commutation Rapid\"、\"Rapid Commuter\"、\"Com.Rapid\"、と車両や駅ごとに異なる。種別は緑色とされることが多いが、全ての案内において統一されているわけではない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "一部の時間帯をのぞき、快速1本(朝のみ2本・通快含む)に対して2本であり、朝と夕方は3 - 5分間隔、日中は約5 - 8分間隔で運行されている。日中は1時間に8本のうち4本が中央線に乗り入れて三鷹駅 - 西船橋駅間で運転、残りの4本が中野駅 - 西船橋駅間での運転となる。ラッシュ時には東葉高速線や総武線津田沼駅発着の列車も運行されるほか、九段下駅(着のみ)・東陽町駅・浦安駅(2019年3月18日以降発のみ新設)・妙典駅発着の列車もある。日中は快速に抜かれない列車もある反面、夕方に1本、葛西と妙典の2駅で快速に抜かれる列車もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "東西線だけでなく、東葉高速線でも速達運転を行う種別で、東陽町駅 - 東葉勝田台駅間で速達運転を行っていた。東西線内の停車駅は快速と同じ。廃止時点では平日の夕方に東葉勝田台行きのみ運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "車両や駅によっては「東快」と略して表示されていた。使用色、英語表示(TOYO Rapid、TOYO RAP.)も車両や駅ごとに異なっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2014年(平成26年)3月15日のダイヤ改正で廃止され快速に変更された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日中の各区間の1時間あたりの運行本数は下表のとおりである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "東西線の女性専用車は、2006年11月20日に乗り入れ先の総武線各駅停車および東葉高速鉄道線と同時に導入された。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "平日午前6時57分以降に西船橋駅を発車する列車ならびに途中の妙典駅始発を含めて、進行方向最前部車両である10号車が女性専用車となる。実施区間は、東葉勝田台駅・津田沼駅→西船橋→大手町駅までであり、大手町駅到着または9時をもって女性専用車の取り扱いを終了する。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "小学生以下の乗客または、障害を有する乗客とその介護者の乗客については性別を問わず乗車可能である。非常時やダイヤが大幅に乱れた場合などには女性専用車の実施を中止する。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "設定当初は、終着の中野駅まで女性専用車が設定されていたが、大手町駅での流動が影響したこともあり、導入してわずか1週間強にあたる2006年11月29日に設定区間を大手町駅までに短縮した。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "女性専用車が導入されている東京メトロの他路線においても、いわゆる菊名問題と同様のケースが生じているが、設定内容の変更などの対策は行われていない。", "title": "女性専用車" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "開業当初東西線で使用していた自動列車制御装置 (ATC) は地上信号式 (WS) で、原則として運転士が手動で制動(ブレーキ)を掛ける方式である。減速信号 (YG) 65 km/h、注意信号 (Y) 40 km/h、警戒信号 (YY) 25 km/hの速度制限が掛かる。通常の閉塞信号でも進行現示 (G) することがない信号機が多数存在した。減速信号は地上区間を中心に採用されていた。列車通過後の信号現示変化で、YG現示などが連続して表示される信号機もあった。東京地下鉄では日比谷線もこの方式であったが、両線とも現在車内信号式 (CS) に変更されている。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ATC更新工事により、05系のうち車内信号非対応で登場した車両には改造工事が行われた。また5000系と東葉1000形は共に老朽化が進んでいることから新ATC対応化はせずに、東葉1000形は2006年12月4日に、5000系も翌2007年3月17日にそれぞれ全車両が引退した。さらに2006年11月より有楽町線から転属している07系4編成にも、東西線の保安装置への改造が行われている。2006年10月中旬から2007年2月中旬頃までの終電後の夜間に、信号システム更新のための試運転が行われた。これにより首都圏で現在車内信号式を採用していない地下鉄は、都営地下鉄浅草線のみとなった。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "直通先の東葉高速線はWS-ATCを使用しており、直通車はWS-ATCが搭載されている。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "さらに東陽町 - 西船橋間の各停車駅では停車予告音が採用されており、ブレーキを掛けても停車するまで連続して鳴る。東京メトロで停車予告音を使用しているのはこの区間のみである。", "title": "保安装置" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "どの列車がどの会社所属の車両で運用されるかは列車番号で判別できる。現在、列車番号末尾アルファベットの「S」が東京メトロ車両、「T」が東葉高速車両、「K」がJR車両となっている。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)などにより確認ができる。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "快速・通勤快速はRのアルファベットが付与されているが(例えば東京メトロ車両による快速列車の場合SRという表示になる)、JR線へ直通する列車には(津田沼駅・三鷹駅発着問わず)Rのアルファベットは付与されていない。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2017年度の1日平均輸送人員は1,450,000人であり、日本の地下鉄では最も輸送人員が多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "部分開業状態であった1966年10月12日付の朝日新聞が「相変らずガラ空き都心乗入れの地下鉄東西線」という見出しを掲載する時代もあったが、1970年代に路線が延伸すると混雑率の上昇は顕著となった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "特に総武緩行線津田沼までの直通運転開始後は、東西線西船橋口の利用客の増加は極めて大きかった。このため、1969年(昭和44年)8月25日から、混雑率の低い各駅停車2本を間引き、西船橋駅最混雑時間帯の列車を7両編成から8両または9両編成化を行って、輸送力増強を図った。さらに東西線開業後は地上区間の各駅停車の利用客が急増したことから、1975年(昭和50年)3月より朝ラッシュ時の各駅停車を10分間隔から5分間隔運転にした。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1977年(昭和52年)11月からは東西線向けとして8年ぶりに車両増備を行い、一部列車の10両編成運転を開始した。特に東陽町以東の地上区間(葛西、浦安、行徳地区)において、沿線開発による利用客の増加が著しいことから、西船橋→東陽町方面に向かう朝ラッシュ時最混雑時間帯(7:30 - 8:35)20本の列車を10両編成化することで、輸送力を約30%増強した。この1977年(昭和52年)時点の第1次輸送力増強計画には車両51両を新造し、約42億円を要した。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)には第2次輸送力増強計画を実施し、同年10月1日からは車両23両を増備して、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたりの運転本数を21本(約2分50秒間隔)から24本(2分30秒間隔)に増発した。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)には第3次輸送力増強計画を実施し、同年10月1日からは車両59両を増備(12両は新造、47両は千代田線から転属)して、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたりの運転本数を24本(2分30秒間隔)から27本(2分15秒間隔)に増発した。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "第2次輸送力増強の費用は、車両23両の新造費用等で18億3,088万円であったが、第3次輸送力増強では車両基地の増線(行徳検車区が発足)や変電所設備の増強などを含み、総額は119億9,628万円の費用を要した。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "このほか、営団地下鉄は1978年(昭和53年)に「東西線輸送力増強対策研究会」を設置し、将来の輸送需要を予測して車両増備、車両基地・信号設備の増強のほか、日本橋駅、茅場町駅、西船橋駅の改良工事が必要とされた。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "銀座線と交差する日本橋駅は、東西線からの乗り換え客が増加したことから、銀座線のホームを島式1面からA線(渋谷方面)専用ホームを増設し、従来ホームをB線(浅草方面)専用ホームとした。さらに連絡通路の拡幅と増設を行った。1981年(昭和56年)4月に着工し、1985年(昭和60年)7月に完成、工事費用は43億8,000万円であった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "日比谷線と交差する茅場町駅は、東西線からの乗り換え客が増加したことから、日比谷線とのコンコースを拡大、日比谷線のホームは26m にわたってホーム幅を5.5 mから7.8 mに拡大した。さらに連絡階段とエスカレーターを増設した。1981年(昭和56年)2月に着工し、1984年(昭和59年)3月に完成、工事費用は15億9,700万円である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "西船橋駅は東西線開業時点で武蔵野線の建設計画があり、駅上部に武蔵野線の高架線を支える柱が設置できるよう準備されていた。しかし、武蔵野線および京葉線は当初の貨物線から旅客線となったため、京葉線の開業時には東西線への乗り換え客の増加が予想された。このため、東西線西船橋駅の中野方面行きホームを、約4 m拡幅し、駅施設および階段の拡幅を行った。1981年(昭和56年)11月に着工し、1985年(昭和60年)3月に完成、工事費用は13億9,800万円である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1990年(平成2年)6月20日には東西線の自社車両はすべて10両編成化された。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2010年代においてもなお、東西線の朝ラッシュ時混雑率は、JR・私鉄も含めた首都圏の鉄道路線でもワーストクラスである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2021年度の朝ラッシュ時の最混雑区間はB線、木場→門前仲町間であり、ピーク時(7:50 - 8:50)の混雑率は128%である。また、前年の2019年度における同区間のピーク時混雑率は199%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2017年より東京地下鉄公式サイトで公開された「朝ラッシュ時間帯の混雑状況について」では、木場駅を7:50 - 8:10頃に発車する列車が最も混雑する。車両中央部にあたる4号車と5号車は、他の車両と比較すると空いている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1981年度から朝ラッシュ時のB線は毎時27本の高頻度運転がなされているが、これ以上の輸送力増強は困難である。1989年に都営地下鉄新宿線が、1990年に京葉線が当路線と並行する形で開業したことにより、1989年度に混雑率が200%程度まで緩和された。しかし、その後は輸送人員と混雑率が20年以上にわたって横ばい傾向となり、1999年度以降は東京の地下鉄で最も混雑する路線となった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "快速通過駅である葛西駅と西葛西駅は他路線と接続しない単独駅でありながら1日平均乗降人員が10万人を越えており、朝ラッシュ時に限り運転される通勤快速は、これらの駅にも停車することで混雑の平準化を図っている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2007年度の1日平均通過人員は、門前仲町 - 木場間が655,312人で最も多く、茅場町 - 門前仲町間が655,307人でこれに匹敵する。東京メトロ全線で1日平均通過人員が60万人を超える区間を有する路線は、当路線のみである。これらの区間をピークに、両端の区間に進むに連れて通過人員が減少する。西船橋方面は緩やかに減少し、千葉県との県境を跨ぐ葛西 - 浦安間が401,499人、原木中山 - 西船橋間が272,588人である。一方、中野方面は日本橋 - 茅場町間が624,603人であるが大手町 - 日本橋間が518,132人、竹橋 - 大手町間が395,616人であり、竹橋 - 茅場町間で20万人以上通過人員が減少する。その後は緩やかに減少し、高田馬場 - 早稲田間が300,010人であるが落合 - 高田馬場間が148,320人と半分程度まで減少し、中野 - 落合間が132,742人で最も少ない。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "こうした状況を受けて、2007年3月18日のダイヤ改正より朝ラッシュのピーク時間帯(西船橋発6:56 - 8:15)の「快速」が全列車「通勤快速」に変更された。これにより該当時間の全列車が浦安以西各駅停車となり、この時間帯の浦安→東陽町間の所要時間は、快速が8分、通勤快速と快速待避のない各停が11分、快速待避のある各停が13分であったが、全列車11分に統一された。この結果、各停への乗客の集中が緩和され、混雑の平準化が図られた。なお、対象の時間帯は元々ほとんどが通勤快速で、快速は東葉快速1本のみであった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "東西線では、混雑緩和・時差通勤を促進するため、以下のようなキャンペーンが実施されてきた。実施期間が冬期に限られていたのは、乗客が厚着することにより、ドア挟みの発生や乗降に時間が掛かりやすく、夏期に比べ遅延することが多いからである(いわゆる「着ぶくれ」)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2007年12月10日から2008年2月29日までの平日には「東西線 早起き通勤キャンペーン」が実施された。対象区間は東陽町 - 浦安間で、期間中の朝の指定時間帯内に同区間を含むPASMOまたはSuica通勤定期券(通学定期券は対象外)で対象区間内の駅に置かれた専用端末にタッチすると、1日1回の「早起き通勤回数」がカウントされ、20回以上の利用者に先着で三菱UFJニコスギフトカード1000円分、40回以上で2000円分が贈られるというものである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "このキャンペーンは続編として通勤定期券だけでなく通学定期券も対象とした「東西線早起きキャンペーン」として2008年12月1日から2009年2月27日までの平日にも実施された。この年から対象が原木中山 - 門前仲町間のいずれかの駅からの乗車で南砂町 - 茅場町間のいずれかを含むPASMOまたはSuica定期券となり、時間帯によってカウントされる早起き通勤回数が変わる(前半30分は3カウント、後半30分は1カウント)ように、賞品が贈られるカウント数が50以上に変更され、賞品も通勤者向きにTokyo Metro To Me CARDのメトロポイント、通学者向きにオリジナルグッズが追加された。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2009年12月1日から2010年2月26日までの平日にも同様のキャンペーンが実施された。このキャンペーンでは、通勤者向けの賞品がTokyo Metro To Me CARDのメトロポイントと三菱UFJニコスギフトカード、通学者向けの賞品が文具セットとなった。また、50カウント未満でも20カウント以上を記録した利用者すべてに粗品がプレゼントされるようになった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2010年12月1日から2011年2月28日までの平日にも同様のキャンペーンが実施されるが、実施区間が西船橋 - 門前仲町間に拡大され、JR総武線やJR武蔵野線から東西線へ乗り換える乗客も参加しやすくなった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "「東西線早起きキャンペーン」は以後も実施されており、2013年度から実施区間に東葉高速線が追加され、定期券以外の交通系ICカードでも参加可能になり、2015年には初めて4月から7月までの期間にも実施された。2017年9月25日からは土休日・年末年始をのぞく通年実施となった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2019年4月1日からは、「東西線早起きキャンペーン」に代わる混雑緩和を目的としたキャンペーンとして、メトロポイントクラブ(メトポ)を活用した「東西線オフピークプロジェクト」を開始した。平日の朝ラッシュ時間帯を除く午前中に駅を出場または乗り換えると、入場時間に応じてポイント(メトポ)が進呈される(小児は、通常の半分のポイント進呈)。ただし、対象乗車駅は、東葉勝田台駅 - 門前仲町駅に限られる。事前にメトポに入会し参加登録したPASMOが必要。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "営団時代の1991年10月16日から05系ワイドドア車を導入したが、5編成の投入に留まった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "東京メトロは2009年度の事業計画の中で、東西線の混雑緩和策としてオールワイドドア車10両編成の15000系を導入し、ラッシュ時間帯の列車に割り当てる方針を明らかにした。15000系は2010年から投入が開始され、同年5月7日から営業運転を開始した。そして、2011年度までに13編成130両が投入された。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "東京メトロは2011年度事業計画の中で、上述のワイドドア車両再投入を含め、本格的に混雑緩和を行うため、ホームの拡幅や延伸、新たな線路やホームを増設することを明らかにした。具体的な計画は以下のものがあげられている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "その後、2013年12月2日のダイヤ改正で終電の運転区間を延長し、最終の東陽町行が妙典行に変更となった。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2015年度事業計画の中で、前記の計画に加え2019年度を目途に九段下駅の折り返し線を改良し、B線の九段下止まりの列車をA線へ折り返す際にB線と平面交差せずに折り返しできるよう工事を行うことを明らかにした。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "また、東京メトロが2016年3月28日に発表した、2016年度から2018年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2018〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜』の中では、増発およびB修繕による予備車確保を目的に、2016年度にワイドドア車両が3編成増備されることが発表された。その増備車両として、15000系増備車が2017年上半期に導入されている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "2019年度から2021年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2021』では、茅場町駅のホーム延伸、木場駅のホーム拡幅など大規模改良に総額約1,200億円を使った輸送改善プロジェクトやオフピーク通勤通学の推進に取り組む事が記されている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "なお、新型コロナウイルス感染症の流行によるリモートワークや時差通勤の普及により、輸送人員が減少したため、当初予定していた木場駅の駅改良工事の無期限延期や南砂町駅での一部計画の見直しなどを行っている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "2015年5月から6月にかけて、従来のブザーに代わり向谷実作曲・編曲の発車メロディ(発車サイン音)を導入した(JR管轄の中野駅を除く)。九段下駅では爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い」、日本橋駅では民謡「お江戸日本橋」、それ以外の各駅ではA線(西船橋方面)で「A Day in the METRO」、B線(中野方面)で「Beyond the Metropolis」(いずれもオリジナル曲)を使用している。各駅のメロディはそれぞれ駅や地域の雰囲気に合わせた異なるものになっているが、原曲をもつ九段下駅と日本橋駅のメロディも含めて進行方向につなぐと1つの曲になるように制作されている。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "この発車メロディの導入に合わせて、向谷が代表を務める音楽館からCDアルバム『東京メトロ東西線 発車メロディCollection』が同年5月13日に発売されている。同アルバムには実際に使用されているメロディのオリジナル音源や、神保彰・矢堀孝一・宮崎隆睦ら国内のトップミュージシャンが演奏に参加したアレンジバージョンなどが収録されている。", "title": "発車メロディ" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "なお、これらとは別に2018年11月26日からは、放送装置が更新された車両より順次スイッチ制作の車載メロディの使用を開始している。曲はA線が「スカイブルー」(福嶋尚哉作曲)、B線が「アゲハ蝶のワルツ」(塩塚博作曲)である。", "title": "発車メロディ" } ]
東西線(とうざいせん)は、東京都中野区の中野駅から千葉県船橋市の西船橋駅までを結ぶ、東京地下鉄(東京メトロ)が運営する鉄道路線である。『鉄道要覧』における名称は5号線東西線。 路線名の由来は東京を東西に横断することから。車体及び路線図や乗り換え案内で使用されるラインカラーは「スカイブルー」(#009bbf、水色)、路線記号はT。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Tokyo Metro logo.svg|20px|東京地下鉄|link=東京地下鉄]] 東西線 |路線色=#009bbf |ロゴ=File:Logo of Tokyo Metro Tōzai Line.svg |ロゴサイズ=40px |画像=Tokyo-Metro Series05-143F.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=東西線で運用される[[営団05系電車|05系]]<br>(2022年5月、[[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]] - [[南行徳駅]]間) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]]・[[千葉県]] |種類=[[地下鉄]] |路線網=[[東京地下鉄|東京メトロ]] |起点=[[中野駅 (東京都)|中野駅]] |終点=[[西船橋駅]] |駅数=23駅 |輸送実績=3,619,966千[[輸送量の単位|人キロ]]<small>(2019年度)<ref name="passenger numbers">{{Cite web|和書|url=https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19qa041401.xls|title=東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)/運輸|format=XLS|publisher=[[東京都]]|accessdate =2021-07-31}}</ref></small> |1日利用者数= |路線記号=T |路線番号=5号線 |路線色3={{Legend2|#009bbf|スカイブルー}} |開業=[[1964年]][[12月23日]] |全通=[[1969年]][[3月29日]] |休止= |廃止= |所有者=[[東京地下鉄]] |運営者=東京地下鉄 |車両基地=[[深川車両基地|深川検車区]]・[[深川検車区行徳分室]]<br>[[三鷹車両センター]](JR東日本)<br>[[八千代緑が丘車両基地]](東葉高速鉄道) |使用車両=[[#車両|車両]]の節を参照 |路線距離=30.8&nbsp;[[キロメートル|km]]<ref name="metro2" /\ |軌間=1,067&nbsp;[[ミリメートル|mm]]([[狭軌]])<ref name="metro2" /> |線路数=[[複線]] |複線区間=全区間 |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> |最大勾配=40&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="Tozai-Const781">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.781。</ref> |最小曲線半径=200&nbsp;m<ref name="Tozai-Const781"/> |閉塞方式=速度制御式 |保安装置=[[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]](デジタルCS-ATC) <ref name="tozai_15000">{{Cite web|和書|url=http://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/cars/working/tozai_15000/index.html |title= 東西線15000系 東京メトロ|accessdate=2017-01-09}}</ref><ref name="RE1610">[[#RE1610|『鉄道と電気技術』第16巻10号、pp.29 - 32]]</ref><ref name="RE1903">[[#RE1903|『鉄道と電気技術』第19巻3号、pp.14 - 18]]</ref> |最高速度=100&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="metro2">{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/aeHAsFnrdPem.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230308021418/http://www.jametro.or.jp/upload/data/aeHAsFnrdPem.pdf|title=令和4年度 地下鉄事業の現況|work=7.営業線の概要|date=2022-10|archivedate=2023-03-08|accessdate=2023-03-08|publisher=[[日本地下鉄協会|一般社団法人日本地下鉄協会]]|format=PDF|language=日本語|pages=3 - 4|deadlinkdate=}}</ref> |路線図=File:Tozai_LineMap.png }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#009bbf}} {{BS-table}} {{BS|CONTg|||[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]:[[中央・総武緩行線]]({{stn|三鷹}}方面)|}} {{BS3|STR+l|ABZgr}} {{BS3|BHF|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBeq||0.0|T-01 [[中野駅 (東京都)|中野駅]] {{rint|ja|ecr}} {{rint|ja|ecs}}||}} {{BS3|LSTR|tSTRa}} {{BS|tBHF|2.0|T-02 [[落合駅 (東京都)|落合駅]]||}} {{BS|tKRZW|||[[神田川 (東京都)|神田川]]|}} {{BS|tBHF|3.9|T-03 [[高田馬場駅]] {{rint|tokyo|f}} {{rint|saitama|ss}}||}} {{BS|tBHF|5.6|T-04 [[早稲田駅]]||}} {{BS|tBHF|6.8|T-05 [[神楽坂駅]]||}} {{BS3|hLSTR|tKRZW||||[[外濠 (東京都)|飯田濠]]|}} {{BS3|hSTRl|tTBHFh|hSTR+r|8.0|T-06 [[飯田橋駅]] {{rint|tokyo|n}} {{rint|tokyo|y}} {{rint|tokyo|e}} {{rint|ja|ecs}}||}} {{BS3||tBHF|hLSTR|8.7|T-07 [[九段下駅]] {{rint|tokyo|z}} {{rint|tokyo|s}}||}} {{BS3||WDOCKS|O2=tSTR||||清水濠|}} {{BS|WDOCKSa|O1=tBHF|9.7|T-08 [[竹橋駅]]||}} {{BS|WDOCKSe|O1=tSTR|||大手濠|}} {{BS|tBHF|10.7|T-09 [[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] {{rint|tokyo|m}} {{rint|tokyo|c}} {{rint|tokyo|z}} {{rint|tokyo|i}}||}} {{BS|tSTR|||([[東京駅]] {{rint|ja|新幹線|東海道}} {{rint|ja|新幹線|東北}} {{rint|ja|eto}} {{rint|ja|eun}} {{rint|ja|ecr}} {{rint|ja|ekt}} {{rint|ja|eyt}} {{rint|ja|eys}} {{rint|ja|eky}})|}} {{BS|tBHF|11.5|T-10 [[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]] {{rint|tokyo|g}} {{rint|tokyo|a}}||}} {{BS|tBHF|12.0|T-11 [[茅場町駅]] {{rint|tokyo|h}}||}} {{BS|tKRZW|||[[亀島川]]|}} {{BS|tKRZW|||[[隅田川]]|}} {{BS|tKRZW|||大島川西支川|}} {{BS|tBHF|13.8|T-12 [[門前仲町駅]] {{rint|tokyo|e}}||}} {{BS|tKRZW|||平久川|}} {{BS|tBHF|14.9|T-13 [[木場駅]]||}} {{BS|tKRZW|||[[大横川]]|}} {{BS3|KDSTa|tSTR||||[[深川車両基地]]|}} {{BS3|STR|tBHF||15.8|T-14 [[東陽町駅]]||}} {{BS3|hKRZWae|tSTR||||[[汐浜運河]]|}} {{BS3|tSTRa|tSTR}} {{BS3|tSTRl|tABZgr}} {{BS|tBHF|17.0|T-15 [[南砂町駅]]||}} {{BS|htSTRe}} {{BS|hKRZW||[[荒川中川橋梁 (東京メトロ東西線)|荒川中川橋梁]]|[[荒川 (関東)|荒川]]}} {{BS|hKRZW||荒川中川橋梁|[[中川]]}} {{BS|hBHF|19.7|T-16 [[西葛西駅]]||}} {{BS|hBHF|20.9|T-17 [[葛西駅]]||}} {{BS3|WASSERq|O1=GRZq|hKRZW|O2=GRZq|WASSERq|O3=GRZq|||[[旧江戸川]](↑[[東京都]]/[[千葉県]]↓)|}} {{BS|hBHF|22.8|T-18 [[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]]||}} {{BS|hBHF|24.0|T-19 [[南行徳駅]]||}} {{BS|hBHF|25.5|T-20 [[行徳駅]]||}} {{BS|hBHF|26.8|T-21 [[妙典駅]]||}} {{BS3|KDSTaq|O1=lhSTRa@fq|hABZgr||||[[深川検車区行徳分室]]|}} {{BS3|WASSERq|hKRZW|WASSERq|||[[江戸川]]|}} {{BS|hBHF|28.9|T-22 [[原木中山駅]]|}} {{BS3|WASSERq|hKRZW|WASSERq|||[[真間川]]|}} {{BS3||hSTR|hLSTR}} {{BS3||hBHF|O2=HUBaq|hBHF|O3=HUBeq|30.8|T-23 [[西船橋駅]] {{rint|ja|ecs}} {{rint|ja|eky}} {{rint|ja|ems}} {{rint|tokyo|tr}}||}} {{BS3||hKRWgl|hKRWg+r}} {{BS3||hSTR|hCONTf|||JR東日本:中央・総武緩行線({{stn|千葉}}方面)|}} {{BS|hCONTf|||↓東葉高速鉄道:[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]|}} |} |} '''東西線'''(とうざいせん)は、[[東京都]][[中野区]]の[[中野駅 (東京都)|中野駅]]から[[千葉県]][[船橋市]]の[[西船橋駅]]までを結ぶ、[[東京地下鉄]](東京メトロ)が運営する[[鉄道路線]]である。『[[鉄道要覧]]』における名称は'''5号線東西線'''。 路線名の由来は東京を東西に横断することから。車体及び路線図や乗り換え案内で使用される[[日本の鉄道ラインカラー一覧|ラインカラー]]は「スカイブルー」<!--自社公式掲示、駅周辺案内等で確認済。-->(#009bbf、水色)<ref name="color">{{Cite web|和書|url=https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210604113943/https://developer.tokyometroapp.jp/guideline|title=東京メトロ オープンデータ 開発者サイト|archivedate=2021-06-04|accessdate=2021-06-04|publisher=東京地下鉄|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>、[[路線記号]]は'''T'''。 == 概要 == 名称の通り東京都心部を東西に貫く路線であり、当路線の開業当時に混雑が激しかった[[中央線快速]]と[[総武本線|総武線]]のバイパス路線として開業した<ref name="Tozai-Const38-39">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.38 - 39。</ref><ref name="hbol20200506" />。その西端の[[中野駅 (東京都)|中野]]から[[大手町駅 (東京都)|大手町]]や[[日本橋駅 (東京都)|日本橋]]などの東京[[都心]]部を経由しながらさらに東方向へ進み、[[旧江戸川]]以東の[[浦安駅 (千葉県)|浦安]] - 西船橋間は[[千葉県]]内となる。東西線は、[[帝都高速度交通営団]](現:東京地下鉄〈東京メトロ〉)では初めての東京都外(そして[[東京都区部|東京23区]]以外)への路線となった<ref name="hbol20200506" />。また、東京メトロで唯一の千葉県内に延伸された路線である。東京都外へは、後に[[東京メトロ有楽町線]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]も[[埼玉県]]内に路線が延びたが、有楽町線・副都心線唯一の都外・23区外の駅である埼玉県南端の[[和光市駅]]は[[東武鉄道]][[東武東上本線|東上線]]の管理駅であるため、都外・23区外に東京地下鉄管理駅を持つのは東西線が唯一である<ref group="注釈">同様に東京の地下鉄で東京都外に管理駅を持つ例に[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]の[[本八幡駅]](千葉県)がある。</ref>。 [[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス]]流行以前の[[2019年]]度における最混雑区間([[木場駅]]→[[門前仲町駅]])の[[定員#混雑率・乗車率|混雑率]]は199%と、地下鉄のみならず日本の鉄道路線の中で最も混雑している路線であった<ref group="報道" name="konzatsu2019" />。[[2021年]]度における平均輸送人員は日本の地下鉄で唯一100万人を上回った<ref name="metro2" />。コロナ後は、沿線に日本IBM、野村総研、大和総研などの情報通信業の事業者もあり、在宅比率も高くなり、混雑率は改善されている。 全長は30.8&nbsp;[[キロメートル|km]]で[[都営地下鉄大江戸線]]、[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]に次いで日本の地下鉄の中で3番目に長い。当路線東側区間の[[南砂町駅]]付近 - 西船橋駅間は約14&nbsp;kmという地下鉄としては長大な地上区間となっている(詳細は[[#地上区間|後節]]参照)<ref name="metro2" />。この地上区間の一部の駅には[[待避駅|待避設備]]が設けられ、一部区間では最高速度100&nbsp;km/hで日本の地下鉄路線初の[[快速列車|快速運転]]が行われている<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/safety/customer/service/pdf/tozai_line_panph.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211201210135/https://www.tokyometro.jp/safety/customer/service/pdf/tozai_line_panph.pdf|title=爽やかな明日をめざして! 青空とメトロ東西線|archivedate=2021-12-01|accessdate=2021-12-01|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/39049|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230213003219/https://trafficnews.jp/post/39049|title=【今日は何の日?】営団東西線全通、地下鉄初の快速登場|website=乗りものニュース|date=2021-03-29|accessdate=2023-02-13|archivedate=2023-02-13}}</ref>。 西側で[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[中央・総武緩行線|中央線(各駅停車)]]の中野 - [[三鷹駅|三鷹]]間、東側でJR東日本[[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]の西船橋 - [[津田沼駅|津田沼]]間及び[[東葉高速鉄道]][[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]の西船橋 - [[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]間と直通運転を行っており、車両は3社とも20&nbsp;m級車両10両編成で統一されている。なお、西船橋 - 津田沼間の直通運転は朝夕ラッシュ時のみに限定され、それ以外の区間は終日直通運転が行われている(詳細は「[[#直通運転|直通運転]]」の節を参照)。 東西線は[[東京メトロ副都心線]]以外の全ての[[東京の地下鉄]]路線との接続駅を持つ。副都心線開業前は、全ての地下鉄路線と接続できていた。副都心線とは高田馬場駅 - 早稲田駅間で交差し、近傍に副都心線の[[西早稲田駅]]があるが、乗換・接続駅には指定されていない。 東京の地下鉄で起点と終点である両端の駅が地上駅となっているのは当路線と[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]、[[東京メトロ千代田線|千代田線]]のみである。 === 建設費用 === 本路線の建設費用は総額1,136億5,000万円である(1971年7月時点)<ref name="Tozai-Const18">[[東京メトロ東西線#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.18。</ref>。内訳は土木関係費が735億5,275万円、電気関係費が70億5,630万3,000円、車両関係費が145億1,530万3,000円、その他が185億2,564万4,000円となっている<ref name="Tozai-Const18" />。 建設史では、中野 - 東陽町間、東陽町 - 西船橋間に分けても記載されている<ref name="Tozai-Const18" />。中野 - 東陽町間の建設費用の総額は820億円であり、内訳は土木関係費が527億6,967万5,000円、電気関係費が46億2,818万6,000円、車両関係費が91億8,062万9,000円、その他が154億2,151万円となっている<ref name="Tozai-Const18" />。東陽町 - 西船橋の建設費用の総額は316億5,000万円で、内訳は土木関係費が207億8,307万5,000円、電気関係費が24億2,811万7,000円、車両関係費が53億3,467万4,000円、その他が31億413万4,000円となっている<ref name="Tozai-Const18" />。 === 路線データ === * 管轄(事業種別):東京地下鉄([[鉄道事業者#第一種鉄道事業者|第一種鉄道事業者]]) * 路線距離([[営業キロ]]):30.8&nbsp;[[キロメートル|km]](うち地上部:13.8&nbsp;km)<ref name="metro2" /> * [[軌間]]:1,067&nbsp;mm<ref name="metro2" /> * 駅数:23駅(起終点駅含む)<ref name="metro2" /> * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1500&nbsp;V [[架空電車線方式]])<ref name="metro2" /> * 地上区間:中野駅付近(402&nbsp;m{{Refnest|group="注釈"|付図「別図 東西線線路平面図及び縦断面図(中野・神楽坂間)」には、「中野駅は中野起点0&nbsp;K291&nbsp;M」・「隧道出口0&nbsp;K693&nbsp;M」とあり、中野駅中心から坑口までの地上区間は402&nbsp;m である<ref name="Tozai-Const326-327">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.326 - 327。</ref>。}})・南砂町 - 西船橋間13.4&nbsp;km{{Refnest|group="注釈"|付図「別図 東西線線路平面図及び縦断面図(東陽町・浦安間)」および「別図 東西線線路平面図及び縦断面図(浦安・西船橋間)」には、「南砂町駅は南砂町起点0&nbsp;K690&nbsp;M」・「坑口は1&nbsp;K120&nbsp;M」と書かれている<ref name="Tozai-Const326-327" />。南砂町駅中心からトンネル坑口までは430&nbsp;mである<ref name="Tozai-Const326-327" />。一方、「西船橋駅は南砂町駅起点14 K495 M」と書かれている<ref name="Tozai-Const326-327" />。南砂町駅付近のトンネル坑口から西船橋駅中心までの地上区間の距離は、正確には13.375&nbsp;kmである。}}。トータルの地上区間は13.8&nbsp;km(厳密には13.777&nbsp;km)となる。 * 地下区間:中野 - 南砂町間(中野駅はJRと共用で地上にある) ** 中野駅のすぐ東と南砂町駅 - 西葛西駅間(荒川鉄橋のすぐ西)に地下への入口がある。 * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:速度制御式([[自動列車制御装置#新CS-ATC|新CS-ATC]](デジタルCS-ATC<ref name="tozai_15000"/><ref name="RE1610"/><ref name="RE1903"/>)<!-- ほかの路線と表記を統一 --> * [[列車無線]]方式:[[誘導無線]] (IR) 方式 * 最高速度:快速100&nbsp;km/h・普通100&nbsp;km/h<ref name="metro2" /> ** 最高速度 100&nbsp;km/hを出せるのは浦安 - 妙典間。なお、地下区間の最高速度は80&nbsp;km/hである<ref>{{Cite book|和書|author=|date=2011-02-01|title=東京メトロのひみつ|publisher=[[PHP研究所]]|page=|isbn=978-4569794471}}</ref>。 * 平均速度:快速49.4&nbsp;km/h・普通43.7&nbsp;km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * [[表定速度]]:快速41.8&nbsp;km/h<ref group="注釈">快速の表定速度の43.4&nbsp;km/hは東京地下鉄と同じ[[大手私鉄]]である[[相模鉄道]]が[[相鉄本線|本線]]・[[相鉄いずみ野線|いずみ野線]]の[[横浜駅|横浜]] - [[二俣川駅|二俣川]] - [[湘南台駅|湘南台]]間で運転している[[快速列車|快速]]や、[[南海電気鉄道]]が[[南海高野線|高野線]]の[[難波駅 (南海)|難波]] - [[極楽橋駅|極楽橋]]間で運転している一部の[[特別急行|特急]]「[[こうや]]」及び[[快速急行]]の表定速度に匹敵する。</ref>・普通35.5&nbsp;km/h(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * 全線所要時分:快速44分15秒・普通52分05秒(2021年4月1日現在)<ref name="metro2" /> * 最急勾配:40&nbsp;[[パーミル|‰]](西船橋方面行きA線・早稲田→神楽坂)<ref name="Tozai-Const602">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.602。</ref><ref name="Tozai-Const781"/> ** 本線ではないが、東陽町駅から深川車両基地を結ぶ、深川車庫線にも40&nbsp;‰の勾配がある<ref name="Tozai-Const485">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.326 - 327、付図「別図 深川車庫線線路平面図および縦断面図」p.485。</ref><ref name="Tozai-Const781"/>。 * [[車両基地]]:[[深川車両基地|深川検車区]] * 工場:[[深川車両基地#深川工場|深川工場]] == 沿線概況 == === 地下区間 === ほとんどの区間は複線構造の[[トンネル#開鑿(開削)工法|開削工法]]で構築している<ref name="Tozai-Const7">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.7 - 9・17。</ref>。ただし、[[早稲田駅]]付近は地上道路の幅が狭いことから、駅は上下2層構造となっている<ref name="Tozai-Const7"/>。 飯田橋駅の[[中央本線]]架道橋横断部、九段下 - 竹橋 - 大手町付近<ref group="注釈">清水濠 - 竹橋駅 - 大手濠 - 永代通り地下(大手町駅手前)までは、竹橋駅の一部を除いた大部分が潜函工法で構成されている。</ref>、茅場町 - 門前仲町間の[[隅田川]]横断部([[永代橋]]下流)<ref group="注釈">この区間は隅田川横断部9函の潜函に加え、取り付け部となる中野方に5函、西船橋方に2函の路下式潜函を沈設させており、計16函から構成される。</ref>と[[大横川|大島川西支川]]の福島橋横断部、[[洲崎川]]直下に構築する[[南砂町駅|南砂町]]付近は締切築島または道路覆工の下に構築した[[ケーソン]](潜函)を沈下させる、潜函工法を使用している<ref name="Tozai-Const7"/><ref name="Tozai-Const365">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.365・425 - 426。</ref>。門前仲町駅終端 - 木場駅 - 東陽町駅始端までの1,770.06&nbsp;mの区間は、[[軟弱地盤]]なことから、営団地下鉄では初めての全円断面の[[シールドトンネル|単線シールド工法]]を使用した<ref name="Tozai-Const474">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.330・474 - 484。</ref><ref group="注釈">営団地下鉄では[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]国会議事堂前 - 赤坂見附間で半円型のルーフ・シールド工法を採用した実績がある。</ref>。 東西線は茅場町 - 門前仲町間で隅田川をトンネルで横断するが(前述)、以東は[[海抜ゼロメートル地帯]]を通ることから、浸水([[洪水]])対策を施している<ref name="Tozai-Const329">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.329・358 - 359・452 - 457・560・646。</ref>。 * 霊岸橋 - [[永代橋]]間(茅場町駅から門前仲町駅方面に約430&nbsp;m向かった地点)ではトンネルを急速に浅くさせて「[[峠]]」を造り、その頂点にトンネルの全断面を閉鎖する「防水扉」(防水ゲート・新川防水扉)を設置<ref name="Tozai-Const329"/>。 * 隅田川以東の駅間トンネルならびに駅構内の換気は、歩道に通風口を設ける自然換気方式から地上用地に換気塔を設けて機械装置による機械換気方式に変更<ref name="Tozai-Const329"/>。 * 深川車庫及び南砂町駅付近のトンネル坑口周囲に東京湾平均海面 +4.5&nbsp;mの防水壁を設置<ref name="Tozai-Const329"/>。 * 地上出入口を歩道より高くし、出入口に止水板および防水扉を設置(門前仲町 - 南砂町間の各駅)<ref name="Tozai-Const329"/>。 * 東陽町駅駅本屋(出口1番)の1階部の開口部にすべて防水扉を設置、駅間の換気塔にも防水扉を設置<ref name="Tozai-Const329"/>。 * 地上区間の高架下には葛西・行徳・西船橋の3か所の[[変電所]]を設置しているが、床面は約1.5 mの高床構造とし、機器搬入口には防水扉を設置、点検用の出入口は高所から出入りする構造とした<ref name="Tozai-Const329"/>。 === 地上区間 === 南砂町付近 - [[西船橋駅|西船橋]]間の地上区間は、東西線の大きな特色をなしている。地上区間を持つ日本国内の地下鉄路線は他にも多数存在し、また近年の直通運転の拡大により地上区間の走行距離が地下区間よりも長くなる列車は珍しくなくなったが、自社線内だけで全線の半分弱を占める約14&nbsp;kmという長距離の地上区間を持つ地下鉄路線は東西線のみである<ref name="metro2" />。東西線の建設当初、現在の地上区間周辺は田畑であり、地上に路線を建設することもできたが、将来の[[市街地]]化を予測して高架線構造の採用に至った<ref name="Tozai-Const331">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.331。</ref>。当時、周辺の私鉄では市街地における地上線と道路の[[平面交差]]([[踏切]])の高架化要望が多数あり、実現に難航していることを見れば、当然の流れであった<ref name="Tozai-Const331"/>。その後、元々田畑だった地上区間部分も人口流入により、現在のような住宅が密集する市街地となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://trafficnews.jp/post/103921/2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211201221732/https://trafficnews.jp/post/103921/2|title=快速より普通が混むことも 東京メトロ東西線はなぜ有数の混雑路線になったのか|date=2021-01-26|archivedate=2021-12-02|page=2|accessdate=2021-12-02|website=乗りものニュース|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 東西線は元々[[中央線快速]]と[[総武本線|総武線]]の[[バイパス]]としての役割を担って建設された<ref name="hbol20200506">{{Cite web|和書|url=https://hbol.jp/pc/218125/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210813232937/https://hbol.jp/pc/218125/|title=東西線は、いかにして最も混雑する路線になってしまったのか?<東京地下鉄100年史>|date=2020-05-06|archivedate=2021-08-13|accessdate=2021-08-13|website=[https://hbol.jp/pc/ ハーバービジネスオンライン]|publisher=[[扶桑社]]|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。東西線開業によって総武線沿線から都心への所要時間は大幅に短縮され、東西線沿線のみならず起点の西船橋以遠のJR線からの中・長距離通勤客の流入で大変混雑するようになっている。さらに近年の線内利用者の増加に対応するため、以下の変化がもたらされた(各々の詳細については次章以降で詳述している)。 * この地上区間を一部の駅にしか止まらない、快速運転の実施。地下鉄路線では日本で初めて実現した優等列車である。また一部の駅には、快速の追い抜きのための待避設備を有する。 * もともと駅間が長かった区間に新駅を設置<ref name=":0" />。[[西葛西駅]]、[[南行徳駅]]、[[妙典駅]]の新設。途中駅が新設された路線は他の地下鉄にも存在するが、3駅も新設されたのは東西線のみである。 * 東西線西船橋開通の3年後に[[東京駅]]に乗り入れたJR[[総武快速線]]と共に、千葉県北西部と東京都心を短絡する大動脈となり、競合する[[京成本線]]の最混雑区間が、[[新三河島駅|新三河島]] - [[日暮里駅|日暮里]]間から[[大神宮下駅|大神宮下]] - [[京成船橋駅|京成船橋]]間に後退した<ref>{{Cite journal |和書 |year=2013 |title=東京圏 都市鉄道プロジェクト |publisher=電気車研究会 |page=167 |id={{JAN|4910064120735}} }}</ref>。 そのほか、平均乗車距離の長さ、朝と昼の[[定員#混雑率・乗車率|混雑率]]の差、[[定期乗車券|定期券]]利用客率の高さのいずれもが、東京メトロの路線ではトップクラスにある。都心部を走る地下鉄でありながら、[[郊外]]へ延びる通勤路線としての側面もある。 快速運転を考慮して、地上区間の最小曲線半径は500&nbsp;mとなっている<ref name="Tozai-Const602"/>。[[線形 (路線)|線形]]が良い地上区間は軌道改良も行われており、現在では60&nbsp;kg[[軌条|レール]]が採用されている<ref name="RJ759_89">{{Cite journal|和書|author=武藤義彦(東京地下鉄鉄道本部工務部工務課)|title=線路と保線|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=89|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。これはJR線では[[新幹線]]や主要幹線クラスに採用されるレールであり(一般的には50&nbsp;kgNレールが主流)、大量高密度輸送と高速運転を支える要となっている。 ==== 地上区間の沿線風景 ==== A線(西船橋方面行き)を基準とすると、[[南砂町駅|南砂町]]を出た列車は35&nbsp;[[パーミル|‰]]の勾配(連続573.5&nbsp;m)を上って地上に出て、左にカーブしながら一気に高架へ駆け上がる。左右の[[マンション]]や[[工場]]などの建造物群を抜けると、[[荒川中川橋梁 (東京メトロ東西線)|荒川中川橋梁]]という長いトラス橋を渡る。なお、[[東京地下鉄]]で[[荒川 (関東)|荒川]]を横断する路線は東西線と[[東京メトロ千代田線|千代田線]]だけである<ref group="注釈">直通運転先を含めれば、[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]と[[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]、[[東京メトロ南北線|南北線]]も荒川を横断する。</ref>。橋の右隣(下流側)には[[清砂大橋]]という歩道を備えた道路橋が架かる。橋を渡る最中、西船橋方面行き(A線)の列車の右手には[[葛西臨海公園]]の[[ダイヤと花の大観覧車|大観覧車]]を、中野方面行き(B線)の列車は[[東京スカイツリー]]、晴天時には[[富士山]]を見ることができる。[[首都高速中央環状線]]をくぐった後に橋を渡り終え、直線で進み[[西葛西駅|西葛西]]となる。南砂町から西葛西までは東京地下鉄で最も駅間距離が長い区間 (2.7&nbsp;km) である。 西葛西を出ると、途中に左カーブを挟みつつマンション群の中を直線で進み、[[変電所]]の脇を通ると[[地下鉄博物館]]最寄の[[葛西駅|葛西]]となる。葛西駅は中央2線を通過線とする[[東海道新幹線]][[静岡駅]]や[[東北新幹線]][[宇都宮駅]]のような構内を持ち、快速の通過待ちが行われている。葛西を出ると、徐々に一軒家が目立ち始める中を直線で進み、左カーブのあと[[旧江戸川]]を第一江戸川橋梁で越え、東京都から千葉県に入る。右手(下流側)には[[東京ディズニーリゾート]]を、左手(上流側)には浦安橋と[[妙見島]]を見ることができる。そのあと再び左にカーブし[[浦安駅 (千葉県)|浦安]]に入る。 浦安を出ると再び左カーブがあり、そのあと妙典手前まで長い直線となる。この直線区間には途中[[南行徳駅|南行徳]]と[[行徳駅|行徳]]があり、左カーブの後は2駅を見通すことができる。列車は一軒家とマンションが混在する中を直線で進み、[[妙典駅|妙典]]に至る。妙典は2面4線のホームと[[深川検車区行徳分室]]への入出庫線を持ち、葛西と同じく快速の通過待ちが行われている。 妙典を出ると深川検車区行徳分室への入出庫線を乗り越え、B線との間隔が元に戻り[[江戸川]]を第二江戸川橋梁で渡り、[[東京外環自動車道]]と[[国道298号]]を越える。勾配を下った後、左にカーブして[[原木中山駅|原木中山]]となる。原木中山は葛西と同じ構内配線を持つ。原木中山を出ると[[京葉道路]]を乗り越えて右カーブとなり、林立するマンションや住宅地の中を抜け、迫ってくる総武本線の線路を左手に見ながら徐々に地平に降りて[[西船橋駅|西船橋]]となる。 ; 第一江戸川橋梁 :* [[アーチ橋#補剛桁を有するアーチ|ランガー形式]]複線桁、全長139&nbsp;m、支間137.6&nbsp;m、桁高最大19&nbsp;m、主桁間隔8.5&nbsp;m、鋼重965&nbsp;t<ref name="Tozai-Const370">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.370 - 374・536 - 540・543 - 546。</ref>。 :* 当時[[防潮堤]]の改修計画があったことから橋台は防潮堤を避けているほか、橋脚を設ける位置が難しいことから、ひとまたぎで渡っている<ref name="Tozai-Const370"/>。 ; 第二江戸川橋梁 :* 中野側から第1プレートガーダー(下路式複線3主桁・延長36.0&nbsp;m)、第1トラス - 第7トラスまでの7連ワーレントラス橋(第1・第7トラスは延長56.10&nbsp;m、ほかは延長62.65&nbsp;m)、第2プレートガーダー(下路式複線2主桁・延長36.0&nbsp;m)から構成している<ref name="Tozai-Const370"/>。全長506.5&nbsp;m、鋼重は1,541&nbsp;tである<ref name="Tozai-Const370"/>。 == 沿革 == === 開業までの沿革 === 現在の東西線の原型となる計画は、[[1917年]](大正6年)に[[内務省 (日本)|内務省]]に設置された「東京市内外交通調査委員会」の答申で示されたうちの一つで、「[[池袋]] - [[高田馬場]] - [[飯田橋]] - [[大手町 (千代田区)|大手町]] - [[洲崎 (東京都)|洲崎]]」としていた。[[1920年]](大正9年)には東京鉄道<ref group="注釈">[[東京都電車|都電]]の前身で1906年から1911年まで東京の路面電車を経営していた東京鉄道とは別。</ref>に特許が下付されたが、[[1923年]](大正12年)の[[関東大震災]]の後に他の路線とともに工事未着手を理由に特許が抹消された。 東西線の路線免許は、[[東京都区部|東京23区]]の前身にあたる[[東京市]]が[[戦前]]に計画した東京市営地下鉄6路線に遡(さかのぼ)り、[[大正14年内務省告示第56号]]に基づいて[[1925年]]([[大正]]14年)[[5月16日]]に取得したものである<ref name="Marunouchi-Const1-19">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.19 - 24。</ref><ref name="Marunouchi-Const1-295">[[#Morunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.295 - 299。</ref>。このうち現在の東西線にあたるのは、当時の'''第5号線「池袋駅 - [[早稲田]] - [[飯田橋|飯田町]] - [[一ツ橋]] - [[東京駅]] - [[永代橋]] - [[洲崎 (東京都)|洲崎]]」'''に至る14.2&nbsp;kmの路線免許である<ref name="Marunouchi-Const1-295"/><ref name="Marunouchi-Const1-298-73">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.298 - 299間の「別図73 東京都市計画高速度交通機関路線網 大正14年3月30日(内務省告示第56号)。</ref>。東京市は市営地下鉄建設の第1期計画として、第3号線[[渋谷駅|渋谷]] - [[巣鴨駅|巣鴨]]<ref group="注釈">現在(戦後)の都市計画第3号線([[東京メトロ銀座線]])とは異なる。</ref>間と第5号線池袋 - 洲崎間の建設に着工しようとするが、東京市には多額の[[公債]]があり、財政悪化を懸念した当時の内務省と[[大蔵省]]の反対があり、許可を得ることができなかった<ref name="Marunouchi-Const1-19"/>。その後、特に建設計画は立てられず[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していたすべての路線免許は[[1941年]](昭和16年)に営団地下鉄へ有償譲渡された<ref name="Marunouchi-Const1-19"/>。 一方、東陽町 - 西船橋に相当する区間には、戦前に[[東京成芝電気鉄道]]による免許申請がなされ、[[1927年]](昭和2年)に交付されていた(起点の東陽町は「東平井」として記載、船橋市内は中山を経由)が、[[1940年]](昭和15年)に失効となった。 [[1946年]](昭和21年)1月より[[戦災復興院]]での復興計画案の一つとして地下鉄建設を計画し、[[12月7日]]に[[戦災復興院告示第252号|戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道」]]として5路線を告示した<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。このうちの'''都市計画第5号線が「[[中野駅 (東京都)|中野駅]] - [[高田馬場駅]] - [[小石川|富坂町]] - [[水道橋駅]] - [[神田神保町|神保町]] - [[東京駅]] - [[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]] - [[日本橋茅場町|茅場町]] - [[東陽 (江東区)|東陽町]]」'''に至る15.7 kmの路線とされた<ref name="Marunouchi-Const1-295"/><ref name="Marunouchi-Const1-298-74">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.298 - 299間の「別図74 東京復興都市計画高速鉄道網 昭和21年12月7日(戦災復興院告示第252号)。</ref>。この変更に伴い、営団地下鉄は免許済路線を告示第252号に合致させるため、[[1949年]](昭和24年)[[4月28日]]に起業目論見変更認可を申請し、同年[[5月23日]]に認可を受けた<ref name="Tozai-Const44">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.44 - 47。</ref>。 その後、[[都市交通審議会答申第1号]]に基づいて、[[1957年]](昭和32年)[[6月17日]]に告示された建設省告示第835号により、都市計画第5号線は現在の路線と同じ「'''中野駅 - 高田馬場駅 - [[戸塚 (新宿区)|戸塚町]] - [[飯田橋駅]] - [[大手町 (千代田区)|大手町]] -日本橋 - 茅場町 - [[門前仲町]] - 東陽町に至る本線'''」と「'''大手町 - 神保町 - 水道橋駅 - [[春日駅 (東京都)|春日町]] - [[白山 (文京区)|白山]] - [[巣鴨駅]] - [[西巣鴨]] - [[板橋駅]] - [[下板橋駅|下板橋]]に至る分岐線'''」(計24.2&nbsp;km)に改訂された<ref name="Marunouchi-Const1-295"/><ref name="Marunouchi-Const1-298-77">[[#Marunouchi-Con1|東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)]]、pp.298 - 299間の「別図77 東京都市計画高速鉄道網(昭和32年6月17日建設省告示第835号)。</ref>。 これを受け、営団地下鉄は1957年(昭和32年)[[6月18日]]に第5号線(東西線)の起業目論見変更認可申請と地方鉄道敷設免許の申請を行った<ref name="Tozai-Const44"/><ref group="注釈">同時に第2号線(日比谷線)の北千住 - 南千住間・恵比寿 - 中目黒間および第4号線(荻窪線)新宿 - 荻窪間・中野坂上 - 方南町間の路線免許も申請した。</ref>。起業目論見変更認可申請は、1949年(昭和24年)5月に起業目論見変更認可を受けていた免許経路のうち、高田馬場 - 東陽町間および大手町 - 巣鴨間の経路を1957年(昭和32年)に改訂した経路に改める申請であり、これは1957年(昭和32年)8月13日に認可された<ref name="Tozai-Const44"/>。前記に含まれない(免許を取得をしていない)本線の中野 - 高田馬場間および分岐線の巣鴨 - 下板橋間の路線免許は、[[運輸大臣]]に免許申請を行った<ref name="Tozai-Const44"/>。同時に免許申請を行っていた第2号線([[東京メトロ日比谷線|日比谷線]])と第4号線([[東京メトロ丸ノ内線|荻窪線]])の路線免許は[[1958年]](昭和33年)3月1日に交付されたが、第5号線は建設の見込みが立つまで保留とされた<ref name="Tozai-Const44"/>。 1960年(昭和35年)4月、[[東京都交通局]]から営団地下鉄に対して地下鉄5号線(東西線)中野 - 東陽町間および分岐線大手町 - 下板橋間の路線免許を交通局へ譲渡するよう申し入れがあった<ref name="Tozai-Const44"/>。これは[[東京都電車|都電]]の廃止に伴い、余剰人員の配置転換をする必要性があったためである<ref name="Tozai-Const44"/>。 営団地下鉄は1960年(昭和35年)[[8月2日]]、都市計画第5号線(東西線)中野 - 東陽町間および分岐線大手町 - 下板橋間の建設計画を決定し、1961年度(昭和36年度)から建設工事に着手することとした<ref name="Tozai-Const35">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.35。</ref>。営団地下鉄は、将来的に東西線と[[日本国有鉄道|国鉄]][[中央・総武緩行線|中央線]]間で相互直通運転することを計画し、1961年(昭和36年)8月に営団地下鉄[[総裁]]と国鉄総裁の間で東西線と中央線間で相互直通運転することに合意した<ref name="Tozai-Const44"/>。このため、営団地下鉄は1961年(昭和36年)[[8月21日]](同年10月12日にも)に東西線の[[軌間]]を1,435&nbsp;mm([[標準軌]])から直通運転に対応した1,067&nbsp;mm([[狭軌]])に変更する起業目論見変更認可申請、前述の路線免許の追加申請を行った<ref name="Tozai-Const44"/>。そして、1961年(昭和36年)[[11月13日]]に起業目論見変更認可、[[11月14日]]に中野 - 高田馬場間の路線免許の交付があった<ref name="Tozai-Const44"/>。 東西線の建設計画より先に、[[1956年]](昭和31年)に国鉄中央線の輸送力増強計画として、[[東京駅|東京]] - 三鷹間の[[複々線]]化と中央・総武緩行線の東京乗り入れが計画されたが<ref name="Tozai-Const41">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.41 - 42。</ref>、用地買収が難航し、実現はできなかった<ref name="Tozai-Const41"/>。そのほか、[[市ケ谷駅|市ケ谷]]付近に短絡線を建設して中央・総武緩行線を東京乗り入れさせる計画も出されたが、計画中の東西線と中央・総武緩行線を乗り入れさせて都心に直通することが容易であるとの結論に至った<ref name="Tozai-Const41"/>。 ==== 都市交通審議会第6号答申 ==== [[1962年]](昭和37年)[[6月8日]]の[[都市交通審議会答申第6号]]において、第5号線は「中野方面より高田馬場、飯田橋、大手町、茅場町及び東陽町の各方面を経て船橋方面に向かう路線」として示されたが、線形、経過地について引き続き検討するものとして、[[都市計画]]は保留とされた<ref name="Tozai-Const38">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.38 - 40。</ref>。[[1964年]](昭和39年)[[1月31日]]、都市交通審議会は第5号線の東陽町 - 西船橋間に至る路線の経過地を浦安・行徳とし、西船橋で総武線と接続するよう答申が改訂された<ref group="新聞" name="asahi1964215">{{Cite news|和書 |title=地下鉄西船橋まで、都市交通審議会が答申 |newspaper=[[朝日新聞]] |date=1964-02-15 |publisher=[[朝日新聞社]] |page=朝刊 千葉版}}</ref><ref name="Tozai-Const69">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.67 - 73。</ref>。営団地下鉄は同年[[3月27日]]に西船橋方面への延伸を正式に決定、[[4月9日]]に南砂町 - 山野町間(東陽町駅 - 西船橋駅間)の路線免許を申請し<ref name="Tozai-Const69"/>、翌[[1965年]](昭和40年)[[6月7日]]には同区間の都市計画を決定、[[6月9日]]に路線免許の交付を受けた<ref name="Tozai-Const96">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.96 - 98。</ref>。このうち、中野 - 西船橋間は東西線として順次開業した。 この第6号答申によって、'''第5号線の分岐線 大手町 - [[下板橋駅|下板橋]]間は[[都営地下鉄]]([[東京都交通局]])[[都営地下鉄三田線|6号線(→三田線)]]の一部'''として切り離された<ref name="Tozai-Const38"/>。1964年(昭和39年)[[2月7日]]に[[運輸省]]からの指示により、第6号線は正式に東京都が建設を行うこととし、営団地下鉄が所有していた大手町 - 巣鴨間の路線免許は東京都に譲渡すること、営団地下鉄は免許申請中の第5号分岐線の巣鴨 - 下板橋間の路線免許を取り下げることとされた<ref name="Tozai-Const83">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.83 - 85。</ref>。大手町 - 巣鴨間の路線免許は、東京都([[東京都交通局|交通局]])から営団地下鉄に567万4,250円の支払いを受けることで譲渡した<ref name="Tozai-Const83"/>。営団地下鉄は同年3月30日に第5号分岐線の免許申請は取り下げ、営団地下鉄から東京都への路線免許譲渡は同年12月18日に認可された<ref name="Tozai-Const83"/>。 東陽町 - 西船橋間の建設にあたり、[[成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律]](成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.chiba.lg.jp/kuushin/documents/seibikeikaku_.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170306210404/https://www.pref.chiba.lg.jp/kuushin/documents/seibikeikaku_.pdf|title=成田国際空港周辺地域整備計画|date=1970-03|archivedate=2017-03-06|accessdate=2020-11-22|publisher=千葉県|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=2020年11月}}</ref>。 ==== 勝田台方面への延伸計画 ==== その後1968年(昭和43年)4月の[[都市交通審議会答申第10号|答申第10号]]では、西船橋以東について'''[[東武野田線|東武鉄道野田線]]方面'''に至る路線とされたが<ref name="Tozai-Const157">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.157 - 162。</ref>、1972年(昭和47年)3月の[[都市交通審議会答申第15号|答申第15号]]では'''西船橋 - [[新船橋駅|新船橋]]付近 - [[飯山満町|飯山満]] - [[北習志野駅|北習志野]] - [[八千代市]]中央部 - [[勝田台]]'''を終点とする路線に改められた<ref name="Tozai-Const208">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.208 - 219。</ref>。営団地下鉄は[[1974年]](昭和49年)[[3月22日]]、第5号線「営団勝田台線」西船橋 - 勝田台間(16.2 km)の延伸を正式に決定、同年[[3月30日]]に路線免許を申請した<ref name="Tozai-Const208"/>。営団地下鉄の計画では[[1976年]](昭和51年)10月に建設工事に着手し、[[1979年]](昭和54年)10月の開業を予定、建設費用は955億円を見込んだ<ref name="Tozai-Const208"/>。東西線(西船橋以西)とは直通運転を行い、途中の北習志野駅のみ停車する快速列車の運転も予定していた<ref name="Tozai-Const208"/>。 営団地下鉄としては、第7号線([[東京メトロ南北線|南北線]])や第13号線([[東京メトロ副都心線|副都心線]])の建設の必要性があったが、当時の東京周辺で最も人口の増加が激しかった[[船橋市]]、[[八千代市]]などが[[千葉県]]とともに[[1973年]](昭和48年)5月に「営団地下鉄東西線建設促進協議会」を結成し、「営団勝田台線」の建設[[請願|陳情]]を営団地下鉄へ繰り返したことから、建設を決定したものである<ref name="TRTA-50th-306">[[#TRTA-50th|営団地下鉄五十年史]]、pp.306 - 307。</ref>。しかし、建設に向けた手続きを進めるにあたり、特に沿線で競合関係となる[[京成電鉄]]から死活問題であるとして反対があり、また営団地下鉄の担当区域を大きく外れる([[帝都高速度交通営団法]] 第1条「帝都高速度交通営団ハ東京都ノ区ノ存スル区域及其ノ附近ニ於ケル交通機関ノ整備拡充…」)との意見があり、路線免許取得は難航した<ref name="TRTA-50th-306">[[#TRTA-50th|営団地下鉄五十年史]]、pp.306 - 307。</ref>。 [[1980年]](昭和55年)[[7月19日]]、[[運輸省]](当時)は次のような最終調整案をまとめ、地元に提示し了承を求めた<ref name="TRTA-50th-433">[[#TRTA-50th|営団地下鉄五十年史]]、pp.433 - 435。</ref>。 # 建設主体は[[第三セクター]]とし、地元自治体、金融機関、関係鉄道事業者がこれに出資する # 運営は京成電鉄に委託する # 東西線と接続し、相互直通運転を行う # 工事の施工は、[[日本鉄道建設公団]](現・[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]])が行う # 工事は、2段階に分けて施工する 最終的に、この案を基本として[[1981年]](昭和56年)[[9月1日]]に[[東葉高速鉄道]]が設立され、同社が勝田台線の建設・経営を行うことが決定した<ref name="TRTA-50th-433"/>。そして、東葉高速鉄道が地方鉄道敷設免許を申請したため、営団地下鉄は[[1982年]](昭和57年)2月15日に勝田台線の路線免許申請を取り下げ、同年[[3月19日]]に東葉高速鉄道に地方鉄道敷設免許が交付された<ref name="TRTA-50th-433"/>(以降は東葉高速鉄道の項目を参照)。 === 年表 === * [[1925年]]([[大正]]14年) ** [[3月30日]]:内務省より「東京都市計画高速度交通機関路線」の改訂が行われ、都市計画第5号線は池袋駅 - 洲崎間として告示される<ref name="Tozai-Const220">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.220 - 296。</ref>。 ** [[5月6日]]:東京市は前述の告示に基づいて都市計画第5号線ほかの路線免許申請を行い、[[5月16日]]に取得する<ref name="Tozai-Const220"/>。 * [[1941年]]([[昭和]]16年)[[9月1日]]:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立され、東京市が所有していた都市計画第5号線の路線免許は営団地下鉄に譲渡される<ref name="Tozai-Const220"/>。 * [[1946年]](昭和21年)[[12月7日]]:戦災復興院により「東京都市計画高速鉄道網」の改訂が行われ、都市計画第5号線は中野駅 - 東陽町間の路線として告示される<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。 * [[1957年]](昭和32年)[[6月17日]]:都市交通審議会答申第1号に基づいた告示により、都市計画第5号線は経由地を現行のルートに改訂し、分岐線大手町 - 下板橋間の路線が加わる<ref name="Marunouchi-Const1-295"/>。 * [[1960年]](昭和35年)[[8月2日]]:営団地下鉄が都市計画第5号線(東西線)の建設を正式に決定<ref name="Tozai-Const44"/>。 * [[1961年]](昭和36年)[[11月14日]]:東西線中野 - 東陽町間の路線免許を取得完了(前述記事参照)<ref name="Tozai-Const44"/>。 * [[1962年]](昭和37年) ** [[8月29日]]:都市交通審議会答申第6号基づいた告示により、都市計画第5号線の一部であった分岐線大手町 - 下板橋が第6号線(都営三田線)の一部に改訂される<ref name="Tozai-Const38"/>。都市計画第5号線の東陽町 - 船橋方面への延伸が示される<ref name="Tozai-Const38"/>。 ** [[10月19日]]:第5号線の建設工事に着手<ref name="Tozai-Const76">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.76。</ref>。 * [[1964年]](昭和39年) ** [[1月31日]]:1962年(昭和37年)8月29日の告示で示されていた第5号線の延伸を、浦安・行徳を経由して西船橋に至る路線へ正式に決定する<ref name="Tozai-Const66"/>。 ** [[10月27日]]:5号線を東西線と呼称決定<ref name="Tozai-Const76"/>。この時期は[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]開催のため、路上工事が中止され、東西線の建設工事に影響が生じた<ref name="Tozai-Const66">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.66 - 67。</ref>。 ** [[12月23日]]:高田馬場 - 九段下間 (4.8&nbsp;km) 開業<ref name="Tozai-Const76"/>。[[営団5000系電車|5000系]]営業運転開始{{Refnest|group="注釈"|この段階では地上から車両を入れられず、竹橋近くに搬入口を設けて大型クレーン2台で吊り下ろした<ref name="RP514_22" />。また飯田橋 - 九段下間の側線部分に検修設備を設けて、簡易的な検修を行った<ref name="RP514_22" />。本格的な設備がないため、最高速度を40&nbsp;km/hに抑えて運行されていた<ref name="Tozai-Const788" />。この設備は深川検車区の開設まで用いられた<ref name="RP514_22">{{Cite journal|和書|author=吉川文夫|title=私が記録した列車編成|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1989-07-01|volume=39|issue=第7号(通巻第514号)|pages=22 - 23|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。}}。3両編成で終日5分間隔運転を行った<ref name="Tozai-Const76"/>。 * [[1965年]](昭和40年)[[6月9日]]:第5号線南砂町 - 山野町間(東陽町駅 - 西船橋駅間)の路線免許を取得<ref name="Tozai-Const96"/>。 * [[1966年]](昭和41年) ** [[2月1日]]:7両編成の運転を開始<ref name="RF521_36">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻第521号]]、p.36。</ref>。 ** [[3月16日]]:中野 - 高田馬場間 (3.9&nbsp;km)・九段下 - 竹橋間 (1.0&nbsp;km) 開業<ref name="Tozai-Const97">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.97 - 98。</ref>。後者は竹橋駅に折り返し設備がないことから、九段下駅の中野駅寄りにある両渡り分岐器を使用して、[[単線並列]]運転を行った<ref name="Tozai-Const788">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.788 - 789。</ref>。終日5分間隔運転を行った<ref name="Tozai-Const97"/>。 ** [[4月28日]]:[[日本国有鉄道|国鉄]][[中央・総武緩行線|中央本線]][[荻窪駅]]まで直通運転開始(当初は営団からの片乗り入れ)<ref name="Tozai-Const97"/><ref name="Tozai-Const789" />。 ** [[10月1日]]:竹橋 - 大手町間 (1.0&nbsp;km) 開業<ref name="Tozai-Const118">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.118 - 119。</ref>。国鉄[[国鉄301系電車|301系]]が投入され相互直通運転開始<ref name="Tozai-Const118"/><ref name="Tozai-Const789">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.789 - 790。</ref>。終日5分間隔運転を行った<ref name="Tozai-Const118"/>。この区間は5月の開業予定であったが、東京オリンピック開催の影響で建設工事が遅延したため、10月に繰り下げられた<ref name="Tozai-Const94">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.94。</ref>。 ** [[12月7日]]:東陽町 - 西船橋間 (15.0&nbsp;km) 起工式<ref group="新聞" name="asahi1966127">{{Cite news|和書 |title=東陽町-西船橋 あす起工式 地下鉄東西線 |newspaper=[[読売新聞]] |date=1966-12-06 |publisher=[[読売新聞社]] |page=12 朝刊}}</ref>。 * [[1967年]](昭和42年) ** [[9月14日]]:大手町 - 東陽町間 (5.1&nbsp;km) 開業<ref name="Tozai-Const136">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.136 - 137。</ref>。朝夕混雑時は2分30秒間隔、それ以外は5分間隔で運転した<ref name="Tozai-Const136"/>。この区間は大手町 - 茅場町、茅場町 - 東陽町へ順次延伸開業する予定であった<ref name="Tozai-Const94"/>。しかし、大手町 - 日本橋間の国鉄線横断部が難工事であり、苦肉の策として同年8月に日本橋 - 東陽町間を先行開業させ、12月に大手町 - 日本橋間を開業させる計画となっていた<ref name="Tozai-Const94"/>。その後、国鉄線横断部は突貫工事を行うことで、計画を前倒した同年9月の東陽町までの一括開業に間に合わせた<ref name="Tozai-Const133">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.133 - 134・434。</ref>。 ** [[12月21日]]:臨時新東京国際空港閣僚協議会決定「[[s:新東京国際空港関連事業計画について|新東京国際空港関連事業計画について]]」において、[[成田国際空港|成田空港]]供用開始(1971年予定)までを目途に、東陽町 - 西船橋間の建設をすすめるとされる。 * [[1969年]](昭和44年) ** [[3月29日]]:東陽町 - 西船橋間 (15.0&nbsp;km) 開業(全線開業)<ref name="Tozai-Const152">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.152 - 153。</ref>。快速の運転を開始<ref name="Tozai-Const785">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.785 - 786。</ref>。中野 - 東陽町間で、朝夕混雑時は2分30秒間隔、昼間時は5分間隔で運転した<ref name="Tozai-Const152"/>。 ** [[4月8日]]:中央本線への乗り入れ区間を[[三鷹駅]]まで延長<ref name="Tozai-Const789" />。国鉄[[中央・総武緩行線|総武本線]][[津田沼駅]]まで乗り入れ開始<ref name="Tozai-Const789" />。なお、1972年7月の総武快速線開業までは夏期臨時ダイヤ(いわゆる「房総夏ダイヤ」)期間中は乗り入れを中止していた。 ** [[4月10日]]:[[検札|車内改札]]を開始<ref name="eidan588">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.588。</ref>。 ** [[8月25日]]:東西線開業後、西船橋方面からの混雑が激しいことから、一部の各駅停車を間引き、捻出した7両編成を9両編成6本、8両編成2本に組み替えて最混雑列車に充当<ref name="Tozai-Const172">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、pp.172 - 176。</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[4月20日]]:国鉄[[国鉄103系電車#1200番台|103系1200番台]]営業運転開始。 * [[1972年]](昭和47年)[[10月2日]]:国鉄総武線津田沼駅まで相互直通運転(ラッシュ時限定)開始<ref name="Tozai-Const789" />。 * [[1974年]](昭和49年)[[4月9日]]:[[自動進路制御装置]] (ARC) 及び[[列車集中制御装置]] (CTC) を導入<ref name="eidan593">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.593。</ref>。 * [[1975年]](昭和50年)[[6月9日]]:平日の昼間時と休日に快速列車が浦安駅停車となる<ref name="Tozai-Const172"/>。 * [[1977年]](昭和52年)[[11月1日]]:東西線向けとして8年ぶりに車両増備を行い、一部列車の10両編成運転を開始する(それまでは7両編成・一部は暫定的に8両・9両編成)<ref name="Chiyoda-Const300-310">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.300 - 310。</ref><ref name="RF521_37">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻第521号]]、p.37。</ref>。 * [[1978年]](昭和53年)[[2月28日]]:葛西 - 南砂町間(当時西葛西駅は建設中)にある[[荒川 (関東)|荒川]]に架かる[[荒川中川橋梁 (東京メトロ東西線)|荒川中川橋梁]]上で[[春一番]]に伴う突風(後に[[竜巻]]によるものと判明)を受け、通過中の中野行列車(5000系10両編成)3両が脱線(うち2両は転覆)<ref name="eidan596">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.596。</ref>。20数名が負傷した([[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#営団地下鉄東西線列車横転事故|営団地下鉄東西線列車横転事故]])。 * [[1979年]](昭和54年)10月1日:西葛西駅開業<ref name="eidan598">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.598。</ref>。車両増備を行い、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたり運転本数を21本から24本(2分30秒間隔)に増発<ref name="Chiyoda-Const1114-1115">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.1114 - 1115。</ref>。 * [[1981年]](昭和56年) ** [[3月27日]]:南行徳駅開業<ref name="eidan599">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.599。</ref>。 ** [[10月1日]]:車両増備を行い、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたり運転本数を24本から27本(2分15秒間隔)に増発<ref name="Chiyoda-Const1114-1115"/>。 * [[1982年]](昭和57年)[[2月15日]]:西船橋 - 勝田台間の路線免許申請を取り下げ<ref name="eidan600">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.600。</ref>。 * [[1987年]](昭和62年) ** [[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、直通先が[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)となる<ref name="eidan604" />。 ** [[10月24日]]:半蔵門線用の[[営団8000系電車|8000系]]を05系投入まで暫定的に運用開始。 * [[1988年]](昭和63年) ** [[6月1日]]:車両冷房の運用を開始<ref name="eidan605">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.605。</ref>{{Refnest|group="注釈"|同年夏の冷房車は暫定使用の8000系3編成のみ<ref name="RF328_160">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1988-08-01|title=営団地下鉄8000系にも冷房車登場|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=28|issue=第8号(通巻第328号)|page=160|publisher=[[交友社]]}}</ref>。5000系の冷房改造は1989年度から<ref name="RF340_41">{{Cite journal|和書|author=編集部|date=1989-08-01|title=最新冷房車の話題 営団地下鉄5000系|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=29|issue=第8号(通巻第340号)|page=41|publisher=[[交友社]]}}</ref>。}}。 ** [[11月16日]]:[[営団05系電車|05系]]営業運転開始<ref name="eidan606">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.606。</ref>。 * [[1989年]]([[平成]]元年):千代田線直通用国鉄[[国鉄103系電車|103系1000番台]]が転属。 * [[1990年]](平成2年)[[6月20日]]:自社車両がすべて10両編成となる<ref name="eidan607">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.607。</ref><ref name="Namboku-Const117">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.117 - 123。</ref>。 * [[1991年]](平成3年) ** [[10月16日]]:05系第14編成を使用したワイドドア車両を運用開始<ref name="eidan609">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.609。</ref>。 ** [[12月1日]]:JR東日本に合わせたダイヤ改正で、最後まで一部で7両編成を組んでいたJR東日本からの乗り入れ車をすべて10両編成に組み替え<ref name="RF521_38" />。これにより全列車の10両編成化が完了する<ref name="RF521_38">[[#RF521|『鉄道ファン』通巻第521号]]、p.38。</ref>。土曜日ダイヤを導入<ref name="eidan610">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.610。</ref>。 * [[1994年]](平成6年) ** [[6月1日]]:アルミ・リサイクル車両の運用開始<ref name="eidan613">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.613。</ref><ref group="新聞" name="koutuu19940603">{{Cite news|和書 |title=営団初のリサイクル車両 東西線で運転開始 アルミを再生製造コスト大幅削減 |newspaper=交通新聞 |date=1994-06-03 |publisher=交通新聞社 |page=3}}</ref>。 ** 夏:営団の全車両が冷房車となる{{Refnest|group="注釈"|1994年7月までに5000系の冷房改造を実施<ref>{{Cite journal|和書|author=齋藤和夫|title=5000系の系譜 ー誕生から今日に至る車両の移り変わりー|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|pages=175 - 177|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。未改造車は廃車。05系7次車まで竣工<ref>{{Cite journal|和書|author=岸上明彦・焼田健|title=東京地下鉄 現有車両プロフィール&データファイル2005|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2005-03-10|volume=55|issue=第3号(通巻759号)|page=207|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。}}。 * [[1995年]](平成7年)[[3月20日]]:[[地下鉄サリン事件]]のため午前の営業運転を休止、午後から再開<ref name="eidan615" />。 * [[1996年]](平成8年) ** 3月16日:JR総武本線津田沼駅乗り入れが平日のみになる。土曜日ダイヤと休日ダイヤを一本化<ref name="eidan615">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.615。</ref>。 ** [[4月27日]]:[[東葉高速鉄道]][[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]](西船橋 - [[東葉勝田台駅|東葉勝田台]]間)が開業し、営団との相互直通運転開始<ref name="eidan616">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.616。</ref>。東葉高速[[東葉高速鉄道1000形電車|1000形]]営業運転開始。 ** [[5月15日]]:[[列車運行管理システム]] (PTC) を導入<ref name="eidan616" />。 * [[1999年]](平成11年)[[12月6日]]:前々日のダイヤ改正により、[[#東葉快速(廃止)|東葉快速]]が運行を開始。 * [[2000年]](平成12年) ** [[1月22日]]:下妙典信号所を昇格して妙典駅が開業<ref group="報道" name="pr20000117">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000409102811/http://www.tokyometro.go.jp/news/2000-01.html|language=日本語|title=人にやさしい、より便利な地下鉄を目指して 平成12年1月22日(土)東西線行徳・原木中山間に「妙典(みょうでん)駅」が開業します。|publisher=営団地下鉄|date=2000-01-17|accessdate=2020-11-09|archivedate=2000-04-09}}</ref> 。 ** [[2月3日]]:05系8次車(新05系)車両の営業運転開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.go.jp/news/99-32.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20020418214147/http://www.tokyometro.go.jp/news/99-32.html|language=日本語|title=人にやさしい、より親しまれる地下鉄を目指して 東西線に新しいデザインの05系車両が登場します。|publisher=営団地下鉄|date=1999-11-15|accessdate=2020-11-09|archivedate=2002-04-18}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年) ** 3月30日:[[架空電車線方式#カテナリー吊架式|カテナリ電車線]]ヘビー化工事が完成<ref name="eidan627">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.627。</ref>。 ** [[5月1日]]:JR東日本[[JR東日本E231系電車|E231系800番台]]の営業運転開始。同月中に103系1000・1200番台の運用が終了。 ** [[6月10日]]:JR東日本301系の運用が終了し、翌日からJR東日本からの直通運用を担当する車両がすべてE231系になる。 * [[2004年]](平成16年) ** 4月1日:帝都高速度交通営団の民営化による東京地下鉄(東京メトロ)発足で、営団地下鉄東西線から東京メトロ東西線になる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-05-14|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 ** [[12月7日]]:[[東葉高速鉄道2000系電車|東葉高速2000系]]が営業運転開始<ref group="報道" name="toyo20041130">{{Cite press release|和書|url=http://www.toyokosoku.co.jp/toyo/rapid/new/2004/041130/041130.html|archiveurl= https://web.archive.org/web/20041208075559/http://www.toyokosoku.co.jp/toyo/rapid/new/2004/041130/041130.html|language=日本語|title=東葉高速鉄道新型車両「2000系」まもなくデビュー ~12月7日営業運転開始決定!~|publisher=東葉高速鉄道|date=2004-11-30|accessdate=2022-04-23|archivedate=2004-12-08}}</ref>。 * [[2006年]](平成18年) ** [[11月8日]]:有楽町線から転属した[[営団07系電車|07系]]が営業運転開始。 ** [[11月20日]]:平日朝ラッシュ時、中野方面行の全電車10号車(先頭車両)に[[女性専用車両|女性専用車]]を導入<ref group="報道" name="press20061026"/>。JR総武線・東葉高速線からの直通列車も始発駅(津田沼駅・[[東葉勝田台駅]])から対象。中央線内となる中野以西(中野 - 三鷹間)では設定はない<ref group="報道" name="press20061026">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-40.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718042230/http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-40.html|language=日本語|title=平成18年11月20日(月) 東西線で女性専用車両を導入します|publisher=東京地下鉄|date=2006-10-26|accessdate=2020-11-09|archivedate=2017-07-18}}</ref>。 ** [[11月29日]]:女性専用車の運行区間を西船橋(妙典始発を含む) - 大手町間に縮小<ref group="報道" name="press20061026" />。 ** [[12月4日]]:東葉高速1000形が同2000系に完全に置き換えられた。 * [[2007年]](平成19年) ** [[1月27日]]:深川車両基地にて「さよなら東西線5000系 車両撮影会&工場見学会」を開催<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-48.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718023442/http://www.tokyometro.jp/news/2006/2006-48.html|language=日本語|title=車両基地イベント さようなら東西線5000系 車両撮影会&工場見学会|publisher=東京地下鉄|date=2006-12-25|accessdate=2020-11-09|archivedate=2017-07-18}}</ref>。 ** [[3月17日]]:5000系の営業運転を終了<ref name="RP926_57">{{Cite journal|和書|author=岩本厚(東京地下鉄鉄道本部車両部設計課)|title=車両総説|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻926号)|page=57|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 ** [[3月21日]]:保安装置システムを新CS-ATC(デジタルCS-ATC)に更新<ref name="RP926_37">{{Cite journal|和書|author=米元和重(東京地下鉄鉄道本部運転部輸送課)|title=輸送と運転 近年の動向|journal=鉄道ピクトリアル|date=2016-12-10|volume=66|issue=第12号(通巻第926号)|pages=37・42頁|publisher=電気車研究会|issn=0040-4047}}</ref><ref name="RE1903"/>。 * [[2009年]](平成21年)[[9月9日]]:東陽町駅に留置されていた営業用電車(05系第1編成)に保線用の車両が正面衝突し、走行不能になる<ref group="新聞" name="yomiuri20090909">{{Cite news|title=東西線運休29万人影響 始発から5時間 保守車両が衝突|newspaper=読売新聞|date=2009-09-09|page=1 夕刊|publisher=読売新聞社}}</ref>。そのため、高田馬場 - 葛西間で始発から区間運休となり、全線で運転を再開するまで約5時間を要した<ref group="新聞" name="yomiuri20090909" />。 * [[2010年]](平成22年)[[5月7日]]:[[東京メトロ15000系電車|15000系]]営業運転開始<ref name="mook_138">{{Cite book|和書|title=トラベルMOOK 新しい東京メトロの世界|publisher=[[交通新聞社]]|page=138|isbn=9784330021218|date=2021-05-17}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月14日]]:同月11日に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]による発電所の停止に伴う電力供給逼迫のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日からJR中央線・JR総武線・東葉高速線との相互直通運転および快速・通勤快速・東葉快速の運転が休止される。 *** この日は震災後初めての平日であり、通常より運行本数も少なかったため、ラッシュ時は過去最高の混雑率を記録した。 ** [[3月18日]]:JR中央線・JR総武線・東葉高速線との相互直通運転および快速・通勤快速<!--・東葉快速-->の運転が平日の朝・夕ラッシュ時のみ再開される。<!-- 東葉快速は同年7月時点で未再開--> ** [[6月11日]]:土休日のダイヤが平常に戻り、快速運転が全面的に再開される。 ** [[9月12日]]:平日のダイヤが平常に戻り、快速運転が全面的に再開される。ただし、駅構内および車内の一部消灯は継続される。 * [[2012年]](平成24年)[[11月26日]]:日本橋駅 - 西葛西駅間で[[携帯電話]]の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121121_1284.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130170420/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121121_1284.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東西線地下区間の一部で初めてご利用いただけるようになります 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリアが拡大します! 丸ノ内線 霞ケ関駅〜赤坂見附駅間 東西線 日本橋駅〜西葛西駅間|publisher=東京地下鉄|date=2012-11-21|accessdate=2021-01-31|archivedate=2021-01-30}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年) ** [[2月7日]]:中野駅 - 九段下駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130206_13-12.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100314/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130206_13-12.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 平成25年2月7日(木)より有楽町線の一部の駅間でも初めて携帯電話の利用が可能に! 東西線 中野駅〜九段下駅間 千代田線 二重橋前駅〜霞ケ関駅間 有楽町線 江戸川橋駅〜新木場駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-02-06|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 ** [[3月7日]]:九段下駅 - 日本橋駅間で携帯電話の利用が可能となる<ref group="報道" name="pr20130305">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130305_mp2154.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201212100049/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20130305_mp2154.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ますます拡大! 東京メトロのトンネル内携帯電話利用可能エリア 平成25年3月7日(木)より日比谷線・東西線の全線で携帯電話のご利用が可能に! 日比谷線 南千住駅〜小伝馬町駅間 東西線 九段下駅〜日本橋駅間|publisher=東京地下鉄|date=2013-03-05|accessdate=2021-01-31|archivedate=2020-12-12}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年)[[5月]] - [[6月]]:各駅に[[発車メロディ]]を導入<ref group="報道" name="metroNews20150325">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150325_T29.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630161536/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews20150325_T29.pdf|format=PDF|language=日本語|title=九段下駅「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い〜」日本橋駅「お江戸日本橋」採用 東西線に発車メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-25|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref><ref group="報道" name="metroNews20150514">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630134624/http://www.tokyometro.jp/news/2015/article_pdf/metroNews2015014_g47.pdf|format=PDF|language=日本語|title=神田駅「お祭りマンボ」採用 銀座線の発車メロディを拡大します。|publisher=東京地下鉄|date=2015-05-14|accessdate=2020-03-11|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 == 運行形態 == === 直通運転 === 以下の路線と相互[[直通運転]]を行っている。 * JR東日本:[[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]]:[[中野駅 (東京都)|中野駅]] - [[三鷹駅]]間(深夜を除く終日)、[[西船橋駅]] - [[津田沼駅]]間(平日の朝夕ラッシュ時のみ) * 東葉高速鉄道:[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]:西船橋駅 - [[東葉勝田台駅]]間 本節の解説では区間の区別のため中野駅 - 三鷹駅間を「中央線」、西船橋駅 - 津田沼駅間を「総武線」と記述する。 [[列車番号]]の末尾アルファベットは東京地下鉄保有車両が「S」、JR東日本保有車両が「K」、東葉高速鉄道保有車両は「T」となっている。ただし、搭載している保安装置の関係上、JR東日本保有車両は東葉高速線、東葉高速鉄道保有車両はJR線への乗り入れを行うことができない。そのため、三鷹駅 - 東葉勝田台駅を直通する列車はメトロ車に限定される<ref group="注釈">この制限は東西線のみであり、同様に両端で(ないしは分岐して)他の会社線への乗り入れのある東京都区内の地下鉄線(千代田線・都営浅草線など)では両端などの乗り入れ先会社の車両も相互に地下鉄線を越えての乗り入れに対応している。ただし、かつて東急東横線に乗り入れていた頃の日比谷線では、東武 - メトロ(営団) - 東急の3社直通運用はメトロ車(営団車)も含めて実施していなかった。</ref>。また、[[2020年]](令和2年)[[3月14日]]改正ダイヤでは、東京地下鉄保有車両の7本が東葉高速線内で、東葉高速鉄道保有車両の3本が東京地下鉄線内でそれぞれ運用終了・[[夜間滞泊|夜間留置]]となる「外泊運用」が組まれている。 平日のラッシュ時は総武線 - 東西線 - 中央線(津田沼駅 - 東西線経由 - 三鷹駅間)という運行も行われる。東西線経由の方が距離が短い。なお、両端の駅から同一会社の、それも同一の運転系統との直通という例は極めて稀である<ref group="注釈">日本の地下鉄では他に[[名古屋市営地下鉄鶴舞線]]がある。こちらは同一路線ではないが両端とも同じ[[名古屋鉄道]]の路線である[[名鉄犬山線|犬山線]]と[[名鉄豊田線|豊田線]]に毎日、終日直通している。</ref>。この経路による[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]]の設定もある<ref group="注釈">三鷹駅 - 中野駅 -(東西線)- 西船橋駅 -(総武本線)- [[下総中山駅]]・西船橋駅 - 津田沼駅 -(総武本線)- [[千葉駅]]・西船橋駅 -([[京葉線]]二俣支線〔[[武蔵野線]]〕)- [[南船橋駅]] -(京葉線)- [[千葉みなと駅]]。このほか、定期券のみだが三鷹駅 - 中野駅 -(東西線)- 高田馬場駅 -([[山手線]])- [[田端駅]]・[[池袋駅]] -([[赤羽線]]〔[[埼京線]]〕)- [[赤羽駅]] -(東北本線支線〔埼京線〕)- [[浮間舟渡駅]]間の通過連絡運輸設定もある。</ref>。 東京メトロ車については、中央・総武線、東葉高速線ともに直通可能だが、総武線津田沼駅から中野駅または中央線三鷹駅まで直通してきた列車が折り返し東葉高速線東葉勝田台行となる運用もあり、またその逆で東葉勝田台駅・八千代緑が丘駅発の列車が折り返し津田沼行となる運用も存在する。 平日の朝夕の直通のみ津田沼発三鷹行きと三鷹発津田沼行きには中央・総武線御茶ノ水経由と東西線経由の列車がある。 === 列車種別 === 東西線では以下の種別の列車が運転されている。停車駅は「[[#駅一覧]]」を参照。 ==== 快速 ==== 日本では架線集電の[[地下鉄]]として初の[[優等列車|速達列車]]である。東西線はJR東日本(当時は旧国鉄)中央・総武線(各駅停車)の混雑緩和を目的に建設され、乗客の移行を促すために地上区間である[[東陽町駅]] - 西船橋駅間の途中駅(通過駅のうち南砂町駅は地下駅)を通過する'''快速'''を登場させた。 東陽町駅 - 西船橋駅間で速達運転を行い、中野駅 - 東陽町駅間は各駅に停車する<ref group="注釈">東西線の快速運転は郊外区間に限られているが、のちに[[東京メトロ副都心線|副都心線]]と[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]が全線で急行運転を実施している。</ref>。また、[[直通運転]]する路線内では各駅に停車する。全列車が運行区間に東西線全区間を含んでおり、東西線の途中駅で折り返す快速列車は設定されていない。また、西船橋始発の列車も少ない。 なお、地上区間での認可最高速度は100&nbsp;km/hで、これは地下鉄としては日本初、かつ現在も日本最速である。車両の設計最高速度は110 - 120&nbsp;km/hである。 日中は中野駅 - 東葉勝田台駅間で1時間に4本(15分間隔)で運転されている。このため、この時間帯の運用は東京メトロ車と東葉高速車に限られる。また、日中の時間帯の東葉高速線はすべて快速となっているため、東葉高速線内の各駅から東西線の快速通過駅を利用する場合は、西船橋駅または浦安駅で各駅停車に乗り換える必要がある。また、平日朝・夕方以降については東西線内のみ運転の快速や中央・総武線(各駅停車)直通の三鷹駅・津田沼駅発着の快速も運転されており、この場合はJR車も運用されている。土休日は東葉高速線区間 - 中央線区間にのみ乗り入れる(総武線区間には乗り入れず、西船橋駅 - 三鷹駅間の設定もない)ため、JR車の三鷹駅直通運用はなく、東京メトロ車のみ三鷹駅まで直通する。なお、平日夕方と土休日朝において西船橋駅 - 中野駅間のJR車運用が少ないながら設定されている。津田沼直通運転時間帯は通勤快速と共に津田沼直通列車が優先される。 基本的に昼間帯は葛西駅で先を走る各駅停車を追い抜くが、朝、夕の一部は原木中山駅・妙典駅でも追い抜きを行っている。 かつては各駅停車の追い抜きは最高で2本までだったが、2017年3月の改正で、葛西駅・妙典駅・原木中山駅の3駅で各駅停車を追い抜く快速が1本設定された。また現行ダイヤでも、平日ダイヤ17時台に西船橋駅を発車する上りの快速1本は、原木中山駅、妙典駅(当駅始発)、葛西駅の3駅で各駅停車を追い抜く。 列車種別は基本的に赤色で表記される。 1969年に東西線で快速列車が導入された際には、停車パターンによって以下の3種類の呼称で区別された。ただし、これは内部の呼称とされ、公式には用いられていなかった。 * A快速:東陽町駅 - [[西船橋駅]]間ノンストップの快速(1975年より旅客案内上では「浦安通過の快速」)。1969年運用開始、1996年終了。 * B快速:上記区間で[[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]]にのみ停車する快速(同「浦安停車の快速」)。1975年6月9日運用開始<ref name="Tozai-Const172"/>。 * C快速:上記区間で、東陽町駅 - 浦安駅間は各駅に停車し、浦安駅 - 西船橋駅間ノンストップの快速。1986年11月1日運用開始<ref name="Namboku-Const85">[[#namboku|東京地下鉄道南北線建設史]]、pp.85 - 86。</ref>。 1996年のダイヤ改正でA快速が廃止され、B快速が「快速」、C快速が「通勤快速」として正式に列車種別を分離した。 ===== 運行の変遷 ===== * [[1969年]](昭和44年)[[3月29日]]の東陽町駅 - 西船橋駅間開業と同時に登場<ref name="Tozai-Const785" />。当初は東陽町駅 - 西船橋駅間の途中駅はすべて通過だった(これは当時通過駅の周辺が農漁村地帯で人口が少なく、輸送需要の大半が西船橋以遠にあったからである)<ref name="Tozai-Const785" />。 * [[1975年]](昭和50年)[[6月9日]]より、平日の日中と休日について[[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]]にも停車させるようになった<ref name="Tozai-Const172"/>。 * [[1986年]](昭和61年)[[11月1日]]のダイヤ改正で浦安駅 - 中野駅間の各駅に停車する快速列車を設定<ref name="eidan604">[[#eidan|帝都高速度交通営団史]]、p.604。</ref>。これは「'''C快速'''」と称される。 ** 東陽町駅 - 西船橋駅間ノンストップの快速は「'''A快速'''」(平日ラッシュ時のみの運転)、その通過駅のうち浦安駅に停車する快速は「'''B快速'''」と呼ばれていた。 * [[1996年]](平成8年) ** [[3月16日]]:ダイヤ改正によりすべての快速が浦安駅に停車するようになり、東陽町駅 - 西船橋駅間ノンストップのA快速は消滅<ref name="eidan615" />。同時に浦安駅 - 中野駅間の各駅に停車するC快速に「'''通勤快速'''」の名称を与え、東陽町駅・浦安駅・西船橋駅の順に停車するB快速は「'''快速'''」として列車種別を分離する<ref name="eidan615" />。ただし、種別分離後も通勤快速は平日朝ラッシュ時の片道のみの運転を現在に至るまで踏襲している。 ** [[4月27日]]:[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]の開通により 、昼間時間帯の運転区間が中野駅 - [[東葉勝田台駅]]間になる。 * [[1999年]](平成11年)[[12月4日]]:東葉高速線内まで快速運転する列車として「'''[[#東葉快速(廃止)|東葉快速]]'''」の運行を開始。 * [[2005年]](平成17年)[[12月10日]]:ダイヤ改正により平日・土曜・休日ともに快速の運転時間が拡大し、平日については西船橋方面は[[東陽町駅]]24時00分発が最終の快速になった(それまでは東陽町駅21時42分発が最終の快速であった)。また、平日の朝方に通勤快速を2本増発した<ref group="報道" name="pr20051110">{{Cite press release|和書|title=平成17年12月10日(土)東京メトロ東西線のダイヤ改正 増発による混雑緩和と、お客さまの利便性向上を図ります|publisher=東京地下鉄|date=2005-11-10|url=http://www.tokyometro.jp/news/2005/2005-37.html|archivedate=2005-12-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051207042413/http://www.tokyometro.jp/news/2005/2005-37.html|accessdate=2021-02-09}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月19日]]:平日朝の最混雑時間帯(約30分間)で中野方面の快速が通勤快速に変更された<ref group="報道" name="pr20070215">{{Cite press release|和書|title=平成19年3月18日(日)東京メトロ東西線のダイヤ改正 平日朝ラッシュ時の運転形態を見直し、東葉高速線への直通を拡大!|publisher=東京地下鉄|date=2007-02-15|url=http://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-05.html|archivedate=2007-02-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070217091013/http://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-05.html|accessdate=2021-02-09}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)3月16日:平日朝の西船橋発6時 - 9時10分発までの中野方面行きのすべての速達列車が通勤快速となった<ref group="報道" name="pr20090114">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-01.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170718154415/https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-01.html|language=日本語|title= 平成21年3月14日(土)東京メトロ東西線のダイヤ改正 列車を増発し混雑緩和と利便性の向上を図ります|publisher=東京地下鉄|date=2009-01-14|accessdate=2021-02-20|archivedate=2017-07-18}}</ref>。 * [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]:東葉快速が廃止<ref group="報道" name="pr20140207">{{Cite press release|和書|url=http://www.toyokosoku.co.jp/info/H25topics/H260207.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140208002601/http://www.toyokosoku.co.jp/info/H25topics/H260207.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ダイヤ改正の実施について|publisher=東葉高速鉄道|date=2014-02-07|accessdate=2020-11-22|archivedate=2014-02-08}}</ref>。 ==== 通勤快速 ==== 平日朝西行(中野方面)のみの運転で、西船橋駅 - 浦安駅間で速達運転を行い、浦安駅 - 中野駅間は各駅に停車する。また、直通運転する路線内では各駅に停車する。快速と同様に全列車が運行区間に東西線全区間を含んでおり、東西線の途中駅で折り返す列車は設定されていない。 1986年(昭和61年)11月1日に快速の停車パターンの一つ(浦安駅から各駅に停車の快速)として登場したが<ref name="eidan604" />、1996年(平成8年)3月16日より'''通勤快速'''という名称になる<ref name="eidan615" />。C快速時代には専用の種別幕はなく、始発駅から南行徳駅を通過するまで快速、南行徳駅 - 浦安駅間を走行中に各駅停車(種別無表示)に変更していた。前述の通り、2007年以降はダイヤ改正の度に運転時間帯が拡大しており、2007年3月19日から平日朝の最混雑時間帯に運行されていた快速がすべて通勤快速に変更され、2009年3月16日からは西船橋発朝6時 - 9時10分までのすべての速達列車が通勤快速となった<ref group="報道" name="pr20090114" />。 中野方面行き快速と同様、通過駅がなくなる[[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]] - 中野駅間での車両の種別表示はE231系以外、各駅停車表示となる。 車両によっては「通快」と略して表示される。「通勤快速」を英語で表記する際、その表現方法は統一されておらず、"'''Commuter Rapid'''"、"'''Commutation Rapid'''"、"'''Rapid Commuter'''"、"'''Com.Rapid'''"、と車両や駅ごとに異なる。種別は緑色とされることが多いが、全ての案内において統一されているわけではない。 ==== 各駅停車 ==== 一部の時間帯をのぞき、快速1本(朝のみ2本・通快含む)に対して2本であり、朝と夕方は3 - 5分間隔、日中は約5 - 8分間隔で運行されている。日中は1時間に8本のうち4本が[[中央・総武緩行線|中央線]]に乗り入れて三鷹駅 - 西船橋駅間で運転、残りの4本が中野駅 - 西船橋駅間での運転となる。ラッシュ時には東葉高速線や総武線津田沼駅発着の列車も運行されるほか、九段下駅(着のみ)・東陽町駅・浦安駅(2019年3月18日以降発のみ新設)・妙典駅発着の列車もある。日中は快速に抜かれない列車もある反面、夕方に1本、葛西と妙典の2駅で快速に抜かれる列車もある。 ==== 東葉快速(廃止) ==== {{Main|東葉高速鉄道東葉高速線#東葉快速}} 東西線だけでなく、東葉高速線でも速達運転を行う種別で、東陽町駅 - 東葉勝田台駅間で速達運転を行っていた。東西線内の停車駅は快速と同じ。廃止時点では平日の夕方に東葉勝田台行きのみ運行されていた。 車両や駅によっては「東快」と略して表示されていた。使用色、英語表示('''TOYO Rapid'''、'''TOYO RAP.''')も車両や駅ごとに異なっていた。 [[2014年]](平成26年)[[3月15日]]のダイヤ改正で廃止され快速に変更された<ref group="報道" name="pr20140207"/>。 === 日中の運行パターン === 日中の各区間の1時間あたりの運行本数は下表のとおりである。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" |- style="line-height:110%;" ! 種別\駅名 !style="text-align:center;"|{{縦書き|[[三鷹駅]]|height=8em}} !<small>… 中央線 …</small> !style="text-align:center;" colspan="2"|{{縦書き|[[中野駅 (東京都)|中野駅]]|height=8em}} ! <small>… 東西線 …</small> !style="text-align:center;" colspan="2"|{{縦書き|[[西船橋駅]]|height=8em}} ! <small>… 東葉高速線 …</small> !style="text-align:center;"|{{縦書き|[[東葉勝田台駅]]|height=8em}} !備考 |- | style="background:#ffa07a;" |快速 | colspan="3" | | style="background:#ffa07a;" colspan="6" |4本 | |- | rowspan="4" style="background:#a2c2e6;" |各駅停車 | colspan="6" style="background:#a2c2e6;" |4本  | colspan="3" | |西船橋行は葛西駅で快速の通過待ち |- | colspan="3" | | colspan="3" style="background:#a2c2e6;" | 4本 | colspan="3" | |中野行は葛西駅で快速の通過待ち |- |} == 女性専用車 == {|style="float:right; font-size:80%; text-align:center; margin:0em 0em 0em 1em; border:1px solid gray;" |- |colspan="2" style="background:#eee; border-bottom:solid 4px #009bbf;"|女性専用車 |- |style="text-align:left;"|←西船橋・<small>東葉勝田台・津田沼</small> |style="text-align:right;"|中野・<small>三鷹</small>→ |- |colspan="2"| {|class="wikitable" style="text-align:center; margin:auto;" |- style="text-align:center;" | |1||2||3||4||5||6||7||8||9||style="background:#fdf"|10 |} |- |colspan="2"|女性専用車は'''津田沼・東葉勝田台→西船橋→大手町''' |} 東西線の[[女性専用車両|女性専用車]]は、[[2006年]][[11月20日]]に乗り入れ先の[[中央・総武緩行線|総武線各駅停車]]および[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速鉄道線]]と同時に導入された<ref group="報道" name="press20061026" />。 平日午前6時57分以降に[[西船橋駅]]を発車する列車ならびに途中の[[妙典駅]]始発を含めて、進行方向最前部車両である10号車が女性専用車となる。実施区間は、[[東葉勝田台駅]]・[[津田沼駅]]→西船橋→[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]までであり、大手町駅到着または9時をもって女性専用車の取り扱いを終了する<ref name="women">{{Cite web|和書| url=http://www.tokyometro.jp/safety/attention/women/index.html#anc02 | title=女性専用車 | publisher=東京地下鉄 | accessdate=2019-1-4}}</ref>。 小学生以下の乗客または、障害を有する乗客とその介護者の乗客については性別を問わず乗車可能である<ref name="women" /><ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000401120.pdf 障がいを有する男性や男性介助者も「女性専用車両」が利用できることを、もっとよく知らせてほしい(概要)] - 総務省、2016年2月25日</ref>。非常時やダイヤが大幅に乱れた場合などには女性専用車の実施を中止する<ref name="women" />。 === 設定区間について === 設定当初は、終着の中野駅まで女性専用車が設定されていたが、大手町駅での流動が影響したこともあり、導入してわずか1週間強にあたる[[2006年]][[11月29日]]に設定区間を大手町駅までに短縮した<ref group="報道" name="press20061026" />。 女性専用車が導入されている東京メトロの他路線においても、いわゆる[[菊名駅#菊名問題|菊名問題]]と同様のケースが生じているが、設定内容の変更などの対策は行われていない。 == 保安装置 == [[ファイル:Signal-for-WS-ATC.jpg|240px|thumb|right|右側がWS-ATC用の信号機<br />(2006年8月10日 / 西船橋駅)]] 開業当初東西線で使用していた[[自動列車制御装置]] (ATC) は地上信号式 ([[自動列車制御装置#ATC-3型|WS]]) で、原則として運転士が手動で制動(ブレーキ)を掛ける方式である。減速信号 (YG) 65&nbsp;km/h、注意信号 (Y) 40&nbsp;km/h、警戒信号 (YY) 25&nbsp;km/hの速度制限が掛かる<ref name="Tozai-Const676">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.676。</ref>。通常の閉塞信号でも進行現示 (G) することがない信号機が多数存在した。減速信号は地上区間を中心に採用されていた<ref name="Tozai-Const676"/>。列車通過後の信号現示変化で、YG現示などが連続して表示される信号機もあった。東京地下鉄では日比谷線もこの方式であったが、両線とも現在車内信号式 ([[自動列車制御装置#ATC-10型|CS]]) に変更されている。 ATC更新工事により、05系のうち車内信号非対応で登場した車両には改造工事が行われた。また[[営団5000系電車|5000系]]と[[東葉高速鉄道1000形電車|東葉1000形]]は共に老朽化が進んでいることから新ATC対応化はせずに、東葉1000形は[[2006年]][[12月4日]]に、5000系も翌[[2007年]][[3月17日]]にそれぞれ全車両が引退した。さらに2006年11月より有楽町線から転属している[[営団07系電車|07系]]4編成にも、東西線の保安装置への改造が行われている。2006年10月中旬から2007年2月中旬頃までの終電後の夜間に、信号システム更新のための試運転が行われた。これにより首都圏で現在車内信号式を採用していない地下鉄は、[[都営地下鉄浅草線]]のみとなった。 直通先の東葉高速線はWS-ATCを使用しており、直通車はWS-ATCが搭載されている。 さらに東陽町 - 西船橋間の各停車駅では停車予告音が採用されており、ブレーキを掛けても停車するまで連続して鳴る。東京メトロで停車予告音を使用しているのはこの区間のみである。 == 車両 == === 自社車両 === * [[東京メトロ15000系電車|15000系]] * [[営団07系電車|07系]] * [[営団05系電車|05系・05N系]] <gallery widths="200"> ファイル:Tokyo-Metro Series15000-15001.jpg|15000系<br />(2022年7月25日 行徳駅) ファイル:Tokyo-Metro Series07R-76.jpg|07系<br />(2022年7月17日 行徳駅) ファイル:Tokyo-Metro_Series05-143F.jpg|05N系<br />(2022年7月25日 行徳駅)<br />05系のうち前面デザインが変更された第25編成からは05N系とも呼ばれる ファイル:Tokyo-Metro Series05R-120F.jpg|05系B修工事車(6次車)<br />(2022年7月25日 行徳駅) ファイル:Tokyo-Metro Series05R-114F.jpg|05系B修工事車(4次車)<br />(2022年7月25日 行徳駅) ファイル:Tokyo-Metro-Series05-024.jpg|05系 アルミ・リサイクルカー<br />(2022年8月8日 行徳駅) ファイル:Tokyo-Metro Series05-122F.jpg|05系(未更新車)<br />(2022年7月25日 [[行徳駅]]) </gallery> === 過去の自社車両 === * [[営団5000系電車|5000系]](1964年12月23日 - 2007年3月17日) * [[営団6000系電車|6000系]](1968年 - 1971年2月) - 千代田線に転属。試験運転のみ * [[営団8000系電車|8000系]](1987年11月 - 1988年12月) - 半蔵門線に転属 <gallery widths="200"> ファイル:Teito Rapid Transit Authority 5000.JPG|5000系アルミ車(左)と5000系ステンレス車(右)<br />(2006年12月3日 深川検車区) ファイル:営団-8014.jpg|半蔵門線カラーのまま東西線で短期間使用された8000系<br />(1988年 中野駅) </gallery> === 乗り入れ車両 === ; [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) :* [[JR東日本E231系電車#800番台|E231系800番台]] <gallery widths="200"> File:JRE Series-E231-800 K5.jpg|E231系800番台<br />(2022年7月25日 行徳駅) </gallery> ; [[東葉高速鉄道]] :* [[東葉高速鉄道2000系電車|2000系]] <gallery widths="200"> File:Toyo-Rapid-Railway Series2000-2009.jpg|2000系<br />(2022年4月23日 [[南行徳駅]]) </gallery> === 過去の乗り入れ車両 === ; 国鉄・JR東日本 :* [[国鉄301系電車|301系]](1966年10月1日 - 2003年6月10日) :* [[国鉄103系電車|103系]] :** [[国鉄103系電車#1000番台|1000番台]](1989年 - 2003年5月30日) :** [[国鉄103系電車#1200番台|1200番台]](1971年4月20日 - 2003年5月15日) <gallery widths="200"> ファイル:JR_mc300_2.jpg|301系 ファイル:Jnr 103-1200.jpg|103系1200番台 </gallery> ; 東葉高速鉄道 :* [[東葉高速鉄道1000形電車|1000形]](1996年4月27日 - 2006年12月4日) - 営団5000系を転籍・改造した車両 <gallery widths="200"> ファイル:Tōyō Rapid 1008F.JPG|1000形<br />(2006年9月8日 葛西駅) </gallery> === 車両運用について === どの列車がどの会社所属の車両で運用されるかは[[列車番号]]で判別できる。現在、列車番号末尾アルファベットの「'''S'''」が東京メトロ車両、「'''T'''」が東葉高速車両、「'''K'''」がJR車両となっている。列車番号は『MY LINE 東京時刻表』(交通新聞社)などにより確認ができる。 快速・通勤快速はRのアルファベットが付与されているが(例えば東京メトロ車両による快速列車の場合SRという表示になる)、JR線へ直通する列車には(津田沼駅・三鷹駅発着問わず)Rのアルファベットは付与されていない。 == 利用状況 == <!-- 他線と比較する場合、統計値の種類や年度をあわせてください。輸送人員・乗車人員・降車人員はそれぞれ違うものです。また出典もそれにあわせてそれぞれ示して下さい。--> 2017年度の1日平均輸送人員は'''1,450,000人'''であり、[[日本の地下鉄]]では最も輸送人員が多い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jametro.or.jp/upload/data/bbNVssLXVekC.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210203052154/http://www.jametro.or.jp/upload/data/bbNVssLXVekC.pdf|title=地下鉄事業者一日当たり路線別平均輸送人員の推移(平成25年度〜29年度)|archivedate=2021-02-03|accessdate=2021-02-03|publisher=日本地下鉄協会|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" border="1" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:85%; text-align:center;" |- !rowspan="3"|年度 !colspan="8"|最混雑区間輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/koukei/tetsudou/konzatsu.html 路線別のラッシュ時における混雑率の推移] - 千葉県</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09|url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月)|format=PDF|publisher=神奈川県|accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref> !rowspan="3"|特記事項 |- ! colspan="4"|A線(高田馬場 → 早稲田間) !! colspan="4"|B線(木場 → 門前仲町間) |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |1965年(昭和40年) | 12 || 4,992 || 6,219 || '''125''' | || || || | |- |1970年(昭和45年) | 23 || 23,232 || 47,050 || style="background-color: #ffcccc;"|'''208''' | || || || | |- |1975年(昭和50年) | 24 || 24,224 || 49,178 || '''203''' | 12 || 13,600 || 29,722 || '''219''' |style="text-align:left;"|B線の最混雑区間は西船橋→東陽町間 |- |1980年(昭和55年) | 24 || 27,264 || 46,018 || '''169''' | 24 || 33,312 || 76,588 || '''230''' |style="text-align:left;"|B線の最混雑区間を南砂町→東陽町間に変更 |- |1985年(昭和60年) | 24 || 27,264 || 44,931 || '''165''' | 27 || 37,584 || 83,042 || '''221''' | |- |1987年(昭和62年) | 24 || 27,696 || 42,909 || '''155''' | 27 || 38,016 || style="background-color: #ffcccc;"|88,618 || style="background-color: #ffcccc;"|'''233''' |style="text-align:left;"|B線の最混雑区間を門前仲町→茅場町間に変更 |- |1988年(昭和63年) | 24 || 30,288 || 42,703 || '''141''' | 27 || 38,448 || 88,406 || '''230''' |style="text-align:left;"|1989年3月19日、都営地下鉄新宿線全線開業 |- |1989年(平成元年) | 24 || 30,720 || 42,318 || '''138''' | 27 || 38,448 || 76,509 || '''199''' |style="text-align:left;"|1990年3月10日、京葉線全線開業 |- |1990年(平成{{0}}2年) | 24 || 32,880 || 43,909 || '''134''' | 27 || 38,448 || 75,256 || '''196''' | |- |1991年(平成{{0}}3年) | 24 || 32,780 || 46,548 || '''142''' | 27 || 38,448 || 76,274 || '''198''' | |- |1992年(平成{{0}}4年) | 24 || 34,176 || style="background-color: #ffcccc;"|52,959 || '''155''' | 27 || 38,448 || 78,456 || '''204''' | |- |1993年(平成{{0}}5年) | 24 || 34,176 || 52,874 || '''155''' | 27 || 38,448 || 78,402 || '''204''' | |- |1994年(平成{{0}}6年) | 24 || 34,176 || 51,992 || '''152''' | 27 || 38,448 || 76,973 || '''200''' | |- |1995年(平成{{0}}7年) | 24 || 34,176 || 50,808 || '''149''' | 27 || 38,448 || 75,552 || '''197''' | |- |1996年(平成{{0}}8年) | 24 || 34,176 || 49,797 || '''146''' | 27 || 38,448 || 77,008 || '''200''' |style="text-align:left;"|1996年4月27日、東葉高速線全線開業 |- |1997年(平成{{0}}9年) | 24 || 34,176 || 49,425 || '''145''' | 27 || 38,448 || 77,458 || '''201''' | |- |1998年(平成10年) | 24 || 34,176 || 49,164 || '''144''' | 27 || 38,448 || 77,407 || '''201''' | |- |1999年(平成11年) | 24 || 34,176 || 48,346 || '''141''' | 27 || 38,448 || 76,755 || '''200''' | |- |2000年(平成12年) | 24 || 34,176 || 47,462 || '''139''' | 27 || 38,448 || 75,656 || '''197''' |style="text-align:left;"|2000年12月12日、都営地下鉄大江戸線全線開業 |- |2001年(平成13年) | 24 || 34,176 || || | 27 || 38,448 || 76,056 || '''198''' |style="text-align:left;"|B線の最混雑区間を木場→門前仲町間に変更<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001491866.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220722234549/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001491866.pdf|title=資料2:三大都市圏の主要区間の混雑率(2021)|date=2022-07-22|page=1|archivedate=2022-07-22|accessdate=2022-07-23|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref> |- |2002年(平成14年) | 24 || 34,176 || 45,708 || '''134''' | 27 || 38,448 || 75,928 || '''197''' | |- |2003年(平成15年) | 24 || 34,176 || 45,248 || '''132''' | 27 || 38,448 || 76,185 || '''198''' | |- |2004年(平成16年) | 24 || 34,176 || || | 27 || 38,448 || 75,645 || '''197''' | |- |2005年(平成17年) | 24 || 34,176 || || | 27 || 38,448 || 76,054 || '''198''' | |- |2006年(平成18年) | 24 || 34,176 || || | 27 || 38,448 || 76,338 || '''199''' | |- |2007年(平成19年) | 24 || 34,176 || 45,746 || '''134''' | 27 || 38,448 || 76,606 || '''199''' | |- |2008年(平成20年) | 24 || 34,176 || 45,758 || '''134''' | 27 || 38,448 || 76,622 || '''199''' | |- |2009年(平成21年) | 24 || 34,176 || 45,795 || '''134''' | 27 || 38,448 || 75,790 || '''197''' | |- |2010年(平成22年) | 24 || 34,176 || 47,808 || '''140''' | 27 || 38,448 || 75,428 || '''196''' | |- |2011年(平成23年) | 24 || 34,176 || 43,489 || '''127''' | 27 || 38,448 || 76,553 || '''199''' | |- |2012年(平成24年) | 24 || 34,176 || 42,916 || '''126''' | 27 || 38,448 || 75,901 || '''197''' | |- |2013年(平成25年) | 24 || 34,176 || 41,167 || '''120''' | 27 || 38,448 || 76,354 || '''199''' | |- |2014年(平成26年) | 24 || 34,176 || 42,435 || '''124''' | 27 || 38,448 || 77,037 || '''200''' | |- |2015年(平成27年) | 24 || 34,176 || 42,934 || '''126''' | 27 || 38,448 || 76,665 || '''199''' | |- |2016年(平成28年) | 24 || 34,176 || 42,936 || '''126''' | 27 || 38,448 || 76,474 || '''199''' | |- |2017年(平成29年) | 24 || 34,176 || 43,579 || '''128''' | 27 || 38,448 || 76,616 || '''199''' | |- |2018年(平成30年) | 24 || 34,176 || 44,564 || '''130''' | 27 || 38,448 || 76,674 || '''199''' | |- |2019年(令和元年) | 24 || 34,176 || 44,302 || '''130''' | 27 || 38,448 || 76,388 || '''199''' | |- |2020年(令和{{0}}2年) | 24 || 34,176 || style="background-color: #ccffff;"|23,366 || '''68''' | 27 || 38,448 || style="background-color: #ccffff;"|47,189 || style="background-color: #ccffff;"|'''123''' | |- |2021年(令和{{0}}3年) | 24 || 35,856 || 23,795 || style="background-color: #ccffff;"| '''66''' | 27 || 40,338 || 51,811 || '''128''' | |} === 混雑率 === 部分開業状態であった[[1966年]][[10月12日]]付の[[朝日新聞]]が「相変らずガラ空き都心乗入れの地下鉄東西線」という見出しを掲載する時代もあったが、[[1970年代]]に路線が延伸すると混雑率の上昇は顕著となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200810041808/https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=3|title=「昭和の通勤電車」今では信じられない地獄絵図 「失神者」や「ガラスの破損」は日常茶飯事|page=3|date=2019-02-19|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|accessdate=2021-02-03|archivedate=2020-08-10}}</ref>。 特に総武緩行線津田沼までの直通運転開始後は、東西線西船橋口の利用客の増加は極めて大きかった<ref name="Tozai-Const172"/>。このため、1969年(昭和44年)8月25日から、混雑率の低い各駅停車2本を間引き、西船橋駅最混雑時間帯の列車を7両編成から8両または9両編成化を行って、輸送力増強を図った<ref name="Tozai-Const172"/>。さらに東西線開業後は地上区間の各駅停車の利用客が急増したことから、1975年(昭和50年)3月より朝ラッシュ時の各駅停車を10分間隔から5分間隔運転にした<ref name="Tozai-Const172"/>。 === 輸送力増強計画 === [[1977年]](昭和52年)11月からは東西線向けとして8年ぶりに車両増備を行い、一部列車の10両編成運転を開始した<ref name="Chiyoda-Const300-310"/>。特に東陽町以東の地上区間([[葛西]]、浦安、[[行徳]]地区)において、沿線開発による利用客の増加が著しいことから、西船橋→東陽町方面に向かう朝ラッシュ時最混雑時間帯(7:30 - 8:35)20本の列車を10両編成化することで、輸送力を約30%増強した<ref name="Chiyoda-Const300-310"/>。この1977年(昭和52年)時点の第1次輸送力増強計画には車両51両を新造し、約42億円を要した<ref name="Chiyoda-Const300-310"/>。 [[1979年]](昭和54年)には第2次輸送力増強計画を実施し、同年10月1日からは車両23両を増備して、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたりの運転本数を21本(約2分50秒間隔)から24本(2分30秒間隔)に増発した<ref name="Chiyoda-Const1114-1115"/>。 [[1981年]](昭和56年)には第3次輸送力増強計画を実施し、同年10月1日からは車両59両を増備(12両は新造、47両は千代田線から転属)して、西船橋から中野方面への朝ラッシュ時の1時間あたりの運転本数を24本(2分30秒間隔)から27本(2分15秒間隔)に増発した<ref name="Chiyoda-Const1114-1115"/>。 第2次輸送力増強の費用は、車両23両の新造費用等で18億3,088万円であったが、第3次輸送力増強では車両基地の増線([[深川検車区行徳分室|行徳検車区]]が発足)や[[変電所]]設備の増強などを含み、総額は119億9,628万円の費用を要した<ref name="Chiyoda-Const1114-1115"/>。 このほか、営団地下鉄は[[1978年]](昭和53年)に「東西線輸送力増強対策研究会」を設置し、将来の輸送需要を予測して車両増備、車両基地・信号設備の増強のほか、[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]、[[茅場町駅]]、[[西船橋駅]]の改良工事が必要とされた<ref name="TRTA-50th-390">[[#TRTA-50th|営団地下鉄五十年史]]、pp.390 - 393。</ref>。 [[東京メトロ銀座線|銀座線]]と交差する日本橋駅は、東西線からの乗り換え客が増加したことから、銀座線のホームを島式1面からA線(渋谷方面)専用ホームを増設し、従来ホームをB線(浅草方面)専用ホームとした<ref name="TRTA-50th-390"/>。さらに連絡通路の拡幅と増設を行った<ref name="TRTA-50th-390"/>。[[1981年]](昭和56年)4月に着工し、[[1985年]](昭和60年)7月に完成、工事費用は43億8,000万円であった<ref name="TRTA-50th-390"/>。 日比谷線と交差する茅場町駅は、東西線からの乗り換え客が増加したことから、日比谷線とのコンコースを拡大、日比谷線のホームは26m にわたってホーム幅を5.5 mから7.8 mに拡大した<ref name="TRTA-50th-390"/>。さらに連絡階段とエスカレーターを増設した<ref name="TRTA-50th-390"/>。1981年(昭和56年)2月に着工し、[[1984年]](昭和59年)3月に完成、工事費用は15億9,700万円である<ref name="TRTA-50th-390"/>。 西船橋駅は東西線開業時点で[[武蔵野線]]の建設計画があり、駅上部に武蔵野線の高架線を支える柱が設置できるよう準備されていた<ref name="TRTA-50th-390"/>。しかし、武蔵野線および京葉線は当初の[[貨物線]]から旅客線となったため、京葉線の開業時には東西線への乗り換え客の増加が予想された。このため、東西線西船橋駅の中野方面行きホームを、約4 m拡幅し、駅施設および階段の拡幅を行った<ref name="TRTA-50th-390"/>。1981年(昭和56年)11月に着工し、1985年(昭和60年)3月に完成、工事費用は13億9,800万円である<ref name="TRTA-50th-390"/>。 1990年(平成2年)6月20日には東西線の自社車両はすべて10両編成化された<ref name="Namboku-Const117"/>。 === 混雑緩和に向けた取り組み === ==== 背景 ==== 2010年代においてもなお、東西線の朝ラッシュ時混雑率は、JR・私鉄も含めた[[首都圏 (日本)|首都圏]]の鉄道路線でもワーストクラスである。 2021年度の朝[[ラッシュ時]]の最混雑区間はB線、[[木場駅|木場]]→[[門前仲町駅|門前仲町]]間であり、ピーク時(7:50 - 8:50)の混雑率は'''128%'''である<ref group="報道" name="report2022">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220722233835/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001492054.pdf|title=資料3:都市部の路線における最混雑区間の混雑率(2021)|page=3|date=2022-07-22|archivedate=2022-07-22|accessdate=2022-07-23|publisher=国土交通省鉄道局都市鉄道政策課|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。また、前年の2019年度における同区間のピーク時混雑率は'''199%'''である<ref group="報道" name="konzatsu2019">{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001365144.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201004005854/https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001365144.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和元年度)|date=2020-09-25|archivedate=2020-10-04|accessdate=2020-11-09|publisher=国土交通省|page=3|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 2017年より東京地下鉄公式サイトで公開された「朝ラッシュ時間帯の混雑状況について」では、木場駅を7:50 - 8:10頃に発車する列車が最も混雑する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/safety/attention/pdf/13_kiba.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210203052726/https://www.tokyometro.jp/safety/attention/pdf/13_kiba.pdf|title=木場駅発車時の混雑状況|archivedate=2021-02-03|accessdate=2021-02-03|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。車両中央部にあたる4号車と5号車は、他の車両と比較すると空いている。 1981年度から朝ラッシュ時のB線は毎時27本の高頻度運転がなされているが、これ以上の輸送力増強は困難である<ref group="注釈">東京メトロとしては南砂町駅の2面3線化や九段下駅の折り返し線整備の計画を持ち、設備面の改良を行う予定であるが、改良完了は2027年度と見込まれている。</ref>。1989年に都営地下鉄新宿線が、1990年に京葉線が当路線と並行する形で開業したことにより、1989年度に混雑率が200%程度まで緩和された。しかし、その後は輸送人員と混雑率が20年以上にわたって横ばい傾向となり、1999年度以降は[[東京の地下鉄]]で最も混雑する路線となった<ref group="注釈">1998年度以前は[[東京メトロ千代田線|千代田線]]が東京の地下鉄で最も混雑する路線であり、混雑率が210%を越えていた。</ref>。 快速通過駅である[[葛西駅]]と[[西葛西駅]]は他路線と接続しない単独駅でありながら1日平均乗降人員が10万人を越えており、朝ラッシュ時に限り運転される通勤快速は、これらの駅にも停車することで混雑の平準化を図っている。 2007年度の1日平均通過人員は、門前仲町 - 木場間が655,312人で最も多く、茅場町 - 門前仲町間が655,307人でこれに匹敵する。東京メトロ全線で1日平均通過人員が60万人を超える区間を有する路線は、当路線のみである。これらの区間をピークに、両端の区間に進むに連れて通過人員が減少する。西船橋方面は緩やかに減少し、千葉県との県境を跨ぐ葛西 - 浦安間が401,499人、原木中山 - 西船橋間が272,588人である。一方、中野方面は日本橋 - 茅場町間が624,603人であるが大手町 - 日本橋間が518,132人、竹橋 - 大手町間が395,616人であり、竹橋 - 茅場町間で20万人以上通過人員が減少する。その後は緩やかに減少し、高田馬場 - 早稲田間が300,010人であるが落合 - 高田馬場間が148,320人と半分程度まで減少し、中野 - 落合間が132,742人で最も少ない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|format=PDF|title=東京地下鉄 平成19年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date=|accessdate=2021-02-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190406020630/https://www.train-media.net/report/0810/metro.pdf|archivedate=2019-04-06}}</ref>。 ==== ダイヤ変更による混雑の均等化 ==== こうした状況を受けて、[[2007年]][[3月18日]]のダイヤ改正より朝ラッシュのピーク時間帯(西船橋発6:56 - 8:15)の「快速」が全列車「通勤快速」に変更された。これにより該当時間の全列車が浦安以西各駅停車となり、この時間帯の浦安→東陽町間の所要時間は、快速が8分、通勤快速と快速待避のない各停が11分、快速待避のある各停が13分であったが、全列車11分に統一された。この結果、各停への乗客の集中が緩和され、混雑の平準化が図られた。なお、対象の時間帯は元々ほとんどが通勤快速で、快速は[[#東葉快速(廃止)|東葉快速]]1本のみであった。 ==== 混雑緩和キャンペーン ==== 東西線では、混雑緩和・時差通勤を促進するため、以下のようなキャンペーンが実施されてきた。実施期間が冬期に限られていたのは、乗客が厚着することにより、ドア挟みの発生や乗降に時間が掛かりやすく、夏期に比べ遅延することが多いからである(いわゆる「着ぶくれ」)。 [[2007年]]12月10日から2008年2月29日までの平日には「東西線 早起き通勤キャンペーン」が実施された。対象区間は東陽町 - 浦安間で、期間中の朝の指定時間帯内に同区間を含む[[PASMO]]または[[Suica]]通勤定期券(通学定期券は対象外)で対象区間内の駅に置かれた専用端末にタッチすると、1日1回の「早起き通勤回数」がカウントされ、20回以上の利用者に先着で[[三菱UFJニコス]][[ギフトカード]]1000円分、40回以上で2000円分が贈られるというものである<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-61.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090312084600/http://www.tokyometro.jp:80/news/2007/2007-61.html|language=日本語|title=東京メトロ IC通勤定期券 東西線で早起き通勤キャンペーンを実施!!|publisher=東京地下鉄|date=2007-11-26|accessdate=2020-11-22|archivedate=2009-03-12}}</ref>。 このキャンペーンは続編として通勤定期券だけでなく通学定期券も対象とした「東西線早起きキャンペーン」として[[2008年]]12月1日から2009年2月27日までの平日にも実施された。この年から対象が原木中山 - 門前仲町間のいずれかの駅からの乗車で南砂町 - 茅場町間のいずれかを含むPASMOまたはSuica定期券となり、時間帯によってカウントされる早起き通勤回数が変わる(前半30分は3カウント、後半30分は1カウント)ように、賞品が贈られるカウント数が50以上に変更され、賞品も通勤者向きにTokyo Metro To Me CARDのメトロポイント、通学者向きにオリジナルグッズが追加された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-61.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630134619/https://www.tokyometro.jp/news/2008/2008-61.html|language=日本語|title=「東西線早起きキャンペーン」を実施します 12月1日(月)~2月27日(金)まで11駅を対象に!|publisher=東京地下鉄|date=2008-11-17|accessdate=2020-11-22|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 [[2009年]]12月1日から2010年2月26日までの平日にも同様のキャンペーンが実施された。このキャンペーンでは、通勤者向けの賞品がTokyo Metro To Me CARDのメトロポイントと三菱UFJニコスギフトカード、通学者向けの賞品が文具セットとなった。また、50カウント未満でも20カウント以上を記録した利用者すべてに粗品がプレゼントされるようになった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-61.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630105659/https://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-61.html|language=日本語|title=いつもより早起きしてゆとり&賞品をGET!「東西線早起きキャンペーン」を実施します 平成21年12月1日(火)~平成22年2月26日(金)まで|publisher=東京地下鉄|date=2009-11-16|accessdate=2020-11-22|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 [[2010年]]12月1日から2011年2月28日までの平日にも同様のキャンペーンが実施されるが、実施区間が西船橋 - 門前仲町間に拡大され、JR[[中央・総武緩行線|総武線]]やJR[[武蔵野線]]から東西線へ乗り換える乗客も参加しやすくなった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2010/pdf/metroNews20101117.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180630105549/http://www.tokyometro.jp/news/2010/pdf/metroNews20101117.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ちょっと早起きして快適通勤!「東西線早起きキャンペーン」を実施します 平成22年12月1日(水)〜平成23年2月28日(月)|publisher=東京地下鉄|date=2010-11-17|accessdate=2020-11-22|archivedate=2018-06-30}}</ref>。 「東西線早起きキャンペーン」は以後も実施されており、2013年度から実施区間に東葉高速線が追加され、定期券以外の交通系ICカードでも参加可能になり<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20131101_t123.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201122092024/https://www.tokyometro.jp/news/2013/pdf/metroNews20131101_t123.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 東葉高速線からのお客様も参加可能に!「東西線早起きキャンペーン」を実施します 平成25年12月2日(月)〜平成26年2月28日(金)|publisher=東京地下鉄|date=2013-11-01|accessdate=2020-11-22|archivedate=2020-11-22}}</ref>、2015年には初めて4月から7月までの期間にも実施された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150323_t94.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201122092240/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150323_t94.pdf|format=PDF|language=日本語|title=新生活応援計画始まる! 新生活を応援する「東西線早起きキャンペーン」を実施します 2015年4月13日(月)〜2015年7月10日(金)|publisher=東京地下鉄|date=2015-03-23|accessdate=2020-11-22|archivedate=2020-11-22}}</ref>。2017年9月25日からは土休日・年末年始をのぞく通年実施となった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170919_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201122092514/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20170919_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=メダルを集めて商品券をゲットしよう! 2017年9月25日以降、「東西線早起きキャンペーン」を通年で実施します!|publisher=東京地下鉄|date=2017-09-19|accessdate=2020-11-22|archivedate=2020-11-22}}</ref>。 2019年4月1日からは、「東西線早起きキャンペーン」に代わる混雑緩和を目的としたキャンペーンとして、メトロポイントクラブ(メトポ)を活用した「東西線オフピークプロジェクト」を開始した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190315_27.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220320043659/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20190315_27.pdf|format=PDF|language=日本語|title=ピークじゃないくらいが、ちょうどいい。 メトポを活用したオフピークプロジェクトを実施します! 「東西線」各駅、有楽町線「豊洲駅」、銀座線「新橋駅」にて実施!|publisher=東京地下鉄|date=2019-03-15|accessdate=2022-03-30|archivedate=2022-03-20}}</ref>。平日の朝ラッシュ時間帯を除く午前中に駅を出場または乗り換えると、入場時間に応じてポイント(メトポ)が進呈される(小児は、通常の半分のポイント進呈)。ただし、対象乗車駅は、東葉勝田台駅 - 門前仲町駅に限られる。事前にメトポに入会し参加登録したPASMOが必要。 ==== ワイドドア車両の投入 ==== 営団時代の[[1991年]][[10月16日]]から[[営団05系電車#4次車|05系ワイドドア車]]を導入したが<ref name="eidan609" />、5編成の投入に留まった。 東京メトロは2009年度の事業計画の中で、東西線の混雑緩和策としてオールワイドドア車10両編成の[[東京メトロ15000系電車|15000系]]を導入し、ラッシュ時間帯の列車に割り当てる方針を明らかにした。15000系は2010年から投入が開始され、同年5月7日から営業運転を開始した。そして、2011年度までに13編成130両が投入された{{efn|同時期に半蔵門線・[[東急田園都市線]]では混雑対策として6ドア車を10両編成中2両から3両に増加させている(後のホームドア設置のため廃止)。}}。 ==== さらなる混雑緩和策 ==== 東京メトロは2011年度事業計画の中で、上述のワイドドア車両再投入を含め、本格的に混雑緩和を行うため、ホームの拡幅や延伸、新たな線路やホームを増設することを明らかにした。具体的な計画は以下のものがあげられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h23_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210101140730/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h23_2.pdf|title=平成23年度(第8期)事業計画 主な項目|date=2011-03|archivedate=2021-01-01|accessdate=2021-02-03|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。<!-- ここで列記するのは2011年度事業計画に挙げられているものに限ります。その後の年度の事業計画で新たに策定されたことや、事業計画とは別に行われたことなどは段落や節を改めて記述してください。--> * 2012年度に門前仲町駅のホーム拡幅、[[2016年]]度に[[茅場町駅]]のホーム延伸およびエスカレーターや階段の増設を行う。 * 列車増発を可能にし、混雑率を緩和するため、[[南砂町駅]]のホーム・線路を増設し、2面3線の構造に改良する。これにより、後続列車が駅手前で待たずに交互発着できるようになる。 その後、[[2013年]]12月2日のダイヤ改正で終電の運転区間を延長し、最終の東陽町行が妙典行に変更となった。 2015年度事業計画の中で、前記の計画に加え[[2019年]]度を目途に[[九段下駅]]の[[引き上げ線|折り返し線]]を改良し、B線の九段下止まりの列車をA線へ折り返す際にB線と平面交差せずに折り返しできるよう工事を行うことを明らかにした<ref name="tokyometro20150721">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h27_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210203053409/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/scheme/pdf/plan_h27_2.pdf|title=平成27年度(第12期)事業計画 主な項目|date=2015-03|archivedate=2021-02-03|accessdate=2021-02-03|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。 また、東京メトロが2016年3月28日に発表した、2016年度から2018年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2018〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜』の中では、増発およびB修繕による予備車確保を目的に、2016年度にワイドドア車両が3編成増備されることが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210130122303/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2018.pdf|title=東京メトログループ中期経営計画 東京メトロプラン2018 〜「安心の提供」と「成長への挑戦」〜|page=15|archivedate=2021-01-30|accessdate=2021-02-03|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語}}</ref>。その増備車両として、15000系増備車が2017年上半期に導入されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://railf.jp/news/2017/01/15/182500.html |title=東京メトロ15000系15114編成が甲種輸送される |website=[https://railf.jp/news/ 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース] |publisher=[[交友社]] |date=2017-01-15 |accessdate=2021-02-03}}</ref>。 2019年度から2021年度までの3年間の中期経営計画『東京メトロプラン2021』では、茅場町駅のホーム延伸、[[木場駅]]のホーム拡幅など大規模改良に総額約1,200億円を使った輸送改善プロジェクトやオフピーク通勤通学の推進に取り組む事が記されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201110081209/https://www.tokyometro.jp/corporate/profile/plan/pdf/tmp2021.pdf|title=東京メトロプラン2021 東京メトログループ中期経営計画|archivedate=2020-11-10|page=17|accessdate=2021-04-17|publisher=東京地下鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 なお、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の流行]]による[[テレワーク|リモートワーク]]や[[時差出勤|時差通勤]]の普及により、輸送人員が減少したため、当初予定していた木場駅の駅改良工事の無期限延期や南砂町駅での一部計画の見直しなどを行っている<ref group="報道" name="press20221014">{{Cite press release|和書|url=https://www.city.koto.lg.jp/650102/documents/04101408.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221129114311/https://www.city.koto.lg.jp/650102/documents/04101408.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロ東西線木場駅・南砂町駅の改良工事について|publisher=江東区土木部交通対策課|date=2022-10-14|accessdate=2022-12-15|archivedate=2022-11-29}}</ref>。 == 駅一覧 == * 駅番号はA線方向(中野から西船橋の方向)に増加。 * ●: 停車、|↑: 通過、↑: 片方向のみ運転 * 普通(各駅停車)はすべての駅に停車するため省略する。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="border-bottom:3px solid #009bbf; width:4em;"|駅番号 !style="border-bottom:3px solid #009bbf; width:8em;"|駅名 !style="border-bottom:3px solid #009bbf; width:2.5em;"|駅間キロ !style="border-bottom:3px solid #009bbf; width:2.5em;"|累計キロ !style="border-bottom:3px solid #009bbf; background-color:#afb; width:1em; line-height:1.2em;"|{{縦書き|通勤快速}} !style="border-bottom:3px solid #009bbf; background-color:#fab; width:1em; line-height:2em;"|{{縦書き|快速}} !style="border-bottom:3px solid #009bbf;"|接続路線・備考 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #009bbf; line-height:1.2em;"|{{縦書き|地上/地下|height=6em}} !style="border-bottom:3px solid #009bbf;" colspan="2"|所在地 |- !T-01 |[[中野駅 (東京都)|中野駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |[[東日本旅客鉄道]]:'''[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央線(各駅停車)]](JB 07)([[三鷹駅]]まで直通運転)'''・[[ファイル:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]](JC 06) |style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em; line-height:1em;"|{{縦書き|地上|height=2em}} |style="text-align:center; width:1em; letter-spacing:0.5em;" rowspan="17"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}} |[[中野区]] |- !T-02 |[[落合駅 (東京都)|落合駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|2.0 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |&nbsp; |rowspan="14" style="text-align:center; background-color:#ccc; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|地下区間|height=8em}} |rowspan="4"|[[新宿区]] |- !T-03 |[[高田馬場駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|3.9 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 15)<br />[[西武鉄道]]:[[ファイル:Seibu shinjuku logo.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]] (SS02) |- !T-04 |[[早稲田駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|5.6 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |&nbsp; |- !T-05 |[[神楽坂駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|6.8 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |&nbsp; |- !T-06 |[[飯田橋駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|8.0 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Yūrakuchō Line.svg|18px|Y]] [[東京メトロ有楽町線|有楽町線]] (Y-13)(改札外連絡)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Namboku Line.svg|18px|N]] [[東京メトロ南北線|南北線]] (N-10)(改札外連絡)<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]] (E-06)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 中央線(各駅停車)(JB 16) |rowspan="4" style="white-space:nowrap;"|[[千代田区]] |- !T-07 |[[九段下駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|8.7 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] [[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]] (Z-06)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|S]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] (S-05) |- !T-08 |[[竹橋駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[毎日新聞社]]前)}}}} |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|9.7 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |&nbsp; |- !T-09 |[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|10.7 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-18)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-11)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hanzōmon Line.svg|18px|Z]] 半蔵門線 (Z-08)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Mita line symbol.svg|18px|I]] [[都営地下鉄三田線|三田線]] (I-09)<br />[[東海旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen jrc.svg|18px|■]] [[東海道新幹線]]([[東京駅]]<ref group="*" name="tokyo">大手町駅のJR東京駅乗り換え表示は東西線とJR各線との乗り継ぎに限る。なお、JRの車両の停車駅案内には大手町駅とJR東京駅との乗り換えは記載されていない。</ref>)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:Shinkansen-E.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[ファイル:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] 中央線 (JC 01)・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 01)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]] (JK 26)・[[ファイル:JR JT line symbol.svg|18px|JT]] [[東海道線 (JR東日本)|東海道線]] (JT 01)・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[上野東京ライン]] (JU 01)・[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[横須賀・総武快速線|横須賀線・総武線(快速)]] (JO 19)・[[ファイル:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] [[京葉線]] (JE 01)(東京駅<ref group="*" name="tokyo"/>) |- !T-10 |[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[髙島屋]]前)}}}} |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|11.5 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|G]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]] (G-11)<br />都営地下鉄:[[ファイル:Toei Asakusa line symbol.svg|18px|A]] [[都営地下鉄浅草線|浅草線]] (A-13) |rowspan="2"|[[中央区 (東京都)|中央区]] |- !T-11 |[[茅場町駅]] |style="text-align:right;"|0.5 |style="text-align:right;"|12.0 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|H]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] (H-13) |- !T-12 |[[門前仲町駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|13.8 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |都営地下鉄:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] 大江戸線 (E-15) |rowspan="4"|[[江東区]] |- !T-13 |[[木場駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|14.9 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |&nbsp; |- !T-14 |[[東陽町駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|15.8 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |&nbsp; |- !T-15 |[[南砂町駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|17.0 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|| |&nbsp; |- !T-16 |[[西葛西駅]] |style="text-align:right;"|2.7 |style="text-align:right;"|19.7 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|| |&nbsp; |rowspan="8" style="text-align:center; background:#fff; color:#000; width:1em;"|{{縦書き|地上区間|height=5em}} |rowspan="2"|[[江戸川区]] |- !T-17 |style="width:8em;"|[[葛西駅]]<br />{{smaller|{{要出典範囲|date=2023年11月|([[地下鉄博物館]]前)}}}} |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|20.9 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|| |''待避可能駅'' |- !T-18 |[[浦安駅 (千葉県)|浦安駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|22.8 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |&nbsp; |style="text-align:center; width:1em;" rowspan="6"|{{縦書き|[[千葉県]]|height=4em}} |[[浦安市]] |- !T-19 |[[南行徳駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|24.0 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|↑ |style="background-color:#fab; text-align:center;"|| |&nbsp; |rowspan="3"|[[市川市]] |- !T-20 |[[行徳駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|25.5 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|↑ |style="background-color:#fab; text-align:center;"|| |&nbsp; |- !T-21 |[[妙典駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|26.8 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|↑ |style="background-color:#fab; text-align:center;"|| |''待避可能駅'' |- !T-22 |[[原木中山駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|28.9 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|↑ |style="background-color:#fab; text-align:center;"|| |''待避可能駅'' |rowspan="2"|[[船橋市]] |- !T-23 |[[西船橋駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|30.8 |style="background-color:#afb; text-align:center;"|● |style="background-color:#fab; text-align:center;"|● |[[東葉高速鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Toyo-Rapid.svg|18px|TR]] '''[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]] (TR01)([[東葉勝田台駅]]まで直通運転)'''<br />東日本旅客鉄道:'''[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] 総武線(各駅停車)(JB 30)(平日の朝夕のみ[[津田沼駅]]まで直通運転)'''・[[ファイル:JR JM line symbol.svg|18px|JM]] [[武蔵野線]] (JM10)・[[ファイル:JR JE line symbol.svg|18px|JE]] 京葉線 |} {{Reflist|group="*"}} * 改札内乗り継ぎが可能な駅は[[茅場町駅]]([[東京メトロ日比谷線|日比谷線]])・[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]([[東京メトロ銀座線|銀座線]])・[[大手町駅 (東京都)|大手町駅]]([[東京メトロ千代田線|千代田線]])、[[九段下駅]]([[東京メトロ半蔵門線|半蔵門線]]、[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]])の4駅である。 * [[中野駅 (東京都)|中野駅]]は他社接続の共同使用駅で、東日本旅客鉄道の管轄駅である。改札内乗り換えが可能である。 * [[西船橋駅]]は他社接続の共同使用駅で、東京地下鉄の管轄駅である。 == 発車メロディ == 2015年5月から6月にかけて、従来のブザーに代わり[[向谷実]]作曲・編曲の[[発車メロディ]](発車サイン音)を導入した(JR管轄の中野駅を除く)<ref group="報道" name="metroNews20150325" /><ref group="報道" name="metroNews20150514" />。九段下駅では[[爆風スランプ]]の「[[大きな玉ねぎの下で 〜はるかなる想い]]」、日本橋駅では[[民謡]]「[[お江戸日本橋]]」、それ以外の各駅ではA線(西船橋方面)で「A Day in the METRO」、B線(中野方面)で「Beyond the Metropolis」(いずれもオリジナル曲)を使用している。各駅のメロディはそれぞれ駅や地域の雰囲気に合わせた異なるものになっているが、原曲をもつ九段下駅と日本橋駅のメロディも含めて進行方向につなぐと1つの曲になるように制作されている{{Refnest|group="注釈"|向谷は同様の手法を[[京阪電気鉄道]]や[[泉北高速鉄道]]の発車メロディでも用いている(京阪は快速特急用と特急用、一般列車用で分かれている)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.keihan.co.jp/corporate/release/orig_pdf/data_h19/2007-04-11-02.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210118101942/http://www.keihan.co.jp/corporate/release/orig_pdf/data_h19/2007-04-11-02.pdf|format=PDF|language=日本語|title= -さらなる安全・安心・円滑な運行管理をめざして- 列車運行管理システムを更新します 〜システム対象駅の発車メロディー。つなげて聞くと1つの曲に!〜|publisher=京阪電気鉄道|date=2007-04-11|accessdate=2022-01-03|archivedate=2021-01-18}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/2017-07-31_melody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210827152806/https://www.keihan.co.jp/corporate/release/upload/2017-07-31_melody.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 快速特急「洛楽」の発車メロディを 平成29年8月3日(木)からリニューアルします 〜「洛楽」の発車メロディもつなげて聞くと1つの曲になります〜|publisher=京阪電気鉄道|date=2017-07-31|accessdate=2022-01-03|archivedate=2021-08-27}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2022/03/37b5e9cf764effc4de5bb114a3c4a411.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220317073030/http://www.semboku.jp/wp-content/uploads/2022/03/37b5e9cf764effc4de5bb114a3c4a411.pdf|format=PDF|language=日本語|title= 「発車メロディー」及び「情報案内ディスプレイ」を全駅に導入します|publisher=泉北高速鉄道|date=2022-03-17|accessdate=2022-03-30|archivedate=2022-03-17}}</ref>。}}。 この発車メロディの導入に合わせて、向谷が代表を務める[[音楽館]]から[[アルバム|CDアルバム]]『[[向谷実#鉄道関連の作品|東京メトロ東西線 発車メロディCollection]]』が同年5月13日に発売されている。同アルバムには実際に使用されているメロディのオリジナル音源や、[[神保彰]]・[[矢堀孝一]]・[[宮崎隆睦]]ら国内のトップミュージシャンが演奏に参加したアレンジバージョンなどが収録されている。 なお、これらとは別に2018年11月26日からは、放送装置が更新された車両より順次[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の[[乗車促進音|車載メロディ]]の使用を開始している。曲はA線が「スカイブルー」([[福嶋尚哉]]作曲)、B線が「アゲハ蝶のワルツ」([[塩塚博]]作曲)である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.switching.co.jp/pressrelease/444 |title=東京メトロ東西線車載メロディを制作 |date=2018-12-03 |accessdate=2018-12-03 |publisher=スイッチ}}</ref>。 == その他 == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2022年1月}} * 営団地下鉄時代に車内に掲出していた路線図(メトロネットワーク)では、東西線は中央部を貫くように一直線で描かれていた。東京地下鉄となってからの自社車両では使われていないが、東葉高速鉄道の車両ではほぼ営団当時のものと同様の路線図(末端の西船橋駅からさらに東葉勝田台駅まで直線で延長したもの、かつ営団から東京地下鉄に改組後に開業した路線([[東京メトロ副都心線|副都心線]])や直通運転先([[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]])などを含めたもの)を掲出している。 * 車体帯のブルーは[[関義臣#家族|東義胤]]運転部・車両部分掌理事(当時)の指示により[[タバコ]]の「[[ハイライト (タバコ)|ハイライト]]」の色から取られたという<ref name="RJ794_111" />。そのため、当時の営団内ではラインカラーは「ハイライト・ブルー」と呼ばれていた<ref name="RJ794_111">{{Cite journal|和書|author=里田啓(元営団地下鉄車両部長)|date=2007-10-01|title=【連載】私の鉄道人生75年史-第10回 再び本社車両課に勤務(その2)-日比谷線3000系の設計-|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|volume=57|issue=第10号(通巻第794号)|page=111|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * 南砂町駅 - [[西葛西駅]]間にある[[荒川中川橋梁 (東京メトロ東西線)|荒川中川橋梁]]は1,236&nbsp;mあり、日本の鉄道橋の長さでは上位に位置している。これは隣接している2つの川([[荒川 (関東)|荒川]]・[[中川]])を1つの[[トラス橋]]で渡るためである。両端は河川上ではないがトラスが続いている。 * 現在、[[国土交通省]]は[[鉄道に関する技術上の基準を定める省令|新鉄道技術省令]]の解釈基準で電車線の勾配を最大で35&nbsp;‰と規定しているが、西船橋方面行きA線の早稲田 → 神楽坂間には40&nbsp;‰の下り勾配が存在する<ref name="Tozai-Const602"/>。これは地上の道路幅が狭く、さらに道路が下り勾配となっているので、地下を通る東西線は上下構造のトンネルとするため、やむを得ずこのような線形となった<ref name="Tozai-Const327">[[#Tozai-Const|東京地下鉄道東西線建設史]]、p.327。</ref>。 * かつて、東西線は[[東武野田線]]と直通運転をする計画があった<ref>『鉄道ピクトリアル』1972年3月増刊号、鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション27[[東武鉄道]]1970〜80 p.41」</ref>。上記の「[[#開業までの沿革|開業までの沿革]]」の節と「[[都市交通審議会答申第10号]]」も参照。 * かつて、[[高田馬場駅]]から[[西武新宿線]]への相互直通運転が東西線建設前に検討されたこともあったが<ref name="RP560_17">{{Cite journal|和書|author=長谷部和夫・今城光英|title=変貌する西武鉄道の輸送を語る|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-05-10|volume=42|issue=第5号(通巻第560号)|page=17|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>、実現しなかった。[[2005年]]には西武鉄道と東京地下鉄が、西武新宿線内から東西線高田馬場駅に連絡線を新設、相互乗り入れすることについての協議を始めることで合意。[[2007年]]以降に[[都市鉄道等利便増進法]]対象プロジェクト化、工期7年での建設を目指していた<ref>2005年7月20日『[[交通新聞]]』より</ref>。その後、[[2010年]]3月時点では、西武鉄道・東京地下鉄の両者とも乗り入れ計画はないとしていた<ref>[http://thd.city.tokorozawa.saitama.jp/kaigiroku/cgi-bin/WWWframeNittei.exe?A=frameNittei&USR=webusr&PWD=&XM=000000000000000&L=1&S=15&Y=%95%bd%90%ac22%94%4e&B=-1&T=-1&T0=-1&O=-1&P1=&P2=&P3=&P=1&K=24&N=223&W1=&W2=&W3=&W4=&DU=1&WDT=0&EDIT_MODE=0 所沢市議会会議録平成22年3月定例会]</ref>。しかし、[[2020年]]9月に行われた[[東洋経済新報社|東洋経済新報]]によるインタビューで[[西武鉄道]]社長の喜多村樹美男は新宿線が[[西武新宿駅]]止まりなので沿線から都心に向かう乗客からの不満の声が多いとした上で、「新宿線の都心乗り入れのために東京メトロ東西線乗り入れなどといった様々な選択肢を検討している」と語っており、相互乗り入れ計画を断念したわけでは無いことを示唆している<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/377569?page=4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210203054548/https://toyokeizai.net/articles/-/377569?page=4|title=「新宿線―東西線直通」へ、西武社長の意気込み ダサイタマ返上、「プライドを持てる路線に」|date=2020-09-28|publisher=東洋経済新報社|work=東洋経済オンライン|page=4|accessdate=2021-02-03|archivedate=2021-02-03}}</ref>。 * 西葛西駅 - 葛西駅間の高架下の遊休地を使って完全人工光型植物工場を開設し、[[レタス]]などの生産を行い、沿線のホテルやレストランに供給している<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150406_s93.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211112062936/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20150406_s93.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京メトロの「とうきょうサラダ」販売開始 安心・安全、農薬不使用の葉物野菜|publisher=東京地下鉄/メトロ開発|date=2015-04-06|accessdate=2021-11-12|archivedate=2021-11-12}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/science/20211112-OYT1T50128/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211112062514/https://www.yomiuri.co.jp/science/20211112-OYT1T50128/|title=天候に左右されない「野菜工場」増加…東京メトロ、東西線の高架下でレタスなど生産|newspaper=読売新聞|publisher=読売新聞社|date=2021-11-12|accessdate=2021-11-12|archivedate=2021-11-12}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 報道発表資料 === {{Reflist|group="報道"|2}} === 新聞記事 === {{Reflist|group="新聞"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_touzai.html/|date=1978-07-31|title=東京地下鉄道東西線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Tozai-Const}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/|date=1960-03-31|title=東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Morunouchi-Con1}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_chiyoda.html/|date=1983-06-30|title=東京地下鉄道千代田線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Chiyoda-Con}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_nanboku.html/|date=2002-03-31|title=東京地下鉄道南北線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=namboku}} * {{Cite book |和書 |title=営団地下鉄五十年史 |publisher=帝都高速度交通営団 |date=1991-07-04|ref=TRTA-50th}} * {{Cite book|和書|title=[[帝都高速度交通営団]]史|publisher=[[東京地下鉄]]|date=2004-12|ref=eidan}} * {{Cite journal|和書|author=増田泰博(東京地下鉄経営企画本部経営管理部)、佐藤公一、楠居利彦|date=2004-09-01|title=特集:東京メトロ|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|volume=44|issue=第9号(通巻第521号)|pages=pp.9 - 68|publisher=[[交友社]]|ref=RF521}} * 『MY LINE 東京時刻表』各号(交通新聞社) * {{Cite journal ja-jp|和書|title= 東京地下鉄東西線 地上主体型デジタル伝送方式のATC地上装置概要|pages=29-32|author=宇田川一雄|ref=RE1610|date = 2005-10|journal = 鉄道と電気技術|issue = 10|volume = 16|publisher = 日本鉄道電気技術協会}} * {{Cite journal ja-jp|和書|title= 東京地下鉄東西線のCS-ATC化工事|pages=14-18|author=首藤浩敏|ref=RE1903|date = 2008-3|journal = 鉄道と電気技術|issue = 3|volume = 19|publisher = 日本鉄道電気技術協会}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tokyo Metro Tōzai Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[通勤五方面作戦]] * [[流鉄]](過去に[[馬橋駅]]から中山を経由し、洲崎まで、現在の東西線に近いルートを計画していた) == 外部リンク == * [https://www.tokyometro.jp/station/line_tozai/ 東西線/T | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://metroarchive.jp/content/touzai.html/ 東西線の歴史] - メトロアーカイブアルバム(公益財団法人メトロ文化財団) {{東京の地下鉄路線}} {{デフォルトソート:とうきようめとろとうさいせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|とうさい]] [[Category:東京地下鉄の鉄道路線|とうさい]] [[Category:東京都の交通]] [[Category:千葉県の交通]] [[Category:成田財特法]]
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エリック・レイモンド
エリック・レイモンド(英語: Eric Steven Raymond、1957年12月4日 - )は、アメリカ合衆国のプログラマ、作家。オープンソースのスポークスマン的な役割を果たしている。 名前の頭文字を並べた ESR の呼び名も知られている。 有名な著作にGNU/Linuxの開発の手法を分析した『伽藍とバザール』をはじめとする「オープンソース4部作」や、『ジャーゴンファイル』の新書籍版(邦訳書タイトル『ハッカーズ大辞典』)があり、同ファイルについては現在メンテナでもある。 彼自身もオープンソースソフトウェアfetchmail(旧名:popclient)の開発に携わった。 開発手法の名前であるバザール方式はレイモンドの作った単語である。 Netscapeのソースコード公開ならびにmozilla.org設立にも、大きな影響を与えたとされる。 コンピュータへの興味の他、SFとそのファンダムなどにも興味を持ち、政治的にはリバタリアニズムなどを主張する。たとえば銃規制は間違っているという公言などが知られ、近年はブログで政治的発言を繰り広げている。9.11同時多発テロ時にはブッシュ政権によるアフガン侵攻を支持する文章をブログに載せて物議を醸した。
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エリック・レイモンドは、アメリカ合衆国のプログラマ、作家。オープンソースのスポークスマン的な役割を果たしている。 名前の頭文字を並べた ESR の呼び名も知られている。
{{出典の明記|date=2021年10月}} {{Infobox 作家 |name=エリック・スティーブン・レイモンド<br>{{lang|en|Eric Steven Raymond}} |image=Eric S Raymond.jpg |image_size=200px |caption=エリック・レイモンド(2006年) |pseudonym=ESR |birth_name= |birth_date={{生年月日と年齢|1957|12|4}} |birth_place={{USA1912}}、[[マサチューセッツ州]][[ボストン]] |death_date= |death_place= |resting_place= |occupation=[[プログラマ]]、[[作家]] |nationality={{USA}} |education= |alma_mater=[[ペンシルベニア大学]]<ref name="resume">{{cite web |url=http://catb.org/~esr/resume.html |title=Resume of Eric Steven Raymond |first=Eric S. |last=Raymond |date=2003-01-29 |accessdate=2009-11-23 }}</ref> |period= |genre = |subject= |movement= |religion= |notable_works=『[[伽藍とバザール]]』 |spouse= |partner= |children= |relations= |awards= |debut_works= |signature= |website=http://www.catb.org/~esr/ |footnotes= }} <!--[[画像:Eric S Raymond.jpg|thumb|right|エリック・レイモンド]]--> '''エリック・レイモンド'''({{lang-en|Eric Steven Raymond}}、[[1957年]]12月4日 - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[プログラマ]]、作家。[[オープンソース]]のスポークスマン的な役割を果たしている。 名前の頭文字を並べた '''ESR''' の呼び名も知られている。 == 経歴 == 有名な著作に[[GNU/Linux]]の開発の手法を分析した『[[伽藍とバザール]]』をはじめとする「オープンソース4部作」や、『[[ジャーゴンファイル]]』の新書籍版(邦訳書タイトル『[[#レイモンド1995|ハッカーズ大辞典]]』)があり、同ファイルについては現在メンテナでもある。 彼自身もオープンソースソフトウェア[[fetchmail]](旧名:popclient)の開発に携わった。 開発手法の名前である[[バザール方式]]はレイモンドの作った単語である。 [[Netscapeシリーズ|Netscape]]の[[ソースコード]]公開<ref> {{cite web | url = http://opensource.org/history | title = History of the OSI | work = [[Open Source Initiative|OSI]] | publisher = opensource.org | accessdate = 2011-06-08 | quote = Raymond's presentation of the paper at the O'Reilly Perl Conference in September 1997 helped trigger Netscape's announcement, on January 22nd 1998, that it planned to release the source code of its popular Web browser as free software. }}</ref><ref> {{Cite web|和書 | url = http://www.catch.jp/wiki/index.php?%A5%AA%A1%BC%A5%D7%A5%F3%A5%BD%A1%BC%A5%B9%A4%CE%CE%F2%BB%CB | title = オープンソースの歴史 | work = [[Open Source Initiative|OSI]]、可知豊 | publisher = www.catch.jp | accessdate = 2011-06-08 | quote = 1997年9月のオライリー Perlコンファレンスにおいて、レイモンドが行ったプレゼンテーションは、人気のあったウェブブラウザのソースコードをフリーソフトウェアとして公開するという、1998年1月22日のNetscapeの発表の引き金になりました。 }}</ref>ならびに{{要出典範囲|[[Mozilla Foundation|mozilla.org]]設立にも、大きな影響を与えたとされる。|date=2011年6月}} コンピュータへの興味の他、[[サイエンス・フィクション|SF]]とその[[ファンダム]]などにも興味を持ち、政治的には[[リバタリアニズム]]などを主張する。たとえば[[銃規制]]は間違っているという公言などが知られ、近年は[[ブログ]]で政治的発言を繰り広げている。[[アメリカ同時多発テロ事件|9.11同時多発テロ]]時にはブッシュ政権による[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガン侵攻]]を支持する文章をブログに載せて物議を醸した。 == 著書 == *{{Cite book|和書|editor=Eric S. Raymond編|others=[[ガイ・スティール・ジュニア|Guy L. Steele Jr.]]絵、福崎俊博訳|year=1995|month=7|title=ハッカーズ大辞典|publisher=アスキー|series=ASCII books|isbn=4-7561-0374-X|ref=レイモンド1995}} - 原著([[ジャーゴンファイル|The new Hacker's dictionary]])第2版の翻訳。 **{{Cite book|和書|editor=Eric S. Raymond編|others=[[ガイ・スティール・ジュニア|Guy L. Steele Jr.]]絵、福崎俊博訳|year=2002|month=6|title=ハッカーズ大辞典|edition=改訂新版|publisher=アスキー|series=ASCII books|isbn=4-7561-4084-X|url=http://asciimw.jp/search/mode/item/cd/A0240580|ref=レイモンド2002}} - 原著([[ジャーゴンファイル|The new Hacker's dictionary]])第3版の翻訳。 *{{Cite book|和書|author=エリック・スティーブン・レイモンド|others=[[山形浩生]]訳・解説|year=1999|month=9|title=伽藍とバザール オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト|publisher=光芒社|isbn=4-89542-168-6|ref=レイモンド1999}} *{{Cite book|和書|author=デボラ・キャメロン|coauthors=ビル・ローゼンブラッド、エリック・レイモンド共著|others=福崎俊博訳|year=1999|month=10|title=入門GNU Emacs|publisher=オライリー・ジャパン|isbn=4-900900-83-4|ref=キャメロンほか1999}} *{{Cite book|和書|author=Eric S. Raymond|others=長尾高弘訳|year=2007|month=7|title=The art of UNIX programming|publisher=アスキー|isbn=978-4-7561-4948-0|url=http://asciimw.jp/search/mode/item/cd/A0740930|ref=レイモンド2007}} == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} * [[ハロウィーン文書]] * [[Revolution OS]] == 外部リンク == {{Commons|Eric S. Raymond}} * [http://www.catb.org/~esr/ Eric S. Raymond's Home Page] - ESRの公式サイト * [http://www.ibiblio.org/esrblog/ Armed and Dangerous] - ESRのブログ * [https://cruel.org/jindex.html YAMAGATA Hiroo Official Japanese Page] - ESRのリソースの日本語訳が多く置かれている[[山形浩生]]のページ * [http://www.nowondvd.net/products/revolution-os/ ESR appears in "Revolution OS"(VHS/DVD)] * [https://www.imdb.com/name/nm0713253/ imdb filmography] - [[インターネット・ムービー・データベース]] * {{青空文庫著作者|29|レイモンド エリック}} * {{Gutenberg author|Eric_S._Raymond}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れいもんと えりつく}} [[Category:エリック・レイモンド|*]] [[Category:アメリカ合衆国のプログラマ]] [[Category:アメリカ合衆国の作家]] [[Category:アナルコ・キャピタリスト]] [[Category:オープンコンテント]] [[Category:アメリカ合衆国のリバタリアン]] [[Category:アメリカ合衆国の活動家]] [[Category:障害を持つ活動家]] [[Category:ボストン出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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ロッテルダム
ロッテルダム(オランダ語: Rotterdam [ˌrɔtərˈdɑm] ( 音声ファイル) ロテルダム)は、オランダの南ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。 オランダ国内でアムステルダムに次ぐ人口第2の都市であり、世界屈指の貿易港であるロッテルダム港を擁する。アムステルダムに比べて近代的な建築物が多い。 13世紀に成立した集落が起源であり、1328年に都市権を得た。16世紀ごろから港が発達し、港湾都市として大西洋貿易の隆盛とともに発展。1872年にはマース川河口に開通した新水路をさらに深削し、大型外航船が北海から直接入港することが可能となった。この運河の利用で拡大した貿易が、19世紀末のさらなる急速な経済発展につながり、アムステルダムに続く都市へと成長していった。 第二次世界大戦ではナチス・ドイツによる爆撃で旧市街と港はほとんど破壊され荒廃し、ドイツに降伏した。戦後は近代的な計画都市として海上交通を軸に復興を果たした。 ライン川、マース川、スヘルデ川が北海へ注ぐデルタ地帯に発達した港湾都市。これらの川を通じて、ドイツ、ベルギー、フランス、スイスにまで、その後背地が広がっている。街自体は、マース川沿いに位置している。近隣の都市としては、約20キロ北西にハーグ、45キロ北東にユトレヒト、45キロ南東にブレダ、60キロ北のアムステルダムなどが挙げられる。 1965年、ニューヨークを抜いて世界第一の貿易量を誇るようになり、2003年まで世界一の貨物取扱量を維持した。その後、2004年に上海港とシンガポール港に抜かれ、2010年代には、中国の諸都市、釜山、ドバイなどの後塵を拝するようになったが、欧州(及び米州)首位の座は維持している。 ドイツのルール工業地帯とライン川で結ばれていること、各国から欧州への輸出品の多くがこの地から荷揚げされていることも貢献している。主要産業は石油精製、造船、化学製品、金属製品、製糖。また、世界的な大企業ミッタル・スチール(現:アルセロール・ミッタル)とユニリーバの本社がある。 欧州連合の海の玄関口とも言われるロッテルダム港(またの名をユーロポート)がライン川の河口のこの地に造られている。ライン川河口域を全て閉鎖して高潮から国土を守るデルタ計画においても、この港と北海を結ぶ航路はマエスラント可動堰により確保されている。 空港は格安航空会社などが就航するロッテルダム空港が郊外にあるが、オランダの主要空港であるアムステルダム・スキポール空港へも鉄道で45分ほどで行くことが出来る。 国内および近隣国各都市との間にロッテルダム中央駅よりオランダ鉄道(NS)が頻繁に列車を走らせており、パリ北駅へは高速列車タリスが、ベルギーのブリュッセルへはインターシティ(別称 ベネルクストレイン)が運行されている。また、デン・ハーグにはランドスタット鉄道エラスムス線で行くことも出来る。この路線は元はオランダ鉄道の路線であったが、2006年にLRT化されロッテルダム電鉄(RET)が運行している。市内交通はロッテルダム地下鉄やトラムが運行されている。 ロッテルダムはオランダで外国人の割合が最も高い都市である。人口の52.9%はオランダ以外の出身であるか、少なくとも片親が国外出身である。2010年のイスラム教徒は8万人であり、人口の13%を占める。2009年から現職のアフメド・アバウアレブ市長はモロッコ系イスラム教徒である。同市にはオランダ最大のオランダ領アンティル人のコミュニティがあり、また市内にはチャイナタウンがある。在留する日本人も多い。 現代建築の例として、キューブハウスと称される個性的な形態をしたマンションが有名である。マンションの一室は公開されており、観光客も見学することができる。機能主義建築の傑作とされるファン・ネレ工場は、2014年にUNESCOの世界遺産リストに登録された。 世界最初の歩行者天国とも称されるラインバーン商店街では、約1キロに渡ってショッピング・ストリートが続いている。都市の中心部から自動車を締め出すという都市計画は、他の都市にも影響を与えた。また、ガバと呼ばれる音楽ジャンルの元となった「ロッテルダムテクノ」の発祥地としても知られる。 毎年の夏に夏のカーニバル(英語版)が開催される。2023年にユネスコの無形文化遺産に登録された。 ロッテルダムではサッカーが最も人気のスポーツであり、フェイエノールト、スパルタ・ロッテルダム、SBVエクセルシオールという3つのプロサッカークラブが存在している。中でもフェイエノールトはオランダリーグ屈指の名門クラブとして知られており、かつては元サッカー日本代表の小野伸二や宮市亮も所属し、顕著な活躍をしていた。 オランダは野球・ソフトボールにおいてイタリアと共にヨーロッパにおける強豪国として知られている。ロッテルダムを拠点とするキュラソー・ネプテューヌスはオランダを代表する野球チームの1つである。 この都市で開催されるロッテルダムマラソンは幅広く知られている。例年1月上旬に行われる自転車競技・トラックレースのロッテルダム6日間レースも人気が高い。さらに、男子プロテニスのABNアムロ世界テニス・トーナメントも開催されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ロッテルダム(オランダ語: Rotterdam [ˌrɔtərˈdɑm] ( 音声ファイル) ロテルダム)は、オランダの南ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オランダ国内でアムステルダムに次ぐ人口第2の都市であり、世界屈指の貿易港であるロッテルダム港を擁する。アムステルダムに比べて近代的な建築物が多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "13世紀に成立した集落が起源であり、1328年に都市権を得た。16世紀ごろから港が発達し、港湾都市として大西洋貿易の隆盛とともに発展。1872年にはマース川河口に開通した新水路をさらに深削し、大型外航船が北海から直接入港することが可能となった。この運河の利用で拡大した貿易が、19世紀末のさらなる急速な経済発展につながり、アムステルダムに続く都市へと成長していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦ではナチス・ドイツによる爆撃で旧市街と港はほとんど破壊され荒廃し、ドイツに降伏した。戦後は近代的な計画都市として海上交通を軸に復興を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ライン川、マース川、スヘルデ川が北海へ注ぐデルタ地帯に発達した港湾都市。これらの川を通じて、ドイツ、ベルギー、フランス、スイスにまで、その後背地が広がっている。街自体は、マース川沿いに位置している。近隣の都市としては、約20キロ北西にハーグ、45キロ北東にユトレヒト、45キロ南東にブレダ、60キロ北のアムステルダムなどが挙げられる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1965年、ニューヨークを抜いて世界第一の貿易量を誇るようになり、2003年まで世界一の貨物取扱量を維持した。その後、2004年に上海港とシンガポール港に抜かれ、2010年代には、中国の諸都市、釜山、ドバイなどの後塵を拝するようになったが、欧州(及び米州)首位の座は維持している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ドイツのルール工業地帯とライン川で結ばれていること、各国から欧州への輸出品の多くがこの地から荷揚げされていることも貢献している。主要産業は石油精製、造船、化学製品、金属製品、製糖。また、世界的な大企業ミッタル・スチール(現:アルセロール・ミッタル)とユニリーバの本社がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "欧州連合の海の玄関口とも言われるロッテルダム港(またの名をユーロポート)がライン川の河口のこの地に造られている。ライン川河口域を全て閉鎖して高潮から国土を守るデルタ計画においても、この港と北海を結ぶ航路はマエスラント可動堰により確保されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "空港は格安航空会社などが就航するロッテルダム空港が郊外にあるが、オランダの主要空港であるアムステルダム・スキポール空港へも鉄道で45分ほどで行くことが出来る。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "国内および近隣国各都市との間にロッテルダム中央駅よりオランダ鉄道(NS)が頻繁に列車を走らせており、パリ北駅へは高速列車タリスが、ベルギーのブリュッセルへはインターシティ(別称 ベネルクストレイン)が運行されている。また、デン・ハーグにはランドスタット鉄道エラスムス線で行くことも出来る。この路線は元はオランダ鉄道の路線であったが、2006年にLRT化されロッテルダム電鉄(RET)が運行している。市内交通はロッテルダム地下鉄やトラムが運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ロッテルダムはオランダで外国人の割合が最も高い都市である。人口の52.9%はオランダ以外の出身であるか、少なくとも片親が国外出身である。2010年のイスラム教徒は8万人であり、人口の13%を占める。2009年から現職のアフメド・アバウアレブ市長はモロッコ系イスラム教徒である。同市にはオランダ最大のオランダ領アンティル人のコミュニティがあり、また市内にはチャイナタウンがある。在留する日本人も多い。", "title": "住民" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現代建築の例として、キューブハウスと称される個性的な形態をしたマンションが有名である。マンションの一室は公開されており、観光客も見学することができる。機能主義建築の傑作とされるファン・ネレ工場は、2014年にUNESCOの世界遺産リストに登録された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "世界最初の歩行者天国とも称されるラインバーン商店街では、約1キロに渡ってショッピング・ストリートが続いている。都市の中心部から自動車を締め出すという都市計画は、他の都市にも影響を与えた。また、ガバと呼ばれる音楽ジャンルの元となった「ロッテルダムテクノ」の発祥地としても知られる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "毎年の夏に夏のカーニバル(英語版)が開催される。2023年にユネスコの無形文化遺産に登録された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ロッテルダムではサッカーが最も人気のスポーツであり、フェイエノールト、スパルタ・ロッテルダム、SBVエクセルシオールという3つのプロサッカークラブが存在している。中でもフェイエノールトはオランダリーグ屈指の名門クラブとして知られており、かつては元サッカー日本代表の小野伸二や宮市亮も所属し、顕著な活躍をしていた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "オランダは野球・ソフトボールにおいてイタリアと共にヨーロッパにおける強豪国として知られている。ロッテルダムを拠点とするキュラソー・ネプテューヌスはオランダを代表する野球チームの1つである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この都市で開催されるロッテルダムマラソンは幅広く知られている。例年1月上旬に行われる自転車競技・トラックレースのロッテルダム6日間レースも人気が高い。さらに、男子プロテニスのABNアムロ世界テニス・トーナメントも開催されている。", "title": "スポーツ" } ]
ロッテルダムは、オランダの南ホラント州にある基礎自治体(ヘメーンテ)。 オランダ国内でアムステルダムに次ぐ人口第2の都市であり、世界屈指の貿易港であるロッテルダム港を擁する。アムステルダムに比べて近代的な建築物が多い。
{{世界の市 |正式名称 = ロッテルダム |公用語名称 = {{Lang|nl|Gemeente Rotterdam}} |愛称 = Rotjeknor, Waterstad(水の都市), Maasstad, Manhattan aan de Maas, Roffa |標語 = 苦闘を経て強くなる({{Lang|nl|Sterker door strijd}}) |画像 = Rotterdam vanaf de Euromast (5088248387).jpg |画像サイズ指定 = 300px |画像の見出し = |市旗 = Flag_of_Rotterdam.svg |市章 = Rotterdam_wapen.svg |位置図 = LocatieRotterdam.png |位置図サイズ指定 = 200px |位置図の見出し = |位置図B = {{Location map |Netherlands#Benelux#Northern and Central Europe|float=center|label=ロッテルダム}} |位置図2 = |位置図サイズ指定2 = |位置図の見出し2 = |緯度度 = 51.922832 |緯度分 = |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 4.479606 |経度分 = |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) = E |成立区分 = |成立日 = |成立区分1 = |成立日1 = |成立区分2 = |成立日2 = |旧名 = |創設者 = |下位区分名 = {{NED}} |下位区分種類1 = 州(Provincie) |下位区分名1 = {{Flagicon|Zuid-Holland}} [[南ホラント州]] |下位区分種類2 = |下位区分名2 = |下位区分種類3 = |下位区分名3 = |下位区分種類4 = |下位区分名4 = |規模 = 基礎自治体 |最高行政執行者称号 = 市長 |最高行政執行者名 = [[:nl:Ahmed Aboutaleb|Ahmed Aboutaleb]] |最高行政執行者所属党派 = |総面積(平方キロ) = 319.35 |総面積(平方マイル) = |陸上面積(平方キロ) = 206.44 |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = 112.91 |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) = |標高(フィート) = |人口の時点 = 2016年7月1日 |人口に関する備考 = |総人口 = 639,587 |人口密度(平方キロ当たり) = 3,060 |人口密度(平方マイル当たり) = |市街地人口 = |市街地人口密度(平方キロ) = |市街地人口密度(平方マイル) = |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ) = |都市圏人口密度(平方マイル) = |等時帯 = CET |協定世界時との時差 = +1 |夏時間の等時帯 = CEST |夏時間の協定世界時との時差 = +2 |郵便番号の区分 = |郵便番号 = |市外局番 = |ナンバープレート = |ISOコード = |公式ウェブサイト = http://www.rotterdam.nl/ |備考 = }} '''ロッテルダム'''({{Lang-nl|Rotterdam}} {{IPA-nl|ˌrɔtərˈdɑm||Nl-Rotterdam.ogg}} {{Smaller|ロテルダム}})は、[[オランダ]]の[[南ホラント州]]にある[[基礎自治体]]([[ヘメーンテ (オランダ)|ヘメーンテ]])。 オランダ国内で[[アムステルダム]]に次ぐ人口第2の都市であり、世界屈指の貿易港である[[ロッテルダム港]]を擁する。アムステルダムに比べて近代的な建築物が多い<ref>{{Cite web|title=ロッテルダムが欧州の新しい「クールな都市」かもしれない13の理由|url=https://www.cnn.co.jp/travel/35100378.html|website=CNN.co.jp|accessdate=2020-09-08|language=ja}}</ref>。 == 歴史 == [[File:Rotterdam standbeeld Erasmus.jpg|thumb|300px|ロッテルダム 聖ローレンス教会の庭にある[[エラスムス]]像]] [[13世紀]]に成立した[[集落]]が起源であり、[[1328年]]に[[都市権 (オランダ)|都市権]]を得た。[[16世紀]]ごろから港が発達し、港湾都市として[[大西洋]]貿易の隆盛とともに発展。[[1872年]]には[[マース川]]河口に開通した新水路をさらに深削し、大型外航船が[[北海]]から直接入港することが可能となった。この運河の利用で拡大した貿易が、[[19世紀]]末のさらなる急速な経済発展につながり、[[アムステルダム]]に続く都市へと成長していった。 [[第二次世界大戦]]では[[ナチス・ドイツ]]による[[ロッテルダム爆撃|爆撃]]で旧市街と港はほとんど破壊され荒廃し、ドイツに降伏した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3084082 70年以上ぶりに発見、第2次大戦の降伏文書]AFPBB2016年4月15日</ref>。戦後は近代的な計画都市として海上交通を軸に復興を果たした。 == 地理 == [[ライン川]]、[[マース川]]、[[スヘルデ川]]が[[北海]]へ注ぐデルタ地帯に発達した港湾都市。これらの川を通じて、ドイツ、ベルギー、フランス、スイスにまで、その後背地が広がっている。街自体は、マース川沿いに位置している。近隣の都市としては、約20キロ北西に[[デン・ハーグ|ハーグ]]、45キロ北東に[[ユトレヒト]]、45キロ南東に[[ブレダ (オランダ)|ブレダ]]、60キロ北の[[アムステルダム]]などが挙げられる。 == 経済 == [[1965年]]、[[ニューヨーク]]を抜いて世界第一の貿易量を誇るようになり、2003年まで世界一の貨物取扱量を維持した<ref group="注釈">1979年の運輸省「国際運輸統計」などによると、貨物取り扱い量において、千葉が1.46億トン、神戸が1.43億トン、横浜が1.24億トン、[[マルセイユ]]が1.09億トン、名古屋が1.08億トンなのに対し、ロッテルダムは2.92億トンであった。</ref>。その後、2004年に[[上海港]]と[[シンガポール港]]に抜かれ、2010年代には、中国の諸都市、釜山、ドバイなどの後塵を拝するようになったが、欧州(及び米州)首位の座は維持している。 [[ドイツ]]の[[ルール工業地帯]]と[[ライン川]]で結ばれていること、各国から欧州への輸出品の多くがこの地から荷揚げされていることも貢献している。主要産業は石油精製、造船、化学製品、金属製品、製糖。また、世界的な大企業[[ミッタル・スチール]](現:[[アルセロール・ミッタル]])と[[ユニリーバ]]の本社がある。 == 交通 == === 港湾 === [[File:Waalhaven in Rotterdam 2016.jpg|thumb|300px|[[ロッテルダム港]]]] [[欧州連合]]の海の玄関口とも言われる[[ロッテルダム港]](またの名を[[ユーロポート]])が[[ライン川]]の河口のこの地に造られている。ライン川河口域を全て閉鎖して高潮から国土を守る[[デルタ計画]]においても、この港と北海を結ぶ航路はマエスラント可動堰により確保されている。 === 空港 === 空港は[[格安航空会社]]などが就航する[[ロッテルダム空港]]が郊外にあるが、オランダの主要空港である[[アムステルダム・スキポール空港]]へも鉄道で45分ほどで行くことが出来る。 === 鉄道 === 国内および近隣国各都市との間に[[ロッテルダム中央駅]]より[[オランダ鉄道|オランダ鉄道(NS)]]が頻繁に列車を走らせており、[[パリ北駅]]へは高速列車[[タリス]]が、[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]へは[[インターシティ]](別称 [[ベネルクストレイン]])が運行されている。また、[[デン・ハーグ]]には[[ランドスタット鉄道]]エラスムス線で行くことも出来る。この路線は元はオランダ鉄道の路線であったが、2006年にLRT化され[[ロッテルダム電鉄|ロッテルダム電鉄(RET)]]が運行している。市内交通は[[ロッテルダム地下鉄]]や[[トラム (ロッテルダム)|トラム]]が運行されている。 == 住民 == ロッテルダムはオランダで外国人の割合が最も高い都市である。人口の52.9%はオランダ以外の出身であるか、少なくとも片親が国外出身である。2010年のイスラム教徒は8万人であり、人口の13%を占める。2009年から現職のアフメド・アバウアレブ市長はモロッコ系イスラム教徒である。同市にはオランダ最大のオランダ領アンティル人のコミュニティがあり、また市内には[[チャイナタウン]]がある。在留する日本人も多い。 == 文化 == 現代建築の例として、'''キューブハウス'''と称される個性的な形態をしたマンションが有名である。マンションの一室は公開されており、観光客も見学することができる。[[機能主義 (建築)|機能主義建築]]の傑作とされる[[ファン・ネレ工場]]は、2014年に[[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]]の[[世界遺産]]リストに登録された。 世界最初の歩行者天国とも称される[[ラインバーン商店街]]では、約1キロに渡ってショッピング・ストリートが続いている。都市の中心部から自動車を締め出すという都市計画は、他の都市にも影響を与えた。また、[[ガバ (音楽)|ガバ]]と呼ばれる音楽ジャンルの元となった「[[ロッテルダムテクノ]]」の発祥地としても知られる。 毎年の夏に{{仮リンク|夏のカーニバル|en|Summer Carnival}}が開催される。2023年に[[ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録された<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Rotterdam Summer Carnival |url=https://ich.unesco.org/en/RL/rotterdam-summer-carnival-01870 |website=ich.unesco.org |access-date=2023-12-09 |language=en}}</ref>。 == スポーツ == === サッカー === {{Main|ロッテルダムダービー}} ロッテルダムでは[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]であり、[[フェイエノールト]]、[[スパルタ・ロッテルダム]]、[[SBVエクセルシオール]]という3つのプロサッカークラブが存在している。中でも'''[[フェイエノールト]]'''は[[エールディヴィジ|オランダリーグ]]屈指の名門クラブとして知られており、かつては元[[サッカー日本代表]]の[[小野伸二]]や[[宮市亮]]も所属し、顕著な活躍をしていた。 === 野球・ソフトボール === オランダは[[野球]]・[[ソフトボール]]において[[イタリア]]と共に[[ヨーロッパ]]における強豪国として知られている。ロッテルダムを拠点とする[[キュラソー・ネプテューヌス]]はオランダを代表する野球チームの1つである。 === その他の競技 === この都市で開催される[[ロッテルダムマラソン]]は幅広く知られている。例年1月上旬に行われる[[自転車競技]]・[[トラックレース]]の[[ロッテルダム6日間レース]]も人気が高い。さらに、男子プロ[[テニス]]の[[ABNアムロ世界テニス・トーナメント]]も開催されている。 == 国際関係 == === 姉妹都市 === {{Col-begin}} {{Col-break}} *{{Flagicon|GER}} [[ケルン]]、[[ドイツ]]、1958年 *{{Flagicon|LUX}} [[エシュ=シュル=アルゼット]]、[[ルクセンブルク]]、1958年 *{{Flagicon|FRA}} [[リール (フランス)|リール]]、[[フランス]]、1958年 *{{Flagicon|ITA}} [[トリノ]]、[[イタリア]]、1958年 *{{Flagicon|BEL}} [[リエージュ]]、[[ベルギー]]、1958年 *{{Flagicon|BUL}} [[ブルガス]]、[[ブルガリア]]、1976年 *{{Flagicon|ROU}} [[コンスタンツァ]]、[[ルーマニア]]、1976年 {{Col-break}} *{{Flagicon|POL}} [[グダニスク]]、[[ポーランド]]、1977年 *{{Flagicon|CHN}} [[上海市|上海]]、[[中華人民共和国|中国]]、1979年 *{{Flagicon|CUB}} [[ハバナ]]、[[キューバ]]、1983年 *{{Flagicon|RUS}} [[サンクトペテルブルク]]、[[ロシア]]、1966年 *{{Flagicon|USA}} [[ボルティモア]]、[[アメリカ合衆国]]、1985年 *{{Flagicon|GER}} [[ドレスデン]]、ドイツ、1988年 *{{Flagicon|SVK}} [[ブラチスラヴァ]]、[[スロバキア]] 1991年 * {{flagicon|TUR}} [[イスタンブール]]、[[トルコ|トルコ共和国]]、2005年 {{Col-end}} === 友好都市 === {{div col|colwidth=20em}} * {{flagicon|GBR}} [[キングストン・アポン・ハル]]([[イギリス]])(1936年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|BEL}} [[アントウェルペン]]([[ベルギー]])(1940年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|SWI}} [[バーゼル]]([[スイス]])(1945年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|NOR}} [[オスロ]]([[ノルウェー]])(1945年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|GER}} [[デュースブルク]]([[ドイツ]])(1950年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|GER}} [[ニュルンベルク]]([[ドイツ]])(1961年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|IDN}} [[ジャカルタ]]([[インドネシア]])(1983年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|JPN}} [[大阪府]]([[日本]])(1984年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|SVK}} [[ブラチスラヴァ]]([[スロバキア]])(1991年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|HUN}} [[ブダペスト]](ハンガリー)(1991年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|RSA}} [[ダーバン]]([[南アフリカ]])(1991年~)<ref name=brandstrategy/> * {{flagicon|CZE}} [[プラハ]]([[チェコ]])(1991年~)<ref name=brandstrategy/> {{div col end}} === 姉妹港 === *{{Flagicon|JPN}} [[神戸港]]([[日本]]) - [[1967年]]姉妹港提携 *{{Flagicon|JPN}} [[東京港]](日本) - [[1989年]]姉妹港提携 *{{Flagicon|USA}} [[シアトル|シアトル港]]、[[アメリカ合衆国]] *{{Flagicon|KOR}} [[釜山港]]、[[大韓民国]] === その他 === ; ロッテルダムに因んだ地名 * {{flagicon|USA}} [[:en:Rotterdam, New York|ニューヨーク州ロッテルダム]]([[アメリカ合衆国]]) * {{flagicon|RSA}} [[:en:Rotterdam, Limpopo|リンポポ州ロッテルダム]]([[南アフリカ]]) == ギャラリー == <gallery> Erasmusbrug seen from Euromast.jpg Laurenskerk, Rotterdam.jpg Rotterdam zadkine monument.jpg Overzicht - Rotterdam - 20358120 - RCE.jpg 2003-03-04 rotterdam 15 cubic houses.JPG Rotterdam feyenoord stadion 1.jpg Rotterdam stadhuis.jpg Schielandshuis Rotterdam cropped.jpg Rotterdam hotel newyork.jpg Rotterdam aelbrechtskolk wallekant.jpg Maasvlakte, containeropslag foto1 2014-03-09 11.12.jpg </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === <references> <ref name=brandstrategy>{{cite web |url=http://www.rotterdam.nl/CMO/Document/Merkstrategie%20NL%20nov%202008.pdf Rotterdam. Een sterk internationaal merk |title=ROTTERDAM: EEN STERKINTERNATIONAAL MERK |language=Dutch |publisher=City of Rotterdam |date=2008 |location=Rotterdam, The Netherlands |type=PDF |page=37 |accessdate=2015-03-20}}</ref> </references> == 関連項目 == * [[ロッテルダムテクノ]] * [[ロッテルダムダービー]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Rotterdam|Rotterdam}} * [https://www.rotterdam.nl/ ロッテルダム市公式サイト] {{nl icon}}{{en icon}} * [https://rotterdam.info/ ロッテルダム観光局] {{nl icon}} * [https://www.excelman.com/ja/galerie/europe/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E5%BB%BA%E7%AF%89.html オランダ:ロッテルダムのフローティング・建築] 日本語 {{Flagicon|JPN}} {{authority control}} {{Netherland-stub}} {{DEFAULTSORT:ろつてるたむ}} [[Category:ロッテルダム|*]] [[Category:南ホラント州の基礎自治体]] [[Category:オランダの都市]] [[Category:ヨーロッパの港町]] [[Category:無形文化遺産]]
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シェイクスピア (曖昧さ回避)
シェイクスピア(Shakespeare)
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シェイクスピア(Shakespeare) イギリス(イングランド)の劇作家、ウィリアム・シェイクスピア。 Shakespeare (プログラミング言語) - 上記のシェイクスピアの劇台本のように見えるという特徴を持つ、ジョーク系のプログラミング言語。 クレイグ・シェイクスピア - イングランドの元サッカー選手、サッカー指導者。 シェイクスピア (1745年生) - 18世紀イギリスの競走馬。 シェイクスピア (2001年生) - 21世紀カナダの競走馬。 シェイクスピア (小惑星)
'''シェイクスピア'''(''{{lang|en|Shakespeare}}'') * [[イギリス]]([[イングランド]])の劇作家、[[ウィリアム・シェイクスピア]]。 * [[Shakespeare (プログラミング言語)]] - 上記のシェイクスピアの劇台本のように見えるという特徴を持つ、ジョーク系の[[プログラミング言語]]。 * [[クレイグ・シェイクスピア]] - [[イングランド]]の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者。 * [[シェイクスピア (1745年生)]] - 18世紀イギリスの[[競走馬]]。 * [[シェイクスピア (2001年生)]] - 21世紀[[カナダ]]の競走馬。 * [[シェイクスピア (小惑星)]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:しえいくすひあ}} [[Category:英語の姓]]
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アイヌ語
アイヌ語(アイヌご、アイヌ語ローマ字表記: Aynu itak, 仮名文字表記: アイヌ イタㇰ, キリル文字表記: Айну итак)は、日本列島の北海道を中心に居住するアイヌ民族(アイヌ)の言語である。「孤立した言語」であるが、方言差があるため、下位方言を別々の言語と見なして「アイヌ語族」(Ainuic)と呼ばれることが稀にある。 近世の時点でのアイヌ民族の居住地域は、北海道島とその周辺島嶼、東北地方北部、樺太(サハリン)南部、千島列島、カムチャツカ半島南端部で、アイヌ語圏も概ねその範囲であったとされる。現在アイヌは関東地方などにも拡散しているが(1988年時点で東京都内に2700人)、日本国内のアイヌのほぼ全員が日本語話者である。2009年2月、国際連合教育科学文化機関によって「極めて深刻(英語: critically endangered)」な消滅の危機にある言語と分類された。この時日本国内では8言語が危険な状況にあるとされたが、「極めて深刻」とされたのはアイヌ語のみである。 アイヌ語は系統関係不明な孤立した言語(または語族)とされている。隣接する日本語・ウィルタ語・ニヴフ語のいずれとも系統が証明されておらず、アルタイ諸語、古アジア諸語、朝鮮語などとの関連性も指摘されているが、系統関係をを見いだすことはできない。比較言語学方法では系統関係がわからないほど他の言語とは古くに分岐したと考えられるが、言語類型の観点からは北米インディアン諸語との間で最も共通点が多いとする結果がある。 アイヌと大和民族(和人)は古くから経済的・文化的に交流があり、atay と値、sippo と塩(しほ)など日本語とアイヌ語の間で語彙の借用がみられ、特に信仰・宗教関係の語彙には kamuy と神、ikupasuy と箸など日本語と同源とみられる語が多い。しかし、語彙におけるアイヌ語と日本語の関係性は、日本語と中国語(漢語)あるいは英語とフランス語(アングロ=ノルマン語)の関係性よりも希薄である。 樺太で生活する樺太アイヌはウィルタ、ニヴフ民族とも交流があり、特に近世の山丹交易によって大陸とまで繋がっている。近隣民族の言語とアイヌ語(特に樺太アイヌ語)とは、民具や祭具、楽器、動植物などの語彙が一部共通しているが、普通名詞や動詞には共通語彙が殆どない 。例えば、儀礼などの食物を運搬する行器は、アイヌ語でsintokoと言い、ニヴフ語ではsinduχと言い、両者とも外来の樽や行器を指す(ただしニヴフ語においても借用語である)。 地方によって多くの方言があり、大きく北海道アイヌ語・樺太アイヌ語・千島アイヌ語に分けられるが、北海道アイヌ語以外は20世紀中に消滅したとされる(方言節参照)。アイヌには歴史上、民族全体あるいは大部分を統べる中央集権的な政治勢力、宗教的権威、あるいは文化的中心が存在しなかったため、アイヌ語には標準語や中央語に相当するような、他の方言を圧倒して広域で通用する言語変種が存在しない。 江戸時代、松前藩はアイヌが日本語を使用することを禁じていたが、ロシア帝国の南下政策でロシア人とアイヌの接触が顕著となると、江戸幕府が蝦夷地をたびたび直接統治するようになり、アイヌの和風化(同化)が試みられるようになった。東北地方のアイヌ(本州アイヌ)は近代に入るまでに同化し、言語の記録がほとんど残っていないが、東北各地の地名やマタギ言葉などにその痕跡がある。 明治時代に入ると、明治政府によってアイヌへの日本語教育が開始され(ジョン・バチェラーなどアイヌ語教育を試みる者もいたが、公教育には採り入れられなかった)、また日本人の大量入植でアイヌが地域の少数派に追いやられていったため、「未開」「原始的」といった偏見と蔑視が強まり、アイヌ語の地位が大きく低下した。地位の低下により、子供の前でアイヌ語の使用を極力避けるなど、多くのアイヌの間でアイヌ語を次世代に継承させることに消極的となった。アイヌ語がアイヌの日常生活から消えるのは1900年頃が節目と考えられ、現在アイヌ語の研究や学習に用いられている資料は1910年頃までに生まれた話者の記録に基づくものが多い。もっとも、アイヌ文化を後世に残そうと積極的にアイヌ語を言い聞かせた家庭もあるなど個人個人の生育環境によって事情は様々で、1926年の生まれでありながら祖母の影響でアイヌ語と日本語のバイリンガルに育った萱野茂のような例もある。 千島アイヌと樺太アイヌは日露間の領土変遷に翻弄された。北千島(主に占守島と幌筵島)に住んでいた千島アイヌは、樺太・千島交換条約で千島全域が日本領となると、カムチャツカ半島に移りロシア国民となった者以外は色丹島に強制移住させられ、生活環境の変化から人口が激減し伝統文化も衰退、その後1945年のソビエト連邦(ソ連)による北方領土占拠で色丹島も退去させられ、千島アイヌの文化は完全に途絶えた(1962年に村崎恭子が北海道内に住む千島アイヌを訪ねた際、アイヌ語の使用を確認できず、翌年千島アイヌ語の消滅を報告した)。樺太南部は樺太・千島交換条約でロシア領に、日露戦争によって日本領となったが、1945年にソ連が樺太南部を占拠すると樺太アイヌのほとんどは北海道各地に退去・離散することとなり、樺太アイヌの伝統文化は急速に衰退、1994年の浅井タケの死去によって樺太アイヌ語は消滅したとされる(実際にはアイヌ語を多少なりとも知る樺太アイヌはその後も存在した)。 現在アイヌ語を継承しているアイヌの数が極めて少ないため、アイヌ語は近いうちに消滅してしまう「消滅危機言語」の一つとなっている。2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10人しかいなかった。別の推定では、アイヌ語を母語とする人は千島列島・カムチャッカ半島では既に消滅、樺太でもおそらく消滅していて(ロシアにおけるアイヌも参照)、残る北海道の母語話者も平均年齢が80歳を越え、母語話者数も10人以下となっている。アイヌ語の消滅危惧のレベルは「おそらく消滅した言語」と「消滅の危機に厳しくさらされる言語」の間の「消滅に近い言語」となっている。2009年(平成21年)、ユネスコにより「危機に瀕する言語」として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に分類され、数年後には母語話者の死亡により消滅するとされた。ただし、流暢に話せない世代でも、短い文なら会話できる、あるいは単語なら知っているといった人は少なくない。 1980年代以降、萱野茂らアイヌ語を残そうとするアイヌ自身の努力の結果、アイヌ語教室が各地に開設され、1981年には山本多助が『アイヌ語小辞典』を発行した。2007年現在、北海道内14箇所にアイヌ語教室が設置され、多くの人がアイヌ語を学んでいる。1987年にはSTVラジオが「アイヌ語講座 イランカラプテ」の放送を開始し、2020年現在も「アイヌ語ラジオ講座」として放送中である。 1986年には、田村すゞ子の教え子と北方言語研究会が上智大学学生らと第一回「アイヌ語祭」を早稲田大学で共催し、和人による全編アイヌ語による演劇などがアイヌ民族や元北海道新聞社員でアイヌ語地名研究家などの前で披露された。 アイヌ文化振興財団主催のアイヌ語弁論大会(イタカンロー)には毎年多くの人が参加し、アイヌ語による弁論や、口承文芸の披露が行われている。 1990年代からアイヌではないがアイヌ語を学ぶ者が増え、アイヌ語の辞典も各種出版されている。特に東北地方は、アイヌとの歴史的連続性や地名研究の必要からアイヌ語への関心は伝統的に高い。関東地方にも関東在住のアイヌまたは和人がアイヌ語を学ぶ集まりがいくつか存在する。 アイヌ語は消滅危機言語であるが、オープンリールやカセットテープに記録された音声資料が大量に残されている。そうした音声資料は調査途上で内容が不明なものも多く、アイヌ語学習に使用可能な資料は限られ、今後のアイヌ語学習は音声資料の活用が課題である。 2000年代以降、北海道教育大学旭川校などでアイヌ語を刷新する兆しがある。『アイヌ語旭川方言会話辞典』は現代に不足している語彙の補完を試行しており、imeru(神が放つ光。転じて電気の意)から imeru inaw または imeru pasuy(前者は固定電話で、後者は携帯電話の意。inaw はイナウ、pasuy は箸を意味する。アイヌの信仰では、イナウや箸は神と人間との仲立ちをすると考えられていて、ネットの中とリアルを仲立ちする例えから)、imeru kampi(電子メール。kampiは紙、または手紙を意味する)等の造語を作り、現代生活で不足している語彙を補完し、「現代の言語として」使える様にする努力が行われている。2008年7月4日に開催された「先住民族サミット」アイヌモシリ2008では、「アイヌ語を公用語とし、義務教育でも学べる言語とすること」を日本政府に提言 している。2020年の国立アイヌ民族博物館開設に際しては、館内の各種案内表示にアイヌ語を使用するため、「宝」を意味する「イコㇿ」と「部屋」を意味する「トゥンプ」を合わせて「展示室」の訳語とする、「往来(する)、お互いに行き来する」を意味する「ウコアㇷ゚カㇱ」を「交流」という意味に拡張して使うなど、183の語が検討・選定された。北海道大学でも、アイヌ語のキャンパスマップへの併記の試みもあり、そこでも言語学者による翻訳に関する議論が行われ、言語学的な翻訳の精緻化やアイヌ民族視点を反映させた訳などが議論されている。近年では、これらの言語復興運動の試み自体についても研究がなされ、造語や翻訳などを管理する機関(新語委員会)の設立が提案されているが、まだ実現されていない。 アイヌ語は漢字伝来前の日本語と同様、口承のみによって受け継がれてきた。アイヌの周辺には、大和民族、漢民族、満州民族、ロシア民族など、文字を持つ民族も多かったため、彼らと付き合いのあったアイヌの中には文字を使える者もいたと考えられる。しかし、民族全体で文字を取り入れる動きは無かった。 そのため文字による古い記録は、ヨーロッパ人や和人によって書かれたものが残されていて、ヨーロッパ人によるものはラテン文字、ロシア人によるものはキリル文字、日本人によるものは仮名文字と、それぞれの使う文字で記録されている。古くは17世紀初頭に松前を訪れた宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスのラテン文字による記録が残されている。日本の史料としては平仮名でアイヌ語が記録された『松前ノ言』が最も古く寛永年間頃のものと推定されており、年代の明確なものとしては宝永元年(1704年)に蝦夷地を訪れた禅僧である正光空念の記録が古い。 正徳2年(1712年)に刊行された『和漢三才図会』では、50ほどのアイヌ語の単語とその日本語訳が記されている。蝦夷通詞(アイヌ語通訳)の上原熊次郎は、寛政4年(1792年)に刊行されたアイヌ語の辞書『もしほ草』(書名は蝦夷方言とも)の著者として知られており、自筆稿本である『蝦夷語集』(国立公文書館所蔵)や『蝦夷地名考並里程記』(東京国立博物館所蔵)が伝わっている。 アイヌ自身による記録は、大正時代からラテン文字などを用いて書かれるようになったといわれている。ピウスツキと親交があった千徳太郎治は、キリル文字によってアイヌ語を表記していた。 明治時代になってから、アイヌ語は科学的に研究されるようになったが、最初期には外国からのしかも言語学者ではない人々による研究が先行したのが特徴的である。たとえば東洋学者のアウグスト・プフィッツマイアー、ニコライ・ネフスキー、ロシアの医師であったミハイル・ドブロトヴォルスキー(Михаил Михайлович Добротворский)、ポーランドの社会運動家で亡命者であったブロニスワフ・ピウスツキ、イングランド出身の宣教師であったジョン・バチェラーなどがそれにあたる。 日本の言語学者たちがアイヌ語を研究し始めた頃にはアイヌ語の話者は非常に少なかったが、先にあげた外国の研究者とはほとんど交渉を持たず、活発に研究されてきた。春採アイヌ学校の教師・伝道師の永久保秀二郎、金田一京助とその弟子である久保寺逸彦や、アイヌである知里幸恵・知里真志保姉弟らが挙げられる。 その後、田村すゞ子、萱野茂、浅井亨、村崎恭子、魚井一由、キーステン・レフシン、中川裕、切替英雄、佐藤知己、奥田統己、志賀雪湖、アンナ・ブガエワ、高橋靖以等がそれぞれ研究を進めてきた。 『伊勢物語』には「夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」という歌が登場する。その歌のうち「くたかけ」について、為家本、文暦本、為和本では、「くた=家、かけ=鷄」であると行間に注釈が記されている。ただし、家を「くた」と読んだり呼称したりする例は日本祖語にも日琉祖語にも存在しない。そのため、アレクサンダー・ボビンは、「家=くた」をアイヌ語の「コタン(村の意)」に由来する上代東国方言であると指摘した。なお、村を表す「コタン」が家を表す「くた」に変化した根拠について、ギリシャ語やゴート語に同例があると説明した。 アイヌ語の音節はCV(C)(すなわち義務的な頭子音と義務的ではない末尾子音)からなり、子音群は少数しかない。 アイヌ語は五つの母音を持つ。樺太方言では開音節で長短を区別する。 子音は 「p」、「t」、「k」、「c」、「n」、「s」、「r」、「m」、「w」、「y」、「h」、「'」の12種が数えられる。無声音と有声音の区別は存在しない。 日本語にはほとんど現れない閉音節が多く存在し、北海道方言では音節末にはc、h、' を除く任意の子音が立つことができる。いっぽう多来加を除く樺太の方言では音節末に立つ子音は限られ、音節末子音 /m/ は /n/ との区別を失い、/k/, /t/, /p/, および /r/ の一部は摩擦音化し /h/(xとも表記された)になる。例えば北海道の sések(「セセク」のように発音。「熱い」の意)は樺太では sēseh(「セーセヘ」のように発音)となる。 アイヌ語のアクセントは高低アクセントである。すなわち、アクセントのある音節は高く発音される。 アクセントは、語頭に閉音節があればここに付く。語頭の音節が開音節であれば、原則としてその次の音節に付く。例えば pírka(美しい)は最初の音節 pir が閉音節なのでここにアクセントが付く。一方 kamúy(神、ヒグマ)は最初の音節 ka が開音節なので、次の muy にアクセントが付く。 アイヌ語では文法上他の母音の後のイ、ウも子音 y、w と見なされ閉音節として扱われる。áynu(人間)はイではなくアにアクセントが付く。 ただし例外的に最初の音節が開音節であっても、そこにアクセントが付く単語、yúkar(ユーカラ)などがある。 樺太方言で語頭の開音節にアクセントが付いた場合、その母音は長く発音される。例えば先の例のyukarは北海道方言では「ユカラ」に近いが樺太では yūkara「ユーカラ」に近い。 基本的な文型は主語・目的語・動詞(SOV)の順で、この点では日本語と同じである。ただし、動詞に主語および目的語の人称および数を示す接辞や、その他の意味を加える接辞が付加されるため、場合によっては、動詞だけで文に相当する表現が可能である。名詞であっても、体の部分など特に個人と切り離せない関係にあるものは、所有者を示す所有接辞が必須的に付加される。 一例として、 この直訳は となり、「いろいろのうわさについて、私は遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」を意味する。これは単語としては2つしか含まないが長い文に相当する意味を表している。2番目の動詞は語根 suy に主語などを示す接辞、副詞、さらには目的語やそれを限定する接辞がついて1つの長い単語になっている。 動詞の一部は数によって変化される。語幹が全く変わるもの(a「一人が座る」、rok「複数人が座る」)や語尾が交替するもの(ahun「一人が入る」、ahup「複数人が入る」)がある。 cape 猫 ∅=an 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG cape ∅=an 猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG 「猫が一匹いる」 cape 猫 ∅=okay 3SG/3PL.SUBJ=ある.PL cape ∅=okay 猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.PL 「猫が何匹かいる」 ただし、数詞や副詞などによって複数あることが文脈から明確的に判断できる場合は、印欧語のように一致するのではなく、一律単数形になる。 tu 2つ cape 猫 ∅=an 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG tu cape ∅=an 2つ 猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG 「猫が二匹いる」 cape 猫 poronno たくさん ∅=an 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG cape poronno ∅=an 猫 たくさん 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG 「猫が沢山いる」 また、他動詞の場合は主語ではなく、目的語に一致するのが一般的である。 cape 猫 ku=∅=rayke 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.SG cape ku=∅=rayke 猫 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.SG 「私は猫を一匹殺した」 cape 猫 ku=∅=ronnu 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.PL cape ku=∅=ronnu 猫 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.PL 「私は猫を何匹か殺した」 アイヌ語の動詞や名詞は、人称によって変化することがある。 アイヌ語では代名詞があまり用いられず、ラテン語や古典ギリシア語同様、用いられる場合は、特別な意味(強調や限定)を表す。その代わりに、動詞にくっつく接語である人称接辞によって主語や代名詞を表示する。沙流方言の人称接辞は以下の通りである。 また、命令法を除いて、人称接辞は常に必要とされる(三人称は無標であるが文法的にそのゼロ接辞によって動詞の結合価が充填される)。特殊な四人称も存在し、一人称の包括複数、二人称の敬称単複数、話者指示的人称(引用文での話者を指す一人称)、不定人称など多様な意味を持つ。 また、以下の表のように、自動詞と他動詞では主語の活用が異なる。また、目的語も人称接辞によって表されるため、下の表のように、無標の三人称が「それ」と翻訳されている。 アイヌ語の人称変化は名詞の所属形にも行われる。 アイヌ語の極性表現について、否定に関しては朝鮮語同様、否定副詞を動詞の前に置くことでによっても表されるが、日本語のように限定副助詞ka「も」に助動詞ki「~する」を用いた複合構文によっても表される。 somo NEG.ADV ku=ytak. 1SG.SUBJ=話す.VI somo ku=ytak. NEG.ADV 1SG.SUBJ=話す.VI 「私は喋っていない。」 nep どの.INTERR aynu 人 ka も.PTCL somo NEG ne. である.COP nep aynu ka somo ne. どの.INTERR 人 も.PTCL NEG である.COP 「私は人間ではない」(直訳:どの人間でもない) ku=ytak SG.SUBJ=話す.VI ka も.PTCL somo NEG.ADV ki. する ku=ytak ka somo ki. SG.SUBJ=話す.VI も.PTCL NEG.ADV する 「私は喋っていない。」(直訳:私は喋りもしない) また、日本語、琉球語、朝鮮語等と同様(それ以上に)、特定な意味を表すものには否定助動詞や否定動詞を用いる。否定動詞や否定助動詞には、例えばeaykap「(能力により)できない」、koyaykus「(都合により)できない」erampewtek「(知識として)わからない」、eramiskari/eramuskari「(経験として)知らない」、isam「無い」、sak「持っていない」、omuken「不漁だ」、turaynu「見つからない」などがある。 ku=ytak SG.SUBJ=話す.VI eaykap. できない ku=ytak eaykap. SG.SUBJ=話す.VI できない 「私は喋れない。」 ku=∅=erampewtek. SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=知らない.VT ku=∅=erampewtek. SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=知らない.VT 「私はそれについて知らない。」 禁止表現(否定命令)には、副詞iteki(沙流・千歳方言)やeciki(旭川方言)。肯定の命令法同様、例外的に人称接辞を取らない。 iteki NEG arpa! 行く.IMP iteki arpa! NEG 行く.IMP 「行かないで!」 アイヌ語の品詞分類について長きにわたって議論されてきたが、学者によって区分の仕方が異なっている。特に問題となるのは、形容詞、後置副詞、人称代名詞、助動詞、連体詞などである。 アイヌ語では、印欧語や日本語などに相当する形容詞のカテゴリは存在しない。他の言語で形容詞が表す意味は、アイヌ語では自動詞によって表される。これらの状態動詞は、他の動作動詞と形態論において区別されておらず、意味も統語においても同様である。例えば、アイヌ語のpirkaは、「良い」という状態的な意味も表せれば、「良くなる」のような変化的な意味表せる。また、人称変化も他の自動詞と同様である(pirka=an「我々が良くなる」、ipe=an「我々が食事する」)。 アイヌ語には動詞の結合価を上昇させる充当態接頭辞e-(具格、「~で」)、o-(処格、「~で」)及びko-(与格、「~に」)の存在が報告されている。以下の例において、本来は1価しか持たない(主語のみで充足し、目的語を持てない)自動詞itakに、与格充当接頭辞のko-が付くと、2価を持つ(主語と目的語両方があって初めて充足する)他動詞koytakとなり、目的格人称接辞を取ることができるようになる。 ku=ytak. 1SG.SUBJ=話す.VI ku=ytak. 1SG.SUBJ=話す.VI 「私は喋っている。」 hekaci 男の子 ku=∅=ko-ytak. 1SG.SUBJ=3SG.ACC=APL.DAT-話す.VT hekaci ku=∅=ko-ytak. 男の子 1SG.SUBJ=3SG.ACC=APL.DAT-話す.VT 「私は男の子と喋っている。」 アイヌ語の方言は大きく北海道、千島、樺太に分けられる。 東北北部にも18世紀まで本州アイヌが居住していたが、彼らの方言については詳らかでない。中世以前の蝦夷がアイヌ語を話していたとする説もある。 アイヌはコタン毎に生活をしており、コタンは主に川筋か海岸線に沿って分布したため、川筋ごとに方言が少しずつ異なる場合が多く、また海岸部と内陸部でも差異が見られた。 かつて大きくは北海道・千島(北千島)・樺太(南樺太)の三方言があった。北海道方言は、さらに北東部方言と南西部方言の二つに分類したり、もっと細かく分類されることもあるが、方言間の詳細な比較研究が進んでいないため定説はない。千島方言は日本の千島領有以後急速に廃れ、第二次世界大戦後には既に話者が見つからなかったとされる。樺太方言は1994年に最後の話者とされる浅井タケが亡くなった。北海道内でも和人の移住が早くから進んだ渡島地方や石狩川下流域などの方言は記録がほとんど残っていない。日本海側やオホーツク海側の方言の記録もほとんどない。 先述のとおり、アイヌ語には標準語・中央語に相当する言語変種は存在しないが、話者数(第二言語として習得した者を含む)の大小や、辞書や研究文献の多寡によるアクセスの難易には方言差があり、そうした点では沙流方言や千歳方言は他の方言よりも比較的優位である。 括弧内は使用地域。話者、教材を後述。 アイヌ民族はかつて文字の文化がなく、20世紀以前にアイヌ自身がアイヌ語の文章を記したテキスト(筆録資料)は見つかっていない。 それ以前に和人や西洋人による少数の不完全な記録が散見される。日本側で記録された最古の語彙記録は17世紀初頭『松前ノ言』である。ヨーロッパ人による最古の記録は、1618年と1621年に松前藩に訪れたイタリアのイエズス会士ジロラモ・デ・アンゼリスによるものである。 アイヌ民族による文字記録は、20世紀から広まっている。その典型例は言語学者の金田一京助の元で、知里幸恵が1920年から1922年に編纂された『アイヌ神謡集』(郷土研究社より翌年の大正12年出版)である。また、その叔母や養母に当たる金成マツによるアイヌ文学に関する約2万ページの大学ノートの記録もある。いずれもローマ字によって書かれている。 近年はアイヌタイムズを例として、カタカナやラテン文字、キリル文字による文章化の試みが浸透しつつある。 先述のとおり、アイヌ語には規範となる共通語がなく、アイヌ語を文字で書き表す際の規範的・統一的な形式・体系(正書法)も存在しない。しかし、それに準ずる試みはあり、北海道ウタリ協会が編集したアイヌ語テキスト『アコロ イタク』が出版されて以降は、同書で範示されている文章表記に基づいて、各方言の文章化が多くなされている。 言語学者や日本国外の学習者などを除き、カタカナ表記に慣れ親しんでいる人が多い現代日本では、ローマ字よりもカタカナによるアイヌ語表記が好まれる場合が多い。ただし、通常のカタカナだけでは、音節末の子音など日本語(標準語)にない発音を書き表せないため、小書きや半濁点を応用した特殊な文字が必要となり、ワープロ入力などで手間がかかるという問題がある。 アイヌ語の仮名による統一された正書法が存在するわけではないが、各方式が大きく異なるわけではない。日本語にない音を表記するために、いくつかの専用の文字を使用する。 2000年1月にJIS規格としてJIS第三水準漢字(記号類を含む)・JIS第四水準漢字が新規に制定され、このうちのJIS第三水準漢字にアイヌ語カナ表記用の拡張カタカナ(日本語の文章に通常使用される範囲外での小文字カタカナや半濁音付きカタカナ)も含まれている。 ISO規格に採り入れられている Unicode では、2002年3月に改定された Unicode 3.2 から JIS X 0213 に追随する形でアイヌ語カナ表記用の拡張カタカナ (Katakana Phonetic Extensions) が追加されており、同規格に対応したソフトウェアでアイヌ語カナ表記が扱える枠組みが整えられた。ただし、一部の文字は合成を用いないと表現できない Unicode 特有の問題があり、ソフトウェアによっては表示が劣化する場合がある。 パソコンでアイヌ語カナ表記(Unicode 3.2準拠)を扱う場合、 「発音」の節を参照。アクセント表記にはアキュート・アクセント付きラテン文字の「á」「í」「ú」「é」「ó」を使用する。通常アクセントを省略して例外アクセントのみ表記したり、全てのアクセントを省略してアルファベットのみで表記したりすることもある。 ローマ字表記のまとまった文献としては、1897年にジョン・バチェラーが完成した『アイヌ語訳聖書』(新約聖書)がある。 アイヌ語で文字使用が試みられる以前のアイヌの文学は全て口承のもので、民話・神話には非常に富んでいる。アイヌ語の叙事詩はユカラまたはユーカラと呼ばれる。ユーカラの内容は、動物の神があらわれて体験を語るものや、人間の世界の恋愛や戦いを歌うものなど多様である。叙事詩のほかに、いわゆる昔話のような散文による伝承文学もある。 北海道島には、アイヌ語由来の日本語地名が多い。大別して、 日本の本州島以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説がある。本州以南のアイヌ語地名については、山田秀三をはじめ、在野の地名研究家によって研究が進められてきた。山田らによれば仙台付近以北(太平洋側)・秋田県以北(日本海側)には明らかにアイヌ語と解釈できる地名が分布し、この地域については続縄文文化の後北式土器の分布と重なるとの指摘もある。しかし、これより以南については根拠が乏しい。 本州島の地名については、主に東北地方・北陸地方を中心に特有な発音の地名があり、これはアイヌ語が起源、あるいは(狭義の)アイヌ語と祖先を同じにする(「アイヌ語族」「縄文人の言語」と表現する人もいる)、という説が存在する。これらの地名は、北海道島の地名と語源を同じくするものも多い。 wikt:カテゴリ:日本語 アイヌ語由来も参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アイヌ語(アイヌご、アイヌ語ローマ字表記: Aynu itak, 仮名文字表記: アイヌ イタㇰ, キリル文字表記: Айну итак)は、日本列島の北海道を中心に居住するアイヌ民族(アイヌ)の言語である。「孤立した言語」であるが、方言差があるため、下位方言を別々の言語と見なして「アイヌ語族」(Ainuic)と呼ばれることが稀にある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "近世の時点でのアイヌ民族の居住地域は、北海道島とその周辺島嶼、東北地方北部、樺太(サハリン)南部、千島列島、カムチャツカ半島南端部で、アイヌ語圏も概ねその範囲であったとされる。現在アイヌは関東地方などにも拡散しているが(1988年時点で東京都内に2700人)、日本国内のアイヌのほぼ全員が日本語話者である。2009年2月、国際連合教育科学文化機関によって「極めて深刻(英語: critically endangered)」な消滅の危機にある言語と分類された。この時日本国内では8言語が危険な状況にあるとされたが、「極めて深刻」とされたのはアイヌ語のみである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アイヌ語は系統関係不明な孤立した言語(または語族)とされている。隣接する日本語・ウィルタ語・ニヴフ語のいずれとも系統が証明されておらず、アルタイ諸語、古アジア諸語、朝鮮語などとの関連性も指摘されているが、系統関係をを見いだすことはできない。比較言語学方法では系統関係がわからないほど他の言語とは古くに分岐したと考えられるが、言語類型の観点からは北米インディアン諸語との間で最も共通点が多いとする結果がある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アイヌと大和民族(和人)は古くから経済的・文化的に交流があり、atay と値、sippo と塩(しほ)など日本語とアイヌ語の間で語彙の借用がみられ、特に信仰・宗教関係の語彙には kamuy と神、ikupasuy と箸など日本語と同源とみられる語が多い。しかし、語彙におけるアイヌ語と日本語の関係性は、日本語と中国語(漢語)あるいは英語とフランス語(アングロ=ノルマン語)の関係性よりも希薄である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "樺太で生活する樺太アイヌはウィルタ、ニヴフ民族とも交流があり、特に近世の山丹交易によって大陸とまで繋がっている。近隣民族の言語とアイヌ語(特に樺太アイヌ語)とは、民具や祭具、楽器、動植物などの語彙が一部共通しているが、普通名詞や動詞には共通語彙が殆どない 。例えば、儀礼などの食物を運搬する行器は、アイヌ語でsintokoと言い、ニヴフ語ではsinduχと言い、両者とも外来の樽や行器を指す(ただしニヴフ語においても借用語である)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "地方によって多くの方言があり、大きく北海道アイヌ語・樺太アイヌ語・千島アイヌ語に分けられるが、北海道アイヌ語以外は20世紀中に消滅したとされる(方言節参照)。アイヌには歴史上、民族全体あるいは大部分を統べる中央集権的な政治勢力、宗教的権威、あるいは文化的中心が存在しなかったため、アイヌ語には標準語や中央語に相当するような、他の方言を圧倒して広域で通用する言語変種が存在しない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "江戸時代、松前藩はアイヌが日本語を使用することを禁じていたが、ロシア帝国の南下政策でロシア人とアイヌの接触が顕著となると、江戸幕府が蝦夷地をたびたび直接統治するようになり、アイヌの和風化(同化)が試みられるようになった。東北地方のアイヌ(本州アイヌ)は近代に入るまでに同化し、言語の記録がほとんど残っていないが、東北各地の地名やマタギ言葉などにその痕跡がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "明治時代に入ると、明治政府によってアイヌへの日本語教育が開始され(ジョン・バチェラーなどアイヌ語教育を試みる者もいたが、公教育には採り入れられなかった)、また日本人の大量入植でアイヌが地域の少数派に追いやられていったため、「未開」「原始的」といった偏見と蔑視が強まり、アイヌ語の地位が大きく低下した。地位の低下により、子供の前でアイヌ語の使用を極力避けるなど、多くのアイヌの間でアイヌ語を次世代に継承させることに消極的となった。アイヌ語がアイヌの日常生活から消えるのは1900年頃が節目と考えられ、現在アイヌ語の研究や学習に用いられている資料は1910年頃までに生まれた話者の記録に基づくものが多い。もっとも、アイヌ文化を後世に残そうと積極的にアイヌ語を言い聞かせた家庭もあるなど個人個人の生育環境によって事情は様々で、1926年の生まれでありながら祖母の影響でアイヌ語と日本語のバイリンガルに育った萱野茂のような例もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "千島アイヌと樺太アイヌは日露間の領土変遷に翻弄された。北千島(主に占守島と幌筵島)に住んでいた千島アイヌは、樺太・千島交換条約で千島全域が日本領となると、カムチャツカ半島に移りロシア国民となった者以外は色丹島に強制移住させられ、生活環境の変化から人口が激減し伝統文化も衰退、その後1945年のソビエト連邦(ソ連)による北方領土占拠で色丹島も退去させられ、千島アイヌの文化は完全に途絶えた(1962年に村崎恭子が北海道内に住む千島アイヌを訪ねた際、アイヌ語の使用を確認できず、翌年千島アイヌ語の消滅を報告した)。樺太南部は樺太・千島交換条約でロシア領に、日露戦争によって日本領となったが、1945年にソ連が樺太南部を占拠すると樺太アイヌのほとんどは北海道各地に退去・離散することとなり、樺太アイヌの伝統文化は急速に衰退、1994年の浅井タケの死去によって樺太アイヌ語は消滅したとされる(実際にはアイヌ語を多少なりとも知る樺太アイヌはその後も存在した)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在アイヌ語を継承しているアイヌの数が極めて少ないため、アイヌ語は近いうちに消滅してしまう「消滅危機言語」の一つとなっている。2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる母語話者は10人しかいなかった。別の推定では、アイヌ語を母語とする人は千島列島・カムチャッカ半島では既に消滅、樺太でもおそらく消滅していて(ロシアにおけるアイヌも参照)、残る北海道の母語話者も平均年齢が80歳を越え、母語話者数も10人以下となっている。アイヌ語の消滅危惧のレベルは「おそらく消滅した言語」と「消滅の危機に厳しくさらされる言語」の間の「消滅に近い言語」となっている。2009年(平成21年)、ユネスコにより「危機に瀕する言語」として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に分類され、数年後には母語話者の死亡により消滅するとされた。ただし、流暢に話せない世代でも、短い文なら会話できる、あるいは単語なら知っているといった人は少なくない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1980年代以降、萱野茂らアイヌ語を残そうとするアイヌ自身の努力の結果、アイヌ語教室が各地に開設され、1981年には山本多助が『アイヌ語小辞典』を発行した。2007年現在、北海道内14箇所にアイヌ語教室が設置され、多くの人がアイヌ語を学んでいる。1987年にはSTVラジオが「アイヌ語講座 イランカラプテ」の放送を開始し、2020年現在も「アイヌ語ラジオ講座」として放送中である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1986年には、田村すゞ子の教え子と北方言語研究会が上智大学学生らと第一回「アイヌ語祭」を早稲田大学で共催し、和人による全編アイヌ語による演劇などがアイヌ民族や元北海道新聞社員でアイヌ語地名研究家などの前で披露された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アイヌ文化振興財団主催のアイヌ語弁論大会(イタカンロー)には毎年多くの人が参加し、アイヌ語による弁論や、口承文芸の披露が行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1990年代からアイヌではないがアイヌ語を学ぶ者が増え、アイヌ語の辞典も各種出版されている。特に東北地方は、アイヌとの歴史的連続性や地名研究の必要からアイヌ語への関心は伝統的に高い。関東地方にも関東在住のアイヌまたは和人がアイヌ語を学ぶ集まりがいくつか存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アイヌ語は消滅危機言語であるが、オープンリールやカセットテープに記録された音声資料が大量に残されている。そうした音声資料は調査途上で内容が不明なものも多く、アイヌ語学習に使用可能な資料は限られ、今後のアイヌ語学習は音声資料の活用が課題である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2000年代以降、北海道教育大学旭川校などでアイヌ語を刷新する兆しがある。『アイヌ語旭川方言会話辞典』は現代に不足している語彙の補完を試行しており、imeru(神が放つ光。転じて電気の意)から imeru inaw または imeru pasuy(前者は固定電話で、後者は携帯電話の意。inaw はイナウ、pasuy は箸を意味する。アイヌの信仰では、イナウや箸は神と人間との仲立ちをすると考えられていて、ネットの中とリアルを仲立ちする例えから)、imeru kampi(電子メール。kampiは紙、または手紙を意味する)等の造語を作り、現代生活で不足している語彙を補完し、「現代の言語として」使える様にする努力が行われている。2008年7月4日に開催された「先住民族サミット」アイヌモシリ2008では、「アイヌ語を公用語とし、義務教育でも学べる言語とすること」を日本政府に提言 している。2020年の国立アイヌ民族博物館開設に際しては、館内の各種案内表示にアイヌ語を使用するため、「宝」を意味する「イコㇿ」と「部屋」を意味する「トゥンプ」を合わせて「展示室」の訳語とする、「往来(する)、お互いに行き来する」を意味する「ウコアㇷ゚カㇱ」を「交流」という意味に拡張して使うなど、183の語が検討・選定された。北海道大学でも、アイヌ語のキャンパスマップへの併記の試みもあり、そこでも言語学者による翻訳に関する議論が行われ、言語学的な翻訳の精緻化やアイヌ民族視点を反映させた訳などが議論されている。近年では、これらの言語復興運動の試み自体についても研究がなされ、造語や翻訳などを管理する機関(新語委員会)の設立が提案されているが、まだ実現されていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アイヌ語は漢字伝来前の日本語と同様、口承のみによって受け継がれてきた。アイヌの周辺には、大和民族、漢民族、満州民族、ロシア民族など、文字を持つ民族も多かったため、彼らと付き合いのあったアイヌの中には文字を使える者もいたと考えられる。しかし、民族全体で文字を取り入れる動きは無かった。", "title": "アイヌ語の記録" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "そのため文字による古い記録は、ヨーロッパ人や和人によって書かれたものが残されていて、ヨーロッパ人によるものはラテン文字、ロシア人によるものはキリル文字、日本人によるものは仮名文字と、それぞれの使う文字で記録されている。古くは17世紀初頭に松前を訪れた宣教師ジロラモ・デ・アンジェリスのラテン文字による記録が残されている。日本の史料としては平仮名でアイヌ語が記録された『松前ノ言』が最も古く寛永年間頃のものと推定されており、年代の明確なものとしては宝永元年(1704年)に蝦夷地を訪れた禅僧である正光空念の記録が古い。", "title": "アイヌ語の記録" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "正徳2年(1712年)に刊行された『和漢三才図会』では、50ほどのアイヌ語の単語とその日本語訳が記されている。蝦夷通詞(アイヌ語通訳)の上原熊次郎は、寛政4年(1792年)に刊行されたアイヌ語の辞書『もしほ草』(書名は蝦夷方言とも)の著者として知られており、自筆稿本である『蝦夷語集』(国立公文書館所蔵)や『蝦夷地名考並里程記』(東京国立博物館所蔵)が伝わっている。", "title": "アイヌ語の記録" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アイヌ自身による記録は、大正時代からラテン文字などを用いて書かれるようになったといわれている。ピウスツキと親交があった千徳太郎治は、キリル文字によってアイヌ語を表記していた。", "title": "アイヌ語の記録" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "明治時代になってから、アイヌ語は科学的に研究されるようになったが、最初期には外国からのしかも言語学者ではない人々による研究が先行したのが特徴的である。たとえば東洋学者のアウグスト・プフィッツマイアー、ニコライ・ネフスキー、ロシアの医師であったミハイル・ドブロトヴォルスキー(Михаил Михайлович Добротворский)、ポーランドの社会運動家で亡命者であったブロニスワフ・ピウスツキ、イングランド出身の宣教師であったジョン・バチェラーなどがそれにあたる。", "title": "アイヌ語の研究" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "日本の言語学者たちがアイヌ語を研究し始めた頃にはアイヌ語の話者は非常に少なかったが、先にあげた外国の研究者とはほとんど交渉を持たず、活発に研究されてきた。春採アイヌ学校の教師・伝道師の永久保秀二郎、金田一京助とその弟子である久保寺逸彦や、アイヌである知里幸恵・知里真志保姉弟らが挙げられる。", "title": "アイヌ語の研究" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、田村すゞ子、萱野茂、浅井亨、村崎恭子、魚井一由、キーステン・レフシン、中川裕、切替英雄、佐藤知己、奥田統己、志賀雪湖、アンナ・ブガエワ、高橋靖以等がそれぞれ研究を進めてきた。", "title": "アイヌ語の研究" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "『伊勢物語』には「夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」という歌が登場する。その歌のうち「くたかけ」について、為家本、文暦本、為和本では、「くた=家、かけ=鷄」であると行間に注釈が記されている。ただし、家を「くた」と読んだり呼称したりする例は日本祖語にも日琉祖語にも存在しない。そのため、アレクサンダー・ボビンは、「家=くた」をアイヌ語の「コタン(村の意)」に由来する上代東国方言であると指摘した。なお、村を表す「コタン」が家を表す「くた」に変化した根拠について、ギリシャ語やゴート語に同例があると説明した。", "title": "アイヌ語の研究" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "アイヌ語の音節はCV(C)(すなわち義務的な頭子音と義務的ではない末尾子音)からなり、子音群は少数しかない。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "アイヌ語は五つの母音を持つ。樺太方言では開音節で長短を区別する。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "子音は 「p」、「t」、「k」、「c」、「n」、「s」、「r」、「m」、「w」、「y」、「h」、「'」の12種が数えられる。無声音と有声音の区別は存在しない。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本語にはほとんど現れない閉音節が多く存在し、北海道方言では音節末にはc、h、' を除く任意の子音が立つことができる。いっぽう多来加を除く樺太の方言では音節末に立つ子音は限られ、音節末子音 /m/ は /n/ との区別を失い、/k/, /t/, /p/, および /r/ の一部は摩擦音化し /h/(xとも表記された)になる。例えば北海道の sések(「セセク」のように発音。「熱い」の意)は樺太では sēseh(「セーセヘ」のように発音)となる。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アイヌ語のアクセントは高低アクセントである。すなわち、アクセントのある音節は高く発音される。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アクセントは、語頭に閉音節があればここに付く。語頭の音節が開音節であれば、原則としてその次の音節に付く。例えば pírka(美しい)は最初の音節 pir が閉音節なのでここにアクセントが付く。一方 kamúy(神、ヒグマ)は最初の音節 ka が開音節なので、次の muy にアクセントが付く。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "アイヌ語では文法上他の母音の後のイ、ウも子音 y、w と見なされ閉音節として扱われる。áynu(人間)はイではなくアにアクセントが付く。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ただし例外的に最初の音節が開音節であっても、そこにアクセントが付く単語、yúkar(ユーカラ)などがある。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "樺太方言で語頭の開音節にアクセントが付いた場合、その母音は長く発音される。例えば先の例のyukarは北海道方言では「ユカラ」に近いが樺太では yūkara「ユーカラ」に近い。", "title": "音韻" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "基本的な文型は主語・目的語・動詞(SOV)の順で、この点では日本語と同じである。ただし、動詞に主語および目的語の人称および数を示す接辞や、その他の意味を加える接辞が付加されるため、場合によっては、動詞だけで文に相当する表現が可能である。名詞であっても、体の部分など特に個人と切り離せない関係にあるものは、所有者を示す所有接辞が必須的に付加される。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一例として、", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この直訳は", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "となり、「いろいろのうわさについて、私は遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」を意味する。これは単語としては2つしか含まないが長い文に相当する意味を表している。2番目の動詞は語根 suy に主語などを示す接辞、副詞、さらには目的語やそれを限定する接辞がついて1つの長い単語になっている。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "動詞の一部は数によって変化される。語幹が全く変わるもの(a「一人が座る」、rok「複数人が座る」)や語尾が交替するもの(ahun「一人が入る」、ahup「複数人が入る」)がある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "cape", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "猫", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "∅=an", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "3SG/3PL.SUBJ=ある.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "cape ∅=an", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "「猫が一匹いる」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "cape", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "猫", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "∅=okay", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "3SG/3PL.SUBJ=ある.PL", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "cape ∅=okay", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.PL", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「猫が何匹かいる」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ただし、数詞や副詞などによって複数あることが文脈から明確的に判断できる場合は、印欧語のように一致するのではなく、一律単数形になる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "tu", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2つ", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "cape", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "猫", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "∅=an", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "3SG/3PL.SUBJ=ある.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "tu cape ∅=an", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2つ 猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "「猫が二匹いる」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "cape", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "猫", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "poronno", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "たくさん", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "∅=an", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "3SG/3PL.SUBJ=ある.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "cape poronno ∅=an", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "猫 たくさん 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "「猫が沢山いる」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "また、他動詞の場合は主語ではなく、目的語に一致するのが一般的である。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "cape", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "猫", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "ku=∅=rayke", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "cape ku=∅=rayke", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "猫 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.SG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "「私は猫を一匹殺した」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "cape", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "猫", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ku=∅=ronnu", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.PL", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "cape ku=∅=ronnu", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "猫 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.PL", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "「私は猫を何匹か殺した」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "アイヌ語の動詞や名詞は、人称によって変化することがある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "アイヌ語では代名詞があまり用いられず、ラテン語や古典ギリシア語同様、用いられる場合は、特別な意味(強調や限定)を表す。その代わりに、動詞にくっつく接語である人称接辞によって主語や代名詞を表示する。沙流方言の人称接辞は以下の通りである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "また、命令法を除いて、人称接辞は常に必要とされる(三人称は無標であるが文法的にそのゼロ接辞によって動詞の結合価が充填される)。特殊な四人称も存在し、一人称の包括複数、二人称の敬称単複数、話者指示的人称(引用文での話者を指す一人称)、不定人称など多様な意味を持つ。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "また、以下の表のように、自動詞と他動詞では主語の活用が異なる。また、目的語も人称接辞によって表されるため、下の表のように、無標の三人称が「それ」と翻訳されている。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "アイヌ語の人称変化は名詞の所属形にも行われる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "アイヌ語の極性表現について、否定に関しては朝鮮語同様、否定副詞を動詞の前に置くことでによっても表されるが、日本語のように限定副助詞ka「も」に助動詞ki「~する」を用いた複合構文によっても表される。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "somo", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "NEG.ADV", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ku=ytak.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1SG.SUBJ=話す.VI", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "somo ku=ytak.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "NEG.ADV 1SG.SUBJ=話す.VI", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "「私は喋っていない。」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "nep", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "どの.INTERR", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "aynu", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "人", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ka", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "も.PTCL", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "somo", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "NEG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "ne.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "である.COP", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "nep aynu ka somo ne.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "どの.INTERR 人 も.PTCL NEG である.COP", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "「私は人間ではない」(直訳:どの人間でもない)", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "ku=ytak", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "SG.SUBJ=話す.VI", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "ka", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "も.PTCL", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "somo", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "NEG.ADV", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "ki.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "する", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ku=ytak ka somo ki.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "SG.SUBJ=話す.VI も.PTCL NEG.ADV する", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "「私は喋っていない。」(直訳:私は喋りもしない)", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "また、日本語、琉球語、朝鮮語等と同様(それ以上に)、特定な意味を表すものには否定助動詞や否定動詞を用いる。否定動詞や否定助動詞には、例えばeaykap「(能力により)できない」、koyaykus「(都合により)できない」erampewtek「(知識として)わからない」、eramiskari/eramuskari「(経験として)知らない」、isam「無い」、sak「持っていない」、omuken「不漁だ」、turaynu「見つからない」などがある。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "ku=ytak", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "SG.SUBJ=話す.VI", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "eaykap.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "できない", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "ku=ytak eaykap.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "SG.SUBJ=話す.VI できない", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "「私は喋れない。」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "ku=∅=erampewtek.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=知らない.VT", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "ku=∅=erampewtek.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=知らない.VT", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "「私はそれについて知らない。」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "禁止表現(否定命令)には、副詞iteki(沙流・千歳方言)やeciki(旭川方言)。肯定の命令法同様、例外的に人称接辞を取らない。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "iteki", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "NEG", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "arpa!", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "行く.IMP", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "iteki arpa!", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "NEG 行く.IMP", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "「行かないで!」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "アイヌ語の品詞分類について長きにわたって議論されてきたが、学者によって区分の仕方が異なっている。特に問題となるのは、形容詞、後置副詞、人称代名詞、助動詞、連体詞などである。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "アイヌ語では、印欧語や日本語などに相当する形容詞のカテゴリは存在しない。他の言語で形容詞が表す意味は、アイヌ語では自動詞によって表される。これらの状態動詞は、他の動作動詞と形態論において区別されておらず、意味も統語においても同様である。例えば、アイヌ語のpirkaは、「良い」という状態的な意味も表せれば、「良くなる」のような変化的な意味表せる。また、人称変化も他の自動詞と同様である(pirka=an「我々が良くなる」、ipe=an「我々が食事する」)。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "アイヌ語には動詞の結合価を上昇させる充当態接頭辞e-(具格、「~で」)、o-(処格、「~で」)及びko-(与格、「~に」)の存在が報告されている。以下の例において、本来は1価しか持たない(主語のみで充足し、目的語を持てない)自動詞itakに、与格充当接頭辞のko-が付くと、2価を持つ(主語と目的語両方があって初めて充足する)他動詞koytakとなり、目的格人称接辞を取ることができるようになる。", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "ku=ytak.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "1SG.SUBJ=話す.VI", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "ku=ytak.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "1SG.SUBJ=話す.VI", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "「私は喋っている。」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "hekaci", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "男の子", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "ku=∅=ko-ytak.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "1SG.SUBJ=3SG.ACC=APL.DAT-話す.VT", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "hekaci ku=∅=ko-ytak.", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "男の子 1SG.SUBJ=3SG.ACC=APL.DAT-話す.VT", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "「私は男の子と喋っている。」", "title": "文法" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "アイヌ語の方言は大きく北海道、千島、樺太に分けられる。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "東北北部にも18世紀まで本州アイヌが居住していたが、彼らの方言については詳らかでない。中世以前の蝦夷がアイヌ語を話していたとする説もある。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "アイヌはコタン毎に生活をしており、コタンは主に川筋か海岸線に沿って分布したため、川筋ごとに方言が少しずつ異なる場合が多く、また海岸部と内陸部でも差異が見られた。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "かつて大きくは北海道・千島(北千島)・樺太(南樺太)の三方言があった。北海道方言は、さらに北東部方言と南西部方言の二つに分類したり、もっと細かく分類されることもあるが、方言間の詳細な比較研究が進んでいないため定説はない。千島方言は日本の千島領有以後急速に廃れ、第二次世界大戦後には既に話者が見つからなかったとされる。樺太方言は1994年に最後の話者とされる浅井タケが亡くなった。北海道内でも和人の移住が早くから進んだ渡島地方や石狩川下流域などの方言は記録がほとんど残っていない。日本海側やオホーツク海側の方言の記録もほとんどない。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "先述のとおり、アイヌ語には標準語・中央語に相当する言語変種は存在しないが、話者数(第二言語として習得した者を含む)の大小や、辞書や研究文献の多寡によるアクセスの難易には方言差があり、そうした点では沙流方言や千歳方言は他の方言よりも比較的優位である。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "括弧内は使用地域。話者、教材を後述。", "title": "方言" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "アイヌ民族はかつて文字の文化がなく、20世紀以前にアイヌ自身がアイヌ語の文章を記したテキスト(筆録資料)は見つかっていない。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "それ以前に和人や西洋人による少数の不完全な記録が散見される。日本側で記録された最古の語彙記録は17世紀初頭『松前ノ言』である。ヨーロッパ人による最古の記録は、1618年と1621年に松前藩に訪れたイタリアのイエズス会士ジロラモ・デ・アンゼリスによるものである。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "アイヌ民族による文字記録は、20世紀から広まっている。その典型例は言語学者の金田一京助の元で、知里幸恵が1920年から1922年に編纂された『アイヌ神謡集』(郷土研究社より翌年の大正12年出版)である。また、その叔母や養母に当たる金成マツによるアイヌ文学に関する約2万ページの大学ノートの記録もある。いずれもローマ字によって書かれている。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "近年はアイヌタイムズを例として、カタカナやラテン文字、キリル文字による文章化の試みが浸透しつつある。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "先述のとおり、アイヌ語には規範となる共通語がなく、アイヌ語を文字で書き表す際の規範的・統一的な形式・体系(正書法)も存在しない。しかし、それに準ずる試みはあり、北海道ウタリ協会が編集したアイヌ語テキスト『アコロ イタク』が出版されて以降は、同書で範示されている文章表記に基づいて、各方言の文章化が多くなされている。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "言語学者や日本国外の学習者などを除き、カタカナ表記に慣れ親しんでいる人が多い現代日本では、ローマ字よりもカタカナによるアイヌ語表記が好まれる場合が多い。ただし、通常のカタカナだけでは、音節末の子音など日本語(標準語)にない発音を書き表せないため、小書きや半濁点を応用した特殊な文字が必要となり、ワープロ入力などで手間がかかるという問題がある。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "アイヌ語の仮名による統一された正書法が存在するわけではないが、各方式が大きく異なるわけではない。日本語にない音を表記するために、いくつかの専用の文字を使用する。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "2000年1月にJIS規格としてJIS第三水準漢字(記号類を含む)・JIS第四水準漢字が新規に制定され、このうちのJIS第三水準漢字にアイヌ語カナ表記用の拡張カタカナ(日本語の文章に通常使用される範囲外での小文字カタカナや半濁音付きカタカナ)も含まれている。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "ISO規格に採り入れられている Unicode では、2002年3月に改定された Unicode 3.2 から JIS X 0213 に追随する形でアイヌ語カナ表記用の拡張カタカナ (Katakana Phonetic Extensions) が追加されており、同規格に対応したソフトウェアでアイヌ語カナ表記が扱える枠組みが整えられた。ただし、一部の文字は合成を用いないと表現できない Unicode 特有の問題があり、ソフトウェアによっては表示が劣化する場合がある。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "パソコンでアイヌ語カナ表記(Unicode 3.2準拠)を扱う場合、", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "「発音」の節を参照。アクセント表記にはアキュート・アクセント付きラテン文字の「á」「í」「ú」「é」「ó」を使用する。通常アクセントを省略して例外アクセントのみ表記したり、全てのアクセントを省略してアルファベットのみで表記したりすることもある。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "ローマ字表記のまとまった文献としては、1897年にジョン・バチェラーが完成した『アイヌ語訳聖書』(新約聖書)がある。", "title": "文字" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "アイヌ語で文字使用が試みられる以前のアイヌの文学は全て口承のもので、民話・神話には非常に富んでいる。アイヌ語の叙事詩はユカラまたはユーカラと呼ばれる。ユーカラの内容は、動物の神があらわれて体験を語るものや、人間の世界の恋愛や戦いを歌うものなど多様である。叙事詩のほかに、いわゆる昔話のような散文による伝承文学もある。", "title": "文芸" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "", "title": "語彙" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "北海道島には、アイヌ語由来の日本語地名が多い。大別して、", "title": "アイヌ語に起源を持つと推測されている地名" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "日本の本州島以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説がある。本州以南のアイヌ語地名については、山田秀三をはじめ、在野の地名研究家によって研究が進められてきた。山田らによれば仙台付近以北(太平洋側)・秋田県以北(日本海側)には明らかにアイヌ語と解釈できる地名が分布し、この地域については続縄文文化の後北式土器の分布と重なるとの指摘もある。しかし、これより以南については根拠が乏しい。", "title": "アイヌ語に起源を持つと推測されている地名" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "本州島の地名については、主に東北地方・北陸地方を中心に特有な発音の地名があり、これはアイヌ語が起源、あるいは(狭義の)アイヌ語と祖先を同じにする(「アイヌ語族」「縄文人の言語」と表現する人もいる)、という説が存在する。これらの地名は、北海道島の地名と語源を同じくするものも多い。", "title": "アイヌ語に起源を持つと推測されている地名" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "wikt:カテゴリ:日本語 アイヌ語由来も参照。", "title": "アイヌ語に由来する地名以外の単語" } ]
アイヌ語は、日本列島の北海道を中心に居住するアイヌ民族(アイヌ)の言語である。「孤立した言語」であるが、方言差があるため、下位方言を別々の言語と見なして「アイヌ語族」(Ainuic)と呼ばれることが稀にある。 近世の時点でのアイヌ民族の居住地域は、北海道島とその周辺島嶼、東北地方北部、樺太(サハリン)南部、千島列島、カムチャツカ半島南端部で、アイヌ語圏も概ねその範囲であったとされる。現在アイヌは関東地方などにも拡散しているが(1988年時点で東京都内に2700人)、日本国内のアイヌのほぼ全員が日本語話者である。2009年2月、国際連合教育科学文化機関によって「極めて深刻」な消滅の危機にある言語と分類された。この時日本国内では8言語が危険な状況にあるとされたが、「極めて深刻」とされたのはアイヌ語のみである。
{{混同|エイヌ語|x1=[[新疆ウイグル自治区]]で話される}} {{脚注の不足|date=2021年2月}} {{Infobox Language|name=アイヌ語 |nativename={{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|アイヌ イタㇰ}}}} / {{lang|ain-Latn|Aynu itak}} / {{lang|ain-Cyrl|Айну итак}} |pronunciation={{IPA|ai&#815;nu itak&#794;}} |familycolor=孤立 |states={{JPN}} |region=[[北海道|北海道島]]<br />過去には、[[樺太]]・[[千島列島]]・[[東北地方]] |speakers=1996年の調査で15人<ref>[http://www.unesco.org/culture/languages-atlas/en/atlasmap/language-id-475.html UNESCO Atlas of the World's Languages in Danger]</ref>、2007年の調査で10人<ref>Bradley, D. ''Languages of Mainland South-East Asia'' (2007) In O. Miyaoka, O. Sakiyama, and M. E. Krauss (eds.), ''The vanishing languages of the Pacific Rim'', pp. 301–336. Oxford Linguistics. Oxford: Oxford University Press.</ref>  2017年の調査で5人 |script=[[片仮名]]、[[ラテン文字]]、[[キリル文字]](近代以降)<br />なし<small>(歴史的)</small> |rank= |fam1=[[孤立した言語]] |iso1= |iso2=ain |iso3=ain |sil=AIN | glotto = ainu1252 | glottorefname = Ainu |vitality-region2=[[北海道アイヌ語]] |vitality2=深刻 |vitality-region3=[[樺太アイヌ語]] |vitality3=消滅 |vitality=深刻 |vitality4=消滅|vitality-region4=[[千島アイヌ語]]}} <big>{{Incubator|prefix=Wp|code=ain}}</big> {{JIS2004}} '''アイヌ語'''(アイヌご、アイヌ語[[ラテン文字|ローマ字]]表記: ''' {{lang|ain-Latn|Aynu itak}}''', [[アイヌ語仮名|仮名文字]]表記: '''{{lang|ain-Kana|アイヌ イタㇰ}}''', [[キリル文字]]表記: '''{{lang|ain-Cyrl|Айну итак}}''')は、[[日本列島]]の[[北海道]]を中心に居住する[[アイヌ|アイヌ民族(アイヌ)]]の[[言語]]である。「[[孤立した言語]]」であるが、方言差があるため、下位方言を別々の言語と見なして「'''アイヌ語族'''」({{en|Ainuic}})と呼ばれることが稀にある{{efn2|[https://glottolog.org/files/glottolog-2.7/ainu1252.html Glottolog 2.7] では"Ainu family"(アイヌ語族)として独立した[[語族]]とされている。}}。 [[近世]]の時点でのアイヌ民族の居住地域は、北海道島とその周辺島嶼、[[東北地方]]北部、[[樺太]](サハリン)南部、[[千島列島]]、[[カムチャツカ半島]]南端部で、アイヌ語圏も概ねその範囲であったとされる<ref name="北原2011">{{Cite journal|和書|url=https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/kikigengo/jittaichosa/pdf/kikigengo_kenkyu.pdf|title=アイヌ語継承の現状|journal=危機的な状況にある言語・方言の実態に関する調査研究事業 報告書|author=北原次郎太|date=2011-02|pages=91-97|publisher=国立国語研究所}}</ref>。現在アイヌは[[関東地方]]などにも拡散しているが([[1988年]]時点で[[東京都]]内に2700人)、日本国内のアイヌのほぼ全員が[[日本語]]話者である<ref name="北原2011"/>。[[2009年]]2月、[[国際連合教育科学文化機関]]によって「極めて深刻({{lang-en|critically endangered}})」な[[危機に瀕する言語|消滅の危機にある言語]]と分類された<ref>[https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/kikigengo/ 消滅の危機にある方言・言語,文化庁]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/shimbun/nie/kiji/kiji/20090302.html |title=八丈語? 世界2500言語、消滅危機 日本は8語対象、方言も独立言語 ユネスコ |author= |date=2009-02-20 |work= |publisher=朝日新聞 |accessdate=2014-03-29 }}</ref>。この時日本国内では8言語が危険な状況にあるとされたが、「極めて深刻」とされたのはアイヌ語のみである{{efn2|他の7言語は、[[与那国語]]・[[八重山語]]が「重大な危険 (severely endangered) 」、[[宮古語]]・[[沖縄語]]・[[沖永良部与論沖縄北部諸方言|国頭語]]・[[奄美語]]・[[八丈方言|八丈語]]が「危険 (definitely endangered) 」に分類された。}}。 == 概説 == [[ファイル:Inferred_origin_and_diffusion_of_the_Ainu_language_varieties_in_natural_time_scale.jpg|サムネイル|推定されるアイヌ語の起源地と拡散<ref>{{Cite journal|last=Lee|first=Sean|last2=Hasegawa|first2=Toshikazu|date=2013-04-26|title=Evolution of the Ainu Language in Space and Time|url=https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3637396/|journal=PLoS ONE|volume=8|issue=4|doi=10.1371/journal.pone.0062243|issn=1932-6203|pmid=23638014|pmc=3637396}}</ref>]] アイヌ語は[[言語系統論|系統]]関係不明な[[孤立した言語]](または[[語族]])とされている。隣接する[[日本語]]・[[ウィルタ語]]・[[ニヴフ語]]のいずれとも系統が[[証明]]されておらず<ref>{{Cite journal|author=中川裕|year=2003|journal=日本語系統論の現在|title=日本語とアイヌ語の史的関係|volume=31|pages=209-220|doi=10.15055/00005279}}</ref>、[[アルタイ諸語]]、[[古アジア諸語]]、[[朝鮮語]]などとの関連性も指摘されているが、系統関係をを見いだすことはできない。[[比較言語学]]方法では系統関係がわからないほど他の言語とは古くに分岐したと考えられるが、[[言語類型論|言語類型]]の観点からは[[アメリカ先住民諸語|北米インディアン諸語]]との間で最も共通点が多いとする結果がある<ref>{{Cite book|和書|author=風間伸次郎|year=2020|chapter=アイヌ語はどの言語と似ているか——対照文法の試み——|title=日本語「起源」論の歴史と展望|pages=269-313|isbn=978-4-385-36508-4}}</ref>。 アイヌと[[大和民族]]([[和人]])は古くから経済的・文化的に交流があり、{{lang|ain-latn|atay}} と値、{{lang|ain-latn|sippo}} と[[塩]](しほ)など日本語とアイヌ語の間で語彙の[[借用]]がみられ、特に[[信仰]]・[[宗教]]関係の語彙には {{lang|ain-latn|[[カムイ|kamuy]]}} と[[神]]、{{lang|ain-latn|[[イクパスイ|ikupasuy]]}} と[[箸]]など日本語と同源とみられる語が多い<ref name="中川2003">{{cite journal|和書|author=中川裕 |title=日本語とアイヌ語の史的関係 |url=https://doi.org/10.15055/00005279 |journal=日本語系統論の現在 |volume=31 |year=2003 |pages=209-220 |publisher=国際日本文化研究センター}}</ref>。しかし、語彙におけるアイヌ語と日本語の関係性は、日本語と中国語([[漢語]])あるいは英語とフランス語([[アングロ=ノルマン語]])の関係性よりも希薄である<ref name="中川2003"/>。 [[樺太]]で生活する樺太アイヌは[[ウィルタ]]、[[ニヴフ]]民族とも交流があり、特に近世の[[山丹交易]]によって大陸とまで繋がっている。近隣民族の言語とアイヌ語(特に樺太アイヌ語)とは、民具や祭具、楽器、動植物などの語彙が一部共通しているが、普通名詞や動詞には共通語彙が殆どない <ref name="nkgw2007">{{Cite book|和書|year=2007|chapter=ニヴフ語、アイヌ語、ウイルタ語の民具関連の共通語彙について|editor=中川裕|book=アイヌを中心とする日本北方諸民族の民具類を通じた言語接触の研究|url=https://sakhalin.daa.jp/mingumeinituite.htm}}</ref>。例えば、儀礼などの食物を運搬する[[行器]]は、アイヌ語で''{{lang|ain-Latn|sintoko}}''と言い、ニヴフ語では''{{lang|niv-Latn|sinduχ}}''と言い、両者とも外来の樽や行器を指す(ただしニヴフ語においても借用語である)<ref name="nkgw2007"/>。 地方によって多くの方言があり、大きく北海道アイヌ語・[[樺太アイヌ語]]・[[千島アイヌ語]]に分けられるが、北海道アイヌ語以外は[[20世紀]]中に消滅したとされる([[#方言|方言]]節参照)。アイヌには歴史上、民族全体あるいは大部分を統べる[[中央集権]]的な政治勢力{{efn2|北海道では[[近世]]初期に政治的統合の動きがあったが、[[松前藩]]によって阻止された。[[シャクシャインの戦い]]参照。}}、宗教的権威、あるいは文化的中心が存在しなかったため、アイヌ語には[[標準語]]や中央語に相当するような、他の方言を圧倒して広域で通用する[[言語変種]]が存在しない。 == 歴史 == {{also|アイヌの歴史|アイヌ文化#近代のアイヌ}} [[江戸時代]]、[[松前藩]]はアイヌが日本語を使用することを禁じていたが、[[ロシア帝国]]の[[南下政策]]でロシア人とアイヌの接触が顕著となると、[[江戸幕府]]が[[蝦夷地]]をたびたび直接統治するようになり、アイヌの和風化(同化)が試みられるようになった<ref name="北原2011"/>。東北地方のアイヌ([[本州アイヌ]])は近代に入るまでに同化し、言語の記録がほとんど残っていないが、東北各地の地名や[[マタギ言葉]]などにその痕跡がある。 [[明治時代]]に入ると、明治政府によってアイヌへの日本語教育が開始され([[ジョン・バチェラー]]などアイヌ語教育を試みる者もいたが、公教育には採り入れられなかった)、また日本人の大量入植でアイヌが地域の少数派に追いやられていったため、「未開」「原始的」といった偏見と蔑視が強まり、アイヌ語の地位が大きく低下した<ref name="北原2011"/>。地位の低下により、子供の前でアイヌ語の使用を極力避けるなど、多くのアイヌの間でアイヌ語を次世代に継承させることに消極的となった<ref name="北原2011"/>。アイヌ語がアイヌの日常生活から消えるのは[[1900年]]頃が節目と考えられ、現在アイヌ語の研究や学習に用いられている資料は[[1910年]]頃までに生まれた話者の記録に基づくものが多い<ref name="北原2011"/>。もっとも、アイヌ文化を後世に残そうと積極的にアイヌ語を言い聞かせた家庭もあるなど個人個人の生育環境によって事情は様々で<ref name="北原2011"/>、[[1926年]]の生まれでありながら祖母の影響でアイヌ語と日本語のバイリンガルに育った[[萱野茂]]のような例もある。 [[千島アイヌ]]と[[樺太アイヌ]]は日露間の領土変遷に翻弄された。北千島(主に[[占守島]]と[[幌筵島]])に住んでいた千島アイヌは、[[樺太・千島交換条約]]で千島全域が日本領となると、カムチャツカ半島に移りロシア国民となった者以外は[[色丹島]]に強制移住させられ、生活環境の変化から人口が激減し伝統文化も衰退、その後[[1945年]]の[[ソビエト連邦]](ソ連)による[[北方地域|北方領土]]占拠で色丹島も退去させられ、千島アイヌの文化は完全に途絶えた([[1962年]]に[[村崎恭子]]が北海道内に住む千島アイヌを訪ねた際、アイヌ語の使用を確認できず、翌年[[千島アイヌ語]]の消滅を報告した<ref>{{cite journal|和書|author=村崎恭子 |title=千島アイヌ語絶滅の報告 |url=https://doi.org/10.14890/minkennewseries.27.4_657 |journal=季刊民族學研究 |volume=27 |issue=4 |year=1963 |pages=657-661 |doi=10.14890/minkennewseries.27.4_657 |publisher=日本文化人類学会}}</ref>)。樺太南部は樺太・千島交換条約でロシア領に、[[日露戦争]]によって日本領となったが、1945年にソ連が樺太南部を占拠すると樺太アイヌのほとんどは北海道各地に退去・離散することとなり、樺太アイヌの伝統文化は急速に衰退、[[1994年]]の[[浅井タケ]]の死去によって[[樺太アイヌ語]]は消滅したとされる(実際にはアイヌ語を多少なりとも知る樺太アイヌはその後も存在した<ref>Piłsudski, Bronisław; Alfred F. Majewicz (2004). The Collected Works of Bronisław Piłsudski. Trends in Linguistics Series 3. Walter de Gruyter. p. 600. ISBN 9783110176148. Retrieved 2012-05-22.</ref>)。 === 現状 === 現在アイヌ語を継承しているアイヌの数が極めて少ないため、アイヌ語は近いうちに消滅してしまう「[[危機に瀕する言語|消滅危機言語]]」の一つとなっている。2007年の推定では、約1万5000人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる[[母語]]話者は10人しかいなかった<ref>{{Cite web|url=http://www.ethnologue.com/language/ain|title=Ethnologue report for Ainu|author=Ethnologue.com|language=英語|accessdate=2013年3月29日}}</ref>。別の推定では、アイヌ語を母語とする人は千島列島・カムチャッカ半島では既に消滅、樺太でもおそらく消滅していて([[ロシアにおけるアイヌ]]も参照)、残る北海道の母語話者も平均年齢が80歳を越え、母語話者数も10人以下となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.helsinki.fi/~tasalmin/nasia_report.html#Ainu|title=Endangered languages in Northeast Asia/ report|author=Juha Janhunen|coauthors=Tapani Salminen|language=英語|accessdate=2007年9月29日}}</ref>。アイヌ語の消滅危惧のレベルは「おそらく消滅した言語」と「消滅の危機に厳しくさらされる言語」の間の「消滅に近い言語」となっている。2009年(平成21年)、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]により「[[危機に瀕する言語]]」として、最高ランクの「極めて深刻」の区分に分類され、数年後には母語話者の死亡により消滅するとされた<ref>「八丈語? 世界2500言語 消滅危機——「日本は8言語対象 方言も独立言語」ユネスコ」『朝日新聞』2009年2月20日付夕刊、第3版、第1面。</ref>。ただし、流暢に話せない世代でも、短い文なら会話できる、あるいは単語なら知っているといった人は少なくない<ref name="北原2011"/>。 === 保存活動 === 1980年代以降、[[萱野茂]]らアイヌ語を残そうとするアイヌ自身の努力の結果、アイヌ語[[教室]]が各地に開設され、[[1981年]]には[[山本多助]]が『アイヌ語小辞典』を発行した。2007年現在、北海道内14箇所にアイヌ語教室が設置され、多くの人がアイヌ語を学んでいる。[[1987年]]には[[STVラジオ]]が「アイヌ語講座 イランカラプテ」の放送を開始し、2020年現在も「[[アイヌ語ラジオ講座]]」として放送中である。 1986年には、[[田村すゞ子]]の教え子と北方言語研究会が上智大学学生らと第一回「アイヌ語祭」を早稲田大学で共催し、和人による全編アイヌ語による演劇などがアイヌ民族や元[[北海道新聞]]社員で[[アイヌ語地名]]研究家などの前で披露された。 [[アイヌ文化振興財団]]主催のアイヌ語[[弁論大会]]({{lang|ain-Kana|イタカンロー}})には毎年多くの人が参加し、アイヌ語による[[弁論]]や、[[口承文芸 (アイヌ)|口承文芸]]の披露が行われている。 1990年代からアイヌではないがアイヌ語を学ぶ者が増え、アイヌ語の辞典も各種出版されている。特に東北地方は、アイヌとの歴史的連続性や地名研究の必要からアイヌ語への関心は伝統的に高い。[[関東地方]]にも関東在住のアイヌまたは和人がアイヌ語を学ぶ集まりがいくつか存在する。 アイヌ語は消滅危機言語であるが、[[オープンリール]]や[[カセットテープ]]に記録された音声資料が大量に残されている。そうした音声資料は調査途上で内容が不明なものも多く、アイヌ語学習に使用可能な資料は限られ、今後のアイヌ語学習は音声資料の活用<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.town.biratori.hokkaido.jp/biratori/nibutani/culture/language/ |title=アイヌ語・アイヌ口承文芸 - アイヌ語の未来と音声資料の重要性 |publisher=[[二風谷アイヌ文化博物館]] | accessdate=2015-7-4}}</ref>が課題である。 === 新語の創造 === 2000年代以降、[[北海道教育大学|北海道教育大学旭川校]]などでアイヌ語を刷新する兆しがある。『アイヌ語旭川方言会話辞典』は現代に不足している語彙の補完を試行しており、{{lang|ain-Latn|imeru}}(神が放つ光。転じて電気の意)から {{lang|ain-Latn|imeru inaw}} または {{lang|ain-Latn|imeru pasuy}}(前者は固定電話で、後者は[[携帯電話]]の意。{{lang|ain-Latn|inaw}} は[[イナウ]]、{{lang|ain-Latn|pasuy}} は[[箸]]を意味する。アイヌの信仰では、イナウや箸は神と人間との仲立ちをすると考えられていて、ネットの中とリアルを仲立ちする例えから)、{{lang|ain-Latn|imeru kampi}}([[電子メール]]。{{lang|ain-Latn|kampi}}は紙、または手紙を意味する)等の造語を作り、現代生活で不足している語彙を補完し、「現代の言語として」使える様にする努力が行われている。2008年7月4日に開催された「先住民族サミット」アイヌモシリ2008では、「アイヌ語を公用語とし、義務教育でも学べる言語とすること」を日本政府に提言<ref>「先住民族サミット」アイヌモシリ2008「[http://www.win-ainu.com/ainumosir2008/img/JGovAppeal-J.pdf 日本政府への提言] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110718052926/http://www.win-ainu.com/ainumosir2008/img/JGovAppeal-J.pdf |date=2011年7月18日 }}」(2008年7月4日)</ref> している。2020年の[[ウポポイ|国立アイヌ民族博物館]]開設に際しては、館内の各種案内表示にアイヌ語を使用するため、「宝」を意味する「{{lang|ain-kana|イコㇿ}}」と「部屋」を意味する「{{lang|ain-kana|トゥンプ}}」を合わせて「展示室」の訳語とする、「往来(する)、お互いに行き来する」を意味する「{{lang|ain-kana|ウコアㇷ゚カㇱ}}」を「交流」という意味に拡張して使うなど、183の語が検討・選定された<ref>{{Cite web|和書|url=https://artscape.jp/report/curator/10175513_1634.html|title=第一言語をアイヌ語にするために──国立アイヌ民族博物館の挑戦:キュレーターズノート|author=小林美紀・深澤美香|website=アートスケープ2022年04月15日号|publisher=大日本印刷|accessdate=2022-06-27}}</ref>。[[北海道大学]]でも、アイヌ語のキャンパスマップへの併記の試みもあり、そこでも言語学者による翻訳に関する議論が行われ、言語学的な翻訳の精緻化やアイヌ民族視点を反映させた訳などが議論されている<ref>{{Cite journal|和書|author1=佐藤知己|author2=北原モコットゥナシ次郎太|author3=イヤス シリヤ|year=2022|title=北海道大学キャンパスガイドマップ」のアイヌ語併記作業について : 翻訳と脱植民地化に関する議論をめぐって|doi=10.14943/Jais.2.075|journal=アイヌ・先住民研究|issue=2|pages=75-101}}</ref>。近年では、これらの言語復興運動の試み自体についても研究がなされ、造語や翻訳などを管理する機関(新語委員会)の設立が提案されているが、まだ実現されていない<ref>{{Cite journal|author=Ijas, Silja|year=2023|title=Language revitalization through lexical modernization and neologism-coining : The current state and future tasks of modernizing Ainu lexicon|doi=10.14943/Jais.3.117|journal=アイヌ・先住民研究|issue3=|pages=117-160}}</ref>。 == アイヌ語の記録 == [[ファイル:Pirka Kotan, Sapporo.JPG|thumb|300px|[[札幌市]]のアイヌ文化交流センター。サッポロピㇼカコタンというアイヌ語が片仮名で併記されている。(「札幌の美しい村」という意味であり、日本語の片仮名に元来は存在しない「[[小書きリ|小書き片仮名の "リ"]]」が用いられている。)]] アイヌ語は漢字伝来前の日本語と同様、[[口承]]のみによって受け継がれてきた。アイヌの周辺には、[[大和民族]]、[[漢民族]]、[[満州民族]]、[[ロシア人|ロシア民族]]など、[[文字]]を持つ民族も多かったため、彼らと付き合いのあったアイヌの中には文字を使える者もいたと考えられる。しかし、民族全体で文字を取り入れる動きは無かった<ref>{{Cite web|和書|title=アイヌについて |publisher=[[アイヌ民族博物館]] |url=http://www.ainu-museum.or.jp/takar/about/ |accessdate=2020-4-28}}</ref>。 そのため文字による古い記録は、ヨーロッパ人や和人によって書かれたものが残されていて、ヨーロッパ人によるものは[[ラテン文字]]、ロシア人によるものは[[キリル文字]]、日本人によるものは[[仮名文字]]と、それぞれの使う文字で記録されている。古くは17世紀初頭に松前を訪れた宣教師[[ジロラモ・デ・アンジェリス]]の[[ラテン文字]]による記録が残されている。日本の史料としては[[平仮名]]でアイヌ語が記録された『[[松前ノ言]]』が最も古く[[寛永]]年間頃のものと推定されており、年代の明確なものとしては宝永元年([[1704年]])に蝦夷地を訪れた[[禅僧]]である[[正光空念]]の記録が古い。 正徳2年([[1712年]])に刊行された『[[和漢三才図会]]』では、50ほどのアイヌ語の単語とその日本語訳が記されている<ref>寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻版)吉川弘文館、1906年(明治39年)、213-214頁</ref>。蝦夷通詞(アイヌ語通訳)の[[上原熊次郎]]は、寛政4年([[1792年]])に刊行されたアイヌ語の辞書『[[もしほ草]]』(書名は蝦夷方言とも)の著者として知られており、自筆稿本である『[[蝦夷語集]]』([[国立公文書館]]所蔵)や『[[蝦夷地名考並里程記]]』([[東京国立博物館]]所蔵)が伝わっている。 アイヌ自身による記録は、[[大正|大正時代]]からラテン文字などを用いて書かれるようになったといわれている。[[ブロニスワフ・ピウスツキ|ピウスツキ]]と親交があった[[千徳太郎治]]は、[[キリル文字]]によってアイヌ語を表記していた。 == アイヌ語の研究 == 明治時代になってから、アイヌ語は科学的に研究されるようになったが、最初期には外国からのしかも言語学者ではない人々による研究が先行したのが特徴的である。たとえば東洋学者の[[アウグスト・プフィッツマイアー]]、[[ニコライ・ネフスキー]]、ロシアの医師であった[[ミハイル・ドブロトヴォルスキー]]({{lang|ru|Михаил Михайлович Добротворский}})、ポーランドの社会運動家で亡命者であった[[ブロニスワフ・ピウスツキ]]、イングランド出身の宣教師であった[[ジョン・バチェラー]]などがそれにあたる。 日本の言語学者たちがアイヌ語を研究し始めた頃にはアイヌ語の話者は非常に少なかったが、先にあげた外国の研究者とはほとんど交渉を持たず、活発に研究されてきた。春採アイヌ学校の教師・伝道師の[[永久保秀二郎]]、[[金田一京助]]とその弟子である[[久保寺逸彦]]や、アイヌである[[知里幸恵]]・[[知里真志保]]姉弟らが挙げられる。 その後、[[田村すゞ子]]、[[萱野茂]]、浅井亨、[[村崎恭子]]、[[魚井一由]]、[[キーステン・レフシン]]、[[中川裕 (アイヌ語研究者)|中川裕]]、切替英雄、佐藤知己、[[奥田統己]]、志賀雪湖、アンナ・ブガエワ、高橋靖以等がそれぞれ研究を進めてきた。 === 『伊勢物語』の「くた」 === 『[[伊勢物語]]』には「夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」という歌が登場する。その歌のうち「くたかけ」について、為家本、文暦本、為和本では、「くた=家、かけ=鷄」であると行間に注釈が記されている。ただし、家を「くた」と読んだり呼称したりする例は[[日本祖語]]にも[[日琉祖語]]にも存在しない。そのため、[[アレクサンダー・ボビン]]は、「家=くた」をアイヌ語の「コタン(村の意)」に由来する[[上代東国方言]]であると指摘した。なお、村を表す「コタン」が家を表す「くた」に変化した根拠について、[[ギリシャ語]]や[[ゴート語]]に同例があると説明した<ref> Alexander Vovin「WHAT HAPPENED TO THE ROOSTER? —Another attempt to decipher an enigmatic poem from the Ise monogatari dan XIV —」Institut für Kultur und Geitestesgeschichte Asiens und Institut für Ostasienwissenschaften(2012年)</ref>。 == 音韻 == アイヌ語の音節はCV(C)(すなわち義務的な[[音節|頭子音]]と義務的ではない[[音節|末尾子音]])からなり、子音群は少数しかない。 === 母音 === アイヌ語は五つの母音を持つ。樺太方言では開音節で長短を区別する。 {|class="wikitable" style="text-align: center" |- ! !! [[前舌母音|前舌]] !! [[中舌母音|中舌]] !! [[後舌母音|後舌]] |- ! [[狭母音|狭]] | {{IPA|i}} i || || {{IPA|u}} u |- ! [[中央母音|中央]] | {{IPA|e}} e || || {{IPA|o}} o |- ! [[広母音|広]] | || {{IPA|a}} a || |} === 子音 === [[子音]]は 「{{lang|ain-Latn|p}}」、「{{lang|ain-Latn|t}}」、「{{lang|ain-Latn|k}}」、「{{lang|ain-Latn|c}}」、「{{lang|ain-Latn|n}}」、「{{lang|ain-Latn|s}}」、「{{lang|ain-Latn|r}}」、「{{lang|ain-Latn|m}}」、「{{lang|ain-Latn|w}}」、「{{lang|ain-Latn|y}}」、「{{lang|ain-Latn|h}}」、「{{lang|ain-Latn|'}}」の12種が数えられる。[[無声音]]と[[有声音]]の区別は存在しない。 {|class="wikitable" style="text-align: center" ! ![[両唇音|両唇]] ![[両唇軟口蓋音|両唇軟口蓋]] ![[歯茎音|歯茎]] ![[硬口蓋音|硬口蓋]] ![[軟口蓋音|軟口蓋]] ![[声門音|声門]] |- !'''[[破裂音|破裂]]''' | {{IPA|p}} p | | {{IPA|t}} t | | {{IPA|k}} k | {{IPA|ʔ}} ' |- !'''[[破擦音|破擦]]''' | | | {{IPA|ts}} c | | | |- !'''[[鼻音|鼻]]''' | {{IPA|m}} m | | {{IPA|n}} n | | | |- !'''[[摩擦音|摩擦]]''' | | | {{IPA|s}} s | | | {{IPA|h}} h |- !'''[[接近音|接近]]''' | | {{IPA|w}} w | | {{IPA|j}} y | | |- !'''[[はじき音|はじき]]''' | | | {{IPA|ɾ}} r | | | |} <!-- 翻訳中。 The glottal stop {{IPA|/ʔ/}} only occurs at the beginning of words, before an accented vowel. The sequence {{IPA|/ti/}} is realized as {{IPA|[t​͡ʃi]}}, and {{IPA|/s/}} becomes {{IPA|[ʃ]}} before {{IPA|/i/}} and at the end of syllables. The affricate {{IPA|/ts/}} has voiced and post-alveolar variants. There is some variation among dialects; in the [[Sakhalin]] dialect, syllable-final {{IPA|/p}}, {{IPA|t}}, {{IPA|k}}, {{IPA|r/}} [[lenition|lenited]] and merged into {{IPA|/x/}}. After an {{IPA|/i/}}, this {{IPA|/x/}} is pronounced {{IPA|[ç]}}. There is a [[pitch accent]] system. The accentuation of specific words varies somewhat from dialect to dialect. Generally, words including [[affix]]es have a high pitch on the stem, or on the first syllable if it is closed or has a diphthong, while other words have the high pitch on the second syllable, although there are exceptions to this generalization. --> 日本語にはほとんど現れない[[閉音節]]が多く存在し、北海道方言では[[音節]]末には{{lang|ain-Latn|c}}、{{lang|ain-Latn|h}}、{{lang|ain-Latn|'}} を除く任意の子音が立つことができる。いっぽう[[多来加湾|多来加]]を除く樺太の方言では音節末に立つ子音は限られ、音節末子音 {{ipa|m}} は {{ipa|n}} との区別を失い、{{ipa|k}}, {{ipa|t}}, {{ipa|p}}, および {{ipa|r}} の一部は[[摩擦音]]化し {{ipa|h}}(xとも表記された)になる。例えば北海道の {{lang|ain-Latn|sések}}(「セセク」のように発音。「熱い」の意)は樺太では {{lang|ain-Latn|sēseh}}(「セーセヘ」のように発音)となる。 * {{lang|ain-Latn|u}} は、日本語の「ウ」と発音が異なり、日本語を母語とする者は「オ」のようにも聴きとれる場合がある。そのためにかつては {{lang|ain-Latn|aynu}} が {{lang|ain-Kana|アイノ}}、{{lang|ain-Latn|kamuy}} が {{lang|ain-Kana|カモイ}}、{{lang|ain-Latn|inaw}} が{{lang|ain-Kana|イナオ}} と書かれることが多かった。 * {{lang|ain-Latn|c}} はチャ、チなどにあらわれる[[破擦音]]で濁って発音されることもある。 * {{lang|ain-Latn|s}} は {{lang|ain-Kana|{{smaller|シ}} }}や{{lang|ain-Kana|{{smaller|ス}} }}の摩擦音。方言によっては{{lang|ain-Kana|シャ}}と発音されることもある。また、有声で発音されることはない。 *「{{lang|ain-Latn|'}}」は[[声門閉鎖音]]で、たとえば {{lang|ain-Latn|teeta}} で母音の連続を回避するために、はっきりと区切って{{lang|ain-Kana|テエタ}}と発音するとき{{lang|ain-Kana|テ}}と{{lang|ain-Kana|エ}}の間に入る音である。 * 音節 {{lang|ain-Latn|ti}} は存在せず、{{lang|ain-Latn|t}} と {{lang|ain-Latn|i}} が結びつくと必ず{{lang|ain-Latn|ci}} に変わる ({{lang|ain-Latn|kot}} + -{{lang|ain-Latn|ihi}} → {{lang|ain-Latn|kocihi}})。 * 音節 {{lang|ain-Latn|wi}} はごく少数の[[擬音語]]・[[擬態語]]にしか現れない({{lang|ain-Latn|siwiwatki}} 「風がビュウビュウ吹く」。{{lang|ain-Latn|siw}}-{{lang|ain-Latn|iw}} は風の音を表す[[語根]]の反復)。 * 音節 {{lang|ain-Latn|yi}}、「{{lang|ain-Latn|wu}}」を「{{lang|ain-Latn|'i}}」、「{{lang|ain-Latn|'u}}」と別の音節として認めるか否かは研究者によって異なる({{lang|ain-Latn|yairayke}}/{{lang|ain-Latn|yayirayke}}、{{lang|ain-Latn|aun}}/{{lang|ain-Latn|awun}}、{{lang|ain-Latn|ya}}({{lang|ain-Latn|y}}){{lang|ain-Latn|inkarpirkare}} &lt;{{lang|ain-Latn|yay-inkar-pirkare}} 自分の・見る(こと)・を良くする)。 * 開音節の「{{lang|ain-Latn|'i}}」や「{{lang|ain-Latn|'u}}」は他の母音の後に来たとき、母音の連続を回避するため軽く発音され、{{lang|ain-Latn|y}}、{{lang|ain-Latn|w}} となることがある。表記としては{{lang|ain-Latn|ukoytak}} のように {{lang|ain-Latn|y}}、{{lang|ain-Latn|w}} になる。閉音節の場合はこの変化は起きない。 * 母音 {{lang|ain-Latn|i}} や {{lang|ain-Latn|u}} の後に他の母音が来たときは、母音の連続を回避するため渡り音 {{lang|ain-Latn|y}}、{{lang|ain-Latn|w}} が挿入されることが多い。この {{lang|ain-Latn|y}}、{{lang|ain-Latn|w}} は表記される場合とされない場合がある。例えば、{{lang|ain-Latn|uepeker}} という語はしばしば {{lang|ain-Latn|uwepeker}} と書かれる。ただし、{{lang|ain-Latn|u}} の後に {{lang|ain-Latn|i}} が来た場合だけは *{{lang|ain-Latn|uwi}} とはならず、{{lang|ain-Latn|u'i}} または {{lang|ain-Latn|uy}} となる。 * 音節末の {{lang|ain-Latn|t}}、{{lang|ain-Latn|p}}、{{lang|ain-Latn|k}} は[[朝鮮語]]の閉音節の {{lang|ko-Latn|p}}、{{lang|ko-Latn|t}}、{{lang|ko-Latn|k}} と同じく[[内破音]]であり、日本語のみを使う者にとっては聞き分けが難しい。たとえば {{lang|ain-Latn|p}} の場合、「アップ」と言った時の「プ」の直前の「ッ」のような感じの音になる。音節末 {{lang|ain-Latn|t}} も同様に「ハット」の「ッ」、{{lang|ain-Latn|k}} も「メッカ」の「ッ」音である。 * 音節末 {{lang|ain-Latn|s}} もシの前で詰まる音に近いが場合によりスの前で詰まる音のように聞こえる場合もある。 * 音節末の {{lang|ain-Latn|m}} は、日本語と異なり {{lang|ain-Latn|n}} と区別して発音しなければならない。 * 音節末の {{lang|ain-Latn|r}} については直前の母音の音色が影響することが多く、日本語のラ行子音に近い[[歯茎はじき音]]で、且つ舌先が略平らで微妙にしか舌先が上がらない為、{{lang|ain-Latn|ar}} の {{lang|ain-Latn|r}} は口の中で発音されたあいまいな{{lang|ain-Kana|{{smaller|ラ}} }}のように、{{lang|ain-Latn|ir}} の {{lang|ain-Latn|r}} は軽い{{lang|ain-Kana|{{smaller|リ}} }}のような音となることが多い。樺太方言には音節末の {{lang|ain-Latn|r}} は無く、{{lang|ain-Latn|h}} か {{lang|ain-Latn|r}}+母音のいずれかで発音される。例えば北海道方言の {{lang|ain-Latn|utar}}(人々、〜たち)は樺太で {{lang|ain-Latn|utah}} または {{lang|ain-Latn|utara}} と発音される。 === アクセント === アイヌ語の[[アクセント]]は高低アクセントである。すなわち、アクセントのある音節は高く発音される。 アクセントは、語頭に閉音節があればここに付く。語頭の音節が開音節であれば、原則としてその次の音節に付く。例えば {{lang|ain-Latn|pírka}}(美しい)は最初の音節 {{lang|ain-Latn|pir}} が閉音節なのでここにアクセントが付く。一方 {{lang|ain-Latn|kamúy}}(神、ヒグマ)は最初の音節 {{lang|ain-Latn|ka}} が開音節なので、次の {{lang|ain-Latn|muy}} にアクセントが付く。 アイヌ語では文法上他の母音の後のイ、ウも子音 {{lang|ain-Latn|y}}、{{lang|ain-Latn|w}} と見なされ閉音節として扱われる。{{lang|ain-Latn|áynu}}(人間)は{{lang|ain-Kana|イ}}ではなく{{lang|ain-Kana|ア}}にアクセントが付く。 ただし例外的に最初の音節が開音節であっても、そこにアクセントが付く単語、{{lang|ain-Latn|yúkar}}([[ユーカラ]])などがある。 静内方言や様似方言ではアクセントが中和され、意味の区別がなされない<ref name="sato2008"/>。樺太方言で語頭の開音節にアクセントが付いた場合、その母音は長く発音される。例えば先の例のyukarは北海道方言では「ユカラ」に近いが樺太では {{lang|ain-Latn|yūkara}}「ユーカラ」に近い。 === 音韻規則 === アイヌ語で特定な[[分節音]]が隣り合わせると、特定な条件において以下のような、主に音韻の[[同化_(音声学)|同化]]や異化などが起こる<ref name="sato2008"/>。 * -r + t- → -tt- (逆行同化) * -r + c- → -tc- (逆行同化) * -r + n- → -nn- (逆行同化) * -r + r- → -nr- (逆行異化) * -r + y- → -yy- (逆行同化) * -n + s- → -ys- (逆行同化) * -n + y- → -yy- (逆行同化) * -n + w- → -nm- (順行同化) * -n + w- → -ww- (逆行同化) * -t + i- → -ci- (逆行同化・[[口蓋化]]) * -C + yV- → -CV- (音韻脱落) * -C + hV- → -CV- (音韻脱落) * i- + V- → i.yV- (音韻挿入) * u- + V- → u.wV- (音韻挿入) * -V- + i- → -Vy- (母音弱化) * -V- + u- → -Vw- (母音弱化) * a- + e- → -ay- (母音弱化) * a- + o- → -aw- (母音弱化) == 文法 == 基本的な文型は[[主語]]・[[目的語]]・[[動詞]](SOV)の[[語順|順]]で、この点では日本語と同じである。ただし、動詞に主語および目的語{{Efn2|授与動詞では[[間接目的語]]も含む。}}の[[人称]]および[[数_(文法)|数]]を示す[[接辞]]や、その他の意味{{Efn2|動詞の[[相 (言語学)|相]]や[[態]]、先行名詞との関係を示す[[関係詞]]相当のもののことである。}}を加える接辞が付加されるため、場合によっては、動詞だけで文に相当する表現が可能である。[[名詞]]であっても、体の部分など特に個人と切り離せない関係にあるものは、所有者を示す[[所有接辞]]が必須的に付加される。 一例として、 * {{lang|ain-Latn|usa-oruspe a-e-yay-ko-tuyma-si-ram-suy-pa}} この直訳は * いろいろ-うわさ 私(主語)-について-自分-で-遠く-自分の-心-揺らす-繰り返し となり、「いろいろのうわさについて、私は遠く自分の心を揺らし続ける=思いをめぐらす」<ref>[[知里真志保]]による。出典:[[平凡社]]世界大百科事典</ref>を意味する。これは[[単語]]としては2つしか含まないが長い文に相当する意味を表している。2番目の動詞は[[語根]] {{lang|ain-Latn|suy}} に主語などを示す[[接辞]]、[[副詞]]、さらには目的語やそれを限定する接辞がついて1つの長い単語になっている。 アイヌ語は言語類型論的に[[主要部標示言語]]であり、様々な文法現象において、付属部よりも主要部(動詞句の動詞など)に標記が与えられる。例えば所有表現において、''{{lang|ain|nispa tekehe}}''「長者の手」という時、所有者の''{{lang|ain|nispa}}''「長者」は無標であるのに対し、''{{lang|ain|tek}}''「手」はその所属形({{lang-en-short|possesed form|links=no}})''{{lang|ain|tekehe}}''「~の手」に変化している。これは英語などのように、所有者が所有形になり、所有されたものが無標であるとは対照的である。 === 品詞分類 === アイヌ語の品詞分類について長きにわたって議論されてきたが、学者によって区分の仕方が異なっている<ref>{{Cite journal|和書|author=井筒勝信|title=アイヌ語の品詞分類再考:いわゆる人称代名詞をめぐって|journal=北海道教育大学紀要 人文科学・社会科学編|volume=56|issue=2|pages=13-27}}</ref>。特に問題となるのは、形容詞、後置副詞、人称代名詞、助動詞、連体詞などである。 アイヌ語では、印欧語や日本語などに相当する形容詞のカテゴリは存在しない。他の言語で形容詞が表す意味は、アイヌ語では自動詞によって表される。これらの状態動詞は、他の動作動詞と形態論において区別されておらず、意味も統語においても同様である<ref name="nkgw2001">{{Cite journal|和書|author=中川裕|title=自動性・他動性とアイヌ語の動詞|year=2001|journal=千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書|volume=53|pages=1|quotes=その理由を知里は7項目にわたって列挙しているが、それを要約すれば、アイヌ語のいわゆる「形容詞」は、意味的にも形態論的にも統語論的にも、自動詞(知里:1942の用語で言えば完用詞)と,ほとんど区別がないということである。}}</ref><ref>{{Cite book|author=Anna Bugaeva|year=2012|chapter=Southern Hokkaido Ainu|editor=Nicolas Tranter|title=The languages of Japan and Korea|series=Routledge Language Family Series|location=London|publisher=Routledge|pages=461-509|page=470|quote=There is no morphologically distinctive class of adjectives. The content expressed by adjectives in other languages is expressed by intransitive verbs in Ainu, cf. (14b).|url=https://www.academia.edu/13243194/Southern_Hokkaido_Ainu_In_Nicolas_Tranter_ed_The_languages_of_Japan_and_Korea_Routledge_Language_Family_Series_London_Routledge_461_509_2012_}}</ref><ref name="ykkw2017">{{Cite journal|author=Yan Kit KWONG|title=Lexical Negative Verbs in Ainu Language|year=2017|volume=7|issue=2|journal=International Journal of Humanities and Social Science|quote=Ainu language makes no distinction between adjectives and verbs. For example, the intransitive verb pirkacan express both stative meaning (good/rich/beautiful) and inchoative meaning (become good/rich/beautiful). Therefore, it seems there is no need to set up an independent category for adjectives in Ainu language (Shibatani, 1989).}}</ref>。例えば、アイヌ語の[[wikt:pirka#アイヌ語|''{{Lang|ain|pirka}}'']]は、「良い」という状態的な意味も表せれば、「良くなる」のような変化的な意味表せる。また、人称変化も他の自動詞と同様である(''{{Lang|ain|pirka{{=}}an}}''「我々が良くなる」、''ipe=an''「我々が食事する」)。 === 数の変化 === 動詞の一部は[[数_(文法)|数]]によって変化される。語幹が全く変わるもの(''{{Lang|ain|a}}''「一人が座る」、''{{Lang|ain|rok}}''「複数人が座る」)や語尾が交替するもの(''{{Lang|ain|ahun}}''「一人が入る」、''{{Lang|ain|ahup}}''「複数人が入る」)がある<ref name="ghgs1936">{{Cite book|和書|author1=金田一京助|author2=知里眞志保|title=アイヌ語法概説|year=1936|page=2|publisher=岩波書店}}</ref>。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= cape an. | 1= cape ∅=an | 2= 猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG | 3= 「猫が一匹いる」 }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= cape okay. | 1= cape ∅=okay | 2= 猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.PL | 3= 「猫が何匹かいる」 }} ただし、数詞や副詞などによって複数あることが文脈から明確的に判断できる場合は、印欧語のように一致するのではなく、一律単数形になる<ref name="ghgs1936"/><ref name="sato2008">{{Cite book|和書|author=佐藤知己|year=2008|title=アイヌ語文法の基礎|publisher=大学書林|isbn=978-4475018838}}</ref>。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= tu cape an. | 1= tu cape ∅=an | 2= 2つ 猫 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG | 3= 「猫が二匹いる」 }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= cape poronno an. | 1= cape poronno ∅=an | 2= 猫 たくさん 3SG/3PL.SUBJ=ある.SG | 3= 「猫が沢山いる」 }} また、他動詞の場合は主語ではなく、目的語に一致するのが一般的である<ref name="ghgs1936"/><ref name="sato2008"/>。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= cape ku=rayke. | 1= cape ku=∅=rayke | 2= 猫 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.SG | 3= 「私は猫を一匹殺した」 }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= cape ku=ronnu. | 1= cape ku=∅=ronnu | 2= 猫 1SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=殺す.PL | 3= 「私は猫を何匹か殺した」 }} === 人称変化 === アイヌ語の動詞や名詞は、[[人称]]によって変化することがある。 アイヌ語では代名詞があまり用いられず、[[ラテン語]]や[[古典ギリシア語]]同様、用いられる場合は、特別な意味(強調や限定)を表す。その代わりに、動詞にくっつく[[接語]]である人称接辞によって主語や代名詞を表示する。沙流方言の人称接辞は以下の通りである。 {| class="wikitable" |+ 沙流方言の人称表現<ref name="tmr1971">{{Cite journal|和書|author=田村 すヾ子|journal=言語研究|title=アイヌ語沙流方言の人称代名詞|volume=1971| issue=59|pages=1–14|date= 1971|doi=10.11435/gengo1939.1971.59_1}}</ref> |- ! colspan=2, rowspan=2 | 人称 ! rowspan=2 | 代名詞 ! colspan=3 | 接辞 |- ! 主格 !! 目的格 |- ! rowspan=3 | 一人称 ! 単数 | kani || ku= || en= |- ! 除外複数 | coka || ci= / =as || un= |- ! 包括複数 | aoka || a= / =an || i= |- ! rowspan=4 | 二人称 ! 単数 | eani || e= || e= |- ! 複数 | ecioka || eci= || eci= |- ! 敬称単数 | aoka  || a= / =an || i= |- ! 敬称複数 | aoka / utar / utaroka || a= / =an || i= |- ! rowspan=2 | 三人称 ! 単数 | sinuma || ∅= || ∅= |- ! 複数 | oka || ∅= || ∅= |- ! rowspan=2 | 不定人称 ! 単数 | asinuma || a= / =an || i= |- ! 複数 | aoka || a= / =an || i= |} また、命令法を除いて、人称接辞は常に必要とされる(三人称は[[標識_(言語学)|無標]]であるが文法的にその[[ゼロ_(言語学)|ゼロ]]接辞によって動詞の[[結合価]]が充填される)。特殊な四人称も存在し、一人称の[[除括性|包括]]複数、二人称の敬称単複数、[[話者指示性|話者指示的]]人称(引用文での話者を指す一人称)、不定人称など多様な意味を持つ。 また、以下の表のように、自動詞と他動詞では主語の活用が異なる。また、目的語も人称接辞によって表されるため、下の表のように、無標の三人称が「それ」と翻訳されている。 {| class="wikitable" |+ 自動詞''ipe''「ものを食べる;食事する」の活用 |- ! 人称 ! 単数形 !! 複数形 |- ! 一人称 | ku=ipe 「私が食べる」 || ipe=as 「私たちが食べる」 |- ! 二人称 | e=ipe 「君が食べる」 || eci=ipe 「君たちが食べる」 |- ! 三人称 | ipe 「彼が食べる」 || ipe 「彼らが食べる」 |- ! 不定称 | ipe=an 「人が食べる」 || ipe=an 「人たちが食べる」 |} {| class="wikitable" |+ 他動詞''e''「~を食べる」の活用 |- ! 人称 ! 単数形 !! 複数形 |- ! 一人称 | ku=e 「私がそれを食べる」 || ci=e 「私たちがそれを食べる」 |- ! 二人称 | e=e 「君がそれを食べる」 || eci=e 「君たちがそれを食べる」 |- ! 三人称 | e 「彼がそれを食べる」 || e 「彼らがそれを食べる」 |- ! 不定称 | a=e 「人がそれを食べる」 || a=e 「人たちがそれを食べる」 |} アイヌ語の人称変化は名詞の所属形にも行われる。 === 極性表現 === アイヌ語の[[極性_(言語学)|極性]]表現について、否定に関しては[[朝鮮語]]同様、否定副詞を動詞の前に置くことでによっても表されるが、[[日本語]]のように限定副助詞''{{lang|ain|ka}}''「も」に助動詞''{{lang|ain|ki}}''「~する」を用いた複合構文によっても表される<ref name="ykkw2017"/>。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= somo ku=ytak. | 2= NEG.ADV 1SG.SUBJ=話す.VI | 3= 「私は喋っていない。」 }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= nep aynu ka somo ne. | 2= どの.INTERR 人 も.PTCL NEG である.COP | 3= 「私は人間ではない」(直訳:どの人間でもない) }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= ku=ytak ka somo ki. | 2= SG.SUBJ=話す.VI も.PTCL NEG.ADV する | 3= 「私は喋っていない。」(直訳:私は喋りもしない) }} また、[[日本語]]、[[琉球語]]、[[朝鮮語]]等と同様(それ以上に)、特定な意味を表すものには否定助動詞や否定動詞を用いる<ref name="ykkw2017"/>。否定動詞や否定助動詞には、例えば''{{lang|ain|eaykap}}''「(能力により)できない」、''{{lang|ain|koyaykus}}''「(都合により)できない」''{{lang|ain|erampewtek}}''「(知識として)わからない」、''{{lang|ain|eramiskari/eramuskari}}''「(経験として)知らない」、''{{lang|ain|isam}}''「無い」、''{{lang|ain|sak}}''「持っていない」、''{{lang|ain|omuken}}''「不漁だ」、''{{lang|ain|turaynu}}''「見つからない」などがある。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= ku=ytak eaykap. | 2= SG.SUBJ=話す.VI できない | 3= 「私は喋れない。」 }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= ku=erampewtek. | 1= ku=∅=erampewtek. | 2= SG.SUBJ=3SG/3PL.OBJ=知らない.VT | 3= 「私はそれについて知らない。」 }} 禁止表現(否定命令)には、副詞''{{lang|ain|iteki}}''(沙流・千歳方言)や''{{lang|ain|eciki}}''(旭川方言)。肯定の命令法同様、例外的に人称接辞を取らない<ref name="ysnm2023">{{Cite journal|和書 | title=アイヌ語の否定表現 : 類型論的観点から | author=ヌルミ, ユッシ | journal=アイヌ・先住民研究 | volume=3 | pages=83-115 | date=2023-03-01 | doi=10.14943/Jais.3.083 | url=http://hdl.handle.net/2115/88323 }}</ref>。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= iteki arpa! | 2= NEG 行く.IMP | 3= 「行かないで!」 }} === 項構造 === アイヌ語では動詞の[[結合価]]が重要な役割を果たしており、「項スロット」と呼ばれる構造によって動詞の結合価が操作される<ref name="sato2023">{{Cite journal|和書|title=アイヌ語の動詞の結合価と3項動詞|author=佐藤知己|journal=北方人文研究|volume=16|pages=37-64|year=2023|hdl=http://hdl.handle.net/2115/88711}}</ref>。アイヌ語の動詞は0項動詞([[完全動詞]])、1項動詞([[自動詞]])、2項動詞([[他動詞]])、3項動詞([[複他動詞]])と分類される<ref>{{Cite journal|和書|title=自動性・他動性とアイヌ語の動詞|author=中川裕|year=2001|series=千葉大学社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書| journal=ユーラシア諸言語の動詞論 (1)|volume=58}}</ref>。個々の動詞に対して、項スロットは厳格に固定され、殆ど変動や両用することはなく、多くの言語における意味や統語的な結合価とは異なっている<ref name="sato2023"/>。 様々な接辞によって、動詞の結合価が上がったり、下がったりする<ref name="kbys2015">{{Cite thesis|和書|author=小林美紀|title=アイヌ語動詞の結合価と項構造|degree=博士|publisher=千葉大学大学院|year=2015}}</ref>。例えば、後述の充当態接辞によって動詞に[[斜格]]を目的語として追加し、結合価をあげることができる。また、再帰接頭辞の''{{lang|ain|yay-}}''などによって項スロットが充填され、結合価が下がる。動詞に人称を付与することでも項スロットを充填することができる。 === 名詞抱合 === アイヌ語で名詞の抱合がよく行われ、他動詞に目的語が抱合されると、他動詞から自動詞になり、それ相応の人称表現が付けられる。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= cep ku=koyki. | 2= 魚 1SG.SUBJ=攻撃する.VT | 3= 「私は魚を獲る。」 }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= ku=cepkoyki. | 2= 1SG.SUBJ=魚を獲る.VI | 3= 「私は魚捕りをする。」 }} === 充当態 === アイヌ語には動詞の結合価を上昇させる[[充当態]]接頭辞[[wikt:e-#アイヌ語|''e-'']]([[具格]]、「~で」)、[[wikt:e-#アイヌ語|''o-'']]([[処格]]、「~で」)及び[[wikt:ko-#アイヌ語|''ko-'']]([[与格]]、「~に」)の存在が報告されている。<ref>{{Cite journal|last=Bugaeva|first=Anna|journal=Studies in Language|title=Ainu applicatives in typological perspective|volume=34|pages=749–801|year=2010|month=December|day=31|doi=10.1075/sl.34.4.01bug}}</ref>以下の例において、本来は1価しか持たない(主語のみで充足し、目的語を持てない)自動詞[[wikt:itak#アイヌ語|''itak'']]に、与格充当接頭辞の''[[wikt:ko-#アイヌ語|ko-]]''が付くと、2価を持つ(主語と目的語両方があって初めて充足する)他動詞[[wikt:koytak#アイヌ語|''koytak'']]となり、目的格人称接辞を取ることができるようになる。 {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | 1= ku=ytak. | 2= 1SG.SUBJ=話す.VI | 3= 「私は喋っている。」 }} {{interlinear|lang=ain|indent=3|glossing=link | top= hekaci ku=koytak. | 1= hekaci ku=∅=ko-ytak. | 2= 男の子 1SG.SUBJ=3SG.ACC=APL.DAT-話す.VT | 3= 「私は男の子と喋っている。」 }} == 方言 == [[File:Ainu map-ja.svg|300px|thumb|かつてのアイヌ語の分布<ref>{{Cite web|和書|url=https://www2.ninjal.ac.jp/ael/files/resume/4_2_FukazawaMika.pdf|title=Hokkaido Ainu Dialects: Variation from the Perspective of the Geographical Distribution of Vocabulary|accessdate=16.05.2021|publisher=Mika FUKAZAWA Preparatory Office for National Ainu Museum (The foundation for Ainu culture)}}</ref>]] アイヌ語の方言は大きく北海道、千島、樺太に分けられる。 * [[北海道アイヌ語]] * [[千島アイヌ語]] * [[樺太アイヌ語]] 東北北部にも18世紀まで[[本州アイヌ]]が居住していたが、彼らの方言については詳らかでない。中世以前の[[蝦夷]]がアイヌ語を話していたとする説もある。 === 概要 === アイヌは[[コタン]]毎に生活をしており、コタンは主に川筋か海岸線に沿って分布したため、川筋ごとに方言が少しずつ異なる場合が多く、また海岸部と内陸部でも差異が見られた。 かつて大きくは[[北海道アイヌ語|北海道]]・[[千島アイヌ語|千島]](北千島)・[[樺太アイヌ語|樺太]](南樺太)の三方言があった。北海道方言は、さらに北東部方言と南西部方言の二つに分類したり、もっと細かく分類されることもあるが、方言間の詳細な比較研究が進んでいないため定説はない。千島方言は[[千島樺太交換条約|日本の千島領有]]以後急速に廃れ、[[第二次世界大戦]]後には既に話者が見つからなかったとされる。樺太方言は1994年に最後の話者とされる[[浅井タケ]]が亡くなった。北海道内でも和人の移住が早くから進んだ[[渡島国|渡島地方]]や[[石狩川]]下流域などの方言は記録がほとんど残っていない。日本海側やオホーツク海側の方言の記録もほとんどない<ref name="北原2011"/><ref name="okta2013"/>。 先述のとおり、アイヌ語には標準語・中央語に相当する言語変種は存在しないが、話者数(第二言語として習得した者を含む)の大小や、辞書や研究文献の多寡によるアクセスの難易には方言差があり、そうした点では[[沙流郡|沙流]]方言や[[千歳郡|千歳]]方言は他の方言よりも比較的優位である。 === 下位区分 === ''括弧内は使用地域。話者、教材を後述。'' * [[北海道アイヌ語]] ** 北海道南西部方言 *** 八雲方言([[八雲町]]。旧[[熊石町]]域は除く) *** 長万部方言([[長万部町]]) *** 余市方言([[余市町]]) *** 幌別方言([[登別市]]) - <!-- [[知里真志保]] 母語話者ではない -->[[知里幸恵]]『[[アイヌ神謡集]]』、[[金成マツ]]『アイヌ叙事詩ユーカラ集』 *** 白老方言([[白老町]]) *** 千歳方言([[千歳市]]) - [[中川裕 (アイヌ語研究者)|中川裕]]・[[中本ムツ子]]『エクスプレス・アイヌ語』、中川裕『アイヌ語千歳方言辞典』、[[佐藤知己]]『アイヌ語文法の基礎』 *** [[鵡川]]方言(旧[[鵡川町]]) *** 沙流方言 ([[沙流川]]流域) - [[田村すゞ子]]『アイヌ語沙流方言辞典』、[[萱野茂]]『萱野茂のアイヌ語辞典』、他多数。他のどの方言よりも記録の質・量ともに充実している。 *** 新冠方言([[新冠町]]) ** 北海道北東部方言 *** 静内方言(旧[[静内町]]) - [[奥田統己]]『アイヌ語静内方言文脈つき語彙集(CD-ROMつき)』、ユカラやウェペケレの伝承者としては、織田ステノ・[[虎尾ハルシア]]など。 *** 浦河方言([[浦河町]]) *** 様似方言([[様似町]]) *** 十勝方言([[十勝支庁]]) - [[本別町]]教育委員会『[[澤井トメノ]]十勝本別アイヌ語分類辞典』 *** 釧路方言([[釧路支庁]]) - 『アイヌ語釧路方言語彙』、[[山本多助]]、貫塩喜蔵 *** 阿寒方言([[阿寒町]]) *** 根室方言([[根室支庁]]) *** 北見方言([[網走支庁]]) *** 石狩方言([[旭川市]]など) - 砂沢クラ、杉村キナラブック、杉村フサ、石山キツエ *** 天塩方言 ([[名寄市]]など) *** 宗谷方言([[稚内市]]) * [[樺太アイヌ語]] ** 西海岸方言 - 藤山ハル、浅井タケ、[[村崎恭子]]『カラフトアイヌ語』 ** 東海岸方言 - [[山辺安之助]]『あいぬ物語』 ** タライカ方言(旧[[敷香町]]) - 樺太の他地域のアイヌ語と著しく異なっていた。 * [[千島アイヌ語]](旧[[新知郡]]以北の[[千島列島]]。[[択捉島]]以南は北海道アイヌ語の一種) - [[村山七郎]]『北千島アイヌ語』 == 文字 == === 歴史 === アイヌ民族はかつて文字の文化がなく<ref name="okta2013">{{Cite journal|author=大喜多紀明|year=2013|title=樺太アイヌの「トゥイタㇵ」に見出される交差対句|journal=年報人類学研究|issue=3|publisher=南山大学人類学研究所}}</ref>、20世紀以前にアイヌ自身がアイヌ語の文章を記したテキスト(筆録資料)は見つかっていない<ref name="sato2008"/>。 それ以前に和人や西洋人による少数の不完全な記録が散見される。日本側で記録された最古の語彙記録は17世紀初頭『松前ノ言』である<ref name="sato2008"/>。ヨーロッパ人による最古の記録は、1618年と1621年に松前藩に訪れたイタリアのイエズス会士[[ジロラモ・デ・アンゼリス]]によるものである<ref name="sato2008"/>。 アイヌ民族による文字記録は、20世紀から広まっている。その典型例は言語学者の[[金田一京助]]の元で、[[知里幸恵]]が1920年から1922年に編纂された『[[アイヌ神謡集]]』(郷土研究社より翌年の[[大正12年]]出版)である<ref name="okta2013"/>。また、その叔母や養母に当たる[[金成マツ]]による[[アイヌ文学]]に関する約2万ページの大学ノートの記録もある。いずれもローマ字によって書かれている。 === 近年の試み === 近年は[[アイヌタイムズ]]を例として、カタカナやラテン文字、キリル文字による文章化の試みが浸透しつつある。 先述のとおり、アイヌ語には規範となる共通語がなく、アイヌ語を文字で書き表す際の規範的・統一的な形式・体系([[正書法]])も存在しない。しかし、それに準ずる試みはあり、[[北海道ウタリ協会]]が編集したアイヌ語テキスト『{{lang|ain-Kana|アコ{{smaller|ロ}} イタ{{smaller|ク}}}}』が出版されて以降は、同書で範示されている文章表記に基づいて、各方言の文章化が多くなされている。 言語学者や日本国外の学習者などを除き、カタカナ表記に慣れ親しんでいる人が多い現代日本では、ローマ字よりもカタカナによるアイヌ語表記が好まれる場合が多い。ただし、通常のカタカナだけでは、音節末の子音など日本語(標準語)にない発音を書き表せないため、小書きや半濁点を応用した特殊な文字が必要となり、ワープロ入力などで手間がかかるという問題がある。 === 文字(カナ表記) === アイヌ語の仮名による統一された正書法が存在するわけではないが、各方式が大きく異なるわけではない。日本語にない音を表記するために、いくつかの専用の文字を使用する。 * 「ca・cu・ce・co・ye・we・wo」などは日本語と同様に「チャ・チュ・チェ・チョ・イェ・ウェ・ウォ」と表記する。 * {{lang|ain-Latn|tu}} は、「トゥ」、または「ト」に半濁点がついた「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|ト゚}}}}」([[ト゜]])、あるいは「ツ」に半濁点がついた「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|ツ゚}}}}」([[ツ゜]])(括弧内は代用表記)で表記される。 * 音節末の {{lang|ain-Latn|t}}、{{lang|ain-Latn|k}}、{{lang|ain-Latn|p}}、{{lang|ain-Latn|m}}、{{lang|ain-Latn|n}} はそれぞれ、「{{lang|ain-Kana|ッ}}」、「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きク|ㇰ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|ク}}}})、「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きプ|ㇷ゚]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|プ}}}})、「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きム|ㇺ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|ム}}}})、「ン」(括弧内は代用表記)で表記される。 * 音節末の {{lang|ain-Latn|s}} は多くの場合「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|ㇱ}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|シ}}}})と表記するが、発音の状態によって「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きス|ㇲ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|ス}}}})と表記される。 * 音節末の {{lang|ain-Latn|r}} は直前の母音に則した書き分けをし、それぞれ「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きラ|ㇻ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|ラ}}}})、「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きリ|ㇼ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|リ}}}})、「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きル|ㇽ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|ル}}}})、「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きレ|ㇾ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|レ}}}})、「{{lang|ain-Kana|{{JIS2004フォント|[[小書きロ|ㇿ]]}}}}」({{lang|ain-Kana|{{smaller|ロ}}}})(括弧内は代用表記)で表記される。 * 単語は分かち書きする。人称接辞は等号「=」ないし中黒「・」で区切って書かれることがある。それ以外の記号は日本語と同じつかい方をする。 2000年1月に[[日本産業規格|JIS規格]]として[[JIS X 0213|JIS第三水準漢字(記号類を含む)・JIS第四水準漢字]]が新規に制定され、このうちのJIS第三水準漢字に'''[[アイヌ語仮名|アイヌ語カナ]]'''表記用の[[拡張カタカナ]](日本語の文章に通常使用される範囲外での小文字カタカナや半濁音付きカタカナ)も含まれている。 [[ISO規格]]に採り入れられている {{lang|en|Unicode}} では、2002年3月に改定された {{lang|en|[[Unicode]]}} 3.2 から [[JIS X 0213|{{lang|en|JIS}} X 0213]] に追随する形でアイヌ語カナ表記用の拡張カタカナ ([[片仮名音声拡張|Katakana Phonetic Extensions]]) が追加されており、同規格に対応したソフトウェアでアイヌ語カナ表記が扱える枠組みが整えられた。ただし、一部の文字は合成を用いないと表現できない {{lang|en|Unicode}} 特有の問題があり、ソフトウェアによっては表示が劣化する場合がある。 *アイヌ語カナ表記用の拡張カタカナ({{lang|en|Unicode}} 3.2準拠) :代用表記に関しては、小文字カタカナは通常サイズのカタカナの縮小表示、半濁音は通常の全角半濁音記号を付与。 {|class="wikitable" style="font-family:'ヒラギノ角ゴ ProN W3','ヒラギノ角ゴ ProN','Hiragino Kaku Gothic ProN','メイリオ',Meiryo,'新ゴ Pr6N R','A-OTF 新ゴ Pr6N R','小塚ゴシック Pr6N M','IPAexゴシック','Takaoゴシック','XANO明朝U32','XANO明朝','和田研中丸ゴシック2004絵文字','和田研中丸ゴシック2004ARIB','和田研中丸ゴシック2004P4','和田研細丸ゴシック2004絵文字','和田研細丸ゴシック2004ARIB','和田研細丸ゴシック2004P4','和田研細丸ゴシックProN',YOzFont04,'IPA Pゴシック',MS Pゴシック';" !文字!!代用表記!!!!文字!!代用表記!!!!文字!!代用表記!!!!文字!!代用表記 |- |{{lang|ain-Kana|[[小書きク|&#12784;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ク}}}}||rowspan="5"| ||{{lang|ain-Kana|[[小書きハ|&#12789;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ハ}}}}||rowspan="5"| ||{{lang|ain-Kana|[[小書きラ|&#12795;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ラ}}}}||rowspan="5"| ||{{lang|ain-Kana|[[小書きム|&#12794;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ム}}}} |- |{{lang|ain-Kana|[[小書きシ|&#12785;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|シ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きヒ|&#12790;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ヒ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きリ|&#12796;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|リ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きプ|&#12791;&#12442;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|プ}}}} |- |{{lang|ain-Kana|[[小書きス|&#12786;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ス}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きフ|&#12791;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|フ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きル|&#12797;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ル}}}}||{{lang|ain-Kana|[[セ゜|セ&#12442;]]}}||{{lang|ain-Kana|セ゜}} |- |{{lang|ain-Kana|[[小書きト|&#12787;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ト}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きヘ|&#12792;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ヘ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きレ|&#12798;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|レ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[ツ゜|ツ&#12442;]]}}||{{lang|ain-Kana|ツ゜}} |- |{{lang|ain-Kana|[[小書きヌ|&#12788;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ヌ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きホ|&#12793;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ホ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[小書きロ|&#12799;]]}}||{{lang|ain-Kana|{{smaller|ロ}}}}||{{lang|ain-Kana|[[ト゜|ト&#12442;]]}}||{{lang|ain-Kana|ト゜}} |} {{See also|JIS X 0213非漢字一覧#1面5区}} パソコンでアイヌ語カナ表記(Unicode 3.2準拠)を扱う場合、 *{{lang|en|[[Macintosh]]}} では、2001年の {{lang|en|[[Mac OS X 10.1]] Puma}} 以降での[[オペレーティングシステム|OS]]標準[[フォント]]はアイヌ語カナ表記用の拡張カタカナにも対応している他、2003年の {{lang|en|[[Mac OS X 10.3]] Panther}} 以降でのOS標準[[インプットメソッド|文字入力システム]]の[[ことえり]]4からはアイヌ語入力モードも採用された。 *{{lang|en|[[Microsoft Windows|Windows]]}}では、2007年の{{lang|en|[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]}}以降のOS標準フォントはアイヌ語カナ表記用の拡張カタカナにも対応しており、2001年の{{lang|en|[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]}}と2003年の{{lang|en|[[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]]}}については標準では対応しないものの対応版フォントを無償でダウンロードできる。([http://support.microsoft.com/kb/927489/ja {{lang|en|JIS}}2004対応フォント(KB927489)]) **2008年現在 {{lang|en|Windows}} の標準状態ではアイヌ語カナ表記[[IME|入力機能]]を備えていないものの、カナ表記入力を可能にするためのユーティリティなどが有志により作成公開されており<ref>{{Cite web|和書|url=http://hp.vector.co.jp/authors/VA038316/|title=ROM作成物サポートページ - ainu_exchange|accessdate=2007年9月29日 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://ha1.seikyou.ne.jp/home/akairingosaita/typing/test2-23.htm|title=アイヌ語入力-試作品その3|accessdate=2007年9月29日 }}</ref>、アイヌ語カナ表記用の拡張カタカナにも対応する商用フォントや[[フリーフォント]]も増えつつある。 ***{{smaller|(対応フォント一覧は {{lang|en|ainu_exchange}}<ref>[http://hp.vector.co.jp/authors/VA038316/ {{lang|en|ROM}}作成物サポートページ]</ref> の取扱説明書内で記述されている)}} === 文字(ローマ字表記) === 「発音」の節を参照。アクセント表記には[[アキュート・アクセント]]付きラテン文字の「{{Unicode|á}}」「{{Unicode|í}}」「{{Unicode|ú}}」「{{Unicode|é}}」「{{Unicode|ó}}」を使用する。通常アクセントを省略して例外アクセントのみ表記したり、全てのアクセントを省略してアルファベットのみで表記したりすることもある。 ローマ字表記のまとまった文献としては、1897年に[[ジョン・バチェラー]]が完成した『[[アイヌ語訳聖書]]』([[新約聖書]])がある<ref>[https://www.bible.or.jp/contents/library/lib03_24.html ジョン・バチェラー訳 アイヌ語新約聖書(H19.5cm W13cm/横浜 1897年刊)]</ref>。 == 文芸 == {{seealso|アイヌ文学}} アイヌ語で文字使用が試みられる以前のアイヌの文学は全て口承のもので、民話・神話には非常に富んでいる<ref name="okta2013"/>。アイヌ語の[[叙事詩]]は{{lang|ain-Kana|[[ユーカラ|ユカ{{smaller|ラ}}]]}}または{{lang|ain-Kana|[[ユーカラ|ユーカ{{smaller|ラ}}]]}}と呼ばれる。{{lang|ain-Kana|ユーカ{{smaller|ラ}}}}の内容は、動物の神があらわれて体験を語るものや、人間の世界の恋愛や戦いを歌うものなど多様である。叙事詩のほかに、いわゆる昔話のような散文による伝承文学もある。 == 語彙 == {{wiktionary|Category:アイヌ語|アイヌ語の語彙}} {{see|アイヌ語の語彙一覧}} {{anchors|アイヌ語由来の地名}} == アイヌ語に起源を持つと推測されている地名 == {{No footnotes|date=2021年7月}} [[ファイル:1880s Meiji Japanese Folding Map of Japan - Geographicus - Japan-meiji-1880.jpg|サムネイル|[[明治]]時代の[[日本地図]]。[[北海道]]の土地の名前の多くは、アイヌ語を[[片仮名|カタカナ]]で表記している。]] 北海道島には、アイヌ語由来の日本語地名が多い。大別して、 # アイヌ語の発音を写し取ってカタカナで表記するものと、 # それに漢字をあてたものがある。漢字の読みにうまく当てはまらない地名も多く、 # 漢字にあわせて元の読みを変更してしまったものや、 # アイヌ語の語義をそのまま日本語名にあてた(意訳)ものもある。 {|class=wikitable !型!!アイヌ語での地名!!変化!!日本語での地名 |- |(1)||{{lang|ain-Kana|ニセイ・コ・アン・ペッ}}||短縮・省略してカナ文字で表記。||[[ニセコ]] |- |(2)||{{lang|ain-Kana|サッ・ポロ・ペッ}}||「ペッ」が脱落し、残りの部分に漢字をあてた。||{{読み仮名|[[札幌市|札幌]]|さっぽろ}} |- |(3)||{{lang|ain-Kana|チキサㇷ゚}}||→ツキサップ→ツキサム||{{読み仮名|[[月寒]]|つきさむ}} |- |(4)||{{lang|ain-Kana|タンネトー}}||「細長い沼」という意味を日本語訳。||{{読み仮名|[[長沼町|長沼]]|ながぬま}} |- |(5)||{{lang|ain-Kana|オッカイ・タㇺ・チャラパ}}||→オカタマ→オカダマ||{{読み仮名|[[丘珠町|丘珠]]|おかだま}} |} 日本の[[本州|本州島]]以南にも、アイヌ語を起源とする[[地名]]が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説がある。本州以南のアイヌ語地名については、[[山田秀三]]をはじめ、[[在野]]の[[地名研究家]]によって研究が進められてきた。山田らによれば仙台付近以北(太平洋側)・秋田県以北(日本海側)には明らかにアイヌ語と解釈できる地名が分布し、この地域については[[続縄文文化]]の後北式土器の分布と重なるとの指摘もある<ref>新谷正隆:西木村のアイヌ語地名、秋田地名研究年報20(2004)19-27.]</ref>。しかし、これより以南については根拠が乏しい。 <!-- 一例としてこれらの地名で「……内」「……別」が語尾につくもの([[幌加内町|幌加内]]、[[岩内町|岩内]]、[[登別市|登別]]、[[江別市|江別]]など)はそれぞれアイヌ語の意味で沢または川がその近隣に存在しているところから由来する。 --> === 北海道島の地名 === {{see|北海道の地名・駅名#アイヌ語に由来するもの}} === 本州島の地名 === 本州島の地名については、主に[[東北地方]]・[[北陸地方]]を中心に特有な発音の地名があり、これはアイヌ語が起源、あるいは(狭義の)アイヌ語と祖先を同じにする(「アイヌ語族」「[[縄文人]]の言語」と表現する人もいる)、という説が存在する。これらの地名は、北海道島の地名と語源を同じくするものも多い。 {{div col||15em}} *[[長内]]<ref>[http://www.jomon.com/~emisi/material/19_2008.9/sugawara-3/osanai.htm 久慈市周辺のアィヌ語系地名] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110713115625/http://www.jomon.com/~emisi/material/19_2008.9/sugawara-3/osanai.htm |date=2011年7月13日 }}</ref> *[[折壁]] *[[鬼壁]](おにかべ) *[[折戸]](おりと) *[[釜谷]]、[[釜屋]]、[[蒲谷]]、[[鎌谷]](かまや) *[[目名]]、[[目名川]] *~[[岱]]/台 *[[黒部川|黒部]](くろべ) *[[砺波平野|砺波]](となみ) *阿別当(あべっとう) *大勘場(たいかんば) *~平({{lang|ain-Latn|たい}}、{{lang|ain-Latn|tay}}、「森」) *~内({{lang|ain-Latn|ない}}、{{lang|ain-Latn|-nay}}、「川」) *〜米(まい, {{lang|ain-Latn|oma-i}}、「ある-所」) *〜石(いし, {{lang|ain-Latn|us-i}}、「ある-所」) {{div col end}} ; タㇷ゚コㇷ゚(tapkop、丘) : タㇷ゚コㇷ゚は内破音を聴き分けるのが難しい日本語話者にとっては「タッ・コッ」のように聞こえる音である。 : 田子(たっこ、青森県)、達古袋(たっこたい、岩手県)、達子森(たっこもり、秋田県)、達居森(たっこもり、宮城県)。<!--、福島県の立子山(たつごやま)、竜子山(たつごやま)---> ; トイオマナイ(toy-oma-nay、土-ある-沢) : 豊間内(とよまない、青森県)、豊間根(とよまね、岩手県)、登米(とよま、宮城県)、登米沢(とよまざわ、宮城県)。 ; ホㇿカナイ(horka-nay、逆戻りする-川) : 江戸初期以前の日本語ではh音がなかったため、いずれも母音始まりで音写されている。 : 居ケ内(おりかない、青森県)、折壁(おりかべ、岩手県)、折ケ内(おりかない、秋田県)。 ==== 青森県 ==== {{div col||10em}} *[[相内]](あいない) *[[浅瀬石]](あせいし) *[[赤保内]](あかぼない) *[[荒熊内]](あらくまない) *[[今別]](いまべつ) *[[兎内]](うさぎない、とない) *[[宇鉄]](うてつ) *[[老部 (曖昧さ回避)|老部]](おいっぺ) *[[大深内]](おおふかない) *[[大別内]](おおべつない) *[[奥内]](おくない) *[[大沢内]](おおざわない、おおさわない) *[[奥 (曖昧さ回避)|奥戸]](おこっぺ) *[[遅毛内]](おそけない) *[[尾太]](おっぷ) *[[尾別]](おっぺつ) *[[折腰内]](おりこしない) *[[影津内]](かげつない) *[[蟹田]](かにた) *[[木内内]](きないない) *[[木野部]](きのっぷ) *[[切谷内]](きりやない) *[[笹内]] *[[佐羽内]](さばない) *[[小比内]](さんぴない) *[[三内丸山遺跡|三内]](さんない) *[[獅々内]] *[[下風呂]](しもふろ) *[[尻労]](しつかり) *[[車力村|車力]](しゃりき) *[[瀬辺地]](せべち、せへじ) *[[千厩]](せんまや) *[[田子町|田子]](たっこ) *[[竜飛]]([[龍飛]]、たっぴ) *[[田光]](たっぴ) *[[蓼内]](たでない、たてない) *[[鳥舌内]](ちょうしたない) *[[十腰内]](とこしない) *[[十枝内]](としない) *[[飛内]](とびない) *[[苫米地]](とまべち) *[[豊間内]](とよまない) *[[十和田]](とわだ) *[[入内]](にゅうない)<ref>[http://d.hatena.ne.jp/bluesapphire/200704 (入内地区について)]</ref> *撫牛子(ないじょうし) *長牛(なこうし) *[[野辺地町|野辺地]](のべち、のへじ) *[[野内]](のない) *[[原別]](はらべつ) *[[平内町|平内]](ひらない) *[[戸来村|戸来]](へらい) *[[洞内]](ほらない) *[[三厩]](みんまや) *[[目内]](めない) *[[類家 (曖昧さ回避)|類家]](るいけ)<ref>[http://www.town.takko.aomori.jp/000000so3002011301.htm 田子町プロフィール]{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref> {{div col end}} ==== 岩手県 ==== {{div col||10em}} *[[相去]](あいさり) *[[浅内]](あさない) *[[安家洞|安家]](あっか) *[[安比]](あっぴ) *[[安庭]](あにわ) *[[宇霊羅]](うれいら) *嬉石(うれいし) *[[伊保内]] *[[江刺]](えさし) *[[江釣子村|江釣子]](えづりこ) *[[越喜来]](おっきらい) *[[オショウナイ]]沢 *[[女遊部]](おなつぺ・おなっぺ、[[釜石市]]) *[[女遊戸]](おなつぺ、[[宮古市]]) *[[釜石]](かまいし) *[[上米内]](かみよない) *軽米(かるまい) *[[金田一]](きんだいち) *[[吉里吉里駅|吉里吉里]](きりきり) *[[久慈市|久慈]](くじ) *[[気仙沼市|気仙]](けせん) *[[夏油]](げとう) *[[花露辺]](けろべ) *[[佐比内]](さっぴない) *[[死骨崎]](しこつざき *[[唐丹町]]) *世田米(せたまい) *[[タイマグラ]] *[[達谷]](たっこく) *[[立根]](たっこん) *[[束稲山]](たばしね<ref>[http://www.st.rim.or.jp/~success/oh/ainu61-68.html アイヌ語地名考]</ref>) *附馬牛(つきもうし) *[[土淵]](つちぶち) *[[唐丹]](とうに) *[[遠野]](とおの) *[[泊里]](とまり) *[[西根町|西根]](にしね) *[[似田貝]](にたがい) *似鳥(にたとり) *[[似内]](にたない) *[[沼宮内]](ぬまくない) *[[日頃市]](ひころいち) *[[平泉]](ひらいずみ{{efn2|「ひら-(平、比良)」を平らではなく pira "崖"と解釈する方法。ただし、広(ひろ)、拓/墾(ひら)く、などと同語根であることにも留意}}) *[[馬渕]](まべち、まぶち) *[[目屋]] *[[綾里駅|綾里]](りょうり) *[[和井内]](わいない) {{div col end}} ==== 秋田県 ==== {{div col||10em}} *浅舞(あさまい) *[[浅見内]](あさみない)川 *[[阿仁]](あに) *[[阿仁合]](あにあい) *[[天内]](あまない) *[[板見内]](いたみない) *打当内(うっとない) *[[笑内駅|笑内]](おかしない) *小猿部川(おさるべ) *[[生保内]](おぼない) *木在(きさら) *[[毛馬内]](けまない) *[[斉内川]](さいない) *狙半内川(さるはんない) *[[鹿内]](しかない) *[[下山内]](しも-さんない) *[[岱野駅|岱野]](たいの、[[大館市]]) *[[田子内]](たごない) *[[辰子潟]](たつこがた、田沢湖) *[[達子森]](たっこもり) *床舞(とこまい) *[[土目内]](どめね) *[[十和田]](とわだ) *[[西馬音内]](にしもない) *[[仁別]](にべつ) *[[能代]](のしろ) *[[羽見内]](はみない) *[[比立内]](ひたちない) *[[比内]](ひない) *[[桧木内]](ひのきない) *[[堀見内]](ほりみない) *[[マンタラメ]] *[[役内]](やくない) *[[鑓見内]](やりみない) *[[米内]](よない) *余路米(よろまい) {{div col end}} ==== 宮城県 ==== {{div col||10em}} *伊里前(いさとまえ) *[[歌津町|歌津]](うたつ) *狼の巣(おいのす) *猿飛来(さっぴらい) *尿前(しとまえ) *志戸前(しとまえ) *[[達居森]](たっこもり) *[[登米]](とよま) *[[鳴子町|保呂内]](ほろない) *余路前(よろまえ) {{div col end}} ==== 山形県 ==== *伏熊(ふしくま) *[[尾花沢市|尾花沢]](おばなざわ) *[[遊佐町|遊佐]](ゆざ) ==== 福島県 ==== *[[豊間町|豊間]](とよま) ==== 新潟県 ==== *[[五十嵐川|五十嵐]](いからし)<ref>『東北・アイヌ語地名の研究』pp171-178. [[山田秀三]]、[[1993年]]、草風館</ref> ==== 長野県 ==== *[[千曲川]](ちうま)<ref>{{Cite journal|和書|author=木村圭一 |year=1954 |url=https://doi.org/10.5190/tga1948.6.78 |title=アイヌ地名から見た古代日本の鮭の分布 |journal=東北地理 |ISSN=0387-2777 |publisher=東北地理学会 |volume=6 |issue=3 |pages=78-85 |doi=10.5190/tga1948.6.78 |naid=130001071781 |CRID=1390001205146700800}}</ref><ref>都竹通年雄「巻十四の「中麻奈」、萬葉学会刊『萬葉』1953年10月</ref> == アイヌ語に由来する地名以外の単語 == === 日本語に溶け込んだアイヌ語 === [[wikt:カテゴリ:日本語 アイヌ語由来]]も参照。 {|class=wikitable !日本語!!アイヌ語!!備考 |- | nowrap="nowrap" |[[エトピリカ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|エトゥピㇼカ}}({{lang|ain-Latn|etu pirka}})||嘴・美しい |- | nowrap="nowrap" |[[オットセイ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|オンネㇷ゚}}({{lang|ain-Latn|onnep}})||中国語を経由、オットに変化した後、漢方薬としての陰茎の婉曲表現の臍がつきオットセイとなって入ったものであると言われている。 |- | nowrap="nowrap" |[[ケイマフリ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|ケマフレ}}({{lang|ain-Latn|kema hure}})||足・赤い(熟語 {{lang|ain-Latn|kema-pase}} 足・重い→年老いた) |- | nowrap="nowrap" |[[コマイ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|コマイ}}({{lang|ain-Latn|komay}})<br />{{lang|ain-Kana|カンカイ}}({{lang|ain-Latn|kankay}})|| |- | nowrap="nowrap" |[[シシャモ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|スサㇺ}}({{lang|ain-Latn|susam}})||語源は{{lang|ain-Latn|susu-ham}}「柳の葉」とされる。 |- | nowrap="nowrap" |[[トナカイ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|トゥナカイ}}({{lang|ain-Latn|tunakay}})|| |- | nowrap="nowrap" |[[ノンノ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|ノンノ}}({{lang|ain-Latn|nonno}})||花([[Non-no|ファッション雑誌]]の名称) |- | nowrap="nowrap" |[[ハスカップ]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|ハシカㇷ゚}}({{lang|ain-Latn|haskap}})||語源は {{lang|ain-Latn|has-ka-o-p}} で「枝の上にたくさんなるもの」の意。 |- | nowrap="nowrap" |[[ウバガイ|ホッキ貝]]|| nowrap="nowrap" |{{lang|ain-Kana|ポㇰ}}({{lang|ain-Latn|pok}})<br />{{lang|ain-Kana|セイ}}({{lang|ain-Latn|sey}})|| |- | nowrap="nowrap" |[[ラッコ]]|| nowrap="nowrap" |ラッコ({{lang|ain-Latn|rakko}})|| |- | nowrap="nowrap" |[[ルイベ]]|| nowrap="nowrap" |ルイペ({{lang|ain-Latn|ruype}})||融ける食べ物の意。冷凍保存した魚を解凍しながら食べることにちなむ |} === 学名 === * [[クロンキスト体系]]や[[新エングラー体系]]において存在したオオバヤナギ属{{snamei||Toisusu}}の属名は、アイヌ語に由来する。なお、[[APG分類体系]]においてこの分類群は[[ヤナギ属]]のシノニムとされている。 * 北海道沿岸に生息する[[ヨコエビ]]の一種コイサムヨコエビ{{snamei|| Paramoera koysama}} Kuribayashi & Kyono, 1995の種小名は、「海岸・渚」を意味するアイヌ語である「koysam」に由来する<ref>{{Cite journal| author=Kuribayashi, K.| author2=Kyono, M.| year=1995| title=Two new species of the genus ''Paramoera'' (Amphipoda, Gammaridea) from Hokkaido, Northern Japan, with special reference to their strangely transformed second pleopod| journal=Crustaceana| volume=68| issue=6| pages=759–778| url=https://www.jstor.org/stable/20105125}}</ref>。また、カムイテングヨコエビ{{snamei|| Pleusymtes kamui}} Ishimaru, 1985 の種小名は「神」を意味するアイヌ語に由来する<ref>{{Cite journal| last=Ishimaru| first=S. I.| year=1985| title=Taxonomic Studies of the Family Pleustidae (Crustacea: Amphipoda: Gammaridea) from Coastal Waters of Northern Japan. II. The genus ''Pleusymtes''| journal=Journal of the Faculty of Science, Hokkaido University| Series=6, Zoology| volume=24| issue=1| pages=43-69| url=https://hdl.handle.net/2115/27687}}</ref>。 * 北海道[[むかわ町]]から[[化石]]が産出した[[カムイサウルス]] {{snamei||Kamuysaurus japonicus}} Kobayashi ''et al''., 2019の属名も同じく「神」を意味するアイヌ語に由来する<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.hokudai.ac.jp/news/190906_pr.pdf |title=むかわ竜を新属新種の恐竜として「カムイサウルス・ジャポニクス(''Kamuysaurus japonicus'')」と命名 〜ハドロサウルス科の起源を示唆〜 |publisher=[[北海道大学]]、[[穂別博物館]]、[[筑波大学]] |accessdate=2023-03-08 |date=2019-09-06}}</ref>。 === その他 === * 2004年から2010年まで北海道で開催されていた世界的[[モータースポーツ]]イベント、[[世界ラリー選手権]]のイベントの一つ''[[ラリージャパン]]''及び2001年から開催されている[[アジアパシフィックラリー選手権|アジア・パシフィックラリー選手権]]のイベントの一つ[[ラリー北海道]]において、コース(SS、スペシャルステージ)の名前は、{{lang|ain-Kana|キムンカムイ}}、{{lang|ain-Kana|ヤムワッカ}}など、原則的にアイヌ語で付けられている。 * [[北海道旅客鉄道]](JR北海道)およびその前身である[[日本国有鉄道]]では、道内を走行する一部の優等列車に、アイヌ語またはアイヌ語に由来する地名を用いた列車名を付けている。前者は「[[カムイ (列車) |カムイ]]」「[[ニセコライナー#臨時列車|ワッカ・ヌプリ]]」、後者は「[[おおぞら (列車)|とかち]]」「[[宗谷 (列車)|宗谷・サロベツ・利尻・礼文]]」などが該当する。 {{See also|北海道旅客鉄道#列車}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|24em}} == 参考文献 == === 入門書 === * 中川裕・中本ムツ子 『CDエクスプレス アイヌ語』 [[白水社]] ISBN 4560005990 2004年 :1997年刊の『エクスプレス アイヌ語』にCDが付いた新装版。 *『アコ{{smaller|ロ}} イタ{{smaller|ク}}』[[北海道ウタリ協会]] ISBN 4905756219 C0086 1994年 * [[田村すゞ子]] 『アイヌ語入門』『アイヌ語基礎語彙』『アイヌ語入門解説』 [[早稲田大学]]語学研究所、1983年 :カムイトラノ協会、片山言語文化研究所などがビデオ教材やテキストを作成している。 * 大修館書店1981年刊、講座言語第六巻『世界の言語』413-445pp 田村すゞ子「アイヌ語」 === 辞書 === * [[萱野茂]] 『萱野茂のアイヌ語辞典』 [[三省堂]] ISBN 4385170509 1996年(初版)・ISBN 4385170525 2002年(増補版) * [[田村すゞ子]] 『アイヌ語沙流方言辞典』 草風館 ISBN 4883230937 1996年 * 中川裕 『アイヌ語千歳方言辞典』 草風館(普及版) ISBN 4883230783・(机上版) ISBN 4883230775 1995年 * 知里高央・横山孝雄 『アイヌ語イラスト辞典』 * 知里高央・横山孝雄 『アイヌ語絵入り辞典』 * [[知里真志保]] 『分類アイヌ語辞典』 * [[服部四郎]] 『[[アイヌ語方言辞典]]』 * [[ジョン・バチェラー]]『アイヌ・英・和辞典 第四版』(岩波書店、ISBN 4000800558、1981年) === 解説書 === *『萱野茂のアイヌ語辞典 CD-ROM』三省堂 ISBN 4385613060 1999年。 :上記(初版)のCD-ROM版。全例文に著者自身の発音による音声が付いている。 *『アイヌ語研究の諸問題』著:アンナ・ブガエワ 長崎郁編 [[北海道出版企画センター]] === 特定分野の辞典 === * 永久保秀二郎『アイヌ語雑録』[[中村一枝 (郷土史研究家)|中村一枝]]編 * [[知里真志保]]『アイヌ語入門 - 特に地名研究者のために』 * 知里真志保『地名アイヌ語小辞典』 北海道出版企画センター ISBN 4832888021 :原本は1956年に発行された。地名に出てくるアイヌ語の解説書。 * 亀井孝・[[河野六郎]]・[[千野栄一]]編『日本列島の言語』 [[三省堂]] ISBN 4385152071 :『言語学大辞典』(三省堂、1988年)アイヌ語全般に関する詳しい解説を含む。アイヌ語の解説は[[田村すゞ子]]が担当 * Masayoshi Shibatani『The languages of Japan』(Cambridge University Press, 2010.) :ISBN 052136070 6 (ハードカバー), ISBN 052136918 5 (ペーパーカバー) === 読み物 === *『[[アイヌ神謡集]]』 [[知里幸恵]]編訳〈[[岩波文庫]]〉(1923年初版) :アイヌ文学として一般に知られるようになった最初のもの *『怪鳥フリュー カムイ・ユーカラ』[[山本多助]](四辻一朗・絵)[[平凡社]](1978年) *『アイヌ・フォークロア』 [[ニコライ・ネフスキー]]、魚井一由訳 [[北海道出版企画センター]] (1991年) == 関連項目 == {{Commonscat|Ainu language}} {{wiktionarycat|アイヌ語}} {{Wiktionary|アイヌ語}} {{div col||12em}} * [[アイヌ語仮名]] * [[アイヌ文化]] * [[アイヌ文化振興法]] * [[人名#アイヌの人の名前|人名#アイヌの名前]] * [[アイヌ語ラジオ講座]] * [[アイヌタイムズ]] * [[北海道立アイヌ総合センター]] * [[蝦夷]] * [[オホーツク文化]] - [[ニヴフ]] * [[苫小牧駒澤大学]] * [[危機に瀕する言語]] * [[北海道の地名・駅名]] * [[消滅危機言語の一覧]] * [[アイヌ語の語彙一覧]] * [[アイヌ]] {{div col end}} == 外部リンク == <big>{{Incubator|prefix=Wp|code=ain}}</big> * [https://ainugo.nam.go.jp/ 国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ] - 多くの資料を公開しているほか、凡例や索引機能も存在する。 * [https://ainucorpus.ninjal.ac.jp/ アイヌ語口承文芸コーパス―音声・グロス付き―][[中川裕 (アイヌ語研究者)|中川裕]]、アンナ・ブガエワ、小林美紀、吉川佳見(2016-2020) * [http://pub.sgu.ac.jp/~ainu/biblio/japanese.html アイヌ語学習者のためのアイヌ語基本文献・音声資料リスト] [[田村すず子]]編、[http://jinbunweb.sgu.ac.jp/~ainu/biblio/japanese.html 奥田統己]([[札幌学院大学]])増補 * [http://otarunay.at-ninja.jp/bunpo.html 初心者のためのアイヌ語文法解説] - [[アイヌタイムズ]]編集責任者の浜田隆史による解説。 * [https://www.ff-ainu.or.jp/ 公益財団法人アイヌ民族文化財団] * [https://web.archive.org/web/20050208075201/http://www.l.chiba-u.ac.jp/japanese/eura/ 千葉大学文学部ユーラシア言語文化論講座] - アイヌ語や[[ニヴフ語]]などを含む北方諸民族の言語や文化を研究 * [http://hp.vector.co.jp/authors/VA038316/ ROM作成物サポートページ] - Windows用のアイヌ語カナ表記用拡張カタカナ対応化拡張フォントやアイヌ語カナ表記入力/変換ユーティリティ * [http://www.dai3gen.net/index_j.html 日本古代史とアイヌ語] * [http://www.chikyukotobamura.org/forum/salon100123s.html NPO法人「地球ことば村・世界言語博物館」による2010年1月のことばのサロン シリーズ「よみがえることばたち」7「アイヌに生まれて」] * {{Kotobank}} {{アイヌ民族}} {{世界の語族}} {{日本語}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あいぬこ}} [[Category:アイヌ語|*]] [[Category:日本の言語]] [[Category:ロシアの言語]] [[Category:危機に瀕する言語]] [[Category:孤立した言語]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E
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詩人
詩人()とは、詩を書き、それを発表する者。また、それを職業にしている者。 後者でも詩だけで生活している人はほとんどおらず、多くの場合、評論、随筆、翻訳、小説、音楽、絵画、演劇、漫画、歌の作詞など他の分野の創作活動を並行して行っていたり、あるいは(文学と縁遠い)他の職業を持ったりする。たとえば高村光太郎は彫刻家としても多数の作品を残しているし、草野心平にはバーや居酒屋の経営をしていた時期がある。アルチュール・ランボーは10代に残した業績によって詩人と呼ばれているが、詩作を止めた後は貿易商など他の仕事をした。 ボブ・ディラン、パティ・スミスなど、シンガーソングライターが詩人としても高い評価を得、詩集を出すまでに至る例もある。 詩を書く者以外に対しても「詩人」という言葉が使われることがある。新明解国語辞典第六版(三省堂)にもそのような広義の意味が書かれているし、三好達治は『詩を読む人のために』(至文堂、1952年)の中で「誰かもいったように」と前書きした上で「詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人」であると書いている。 歌の歌詞の作者は一般に作詞家と呼ばれる。また短歌を書く者は歌人、俳句を書く者は俳人と呼ぶ。 詳細は詩人一覧を参照。
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詩人とは、詩を書き、それを発表する者。また、それを職業にしている者。 後者でも詩だけで生活している人はほとんどおらず、多くの場合、評論、随筆、翻訳、小説、音楽、絵画、演劇、漫画、歌の作詞など他の分野の創作活動を並行して行っていたり、あるいは(文学と縁遠い)他の職業を持ったりする。たとえば高村光太郎は彫刻家としても多数の作品を残しているし、草野心平にはバーや居酒屋の経営をしていた時期がある。アルチュール・ランボーは10代に残した業績によって詩人と呼ばれているが、詩作を止めた後は貿易商など他の仕事をした。 ボブ・ディラン、パティ・スミスなど、シンガーソングライターが詩人としても高い評価を得、詩集を出すまでに至る例もある。 詩を書く者以外に対しても「詩人」という言葉が使われることがある。新明解国語辞典第六版(三省堂)にもそのような広義の意味が書かれているし、三好達治は『詩を読む人のために』(至文堂、1952年)の中で「誰かもいったように」と前書きした上で「詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人」であると書いている。 歌の歌詞の作者は一般に作詞家と呼ばれる。また短歌を書く者は歌人、俳句を書く者は俳人と呼ぶ。
{{Otheruses||クルアーンのスーラ|詩人たち (クルアーン)}} [[ファイル:Carl Spitzweg - Der arme Poet (Neue Pinakothek).jpg|300px|thumb|『貧乏詩人』、(画[[カール・シュピッツヴェーク]] [[1839年]])]] {{読み仮名|'''詩人'''|しじん}}とは、[[詩]]を書き、それを発表する者。また、それを[[職業]]にしている者。 後者でも詩だけで生活している人はほとんどおらず、多くの場合、[[評論]]、[[随筆]]、[[翻訳]]、[[小説]]、[[音楽]]、[[絵画]]、[[演劇]]、漫画、歌の作詞など他の分野の創作活動を並行して行っていたり、あるいは([[文学]]と縁遠い)他の職業を持ったりする。たとえば[[高村光太郎]]は[[彫刻家]]としても多数の作品を残しているし、[[草野心平]]には[[バー (酒場)|バー]]や[[居酒屋]]の経営をしていた時期がある。[[アルチュール・ランボー]]は10代に残した業績によって詩人と呼ばれているが、詩作を止めた後は[[貿易商]]など他の仕事をした。 [[ボブ・ディラン]]、[[パティ・スミス]]など、[[シンガーソングライター]]が詩人としても高い評価を得、詩集を出すまでに至る例もある。 詩を書く者以外に対しても「詩人」という言葉が使われることがある。[[新明解国語辞典]]第六版(三省堂)にもそのような広義の意味が書かれているし、[[三好達治]]は『詩を読む人のために』(至文堂、1952年)の中で「誰かもいったように」と前書きした上で「詩を読み詩を愛する者は既に彼が詩人」であると書いている<ref>ここでは岩波文庫版(1991年)、p.3から引用。</ref>。 歌の[[歌詞]]の作者は一般に[[作詞家]]と呼ばれる。また[[短歌]]を書く者は[[歌人]]、俳句を書く者は[[俳人]]と呼ぶ。 == 詩人の例 == * [[叙事詩]]作者として[[ホメーロス]]、[[ダンテ・アリギエーリ]]など。 * [[漢詩]]作者として[[李白]]、[[杜甫]]など。 * [[象徴主義]]の詩人として[[フランス]]では[[シャルル・ボードレール]]、[[ポール・ヴェルレーヌ]]、[[アルチュール・ランボー]]、[[ステファヌ・マラルメ]]、[[ポール・ヴァレリー]]、他に[[アイルランド]]の[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、[[ドイツ]]の[[ライナー・マリア・リルケ]]など。 * [[戦後]][[日本]]の詩人として、[[荒地 (詩誌)|荒地派]]の[[鮎川信夫]]、[[田村隆一]]や[[金子光晴]]、[[吉本隆明]]、[[谷川俊太郎]]など。 * [[俳句]]の作者として、[[松尾芭蕉]]、[[正岡子規]] * [[短歌]]の作者として、[[石川啄木]]、[[与謝野晶子]]、[[萩原慎一郎]]など。 詳細は[[詩人一覧]]を参照。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{wikiquote|詩|詩人}} * [[詩人一覧]] * [[形而上詩人]] * [[桂冠詩人]] * [[吟遊詩人]] * [[歌人]] * [[俳人]] * [[ポエトリーリーディング]] * {{ill2|Filí|en|Filí}} - スコットランドとアイルランドで活躍していた詩人や吟遊詩人の総称。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ししん}} [[Category:詩人|*]]
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東京湾
東京湾(とうきょうわん)は、日本の関東地方にある、南に向けて太平洋に開けた湾である。 現在の「東京湾」という呼称は、明治維新後に江戸が「東京」と改称されたことに由来する。地形図では「東京湾」、海図では「東京海湾」の表記であったが、最近になって「東京湾」に統一された。なお、近世の東京湾を指すとされる「江戸湾」という語は近年になって造られた語(造語)であり、明治時代以前にあった言葉ではない。 江戸時代には、「江戸前」や「江戸前海」などの呼び名があった。江戸前とは「漁場」を示す言葉であり、主に佃沖の漁場を指した。江戸前海とは房総沖などと並ぶある範囲を持った海域のことで、品川沖から葛西沖あたりまでを包括していた。しかし、湾全体は単に(武蔵相模上総下総の)内海、あるいは裏海のように呼ばれていた。その後の幕末や明治初期の記録文献類に登場する現在の東京湾に相当する湾の名称もほとんどが「内海」となっている。 しかし「内海」という言葉は江戸時代以前に北東の下総常陸国境付近に存在していた「香取海」に対しても用いられるので、昨今では区別のため、古代以前の東京湾のことを「古東京湾」や「奥東京湾」、中世から近世までの湾を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称することが多い。 千葉県、東京都、神奈川県に面し、浦賀水道が湾口となっている。 現代の行政上、広義では、千葉県館山市の洲埼灯台から神奈川県三浦市の剣埼灯台まで引いた線および陸岸によって囲まれた海域を指す。 狭義には三浦半島の観音崎と房総半島の富津岬を結んだ線の北側、広義には三浦半島の剱崎と房総半島の洲崎を結んだ線より北側、すなわち浦賀水道を含んだ海域を指す。 狭義の海域については、気象庁の津波予報区としては「東京湾内湾」と称する。 狭義の東京湾の面積は922 km。広義の面積は、1,320 km である。 内湾部の水深は比較的浅く、富津岬沖には「中ノ瀬」と呼ばれる台地が広がる。 江戸時代から現代にかけて、沿岸や浅瀬が相次ぎ埋め立てられた。これにより湾内には明治・大正期に造られた海堡(かいほ)を始め、70を超える人工島がある。これに対して、自然島は横須賀市沖の猿島及び鋸南町沖の浮島など決して数は多くない。 関東平野が海と接する湾奥部は、江戸時代には幕府のお膝元である江戸が栄え、東京奠都以降、現代に至る首都圏が形成されている。東京湾の各港湾は、首都圏約4000万人の生活や経済を支える物流の要を担っている。 元々遠浅で砂地の海岸が多かったため、各所で埋め立てが進められてきた。埋立地の大部分は、工業地帯もしくはベッドタウンとして利用されている。現在残されている自然の砂浜は、千葉県の木更津市以南のみとなっている。 埋立地を利用した港湾が点在し、横須賀港には米軍横須賀基地や海上自衛隊横須賀地方隊の基地がある。港湾近くで発展した京浜工業地帯と京葉工業地域は、加工貿易で国を富ませてきた日本の心臓部である。バブル景気の頃から、オフィス街(臨海副都心と幕張新都心)も開発され、バブル崩壊後は、超高層マンションの建設ラッシュや大型ショッピングセンターの新規オープンなどが相次ぐ。 外湾部では陸から離れた沖の海底は急激に深くなっており、水深500m以上に達する東京湾海底谷が認められる。この海底谷は西方の相模トラフへ合流する。 河川を通じて東京湾に流れ込んだ有機物が沈殿しており、栄養が豊富な深海という特異な環境が東京(江戸)の都市化とともに形成されてきた。そのためメガマウスやミツクリザメなど世界的に希少な深海魚が捕獲されることがある。 12万年前は現在より海水面が高く(下末吉海進)、房総半島は島であった。この頃の湾を「古東京湾」と呼ぶ。 旧石器時代は最終氷期にあたり、氷河が発達していたため海面が現在より著しく低く、浦賀水道付近以北は陸地だった。渡良瀬川と利根川とが現在の大宮台地を挟んで東西側を南流し、現在の内湾の中央付近で合流した後、太平洋への河口へ向けて流れた。これらの河川は大規模な峡谷を作った。 6000年前には縄文海進による海水面の上昇があり、関東地方の海水準は現在より3 - 4mほど高かった。東京湾は北へ湾入し、渡良瀬川河道では群馬県邑楽郡板倉町付近まで、利根川河道では埼玉県川越市付近まで湾入したことが貝塚分布から裏付けられる。この頃の東京湾を指して「奥東京湾」と呼ぶ。 3000年前から縄文海退が始まり、渡良瀬川・利根川が沖積層を作り湾入部・峡谷を埋めていった。 その頃より、利根川は流路を変え、大宮大地の東の渡良瀬川河道の地帯を流れるようになり、東京湾へ注ぐこの河道の一帯は広大な氾濫域・低湿地となった。 かつては武蔵国と下総国とが接する境界は広大な低湿地帯であり両国間は通行に適さなかった。したがって古代の交通路は相模国三浦半島と上総国房総半島との間の東京湾を渡っている。鎌倉時代にも交通路として利用されていた資料が残る。 中世には湾内で海賊衆も活動し、戦国時代には後北条氏と里見氏の水軍の争いの舞台にもなった。 江戸時代には徳川家康以降、江戸幕府によって沿岸の埋め立てが進み、菱垣廻船や樽廻船などの和船による水運が行われ、後期には外国船来航に対する湾岸防備のために品川沖に台場が築かれている。 長らく鎖国状態にあったが、黒船来航の後に日米修好通商条約が結ばれた結果、横浜港が開港された。1945年(昭和20年)9月2日には、東京湾に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」甲板上で連合国各国代表が見守る中、日本政府代表が降伏文書に署名して第二次世界大戦が終結している。 昭和30年代には、産業計画会議による「東京湾2億坪の埋め立てについての勧告 NEO TOKYO PLAN」や、丹下健三による「東京計画1960」など湾を大規模に利用する計画があった。 東京湾(江戸湾)は多種・大量な魚介類を産し、利根川東遷事業による生態系や環境面における東京湾への影響は明らかになっていないものの、江戸時代までは世界最大の人口を誇った大都市・江戸の人々の胃袋を満たしてきた。 しかし、とくに明治時代以降、沿岸や流入河川の流域では都市化・工業化が進み、埋立地拡大に伴う干潟など自然海岸や浅瀬の減少、水質悪化が深刻になった。特に1970年代に環境汚染はピークを迎え、海の生き物は激減、一時は「死の海」とまで呼ばれる状態にあった。 1980年代以降環境保全の取り組みが進み、水質の改善がみられ。様々な生き物が戻り、少しずつではあるが生態系を取り戻しつつある。アカエイの生息数は国内の沿岸域でも有数であるが、人間への危険性を持ち、お台場や葛西臨海公園や隅田川や荒川などの人間の生活圏にも多く生息するために注意が必要である。上述の通り、東京湾海底谷ではメガマウスやミツクリザメやダイオウイカなどの貴重な深海性の生物が発見されることもある。2005年に川崎区で発見されたホオジロザメは、オスとしては世界最大級の記録だった。ムギワラエビのように希少な固有種も見られる。 外海に面している浦賀水道の水質は比較的に良く、ジンベイザメやマンタ、マンボウなどの大型回遊魚類が館山方面で見られることがある。加えて水温が比較的に高い黒潮の影響を受けるため、南方系の魚やサンゴも生息している。特に、夏には沖縄近海で見られるような魚(死滅回遊魚)の姿を見ることも出来る。また、東京湾沿岸は、アカウミガメの産卵分布としてはほぼ北限であるとされる。 一方、夏場には常態的に貧酸素水塊が発生するなど、まだ取り組むべき課題はある。水質改善により、東京湾には多くの種類の生き物が戻ってきたが、個体数はそこまで増えていないと考えられている。実際に東京湾の漁獲量は、2000年に入っても環境汚染のピークだった1960年代・1970年代から増えておらず、横ばいが続いている。たとえば、ハマグリなども依然として生息数が大幅に減少しており、ウミガメや鳥類や魚類など多くの生物にとって重要な生息地である干潟や藻場や自然の砂浜や浅瀬なども著しく減少した。 後述の通り、本来はニホンアシカや鯨類が豊富に生息していたが、現在ではニホンアシカは絶滅種に認定され、全体的に鯨類自体の出現も限られている。また、セミクジラやコククジラと言った絶滅危惧種の混獲が相次ぎ、本湾におけるスナメリの地方個体群は激減したなど、現在では危機的な状況に置かれている。しかし、ザトウクジラは将来的な東京湾への出現が増加することが予想され、マッコウクジラは現在でも浦賀水道や館山湾など湾口の周辺に来遊する事がある。また、小型のイルカ類や上記のスナメリも少数ではあるが湾内に生息しており、時には大規模なイルカの群れが現れたり、シャチの目撃例も存在する。 上記の通り、現在の東京湾の生態系は、メガファウナ(英語版)やマクロを問わずに様々な生物種が激減したり欠落した状態である。とくにメガファウナに関しては、現在では本来の生態系から喪失した部分が大きい。 明治時代まではアシカ島など湾内では絶滅種であるニホンアシカが繁殖し、数多くの鯨類も見られた。古式捕鯨の主対象であったセミクジラやザトウクジラやコククジラを中心とした沿岸性が強いヒゲクジラ類が湾内に回遊していた可能性が高く、袖ヶ浦や浦安沖から湾奥部などでよく見られた「クジラまわし」と呼ばれる光景は、冬の風物詩の一つとされた。また、シロナガスクジラの可能性がある記録も存在する。後述の通り、ツチクジラも浦賀水道から鋸南町の一帯に多数が回遊していた。 しかし、明治40年頃にはニホンアシカは乱獲によって関東の一帯から姿を消した。文禄期に東京湾と相模湾の周辺でのクジラの多さが起因して三浦半島で捕鯨が展開され、瞬く間に「関東諸浦」に拡大した。東京湾一帯では、三浦半島における操業と鋸南町沖の浮島ではツチクジラを主対象とした組織的な捕鯨が発達した。しかし乱獲が進行し、江戸時代から明治時代を境に東京湾や三浦半島への大型鯨類の安定した回遊は消滅したと思わしい。 哺乳類ではないが、ヒゲクジラ類と食性等に類似性が強いウバザメも、1970年代までの乱獲の結果、太平洋全体で絶滅危惧種となり、東京湾一帯だけでなく日本列島や東アジア全体でも以降の確認は非常に少ない。 多摩川、鶴見川、荒川、隅田川、江戸川、小櫃川などが注いでいるが、湾口が狭く外海との海水の交換は行われにくい。そのためプランクトンの異常発生である赤潮が度々発生してきた。 1960年代から1970年代の東京湾沿岸部の埋め立ての際、埋め立て土砂を海底から採取したために、流れの悪い浚渫窪地ができた。ここに貧酸素水塊と栄養塩が溜まり、嫌気性細菌により大量の硫化水素が発生する。このことが青潮の発生源の一つとなっている。現在の東京湾では約1億立方メートルの浚渫窪地が存在する。 江戸時代から現代にかけて、沿岸や浅瀬が相次ぎ埋め立てられた。これにより湾内には明治・大正期に造られた海堡(かいほ)を始め、70を超える人工島がある。対して、自然島は現在横須賀市沖の猿島及び鋸南町沖の浮島等がある。 沿岸の埋め立てに伴い干潟面積は大きく減少しているが、海水の浄化作用があること、海生生物や野鳥の生息に欠かせない自然環境であることから、残された天然の干潟に対する保護運動が起きている。現在、東京湾に残る干潟は以下の通り。 干潟は東京湾に生息するスズキやタイ、貝類など日本固有種を含む漁業価値の高い魚介類の稚魚の生息地となっており、これを保護・拡張することは環境面のみならず東京湾の漁業や観光(釣り)などの事業価値を高めることにもつながるため、その価値は大変高いものである。 東京都港区のお台場では、1990年代以降砂を運んで人工の干潟を作る試みが行われている。この人工干潟では、アサリを始めとする生き物が戻りつつある。 雨水も生活排水などの下水も、下水道を通じて下水処理場まで運んでいる場合、大量の雨水が下水道に流れ込んでしまい、下水道管で受け止めきれなかった一定量については、汚水未処理のまま河川の公共水域に放流せざるを得ない状況が発生しており、大雨時には放流海域での大腸菌数の増加など、環境影響が発生している。 化学的酸素要求量(COD)の上昇などで示される東京湾の水質汚濁は、富栄養化の原因物質である窒素、リンともに約7割が家庭排水によるものであり、その主たるものは糞尿である。 対策として、合併浄化槽の整備や下水処理場の高度化、合流式下水道の改善などが行われている。 東京湾内の浮遊ゴミおよび浮遊油を回収する目的で、清掃兼油回収船「べいくりん」が国土交通省関東地方整備局・千葉港湾事務所により運用されている。
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"生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、夏場には常態的に貧酸素水塊が発生するなど、まだ取り組むべき課題はある。水質改善により、東京湾には多くの種類の生き物が戻ってきたが、個体数はそこまで増えていないと考えられている。実際に東京湾の漁獲量は、2000年に入っても環境汚染のピークだった1960年代・1970年代から増えておらず、横ばいが続いている。たとえば、ハマグリなども依然として生息数が大幅に減少しており、ウミガメや鳥類や魚類など多くの生物にとって重要な生息地である干潟や藻場や自然の砂浜や浅瀬なども著しく減少した。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "後述の通り、本来はニホンアシカや鯨類が豊富に生息していたが、現在ではニホンアシカは絶滅種に認定され、全体的に鯨類自体の出現も限られている。また、セミクジラやコククジラと言った絶滅危惧種の混獲が相次ぎ、本湾におけるスナメリの地方個体群は激減したなど、現在では危機的な状況に置かれている。しかし、ザトウクジラは将来的な東京湾への出現が増加することが予想され、マッコウクジラは現在でも浦賀水道や館山湾など湾口の周辺に来遊する事がある。また、小型のイルカ類や上記のスナメリも少数ではあるが湾内に生息しており、時には大規模なイルカの群れが現れたり、シャチの目撃例も存在する。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上記の通り、現在の東京湾の生態系は、メガファウナ(英語版)やマクロを問わずに様々な生物種が激減したり欠落した状態である。とくにメガファウナに関しては、現在では本来の生態系から喪失した部分が大きい。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "明治時代まではアシカ島など湾内では絶滅種であるニホンアシカが繁殖し、数多くの鯨類も見られた。古式捕鯨の主対象であったセミクジラやザトウクジラやコククジラを中心とした沿岸性が強いヒゲクジラ類が湾内に回遊していた可能性が高く、袖ヶ浦や浦安沖から湾奥部などでよく見られた「クジラまわし」と呼ばれる光景は、冬の風物詩の一つとされた。また、シロナガスクジラの可能性がある記録も存在する。後述の通り、ツチクジラも浦賀水道から鋸南町の一帯に多数が回遊していた。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "しかし、明治40年頃にはニホンアシカは乱獲によって関東の一帯から姿を消した。文禄期に東京湾と相模湾の周辺でのクジラの多さが起因して三浦半島で捕鯨が展開され、瞬く間に「関東諸浦」に拡大した。東京湾一帯では、三浦半島における操業と鋸南町沖の浮島ではツチクジラを主対象とした組織的な捕鯨が発達した。しかし乱獲が進行し、江戸時代から明治時代を境に東京湾や三浦半島への大型鯨類の安定した回遊は消滅したと思わしい。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "哺乳類ではないが、ヒゲクジラ類と食性等に類似性が強いウバザメも、1970年代までの乱獲の結果、太平洋全体で絶滅危惧種となり、東京湾一帯だけでなく日本列島や東アジア全体でも以降の確認は非常に少ない。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "多摩川、鶴見川、荒川、隅田川、江戸川、小櫃川などが注いでいるが、湾口が狭く外海との海水の交換は行われにくい。そのためプランクトンの異常発生である赤潮が度々発生してきた。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1960年代から1970年代の東京湾沿岸部の埋め立ての際、埋め立て土砂を海底から採取したために、流れの悪い浚渫窪地ができた。ここに貧酸素水塊と栄養塩が溜まり、嫌気性細菌により大量の硫化水素が発生する。このことが青潮の発生源の一つとなっている。現在の東京湾では約1億立方メートルの浚渫窪地が存在する。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "江戸時代から現代にかけて、沿岸や浅瀬が相次ぎ埋め立てられた。これにより湾内には明治・大正期に造られた海堡(かいほ)を始め、70を超える人工島がある。対して、自然島は現在横須賀市沖の猿島及び鋸南町沖の浮島等がある。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "沿岸の埋め立てに伴い干潟面積は大きく減少しているが、海水の浄化作用があること、海生生物や野鳥の生息に欠かせない自然環境であることから、残された天然の干潟に対する保護運動が起きている。現在、東京湾に残る干潟は以下の通り。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "干潟は東京湾に生息するスズキやタイ、貝類など日本固有種を含む漁業価値の高い魚介類の稚魚の生息地となっており、これを保護・拡張することは環境面のみならず東京湾の漁業や観光(釣り)などの事業価値を高めることにもつながるため、その価値は大変高いものである。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東京都港区のお台場では、1990年代以降砂を運んで人工の干潟を作る試みが行われている。この人工干潟では、アサリを始めとする生き物が戻りつつある。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "雨水も生活排水などの下水も、下水道を通じて下水処理場まで運んでいる場合、大量の雨水が下水道に流れ込んでしまい、下水道管で受け止めきれなかった一定量については、汚水未処理のまま河川の公共水域に放流せざるを得ない状況が発生しており、大雨時には放流海域での大腸菌数の増加など、環境影響が発生している。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "化学的酸素要求量(COD)の上昇などで示される東京湾の水質汚濁は、富栄養化の原因物質である窒素、リンともに約7割が家庭排水によるものであり、その主たるものは糞尿である。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "対策として、合併浄化槽の整備や下水処理場の高度化、合流式下水道の改善などが行われている。", "title": "生物と環境保全" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "東京湾内の浮遊ゴミおよび浮遊油を回収する目的で、清掃兼油回収船「べいくりん」が国土交通省関東地方整備局・千葉港湾事務所により運用されている。", "title": "生物と環境保全" } ]
東京湾(とうきょうわん)は、日本の関東地方にある、南に向けて太平洋に開けた湾である。
{{Otheruses||ベトナムのトンキン(東京)湾|トンキン湾}} {{Infobox ocean | name = 東京湾 | image = Tokyo_L7_lrg.jpg | image_size = 240 | caption = 東京湾の[[衛星画像]](2002年)<br/>[[人工衛星]]「[[NASA Earth Observatory]]」による | coords = {{coord|35|25|N|139|47|E|region:JP_type:waterbody|display =inline,title}} | part_of = [[太平洋]] | oceans = | basin_countries = {{JPN}} | cities = | pushpin_map = Japan#Japan Kanto | pushpin_map_caption = | latd = 35 |latm = 25 |latNS = N | longd = 139 |longm = 47 |longEW = E }} '''東京湾'''(とうきょうわん)は、[[日本]]の[[関東地方]]にある、南に向けて[[太平洋]]に開けた[[湾]]である。 == 呼称 == [[ファイル:Tsukada Island in the Musashi province.jpg|thumb|right|270px|[[葛飾北斎]]の[[名所絵]][[揃物]]『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』の「武陽 佃嶌」<ref group="注釈">[[江戸時代]]後期、[[廻船]]で賑わう[[江戸前]]の[[佃 (東京都中央区)|佃島]](現・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[佃 (東京都中央区)|佃]])より、遥か[[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]を望む。</ref>。]] 現在の「東京湾」という呼称は、[[明治維新]]後に[[江戸]]が「[[東京]]」と改称されたことに由来する<ref group="注釈">『複数の[[令制国]]に囲まれた湾であることから、湾岸における最大の都市名から命名された。</ref>。[[地形図]]では「東京湾」、[[海図]]では「東京海湾」の表記であったが、最近になって「東京湾」に統一された<ref name="wa">菊池利夫 『東京湾史』 13-14頁。</ref>。なお、近世の東京湾を指すとされる「[[江戸湾]]」という語は近年になって造られた語([[造語]])であり、[[明治]]時代以前にあった言葉ではない<ref name="to">児玉幸多 『東京都の地名(日本歴史地名大系 13)』 43頁。</ref>。 [[江戸時代]]には、「[[江戸前]]」や「江戸前海」などの呼び名があった。江戸前とは「[[漁場]]」を示す言葉であり、主に[[佃 (東京都中央区)|佃]]沖の漁場を指した。江戸前海とは房総沖などと並ぶある範囲を持った海域のことで、[[品川湊|品川]]沖から[[葛西]]沖あたりまでを包括していた<ref name="to" />。しかし、湾全体は単に([[武蔵国|武蔵]][[相模国|相模]][[上総国|上総]][[下総国|下総]]の)[[内海]]、あるいは裏海のように呼ばれていた<ref name="wa" />。その後の[[幕末]]や明治初期の記録文献類に登場する現在の東京湾に相当する湾の名称もほとんどが「内海」となっている。 しかし「内海」という言葉は江戸時代以前に北東の下総[[常陸国|常陸]]国境付近に存在していた「[[香取海]]」に対しても用いられるので、昨今では区別のため、古代以前の東京湾のことを「古東京湾」や「奥東京湾」、[[中世]]から近世までの湾を「江戸湾」「江戸内海」などと呼称することが多い<ref name="ni">盛本昌広 『日本中世の贈与と負担』 275頁。</ref>。 == 地理 == === 基本データ<ref group="注釈">国際エメックスセンターによる、2009年時の物である。</ref> <ref name="EMECS closed-sea"/><!--EMECSの出典は節内の全文に係る-->=== * 湾口幅:20.9[[キロメートル|km]] * [[面積]]:1,380[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] * 湾内最大[[水深]]:700[[メートル|m]] * 湾口最大水深:700m * [[閉鎖度指標]]:1.78<ref group="注釈">「1」以上を示す海域のため、排水規制対象である。''cf.'' [[閉鎖性水域]]、[[水質汚濁防止法]]</ref> * 海域の位置する都道府県:[[千葉県]]、[[東京都]]、[[神奈川県]] * 総量規制区域。[[環境基準]]類型指定水域。 === 概説 === [[ファイル:tokyobay_area.png|thumb|right|200px|東京湾の範囲<ref group="注釈">ピンク色の範囲が狭義の東京湾であり、それに水色の範囲([[浦賀水道]])を加えたものが広義の東京湾である。ピンク色の海域は比較的浅いが、水色の海域には急激に深い「[[海底谷]]」がある。</ref>]] {{CSS image crop |Image = Izu Islands and Zenisu Ridge 500m mesh bathymetry.png |bSize = 1120 |cWidth = 150 |cHeight = 200 |oTop = 0 |oLeft = 680 |Description = 海底地形図上の東京湾海底谷<ref group="注釈">[[海上保安庁]]・J-EGG500データ</ref> }} [[千葉県]]、[[東京都]]、[[神奈川県]]に面し、[[浦賀水道]]<ref group="注釈">[[房総半島]]と[[三浦半島]]の間の海域。</ref>が湾口となっている。 [[現代 (時代区分)|現代]]の[[行政]]上、広義では、[[千葉県]][[館山市]]の[[洲埼灯台]]から[[神奈川県]][[三浦市]]の[[剱埼灯台|剣埼灯台]]まで引いた線および陸岸によって囲まれた[[海域]]を指す<ref name="EMECS closed-sea"> {{Cite web|和書|title=日本の閉鎖性海域|url=http://www.emecs.or.jp/closedsea-jp/closedsea-jp.htm|work=(公式ウェブサイト)|publisher=国際エメックスセンター|date=2009-03-25|accessdate=2011-06-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110901073410/http://www.emecs.or.jp/closedsea-jp/closedsea-jp.htm|archivedate=2011年9月1日|deadlinkdate=2017年10月}}</ref><ref>国際航海船舶及び国際港湾施設の保安の確保等に関する法律施行規則第3条第1号、船舶油濁損害賠償保障法施行規則第11条第1号、海上交通安全法施行令第1条、[[海洋汚染]]等及び海上災害の防止に関する法律施行規則第33条の6第2号(剱埼灯台は「剣埼灯台」表記)</ref>。 狭義には[[三浦半島]]の[[観音崎 (神奈川県)|観音崎]]と[[房総半島]]の[[富津岬]]を結んだ線の北側<ref group="注釈">図のピンク色の範囲。</ref>、広義には三浦半島の[[剱崎]]と房総半島の[[洲崎 (千葉県)|洲崎]]を結んだ線より北側、すなわち[[浦賀水道]]<ref group="注釈">図の水色の範囲であり、「外湾」と呼ぶ場合がある。</ref>を含んだ海域を指す。 狭義の海域については、[[気象庁]]の[[津波]]予報区としては「東京湾内湾」と称する<ref> {{Cite web|和書|author=[[気象庁]] |title=津波予報区について - 津波予報区の配置図|url=https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/joho/t-yohokuinfo.html |language=日本語 |accessdate=2023-11-16}}</ref><ref name="EMECS closed-sea"/>。 狭義の東京湾の面積は922 km<sup>2</sup>。広義の面積は、1,320 km<sup>2</sup> である。 内湾部の水深は比較的浅く、[[富津]]岬沖には「[[海上交通安全法別表に掲げる航路#中ノ瀬航路|中ノ瀬]]」と呼ばれる台地が広がる。 江戸時代から現代にかけて、沿岸や浅瀬が相次ぎ埋め立てられた。これにより湾内には明治・[[大正]]期に造られた[[海堡]](かいほ)を始め、70を超える[[人工島]]がある<ref>加藤庸二『東京湾諸島』(駒草出版)</ref>。これに対して、自然島は[[横須賀市]]沖の[[猿島]]及び[[鋸南町]]沖の[[浮島 (千葉県)|浮島]]など決して数は多くない。 [[関東平野]]が海と接する湾奥部は、江戸時代には幕府のお膝元である[[江戸]]が栄え、[[東京奠都]]以降、現代に至る[[首都圏 (日本)|首都圏]]が形成されている。東京湾の各港湾は、首都圏約4000万人の生活や経済を支える[[物流]]の要を担っている<ref>[http://www.tptc.co.jp/guide/advantage/metropolitan 首都圏4000万人の生活と産業を支える東京港]東京港埠頭株式会社(2019年10月14日閲覧)</ref>。 元々遠浅で砂地の海岸が多かったため、各所で埋め立てが進められてきた。[[埋立地]]の大部分は、[[工業地帯]]もしくは[[ベッドタウン]]として利用されている。現在残されている自然の[[砂浜]]は、千葉県の[[木更津市]]以南のみとなっている。 埋立地を利用した[[港湾]]が点在し<ref group="注釈">[[横須賀港]]、[[横浜港]]、[[川崎港]]、[[東京港]]、[[千葉港]]、[[木更津港]]など。</ref>、横須賀港には[[横須賀海軍施設|米軍横須賀基地]]や[[海上自衛隊]][[横須賀地方隊]]の基地がある。港湾近くで発展した[[京浜工業地帯]]と[[京葉工業地域]]は、[[加工貿易]]で国を富ませてきた日本の心臓部である。[[バブル景気]]の頃から、[[オフィス街]]([[臨海副都心]]と[[幕張新都心]])も開発され、[[バブル崩壊]]後は、[[超高層マンション]]の建設ラッシュや大型[[ショッピングセンター]]の新規オープンなどが相次ぐ。 === 東京湾海底谷 === 外湾部では陸から離れた沖<ref group="注釈">水深が浅いのは観音崎の北までで、隣接する久里浜の南の沖。</ref>の海底は急激に深くなっており、水深500m以上に達する東京湾[[海底谷]]が認められる<ref>[http://www.cabinet-cbc.ed.jp/db/rika_cd/shisetu/b_html/03-0045.htm 千葉県理科学習資料データベース『東京湾の海底』]</ref>。この海底谷は西方の[[相模トラフ]]へ合流する。 河川を通じて東京湾に流れ込んだ[[有機物]]が[[沈殿]]しており、栄養が豊富な[[深海]]という特異な環境が東京(江戸)の都市化とともに形成されてきた。そのため[[メガマウス]]や[[ミツクリザメ]]など世界的に希少な[[深海魚]]が捕獲されることがある<ref>[http://sankei.jp.msn.com/science/science/090815/scn0908151302001-n1.htm 東京湾に潜む「深海の楽園」 内房沖の大渓谷「東京海底谷」の奇妙な世界]『[[産経新聞]]』(2009年8月15日){{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090818094819/http://sankei.jp.msn.com/science/science/090815/scn0908151302001-n1.htm |date=2009年8月18日 }}</ref>。 == 歴史 == [[File:Touki Ryushichi 1926a 21.png|thumb|right|1926年時点の関東平野地図に、縄文海進時代の海進領域(斜線部)を重ねた地図<ref group="注釈">東木龍七(1926年)『地形と貝塚分布より見たる関東低地の旧海岸線』</ref>。]] 12万年前は現在より海水面が高く([[下末吉海進]])、[[房総半島]]は島であった。この頃の湾を「古東京湾」と呼ぶ。 [[旧石器時代]]は[[最終氷期]]にあたり、[[氷河]]が発達していたため海面が現在より著しく低く、[[浦賀水道]]付近以北は陸地だった。[[渡良瀬川]]<ref group="注釈">ただし渡良瀬川はおよそ5万年前までは、現在の深谷市付近へ向かい、利根川へ合流していた。</ref>と[[利根川]]とが現在の[[大宮台地]]を挟んで東西側を南流し、現在の内湾の中央付近で合流した後<ref group="注釈">[[多摩川]]もこの地点で合流していた。</ref>、太平洋への河口へ向けて流れた<ref group="注釈">「[[古東京川]]」と呼ばれる。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=葛飾の歴史|url=http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/1000058/1002752/1002869/1003140.html|publisher=[[葛飾区]]|accessdate=2017-04-30}}</ref>。これらの河川は大規模な峡谷を作った。 6000年前には[[縄文海進]]による海水面の上昇があり、関東地方の[[海水準変動|海水準]]は現在より3 - 4mほど高かった<ref>{{Cite web|和書|url=http://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_01v101.pdf |title=縄文の海は、広かった! |accessdate=2015-05-26 |format=PDF |work=+2°Cの世界 縄文時代に見る地球温暖化 ワークテキスト |publisher=[[神奈川県立生命の星・地球博物館]]}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = 遠藤邦彦ほか|date = 1983-04|title = 関東平野の《沖積層》|journal = アーバンクボタ|issue = No.21|pages = 26-43|publisher = [[クボタ]]|naid=10007427996}}</ref>。東京湾は北へ湾入し、[[渡良瀬川]]河道では[[群馬県]][[邑楽郡]][[板倉町]]付近まで、[[利根川]]河道では[[埼玉県]][[川越市]]付近まで湾入したことが貝塚分布から裏付けられる。この頃の東京湾を指して「'''奥東京湾'''」と呼ぶ<ref group="注釈">[[大宮台地]]の西は「'''古入間湾'''」とも呼び、利根川河道に由来する。</ref><ref>{{Cite web|和書 |url = https://www.pref.saitama.lg.jp/cess/cess-kokosiri/cess-koko10.html |title = 地面の下って、どうなっているの? |publisher = [[埼玉県環境科学国際センター]] |accessdate = 2017-04-29 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.city.fujimi.saitama.jp/35miru/01kyouiku/syougaigaku/files/dai1dai2syou.pdf |title = 第2章 富士見の歴史 |publisher = [[富士見市]] |accessdate = 2017-04-29 }}</ref>。 <!-- 発行時の社名は「久保田鉄工」のはずだが、PDF版の表紙や目次での表記は「株式会社クボタ」となっている |url = http://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/21/ 記事が複数のPDFに分割されているので、『アーバンクボタ』 No.21のURLを示す |accessdate = 2015-05-26}} https://ja.wikipedia.org/w/index.php?diff=prev&oldid=43139925 で出典として追加されている。p.42「海水準変動」を意図していると思われるが、特定は避ける。 --> 3000年前から縄文海退が始まり、[[渡良瀬川]]・[[利根川]]が沖積層を作り湾入部・峡谷を埋めていった<ref group="注釈">現在の東京湾の海底にも、[[澪筋]]が外海から海岸線に向かって伸びている。</ref>。 その頃より、利根川は流路を変え、大宮大地の東の渡良瀬川河道の地帯を流れるようになり、東京湾へ注ぐこの河道の一帯は広大な[[氾濫域]]・[[低湿地]]となった。 ===有史以降=== [[ファイル:Kuniyoshi Utagawa, View of Mt Fuji 2.jpg|thumb|right|300px|一勇斎国芳([[歌川国芳]])の名所絵揃物『東都富士見三十六景』の「佃沖 晴天の[[富士山 (代表的なトピック)|不二]]」<ref group="注釈">江戸時代末期、[[江戸前]]の[[佃 (東京都中央区)|佃島]]沖にて[[漁師]]が行う網漁の様子を描いた一図。</ref>]] かつては[[武蔵国]]と[[下総国]]とが接する境界は広大な[[湿地|低湿地帯]]であり両国間は通行に適さなかった。したがって古代の交通路は[[相模国]]三浦半島と[[上総国]]房総半島との間の東京湾を渡っている<ref group="注釈">『[[日本書紀]]』や『[[古事記]]』における[[ヤマトタケル]]の東征。771年以前の[[東海道]]([[古代官道]])。</ref>。[[鎌倉時代]]にも交通路として利用されていた資料が残る。 中世には湾内で[[海賊]]衆も活動し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[後北条氏]]と[[里見氏]]の[[水軍]]の争いの舞台にもなった。 江戸時代には[[徳川家康]]以降、[[江戸幕府]]によって沿岸の埋め立てが進み<ref>[https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/index.htm 家康が夢見た港湾都市。東京港は夢のはじまり]</ref>、[[菱垣廻船]]や[[樽廻船]]などの[[和船]]による[[水運]]が行われ、後期には外国船来航に対する湾岸防備のために品川沖に[[台場]]が築かれている。 長らく[[鎖国]]状態にあったが、[[黒船来航]]の後に[[日米修好通商条約]]が結ばれた結果、横浜港が開港された。[[1945年]]([[昭和]]20年)[[9月2日]]には、東京湾<ref group="注釈">[[浦賀水道]]の城ヶ島と館山の中間付近。</ref>に停泊中の[[アメリカ海軍]]戦艦「[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]」甲板上で[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]各国代表が見守る中、[[日本の降伏|日本政府代表が降伏文書に署名]]して[[第二次世界大戦]]が終結している。 [[昭和30年代]]には、産業計画会議による「東京湾2億[[坪]]の埋め立てについての勧告 NEO TOKYO PLAN」<ref>[https://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_07.pdf 東京湾2億坪の埋め立てについての勧告]</ref>や、[[丹下健三]]による「東京計画1960」<ref>[https://www.tangeweb.com/works/works_no-22/ 東京計画1960]</ref>など湾を大規模に利用する計画があった。 == 生物と環境保全 == {{see also|江戸前}} 東京湾(江戸湾)は多種・大量な[[魚介類]]を産し、[[利根川東遷事業]]による生態系や環境面における東京湾への影響は明らかになっていないものの、[[江戸時代]]までは[[江戸の人口|世界最大の人口を誇った大都市]]・[[江戸]]の人々の胃袋を満たしてきた。 しかし、とくに[[明治時代]]以降、沿岸や流入河川の流域では都市化・工業化が進み、埋立地拡大に伴う[[干潟]]など自然海岸や浅瀬の減少、水質悪化が深刻になった。特に1970年代に環境汚染はピークを迎え、海の生き物は激減、一時は「'''死の海'''」とまで呼ばれる状態にあった<ref>{{cite news |title=奇跡の地球物語 東京湾 ~サンゴが棲む海~ |newspaper=[[テレビ朝日]] |date=2010-7-18 |url=http://www.tv-asahi.co.jp/miracle-earth/backnumber/20100718/ |accessdate=2014-6-1}}</ref>。 [[1980年代]]以降環境保全の取り組みが進み、水質の改善がみられ<ref>{{Cite web|和書|title=都内河川及び東京湾の水環境の状況 |newspaper=[[東京都環境局]] |url=https://www.kankyo.metro.tokyo.lg.jp/water/tokyo_bay/ |accessdate=2014-6-1}}</ref>。様々な生き物が戻り、少しずつではあるが[[生態系]]を取り戻しつつある<ref>{{Cite web|和書|title=ボクらの地球 奇跡の深海を潜る あなたの知らない東京湾 探検!"東京海底谷"の神秘 |newspaper=[[ビーエス朝日|BS朝日]] |url=https://archives.bs-asahi.co.jp/ourearth/prg_019.html |accessdate=2014-6-1}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=次回は「シリーズ東京湾① 生きものいっぱい!大都会の海」 |newspaper=[[日本放送協会|NHK]][[ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜]] |url=http://www.nhk.or.jp/darwin-blog/200/188327.html |accessdate=2014-6-1}}</ref>。[[アカエイ]]の生息数は国内の沿岸域でも有数である<ref>原田友佳子, 藤田清, 2003年, 『東京湾におけるアカエイの年齢と成長,繁殖』, 日本魚類学会年会講演要旨36号, 65項</ref>が、人間への危険性を持ち、[[お台場]]や[[葛西臨海公園]]や[[隅田川]]や[[荒川]]などの人間の生活圏にも多く生息するために注意が必要である<ref>{{Cite web|和書|author=大川雅治|date=2023-08-19|url=https://www.fishing-v.jp/premium/975.html |title=【触っちゃだめ!】釣り人が出会った危険な魚まとめ[その2]|work=[[釣りビジョン]]|pages=|website=|access-date=2023-11-25}}</ref>。上述の通り、東京湾海底谷では[[メガマウス]]や[[ミツクリザメ]]や[[ダイオウイカ]]などの貴重な深海性の生物が発見されることもある。2005年に[[川崎区]]で発見された[[ホオジロザメ]]は、オスとしては世界最大級の記録だった<ref>[[四国新聞社]], 2005年10月27日, 「世界最大級の雄だった!/東京湾のホオジロザメ」</ref>。[[ムギワラエビ]]<ref group="注釈">[[2015年]]に135年ぶりに再確認された。</ref>のように希少な[[固有種]]も見られる<ref>[https://mainichi.jp/articles/20180919/ddl/k14/040/493000c ふしぎな生物いっぱい しながわ水族館「日本の固有種展」]『[[毎日新聞]]』朝刊2018年9月13日(東京面)2018年11月28日閲覧。</ref>。 外海に面している[[浦賀水道]]の水質は比較的に良く、[[ジンベイザメ]]や[[ナンヨウマンタ|マンタ]]、[[マンボウ]]などの大型回遊魚類が[[館山市|館山]]方面で見られることがある。加えて水温が比較的に高い[[黒潮]]の影響を受けるため、南方系の魚や[[サンゴ]]も生息している。特に、夏には[[沖縄諸島|沖縄]]近海で見られるような魚([[回遊#死滅回遊|死滅回遊魚]])の姿を見ることも出来る。また、東京湾沿岸は、[[アカウミガメ]]の産卵分布としてはほぼ北限であるとされる<ref name=Chiba>[https://www.pref.chiba.lg.jp/kouwan/kikaku/documents/1-1-2-2_tokuseikankyou.pdf (2) 環境に関する現況特性 - (1) 砂浜・干潟・浅場・藻場の分布]</ref>。 一方、夏場には常態的に[[貧酸素水塊]]が発生するなど、まだ取り組むべき課題はある。水質改善により、東京湾には多くの種類の生き物が戻ってきたが、個体数はそこまで増えていないと考えられている。実際に東京湾の漁獲量は、2000年に入っても環境汚染のピークだった1960年代・1970年代から増えておらず、横ばいが続いている<ref>{{Cite web|和書|title=江戸前の復活!東京湾の再生をめざして |newspaper=独立行政法人水産総合研究センター |url=http://tokyobay.job.affrc.go.jp/|accessdate=2014-6-1}}</ref>。たとえば、[[ハマグリ]]なども依然として生息数が大幅に減少しており<ref name=RedList>{{Cite web|和書|author=|date=2012-08-28|url=https://www.env.go.jp/press/15619.html |title=第4次レッドリストの公表について(お知らせ)|work=[[環境省]]|pages=|website=|access-date=2023-11-17}}</ref>、[[ウミガメ]]や[[鳥類]]や魚類など多くの生物にとって重要な生息地である[[干潟]]や[[藻場]]や自然の砂浜や浅瀬なども著しく減少した<ref name=Chiba />。 後述の通り、本来は[[ニホンアシカ]]や[[鯨類]]が豊富に生息していたが、現在ではニホンアシカは絶滅種に認定され、全体的に鯨類自体<ref group="注釈">とくに[[ヒゲクジラ類]]と[[ツチクジラ]]など。</ref>の出現も限られている<ref name=Baleen>{{Cite web|和書|author=加登岡大希, 崎山直夫, 石川創, [[山田格]], 田島木綿子, 樽創|date=2020-03|url=https://nh.kanagawa-museum.jp/www/pdf/nhr_41_083_093katooka.pdf |title=相模湾・東京湾沿岸で記録されたヒゲクジラ亜目 (Mysticeti)について|work=神奈川自然誌資料第41号|pages=83-93|website=[[神奈川県立生命の星・地球博物館]]|access-date=2023-11-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=鷲見みゆき, 花上諒大, 崎山直夫, [[鈴木聡]], 石川創, [[山田格]], [[田島木綿子]], 樽創|date=2022-03|url=https://osakana.suisankai.or.jp/wp/wp-content/uploads/2022/10/2022_1-tokyobey-kuzira.pdf |title=相模湾・東京湾沿岸で記録されたハクジラ亜目(マッコウクジラ科 Physeteridae,コマッコウ科 Kogiidae,アカボウクジラ科 Ziphiidae,ネズミイルカ科 Phocoenidae)について|work=神奈川自然誌資料第43号|pages=1–23|website=大日本水産会|access-date=2023-11-17}}</ref>。また、[[セミクジラ]]や[[コククジラ]]と言った絶滅危惧種の[[混獲]]が相次ぎ<ref name=RW2000 /><ref name=RW2023 /><ref name=Baleen />、本湾における[[スナメリ]]の地方個体群は激減した<ref name=Yume>[http://www.yumekuzira.com/ 夢鯨工楽部]</ref>など、現在では危機的な状況に置かれている。しかし、[[ザトウクジラ]]は将来的な東京湾への出現が増加することが予想され<ref group="注釈">[[ホエールウォッチング]]の対象になっている事もあって保護が進み、個体数の回復に従って微弱ながら[[北海道]]・[[本州]]・[[四国]]・[[九州]]の沿岸部への増加が見られる。</ref><ref name=Increase /><ref>{{Cite web|和書|author=後藤豪 |date=2023-04-30|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/247187 |title=三宅島に現れたザトウクジラ ドローンで「噴気」キャッチ! クジラの生態の謎に迫る|website=[[東京新聞]]|access-date=2023-12-13}}</ref><ref>宇仁義和, 2019年, 『戦前期日本の沿岸捕鯨の実態解明と文化的影響―1890-1940年代の近代沿岸捕鯨』, 191-194項, [[東京農業大学]]</ref>、[[マッコウクジラ]]<ref group="注釈">現代の[[東アジア]]に分布する大型鯨類では比較的に現存個体数が多い。</ref>は現在でも[[浦賀水道]]や[[館山湾]]など湾口の周辺に来遊する事がある<ref>[https://www.kasairinkai.com/ikimono/pdf/factsheet05.pdf 私たちの東京湾 - 東京湾の誕生と歴史]</ref>。また、小型の[[イルカ]]類や上記の[[スナメリ]]も少数ではあるが湾内に生息しており<ref name=Yume /><ref>[https://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=932 横浜の海にイルカがいるってホント?]</ref>、時には大規模なイルカの群れが現れたり<ref>[https://press.boatworld.jp/movie/4479/ 東京湾にイルカの群れ]</ref>、[[シャチ]]の目撃例も存在する<ref group="注釈">シャチは1960年代後半までの捕獲によって日本列島の各地で激減し、東京湾でも1970年に11頭の群れの中の5頭が[[市原市]]で捕獲されている。</ref><ref>[https://kokushi.fra.go.jp/R01/R01_58_KIW.pdf シャチ 北西太平洋], 令和元年度 国際漁業資源の現況</ref><ref>宇仁義和, 谷田部明子, 石川創, 2015年,『NHKアーカイブス保存映像のなかの鯨類ストランディング』, 日本セトロジー研究第25号, 1-6項</ref><ref>[https://www.hetaturi.com/archives/2015/05/post_1076.html 明治時代まで東京湾にシャチもアシカも普通に生息してた!?]</ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=263 |title=科博登録ID:263|work=海棲哺乳類ストランディングデータベース|pages=|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2023-12-09}}</ref>。 <gallery> Sternula albifrons Tokyo Bay 1.jpg|[[コアジサシ]]([[葛西海浜公園]])。 Phoenicurus auroreus -Tokyo Bay -female-8.jpg|[[湾岸]]の[[ジョウビタキ]]。 ホウロクシギ.JPG|[[ホウロクシギ]]([[谷津干潟]])。 Jonathan Livingston @ Yamashita Park, Yokohama.jpg|[[ユリカモメ]]([[山下公園]])。 Blue-Rock Thrush in Yatsu tidal flat, Tokyo bay.jpg|[[イソヒヨドリ]]([[谷津干潟]])。 Aosujiageha 06f7404qv.jpg|[[アオスジアゲハ]]([[谷津干潟]])。 Littorina brevicula 002 Tokyo bay.jpg|[[:en:Littorina brevicula|タマキビ]]([[大井ふ頭中央海浜公園]])。 スナメリ子供.jpg|[[横浜市]]沖で発見された[[スナメリ]]の幼獣。 Mount Nokogiri - Chiba 2022 Dec 12 various 15 44 00 080000.jpeg|[[ツチクジラ]]の猟場だった[[鋸南町]]の[[浮島 (千葉県)|浮島]]周辺。 Tokyo bay ferry 東京湾フェリー (2663486137).jpg|[[ニホンアシカ]]の生息地だった[[海獺島 (神奈川県)|アシカ島]]。 </gallery> === 生態系の欠落 === 上記の通り、現在の東京湾の生態系は、メガファウナ([[:en:Megafauna|英語版]])や[[マクロ]]を問わずに様々な生物種が激減したり欠落した状態である<ref name=RedList />。とくにメガファウナ<ref group="注釈">[[海獣|海棲哺乳類]]や[[ウミガメ]]や大型魚類などの大型生物。</ref>に関しては、現在では本来の生態系から喪失した部分が大きい。 [[明治時代]]までは[[海獺島 (神奈川県)|アシカ島]]など湾内では絶滅種である[[ニホンアシカ]]が繁殖し<ref name=Nakamura>{{Cite web|和書|author=[[中村一恵]]|date=1993-01|url=https://nh.kanagawa-museum.jp/www/contents/1600215771764/simple/bull22_81-89_nakamura.pdf |title=三浦半島沿岸に生息していたニホンアシカについて|work=神奈川県立博物館研究報告第22号|pages=81-89|website=[[神奈川県立博物館]]|access-date=2023-11-16}}</ref>、数多くの[[鯨類]]<ref group="注釈">[[クジラ]]や[[イルカ]]や[[スナメリ]]や[[シャチ]]。</ref>も見られた。古式捕鯨の主対象であった[[セミクジラ]]<ref name=RW2000>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=2562|title=科博登録ID 2562|date=|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2023-06-13}}</ref><ref name=RW2023>{{Cite web|和書|url=https://bonichi.com/2023/03/19/352077/|title=定置網にセミクジラ? 館山|date=2023-03-19|website=[[房日新聞]]|access-date=2023-11-16}}</ref>や[[ザトウクジラ]]<ref name=Increase>{{Cite web|和書|author=後藤豪 |date=2023-01-21|url=https://mainichi.jp/articles/20230121/k00/00m/040/178000c |title=クジラ、東京湾では目にする機会増える? 相次ぐ出現の事情は|website=[[毎日新聞]]|access-date=2023-11-18}}</ref>や[[コククジラ]]<ref>{{Cite web|和書|author=[[みんなのニュース]]|url=https://datazoo.jp/n/%E6%92%AE%E5%BD%B1%E6%88%90%E5%8A%9F%EF%BC%81%E5%A7%BF%E7%8F%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E2%80%9D%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B9%BE%E3%82%AF%E3%82%B8%E3%83%A9%E2%80%9D+%E7%9B%B8%E6%AC%A1%E3%81%90%E7%9B%AE%E6%92%83%E6%83%85%E5%A0%B1%E8%BF%BD%E3%81%84%E2%80%A6/13013209|title=撮影成功!姿現した”東京湾クジラ” 相次ぐ目撃情報追い…|date=2017-04-21|website=TVでた蔵|accessdate=2023-11-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=南部久男, 徳武浩司, 石川創, 大田希生, 藤田健一郎, [[山田格]]|date=2009|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/cetology/19/0/19_4/_pdf |title=2005年に東京湾に出現したコククジラの観察|work=日本セトロジー研究第19号|pages=17-22|website=[[J-STAGE]]|access-date=2023-11-18}}</ref>を中心とした沿岸性が強い[[ヒゲクジラ]]類が湾内に回遊していた可能性が高く、[[袖ヶ浦]]や[[浦安市|浦安]]沖から湾奥部などでよく見られた「クジラまわし」と呼ばれる光景<ref group="注釈">[[ナガスクジラ科]]が海面で行う採餌行動と推測される。</ref>は、冬の[[風物詩]]の一つとされた<ref>高橋在久, 1996 『東京湾学への窓』 蒼洋社(ブレーン出版). 2014年6月19日閲覧</ref>。また、[[シロナガスクジラ]]の可能性がある記録([[利田神社|寛政の鯨]])も存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kahaku.go.jp/research/db/zoology/marmam/drift/detail.php?id=7|title=科博登録ID 7|date=|website=[[国立科学博物館]]|access-date=2023-11-17}}</ref>。後述の通り、[[ツチクジラ]]も[[浦賀水道]]から[[鋸南町]]の一帯に多数が回遊していた<ref group="注釈">上記の通り、同様に深海性であり現在も東京湾口や三浦半島の周辺で見られることもある[[マッコウクジラ]]が、当時は安定して一帯に回遊していたのかは不明である。</ref><ref name=Kawano />。 しかし、[[明治40年]]頃には[[ニホンアシカ]]は乱獲によって関東の一帯から姿を消した<ref name=Nakamura />。[[文禄]]期に東京湾と[[相模湾]]の周辺での[[クジラ]]の多さが起因して[[三浦半島]]で捕鯨が展開され<ref group="注釈">名の知れた鯨捕りであった[[間瀬助兵衛]]が関東に進出した際に東京湾周辺の[[クジラ]]の多さに着目したとされる。助兵衛がこの地に進出した理由は、おそらく関西方面で狩猟圧の結果としてクジラが減少し、助兵衛が新たな猟場を探していためとされる。</ref><ref group="注釈">日本列島を含む東アジアでは、[[鯨神]]や[[えびす]]信仰の対象としてクジラを神聖視する事例が目立ち、積極的な捕獲を忌諱していた地域が多かったとされる。それゆえか、日本では[[伊勢湾]]周辺で商業捕鯨が発祥して各地に伝播するまでは、各地域において積極的な捕鯨が大々的に行われていたという記録は存在しない。</ref><ref>{{cite web|author=Fynn Holm |date=2023-08|url=https://www.cambridge.org/us/universitypress/subjects/history/east-asian-history/gods-sea-whales-and-coastal-communities-northeast-japan-c1600-2019 |title=The Gods of the Sea |work=Cambridge Oceanic Histories|pages=|website=[[ケンブリッジ大学出版局]]|access-date=2023-11-18}}</ref>、瞬く間に「関東諸浦」に拡大した<ref name=Miura>[[三浦浄心]], [[寛永]]後期, 『[[見聞集|慶長見聞集]]』,巻8,「関東海にて鯨つく事」</ref>。東京湾一帯では、三浦半島における操業<ref group="注釈">具体的に対象としていた鯨種は不明。</ref>と[[鋸南町]]沖の[[浮島 (千葉県)|浮島]]では[[ツチクジラ]]を主対象とした組織的な捕鯨が発達した<ref name=Kawano>河野博, 2011年, 『東京湾の魚類』, 第323頁, [[平凡社]]</ref>。しかし乱獲が進行し<ref group="注釈">「関東諸浦」では年に平均して100-200頭の捕獲がされていたが、20年ほどで年に4-5頭の捕獲にまで減少した。これは、[[三浦浄心]]が「このままでは後世にはクジラが消えるだろう」と憂慮した通りであった。</ref><ref group="注釈">古式捕鯨の主対象とされていた沿岸性の[[ヒゲクジラ]]類は、おそらく当時はすでに関西における古式捕鯨によって減少していたとみられる。これらの種類は[[回遊]]の途上で東京湾周辺を通過していた可能性が高く、「関東諸浦」で捕獲されていた鯨種にもこれらの沿岸性のヒゲクジラ類もふくまれていた可能性は高いものの、主立った捕獲対象は[[ツチクジラ]]以外は不明となっている。</ref><ref name=Miura /><ref>[https://proto.harisen.jp/mono/mono/kujira-kantou.html 鯨(関東)]</ref>、[[江戸時代]]から[[明治時代]]を境に東京湾や[[三浦半島]]への大型鯨類<ref group="注釈">とくに[[ヒゲクジラ]]類や[[ツチクジラ]]など。</ref>の安定した回遊は消滅したと思わしい<ref name=Kawano />。 哺乳類ではないが、ヒゲクジラ類と食性等に類似性が強い[[ウバザメ]]も、1970年代までの乱獲の結果、太平洋全体で絶滅危惧種となり、東京湾一帯だけでなく[[日本列島]]や[[東アジア]]全体でも以降の確認は非常に少ない<ref>[https://kokushi.fra.go.jp/H28/H28_34.pdf ウバザメ 日本周辺], 平成28年度国際漁業資源の現況 </ref><ref>{{Cite web|和書|author=|date=2016-03-29|url=https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-73594.html |title=【速報】定置網に6メートルウバザメ 横須賀・佐島漁港|work=|pages=|website=[[神奈川新聞]]|access-date=2023-11-17}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=加登岡大希, 崎山直夫, 瀬能宏|date=2022-03|url=https://nh.kanagawa-museum.jp/www/contents/1646463767263/simple/43_05_Katooka_et_al.pdf |title=ウバザメ(ネズミザメ目ウバザメ科)幼魚の相模湾における記録と全世界における出現状況|work=神奈川自然誌資料第43号|pages=53-60|website=[[神奈川県立生命の星・地球博物館]]|access-date=2023-11-16}}</ref>。 === 赤潮と青潮 === [[多摩川]]、[[鶴見川]]、[[荒川 (関東)|荒川]]、[[隅田川]]<ref>{{Cite web|和書|author=とりくらりゅうせん(トコトコ鳥蔵) |title=昭和21年撮影の東京上空からみた東京湾口 |url=https://twitter.com/torikuraryusen/status/1525437269011988480/photo/1 |language=日本語 |accessdate=2023-06-01}}</ref>、[[江戸川]]、[[小櫃川]]などが注いでいるが、湾口が狭く外海との海水の交換は行われにくい。そのため[[プランクトン]]の異常発生である[[赤潮]]が度々発生してきた。 1960年代から1970年代の東京湾沿岸部の埋め立ての際、埋め立て土砂を海底から採取したために、流れの悪い[[浚渫]]窪地ができた。ここに[[貧酸素水塊]]と[[栄養塩]]が溜まり、[[嫌気性生物|嫌気性細菌]]により大量の[[硫化水素]]が発生する。このことが[[青潮]]の発生源の一つとなっている。現在の東京湾では約1億立方メートルの浚渫窪地が存在する。 === 干潟の再生 === 江戸時代から現代にかけて、沿岸や浅瀬が相次ぎ埋め立てられた。これにより湾内には明治・[[大正]]期に造られた[[海堡]](かいほ)を始め、70を超える[[人工島]]がある<ref>加藤庸二『東京湾諸島』(駒草出版)</ref>。対して、自然島は現在[[横須賀市]]沖の[[猿島]]及び[[鋸南町]]沖の[[浮島 (千葉県)|浮島]]等がある。 沿岸の埋め立てに伴い[[干潟]]面積は大きく減少しているが、海水の浄化作用があること、海生生物や[[野鳥]]の生息に欠かせない自然環境であることから、残された天然の干潟に対する保護運動が起きている。現在、東京湾に残る干潟は以下の通り。 * [[野島 (神奈川県)|野島海岸]]([[神奈川県]]) * [[多摩川]]河口干潟 * [[三枚洲]]([[東京都]]) * [[三番瀬]]([[千葉県]]) * [[谷津干潟]](千葉県) * [[盤洲干潟]](千葉県) * [[富津干潟]](千葉県) 干潟は東京湾に生息する[[スズキ (魚)|スズキ]]や[[鯛|タイ]]、[[貝]]類など[[日本]][[固有種]]を含む漁業価値の高い魚介類の稚魚の生息地となっており、これを保護・拡張することは環境面のみならず東京湾の漁業や観光([[釣り]])などの事業価値を高めることにもつながるため、その価値は大変高いものである。 東京都[[港区 (東京都)|港区]]の[[お台場]]では、[[1990年代]]以降砂を運んで人工の干潟を作る試みが行われている。この人工干潟では、[[アサリ]]を始めとする生き物が戻りつつある<ref>{{Cite web|和書|title=アサリやマハゼ・アユの稚魚で知る人工干潟の重要性 |newspaper=[[東京都島しょ農林水産総合センター]] |url=http://www.ifarc.metro.tokyo.jp/26,349,52,213.html |accessdate=2014-6-1}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=内湾調査平成19年10月 東なぎさとお台場人工干潟の貝類生息環境の違いについて |newspaper=[[東京都島しょ農林水産総合センター]] |url=http://www.ifarc.metro.tokyo.jp/22,1327,47.html |accessdate=2014-6-1}}</ref>。 ===合流式下水道越流水問題=== [[雨]]水も[[生活排水]]などの下水も、[[下水道]]を通じて[[下水処理場]]まで運んでいる場合、大量の雨水が下水道に流れ込んでしまい、下水道管で受け止めきれなかった一定量については、汚水未処理のまま河川の公共水域に放流せざるを得ない状況が発生しており、大雨時には放流海域での[[大腸菌]]数の増加など、環境影響が発生している。 === 家庭排水対策 === [[化学的酸素要求量]](COD)の上昇などで示される東京湾の水質汚濁は、[[富栄養化]]の原因物質である[[窒素]]、[[リン]]ともに約7割が家庭排水によるものであり、その主たるものは[[屎尿|糞尿]]である。 対策として、合併浄化槽の整備や下水処理場の高度化、合流式下水道の改善などが行われている<ref>{{PDFlink|[https://www.kankyo.metro.tokyo.jp/water/attachement/%E3%81%8D%E3%82%8C%E3%81%84%E3%81%AA%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B9%BE%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%A6%28H20.12.16%29.pdf きれいな東京湾を目指して]}}</ref>。 === 海洋清掃船 === 東京湾内の浮遊ゴミおよび浮遊油を回収する目的で、清掃兼油回収船「[[べいくりん]]」が[[国土交通省]][[関東地方整備局]]・千葉港湾事務所により運用されている<ref>[https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/chiba/bayclean/index.html べいくりん]関東地方整備局千葉港湾事務所(2019年10月14日閲覧)</ref>。 == 交通 == === 東京湾を横断する交通 === * [[東京湾アクアライン]] * [[東京湾フェリー]] === 東京湾を発着する旅客船の施設・運航事業者 === * [[東京港]] * [[東京都観光汽船]] * [[横浜港#航路]] * [[千葉港#航路]] === 東京湾沿いの陸上交通 === * [[首都高速湾岸線]] ==架空の東京湾埋め立て都市== *『[[AKIRA (漫画)]]』の[[ネオ東京]] *『[[機動警察パトレイバー]]』の[[バビロンプロジェクト]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 菊池利夫『東京湾史』大日本図書印刷、1974年 * 児玉幸多『東京都の地名(日本歴史地名大系 13)』[[平凡社]]、2002年、ISBN 4-582-49013-1 * 盛本昌広『日本中世の贈与と負担』 校倉書房〈歴史科学叢書〉、1997年、ISBN 978-4-7517-2750-8 == 関連項目 == {{Commonscat|Tokyo Bay}} === 地形 === * [[館山湾]]-広義の東京湾内にある湾。 * [[根岸湾]] * [[海獺島]] * [[吾妻島]] * [[浮島 (千葉県)]] === 沿岸開発 === * [[京浜港]] * [[ウォーターフロント]] * [[天王洲アイル]] * [[東京臨海副都心]] * [[幕張新都心]] * [[横浜みなとみらい21]] * [[横浜・八景島シーパラダイス]] * [[海ほたるパーキングエリア]] * [[観音埼灯台]] === 水産 === * [[御膳海苔]] * [[上総ノリ]] * [[木更津ノリ]] * [[打瀬網漁]] === 交通 === * [[京葉シーバース]] * [[東京湾納涼船]] === 事故、災害など === * [[全日空羽田沖墜落事故]] * [[日本航空350便墜落事故]] * [[関東大水害]] * [[東京湾炎上]]-架空のテロを描いた[[パニック映画]]。 == 外部リンク == * [https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TB_Renaissance/ 東京湾再生推進会議] - 海上保安庁海洋情報部 * [https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/kaisyo/tokyo_kankyo/tokyo_menu.htm 東京湾環境保全調査] - 第三管区海上保安本部海洋情報部 * [http://tokyowangaku.info/ 東京湾学会] * {{Kotobank}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:とうきようわん}} [[Category:東京湾|*]] [[Category:太平洋の湾]] 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GIMP
GIMP(ギンプ、ジンプ、GNU Image Manipulation Program)は、GNU GPL の下で配布されているビットマップ画像編集・加工ソフトウェア(ペイントソフト)。 GIMPは1995年に Spencer Kimball(英語版) と Peter Mattis(英語版) が開発を始めた。 レイヤー、トーンカーブ、ヒストグラム、画像の形状からの切り抜き、ブラシエディタ、パスの編集、多種多様なプラグインなどに加え、モザイク編集や、アニメーション合成(GIFアニメーション)を行うなどといったフィルタ機能も数多く備えており、これ一つで、コンピュータ上のほとんどの画像編集は行える。しかし多機能性を外部プラグインやスクリプトなどに頼っているため起動時の読み込み量が多く、時間がかかる。 もともとウェブ用のグラフィック編集を想定して開発されたソフトウェアであるため、CMYKカラーをネイティブサポートしていないなど、本格的な印刷業務には向いていないという面もある。 基本的には、パレット上のツールボックスから機能を選択して画像の編集を行うというオーソドックスなソフトウェアだが、SDIで、かつ、いくつもボックスを持つなど、長らくインターフェイスに癖があった。しかし、2.6からはユーティリティウィンドウが実装され、今までのツールボックス等のウィンドウを、一つの親ウィンドウで管理できるようになり、2.8からはすべてを一つのウインドウに統合する「シングルウインドウモード」が実装された。 対話的な使い方の他にもSchemeを使った「Script-Fu」を用いてスクリプトを作り自動化することができる。なお、Script-Fuの名はカンフー (Kung-fu) からきている。現在ではPerl、Python、Tcl、Rubyなどの言語でスクリプトを書く環境もある。このスクリプト処理は完全に非対話的な自動処理も書ける。ImageMagickの方が簡単にすばやく自動化処理を行えるが、GIMPの方がはるかに強力な画像編集機能を使える。 カラーマネジメント対応については、バージョン2.4より作業中の画像に対してカラープロファイルの割り当て(埋め込み)が可能になったほか、プロファイルが埋め込まれた画像のカラーを適切に画面上で確認するための仕組みが整備された。同様に、CMYK出力時の色味をシミュレートするソフトプルーフの機能も提供されている。カラープロファイルが埋め込まれた画像ファイルの読み込み・保存は、各形式に対応するプラグインの実装に依存しており、従来よりJPEG、TIFF、PNG形式でサポートされていた。バージョン2.4以降はカラーマネジメント関連機能の整備に伴い、ネイティブ形式である XCF形式でもサポートされるようになった。 GIMPはX Window System向けに制作され、多くのデスクトップ向けUnix系OS上ではデフォルトで同梱されている。現在はWindows版やmacOS版も利用可能である。macOS版はバージョン2.8.2からmacOSにネイティブ対応し、X11環境が不要になった。 GTKは本来はGIMPのために制作されたライブラリでありGIMPの一部だったが、ここから派生して現在では広く使われるGUI向けのライブラリになっている。 gettextの仕組みを使って多言語対応している。 GIMP は以下のファイル形式を開いたり保存したりすることができる。 GIMP は以下の形式をインポートできる(開けるが保存できない): GIMP は以下の形式をエクスポートできる(保存できるが開けない): 「ウィルバー (Wilber)」がGIMPのマスコットである。 GIMP をベースにしたいくつかの派生バージョンやカスタマイズパッケージが存在する。
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GIMPは、GNU GPL の下で配布されているビットマップ画像編集・加工ソフトウェア(ペイントソフト)。
{{出典の明記|date=2023年11月}} {{Infobox Software |名称 = GIMP |ロゴ = [[ファイル:The GIMP icon - gnome.svg|80px]] |スクリーンショット = [[File:Gimp-2.10.8-ja.png|300px]] |説明文 = GIMP Ver.2.10.8 のスクリーンショット |開発者 = |開発元 = [https://developer.gimp.org/ The GIMP Development Team] |初版 = {{Start date |1996|01|}} |frequently updated = yes<!-- バージョンを更新するときはこのページを編集せず、番号部分をクリックしてその先のテンプレートで番号と日付を更新してください --> |プログラミング言語 = [[C言語|C]]、[[GTK (ツールキット)|GTK]] |対応OS = [[クロスプラットフォーム]] |エンジン = |対応プラットフォーム = |サイズ = |対応言語 = [[多言語]] |サポート状況 = 開発中 |種別 = [[ラスターグラフィックエディタ]] |ライセンス = [[GNU General Public License|GPL]] |公式サイト = {{conditionalURL}} }} '''GIMP'''(ギンプ、ジンプ、'''G'''NU '''I'''mage '''M'''anipulation '''P'''rogram)は、[[GNU General Public License|GNU GPL]] の下で配布されている[[ビットマップ画像]]編集・加工ソフトウェア([[ペイントソフト]])。 == 概要 == [[File:Gimp brushes.png|thumb |[[GNOME]]におけるブラシダイアログ]] [[File:Layers Channels Paths.gif|thumb |レイヤー、チャンネル、パスという3つのドックとタブを持つダイアログのアニメーション]] [[File:gimp 2.2.8 Mac.png|thumb|300px|GIMP 2.2.8をmacOSの[[XQuartz]]環境下で実行中]] GIMPは[[1995年]]に {{仮リンク|Spencer Kimball|en|Spencer Kimball (computer programmer)}} と {{仮リンク|Peter Mattis|en|Peter Mattis}} が開発を始めた<ref>{{Cite book|和書 | author= GLYN MOODY 小山祐司監訳 | title= ソースコードの反逆 | year=2002 | date=2002-6-11 | publisher=[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]|isbn = | page=305 }}</ref>。 レイヤー、トーンカーブ、ヒストグラム、画像の形状からの切り抜き、ブラシエディタ、パスの編集、多種多様なプラグインなどに加え、モザイク編集や、アニメーション合成([[GIFアニメーション]])を行うなどといったフィルタ機能も数多く備えており、これ一つで、コンピュータ上のほとんどの[[画像編集]]は行える。しかし多機能性を外部プラグインやスクリプトなどに頼っているため起動時の読み込み量が多く、時間がかかる。 もともとウェブ用のグラフィック編集を想定して開発されたソフトウェアであるため、[[CMYK]]カラーをネイティブサポートしていない<ref group="注釈">プラグインの追加によりTIFF形式でのインポート、TIFF/JPEG/PSD形式でのエクスポートは可能</ref>など、本格的な印刷業務には向いていないという面もある。 基本的には、パレット上のツールボックスから機能を選択して画像の編集を行うというオーソドックスなソフトウェアだが、[[Single Document Interface|SDI]]で、かつ、いくつもボックスを持つなど、長らくインターフェイスに癖があった。しかし、2.6からはユーティリティウィンドウが実装され、今までのツールボックス等のウィンドウを、一つの親ウィンドウで管理できるようになり、2.8からはすべてを一つのウインドウに統合する「シングルウインドウモード」が実装された。 対話的な使い方の他にも[[Scheme]]を使った「Script-Fu」を用いてスクリプトを作り自動化することができる。なお、Script-Fuの名は[[功夫|カンフー]] (Kung-fu) からきている。現在では[[Perl]]、[[Python]]、[[Tcl]]、[[Ruby]]などの言語でスクリプトを書く環境もある。このスクリプト処理は完全に非対話的な自動処理も書ける。[[ImageMagick]]の方が簡単にすばやく自動化処理を行えるが、GIMPの方がはるかに強力な画像編集機能を使える。 カラーマネジメント対応については、バージョン2.4より作業中の画像に対して[[カラーマネージメントシステム#ICCプロファイル|カラープロファイル]]の割り当て(埋め込み)が可能になったほか、プロファイルが埋め込まれた画像のカラーを適切に画面上で確認するための仕組みが整備された<ref group="注釈">ディスプレイフィルタと呼ばれる種類のモジュールによって実現されている</ref>。同様に、CMYK出力時の色味をシミュレートするソフトプルーフの機能も提供されている。カラープロファイルが埋め込まれた画像ファイルの読み込み・保存は、各形式に対応するプラグインの実装に依存しており、従来よりJPEG、TIFF、PNG形式でサポートされていた。バージョン2.4以降はカラーマネジメント関連機能の整備に伴い、ネイティブ形式である XCF形式でもサポートされるようになった。 GIMPは[[X Window System]]向けに制作され、多くのデスクトップ向け[[Unix系]]OS上ではデフォルトで同梱されている。現在は[[Microsoft Windows|Windows]]版や[[macOS]]版も利用可能である。macOS版はバージョン2.8.2からmacOSにネイティブ対応し、X11環境が不要になった。 [[GTK (ツールキット)|GTK]]は本来はGIMPのために制作されたライブラリでありGIMPの一部だったが、ここから派生して現在では広く使われる[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]向けのライブラリになっている。 [[gettext]]の仕組みを使って多言語対応している。 == 歴史 == * [[1996年]][[1月]] - 最初の公式リリースとなる GIMP 0.54 がリリースされた<ref name="ancient_history">http://gimp.org/about/ancient_history.html</ref>。名称は、Image Manipulation Program(画像編集プログラム)に、1994年の映画[[パルプ・フィクション]]に登場する覆面男ギンプと同じ綴りにするためにGeneral(全般的)を前に付けてGIMPとした<ref>{{cite web|url=https://www.xach.com/gg/1997/1/profile/1/|title=Spencer Kimball and Peter Mattis|publisher=GIMP Gazette|accessdate=2022-04-19}}</ref>。 * [[1997年]] - [[GNUプロジェクト]]に参加し、名前のGをGNUの略とした<ref>{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20120628231352/http://gimp.org/docs/userfaq.html#Gimp|title=FREQUENTLY ASKED QUESTIONS|publisher=The GIMP Team|accessdate=2022-04-19}}</ref>。 * [[1998年]][[6月2日]] - 最初の正式版リリースとなる GIMP 1.0 がリリースされた<ref name="ancient_history" />。 * [[2000年]]12月25日 - GIMP 1.2.0リリース<ref name="recent_history">http://gimp.org/about/history.html</ref>。 * [[2004年]] ** [[3月24日]] - GIMP 2 最初のリリースとなる GIMP 2.0 がリリースされた<ref name="recent_history" />。 ** 12月19日 - GIMP 2.2.0 リリース<ref name="recent_history" />。 * [[2007年]]10月24日 - GIMP 2.4.0 がリリースされた<ref name="recent_history" />。 * [[2008年]]10月1日 - GIMP 2.6.0 がリリースされた<ref>[http://lists.xcf.berkeley.edu/lists/gimp-announce/2008-October/000104.html ANNOUNCE: GIMP 2.6.0](2008年10月1日18時56分(UTC))</ref>。 * [[2012年]]5月3日 - GIMP 2.8.0 がリリースされた<ref>[http://www.gimp.org/release-notes/gimp-2.8.html GIMP 2.8 Release Notes]</ref>。このバージョンからシングルウインドウモードが導入された。 * [[2018年]]4月27日 - GIMP 2.10.0 がリリースされた<ref>[https://www.gimp.org/release-notes/gimp-2.10.html GIMP 2.10 Release Notes]</ref>。ユーザーインターフェースが更新され、イニシャルHiDPIが導入された。 == ファイル形式 == GIMP は以下の[[ファイルフォーマット|ファイル形式]]を開いたり保存したりすることができる<ref>{{ウェブアーカイブ |deadlink=yes |title=GIMP supported image formats |url=http://www.gimphelp.org/formats.shtml {{リンク切れ|date=2017年10月}} |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151025153320/http://www.gimphelp.org/formats.shtml |archiveservice=[[インターネットアーカイブ]] |archivedate=2015-10-25}}</ref>。 * GIMP [[XCF]]、ネイティブ形式(.xcf、もしくは.xcf[[gzip|.gz]]や.xcf[[Bzip2|.bz2]]として圧縮されたもの) * [[オートデスク|Autodesk]] flic動画 (.fli) * [[DICOM]](.dcmもしくは.dicom) * [[OpenRaster]] [[Adobe]]社のPSDの代替として開発されているフォーマット形式(.ora) * [[PostScript]]文書(.ps、.ps.gzおよび.eps) * [[FITS]]天文画像(.fits、もしくは.fit) * [[Scalable Vector Graphics]]、パスのエクスポート用 (.svg) * Microsoft Windows の[[ICO (ファイルフォーマット)|アイコン]] (.ico) * Microsoft の無圧縮[[Audio Video Interleave|AVI]]ビデオ (.avi) * [[Windows bitmap]] (.bmp) * [[Corel Paint Shop Pro]]画像(.pspまたは.tub) * [[Adobe Photoshop]]文書 (.psd、.pdd) * [[PNM (画像フォーマット)|PNM]]画像(.pnm、.ppm、.pgm、および.pbm) * Compuserve [[Graphics Interchange Format]]画像と動画 (.gif) * [[JPEG|Joint Photographic Experts Group]]画像(.jpeg、.jpg、もしくは.jpe) * [[Portable Network Graphics]] (.png) * [[KISekae Set system|KISS]]のセル (.cel) * [[Tagged Image File Format]](.tiffか.tif) * [[TGA|TARGA]] (.tga) * [[X Window System|X]] bitmap画像(.xbm、.icon、もしくは.bitmap) * X pixmap画像 (.xpm) * X Windowダンプ (.xwd) * Zsoft [[PCX]] (.pcx) GIMP は以下の形式をインポートできる(開けるが保存できない): * Adobe [[Portable Document Format|PDF]]ファイル (.pdf) * [[RAW画像]](多数の拡張) GIMP は以下の形式をエクスポートできる(保存できるが開けない): * [[HyperText Markup Language|HTML]]、色つきのセルを使った表として (.html) * [[C言語]]のソースファイル、配列として(.cまたは.h) * [[Multiple-image Network Graphics]]、レイヤ付き画像ファイル (.mng) * [[アスキーアート]]もしくはHTML、画像を構成する文字や記号で == マスコット == [[ファイル:Exquisite-gimp2_0.png|thumb|ウィルバー (Wilber)]] 「ウィルバー (Wilber)」がGIMPの[[マスコット]]である。 == 派生品 == GIMP をベースにしたいくつかの派生バージョンやカスタマイズパッケージが存在する。 ; [https://www.gimpshop.com/ GIMPshop] : [[Adobe Photoshop]] とメニューの並び順を同じにしている。 ; [https://sourceforge.net/projects/seashore/ Seashore] : [[macOS]]向けにシンプル化したもの。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} * [[G'MIC]] - GIMPプラグインの一つ * [[GNOME]] * [[Krita]] * [[Inkscape]] - オープンソースで開発されている[[ドローソフト]] * [[Adobe Photoshop]] * [[Corel Paint Shop Pro]] * [[Corel PHOTO-PAINT]] * [[Tango Desktop Project]] - GIMPのメニュー画面のアイコンは、このプロジェクトによるガイドラインに沿って開発されている。 == 外部リンク == {{Wikibooks|GIMP}} {{Commons&cat|GIMP}} === 公式 === * {{official website|name=GIMP}} {{en icon}} * [https://docs.gimp.org/ GIMP Help] {{en icon}} * [https://www.gimp.org/registry/ GIMP Plug-In Registry] {{en icon}} * [https://developer.gimp.org/ GIMP Developer Resources] {{en icon}} * [http://wiki.gimp.org/gimp/OpenOfficeConvertion Gimp and OpenOffice Draw] {{en icon}} === GIMP コミュニティー === ; 日本語ページ * [https://web.archive.org/web/20220101121117/https://www.meiji.ac.jp/wsys/edu-info/6t5h7p00000ibrg4-att/GIMP.pdf] 明治大学による2.10.8の解説 * [https://docs.gimp.org/2.10/ja/] 公式による2.10の解説 ; 英語ページ * [https://www.gimp.org/downloads/ GIMP for Windows] {{en icon}} Windows用パッケージ(多言語対応)の公開サイト * [http://gug.criticalhit.dk/ GIMP User Group] {{en icon}} * [http://www.gimpusers.com/ gimpuser.com] {{en icon}} * [http://www.gimpppa.org/ GIMP Professional Presets Archives] {{en icon}} * GIMP for Windows user mailing list(現在は稼働していない)の ([http://www.spinics.net/lists/gimpwin/ Read-only archive]) {{GNU}} {{Raster graphics editors}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:GIMP}} [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:グラフィックデザイン]] [[Category:グラフィックソフトウェア|GIMP]] [[Category:ペイントソフト|GIMP]] [[Category:GTKを使用するソフトウェア]] [[Category:1996年のソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/GIMP
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1659年
1659年(1659 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1659年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1659}} {{year-definition|1659}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[万治]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2319年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[順治]]16年 ** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]13年 ** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]): [[定武]]14年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]10年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3992年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永寿 (黎朝)|永寿]]2年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]22年 * [[仏滅紀元]] : 2201年 - 2202年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1069年 - 1070年 * [[ユダヤ暦]] : 5419年 - 5420年 * [[ユリウス暦]] : 1658年12月22日 - 1659年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1659}} == できごと == * [[4月21日]] - [[岩代・下野地震]]。 * [[5月25日]] - [[リチャード・クロムウェル]]、[[護国卿]]を辞任。 * [[11月17日]] - [[ピレネー条約]]締結、[[三十年戦争]]以降も継続した[[フランス]]・[[スペイン]]間の戦争終結。([[カタルーニャ州|カタルーニャ]]領[[ルシヨン]]等をフランスに割譲、スペイン王女[[マリー・テレーズ・ドートリッシュ|マリア・テレサ]]と[[ルイ14世]]の結婚等を内容とし、フランスの優位が明確となった。) * [[隅田川]]に[[両国橋]]が架橋される([[1661年]]説もあり)。 * [[明]]の遺臣・[[朱舜水]]が[[長崎市|長崎]]に亡命。 * フランスが[[セネガル]]に植民地[[サン=ルイ (セネガル)|サン・ルイ]]を建設。 == 誕生 == {{see also|Category:1659年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月10日]](万治元年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]]) - [[柳沢吉保]]、幕府[[側用人]]・[[譜代大名]](+ [[1714年]]) * [[2月1日]] - [[ヤーコプ・ロッヘフェーン]]、[[探検家]](+ [[1729年]]) * [[3月26日]] - [[ウィリアム・ウラストン]]([[w:William Wollaston|William Wollaston]])、[[哲学者]](+ [[1724年]]) * [[4月29日]](万治2年[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]) - [[伊達綱村]]、[[仙台藩]]第4代[[藩主]](+ [[1719年]]) * [[6月3日]] - [[デイヴィッド・グレゴリー]]([[w:David Gregory|David Gregory]])、[[天文学者]](+ [[1708年]]) * [[6月26日]](万治2年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[松平正久]]、[[若年寄]]、[[奏者番]](+ [[1720年]]) * [[7月20日]] - [[イアサント・リゴー]]、[[画家]](+ [[1743年]]) * [[7月30日]](万治2年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]) - [[山本常朝]]、[[武士]]、『[[葉隠]]』口述者(+ [[1719年]]) * [[9月10日]]? - [[ヘンリー・パーセル]]、[[作曲家]](+ [[1695年]]) * 月日不明 - [[大石良雄]]、[[播磨国]][[赤穂藩]][[家老]](+ [[1703年]]) == 死去 == {{see also|Category:1659年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月17日]] - [[アベル・セルヴィアン]]([[w:Abel Servien|Abel Servien]])、[[政治家]](* [[1593年]]) * [[2月27日]] - [[ヘンリー・ダンスター]]([[w:Henry Dunster|Henry Dunster]])、[[ハーバード大学]]学長(* [[1609年]]) * [[2月]] - [[アイザック・アラートン]]([[w:Isaac Allerton|Isaac Allerton]])、[[ピルグリム・ファーザーズ]]のひとり(* [[1586年]]) * [[4月15日]] - [[ジーモン・ダッハ]]、[[詩人]](* [[1605年]]) * [[5月16日]](万治2年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[片倉重長]]、仙台藩[[家老]](* [[1585年]]) * [[8月10日]] - [[フレゼリク3世 (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)|フレデリク3世]]、[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|ホルシュタイン=ゴットルプ公]](* [[1597年]]) * [[10月10日]] - [[アベル・タスマン]]、探検家(* [[1603年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1659}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1659ねん}} [[Category:1659年|*]]
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ラムダ計算
ラムダ計算(ラムダけいさん、英語: lambda calculus)は、計算模型のひとつで、計算の実行を関数への引数の評価(英語: evaluation)と適用(英語: application)としてモデル化・抽象化した計算体系である。ラムダ算法とも言う。関数を表現する式に文字ラムダ (λ) を使うという慣習からその名がある。アロンゾ・チャーチとスティーヴン・コール・クリーネによって1930年代に考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて一階述語論理の決定可能性問題を(否定的に)解いた。ラムダ計算は「計算可能な関数」とはなにかを定義するために用いられることもある。計算の意味論や型理論など、計算機科学のいろいろなところで使われており、特にLISP、ML、Haskellといった関数型プログラミング言語の理論的基盤として、その誕生に大きな役割を果たした。 ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、最小の(ユニバーサルな)プログラミング言語であるということもできる。ここでいう「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき正しく評価されるという意味である。これは、ラムダ計算がチューリングマシンと等価な数理モデルであることを意味している。チューリングマシンがハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算はよりソフトウェア的なアプローチをとっている。 この記事ではチャーチが提唱した元来のいわゆる「型無しラムダ計算」について述べている。その後これを元にして「型付きラムダ計算」という体系も提唱されている。 元々チャーチは、数学の基礎となり得るような完全な形式体系を構築しようとしていた。彼の体系がラッセルのパラドックスの類型に影響を受けやすい(例えば論理記号として含意 → を含むなら、λx.(x→α) にYコンビネータを適用してカリーのパラドックスを再現できる)ということが判明した際に、彼はそこからラムダ計算を分離し、計算可能性理論の研究のために用い始めた。この研究からチャーチは一階述語論理の決定可能性問題を否定的に解くことに成功した。 例えば、ある数に 2 を加える関数 f を考える。これは通常の書き方では f(x) = x + 2 と書くことができるだろう。この関数 f は、ラムダ計算の式(ラムダ式という)では λx. x + 2 と書かれる。変数 x の名前は重要ではなく、 λy. y + 2 と書いても同じである。同様に、この関数に 3 を適用した結果の数 f(3) は (λx. x + 2) 3 と書かれる。関数の適用は左結合である。つまり、 f x y = (f x) y である。今度は、引数(関数の入力)に関数をとりそれに 3 を適用する関数を考えてみよう。これはラムダ式では λf. f 3 となる。この関数に、先ほど作った 2 を加える関数を適用すると、 (λf. f 3) (λx. x + 2) となる。ここで、 の3つの表現はいずれも同値である。 ラムダ計算では、関数の引数は常に1つである。引数を2つとる関数は、1つの引数をとり、1つの引数をとる関数を返す関数として表現される(カリー化)。例えば、関数 f(x, y) = x − y は λx. (λy. x − y) となる。この式は慣例で λxy. x − yと省略して書かれることが多い。以下の3つの式 は全て同値となる。 ラムダ計算そのものには上で用いた整数や加算などは存在しないが、算術演算や整数は特定のラムダ式の省略であると定義することによってエンコードできる。その具体的な定義については改めて後に述べる。 ラムダ式は自由変数( λ によって束縛されていない変数)を含むこともできる。例えば、入力に関係なく常に y を返す関数を表す式 λx. y において、変数 y は自由変数である。このようなときに変数名の付け替えが必要になることがある。つまり、式 (λxy. y x) (λx. y) は λy. y (λx. y) ではなく、 λz.z (λx. y) と同値である。 ここではラムダ計算の形式的な定義を述べる。まず、記号 (identifier) の可算無限集合 {a, b, c,..., x, y, z,...} を導入する。全てのラムダ式の集合は、BNFで書かれた以下の文脈自由文法によって定義される。 最初の2つの規則は関数の定義を表しており、3つめの規則は関数に引数を適用することを表している。規則2のことをラムダ抽象(英: lambda abstraction)といい、規則3のことを関数適用(英: application)という。関数適用は左結合であることと、ラムダ抽象はその後ろに続く全ての式を束縛することの2点をもってあいまいさが排除される場合は、括弧を省略してもよい。例えば、 ((λx. ((x x) x)) (λy. y)) はより簡単に (λx. x x x) λy. y と書ける。また、非形式的な説明で述べたようにMをラムダ式としたとき、λx. (λy. M)をλxy. Mと略記する。 ラムダ抽象によって束縛されていない変数を自由変数(英: free variable)という。式 λx. (x y) において、 y は自由変数である。ある変数の出現が自由出現であるかどうかは、より正確には以下のように帰納的に定義されている。 ラムダ式の集合の上での同値関係(ここでは == と書くことにする)は、直感的には、2つのラムダ式が同じ関数を表していることである。この同値関係は以下で述べるα-変換とβ-簡約によって定義される。第3の規則としてη-変換と呼ばれる規則が導入されることもある。 アルファ変換の基本的なアイデアは、束縛変数の名前は重要ではない、ということにある。例えば、 λx. x と λy. y は同じ関数を表している。しかし、ことはそう単純ではない。ある束縛変数の名前を置換してもよいかどうかには、いくつかの規則が絡んでくる。例えば、ラムダ式 λx. λy. x 中の変数 x を y に置き換えると、 λy. λy. y となるが、これは最初の式とはまったく異なるものを表すことになる。そこでまず準備として、変数 V, W と式 E に対して、 E 中の V の全ての自由出現を W に置き換えたものを と書くことにする。この元で、アルファ変換は である。ただし、 E に W が自由出現しておらず、かつ V を置換することにより E 中で新たに W が束縛されることがないときに限る。この規則によれば、式 λx. (λx. x) x が λy. (λx. x) y に変換されることがわかる。 ベータ簡約(ベータ変換とも)の基本的なアイデアは、関数の適用である。ベータ簡約は以下の変換である。 ただし、 E′ の代入によって E′ 中の自由変数が新たに束縛されることがないときに限る。 関係 == は、上の2つの規則を含む最小の同値関係(同値閉包)である。 ベータ簡約は、(同値関係ではなく)左辺から右辺への一方的な変換であると見ることもできる。ベータ簡約の余地のないラムダ式、つまり、 ((λV. E) E′) の形(β-redex)をどこにも持っていないラムダ式を正規形(英: normal form)であるという。 上に挙げた2つの規則の他に、第3の規則としてイータ変換が導入されることがある。イータ変換の基本的なアイデアは、関数の外延性である。ここでいう外延性とは、2つの関数が全ての引数に対して常に同じ値を返すようなとき、互いに同値であるとみなすという概念である。イータ変換は以下の変換である。 ただし、 E に V が自由出現しないときに限る。 この同値性は関数の外延性という概念によって以下のように示される。 もし全てのラムダ式 a に対して f a == g a であるならば、 a として f にも g にも自由出現しない変数 x をとることによって f x == g x であり、 λx. f x == λx. g x である。この等式にイータ変換をほどこすことによって f == g が得られる。これより、イータ変換を認めるならば関数の外延性が正当であることが示される。 逆に、関数の外延性を認めるとする。まず、全ての y に対してラムダ式 (λx. f x) y はベータ変換でき、 (λx. f x) y == f y となる。この同値関係は全ての y について成り立っているので、関数の外延性より λx. f x == f である。以上によって、関数の外延性を認めたときのイータ変換の正当性が示される。 上で述べたように、ラムダ計算は計算可能な全ての関数を表現することができる。また、上では 2 + 3 のような算術をラムダ式の一部として用いた。 2 + 3 などは計算可能であるから、もちろんラムダ計算による表現が可能である。もちろん、 2 + 3 以外にも計算可能な全ての関数の表現が可能である。ここではそれらのうちの主なものを紹介する。 自然数をラムダ式で表現する方法はいくつか異なる手法が知られているが、その中でもっとも一般的なのはチャーチ数(英語版)(英: Church numerals)と呼ばれるもので、以下のように定義されている。 以下同様である。直感的には、数 n はラムダ式では f という関数をもらってそれを n 回適用したものを返す関数である。つまり、チャーチ数は1引数関数を受け取り、1引数関数を返す高階関数である。(チャーチの提唱した元々のラムダ計算は、ラムダ式の引数が少なくとも一回は関数の本体に出現していなくてはならないことになっていた。そのため、その体系では上に挙げた 0 の定義は不可能である。) 上のチャーチ数の定義のもとで、後続(後者)を計算する関数、すなわち n を受け取って n + 1 を返す関数を定義することができる。それは以下のようになる。 また、加算は以下のように定義できる。 または単にSUCCを用いて、以下のように定義してもよい。 PLUS は2つの自然数をとり1つの自然数を返す関数である。この理解のためには例えば、 PLUS 2 3 == 5 であることを確認してみるとよいだろう。また、乗算は以下のように定義される。 この定義は、 m と n の乗算は、 0 に n を m回加えることと等しい、ということを利用して作られている。もう少し短く、以下のように定義することもできる。 正の整数 n の先行(前者)を計算する関数 PRED n = n − 1 は簡単ではなく、 もしくは と定義される。上の部分式 (g 1) (λu. PLUS (g k) 1) k は、 g(1) がゼロとなるとき k に評価され、そうでないときは g(k) + 1 に評価されることに注意せよ。 TRUE や FALSE といった真理値は慣習的に以下のように定義されることが多い。これらはチャーチ真理値(英語版)(英: Church booleans)とよばれている。 これらの真理値に対して論理記号を定義することができる。たとえば、以下のようなものがある。 これらの記号を使った計算の例を挙げる。 以上より、 AND TRUE FALSE が FALSE と等しいことがわかる。 「述語」とは、真理値を返す関数のことである。計算論において最も基本的な述語は ISZERO で、これは引数がチャーチ数の 0であった場合には TRUE を、そうでなければ FALSE を返す関数であり、以下のように定義できる。 (2つ組の)順序対のデータ型は、 TRUE および FALSE を用いて定義することができる。これらはチャーチ対(英語版)(英: Church pairs)とよばれている。 リンク型のリスト構造は、空リストのために特定の予約された値(例えば FALSE )を用い、リストをその先頭要素と後続リストの CONS 対として表現することによって実現できる。 再帰とは自分自身を関数として使用することで、ラムダ計算では表面上は再帰操作は許されていないように見える。しかし少し工夫することによってラムダ計算でも再帰を実現できる。例として階乗を計算する関数 f(n) を考えてみよう。この関数は再帰的に以下のように定義できる。 ラムダ計算では自分自身を含む関数は定義できない。この問題を解決するためにまず、 f を引数にとり n を引数にとる関数を返すg という関数を考える。 関数 g は 1 か n × f(n − 1) を返すような関数を返す。上述の ISZERO や算術、論理記号の定義を用いれば、この関数 g はラムダ式で定義することができる。 しかし、これでは g 自身はまだ再帰的ではない。 g を用いて再帰的な階乗関数を作り出すためには、 g に対して引数 f として渡されている関数が、ある性質を持つ必要がある。すなわち、この f を展開すると関数 g がある一つの引数を伴った形になり、さらにその g への引数は先ほどf として渡された関数に再びなる必要がある。 この性質は言い換えると、 f は g ( f )に展開される必要があるということだ。この g の呼び出しは先ほどの階乗関数に展開され、再帰の段階を一段降りる計算をしている。この展開において、関数 f が再度出現する。そして、この関数 f は再度 g ( f )に展開され、再帰が続いていく。この f = g ( f )となるような関数は、 g の不動点と呼ばれる。そして、この不動点は不動点コンビネータとして知られるものによってラムダ計算で表現することが出来る。この不動点コンビネータは Y と表される -- Yコンビネータ: ラムダ計算では、 Y g は g の不動点となる。つまり、 g (Y g) == Y g となる。このもとで、 n の階乗を計算するには単に g (Y g) n を呼び出せばよい。ここで、 n は上述したチャーチ数である。 n = 5 として、評価の例を見てみよう。 アルゴリズムの構造が再帰的に評価されているのがわかるだろう。再帰的に定義される関数は全て他の適当な関数の不動点となっているため、 Y を用いることで全ての再帰的な関数をラムダ式で表現することができる。たとえば、自然数に対する除算、乗算や比較述語を再帰を用いてよりきれいに定義することができる。 自然数から自然数への関数 F: N → N が計算可能であるということは、全ての自然数の対 X, Y に対して F(X) = Y と f x == y が同値となるようなラムダ式 f が存在すること、と定義することができる。ここで、 x, y はそれぞれ X, Y に対応するチャーチ数によるラムダ式である。この定義は、計算可能性を定義する多くの方法のうちのひとつである。より詳しくは、チャーチ-チューリングの提唱の項を見よ。 2つのラムダ式を入力とし、それらが同値であるかどうかを判定するアルゴリズムは存在しない。これは決定不可能性が示された歴史的に最初の問題である。ここで使われる「アルゴリズム」という言葉も、もちろんきちんと定義されなければならない。チャーチは自身の証明の中で帰納的関数をその定義に用いたが、現在ではこれは適切なその他のアルゴリズムの定義と等価であることが知られている。 チャーチの証明ではこの問題を、あたえられたラムダ式に正規形が存在するかどうかという問題に帰している。正規形とは、それ以上簡約のできない同値なラムダ式のことである。チャーチの証明ではまず、この問題が決定可能である、つまり、ラムダ式で表現可能であると仮定する。クリーネによる結果とゲーデル数のラムダ式表現を用いることによってチャーチは、対角線論法によりパラドキシカルなラムダ式 e を構成した。この e を、それ自身を表すゲーデル数に適用すると矛盾が導かれる。 詳しくいえば次のようである。まず X {\displaystyle X} を正規形の存在性を判定するラムダ式とする。 A {\displaystyle A} を2つのラムダ式のゲーデル数から、それらを適用してできるラムダ式を計算する関数を表すラムダ式、 N {\displaystyle N} を自然数からそれを表すラムダ式の表現のゲーデル数を求める関数を表すラムダ式とする。すなわち、 が成り立つ。ここで ⌜ x ⌝ {\displaystyle \ulcorner x\urcorner } はラムダ式 x {\displaystyle x} のゲーデル数を表すラムダ式の表現である。 いま、ラムダ式 e {\displaystyle e} を と定める。ここで Ω {\displaystyle \Omega } は正規形を持たないラムダ式 ( λ x . x x ) ( λ x . x x ) {\displaystyle (\lambda x.xx)(\lambda x.xx)} である。自己適用 e ⌜ e ⌝ {\displaystyle e\ulcorner e\urcorner } を計算すると次のようになる。 もし e ⌜ e ⌝ {\displaystyle e\ulcorner e\urcorner } が正規形を持つならば、 e ⌜ e ⌝ {\displaystyle e\ulcorner e\urcorner } は Ω {\displaystyle \Omega } にベータ簡約される。するとチャーチ・ロッサーの定理より、 Ω {\displaystyle \Omega } は e ⌜ e ⌝ {\displaystyle e\ulcorner e\urcorner } と共通のラムダ式にベータ簡約できるから、 Ω {\displaystyle \Omega } は正規形を持つ。これは矛盾。したがって e ⌜ e ⌝ {\displaystyle e\ulcorner e\urcorner } は正規形を持たない。すると e ⌜ e ⌝ {\displaystyle e\ulcorner e\urcorner } は λ x . x {\displaystyle \lambda x.x} にベータ簡約されることになる。ラムダ式 λ x . x {\displaystyle \lambda x.x} は正規形であるので、やはり矛盾。したがって X {\displaystyle X} のようなラムダ式は存在しない。 一般にラムダ式の中にβ-変換できる部分式が複数ある場合、どこから評価を行うかによって評価の経過は複数存在する。それらの複数の経過からさらに評価することによって、同じラムダ式を得られる性質をチャーチ・ロッサー性、もしくは合流性と呼ぶ(チャーチ・ロッサーの定理)。また、あるラムダ式から一回のβ-簡約によって得られた二つのラムダ式が、同じラムダ式にβ-変換されるという性質は弱チャーチ・ロッサー性と呼ばれる。チャーチ・ロッサー性を持つ体系は弱チャーチ・ロッサー性も持つが、逆は必ずしもなりたたない。 チャーチ・ロッサー性は本稿で取り扱っている型無しラムダ計算の体系では成立することが知られている。しかしその他の体系、例えば型を付けて拡張されたラムダ計算の体系などに関しては、必ずしも成り立つとは限らない。 β-変換は停止しない(無限ループに陥る)場合がある。例えば次の式を適用する場合には停止しない。 ある種のラムダ計算の体系では、任意のラムダ式に対してβ-変換の停止性が保証されていることがある。どのような順序でβ-変換を行ったとしてもβ-変換が停止する性質を強正規化性といい、β-変換の順序を上手く選んだ場合にβ-変換が停止する性質を弱正規化性という。チャーチ・ロッサー性を満たし、かつ停止性を持つラムダ計算の体系では、ラムダ式をどのような順序で評価しても必ず同じ結果になることがわかる。 強正規化的であり、かつ弱チャーチ・ロッサー性を持つラムダ計算の体系はチャーチ・ロッサー性を持つ(ニューマンの補題(英語版))。 型無しラムダ計算の体系では、ある式の停止性を判断する事は決定不能であることが証明されている。 ピーター・ランディン(英語版)は1965年に発表したA Correspondence between ALGOL 60 and Church's Lambda-notationにおいて、ラムダ計算が手続的な抽象化と手続き(サブプログラム)の適用のしくみを提供しているがために、多くのプログラミング言語がラムダ計算にその基礎を置いているとみることができるとしている。 ラムダ計算をコンピュータ上に実装するには、関数を第一級オブジェクトとして取り扱う必要があり、これはスタック・ベースのプログラミング言語においては問題となってくる。これはFunarg問題(英語版)として知られている。 ラムダ計算と最も密接な関係をもつプログラミング言語は関数型言語と呼ばれる諸言語で、本質的にはいくつかの定数とデータ型を用いてラムダ計算を実装している。Lispでは関数の定義にラムダ記法の一変形を用いており、さらに、純Lispと呼ばれるLispのサブセットはラムダ計算と真に等価になっている。 関数を第一級オブジェクトとして扱えるのは関数型言語だけというわけではない。Pascalなど、多くの命令型言語ではある関数を他の関数の引数として与える操作が許されている。CやC++では関数を指すポインタやクラス型関数オブジェクトを用いて同じことが実現できる。このような機能はサブ関数が明示的に書かれている場合にのみ用いることができ、したがってこの機能がそのまま高階関数をサポートしていることにはならない。いくつかの手続的なオブジェクト指向言語では関数を任意の階数に書くことができる。Smalltalkや、より最近の言語ではEiffel(エージェント)やC#(デリゲート)などで用意されている機能がそれである。例えば、Eiffelのインライン・エージェントの機能を用いた以下のコード はラムダ式 λx. x * x (値呼び出し)に相当するオブジェクトを表している。このオブジェクトは他のあらゆるオブジェクトと同様に、変数に代入したり関数に渡したりすることができる。変数 square の値が上のエージェントのオブジェクトであるとすれば、 square に値 a を適用した結果(β-簡約)は square.item([a]) と書ける。ただしここでの引数はタプルであるとみなされる。 ラムダ計算のチャーチ・ロッサー性は、評価(β-簡約)をどの順序で行っても、さらには同時に(並行に)行ってもよいことを意味している。(より詳しくいえば、ラムダ計算は参照透過である。)このため、ラムダ計算を用いて種々の非決定的評価戦略をモデル化することができる。並列性や並行性をモデル化するためのより強力な手法として、CSP、CCS、パイ計算、アンビエント計算などのプロセス計算がある。 この記事は2008年11月1日以前にFree On-line Dictionary of Computingから取得した項目の資料を元に、GFDL バージョン1.3以降の「RELICENSING」(再ライセンス) 条件に基づいて組み込まれている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ラムダ計算(ラムダけいさん、英語: lambda calculus)は、計算模型のひとつで、計算の実行を関数への引数の評価(英語: evaluation)と適用(英語: application)としてモデル化・抽象化した計算体系である。ラムダ算法とも言う。関数を表現する式に文字ラムダ (λ) を使うという慣習からその名がある。アロンゾ・チャーチとスティーヴン・コール・クリーネによって1930年代に考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて一階述語論理の決定可能性問題を(否定的に)解いた。ラムダ計算は「計算可能な関数」とはなにかを定義するために用いられることもある。計算の意味論や型理論など、計算機科学のいろいろなところで使われており、特にLISP、ML、Haskellといった関数型プログラミング言語の理論的基盤として、その誕生に大きな役割を果たした。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、最小の(ユニバーサルな)プログラミング言語であるということもできる。ここでいう「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき正しく評価されるという意味である。これは、ラムダ計算がチューリングマシンと等価な数理モデルであることを意味している。チューリングマシンがハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算はよりソフトウェア的なアプローチをとっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "この記事ではチャーチが提唱した元来のいわゆる「型無しラムダ計算」について述べている。その後これを元にして「型付きラムダ計算」という体系も提唱されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "元々チャーチは、数学の基礎となり得るような完全な形式体系を構築しようとしていた。彼の体系がラッセルのパラドックスの類型に影響を受けやすい(例えば論理記号として含意 → を含むなら、λx.(x→α) にYコンビネータを適用してカリーのパラドックスを再現できる)ということが判明した際に、彼はそこからラムダ計算を分離し、計算可能性理論の研究のために用い始めた。この研究からチャーチは一階述語論理の決定可能性問題を否定的に解くことに成功した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "例えば、ある数に 2 を加える関数 f を考える。これは通常の書き方では f(x) = x + 2 と書くことができるだろう。この関数 f は、ラムダ計算の式(ラムダ式という)では λx. x + 2 と書かれる。変数 x の名前は重要ではなく、 λy. y + 2 と書いても同じである。同様に、この関数に 3 を適用した結果の数 f(3) は (λx. x + 2) 3 と書かれる。関数の適用は左結合である。つまり、 f x y = (f x) y である。今度は、引数(関数の入力)に関数をとりそれに 3 を適用する関数を考えてみよう。これはラムダ式では λf. f 3 となる。この関数に、先ほど作った 2 を加える関数を適用すると、 (λf. f 3) (λx. x + 2) となる。ここで、", "title": "非形式的な概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "の3つの表現はいずれも同値である。", "title": "非形式的な概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ラムダ計算では、関数の引数は常に1つである。引数を2つとる関数は、1つの引数をとり、1つの引数をとる関数を返す関数として表現される(カリー化)。例えば、関数 f(x, y) = x − y は λx. (λy. x − y) となる。この式は慣例で λxy. x − yと省略して書かれることが多い。以下の3つの式", "title": "非形式的な概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "は全て同値となる。", "title": "非形式的な概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ラムダ計算そのものには上で用いた整数や加算などは存在しないが、算術演算や整数は特定のラムダ式の省略であると定義することによってエンコードできる。その具体的な定義については改めて後に述べる。", "title": "非形式的な概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ラムダ式は自由変数( λ によって束縛されていない変数)を含むこともできる。例えば、入力に関係なく常に y を返す関数を表す式 λx. y において、変数 y は自由変数である。このようなときに変数名の付け替えが必要になることがある。つまり、式 (λxy. y x) (λx. y) は λy. y (λx. y) ではなく、 λz.z (λx. y) と同値である。", "title": "非形式的な概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ここではラムダ計算の形式的な定義を述べる。まず、記号 (identifier) の可算無限集合 {a, b, c,..., x, y, z,...} を導入する。全てのラムダ式の集合は、BNFで書かれた以下の文脈自由文法によって定義される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "最初の2つの規則は関数の定義を表しており、3つめの規則は関数に引数を適用することを表している。規則2のことをラムダ抽象(英: lambda abstraction)といい、規則3のことを関数適用(英: application)という。関数適用は左結合であることと、ラムダ抽象はその後ろに続く全ての式を束縛することの2点をもってあいまいさが排除される場合は、括弧を省略してもよい。例えば、 ((λx. ((x x) x)) (λy. y)) はより簡単に (λx. x x x) λy. y と書ける。また、非形式的な説明で述べたようにMをラムダ式としたとき、λx. (λy. M)をλxy. Mと略記する。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ラムダ抽象によって束縛されていない変数を自由変数(英: free variable)という。式 λx. (x y) において、 y は自由変数である。ある変数の出現が自由出現であるかどうかは、より正確には以下のように帰納的に定義されている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ラムダ式の集合の上での同値関係(ここでは == と書くことにする)は、直感的には、2つのラムダ式が同じ関数を表していることである。この同値関係は以下で述べるα-変換とβ-簡約によって定義される。第3の規則としてη-変換と呼ばれる規則が導入されることもある。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アルファ変換の基本的なアイデアは、束縛変数の名前は重要ではない、ということにある。例えば、 λx. x と λy. y は同じ関数を表している。しかし、ことはそう単純ではない。ある束縛変数の名前を置換してもよいかどうかには、いくつかの規則が絡んでくる。例えば、ラムダ式 λx. λy. x 中の変数 x を y に置き換えると、 λy. λy. y となるが、これは最初の式とはまったく異なるものを表すことになる。そこでまず準備として、変数 V, W と式 E に対して、 E 中の V の全ての自由出現を W に置き換えたものを", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "と書くことにする。この元で、アルファ変換は", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "である。ただし、 E に W が自由出現しておらず、かつ V を置換することにより E 中で新たに W が束縛されることがないときに限る。この規則によれば、式 λx. (λx. x) x が λy. (λx. x) y に変換されることがわかる。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ベータ簡約(ベータ変換とも)の基本的なアイデアは、関数の適用である。ベータ簡約は以下の変換である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、 E′ の代入によって E′ 中の自由変数が新たに束縛されることがないときに限る。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "関係 == は、上の2つの規則を含む最小の同値関係(同値閉包)である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ベータ簡約は、(同値関係ではなく)左辺から右辺への一方的な変換であると見ることもできる。ベータ簡約の余地のないラムダ式、つまり、 ((λV. E) E′) の形(β-redex)をどこにも持っていないラムダ式を正規形(英: normal form)であるという。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "上に挙げた2つの規則の他に、第3の規則としてイータ変換が導入されることがある。イータ変換の基本的なアイデアは、関数の外延性である。ここでいう外延性とは、2つの関数が全ての引数に対して常に同じ値を返すようなとき、互いに同値であるとみなすという概念である。イータ変換は以下の変換である。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ただし、 E に V が自由出現しないときに限る。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この同値性は関数の外延性という概念によって以下のように示される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "もし全てのラムダ式 a に対して f a == g a であるならば、 a として f にも g にも自由出現しない変数 x をとることによって f x == g x であり、 λx. f x == λx. g x である。この等式にイータ変換をほどこすことによって f == g が得られる。これより、イータ変換を認めるならば関数の外延性が正当であることが示される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "逆に、関数の外延性を認めるとする。まず、全ての y に対してラムダ式 (λx. f x) y はベータ変換でき、 (λx. f x) y == f y となる。この同値関係は全ての y について成り立っているので、関数の外延性より λx. f x == f である。以上によって、関数の外延性を認めたときのイータ変換の正当性が示される。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "上で述べたように、ラムダ計算は計算可能な全ての関数を表現することができる。また、上では 2 + 3 のような算術をラムダ式の一部として用いた。 2 + 3 などは計算可能であるから、もちろんラムダ計算による表現が可能である。もちろん、 2 + 3 以外にも計算可能な全ての関数の表現が可能である。ここではそれらのうちの主なものを紹介する。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "自然数をラムダ式で表現する方法はいくつか異なる手法が知られているが、その中でもっとも一般的なのはチャーチ数(英語版)(英: Church numerals)と呼ばれるもので、以下のように定義されている。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下同様である。直感的には、数 n はラムダ式では f という関数をもらってそれを n 回適用したものを返す関数である。つまり、チャーチ数は1引数関数を受け取り、1引数関数を返す高階関数である。(チャーチの提唱した元々のラムダ計算は、ラムダ式の引数が少なくとも一回は関数の本体に出現していなくてはならないことになっていた。そのため、その体系では上に挙げた 0 の定義は不可能である。)", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "上のチャーチ数の定義のもとで、後続(後者)を計算する関数、すなわち n を受け取って n + 1 を返す関数を定義することができる。それは以下のようになる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、加算は以下のように定義できる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "または単にSUCCを用いて、以下のように定義してもよい。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "PLUS は2つの自然数をとり1つの自然数を返す関数である。この理解のためには例えば、 PLUS 2 3 == 5 であることを確認してみるとよいだろう。また、乗算は以下のように定義される。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この定義は、 m と n の乗算は、 0 に n を m回加えることと等しい、ということを利用して作られている。もう少し短く、以下のように定義することもできる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "正の整数 n の先行(前者)を計算する関数 PRED n = n − 1 は簡単ではなく、", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "もしくは", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "と定義される。上の部分式 (g 1) (λu. PLUS (g k) 1) k は、 g(1) がゼロとなるとき k に評価され、そうでないときは g(k) + 1 に評価されることに注意せよ。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "TRUE や FALSE といった真理値は慣習的に以下のように定義されることが多い。これらはチャーチ真理値(英語版)(英: Church booleans)とよばれている。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これらの真理値に対して論理記号を定義することができる。たとえば、以下のようなものがある。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "これらの記号を使った計算の例を挙げる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以上より、 AND TRUE FALSE が FALSE と等しいことがわかる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「述語」とは、真理値を返す関数のことである。計算論において最も基本的な述語は ISZERO で、これは引数がチャーチ数の 0であった場合には TRUE を、そうでなければ FALSE を返す関数であり、以下のように定義できる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "(2つ組の)順序対のデータ型は、 TRUE および FALSE を用いて定義することができる。これらはチャーチ対(英語版)(英: Church pairs)とよばれている。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "リンク型のリスト構造は、空リストのために特定の予約された値(例えば FALSE )を用い、リストをその先頭要素と後続リストの CONS 対として表現することによって実現できる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "再帰とは自分自身を関数として使用することで、ラムダ計算では表面上は再帰操作は許されていないように見える。しかし少し工夫することによってラムダ計算でも再帰を実現できる。例として階乗を計算する関数 f(n) を考えてみよう。この関数は再帰的に以下のように定義できる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ラムダ計算では自分自身を含む関数は定義できない。この問題を解決するためにまず、 f を引数にとり n を引数にとる関数を返すg という関数を考える。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "関数 g は 1 か n × f(n − 1) を返すような関数を返す。上述の ISZERO や算術、論理記号の定義を用いれば、この関数 g はラムダ式で定義することができる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "しかし、これでは g 自身はまだ再帰的ではない。 g を用いて再帰的な階乗関数を作り出すためには、 g に対して引数 f として渡されている関数が、ある性質を持つ必要がある。すなわち、この f を展開すると関数 g がある一つの引数を伴った形になり、さらにその g への引数は先ほどf として渡された関数に再びなる必要がある。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "この性質は言い換えると、 f は g ( f )に展開される必要があるということだ。この g の呼び出しは先ほどの階乗関数に展開され、再帰の段階を一段降りる計算をしている。この展開において、関数 f が再度出現する。そして、この関数 f は再度 g ( f )に展開され、再帰が続いていく。この f = g ( f )となるような関数は、 g の不動点と呼ばれる。そして、この不動点は不動点コンビネータとして知られるものによってラムダ計算で表現することが出来る。この不動点コンビネータは Y と表される -- Yコンビネータ:", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ラムダ計算では、 Y g は g の不動点となる。つまり、 g (Y g) == Y g となる。このもとで、 n の階乗を計算するには単に g (Y g) n を呼び出せばよい。ここで、 n は上述したチャーチ数である。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "n = 5 として、評価の例を見てみよう。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "アルゴリズムの構造が再帰的に評価されているのがわかるだろう。再帰的に定義される関数は全て他の適当な関数の不動点となっているため、 Y を用いることで全ての再帰的な関数をラムダ式で表現することができる。たとえば、自然数に対する除算、乗算や比較述語を再帰を用いてよりきれいに定義することができる。", "title": "諸概念のラムダ式での表現" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "自然数から自然数への関数 F: N → N が計算可能であるということは、全ての自然数の対 X, Y に対して F(X) = Y と f x == y が同値となるようなラムダ式 f が存在すること、と定義することができる。ここで、 x, y はそれぞれ X, Y に対応するチャーチ数によるラムダ式である。この定義は、計算可能性を定義する多くの方法のうちのひとつである。より詳しくは、チャーチ-チューリングの提唱の項を見よ。", "title": "計算可能性とラムダ計算" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2つのラムダ式を入力とし、それらが同値であるかどうかを判定するアルゴリズムは存在しない。これは決定不可能性が示された歴史的に最初の問題である。ここで使われる「アルゴリズム」という言葉も、もちろんきちんと定義されなければならない。チャーチは自身の証明の中で帰納的関数をその定義に用いたが、現在ではこれは適切なその他のアルゴリズムの定義と等価であることが知られている。", "title": "同値性の決定不可能性" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "チャーチの証明ではこの問題を、あたえられたラムダ式に正規形が存在するかどうかという問題に帰している。正規形とは、それ以上簡約のできない同値なラムダ式のことである。チャーチの証明ではまず、この問題が決定可能である、つまり、ラムダ式で表現可能であると仮定する。クリーネによる結果とゲーデル数のラムダ式表現を用いることによってチャーチは、対角線論法によりパラドキシカルなラムダ式 e を構成した。この e を、それ自身を表すゲーデル数に適用すると矛盾が導かれる。", "title": "同値性の決定不可能性" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "詳しくいえば次のようである。まず X {\\displaystyle X} を正規形の存在性を判定するラムダ式とする。 A {\\displaystyle A} を2つのラムダ式のゲーデル数から、それらを適用してできるラムダ式を計算する関数を表すラムダ式、 N {\\displaystyle N} を自然数からそれを表すラムダ式の表現のゲーデル数を求める関数を表すラムダ式とする。すなわち、", "title": "同値性の決定不可能性" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "が成り立つ。ここで ⌜ x ⌝ {\\displaystyle \\ulcorner x\\urcorner } はラムダ式 x {\\displaystyle x} のゲーデル数を表すラムダ式の表現である。 いま、ラムダ式 e {\\displaystyle e} を", "title": "同値性の決定不可能性" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "と定める。ここで Ω {\\displaystyle \\Omega } は正規形を持たないラムダ式 ( λ x . x x ) ( λ x . x x ) {\\displaystyle (\\lambda x.xx)(\\lambda x.xx)} である。自己適用 e ⌜ e ⌝ {\\displaystyle e\\ulcorner e\\urcorner } を計算すると次のようになる。", "title": "同値性の決定不可能性" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "もし e ⌜ e ⌝ {\\displaystyle e\\ulcorner e\\urcorner } が正規形を持つならば、 e ⌜ e ⌝ {\\displaystyle e\\ulcorner e\\urcorner } は Ω {\\displaystyle \\Omega } にベータ簡約される。するとチャーチ・ロッサーの定理より、 Ω {\\displaystyle \\Omega } は e ⌜ e ⌝ {\\displaystyle e\\ulcorner e\\urcorner } と共通のラムダ式にベータ簡約できるから、 Ω {\\displaystyle \\Omega } は正規形を持つ。これは矛盾。したがって e ⌜ e ⌝ {\\displaystyle e\\ulcorner e\\urcorner } は正規形を持たない。すると e ⌜ e ⌝ {\\displaystyle e\\ulcorner e\\urcorner } は λ x . x {\\displaystyle \\lambda x.x} にベータ簡約されることになる。ラムダ式 λ x . x {\\displaystyle \\lambda x.x} は正規形であるので、やはり矛盾。したがって X {\\displaystyle X} のようなラムダ式は存在しない。", "title": "同値性の決定不可能性" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "一般にラムダ式の中にβ-変換できる部分式が複数ある場合、どこから評価を行うかによって評価の経過は複数存在する。それらの複数の経過からさらに評価することによって、同じラムダ式を得られる性質をチャーチ・ロッサー性、もしくは合流性と呼ぶ(チャーチ・ロッサーの定理)。また、あるラムダ式から一回のβ-簡約によって得られた二つのラムダ式が、同じラムダ式にβ-変換されるという性質は弱チャーチ・ロッサー性と呼ばれる。チャーチ・ロッサー性を持つ体系は弱チャーチ・ロッサー性も持つが、逆は必ずしもなりたたない。", "title": "チャーチ・ロッサー性" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "チャーチ・ロッサー性は本稿で取り扱っている型無しラムダ計算の体系では成立することが知られている。しかしその他の体系、例えば型を付けて拡張されたラムダ計算の体系などに関しては、必ずしも成り立つとは限らない。", "title": "チャーチ・ロッサー性" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "β-変換は停止しない(無限ループに陥る)場合がある。例えば次の式を適用する場合には停止しない。", "title": "停止性" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ある種のラムダ計算の体系では、任意のラムダ式に対してβ-変換の停止性が保証されていることがある。どのような順序でβ-変換を行ったとしてもβ-変換が停止する性質を強正規化性といい、β-変換の順序を上手く選んだ場合にβ-変換が停止する性質を弱正規化性という。チャーチ・ロッサー性を満たし、かつ停止性を持つラムダ計算の体系では、ラムダ式をどのような順序で評価しても必ず同じ結果になることがわかる。", "title": "停止性" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "強正規化的であり、かつ弱チャーチ・ロッサー性を持つラムダ計算の体系はチャーチ・ロッサー性を持つ(ニューマンの補題(英語版))。", "title": "停止性" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "型無しラムダ計算の体系では、ある式の停止性を判断する事は決定不能であることが証明されている。", "title": "停止性" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ピーター・ランディン(英語版)は1965年に発表したA Correspondence between ALGOL 60 and Church's Lambda-notationにおいて、ラムダ計算が手続的な抽象化と手続き(サブプログラム)の適用のしくみを提供しているがために、多くのプログラミング言語がラムダ計算にその基礎を置いているとみることができるとしている。", "title": "ラムダ計算とプログラミング言語" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ラムダ計算をコンピュータ上に実装するには、関数を第一級オブジェクトとして取り扱う必要があり、これはスタック・ベースのプログラミング言語においては問題となってくる。これはFunarg問題(英語版)として知られている。", "title": "ラムダ計算とプログラミング言語" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ラムダ計算と最も密接な関係をもつプログラミング言語は関数型言語と呼ばれる諸言語で、本質的にはいくつかの定数とデータ型を用いてラムダ計算を実装している。Lispでは関数の定義にラムダ記法の一変形を用いており、さらに、純Lispと呼ばれるLispのサブセットはラムダ計算と真に等価になっている。", "title": "ラムダ計算とプログラミング言語" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "関数を第一級オブジェクトとして扱えるのは関数型言語だけというわけではない。Pascalなど、多くの命令型言語ではある関数を他の関数の引数として与える操作が許されている。CやC++では関数を指すポインタやクラス型関数オブジェクトを用いて同じことが実現できる。このような機能はサブ関数が明示的に書かれている場合にのみ用いることができ、したがってこの機能がそのまま高階関数をサポートしていることにはならない。いくつかの手続的なオブジェクト指向言語では関数を任意の階数に書くことができる。Smalltalkや、より最近の言語ではEiffel(エージェント)やC#(デリゲート)などで用意されている機能がそれである。例えば、Eiffelのインライン・エージェントの機能を用いた以下のコード", "title": "ラムダ計算とプログラミング言語" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "はラムダ式 λx. x * x (値呼び出し)に相当するオブジェクトを表している。このオブジェクトは他のあらゆるオブジェクトと同様に、変数に代入したり関数に渡したりすることができる。変数 square の値が上のエージェントのオブジェクトであるとすれば、 square に値 a を適用した結果(β-簡約)は square.item([a]) と書ける。ただしここでの引数はタプルであるとみなされる。", "title": "ラムダ計算とプログラミング言語" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ラムダ計算のチャーチ・ロッサー性は、評価(β-簡約)をどの順序で行っても、さらには同時に(並行に)行ってもよいことを意味している。(より詳しくいえば、ラムダ計算は参照透過である。)このため、ラムダ計算を用いて種々の非決定的評価戦略をモデル化することができる。並列性や並行性をモデル化するためのより強力な手法として、CSP、CCS、パイ計算、アンビエント計算などのプロセス計算がある。", "title": "並行性" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "この記事は2008年11月1日以前にFree On-line Dictionary of Computingから取得した項目の資料を元に、GFDL バージョン1.3以降の「RELICENSING」(再ライセンス) 条件に基づいて組み込まれている。", "title": "参考資料" } ]
ラムダ計算は、計算模型のひとつで、計算の実行を関数への引数の評価と適用としてモデル化・抽象化した計算体系である。ラムダ算法とも言う。関数を表現する式に文字ラムダ (λ) を使うという慣習からその名がある。アロンゾ・チャーチとスティーヴン・コール・クリーネによって1930年代に考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて一階述語論理の決定可能性問題を(否定的に)解いた。ラムダ計算は「計算可能な関数」とはなにかを定義するために用いられることもある。計算の意味論や型理論など、計算機科学のいろいろなところで使われており、特にLISP、ML、Haskellといった関数型プログラミング言語の理論的基盤として、その誕生に大きな役割を果たした。 ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、最小の(ユニバーサルな)プログラミング言語であるということもできる。ここでいう「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき正しく評価されるという意味である。これは、ラムダ計算がチューリングマシンと等価な数理モデルであることを意味している。チューリングマシンがハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算はよりソフトウェア的なアプローチをとっている。 この記事ではチャーチが提唱した元来のいわゆる「型無しラムダ計算」について述べている。その後これを元にして「型付きラムダ計算」という体系も提唱されている。
{{脚注の不足|date=2020-5-2}} '''ラムダ計算'''(ラムダけいさん、{{lang-en|lambda calculus}})は、[[計算模型]]のひとつで、[[計算]]の実行を[[関数]]への[[引数]]の'''評価'''({{lang-en|evaluation}})と'''適用'''({{lang-en|application}})としてモデル化・抽象化した計算体系である。ラムダ算法とも言う。関数を表現する式に文字ラムダ ([[λ]]) を使うという慣習からその名がある。[[アロンゾ・チャーチ]]と[[スティーヴン・コール・クリーネ]]によって1930年代に考案された。1936年にチャーチはラムダ計算を用いて[[一階述語論理]]の[[決定可能性]]問題を(否定的に)解いた。ラムダ計算は「[[計算可能関数|計算可能な関数]]」とはなにかを定義するために用いられることもある。[[計算の意味論]]や[[型理論]]など、計算機科学のいろいろなところで使われており、特に[[LISP]]、[[ML (プログラミング言語)|ML]]、[[Haskell]]といった[[関数型言語|関数型プログラミング言語]]の理論的基盤として、その誕生に大きな役割を果たした。 ラムダ計算は1つの変換規則(変数置換)と1つの関数定義規則のみを持つ、最小の(ユニバーサルな<!--いい訳語がわからない-->)プログラミング言語であるということもできる。ここでいう「ユニバーサルな」とは、全ての計算可能な関数が表現でき正しく評価されるという意味である。これは、ラムダ計算が[[チューリングマシン]]と等価な数理モデルであることを意味している。チューリングマシンがハードウェア的なモデル化であるのに対し、ラムダ計算はよりソフトウェア的なアプローチをとっている。 この記事ではチャーチが提唱した元来のいわゆる「型無しラムダ計算」について述べている。その後これを元にして「[[型付きラムダ計算]]」という体系も提唱されている。 == 歴史 == 元々チャーチは、数学の基礎となり得るような完全な[[形式体系]]を構築しようとしていた。彼の体系が[[ラッセルのパラドックス]]の類型に影響を受けやすい(例えば論理記号として含意 → を含むなら、λx.(x→α) に[[不動点コンビネータ#Yコンビネータ|Yコンビネータ]]を適用して[[カリーのパラドックス]]を再現できる)ということが判明した際に、彼はそこからラムダ計算を分離し、[[計算可能性理論]]の研究のために用い始めた。この研究からチャーチは一階述語論理の決定可能性問題を否定的に解くことに成功した。 == 非形式的な概説 == 例えば、ある数に 2 を加える関数 ''f'' を考える。これは通常の書き方では ''f''(''x'') = ''x'' + 2 と書くことができるだろう。この関数 ''f'' は、ラムダ計算の式(ラムダ式という)では &lambda;''x''. ''x'' + 2 と書かれる。変数 ''x'' の名前は重要ではなく、 &lambda;''y''. ''y'' + 2 と書いても同じである。同様に、この関数に 3 を適用した結果の数 ''f''(3) は (&lambda;''x''. ''x'' + 2) 3 と書かれる。関数の適用は[[結合法則|左結合]]である。つまり、 ''f'' ''x'' ''y'' = (''f'' ''x'') ''y'' である。今度は、引数(関数の入力)に関数をとりそれに 3 を適用する関数を考えてみよう。これはラムダ式では &lambda;''f''. ''f'' 3 となる。この関数に、先ほど作った 2 を加える関数を適用すると、 (&lambda;''f''. ''f'' 3) (&lambda;''x''. ''x'' + 2) となる。ここで、 : (&lambda;''f''. ''f'' 3) (&lambda;''x''. ''x'' + 2) &nbsp;&nbsp;&nbsp;と&nbsp;&nbsp;&nbsp; (&lambda;''x''. ''x'' + 2) 3 &nbsp;&nbsp;&nbsp;と&nbsp;&nbsp;&nbsp; 3 + 2 の3つの表現はいずれも同値である。 ラムダ計算では、関数の引数は常に1つである。引数を2つとる関数は、1つの引数をとり、1つの引数をとる関数を返す関数として表現される([[カリー化]])。例えば、関数 ''f''(''x'', ''y'') = ''x'' &minus; ''y'' は &lambda;''x''. (&lambda;''y''. ''x'' &minus; ''y'') となる。この式は慣例で &lambda;''xy''. ''x'' &minus; ''y''と省略して書かれることが多い。以下の3つの式 : (&lambda;''xy''. ''x'' &minus; ''y'') 7 2 &nbsp;&nbsp;&nbsp;と&nbsp;&nbsp;&nbsp; (&lambda;''y''. 7 &minus; ''y'') 2 &nbsp;&nbsp;&nbsp;と&nbsp;&nbsp;&nbsp; 7 &minus; 2 は全て同値となる。 ラムダ計算そのものには上で用いた整数や加算などは存在しないが、算術演算や整数は特定のラムダ式の省略であると定義することによってエンコードできる。その具体的な定義については改めて後に述べる。 ラムダ式は'''[[自由変数]]'''( &lambda; によって[[束縛 (情報工学)|束縛]]されていない変数)を含むこともできる。例えば、入力に関係なく常に ''y'' を返す関数を表す式 &lambda;''x''. ''y'' において、変数 ''y'' は自由変数である。このようなときに変数名の付け替えが必要になることがある。つまり、式 (&lambda;''xy''. ''y'' ''x'') (&lambda;''x''. ''y'') は &lambda;''y''. y (&lambda;''x''. ''y'') ではなく、 &lambda;''z''.z (&lambda;''x''. ''y'') と同値である。 == 定義 == ここではラムダ計算の形式的な定義を述べる。まず、記号 (identifier) の[[可算無限集合]] {''a'', ''b'', ''c'',&hellip;, ''x'', ''y'', ''z'',&hellip;} を導入する。全てのラムダ式の集合は、[[バッカス・ナウア記法|BNF]]で書かれた以下の[[文脈自由文法]]によって定義される。 #<tt><expr></tt> ::= <tt><identifier></tt> #<tt><expr></tt> ::= (&lambda;<tt><identifier></tt>. <tt><expr></tt>) #<tt><expr></tt> ::= (<tt><expr></tt> <tt><expr></tt>) 最初の2つの規則は関数の定義を表しており、3つめの規則は関数に引数を適用することを表している。規則2のことを'''ラムダ抽象'''({{lang-en-short|lambda abstraction}})といい、規則3のことを'''関数適用'''({{lang-en-short|application}})という。関数適用は左結合であることと、ラムダ抽象はその後ろに続く全ての式を束縛することの2点をもってあいまいさが排除される場合は、括弧を省略してもよい。例えば、 ((&lambda;''x''. ((''x'' ''x'') ''x'')) (&lambda;''y''. ''y'')) はより簡単に (&lambda;''x''. ''x'' ''x'' ''x'') &lambda;''y''. ''y'' と書ける。また、非形式的な説明で述べたように''M''をラムダ式としたとき、&lambda;''x''. (&lambda;''y''. ''M'')を&lambda;''xy''. ''M''と略記する。 ラムダ抽象によって束縛されていない変数を'''自由変数'''({{lang-en-short|free variable}})という。式 &lambda;''x''. (''x'' ''y'') において、 ''y'' は自由変数である。ある変数の出現が自由出現であるかどうかは、より正確には以下のように[[数学的帰納法|帰納]]的に定義されている。 #ラムダ式 ''V'' が変数のとき、 ''V'' は自由出現である。 #ラムダ式 &lambda;''V''. ''E'' において、 ''E'' で自由出現している変数のうち ''V'' 以外のものが自由出現である。このとき、 ''E'' 中の変数 ''V'' はラムダに束縛されたという。 #ラムダ式 (''E'' ''E&prime;'') において、 ''E'' での自由出現と ''E&prime;'' での自由出現の和が自由出現である。 ラムダ式の集合の上での[[同値関係]](ここでは == と書くことにする)は、直感的には、2つのラムダ式が同じ関数を表していることである。この同値関係は以下で述べる&alpha;-変換と&beta;-簡約によって定義される。第3の規則として&eta;-変換と呼ばれる規則が導入されることもある。 === &alpha;-変換 === アルファ変換の基本的なアイデアは、[[束縛変数]]の名前は重要ではない、ということにある。例えば、 &lambda;''x''. ''x'' と &lambda;''y''. ''y'' は同じ関数を表している。しかし、ことはそう単純ではない。ある束縛変数の名前を置換してもよいかどうかには、いくつかの規則が絡んでくる。例えば、ラムダ式 &lambda;''x''. &lambda;''y''. ''x'' 中の変数 ''x'' を ''y'' に置き換えると、 &lambda;''y''. &lambda;''y''. ''y'' となるが、これは最初の式とはまったく異なるものを表すことになる。そこでまず準備として、変数 ''V'', ''W'' と式 ''E'' に対して、 ''E'' 中の ''V'' の全ての自由出現を ''W'' に置き換えたものを : ''E''[''V'' := ''W''] と書くことにする。この元で、アルファ変換は : &lambda;''V''. ''E'' &nbsp; &rarr;<sup>&alpha;</sup> &nbsp; &lambda;''W''. ''E''[''V'' := ''W''] である。ただし、 ''E'' に ''W'' が自由出現しておらず、かつ ''V'' を置換することにより ''E'' 中で新たに ''W'' が束縛されることがないときに限る。この規則によれば、式 &lambda;''x''. (&lambda;''x''. ''x'') ''x'' が &lambda;''y''. (&lambda;''x''. ''x'') ''y'' に変換されることがわかる。 === &beta;-簡約 === ベータ簡約(ベータ変換とも)の基本的なアイデアは、関数の適用である。ベータ簡約は以下の変換である。 : ((&lambda;''V''. ''E'') ''E&prime;'') &nbsp; &rarr;<sup>&beta;</sup> &nbsp; ''E''[''V'' := ''E&prime;''] ただし、 ''E&prime;'' の代入によって ''E&prime;'' 中の自由変数が新たに束縛されることがないときに限る。 関係 == は、上の2つの規則を含む最小の同値関係([[同値閉包]])である。 ベータ簡約は、(同値関係ではなく)左辺から右辺への一方的な変換であると見ることもできる。ベータ簡約の余地のないラムダ式、つまり、 ((&lambda;''V''. ''E'') ''E&prime;'') の形(&beta;-redex)をどこにも持っていないラムダ式を'''正規形'''({{lang-en-short|normal form}})であるという。<!--英語版ではここに非停止性、正規形を持つラムダ式の正規形を求める問題の決定可能性、合流性のことが英語で(自然言語で)書いてあった。--> === &eta;-変換 === 上に挙げた2つの規則の他に、第3の規則としてイータ変換が導入されることがある。イータ変換の基本的なアイデアは、関数の[[外延性]]である。ここでいう外延性とは、2つの関数が全ての引数に対して常に同じ値を返すようなとき、互いに同値であるとみなすという概念である。イータ変換は以下の変換である。 : &lambda;''V''. ''E'' ''V'' &nbsp; &rarr;<sup>&eta;</sup> &nbsp; ''E'' ただし、 ''E'' に ''V'' が自由出現しないときに限る。 この同値性は関数の外延性という概念によって以下のように示される。 もし全てのラムダ式 ''a'' に対して ''f'' ''a'' == ''g'' ''a'' であるならば、 ''a'' として ''f'' にも ''g'' にも自由出現しない変数 ''x'' をとることによって ''f'' ''x'' == ''g'' ''x'' であり、 &lambda;''x''. ''f'' ''x'' == &lambda;''x''. ''g'' ''x'' である。この等式にイータ変換をほどこすことによって ''f'' == ''g'' が得られる。これより、イータ変換を認めるならば関数の外延性が正当であることが示される。 逆に、関数の外延性を認めるとする。まず、全ての ''y'' に対してラムダ式 (&lambda;''x''. ''f'' ''x'') ''y'' はベータ変換でき、 (&lambda;''x''. ''f'' ''x'') ''y'' == ''f'' ''y'' となる。この同値関係は全ての ''y'' について成り立っているので、関数の外延性より &lambda;''x''. ''f'' ''x'' == ''f'' である。以上によって、関数の外延性を認めたときのイータ変換の正当性が示される。 == 諸概念のラムダ式での表現 == 上で述べたように、ラムダ計算は計算可能な全ての関数を表現することができる。また、上では 2 + 3 のような算術をラムダ式の一部として用いた。 2 + 3 などは計算可能であるから、もちろんラムダ計算による表現が可能である。もちろん、 2 + 3 以外にも計算可能な全ての関数の表現が可能である。ここではそれらのうちの主なものを紹介する。 === 自然数と算術 === [[自然数]]をラムダ式で表現する方法はいくつか異なる手法が知られているが、その中でもっとも一般的なのは{{仮リンク|チャーチ数|en|Church encoding#Church numerals}}({{lang-en-short|Church numerals}})と呼ばれるもので、以下のように定義されている。 : <tt>0</tt> := &lambda;''f'' ''x''. ''x'' : <tt>1</tt> := &lambda;''f'' ''x''. ''f'' ''x'' : <tt>2</tt> := &lambda;''f'' ''x''. ''f'' (''f'' ''x'') : <tt>3</tt> := &lambda;''f'' ''x''. ''f'' (''f'' (''f'' ''x'')) 以下同様である。直感的には、数 ''n'' はラムダ式では ''f'' という関数をもらってそれを ''n'' 回適用したものを返す関数である。つまり、チャーチ数は1引数関数を受け取り、1引数関数を返す[[高階関数]]である。(チャーチの提唱した元々のラムダ計算は、ラムダ式の引数が少なくとも一回は関数の本体に出現していなくてはならないことになっていた。そのため、その体系では上に挙げた <tt>0</tt> の定義は不可能である。) 上のチャーチ数の定義のもとで、[[ペアノの公理|後続]](後者)を計算する関数、すなわち ''n'' を受け取って ''n'' + 1 を返す関数を定義することができる。それは以下のようになる。 : <tt>SUCC</tt> := &lambda;''n'' ''f'' ''x''. ''f'' (''n'' ''f'' ''x'') また、加算は以下のように定義できる。 : <tt>PLUS</tt> := &lambda;''m'' ''n'' ''f'' ''x''. ''m'' ''f'' (''n'' ''f'' ''x'') または単にSUCCを用いて、以下のように定義してもよい。 : <tt>PLUS</tt> := &lambda;''m'' ''n''. ''m'' <tt>SUCC</tt> ''n'' <tt>PLUS</tt> は2つの自然数をとり1つの自然数を返す関数である。この理解のためには例えば、 <tt>PLUS</tt> <tt>2</tt> <tt>3</tt> == <tt>5</tt> であることを確認してみるとよいだろう。また、乗算は以下のように定義される。 : <tt>MULT</tt> := &lambda;''m'' ''n''. ''m'' (<tt>PLUS</tt> ''n'') 0 この定義は、 ''m'' と ''n'' の乗算は、 0 に ''n'' を ''m''回加えることと等しい、ということを利用して作られている。もう少し短く、以下のように定義することもできる。 : <tt>MULT</tt> := &lambda;''m'' ''n'' ''f''. ''m'' (''n'' ''f'') 正の整数 ''n'' の先行(前者)を計算する関数 <tt>PRED</tt> ''n'' = ''n'' &minus; 1 は簡単ではなく、 : <tt>PRED</tt> := &lambda;''n'' ''f'' ''x''. ''n'' (&lambda;''g'' ''h''. ''h'' (''g'' ''f'')) (&lambda;''u''. ''x'') (&lambda;''u''. ''u'') もしくは : <tt>PRED</tt> := &lambda;''n''. ''n'' (&lambda;''g'' ''k''. (''g'' <tt>1</tt>) (&lambda;''u''. <tt>PLUS</tt> (''g'' ''k'') <tt>1</tt>) ''k'') (&lambda;''v''. <tt>0</tt>) <tt>0</tt> と定義される。上の部分式 (''g'' <tt>1</tt>) (&lambda;''u''. <tt>PLUS</tt> (''g'' ''k'') <tt>1</tt>) ''k'' は、 ''g''(1) がゼロとなるとき ''k'' に評価され、そうでないときは ''g''(''k'') + 1 に評価されることに注意せよ<ref>{{Cite web|和書|url=https://kimiyuki.net/blog/2014/04/05/church-number-and-pred-function/|title=チャーチ数とpred関数|accessdate=2018-10-06|website=kimiyuki.net}}</ref>。 === 論理記号と述語 === <tt>TRUE</tt> や <tt>FALSE</tt> といった[[真理値]]は慣習的に以下のように定義されることが多い。これらは{{仮リンク|チャーチ真理値|en|Church encoding#Church booleans}}({{lang-en-short|Church booleans}})とよばれている。 : <tt>TRUE</tt> := &lambda;''x'' ''y''. ''x'' : <tt>FALSE</tt> := &lambda;''x'' ''y''. ''y'' :(この <tt>FALSE</tt> は前述のチャーチ数のゼロと同じ定義であることに注意せよ) これらの真理値に対して論理記号を定義することができる。たとえば、以下のようなものがある。 : <tt>AND</tt> := &lambda;''p'' ''q''. ''p'' ''q'' <tt>FALSE</tt> : <tt>OR</tt> := &lambda;''p'' ''q''. ''p'' <tt>TRUE</tt> ''q'' : <tt>NOT</tt> := &lambda;''p''. ''p'' <tt>FALSE</tt> <tt>TRUE</tt> : <tt>IFTHENELSE</tt> := &lambda;''p'' ''x'' ''y''. ''p'' ''x'' ''y'' これらの記号を使った計算の例を挙げる。 : <tt>AND</tt> <tt>TRUE</tt> <tt>FALSE</tt> ::= (&lambda;''p'' ''q''. ''p q'' <tt>FALSE</tt>) <tt>TRUE</tt> <tt>FALSE</tt> &rarr;<sup>&beta;</sup> <tt>TRUE</tt> <tt>FALSE</tt> <tt>FALSE</tt> ::= (&lambda;''x'' ''y''. ''x'') <tt>FALSE</tt> <tt>FALSE</tt> &rarr;<sup>&beta;</sup> <tt>FALSE</tt> 以上より、 <tt>AND TRUE FALSE</tt> が <tt>FALSE</tt> と等しいことがわかる。 「[[述語論理|述語]]」とは、真理値を返す関数のことである。計算論において最も基本的な述語は <tt>ISZERO</tt> で、これは引数がチャーチ数の <tt>0</tt>であった場合には <tt>TRUE</tt> を、そうでなければ <tt>FALSE</tt> を返す関数であり、以下のように定義できる。 : <tt>ISZERO</tt> := &lambda;''n''. ''n'' (&lambda;''x''. <tt>FALSE</tt>) <tt>TRUE</tt> <!--The availability of predicates and the above definition of <tt>TRUE</tt> and <tt>FALSE</tt> make it convenient to write "if-then-else" statements in lambda calculus.--> === 対 === (2つ組の)[[順序対]]のデータ型は、 <tt>TRUE</tt> および <tt>FALSE</tt> を用いて定義することができる。これらは{{仮リンク|チャーチ対|en|Church encoding#Church pairs}}({{lang-en-short|Church pairs}})とよばれている。 : <tt>[[コンス対|CONS]]</tt> := &lambda;''s'' ''b'' ''f''. ''f'' ''s'' ''b''</tt> : <tt>[[carとcdr|CAR]]</tt> := &lambda;''p''. ''p'' <tt>TRUE</tt> : <tt>CDR</tt> := &lambda;''p''. ''p'' <tt>FALSE</tt> リンク型のリスト構造は、空リストのために特定の予約された値(例えば <tt>FALSE</tt> )を用い、リストをその先頭要素と後続リストの <tt>CONS</tt> 対として表現することによって実現できる。 === リスト === {{See also|en:Church_encoding#List_encodings}} {{節スタブ}} === 再帰 === {{see also|無名再帰}} [[再帰]]とは自分自身を関数として使用することで、ラムダ計算では表面上は再帰操作は許されていないように見える。しかし少し工夫することによってラムダ計算でも再帰を実現できる。例として[[階乗]]を計算する関数 ''f''(''n'') を考えてみよう。この関数は再帰的に以下のように定義できる。 : ''f''(''n'') := 1, if ''n'' = 0; and ''n'' &times; ''f''(''n'' &minus; 1), if ''n'' > 0 ラムダ計算では自分自身を含む関数は定義できない。この問題を解決するためにまず、 ''f'' を引数にとり ''n'' を引数にとる関数を返す''g'' という関数を考える。 : ''g'' := &lambda;''f'' ''n''. (1, if ''n'' = 0; and ''n'' &times; ''f''(''n'' &minus; 1), if ''n'' > 0) 関数 ''g'' は 1 か ''n'' &times; ''f''(''n'' &minus; 1) を返すような関数を返す。上述の <tt>ISZERO</tt> や算術、論理記号の定義を用いれば、この関数 ''g'' はラムダ式で定義することができる。 しかし、これでは ''g'' 自身はまだ再帰的ではない。 ''g'' を用いて再帰的な階乗関数を作り出すためには、 ''g'' に対して引数 ''f'' として渡されている関数が、ある性質を持つ必要がある。すなわち、この ''f'' を展開すると関数 ''g'' がある一つの引数を伴った形になり、さらにその ''g'' への引数は先ほど''f'' として渡された関数に再びなる必要がある。 この性質は言い換えると、 ''f'' は ''g'' ( ''f'' )に展開される必要があるということだ。この ''g'' の呼び出しは先ほどの階乗関数に展開され、再帰の段階を一段降りる計算をしている。この展開において、関数 ''f'' が再度出現する。そして、この関数 ''f'' は再度 ''g'' ( ''f'' )に展開され、再帰が続いていく。この ''f'' = ''g'' ( ''f'' )となるような関数は、 ''g'' の[[不動点]]と呼ばれる。そして、この不動点は[[不動点コンビネータ]]として知られるものによってラムダ計算で表現することが出来る。この不動点コンビネータは ''Y'' と表される -- [[不動点コンビネータ#Yコンビネータ|Yコンビネータ]]: :''Y'' = &lambda;''g''. (&lambda;''x''. ''g'' (''x'' ''x'')) (&lambda;''x''. ''g'' (''x'' ''x'')) ラムダ計算では、 ''Y g'' は ''g'' の不動点となる。つまり、 ''g'' (''Y'' ''g'') == ''Y g'' となる。このもとで、 ''n'' の階乗を計算するには単に ''g'' (''Y'' ''g'') ''n'' を呼び出せばよい。ここで、 ''n'' は上述したチャーチ数である。 ''n'' = 5 として、評価の例を見てみよう。 :(&lambda;''n''.(1, if ''n'' = 0; and ''n''·((''Y g'')(''n'' &minus; 1)), if ''n'' > 0)) 5 ::1, if 5 = 0; and 5·(''g''(''Y g'')(5 &minus; 1)), if 5 > 0 ::5·(''g''(''Y g'') 4) ::5·(&lambda;''n''. (1, if ''n'' = 0; and ''n''·((''Y g'')(''n'' &minus; 1)), if ''n'' > 0) 4) ::5·(1, if 4 = 0; and 4·(''g''(''Y g'')(4 &minus; 1)), if 4 > 0) ::5·(4·(''g''(''Y g'') 3)) ::5·(4·(λ ''n''. (1, if ''n'' = 0; and ''n''·((''Y g'')(''n''&minus; 1)), if ''n'' > 0) 3)) ::5·(4·(1, if 3 = 0; and 3·(''g''(''Y g'')(3 &minus; 1)), if 3 > 0)) ::5·(4·(3·(''g''(''Y g'') 2))) : ... アルゴリズムの構造が再帰的に評価されているのがわかるだろう。再帰的に定義される関数は全て他の適当な関数の不動点となっているため、 ''Y'' を用いることで全ての再帰的な関数をラムダ式で表現することができる。たとえば、自然数に対する除算、乗算や比較述語を再帰を用いてよりきれいに定義することができる。 == 計算可能性とラムダ計算 == [[自然数]]から自然数への関数 ''F'': '''N''' &rarr; '''N''' が[[計算可能性理論|計算可能]]であるということは、全ての自然数の対 ''X'', ''Y'' に対して ''F''(''X'') = ''Y'' と ''f'' ''x'' == ''y'' が同値となるようなラムダ式 ''f'' が存在すること、と定義することができる。ここで、 ''x'', ''y'' はそれぞれ ''X'', ''Y'' に対応するチャーチ数によるラムダ式である。この定義は、計算可能性を定義する多くの方法のうちのひとつである。より詳しくは、[[チャーチ=チューリングのテーゼ|チャーチ-チューリングの提唱]]の項を見よ。 == 同値性の決定不可能性 == 2つのラムダ式を入力とし、それらが同値であるかどうかを判定するアルゴリズムは存在しない。これは[[決定可能性|決定不可能性]]が示された歴史的に最初の問題である。ここで使われる「[[アルゴリズム]]」という言葉も、もちろんきちんと定義されなければならない。チャーチは自身の証明の中で[[計算可能関数|帰納的関数]]をその定義に用いたが、現在ではこれは適切なその他のアルゴリズムの定義と等価であることが知られている。 チャーチの証明ではこの問題を、あたえられたラムダ式に正規形が存在するかどうかという問題に帰している。正規形とは、それ以上簡約のできない同値なラムダ式のことである。チャーチの証明ではまず、この問題が決定可能である、つまり、ラムダ式で表現可能であると仮定する。クリーネによる結果と[[ゲーデル数]]のラムダ式表現を用いることによってチャーチは、[[対角線論法]]によりパラドキシカルなラムダ式 ''e'' を構成した。この ''e'' を、それ自身を表すゲーデル数に適用すると矛盾が導かれる。 <!-- 原文: Church's proof first reduces the problem to determining whether a given lambda expression has a normal form. A normal form is an equivalent expression which cannot be reduced any further. Then he assumes that this predicate is computable, and can hence be expressed in lambda calculus. Building on earlier work by Kleene and constructing a Gödel numbering for lambda expressions, he constructs a lambda expression e which closely follows the proof of Gödel's first incompleteness theorem. If e is applied to its own Gödel number, a contradiction results. --> 詳しくいえば次のようである。まず <math>X</math> を正規形の存在性を判定するラムダ式とする。<math>A</math> を2つのラムダ式のゲーデル数から、それらを適用してできるラムダ式を計算する関数を表すラムダ式、<math>N</math> を自然数からそれを表すラムダ式の表現のゲーデル数を求める関数を表すラムダ式とする。すなわち、 : <math> A \ulcorner x \urcorner \ulcorner y \urcorner \to^{\beta} \ulcorner (xy) \urcorner </math> : <math> N \ulcorner x \urcorner \to^{\beta} \ulcorner \ulcorner x \urcorner \urcorner </math> が成り立つ。ここで <math> \ulcorner x \urcorner </math> はラムダ式 <math>x</math> のゲーデル数を表すラムダ式の表現である。 いま、ラムダ式 <math>e</math> を : <math> e := \lambda x. \text{ if } X (A x (N x)) \text{ then } \Omega \text{ else } \lambda y. y </math> と定める。ここで <math>\Omega</math> は正規形を持たないラムダ式 <math>(\lambda x. xx)(\lambda x. xx)</math> である。自己適用 <math> e \ulcorner e \urcorner</math> を計算すると次のようになる。 : <math> e \ulcorner e \urcorner</math> : <math> \text{ if } X (A \ulcorner e \urcorner (N \ulcorner e \urcorner)) \text{ then } \Omega \text{ else } \lambda y. y </math> : <math> \text{ if } X (A \ulcorner e \urcorner \ulcorner \ulcorner e \urcorner \urcorner) \text{ then } \Omega \text{ else } \lambda y. y </math> : <math> \text{ if } X \ulcorner e \ulcorner e \urcorner \urcorner \text{ then } \Omega \text{ else } \lambda y. y </math> もし <math> e \ulcorner e \urcorner</math> が正規形を持つならば、<math> e \ulcorner e \urcorner</math> は <math> \Omega </math> にベータ簡約される。すると[[チャーチ・ロッサーの定理]]より、<math>\Omega</math> は <math> e \ulcorner e \urcorner</math> と共通のラムダ式にベータ簡約できるから、<math>\Omega</math> は正規形を持つ。これは矛盾。したがって <math> e \ulcorner e \urcorner</math> は正規形を持たない。すると <math> e \ulcorner e \urcorner</math> は <math> \lambda x. x</math> にベータ簡約されることになる。ラムダ式 <math> \lambda x. x</math> は正規形であるので、やはり矛盾。したがって <math>X</math> のようなラムダ式は存在しない。 ==チャーチ・ロッサー性== 一般にラムダ式の中に&beta;-変換できる部分式が複数ある場合、どこから評価を行うかによって評価の経過は複数存在する。それらの複数の経過からさらに評価することによって、同じラムダ式を得られる性質をチャーチ・ロッサー性、もしくは[[合流性]]と呼ぶ([[チャーチ・ロッサーの定理]])。また、あるラムダ式から一回の&beta;-簡約によって得られた二つのラムダ式が、同じラムダ式に&beta;-変換されるという性質は弱チャーチ・ロッサー性と呼ばれる。チャーチ・ロッサー性を持つ体系は弱チャーチ・ロッサー性も持つが、逆は必ずしもなりたたない。 チャーチ・ロッサー性は本稿で取り扱っている型無しラムダ計算の体系では成立することが知られている。しかしその他の体系、例えば型を付けて拡張されたラムダ計算の体系などに関しては、必ずしも成り立つとは限らない。 == 停止性 == &beta;-変換は停止しない(無限ループに陥る)場合がある。例えば次の式を適用する場合には停止しない。 :(&lambda;''x''. ''x'' ''x'') (&lambda;''x''. ''x'' ''x'') &rarr;<sup>&beta;</sup> (&lambda;''x''. ''x'' ''x'') (&lambda;''x''. ''x'' ''x'') &rarr;<sup>&beta;</sup> &hellip; ある種のラムダ計算の体系では、任意のラムダ式に対して&beta;-変換の停止性が保証されていることがある。どのような順序で&beta;-変換を行ったとしても&beta;-変換が停止する性質を強正規化性といい、&beta;-変換の順序を上手く選んだ場合に&beta;-変換が停止する性質を弱正規化性という。チャーチ・ロッサー性を満たし、かつ停止性を持つラムダ計算の体系では、ラムダ式をどのような順序で評価しても必ず同じ結果になることがわかる。 強正規化的であり、かつ弱チャーチ・ロッサー性を持つラムダ計算の体系はチャーチ・ロッサー性を持つ({{仮リンク|ニューマンの補題|en|Newman's lemma}})。 型無しラムダ計算の体系では、ある式の停止性を判断する事は[[決定不能]]であることが証明されている。 == ラムダ計算とプログラミング言語 == {{仮リンク|ピーター・ランディン|en|Peter Landin}}は1965年に発表した<cite>[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=363749&coll=portal&dl=ACM A Correspondence between ALGOL 60 and Church's Lambda-notation]</cite>において、ラムダ計算が手続的な抽象化と手続き(サブプログラム)の適用のしくみを提供しているがために、多くの[[プログラミング言語]]がラムダ計算にその基礎を置いているとみることができるとしている。 ラムダ計算をコンピュータ上に実装するには、関数を[[第一級オブジェクト]]として取り扱う必要があり、これはスタック・ベースのプログラミング言語においては問題となってくる。これは{{仮リンク|Funarg問題|en|Funarg problem}}として知られている。 ラムダ計算と最も密接な関係をもつプログラミング言語は[[関数型言語]]と呼ばれる諸言語で、本質的にはいくつかの[[定数]]と[[データ型]]を用いてラムダ計算を実装している。[[LISP|Lisp]]では関数の定義にラムダ記法の一変形を用いており、さらに、[[純LISP|純Lisp]]と呼ばれるLispのサブセットはラムダ計算と真に等価になっている。 関数を第一級オブジェクトとして扱えるのは関数型言語だけというわけではない。[[Pascal]]など、多くの[[命令型プログラミング|命令型言語]]ではある関数を他の関数の引数として与える操作が許されている。[[C言語|C]]や[[C++]]では関数を指す[[ポインタ (プログラミング)#関数ポインタ|ポインタ]]や[[関数オブジェクト#C/C++ での関数オブジェクト|クラス型関数オブジェクト]]を用いて同じことが実現できる。このような機能はサブ関数が明示的に書かれている場合にのみ用いることができ、したがってこの機能がそのまま[[高階関数]]をサポートしていることにはならない。いくつかの手続的な[[オブジェクト指向プログラミング|オブジェクト指向言語]]では関数を任意の階数に書くことができる。[[Smalltalk]]や、より最近の言語では[[Eiffel]](エージェント)や[[C Sharp|C#]]([[デリゲート (プログラミング)|デリゲート]])などで用意されている機能がそれである。例えば、Eiffelのインライン・エージェントの機能を用いた以下のコード '''agent''' (x: REAL): REAL '''do Result''' := x * x '''end''' はラムダ式 &lambda;''x''. ''x'' <tt>*</tt> ''x'' (値呼び出し)に相当するオブジェクトを表している。このオブジェクトは他のあらゆるオブジェクトと同様に、変数に代入したり関数に渡したりすることができる。変数 ''square'' の値が上のエージェントのオブジェクトであるとすれば、 ''square'' に値 ''a'' を適用した結果(&beta;-簡約)は ''square''<tt>.item([</tt>''a''<tt>])</tt> と書ける。ただしここでの引数は[[タプル]]であるとみなされる。 == 並行性 == ラムダ計算のチャーチ・ロッサー性は、評価(&beta;-簡約)をどの順序で行っても、さらには同時に(並行に)行ってもよいことを意味している。(より詳しくいえば、ラムダ計算は[[参照透過性|参照透過]]である。)このため、ラムダ計算を用いて種々の非決定的[[評価戦略]]をモデル化することができる。[[並列コンピューティング|並列性]]や[[並行計算|並行性]]をモデル化するためのより強力な手法として、[[Communicating Sequential Processes|CSP]]、[[CCS]]、[[パイ計算]]、[[アンビエント計算]]などの[[プロセス計算]]がある。 == 参考資料 == * 計算論 計算可能性とラムダ計算 コンピュータサイエンス大学講座 高橋 正子 (著) 近代科学社 ISBN 4764901846 (1991) * ハロルド・エイブルソン、ジェラルド・ジェイ・サスマン、ジュリー・サスマン共著『[[計算機プログラムの構造と解釈]] 第二版』和田英一訳、ピアソンエデュケーション、2000、ISBN 4-8947-1163-X {{FOLDOC}} == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * [[コンビネータ論理]] * [[型付きラムダ計算]] - [[単純型付きラムダ計算]] - 型無しラムダ計算 * [[ド・ブラン・インデックス]] * [[第一級関数]] * [[不動点コンビネータ]] * [[無名再帰]] * [[System F]] * [[SKIコンビネータ計算]] * [[B,C,K,Wシステム]] * [[カリー・ハワード対応]] * [[ラムダ計算騎士団]] - Lispを使うプログラマ達の間で冗談として登場する架空の[[騎士団]] * [[ラムダ・キューブ]] * [[項書き換え]] <!--* [[Thierry Coquand]]'s [[calculus of constructions]]--> * [[Unlambda]] * [[再帰的定義]] * [[領域理論]] * [[合流性]] * [[ペアノの公理]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:らむたけいさん}} [[Category:ラムダ計算|*]] [[Category:数理論理学]] [[Category:理論計算機科学]] [[Category:形式手法]] [[Category:関数型プログラミング]] [[Category:形式体系]] [[Category:スティーヴン・コール・クリーネ]] [[Category:FOLDOCを情報源とする記事]] [[Category:数学に関する記事]]
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1767年
1767年(1767 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1767年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1767}} {{year-definition|1767}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[明和]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2427年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]32年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]43年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4100年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]28年 * [[仏滅紀元]] : 2309年 - 2310年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1180年 - 1181年 * [[ユダヤ暦]] : 5527年 - 5528年 * [[ユリウス暦]] : 1766年12月21日 - 1767年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1767}} == できごと == * [[7月]] - [[田沼意次]]、[[側用人]]となる{{要出典|date=2021-03}}。 * [[8月]] - [[明和事件]]起こる。 * [[10月22日]] - [[東京]]でM6クラスの大地震発生。 * [[イギリス]]、[[13植民地|北米植民地]]が輸入する茶・紙・ガラスなどに課税([[タウンゼンド諸法]])。 * [[スペイン|スペイン王国]]、[[イエズス会]]を追放。 * [[マイソール王国]]、[[第一次マイソール戦争]]勃発(-[[1769年]])。 * [[ミャンマー|ビルマ軍]]、[[アユタヤ朝]]を倒す。 == 誕生 == {{see also|Category:1767年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月15日]] - [[アンドリュー・ジャクソン]]、第7代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1845年]]) * [[4月27日]] - [[アンドレーアス・ロンベルク]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1821年]]) * [[6月15日]] - [[レイチェル・ジャクソン]]、アンドリュー・ジャクソン夫人(+ [[1828年]]) * [[6月22日]] - [[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]、[[言語学者]]・[[政治家]](+ [[1835年]]) * [[7月4日]]([[明和]]4年[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]) - [[曲亭馬琴]]、[[読本]]作者(+ [[1848年]]) * [[7月11日]] - [[ジョン・クィンシー・アダムズ]]、第6代アメリカ合衆国大統領(+ [[1848年]]) * [[7月19日]] - [[ギデオン・グレンジャー]]、第7代[[アメリカ合衆国郵政長官]](+ [[1822年]]) * [[11月13日]] - [[ベルンハルト・ロンベルク]]、[[チェリスト]]・[[作曲家]](+ [[1841年]]) * 月日不明 - [[雷電爲右エ門]]、[[江戸時代]]の[[大関]](+ [[1825年]]) == 死去 == {{see also|Category:1767年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月14日]]([[明和]]4年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]) - [[山県大弐]]、江戸時代の[[儒学者]](* [[1725年]]) * 9月14日(明和4年8月22日) - [[藤井直明]]、江戸時代の[[尊王論]]者(* [[1720年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1767}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1767ねん}} [[Category:1767年|*]]
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X Window System
X Window System(エックスウィンドウシステム、別称:「X11」・「X」など→名称については後述)とは、ビットマップディスプレイ上でウィンドウシステムを提供する表示プロトコルである。リファレンス実装として X.Org Server があり、標準ツールキットとプロトコルを提供し、Unix系オペレーティングシステム (OS) やOpenVMSなどでのグラフィカルユーザインタフェース (GUI) を構築するのに使われる。他の多くの汎用OSにも移植されている。 Xは1984年、マサチューセッツ工科大学が開発した。現在のバージョンであるX11は1987年9月に登場した。現在はX.Org FoundationがXプロジェクトを主導している。リファレンス実装であるversion 11 release 7.3(2007年9月6日)はフリーソフトウェアとしてMIT Licenseおよび類似のライセンスで提供している。 Xは、GUI環境構築のための基本フレームワークやプリミティブを提供する。ウィンドウを画面上に描画したり、移動させたり、マウスやキーボードを使ってやり取りする。Xはユーザインタフェースを規定しない。それは、個々のクライアントプログラムの管理下にある。そのため、Xに基づいた環境の見た目は様々である。プログラムごとにインタフェースは異なる。XはOSの中核 (kernel) には含まれない。アプリケーション層構築の基盤となっている。 それ以前の表示プロトコルとは異なり、Xは表示機器に付属した(あるいは統合された)システムではない。ネットワークコネクションを通して使うことを意図して設計している。X の特徴は、Xプロトコルという、画面表示や入出力時に利用するプロトコルがネットワーク透過だということである。そのため、手元のマシンの表示と遠隔のマシンとの表示で表示方法に差がない。このことは、ネットワークを利用したUNIXワークステーション群でGUI表示を行うのに便利であり、UNIXマシンの普及と共にXも普及していった。 Xはクライアントサーバモデルに基づき、Xサーバが各種「クライアント」プログラムと通信する。サーバはグラフィカルな出力要求を受け付け、(マウス、キーボード、タッチパネルなどからの)ユーザー入力をクライアントに送信する。Xプロトコル自身はハードウェア環境に依存しない。そのため、X Window Systemが動作するマシンはUNIXマシンだけとは限らない。Windows上でXサーバを動作させる、通称PC Xサーバというソフトウェアや、ハードウェア(ファームウエア)でXプロトコルを処理する、通称X端末も存在する。特にX端末は、UNIXマシンが非常に高価な時代に、GUIだけを安価に表示、処理できる機器として良く利用された。 このクライアントサーバという用語(ユーザーの端末、サーバ、クライアントであるアプリケーション)は、しばしば新規のXユーザーを混乱させる。なぜなら用語が逆に使われているように見えるからである。しかしXはエンドユーザーではなく、むしろアプリケーションからみた考え方をしている。XはディスプレイやI/Oサービスをアプリケーションに提供している。そのためサーバである。アプリケーションはこれらのサービスを利用している。そのためアプリケーションはクライアントである。 サーバとクライアント間の通信プロトコルは、ネットワーク透過性を備える。クライアントとサーバは同じマシン上でも動作するし、別々のマシン上でも動作する。双方のアーキテクチャやOSが違っていても構わない。クライアントとサーバ間の通信は、インターネット上でもトンネリングによって安全に行うことができる。 Xクライアント自体がXサーバを内包し、複数のクライアントに対してサーバとして動作する構成も可能である。これを「Xネスティング」と呼ぶ。XnestやXephyrは、Xネスティングをサポートしたオープンソースのクライアントである。 リモートのクライアントプログラムをローカルなサーバで表示するには、端末エミュレータのウィンドウを開き、telnetあるいはsshでリモートのクライアントアプリケーション(あるいはシェル)を起動し、入出力先をローカルに指定してクライアントを起動する(すなわち、export DISPLAY=[ユーザーのマシン]:0 をリモートのマシン上で設定する)。クライアントアプリケーションはローカルサーバと接続され、ローカルマシンのディスプレイと入力機器を使って動作する。またローカルマシンは、リモートマシンに接続しクライアントアプリケーションを起動する小さなプログラムを実行することもできる。 リモートクライアントの実用的な利用例として、次のようなものがある。 1984年、Bob ScheiflerとJim GettysはXの基本原則を以下のように定めた。 先頭の原則は、X11の設計時に「具体的アプリケーションがそれを必要としていることを知っている場合に限って、新たな機能を追加せよ」に修正された。 Xはだいたいにおいてこれらの原則に従ってきた。参考実装は拡張性と改良を視野に入れて開発されており、1987年当時のプロトコルとほぼ完全な互換性を維持している。 Xは意図的にアプリケーションのユーザインタフェースの仕様を含まないようにしている。ボタン、メニュー、ウィンドウのタイトルバーなどである。代わりに、ウィンドウマネージャ、GUIウィジェット・ツールキット、デスクトップ環境、アプリケーション固有のグラフィカルユーザインタフェースなどがそのような詳細を定義し提供している。そのため、典型的なXのインタフェースを示すことは不可能である。 ウィンドウマネージャは、アプリケーションのウィンドウの位置と見た目を制御する。そのインタフェースはWindowsやMacintoshと似ているものもあるし(GNOMEのMetacity、KDEのKWin、XfceのXfwmなど)、全く異なるものもある。実用本位のウィンドウマネージャもあれば(twmなど)、デスクトップ環境に近い機能を持つものもある(Enlightenmentなど)。 多くのユーザーはデスクトップ環境を通してXを利用している。デスクトップ環境にはウィンドウマネージャ、各種アプリケーションなどが一貫したインタフェースで含まれている。GNOME、KDE、Xfceなどが主なデスクトップ環境である。freedesktop.orgはデスクトップ環境間の相互運用性を高めることを目的としている。 Xサーバは、グラフィカルなデスクトップでのキーボードとマウス操作を管理している。そのため、一部のショートカットキーはXサーバと結び付けられている。Control-Alt-Backspaceは通常、現在動作しているXセッションを終了させる。Control-Altとファンクションキーの組合せは、一般にバーチャルコンソールに連携している。ただし、これは個々のXサーバの実装の詳細であり、常に同じとは限らない。例えば、WindowsやMacintoshで動作するXサーバでは、そのようなショートカットキーは提供されない。 X.Org Serverは、リファレンス実装としてX Window Systemの正式な実装として扱われる。フリーソフトウェア、プロプライエタリソフトウェアの実装が複数存在する。商用UNIXベンダーはリファレンス実装を採用し、それを自身のハードウェアに合わせて修正し、独自の拡張を様々に凝らすことが多い。 2004年まで、XFree86がフリーなUnix系システムでのX実装の事実上の標準だった。XFree86はXを80386搭載のパーソナルコンピュータ (PC) 上に移植することから始まり、1990年代末ごろにはXのデファクトスタンダードの地位を得ていた。しかし、2004年にX.Org ServerがXFree86のライセンスの変更を期にして派生し、こちらが主流となっていった。 XとUNIXの組合せはよく知られているが、Xサーバは他のグラフィカル環境用にも存在している。 WindowsやmacOSなどの他のウィンドウシステム上でXサーバを動作させる場合、統合のさせ方がソフトウェアによって色々あり、X.Org ServerではWindowsとmacOSでは以下の方式の最初の3つをサポートしている。Unix系ではフルスクリーンだが、それ以外はXnestによりサポートしている。 HPEおよびVSIのOpenVMSにはXとCDE (DECwindows) が標準のデスクトップ環境として含まれている。 OS-9にもかつてメーカー純正のXサーバがあった。マイクロウェア・システムズ(株)がX Window Version 11 Release 4をOS-9に移植し、X開発ライブラリとXクライアント制御管理プログラム、Xクライアントプログラム、OS-9/UNIX互換関数ライブラリから成る "Client Development Pak" を40万円で発売した。 X.Org ServerはmacOSでの動作をサポートしており、XQuartz (X11.app) として公開されている。Mac OS X v10.5~v10.7では標準搭載されていた。 Mac OS X v10.3では、XFree86 4.3とX11R6.6に基づいたXQuartzがMac OS Xに統合されていた。10.5以降はXFree86ではなく、X.Org Serverになった。古いMac OS 7などにもサードパーティー製のXサーバがある。 X.Org ServerはCygwin併用の形でWindowsでの動作をサポートしており、Cygwin/X (Xwin) として公開されている。 それ以外にも、他のグループによる各種実装が存在する。X.Org Serverから派生した物もあれば、1から実装されている物もある。フリーソフトウェアとしては、WeirdMind、WeirdX などがある。プロプライエタリソフトウェアとしては、ASTEC-X、Exceed、ReflectionX、WiredX、Xmanager、X-Deep/32、Xming、X-Win32、XVision Eclipse などがある。かつては、Xoftware/32(ネットマネージ製)、DynaWinX、PC-Xware(NCD製、数社が取り扱い)、Super-X(Frontier Technologies製、コンテック扱い)、eXodus for Windows(White Pine Software製、DIT扱い)という商品もあった。これらは通常、リモートのXクライアントを表示・制御するのに使われる。 MeeGo、Maemo、Tizen、Ubuntu Touchなど各種Linuxスマートフォン・タブレットでもX Window System (X.Org Server) が使われている。 X端末は、Xサーバを実行するシンクライアントである。これはUNIXワークステーションが高価だったころ、大きめのサーバを複数人で共有し、各人がグラフィカルな環境を使えるようにする安価の手段として人気となった。また、これはMITのプロジェクトが本来想定していた方向性でもある。 X端末は、ネットワーク上で X Display Manager Control Protocol (XDMCP) を使って利用可能なホスト(クライアントを実行できるマシン)を探す。まず最初のホストでXディスプレイマネージャを起動する必要がある。 専用ハードウェアとしてのX端末はその後少なくなり、より安価なXサーバ用端末としてPCや新たなシンクライアントが使われるようになっている。 UNIX-HATERS Handbook(1994年)は、1つの章を割いてXの問題を論じている。Why X Is Not Our Ideal Window System(1990年、Gajewska, Manasse, McCormack)は、Xプロトコルの問題を詳細に論じ、改善の方法を示唆している。 Xはユーザインタフェースの仕様やアプリケーション間通信の仕様を意図的に含まないようにしている。このためそれぞれ全く異なったインタフェースが生まれ、アプリケーション間の連携を阻む原因ともなっている。ICCCMはクライアントの相互運用に関する仕様だが、正しく実装するのが困難なことで有名である。MotifとCDEも標準化の試みだったが、解決策とはならなかった。この問題は、プログラマやユーザーを長い間悩ませてきた。2007年現在、アプリケーションのルック・アンド・フィールとアプリケーション間通信の一貫性を保つためには、特定のデスクトップ環境あるいは特定のウィジェット・ツールキットを採用してプログラムを作成するのが一般的である。 Xプロトコルは音声を全く扱わない。そのため、サウンドカードの制御も含めた部分はOSやOSSやALSAなどのオーディオシステムが分担している。多くのプログラマはOS固有のサウンドAPIを使っている。クライアントサーバ型のサウンドシステムとしては、古くはrplayやNetwork Audio Systemがあった。その後、EsounD (GNOME)、aRts (KDE) などが開発された。2001年、X.Orgはこの問題に対処するためMedia Application Server (MAS) の開発を発表した。しかし、これらはいずれも根本的な解決策とはなっていない。 XクライアントをあるXサーバからデタッチし、別のXサーバに再アタッチすることはできない。しかしXとは別の遠隔操作方法であるVirtual Network Computing (VNC) ではそれが可能であり、一部のアプリケーションやツールキットではそのような機能を提供している。 XサーバとリモートのXクライアントの間の通信トラフィックは、デフォルトでは暗号化されていない。そのため悪意ある者がLANアナライザを使えば、それを覗き見ることができるので注意が必要である。 Xの設計では、クライアントとサーバはそれぞれ独立して動作する。ハードウェアからの独立性やクライアントとサーバの分離などのオーバーヘッドは、OS内にグラフィックス機能が統合されているシステム(WindowsやMac OS)にはないものである。Xが適切な性能を発揮するには、4MBから8MBのRAMを必要とすると言われている。これは1990年代中ごろまではWindowsやMac OSに比較すると大きかった。 Windows Vista/Windows Server 2008以降のWindowsに搭載されているWDDMやOS XのQuartzはXのようなクライアントとサーバの分離を行えるようになっている。オーバーヘッドの大半は、ネットワーク上のラウンドトリップタイムによるものである(つまりプロトコル自体の問題ではなく、レイテンシである)。性能問題を解決するにはそのレイテンシを考慮したアプリケーション設計をする必要がある。Xのネットワーク機能が過度に複雑であるために、ローカルで使っても性能に悪影響があるという誤解を持つ人が多いが、現在のXの実装ではローカルな接続では単にソケットと共有メモリを使うので、X固有のオーバーヘッドはほとんどない。 ディスプレイサーバー本体やディスプレイドライバの実装は安定しているが、Windows系システムとは異なり、ディスプレイドライバがクラッシュした場合、直前までの表示内容は失われ、Xサーバー本体とXクライアントアプリケーションを手動で再起動しなければならない。 そのため、監視システムやインフラ制御システムなどのミッションクリティカルなGUIアプリケーションの利用には注意を要する。 Unix系システムでは、グラフィックス表示にはXが使われるのが普通である。しかしXの代替となるシステムを開発しようという試みはいくつかある。歴史的には、サン・マイクロシステムズのNeWS(市場では成功しなかった)、NeXTのDisplay PostScript(AppleがQuartzに置換した)、日本製のGMWがあった。 Quartz開発者の1人であるMike Paquetteは、アップルがDisplay PostScriptからXに移行せずに独自のウィンドウサーバを開発した理由として、アップルが必要とする全ての機能をX11に追加してみたら、X11とは似ても似つかないものになり、他のXサーバとの互換性も失ってしまったと説明した。 他にも、FrescoやY Window SystemといったXを置換することを意図したシステムもある。しかしXとの互換性を無視したこれらのシステムは、今のところ広く受けいれられてはいない。また、MirやWaylandは互換性を重視している事もあってLinuxディストリビューションやプレインストールでの採用実績があるが、Xを置き換えるほどの勢いはない。 ハードウェアを直接操作することでXのオーバーヘッドに対処しようとした競合システムもある(例えば、DirectFBやFrameBuffer UI)。ダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ (DRI) は、ほぼ同等の機能をX内でモジュール化したものと言え、それら競合システムの努力が無駄になる可能性もある。しかし、(RTAIなどを使った)組み込みシステム用LinuxではDRIのリアルタイム性は思わしくなく、そのような応用にXは今のところ不向きと言える。 グラフィックス関連のサービスでネットワーク透過性を達成するその他の手段には、以下のものがある。 X以前にも、ビットマップディスプレイを使ったシステムは存在していた。ゼロックスはAlto(1973年)とStar(1981年)を開発している。AppleはLisa(1983年)と Macintosh(1984年)を開発した。UNIX関連ではAndrew Project(1982年)とロブ・パイクのBlit端末(1984年)がある。 Xの名称は、それ以前のW Window Systemの後継であることから名づけられた。W Window SystemはVというOS上で動作した。Wはネットワークプロトコルを使って端末やグラフィックウィンドウをサポートし、サーバ側でディスプレイリストを管理する。 Xの考え方がMITで生まれたのは1984年、Jim Gettys(Project Athena)とBob Scheifler(MITコンピュータ科学研究所)によるものであった。ScheiflerはArgusというシステムのデバッグ用の表示環境を必要としていた。Project Athena(DEC、MIT、IBM によるコンピュータのユーザインタフェースを改善するプロジェクト)ではプラットフォームに依存せず、マルチベンダーシステムで利用できるグラフィックスシステムを必要としていた。当時、カーネギーメロン大学のAndrew Projectでウィンドウシステムが開発中だったが、ライセンス提供を受けることができず、他に代案もなかった。 解決策として、ローカルなアプリケーションも動作させることができ、リモートでも動作させることができるプロトコルの開発という考えが生まれた。1983年中ごろ、WがUNIXに移植された(Vのときの5分の1の速度)。1984年5月、Scheiflerは同期型だったWのプロトコルを非同期型に変更し、これがXバージョン 1となった。Xは世界初のハードウェアやベンダーに依存しないウィンドウシステム環境となった。 Scheifler、Gettys、Ron Newmanが開発を進め、Xは急速に進化していった。1985年1月にはバージョン 6をリリース。当時Ultrixを搭載したワークステーションをリリースしようとしていたDECは、Xの搭載を決断した。DECの技術者がX6をDECのQVSSディスプレイ付きMicroVAXに移植した。 1985年第二四半期、Xはカラーをサポートし、DEC VAXstation-II/GPXで動作した。これがバージョン 9となる。MITはX6を外部グループに料金を徴収してライセンスしていたが、X9リリース時点からMIT Licenseを適用することとした。X9は 1985年9月にリリースされた。 ブラウン大学のグループがIBM RT-PCにX9を移植したが、整列されていないデータの読み込みで問題が発生し、プロトコルに非互換となる変更が必要となった。このため、1985年末にバージョン 10となった。1986年には外部からXについての問合せが増えてきた。X10R2は1986年1月、X10R3は1986年2月にリリース。X10R3では広く製品に採用されるようになった。DECとヒューレット・パッカードはX10R3ベースの製品をリリースし、他のグループが アポロコンピュータのマシンやサン・マイクロシステムズのワークステーションへの移植を行い、IBM PC/ATへの移植も行われた。このころ、Autofactという見本市でXを使った商用アプリケーションが初めてデモンストレーションされた(Cognition Inc.の機械系CAEシステム)。X10の最後のバージョンはX10R4で、1986年12月にリリースされた。 Virtual Network Computing (VNC) がデスクトップの共有を可能にしているように、Xサーバをそのように拡張する試みはこのころから既に行われていた。例えば、Philip J. GustのSharedXツールがある。 X10は強力な機能を持っていたが、Xプロトコルはさらに広く使われるようになる前に、もっとハードウェア中立となるよう再設計する必要があることがわかってきた。しかし、MIT だけではそのような全面的な再設計をするだけのリソースがなかった。そこでDECのWestern Software Laboratory (WSL) がこのプロジェクトに参加を申し出た。DEC WSLのSmokey WallaceとJim Gettysは、DEC WSLがX11を開発し、それをX9やX10と同じ条件でフリーにリリースすることを提案した。設計は1986年5月に開始され、8月にはプロトコルが完成した。アルファテストは1987年2月に開始され、ベータテストは1987年5月に開始された。X11のリリースは、1987年9月15日に行われた。 Scheiflerが中心となって行われたX11プロトコルの設計は、USENETのニュースグループとオープンなメーリングリスト上で盛んに議論しながら進められた。したがって、Xは最初の大規模フリーソフトウェアプロジェクトと言われることもある。 1987年、X11の成功が明らかになると、MITはXの運営責任を放棄したいと考えるようになった。しかし、1987年6月に9社の主なベンダーが集まった会議で、各社はMITに対してXをまとめていくには中立的な団体が管理する必要があることを訴えた。1988年1月、MIT X Consotiumが非営利の業界団体として設立された。責任者はScheiflerで、今後のX開発の方向性を業界と学界の動向を加味して決定することとなった。1988年1月にはJim Fulton、1988年3月にはキース・パッカードが参加し、Jim はXlib/フォント/ウィンドウマネージャ/ユーティリティの開発、キースはサーバの再実装を分担するようになった。Donna ConverseとChris D. Petersonが同年末までに参加し、ツールキットとウィジェットを分担し、Project AthenaのRalph Swickと連携して作業を行った。MIT X ConsortiumはX11のリビジョンをいくつかリリースしていった。最初のX11R2は1988年2月にリリースされた。 1993年、MIT X Consortiumの後継としてX Consortium, Inc.(非営利組織)が設立された。そして、1994年5月16日にX11R6をリリース。1995年には、MotifツールキットとCommon Desktop Environmentの開発管理も行うようになった。X Consortium, Inc.は1996年末には解散し、X11R6.3を最後にリリースした。コンソーシアム参加各社による囲い込みのような状況になったことが解散の原因とされている。 1997年中ごろ、X Consortium, Inc.はXの管理運営をThe Open Groupに移管した。これは、Open Software FoundationとX/Openが1996年初めに合併して結成された業界団体である。 The Open Groupは1998年初めにX11R6.4をリリースした。しかし、The Open GroupはXの開発資金を確かなものとするため、これまでのライセンス条件を変更し、これが議論を呼んだ。新たな条件では、多くのプロジェクト(XFree86など)やいくつかの商用ベンダーでの採用が困難であった。これを受けてXFree86が分裂しそうになると、The Open Groupは1998年9月にX11R6.4を改めて従来のライセンス条件でリリースした。The Open Groupの最後のリリースはX11R6.4 patch 3であった。 XFree86の起源は、Thomas RoellとMark W. Snitilyが1991年に書いたPC/AT互換機向けのX11R5であるX386 serverに遡る。Snitily Graphics Consulting Services (SGCS) はこれを1992年にMIT X Consortiumに寄贈した。XFree86は時と共に進化していき、Xの実装としてのデファクトスタンダードとなった。 1999年5月、The Open GroupはX.Orgを設立した(後のX.Org Foundationとは異なる)。X.Orgは当時進行中だったX11R6.5.1のリリースを実施した。当時のX開発は壊滅寸前であった。X Consortium, Inc.が解散した後の技術的進歩の多くはXFree86プロジェクトで生まれた。1999年、XFree86はX.Orgの(会費を払わない)名誉会員となり、XFree86とLinuxを製品に使いたいと思っていた多くのハードウェア企業がこれを歓迎した。 2003年までにLinuxとXの組合せが非常に一般的になってきても、X.Orgは活発にはならず、やはり開発の中心はXFree86であった。しかし、ここでXFree86内で大きな意見の相違が発生した。XFree86は、あまりにも伽藍的開発モデルであり、開発者はCVSにコミットアクセスできず、ベンダーは多数のパッチを保守する必要があった。2003年3月、XFree86からキース・パッカードが追い出された。彼はMIT X Consortiumの消滅後にXFree86に参加していた。 X.OrgとXFree86は、Xの開発を推進するための組織改編についての議論を開始した。Jim Gettysは2000年ごろからオープンな開発モデルが必要であることを強調していた。GettysとPackardは他の何人かと共に効率的なXのオープン開発の要求仕様について議論を開始した。 そしてX11R6.4のライセンス問題の結果、XFree86 version 4.4はより制限されたライセンスで2004年2月にリリースされ、Xを使っている多くのプロジェクトでこれを使うのが困難になった。追加された条項はBSDライセンスの宣伝条項に基づいており、フリーソフトウェア財団もDebianもこれをGNU General Public License (GPL) と非互換であるとした。このライセンス問題とソース修正の困難さから、多くの人が分裂の機が熟したと感じていた。 2004年初め、 X.Orgとfreedesktop.orgの様々な人々が集まりX.Org Foundationが結成され、The Open Groupはx.orgというドメイン名の権利を譲渡した。これにより、Xの管理運営は大きく変化した。1988年以来(前のX.Orgも含めて)Xの開発運営は業界団体が行っていた。しかし、X.Org Foundationはソフトウェア開発者が主導し、バザールモデルに基づいたコミュニティによる開発であり、外部からの参加に依存している。個人参加も可能で、企業がスポンサーとして参加することも可能である。現在、ヒューレット・パッカードなどの企業がX.Org Foundationに援助している。 FoundationはX開発における監督的役割を担う。技術的判断はコミュニティでの合意形成によってなされ、何らかの委員会で決定されるわけではない。これはGNOME Foundationの非干渉主義的開発モデルに非常に近い。Foundationは開発者を雇っていない。 2004年4月、X.Org FoundationがXFree86 4.4RC2にX11R6.6の変更をマージしたX11R6.7をリリースした。GettysとPackardは、従来のライセンスのXFree86の最新版をベースとしてオープンな開発モデルを採用しGPLとの互換性を維持することで、かつてのXFree86開発者の多くを呼び戻した。 2004年9月、X11R6.8がリリースされた。これには多くの新機能が追加された(透明なウィンドウサポート、その他の視覚効果のサポート、3次元表示サポートなど)。また、外部アプリケーションとして、コンポジット型ウィンドウマネージャと呼ばれるもので見た目のポリシーを提供できるようになった。 2005年12月21日、X.Orgは従来からのユーザー向けにモノリシックなソースコードであるX11R6.9と、同じコードをモジュール化して分割したX11R7.0をリリースした。2006年5月22日、多数の機能強化を施したX11R7.1をリリースした。 X.Org Foundationとfreedesktop.orgにより、Xの中核部分の開発が再び加速された。これらの開発者は、単にベンダーによる製品化のベースとしてだけでなく、使用可能な最終製品として今後のバージョンをリリースしようとしている。 ハードウェアやOSとの関係を限定するため、X.Orgは表示用ハードウェアへのアクセスをOpenGLとダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ (DRI) だけにすることを予定している。DRIはXFree86 version 4.0で登場し、X11R6.7以降で標準となった。多くのOSがハードウェア操作のためのカーネルサポートの追加を開始している。 開発元のX.Org Foundationは、このソフトウェアを以下のいずれかの名前で呼ぶことを求めている。 かつてはよく間違われたが、X Window Systemは「"X Window"というシステム」ではなく、「"X"というウィンドウシステム」である。また、X Windowsという表記は誤りである。 X11R7.7を最後に、X.Orgとして全パッケージをまとめてリリースするのを終了し、モジュールごとに個別にリリースする仕組みとなった。X.Org Serverなど各モジュールの開発は続いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "X Window System(エックスウィンドウシステム、別称:「X11」・「X」など→名称については後述)とは、ビットマップディスプレイ上でウィンドウシステムを提供する表示プロトコルである。リファレンス実装として X.Org Server があり、標準ツールキットとプロトコルを提供し、Unix系オペレーティングシステム (OS) やOpenVMSなどでのグラフィカルユーザインタフェース (GUI) を構築するのに使われる。他の多くの汎用OSにも移植されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Xは1984年、マサチューセッツ工科大学が開発した。現在のバージョンであるX11は1987年9月に登場した。現在はX.Org FoundationがXプロジェクトを主導している。リファレンス実装であるversion 11 release 7.3(2007年9月6日)はフリーソフトウェアとしてMIT Licenseおよび類似のライセンスで提供している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Xは、GUI環境構築のための基本フレームワークやプリミティブを提供する。ウィンドウを画面上に描画したり、移動させたり、マウスやキーボードを使ってやり取りする。Xはユーザインタフェースを規定しない。それは、個々のクライアントプログラムの管理下にある。そのため、Xに基づいた環境の見た目は様々である。プログラムごとにインタフェースは異なる。XはOSの中核 (kernel) には含まれない。アプリケーション層構築の基盤となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "それ以前の表示プロトコルとは異なり、Xは表示機器に付属した(あるいは統合された)システムではない。ネットワークコネクションを通して使うことを意図して設計している。X の特徴は、Xプロトコルという、画面表示や入出力時に利用するプロトコルがネットワーク透過だということである。そのため、手元のマシンの表示と遠隔のマシンとの表示で表示方法に差がない。このことは、ネットワークを利用したUNIXワークステーション群でGUI表示を行うのに便利であり、UNIXマシンの普及と共にXも普及していった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "Xはクライアントサーバモデルに基づき、Xサーバが各種「クライアント」プログラムと通信する。サーバはグラフィカルな出力要求を受け付け、(マウス、キーボード、タッチパネルなどからの)ユーザー入力をクライアントに送信する。Xプロトコル自身はハードウェア環境に依存しない。そのため、X Window Systemが動作するマシンはUNIXマシンだけとは限らない。Windows上でXサーバを動作させる、通称PC Xサーバというソフトウェアや、ハードウェア(ファームウエア)でXプロトコルを処理する、通称X端末も存在する。特にX端末は、UNIXマシンが非常に高価な時代に、GUIだけを安価に表示、処理できる機器として良く利用された。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "このクライアントサーバという用語(ユーザーの端末、サーバ、クライアントであるアプリケーション)は、しばしば新規のXユーザーを混乱させる。なぜなら用語が逆に使われているように見えるからである。しかしXはエンドユーザーではなく、むしろアプリケーションからみた考え方をしている。XはディスプレイやI/Oサービスをアプリケーションに提供している。そのためサーバである。アプリケーションはこれらのサービスを利用している。そのためアプリケーションはクライアントである。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "サーバとクライアント間の通信プロトコルは、ネットワーク透過性を備える。クライアントとサーバは同じマシン上でも動作するし、別々のマシン上でも動作する。双方のアーキテクチャやOSが違っていても構わない。クライアントとサーバ間の通信は、インターネット上でもトンネリングによって安全に行うことができる。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Xクライアント自体がXサーバを内包し、複数のクライアントに対してサーバとして動作する構成も可能である。これを「Xネスティング」と呼ぶ。XnestやXephyrは、Xネスティングをサポートしたオープンソースのクライアントである。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "リモートのクライアントプログラムをローカルなサーバで表示するには、端末エミュレータのウィンドウを開き、telnetあるいはsshでリモートのクライアントアプリケーション(あるいはシェル)を起動し、入出力先をローカルに指定してクライアントを起動する(すなわち、export DISPLAY=[ユーザーのマシン]:0 をリモートのマシン上で設定する)。クライアントアプリケーションはローカルサーバと接続され、ローカルマシンのディスプレイと入力機器を使って動作する。またローカルマシンは、リモートマシンに接続しクライアントアプリケーションを起動する小さなプログラムを実行することもできる。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "リモートクライアントの実用的な利用例として、次のようなものがある。", "title": "アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1984年、Bob ScheiflerとJim GettysはXの基本原則を以下のように定めた。", "title": "設計思想" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "先頭の原則は、X11の設計時に「具体的アプリケーションがそれを必要としていることを知っている場合に限って、新たな機能を追加せよ」に修正された。", "title": "設計思想" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "Xはだいたいにおいてこれらの原則に従ってきた。参考実装は拡張性と改良を視野に入れて開発されており、1987年当時のプロトコルとほぼ完全な互換性を維持している。", "title": "設計思想" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Xは意図的にアプリケーションのユーザインタフェースの仕様を含まないようにしている。ボタン、メニュー、ウィンドウのタイトルバーなどである。代わりに、ウィンドウマネージャ、GUIウィジェット・ツールキット、デスクトップ環境、アプリケーション固有のグラフィカルユーザインタフェースなどがそのような詳細を定義し提供している。そのため、典型的なXのインタフェースを示すことは不可能である。", "title": "ユーザインタフェース" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ウィンドウマネージャは、アプリケーションのウィンドウの位置と見た目を制御する。そのインタフェースはWindowsやMacintoshと似ているものもあるし(GNOMEのMetacity、KDEのKWin、XfceのXfwmなど)、全く異なるものもある。実用本位のウィンドウマネージャもあれば(twmなど)、デスクトップ環境に近い機能を持つものもある(Enlightenmentなど)。", "title": "ユーザインタフェース" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "多くのユーザーはデスクトップ環境を通してXを利用している。デスクトップ環境にはウィンドウマネージャ、各種アプリケーションなどが一貫したインタフェースで含まれている。GNOME、KDE、Xfceなどが主なデスクトップ環境である。freedesktop.orgはデスクトップ環境間の相互運用性を高めることを目的としている。", "title": "ユーザインタフェース" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "Xサーバは、グラフィカルなデスクトップでのキーボードとマウス操作を管理している。そのため、一部のショートカットキーはXサーバと結び付けられている。Control-Alt-Backspaceは通常、現在動作しているXセッションを終了させる。Control-Altとファンクションキーの組合せは、一般にバーチャルコンソールに連携している。ただし、これは個々のXサーバの実装の詳細であり、常に同じとは限らない。例えば、WindowsやMacintoshで動作するXサーバでは、そのようなショートカットキーは提供されない。", "title": "ユーザインタフェース" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "X.Org Serverは、リファレンス実装としてX Window Systemの正式な実装として扱われる。フリーソフトウェア、プロプライエタリソフトウェアの実装が複数存在する。商用UNIXベンダーはリファレンス実装を採用し、それを自身のハードウェアに合わせて修正し、独自の拡張を様々に凝らすことが多い。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2004年まで、XFree86がフリーなUnix系システムでのX実装の事実上の標準だった。XFree86はXを80386搭載のパーソナルコンピュータ (PC) 上に移植することから始まり、1990年代末ごろにはXのデファクトスタンダードの地位を得ていた。しかし、2004年にX.Org ServerがXFree86のライセンスの変更を期にして派生し、こちらが主流となっていった。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "XとUNIXの組合せはよく知られているが、Xサーバは他のグラフィカル環境用にも存在している。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "WindowsやmacOSなどの他のウィンドウシステム上でXサーバを動作させる場合、統合のさせ方がソフトウェアによって色々あり、X.Org ServerではWindowsとmacOSでは以下の方式の最初の3つをサポートしている。Unix系ではフルスクリーンだが、それ以外はXnestによりサポートしている。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "HPEおよびVSIのOpenVMSにはXとCDE (DECwindows) が標準のデスクトップ環境として含まれている。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "OS-9にもかつてメーカー純正のXサーバがあった。マイクロウェア・システムズ(株)がX Window Version 11 Release 4をOS-9に移植し、X開発ライブラリとXクライアント制御管理プログラム、Xクライアントプログラム、OS-9/UNIX互換関数ライブラリから成る \"Client Development Pak\" を40万円で発売した。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "X.Org ServerはmacOSでの動作をサポートしており、XQuartz (X11.app) として公開されている。Mac OS X v10.5~v10.7では標準搭載されていた。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "Mac OS X v10.3では、XFree86 4.3とX11R6.6に基づいたXQuartzがMac OS Xに統合されていた。10.5以降はXFree86ではなく、X.Org Serverになった。古いMac OS 7などにもサードパーティー製のXサーバがある。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "X.Org ServerはCygwin併用の形でWindowsでの動作をサポートしており、Cygwin/X (Xwin) として公開されている。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "それ以外にも、他のグループによる各種実装が存在する。X.Org Serverから派生した物もあれば、1から実装されている物もある。フリーソフトウェアとしては、WeirdMind、WeirdX などがある。プロプライエタリソフトウェアとしては、ASTEC-X、Exceed、ReflectionX、WiredX、Xmanager、X-Deep/32、Xming、X-Win32、XVision Eclipse などがある。かつては、Xoftware/32(ネットマネージ製)、DynaWinX、PC-Xware(NCD製、数社が取り扱い)、Super-X(Frontier Technologies製、コンテック扱い)、eXodus for Windows(White Pine Software製、DIT扱い)という商品もあった。これらは通常、リモートのXクライアントを表示・制御するのに使われる。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "MeeGo、Maemo、Tizen、Ubuntu Touchなど各種Linuxスマートフォン・タブレットでもX Window System (X.Org Server) が使われている。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "X端末は、Xサーバを実行するシンクライアントである。これはUNIXワークステーションが高価だったころ、大きめのサーバを複数人で共有し、各人がグラフィカルな環境を使えるようにする安価の手段として人気となった。また、これはMITのプロジェクトが本来想定していた方向性でもある。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "X端末は、ネットワーク上で X Display Manager Control Protocol (XDMCP) を使って利用可能なホスト(クライアントを実行できるマシン)を探す。まず最初のホストでXディスプレイマネージャを起動する必要がある。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "専用ハードウェアとしてのX端末はその後少なくなり、より安価なXサーバ用端末としてPCや新たなシンクライアントが使われるようになっている。", "title": "実装" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "UNIX-HATERS Handbook(1994年)は、1つの章を割いてXの問題を論じている。Why X Is Not Our Ideal Window System(1990年、Gajewska, Manasse, McCormack)は、Xプロトコルの問題を詳細に論じ、改善の方法を示唆している。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "Xはユーザインタフェースの仕様やアプリケーション間通信の仕様を意図的に含まないようにしている。このためそれぞれ全く異なったインタフェースが生まれ、アプリケーション間の連携を阻む原因ともなっている。ICCCMはクライアントの相互運用に関する仕様だが、正しく実装するのが困難なことで有名である。MotifとCDEも標準化の試みだったが、解決策とはならなかった。この問題は、プログラマやユーザーを長い間悩ませてきた。2007年現在、アプリケーションのルック・アンド・フィールとアプリケーション間通信の一貫性を保つためには、特定のデスクトップ環境あるいは特定のウィジェット・ツールキットを採用してプログラムを作成するのが一般的である。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Xプロトコルは音声を全く扱わない。そのため、サウンドカードの制御も含めた部分はOSやOSSやALSAなどのオーディオシステムが分担している。多くのプログラマはOS固有のサウンドAPIを使っている。クライアントサーバ型のサウンドシステムとしては、古くはrplayやNetwork Audio Systemがあった。その後、EsounD (GNOME)、aRts (KDE) などが開発された。2001年、X.Orgはこの問題に対処するためMedia Application Server (MAS) の開発を発表した。しかし、これらはいずれも根本的な解決策とはなっていない。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "XクライアントをあるXサーバからデタッチし、別のXサーバに再アタッチすることはできない。しかしXとは別の遠隔操作方法であるVirtual Network Computing (VNC) ではそれが可能であり、一部のアプリケーションやツールキットではそのような機能を提供している。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "XサーバとリモートのXクライアントの間の通信トラフィックは、デフォルトでは暗号化されていない。そのため悪意ある者がLANアナライザを使えば、それを覗き見ることができるので注意が必要である。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "Xの設計では、クライアントとサーバはそれぞれ独立して動作する。ハードウェアからの独立性やクライアントとサーバの分離などのオーバーヘッドは、OS内にグラフィックス機能が統合されているシステム(WindowsやMac OS)にはないものである。Xが適切な性能を発揮するには、4MBから8MBのRAMを必要とすると言われている。これは1990年代中ごろまではWindowsやMac OSに比較すると大きかった。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Windows Vista/Windows Server 2008以降のWindowsに搭載されているWDDMやOS XのQuartzはXのようなクライアントとサーバの分離を行えるようになっている。オーバーヘッドの大半は、ネットワーク上のラウンドトリップタイムによるものである(つまりプロトコル自体の問題ではなく、レイテンシである)。性能問題を解決するにはそのレイテンシを考慮したアプリケーション設計をする必要がある。Xのネットワーク機能が過度に複雑であるために、ローカルで使っても性能に悪影響があるという誤解を持つ人が多いが、現在のXの実装ではローカルな接続では単にソケットと共有メモリを使うので、X固有のオーバーヘッドはほとんどない。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ディスプレイサーバー本体やディスプレイドライバの実装は安定しているが、Windows系システムとは異なり、ディスプレイドライバがクラッシュした場合、直前までの表示内容は失われ、Xサーバー本体とXクライアントアプリケーションを手動で再起動しなければならない。 そのため、監視システムやインフラ制御システムなどのミッションクリティカルなGUIアプリケーションの利用には注意を要する。", "title": "Xの限界と非難" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "Unix系システムでは、グラフィックス表示にはXが使われるのが普通である。しかしXの代替となるシステムを開発しようという試みはいくつかある。歴史的には、サン・マイクロシステムズのNeWS(市場では成功しなかった)、NeXTのDisplay PostScript(AppleがQuartzに置換した)、日本製のGMWがあった。", "title": "Xと競合するシステム" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Quartz開発者の1人であるMike Paquetteは、アップルがDisplay PostScriptからXに移行せずに独自のウィンドウサーバを開発した理由として、アップルが必要とする全ての機能をX11に追加してみたら、X11とは似ても似つかないものになり、他のXサーバとの互換性も失ってしまったと説明した。", "title": "Xと競合するシステム" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "他にも、FrescoやY Window SystemといったXを置換することを意図したシステムもある。しかしXとの互換性を無視したこれらのシステムは、今のところ広く受けいれられてはいない。また、MirやWaylandは互換性を重視している事もあってLinuxディストリビューションやプレインストールでの採用実績があるが、Xを置き換えるほどの勢いはない。", "title": "Xと競合するシステム" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ハードウェアを直接操作することでXのオーバーヘッドに対処しようとした競合システムもある(例えば、DirectFBやFrameBuffer UI)。ダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ (DRI) は、ほぼ同等の機能をX内でモジュール化したものと言え、それら競合システムの努力が無駄になる可能性もある。しかし、(RTAIなどを使った)組み込みシステム用LinuxではDRIのリアルタイム性は思わしくなく、そのような応用にXは今のところ不向きと言える。", "title": "Xと競合するシステム" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "グラフィックス関連のサービスでネットワーク透過性を達成するその他の手段には、以下のものがある。", "title": "Xと競合するシステム" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "X以前にも、ビットマップディスプレイを使ったシステムは存在していた。ゼロックスはAlto(1973年)とStar(1981年)を開発している。AppleはLisa(1983年)と Macintosh(1984年)を開発した。UNIX関連ではAndrew Project(1982年)とロブ・パイクのBlit端末(1984年)がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "Xの名称は、それ以前のW Window Systemの後継であることから名づけられた。W Window SystemはVというOS上で動作した。Wはネットワークプロトコルを使って端末やグラフィックウィンドウをサポートし、サーバ側でディスプレイリストを管理する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "Xの考え方がMITで生まれたのは1984年、Jim Gettys(Project Athena)とBob Scheifler(MITコンピュータ科学研究所)によるものであった。ScheiflerはArgusというシステムのデバッグ用の表示環境を必要としていた。Project Athena(DEC、MIT、IBM によるコンピュータのユーザインタフェースを改善するプロジェクト)ではプラットフォームに依存せず、マルチベンダーシステムで利用できるグラフィックスシステムを必要としていた。当時、カーネギーメロン大学のAndrew Projectでウィンドウシステムが開発中だったが、ライセンス提供を受けることができず、他に代案もなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "解決策として、ローカルなアプリケーションも動作させることができ、リモートでも動作させることができるプロトコルの開発という考えが生まれた。1983年中ごろ、WがUNIXに移植された(Vのときの5分の1の速度)。1984年5月、Scheiflerは同期型だったWのプロトコルを非同期型に変更し、これがXバージョン 1となった。Xは世界初のハードウェアやベンダーに依存しないウィンドウシステム環境となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "Scheifler、Gettys、Ron Newmanが開発を進め、Xは急速に進化していった。1985年1月にはバージョン 6をリリース。当時Ultrixを搭載したワークステーションをリリースしようとしていたDECは、Xの搭載を決断した。DECの技術者がX6をDECのQVSSディスプレイ付きMicroVAXに移植した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1985年第二四半期、Xはカラーをサポートし、DEC VAXstation-II/GPXで動作した。これがバージョン 9となる。MITはX6を外部グループに料金を徴収してライセンスしていたが、X9リリース時点からMIT Licenseを適用することとした。X9は 1985年9月にリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ブラウン大学のグループがIBM RT-PCにX9を移植したが、整列されていないデータの読み込みで問題が発生し、プロトコルに非互換となる変更が必要となった。このため、1985年末にバージョン 10となった。1986年には外部からXについての問合せが増えてきた。X10R2は1986年1月、X10R3は1986年2月にリリース。X10R3では広く製品に採用されるようになった。DECとヒューレット・パッカードはX10R3ベースの製品をリリースし、他のグループが アポロコンピュータのマシンやサン・マイクロシステムズのワークステーションへの移植を行い、IBM PC/ATへの移植も行われた。このころ、Autofactという見本市でXを使った商用アプリケーションが初めてデモンストレーションされた(Cognition Inc.の機械系CAEシステム)。X10の最後のバージョンはX10R4で、1986年12月にリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "Virtual Network Computing (VNC) がデスクトップの共有を可能にしているように、Xサーバをそのように拡張する試みはこのころから既に行われていた。例えば、Philip J. GustのSharedXツールがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "X10は強力な機能を持っていたが、Xプロトコルはさらに広く使われるようになる前に、もっとハードウェア中立となるよう再設計する必要があることがわかってきた。しかし、MIT だけではそのような全面的な再設計をするだけのリソースがなかった。そこでDECのWestern Software Laboratory (WSL) がこのプロジェクトに参加を申し出た。DEC WSLのSmokey WallaceとJim Gettysは、DEC WSLがX11を開発し、それをX9やX10と同じ条件でフリーにリリースすることを提案した。設計は1986年5月に開始され、8月にはプロトコルが完成した。アルファテストは1987年2月に開始され、ベータテストは1987年5月に開始された。X11のリリースは、1987年9月15日に行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "Scheiflerが中心となって行われたX11プロトコルの設計は、USENETのニュースグループとオープンなメーリングリスト上で盛んに議論しながら進められた。したがって、Xは最初の大規模フリーソフトウェアプロジェクトと言われることもある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1987年、X11の成功が明らかになると、MITはXの運営責任を放棄したいと考えるようになった。しかし、1987年6月に9社の主なベンダーが集まった会議で、各社はMITに対してXをまとめていくには中立的な団体が管理する必要があることを訴えた。1988年1月、MIT X Consotiumが非営利の業界団体として設立された。責任者はScheiflerで、今後のX開発の方向性を業界と学界の動向を加味して決定することとなった。1988年1月にはJim Fulton、1988年3月にはキース・パッカードが参加し、Jim はXlib/フォント/ウィンドウマネージャ/ユーティリティの開発、キースはサーバの再実装を分担するようになった。Donna ConverseとChris D. Petersonが同年末までに参加し、ツールキットとウィジェットを分担し、Project AthenaのRalph Swickと連携して作業を行った。MIT X ConsortiumはX11のリビジョンをいくつかリリースしていった。最初のX11R2は1988年2月にリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1993年、MIT X Consortiumの後継としてX Consortium, Inc.(非営利組織)が設立された。そして、1994年5月16日にX11R6をリリース。1995年には、MotifツールキットとCommon Desktop Environmentの開発管理も行うようになった。X Consortium, Inc.は1996年末には解散し、X11R6.3を最後にリリースした。コンソーシアム参加各社による囲い込みのような状況になったことが解散の原因とされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1997年中ごろ、X Consortium, Inc.はXの管理運営をThe Open Groupに移管した。これは、Open Software FoundationとX/Openが1996年初めに合併して結成された業界団体である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "The Open Groupは1998年初めにX11R6.4をリリースした。しかし、The Open GroupはXの開発資金を確かなものとするため、これまでのライセンス条件を変更し、これが議論を呼んだ。新たな条件では、多くのプロジェクト(XFree86など)やいくつかの商用ベンダーでの採用が困難であった。これを受けてXFree86が分裂しそうになると、The Open Groupは1998年9月にX11R6.4を改めて従来のライセンス条件でリリースした。The Open Groupの最後のリリースはX11R6.4 patch 3であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "XFree86の起源は、Thomas RoellとMark W. Snitilyが1991年に書いたPC/AT互換機向けのX11R5であるX386 serverに遡る。Snitily Graphics Consulting Services (SGCS) はこれを1992年にMIT X Consortiumに寄贈した。XFree86は時と共に進化していき、Xの実装としてのデファクトスタンダードとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1999年5月、The Open GroupはX.Orgを設立した(後のX.Org Foundationとは異なる)。X.Orgは当時進行中だったX11R6.5.1のリリースを実施した。当時のX開発は壊滅寸前であった。X Consortium, Inc.が解散した後の技術的進歩の多くはXFree86プロジェクトで生まれた。1999年、XFree86はX.Orgの(会費を払わない)名誉会員となり、XFree86とLinuxを製品に使いたいと思っていた多くのハードウェア企業がこれを歓迎した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2003年までにLinuxとXの組合せが非常に一般的になってきても、X.Orgは活発にはならず、やはり開発の中心はXFree86であった。しかし、ここでXFree86内で大きな意見の相違が発生した。XFree86は、あまりにも伽藍的開発モデルであり、開発者はCVSにコミットアクセスできず、ベンダーは多数のパッチを保守する必要があった。2003年3月、XFree86からキース・パッカードが追い出された。彼はMIT X Consortiumの消滅後にXFree86に参加していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "X.OrgとXFree86は、Xの開発を推進するための組織改編についての議論を開始した。Jim Gettysは2000年ごろからオープンな開発モデルが必要であることを強調していた。GettysとPackardは他の何人かと共に効率的なXのオープン開発の要求仕様について議論を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "そしてX11R6.4のライセンス問題の結果、XFree86 version 4.4はより制限されたライセンスで2004年2月にリリースされ、Xを使っている多くのプロジェクトでこれを使うのが困難になった。追加された条項はBSDライセンスの宣伝条項に基づいており、フリーソフトウェア財団もDebianもこれをGNU General Public License (GPL) と非互換であるとした。このライセンス問題とソース修正の困難さから、多くの人が分裂の機が熟したと感じていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2004年初め、 X.Orgとfreedesktop.orgの様々な人々が集まりX.Org Foundationが結成され、The Open Groupはx.orgというドメイン名の権利を譲渡した。これにより、Xの管理運営は大きく変化した。1988年以来(前のX.Orgも含めて)Xの開発運営は業界団体が行っていた。しかし、X.Org Foundationはソフトウェア開発者が主導し、バザールモデルに基づいたコミュニティによる開発であり、外部からの参加に依存している。個人参加も可能で、企業がスポンサーとして参加することも可能である。現在、ヒューレット・パッカードなどの企業がX.Org Foundationに援助している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "FoundationはX開発における監督的役割を担う。技術的判断はコミュニティでの合意形成によってなされ、何らかの委員会で決定されるわけではない。これはGNOME Foundationの非干渉主義的開発モデルに非常に近い。Foundationは開発者を雇っていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2004年4月、X.Org FoundationがXFree86 4.4RC2にX11R6.6の変更をマージしたX11R6.7をリリースした。GettysとPackardは、従来のライセンスのXFree86の最新版をベースとしてオープンな開発モデルを採用しGPLとの互換性を維持することで、かつてのXFree86開発者の多くを呼び戻した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2004年9月、X11R6.8がリリースされた。これには多くの新機能が追加された(透明なウィンドウサポート、その他の視覚効果のサポート、3次元表示サポートなど)。また、外部アプリケーションとして、コンポジット型ウィンドウマネージャと呼ばれるもので見た目のポリシーを提供できるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2005年12月21日、X.Orgは従来からのユーザー向けにモノリシックなソースコードであるX11R6.9と、同じコードをモジュール化して分割したX11R7.0をリリースした。2006年5月22日、多数の機能強化を施したX11R7.1をリリースした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "X.Org Foundationとfreedesktop.orgにより、Xの中核部分の開発が再び加速された。これらの開発者は、単にベンダーによる製品化のベースとしてだけでなく、使用可能な最終製品として今後のバージョンをリリースしようとしている。", "title": "今後" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ハードウェアやOSとの関係を限定するため、X.Orgは表示用ハードウェアへのアクセスをOpenGLとダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ (DRI) だけにすることを予定している。DRIはXFree86 version 4.0で登場し、X11R6.7以降で標準となった。多くのOSがハードウェア操作のためのカーネルサポートの追加を開始している。", "title": "今後" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "開発元のX.Org Foundationは、このソフトウェアを以下のいずれかの名前で呼ぶことを求めている。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "かつてはよく間違われたが、X Window Systemは「\"X Window\"というシステム」ではなく、「\"X\"というウィンドウシステム」である。また、X Windowsという表記は誤りである。", "title": "名称" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "X11R7.7を最後に、X.Orgとして全パッケージをまとめてリリースするのを終了し、モジュールごとに個別にリリースする仕組みとなった。X.Org Serverなど各モジュールの開発は続いている。", "title": "リリース履歴" } ]
X Window Systemとは、ビットマップディスプレイ上でウィンドウシステムを提供する表示プロトコルである。リファレンス実装として X.Org Server があり、標準ツールキットとプロトコルを提供し、Unix系オペレーティングシステム (OS) やOpenVMSなどでのグラフィカルユーザインタフェース (GUI) を構築するのに使われる。他の多くの汎用OSにも移植されている。
{{出典の明記|date=2020年12月}} {{Redirect|X11}} {{Redirect|Xサーバ|レンタルサーバ|エックスサーバー}} {{Infobox Software | 名称 = X Window System | ロゴ = [[ファイル:X11.svg|100px]] | スクリーンショット = | 説明文 = | 開発元 = X.Org Foundation | 最新版 = バージョン11, リリース7.7 | 最新版発表日 = {{release date and age|2012|6|6}} | 最新評価版 = | 最新評価版発表日 = | 対応OS = [[クロスプラットフォーム]] | 対応プラットフォーム = | 種別 = [[ウインドウシステム]] | ライセンス = | 公式サイト = [https://x.org X.Org Foundation] }} [[ファイル:Gnome-2.28.png|thumb|[[GNOME]] 2.28]] [[ファイル:KDE_4.png|thumb|[[KDE]] 4.x]] [[ファイル:Screenshot-xfce4.6-ja.png|thumb|[[Xfce]] 4.6]] '''X Window System'''('''エックスウィンドウシステム'''、別称:「'''X11'''」・「'''X'''」など→名称については[[#名称|後述]])とは、[[ビットマップ画像|ビットマップ]]ディスプレイ上で[[ウィンドウシステム]]を提供する表示プロトコルである。[[リファレンス実装]]として [[X.Org Server]] があり、標準ツールキットとプロトコルを提供し、[[Unix系]][[オペレーティングシステム]] (OS) や[[OpenVMS]]などでの[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) を構築するのに使われる。他の多くの汎用OSにも[[移植 (ソフトウェア)|移植]]されている。 == 概要 == Xは1984年、[[マサチューセッツ工科大学]]が開発した。現在のバージョンであるX11は1987年9月に登場した。現在は[[X.Org Foundation]]がXプロジェクトを主導している。[[リファレンス実装]]であるversion 11 release 7.3(2007年9月6日)は[[フリーソフトウェア]]として[[MIT License]]および類似のライセンスで提供している<ref>{{ cite web | url = http://ftp.x.org/pub/X11R7.0/doc/html/LICENSE.html | title = Licenses | work - X11 documentation | publisher = X.org | date = 2005-12-19 | accessdate = 2007-10-23 }}</ref>。 Xは、GUI環境構築のための基本フレームワークやプリミティブを提供する。[[ウィンドウ]]を画面上に描画したり、移動させたり、マウスやキーボードを使ってやり取りする。Xは[[ユーザインタフェース]]を規定しない。それは、個々のクライアントプログラムの管理下にある。そのため、Xに基づいた環境の見た目は様々である。[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]ごとにインタフェースは異なる。XはOSの中核 (kernel) には含まれない。アプリケーション層構築の基盤となっている。 それ以前の表示プロトコルとは異なり、Xは表示機器に付属した(あるいは統合された)システムではない。[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]コネクションを通して使うことを意図して設計している。X の特徴は、[[Xプロトコル]]という、画面表示や入出力時に利用する[[プロトコル]]が[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]][[透過性 (情報工学)|透過]]だということである。そのため、手元のマシンの表示と遠隔のマシンとの表示で表示方法に差がない。このことは、ネットワークを利用した[[UNIX]][[ワークステーション]]群でGUI表示を行うのに便利であり、UNIXマシンの普及と共にXも普及していった。 == アーキテクチャ == {{Main|X Window System プロトコルとアーキテクチャ}} {{Main|X Window System コアプロトコル}} Xは[[クライアントサーバモデル]]に基づき、'''Xサーバ'''が各種「クライアント」プログラムと通信する。サーバはグラフィカルな出力要求を受け付け、([[マウス (コンピュータ)|マウス]]、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[タッチパネル]]などからの)ユーザー入力をクライアントに送信する。Xプロトコル自身はハードウェア環境に依存しない。そのため、X Window Systemが動作するマシンはUNIXマシンだけとは限らない。[[Microsoft Windows|Windows]]上でXサーバを動作させる、通称''PC Xサーバ''という[[ソフトウェア]]や、[[ハードウェア]](ファームウエア)でXプロトコルを処理する、通称[[X端末]]も存在する。特にX端末は、UNIXマシンが非常に高価な時代に、GUIだけを安価に表示、処理できる機器として良く利用された。 このクライアントサーバという用語(ユーザーの[[端末]]、[[サーバ]]、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]である[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]])は、しばしば新規のXユーザーを混乱させる。なぜなら用語が逆に使われているように見えるからである。しかしXはエンドユーザーではなく、むしろアプリケーションからみた考え方をしている。Xは[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]や[[入出力|I/O]]サービスをアプリケーションに提供している。そのためサーバである。アプリケーションはこれらのサービスを利用している。そのためアプリケーションはクライアントである。 [[ファイル:X client server example.svg|thumb|この例では、Xサーバがキーボードとマウスの入力を受け取り、画面に表示する。[[ウェブブラウザ]]と[[端末エミュレータ]]がローカルに動作しており、system updaterがリモートのサーバ上で動作しているが、それを制御しているのはローカルのマシンである。リモート・アプリケーションはローカルに動作するのと何ら変わりなく動作することに注意されたい。]] サーバとクライアント間の[[通信プロトコル]]は、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]][[透過性 (情報工学)|透過性]]を備える。クライアントとサーバは同じマシン上でも動作するし、別々のマシン上でも動作する。双方の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]やOSが違っていても構わない。クライアントとサーバ間の通信は、[[インターネット]]上でも[[トンネリング]]によって安全に行うことができる。 Xクライアント自体がXサーバを内包し、複数のクライアントに対してサーバとして動作する構成も可能である。これを「Xネスティング」と呼ぶ。[[Xnest]]や[[Xephyr]]は、Xネスティングをサポートした[[オープンソース]]のクライアントである。 リモートのクライアントプログラムをローカルなサーバで表示するには、[[端末エミュレータ]]のウィンドウを開き、[[telnet]]あるいは[[Secure Shell|ssh]]でリモートのクライアントアプリケーション(あるいは[[シェル]])を起動し、入出力先をローカルに指定してクライアントを起動する(すなわち、<tt>export DISPLAY=</tt>''[ユーザーのマシン]''<tt>:0</tt> をリモートのマシン上で設定する)。クライアントアプリケーションはローカルサーバと接続され、ローカルマシンのディスプレイと[[入力機器]]を使って動作する。またローカルマシンは、リモートマシンに接続しクライアントアプリケーションを起動する小さなプログラムを実行することもできる。 リモートクライアントの実用的な利用例として、次のようなものがある。 * リモートマシンの管理をグラフィカルに行う。 * リモートマシンで計算量の多い[[シミュレーション]]を実行し、ローカルなデスクトップマシンでその結果を表示する。 * 複数のマシンでグラフィカルなソフトウェアを同時に実行し、その表示を1つのマシンで行い、1人のユーザーが全体を操作する。 == 設計思想 == 1984年、Bob ScheiflerとJim GettysはXの基本原則を以下のように定めた<ref>Robert W. Scheifler and James Gettys: X Window System: Core and extension protocols: X version 11, releases 6 and 6.1, Digital Press 1996, {{ISBN2|1-55558-148-X}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.x.org/releases/X11R7.7/doc/xproto/x11protocol.html |title=X Window System Protocol |author=Robert W. Scheifler |date=2012-06-07 |website=X.org |publisher=[[The Open Group]] |language=英語 |accessdate=2019-07-09}}</ref>。 * 実際のアプリケーションでどうしても必要という場合以外は、新機能を追加するな。 * 機構が何でないのかを定義することは、何であるのかを定義するのと同じように重要である。あらゆる要求に答える必要はない。むしろ、互換性を維持した状態で拡張可能にしておけ。 * 1つでも例を挙げて一般化したほうが、全く例を挙げずに一般化するよりもマシである。 * 問題が完全に把握できないときは、解決策も提供しないのが最善の方法である。 * 10%の作業で望みの90%の効果が得られるときには、その解法を使え。 * 複雑さは可能な限り分離せよ。 * 方針よりも機構を提供せよ。特にユーザインタフェースについての方針はクライアント側に任せておけ。 先頭の原則は、X11の設計時に「具体的アプリケーションがそれを必要としていることを知っている場合に限って、新たな機能を追加せよ」に修正された。 Xはだいたいにおいてこれらの原則に従ってきた。参考実装は拡張性と改良を視野に入れて開発されており、1987年当時のプロトコルとほぼ完全な互換性を維持している。 == ユーザインタフェース == Xは意図的にアプリケーションの[[ユーザインタフェース]]の仕様を含まないようにしている。[[ボタン (GUI)|ボタン]]、[[メニュー (コンピュータ)|メニュー]]、ウィンドウの[[タイトルバー]]などである。代わりに、[[ウィンドウマネージャ]]、GUI[[ウィジェット・ツールキット]]、[[デスクトップ環境]]、アプリケーション固有の[[グラフィカルユーザインタフェース]]などがそのような詳細を定義し提供している。そのため、典型的なXのインタフェースを示すことは不可能である。 [[ウィンドウマネージャ]]は、アプリケーションのウィンドウの位置と見た目を制御する。そのインタフェースは[[Microsoft Windows|Windows]]や[[Macintosh]]と似ているものもあるし([[GNOME]]の[[Metacity]]、[[KDE]]の[[KWin]]、[[Xfce]]のXfwmなど)、全く異なるものもある。実用本位のウィンドウマネージャもあれば([[twm]]など)、デスクトップ環境に近い機能を持つものもある([[Enlightenment]]など)。 多くのユーザーは[[デスクトップ環境]]を通してXを利用している。デスクトップ環境にはウィンドウマネージャ、各種アプリケーションなどが一貫したインタフェースで含まれている。[[GNOME]]、[[KDE]]、[[Xfce]]などが主なデスクトップ環境である。[[freedesktop.org]]はデスクトップ環境間の相互運用性を高めることを目的としている。 Xサーバは、グラフィカルなデスクトップでのキーボードとマウス操作を管理している。そのため、一部の[[ショートカットキー]]はXサーバと結び付けられている。Control-Alt-Backspaceは通常、現在動作しているXセッションを終了させる。Control-Altと[[ファンクションキー]]の組合せは、一般に[[バーチャルコンソール]]に連携している。ただし、これは個々のXサーバの実装の詳細であり、常に同じとは限らない。例えば、WindowsやMacintoshで動作するXサーバでは、そのようなショートカットキーは提供されない。 == 実装 == [[X.Org Server]]は、[[リファレンス実装]]としてX Window Systemの正式な実装として扱われる。[[フリーソフトウェア]]、[[プロプライエタリソフトウェア]]の実装が複数存在する。商用UNIXベンダーはリファレンス実装を採用し、それを自身のハードウェアに合わせて修正し、独自の拡張を様々に凝らすことが多い。 2004年まで、[[XFree86]]がフリーな[[Unix系]]システムでのX実装の事実上の標準だった。XFree86はXを[[Intel 80386|80386]]搭載の[[パーソナルコンピュータ]] (PC) 上に[[移植 (ソフトウェア)|移植]]することから始まり、1990年代末ごろにはXの[[デファクトスタンダード]]の地位を得ていた<ref name="名前なし-1">[http://www.xfree86.org/pipermail/forum/2004-February/003945.html Announcement: Modification to the base XFree86(TM) license.] 02 Feb 2004</ref>。しかし、2004年に[[X.Org Server]]がXFree86のライセンスの変更を期にして派生し、こちらが主流となっていった。 XとUNIXの組合せはよく知られているが、Xサーバは他のグラフィカル環境用にも存在している。 Windowsや[[macOS]]などの他のウィンドウシステム上でXサーバを動作させる場合、統合のさせ方がソフトウェアによって色々あり、[[X.Org Server]]ではWindowsとmacOSでは以下の方式の最初の3つをサポートしている。Unix系ではフルスクリーンだが、それ以外は[[Xnest]]によりサポートしている。 * シングルウィンドウ - X11のルートウィンドウをOSのトップレベルウィンドウにマッピングする。 * マルチウィンドウ - X11のトップレベルウィンドウをOSのトップレベルウィンドウにマッピングする。 * ルートレス (rootless) - 本来のウィンドウシステムが背景と基本メニューを提供し、Xのウィンドウの位置を管理する。すなわち、Xのクライアントが表示するウィンドウが、手元のウィンドウシステムで表示されるアプリケーションが出すウィンドウと同じように表示される。X11のウィンドウマネージャが利用される。 * フルスクリーン === OpenVMS === [[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ|HPE]]およびVSIの[[OpenVMS]]にはXと[[Common Desktop Environment|CDE]] (DECwindows) が標準のデスクトップ環境として含まれている。 === OS-9 === [[OS-9]]にもかつてメーカー純正のXサーバがあった。マイクロウェア・システムズ(株)がX Window Version 11 Release 4をOS-9に移植し、X開発ライブラリとXクライアント制御管理プログラム、Xクライアントプログラム、OS-9/UNIX互換関数ライブラリから成る "Client Development Pak" を40万円で発売した{{Sfn |SuperASCII 1991年8月号 |p=41}}。 === macOS === X.Org Serverは[[macOS]]での動作をサポートしており、[[XQuartz]] (X11.app) として公開されている。[[Mac OS X v10.5]]~[[Mac OS X Lion|v10.7]]では標準搭載されていた。 [[Mac OS X v10.3]]では、[[XFree86]] 4.3とX11R6.6に基づいたXQuartzが[[macOS|Mac OS X]]に統合されていた。10.5以降はXFree86ではなく、X.Org Serverになった。古い[[Classic Mac OS#System 7|Mac OS 7]]などにも[[サードパーティー]]製のXサーバがある。 === Windows === X.Org Serverは[[Cygwin]]併用の形でWindowsでの動作をサポートしており、[[Cygwin/X]] (Xwin) として公開されている。 それ以外にも、他のグループによる各種実装が存在する。X.Org Serverから派生した物もあれば、1から実装されている物もある。[[フリーソフトウェア]]としては、[http://www.spiro.fisica.unipd.it/servizi/weirdx/weirdmind/weirdmind/ WeirdMind]、[http://www.jcraft.com/weirdx/index.html WeirdX] などがある。プロプライエタリソフトウェアとしては、[http://www.astec-x.com/ ASTEC-X]、[https://www.macnica.co.jp/business/network/manufacturers/opentext/exceed.html Exceed]、[http://www.cybernet.co.jp/reflection/products/rx/ ReflectionX]、[http://www.jcraft.com/wiredx/index.html WiredX]、[http://www.netsarang.com/products/xmg_overview.html Xmanager]、[http://www.pexus.com X-Deep/32]、[[Xming]]、[http://www.starnet.com/products/xwin32/ X-Win32]、[http://www.air.co.jp/visionfamily/xvision.html XVision Eclipse] などがある。かつては、Xoftware/32(ネットマネージ製)、DynaWinX、PC-Xware(NCD製、数社が取り扱い)、Super-X(Frontier Technologies製、コンテック扱い)、eXodus for Windows(White Pine Software製、DIT扱い)という商品もあった。これらは通常、リモートのXクライアントを表示・制御するのに使われる。 === スマートフォン・タブレット === [[MeeGo]]、[[Maemo]]、[[Tizen]]、[[Ubuntu Touch]]など各種[[Linux]][[スマートフォン]]・[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]でもX Window System (X.Org Server) が使われている。 === X端末 === [[ファイル:Network Computing Devices NCD-88k X terminal.jpg|thumb|right|[[Network Computing Devices]]製のNCD-88k X端末]] {{main|X端末}} X端末は、Xサーバを実行する[[シンクライアント]]である。これはUNIX[[ワークステーション]]が高価だったころ、大きめのサーバを複数人で共有し、各人がグラフィカルな環境を使えるようにする安価の手段として人気となった。また、これはMITのプロジェクトが本来想定していた方向性でもある。 X端末は、ネットワーク上で [[Xディスプレイマネージャ#X Display Manager Control Protocol|X Display Manager Control Protocol]] (XDMCP) を使って利用可能なホスト(クライアントを実行できるマシン)を探す。まず最初のホストで[[Xディスプレイマネージャ]]を起動する必要がある。 専用ハードウェアとしてのX端末はその後少なくなり、より安価なXサーバ用端末としてPCや新たな[[シンクライアント]]が使われるようになっている。 == Xの限界と非難 == ''[[The Unix-Haters Handbook|UNIX-HATERS Handbook]]''(1994年)は、1つの章を割いてXの問題を論じている<ref>[http://www.art.net/~hopkins/Don/unix-haters/x-windows/disaster.html "The X-Windows Disaster"]</ref>。''Why X Is Not Our Ideal Window System''(1990年、Gajewska, Manasse, McCormack)は、Xプロトコルの問題を詳細に論じ、改善の方法を示唆している。 === ユーザインタフェース機能 === Xはユーザインタフェースの仕様やアプリケーション間通信の仕様を意図的に含まないようにしている。このためそれぞれ全く異なったインタフェースが生まれ、アプリケーション間の連携を阻む原因ともなっている。[[Inter-Client Communication Conventions Manual|ICCCM]]はクライアントの相互運用に関する仕様だが、正しく実装するのが困難なことで有名である。[[Motif (GUI)|Motif]]と[[Common Desktop Environment|CDE]]も標準化の試みだったが、解決策とはならなかった。この問題は、[[プログラマ]]やユーザーを長い間悩ませてきた<ref>[http://lists.debian.org/debian-user/1996/11/msg00637.html Re: X is painful] 15 Nov 1996</ref>。2007年現在、アプリケーションの[[ルック・アンド・フィール]]とアプリケーション間通信の一貫性を保つためには、特定のデスクトップ環境あるいは特定のウィジェット・ツールキットを採用してプログラムを作成するのが一般的である。 Xプロトコルは音声を全く扱わない。そのため、[[サウンドカード]]の制御も含めた部分はOSや[[Open Sound System|OSS]]や[[Advanced Linux Sound Architecture|ALSA]]などのオーディオシステムが分担している。多くのプログラマはOS固有のサウンド[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]を使っている。クライアントサーバ型のサウンドシステムとしては、古くはrplayや[[Network Audio System]]があった。その後、[[Enlightened Sound Daemon|EsounD]] (GNOME)、[[aRts]] (KDE) などが開発された。2001年、X.Orgはこの問題に対処するためMedia Application Server (MAS) の開発を発表した。しかし、これらはいずれも根本的な解決策とはなっていない。 === ネットワーク === [[ファイル:X11 ssh tunnelling.png|right|250px|thumb|SSH上でX11アプリケーションをトンネリングしている例]] XクライアントをあるXサーバからデタッチし、別のXサーバに再アタッチすることはできない。しかしXとは別の遠隔操作方法である[[Virtual Network Computing]] (VNC) ではそれが可能であり、一部のアプリケーションやツールキットではそのような機能を提供している<ref>[http://www.freedesktop.org/~jg/Papers/ols2005.pdf SNAP Computing and the X Window System] 2005</ref>。 XサーバとリモートのXクライアントの間の通信トラフィックは、デフォルトでは暗号化されていない。そのため悪意ある者が[[LANアナライザ]]を使えば、それを覗き見ることができるので注意が必要である。 === クライアント/サーバの分離 === Xの設計では、クライアントとサーバはそれぞれ独立して動作する。ハードウェアからの独立性やクライアントとサーバの分離などの[[オーバーヘッド]]は、OS内にグラフィックス機能が統合されているシステム(Windowsや[[Mac OS]])にはないものである。Xが適切な性能を発揮するには、4[[メガバイト|MB]]から8MBの[[Random Access Memory|RAM]]を必要とすると言われている。これは1990年代中ごろまではWindowsやMac OSに比較すると大きかった。 [[Windows Vista]]/[[Windows Server 2008]]以降のWindowsに搭載されている[[WDDM]]やOS Xの[[Quartz]]はXのようなクライアントとサーバの分離を行えるようになっている。オーバーヘッドの大半は、ネットワーク上の[[ラウンドトリップタイム]]によるものである(つまりプロトコル自体の問題ではなく、[[レイテンシ]]である)。性能問題を解決するにはそのレイテンシを考慮したアプリケーション設計をする必要がある<ref>[http://keithp.com/~keithp/talks/lbxpost/paper.html An LBX Postmortem] 2001-1-24</ref>。Xのネットワーク機能が過度に複雑であるために、ローカルで使っても性能に悪影響があるという誤解を持つ人が多いが、現在のXの実装ではローカルな接続では単にソケットと共有メモリを使うので、X固有のオーバーヘッドはほとんどない。 === ディスプレイドライバのクラッシュ時に発生する問題 === ディスプレイサーバー本体やディスプレイドライバの実装は安定しているが、Windows系システムとは異なり<ref>{{Cite web|和書|date=2021-01-01|url=https://docs.microsoft.com/ja-jp/windows-hardware/drivers/display/timeout-detection-and-recovery|title=タイムアウトの検出と回復 (TDR)|work=Microsoft Docs|publisher=マイクロソフト|accessdate=2021-01-01}}</ref>、ディスプレイドライバがクラッシュした場合、直前までの表示内容は失われ、Xサーバー本体とXクライアントアプリケーションを手動で再起動しなければならない。 そのため、監視システムやインフラ制御システムなどの[[ミッションクリティカル]]なGUIアプリケーションの利用には注意を要する。 == Xと競合するシステム == Unix系システムでは、グラフィックス表示にはXが使われるのが普通である。しかしXの代替となるシステムを開発しようという試みはいくつかある。歴史的には、[[サン・マイクロシステムズ]]の[[NeWS]](市場では成功しなかった)、[[NeXT]]の[[Display PostScript]]([[Apple]]が[[Quartz]]に置換した)、日本製の[[GMW]]があった。 Quartz開発者の1人であるMike Paquetteは、アップルがDisplay PostScriptからXに移行せずに独自のウィンドウサーバを開発した理由として、アップルが必要とする全ての機能をX11に追加してみたら、X11とは似ても似つかないものになり、他のXサーバとの互換性も失ってしまったと説明した<ref>[http://developers.slashdot.org/comments.pl?sid=75257&cid=6734612 Why Apple didn't use X for the window system] August 19, 2007</ref>。 他にも、FrescoやY Window SystemといったXを置換することを意図したシステムもある。しかしXとの互換性を無視したこれらのシステムは、今のところ広く受けいれられてはいない。また、[[Mir (ディスプレイサーバ)|Mir]]や[[Wayland]]は互換性を重視している事もあってLinuxディストリビューションやプレインストールでの採用実績があるが、Xを置き換えるほどの勢いはない。 ハードウェアを直接操作することでXのオーバーヘッドに対処しようとした競合システムもある(例えば、DirectFBやFrameBuffer UI)。[[ダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ]] (DRI) は、ほぼ同等の機能をX内で[[モジュール]]化したものと言え、それら競合システムの努力が無駄になる可能性もある。しかし、([[RTAI]]などを使った)[[組み込みシステム]]用LinuxではDRIのリアルタイム性は思わしくなく、そのような応用にXは今のところ不向きと言える。 グラフィックス関連のサービスでネットワーク透過性を達成するその他の手段には、以下のものがある。 * [http://networkimprov.net/airwrx/awscene.html SVG Terminal] - [[Scalable Vector Graphics]] (SVG) 形式のコンテンツをほぼリアルタイムでブラウザとやりとりして更新するプロトコル。 * [[Virtual Network Computing]] (VNC) - ネットワーク上で圧縮した[[ビットマップ画像|ビットマップ]]を送る。 * [[Citrix Presentation Server]] - Windows向けのXのような製品。 * [[タランテラ (企業)|タランテラ]]は、[[ウェブブラウザ]]を使う[[Java]]クライアントを提供している。 * RAWT ([http://www-03.ibm.com/servers/eserver/zseries/software/java/rawt.html Remote AWT]) - [[IBM]]のJavaによるクライアントサーバシステム == 歴史 == === 先駆的開発 === X以前にも、ビットマップディスプレイを使ったシステムは存在していた。[[ゼロックス]]は[[Alto]](1973年)と[[Xerox Star|Star]](1981年)を開発している。[[Apple]]は[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]](1983年)と [[Macintosh]](1984年)を開発した。UNIX関連では[[Andrew Project]](1982年)と[[ロブ・パイク]]の[[Blit]]端末(1984年)がある。 Xの名称は、それ以前の[[W Window System]]の後継であることから名づけられた。W Window Systemは[[V (オペレーティングシステム)|V]]というOS上で動作した。Wはネットワークプロトコルを使って端末やグラフィックウィンドウをサポートし、サーバ側でディスプレイリストを管理する。 [[ファイル:X-Window-System.png|thumb|left|250px|1990年代初期のX Window Systemによるデスクトップ。[[twm]]、[[xterm]]、[[xbiff]]、xload、グラフィカルな[[manページ]]ブラウザなど、MIT X Consortiumのディストリビューションにあったアプリケーションが動作している。]] === 起源と初期の開発 === Xの考え方が[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]で生まれたのは1984年、Jim Gettys([[Project Athena]])とBob Scheifler([[Project MAC|MITコンピュータ科学研究所]])によるものであった。ScheiflerはArgusというシステムの[[デバッグ]]用の表示環境を必要としていた。Project Athena([[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]、MIT、IBM によるコンピュータのユーザインタフェースを改善するプロジェクト)ではプラットフォームに依存せず、マルチベンダーシステムで利用できるグラフィックスシステムを必要としていた。当時、[[カーネギーメロン大学]]の[[Andrew Project]]でウィンドウシステムが開発中だったが、ライセンス提供を受けることができず、他に代案もなかった。 解決策として、ローカルなアプリケーションも動作させることができ、リモートでも動作させることができるプロトコルの開発という考えが生まれた。1983年中ごろ、WがUNIXに移植された(Vのときの5分の1の速度)。1984年5月、Scheiflerは同期型だったWのプロトコルを非同期型に変更し、これがXバージョン 1となった。Xは世界初のハードウェアやベンダーに依存しないウィンドウシステム環境となった。 Scheifler、Gettys、Ron Newmanが開発を進め、Xは急速に進化していった。1985年1月にはバージョン 6をリリース。当時[[Ultrix]]を搭載したワークステーションをリリースしようとしていたDECは、Xの搭載を決断した。DECの技術者がX6をDECのQVSSディスプレイ付き[[VAX|MicroVAX]]に移植した。 1985年第二四半期、Xは[[X11の色名称|カラー]]をサポートし、DEC [[VAX]]station-II/GPXで動作した。これがバージョン 9となる。MITはX6を外部グループに料金を徴収してライセンスしていたが、X9リリース時点から[[MIT License]]を適用することとした。X9は 1985年9月にリリースされた。 [[ブラウン大学]]のグループが[[IBM RT-PC]]にX9を移植したが、整列されていないデータの読み込みで問題が発生し、プロトコルに非互換となる変更が必要となった。このため、1985年末にバージョン 10となった。1986年には外部からXについての問合せが増えてきた。X10R2は1986年1月、X10R3は1986年2月にリリース。X10R3では広く製品に採用されるようになった。DECとヒューレット・パッカードはX10R3ベースの製品をリリースし、他のグループが [[アポロコンピュータ]]のマシンや[[サン・マイクロシステムズ]]のワークステーションへの移植を行い、IBM [[PC/AT]]への移植も行われた。このころ、Autofactという見本市でXを使った商用アプリケーションが初めてデモンストレーションされた(Cognition Inc.の機械系CAEシステム)。X10の最後のバージョンはX10R4で、1986年12月にリリースされた。 [[Virtual Network Computing]] (VNC) がデスクトップの共有を可能にしているように、Xサーバをそのように拡張する試みはこのころから既に行われていた。例えば、Philip J. Gustの[[SharedX]]ツールがある。 X10は強力な機能を持っていたが、Xプロトコルはさらに広く使われるようになる前に、もっとハードウェア中立となるよう再設計する必要があることがわかってきた。しかし、MIT だけではそのような全面的な再設計をするだけのリソースがなかった。そこでDECのWestern Software Laboratory (WSL) がこのプロジェクトに参加を申し出た。DEC WSLのSmokey WallaceとJim Gettysは、DEC WSLがX11を開発し、それをX9やX10と同じ条件でフリーにリリースすることを提案した。設計は1986年5月に開始され、8月にはプロトコルが完成した。アルファテストは1987年2月に開始され、ベータテストは1987年5月に開始された。X11のリリースは、[[1987年]][[9月15日]]に行われた。 Scheiflerが中心となって行われたX11プロトコルの設計は、USENETのニュースグループとオープンなメーリングリスト上で盛んに議論しながら進められた。したがって、Xは最初の大規模[[フリーソフトウェア]]プロジェクトと言われることもある。 === MIT X ConsortiumとX Consortium, Inc. === 1987年、X11の成功が明らかになると、MITはXの運営責任を放棄したいと考えるようになった。しかし、1987年6月に9社の主なベンダーが集まった会議で、各社はMITに対してXをまとめていくには中立的な団体が管理する必要があることを訴えた。1988年1月、''MIT X Consotium''が非営利の業界団体として設立された。責任者はScheiflerで、今後のX開発の方向性を業界と学界の動向を加味して決定することとなった。1988年1月にはJim Fulton、1988年3月には[[キース・パッカード]]が参加し、Jim は[[Xlib]]/フォント/ウィンドウマネージャ/ユーティリティの開発、キースはサーバの再実装を分担するようになった。Donna ConverseとChris D. Petersonが同年末までに参加し、ツールキットとウィジェットを分担し、Project AthenaのRalph Swickと連携して作業を行った。MIT X ConsortiumはX11のリビジョンをいくつかリリースしていった。最初のX11R2は1988年2月にリリースされた。 1993年、MIT X Consortiumの後継としてX Consortium, Inc.(非営利組織)が設立された。そして、[[1994年]][[5月16日]]にX11R6をリリース。1995年には、[[Motif (GUI)|Motif]]ツールキットと[[Common Desktop Environment]]の開発管理も行うようになった。X Consortium, Inc.は1996年末には解散し、X11R6.3を最後にリリースした。コンソーシアム参加各社による囲い込みのような状況になったことが解散の原因とされている<ref>[http://www.advogato.org/article/844.html Financing Volunteer Free Software Projects] 10 Jun 2005</ref><ref>[http://www.usenix.org/publications/library/proceedings/usenix2000/invitedtalks/gettys_html/ Lessons Learned about Open Source] 2000</ref>。 === The Open Group === 1997年中ごろ、X Consortium, Inc.はXの管理運営を[[The Open Group]]に移管した。これは、[[Open Software Foundation]]と[[X/Open]]が1996年初めに合併して結成された業界団体である。 The Open Groupは1998年初めにX11R6.4をリリースした。しかし、The Open GroupはXの開発資金を確かなものとするため、これまでのライセンス条件を変更し、これが議論を呼んだ<ref>[http://old.lwn.net/lwn/1998/0409/xstate.html X statement] 02 Apr 1998</ref>。新たな条件では、多くのプロジェクト([[XFree86]]など)やいくつかの商用ベンダーでの採用が困難であった。これを受けてXFree86が分裂しそうになると、The Open Groupは1998年9月にX11R6.4を改めて従来のライセンス条件でリリースした<ref>[http://cbbrowne.com/info/x11r6.4.html X11R6.4 Sample Implementation Changes and Concerns]</ref>。The Open Groupの最後のリリースはX11R6.4 patch 3であった。 === X.OrgとXFree86 === [[XFree86]]の起源は、Thomas RoellとMark W. Snitilyが1991年に書いた[[PC/AT互換機]]向けのX11R5であるX386 serverに遡る。Snitily Graphics Consulting Services (SGCS) はこれを1992年にMIT X Consortiumに寄贈した。XFree86は時と共に進化していき、Xの実装としての[[デファクトスタンダード]]となった<ref name="名前なし-1"/>。 1999年5月、The Open GroupはX.Orgを設立した(後の[[X.Org Foundation]]とは異なる)。X.Orgは当時進行中だったX11R6.5.1のリリースを実施した。当時のX開発は壊滅寸前であった<ref>[http://www.computerworld.com/softwaretopics/software/appdev/story/0,10801,67861,00.html Q&A: The X Factor] February 04, 2002</ref>。X Consortium, Inc.が解散した後の技術的進歩の多くはXFree86プロジェクトで生まれた<ref>[http://keithp.com/~keithp/talks/Xarchitecture/Talk.htm The Evolution of the X Server Architecture] 1999</ref>。1999年、XFree86はX.Orgの(会費を払わない)名誉会員となり<ref>[http://xfree86.org/pipermail/forum/2003-March/000418.html A Call For Open Governance Of X Development] 23 Mar 2003</ref>、XFree86とLinuxを製品に使いたいと思っていた多くのハードウェア企業がこれを歓迎した<ref>[http://slashdot.org/articles/99/12/01/1342251.shtml XFree86 joins X.Org as Honorary Member] Dec 01, 1999 </ref>。 2003年までにLinuxとXの組合せが非常に一般的になってきても、X.Orgは活発にはならず<ref>[http://xfree86.org/pipermail/forum/2003-April/003127.html Another teleconference partial edited transcript] 13 Apr 2003</ref>、やはり開発の中心はXFree86であった。しかし、ここでXFree86内で大きな意見の相違が発生した。XFree86は、あまりにも[[伽藍とバザール|伽藍]]的開発モデルであり、開発者は[[Concurrent Versions System|CVS]]にコミットアクセスできず<ref>[http://www.xfree86.org/pipermail/forum/2003-March/002018.html Keith Packard issue] 20 Mar 2003</ref><ref>[http://cygwin.com/ml/cygwin-xfree/2003-10/msg00328.html Cygwin/XFree86 - No longer associated with XFree86.org] 27 Oct 2003 </ref>、ベンダーは多数の[[パッチ]]を保守する必要があった<ref>[http://www.advogato.org/person/mharris/diary.html?start=5 On XFree86 development] 9 Jan 2003</ref>。2003年3月、XFree86からキース・パッカードが追い出された。彼はMIT X Consortiumの消滅後にXFree86に参加していた<ref>[http://www.xfree86.org/pipermail/forum/2003-March/001997.html Invitation for public discussion about the future of X] 20 Mar 2003</ref><ref>[http://www.xfree86.org/pipermail/forum/2003-March/002165.html A Call For Open Governance Of X Development] 21 Mar 2003</ref><ref>[http://www.xfree86.org/pipermail/forum/2003-April/003016.html Notes from a teleconference held 2003-3-27] 03 Apr 2003</ref>。 X.OrgとXFree86は、Xの開発を推進するための組織改編についての議論を開始した<ref>[http://www.xfree86.org/pipermail/forum/2003-March/000554.html A Call For Open Governance Of X Development] 24 Mar 2003</ref><ref>[http://www.xfree86.org/pipermail/forum/2003-March/002415.html A Call For Open Governance Of X Development] 23 Mar 2003</ref><ref>[http://xfree86.org/pipermail/forum/2003-April/003144.html Discussing issues] 14 Apr 2003</ref>。Jim Gettysは2000年ごろからオープンな開発モデルが必要であることを強調していた<ref>[http://www.usenix.org/publications/library/proceedings/usenix2000/invitedtalks/gettys_html/Talk.htm Lessons Learned about Open Source] 2000</ref>。GettysとPackardは他の何人かと共に効率的なXのオープン開発の要求仕様について議論を開始した。 そしてX11R6.4のライセンス問題の結果、XFree86 version 4.4はより制限されたライセンスで2004年2月にリリースされ、Xを使っている多くのプロジェクトでこれを使うのが困難になった<ref>[http://yro.slashdot.org/article.pl?sid=04/02/18/131223 XFree86 4.4: List of Rejecting Distributors Grows] Feb 18, 2004</ref>。追加された条項は[[BSDライセンス]]の宣伝条項に基づいており、[[フリーソフトウェア財団]]も[[Debian]]もこれを[[GNU General Public License]] (GPL) と非互換であるとした<ref name="名前なし-2">[http://www.dwheeler.com/essays/gpl-compatible.html#xfree86 Appendix A: The Cautionary Tale of XFree86] June 5, 2002</ref>。このライセンス問題とソース修正の困難さから、多くの人が分裂の機が熟したと感じていた<ref>[http://www.osnews.com/story.php/6157/X-Marks-the-Spot-Looking-back-at-X11-Developments-of-Past-Year/ X Marks the Spot: Looking back at X11 Developments of Past Year] Feb 25, 2004</ref>。 === X.Org Foundation === 2004年初め、 X.Orgと[[freedesktop.org]]の様々な人々が集まり[[X.Org Foundation]]が結成され、The Open Groupは<tt>x.org</tt>というドメイン名の権利を譲渡した。これにより、Xの管理運営は大きく変化した。1988年以来(前のX.Orgも含めて)Xの開発運営は業界団体が行っていた。しかし、X.Org Foundationはソフトウェア開発者が主導し、[[伽藍とバザール|バザール]]モデルに基づいたコミュニティによる開発であり、外部からの参加に依存している。個人参加も可能で、企業がスポンサーとして参加することも可能である。現在、ヒューレット・パッカードなどの企業がX.Org Foundationに援助している。 FoundationはX開発における監督的役割を担う。技術的判断はコミュニティでの合意形成によってなされ、何らかの委員会で決定されるわけではない。これは[[GNOME Foundation]]の非干渉主義的開発モデルに非常に近い。Foundationは開発者を雇っていない。 2004年4月、X.Org FoundationがXFree86 4.4RC2にX11R6.6の変更をマージしたX11R6.7をリリースした。GettysとPackardは、従来のライセンスのXFree86の最新版をベースとしてオープンな開発モデルを採用しGPLとの互換性を維持することで、かつてのXFree86開発者の多くを呼び戻した<ref name="名前なし-2"/>。 2004年9月、X11R6.8がリリースされた。これには多くの新機能が追加された(透明なウィンドウサポート、その他の視覚効果のサポート、3次元表示サポートなど)。また、外部アプリケーションとして、[[コンポジット型ウィンドウマネージャ]]と呼ばれるもので見た目のポリシーを提供できるようになった。 [[2005年]][[12月21日]]、X.Orgは従来からのユーザー向けにモノリシックな[[ソースコード]]であるX11R6.9と、同じコードをモジュール化して分割したX11R7.0をリリースした<ref>[http://xorg.freedesktop.org/wiki/Other/Press/X11R6970Released?action=show&redirect=PressReleases%2FX11R6970Released X11R6.9 and X11R7.0 Officially Released] December 21 2005</ref><ref>[http://wiki.x.org/wiki/ModularizationProposal Modularization Proposal] 2005-03-31</ref>。[[2006年]][[5月22日]]、多数の機能強化を施したX11R7.1をリリースした<ref>[http://xorg.freedesktop.org/wiki/ChangesForX11R71 Proposed Changes for X11R7.1] 2006-04-21 </ref>。 == 今後 == X.Org Foundationとfreedesktop.orgにより、Xの中核部分の開発が再び加速された。これらの開発者は、単にベンダーによる製品化のベースとしてだけでなく、使用可能な最終製品として今後のバージョンをリリースしようとしている。 ハードウェアやOSとの関係を限定するため、X.Orgは表示用ハードウェアへのアクセスを[[OpenGL]]と[[ダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ]] (DRI) だけにすることを予定している。DRIはXFree86 version 4.0で登場し、X11R6.7以降で標準となった<ref>[http://keithp.com/~keithp/talks/xserver_ols2004/ Getting X Off The Hardware] July, 2004</ref>。多くのOSがハードウェア操作のための[[カーネル]]サポートの追加を開始している。 == 名称 == 開発元のX.Org Foundationは、このソフトウェアを以下のいずれかの名前で呼ぶことを求めている<ref>[http://ftp.x.org/pub/X11R6.8.2/doc/X.7.html X - a portable, network-transparent window system] 2005年2月</ref>。 * '''X''' * '''X Window System''' * '''X Version 11''' * '''X Window System, Version 11''' * '''X11''' かつてはよく間違われたが、X Window Systemは「"X Window"というシステム」ではなく、「"X"というウィンドウシステム」である。また、X Window<span style="text-decoration:underline;">'''s'''</span>という表記は誤りである。 == Xで利用可能なウィジェット・ツールキット == * [[FLTK]] * [[GTK (ツールキット)|GTK]] * [[Motif (GUI)|Motif]] * [[Qt]] * [[Tk (ツールキット)|Tk]] * {{仮リンク|Xaw|en|Xaw}} ([[Project Athena]]によるもの) * {{仮リンク|XView|en|XView}} == リリース履歴 == {| class="wikitable" ! バージョン ! リリース日 ! 最も重要な変更 |- |X1 |[[1984年]]6月 |以前のシステムWから大幅に変更されたと言う意味で、最初のソフトウェアはXと呼ばれる。 |- |X6 |[[1985年]]1月 |いくつかの企業にライセンスされる |- |X9 |[[1985年]]9月 |色機能追加。[[MIT License]]下で初めてリリース |- |X10 |[[1985年]]後半 |[[IBM RT-PC]]、[[PC/AT]](の[[DOS (OS)|DOS]]上)等の[[マシン]]での動作 |- |X10R2 |[[1986年]]1月 | |- |X10R3 |[[1986年]]2月 |MIT の外部に初めてリリース。[[uwm]]が標準のウィンドウマネージャ。 |- |X10R4 |[[1986年]]12月 |X10 の最後のリリース番号 |- |X11 |[[1987年]]9月15日 |X11の最初のリリースであり、この時のバージョンのXプロトコルが基本的には2018年現在も使われている。 |- |X11R2 |[[1988年]]1月 |Xコンソーシアムによる最初のリリース。[http://www.linuxdocs.org/HOWTOs/XWindow-User-HOWTO-2.html] |- |X11R3 |[[1988年]]10月25日 |[[X Window Display Manager|XDM]]。 |- |X11R4 |[[1989年]]12月22日 |アプリケーションの改善、新しいフォント、[[twm]]が標準のウィンドウマネージャとして搭載される。 |- |X11R5 |[[1991年]] |[[PHIGS]]、カラーマネジメント、X386。[[国際化と地域化|国際化]]機能 |- |X11R6 |[[1994年]]5月16日 |[[Inter-Client Communication Conventions Manual|ICCCM]] v2.0、[[ICE]]、Xセッションマネジメント、X同期拡張、Xイメージ拡張、XTEST拡張、Xインプット、X Big-Request拡張、XC-MISC、XFree86の変更。 |- |X11R6.1 |[[1996年]]3月14日 |Xダブルバッファ拡張、Xキーボード拡張、X Record拡張。 |- |X11R6.2<br />X11R6.3 (Broadway) |[[1996年]]12月23日 |Web機能、 [[LBX]]。Xコンソーシアムによる最後のリリース。X11R6.2はX11R6.3の部分機能バージョン。R6.1からの新機能はXPrintと、Xlibにおける縦書きと、ユーザー定義文字のサポートのみ。[http://www.xfree86.org/3.3.6/RELNOTES1.html] |- |X11R6.4 |[[1998年]]3月31日 |[[Xinerama]]。[http://www.opengroup.org/tech/desktop/Press_Releases/x11r6.4ga.htm] |- |X11R6.5 | |X.orgの内部リリース。公開するためのものではない。 |- |X11R6.5.1 |[[2000年]]8月20日 | |- |X11R6.6 |[[2001年]]4月4日 |バグ修正、XFree86変更。 |- |X11R6.7.0 |[[2004年]]4月6日 |初めて X.Org 財団としてリリース、XFree86 4.4rc2 に統合。完全なエンドユーザー向け配布。XIE、PEX、libxml2の除去。 [http://lwn.net/Articles/79302/] |- |X11R6.8.0 |[[2004年]]9月8日 |ウィンドウ透過、[[XDamage]]、[[Distributed Multihead X]]、[[XFixes]]、Composite、[[XEvIE]]。 |- |X11R6.8.1 |[[2004年]]9月17日 |[[XPM|libxpm]]セキュリティ修正 |- |X11R6.8.2 |[[2005年]]2月10日 |バグ修正、ドライバのアップデート |- |X11R6.9<br />X11R7.0 |2005年12月21日 |[[EXA]]、モジュール化及びビルド方式に関する大規模な[[リファクタリング (プログラミング)|リファクタリング]]。両者はソースコード自体は基本的には同一であるが、これまでのモノリシックな構成と[[imake]]によるコンフィグはこの6.9で凍結とされ、7.0からはモジュラー化され[[Autotools]]を使用している。 |- |X11R7.1 |2006年5月22日 |EXAの改良、[[KDrive]]の統合、[[AIGLX]]、BSD等のサポート。 |- |X11R7.2 |2007年2月15日 |[[LBX]]とビルトインのキーボードドライバの除去。[[XACE]]、[[XCB]]、autoconfigの改良、クリーンアップ。<ref>[http://www.x.org/wiki/Releases/7.2 Releases/7.2]</ref> |- |X11R7.3 |2007年9月6日 |[[X.Org Server|XServer 1.4]]、入力機器の[[ホットプラグ]]、出力機器のホットプラグ ([[XRandR|RandR]] 1.2), [[DTrace]]プローブ、[[Peripheral Component Interconnect|PCI]]ドメインのサポート。<ref>[http://www.x.org/wiki/Releases/7.3 Releases/7.3]</ref> |- |X11R7.4 |2008年9月23日 |[[X.Org Server|XServer 1.5.1]]、 XACE、PCIサブシステムのリワーク、EXAの高速化、_X_EXPORT、[[GLX]] 1.4、より高速なスタートアップとシャットダウン。<ref>[http://www.x.org/wiki/Releases/7.4 Releases/7.4]</ref> |- |X11R7.5 |2009年10月26日 |[[X.Org Server|XServer 1.7]]、Xi 2、XGE、E-[[EDID]]のサポート、[[XRandR|RandR]] 1.3、[[Multi-Pointer X|MPX]]、予測可能なポインタのアクセラレーション、[[ダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ|DRI2]]メモリマネージャー、SELinuxセキュリティモジュール、古くなったライブラリや拡張のさらなる除去。<ref>[http://www.x.org/wiki/Releases/7.5 Releases/7.5]</ref> |- |X11R7.6 | nowrap | 2010年12月20日 |[[X.Org Server|XServer 1.9]]、XCBを要求。<ref>[http://www.x.org/wiki/Releases/7.6 Releases/7.6]</ref> |- |X11R7.7 | nowrap | 2012年6月6日 |[[X.Org Server|XServer 1.12]]、Sync extension 3.1 Fenceオブジェクト追加、Xi 2.2マルチタッチ、XFixes 5.0ポインターバリアー<ref>[http://www.x.org/wiki/Releases/7.7 Releases/7.7]</ref> |} X11R7.7を最後に、X.Orgとして全パッケージをまとめてリリースするのを終了し、モジュールごとに個別にリリースする仕組みとなった<ref>[https://www.x.org/wiki/ X.Org]</ref>。[[X.Org Server]]など各モジュールの開発は続いている。 == 出典・脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ウィンドウマネージャ]] * [[デスクトップ環境]] * [[XRender]] * [[Xlib]] * [[XCB]] * [[W Window System]] == 参考文献 == * Hania Gajewska, Mark S. Manasse and Joel McCormack, [http://www.std.org/~msm/common/protocol.pdf Why X Is Not Our Ideal Window System] [[Portable Document Format|PDF]], ''Software — Practice & Experience'' vol 20, issue S2 (October 1990) * Linda Mui and Eric Pearce, ''X Window System Volume 8: X Window System Administrator's Guide for X11 Release 4 and Release 5, 3rd edition'' O'Reilly and Associates, July 1993; softcover ISBN 0-937175-83-8 * [http://www.art.net/~hopkins/Don/unix-haters/x-windows/disaster.html The X-Windows Disaster] ''UNIX-HATERS Handbook'' * Robert W. Scheifler and James Gettys: ''X Window System: Core and extension protocols: X version 11, releases 6 and 6.1'', Digital Press 1996, ISBN 1-55558-148-X * [http://keithp.com/~keithp/talks/Xarchitecture/Talk.htm The Evolution of the X Server Architecture] キース・パッカード、1999年 * [https://web.archive.org/web/20060916213448/http://www.cat.org.au/maffew/cat/xfree-dawes.html The means to an X for Linux: an interview with David Dawes from XFree86.org] Matthew Arnison, CAT TV, June 1999 * [http://www.usenix.org/publications/library/proceedings/usenix2000/invitedtalks/gettys_html/Talk.htm Lessons Learned about Open Source] Jim Gettys, [[USENIX]] 2000 での X の歴史に関する講演資料 * [http://cbbrowne.com/info/xbloat.html On the Thesis that X is Big/Bloated/Obsolete and Should Be Replaced] Christopher B. Browne * [http://freedesktop.org/~jg/roadmap.html Open Source Desktop Technology Road Map] Jim Gettys, [[2003年]][[12月9日]] * [http://www.osnews.com/story.php?news_id=6157 X Marks the Spot: Looking back at X11 Developments of Past Year] Oscar Boykin, ''OSNews'', [[2004年]][[2月25日]] * [http://keithp.com/~keithp/talks/xserver_ols2004/ Getting X Off The Hardware] キース・パッカード、2004年7月 Ottawa Linux Symposium での講演資料 * [http://developers.slashdot.org/comments.pl?sid=75257&cid=6734612 Why Apple didn't use X for the window system] Mike Paquette, Apple Computer * [http://ftp.x.org/pub/X11R6.8.2/doc/X.7.html X Man Page] [[2007年]][[2月2日]]閲覧 * [http://www.freedesktop.org/~jg/Papers/ols2005.pdf SNAP Computing and the X Window System] Jim Gettys, [[2005年]] * Oliver Jones 著 西村 亨 監修 三浦明美・ドキュメントシステム 訳, ''X Window ハンドブック'' アスキー出版局, 1990年6月1日; ISBN 4-7561-0032-5 * {{Cite journal|和書 |author= |title=SuperASCII 1991年8月号 |volume=2 |issue=8 |publisher=株式会社アスキー出版 |date=1991-8-1 |isbn= |ref={{Sfnref |SuperASCII 1991年8月号}} }} == 外部リンク == {{Commonscat|X Window System}} {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} {{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}} * [http://www.xfree86.org/ XFree86] * [http://www.x.org/ X.Org Foundation] * [http://www.xig.com/ Xi Graphics,Inc.] (Accelerated-X の開発元) * [http://www.linfo.org/x.html The X Window System: A Brief Introduction] * [http://xwinman.org/ Window managers for X] * [http://jonsmirl.googlepages.com/graphics.html The State of Linux Graphics] Jon Smirl, [[2005年]][[8月30日]] * [http://h30097.www3.hp.com/docs/dev_doc/DOCUMENTATION/HTML/AR5NHATE/TOC.HTM Writing a Graphics Device Driver and DDX for the DIGITAL UNIX X Server] * [http://www.rahul.net/kenton/xsites.html Kenton Lee: Technical X Window System and Motif WWW Sites] * {{IETF RFC|1198}} - FYI on the X Window System {{XWinSys}} {{FOSS}} {{Window managers}} {{Normdaten}} [[Category:X Window System|*]] [[Category:ウィンドウシステム]] [[Category:リモートデスクトップ]] [[Category:UNIX]]
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1512年(1512 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1512年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1512}} {{year-definition|1512}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永正]]9年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2172年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[正徳 (明)|正徳]]7年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]7年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3845年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[洪順 (黎朝)|洪順]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2054年 - 2055年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 917年 - 918年 * [[ユダヤ暦]] : 5272年 - 5273年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1512|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[梅毒]]が京都で大流行。日本国内で最古の発症事例。 * ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画が公開される。 * [[壬申約条]]が結ばれる。 == 誕生 == {{see also|Category:1512年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月31日]] - [[エンリケ1世 (ポルトガル王)|エンリケ1世]]、[[ポルトガル王国]][[アヴィス朝]]の第8代[[国王]](* [[1580年]]) * [[3月5日]] - [[ゲラルドゥス・メルカトル]]、[[ネーデルラント]]の[[地理学者]](* [[1594年]]) * [[キャサリン・パー]]、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の最後の王妃(* [[1548年]]) * [[チャクラパット]]、[[タイ王国]][[アユタヤ王朝]]の第18代王(* 没年不明) * [[百地丹波]]、[[伊賀流|伊賀]]忍術の祖とされる[[忍者]](* [[1581年]]) == 死去 == {{see also|Category:1512年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月2日]] - [[アトゥエイ]]、[[タイノ族]]の伝説な[[首長]](* 生年不詳) * [[2月22日]] - [[アメリゴ・ヴェスプッチ]]、[[イタリア]]の[[探検家]]・[[商人]]。[[アメリカ州]]の名の元になる(* [[1454年]]) * [[4月11日]](永正9年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]) - [[朝倉貞景 (9代当主)|朝倉貞景]]、[[越前国|越前]]の[[戦国大名]]。[[朝倉氏]]第9代当主(* [[1473年]]) * 4月11日 - [[ガストン・ド・フォワ (ヌムール公)|ガストン・ド・フォワ]]、[[フランス]]の将軍(* [[1489年]]) * [[5月26日]] - [[バヤズィト2世]]、[[オスマン帝国]]の第8代[[スルタン]](* [[1447年]]) * [[6月20日]](永正9年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]) - [[後藤祐乗]]、装剣金工の[[後藤四郎兵衛]]の祖(* [[1440年]]) <!--== 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1512}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1512ねん}} [[Category:1512年|*]]
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{{年代ナビ|1187}} {{year-definition|1187}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文治]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1847年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[淳熙]]14年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[大定 (金)|大定]]27年 ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[乾祐 (西夏)|乾祐]]18年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]10年? * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[明宗 (高麗王)|明宗]]17年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3520年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天資嘉瑞]]2年 * [[仏滅紀元]] : 1729年 - 1730年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 582年 - 583年 * [[ユダヤ暦]] : 4947年 - 4948年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1187|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[5月1日]] - [[クレッソン泉の戦い]]、[[アイユーブ朝]]の[[サラーフッディーン]]が[[テンプル騎士団]]・[[聖ヨハネ騎士団]]連合軍に勝利 * [[7月4日]] - [[ヒッティーンの戦い]]、サラーフッディーンが[[エルサレム王国]]の軍を壊滅させる * [[10月2日]] - [[エルサレム]]がサラーフッディーンに降伏し、エルサレム王国は[[ティルス]]で再興を試みる * [[バルカン半島]]北部で蜂起が激化し、翌年[[第二次ブルガリア帝国]]の建国 * [[ガズナ朝]]が滅ぶ === 日本 === * [[後白河天皇|後白河法皇]]、[[東寺]](教王護国寺)の修理を[[播磨国]]に命じる。 * [[源義経]]、[[安宅関]]を通過。 * 源義経、[[平泉]]へ落ち延びる。 * 源義経、藤原秀衡の庇護下に入る。 == 誕生 == {{see also|Category:1187年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月29日]] - [[アルテュール1世 (ブルターニュ公)|アルテュール1世]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ公]](+ [[1203年]]) * [[9月5日]] - [[ルイ8世 (フランス王)|ルイ8世]]、[[フランス王国]][[カペー朝]]の第8代国王(+ [[1226年]]) * [[久我通光]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](+ [[1248年]]) * [[コンラト1世 (マゾフシェ公)|コンラト1世]]、[[マゾフシェ公国|マゾフシェ公]]、[[長子領|クラクフ公]](+ [[1247年]]) * [[性信]]、鎌倉時代の[[浄土真宗]]の[[僧]](+ [[1275年]]) * [[新田政義]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[御家人]](+ [[1257年]]) * [[矢部禅尼]]、[[北条泰時]]の前妻(+ [[1256年]]) == 死去 == {{see also|Category:1187年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月23日]](文治3年[[2月12日 (旧暦)|2月12日]]) - [[平信範]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1112年]]) * [[4月26日]](文治3年[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]) - [[藤原成範]]、平安時代、鎌倉時代の公卿(* [[1135年]]) * [[4月27日]](文治3年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]) - [[藤原行隆]]、平安時代、鎌倉時代の[[公家]](* [[1130年]]) * [[7月4日]] - [[ルノー・ド・シャティヨン]]、[[フランス王国|フランス]]の[[騎士]]、[[アンティオキア公国|アンティオキア公]](* [[1125年]]?) * [[11月9日]](淳熙14年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]) - [[高宗 (宋)|高宗]]、[[南宋]]の初代[[皇帝]](* [[1108年]]) * [[11月30日]](文治3年[[10月29日 (旧暦)|10月29日]]) - [[藤原秀衡]]、[[奥州藤原氏]]第3代当主(* [[1122年]]?) * [[12月2日]](文治3年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]) - [[藤原家通 (権中納言)|藤原家通]]、平安時代、鎌倉時代の公卿(* [[1143年]]) * [[12月17日]] - [[グレゴリウス8世 (ローマ教皇)|グレゴリウス8世]]、第173代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1100年]]?) * [[クレモナのジェラルド]]、[[イタリア]]の[[学者]](* [[1114年]]?) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1187}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1187ねん}} [[Category:1187年|*]]
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1542年
1542年(1542 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1542年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1542}} {{year-definition|1542}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[壬寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[天文 (元号)|天文]]11年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2202年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[嘉靖]]21年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[中宗 (朝鮮王)|中宗]]37年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3875年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[莫朝]] : [[広和]]2年 ** [[黎朝|後黎朝]] : [[元和 (黎朝)|元和]]10年 * [[仏滅紀元]] : 2084年 - 2085年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 948年 - 949年 * [[ユダヤ暦]] : 5302年 - 5303年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1542|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[12月14日]] - 生後6日のメアリーがスコットランド女王に即位。 === 日本 === * [[8月13日]](天文11年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[武田信玄|武田晴信]]と[[高遠頼継]]が[[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]の[[信濃国|信濃]][[上原城]]を攻め、頼重は信濃[[桑原城]]に逃れる。 * [[8月14日]](天文11年[[7月4日 (旧暦)|7月4日]]) - 武田晴信が諏訪頼重の籠る信濃桑原城を包囲する。頼重は降伏し開城する。 * [[8月15日]](天文11年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - 武田晴信が諏訪頼重と弟の[[諏訪頼高]]を[[甲府]]に送り、[[甲斐国|甲斐]][[東光寺 (甲府市)|東光寺]]に幽閉する。 * [[8月31日]](天文11年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - 諏訪頼重が弟の諏訪頼高とともに甲斐東光寺で自刃する。[[諏訪氏]]滅亡。 * [[9月19日]](天文11年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]) - [[織田信秀]]が[[三河国|三河]]小豆坂で[[今川義元]]を破る。([[小豆坂の戦い]](1回目)) * 第一次[[月山富田城の戦い]] == 誕生 == {{see also|Category:1542年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[11月23日]] - [[アクバル]]、[[ムガル帝国]]第3代君主(+ [[1605年]]) == 死去 == {{see also|Category:1542年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月21日]](天文11年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[浅井亮政]]、戦国時代の武将、[[浅井氏]]の第4代当主(* [[1491年]]) * [[2月4日]](天文11年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[花山院忠輔]]{{要出典|date=2021-04}}、戦国時代の公卿(* [[1483年]]) * [[2月13日]](天文11年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]) - [[井伊直宗]]、戦国時代の武将、[[井伊氏]]の第17代当主(* 生年不詳) * 2月13日 - [[キャサリン・ハワード]] - イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の5番目の王妃(* 1521年?) * 2月13日 - [[ジェーン・ブーリン]]、イングランドの貴族(* 1505年頃) * [[3月23日]](天文11年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]) - [[二本松村国]]、戦国時代の武将、[[二本松氏]]の第5代当主(* 生年不詳) * [[4月2日]](天文11年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]) - [[木沢長政]]、戦国時代の武将、守護代(* 1493年?) * [[4月3日]](天文11年[[3月18日 (旧暦)|3月18日]]) - [[松平康孝]]、戦国時代の武将、[[松平氏|松平家]]の第6代当主(* 生年不詳) * [[5月21日]] - [[エルナンド・デ・ソト]]、スペインの探検家、[[コンキスタドール]](* [[1497年]]) * [[6月14日]](天文11年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]) - [[国司有相]]、戦国時代の武将(* 生年不詳) * [[6月15日]](天文11年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[北条為昌]]、戦国時代の武将、[[玉縄北条家]]の第2代当主(* [[1520年]]) * [[7月2日]](天文11年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]) - [[二階堂晴行]]、戦国時代の武将、[[二階堂氏]]の当主(* 生年不詳) * [[7月19日]](天文11年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[熊谷直続]]、戦国時代の武将(* [[1510年]]) * 8月 - [[ピーター・ヘンライン]]、ドイツの鍵屋、時計職人(* 1479年/1480年) * [[8月20日]](天文11年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[実顕]]、戦国時代の浄土真宗の僧、[[越前国|越前]][[超勝寺]]第5世住持(* [[1488年]]) * [[8月31日]](天文11年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[諏訪頼重 (戦国時代)|諏訪頼重]]、戦国時代の戦国大名、諏訪氏の第19代当主(* [[1516年]]) * [[9月6日]](天文11年[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]) - [[赤穴光清]]、戦国時代の武将(* [[1493年]]) * [[10月11日]] - [[トマス・ワイアット]]、イングランドの外交官、詩人(* [[1503年]]) * [[10月29日]](天文11年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]) - [[織田寛維]]、戦国時代の武将(* [[1520年]]) * [[11月14日]](天文11年[[10月8日 (旧暦)|10月8日]]) - [[小笠原長棟]]、戦国時代の武将、[[小笠原氏|府中小笠原氏]]の第16代当主(* [[1492年]]) * [[12月14日]] - [[ジェームズ5世 (スコットランド王)|ジェームズ5世]]<ref>森、p. 259</ref>、[[スコットランド王国|スコットランド]]王(* [[1512年]]) * [[12月18日]] - [[ソロモニヤ・サブーロヴァ]]、モスクワ大公[[ヴァシーリー3世]]の最初の妃、[[正教会]]の[[聖人]](* 1490年頃) * [[アチュタ・デーヴァ・ラーヤ]]、[[南インド]]の[[ヴィジャヤナガル王国]]、[[トゥルヴァ朝]]の君主(* 生年不詳) * [[岩城由隆]]、戦国時代の武将、[[岩城氏]]の当主(* 生年不詳) * [[ヴェンカタ1世]]、南インドのヴィジャヤナガル王国、トゥルヴァ朝の君主(* 生年不詳) * [[グン・ビリク・メルゲン晋王]]、[[オルドス部]]・トゥメンの晋王(ジノン)(* [[1506年]]) * [[宍戸元源]]、戦国時代の武将、[[宍戸氏]]の当主(* 生年不詳) * [[諏訪頼高]]、戦国時代の武将(* [[1528年]]) * [[高遠頼宗]]、戦国時代の武将(* 生年不詳) * [[ダライ・ラマ2世]]、第2代目のダライ・ラマ(* [[1475年]]) * [[崔世珍]]、[[李氏朝鮮]]の学者(* [[1473年]]) * [[ドッソ・ドッシ]]、[[ルネサンス]]期[[イタリア]]の[[フェラーラ派]][[画家]](* 1490年頃) * [[ラプ=ラプ]]、[[フィリピン]]の[[マクタン島]]の領主(* [[1491年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1542}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1542ねん}} [[Category:1542年|*]]
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1616年
1616年(1616 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
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1616年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1616}} {{year-definition|1616}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[丙辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元和 (日本)|元和]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2276年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]]:[[万暦]]44年 ** [[後金]]{{Sup|*}}:[[天命 (後金)|天命]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]:[[光海君]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3949年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]]:[[弘定]]17年 *** [[莫朝|高平莫氏]]:[[乾統 (莫朝)|乾統]]24年 * [[仏滅紀元]]:2158年 - 2159年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1024年 - 1025年 * [[ユダヤ暦]]:5376年 - 5377年 * [[ユリウス暦]]:1615年12月22日 - 1616年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1616}} == できごと == * [[女真]]族の[[ヌルハチ]]が、ゲンギェン・ハーンの称号を受け、[[後金|後金国]]([[清]]の前身)を建国{{要出典|date=2021-03}}。 * [[5月22日]]([[元和 (日本)|元和]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[徳川家康]]が没する。 * [[12月20日]] - [[マーカムアラビアン]]がイギリスに輸入される。[[サラブレッド]]の祖先。 * [[オスマン帝国|オスマン皇帝]][[アフメト1世]]により[[イスタンブール]]の[[スルタンアフメト・モスク]](ブルー・モスク)が完成([[1609年]] - )。 == 誕生 == {{see also|Category:1616年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月18日]]? - [[ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー]]、[[ドイツ]]の[[作曲家]]・[[オルガン]]奏者(+ [[1667年]]) * [[6月27日]](万暦44年[[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) - [[即非如一]]、[[黄檗宗]]の[[僧]](+ [[1671年]]) * [[10月2日]] - [[アンドレアス・グリューフィウス]]、[[ドイツ]]の[[詩人]]・[[劇作家]](+ [[1664年]]) * [[11月23日]] - [[ジョン・ウォリス]]、[[イングランド]]の[[数学]]者(+ [[1703年]]) * [[吉川惟足]]、[[神道]]家(+ [[1694年]]) == 死去 == {{see also|Category:1616年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月23日]] - [[ミゲル・デ・セルバンテス]]、スペインの[[作家]](* [[1547年]]) * [[5月3日]]([[ユリウス暦]]4月23日) - [[ウィリアム・シェイクスピア]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/William-Shakespeare William Shakespeare English author] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、イギリスの[[劇作家]]、[[詩人]](*[[1564年]]) * [[5月22日]]([[元和 (日本)|元和]]2年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - [[徳川家康]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/3791|title=天下は天下の天下なり…徳川家康の遺言|work=WEB 歴史街道|date=2017-04-17|accessdate=2021-03-02}}</ref>、[[戦国大名]]・[[江戸幕府]]の初代[[征夷大将軍]](*[[1543年]]) * [[7月20日]](元和2年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]) - [[本多正信]]、[[武将]]・[[大名]]、[[相模国]][[玉縄藩]]主(* [[1538年]]) * [[7月29日]](万暦44年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[湯顕祖]]、劇作家(* [[1550年]]) * [[11月20日]](元和2年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]) - [[松前慶広]]、[[蝦夷国]][[松前藩]]初代藩主(* [[1548年]]) * [[12月10日]] - [[ディオゴ・デ・コート]]、[[探検家]]・編年史家(* [[1542年]]頃) * [[春桂院]]、[[前田利家]]の娘、[[前田長種]]室 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1616}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1616ねん}} [[Category:1616年|*]]
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4,326
16世紀
16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 ヨーロッパではルネサンスと宗教改革の嵐により中世的な世界観にかわり、近世的な新しい世界観が生まれた。また、これまで天動説の体系が長らく信じられてきたが、ニコラウス・コペルニクスにより地動説が発表された。当初はなかなか支持を得られず、明確に賛同する天文学者もヨハネス・ケプラーやガリレオ・ガリレイの登場まで現れなかった。暦では、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦を改良して新暦となるグレゴリオ暦を制定すると、まずはカトリック国家で使われ始めたが、世界中に浸透するまでにはまだ時間を要することとなる。 スペインが送り込んだコンキスタドールやヨーロッパからもたらされた伝染病などにより、新大陸の既存の文明であるインカ文明(アンデス文明)、アステカ文明は滅亡、マヤ文明も大きく衰退(17世紀に滅亡)し、大航海時代における「冒険の時代」から「征服の時代」へと移行した。 アジア各国では新たな繁栄の時代となり、国内政治が充実し、文化・経済が発展した。新大陸や日本から流れた大量の銀が世界的なインフレーションを起こし(価格革命)、西欧・アジアの経済が急速に拡大した。 室町時代後期(戦国時代)、安土桃山時代にあたる。 日本は9世紀の平安時代以降、断続的に内戦が続き、16世紀には戦国大名の乱立する状態になったが、天下統一を目前に本能寺の変で自害した織田信長に代わり、家臣の豊臣秀吉が統一を果たした。しかし、秀吉の死後には豊臣政権内の対立が表面化、関ヶ原の戦いにより徳川家康率いる東軍が政権擁護派の石田三成ら西軍に勝利を収め、家康の覇権を決定的なものとした。
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16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{centurybox}} [[ファイル:Lightmatter stpeterscathedral vatican.jpg|thumb|200px|[[盛期ルネサンス]]。歴代[[ローマ教皇]]の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心は[[ローマ]]に移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマの[[サン・ピエトロ大聖堂]]の内部。]] [[ファイル:Carlos V en Mühlberg, by Titian, from Prado in Google Earth.jpg|thumb|200px|神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像は[[ティツィアーノ]]による騎馬像([[プラド美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Escorial-sur.jpg|thumb|right|250px|「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子[[フェリペ2世]]の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられた[[エル・エスコリアル修道院]]。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。]] '''16世紀'''(じゅうろくせいき)は、[[西暦]][[1501年]]から西暦[[1600年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 == 16世紀の歴史 == [[ファイル:The Spanish Armada.jpg|thumb|300px|[[アルマダ海戦]](グラヴリンヌ沖海戦)。この戦いでスペインを打ち破ったイングランドは強国としてのしあがることになる。]] [[ファイル:Elizabeth I Rainbow Portrait.jpg|thumb|right|180px|イングランド女王[[エリザベス1世]]。宗教対立に揺れるイングランドにあって国教会の組織を堅持し「良き女王ベス」と讃えられた。画像は1600年頃に描かれた『虹の肖像』(ハトフィールド・ハウス蔵のサリスベリー・コレクション)。]] [[ファイル:Mary Queen of Scots from Hermitage.jpg|thumb|right|180px|スコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]。元フランス王妃でもありイングランド王位継承者でもあったため、イングランドへ亡命後の人生は数奇なものとなった。最後はエリザベス1世の命で処刑されるが、現イギリス王室にその血は受け継がれている。画像は[[エルミタージュ美術館]]蔵の肖像。]] [[ファイル:Virgin Mary with Infant Jesus and Her Fifteen Mysteries, Loyola and Francis Xavier Kyoto University Museum.png|thumb|right|250px|[[イエズス会]]の躍進。対抗宗教改革の旗手であったイエズス会は大航海時代の風潮と相俟って新大陸からアジア各地にキリスト教を拡げた。画像は原田家本「[[紙本著色聖母十五玄義・聖体秘跡図|紙本著色聖母十五玄義・聖体秘蹟図]]」に描かれた[[ロヨラ]]と[[フランシスコ・ザビエル|ザビエル]]([[京都大学]]総合博物館蔵)。]] [[ファイル:Nanbansen_Carrack_by_Kano_Naizen.jpg|thumb|250px|[[南蛮人]]の到来。1543年のポルトガル人の[[種子島]]到着により、ヨーロッパ人の来訪は日本にまで及んだ。画像は伝[[狩野内膳]]『南蛮屏風』の一部([[リスボン]][[国立古美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Lisboa Lisbon Lissabon.jpg|thumb|right|250px|[[ベレンの塔]]。ポルトガル最盛期を代表する[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世幸運王]]が[[ヴァスコ・ダ・ガマ]]のインド航路発見とポルトガルの発展を記念して建造した要塞。]] [[ファイル:Plaque depicting chief flanked by two warriors, Benin, AD 1550-1650 - African collection - Peabody Museum, Harvard University - DSC05790.JPG|thumb|right|210px|[[ベニン王国]]。西アフリカのナイジェリアにあったこの王国はポルトガルとの交易で16世紀から17世紀に繁栄した。画像は青銅製の三人で並び立つベニンの戦士像([[ピーボディ考古学・民族学博物館|ハーバード大学ピーボディ博物館]]蔵)。]] [[ファイル:Sankore Moske Timboektoe.JPG|thumb|right|180px|黄金郷[[トンブクトゥ]]。[[サハラ交易]]により塩・黄金・奴隷といった物資がここを経由し運ばれた。[[レオ・アフリカヌス]]らの旅行者はその豊かな富を驚嘆しつつ記録を残している。画像はトンブクトゥのサンコレ・モスク。]] [[File:Suleymanname 412a.jpg|thumb|right|180px|[[バルバリア海賊|バルバリアの海賊]]。北アフリカの[[アルジェリア]]を根拠地とする[[バルバロス・ハイレッディン]]はオスマン朝に帰順して大提督となり地中海のキリスト教諸国を圧倒した。画像は[[イスタンブル]]の[[トプカプ宮殿]]で[[スレイマン1世]]に謁見するバルバロス。]] [[File:Moctezuma Xocoyotzin.png|right|thumb|180px|アステカ皇帝[[モクテスマ2世]]。スペイン人コルテスの侵略に遭い事故に巻き込まれ事実上の最後の皇帝となった。画像は17世紀に皇帝を描いた再現画。]] [[ファイル:Guaman Poma - Ataw Wallpa.jpg|thumb|right|180px|インカ皇帝[[アタワルパ]]。スペイン人ピサロの侵略に遭い処刑され事実上の最後の皇帝となった。画像はグァマン・ポマの『新しい記録と良き統治』の挿絵。]] [[File:Leonardo da Vinci - presumed self-portrait - WGA12798.jpg|thumb|right|180px|万能人[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]。「モナリザ」などに見られる巧緻な技術を持つ芸術家であるとともに解剖学・生物学・幾何学・建築学・力学に通じた手稿を残した天才であった。画像は{{仮リンク|トリノ王宮図書館|en|Royal Library of Turin}}が所蔵するレオナルドの自画像。]] [[ファイル:Santi di Tito - Niccolo Machiavelli's portrait.jpg|thumb|right|180px|[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]。小国家分立のイタリアにあって強力な政治統合を唱え、そのためには権謀術数をも辞さないという主張は、宗教や道徳から政治を切り離すいわゆる近代[[政治学]]の嚆矢となった。]] [[File:Hans Holbein d. J. - Erasmus - Louvre.jpg|thumb|right|180px|「[[エラスムス]]の世紀」。「人文主義の王者」とも呼ばれたエラスムスは『校訂版 新約聖書』の他『[[痴愚神礼賛]]』のような諷刺の効いた著作を含め旺盛な執筆活動を行い、その思想は宗教改革前後の全ヨーロッパを席巻した。画像は[[ハンス・ホルバイン]]によるエラスムスの肖像([[ルーヴル美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Martin Luther, 1529.jpg|thumb|right|180px|[[マルティン・ルター]]。彼が1517年に起こした[[ヴィッテンベルク大学]]での「[[95ヶ条の論題]]」は西方キリスト教世界を大きく分裂させる端緒となった。画像はルターの友人でもあった[[ルーカス・クラナッハ]]による肖像画({{仮リンク|アウクスブルクの聖アンナ教会|de|St. Anna (Augsburg)}}蔵)。]] [[File:John Calvin Museum Catharijneconvent RMCC s84 cropped.png|thumb|right|180px|[[ジャン・カルヴァン]]。パリ大学に学び主著『キリスト教綱要』で改革派であることを表明、[[ジュネーヴ]]で[[神権政治]]を行った。画像は[[ユトレヒト]]の{{仮リンク|カタリナ修道院博物館|en|Museum Catharijneconvent}}博物館にあるカルヴァンの肖像。]] [[ファイル:Michelangelo, Giudizio Universale 02.jpg|thumb|right|200px|[[システィーナ礼拝堂]]の「[[最後の審判]]」。[[ミケランジェロ]]による大画面の壁画でキリストの再臨と死者の再生を題材としているが、西ヨーロッパ世界の信仰分裂の苦悩を表しているとも言われ、その複雑な人体表現は[[マニエリスム]]芸術の先蹤ともなった。]] [[File:Leaning skeleton, by Vesalius. Wellcome L0003669.jpg|thumb|right|170px|『{{仮リンク|ファブリカ (ヴェサリウス)|en|De humani corporis fabrica}}』 。ファブリカとは解剖学者[[アンドレアス・ヴェサリウス]]の著書『人体の構造』のラテン語での略称のこと。精確で細密な今迄にない写実的な解剖図を添付することで人々を驚かせた。]] [[File:0 Antwerp town hall (2).JPG|thumb|right|230px|[[アントウェルペン]]。オーストリア系ハプスブルク家の支配下にあったネーデルラントは、スペイン系に支配が移っても長らくヨーロッパ国際貿易の要衝であった。画像はネーデルラントの中心地アントウェルペンにこの世紀に建てられた{{仮リンク|アントウェルペン市庁舎|en|Antwerp City Hall|nl|Stadhuis van Antwerpen}}で[[グローテ・マルクト (アントウェルペン)|マルクト広場]]に面した、壮麗なルネサンス様式建築である。]] [[ファイル:Pieter Brueghel the Elder - The Dutch Proverbs - Google Art Project.jpg|thumb|right|230px|[[ピーテル・ブリューゲル]]の絵画世界。聖書などの物語絵を描く一方で、市井の人々の身近な日常を取り上げ、類例のないこの時代の貴重な記録ともなっている。画像は「[[ネーデルラントの諺]]」([[絵画館 (ベルリン)|ベルリン絵画館]]蔵)。]] [[ファイル:Francois Dubois 001.jpg|thumb|250px|[[サン・バルテルミの虐殺]]。プロテスタントとカトリックの対立はフランスでは王権をめぐる内戦となり、この混乱から[[ブルボン朝]]が生まれることになる。画像はスイス・[[ヴォー州]]立[[ローザンヌ]]美術館蔵の{{仮リンク|フランソワ・デュボワ(16世紀の画家)|en|François Dubois}}による同時代の虐殺の記録画。]] [[File:Gustav Vasa.jpg|thumb|200px|right|[[カルマル同盟]]の解体と再編。[[デンマーク王]][[クリスチャン2世]]の「[[ストックホルムの血浴]]」により[[スウェーデン]]人の反発が強まり、[[グスタフ・ヴァーサ]]を国王とするスウェーデン王国がカルマル同盟から独立した。画像はグスタフ・ヴァーサ([[グスタフ1世]])の肖像。]] [[File:Vertumnus årstidernas gud målad av Giuseppe Arcimboldo 1591 - Skoklosters slott - 91503.tiff|thumb|right|200px|奇想の宮廷。神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]が宮廷を[[プラハ]]に置いたことにより、この地は学問・芸術・神秘思想の国際[[マニエリスム]]文化の中心となった。画像は[[アルチンボルド]]による「[[ウェルトゥムヌス]]に扮するルドルフ2世([[スウェーデン]]・{{仮リンク|スコークロステル城|en|Skokloster Castle}}蔵)」。]] [[ファイル:ArrasWawel.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|ポーランドの黄金時代|en|Polish Golden Age}}。[[ヤゲウォ朝]]最後の国王[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]]の時代にこの国は経済的にも文化的にも大いに繁栄した。画像はジグムント2世(アウグスト)王の[[モノグラム]]「S・A」が刺繡された[[タピストリー]]で1555年頃に[[ブリュッセル]]で作られたもの。]] [[File:Kremlinpic4.jpg|thumb|right|200px|[[イヴァン4世]]。ロシアを強国にするため各地を征服した一方で、専制君主として恐れられ「雷帝(グローズヌイ)」の異名がついた。画像は雷帝死後間もなく描かれた{{仮リンク|パルスナ|de|Parsuna}}様式の肖像画([[コペンハーゲン国立美術館]]蔵)。]] [[ファイル:St Basils CathedralR.jpg|thumb|right|200px|モスクワの[[聖ワシリイ大聖堂]]。ロシアのイヴァン4世(雷帝)が[[カザン]]征服を記念して建てたビザンティン様式の教会で、[[佯狂者]]聖ワシリイを顕彰している。]] [[File:Surikov Pokoreniye Sibiri Yermakom.jpg|thumb|right|280px|[[ロシアのシベリア征服]]の始まり。イヴァン雷帝の時代に[[コサック]]の[[イェルマーク]]に率いられた一群が[[シビル・ハン国]]に大勝してその都[[カシリク]]を奪取し、以後シベリアにおけるロシアの東方拡大の端緒となった。画像は[[ワシーリー・スリコフ]]の歴史画「イェルマークのシベリア征服」。]] [[ファイル:Hunername 257b.jpg|thumb|200px|[[第一次ウィーン包囲]]。壮麗王とも呼ばれた[[スレイマン1世]]の時代にオスマン帝国の領土はハンガリーを含んだ中欧にまで広がり、ヨーロッパ諸国の脅威となった。]] [[ファイル:Sekumname1525 Chaldiran battle.jpg|thumb|right|200px|[[チャルディラーンの戦い]]。[[オスマン朝]]の[[イェニチェリ]]鉄砲隊が、無敵を誇った[[サファヴィー朝]]の騎馬軍団[[クズルバシュ]]を撃ち破った戦いとして知られている。以後西アジアでも鉄砲や大砲の優位性が認められ、「[[火薬帝国]]」と呼ばれる帝国の並立が固定化した。]] [[ファイル:Ikhlas 001.jpg|thumb|200px|[[ムガル帝国]]の[[アクバル]]大帝。帝国の基盤を固める一方でイスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和に尽くした賢君とされている。画像は『[[アクバル・ナーマ]]』の[[細密画]]([[ヴィクトリア&アルバート博物館]]蔵)で[[戦象]]に乗って戦うアクバル。]] [[ファイル:The Golden Temple.jpg|thumb|250px|[[シク教]]の展開。16世紀初めに[[パンジャーブ地方]]で[[グル・ナーナク|ナーナク]]により創始された。画像は[[アムリトサル]]にあるシク教の中心地[[ハリマンディル・サーヒブ]](黄金寺院。1574年着工)。]] [[ファイル:Architectural Fitting in the Form of Three Serpents LACMA M.73.119.12.jpg|thumb|right|200px|[[サンカローク窯]]。タイの[[スコータイ朝]]の副都[[シーサッチャナーライ]]近郊にあった窯で、ここから数多くの焼き物が輸出された。日本では[[桃山時代]]に評価が高まり[[宋胡禄]]焼(すんころくやき)の名で知られている。画像は[[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]の所蔵作品。]] [[ファイル:Altankhan.jpg|thumb|210px|[[アルタン・ハーン]]。モンゴルを再統一した[[ダヤン・ハーン]]の孫で[[トゥメト]]部を率いたアルタンは、[[庚戌の変]]では[[北京]]にまで迫り明の人々を恐れさせた。]] [[File:Ningbo Tianyige 2013.07.28 09-23-22.jpg|thumb|right|250px|[[寧波]]。貿易港として文化都市として知られたが、1523年の[[寧波の乱]]では日本船同士が衝突を起こし、以後貿易は制限され[[倭寇]]が跳梁するきっかけをなした。画像は寧波に残る1561年に建立された中国最古の書庫「[[天一閣]]」。]] [[File:Old Trees by a Cold Waterfall LACMA 55.67.1.jpg|thumb|right|180px|宮廷画家から文人画家へ。明代中期から画壇の中心は文人画となり、[[沈周]]を祖とする[[呉派]]が伸長した。就中、詩書画に巧みな[[文徴明]]は三絶と呼ばれ、90歳の天命を全うし名作を残した。画像は文徴明の「枯木寒泉図」([[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]蔵)。]] [[ファイル:王守仁容像.jpg|thumb|210px|[[王陽明]]の登場。明で官学となった朱子学に対し「[[心即理]]」や「[[知行合一]]」といった理念を掲げたのが[[陽明学]]である。明末には陽明学左派の[[李卓吾]]のような型破りの学者も現れ、文芸などを通じ思想界はかつてない活気を見せた。]] [[File:Zhang Juzheng.jpg|thumb|right|200px|[[張居正]]の改革。財政再建と綱紀粛正のため神宗万暦帝のもとで改革を推し進めたのが[[内閣大学士]]の張居正である。[[一条鞭法]]の導入や全国的な丈量の実施により財政は好転したが、彼の死後、万暦帝の親政で改革はなし崩しにされていった。]] [[ファイル:Chinese - Faceted Vase - Walters 49737 - Profile.jpg|thumb|210px|[[万暦赤絵]]。明の中期から後期には五彩など華やかな意匠の陶磁器が発展し、[[万暦帝]]の治世に因み「万暦赤絵」と呼ばれた。画像は「五彩竜仙人文尊形瓶([[ボルティモア]]・[[ウォルターズ美術館]]蔵)」。]] [[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|right|250px|[[雪舟|雪舟等揚]]。明に渡って漢画を学んだ雪舟は、[[山口市|山口]]を拠点に日本各地を遍歴し、戦国画壇の先駆けとなった。画像は雪舟の最晩年にあたる1501年頃に実景をもとに描いた[[山水画]]の大作「[[天橋立図]]」。]] [[ファイル:Sengoku period battle.jpg|right|thumb|200px|日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]。室町幕府の支配が衰えると各地で群雄が割拠する時代へと突入した。画像は1561年の[[武田信玄]]と[[上杉謙信]]の激突を描いた「川中島合戦図屛風」(岩国美術館蔵)。]] [[File:Sahimeyama shrine near Iwami Ginzan Silver mine 1.jpg|thumb|right|250px|[[石見銀山]]。1533年の本格的な銀生産が始まって以来、長らく[[尼子氏]]と[[毛利氏]]の係争の地であった。ここで産出された銀は世界的な規模で流通し、[[南蛮貿易]]や中国の[[秤量貨幣]]システムにも影響を与えた。画像は石見銀山の氏神である[[佐毘売山神社]]。]] [[ファイル:EITOKU Uesugi-Gion-matsuri.jpg|right|thumb|200px|[[洛中洛外図]]。[[応仁の乱]]後も畿内は争乱が続いたが、京都の復興は目覚ましく、戦国大名もこの地を目指した。画像は織田信長から上杉謙信に送られた「洛中洛外図屛風(上杉本)」([[米沢市上杉博物館]]蔵)で、京都の[[町衆]]による[[祇園祭]]が描かれている部分。]] [[File:Odanobunaga.jpg|thumb|right|200px|[[織田信長]]。[[尾張国|尾張]]の領主から身を起こし、[[駿河国|駿河]]の[[今川氏]]や[[美濃国|美濃]]の[[斎藤氏]]を倒して勢力を拡大、室町幕府を滅ぼし、時代に先んじた政策で天下へ号令をかけた。画像は[[愛知県]][[豊田市]]長興寺にある信長の肖像画。]] [[ファイル:Toyotomi Hideyoshi (Kodaiji).jpg|thumb|200px|[[豊臣秀吉]]。[[本能寺の変]]で横死した織田信長の路線を踏襲して、戦国の混乱に終止符を打ち「天下統一」を成し遂げた。画像は[[狩野光信]]による絹本着色「豊臣秀吉像(京都[[高台寺]]蔵)」。]] [[File:Olaus Magnus' Map of Scandinavia 1539, Section D, Western Islands.jpg|right|thumb|250px|怪物たちのいる地図。16世紀前半に至っても人跡未踏の地域は未だ広大であり、怪物たちが闊歩する想像力豊かな地図が描かれ続けた。画像は[[オラウス・マグヌス]]によって描かれ1539年に出版された北欧の海図「[[カルタ・マリナ]]」の部分。]] [[ファイル:1594 Orbis Plancius 2,12 MB.jpg|thumb|250px|世界地図の変容。16世紀後半には大航海時代の発見や調査に伴う新しい知見が盛り込まれ、新大陸を含めた今までにない世界地図が生まれた。画像はオランダの地理学者[[ペトルス・プランシウス]]により1594年に作成された世界地図。]] [[File:Scipio-Turaminus Gregorian calendar 1582.jpg|thumb|right|250px|[[グレゴリウス暦]]の誕生。それまで用いられてきた古代ローマ時代以来の[[ユリウス暦]]の大幅な誤差を正すべく、教皇[[グレゴリウス13世]]のもと改暦が行われた。これが現行の[[グレゴリウス暦]]である。画像は教皇を前に改暦の議論を続ける天文学者たち。]] === 世界 === [[ヨーロッパ]]では'''[[ルネサンス]]'''と'''[[宗教改革]]'''の嵐により[[中世]]的な世界観にかわり、[[近世]]的な新しい世界観が生まれた。また、これまで[[天動説]]の体系が長らく信じられてきたが、[[ニコラウス・コペルニクス]]により'''[[地動説]]'''が発表された。当初はなかなか支持を得られず、明確に賛同する[[天文学者]]も[[ヨハネス・ケプラー]]や[[ガリレオ・ガリレイ]]の登場まで現れなかった。[[暦]]では、[[ローマ教皇]][[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[ユリウス暦]]を改良して[[新暦]]となる'''[[グレゴリオ暦]]'''を制定すると、まずは[[カトリック教会|カトリック]]国家で使われ始めたが、世界中に浸透するまでにはまだ時間を要することとなる。 [[スペイン]]が送り込んだ[[コンキスタドール]]やヨーロッパからもたらされた[[伝染病]]などにより、[[新大陸]]の既存の文明である[[インカ文明]]([[アンデス文明]])、[[アステカ文明]]は滅亡、[[マヤ文明]]も大きく衰退([[17世紀]]に滅亡)し、[[大航海時代]]における「冒険の時代」から「'''征服の時代'''」へと移行した。 [[アジア]]各国では新たな繁栄の時代となり、国内[[政治]]が充実し、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]・[[経済]]が発展した。新大陸や[[日本]]から流れた大量の[[銀]]が世界的な[[インフレーション]]を起こし([[価格革命]])、[[西欧]]・アジアの経済が急速に拡大した。 === 日本 === [[室町時代]]後期([[戦国時代 (日本)|戦国時代]])、[[安土桃山時代]]にあたる。 日本は[[9世紀]]の[[平安時代]]以降、断続的に内戦が続き、16世紀には[[戦国大名]]の乱立する状態になったが、[[天下統一]]を目前に[[本能寺の変]]で自害した[[織田信長]]に代わり、[[家臣]]の[[豊臣秀吉]]が統一を果たした。しかし、秀吉の死後には[[豊臣政権]]内の対立が表面化、'''[[関ヶ原の戦い]]'''により[[徳川家康]]率いる東軍が政権擁護派の[[石田三成]]ら西軍に勝利を収め、家康の[[覇権]]を決定的なものとした。 == できごと == * [[西洋史]]では、[[ルネサンス]]・[[宗教改革]]以降を[[近世]]と区分する([[イタリア・ルネサンス年表]]も参照のこと)。 * [[中国]]では[[明朝]]時代中期から後期にあたる。 ---- === 1500年代 === {{main|1500年代}} * [[1501年]] ** サファヴィー教団の[[イスマーイール1世]]が[[白羊朝]]を破り[[タブリーズ]]を占領([[サファヴィー朝]]の成立)。 * 1501年頃 ** [[雪舟]]の「[[天橋立図]]([[京都国立博物館]]蔵)」が描かれる。 * 1502年 ** [[クリミア・ハン国]]に都[[サライ (都市)|サライ]]を攻略され[[ジョチ・ウルス]](大オルダ)が滅亡する。 ** [[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]が創建される。 ** [[リスボン]]の[[ジェロニモス修道院]]が着工される( - 1551年)。 * 1503年 ** [[チェリニョーラ]]の戦いで、[[スペイン帝国|スペイン]]が[[ナポリ王国|ナポリ]]を征服。 ** [[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]死去。後継教皇として[[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]]、続いて[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]が即位。 *** 教皇アレクサンデル6世の息子[[チェーザレ・ボルジア]]が失脚する。 * 1503年頃 ** [[アメリゴ・ベスプッチ]]が『新世界』を刊行する。 * 1504年 ** [[立河原の戦い]]。 ** {{仮リンク|イオシフ・ヴォロツキイ|en|Joseph Volotsky}}らによる教会会議でロシアにおける異端者への厳罰が決定される。 * 1505年 ** [[明]]の[[正徳帝]]が第11代皇帝に即位。 ** [[スリランカ]]にポルトガル人が到来、[[コロンボ]]に要塞を築き、海岸地帯を占領([[ポルトガル領セイロン]]) 。 * 1506年 ** [[燕山君]]がクーデターにより失脚し[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]が即位([[中宗反正]])。 * 1507年 ** [[細川政元]]が[[暗殺]]される([[永正の錯乱]])。 ** [[シャイバーニー朝]]により[[ティムール朝]][[ヘラート]]政権が崩壊。 ** ポルトガルが[[モザンビーク島]]に要塞を築く。 ** [[マルティン・ヴァルトゼーミュラー]]の『世界誌概説』が出版され、その世界地図に「[[アメリカ州|アメリカ]]」の名称が初めて用いられる。 * 1508年 ** 亡命していた[[室町幕府]]第10代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙]]が上洛し将軍に復帰。 * 1509年 ** [[ディーウ沖の海戦]]でポルトガルが[[マムルーク朝]]・[[グジャラート・スルターン朝]]らのイスラム勢力に勝利し[[インド洋]]の覇権を握る。 === 1510年代 === {{main|1510年代}} * 1510年 ** ポルトガルがインドの[[ゴア]]を占領。 ** [[サファヴィー朝]]の[[イスマーイール1世]]が[[メルヴ]]近郊で[[シャイバーニー朝]]の[[ムハンマド・シャイバーニー・ハン|ムハンマド・シャイバーニー]]を敗死させる。 ** [[ダヤン・ハーン]]がモンゴルを再統一。 ** [[明]]で[[安化王の乱]]。[[劉瑾]]が帝位簒奪を企てたため処刑される。 ** [[朝鮮]]で[[三浦の乱]]。 * 1511年 ** [[デジデリウス・エラスムス]]の『[[痴愚神礼賛]]』が出版される。 ** [[ポルトガル]]のインド総督[[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]が[[マラッカ]]を占領({{仮リンク|マラッカ占領 (1511年)|en|Capture of Malacca (1511)}})。 ** スペインが[[キューバ]]を占領、[[ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル]]がキューバ総督となる。 ** 前将軍足利義澄が[[水茎岡山城]]で死去。[[船岡山の戦い]]で勝利した[[細川高国]]・[[大内義興]]政権が成立。 * 1512年 ** [[ティムール朝]]の[[バーブル]]が[[サマルカンド]]を放棄。以後、[[中央アジア]]からインドに進出。 ** アラゴン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]が[[パンプローナ]]を含む[[ピレネー]]以南の[[ナバラ王国]]を占領(1515年に併合)。 ** 旅行家[[レオ・アフリカヌス]]が[[ソンガイ王国]]の都[[トンブクトゥ]]を訪問する。 * 1513年 ** [[オスマン朝]]で「[[ピーリー・レイースの地図]]」が作成される。 ** [[ボスコリ事件]]で[[ニッコロ・マキャヴェリ]]が失脚。 ** 教皇ユリウス2世が死去し、[[メディチ家]]出身の[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]が教皇になる。 ** {{仮リンク|フロドゥンの戦い|en|Battle of Flodden}}でイングランド軍がスコットランド王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]を敗死させる。 * 1514年 ** [[チャルディラーンの戦い]]でオスマン朝が[[サファヴィー朝]]に勝利。 * 1515年 ** [[ウィーン二重結婚]]。 ** フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]即位。[[ミラノ公国]]を占領し[[スフォルツァ家]]を追放。 ** ポルトガルが[[ホルムズ島]]を占領。 ** インドの[[ゴア]]からポルトガル王[[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]]に[[インドサイ]]が贈られる。 * 1516年 ** [[ヴェネツィア]]に[[ヴェネツィア・ゲットー|ゲットー]]が設置される。 ** [[マルジュ・ダービクの戦い]]でオスマン朝が[[マムルーク朝]]に大勝する。 ** [[トマス・モア]]の『[[ユートピア]]』刊行。 ** ニッコロ・マキャヴェリが[[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ウルビーノ公ロレンツォ]]に『[[君主論]]』を献呈する(出版は1532年)。 ** [[ボローニャ]]の[[コンコルダート|政教協約]]でフランスの国家教会主義([[ガリカニズム]])が完成する。 * 1517年 ** [[マルティン・ルター]]の「[[95ヶ条の論題]]」([[宗教改革]]の発端)。 ** リダニヤの戦いでオスマン朝の[[セリム1世]]が[[マムルーク朝]]を滅ぼす。 ** [[フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ (ユカタン半島の発見者)|エルナンデス・デ・コルドバ]]の[[ユカタン半島]]上陸。 * 1518年 ** [[ストラスブール]]で「{{仮リンク|舞踏のペスト|en|Dancing plague of 1518}}」と呼ばれる集団ヒステリー事件発生。 ** [[ベーメン]]で採掘された銀をもとにヨアヒムスターラー銀貨(最初の[[ターラー (通貨)|ターラー銀貨]])が発行される。 ** [[フアン・デ・グリハルバ]]のメキシコ東部遠征、[[トゥルム]]他でマヤ系先住民と接触。 * 1519年 ** スペイン王カルロス1世が[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]として即位。 ** 神聖ローマ皇帝カール5世の支援を得て、[[フェルディナンド・マゼラン]]が[[世界周航]]のために[[セビリア]]から出帆する。 ** 明で[[寧王の乱]]。 === 1520年代 === {{main|1520年代}} * 1520年 ** オスマン帝国で[[スレイマン1世]]即位。オスマン帝国の全盛期。 ** イングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]とフランス王フランソワ1世の会見([[金襴の陣]])。 ** [[デンマーク]]による[[ストックホルムの血浴]]。 ** [[フェルディナンド・マゼラン]]が[[ラプラタ川]]から南下して[[パタゴニア]]に到着。 *** パタゴニアで狩猟採集生活をする原住民[[テウェルチェ族]](伝説の巨人[[パタゴン]]のモデル)に遭遇する。 *** パタゴニアを経由して[[マゼラン海峡]]を発見し[[太平洋]]へ到達。 * 1521年 ** フェルディナンド・マゼランが太平洋経由で[[グアム]]島から[[フィリピン]]へ到達。 *** [[マクタン島の戦い]]でイスラムの部族長[[ラプ=ラプ]]率いる軍に敗れマゼランは戦死。 *** [[フアン・セバスティアン・エルカーノ|エルカーノ]]らマゼランの部下たちはインド洋・大西洋を経てスペインに帰国し、[[世界周航]]を達成する。 ** [[アステカ帝国]]が[[エルナン・コルテス]]により征服される。 ** [[ヴォルムス帝国議会 (1521年)|ヴォルムス帝国議会]]でマルティン・ルターがカトリック教会との決別を宣言。 *** 議会ではルターを異端者とし、帝国外へ追放するというヴォルムス勅令を公布する。 *** ルターはザクセン選帝侯により[[ヴァルトブルク城]]にかくまわれ、[[新約聖書]]を[[ドイツ語]]に翻訳。 ** 将軍足利義稙が出奔し管領[[細川高国]]が実権を掌握。 *** [[後柏原天皇]]が即位22年目にして即位の礼を行う。[[足利義晴]]が室町幕府第12代将軍となる。 ** 明の[[嘉靖帝]]が第12代皇帝に即位。[[大礼の議]]の論争が起こる。 * 1522年 ** [[騎士戦争|ドイツ騎士戦争]]。 ** [[ロドス島]]包囲戦でオスマン帝国が勝利。 * 1523年 ** [[スウェーデン]]が[[カルマル同盟]]を脱し独立([[ヴァーサ朝]] - [[1654年]])。国王は[[グスタフ1世 (スウェーデン王)|グスタフ1世]]。 ** [[フルドリッヒ・ツヴィングリ|ツヴィングリ]]の「67ヶ条の論題」。[[チューリッヒ]]での宗教改革の始まり。 ** [[寧波の乱]]。 * 1524年 ** [[ドイツ農民戦争]]。 ** [[河越城の戦い]](河越夜戦)で、[[北条氏康]]軍が[[上杉憲政]]・[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|上杉朝定]]・[[足利晴氏]]の連合軍を破る。 * 1525年 ** [[パヴィアの戦い]]でフランス王フランソワ1世が神聖ローマ皇帝カール5世により捕虜になる。 ** ポーランド王ジグムント1世がドイツ騎士団総長アルブレヒトを臣従させる。 * 1526年 ** 後柏原天皇が死去し、第105代[[後奈良天皇]]が[[践祚]]。 ** [[石見銀山]]が[[博多]]の豪商[[神屋寿禎]]により発見される。 *** 続く1533年の灰吹き法の導入により世界的な銀生産地に発展。 ** [[インド]]で[[バーブル]]が[[ムガル朝]]を建国する。 ** [[モハーチの戦い]]で、ハンガリー国王[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]が戦死する。 *** ハンガリーの[[ヤギェウォ家]]男系は断絶し、義兄に当たるハプスブルク家の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]がハンガリー王となる。 * 1527年 ** [[ローマの略奪]]により教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]が神聖ローマ皇帝カール5世に屈服。 *** 事実上のイタリアでの盛期ルネサンスの終了。技巧と奇想にあふれる[[マニエリスム]]様式が広がる。 ** [[ヴェステロース]]での議会によりスウェーデンでルター派が国教とされる。 ** [[黎朝]]の王位が[[莫登庸]]により簒奪される。 ** [[三好元長]]が[[足利義維]]の[[堺]]政権を樹立([[堺公方|堺幕府]])。 * 1528年 ** コルテスがスペインに一時帰国し国王カルロス1世に[[カカオ]]その他の[[コロンブス交換|新大陸の産物]]を献上。 * 1529年 ** [[貴婦人の和約]](カンブレーの和約)。 ** [[神聖ローマ帝国]]の[[首都]][[ウイーン]]がオスマン帝国に包囲される([[第一次ウィーン包囲]])。 ** [[マールブルク]]会談においてルター派とツヴィングリ派が[[聖餐論]]をめぐり決別。 ** [[サラゴサ条約]]。 ** ヴィシュワナート・ナーヤカが[[マドゥライ・ナーヤカ朝]]の君主として即位( - [[1563年]])。 *** この君主の時代に都[[マドゥライ]]にインドで最大級のヒンドゥー教寺院であるミーナークシ寺院の建立が始まる。 === 1530年代 === {{main|1530年代}} * 1530年 ** 神聖ローマ皇帝カール5世とローマ教皇クレメンス7世が和解する。 *** [[ボローニャ]]にてカール5世はクレメンス7世より戴冠される(ローマ教皇による神聖ローマ皇帝への最後の戴冠式)。 ** [[フィリップ・メランヒトン]]が「[[アウクスブルク信仰告白]]」を起草する。 ** [[聖ヨハネ騎士団]]が[[マルタ島]]を領有する([[マルタ騎士団]])。 ** 人文学者[[ギヨーム・ビュデ]]がフランソワ1世に進言して「王立教授団([[コレージュ・ド・フランス]]の前身)」が設立される。 * 1531年 ** [[大物崩れ|天王寺の戦い]](大物崩れ)で[[細川高国]]政権崩壊。 ** [[琉球王国]]最古の歌謡集『[[おもろさうし]]』第一回結集。 ** 世界最古の先物取引が行われた証券取引所として[[アントウェルペン証券取引所]]が創設される。 ** メキシコで「[[グアダルーペの聖母 (メキシコ)|グアダルーペの聖母]]」が出現。 * 1532年 ** [[享禄・天文の乱]]により三好元長の堺政権(堺幕府)崩壊。 *** この混乱で畿内各地を[[一向一揆]]が攻撃、奈良の[[興福寺]]ほかを略奪炎上させる。 *** 細川晴元・[[六角定頼]]・[[法華一揆]]ら反対派が結集し、[[山科本願寺の戦い|山科本願寺を焼き討ち]]。 * 1533年 ** [[石山本願寺]](大坂御坊)が本願寺教団の本山になる。 ** ベトナムで[[黎朝]]と[[莫朝]]が分裂し、[[南北朝時代 (ベトナム)|南北朝時代]]が始まる( - [[1592年]])。 ** [[インカ帝国]]が[[フランシスコ・ピサロ]]により征服される。 ** フランス王子[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ(後のアンリ2世)]]と[[カトリーヌ・ド・メディシス]]の婚姻。 ** イングランド王ヘンリー8世が[[キャサリン・オブ・アラゴン]]と離婚、[[アン・ブーリン]]と再婚。 ** [[アルジェリア]]の[[バルバロス・ハイレッディン]]がオスマン朝に帰服し、提督([[パシャ]])となる。 * 1534年 ** [[イングランド国教会]]の成立。 *** 教皇クレメンス7世が[[イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]を[[破門]]。 *** ヘンリー8世が[[国王至上法]]を発布し、イングランド国教会が[[カトリック教会]]から分離。 ** [[ジャック・カルティエ]]が第1回探検で[[セントローレンス湾]]周辺を探索。 ** [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]ら[[イエズス会]]を結成。 ** フランスで[[檄文事件]]。 ** [[再洗礼派]]による[[ミュンスターの反乱]]。 * 1535年 ** ジャック・カルティエ第2回探検行。[[イロコイ族]]の村落オシュラガの山を[[モントリオール|モンロワイヤル]]と命名。 ** ミラノの[[スフォルツァ家]]断絶。ミラノはハプスブルク家に支配される。 ** ヘンリー8世の離婚に反対した[[ジョン・フィッシャー]]や[[トマス・モア]]が処刑される。 ** スペインが[[チュニス]]を占領し、[[ハフス朝]]を保護下に置く。 ** スペインが[[メキシコシティ]]を首都に[[ヌエバ・エスパーニャ副王領]]を設置。 * 1536年 ** イングランド王ヘンリー8世が[[ウェールズ]]を併合。 ** [[ジャン・カルヴァン]]の『[[キリスト教綱要]]』が出版され、カルヴァンは[[ジュネーヴ]]にて宗教改革を行う。 ** [[天文法華の乱]]。 * 1537年 ** スペインの探検団が[[パラグアイ川]]畔にヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・アスンシオンを建設(現[[パラグアイ]]の始まり)。 ** 教皇パウルス3世が回勅「[[スブリミス・デウス]]」で新大陸先住民を奴隷とすることを禁止する。 * 1538年 ** [[プレヴェザの海戦]]で、オスマン帝国艦隊が[[スペイン]]・[[ヴェネツィア]]艦隊に勝利し、[[地中海]]の制海権を握る。 ** オスマン帝国[[オスマン帝国のインド洋遠征|ハディム・スレイマン・パシャの遠征]]。 *** [[ディーウ沖の海戦|ディーウ沖海戦]]で、ポルトガル艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利、インド洋の制海権を握る。 * 1539年 ** [[ヴィレル・コトレ布告|ヴィレル・コトレ勅令]]。 === 1540年代 === {{main|1540年代}} * 1540年 ** イエズス会がローマ教皇[[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]より正式に[[修道会]]として認可される。 ** [[シェール・シャー]]が[[カナウジ]]の戦いでムガル朝を破り[[デリー]]と[[アーグラ]]を占領。北インドでの[[スール朝]]の覇権を確立。 * 1541年 ** [[ジャック・カルティエ]]第3回探検行。 ** [[エルナンド・デ・ソト]]が北アメリカの[[ミシシッピ川]]に到達。 ** イングランド王ヘンリー8世が[[アイルランド王国]]国王を名乗る。 ** [[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]による[[システィーナ礼拝堂]]祭壇壁画『[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]』が完成する。 ** {{仮リンク|レーゲンスブルク帝国議会|en|Diet of Regensburg (1541)}}。 ** オスマン帝国の[[ブダ]]占領。 *** ハンガリーはオスマン帝国領、オスマン帝国配下の[[トランシルヴァニア公国]]領、ハプスブルク帝国領に三分割される。 * 1542年 ** 明で嘉靖帝暗殺未遂事件({{仮リンク|壬寅宮変|zh|壬寅宮變}}または宮婢の変)。 ** [[アルタン・ハン]]が[[山西省]]に侵入し各地で虐殺・略奪する。 ** 教皇パウルス3世によりローマに[[異端審問|異端審問所]](検邪聖省)が設置される。 ** この年までにイングランドの全ての修道院が解散され、王室による財産没収が完了。 ** スペインが[[リマ]]を首都に[[ペルー副王領]]を設置。 ** [[ラス・カサス]]の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』が公表され、インディアス新法が制定される。 * 1543年 ** [[種子島]]にポルトガル人が来訪、[[日本]]へ[[鉄砲伝来]]。 ** [[ニコラウス・コペルニクス]]が『[[天体の回転について]]』で[[地動説]]・[[太陽]]中心説を発表。 ** [[ニコロ・フォンタナ・タルタリア]]が最初の近代語訳(イタリア語訳)[[エウクレイデス]]『[[原論]]』を刊行。 ** 解剖学者[[アンドレアス・ヴェサリウス]]が『{{仮リンク|ファブリカ (人体の構造)|en|De humani corporis fabrica}}』 を刊行。 ** ムガル朝の[[フマーユーン]]がシンドから逃亡し、サファヴィー朝の[[タフマースブ1世]]のもとに亡命。 ** [[タナ湖]]周辺のワイナ・ダガでの戦いで[[エチオピア]]・ポルトガル連合軍がイスラム軍を撃退。 * 1544年 ** ルター訳聖書(新約聖書・[[旧約聖書]]全巻)の刊行。 ** [[ケーニヒスベルク大学]]創設。 * 1545年 ** スペイン人により[[ポトシ銀山]]が発見される。 ** [[ピエール・ルイージ・ファルネーゼ]]が初代[[パルマ公]]([[ピアチェンツァ]]公を含む)となる。 * 1546年 ** 教皇パウルス3世により[[トリエント公会議]]が召集される。 ** [[シュマルカルデン戦争]]。 ** [[足利義輝]]が室町幕府第13代将軍となる。 ** [[アントニオ・メンドーサ]]によりメキシコの鉱山都市[[グアナファト]]が築かれる。 * 1547年 ** イングランドが[[スコットランド]]を攻撃して破る。 ** [[イヴァン4世]]がロシア皇帝(ツァーリ)として即位。 * 1548年 ** [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]の『[[霊操]]』が出版される。 ** スコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]が[[フランス]]へ亡命。 ** [[メキシコ]]の[[サカテカス銀山]]が開かれる。メキシコのシルバー・ラッシュ始まる。 ** 大内氏による最後の[[遣明船]]が北京に入城する。 * 1549年 ** [[フランシスコ・ザビエル]]の[[鹿児島県|鹿児島]]来訪により、日本に[[キリスト教]]が伝来。 ** 国王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]のもとイングランドで[[聖公会祈祷書|一般祈祷書]]が制定される。 ** チューリッヒ一致信条で、ツヴィングリ後継者[[ハインリヒ・ブリンガー]]とカルヴァンが改革派教会合同を行う。 ** [[江口の戦い]]で[[細川政権 (戦国時代)|細川(晴元)政権]]が崩壊、[[三好長慶]]による[[三好政権]]が畿内に成立。 === 1550年代 === {{main|1550年代}} * 1550年 ** [[庚戌の変]]で[[アルタン・ハーン]]が北京を包囲。 ** [[平戸]]に初めて[[ポルトガル]]商船が入港。ザビエルの平戸上陸。 ** ラス・カサスと[[フアン・ヒネス・デ・セプルベダ]]の[[バリャドリード論争]]。 ** [[ジョルジョ・ヴァザーリ]]の『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』が刊行される。 * 1551年 ** ザビエルが[[京都]]に到着、以後[[山口市|山口]]や豊後を歴訪し、インドに戻る。 *** 山口では布教許可を得て、[[南蛮寺]]([[大道寺]])を建てる。 ** [[大寧寺の変]]で[[陶晴賢]]が[[大内義隆]]を滅ぼす。 ** ローマの[[グレゴリアン大学]]が創建される。 ** 南米最古の[[国立サンマルコス大学|王立サンマルコス大学]]がリマに創建される。 ** ロシアの{{仮リンク|ストグロフ教会会議|en|Stoglavy Synod}}(百章教会会議)で{{仮リンク|非所有派|en|Non-possessors}}が排斥される。 * 1552年 ** ロシアのイヴァン4世が[[カザン・ハン国]]を征服。 ** ザビエルが[[広州]]港外の[[上川島]]にて死去。 * 1553年 ** 嘉靖の大倭寇始まる。 ** イングランド王エドワード6世死去。[[ジェーン・グレイ]]の即位を阻み、女王[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]が即位。 * 1554年 ** [[甲相駿三国同盟]](善徳寺の会盟)締結。 ** イングランド女王メアリー1世とスペイン王子フェリペ(後の国王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])の結婚。 * 1555年 ** [[アウクスブルクの和議]]。[[ルター派]]の信仰が認められる。 ** [[厳島の戦い]]で[[毛利元就]]が陶晴賢を滅ぼす。 ** ムガル朝のフマーユーンが[[スール朝]]を倒し、デリーを奪回する。 ** イングランド最初の[[勅許会社]]である[[モスクワ会社]]が設立される。 * 1556年 ** 明で[[華県地震]]。 ** ロシアのイヴァン4世が[[アストラハン・ハン国]]を征服。 ** [[ムガル帝国]]で[[アクバル]]即位。[[第二次パーニーパットの戦い]]で[[スール朝]]残党軍を破る。 ** カール5世の退位により、息子[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]がスペイン王を、弟[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]が神聖ローマ皇帝を分割して継承。カール5世はスペインの[[ユステ修道院]]に隠棲する。 ** ローマの[[ナヴォーナ広場]]で{{仮リンク|ポンポニオ・アルジェリオ|en|Pomponio Algerio}}が処刑される。 * 1557年 ** 後奈良天皇が没し、第106代[[正親町天皇]]が践祚。 ** ポルトガルの[[マカオ]]永久居留権が明に認められる。 ** スペインで第1回目の国家破産(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)。 *** スペインの国家破産は国王フェリペ2世在世中の1557年、1560年、1575年、1596年の4回起きる。 * 1558年 ** フランスがイングランドから[[カレー (フランス)|カレー]]を奪回。 ** [[エリザベス1世]]がイングランド女王に即位。 ** [[リヴォニア戦争]]で、[[ポーランド王国|ポーランド]]・スウェーデンと[[ロシア・ツァーリ国]]([[モスクワ大公国]])とが戦う( - [[1583年]])。 ** [[ミマール・スィナン]]の建築による[[スレイマニエ・モスク]]が完成する。 ** [[阮潢]]が旧チャンパ領でベトナム南部里州に赴任し事実上の独立([[広南国]]の成立)。 * 1559年 ** [[カトー・カンブレジ条約]]の締結により[[イタリア戦争]]が終結。 ** 教皇[[パウルス4世_(ローマ教皇)|パウルス4世]]の命によりローマ宗教裁判所から『[[禁書目録]]』が刊行される。 ** [[ジュネーヴ大学]]創建。 ** イヴァン4世により最初のロシア全国会議[[ゼムスキー・ソボル]]が召集される。 ** 嘉靖の大倭寇の中心人物だった[[王直]]が処刑される。 === 1560年代 === {{main|1560年代}} * 1560年 ** [[桶狭間の戦い]]で、[[織田信長]]が[[今川義元]]を滅ぼす。 ** [[アンボワーズの陰謀]]。 ** [[エディンバラ]]宗教会議により、[[ジョン・ノックス]]らによる「スコットランド信仰告白」が承認される。 * 1561年 ** スペイン国王フェリペ2世が[[バリャドリッド]]から[[マドリード]]に宮廷を遷す。 ** フランスからスコットランドへ女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]が帰国。 ** [[上杉謙信|上杉政虎(謙信)]]が[[関東管領]]に就任。[[川中島の戦い]](八幡原の戦い)。 ** イエズス会士[[ガスパル・ヴィレラ]]が「イエズス会日本通信」書簡で[[堺]]を「[[東洋のベニス]]」として紹介する。 * 1562年 ** [[ヴァシーの虐殺]]から[[ユグノー戦争]]が始まる。 ** 明の内閣大学士[[厳嵩]]が弾劾され、[[徐階]]が首輔となる。 ** [[雲芸和議]]により毛利元就が石見銀山を占領する。 * 1563年 ** トリエント公会議が閉会する。 ** エリザベス1世のもとで[[39箇条|イングランド国教会の39ヶ条]]が制定される。 ** [[タウングー朝]][[ビルマ]]の[[バインナウン]]王が[[アユタヤ朝]][[タイ王国|タイ]]を攻撃して都[[アユタヤ]]を占領する。 ** [[大村純忠]]が[[コスメ・デ・トーレス]]神父から[[洗礼]]を受け、最初の[[キリシタン大名]]となる。 * 1564年 ** ムガル皇帝アクバルがヒンドゥー教徒への[[ジズヤ]](人頭税)を廃止する。 ** ロシア皇帝イヴァン4世が退位を宣言。 * 1565年 ** ロシア皇帝イヴァン4世の復位宣言、[[オプリーチニナ]]制度を導入。 ** アルタン・ハーンが[[フフホト]](帰化城)を建設。 ** [[永禄の変]]で、三好三人衆と松永久秀により将軍足利義輝が殺害される。 ** 正親町天皇による最初の[[禁教令#概要|キリスト教宣教師追放令]]。 ** [[ターリコータの戦い]]で、デカンのムスリム5王国同盟が南インドの[[ヴィジャヤナガル王国]]に勝利する。 ** [[アンドレス・デ・ウルダネータ]]が[[セブ島]]からメキシコへの航路を開発([[マニラ・ガレオン|マニラ貿易]]・[[アカプルコ|アカプルコ貿易]]の始まり)。 ** [[マルタ包囲戦 (1565年)|マルタ包囲戦]]でマルタ騎士団がオスマン帝国軍を撃退。 * 1566年 ** 戸部主事[[海瑞]]が嘉靖帝に諫言して投獄される。 ** [[月山富田城の戦い]]で毛内元就が[[尼子義久]]を降伏させる。 ** [[アントウェルペン]]の聖母マリア大聖堂ほかで聖像破壊運動([[イコノクラスム]]/ビルダーシュトゥルム)が行われる。 ** 皇帝イヴァン4世のもとロシア初の印刷所が造られ、『[[使徒言行録]]』が発行される。 * 1567年 ** 明で[[嘉靖帝]]が死去。 *** 息子の[[隆慶帝]]が第13代皇帝に即位({{仮リンク|隆慶新政|zh|隆庆新政}})。海瑞が釈放される。 *** 日本との往来を除いて、明が[[海禁]]を緩和し、[[福建省]][[漳州]]{{仮リンク|月港|zh|月港}}が開港({{仮リンク|隆慶開関|zh|隆庆开关}})。 ** [[東大寺大仏殿の戦い]]で大仏殿が炎上する。 ** [[稲葉山城の戦い]]に勝利した織田信長が[[岐阜城|岐阜]]を根拠地とする。 ** スコットランド女王メアリが廃位され、息子[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]が即位。翌1568年にメアリはイングランドに亡命。 ** スペイン支配下の[[ネーデルラント]][[総督]]に[[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド|アルバ公]]が着任。 * 1568年 ** [[三好政権]]から織田政権へ。 *** 三好三人衆に擁立された[[足利義栄]]が室町幕府第14代将軍となる。 *** [[観音寺城の戦い]]。三好残党は[[阿波国|阿波]]に落ち延びるが、その途上将軍義栄が病死。 *** [[織田信長]]が[[足利義昭]]を奉じて京に入り、足利義昭が室町幕府第15代将軍となる。 ** スペインの[[モリスコ]]による{{仮リンク|アルプハラスの反乱|en|Morisco Revolt}}。 ** [[トルダの勅令]]。 * 1569年 ** メディチ家の[[コジモ1世]]が[[トスカーナ大公]]となる([[トスカーナ大公国]])。 ** ビルマ系[[タウングー朝]]の[[バインナウン]]王が[[アユタヤ朝]]の首都[[アユタヤ]]を制圧する。 ** [[本圀寺の変]](六条合戦)。永禄12年の[[宗論]]。 ** [[越相同盟]]により、[[足利義氏 (古河公方)|足利義氏]]が[[古河公方]]となり、[[上杉謙信]]の[[関東管領]]が承認される。 === 1570年代 === {{main|1570年代}} * 1570年 ** ローマ教皇[[ピウス5世 (ローマ教皇)|ピウス5世]]がイングランド女王エリザベス1世を破門(「[[レグナンス・イン・エクスケルシス]]」)。 ** ロシアのイヴァン4世による[[ノヴゴロド虐殺]]。 ** [[石山合戦]]が始まる。[[姉川の戦い]]。 ** [[大村純忠]]がポルトガルとの貿易拠点として[[長崎港|長崎]]を開港。 * 1571年 ** スペイン人[[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]がフィリピンの[[マニラ]]を占領。 ** ポルトガル王[[セバスティアン1世 (ポルトガル王)|セバスティアン1世]]による[[ポルトガルの奴隷貿易|日本人奴隷]]禁止の命令。 ** [[レパントの海戦]]で、[[ヨーロッパ]]連合艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利。 ** クリミア・ハン国が[[モスクワ]]を焼き払う({{仮リンク|モスクワ大火 (1571年)|en|Fire of Moscow (1571)}})。 ** 隆慶和議により明とモンゴルの和平が成立、アルタン・ハンは順義王の称号を得る。 ** [[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]。 * 1572年 ** 明の[[万暦帝]]が第14代皇帝に即位。[[張居正]]の改革始まる。 ** [[サンバルテルミの虐殺]]。 *** フランス国王[[シャルル9世]]の妹[[マルグリット・ド・ヴァロワ|マルグリット]]と[[アンリ4世 (フランス王)|ナヴァル王アンリ]]の結婚から発生。 ** {{仮リンク|ナールデンの虐殺|en|Massacre of Naarden}}。 ** ロシアのイヴァン4世がオプリーチニナ制度の廃止を宣言。 ** ポーランド・リトアニア国王[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]]が男系嗣子なくして死去、[[ヤギェウォ朝]]断絶。 * 1573年 ** [[室町幕府]]の滅亡と[[信長包囲網]]の崩壊。 *** [[三方ヶ原の戦い]]、武田信玄の病死。 *** [[二条御所の戦い]]、[[上京焼き討ち]]、[[槇島城の戦い]]。 *** 織田信長が将軍足利義昭を追放。[[天正]]へ改元。 *** [[一乗谷城の戦い]]、[[小谷城の戦い]]、三好・松永勢力の帰服。 ** [[セイム]](ポーランド議会)がフランス王子[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ]]を国王ヘンリク・ヴァレジに選出、[[ヘンリク条項]]が採択される。 ** スペイン領[[ヌエバ・エスパーニャ]]の[[アカプルコ]]港が[[マニラ]]貿易専売権を得る。 * 1574年 ** オスマン帝国が[[ハフス朝]]を滅ぼし[[チュニジア]]を併合。 ** ムガル皇帝アクバルが[[アーグラ]]から[[ファテープル・シークリー]]に遷都。 ** [[越前一向一揆]]蜂起する。[[長島一向一揆]]鎮圧される。 ** 織田信長が「[[蘭奢待]]」を切り取る。織田信長が「[[洛中洛外図]]屏風(上杉本)」を上杉謙信に贈る。 * 1575年 ** [[長篠の戦い]]。 *** 織田信長・徳川家康連合軍の鉄砲部隊が、[[武田勝頼]]の騎馬軍団に勝利する。 ** 織田信長が越前一向一揆を鎮圧する。 ** イタリアの[[フリウーリ]]地方の[[異端審問]]記録に[[ベナンダンティ]]の記述がされるようになる。 * 1576年 ** 織田信長が[[安土城]]を築く。 ** イエズス会士[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ|オルガンティノ]]により京都に最初の教会である[[南蛮寺]]が建てられる。 ** 足利義昭が毛利輝元を頼り、その勢力下の[[備後国]][[鞆]]に移る([[鞆幕府]])。 * 1577年 ** 信長が紀伊雑賀一揆を攻める。安土城下を[[楽市・楽座|楽市]]とする。 ** [[手取川の戦い]]で[[上杉謙信]]が信長に大勝。[[信貴山城の戦い]]で[[松永久秀]]が自殺。 * 1578年 ** [[御館の乱]]。[[有岡城の戦い]]。 ** [[アルカセル・キビールの戦い]]。 ** [[アルタン・ハーン]]がソェナムギャツォを招聘し「[[ダライラマ]](3世)」の称号を贈る。 * 1579年 ** オスマン帝国大宰相[[ソコルル・メフメト・パシャ]]が暗殺される。 ** ネーデルラント南部10州がスペインに帰順し[[アラス同盟]]を結成。北部7州は反発し[[ユトレヒト同盟]]を結成。 ** [[豊後]]の[[大友義鎮|大友宗麟]]に派遣した[[カンボジア]]王の使節団が、薩摩に漂着して島津氏に抑留される。 ** [[天正伊賀の乱]]。[[安土宗論]]。 === 1580年代 === {{main|1580年代}} * 1580年 ** 石山合戦が終結し、[[顕如]]が[[石山]]を退去。[[大村純忠]]が[[長崎市|長崎]]をイエズス会に寄進する。 ** 明の張居正が「万暦の丈量」を実施し、[[一条鞭法]]が普及する。 ** スペインがポルトガルを併合し、アジア航路も支配下に置く。 ** [[フランシス・ドレーク]]が二番目の[[世界周航]]を達成。 ** ムガル皇帝アクバルがイエズス会士ロドルフォ・アクワヴィヴァらを招聘し布教を許可する。 * 1581年 ** [[ネーデルラント連邦共和国]]([[オランダ]])がスペイン統治権の否認を宣言。 ** スウェーデン国王[[ヨハン3世 (スウェーデン王)|ヨハン3世]]が兼任する[[フィンランド大公]]が設置される。 ** ロシア皇帝イヴァン4世が皇太子[[イヴァン・イヴァノヴィチ (ツァレーヴィチ)|イヴァン]]を誤って殺害する。 ** [[バフチサライ条約 (1681年)|バフチサライ条約]]の締結。 ** 織田信長による[[京都御馬揃え]]。信長とイエズス会巡察師[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ|ヴァリニャーノ]]の会見。信長がヴァリニャーノから[[黒人]]従者を譲り受け「[[弥助]]」と名付け直参とする。 * 1582年 ** [[織田政権]]から羽柴政権([[豊臣政権]])へ。 *** [[天目山の戦い]]、[[備中高松城の戦い]]、[[三職推任問題|三職推任]]。 *** [[本能寺の変]]、[[山崎の戦い]]、[[清洲会議]]、[[天正壬午の乱]]。 *** [[千利休]]により[[妙喜庵#待庵|妙喜庵待庵]]が建てられる。 ** [[天正遣欧少年使節]]が[[長崎駅|長崎]]を出港。 ** 明の内閣大学士張居正が死去、万暦帝の親政が始まる。 ** 教皇[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]が[[グレゴリオ暦]]を発布。 ** チュヴァシ岬の戦いで勝利した[[イェルマーク]]が[[シビル・ハン国]]の都[[カシリク]]を制圧する。 * 1583年 ** [[賤ヶ岳の戦い]]、[[北ノ庄城の戦い]]、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が[[大坂城]]を築く。 ** 神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]が[[プラハ]]に遷都。 ** [[ケルン大司教]]([[選帝侯]])ゲプハルト1世が結婚を機にカルヴァン派に改宗し、{{仮リンク|ケルン戦争|en|Cologne War}}が起こる( - [[1588年]])。 * 1584年 ** [[小牧・長久手の戦い]]。 ** スペインの[[エル・エスコリアル修道院|エル・エスコリアル宮殿]]が完成する([[1563年]] - )。 ** スペイン王フェリペ2世が天正遣欧少年使節を歓待する。 ** [[デルフト]]で[[ウィレム1世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム]]が暗殺される。 ** ロシアでノヴォ・ホルモゴイ(現[[アルハンゲリスク]])港が開かれる。 ** ムガル皇帝アクバルが[[ファテープル・シークリー]]から[[ラホール]]に遷都。 * 1585年 ** [[紀州征伐]]で[[根来寺]]炎上。[[四国征伐]]で[[長宗我部元親]]が降伏。[[関白相論]]から羽柴秀吉が関白になる(武家関白制)。 ** 教皇グレゴリウス13世が天正遣欧少年使節を歓待する。 ** フランスで[[ユグノー戦争|三アンリの戦い]]( - [[1588年]])。 ** パルマ公のスペイン軍が[[アントウェルペン]]を制圧。アントウェルペンの繁栄の終焉。 ** [[ハルハ]]部の{{仮リンク|アブタイ|en|Abtai Sain Khan}}(アバダイ)により[[カラコルム]]近郊に最古の[[ゲルク派]]仏教寺院[[エルデネ・ゾー]](エルデニ・ジョー)が建てられる。 * 1586年 ** [[天正地震]]。 ** 正親町天皇が譲位し、第107代[[後陽成天皇]]が即位。 ** [[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]が豊臣の姓を賜り太政大臣となる。 ** [[徳川家康]]が豊臣秀吉に臣従する。豊臣秀吉による[[惣無事令]]の布告。 * 1587年 ** [[九州征伐]]で[[島津義久]]が降伏。[[バテレン追放令]]。京都[[聚楽第]]が完成。[[北野大茶湯]]。 ** 前スコットランド女王メアリ・スチュアートがエリザベス1世[[暗殺]]未遂容疑で[[処刑]]される。 * 1588年 ** 後陽成天皇の聚楽第行幸。豊臣秀吉が[[刀狩令]]と[[海賊停止令]]を出す。[[天正大判]]の鋳造。 ** [[アルマダの海戦]]で、[[スペイン]]無敵艦隊がイングランドに敗北。 ** [[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]の[[アンリ1世 (ギーズ公)|ギーズ公アンリ1世]]と[[枢機卿]][[ルイ・ド・ロレーヌ]]の兄弟が国王[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]の命令で暗殺される。 * 1589年 ** [[摺上原の戦い]]。 ** [[李卓吾]]が詩文集『焚書』を執筆する。 ** ドンゴ部のホホリを制圧し、[[ヌルハチ]]が[[建州女直]]を統一する。 ** フランス国王アンリ3世が暗殺され[[ヴァロワ朝]]が断絶。[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]が即位し[[ブルボン朝]]を開く。 ** [[モスクワ総主教]]座が設置される。 === 1590年代 === {{main|1590年代}} * 1590年 ** 豊臣秀吉の全国統一の完成。 *** [[小田原征伐]]による後北条氏滅亡。徳川家康が関東八州に移封され[[江戸城]]に入る。 *** [[宇都宮仕置]]・[[奥州仕置]]により関東・東北諸大名を帰順させ、この地域にも[[太閤検地]]が進む。 *** 京都改造([[天正の地割]]、[[寺町]]通の形成、[[御土居]]の建設)。 ** [[ロアノーク植民地]]住民消失事件。 * 1591年 ** 豊臣秀吉の命令で[[千利休]]が切腹する。[[九戸政実の乱]]。[[肥前]][[名護屋城]]の着工。 ** ロシア皇帝[[フョードル1世]]の弟[[ウグリチのドミトリー|ドミトリー]]皇子が謎の死を遂げる。 ** [[サアド朝]]モロッコ軍が[[ソンガイ王国]]に侵入し、[[トンブクトゥ]]を占領する。 * 1592年 ** 豊臣秀吉が甥の[[豊臣秀次|秀次]]に関白を譲る。江戸駿河台の[[吉祥寺]]内に学寮([[旃檀林]])創立。 ** [[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]( - 1593年)。 ** [[寧夏]]で[[哱拝の乱]]が起こる。 ** [[播州]]で[[楊応龍の乱]]が起こる。 ** [[スリランカ]]のシンハラ王朝が[[キャンディ]]に遷都し、仏歯が運ばれる。 * 1593年 ** フランス国王アンリ4世がカトリックに改宗する。 ** [[シサク]]の戦いで、[[クロアチア]]とカルニオラ([[スロベニア]]の一部)連合軍がオスマン軍を破る。 * 1594年 ** ザビエルの墓がある[[ゴア州|ゴア]]の[[ボム・ジェズ教会]]が建立される。 ** [[吉野山#歴史に登場する吉野山|豊臣秀吉の吉野の花見]]。 * 1595年 ** 豊臣秀次が謀叛の疑いにより、切腹を命じられる。[[聚楽第]]の破却。 ** 豊臣秀吉による京都[[東山 (京都府)|東山]][[方広寺]]大仏殿が完成し、千僧供養が行われる。 * 1596年 ** [[サン=フェリペ号事件]]。 ** [[浅間山]]大[[噴火]]。[[慶長大地震]]([[慶長伊予地震|伊予地震]]・[[慶長豊後地震|豊後地震]]・[[慶長伏見地震|伏見地震]])。 ** 明で鉱税の害(礦税の禍)。 ** [[ブレスト合同]]。ポーランドの宮廷が[[クラクフ]]から[[ワルシャワ]]に遷る。 * 1597年 ** [[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]( - 1598年)。 ** [[長崎県|長崎]]で[[日本二十六聖人]]が[[殉教]]する。 ** [[桃山丘陵]](木幡山)の[[伏見城]]が完成する。[[京都新城]]が建設される。 ** [[後陽成天皇]]の命により[[古活字本|日本最古の活字印刷]](慶長勅版)が行われる。 ** [[ヤコポ・ペーリ]]らによって最初の[[オペラ]]「ダフネ」が作られる。 * 1598年 ** フランス王アンリ4世による[[ナントの勅令]]。 ** [[エステ家]]の断絶により[[フェッラーラ]]が[[教皇領]]に編入される。 ** [[サファヴィー朝]]の[[アッバース1世]]が[[イスファハーン]]に遷都。 ** ロシア皇帝[[フョードル1世]]死去により[[リューリク朝]]断絶。義兄[[ボリス・ゴドゥノフ]]が皇帝となるが[[動乱時代]]を招来。 ** [[シビル・ハン国]]がロシアに滅ぼされる。 ** [[醍醐の花見]]。[[五大老]]・[[五奉行]]の設置。伏見城にて豊臣秀吉死去。 ** 朝鮮から日本軍が撤兵する際の[[露梁海戦]]で[[李舜臣]]が戦死。 ** イエズス会士[[マテオ・リッチ]]が[[北京]]に入城する。 * 1599年 ** [[南京]]にてイエズス会士マテオ・リッチが陽明学左派の思想家[[李卓吾]]と会見。 ** 建築家[[ドメニコ・フォンターナ]]が[[ポンペイ]]遺跡を発見。 ** [[ジグムント3世 (ポーランド王)|シギスムンド]](ジグムント3世)がスウェーデン王位を廃され、ポーランド王位のみに残留。 *** これにより[[ヴァーサ家]]はスウェーデン系とポーランド系に分裂する。 ** [[カラブリア]]地方での反スペイン蜂起の企てで思想家[[トマソ・カンパネッラ|カンパネッラ]]が逮捕される( - [[1626年]])。 ** [[フリウーリ]]地方の製粉業者{{仮リンク|メノッキオ|en|Menocchio}}(ドメニコ・スカンデッラ)が異端思想のために処刑される。 *** 歴史学者[[カルロ・ギンズブルグ]]の著作『{{仮リンク|チーズとうじ虫|en|The Cheese and the Worms}}』はこの時の裁判記録をもとにしている。 === 1600年代 === {{main|1600年代}} * 1600年 ** [[関ヶ原の戦い]]。 *** [[会津征伐]]、[[小山評定]]、[[伏見城の戦い]]、[[上田城の戦い]]。 *** 関ヶ原にて徳川家康率いる東軍が、[[石田三成]]率いる西軍に勝利する。 ** [[豊後国]][[臼杵]]にオランダ船[[リーフデ号]]が漂着する。 ** 教皇[[クレメンス8世]]がイエズス会にのみ認められていた日本での宣教活動を全ての修道会に認める。 ** ローマの{{仮リンク|カンポ・デ・フィオーリ広場|en|Campo de' Fiori}}にて[[ジョルダーノ・ブルーノ]]刑死。 ** [[イギリス東インド会社]]設立。 ** フランス王アンリ4世がメディチ家の[[マリー・ド・メディシス]]と結婚。 ** 南アメリカ・ペルーの[[ワイナプチナ]]火山の大爆発。 * 年月不詳 ** [[西遊記]]成立。 == 人物 == === ヨーロッパ === ==== イタリア ==== * [[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]([[1431年]] - [[1503年]]) - [[ローマ教皇]](在位[[1492年]] - [[1503年]])・[[ボルジア家]]出身の[[ルネサンス教皇]] * [[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]([[1443年]] - [[1513年]]) - ローマ教皇(在位[[1503年]] - [[1513年]])・ルネサンス教皇・[[サン・ピエトロ大聖堂]]の改修を始める * [[ドナト・ブラマンテ]]([[1444年]]頃 - [[1514年]]) - ローマで活躍した建築家・教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の依頼でサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となる * [[ピエロ・ソデリーニ]]([[1450年]] - [[1522年]]) - [[フィレンツェ共和国]]元首([[正義の旗手]])・メディチ家不在の政局を指導・後に追放される * [[アメリゴ・ヴェスプッチ]]([[1451年]] - [[1512年]]) - フィレンツェ出身の探検家・論文「[[新世界]]」を書き「[[アメリカ州|アメリカ]]」の名の由来となる * [[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]([[1452年]] - [[1519年]]) - フィレンツェ派の[[画家]]・[[彫刻家]]・[[建築家]]など「万能の天才」・「[[モナリザ]]」他がある * [[ピエトロ・ポンポナッツィ]]([[1462年]] - [[1525年]]) - [[パドヴァ大学]]教授・『霊魂不滅論』を執筆して人間霊魂の不滅を否定し論争を引き起こす * [[アンドレア・ドーリア]]([[1466年]] - [[1560年]]) - ジェノヴァの提督・[[コンドッティエーレ]]・[[チュニス征服 (1535年)|チュニスの海戦]]で勝利するも[[プレヴェザの海戦]]で敗北 * [[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]([[1468年]] - [[1549年]]) - ローマ教皇(在位[[1534年]] - [[1549年]])・[[宗教改革]]に対抗すべく[[トリエント公会議]]を召集 * [[ニッコロ・マキャヴェッリ]]([[1469年]] - [[1527年]]) - フィレンツェの外交官・政治思想家・『[[君主論]]』『[[ディスコルシ]]』の著者 * {{仮リンク|トマス・デ・ヴィオ・カイエタヌス|en|Thomas Cajetan}}([[1469年]] - [[1534年]]) - ガエタ出身の神学者・枢機卿・ドミニコ会総長・ルターとの折衝で有名・主著は『名辞の類比』 * [[ピエトロ・ベンボ]]([[1470年]] - [[1547年]]) - ヴェネツィア出身の人文学者・枢機卿・[[聖ヨハネ騎士団]]員・『俗語読本』で近代イタリア語の基礎をなす * [[イザベラ・デステ]]([[1474年]] - [[1539年]]) - [[エステ家]]出身の[[マントヴァ侯]][[フランチェスコ2世・ゴンザーガ|フランチェスコ2世]]の妃・文芸支援者として名高い * [[ルドヴィーコ・アリオスト]]([[1474年]] - [[1533年]]) - イタリアの詩人・フェラーラ公に仕える・『[[狂えるオルランド]]』を執筆 * [[チェーザレ・ボルジア]] ([[1475年]] - [[1507年]]) - [[イタリア]]の軍人・政治家・父の教皇[[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]の援助でイタリア統一を目指す * [[ミケランジェロ・ブオナローティ]]([[1475年]] - [[1564年]]) - フィレンツェ出身の画家・彫刻家・「[[ダビデ像 (ミケランジェロ)|ダヴィデ像]]」「[[ピエタ (ミケランジェロ)|ピエタ]]」「[[最後の審判 (ミケランジェロ)|最後の審判]]」がある * [[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]([[1475年]] - [[1521年]]) - ローマ教皇(在位[[1513年]] - [[1521年]])・[[メディチ家]]出身・最盛期のルネサンス教皇・ルターの宗教改革を招く * [[ジョルジョーネ]]([[1477年]]/[[1478年]]頃 - [[1510年]]) - 盛期ルネサンスの[[ヴェネツィア派]]の画家・「嵐」「[[三人の哲学者]]」などがある * [[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]]([[1478年]] - [[1534年]]) - ローマ教皇(在位[[1523年]] - [[1534年]])・メディチ家出身・[[ローマ略奪]]により皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に屈服 * [[バルダッサーレ・カスティリオーネ]]([[1478年]] - [[1529年]]) - イタリアの外交官・ヨーロッパ宮廷人の模範となった『宮廷人(廷臣論)』を執筆 * [[ジローラモ・フラカストロ]]([[1478年]] - [[1553年]]) - [[ヴェローナ]]出身の科学者・[[パドヴァ大学]]教授・[[梅毒]]や[[チフス]]を命名しコンタギオン説を提唱 * [[マッテオ・バンデッロ]]([[1480年]] - [[1562年]]) - [[ピエモンテ州|ピエモンテ]]出身の作家・ドミニコ会士・物語集『ノヴェッロ』を執筆しシェークスピアにも影響を与える * [[ラファエロ・サンティ]]([[1483年]] - [[1520年]]) - [[盛期ルネサンス]]の[[ウルビーノ]]出身の画家・建築家・代表作に「[[アテナイの学堂]]」がある * [[フランチェスコ・グイチャルディーニ]]([[1483年]] - [[1540年]]) - フィレンツェの政治家・歴史家として『フィレンツェ史』『イタリア史』を執筆 * {{仮リンク|ガスパーロ・コンタリーニ|en|Gasparo Contarini}}([[1483年]] - [[1542年]]) - ヴェネツィアの外交官・枢機卿・司教・{{仮リンク|聖霊派(スピリトゥアリ)|en|Spirituali}}としてカトリック改革を指導 * [[レオ・アフリカヌス]]([[1483年]]? - [[1555年]]?) - [[グラナダ]]生まれの旅行家・冒険家・教皇レオ10世に仕え『アフリカ誌』を執筆する * [[ユリウス3世 (ローマ教皇)|ユリウス3世]]([[1487年]] - [[1555年]]) - ローマ教皇(在位[[1550年]] - [[1555年]])・[[トリエント公会議]]第2会期を指導・パレストリーナの庇護者 * {{仮リンク|ベルナルディーノ・オキーノ|en|Bernardino Ochino}} ([[1487年]] - [[1564年]]) - [[シエーナ]]出身の[[カプチン・フランシスコ修道会|カプチン会士]]・スイスに亡命しイングランド他で宗教改革の著述を行う * [[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]([[1488年]]/[[1490年]]頃 - [[1576年]]) - 盛期ルネサンスのヴェネツィア派の画家・「聖母被昇天」「聖愛と俗愛」がある * [[コレッジョ|アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ]]([[1489年]]頃 – [[1534年]]) - 盛期ルネサンスの[[パルマ]]派の画家・「神々の愛」の連作が有名 * [[ピエトロ・アレティーノ]]([[1492年]] - [[1556年]]) - ヴェネツィアで活躍した作家・詩人・著名人への諷刺や毒舌で有名・代表作に『遊女』ほかがある * [[ヴィットリア・コロンナ]]([[1492年]] - [[1547年]]) - ローマの名門出身の女流詩人・教会改革を支持しミケランジェロとの交遊でも知られる * [[ヤコポ・ダ・ポントルモ]]([[1494年]] - [[1557年]]) - マニエリスムのフィレンツェの画家・サンタ・フェリチタ聖堂「十字架降架」が有名・『日記』もある * {{仮リンク|マテオ・ダ・バッシ|en|Matteo Bassi}}([[1495年]] - [[1552年]]) - [[カプチン・フランシスコ修道会|カプチン会]]の創始者・フランシスコ会の修道規則を厳格に適用した * [[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]([[1500年]] - [[1571年]]) - マニエリスムのフィレンツェの彫刻家・「サリエラ(黄金の塩入れ)」が有名・『自伝』もある * [[ニコロ・フォンタナ・タルタリア]]([[1499年]]/[[1500年]] - [[1557年]]) - イタリアの数学者・三次方程式の解法を研究・大砲の弾道計算を行い[[弾道学]]の祖とされる * [[ジェロラモ・カルダーノ]]([[1501年]] - [[1576年]]) - [[ミラノ]]出身の数学者・『偉大なる術(アルス・マグナ)』で[[三次方程式]]の根の公式などを紹介 * [[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|グレゴリウス13世]]([[1502年]] - [[1585年]]) - ローマ教皇(在位[[1572年]] - [[1585年]])・[[ユリウス暦]]を廃し新規に[[グレゴリオ暦]]を採用 * [[アーニョロ・ブロンズィーノ]]([[1503年]] - [[1572年]]) - マニエリスムのフィレンツェ派の画家・複雑な寓意をめぐらした「[[愛の寓意|愛のアレゴリー]]」がある * [[ジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ]]([[1507年]] - [[1573年]]) - [[モデナ]]近郊出身の建築家・マニエリスム建築を大成・ローマのイエズス会[[ジェズ教会]]がある * [[アンドレーア・パッラーディオ]]([[1508年]] - [[1580年]]) - [[パドヴァ]]出身の建築家・マニエリスム建築を大成・「[[ヴィラ・アルメリコ・カプラ|ヴィラ・アルメリコ]]」がある * {{仮リンク|ピエトロ・カルネセッキ|en|Pietro Carnesecchi}}([[1508年]] - [[1567年]]) - フィレンツェ出身の人文主義者・教皇庁書記官・福音派に転じたため異端審問で死刑にされる * {{仮リンク|ベルナルディーノ・テレジオ|en|Bernardino Telesio}}([[1509年]] - [[1588年]]) - [[コゼンツァ]]出身の自然哲学者・アリストテレスに反対し『固有の原理から見た事物の本性』を執筆 * [[ジョルジョ・ヴァザーリ]]([[1511年]] - [[1574年]]) - マニエリスムのフィレンツェ派の画家・伝記作家として『[[画家・彫刻家・建築家列伝]]』を残す * [[ロレンツィーノ・デ・メディチ]] ([[1514年]] - [[1548年]]) - 政治家・[[アレッサンドロ・デ・メディチ]]を暗殺・[[ミュッセ]]の戯曲『ロレンザッチョ』でも有名 * [[フィリッポ・ネリ]]([[1515年]] - [[1595年]]) - フィレンツェ出身の司祭・[[オラトリオ会]]創始者・聖歌[[オラトリオ]]の発展を促し「喜びの聖人」とされる * [[ティントレット]]([[1518年]] - [[1594年]]) - 後期ルネサンスのヴェネツィア派の画家・ドゥカーレ宮殿壁画「天国」などが有名 * [[コジモ1世]]([[1519年]] - [[1574年]]) - メディチ家(弟脈)の初代[[トスカーナ大公]](在位[[1537年]] - [[1574年]])・マニエリスム芸術の支援者 * [[シクストゥス5世 (ローマ教皇)|シクストゥス5世]]([[1520年]] - [[1590年]]) - ローマ教皇(在位[[1585年]] - [[1590年]])・公共事業として都市ローマの壮大な整備を実施 * [[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ]]([[1525年]]? - [[1594年]]) - ローマの音楽家・「教会音楽の父」・「[[教皇マルチェルスのミサ曲]]」などが有名 * [[パオロ・ヴェロネーゼ]]([[1528年]] - [[1588年]]) - 後期ルネサンスのヴェネツィア派の画家・「[[カナの婚礼]]」「[[レヴィ家の饗宴]]」などが有名 * {{仮リンク|フランチェスコ・パトリッツィ|en|Franciscus Patricius}}([[1529年]] - [[1597年]]) - ローマ・サピエンツァ大学教授・『新普遍哲学』でアリストテレス哲学を全面的に批判 * [[ジャンボローニャ]]([[1529年]] - [[1608年]])- フランドル出身のマニエリスムの彫刻家・メディチ家に仕え「[[サビニの女たちの略奪]]」などを残す * {{仮リンク|ヤコポ・ザバレラ|en|Jacobus Zabarella}}([[1533年]] - [[1589年]])- [[パドヴァ大学]]教授・主著『論理学』では[[演繹法]]や[[帰納法]]の先駆となる推論を展開 * [[カルロ・ボロメオ]]([[1538年]] - [[1584年]]) - 枢機卿・ミラノ大司教・カトリック改革の旗手で小教区の再建やペスト流行時の救済で活躍・聖人とされる * [[カエサル・バロニウス]]([[1538年]] - [[1607年]]) - 枢機卿・[[オラトリオ会]]総長・歴史家としてプロテスタント側に対抗する『教会年代記』を編纂 * [[ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ]]([[1538年]] - [[1615年]]) - ナポリの博物学者・自然科学の最初の学会を結成・主著に『自然魔術』がある * [[クリストファー・クラヴィウス]]([[1538年]] - [[1612年]]) - ローマ学院の数学教授・リリウス兄弟とともに[[グレゴリオ暦|グレゴリウス暦]]改定の中心人物となる * [[ロベルト・ベラルミーノ]]([[1542年]] - [[1621年]]) - イタリアのイエズス会士・枢機卿・カトリック改革を指揮し『異端反駁信仰論争』を執筆・教会博士 * [[トルクァート・タッソ]]([[1544年]] - [[1595年]]) - イタリアの詩人・フェラーラ公に仕え『[[解放されたエルサレム]]』ほかを執筆 * {{仮リンク|ジョバンニ・ボッテーロ|en|Giovanni Botero}}([[1544年]]頃 - [[1617年]]) - イタリアの政治思想家・イエズス会士・マキャヴェッリの思想を批判的に継承し『国家理性論』を執筆 * [[ジョルダーノ・ブルーノ]]([[1548年]] - [[1600年]]) - イタリアのドミニコ会士・哲学者・[[地動説]]を擁護し無限宇宙論を提唱・[[異端]]判決で火刑 * {{仮リンク|アルベリコ・ジェンティーリ|en|Alberico Gentili}}([[1552年]] - [[1608年]]) - イタリア出身の国際法学者・オックスフォード大学法学教授・著作に『戦争法論』がある * [[ガリレオ・ガリレイ]]([[1564年]] - [[1642年]]) - イタリアの物理学者・天文学者・『天文対話』などで[[地動説]]を擁護し[[宗教裁判]]を受ける * [[アロイシウス・ゴンザーガ]]([[1568年]] - [[1591年]]) - イタリアのイエズス会士・名門に生まれカルロ・ボロメオに教導を受けるも早世・若者の守護聖人となる * [[ベアトリーチェ・チェンチ]]([[1577年]] - [[1599年]]) - イタリアの貴族女性・ローマでの父親殺しの裁判の被告となり悲劇的な最期を遂げた ==== ポルトガル ==== * [[マヌエル1世 (ポルトガル王)|マヌエル1世]](幸運王)([[1469年]] - [[1521年]]) - [[ポルトガル]]王(在位[[1495年]] - [[1521年]])・[[ポルトガル海上帝国]]の最盛期の王 * [[ジョアン・デ・バロス]]([[1496年]]頃 - [[1570年]]) - ポルトガルの歴史家・「ポルトガルのリウィウス」・『アジア史』で大航海時代のポルトガルを記録 * [[ルイス・デ・カモンイス]]([[1524年]]頃 - [[1580年]]) - ポルトガルの詩人・大航海時代でのポルトガルの海外覇権を『[[ウズ・ルジアダス]]』に描く<ref name="WDL2">{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/11198/ |title = The Lusiads |website = [[World Digital Library]] |date = 1800-1882 |accessdate = 2013-09-01 }}</ref> * [[セバスティアン1世]](熱望王)([[1554年]] - [[1578年]]) - ポルトガル王(在位[[1557年]] - [[1578年]])・[[アルカセル・キビールの戦い]]で戦死 ==== スペイン ==== * [[フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス]]([[1436年]] - [[1517年]]) - スペインの[[摂政]]・[[トレド]]大司教・枢機卿・異端審問や多言語対訳聖書編集で活躍 * [[フェルディナンド・マゼラン]]([[1480年]]? - [[1521年]]) - スペイン王に仕えた探検家・世界周航を目指し[[マゼラン海峡]]などを発見・[[フィリピン]]で戦死 * [[フアン・ヒネス・デ・セプルベダ]]([[1489年]] - [[1573年]]) - スペインの神学者・哲学者・バリャドリッド論争でラス・カサスと対決する * [[イグナチオ・デ・ロヨラ]]([[1491年]] - [[1556年]]) - スペインの[[イエズス会]]創立者・会の初代総長として[[フランシスコ・ザビエル]]らを世界宣教に遣わす * [[フランシスコ・デ・ビトリア]]([[1492年]]頃 - [[1546年]]) - スペインの神学者・哲学者・法学者・[[トマス・アクィナス|トマス]]神学の導入で[[サラマンカ学派]]の祖となる * [[マルティン・デ・アスピルクエタ]]([[1493年]] - [[1586年]]) - スペインのサラマンカ学派の神学者・著書『徴利明解論』で「[[貨幣数量説]]」から[[価格革命]]を解明 * [[ドミンゴ・デ・ソト]]([[1494年]] - [[1560年]]) - スペインのサラマンカ学派の神学者・哲学者・法学者・代表作は『公正と法』・インディオ問題にも関与 * [[アンドレス・デ・ウルダネータ]]([[1498年]] - [[1568年]]) - スペインの探検家・修道士・[[フィリピン]]から[[太平洋]]を渡り[[メキシコ]]の[[アカプルコ]]に至る航路開拓 * {{仮リンク|アルカンタラのペトロ|en|Peter of Alcántara}}([[1499年]] - [[1562年]]) - スペインの修道士・フランシスコ会厳修派に属し新大陸各地を歴訪・著書に『祈りと黙想』がある・[[ブラジル]]の守護聖人 * [[アビラのテレサ]]([[1515年]] - [[1582年]]) - スペインの女性神秘家・[[カルメル会]]で改革に取り組む・著作に『[[完徳]]の道』などがある * [[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]([[1527年]] - [[1598年]]) - スペイン王(在位[[1556年]] - [[1598年]])・ポルトガル王を兼位し「太陽の沈まない帝国」を実現 * [[ルイス・デ・モリナ]]([[1535年]] - [[1600年]]) - スペインのサラマンカ学派の神学者・イエズス会士・[[恩寵]]に協力する人間の[[自由意思]]を擁護([[モリナ主義]]) * [[エル・グレコ]]([[1541年]] - [[1614年]]) - [[ギリシャ]]の[[クレタ島]]出身の画家・[[ヴェネツィア]]の[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ]]の弟子・スペインに移住し活躍 * [[十字架のヨハネ]]([[1542年]] - [[1591年]]) - スペインの神秘家・アビラのテレサに影響を受けカルメル会で改革に取り組む・著作に『暗夜』など * [[フアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ]]([[1545年]] - [[1618年]]) - スペインの[[アウグスティノ会]]士・最も古い[[中国学]]の書『シナ大王国誌』を執筆 * [[ドン・フアン・デ・アウストリア]]([[1547年]] - [[1578年]]) - スペイン王フェリペ2世の異母弟・総司令官として[[レパントの海戦]]を勝利に導く * [[カルロス (アストゥリアス公)|ドン・カルロス・デ・アウストリア]]([[1545年]] - [[1568年]]) - スペイン王フェリペ2世の皇太子・その悲恋は[[シラー]]の戯曲などで有名 * [[フランシスコ・スアレス]]([[1548年]] - [[1617年]]) - スペインの[[イエズス会]]士・サラマンカ学派の哲学者・『形而上学論考』がある ==== ネーデルラント ==== * [[デジデリウス・エラスムス]]([[1466年]] - [[1536年]]) - [[ネーデルラント]]の人文主義者・神学者・『[[痴愚神礼讃]]』でカトリック教会を批判 * [[メノ・シモンズ]]([[1496年]] - [[1561年]]) - [[フリースラント]]出身の牧師・[[アナバプテスト]](再洗礼派)の指導者でその派をメノナイトと呼ぶ * [[フェルナンド・アルバレス・デ・トレド]]([[1507年]] - [[1582年]]) - [[アルバ公]]・スペインのネーデルラント総督・「血の審判所」で圧政を行う * [[ゲラルドゥス・メルカトル]]([[1512年]] - [[1594年]]) - ネーデルラントの地理学者・[[地図]]の[[投影法]]である[[メルカトル図法]]で知られる * [[アンドレアス・ヴェサリウス]]([[1514年]] - [[1564年]]) - ネーデルラント出身の医師・解剖学者・[[パドヴァ大学]]教授・『人体の構造』を出版 * [[ヨーハン・ヴァイヤー]]([[1515年]] - [[1588年]]) - ネーデルラント出身の医師・[[魔女裁判]]に反対した最初期の人物・『[[悪魔の偽王国]]』などがある * [[レンベルト・ドドエンス]]([[1517年]] - [[1585年]]) - フランドル出身の植物学者・皇帝ルドルフ2世の侍医・本草書『クリュードベック』の著者 * [[ピーテル・ブリューゲル]]([[1525年]]/[[1530年]] - [[1569年]]) - ネーデルラントの画家・民衆を題材にした絵画を残す・「子供の遊び」など * [[ウィレム1世 (オラニエ公)|オラニエ公ウィレム1世]](沈黙公)([[1533年]] - [[1584年]]) - [[オランダ]]独立の指導者で[[八十年戦争]]初期に活躍するが暗殺される * [[アレッサンドロ・ファルネーゼ (パルマ公)|アレッサンドロ・ファルネーゼ]]([[1545年]] - [[1592年]]) - [[パルマ公]]・スペインのネーデルラント総督・独立派に対し南北離間策を実施 * [[シモン・ステヴィン]]([[1548年]] - [[1620年]]) - ネーデルラントの物理学者・数学者・落下の法則や[[十進法]]による[[小数]]の導入などで知られる * [[ウィレム・バレンツ]]([[1550年]]頃 - [[1597年]]) - オランダの航海士・探検家・ヨーロッパからの[[北東航路]]を探検し[[スヴァールバル諸島]]ほかを発見 ==== 神聖ローマ帝国 ==== * [[ヨハネス・ロイヒリン]]([[1455年]] - [[1522年]]) - ドイツの人文主義者・古典学者・メランヒトンの大伯父・[[ヘブライ語]]研究と聖書研究を結びつける * [[ヤーコプ・フッガー]]([[1459年]] - [[1525年]]) - ドイツの[[アウクスブルク]]の豪商・銀山や金融で巨利を得て神聖ローマ皇帝選挙にも関与する * [[ティルマン・リーメンシュナイダー]]([[1460年]]頃 - [[1531年]]) - ドイツの彫刻家・[[ローテンブルク・オプ・デア・タウバー|ローテンブルク]]の聖ヤコブ教会の聖血の祭壇が有名 * [[ヨハンネス・トリテミウス]]([[1462年]] - [[1516年]]) - ドイツの修道院長・隠秘学者として『[[ステガノグラフィー|ステガノグラフィア]]』や『ヒルサウ年代記』がある * [[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]([[1463年]] - [[1525年]]) - [[ザクセン選帝侯]](在位[[1486年]] - [[1525年]])・マルティン・ルターを保護し宗教改革に協力する * [[マティアス・グリューネヴァルト]]([[1470年]]/[[1475年]]頃 - [[1528年]]) - ドイツの末期[[ゴシック]]の画家・「イーゼンハイムの祭壇画」が有名 * [[アルブレヒト・デューラー]]([[1471年]] - [[1528年]]) - ドイツの[[ルネサンス]]期の画家・版画家・「[[メランコリア I]]」などが有名 * [[ルーカス・クラナッハ]]([[1472年]] - [[1553年]]) - ドイツのルネサンス期の画家・宗教改革を支持し「マルティン・ルターの肖像」を残す * [[ヨハン・ファウスト]]([[1480年]]? - [[1540年]]?) - ドイツの錬金術師・悪魔と契約したとの伝説から[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の小説のモデルとなる * {{仮リンク|アンドレアス・カールシュタット|en|Andreas Karlstadt}}([[1480年]]頃 - [[1541年]]) - ドイツの[[宗教改革]]者・ルターの影響で[[ヴィッテンベルク]]の急進的改革を行うが後に離反 * [[マルティン・ルター]]([[1483年]] - [[1546年]]) - ドイツの宗教改革者・「[[95ヶ条の論題]]」から[[カトリック教会]]と対決し[[ルター派]]教会を結成 * [[ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ]]([[1486年]] - [[1535年]]) - ドイツの人文主義者・神秘哲学者・[[カバラ]]研究や『隠秘哲学』で知られる * [[ヨハン・エック]]([[1486年]] - [[1543年]]) - ドイツの神学者・[[インゴルシュタット]]大学教授・[[ライプツィヒ]]討論以来ルターの論敵となる * [[ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタイン]]([[1486年]] - [[1566年]]) - ドイツの外交官・著作家・ハプスブルク家に仕え各国を歴訪・著作に『{{仮リンク|モスクワ事情|en|Notes on Muscovite Affairs}}』がある * [[ウルリヒ・フォン・フッテン]]([[1488年]] - [[1523年]]) - ドイツの人文主義者・桂冠詩人・宗教改革に共鳴し[[騎士戦争|ドイツ騎士戦争]]に参加するが敗北 * {{仮リンク|フランツ・フォン・ジッキンゲン|en|Franz von Sickingen}}([[1481年]] - [[1523年]]) - ドイツの帝国騎士・フッテンとともに騎士戦争を起こすが敗死 * [[トマス・ミュンツァー]]([[1489年]] - [[1525年]]) - ドイツの宗教改革者・[[ドイツ農民戦争]]の指導者となるが捕らえられ斬首にされる * [[アルブレヒト (プロイセン公)|アルブレヒト]]([[1490年]] - [[1568年]]) - [[ドイツ騎士団]]総長・後にルター派に改宗して初代[[プロイセン公]]となる(在位[[1525年]] - [[1568年]]) * [[ハンス・ザックス]]([[1494年]] - [[1576年]]) - ドイツの[[マイスタージンガー]](職匠歌人)・ルターに共感し「ヴィッテンベルクの鶯」などを歌う * [[ゲオルク・アグリコラ]]([[1494年]] - [[1555年]]) - ドイツの鉱山学者・「鉱山学の父」・大著『{{仮リンク|デ・レ・メタリカ|en|De re metallica}}(金属について)』を執筆する * [[フィリップ・メランヒトン]]([[1497年]] - [[1560年]]) - ドイツのキリスト教神学者・ルターの思想を「[[アウクスブルク信仰告白]]」で体系化 * [[ハンス・ホルバイン]]([[1497年]]/[[1498年]] - [[1543年]]) - ドイツのルネサンス期の画家・「エラスムス像」などで知られ後年はイングランドで活躍 * [[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]([[1500年]] - [[1558年]]) - [[ハプスブルク家]]のスペイン国王(在位[[1516年]] - [[1556年]])・神聖ローマ皇帝(在位[[1519年]] - [[1556年]]) * [[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]([[1503年]] - [[1564年]]) - ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位[[1556年]] - [[1564年]])・カール5世の弟でオーストリア系の祖 * [[ヤン・ファン・ライデン]]([[1509年]] - [[1536年]]) - オランダ出身の[[再洗礼派]]の説教家・[[ミュンスターの反乱]]を指導し王と名乗る・反乱は鎮圧され殺害される * [[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|モーリッツ]]([[1521年]] - [[1553年]]) - [[ザクセン選帝侯]](在位[[1547年]] - [[1553年]])・シュマルカルデン戦争で皇帝に接近・別名「マイセンのユダ」 * [[ペトルス・カニシウス]]([[1521年]] - [[1597年]]) - ネーデルラント出身のイエズス会士・「ドイツ第二の使徒」・カトリック教会の巻き返しの中心 * [[イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル]](1525年 - 1609年) - [[プラハ]]の[[ラビ]]・神秘主義者としても知られ「[[ゴーレム]]伝説」の主人公とされる * [[ジュゼッペ・アルチンボルド]]([[1527年]] - [[1593年]]) - ミラノ出身のマニエリスムの画家・歴代皇帝に仕え奇抜な作品を残す・20世紀に再評価 * [[ヴァレンティン・ヴァイゲル]]([[1533年]] - [[1588年]]) - ドイツの神学者・プロテスタント神秘主義者・「内的生活」「霊的教会」を提唱 * [[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]([[1552年]] - [[1612年]]) - ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位[[1576年]] - [[1612年]])・プラハでの[[マニエリスム]]文化の支援者 ==== スイス ==== * [[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]([[1484年]] - [[1531年]]) - [[スイス]]の宗教改革者・[[チューリッヒ]]に[[改革派教会]]を設立・{{仮リンク|第2次カッペル戦争|de|Zweiter Kappelerkrieg|en|Second War of Kappel}}で戦死 * [[パラケルスス]]([[1493年]]/[[1494年]] - [[1541年]]) - スイスの医師・[[バーゼル大学]]教授・医学での[[ガレノス]]の権威を否定・[[錬金術師]]でもある * [[ジャン・カルヴァン]]([[1509年]] - [[1564年]]) - フランス出身の宗教改革者・[[ジュネーヴ]]で神権政治を行う・『[[キリスト教綱要]]』が主著 * [[ミシェル・セルヴェ]]([[1511年]] - [[1553年]]) - スペイン出身の医師・神学者・三位一体説を批判して異端者とされジュネーブで火刑に処される * {{仮リンク|セバスティアン・カステリヨン|en|Sebastian Castellio}}([[1515年]] - [[1563年]]) - フランス出身の人文学者・カルヴァンと対立し[[バーゼル]]で活躍・主著に『異端者について』がある * [[コンラート・ゲスナー]]([[1516年]] – [[1565年]]) - スイスの博物学者・動物学の『動物誌』、植物学の『植物名目録』、書誌学の『世界書誌』を残す ==== フランス ==== * [[ジャック・ルフェーヴル・デタープル]]([[1450年]]? - [[1536年]]) - フランスの神学者・人文主義者・聖書をフランス語に訳したことで知られる * [[フランソワ・ラブレー]]([[1483年]]? - [[1553年]]) - [[フランス]]の医師・作家として『[[ガルガンチュワとパンタグリュエル]]』を残す * [[ジュール・セザール・スカリジェ]]([[1484年]] - [[1558年]]) - [[パドヴァ]]出身の医師・人文学者・古典注釈や校訂で活躍し『創作論』を執筆 * [[マルグリット・ド・ナヴァル]]([[1492年]] - [[1549年]]) - ナバラ王[[エンリケ2世 (ナバラ王)|エンリケ2世]]妃・文芸の庇護者であり『[[エプタメロン]]』を執筆・フランソワ1世の姉 * [[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]([[1494年]] - [[1547年]]) - [[ヴァロワ朝]]のフランス王(在位[[1515年]] - [[1547年]])・[[イタリア戦争]]でカール5世と戦う * [[ノストラダムス|ミシェル・ノストラダムス]]([[1503年]] - [[1566年]]) - フランスの医師・[[占星術]]師として王妃カトリーヌに引見され『[[ミシェル・ノストラダムス師の予言集|予言集]]』を残す * {{仮リンク|ギョーム・ポステル|en|Guillaume Postel}}([[1510年]] - [[1581年]]) - フランスの神秘思想家・東洋学者・卓越した語学力で王立教授団に登用される・主著は『世界諧和論』 * [[アンブロワーズ・パレ]]([[1510年]] - [[1590年]]) - フランス王室付き外科医・銃創治療での軟膏の使用や血管結紮法を工夫・『大外科学全集』を執筆 * [[ベルナール・パリッシー]]([[1510年]]頃 - [[1590年]]) - フランスの陶工・独立自学で釉陶を研究・王母カトリーヌに認められ宮廷付きになる * [[カトリーヌ・ド・メディシス]]([[1519年]] - [[1589年]]) - フランス王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の王妃・[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]]と[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]と[[アンリ3世 (フランス王) |アンリ3世]]の三代の母后 * [[テオドール・ド・ベーズ]]([[1519年]] - [[1605年]]) - フランスのプロテスタント神学者・カルヴァンの弟子・[[モナルコマキ|暴君放伐論]]を唱え君主の絶対性に対抗した * [[ピエール・ド・ロンサール]]([[1524年]] - [[1585年]]) - フランスの詩人・[[プレイヤード派]]の中心・「詩人たちの君主」・代表作は『オード』 * [[マルタン・ゲール]]([[1524年]]頃 - [[1560年]]以降?) - フランスの農民・フランス史上有名な詐欺事件である「マルタン・ゲール事件」の当事者 * [[ジャン・ボダン]]([[1530年]] - [[1596年]]) - フランスの経済学者・法学者・宗教戦争の混乱から国家主権を検討した『国家論』を執筆 * [[エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ]]([[1530年]] - [[1563年]]) - フランスの人文主義者・[[ボルドー]]高等法院評定官・『{{仮リンク|自発的隷従論|en|Discourse on Voluntary Servitude}}』を執筆 * ピエール・ド・ブールデイユ・ブラントーム([[1530年]]頃 - [[1614年]]) - フランスの軍人・著作家として『回想録』ほか『好色女傑伝』を執筆 * [[ミシェル・ド・モンテーニュ]]([[1533年]] - [[1592年]]) - フランスの哲学者・[[モラリスト]]・[[懐疑主義|懐疑論]]者・主著は『[[エセー|エセー(随想録)]]』 * [[フランソワ・ヴィエト]]([[1540年]] - [[1603年]]) - フランスの数学者・法律家・既知数の記号化やヴィエトの公式で知られ「代数学の父」と呼ばれる * [[アンリ1世 (ギーズ公)|ギーズ公アンリ]]([[1550年]] - [[1558年]]) - フランスの貴族・[[カトリック同盟 (フランス)|カトリック同盟]]の領袖・「三アンリの戦い」を戦うが暗殺される * [[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]([[1551年]] - [[1589年]]) - ポーランド最初の選挙王(在位[[1573年]] - [[1575年]])・ヴァロワ朝最後のフランス王(在位[[1574年]] - [[1589年]]) * [[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]([[1553年]] - [[1610年]]) - [[ブルボン朝]]初代のフランス国王(在位[[1589年]] - [[1610年]])・宗教戦争をおさえ[[ナントの勅令]]を発布 ==== イングランド ==== * [[トマス・モア]]([[1478年]] - [[1535年]]) - [[イングランド]]の思想家・『[[ユートピア (本) |ユートピア]]』の著者・[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の離婚問題で処刑される * [[トマス・クロムウェル]]([[1485年]] - [[1540年]])- イングランドの政治家・ヘンリー8世に仕え宗教改革を主導したが後に寵を失い処刑される * [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]([[1491年]] - [[1547年]]) - イングランド王(在位[[1509年]] - [[1547年]])・離婚問題から[[イギリス国教会]]を独立させる * [[ウィリアム・ティンダル]]([[1494年]]/[[1495年]] - [[1536年]]) - イングランドの宗教改革者・聖書を英語に翻訳し欽定版に影響を与える・火刑に処される * [[レジナルド・ポール]]([[1500年]] - [[1558年]]) - 枢機卿・最後のカトリックの[[カンタベリー大司教]]・トリエント公会議でも活躍 * [[アン・ブーリン]]([[1507年]]頃 - [[1536年]]) - イングランド王ヘンリー8世の2番目の王妃・エリザベス1世の母・イングランドの宗教問題に影響 * [[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]([[1537年]] - [[1553年]]) - イングランド王(在位[[1547年]] - [[1553年]])・ヘンリー8世唯一の男子・一般祈祷書を制定 * [[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]([[1516年]] - [[1558年]]) - イングランド女王(在位[[1553年]] - [[1558年]])・イングランドで[[カトリック教会|カトリック]]を復活させる * [[トーマス・グレシャム]]([[1519年]] - [[1579年]]) - イングランドの財政家・貿易商・「[[悪貨は良貨を駆逐する]]」のグレシャムの法則で有名 * [[ジョン・ディー]]([[1527年]] - [[1608年]]/[[1609年]]) - イングランドの数学者・錬金術師・占星術師・著作に『象形文字の単子』がある * [[ジョン・ホーキンス]]([[1532年]] - [[1595年]]) - イングランドの[[海賊]]・[[私掠船]]船長・後に[[海軍]][[提督]]・[[フランシス・ドレーク|ドレーク]]の従兄弟・アルマダの海戦でも活躍 * [[エリザベス1世]](処女王)([[1533年]] - [[1603年]]) - イングランド女王(在位[[1558年]] - [[1603年]])・[[エリザベス朝]]の最盛期を現出 * {{仮リンク|トマス・カートライト|en|Thomas Cartwright (theologian)}}([[1535年]] - [[1603年]]) - [[ケンブリッジ大学]]教授・[[長老制]]を導入し王権と対立・[[ピューリタン]]運動の先駆けとなる * [[マーティン・フロビッシャー]]([[1535年]]/[[1539年]] - [[1594年]]) - イングランドの探検家・[[私掠船]]船長・[[北西航路]]開発から[[バフィン島]]などを発見 * [[フランシス・ドレーク]] ([[1543年]]? - [[1596年]]) - イングランドの海賊・私掠船船長・後に海軍提督となり[[アルマダの海戦]]で活躍 * [[ウィリアム・ギルバート (物理学者)|ウィリアム・ギルバート]]([[1544年]] - [[1603年]]) - イングランドの医師・物理学者・磁石や静電気の研究から「電気」の概念を構築 * [[エドマンド・スペンサー]]([[1552年]]頃 – [[1599年]]) - イングランドの詩人・女王エリザベス1世に捧げられた『[[妖精の女王]]』で有名 * [[エドワード・ケリー]]([[1555年]] - [[1597年]]) - イングランドの錬金術師・交霊術師・ディーとともに各地を遍歴するがボヘミアで投獄され獄死 * [[クリストファ・マーロウ]]([[1564年]] - [[1593年]]) - イングランドの[[イギリス・ルネサンス演劇|エリザベス朝演劇]]の劇作家・代表作に『フォースタス博士』がある * [[ウィリアム・シェイクスピア]]([[1564年]] - [[1616年]]) - イングランドのエリザベス朝演劇の劇作家・代表作に『[[ハムレット]]』『[[リア王]]』他がある ==== スコットランド ==== * [[ジョン・ノックス]]([[1510年]] - [[1572年]]) - スコットランドの牧師・宗教改革を指導し[[長老派教会]]を創立・女王メアリーとは対立 * [[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]([[1542年]] - [[1587年]]) - スコットランド女王(在位[[1542年]] - [[1567年]])・亡命したイングランドで処刑される ==== 北欧 ==== * [[クリスチャン2世 (デンマーク王)|クリスチャン2世]]([[1481年]] - [[1559年]]) - [[デンマーク王]](在位[[1513年]] - [[1523年]])・[[ストックホルムの血浴]]でスウェーデン独立派を弾圧 * [[オラウス・マグヌス]]([[1490年]] - [[1558年]]) - スウェーデンの[[ウプサラ]]司教・地図「[[カルタ・マリナ]]」を作成し『[[北方民族文化誌]]』を執筆 * [[グスタフ1世|グスタフ・ヴァーサ]]([[1496年]] - [[1560年]]) - [[ヴァーサ朝]]初代のスウェーデン王(在位[[1523年]] - [[1560年]])・ルター派の教義を受け入れる ==== ハンガリー・ポーランド他 ==== * [[スタンチク]]([[1480年]]頃 - [[1560年]]頃) - ポーランドの宮廷道化師・三代の王に仕え軽妙だが時事に通じた深い洞察を見せたことで記録に残る * [[サポヤイ・ヤーノシュ]]([[1487年]] - [[1540年]]) - ハンガリーの対立王・[[トランシルヴァニア公]]・ハプスブルク家に対抗し王を名乗る * [[ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ]] ([[1508年]] - [[1566年]]) - [[クロアチア]]の総督・オスマン帝国と戦う・民族英雄として「[[ウ・ボイ、ウ・ボイ]]」などで名が残る * [[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]]([[1520年]] - [[1572年]]) - [[ヤゲウォ朝]]最後のポーランド国王(在位[[1548年]] - [[1572年]])・[[セイム (ポーランド・リトアニア共和国)|セイム]]勢力を抑え[[ルブリン合同]]を推進 * [[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]([[1533年]] - [[1586年]]) - ポーランド国王(在位[[1576年]] - [[1586年]])・[[トランシルヴァニア公]]・最も優れた[[選挙王]] * [[ヤン・ザモイスキ]]([[1542年]] - [[1605年]]) - ポーランドの王国宰相・[[選挙王政]]確立後の[[シュラフタ]]を中心とする国政([[黄金の自由]])を指導 * [[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]]([[1566年]] - [[1632年]]) - ポーランド国王(在位[[1587年]] - [[1632年]])・スウェーデン王位も兼任・[[ブレスト合同]]を推進 * [[ニコラウス・コペルニクス]]([[1473年]] - [[1543年]]) - [[ポーランド]]の天文学者・[[カトリック教会|カトリック]]司祭・『天球回転論』で[[地動説]]を唱える * [[ファウスト・ソッツィーニ]]([[1539年]] - [[1604年]]) - イタリア出身の反三位一体論の神学者・[[ユニテリアン教会]]の[[ソッツィーニ派|ポーランド兄弟団]]の創設者 ==== ロシア ==== * {{仮リンク|聖愚者ワシリー|en|Basil Fool for Christ}}([[1460年代]] - [[1557年]]) - [[佯狂者]]・「裸の聖者」とも呼ばれ雷帝イヴァン4世にも畏怖される・[[聖ワシリー大聖堂]]で顕彰される * {{仮リンク|フィロテウス(フィロフェイ)|en|Philotheus of Pskov}}([[1465年]] - [[1542年]]) - [[プスコフ]]のイェリツァロフ修道院[[典院]]・「[[モスクワ]][[第3のローマ]]説」を提唱 * {{仮リンク|ヴァシアン・パトリケーエフ|en|Vassian Patrikeyev}}([[1470年]]頃 - [[1545年]]頃) - 政治家・皇帝と対立し修道院に送られる・修道士となり異端者への厳罰否定を主張 * [[マクシム・グレク]]([[1475年]]頃 - [[1556年]]) - [[アトス山]]出身の修道士・翻訳活動に従事し異端説を論駁・非所有派を支持・正教会の聖人([[克肖者]]) * [[フィリップ2世 (モスクワ府主教)|フィリップ2世]]([[1507年]] - [[1569年]]) - [[モスクワ府主教]]・[[イヴァン雷帝]]に諫言し粛清される・正教会の聖人([[神品致命者]]・[[奇蹟者]]・[[成聖者]]) * [[イヴァン4世]](雷帝)([[1530年]] - [[1584年]]) - [[モスクワ大公]]・初代のロシア・[[ツァーリ]](在位[[1547年]] - [[1574年]]、[[1576年]] - [[1584年]]) * [[イェルマーク|イェルマーク・チモフェーイェヴィチ]]([[1532年]]/[[1542年]] - [[1585年]]) - [[コサック]]の[[アタマン|頭領]]・[[シビル・ハン国]]と戦い[[シベリア]]各地を探検する === 南北アメリカ === * [[フアン・ポンセ・デ・レオン]]([[1460年]] - [[1521年]]) - スペイン出身の征服者([[コンキスタドール]])・[[フロリダ]]を発見する * [[モクテスマ2世]]([[1466年]] - [[1520年]]) - [[アステカ帝国]]第9代君主(在位[[1502年]] - [[1520年]])・[[エルナン・コルテス]]と接触後に混乱で事故死 * [[フランシスコ・ピサロ]]([[1470年]]頃 - [[1541年]]) - スペイン出身の征服者(コンキスタドール)・[[インカ帝国]]を滅ぼす・[[リマ]]市を建設 * [[フアン・ディエゴ]]([[1474年]] - [[1548年]]) - メキシコ先住民で[[カトリック教会|カトリック]]改宗者・[[グアダルーペの聖母 (メキシコ)|グアダルーペの聖母]]の[[聖母の出現|出現]]に立ち会い[[聖人]]とされる * [[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア]]([[1475年]] - [[1519年]]) - スペイン出身の探検家・植民地政治家・ヨーロッパ人として初めて[[太平洋]]に到達 * [[ディエゴ・デ・アルマグロ]]([[1479年]] - [[1538年]]) - スペイン出身の征服者(コンキスタドール)・インカを滅ぼした後に初めて[[チリ]]に到達 * [[バルトロメ・デ・ラス・カサス|ラス・カサス]]([[1484年]] - [[1566年]]) - スペイン出身の[[ドミニコ会]]士・チャパス[[司教]]・『[[インディアスの破壊についての簡潔な報告]]』で有名<ref name="WDL">{{cite web |url = http://www.wdl.org/en/item/515/ |title = Mirror of the Cruel and Horrible Spanish Tyranny Perpetrated in the Netherlands, by the Tyrant, the Duke of Alba, and Other Commanders of King Philip II |website = [[World Digital Library]] |date = 1620 |accessdate = 2013-08-27 }}</ref> * [[エルナン・コルテス]]([[1485年]] - [[1547年]]) - スペイン出身の征服者(コンキスタドール)・アステカ帝国を滅ぼす・[[メキシコ]]市を建設 * [[ジャック・カルティエ]]([[1491年]] - [[1557年]]) - フランス出身の探検家・[[セントローレンス湾]]沿いを探検し[[カナダ]]と名づけ領有を宣言 * [[クアウテモック]]([[1495年]]頃 - [[1525年]]) - アステカ帝国最後の第11代君主(在位[[1520年]] - [[1521年]])・[[モクテスマ2世]]の従兄弟 * [[ベルナル・ディアス・デル・カスティリョ]]([[1496年]] – [[1584年]]) - スペイン出身の征服者・メキシコ遠征に参加し『メキシコ征服記』を残す * [[エルナンド・デ・ソト]]([[1496年]]/[[1497年]] - [[1542年]]) - スペイン出身の征服者(コンキスタドール)・北アメリカを探検し[[ミシシッピ川]]を発見 * [[アタワルパ]]([[1502年]]頃 - [[1533年]]) - [[インカ帝国]]第13代君主(在位[[1532年]] - [[1533年]])・[[フランシスコ・ピサロ]]に処刑される * [[トゥパク・アマル (初代)|トゥパク・アマル]](? - [[1572年]]) - インカ帝国最後の君主(在位[[1571年]] - [[1572年]])・[[アタワルパ]]の甥でスペインの支配に抵抗 * {{仮リンク|ロペ・デ・アギーレ|en|Lope de Aguirre}}([[1510年]]頃 - [[1561年]]) - スペイン出身の征服者(コンキスタドール)・黄金郷を求めアンデス奥地を探検・後に殺害される * [[フランシスコ・デ・オレリャーナ]]([[1511年]] - [[1546年]]) - スペイン出身の征服者(コンキスタドール)・[[アマゾン川]]を発見し河口までを航海する * {{仮リンク|シエサ・デ・レオン|en|Pedro Cieza de León}}([[1521年]]頃 - [[1554年]]) - スペイン出身の探検家・著述家・ピサロの征服後のペルー各地を遍歴し『ペルー記』を執筆 * [[ディエゴ・デ・ランダ]]([[1524年]] - [[1579年]]) - スペイン出身の[[フランシスコ会]]士・[[ユカタン]]司教・『ユカタン事物記』を残す * [[ジョゼ・デ・アンシエタ]]([[1534年]] - [[1597年]]) - [[カナリア諸島]]出身のイエズス会士・ブラジルでの宣教を進め原住民タモヨ連合と和平を結ぶ === 北アフリカ・西アジア・中央アジア === * {{仮リンク|イブン・イヤース|en|Muhammad ibn Iyas}}([[1448年]] - [[1522年]]) - [[マムルーク朝]]エジプトの歴史家・古代からのエジプトの歴史をまとめた大著『花の驚異』で知られる * [[ムハンマド・シャイバーニー・ハン]]([[1451年]] - [[1510年]]) - [[シャイバーニー朝]]ウズベク・ハン国の初代[[ハン]]・[[ティムール朝]]を滅ぼす * [[ビフザード]]([[1455年]]? - [[1530年]]代) - [[ヘラート]]で活躍した画家・[[ティムール朝]]から[[サファヴィー朝]]に仕え[[ミニアチュール]]を大成する * [[ピーリー・レイース]]([[1465年]]? - [[1554年]]) - オスマン帝国海軍提督・[[アデン]]征服などで活躍・『海洋の書』や[[ピーリー・レイースの地図|地図]]の作成でも有名 * [[セリム1世]](冷酷者)([[1470年]] - [[1520年]]) - [[オスマン帝国]]第9代[[スルタン|皇帝]](在位[[1512年]] - [[1520年]])・マムルーク朝を滅ぼす * [[バルバロス・ハイレッディン]]([[1475年]] - [[1546年]]) - [[アルジェ]]の[[海賊]]からオスマン帝国[[提督]]となる・[[プレヴェザの海戦]]で[[スペイン]]に勝利 * [[フズーリー]]([[1483年]]頃 - [[1556年]]) - オスマン帝国の詩人・トルコ語やペルシャ語やアラビア語など多言語を通じて詩作 * [[イスマーイール1世]]([[1487年]] - [[1524年]]) - [[サファヴィー朝]]初代[[シャー]](在位[[1501年]] - [[1524年]])・[[白羊朝]]を滅ぼして建国 * [[ヨセフ・カロ]]([[1488年]] - [[1575年]]) - オスマン帝国領[[シリア]]の[[ユダヤ教]]の[[ラビ]]・ユダヤ法の最後の大法典『[[シュルハン・アルーフ]]』の著者 * [[ミマール・スィナン]]([[1489年]]? - [[1588年]]) - オスマン帝国の建築家・[[スレイマニエ・モスク]]などを手がけトルコ最高の建築家とされる * [[ムタワッキル3世]](? - [[1543年]]) - マムルーク朝に庇護されていた[[アッバース朝|アッバース家]]最後のカリフ(在位[[1508年]] - [[1517年]]) * [[スレイマン1世]](大帝)([[1494年]] - [[1566年]]) - オスマン帝国第10代皇帝(在位[[1520年]] - [[1566年]])・「立法者」「壮麗者」とも呼ぶ * [[ロクセラーナ]](? - [[1557年]]) - オスマン帝国皇帝[[スレイマン1世]]の寵妃・[[セリム2世]]の母・もとはロシアの司祭の娘 * {{仮リンク|セイディ・アリ・レイース|en|Seydi Ali Reis}}([[1498年]] - [[1563年]]) - オスマン帝国の海軍提督・オマーン湾の戦いで敗れるが『国々の鏡』を執筆 * [[ソコルル・メフメト・パシャ]]([[1506年]] - [[1579年]]) - オスマン帝国の大宰相・スレイマン1世からセリム2世そして[[ムラト3世]]に仕える * ウルグ・アリ(クルチ・アリ)([[1519年]] - [[1587年]]) - オスマン帝国の提督・キリスト教徒の奴隷からアルジェ総督に昇進・[[レパントの海戦]]でも活躍 * [[モーセ・コルドベロ|モーシェ・コルドヴェロ]]([[1522年]] - [[1570年]]) - ガリラヤ地方の[[ツファット]]のユダヤ教のラビ・[[カバラ]]学者・主著に『柘榴の庭』がある * [[ヌール・バヌ]]([[1525年]] - [[1587年]]) - オスマン帝国皇帝のムラト3世の母・もとはヴェネツィア貴族の娘・「母后」の称号を得て[[摂政]]となる * [[バーキー]]([[1526年]] - [[1600年]])- オスマン帝国の宮廷詩人・スレイマン1世に仕え戦勝での賛歌などを捧げる・別名は「詩人たちのスルタン」 * アブドゥッラーフ2世([[1533年]] - [[1598年]]) - シャイバーニー朝[[ブハラ・ハン国]]のハン(在位[[1583年]] - [[1598年]])・[[ブハラ]]に遷都 * イツハク・ルーリア([[1522年]] - [[1570年]]) - ガリラヤ地方のツファットのユダヤ教のラビ・カバラ学者・『ゾーハル注解』やその他の著作がある * アフマド・アル・マンスール(勝利者)([[1549年]] - [[1603年]]) - [[サアド朝]]の君主(在位[[1578年]] - [[1603年]])・[[ソンガイ王国]]を滅ぼし塩交易を独占 * [[サフィエ・スルタン]]([[1550年]] - [[1618年]])- オスマン帝国皇帝の[[メフメト3世]]の母・[[ヌール・バヌ]]の親戚・「母后」の称号を得る * [[アッバース1世]]([[1571年]] - [[1629年]]) - サファヴィー朝第5代シャー(在位[[1588年]] - [[1629年]])・最盛期のシャー・[[イスファハーン]]に遷都 === 南アジア === * [[カビール]]([[1440年]] - [[1518年]]) - [[インド]]の宗教改革者・もとは織物職人・[[グル・ナーナク]]に影響・「ビージャク」という教典をまとめる * [[フランシスコ・デ・アルメイダ]]([[1450年]] - [[1510年]]) - ポルトガルの初代インド総督・[[ディーウ沖の海戦]]に勝利しインドの[[コチン]]を占領する * [[アフォンソ・デ・アルブケルケ]]([[1453年]] - [[1515年]]) - ポルトガルの第2代インド総督・インドの[[ゴア]]を占領する * [[グル・ナーナク]]([[1469年]] - [[1539年]]) - [[シク教]]教祖にして初代グル(尊師)・[[カビール]]や[[スーフィズム|イスラーム神秘主義者]]に影響を受ける * [[クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ]]([[1471年]] - [[1529年]]) - [[ヴィジャヤナガル王国]]([[トゥルヴァ朝]])の王(在位:[[1509年]] - [[1529年]])・最盛期を現出 * [[サリーム・チシュティー]]([[1478年]] - [[1572年]]) - [[チシュティー派]][[スーフィー]]聖者・予言を行いアクバルの[[ファテープル・シークリー]]遷都を促す * [[イブラーヒーム・ローディー]](? - [[1526年]]) - [[ローディー朝]]([[デリー・スルターン朝]])最後の君主(在位:[[1517年]] - [[1526年]])・[[第一次パーニーパットの戦い]]に敗北して死亡する * [[バーブル]]([[1483年]] - [[1530年]]) - ムガル帝国の建国者(在位:[[1526年]] - [[1530年]])・ティムール朝の末裔・ローディー朝を滅ぼす・自伝『[[バーブル・ナーマ]]』も有名 * {{仮リンク|チャイタニヤ|en|Caitanya}}([[1485年]] - [[1533年]]) - チャイタニヤ派の創始者・愛の精神を重視し詠歌行進(サンキールタナ)を奨励 * [[シェール・シャー]]([[1486年]] - [[1545年]]) - [[スール朝]]の建国者(在位:[[1539年]] - [[1545年]])・一時[[フマーユーン]]を[[デリー]]から追い払う * [[ミーラー・バーイー]]([[1499年]]頃 - [[1546年]]頃) - [[ラージャスターン]]出身の女流詩人・夫の死後に[[クリシュナ]]信仰に目覚め熱烈な信愛を賛歌に表わす * [[フマーユーン]]([[1508年]] - [[1556年]]) - ムガル帝国の第2代皇帝(在位:[[1530年]] - [[1540年]]、[[1555年]] - [[1556年]])・バーブルの子 * [[ウダイ・シング2世]]([[1522年]] - [[1572年]]) - [[メーワール王国]]の王(在位:[[1540年]] - [[1572年]])・アクバルの攻撃により[[ウダイプル]]に遷都 * {{仮リンク|グルバダン・ベグム|en|Gulbadan Begum}} ([[1523年]]頃 - [[1603年]]) - ムガル皇帝バーブルの王女・皇帝フマユーンの妹・兄の事績を記録した『フマユーン・ナーマ』を執筆 * [[トゥルシー・ダース]]([[1523年]]/[[1543年]] - [[1623年]]?) - 北インド出身の詩人・[[バクティ]]運動の中心人物で[[ラーマ]]信仰への熱烈な信愛を讃歌に表わす * [[プラタープ・シング (メーワール王)|プラタープ・シング]]([[1540年]] - [[1597年]]) - メーワール王国の君主(在位:[[1572年]] - [[1597年]])・アクバル帝に対し徹底抗戦をした英雄 * [[アクバル]]([[1542年]] - [[1605年]]) - ムガル帝国の第3代皇帝(在位:[[1556年]] - [[1605年]])・[[ジズヤ]]を廃止し諸宗教の融和を進める * [[フィリシュタ]]([[1560年]] - [[1620年]]) - ペルシア生まれの歴史家・インドの[[ビジャープル王国]]に仕え『フィリシュタの歴史』を執筆 * スヴァートマーラーマ(16世紀) - インドの宗教家・ヨーガ論書『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』で「[[ハタ・ヨーガ]]」を体系化する === 東南アジア === * トメ・ピレス([[1466年]]頃 - [[1524年]]頃) - ポルトガルのインド東南アジア商館員・[[マラッカ]]に駐在し『東方諸国記』を執筆・後に中国へも派遣される * [[ラプ=ラプ]]([[1491年]] - [[1542年]]) - [[フィリピン]]のマクタン島の部族長・スペイン人探検家[[フェルディナンド・マゼラン]]の上陸に抵抗した・フィリピンの英雄 * [[ミゲル・ロペス・デ・レガスピ]]([[1502年]] - [[1572年]]) - スペインの初代フィリピン総督・[[マニラ]]を占領しフィリピン諸島を制圧 * ダン・ヒャン・ニラルタ(16世紀) - [[ジャワ]]出身のヒンドゥー教僧侶・[[バリ島]]の[[ゲルゲル王国]]に渡来し[[タナロット寺院]]や[[ウルワツ寺院]]を建立 * [[バインナウン]]([[1517年]] - [[1581年]]) - [[ビルマ]]の[[タウングー王朝|タウングー朝]]の王(在位[[1551年]] - [[1581年]])・隣国[[アユタヤ朝]]の都[[アユタヤ]]を征服 * [[ナレースワン]](大王)([[1555年]] - [[1605年]]) - [[タイ王国|タイ]]のアユタヤ朝の21代目の王(在位[[1590年]] - [[1605年]])・ビルマから独立回復する === 東アジア === ==== 明 ==== * [[劉瑾]](? - [[1510年]]) - [[明]]の[[宦官]]・[[正徳帝]]の寵愛を受け政治に介入・後に帝位簒奪の陰謀が露見し凌遅刑に処される * 朱寘鐇(? - [[1511年]]) - 明の王族(安化王)・[[劉瑾]]に対する反乱([[安化王の乱]])を起こし鎮圧される * 朱宸濠(? - [[1521年]]) - 明の王族(寧王)・[[正徳帝]]に対する反乱([[寧王の乱]])を起こし鎮圧される * [[楊廷和]]([[1459年]] - [[1529年]]) - 明の政治家([[内閣大学士]])・[[嘉靖帝]]を擁立し「救時宰相」と呼ばれるが大礼の儀問題に巻き込まれる * [[祝允明]]([[1460年]] - [[1526年]]) - 明の官僚・文人・[[呉派]]に属し「呉中の四才子」の一人 * [[文徴明]]([[1470年]] - [[1559年]]) - 明の官僚・文人・呉派に属し「呉中の四才子」の一人・子の[[文彭]]や[[文嘉]]も書画で有名 * [[唐寅]]([[1470年]] - [[1523年]]) - 明の文人・呉派に属し「呉中の四才子」の一人・事件に巻き込まれ官人になれず在野で活躍 * [[王陽明]]([[1472年]] - [[1528年]]) - 明の政治家・思想家([[陽明学]])・[[寧王の乱]]ほかを鎮圧・主著に『[[伝習録]]』 * [[厳嵩]]([[1480年]] - [[1567年]]) - 明の政治家(内閣大学士)・息子厳世蕃とともに嘉靖年間後半の政治を壟断・「青祠宰相」の別名がある * [[徐階]]([[1494年]] - [[1574年]]) - 明の政治家(内閣大学士)・嘉靖帝死後に[[隆慶帝]]を擁立し内廷粛正を図る * 仇英([[1494年]]? - [[1552年]]) - 明の画家・漆工から身を起こし模写を重ね花鳥や人物を得意とした・特に美人画でよく知られる * [[呉承恩]]([[1504年]]頃 - [[1582年]]頃) - 明代の官僚・文人・『[[西遊記]]』の編者か? * [[王直]](? - [[1559年]]) - 明の海賊・嘉靖の大[[倭寇]]の中心人物・日本の[[五島列島]]に本拠地を持つ・[[胡宗憲]]に捕縛され処刑される * [[鄭舜功]](生没年不詳) - 明の外交官・倭寇禁圧の要請のため訪日・日本の国情を記した『[[日本一鑑]]』を残す * [[嘉靖帝]]([[1507年]] - [[1566年]]) - 明の第12代皇帝(世宗)(在位[[1521年]] - [[1566年]])・40年に及ぶ治世で北虜南倭に苦しむ * [[海瑞]]([[1514年]] - [[1587年]]) - 明の官僚・嘉靖帝に対して厳しい直諫を行い投獄されるが後に復権・歴史戯曲『[[海瑞罷官]]』でも有名 * [[李攀竜]](1514年 - 1570年) - 明の詩人・文人・復古主義の[[古文辞派]]を代表し[[後七子]]を指導・『李滄溟集』があり『[[唐詩選]]』の編纂者とされる * [[李時珍]]([[1518年]] - [[1593年]]) - 明の医師で[[本草学]]者・中国本草学の集大成である『[[本草綱目]]』を編纂 * [[徐渭]]([[1521年]] - [[1593年]]) - 明の文人・書画や詩文や戯曲など多様な分野で天才性を発揮・一方で精神を病み妻を殺害する * [[張居正]]([[1525年]] - [[1582年]]) - 明の政治家([[内閣大学士]])・幼い[[万暦帝]]の補佐をして[[一条鞭法]]の導入などの政治改革を行う * [[戚継光]]([[1528年]] - [[1587年]]) - 明の軍人・倭寇と[[モンゴル]]とそれぞれ戦ってともに戦果を挙げた * [[李卓吾]]([[1527年]] - [[1602年]]) - 明の官僚・思想家(陽明学左派)・『焚書』の著者・世に入れられずに獄中で自殺 * [[蘭陵笑笑生]](生没年不詳) - 明の小説家・万暦年間に成立した[[四大奇書]]『[[金瓶梅]]』の作者か([[王世貞]]・徐渭・厳嵩ら別名説もある) * [[許仲琳]](生没年不詳) - 明の小説家・万暦年間までに成立した神怪小説『[[封神演義]]』の作者か・最古の版本にその名が残る * 袁黄(袁了凡)([[1533年]] - [[1606年]]) - 明の官僚・儒学者(陽明学左派の[[王畿]]の門人)・『了凡四訓』(『[[陰騭録]]』)がある * [[呂坤]](呂新吾)([[1536年]] - [[1618年]]) - 明の官僚・儒学者・『[[呻吟語]]』その他の著作がある * 洪自誠(洪応明)(活躍時期[[1572年]] - [[1620年]]) - 明の文人・処世訓を記した随筆集『[[菜根譚]]』がある * [[沈惟敬]](? - [[1597年]]) - 明の使節(副使)・小西行長や宗義智らと講和を交渉・交渉が決裂し偽装外交の咎で処刑される * [[李如松]]([[1549年]] - [[1598年]]) - 明の軍人・朝鮮援兵(文禄・慶長の役)で明側の指揮官として日本の豊臣秀吉軍と戦う * [[湯顕祖]]([[1550年]] - [[1616年]]) - 明の劇作家・「中国のシェイクスピア」とも言われる・「[[牡丹亭|牡丹亭還魂記]]」の作者 * 趙士禎([[1554年]] - [[1611年]]) - 明の軍事学者・朝鮮に侵攻した日本軍の銃器に対抗すべくまとめられた『[[神器譜]]』の著者 * [[万暦帝]]([[1563年]] - [[1620年]]) - 明の第14代皇帝(在位[[1572年]] - [[1620年]])・[[張居正]]死後に親政・放漫な政治で[[万暦の三征]]が発生 ==== 越南 ==== * [[莫登庸]]([[1483年]]? - [[1541年]]) - 越南莫朝の初代皇帝(莫太祖)(在位[[1527年]] - [[1529年]])・[[黎朝|前期黎朝]]を滅ぼす ==== モンゴル ==== * [[アルタン・ハーン]]([[1507年]] - [[1582年]]) - [[モンゴル]]のハーン(在位[[1551年]] - [[1582年]])・[[ダヤン・ハーン]]の孫・[[庚戌の変]]で[[北京]]を包囲 ==== チベット ==== * [[ダライ・ラマ3世]]([[1543年]] - [[1588年]]) - [[チベット]]の教主・[[アルタン・ハーン]]より正式に「ダライ・ラマ」に推戴される ==== 朝鮮 ==== * [[燕山君]]([[1476年]] - [[1506年]]) - [[李氏朝鮮]]の第10代国王(在位[[1494年]] - [[1506年]])・[[戊午士禍]]や[[甲子士禍]]を招いた暗君とされ廃位される * [[李滉]]([[1501年]] - [[1570年]]) - 李氏朝鮮の儒学者([[朱子学]])・「東方の小朱子」と呼ばれ[[李栗谷]]と二派を形成・日本儒学にも影響 * [[李栗谷]]([[1536年]] - [[1584年]]) - 李氏朝鮮の儒学者([[朱子学]])・[[李滉]]の主理説に対し主気説を唱え別派を形成 * [[柳成龍]]([[1542年]] - [[1607年]]) - 李氏朝鮮の政治家・壬辰・丁酉倭乱([[文禄・慶長の役]])で李舜臣を抜擢・『[[懲毖録]]』を記録として残す * [[李舜臣]]([[1545年]] - [[1598年]]) - 李氏朝鮮の将軍・壬辰・丁酉倭乱で[[日本]]の[[豊臣秀吉]]軍と戦うが[[露梁海戦]]で戦死・[[大韓民国]]の英雄 * [[姜沆]]([[1567年]] - [[1618年]]) - 李氏朝鮮の官人・丁酉の倭乱で日本に連行され『看羊録』を残す・藤原惺窩に朱子学を伝えたとされる === 日本 === * [[雪舟等楊]]([[1420年]] - [[1506年]]?) - [[水墨画家]]・禅僧・渡明して技法を学ぶ・「秋冬山水図」や「[[天橋立図]]」で知られる * [[了庵桂悟]]([[1425年]] - [[1514年]]) - 禅僧・[[東福寺]]住持・80歳を超えて遣明使正使となる・明では[[王陽明]]らと交友する * [[宗長]]([[1448年]] - [[1532年]]) - 連歌師・[[宗祇]]に師事し『水無瀬三吟百韻』などに参加・今川家の外交顧問でもあり『宗長日記』を残す * [[北条早雲]]([[1456年]]? - [[1519年]]) - 武将・[[相模国|相模]][[伊豆国|伊豆]]の[[戦国大名]]・[[伊勢氏]]の流れを汲み[[後北条氏]]の祖となる * [[山崎宗鑑]]([[1465年]]? - [[1554年]]?) - 連歌師・俳諧作者・自由奔放で滑稽味のある句風の作品を集めた俳諧撰集『[[犬筑波集]]』で知られる * [[細川政元]]([[1466年]] - [[1507年]]) - [[室町幕府]][[管領]]・[[明応の政変]]で将軍[[足利義稙]]を追放し[[細川政権 (戦国時代)|細川政権]]を樹立・[[永正の錯乱]]で暗殺される * [[足利義稙]]([[1466年]] - [[1523年]]) - 室町幕府第10代[[征夷大将軍]](在任[[1490年]] - [[1494年]]・[[1508年]] - [[1521年]])・[[明応の政変]]で廃されるが、10年以上の亡命生活を経て将軍に復帰 * [[清原宣賢]]([[1475年]] - [[1550年]]) - 公卿・儒学者・古典学者・『日本書紀神代巻抄』『伊勢物語惟清抄』ほか研究を残す * [[細川高国]]([[1484年]] - [[1531年]]) - 室町幕府管領・[[細川政元]]の養子・[[畿内]]を支配するが[[大物崩れ]]で殺害される * [[斎藤道三]]([[1494年]] - [[1556年]]) - 武将・[[美濃国|美濃]]の戦国大名・[[土岐頼芸]]を追放し美濃を征服する * [[毛利元就]]([[1497年]] - [[1571年]]) - 武将・[[安芸国|安芸]]の戦国大名・[[厳島の戦い]]で[[陶晴賢]]を破り[[中国地方]]を統一 * [[策彦周良]]([[1501年]] - [[1579年]]) - 臨済宗の禅僧・外交官・大内氏の船団で二度明に渡る・『策彦入明記』はこの時代の重要資料 * [[快川紹喜]]([[1502年]] - [[1582年]]) - 臨済宗の禅僧・[[甲斐国|甲斐]][[恵林寺]]住持・武田信玄の帰依を受けるが織田信長の[[甲州征伐]]で焼死 * [[雪村周継]]([[1504年]]? - [[1589年]]頃) - [[水墨画家]]・戦国時代の[[関東地方|関東]]画壇の中心人物になる・代表作に「呂洞賓図」がある * [[フランシスコ・ザビエル]]([[1506年]] - [[1552年]]) - [[スペイン]]出身の[[イエズス会]]宣教師・[[鹿児島市|鹿児島]]や[[山口市|山口]]で布教 * [[大内義隆]]([[1507年]] - [[1551年]]) - 武将・[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]の戦国大名・家臣陶晴賢に殺害される・[[山口市|山口]]の[[大内文化]]を育む * [[山科言継]]([[1507年]] - [[1579年]]) - 公卿・権大納言・逼迫した朝廷の財政のため各地を奔走・日記『[[言継卿記]]』はこの時代の重要資料 * [[曲直瀬道三]]([[1507年]] - [[1594年]]) - 医師・日本医学中興の祖・明からの李朱医学をもとに『[[啓迪集]]』を執筆・天皇や将軍らも診察した * [[松永久秀]]([[1510年]] - [[1577年]]) - 武将・[[三好家]][[家宰]]・[[大和国|大和]]の戦国大名・[[信貴山城の戦い]]で[[織田信長]]に滅ぼされる * [[足利義晴]]([[1511年]] - [[1550年]]) - 室町幕府第12代征夷大将軍(在任[[1521年]] - [[1546年]]) * [[細川晴元]]([[1514年]] - [[1563年]]) - 室町幕府管領・[[細川高国]]を滅ぼすが畿内で[[一向一揆]]や[[法華一揆]]に翻弄される * [[北条氏康]]([[1515年]] - [[1571年]]) - 武将・[[相模国|相模]]の戦国大名・[[河越城の戦い]]で関東での覇権を確立・[[甲相駿三国同盟]]を締結 * [[今川義元]]([[1519年]] - [[1560年]]) - 武将・[[駿河国|駿河]]の戦国大名・「海道一の弓取り」・[[桶狭間の戦い]]で[[織田信長]]に滅ぼされる * [[武田信玄]]([[1521年]] - [[1573年]]) - 武将・[[甲斐国|甲斐]]の戦国大名・[[川中島の戦い]]で[[上杉謙信]]と激突 * [[三好長慶]]([[1522年]] - [[1564年]]) - 武将・畿内の戦国大名・細川政権([[細川晴元]])を倒し[[三好政権]]を樹立 * [[千利休]]([[1522年]] - [[1591年]]) - 茶人・[[堺]]の商人・[[豊臣秀吉]]に茶頭として近侍し[[豊臣政権]]を支える・後に秀吉の怒りで[[切腹]]を命じられる * [[柴田勝家]]([[1522年]] - [[1583年]]) - 武将・織田信長の重臣・[[清洲会議]]で[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の優位を許し[[賤ヶ岳の戦い]]で滅ぼされる * [[里村紹巴]]([[1525年]] - [[1602年]]) - 連歌師・[[古今伝授]]を受け古典注釈書を執筆・「[[愛宕百韻]]」に参加・秀次事件に連座 * [[明智光秀]]([[1528年]] - [[1582年]]) - 武将・織田信長の重臣・[[本能寺の変]]で織田信長を倒すが[[山崎の戦い]]で羽柴秀吉に滅ぼされる * [[上杉謙信]]([[1530年]] - [[1578年]]) - 武将・[[関東管領]]・[[越後国|越後]]の戦国大名・川中島の戦いで[[武田信玄]]と激突 * [[大友義鎮|大友宗麟]]([[1530年]] - [[1587年]]) - 武将・[[豊後国|豊後]]の戦国大名([[キリシタン大名]])・[[伊東マンショ]]は縁者 * [[ルイス・フロイス]]([[1532年]] - [[1597年]]) - [[ポルトガル]]出身のイエズス会宣教師・織田信長や豊臣秀吉らと会見し『[[フロイス日本史|日本史]]』を記録する。 * [[大村純忠]]([[1533年]] - [[1587年]]) - 武将・[[肥前国|肥前]]の戦国大名(キリシタン大名)・[[長崎港]]を開港する * [[織田信長]]([[1534年]] - [[1582年]]) - 武将・[[尾張国|尾張]]の戦国大名・室町幕府を倒し[[織田政権]]を樹立・本能寺の変で[[明智光秀]]に滅ぼされる * [[細川幽斎]]([[1534年]] - [[1610年]]) - 武将・[[細川氏]]一族で[[足利義昭]]・織田信長・豊臣秀吉に仕える・歌人として[[古今伝授]]を行う * [[島津義弘]]([[1535年]] - [[1619年]]) - 武将・[[薩摩国|薩摩]]の戦国大名・九州に覇を唱えるがやがて豊臣秀吉の[[九州平定]]に従う * [[足利義輝]]([[1536年]] - [[1565年]]) - 室町幕府第13代征夷大将軍(在任[[1546年]] - [[1565年]])・[[永禄の変]]で[[三好三人衆]]らに殺害される * [[豊臣秀吉]]([[1536年]] - [[1598年]]) - 武将・[[関白]](在任[[1585年]] - [[1591年]])・後に[[太閤]]と呼ばれる・豊臣政権を樹立し天下統一 * [[足利義栄]]([[1538年]] - [[1568年]]) - 室町幕府第14代征夷大将軍(在任[[1568年]])・松永久秀と[[三好三人衆]]に擁立される * [[足利義昭]]([[1537年]] - [[1597年]]) - 室町幕府最後の第15代征夷大将軍(在任[[1568年]] - [[1573年]])・織田信長に擁立されるが後に反目 * [[前田利家]]([[1538年]] - [[1599年]]) - 武将・豊臣政権の[[五大老]]の一人・後の[[加賀国|加賀]][[前田家]]の基礎を築く * [[長宗我部元親]]([[1539年]] - [[1599年]]) - 武将・[[土佐国|土佐]]の戦国大名・四国を統一するがやがて豊臣秀吉の[[四国平定]]に従う * [[長谷川等伯]]([[1539年]] - [[1610年]]) - 長谷川派の画家・[[京都]][[智積院]]「金碧障壁画」や「[[松林図屏風]]」で知られる * [[服部正成]]([[1542年]] - [[1596年]]) - 武将・[[伊賀]][[同心]]の統領(2代[[服部半蔵]])・徳川家康に仕え[[伊賀越え]]を先導する・[[忍者]]のモデル * [[顕如]]([[1543年]] - [[1592年]]) - [[浄土真宗]][[本願寺]]第11世法主・[[石山本願寺]]から[[一向一揆]]を指揮して[[信長包囲網]]に参加 * [[狩野永徳]]([[1543年]] - [[1590年]]) - [[狩野派]]の画家・「[[唐獅子図屏風]]」や「[[洛中洛外図屏風]]」で知られる * [[徳川家康]]([[1543年]] - [[1616年]]) - 武将・[[三河国|三河]]の戦国大名・豊臣政権の五大老の一人・[[江戸幕府]]初代征夷大将軍(在任[[1603年]] - [[1605年]]) * [[古田重然|古田織部]]([[1544年]] - [[1615年]]) - 武将・茶人で利休七哲の一人・豊臣秀吉や[[徳川家康]]の茶頭となる・[[大坂の陣]]後に[[切腹]] * [[浅井長政]]([[1545年]] - [[1573年]]) - 武将・[[近江国|近江]]の戦国大名・信長の妹[[お市の方]]を娶るが後に信長と離反して敗死・[[浅井三姉妹]]の父 * [[黒田孝高]]([[1546年]] - [[1604年]]) - 武将・豊後の大名・軍師として豊臣秀吉に献策を行う・息子の[[黒田長政|長政]]は福岡藩初代藩主となる * [[内藤如安]]([[1550年]]頃 - [[1625年]]) - 武将・松永久秀の甥・足利義昭から[[小西行長]]に仕える・[[文禄・慶長の役|朝鮮の役]]では和議交渉で[[北京]]に赴く * [[毛利輝元]]([[1553年]] - [[1625年]]) - 武将・周防の戦国大名・豊臣政権の[[五大老]]の一人・[[関ヶ原の戦い]]後に領土を削られる * [[小西行長]]([[1555年]]? - [[1600年]]) - 武将・キリシタン大名・朝鮮出兵の交渉役・関ヶ原の戦いでは西軍に属し敗北の後に斬首される * [[上杉景勝]]([[1556年]] - [[1623年]]) - 武将・越後の戦国大名・豊臣政権の五大老の一人・[[会津征伐]]を受け領土を削られる * [[蒲生氏郷]]([[1556年]] - [[1595年]]) - 武将・[[陸奥国|陸奥]][[黒川]]の大名・近江出身で信長から秀吉に仕える・[[利休七哲]]の一人 * [[大谷吉継]]([[1558年]] - [[1600年]]) - 武将・越前[[敦賀市|敦賀]]の大名・関ヶ原の戦いでは病を押して西軍に参加・奮戦するが戦死 * [[石田三成]]([[1560年]] - [[1600年]]) - 武将・豊臣政権の[[五奉行]]の一人・関ヶ原の戦いでは西軍を率いるが敗北し処刑される * [[直江兼続]]([[1560年]] - [[1619年]]) - 武将・上杉家[[家老]]・対立していた徳川家康に[[直江状]]を送り[[会津征伐]]を引き起こす * [[福島正則]]([[1561年]] - [[1624年]]) - 武将・安芸[[広島市|広島]]の大名・賤ヶ岳の七本槍の一人・朝鮮出兵で活躍・関ヶ原の戦いでは東軍に属す * [[加藤清正]]([[1562年]] - [[1611年]]) - 武将・肥後[[熊本市|熊本]]の大名・賤ヶ岳の七本槍の一人・朝鮮出兵で活躍・関ヶ原の戦いでは九州の西軍と戦う * [[上田重安]]([[1563年]] - [[1650年]]) - 武将・茶人・[[古田重然|古田織部]]から茶道を学ぶ・[[上田宗箇流]]の流祖 * [[細川ガラシャ]]([[1563年]] - [[1600年]]) - 大名[[細川忠興]]の正室・[[キリシタン]]として悲劇的な最期を遂げた話は国外でも広く知られた * [[有馬晴信]]([[1567年]] - [[1612年]]) - 武将・肥前の戦国大名(キリシタン大名)・[[大村純忠]]の甥・[[岡本大八]]事件で処刑される * [[伊達政宗]]([[1567年]] - [[1637年]]) - 武将・[[出羽国|出羽]]・[[陸奥国|陸奥]]の戦国大名・「独眼竜」・豊臣秀吉から徳川家康に従う * [[豊臣秀次]]([[1568年]] - [[1595年]]) - 武将・[[関白]](在任[[1592年]] - [[1595年]])・秀吉の甥で後継者となるも後に対立し切腹させられる * [[宗義智]]([[1568年]] - [[1615年]]) - 武将・[[対馬]]の大名・豊臣政権下では朝鮮との交渉を担当・朝鮮出兵にも従軍する * [[伊東マンショ]]([[1569年]]頃 - [[1612年]]) - [[天正遣欧少年使節]]の正使・後に[[イエズス会]]士で[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]となる * [[出雲阿国]]([[1572年]] - ?) - [[歌舞伎]]の創始者といわれる女性芸能者・もとは[[出雲大社]]の[[巫女]]か * [[宇喜多秀家]]([[1573年]] - [[1655年]]) - 武将・豊臣政権の五大老の一人・関ヶ原の戦いで敗北し[[八丈島]]に流される * [[小早川秀秋]]([[1582年]] - [[1602年]]) - 武将・備前岡山の大名・朝鮮出兵で活躍・関ヶ原の戦いでは西軍を裏切り東軍の勝利に貢献する == 架空のできごと == {{フィクションの出典明記|ソートキー=年世紀16|section=1|date=2011年7月}} === 事件 === * [[室町時代]]後期 - 東と北の間にあると言われる[[蝦夷|エミシ]]の村に住む少年アシタカは、村を襲った[[祟り神]]を退治した際に、右腕に死の呪いを受けてしまう。その呪いは、何者かに鉛のつぶてを撃ち込まれ、憎しみから祟り神と化した巨大な猪(ナゴの守)によるものだった。アシタカはそのため村を後にし、呪いを解くためにも猪が来た西の地へと旅立つ([[宮崎駿]]「[[もののけ姫#石火矢|もののけ姫]]」)。 * [[1497年]] - [[1514年]] - [[アメリゴ・ヴェスプッチ]]の航海に同行したラファエル・ヒュトロダエウスが赤道南部のユートピア島に到達し、各地を回る([[トマス・モア]]『[[ユートピア]]』)。 * [[1524年]] - フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]に娘ブランシュが弄ばれたため、[[道化]]師トリブレが王に復讐をしようとして悲劇が起こる([[ヴィクトル・ユーゴー]]『王は愉しむ』)。 * [[1540年]] - ドイツ南西端の都市{{仮リンク|シュタウフェン|en|Staufen im Breisgau}}で[[錬金術]]師[[ヨハン・ファウスト]]が実験中に爆死しその身体は四散した。[[悪魔]][[メフィストフェレス]]と契約をしていたために非業の最期を遂げたとされる(ドイツの「[[ファウスト (伝説)|ファウスト伝説]]」。これがもとになり[[クリストファー・マーロウ]]の戯曲『[[フォースタス博士]]』や[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の戯曲『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』が描かれる)。 * [[1540年]] - [[宇宙人]]がついていた[[隕石]]が地球に衝突、衝撃で全ての宇宙人は死滅したが、一つの[[細胞]]が生き延び、その子孫が1879年、狼男となって[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王に襲いかかる([[ドクター・フー]])。 * [[1547年]] - 同じ10歳の少年である[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]の王子[[エドワード6世|エドワード]]と物乞いの少年トム・キャンティが、ひょんなことからそれぞれの地位と身分を交換し、それまで知らなかった新しい世界に目を開かれていく([[マーク・トウェイン]]の小説『[[王子と乞食]]』)。 * [[1547年]] - [[陸上自衛隊]]第三特別実験中隊が人工磁場シールドの暴走事故により、[[2003年]][[10月13日]]15時34分から演習場ごと[[タイムトラベル|タイムスリップ]]してくる([[戦国自衛隊1549]])。 * [[1549年]] - 陸上自衛隊ロメオ隊が第三特別実験中隊を追って[[2005年]]10月13日12時5分からタイムスリップしてくる。その74時間26分後、作戦成功により2005年[[10月16日]]16時31分へ帰還し、この時代から完全に姿を消す(戦国自衛隊1549)。 * 1500年代半ば - 戦国時代の[[丹波国]]の領主花房家は、家老の大館左馬之助一派の[[下剋上]]によって幼い忠文・小笹兄妹の2人を残して滅ぼされ、領民たちは砦の建設のために苦役を強いられることになってしまった。花房の兄妹は忠臣小源太の叔母で魔神の山の魔神阿羅羯磨(あらかつま)を鎮める巫女の信夫の下に身を寄せ、お家再興の機をうかがっていた。やがて魔人の山も大館一派が押し寄せることになり…([[大映]]の映画「[[大魔神]]」)。 * [[1550年]]代以降 - [[果心居士]]はこの時代を代表する幻術師で、奈良の猿沢の池に散らした枯れ葉を魚に変えたり、洪水の幻影を人に見させたりしたと伝えられる。奈良[[多聞城]]主[[松永久秀]]の面前では、久秀の亡妻の幻霊を呼び寄せ、大いに畏怖させたという(愚軒『義残後覚』ほか。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康との交流の記事もある)。 * [[1565年]] - [[松永久秀|松永大膳]]が天下を奪おうとして、将軍の母[[慶寿院]]と画師[[雪舟]]の孫で[[雪村]]の娘に当たる[[三姫|雪姫]]を[[金閣寺]]に幽閉する。大膳は雪姫に愛妾になるよう迫る。絶体絶命の最中、桜の木に縛られた雪姫は祖父譲りの画力で爪先で鼠の絵を書いていく(歌舞伎狂言『祇園祭礼信仰記(金閣寺)』)。 * [[1585年]] - [[天正遣欧使節]]の一員として[[ピサ]]を訪れた[[千々石ミゲル]]が[[トスカーナ大公]]妃[[ビアンカ・カッペッロ]]と結ばれる。その2人から生まれた子供が「黒死舘」で名高い降矢木算哲の先祖である([[小栗虫太郎]]の探偵小説『[[黒死館殺人事件]]』)。 * [[1585年]]以降 - 神聖ローマ皇帝[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]が支配する[[プラハ]]において、[[ユダヤ教]][[ラビ]]である[[イェフダ・レーヴ・ベン・ベザレル]]が土をこねて人型を作りゴーレムとして蘇らせた。ゴーレムは苦境にあったユダヤ人を救うべく動き出し始める(「[[ゴーレム]]伝説」。これをもとにした1936年の映画『[[巨人ゴーレム]]』も有名)。 * 1590年以前 - 父の仇討のため諸国を武者修行で回る[[岩見重太郎]]が、[[淀川]]河口にほど近い[[野里]]の集落を訪れると、悪疫と風水害に苦しむこの地の民が神に[[人身御供]]を奉げることを耳にする。重太郎が[[生贄]]に成り代わり身を潜めて待っていると、そこに現れたのは巨大な[[狒々]]であった。武勇に優れた重太郎ではあったが、苦難の上、狒々を討ち果たした。この石見重太郎の後身こそ[[大坂夏の陣]]で獅子奮迅の働きをした[[薄田兼相]]である([[大阪市]][[西淀川区]]の[[野里住吉神社]]の伝承。『[[摂津名所図会]]』ほかに記載がある)。 * [[1590年]] - オーストリアのエーセルドルフ(ドイツ語でロバの村)に自らを「サタン」と名乗る少年が現れる。サタンは不思議な力を村の少年テオドールたちに次々と見せる。その後、村では次々と事件が起こるが、サタンはその様子を見るたびに人間を嘲る([[マーク・トウェイン]]の小説『[[不思議な少年 (小説)|不思議な少年]]』ペイン編集版)。 * [[1591年]] - [[イスラム暦]]1000年に当たるこの年、[[ムラト3世]]支配下の[[オスマン帝国]]首都[[イスタンブール]]において宮廷細密画家が何者かにより暗殺される([[オルハン・パムク]]『わたしの名は紅』)。 * [[1594年]]以前 - [[南禅寺]]山門で悠然と構える天下の大盗賊[[石川五右衛門]]、その彼のもとに明国の[[宋素卿]]からの手紙が届く、この手紙で自分が宋素卿の遺児であること、天下人真柴久吉([[豊臣秀吉|羽柴秀吉]])が自分の敵であることを知り、真柴久吉への怒りを募らせる([[並木五瓶]]『[[楼門五三桐]]』)。 * [[1599年]] - [[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]とドクターが出会う(ドクター・フー)。 * [[1600年]] - 関ヶ原の戦いで[[小早川秀秋]]が裏切るも、[[武田信玄]]の騎馬隊によって西軍が優勢となり、徳川家康などの有力な武将が次々と殺され、東軍が敗北する([[ズッコケ三人組]])。 === 誕生 === == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Reflist|group="注"}}--> === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年表]] * [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 16 | 年代 = 1500 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:16せいき}} [[Category:16世紀|*]]
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1596年
1596年(1596 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
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{{年代ナビ|1596}} {{year-definition|1596}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文禄]]5年、[[慶長]]元年([[10月27日 (旧暦)|10月27日]] -) ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2256年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]24年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]29年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3929年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]19年 *** [[阮明智]] : [[大徳 (阮明智)|大徳]]2年? *** [[阮当明]] : [[福徳 (阮当明)|福徳]]元年? *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]4年 * [[仏滅紀元]] : 2138年 - 2139年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1004年 - 1005年 * [[ユダヤ暦]] : 5356年 - 5357年 * [[ユリウス暦]] : 1595年12月22日 - 1596年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1596}} == できごと == *[[7月]] - 日本の[[関東]]などで[[洪水]]が発生。[[荒川 (関東)|荒川]]では100年に1度といわれる大洪水が起きた<ref>[https://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo_index010.html 荒川の歴史] - 荒川上流河川事務所 関東地方整備局</ref>。[[浅草]]で死者約300人<ref>{{Cite book|和書|title=明日の[[防災]]に活かす[[災害]]の歴史〈3〉[[安土桃山時代]]~[[江戸時代]]|date=2020年4月7日|publisher=[[小峰書店]]|isbn=978-4-338-33703-8|author=[[伊藤和明]]|page=7}}</ref>。 * [[9月1日]]-[[9月5日|5日]](文禄5年[[閏月|閏]][[7月9日 (旧暦)|7月9日]]-[[7月13日 (旧暦)|13日]]) - [[慶長伊予地震]]、[[慶長豊後地震]]、[[慶長伏見地震]](改元前の文禄5年の出来事、[[慶長大地震]]も参照) * [[10月19日]] - サン=フェリペ号が四国土佐沖に漂着([[サン=フェリペ号事件]]) * [[12月16日]](文禄5年[[10月27日 (旧暦)|10月27日]]) - 日本、[[地震]]などの災異のため[[改元]]して慶長元年 == 誕生 == {{see also|Category:1596年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月13日]] - [[ヤン・ファン・ホーイェン]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Jan-van-Goyen Jan van Goyen Dutch painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[オランダ]]の[[画家]](+ [[1656年]]) * [[3月31日]] - [[ルネ・デカルト]]、[[フランス]]の[[哲学者]]、[[自然哲学|自然哲学者]]、[[数学者]](+ [[1650年]]) * [[6月29日]](文禄5年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]]) - [[後水尾天皇]]、第108代[[天皇]](+ [[1680年]]) * [[7月12日]] - [[ミハイル・ロマノフ]]、[[ロシア・ツァーリ国|モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]](+ [[1645年]]) * [[8月16日 ]] - [[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ5世]]、[[プファルツ選帝侯]]、[[ボヘミア]]王(+ [[1632年]]) * [[8月19日]] - [[エリザベス・ステュアート]]、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の妃(+ [[1662年]]) * [[11月1日]] - [[ピエトロ・ダ・コルトーナ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Pietro-da-Cortona Pietro da Cortona Italian artist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[バロック]]期の[[イタリア]]の[[画家]]、[[建築家]](+ [[1669年]]) * [[12月3日]] - [[ニコロ・アマティ]]、イタリアの[[ヴァイオリン]]製作者(+ [[1684年]]) * [[12月21日]] - [[トンマーゾ・フランチェスコ・ディ・サヴォイア]]、初代[[サヴォイア=カリニャーノ家|カリニャーノ公]](+ [[1656年]]) == 死去 == {{see also|Category:1596年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月28日]] - [[フランシス・ドレーク]]、[[イギリス]]の[[海賊]]、[[私掠船]][[船長]]、[[海軍]][[提督]](* [[1543年]]?) * [[5月6日]] - [[ジャケス・デ・ヴェルト]]、[[ベルギー]]出身の[[フランドル楽派]]の作曲家(* [[1535年]]?) * [[9月5日]](文禄5年閏[[7月13日 (旧暦)|7月13日]]) - [[横浜一庵]]、[[安土桃山時代]]の[[大名]](* [[1550年]]) * [[9月9日]] - [[アンナ (ポーランド女王)|アンナ]]、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の女王(* [[1523年]]) * 9月 - [[ペーテル・ケイセル]]、[[オランダ]]の航海士(* [[1540年]]) * [[ジャン・ボダン]]、[[フランス]]の[[経済学者]]、[[法学者]]、[[弁護士]](* [[1530年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1596}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1596ねん}} [[Category:1596年|*]]
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1720年代
1720年代(せんななひゃくにじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1720年から1729年までの10年間を指す十年紀。
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1720年代(せんななひゃくにじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)1720年から1729年までの10年間を指す十年紀。
{{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 18 | 年代 = 1720 | 年 = 1720 }} '''1720年代'''(せんななひゃくにじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])1720年から1729年までの10年間を指す[[十年紀]]。 == できごと == === 1720年 === {{main|1720年}} *[[エドモンド・ハレー]]が[[イギリス]]王立天文台([[グリニッジ天文台]])長に任命される。 *[[イングランド]]で[[南海泡沫事件]]がおこる。 *[[スウェーデン]]で[[ウルリカ・エレオノーラ (スウェーデン女王)|ウルリカ・エレオノーラ]]女王退位、[[ヘッセン王朝]]が始まる([[自由の時代]])。 === 1721年 === {{main|1721年}} *[[ニスタット条約]]によって、[[大北方戦争]]が終結、[[スウェーデン]]が[[バルト海]]の覇権を失う。 *[[徳川吉宗]]が[[目安箱]]を設置。 *[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]が正式に皇帝を名のり、国号を[[ロシア帝国]]とする。 *[[ロバート・ウォルポール]]が[[イギリスの首相|イギリス首相]](第一大蔵卿)に就任する。 === 1722年 === {{main|1722年}} *[[麻生藩]]で最初の[[百姓一揆]]。 *[[オーストラリア]]の東約3千KM、[[国際日付変更線|日付変更線]]の東側にある10数の島からなる小国を[[オランダ|オランダ人]]が発見(後の[[サモア独立国]])。 *[[江戸]]・[[小石川]]に[[養生所]]を設置。 *[[シュパイヤー]]の[[領主司教]]により[[ブルッフザール城]]が建設される。 *[[復活祭]]([[4月5日]])の日に[[イースター島]]が発見される。 === 1723年 === {{main|1723年}} *[[清]]、前年の[[康熙帝]]死去に伴い、[[雍正帝]]が即位する。 === 1724年 === {{main|1724年}} *[[大阪]]にて[[妙知焼け|妙知(智)焼け]][[火災]]発生。 *[[ガブリエル・ファーレンハイト|ファーレンハイト]]が[[温度計]]の[[華氏]]目盛りを提案。 *スペイン王[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]、[[ルイス1世 (スペイン王)|ルイス1世]]に譲位するも再即位。 *西洋のさまざまな文化を紹介した「[[和蘭問答]]」が発刊。 === 1725年 === {{main|1725年}} *[[エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ1世]]、ロシア女帝となる。 === 1726年 === {{main|1726年}} *[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]、イギリス臣下となる。 *[[モンテビデオ]]市設立。 *[[ジョナサン・スウィフト]]の『ガリバー旅行記』が出版される。 === 1727年 === {{main|1727年}} *[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|J.S.バッハ]]の『マタイ受難曲』が[[ライプツィヒ]]にて初演。 === 1728年 === {{main|1728年}} *[[デンマーク]]人の[[ヴィトゥス・ベーリング|ベーリング]]が[[ベーリング海峡]]([[アラスカ]]と[[シベリア]]の間)を発見。 *[[中国]]、[[ロシア帝国]]と[[キャフタ条約 (1727年)|キャフタ条約]]を締結。 *[[日本]]に[[コーヒー]]が伝来([[ジャマイカ]]総督[[ニコラス・ローズ]]卿)。 *[[徳川吉宗]]の要望により、[[出島|長崎]]に[[ゾウ|象]]が運び込まれる。 *日本に初めて[[乳用牛]]が輸入される。 === 1729年 === {{main|1729年}} *[[イスタンブール]]、[[トプカプ宮殿]]に[[アフメト3世]]の泉が作成される。 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=2|世紀=11|年代=1000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:1720ねんたい}} [[Category:1720年代|*]]
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ボース粒子
ボース粒子 (ボースりゅうし、Boson、英語発音: [bóʊsɑn](ボゥソン)) とは、量子力学においてスピン角運動量の大きさに基づいて粒子を分類するときの呼称であり、 ħ {\displaystyle \hbar } の整数倍のスピンを伴う粒子の総称である。 その名称はインドの物理学者、サティエンドラ・ボース (Satyendra Nath Bose) に由来する。日本語ではボソンまたはボゾン とも呼ばれる。 場の量子論から、整数スピンを持つ粒子は、2つの同種粒子を入れ替えたとき、波動関数の符号が変化しない。つまり複数の同種のボース粒子からなる系の全波動関数を ψ, i 番目の粒子の座標を xi としたとき、 ψ ( ... , x i , ... , x j , ... ) = ψ ( ... , x j , ... , x i , ... ) {\displaystyle {\psi }(\ldots ,x_{i},\ldots ,x_{j},\ldots )={\psi }(\ldots ,x_{j},\ldots ,x_{i},\ldots )} のように i 番目と j 番目の粒子を入れ替えても、波動関数の正負が逆転しない。 すなわち、2つのボース粒子があってそれぞれの1粒子の波動関数が φ ,χ と表せるなら、2つのボース粒子の全波動関数は単に、 ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) χ ( x 2 ) {\displaystyle \psi (x_{1},x_{2})=\phi (x_{1})\chi (x_{2})} ではなく、この入れ替えについての性質から ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) χ ( x 2 ) + φ ( x 2 ) χ ( x 1 ) {\displaystyle \psi (x_{1},x_{2})=\phi (x_{1})\chi (x_{2})+\phi (x_{2})\chi (x_{1})} と表されなくてはならない。 フェルミ粒子と異なり、ボース粒子には2つの粒子が同じ1粒子波動関数をとっている ψ ( x 1 , x 2 ) = φ ( x 1 ) φ ( x 2 ) {\displaystyle \psi (x_{1},x_{2})=\phi (x_{1})\phi (x_{2})} のような状態が許される。すなわち、1つの体系内であっても同一の量子状態をいくつもの粒子がとりうる。この規則から、熱平衡状態にある1種類のボース粒子群からなる体系の従う量子統計が導かれ、これをボース=アインシュタイン統計という。 素粒子の間の相互作用を媒介するゲージ粒子である光子、ウィークボソン、グルーオン (いずれもスピン1) はボース粒子に分類される。入射光を完全に吸収する物体である黒体からの光の輻射の振動数分布 (プランク分布) はボース=アインシュタイン統計から導かれる。 未発見の粒子について、重力を媒介するゲージ粒子の重力子 (グラビトン) がスピン2のボース粒子と考えられている。 質量を担うヒッグス粒子はスピン0のボース粒子である。 中間子はすべてボース粒子である。π中間子やK中間子、D中間子、B中間子はスピン0、ρ中間子、ω中間子、φ中間子、J/ψ中間子はスピン1である。 また、凝縮物質の物理に現れるフォノンやマグノンのような準粒子、超伝導に関与するクーパー対もボース=アインシュタイン統計に従う。 ボース粒子の多体系とみなせる系として、2つの型がある 。 1つ目の型は、粒子が有限の質量を持ち、ボース粒子数が保存されるものである。この系の唯一の実例は液体ヘリウムである。 2つ目の型は、粒子が質量を持たず、ボース粒子数が保存されないものである。この例として光子や、固体内のフォノンがある。 このほかにもボース系の例は多くある。フェルミ粒子的な性格の強い系の中にも、フォノンに似た素励起が存在しうる。また強磁性体や反強磁性体においてもフォノンに似た素励起が重要となり、スピン波と呼ばれ、ボース粒子のように振る舞う。
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ボース粒子 (ボースりゅうし、Boson、) とは、量子力学においてスピン角運動量の大きさに基づいて粒子を分類するときの呼称であり、 ℏ の整数倍のスピンを伴う粒子の総称である。 その名称はインドの物理学者、サティエンドラ・ボース に由来する。日本語ではボソンまたはボゾン とも呼ばれる。
{{Redirect|ボゾン|アニメ『聖戦士ダンバイン』に登場する架空の兵器|ボゾン (聖戦士ダンバイン)}} {{出典の明記|date=2016年5月}} {{Infobox particle | 背景色 = | 名前 = ボース粒子 | 画像 = | 説明 = | 型数 = | 分類 = | 組成 = | 統計 = ボース=アインシュタイン統計 | グループ = | 世代 = | 相互作用 = [[強い相互作用]]<br />[[弱い相互作用]]<br />[[電磁相互作用]]<br />[[重力相互作用]] | 粒子 = | 反粒子 = | ステータス = | 理論化 = | 発見 = | 記号 = | 質量 = | 平均寿命 = | 崩壊粒子 = | 電荷 = | 荷電半径 = | 電気双極子モーメント = | 電気的分極率 = | 磁気モーメント = | 磁気的分極率 = | 色荷 = | スピン = <math>\hbar</math>の[[整数]]倍 | スピン状態数 = | レプトン数 = | バリオン数 = | ストレンジネス = | チャーム = | ボトムネス = | トップネス = | アイソスピン = | 弱アイソスピン = | 弱アイソスピン_3 = | 超電荷 = | 弱超電荷 = | カイラリティ = | B-L = | X荷 = | パリティ = | Gパリティ = | Cパリティ = | Rパリティ = }} '''ボース粒子''' (ボースりゅうし、[[:en:Boson|Boson]]、{{IPA-en|bóʊsɑn}}('''ボゥソン''')) とは、[[量子力学]]において[[スピン角運動量]]の大きさに基づいて粒子を分類するときの呼称であり、<math>\hbar</math>の[[整数]]倍のスピンを伴う粒子の総称である。 その名称はインドの物理学者、'''[[サティエンドラ・ボース]]''' (Satyendra Nath Bose) に由来する。日本語では'''ボソン'''または'''ボゾン''' とも呼ばれる。 == 複数のボース粒子の系 == {{main|同種粒子}} [[Image:Symmetricwave2.png|right|thumb|ボソンの二粒子状態に対応する対称な波動関数]] [[場の量子論]]から、整数スピンを持つ粒子は、2つの[[同種粒子]]を入れ替えたとき、[[波動関数]]の符号が変化しない。つまり複数の同種のボース粒子からなる系の全波動関数を &psi;, ''i'' 番目の粒子の座標を ''x<sub>i</sub>'' としたとき、 {{indent|<math>{\psi}( \ldots , x_{i}, \ldots, x_{j} , \ldots ) = {\psi}( \ldots , x_{j}, \ldots , x_{i} , \ldots )</math>}} のように ''i'' 番目と ''j'' 番目の粒子を入れ替えても、波動関数の正負が逆転しない。 すなわち、2つのボース粒子があってそれぞれの1粒子の波動関数が &phi; ,&chi; と表せるなら、2つのボース粒子の全波動関数は単に、 {{indent|<math>\psi(x_1, x_2) = \phi(x_1) \chi(x_2)</math>}} ではなく、この入れ替えについての性質から {{indent|<math>\psi(x_1, x_2) = \phi(x_1) \chi(x_2) + \phi(x_2) \chi(x_1)</math>}} と表されなくてはならない。 [[フェルミ粒子]]と異なり、ボース粒子には2つの粒子が同じ1粒子波動関数をとっている {{indent|<math>\psi(x_1, x_2) = \phi(x_1) \phi(x_2)</math>}} のような状態が許される。すなわち、1つの体系内であっても同一の[[量子状態]]をいくつもの粒子がとりうる。この規則から、熱平衡状態にある1種類のボース粒子群からなる体系の従う量子統計が導かれ、これを'''ボース=アインシュタイン統計'''という。<!--([[インド]]の[[物理学者]][[サティエンドラ・ボース]]と、物理学者[[アルベルト・アインシュタイン]]の名から命名された。)--> == ボース粒子の例 == [[素粒子]]の間の[[基本相互作用|相互作用]]を媒介する[[ゲージ粒子]]である[[光子]]、[[ウィークボソン]]、[[グルーオン]] (いずれもスピン1) はボース粒子に分類される。入射光を完全に吸収する物体である[[黒体]]からの光の輻射の振動数分布 (プランク分布) はボース=アインシュタイン統計から導かれる。 未発見の粒子について、重力を媒介するゲージ粒子の[[重力子]] (グラビトン) がスピン2のボース粒子と考えられている。 [[質量]]を担う[[ヒッグス粒子]]はスピン0のボース粒子である。 [[中間子]]はすべてボース粒子である。&pi;中間子やK中間子、D中間子、B中間子はスピン0、&rho;中間子、&omega;中間子、&phi;中間子、J/&psi;中間子はスピン1である。 また、[[凝縮物質の物理]]に現れる[[フォノン]]や[[マグノン]]のような[[準粒子]]、[[超伝導]]に関与する[[クーパー対]]もボース=アインシュタイン統計に従う。 == ボース粒子の多体系 == ボース粒子の多体系とみなせる系として、2つの型がある<ref>[[デイヴィッド・J・サウレス]]著『多体系の量子力学』松原武生・[[米沢富美子]]訳、[[吉岡書店]]、1965年{{要ページ番号|date=2019-06}}</ref> 。 1つ目の型は、粒子が有限の質量を持ち、ボース粒子数が保存されるものである。この系の唯一の実例は[[液体ヘリウム]]である。 2つ目の型は、粒子が質量を持たず、ボース粒子数が保存されないものである。この例として[[光子]]や、固体内の[[フォノン]]がある。 このほかにもボース系の例は多くある。フェルミ粒子的な性格の強い系の中にも、フォノンに似た素励起が存在しうる。また[[強磁性体]]や[[反強磁性体]]においてもフォノンに似た[[素励起]]が重要となり、[[スピン波]]と呼ばれ、ボース粒子のように振る舞う。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[統計力学]] * [[フェルミ粒子]] * [[標準模型]] * [[ボース=アインシュタイン凝縮]] * [[ボース分布関数]] * [[ボソン星]] * [[フォノン]] {{粒子の一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほおすりゆうし}} [[Category:素粒子]] [[Category:統計力学]] [[Category:量子力学]] [[Category:ボース粒子|*]] [[Category:サティエンドラ・ボース]] [[Category:物理学のエポニム]]
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プロジェクト・グーテンベルク
プロジェクト・グーテンベルク(Project Gutenberg、略称PG)は、著者の死後一定期間が経過し、(アメリカ著作権法下で)著作権の切れた名作などの全文を電子化して、インターネット上で公開するという計画。1971年創始であり、最も歴史ある電子図書館。印刷の父、ヨハネス・グーテンベルクの名を冠し、人類に対する貢献を目指している。 プロジェクト・グーテンベルクは、マイケル・S・ハートによって1971年に創始された。当時イリノイ大学の学生であったハートは、学内の材料研究所にある大型汎用コンピュータXerox Sigma Vへのアクセス権を得た。管理者が親切であったおかげで、実質的に無制限な(当時の価値で100万ドルとも1000万ドル相当とも算出されている)コンピュータ時間を利用できるアカウントを貰った。ハートは、なにか大きな価値があると思われることをして、この贈り物に「お返し」をしたかったのだ、と述べたことがある。 このコンピュータは、たまたま(のちにインターネットに発展する)コンピュータネットワークの15個のノードの一つであった。ハートは、コンピュータが一般人にも扱えるようになる時代がくると信じ、文学作品を電子的な形で自由に利用できるようにしようと決めた。たまたま鞄の中にはアメリカ独立宣言の冊子があったので、これがプロジェクト・グーテンベルクの最初の電子テキストになった。 プロジェクトの名前は、15世紀に印刷革命を起こしたドイツ人、ヨハネス・グーテンベルクに拠り、ハートが名付けた。 1990年代の中頃まで、ハートはイリノイ州のベネディクティン大学で運営をしていた。より多くのボランティアがこの活動に参加するようになったが、スキャナやOCRソフトが発展して広く利用できるようになるまでは、大部分のテキストが手作業で入力されていた。 のちに、カーネギー・メロン大学がプロジェクトの財政管理を承諾した。電子テキストの量が増えると、ハートが行っていたプロジェクトの日常業務までをも、ボランティアが引き継ぐようになった。 2000年に、法的な事柄に対処するため、NPO法人Project Gutenberg Literary Archive Foundation, Inc.がミシシッピ州に設立された。寄付金が税金控除の対象となる。長年プロジェクトのボランティアをしてきたGregory Newbyが、法人の初代CEOになった。 同じく2000年、Charles FranksがDistributed Proofreadersという、スキャンされたテキストの校正を、インターネットを通じて、たくさんのボランティアに任せることができるウェブサイトを作った。この試みにより、プロジェクト・グーテンベルクに追加されるテキストの量や種類は増し、同時に新しくボランティアを始めやすくなった。 イタリア人のボランティアPietro Di Miceliが最初にプロジェクト・グーテンベルクのウェブサイトの作成、管理を行い、プロジェクトのオンラインカタログの整備を始めた。10年(1994年から2004年)の間に、プロジェクトのウェブページは多数の賞を獲得。しばしば「最高のウェブサイト」リストに載り、本プロジェクトの認知度上昇に貢献した。 2004年にはじまった、オンラインカタログの刷新は、プロジェクト・グーテンベルクのコンテンツの閲覧やアクセス、リンクをより容易にした。 現在、プロジェクト・グーテンベルクは、ノースカロライナ大学チャペルヒル校のibiblio内にホストされている。 2006年8月時点の公表では、プロジェクト・グーテンベルクが収集したテキストは19000点を越え、週に平均50以上の新しい電子書籍が追加されている。 これらは、ほとんど西洋文化圏の文学作品である。小説や詩、戯曲といった文学作品だけでなく、マニュアルや参考書、雑誌の類も収集の対象である。少量ではあるが、音声ファイルや楽譜といった非文書ファイルも所蔵されている。 大部分は英語のテキストだが、他の言語のテキストも非常に多い。2006年8月現在、英語以外で特に多いのは(順に)フランス語、ドイツ語、フィンランド語、オランダ語、スペイン語のテキストである。 テキストは、可能なかぎりプレーンテキストの状態で提供される。文字コードは主にUS-ASCIIであるが、拡張してISO-8859-1を使うことも多々ある。他のファイル形式での公開もよく、ボランティアによる投稿にはHTML形式が最もよく利用される。PDFのような編集が難しい形式は、プロジェクト・グーテンベルクの目標に合致しないと一般に認められているが、何点か収集に加えられているものもある。XMLを使用すべきかとの議論が何年も続けられているが、進展は遅い。 2004年にマイケル・ハートが出した声明によれば、「プロジェクト・グーテンベルクの使命は単純だ。『電子書籍の作成と配布を推進すること』」 プロジェクトのスローガンは「無学・無教養の垣根を取り壊す」。というのも、多くのボランティアは、ちょうど公共図書館が20世紀初頭に始めたように、遺産として引き継がれてきた文芸の教養と鑑賞を、継続して大衆に広めることを目的としているからである。 プロジェクト・グーテンベルクは、一極集中を意図的に避けている。たとえば、どんなテキストが加えられるべきかということについてポリシーを持たない。代わりに、めいめいのボランティアが、自分自身が関心を持っていること、提供できることを行っているのである。 収集したテキストは長く保存することを意図しているので、局所的なアクシデントであれば、損失を防げるようにしてある。保存を確実に実行するため、収集作品全体は定期的にバックアップが取られ、幾つもの異なる地域にあるサーバにミラーリングされる。 プロジェクト・グーテンベルクは、アメリカ著作権法に基づく電子書籍の状態確認に慎重である。テキストは、著作権の確認を受けた場合のみアーカイブに加えられ、確認の記録は後から参照できるように保管される。 他の幾つかの電子図書館プロジェクトとは異なり、プロジェクト・グーテンベルクは公表するテキストに対して新たな著作権を主張しない。代わりに、自由に複製、配布することを奨励している。ただしプロジェクト・グーテンベルクがそのテキストの出所であることを明示する必要がある。ライセンス等に言及する記述を削除して再配布や改変を行なうことはライセンス違反である。 プロジェクト内の大半の書籍は、アメリカ著作権法のもと、パブリックドメインで配布されている。プロジェクト・グーテンベルクの商標を使用する場合、各電子書籍に付随する法律文書によって、テキストの利用に幾つかの制限(改変後の配布や商用利用などに対するもの)が加えられる。"Project Gutenberg "はプロジェクト・グーテンベルクの商標であるので、この商標を用い、プロジェクトが公表したパブリック・ドメインのテキストを許可なく無断で商業的に利用することは認めていない。ヘッダを削って商標を使用しない場合は、パブリックドメインのテキストは制限なしに利用することができる。 著作権者の許可を受けて配布しているテキストもある。これらのテキストは、著作権者が特に定めた制限に従う。 1998年、ソニー・ボノ著作権延長法によってアメリカでの著作権の保護期間が20年延長された。これにより、延長期間20年分のアメリカの作品はパブリックドメインと見なされなくなり、プロジェクトに加えられることはなくなった。これらの追加が再開されるのは1923年発表作品の保護期間満了後の2019年1月1日以降となる。 提携プロジェクト同士は、理念を共有してはいるが独立した組織で、Project Gutenbergの商標の使用を許可されている。特定の国や言語に焦点を当てたものが多い。 ほかに、Projekt Gutenberg-DEがGutenbergの名前の使用を許可されたが、理念上の違いのために、提携プロジェクトと見なされないこともある。Projekt Gutenberg-DEは、公開物に新たな著作権を加え、ウェブ版へのアクセスを制限している。
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プロジェクト・グーテンベルクは、著者の死後一定期間が経過し、(アメリカ著作権法下で)著作権の切れた名作などの全文を電子化して、インターネット上で公開するという計画。1971年創始であり、最も歴史ある電子図書館。印刷の父、ヨハネス・グーテンベルクの名を冠し、人類に対する貢献を目指している。
{{出典の明記|date=2020年7月}} {{Otheruses|著作権切れ資料の電子化と公開を目的とした電子図書館|2018年の香港・中国合作映画|プロジェクト・グーテンベルク 贋札王}} {{Infobox オンライン情報源 | サイト名= プロジェクト・グーテンベルク<br />Project Gutenberg | 画像= | URL='''ホームページ'''<br />https://www.gutenberg.org/ | タイプ=電子図書館 | 分野=著作権切れ資料の電子化と公開 | 使用言語=英語を中心に | 項目数=30,000冊以上 | 閲覧=無料 | 登録=不要 | 著作権= | 運営=Project Gutenberg Literary Archive Foundation (PGLAF)[https://www.gutenberg.org/wiki/Gutenberg:Project_Gutenberg_Literary_Archive_Foundation] | 資金= | 営利性=なし | 設立=[[1971年]]12月1日から公開開始<ref name="gut1">{{cite web | first=Michael S. | last=Hart | url=http://www.gutenberg.org/etext/1 | title=United States Declaration of Independence by United States | publisher=Project Gutenberg | accessdate=2007年2月17日 }}</ref> | 設立者=マイケル・S・ハート | 管理人= | 現代表= | 執筆者= | 作業者= | 編集委員= | 査読= | 現状=コンテンツ数増加中 }} '''プロジェクト・グーテンベルク'''(''Project Gutenberg''、略称PG)は、著者の死後一定期間が経過し、([[著作権法 (アメリカ合衆国)|アメリカ著作権法]]下で)[[著作権]]の切れた名作などの全文を電子化して、[[インターネット]]上で公開するという計画。1971年創始であり、最も歴史ある[[電子図書館]]。[[印刷]]の父、[[ヨハネス・グーテンベルク]]の名を冠し、人類に対する貢献を目指している。 == 歴史 == プロジェクト・グーテンベルクは、[[マイケル・S・ハート]]によって1971年に創始された。当時[[イリノイ大学]]の学生であったハートは、学内の材料研究所にある[[メインフレーム|大型汎用コンピュータ]]Xerox Sigma Vへのアクセス権を得た。管理者が親切であったおかげで、実質的に無制限な(当時の価値で100万ドルとも1000万ドル相当とも算出されている<ref>[http://www.gutenberg.org/wiki/Gutenberg:The_History_and_Philosophy_of_Project_Gutenberg_by_Michael_Hart The History and Philosophy of Project Gutenberg]、1992年8月</ref>)コンピュータ時間を利用できるアカウントを貰った。ハートは、なにか大きな価値があると思われることをして、この贈り物に「お返し」をしたかったのだ、と述べたことがある。 このコンピュータは、たまたま(のちに[[インターネット]]に発展する)[[コンピュータネットワーク]]の15個の[[ノード (ネットワーク)|ノード]]の一つであった。ハートは、コンピュータが一般人にも扱えるようになる時代がくると信じ、文学作品を電子的な形で自由に利用できるようにしようと決めた。たまたま鞄の中には[[アメリカ独立宣言]]の冊子があったので、これがプロジェクト・グーテンベルクの最初の電子テキストになった。 プロジェクトの名前は、15世紀に印刷革命を起こしたドイツ人、[[ヨハネス・グーテンベルク]]に拠り、ハートが名付けた。 1990年代の中頃まで、ハートは[[イリノイ州]]の[[ベネディクティン大学]]で運営をしていた。より多くのボランティアがこの活動に参加するようになったが、[[スキャナ]]や[[光学文字認識|OCR]]ソフトが発展して広く利用できるようになるまでは、大部分のテキストが手作業で入力されていた。 のちに、[[カーネギー・メロン大学]]がプロジェクトの財政管理を承諾した。電子テキストの量が増えると、ハートが行っていたプロジェクトの日常業務までをも、ボランティアが引き継ぐようになった。 2000年に、法的な事柄に対処するため、[[NPO]]法人Project Gutenberg Literary Archive Foundation, Inc.が[[ミシシッピ州]]に設立された。寄付金が税金控除の対象となる。長年プロジェクトのボランティアをしてきたGregory Newbyが、法人の初代[[CEO]]になった。 同じく2000年、Charles FranksがDistributed Proofreadersという、スキャンされたテキストの校正を、インターネットを通じて、たくさんのボランティアに任せることができるウェブサイトを作った。この試みにより、プロジェクト・グーテンベルクに追加されるテキストの量や種類は増し、同時に新しくボランティアを始めやすくなった。 イタリア人のボランティアPietro Di Miceliが最初にプロジェクト・グーテンベルクのウェブサイトの作成、管理を行い、プロジェクトのオンラインカタログの整備を始めた。10年(1994年から2004年)の間に、プロジェクトのウェブページは多数の賞を獲得。しばしば「最高のウェブサイト」リストに載り、本プロジェクトの認知度上昇に貢献した。[http://www.gutenberg.org/about/credit] 2004年にはじまった、オンラインカタログの刷新は、プロジェクト・グーテンベルクのコンテンツの閲覧やアクセス、リンクをより容易にした。 現在、プロジェクト・グーテンベルクは、[[ノースカロライナ大学チャペルヒル校]]の[[ibiblio]]内に[[ホスト (曖昧さ回避)|ホスト]]されている。 == 収集の範囲 == [[Image:Project Gutenberg total books.svg|thumb|1994年から2015年までのテキスト数]] 2006年8月時点の公表では、プロジェクト・グーテンベルクが収集したテキストは19000点を越え、週に平均50以上の新しい[[電子書籍]]が追加されている。<ref>[http://www.gutenberg.org/dirs/GUTINDEX-2006.txt gutindex-2006]によれば、2006年最初の33週間で1653点の投稿があった。平均を出すと、週に50.09点である。この数値には、提携プロジェクトからの追加分を含んでいない。</ref> これらは、ほとんど西洋文化圏の文学作品である。小説や詩、戯曲といった文学作品だけでなく、マニュアルや参考書、雑誌の類も収集の対象である。少量ではあるが、音声ファイルや楽譜といった非文書ファイルも所蔵されている。 大部分は英語のテキストだが、他の言語のテキストも非常に多い。2006年8月現在、英語以外で特に多いのは(順に)[[フランス語]]、[[ドイツ語]]、[[フィンランド語]]、[[オランダ語]]、[[スペイン語]]のテキストである。 テキストは、可能なかぎり[[テキストファイル|プレーンテキスト]]の状態で提供される。[[文字コード]]は主に[[ASCII|US-ASCII]]であるが、拡張して[[ISO-8859-1]]を使うことも多々ある。他のファイル形式での公開もよく、ボランティアによる投稿には[[HyperText Markup Language|HTML]]形式が最もよく利用される。[[Portable Document Format|PDF]]のような編集が難しい形式は、プロジェクト・グーテンベルクの目標に合致しないと一般に認められているが、何点か収集に加えられているものもある。[[Extensible Markup Language|XML]]を使用すべきかとの議論が何年も続けられているが、進展は遅い。 == 理念 == 2004年にマイケル・ハートが出した声明によれば、「プロジェクト・グーテンベルクの使命は単純だ。『電子書籍の作成と配布を推進すること』」<ref>[http://www.gutenberg.org/wiki/Gutenberg:Project_Gutenberg_Mission_Statement_by_Michael_Hart The Project Gutenberg Mission Statement]、2004年10月23日更新</ref> プロジェクトのスローガンは「無学・無教養の垣根を取り壊す」。というのも、多くのボランティアは、ちょうど[[公共図書館]]が20世紀初頭に始めたように、遺産として引き継がれてきた文芸の教養と鑑賞を、継続して大衆に広めることを目的としているからである。 プロジェクト・グーテンベルクは、一極集中を意図的に避けている。たとえば、どんなテキストが加えられるべきかということについてポリシーを持たない。代わりに、めいめいのボランティアが、自分自身が関心を持っていること、提供できることを行っているのである。 収集したテキストは長く保存することを意図しているので、局所的なアクシデントであれば、損失を防げるようにしてある。保存を確実に実行するため、収集作品全体は定期的にバックアップが取られ、幾つもの異なる地域にあるサーバにミラーリングされる。 == 著作権の問題 == プロジェクト・グーテンベルクは、アメリカ著作権法に基づく電子書籍の状態確認に慎重である。テキストは、著作権の確認を受けた場合のみアーカイブに加えられ、確認の記録は後から参照できるように保管される。 他の幾つかの電子図書館プロジェクトとは異なり、プロジェクト・グーテンベルクは公表するテキストに対して新たな著作権を主張しない。代わりに、自由に複製、配布することを奨励している。ただしプロジェクト・グーテンベルクがそのテキストの出所であることを明示する必要がある。ライセンス等に言及する記述を削除して再配布や改変を行なうことはライセンス違反である<ref>{{Cite web|url=http://www.gutenberg.org/wiki/Gutenberg:The_Project_Gutenberg_License#Section_1._General_Terms_of_Use_and_Redistributing_Project_Gutenberg-tm_electronic_works|title=Section 1. General Terms of Use and Redistributing Project Gutenberg-tm electronic work|accessdate=2020-7-24|publisher=The Project Gutenberg|quote=1.E.1. The following sentence, with active links to, or other immediate access to, the full Project Gutenberg-tm License must appear prominently whenever any copy of a Project Gutenberg-tm work (any work on which the phrase "Project Gutenberg" appears, or with which the phrase "Project Gutenberg" is associated) is accessed, displayed, performed, viewed, copied or distributed: This eBook is for the use of anyone anywhere in the United States and most other parts of the world at no cost and with almost no restrictions whatsoever. You may copy it, give it away or re-use it under the terms of the Project Gutenberg License included with this eBook or online at www.gutenberg.org. If you are not located in the United States, you'll have to check the laws of the country where you are located before using this ebook.}}</ref>。 プロジェクト内の大半の書籍は、アメリカ著作権法のもと、[[パブリックドメイン]]で配布されている。プロジェクト・グーテンベルクの商標を使用する場合、各電子書籍に付随する法律文書によって、テキストの利用に幾つかの制限(改変後の配布や商用利用などに対するもの)が加えられる。"Project Gutenberg "はプロジェクト・グーテンベルクの商標であるので、この商標を用い、プロジェクトが公表したパブリック・ドメインのテキストを許可なく無断で商業的に利用することは認めていない<ref>{{Cite web|url=http://www.gutenberg.org/wiki/Gutenberg:The_Project_Gutenberg_License|title=The Project Gutenberg License|accessdate=2020-7-24|publisher=The Project Gutenberg|quote=Using the Project Gutenberg Trademark - If you want to use the name Project Gutenberg anywhere in the ebooks you distribute or on the distribution medium or in advertising you have to obey these rules: you may only distribute verbatim copies of the ebooks. No changes are allowed to the ebook contents. (Though reformatting the ebook to a different file format is considered okay). If you charge money for the copies you distribute, you have to pay royalties to Project Gutenberg. You must refund your clients for defective copies or if they don't agree with the Project Gutenberg license. If you don't agree with any of the above mentioned restrictions, you may not use the Project Gutenberg trademark. You may still distribute the ebooks if you strip the Project Gutenberg license and all references to Project Gutenberg.}}</ref>。ヘッダを削って商標を使用しない場合は、パブリックドメインのテキストは制限なしに利用することができる{{要出典|date=2020年7月}}。 著作権者の許可を受けて配布しているテキストもある。これらのテキストは、著作権者が特に定めた制限に従う。 1998年、[[著作権延長法|ソニー・ボノ著作権延長法]]によってアメリカでの著作権の保護期間が20年延長された。これにより、延長期間20年分のアメリカの作品はパブリックドメインと見なされなくなり、プロジェクトに加えられることはなくなった。これらの追加が再開されるのは[[1923年]]発表作品の保護期間満了後の[[2019年]]1月1日以降となる。 == 提携プロジェクト == 提携プロジェクト同士は、理念を共有してはいるが独立した組織で、Project Gutenbergの商標の使用を許可されている。特定の国や言語に焦点を当てたものが多い。 *[http://gutenberg.net.au/ Project Gutenberg Australia]は、アメリカではまだ著作権が存続している(または不明である)が、オーストラリアの著作権法ではパブリックドメインになっているテキストを数多く所収している。また、オーストラリア人の作家や、オーストラリアに関する書籍に焦点を当てている。なお、オーストラリアでは[[2004年]]に著作権保護期間が延長されたため、同年以降は大幅な活動規模の縮小を強いられている。 *[http://www.gutenberg.nl PG-EU]は、[[欧州連合|EU]]の著作権法下で運営されている姉妹プロジェクト。目的の一つは、プロジェクト・グーテンベルクに可能なかぎり多くの言語を含めることである。確実にあらゆるアルファベットが簡単に正しく表現されるよう、[[Unicode]]で運営されている。 *[http://www.gutenberg.ph Gutenberg of the Philippines]は、フィリピン人とフィリピン語に特別の焦点を当てて、可能なかぎり多くの人が多くの書籍を利用できるようにすることを目的としている。 *[https://web.archive.org/web/20070820234835/http://pge.rastko.net/ Project Gutenberg Europe]は、[[セルビア]]・[[モンテネグロ]]のProject Rastkoが運営するプロジェクト。ヨーロッパ全体のためのプロジェクト・グーテンベルクになることを目的としており、最初のプロジェクトは2005年に活動をはじめた。電子書籍を素早く作成するためのソフトウェア Distributed Proofreaders を運営している。 *[http://www.gutenberg.lu Project Gutenberg Luxembourg]は、[[ルクセンブルク語]]で書かれた書籍を主に公開している。 *[http://www.gutenberg.us Project Gutenberg Consortia Center]は、収集の収集に特化した提携プロジェクト。プロジェクト・グーテンベルク本家からの、編集者による管理や一貫した整形作業はない。様々な言語での、特定のテーマに沿った収集が特徴的。 *[http://www.lonnrot.net Projekti Lönnrot]は、フィンランド人のボランティアが始めたプロジェクト。 ほかに、[http://gutenberg.spiegel.de/ Projekt Gutenberg-DE]がGutenbergの名前の使用を許可されたが、理念上の違いのために、提携プロジェクトと見なされないこともある。Projekt Gutenberg-DEは、公開物に新たな著作権を加え、ウェブ版へのアクセスを制限している。 <!-- プロジェクト・グーテンベルクに触発されて、同様のプロジェクトが幾つかできたが、それらの一覧については、[[電子図書館プロジェクトの一覧]]を参照のこと。--> == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|Project Gutenberg}} * [[ウィキソース]] * [[青空文庫]] * [[プロジェクト杉田玄白]] * [[近代デジタルライブラリー]] * [[全米作家協会他対Google裁判]] - [[Googleブックス]]の著作権侵害と[[フェアユース]]を巡る大規模な集団訴訟 * [[ペルセウス電子図書館]] * [[物語倶楽部]] * [[ブリタニカ百科事典第11版]] * [[世界各国の著作権保護期間の一覧]] == 外部リンク == * [https://www.gutenberg.org/ プロジェクト・グーテンベルク公式サイト] <small>(インターフェイスは英語)</small> * [https://www.pgdp.net/c/ Distributed Proofreaders](主に英語) - 編集のボランティアの世界的なグループ。 現在、プロジェクト・グーテンベルクの電子書籍の主なソースとなっている。 * [https://gutenberg.hwg.org/ HTML Writers Guild] {{404|date=2023-12}} - XHTMLおよびXMLのマークアップをプロジェクト・グーテンベルクで使用するためのガイド。 * [https://www.gutenberg.org/browse/authors/p#a114 プロジェクト・グーテンベルクによる作品] <small>(インターフェイスは英語)</small>(ただし、これらの多くは、商標問題から名が冠されているだけで、プロジェクト・グーテンベルク自体に起源を持たない) * [https://www.sandroid.org/GutenMark/index.html GutenMark] {{404|date=2023-12}} - 高品質のHTMLやLaTeXマークアップをプロジェクト・グーテンベルクの電子テキストから自動生成するツール。プロジェクト・グーテンベルク本家との提携はない。 {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ふろしえくとくうてんへるく}} [[Category:電子図書館プロジェクト]] [[Category:電子書籍]] [[Category:ヨハネス・グーテンベルク]]
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笹塚駅
笹塚駅(ささづかえき)は、東京都渋谷区笹塚一丁目にある、京王電鉄京王線の駅である。「京王ライナー」「Mt.TAKAO号」を除く全列車が停車する。京王東管区所属。駅番号はKO04。渋谷区に所在する駅では最西端に位置している。 当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は京王線のみであるが(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、当駅 ー 新宿駅間の複々線の運転系統は次の2系統に分かれており、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。 当地は内藤新宿からの距離により、一里塚が甲州街道の両脇にあって、その塚が笹やぶで覆われていたことから、「幡ヶ谷村笹塚」と命名される。 なお、駅名表記は地名表記に基づき旧字体の「笹塚駅」(点あり)であり、京王電鉄側は例外を除いてこれに統一しているが、同社の公式サイトや地域社会の間では「笹塚駅」(点なし)とも表記される。 島式ホーム2面4線、副本線(京王新線)側に繋がる引上線2線を有する高架駅である。ホームと改札口階との間にはエレベーターが設置されている。トイレは1階改札口内にあり、ユニバーサルデザインの一環として「だれでもトイレ」も併設されている。 2022年度の1日平均乗降人員は66,646人である。 駅周辺の再開発事業が完了した2013年度からは増加傾向にあったが、2020年度は新型コロナウイルス感染拡大の影響で大幅に減少した。 近年の1日平均乗降人員および乗車人員の推移は下記の通り。 駅北側の国道20号沿いに「笹塚駅」停留所がある。
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笹塚駅(ささづかえき)は、東京都渋谷区笹塚一丁目にある、京王電鉄京王線の駅である。「京王ライナー」「Mt.TAKAO号」を除く全列車が停車する。京王東管区所属。駅番号はKO04。渋谷区に所在する駅では最西端に位置している。
{{統合文字|塚|[[File:U+FA10.svg|17px]]}} {{駅情報 |社色 = #dd0077 |文字色 = |駅名 = 笹&#64016;駅 |画像 = Sasazuka-Sta-N.JPG |pxl = 300px |画像説明 = 北口(2011年2月) |地図 = {{Infobox mapframe|zoom=14|frame-width=300|type=point|marker=rail}} |よみがな = ささづか |ローマ字 = Sasazuka |所属事業者 = [[京王電鉄]] |駅番号 = {{駅番号r|KO|04|#dd0077|5}} |所在地 = [[東京都]][[渋谷区]][[笹塚]]一丁目56番7号 |緯度度 = 35 |緯度分 = 40 |緯度秒 = 25.2 |N(北緯)及びS(南緯) = N |経度度 = 139 |経度分 = 40 |経度秒 = 2 |E(東経)及びW(西経) = E |地図国コード = JP |座標右上表示 = Yes |開業年月日 = [[1913年]]([[大正]]2年)[[4月15日]] |駅構造 = [[高架駅]] |ホーム = 2面4線 |乗車人員 = |乗降人員 = <ref group="京王" name="keio2022" />66,646 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#dd0077|■}}[[京王線]] |前の駅1 = KO01 [[新宿駅|京王線新宿]] |駅間A1 = 3.6 |駅間B1 = 0.8 |次の駅1 = [[代田橋駅|代田橋]] KO05 |駅番号1 = |キロ程1 = 3.6 |起点駅1 = 京王線新宿 |所属路線2 = {{color|#dd0077|■}}[[京王新線]] |隣の駅2 = |前の駅2 = KO03 [[幡ヶ谷駅|幡ヶ谷]] |駅間A2 = 0.9 |駅間B2 = |次の駅2 = |駅番号2 = |キロ程2 = 3.6 |起点駅2 = 新線新宿 |乗換 = |備考 = 線路名称上は京王線 }} {|{{Railway line header}} {{UKrail-header2|<br />笹塚駅<br />配線図|#dd0077}} {{BS-table|配線}} {{BS-colspan}} ↑<br />1・4 [[新宿駅|京王線新宿駅]]<br/>2・3 [[幡ヶ谷駅]] {{BS4text|4|3|2|1}} {{BS4|tSTRg|tSTRg|tSTRf|tSTRf}} {{BS4|tSTRe|tSTR|tSTR|tSTR}} {{BS4|STR|tSTRe|tSTRe|tSTRe}} {{BS4|KRWgl+l|KRWgr+r|STR|STR}} {{BS4|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr}} {{BS4|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr}} {{BS4|STR+BSl|STR+BSr|STR+BSl|STR+BSr}} {{BS4|KRWg+l|KRWglr|O2=KRW+l|KRWglr|O3=KRW+r|KRWg+r}} {{BS4|STR|STR|STR|STR}} {{BS4|STR|STR|STR|STR}} {{BS4|STR|ENDEe|ENDEe|STR}} {{BS4|STR2|STRc3|STRc2|STR3}} {{BS4|STRc1|STR+4|STR+1|STRc4}} {{BS4||STRg|STRf|}} {{BS-colspan}} ↓[[代田橋駅]] |} |} '''笹塚駅'''(ささづかえき)は、[[東京都]][[渋谷区]][[笹塚]]一丁目にある、[[京王電鉄]][[京王線]]の[[鉄道駅|駅]]である。[[京王ライナー|「京王ライナー」「]][[京王ライナー#Mt.TAKAO号|Mt.TAKAO号]]」を除く全列車が停車する。京王東管区所属。[[駅ナンバリング|駅番号]]は'''KO04'''。渋谷区に所在する駅では最西端に位置している。 == 乗り入れ路線 == 当駅に乗り入れている路線は、線路名称上は[[京王線]]のみであるが(詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」を参照)、当駅 ー 新宿駅間の複々線の運転系統は次の2系統に分かれており、旅客案内ではそれぞれ別路線として扱われている。 * 京王線:[[新宿駅|京王線新宿駅]]発着の列車。各駅停車を含む全列車が[[初台駅]]および[[幡ヶ谷駅]]を通過する(トンネルが異なり経由しない)。 * [[京王新線]]:新線新宿駅発着の列車。全列車が初台駅および幡ヶ谷駅に停車し、新線新宿駅から[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]に直通する。 == 歴史 == * [[1913年]]([[大正]]2年) ** [[4月15日]] - 京王電気軌道により、当駅 - [[調布駅]]間の開通と同時に開業。当時は[[車両基地|車庫]]が併設されていた。京王電鉄で最も古い駅の一つ。 ** [[10月11日]] - 代々幡(現・廃止)- 当駅間開業。 * [[1944年]]([[昭和]]19年)[[5月31日]] - [[陸上交通事業調整法]]に基づき、[[東京急行電鉄]]により吸収合併。 * [[1948年]](昭和23年)[[6月1日]] - [[大東急]]解体に伴う再編により、京王帝都電鉄として分離独立。 * [[1978年]](昭和53年) ** [[7月21日]] - 駅高架化。 ** [[10月31日]] - 新宿 - 当駅間複々線化、線増部は地下別線となり、その通称を京王新線とする。 * [[1998年]]([[平成]]10年)[[7月1日]] - 京王電鉄に社名変更。 * [[2010年]](平成22年)[[12月5日]] - 両渡り線の移設、車止めの延伸により、京王新線の引き上げ線が8両から10両対応となる。 * [[2013年]](平成25年)[[2月22日]] - '''KO04'''の[[駅ナンバリング]]を導入。 * [[2015年]](平成27年)[[9月25日]] - ダイヤ改正により準特急の停車駅となる<ref name="keio2015">{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr150826_timetable20150925.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200222032515/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2015/nr150826_timetable20150925.pdf|format=PDF|language=日本語|title=9月25日(金)に京王線・井の頭線のダイヤ改正を実施します 〜都心方面へのアクセス強化など利便性向上を図ります〜|publisher=京王電鉄|date=2015-08-26|accessdate=2020-04-11|archivedate=2020-02-22}}</ref>。 * [[2020年]]([[令和]]2年)度 - 笹塚↔[[仙川駅|仙川]]の高架化工事に伴い、引き上げ線の一部を撤去<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/train/sasazuka-sengawa/progress/pdf/keiokoukakainformation_2.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210515134508/https://www.keio.co.jp/train/sasazuka-sengawa/progress/pdf/keiokoukakainformation_2.pdf|title=keio 高架化 information 京王電鉄京王線(笹塚駅〜仙川駅間)連続立体交差事業 Vol.2|date=2020-06-30|archivedate=2021-05-15|accessdate=2021-12-19|publisher=京王電鉄|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)[[3月12日]] - ダイヤ改正により準特急が廃止され、代わって特急の停車駅となる<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20220127_daiya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220127090428/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20220127_daiya.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年3月12日(土)始発から京王線ダイヤ改正を実施します 平日も京王ライナーの停車駅に明大前が加わります。|publisher=京王電鉄|date=2022-01-27|accessdate=2022-01-27|archivedate=2022-01-27}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20211210_daiya.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211213181936/https://www.keio.co.jp/news/update/news_release/news_release2021/nr20211210_daiya.pdf|format=PDF|language=日本語|title=2022年春 「さらに便利で快適な移動」が実現 京王線 ダイヤ改正を実施します|publisher=京王電鉄|date=2021-12-10|accessdate=2021-12-19|archivedate=2021-12-13}}</ref>。 === 駅名の由来 === 当地は[[内藤新宿]]からの距離により、一里塚が[[甲州街道]]の両脇にあって、その塚が笹やぶで覆われていたことから、「[[幡ヶ谷村]]笹塚」と命名される。 なお、駅名表記は地名表記に基づき[[旧字体]]の「笹'''塚'''駅」(点あり)であり、京王電鉄側は例外を除いてこれに統一しているが、同社の公式サイトや地域社会の間では「笹'''塚'''駅」(点なし)とも表記される<ref>{{Cite web|和書|title=笹塚駅の「塚」の字に「余計な点」があるワケ 鉄道会社で「こだわり」に差も?|url=https://trafficnews.jp/post/105423|website=乗りものニュース|accessdate=2022-01-14|language=ja}}</ref>。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]2面4線、副本線(京王新線)側に繋がる引上線2線を有する[[高架駅]]である。ホームと[[改札]]口階との間には[[エレベーター]]が設置されている。[[便所|トイレ]]は1階改札口内にあり、[[ユニバーサルデザイン]]の一環として「だれでもトイレ」も併設されている。<!--[[2007年]][[9月9日]]から同年[[12月]]初旬にかけて改修工事が実施された。男性用・女性用トイレの改修期間中はコインロッカーを撤去してその場所に仮設トイレが設置された。--> === のりば === {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- ! 1 |rowspan=2|[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 |style="text-align:center" rowspan="2"|下り |rowspan="2"|[[明大前駅|明大前]]・[[調布駅|調布]]・[[橋本駅 (神奈川県)|橋本]]・[[京王八王子駅|京王八王子]]・[[高尾山口駅|高尾山口]]方面 |style="text-align:left"|{{smaller|京王線}}新宿からの列車 |- ! 2 |style="text-align:left"|京王新線方面からの列車 |- ! 3 |[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王新線 |style="text-align:center" rowspan="2"|上り |[[幡ヶ谷駅|幡ヶ谷]]・[[初台駅|初台]]・[[新宿駅|<span style="font-size:80.0%">新線</span>新宿]]・[[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] [[都営地下鉄新宿線|<span style="font-size:80.0%">都営</span>新宿線]]方面 |新宿駅から [[File:Toei Shinjuku line symbol.svg|15px|S]] 都営新宿線へ直通<br />一部は{{smaller|京王線}}新宿行き |- ! 4 |[[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 |[[新宿駅|<span style="font-size:80.0%">京王線</span>新宿]]方面 |style="text-align:left"|一部は新線新宿行き |} * 当駅 - 新宿間は複々線である。それにあたり[[幡ヶ谷駅]]・[[初台駅]]は線増部となる[[京王新線]]側にホームを移設した([http://www.keio.co.jp/train/station/station_map/pdf/k01_shinjuku.pdf 新宿駅 駅構内マップを参照])。両駅利用客への便宜を図るため、日中は<span style="font-size:95%">京王線</span>新宿行と区間急行・快速本八幡行き(笹塚始発急行本八幡行き含む)が相互接続している。 * 上り線は原則として、3番線を京王新線、4番線を京王線の列車が使用する。ただし、3・4番線の間には新宿方に[[分岐器#形状による分類|両渡り線]]があり、3番線からの{{smaller|京王線}}新宿行、4番線からの新線新宿(都営新宿線方面)行も初電や終電などに存在する。なお、1・2番線の間には渡り線はない。 * [[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]][[本八幡駅|本八幡]]・[[大島駅 (東京都)|大島]]方面から京王へ乗り入れる急行のほとんどは当駅止まりである。そのため、[[代田橋駅|代田橋]]寄りに10両編成対応の[[引き上げ線]]が設置されている。先端部では本線より軌道の高さが高くなっている。 * 都営新宿線から到着した当駅止まりの列車は2番線に入線し、乗客を降ろして引き上げ線に入線した後、折り返して3番線から出発する。そのため、当駅は京王の単独駅ではあるものの、「京王線の途中駅かつ都営新宿線の末端駅」の様相を呈している<ref group="注釈">これに類似した運行形態は[[代々木上原駅]]・[[和光市駅]]・[[中目黒駅]]・[[竹田駅 (京都府)|竹田駅]]でも採用されている。ただし笹塚以外の駅は地下鉄の路線が直接乗り入れている駅である(竹田駅は[[近鉄京都線]]の途中駅だが[[京都市営地下鉄]]の管轄である)。</ref>。 {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |ファイル:Sasazuka-Sta-S.JPG|南口(2011年2月) |ファイル:Sasazuka-Sta-Gate.JPG|改札口(2011年5月) |ファイル:笹塚-16.JPG|ホーム(京王新線=複々線区間終点)(2014年12月) |ファイル:笹塚-14.JPG|上り新宿駅方向。当駅ホームは外側2線が京王線、内側2線が線増部となる京王新線(2014年12月) |ファイル:笹塚-15.JPG|下り明大前駅方向。副本線となる京王新線側に引上線2線を有する(2014年12月) }} == 利用状況 == [[2022年]]度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''66,646人'''である<ref group="京王" name="keio2022" />。 駅周辺の再開発事業が完了した2013年度からは増加傾向にあったが、2020年度は新型コロナウイルス感染拡大の影響で大幅に減少した。 近年の1日平均'''乗降'''人員および'''乗車'''人員の推移は下記の通り。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降・乗車人員<ref>[https://www.city.shibuya.tokyo.jp/city/pub/gaiyo.html 渋谷区勢概要] - 渋谷区</ref> !年度 !1日平均<br />乗降人員<ref>[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !1日平均<br />乗車人員<ref>[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref> !出典 |- |1955年(昭和30年) |28,730 | | |- |1960年(昭和35年) |39,180 | | |- |1965年(昭和40年) |45,332 | | |- |1970年(昭和45年) |49,424 | | |- |1975年(昭和50年) |48,811 | | |- |<ref group="注釈">京王新線開通年度</ref>1978年(昭和53年) |50,585 | | |- |<ref group="注釈">都営新宿線相互乗入開始年度</ref>1979年(昭和54年) |52,013 | | |- |1980年(昭和55年) |53,746 | | |- |1985年(昭和60年) |67,088 | | |- |1990年(平成{{0}}2年) |71,098 |34,644 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | |35,648 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | |36,148 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | |36,973 |<ref 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group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) |76,937 |37,729 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) |76,798 |37,901 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) |77,594 |38,391 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) |77,597 |38,526 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) |77,835 |37,784 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) |79,279 |39,836 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) |81,538 |40,858 |<ref 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group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |79,406 |39,440 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |80,570 |40,077 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |81,557 |40,559 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |82,784 |41,126 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |82,813 |41,060 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |60,167 |29,901 |<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2020/tn20q3i004.htm 東京都統計年鑑(令和2年)]</ref> |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="京王" name="keio2021">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220626083727/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2022-06-26 |deadlink=2023-08-02 |}}</ref>61,710 | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="京王" name="keio2022">{{Cite web|和書|author=京王電鉄株式会社 |authorlink=京王電鉄 |coauthors= |date= |title=1日の駅別乗降人員|url=https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |publisher= |page= |docket= |format= |accessdate=2023-10-01 |quote= |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230610030616/https://www.keio.co.jp/group/traffic/railroading/passengers/index.html |archivedate=2023-06-10 |deadlink= |}}</ref>66,646 | | |} == 駅周辺 == {{Main|笹塚}} * 道路 ** [[国道20号]]([[甲州街道]]) ** [[首都高速4号新宿線]] ** [[東京都道420号鮫洲大山線]](甲州街道以北は[[中野通り]]) * 施設 ** [[メルクマール京王笹塚]] *** [[京王重機整備]]本社 *** [[渋谷区立笹塚図書館]] ***フレンテ笹塚 ** [https://www.mall21.co.jp/ 笹塚ショッピングモール21] ** [[笹塚NAビル]] ** 東京消防庁消防技術安全所 ** [[消防試験研究センター]]中央試験センター ** [[渋谷区役所]]笹塚出張所 ** 笹塚駅前郵便局 ** 渋谷笹塚郵便局 ** [[三井住友銀行]]笹塚支店 ** [[三菱UFJ銀行]]笹塚支店 ** [[みずほ銀行]]笹塚支店 ** [[きらぼし銀行]]笹塚支店 ** [[81プロデュース]]本社・声優ミュージアム * 商店街 - 付近の[[商店街]]は、東隣の[[幡ヶ谷駅|幡ヶ谷]]周辺(地名では渋谷区笹塚・[[幡ヶ谷]]・[[西原 (渋谷区)|西原]])の商店街とともに[http://www.sasahata.com/ ささはたドッとこむ]を運営している。 ** [[京王クラウン街]]笹塚 ** 笹塚大通り商店街 ** 笹塚観音通り商店街 ** 笹塚十号通り商店街 ** 笹塚十号坂商店街 * その他 ** [[玉川上水]] === バス路線 === 駅北側の国道20号沿いに「'''笹塚駅'''」停留所がある。 * [[都営バス]] ** [[都営バス杉並支所#渋66系統|渋66]] [[渋谷駅]]行、[[阿佐ケ谷駅]]行 * [[京王電鉄バス#京王バス|京王バス]] ** [[京王バス中野営業所#幡ヶ谷線|渋65]] 渋谷駅行(※笹塚東北沢循環) ** [[京王バス中野営業所#阿佐ヶ谷線|渋66]] 渋谷駅行、阿佐ケ谷駅行 ** [[京王バス中野営業所#笹塚循環線|渋69]] 渋谷駅行 ** [[京王バス中野営業所#幡代線、代田橋循環線|中81]] [[中野駅 (東京都)|中野駅]]行 ** 中82 中野駅行 * [[小田急バス]] ** [[小田急バス武蔵境営業所#新宿線|宿44]] [[新宿駅のバス乗り場|新宿駅西口]]行、[[武蔵境駅]]南口行 **[[よみうりランド]]行(季節運行) * [[コミュニティバス]] ** [[ハチ公バス]] 春の小川ルート == 舞台となった作品 == * [[青山七恵]]『ひとり日和』<ref>『[[週刊文春]]』2007年2月1日号で青山自身によって言明されている。</ref> * [[東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜]] * [[駅弁ひとり旅]] - 主人公の'''中原大介'''が笹塚駅周辺で弁当店を経営している設定。 * [[はたらく魔王さま!]] == ギャラリー == {{Gallery |align=center |width=160 |height=120 |笹塚-13d.JPG|「メルクマール京王笹塚」ビル |笹塚-2.JPG|笹塚駅高架下、京王クラウン街(2014年12月撮影) |笹塚-6.JPG|笹塚一丁目、笹塚ショッピングモール21(2014年12月撮影) |笹塚-7.JPG|笹塚二丁目、甲州街道十号通り商店街入口(2014年12月撮影) |笹塚-11.JPG|笹塚二丁目水道通り、笹塚十号通り商店街入口(2014年12月撮影) |玉川上水と笹塚駅001.jpg|南口側と玉川上水 }} == 隣の駅 == ; 京王電鉄 : [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王線 :: {{Color|deeppink|■}}特急・{{Color|#20b2aa|■}}急行・{{Color|olive|■}}区間急行・{{Color|blue|■}}快速 ::: [[新宿駅|{{smaller|京王線}}新宿駅]] (KO01) - '''笹塚駅 (KO04)''' - [[明大前駅]] (KO06) :: {{Color|gray|■}}各駅停車 ::: {{smaller|京王線}}新宿駅 (KO01) - '''笹塚駅 (KO04)''' - [[代田橋駅]] (KO05) : [[File:Number prefix Keio-line.svg|15px|KO]] 京王新線 :: {{Color|#20b2aa|■}}急行・{{color|olive|■}}区間急行・{{Color|blue|■}}快速(いずれも京王新線内は各駅に停車) ::: [[幡ヶ谷駅]] (KO03) - '''笹塚駅 (KO04)''' - 明大前駅(京王線)(KO06) :: {{Color|gray|■}}各駅停車 ::: 幡ヶ谷駅 (KO03) - '''笹塚駅 (KO04)''' - 代田橋駅(京王線)(KO05) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="*"|22em}} ;京王電鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="京王"|3}} == 関連項目 == {{commonscat|Sasazuka Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[笹塚]] == 外部リンク == * [https://www.keio.co.jp/train/station/ko04_sasazuka/ 京王電鉄 笹塚駅] {{京王線}} {{DEFAULTSORT:ささつかえき}} [[Category:渋谷区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 さ|さつか]] [[Category:京王電鉄の鉄道駅]] [[Category:1913年開業の鉄道駅]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%B9%E5%A1%9A%E9%A7%85
4,333
京王新線
京王新線(けいおうしんせん、英: Keio New Line)は、京王電鉄京王線の複々線区間である新宿駅 - 笹塚駅間の線増部の通称である。京王線の笹塚駅以西と都営地下鉄新宿線を連絡する役割を持つ。新宿駅の位置の違いと途中駅の有無から旅客案内で多用される。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。 京王新線の名称はあくまで通称であり、正式には京王線の一部である。京王線の輸送力増強のための線増として1978年10月31日に開業し、1980年3月16日から都営地下鉄新宿線との相互直通運転を開始した。これは、都営新宿線との直通運転の際、ターミナル駅である新宿駅の改修が難しかったためとされている。京王新線開業後は、京王新線の新宿駅は「新線新宿駅」、既設の京王線の新宿駅は「京王線新宿駅」(または単に「新宿駅」)と案内されている。 ほぼ、京王線と並行して国道20号(甲州街道)下、京王線より深い所を走り、笹塚駅の新宿寄りの一部区間を除き、地下路線となっている。京王線笹塚以西への始発と最終列車は新線新宿発着である。また、東京競馬場での開催時には府中競馬正門前駅から新線新宿行きの急行も運転されるが、新線内は各駅に停車する。 新線新宿駅は東京都交通局との共同使用駅で、国道20号の地下約30 m下にあたる地下5階、京王線などの駅よりも西寄りの位置にホームがある。ここから西南西に向かう。初台 - 幡ヶ谷付近は、首都高速4号新宿線の工事と重なったことから、建設工事は首都高速道路公団(当時)に委託した。初台駅は上り線が地下2階、下り線が地下3階で、いずれも北側(笹塚に向かって右側)にホームがある。幡ヶ谷駅は首都高速道路の高架橋と京王線のトンネルが一体構造となっており、地下2階に位置する対向式2面2線のホームである。 ここまでで国道20号の地下から離れ、南に沿って走ってきた京王線に寄り添うように向かい、一足先に地上に姿を現した京王線の上り線の南側(笹塚に向かって左側)に地下から回り込み、ここで京王線の下り線と出会ってから、下り線と共に地上に向かう。地上に出たところで京王線上下線にはさまれる形となり、そのまま高架へ上る。私道と都道420号(中野通り)をまたぐと、笹塚駅に至る。 京王新線内はすべての列車が各駅に停車する。 開通当初(都営新宿線直通開始前)は新線新宿駅 - 京王多摩センター駅間の快速と京王新線内折り返しの各駅停車のみの運行であったが、2015年1月現在、京王新線内折り返し列車は設定されておらず、都営地下鉄新宿線または京王線に直通する。都営地下鉄新宿線からの電車の大半がこの路線を通り笹塚駅まで運行するため、運転系統上都営新宿線の延長線のような路線となっている。分離運転を前提としたダイヤとなっていないため、事故・各種トラブルなどによる輸送障害時であっても都営地下鉄新宿線との相互直通運転中止の措置は取られない。ただし、同じ地下線でも運営・設備管理・運行管理は京王電鉄であるため、当線の閉塞方式は2011年10月まで自動閉塞式となっていた(都営地下鉄新宿線は開業時から車内信号閉塞式)。保安装置も京王のものを使用しているため、都営地下鉄の車両にも京王の保安装置を搭載している。 日中は2022年3月12日のダイヤ改正以降、直通先の都営新宿線とともにパターンダイヤとなっていないが、概ね1時間あたり本八幡駅 - 京王多摩センターまたは橋本駅間の区間急行と快速が計6本、本八幡駅 - 笹塚駅間の各駅停車が3本程度運行される。区間急行と快速は原則交互に運転されるが、都営新宿線内を急行運転する列車は京王線内快速とはならず区間急行となる(土休日に限り全区間にて急行で運転される列車もある)ため、その前後に限り順序が入れ替わることがある。笹塚駅において、区間急行・快速と後続の京王線新宿駅発着の特急とは必ずしも接続しない。また、早朝・深夜には新線新宿駅発着の各駅停車が運行される。 初台駅と幡ヶ谷駅はいずれも線増に際し京王線側から線増部となる新線側にホームを移設したため、京王線側は各駅停車も含め全ての電車が通過する(トンネルが異なり経由しない)。京王線新宿駅では初台駅・幡ヶ谷駅へは「新線新宿駅」から乗るようにとの案内を行っている。京王線新宿駅と新線新宿駅は改札内で接続している同一駅であるが、旅客案内上呼称は使い分けられ、別々のホームで距離も離れている。 また、2022年3月12日のダイヤ改正までは調布以西から特急を利用して初台駅や幡ヶ谷駅に行く場合は、接続列車が都営地下鉄新宿線直通でない限り明大前駅・笹塚駅で2回乗り継ぐ必要があった。 定期券の経路に新宿駅 - 笹塚駅間が含まれている場合は京王線・新線のどちらにも乗車でき、初台駅・幡ヶ谷駅・京王線新宿駅・新線新宿駅のいずれの駅での乗降も可能である(ただし新宿駅までの定期券で渋谷駅、渋谷駅までの定期券で新宿駅でも乗降できる通勤定期券「どっちーも」の後者の2区間目の場合は京王線新宿駅・新線新宿駅に限る)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "京王新線(けいおうしんせん、英: Keio New Line)は、京王電鉄京王線の複々線区間である新宿駅 - 笹塚駅間の線増部の通称である。京王線の笹塚駅以西と都営地下鉄新宿線を連絡する役割を持つ。新宿駅の位置の違いと途中駅の有無から旅客案内で多用される。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "京王新線の名称はあくまで通称であり、正式には京王線の一部である。京王線の輸送力増強のための線増として1978年10月31日に開業し、1980年3月16日から都営地下鉄新宿線との相互直通運転を開始した。これは、都営新宿線との直通運転の際、ターミナル駅である新宿駅の改修が難しかったためとされている。京王新線開業後は、京王新線の新宿駅は「新線新宿駅」、既設の京王線の新宿駅は「京王線新宿駅」(または単に「新宿駅」)と案内されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ほぼ、京王線と並行して国道20号(甲州街道)下、京王線より深い所を走り、笹塚駅の新宿寄りの一部区間を除き、地下路線となっている。京王線笹塚以西への始発と最終列車は新線新宿発着である。また、東京競馬場での開催時には府中競馬正門前駅から新線新宿行きの急行も運転されるが、新線内は各駅に停車する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "新線新宿駅は東京都交通局との共同使用駅で、国道20号の地下約30 m下にあたる地下5階、京王線などの駅よりも西寄りの位置にホームがある。ここから西南西に向かう。初台 - 幡ヶ谷付近は、首都高速4号新宿線の工事と重なったことから、建設工事は首都高速道路公団(当時)に委託した。初台駅は上り線が地下2階、下り線が地下3階で、いずれも北側(笹塚に向かって右側)にホームがある。幡ヶ谷駅は首都高速道路の高架橋と京王線のトンネルが一体構造となっており、地下2階に位置する対向式2面2線のホームである。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ここまでで国道20号の地下から離れ、南に沿って走ってきた京王線に寄り添うように向かい、一足先に地上に姿を現した京王線の上り線の南側(笹塚に向かって左側)に地下から回り込み、ここで京王線の下り線と出会ってから、下り線と共に地上に向かう。地上に出たところで京王線上下線にはさまれる形となり、そのまま高架へ上る。私道と都道420号(中野通り)をまたぐと、笹塚駅に至る。", "title": "沿線概況" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "京王新線内はすべての列車が各駅に停車する。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "開通当初(都営新宿線直通開始前)は新線新宿駅 - 京王多摩センター駅間の快速と京王新線内折り返しの各駅停車のみの運行であったが、2015年1月現在、京王新線内折り返し列車は設定されておらず、都営地下鉄新宿線または京王線に直通する。都営地下鉄新宿線からの電車の大半がこの路線を通り笹塚駅まで運行するため、運転系統上都営新宿線の延長線のような路線となっている。分離運転を前提としたダイヤとなっていないため、事故・各種トラブルなどによる輸送障害時であっても都営地下鉄新宿線との相互直通運転中止の措置は取られない。ただし、同じ地下線でも運営・設備管理・運行管理は京王電鉄であるため、当線の閉塞方式は2011年10月まで自動閉塞式となっていた(都営地下鉄新宿線は開業時から車内信号閉塞式)。保安装置も京王のものを使用しているため、都営地下鉄の車両にも京王の保安装置を搭載している。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "日中は2022年3月12日のダイヤ改正以降、直通先の都営新宿線とともにパターンダイヤとなっていないが、概ね1時間あたり本八幡駅 - 京王多摩センターまたは橋本駅間の区間急行と快速が計6本、本八幡駅 - 笹塚駅間の各駅停車が3本程度運行される。区間急行と快速は原則交互に運転されるが、都営新宿線内を急行運転する列車は京王線内快速とはならず区間急行となる(土休日に限り全区間にて急行で運転される列車もある)ため、その前後に限り順序が入れ替わることがある。笹塚駅において、区間急行・快速と後続の京王線新宿駅発着の特急とは必ずしも接続しない。また、早朝・深夜には新線新宿駅発着の各駅停車が運行される。", "title": "運転" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初台駅と幡ヶ谷駅はいずれも線増に際し京王線側から線増部となる新線側にホームを移設したため、京王線側は各駅停車も含め全ての電車が通過する(トンネルが異なり経由しない)。京王線新宿駅では初台駅・幡ヶ谷駅へは「新線新宿駅」から乗るようにとの案内を行っている。京王線新宿駅と新線新宿駅は改札内で接続している同一駅であるが、旅客案内上呼称は使い分けられ、別々のホームで距離も離れている。 また、2022年3月12日のダイヤ改正までは調布以西から特急を利用して初台駅や幡ヶ谷駅に行く場合は、接続列車が都営地下鉄新宿線直通でない限り明大前駅・笹塚駅で2回乗り継ぐ必要があった。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "定期券の経路に新宿駅 - 笹塚駅間が含まれている場合は京王線・新線のどちらにも乗車でき、初台駅・幡ヶ谷駅・京王線新宿駅・新線新宿駅のいずれの駅での乗降も可能である(ただし新宿駅までの定期券で渋谷駅、渋谷駅までの定期券で新宿駅でも乗降できる通勤定期券「どっちーも」の後者の2区間目の場合は京王線新宿駅・新線新宿駅に限る)。", "title": "駅一覧" } ]
京王新線は、京王電鉄京王線の複々線区間である新宿駅 - 笹塚駅間の線増部の通称である。京王線の笹塚駅以西と都営地下鉄新宿線を連絡する役割を持つ。新宿駅の位置の違いと途中駅の有無から旅客案内で多用される。駅ナンバリングで使われる路線記号はKO。
{{Pathnav|京王線|frame=1}} {{出典の明記|date=2013年12月}} {{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:KeioRailway logo.svg|38px|京王電鉄|link=京王電鉄]] 京王新線 |路線色=#dd0077 |ロゴ=File:Number prefix Keio-line.svg |ロゴサイズ=40px |画像=File:Tokyo-to 10-300 series 10-490F.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=京王新線で運用される都営[[東京都交通局10-300形電車|10-300形]]電車<br>(2013年9月) |国={{JPN}} |所在地=[[東京都]][[新宿区]]、[[渋谷区]] |起点=[[新宿駅]] |終点=[[笹塚駅]] |駅数=4駅 |経由路線=[[京王線]] |路線記号=KO |開業=[[1978年]][[10月30日]] |休止= |廃止= |所有者=[[京王電鉄]] |運営者=京王電鉄 |車両基地= |使用車両=[[京王線#車両]]を参照 |路線距離=3.6 [[キロメートル|km]] |軌間=1,372 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]] [[架空電車線方式]] |最大勾配 = 35&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="Dobokusekou1979-11">山海堂『土木施工』1979年11月号施工研究「京王線新宿 - 笹塚間複々線化工事」pp.69 - 77。</ref> |最小曲線半径=500&nbsp;m<ref name="Dobokusekou1979-11"/> |閉塞方式=速度制御式 |保安装置=京王[[自動列車制御装置|ATC]] |最高速度= |路線図=[[File:京王新線路線図.svg|300px]] }} '''京王新線'''(けいおうしんせん、{{Lang-en-short|Kei&#333; New Line}})は、[[京王電鉄]][[京王線]]の[[複々線]]区間である[[新宿駅]] - [[笹塚駅]]間の線増部の通称である。京王線の笹塚駅以西と[[都営地下鉄新宿線]]を連絡する役割を持つ。新宿駅の位置の違いと途中駅の有無から旅客案内で多用される。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KO'''。 == 概要 == {{BS-map |title=停車場・施設・接続路線 |title-color=white |title-bg=#dd0077 |collapse= |map= {{BS2|tKHSTa||||[[本八幡駅]]|}} {{BS2|tSTR||||[[都営地下鉄|都営]]:[[都営地下鉄新宿線|新宿線]]|}} {{BS4|BHFq|O1=HUBa|tKRZ|STRq||||[[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[山手線]]|}} {{BS4|KBHFaq|O1=HUB|tKRZ|STRq||||[[小田急電鉄|小田急]]:[[小田急小田原線|小田原線]]|}} {{BS4|tKBHFaq|O1=HUB|tKRZt|tSTRq|tSTR+r|||[[新宿駅#京王電鉄(京王線)|(京王線)新宿駅]]|}} {{BS4||O1=HUBlf|tBHF|O2=HUBq||O3=HUBlg|tSTR|0.0|KO01 [[新宿駅#京王電鉄(京王新線)・東京都交通局(都営地下鉄新宿線)|(新線)新宿駅]]||}} {{BS4||tKRZt|tBHFq|O3=HUBe|tKRZt|||都営:[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]|}} {{BS4||tSTR|tSTRc2|tSTR3||||}} {{BS4||tSTR|tSTR+1|tSTRc4||||}} {{BS2|tBHF|etBHF|1.7|KO02 [[初台駅]]||}} {{BS2|tBHF|tSTR|2.7|KO03 [[幡ヶ谷駅]]||}} {{BS2|tSTRe|tSTRe||||}} {{BS2|STRl|ABZg+r||||}} {{BS2||BHF|3.6|KO04 [[笹塚駅]]||}} {{BS2||STR|||[[京王線]]|}} }} 京王新線の名称はあくまで通称であり、正式には[[京王線]]の一部である。京王線の輸送力増強のための線増として[[1978年]][[10月31日]]に開業し<ref name="historytimeline" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://shhfan.com/sanpo1.html/|title=【ぶらっとササハタハツ散歩Vol.1】京王線の歴史を巡ってみた|publisher=ササハタハツ新聞 |date=2020-03-16|accessdate=2020-12-30}}</ref>、[[1980年]][[3月16日]]から[[都営地下鉄新宿線]]との相互[[直通運転]]を開始した<ref name="historytimeline">{{Cite web|和書|url=https://www.keio.co.jp/100th/historytimeline.html|title=京王の電車・バス開業100周年年表|京王グループ|accessdate=2018-02-26}}</ref>。これは、都営新宿線との直通運転の際、ターミナル駅である新宿駅の改修が難しかったためとされている。京王新線開業後は、京王新線の新宿駅(4・5番線)は「新線新宿駅」、既設の京王線の新宿駅(1 - 3番線)は「京王線新宿駅」(または単に「新宿駅」)と案内されている。 ほぼ、京王線と並行して[[国道20号]](甲州街道)下、京王線より深い所を走り、笹塚駅付近を除き[[地下鉄|地下路線]]となっている。京王線笹塚以西への始発と最終列車は新線新宿発着である。また、[[東京競馬場]]での開催時には[[府中競馬正門前駅]]から新線新宿行きの急行も運転されるが、新線内は各駅に停車する。 === 路線データ === * 路線距離:3.6 km * [[軌間]]:1,372 mm * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1,500 V) * 保安装置:京王[[自動列車制御装置|ATC]] * 司令所:運輸指令所 * 建設主体:[[日本鉄道建設公団]](現 [[独立行政法人]] [[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]) ** 初台 - 幡ヶ谷付近の延長1,780 mは[[首都高速道路公団]](現・[[首都高速道路]])が受託施工<ref name="Dobokusekou1979-11"/> * 建設費用:445億円<ref name="Dobokusekou1979-11"/> ** [[土工 (工種)|土工]]区間363 m、[[高架橋]]・橋梁840 m、橋梁120 m、[[トンネル]]2,664 m<ref name="Dobokusekou1979-11"/>(トンネル名:新線新宿トンネル<ref name="Keio-History50th-235" >京王電鉄『京王電鉄五十年史』p.235。</ref>) == 歴史 == * [[1970年]](昭和45年)10月 - 建設工事着工<ref name="Dobokusekou1979-11"/>。 * [[1972年]](昭和47年)12月 - 京王線の初台 - 笹塚間が[[連続立体交差事業]]として都市計画決定<ref name="Dobokusekou1979-11"/>。これにより、京王新線の幡ヶ谷 - 笹塚間の建設工事と同時施工となる<ref name="Dobokusekou1979-11"/>。 * [[1978年]](昭和53年)[[10月31日]] - 開業<ref name="Dobokusekou1979-11"/>。 == 沿線概況 == 新線新宿駅は[[東京都交通局]]との[[共同使用駅]]で、国道20号の地下約30 m下にあたる地下5階、京王線などの駅よりも西寄りの位置にホームがある<ref name="Dobokusekou1979-11"/>。ここから西南西に向かう。初台 - 幡ヶ谷付近は、[[首都高速4号新宿線]]の工事と重なったことから、建設工事は[[首都高速道路公団]](当時)に委託した<ref name="Dobokusekou1979-11"/>。初台駅は上り線が地下2階、下り線が地下3階で、いずれも北側(笹塚に向かって右側)にホームがある。幡ヶ谷駅は首都高速道路の高架橋と京王線のトンネルが一体構造となっており、地下2階に位置する対向式2面2線のホームである。 ここまでで国道20号の地下から離れ、南に沿って走ってきた京王線に寄り添うように向かい、一足先に地上に姿を現した京王線の上り線の南側(笹塚に向かって左側)に地下から回り込み、ここで京王線の下り線と出会ってから、下り線と共に地上に向かう。地上に出たところで京王線上下線にはさまれる形となり、そのまま高架へ上る。私道と[[東京都道420号鮫洲大山線|都道420号]](中野通り)をまたぐと、笹塚駅に至る。 == 運転 == {{Main|京王線}} 京王新線内はすべての列車が各駅に停車する。 開通当初(都営新宿線直通開始前)は新線新宿駅 - 京王多摩センター駅間の快速と京王新線内折り返しの各駅停車のみの運行であったが、2015年1月現在、京王新線内折り返し列車は設定されておらず、都営地下鉄新宿線または京王線に直通する。都営地下鉄新宿線からの電車の大半がこの路線を通り[[笹塚駅]]まで運行するため、運転系統上都営新宿線の延長線のような路線となっている。分離運転を前提としたダイヤとなっていないため、事故・各種トラブルなどによる輸送障害時であっても都営地下鉄新宿線との相互直通運転中止の措置は取られない。ただし、同じ地下線でも運営・設備管理・運行管理は京王電鉄であるため、当線の[[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]は[[2011年]]10月まで[[閉塞 (鉄道)#自動閉塞式|自動閉塞式]]となっていた(都営地下鉄新宿線は開業時から[[閉塞 (鉄道)#車内信号閉塞式|車内信号閉塞式]])。保安装置も京王のものを使用しているため、都営地下鉄の車両にも京王の保安装置を搭載している。 日中は2022年3月12日のダイヤ改正以降、直通先の都営新宿線とともにパターンダイヤとなっていないが、概ね1時間あたり本八幡駅 - 京王多摩センターまたは橋本駅間の区間急行と快速が計6本、本八幡駅 - 笹塚駅間の各駅停車が3本程度運行される。区間急行と快速は原則交互に運転されるが、都営新宿線内を急行運転する列車は京王線内快速とはならず区間急行となる(土休日に限り全区間にて急行で運転される列車もある)ため、その前後に限り順序が入れ替わることがある。笹塚駅において、区間急行・快速と後続の京王線新宿駅発着の特急とは必ずしも接続しない。また、早朝・深夜には新線新宿駅発着の各駅停車が運行される。 == 駅一覧 == * 全駅[[東京都]]内に所在。 * 京王新線の設定種別として、各駅停車・快速・区間急行・急行があるが、新線内はすべて各駅に停車する。 * [[駅ナンバリング|駅番号]]は2013年2月22日から順次導入<ref>{{PDFlink|[http://www.keio.co.jp/news/backnumber/news_release2012/nr130118_numbering.pdf 京王線・井の頭線全駅で「駅ナンバリング」を導入します。]}} - 京王電鉄、2013年1月18日、2013年1月19日閲覧</ref>。 {|class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #dd0077;"|駅番号 !style="width:8em; border-bottom:solid 3px #dd0077;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #dd0077;"|駅間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #dd0077;"|累計<br />キロ !style="border-bottom:solid 3px #dd0077;"|接続路線 !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #dd0077;"|所在地 |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="2"|[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|S]] [[都営地下鉄新宿線]][[本八幡駅]]まで |- !KO01 |[[新宿駅]]<br/ >(新線新宿駅) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|0.0 |[[都営地下鉄]]:'''[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|S]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]] (S-01) (直通運転・上記参照)'''・[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]](新宿駅:E-27、[[新宿西口駅]]:E-01)<!--<br />京王電鉄:[[京王線]]([[新宿駅|京王線新宿駅]])--><br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Marunouchi Line.svg|18px|M]] [[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]] (M-08)<ref group="*" name="marunouchi">新宿駅での[[東京地下鉄]]および[[西武鉄道]]との接続業務は、都営地下鉄では行っていないが、京王は行っている。丸ノ内線[[中野新橋駅]]・[[新中野駅]] - [[西新宿駅]]間・[[新宿三丁目駅]]・[[新宿御苑前駅]]・[[東京メトロ副都心線|副都心線]][[東新宿駅]]・[[北参道駅]]の各駅と京王線初台駅 - 笹塚駅間を新宿駅接続で乗り継ぐ場合には連絡割引も適用される。</ref><br />[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR JA line symbol.svg|18px|JA]] [[埼京線]] (JA 11)・[[ファイル:JR JS line symbol.svg|18px|JS]] [[湘南新宿ライン]] (JS 20)・[[ファイル:JR JC line symbol.svg|18px|JC]] [[中央線快速|中央線(快速)]](JC 05)・[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|中央・総武線(各駅停車)]](JB 10)・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]] (JY 17)<br />[[小田急電鉄]]:[[ファイル:Odakyu odawara logo.svg|18px|OH]] [[小田急小田原線|小田原線]] (OH01)<br />[[西武鉄道]]:[[ファイル:SeibuShinjuku.svg|18px|SS]] [[西武新宿線|新宿線]]([[西武新宿駅]])(SS01)<ref group="*" name="marunouchi"></ref> |[[新宿区]] |- !KO02 |[[初台駅]] |style="text-align:right;"|1.7 |style="text-align:right;"|1.7 ||&nbsp; |rowspan="3"|[[渋谷区]] |- !KO03 |[[幡ヶ谷駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|2.7 ||&nbsp; |- !KO04 |[[笹塚駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|3.6 |[[京王電鉄]]:'''[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王線]](直通運転:下記参照)''' |- !colspan="4"|直通運転区間<br />([[京王線]]経由) |colspan="2"|[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] 京王線[[京王八王子駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王相模原線|相模原線]][[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王高尾線|高尾線]][[高尾山口駅]]まで<br />[[ファイル:Number prefix Keio-line.svg|18px|KO]] [[京王競馬場線|競馬場線]][[府中競馬正門前駅]]から(競馬開催日に上り臨時急行のみ) |} {{Reflist|group="*"}} * [[西新宿三丁目西地区再開発]]において、新線新宿駅と初台駅の間(西参道口交差点付近)に新駅を作る構想があった。なお、構想地付近には[[1945年]]まで京王線上に[[西参道駅]]が存在した。 === 初台駅と幡ヶ谷駅 === 初台駅と幡ヶ谷駅はいずれも線増に際し京王線側から線増部となる新線側にホームを移設したため、京王線側は[[各駅停車]]も含め全ての電車が通過する(トンネルが異なり経由しない)。京王線新宿駅では初台駅・幡ヶ谷駅へは「新線新宿駅」から乗るようにとの案内を行っている。京王線新宿駅と新線新宿駅は改札内で接続している同一駅であるが、旅客案内上呼称は使い分けられ、別々のホームで距離も離れている。 また、2022年3月12日のダイヤ改正までは調布以西から特急を利用して初台駅や幡ヶ谷駅に行く場合は、接続列車が都営地下鉄新宿線直通でない限り明大前駅・笹塚駅で2回乗り継ぐ必要があった。 定期券の経路に新宿駅 - 笹塚駅間が含まれている場合は京王線・京王新線のどちらにも乗車でき、初台駅・幡ヶ谷駅・京王線新宿駅・新線新宿駅のいずれの駅での乗降も可能である(ただし新宿駅までの定期券で渋谷駅、渋谷駅までの定期券で新宿駅でも乗降できる通勤定期券「どっちーも」の後者の2区間目の場合は京王線新宿駅・新線新宿駅に限る)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[山海堂 (出版社)|山海堂]]『[[土木施工]]』1979年11月号施工研究「京王線新宿 - 笹塚間複々線化工事」(石田 孝・高井 陸夫 京王帝都電鉄(株)施設整備部) == 関連項目 == * [[日本の鉄道路線一覧]] {{京王電鉄の路線}} {{DEFAULTSORT:けいおうしんせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線]] [[Category:京王電鉄の鉄道路線|けいおうしん]] [[Category:東京都の交通]]
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中央線
中央線(ちゅうおうせん)
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中央線(ちゅうおうせん)
'''中央線'''(ちゅうおうせん) __NOTOC__ == 道路 == * [[中央線 (道路)]] - 道路に引かれる線。センターラインといわれることが多い。 * [[中央自動車道]] - 日本にある高速自動車国道(旧称:中央高速道路) * [[中央高速道路]] - 韓国にある高速道路 == 鉄道路線 == === 日本 === * 中央線 (国有鉄道線路名称) :本線を中核とする鉄道路線群の総称。[[青梅線]]、[[八高線]]、[[小海線]]、[[篠ノ井線]]などの系統路線を抱合→[[国鉄・JR線路名称一覧#中央線の部]] * 中央線 (JR事業基本計画線名) ** [[中央本線]] : [[東京駅]] - [[塩尻駅]] - [[名古屋駅]]間を結ぶ路線。 *** 中央東線 : [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]の東京駅 - 塩尻駅間の通称。 *** 中央西線 : [[東海旅客鉄道|JR東海]]の塩尻駅 - 名古屋駅間の通称。 **** [[中央線 (名古屋地区)]] * 中央線 (旅客案内上) ** 中央線 (快速)→[[中央線快速]] ** 中央線 (各駅停車)→[[中央・総武緩行線]] ;地下鉄 * [[Osaka Metro中央線]] : [[大阪市高速電気軌道]](Osaka Metro)の路線。 === 日本以外 === * [[中央線 (韓国)]] : [[韓国鉄道公社]]の路線 ** [[首都圏電鉄京義・中央線]] : 韓国鉄道公社の路線のうち、特にソウル近郊の[[広域電鉄]]として運転される系統を指す * [[中央鋼索線]] : [[ナポリ]]の[[ケーブルカー]]の中央線 == その他 == * [[中央線 (曲)]] - [[THE BOOM]]の楽曲。またこれをカバーした[[矢野顕子]]の楽曲。 * [[中央線 (木根尚登のアルバム)]] - [[木根尚登]]のアルバム * [[たのしい中央線]] - [[太田出版]]の雑誌 * センターライン、ハーフウェイライン - [[球技]]・[[スポーツ]]から各競技の項を参照 * [[南水北調#中央線工事]] == 関連項目 == * [[中央 (曖昧さ回避)]] * [[センターライン (曖昧さ回避)]] * {{Prefix}} * {{Intitle}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:ちゆうおうせん}} [[Category:同名の交通]]
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1334年
1334年(1334 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1334年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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道路
道路(どうろ、ラテン語 strata、 フランス語 route、ドイツ語 Straße、英語 road、スペイン語 calle)とは、人や車両などが通行するための道、人や車両の交通のために設けられた地上の通路である。 英語のroadは道全般を指す言葉である。streetは都市部の道路(街路)を意味する言葉として用いられるので、roadのほうが街と街を結ぶ道を指すことが多い。 「道路」が漢語として初めて使用された記録は、紀元前1000年頃の古代中国王朝である周の時代の経典『周来』である。『論語』でも使われている。日本では、江戸時代の俳人で知られる松尾芭蕉の『おくのほそ道』の一節に「道路」が使われ、明治時代の文明開化期以降には多く使用されるようになった。 道路は、交通の要となる公物で、誰でもいつでも通行することができる日常生活に不可欠なものであり、多くの人々が共同で使用するものである。また、交通上の特徴としては、単に公共施設という物理的な概念にとどまらず、道路どうしが交わりネットワークを形成しており、多くの場合は目的地まで複数の経路を選択することができることにある。つまり、道路は安全で円滑な交通路の確保と、交通ネットワークとしての機能が重要視されている。 人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている。 狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできるけもの道が狩猟民らによって利用される場合もあった。そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった。人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、生活していく中から自然発生的に発展していった。 現在発見されているなかで「最古の道路整備跡」とされることのあるものには、イングランドにある Sweet Track の土手道があり、紀元前3800年頃に遡る。 土の道は晴天時に特に不自由は無いが雨天になるとぬかるんで泥道になってしまい歩くことが困難になってしまう。それを防ぐために舗装が行われるようになった。 人の手による舗装の最古のものとしては紀元前4000年頃のものが発見されている。 古代のエジプト人は、ピラミッドの建設で、構築用資材となる大きな石塊を遠方より運搬するために、小石などを取り除いて石畳の道を整備してコロを用いて人力で運搬したと考えられている。バビロンでは、紀元前2000年頃までには舗装された道路があったという記録が残されている。古代の中国人は紀元前1100年代頃以降、大規模な街道を整えたが、その一部は石畳として整備した。紀元後20年までには、その距離を40,000キロメートル (km) にまで伸ばした。 インカの人々(インカ人)たちは伝令たちがアンデス山脈を伝っていけるようなインカの街道を張り巡らせた(→インカ道)。マヤ人たちもヨーロッパによる新世界発見以前にメキシコで石畳の道路網を張り巡らせていた。 日本では三内丸山遺跡(縄文時代 紀元前3500年 - 2000年)に幅12メートル、長さ420メートルの舗装された道路が発見されている。 古代文明が発達し、国家が誕生すると道は計画的に作られていくようになり、道路網の整備は時の権力の象徴にもなった。 中でもローマ帝国が建設したローマ街道は、最も大規模で組織的なものとしてよく知られ、その道路網の総延長は約29万 km、うち主要幹線は8万6000 kmにもおよんだ。当時隆盛を極めた古代ローマ人は「世界のすべての道はローマに通ず! 」と豪語したと言われており、道路の性格は軍事色、政治色が強いもので、ローマ市を中心とする広大な領域に、幅が数メートルほどある平坦な道路を放射状に敷き、都市間を最短距離で結ぶため直線的にひかれた。中でも有名なのは、紀元前312年にアッピウス・クラウディウス・カエクスの命令で建設が始まったアッピア街道で、道路幅は15メートル、敷石舗装を施した本格的なものであった。 このほか地中海のクレタ島やマルタ島の残る古代道路は、紀元前2000年頃のものといわれ、またアケメネス朝ペルシア帝国の王の道は、紀元前約500年頃のダレイオス1世の時代に、メソポタミアの首都スーサ(現イラン国内)から小アジアのサルディス(現トルコ国内)へ至る約2500 kmにおよぶ帝国を縦貫する計画道路が造られた。 東アジアの古代中国においては、紀元前220年までに秦の始皇帝によって馳道(ちどう)とよばれる大規模な道路網の建設が始められた。建設期間10年ほどの間に造られた馳道の総延長は、現代中国の公式記録とも言われる『中国公路史』によれば1万7920里(約7481 km、秦時代の1里は417.5 m)とされ、『漢書(かんじょ)』では「道幅は50歩(約70 m)、路側に3丈(約7 m)ごとに青松を植えた」とされる。始皇帝は、馳道建設の終わり頃に直道(ちょくどう)という、首都咸陽(かんよう)から北へ延びる幅約30 m程度の直線的な軍事道路を造っている。その目的は、北方からの匈奴侵略に備えるためのものであり、現在の中国では直道は「中国最初の高速道路」とよばれている。 また、物資を運ぶための交易路も古代より生まれていた。北ヨーロッパで産出された琥珀を地中海沿岸地域へ運ぶために生まれたヨーロッパ最古の道として知られる琥珀の道は、紀元前1900年頃から存在した。始皇帝を倒して打ち立てられた中国の漢帝国の時代からは、国家統一と経済産業の発展のため関所を廃止して道路建設が全国的に進められたことにより、中国の長安から中央アジアを横断して西南アジア、ヨーロッパを結ぶ絹の道(シルクロード)が登場する。シルクロードは、貿易のための地上通路として最もよく知られ、紀元前130年前後の漢の時代から武帝が西域に派遣した張騫(ちょうけん)によって西域の商品や文化が東方へもたらされたことに始まり、7世紀頃の唐の時代になると中国特産の絹と、ヨーロッパから宝石と織物が運ばれた。また、シルクロードは、東西文化の伝達路として大きな役割を果たし、東洋と西洋の双方異なる優れた互いの文化を吸収しながら発展していった。中国の唐の時代では全国的な道路網が造られており、5里(約3 km)ごとに土堆(どたい、土で築かれた道標)が築かれ、駅路が整備された。中国唐代の道路制度は、日本の道路にも影響を与えており、駅伝制度などは中国から駅制を導入したものである。 ヨーロッパでは、ローマ帝国衰退後から産業革命が起こるまで(紀元3世紀以後 - 18世紀初頭)の間は、道路整備は衰退し、ローマ街道として舗装に使われた石が、後世の農夫たちによって取り外されて、家畜小屋や家の建材として使用されるなど、次第に道は荒廃して行った。17世紀のフランスでは、貴族や国王を乗せた馬車が、道路上の泥濘(ぬかるみ)にはまって横転する災難に遭遇した状況を銅版画で伝えており、同様の道路の惨状はヨーロッパ全土を覆った。 18世紀の産業革命期に入って、ようやく道路整備状況が改善される動きが見られるようになり、近代的な断面構造をもつ道路が誕生した。道路建設は路盤工事の後、栗石を敷きならした上に舗石を並べてランマーで突き固めた工事が行われ、アーチ構造の橋梁も建設されるようになるが、これらの工事手法や土木技術は古代ローマ街道とさほど変わらないものであった。 フランスではローマ帝国時代に整備された道路網を引き継いで、新たな道路の建設や維持、補修に注力した。1747年、ルイ15世は道路、橋梁に関する王立土木学校をパリに開校して土木技術者の育成に力を入れた。初代校長でもあったジャン・ルドルフ・ペロネ(1708 - 1794年)の監督の下で、近代的な馬車道が整備されるようになる。1764年には、トレサゲ(1716–1796年)が路床と路面が同じ断面歪曲率をもつ砕石舗装道路であるトレサゲ式道路工法を発明した。 一方、イギリスにおける道路建設とその整備は、16世紀に入ってから馬車交通が著しく発展し、18世紀の産業革命で馬車交通がさらに急増したため、馬車走行に堪えうる強固な道路が要求されるようになった。イギリス地域の道路整備は教区単位で行われため、貧弱で多様な道路状況となった。1706年頃には、これを改良するために初の関所が作られ、通行する車両から料金を徴収した。イギリスでは時にはおよそ1100の料金所があり、3万8千 km強の道路が整備された。馬による移動の時代には、道路は砂利舗装道路上での最大斜度3%強での整備を目指していた。これは馬が坂道で荷を引き上げるのに平行に近いほうが最も都合が良かったためである。 同時期に、トーマス・テルフォード(1757 – 1834年)とジョン・ラウドン・マカダム(1756 – 1835年)という道路建築家が、それぞれ独自の工法を発明した。テルフォード式道路は平坦な路床の上に栗石敷設してその上に砕石と砂利を敷き詰めて転圧したもので1805年に発明され、マカダム式道路は路床の上に直接砕石を施設して上層部に細粒砕石を転圧したもので1815年に発明された。特にマカダム式道路は、短い期間で施工可能で、技術的にも容易であったため広く普及し、近代式マカダム道路の原型にもなった。 産業革命期のヨーロッパの道路で、本格的な道路改築を行ったのはナポレオン・ボナパルト(1769 - 1821年)である。ナポレオンは、全ヨーロッパ支配を進める上で、戦争を有利に進めるための軍事的な輸送路確保を目的に道路建設を積極的に行い、フランスからイタリア遠征の経路上にあるアルプス越えのシンプロン峠の道路建設を部下に命じて行わせた。100名以上の人命を失う難工事を乗り越えてゴンドー・トンネルが貫通し、1805年にシンプロン峠越えの道路は完成を見た。その後、モン・スニ峠の道路建設も手掛け、さらに全ヨーロッパにその範囲は及んだ。ナポレオンが道路建設のために支出した予算は、同時期の要塞建設予算の約2倍あったとされている。 歴史的に、都市と都市を結ぶ道路(道:road)と違い、欧米の都市内部の道(街路:street)は廃物処理の場所でもあった。古代ローマ時代は道の真ん中に水を通し、排泄物などの汚物を流していた(ポンペイ遺跡など)。そのため、道の真ん中が両側の町家より数段低くなっていて両側を飛び石状の道渡しで渡る。また、馬車もこの水路の中を通行する。また地下下水道の無かった近世のパリではゴミや汚物を街路に捨てていたのは有名な話である。 現代では、自動車などの車両で移動できるよう、道路はほとんどあらゆる箇所で整備が進んでいる。ほとんどの国で、道路輸送が最もよく使われる輸送手段となっている。また、交通安全と渋滞の解消のために、ほとんどの先進国では、道路をレーンに区切って使用するようになっている。 道路は基本形はただの「ひとつの面」である。 道路には両方向から交通があるので、「すれ違い」が生じる。素朴な形態では、ルールは無いわけだが、それでは「にらみあい」や「衝突」が生じるので、自然と、道の右側を進むのか左側を進むのか、という習慣・ルールの類ができるようになる。 欧米では、基本的に右側を進むということになった。イギリスと日本では左側である。 同じ方向でも、歩行者、馬車などは区別したほうが良いということになる。馬車などは道の中央を走り、歩行者は道の端を歩くということになった。古代の道では、馬車用に意図的に「レール状」にくぼみを作ってある道もある。 歩行者用には高さの異なる面を用意する、ということも行われるようになった。 車両と人が同時に通行すると、悲惨な事故が起きる確率が増す。人と車両を分離すると、人も安心してリラックスして歩くことができ、自動車も安心して高速に運転することができる。 市街地の繁華街では車を一切入れず、道路をすべて歩行者専用としているところもある。逆に、自動車専用道路では、原則自動車以外の走行を禁じることで、高速走行を可能にしている。 現代の日本の道路も、一定程度の幅がある場合は、自動車が通過するための車道と、歩行者が通行するための歩道とに区分されている。区分のしかたは様々で、柵で区切る方法もあり、高さを変える方法もある。 欧米では、現代、自転車に乗る人が多いので、道路は、自動車用、自転車用、歩行者用の3つに区分されることがかなり一般的になってきている。日本は対応がまだまだ遅れていて、そうした3区分は徐々に増やしつつある状態である。 自動車が普及するにつれ、無謀運転をする者がいることや、事故の被害者が出ることが次第に問題になり、速度制限が行われるようになった。道路標識が設置されるなど、法整備も進んだ。 道路の持つ交通機能は、目的地へ移動するための通行機能とアクセス機能、および滞留機能の3要素がある。道路は交通機能の他にも、まちづくりにおいて密接に関わり合っており、都市と地区の骨格形成や、環境空間や防災空間としての機能も併せ持つ。現在の道路空間は日常生活の収容スペースでもあり、効率的利用が求められている。地下空間には水道管やガス管など、地上には電線や電話線などのライフラインも敷設されるようになった。都市部では道路の掘り返しを避けるため、これらのライフラインを一括して収容する共同溝というトンネルが道路の地下に作られることもある。また、地下鉄は道路の地下を通過することが多い。 道路は走行速度が高く安全・円滑で快適な移動を重視する「通行機能」と、走行速度よりもむしろ多くの道路や沿道施設と接続することを重視する「アクセス機能」に分けることができる。通行機能性は高速道路が最も高く、次いで幹線道路、補助幹線道路、生活道路の順で低下していく。対するアクセス機能性は、建物・施設などの目的地に面する生活道路が最も高く、次いで補助幹線道路、幹線道路、高速道路の順で低下していく。つまり、通行機能とアクセス機能は相反する関係を有していると言われている。 さらに道路は、駐停車帯に自動車を停める場合や、歩行者がバス停などに足を止めたい場合もあり、これら求められる機能のことを「滞留機能」とよんでいる。「通行機能」「アクセス機能」「滞留機能」の3機能は、まとめて道路の「交通機能」とよばれており、自動車ばかりではなく、歩行者や自転車などを含めたすべての利用者に対して必要とされている。 道路は利用者が往来するための機能だけではなく、都市や地区の骨格を形成し、良好な街並みを形成するための機能も有しており、都市計画やまちづくりを勧めていくための多様な機能を有する重要な構成部でもある。家々は道路に面して建てられ、また道路によって街区が形成されて道路に沿って公共施設や店舗が建ち並び、街路樹が整えられて、駅前や商業地区には街区のシンボルとなる街路(通り、ストリート、アヴェニュー)が形成される。さらにシンボルとなる「通り」の景観を充実させるため、沿道の建物の高さを制限したり、美観に配慮した幅広くゆとりのある歩道が整備されたりもする。また、歩道や中央分離帯に植栽帯を設けて街路樹により緑陰を提供し、緑化や騒音減衰、大気の浄化といった面で、人々に快適な環境空間を提供する役割も担っている。さらに、防災空間としての機能を持たせることにより、火災時の延焼防止機能や、震災時の避難経路や物資輸送路の確保といった緊急時の通行空間としての機能が期待されている。 道路の上空や地下には、路面電車や地下鉄、公益施設とよばれる電気やガス、上下水道などのライフライン、電話などの通信ケーブルなど、生活に欠かせないネットワークがきめ細かく張り巡らせてあり、これらインフラ施設を収容する空間としての機能を有している。道路空間の利用にはスペースに制約があるが、交通量が多く複数の公益施設が収容されている道路では、これらネットワーク施設を効率よく納めるために、車道の地下にガス・上下水道・電気・通信を納める共同溝や、歩道下に電線共同溝の整備が行われている。副次的効果として、無電柱化されることにより道路景観が改善し、震災時の電柱倒壊による道路閉鎖を防止することにもつながっている。このほかにも道路の地下空間は、地下駐車場や地下通路、地下街などにも活用されている。 欧米では、 道路(英:Street、独:Straße)は住居表示の基礎となっている。欧米流の発想では、基本的に「住所」というのは、道路に結び付けて(概念的にぶらさげて)理解されるものであって、そうした理解のしかたが標準的なのである。 街路を挟んで両側が同じ街路名を共有しており、住居表示となる。いくつか番号の振り方があり、国によって異なる。ひとつの方法は、道の片側は奇数で統一し、反対の片側側は偶数で統一するというものである。数字が小さいほうから大きいほうへ、順番に敷地が並ぶ。それによって郵便配達人が簡単に配達できたり、土地勘の無い人が訪問することが簡単にできる。郵便配達人なら、郵便物に書かれている宛先の通りの名前を見て、その通りまで行き、あとは末尾の数字を見て、まず奇数か偶数かを読み取り、それによって道のどちら側かを判断し、各戸に表示されている数字を確認しつつ進み、数字が一致したところでポストに投函すればよい。 土地が分割されたり家が増えた場合の対処法について説明する。片側に1,3,5,7,9...などと最初に通し番号が振られているわけであるが、例えば3の家・土地の権利が二つに分割されたら、「3-a」「3-b」などとする。これによって他の「1」「5」「7」..などの番号を振られた土地は番号が変更されずに済む。 日本の京都市でも一部で街路(通り名)を用いた住所表記を行う(「〜(条)通上ル、下ル、東入ル、西入ル」)。京都市の場合、町名が非常に多く、異なる場所にあっても町名が同一の場合があり、これらの場所を区別するために郵便番号も別々に設定されている。これらの事情により通り名を用いたほうが住所を特定しやすいため慣習的に用いられている。 日本では、街路の両側が1つの町名を共有していたが、1962年に住居表示に関する法律が施行されると、新しく付けられた町名地番は道路に囲まれる街区単位で住居番号を付けるようになった。一方で現在でも大阪市中央区の一部では街路の両側を単位とする町名が残っている。。 道路の開発は森や山を拓いて行われるため、環境破壊と密接に結びついている。 ブラジルではアマゾン川を貫くように道路が開発され、環境破壊に反対する声が上がっている。 また、道路の使用においても車が排出する排気ガスや道路が削れて飛散する粉塵による公害が問題となる。 日本においては高度経済成長の時代に道路が整備され、それを利用するマイカーから発せられる道路公害として表面化し、その後の環境政策にも大きな影響を与えている。 日本の法律上の定義としては、道路法、道路交通法、建築基準法などの法律が、それぞれ道路の定義を定めている。 道路交通法第2条第1項は、以下の3つに該当する場合を道路としている。 「一般交通の用に供するその他の場所」とは、公道や自動車の交通のために設けられた道以外で、現実の交通の実態から道路とみなされる土地のことをいう。不特定の人や車が自由に通行することができる場所で、現実に通行に使用されている場所が該当する。そのため、一般に道路としての形態を有していなくても該当する場合があり、私有地であるか公有地であるかは関係がない。具体的には、農道、林道、赤線が該当し、一般の交通に供用されていれば、私道、広場、公園、河川敷、地下街等も含まれる。 「一般交通の用に供するその他の場所」に関する通説・判例は下記のとおり。 道路法第2条第1項および第3条は、一般交通の用に供する道で、以下の4つに該当するものを道路としている。 道路を構成するものは、路面、路肩、法敷(のりしき)の他、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等の道路と一体としてその効用を全うする施設・工作物、および、横断歩道橋など道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものも、道路に含むとしている。道路法で定義される道路として認めることを、高速自動車国道と一般国道は「道路指定」、都道府県道と市町村道は「道路認定」といい、道路法が適用される都道府県道、市町村道を「認定道路」とよぶ。いわゆる公道であり、道路構造令による幅員・構造などの基準が定められている。 道路の成立から廃止まで段階的な規定があり、(1) 路線の指定/認定、(2) 区域の決定、(3) 用地の取得、(4) 建設工事、(5) 供用開始、(6) 維持管理、(7) 路線の廃止・変更、(8) 不要物件の処理というように行政上の手続きが行われる。 なお、道路法第89条の主要地方道は、道路法上の道路の種類ではなく、国が道路整備の必要一定範囲内で補助する道路として大臣が指定した主要道路のことであり、都道府県道の中には一般道路と主要地方道が含まれる。 土地改良法に基づく道路とは、農業用道路のことで、いわゆる農道のことである。幹線農道と支線農道に大別でき、支線農道には収穫物運搬等のための通作道と、通作道の連絡道路がある。 基幹的な農道として、1965年(昭和40年)から実施された農林漁業用揮発税財源身替農道整備事業(略称:農免道路事業)により農林水産省が整備する道路のことを「農免道路」と呼ぶ。 森林法に基づく道路とは、林道のことであり、森林の整備・保全を目的として設けられる道路の総称としている。林道は、道路法の関連規定の枠外にあるが、一般交通に供される林道は、道路交通法・道路運送車両法などの規定は適用される。所管は農林水産省林野庁で、林道の制度は日本独自のものとなっている。民有林の中の林道の種類には、次のようなものがある。 港湾法に基づく道路とは、臨港地区内における臨港交通施設として供される臨港道路のことを指す。国土交通省の予算で造られ、港湾管理者である港湾局または地方公共団体(都道府県や市町村)が管理を行う。 道路運送法第2条第7号は、以下の3つに該当するものを道路としている。 第2条第8項では、上記の「自動車道」について定義されており、その中の「一般自動車道」とは、専用自動車道以外の自動車道をいい、「専用自動車道」とは、自動車運送事業者(自動車運送事業を経営する者)がもっぱらその事業用自動車(自動車運送事業者がその自動車運送事業の用に供する自動車)の交通の用に供することを目的として設けた道であると定めている。 建築基準法第42条は、以下の1〜5に該当する場合を道路とし、6に該当する場合を道路とみなしている。 公道・私道の区別はなく、自動車専用道路のみ対象外で、幅員4m以上が道路となる。幅員が4m未満であるなど、それ以外のものは、建築基準法上は「道路」とは位置づけられず、建築基準法関連においては「通路」「道」などと呼ばれる。 なお、建築基準法43条の接道基準を満たさないが、同条但書に基づき特定行政庁が建築許可を出した場合の道路について、「但し書き道路」と言われる。 上記にあげられた以外に、各法令の道路の種類として次のようなものがある。 このほか、不動産登記簿上の地目の一種として、「公衆用道路」というものがある。一般交通の用に供する道路のことを指し、公道・私道を問わない。 道路と一体となって利用される橋やトンネル、横断歩道橋や横断地下歩道などの施設も含む。 近年では自治体財政の情勢悪化により、生活道路については機材・資材を自治体が提供し、施行は住民が自ら工事する事業が注目されてきている。 栄村のケースでは、外部発注するのと比べ費用を1/2〜1/3に抑えられている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "道路(どうろ、ラテン語 strata、 フランス語 route、ドイツ語 Straße、英語 road、スペイン語 calle)とは、人や車両などが通行するための道、人や車両の交通のために設けられた地上の通路である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英語のroadは道全般を指す言葉である。streetは都市部の道路(街路)を意味する言葉として用いられるので、roadのほうが街と街を結ぶ道を指すことが多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「道路」が漢語として初めて使用された記録は、紀元前1000年頃の古代中国王朝である周の時代の経典『周来』である。『論語』でも使われている。日本では、江戸時代の俳人で知られる松尾芭蕉の『おくのほそ道』の一節に「道路」が使われ、明治時代の文明開化期以降には多く使用されるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "道路は、交通の要となる公物で、誰でもいつでも通行することができる日常生活に不可欠なものであり、多くの人々が共同で使用するものである。また、交通上の特徴としては、単に公共施設という物理的な概念にとどまらず、道路どうしが交わりネットワークを形成しており、多くの場合は目的地まで複数の経路を選択することができることにある。つまり、道路は安全で円滑な交通路の確保と、交通ネットワークとしての機能が重要視されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできるけもの道が狩猟民らによって利用される場合もあった。そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった。人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、生活していく中から自然発生的に発展していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在発見されているなかで「最古の道路整備跡」とされることのあるものには、イングランドにある Sweet Track の土手道があり、紀元前3800年頃に遡る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "土の道は晴天時に特に不自由は無いが雨天になるとぬかるんで泥道になってしまい歩くことが困難になってしまう。それを防ぐために舗装が行われるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "人の手による舗装の最古のものとしては紀元前4000年頃のものが発見されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古代のエジプト人は、ピラミッドの建設で、構築用資材となる大きな石塊を遠方より運搬するために、小石などを取り除いて石畳の道を整備してコロを用いて人力で運搬したと考えられている。バビロンでは、紀元前2000年頃までには舗装された道路があったという記録が残されている。古代の中国人は紀元前1100年代頃以降、大規模な街道を整えたが、その一部は石畳として整備した。紀元後20年までには、その距離を40,000キロメートル (km) にまで伸ばした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "インカの人々(インカ人)たちは伝令たちがアンデス山脈を伝っていけるようなインカの街道を張り巡らせた(→インカ道)。マヤ人たちもヨーロッパによる新世界発見以前にメキシコで石畳の道路網を張り巡らせていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本では三内丸山遺跡(縄文時代 紀元前3500年 - 2000年)に幅12メートル、長さ420メートルの舗装された道路が発見されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "古代文明が発達し、国家が誕生すると道は計画的に作られていくようになり、道路網の整備は時の権力の象徴にもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "中でもローマ帝国が建設したローマ街道は、最も大規模で組織的なものとしてよく知られ、その道路網の総延長は約29万 km、うち主要幹線は8万6000 kmにもおよんだ。当時隆盛を極めた古代ローマ人は「世界のすべての道はローマに通ず! 」と豪語したと言われており、道路の性格は軍事色、政治色が強いもので、ローマ市を中心とする広大な領域に、幅が数メートルほどある平坦な道路を放射状に敷き、都市間を最短距離で結ぶため直線的にひかれた。中でも有名なのは、紀元前312年にアッピウス・クラウディウス・カエクスの命令で建設が始まったアッピア街道で、道路幅は15メートル、敷石舗装を施した本格的なものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このほか地中海のクレタ島やマルタ島の残る古代道路は、紀元前2000年頃のものといわれ、またアケメネス朝ペルシア帝国の王の道は、紀元前約500年頃のダレイオス1世の時代に、メソポタミアの首都スーサ(現イラン国内)から小アジアのサルディス(現トルコ国内)へ至る約2500 kmにおよぶ帝国を縦貫する計画道路が造られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "東アジアの古代中国においては、紀元前220年までに秦の始皇帝によって馳道(ちどう)とよばれる大規模な道路網の建設が始められた。建設期間10年ほどの間に造られた馳道の総延長は、現代中国の公式記録とも言われる『中国公路史』によれば1万7920里(約7481 km、秦時代の1里は417.5 m)とされ、『漢書(かんじょ)』では「道幅は50歩(約70 m)、路側に3丈(約7 m)ごとに青松を植えた」とされる。始皇帝は、馳道建設の終わり頃に直道(ちょくどう)という、首都咸陽(かんよう)から北へ延びる幅約30 m程度の直線的な軍事道路を造っている。その目的は、北方からの匈奴侵略に備えるためのものであり、現在の中国では直道は「中国最初の高速道路」とよばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、物資を運ぶための交易路も古代より生まれていた。北ヨーロッパで産出された琥珀を地中海沿岸地域へ運ぶために生まれたヨーロッパ最古の道として知られる琥珀の道は、紀元前1900年頃から存在した。始皇帝を倒して打ち立てられた中国の漢帝国の時代からは、国家統一と経済産業の発展のため関所を廃止して道路建設が全国的に進められたことにより、中国の長安から中央アジアを横断して西南アジア、ヨーロッパを結ぶ絹の道(シルクロード)が登場する。シルクロードは、貿易のための地上通路として最もよく知られ、紀元前130年前後の漢の時代から武帝が西域に派遣した張騫(ちょうけん)によって西域の商品や文化が東方へもたらされたことに始まり、7世紀頃の唐の時代になると中国特産の絹と、ヨーロッパから宝石と織物が運ばれた。また、シルクロードは、東西文化の伝達路として大きな役割を果たし、東洋と西洋の双方異なる優れた互いの文化を吸収しながら発展していった。中国の唐の時代では全国的な道路網が造られており、5里(約3 km)ごとに土堆(どたい、土で築かれた道標)が築かれ、駅路が整備された。中国唐代の道路制度は、日本の道路にも影響を与えており、駅伝制度などは中国から駅制を導入したものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ヨーロッパでは、ローマ帝国衰退後から産業革命が起こるまで(紀元3世紀以後 - 18世紀初頭)の間は、道路整備は衰退し、ローマ街道として舗装に使われた石が、後世の農夫たちによって取り外されて、家畜小屋や家の建材として使用されるなど、次第に道は荒廃して行った。17世紀のフランスでは、貴族や国王を乗せた馬車が、道路上の泥濘(ぬかるみ)にはまって横転する災難に遭遇した状況を銅版画で伝えており、同様の道路の惨状はヨーロッパ全土を覆った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "18世紀の産業革命期に入って、ようやく道路整備状況が改善される動きが見られるようになり、近代的な断面構造をもつ道路が誕生した。道路建設は路盤工事の後、栗石を敷きならした上に舗石を並べてランマーで突き固めた工事が行われ、アーチ構造の橋梁も建設されるようになるが、これらの工事手法や土木技術は古代ローマ街道とさほど変わらないものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "フランスではローマ帝国時代に整備された道路網を引き継いで、新たな道路の建設や維持、補修に注力した。1747年、ルイ15世は道路、橋梁に関する王立土木学校をパリに開校して土木技術者の育成に力を入れた。初代校長でもあったジャン・ルドルフ・ペロネ(1708 - 1794年)の監督の下で、近代的な馬車道が整備されるようになる。1764年には、トレサゲ(1716–1796年)が路床と路面が同じ断面歪曲率をもつ砕石舗装道路であるトレサゲ式道路工法を発明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "一方、イギリスにおける道路建設とその整備は、16世紀に入ってから馬車交通が著しく発展し、18世紀の産業革命で馬車交通がさらに急増したため、馬車走行に堪えうる強固な道路が要求されるようになった。イギリス地域の道路整備は教区単位で行われため、貧弱で多様な道路状況となった。1706年頃には、これを改良するために初の関所が作られ、通行する車両から料金を徴収した。イギリスでは時にはおよそ1100の料金所があり、3万8千 km強の道路が整備された。馬による移動の時代には、道路は砂利舗装道路上での最大斜度3%強での整備を目指していた。これは馬が坂道で荷を引き上げるのに平行に近いほうが最も都合が良かったためである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "同時期に、トーマス・テルフォード(1757 – 1834年)とジョン・ラウドン・マカダム(1756 – 1835年)という道路建築家が、それぞれ独自の工法を発明した。テルフォード式道路は平坦な路床の上に栗石敷設してその上に砕石と砂利を敷き詰めて転圧したもので1805年に発明され、マカダム式道路は路床の上に直接砕石を施設して上層部に細粒砕石を転圧したもので1815年に発明された。特にマカダム式道路は、短い期間で施工可能で、技術的にも容易であったため広く普及し、近代式マカダム道路の原型にもなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "産業革命期のヨーロッパの道路で、本格的な道路改築を行ったのはナポレオン・ボナパルト(1769 - 1821年)である。ナポレオンは、全ヨーロッパ支配を進める上で、戦争を有利に進めるための軍事的な輸送路確保を目的に道路建設を積極的に行い、フランスからイタリア遠征の経路上にあるアルプス越えのシンプロン峠の道路建設を部下に命じて行わせた。100名以上の人命を失う難工事を乗り越えてゴンドー・トンネルが貫通し、1805年にシンプロン峠越えの道路は完成を見た。その後、モン・スニ峠の道路建設も手掛け、さらに全ヨーロッパにその範囲は及んだ。ナポレオンが道路建設のために支出した予算は、同時期の要塞建設予算の約2倍あったとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "歴史的に、都市と都市を結ぶ道路(道:road)と違い、欧米の都市内部の道(街路:street)は廃物処理の場所でもあった。古代ローマ時代は道の真ん中に水を通し、排泄物などの汚物を流していた(ポンペイ遺跡など)。そのため、道の真ん中が両側の町家より数段低くなっていて両側を飛び石状の道渡しで渡る。また、馬車もこの水路の中を通行する。また地下下水道の無かった近世のパリではゴミや汚物を街路に捨てていたのは有名な話である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "現代では、自動車などの車両で移動できるよう、道路はほとんどあらゆる箇所で整備が進んでいる。ほとんどの国で、道路輸送が最もよく使われる輸送手段となっている。また、交通安全と渋滞の解消のために、ほとんどの先進国では、道路をレーンに区切って使用するようになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "道路は基本形はただの「ひとつの面」である。 道路には両方向から交通があるので、「すれ違い」が生じる。素朴な形態では、ルールは無いわけだが、それでは「にらみあい」や「衝突」が生じるので、自然と、道の右側を進むのか左側を進むのか、という習慣・ルールの類ができるようになる。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "欧米では、基本的に右側を進むということになった。イギリスと日本では左側である。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "同じ方向でも、歩行者、馬車などは区別したほうが良いということになる。馬車などは道の中央を走り、歩行者は道の端を歩くということになった。古代の道では、馬車用に意図的に「レール状」にくぼみを作ってある道もある。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "歩行者用には高さの異なる面を用意する、ということも行われるようになった。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "車両と人が同時に通行すると、悲惨な事故が起きる確率が増す。人と車両を分離すると、人も安心してリラックスして歩くことができ、自動車も安心して高速に運転することができる。 市街地の繁華街では車を一切入れず、道路をすべて歩行者専用としているところもある。逆に、自動車専用道路では、原則自動車以外の走行を禁じることで、高速走行を可能にしている。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現代の日本の道路も、一定程度の幅がある場合は、自動車が通過するための車道と、歩行者が通行するための歩道とに区分されている。区分のしかたは様々で、柵で区切る方法もあり、高さを変える方法もある。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "欧米では、現代、自転車に乗る人が多いので、道路は、自動車用、自転車用、歩行者用の3つに区分されることがかなり一般的になってきている。日本は対応がまだまだ遅れていて、そうした3区分は徐々に増やしつつある状態である。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "自動車が普及するにつれ、無謀運転をする者がいることや、事故の被害者が出ることが次第に問題になり、速度制限が行われるようになった。道路標識が設置されるなど、法整備も進んだ。", "title": "車両と道路" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "道路の持つ交通機能は、目的地へ移動するための通行機能とアクセス機能、および滞留機能の3要素がある。道路は交通機能の他にも、まちづくりにおいて密接に関わり合っており、都市と地区の骨格形成や、環境空間や防災空間としての機能も併せ持つ。現在の道路空間は日常生活の収容スペースでもあり、効率的利用が求められている。地下空間には水道管やガス管など、地上には電線や電話線などのライフラインも敷設されるようになった。都市部では道路の掘り返しを避けるため、これらのライフラインを一括して収容する共同溝というトンネルが道路の地下に作られることもある。また、地下鉄は道路の地下を通過することが多い。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "道路は走行速度が高く安全・円滑で快適な移動を重視する「通行機能」と、走行速度よりもむしろ多くの道路や沿道施設と接続することを重視する「アクセス機能」に分けることができる。通行機能性は高速道路が最も高く、次いで幹線道路、補助幹線道路、生活道路の順で低下していく。対するアクセス機能性は、建物・施設などの目的地に面する生活道路が最も高く、次いで補助幹線道路、幹線道路、高速道路の順で低下していく。つまり、通行機能とアクセス機能は相反する関係を有していると言われている。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "さらに道路は、駐停車帯に自動車を停める場合や、歩行者がバス停などに足を止めたい場合もあり、これら求められる機能のことを「滞留機能」とよんでいる。「通行機能」「アクセス機能」「滞留機能」の3機能は、まとめて道路の「交通機能」とよばれており、自動車ばかりではなく、歩行者や自転車などを含めたすべての利用者に対して必要とされている。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "道路は利用者が往来するための機能だけではなく、都市や地区の骨格を形成し、良好な街並みを形成するための機能も有しており、都市計画やまちづくりを勧めていくための多様な機能を有する重要な構成部でもある。家々は道路に面して建てられ、また道路によって街区が形成されて道路に沿って公共施設や店舗が建ち並び、街路樹が整えられて、駅前や商業地区には街区のシンボルとなる街路(通り、ストリート、アヴェニュー)が形成される。さらにシンボルとなる「通り」の景観を充実させるため、沿道の建物の高さを制限したり、美観に配慮した幅広くゆとりのある歩道が整備されたりもする。また、歩道や中央分離帯に植栽帯を設けて街路樹により緑陰を提供し、緑化や騒音減衰、大気の浄化といった面で、人々に快適な環境空間を提供する役割も担っている。さらに、防災空間としての機能を持たせることにより、火災時の延焼防止機能や、震災時の避難経路や物資輸送路の確保といった緊急時の通行空間としての機能が期待されている。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "道路の上空や地下には、路面電車や地下鉄、公益施設とよばれる電気やガス、上下水道などのライフライン、電話などの通信ケーブルなど、生活に欠かせないネットワークがきめ細かく張り巡らせてあり、これらインフラ施設を収容する空間としての機能を有している。道路空間の利用にはスペースに制約があるが、交通量が多く複数の公益施設が収容されている道路では、これらネットワーク施設を効率よく納めるために、車道の地下にガス・上下水道・電気・通信を納める共同溝や、歩道下に電線共同溝の整備が行われている。副次的効果として、無電柱化されることにより道路景観が改善し、震災時の電柱倒壊による道路閉鎖を防止することにもつながっている。このほかにも道路の地下空間は、地下駐車場や地下通路、地下街などにも活用されている。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "欧米では、 道路(英:Street、独:Straße)は住居表示の基礎となっている。欧米流の発想では、基本的に「住所」というのは、道路に結び付けて(概念的にぶらさげて)理解されるものであって、そうした理解のしかたが標準的なのである。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "街路を挟んで両側が同じ街路名を共有しており、住居表示となる。いくつか番号の振り方があり、国によって異なる。ひとつの方法は、道の片側は奇数で統一し、反対の片側側は偶数で統一するというものである。数字が小さいほうから大きいほうへ、順番に敷地が並ぶ。それによって郵便配達人が簡単に配達できたり、土地勘の無い人が訪問することが簡単にできる。郵便配達人なら、郵便物に書かれている宛先の通りの名前を見て、その通りまで行き、あとは末尾の数字を見て、まず奇数か偶数かを読み取り、それによって道のどちら側かを判断し、各戸に表示されている数字を確認しつつ進み、数字が一致したところでポストに投函すればよい。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "土地が分割されたり家が増えた場合の対処法について説明する。片側に1,3,5,7,9...などと最初に通し番号が振られているわけであるが、例えば3の家・土地の権利が二つに分割されたら、「3-a」「3-b」などとする。これによって他の「1」「5」「7」..などの番号を振られた土地は番号が変更されずに済む。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "日本の京都市でも一部で街路(通り名)を用いた住所表記を行う(「〜(条)通上ル、下ル、東入ル、西入ル」)。京都市の場合、町名が非常に多く、異なる場所にあっても町名が同一の場合があり、これらの場所を区別するために郵便番号も別々に設定されている。これらの事情により通り名を用いたほうが住所を特定しやすいため慣習的に用いられている。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "日本では、街路の両側が1つの町名を共有していたが、1962年に住居表示に関する法律が施行されると、新しく付けられた町名地番は道路に囲まれる街区単位で住居番号を付けるようになった。一方で現在でも大阪市中央区の一部では街路の両側を単位とする町名が残っている。。", "title": "道路の機能" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "道路の開発は森や山を拓いて行われるため、環境破壊と密接に結びついている。 ブラジルではアマゾン川を貫くように道路が開発され、環境破壊に反対する声が上がっている。", "title": "環境破壊" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また、道路の使用においても車が排出する排気ガスや道路が削れて飛散する粉塵による公害が問題となる。 日本においては高度経済成長の時代に道路が整備され、それを利用するマイカーから発せられる道路公害として表面化し、その後の環境政策にも大きな影響を与えている。", "title": "環境破壊" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本の法律上の定義としては、道路法、道路交通法、建築基準法などの法律が、それぞれ道路の定義を定めている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "道路交通法第2条第1項は、以下の3つに該当する場合を道路としている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「一般交通の用に供するその他の場所」とは、公道や自動車の交通のために設けられた道以外で、現実の交通の実態から道路とみなされる土地のことをいう。不特定の人や車が自由に通行することができる場所で、現実に通行に使用されている場所が該当する。そのため、一般に道路としての形態を有していなくても該当する場合があり、私有地であるか公有地であるかは関係がない。具体的には、農道、林道、赤線が該当し、一般の交通に供用されていれば、私道、広場、公園、河川敷、地下街等も含まれる。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "「一般交通の用に供するその他の場所」に関する通説・判例は下記のとおり。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "道路法第2条第1項および第3条は、一般交通の用に供する道で、以下の4つに該当するものを道路としている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "道路を構成するものは、路面、路肩、法敷(のりしき)の他、トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等の道路と一体としてその効用を全うする施設・工作物、および、横断歩道橋など道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものも、道路に含むとしている。道路法で定義される道路として認めることを、高速自動車国道と一般国道は「道路指定」、都道府県道と市町村道は「道路認定」といい、道路法が適用される都道府県道、市町村道を「認定道路」とよぶ。いわゆる公道であり、道路構造令による幅員・構造などの基準が定められている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "道路の成立から廃止まで段階的な規定があり、(1) 路線の指定/認定、(2) 区域の決定、(3) 用地の取得、(4) 建設工事、(5) 供用開始、(6) 維持管理、(7) 路線の廃止・変更、(8) 不要物件の処理というように行政上の手続きが行われる。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、道路法第89条の主要地方道は、道路法上の道路の種類ではなく、国が道路整備の必要一定範囲内で補助する道路として大臣が指定した主要道路のことであり、都道府県道の中には一般道路と主要地方道が含まれる。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "土地改良法に基づく道路とは、農業用道路のことで、いわゆる農道のことである。幹線農道と支線農道に大別でき、支線農道には収穫物運搬等のための通作道と、通作道の連絡道路がある。 基幹的な農道として、1965年(昭和40年)から実施された農林漁業用揮発税財源身替農道整備事業(略称:農免道路事業)により農林水産省が整備する道路のことを「農免道路」と呼ぶ。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "森林法に基づく道路とは、林道のことであり、森林の整備・保全を目的として設けられる道路の総称としている。林道は、道路法の関連規定の枠外にあるが、一般交通に供される林道は、道路交通法・道路運送車両法などの規定は適用される。所管は農林水産省林野庁で、林道の制度は日本独自のものとなっている。民有林の中の林道の種類には、次のようなものがある。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "港湾法に基づく道路とは、臨港地区内における臨港交通施設として供される臨港道路のことを指す。国土交通省の予算で造られ、港湾管理者である港湾局または地方公共団体(都道府県や市町村)が管理を行う。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "道路運送法第2条第7号は、以下の3つに該当するものを道路としている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "第2条第8項では、上記の「自動車道」について定義されており、その中の「一般自動車道」とは、専用自動車道以外の自動車道をいい、「専用自動車道」とは、自動車運送事業者(自動車運送事業を経営する者)がもっぱらその事業用自動車(自動車運送事業者がその自動車運送事業の用に供する自動車)の交通の用に供することを目的として設けた道であると定めている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "建築基準法第42条は、以下の1〜5に該当する場合を道路とし、6に該当する場合を道路とみなしている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "公道・私道の区別はなく、自動車専用道路のみ対象外で、幅員4m以上が道路となる。幅員が4m未満であるなど、それ以外のものは、建築基準法上は「道路」とは位置づけられず、建築基準法関連においては「通路」「道」などと呼ばれる。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "なお、建築基準法43条の接道基準を満たさないが、同条但書に基づき特定行政庁が建築許可を出した場合の道路について、「但し書き道路」と言われる。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "上記にあげられた以外に、各法令の道路の種類として次のようなものがある。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "このほか、不動産登記簿上の地目の一種として、「公衆用道路」というものがある。一般交通の用に供する道路のことを指し、公道・私道を問わない。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "道路と一体となって利用される橋やトンネル、横断歩道橋や横断地下歩道などの施設も含む。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "近年では自治体財政の情勢悪化により、生活道路については機材・資材を自治体が提供し、施行は住民が自ら工事する事業が注目されてきている。", "title": "日本と道路" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "栄村のケースでは、外部発注するのと比べ費用を1/2〜1/3に抑えられている。", "title": "日本と道路" } ]
道路とは、人や車両などが通行するための道、人や車両の交通のために設けられた地上の通路である。
{{redirect|路上|ジャック・ケルアックの小説|路上 (小説)}} {{otheruses|人や車両のための[[通路]]|その他の'''道'''、'''道路'''|道}} '''道路'''(どうろ、[[ラテン語]] strata、 フランス語 [[:fr:route|route]]、ドイツ語 [[:de:Straße|Straße]]、英語 road、スペイン語 calle)とは、[[人間|人]]や[[車両]]などが通行するための道<ref>デジタル大辞泉</ref>、人や車両の交通のために設けられた地上の[[通路]]<ref>広辞苑第六版「道路」</ref>である。 [[File:RouteDeCampagneEnFrance.JPG|thumb|right|240px|フランスの田舎の街道。しばしば両脇に[[並木#植物|並木]]が植えられている。]] [[File:30th_Street_at_5th_Avenue_-_Straße_in_New_York.jpg|thumb|200px|[[ニューヨーク]][[5番街 (マンハッタン)|5番街]]の道路(2008年)]] == 概要 == 英語の'''road'''は道全般を指す言葉である。'''street'''は都市部の道路(街路)を意味する言葉として用いられるので、<!--結果として-->roadのほうが街と街を結ぶ道を指すことが多い。 「道路」が漢語として初めて使用された記録は、紀元前1000年頃の古代中国王朝である[[周]]の時代の経典『周来』である{{sfn|武部健一|2015|pp=21&ndash;23}}。『[[論語]]』でも使われている{{efn|また[[三国時代 (中国)|三国時代]]の史書『[[魏志倭人伝]]』の中で、当時の日本の様子について、「土地は険しく、樹木が生い茂り、細々とした'''道路'''が続いていた」といった旨の記述があり、「道路」の文字が使われている{{sfn|浅井建爾|2015|p=12}}。}}。日本では、[[江戸時代]]の俳人で知られる[[松尾芭蕉]]の『[[おくのほそ道]]』の一節に「道路」が使われ{{sfn|武部健一|2015|pp=21&ndash;23}}、[[明治時代]]の文明開化期以降には多く使用されるようになった。 道路は、交通の要となる公物で{{efn|私道など、一部の個人所有物を除く。}}、誰でもいつでも通行することができる日常生活に不可欠なものであり、多くの人々が共同で使用するものである{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=12}}。また、交通上の特徴としては、単に公共施設という物理的な概念にとどまらず、道路どうしが交わりネットワークを形成しており、多くの場合は目的地まで複数の経路を選択することができることにある{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=12}}。つまり、道路は安全で円滑な交通路の確保と、交通ネットワークとしての機能が重要視されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=12}}。 == 歴史 == {{Main2|日本の道路については「[[日本の道路#日本の道路の歴史|日本の道路の歴史]]」を}} === 「道」の起こり === 人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=34}}。 狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできる[[けもの道]]が狩猟民らによって利用される場合もあった。そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった{{sfn|浅井建爾|2001|p=76}}。人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、生活していく中から自然発生的に発展していった{{sfn|浅井建爾|2001|p=76}}。 現在発見されているなかで「最古の道路整備跡」とされることのあるものには、[[イングランド]]にある [[:en:Sweet Track|Sweet Track]] の[[土手道]]があり、紀元前3800年頃に遡る。 === 舗装路のはじまり === 土の道は晴天時に特に不自由は無いが雨天になるとぬかるんで泥道になってしまい歩くことが困難になってしまう。それを防ぐために[[舗装]]が行われるようになった。 人の手による[[舗装]]の最古のものとしては[[紀元前4千年紀|紀元前4000年]]頃のものが発見されている。 [[古代エジプト|古代のエジプト人]]は、[[ピラミッド]]の建設で、構築用資材となる大きな石塊を遠方より運搬するために、小石などを取り除いて[[石畳]]の道を整備してコロを用いて人力で運搬したと考えられている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=34}}。[[バビロン]]では、[[紀元前2千年紀|紀元前2000年]]頃までには舗装された道路があったという記録が残されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=34}}。[[中国の歴史|古代の中国人]]は[[紀元前1100年代]]頃以降、大規模な[[街道]]を整えたが、その一部は石畳として整備した。[[20年|紀元後20年]]までには、その距離を40,000[[キロメートル]] (km) にまで伸ばした。 [[インカ帝国|インカ]]の人々([[インカ人]])たちは伝令たちが[[アンデス山脈]]を伝っていけるようなインカの街道を張り巡らせた(→[[インカ道]])。[[マヤ文明|マヤ人]]たちもヨーロッパによる[[新世界]]発見以前に[[メキシコ]]で石畳の道路網を張り巡らせていた。 日本では[[三内丸山遺跡]]([[縄文時代]] 紀元前3500年 - 2000年)に幅12メートル、長さ420メートルの舗装された道路が発見されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/09.html |title=特別史跡「三内丸山遺跡」三内丸山遺跡 道路? |publisher=三内丸山遺跡 |accessdate=2016年7月5日}}</ref>。 === 古代国家による道路網の整備と発達 === [[File:Greek street - III century BC - Porta Rosa - Velia - Italy.JPG|thumb|right|240px|ギリシアの[[:it:Porta Rosa|Porta Rosa]]。(3世紀頃に造られたもの)]] 古代文明が発達し、国家が誕生すると道は計画的に作られていくようになり、道路網の整備は時の権力の象徴にもなった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=34}}。 中でも[[ローマ帝国]]が建設した[[ローマ街道]]は、最も大規模で組織的なものとしてよく知られ、その道路網の総延長は約29万&nbsp;km、うち主要幹線は8万6000&nbsp;kmにもおよんだ{{sfn|浅井建爾|2001|p=78}}{{sfn|武部健一|2015|p=2}}。当時隆盛を極めた古代ローマ人は「世界のすべての道はローマに通ず! 」と豪語したと言われており{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=34}}、道路の性格は軍事色、政治色が強いもので、[[ローマ|ローマ市]]を中心とする広大な領域に、幅が数メートルほどある平坦な道路を放射状に敷き、都市間を最短距離で結ぶため直線的にひかれた{{sfn|浅井建爾|2001|p=78}}。中でも有名なのは、紀元前312年に[[アッピウス・クラウディウス・カエクス]]の命令で建設が始まった[[アッピア街道]]で、道路幅は15メートル、敷石舗装を施した本格的なものであった{{sfn|浅井建爾|2001|p=78}}{{sfn|武部健一|2015|p=2}}。 このほか[[地中海]]の[[クレタ島]]や[[マルタ島]]の残る[[古代道路]]は、紀元前2000年頃のものといわれ、また[[アケメネス朝]][[ペルシア帝国]]の[[王の道]]は、紀元前約500年頃の[[ダレイオス1世]]の時代に、[[メソポタミア]]の首都[[スーサ]](現[[イラン]]国内)から[[アナトリア半島|小アジア]]の[[サルディス]](現[[トルコ]]国内)へ至る約2500&nbsp;kmにおよぶ帝国を縦貫する計画道路が造られた{{sfn|浅井建爾|2001|p=78}}{{sfn|武部健一|2015|pp=7&ndash;8}}。 東アジアの古代中国においては、紀元前220年までに[[秦]]の[[始皇帝]]によって[[馳道]](ちどう)とよばれる大規模な道路網の建設が始められた。建設期間10年ほどの間に造られた馳道の総延長は、現代中国の公式記録とも言われる『中国公路史』によれば1万7920里(約7481&nbsp;km、秦時代の1里は417.5&nbsp;m)とされ、『漢書(かんじょ)』では「道幅は50歩(約70&nbsp;m)、路側に3丈(約7&nbsp;m)ごとに青松を植えた」とされる{{sfn|武部健一|2015|pp=5&ndash;6}}。始皇帝は、馳道建設の終わり頃に直道(ちょくどう)という、首都[[咸陽市|咸陽]](かんよう)から北へ延びる幅約30&nbsp;m程度の直線的な軍事道路を造っている{{sfn|武部健一|2015|pp=5&ndash;6}}。その目的は、北方からの[[匈奴]]侵略に備えるためのものであり、現在の中国では直道は「中国最初の高速道路」とよばれている{{sfn|武部健一|2015|pp=5&ndash;6}}。 また、物資を運ぶための交易路も古代より生まれていた。[[北ヨーロッパ]]で産出された[[琥珀]]を地中海沿岸地域へ運ぶために生まれたヨーロッパ最古の道として知られる[[琥珀の道]]は、紀元前1900年頃から存在した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=80&ndash;81}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=34}}。始皇帝を倒して打ち立てられた中国の[[漢]]帝国の時代{{efn|漢は紀元前206年 - 220年の間にあった中国の王朝。}}からは、国家統一と経済産業の発展のため関所を廃止して道路建設が全国的に進められたことにより、中国の[[長安]]から[[中央アジア]]を横断して[[西南アジア]]、ヨーロッパを結ぶ絹の道([[シルクロード]])が登場する{{sfn|武部健一|2015|pp=8&ndash;9}}{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=2018}}。シルクロードは、貿易のための地上通路として最もよく知られ、紀元前130年前後の漢の時代から[[武帝 (漢)|武帝]]が西域に派遣した[[張騫]](ちょうけん)によって西域の商品や文化が東方へもたらされたことに始まり、7世紀頃の[[唐]]の時代になると中国特産の絹と、ヨーロッパから宝石と織物が運ばれた{{sfn|武部健一|2015|pp=8&ndash;9}}。また、シルクロードは、東西文化の伝達路として大きな役割を果たし、東洋と西洋の双方異なる優れた互いの文化を吸収しながら発展していった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=80&ndash;81}}。中国の唐の時代では全国的な道路網が造られており、5里(約3&nbsp;km)ごとに土堆(どたい、土で築かれた道標)が築かれ、[[駅路]]が整備された{{sfn|武部健一|2015|pp=14&ndash;15}}。中国唐代の道路制度は、日本の道路にも影響を与えており、[[駅伝制|駅伝制度]]などは中国から駅制を導入したものである{{sfn|武部健一|2015|pp=14&ndash;15}}。 === 中世以後から産業革命期 === [[File:Bundesarchiv_Bild_146-2007-0156,_Polen,_Ortschaft_mit_schlammiger_Straße.jpg|thumb|right|240px|雨天で泥状態になった道路。([[ポーランド]]、[[1914年]])]] ヨーロッパでは、ローマ帝国衰退後から産業革命が起こるまで(紀元3世紀以後 - 18世紀初頭)の間は、道路整備は衰退し、ローマ街道として舗装に使われた石が、後世の農夫たちによって取り外されて、家畜小屋や家の建材として使用されるなど、次第に道は荒廃して行った{{sfn|武部健一|2015|p=16}}。17世紀のフランスでは、貴族や国王を乗せた馬車が、道路上の泥濘(ぬかるみ)にはまって横転する災難に遭遇した状況を銅版画で伝えており、同様の道路の惨状はヨーロッパ全土を覆った{{sfn|武部健一|2015|p=16}}。 18世紀の[[産業革命]]期に入って、ようやく道路整備状況が改善される動きが見られるようになり、近代的な断面構造をもつ道路が誕生した。道路建設は路盤工事の後、栗石を敷きならした上に舗石を並べてランマーで突き固めた工事が行われ、アーチ構造の橋梁も建設されるようになるが、これらの工事手法や土木技術は古代ローマ街道とさほど変わらないものであった{{sfn|武部健一|2015|pp=17&ndash;18}}。 フランスではローマ帝国時代に整備された道路網を引き継いで、新たな道路の建設や維持、補修に注力した{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=36}}。1747年、ルイ15世は道路、橋梁に関する[[王立土木学校]]をパリに開校して土木技術者の育成に力を入れた{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=36}}。初代校長でもあったジャン・ルドルフ・ペロネ(1708 - 1794年)の監督の下で、近代的な馬車道が整備されるようになる。1764年には、トレサゲ(1716–1796年)が路床と路面が同じ断面歪曲率をもつ砕石舗装道路であるトレサゲ式道路工法を発明した{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=36}}。 [[File:PompeiiStreet.jpg|thumb|left|240px|[[ポンペイ]]の道路]] 一方、イギリスにおける道路建設とその整備は、16世紀に入ってから馬車交通が著しく発展し、18世紀の産業革命で馬車交通がさらに急増したため、馬車走行に堪えうる強固な道路が要求されるようになった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=36}}。イギリス地域の道路整備は[[教区]]単位で行われため、貧弱で多様な道路状況となった。[[1706年]]頃には、これを改良するために初の[[関所]]が作られ、通行する車両から料金を徴収した。イギリスでは時にはおよそ1100の料金所があり、3万8千&nbsp;km強の道路が整備された。馬による移動の時代には、道路は[[砂利]][[舗装道路]]上での最大斜度3%強での整備を目指していた。これは馬が坂道で荷を引き上げるのに平行に近いほうが最も都合が良かったためである。 同時期に、[[トーマス・テルフォード]](1757 – 1834年)と[[ジョン・ラウドン・マカダム]](1756 – 1835年)という道路建築家が、それぞれ独自の工法を発明した。テルフォード式道路は平坦な路床の上に栗石敷設してその上に砕石と砂利を敷き詰めて転圧したもので1805年に発明され、マカダム式道路は路床の上に直接砕石を施設して上層部に細粒砕石を転圧したもので1815年に発明された{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=36}}。特にマカダム式道路は、短い期間で施工可能で、技術的にも容易であったため広く普及し、近代式マカダム道路の原型にもなった{{sfn|峯岸邦夫|2018|p=36}}。 [[File:Mk Stettin Hafen2.jpg|thumb|240px|[[シュチェチン]], シュチェチン]] 産業革命期のヨーロッパの道路で、本格的な道路改築を行ったのは[[ナポレオン・ボナパルト]](1769 - 1821年)である。ナポレオンは、全ヨーロッパ支配を進める上で、戦争を有利に進めるための軍事的な輸送路確保を目的に道路建設を積極的に行い、フランスからイタリア遠征の経路上にあるアルプス越えのシンプロン峠の道路建設を部下に命じて行わせた{{sfn|武部健一|2015|pp=18&ndash;19}}。100名以上の人命を失う難工事を乗り越えてゴンドー・トンネルが貫通し、1805年にシンプロン峠越えの道路は完成を見た{{sfn|武部健一|2015|pp=18&ndash;19}}。その後、[[モン・スニ峠]]の道路建設も手掛け、さらに全ヨーロッパにその範囲は及んだ{{sfn|武部健一|2015|pp=18&ndash;19}}。ナポレオンが道路建設のために支出した予算は、同時期の要塞建設予算の約2倍あったとされている{{sfn|武部健一|2015|pp=18&ndash;19}}。 歴史的に、都市と都市を結ぶ道路(道:road)と違い、欧米の都市内部の道(街路:street)は廃物処理の場所でもあった。古代ローマ時代は道の真ん中に水を通し、排泄物などの汚物を流していた([[ポンペイ]]遺跡など)。そのため、道の真ん中が両側の町家より数段低くなっていて両側を飛び石状の道渡しで渡る。また、馬車もこの水路の中を通行する。また地下下水道の無かった近世のパリではゴミや汚物を街路に捨てていたのは有名な話である。 === 近代 === 現代では、[[自動車]]などの車両で移動できるよう、道路はほとんどあらゆる箇所で整備が進んでいる。ほとんどの国で、道路輸送が最もよく使われる輸送手段となっている。また、[[交通安全]]と[[渋滞]]の解消のために、ほとんどの先進国では、道路を[[車線|レーン]]に区切って使用するようになっている。 == 車両と道路 == 道路は基本形はただの「ひとつの面」である。 道路には両方向から交通があるので、「すれ違い」が生じる。素朴な形態では、ルールは無いわけだが、それでは「にらみあい」や「衝突」が生じるので、自然と、道の右側を進むのか左側を進むのか、という習慣・ルールの類ができるようになる。 欧米では、基本的に右側を進むということになった。イギリスと日本では左側である。 同じ方向でも、歩行者、馬車などは区別したほうが良いということになる。馬車などは道の中央を走り、歩行者は道の端を歩くということになった。古代の道では、馬車用に意図的に「レール状」にくぼみを作ってある道もある。 歩行者用には高さの異なる面を用意する、ということも行われるようになった。 車両と人が同時に通行すると、悲惨な事故が起きる確率が増す。人と車両を分離すると、人も安心してリラックスして歩くことができ、自動車も安心して高速に運転することができる。 市街地の[[繁華街]]では車を一切入れず、道路をすべて[[歩行者専用道路|歩行者専用]]としているところもある。逆に、[[自動車専用道路]]では、原則自動車以外の走行を禁じることで、高速走行を可能にしている。 現代の日本の道路も、一定程度の幅がある場合は、自動車が通過するための[[車道]]と、歩行者が通行するための[[歩道]]とに区分されている。区分のしかたは様々で、柵で区切る方法もあり、高さを変える方法もある。 欧米では、現代、自転車に乗る人が多いので、道路は、自動車用、自転車用、歩行者用の3つに区分されることがかなり一般的になってきている。日本は対応がまだまだ遅れていて、そうした3区分は徐々に増やしつつある状態である。 自動車が普及するにつれ、無謀運転をする者がいることや、事故の被害者が出ることが次第に問題になり、[[最高速度|速度制限]]が行われるようになった。[[道路標識]]が設置されるなど、法整備も進んだ。 == 道路の機能 == 道路の持つ交通機能は、目的地へ移動するための通行機能とアクセス機能、および滞留機能の3要素がある。道路は交通機能の他にも、まちづくりにおいて密接に関わり合っており、都市と地区の骨格形成や、環境空間や防災空間としての機能も併せ持つ。現在の道路空間は日常生活の収容スペースでもあり、効率的利用が求められている。地下空間には[[水道管]]や[[ガス管]]など、地上には[[電線]]や[[電話線]]などの[[ライフライン]]も敷設されるようになった。都市部では道路の掘り返しを避けるため、これらのライフラインを一括して収容する[[共同溝]]という[[トンネル]]が道路の地下に作られることもある。また、[[地下鉄]]は道路の地下を通過することが多い。 === 交通機能 === 道路は走行速度が高く安全・円滑で快適な移動を重視する「通行機能」と、走行速度よりもむしろ多くの道路や沿道施設と接続することを重視する「アクセス機能」に分けることができる{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=18&ndash;19}}。通行機能性は[[高速道路]]が最も高く、次いで[[幹線道路]]、補助幹線道路、[[生活道路]]の順で低下していく{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=18&ndash;19}}。対するアクセス機能性は、建物・施設などの目的地に面する生活道路が最も高く、次いで補助幹線道路、幹線道路、高速道路の順で低下していく{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=18&ndash;19}}。つまり、通行機能とアクセス機能は相反する関係を有していると言われている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=18&ndash;19}}。 さらに道路は、駐停車帯に自動車を停める場合や、歩行者が[[バス停]]などに足を止めたい場合もあり、これら求められる機能のことを「滞留機能」とよんでいる{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=18&ndash;19}}。「通行機能」「アクセス機能」「滞留機能」の3機能は、まとめて道路の「交通機能」とよばれており、自動車ばかりではなく、歩行者や自転車などを含めたすべての利用者に対して必要とされている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=18&ndash;19}}。 === 都市計画やまちづくり === [[File:Avenue des Champs-Elysées from top of Arc de triomphe Paris.jpg|thumb|パリ(フランス)の[[エトワール凱旋門]]から見た[[シャンゼリゼ通り]] ]] 道路は利用者が往来するための機能だけではなく、都市や地区の骨格を形成し、良好な街並みを形成するための機能も有しており、[[都市計画]]やまちづくりを勧めていくための多様な機能を有する重要な構成部でもある{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=20&ndash;21}}。家々は道路に面して建てられ、また道路によって[[街区]]が形成されて道路に沿って公共施設や店舗が建ち並び、街路樹が整えられて、駅前や商業地区には街区のシンボルとなる[[街路]]([[通り]]、[[ストリート]]、[[アヴェニュー]])が形成される{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=20&ndash;21}}。さらにシンボルとなる「通り」の景観を充実させるため、沿道の建物の高さを制限したり、美観に配慮した幅広くゆとりのある[[歩道]]が整備されたりもする{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=20&ndash;21}}。また、歩道や[[中央分離帯]]に[[植栽]]帯を設けて[[街路樹]]により緑陰を提供し、緑化や騒音減衰、大気の浄化といった面で、人々に快適な環境空間を提供する役割も担っている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=20&ndash;21}}。さらに、防災空間としての機能を持たせることにより、火災時の[[延焼]]防止機能や、震災時の避難経路や物資輸送路の確保といった緊急時の通行空間としての機能が期待されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=20&ndash;21}}。 === インフラ収容機能 === 道路の上空や地下には、[[路面電車]]や地下鉄、[[公益施設]]とよばれる電気やガス、上下水道などのライフライン、電話などの[[通信ケーブル]]など、生活に欠かせないネットワークがきめ細かく張り巡らせてあり、これらインフラ施設を収容する空間としての機能を有している{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=22&ndash;23}}。道路空間の利用にはスペースに制約があるが、交通量が多く複数の公益施設が収容されている道路では、これらネットワーク施設を効率よく納めるために、車道の地下にガス・上下水道・電気・通信を納める共同溝や、歩道下に[[電線共同溝]]の整備が行われている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=22&ndash;23}}。副次的効果として、無電柱化されることにより道路景観が改善し、震災時の電柱倒壊による道路閉鎖を防止することにもつながっている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=22&ndash;23}}。このほかにも道路の地下空間は、地下[[駐車場]]や[[地下道|地下通路]]、[[地下街]]などにも活用されている{{sfn|峯岸邦夫|2018|pp=22&ndash;23}}。 === 道路と住居表示の関係 === 欧米では、 道路(英:[[w:en:Street|Street]]、独:[[w:de:Straße|Straße]])は[[住居表示]]の基礎となっている。欧米流の発想では、基本的に「住所」というのは、道路に結び付けて(概念的にぶらさげて)理解されるものであって、そうした理解のしかたが標準的なのである。 <!-- 例がすこし不適切。<ref>例えば、イギリスの首相官邸は「[[ダウニング街10番地]]」として[[住居番号]]がよく知られている。</ref> --> 街路を挟んで両側が同じ街路名を共有しており、住居表示となる。いくつか番号の振り方があり、国によって異なる。ひとつの方法は、道の片側は[[奇数]]で統一し、反対の片側側は[[偶数]]で統一するというものである。数字が小さいほうから大きいほうへ、順番に敷地が並ぶ。それによって郵便配達人が簡単に配達できたり、土地勘の無い人が訪問することが簡単にできる。郵便配達人なら、[[郵便物]]に書かれている宛先の通りの名前を見て、その通りまで行き、あとは末尾の数字を見て、まず奇数か偶数かを読み取り、それによって道のどちら側かを判断し、各戸に表示されている数字を確認しつつ進み、数字が一致したところでポストに投函すればよい。 土地が分割されたり家が増えた場合の対処法について説明する。片側に1,3,5,7,9...などと最初に通し番号が振られているわけであるが、例えば3の家・土地の権利が二つに分割されたら、「3-a」「3-b」などとする。これによって他の「1」「5」「7」..などの番号を振られた土地は番号が変更されずに済む。 日本の[[京都市]]でも一部で街路(通り名)を用いた住所表記を行う(「〜(条)通上ル、下ル、東入ル、西入ル」)。京都市の場合、町名が非常に多く、異なる場所にあっても町名が同一の場合があり、これらの場所を区別するために郵便番号も別々に設定されている。これらの事情により通り名を用いたほうが住所を特定しやすいため慣習的に用いられている。 日本では、街路の両側が1つの町名を共有していたが、1962年に[[住居表示に関する法律]]が施行されると、新しく付けられた町名地番は道路に囲まれる街区単位で住居番号を付けるようになった。一方で現在でも[[中央区 (大阪市)|大阪市中央区]]の一部では街路の両側を単位とする町名が残っている。<ref group="注釈">[[太閤下水]](背割下水)が街路に面して建つ家屋の間を通っており、それが町名の区分となっている。</ref>。 == 環境破壊 == 道路の開発は森や山を拓いて行われるため、環境破壊と密接に結びついている。 [[ブラジル]]では[[アマゾン川]]を貫くように道路が開発され、環境破壊に反対する声が上がっている<ref>[https://jp.reuters.com/article/brazil-environment-highway-idJPKBN1WP0KL 焦点:アマゾン奥地で道路再建、住民の夢か熱帯雨林の枯死か | ロイター ]</ref>。 また、道路の使用においても車が排出する[[排気ガス]]や道路が削れて飛散する[[粉塵]]による[[公害]]が問題となる。 日本においては高度経済成長の時代に道路が整備され、それを利用する[[マイカー]]から発せられる[[道路公害]]として表面化し、その後の[[環境政策]]にも大きな影響を与えている<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%81%93%E8%B7%AF%E5%85%AC%E5%AE%B3-1189429 道路公害とは - コトバンク ]</ref>。 {{seealso|日本の環境と環境政策}} == 日本と道路 == [[File:Akitakendo 261 Daisen City 1.jpg|thumb|right|200px|日本における一般的な二車線の都道府県道([[秋田県]])]] === 日本の法律上の定義 === [[日本]]の法律上の定義としては、[[道路法]]、[[道路交通法]]、[[建築基準法]]などの法律が、それぞれ道路の定義を定めている。 ==== 道路交通法の「道路」 ==== 道路交通法第2条第1項は、以下の3つに該当する場合を道路としている。 #道路法第2条第1項に規定する道路(いわゆる[[公道]]) #[[道路運送法]]第2条第8項に規定する[[自動車道]](もっぱら自動車の交通の用に供することを目的として設けられた道で道路法による道路以外のもの) #一般交通の用に供するその他の場所 「一般交通の用に供するその他の場所」とは、公道や自動車の交通のために設けられた道以外で、現実の交通の実態から道路とみなされる土地のことをいう。不特定の人や車が自由に通行することができる場所で、現実に通行に使用されている場所が該当する。そのため、一般に道路としての形態を有していなくても該当する場合があり、私有地であるか公有地であるかは関係がない。具体的には、[[農道]]、[[林道]]、[[里道|赤線]]が該当し、一般の交通に供用されていれば、[[私道]]、[[広場]]、[[公園]]、[[河川敷]]、[[地下街]]等も含まれる。 「一般交通の用に供するその他の場所」に関する通説・判例は下記のとおり。 *私有地であっても、不特定の人や車が自由に通行できる状態になっている場所は、「一般交通の用に供するその他の場所」である。(昭和44年7月11日最高裁判所第二小法廷判決・昭和43(あ)1407 ) *「一般交通の用に供するその他の場所」とは、それが一般公衆に対し無条件で開放されていることは必ずしも要しないとしても、「現に一般公衆及び車両等の通行の用に供されていると見られる客観的状況のある場所であって、しかも、その通行をすることについて通行者がいちいちその都度管理者の許可などを受ける必要がない場合をいう。(仙台高等裁判所昭和38年12月23日判決) *管理者が一般交通の用に供することを認めていない場合、つまり、通行につき管理者の許可を要し、しかも客観的にも不特定多数の者の交通の用に供されているとみられる状況にないときは、道路としての要件に欠く。(東京高等裁判所昭和45年6月3日判決) ==== 道路法の「道路」 ==== 道路法第2条第1項および第3条は、一般交通の用に供する道で、以下の4つに該当するものを道路としている。 #[[高速自動車国道]] #[[一般国道]] #[[都道府県道]] #[[市町村道]] 道路を構成するものは、路面、[[路肩]]、法敷(のりしき)の他、[[トンネル]]、[[橋]]、渡船施設、道路用[[エレベーター]]等の道路と一体としてその効用を全うする施設・工作物、および、[[横断歩道橋]]など道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものも、道路に含むとしている{{sfn|窪田陽一|2009|p=18}}。道路法で定義される道路として認めることを、高速自動車国道と一般国道は「道路指定」、都道府県道と市町村道は「道路認定」といい、道路法が適用される都道府県道、市町村道を「認定道路」とよぶ{{sfn|窪田陽一|2009|p=18}}。いわゆる[[公道]]であり、[[道路構造令]]による幅員・構造などの基準が定められている{{sfn|窪田陽一|2009|p=18}}。 道路の成立から廃止まで段階的な規定があり、(1) 路線の指定/認定、(2) 区域の決定、(3) 用地の取得、(4) 建設工事、(5) 供用開始、(6) 維持管理、(7) 路線の廃止・変更、(8) 不要物件の処理というように行政上の手続きが行われる{{sfn|窪田陽一|2009|p=18}}。 なお、道路法第89条の[[主要地方道]]は、道路法上の道路の種類ではなく、国が道路整備の必要一定範囲内で補助する道路として大臣が指定した主要道路のことであり、都道府県道の中には一般道路と主要地方道が含まれる{{sfn|窪田陽一|2009|p=18}}。 ==== 土地改良法の「道路」 ==== [[土地改良法]]に基づく道路とは、[[農業用道路]]のことで、いわゆる農道のことである{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=217}}。幹線農道と支線農道に大別でき、支線農道には収穫物運搬等のための通作道と、通作道の連絡道路がある{{sfn|窪田陽一|2009|p=19}}。 基幹的な農道として、1965年(昭和40年)から実施された農林漁業用揮発税財源身替農道整備事業(略称:農免道路事業)により[[農林水産省]]が整備する道路のことを「[[農免道路]]」と呼ぶ{{sfn|窪田陽一|2009|p=19}}。 ==== 森林法の「道路」 ==== [[森林法]]に基づく道路とは、[[林道]]のことであり、森林の整備・保全を目的として設けられる道路の総称としている{{sfn|窪田陽一|2009|p=19}}。林道は、道路法の関連規定の枠外にあるが、一般交通に供される林道は、道路交通法・道路運送車両法などの規定は適用される{{sfn|窪田陽一|2009|p=19}}。所管は農林水産省[[林野庁]]で、林道の制度は日本独自のものとなっている{{sfn|窪田陽一|2009|p=19}}。民有林の中の林道の種類には、次のようなものがある。 #[[一般補助林道]] #[[緑資源幹線林道]] #[[特定森林地域開発林道]](スーパー林道) ==== 港湾法の「道路」 ==== [[港湾法]]に基づく道路とは、臨港地区内における臨港交通施設として供される[[臨港道路]]のことを指す。[[国土交通省]]の予算で造られ、港湾管理者である[[港湾局]]または[[地方公共団体]](都道府県や市町村)が管理を行う{{sfn|窪田陽一|2009|p=19}}。 ==== 道路運送法の「道路」 ==== [[道路運送法]]第2条第7号は、以下の3つに該当するものを道路としている。 #道路法による道路 #その他の一般交通の用に供する場所 #自動車道(もっぱら自動車の交通の用に供することを目的として設けられた道で道路法による道路以外のもの。「一般自動車道」と「専用自動車道」の2つがある。) 第2条第8項では、上記の「自動車道」について定義されており、その中の「一般自動車道」とは、専用自動車道以外の自動車道をいい、「専用自動車道」とは、自動車運送事業者(自動車運送事業を経営する者)がもっぱらその事業用自動車(自動車運送事業者がその自動車運送事業の用に供する自動車)の交通の用に供することを目的として設けた道であると定めている{{sfn|窪田陽一|2009|pp=19-20}}。 ==== 建築基準法の「道路」 ==== 建築基準法第42条は、以下の1〜5に該当する場合を道路とし、6に該当する場合を道路とみなしている。 #道路法の道路(国道、都道府県道、市町村道)で、幅員4メートル(一部区域では6メートル)以上のもの #[[都市計画法]]、[[土地区画整理法]]、旧[[住宅地造成事業に関する法律]]、[[都市再開発法]]、[[新都市基盤整備法]]、[[大都市地域における住宅および住宅地の供給の促進に関する特別措置法]]、[[密集市街地整備法]]に基づいて造られた道路で、幅員4メートル(一部区域では6メートル)以上のもの #建築基準法施行時または都市計画区域編入時にすでに存在していた道で、幅員4メートル(一部区域では6メートル)以上のもの #道路法、都市計画法等で新設か変更の事業計画がある道路で、2年以内に事業が執行される予定のものとして特定行政庁が指定した幅員4メートル(一部区域では6メートル)以上のもの #土地を建築物の敷地として利用するため、道路法、都市計画法等によらないで築造する政令で定める基準に適合する道で、道路の位置について特定行政庁の指定を受けたもので、幅員4メートル(一部区域では6メートル)以上のもの([[位置指定道路]]) #上記にはいずれも含まれないが、建築基準法第42条第2項〜第6項に基づき特定行政庁が指定したため、道路とみなされるもの([[2項道路|42条2項道路]]、[[3項道路|42条3項道路]]など) 公道・私道の区別はなく、自動車専用道路のみ対象外で、幅員4m以上が道路となる{{sfn|窪田陽一|2009|p=20}}。幅員が4m未満であるなど、それ以外のものは、建築基準法上は「道路」とは位置づけられず、建築基準法関連においては「通路」「道」などと呼ばれる。 なお、建築基準法43条の接道基準を満たさないが、同条但書に基づき特定行政庁が建築許可を出した場合の道路について、「[[但し書き道路]]」と言われる。 ==== その他の法律 ==== 上記にあげられた以外に、各法令の道路の種類として次のようなものがある{{sfn|窪田陽一|2009|p=21}}。 *[[漁港漁場整備法]]:[[漁港施設道路]]{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=217}}、[[漁免道路]] *[[自然公園法]]:[[公園道]]{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=217}}、[[自然研究路]]、[[長距離歩道]] *[[都市公園法]]:[[園路]]{{sfn|ロム・インターナショナル(編)|2005|p=217}} *[[国有財産法]]:[[里道]](赤道) *[[河川法]]:[[河川管理用通路]] このほか、[[不動産登記]]簿上の[[地目]]の一種として、「[[公衆用道路]]」というものがある。一般交通の用に供する道路のことを指し、公道・私道を問わない。 道路と一体となって利用される[[橋]]や[[トンネル]]、[[横断歩道橋]]や横断地下歩道などの施設も含む{{要出典|date=2014年10月}}。 === 外国語表記 === * [[1954年|昭和29年]]12月9日付内閣告示第一号によって、[[ローマ字]](ヘボン式)の綴り方などを示している。 === 住民参加型の道路直営施工 === 近年では[[地方公共団体|自治体]][[財政]]の情勢悪化により、[[生活道路]]については機材・資材を自治体が提供し、施行は住民が自ら工事する事業が注目されてきている。 栄村のケースでは、外部発注するのと比べ費用を1/2〜1/3に抑えられている<ref name="nochu" />。 * [[農林水産省]] 農家・地域住民等参加型の直営施工推進マニュアル<ref>{{Cite press release|和書|publisher=農水省 |date=2005-8 |title=農家・地域住民等参加型の直営施工推進マニュアル |url=https://www.maff.go.jp/j/nousin/seko/top/t_rikai/t_chokuei/pdf/manual.pdf |format=PDF }}</ref> * [[長野県]][[下條村]] 建設資材支給事業<ref>{{Cite|和書|journal=日経ビジネス |date=2009-02-10 |title=日本の未来が見える村 長野県下條村、出生率「2.04」の必然 |url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20090209/185533/ }}</ref> * [[長野県]][[栄村]] 「道直し」事業(全国過疎地域自立促進連盟会長賞 受賞)<ref name="nochu">{{Cite journal|和書|url=http://www.nochuri.co.jp/report/financial/2221.html |journal=農中総研 調査と情報 |date=2008-1 |volume=4 |title=協働で守る農地・道路 - 長野県栄村 - |author=木村俊文 |publisher=株式会社[[農林中金総合研究所]] |issn=1882-2460 }}</ref> == 用語 == * 認定道路:[[都道府県道]]、[[市町村道]]等で[[道路法]]が適用される道路。 * 特定道路:幅員15m以上の道路をいい、前面道路が70m以内で接続していれば、容積率が緩和される。 * [[前面道路]]:[[建築基準法]]第43条で規定される、建築物の敷地に2&nbsp;m以上接する道路。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|authorlink=浅井建爾|edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=浅井建爾|edition= 初版|date=2015-10-10 |title=日本の道路がわかる辞典 |publisher=日本実業出版社 |isbn=978-4-534-05318-3 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=窪田陽一 |title=道路が一番わかる |edition=初版 |date=2009-11-25 |publisher=[[技術評論社]] |series=しくみ図解 |isbn=978-4-7741-4005-6 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=武部健一 |title=道路の日本史 |edition= |date=2015-05-25 |publisher=[[中央公論新社]] |series=中公新書 |isbn=978-4-12-102321-6 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=峯岸邦夫編著 |authorlink= |date=2018-10-24 |title=トコトンやさしい道路の本 |series=今日からモノ知りシリーズ|publisher=[[日刊工業新聞社]] |isbn=978-4-526-07891-0 |ref={{SfnRef|峯岸邦夫|2018}} }} * {{Cite book |和書 |author=ロム・インターナショナル(編)|date=2005-02-01 |title=道路地図 びっくり!博学知識 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢文庫|isbn=4-309-49566-4|ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat|Roads}} {{Wiktionary}} {{ウィキプロジェクトリンク|道路}} {{ウィキポータルリンク|道路}} * [[日本の道路]] * [[道路の種類]] * 道路 ** [[バイパス道路]] ** [[産業道路]] ** [[廃道]] ** [[自転車道]] ** [[狭隘道路]] ** [[並木道]] ** [[ブールバール]] * [[国際道路連盟]] * {{ill2|道路ファン|en|Roadgeek}} == 外部リンク == * 定義 ** {{Egov law|327AC1000000180#5|道路法第二条}} ** {{Egov law|325AC0000000201#473|建築基準法第四十二条}} {{公害}} {{森林破壊}} {{Normdaten}} [[Category:道路|*]]
2003-03-16T19:03:08Z
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4,341
日本電信電話公社
日本電信電話公社(にっぽんでんしんでんわこうしゃ、英語: Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation)は、かつて電気通信事業を営んでいた公共企業体、日本電信電話公社関係法令による公法上の法人である。略称は「電電公社(でんでんこうしゃ)」。 現在の日本電信電話株式会社(NTT)、NTTグループの前身である。 往年の三公社五現業の三公社のひとつ。 1868年(明治元年)、官営に依る電信事業が廟議決定され、翌1869年(明治2年)に東京と横浜間で電信サービスが開始された。その後、1876年(明治9年)にベルにより電話機が発明され、翌1877年(明治10年)に工部省が電話機を輸入して実験を行い電話機の国産化に着手した。 1890年(明治23年)、逓信省により東京市、横浜市、および東京市と横浜市間において、電話交換サービスが開始され、電信・電話は同省の下で運営管理されることになった。 1943年(昭和18年)、第二次世界大戦中に逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省が設置され、電信・電話の事業は運輸通信省の外局である通信院が所管する事になった。その後、1945年(昭和20年)、運輸通信省の外局であった通信院は、内閣所属部局として逓信院となった。 第二次世界大戦後の戦災による電信・電話設備の復興を目指して電気通信事業体制の再編が行われた。敗戦直後の1946年(昭和21年)に逓信院を廃止し逓信省に格上された。 翌1947年(昭和22年)には、国際無線・有線電信・電話設備の建設と保守を事業とした国際電気通信株式会社がGHQの財閥解体指示により解散され、逓信省に同社の国際通信設備と人員が移管された。これにより、逓信省は、国内国際電信電話事業と設備を所管するに至った。 1949年(昭和24年)、逓信省は郵政省と電気通信省に分割され、国内国際電信電話事業とその設備は電気通信省が所管することとなったが、後に郵政省に再統合され、以後は郵政省が管轄した。 その後の電信電話業務の拡大と電気・通信事業の企業的効率性の導入による更なる公共の福祉に役立つ運用を行うため、1952年(昭和27年)に日本電信電話公社法に基づく特殊法人として、日本電信電話公社が郵政省の外郭団体での形態で設立された。 設立の審議の過程において、国際電話業務を分離し特殊会社とする案もあったが電気通信大臣であった佐藤栄作が、「過去の例で国際電信電話に関し設備保有の会社があったが、電気通信省の管理者としては積極的な検討はしておらず、今日のところは国家的な使命を達成する意味において公共企業体の程度には是非とどめておきたいので、公共企業体移行への準備を進めている。」と述べ、国際電話の別会社化について審議を併行し続ける形で、同公社が国内と国際の電信・電話業務を所管することとなった。 資本金は、電気通信事業特別会計の資産と負債の差額(182億円余り)とされ、全額政府の出資金とされた。その後、沖縄が日本に返還された1972年(昭和47年)に琉球電信電話公社の資本金(6.1億円)が追加し出資された。 また、国際電信電話業務は、同公社設立の翌年1953年(昭和28年)に、国際電信電話株式会社法に依る特殊会社として設立された国際電信電話株式会社(現:KDDI)に移管される事になった。 1985年(昭和60年)に公衆電気通信法は電気通信事業法に改正された。これにより、同公社の民営化と、電気通信事業への新規参入、および電話機や回線利用制度の自由化(端末の自由化・通信自由化)が認められた。同公社の民営化までは、国内の通信(電報、専用線など)、通話(電話)業務を単独で行ってきた。 これに伴い、1987年(昭和62年)に第二電電、日本テレコム、日本高速通信の3社が長距離電話サービスに参入した。電話事業の独占的環境にあった量的拡大の時代は、競争環境下における質的高度化の時代というステージに移行した。 なお、民営化の際、「地方では電話局が廃止・無人化されるのではないか」、「過疎地で電話が利用できなくなるのではないか」といった反対意見が出されたが、賛成派は「根拠のない批判だ」と一笑に付すことで民営化路線を進めていった。 同公社が業務としていた公衆電気通信は、1953年8月1日施行された公衆電気通信法により『日本電信電話公社及び国際電信電話株式会社が役務とすること』が自明のものとして定義されていた。 公衆電気通信役務を“電気通信設備を用いて他人の通信を媒介し、その他電気通信設備を他人の通信の用に供すること”と定義したうえで、電報の種類、電話の種類のほか、料金そのものも条文中で定められていた。 事業内容は日本電信電話公社法3条により「公衆電気通信業務及び付帯業務」とされている。この業務は、電話サービス、電信サービス(電報・加入電信)、データ通信サービス、専用サービスに大別される。 電電公社は事業年度毎に、予算を郵政大臣に提出し、閣議決定・国会の議決を経て政府から成立の通知を受けた。また決算期につき財務諸表の承認を受けた。一方、資金の借入のほか、政府保証債である電信電話債券(でんでん債。電話加入権ではない)の発行を行い、政府の貸付や債券引受、国庫余裕金の一時使用、更には外貨債務に掛かる債務保証が認められた。 電電公社の英文略称はNTT(Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation)である。「NTT」と言う呼称は民営化の時に作られたものではなく、公社時代から既に使われていた。なお、現在のNTTのロゴマークなどは民営化時に作られた。民営化以前の1980年代前半に「NTT」と言う略称がCMで使われていたことがある。それと同時期に、「もっとわかりあえる、明日へ。」(それ以前は「電話のむこうは、どんな顔」)のスローガンが広告媒体で使われていた。 電電公社の経営は経営委員会の下に、総裁、副総裁、理事、監事のメンバーで行われていた。 電電公社の公式マーク(公社章)は、「電報 (Telegraph) と電話 (Telephone)」の頭文字である2つの「T」で円を作り、中央の空白部でサービス (Service) の頭文字である「S」を表すデザインであった。国土地理院制定の電話局の地図記号にも使われたが、民営化翌年の1986年(昭和61年)に廃止された。 後身の特殊会社日本電信電話他NTTグループは社章を新しく制定し、この公社章は廃止されたマークとなったため、機器等に標示されたそれも更新と同時に逐次置き換わっていったが、それでも21世紀に入った後もマンホールの蓋など耐久性の高い物品にはこの公社章の入ったものを見かけることがある(右写真は一例)。 電電公社は女性技術者が多数在籍する特色があった。1960年代には技術者の補充が困難となってきたことから、1965年には女性の離職防止対策として育児休職制度(最大3年間)を試験導入。その後、3年間で約1700人の利用者があったことから、1968年5月から本格導入した。 以下の病院は元々旧逓信省の下で発足し、同省が2分省化された際に旧電気通信省に属した事から、公社化後には電電公社の付属施設となったものである。ただし、一部の病院に関しては電気通信省または公社発足後に設立されたものもあるが、名称は他の病院と同様に「逓信病院」を名乗っていた。 これらの病院は、民営化後に日本電信電話→NTT東日本・NTT西日本が運営する企業立病院となるが、のちに大半が廃止され、現在は下記の関連施設となっている。
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日本電信電話公社は、かつて電気通信事業を営んでいた公共企業体、日本電信電話公社関係法令による公法上の法人である。略称は「電電公社(でんでんこうしゃ)」。 現在の日本電信電話株式会社(NTT)、NTTグループの前身である。
{{Otheruses|1985年3月31日まで存在した公社(特殊法人) |現在の電気通信会社である「NTT」|日本電信電話}} {{出典の明記|date=2018年5月}} {{Infobox 組織 |名称 = 日本電信電話公社 |正式名称 = |英文名称 = Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation |ロゴ = File:Dendenkosha Logo.svg |ロゴサイズ = 160px |ロゴ説明 = |画像 = File:NTT Communications (headquarters).jpg |画像サイズ = 250px |画像説明 = 電電公社本社([[NTT日比谷ビル|日比谷電電ビル]]) |地図 = |地図サイズ = |地図説明 = |地図2 = |地図2サイズ = |地図2説明 = |略称 = 電電公社 |愛称 = |名の由来 = |標語 = |前身 = |合併先 = |後継 = [[日本電信電話|日本電信電話株式会社]] ([[NTTグループ]]) |設立 = [[1952年]][[8月1日]] |設立者 = |設立地 = |解散 = [[1985年]][[4月1日]] |合併元 = |種類 = [[特殊法人]] |地位 = |目的 = |本部 = [[東京都]][[千代田区]][[内幸町]]1丁目1番地 |所在地 = | 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = | 経度度 = |経度分 = |経度秒 = |会員数 = |言語 = <!-- 公用語 --> |事務局長 = |幹部呼称 = <!-- 既定値:「会長」 --> |幹部氏名 = |人物 = <!-- 重要人物 --> |機関 = |加盟 = |提携 = |関連組織 = |予算 = |スタッフ = <!-- 職員数 --> |ボランティア = |ウェブサイト = |補足 = <!-- 特記事項 --> |旧称 = |注記 = <!-- 注記欄 --> }} '''日本電信電話公社'''(にっぽんでんしんでんわこうしゃ、{{Lang-en|Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation}})は、かつて電気通信事業を営んでいた公共企業体、日本電信電話公社関係法令による公法上の[[法人]]である。略称は「'''電電公社'''(でんでんこうしゃ)」。 現在の[[日本電信電話|日本電信電話株式会社]](NTT)、[[NTTグループ]]の前身である。 == 概要 == 往年の[[三公社五現業]]の三公社のひとつ{{efn|日本電信電話公社、[[日本国有鉄道]]、[[日本専売公社]]を三公社という。}}{{efn|[[郵便事業]]、[[国有林野事業]]、[[大蔵省印刷局]]、[[造幣局 (日本)|大蔵省造幣局]]、[[日本アルコール産業|アルコール専売]]を五現業という。}}。 === 明治から第二次世界大戦中の電信・電話事業 === 1868年([[明治]][[元年]])、官営に依る電信事業が廟議決定され、翌1869年(明治2年)に東京と横浜間で電信サービスが開始された。その後、1876年(明治9年)に[[アレクサンダー・グラハム・ベル|ベル]]により電話機が発明され、翌1877年(明治10年)に[[工部省]]が電話機を輸入して実験を行い電話機の国産化に着手した。 1890年(明治23年)、[[逓信省]]により[[東京市]]、[[横浜市]]、および東京市と横浜市間において、電話交換サービスが開始され、電信・電話は同省の下で運営管理されることになった。 1943年([[昭和]]18年)、[[第二次世界大戦]]中に逓信省と[[鉄道省]]を統合し、[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]が設置され、電信・電話の事業は[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]の外局である通信院が所管する事になった。その後、1945年(昭和20年)、運輸通信省の外局であった[[通信院]]は、内閣所属部局として[[逓信院]]となった。 === 第二次世界大戦後の電信・電話事業 === 第二次世界大戦後の戦災による電信・電話設備の復興を目指して電気通信事業体制の再編が行われた。敗戦直後の1946年(昭和21年)に逓信院を廃止し[[逓信省]]に格上された。 翌1947年(昭和22年)には、国際無線・有線電信・電話設備の建設と保守を事業とした[[国際電気通信|国際電気通信株式会社]]{{efn|国際電気通信株式会社法の成立に伴い設立された[[特殊会社]]。}}が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の[[財閥解体]]指示により解散され、逓信省に同社の国際通信設備と人員が移管された。これにより、逓信省は、国内国際電信電話事業と設備を所管するに至った。 1949年(昭和24年)、逓信省は[[郵政省]]と[[電気通信省]]に分割され、国内国際電信電話事業とその設備は電気通信省が所管することとなったが、後に郵政省に再統合され、以後は郵政省が管轄した。 === 日本電信電話公社の設立 === [[File:Establishment of Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation.JPG|200px|thumb|日本電信電話公社の設立]] その後の電信電話業務の拡大と電気・通信事業の企業的効率性の導入による更なる公共の福祉に役立つ運用を行うため、1952年(昭和27年)に[[日本電信電話公社法]]に基づく特殊法人として、'''日本電信電話公社'''が郵政省の[[外郭団体]]での形態で設立された。 設立の審議の過程において、国際電話業務を分離し特殊会社とする案もあったが[[電気通信大臣]]であった[[佐藤栄作]]が、「過去の例で国際電信電話に関し設備保有の会社があったが、電気通信省の管理者としては積極的な検討はしておらず、今日のところは国家的な使命を達成する意味において公共企業体の程度には是非とどめておきたいので、公共企業体移行への準備を進めている。」{{efn|参議員 第10回 電気通信委員会議事録による。}}と述べ、国際電話の別会社化について審議を併行し続ける形で、同公社が国内と国際の電信・電話業務を所管することとなった。 資本金は、電気通信事業[[特別会計]]の資産と負債の差額(182億円余り)とされ、全額政府の出資金とされた。その後、[[沖縄返還|沖縄が日本に返還]]された1972年(昭和47年)に[[琉球電信電話公社]]の資本金(6.1億円)が追加し出資された<ref>『内部組織の状態空間モデル-公企業の動学的効果分析-』内閣府、システム分析調査室、1979年による</ref>。 また、国際電信電話業務は、同公社設立の翌年1953年(昭和28年)に、国際電信電話株式会社法に依る[[特殊会社]]として設立された[[国際電信電話|国際電信電話株式会社]](現:[[KDDI]])に移管される事になった。 === 通信の自由化と日本電信電話公社の民営化 === [[1985年]](昭和60年)に[[公衆電気通信法]]は[[電気通信事業法]]に改正された。これにより、同公社の[[民営化]]と、電気通信事業への新規参入、および電話機や回線利用制度の自由化(端末の自由化・[[通信自由化]])が認められた。同公社の民営化までは、国内の通信([[電報]]、[[専用線]]など)、通話([[電話]])業務を単独で行ってきた。 これに伴い、1987年(昭和62年)に[[第二電電]]、[[ソフトバンクテレコム|日本テレコム]]、[[日本高速通信]]の3社が長距離電話サービスに参入した。電話事業の独占的環境にあった量的拡大の時代は、競争環境下における質的高度化の時代というステージに移行した。 なお、民営化の際、「地方では[[電話局]]が廃止・無人化されるのではないか」、「過疎地で電話が利用できなくなるのではないか」といった反対意見が出されたが、賛成派は「{{独自研究範囲|根拠のない|date=2020年9月}}批判だ」と一笑に付すことで民営化路線を進めていった{{efn|電話局そのものの廃止はなかったが、無人化つまり「窓口の廃止・電話のみの受け付け」への移行は、2000年代から行なわれている。なお、効率化が求められる民営化において地方切り捨ての懸念自体は存在する。}}。 === 公衆電気通信役務 === 同公社が業務としていた公衆電気通信は、1953年8月1日施行された公衆電気通信法により『日本電信電話公社及び国際電信電話株式会社が[[ユニバーサルサービス|役務]]とすること』が自明のものとして定義されていた。 公衆電気通信役務を“[[電気通信設備]]を用いて他人の[[通信]]を媒介し、その他電気通信設備を他人の通信の用に供すること”と定義したうえで、[[電報]]の種類、[[電話]]の種類のほか、[[料金]]そのものも条文中で定められていた。 === 事業の内容および推移 === 事業内容は日本電信電話公社法3条により「公衆電気通信業務及び付帯業務」とされている。この業務は、電話サービス、電信サービス(電報・加入電信)、データ通信サービス、専用サービスに大別される。 ; 電話サービス : 電話サービスの拡充を図ることを目標とし、1953年度以降、電信電話拡充改良5ヵ年計画を実施。この計画は、「加入電話の積滞解消」「全国自動即時化」を2大目標とし第5次5ヵ年計画において、需要充足率91%とほぼ達成された。さらに1978年(昭和53年)から1982年6次計画を実施した。 ; 電信サービス : 電話サービスの普及に伴い、電報サービスは1963年(昭和38年)をピークに需要減少傾向となった。加入電信サービス([[テレックス]])は、企業の情報取得の担い手として順調な伸びを示したが、[[ファクシミリ|ファクシミリ端末]]の普及等に伴い需要減少傾向となった。 ; データ通信サービス : 1971年(昭和46年)の公衆電気通信法の改正により、専用データサービス(特定企業体等の需要に応じる)、専用データ通信サービス(特定企業体等の需要に応じる)、加入データ通信サービス(不特定多数の需要に応じる)とし法定業務として制度化された。 ; 専用サービス : 高速模写伝送、映像伝送といった伝送内容の形態の多様化、情報の多様化により、需要拡大傾向となった。 === 財務及び会計 === 電電公社は事業年度毎に、予算を[[郵政大臣]]に提出し、[[閣議 (日本)#閣議の意思決定|閣議決定]]・[[国会 (日本)|国会]]の議決を経て政府から成立の通知を受けた。また決算期につき財務諸表の承認を受けた。一方、資金の借入のほか、[[政府保証債]]である電信電話[[債券]]('''でんでん債'''。[[電話加入権]]ではない)の発行を行い、政府の貸付や債券引受、[[国庫]]余裕金の一時使用、更には[[外貨]][[債務]]に掛かる[[債務保証]]が認められた。 === 予算の枠組 === ; 予算の手続き : 事業計画、資金計画、その他参考資料をまず郵政大臣に提出する。郵政大臣は[[大蔵大臣]]と協議の上調整を行い、閣議決定を図り、政府関係機関予算のひとつとして国の予算とともに、内閣によって国会に提出される。国会の議決予算に基づいて、4半期ごとに資金計画を行い、郵政大臣、大蔵大臣、[[会計検査院]]に提出する。大蔵大臣は、資金計画に対し上限を設定することが出来た。 ; 損益勘定 : 事業収入は、電信収入、専用収入、雑収入よりなる。支出勘定は、人件費、営業費、保守費、利子及債務取扱諸費等よりなる事業支出を算定し、収支差額は、債務償還、建設等の財源と資本勘定に繰り入れられる。 ; 資本勘定 : 収入としては、内部資金としての損益勘定、外部資金として設備料、電信電話債権、借入れ金がある。1965年(昭和40年)予算では、内部資金54:外部資金46であった。1978年予算では、内部資金62:外部資金38と内部資金による調達が増大している。このような形で調達された資金は、債権及び借入金等償還や、国際電信電話株式会社の株式保有、宇宙開発事業団への出資や、建設財源として建設勘定へ繰り入れられている。 === 略称・スローガン === 電電公社の英文略称は'''NTT'''('''N'''ippon '''T'''elegraph and '''T'''elephone Public Corporation)である。「NTT」と言う呼称は民営化の時に作られたものではなく、公社時代から既に使われていた。なお、現在のNTTの[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]などは民営化時に作られた。民営化以前の1980年代前半に「NTT」と言う略称がCMで使われていたことがある。それと同時期に、「'''もっとわかりあえる、明日へ。'''」(それ以前は「'''電話のむこうは、どんな顔'''」)の[[標語|スローガン]]が広告媒体で使われていた。 == 組織 == [[ファイル:Ug090605Denden-soshiki.png|thumb|right|380px|電電公社組織概要図]] 電電公社の経営は経営委員会の下に、総裁、副総裁、理事、監事のメンバーで行われていた。 ; 経営委員会 : 電電公社が行う予算や事業計画策定など重要事項を決定する機関であった。メンバーは議会の承認を得て[[内閣]]によって任命され、無報酬とされていた。任期は4年。 ; 総裁 : 経営委員会の同意を経て、内閣が任命をした。電電公社の業務執行と経営責任を課せられていた。国会(逓信委員会など)で、公社における業務説明、報告などを行う義務もあった。任期は4年。 ; 副総裁 : 経営委員会の同意を経て、内閣が任命をした。任期は、総裁と同じ4年。総裁の職務を補佐することが課せられていた。しかし、総裁に任命権はなく、しばしば人事問題がおきた。初代総裁であった梶井剛は、職務上、直接任命が出来る技師長(技術部門のトップ)を副総裁と同格にしようとしたが失脚した。 ; 理事 : 総裁・副総裁補佐役だった。実質的には、それぞれの部局における職長(局長)が務めた。メンバーは5人 - 10人で、総裁が任命した。任期は2年。 ; 監事 : 監査役をかねており、経営委員会により任命された。任期は3年。 === 歴代の総裁・副総裁 === ==== 総裁 ==== {|class="wikitable" |- !代数!!氏名!!在任!!備考 |- |初代||[[梶井剛]]||[[1952年]]8月 - [[1958年]]9月||工学博士、元[[日本電気|NEC]]社長 |- |2代||[[大橋八郎]]||1958年9月 - [[1965年]]4月||元逓信次官、元[[日本放送協会|NHK]]会長 |- |3代||[[米沢滋]]||1965年4月 - [[1977年]]1月||工学博士 |- |4代||[[秋草篤二]]||1977年1月 - [[1981年]]1月|| |- |5代||[[真藤恒]]||1981年1月 - [[1985年]]3月||[[IHI]](当時の石川島播磨重工業)出身 |} ==== 副総裁 ==== {|class="wikitable" |- !代数!!氏名!!在任!!備考 |- |初代||[[靭勉]]||[[1952年]]8月 - [[1958年]]9月||後、[[国際電信電話]] (KDD) 社長に就任 |- |2代||[[横田信夫 (実業家)|横田信夫]]||1958年9月 - [[1962年]]9月||電気通信省(経理局長)出身 |- |3代||米沢滋||1962年9月 - [[1965年]]4月|| |- |4代||秋草篤二||1965年4月 - [[1977年]]1月|| |- |5代||[[北原安定]]||1977年1月 - [[1985年]]3月||後、NTT副社長 |} === 電信電話拡充改良5ヵ年計画 === * 第一次5ヵ年計画: [[1953年]](昭和28年)度 - [[1957年]](昭和32年)度 ** 戦災により壊滅的となった電信電話設備の普及、加入電話の架設促進、[[市外通話]]や電報サービスの改善 * 第二次5ヵ年計画: [[1958年]](昭和33年)度 - [[1962年]](昭和37年)度 ** [[日本の電話番号計画|全国番号計画]]および電話網基本計画の樹立、事務用電話の需給改善、農村等における[[地域団体加入電話|地域集団]]や農村公衆電話の普及、近接都市間の市外通話の即時化 * 第三次5ヵ年計画: [[1963年]](昭和38年)度 - [[1967年]](昭和42年)度 ** 都市と地方間の電話需給の是正、県庁所在地相互間の市外通話ダイヤル化、農村等における[[地域団体加入電話|農集電話]]の普及、合併市町村の電話サービス改善 * 第四次5ヵ年計画: [[1968年]](昭和43年)度 - [[1972年]](昭和47年)度 ** 市外通話のダイヤル化、データ通信サービス等の新サービス開発、災害特別対策のための市外交換機の分散設置等、その他新規サービス([[自動車電話]]、[[キャッチホン]]など)開発 * 第五次5ヵ年計画: [[1973年]](昭和48年)度 - [[1977年]](昭和52年)度 ** 全国規模で加入電話の積滞解消、広域時分制度の実施、データ通信([[キャプテンシステム]])サービスの開発、電報制度の近代化 * 第六次5ヵ年計画: [[1978年]](昭和53年)度 - [[1982年]](昭和57年)度 ** 画像通信(テレビ電話)サービス提供、[[光ファイバー]]・高度情報通信システム ([[INSネット|INS]]) の開発 === 概略 === * [[1949年]](昭和24年) - 逓信省が廃止され電気通信省と郵政省に分離。業務承継。 * [[1952年]](昭和27年) - 電気通信省が廃止され日本電信電話公社設立。業務承継。 * [[1953年]](昭和28年) - 国際電信電話業務を国際電信電話株式会社に移管。第一次5ヵ年計画開始。 * [[1955年]](昭和30年) - ケロッグ社製[[電話交換機|クロスバ交換機]]を設置(高崎局、倉賀野局、安中局) * [[1956年]](昭和31年) - 国産C41型LSクロスバ交換機、C51型TLSクロスバ交換機導入。東京-大阪間で加入電信サービス(テレックス)開始。 * [[1957年]](昭和32年) - [[近鉄特急|近畿日本鉄道の特急]]で列車公衆電話サービス開始。 * [[1958年]](昭和33年) - 第二次5ヵ年計画開始。 * [[1960年]](昭和35年) - C81形市外中継クロスバ交換機(大局用標準形)の導入。[[日本国有鉄道]]の特急[[こだま (列車)#東海道本線電車特急「こだま」|こだま]]・[[つばめ (列車)#国鉄「つばめ」「はと」|つばめ]]で列車公衆電話サービス開始。 * [[1962年]](昭和37年) - [[黒電話#600形電話機|600形電話機]]導入。 * [[1963年]](昭和38年) - 第三次5ヵ年計画開始。 * [[1964年]](昭和39年) - 東海道新幹線列車公衆電話サービス開始。 * [[1965年]](昭和40年) - 東京と全国道府県間の自動即時化完了。 * [[1966年]](昭和41年) - C400形 (LS/TLS) クロスバ交換機導入。 * [[1967年]](昭和42年) - 全国県庁所在地相互間の自動即時化完了。 * [[1968年]](昭和43年) - 第四次5ヵ年計画開始。東京23区内で[[無線呼び出し|ポケットベルサービス]]開始。全国地方銀行協会データ通信システムのサービス開始。 * [[1969年]](昭和44年) - [[押しボタン式電話機|プッシュ式電話機]]導入。短縮ダイヤルサービス開始。DEX-2電子交換機導入(牛込局)。 * [[1970年]](昭和45年) - [[日本万国博覧会]]で[[テレビ電話]]および[[コードレス電話]]試用。[[DIALS|販売在庫サービス (DRESS)]] 開始。 * [[1971年]](昭和46年) - [[DEMOS|科学技術計算サービス (DEMOS)]] 開始。 * [[1972年]](昭和47年) - D10形 (LS/TLS) 電子交換機導入。 * [[1973年]](昭和48年) - 第五次5ヵ年計画開始。ファクシミリ端末販売開始。 * [[1978年]](昭和53年) - 第六次5ヵ年計画開始。加入電話の積滞解消。 * [[1979年]](昭和54年) - 電話の全国自動即時化完了。自動内航船舶電話サービス開始。東京都23区内で[[自動車電話|自動車電話サービス]]開始。[[X.25|DDX網(回線交換)]]のサービス開始。 電子式PBX(EP20形)の販売開始。 * [[1980年]](昭和55年) - DDX網(パケット交換)のサービス開始。 * [[1981年]](昭和56年) - [[ファクシミリ通信網|ファクシミリ通信網サービス]]開始。 * [[1982年]](昭和57年) - 硬貨併用[[テレホンカード]]公衆電話の設置開始。 * [[1983年]](昭和58年) - 特仕D70形デジタル交換機の導入。 * [[1984年]](昭和59年) - [[ビデオ会議|宅内設置形テレビ会議システム]]販売開始。武蔵野、三鷹地区でINSモデルシステム実験開始。[[専用線|高速ディジタル伝送サービス]]および衛星通信サービス開始。[[キャプテンシステム|キャプテンシステム、ビデオテックス通信サービス]]開始。 * [[1985年]](昭和60年) - ショルダホンサービス開始。[[フリーダイヤル|フリーダイヤルサービス]]開始。D70形ディジタル交換機の導入。電気通信事業への参入、端末設備の自由化。日本電信電話公社廃止され日本電信電話株式会社設立。業務承継。 == その他 == [[ファイル:Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation Manhole Cover.jpg|thumb|right|200px|電電公社の公社章が入ったハンドホール蓋]] 電電公社の公式マーク(公社章)は、「[[電報]] (Telegraph) と[[電話]] (Telephone)」の頭文字である2つの「T」で円を作り、中央の空白部で[[サービス]] (Service) の頭文字である「S」を表す[[デザイン]]であった。[[国土地理院]]制定の[[電話局]]の[[地図記号]]にも使われたが、民営化翌年の[[1986年]](昭和61年)に廃止された<ref>{{Cite web|和書 | title = 時代とともに地図記号も変わります | work = 国土地理院広報468号 | publisher = 国土地理院 | pages = 8-9 | date = 2007-06 | url = http://www.gsi.go.jp/common/000005877.pdf | format = PDF | accessdate = 2014-08-28}}</ref>。 後身の特殊会社[[日本電信電話]]他[[NTTグループ]]は社章を新しく制定し、この公社章は廃止されたマークとなったため、機器等に標示されたそれも更新と同時に逐次置き換わっていったが、それでも21世紀に入った後もマンホールの蓋など耐久性の高い物品にはこの公社章の入ったものを見かけることがある(右写真は一例)。 電電公社は女性技術者が多数在籍する特色があった。1960年代には技術者の補充が困難となってきたことから、[[1965年]]には女性の離職防止対策として[[育児休業|育児休職]]制度(最大3年間)を試験導入。その後、3年間で約1700人の利用者があったことから、[[1968年]]5月から本格導入した<ref>育児休職制 電電公社5月から本番 期間三年まで認める 技術もつ女性引止め策『朝日新聞』1968年(昭和43年)3月3日朝刊 12版 15面</ref>。 == 関連施設 == 以下の病院は元々旧逓信省の下で発足し、同省が2分省化された際に旧電気通信省に属した事から、公社化後には電電公社の付属施設となったものである。ただし、一部の病院に関しては電気通信省または公社発足後に設立されたものもあるが、名称は他の病院と同様に「逓信病院」を名乗っていた。 これらの病院は、民営化後に日本電信電話→[[NTT東日本]]・[[NTT西日本]]が運営する[[企業立病院]]となるが、のちに大半が廃止され、現在は下記の関連施設となっている。 === 民営化後にNTT病院となり現在もNTTグループが運営する病院 === *札幌逓信病院(現・[[NTT東日本札幌病院]]) *関東逓信病院(現・[[NTT東日本関東病院]]) *伊豆逓信病院(現・[[NTT東日本伊豆病院]]) === 民営化後に売却された病院 === *東北逓信病院(現・[[東北医科薬科大学若林病院]]) *長野逓信病院(現・[[朝日ながの病院]]) *東海逓信病院(現・[[NTT西日本東海病院|大須病院]]) *金沢逓信病院(現・[[恵寿金沢病院]]) *大阪逓信病院(現・[[第二大阪警察病院]]) *京都南逓信病院(現・[[洛和会東寺南病院]]) *高松逓信病院(現・オリーブ高松メディカルクリニック)<ref>https://www.olive.clinic/about/history オリーブ高松メディカルクリニック</ref> *松山逓信病院(現・[[松山まどんな病院]]) *長崎逓信病院(のちに[[長崎あじさい病院]]→系列病院と統合により閉鎖) *熊本逓信病院(のちに[[くまもと森都総合病院]]→移転により解体済、跡地には[[熊本整形外科病院]]が所在) == スポンサー番組 == ;一社提供 * [[ミームいろいろ夢の旅]]([[TBSテレビ|TBS]]系)1985年4月から同年9月の番組終了までは、NTTの1社提供番組として放送。 * この他、[[東海テレビ]]の「[[東海フラッシュニュース]]」(金曜日及び日曜日20:54~21:00)や、[[北海道放送]](HBCテレビ)の天気予報(月曜~金曜22:54~23:00)など、ローカル放送でのニュースや天気予報を中心に提供していた。 ;複数社提供 * [[オーケストラがやってきた]]([[TBSテレビ|TBS]]系) * [[驚異の世界]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系)※[[パーティシペーション|PT]]扱い * [[銭形平次_(大川橋蔵)|銭形平次]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)※同上 * [[土曜ワイド劇場]]([[テレビ朝日]]系)※同上 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Nippon Telegraph and Telephone Public Corporation}} * [[公社]]/[[三公社五現業]]/[[民営化]] * [[電報電話局]] * [[NTTグループ]] * [[琉球電信電話公社]] * [[NTT日比谷ビル]] - 1961年から1995年まで、電電公社及びNTTの本社が置かれた。 * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]] - この作品の[[キャラクター]]が登場する[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]を1981年に放送していた(「磯野家の家屋が2階建て」等、設定がテレビアニメ版と若干異なっていた)。 * [[オーケストラがやってきた]](スポンサー番組) * [[ミームいろいろ夢の旅]](同上) * [[東海フラッシュニュース]](同上、名古屋地区ローカル) * [[テレホンカード]] * [[キャプテンシステム]] * [[正力マイクロ波事件]] * [[郵便局#郵便局の業務|郵便局]](公社発足後も農林漁村では磁石手動式電話交換業務を郵便局に委託していた) * 電電公社出身者 ** [[寺田ヒロオ]]([[漫画家]]) ** [[はた万次郎]](漫画家) ** [[小野寺正]](現[[KDDI]]代表取締役会長) ** [[飯田仁]] ** [[野村沙知代]](福島県白河市で電話交換手をしていた経歴を持つ) {{NTT}} {{KDDI}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんてんしんてんわこうしや}} [[Category:かつて存在した日本の電気通信事業者]] [[Category:かつて存在した日本の公企業]] [[Category:NTTグループの歴史]] [[Category:内幸町|歴につほんてんしんてんわこうしや]] [[Category:1952年設立の組織]] [[Category:1985年廃止の組織]]
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AU
AU, Au, au
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AU, Au, au
{{TOCright}} '''AU''', '''Au''', '''au''' == 記号・単位 == * '''Au''' - '''[[金]]'''の[[元素記号]]。 * '''au''' - 天文学で用いる長さの単位「'''[[天文単位]]'''」({{en|astronomical unit}})の単位記号。 * '''AU''', '''au''' - 0.1 nm に等しい長さの単位「'''[[オングストローム]]'''」({{en|ångström unit}})の単位記号。通常は '''Å''' で示す。 * '''Au''' - [[におい|臭い]]の計測値「アラバスター単位」の単位記号。 ** [[若林商店]]が開発し、[[B&Hラボ]]が販売した、におい濃度測定用ガス検知器「[[アラバスター (曖昧さ回避)|アラバスター]]」で計測した数値。この装置の開発にも関わった発酵学者[[小泉武夫]]が、臭い食べ物の臭さを比較するための計測に用い、著書等で紹介している([[Template:臭い食べ物]]参照)。国際的に広く認められた「においの単位」ではない。 * '''AU''' - 「'''代替宇宙'''」 (alternative universe)、[[多元宇宙論]]。 == 正式名称 == * '''au''' - [[KDDI]]および[[沖縄セルラー電話]]が運営する通信事業のブランド。 ⇒ '''[[au (通信)]]'''⇒[[au (携帯電話)]] == 略語・略称 == === 一般名詞・術語 === * '''a.u.''' - [[原子単位系]]の単位 ({{en|atomic unit}})。 * '''a.u.''' - [[任意単位]] ({{en|arbitrary unit, arb. unit}})。 * [[システム監査技術者試験|システム監査技術者]] - 日本の情報処理技術者資格。 * [[Audio Units]] - Mac OS X 用のオーディオプラグイン形式([[Sunオーディオファイル|拡張子.auの音声ファイル]]とは異なる)。 * '''AU''' - [[アクリル]]{{要曖昧さ回避|date=2022年11月}}[[ウレタン]]の略称。[[合成樹脂|樹脂]]そのものや[[塗料]]などで使用。 === 固有名詞 === * [[アフリカ連合]] ({{en|African Union}}) - アフリカの国家連合体。 * [[エフエム東京]]([[呼出符号]] JOAU-FM)- 東京都のラジオ放送局。 * [[Sunオーディオファイル|Au file format]] - [[NeXT]]/[[サン・マイクロシステムズ|SUN]]の音声ファイルフォーマット。拡張子は .au。 * [[au one net]] - [[KDDI]]が運営する[[インターネットサービスプロバイダ]]事業。 ** [[au (携帯電話)]] - [[KDDI]]が運営する[[携帯電話]]を含む[[移動体通信]]事業。 * 大学の略称(50音順) ** [[愛知大学]] ({{en|Aichi University}}) - 日本 愛知県。 ** [[青森大学]] ({{en|Aomori University}}) - 日本 青森県。 ** [[秋田大学]] ({{en|Akita University}}) - 日本 秋田県。 ** [[アサバスカ大学]] ({{interlang|en|Athabasca University}}) - カナダ。 ** [[亜細亜大学]] ({{en|Asia University}}) - 日本 東京都。 ** [[アベリストウィス大学]] ({{interlang|en|Aberystwyth University}}) - イギリス ウェールズ。 ** [[アメリカ空軍大学]] ({{en|Air University}}) - アメリカ アラバマ州。 ** [[アメリカン大学]] ({{en|American University}}) - アメリカ ワシントンDC。 ** [[アラハバード大学]] ({{interlang|en|Allahabad University}}) - インド。 ** [[アンドルーズ大学]] ({{interlang|en|Andrews University}}) - アメリカ ミシガン州。 ** [[オーバーン大学]] ({{en|Auburn University}}) - アメリカ アラバマ州。 ** [[オーフス大学]] ([[:en:Aarhus University|{{lang|da|Aarhus Universitet}}]]) - デンマーク。 ** [[真理大学]] ({{en|Aletheia University}}) - 台湾。 == コード・形式名 == * [[国際標準化機構]]の[[国名コード]]([[ISO 3166-1]] alpha-2)で、'''[[オーストラリア]]'''を示す。 * [[日本国有鉄道|国鉄]]・[[JR]]の[[空調装置]]に付けられる形式(例:AU13)。 *AU-1 - チャンス・ヴォート社が開発したアメリカ海軍の攻撃機([[F4U (航空機)|F4U コルセア戦闘機]]の攻撃機型の名称)。 == 他の記号等を付して用いるもの == * '''[[.au]]''' - オーストラリアの[[国別コードトップレベルドメイン]](ccTLD)。 == 関連項目 == * [[ラテン文字のアルファベット二文字組み合わせの一覧]] * {{Prefix|AU}} * {{Prefix|Au|「Au, au」で始まる記事の一覧}} {{aimai}}
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KDDI
KDDI株式会社(ケイディーディーアイ、英: KDDI CORPORATION)は、東京都千代田区に本社を置く大手電気通信事業者。「au」ブランドを中心とした携帯電話事業などを手掛ける。 日経平均株価およびTOPIX Core30、JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。ブランドスローガンは「Tomorrow, Together」(2019年5月15日 - )。 2000年に第二電電(DDI)、ケイディディ(KDD)、日本移動通信(IDO)が合併し、「株式会社ディーディーアイ」(通称およびロゴマークは「KDDI」)として発足した。2001年4月に合併時より通称として使用していた「KDDI」を社名とし「ケイディーディーアイ株式会社」に社名変更し、2002年11月に現社名の「KDDI株式会社」に変更した。 前身企業の一つで傍系にあたるKDDが国内外で通信ケーブル・海底ケーブル・衛星通信・KDD研究所というNTTに迫るインフラ資産を擁していたが、元々は1953年に国際通信網整備のため旧・電電公社から分離・設立された特殊会社であった。その為、NTTから観てKDDIは遠戚にあたる企業でもある。合併当初は新電電(NCC)最大手・NTT最大のライバル企業として認知されていたが、2013年ごろよりソフトバンクグループのM&A戦略や番号ポータビリティによる契約者の奪い合いなどにより売上高で猛追をうけている。 国内・国際通信全般を手掛けており、主な事業として などの電気通信役務を行う。 また、旧KDDに由来するNHKワールド・ラジオ日本や北朝鮮向け短波放送「しおかぜ」の電波を送信している八俣送信所(茨城県古河市)や、国際通信を行うKDDI山口衛星通信センター(山口県山口市)、海底ケーブルなどを保有している。 NTTグループに続いて、両事業において災害対策基本法に基づき内閣総理大臣の指定を受けた。よって、災害時においては、他の指定公共機関同士の通信を優先的に確保し、円滑に行う義務を負う。 電気通信事業法附則第五条の国際電電承継人であり、この規定により東日本電信電話株式会社(NTT東日本)や西日本電信電話株式会社(NTT西日本)とともに電報の事業に係る業務のうち受付及び配達の業務を行うことが認められている。 女性活躍推進に優れている企業を選定・発表している経済産業省と東京証券取引所との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(平成24年度)から6年連続で選定されていた。 現在のKDDIは2000年10月1日に、 の3社合併(存続会社は第二電電)により誕生した。合併は、3社の主な株主であった京セラとトヨタ自動車の包括的な事業提携により実現した。2001年には、沖縄県を除く旧DDIセルラー系携帯電話会社を統合した株式会社エーユー も吸収合併し、2005年にはツーカー各社を、2006年には、業務提携相手の東京電力子会社の電力系通信事業者パワードコムを吸収合併して今日に至っている。 なお、合併発表時まで日本電信電話(NTT)が旧KDDの第3位株主として株式を8.42%保有していたため、ライバルが株主になることを懸念して合併までの間にNTT保有分の株式の売却処分が行われた。また、合併後の出資比率の調整のため、合併直前にトヨタ自動車によって旧第二電電へ第三者割当増資を実施した。 事業者識別番号は国内向け電話(市内・長距離・携帯電話)が0077、国際電話は001である。 旧日本高速通信株式会社(TWJ、テレウェイ→KDDへ合併)由来の識別番号0070は、2002年6月末をもって終了し、フリーフォン(事業者対象の通話料着信者払いサービス)とDOD(データオンデマンド)サービス(いずれも0070番号の新規申込は受け付けていない)のみに使用されていたが、0070番号の使用期限切れに伴い2010年3月末にサービスを終了した。 旧第二電電株式会社(DDI)由来の国際電話の識別番号0078は、2004年2月29日をもって終了した。 旧KDD株式会社(KDD)由来の国内電話(市内、長距離)の識別番号001(1円電話)は、2005年8月31日をもって終了した。 なお、旧国際電電時代から継承していた国際オペレータ通話0051は、利用者の激減に伴い2010年3月末でサービス終了予定であったが、サービスを改定した上で現在も継続されている。 また、現在西日本電信電話(NTT西日本)が使用している0039は、旧KDDがホームカントリーダイレクト(相手国の電話会社のオペレータに接続する国際電話。海外から日本ならジャパンダイレクトがこれにあたる)で使用していたものである。 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80%、豊田通商 20%の投資で設立。中華人民共和国には首都北京ほかに、上海、大連、深圳、広州などに事務所がある。 KDDI台湾(台灣凱訊電信股份有限公司)は、1999年12月24日に現地法人化されたKDDIの100%出資の台湾法人子会社である。ITサポートサービスを主な事業としている。保守サービス、IT関連機器販売、事務所通信環境構築、PHS販売、ネットワークの構築、データセンター。 KDDIシンガポール は、1989年9月28日に設立された。なお、2008年10月に海外データセンターサービス子会社「TELEHOUSEシンガポール」が発足している。 事業内容は通信サービス(通信設備ベース免許保有) KDDI香港(日本凱訊(香港)有限公司)は、1988年に設立された、KDD(当時)の100%子会社。国際電話やインターネットサービスを香港において手がけている。 KDDIマレーシア 2014年、住友商事とミャンマー国営郵便・電気通信事業体と共同でKDDI・サミット・グローバル・ミャンマー を設立した。 1999年3月に設立。タイ国内のネットワーク再販免許を所有した、KDDI株式会社のタイ現地法人事務所。事業内容はシステムインテグレーション、通信ネットワークサービス、データセンター、モバイルソリューションから成り立つ。 ニューコムグループ(英語版)、住友グループとの合弁によりモビコムコーポレーション(英語版)設立。モンゴル国最大手の携帯電話事業者であり、2016年に連結子会社化した。 2006年6月、KDDIの運営するインターネットプロバイダ「DION」(現:au one net)の保有する個人情報約40万人分が流出していることが判明した。流出した個人情報が2人の男により5月末、KDDIに持ち込まれたことで流出が発覚。その後の調査や裁判の過程で、開発委託先の社員の手により2003年12月に流出したこと、KDDIの提供するネット決済代行サービスを利用する法人997社など他にも流出があったことなどが明らかにされた。2006年9月には総務省より個人情報の適正管理を徹底し、再発防止策を早急に実施するよう指導するよう行政指導が行われた。なおこの事件に対し、顧客への補償は行わないものとしている。 宮崎県延岡市大貫町の住民が、携帯電話基地局から発射される電波により健康被害を受けたとしてKDDIの操業停止を求めた裁判。2012年10月17日、宮崎地方裁判所延岡支部は健康被害と基地局の因果関係を否定し原告側の請求を棄却した。原告は福岡高等裁判所宮崎支部に控訴するも、2013年9月5日に結審し原告敗訴。 2012年末から2013年5月にかけて重大な大規模な通信障害が続いた。これ以前にも2012年2月のKDDIに対する行政指導、さらに同3月の総点検の実施が行われていた。しかしその後も改善されず、さらにデータ通信のみならず音声通話にも支障が出たことや、ユーザーのアドレス帳が消える事態も生じていたことを問題視。総務省より文章での指導とあわせ点検の結果と再発防止策の取り組み報告、および報告後1年間は半年毎に進捗状況を報告するよう指導が行われた。 高速通信「4G LTE」サービス(最大75 Mbpsサービス)について、2012年後半より「4G LTE(iPhone 5含む)対応機種なら4G LTE」「受信最大75 Mbpsの超高速ネットワークを実人口カバー率96%に急速拡大。(2013年3月末予定)」と表示していた。しかし、iPhone 5で75 Mbpsサービスにて通信できる人口カバー率は、2013年3月末時点で96%どころか14%程度に過ぎなかった。2013年5月21日、消費者庁はこの事態を重く見て、景品表示法違反と認定。再発防止と誤りの周知徹底の指導が行われている。 2013年10月ごろより、契約時に本来任意であるはずの有料オプションへの加入を強制される実態が数多く報告された。また一部有料オプションについても解約方法が不明瞭との声も寄せられた。KDDIは、こうした販売方法は販売店側の判断によるものでKDDIの指示ではないと表明しており、同年10月28日の決算説明会ではこの指摘を把握しており今後は店頭に改善を指導していくとしている。 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この大規模通信障害事故により、アメダスの観測や、ヤマト運輸などKDDIの業務用回線を利用する企業・団体のデータ送受信などにも支障をきたした他、auショップなどのKDDI携帯電話取扱店においても、それを利用している市民からの問い合わせ・苦情が相次いだ。 なお、影響回線数は最大で3915万回線(個人・法人向けスマートフォン・携帯電話:約3580万回線、MVNO向け回線:約140万回線、IoT回線:約150万回線、ホームプラス電話回線:約45万回線)、法人では物流関連・自動車関連・気象関連・銀行関連・交通関連に影響が及び、同社史上最大規模の障害となった。 ※2023年10月現在。 なし。(2023年9月をもって、全ての番組を降板した。) テレビ ラジオ
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Mbpsサービスにて通信できる人口カバー率は、2013年3月末時点で96%どころか14%程度に過ぎなかった。2013年5月21日、消費者庁はこの事態を重く見て、景品表示法違反と認定。再発防止と誤りの周知徹底の指導が行われている。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2013年10月ごろより、契約時に本来任意であるはずの有料オプションへの加入を強制される実態が数多く報告された。また一部有料オプションについても解約方法が不明瞭との声も寄せられた。KDDIは、こうした販売方法は販売店側の判断によるものでKDDIの指示ではないと表明しており、同年10月28日の決算説明会ではこの指摘を把握しており今後は店頭に改善を指導していくとしている。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2016年秋に、DeNAのヘルスケア情報キュレーションサイト「WELQ」が、不適切な内容や不適切な引用で問題になり、他社のキュレーションサイトにも厳しい目が向けられるようになった。KDDIの子会社Supershipは12月8日、同社が運営するノウハウ共有サイト「nanapi」で、「内容の正確性をいま一度社内で精査し直す」ために、11月30日から一部の記事を順次非公開にしていることを明らかにした。対象となったのは「健康・医療」「美容」「育児・教育」などのカテゴリーの記事約1万4000件で、サイト全体の約10%に当たる。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、ユーザーのツイートにより、ユーザーが制作したにもかかわらず、著者が「nanapi編集部」になっており、タイトルも勝手に変更されている記事があることが指摘され、12月15日ごろからネット上で話題になった。Supershipは「サービス運用上のミス」だったとして謝罪した。nanapiの記事を転載した美容情報サイト・LiRuとの間の記事の移行作業での不手際であったとしているが、記事のタイトルが変更されたこと、元のユーザーの記事が非公開になっていたことについては説明されていない。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2019年3月に、社員4,613人に対して未払いの残業代が計約6億7千万円あったと発表した。入社2年目の20代社員の自殺により判明した。この問題に関連して、「日本を代表する企業が自らの不祥事を長年にわたり隠蔽してきた」として2019年の第8回ブラック企業大賞にノミネートされた。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2021年4月、契約者のうち海外ローミングサービスを利用している消費者のデータの一部を、業務委託先の米国企業が保有する香港のサーバーで管理していた事が報じられた。KDDIは「昨今の香港を巡る政治情勢を踏まえ、国内を含む他の場所へのデータ移管を検討する」とした(移転時期は不明としている)。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2022年7月2日未明の1時35分ごろから、KDDIが提供する携帯電話(au・UQ mobile・povo、並びにMVNOでKDDI回線を利用する携帯電話事業者=楽天モバイルなど)の通信サービスに障害が発生した。原因は同日未明から設備の機器障害でVoLTE交換機でのトラフィックの輻輳とされている。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この大規模通信障害事故により、アメダスの観測や、ヤマト運輸などKDDIの業務用回線を利用する企業・団体のデータ送受信などにも支障をきたした他、auショップなどのKDDI携帯電話取扱店においても、それを利用している市民からの問い合わせ・苦情が相次いだ。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお、影響回線数は最大で3915万回線(個人・法人向けスマートフォン・携帯電話:約3580万回線、MVNO向け回線:約140万回線、IoT回線:約150万回線、ホームプラス電話回線:約45万回線)、法人では物流関連・自動車関連・気象関連・銀行関連・交通関連に影響が及び、同社史上最大規模の障害となった。", "title": "諸問題・不祥事など" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "※2023年10月現在。", "title": "提供番組" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "なし。(2023年9月をもって、全ての番組を降板した。)", "title": "提供番組" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "テレビ", "title": "提供番組" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ラジオ", "title": "提供番組" } ]
KDDI株式会社は、東京都千代田区に本社を置く大手電気通信事業者。「au」ブランドを中心とした携帯電話事業などを手掛ける。 日経平均株価およびTOPIX Core30、JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。ブランドスローガンは「Tomorrow, Together」。
{{基礎情報 会社 | 社名 = KDDI株式会社 | 英文社名 = KDDI CORPORATION | ロゴ = [[File:KDDI logos.svg|200px]] | 画像 = [[ファイル:KDDI 飯田橋ビル.jpg|200px]] | 画像説明 = KDDI飯田橋本社が入居する[[ガーデンエアタワー]] | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = [[監査役会設置会社]]<ref>[https://www.kddi.com/corporate/ir/governance/framework/ 体制等] - KDDI株式会社</ref> | 市場情報 = {{上場情報 | 東証プライム | 9433 | 1993年9月3日}} | 略称 = KDDI | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 102-8461 | 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[飯田橋]]三丁目10番10号([[ガーデンエアタワー]]) | 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 42|本社緯度秒 = 1.6|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139|本社経度分 = 45|本社経度秒 = 1.8|本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP | 本店郵便番号 = 163-8003 | 本店所在地 = 東京都[[新宿区]][[西新宿]]二丁目3番2号([[KDDIビル]]) | 本店緯度度 = 35|本店緯度分 = 41|本店緯度秒 = 16.3|本店N(北緯)及びS(南緯) = N | 本店経度度 = 139|本店経度分 = 41|本店経度秒 = 42.6|本店E(東経)及びW(西経) = E | 本店地図国コード = JP | 設立 = [[1984年]]([[昭和]]59年)[[6月1日]]<br />([[第二電電|第二電電企画株式会社]]=DDI) | 業種 = 情報・通信業 | 事業内容 = [[電気通信事業法]]に定める[[電気通信役務|電気通信事業]] 他 | 代表者 = [[田中孝司 (実業家)|田中孝司]]([[代表取締役]][[会長]])<br />[[髙橋誠 (KDDI)|髙橋誠]](代表取締役[[社長]]兼[[最高経営責任者|CEO]])<br />[[村本伸一]](代表取締役[[執行役員]][[副社長]]) | 資本金 = 1418億5200万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=KDDI株式会社 |date=2022-06-23 |title=第38期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = 23億417万9550株<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 売上高 = 連結: 5兆4467億0800万円<br />単独: 4兆0370億2300万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 連結: 1兆0605億9200万円<br />単独: 7211億4600万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = 連結: 1兆0644億9700万円<br />単独: 7905億4400万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 連結: 7325億4000万円<br />単独: 5610億1500万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = 連結: 4兆9825億8600万円<br />単独: 4兆1136億3900万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = 連結: 11兆0843億7900万円<br />単独: 5兆9665億8000万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 連結: 48,829人<br />単独: 10,455人<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = [[PwC京都監査法人]]<ref name="fy" /> | 主要株主 =[[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 16.13%<br />[[京セラ]] 15.10%<br />[[トヨタ自動車]] 14.28%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口) 5.86%<br/>STATE STREET BANK WEST CLIENT - TREATY 505234(常任代理人 みずほ銀行決済営業部) 1.40%<br />[[バークレイズ証券]] 1.28%<br/>[[三菱UFJモルガン・スタンレー証券]] 1.11%<br/>[[JPモルガン証券]] 1.06%<br/>STATE STREET BANK AND TRUST COMPANY 505103(常任代理人 みずほ銀行決済営業部) 1.02%<br/>JP MORGAN CHASE BANK 385781(常任代理人 みずほ銀行決済営業部) 0.99%<br/>(2022年3月31日現在) | 主要子会社 = [[沖縄セルラー電話]] 52.5%<br />[[JCOM]] 50.0%<br />[[UQコミュニケーションズ]] 32.3%<br />[[BIGLOBE|ビッグローブ]] 100.0%<br />[[イーオンホールディングス]] 100.0%<br />[[中部テレコミュニケーション]] 80.5%<br />[[ワイヤ・アンド・ワイヤレス]] 95.2%<br />[[auフィナンシャルホールディングス]] 100.0%<br />[[auコマース&ライフ]] 100.0%<br />[[Supershipホールディングス]] 83.6%<br />[[auエネルギーホールディングス]] 100.0%<br />[[KDDIまとめてオフィス]] 95.0%<br />[[KDDIエボルバ]] 100.0%<br />[[KDDI Digital Divergence Holdings]] 100.0%<br />[[日本インターネットエクスチェンジ]] 70.7%<br />[[KDDIエンジニアリング]] 100.0%<br />[[KDDI総合研究所]] 91.7%<br />[[国際ケーブル・シップ]] 100.0%<br />[[日本通信エンジニアリングサービス]] 83.2% | 関係する人物 = [[渋沢敬三]]<br />[[稲盛和夫]]<br />[[奥山雄材]]<br />[[牛尾治朗]]<br />[[五十嵐三津雄]]<br />[[小野寺正]]<br />[[田中孝司 (実業家)|田中孝司]] | 外部リンク = [https://www.kddi.com/ KDDI株式会社] | 特記事項 = 創業:[[1953年]]([[昭和]]28年)[[3月24日]](旧国際電信電話株式会社=KDD)、[[1984年]](昭和59年)11月(旧日本高速通信株式会社=TWJ)、[[1987年]](昭和62年)3月(旧日本移動通信株式会社=IDO)<br />連結経営指標は[[国際会計基準]]のため、経常利益は税引前当期利益、純利益は当期利益、純資産は親会社の所有者に帰属する持分合計。 }} '''KDDI株式会社'''(ケイディーディーアイ、{{Lang-en-short|KDDI CORPORATION}}<ref>KDDI株式会社 定款 第1章第1条2項</ref>)は、[[東京都]][[千代田区]]に本社を置く大手[[電気通信事業者]]。「[[Au (携帯電話)|'''au''']]」ブランドを中心とした[[移動体通信事業者#携帯電話事業者|携帯電話事業]]などを手掛ける。 [[日経平均株価]]および[[TOPIX Core30]]、[[JPX日経インデックス400]]の構成銘柄の一つ<ref>[https://indexes.nikkei.co.jp/nkave/index/component?idx=nk225 構成銘柄一覧:日経平均株価] Nikkei Inc. 2021年10月8日閲覧。</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/news/1044/nlsgeu0000050uqm-att/mei_12_size.pdf 「TOPIXニューインデックスシリーズ」の定期選定結果及び構成銘柄一覧]}} jpx.co.jp 2020年10月7日公表 2021年10月8日閲覧。</ref><ref>[https://www.jpx.co.jp/markets/indices/jpx-nikkei400/00-01.html JPX日経400・JPX日経中小型] jpx.co.jp 2021年10月8日閲覧。</ref>。[[コーポレートアイデンティティ|ブランドスローガン]]は「{{Lang|en|'''Tomorrow, Together'''}}」(2019年5月15日 - )<ref>{{Cite press release |和書 |title=新しいブランドスローガン |publisher=KDDI株式会社 |date=2019-05-15 |url=https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2019/05/15/3763.html |accessdate=2020-10-09}}</ref>。 == 概要 == [[2000年]]に[[第二電電]](DDI)、[[ケイディディ]](KDD)、[[日本移動通信]](IDO)が[[合併 (企業)|合併]]し、「'''株式会社ディーディーアイ'''」(通称およびロゴマークは「KDDI」)として発足した<ref>[https://www.kddi.com/corporate/kddi/history/ 沿革 KDDIについて] - KDDI株式会社、2016年1月7日閲覧。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20020222000514/http://www.kddi.com/release/2000/0405/index.html 合併契約について] - 第二電電株式会社 KDD株式会社 日本移動通信株式会社 2000年4月5日ニュースリリース(2002年2月22日時点での[[インターネットアーカイブ]])、2016年1月7日閲覧。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20020311170630/http://www.kddi.com/release/2000/0809/index2.html 合併認可申請について〔別紙〕] - 第二電電株式会社 KDD株式会社 日本移動通信株式会社 2000年8月9日ニュースリリース(2002年3月11日時点でのインターネットアーカイブ)、2016年1月7日閲覧。</ref><ref>[https://www.jftc.go.jp/dk/kiketsu/jirei/h12mokuji/h12jirei10.html 公正取引委員会、第二電電㈱,ケイディディ(株)及び日本移動通信(株)の合併(新会社名 KDDI㈱)]</ref>。2001年4月に合併時より通称として使用していた「KDDI」を社名とし「'''ケイディーディーアイ株式会社'''<ref group="注釈" name="KDDI">対外的表記は2001年4月より「'''KDDI株式会社'''」を使用していたが、当時はアルファベットが[[商業登記|登記]]上使用できなかったためこの表記となった。詳しくは「[[商号#商号登記]]」を参照。</ref>」に社名変更し<ref name="Shikiho2002Shinshun">「業種・社名変更会社一覧」『[[会社四季報]]』2002年1集新春号([[東洋経済新報社]]、2001年)43頁/2016年1月23日閲覧</ref>、2002年11月に{{要出典|date=2023年3月9日 (木) 12:08 (UTC)}}現社名の「'''KDDI株式会社'''」に変更した。 前身企業の一つで傍系にあたるKDDが国内外で[[通信ケーブル]]・[[海底ケーブル]]・[[通信衛星|衛星通信]]・[[KDDI総合研究所|KDD研究所]]という[[日本電信電話|NTT]]に迫るインフラ資産を擁していたが、元々は[[1953年]]に国際通信網整備のため旧・[[日本電信電話公社|電電公社]]から分離・設立された[[特殊会社]]であった。その為、NTTから観てKDDIは遠戚にあたる企業でもある。合併当初は[[新電電]](NCC)最大手・NTT最大のライバル企業として認知されていたが、2013年ごろより[[ソフトバンクグループ]]の[[M&A]]戦略や[[番号ポータビリティ]]による契約者の奪い合いなどにより売上高で猛追をうけている。 国内・国際通信全般を手掛けており、主な事業として * [[携帯電話]]([[au (携帯電話)|au]]、[[UQ mobile]]、[[povo]]などのブランドで展開) * [[専用線]](法人向け[[光ケーブル]]通信・[[中継放送]]など) * [[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]](個人向けISPは [[au one net]] として、法人向けはIP-[[VPN]]、[[イーサネット]]などのソリューションとして展開) * [[固定電話]]サービス ** メタルプラス[[直収電話]](2016年サービス終了) ** 全ての区分で[[マイライン]]登録が可能な0077[[中継電話]]・001[[国際電話]] *** 付加電話サービス([[フリーダイヤル|着信課金サービス]]の「フリーコールDX」・「フリーコールS」など) * [[衛星電話]]([[インマルサット]]・[[衛星電話#イリジウム|イリジウム]]) などの[[電気通信役務]]を行う。 また、旧KDDに由来する[[NHKワールド・ラジオ日本]]や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]向け[[短波放送]]「[[しおかぜ (放送)|しおかぜ]]」の電波を送信している[[八俣送信所]]([[茨城県]][[古河市]])や、国際通信を行う[[KDDI山口衛星通信センター]]([[山口県]][[山口市]])、[[海底ケーブル]]などを保有している。 [[NTTグループ]]に続いて、両事業において[[災害対策基本法]]に基づき[[内閣総理大臣]]の指定を受けた。よって、災害時においては、他の指定公共機関同士の通信を優先的に確保し、円滑に行う義務を負う。 [[電気通信事業法]]附則第五条の国際電電承継人であり、この規定により[[東日本電信電話]]株式会社(NTT東日本)や[[西日本電信電話]]株式会社(NTT西日本)とともに[[電報]]の事業に係る業務のうち受付及び配達の業務を行うことが認められている。 [[女性活躍推進]]に優れている企業を選定・発表している[[経済産業省]]と[[東京証券取引所]]との共同企画である「なでしこ銘柄」に第一回(平成24年度)から6年連続で選定されていた<ref>[https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinzai/diversity/nadeshiko.html 女性活躍に優れた上場企業を選定「なでしこ銘柄」]経済産業省(2018年9月18日)。なお2018年度で7年連続選定は[[東急]]のみ。</ref>。 == 主要株主 == * [[京セラ]] - 前身法人[[第二電電|DDI]]の筆頭株主でありKDDIになってからも引続き主要株主。 * [[トヨタ自動車]] - 前身法人[[ケイディディ|KDD]]と[[日本移動通信|IDO]]それぞれの主要株主でありKDDIになってからも引続き主要株主 ** KDD株は1997年にKDDに合併した[[日本高速通信]]に由来する。 ** トヨタディーラーで[[PiPit]]を展開(これとは別に、各地のトヨタディーラーがauショップを運営しているところもある)。 ; かつての主要株主 * [[東京電力]] - 前身企業[[日本移動通信|IDO]]の第二位株主。子会社の[[電力系通信事業者]]「[[パワードコム]]」を2006年1月1日にKDDIが吸収合併しトヨタ自動車に次ぐ第三位株主であったが、[[福島第一原子力発電所事故]]に伴う賠償金捻出のため2011年11月29日に全ての保有株式をKDDIに売却([[自己株式|自社株]]買い入れ)して資本撤退した。 * [[日本郵政]][[共済組合]] - 前々身法人[[国際電信電話]]の筆頭株主。[[日本郵政公社]](現:[[日本郵政グループ]])発足時に[[総務省]]共済組合から分割。 == 沿革 == [[画像:Telecom history in Japan 2019.png|thumb|320px|日本国内の電気通信業界の主な変遷(2019年4月現在)]] {{see also|国際電信電話|ケイディディ|日本高速通信}} 現在のKDDIは2000年10月1日に、 * 特殊会社として過去に(1985年まで)国際通信サービス事業を独占的に行い、特殊会社で無くなった後に[[トヨタ自動車]]が経営参加していた[[ケイディディ]](旧:[[国際電信電話]]/KDD+旧[[日本高速通信]]/TWJ) * [[京セラ]]主体の新電電で国内長距離通信サービスを主たる事業としていた[[第二電電]](DDI) * トヨタ自動車の子会社であった携帯電話サービスの[[日本移動通信]](IDO) の3社合併(存続会社は第二電電)により誕生した。合併は、3社の主な株主であった京セラとトヨタ自動車の包括的な事業提携により実現した。[[2001年]]には、[[沖縄県]]を除く旧[[DDIセルラー]]系携帯電話会社を統合した[[au (携帯電話)|株式会社エーユー]] も吸収合併し、[[2005年]]には[[ツーカー]]各社を、[[2006年]]には、業務提携相手の[[東京電力]]子会社の[[電力系通信事業者]][[パワードコム]]を吸収合併して今日に至っている。 なお、合併発表時まで[[日本電信電話]](NTT)が旧KDDの第3位株主として株式を8.42%保有していたため、ライバルが株主になることを懸念して合併までの間にNTT保有分の株式の売却処分が行われた。また、合併後の出資比率の調整のため、合併直前にトヨタ自動車によって旧第二電電へ[[第三者割当増資]]を実施した。 * [[2000年]](平成12年) ** [[10月1日]] - 第二電電株式会社がケイディディ株式会社及び日本移動通信株式会社を合併し、商号を株式会社ディーディーアイ(''DDI CORPORATION'')に変更。また、通称・ロゴマークとして「''KDDI''」を採用。本社は東京都千代田区[[一番町 (千代田区)|一番町]]8番地(旧DDI本社)とした※。 *: 通称を「KDDI」とした理由として、国際電話において旧KDDのブランドイメージが強いことが挙げられている<ref>[https://www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/0101-0200/0181.html#2 ◆ことばの話182「KDDI」]、[[道浦俊彦]]の平成ことば事情、2000年10月12日。</ref>。 *: ※ただし、事実上の本社(経営管理機能)は旧KDD本社である「[[KDDIビル]]」(新宿区西新宿二丁目3番2号)に集約させた。そのため、新会社発足の式典および記者会見は旧KDD本社で10月2日に実施している<ref>{{Cite web|和書 |url=https://xtech.nikkei.com/it/members/NCC/NEWS/20001002/2/ |title=「我々はNTTへの挑戦者」---。10月1日発足のKDDI奥山社長が宣言 |writer=吉野次郎 |access-date=2023-10-22 |website=[[日経クロステック]] |publisher=[[日経BP]]}}</ref>。旧DDI本社には、携帯電話事業部門などが入った。 ** [[11月1日]] - 携帯電話事業のセルラーグループ各社は、[[関西セルラー電話]]株式会社が[[九州セルラー電話]]株式会社、[[中国セルラー電話]]株式会社、[[東北セルラー電話]]株式会社、[[北陸セルラー電話]]株式会社、[[北海道セルラー電話]]株式会社及び[[四国セルラー電話]]株式会社を合併し、商号を株式会社エーユー (au)に変更。 * [[2001年]](平成13年) ** [[3月31日]] - 株式会社ディーディーアイが株式会社エーユーを[[株式交換]]により完全子会社とする。順次全国のauショップのシステム統合を実施。 ** [[4月1日]] - 株式会社ディーディーアイが、ケイディーディーアイ株式会社<ref group="注釈" name="KDDI" />(''KDDI CORPORATION'')に商号変更する<ref name="Shikiho2002Shinshun" />。同時に本社を東京都千代田区一番町8番地(旧DDI本社)より旧KDD本社へ移転。 ** [[10月1日]] - ケイディーディーアイ株式会社が株式会社エーユーを合併。 *: KDDI本体での事業に移行したことによって携帯電話サービスauの広報用ロゴを「au by KDDI」に、マークの配色を赤色からオレンジ色主体のものに統一した<ref group="注釈">2000年10月1日から2001年9月30日までの間は2000年7月から使用の赤色「au」ロゴとオレンジ色主体の「au by KDDI」ロゴが併用された。</ref>。 * [[2002年]](平成14年)[[11月1日]] - ケイディーディーアイ株式会社が'''KDDI株式会社'''と商号変更する(ローマ字商号の解禁により)。 *: KDD時代から引き継がれてきた[[専用線]]やIP-VPNなど企業向け通信サービスのブランド名「ANDROMEGA」の国内での使用を中止(アメリカ、ヨーロッパなどの国際通信ソリューションサービスとしては継続)。 * [[2003年]](平成15年) ** [[3月31日]] - au、[[PDC]]方式終了(新規受付は2002年3月終了)。 ** 5月 - 本社機能、東京地区の業務拠点を東京都千代田区飯田橋3丁目10番10号(ガーデンエアタワー)に移転・集約させる(登記上の本店は、西新宿のKDDIビルのまま変更されず)。 * [[2004年]](平成16年) ** [[6月21日]] - [[PHS]]事業の子会社[[ウィルコム|DDIポケット株式会社]](後の[[WILLCOM]]、現:[[Y!mobile]] ([[ソフトバンク]]の第2ブランド))を[[カーライル・グループ]]が[[マネジメント・バイアウト|MBO]]により買収することを最終合意し発表、同年[[10月5日]]投資実行<ref>[[ウィルコム#カーライル・グループによる買収|カーライル・グループによる買収]]</ref>。 ** 10月 - 子会社のKソリューション、KCOM、オーエスアイ・プラス、 ケイディー ディーアイエムサットの4社がKソリューションを存続会社として合併し、[[KDDIネットワーク&ソリューションズ]]に商号変更。 * [[2005年]](平成17年) ** [[1月1日]] - DDIポケットの経営がカーライル・グループへ移行手続き完了。 ** [[3月25日]] - KDDI株式会社が携帯電話事業の[[ツーカー|ツーカーグループ]]各社(株式会社ツーカーセルラー東京、株式会社ツーカーセルラー東海、株式会社ツーカーホン関西)を株式交換により完全子会社とする。 ** 4月 - 株式会社KDDIテクニカルエンジニアリングサービス設立(現:KDDIエンジニアリング株式会社) ** [[10月1日]] - KDDI株式会社を存続会社として、株式会社ツーカーセルラー東京、株式会社ツーカーセルラー東海、株式会社ツーカーホン関西を吸収合併。 * [[2006年]](平成18年) ** [[1月1日]] - KDDI株式会社を存続会社として、業務提携相手の東京電力が傘下に持つ株式会社パワードコムを吸収合併。株式交換により、東京電力が京セラ、トヨタに次ぐ大株主となり、東京電力など電力系の通信インフラを活用しサービスの向上を図ることとなる。 ** 2月 - [[ディー・エヌ・エー|DeNA]]と協業で、ケータイ業界初の直営ECサイト「au oneショッピングモール」を開業。 ** 3月 - [[ジャパンケーブルネット]]と同社の持株会社であるジャパンケーブルネットホールディングスの[[株式]]を[[セコム]]と[[丸紅]]から譲り受け、傘下に収める。 ** 8月 - BTとともに[[KDDI&BTグローバルソリューションズ]]を設立。 * [[2007年]](平成19年) ** 6月 - [[ジャパンケーブルネット]]とジャパンケーブルネットホールディングスの株式を[[富士通]]から譲り受け、両社を[[連結子会社]]化。 ** [[8月29日]] - [[WiMAX]]事業準備・運営会社「ワイヤレスブロードバンド企画株式会社」を設立([[9月27日]]には同社に[[インテル]]・[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・京セラ・[[大和証券グループ本社|大和證券]]・[[三菱UFJ銀行]]が増資)。 ** [[10月1日]] - KDDIネットワーク&ソリューションズから会社分割で法人のシステムソリューション業務、法人向け通信事業の営業部門を移管する(KDDIネットワーク&ソリューションズは、衛星携帯電話専業会社へ移行)。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月1日]] - ワイヤレスブロードバンド企画を「[[UQコミュニケーションズ]]株式会社」に社名変更。準備会社から事業会社に移行。 ** [[3月31日]] - 携帯電話事業のツーカーがサービスを終了(新規受付は2006年6月終了)。 ** [[4月1日]] - [[芸能プロダクション]]「[[アミューズ]]」と合弁で、携帯電話向け楽曲配信、[[コンパクトディスク|音楽CD]]および[[DVD]]製作、楽曲管理などの音楽レーベル事業を目的とするメディアエンターテインメント企業「[[A-Sketch|株式会社A-Sketch]](エー・スケッチ)」 を設立[https://www.a-sketch.com/]。また[[中部電力]]の子会社だった[[中部テレコミュニケーション]](CTC)の株式の80.5%を取得し子会社化。 ** [[6月25日]] - 通信事業者として初となる銀行代理業許可を取得。所属銀行はじぶん銀行(現:[[auじぶん銀行]])。 ** [[7月1日]] - KDDIネットワーク&ソリューションズを吸収合併。 * [[2010年]](平成22年) ** [[2月]] - Liberty Global, Inc.グループが保有する中間持株会社3社の持分の全てを取得したことにより、Liberty Global, Inc.グループの[[JCOM|ジュピターテレコム]]に対する出資関係を承継し、ジュピターテレコムを当社の持分法適用関連会社とする。 ** [[12月1日]] - [[田中孝司 (実業家)|田中孝司]]が新社長に就任。これに伴い、[[小野寺正]]は会長に専念。 * [[2011年]](平成23年) ** [[2月]] - [[KDDIまとめてオフィス]]を設立。 ** [[2月25日]] - 通信事業者として初となる損害保険業免許を取得。認可会社は子会社の[[au損害保険株式会社]]。 ** 7月 - [[ウェブマネー]](現:auペイメント)の株式を一部取得し、子会社化。 **[[11月28日]] - 東京電力が保有する株を取得する<ref>{{cite news |language = | author = | url =https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20111128/375150/| title =KDDIが東京電力保有の全株式を1862億円で取得へ | publisher =| date= 2011-11-28| accessdate =2011-11-28}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年) ** [[1月16日]] - 総合通信サービスブランド「au」の広報用ロゴデザインを「'''au by''' ''KDDI''」から「''au''」(筆記体風ロゴ)に変更した。 ** [[7月22日]] - 周波数再編に伴い、[[CdmaOne (サービス)|cdmaOne]]サービスを終了。これに伴い、日本から[[第2.5世代移動通信システム]](2.5G)以前の通信方式は全て姿を消すことになった。また、2002年4月より順次開始した[[第三世代携帯電話|第3世代移動通信システム]](3G)の[[CDMA 1X]]サービス(後のau 3G。開始当初の名称は[[CDMA2000 1X]]サービスだった)もこの日をもって終了した。 ** [[9月21日]] - [[iPhone 5]]の発売開始に併せ[[第三・九世代携帯電話|第3.9世代移動通信システム]](3.9G)の[[Long Term Evolution|LTE]]サービス[[au 4G LTE]]を2.1 GHz帯で順次開始。 ** [[11月2日]] - au 4G LTE対応androidスマートフォンの発売に伴い N 800&nbsp;MHz(新800 MHz)帯、および1.5 [[ギガヘルツ|GHz]]帯での 4G LTE サービスを順次開始。 * [[2013年]](平成25年) ** [[4月]] - ジュピターテレコム(J:COM)の株式を一部取得し、子会社化。 * [[2014年]](平成26年) ** [[2月]] - KDDIフィナンシャルサービス(現:[[auフィナンシャルサービス]])を設立。 ** [[8月21日]] - 音楽および、コミック・芸能情報などのエンターティメントに特化したニュースサイト「[[ナタリー (ニュースサイト)|ナタリー(natalie)]]」を運営する運営元企業のナターシャの株式の90%を取得し子会社化<ref>{{Cite web|和書|date=2014-08-22 |url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/663214.html |title=KDDIが「ナタリー」運営元企業の株式90%を取得、連結子会社に |work=[[Internet watch]] |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2014-08-22}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[4月14日]] - [[ビズリーチ]]から分社化していた「株式会社ルクサ」の連結子会社化を発表。 ** [[8月20日]]、[[テレビ朝日]]と[[スマートフォン]]向け動画配信事業で業務提携を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/157627|title=テレ朝とKDDIが業務提携、AKB48グループメンバー主演のドラマなど配信|publisher=映画ナタリー|date=2015-08-20|accessdate=2015-08-21}}</ref>。 ** [[8月25日]] - ルクサとの協業で「au WALLET Market」を開業。 * [[2016年]](平成28年) ** [[3月]] - [[ショップチャンネル|ジュピターショップチャンネル]]の株式を一部取得し、連結子会社化。 ** [[5月30日]]、無料ニュース配信アプリ「[[ニュースパス]]」の提供開始を発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2016/05/30/1836.html|title=無料ニュース配信アプリ「ニュースパス」の提供開始について|publisher=KDDI|date=2016-05-30|accessdate=2016-05-30}}</ref>。 **[[12月28日]] - DeNAの子会社「Deコマース株式会社」を完全子会社し、「KDDIコマースフォワード」を開業。[[モバオク]]から譲受した「auショッピングモール」事業及びDeNAから譲受した「DeNAショッピング」事業をKDDIコマースフォワードが運営。 * [[2017年]](平成29年) ** [[1月30日]] - 「auショッピングモール」及び「DeNAショッピング」を統合し「Wowma!」{{Efn|後にau Wowma!への改称を経て[[2020年]][[5月21日]]より[[au PAY|au PAYマーケット]]として提供中。}}となる。 ** [[1月31日]]、[[BIGLOBE|ビッグローブ (BIGLOBE)]]の保有株式を[[日本産業パートナーズ]]から総額約800億円で取得し、同社の完全子会社とした<ref>{{Cite press release |和書 |title=KDDIによるビッグローブの子会社化について |publisher=KDDI株式会社 |date=2016-12-08 |url=http://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2016/12/08/2193.html |accessdate=2016-12-08}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1041755.html|title=BIGLOBE、今日からKDDIグループに|publisher=INTERNET Watch|date=2017-01-31|accessdate=2017-11-23}}</ref>。 ** [[2月9日]]、満足度の高い宿のみを紹介する宿泊予約サイトReluxの運営会社[[ロコパートナーズ]]の買収を発表<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ07HQL_X00C17A2TI5000/ KDDI、高級旅館の予約会社を買収] 日本経済新聞 2017年2月9日</ref>。 ** 11月22日、英会話教育事業を営む[[イーオン|イーオンホールディングス]]の買収を発表<ref>{{Cite press release|和書|url=http://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2017/11/22/2805.html|title=イーオンホールディングスの株主異動について|publisher=KDDI|date=2017-11-22|accessdate=2017-11-23}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) ** [[1月]] - イーオンホールディングスの株式を取得し、完全子会社化。 ** [[4月1日]] - 髙橋誠が新社長に就任。これに伴い、田中孝司は会長に専念。 ** 9月8日 - [[北海道胆振東部地震]]に伴う通信網復旧のため、日本初の船舶型基地局を運用<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35147170Y8A900C1000000/ KDDI、携帯復旧へ船から電波 北海道地震で] 日本経済新聞 2018年9月8日</ref>。 **[[10月1日]] - 日本国内で[[キッザニア]]を運営する[[KCJ GROUP]]の株式の過半数を取得し、連結子会社化<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2018/10/10/3413.html|title=KDDIとKCJ GROUP、こどもの将来を見据えた包括的なパートナーシップを構築|publisher=KDDI|date=2018-10-10|accessdate=2018-10-11}}</ref>。 **[[11月1日]] - [[楽天グループ|楽天]]と携帯電話事業やネット通販の物流などの分野で業務提携を発表。 **[[12月27日]] - [[エナリス]]を[[株式公開買付け]]により連結子会社化<ref>{{Cite web|和書|url=https://ssl4.eir-parts.net/doc/6079/tdnet/1657868/00.pdf|title=KDDI 株式会社及び電源開発株式会社による当社株券等に対する公開買付けの結果並びに親会社、その他の関係会社及び主要株主の異動に関するお知せ|publisher=エナリス|date=2018-12-20|accessdate=2018-12-28}}</ref>。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) **[[4月1日]] - 決済・金融事業の強化を目的に、中間金融持株会社「[[auフィナンシャルホールディングス|auフィナンシャルホールディングス株式会社]]」を設立。同日にKDDI傘下の6社(じぶん銀行・KDDIフィナンシャルサービス・ウェブマネー・KDDIアセットマネジメント・KDDI Reinsurance Corporation・カブドットコム証券)を同社の傘下にし、同年度中にauが頭に付いた新社名(auじぶん銀行・auフィナンシャルサービス・auペイメント・auアセットマネジメント・au Reinsurance Corporation・auカブコム証券)に変更<ref>{{Cite press release |和書 |title=金融持株会社「auフィナンシャルホールディングス」を設立 |publisher=KDDI |date=2019-02-12 |url=https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2019/02/12/3593.html |accessdate=2019-02-12}}</ref>。 **4月1日 - ルクサが存続会社となり、KDDIコマースフォワードを吸収合併、「auコマース&ライフ株式会社」が発足し、KDDI完全子会社化。 **12月16日 - [[Ponta|ロイヤリティ マーケティング]]との資本業務提携を発表<ref>{{cite news|url=https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2019/12/16/4188.html|title=KDDIとロイヤリティ マーケティング、資本業務提携に関するお知らせ|newspaper=|publisher=|date=2019-12-16|accessdate=2020-05-27}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** [[10月1日]] - UQコミュニケーションズの[[UQ mobile]]事業を承継(サブブランドとして存続)。 ** [[11月2日]] - 完全オンライン型のMVNO運営子会社「KDDI Digital Life」を設立<ref>[https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2020/10/30/4752.html KDDI、オンライン特化のMVNO新会社「KDDI Digital Life」を設立] - KDDI 2020年10月30日(2020年10月30日閲覧)</ref>。同事業のため、シンガポールのCircles Asia社と包括的パートナーシップを構築。 ** [[12月17日]] - 研究拠点「KDDIリサーチ・アトリエ」をKDDI総合研究所とともに設立<ref>[https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2020/12/17/4871.html 2030年を見据えた新たなライフスタイルを提案する研究拠点「KDDI research atelier」を2020年12月17日に開設] KDDIニュースリリース(2020年12月17日)2021年8月23日閲覧</ref>。 * [[2021年]](令和3年)4月21日 - [[10月31日]]を以てau WALLET Marketのサービス終了を発表。ECサービスをau PAY マーケットへ一本化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.au.com/information/topic/content/2021-014/|title=au WALLET Marketの終了について|publisher=au|date=2021-04-21|accessdate=2021-04-21}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** 3月31日 - CDMA 1X WIN(au 3G)サービス終了<ref>[https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2018/11/16/3428.html 「CDMA 1X WIN」サービスの終了について] - KDDI 2018年11月16日</ref><ref>[https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2021/11/29/5546.html 3G携帯電話向けサービス「CDMA 1X WIN」を22年3月31日に終了] - KDDI 2021年11月29日</ref>。 ** 7月1日 - 「auでんき」及び「都市ガス for au」をはじめとするエネルギー事業を、2022年4月6日に新設された新会社「auエネルギーホールディングス」の子会社である「auエネルギー&ライフ」へ移管<ref>[https://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2022/07/01/6148.html auエネルギーホールディングスとauエネルギー&ライフが事業開始] - KDDI 2022年7月1日(2022年8月29日閲覧)</ref>。 ** 10月15日- 立体映像を大型化・高画質化するホログラフィーを世界で初めて実現<ref>{{Citation|title=【世界初】KDDIが最先端技術 立体映像を大型化・高画質に(2022年10月15日)|url=https://www.youtube.com/watch?v=LlxMh1OK0oA|language=ja-JP|access-date=2022-10-15}}</ref>。 * [[2023年]](令和5年)5月18日 - [[インターネットイニシアティブ]](IIJ)との間で資本業務提携を締結。NTTが保有しているIIJ株式の一部(10%)を同月25日付で取得予定<ref>{{Cite news |title=NTTがIIJ株をKDDIに売却へ、512億円 持分法適用外れる |url=https://jp.reuters.com/article/ntt-iij-idJPKBN2X90L3 |work=ロイター通信 |date=2023-05-18 |access-date=2023-05-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=KDDI、NTTからIIJ株10%取得へ |url=https://nordot.app/1031851518056350277 |website=共同通信 |date=2023-05-18 |access-date=2023-05-18}}</ref>。 * [[2024年]](令和6年)1月1日 - [[ケーブルプラス電話]]や[[Smart TV Box]]などのケーブルテレビ事業をJCOMに移管予定<ref>{{Cite web|和書|title=KDDI、ケーブルテレビ関連事業をJCOMに集約 |url=https://forbesjapan.com/articles/detail/64938 |website=Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン) |access-date=2023-07-29 |date=2023-07-28}}</ref>。 * [[2025年]](令和7年)春 - 本社を[[港区 (東京都)|港区]]の[[TAKANAWA GATEWAY CITY|高輪ゲートウェイシティ]]に移転する予定<ref>{{Cite web|和書|title=KDDI、高輪ゲートウェイ駅直結のビルに本社移転…25年春をめどに |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230516-OYT1T50227/ |website=読売新聞 |date=2023-05-16 |access-date=2023-05-18}}</ref>。 == 識別番号 == [[電話番号|事業者識別番号]]は国内向け電話(市内・長距離・携帯電話)が'''0077'''、国際電話は'''001'''である。 旧日本高速通信株式会社(TWJ、テレウェイ→KDDへ合併)由来の識別番号'''0070'''は、2002年6月末をもって終了<ref>[https://www.kddi.com/corporate/news_release/kako/2001/1221/ 「0070市外電話サービス」等の終了について] 2001年12月21日ニュースリリース</ref>し、[[フリーダイヤル|フリーフォン]](事業者対象{{refnest|group=注釈|旧日本高速通信の出資関係から、[[トヨタグループ]]での利用が多かった。}}の通話料着信者払いサービス)とDOD(データオンデマンド)サービス(いずれも0070番号の新規申込は受け付けていない)のみに使用されていたが、0070番号の使用期限切れに伴い2010年3月末にサービスを終了した<ref>[https://www.kddi.com/corporate/news_release/2008/0514/ 「0070フリーフォンサービス」の終了について] KDDIニュースリリース(2008年5月14日)</ref>。 旧第二電電株式会社(DDI)由来の国際電話の識別番号'''0078'''は、2004年2月29日をもって終了した<ref>[https://www.kddi.com/corporate/news_release/2003/0729/ 「0078国際電話サービス」の終了について] KDDIニュースリリース(2003年7月29日)</ref>。 旧KDD株式会社(KDD)由来の'''国内電話'''(市内、長距離)の識別番号'''001'''(1円電話)は、2005年8月31日をもって終了した<ref>[http://www.kddi.com/corporate/news_release/2005/0119/ 「001国内電話サービス」の終了について] KDDIニュースリリース(2005年1月19日)</ref>。 なお、旧国際電電時代から継承していた[[国際電話|国際オペレータ通話]]'''0051'''は、利用者の激減に伴い2010年3月末でサービス終了予定であった<ref>[https://www.kddi.com/corporate/news_release/2008/0728/index.html 「国際オペレータ通話」「ジャパンダイレクト」など、オペレータを介した国際通話サービスの提供終了について] KDDIニュースリリース(2008年7月28日)</ref>が、サービスを改定した上で現在も継続されている<ref>[https://www.kddi.com/corporate/news_release/2010/0730a/index.html オペレータを介した国際通話サービスの提供条件改定について] KDDIニュースリリース(2010年7月30日)</ref>。 また、現在[[西日本電信電話]](NTT西日本)が使用している'''0039'''は、旧KDDがホームカントリーダイレクト(相手国の電話会社のオペレータに接続する国際電話。海外から日本ならジャパンダイレクトがこれにあたる)で使用していたものである。 == 運営する事業 == * [[au (通信)|au]]([[au (携帯電話)|携帯電話など]]の[[移動体通信]]事業、および同社が運営する[[ITサービス]]事業の各ブランド) *[[UQ mobile]]([[サブブランド]]の携帯電話サービス。 20年10月1日に[[UQコミュニケーションズ]]から移管) *[[povo]](こちらもサブブランドの携帯電話サービス。インターネットからの申込のみに制約している) * [[auひかり]](戸建て、マンション向けの光ファイバーサービス。旧「ひかりone」) * KDDI光ダイレクト(直収電話、法人向けIP電話サービス) * [[コミュファ]](戸建て、マンション向けの光ファイバーサービス。[[中部テレコミュニケーション]]買収に伴い承継) * メタルプラス([[直収電話]]、ADSLサービス) * [[ケーブルプラス]](IP電話([[ケーブルプラス電話]])、電気、光卸) * [[au one net]](インターネットプロバイダ。旧「DION」) * [[中継電話]](0077国内電話 旧[[第二電電]]のサービス) * [[国際電話]](001国際ダイヤル電話 旧[[ケイディディ]]のサービス) ** [[KDDIスーパーワールドカード]](海外でも使えるプリペイドカード) ** 001国際モバイルトーク(各携帯キャリアから無料登録で国際電話が可能) * [[衛星電話]]事業(現在は、ソリューション営業本部が担当。かつては、法人営業担当の子会社(旧[[KDDIネットワーク&amp;ソリューションズ]]←旧KDDI-MSAT)と共同で展開していた。後にKDDI本体のMSATビジネス営業部が担当。) ** [[インマルサット]](主に船舶上の通信手段として活用) ** [[衛星電話#イリジウム|イリジウム]](衛星携帯電話:旧DDI時代に一度は撤退したが、米イリジウムの再建と顧客の要望によって復活) <!-- 事業ではなく業界団体。既に活動を終了したため、コメントアウト * [[モバイル決済推進協議会]] --> * [[auじぶん銀行]](旧:じぶん銀行。[[三菱UFJ銀行]]と共同で設立したケータイ向けネット銀行。銀行免許取得前の社名は「モバイルネットバンク設立調査株式会社」) * [[UQコミュニケーションズ]](2008年3月1日に社名変更。旧社名「ワイヤレスブロードバンド企画」) * [http://www.denpoppo.com/ 電報サービス「でんぽっぽ」] (提供会社は[[KDDIエボルバ]]) * [[au損害保険]]([[あいおいニッセイ同和損害保険]]とKDDIによる保険会社。旧社名「モバイル損害保険設立準備」。) * [[ウェブマネー|auペイメント]](旧:ウェブマネー。2011年7月に運営会社を買収し子会社化) * [[SATCH]](同社が2011年12月15日に発足した[[拡張現実感|AR]]事業のブランド<ref>[https://www.kddi.com/corporate/news_release/2011/1215/index.html ARの日常化を目指す新ブランド「SATCH」の立ち上げについて~モバイル版ARアプリケーションの開発環境をオープン化~] - KDDI 2011年12月15日</ref>) * [[KKBOX]](台湾の音楽配信大手企業にしてKDDIの連結子会社) * [[auでんき]]([[電力自由化]]により[[新電力]]として参入した一般家庭向け電力事業) * [[TELASA]](旧:ビデオパス。KDDIと[[テレビ朝日]]の合弁会社であるTELASAが提供する動画配信サービス) * mobi(エリア定額乗り放題サービス。[[WILLER]]との合弁会社であるCommunity Mobilityが運営(議決権はWILLERが51%、KDDIが49%)<ref>[https://www.willer.co.jp/news/press/2021/1222_4540 WILLER と KDDI、 エリア定額乗り放題サービス「mobi」を共同で提供 ~合弁会社を設立、社会課題解決と新たな移動体験の提供~] - WILLER,KDDI(共同発表、2021年12月22日(2021年12月27日閲覧))</ref>。) === かつて運営した事業 === * 0070国内電話(旧[[日本高速通信|テレウェイ]]の[[中継電話]]。[[マイライン]]へ登録不可。2002年3月から6月末に順次サービス終了) * 0078国際電話(旧[[第二電電]]の国際電話。[[マイライン]]へ登録不可。2004年2月29日サービス終了) * 001国内電話(旧[[国際電信電話]]・旧[[ケイディディ]]の全国均一6秒1円課金による中継電話。[[マイライン]]へ登録不可。2005年8月31日サービス終了) * 0070フリーフォン(旧テレウェイの国内[[フリーダイヤル]]サービス。2010年3月31日終了) * [[ツーカー]](日本[[3大都市圏]]のみで展開した携帯電話事業。2005年10月1日KDDIへ吸収合併。[[2008年]][[3月31日]]をもってサービス終了) * [[マルチマッチングBB]](ゲームのネットワーク対戦サービス。2011年6月30日をもってサービス終了) * DDIポケット→[[ウィルコム]](PHS事業。元はKDDI(←DDI)の子会社であったが、[[京セラ]]と[[カーライル・グループ]]へ売却され、社名及びブランド名を[[ウィルコム]]に変更。その後[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]により経営再建され、同社傘下の[[ワイモバイル|イー・アクセス]]と合併し、同社が展開していたブランド「[[イー・モバイル]]」との統一ブランド「[[Y!mobile]]」に再変更された後、ソフトバンクモバイル(その後ソフトバンクに社名変更)に吸収合併され、[[ソフトバンク]]の一ブランドとなる。) == 日本国外における電気通信事業 == 1970年代後半から1980年代後半に、旧KDDの日本国外での現地法人として、主に日本人、日本法人向けに開業したのが始まりである。主に国際通信サービス、国際電報、データセンター(TELEHOUSE)などのシステムインテグレーション、ANDROMEGAやGlobridgeなどの国際通信網を活用したICTインフラのコンサルティングおよび構築、運用、保守、現地通信サービス導入時のサポート、各種通信機器の提供、インターネットサービス、携帯電話の貸し出し、帰国時のサービス移行手続き、国際オペレーション通話、KDDIの海外におけるカスタマーセンター(ヘルプデスク)業務(日本語対応)などを行っている。(詳細:[https://global.kddi.com/ja/company/group/ 会社一覧 | KDDI Global]/[https://biz.kddi.com/solution/ ソリューション | 法人・ビジネス向け | KDDI株式会社]) === KDDIアメリカ === [https://us.kddi.com/ KDDIアメリカ](英文名称: KDDI America, Inc.)は、[[1989年]]6月29日に設立されたKDDIの96.8%出資(間接出資を含めれば100%)の[[アメリカ合衆国|米国]]法人子会社である。電気通信業務を中心事業としている。[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]に本社がある。なお、データセンター業務を担う子会社にTelehouse America社がある。KDDI国際電報サービス「でんぽっぽ」は当社によって提供されている。 ; KDDIモバイル : [[KDDIモバイル]](英文名称:KDDI Mobile)は、KDDIアメリカの米国内([[アラスカ州]]を除く)での携帯電話業務の[[商標]]である。[[在米日本人]]、並びに[[在米韓国人]]を主な対象者としている。 : [https://www.h2owireless.com/ ローカス・テレコミュニケーションズ](英文名称:Locus Telecommunications, LLC)は、h2o Wirelessのブランドでサービスを提供する仮想移動体通信事業者である。AT&Tモビリティのネットワークを使用する。主に[[メキシコ]]など[[中南米]]、[[韓国]]、[[フィリピン]]などからの移民を顧客にしている。2010年にKDDIアメリカが子会社化した。 === KDDIヨーロッパ === [[イギリス]]を拠点とする現地法人。日本語、英語で通信サービス(ADSL インターネット、携帯電話、国際電話)を提供している。KDDIの欧州・アフリカの統括拠点である。関連会社に TELEHOUSE ヨーロッパ、スウィフトコール(英国内初の低価格総合通信会社)がある。 === KDDIドイツ === KDDIドイツは、[[デュッセルドルフ]]に本社を置く現地法人[https://www.de.kddi.com/]。日本語、ドイツ語で通信サービス(ADSL インターネット、携帯電話、国際電話)を提供している。 === KDDIフランス === KDDIフランスは、[[パリ]]に本社を置く現地法人[https://fra.kddi.com/]。日本語、フランス語で通信サービス(ADSL インターネット、携帯電話、国際電話)を提供している。 === KDDIイースタンヨーロッパ === [[ロシア]]を中心に[[東欧]]圏でのサービス提供を目的に設立。本社は英国[[ロンドン]]にあるが、営業拠点は、ロシアに2006年8月開設の[[サンクトペテルブルク]]支店、[[2008年]]7月開設の[[モスクワ]]支店がある。 === KDDI中国 === 2001年10月19日、[https://www.kddi.com/corporate/news_release/kako/2001/1107/index.html KDDI中国](北京凱迪迪愛通信技術有限公司、英文社名:KDDI China Corporation)をKDDI 80%、[[豊田通商]] 20%の投資で設立。[[中華人民共和国]]には首都[[北京]]ほかに、[[上海]]、[[大連]]、[[深圳]]、[[広州]]などに事務所がある。 === KDDI台湾 === KDDI台湾({{lang|zh-tw|台灣凱訊電信股份有限公司}})は、[[1999年]][[12月24日]]に現地法人化されたKDDIの100%出資の[[台湾]]法人子会社である。ITサポートサービスを主な事業としている。保守サービス、IT関連機器販売、事務所通信環境構築、[[PHS]]販売、ネットワークの構築、[[データセンター]]。 === KDDIシンガポール === [https://sg.kddi.com/ja/ KDDIシンガポール] は、[[1989年]][[9月28日]]に設立された。なお、2008年10月に海外データセンターサービス子会社「TELEHOUSEシンガポール」が発足している。 事業内容は通信サービス(通信設備ベース免許保有) * 国際専用回線サービス(Globridge) * 国際フレームリレー回線サービス * IP-VPNサービス * [[システムインテグレーション]](SI)サービス * データセンターサービス === KDDI香港 === [https://hk.kddi.com/ KDDI香港]({{lang|zh-hk|日本凱訊(香港)有限公司}})は、[[1988年]]に設立された、KDD(当時)の100%子会社。国際電話やインターネットサービスを[[香港]]において手がけている。 === KDDIマレーシア === [https://my.kddi.com/ KDDIマレーシア] === KDDI・サミット・グローバル・ミャンマー === 2014年、[[住友商事]]と[[ミャンマー]]国営郵便・電気通信事業体と共同で[[KDDI・サミット・グローバル・ミャンマー]] を設立した<ref>{{cite news |language = | author = | url =https://j-net21.smrj.go.jp/watch/news_tyus/entry/20140717-06.html| title =KDDIと住商、ミャンマーで通信事業に参入-2000億円投資| publisher =| date= 2014-07-17| accessdate =2014-07-22}}</ref>。 === KDDIタイランド === 1999年3月に設立。[[タイ王国|タイ]]国内のネットワーク再販免許を所有した、KDDI株式会社のタイ[[現地法人]]事務所<ref>[https://th.kddi.com/ja/company/corporate/ KDDIタイランド]</ref>。事業内容は[[システムインテグレーション]]、通信ネットワークサービス、データセンター、モバイルソリューションから成り立つ。 === Mobicom Corporation === {{仮リンク|ニューコムグループ|en|Newcom Group}}、[[住友グループ]]との合弁により{{仮リンク|モビコムコーポレーション|en|Mobicom Corporation}}設立。[[モンゴル国]]最大手の携帯電話事業者であり、2016年に連結子会社化した。 == 関連会社 == * KDDI Digital Life株式会社([[Povo]]を運営する) == 諸問題・不祥事など == === 顧客情報流出問題 === {{Main|KDDI顧客情報流出事件}} 2006年6月、KDDIの運営するインターネットプロバイダ「DION」(現:[[au one net]])の保有する個人情報約40万人分が流出していることが判明した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kddi.com/corporate/information/security/|title=<nowiki>お客様情報の流出について KDDI株式会社</nowiki>|accessdate=2015-07-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110408005731/http://www.kddi.com/corporate/information/security/index.html|archivedate=2011-04-08|deadlinkdate=2015-07-30}}</ref>。流出した個人情報が2人の男により5月末、KDDIに持ち込まれたことで流出が発覚。その後の調査や裁判の過程で、開発委託先の社員の手により2003年12月に流出したこと、KDDIの提供するネット決済代行サービスを利用する法人997社など他にも流出があったことなどが明らかにされた。2006年9月には総務省より個人情報の適正管理を徹底し、再発防止策を早急に実施するよう指導するよう行政指導が行われた。なおこの事件に対し、顧客への補償は行わないものとしている。 === 携帯電話基地局の電波と体調不良の因果関係が争われた裁判 === 宮崎県[[延岡市]]大貫町の住民が、携帯電話基地局から発射される電波により健康被害を受けたとしてKDDIの操業停止を求めた裁判。2012年10月17日、[[宮崎地方裁判所]]延岡支部は健康被害と基地局の因果関係を否定し原告側の請求を棄却した。原告は[[福岡高等裁判所宮崎支部]]に控訴するも、2013年9月5日に結審し原告敗訴<ref>{{Cite web|和書|title=KDDI電磁波裁判、退けられた住民の訴え {{!}} 企業戦略|url=https://toyokeizai.net/articles/-/11511|website=東洋経済オンライン|date=2012-10-18|accessdate=2020-01-03|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=携帯電話基地局の電磁波で健康被害? 住民がKDDIを提訴 携帯業界に大打撃の可能性も|url=https://biz-journal.jp/2014/10/post_6193.html|website=ビジネスジャーナル/Business Journal {{!}} ビジネスの本音に迫る|accessdate=2020-01-02|last=松井克明}}</ref>。 === 大規模通信障害(2012-2013年) === 2012年末から2013年5月にかけて重大な大規模な通信障害が続いた。これ以前にも2012年2月のKDDIに対する行政指導、さらに同3月の総点検の実施が行われていた。しかしその後も改善されず、さらにデータ通信のみならず音声通話にも支障が出たことや、ユーザーのアドレス帳が消える事態も生じていたことを問題視。総務省より文章での指導とあわせ点検の結果と再発防止策の取り組み報告、および報告後1年間は半年毎に進捗状況を報告するよう指導が行われた<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8315893/www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban05_02000053.html KDDI株式会社に対する事故防止に係る指導 報道資料](WARP [[国立国会図書館#電子図書館事業|国立国会図書館インターネット情報選択的蓄積事業]])</ref>。 === 景品表示法違反 === 高速通信「4G LTE」サービス(最大75 [[Mbps]]サービス)について、2012年後半より「4G LTE([[iPhone 5]]含む)対応機種なら4G LTE」「受信最大75 Mbpsの超高速ネットワークを実人口カバー率96%に急速拡大。(2013年3月末予定)」と表示していた。しかし、iPhone 5で75 Mbpsサービスにて通信できる人口カバー率は、2013年3月末時点で96%どころか14%程度に過ぎなかった。2013年5月21日、[[消費者庁]]はこの事態を重く見て、[[景品表示法]]違反と認定。再発防止と誤りの周知徹底の指導が行われている<ref>{{Cite press release |和書 |url=http://www.caa.go.jp/representation/pdf/130521premiums.pdf|title=KDDI株式会社に対する景品表示法違反に基づく措置命令について|publisher=消費者庁|format=PDF|date=2013-05-21|accessdate=2015-12-06}}</ref>。 === オプション強制加入問題 === 2013年10月ごろより、契約時に本来任意であるはずの有料オプションへの加入を強制される実態が数多く報告された。また一部有料オプションについても解約方法が不明瞭との声も寄せられた。KDDIは、こうした販売方法は販売店側の判断によるものでKDDIの指示ではないと表明しており、同年10月28日の決算説明会ではこの指摘を把握しており今後は店頭に改善を指導していくとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2013/10/29187539.html|title=<nowiki>KDDIのオプション強制加入問題 田中社長「条件にするのは許されない」</nowiki>|accessdate=2015-10-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131029210343/http://www.j-cast.com/2013/10/29187539.html|archivedate=2013-10-29|deadlinkdate=2015-10-29}}</ref>。 === 「nanapi」で一部の記事を非公開化 === {{see also|まとめサイト#キュレーションサイトにおける情報の信頼性と著作権侵害}} 2016年秋に、[[DeNA]]のヘルスケア情報[[キュレーションサイト]]「WELQ」が、不適切な内容や不適切な引用で問題になり、他社のキュレーションサイトにも厳しい目が向けられるようになった。KDDIの子会社Supershipは12月8日、同社が運営するノウハウ共有サイト「nanapi」で、「内容の正確性をいま一度社内で精査し直す」ために、11月30日から一部の記事を順次非公開にしていることを明らかにした。対象となったのは「健康・医療」「美容」「育児・教育」などのカテゴリーの記事約1万4000件で、サイト全体の約10%に当たる<ref>{{Cite web|和書|author=ITmedia |publisher=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2016-12-08|url=https://www.oricon.co.jp/article/66314/|title=nanapiも「健康・医療カテゴリー」非公開に 「内容の正確性をいま一度精査」|accessdate=2016-12-18}}</ref>。 また、ユーザーのツイートにより、ユーザーが制作したにもかかわらず、著者が「nanapi編集部」になっており、タイトルも勝手に変更されている記事があることが指摘され、12月15日ごろからネット上で話題になった。Supershipは「サービス運用上のミス」だったとして謝罪した。nanapiの記事を転載した美容情報サイト・LiRuとの間の記事の移行作業での不手際であったとしているが、記事のタイトルが変更されたこと、元のユーザーの記事が非公開になっていたことについては説明されていない<ref>{{Cite web|和書|author=マッハ・キショ松 |publisher=ITmedia |date=2016-12-16|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1612/16/news099.html|title=ユーザーの記事が編集部名義になるトラブルでnanapiが謝罪 関連メディア間で記事を転載する際に手違い|accessdate=2016-12-18}}</ref>。 === 社員自殺と残業代未払い問題 === 2019年3月に、社員4,613人に対して未払いの残業代が計約6億7千万円あったと発表した。入社2年目の20代社員の自殺により判明した<ref>{{Cite web|和書|title=KDDI、4,613人に残業代未払い 社員自殺後に判明|url=https://www.asahi.com/articles/ASM3Y56RLM3YULFA03B.html|website=[[朝日新聞デジタル]]|accessdate=2019-03-30|language=ja}}</ref>。この問題に関連して、「日本を代表する企業が自らの不祥事を長年にわたり隠蔽してきた」として2019年の第8回[[ブラック企業大賞]]にノミネートされた<ref>{{Cite web|和書|title=ブラック企業大賞2019、「吉本興業」「長崎市」などがノミネート企業に|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5df2fd66e4b0ca713e5c57a0|website=ハフポスト|date=2019-12-13|accessdate=2020-01-03|language=ja}}</ref>。 === 香港での携帯番号管理 === 2021年4月、契約者のうち海外ローミングサービスを利用している消費者のデータの一部を、業務委託先の米国企業が保有する香港のサーバーで管理していた事が報じられた。KDDIは「昨今の香港を巡る政治情勢を踏まえ、国内を含む他の場所へのデータ移管を検討する」とした(移転時期は不明としている)<ref>{{Cite web|和書|title=KDDI、香港で一部携帯番号管理 国内移転を検討|url=https://web.archive.org/web/20210402230809/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021040300005&g=eco|website=[[時事通信|時事ドットコム]]|accessdate=2021-04-09|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=KDDI、サーバー国内移転検討 香港で携帯番号を管理|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC02D1Q0S1A400C2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-04-02|accessdate=2021-04-09|language=ja}}</ref>。 === 大規模通信障害(2022年) === {{main|KDDI通信障害 (2022年)}} [[2022年]][[7月2日]]未明の1時35分ごろから、KDDIが提供する携帯電話(au・UQ mobile・povo、並びに[[MVNO]]でKDDI回線を利用する携帯電話事業者=[[楽天モバイル]]など)の通信サービスに障害が発生した。原因は同日未明から設備の機器障害で[[VoLTE]]交換機での[[トラヒック理論|トラフィック]]の輻輳とされている<ref>[https://news.kddi.com/important/news/important_20220703964.html (7月3日 05時00分現在)au携帯電話サービスがご利用しづらい状況について]</ref>。 この大規模通信障害事故により、[[アメダス]]の観測や、[[ヤマト運輸]]などKDDIの業務用回線を利用する企業・団体のデータ送受信などにも支障をきたした<ref>[https://web.archive.org/web/20220702113242/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022070200322&g=eco KDDI、全国で通信障害 2日未明から、復旧めど立たず―個人・利用企業に広く影響](時事通信)</ref>他、auショップなどのKDDI携帯電話取扱店においても、それを利用している市民からの問い合わせ・苦情が相次いだ<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASQ726WYHQ72PTIL00P.html#:~:text=2%E6%97%A5%E6%9C%AA%E6%98%8E%E3%81%AB%E7%99%BA%E7%94%9F,%E6%88%B8%E6%83%91%E3%81%84%E3%81%8C%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82&text=JR%E5%A4%A7%E9%98%AA%E9%A7%85%E5%89%8D%E3%81%AE,%E3%81%AB%E7%9B%B8%E8%AB%87%E3%81%AB%E8%A8%AA%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82 「auショップ」に利用者次々 KDDI通信障害、公衆電話使う人も 高井里佳子 2022年7月2日 21時18分](朝日新聞)</ref>。 なお、影響回線数は最大で3915万回線(個人・法人向けスマートフォン・携帯電話:約3580万回線、MVNO向け回線:約140万回線、IoT回線:約150万回線、ホームプラス電話回線:約45万回線)、法人では物流関連・自動車関連・気象関連・銀行関連・交通関連に影響が及び、同社史上最大規模の障害となった<ref>[https://japan.zdnet.com/article/35189873/ KDDIの大規模通信障害、影響は最大3915万回線--事象が重なり復旧に遅れ] 國谷武史 (編集部) 2022年7月3日(2022年7月4日閲覧)</ref>。 == イメージキャラクター == {{see also|auのイメージキャラクター}} === 過去のイメージキャラクター === * [[豊川悦司]] * [[永瀬正敏]] * [[浅野忠信]] * [[仲間由紀恵]] * [[篠原涼子]] * [[小鈴まさ記]] * [[大土井裕二]] * [[工藤里紗]] * [[みうらじゅん]] * [[伊丹十三]] == 提供番組 == ※2023年10月現在。 === テレビ === なし(2023年9月をもって、全ての番組を降板した。)。 === ラジオ === * [[鈴木敏夫のジブリ汗まみれ]]([[エフエム東京|TOKYO FM]]・[[全国FM放送協議会|JFN]]系) === 過去 === '''テレビ''' ;日本テレビ系列 * [[Music Lovers]] * [[エンタの神様]] * [[どっちの料理ショー]](読売テレビ制作) * [[世界まる見え!テレビ特捜部]] * [[ナイナイサイズ!]] * [[天才!志村どうぶつ園]] * [[ザ!世界仰天ニュース]] * [[NEWS ZERO]] * [[ぐるぐるナインティナイン|ぐるナイ]] * [[ZIP!]] * [[ダウンタウンDX]](読売テレビ制作) * [[24時間テレビ「愛は地球を救う」]]([[24時間テレビ 愛は地球を救う36|第36回(2013年)]]まで協賛) * [[幸せ!ボンビーガール]](2014年10月 - 2019年3月) * [[ザ!鉄腕!DASH!!]]([[東京海上日動火災保険|東京海上日動]]から引き継いだ。後任は[[P&Gジャパン|P&G]]。) * [[人生が変わる1分間の深イイ話]](2013年4月 - 2020年3月) * [[しゃべくり007]] * [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]制作、2018年10月 - 2022年10月) * [[LOVE GAME]] * [[金曜ロードショー]](2000年4月 - 2006年3月、2012年4月 - 2023年3月、[[あいおいニッセイ同和損害保険|あいおいニッセイ同和損保]]から引き継いだ。後任は[[テンプスタッフ]]) * [[踊る!さんま御殿!!]](2013年10月 - 2023年9月) * [[有吉の壁]](2022年4月 -2023年9月 ) ;テレビ朝日系列 * [[オンタマ]] * [[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]] ※[[チョーヤ梅酒]]から引き継いだ。後任は[[ENEOS]]→[[Disney+]]→[[ナースパワー]]。 * [[テレビ朝日水曜21時枠刑事ドラマ]] * [[ストライクTV]] * [[アメトーーク]] * [[シルシルミシルさんデー]] * [[いきなり!黄金伝説。]] * [[日曜洋画劇場]]→[[日曜エンターテインメント]] * [[ミュージックステーション]] * [[マツコ&有吉 かりそめ天国]] ;TBS系列 * [[ザックリTV]] * [[ブロードキャスター]] * [[うたばん]] * [[ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円|ザ・イロモネア]] * [[中居正広の金曜日のスマたちへ]] * [[ひみつの嵐ちゃん!]] * [[リンカーン (テレビ番組)|リンカーン]] * [[TBS木曜9時枠の連続ドラマ]] * [[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]] * [[炎の体育会TV]] * [[ニンゲン観察バラエティ モニタリング]] * [[COUNT DOWN TV|CDTVライブ!ライブ!]] * [[マツコの知らない世界]](2015年4月 - 2022年9月、後任は[[本田技研工業|ホンダ]]。) * [[水曜日のダウンタウン]](2016年10月 - 2023年9月) ;フジテレビ系列 * [[ゴールデン洋画劇場]] * [[中村雅俊のゼッタイ!知りたがり]] * [[水10!]] * [[ジャンプ○○中]] * [[脳内エステ IQサプリ]] * [[爆笑レッドカーペット]] * [[メントレG]] * [[木曜劇場]] * [[ジャンクSPORTS]] * [[はねるのトびら]] * [[情報ライブ EZ!TV]](関西テレビと共同制作) * [[スタ☆メン|週刊人物ライブ スタ☆メン]](関西テレビと共同制作) * [[関西テレビ制作火曜夜10時枠の連続ドラマ]](関西テレビ制作) * [[爆笑!大日本アカン警察]] * [[グータンヌーボ]](関西テレビ制作) * [[SMAP×SMAP]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]と共同製作) * [[ザ・ベストハウス123]] * [[奇跡体験!アンビリバボー]] * [[ホンマでっか!?TV]] * [[とんねるずのみなさんのおかげでした]] * [[ネプリーグ]](後半ナショナルスポンサー) * [[土曜プレミアム]] (長年続いた[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]から引き継いだ。後任は[[パナソニックホールディングス|Panasonic]]→[[積水ハウス]]。2020年10月に「めざましテレビ」より提供枠を移動。) * [[めざましテレビ]](2020年10月 - 2023年3月、「[[土曜プレミアム]]」から移動、後任はP&G、2023年4月に「VS魂グラデーション」より提供枠を移動。) * [[VS魂]] (2023年4月 - 2023年9月) '''ラジオ''' * [[KDDI PRIME TIME RADIO]](TOKYO FM・JFN系) * [[au DOWNLOAD MUSIC CHART]](同上) * [[au ONAIR MUSIC CHART]](同上) == 協力 == * [[みまもりくん]](同社が[[いすゞ自動車]]と共同開発した'''世界初のインターネット・デジタル[[タコグラフ]]'''システム) * [[スペースシャワーネットワーク]](2011年3月8日より業務提携開始。これに伴い、同社は[[伊藤忠商事]]から14.03%の株式を取得した) * [[キラー・ヴァージンロード]](2009年9月12日に公開された劇場用[[映画]]で同社はこの作品に制作協力している) * [[FLOWERS -フラワーズ-]](2010年6月12日に公開された劇場用映画で同社はこの作品に制作協力している) * [[コクリコ坂から]](2011年7月16日に公開された[[スタジオジブリ]]制作の劇場用アニメーション映画で同社はこの作品に特別協賛している) * [[ガール (小説)#映画|ガール]](2012年5月26日に公開された劇場用映画で同社はこの作品に制作協力している) * [[るろうに剣心 (映画)|るろうに剣心]](2012年8月25日に公開された劇場用映画で同社はこの作品に制作協力している) * [[劇場版 HUNTER×HUNTER 緋色の幻影]](2013年1月12日に公開された劇場用アニメーション映画で同社はこの作品に制作協力している) * [[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]](2013年7月20日に公開されたスタジオジブリ制作の劇場用アニメーション映画で同社はこの作品に提携している) * [[かぐや姫の物語]](2013年11月23日に公開されたスタジオジブリ制作の劇場用アニメーション映画で同社はこの作品に提携している) * [[永遠の0]](2013年12月21日に公開された劇場用映画で同社はこの作品に制作協力している) * [[劇場版 HUNTER×HUNTER -The LAST MISSION-]](2013年12月27日に公開された劇場用アニメーション映画) * [[ハロー!プロジェクト|Hello! Project ひなフェス2014 〜Fullコース〜 supported by au]](2014年3月29日 - 3月30日に[[パシフィコ横浜]]展示ホールにて開催された[[ハロー!プロジェクト]]<ref group="注釈">[[モーニング娘。|モーニング娘。'14]](2014年当時の名義)、[[Berryz工房]](2015年3月活動停止)、[[℃-ute]]、[[アンジュルム|スマイレージ]](現・[[アンジュルム]])、[[Juice=Juice]]など</ref> のコンサートで同社はこのコンサートに特別協賛している) * [[思い出のマーニー]](2014年7月19日に公開されたスタジオジブリ制作の劇場用アニメーション映画で同社はこの作品に提携している<ref>[https://www.ghibli.jp/marnie/index.html 映画「思い出のマーニー」公式ホームページ]</ref>) * [[ルパン三世 (2014年の映画)]](2014年8月30日に公開された劇場用映画で同社はこの作品に制作協力している) * [[アオハライド#実写映画|アオハライド]](2014年12月13日に公開された劇場用映画) * [[妖怪ウォッチ (アニメ)#劇場版|映画 妖怪ウォッチ 誕生の秘密だニャン!]](2014年12月20日に公開された劇場用アニメーション映画で同社はこの作品に制作協力している) * [[ストロボ・エッジ#映画|ストロボ・エッジ]](2015年3月14日に公開された劇場用映画) * [[orange (高野苺の漫画)#映画|orange]](2015年12月12日に公開された劇場用映画) *[[カゲロウプロジェクト#映画|カゲロウデイズ -in a day's-]] (2016年11月4日から公開された劇場用アニメーション映画で製作委員会として参加している) * [[au (通信)|au]] × [[ハロー!プロジェクト|HELLO! PROJECT 20th]](2018年3月31日 - 4月1日に[[横浜国際平和会議場|パシフィコ横浜]]にて開催された[[SATOYAMA movement|「遊ぶ。暮らす。育てる。SATOYAMA &amp; SATOUMIへ行こう2018」]]内に出展された「'''au × HELLO! PROJECT 20th 音のVR'''」で同社は[[モーニング娘。|モーニング娘。'18]](2018年当時の名義)、および[[アンジュルム]]を筆頭とする[[ハロー!プロジェクト]]が所属する大手芸能プロダクションの[[アップフロントプロモーション]]と共同制作している<ref>[http://news.kddi.com/kddi/corporate/newsrelease/2018/03/14/3010.html au×ハロー! プロジェクト 推しメンの声が際立つ!「音のVR」による新音楽視聴体験コンテンツを制作] - KDDI 2018年3月14日(2018年3月23日閲覧)</ref><ref>[https://www.au.com/information/topic/mobile/2018-032/ au×ハロー!プロジェクト推しメンの声が際立つ!モーニング娘。‘18、アンジュルムとコラボした「音のVR」の新音楽視聴体験コンテンツがイベントで体験可能に ~KDDI直営店、HMVでも体験できる!~] - KDDI 2018年3月30日(2018年3月31日閲覧)</ref><ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1111546.html 推しメンの歌声もズームできる「音のVR」、モーニング娘。'18とKDDIがコラボVR動画(ケータイWatch)] - [[インプレス]] 2018年3月14日(2018年3月23日閲覧)</ref><ref>[https://time-space.kddi.com/kddi-now/tsushin-chikara/20180330/2287 TIME & SPACE by KDDI 通信のチカラ『モーニング娘。’18 「音のVR」撮影現場を独占レポ 音にズームできる新視聴体験とは』] - KDDI 2018年3月30日(2018年3月31日閲覧)</ref>) == ギャラリー == <gallery> ファイル:KDDI Osaka.jpg|KDDI大阪支社ビル ファイル:KDDI Office Building Shinjuku 2007-01 cropped.jpg|西新宿・[[KDDIビル]](同社の登記上の本店) ファイル:KDDI Designing Studio.JPG|KDDIデザイニングスタジオ(原宿) </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参照 == * {{PDFlink|[https://media3.kddi.com/extlib/files/corporate/kddi/annai/pdf/all.pdf CORPORATE PROFILE 2019-2020]}} KDDI株式会社 == 関連項目 == {{Commons|Category:KDDI}} {{Commonscat|KDDI|KDDI}} * [[KDDIウェブコミュニケーションズ]] * [[KDDI顧客情報流出事件]] * KDDIラグビー部 - ラグビー部。2015年現在[[関東社会人リーグ (ラグビー)|関東社会人リーグ]]3部に所属する。 * [[ド・ドドンパ]] - [[富士急ハイランド]]のジェットコースター。''au''のロゴを使いオフィシャルスポンサーを務めている。 == 外部リンク == * [https://www.kddi.com/ KDDI株式会社] * [https://www.au.com/mobile/ au] - 公式サイト * [https://portal.auone.jp/ auポータル] *{{Twitter| au_official | au }} *{{Facebook| aubyKDDI | au }} * {{Instagram|au_official}} * {{YouTube|user = aubyKDDIofficial|au}} {{KDDI}} {{au}} {{A-Sketch}} {{日本の携帯電話事業者}} {{アメリカ合衆国の携帯電話事業者}} {{TOPIX 100}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいでぃーでぃーあい}} [[Category:KDDI|*]] [[Category:有線役務利用放送事業者]] [[Category:災害対策基本法指定公共機関]] [[Category:千代田区の企業]] [[Category:東証プライム上場企業]] [[Category:1993年上場の企業]] [[Category:日本の多国籍企業]] [[Category:日経平均株価]] [[Category:1984年設立の企業]] [[Category:トヨタ自動車]] [[Category:京セラ|KDDI]] [[Category:TOPIX 100]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/KDDI
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マイライン
マイラインとは、NTT東日本またはNTT西日本の固定電話(加入電話・INSネット)の中継電話において、事業者識別番号を電話番号の前に付けなくても、利用者が使いたい電気通信事業者を優先的に使用するサービスである。 アメリカではかつて国内電話事業を独占的に行い世界最大規模へ肥大化していたベル電話会社の後継であるAT&Tが独占市場による解体で地域ベル電話会社と長距離電話のAT&Tへ分割される際に、MCIワールドコムなど新興の長距離通信事業者(日本の新電電相当)と分割後のAT&Tの間で電話番号の前の識別番号を付加する必要の有無で不公平を与えさせないため1984年に事業者事前登録制度が導入された。 1980年代に新電電が市外通話に参入し、電話料金の値下げ競争が起こった。00XXなどの新電電事業者識別番号の前置きを不要とするLCRが普及し、旧:NTTは、50%近くまでシェアが低下した。 1999年7月のNTT東西・NTTコミュニケーションズへの固定通信事業分社化後、0033などのNTTグループ識別番号を付け加えなくても従来通りNTT網に接続される事(優先接続)で消費者の通信事業者選択の上での弊害とされた。このため、1984年にアメリカを皮切りに諸外国で開始された優先接続制度を参考にNTT優先接続を是正させ固定通信事業者間での競争を促す目的で1998年3月に郵政省で「優先接続に関する研究会」が設置され、10月に制度導入が望ましい答申を発表。「優先接続導入準備委員会」が設置された。NTTと電気通信事業協会における協議を経て、2000年3月に固定電話回線を提供する東西NTTが運営主体となる事や2001年5月に通信事業者選択(優先接続)サービスを開始させることが最終的に策定された。 2000年4月にNTT東日本を幹事として電気通信事業協会が運営する「優先接続関係事業者連絡会」が発足し、電器店や東西NTTのDMリーフレット配布などで徐々にマイラインに関する周知がなされるようになる。 なお、1998年の国際電話の事業者自由化や1999年のNTT分社化に加わった形で進められた郵政省の規制緩和政策により黒船と言われるような海外の通信事業者の新規参入も予想されたが、ドイツテレコムのみに留まっている。 営業が活発であったころは、通信事業者のユーザー囲い込み用の営業ツールとして利用されている面が大きかった。かつて利用に登録が必要であったNTTグループ以外の他社に以前登録のために提出されたデータを元にした「マイラインプラス」が勝手に登録されていたケースや「マイラインプラス」で4区分全て民間の通信事業者を登録した後、海外に転勤となりNTTの固定電話を利用休止し帰国後、NTTの固定電話を利用再開したら「マイラインプラス」が4区分全てNTTグループに勝手に変更されていたケースもあり苦情がたえなかった。 当初の受け付けを開始した2001年1月10日から9月30日まではマイラインやマイラインプラス共に登録や事業者の変更手続き(再登録)は無料であったが、10月1日より800円(税抜)の登録変更手数料がかかるように制度化された。手数料は、サービス提供者であるNTT東日本またはNTT西日本からの請求となる。4区分のうち、1区分のみを、登録済みの通信事業者を変更したり、マイラインをマイラインプラスに変えたり、マイラインプラスをマイラインに変えたり、するだけでも一律800円(税抜)の登録変更手数料がかかる。 マイラインの登録総数は、2003年度の1億7,303万件から、2016年度の6,698万件と約61%減となった。また、4区分同一または国際未登録で国内3区分同一の事業者(手続きを行っていない、もしくは市内・県内市外NTT東西、県間NTTコミュニケーションズを登録しているを含む)利用者は88%程度、それに自動登録(手続きを行っていない区分は、市内・県内市外NTT東西、県間NTTコミュニケーションズとなる)以外単一事業者を指定している加入者を足し合わせると96%程度となる。 これは、中継電話を利用した発信に対応していないマイラインが無関係な、直収電話(直加入電話)・0AB-J番号のIP電話・NTT東西とその提携事業者のフレッツ光のひかり電話に営業の中心が移ったためである。これらのサービス殆ど全てが、NTT東日本やNTT西日本と相互接続している。そのほかに、携帯電話・スマートフォンの普及に伴い、固定電話そのものを持たない世帯が増加していることも影響していると考えられる。 なお、ひかり電話利用時の国際電話については、NTTグループのNTTコミュニケーションズではなく、ドイツテレコムGBSジャパン(旧:ティー・システムズジャパン)経由で提供される。 NTT東日本やNTT西日本の固定電話から直収電話にかけた場合はNTT東日本やNTT西日本の通話料金割引サービスは一切適用されないので、注意が必要である。また、050番号のIP電話への接続については現状ではマイライン(優先接続)も中継電話による選択中継制も存在しないため、関係はない。 マイライン廃止となる時期が固定電話サービスの局内設備が公衆交換電話網からIP網に移行となる2024年1月に決定した。 2017年6月7日開催の総務省の有識者会議で、事業者間で意見が割れていたマイラインの扱いが議論され、IP網移行後にマイラインを廃止し、全国一律料金の通話区分のない通話サービス卸に変更することに合意した。これは、距離課金が無く・アクセスチャージがIC接続相当に統一され、IP固定電話相互間の中継電話が事業として成り立たないためである。 まず、現在マイラインに参加している各事業者(中継電話事業者)が契約者へ自社のサービスへの乗り換えを働きかけ、自社が提供する他のサービス(光IP電話サービスなど)への巻き取りを行う。 その後、乗り換えに関する意思表示をしていない契約者に向けて、NTT東日本またはNTT西日本(東西NTT)が書面を2回送付し、以下の内容を通知する。 2回のうちどちらかのタイミングで契約者が意思表示を行った場合は、その事業者との契約に移行する。 意思表示を行わなかった場合、現行契約約款の変更を行い、みなし契約で移行する。 法人契約で、マイライン事業者登録の通話区分登録全てがKDDIまたはソフトバンク場合、KDDIまたはソフトバンクの法人向け通話サービスに自動移行する。 卸料金については、ひかり電話卸を参考に、基本料金を東西NTTが徴収することを考慮して決定する。 メタルIP電話への契約移行でのマイライン関係の5年間の追加費用は、次のように試算された。 電話をかける際、明示的に通信事業者を指定しなかった場合に使用される通信事業者を予め登録するもの。2001年5月1日開始。マイライン(プラス)登録後は国内について通常のダイヤル操作を行うと登録した通信事業者の回線を使用し、国際電話は「010-国番号-相手先国内番号」の操作を行うことで登録通信事業者の回線を経由する。 登録以外の通信事業者にでも電話番号の頭に他の事業者コードを付ければ簡単に切り替えることのできる「マイライン」と、通信事業者を特定の一社に固定してしまう「マイラインプラス」の2種類がある。「マイラインプラス」でも、頭に解除特番「122」と事業者コードを付ければ、登録以外の通信事業者を利用しての通話が可能である。 サービス開始当時に明示的に申し込みがなかった回線については市内と県内市外への通話は地域によりNTT東日本またはNTT西日本、県外への通話はNTTコミュニケーションズが自動的に「マイライン」で登録される。「マイラインプラス」での登録を希望する場合は、申し込みが必要である。 国際電話には国内電話のようにNTTグループへの暗黙的な接続制度はなく事業者識別番号のダイヤルまたは「マイライン」の登録、あるいは「マイラインプラス」の登録のいずれかが必要となる。通信事業者を指定して通話するには「事業者識別番号-010-国番号-相手先国内番号」のダイヤル操作となる。 通話区分は市内、同一都道府県内の市外(県内市外)、他都道府県(県外)、国際の4区分である。なお、ここでいう市(町村)および都道府県の区分はそれぞれNTT東日本またはNTT西日本が料金区域(MA)および事業地域として設定している市町村および都道府県の区分であり、それぞれ行政上の市町村および都道府県とは一部異なる地域がある。例としては次のようなものがある。 ※個人向け、音声通話モードの場合のみ考慮。法人向けやデータ通信モードについては料金が異なるなど各事業者に確認のこと。
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マイラインとは、NTT東日本またはNTT西日本の固定電話(加入電話・INSネット)の中継電話において、事業者識別番号を電話番号の前に付けなくても、利用者が使いたい電気通信事業者を優先的に使用するサービスである。
{{Otheruses|固定電話の付帯サービス|その他}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年2月 }} '''マイライン'''とは、[[東日本電信電話|NTT東日本]]または[[西日本電信電話|NTT西日本]]の[[固定電話]]([[加入電話]]・[[INSネット]])の[[中継電話]]において、[[日本の電話番号#00XY 特番(事業者識別番号)|事業者識別番号]]を[[電話番号]]の前に付けなくても、利用者が使いたい[[電気通信事業者]]を優先的に使用する[[電気通信役務|サービス]]である。 == アメリカでの状況 == アメリカではかつて国内電話事業を独占的に行い世界最大規模へ肥大化していたベル電話会社の後継である[[AT&T]]が独占市場による解体で[[地域ベル電話会社]]と長距離電話の[[AT&T]]へ分割される際に、[[ワールドコム|MCIワールドコム]]など新興の長距離通信事業者(日本の[[新電電]]相当)と分割後のAT&Tの間で電話番号の前の識別番号を付加する必要の有無で不公平を与えさせないため[[1984年]]に事業者事前登録制度が導入された。 == 他国での状況 == ; 各国の導入年<ref name="2001torey">{{Cite journal|url=http://www.jmrlsi.co.jp/membership/premium/scto/case/2001/myline_1.pdf |title=マイライン争奪戦NTTを苦しめる値引き合戦の行く末(2001年) |journal=東レ経営研究所|date=2001-00-00}}</ref> * [[オーストラリア]] - 1993年 * [[カナダ]] - 1994年 * [[ドイツ]] - 1998年 * [[フランス]] - 2000年 == 日本での状況 == === マイライン導入時の背景 === [[1980年代]]に新電電が[[市外通話]]に参入し、[[電話料金]]の値下げ競争が起こった<ref name="2001torey" />。00XXなどの新電電事業者[[日本の電話番号#00XY 特番(事業者識別番号)|識別番号]]の前置きを不要とする[[Least Cost Routing|LCR]]が普及し、旧:[[日本電信電話|NTT]]は、50%近くまでシェアが低下した。 [[1999年]]7月のNTT東西・[[NTTコミュニケーションズ]]への固定通信事業分社化後、0033などのNTTグループ識別番号を付け加えなくても従来通りNTT網に接続される事(優先接続)で消費者の通信事業者選択の上での弊害とされた。このため、[[1984年]]にアメリカを皮切りに諸外国で開始された優先接続制度を参考にNTT優先接続を是正させ固定通信事業者間での競争を促す目的で[[1998年]]3月に郵政省で「優先接続に関する研究会」が設置され、10月に制度導入が望ましい答申を発表。「優先接続導入準備委員会」が設置された。NTTと電気通信事業協会における協議を経て、[[2000年]]3月に固定電話回線を提供する東西NTTが運営主体となる事や[[2001年]]5月に通信事業者選択(優先接続)サービスを開始させることが最終的に策定された。 2000年4月にNTT東日本を幹事として電気通信事業協会が運営する「優先接続関係事業者連絡会」が発足し、電器店や東西NTTのDMリーフレット配布などで徐々にマイラインに関する周知がなされるようになる。 なお、[[1998年]]の[[国際電話]]の事業者自由化や1999年のNTT分社化に加わった形で進められた郵政省の[[規制緩和]]政策により[[黒船]]と言われるような海外の通信事業者の新規参入も予想されたが、[[ドイツテレコム]]のみに留まっている。 === マイラインの営業 === 営業が活発であったころは、通信事業者のユーザー囲い込み用の営業ツール<ref>特定の事業者を「マイラインプラス」登録すると割引サービス等の使用料の一定額割引や無料化、割引サービスの割引率が自動的に5 - 15%アップ、通信事業者がサービス提供している[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]の基本料金割引などの特典がある。</ref>として利用されている面が大きかった。かつて利用に登録が必要であったNTTグループ以外の他社に以前登録のために提出されたデータを元にした「マイラインプラス」が勝手に登録されていたケース<ref>[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では'''スラミング'''と言う。</ref>や「マイラインプラス」で4区分全て民間の通信事業者を登録した後、海外に転勤となりNTTの固定電話を利用休止し帰国後、NTTの固定電話を利用再開したら「マイラインプラス」が4区分全てNTTグループに勝手に変更されていたケースもあり苦情がたえなかった。 当初の受け付けを開始した2001年[[1月10日]]から[[9月30日]]まではマイラインやマイラインプラス共に登録や事業者の変更手続き(再登録)は無料であったが、[[10月1日]]より800円(税抜)の登録変更手数料がかかるように制度化された。手数料は、サービス提供者であるNTT東日本またはNTT西日本からの請求となる。4区分のうち、1区分のみを、登録済みの通信事業者を変更したり、マイラインをマイラインプラスに変えたり、マイラインプラスをマイラインに変えたり、するだけでも一律800円(税抜)の登録変更手数料がかかる。 === マイライン登録数の半減 === マイラインの登録総数は、2003年度の1億7,303万件から、2016年度の6,698万件と約61%減となった。また、4区分同一または国際未登録で国内3区分同一の事業者(手続きを行っていない、もしくは市内・県内市外NTT東西、県間NTTコミュニケーションズを登録しているを含む)利用者は88%程度、それに自動登録(手続きを行っていない区分は、市内・県内市外NTT東西、県間NTTコミュニケーションズとなる)以外単一事業者を指定している加入者を足し合わせると96%程度となる。 これは、中継電話を利用した発信に対応していないマイラインが無関係な、[[直収電話]](直加入電話)・[[日本のIP電話|0AB-J番号のIP電話]]・NTT東西とその提携事業者の[[フレッツ#フレッツ光|フレッツ光]]の[[フレッツ#ひかり電話|ひかり電話]]に営業の中心が移ったためである。これらのサービス殆ど全てが、NTT東日本やNTT西日本と相互接続している。そのほかに、携帯電話・スマートフォンの普及に伴い、固定電話そのものを持たない世帯が増加していることも影響していると考えられる。 {{要出典範囲|なお、ひかり電話利用時の国際電話については、NTTグループのNTTコミュニケーションズではなく、[[ドイツテレコム#日本での事業|ドイツテレコムGBSジャパン(旧:ティー・システムズジャパン)]]経由で提供される。|date=2015年1月}} NTT東日本やNTT西日本の固定電話から直収電話にかけた場合はNTT東日本やNTT西日本の通話料金割引サービスは一切適用されないので、注意が必要である。また、050番号のIP電話への接続については現状ではマイライン(優先接続)も中継電話による選択中継制も存在しないため、関係はない。 === IP網移行後のマイラインの扱い === マイライン廃止となる時期が固定電話サービスの局内設備が公衆交換電話網からIP網に移行となる2024年1月に決定した<ref>{{Cite web|和書|title=固定電話(加入電話・INSネット)のIP網移行 マイライン・割引サービスの終了 |url=https://web116.jp/2024ikou/myline.html|website=NTT東日本|date=2022-01-20 |accessdate=2022-04-04}}</ref>。 [[2017年]][[6月7日]]開催の総務省の有識者会議で、事業者間で意見が割れていたマイラインの扱いが議論され、[[公衆交換電話網#公衆交換電話網のIP網への円滑な移行|IP網移行]]後にマイラインを廃止し、全国一律料金の通話区分のない通話サービス卸に変更することに合意した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/policyreports/joho_tsusin/denwa/02kiban02_04000315.html|title=情報通信審議会 電気通信事業政策部会 電話網移行円滑化委員会(第34回)配布資料・議事録|publisher=総務省|date=2017-6-21|accessdate=2017-6-30}}</ref>。これは、距離課金が無く・[[アクセスチャージ]]がIC接続相当に統一され、IP固定電話相互間の[[中継電話]]が事業として成り立たないためである<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/atcl/column/14/346926/061401014/ マイライン廃止はほぼ決まり、ささやかれる「NTT独占時代への回帰」] - 日経クロステック(2017年6月16日) 2021年3月14日閲覧。</ref>。 まず、現在マイラインに参加している各事業者(中継電話事業者)が契約者へ自社のサービスへの乗り換えを働きかけ、自社が提供する他のサービス(光IP電話サービスなど)への巻き取りを行う。 その後、乗り換えに関する意思表示をしていない契約者に向けて、NTT東日本またはNTT西日本(東西NTT)が書面を2回送付し、以下の内容を通知する。 * メタルIP電話への契約移行についての告知 * マイライン登録状況の通知<ref>マイライン事業者協議会から提供される情報に基づく。</ref> * 移行先中継電話事業者の通話サービスの選択についての意思表示の確認 * 契約者が意思表示しない場合の移行先中継電話事業者についての告知 2回のうちどちらかのタイミングで契約者が意思表示を行った場合は、その事業者との契約に移行する。 意思表示を行わなかった場合、現行契約[[約款]]の変更を行い、みなし契約で移行する。 法人契約で、マイライン事業者登録の通話区分登録全てが[[KDDI]]または[[ソフトバンク]]場合、KDDIまたはソフトバンクの法人向け通話サービスに自動移行する。 卸料金については、ひかり電話卸を参考に、基本料金を東西NTTが徴収することを考慮して決定する。 : ユーザ通話料×○%+契約管理費(定額) メタルIP電話への契約移行でのマイライン関係の5年間の追加費用は、次のように試算された。 * マイライン廃止 - 20億円または45億円 * 一定期間マイラインを継続し、メタル収容装置廃止時に廃止 - 90億円または95億円 * IP網でマイライン機能を具備 - 125億円または130億円 == 日本での利用方法 == 電話をかける際、明示的に通信事業者を指定しなかった場合に使用される通信事業者を予め登録するもの。2001年[[5月1日]]開始。マイライン(プラス)登録後は国内について通常のダイヤル操作を行うと登録した通信事業者の回線を使用し、[[国際電話]]は「010-[[国際電話番号の一覧|国番号]]-相手先国内番号」の操作を行うことで登録通信事業者の回線を経由する。 登録以外の通信事業者にでも電話番号の頭に他の事業者コードを付ければ簡単に切り替えることのできる「'''マイライン'''」と、通信事業者を特定の一社に固定してしまう「'''マイラインプラス'''」の2種類がある。「マイラインプラス」でも、頭に解除特番「122」と事業者コードを付ければ、登録以外の通信事業者を利用しての通話が可能である。 サービス開始当時に明示的に申し込みがなかった回線については市内と県内市外への通話は地域により[[東日本電信電話|NTT東日本]]または[[西日本電信電話|NTT西日本]]、県外への通話は[[NTTコミュニケーションズ]]が自動的に「マイライン」で登録される。「マイラインプラス」での登録を希望する場合は、申し込みが必要である。 国際電話には国内電話のようにNTTグループへの暗黙的な接続制度はなく事業者識別番号のダイヤルまたは「マイライン」の登録、あるいは「マイラインプラス」の登録のいずれかが必要となる。通信事業者を指定して通話するには「事業者識別番号-010-国番号-相手先国内番号」のダイヤル操作となる。 === 通話区分 === 通話区分は市内、同一都道府県内の市外(県内市外)、他都道府県(県外)、国際の4区分である。なお、ここでいう市(町村)および都道府県の区分はそれぞれNTT東日本またはNTT西日本が料金区域([[単位料金区域|MA]])および事業地域として設定している市町村および都道府県の区分であり、それぞれ行政上の市町村および都道府県とは一部異なる地域がある。例としては次のようなものがある。 * [[東京都]][[町田市]]([[神奈川県]]扱い) * [[兵庫県]][[尼崎市]]([[大阪府]][[大阪市]]扱い) * [[広島県]][[大竹市]]([[山口県]]扱い) * [[福岡県]][[春日市]](福岡県[[福岡市]]扱い) === 対象外 === * [[110番|110]]([[日本の警察|警察]])、[[118番|118]]([[海上保安庁]])、[[119番|119]]([[日本の消防|消防]])、117([[時報]])、0120([[フリーダイヤル]])、0570([[ナビダイヤル]])、0990([[ダイヤルQ2|ダイヤルQ<sup>2</sup>]])、0180([[テレゴング]]、[[テレドーム]]、データドーム)、0170([[伝言ダイヤル]])などの特殊な番号への通話、[[携帯電話]]<ref name=":0">[[PHS]]含む。</ref>への通話、[[日本の公衆電話|公衆電話]]からの通話は対象外である。特殊番号への通話については、常にNTTグループが利用される。 * 携帯電話への通話については通常通りにダイヤルすると携帯電話オペレータが設定した通話料金がかかるが、一部の固定電話キャリアが割安な中継サービスを開始した。ただし、携帯電話への通話については「マイライン」や「マイラインプラス」の登録対象となっていないので中継サービスを利用する際は<br />00xx(事業者識別番号)-090-yyyy-zzzz<br />00xx(事業者識別番号)-080-yyyy-zzzz<br />00xx(事業者識別番号)-070-yyyy-zzzz<br />とダイヤルする必要がある。 ** 携帯電話宛であっても、[[ひかり電話]]回線の場合はこの事業者識別番号をつけた通話は不可だが、NTT東日本地域のひかり電話から掛けた場合の通話料は、加入電話で0036をつけた場合と同額に設定されている。 ** [[2013年]][[11月1日]]より、070から始まる携帯電話<ref>携帯電話の電話番号帯は「090-XXXX」、「080-XXXX」、「070-AXXX」(A=1〜4、7〜9)。</ref>も対象となった。同じ070でも[[PHS]]<ref>PHSの電話番号帯は「070-AXXX」(A=0・5・6)。</ref>については、事業者により対応が分かれていた(詳細は[[#マイライン参加企業と事業者識別番号|マイライン参加企業と事業者識別番号]]参照)<ref>なお、携帯電話に「070-AXXX」(A=1〜4、7〜9)番号が割り当てられると共に、携帯電話とPHSの間での[[番号ポータビリティ#PHS電話番号ポータビリティ|番号ポータビリティ]]も開始されているため、電話番号だけでは必ずしも判別できない。このためPHSに掛かった場合には特別な呼び出し音が鳴るようになっている。<br />{{Cite journal|url=http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/top/tel_number/070keitai.html|title=携帯電話の電話番号への070の追加について|journal=総務省|date=2013-11-1}}</ref>。 * LCRが機能しているとマイラインの場合は、マイライン登録通信事業者よりもLCRが選択した通信事業者が優先される。マイラインプラスの場合はLCRは解除特番122を付加しないためLCRの影響はないが、マイラインプラス登録通信事業者とLCR装置が選択した通信事業者が違っている場合は電話をかけるたびに毎回「○○○○(登録した通信事業者名)でおつなぎしております」といった内容の音声ガイダンスが流れてから相手先につながる。この音声ガイダンスを流さないようにするにはマイラインプラス登録通信事業者とLCR装置が選択する通信事業者を同じにするか、あるいはLCRをOFFにするかどちらかの対応が必要となる。 == マイライン参加企業と事業者識別番号 == {| class="wikitable" !rowspan="2" colspan="2" style="white-space:nowrap"|[[電気通信事業者]]!!colspan="4"|マイライン区分<ref>優先接続。</ref>!!style="white-space:nowrap"|対象外<ref name="selective">選択中継制による[[中継電話]]。</ref>!!rowspan="2" style="white-space:nowrap"|登録!!rowspan="2" style="white-space:nowrap"|登録<br />可能<br />区域!!rowspan="2" style="white-space:nowrap"|備考 |- !style="white-space:nowrap"|[[市内通話|市内]]!!style="white-space:nowrap"|同一<br />県内<br />[[市外通話|市外]]!!style="white-space:nowrap"|県外!!style="white-space:nowrap"|[[国際電話|国際]]!![[携帯電話|携帯]]<ref name=":0" /> |- |rowspan="4"|[[NTTグループ]]||[[NTTコミュニケーションズ]]||colspan="5"|0033||rowspan="3"|不要||全国||プラチナ・ライン、世界割などの加入と4区分全てをNTTコミュニケーションズにマイラインプラス登録することを条件に通話料割引を行っている。プラチナ・ライン、世界割の加入のみでマイラインプラス登録をしていない場合は割引は適用されず通常の通話料金が適用される。PHSは[[2013年]][[11月1日]]より対応、通話料は一律10円/1通話+10円/1分(税抜)<ref>なお、同一区域内の深夜(23時〜翌8時)のみ、事業者番号無指定の場合、[http://www.ymobile.jp/plan/others/tld/charge/index.html その他の通信料]よりも高くなる。</ref><ref>{{Cite journal|url=http://www.ntt.com/release/monthNEWS/detail/20131031.html|title=固定電話から携帯電話へお得に通話できる「0033モバイル」の「070」番号から始まる携帯電話およびPHSへの接続開始について|journal=NTTコミュニケーションズ|date=2013-10-31}}</ref> |- |[[東日本電信電話|NTT東日本]]||colspan="3"|0036||×||0036||東日本地域||rowspan="2"|同一県内市外はエリアプラス契約で対象の隣接MA地区が県外の場合のみ、NTTコミュニケーションズの電話回線を利用してサービスを行っている。PHSは[[2014年]][[10月1日]]より対応、通話料は[[フレッツ#ひかり電話|ひかり電話]]からPHSに掛ける場合と同一料金<ref>{{Cite journal|url=https://www.ntt-east.co.jp/release/detail/20140901_01.html|title=固定電話からPHSへの通話サービスの提供開始について|journal=NTT東日本|date=2014-9-1}}</ref><ref>{{Cite journal|url=https://www.ntt-west.co.jp/news/1409/140901a.html|title=固定電話からPHSへの通話サービスの提供開始について|journal=NTT西日本|date=2014-9-1}}</ref> |- |[[西日本電信電話|NTT西日本]]||colspan="3"|0039||×||0039||西日本地域 |-style="background-color:#C0C0C0" |[[ぷらら|NTTぷらら]]||colspan="4"|009191||×||必要||小笠原地区以外の全国||[[2017年]][[1月26日]]新規受付停止 |- |colspan="2"|[[KDDI]]||colspan="3"|0077||001||0077||rowspan="2"|不要||rowspan="2"|全国||[[PiPit]]を含む[[トヨタ自動車|全国のトヨタディーラー各店]]でも新規受付が可能 |- |rowspan="3"|[[ソフトバンク]]||ソフトバンク(旧:日本テレコム)||colspan="3"|0088||0041<br />↓<br />0061||0088||国際の0041は新規受付停止。現在は0061で受付 |-style="background-color:#C0C0C0" |旧:ケーブル・アンド・ワイヤレスIDC||×||colspan="2"|0061<br />↓<br />×||×||0061||rowspan="2"|必要||rowspan="2"|全国||新規受付停止。当番号は国際電話用へ転用 |-style="background-color:#C0C0C0" |旧:平成電電コミュニケーションズ||colspan="4"|0083||00847||新規受付停止 |- |rowspan="2"|[[楽天モバイル]]||楽天モバイル||colspan="5"|0038||必要||全国||県外をマイライン登録、あるいはマイラインプラス登録すると3分8.4円という他社よりも安い市内通話料金で利用可能 |-style="background-color:#C0C0C0" |東京電話||colspan="3"|0081||0082||0081||必要||関東地区と山梨県と静岡県富士川以東(離島を除く)||新規受付停止 |-style="background-color:#C0C0C0" |colspan="2"|[[九州通信ネットワーク|九州電話]]||colspan="3"|0086||×||0086||不要||離島と沖縄県を除く九州地区||PHSは2014年10月1日より対応<ref>{{Cite journal|url=http://www.qtnet.co.jp/denwa/0086_de_keitai.html|title= 0086deケータイ|journal=九州電話|date=}}</ref>。[[2018年]][[3月31日]]サービス終了 |- |colspan="2"|[[アルテリア・ネットワークス]]||colspan="5"|0060||必要||18都道府県<ref>北海道(札幌、千歳、夕張、栗山、芦別、滝川、岩見沢、当別、石狩、小樽、余市、岩内、倶知安、寿都、伊達、室蘭、苫小牧、早来、鵡川、門別富川、浦河、静内、えりも地域)、宮城県、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都(離島を除く)、神奈川県、愛知県、滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県、広島県、福岡県。</ref>||PHSは2013年11月1日より対応 |-style="background-color:#C0C0C0" |[[ドイツテレコム]]||[[T-モバイル|ティー・システムズ]]ジャパン||colspan="3"|×||0080||×||rowspan="2"|必要||rowspan="2"|全国||[[2015年]][[2月28日]]サービス終了 |} <small>※個人向け、音声通話モードの場合のみ考慮。法人向けやデータ通信モードについては料金が異なるなど各事業者に確認のこと。</small> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|3}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[Least Cost Routing]](LCR) == 外部リンク == * [http://www.myline.org/index.html マイライン事業者協議会] {{Electronics-stub}} {{デフォルトソート:まいらいん}} [[Category:電話料金]]
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日本国有鉄道
日本国有鉄道(にほんこくゆうてつどう、にっぽんこくゆうてつどう、英語: Japanese National Railways、英略称: JNR)は、日本国有鉄道法に基づき日本の国有鉄道を運営していた公共企業体である。通称は国鉄(こくてつ)。 経営形態は政府が100%出資する公社(特殊法人)であり、いわゆる三公社五現業の一つであった。職員は公共企業体労働関係法で規定される国家公務員である。 鉄道開業以来、国営事業として鉄道省などの政府官庁によって経営されていた国有鉄道事業を、独立採算制の公共事業として承継する国(運輸省)の外郭団体として1949年(昭和24年)6月1日に発足した。 1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、政府出資の株式会社(特殊会社)形態であるJRグループ各社及び関係法人に事業を承継し、日本国有鉄道清算事業団(1998年(平成10年)10月22日解散)に移行した。 日本国有鉄道は、国営事業として運輸省鉄道総局が国の「国有鉄道事業特別会計」によって行っていた国有鉄道事業およびその関連事業を引き継ぎ、国有鉄道を独立採算制の公共事業として経営することを目的に1949年(昭和24年)6月1日に発足した国の公共企業体である。 分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月31日時点で新幹線と在来線併せて総延長19,639キロメートルの鉄道路線を持ち、30局の鉄道管理局と総局で運営した。このほか鉄道に関連する船舶事業(航路延長132キロメートル)、自動車(バス)事業(路線延長11,739キロメートル)などを行っていた。 最高責任者である「総裁」は内閣が任命し、任期は4年間。次席の「副総裁」は運輸大臣の認可を受けて総裁が任命し、任期は4年間。さらに技術面で総裁を補佐する「技師長」が置かれた。このほかの役員として任期3年の理事(11人以上17人以下)を置き、このうち国鉄在職の理事を「常務理事」と呼んだ。一般企業の役員会に相当する「理事会」で国鉄内部の重要事項を決めた。 本社は東京都千代田区丸の内一丁目の国鉄本社ビル(現・丸の内オアゾ)に置かれた。旧館は旧鉄道省庁舎で、日本国有鉄道分離直後の運輸省も一時間借りしていた。分割民営化以降、国鉄本社ビルは東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の本社として、渋谷区代々木に移る1997年まで使用された。 資本金は約89億円。このうち49億円は公共企業体移行時に国有鉄道承継資産総額から国有鉄道事業特別会計の負債を差し引いた残額で、40億円は政府が対日援助見返り資金から出資したものだった。公共企業体化後は政府から追加出資が行われなかったため、設備投資は日本国有鉄道の自己資金と借入金で賄った。 職員数は1980年代までおおむね40万人台で推移したが、合理化により大幅に削減され、民営化直前の1986年(昭和61年)には27万7000人にまで減少した。このうち20万1000人がJRグループの各新会社に移行した。 国鉄を表すマークとしては工部省時代からの「工マーク」(1860年制定)、鉄道院時代からの「動輪マーク」(1909年制定)のほか、公募によって1958年に制定された「JNRマーク」があった。このうち「動輪マーク」は蒸気機関車の動輪をモチーフにしたもので、鉄道旗を始め制帽の帽章や制服の襟章等にもその意匠が用いられていた。 (特記ある場合を除いて1987年当時) 理事会の決定に基づいて各地の総局・鉄道管理局を総括的に管理した。本社部局として14局3部5室を置き、ほかに公安本部、総合人事委員会、監査委員会事務局を置いた。また付属機関として鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)、中央鉄道学園、在外事務所(ニューヨーク、パリ)など9機関を置いた。 1985年3月20日の組織改正で、本社部局の新幹線建設局が建設局に、工作局が車両局に、付属機関の車両設計事務所が車両局(設計課)にそれぞれ統合された。 鉄道管理局および総局が設けられ、地域ブロックの業務を管理し、本社の指示を現業機関に伝えるとともに、輸送関係業務の一部も行った。 地方単位で鉄道管理局を総括的に管轄する総局(北海道・九州・四国・新幹線)は、旧支社制度(1957年1月16日-1970年8月14日)を引き継いで、鉄道管理局間にまたがる業務を管理した。 1985年3月20日の組織改正で、駐在理事室(仙台・名古屋・大阪)は廃止、輸送計画室(東北・中部・関西)は仙台・名古屋・大阪の各鉄道管理局内に企画調整室と輸送計画室を新設して統合した。ほかに首都圏本部、東北・上越新幹線総合指令本部が置かれた。 鉄道管理局、地方部局、工場などは総局、輸送計画室などの下に置かれ、駅、車両基地などの現業機関を管理した。 地方機関である鉄道管理局および総局の下で実際に輸送業務に従事する機関で、全国鉄職員のおよそ85%が所属した。分割民営化時点で以下の47の現業機関が設けられ、全国30総局・鉄道管理局に合わせて約6300機関が存在した(1986年12月時点)。それぞれ駅長、区長、室長などをトップとし、その下に中間管理職の首席助役・助役、職種ごとの責任者として主任・職場長を置いた。 国鉄の予算案は運輸大臣に提出され、大蔵省との大臣折衝を経て閣議決定後、政府関係機関予算の一つとして国会に提出された。また自己資金、借入金、鉄道債券の発行で調達する「資金計画」を4半期ごとに定め、4半期開始日の20日前までに運輸大臣、大蔵大臣、会計検査院に提出することが義務付けられていた。 収入支出予算は損益勘定、資本勘定、工事勘定、特定債務整理特別勘定の4勘定が設けられた。 政府が運営していた日本の「国有鉄道」(当時の呼び名は省線)は、第二次世界大戦後、インフレーションに加え、復員兵や海外引揚者の雇用の受け皿となったため、運営を所管していた運輸省の1948年度国有鉄道事業特別会計は300億円の赤字となり、財政は極度に悪化した。労働争議が頻発する社会情勢の中、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官であったダグラス・マッカーサーは、国家公務員の争議を禁止する一方、国家権力の行使とは関係ない国の専売事業や国有鉄道などの国営事業を行う職員を非公務員化し、公務員より緩和した一定の労働権を許すことで効率的な事業経営を目指す、独立採算制の公共企業体 (Public Corporation) 設置を勧告する書簡を出した。 政府の国有鉄道事業を承継する政府出資の新法人「日本国有鉄道」の設立を定めた「日本国有鉄道法」は、1948年11月30日に国会を通過した。日本国有鉄道は1949年4月1日に発足する予定だったが、運輸省鉄道総局側の準備が遅れ、1949年6月1日にずれ込んだ。一般的には国鉄の発足は、行政官庁運営の国営事業から国出資の企業が運営する公共事業に移行しただけに過ぎず、ほとんど注目されなかった。 国鉄は発足後、ただちに職員9万5000人の人員整理に着手。それが引き金になったとされた国鉄三大ミステリー事件(下山事件・松川事件・三鷹事件)が発生するなど、労務政策面では大きな混乱が見られた。また経営面では、戦時設計の粗悪な車両や地上施設が原因となった「桜木町事故」などの重大事故が発生したが、一方で特別急行・急行の復活など輸送力の回復を強力に推進した。戦時体制のまま承継した地方機関の「鉄道局」「管理部」も再編し、鉄道局を地方支配人に、管理部を鉄道管理局にそれぞれ改組した。 また、1950年11月14日から15日にかけて、連合国軍最高司令官総司令部の指令に基づくレッドパージの通告が職員461人に対して行われた。 戦前の輸送水準を回復した国鉄は、1957年(昭和32年)からスタートさせた「第1次5カ年計画」に基づき、全国で老朽施設の更新や輸送力増強、動力近代化を推進した。1958年(昭和33年)には初の電車特急となる「こだま号」(151系電車)を登場させ、先頭部には民間からの公募で決めた「JNRマーク」と「特急マーク」を取り付けた。 1961年(昭和36年)には、「第2次5カ年計画」がスタートし投資規模を二千億円に引き上げられた。さらに東海道本線の輸送力増強策として1959年(昭和34年)に着工した東海道新幹線が東京オリンピックを前に1964年(昭和39年)に開業し、国鉄の象徴となった。 一方、この時期から高速道路や航空機との競合が激しさを増した。国鉄総裁の諮問機関である日本国有鉄道諮問委員会は1960年(昭和35年)、「国鉄の経営改善方法に関する意見書」を提出して、ローカル新線の建設など国の政策による過大な負担、終戦直後の過剰な雇用による人件費負担の増大、通勤通学定期・新聞雑誌・農林水産物への異常な割引が、国鉄経営に深刻な影響を与えると警告した。 以上の次第、これをつづめて云えば、昭和45年には、 というのが、上記試算に示された「国鉄のこれからの姿」なのである。... それは「完全破綻」以外の何ものでもないのである。 しかし政府は新設の日本鉄道建設公団で新線建設を強行し、何の対策も取らなかった結果、国鉄は1964(昭和39)年度に単年度収支で▲300億円の赤字となった。当初は繰り越し利益でカバーしたが、1966(昭和41)年度決算で完全に資本欠損に転落(▲536億円) 、それ以降一度も黒字を計上することはなかった。ただし単年度収支では旅客部門のみ1984年度以降黒字になった。 また総評系の国鉄労働組合(国労)と国鉄動力車労働組合(動労)、同盟系の鉄道労働組合(鉄労)の各大規模労組が、国内の労働運動や政治に一定の影響力を与え続けた。 「第2次5カ年計画」は国鉄の近代化に大きく貢献したものの、資金不足で1964年(昭和39年)に打ち切られ、新たに多額の借り入れによって輸送改善を推進する「第3次長期計画」に移行。俗に「ヨンサントオ」と呼ばれる1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正では、新性能電車などの大量投入を実現した。また高度経済成長に合わせて急速に増大した首都圏の通勤輸送に対応するため、「通勤五方面作戦」と称する輸送力増強計画も進められた。 しかし国鉄財政の一層の悪化を受けて第3次長期計画は同年で打ち切られ、職員削減、省力化などの合理化が本格的に始まった。国鉄諮問委員会は1968年(昭和43年)9月、経営体質の改善が急務として地方83線区(赤字83線)を廃止すべきとの意見書を提出し、国鉄は赤字ローカル線の整理に乗り出した。また同年11月には運輸大臣の諮問機関である国鉄財政再建推進会議も、経営合理化、近代的輸送方式の整備促進、市町村納付金の大幅削減などの具体策を盛り込んだ意見書を提出した。 政府は1969年(昭和44年)、日本国有鉄道財政再建特別措置法を成立させ、10年後の黒字転換を掲げる「財政再建10カ年計画」がスタートしたが、「日本列島改造」を掲げる第1次田中角栄内閣が発足すると、赤字83線の整理計画はわずか4年で打ち切られた。さらに田中内閣は日本鉄道建設公団によるローカル新線建設を継続。貨物輸送の落ち込みと人件費の増大なども重なり、10カ年計画は再三行き詰まって見直しを余儀なくされた。 この時期、国鉄の労使関係は合理化の強化と政治要素が絡んで極度に悪化した。国鉄当局が進めた生産性向上運動(マル生運動)に伴って発生した労働組合に対する不当労働行為問題は、1980年代にかけて現場の混乱と規律低下を招いた。ストライキも頻発し、ダイヤ改正が延期されたり、乗客による暴動(上尾事件・首都圏国電暴動)に発展した事件もあった。1975年(昭和50年)に国労と動労が行った大規模な「スト権奪還ストライキ」は、モータリゼーションの発展で国鉄のシェア低下が進んでいた事に加え、すでに発達していた国鉄以外の公共交通機関や貨物輸送が十分に機能したため、日本全体に悪影響を及ぼすことなく収束。労働組合側の弱体化を招く結果となった。 1978年(昭和53年)、運賃法定制の緩和で国会審議を経ずに運賃改定が可能になると、大蔵省の圧力で運賃を毎年値上げせざるを得なくなり、利用客減に拍車がかかった。1980年(昭和55年)11月には、5年間で経営基盤を確立するなどとした日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(日本国有鉄道再建法)が成立した。再建法には日本鉄道建設公団による地方路線建設の凍結、輸送密度に応じた幹線・地方交通線の区分とそれに基づく複数運賃制度の導入、輸送密度の低い特定地方交通線の国鉄からの経営分離が盛り込まれた。 しかし1981年(昭和56年)から1982年(昭和57年)にかけて、政府の第二次臨時行政調査会(臨調)で進む国鉄問題審議に歩調を合わせ、かねてから国民から大きな反発を受けていたストライキの連発に重ねて、ヤミ手当やヤミ超勤、職場での飲酒行為など現場の悪慣行が次々とマスメディアにスクープされ、国鉄全体が世論から集中砲火を浴びた。 臨調は1982年(昭和57年)7月の基本答申で、5年以内に本州4ブロック程度と北海道、四国、九州に国鉄を分割して民間会社に移行すべきとの方針を示した。政府は「国鉄緊急事態宣言」を出して新規採用の原則停止、職員数削減などを推進。1983年(昭和58年)には国鉄再建監理委員会が発足して民営化に向けた作業が始まった。国鉄側は1985年(昭和60年)1月10日、「非分割民営化」を盛り込んだ独自の再建案を監理委員会に提出したが支持を得られず、仁杉巌総裁は解任された。 後任の杉浦喬也総裁は、常務理事ら幹部を大幅に入れ替えて6分割民営化を基本とする答申を提出し、各地に「地区経営改革実施準備室」を設置して民営化に向けた作業を開始した。1986年(昭和61年)には国労とともに分割民営化に反対していた動労が、同年の衆参同時選挙で自民党が圧勝し、分割民営化が事実上確定したことから「協力して組合員の雇用を守る」と容認に転換。1986年(昭和61年)11月に国鉄分割民営化関連法案が成立し、1987年(昭和62年)4月1日にJRグループが発足(→国鉄分割民営化)した。 国鉄の経営状況は、単年度の営業収支では旅客部門に限って1984(昭和59)年度に黒字化した。そして、国鉄最終年度である1986(昭和61)年度の旅客部門の単年度の営業収支は3,663億円の営業利益を計上したが、貨物部門は依然として大幅な赤字を計上していた。また、累積債務は37兆円を超え、長期債務の支払い利子だけで年1兆円を超えるなど、営業外費用が営業利益を上回って増大する状況が続いた。これについては国は抜本的な対策を講じないまま、長期債務の大部分を日本国有鉄道清算事業団(国鉄清算事業団)に切り離す形で問題解決を「先送り」にした結果、のちの債務償還計画破綻につながった。 1986年(昭和61年)11月28日の参議院本会議で、日本国有鉄道改革法など国鉄分割民営化関連8法案は自民党などの賛成多数で成立した。これを受け国鉄は12月3日付で、本社内に採用職員や新会社の経営組織・体制を決定する以下の「設立準備室」および「移行準備室」を設置(かっこ内は室長。役職名は国鉄→新法人の順)。これらの準備室が事実上新会社の母体となった。また各準備室を統括する国鉄本社新会社設立委員会(設立委員長・斎藤英四郎経団連会長)が設けられ、12月11日に初会合が開催された。 12月9日には分割民営化の新会社第1号となる鉄道通信株式会社と鉄道情報システム株式会社の創立総会が国鉄本社で開催された。12月15日には旅客、列車、業務の本社各指令を廃止し、北海道総局、首都圏本部、名古屋鉄道管理局、大阪鉄道管理局、四国総局、九州総局の6局にそれぞれ「本社指令」を設置。全国一元の指令体制が消滅した。また国鉄本社は、政府・自民党の示したガイドラインに基づき、新法人が引き継ぐすべての事業、資産、債務の割り振りを定める「承継実施計画」の作成を開始した。 新会社設立委員会は21万5,000人を採用する基本計画をまとめ、12月24日から「配属先希望調査表」を職員に配布。1987年(昭和62年)1月7日の期限までに22万7600人が提出した。新会社への就職希望者は21万9130人で、1月18日までに公安部門転出者を含む3万1476人が退職希望を明らかにした。2月2日には鉄労、動労など労使協調路線の組合で構成する全日本鉄道労働組合総連合会(鉄道労連)が発足した。設立委員会は20万4126人の採用を内定し、2月16日から採用通知書の交付を開始した。通知後の辞退者が多く、清算事業団を除いた11法人がすべて定員割れとなったが、欠員の補充採用は民営化後に各社が行うこととされた。 新会社移行に向けた職員の大規模異動は2月14日付の管理職異動から始まった。14日付の異動対象は本社および総局・鉄道管理局の幹部職員、現場管理職の合わせて8,400人(うち3,200人が退職)で、国鉄本社からは幹部職員の約3割が管理局などに転出した。2月17日には橋本龍太郎運輸大臣が新会社首脳人事を発表(全役員人事は3月17日発表)。新会社の経営陣には財界人や運輸省元幹部らが加わったが、7社全役員の約6割にあたる62人は常務理事や本社局長など、横滑りした国鉄幹部が占めた。 職員の大規模異動が終盤を迎え、民営化を1カ月後に控えた3月1日から、全国の現業機関は各設立準備室が決定した新会社の運営体制に合わせた業務体制に移行した。同時に新会社の営業エリアに合わせて全国14路線で管理局界の変更が行われた。作成作業が進められていた承継実施計画は3月4日に国鉄本社から運輸省に提出され、各法人が承継する路線および車両、施設、債務額などが確定した。3月16日には一般職員に対し、新会社の所属部署や職名の通知書が交付された。3月23日から3月25日にかけて新会社各社の創立総会が相次いで開催され、4月1日午前0時から各新会社による運営に移行した。 分割民営化によって処理すべき債務は、最終の国鉄長期債務25兆0600億円のほか、日本鉄道建設公団債務および本州四国連絡橋公団債務の国鉄負担分、北海道・四国・九州の各新会社に対する経営安定化基金原資を合わせた31兆4500億円に上った。さらに民営化にともなう年金負担などの将来費用5兆6600億円を加えた37兆1100億円について、国鉄清算事業団と新幹線鉄道保有機構、新会社6社(JR東日本、JR東海、JR西日本、JR貨物、鉄道通信、鉄道情報システム)が承継した。このうち新会社が5兆9300億円、新幹線鉄道保有機構が5兆6300億円を引き継ぎ、残る6割に相当する25兆5200億円について、国鉄清算事業団が引き継いだ。 国鉄清算事業団承継の長期債務償還には、清算事業団に移管された不要の旧国鉄用地の売却益(見込み額7兆7000億円)、JR株式の売却益など(同1兆1,600億円)、新幹線鉄道保有機構からの貸付金収入(同2兆8,800億円)を充てるとしていたが、当初から13兆7,700億円は財源不足として国民負担とする計画だった。 巨額の債務に対し毎年約1兆円の支払い利息が発生したため、政府は1987年(昭和62年)から年間数百億 - 2,000億円程度の利子支払い補助金を拠出したが、株式市場の低迷および土地価格の下落で、バブル景気時の見込みはもとより、民営化以前から問題となっていた支払い利息分を超える収入すら得ることができずに毎年多額の損失を計上。さらに借り換え資金の調達額の増加に伴う新たな利払いも増えたために、1996(平成8)年度には1日あたり24億円の支払い利息が新たに発生する状況に陥った。 このため、元本の処理すらできないまま債務総額は28兆3,000億円に膨張して償還スキームは事実上破綻し、国鉄清算事業団は1998年(平成10年)に解散した。 結局、償還不能となった債務のうち、政府保証付債務24兆2,000億円は、1986年(昭和61年)および1988年(昭和63年)の閣議決定に基づいて1998(平成10)年度の国の一般会計に繰り込まれ、郵便貯金特別会計からの特別繰り入れ(2002年度まで)、たばこ特別税収、一般会計国債費などを財源とした、国民負担による債務処理が現在も継続中である。 各年度末における政府保証付国鉄長期債務残高の推移の概要は次の通りである。 いっぽう、年金等負担分4兆1,000億円については国鉄清算事業団の土地、株式などの資産を承継した日本鉄道建設公団が、特例業務として資産売却収入と国庫補助金で負担することになった。のち2003年(平成15年)の日本鉄道建設公団の独立行政法人化に伴い、現在は独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が負担を継続している。 日本国有鉄道職員局労働課によれば、労働組合の組合員数は以下の通り。 国鉄またはその関連組織が行っていた鉄道事業以外の事業を下記に挙げる。 国鉄の代行・先行・短絡・培養・補完の役割を掲げ、乗合・貸切旅客自動車事業および貨物自動車事業を行った。国鉄分割民営化時には、地方自動車局(自動車部、自動車管理室)ごとにその地域を管轄する旅客鉄道会社に承継された後、分社化された。 水域によって隔絶された路線を連絡するため、鉄道連絡船を運航した。青函、宇高、宮島、仁堀、大島、関門の6航路が存在し、仁堀、大島、関門の3航路は国鉄時代に廃止、他の3航路はそれぞれJR北海道、JR四国、JR西日本が承継した。 大正時代半ばから国鉄職員を対象とした医療施設として鉄道病院が順次開設され、日本国有鉄道発足時に国鉄管轄の病院となった。国鉄末期の1982年から1987年にかけて順次保険医療機関の指定を受けて一般の患者も受け入れ可能になった。また機関区・保線区などが併設されている駅構内に鉄道診療所が設けられていることがあった。 1950年から1965年まで、プロ野球球団「国鉄スワローズ」が存在した。現在の東京ヤクルトスワローズの前身にあたる。発足したばかりの日本国有鉄道職員の意識高揚を目的に第2代加賀山総裁が設立に尽力。国鉄法の規制から、国鉄の外郭団体として設立された「国鉄野球株式会社」がチームを保有した。日本野球機構に加盟し、セントラル・リーグに所属していた。チーム名は、球団発足当時の特急の一つであった「つばめ」にちなんでいる。 運輸省時代の1947年に創設。日本国有鉄道発足に合わせて制度が確立された。身分は国鉄職員で、国鉄の鉄道敷地内及び列車内における犯罪や、国鉄の運輸業務に対する犯罪を捜査する権限を持っていた。国鉄分割民営化で廃止され、警視庁及び各道府県警察本部の鉄道警察隊に改組編入された。 国鉄共済組合は、国鉄職員および退職者を対象に長期給付事業(年金)、短期給付事業(医療給付)を行った共済組合。1907年に帝国鉄道庁職員救済組合として発足し、その後の官制改正による国鉄所管官庁の改編にともない、鉄道院職員救済組合(1908年-1918年)、鉄道院共済組合(1918年-1920年)、国有鉄道共済組合(1920年-1948年)と改称。国家公務員共済組合法(旧法)施行にともなって1948年7月に国鉄共済組合に改称した。その後公共企業体職員等共済組合法(廃止、1956年施行)、国家公務員等共済組合法(1984年施行)の適用を受けた。 国鉄共済組合は給付事業のほか、共済組合員である国鉄職員向けの保健事業、貯蓄・貸付事業、物資事業、住宅・宅地分譲事業を取り扱った。また全国で旅館業態の「保養所」70か所、ホテル業態の「弥生会館」9か所(いずれも1986年現在)を経営した。 このうち、国鉄職員とその家庭に生活物資を供給する「物資事業」を行う国鉄共済組合物資部は「国鉄物資部」と通称され、国鉄の拠点駅や乗務員・車両基地の構内、職員アパートなどで職員向けの小売店(購買部・配給所)や食堂(食堂部)などを運営した。国有鉄道共済組合時代の1944年に、物資不足に対応するため物資部が本省部局や鉄道局単位に運営分離された形態を受け継ぎ、国鉄共済組合においても物資部は本社部局および支社、各鉄道管理局ごとに設けられた「支部」単位で運営された。 物資部の各店舗は共済組合員である職員や家族などの関係者に限った利用を建前としていたが、実際には一般客の利用も可能であった。また1950年代以降の国内小売業界におけるスーパーマーケット業態の急速な普及を受け、物資部でも1960年代から70年代にかけて、一般客の利用が見込める主要駅等の購買部や配給所を構外に設け、「国鉄ストア」の商号を用いてスーパーマーケットに転換する経営近代化策を全国各地で進めた。このほか、地域の企業・商店が「国鉄物資部指定店」として物資部と契約を結び、国鉄職員に対し共済組合員価格で商品を販売した。 日本国有鉄道改革法等施行法に基づき、1987年4月に旧国鉄職員とJR各社の社員および退職者を対象とする「日本鉄道共済組合」に改称。のち旧3公社共済組合の厚生年金統合で、1997年4月に長期給付事業を社会保険庁所管の厚生年金に、短期給付および保健事業を新設の「ジェイアールグループ健康保険組合」にそれぞれ引き継ぎ、その他の事業は廃止またはJR系列企業などに事業譲渡した。現在は厚生年金統合の対象期間外にあたる1956年6月以前の年金事業のみを行っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道(にほんこくゆうてつどう、にっぽんこくゆうてつどう、英語: Japanese National Railways、英略称: JNR)は、日本国有鉄道法に基づき日本の国有鉄道を運営していた公共企業体である。通称は国鉄(こくてつ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "経営形態は政府が100%出資する公社(特殊法人)であり、いわゆる三公社五現業の一つであった。職員は公共企業体労働関係法で規定される国家公務員である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "鉄道開業以来、国営事業として鉄道省などの政府官庁によって経営されていた国有鉄道事業を、独立採算制の公共事業として承継する国(運輸省)の外郭団体として1949年(昭和24年)6月1日に発足した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、政府出資の株式会社(特殊会社)形態であるJRグループ各社及び関係法人に事業を承継し、日本国有鉄道清算事業団(1998年(平成10年)10月22日解散)に移行した。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道は、国営事業として運輸省鉄道総局が国の「国有鉄道事業特別会計」によって行っていた国有鉄道事業およびその関連事業を引き継ぎ、国有鉄道を独立採算制の公共事業として経営することを目的に1949年(昭和24年)6月1日に発足した国の公共企業体である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月31日時点で新幹線と在来線併せて総延長19,639キロメートルの鉄道路線を持ち、30局の鉄道管理局と総局で運営した。このほか鉄道に関連する船舶事業(航路延長132キロメートル)、自動車(バス)事業(路線延長11,739キロメートル)などを行っていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最高責任者である「総裁」は内閣が任命し、任期は4年間。次席の「副総裁」は運輸大臣の認可を受けて総裁が任命し、任期は4年間。さらに技術面で総裁を補佐する「技師長」が置かれた。このほかの役員として任期3年の理事(11人以上17人以下)を置き、このうち国鉄在職の理事を「常務理事」と呼んだ。一般企業の役員会に相当する「理事会」で国鉄内部の重要事項を決めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本社は東京都千代田区丸の内一丁目の国鉄本社ビル(現・丸の内オアゾ)に置かれた。旧館は旧鉄道省庁舎で、日本国有鉄道分離直後の運輸省も一時間借りしていた。分割民営化以降、国鉄本社ビルは東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の本社として、渋谷区代々木に移る1997年まで使用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "資本金は約89億円。このうち49億円は公共企業体移行時に国有鉄道承継資産総額から国有鉄道事業特別会計の負債を差し引いた残額で、40億円は政府が対日援助見返り資金から出資したものだった。公共企業体化後は政府から追加出資が行われなかったため、設備投資は日本国有鉄道の自己資金と借入金で賄った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "職員数は1980年代までおおむね40万人台で推移したが、合理化により大幅に削減され、民営化直前の1986年(昭和61年)には27万7000人にまで減少した。このうち20万1000人がJRグループの各新会社に移行した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "国鉄を表すマークとしては工部省時代からの「工マーク」(1860年制定)、鉄道院時代からの「動輪マーク」(1909年制定)のほか、公募によって1958年に制定された「JNRマーク」があった。このうち「動輪マーク」は蒸気機関車の動輪をモチーフにしたもので、鉄道旗を始め制帽の帽章や制服の襟章等にもその意匠が用いられていた。", "title": "シンボルマーク" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "(特記ある場合を除いて1987年当時)", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "理事会の決定に基づいて各地の総局・鉄道管理局を総括的に管理した。本社部局として14局3部5室を置き、ほかに公安本部、総合人事委員会、監査委員会事務局を置いた。また付属機関として鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)、中央鉄道学園、在外事務所(ニューヨーク、パリ)など9機関を置いた。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1985年3月20日の組織改正で、本社部局の新幹線建設局が建設局に、工作局が車両局に、付属機関の車両設計事務所が車両局(設計課)にそれぞれ統合された。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "鉄道管理局および総局が設けられ、地域ブロックの業務を管理し、本社の指示を現業機関に伝えるとともに、輸送関係業務の一部も行った。 地方単位で鉄道管理局を総括的に管轄する総局(北海道・九州・四国・新幹線)は、旧支社制度(1957年1月16日-1970年8月14日)を引き継いで、鉄道管理局間にまたがる業務を管理した。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1985年3月20日の組織改正で、駐在理事室(仙台・名古屋・大阪)は廃止、輸送計画室(東北・中部・関西)は仙台・名古屋・大阪の各鉄道管理局内に企画調整室と輸送計画室を新設して統合した。ほかに首都圏本部、東北・上越新幹線総合指令本部が置かれた。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "鉄道管理局、地方部局、工場などは総局、輸送計画室などの下に置かれ、駅、車両基地などの現業機関を管理した。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "地方機関である鉄道管理局および総局の下で実際に輸送業務に従事する機関で、全国鉄職員のおよそ85%が所属した。分割民営化時点で以下の47の現業機関が設けられ、全国30総局・鉄道管理局に合わせて約6300機関が存在した(1986年12月時点)。それぞれ駅長、区長、室長などをトップとし、その下に中間管理職の首席助役・助役、職種ごとの責任者として主任・職場長を置いた。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "国鉄の予算案は運輸大臣に提出され、大蔵省との大臣折衝を経て閣議決定後、政府関係機関予算の一つとして国会に提出された。また自己資金、借入金、鉄道債券の発行で調達する「資金計画」を4半期ごとに定め、4半期開始日の20日前までに運輸大臣、大蔵大臣、会計検査院に提出することが義務付けられていた。", "title": "予算" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "収入支出予算は損益勘定、資本勘定、工事勘定、特定債務整理特別勘定の4勘定が設けられた。", "title": "予算" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "政府が運営していた日本の「国有鉄道」(当時の呼び名は省線)は、第二次世界大戦後、インフレーションに加え、復員兵や海外引揚者の雇用の受け皿となったため、運営を所管していた運輸省の1948年度国有鉄道事業特別会計は300億円の赤字となり、財政は極度に悪化した。労働争議が頻発する社会情勢の中、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官であったダグラス・マッカーサーは、国家公務員の争議を禁止する一方、国家権力の行使とは関係ない国の専売事業や国有鉄道などの国営事業を行う職員を非公務員化し、公務員より緩和した一定の労働権を許すことで効率的な事業経営を目指す、独立採算制の公共企業体 (Public Corporation) 設置を勧告する書簡を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "政府の国有鉄道事業を承継する政府出資の新法人「日本国有鉄道」の設立を定めた「日本国有鉄道法」は、1948年11月30日に国会を通過した。日本国有鉄道は1949年4月1日に発足する予定だったが、運輸省鉄道総局側の準備が遅れ、1949年6月1日にずれ込んだ。一般的には国鉄の発足は、行政官庁運営の国営事業から国出資の企業が運営する公共事業に移行しただけに過ぎず、ほとんど注目されなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "国鉄は発足後、ただちに職員9万5000人の人員整理に着手。それが引き金になったとされた国鉄三大ミステリー事件(下山事件・松川事件・三鷹事件)が発生するなど、労務政策面では大きな混乱が見られた。また経営面では、戦時設計の粗悪な車両や地上施設が原因となった「桜木町事故」などの重大事故が発生したが、一方で特別急行・急行の復活など輸送力の回復を強力に推進した。戦時体制のまま承継した地方機関の「鉄道局」「管理部」も再編し、鉄道局を地方支配人に、管理部を鉄道管理局にそれぞれ改組した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、1950年11月14日から15日にかけて、連合国軍最高司令官総司令部の指令に基づくレッドパージの通告が職員461人に対して行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "戦前の輸送水準を回復した国鉄は、1957年(昭和32年)からスタートさせた「第1次5カ年計画」に基づき、全国で老朽施設の更新や輸送力増強、動力近代化を推進した。1958年(昭和33年)には初の電車特急となる「こだま号」(151系電車)を登場させ、先頭部には民間からの公募で決めた「JNRマーク」と「特急マーク」を取り付けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1961年(昭和36年)には、「第2次5カ年計画」がスタートし投資規模を二千億円に引き上げられた。さらに東海道本線の輸送力増強策として1959年(昭和34年)に着工した東海道新幹線が東京オリンピックを前に1964年(昭和39年)に開業し、国鉄の象徴となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方、この時期から高速道路や航空機との競合が激しさを増した。国鉄総裁の諮問機関である日本国有鉄道諮問委員会は1960年(昭和35年)、「国鉄の経営改善方法に関する意見書」を提出して、ローカル新線の建設など国の政策による過大な負担、終戦直後の過剰な雇用による人件費負担の増大、通勤通学定期・新聞雑誌・農林水産物への異常な割引が、国鉄経営に深刻な影響を与えると警告した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以上の次第、これをつづめて云えば、昭和45年には、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "というのが、上記試算に示された「国鉄のこれからの姿」なのである。... それは「完全破綻」以外の何ものでもないのである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "しかし政府は新設の日本鉄道建設公団で新線建設を強行し、何の対策も取らなかった結果、国鉄は1964(昭和39)年度に単年度収支で▲300億円の赤字となった。当初は繰り越し利益でカバーしたが、1966(昭和41)年度決算で完全に資本欠損に転落(▲536億円) 、それ以降一度も黒字を計上することはなかった。ただし単年度収支では旅客部門のみ1984年度以降黒字になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また総評系の国鉄労働組合(国労)と国鉄動力車労働組合(動労)、同盟系の鉄道労働組合(鉄労)の各大規模労組が、国内の労働運動や政治に一定の影響力を与え続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "「第2次5カ年計画」は国鉄の近代化に大きく貢献したものの、資金不足で1964年(昭和39年)に打ち切られ、新たに多額の借り入れによって輸送改善を推進する「第3次長期計画」に移行。俗に「ヨンサントオ」と呼ばれる1968年(昭和43年)10月のダイヤ改正では、新性能電車などの大量投入を実現した。また高度経済成長に合わせて急速に増大した首都圏の通勤輸送に対応するため、「通勤五方面作戦」と称する輸送力増強計画も進められた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しかし国鉄財政の一層の悪化を受けて第3次長期計画は同年で打ち切られ、職員削減、省力化などの合理化が本格的に始まった。国鉄諮問委員会は1968年(昭和43年)9月、経営体質の改善が急務として地方83線区(赤字83線)を廃止すべきとの意見書を提出し、国鉄は赤字ローカル線の整理に乗り出した。また同年11月には運輸大臣の諮問機関である国鉄財政再建推進会議も、経営合理化、近代的輸送方式の整備促進、市町村納付金の大幅削減などの具体策を盛り込んだ意見書を提出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "政府は1969年(昭和44年)、日本国有鉄道財政再建特別措置法を成立させ、10年後の黒字転換を掲げる「財政再建10カ年計画」がスタートしたが、「日本列島改造」を掲げる第1次田中角栄内閣が発足すると、赤字83線の整理計画はわずか4年で打ち切られた。さらに田中内閣は日本鉄道建設公団によるローカル新線建設を継続。貨物輸送の落ち込みと人件費の増大なども重なり、10カ年計画は再三行き詰まって見直しを余儀なくされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "この時期、国鉄の労使関係は合理化の強化と政治要素が絡んで極度に悪化した。国鉄当局が進めた生産性向上運動(マル生運動)に伴って発生した労働組合に対する不当労働行為問題は、1980年代にかけて現場の混乱と規律低下を招いた。ストライキも頻発し、ダイヤ改正が延期されたり、乗客による暴動(上尾事件・首都圏国電暴動)に発展した事件もあった。1975年(昭和50年)に国労と動労が行った大規模な「スト権奪還ストライキ」は、モータリゼーションの発展で国鉄のシェア低下が進んでいた事に加え、すでに発達していた国鉄以外の公共交通機関や貨物輸送が十分に機能したため、日本全体に悪影響を及ぼすことなく収束。労働組合側の弱体化を招く結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1978年(昭和53年)、運賃法定制の緩和で国会審議を経ずに運賃改定が可能になると、大蔵省の圧力で運賃を毎年値上げせざるを得なくなり、利用客減に拍車がかかった。1980年(昭和55年)11月には、5年間で経営基盤を確立するなどとした日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(日本国有鉄道再建法)が成立した。再建法には日本鉄道建設公団による地方路線建設の凍結、輸送密度に応じた幹線・地方交通線の区分とそれに基づく複数運賃制度の導入、輸送密度の低い特定地方交通線の国鉄からの経営分離が盛り込まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし1981年(昭和56年)から1982年(昭和57年)にかけて、政府の第二次臨時行政調査会(臨調)で進む国鉄問題審議に歩調を合わせ、かねてから国民から大きな反発を受けていたストライキの連発に重ねて、ヤミ手当やヤミ超勤、職場での飲酒行為など現場の悪慣行が次々とマスメディアにスクープされ、国鉄全体が世論から集中砲火を浴びた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "臨調は1982年(昭和57年)7月の基本答申で、5年以内に本州4ブロック程度と北海道、四国、九州に国鉄を分割して民間会社に移行すべきとの方針を示した。政府は「国鉄緊急事態宣言」を出して新規採用の原則停止、職員数削減などを推進。1983年(昭和58年)には国鉄再建監理委員会が発足して民営化に向けた作業が始まった。国鉄側は1985年(昭和60年)1月10日、「非分割民営化」を盛り込んだ独自の再建案を監理委員会に提出したが支持を得られず、仁杉巌総裁は解任された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "後任の杉浦喬也総裁は、常務理事ら幹部を大幅に入れ替えて6分割民営化を基本とする答申を提出し、各地に「地区経営改革実施準備室」を設置して民営化に向けた作業を開始した。1986年(昭和61年)には国労とともに分割民営化に反対していた動労が、同年の衆参同時選挙で自民党が圧勝し、分割民営化が事実上確定したことから「協力して組合員の雇用を守る」と容認に転換。1986年(昭和61年)11月に国鉄分割民営化関連法案が成立し、1987年(昭和62年)4月1日にJRグループが発足(→国鉄分割民営化)した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "国鉄の経営状況は、単年度の営業収支では旅客部門に限って1984(昭和59)年度に黒字化した。そして、国鉄最終年度である1986(昭和61)年度の旅客部門の単年度の営業収支は3,663億円の営業利益を計上したが、貨物部門は依然として大幅な赤字を計上していた。また、累積債務は37兆円を超え、長期債務の支払い利子だけで年1兆円を超えるなど、営業外費用が営業利益を上回って増大する状況が続いた。これについては国は抜本的な対策を講じないまま、長期債務の大部分を日本国有鉄道清算事業団(国鉄清算事業団)に切り離す形で問題解決を「先送り」にした結果、のちの債務償還計画破綻につながった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1986年(昭和61年)11月28日の参議院本会議で、日本国有鉄道改革法など国鉄分割民営化関連8法案は自民党などの賛成多数で成立した。これを受け国鉄は12月3日付で、本社内に採用職員や新会社の経営組織・体制を決定する以下の「設立準備室」および「移行準備室」を設置(かっこ内は室長。役職名は国鉄→新法人の順)。これらの準備室が事実上新会社の母体となった。また各準備室を統括する国鉄本社新会社設立委員会(設立委員長・斎藤英四郎経団連会長)が設けられ、12月11日に初会合が開催された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "12月9日には分割民営化の新会社第1号となる鉄道通信株式会社と鉄道情報システム株式会社の創立総会が国鉄本社で開催された。12月15日には旅客、列車、業務の本社各指令を廃止し、北海道総局、首都圏本部、名古屋鉄道管理局、大阪鉄道管理局、四国総局、九州総局の6局にそれぞれ「本社指令」を設置。全国一元の指令体制が消滅した。また国鉄本社は、政府・自民党の示したガイドラインに基づき、新法人が引き継ぐすべての事業、資産、債務の割り振りを定める「承継実施計画」の作成を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "新会社設立委員会は21万5,000人を採用する基本計画をまとめ、12月24日から「配属先希望調査表」を職員に配布。1987年(昭和62年)1月7日の期限までに22万7600人が提出した。新会社への就職希望者は21万9130人で、1月18日までに公安部門転出者を含む3万1476人が退職希望を明らかにした。2月2日には鉄労、動労など労使協調路線の組合で構成する全日本鉄道労働組合総連合会(鉄道労連)が発足した。設立委員会は20万4126人の採用を内定し、2月16日から採用通知書の交付を開始した。通知後の辞退者が多く、清算事業団を除いた11法人がすべて定員割れとなったが、欠員の補充採用は民営化後に各社が行うこととされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "新会社移行に向けた職員の大規模異動は2月14日付の管理職異動から始まった。14日付の異動対象は本社および総局・鉄道管理局の幹部職員、現場管理職の合わせて8,400人(うち3,200人が退職)で、国鉄本社からは幹部職員の約3割が管理局などに転出した。2月17日には橋本龍太郎運輸大臣が新会社首脳人事を発表(全役員人事は3月17日発表)。新会社の経営陣には財界人や運輸省元幹部らが加わったが、7社全役員の約6割にあたる62人は常務理事や本社局長など、横滑りした国鉄幹部が占めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "職員の大規模異動が終盤を迎え、民営化を1カ月後に控えた3月1日から、全国の現業機関は各設立準備室が決定した新会社の運営体制に合わせた業務体制に移行した。同時に新会社の営業エリアに合わせて全国14路線で管理局界の変更が行われた。作成作業が進められていた承継実施計画は3月4日に国鉄本社から運輸省に提出され、各法人が承継する路線および車両、施設、債務額などが確定した。3月16日には一般職員に対し、新会社の所属部署や職名の通知書が交付された。3月23日から3月25日にかけて新会社各社の創立総会が相次いで開催され、4月1日午前0時から各新会社による運営に移行した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "分割民営化によって処理すべき債務は、最終の国鉄長期債務25兆0600億円のほか、日本鉄道建設公団債務および本州四国連絡橋公団債務の国鉄負担分、北海道・四国・九州の各新会社に対する経営安定化基金原資を合わせた31兆4500億円に上った。さらに民営化にともなう年金負担などの将来費用5兆6600億円を加えた37兆1100億円について、国鉄清算事業団と新幹線鉄道保有機構、新会社6社(JR東日本、JR東海、JR西日本、JR貨物、鉄道通信、鉄道情報システム)が承継した。このうち新会社が5兆9300億円、新幹線鉄道保有機構が5兆6300億円を引き継ぎ、残る6割に相当する25兆5200億円について、国鉄清算事業団が引き継いだ。", "title": "長期債務償還とその破綻" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "国鉄清算事業団承継の長期債務償還には、清算事業団に移管された不要の旧国鉄用地の売却益(見込み額7兆7000億円)、JR株式の売却益など(同1兆1,600億円)、新幹線鉄道保有機構からの貸付金収入(同2兆8,800億円)を充てるとしていたが、当初から13兆7,700億円は財源不足として国民負担とする計画だった。", "title": "長期債務償還とその破綻" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "巨額の債務に対し毎年約1兆円の支払い利息が発生したため、政府は1987年(昭和62年)から年間数百億 - 2,000億円程度の利子支払い補助金を拠出したが、株式市場の低迷および土地価格の下落で、バブル景気時の見込みはもとより、民営化以前から問題となっていた支払い利息分を超える収入すら得ることができずに毎年多額の損失を計上。さらに借り換え資金の調達額の増加に伴う新たな利払いも増えたために、1996(平成8)年度には1日あたり24億円の支払い利息が新たに発生する状況に陥った。", "title": "長期債務償還とその破綻" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "このため、元本の処理すらできないまま債務総額は28兆3,000億円に膨張して償還スキームは事実上破綻し、国鉄清算事業団は1998年(平成10年)に解散した。", "title": "長期債務償還とその破綻" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "結局、償還不能となった債務のうち、政府保証付債務24兆2,000億円は、1986年(昭和61年)および1988年(昭和63年)の閣議決定に基づいて1998(平成10)年度の国の一般会計に繰り込まれ、郵便貯金特別会計からの特別繰り入れ(2002年度まで)、たばこ特別税収、一般会計国債費などを財源とした、国民負担による債務処理が現在も継続中である。", "title": "長期債務償還とその破綻" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "各年度末における政府保証付国鉄長期債務残高の推移の概要は次の通りである。", "title": "長期債務償還とその破綻" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "いっぽう、年金等負担分4兆1,000億円については国鉄清算事業団の土地、株式などの資産を承継した日本鉄道建設公団が、特例業務として資産売却収入と国庫補助金で負担することになった。のち2003年(平成15年)の日本鉄道建設公団の独立行政法人化に伴い、現在は独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が負担を継続している。", "title": "長期債務償還とその破綻" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道職員局労働課によれば、労働組合の組合員数は以下の通り。", "title": "労働組合" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "国鉄またはその関連組織が行っていた鉄道事業以外の事業を下記に挙げる。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "国鉄の代行・先行・短絡・培養・補完の役割を掲げ、乗合・貸切旅客自動車事業および貨物自動車事業を行った。国鉄分割民営化時には、地方自動車局(自動車部、自動車管理室)ごとにその地域を管轄する旅客鉄道会社に承継された後、分社化された。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "水域によって隔絶された路線を連絡するため、鉄道連絡船を運航した。青函、宇高、宮島、仁堀、大島、関門の6航路が存在し、仁堀、大島、関門の3航路は国鉄時代に廃止、他の3航路はそれぞれJR北海道、JR四国、JR西日本が承継した。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "大正時代半ばから国鉄職員を対象とした医療施設として鉄道病院が順次開設され、日本国有鉄道発足時に国鉄管轄の病院となった。国鉄末期の1982年から1987年にかけて順次保険医療機関の指定を受けて一般の患者も受け入れ可能になった。また機関区・保線区などが併設されている駅構内に鉄道診療所が設けられていることがあった。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1950年から1965年まで、プロ野球球団「国鉄スワローズ」が存在した。現在の東京ヤクルトスワローズの前身にあたる。発足したばかりの日本国有鉄道職員の意識高揚を目的に第2代加賀山総裁が設立に尽力。国鉄法の規制から、国鉄の外郭団体として設立された「国鉄野球株式会社」がチームを保有した。日本野球機構に加盟し、セントラル・リーグに所属していた。チーム名は、球団発足当時の特急の一つであった「つばめ」にちなんでいる。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "運輸省時代の1947年に創設。日本国有鉄道発足に合わせて制度が確立された。身分は国鉄職員で、国鉄の鉄道敷地内及び列車内における犯罪や、国鉄の運輸業務に対する犯罪を捜査する権限を持っていた。国鉄分割民営化で廃止され、警視庁及び各道府県警察本部の鉄道警察隊に改組編入された。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "国鉄共済組合は、国鉄職員および退職者を対象に長期給付事業(年金)、短期給付事業(医療給付)を行った共済組合。1907年に帝国鉄道庁職員救済組合として発足し、その後の官制改正による国鉄所管官庁の改編にともない、鉄道院職員救済組合(1908年-1918年)、鉄道院共済組合(1918年-1920年)、国有鉄道共済組合(1920年-1948年)と改称。国家公務員共済組合法(旧法)施行にともなって1948年7月に国鉄共済組合に改称した。その後公共企業体職員等共済組合法(廃止、1956年施行)、国家公務員等共済組合法(1984年施行)の適用を受けた。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "国鉄共済組合は給付事業のほか、共済組合員である国鉄職員向けの保健事業、貯蓄・貸付事業、物資事業、住宅・宅地分譲事業を取り扱った。また全国で旅館業態の「保養所」70か所、ホテル業態の「弥生会館」9か所(いずれも1986年現在)を経営した。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "このうち、国鉄職員とその家庭に生活物資を供給する「物資事業」を行う国鉄共済組合物資部は「国鉄物資部」と通称され、国鉄の拠点駅や乗務員・車両基地の構内、職員アパートなどで職員向けの小売店(購買部・配給所)や食堂(食堂部)などを運営した。国有鉄道共済組合時代の1944年に、物資不足に対応するため物資部が本省部局や鉄道局単位に運営分離された形態を受け継ぎ、国鉄共済組合においても物資部は本社部局および支社、各鉄道管理局ごとに設けられた「支部」単位で運営された。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "物資部の各店舗は共済組合員である職員や家族などの関係者に限った利用を建前としていたが、実際には一般客の利用も可能であった。また1950年代以降の国内小売業界におけるスーパーマーケット業態の急速な普及を受け、物資部でも1960年代から70年代にかけて、一般客の利用が見込める主要駅等の購買部や配給所を構外に設け、「国鉄ストア」の商号を用いてスーパーマーケットに転換する経営近代化策を全国各地で進めた。このほか、地域の企業・商店が「国鉄物資部指定店」として物資部と契約を結び、国鉄職員に対し共済組合員価格で商品を販売した。", "title": "関連事業・関連施設" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本国有鉄道改革法等施行法に基づき、1987年4月に旧国鉄職員とJR各社の社員および退職者を対象とする「日本鉄道共済組合」に改称。のち旧3公社共済組合の厚生年金統合で、1997年4月に長期給付事業を社会保険庁所管の厚生年金に、短期給付および保健事業を新設の「ジェイアールグループ健康保険組合」にそれぞれ引き継ぎ、その他の事業は廃止またはJR系列企業などに事業譲渡した。現在は厚生年金統合の対象期間外にあたる1956年6月以前の年金事業のみを行っている。", "title": "関連事業・関連施設" } ]
日本国有鉄道は、日本国有鉄道法に基づき日本の国有鉄道を運営していた公共企業体である。通称は国鉄(こくてつ)。 経営形態は政府が100%出資する公社(特殊法人)であり、いわゆる三公社五現業の一つであった。職員は公共企業体労働関係法で規定される国家公務員である。 鉄道開業以来、国営事業として鉄道省などの政府官庁によって経営されていた国有鉄道事業を、独立採算制の公共事業として承継する国(運輸省)の外郭団体として1949年(昭和24年)6月1日に発足した。 1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、政府出資の株式会社(特殊会社)形態であるJRグループ各社及び関係法人に事業を承継し、日本国有鉄道清算事業団(1998年10月22日解散)に移行した。
{{for|前身の官営鉄道事業|鉄道省}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 日本国有鉄道 | 英文社名 = Japanese National Railways | ロゴ = [[file:Japanese National Railway logo.svg|250px]] | 画像 = [[file:Ensign of the Japanese National Railways.svg|border|200px]] | 画像説明 = (上)JNRマーク<br />(下)鉄道旗(国鉄社旗) | 種類 = [[特殊法人]] | 略称 = 国鉄、JNR | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 100 | 本社所在地 = 東京都千代田区丸の内一丁目6番5号([[JR東日本本社ビル|国鉄本社ビル]]) | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1949年]][[6月1日]] | 業種 = 5050 | 事業内容 = 日本国有鉄道法(廃止)に基づく鉄道事業及びその附帯事業の経営、鉄道事業に関連する海上運送事業・自動車運送事業及びその附帯事業の経営、鉄道事業用地における石油パイプライン事業及びその附帯事業の経営ほか<ref>日本国有鉄道法第3条</ref> | 代表者 = [[#歴代の国鉄総裁|歴代の国鉄総裁]] | 資本金 = 8,375億円(資本金等;昭和60)<ref name=kessan60 /> | 発行済株式総数 = | 売上高 = | 経常利益 = ▲18,478億円(昭和60)<ref name=kessan60 /> | 営業利益 = ▲20,201億円(昭和60)<ref name=kessan60 /> | 純利益 = | 純資産 = ▲88,011億円([[債務超過]]; 昭和60)<ref name=kessan60 /> | 総資産 = 119,028億円(昭和60)<ref name=kessan60 /> | 従業員数 = | 支店舗数 = | 決算期 = 3月末<ref>日本国有鉄道法 第37条</ref> | 主要株主 = 日本国政府(100%)<ref>日本国有鉄道法 第5条</ref> | 主要子会社 = | 関係する人物 = | 外部リンク = <!-- http://****.jp/ --> | 特記事項 = 1987年4月1日、日本国有鉄道清算事業団に移行<ref name="ikou">「日本国有鉄道は、改革法附則第2項の規定の施行の時において、事業団となるものとする」日本国有鉄道清算事業団法附則第2条</ref>。1998年10月22日、日本国有鉄道清算事業団解散。 }} [[画像:Jnr mainoffice plate.jpg|250px|thumb|right|国鉄本社玄関銘板(現在[[鉄道博物館 (さいたま市)|鉄道博物館]]所蔵)]] '''日本国有鉄道'''(にほんこくゆうてつどう、にっぽんこくゆうてつどう{{Efn|[[鉄道総合技術研究所]]の提供する [http://yougo.rtri.or.jp/dic/ 鉄道技術用語辞典] や、高橋政士『詳解 鉄道用語辞典』山海堂 2006年などでは「にほんこくゆうてつどう」で記載されているが、米国特許(US 3865202、US 3822375、US 4134342など)ではNippon Kokuyu Tetsudoで出願されている。}}、{{Lang-en|Japanese National Railways}}、英略称: {{en|JNR}})は、[[s:ja:日本国有鉄道法|日本国有鉄道法]]に基づき[[日本]]の[[国鉄|国有鉄道]]を運営していた[[公共企業体]]である。通称は'''国鉄'''(こくてつ)。 経営形態は[[日本国政府|政府]]が100%出資する[[公社]]([[特殊法人]])であり<ref>日本国有鉄道法 第2,5条</ref>、いわゆる[[三公社五現業]]の一つであった。職員は[[公共企業体労働関係法]]で規定される国家公務員である<ref>日本国有鉄道法 第26,34条。なお[[国家公務員法]]は適用されない</ref>。 [[日本の鉄道開業|鉄道開業]]以来、[[官庁企業|国営事業]]として[[鉄道省]]などの政府官庁によって経営されていた国有鉄道事業{{Efn|「国有鉄道(国鉄)」の呼称はもともと[[日本鉄道]]などの私設鉄道(私鉄)を国営化し明治政府開設の官設鉄道(官鉄)と統合した[[1906年]](明治39年)「[[鉄道国有化]]」以降の国営鉄道網を指していたが<ref>1941年(昭和16年)『日本ニュース』第38号</ref>、公社化後は企業体である日本国有鉄道の略称としても用いられるようになった。}}を、[[独立採算制]]の公共事業として承継する国([[運輸省]])の[[外郭団体]]として[[1949年]]([[昭和]]24年)[[6月1日]]に発足した。 [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]の[[国鉄分割民営化]]に伴い、政府出資の[[株式会社]]([[特殊会社]])形態である'''[[JR]]グループ'''各社及び関係法人に事業を承継し、[[日本国有鉄道清算事業団]]([[1998年]](平成10年)[[10月22日]][[解散]])に移行した<ref name="ikou" />。 == 概要 == [[画像:JR tokai shinkansen 0kei.jpg|250px|thumb|right|[[1964年]]に開業し、国鉄の象徴となった[[新幹線]](1987年、[[小倉駅 (福岡県)|小倉駅]])]] 日本国有鉄道は、国営事業として[[運輸省]][[鉄道総局]]が国の「国有鉄道事業[[特別会計]]」によって行っていた国有鉄道事業およびその関連事業を引き継ぎ、国有鉄道を[[独立採算制]]の公共事業として経営することを目的に1949年(昭和24年)6月1日に発足した国の公共企業体である。 分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月31日時点で[[新幹線]]と[[在来線]]併せて総延長19,639[[キロメートル]]の[[鉄道路線]]を持ち、30局の[[鉄道管理局]]と総局で運営した。このほか鉄道に関連する[[鉄道連絡船|船舶事業]](航路延長132キロメートル)、[[国鉄バス|自動車(バス)事業]](路線延長11,739キロメートル)などを行っていた。 最高責任者である「[[#歴代の国鉄総裁|総裁]]」は[[内閣 (日本)|内閣]]が任命し、任期は4年間。次席の「副総裁」は[[運輸大臣]]の[[認可]]を受けて総裁が任命し、任期は4年間。さらに技術面で総裁を補佐する「技師長」が置かれた。このほかの役員として任期3年の理事(11人以上17人以下)を置き、このうち国鉄在職の理事を「常務理事」と呼んだ。一般企業の役員会に相当する「理事会」で国鉄内部の重要事項を決めた。 本社は[[東京都]][[千代田区]][[丸の内]]一丁目の[[JR東日本本社ビル#旧国鉄本社ビル|国鉄本社ビル]](現・[[丸の内オアゾ]])に置かれた。旧館は旧鉄道省庁舎で、日本国有鉄道分離直後の運輸省も一時間借りしていた。分割民営化以降、国鉄本社ビルは[[東日本旅客鉄道|東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)]]の本社として、[[JR東日本本社ビル|渋谷区代々木]]に移る[[1997年]]まで使用された。 資本金は約89億円。このうち49億円は公共企業体移行時に国有鉄道承継資産総額から国有鉄道事業特別会計の負債を差し引いた残額で、40億円は政府が対日援助見返り資金から出資したものだった。公共企業体化後は政府から追加出資が行われなかったため、設備投資は日本国有鉄道の自己資金と借入金で賄った。 職員数は1980年代までおおむね40万人台で推移したが、合理化により大幅に削減され、民営化直前の[[1986年]](昭和61年)には27万7000人にまで減少した。このうち20万1000人が[[JR|JRグループ]]の各新会社に移行した。 == シンボルマーク == 国鉄を表すマークとしては[[工部省]]時代からの「工マーク」([[1860年]]制定)、[[鉄道省#鉄道院|鉄道院]]時代からの「動輪マーク」([[1909年]]制定)のほか、公募によって[[1958年]]に制定された「JNRマーク」があった。このうち「動輪マーク」は[[蒸気機関車]]の[[駆動輪|動輪]]をモチーフにしたもので、鉄道旗を始め制帽の帽章や制服の襟章等にもその意匠が用いられていた。 <gallery style="font-size:90%;"> Symbol of the Japanese National Railways.svg|工マーク Dourin Mark.svg|動輪マーク Japanese National Railway logo.svg|JNRマーク Ensign of the Japanese National Railways.svg|鉄道旗 </gallery> == 組織 == (特記ある場合を除いて[[1987年]]当時) === 本社 === [[file:tetsudosho_shintyousha.jpeg|thumb|right|280px|国鉄本社ビル旧館(旧鉄道省新庁舎)]] 理事会の決定に基づいて各地の総局・鉄道管理局を総括的に管理した。本社部局として14局3部5室を置き、ほかに[[鉄道公安職員|公安本部]]、総合人事委員会、監査委員会事務局を置いた。また付属機関として[[鉄道技術研究所]](現・[[鉄道総合技術研究所]])、[[中央鉄道学園]]、在外事務所([[ニューヨーク]]、[[パリ]])など9機関を置いた。 [[1985年]][[3月20日]]の組織改正で、本社部局の新幹線建設局が建設局に、工作局が車両局に、付属機関の車両設計事務所が車両局(設計課)にそれぞれ統合された。 {| class="wikitable" style="margin:1em; font-size:95%" !役員組織 ! colspan="2" | 本社部局 !付属機関 |- |理事会 |総裁室 |貨物局 |鉄道技術研究所 |- |総裁 |経営計画室 |船舶管理室 |鉄道労働科学研究所 |- |副総裁 |地方交通線対策室 |自動車局 |中央鉄道学園 |- |技師長 |技術計画室 |運転局 |構造物設計事務所 |- |常務理事 |広報部 |車両局 |中央鉄道病院 |- |監査委員会 |外務部 |建設局 |中央保健管理所 |- | rowspan="7" | |情報システム部 |施設局 |在外事務所(ニューヨーク・パリ) |- |監察局 |電気局 |工事積算室 |- |職員局 |事業局 |中央情報システム管理センター |- |経理局 |公安本部 |- |資材局 |総合人事委員会 |- |共済事務局 |監査委員会事務局 |- |旅客局 | |} === 地方機関 === {{Main|鉄道管理局}} 鉄道管理局および総局が設けられ、地域ブロックの業務を管理し、本社の指示を現業機関に伝えるとともに、輸送関係業務の一部も行った。 地方単位で鉄道管理局を総括的に管轄する総局(北海道・九州・四国・新幹線)は、旧支社制度([[1957年]][[1月16日]]-[[1970年]][[8月14日]])を引き継いで、鉄道管理局間にまたがる業務を管理した。 1985年3月20日の組織改正で、駐在理事室(仙台・名古屋・大阪)は廃止、輸送計画室(東北・中部・関西)は[[東日本旅客鉄道仙台支社|仙台]]・[[東海旅客鉄道東海鉄道事業本部|名古屋]]・[[西日本旅客鉄道近畿統括本部|大阪]]の各鉄道管理局内に企画調整室と輸送計画室を新設して統合した。ほかに首都圏本部、東北・上越新幹線総合指令本部が置かれた。 鉄道管理局、地方部局、工場などは総局、輸送計画室などの下に置かれ、駅、車両基地などの現業機関を管理した。 === 現業機関 === 地方機関である鉄道管理局および総局の下で実際に輸送業務に従事する機関で、全国鉄職員のおよそ85%が所属した。分割民営化時点で以下の47の現業機関が設けられ、全国30総局・鉄道管理局に合わせて約6300機関が存在した([[1986年]][[12月]]時点)。それぞれ駅長、区長、室長などをトップとし、その下に中間管理職の首席助役・助役、職種ごとの責任者として主任・職場長を置いた。 {{columns-list|colwidth=10em| *駅 *営業所 *操車場 *信号場 *車掌区 *車掌所 *連絡船 *船舶管理所 *船舶施設区 *桟橋 *船員区 *機関区 *電車区 *気動車区 *客車区 *客貨車区 *貨車区 *運転所 *運転区 *保線区 *保線所 *機械軌道区 *営林区 *レールセンター *建築区 *機械区 *機械所 *電力区 *変電区 *信号通信区 *通信区 *信号区 *電気区 *電気所 *電気工事区 *ヤックス管理区 *鉄道公安室 *工事区 *構造物検査センター *乗車券管理センター *車両所 *CTCセンター *管財区 *資材センター *経理資材所 *要員機動センター *自動車営業所 }} == 予算 == 国鉄の予算案は運輸大臣に提出され、大蔵省との大臣折衝を経て閣議決定後、政府関係機関予算の一つとして国会に提出された。また自己資金、借入金、[[鉄道債券]]の発行で調達する「資金計画」を4半期ごとに定め、4半期開始日の20日前までに運輸大臣、大蔵大臣、[[会計検査院]]に提出することが義務付けられていた。 収入支出予算は'''損益勘定'''、'''資本勘定'''、'''工事勘定'''、'''特定債務整理特別勘定'''の4勘定が設けられた。 *'''損益勘定'''における収入は、運輸収入、雑収入と、国の一般会計からの'''助成金受入'''、収入不足を補填する'''資本勘定からの受入'''が充てられた。助成金受入は1960年代まで損益勘定収入の0.1%程度で推移していたが、財政状況の悪化で1970年代以降増加した。また資本勘定からの受入は損益勘定の収入不足拡大に伴って1971年から始まったもので、1970年度までは損益勘定から資本勘定への繰り出し支出を行っていた。日本国有鉄道再建法成立直前の1978年度予算では、助成金受入(工事費補助金、地方交通線特別交付金など)が7%、資本勘定からの受入が15%に達し、損益勘定収入の4分の1近くが助成金と借入金で占められた。 *'''資本勘定'''の収入は資産充当、鉄道債券及び借入金、国からの貸付金及び補助金が充てられた。このうち鉄道債券及び借入金は、1960年代まで資本勘定収入の50%前後だったが、損益勘定の収入不足補填のために資本勘定から繰出支出を行うようになったことから、借入金を中心に急速に増加。1978年度予算では資本勘定収入の95%を占めた。 *'''工事勘定'''は鉄道施設の整備工事費や新幹線建設費などを支出するもので、全額を資本勘定からの受入でまかなった。 *'''特定債務整理特別勘定'''は1976年に新設されたもので、国から償還費用の無利子貸し付けと利子補給を受ける形で棚上げした長期債務の一部(特定債務)を扱った。 == 歴史 == === 発足の経緯 === [[Image:Mitaka Incident.JPG|thumb|200px|[[三鷹事件]](1949年)。大規模な人員整理が行われる中発生した「三大事件」の一つ]] 政府が運営していた日本の「国有鉄道」(当時の呼び名は省線)は、[[第二次世界大戦]]後、[[インフレーション]]に加え、[[復員|復員兵]]や[[引揚者|海外引揚者]]の雇用の受け皿となったため、運営を所管していた運輸省の1948年度国有鉄道事業特別会計は300億円の赤字となり、財政は極度に悪化した。[[労働争議]]が頻発する社会情勢の中、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の総司令官であった[[ダグラス・マッカーサー]]は、[[国家公務員]]の[[労働争議|争議]]を禁止する一方、国家権力の行使とは関係ない国の[[専売制|専売事業]]や国有鉄道などの国営事業を行う職員を[[非公務員化]]し、公務員より緩和した一定の労働権を許すことで効率的な事業経営を目指す、独立採算制の公共企業体 (Public Corporation) 設置を勧告する書簡を出した。 政府の国有鉄道事業を承継する政府出資の新法人「日本国有鉄道」の設立を定めた「日本国有鉄道法」は、[[1948年]][[11月30日]]に[[国会 (日本)|国会]]を通過した。日本国有鉄道は[[1949年]]4月1日に発足する予定だったが、運輸省鉄道総局側の準備が遅れ、1949年6月1日にずれ込んだ。一般的には国鉄の発足は、行政官庁運営の国営事業から国出資の企業が運営する公共事業に移行しただけに過ぎず、ほとんど注目されなかった。 国鉄は発足後、ただちに職員9万5000人の人員整理に着手。それが引き金になったとされた[[国鉄三大ミステリー事件]]([[下山事件]]・[[松川事件]]・[[三鷹事件]])が発生するなど、労務政策面では大きな混乱が見られた。また経営面では、戦時設計の粗悪な車両や地上施設が原因となった「[[桜木町事故]]」などの重大事故が発生したが、一方で[[特急列車|特別急行]]・[[急行列車|急行]]の復活など輸送力の回復を強力に推進した。戦時体制のまま承継した地方機関の「鉄道局」「管理部」も再編し、鉄道局を地方支配人に、管理部を[[鉄道管理局]]にそれぞれ改組した。 また、[[1950年]][[11月14日]]から15日にかけて、連合国軍最高司令官総司令部の指令に基づく[[レッドパージ]]の通告が職員461人に対して行われた<ref>「総数四六一名 国鉄の追放」『日本経済新聞』昭和25年11月15日3面</ref>。 === 第1次5カ年計画 - 第2次5カ年計画 === [[画像:AkaSkirt-481Ariake.JPG|200px|thumb|right|公募で決まった「JNRマーク」と「特急マーク」を取り付けた特急電車([[国鉄485系電車|481系電車]])]] 戦前の輸送水準を回復した国鉄は、[[1957年]](昭和32年)からスタートさせた「第1次5カ年計画」に基づき、全国で老朽施設の更新や輸送力増強、[[動力近代化計画|動力近代化]]を推進した。[[1958年]](昭和33年)には初の電車特急となる「こだま号」([[国鉄181系電車|151系電車]])を登場させ、先頭部には民間からの公募で決めた「JNRマーク」と「特急マーク」を取り付けた。 [[1961年]](昭和36年)には、「第2次5カ年計画」がスタートし投資規模を二千億円に引き上げられた{{Sfn|日本国有鉄道諮問委員会|1960|p=10}}。さらに[[東海道本線]]の輸送力増強策として[[1959年]](昭和34年)に着工した[[東海道新幹線]]が[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]を前に[[1964年]](昭和39年)に開業し、国鉄の[[象徴]]となった。 一方、この時期から[[高速道路]]や[[航空会社|航空機]]との競合が激しさを増した<ref name=NJ18 />。国鉄総裁の諮問機関である日本国有鉄道諮問委員会は1960年(昭和35年)、「国鉄の経営改善方法に関する意見書」を提出して、[[ローカル線|ローカル新線]]の建設など国の政策による過大な負担{{Efn|「出来上がっても儲けにならない線区を国家の要請によつて国鉄が作るもの{{Harv|日本国有鉄道諮問委員会|1960|p=26}}」}}、終戦直後の過剰な雇用による人件費負担の増大{{Sfn|日本国有鉄道諮問委員会|1960|p=5}}、通勤通学定期・新聞雑誌・農林水産物への異常な割引{{Efn|昭和34年度の負担額は545億円で、国鉄収入の16%に相当<ref name=NJ18>{{Cite journal|和書|journal=国有鉄道|volume=18 |issue=10-136 |publisher=交通協力会|date=1960-10 |author=石山礼助 |doi=10.11501/2276996}}</ref>}}が、国鉄経営に深刻な影響を与えると警告した。 {{Quote| 以上の次第、これをつづめて云えば、昭和45年には、 * 年収8189億円のマンモス企業が * 借入金の利息1601億円を支払ったあとでは、僅か72億円のカネしか残らない * ところが一方、年間3300億円の新規投資をしなければ「輸送需要」に追い付けない。 * 従って毎年膨大な借入金をしなければならないが、その額は昭和45年頃ともなれば、1年で5800億円を越える。 * 当然の結果としてその頃の借入金残高は2兆4千億円という大額に上る。 というのが、上記試算に示された「国鉄のこれからの姿」なのである。... それは「完全破綻」以外の何ものでもないのである。 | 国鉄経営の在り方についての答申書(1960年){{Sfn|日本国有鉄道諮問委員会|1960|p=19}} }} しかし[[日本国政府|政府]]は新設の[[日本鉄道建設公団]]で新線建設を強行し、何の対策も取らなかった結果、国鉄は1964(昭和39)年度に単年度収支で▲300億円の赤字となった<ref name=kessan59 />。当初は繰り越し利益でカバーしたが、[[1966年|1966]](昭和41)年度決算で完全に資本欠損に転落(▲536億円) <ref name=kessan59 />、それ以降一度も黒字を計上することはなかった<ref name=kessan59 />。ただし単年度収支では旅客部門のみ[[1984年]]度以降黒字になった。 また[[日本労働組合総評議会|総評]]系の[[国鉄労働組合]](国労)と[[国鉄動力車労働組合]](動労)、[[全日本労働総同盟|同盟]]系の[[鉄道労働組合]](鉄労)の各大規模労組が、<!--[[ストライキ]]を連発し国民から大きな反発を受けつつ、その規模から-->国内の労働運動や政治に一定の影響力を与え続けた。 === 第3次長期計画 - 再建計画 === [[画像:JNR 113-1500 198602.jpg|200px|thumb|right|「[[通勤五方面作戦]]」で輸送力の増強が進められた首都圏路線(「[[横須賀・総武快速線#SM分離|SM分離]]」で[[東海道本線]]から分離された[[横須賀線]])]] {{See also|日本鉄道建設公団}} 「第2次5カ年計画」は国鉄の近代化に大きく貢献したものの、資金不足で1964年(昭和39年)に打ち切られ、新たに多額の借り入れによって輸送改善を推進する「第3次長期計画」に移行。俗に「[[ヨンサントオ]]」と呼ばれる[[1968年]](昭和43年)10月のダイヤ改正では、[[新性能電車]]などの大量投入を実現した。また[[高度経済成長]]に合わせて急速に増大した首都圏の通勤輸送に対応するため、「[[通勤五方面作戦]]」と称する輸送力増強計画も進められた。 しかし国鉄財政の一層の悪化を受けて第3次長期計画は同年で打ち切られ、職員削減、省力化などの[[合理化]]が本格的に始まった。国鉄諮問委員会は1968年(昭和43年)9月、経営体質の改善が急務として地方83線区([[赤字83線]])を[[廃線|廃止]]すべきとの意見書を提出し、国鉄は赤字[[ローカル線]]の整理に乗り出した。また同年11月には運輸大臣の諮問機関である国鉄財政再建推進会議も、経営合理化、近代的輸送方式の整備促進、[[国有資産等所在市町村交付金|市町村納付金]]の大幅削減などの具体策を盛り込んだ意見書を提出した。 政府は[[1969年]](昭和44年)、日本国有鉄道財政再建特別措置法を成立させ、10年後の黒字転換を掲げる「財政再建10カ年計画」がスタートしたが、「[[日本列島改造論|日本列島改造]]」を掲げる[[第1次田中角栄内閣]]が発足すると、赤字83線の整理計画はわずか4年で打ち切られた。さらに田中内閣は日本鉄道建設公団によるローカル新線建設を継続。貨物輸送の落ち込みと人件費の増大なども重なり、10カ年計画は再三行き詰まって見直しを余儀なくされた。 この時期、国鉄の労使関係は合理化の強化と政治要素が絡んで極度に悪化した。国鉄当局が進めた[[生産性]]向上運動([[マル生運動]])に伴って発生した労働組合に対する[[不当労働行為]]問題は、[[1980年代]]にかけて現場の混乱と規律低下を招いた。[[ストライキ]]も頻発し、ダイヤ改正が延期されたり、乗客による暴動([[上尾事件]]・[[首都圏国電暴動]])に発展した事件もあった。1975年(昭和50年)に国労と動労が行った大規模な「[[スト権スト|スト権奪還ストライキ]]」は、[[モータリゼーション]]の発展で国鉄のシェア低下が進んでいた事に加え、すでに発達していた国鉄以外の[[公共交通機関]]や貨物輸送が十分に機能したため、日本全体に悪影響を及ぼすことなく収束。労働組合側の弱体化を招く結果となった。 === 臨調答申と民営化 === {{See also|国鉄分割民営化}} [[画像:Akatani_line_shibata_840320.png|200px|thumb|right|末期には国鉄再建法に基づく[[特定地方交通線]]の廃止が相次いだ([[赤谷線]])]] [[1978年]](昭和53年)、運賃法定制の緩和で国会審議を経ずに運賃改定が可能になると、[[大蔵省]]の圧力で運賃を毎年値上げせざるを得なくなり、利用客減に拍車がかかった。[[1980年]](昭和55年)[[11月]]には、5年間で経営基盤を確立するなどとした[[日本国有鉄道経営再建促進特別措置法]](日本国有鉄道再建法)が成立した。再建法には日本鉄道建設公団による地方路線建設の凍結、[[輸送密度]]に応じた[[幹線]]・[[地方交通線]]の区分とそれに基づく複数運賃制度の導入{{Efn|1984年実施。}}、[[輸送密度]]の低い[[特定地方交通線]]の国鉄からの経営分離が盛り込まれた。 しかし[[1981年]](昭和56年)から[[1982年]](昭和57年)にかけて、政府の[[第二次臨時行政調査会]](臨調)で進む国鉄問題審議に歩調を合わせ、かねてから国民から大きな反発を受けていたストライキの連発に重ねて、ヤミ手当やヤミ超勤、職場での飲酒行為など現場の悪慣行が次々と[[報道機関|マスメディア]]にスクープされ、国鉄全体が世論から集中砲火を浴びた。 臨調は[[1982年]](昭和57年)[[7月]]の基本答申で、5年以内に本州4ブロック程度と北海道、四国、九州に国鉄を分割して民間会社に移行すべきとの方針を示した。政府は「国鉄緊急事態宣言」を出して新規採用の原則停止、職員数削減などを推進。[[1983年]](昭和58年)には国鉄再建監理委員会が発足して民営化に向けた作業が始まった。国鉄側は[[1985年]](昭和60年)[[1月10日]]、「非分割民営化」を盛り込んだ独自の再建案を監理委員会に提出したが支持を得られず、[[仁杉巌]]総裁は解任された。 後任の[[杉浦喬也]]総裁は、常務理事ら幹部を大幅に入れ替えて6分割民営化を基本とする答申を提出し、各地に「地区経営改革実施準備室」を設置して民営化に向けた作業を開始した。[[1986年]](昭和61年)には国労とともに分割民営化に反対していた動労が、同年の[[衆参同時選挙]]で[[自由民主党 (日本)|自民党]]が圧勝し、分割民営化が事実上確定したことから「協力して組合員の雇用を守る」と容認に転換。1986年(昭和61年)11月に国鉄分割民営化関連法案が成立し、1987年(昭和62年)4月1日に[[JR|JRグループ]]が発足(→[[国鉄分割民営化]])した。 国鉄の経営状況は、単年度の営業収支では旅客部門に限って1984(昭和59)年度に黒字化した。そして、国鉄最終年度である1986(昭和61)年度の旅客部門の単年度の営業収支は3,663億円の営業利益を計上したが、貨物部門は依然として大幅な赤字を計上していた。また、累積債務は37兆円を超え、長期債務の支払い利子だけで年1兆円を超えるなど、営業外費用が営業利益を上回って増大する状況が続いた<ref>『昭和60年年次経済報告』経済企画庁、1985年8月15日。</ref>。これについては国は抜本的な対策を講じないまま、長期債務の大部分を[[日本国有鉄道清算事業団]](国鉄清算事業団)に切り離す形で問題解決を「先送り」にした結果、のちの債務償還計画破綻につながった。 ==== 国鉄の新会社移行作業 ==== [[1986年]](昭和61年)[[11月28日]]の[[参議院]]本会議で、[[日本国有鉄道改革法]]など国鉄分割民営化関連8法案は自民党などの賛成多数で成立した。これを受け国鉄は[[12月3日]]付で、本社内に採用職員や新会社の経営組織・体制を決定する以下の「設立準備室」および「移行準備室」を設置(かっこ内は室長。役職名は国鉄→新法人の順)。これらの準備室が事実上新会社の母体となった。また各準備室を統括する国鉄本社新会社設立委員会(設立委員長・[[斎藤英四郎]]経団連会長)が設けられ、[[12月11日]]に初会合が開催された。 * 北海道旅客会社設立準備室(大森義弘[[鉄道管理局#総局|北海道総局]]長→JR北海道社長) * 東日本旅客会社設立準備室([[山之内秀一郎]]常務理事→JR東日本副社長) * 東海旅客会社設立準備室(川口順啓常務理事→JR東海常務) * 西日本旅客会社設立準備室(山田度常務理事→JR西日本常務) * 四国旅客会社設立準備室(伊東弘敦常務理事→JR四国社長) * 九州旅客会社設立準備室([[石井幸孝]]九州総局長→JR九州社長) * 日本貨物会社設立準備室(岡田昌久常務理事→JR貨物常務) * 新幹線保有機構設立準備室(前田喜代治常務理事→国鉄清算事業団副理事長) * 日本国有鉄道清算事業団移行準備室(同上) [[12月9日]]には分割民営化の新会社第1号となる[[ソフトバンクテレコム|鉄道通信株式会社]]と[[鉄道情報システム|鉄道情報システム株式会社]]の創立総会が国鉄本社で開催された。[[12月15日]]には旅客、列車、業務の本社各指令を廃止し、[[鉄道管理局|北海道総局、首都圏本部、名古屋鉄道管理局、大阪鉄道管理局、四国総局、九州総局]]の6局にそれぞれ「本社指令」を設置。全国一元の指令体制が消滅した<ref>「国鉄、列車の指令系統変更へ」『朝日新聞』東京本社版朝刊、1986年12月2日付。</ref>。また国鉄本社は、政府・[[自由民主党 (日本)|自民党]]の示したガイドラインに基づき、新法人が引き継ぐすべての事業、資産、債務の割り振りを定める「承継実施計画」の作成を開始した。 新会社設立委員会は21万5,000人を採用する基本計画をまとめ、[[12月24日]]から「配属先希望調査表」を職員に配布。[[1987年]](昭和62年)[[1月7日]]の期限までに22万7600人が提出した。新会社への就職希望者は21万9130人で、[[1月18日]]までに公安部門転出者を含む3万1476人が退職希望を明らかにした。[[2月2日]]には鉄労、動労など労使協調路線の組合で構成する[[全日本鉄道労働組合総連合会]](鉄道労連)が発足した。設立委員会は20万4126人の採用を内定し、[[2月16日]]から採用通知書の交付を開始した。通知後の辞退者が多く、清算事業団を除いた11法人がすべて定員割れとなったが、欠員の補充採用は民営化後に各社が行うこととされた。 新会社移行に向けた職員の大規模[[人事異動|異動]]は[[2月14日]]付の管理職異動から始まった。14日付の異動対象は本社および総局・鉄道管理局の幹部職員、現場管理職の合わせて8,400人(うち3,200人が退職)で、国鉄本社からは幹部職員の約3割が管理局などに[[人事#異動|転出]]した。[[2月17日]]には[[橋本龍太郎]][[運輸大臣]]が新会社首脳人事を発表(全役員人事は[[3月17日]]発表)。新会社の経営陣には[[財界]]人や運輸省元幹部らが加わったが、7社全役員の約6割にあたる62人は常務理事や本社局長など、横滑りした国鉄幹部が占めた。 職員の大規模異動が終盤を迎え、民営化を1カ月後に控えた[[3月1日]]から、全国の現業機関は各設立準備室が決定した新会社の運営体制に合わせた業務体制に移行した。同時に新会社の営業エリアに合わせて全国14路線で管理局界の変更が行われた。作成作業が進められていた承継実施計画は[[3月4日]]に国鉄本社から運輸省に提出され、各法人が承継する路線および車両、施設、債務額などが確定した。[[3月16日]]には一般職員に対し、新会社の所属部署や職名の通知書が交付された。[[3月23日]]から[[3月25日]]にかけて新会社各社の創立総会が相次いで開催され、[[4月1日]]午前0時から各新会社による運営に移行した。 == 営業成績 == {| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right; margin:1em " |+ 経営成績の推移 (単位:億円)<ref name=kessan59>{{Cite report|和書|title=日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度 |author=日本国有鉄道監査委員会 |date=1985-08 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション |pages=230-231 |doi=10.11501/12066723 }}</ref><ref>{{Cite report|和書|title=日本国有鉄道監査報告書 昭和38年度 |author=日本国有鉄道監査委員会 |date=1964 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション|doi=10.11501/2521882 |at=6.統計資料 }}</ref><ref name=kessan60>{{Cite journal|和書|title=国有鉄道』|volume=44 |issue=9)(447) |publisher=交通協力会 |date=1986-09 |doi=10.11501/2276895 |pages=8-13}}</ref><ref>{{Cite report|title=鉄道要覧 昭和34年度 |author=日本国有鉄道事務管理統計部 |date=1947-1964 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション |doi=10.11501/8798366 }}</ref> ! 年度<br>(昭和) !! 営業収入 !! うち<br>旅客収入 !! うち<br>貨物収入 !! 営業経費 !! 本年度純損益 !! 累計積立金/<br>累計欠損金 !! 累計長期負債 |- <!-- 以下は鉄道要覧--> |{{rh}}| 24 || 1,117 || 685 || 411 || 1,175 || ▲ 23 || 0 || 716 |- |{{rh}}| 25 || 1,432 || 739 || 664 || 1,415 || 50 || 50 || 716 |- |{{rh}}| 26 || 1,839 || 916 || 868 || 1,866 || ▲ 3 || 21 || 886 |- |{{rh}}| 27 || 2,182 || 1,098 || 1,026 || 2,203 || ▲ 17 || 6 || 1,045 |- |{{rh}}| 28 || 2,521 || 1,264 || 1,192 || 2,518 || 4 || 11 || 1,270 |- |{{rh}}| 29 || 2,527 || 1,321 || 1,147 || 2,563 || ▲ 35 || ▲ 19 || 1,466 |- |{{rh}}| 30 || 2,630 || 1,355 || 1,201 || 2,814 || ▲ 183 || ▲ 198 || 1,696 |- |{{rh}}| 31 || 2,879 || 1,482 || 1,320 || 3,041 || ▲ 153 || ▲ 357 || 1,979 |- |{{rh}}| 32 || 3,339 || 1,733 || 1,521 || 3,186 || 226 || ▲ 131 || 2,162 |- |{{rh}}| 33 || 3,358 || 1,834 || 1,427 || 3,347 || 102 || ▲ 29 || 2,540 |- <!-- 以下は 日本国有鉄道監査報告書 --> |{{rh}}| 34 || 3,678 || 1,917 || 1,523 || 3,650 || 34 || 6 || 3,053 |- |{{rh}}| 35 || 4,075 || 2,164 || 1,641 || 3,993 || 54 || 60 || 3,620 |- |{{rh}}| 36 || 5,054 || 1,618 || 2,016 || 4,588 || 464 || 525 || 4,230 |- |{{rh}}| 37 || 5,291 || 1,989 || 1,960 || 4,775 || 497 || 1,022 || 5,407 |- |{{rh}}| 38 || 5,687 || 3,384 || 2,115 || 5,144 || 574 || 1,595 || 6,890 |- |{{rh}}| 39 || 6,002 || 3,697 || 2,090 || 6,326 || ▲300 || 1,295 || 8,313 |- |{{rh}}| 40 || 6,341 || 4,121 || 1,982 || 7,571 || ▲1,230 || 65 || 11,102 |- |{{rh}}| 41 || 7,939 || 5,484 || 2,200 || 8,547 || ▲601 || ▲536 || 13,689 |- |{{rh}}| 42 || 8,561 || 5,916 || 2,361 || 9,508 || ▲941 || ▲1,477 || 16,435 |- |{{rh}}| 43 || 9,165 || 6,434 || 2,393 || 10,526 || ▲1,344 || ▲2,821 || 19,306 |- |{{rh}}| 44 || 10,440 || 7,602 || 2,449 || 11,763 || ▲1,316 || ▲4,137 || 22,491 |- |{{rh}}| 45 || 11,457 || 8,463 || 2,544 || 13,006 || ▲1,517 || ▲5,654 || 26,037 |- |{{rh}}| 46 || 11,782 || 8,596 || 2,501 || 14,207 || ▲2,342 || ▲7,996 || 30,871 |- |{{rh}}| 47 || 12,443 || 9,216 || 2,395 || 15,944 || ▲3,415 || ▲11,411 || 37,191 |- |{{rh}}| 48 || 13,791 || 9,922 || 2,381 || 18,407 || ▲4,544 || ▲15,955 || 43,679 |- |{{rh}}| 49 || 18,209 || 13,151 || 2,415 || 22,329 || ▲6,508 || ▲22,463 || 55,381 |- |{{rh}}| 50 || 15,714 || 11,252 || 2,405 || 27,444 || ▲9,147 || ▲31,610 || 67,793 |- |{{rh}}| 51 || 19,931 || 15,290 || 2,779 || 29,156 || ▲9,141 || ▲9,742 || 54,582 |- |{{rh}}| 52 || 25,702 || 19,499 || 3,095 || 32,147 || ▲8,339 || ▲18,082 || 68,866 |- |{{rh}}| 53 || 23,690 || 18,237 || 3,070 || 34,714 || ▲8,867 || ▲26,949 || 84,619 |- |{{rh}}| 54 || 29,021 || 21,550 || 3,540 || 37,446 || ▲8,218 || ▲35,167 || 101,492 |- |{{rh}}| 55 || 29,637 || 22,424 || 3,296 || 39,643 || ▲10,084 || ▲11,788 || 90,770 |- |{{rh}}| 56 || 31,730 || 24,035 || 3,114 || 43,254 || ▲10,859 || ▲22,647 || 108,294 |- |{{rh}}| 57 || 33,130 || 25,415 || 2,794 || 47,749 || ▲13,778 || ▲36,425 || 127,235 |- |{{rh}}| 58 || 32,989 || 25,797 || 2,415 || 51,401 || ▲16,604 || ▲53,029 || 146,611 |- |{{rh}}| 59 || 33,898 || 27,504 || 1,985 || 52,091 || ▲16,504 || ▲69,533 || 165,048 |- |{{rh}}| 60 || 35,528 || 29,422 || 1,857 || 55,728 || ▲18,478 || ▲88,011 || 182,409 |} {{Wide image|Income and Expenditure of Japanese National Railways.svg|800px|営業収入,営業経費,累計欠損金(単位:億円)}} {| class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right; margin:1em " |+ 損益収支状況(単位:億円)<ref name=kessan59 /> !colspan=2 style="min-width:20em| !! 昭和55 !! 56 !! 57 !! 58 !! 59 |- |{{rh}} rowspan=6| [[幹線]] ||{{rh}}| 東京圏 || 1,364 || 1,742 || 2,017 || 2,034 || 2,543 |- |{{rh}}| 大阪圏 || ▲ 464 || ▲ 407 || ▲ 397 || ▲ 359 || ▲ 268 |- |{{rh}}| 東海道・山陽新幹線 || 3,936 || 4,434 || 4,723 || 4,870 || 5,449 |- |{{rh}}| 東北・上越新幹線 || {{N/A}} || {{N/A}} || ▲ 558 || ▲ 955 || ▲ 921 |- |{{rh}}| その他幹線 || ▲ 5,950 || ▲ 6,202 || ▲ 6,754 || ▲ 6,933 || ▲ 6,253 |- |{{rh}}| 幹線損益小計 || ▲ 4,175 || ▲ 3,244 || ▲ 2,587 || ▲ 1,444 || 345 |- |{{rh}} colspan=2 | [[地方交通線]]/地方バス || ▲ 2,453 || ▲ 2,806 || ▲ 3,295 || ▲ 3,624 || ▲ 3,959 |- style="background:#e1e1e1" |{{rh}} colspan=2| 一般営業損益 || ▲ 4,865 || ▲ 4,436 || ▲ 3,906 || ▲ 3,207 || ▲ 786 |- |{{rh}} colspan=2|特定人件費 {{Efn|退職手当・年金など}} || ▲ 3,456 || ▲ 4,809 || ▲ 5,681 || ▲ 7,878 || ▲ 9,021 |- style="background:#e1e1e1" |{{rh}} colspan=2|全体損益 || ▲ 10,084 || ▲ 10,859 || ▲ 11,563 || ▲ 12,946 || ▲ 12,635 |} == 長期債務償還とその破綻 == [[画像:Land selling of JNR Settlement Corporation.jpg|180px|thumb|right|売却処分のため国鉄清算事業団に移管された遊休国鉄用地(1993年、旧岡山操車場跡地。現・[[岡山ドーム]])]] {{See also|日本国有鉄道清算事業団}} 分割民営化によって処理すべき債務は、最終の国鉄長期[[債務]]25兆0600億円のほか、日本鉄道建設公団債務および[[本州四国連絡橋公団]]債務の国鉄負担分、北海道・四国・九州の各新会社に対する経営安定化基金原資を合わせた31兆4500億円に上った。さらに民営化にともなう年金負担などの将来費用5兆6600億円を加えた37兆1100億円について、国鉄清算事業団と[[新幹線鉄道保有機構]]、新会社6社([[東日本旅客鉄道|JR東日本]]、[[東海旅客鉄道|JR東海]]、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]、[[日本貨物鉄道|JR貨物]]、[[ソフトバンクテレコム|鉄道通信]]、[[鉄道情報システム]])が承継した。このうち新会社が5兆9300億円、新幹線鉄道保有機構が5兆6300億円を引き継ぎ、残る6割に相当する25兆5200億円について、国鉄清算事業団が引き継いだ<ref name="kaikei">『平成8年度決算検査報告』会計検査院、1998年3月。</ref>。 国鉄清算事業団承継の長期債務償還には、清算事業団に移管された不要の旧国鉄用地の売却益(見込み額7兆7000億円)、[[JR]][[株式]]の売却益など(同1兆1,600億円)、新幹線鉄道保有機構からの貸付金収入(同2兆8,800億円)を充てるとしていたが、当初から13兆7,700億円は財源不足として国民負担とする計画だった。 巨額の債務に対し毎年約1兆円の支払い利息が発生したため、政府は1987年(昭和62年)から年間数百億 - 2,000億円程度の利子支払い補助金を拠出したが、株式市場の低迷および土地価格の下落で、[[バブル景気]]時の見込みはもとより、民営化以前から問題となっていた支払い利息分を超える収入すら得ることができずに毎年多額の損失を計上。さらに借り換え資金の調達額の増加に伴う新たな利払いも増えたために、[[1996年|1996]]([[平成]]8)年度には1日あたり24億円の支払い利息が新たに発生する状況に陥った<ref name="kaikei" />。 このため、元本の処理すらできないまま債務総額は28兆3,000億円に膨張して償還スキームは事実上破綻し、国鉄清算事業団は[[1998年]](平成10年)に解散した。 結局、償還不能となった債務のうち、政府保証付債務24兆2,000億円は、[[1986年]](昭和61年)および[[1988年]](昭和63年)の閣議決定{{Efn|1986年1月28日および1988年(昭和63年)1月26日の閣議決定において「自主財源を充ててもなお残る事業団の債務等については最終的には国において処理する」とされた。}}に基づいて1998(平成10)年度の国の[[一般会計]]に繰り込まれ、郵便貯金特別会計からの特別繰り入れ(2002年度まで)、[[たばこ特別税]]収、一般会計[[日本国債|国債]]費などを財源とした、国民負担による債務処理が現在も継続中である<ref>『日本国有鉄道清算事業団の財務調査結果の概要』総務庁行政監察局、1999年12月27日。</ref>。<!--債務処理が終了するのは60年後の[[2057年]]{{要出典|date=2012年2月}}で、--> 各年度末における政府保証付国鉄長期債務残高の推移の概要は次の通りである。 {| class="wikitable" style="margin:1em; font-size:95%" ! colspan="2" | 年度 !残高 |- |2006年度([[2007年]]=平成19年=3月末) |民営化20年後 |20兆9,964億円<ref>『平成18年度日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律に定める施策の実施の状況に関する報告』国土交通省鉄道局、2008年1月。</ref> |- |2011年度([[2012年]]=平成24年=3月末) |民営化25年後 |18兆6,432億円<ref name="saimu">『[https://www.mlit.go.jp/common/000988313.pdf 平成23年度日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律に定める施策の実施の状況に関する報告]』国土交通省鉄道局、2013年2月。</ref> |- |2016年度([[2017年]]=平成29年=3月末) |民営化30年後 |17兆6,570億円<ref name="saimu2">『[https://www.mlit.go.jp/common/001221002.pdf 平成28年度日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律に定める施策の実施の状況に関する報告]』国土交通省鉄道局、2018年2月。</ref> |- |2021年度([[2022年]]=令和4年=3月末) |民営化35年後 |15兆5,678億円<ref name="saimu3">『[https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001584026.pdf 令和3年度日本国有鉄道清算事業団の債務等の処理に関する法律に定める施策の実施の状況に関する報告]』国土交通省鉄道局、2023年2月5日。</ref> |} いっぽう、年金等負担分4兆1,000億円については国鉄清算事業団の土地、株式などの資産を承継した[[日本鉄道建設公団]]が、特例業務として資産売却収入と国庫補助金で負担することになった。のち[[2003年]](平成15年)の日本鉄道建設公団の[[独立行政法人]]化に伴い、現在は独立行政法人[[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が負担を継続している。 == 歴代の総裁 == {| class="wikitable" style="margin:1em; font-size:95%" |- !代!!style="width:6em;"|氏名!!style="width:16em;"|就任期間!!辞任理由・備考 |- |1||[[下山定則]]||[[1949年]][[6月1日]] - 1949年[[7月6日]]||[[下山事件]]で急逝 |- |2||[[加賀山之雄]]||1949年[[9月24日]] - [[1951年]][[8月24日]]||[[桜木町事故]]で引責辞任 |- |3||[[長崎惣之助]]||1951年[[8月25日]] - [[1955年]][[5月19日]]||[[紫雲丸事故#5度目の事故|紫雲丸事故]]で引責辞任 |- |4||[[十河信二]]||1955年[[5月20日]] - [[1960年]]5月19日||[[東海道新幹線]]建設費問題で2期目の任期満了に伴い退任 |- |5||[[石田礼助|石田禮助]]||1960年5月20日 - [[1969年]][[5月26日]]||高齢により[[勇退]] |- |6||[[磯崎叡]]||1969年[[5月27日]] - [[1973年]][[9月21日]]||「[[マル生運動]]」の違法性指摘・現場混乱を受け辞任 |- |7||[[藤井松太郎]]||1973年[[9月22日]] - [[1976年]][[3月5日]]||スト権奪還ストに対する対応の責任を取り辞任 |- |8||[[高木文雄]]||1976年[[3月6日]] - [[1983年]][[12月1日]]||国鉄再建に関して政府の圧力を受け辞任 |- |9||[[仁杉巌]]||1983年[[12月2日]] - [[1985年]][[6月24日]]||国鉄独自の再建案の責任を取り辞任 |- |10||[[杉浦喬也]]||1985年[[6月25日]] - [[1987年]][[3月31日]]||[[運輸省]]から送り込まれた最後の国鉄総裁 |} == 労働組合 == 日本国有鉄道職員局労働課によれば、[[労働組合]]の組合員数は以下の通り。 {| class="wikitable" style="font-size:95%; margin:1em" |+ 労働組合 加入者数 <ref>{{Cite report|和書|title=日本国有鉄道労働運動史 : 資料 第32集(昭和51年) |author=日本国有鉄道職員局労働課 |date=1980 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション |doi=10.11501/12171357}}</ref><ref>{{Cite report|和書|title=日本国有鉄道労働運動史 : 資料』第36集(昭和55年) |author=日本国有鉄道職員局労働課 |date=1984 |pulbisher=国立国会図書館デジタルコレクション |doi=10.11501/12171520 }}</ref>(単位:人) ! colspan=2 style="width:20em" | !! 結成日 ! style="width:12em"| 1976年(昭和51年) ! style="width:12em"| 1980年(昭和55年) |- |{{rh}} rowspan=2 | [[日本労働組合総評議会|総評系]] || [[国鉄労働組合]] || 1947年(昭和22年)6月5日 | style="text-align:right" | 246,342 || style="text-align:right" | 255,443 |- | [[国鉄動力車労働組合]] || 1951年(昭和26年)5月23日 || style="text-align:right" | 46,298 || style="text-align:right" | 47,660 |- |{{rh}}| [[全日本労働総同盟|同盟系]] || [[鉄道労働組合]] || 1968年(昭和43年)10月20日 | style="text-align:right" | 66,554 || style="text-align:right" | 51,697 |- |{{rh}} rowspan=6| その他 || 国鉄労働協議会 || 1969年(昭和44年)11月10日 | style="text-align:right" | 3 || {{n/a}} |- | 全国鉄施設労働組合 || 1971年(昭和46年)4月27日 | style="text-align:right" | 5,541 || style="text-align:right" | 3,730 |- | [[全国鉄動力車労働組合]]連合会 || 1974年(昭和49年)3月31日 | style="text-align:right" | 3,075 || style="text-align:right" | 3,076 |- | 日本国有鉄道職員組合 || 1963年(昭和38年)5月26日 | style="text-align:right" | 85 || style="text-align:right" | 92 |- | 国鉄東京電気工事局労働組合 || 1975年(昭和50年)3月1日 | style="text-align:right" | 10 || style="text-align:right" | 7 |- | [[国鉄千葉動力車労働組合]] || 1979年(昭和54年)3月30日 | {{n/a}} || <small>員数を把握できていない</small> |- |{{rh}} colspan=3| 組合員総計 | style="text-align:right" | 368,338 || style="text-align:right" | 361,705 |- |{{rh}} colspan=3| 任意未加入者合計 | style="text-align:right" | 10,817 || style="text-align:right" | 8,876 |} == 関連事業・関連施設 == [[画像:JNR sikoku tokyu nangoku P-LV219Q FHI.jpg|200px|thumb|right|国鉄バス(特急なんごく号)]] [[画像:Rennrakusenn JNRsikoku tosamaru.jpg|200px|thumb|right|国鉄が運営した鉄道連絡船([[宇高連絡船]][[土佐丸]])]] 国鉄またはその関連組織が行っていた鉄道事業以外の事業を下記に挙げる。 === 自動車事業(国鉄バス) === {{main|国鉄バス}} 国鉄の代行・先行・短絡・培養・補完の役割を掲げ、[[バス (交通機関)|乗合・貸切旅客自動車]]事業および貨物自動車事業を行った。国鉄分割民営化時には、地方自動車局(自動車部、自動車管理室)ごとにその地域を管轄する旅客鉄道会社に承継された後、分社化された。 === 船舶事業(鉄道連絡船) === 水域によって隔絶された路線を連絡するため、[[鉄道連絡船]]を運航した。[[青函連絡船|青函]]、[[宇高連絡船|宇高]]、[[宮島連絡船|宮島]]、[[仁堀連絡船|仁堀]]、[[大島連絡船|大島]]、[[関門連絡船|関門]]の6航路が存在し、仁堀、大島、関門の3航路は国鉄時代に廃止、他の3航路はそれぞれJR北海道、JR四国、JR西日本が承継した。 === 鉄道病院 === [[ファイル:広島鉄道病院01.JPG|サムネイル|200x200ピクセル|国鉄分割民営化後、JR西日本の管轄下に置かれたJR広島病院(元広島鉄道病院)]] 大正時代半ばから国鉄職員を対象とした医療施設として鉄道病院が順次開設され、日本国有鉄道発足時に国鉄管轄の[[病院]]となった。国鉄末期の[[1982年]]から[[1987年]]にかけて順次保険医療機関の指定を受けて一般の患者も受け入れ可能になった。また機関区・保線区などが併設されている駅構内に'''鉄道診療所'''が設けられていることがあった。 * 札幌鉄道病院 → [[JR札幌病院]] (JR北海道) * 釧路鉄道病院【廃院】 * 青森鉄道病院【廃院】 * 盛岡鉄道病院【廃院】→ 盛岡鉄道健診センター(JR東日本) * 仙台鉄道病院 → [[JR仙台病院]](JR東日本) * 秋田鉄道病院【廃院】→ 秋田鉄道健診センター(JR東日本) * 山形鉄道病院【廃院】(敷地はJR東日本山形支店の一部になっている) * 水戸鉄道病院【廃院】 * 高崎鉄道病院【廃院】 * 大宮鉄道病院【廃院】 * 千葉鉄道病院【廃院】 * 田端鉄道病院【廃院】 * 中央鉄道病院 → [[JR東京総合病院]](JR東日本) * 新潟鉄道病院 → 新潟鉄道健診センター(JR東日本) * 金沢鉄道病院【1985年(昭和60年)3月31日廃院】→ 金沢健診センター(JR西日本) * 長野鉄道病院【廃院】→ 長野鉄道検診センター(JR東日本) * 静岡鉄道病院【廃院】→ 静岡鉄道健診センター(JR東海) * 名古屋鉄道病院 → JR東海総合病院→[[名古屋セントラル病院]](JR東海) * [[大阪鉄道病院]](JR西日本)※2022年2月現在、「鉄道病院」の名称のまま現存する唯一の鉄道病院 * 大阪鉄道病院梅田分室【廃院】→ 大阪鉄道病院大阪保健管理部(JR西日本) * 大阪鉄道病院新宮分室【1985年(昭和60年)3月31日廃院】 * 姫路鉄道病院【1982年(昭和57年)3月31日廃院】 → 大阪鉄道病院姫路分室診療所【1985年(昭和60年)3月31日廃院】 * 福知山鉄道病院【1955年(昭和30年)3月開院→1983年(昭和58年)3月31日廃院】→福知山総合診療センター【1983年(昭和58年)4月1日開院→1984年(昭和59年)3月31日廃院】→福知山鉄道健診センター(国鉄・JR西日本)【1984年(昭和59年)4月】→【廃院】 * 米子鉄道病院 【廃院】→ 米子健診センター(JR西日本) * [[岡山鉄道病院]](JR西日本)【1991年(平成3年)3月31日廃院】→ 岡山健診センター(JR西日本) * [[広島鉄道病院]](JR西日本)→ [[JR広島病院]](医療法人JR広島病院) * 下関鉄道病院【1956年(昭和34年)11月1日開院→1982年(昭和57年)3月31日廃院】→ 広島鉄道病院下関分室【1982年(昭和57年)4月1日開院】 * 徳島鉄道病院【廃院】 * 四国鉄道病院【廃院】→ 入院設備を廃止して四国旅客鉄道高松診療所(本社横に移転、旧病院跡地は[[高松北警察署]]の新庁舎) * 門司鉄道病院 → JR九州病院(JR九州)→ [[九州鉄道記念病院]](医療法人若葉会) * 熊本鉄道病院【廃院】→ 旧病院跡地は[[熊本朝日放送]] (KAB) 本社ビルになっている * 大分鉄道病院【廃院】 * 鹿児島鉄道病院【廃院】 === プロ野球 === [[1950年]]から[[1965年]]まで、プロ野球球団「'''国鉄スワローズ'''」が存在した。現在の[[東京ヤクルトスワローズ]]の前身にあたる。発足したばかりの日本国有鉄道職員の意識高揚を目的に第2代加賀山総裁が設立に尽力。国鉄法の規制から、国鉄の外郭団体として設立された「国鉄野球株式会社」がチームを保有した。[[日本野球機構]]に加盟し、[[セントラル・リーグ]]に所属していた。チーム名は、球団発足当時の特急の一つであった「'''[[つばめ (列車)|つばめ]]'''」にちなんでいる。 === 鉄道公安職員 === {{main|鉄道公安職員}} 運輸省時代の[[1947年]]に創設。日本国有鉄道発足に合わせて制度が確立された。身分は国鉄職員で、国鉄の鉄道敷地内及び列車内における犯罪や、国鉄の運輸業務に対する犯罪を捜査する権限を持っていた。国鉄分割民営化で廃止され、警視庁及び各道府県警察本部の[[鉄道警察隊]]に改組編入された。 === 国鉄共済組合 === 国鉄共済組合は、国鉄職員および退職者を対象に長期給付事業(年金)、短期給付事業(医療給付)を行った[[共済組合]]。[[1907年]]に'''帝国鉄道庁職員救済組合'''として発足し、その後の官制改正による国鉄所管官庁の改編にともない、'''鉄道院職員救済組合'''([[1908年]]-[[1918年]])、'''鉄道院共済組合'''(1918年-[[1920年]])、'''国有鉄道共済組合'''([[1920年]]-[[1948年]])と改称。国家公務員共済組合法(旧法)施行にともなって1948年7月に'''国鉄共済組合'''に改称した。その後公共企業体職員等共済組合法(廃止、1956年施行)、[[国家公務員共済組合法|国家公務員等共済組合法]](1984年施行)の適用を受けた。 国鉄共済組合は給付事業のほか、共済組合員である国鉄職員向けの保健事業、貯蓄・貸付事業、物資事業、住宅・宅地分譲事業を取り扱った。また全国で旅館業態の「保養所」70か所、ホテル業態の「[[JRホテルグループ#弥生会館|弥生会館]]」9か所(いずれも[[1986年]]現在<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=110704971X01119861024 衆議院会議録・第107回国会 日本国有鉄道改革に関する特別委員会 第11号] 衆議院、1986年10月24日</ref>)を経営した。 このうち、国鉄職員とその家庭に生活物資を供給する「物資事業」を行う国鉄共済組合物資部は「'''国鉄物資部'''」と通称され、国鉄の拠点駅や乗務員・車両基地の構内、職員アパートなどで職員向けの小売店(購買部・配給所)や食堂(食堂部)などを運営した。国有鉄道共済組合時代の[[1944年]]に、物資不足に対応するため物資部が本省部局や鉄道局単位に運営分離された形態を受け継ぎ、国鉄共済組合においても物資部は本社部局および支社、各鉄道管理局ごとに設けられた「支部」単位で運営された。 物資部の各店舗は共済組合員である職員や家族などの関係者に限った利用を建前としていたが、実際には一般客の利用も可能であった。また[[1950年代]]以降の国内小売業界における[[スーパーマーケット]]業態の急速な普及を受け、物資部でも[[1960年代]]から[[1970年代|70年代]]にかけて、一般客の利用が見込める主要駅等の購買部や配給所を構外に設け、「'''国鉄ストア'''」の商号を用いてスーパーマーケットに転換する経営近代化策を全国各地で進めた。このほか、地域の企業・商店が「国鉄物資部指定店」として物資部と契約を結び、国鉄職員に対し共済組合員価格で商品を販売した。 日本国有鉄道改革法等施行法に基づき、1987年4月に旧国鉄職員とJR各社の社員および退職者を対象とする「'''日本鉄道共済組合'''」に改称。のち旧3公社共済組合の[[厚生年金]]統合で、[[1997年]][[4月]]に長期給付事業を[[社会保険庁]]所管の厚生年金に、短期給付および保健事業を新設の「[[ジェイアールグループ健康保険組合]]」にそれぞれ引き継ぎ、その他の事業は廃止またはJR系列企業などに事業譲渡した。現在は厚生年金統合の対象期間外にあたる1956年6月以前の年金事業のみを行っている。 == 国鉄在籍歴がある著名人 == * [[伊藤敏博]](歌手) * [[井上義行]]([[内閣総理大臣]]秘書官) * [[今井泉]](小説家) * [[今井雄太郎]](元[[プロ野球]]選手) * [[太田宏]]([[早稲田大学]]教授) * [[金子満広]](元[[衆議院]]議員) * [[川島信也]](元[[長浜市]]長) * [[河野豊弘]]([[学習院大学]]名誉教授) * [[小林恒人]](元[[衆議院]]議員) * [[三遊亭圓歌 (3代目)|三遊亭圓歌]]([[落語家]]) * [[ストロング小林|ストロング金剛]] (元[[プロレスラー]]、[[タレント]]) * [[澄田信義]](前[[島根県]]知事) * [[田口直人]](前[[十日町市]]長) * [[武井保雄]](実業家) * [[田中要次]](俳優、分割民営化後は[[東海旅客鉄道]]・[[東海鉄道事業本部]]に1990年12月8日まで在籍) * [[谷伍平]](元[[北九州市]]長) * [[寺前巌]](元衆議院議員) * [[永瀬和彦]]([[大学]]教授) * [[西村徳文]](元プロ野球選手・監督) * [[野中広務]](元[[内閣官房長官]]) * [[橋本忍]](脚本家・映画監督) * [[伴野豊]](衆議院議員) * [[平山三郎]](作家) * [[福良淳一]](元プロ野球選手・監督) * [[藤井フミヤ]](ミュージシャン・歌手) * [[細谷英二]](後に、[[東日本旅客鉄道]]副社長を経て、[[りそなホールディングス]]代表執行役会長となる) * [[宮路年雄]](実業家) * 渡辺均([[ワタナベボクシングジム]]会長) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=国鉄経営の在り方についての答申書 |author=日本国有鉄道諮問委員会 |date=1960-05 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション |doi=10.11501/11577572 |ref=harv}} == 関連項目 == {{commonscat|Japanese National Railways}} {{関連項目過剰|date=2023年4月}} {{Columns-list|2| * [[日本の鉄道史]] * [[日本国有鉄道改革法]] * [[日本国有鉄道清算事業団|国鉄清算事業団]] * [[国鉄三大ミステリー事件]] * [[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]] * [[国鉄バス]]([[JRバス]]) * [[鉄道管理局]] * [[鉄道公安職員]] ** [[運輸局]] ** [[鉄道局]] * [[国有企業]] / [[国有鉄道]] * [[形式称号]]{{要曖昧さ回避|date=2016年3月}} * [[国鉄の車両形式一覧]] * [[国鉄色]] * [[三公社五現業]] * [[親方日の丸]] * [[テレビ東京]]([[レール7]]) * [[東京地下鉄#歴史|東京メトロ#歴史]](国鉄民営化時の[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]]国鉄出資分の政府への譲渡) * [[東矢本駅]](国鉄最後にして国鉄の最終日に開業(1987年3月31日)した駅) * [[RAIL WARS! -日本國有鉄道公安隊-]](国鉄分割民営化されなかった、現在の日本という[[パラレルワールド]]を描いた[[ライトノベル]]) * [[国鉄・JR線路名称一覧]] }} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{日本国有鉄道}} {{JR}} {{JRキヨスク}} {{日本の鉄道史}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんこくゆうてつとう}} [[Category:日本国有鉄道|*]] [[Category:国鉄スワローズ|*]] [[Category:かつて存在した日本の公企業]] [[Category:かつて存在した東京都の企業]] [[Category:かつて存在した日本の鉄道事業者]] [[Category:1949年設立の企業]] [[Category:1987年廃止の企業]] [[Category:経営破綻した企業(東京都)]] [[Category:国有鉄道]] [[Category:丸の内の歴史]] [[Category:昭和時代戦後]]
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サーバ
サーバ または サーバー(英: server)は、クライアントと呼ばれるコンピュータやソフトウェアや人のリクエストに応じてデータやサービスを提供するソフトウェアあるいはその機能を果たすコンピュータのことである。 コンピュータ分野のクライアントサーバモデルでは、クライアントからの要求に応じて、データや処理結果などを提供する機能を果たす側のシステムやソフトウェアのこと。本稿ではこの意味で記載する。サーバにはファイルサーバ、メールサーバ、Webサーバなど多数の用途や種類がある。更にサーバ用のコンピュータ機器(ハードウェア)には、多種多様の物が存在する。 複数のコンピュータ(やソフトウェア)の間の関係を「client クライアント、お客 」と「server お仕えする人、奉仕する人」という関係に喩えたものである。 一方のコンピュータやソフトウェアが何らかの要求(リクエスト)を行い、その要求に応えて、まるでお仕えするかのようにデータやデータ処理などのサービスを提供しているシステムなので「server」と呼んでいる。 サーバとは、本来はコンピュータネットワークで使用される分散コンピューティング技術の1つであるクライアントサーバモデルでの用語である。サーバはクライアントからの要求(リクエスト)に応じて、何らかのサービス(処理)を提供する側の機能あるいはシステムである。提供するサービスはサーバの種類によって異なり、例えばファイルサーバであれば保管しているファイル(データ)の提供、プリントサーバであればプリンターへの印刷処理の提供、ウェブサーバであればウェブページを構成するHTMLファイルや画像ファイルなどのデータの提供をするなど、さまざまである。 なお、物理的に1台のコンピュータの中に、例えばFTPサーバとウェブサーバなど複数のサーバが稼働することもあるし、同様にサーバとクライアントの両方の機能が置かれる事もある。また一部のプリントサーバのように、アプライアンスとしてハードウェアの形態で提供されるサーバも存在する。 1980年代のクライアントサーバモデルおよび概念の普及以来、従来は大型コンピュータ、メインフレーム、ミニコンピュータ、オフィスコンピュータなどと呼ばれていた、比較的中型から大型のコンピュータも、オープン標準対応が進展し最初の定義文のような使われ方をされることが増えるにつれ「サーバ」と呼ばれることが増えた。 日本語では「server」をそのままカタカナに音写して使うようになったが、「サーバ」「サーバー」の表記揺れがある。「サーバ」は日本工業標準調査会に由来し伝統的に技術者が用いてきたもので、「サーバー」は国語審議会と一般メディアに由来し、2008年以降のマイクロソフトなどこちらに切り替えた技術者もいる。 1960年代まではメインフレームやオフィスコンピュータに代表される集中処理が行われていた。当時コンピュータは非常に高価で、研究機関や大企業の専門部署にごく限られた数しか存在しなかった。処理能力も(現在と比べれば)貧弱で、多数の利用者が1台のコンピュータの処理能力を分け合っていた。コンピュータ処理の大半は中央の「ホストコンピュータ」側で行われ、「端末」(ターミナル)側は最低限の画面制御(入力チェック、描画等)しか担当しなかった。 1970年代から1990年代にかけて、分散処理に移行していった。コンピュータの性能が向上する一方で価格は下がるダウンサイジングで、サーバ用ホストマシンを目的別に部課単位で手軽に用意できるようになった。同時にワークステーションやパーソナルコンピュータなど高機能な「クライアント」も身近になり、処理の多くを「クライアント」で行い、「サーバはクライアントからの要求を処理する(のみ)」というクライアントサーバモデルが普及した。 1990年代後半から2000年代、インターネットが普及すると、サーバはより身近な存在になった。素人でも自宅サーバやホスティングサーバを利用するようになった。企業のサーバ用ホストマシン利用も進んだ。しかし、サーバ用ホストマシンの乱立は管理上好ましくないため、サーバ機能をデータセンタなどに集約し、1台のホストマシンの中で複数のサーバプログラムを稼働させる仮想化など新しい形態の集中処理が普及した。 2010年代には、クラウドコンピューティングの普及が進んだ。サーバ用ホストマシンはサービス提供者に集約していく可能性がある。業種によっては、クラウドサービスとオンプレミスの使い分けるというサーバ利用形態が一般的となった。また、IoTという新たなトレンドも生まれ、サーバーで処理するデータは今後も増加していくと見られている。 2008年、世界で約810万台、日本で約60万台のサーバ用のホストマシンが出荷された。 2008年に世界で出荷されたサーバ用ホストマシンの2割をマイクロソフト、グーグル、ヤフー、アマゾンの4社が購入したという推計もあった。 サーバソフトウェアは通常、下記のような点に重点を置いている。 サーバ機能を提供する主なソフトウェアの種類には以下がある。 これらサーバ用ソフトウェアは、1台のコンピュータ(ハードウェアやオペレーティングシステム)で複数の種類を稼働させる場合や、ネットワーク上の複数のコンピュータ間で相互に連携する場合がある。また同じ種類のサーバを複数のコンピュータで稼働させてコンピュータ・クラスター構成として、負荷分散やスケーラビリティや障害対策とする場合もある。 サーバ用に使用される主なオペレーティングシステムには以下がある。これらには現在は、上記サーバ機能のいくつかは標準で含まれている。 台数ベースの統計で言うと、(基本的に無料の)Linuxが圧倒的な首位。2位はWindows Serverで、3位はUNIX(なおここでの「UNIX」は統計のための大まかな分類法で、具体的にはHP-UX、AIX、Solarisなどがある。下のリストの「その他」に挙げる)。金額ベースの統計では有料のOSのWindows Serverが首位である。 世界のサーバで、特に使われている台数が多いOSは次の2種 その他 サーバソフトウェアを稼働させることに特化したホストマシンとして販売されているハードウェアは、機種やモデルにもよるが、個人向けコンピュータと比較して以下の特徴がある。 サーバとして販売されるコンピュータ(ハードウェア)には、多種多様の物が存在する。 アーキテクチャによるサーバの分類には以下がある。 上記の分類の他に「大規模な企業向けのサーバ」との意味で「エンタープライズサーバ」との呼称も使われるが、実際のアーキテクチャはメーカーにより異なり、ハイエンドのPCサーバを指す場合、メインフレームやフォールトトレラントコンピュータなど専用のコンピュータを指す場合、それらを総称する場合など、さまざまである。 また以上の他、NASなどのネットワーク・アプライアンスもサーバの分類に含まれる場合がある。 筐体の形状による分類には以下がある。それを、各形状の2019年の市場規模の順に挙げると次のようになる。
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サーバ または サーバーは、クライアントと呼ばれるコンピュータやソフトウェアや人のリクエストに応じてデータやサービスを提供するソフトウェアあるいはその機能を果たすコンピュータのことである。
{{WikipediaPage||m:ウィキメディアのサーバ}} {{Otheruses|クライアントシステムに応じてサービスやデータを提供するソフトウェアやコンピュータ|その他|サーバー (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2021年3月}} {{表記揺れ案内|text=|表記1=サーバ|表記2=サーバー}} [[ファイル:Wikimedia Foundation Servers-8055 35.jpg|thumb|[[ウィキメディア財団]]のサーバ]] '''サーバ''' または '''サーバー'''({{lang-en-short|server}})は、クライアントと呼ばれる[[コンピュータ]]や[[ソフトウェア]]や人のリクエストに応じてデータや[[サービス]]を提供する[[ソフトウェア]]あるいはその機能を果たすコンピュータのことである。 ==概要== [[コンピュータ]]分野の[[クライアントサーバモデル]]では、[[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]からの要求に応じて、データや処理結果などを提供する機能を果たす側のシステムやソフトウェアのこと。本稿ではこの意味で記載する。サーバには[[ファイルサーバ]]、[[メールサーバ]]、[[Webサーバ]]など多数の用途や種類がある。更にサーバ用のコンピュータ機器(ハードウェア)には、多種多様の物が存在する。 ;「サーバ」という表現の由来 複数のコンピュータ(やソフトウェア)の間の関係を「client クライアント、[[顧客|お客]] 」と「server お仕えする人、奉仕する人」という関係に[[比喩|喩えた]]ものである。 一方のコンピュータやソフトウェアが何らかの要求(リクエスト)を行い、その要求に応えて、まるでお仕えするかのようにデータやデータ処理などのサービスを提供しているシステムなので「server」と呼んでいる。 [[File:Server-based-network.svg|thumb|right|200px|サーバは複数のクライアントからの要求に応じてサービスやリソースを提供する。クライアントサーバモデルのイメージ図]] サーバとは、本来は[[コンピュータネットワーク]]で使用される[[分散コンピューティング]]技術の1つである[[クライアントサーバモデル]]での用語である。サーバはクライアントからの要求(リクエスト)に応じて、何らかのサービス(処理)を提供する側の機能あるいはシステムである。提供するサービスはサーバの種類によって異なり、例えば[[ファイルサーバ]]であれば保管しているファイル(データ)の提供、[[プリントサーバ]]であれば[[プリンター]]への印刷処理の提供、[[ウェブサーバ]]であればウェブページを構成するHTMLファイルや画像ファイルなどのデータの提供をするなど、さまざまである。 なお、物理的に1台のコンピュータの中に、例えば[[FTPサーバ]]と[[ウェブサーバ]]など複数のサーバが稼働することもあるし、同様にサーバとクライアントの両方の機能が置かれる事もある。また一部のプリントサーバのように、[[アプライアンス]]としてハードウェアの形態で提供されるサーバも存在する。 1980年代のクライアントサーバモデルおよび概念の普及以来、従来は大型コンピュータ、[[メインフレーム]]、[[ミニコンピュータ]]、[[オフィスコンピュータ]]などと呼ばれていた、比較的中型から大型のコンピュータも、[[オープン標準]]対応が進展し最初の定義文のような使われ方をされることが増えるにつれ「サーバ」と呼ばれることが増えた。 === 表記揺れ === 日本語では「server」をそのままカタカナに音写して使うようになったが、「サーバ」「サーバー」の表記揺れがある。「サーバ」は[[日本工業標準調査会]]に由来し伝統的に技術者が用いてきたもので、「サーバー」は[[国語審議会]]と一般メディアに由来し、2008年以降の[[マイクロソフト]]などこちらに切り替えた技術者もいる<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20180419-617682/ 「サーバー」と「サーバ」、どっちが正解? - 【ビジネス用語】 | マイナビニュース]</ref>。 {{main|長音符#長音符を付ける流儀・付けない流儀}} ==歴史== {{Main|クライアントサーバモデル|分散システム|クラウドコンピューティング}} [[1960年代]]までは[[メインフレーム]]や[[オフィスコンピュータ]]に代表される'''集中処理'''が行われていた。当時コンピュータは非常に高価で、研究機関や大企業の専門部署にごく限られた数しか存在しなかった。処理能力も(現在と比べれば)貧弱で、多数の利用者が1台のコンピュータの処理能力を分け合っていた。コンピュータ処理の大半は中央の「ホストコンピュータ」側で行われ、「[[端末]]」(ターミナル)側は最低限の画面制御(入力チェック、描画等)しか担当しなかった。 [[1970年代]]から[[1990年代]]にかけて、'''[[分散コンピューティング|分散処理]]'''に移行していった。コンピュータの性能が向上する一方で価格は下がる[[ダウンサイジング]]で、サーバ用ホストマシンを目的別に部課単位で手軽に用意できるようになった。同時に[[ワークステーション]]や[[パーソナルコンピュータ]]など高機能な「クライアント」も身近になり、処理の多くを「クライアント」で行い、「サーバはクライアントからの要求を処理する(のみ)」という[[クライアントサーバモデル]]が普及した。 1990年代後半から[[2000年代]]、[[インターネット]]が普及すると、サーバはより身近な存在になった。素人でも[[自宅サーバ]]や[[ホスティングサーバ]]を利用するようになった。企業のサーバ用ホストマシン利用も進んだ。しかし、サーバ用ホストマシンの乱立は管理上好ましくないため、サーバ機能を[[データセンタ]]などに集約し、1台のホストマシンの中で複数のサーバプログラムを稼働させる[[仮想化]]など新しい形態の集中処理が普及した。 [[2010年代]]には、[[クラウドコンピューティング]]の普及が進んだ。サーバ用ホストマシンはサービス提供者に集約していく可能性がある。業種によっては、クラウドサービスと[[オンプレミス]]の使い分けるというサーバ利用形態が一般的となった<ref>[https://home.jeita.or.jp/upload_file/20170605110014_wN8E7Z1XDj.pdf ITプラットフォーム市場動向 及び2016年度サーバ出荷実績]</ref>。また、[[IoT]]という新たなトレンドも生まれ、サーバーで処理するデータは今後も増加していくと見られている。 [[2008年]]、世界で約810万台、日本で約60万台のサーバ用のホストマシンが出荷された<ref name="cloud">{{Cite web|和書 |author=中田 敦 |url=https://xtech.nikkei.com/it/article/OPINION/20090327/327297/ |title=“雲”の中にサーバーは何台あるか |date=2009-3-30 |publisher=IT Pro |accessdate=2010年1月11日 }}</ref>。 2008年に世界で出荷されたサーバ用ホストマシンの2割を[[マイクロソフト]]、[[グーグル]]、[[Yahoo!|ヤフー]]、[[Amazon.com|アマゾン]]の4社が購入したという推計もあった<ref name="cloud" />。 {|class=wikitable |+サーバ用ホストマシン保有台数<ref name="cloud" /> !事業者!!サーバ用ホストマシン保有台数 |- |Amazon||7万〜10万台(推定) |- |Google||300万台(推定) |- |Facebook||3万台<ref>{{Cite web|和書 |author=ZDNet |url=http://japan.zdnet.com/fyi/story/0,3800100774,20401640,00.htm |title=Facebookのサービスを支えるサーバは3万台--幹部のプレゼンであきらかに |date=2009-10-15 |accessdate=2010年1月11日 }}</ref> |} ==ソフトウェア== ===特徴=== サーバソフトウェアは通常、下記のような点に重点を置いている。 *多数のユーザーの同時[[アクセス]]に対応できる、性能とデータ整合性 *[[アカウント]]管理やポリシー管理やログ管理などの、[[セキュリティー]]や対[[監査]]性 *連続稼働に耐える信頼性、[[可用性]]、保守容易性 *将来の変更や拡張が容易な、拡張性 ===種類=== サーバ機能を提供する主なソフトウェアの種類には以下がある。 {|class=wikitable !サーバ !機能 |- |[[データベースサーバ]] |[[データベース]]処理 |- |トランザクションサーバ |[[トランザクション]]処理 |- |[[アプリケーションサーバ]] |[[アプリケーション]]処理(特に {{lang|en|[[Java]]}} アプリケーションサーバ) |- |[[ウェブサーバ]] |[[ウェブ]]アプリケーション処理({{lang|en|[[Apache HTTP Server|Apache]]}}など) |- |[[メールサーバ]] |[[メール]]サービス({{lang|en|[[Sendmail]]}} など) |- |[[FTPサーバ]] |ファイル[[転送]] |- |[[ファイルサーバ]] |[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]共有 |- |[[プリントサーバ]] |[[プリンター]]共有 |- |[[DNSサーバ]] | |- |[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]]サーバ | |- |[[プロキシサーバ]] | |} これらサーバ用ソフトウェアは、1台のコンピュータ(ハードウェアやオペレーティングシステム)で複数の種類を稼働させる場合や、ネットワーク上の複数のコンピュータ間で相互に連携する場合がある。また同じ種類のサーバを複数のコンピュータで稼働させて[[コンピュータ・クラスター]]構成として、[[サーバロードバランス|負荷分散]]や[[スケーラビリティ]]や障害対策とする場合もある。 ===オペレーティングシステム=== サーバ用に使用される主な[[オペレーティングシステム]]には以下がある。これらには現在は、上記サーバ機能のいくつかは標準で含まれている。 台数ベースの統計で言うと、(基本的に無料の)[[Linux]]が圧倒的な首位。2位は[[Windows Server]]で、3位は[[UNIX]]<ref>[https://www.fortunebusinessinsights.com/server-operating-system-market-106601 FORTUNE BUISINESS INSIGHT, SEGMENTATION by Operationg System Analysisの節]。</ref>(なおここでの「UNIX」は統計のための大まかな分類法で、具体的にはHP-UX、AIX、Solarisなどがある。下のリストの「その他」に挙げる)。金額ベースの統計では有料のOSのWindows Serverが首位である。{{Efn|サーバのOSを選ぶ側としては、どれくらいの台数で使われているか知ることが重要であり、台数ベースの統計が重要である。台数ベースの統計でLinuxが圧倒的な首位だと示されている。一方、サーバ用OSの販売やその関連ビジネスで金儲けをしたい会社にとっては、金額(売上)ベースの統計が参考にでき、その統計ではWindows Serverが首位となる。<br /> Linuxは多くのディストリビューションで、server用も含めて基本的に無料でダウンロードしインストールできる。その結果、Linuxは世の中で圧倒的に受け入れられ、台数ベースの統計では圧倒的な首位であっても、金額ベースのグラフではLinuxはかなり小さな割合にしか見えず、Windows Serverのほうが首位のように見える、というカラクリになっている。}} 世界のサーバで、特に使われている台数が多いOSは次の2種 *[[Linux]] ([[FLOSS|フリーかつオープンなソフトウェア]]) *[[Windows Server]]([[マイクロソフト]]) その他 *[[HP-UX]]([[ヒューレット・パッカード|HP]], [[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ|HPE]]) *[[AIX]]([[IBM]]) *[[z/OS]](IBM) *[[IBM i|IBM i (旧称:i5/OS, OS/400)]]  *[[Solaris]] ([[サン・マイクロシステムズ]] → [[オラクル (企業)|オラクル]]) *[[OS2200]]/[[MCP]] ([[ユニシス]]) *[[macOS Server]] ([[Apple]]) *[[OSIV/MSP]]/[[OSIV/XSP]] ([[富士通]]) *[[Advanced Comprehensive Operating System|ACOS]] ([[日本電気]] NEC) *[[VOS3]] ([[日立製作所]]) ==サーバ用ホストマシン== ===特徴=== サーバソフトウェアを稼働させることに特化したホストマシンとして販売されているハードウェアは、機種やモデルにもよるが、個人向けコンピュータと比較して以下の特徴がある。 *性能 : ハイエンドの[[CPU]]を多数(1〜256コアなど)搭載できる他、高速な[[バス (コンピュータ)|バス]]、周辺機器などを備える。 *連続稼働性 : 後述の可用性にも関連するが、業務により求められる24時間365日に近い連続稼働を実現するため、計画停止および計画外停止の時間を最小化するための各種設計が行われている。 *信頼性・[[可用性]]・保守性(RAS) : 個々の部品の信頼性(設計・製造・検査、[[誤り検出訂正]]機能付の[[主記憶装置|メインメモリ]]など)に加え、特定の部品で故障が発生した場合の可用性(重要部品の[[冗長化]]、[[RAID]]など)や、部品の診断や交換が短時間または無停止で行える保守性(各種のログ機能、診断プログラム、[[ホットスワップ]]など)を備える。内部のハードウェアを完全に二重化した[[専用サーバー|専用サーバ]]([[フォールトトレラント設計|フォールトトレラント]]コンピュータ、一部のハイエンドサーバ)の他、通常のサーバを複数使用して[[コンピュータ・クラスター]]を構成する場合も多い。またメーカー側は保守部品の長期保管や、保守契約に応じて24時間365日の緊急出荷体制などを行っている。 *運用管理 : 多数のサーバの稼働状況を遠隔地からも集中管理できる機能が、ハードウェアおよびソフトウェアにて提供されている。管理は[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]ツールの他、遠隔地でも軽くて履歴が残り手順書などに再利用が容易な[[キャラクタユーザインタフェース]]が組み合わされる場合も多い。またネットワークや電話回線経由でメーカーへ障害情報を自動通知できるものもある。 *設備 : 特にデータセンタ用のモデルは、専用の[[19インチラック|ラック]]、電源(200[[ボルト (単位)|V]]、[[無停電電源装置]]など)、空調などを必要とするものが多い。集積度が高いものは、発熱や[[送風機|ファン]]の騒音が大きいものも多く、[[空冷]]の他に[[水冷]]を採用したサーバやラックもある。 ===種類=== サーバとして販売されるコンピュータ(ハードウェア)には、多種多様の物が存在する。 ====アーキテクチャ==== [[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]によるサーバの分類には以下がある。 *[[UNIX]]サーバ - ハードウェアの分類上は、[[CPU]]に[[RISC]]または[[IA-64]]を搭載したUNIX専用サーバを指す場合が多い *[[PCサーバ]](「x86サーバ」「IAサーバ」とも) *[[ミッドレンジコンピュータ|ミッドレンジ]]サーバ([[フォールトトレラント設計|フォールトトレラント]]コンピュータ、[[オフィスコンピュータ]]など) *[[メインフレーム]]サーバ 上記の分類の他に「大規模な企業向けのサーバ」との意味で「エンタープライズサーバ」との呼称も使われるが、実際のアーキテクチャはメーカーにより異なり、ハイエンドのPCサーバを指す場合、[[メインフレーム]]や[[フォールトトレラント設計|フォールトトレラント]]コンピュータなど専用のコンピュータを指す場合、それらを総称する場合など、さまざまである。 また以上の他、[[ネットワークアタッチトストレージ|NAS]]などの[[ネットワーク・アプライアンス]]もサーバの分類に含まれる場合がある。 ====筐体の形状==== 筐体の形状による分類には以下がある。それを、各形状の2019年の市場規模<ref>[https://www.grandviewresearch.com/industry-analysis/server-market]</ref>の順に挙げると次のようになる。 ; ブレード型 : ブレードと呼ばれる薄いサーバをシャーシと呼ばれる筐体に複数差し込む形態のサーバである。詳しくは[[ブレードサーバ]]を参照。 ; マイクロサーバ :ブレードサーバ風のカートリッジに搭載された複数の省電力サーバ[[ノード (ネットワーク)|ノード]]がシャーシに密に詰め込まれたものであり、複数のマイクロサーバでネットワーク・電力・冷却機能を共有する<ref>[https://japan.zdnet.com/article/35048424/ ZDNET, 『今さら聞けない、「マイクロサーバって何?」」』</ref>。 ; ラックマウント型 : インターネットデータセンター等に設置されているサーバ用のラック([[19インチラック]])にマウントするのに適した形状のサーバである。ラックサーバとも呼ばれる。詳細は[[ラックマウント型サーバ]]を参照。 ; タワー型(ペディスタル型) : 机や床などに据え置きするタイプのサーバで、タワー型PCと同様な形をしている。大きさは[[PC/AT互換機]]のミニタワーサイズから冷蔵庫大サイズまで様々ある。 ===市場シェア=== {|class="wikitable" style="text-align:center" |+世界市場(各1〜12月、出荷金額) |- !||colspan="2"|2020年<ref>[https://www.idc.com/getdoc.jsp?containerId=prUS47529021 Worldwide Server Market Revenue Grew 1.5% Year Over Year in the Fourth Quarter of 2020, According to IDC]</ref> !colspan="2"|2019年<ref>[https://www.idc.com/getdoc.jsp?containerId=prUS46132420 Worldwide Server Market Revenue Grew 7.5% Year Over Year in the Fourth Quarter of 2019, According to IDC]</ref> !colspan="2"|2018年<ref>[https://www.idc.com/getdoc.jsp?containerId=prUS44905719 Worldwide Server Market Revenue Increased 12.6% Year Over Year in the Fourth Quarter of 2018, According to IDC]</ref> |- !||メーカー||%||メーカー||%||メーカー||% |- |1||[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ|HPE]]||16.3||HPE||18.7||HPE||18.4 |- |2||[[Dell]]||15.7||Dell||17.8||Dell||17.5 |- |3||[[:en:Inspur|Inspur]]||9.1||IBM||8.3||IBM||13.0 |- |4||[[IBM]]||6.8||Inspur||6.6||Lenovo||5.3 |- |5||[[ファーウェイ|Huawei]]||5.6||[[レノボ|Lenovo]]||6.2||[[シスコ・システムズ|Cisco]]||5.1 |- |6 - ||その他||21.0||その他||22.4||その他||20.2 |} {|class="wikitable" style="text-align:center" |+日本市場(各1〜12月、出荷金額) |- !||colspan="2"|2020年<ref>[https://www.idc.com/getdoc.jsp?containerId=prJPJ47567321 2020年国内サーバー市場動向を発表 - IDC Japan]</ref> |- !||メーカー||% |- |1||[[富士通]]||23.9 |- |2||[[日本電気|NEC]]||23.0 |- |3||[[ヒューレット・パッカード・エンタープライズ|HPE]]||14.0 |- |4||[[Dell]]||9.2 |- |5||[[IBM]]||8.5 |- |6 -||その他||21.4 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist}} ==関連項目== *[[仮想化]] *[[サーバロードバランス]] *[[サーバファーム]] *[[PCサーバ]] *[[自宅サーバ]] *[[ブレードサーバ]] *[[バーチャル・プライベート・サーバ]] *[[クラウドコンピューティング]] ==外部リンク== {{Wiktionary|サーバー}} {{Computer sizes}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さあは}} [[Category:サーバ|*]] [[Category:コンピュータネットワーク]] [[Category:コンピュータの形態]]
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立川駅
立川駅(たちかわえき)は、東京都立川市曙町二丁目に所在する、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 立川市における中心駅であり、かつ多摩地域の総人口400万人を誇る。その最大級のターミナル駅である。「かいじ」「あずさ」「富士回遊」や「はちおうじ・おうめ」などの特急列車も全て停車する。 当駅周辺は北口を中心に全国有数規模の繁華街が広がっている。南口には飲食店が集積しており、歓楽街のような雰囲気をもつ。当駅北側の立川飛行場(立川基地)の跡地再開発や多摩都市モノレール線の開業により、駅周辺はもともと多摩地域の中心都市であった八王子を凌ぐ商業集積地へと発展した。それに伴い利用者数も増加を続け、多摩地域においてはJR東日本八王子支社管内のJR駅の中で最も利用者数が多い(多摩地域における複数の鉄道事業者の利用者数も合算した場合、横浜支社管内の町田駅が最も多い)。 JR東日本の中央本線・青梅線・南武線の3路線が乗り入れている。このうち、中央本線は当駅の所属線であり、当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される(運転形態の詳細については該当記事を参照のこと)。また、大月・甲府方面へ向かう中距離列車の運転区間の東端となっている。 青梅線は一部電車が中央線新宿・東京方面への直通運転が行われているほか、拝島から合流する五日市線の一部電車も当駅まで乗り入れる。また、中央本線の国立から国立支線経由で武蔵野線へ直通する「むさしの号」も乗り入れている。 当駅には中央線・青梅線にJC 19、南武線にJN 26の駅番号が設定されている。 JR以外の路線への乗り換えとして、当駅西側を多摩都市モノレール線が縦断しており、立川北駅および立川南駅と接続している。 島式ホーム4面8線および、貨物線・留置線・引き上げ線4線を有する地上駅。中央線は2面4線であり、青梅線直通列車とでは同一ホームで乗り換えが可能である。2008年3月15日ダイヤ改正で「スーパーあずさ」の一部列車(後述)と、同一車両で運行する「中央ライナー」(月曜日の17日から運行)が停車するようになったため、中央線上下本線の3・6番線ホームの有効長は12両編成分となった。他のホームは青梅線用の1・2番線が10両編成分、中央線待避線の4・5番線が11両編成分、南武線用のホームが6両編成分である。 JR中央線と青梅線当駅 - 青梅駅間は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどにオレンジ帯の電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのためオレンジ帯の電車が停車する1・2・4・5番線は、ホームの12両編成対応改築工事や信号設備改良・構内配線の一部変更などが実施される。 立川営業統括センター管内の直営駅(駅長配置)であり、管内には直営駅(いずれも駅長配置)として府中本町駅と東所沢駅が、委託駅としては中央線の西国分寺駅、国立駅、青梅線の西立川駅、南武線の西国立駅 - 分倍河原駅、南多摩駅 - 矢野口駅、武蔵野線の北府中駅と新小平駅 - 新座駅があり、これらすべての駅を管理する。なお、当駅の駅長が立川営業統括センター長を兼任する。 (出典:JR東日本:駅構内図) 「スーパーあずさ」の一部が2008年3月15日から、「あずさ」と「かいじ」全列車が2005年12月10日から停車するようになった。また、「成田エクスプレス」は八王子駅に乗り入れる1・5・50・52号が停車する。なお、2012年3月17日実施のダイヤ改正から、「スーパーあずさ」は最速達列車の上り14号、下り19号を除き全列車が当駅に停車。2019年3月ダイヤ改正から、当駅通過の特急「あずさ」は下り11号(新宿11時発)・上り12号(松本10時発)に変更され、旧来の上り14号・下り19号は当駅に停車する形となった。また同日運転開始した「富士回遊」も、臨時列車を含めてあずさ17・18号以外全列車停車である。2022年3月12日のダイヤ改正により、特急列車は全列車停車となった。尚、臨時特急は全列車停車化には含まない。 南北自由通路を挟んで、東側の従来からのコンコースと西側のエキュート立川に分かれている。 東側は広いコンコースを持ち、東改札とグランデュオ改札につながっている。各ホームとを連絡するエレベーターや上下エスカレーターも完備しているほか、売店などが立地する。 西側はエキュート立川(改札内・改札外の双方に立地)となっていて、飲食店などが出店し、西改札と南改札につながっている。7・8番線以外のホームとを連絡する上下エスカレーターも設置されている。 2007年9月30日に西改札口が供用を開始し、これまでの改札を東改札口とした。さらに同年10月5日にはエキュート立川のオープンと同時に西側コンコースの南側に南改札口が供用を開始し、翌2008年4月からは南改札口の正面(エキュート内)から直接多摩都市モノレール立川南駅方面のデッキに出られるようになった。 また、かつては駅の西側に乗り換え専用跨線橋があったが、エキュート立川の中に移動している。なお、移転後、西改札口完成前の一時期は乗り換え専用通路として使用された。 後述するが、当駅には多くの乗客が利用するにもかかわらず、以前は改札口が2か所(現在の東改札とグランデュオ改札)しかなく、各ホームからコンコースへの階段も1組2本ずつのみだったために、混雑が著しかった。このため、「立川駅ステーションルネッサンス」として、自由通路西側に人工地盤を設置しての増床、みどりの窓口と旅行カウンターの機能を複合した新びゅうプラザおよび総合案内カウンターの開設、改札口・トイレ・階段・エスカレーターの増設、駅ナカ商業施設「エキュート立川」の開業、南北自由通路の改修などの大規模な駅舎改良工事を行った。 エキュート開業に先立ち、2007年9月9日に新しいびゅうプラザを開設し、同月30日に西改札の供用開始と発着番線の表示変更が行われ、同年10月5日にはエキュート立川の第1期部分が開業し、同時に南改札口の供用を開始した。エキュート立川は大宮駅・品川駅に続く最大規模の駅ナカ商業施設で、場所は南北自由通路と乗り換え専用跨線橋(改札口設置でコンコース化)との間で、各ホームを覆う形である。エキュートとしては初めて脱「駅ナカ」を目指し、乗降客に加えて近隣住民の利用を見込み、駅周辺まで商圏を広げる脱「駅ナカ」戦略の試験ケースとするものである。そのため、同じ「エキュート」という名前の施設が改札内・改札外に立地している。開発面積は約11,500m(II期開業時、ホテル部除く)で、先に開業していた大宮・品川の2倍強である。ホーム上の空間を利用して、改札内およびそれと連絡する2階部分とその上の3階が主な店舗スペースとなっている。4階には通勤客の利便性を考慮して保育所やクリニックを設けている(クリニックのみ2008年6月2日に開業)。さらに2008年10月7日には第2期部分の開業として駅南口に面した複合ビルが完成し、1 - 4階に店舗が、4 - 12階にJR系列のホテルメッツ立川が開業した。その後、2009年2月11日には、東改札内に、エキュート立川のショッピングゾーンである「T-tee ecute」が開業した。 しかし、乗降人員の増加が著しく南北自由通路の混雑が解消しないため、安全性・利便性・回遊性の向上を目的として、立川駅西側新自由通路が2016年8月4日に供用開始された。これは、JR東日本が事業主体となり立川市と国も費用負担して、駅西側(モノレール高架下)に南北のペデストリアンデッキを結ぶ形で建設されたもので、新設された北改札が接続しているほか、商業施設や広場も設けられた。また、同日の新自由通路の供用をきっかけに、エキュート立川が、「エキュート立川 osoto」(独立店舗棟)、「エキュート立川」(改札外)、「エキュート立川 エキナカWEST」(改札内西改札側)、「エキュート立川 エキナカEAST」(改札内東改札側)の4つのえらへの分類がなされた。 その後、2019年5月10日には、日本郵便、JR東日本、タリーズコーヒーが連携した「JJ+T」がエキュート立川の3階に開業した。 主な駅弁は下記の通り。 近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。 駅周辺は東京でも有数の商業地・繁華街として発展しており、その規模は多摩地域最大である。北口を中心に百貨店・ファッションビル・専門店などが集積している。南口は飲食店を中心とした歓楽街になっている。立川駅は多摩地域における商業・交通の中心地として機能している。吉祥寺、町田、八王子と合わせて多摩地域の4大商業地であり、北多摩・西多摩地区の拠点である。駅の北側には大規模な立川飛行場(かつては在日アメリカ軍の基地)が位置しており、現在は返還され、跡地の一部は立川広域防災基地・昭和記念公園・ファーレ立川などの大規模な公共施設・商業施設に再開発された。 北口(2階部分)を出ると駅前広場である。駅前広場を覆うようにペデストリアンデッキがあり、伊勢丹などの百貨店に直結するとともに多摩都市モノレールの立川北駅やファーレ立川方面へも通じている。また、駅前広場の地上部分(デッキ下)はバスターミナルである。モノレールの開通や北口の再開発が始まってから利用者が増えたため、休日になると構内のデッキにつながる通路は混雑を呈する。駅周辺は中・高層のビル街。 南口も、北口と同様に各ビルとペデストリアンデッキで結ばれている。1990年代の駅前は東武ストア マインの商業ビル(現在は閉店し、別テナント)以外は目立ったビルなどなく反対側の北口と比べて開発が遅れていたものの、2000年代以降には多摩モノレール(立川南駅)開通や新しいビルなどもオープンして、賑わっている。2008年4月にエキュート立川と南口デッキが直結した。WINSや各種公共施設の多い南東方面には、飲食店を中心に商店が多い。 北口・南口から立川バス・西武バス・京王バスによって市内や近隣の市町へ多数のバス路線が運行されている。各駅までを結ぶ路線の他、住宅地域や団地、郊外の各種拠点までの輸送を担っている。多摩都市モノレールの開通による利用者の流出や、路線の改廃、道路の拡幅・改良、自動車使用の傾向変化に伴って周辺道路の渋滞が少なくなったことにより、運行の定時性は向上している。 ペデストリアンデッキ下のバスターミナルへの集約が進んだため、以前に比較して雨天時などでもスムーズな乗り換えが可能になった。特に南口乗り場は従来は駅から離れた場所に設置されていたが、自由通路出入口の直前に面積も広げて新設されたため、利便性が向上している。北口の14 - 16番乗り場は、以前と変わらず駅前通りの歩道上に設置されている。 また、北口からは羽田空港や成田空港への空港連絡バスや軽井沢・草津温泉方面への高速バス、京都・大阪・神戸・鳥羽方面への夜行高速バスも運行されている。 立川バスは、多摩都市モノレールが開業するまでは下記以外にも福生駅(福生市)、南街(東大和市・2020年現在も運行している西武バス「南街」行とは別ルート)、国学院大学(八王子市)、北野(埼玉県所沢市)、そして短距離路線であった東緑川(立川市内)などへの路線が存在していたが、いずれも多摩都市モノレール全線開通までに廃止された。また、モノレールと路線が重複している西武拝島線玉川上水駅以北への路線は開業時に整理・減便され、芋窪(東大和市・西武バスと都営バスの停留所とは別位置)行は系統自体が短縮(立川駅 - 玉川上水間廃止)された。村山団地を結ぶバスも朝夕の便のみ立川直通となっており、昼は玉川上水で分断された(ただし、玉川上水経由イオンモール行きが村山団地南部を通る)。 武蔵村山市や瑞穂町方面への路線もかつて砂川七番経由だったが、米軍立川基地跡地の再開発に伴い国立病院(国立病院機構災害医療センター)や立川警察署を経由し、中央南北線を走行するルートに変更されている。 拝島・瑞穂両営業所廃止と福生営業所開設に伴うダイヤ改正に伴い立川駅発着の路線では、拝島操車場(旧拝島営業所)行きの一部は牛浜駅入口まで延伸されているほか、村山団地線の立川玉川上水駅間の昼間廃止、玉川上水駅分断と玉川上水経由イオンモール行きの開設、砂川三番経由イオンモール行きの増発等が行われた。 西武バスは、2020年現在、久米川駅行、東村山駅西口行、イオンモール行など多数の路線が運行されている。以前、西武球場前経由所沢駅行(現・所沢駅西口)が定期運行され、その後西武球場前行に短縮されて野球開催時の運転となっていた。これも短縮の上、多摩都市モノレールの上北台駅発着に変更されていたが、2014年西武プリンスドーム発の便が立川駅北口に乗り入れるようになり、2015年7月には、立川駅北口発西武プリンスドーム行きが立川バスとの共同運行と玉川上水駅乗り入れの上復活した。立川バス共々立川駅から所沢市乗り入れの復活である。また、2011年11月19日からは土・日曜、休日のみだが三井アウトレットパーク入間への直行バスを立川バスとの共同運行の上運行を開始し、立川バス共々立川駅から埼玉県入間市への乗り入れを開始した。 京王バスは、立65・立66が運行されている。2018年までは立65高幡不動駅行のみが通常中型車で運行されていた。廃止まで立73として乗り入れていた日野駅へは、高幡不動駅行きが立64から立65へ改変した際に市民センターふれあいホール経由で乗り入れている。かつては日野橋付近の渋滞に巻き込まれることが多かったが、日野バイパスの完成により、定時性は高くなっている。2018年以降はほとんどが立66の日野駅行きに変更され、立65高幡不動駅行きは夜間1本のみとなった。かつて府中駅へ行く立62、甲州街道経由で日野駅へ行く立73があったが廃止された。 都営バス(東京都交通局)は、1985年まで八王子駅北口行(立73系統)が運行されていたが、慢性的な交通渋滞などによって路線は廃止、管轄の八王子支所も閉所された。廃止後は京王バスの立73・日50系統が運行されている。立73は2015年3月29日をもって廃止された。 2010年5月14日からは、青梅線終電後の帰宅に対応するため、西東京バスにより河辺駅北口行「深夜ご帰宅バス」が運行されている。西東京バス営業エリア外の拝島駅以東は無停車である。 なお、立70・立71系統は立川バスと西武バスの共同運行となっている。 北口のルミネ東側に、立川バス・西武バスの案内所が設置されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "立川駅(たちかわえき)は、東京都立川市曙町二丁目に所在する、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "立川市における中心駅であり、かつ多摩地域の総人口400万人を誇る。その最大級のターミナル駅である。「かいじ」「あずさ」「富士回遊」や「はちおうじ・おうめ」などの特急列車も全て停車する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "当駅周辺は北口を中心に全国有数規模の繁華街が広がっている。南口には飲食店が集積しており、歓楽街のような雰囲気をもつ。当駅北側の立川飛行場(立川基地)の跡地再開発や多摩都市モノレール線の開業により、駅周辺はもともと多摩地域の中心都市であった八王子を凌ぐ商業集積地へと発展した。それに伴い利用者数も増加を続け、多摩地域においてはJR東日本八王子支社管内のJR駅の中で最も利用者数が多い(多摩地域における複数の鉄道事業者の利用者数も合算した場合、横浜支社管内の町田駅が最も多い)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "JR東日本の中央本線・青梅線・南武線の3路線が乗り入れている。このうち、中央本線は当駅の所属線であり、当駅を含む区間は、運行系統上は「中央線」と案内される(運転形態の詳細については該当記事を参照のこと)。また、大月・甲府方面へ向かう中距離列車の運転区間の東端となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "青梅線は一部電車が中央線新宿・東京方面への直通運転が行われているほか、拝島から合流する五日市線の一部電車も当駅まで乗り入れる。また、中央本線の国立から国立支線経由で武蔵野線へ直通する「むさしの号」も乗り入れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "当駅には中央線・青梅線にJC 19、南武線にJN 26の駅番号が設定されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JR以外の路線への乗り換えとして、当駅西側を多摩都市モノレール線が縦断しており、立川北駅および立川南駅と接続している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "島式ホーム4面8線および、貨物線・留置線・引き上げ線4線を有する地上駅。中央線は2面4線であり、青梅線直通列車とでは同一ホームで乗り換えが可能である。2008年3月15日ダイヤ改正で「スーパーあずさ」の一部列車(後述)と、同一車両で運行する「中央ライナー」(月曜日の17日から運行)が停車するようになったため、中央線上下本線の3・6番線ホームの有効長は12両編成分となった。他のホームは青梅線用の1・2番線が10両編成分、中央線待避線の4・5番線が11両編成分、南武線用のホームが6両編成分である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "JR中央線と青梅線当駅 - 青梅駅間は、2020年代前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどにオレンジ帯の電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのためオレンジ帯の電車が停車する1・2・4・5番線は、ホームの12両編成対応改築工事や信号設備改良・構内配線の一部変更などが実施される。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "立川営業統括センター管内の直営駅(駅長配置)であり、管内には直営駅(いずれも駅長配置)として府中本町駅と東所沢駅が、委託駅としては中央線の西国分寺駅、国立駅、青梅線の西立川駅、南武線の西国立駅 - 分倍河原駅、南多摩駅 - 矢野口駅、武蔵野線の北府中駅と新小平駅 - 新座駅があり、これらすべての駅を管理する。なお、当駅の駅長が立川営業統括センター長を兼任する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "「スーパーあずさ」の一部が2008年3月15日から、「あずさ」と「かいじ」全列車が2005年12月10日から停車するようになった。また、「成田エクスプレス」は八王子駅に乗り入れる1・5・50・52号が停車する。なお、2012年3月17日実施のダイヤ改正から、「スーパーあずさ」は最速達列車の上り14号、下り19号を除き全列車が当駅に停車。2019年3月ダイヤ改正から、当駅通過の特急「あずさ」は下り11号(新宿11時発)・上り12号(松本10時発)に変更され、旧来の上り14号・下り19号は当駅に停車する形となった。また同日運転開始した「富士回遊」も、臨時列車を含めてあずさ17・18号以外全列車停車である。2022年3月12日のダイヤ改正により、特急列車は全列車停車となった。尚、臨時特急は全列車停車化には含まない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "南北自由通路を挟んで、東側の従来からのコンコースと西側のエキュート立川に分かれている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "東側は広いコンコースを持ち、東改札とグランデュオ改札につながっている。各ホームとを連絡するエレベーターや上下エスカレーターも完備しているほか、売店などが立地する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "西側はエキュート立川(改札内・改札外の双方に立地)となっていて、飲食店などが出店し、西改札と南改札につながっている。7・8番線以外のホームとを連絡する上下エスカレーターも設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年9月30日に西改札口が供用を開始し、これまでの改札を東改札口とした。さらに同年10月5日にはエキュート立川のオープンと同時に西側コンコースの南側に南改札口が供用を開始し、翌2008年4月からは南改札口の正面(エキュート内)から直接多摩都市モノレール立川南駅方面のデッキに出られるようになった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、かつては駅の西側に乗り換え専用跨線橋があったが、エキュート立川の中に移動している。なお、移転後、西改札口完成前の一時期は乗り換え専用通路として使用された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "後述するが、当駅には多くの乗客が利用するにもかかわらず、以前は改札口が2か所(現在の東改札とグランデュオ改札)しかなく、各ホームからコンコースへの階段も1組2本ずつのみだったために、混雑が著しかった。このため、「立川駅ステーションルネッサンス」として、自由通路西側に人工地盤を設置しての増床、みどりの窓口と旅行カウンターの機能を複合した新びゅうプラザおよび総合案内カウンターの開設、改札口・トイレ・階段・エスカレーターの増設、駅ナカ商業施設「エキュート立川」の開業、南北自由通路の改修などの大規模な駅舎改良工事を行った。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "エキュート開業に先立ち、2007年9月9日に新しいびゅうプラザを開設し、同月30日に西改札の供用開始と発着番線の表示変更が行われ、同年10月5日にはエキュート立川の第1期部分が開業し、同時に南改札口の供用を開始した。エキュート立川は大宮駅・品川駅に続く最大規模の駅ナカ商業施設で、場所は南北自由通路と乗り換え専用跨線橋(改札口設置でコンコース化)との間で、各ホームを覆う形である。エキュートとしては初めて脱「駅ナカ」を目指し、乗降客に加えて近隣住民の利用を見込み、駅周辺まで商圏を広げる脱「駅ナカ」戦略の試験ケースとするものである。そのため、同じ「エキュート」という名前の施設が改札内・改札外に立地している。開発面積は約11,500m(II期開業時、ホテル部除く)で、先に開業していた大宮・品川の2倍強である。ホーム上の空間を利用して、改札内およびそれと連絡する2階部分とその上の3階が主な店舗スペースとなっている。4階には通勤客の利便性を考慮して保育所やクリニックを設けている(クリニックのみ2008年6月2日に開業)。さらに2008年10月7日には第2期部分の開業として駅南口に面した複合ビルが完成し、1 - 4階に店舗が、4 - 12階にJR系列のホテルメッツ立川が開業した。その後、2009年2月11日には、東改札内に、エキュート立川のショッピングゾーンである「T-tee ecute」が開業した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、乗降人員の増加が著しく南北自由通路の混雑が解消しないため、安全性・利便性・回遊性の向上を目的として、立川駅西側新自由通路が2016年8月4日に供用開始された。これは、JR東日本が事業主体となり立川市と国も費用負担して、駅西側(モノレール高架下)に南北のペデストリアンデッキを結ぶ形で建設されたもので、新設された北改札が接続しているほか、商業施設や広場も設けられた。また、同日の新自由通路の供用をきっかけに、エキュート立川が、「エキュート立川 osoto」(独立店舗棟)、「エキュート立川」(改札外)、「エキュート立川 エキナカWEST」(改札内西改札側)、「エキュート立川 エキナカEAST」(改札内東改札側)の4つのえらへの分類がなされた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、2019年5月10日には、日本郵便、JR東日本、タリーズコーヒーが連携した「JJ+T」がエキュート立川の3階に開業した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "近年の1日平均乗車人員の推移は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "駅周辺は東京でも有数の商業地・繁華街として発展しており、その規模は多摩地域最大である。北口を中心に百貨店・ファッションビル・専門店などが集積している。南口は飲食店を中心とした歓楽街になっている。立川駅は多摩地域における商業・交通の中心地として機能している。吉祥寺、町田、八王子と合わせて多摩地域の4大商業地であり、北多摩・西多摩地区の拠点である。駅の北側には大規模な立川飛行場(かつては在日アメリカ軍の基地)が位置しており、現在は返還され、跡地の一部は立川広域防災基地・昭和記念公園・ファーレ立川などの大規模な公共施設・商業施設に再開発された。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "北口(2階部分)を出ると駅前広場である。駅前広場を覆うようにペデストリアンデッキがあり、伊勢丹などの百貨店に直結するとともに多摩都市モノレールの立川北駅やファーレ立川方面へも通じている。また、駅前広場の地上部分(デッキ下)はバスターミナルである。モノレールの開通や北口の再開発が始まってから利用者が増えたため、休日になると構内のデッキにつながる通路は混雑を呈する。駅周辺は中・高層のビル街。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "南口も、北口と同様に各ビルとペデストリアンデッキで結ばれている。1990年代の駅前は東武ストア マインの商業ビル(現在は閉店し、別テナント)以外は目立ったビルなどなく反対側の北口と比べて開発が遅れていたものの、2000年代以降には多摩モノレール(立川南駅)開通や新しいビルなどもオープンして、賑わっている。2008年4月にエキュート立川と南口デッキが直結した。WINSや各種公共施設の多い南東方面には、飲食店を中心に商店が多い。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "北口・南口から立川バス・西武バス・京王バスによって市内や近隣の市町へ多数のバス路線が運行されている。各駅までを結ぶ路線の他、住宅地域や団地、郊外の各種拠点までの輸送を担っている。多摩都市モノレールの開通による利用者の流出や、路線の改廃、道路の拡幅・改良、自動車使用の傾向変化に伴って周辺道路の渋滞が少なくなったことにより、運行の定時性は向上している。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ペデストリアンデッキ下のバスターミナルへの集約が進んだため、以前に比較して雨天時などでもスムーズな乗り換えが可能になった。特に南口乗り場は従来は駅から離れた場所に設置されていたが、自由通路出入口の直前に面積も広げて新設されたため、利便性が向上している。北口の14 - 16番乗り場は、以前と変わらず駅前通りの歩道上に設置されている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、北口からは羽田空港や成田空港への空港連絡バスや軽井沢・草津温泉方面への高速バス、京都・大阪・神戸・鳥羽方面への夜行高速バスも運行されている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "立川バスは、多摩都市モノレールが開業するまでは下記以外にも福生駅(福生市)、南街(東大和市・2020年現在も運行している西武バス「南街」行とは別ルート)、国学院大学(八王子市)、北野(埼玉県所沢市)、そして短距離路線であった東緑川(立川市内)などへの路線が存在していたが、いずれも多摩都市モノレール全線開通までに廃止された。また、モノレールと路線が重複している西武拝島線玉川上水駅以北への路線は開業時に整理・減便され、芋窪(東大和市・西武バスと都営バスの停留所とは別位置)行は系統自体が短縮(立川駅 - 玉川上水間廃止)された。村山団地を結ぶバスも朝夕の便のみ立川直通となっており、昼は玉川上水で分断された(ただし、玉川上水経由イオンモール行きが村山団地南部を通る)。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "武蔵村山市や瑞穂町方面への路線もかつて砂川七番経由だったが、米軍立川基地跡地の再開発に伴い国立病院(国立病院機構災害医療センター)や立川警察署を経由し、中央南北線を走行するルートに変更されている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "拝島・瑞穂両営業所廃止と福生営業所開設に伴うダイヤ改正に伴い立川駅発着の路線では、拝島操車場(旧拝島営業所)行きの一部は牛浜駅入口まで延伸されているほか、村山団地線の立川玉川上水駅間の昼間廃止、玉川上水駅分断と玉川上水経由イオンモール行きの開設、砂川三番経由イオンモール行きの増発等が行われた。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "西武バスは、2020年現在、久米川駅行、東村山駅西口行、イオンモール行など多数の路線が運行されている。以前、西武球場前経由所沢駅行(現・所沢駅西口)が定期運行され、その後西武球場前行に短縮されて野球開催時の運転となっていた。これも短縮の上、多摩都市モノレールの上北台駅発着に変更されていたが、2014年西武プリンスドーム発の便が立川駅北口に乗り入れるようになり、2015年7月には、立川駅北口発西武プリンスドーム行きが立川バスとの共同運行と玉川上水駅乗り入れの上復活した。立川バス共々立川駅から所沢市乗り入れの復活である。また、2011年11月19日からは土・日曜、休日のみだが三井アウトレットパーク入間への直行バスを立川バスとの共同運行の上運行を開始し、立川バス共々立川駅から埼玉県入間市への乗り入れを開始した。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "京王バスは、立65・立66が運行されている。2018年までは立65高幡不動駅行のみが通常中型車で運行されていた。廃止まで立73として乗り入れていた日野駅へは、高幡不動駅行きが立64から立65へ改変した際に市民センターふれあいホール経由で乗り入れている。かつては日野橋付近の渋滞に巻き込まれることが多かったが、日野バイパスの完成により、定時性は高くなっている。2018年以降はほとんどが立66の日野駅行きに変更され、立65高幡不動駅行きは夜間1本のみとなった。かつて府中駅へ行く立62、甲州街道経由で日野駅へ行く立73があったが廃止された。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "都営バス(東京都交通局)は、1985年まで八王子駅北口行(立73系統)が運行されていたが、慢性的な交通渋滞などによって路線は廃止、管轄の八王子支所も閉所された。廃止後は京王バスの立73・日50系統が運行されている。立73は2015年3月29日をもって廃止された。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2010年5月14日からは、青梅線終電後の帰宅に対応するため、西東京バスにより河辺駅北口行「深夜ご帰宅バス」が運行されている。西東京バス営業エリア外の拝島駅以東は無停車である。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、立70・立71系統は立川バスと西武バスの共同運行となっている。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "北口のルミネ東側に、立川バス・西武バスの案内所が設置されている。", "title": "バス路線" } ]
立川駅(たちかわえき)は、東京都立川市曙町二丁目に所在する、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。
{{Otheruses2||近隣の[[多摩都市モノレール]]の駅|立川北駅|立川南駅}} {{混同|西武立川駅|伊予立川駅|x1=同市北西部の|x2=愛媛県の}} {{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=駅}} {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {{駅情報 |社色 = #008000 |駅名 = 立川駅 |画像 = Tachikawa sta N 20210725.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 北口 [[ルミネ]]併設の駅ビル<br />(2021年7月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point |marker=rail|marker2=rail|marker3=rail |coord={{coord|35|41|52.4|N|139|24|50.2|E}}|marker-color=008000|title=立川駅 |coord2={{coord|35|41|58|N|139|24|45|E}}|marker-color2=ff6633|title2=立川北駅 |coord3={{coord|35|41|46.3|N|139|24|45.4|E}}|marker-color3=ff6633|title3=立川南駅 }}左は上から立川北駅、立川南駅 |よみがな = たちかわ |ローマ字 = Tachikawa |所在地 = [[東京都]][[立川市]][[曙町 (立川市)|曙町]]二丁目1-1 |座標 = {{coord|35|41|52.4|N|139|24|50.2|E|region:JP-13_type:railwaystation|display=inline,title}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |電報略号 = タチ |開業年月日 = {{Nowrap|[[1889年]]([[明治]]22年)[[4月11日]]}} |駅構造 = [[地上駅]]([[橋上駅]]) |ホーム = 4面8線<ref name="zeneki46">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =46号 甲府駅・奥多摩駅・勝沼ぶどう郷駅ほか79駅 |date =2013-07-07 |page=21}}</ref> |乗入路線数 = 3 |所属路線1 = {{Color|#0074be|■}}{{Color|#f15a22|■}}[[中央本線]]([[中央線快速|中央線]]) |前の駅1 = JC 18 [[国立駅|国立]] |駅間A1 = 3.0 |駅間B1 = 3.3 |次の駅1 = [[日野駅 (東京都)|日野]] JC 20 |駅番号1 = {{駅番号r|JC|19|#f15a22|1}}<ref group="報道" name="Numbering"/> |キロ程1 = 27.2&nbsp;km([[新宿駅|新宿]]起点)<br />[[東京駅|東京]]から37.5 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#f15a22|■}}[[青梅線]] |前の駅2 = |駅間A2 = |駅間B2 = 1.9 |次の駅2 = [[西立川駅|西立川]] JC 51 |駅番号2 = {{駅番号r|JC|19|#f15a22|1}}<ref group="報道" name="Numbering" /> |キロ程2 = 0.0 |起点駅2 = 立川 |所属路線3 = {{color|#ffd400|■}}[[南武線]] |前の駅3 = JN 25 [[西国立駅|西国立]] |駅間A3 = 1.2 |駅間B3 = |次の駅3 = |駅番号3 = {{駅番号r|JN|26|#ffd400|1}}<ref group="報道" name="Numbering" /> |キロ程3 = 35.5 |起点駅3 = [[川崎駅|川崎]] |乗車人員 = 144,457 |統計年度 = 2022年 |乗換 = [[立川北駅]]・[[立川南駅]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200408015123/https://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|title=●JR線と連絡会社線との乗り換え駅|archivedate=2020-04-08|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道|format=PDF|language=日本語}}</ref><br />([[多摩都市モノレール線]]) |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]](駅長配置駅) * [[みどりの窓口]] 有 * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|北改札に導入<ref name="StationCd=958_231210" />。}}<ref name="StationCd=958_231210" />}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[File:Tachikawa-Sta-S.JPG|thumb|南口(2014年4月)]] '''立川駅'''(たちかわえき)は、[[東京都]][[立川市]][[曙町 (立川市)|曙町]]二丁目に所在する、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の[[鉄道駅|駅]]である。 == 概要 == 立川市における中心駅であり、かつ[[多摩地域]]の総人口400万人を誇る。その最大級の[[ターミナル駅]]である。「[[かいじ (列車)|かいじ]]」「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[富士回遊]]」や「[[はちおうじ・おうめ]]」などの[[特別急行列車|特急列車]]も全て停車する。 当駅周辺は北口を中心に全国有数規模の[[繁華街]]が広がっている。南口には飲食店が集積しており、[[歓楽街]]のような雰囲気をもつ。当駅北側の[[立川飛行場]](立川基地)の跡地再開発や[[多摩都市モノレール線]]の開業により、駅周辺はもともと多摩地域の中心都市であった[[八王子市|八王子]]を凌ぐ商業集積地へと発展した。それに伴い利用者数も増加を続け、多摩地域においては[[東日本旅客鉄道八王子支社|JR東日本八王子支社]]管内のJR駅の中で最も利用者数が多い(多摩地域における複数の鉄道事業者の利用者数も合算した場合、[[東日本旅客鉄道横浜支社|横浜支社]]管内の[[町田駅]]が最も多い)。 === 乗り入れ・接続路線 === JR東日本の[[中央本線]]{{Refnest|group="注釈"|[[東中野駅]]から当駅までは長い直線区間が続き、当駅からは青梅線と袂を分かつように南西方向へとルートを変える。}}・[[青梅線]]・[[南武線]]{{Refnest|group="注釈"|青梅線は当駅が起点、南武線は当駅が終点となる。}}の3路線が乗り入れている。このうち、中央本線は当駅の[[日本の鉄道駅#所属線|所属線]]であり<ref>『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年</ref>、当駅を含む区間は、運行系統上は「[[中央線快速|中央線]]」と案内される(運転形態の詳細については該当記事を参照のこと)。また、[[大月駅|大月]]・[[甲府駅|甲府]]方面へ向かう[[中距離電車|中距離列車]]の運転区間の東端となっている。 青梅線は一部電車が中央線[[新宿駅|新宿]]・[[東京駅|東京]]方面への直通運転が行われているほか、[[拝島駅|拝島]]から合流する[[五日市線]]の一部電車も当駅まで乗り入れる。また、中央本線の[[国立駅|国立]]から国立支線経由で[[武蔵野線]]へ直通する「[[むさしの号]]」も乗り入れている。 当駅には中央線・青梅線に'''JC 19'''<ref group="報道" name="Numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200211041325/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|format=PDF|language=日本語|title=首都圏エリアへ「駅ナンバリング」を導入します 〜2020年東京オリンピック・パラリンピックを見据え、よりわかりやすくご利用いただける駅を目指します〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-04-06|accessdate=2020-06-21|archivedate=2020-02-11}}</ref>、南武線に'''JN 26'''<ref group="報道" name="Numbering" />の[[駅ナンバリング|駅番号]]が設定されている。 JR以外の路線への乗り換えとして、当駅西側を[[多摩都市モノレール線]]が縦断しており、[[立川北駅]]および[[立川南駅]]と接続している。 == 歴史 == [[File:Tachikawa Station.1974.12.jpg|thumb|立川駅周辺の空中写真(1974年12月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1889年]]([[明治]]22年) ** [[4月11日]]:[[甲武鉄道]]新宿 - 当駅間開通と同時に開業。旅客および貨物の取り扱いを開始<ref name="sone05-22">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、22頁</ref>。駅改札は北口のみ。 ** [[8月11日]]:甲武鉄道 当駅 - 八王子間が開通{{R|sone05-22}}。 * [[1894年]](明治27年)[[11月19日]]:青梅鉄道(後の青梅電気鉄道) 立川 - 青梅間開業<ref name="sone 13">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』38号 10頁]]</ref>。 * [[1906年]](明治39年)[[10月1日]]:甲武鉄道の[[鉄道国有法|国有化]]により、[[鉄道省|官設鉄道]]の駅となる<ref name="sone05-23">[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、23頁</ref>。 * [[1909年]](明治42年)[[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により中央東線(1911年から中央本線)の所属となる{{R|sone05-23}}。 * [[1916年]]([[大正]]5年)[[3月3日]]:当駅 - [[多摩川原駅]]間の貨物支線開業。 * [[1929年]]([[昭和]]4年) ** [[6月16日]]:中央線が立川まで電化開通。電車(省線)運転開始。<!-- 届出、帳簿上の日付と実情に差異のある場合がありますが、JRの資料に合わせました。 --> ** [[12月11日]]:[[太平洋不動産|南武鉄道]]、屋敷分(現・[[分倍河原駅|分倍河原]]) - 当駅間開業<ref name="sone 20">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』38号 20頁]]</ref>。 * [[1930年]](昭和5年) ** [[3月25日]]:南口を開設。南武鉄道同時開設の予定が工事が遅れたため<ref>『昭和初期の耕地整理と鉄道網の発達 立川の昭和史 第2集』立川市教育委員会、1999年、255-256頁</ref> ** [[7月13日]]:[[五日市鉄道]]、当駅 - 拝島間開業<ref name="sone 24">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』38号 24頁]]</ref>。 * [[1931年]](昭和6年)[[11月15日]]:南武鉄道 貨物連絡線当駅 - 西立川間開業<ref name="sone 20"/>。 * [[1940年]](昭和15年) ** [[8月17日]]:南武鉄道、連絡線休止<ref name="sone 21">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』38号 21頁]]</ref>(9月1日当駅 - 武蔵上ノ原駅間〈五日市鉄道〉を廃止 (&minus;<!--マイナス-->0.9&nbsp;km))。 ** [[10月3日]]:五日市鉄道が南武鉄道に合併し、同社の五日市線となる<ref name="sone 24"/>。 * [[1944年]](昭和19年) ** [[4月1日]]:南武鉄道と青梅電気鉄道が[[戦時買収私鉄|戦時買収]]により国有化され、南武線、青梅線、五日市線となる<ref name="sone 13"/><ref name="sone 24"/><ref name="sone 21"/>。 ** [[10月11日]]:五日市線 当駅 - 拝島間が[[不要不急線]]として休止され、当駅 - 西立川間の営業を廃止、青梅線の一部となる<ref name="sone 24"/>。 * [[1946年]](昭和21年)[[6月1日]]:当駅 - 多摩川原間の貨物支線休止(実質廃止)。 * [[1949年]](昭和24年)6月1日:[[日本国有鉄道]]発足<ref>[[#sone05|歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR 5号]]、25頁</ref>。 * [[1950年]](昭和25年)10月1日:夕方に東京→青梅間(下り)直通電車運転開始。 * [[1964年]](昭和39年)[[1月4日]]:[[日本の鉄道事故 (1950年から1999年)#立川駅タンク車衝突事故|米軍のタンク車が暴走]]し当駅に衝突、爆発<ref name="sone 14">[[#sone38|『歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR』38号 14頁]]</ref>。焼け跡に第一デパートが建てられた。 * [[1980年]](昭和55年)4月1日:貨物の取り扱いを廃止。 * [[1981年]](昭和56年)4月1日:橋上駅舎化工事のため、仮駅舎と連絡跨線橋の供用開始<ref group="新聞">{{Cite news |title=立川駅仮駅舎と連絡跨線橋 あすから使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1981-03-31 |page=1 }}</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)[[10月2日]]:橋上駅舎化完成<ref group="新聞" name="交通82">{{Cite news |title=ウィル立川がオープン 44番目の国鉄出資ビル 新駅舎も使用開始、北口の核に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1982-10-03 |page=3 }}</ref>。駅ビルWILL(現・ルミネ)開業{{R|交通82|group="新聞"}}。駅ビル建設工事に伴い青梅線降車用の1番線ホームが撤去・欠番となる。南北自由通路供用開始{{R|交通82|group="新聞"}}。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日:[[国鉄分割民営化]]に伴い、東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる<ref name="sone 21"/><ref name="sone 14"/>。 * [[1988年]](昭和63年)12月:改良工事が完成し、中央快速線の待避線(5・6番線)から上下線双方への折り返しが可能になる<ref>『鉄道ピクトリアル』796号、48頁。</ref>。 * [[1992年]]([[平成]]4年)[[12月14日]]:[[自動改札機]]を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1993-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '93年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-114-7}}</ref>。 * [[1998年]](平成10年)[[11月27日]]:多摩都市モノレール立川北駅が開業。 * [[1999年]](平成11年) ** [[10月24日]]:南武線ホームに8番線新設。旧8番線を9番線に改称。南武線ホームの番線名なしだった貨物線側を整備したもの。 ** [[12月4日]]:特急「[[成田エクスプレス]]」高尾駅発着列車の運行開始。上下1往復停車。 * [[2000年]](平成12年)[[1月10日]]:多摩都市モノレール、立川北 - [[多摩センター駅|多摩センター]]間延伸開業(立川南駅開設、接続開始)。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-27|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2005年]](平成17年)[[12月10日]]:この日のダイヤ改正で「あずさ」が全停車。 * [[2007年]](平成19年) ** [[9月30日]]:ホーム番線の変更。2 - 9番線から1 - 8番線に改称。これにより1番線の呼称が復活、9番線の呼称が消滅。西改札口を新設。同時に従来の改札口は東改札口となる。 ** [[10月5日]]:エキュート立川が開業(第I期)。同時に南改札口を新設<ref group="報道" name="press/20070703">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2007_1/20070703.pdf|title=立川駅が生まれ変わります 〜『ecute(エキュート)立川』が10月5日(金)Ⅰ期開業〜|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/JR東日本ステーションリテイリング|date=2007-07-03|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200412033930/https://www.jreast.co.jp/press/2007_1/20070703.pdf|archivedate=2020-04-12}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年) ** [[3月15日]]:一部の「スーパーあずさ」が停車するようになる(それまでは全列車通過)。 ** [[10月7日]]:エキュート立川が増床開業(第II期)、同時に[[ホテルメッツ|ホテルメッツ立川]]も開業<ref group="報道" name="press/20080701">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2008/20080701.pdf|title=JR立川駅がより便利に快適に進化します 〜立川駅ステーションルネッサンス 10月7日(火)開業〜|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/日本ホテル/JR東日本ステーションリテイリング|date=2008-07-02|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200412034104/https://www.jreast.co.jp/press/2008/20080701.pdf|archivedate=2020-04-12}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[3月14日]]:「スーパーあずさ」が最速列車1往復を除き、全列車が停車するようになる。 * [[2016年]](平成28年)[[8月4日]]:西側自由通路が開通し、エキュート立川がリニューアル。同時に北改札口を新設<ref group="報道" name="press/20160617_info01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20160617/20160617_info01.pdf|title=2016年8月4日(木) 立川駅が新たに生まれ変わります! 独立店舗棟『エキュート立川 osoto』を新設、エキュート立川リニューアルオープン 〜地場野菜を使用したカフェや物販ショップを新たに展開〜|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/JR東日本ステーションリテイリング|date=2016-06-17|accessdate=2020-04-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200412034353/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20160617/20160617_info01.pdf|archivedate=2020-04-12}}</ref>。 * [[2019年]]([[令和]]元年) ** [[5月10日]]:エキュート立川3階にて、「JJ+T」が開業<ref group="報道" name="press/20190415">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190415.pdf|title=日本郵便、JR東日本、タリーズコーヒーが連携し、くらしづくりをワンストップで実現するエリア「JJ+T」を2019年5月10日、エキュート立川に開業します|format=PDF|publisher=日本郵便/東日本旅客鉄道/タリーズコーヒージャパン|date=2019-04-19|accessdate=2020-03-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200318092856/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190415.pdf|archivedate=2020-03-18}}</ref>。同時に駅ナカシェアオフィス「STATION WORK」のブース型「STATION BOOTH」が実証実験として開業<ref group="報道" name="press/20190415" />。 ** [[8月1日]]:「STATION BOOTH」が本格開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190705.pdf|title=駅ナカシェアオフィス事業「STATION WORK」を本格開始します 〜東京駅・新宿駅・池袋駅・立川駅よりスタート、順次拠点開業〜|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-07-03|accessdate=2020-03-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200318090418/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190705.pdf|archivedate=2020-03-18}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年)[[11月30日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref name="information20210826">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=958|title=駅の情報(立川駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-08-26|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210826123427/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=958|archivedate=2021-08-26}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** [[2月1日]]:「駅たびコンシェルジュ立川」が開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2021/hachioji/20211217_hc02.pdf|title=JR東日本 駅たびコンシェルジュ立川を開業します|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社/びゅうトラベルサービス|date=2021-12-17|accessdate=2021-12-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211217064240/https://www.jreast.co.jp/press/2021/hachioji/20211217_hc02.pdf|archivedate=2021-12-17}}</ref>。 ** 3月12日:ダイヤ改正により、特急「あずさ・かいじ」が全列車停車となる。 == 駅構造 == [[島式ホーム]]4面8線および{{R|zeneki46}}、貨物線・留置線・[[引き上げ線]]4線を有する[[地上駅]]。中央線は2面4線であり、青梅線直通列車とでは同一ホームで乗り換えが可能である。[[2008年]]3月15日ダイヤ改正で「[[あずさ (列車)|スーパーあずさ]]」の一部列車(後述)と、同一車両で運行する「[[中央ライナー・青梅ライナー|中央ライナー]]」(月曜日の17日から運行)が停車するようになったため、中央線上下本線の3・6番線ホームの[[有効長]]は12両編成分となった。他のホームは青梅線用の1・2番線が10両編成分、中央線待避線の4・5番線が11両編成分、南武線用のホームが6両編成分である。 JR中央線と青梅線当駅 - 青梅駅間は、[[2020年代]]前半(2021年度以降の向こう5年以内)をめどにオレンジ帯の電車に2階建てグリーン車を2両連結させ12両編成運転を行う。そのためオレンジ帯の電車が停車する1・2・4・5番線は、ホームの12両編成対応改築工事や信号設備改良・構内配線の一部変更などが実施される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190924030537/https://www.jreast.co.jp/press/2014/20150203.pdf|format=PDF|language=日本語|title=中央快速線等へのグリーン車サービスの導入について|publisher=東日本旅客鉄道|date=2015-02-04|accessdate=2020-04-21|archivedate=2019-09-24}}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324011255/https://www.sankei.com/smp/economy/news/170324/ecn1703240001-s1.html|title=JR東日本、中央線のグリーン車計画を延期|newspaper=産経新聞|date=2017-03-24|accessdate=2020-11-29|archivedate=2017-03-24}}</ref>。 立川営業統括センター管内の[[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[駅長]]配置)であり、管内には直営駅(いずれも駅長配置)として[[府中本町駅]]と[[東所沢駅]]が、委託駅としては中央線の[[西国分寺駅]]、[[国立駅]]、青梅線の[[西立川駅]]、南武線の[[西国立駅]] - [[分倍河原駅]]、[[南多摩駅]] - [[矢野口駅]]、武蔵野線の[[北府中駅]]と[[新小平駅]] - [[新座駅]]があり、これらすべての駅を管理する<ref>{{Cite news |title=輸送サービス労組 八王子地本No.046号 |date=2021-10-26|url= https://www.jtsu-e-hachioji.org/_files/ugd/7466df_9c8645a1b7bc4744979bfbb1574e8b18.pdf |accessdate=2023-02-13|format=PDF |publisher=JR 東日本労働組合八王子地方本部}}</ref>。なお、当駅の駅長が立川営業統括センター長を兼任する。 === のりば === <!--方面表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠--> {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |- !1・2 |[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 青梅線・[[五日市線]] |style="text-align:center;"|下り |[[拝島駅|拝島]]・[[青梅駅|青梅]]・[[奥多摩駅|奥多摩]]方面 |一部列車は4・5・6番線 |- !3・4 |rowspan="2"|[[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 |style="text-align:center;"|上り |[[新宿駅|新宿]]・[[東京駅|東京]]方面 |一部列車は5番線 |- ! rowspan="2" |5・6 | style="text-align:center;" rowspan="2" |下り |[[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]・[[甲府駅|甲府]]方面 | rowspan="2" |一部列車は4番線 |- |[[File:JR JC line symbol.svg|15x15ピクセル]] 青梅線・五日市線 |拝島・[[武蔵五日市駅|武蔵五日市]]・青梅・奥多摩方面 |- !7・8 |[[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線 | style="text-align:center;" |上り |[[分倍河原駅|分倍河原]]・[[登戸駅|登戸]]・[[武蔵溝ノ口駅|武蔵溝ノ口]]・[[武蔵小杉駅|武蔵小杉]]方面 | |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/958.html JR東日本:駅構内図]) <gallery> JRE Tachikawa-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年6月) JRE Tachikawa-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年6月) JRE Tachikawa-STA Platform5-6.jpg|5・6番線ホーム(2022年6月) JRE Tachikawa-STA Platform7-8.jpg|7・8番線ホーム(2022年6月) Tachikawa-WiLL.jpg|駅ビルがWiLLだったころのマーク </gallery> === 構内配線図 === <div class="NavFrame" style="border:none;text-align:left;font-size:100%"> <div class="NavHead" style="background:transparent;text-align:left;font-weight:normal"> :{{smaller|※ 青梅短絡線を含む立川駅 - 西立川駅周辺の鉄道配線図(注意:巨大画像表示巾500px)を表示するには、右の [表示] をクリックしてください。}} </div><div class="NavContent"> {{駅配線図 |image = Rail_Tracks_map_JR-E_around_Tachikawa_and_Nishi-Tachikawa_Station.svg |title = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) 立川駅・[[西立川駅]]周辺の鉄道配線略図 |width = 601px |up = [[府中本町駅|府中本町]]・[[登戸駅|登戸]]・<br />[[川崎駅|川崎]]・[[浜川崎駅|浜川崎]] 方面 |up-align="left" |left = [[三鷹駅|三鷹]]・[[新宿駅|新宿]]<br />・[[東京駅|東京]]<br />方面 |left-valign="middle" |right = [[八王子駅|八王子]]・[[高尾駅 (東京都)|高尾]]・<br />[[甲府駅|甲府]]・[[松本駅|松本]]<br />方面 |right-valign="middle" |down = [[拝島駅|拝島]]・[[青梅駅|青梅]]・<br />[[奥多摩駅|奥多摩]]・[[武蔵五日市駅|武蔵五日市]]<br />方面 |down-align="right" |source = 以下を参考に作成<br />* 鈴木文彦「鉄道各線の実態と問題を現地に見る(2) - 南武線・青梅線・五日市線(2)」、鉄道ジャーナル社、<br />『[[鉄道ジャーナル]]』、第34巻3号(通巻第401号) 2000年3月 、77頁。<br />* 井上孝司 『配線略図で広がる鉄の世界 - 路線を読み解く&作る本』<br />ISBN 978-4-7980-2200-0、[[秀和システム]]、2009、139頁 |note = {{smaller|※ オーバークロスする多摩都市モノレール線の配線は省略している。}}}} </div></div> {{-}} * 当駅以西(中央線八王子・高尾方面と青梅線方面)は通常の快速と特別快速は各駅に停車するため、「各駅停車」と案内する。なお、この場合の各駅停車は便宜的なものであり、正式には高尾駅までと青梅線内は全区間快速・特別快速の扱いである。 * 当駅から青梅線方面への列車は1・2・4 - 6番線から発車する。基本的に当駅始発は1・2番線、中央線東京方面からの直通列車は5・6番線から発車する。早朝のみ[[豊田車両センター]]から出庫のため4・5番線を使用する青梅線系統の列車がある。4 - 6番線発の列車は、かつての五日市鉄道および南武鉄道と青梅電気鉄道間の連絡線を通るため、約200mの遠回りとなる。この路線は[[単線]]で、JRにおける正式名称は「青梅第三線」であったが、現在は「[[青梅短絡線]]」が正式名称である。2022年現在、ここを上り方向に通過する定期旅客列車はない。 * [[貨物列車]]のうち、南武線から青梅線に直通する列車は8番線南側の線路から青梅短絡線を走り、逆に青梅線から南武線に直通する列車は[[西立川駅]]で青梅線下り横断後に青梅短絡線を逆走し、8番線南側の線路を通って南武線下りを横断して南武上りに入る。このため、青梅短絡線は双方向通行可能な単線となっている。南武線から中央線八王子方面に直通する列車は、南武上りを横断して、6・7番線間の線路から中央線に出る。これも配線上4 - 6番線から青梅線方面の列車とは同時発車できない。また、中央線八王子方面から南武線に直通する列車は4番線(配線上は5番線も可能)に到着し、中央線の下り本線を横断して南武線に入る。このように配線上制約の多い駅であり、貨物列車は各々1日数本とはいえ、ダイヤ乱れの早期収拾に制限を加えている。なお、{{独自研究範囲|計画中の南武線の高架化工事においてもこれらが改善される予定はない|date=2020-05}}。 * かつては北側に降車専用の(旧)1番線ホームがあり、1線の[[頭端式ホーム]]により当時の2番線ホーム(乗車専用)と共用していたが、[[橋上駅|橋上駅舎]]への改築および駅ビル(WILL→[[ルミネ]])開業に伴い撤去された。その後長らく1番線が欠番となっていたが、[[2007年]][[9月30日]]に改めてホームの番号を1から付番し、1番線ホームのない状態が解消された。 === 特急列車の停車 === 「スーパーあずさ」の一部が2008年3月15日から、「あずさ」と「[[かいじ (列車)|かいじ]]」全列車が[[2005年]]12月10日から停車するようになった。また、「[[成田エクスプレス]]」は八王子駅に乗り入れる1・5・50・52号が停車する。なお、2012年3月17日実施のダイヤ改正から、「スーパーあずさ」は最速達列車の上り14号、下り19号を除き全列車が当駅に停車。2019年3月ダイヤ改正から、当駅通過の特急「あずさ」は下り11号(新宿11時発)・上り12号(松本10時発)に変更され、旧来の上り14号・下り19号は当駅に停車する形となった。また同日運転開始した「富士回遊」も、臨時列車を含めてあずさ17・18号以外全列車停車である。2022年3月12日のダイヤ改正により、特急列車は全列車停車となった。尚、臨時特急は全列車停車化には含まない。 === 駅構内設備 === 南北自由通路を挟んで、東側の従来からのコンコースと西側の[[エキュート]]立川に分かれている。 東側は広いコンコースを持ち、東改札と[[グランデュオ]]改札につながっている。各ホームとを連絡する[[エレベーター]]や上下[[エスカレーター]]も完備しているほか、[[売店]]などが立地する。 西側は[[エキュート]]立川(改札内・改札外の双方に立地)となっていて、飲食店などが出店し、西改札と南改札につながっている。7・8番線以外のホームとを連絡する上下エスカレーターも設置されている。 2007年9月30日に西改札口が供用を開始し、これまでの改札を東改札口とした。さらに同年[[10月5日]]にはエキュート立川のオープンと同時に西側コンコースの南側に南改札口が供用を開始し<ref group="報道" name="press/20070703" />、翌2008年4月からは南改札口の正面(エキュート内)から直接多摩都市モノレール[[立川南駅]]方面のデッキに出られるようになった。 また、かつては駅の西側に乗り換え専用[[跨線橋]]があったが、エキュート立川の中に移動している。なお、移転後、西改札口完成前の一時期は乗り換え専用通路として使用された。 {{columns-list|2| * [[改札|改札口]] - 5か所<ref name="StationCd=958_231210">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=958|title=駅の情報(立川駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-12-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20231210082938/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=958|archivedate=2023-12-10}}</ref> ** 東改札 ** 西改札 ** 北改札 - [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が導入されており、一部時間帯は遠隔対応のため改札係員は不在となる。 ** 南改札 - 終日、改札係員は常駐しない。 ** グランデュオ改札 - 終日、改札係員は常駐しない。 * 南北自由通路 * 西側自由通路 * エキュート立川(詳細は下記の[[#立川駅ステーションルネッサンス]]を参照) * エキュート立川 osoto * [[NewDays]](東改札横・改札外) * NewDays MINI(各ホーム) * 売店(弁当等販売)(東側コンコース) * 立ち食い蕎麦店(東側コンコース - 各ホーム) * ハニーズバー(はちみつ入りジュース販売店。3・4番線ホーム上) ** 以前は同じ位置に[[京阪グループ|京阪系]]の[[ジューサーバー]]があったが、2009年2月末をもって閉店した。 * エレベーター(東側コンコース - 各ホーム) * エスカレーター(各ホーム。ただし、南武線は東側コンコースのみ) * [[便所|トイレ]](東西両コンコース。どちらも多機能トイレ設置) * [[鉄道警察隊]] 立川分駐所 * インフォメーションセンター(東側有人改札カウンター) * [[特別急行券|特急券]]用[[自動券売機]](3・4番ホーム東京寄り) * [[みどりの窓口]]<ref name="StationCd=958_231210" /> * 駅たびコンシェルジュ立川<ref name="StationCd=958_231210" /> * [[指定席券売機]] - 4か所<ref name="StationCd=958_231210" /> ** きっぷうりば ** みどりの窓口内 ** 東改札自動精算機コーナー ** 西改札自動精算機コーナー * 2011年9月30日まではお客様相談室も設置されていた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20110916/20110916_info.pdf|title=立川お客さま相談室の廃止について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2011-09-16|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613065134/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20110916/20110916_info.pdf|archivedate=2020-06-13}}</ref>。 |}} <gallery> JR Tachikawa Station East Gates.jpg|東改札(2019年9月) JR Tachikawa Station West Gates.jpg|西改札(2019年9月) JRE Tachikawa-STA South-Gate.jpg|南改札(2022年6月) JRE Tachikawa-STA Granduo-Gate.jpg|グランデュオ改札(2022年6月) JR Tachikawa Station North Gates.jpg|北改札(2019年9月) </gallery> === 立川駅ステーションルネッサンス === [[File:Ecute Tachikawa.jpg|thumb|エキュート立川]] 後述するが、当駅には多くの乗客が利用するにもかかわらず、以前は改札口が2か所(現在の東改札とグランデュオ改札)しかなく、各ホームからコンコースへの[[階段]]も1組2本ずつのみだったために、混雑が著しかった。このため、「立川駅ステーションルネッサンス」として、自由通路西側に人工地盤を設置しての増床、[[みどりの窓口]]と旅行カウンターの機能を複合した新[[びゅうプラザ]]および総合案内カウンターの開設、改札口・トイレ・階段・エスカレーターの増設、[[駅ナカ]]商業施設'''「エキュート立川」'''の開業、南北自由通路の改修などの大規模な駅舎改良工事を行った。 エキュート開業に先立ち、2007年[[9月9日]]に新しいびゅうプラザを開設し、同月30日に西改札の供用開始と発着番線の表示変更が行われ、同年10月5日にはエキュート立川の第1期部分が開業し、同時に南改札口の供用を開始した<ref group="報道" name="press/20070703" />。エキュート立川は[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]・[[品川駅]]に続く最大規模の駅ナカ商業施設で、場所は南北自由通路と乗り換え専用跨線橋(改札口設置でコンコース化)との間で、各ホームを覆う形である。エキュートとしては初めて脱「駅ナカ」を目指し、乗降客に加えて近隣住民の利用を見込み、駅周辺まで商圏を広げる脱「駅ナカ」戦略の試験ケースとするものである。そのため、同じ「エキュート」という名前の施設が改札内・改札外に立地している{{Refnest|group="注釈"|改札内・改札外にまたがって立地しているからといって改札内の施設を利用する場合で入場券が不要になるわけではない。}}。開発面積は約11,500[[平方メートル|m<sup>2</sup>]](II期開業時、ホテル部除く)で、先に開業していた大宮・品川の2倍強である。ホーム上の空間を利用して、改札内およびそれと連絡する2階部分とその上の3階が主な店舗スペースとなっている。4階には[[通勤]]客の利便性を考慮して[[保育所]]や[[診療所|クリニック]]を設けている(クリニックのみ2008年6月2日に開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/080522/080521_clinic_open.pdf|title=2008年6月2日(月) 駅直結型 複合クリニックが「エキュート立川」4階に開業|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道八王子支社|date=2008-05-22|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200613065113/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/080522/080521_clinic_open.pdf|archivedate=2020-06-13}}</ref>)。さらに2008年[[10月7日]]には第2期部分の開業として駅南口に面した複合ビルが完成し、1 - 4階に店舗が、4 - 12階にJR系列の[[ホテルメッツ|ホテルメッツ立川]]が開業した<ref group="報道" name="press/20080701" />。その後、2009年2月11日には、東改札内に、エキュート立川のショッピングゾーンである「T-tee ecute」が開業した<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090202/090202_t-teeecute_press.pdf|title=2009年2月11日(水・祝)「エキュート立川」がさらにスケールアップ! 〜立川駅東改札内に“T-tee ecute”が誕生します〜|format=PDF|publisher=JR東日本ステーションリテイリング/東日本旅客鉄道|date=2009-02-02|accessdate=2020-06-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612151359/https://www.jreast.co.jp/hachioji/info/090202/090202_t-teeecute_press.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>。 しかし、乗降人員の増加が著しく南北自由通路の混雑が解消しないため、安全性・利便性・回遊性の向上を目的として、立川駅西側新自由通路が2016年8月4日に供用開始された。これは、JR東日本が事業主体となり立川市と国も費用負担して、駅西側(モノレール高架下)に南北の[[ペデストリアンデッキ]]を結ぶ形で建設されたもので、新設された北改札が接続しているほか、商業施設や広場も設けられた<ref>[http://www.city.tachikawa.lg.jp/koho/shise/koho/kohotachikawa/h28/documents/2016071002.pdf タクロス広場、立川駅西側新自由通路、立川駅北改札口] - 広報たちかわ2016年7月10日号</ref><ref group="報道" name="press/20160617_info01" />。また、同日の新自由通路の供用をきっかけに、エキュート立川が、「エキュート立川 osoto」(独立店舗棟)、「エキュート立川」(改札外)、「エキュート立川 エキナカWEST」(改札内西改札側)、「エキュート立川 エキナカEAST」(改札内東改札側)の4つのえらへの分類がなされた<ref group="報道" name="press/20160617_info01" />。 その後、2019年5月10日には、日本郵便、JR東日本、タリーズコーヒーが連携した「JJ+T」がエキュート立川の3階に開業した<ref group="報道" name="press/20190415" />。 == 駅弁 == 主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=536}}</ref>。 {{columns-list|2| * 幕の内弁当 * 横濱中華弁当 * かながわ味わい弁当(季節により内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬) * おべんとう(季節により内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬) * 横濱チャーハン * 横濱ピラフ |}} == 利用状況 == * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''144,457人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: JR東日本管内の駅では[[上野駅]]に次いで第14位。中央線快速の中では[[新宿駅]]、[[東京駅]]に次ぐ第3位であり、多摩地域の駅の中では最も多い。2000年代以降、再開発や多摩都市モノレール開業の影響で利用者数が躍進的に増加し、それまで多摩地域で最も多かった[[吉祥寺駅]]から首位の座を奪った。 近年の1日平均'''乗車'''人員の推移は下表の通りである。 * 年度全体の乗車人員を365(閏日が入る年度は366)で除して一日平均乗車人員を求めている。2012年度以降の定期外と定期の値は、計算で生じた小数点以下の値は'''切り捨てている'''ため、定期外と定期の和は必ずしも合計と一致しない。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="*">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/tn-index.htm 東京都統計年鑑] - 東京都</ref><ref group="*">[https://www.city.tachikawa.lg.jp/shise/toke/nenpo/index.html 統計年報] - 立川市</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="3"|1日平均乗車人員 !rowspan="2"|出典 |- !定期外!!定期!!合計 |- |1989年(平成元年) | || ||110,142 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成元年)]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) | || ||114,800 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成2年)]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) | || ||119,553 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成3年)]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) | || ||121,732 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 東京都統計年鑑(平成4年)]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) | || ||123,488 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 東京都統計年鑑(平成5年)]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) | || ||122,677 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 東京都統計年鑑(平成6年)]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) | || ||123,817 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 東京都統計年鑑(平成7年)]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) | || ||123,310 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 東京都統計年鑑(平成8年)]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) | || ||121,287 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 東京都統計年鑑(平成9年)]</ref> |- |1998年(平成10年) | || ||121,164 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 東京都統計年鑑(平成10年)]}}</ref> |- |1999年(平成11年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref> 126,791 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 東京都統計年鑑(平成11年)]}}</ref> |- |2000年(平成12年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref> 132,672 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成12年)]</ref> |- |2001年(平成13年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref> 140,629 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成13年)]</ref> |- |2002年(平成14年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref> 143,206 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成14年)]</ref> |- |2003年(平成15年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref> 145,697 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成15年)]</ref> |- |2004年(平成16年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref> 147,809 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成16年)]</ref> |- |2005年(平成17年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref> 150,009 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成17年)]</ref> |- |2006年(平成18年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref> 152,974 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成18年)]</ref> |- |2007年(平成19年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref> 156,143 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成19年)]</ref> |- |2008年(平成20年) | || |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref> 158,123 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 東京都統計年鑑(平成20年)]</ref> |- |2009年(平成21年) |71,983||86,084 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref> 158,068 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成21年)]</ref> |- |2010年(平成22年) |70,942||86,575 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref> 157,517 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成22年)]</ref> |- |2011年(平成23年) |69,918||85,950 |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref> 155,868 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成23年)]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2012" />71,057||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2012" />86,410 |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2012">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref> 157,468 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成24年)]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2013" />71,458||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2013" />88,952 |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2013">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref> 160,411 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成25年)]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2014" />73,049||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2014" />87,297 |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2014">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref> 160,347 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成26年)]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2015" />75,073||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2015" />88,830 |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2015">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref> 163,903 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成27年)]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2016" />75,760||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2016" />89,885 |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2016">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref> 165,645 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成28年)]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2017" />75,854||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2017" />91,254 |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2017">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref> 167,108 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成29年)]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2018" />76,624||<ref group="JR" name="jreast-jyousha2018" />91,887 |<ref group="JR" name="jreast-jyousha2018">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref> 168,512 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成30年)]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2019" />74,214||<ref group="JR" name="jreast-jyosha2019" />92,422 |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2019">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref> 166,636 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 東京都統計年鑑(平成31年・令和元年)]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2020" />48,716||<ref group="JR" name="jreast-jyosha2020" />73,316 |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2020">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref> 122,033 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2021" />57,166||<ref group="JR" name="jreast-jyosha2021" />73,654 |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2021">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref> 130,820 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2022" />67,541||<ref group="JR" name="jreast-jyosha2022" />76,916 |<ref group="JR" name="jreast-jyosha2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref> 144,457 | |} == 駅周辺 == 駅周辺は東京でも有数の商業地・[[繁華街]]として発展しており、その規模は多摩地域最大である。北口を中心に[[百貨店]]・[[ファッションビル]]・専門店などが集積している。南口は飲食店を中心とした[[歓楽街]]になっている。立川駅は多摩地域における商業・交通の中心地として機能している。[[吉祥寺駅|吉祥寺]]、[[町田駅|町田]]、[[八王子駅|八王子]]と合わせて[[多摩地域]]の4大商業地であり、[[北多摩郡|北多摩]]・[[西多摩郡|西多摩]]地区の拠点である。駅の北側には大規模な[[立川飛行場]](かつては[[在日米軍|在日アメリカ軍]]の基地)が位置しており、現在は返還され、跡地の一部は[[立川広域防災基地]]・[[国営昭和記念公園|昭和記念公園]]・[[ファーレ立川]]などの大規模な公共施設・商業施設に再開発された。 === 北口 === [[File:Tachikawa Station North-gate Monuments.jpg|thumb|北口ペデストリアンデッキの中央部を吊っている構造物]] [[File:Tachikwa isetan.jpg|thumb|伊勢丹立川店]] 北口(2階部分)を出ると駅前広場である。駅前広場を覆うように[[ペデストリアンデッキ]]があり、伊勢丹などの[[百貨店]]に直結するとともに多摩都市モノレールの立川北駅やファーレ立川方面へも通じている。また、駅前広場の地上部分(デッキ下)は[[バスターミナル]]である。モノレールの開通や北口の[[都市再開発|再開発]]が始まってから利用者が増えたため、休日になると構内のデッキにつながる通路は混雑を呈する。駅周辺は中・高層のビル街。 {{columns-list|2| * [[ルミネ]] 立川店 ** [[東京都]]立川[[旅券|パスポート]]センター * [[立川北駅]]([[多摩都市モノレール]]) * [[伊勢丹立川店]] * [[立川タクロス]]([[第一デパート]]跡地) ** 立川市役所窓口サービスセンター (1階) ** [[ヤマダデンキ|LABI LIFE SELECT立川]] ** [[日本赤十字社]] 立川献血ルーム * 立川[[髙島屋]]SC ** [[ジュンク堂書店]]・[[ニトリ]] ** [[kino cinéma 立川髙島屋S.C.館|kino cinéma{{smaller|(キノシネマ)}}立川髙島屋S.C.館]]<ref>[https://www.kinoshita-group.co.jp/news/2019/04/01_100040.html 映画館「kino cinéma立川髙島屋S.C.館」、6月に開業]([[木下グループ]]:ニュースリリース 2019年4月1日)</ref><ref>[https://kinocinema.jp/tachikawa/ kino cinéma(キノシネマ)立川髙島屋S.C.館]([https://kinocinema.jp/ kino cinéma 公式サイト] 内)</ref> {{smaller|※2019年6月開館、「[[キノフィルムズ#映画館の開設]]」も参照}} * [[シネマシティ|シネマシティ、シネマ・ツー]] * [[パレスホテル立川]] * [[立川市図書館#中央図書館|立川市中央図書館]] * ファーレ立川郵便局 * 立川グランドホテル * 立川リージェントホテル * [[スーパーホテル]]東京・JR立川北口 * [[フロム中武]] * [[ビックカメラ]]立川店 * [[ドン・キホーテ (企業)|MEGAドン・キホーテ]]立川店 * [[イケア|IKEA]]立川 * [[ららぽーと立川立飛]] * [[GREEN SPRINGS]] ** [[TACHIKAWA STAGE GARDEN|立川ステージガーデン]] ** ソラノホテル ** [[多摩信用金庫]]本店 * [[立川競輪場]] * [[立川郵便局]] ** [[ゆうちょ銀行]]立川店 * 立川地方合同庁舎 ** [[関東財務局]]東京財務事務所立川出張所 ** [[東京法務局]]立川出張所 ** [[東京税関]]立川出張所 ** 立川労働基準監督署 ** 立川税務署 ** 立川公共職業安定所(ハローワーク立川) * ハローワーク立川北口駅前JOBぷらっと(立川公共職業安定所分室) * 多摩中小企業振興センター * パークアベニュー * [[国営昭和記念公園]] ** [[関東地方整備局]]国営昭和記念公園事務所 * [[立川広域防災基地]] ** 立川防災合同庁舎 *** [[内閣府]]災害対策本部予備施設 *** [[国土交通省]]甲武営繕事務所 ** [[陸上自衛隊]][[立川駐屯地]] *** [[立川飛行場]] ** [[海上保安庁]]海上保安試験研究センター ** [[東京都庁|東京都]]立川地域防災センター ** [[警視庁]]多摩総合庁舎 ** [[立川警察署|警視庁立川警察署]] ** [[東京消防庁]]立川防災施設 *** 東京消防庁立川消防署 ** [[独立行政法人]][[国立病院機構災害医療センター]] ** [[日本赤十字社]]東京都支部東京都[[赤十字血液センター]]立川事業所 * [[東京都水道局]]多摩水道立川庁舎 ** 多摩水道改革推進本部 * 陸上自衛隊[[東立川駐屯地]] * 学校関係 ** [[東京都立立川国際中等教育学校]] ** [[立川女子高等学校]] ** [[昭和第一学園高等学校]] ** [[学校法人大原学園|大原簿記公務員医療福祉保育専門学校]]立川校本館 ** [[河合塾]]立川校 |}} === 南口 === [[File:Granduo_tachikawa.jpg|thumb|グランデュオ立川]] 南口も、北口と同様に各ビルとペデストリアンデッキで結ばれている。1990年代の駅前は[[東武ストア]] マインの商業ビル(現在は閉店し、別テナント)以外は目立ったビルなどなく反対側の北口と比べて開発が遅れていたものの、[[2000年代]]以降には多摩モノレール(立川南駅)開通や新しいビルなどもオープンして、賑わっている。2008年4月にエキュート立川と南口デッキが直結した。WINSや各種公共施設の多い南東方面には、飲食店を中心に商店が多い。 {{columns-list|2| * 東改札・グランデュオ改札側駅ビル ** [[グランデュオ|グランデュオ立川]] ** サザン(1・2階) * 西改札・南改札側駅ビル ** [[エキュート|エキュート立川]] ** [[JR東日本ホテルメッツ]]立川 * [[立川南駅]](多摩都市モノレール) * [[アレアレア]]1・2 ** ラーメンスクエア ** [[東急ストア]] 立川駅南口店 * 商業ビル ** [[マックスバリュ]]エキスプレス **[[サンドラッグ]] * [[いなげや]]立川南口店 * [[日本中央競馬会]] [[場外勝馬投票券発売所|WINS]]立川 * 立川[[ワシントンホテル (藤田観光)|ワシントンホテル]] * [[オークラニッコーホテルマネジメント|ホテル日航]]立川 東京 * [[石川ボクシングジム立川]] * [[諏訪神社 (立川市柴崎町)|諏訪神社]] * 諏訪の森公園 * [[東京都下水道局]] 流域下水道本部 * [[東京都建設局]] 北多摩北部建設事務所 * [[東京都生活文化スポーツ局|東京都生活文化局]] 多摩[[消費生活センター]] * [[東京都産業労働局]] 農業振興事務所 * [[東京都福祉保健局]] 多摩立川[[保健所]] * 東京都福祉保健局 立川[[児童相談所]] * 東京都福祉保健局 健康安全研究センター 食品監視第二課 * 警視庁 立川少年センター * 学校関係 ** [[東京都立立川高等学校]] ** [[星槎国際高等学校]]立川学習センター ** [[学校法人大原学園|大原簿記公務員医療福祉保育専門学校]] |}} == バス路線 == 北口・南口から[[立川バス]]・[[西武バス]]・[[京王電鉄バス#京王バス|京王バス]]によって市内や近隣の市町へ多数のバス路線が運行されている。各駅までを結ぶ路線の他、住宅地域や団地、郊外の各種拠点までの輸送を担っている。多摩都市モノレールの開通による利用者の流出や、路線の改廃、道路の拡幅・改良、自動車使用の傾向変化に伴って周辺道路の[[渋滞]]が少なくなったことにより、運行の定時性は向上している。 ペデストリアンデッキ下のバスターミナルへの集約が進んだため、以前に比較して雨天時などでもスムーズな乗り換えが可能になった。特に南口乗り場は従来は駅から離れた場所に設置されていたが、自由通路出入口の直前に面積も広げて新設されたため、利便性が向上している。北口の14 - 16番乗り場は、以前と変わらず駅前通りの歩道上に設置されている。 また、北口からは[[東京国際空港|羽田空港]]や[[成田国際空港|成田空港]]への[[リムジンバス|空港連絡バス]]や[[軽井沢町|軽井沢]]・[[草津温泉]]方面への[[高速バス]]、[[京都市|京都]]・[[大阪市|大阪]]・[[神戸市|神戸]]・[[鳥羽市|鳥羽]]方面への夜行高速バスも運行されている。 立川バスは、多摩都市モノレールが開業するまでは下記以外にも[[福生駅]](福生市)、南街(東大和市・2020年現在も運行している西武バス「南街」行とは別ルート)、[[國學院大學|国学院大学]](八王子市)、北野(埼玉県所沢市)、そして短距離路線であった東緑川(立川市内)などへの路線が存在していたが、いずれも多摩都市モノレール全線開通までに廃止された。また、モノレールと路線が重複している[[西武拝島線]][[玉川上水駅]]以北への路線は開業時に整理・減便され、芋窪(東大和市・西武バスと都営バスの停留所とは別位置)行は系統自体が短縮(立川駅 - 玉川上水間廃止)された。村山団地を結ぶバスも朝夕の便のみ立川直通となっており、昼は玉川上水で分断された(ただし、玉川上水経由イオンモール行きが村山団地南部を通る)。 [[武蔵村山市]]や[[瑞穂町]]方面への路線もかつて砂川七番経由だったが、米軍立川基地跡地の再開発に伴い国立病院(国立病院機構災害医療センター)や立川警察署を経由し、[[東京都道153号立川昭島線|中央南北線]]を走行するルートに変更されている。 拝島・瑞穂両営業所廃止と福生営業所開設に伴うダイヤ改正に伴い立川駅発着の路線では、拝島操車場(旧拝島営業所)行きの一部は[[牛浜駅]]入口まで延伸されているほか、村山団地線の立川玉川上水駅間の昼間廃止、玉川上水駅分断と玉川上水経由イオンモール行きの開設、砂川三番経由イオンモール行きの増発等が行われた。 西武バスは、2020年現在、久米川駅行、東村山駅西口行、イオンモール行など多数の路線が運行されている。以前、西武球場前経由[[所沢駅]]行(現・所沢駅西口)が定期運行され、その後西武球場前行に短縮されて野球開催時の運転となっていた。これも短縮の上、多摩都市モノレールの[[上北台駅]]発着に変更されていたが、2014年西武プリンスドーム発の便が立川駅北口に乗り入れるようになり、2015年7月には、立川駅北口発西武プリンスドーム行きが立川バスとの共同運行と玉川上水駅乗り入れの上復活した。立川バス共々立川駅から所沢市乗り入れの復活である。また、[[2011年]][[11月19日]]からは土・日曜、休日のみだが三井アウトレットパーク入間への直行バスを立川バスとの共同運行の上運行を開始し、立川バス共々立川駅から埼玉県入間市への乗り入れを開始した。 京王バスは、立65・立66が運行されている。2018年までは立65高幡不動駅行のみが通常中型車で運行されていた。廃止まで立73として乗り入れていた日野駅へは、高幡不動駅行きが立64から立65へ改変した際に市民センターふれあいホール経由で乗り入れている。かつては日野橋付近の渋滞に巻き込まれることが多かったが、[[日野バイパス]]の完成により、定時性は高くなっている。2018年以降はほとんどが立66の日野駅行きに変更され、立65高幡不動駅行きは夜間1本のみとなった。かつて[[府中駅 (東京都)|府中駅]]へ行く立62、甲州街道経由で日野駅へ行く立73があったが廃止された。 [[都営バス]]([[東京都交通局]])は、[[1985年]]まで[[八王子駅]]北口行([[都営バス八王子支所#立73系統|立73系統]])が運行されていたが、慢性的な交通渋滞などによって路線は廃止、管轄の[[都営バス八王子支所|八王子支所]]も閉所された。廃止後は京王バスの立73・日50系統が運行されている。立73は2015年3月29日をもって廃止された<ref>[http://www.keio-bus.com/news.php?id=783 立73【日野駅〜日野警察署前〜立川駅北口】系統廃止のお知らせ]</ref>。 [[2010年]][[5月14日]]からは、青梅線終電後の帰宅に対応するため、[[西東京バス]]により河辺駅北口行「深夜ご帰宅バス」が運行されている。西東京バス営業エリア外の拝島駅以東は無停車である。 なお、立70・立71系統は立川バスと西武バスの共同運行となっている。 北口のルミネ東側に、立川バス・西武バスの案内所が設置されている。 === 立川駅北口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !1 |rowspan="5" style="text-align:center;"|[[立川バス]] |{{Unbulleted list|[[立川バス福生営業所#立川駅北口 - 武蔵村山市役所 - 箱根ヶ崎駅方面|'''立10-1''']]:[[立川バス瑞穂営業所|岩蔵街道入口]]|[[立川バス福生営業所#立川駅北口 - 武蔵村山市役所 - 三ツ藤・市民会館方面|'''立11-1''']]:三ツ藤住宅|'''立11-2''':武蔵村山市民会館|[[立川バス福生営業所#立川駅北口 - 立川消防署・イオンモールむさし村山方面|'''立13''']]:[[イオンモールむさし村山]]<ref group="注釈" name="aeon-mall">立川バスのバス停名称は「イオンモール」だが、行先表示は西武バスのバス停名称と同じ「イオンモールむさし村山」である。</ref>|'''立12-1'''・'''立12-2'''・'''立13-1'''<ref group="注釈" name="aeon-mall" />:[[箱根ケ崎駅]]東口|[[立川バス上水営業所#立川駅 - 市役所 - 砂川五番 - 玉川上水駅線|'''立90''']]:[[玉川上水駅]]南口}} |&nbsp; |- !2 |{{Unbulleted list|[[立川バス福生営業所#立川駅北口 - 大山団地・西武蔵野循環・東中神北循環|'''立16-2'''・'''立17-2''']]:[[東中神駅]]北口|'''立16-3'''・'''立17-3''':大山団地折返場|[[立川バス上水営業所#立川駅 - 柏町青柳循環線|'''立18-1''']]:玉川上水駅南口|'''立19''':西武蔵野|'''立19-2'''・'''立19-3'''・'''立19-4''':もくせいの杜循環}} |&nbsp; |- !3 |{{Unbulleted list|[[立川バス福生営業所#立川駅北口 - 松中団地方面|'''立14'''・'''立14-2'''・'''立14-3''']]:松中団地操車場|'''立15-3'''・'''立15-5''':[[拝島駅]]北入口|'''立15-5''':拝島駅|[[立川バス福生営業所#立川駅北口 - すずかけ循環線|'''立93''']]:立川駅北口(循環)}} |&nbsp; |- !4 |{{Unbulleted list|[[立川バス上水営業所#立川駅 - 玉川上水駅 - 村山団地線|'''立20-1'''・'''立21'''・'''立21-2''']]:玉川上水駅南口|'''立22'''・'''立23''':村山団地|[[立川バス上水営業所#立川駅 - 玉川上水駅 - イオンモール線|'''立25''']]:イオンモールむさし村山<ref group="注釈" name="aeon-mall" />|'''立25-1''':玉川上水駅南口|[[立川バス上水営業所#立川駅 - 立飛循環|'''立26'''・'''立27''']]・'''立28''':立川駅北口(循環)}} |&nbsp; |- !5 |[[立川バス上水営業所#立川駅・玉川上水駅 - 若葉町団地・武蔵野美術大学線|'''立30''']]:[[武蔵野美術大学]] |&nbsp; |- !6 |rowspan="4" style="text-align:center;"|[[西武バス]] |{{Unbulleted list|[[西武バス立川営業所#立川駅北口 - 東大和市駅 - 南街 - 芝中団地線|'''立39''']]:南街|'''立45''':芝中団地|'''深夜バス''':東大和市駅}} |&nbsp; |- !7 |{{Unbulleted list|[[西武バス小平営業所#立川駅北口 - 東大和市駅 - 久米川駅方面|'''立34''']]:[[久米川駅]]|'''立34-1''':東京街道団地|[[西武バス小平営業所|小平営業所]]}} |&nbsp; |- !8 |{{Unbulleted list|[[西武バス立川営業所#立川駅北口 - 東大和市駅 - 東村山駅西口線|'''立35''']]:[[東村山駅]]西口|'''立36''':奈良橋|[[西武バス立川営業所#立川駅北口 - 東大和市駅 - イオンモールむさし村山線|'''立37''']]:イオンモールむさし村山|[[西武バス立川営業所#その他|'''立41''']]:[[西武バス立川営業所|立川営業所]]}} |&nbsp; |- !9 |[[西武バス立川営業所#立川駅北口 - 幸町団地線|'''立32'''・'''立40''']]:幸町団地 |&nbsp; |- !10 |style="text-align:center;"|立川バス |{{Unbulleted list|[[立川バス福生営業所#立川駅 - 宮沢 - 拝島駅方面|'''立80''']]:[[立川バス拝島営業所|拝島操車場]]|'''立81''':[[昭島駅]]南口|'''立82''':拝島駅|'''立85''':東中神駅|'''立89''':[[牛浜駅]]入口}} |&nbsp; |- !rowspan="2"|11 |style="text-align:center;"|西武バス |[[西武バス立川営業所#立川駅南口 - 立川駅北口線|'''立72''']]:立川駅南口 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西武バス|立川バス}} |'''臨時''':[[西武ドーム|ベルーナドーム]] |一軍公式戦開催日のみ「西武バス」2本、「立川バス」1本が運行。 |- !rowspan="3"|12 |style="text-align:center;"|立川バス |[[立川バス上水営業所#立川駅 - 北町線|'''立53''']]:北町 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[山陽バス]]|[[南海バス]]}} |'''高速夜行''':[[シャルム号|京都・大阪・三宮]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[くるりんバス (立川市)|くるりんバス]] |'''曙ルート''':立川駅北口(循環) |&nbsp; |- !rowspan="3"|13 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[京浜急行バス]]|立川バス}} |'''リムジン''':[[東京国際空港|羽田空港]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[千曲バス]] |'''高速昼行''':[[上田・小諸 - 立川線|軽井沢・草津温泉]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[西武観光バス]]|[[三交伊勢志摩交通]]}} |'''高速夜行''':[[大宮・東京 - 鳥羽・南紀線|四日市・鈴鹿・津・松阪・伊勢・鳥羽]] |&nbsp; |- !rowspan="2"|14 |style="text-align:center;"|[[京王電鉄バス#京王バス|京王バス]] |{{Unbulleted list|[[京王電鉄バス桜ヶ丘営業所#立川駅北口 - 日野橋 - 日野駅・高幡不動駅方面|'''立65''']]:[[高幡不動駅]]|'''立66''':[[日野駅 (東京都)|日野駅]]}} |2023年4月1日のダイヤ改正より、土曜に各一便のみに減便された。 |- |style="text-align:center;"|[[西東京バス]] |'''深夜ご帰宅バス''':[[河辺駅]]北口 |&nbsp; |- !15 |rowspan="3" style="text-align:center;"|立川バス |[[立川バス上水営業所#立川駅 - けやき台団地線|'''立51''']]:けやき台団地 |&nbsp; |- !16 |{{Unbulleted list|[[立川バス上水営業所#音高線・郵政循環|'''国15''']]:[[国立駅]]南口|[[立川バス曙営業所#応現院線|'''立98''']]:玉川上水駅南口}} |「立98」は指定日運行 |- !rowspan="2"|27 |'''高速昼行''':[[御殿場プレミアム・アウトレット]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|立川バス|[[東京空港交通]]|[[成田空港交通]]}} |'''リムジン''':[[成田国際空港|成田空港]] |&nbsp; |} === 立川駅南口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !rowspan="2"|1 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|西武バス|立川バス}} |[[西武バス小平営業所#立川駅南口 - 三井アウトレットパーク入間方面|'''立70(直行)''']]:[[三井アウトレットパーク 入間|三井アウトレットパーク 入間(MOP)]] |季節運行 |- |style="text-align:center;"|西武バス |'''立72''':立川駅北口 |&nbsp; |- !rowspan="2"|2 |style="text-align:center;"|立川バス |[[立川バス福生営業所#立川駅南口 - 富士見町団地方面|'''立71''']]:富士見町操車場 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|西武バス |[[西武バス立川営業所#立川駅南口 - 新道福島線|'''立71''']]:新道福島 |&nbsp; |- !rowspan="3"|3 |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[伊那バス]]|京王バス|立川バス}} |'''高速昼行''':[[飯田駅]]前 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|くるりんバス |'''錦ルート''':立川駅南口(循環) |&nbsp; |- |rowspan="2" style="text-align:center;"|立川バス |{{Unbulleted list|'''国15-1''':国立駅南口|'''立86''':拝島操車場}} |&nbsp; |- !4 |'''国15-2''':国立駅南口 |&nbsp; |} == その他 == * 当駅の名物として「おでんそば・うどん」がある。各ホームの立ち食いそば店「奥多摩そば」で販売されている。 * 中央線ホームには終日駅係員が常駐し、案内放送および乗降終了合図を行なっている。 == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 中央線 :* 特急「[[あずさ (列車)|あずさ]]」「[[かいじ (列車)|かいじ]]」「[[富士回遊]]」[[はちおうじ・おうめ|「はちおうじ」「おうめ」]]「[[成田エクスプレス]]」停車駅 :: {{Color|#ff0066|■}}通勤特快(平日上りのみ) ::: [[国分寺駅]] (JC 16) ← '''立川駅 (JC 19)''' ← [[八王子駅]] (JC 22) :: {{Color|#0033ff|■}}中央特快・{{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ) ::: 国分寺駅 (JC 16) - '''立川駅 (JC 19)''' - [[日野駅 (東京都)|日野駅]] (JC 20) :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「[[ホリデー快速おくたま]]」<!-- おくたまは定期列車扱い -->(土休日のみ)・{{Color|#339966|■}}青梅特快 ::: 国分寺駅 (JC 16) - '''立川駅 (JC 19)''' - (青梅線)[[西立川駅]] (JC 51) :: {{Color|#f15a22|■}}快速(三鷹・武蔵小金井駅発着の「各駅停車」を含む)・{{Color|#6666ff|■}}むさしの号 ::: [[国立駅]] (JC 18) - '''立川駅 (JC 19)''' - 日野駅 (JC 20) :: {{Color|#0074be|■}}普通([[大月駅]]以西直通列車) ::: '''立川駅 (JC 19)''' - 日野駅 (JC 20) ::* むさしの号は、新小平駅 - 国立駅間は[[武蔵野線]]貨物支線を、国立駅 - 当駅間は中央本線を経由する。 : [[File:JR JC line symbol.svg|15px|JC]] 青梅線 :* 特急「おうめ」停車駅 :: {{Color|#0099ff|■}}特別快速「ホリデー快速おくたま」(土休日のみ)・{{Color|#ff0066|■}}通勤特快(平日上りのみ)・{{Color|#339966|■}}青梅特快・{{Color|#990099|■}}通勤快速(平日下りのみ)・{{Color|#f15a22|■}}快速 ::: (中央線国分寺方面) - '''立川駅 (JC 19)''' - [[西立川駅]] (JC 51) :: {{Color|#ffd400|■}}各駅停車 ::: '''立川駅 (JC 19)''' - 西立川駅 (JC 51) : [[File:JR JN line symbol.svg|15px|JN]] 南武線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速 ::: [[分倍河原駅]] (JN 21) - '''立川駅 (JN 26)''' :: {{Color|#ffd400|■}}各駅停車 ::: [[西国立駅]] (JN 25) - '''立川駅 (JN 26)''' == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} ==== 出典 ==== {{Reflist|2}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|2}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ;JRの1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ;JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ;JRの統計データ {{Reflist|group="*"}} ;東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|22em}} == 参考文献 == * {{Cite journal |和書|author=[[曽根悟]](監修) |journal=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR |editor=朝日新聞出版分冊百科編集部(編集) |publisher=[[朝日新聞出版]] |issue=5 |title=中央本線 |date=2009-08-09 |ref=sone05 }} * {{Cite book|和書|author=曽根悟(監修)|authorlink=曽根悟|title=週刊 歴史でめぐる鉄道全路線 国鉄・JR|editor=朝日新聞出版分冊百科編集部|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume=38号 青梅線・鶴見線・南武線・五日市線|date=2010-04-11|ref=sone38}} == 関連項目 == {{commonscat|Tachikawa Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=958|name=立川}} * [https://www.ecute.jp/tachikawa/ エキュート立川] * [https://transfer.navitime.biz/seibubus-dia/pc/diagram/BusCourseSearch?busstopId=00110732 西武バス 時刻表 立川駅北口] * [https://transfer.navitime.biz/seibubus-dia/pc/diagram/BusCourseSearch?busstopId=00110733 西武バス 時刻表 立川駅南口] * [https://www.city.tachikawa.lg.jp/kotsutaisaku/kururinnsaihenn.html 立川市 市民バス(くるりんバス)案内] {{鉄道路線ヘッダー}} {{中央線快速・中央東線}} {{青梅線}} {{南武線}} {{武蔵野線・京葉線|freight=1}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:たちかわ}} [[Category:日本の鉄道駅 た|ちかわ]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:中央線快速|たちかわえき]] [[Category:甲武鉄道の鉄道駅]] [[Category:南武鉄道の鉄道駅]] [[Category:五日市鉄道の鉄道駅]] [[Category:青梅電気鉄道の鉄道駅]] [[Category:青梅線|たちかわえき]] [[Category:南武線|たちかわえき]] [[Category:立川市の鉄道駅]] [[Category:1889年開業の鉄道駅]]
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中部地方
中部地方(ちゅうぶちほう)は、日本の地域の1つで、近代以降における本州中央部の地方。その範囲に法律上の明確な定義はないが、一般的に愛知県名古屋市を最大都市とする地方を指す。 日本列島の中央に位置する。関東地方・東北地方と近畿地方の間に挟まれた地域を指し、これらのいずれにも分類されない地域に対する暫定的な呼び名として明治後期に用いられ始めた。 広義では、七地方区分やそれに類似する範囲を慣用的に指す場合が多いが、狭義(企業・官庁の管轄エリア名など)では、東海地方や中京圏に類似した範囲を指すこともある。 七地方区分では以下の9つの県を含み、さらに日本海に面する北陸地方、内陸部の中央高地(東山地方)、太平洋に面する東海地方の3つの下位区分がある。 中央部に険しい日本アルプスがそびえること、日本の経済・文化の東西の中心地である東京と大阪の中間に位置することから、中部地方は東側と西側でも様々な面で違いがあり、地方としての一体の結びつきは他の地方ほど強くない。大まかにいえば、文化面では糸魚川大井川線、地質や植生ではフォッサマグナが東西の境界となる。 糸魚川浜名湖線から東側は広域関東圏に含まれることがあり、特に東京都に隣接する山梨県は首都圏の一角を占めていて、文化・スポーツ面では、関東ブロックの大会(ex.箱根駅伝)への参加が圧倒的である。加えて、新潟県、長野県も関東地方・東京との結びつきが強いこともあり、山梨県と共に関東甲信越地方と分類されることが多い。他方で名古屋市を中心とする地域では、日本三大都市圏の1つである中京大都市圏が形成されており、経済やメディアで愛知県(名古屋市)と繋がりの強い三重県が東海地方として扱われる例がある。 なお、各県内でも河川の流域や交通事情などによって細かに違いがある(静岡県伊豆地域、三重県伊賀地域、福井県嶺南など)。 前述のように「中部地方」の範囲に対して法律上の明確な定義は存在しないため、慣用的に様々な範囲が用いられている。三重県は地理的な要因では中部地方ではなく近畿地方に含める場合が多い。なお、中部圏開発整備法において法律的に定められた「中部圏」(富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県)については、本項では取り上げない(該当記事を参照)。 以下はその一部。 「中部」の名を冠する国家機関・企業・法人は名古屋に拠点を置きその周囲のエリアを管轄する例が多く、七地方区分と比較してそのエリアは狭い。この場合、新潟県や山梨県など名古屋よりも東京に近いエリアは東京に置かれた拠点の管轄となる例が多い。 本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。 本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。 次のグラフは新潟県・富山県・石川県・福井県・山梨県・長野県・岐阜県・静岡県・愛知県・三重県の人口を合計した。 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人] 年齢5歳階級別人口 平成16年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人] 本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。 中部地方の方言は、次のように分類される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "中部地方(ちゅうぶちほう)は、日本の地域の1つで、近代以降における本州中央部の地方。その範囲に法律上の明確な定義はないが、一般的に愛知県名古屋市を最大都市とする地方を指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本列島の中央に位置する。関東地方・東北地方と近畿地方の間に挟まれた地域を指し、これらのいずれにも分類されない地域に対する暫定的な呼び名として明治後期に用いられ始めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "広義では、七地方区分やそれに類似する範囲を慣用的に指す場合が多いが、狭義(企業・官庁の管轄エリア名など)では、東海地方や中京圏に類似した範囲を指すこともある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "七地方区分では以下の9つの県を含み、さらに日本海に面する北陸地方、内陸部の中央高地(東山地方)、太平洋に面する東海地方の3つの下位区分がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中央部に険しい日本アルプスがそびえること、日本の経済・文化の東西の中心地である東京と大阪の中間に位置することから、中部地方は東側と西側でも様々な面で違いがあり、地方としての一体の結びつきは他の地方ほど強くない。大まかにいえば、文化面では糸魚川大井川線、地質や植生ではフォッサマグナが東西の境界となる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "糸魚川浜名湖線から東側は広域関東圏に含まれることがあり、特に東京都に隣接する山梨県は首都圏の一角を占めていて、文化・スポーツ面では、関東ブロックの大会(ex.箱根駅伝)への参加が圧倒的である。加えて、新潟県、長野県も関東地方・東京との結びつきが強いこともあり、山梨県と共に関東甲信越地方と分類されることが多い。他方で名古屋市を中心とする地域では、日本三大都市圏の1つである中京大都市圏が形成されており、経済やメディアで愛知県(名古屋市)と繋がりの強い三重県が東海地方として扱われる例がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、各県内でも河川の流域や交通事情などによって細かに違いがある(静岡県伊豆地域、三重県伊賀地域、福井県嶺南など)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前述のように「中部地方」の範囲に対して法律上の明確な定義は存在しないため、慣用的に様々な範囲が用いられている。三重県は地理的な要因では中部地方ではなく近畿地方に含める場合が多い。なお、中部圏開発整備法において法律的に定められた「中部圏」(富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県)については、本項では取り上げない(該当記事を参照)。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "以下はその一部。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「中部」の名を冠する国家機関・企業・法人は名古屋に拠点を置きその周囲のエリアを管轄する例が多く、七地方区分と比較してそのエリアは狭い。この場合、新潟県や山梨県など名古屋よりも東京に近いエリアは東京に置かれた拠点の管轄となる例が多い。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "次のグラフは新潟県・富山県・石川県・福井県・山梨県・長野県・岐阜県・静岡県・愛知県・三重県の人口を合計した。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 平成16年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中部地方の方言は、次のように分類される。", "title": "文化" } ]
中部地方(ちゅうぶちほう)は、日本の地域の1つで、近代以降における本州中央部の地方。その範囲に法律上の明確な定義はないが、一般的に愛知県名古屋市を最大都市とする地方を指す。
{{otheruses|日本の地方|ブルキナファソの地方|中部地方 (ブルキナファソ)}} {{Infobox |bodyclass = bordered |abovestyle = background-color:#f96; text-align:center; |above = '''中部地方'''のデータ |headerstyle = background-color: #fc6 |header1 =(三重県を含めた)10県の合計 |label2 = [[国]] |data2 = {{JPN}} |label3 = [[面積]] |data3 = '''72,572.34''' [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] |label4 = [[推計人口]] |data4 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/新潟県|新潟県}} + {{自治体人口/富山県|富山県}} + {{自治体人口/石川県|石川県}} + {{自治体人口/福井県|福井県}} + {{自治体人口/山梨県|山梨県}} + {{自治体人口/長野県|長野県}} + {{自治体人口/岐阜県|岐阜県}} + {{自治体人口/静岡県|静岡県}} + {{自治体人口/愛知県|愛知県}} + {{自治体人口/三重県|三重県}} }}}}'''[[人]]<br />(直近の統計<ref name="pop" group="注釈">統計日は、新潟県が{{自治体人口/新潟県|date}}、富山県が{{自治体人口/富山県|date}}、石川県が{{自治体人口/石川県|date}}、福井県が{{自治体人口/福井県|date}}、山梨県が{{自治体人口/山梨県|date}}、長野県が{{自治体人口/長野県|date}}、岐阜県が{{自治体人口/岐阜県|date}}、静岡県が{{自治体人口/静岡県|date}}、愛知県が{{自治体人口/愛知県|date}}、三重県が{{自治体人口/三重県|date}}。</ref>) |label5 = [[人口密度]] |data5 = '''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/新潟県|新潟県}} + {{自治体人口/富山県|富山県}} + {{自治体人口/石川県|石川県}} + {{自治体人口/福井県|福井県}} + 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[[日本列島]]の中央に位置する。[[関東地方]]・[[東北地方]]と[[近畿地方]]の間に挟まれた地域を指し、これらのいずれにも分類されない地域に対する暫定的な呼び名として明治後期に用いられ始めた<ref name=Nipponika>{{Cite Kotobank|word=中部地方|encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2021-06-28}}</ref>。 広義では、[[日本の地域#主な地域ブロック|七地方区分]]やそれに類似する範囲を慣用的に指す場合が多いが、狭義(企業・官庁の管轄エリア名など)では、[[東海地方]]や[[中京圏]]に類似した範囲を指すこともある。 七地方区分では以下の9つの県を含み、さらに[[日本海]]に面する'''[[北陸地方]]'''、[[内陸]]部の'''[[中央高地]]'''('''[[東山地方]]''')、[[太平洋]]に面する'''[[東海地方]]'''の3つの下位区分がある{{refnest|group=注釈|「中部地方」の項目<ref name="コンサイス地名">[[谷岡武雄]]・[[山口恵一郎]]監修・三省堂編集所編『コンサイス日本地名事典 第3版』([[三省堂]]、1989年12月第3版発行、{{ISBN2|4385153280}})</ref>によれば、「「本州の中央部、[[新潟県|新潟]]・[[富山県|富山]]・[[石川県|石川]]・[[福井県|福井]]・[[山梨県|山梨]]・[[長野県|長野]]・[[岐阜県|岐阜]]・[[静岡県|静岡]]・[[愛知県|愛知]]9県の総称。[[日本の地域|8地方区分]]の一。北陸・東山([[中央高地]])・東海の3地方に区分される」と記されている。}}。 * [[北陸地方]]:[[富山県]]、[[石川県]]、[[福井県]]、([[新潟県]]) * [[中央高地]]:[[山梨県]]、[[長野県]]、[[新潟県]]、[[岐阜県]][[飛騨国|飛騨地方]] * [[東海地方]]:[[静岡県]]、[[愛知県]]、[[岐阜県]][[美濃国|美濃地方]]、([[三重県]][[北勢|北勢地方]]) ; 交通史での用語 * 日本海側:'''[[北陸道]]''' * 内陸側:'''[[東山道]]'''(街道名では'''[[中山道]]''') * 太平洋側:'''[[東海道]]''' 中央部に険しい[[日本アルプス]]がそびえること、日本の[[経済]]・[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の東西の中心地である[[東京都|東京]]と[[大阪府|大阪]]の中間に位置することから、中部地方は東側と西側でも様々な面で違いがあり、地方としての一体の結びつきは他の地方ほど強くない。大まかにいえば、文化面では[[糸魚川大井川線]]、地質や植生では[[フォッサマグナ]]が東西の境界となる。{{refnest|group=注釈|東側・西側に関する内容は「東日本」②③の項目<ref name="コンサイス地名" />。}}<ref>[http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2011/01/05/1234912_003.pdf 中学校学習指導要領解説 社会編 P52] - 文部科学省のウェブサイト</ref><ref>[http://www.u-gakugei.ac.jp/~chiriken/pdf/shakai10.pdf 東京学芸大学 2010 年度重点研究 教員養成課程における「小学校社会科」教育プログラムの開発 報告書 P18] - 東京学芸大学のウェブサイト</ref> 糸魚川浜名湖線から東側は[[広域関東圏]]に含まれることがあり、特に[[東京都]]に隣接する山梨県は[[首都圏 (日本)|首都圏]]の一角を占めていて、文化・スポーツ面では、関東ブロックの大会(ex.[[箱根駅伝]])への参加が圧倒的である。加えて、新潟県、長野県も[[新幹線]]や[[高速道路]]でのアクセスのよい[[関東地方]](東京)との結びつきが強いこともあり、山梨県と共に[[関東甲信越地方]]と分類されることが多い。他方で[[名古屋市]]を中心とする地域では、[[三大都市圏|日本三大都市圏]]の1つである[[中京圏|中京大都市圏]]が形成されており、経済やメディアで愛知県(名古屋市)と繋がりの強い[[三重県]]が[[東海地方]]として扱われることが一般的である(詳しくは「[[東海3県]]」「[[中京圏]]」「[[名古屋都市圏]]」を参照)。 なお、各県内でも河川の流域や交通事情などによって細かに違いがある(静岡県伊豆地域、三重県伊賀地域、福井県嶺南など)。 {{main|三重県#三重県の分類|山梨県#日本の地方区分における位置づけ}} == 範囲 == === 慣用的な「中部地方」の範囲 === {{独自研究|section=1|date=2019年12月14日}} 前述のように「中部地方」の範囲に対して法律上の明確な定義は存在しないため、慣用的に様々な範囲が用いられている。三重県は地理的な要因では中部地方ではなく近畿地方に含める場合が多い<ref>[https://www.pref.mie.lg.jp/KIKAKUK/HP/renkei/09519011959.htm 三重県は中部地方?近畿地方?] 三重県</ref>。なお、[[中部圏開発整備法]]において法律的に定められた「中部圏」(富山県、石川県、福井県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県<ref>[https://www.mlit.go.jp/common/001023859.pdf 中部圏開発整備計画の実施に関する状況] 国土交通省都市局 2014年1月</ref>)については、本項では取り上げない(該当記事を参照)。 以下はその一部。 # 新潟県、富山県、石川県、福井県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県(三重県は[[近畿地方]]に含む{{refnest|group=注釈|「中部地方」の項目<ref name="コンサイス地名" />によれば「[[新潟県|新潟]]・[[富山県|富山]]・[[石川県|石川]]・[[福井県|福井]]・[[山梨県|山梨]]・[[長野県|長野]]・[[岐阜県|岐阜]]・[[静岡県|静岡]]・[[愛知県|愛知]]9県の総称」となっている一方、「近畿」の項目によれば「明治になって、[[畿内]]と周辺の[[近江国|近江]]・[[伊賀国|伊賀]]・[[伊勢国|伊勢]]・[[志摩国|志摩]]・[[紀伊国|紀伊]]・[[丹波国|丹波]]・[[丹後国|丹後]]・[[但馬国|但馬]]・[[播磨国|播磨]]・[[淡路国|淡路]]の各国をまとめてよんだ。畿は都のこと、近畿はすなわち都に近い地方の意」と記され、さらに「[[近畿地方]]」の項目によれば「[[三重県|三重]]・[[滋賀県|滋賀]]・[[京都府|京都]]・[[大阪府|大阪]]・[[兵庫県|兵庫]]・[[奈良県|奈良]]・[[和歌山県|和歌山]]の2府5県の総称。」と定義している。}}。社会科や地理ではこの範囲を示した教科書が多い)<br />[[ファイル:Chubu-region2_Small.png]] # 三重県を含むもの{{要出典|date=2019年12月14日}}<br />[[ファイル:Chubu-region1_Small.png]] # 三重県を含み山梨県を除いたもの(山梨県は[[関東地方]]に含む)<br />[[ファイル:Chubu-region3_Small.png]] # 糸魚川浜名湖線以東の各県(新潟県、山梨県、長野県、静岡県)を除き、三重県を含むもの。この場合、糸魚川浜名湖線以東の各県は「[[広域関東圏|関東甲信越静地方]]1都10県」に含む。 === 法律・計画上の位置づけ === # 中央計画素案・同要綱案<ref name=Ito>{{Cite journal|和書|url=https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00028027 |author=伊藤敏安 |date=2000-12 |title=国土計画からみた地方(その2) |journal=リサーチ中国 : 中国地方の経済と地域開発情報誌 |publisher=中国地方総合研究調査会 |volume=51 |issue=617 |pages=1-17 |naid=120001742006 |accessdate=2022-03-18}}</ref> #* 関東:山梨県 - 静岡県東部 ほか #* 北陸:福島県南部 - 新潟県 - 富山県 - 石川県 - 福井県の一部 - 長野県の一部 - 岐阜県の一部 #* 東海:愛知県 - 静岡県西部 - 三重県の一部 - 岐阜県の一部 - 長野県の一部 #* 近畿:福井県の一部 - 三重県の一部 ほか # 戦時国土計画素案での分類<ref name=Ito/> #* 中部:静岡県 - 愛知県 - 岐阜県 - 三重県 - 富山県 - 石川県 - 福井県 #* 関東:新潟県 - 山梨県 - 長野県 ほか === 「中部」を冠する国家機関・企業・法人の管轄エリア === 「中部」の名を冠する国家機関・企業・法人は[[名古屋市|名古屋]]に拠点を置きその周囲のエリアを管轄する例が多く、七地方区分と比較してそのエリアは狭い。この場合、新潟県や山梨県など名古屋よりも東京に近いエリアは東京に置かれた拠点の管轄となる例が多い。 # [[人事院]]中部事務局 #* 富山県 - 石川県 - 福井県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[公正取引委員会]]中部事務所 #* 富山県 - 石川県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[警察庁]][[中部管区警察局]] #* [[富山県警察|富山県]] - [[石川県警察|石川県]] - [[福井県警察|福井県]] - [[岐阜県警察|岐阜県]] - [[愛知県警察|愛知県]] - [[三重県警察|三重県]] # [[総務省]]中部[[管区行政評価局]] #* 富山県 - 石川県 - 福井県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[公安調査庁]]中部[[公安調査局]] #* 岐阜県 - 愛知県 - 三重県 - 富山県 - 石川県 - 福井県 # [[林野庁]][[中部森林管理局]] #* 富山県 - 長野県 - 岐阜県 - 愛知県 # [[経済産業省]] [[中部経済産業局]] #* 富山県 - 石川県 - 岐阜県 - 愛知県 - 三重県 #** なお、電力事業については静岡県富士川以西および長野県、都市ガス事業については静岡県西部も含む。 # [[国土交通省]][[中部地方整備局]] #* 長野県(南部) - 岐阜県(河川部、木曽川水系・庄内川水系、矢作川水系) - 静岡県(富士川水系を除く) - 愛知県 - 三重県 # 国土交通省[[中部運輸局]] #* 福井県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[国土地理院]]中部地方測量部 #* 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[環境省]][[中部地方環境事務所]] #* 富山県 - 石川県 - 福井県 - 長野県 - 岐阜県 - 愛知県 - 三重県 # [[防衛省]][[近畿中部防衛局]] ・(および[[陸上自衛隊]][[中部方面隊]][[第10師団 (陸上自衛隊)|第10師団]]) #* 富山県 - 石川県 - 福井県 - 岐阜県 - 愛知県 - 三重県 # [[都市再生機構]]中部支社 #* 富山県 - 石川県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県(名張市を除く) # [[日本赤十字社]]中部ブロック(第3ブロック) #* 石川県 - 富山県 - 福井県 - 長野県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[中部電力パワーグリッド]]の管轄 #* 長野県 - 岐阜県(下記一部除く) - 静岡県([[富士川]]以西) - 愛知県 - 三重県(熊野市以南を除く) # [[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]])の中部サービスエリア #* 長野県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[全国知事会]][[中部圏知事会議]]<!-- 中部圏開発整備法とは関連がないため掲載 --> #* 富山県 - 石川県 - 福井県 - 長野県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 - 滋賀県 # [[中部経済連合会]] #* 長野県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 # [[緊急消防援助隊]]の中部ブロック #* 富山県 - 石川県 - 福井県 - 岐阜県 - 静岡県 - 愛知県 - 三重県 ==地理== 本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。 ===気候=== [[File:Toyamaken-top.JPG|thumb|right|200px|[[呉羽山]]からみた<br />冬の[[富山市|富山市街]]と[[立山連峰]]]] ; [[日本海側気候]] * 北陸地方、長野県、岐阜県の[[豪雪地帯]]は世界的に見ても人の生活圏としては珍しい程の豪雪地帯である。 ; [[中央高地式気候]] * 山梨県、長野県(日本海側気候の地域を除く)は寒暖差が烈しく、[[日本アルプス]]を抱える地方である。 ; [[太平洋側気候]] * 静岡県、愛知県などの東海地方は、特に平野部では温暖な気候となる。 ===地形=== ====山脈・山地==== [[File:Geofeatures map of Chubu Japan ja.svg|380px|thumb|中部地方の主要地形]] [[File:Shirane-sanzan.jpg|thumb|200px|[[白峰三山]]と[[赤石山脈]]]] ;主な山脈 {{div col|colwidth=10em}} * [[越後山脈]] * [[三国山脈]] * [[飛騨山脈]] * [[木曽山脈]] * [[赤石山脈]] {{div col end}} ;主な山地 {{div col|colwidth=10em}} * [[両白山地]] * [[関東山地]] * [[朝日山地]] * [[飯豊山地]] * [[御坂山地]] * [[身延山地]] * [[伊那山地]] * [[野坂山地]] * [[伊吹山地]] * [[養老山地]] {{div col end}} ;主な丘陵 * [[魚沼丘陵]] * [[東頸城丘陵]] * [[尾張丘陵]] ;主な高地 * [[飛騨高地]] * [[丹波高地]] ;主な山 [[File:Mount Fuji from Nihondaira.JPG|thumb|200px|[[日本平]]から見た[[静岡市]]の[[清水港]]と日本[[最高峰]][[富士山_(代表的なトピック)|富士山]]]] {{div col|colwidth=10em}} * [[富士山_(代表的なトピック)|富士山]] * [[北岳]] * [[穂高岳]] * [[間ノ岳]] * [[槍ヶ岳]] * [[荒川岳]] * [[赤石岳]] * [[唐松岳]] * [[御嶽山]] * [[塩見岳]] * [[仙丈ヶ岳]] * [[農鳥岳]] * [[乗鞍岳]] * [[聖岳]] * [[立山]]([[大汝山]]) * [[剱岳]] * [[毛勝山]] * [[木曽駒ヶ岳]] * [[薬師岳]] * [[白馬岳]] * [[黒部五郎岳]] * [[白木峰]] * [[金剛堂山]] * [[八ヶ岳]] * [[笠ヶ岳]] * [[白山]] * [[金峰山 (山梨県・長野県)|金峰山]] * [[浅間山]] * [[新潟焼山]] * [[妙高山]] * [[恵那山]] * [[美ヶ原]] * [[有明山 (安曇野市・松川村)|有明山]] * [[黒姫山 (長野県)|黒姫山]] * [[能郷白山]] * [[茶臼山 (愛知県・長野県)|茶臼山]] * [[天城山]] * [[伊吹山]] * [[秋葉山 (静岡県)|秋葉山]] * [[弥彦山]] * [[金華山 (岐阜県)|金華山]] * [[小牧山]] {{div col end}} ====河川==== ;[[一級河川]] [[File:NiigataCity.jpg|thumb|200px|[[新潟市]][[都心|都心部]]を流れる<br />日本最長の[[信濃川]]]] {{div col|colwidth=15em}} * [[荒川 (羽越)|荒川]] * [[阿賀野川]] ** [[只見川]] * [[信濃川]](千曲川) ** [[犀川 (長野県)|犀川]]([[梓川]]) ** [[魚野川]] * [[関川 (信越)|関川]] * [[姫川]] * [[黒部川]] * [[常願寺川]] * [[神通川]](宮川) * [[庄川]] * [[小矢部川]] * [[手取川]] * [[梯川]] * [[九頭竜川]] * [[北川]] * [[狩野川]] * [[富士川]](釜無川) ** [[笛吹川]] * [[安倍川]] * [[大井川]] * [[菊川]] * [[天竜川]] * [[豊川]] * [[矢作川]] * [[庄内川]] * [[木曽三川]]([[木曽川]]、[[長良川]]、[[揖斐川]]) ** [[飛騨川]] {{div col end}} ;[[二級河川]] [[File:KitagataKo.jpg|thumb|200px|[[大聖寺川]]河口と[[北潟湖]]]] {{div col|colwidth=15em}} * [[三面川]](新潟県) * [[胎内川]](新潟県) * [[加治川]](新潟県) * [[鯖石川]](新潟県) * [[国府川]](新潟県) * [[片貝川]](富山県) * [[早月川]](富山県) * [[犀川 (石川県)|犀川]](石川県) * [[大聖寺川]](石川県) * [[瀬戸川 (静岡県)|瀬戸川]](静岡県) * [[太田川 (静岡県)|太田川]](静岡県) * [[馬込川]](静岡県) * [[都田川]](静岡県) * [[境川 (境川水系・愛知県)|境川]](愛知県) * [[天白川 (愛知県)|天白川]](愛知県) * [[日光川]](愛知県) {{div col end}} ====湖沼==== [[File:Lake Suwa at Tateishi park.JPG|thumb|200px|[[立石公園]]から見た<br />[[諏訪市]]と[[諏訪湖]]]] {{div col|colwidth=15em}} ;主な湖 * [[加茂湖]] * [[瓢湖]] * [[奥只見ダム|銀山湖]] * [[松原湖]] * [[野尻湖]] * [[仁科三湖]]([[青木湖]]、[[中綱湖]]、[[木崎湖]]) * [[黒部ダム|黒部湖]] * [[有峰ダム|有峰湖]] * [[加賀三湖]] * [[北潟湖]] * [[三方五湖]] * [[富士五湖]]([[山中湖]]、[[河口湖]]、[[精進湖]]、[[本栖湖]]、[[西湖 (富士五湖)|西湖]]) * [[田貫湖]] * [[白樺湖]] * [[諏訪湖]] * [[佐鳴湖]] * [[浜名湖]] * [[徳山ダム|徳山湖]] {{div col end}} ;主な池 * [[ミクリガ池]] * [[大正池 (松本市)|大正池]] * [[入鹿池]] ;主な干潟 * [[鳥屋野潟]] * [[河北潟]] ====海岸==== [[File:Obama Sotomo13n4592.jpg|thumb|200px|[[若狭湾]]にある[[蘇洞門]]]] ;主な湾 {{div col|colwidth=15em}} * [[両津湾]] * [[真野湾]] * [[佐渡海峡]] * [[富山湾]] * [[七尾湾]] * [[九十九湾]] * [[若狭湾]]([[高浜湾]]、[[小浜湾]]、[[矢代湾]]、[[世久見湾]]、[[敦賀湾]]、[[内浦湾]]) * [[相模湾]] * [[駿河湾]] * [[三河湾]]([[知多湾]]・[[衣浦湾]]、[[渥美湾]]・[[田原湾]]) * [[伊勢湾]] {{div col end}} ;主な浜 * [[千里浜]] * [[内灘砂丘]] * [[表浜海岸]] ([[伊古部海岸]]) * [[恋路ヶ浜]] ;主な灘 * [[遠州灘]] * [[相模湾|相模灘]] ====岬==== {{div col|colwidth=10em}} * [[立石岬]] * [[珠洲岬]] * [[越前岬]] * [[東尋坊]] * [[城ヶ崎海岸|城ヶ崎]] * [[石廊崎]] * [[御前崎]] * [[伊良湖岬]] * [[羽豆岬]] {{div col end}} ====半島==== [[File:Mizu Island (Fukui).jpg|thumb|200px|[[敦賀半島]]]] {{div col|colwidth=10em}} * [[能登半島]] * [[敦賀半島]] * [[伊豆半島]] * [[知多半島]] * [[渥美半島]] * [[西浦温泉|西浦半島]] {{div col end}} ====島嶼==== ;主な島 [[File:Kameiwa Sado.jpg|thumb|200px|[[佐渡島]]の[[大野亀岩]]]] {{div col|colwidth=10em}} * [[佐渡島]] * [[粟島 (新潟県)|粟島]] * [[能登島]] * [[舳倉島]] * [[雄島]] * [[初島]] * [[佐久島]] * [[日間賀島]] * [[篠島]] {{div col end}} ====平野==== [[File:Nōbi Plain and Kiso Three Rivers from Mount Ishizuontake 2011-02-26.jpg|thumb|200px|[[養老山地]]の石津御嶽から望む[[濃尾平野]]の[[夜景]]]] {{div col|colwidth=10em}} * [[越後平野]] * [[高田平野]] * [[黒部川扇状地]] * [[富山平野]] * [[砺波平野]] * [[金沢平野]] * [[福井平野]] * [[国中平野]] * [[田方平野]] * [[岳南平野]] * [[静岡平野]] * [[志太平野]] * [[遠州平野]] * [[濃尾平野]] * [[岡崎平野]] * [[豊橋平野]] {{div col end}} ====盆地==== [[File:Kofu-Basin from Mt.Daibosatsurei 01.jpg|thumb|200px|[[大菩薩嶺]]から見た[[甲府盆地]]]] {{div col|colwidth=10em}} * [[十日町盆地]] * [[魚沼盆地]] * [[長野盆地]] * [[佐久盆地]] * [[上田盆地]] * [[松本盆地]] * [[高山盆地]] * [[大野盆地]] * [[甲府盆地]] * [[白馬盆地]] * [[諏訪盆地]] {{div col end}} ====台地==== [[File:Tea Plantation.jpg|thumb|200px|[[茶畑]]が広がる[[牧之原台地]]]] * [[牧之原台地]] * [[磐田原台地]] * [[三方原台地]] * [[各務原台地]] ====高原==== [[File:白い横手山.jpg|thumb|200px|[[横手山]]の[[志賀高原スキー場]]]] {{div col|colwidth=10em}} * [[妙高高原]] * [[志賀高原]] * [[菅平高原]] * [[野辺山高原]] * [[清里高原]] * [[白樺高原]] * [[飯綱高原]] * [[乗鞍高原]] * [[聖高原]] * [[弥陀ヶ原 (立山)|立山高原]] * [[雲ノ平|雲ノ平高原]] * [[伊豆高原]] * [[朝霧高原]] * [[開田高原]] * [[美濃三河高原]] * [[ひるがの高原]] * [[揖斐高原]] {{div col end}} == 人口 == 本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。 {| class="wikitable" style="text-align:right;" |- !ISO 3166-2 !都道府県名 !全国順位 !人口 !割合 |- |style="text-align:center;"|JP-15 |style="text-align:center;"|[[新潟県]] |14 |2,455,741 |1.9% |- |style="text-align:center;"|JP-16 |style="text-align:center;"|[[富山県]] |38 |1,116,926 |0.9% |- |style="text-align:center;"|JP-17 |style="text-align:center;"|[[石川県]] |35 |1,179,168 |0.9% |- |style="text-align:center;"|JP-18 |style="text-align:center;"|[[福井県]] |43 |827,110 |0.6% |- |style="text-align:center;"|JP-19 |style="text-align:center;"|[[山梨県]] |41 |887,595 |0.7% |- |style="text-align:center;"|JP-20 |style="text-align:center;"|[[長野県]] |16 |2,214,757 |1.7% |- |style="text-align:center;"|JP-21 |style="text-align:center;"|[[岐阜県]] |17 |2,115,336 |1.7% |- |style="text-align:center;"|JP-22 |style="text-align:center;"|[[静岡県]] |10 |3,792,982 |3.0% |- |style="text-align:center;"|JP-23 |style="text-align:center;"|[[愛知県]] | align=right|4 | align=right|7,161,891 | align=right|5.6% |- |colspan="3" style="text-align:center;"|合計 |23,615,691 |18.5% |} * 順位・人口・割合は2003年10月1日のデータによる。 === 年齢構成 === 次のグラフは新潟県・富山県・石川県・福井県・山梨県・長野県・岐阜県・静岡県・愛知県・三重県の人口を合計した。 {{中部地方/5歳階級別人口}} === 主要都市 === ;中部9県の主要都市を掲載する。 {{main2|三重県|近畿地方}} {| class="infobox" style="text-align:center; width:100%; margin-right:10px; font-size:100%" ! colspan="10" style="background:#e9e9e9; padding:0.3em; line-height:1.2em;"| '''中部地方の主要都市''' |- !rowspan=30| [[File:Nagoya Night View.jpg|150x150px]]<br /><small>[[名古屋市]]</small><br /><br />[[File:Views from Hamamatsu Castle20211002.jpg|150x150px]]<br /><small>[[浜松市]]</small> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 !rowspan=30| [[File:Niigata City 2022-01.jpg|150x150px]]<br /><small>[[新潟市]]</small><br /><br />[[File:Higashi-Shizuoka Panorama 02.jpg|150x150px]]<br /><small>[[静岡市]]</small><br /> |- | style="background:#f0f0f0"| 1 ||align=left | '''[[名古屋市]]''' || {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] || {{自治体人口/愛知県|名古屋市}}人 || 11 ||align=left | '''[[豊橋市]]''' || {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] || {{自治体人口/愛知県|豊橋市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 2 ||align=left | '''[[浜松市]]'''|| {{Flagicon|静岡県}}[[静岡県]]|| {{自治体人口/静岡県|浜松市}}人 || 12 ||align=left | '''[[長野市]]''' || {{Flagicon|長野県}}[[長野県]] || {{自治体人口/長野県|長野市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 3 ||align=left | '''[[新潟市]]'''|| {{Flagicon|新潟県}}[[新潟県]]|| {{自治体人口/新潟県|新潟市}}人 || 13 ||align=left | '''[[春日井市]]''' || {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] || {{自治体人口/愛知県|春日井市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 4 ||align=left | '''[[静岡市]]''' || {{Flagicon|静岡県}}[[静岡県]] || {{自治体人口/静岡県|静岡市}}人 || 14 ||align=left | '''[[長岡市]]''' || {{Flagicon|新潟県}}[[新潟県]] || {{自治体人口/新潟県|長岡市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 5 ||align=left | '''[[金沢市]]''' || {{Flagicon|石川県}}[[石川県]] || {{自治体人口/石川県|金沢市}}人 || 15 ||align=left | '''[[福井市]]''' || {{Flagicon|福井県}}[[福井県]] || {{自治体人口/福井県|福井市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 6 ||align=left | '''[[豊田市]]''' || {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] || {{自治体人口/愛知県|豊田市}}人 || 16 ||align=left | '''[[富士市]]''' || {{Flagicon|静岡県}}[[静岡県]] || {{自治体人口/静岡県|富士市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 7 ||align=left | '''[[富山市]]''' || {{Flagicon|富山県}}[[富山県]] || {{自治体人口/富山県|富山市}}人 || 17 ||align=left | '''[[松本市]]''' || {{Flagicon|長野県}}[[長野県]] || {{自治体人口/長野県|松本市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 8 ||align=left | '''[[岐阜市]]''' || {{Flagicon|岐阜県}}[[岐阜県]] || {{自治体人口/岐阜県|岐阜市}}人 || 18 ||align=left | '''[[甲府市]]''' || {{Flagicon|山梨県}}[[山梨県]] || {{自治体人口/山梨県|甲府市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 9 ||align=left | '''[[岡崎市]]''' || {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] || {{自治体人口/愛知県|岡崎市}}人 || 19 ||align=left | '''[[安城市]]''' || {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] || {{自治体人口/愛知県|安城市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 10 ||align=left | '''[[一宮市]]''' || {{Flagicon|愛知県}}[[愛知県]] || {{自治体人口/愛知県|一宮市}}人 || 20 ||align=left | '''[[沼津市]]''' || {{Flagicon|静岡県}}[[静岡県]] || {{自治体人口/静岡県|沼津市}}人 |} {{Clear}} ; [[政令指定都市]] * [[名古屋市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|名古屋市}}}}人) * [[浜松市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|浜松市}}}}人) * [[新潟市]]({{formatnum:{{自治体人口/新潟県|新潟市}}}}人) * [[静岡市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|静岡市}}}}人) <gallery> File:View of Westward from Sky Deck MIRAI360, Nishiki Naka Ward Nagoya 2022.jpg|[[名古屋市]] File:Bandaibashi-Bridge 20130929.JPG|[[新潟市]] File:Arco Mall Yurakugai in Hamamatsu City(2).jpg|[[浜松市]] File:Denmacho intersection 03.jpg|[[静岡市]] </gallery> ; [[中核市]] * [[金沢市]]({{formatnum:{{自治体人口/石川県|金沢市}}}}人) * [[豊田市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|豊田市}}}}人) * [[富山市]]({{formatnum:{{自治体人口/富山県|富山市}}}}人) * [[岐阜市]]({{formatnum:{{自治体人口/岐阜県|岐阜市}}}}人) * [[岡崎市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|岡崎市}}}}人) * [[一宮市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|一宮市}}}}人) * [[豊橋市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|豊橋市}}}}人) * [[長野市]]({{formatnum:{{自治体人口/長野県|長野市}}}}人) * [[福井市]]({{formatnum:{{自治体人口/福井県|福井市}}}}人) * [[松本市]]({{formatnum:{{自治体人口/長野県|松本市}}}}人) * [[甲府市]]({{formatnum:{{自治体人口/山梨県|甲府市}}}}人) <gallery> File:Kōrinbō Crossing.jpg|[[金沢市]] File:Pedestrian Deck, Wakamiya-cho Toyota 2018.jpg|[[豊田市]] File:1 Minatoirifunechō, Toyama-shi, Toyama-ken 930-0805, Japan - panoramio.jpg|[[富山市]] File:Gifu City Tower 43 and Gifu Sky Wing 37 from Gifu Station.JPG|[[岐阜市]] File:Okazaki city.jpg|[[岡崎市]] File:UmegaePark05.jpg|[[一宮市]] File:Seibunkan Shoten Head Office.jpg|[[豊橋市]] File:善光寺口バス乗り場.JPG|[[長野市]] File:福井駅.jpg|[[福井市]] File:松本城西.jpg|[[松本市]] File:Kofu aioi.jpg|[[甲府市]] </gallery> ; [[特例市|施行時特例市]] * [[春日井市]]({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|春日井市}}}}人) * [[長岡市]]({{formatnum:{{自治体人口/新潟県|長岡市}}}}人) * [[富士市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|富士市}}}}人) * [[沼津市]]({{formatnum:{{自治体人口/静岡県|沼津市}}}}人) * [[上越市]]({{formatnum:{{自治体人口/新潟県|上越市}}}}人) <gallery> File:Kasugai City Skyline10.jpg|[[春日井市]] File:Skyline of NagaokaCity01.jpg|[[長岡市]] File:Fuji6sho shaden.jpg|[[富士市]] File:Skyline of Numazu2021.jpg|[[沼津市]] File:View of Takada Area in Jōetsu.jpg|[[上越市]] </gallery> ==歴史== {{See|東海地方#歴史|北陸地方#歴史|甲信地方#歴史}} == 教育 == 本節では、七地方区分に基づく範囲について述べる。 === 国立大学 === {{Multicol}} ;[[新潟県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[上越教育大学]] ||[[File:Joetsu University of Education.jpg|100px]] |新潟県[[上越市]] |山屋敷キャンパス |- |[[長岡技術科学大学]] ||[[File:Nagaoka University of Technology.jpg|100px]] |新潟県[[長岡市]] |長岡キャンパス |- |[[新潟大学]] ||[[File:Niigata-u main gate.jpg|100px]] |新潟県[[新潟市]][[西区 (新潟市)|西区]] |五十嵐キャンパス<br/>旭町・西大畑キャンパス<br/>駅南キャンパス |} ;[[富山県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[富山大学]] ||[[File:University of Toyama.jpg|100px]] |富山県[[富山市]] |五福キャンパス<br/>杉谷キャンパス<br/>高岡キャンパス |} ;[[石川県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[金沢大学]] ||[[File:Administrative Office of Kanazawa University.JPG|100px]] |石川県[[金沢市]] |角間キャンパス<br/>宝町・鶴間キャンパス |- |[[北陸先端科学技術大学院大学]] ||[[File:JAIST.JPG|100px]] |石川県[[能美市]] |石川キャンパス |} ;[[福井県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[福井大学]] ||[[File:Fukui university.jpg|100px]] |福井県[[福井市]] |文京キャンパス<br/>松岡キャンパス |} ;[[山梨県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[山梨大学]] ||[[File:University of Yamanashi Kofu Campus(1).JPG|100px]] |山梨県[[甲府市]] |甲府キャンパス |} {{Multicol-break}} ;[[長野県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[信州大学]] ||[[File:国立大学法人信州大学 松本キャンパス正門.JPG|100px]] |長野県[[松本市]] |松本キャンパス<br/>長野キャンパス<br/>上田キャンパス<br/>伊那キャンパス |} ;[[岐阜県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[岐阜大学]] ||[[File:Gifu-u snow.jpg|100px]] |岐阜県[[岐阜市]] |柳戸キャンパス |} ;[[静岡県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[静岡大学]] ||[[File:Shizuokauniv4.jpg|100px]] |静岡県[[静岡市]][[駿河区]] |静岡キャンパス |- |[[浜松医科大学]] ||[[File:Hamamatsu-idai.jpg|100px]] |静岡県[[浜松市]][[東区 (浜松市)|東区]] |浜松キャンパス |} ;[[愛知県]] {| class="wikitable" !大学名 !画像 !所在地 !備考 |- |[[愛知教育大学]] ||[[File:Aichi University of Education main gate ac.JPG|100px]] |愛知県[[刈谷市]] |刈谷キャンパス |- |[[豊橋技術科学大学]] ||[[File:Toyohashi University of Technology 120825.jpg|100px]] |愛知県[[豊橋市]] |豊橋キャンパス |- |[[名古屋大学]] ||[[File:名古屋大学 - panoramio (26).jpg|100px]] |愛知県[[名古屋市]][[千種区]] |東山キャンパス<br/>鶴舞キャンパス<br/>大幸キャンパス |- |[[名古屋工業大学]] ||[[File:名古屋工業大学 - panoramio (3).jpg|100px]] |愛知県名古屋市[[昭和区]] |御器所キャンパス |} {{Multicol-end}} === 公立大学 === {{Multicol}} ; 新潟県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[新潟県立大学]] |[[File:Univ-of-Niigata-Prefecture-2014091501.jpg|100px]] |新潟県新潟市[[東区 (新潟市)|東区]] |新潟キャンパス |- |[[新潟県立看護大学]] |[[File:Niigata College of Nursing.JPG|100px]] |新潟県上越市 |上越キャンパス |- |[[長岡造形大学]] |[[File:NIDcampus.jpg|100px]] |新潟県長岡市 |長岡キャンパス |- |[[三条市立大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |新潟県[[三条市]] |三条キャンパス |} ; 富山県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[富山県立大学]] |[[File:Toyama Prefectural University.jpg|100px]] |富山県[[射水市]] |射水キャンパス |} ; 石川県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[石川県立大学]] |[[File:Ishikawa Prefectural University.jpg|100px]] |石川県[[野々市市]] |野々市キャンパス |- |[[石川県立看護大学]] |[[File:Ishikawa Pref Nursing University1.jpg|100px]] |石川県[[かほく市]] |河北キャンパス |- |[[金沢美術工芸大学]] |[[File:Kanazawa College of Art.jpg|100px]] |石川県金沢市 |金沢キャンパス |- |[[公立小松大学]] |[[File:Komatsu College.JPG|100px]] |石川県[[小松市]] |粟津キャンパス<br/>中央キャンパス<br/>末広キャンパス |} ; 福井県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[福井県立大学]] |[[File:Fukui Prefectural University.jpg|100px]] |福井県[[吉田郡]][[永平寺町]] |永平寺キャンパス<br>小浜キャンパス |- |[[敦賀市立看護大学]] |[[File:TSURUGA Nursing University.jpg|100px]] |福井県[[敦賀市]] |敦賀キャンパス |} ; 山梨県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[都留文科大学]] |[[File:Tsuru University fromNo.1.JPG|100px]] |山梨県[[都留市]] |都留キャンパス |- |[[山梨県立大学]] |[[File:Yamanashi Prefectural University.JPG|100px]] |山梨県甲府市 |飯田キャンパス<br>池田キャンパス |} {{Multicol-break}} ; 長野県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[長野県看護大学]] |[[File:Nagano College of Nursing.jpg|100px]] |長野県[[駒ヶ根市]] |駒ヶ根キャンパス |- |[[長野大学]] |[[File:Nagano-univ s.jpg|100px]] |長野県[[上田市]] |上田キャンパス |- |[[長野県立大学]] |[[File:Univ-of-Nagano-Gocho-2018052701.jpg|100px]] |長野県[[長野市]] |三輪キャンパス<br>後町キャンパス |- |[[公立諏訪東京理科大学]] |[[File:Tus suwa.jpg|100px]] |長野県[[茅野市]] |茅野キャンパス |} ; 岐阜県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[岐阜県立看護大学]] |[[File:Gifu College of Nursing1.jpg|100px]] |岐阜県[[羽島市]] |羽島キャンパス |- |[[岐阜薬科大学]] |[[File:Gifu Pharmaceutical University1.jpg|100px]] |岐阜県岐阜市 |岐阜キャンパス<br>三田洞キャンパス |- |[[情報科学芸術大学院大学]] |[[File:Softpia Japan Workshop 24.jpg|100px]] |岐阜県[[大垣市]] |大垣キャンパス |} ; 静岡県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[静岡県立大学]] |[[File:Yada Campus University of Shizuoka cropped 1 Yada Campus University of Shizuoka rotated Yada Campus University of Shizuoka 20080220.jpg|100px]] |静岡県静岡市駿河区 |谷田キャンパス<br>小鹿キャンパス |- |[[静岡文化芸術大学]] |[[File:Shizuoka University of Art and Culture 1.jpg|100px]] |静岡県浜松市[[中区 (浜松市)|中区]] |浜松キャンパス |} ; 愛知県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[愛知県立大学]] |[[File:Aichi-pu.jpg|100px]] |愛知県[[長久手市]] |長久手キャンパス<br>守山キャンパス<br>ウィンクあいちサテライトキャンパス |- |[[愛知県立芸術大学]] |[[File:Aichi Prefectural University of Fine Arts and Music 150713.JPG|100px]] |愛知県長久手市 |長久手キャンパス<br>豊田市藤沢アートハウス<br>栄サテライトギャラリー<br>女木ハウス |- |[[名古屋市立大学]] |[[File:Nagoya City University Takiko Campus.jpg|100px]] |愛知県名古屋市[[瑞穂区]] |桜山(川澄)キャンパス<br>田辺通キャンパス<br>滝子(山の畑)キャンパス<br>北千種キャンパス |} {{Multicol-end}} === 私立大学 === {{Multicol}} ; 新潟県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[開志専門職大学]] |[[File:Kaishi Professional University Shichikuyama Campus.JPG|100px]] |[[新潟県]][[新潟市]][[中央区 (新潟市)|中央区]] |紫竹山キャンパス<br>米山キャンパス<br>古町ルフルキャンパス |- |[[敬和学園大学]] |[[File:Keiwa College 01.JPG|100px]] |新潟県[[新発田市]] |新発田キャンパス |- |[[国際大学]] |[[File:IUJ entrance.jpg|100px]] |新潟県[[南魚沼市]] |浦佐キャンパス |- |[[事業創造大学院大学]] |[[File:Jsozo.JPG|100px]] |新潟県新潟市[[中央区 (新潟市)|中央区]] |新潟キャンパス<br>東京キャンパス<br>長岡キャンパス |- |[[日本歯科大学]] |[[File:Nippon Dental University Niigata Campus.JPG|100px]] |[[東京都]][[千代田区]] |新潟キャンパス(新潟生命歯学部) |- |[[長岡大学]] |[[File:Nagaoka u.jpg|100px]] |新潟県長岡市 |長岡キャンパス |- |[[長岡崇徳大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |新潟県長岡市 |長岡キャンパス |- |[[新潟医療福祉大学]] |[[File:Niigata University of Health and Welfare 01.jpg|100px]] |新潟県新潟市[[北区 (新潟市)|北区]] |島見町キャンパス |- |[[新潟経営大学]] |[[File:新潟経営大学 玄関.jpg|100px]] |新潟県[[加茂市]] |加茂キャンパス |- |[[新潟工科大学]] |[[File:Niigata Institue of Technology.jpg|100px]] |新潟県[[柏崎市]] |柏崎キャンパス |- |[[新潟国際情報大学]] |[[File:Niigata kokusai joho daigaku 01.jpg|100px]] |新潟県新潟市西区 |みずき野キャンパス<br>新潟中央キャンパス |- |[[新潟産業大学]] |[[File:NiigataSangyoUniversity.jpg|100px]] |新潟県柏崎市 |柏崎キャンパス |- |[[新潟食料農業大学]] |[[File:Niigata Agro-Food University 1.jpg|100px]] |新潟県新潟市[[北区 (新潟市)|北区]] |新潟キャンパス<br>胎内キャンパス |- |[[新潟青陵大学]] |[[File:Niigata Seiryo University.JPG|100px]] |新潟県新潟市中央区 |新潟キャンパス |- |[[新潟リハビリテーション大学]] |[[File:Niigata University of Rehabilitation 1.jpg|100px]] |新潟県[[村上市]] |村上キャンパス |- |[[新潟薬科大学]] |[[File:Nigata University of Pharmacy and Applied Life Sciences.jpg|100px]] |新潟県新潟市[[秋葉区]] |新津キャンパス |} ; 富山県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[富山国際大学]] |[[File:Toyama University of International Studies.jpg|100px]] |富山県富山市 |東黒牧キャンパス<br>呉羽キャンパス |- |[[高岡法科大学]] |[[File:TUL01.jpg|100px]] |富山県[[高岡市]] |高岡キャンパス |- |[[桐朋学園大学院大学]] |[[File:Toho Gakuen Graduate School.jpg|100px]] |富山県富山市 |富山キャンパス |} ; 石川県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[金沢医科大学]] |[[File:Kanazawa Medical University.jpg|100px]] |石川県[[河北郡]][[内灘町]] |内灘キャンパス |- |[[金沢学院大学]] |[[File:Kanazawa Gakuin University (Kanazawa, Ishikawa).jpg|100px]] |石川県金沢市 |金沢キャンパス<br>白山麓研修センター |- |[[金沢工業大学]] |[[File:Kanazawa Institute of Technology.jpg|100px]] |石川県野々市市 |扇が丘キャンパス<br>八束穂キャンパス<br>東京虎ノ門キャンパス |- |[[金沢星稜大学]] |[[File:Kanazawa Seiryo University.jpg|100px]] |石川県金沢市 |御所キャンパス |- |[[金城大学]] |[[File:Kinjyo University.jpg|100px]] |石川県[[白山市]] |笠間キャンパス<br/>松任キャンパス |- |[[北陸大学]] |[[File:Hokuriku University (Kanazawa, Ishikawa).jpg|100px]] |石川県金沢市 |太陽が丘キャンパス<br>薬学キャンパス |- |[[北陸学院大学]] |[[File:Hokuriku Gakuin, Entrance (Kanazawa, Ishikawa).jpg|100px]] |石川県金沢市 |金沢キャンパス |} ; 福井県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[仁愛大学]] |[[File:Jinai University.jpg|100px]] |福井県[[越前市]] |越前キャンパス |- |[[福井医療大学]] |[[File:Fukui Health Sciences University.jpg|100px]] |福井県[[福井市]] |福井キャンパス |- |[[福井工業大学]] |[[File:FUTTOWER.JPG|100px]] |福井県福井市 |福井キャンパス<br>芦原キャンパス |} ; 山梨県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[健康科学大学]] |[[File:Health Science University.JPG|100px]] |山梨県[[南都留郡]][[富士河口湖町]] |富士河口湖キャンパス |- |[[昭和大学]] |[[File:Showa University.JPG|100px]] |東京都[[品川区]] |富士吉田キャンパス |- |[[帝京科学大学]] |[[File:Teikyo University of Science Senju Campus.JPG|100px]] |東京都[[足立区]] |東京西キャンパス<br>千住キャンパス |- |[[身延山大学]] |[[File:Minobugakuen kousha.JPG|100px]] |山梨県[[中巨摩郡]][[身延町]] |身延キャンパス |- |[[山梨英和大学]] |[[File:Yamanashi Eiwa College.jpg|100px]] |山梨県甲府市 |甲府キャンパス |- |[[山梨学院大学]] |[[File:A main gate of Yamanashi Gakuin University.JPG|100px]] |山梨県甲府市 |甲府キャンパス |} ; 長野県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[佐久大学]] |[[File:Saku University.JPG|100px]] |長野県[[佐久市]] |佐久キャンパス |- |[[清泉女学院大学]] |[[File:SeiJo Nagano Station.jpg|100px]] |長野県長野市 |長野上野キャンパス<br>[[長野駅]]東口キャンパス |- |[[松本大学]] |[[File:Matsumoto University.jpg|100px]] |長野県松本市 |松本キャンパス |- |[[松本歯科大学]] |[[File:MDU全景2.jpg|100px]] |長野県[[塩尻市]] |塩尻キャンパス |} ; 岐阜県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[朝日大学]] |[[File:Asahi University.jpg|100px]] |岐阜県[[瑞穂市]] |穂積キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>岐阜市村上記念病院 |- |[[岐阜医療科学大学]] |[[File:Gifu University of Medical Science01.jpg|100px]] |岐阜県[[関市]] |関キャンパス<br>可児キャンパス(2019年)設置予定 |- |[[岐阜協立大学]] |[[File:岐阜協立大学校名.jpg|100px]] |岐阜県大垣市 |大垣キャンパス<br>西之川キャンパス |- |[[岐阜聖徳学園大学]] |[[File:Gifu Shotoku Gakuen University1.jpg|100px]] |岐阜県岐阜市 |岐阜キャンパス<br>羽島キャンパス |- |[[岐阜女子大学]] |[[File:Gifu Womans Univ2.jpg|100px]] |岐阜県岐阜市 |岐阜キャンパス |- |[[岐阜保健大学]] |[[File:Gifu Junior College of Health Science01.jpg|100px]] |岐阜県岐阜市 |岐阜キャンパス |- |[[中京学院大学]] |[[File:Chukyo Gakuin University Mizunami Campus.jpg|100px]] |岐阜県[[中津川市]] |中津川キャンパス<br>瑞浪キャンパス |- |[[中部大学]] |[[File:Chubu University Ena Campus.jpg|100px]] |愛知県[[春日井市]] |恵那キャンパス |- |[[中部学院大学]] |[[File:Chubugakuin University Seki2007-1.jpg|100px]] |岐阜県[[関市]] |関キャンパス<br>各務原キャンパス |- |[[東海学院大学]] |[[File:Tokai Gakuin University2008-1.jpg|100px]] |岐阜県[[各務原市]] |各務原キャンパス |} {{Multicol-break}} ; 静岡県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[国際医療福祉大学]] |[[File:IUHW Atami Hospital.JPG|100px]] |[[栃木県]][[大田原市]] |熱海キャンパス([[国際医療福祉大学熱海病院]]内) |- |[[静岡英和学院大学]] |[[File:ShizuokaEiwaGakuin-Univ.jpg|100px]] |静岡県静岡市駿河区 |静岡キャンパス |- |[[静岡産業大学]] |[[File:Shizuoka-Sangyo-Univ-Iwata-2014072101.jpg|100px]] |静岡県[[磐田市]] |磐田キャンパス<br>藤枝キャンパス |- |[[静岡福祉大学]] |[[File:Campus or SUW.jpg|100px]] |静岡県[[焼津市]] |焼津キャンパス<br>[[焼津駅]]サテライトキャンパス |- |[[静岡理工科大学]] |[[File:SIST.jpg|100px]] |静岡県[[袋井市]] |豊沢キャンパス |- |[[順天堂大学]] |[[File:Juntendo University Mishima Campus.JPG|100px]] |東京都[[文京区]] |三島キャンパス |- |[[聖隷クリストファー大学]] |[[File:Seirei college1.JPG|100px]] |静岡県浜松市[[北区 (浜松市)|北区]] |浜松キャンパス |- |[[東海大学]] |[[File:東海大学海洋科学博物館 - panoramio.jpg|100px]] |東京都[[渋谷区]] |清水キャンパス |- |[[東京女子医科大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |東京都[[新宿区]] |掛川キャンパス |- |[[東都大学]] |[[File:Tohto University Numazu Campus.JPG|100px]] |[[埼玉県]][[深谷市]] |沼津キャンパス |- |[[常葉大学]] |[[File:Tokoha University KusanagiCampus.jpg|100px]] |静岡県静岡市[[駿河区]] |静岡瀬名キャンパス<br>静岡水落キャンパス<br>静岡草薙キャンパス<br>浜松キャンパス |- |[[日本大学]] |[[File:Nihon University Mishima Eki Kitaguchi Campus.JPG|100px]] |東京都[[千代田区]] |三島キャンパス |- |[[浜松学院大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |静岡県浜松市中区 |布橋キャンパス<br>住吉キャンパス |- |[[光産業創成大学院大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |静岡県浜松市[[西区 (浜松市)|西区]] |浜松キャンパス |- |[[放送大学学園#サテライトスペース|放送大学]] |[[File:Gthumb.svg|100px]] |[[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]] |浜松サテライトスペース<br>三島静岡学習センター |} ; 愛知県 {| class="wikitable" !大学名 !画像 !本部所在地 !備考 |- |[[愛知大学]] |[[File:University Memorial Hall of Aichi University 100822.jpg|100px]] |愛知県名古屋市[[東区 (名古屋市)|東区]] |豊橋キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>車道キャンパス |- |[[愛知医科大学]] |[[File:愛知医科大学医学部付属病院.jpg|100px]] |愛知県長久手市 |長久手キャンパス<br>名古屋メディカルクリニック |- |[[愛知学院大学]] |[[画像:愛知学院大学100周年記念講堂.jpg|100px]] |愛知県[[日進市]] |日進キャンパス<br>楠元キャンパス<br>末盛キャンパス<br>名城公園キャンパス |- |[[愛知学泉大学]] |[[File:Aichi Gakusen University Okazaki Campus ac (1).jpg|100px]] |愛知県[[岡崎市]] |岡崎キャンパス<br>豊田キャンパス |- |[[愛知工科大学]] |[[File:Aichi University of Technology (from entrance).jpg|100px]] |愛知県[[蒲郡市]] |蒲郡キャンパス |- |[[愛知工業大学]] |[[File:Aichi Institute of Technology - panoramio (7).jpg|100px]] |愛知県[[豊田市]] |八草キャンパス<br>本山キャンパス<br>自由ヶ丘キャンパス |- |[[愛知産業大学]] |[[File:Aichi-Sangyo-University-1.jpg|100px]] |愛知県岡崎市 |原山キャンパス |- |[[愛知淑徳大学]] |[[File:愛知淑徳大学.jpg|100px]] |愛知県長久手市 |長久手キャンパス<br>星ヶ丘キャンパス |- |[[愛知東邦大学]] |[[File:Aichi Toho University.JPG|100px]] |愛知県名古屋市[[名東区]] |名古屋キャンパス |- |[[愛知文教大学]] |[[File:Aichi Bunkyo University.JPG|100px]] |愛知県[[小牧市]] |小牧キャンパス |- |[[愛知みずほ大学]] |[[File:Aichi Mizuho Junior College in Nogoya, Japan.jpg|100px]] |愛知県名古屋市瑞穂区 |名古屋キャンパス<br>豊田キャンパス |- |[[一宮研伸大学]] |[[File:Ichinomiya kenshin College.jpg|100px]] |愛知県[[一宮市]] |一宮キャンパス |- |[[桜花学園大学]] |[[File:Ohkagakuen University.JPG|100px]] |愛知県[[豊明市]] |豊明キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>豊田キャンパス |- |[[岡崎女子大学]] |[[File:Okazaki-Women's-University-1.jpg|100px]] |愛知県岡崎市 |岡崎キャンパス |- |[[金城学院大学]] |[[File:Kinjyo Gakuin University 20150921.JPG|100px]] |愛知県名古屋市守山区 |大森キャンパス |- |[[至学館大学]] |[[File:Shigakkan University1.JPG|100px]] |愛知県[[大府市]] |大府キャンパス |- |[[修文大学]] |[[File:Shubun University ac.jpg|100px]] |愛知県[[一宮市]] |一宮キャンパス |- |[[椙山女学園大学]] |[[File:Sugiyama Jogakuen Daigaku-University Hoshigaoka Campus 20160815-06.jpg|100px]] |愛知県名古屋市千種区 |星ヶ丘キャンパス<br>日進キャンパス |- |[[星城大学]] |[[File:Seijoh University.jpg|100px]] |愛知県[[東海市]] |東海キャンパス<br>名古屋リハビリテーション学院 |- |[[大同大学]] |[[File:Daido University Takiharu Campus 20090401.jpg|100px]] |愛知県名古屋市[[南区 (名古屋市)|南区]] |滝春学舎<br>白水学舎 |- |[[中京大学]] |[[File:Chukyo University 3952134708 6b8e6c45bf.jpg|100px]] |愛知県名古屋市昭和区 |名古屋キャンパス<br>豊田キャンパス |- |[[中部大学]] ||[[File:Chubu University College of Humanities 2.jpg|100px]] |愛知県春日井市 |春日井キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>恵那キャンパス |- |[[東海学園大学]] |[[File:Tokaigakuen University Main Gate(2017).jpg|100px]] |愛知県[[みよし市]] |三好キャンパス<br>名古屋キャンパス<br>栄サテライトキャンパス |- |[[同朋大学]] |[[File:DOHO UNIVERSIY.jpg|100px]] |愛知県名古屋市[[中村区]] |名古屋キャンパス |- |[[豊田工業大学]] |[[File:Toyota Technological Institute (2016.04.17).JPG|100px]] |愛知県名古屋市天白区 |名古屋キャンパス<br>シカゴ校 |- |[[豊橋創造大学]] |[[File:Toyohashi Sozo University.jpg|100px]] |愛知県豊橋市 |豊橋キャンパス |- |[[名古屋音楽大学]] |[[File:Nagoya College of Music Building C 20151024.JPG|100px]] |愛知県名古屋市中村区 |名古屋キャンパス |- |[[名古屋外国語大学]] |[[File:Nufs-2.jpg|100px]] |愛知県日進市 |日進キャンパス |- |[[名古屋学院大学]] 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クレヨン王国
クレヨン王国(クレヨンおうこく)は、福永令三の著作による児童文学作品シリーズ。 色彩鮮やかな自然の色を扱ったファンタジー作品。作中には様々な動植物を含む自然の描写や詩歌が多く登場する。 クレヨン王国とは作品の舞台となる異世界の王国の名前であり、ゴールデン国王、シルバー王妃を中心として、クレヨンの12色の大臣が12の月をそれぞれの色で治めている。王国の世界観は和洋ないまぜとなっており、総理大臣はカメレオン。その他、代表的なキャラクターに、ブタのストンストン、オンドリのアラエッサ、花ウサギのロペ、サード王子など。 ストーリーラインとしては、 の、おもに3種類ある。 一部作品には著者の福永が経験した太平洋戦争の時代をモデルとしたと思われる戦争の描写もあり、「露営の歌」等の軍歌も登場する。 シリーズ第1作目は『クレヨン王国の十二カ月』のタイトルで1964年に第5回講談社児童文学新人賞を受賞。 100ページほどを削る修正の上、翌年講談社よりハードカバーで出版された。 のち1980年1月に講談社文庫、11月に新創刊の青い鳥文庫に『クレヨン王国の十二か月』として採録。 青い鳥文庫版の売れ行き好調により続編が次々に出版された(挿絵は三木由記子)。シリーズ累計500万部以上のベストセラーとなる。 この作品を元に、1997年9月7日から1999年1月31日までテレビ朝日系列朝8時30分枠において『夢のクレヨン王国』のタイトルでアニメ化された。また、NHK教育テレビジョン「てれび絵本」でも当作品を原作とした朗読(出演・水沢アキ)が放送された。 2006年9月に、講談社文庫より新装版「クレヨン王国の十二か月」を発行。初版時に100ページ以上削られていた未収録部分を追加。2011年、青い鳥文庫より「クレヨン王国ベストコレクション」として、原本に加筆・修正を行い、椎名優による挿絵を加えた新装版シリーズが刊行された。 多くの人物が登場するため、主な人物のみ記す。
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クレヨン王国(クレヨンおうこく)は、福永令三の著作による児童文学作品シリーズ。
'''クレヨン王国'''(クレヨンおうこく)は、[[福永令三]]の著作による[[児童文学]]作品シリーズ。 ==概要== ===作品の特色=== 色彩鮮やかな自然の色を扱った[[ファンタジー]]作品。作中には様々な動植物を含む自然の描写や詩歌が多く登場する。 クレヨン王国とは作品の舞台となる[[異界|異世界]]の王国の名前であり、ゴールデン国王、シルバー王妃を中心として、[[クレヨン]]の12色の大臣が12の月をそれぞれの色で治めている。王国の世界観は和洋ないまぜとなっており、[[内閣総理大臣|総理大臣]]は[[カメレオン]]。その他、代表的なキャラクターに、[[ブタ]]のストンストン、[[ニワトリ|オンドリ]]のアラエッサ、花[[ウサギ]]のロペ、サード王子など。 ストーリーラインとしては、 *クレヨン王国に一般の少年少女が関わって成長していく(王国に行くパターンと王国からの来訪者に出会うパターンがある) *クレヨン王国の住人達が様々な冒険に巻き込まれる(『新十二カ月の旅』等シルバー王妃がメインのもの等) *寓話や童話が綴られる短編集(『とんでもない虹』・『タンポポ平17橋』では「クレヨン王国の住人達が様々な冒険に巻き込まれる」中で短編が語られた) の、おもに3種類ある。 一部作品には著者の福永が経験した[[太平洋戦争]]の時代をモデルとしたと思われる戦争の描写もあり、「[[露営の歌]]」等の[[軍歌]]も登場する。 ===作品展開の経歴=== シリーズ第1作目は『クレヨン王国の十二カ月』のタイトルで[[1964年]]に第5回[[講談社児童文学新人賞]]を受賞。 100ページほどを削る修正の上、翌年[[講談社]]より[[ハードカバー]]で出版された。 のち[[1980年]]1月に[[講談社文庫]]、11月に新創刊の[[青い鳥文庫]]に『クレヨン王国の十二か月』として採録。 青い鳥文庫版の売れ行き好調により続編が次々に出版された(挿絵は[[三木由記子]])。シリーズ累計500万部以上のベストセラーとなる。 この作品を元に、[[1997年]][[9月7日]]から[[1999年]][[1月31日]]まで[[テレビ朝日]]系列[[朝日放送日曜朝8時30分枠のアニメ|朝8時30分枠]]において『[[夢のクレヨン王国]]』のタイトルで[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化された。また、[[NHK教育テレビジョン]]「[[てれび絵本]]」でも当作品を原作とした朗読(出演・[[水沢アキ]])が放送された。 [[2006年]][[9月]]に、[[講談社文庫]]より新装版「クレヨン王国の十二か月」を発行。初版時に100ページ以上削られていた未収録部分を追加。[[2011年]]、青い鳥文庫より「クレヨン王国ベストコレクション」として、原本に加筆・修正を行い、[[椎名優]]による挿絵を加えた新装版シリーズが刊行された<ref>これに伴い、青い鳥文庫公式サイトでは、文庫旧刊を「クラシック版」と呼称している。</ref>。 ==登場人物== 多くの人物が登場するため、主な人物のみ記す。 ;ゴールデン国王 :クレヨン王国の国王。金の髪に金の目、金の爪を持つ、心優しい人物。『十二か月』では、王妃の悪いクセに耐えかねて逃げ出した。 :尚、シリーズ全作品で同一人物ではない。「十四世」「十八世」などが登場。アニメ版における名前は「ゴールデン国王」のままである。 ;シルバー王妃 :クレヨン王国の王妃。本名はシルバー=マーガレット=ミカエル。長い銀の髪を持つ美女。数多くの悪いクセを持つが、国民からの人気は高い。 :アニメ版における名前は本作品の主人公である「シルバー王女」となっているが、加えて王妃の名前は「オパール王妃」である。 ;カメレオン総理 :クレヨン王国の総理大臣。長年に渡って総理を勤めている有能な人物。幼名はジンジャー。 :アニメ版における名前は「カメレオン総理」のままである。 ;アラエッサ :ニワトリ。「月のたまご」救出隊参加時は5歳。後にストンストンとともに爵位を授けられ、ワシブサ伯爵と名乗る。 :アニメ版における名前は「アラエッサ」のままである。 ;ストンストン :ブタ。「月のたまご」救出隊参加時は1歳。爵位授与後はストンス伯と名乗る。白馬のパッパカと結婚。カメレオン別荘村の村長。「おなかへったなぁ」が口癖である。 :アニメ版における名前は「ストンストン」のままである。 ;ロペ :筆者が飼っていたウサギにちなんで登場した。 :なお、アニメ版には登場していない。 ;大臣 :カメレオン総理の元それぞれ「色」に関するものを管理する役職者たち。皆クレヨン型の帽子を被っている。 :『クレヨン王国の十二か月』では「12の月に12色の大臣」だったが、『シルバー王妃花の旅』では「黄土色」等他の大臣も登場して16人になった。『12妖怪の結婚式』では新大臣の「藤色」大臣ルカ=サーバンス(マラソン選手)、「ベージュ色」大臣サンド=モニカ(占術師)が主人公になっている。 :アニメ版ではそれぞれ、別の12色の大臣が異なっていたこともある。 {{節スタブ}} == 作品タイトル == === クレヨン王国シリーズ === *クレヨン王国の十二か月 *クレヨン王国の花ウサギ *クレヨン王国いちご村(短編集) *クレヨン王国のパトロール隊長 *クレヨン王国の白いなぎさ *クレヨン王国七つの森 *クレヨン王国なみだ物語(短編集) *クレヨン王国月のたまご[PART1〜PART8] *クレヨン王国からきたおよめさん *クレヨン王国まほうの夏 *クレヨン王国春の小川 *クレヨン王国の赤トンボ *クレヨン王国新十二カ月の旅 *クレヨン王国黒の銀行 *クレヨン王国森のクリスマス物語(短編集) *クレヨン王国水色の魔界 *クレヨン王国王さまのへんな足 *クレヨン王国109番めのドア[PART1・PART2] *クレヨン王国デパート特別食堂(短編集) *クレヨン王国幽霊村へ三泊四日 *クレヨン王国シルバー王妃花の旅 *クレヨン王国超特急24色ゆめ列車 *クレヨン王国ロペとキャベツの物語 *クレヨン王国とんでもない虹(短編集) *クレヨン王国12妖怪の結婚式 *クレヨン王国カメレオン別荘村 *クレヨン王国茶色の学校[PART1・PART2] *クレヨン王国タンポポ平17橋 *クレヨン王国三日月のルンルン[PART1・PART2] *クレヨン王国しっぽ売りの妖精 *クレヨン王国スペシャル夢のアルバム(公式ガイドブック) *クレヨン王国の四土神(「月のたまご」新シリーズ1) *クレヨン王国道草物語(「月のたまご」新シリーズ2) *クレヨン王国幾山河を越えて(「月のたまご」新シリーズ3) *クレヨン王国月のたまご 完結編(「月のたまご」新シリーズ4) *その後のクレヨン王国 *クレヨン王国の十二か月(未発表原稿を含む新版) *クレヨン王国12か月のおくりもの(絵本) *クレヨン王国ようこそゆうれいひめ(絵本) *赤いぼうしのクレヨン王国(講談社KK文庫) *ロペとキャベツのクレヨン王国(講談社KK文庫) === 新クレヨン王国 === *新クレヨン王国千年桜五人姉妹(挿絵:伊藤つぐみ) === クレヨン王国関連 === *クレヨン王国ファンタジーランド詩画集1・2 *クレヨン王国ファンタジーグッズ *クレヨン王国ファンタジーポエム *ナイショでヒミツのクレヨン王国(エッセイ) *ぶらりぶらぶらクレヨン王国(エッセイ) *クレヨン王国虫鳥花獣四季彩々(エッセイ) *クレヨン王国 むかし話 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == *[http://aoitori.kodansha.co.jp/series/kureyon/ 青い鳥文庫|クレヨン王国] {{DEFAULTSORT:くれよんおうこく}} [[Category:青い鳥文庫]] [[Category:日本のファンタジー小説]] [[Category:日本の小説のシリーズ]] [[Category:君主を主人公とした小説]] [[Category:ハイファンタジー小説]] [[Category:ロー・ファンタジー作品]] [[Category:異世界への転生・転移を題材とした作品]] [[Category:色を題材とした作品]] [[Category:1964年の小説]] [[Category:児童文学]] [[Category:日本の児童文学]]
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本屋
本屋(ほんや、ほんおく)
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本屋(ほんや、ほんおく) (ほんや)書店のこと (ほんおく、ほんや)主要な建物のこと。 - 母屋を参照。 鉄道駅における中心的な建物「駅本屋」(えきほんおく・えきほんや)。
'''本屋'''(ほんや、ほんおく) *(ほんや)[[書店]]のこと *(ほんおく、ほんや)主要な建物のこと。 - [[母屋]]を参照。 **[[鉄道駅]]における中心的な建物「駅本屋」(えきほんおく・えきほんや)。 {{aimai}} {{デフォルトソート:ほんや}}
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出版
出版(しゅっぱん、英: publishing)とは、販売・頒布する目的で文書や図画を複製し、これを書籍や雑誌の形態で発行することで、上梓(じょうし)、板行(はんこう)とも呼ばれる。上梓の「梓(し)」とは、(カバノキ科のミズメのことではなく)ノウゼンカズラ科のキササゲのことで、古く中国で木版印刷の版材にキササゲが用いられたことに基づく。書籍や雑誌など出版されたものを出版物(しゅっぱんぶつ)と呼び、出版を事業とする企業を出版社と呼ぶ。 出版(複製)は一般に印刷によって行われる。新聞も同様の方法で発行されるが、流通経路が異なり、通常は出版とは呼ばない。ただし、現在ほとんどの新聞社(またはそのグループ会社)では雑誌、書籍の出版も手がけている。 出版(書籍、雑誌)は新聞やラジオ、テレビに比べて情報伝達の速報性などの点で劣っているが、一方で正確性、蓄積性などに優れたメディアである。 出版の前提として印刷技術が必要不可欠である(古代・中世でも写本を業とする場合があるが、ここでは除外する)。また情報を伝達するための流通経路(商業出版では一般に作者、出版社・印刷会社から流通、書店を経て読者まで)がなければ、継続的な事業としては成立しない。 印刷技術が普及するまで、本は写本によって伝えるほかはなかった。中国で7世紀ごろから木版印刷が行われ、世界最古の印刷書籍は『金剛経』であり、記された年代は868年(9世紀末・唐朝末)で、現在、大英博物館が保管している。高麗では金属活字の技術もあった(高麗版大蔵経)。日本でも平安時代末期以降、「百万塔陀羅尼」「五山版」など仏典の印刷が行われていたが、主に寺院内など限られた範囲の流通に留まっており、広く一般に流通するものではなかった。 1450年代にドイツのグーテンベルクによって活版印刷の技術が完成され、『グーテンベルク聖書』などが刊行された。初期の印刷物はまだまだ高価であり、限られた階層しか利用できなかったが、やがて出版産業は本格化する。揺籃期における出版人として、アルドゥス・マヌティウスなどが知られている。ルターに始まる宗教改革の時期にはパンフレットが大量に作られて流通し、印刷業も発達していった。 戦国時代にキリシタン版と呼ばれる活版印刷が行われ、また朝鮮出兵で持ち込んだ朝鮮式の活字印刷が、江戸時代初期には「古活字本」が作られるようになる。古活字本の一つとして「嵯峨本」が有名である。これは京都・嵯峨の角倉素庵が本阿弥光悦らの協力で出版した豪華本であり、嵯峨本自体は少部数の製作だったが、後に大きな影響を与えた。 営利目的の書物が日本で出版されたのは寛永年間(17世紀前半)の京都から始まり、貞享2年(1685年)に刊行された書物は約6000種になり(『新訂総合国語便覧』 第一学習者 改訂28版1998年(初版1978年)p69)、17世紀末になると京都では1万点近く発行された。発行部数が増えるにつれ、江戸幕府は「出版取締令」を享保7年(1722年)に公布し、出版規定を定めた。まず原稿を検閲後、試し摺りをし、再び検閲するという経緯を経ており、将軍に関するスキャンダルや風俗を乱す内容、出典・根拠のない論説などは禁じられた。 それ以前、慶長年間には後陽成天皇の勅による「慶長勅版本」が出版され、『日本書紀』(神代巻)など四書が出されたが、慶長4年(1599年)に出版された神代巻は、当時の技術的問題もあり、100部ほどで、神宮・神社、身近な公家に配られたのみであった。書肆村上平楽寺(現平楽寺書店)は寛文9年(1669年)に『日本文徳天皇実録』を刊行し、他の六国史も17世紀後半には『日本後紀』を除き、出されていくことになるが、その金額は1両(『続日本紀』)から10匁(『文徳実録』)までであった。 木版印刷による出版が盛んになると、浮世草子、黄表紙、洒落本、滑稽本などが出版され、一般にも広く読まれた。版元として蔦屋重三郎などもよく知られている。18世紀前半でも出版点数は1万点近く、大岡忠相が書物店屋に作らせた目録には7446種と記されている。当初、浮世草子や絵本は上方からの「下り商品」であったが、1770年代(18世紀末)には洒落本や黄表本などの「地本」(江戸出版本)の出版数が上方を超えた。民間の読み書き能力が向上したことも出版業界が形成された基礎条件となったが、何より出版活動の活発化は近世人の美意識を育てる触媒となり、粋(すい)から通・いきへと好みを分化させ、野暮を笑う空気を生み出した。 明治時代になって活字を使った近代的な印刷術が急速に発展し、自由民権運動とともに政治的な主張を唱える新聞・雑誌も盛んになった。政府は一方では出版を奨励しつつ、他方で1869年(明治2年)に出版条例、1875年(明治8年)に新聞紙条例などを制定して言論活動を取り締まった。後に、1893年(明治26年)に出版法、1909年(明治42年)に新聞紙法へと改正された。 雑誌としては明治中期以降、文学作品や評論などを掲載する『国民之友』『太陽』『中央公論』『改造』などが次々に創刊され、広い層で読まれた。また、教育の普及とともに文学を好む読者層が成立し、新聞や雑誌に連載された小説が単行本化されて再読される、といったパターンも次第に定着していった(尾崎紅葉、夏目漱石らの小説)。 当時は出版法(雑誌は定期刊行物として新聞紙法)に基づき内務省検閲局による検閲が行われ、書籍は発売3日前に、新聞雑誌は発売日に届け出ることになっていた。問題ありと判断されると発売禁止の処分が取られた。発売禁止の対象になったものは永井荷風の小説『ふらんす物語』のように風俗を害すると考えられたものや、社会主義・マルクス主義に基づく反体制的な記事や書籍であった。昭和期に入ると1934年(昭和9年)の法改正で言論弾圧が強化された。やがて、第二次世界大戦に突入し、1938年(昭和13年)に国家総動員法が制定されるなど、日本社会全体が軍国主義一色に染まっていく中での総力戦体制の下、出版など言論の自由は完全に失われた。 第二次世界大戦が日本の敗戦に終わり、出版法などが1949年(昭和24年)に廃止されるが、被占領期には連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) によって検閲が秘密裏に、より広汎に行われた。1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法施行後もそれは続けられた。1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効され主権回復して以降、今日の日本では日本国憲法第21条によって、検閲の禁止、言論や表現の自由が規定されており、何人でも出版を行うことができる。一方で行き過ぎた取材によるプライバシーの侵害など別の問題も浮上してきている。また、紙媒体ではなく、インターネットを利用した電子出版も行われるようになっている。紙媒体の書籍の場合、過去の出版物を常時揃えておこうとすると在庫の負担が大きく、絶版にすると読者が必要な時に手に入れられない、という課題があったが、電子出版が普及すればこうした課題も解決することが期待できる。 一般の商業出版では次のようになる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "出版(しゅっぱん、英: publishing)とは、販売・頒布する目的で文書や図画を複製し、これを書籍や雑誌の形態で発行することで、上梓(じょうし)、板行(はんこう)とも呼ばれる。上梓の「梓(し)」とは、(カバノキ科のミズメのことではなく)ノウゼンカズラ科のキササゲのことで、古く中国で木版印刷の版材にキササゲが用いられたことに基づく。書籍や雑誌など出版されたものを出版物(しゅっぱんぶつ)と呼び、出版を事業とする企業を出版社と呼ぶ。 出版(複製)は一般に印刷によって行われる。新聞も同様の方法で発行されるが、流通経路が異なり、通常は出版とは呼ばない。ただし、現在ほとんどの新聞社(またはそのグループ会社)では雑誌、書籍の出版も手がけている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "出版(書籍、雑誌)は新聞やラジオ、テレビに比べて情報伝達の速報性などの点で劣っているが、一方で正確性、蓄積性などに優れたメディアである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "出版の前提として印刷技術が必要不可欠である(古代・中世でも写本を業とする場合があるが、ここでは除外する)。また情報を伝達するための流通経路(商業出版では一般に作者、出版社・印刷会社から流通、書店を経て読者まで)がなければ、継続的な事業としては成立しない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "印刷技術が普及するまで、本は写本によって伝えるほかはなかった。中国で7世紀ごろから木版印刷が行われ、世界最古の印刷書籍は『金剛経』であり、記された年代は868年(9世紀末・唐朝末)で、現在、大英博物館が保管している。高麗では金属活字の技術もあった(高麗版大蔵経)。日本でも平安時代末期以降、「百万塔陀羅尼」「五山版」など仏典の印刷が行われていたが、主に寺院内など限られた範囲の流通に留まっており、広く一般に流通するものではなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1450年代にドイツのグーテンベルクによって活版印刷の技術が完成され、『グーテンベルク聖書』などが刊行された。初期の印刷物はまだまだ高価であり、限られた階層しか利用できなかったが、やがて出版産業は本格化する。揺籃期における出版人として、アルドゥス・マヌティウスなどが知られている。ルターに始まる宗教改革の時期にはパンフレットが大量に作られて流通し、印刷業も発達していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "戦国時代にキリシタン版と呼ばれる活版印刷が行われ、また朝鮮出兵で持ち込んだ朝鮮式の活字印刷が、江戸時代初期には「古活字本」が作られるようになる。古活字本の一つとして「嵯峨本」が有名である。これは京都・嵯峨の角倉素庵が本阿弥光悦らの協力で出版した豪華本であり、嵯峨本自体は少部数の製作だったが、後に大きな影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "営利目的の書物が日本で出版されたのは寛永年間(17世紀前半)の京都から始まり、貞享2年(1685年)に刊行された書物は約6000種になり(『新訂総合国語便覧』 第一学習者 改訂28版1998年(初版1978年)p69)、17世紀末になると京都では1万点近く発行された。発行部数が増えるにつれ、江戸幕府は「出版取締令」を享保7年(1722年)に公布し、出版規定を定めた。まず原稿を検閲後、試し摺りをし、再び検閲するという経緯を経ており、将軍に関するスキャンダルや風俗を乱す内容、出典・根拠のない論説などは禁じられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "それ以前、慶長年間には後陽成天皇の勅による「慶長勅版本」が出版され、『日本書紀』(神代巻)など四書が出されたが、慶長4年(1599年)に出版された神代巻は、当時の技術的問題もあり、100部ほどで、神宮・神社、身近な公家に配られたのみであった。書肆村上平楽寺(現平楽寺書店)は寛文9年(1669年)に『日本文徳天皇実録』を刊行し、他の六国史も17世紀後半には『日本後紀』を除き、出されていくことになるが、その金額は1両(『続日本紀』)から10匁(『文徳実録』)までであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "木版印刷による出版が盛んになると、浮世草子、黄表紙、洒落本、滑稽本などが出版され、一般にも広く読まれた。版元として蔦屋重三郎などもよく知られている。18世紀前半でも出版点数は1万点近く、大岡忠相が書物店屋に作らせた目録には7446種と記されている。当初、浮世草子や絵本は上方からの「下り商品」であったが、1770年代(18世紀末)には洒落本や黄表本などの「地本」(江戸出版本)の出版数が上方を超えた。民間の読み書き能力が向上したことも出版業界が形成された基礎条件となったが、何より出版活動の活発化は近世人の美意識を育てる触媒となり、粋(すい)から通・いきへと好みを分化させ、野暮を笑う空気を生み出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "明治時代になって活字を使った近代的な印刷術が急速に発展し、自由民権運動とともに政治的な主張を唱える新聞・雑誌も盛んになった。政府は一方では出版を奨励しつつ、他方で1869年(明治2年)に出版条例、1875年(明治8年)に新聞紙条例などを制定して言論活動を取り締まった。後に、1893年(明治26年)に出版法、1909年(明治42年)に新聞紙法へと改正された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "雑誌としては明治中期以降、文学作品や評論などを掲載する『国民之友』『太陽』『中央公論』『改造』などが次々に創刊され、広い層で読まれた。また、教育の普及とともに文学を好む読者層が成立し、新聞や雑誌に連載された小説が単行本化されて再読される、といったパターンも次第に定着していった(尾崎紅葉、夏目漱石らの小説)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当時は出版法(雑誌は定期刊行物として新聞紙法)に基づき内務省検閲局による検閲が行われ、書籍は発売3日前に、新聞雑誌は発売日に届け出ることになっていた。問題ありと判断されると発売禁止の処分が取られた。発売禁止の対象になったものは永井荷風の小説『ふらんす物語』のように風俗を害すると考えられたものや、社会主義・マルクス主義に基づく反体制的な記事や書籍であった。昭和期に入ると1934年(昭和9年)の法改正で言論弾圧が強化された。やがて、第二次世界大戦に突入し、1938年(昭和13年)に国家総動員法が制定されるなど、日本社会全体が軍国主義一色に染まっていく中での総力戦体制の下、出版など言論の自由は完全に失われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が日本の敗戦に終わり、出版法などが1949年(昭和24年)に廃止されるが、被占領期には連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) によって検閲が秘密裏に、より広汎に行われた。1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法施行後もそれは続けられた。1952年(昭和27年)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効され主権回復して以降、今日の日本では日本国憲法第21条によって、検閲の禁止、言論や表現の自由が規定されており、何人でも出版を行うことができる。一方で行き過ぎた取材によるプライバシーの侵害など別の問題も浮上してきている。また、紙媒体ではなく、インターネットを利用した電子出版も行われるようになっている。紙媒体の書籍の場合、過去の出版物を常時揃えておこうとすると在庫の負担が大きく、絶版にすると読者が必要な時に手に入れられない、という課題があったが、電子出版が普及すればこうした課題も解決することが期待できる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "一般の商業出版では次のようになる。", "title": "出版のプロセス" } ]
出版とは、販売・頒布する目的で文書や図画を複製し、これを書籍や雑誌の形態で発行することで、上梓(じょうし)、板行(はんこう)とも呼ばれる。上梓の「梓(し)」とは、(カバノキ科のミズメのことではなく)ノウゼンカズラ科のキササゲのことで、古く中国で木版印刷の版材にキササゲが用いられたことに基づく。書籍や雑誌など出版されたものを出版物(しゅっぱんぶつ)と呼び、出版を事業とする企業を出版社と呼ぶ。 出版(複製)は一般に印刷によって行われる。新聞も同様の方法で発行されるが、流通経路が異なり、通常は出版とは呼ばない。ただし、現在ほとんどの新聞社(またはそのグループ会社)では雑誌、書籍の出版も手がけている。 出版(書籍、雑誌)は新聞やラジオ、テレビに比べて情報伝達の速報性などの点で劣っているが、一方で正確性、蓄積性などに優れたメディアである。
{{出典の明記|date=2012年8月}} [[File:The Caxton Celebration - William Caxton showing specimens of his printing to King Edward IV and his Queen.jpg|thumb|300px|15世紀の[[ウィリアム・キャクストン]]の活版印刷風景(1877年の彫刻)]] {{読み仮名_ruby不使用|'''出版'''|しゅっぱん|{{lang-en-short|publishing}}}}とは、販売・頒布する目的で文書や図画を複製し、これを[[本|書籍]]や[[雑誌]]の形態で発行することで、{{読み仮名_ruby不使用|'''上梓'''|じょうし}}、{{読み仮名_ruby不使用|'''板行'''|はんこう}}とも呼ばれる。上梓の「{{読み仮名_ruby不使用|梓|し}}」とは、([[カバノキ科]]の[[ミズメ]]のことではなく)[[ノウゼンカズラ科]]の[[キササゲ]]のことで、古く[[中国]]で木版印刷の版材にキササゲが用いられたことに基づく。書籍や雑誌など出版されたものを{{読み仮名_ruby不使用|'''出版物'''|しゅっぱんぶつ}}と呼び、出版を事業とする企業を[[出版社]]と呼ぶ。 出版(複製)は一般に[[印刷]]によって行われる。[[新聞]]も同様の方法で発行されるが、流通経路が異なり、通常は出版とは呼ばない。ただし、現在ほとんどの新聞社(またはそのグループ会社)では雑誌、書籍の出版も手がけている。 出版(書籍、雑誌)は新聞や[[ラジオ]]、[[テレビ]]に比べて情報伝達の速報性などの点で劣っているが、一方で正確性、蓄積性などに優れた[[メディア (媒体)|メディア]]である。 == 歴史 == '''出版'''の前提として<!---[[紙]]と--->[[印刷]]技術が必要不可欠である([[古代]]・[[中世]]でも[[写本]]を業とする場合があるが、ここでは除外する)。また情報を伝達するための[[流通]]経路([[商業出版]]では一般に[[作者]]、[[出版社]]・[[印刷会社]]から流通、[[書店]]を経て[[読者]]まで)がなければ、継続的な事業としては成立しない。<!--?--> 印刷技術が普及するまで、[[本]]は[[写本]]によって伝えるほかはなかった。[[中国]]で[[7世紀]]ごろから木版印刷が行われ、世界最古の印刷書籍は『[[金剛経]]』であり、記された年代は[[868年]]([[9世紀]]末・[[唐]]朝末)で、現在、[[大英博物館]]が保管している<ref>[[クリストファー・ロイド]] 訳[[野中香方子]] 『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』 18刷2014年(1刷2012年) pp.305 - 306.</ref>。[[高麗]]では[[金属活字]]の技術もあった(高麗版[[大蔵経]])。日本でも[[平安時代]]末期以降、「百万塔陀羅尼」「[[五山版]]」など[[仏典]]の印刷が行われていたが、主に[[寺院]]内など限られた範囲の流通に留まっており、広く一般に流通するものではなかった。 <!-- 現存最古の印刷物は「百万塔陀羅尼」(ひゃくまんとうだらに)で、[[760年代]]に銅板または木版で印刷されたという。 木版印刷が活発化するのは平安末期からで、[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]にかけて、「[[五山版]]」などが印刷された。活版印刷が日本に伝わったのは[[1590年]]ごろで、九州を中心に「[[キリシタン版]]」と呼ばれる活字出版物が印刷された。また← これは印刷の歴史では?--> === ヨーロッパ === [[1450年代]]に[[ドイツ]]の[[ヨハネス・グーテンベルク|グーテンベルク]]によって[[活版印刷]]の技術が完成され、『[[グーテンベルク聖書]]』などが刊行された。初期の印刷物はまだまだ高価であり、限られた階層しか利用できなかったが、やがて出版産業は本格化する。揺籃期における出版人として、[[アルドゥス・マヌティウス]]などが知られている。[[マルティン・ルター|ルター]]に始まる[[宗教改革]]の時期には[[パンフレット]]が大量に作られて流通し、[[印刷]]業も発達していった。 {{節スタブ}} === 日本 === [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[キリシタン版]]と呼ばれる活版印刷が行われ、また[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]で持ち込んだ[[朝鮮]]式の活字印刷が、[[江戸時代]]初期には「古活字本」が作られるようになる。古活字本の一つとして「[[嵯峨本]]」が有名である。これは[[京都]]・[[嵯峨野|嵯峨]]の[[角倉素庵]]が[[本阿弥光悦]]らの協力で出版した豪華本であり、嵯峨本自体は少部数の製作だったが、後に大きな影響を与えた。 営利目的の書物が日本で出版されたのは[[寛永]]年間([[17世紀]]前半)の京都から始まり、[[貞享]]2年([[1685年]])に刊行された書物は約6000種になり(『新訂総合国語便覧』 第一学習者 改訂28版1998年(初版1978年)p69)、17世紀末になると京都では1万点近く発行された<ref>「歴史ミステリー」倶楽部 『図解!江戸時代』 [[三笠書房]] 2015年 ISBN 978-4-8379-8374-3 pp.222.</ref>。発行部数が増えるにつれ、[[江戸幕府]]は「[[出版取締令]]」を[[享保]]7年([[1722年]])に公布し、出版規定を定めた<!-- 同書 p.222. -->。まず原稿を[[検閲]]後、試し摺りをし、再び検閲するという経緯を経ており、将軍に関するスキャンダルや風俗を乱す内容、出典・根拠のない論説などは禁じられた<ref>同『図解!江戸時代』 三笠書房 2015年 pp.222 - 223.</ref>。 それ以前、[[慶長]]年間には[[後陽成天皇]]の[[勅]]による「慶長勅版本」が出版され、『[[日本書紀]]』(神代巻)など四書が出された<ref>『広辞苑 第六版』 [[岩波書店]]一部参考。『詳説 日本史図録 第5版』 [[山川出版社]] 2011年</ref>が、慶長4年([[1599年]])に出版された神代巻は、当時の技術的問題もあり、100部ほどで、[[神宮]]・[[神社]]、身近な[[公家]]に配られたのみであった<ref>[[遠藤慶太]] 『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 [[中公新書]] 2016年 ISBN 978-4-12-102362-9 p.209.</ref>。書肆村上平楽寺(現[[平楽寺書店]])は[[寛文]]9年([[1669年]])に『[[日本文徳天皇実録]]』を刊行し、他の[[六国史]]も17世紀後半には『[[日本後紀]]』を除き、出されていくことになるが、その金額は1[[両]](『[[続日本紀]]』)から10[[匁]](『文徳実録』)までであった<ref>同『六国史 -日本書紀に始まる古代の「正史」』 中公新書 2016年 p.210.</ref>。 [[木版印刷]]による出版が盛んになると、[[浮世草子]]、[[黄表紙]]、[[洒落本]]、[[滑稽本]]などが出版され<ref>[[深谷克己]] 『江戸時代 日本の歴史6』 [[岩波ジュニア新書]] 第3刷2001年(1刷2000年) ISBN 4-00-500336-2 p.144.後の[[19世紀]]前半には[[読本]]、滑稽本、人情本、草双本、合巻などの[[化政]]文化が花開く。</ref>、一般にも広く読まれた。[[版元]]として[[蔦屋重三郎]]などもよく知られている。[[18世紀]]前半でも出版点数は1万点近く、[[大岡忠相]]が書物店屋に作らせた目録には7446種と記されている<ref>同『江戸時代 日本の歴史6』 岩波ジュニア新書 2001年 p.144.</ref>。当初、浮世草子や絵本は上方からの「下り商品」であったが、[[1770年代]](18世紀末)には洒落本や黄表本などの「地本」(江戸出版本)の出版数が上方を超えた<ref>同『江戸時代』 p.144.</ref>。民間の[[識字率|読み書き能力]]が向上したことも出版業界が形成された基礎条件となった<ref>同『江戸時代』 p.77.</ref>が、何より出版活動の活発化は近世人の[[美意識]]を育てる触媒となり、[[粋]](すい)から[[通]]・[[いき]]へと好みを分化させ、[[野暮]]を笑う空気を生み出した<ref>同『江戸時代』 p.146.</ref>。 [[明治|明治時代]]になって活字を使った近代的な印刷術が急速に発展し、[[自由民権運動]]とともに[[政治]]的な主張を唱える新聞・雑誌も盛んになった。政府は一方では出版を奨励しつつ、他方で1869年(明治2年)に[[出版条例]]、1875年(明治8年)に[[新聞紙条例]]などを制定して言論活動を取り締まった。後に、1893年(明治26年)に[[出版法]]、1909年(明治42年)に[[新聞紙法]]へと改正された。 雑誌としては明治中期以降、[[文学]]作品や[[評論]]などを掲載する『[[国民之友]]』『太陽』『[[中央公論]]』『[[改造 (雑誌)|改造]]』などが次々に創刊され、広い層で読まれた。また、[[教育]]の普及とともに文学を好む読者層が成立し、新聞や雑誌に連載された小説が単行本化されて再読される、といったパターンも次第に定着していった([[尾崎紅葉]]、[[夏目漱石]]らの小説)。 当時は[[出版法]](雑誌は定期刊行物として新聞紙法)に基づき[[内務省 (日本)|内務省]]検閲局による[[検閲]]が行われ、書籍は発売3日前に、新聞雑誌は発売日に届け出ることになっていた。問題ありと判断されると発売禁止の処分が取られた。発売禁止の対象になったものは[[永井荷風]]の小説『[[ふらんす物語]]』のように風俗を害すると考えられたものや、[[社会主義]]・[[マルクス主義]]に基づく反体制的な記事や書籍であった。[[昭和]]期に入ると1934年(昭和9年)の法改正で言論弾圧が強化された。やがて、[[第二次世界大戦]]に突入し、1938年(昭和13年)に[[国家総動員法]]が制定されるなど、日本社会全体が[[軍国主義]]一色に染まっていく中での[[総力戦]]体制の下、出版など[[言論の自由]]は完全に失われた。 <!---検閲に引っ掛かるものは出版することができなかった。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])が始まると、[[治安維持法]]の名の元に---> [[第二次世界大戦]]が[[日本の降伏|日本の敗戦]]に終わり、出版法などが1949年(昭和24年)に廃止されるが、[[連合国軍占領下の日本|被占領期]]には[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ/SCAP) によって検閲が秘密裏に、より広汎に行われた。1947年(昭和22年)5月3日に[[日本国憲法]]施行後もそれは続けられた。1952年(昭和27年)4月28日に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]が発効され主権回復して以降、今日の日本では[[日本国憲法第21条]]によって、検閲の禁止、言論や[[表現の自由]]が規定されており、何人でも出版を行うことができる。一方で行き過ぎた取材による[[プライバシー]]の侵害など別の問題も浮上してきている。<!--- このへんはジャーナリズムの歴史になってくるなあ~ --->また、紙媒体ではなく、[[インターネット]]を利用した[[電子出版]]も行われるようになっている。紙媒体の書籍の場合、過去の出版物を常時揃えておこうとすると在庫の負担が大きく、絶版にすると読者が必要な時に手に入れられない、という課題があったが、電子出版が普及すればこうした課題も解決することが期待できる。 == 出版のプロセス == 一般の商業出版では次のようになる。 :[[出版社]]:企画→[[原稿]]依頼→[[作家]]、[[カメラマン]]、[[イラストレーター]]、または左記のクリエイターを総合的に運用して編集にあたる[[編集プロダクション]]:取材→原稿執筆、撮影、作画→[[出版社]]:割付け→[[校正]]→[[印刷会社]]:印刷→校正→製本所:丁合→綴じ→[[出版取次|取次]]→[[書店]]、[[図書館]]、[[学校]]ほか こうした出版プロセスを一地域に集めて効率よく行おうという試みが、韓国で「[[坡州出版都市]]」として行われている。<ref>[https://www.konest.com/contents/hot_report_detail.html?id=2320 坡州(パジュ)出版都市(Konest)]</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Columns-list|colwidth=20em| * [[日本の出版社一覧]] * [[出版物]] * [[出版人]] * [[学術出版]] * [[ISBN]] - [[ISSN]] - [[客注]] - [[返本]] * [[編集]] - [[編集者]] - [[編集長]] * [[編集プロダクション]] * [[本]] - [[本|書籍]] - [[奥付]] - [[検印]] * [[装幀]](装訂) - [[帯 (出版)|帯]] * [[著作権]] - [[出版権]] - [[印税]] * [[出版不況]] - [[活字離れ]] * [[書店]] - [[古書店]] - [[新古書店]] * [[活字]] - [[写真植字]] - [[DTP]] - [[電子出版]] * [[オンデマンド印刷]] * [[自費出版]] - [[共同出版]] * [[持ち込み原稿]] * [[日本における検閲]] * [[プレスコード]] }} == 外部リンク == {{Wiktionary}} * [https://rnavi.ndl.go.jp/jp/guides/post_386.html 出版業に関する基礎的知識を得るための資料] - 調べ方案内([[国立国会図書館]]) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しゆつはん}} [[Category:出版|*]] [[Category:文書作成]] [[Category:和製漢語]] [[sv:Bokförlag]]
2003-03-17T02:23:08Z
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自費出版
自費出版(じひしゅっぱん)とは、書籍をはじめとする何らかのメディアで、著者が自分で費用を出して出版することである。具体例としては、企業や自治体が独自に作成する出版物、趣味で作った絵本や詩吟会の作品集、自分史などが挙げられる。 自費出版は「出版のための経費を著者側が自ら負担する場合を言う言葉」を意味し、多数読者に頒布する行為ではない点、内容が極めて多岐にわたる点が特徴である。基本的に、書店での販売は行わず、製作費用は全額著者が負担する。出版物自体に自費出版の本と商業出版の本とが、区別できる違いがあるわけではない。 書籍を中心とする多くの自費出版物は、出版取次と呼ばれる流通仲介業者を通して書店で販売される通常の商業出版物とは異なり、市場での販売による収益が期待できない。このため既成の出版社では出版を引き受けてくれないことなどから、印刷会社などが直接その製造を個人から請け負う形が一般的だった。主として1990年以降、自費出版を行う個人の増加や出版不況などを背景として、自費出版を専門に行う出版社や商業出版と同時に自費出版も請け負う出版社が増加した。2000年以降には、書店と直接契約するなどで「書店販売を行う」ことをセールスポイントとして大手新聞などで著者を募集する「共同出版型」の手法や、同じく大手新聞などで出版賞募集をPRし入賞作品を自費出版に誘導する「出版賞型」の手法が登場してきた。 商業出版は出版に際しての赤字になる可能性も含めたすべてのリスクを出版社側が負い営業的努力により売り上げから収益を上げるのに対して、自費出版は注文を受けた著者から料金を受け取り本を刊行することで収益を上げるという、根本から異なるビジネスモデルによって成立している。したがって、自費出版の書籍が大きな部数を売り上げることは極めて稀である。 近年、インターネット上での「電子出版」という書籍の形態が誕生したことで、既存の紙媒体での出版とは一線を画した自費出版が可能となった。従来の自費出版は「出版費用が高い」「出版社との交渉が必要」等ハードルが高かったが、電子書籍は「初期手数料が安いもしくは無料」「出版社を通さずに済む」など、インターネットが使える程度の知識があれば誰でも出版可能になった。電子出版は著者単独で行うことも可能だが、出版代行業者も既に数多く存在する。 自費出版をめぐってさまざまなトラブルが発生している。 新風舎はウェブや月刊誌に広告を掲載して小説や詩の公募文学賞を年間30回程度開催し、応募してきた人に対して「可能性を感じる」「選定委員会から推薦があった」(実際には存在さえしない)などと特別に選ばれたかのような印象を与えては、トータルで63万円から100万円かかる同社の自費出版を利用するよう勧誘していた。しかしコンテスト受賞者の6割が捏造であった。自費出版の説明会で言われた詐欺レベルのセールストークに作家からも「そんなことはあり得ない」の声があり、2007年以降には書店流通系自費出版をめぐるトラブルが社会問題化したため、NPO法人日本自費出版ネットワークはガイドラインを策定した。 内容のレベルは千差万別であり、個人が出版する自費出版物は、古本屋では「葬式饅頭の代わりに配る本」の意味で「まんじゅう本」と揶揄される。 自費出版物は、編集者の編集や研究者による査読を通すことは基本的にないため、専門家からは認められない傾向がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "自費出版(じひしゅっぱん)とは、書籍をはじめとする何らかのメディアで、著者が自分で費用を出して出版することである。具体例としては、企業や自治体が独自に作成する出版物、趣味で作った絵本や詩吟会の作品集、自分史などが挙げられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "自費出版は「出版のための経費を著者側が自ら負担する場合を言う言葉」を意味し、多数読者に頒布する行為ではない点、内容が極めて多岐にわたる点が特徴である。基本的に、書店での販売は行わず、製作費用は全額著者が負担する。出版物自体に自費出版の本と商業出版の本とが、区別できる違いがあるわけではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "書籍を中心とする多くの自費出版物は、出版取次と呼ばれる流通仲介業者を通して書店で販売される通常の商業出版物とは異なり、市場での販売による収益が期待できない。このため既成の出版社では出版を引き受けてくれないことなどから、印刷会社などが直接その製造を個人から請け負う形が一般的だった。主として1990年以降、自費出版を行う個人の増加や出版不況などを背景として、自費出版を専門に行う出版社や商業出版と同時に自費出版も請け負う出版社が増加した。2000年以降には、書店と直接契約するなどで「書店販売を行う」ことをセールスポイントとして大手新聞などで著者を募集する「共同出版型」の手法や、同じく大手新聞などで出版賞募集をPRし入賞作品を自費出版に誘導する「出版賞型」の手法が登場してきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "商業出版は出版に際しての赤字になる可能性も含めたすべてのリスクを出版社側が負い営業的努力により売り上げから収益を上げるのに対して、自費出版は注文を受けた著者から料金を受け取り本を刊行することで収益を上げるという、根本から異なるビジネスモデルによって成立している。したがって、自費出版の書籍が大きな部数を売り上げることは極めて稀である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "近年、インターネット上での「電子出版」という書籍の形態が誕生したことで、既存の紙媒体での出版とは一線を画した自費出版が可能となった。従来の自費出版は「出版費用が高い」「出版社との交渉が必要」等ハードルが高かったが、電子書籍は「初期手数料が安いもしくは無料」「出版社を通さずに済む」など、インターネットが使える程度の知識があれば誰でも出版可能になった。電子出版は著者単独で行うことも可能だが、出版代行業者も既に数多く存在する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "自費出版をめぐってさまざまなトラブルが発生している。", "title": "トラブル" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "新風舎はウェブや月刊誌に広告を掲載して小説や詩の公募文学賞を年間30回程度開催し、応募してきた人に対して「可能性を感じる」「選定委員会から推薦があった」(実際には存在さえしない)などと特別に選ばれたかのような印象を与えては、トータルで63万円から100万円かかる同社の自費出版を利用するよう勧誘していた。しかしコンテスト受賞者の6割が捏造であった。自費出版の説明会で言われた詐欺レベルのセールストークに作家からも「そんなことはあり得ない」の声があり、2007年以降には書店流通系自費出版をめぐるトラブルが社会問題化したため、NPO法人日本自費出版ネットワークはガイドラインを策定した。", "title": "トラブル" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "内容のレベルは千差万別であり、個人が出版する自費出版物は、古本屋では「葬式饅頭の代わりに配る本」の意味で「まんじゅう本」と揶揄される。", "title": "内容の信頼性" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "自費出版物は、編集者の編集や研究者による査読を通すことは基本的にないため、専門家からは認められない傾向がある。", "title": "内容の信頼性" } ]
自費出版(じひしゅっぱん)とは、書籍をはじめとする何らかのメディアで、著者が自分で費用を出して出版することである。具体例としては、企業や自治体が独自に作成する出版物、趣味で作った絵本や詩吟会の作品集、自分史などが挙げられる。
'''自費出版'''(じひしゅっぱん)とは、[[本|書籍]]をはじめとする何らかの[[メディア (媒体)|メディア]]で、著者が自分で費用を出して[[出版]]することである。具体例としては、企業や自治体が独自に作成する出版物、[[趣味]]で作った絵本や詩吟会の作品集、[[自分史]]などが挙げられる。 == 概要 == 自費出版は「出版のための経費を著者側が自ら負担する場合を言う言葉」を意味し、多数読者に頒布する行為ではない点、内容が極めて多岐にわたる点が特徴である<ref name="tanaka">{{Cite journal|和書 |author =田中薫 |date = 2004-03 |title =自費出版の現在 |journal =宮崎公立大学人文学部紀要 |issue=11 |volume= 1 |pages =85-107 |publisher =宮崎公立大学 |ref = harv }}</ref>。基本的に、書店での販売は行わず、製作費用は全額著者が負担する<ref>{{Cite web|和書|title=出版Q&A相談室 {{!}} 自費出版、共同出版、企画出版は大阪のせせらぎ出版|url=https://www.seseragi-s.com/faq/|website=www.seseragi-s.com|accessdate=2020-03-27}}</ref>。出版物自体に自費出版の本と商業出版の本とが、区別できる違いがあるわけではない。 書籍を中心とする多くの自費出版物は、[[出版取次]]と呼ばれる流通仲介業者を通して書店で販売される通常の商業出版物とは異なり、市場での販売による収益が期待できない。このため既成の出版社では出版を引き受けてくれないことなどから、印刷会社などが直接その製造を個人から請け負う形が一般的だった。主として[[1990年]]以降、自費出版を行う個人の増加や出版不況などを背景として、自費出版を専門に行う出版社や商業出版と同時に自費出版も請け負う出版社が増加した<ref>{{Cite web|和書|title=昔と今の自費出版の違い {{!}} 自費出版コラム {{!}} 自費出版の青山ライフ出版|url=http://aoyamalife.co.jp/cpu/column/theme01/theme22.php|website=aoyamalife.co.jp|accessdate=2020-03-27}}</ref>。[[2000年]]以降には、書店と直接契約するなどで「書店販売を行う」ことをセールスポイントとして大手新聞などで著者を募集する「[[共同出版]]型」の手法や、同じく大手新聞などで出版賞募集をPRし入賞作品を自費出版に誘導する「出版賞型」の手法が登場してきた。 商業出版は出版に際しての赤字になる可能性も含めたすべてのリスクを出版社側が負い営業的努力により売り上げから収益を上げるのに対して、自費出版は注文を受けた著者から料金を受け取り本を刊行することで収益を上げるという、根本から異なるビジネスモデルによって成立している。したがって、自費出版の書籍が大きな部数を売り上げることは極めて稀である。 近年、インターネット上での「[[電子出版]]」という書籍の形態が誕生したことで、既存の紙媒体での出版とは一線を画した自費出版が可能となった。従来の自費出版は「出版費用が高い」「出版社との交渉が必要」等ハードルが高かったが、電子書籍は「初期手数料が安いもしくは無料」「出版社を通さずに済む」など、インターネットが使える程度の知識があれば誰でも出版可能になった。電子出版は著者単独で行うことも可能だが、出版代行業者も既に数多く存在する。 == トラブル == 自費出版をめぐってさまざまなトラブルが発生している<ref>{{Cite web|和書|title=文芸社とのトラブル事例|url=https://nakusukai.exblog.jp/12799405/|website=共同出版・自費出版の被害をなくす会|accessdate=2020-03-27|language=ja|last=nakusukai}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=協力出版は詐欺商法か? 文芸社刑事告発回想記 その3|url=http://onigumo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/3-7c42.html|website=鬼蜘蛛おばさんの疑問箱|accessdate=2020-03-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=著者とのトラブルが報告される大手自費出版業者の新風舎が倒産手続|url=https://gigazine.net/news/20080107_singpoosha_bankrupt/|website=GIGAZINE|accessdate=2020-03-27|language=ja}}</ref>。 [[新風舎]]はウェブや月刊誌に広告を掲載して小説や詩の公募文学賞を年間30回程度開催し、応募してきた人に対して「可能性を感じる」「選定委員会から推薦があった」(実際には存在さえしない)などと特別に選ばれたかのような印象を与えては、トータルで63万円から100万円かかる同社の自費出版を利用するよう勧誘していた。しかしコンテスト受賞者の6割が捏造であった。自費出版の説明会で言われた詐欺レベルのセールストークに作家からも「そんなことはあり得ない」の声があり、[[2007年]]以降には書店流通系自費出版をめぐるトラブルが社会問題化したため、NPO法人日本自費出版ネットワークはガイドラインを策定した<ref>{{Cite web|和書|title=NPO法人日本自費出版ネットワーク|url=https://www.jsjapan.net/users/guidelines|website=www.jsjapan.net|accessdate=2020-03-27}}</ref>。 == 内容の信頼性 == 内容のレベルは千差万別であり、個人が出版する自費出版物は、古本屋では「葬式饅頭の代わりに配る本」の意味で「まんじゅう本」と揶揄される<ref name="tanaka"></ref>。 自費出版物は、編集者の編集や研究者による査読を通すことは基本的にないため、専門家からは認められない傾向がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|出版||PJ:PB}} * 代表的な[[出版社]]([[版元]]) **[[草思社]] ** [[文芸社]] ** [[新風舎]] ** [[碧天舎]] == 外部リンク == * [http://www.kokusen.go.jp/news/data/n-20071109_1.html 自費出版に関する相談が増加-作品をほめられても、安易に契約しない] - 国民生活センター ** [http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20071109_1.pdf http://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20071109_1.pdf] - 上の詳細情報(PDFファイル) {{Publishing-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しひしゆつはん}} [[Category:自費出版|*]] [[Category:出版]]
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ムック
ムック
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ムック ムック (出版) - 雑誌と書籍の性格を併せ持つ出版物。 ムック (キャラクター) - 子供向け番組『ポンキッキシリーズ』などに登場するキャラクター。 MUCC - 日本のロックバンド。 カール・ムック - ドイツの指揮者。 むっく - 日本の4コマ漫画家。 Dr.ムック - スーパーファミコン用アクションゲーム『スーパーボンバーマン』に登場するキャラクター。 テレビドラマ『マルモのおきて』に登場するイヌ。 ムク - 朝鮮の食品。
'''ムック''' * [[ムック (出版)]] - 雑誌と書籍の性格を併せ持つ出版物。 * [[ムック (キャラクター)]] - 子供向け番組『[[ポンキッキシリーズ]]』などに登場する[[キャラクター]]。 * [[MUCC]] - 日本のロックバンド。 * [[カール・ムック]] - ドイツの指揮者。 * [[むっく]] - 日本の4コマ漫画家。 * Dr.ムック - [[スーパーファミコン]]用アクションゲーム『[[スーパーボンバーマン]]』に登場するキャラクター。 * テレビドラマ『[[マルモのおきて]]』に登場するイヌ。 * [[ムク]] - 朝鮮の食品。 {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:むつく}} [[Category:ドイツ語の姓]]
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九州大学
九州大学(きゅうしゅうだいがく、英語: Kyushu University)は、福岡県福岡市に本部を置く日本の国立大学。略称は九大(きゅうだい)。 旧帝国大学7校の1つで、 文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。 九州大学は、1949年(昭和24年)に旧制九州大学等を包括して設置された国立大学である。1867年(慶応3年)に設立された賛生館を起源とする九州帝国大学を直接の母体としている(旧帝大の一つ)。九州帝国大学の初代総長は東京帝国大学の総長と明治専門学校(現:九州工業大学)の初代総裁を務めた山川健次郎である。2003年(平成15年)に九州芸術工科大学を吸収、2004年(平成16年)に国立大学法人による設置へと移行した。 九州大学には特に建学の精神は定められていないが、『九州大学教育憲章』『九州大学学術憲章』が存在する。 九州大学では1970年代、大学院への要請が多様化してきたことに対応するため、「学際大学院」構想を進め、1979年(昭和54年)4月に総合理工学研究科(現:総合理工学研究院)を設置している。 1991年(平成3年)、キャンパスの統合移転計画が決定すると、1998年(平成10年)に「改革の大綱案」を定め、優秀な研究者の養成と研究レベルの向上を目的とする大学院重点化を行い、2000年(平成12年)に学府・研究院制度を導入した。この制度は研究機関としての大学院組織を「研究院」、教育機関としての大学院組織を「学府」に分離する内容。必要に応じて簡易に組織改編ができるようになり、研究院には教員が、学府には大学院生が、学部には学部生が所属し、教員が学府や学部に出向する形で教育を行う。なお、基本的に研究院長が学府長・学部長を兼務する。 1867年(慶応3年)、福岡を当時統治していた福岡藩は医学を教育する「賛生館」という藩校を天神に設立した。1872年(明治5年)に学制が施行されるといったん廃校となったものの、附属病院はその間も継続した。同病院は1874年(明治7年)に修猷館の附属診療所となり、1879年(明治12年)には福岡県立福岡医学校の附属病院へ改組された。福岡県立福岡医学校が廃校となった後は福岡県立福岡病院として存続することになる(1896年(明治29年)6月22日、現在の病院地区である福岡県筑紫郡千代村に移転)。 1886年(明治19年)に帝国大学令が公布されると九州に帝国大学を設置する機運が高まり、1900年(明治33年)1月29日の第14帝国議会において『九州東北帝国大学設置建議案』が可決された。建議案の可決後も古くから医学の盛んだった長崎県(江戸時代に出島が置かれ蘭学の本場だった)や、第五高等学校が設置されていた熊本県との間で誘致の綱引きが行われていたが、結局は賛生館の流れを汲む福岡県立福岡病院を母体に1903年(明治36年)京都帝国大学の分科大学として福岡医科大学が設置された(帝国大学の医科大学(医学部)としては3番目の設置)。 その後は資金難により九州帝国大学の設置は進まなかったが、古河財閥から1906年(明治39年)に「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の建物建設へ寄付の申し出があり、設置の動きが高まることとなる。古河財閥の寄付金約100万円のうち6割ほどが九州帝国大学工科大学校舎建設の資金として当てられ、さらに福岡県の寄付金によって1911年(明治44年)1月1日に「九州帝国大学」が設立された。九州帝国大学の初代総長は東京帝国大学の総長と明治専門学校(現:九州工業大学)の初代総裁を務めた山川健次郎である。なお、古河財閥の寄付金の残りの4割は札幌農学校の東北帝国大学農科大学昇格(1907年(明治40年)9月)と東北帝大理科大学新設(1911年(明治44年)1月1日)のために用いられている。 こうした経緯から、九州大学では医学部創立年を京都帝国大学福岡医科大学が設立された1903年(明治36年)、大学創立年を九州帝国大学として独立設置された1911年(明治44年) としている。 1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立総合大学令に改められると、九州大学と改称した。1949年(昭和24年)には福岡地区に所在していた旧制九州大学、九州大学附属医学専門部、福岡高等学校、久留米工業専門学校を包括して新制九州大学が設置された。旧福岡高等学校の施設と教員は九州大学第一分校(1955年(昭和30年)第二分校と統合し九州大学分校、1963年(昭和38年)より教養部)に引き継がれ、旧久留米工業専門学校は第二分校(1955年(昭和30年)第一分校との統合により廃止)が設置され、旧陸軍歩兵第48連隊兵舎跡に第三分校(1951年(昭和26年)廃止)が置かれた。 2003年(平成15年)には国立大学法人化を視野に入れ、法律第29号により九州芸術工科大学を吸収。2004年(平成16年)には国立大学法人法の規定により、国による直接設置から国立大学法人による設置へと移行した。 九州大学は2011年(平成23年)に創立100周年を迎えた。九州大学創立百周年記念事業として九州大学基金を創設し、以下の事業を行っている。 主体的な学びのできるアクティブ・ラーナー の育成のための実践、研究組織。創立100周年を機に2011年(平成23年)10月に設置された。 2016年(平成28年)7月に文部科学省教育関係共同利用拠点「次世代型大学教育開発拠点」として認定されている(2026年度(令和8年度)末までの予定)。 学部一覧 前述の通り、九州大学では大学院組織が研究部/教育部(九州大学での名称は研究院/学府)に分けられている。研究院には教員が所属し、大学院生は学府に所属する。 教育組織としての組織 研究組織としての組織 ノーベル賞級の高い業績を挙げた退職後の研究者と、優れた若手研究者を支援するための学内組織。2009年(平成21年)10月設立。九州大学出身でノーベル賞候補に上げられている新海征治(応用化学)、笹月健彦(遺伝学)両名誉教授には、希望に応じて研究室や研究員などが与えられる。特別准教授には23人が就任している。 21世紀COEプログラムとして、9件のプロジェクトが採択された。 グローバルCOEプログラムとして、5件のプロジェクトが採択されている。 文部科学省は2010年(平成22年)7月14日、九州大学カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所を、科学技術分野で世界最高水準の研究機関を目指す世界トップレベル国際研究拠点形成促進プログラムの研究拠点に選定した。毎年14億円を10-15年にわたって集中的に投資して世界に通用する研究拠点に育てることを目的としている。 入学式と卒業式は伊都地区にある椎木講堂で行われている。2013年度入学式までは福岡国際センターで行われていた。 学園祭は、「九大祭」と「芸工祭」がある。 「九大祭」は、毎年11月下旬に伊都地区で行われるイベントで、旧九大の流れを汲んでいる。かつては箱崎地区で5月11日の本学記念日を中心に九大祭が、六本松地区で6月に学園祭がそれぞれ行われていたが、1966年(昭和41年)に統合された。2008年(平成20年)までは六本松地区で開催されていたが、2009年(平成21年)からは伊都地区で開催されている。 芸工祭は九大祭と同時期に大橋地区で開催されるイベントで、旧芸工大の流れを汲んでいる。 2017年から4学期制導入に伴い「九大祭」「芸工祭」ともに10月上旬の開催に変更となる。 体育系の全学公認サークルを統括する学生組織の体育総部体育総務委員会が存在する。 九州大学の同窓会には、13の部局別同窓会とその他地区別に組織されている同窓会があり、九州大学同窓会連合会がそれを束ねている。1999年(平成11年)に設立され、地区別同窓会の設立を支援するなどの活動をしている。 旧帝国大学の出身者および学長、教授、助教授経験者で構成される団体として社団法人学士会があり、九州大学関係者も多数入会している。詳細は、学士会を参照。 九州大学ではそれぞれの校地を地区またはキャンパスと呼んでいる。ただし、キャンパスと呼ばれるのは伊都・病院・筑紫・大橋・別府・(旧)六本松・(旧)箱崎地区のみであり、地区と言う場合にはキャンパス以外の施設も含める場合がある。 伊都(いと)地区は、キャンパス移転計画(後述)に伴い2005年(平成17年)10月1日に開設された新キャンパスである。学生寄宿舎として、ドミトリーI、ドミトリーIIが設置されている。また、伊都新キャンパス情報発信拠点Big Orange(ビッグオレンジ)が設けられている。正式キャンパス名は「伊都地区」であるが、計画段階で使われていた「元岡地区」の呼称も浸透している。「伊都」は、キャンパスが立地する糸島半島にあったとされる伊都国に因んで糸島市などがしばしば用いている愛称であり、住所表記上の地名ではない。 図書館、食堂、自販機、売店・書店(大学生協とローソン)、ATM等が利用可能である。学生寮は2006年(平成18年)秋から供用されている。 病院地区は、馬出(まいだし)地区、堅粕(かたかす)地区ともよばれる。京都帝国大学福岡医科大学の母体となった福岡県立病院の跡地である。九州大学内では最も歴史が古い地区である。病院については九州大学病院を参照。2009年(平成21年)9月に、総工費1千億円を費やし、着工から11年かけて建設された新病院棟が完成した。 教育の場としてよりは研究機関としての色合いが濃い。かつて筑紫地区への全面移転が計画されていたが地元の反対により断念、現在の形となった。全面移転計画当時は春日原地区とも呼ばれていた。 福岡県立筑紫丘高等学校の用地・建物を転用した旧福岡学芸大学(現福岡教育大学)福岡分校の跡地。かつての九州芸術工科大学で、芸術工学を学ぶ場所となっている。大橋、筑紫地区男子学生を対象とした学生寄宿舎として井尻寮が設置されている。 旧制福岡高等学校の跡地。教養部が解体されたのちも全学教育科目(一般教養教育)の大部分はこの地区で行われていた。多くの科目は言語文化研究院、比較社会文化研究院所属の教員によって実施されていた。六本松地区で教養部・全学教育科目を履修する期間には、将来の専攻に関連する講義を受けるために、各学部の専門キャンパス(箱崎・馬出・大橋・伊都)に行く曜日があり、単位履修の関係で1日のうちに六本松と専門キャンパスの両方に行くこともあった。なお、2009年(平成21年)3月に閉鎖された田島寮は、この地区(樋井川対岸の城南区田島)にあった。 全学教育科目、比較社会文化学府/研究院は2009年(平成21年)4月に、数理学研究院・数理学府は2009年(平成21年)10月に伊都地区へ移転。2009年(平成21年)9月29日に六本松地区の閉校式が行われ、88年の歴史に幕を下ろした。跡地は2010年(平成22年)3月に独立行政法人都市再生機構 (UR) に売却された。2010年(平成22年)12月から解体作業に着手しており2011年(平成23年)9月中旬までに完了した。 なお、六本松キャンパス跡地の一部に開業した「六本松421」の3階部分に九州大学法科大学院が移転し、2017年(平成29年)9月25日に開講した。 地区内は理系地区と文系地区に分かれていた。理系キャンパスには旧大学本部や旧法文学部棟など戦前の建物が多く残っていた。これらの多くは建築家倉田謙の手になるもので、九州大学の赤本の表紙にもなって親しまれた旧工学部本館(1930年竣工)も倉田の設計である。地区の学生寮としては男子寮の松原寮、女子寮の貝塚寮があった。福岡空港16番滑走路に着陸する直前の飛行機が真上を通過している。 2018年(平成30年)9月に全学部・大学院の移転が完了した。理系地区の一部区域にある旧工学部本館、旧本部第一庁舎、旧第三庁舎、正門門衛所、正門については保存され、旧工学部本館は2018年10月以降も総合研究博物館、文書館が利用している。 UR(都市再生機構)が道路などの都市基盤を整備し、公園、小学校を配置。事業者を公募して住宅や商業施設などを造る計画である。2023年3月までに道路が整備され、同年4月から事業者の公募が始まった。 サテライトキャンパス等 農場等 学術研究・産学官連携本部を中心として、企業・自治体との協力(産学官連携)や九州大学発ベンチャー企業の支援に取り組んでいる。 1945年(昭和20年)に医学部敷地内で米軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件。ただし、大学としての組織的関わりは全くない。 1968年(昭和43年)6月2日22時45分頃、在日米軍板付基地第313航空師団第15戦術偵察飛行隊所属のRF-4Cファントム偵察機が当時箱崎キャンパスに建設中の大型計算機施設の建物に墜落。以後、学生運動が活発化し、墜落機残骸撤去に約7ヶ月を要した。 2010年(平成22年)3月に、2012年(平成24年)度の理学部数学科の入学試験(後期日程)において、定員9名の内、5名を女性枠とすることを公表したが、法の下の平等の観点から問題があるとの批判があり、2011年(平成23年)5月19日に、導入の取り止めを決定。 広報誌として『九大広報』(KYUSHU UNIVERSITY CAMPUS MAGAZINE)(九州大学広報専門委員会編集発行)がある。 2022年(令和4年)7月25日に、福岡市は九州大学の非公認サークル「九大CARP(カープ)」が、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と関係がある宗教団体であると判断し、環境保全に貢献したとする過去2回の表彰を取り消したと発表した。同サークルは2016年と2020年に、大学周辺のごみ拾いをしたとして、市環境行動賞の奨励賞にそれぞれ選ばれた。福岡市は「過去の調査が十分でなかった」と説明し、表彰状などを返還してもらうよう協議している。 ダイヤモンド社の2006年年9月23日発行のビジネス誌「週刊ダイヤモンド」94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査)で、同大学は、2006年時点で存在する744大学中第8位にランキングされた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "九州大学(きゅうしゅうだいがく、英語: Kyushu University)は、福岡県福岡市に本部を置く日本の国立大学。略称は九大(きゅうだい)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "旧帝国大学7校の1つで、 文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "九州大学は、1949年(昭和24年)に旧制九州大学等を包括して設置された国立大学である。1867年(慶応3年)に設立された賛生館を起源とする九州帝国大学を直接の母体としている(旧帝大の一つ)。九州帝国大学の初代総長は東京帝国大学の総長と明治専門学校(現:九州工業大学)の初代総裁を務めた山川健次郎である。2003年(平成15年)に九州芸術工科大学を吸収、2004年(平成16年)に国立大学法人による設置へと移行した。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "九州大学には特に建学の精神は定められていないが、『九州大学教育憲章』『九州大学学術憲章』が存在する。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "九州大学では1970年代、大学院への要請が多様化してきたことに対応するため、「学際大学院」構想を進め、1979年(昭和54年)4月に総合理工学研究科(現:総合理工学研究院)を設置している。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1991年(平成3年)、キャンパスの統合移転計画が決定すると、1998年(平成10年)に「改革の大綱案」を定め、優秀な研究者の養成と研究レベルの向上を目的とする大学院重点化を行い、2000年(平成12年)に学府・研究院制度を導入した。この制度は研究機関としての大学院組織を「研究院」、教育機関としての大学院組織を「学府」に分離する内容。必要に応じて簡易に組織改編ができるようになり、研究院には教員が、学府には大学院生が、学部には学部生が所属し、教員が学府や学部に出向する形で教育を行う。なお、基本的に研究院長が学府長・学部長を兼務する。", "title": "概観" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1867年(慶応3年)、福岡を当時統治していた福岡藩は医学を教育する「賛生館」という藩校を天神に設立した。1872年(明治5年)に学制が施行されるといったん廃校となったものの、附属病院はその間も継続した。同病院は1874年(明治7年)に修猷館の附属診療所となり、1879年(明治12年)には福岡県立福岡医学校の附属病院へ改組された。福岡県立福岡医学校が廃校となった後は福岡県立福岡病院として存続することになる(1896年(明治29年)6月22日、現在の病院地区である福岡県筑紫郡千代村に移転)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1886年(明治19年)に帝国大学令が公布されると九州に帝国大学を設置する機運が高まり、1900年(明治33年)1月29日の第14帝国議会において『九州東北帝国大学設置建議案』が可決された。建議案の可決後も古くから医学の盛んだった長崎県(江戸時代に出島が置かれ蘭学の本場だった)や、第五高等学校が設置されていた熊本県との間で誘致の綱引きが行われていたが、結局は賛生館の流れを汲む福岡県立福岡病院を母体に1903年(明治36年)京都帝国大学の分科大学として福岡医科大学が設置された(帝国大学の医科大学(医学部)としては3番目の設置)。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "その後は資金難により九州帝国大学の設置は進まなかったが、古河財閥から1906年(明治39年)に「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の建物建設へ寄付の申し出があり、設置の動きが高まることとなる。古河財閥の寄付金約100万円のうち6割ほどが九州帝国大学工科大学校舎建設の資金として当てられ、さらに福岡県の寄付金によって1911年(明治44年)1月1日に「九州帝国大学」が設立された。九州帝国大学の初代総長は東京帝国大学の総長と明治専門学校(現:九州工業大学)の初代総裁を務めた山川健次郎である。なお、古河財閥の寄付金の残りの4割は札幌農学校の東北帝国大学農科大学昇格(1907年(明治40年)9月)と東北帝大理科大学新設(1911年(明治44年)1月1日)のために用いられている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "こうした経緯から、九州大学では医学部創立年を京都帝国大学福岡医科大学が設立された1903年(明治36年)、大学創立年を九州帝国大学として独立設置された1911年(明治44年) としている。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立総合大学令に改められると、九州大学と改称した。1949年(昭和24年)には福岡地区に所在していた旧制九州大学、九州大学附属医学専門部、福岡高等学校、久留米工業専門学校を包括して新制九州大学が設置された。旧福岡高等学校の施設と教員は九州大学第一分校(1955年(昭和30年)第二分校と統合し九州大学分校、1963年(昭和38年)より教養部)に引き継がれ、旧久留米工業専門学校は第二分校(1955年(昭和30年)第一分校との統合により廃止)が設置され、旧陸軍歩兵第48連隊兵舎跡に第三分校(1951年(昭和26年)廃止)が置かれた。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)には国立大学法人化を視野に入れ、法律第29号により九州芸術工科大学を吸収。2004年(平成16年)には国立大学法人法の規定により、国による直接設置から国立大学法人による設置へと移行した。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "九州大学は2011年(平成23年)に創立100周年を迎えた。九州大学創立百周年記念事業として九州大学基金を創設し、以下の事業を行っている。", "title": "基礎データ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "主体的な学びのできるアクティブ・ラーナー の育成のための実践、研究組織。創立100周年を機に2011年(平成23年)10月に設置された。 2016年(平成28年)7月に文部科学省教育関係共同利用拠点「次世代型大学教育開発拠点」として認定されている(2026年度(令和8年度)末までの予定)。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "学部一覧", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前述の通り、九州大学では大学院組織が研究部/教育部(九州大学での名称は研究院/学府)に分けられている。研究院には教員が所属し、大学院生は学府に所属する。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "教育組織としての組織", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "研究組織としての組織", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ノーベル賞級の高い業績を挙げた退職後の研究者と、優れた若手研究者を支援するための学内組織。2009年(平成21年)10月設立。九州大学出身でノーベル賞候補に上げられている新海征治(応用化学)、笹月健彦(遺伝学)両名誉教授には、希望に応じて研究室や研究員などが与えられる。特別准教授には23人が就任している。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "21世紀COEプログラムとして、9件のプロジェクトが採択された。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "グローバルCOEプログラムとして、5件のプロジェクトが採択されている。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "文部科学省は2010年(平成22年)7月14日、九州大学カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所を、科学技術分野で世界最高水準の研究機関を目指す世界トップレベル国際研究拠点形成促進プログラムの研究拠点に選定した。毎年14億円を10-15年にわたって集中的に投資して世界に通用する研究拠点に育てることを目的としている。", "title": "教育および研究" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "入学式と卒業式は伊都地区にある椎木講堂で行われている。2013年度入学式までは福岡国際センターで行われていた。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "学園祭は、「九大祭」と「芸工祭」がある。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "「九大祭」は、毎年11月下旬に伊都地区で行われるイベントで、旧九大の流れを汲んでいる。かつては箱崎地区で5月11日の本学記念日を中心に九大祭が、六本松地区で6月に学園祭がそれぞれ行われていたが、1966年(昭和41年)に統合された。2008年(平成20年)までは六本松地区で開催されていたが、2009年(平成21年)からは伊都地区で開催されている。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "芸工祭は九大祭と同時期に大橋地区で開催されるイベントで、旧芸工大の流れを汲んでいる。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2017年から4学期制導入に伴い「九大祭」「芸工祭」ともに10月上旬の開催に変更となる。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "体育系の全学公認サークルを統括する学生組織の体育総部体育総務委員会が存在する。", "title": "学生生活" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "九州大学の同窓会には、13の部局別同窓会とその他地区別に組織されている同窓会があり、九州大学同窓会連合会がそれを束ねている。1999年(平成11年)に設立され、地区別同窓会の設立を支援するなどの活動をしている。", "title": "大学関係者と組織" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "旧帝国大学の出身者および学長、教授、助教授経験者で構成される団体として社団法人学士会があり、九州大学関係者も多数入会している。詳細は、学士会を参照。", "title": "大学関係者と組織" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "九州大学ではそれぞれの校地を地区またはキャンパスと呼んでいる。ただし、キャンパスと呼ばれるのは伊都・病院・筑紫・大橋・別府・(旧)六本松・(旧)箱崎地区のみであり、地区と言う場合にはキャンパス以外の施設も含める場合がある。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "伊都(いと)地区は、キャンパス移転計画(後述)に伴い2005年(平成17年)10月1日に開設された新キャンパスである。学生寄宿舎として、ドミトリーI、ドミトリーIIが設置されている。また、伊都新キャンパス情報発信拠点Big Orange(ビッグオレンジ)が設けられている。正式キャンパス名は「伊都地区」であるが、計画段階で使われていた「元岡地区」の呼称も浸透している。「伊都」は、キャンパスが立地する糸島半島にあったとされる伊都国に因んで糸島市などがしばしば用いている愛称であり、住所表記上の地名ではない。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "図書館、食堂、自販機、売店・書店(大学生協とローソン)、ATM等が利用可能である。学生寮は2006年(平成18年)秋から供用されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "病院地区は、馬出(まいだし)地区、堅粕(かたかす)地区ともよばれる。京都帝国大学福岡医科大学の母体となった福岡県立病院の跡地である。九州大学内では最も歴史が古い地区である。病院については九州大学病院を参照。2009年(平成21年)9月に、総工費1千億円を費やし、着工から11年かけて建設された新病院棟が完成した。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "教育の場としてよりは研究機関としての色合いが濃い。かつて筑紫地区への全面移転が計画されていたが地元の反対により断念、現在の形となった。全面移転計画当時は春日原地区とも呼ばれていた。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "福岡県立筑紫丘高等学校の用地・建物を転用した旧福岡学芸大学(現福岡教育大学)福岡分校の跡地。かつての九州芸術工科大学で、芸術工学を学ぶ場所となっている。大橋、筑紫地区男子学生を対象とした学生寄宿舎として井尻寮が設置されている。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "旧制福岡高等学校の跡地。教養部が解体されたのちも全学教育科目(一般教養教育)の大部分はこの地区で行われていた。多くの科目は言語文化研究院、比較社会文化研究院所属の教員によって実施されていた。六本松地区で教養部・全学教育科目を履修する期間には、将来の専攻に関連する講義を受けるために、各学部の専門キャンパス(箱崎・馬出・大橋・伊都)に行く曜日があり、単位履修の関係で1日のうちに六本松と専門キャンパスの両方に行くこともあった。なお、2009年(平成21年)3月に閉鎖された田島寮は、この地区(樋井川対岸の城南区田島)にあった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "全学教育科目、比較社会文化学府/研究院は2009年(平成21年)4月に、数理学研究院・数理学府は2009年(平成21年)10月に伊都地区へ移転。2009年(平成21年)9月29日に六本松地区の閉校式が行われ、88年の歴史に幕を下ろした。跡地は2010年(平成22年)3月に独立行政法人都市再生機構 (UR) に売却された。2010年(平成22年)12月から解体作業に着手しており2011年(平成23年)9月中旬までに完了した。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "なお、六本松キャンパス跡地の一部に開業した「六本松421」の3階部分に九州大学法科大学院が移転し、2017年(平成29年)9月25日に開講した。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "地区内は理系地区と文系地区に分かれていた。理系キャンパスには旧大学本部や旧法文学部棟など戦前の建物が多く残っていた。これらの多くは建築家倉田謙の手になるもので、九州大学の赤本の表紙にもなって親しまれた旧工学部本館(1930年竣工)も倉田の設計である。地区の学生寮としては男子寮の松原寮、女子寮の貝塚寮があった。福岡空港16番滑走路に着陸する直前の飛行機が真上を通過している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)9月に全学部・大学院の移転が完了した。理系地区の一部区域にある旧工学部本館、旧本部第一庁舎、旧第三庁舎、正門門衛所、正門については保存され、旧工学部本館は2018年10月以降も総合研究博物館、文書館が利用している。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "UR(都市再生機構)が道路などの都市基盤を整備し、公園、小学校を配置。事業者を公募して住宅や商業施設などを造る計画である。2023年3月までに道路が整備され、同年4月から事業者の公募が始まった。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "サテライトキャンパス等", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "農場等", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "学術研究・産学官連携本部を中心として、企業・自治体との協力(産学官連携)や九州大学発ベンチャー企業の支援に取り組んでいる。", "title": "対外関係" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1945年(昭和20年)に医学部敷地内で米軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件。ただし、大学としての組織的関わりは全くない。", "title": "社会との関わり" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)6月2日22時45分頃、在日米軍板付基地第313航空師団第15戦術偵察飛行隊所属のRF-4Cファントム偵察機が当時箱崎キャンパスに建設中の大型計算機施設の建物に墜落。以後、学生運動が活発化し、墜落機残骸撤去に約7ヶ月を要した。", "title": "社会との関わり" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2010年(平成22年)3月に、2012年(平成24年)度の理学部数学科の入学試験(後期日程)において、定員9名の内、5名を女性枠とすることを公表したが、法の下の平等の観点から問題があるとの批判があり、2011年(平成23年)5月19日に、導入の取り止めを決定。", "title": "社会との関わり" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "広報誌として『九大広報』(KYUSHU UNIVERSITY CAMPUS MAGAZINE)(九州大学広報専門委員会編集発行)がある。", "title": "社会との関わり" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)7月25日に、福岡市は九州大学の非公認サークル「九大CARP(カープ)」が、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と関係がある宗教団体であると判断し、環境保全に貢献したとする過去2回の表彰を取り消したと発表した。同サークルは2016年と2020年に、大学周辺のごみ拾いをしたとして、市環境行動賞の奨励賞にそれぞれ選ばれた。福岡市は「過去の調査が十分でなかった」と説明し、表彰状などを返還してもらうよう協議している。", "title": "社会との関わり" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ダイヤモンド社の2006年年9月23日発行のビジネス誌「週刊ダイヤモンド」94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査)で、同大学は、2006年時点で存在する744大学中第8位にランキングされた。", "title": "企業からの評価" } ]
九州大学は、福岡県福岡市に本部を置く日本の国立大学。略称は九大(きゅうだい)。 旧帝国大学7校の1つで、 文部科学省が実施しているスーパーグローバル大学事業のトップ型指定校ならびに指定国立大学法人に指定されている。
{{日本の大学 |大学名 = 九州大学 | ロゴ = [[File:Kyushu University logo, type D.svg|250px]] | 画像 = Kyushu University.jpg | pxl = 250px | 画像説明 = 伊都キャンパス(センター1号館・センター2号館前) | 大学設置年 = [[1911年]] | 創立年 = [[1911年]] |創立者 = |廃止年 = <!--大学の廃止年--> | 学校種別 = 国立 | 設置者 = [[国立大学法人|国立大学法人九州大学]] | 本部所在地 = [[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]元岡744番地 | キャンパス = 伊都地区(福岡県福岡市西区、[[糸島市]])<br />病院地区(福岡県福岡市[[東区 (福岡市)|東区]])<br />筑紫地区(福岡県[[春日市]]、[[大野城市]])<br />大橋地区(福岡県福岡市[[南区 (福岡市)|南区]])<br />別府地区([[大分県]][[別府市]]) | 学部 = 共創学部<br />[[九州大学大学院人文科学研究院・大学院人文科学府・文学部|文学部]]<br />[[九州大学教育学部|教育学部]]<br />[[九州大学大学院法学研究院・大学院法学府・法学部|法学部]]<br />[[九州大学大学院経済学研究院・大学院経済学府・経済学部|経済学部]]<br /> [[九州大学大学院理学研究院・大学院理学府・理学部|理学部]]<br />医学部<br />[[九州大学大学院歯学研究院・大学院歯学府・歯学部|歯学部]]<br />薬学部<br /> [[九州大学大学院工学研究院・大学院工学府・工学部|工学部]]<br />芸術工学部<br /> [[九州大学大学院農学研究院・大学院生物資源環境科学府・農学部|農学部]] | 研究科 = [[九州大学大学院人文科学研究院・大学院人文科学府・文学部|人文科学府/研究院]]<br />比較社会文化学府/研究院<br /> [[九州大学大学院人間環境学研究院・大学院人間環境学府|人間環境学府/研究院]]<br /> [[九州大学大学院法学研究院・大学院法学府・法学部|法学府/研究院]]<br />法務学府<br /> [[九州大学大学院経済学研究院・大学院経済学府・経済学部|経済学府/研究院]]<br />言語文化研究院<br /> [[九州大学大学院理学研究院・大学院理学府・理学部|理学府/研究院]]<br /> [[九州大学大学院数理学研究院・大学院数理学府|数理学府/研究院]]<br />システム生命科学府<br />医学系学府/研究院<br /> [[九州大学大学院歯学研究院・大学院歯学府・歯学部|歯学府/研究院]]<br />薬学府/研究院<br /> [[九州大学大学院工学研究院・大学院工学府・工学部|工学府/研究院]]<br />芸術工学府/研究院<br />システム情報科学府/研究院<br />総合理工学府/研究院<br /> [[九州大学大学院農学研究院・大学院生物資源環境科学府・農学部|生物資源環境科学府/農学研究院]]<br />統合新領域学府 |ウェブサイト = {{official URL}} }} '''九州大学'''(きゅうしゅうだいがく、{{Lang-en|Kyushu University}})は、[[福岡県]][[福岡市]]に本部を置く[[日本]]の[[国立大学]]。[[大学の略称|略称]]は'''九大'''(きゅうだい)。 [[旧帝国大学]]7校の1つで、 [[文部科学省]]が実施している[[スーパーグローバル大学]]事業のトップ型指定校ならびに[[国立大学法人#指定国立大学法人|指定国立大学法人]]に指定されている。 == 概観 == [[画像:University pennant.jpg|thumb|校旗]] === 大学全体 ===<!-- ※長さの目安は400字程度。また、本プロジェクトで討議された文章表現の基準に準拠する必要がある。特にその大学にとって特段の大きな意味を有さないこと、時限的な事象を大きくとりあげることにならないよう留意する必要が認められる。 記載内容は、大学の全体について平均的に記述し、特定の学部・研究科などを大きく取り上げる形にならないように留意する。また、できるだけ曖昧な表現の使用はさけ、より具体的でかつ確定的なことを中心に記載する。なお、その際、文章が増えることがあるが、節全体の文章量も十分に考慮する。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。--> 九州大学は、[[1949年]]([[昭和]]24年)に[[旧制大学|旧制]]九州大学等を包括して設置された[[国立大学]]である。[[1867年]]([[慶応]]3年)に設立された[[賛生館]]を起源とする九州帝国大学を直接の母体としている([[帝国大学|旧帝大]]の一つ)。九州帝国大学の初代総長は[[東京大学|東京帝国大学]]の総長と明治専門学校(現:[[九州工業大学]])の初代総裁を務めた[[山川健次郎]]である。[[2003年]]([[平成]]15年)に[[九州芸術工科大学]]を吸収、[[2004年]](平成16年)に[[国立大学法人]]による設置へと移行した。 === 憲章 ===<!-- ※ この項目はそれぞれの大学に応じて「校訓」「学是」「憲章」などの適切な節名を用いる。なお、校訓などが長文となる場合は、[[著作権]]に注意すること。最後に改訂されてから50年が経過していれば全文の紹介が可能であるが、そうではない場合には概略に止め、全文は公式サイトへのリンクで代用するという手段がある。--> 九州大学には特に建学の精神は定められていないが、『'''九州大学教育憲章'''』『'''九州大学学術憲章'''』が存在する。 === 教育および研究 ===<!-- ※大学の学問的な特徴の概略をこちらでまとめる。各学部ごとに詳細な内容をまとめる必要がある場合は後述の学部をまとめた項目で記すこと。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。--> 九州大学では1970年代、[[大学院]]への要請が多様化してきたことに対応するため、「[[学際]]大学院」構想を進め{{refnest|group="注"|[[1977年]](昭和52年)[[11月29日]]に将来計画小委員会により『九州大学学際大学院構想について』が評議会に提出され、翌[[1978年]](昭和53年)[[1月17日]]に同構想が承認されている<ref>[http://www.arc.kyushu-u.ac.jp/nenpyo_7.html 九州大学年表 (昭和45年 - 昭和54年)]{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>。}}、[[1979年]](昭和54年)4月に総合理工学研究科(現:総合理工学研究院)を設置している。 [[1991年]](平成3年)、[[キャンパス]]の統合移転計画が決定すると、[[1998年]](平成10年)に「改革の大綱案」を定め、優秀な研究者の養成と研究レベルの向上を目的とする[[大学院大学|大学院重点化]]を行い、[[2000年]](平成12年)に学府・研究院制度を導入した。この制度は研究機関としての大学院組織を「研究院」、教育機関としての大学院組織を「学府」に分離する内容。必要に応じて簡易に組織改編ができるようになり、研究院には教員が、学府には大学院生が、学部には学部生が所属し、教員が学府や学部に出向する形で教育を行う。なお、基本的に研究院長が学府長・学部長を兼務する。<!-- === 学風および特色 === ○○大学は学生自治が重視されており… サークル活動が盛んなのは以下のような理由から… 伝統的に新入生は××を行う習慣があるが… 略称は「△△」… ※ここで大学全体の学風や特色を端的にまとめる。具体的な数字データや学生生活の詳細は別項でまとめる。あくまでここは概略である。さらに歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。--> == 沿革 == === 略歴 === [[1867年]](慶応3年)、福岡を当時統治していた[[福岡藩]]は[[医学]]を教育する「賛生館」という[[藩校]]を[[天神 (福岡市)|天神]]に設立した。[[1872年]](明治5年)に[[学制]]が施行されるといったん廃校となったものの、附属病院はその間も継続した。同病院は[[1874年]](明治7年)に[[福岡県立修猷館高等学校|修猷館]]の附属診療所となり、[[1879年]](明治12年)には福岡県立福岡医学校の附属病院へ改組された。福岡県立福岡医学校が廃校となった後は福岡県立福岡病院として存続することになる([[1896年]](明治29年)6月22日、現在の病院地区である福岡県[[筑紫郡]][[千代町|千代村]]に移転)。 [[1886年]](明治19年)に[[帝国大学令]]が公布されると[[九州]]に[[帝国大学]]を設置する機運が高まり、[[1900年]](明治33年)[[1月29日]]の第14[[帝国議会]]において『九州東北帝国大学設置建議案』が可決された。建議案の可決後も古くから医学の盛んだった[[長崎県]]([[江戸時代]]に[[出島]]が置かれ[[蘭学]]の本場だった)や、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]が設置されていた[[熊本県]]との間で誘致の綱引きが行われていたが、結局は賛生館の流れを汲む福岡県立福岡病院を母体に[[1903年]](明治36年)[[京都大学#沿革|京都帝国大学]]の分科大学として福岡医科大学が設置された(帝国大学の医科大学(医学部)としては3番目の設置)。 その後は資金難により九州帝国大学の設置は進まなかったが、[[古河財閥]]から[[1906年]](明治39年)に「福岡工科大学、仙台理科大学、札幌農科大学」の建物建設へ寄付の申し出があり、設置の動きが高まることとなる。古河財閥の寄付金約100万円のうち6割ほどが九州帝国大学工科大学校舎建設の資金として当てられ、さらに福岡県の寄付金によって[[1911年]](明治44年)1月1日に「'''{{fontsize|105%|[[#九州帝国大学|九州帝国大学]]}}'''」が設立された。九州帝国大学の初代総長は[[東京大学#沿革|東京帝国大学]]の総長と明治専門学校(現:[[九州工業大学]])の初代総裁を務めた[[山川健次郎]]である。なお、古河財閥の寄付金の残りの4割は[[札幌農学校]]の[[東北大学#沿革|東北帝国大学]]農科大学昇格([[1907年]](明治40年)9月)と東北帝大理科大学新設([[1911年]](明治44年)1月1日)のために用いられている。 こうした経緯から、九州大学では医学部創立年を京都帝国大学福岡医科大学が設立された[[1903年]](明治36年)<ref>[http://www.grad.med.kyushu-u.ac.jp/general/ 九州大学大学院医学府長挨拶](2018年2月7日閲覧)</ref>、大学創立年を九州帝国大学として独立設置された[[1911年]](明治44年)<ref>[http://www.asahi.com/ad/shingaku/kyushu/ 朝日新聞 国公立大学進学のすすめ 九州大学](2018年2月7日閲覧)</ref> としている。 [[1947年]](昭和22年)に帝国大学令が国立総合大学令に改められると、'''九州大学'''と改称した。[[1949年]](昭和24年)には福岡地区に所在していた旧制九州大学、九州大学附属医学専門部、[[福岡高等学校 (旧制)|福岡高等学校]]、[[久留米工業専門学校 (旧制)|久留米工業専門学校]]を包括して[[新制大学|新制]]九州大学が設置された。旧福岡高等学校の施設と教員は九州大学第一分校([[1955年]](昭和30年)第二分校と統合し九州大学分校、[[1963年]](昭和38年)より[[教養部]])に引き継がれ、旧久留米工業専門学校は第二分校([[1955年]](昭和30年)第一分校との統合により廃止)が設置され、[[大日本帝国陸軍|旧陸軍]][[歩兵第48連隊]]兵舎跡に第三分校([[1951年]](昭和26年)廃止)が置かれた。 [[2003年]](平成15年)には[[国立大学法人]]化を視野に入れ、法律第29号により[[九州芸術工科大学]]を吸収。[[2004年]](平成16年)には[[国立大学法人法]]の規定により、国による直接設置から[[国立大学法人]]による設置へと移行した。 === 年表 === {{Wikisource|九州帝國大學ニ關スル件}} * [[1867年]](慶応3年) - [[福岡藩]]が賛生館を設立。 * [[1903年]](明治36年)[[4月1日]] - [[京都帝国大学医科大学]]が[[京都帝国大学京都医科大学]]と[[京都帝国大学福岡医科大学]]に分割され、後者が福岡に設置された(授業開始は9月16日)。<!-- * [[1910年]](明治43年)[[12月22日]] - 九州帝国大学ニ関スル件(明治43年勅令第448号)によって九州帝国大学設立が、九州帝国大学工科大学官制(明治43年勅令第449号)で工科大学の設置が公布された。 --> * [[1911年]](明治44年) ** [[1月1日]] - 九州帝国大学創立。分科大学として工科大学を設置。 ** 4月1日 - 京都帝国大学福岡医科大学が九州帝国大学に移管。<!--九州帝国大学官制(明治44年勅令第43号)--> ** 9月11日 - 工科大学の授業開始。 * [[1919年]]([[大正]]8年) - 帝国大学令が改正され、各分科大学は医学部、工学部になり農学部を設置。 * [[1924年]](大正13年) - [[法文学部]]を設置、2名の女子学生を受け入れ。 * [[1925年]](大正14年)9月9日 - 医学部で火災。[[法医学]]教室、[[衛生学]]教室、[[細菌学]]教室などが全焼<ref>九州大学医学部で火事『東京日日新聞』大正14年9月10日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p66 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1939年]](昭和14年) - [[九州大学大学院理学研究院・大学院理学府・理学部|理学部]]と[[戦時中の医師不足対策#臨時医学専門部の設置|臨時附属医学専門部]]を設置。 * [[1943年]](昭和18年) - [[研究生#旧制大学院における特別研究生|大学院特別研究生制度]]実施。 ** 10月19日 - [[学徒出陣]]全学壮行会を工学部運動場で開催。 * [[1945年]](昭和20年) - [[太平洋戦争]]下、[[九州大学生体解剖事件]]が発生。 * [[1947年]](昭和22年) - 帝国大学令が国立総合大学令に改められ、九州大学と改称。 * [[1949年]](昭和24年) - 法文学部を文学部・法学部・経済学部に改組、文学部から教育学部が分離、福岡高等学校・久留米工業専門学校・旧制九州大学を統合して[[新制大学|新制]]九州大学へ移行、[[分校]]設置。 * [[1953年]](昭和28年) - 新制大学院を設置。 * [[1963年]](昭和38年) - 分校を改組し[[教養部]]を設置。 * [[1964年]](昭和39年) - [[薬学部]]を設置。 * [[1967年]](昭和42年) - [[歯学部]]を設置。 * [[1968年]](昭和43年) - 芸術工学部の前身である[[九州芸術工科大学]]が開設。 * [[1969年]](昭和44年) - 学生らが6月から3か月間にわたり教養部を封鎖。建物の内部や実験用機器などが破壊され被害総額8500万円以上<ref>他学部の研究費で復旧 封鎖で荒廃の教養部『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月21日 12版 15面</ref>。 * [[1970年]](昭和45年) - 医学部付属病院東病棟新設工事に反対する学生がデモ、座り込みを行う。大学の要請により出動した[[機動隊]]により排除され、学生9人が[[不退去罪]]で逮捕<ref>九大医学部に機動隊『朝日新聞』1970年(昭和45年)11月18日夕刊 3版 10面</ref>。 * [[1994年]](平成6年) - 教養部を廃止する。 * [[1997年]](平成9年) - 医学系研究科および工学研究科から[[大学院重点化]]開始。 * [[2000年]](平成12年) - 大学院重点化の完了とともに学府・研究院制度を導入、大学院の全研究科を研究院と学府に改組、21世紀プログラムの募集開始。 * [[2003年]](平成15年) - 九州芸術工科大学を吸収し、同大学を母体に[[九州大学芸術工学研究院・芸術工学府・芸術工学部]]を設置。 * [[2004年]](平成16年) - [[国立大学法人]]化、九州芸術工科大学を正式廃止、法務学府([[法科大学院]])開設。 * [[2005年]](平成17年)[[10月1日]] - 伊都地区開設。 * [[2006年]](平成18年) - 薬学教育6年制移行により薬学部臨床薬学科を6年制に移行、4年制学科の創薬科学科を設置。 * [[2014年]](平成26年) - 九州大学本部が箱崎地区から伊都地区へ移転<ref name="honbuiten">{{Cite press release |和書 |title=九州大学本部の移転について |url=http://www.kyushu-u.ac.jp/notice/index_read.php?kind=&S_Category=&S_Page=&S_View=&word=&page=&B_Code=5817 |publisher=九州大学 |date=2014-03-24}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年) - 箱崎地区の伊都地区への移転が完了<ref name="schedule">[http://suisin.jimu.kyushu-u.ac.jp/guide/schedule.html 移転スケジュール 平成27年4月1日]</ref>。[[共創学部]]を設置。 * [[2021年]](令和3年) - 工学部・大学院工学府を再編。 == 基礎データ == === 所在地 === * 伊都地区 - [[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]][[元岡]]・桑原および[[糸島市]] * 馬出地区 - 福岡県福岡市[[東区 (福岡市)|東区]][[馬出]](まいだし)三丁目 * 大橋地区 - 福岡県福岡市[[南区 (福岡市)|南区]][[塩原 (福岡市)|塩原]](しおばる)四丁目 * 筑紫地区 - 福岡県[[春日市]]春日公園六丁目および[[大野城市]]上大利(かみおおり) * 大分地区 - [[大分県]][[別府市]] * (旧)[[九州大学六本松地区|六本松地区]] - 福岡県福岡市[[中央区 (福岡市)|中央区]][[六本松]]四丁目 *: 伊都キャンパス移転に伴い、2009年(平成21年)9月29日に閉校した。2017年(平成29年)9月25日、九州大学[[法科大学院]]が箱崎地区から跡地に建設された複合施設・[[六本松421]]内へ移転した。 * (旧)箱崎地区 - 福岡県福岡市東区箱崎六丁目 *: 2018年(平成30年)9月に全学部・大学院の伊都キャンパスへの移転が完了したが、総合研究博物館と大学文書館は当面の間箱崎キャンパス跡地に留まる。 === 象徴===<!-- ※校歌・校章・校旗・シンボルマーク・スクールカラーなどの大学を示す象徴はこの項目にまとめる。--> [[画像:Logo of kyushu univ2.jpg|thumb|ロゴマーク(ネクタイピンより)]] * 九州大学には[[校歌|大学歌]]はないが、3つの[[学生歌]]と1つの[[応援歌]]がある。なかでも秋山喜文作詞/山田尚慶作曲([[山田晴通]]の実父)の学生歌『松原に』が学生に知られている。2010年には九州大学創立100周年事業の一環として、伊都地区にオープンした嚶鳴天空広場のテーマソング『愛し伊都の国』([[北山修|きたやまおさむ]]作詞/稲永要作曲)が作られた<ref>[http://kikin.kyushu-u.ac.jp/100th/window/song.php 百周年の窓 > 九大歌集] 九州大学</ref>。 * [[ロゴマーク]]は、円形に配した松葉に、「大学」の文字が入ったものである。このマークの原点は、[[1949年]](昭和24年)に学生バッジのデザインとして学生から公募されたもので、宗好秀の案が採用され、[[1950年]](昭和25年)2月11日から用いられるようになった。現在のロゴマークは、従来のロゴマークをリデザインして[[2004年]](平成16年)に新たに制定されたもので、[[商標登録]]されている<ref name="logo">[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/publicity/logo/logo/ 九州大学シンボルロゴについて] 九州大学</ref>。 * [[スクールカラー|シンボルカラー]](UIカラー)は[[ワインカラー]]である<ref name="logo" />。 ==== 九州大学のオリジナルグッズ ==== ; 九州大吟醸<ref>[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/publicity/logo/goods/goods-1 九州大学特別限定醸造酒「九州大吟醸」 大学ブランドグッズ] 九州大学</ref> : 環境創造舎<ref group="注">九大生有志が設立したNPO法人。</ref> と地元の杉能舎<ref>[http://www.suginoya.co.jp/gaiyo/momochi.html 杉能舎]</ref> が共同で[[日本酒]]「九州大吟醸」<ref>[http://www.netyokocho.jp/suginoya/category/1/ 九州大吟醸]</ref> を製造して販売している。売上金の一部は九大新キャンパス移転地域の環境保全活動、文化の保全活動に役立てられる。 [[画像:いも九1.jpg|thumb|いも九]] ; いも九 :九州大学の学生を福岡では「いも九」「「イモQ」」(いもきゅう)と呼んでいた時代がある<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/magazine/kyudai-koho/No.24/24_04.html 『九大広報』24号4ページ]</ref>。垢抜けない(=[[イモ#俗語と芋|イモ]]な)九大生という意味である<ref>『九大広報』第二十四号のインタビュー記事「九大人」より。</ref>。しかしながら「いも九」は身なり構わずひたすら勉学や運動などに打ち込む九大生への愛称、尊称であって決して蔑称ではない<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/magazine/kyudai-koho/No.19/19_04.html 『九大広報』No.19シリーズ「九大人」植木とみ子]</ref>。この呼び名を九州大学[[経済学部]]のOBである [http://www.52-net.com/webshop/ 「五十二萬石如水庵」] の社長森恍次郎が面白がって、[[生活協同組合|生協]]と協力して芋餡の[[パイ]]菓子を九州大学応援菓「いも九」として売り出している<ref>[http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090203-043562/sayonara/sa_090323.htm 「さよなら六本松 九大と私」〈5〉菓子メーカー社長 森恍次郎さん いも九精神 受け継いで]{{リンク切れ|date=2017年10月}}</ref>。この菓子の売り上げの1%は、「九州大学学術研究・教育奨励助成金」として九大生の課外活動の費用に寄付されている。 :「いも九」については、九大農学研究院と[[福徳長酒類]]が共同開発した[[芋焼酎]]にもその名が冠されている<ref>[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/publicity/logo/goods/goods-3 芋麹仕込芋焼酎原酒「いも九」 大学ブランドグッズ] 九州大学</ref>。 ; 九大通りもん : 「[[博多通りもん]]」の限定パッケージ版<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASK3Y4R92K3YTIPE00Y.html 卒業式と入学式限定「九大通りもん」 50円は寄付に]『[[朝日新聞]]』2017年4月3日</ref>。 === 百周年記念事業 === 九州大学は[[2011年]](平成23年)に創立100周年を迎えた。九州大学創立百周年記念事業として'''九州大学基金'''を創設し、以下の事業を行っている。 # 教育研究環境の整備充実 # 社会人等の受け入れ推進 # [[産学連携]]、地域連携等の推進 # 国際交流の推進 # 百年史の編纂、記念式典等の実施 == 教育および研究 == === 組織 === ==== [[基幹教育院]] ==== 主体的な学びのできる[[アクティブ・ラーナー]] の育成のための実践、研究組織。創立100周年を機に[[2011年]](平成23年)10月に設置された。 [[2016年]](平成28年)7月に文部科学省[[教育関係共同利用拠点]]「次世代型大学教育開発拠点」として認定されている([[2026年]]度([[令和]]8年度)末までの予定)。 ==== 学部 ==== 学部一覧<ref name="soshiki_2021">{{Cite journal |和書 |title=九州大学学則(最終改正:2021年3月25日)|url=https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/information/rule/rulebook/pdf/1/1/2004kisoku001.pdf|accessdate=2021-04-09|format=PDF}}</ref><ref name="gakubu_2021">{{Cite journal |和書 |title=九州大学学部通則(最終改正:2021年3月25日)|url=https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/information/rule/rulebook/pdf/2/1/2004kisoku002.pdf|accessdate=2021-04-09|format=PDF}}第4条別表を参照。</ref> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em"> * [[共創学部]] ** 共創学科 *** 人間・生命エリア *** 人と社会エリア *** 国家と地域エリア *** 地球・環境エリア * [[文学部]] ** [[人文科学|人文学科]] *** 哲学コース(専門分野:哲学・哲学史、倫理学、インド哲学史、中国哲学史、美学・美術史)<ref name="2004kisoku107">{{PDFlink|[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/information/rule/rulebook/pdf/7/1/2004kisoku107.pdf 九州大学文学部規則]}} 九州大学</ref> *** 歴史学コース(専門分野:日本史学、東洋史学、朝鮮史学、考古学、西洋史学、[[イスラム教|イスラム]]文明学)<ref name="2004kisoku107" /> *** 文学コース(専門分野:国語学・国文学、中国文学、英語学・英文学、独文学、仏文学)<ref name="2004kisoku107" /> *** 人間科学コース(専門分野:言語学・応用言語学、地理学、心理学、比較宗教学、社会学・地域福祉社会学)<ref name="2004kisoku107" /> * [[教育学部]] ** 教育学系 *** 国際教育文化コース *** 教育社会計画コース ** 教育心理学系 *** 人間行動コース *** 心理臨床コース * [[法学部]] * [[経済学部]] ** [[経済経営学部|経済・経営学科]] ** [[経済工学|経済工学科]] * [[理学部]] ** [[物理学科]] ** [[化学科]] ** [[地球惑星科学科]] ** [[数学科]] ** [[生物学科]] * [[医学部]] ** [[医学部|医学科]](6年制) ** [[生命科学科]] ** [[保健学科]] *** 看護学専攻 *** 放射線技術科学専攻 *** 検査技術科学専攻 * [[歯学部]] ** [[歯学科]] * [[薬学部]] ** [[創薬科学科]] ** [[臨床薬学科]](6年制) * [[工学部]] <ref name="eng_2021">{{Cite journal |和書 |title=2021.4九州大学工学部が新しく生まれ変わります。|url=https://www.eng.kyushu-u.ac.jp/script/wordpress/wp-content/uploads/school2021.pdf|accessdate=2021-04-09|format=PDF}}</ref> ** [[電気情報工学科]] ** [[材料工学科]] ** [[応用化学科]] ** [[化学工学科]] ** [[融合基礎工学科]] ** [[機械工学科]] ** [[航空宇宙工学科]] ** [[量子物理工学科]] ** [[船舶海洋工学科]] ** [[地球資源システム工学科]] ** [[土木工学科]] ** [[建築学科]] * [[芸術工学部]] ** [[環境設計学科]] ** [[工業設計学科]] ** [[画像設計学科]] ** [[音響設計学科]] ** [[芸術情報設計学科]] * [[農学部]] ** [[生物資源環境学科]] *** 生物資源生産科学コース(分野:農学、生物生産環境工学、生物生産システム工学、農政経済学)<ref name="2004kisoku117">{{PDFlink|[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/information/rule/rulebook/pdf/25/1/2004kisoku117.pdf 九州大学農学部規則]}} 九州大学</ref> *** 応用生物科学コース(分野:応用生命科学、食糧化学工学)<ref name="2004kisoku117" /> *** 地球森林科学コース(分野:森林機能制御学、森林機能開発学、生物材料機能学)<ref name="2004kisoku117" /> *** 動物生産科学コース(分野:アニマルサイエンス、水産科学)<ref name="2004kisoku117" /> </div>{{clear|left}} <!-- ※ 学部ごとに詳細な説明を加えたい場合には以下のようにする方法もある。ただし、独立した節を入れて解説する場合、独立した節に出来るほど歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。 ===== ○○学部 ===== *××学科 *△△学科 この学部は…--> ==== 大学院 ==== [[#教育および研究|前述]]の通り、九州大学では大学院組織が研究部/教育部(九州大学での名称は研究院/学府)に分けられている。研究院には教員が所属し、大学院生は学府に所属する。 ===== 学府 <ref name="soshiki_2021" /><ref name="gakuin_2021">{{Cite journal |和書 |title=九州大学大学院通則(最終改正:2021年3月25日)|url=https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/information/rule/rulebook/pdf/6/1/2004kisoku003.pdf|accessdate=2021-04-09|format=PDF}}第6条別表1~3を参照。</ref>===== 教育組織としての組織 * 人文科学府 ** 人文基礎専攻 ** 歴史空間論専攻 ** 言語・文学専攻 * 地球社会統合科学府 *: 旧教養部の流れを汲む比較社会文化学府(日本社会文化専攻、国際社会文化専攻)を改組して2014年度に開設。 ** 地球社会統合科学専攻<!-- * 比較社会文化学府 *: 旧教養部の流れを汲む。 ** 日本社会文化専攻 ** 国際社会文化専攻--> * 人間環境学府 *: 従前の文学研究科社会学専攻・心理学専攻、教育学研究科、工学研究科建築学専攻、健康科学センターの一部を再編・統合した人間環境学研究科(教育学部、工学部建築学科、健康科学センター、文学部人間科学科を基礎とした大学院研究科)の後身。 ** 都市共生デザイン専攻 ** 人間共生システム専攻 ** 行動システム専攻 ** 教育システム専攻 ** 空間システム専攻 ** 実践臨床心理学専攻(専門職学位課程) * 法学府 ** 法政理論専攻 * 法務学府([[法科大学院]]) ** 実務法学専攻(専門職学位課程) * 経済学府 ** 経済工学専攻 ** 経済システム専攻 ** 産業マネジメント専攻(専門職学位課程、[[ビジネススクール]]) * 理学府 ** 物理学専攻 ** 化学専攻 ** 地球惑星科学専攻 * 数理学府 *: 従前の理学研究科数学専攻、工学研究科の一部、旧教養部の数学教室を再編・統合した数理学研究科の後身。 ** 数理学専攻 * システム生命科学府 ** システム生命科学専攻 * 医学系学府 ** 医学専攻 ** 医科学専攻(修士課程) ** 保健学専攻(修士課程) ** 医療経営・管理学専攻(専門職学位課程) * 歯学府 ** 歯学専攻 * 薬学府 ** 医療薬科学専攻 ** [[創薬]]科学専攻 * 工学府 *: 《 2021年4月以降入学者 》 ** 材料工学専攻 ** 応用化学専攻 ** 化学工学専攻 ** 機械工学専攻 ** 水素エネルギーシステム専攻 ** 航空宇宙工学専攻 ** 量子物理工学専攻 ** 船舶海洋工学専攻 ** 地球資源システム工学専攻 ** 共同資源工学専攻 ** 土木工学専攻 *: *: 《 ~2020年度入学者 ↓ 》 ** 物質創造工学専攻 ** 物質プロセス工学専攻 ** 材料物性工学専攻 ** 化学システム工学専攻 ** 建設システム工学専攻 ** 都市環境システム工学専攻 ** 海洋システム工学専攻 ** 地球資源システム工学専攻 ** 共同資源工学専攻 ** エネルギー量子工学専攻 ** 機械工学専攻 ** 水素エネルギーシステム専攻 ** 航空宇宙工学専攻 * 芸術工学府 ** 芸術工学専攻 ** デザインストラテジー専攻 * システム情報科学府 *: 《 2021年4月以降入学者 》 ** 情報理工学専攻 ** 電気電子工学専攻 *: *: 《 ~2020年度入学者 ↓ 》 ** 情報学専攻 ** 情報知能工学専攻 ** 電気電子工学専攻 * 総合理工学府 *: 《 2021年4月以降入学者 》 ** 総合理工学専攻 *: *: 《 ~2020年度入学者 ↓ 》 ** 量子プロセス理工学専攻 ** 物質理工学専攻 ** 先端エネルギー理工学専攻 ** 環境エネルギー工学専攻 ** 大気海洋環境システム工学専攻 * 生物資源環境科学府 ** 資源生物科学専攻 ** 環境農学専攻 ** 農業資源経済学専攻 ** 生命機能科学専攻 * 統合新領域学府 ** ユーザー感性スタディーズ専攻 ** [[自動車工学|オートモーティブサイエンス]]専攻 ** [[ライブラリーサイエンス]]専攻 ===== 研究院 ===== 研究組織としての組織 * 人文科学研究院 ** 哲学部門 ** 歴史学部門 ** 文学部門 * 比較社会文化研究院 ** 環境変動部門 ** 社会情報部門 ** 文化空間部門 * 人間環境学研究院 ** 人間科学部門 ** 教育学部門 ** 都市・建築学部門 * 法学研究院 ** 基礎法学部門 ** 公法・社会法学部門 ** 民刑事法学部門 ** 国際関係法部門 ** 政治学部門 ** 実務法学部門 * 経済学研究院 ** 経済工学部門 ** 産業・企業システム部門 ** 国際経済経営部門 ** 産業マネジメント部門 * 言語文化研究院 ** 言語環境学部門 ** 国際文化共生学部門 * 理学研究院 ** 物理学部門 ** 化学部門 ** 地球惑星科部門 ** 生物科学部門 * 数理学研究院 ** 数学部門 ** 数理科学部門 * 医学研究院 ** 基礎医学部門 ** 先端医療医学部門 ** 臨床医学部門 ** 分子生命科学部門 ** 医学教育学部門 ** 保健学部門 * 歯学研究院 ** 歯学部門 * 薬学研究院 ** 臨床薬学部門 ** 創薬科学部門 * 工学研究院 ** 化学工学部門 ** 応用化学部門 ** 材料工学部門 ** 社会基盤部門 ** 環境社会部門 ** 海洋システム工学部門 ** 地球資源システム工学部門 ** エネルギー量子工学部門 ** 機械科学部門 ** 航空宇宙工学部門 * 芸術工学院 ** デザイン人間科学部門 ** コミュニケーションデザイン科学部門 ** 環境・遺産デザイン部門 ** コンテンツ・クリエーティブデザイン部門 ** デザインストラテジー部門 * システム情報デザイン科学研究院 ** 情報学部門 ** 情報知能工学部門 ** 情報システムエレクトロニクス部門 ** 電気システム工学部門 ** I&E<ref group="注">情報科学(I)と電気電子工学(E)</ref>ビジョナリー特別部門 * 総合理工学研究院 ** 融合創造理工学部門 ** エネルギー物質科学部門 ** エネルギー理工学部門 ** エネルギー環境創成工学部門 ** 流体環境理工学部門 * 農学研究院 ** 資源環境生物科学部門 ** 環境農学部門 ** 農業資源経済学部門 ** 生命機能科学部門 ==== 高等研究院 ==== [[ノーベル賞]]級の高い業績を挙げた退職後の研究者と、優れた若手研究者を支援するための学内組織。[[2009年]](平成21年)10月設立。九州大学出身でノーベル賞候補に上げられている[[新海征治]]([[応用化学]])、[[笹月健彦]]([[遺伝学]])両[[名誉教授]]には、希望に応じて研究室や研究員などが与えられる<ref name="press_20091020">{{Cite journal |和書 |title=九州大学高等研究院の設立及び九州大学特別主幹教授制度の制定について|journal =九州大学プレスリリース|date=2009-10-20|url=https://www.kyushu-u.ac.jp/f/25643/2009-10-20-01.pdf|publisher=九州大学広報室|accessdate=2021-04-09|format=PDF}}</ref>。特別[[准教授]]には23人が就任している。 ==== 附属機関 ====<!-- ※学部・研究科・別科・専攻科・(短期大学部)などの教育を行っている組織外の研究所、センター、大学博物館などは、ここでまとめる。--> <div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em"> *; 附置研究所 ** [[九州大学生体防御医学研究所|生体防御医学研究所]] ** [[九州大学応用力学研究所|応用力学研究所]] ** [[九州大学先導物質化学研究所|先導物質化学研究所]] ** [[九州大学マス・フォア・インダストリ研究所|マス・フォア・インダストリ研究所]] ** [[九州大学カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所|カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所]] *; 全国共同教育研究施設 ** [[九州大学情報基盤研究開発センター|情報基盤研究開発センター]] ** 健康科学センター </div><div style="float:left;vertical-align:top;white-space:nowrap;margin-right:1em"> *; 学内共同教育研究施設 ** 最先端有機光エレクトロニクス研究センター ** 先端素粒子物理研究センター ** 次世代[[燃料電池]]産学連携研究センター ** [[プラズマ]][[ナノテクノロジー|ナノ]][[界面]]工学センター ** [[システムLSI]]研究センター ** [[シンクロトロン]]光利用研究センター ** [[加速器]]・ビーム応用科学センター ** ロバート・ファン/アントレプレナーシップ・センター ** 分子システム科学センター ** [[水素]]エネルギー国際研究センター ** バイオメカニクス研究センター ** バイオアーキテクチャーセンター ** エピゲノムネットワーク研究センター ** [[ヌクレオチド]]プール研究センター ** ヒト[[プロテオーム]]研究センター ** 環境発達医学研究センター ** リスクサイエンス研究センター ** [[免疫]]機構研究センター ** 先端医療[[イノベーション]]センター ** 未来化学創造センター ** 宙空環境研究センター ** 応用知覚研究センター ** ユヌス&椎木ソーシャル・ビジネス研究センター ** 鉄鋼リサーチセンター ** [[炭素]]資源国際教育研究センター ** 韓国研究センター ** 医療系統合教育研究センター ** 高等教育総合開発研究センター ** 超伝導システム科学研究センター ** 日本[[エジプト]]科学技術連携センター ** 生物環境調節センター ** 熱帯農学研究センター ** [[放射性同位体|アイソトープ]]総合センター ** 中央分析センター ** 留学生センター ** 産学連携センター ** 総合研究博物館 ** 感性融合創造センター ** [[九州大学稲盛フロンティア研究センター|稲盛フロンティア研究センター]] **エネルギー基盤技術国際教育研究センター<ref>{{Cite web|和書|title=エネルギー基盤技術国際教育研究センター|url=https://kyushu-u.pure.elsevier.com/ja/organisations/research-and-education-center-for-advanced-energy-materials-devic|website=九州大学|accessdate=2019-10-17|language=ja|deadlinkdate=2023-10-05}}</ref> **グリーンテクノロジー研究教育センター<ref>{{Cite web|和書|title=グリーンテクノロジー研究教育センター|url=https://kyushu-u.pure.elsevier.com/ja/organisations/research-center-for-green-technology|website=九州大学|accessdate=2019-10-17|language=ja}}</ref> </div>{{clear}}<!-- ※ 数が多い、あるいは特徴的な機関があるという場合には、上記一覧表を掲示した下へ下記のように節を入れて解説することも考慮すべきである。ただし、独立した節を入れて解説する場合、独立した節にできるほど歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述する。 ===== ○○研究所 ===== ○○研究所は… ===== 附属病院 ===== 附属病院は… ===== 附属図書館 ===== 図書館は… ===== ○○博物館 ===== ○○博物館は… === 研究 === ※歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に研究内容の特色を別途記すこともできる。--> === 研究 === ==== 21世紀COEプログラム ==== [[21世紀COEプログラム]]として、9件のプロジェクトが採択された。 * [[2002年]](平成14年) *; 生命科学 *: 統合生命科学 Integrative Life Science - ポストゲノム時代の生命高次機能の探求 *; 化学・材料科学 *: 分子情報科学の機能イノベーション *; 情報・電気・電子 *: システム情報科学での社会基盤システム形成 *; 人文科学 *: 東アジアと日本:交流と変容 * [[2003年]](平成15年) *; 医学系 *: 大規模[[コホート研究|コホート]]に基づく[[生活習慣病]]研究教育 *; 数学・物理学・地球科学 *: 機能数理学の構築と展開 *; 機械・土木・建築・その他工学 *: 循環型住空間システムの構築 *: 水素利用機械システムの統合技術 *; 学際・複合・新領域 *: 感覚特性に基づく人工環境デザイン研究拠点 ==== グローバルCOEプログラム ==== [[グローバルCOEプログラム]]として、5件のプロジェクトが採択されている。 * [[2007年]]度(平成19年度) *; 生命科学 *: 個体[[恒常性]]を担う細胞運命の決定とその破綻 *; 化学、材料科学 *: 未来分子システム科学 * [[2008年]]度(平成20年度) *; 数学、物理学、地球科学 *: [[九州大学マス・フォア・インダストリ研究所|マス・フォア・インダストリ教育研究拠点]] *; 学際、複合、新領域 *: 新炭素資源学 * [[2009年]]度(平成21年度) *; 学際、複合、新領域 *: 自然共生社会を拓くアジア保全[[生態学]] ==== 世界トップレベル研究拠点 ==== [[文部科学省]]は[[2010年]](平成22年)[[7月14日]]、九州大学[[カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所]]を、科学技術分野で世界最高水準の研究機関を目指す[[世界トップレベル国際研究拠点形成促進プログラム]]の研究拠点に選定した<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/toplevel/ 世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)] 文部科学省</ref>。毎年14億円を10-15年にわたって集中的に投資して世界に通用する研究拠点に育てることを目的としている。 === 教育 ===<!--Stub ※以下のプログラムに指定されたプロジェクトがあれば、以下のように項目を作り記述する。採択がない場合、書いていないのか未採択なのかの区別をつけるために<nowiki>*○○プログラムの採択はない。</nowiki>」と記述する。歴史的・社会的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述できる場合は、プログラムに関する列記以外に教育内容の特色を別途記すことも出来る。--> * [[現代的教育ニーズ取組支援プログラム]] ** WBT (Web Based Training) による医療系統合教育([[2004年]](平成16年)度採択) * [[特色ある大学教育支援プログラム]] ** 21世紀プログラム([[2003年]](平成15年)度採択) *** 21世紀プログラムは、専門性の高いゼネラリストの育成を掲げて、[[2000年]](平成12年)に[[学士]]課程に設置されたコースである。各学部から1名から数名の入学定員を割り当てられた。また、他学部の1・2年次生の21世紀プログラムへの転籍制度もあった。必修科目が少なく、全学部のほぼ全ての授業を受講することができた<ref>[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/faculty/undergraduate/21pro/ 21世紀プログラム] 九州大学</ref>。21世紀プログラムで培ったノウハウと基幹教育の実績をもとに、グローバル化する世界の中で、人類が直面する課題の解決に貢献できる人材の育成を目的として、[[共創学部]]が[[2018年]](平成30年)に設置された<ref>[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/admission/policy/kyoso/ 共創学部] 九州大学</ref>。 ** コアリッションによる工学教育の相乗的改革(複数の大学と共同、[[2004年]](平成16年)度採択) * [[大学教育の国際化推進プログラム]] ** 九州大学長期海外留学プログラム([[2006年]](平成18年)度採択) * [[法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム]] ** 九州三大学連携法曹養成プロジェクト([[2004年]](平成16年)度採択、複数の大学と共同) ** 裁判と法実務の国際的体験研修プログラム(2004年(平成16年)度採択、複数の大学と共同) ** アジアビジネス教育国際連携拠点形成(2004年(平成16年)度採択) ** 医療経営・管理学夜間・土日講座—「社会人実務家コース」の実施—(2004年(平成16年)度採択)<!-- * 地域医療等社会的ニーズに対応した医療人教育支援プログラムの採択はない(2006年(平成18年)3月現在) * 大学・大学院における教員養成推進プログラムの採択はない(2006年(平成18年)3月現在)--> * 電気エネルギー環境工学講座 ** 九州大学と[[九州電力]]による[[寄附講座]]。[[九州電力]]との産学連携活動、学内活動が盛んに実施されている<ref>[http://pse.ees.kyushu-u.ac.jp/godalab/index-j.html 合田研究室 九州大学大学院 電気エネルギー環境工学講座(九州電力寄附講座)]</ref>。また、九州電力による寄附講座では九州大学と[[九州工業大学]]の合同シンポジウムが開催されている。 == 就職支援 == * 就職情報室 ** 伊都地区および箱崎文系地区に就職情報室を設置している。求人情報・就職に関する資料の閲覧や情報検索用PC等を自由に利用することができる<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/ja/education/employment/consultation/office 就職情報室] 九州大学</ref>。 * 就職相談 ** 6名の進路・就職アドバイザーが、箱崎地区、大橋地区・筑紫地区、伊都地区で就職相談を実施している<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/ja/education/employment/consultation/information 就職相談] 九州大学</ref>。また、東京オフィスでも相談を行っている<ref>[http://www.kyushu-u.ac.jp/ja/education/employment/consultation/tokyo 東京オフィスでの相談] 九州大学</ref>。 * 学内企業セミナー ** 各企業の採用担当者による学内セミナー * 九大・九工大生のためのJOBセミナー ** 九州大学、[[九州工業大学]]の学生を対象とした就職セミナー。多数の有力企業が参加する。アクロス福岡で開催される。 == 学生生活 ==<!-- 学生自治会に関係する内容は、適宜下位の節に織り込む。--> 入学式と卒業式は伊都地区にある椎木講堂で行われている。2013年度入学式までは[[福岡国際センター]]で行われていた。<!-- === 部活動・クラブ活動・サークル活動 === ○○大学では{部活動|クラブ活動|サークル活動}は… ※各大学によって、これら活動の呼称や範囲が異なっているので、学生組織の規約または大学事務局発行の資料などに基づいて適切な節名とする。--> === 学園祭 === [[大学祭|学園祭]]は、「九大祭」と「芸工祭」がある<ref>[https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/education/extracurricular/kyu-festa 九大祭/芸工祭] 九州大学</ref>。 「九大祭」は、毎年11月下旬に伊都地区で行われるイベントで、旧九大の流れを汲んでいる。かつては箱崎地区で[[5月11日]]の本学記念日を中心に九大祭が、六本松地区で6月に学園祭がそれぞれ行われていたが、[[1966年]](昭和41年)に統合された<ref>[https://hdl.handle.net/2324/1520723 『九州大学新聞』第540号] 九州大学新聞部、1966年4月25日</ref><ref>[https://hdl.handle.net/2324/1520860 『九州大学新聞』第689号] 九州大学新聞部、1975年10月25日</ref>。[[2008年]](平成20年)までは六本松地区で開催されていたが、[[2009年]](平成21年)からは伊都地区で開催されている<ref>{{PDFlink|[https://www.kyushu-u.ac.jp/f/5993/2015_11_09.pdf 第68回九大祭(伊都地区)の開催]}} 九州大学</ref>。 芸工祭は九大祭と同時期に大橋地区で開催されるイベントで、旧芸工大の流れを汲んでいる。 2017年から4学期制導入に伴い「九大祭」「芸工祭」ともに10月上旬の開催に変更となる。 === スポーツ ===<!-- ※学生スポーツの詳細はこの節でまとめる。部活動の一環として行われているものが多い場合は、その中に織り込むことも可能である。所属連盟に関してはここで記す。--> 体育系の全学公認サークルを統括する学生組織の体育総部体育総務委員会が存在する。 * [[全国七大学総合体育大会]]に参加している。 * 10月上旬に体育祭が行われる。 * [[九州六大学野球連盟]]に加盟している。 * 九州地区ではアメリカン・フットボール部が強豪である。 == 大学関係者と組織 ==<!-- ※大学関係者と大学関係者で組織される諸組織はここで解説する。--> === 九州大学総長 === {| class="wikitable" |- |+ 歴代総長<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/university/president/rekidai/|title=歴代総長|accessdate=2022-03-27|publisher=九州大学}}</ref> !代!!氏名!!就任日!!退任日 |- | 初代 || [[山川健次郎]] || [[1911年]][[4月1日]] || [[1913年]][[5月9日]] |- | 2代 || [[真野文二]] || 1913年5月9日 || [[1926年]][[3月19日]] |- | 3代 || [[大工原銀太郎]] || 1926年3月19日 || [[1929年]][[9月12日]] |- | 事務取扱 || [[後藤七郎]] || 1929年9月12日 || 1929年[[10月9日]] |- | 4代 || [[松浦鎮次郎]] || 1929年10月9日 || [[1936年]][[7月4月]] |- | 5代 || [[高山正雄]] || 1936年7月4月 || 1936年[[11月18日]] |- | 6代 || [[荒川文六]] || 1936年11月18日 || [[1945年]][[3月1日]] |- | 7代 || [[百武源吾]] || 1945年3月1日 || 1945年[[10月16日]] |- | 事務取扱 || [[西久光]] || 1945年10月16日 || 1945年11月30日 |- | 8代 || [[奥田譲]] || 1945年10月16日 || [[1949年]][[11月29日]] |- | 9代 || [[菊池勇夫 (法学者)|菊池勇夫]] || 1949年11月30日 || [[1953年]]11月29日 |- | 10代 || [[山田穣 (鉱山学者)|山田穣]] || 1953年11月30日 || [[1961年]]11月29日 |- | 11代 || [[遠城寺宗徳]] || 1961年11月30日 || [[1967年]]11月29日 |- | 12代 || [[水野高明]] || 1967年11月30日 || [[1969年]][[1月31日]] |- | 事務取扱 || [[原俊之 (教育方法学者)|原俊之]]|| 1969年1月31日 || 1969年[[5月24日]] |- | 事務取扱 || [[問田直幹]]|| 1969年5月24日 || 1969年[[8月14日]] |- | 事務取扱 || [[谷口鉄雄]] || 1969年8月14日 || 1969年[[11月7日]] |- | 13代 || [[入江英雄]]|| 1969年11月7日 || [[1970年]][[11月6日]] |- | 14代 || [[池田数好]]|| 1970年[[11月7日]] || [[1975年]][[11月6日]] |- | 15代 || [[武谷健二]]|| 1975年11月7日 || [[1978年]]11月6日 |- | 16代 || [[神田慶也]] || 1978年11月7日 || [[1981年]]11月6日 |- | 17代 || [[田中健藏]] || 1981年11月7日 || [[1986年]][[9月30日]] |- | 事務取扱 || [[山元寅男]]|| 1986年[[10月1日]] || 1986年11月6日 |- | 18代 || [[高橋良平]] || 1986年11月7日 || [[1991年]]11月6日 |- | 19代 || [[和田光史]] || 1991年11月7日 || [[1995年]]11月6日 |- | 20代 || [[杉岡洋一]] || 1995年11月7日 || [[2001年]]11月6日 |- | 21代 || [[梶山千里]] || 2001年11月7日 || [[2008年]][[9月30日]] |- | 22代 || [[有川節夫]] || 2008年10月1日 || [[2014年]]9月30日 |- | 23代 || [[久保千春]] || 2014年10月1日 || [[2020年]]9月30日 |- | 24代 || [[石橋達朗]] || 2020年10月1日 || 現職 |} === 大学関係者組織 ===<!-- ※大学関係者と大学関係者で組織される諸組織はここで解説する。「大学関係者で組織される諸組織」の定義と範囲についてはプロジェクト:大学/大学同窓組織・保護者組織・学生組織の記事独立基準参照。ただし、学生自治会は「学生生活」節で、出版関係組織など大学本部が自ら掌握している組織は「附属機関」節で、それぞれ解説する。なお、この基準で範囲外となっている組織については次節「社会との関わり」において解説するが、その際は「社会との関わり」節の掲載基準に適合していることを条件とする。また、範囲外の組織であり、かつ別記事において解説されている組織に関しては「関連項目」節でリンクを行う。 *○○大学には生活協同組合があるが、この生活協同組合は△△という点で特殊であり… *○○大学には保護者組織があり…--> ==== 同窓会 ==== 九州大学の同窓会には、13の部局別同窓会とその他地区別に組織されている同窓会があり、九州大学同窓会連合会がそれを束ねている。[[1999年]](平成11年)に設立され、地区別同窓会の設立を支援するなどの活動をしている。 ==== 学士会 ==== [[旧帝国大学]]の出身者および学長、教授、助教授経験者で構成される団体として[[学士会|社団法人学士会]]があり、九州大学関係者も多数入会している。詳細は、[[学士会]]を参照。 === 大学関係者一覧 ===<!-- ※大学関係者の一覧はWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 大学/人物一覧記事についてで協議されたように大学の記事自体には挿入せず別に記事を作成する。ここでは、人物一覧記事へのリンクを列挙する。なお、大学の人物一覧記事に関してはプロジェクト:大学/人物一覧記事についての基準に従うこと。--> {{See|九州大学の人物一覧}} == 施設 == === キャンパス ===<!-- ※各キャンパスの特徴や概要はこの節に以下のような箇条書きの見出しを付けた形式でまとめる。該当する項目が不明な場合には、冒頭の基準にあるようにコメントアウトで隠しておく。 * 最寄り駅:○○線○○駅 ※サテライトキャンパスを除き、複数のキャンパスを設置している大学は以下のように各キャンパスを節に区分けしてまとめることもできる。また、キャンパス共通で何か特記すべき内容がある場合にはこの節で説明する。節に分ける場合には以下の記述例の通り、キャンパスの施設的な概要をまとめた部分とその特色を示した部分を一行空ける。また、特色が多い場合には更に小節にして説明することも可能である。--> {{座標一覧}} 九州大学ではそれぞれの校地を地区またはキャンパスと呼んでいる<ref name="kyudaigaiyo">{{PDFlink|[https://www.kyushu-u.ac.jp/f/28726/H28kyudaigaiyo_all.pdf 2016年度 九州大学概要]}} 九州大学</ref>。ただし、キャンパスと呼ばれるのは伊都・病院・筑紫・大橋・別府・(旧)六本松・(旧)箱崎地区のみであり、地区と言う場合にはキャンパス以外の施設も含める場合がある。 ==== 伊都地区 ==== {{Main|九州大学伊都地区}} * 使用学部:文学部、教育学部、法学部、経済学部、工学部、理学部、農学部、共創学部、基幹教育院(初年度の1年間) * 使用研究院・学府:人文科学府/研究院、人間環境学府/研究院、法学府/研究院、法務学府、経済学府/研究院、工学府/研究院、理学府/研究院、数理学府/研究院、システム情報科学府/研究院、システム生命科学府、生物資源環境科学府/農学研究院、地球社会統合科学府/比較社会文化研究院、言語文化研究院 * 使用附属施設:[[九州大学カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所|カーボンニュートラル・エネルギー国際研究所]]、マス・フォア・インダストリ研究所、水素エネルギー国際研究センター、[[九州大学稲盛フロンティア研究センター|稲盛フロンティア研究センター]]など * 総面積:2,717,130m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" /> * 最寄り駅:[[九州旅客鉄道|JR九州]][[筑肥線]][[九大学研都市駅]]から[[昭和自動車|昭和バス]]九大ビッグオレンジ、九大理学部、九大工学部、九大農学部、九大船舶・航空実験棟、九大総合グラウンド、九大中央図書館、九大イーストゾーン、九大東ゲート各バス停 : ({{ウィキ座標|33|35|44.6|N|130|13|4|E|type:edu_region:JP|地図|name=九州大学伊都地区}}、{{commons-inline|Category:Ito Campus, Kyushu University|伊都キャンパス}}) 伊都(いと)地区は、キャンパス移転計画([[#教育および研究|後述]])に伴い[[2005年]](平成17年)[[10月1日]]に開設された新キャンパスである。学生寄宿舎として、ドミトリーI、ドミトリーIIが設置されている。また、伊都新キャンパス情報発信拠点Big Orange(ビッグオレンジ)が設けられている。正式キャンパス名は「伊都地区」であるが、計画段階で使われていた「元岡地区」の呼称も浸透している。「伊都」は、キャンパスが立地する[[糸島半島]]にあったとされる[[伊都国]]に因んで糸島市などがしばしば用いている愛称であり、住所表記上の地名ではない。 図書館、食堂、自販機、売店・書店([[大学生協]]と[[ローソン]])、[[現金自動預け払い機|ATM]]等が利用可能である。学生寮は[[2006年]](平成18年)秋から供用されている。 <gallery> Shiiki Hall in Ito Campus, Kyushu University 20160602.jpg|伊都キャンパス 椎木講堂 Kyushu University Central Library 20180928.jpg|伊都キャンパス 中央図書館 Kyushu University Ito Campus East Zone.jpg|伊都キャンパス イーストゾーン Kyushu University Ito Campus Center Zone 20180808.jpg|伊都キャンパス センターゾーン Kyushu University Ito Campus Center Zone and main entrance 20180807.jpg|別角度から Kyushu University West Zone 1 and Science and Technology Library 20181107.jpg|伊都キャンパス ウエスト1号館と理系図書館 West Zone 1, Ito Campus, Kyushu University 20160521.jpg|伊都キャンパス ウエスト1号館(別角度から) Open Learning Plaza, Ito Campus, Kyushu University 20180903.jpg|伊都キャンパス ウエスト2号館と総合学習プラザ West Zone 4, Ito Campus, Kyushu University 20180828.jpg|伊都キャンパス ウエスト4号館・3号館と実験施設群 West Zone 5, Ito Campus, Kyushu University 20180828.jpg|伊都キャンパス ウエスト5号館 West Zone 5, Ito Campus, Kyushu University 20180824.jpg|別角度から </gallery> ==== 病院地区(馬出地区) ==== * 使用学部:医学部、歯学部、薬学部 * 使用研究院・学府:医学系学府/研究院、歯学府/研究院、薬学府/研究院 * 使用附属施設:九州大学病院、生体防御医学研究所/附属感染防御研究センター/遺伝情報実験センターなど * 総面積:311,239m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" /> * 最寄り駅:[[福岡市地下鉄箱崎線]][[馬出九大病院前駅]]、JR九州鹿児島本線[[吉塚駅]] : ({{ウィキ座標|33|36|35.1|N|130|24|52.3|E|type:edu_region:JP|地図|name=九州大学病院地区}}、{{commons-inline|Category:Maidashi Campus, Kyushu University|馬出キャンパス}}) 病院地区は、[[馬出]](まいだし)地区、堅粕(かたかす)地区{{要出典|date=2017年10月}}ともよばれる。京都帝国大学福岡医科大学の母体となった福岡県立病院の跡地である。九州大学内では最も歴史が古い地区である。病院については[[九州大学病院]]を参照。[[2009年]](平成21年)9月に、総工費1千億円を費やし、着工から11年かけて建設された新病院棟が完成した。 <gallery caption="施設の写真" heights="100px" mode="packed" style="font-size:80%"> File:Kyūshū University Hospital Main Gate Ōmori Dōri 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|正門・大森通り File:Kyūshū University Faculty of Medical Sciences Inada Dōri 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|稲田通り File:Kyushu univ.hospital.jpg|病院地区 九州大学病院(南棟) File:Kyūshū University Faculty of Medical Sciences Building A of Basic Sciences 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221025.jpg|医学部基礎研究A棟 File:Kyūshū University Faculty of Medical Sciences Center for Cohort Studies 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|医学研究院附属総合コホートセンター File:Kyūshū University Faculty of Dental Science Main Building 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|歯学部本部 File:Kyūshū University Faculty of Pharmaceutical Sciences 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221025.jpg|薬学部本館 File:Kyūshū University Greenpharma Research Center for System Drug Discovery 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|システム創薬リサーチセンター「グリーンファルマ研究所」 File:Kyūshū University Bio-medical Research Station BRS 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|バイオメディカル・リサーチ・ステーション総合研究棟 File:Kyūshū University Station-II for Collaborative Research 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|コラボ・ステーションII File:Kyūshū University Medical Library 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221025.jpg|医学図書館 File:Centennial Hall Kyūshū University School of Medicine 1-1 Maidashi-3-chōme Higashi-ku Fukuoka City 20221103.jpg|医学部百年講堂 File:九州大学医学部全景復元之図.jpg|病院地区 戦前のキャンパスの復元図<br />(図書館医学分館より) </gallery> ==== 筑紫地区 ==== [[画像:C-CUBE.jpg|200px|thumb|筑紫地区 総合研究棟 (C-CUBE)]] * 使用学部:なし * 使用研究院・学府:総合理工学府/研究院 * 使用附属施設:応用力学研究所、先導物質化学研究所など * 総面積:257,334m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" /> * 最寄り駅:JR九州鹿児島本線[[大野城駅]]、[[西鉄天神大牟田線]][[白木原駅]] : ({{ウィキ座標|33|31|18.8|N|130|28|39.1|E|type:edu_region:JP|地図|name=九州大学筑紫地区}}、{{commons-inline|Category:Chikushi Campus, Kyushu University|筑紫キャンパス}}) 教育の場としてよりは研究機関としての色合いが濃い。かつて筑紫地区への全面移転が計画されていたが地元の反対により断念、現在の形となった。全面移転計画当時は春日原地区とも呼ばれていた。 ==== 大橋地区 ==== [[画像:Visual Communication Design Center.jpg|200px|thumb|大橋地区 画像特殊棟]] * 使用学部:芸術工学部 * 使用研究院・学府:芸術工学府/研究院 * 使用附属施設:感性融合創造センターなど * 総面積:63,058m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" /> * 最寄り駅:西鉄天神大牟田線[[大橋駅 (福岡県)|大橋駅]] : {{ウィキ座標|33|33|38.2|N|130|25|49.2|E|type:edu_region:JP|地図|name=九州大学大橋地区}} [[福岡県立筑紫丘高等学校]]の用地・建物を転用した旧福岡学芸大学(現[[福岡教育大学]])福岡分校の跡地。かつての九州芸術工科大学で、[[芸術工学]]を学ぶ場所となっている。大橋、筑紫地区男子学生を対象とした学生寄宿舎として[[九州大学井尻寮|井尻寮]]が設置されている。 ==== 別府地区 ==== * 使用学部:なし * 使用研究院・学府:なし * 使用附属施設:[[九州大学病院別府病院]] * 総面積:100,207m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" /> * 最寄り駅:JR九州[[日豊本線]][[別府駅 (大分県)|別府駅]]から[[亀の井バス]]九大別府病院バス停 ==== (旧)六本松地区 ==== {{main|九州大学六本松地区}} [[画像:Kyushu University 01.jpg|200px|thumb|六本松地区 本館(現存せず)]] * 使用学部:なし * 使用研究院・学府:理学研究院、数理学研究院(閉校時点) * 使用附属施設:なし * 総面積:約6.5ha * 最寄り駅:[[福岡市地下鉄七隈線]][[六本松駅]] 旧制福岡高等学校の跡地。教養部が解体されたのちも全学教育科目([[教養課程|一般教養]]教育)の大部分はこの地区で行われていた。多くの科目は言語文化研究院、比較社会文化研究院所属の教員によって実施されていた。六本松地区で教養部・全学教育科目を履修する期間には、将来の専攻に関連する講義を受けるために、各学部の専門キャンパス(箱崎・馬出・大橋・伊都)に行く曜日があり、単位履修の関係で1日のうちに六本松と専門キャンパスの両方に行くこともあった。なお、[[2009年]](平成21年)3月に閉鎖された田島寮は、この地区([[樋井川]]対岸の[[城南区]]田島)にあった。 全学教育科目、比較社会文化学府/研究院は[[2009年]](平成21年)4月に、数理学研究院・数理学府は[[2009年]](平成21年)10月に伊都地区へ移転。2009年(平成21年)9月29日に六本松地区の閉校式が行われ、88年の歴史に幕を下ろした。跡地は[[2010年]](平成22年)3月に独立行政法人[[都市再生機構]] (UR) に売却された。2010年(平成22年)12月から解体作業に着手しており[[2011年]](平成23年)9月中旬までに完了した<ref>[http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090203-043562/news/20110122-OYS1T00233.htm 「九大六本松キャンパスの象徴、旧本館解体始まる」]『[[読売新聞]]』(九州発)2011年1月22日</ref>。 なお、六本松キャンパス跡地の一部に開業した「[[六本松421]]」の3階部分に九州大学法科大学院が移転し、[[2017年]](平成29年)9月25日に開講した。 ==== (旧)箱崎地区 ==== * 使用学部:なし * 使用研究院・学府:なし * 使用附属施設:[[九州大学総合研究博物館|総合研究博物館]]、大学文書館 * 総面積:453,795m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" />(移転前) * 最寄り駅:[[福岡市地下鉄箱崎線]][[箱崎九大前駅]]、福岡市地下鉄箱崎線・[[西鉄貝塚線]][[貝塚駅 (福岡県)|貝塚駅]]、JR九州鹿児島本線[[箱崎駅]] :({{ウィキ座標|33|37|31.4|N|130|25|28.9|E|type:edu_region:JP|地図|name=九州大学箱崎地区}}、{{commons-inline|Category:Hakozaki Campus, Kyushu University|箱崎キャンパス}}) 地区内は理系地区と文系地区に分かれていた。理系キャンパスには旧大学本部や旧法文学部棟など戦前の建物が多く残っていた。これらの多くは建築家[[倉田謙]]の手になるもので、九州大学の[[赤本 (教学社)|赤本]]の表紙にもなって親しまれた旧工学部本館([[1930年]]竣工)も倉田の設計である。地区の学生寮としては男子寮の松原寮、女子寮の貝塚寮があった。[[福岡空港]]16番滑走路に着陸する直前の飛行機が真上を通過している。 [[2018年]](平成30年)9月に全学部・大学院の移転が完了した。理系地区の一部区域にある旧工学部本館、旧本部第一庁舎、旧第三庁舎、正門門衛所、正門については保存され、旧工学部本館は2018年10月以降も[[九州大学総合研究博物館|総合研究博物館]]、文書館として利用している<ref>{{PDFlink|[http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/39301/1/atotiriyoukeikakuH27.3.pdf 九州大学箱崎キャンパス跡地利用計画]}} p.39</ref><ref>[https://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20181001/0002418.html 「九大箱崎キャンパスの門を閉鎖」][[日本放送協会|NHK]] 2018年10月1日 同日閲覧</ref>。 UR([[都市再生機構]])が道路などの都市基盤を整備し、公園、小学校を配置。事業者を公募して住宅や商業施設などを造る計画である<ref>九大箱崎キャンパス跡地再開発で説明会~URが新たに道路や自転車レーン整備へ(2020.8.31) [https://www.data-max.co.jp/article/37342]</ref>。2023年3月までに道路が整備され、同年4月から事業者の公募が始まった<ref>福岡市「九州大学箱崎キャンパス跡地のまちづくり」 [https://www.city.fukuoka.lg.jp/jutaku-toshi/gakkenntoshi/machi/002_2.html]</ref>。 <gallery> Former faculty of engineering main building, Hakozaki, Kyushu University 20150203.jpg|箱崎地区 旧工学部地区本館(現在は、九州大学総合研究博物館として利用) The administrative building of Kyushu University 20130711.jpg|箱崎地区 事務局(本部跡地) Admission Center of Kyushu University.JPG|箱崎地区 旧法文学部本館 The Kyushu University Museum in Hakozaki Campus, Kyushu University 2.JPG|箱崎地区 創立五十周年記念講堂 Central Library of Kyushu University 20150213.JPG|箱崎地区 旧中央図書館 </gallery> ==== その他 ==== [[画像:有楽町ビル.jpg|250px|thumb|東京オフィス(有楽町ビル)]] サテライトキャンパス等 * 東京オフィス - [[東京都]][[千代田区]][[有楽町]] * 大阪オフィス - [[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]梅田 * [[博多駅]]オフィス - 福岡県福岡市[[博多区]]博多駅中央街 * 産学官連携イノベーションプラザ - 福岡県福岡市[[早良区]]百道浜 * 西新プラザ - 福岡市[[早良区]][[西新]]2-16-23<ref>[http://nishijinplaza.kyushu-u.ac.jp/ 九州大学西新プラザ]</ref> * 大橋サテライト・ルネット - 福岡市南区大橋1-3-27 農場等 * 農学部附属農場 - 福岡県[[糟屋郡]][[粕屋町]]など。面積:392,708m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" />。 * 福岡[[演習林]] - 福岡県糟屋郡[[篠栗町]]。面積:4,638,364m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" />。一部は[[篠栗九大の森]]として無料開放されている。 * 早良実習場 - 福岡県福岡市[[西区 (福岡市)|西区]][[生の松原 (福岡市)|生の松原]]。面積:324,749m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" />。 * 宮崎演習林 - [[宮崎県]][[東臼杵郡]][[椎葉村]]。面積:29,161,473m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" />。 * 北海道演習林 - [[北海道]][[足寄郡]][[足寄町]]。面積:37,133,933m{{sup|2}}<ref name="kyudaigaiyo" />。<!-- === 学生食堂 === ○○大学の学生食堂(学食)は… ※学食に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。 === 講堂 === ○○大学のホールは… ※講堂やホールに関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。 === 学生会館 === ○○大学には学生会館があり… ※学生会館に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。 === 寮 === ○○大学の寮は… ※学生寮などが設置されている場合には、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。 ※そのほか、大学の施設に関する特記事項がある場合は、歴史的にどのような価値を持つのかが関係者以外でも理解できるように記述可能な場合、この節にまとめる。大学施設を独立した記事とする場合には別途設定されている基準に従う。--> == 対外関係 == === 他大学との協定 ===<!-- ※他の大学と何らかの文章による調印のなされた協定が締結されている場合にはこちらの項目に列挙する。--> * 特色ある大学教育支援プログラム「コアリッションによる工学教育の相乗的改革」([[2004年]](平成16年)(平成16年)度採択)協定大学(→[[8大学工学系研究科長懇談会]]) ** [[大阪大学]] ** [[京都大学]] ** [[東京大学]] ** [[東京工業大学]] ** [[東北大学]] ** [[名古屋大学]] ** [[北海道大学]] * 法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム「九州三大学連携法曹養成プロジェクト」([[2004年]](平成16年)(平成16年)度採択)協定大学 ** [[鹿児島大学]] ** [[熊本大学]] * 法科大学院等専門職大学院形成支援プログラム「裁判と法実務の国際的体験研修プログラム」([[2004年]](平成16年)(平成16年)度採択)協定大学 ** [[青山学院大学]] ** [[新潟大学]] * 「アジアをはじめとする世界の学術の発展と有為な人材の育成に寄与、知的成果を基に地域社会に貢献」[[2008年]](平成20年)(平成20年)連携協力に関する基本協定書に調印 ** [[西南学院大学]] ** [[福岡女子大学]] === 産学官連携 === 学術研究・産学官連携本部を中心として、企業・自治体との協力([[産学官連携]])や九州大学発[[ベンチャー企業]]の支援に取り組んでいる<ref>[https://airimaq.kyushu-u.ac.jp/ja/index.php 九州大学 学術研究・産学官連携本部](2020年3月25日閲覧)</ref>。 == 社会との関わり ==<!-- ※これまでの節で言及されず、かつ特記する事象がある場合、この節を設ける。 ※この節で取り扱う内容は、歴史的にどのような価値を持つのかがその大学をほとんど知らない人にも理解でき、かつ、学外で取り上げられた事象とする。具体的には *政治・経済・国際関係・戦争 *哲学・科学・教育・学芸文化 *文学・音楽・芸術・スポーツ *社会通念・制度・宗教・地域社会 等とその大学がどのように関わったかという事例が考えられる。 ※当該大学にとって不名誉な内容であってもそれが社会的に大きな意味を持つ場合には、その事象が大学とどのように関わり、社会的・歴史的にどのような意義を持ち、さらにWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。逆に大学にとって広報したい名誉な内容についてもその事象が大学とどのように関わり、Wikipediaで掲載しておく必要性を社会的・歴史的な意義をきちんと明示しながらWikipediaを利用する人に理解できる文章で記述できるのであれば掲載可能である。--> === 生体解剖事件 === {{Main|九州大学生体解剖事件}} [[1945年]](昭和20年)に医学部敷地内で[[アメリカ合衆国軍|米軍]][[捕虜]]に対する生体[[解剖]]実験が行われた事件。ただし、大学としての組織的関わりは全くない。 === 戦闘機墜落事故 === {{Main|九州大学電算センターファントム墜落事故}} [[1968年]](昭和43年)[[6月2日]]22時45分頃、[[在日米軍]][[福岡空港|板付基地]]第313航空師団第15戦術偵察飛行隊所属の[[F-4 (戦闘機)|RF-4Cファントム偵察機]]が当時箱崎キャンパスに建設中の大型計算機施設の建物に墜落。以後、[[学生運動]]が活発化し、墜落機残骸撤去に約7ヶ月を要した。 === 女性枠入試 === [[2010年]](平成22年)3月に、[[2012年]](平成24年)度の理学部数学科の入学試験(後期日程)において、定員9名の内、5名を女性枠とすることを公表したが、法の下の平等の観点から問題があるとの批判があり、[[2011年]](平成23年)5月19日に、導入の取り止めを決定<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyushu-u.ac.jp/entrance/examination/H24henkou-sugakuka.pdf |title=理学部数学科における平成24年度一般入試(後期日程)の変更について |accessdate=2012-09-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110605110035/http://www.kyushu-u.ac.jp/entrance/examination/H24henkou-sugakuka.pdf |archivedate=2011-06-05}} 九州大学プレスリリース 2011年5月19日</ref>。 === 広報誌 === 広報誌として『九大広報』(KYUSHU UNIVERSITY CAMPUS MAGAZINE)(九州大学広報専門委員会編集発行)がある。 === 九大CARPの表彰取り消し === [[2022年]](令和4年)7月25日に、[[福岡市]]は九州大学の非公認サークル「九大CARP(カープ)<ref group="注">[[プロ野球]]球団の「[[広島東洋カープ]]」とは無関係</ref>」が、[[世界平和統一家庭連合]]([[旧統一教会]])と関係がある[[宗教団体]]であると判断し、[[環境保護|環境保全]]に貢献したとする過去2回の表彰を取り消したと発表した。同サークルは[[2016年]]と[[2020年]]に、大学周辺のごみ拾いをしたとして、市環境行動賞の奨励賞にそれぞれ選ばれた。福岡市は「過去の調査が十分でなかった」と説明し、表彰状などを返還してもらうよう協議している<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE25AJF0V20C22A7000000/ 「九大CARP」の表彰取り消し 福岡市、宗教団体と判断](2022年8月21日閲覧)</ref>。 == 企業からの評価 == === 人事担当者からの評価 === *2021年[[日本経済新聞社]]と[[日経HR]]が実施した、「企業の人事担当者からみたイメージ調査」<ref name="日経HR">{{Cite web|和書|title=《日経HR》企業の人事担当者から見た大学イメージ調査 『就職力ランキング』|url=https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|accessdate=2021-07-18 |archivedate=2021-06-02|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210602073856/https://www.nikkeihr.co.jp/news/2021/0602435.html|url-status=live}}</ref>(全[[上場企業]]と一部有力未上場企業4,850社の人事担当者を対象に、2019年4月から2021年3月までの間に採用した学生から見た大学のイメージなどを聞いた調査)において、同大学は、「全国総合」で788大学<ref>{{Cite journal|和書|url= http://eic.obunsha.co.jp/resource/viewpoint-pdf/202104.pdf|title=日本の大学数 2021年度は788大学|journal=今月の視点|issue=172|date=2021-04-01|publisher=旺文社 教育情報センター|accessdate=2021-07-18|format=PDF}}</ref>中、第12位<ref name="日経HR" />にランキングされた。 === 出世力 === [[ダイヤモンド社]]の2006年年9月23日発行のビジネス誌「[[週刊ダイヤモンド]]」94巻36号(通巻4147号)「出世できる大学」と題された特集の出世力ランキング(日本の全上場企業3,800社余の代表取締役を全調査<ref>[https://www.otaru-journal.com/2006/11/5_25/ 小樽ジャーナル]</ref><ref>[http://univrank2.blog.shinobi.jp/ランキング/出世できる大学ランキング 週間ダイヤモンド「大学出世ランキング」]</ref><ref>[https://mazba.com/10369/ 週刊ダイヤモンド「出世できる大学」 神戸商科大学は5位、大阪市立大学は27位 大阪府立大学は14位]</ref>)で、同大学は、2006年時点で存在する744大学<ref>[https://www.janu.jp/univ/gaiyou/20180130-pkisoshiryo-japanese_2.pdf 大学数・学生数|国立大学協会]</ref>中第8位<ref>[http://www.businesshacks.com/2006/09/post_65bb.html 週刊ダイヤモンド 出世できる大学ランキング]</ref>にランキングされた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==関連文献== * {{cite book|和書|author= |url=https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/publications_kyushu/qu100th |title=九州大学百年史 |publisher=九州大学百年史編集委員会 |year=2017 |quote=通史編3巻、部局史編4巻、資料編4巻、計11巻をWeb上で公開}} ** {{cite|和書|title=第1巻 通史編Ⅰ |url=https://hdl.handle.net/2324/1801084}} ** {{cite|和書|title=第2巻 通史編Ⅱ |url=https://hdl.handle.net/2324/1801798}} ** {{cite|和書|title=第3巻 通史編Ⅲ |url=https://hdl.handle.net/2324/1801800}} ** {{cite|和書|title=第4巻 部局史編Ⅰ |url=https://hdl.handle.net/2324/1462303}} ** {{cite|和書|title=第5巻 部局史編Ⅱ |url=https://hdl.handle.net/2324/1547170}} ** {{cite|和書|title=第6巻 部局史編Ⅲ |url=https://hdl.handle.net/2324/1801801}} ** {{cite|和書|title=第7巻 部局史編Ⅳ |url=https://hdl.handle.net/2324/1801803}} ** {{cite|和書|title=第8巻 資料編Ⅰ |url=https://hdl.handle.net/2324/1448763}} ** {{cite|和書|title=第9巻 資料編Ⅱ |url=https://hdl.handle.net/2324/1524115}} ** {{cite|和書|title=第10巻 資料編Ⅲ |url=https://hdl.handle.net/2324/1787570}} ** {{cite|和書|title=第11巻 資料編Ⅳ |url=https://hdl.handle.net/2324/1800865}} == 関連項目 == * [[九州大学の建築物]] * [[福岡県の大学一覧]] ==関連企業== *[https://hbio.jp/ HIROTSUバイオサイエンス] - 九州大学発のベンチャー企業 == Wiki関係他プロジェクトリンク == {{Commonscat|Kyushu University|九州大学}} {{Commons|Representation of Imperial University (Japan)|博士の肖像(九州帝國大學)}}<!-- ※Wikipedia以外の姉妹プロジェクトへのリンクはここでまとめる。具体的な姉妹プロジェクトはメインページ参照。--> * [[b:メインページ|ウィキブックス (Wikibooks)]] ** [[b:九州大対策|九州大対策]] == 外部リンク == <!--※ここには大学の公式サイトのみ入れる。校友会・保護者会・教職員組合・学生自治会などのサイトは入れない。通常、大学公式サイトは1ドメインになっているはずだが、何らかの理由で大学公式サイトが複数のドメインに分かれている場合は、その理由や背景が関係者以外にも判るように明記した上で追加することが可能である。--> * {{official website}} * [http://suisin.jimu.kyushu-u.ac.jp/index.html 九州大学伊都新キャンパス 九州大学新キャンパス計画推進室 公式サイト] <!--全学連携--> {{九州大学}} {{九州大学の源流・前身諸機関}} {{グローバル30}} {{研究大学強化促進事業選定機関}} {{スーパーグローバル大学}} {{学術研究懇談会}} {{大学学習資源コンソーシアム}} {{国公私立大コンソーシアム・福岡}} <!--地域連携--> {{サンフランシスコ・ベイエリア大学間連携ネットワーク}} 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イスラエル
イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל、アラビア語: دَوْلَة إِسْرَائِيل、英語: State of Israel :[ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl])、通称イスラエル(ヘブライ語: יִשְׂרָאֵל)は、西アジアに位置する共和制国家。北はレバノン、北東はシリア、東はヨルダン、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸、西はガザ地区、南西はエジプトと国境を接している。 実質的な首都はテルアビブであり、経済と技術の中心地をなす。国内総生産では世界29位、一人当たりGDPでは13位にランクされている。一方、イスラエルの基本法であるエルサレム基本法ではエルサレムを首都と規定しているが、エルサレムに対する国家の主権は国際的には限定的にしか認められていない。 イスラエルにおけるカナン族の存在は青銅器時代中期から考古学的に証明されており、イスラエル王国とユダ王国は鉄器時代に誕生した。紀元前720年ごろ、新アッシリア帝国がイスラエル王国を滅ぼした。ユダ王国はその後、バビロニア帝国、ペルシャ帝国、ヘレニズムの帝国に征服され、ユダヤ人の自治州として存在していた。マカバイ戦争が成功し、紀元前110年にはハスモン朝の独立国となったが、紀元前63年にはローマ共和国の従属国となり、紀元前37年にはヘロデ朝が置かれ、紀元後6年にはローマ帝国のユダヤ属州が誕生したのである。ユダヤ人の反乱により、ユダヤ属州は壊滅的な打撃を受け、ユダヤ人は追放され、シリア・パレスティナに改称されるまで、ユダヤはローマの属州として存続した。この地域におけるユダヤ人の存在は、何世紀にもわたってある程度継続している。7世紀にビザンチン帝国からアラブ人に奪われたレバント地方は、1099年の第1回十字軍、1187年のアイユーブ朝による征服までイスラム教徒の支配下にあった。13世紀にはエジプトのマムルーク朝がレバントに支配を広げ、1517年にオスマン帝国に敗れるまで支配した。19世紀には、ユダヤ人の民族意識の高まりからシオニスト運動が起こり、パレスチナへの移住が始まったと思われる。 パレスチナは、第一次世界大戦後にオスマン帝国から割譲され、1920年から1948年まで大英帝国の委任統治領となった。第二次世界大戦が始まると、委任統治領は大規模な爆撃を受け、イシューブのユダヤ人は連合国側に従軍した。1944年、イギリスは武器の供給とユダヤ人旅団の結成に同意した。緊張が高まる中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の両派をなだめるために、1947年に国際連合がパレスチナ分割決議を採択し、アラブ人とユダヤ人の独立国家と国際化されたエルサレムの設立を勧告した。翌年、ユダヤ機関はイスラエルの独立を宣言し、1948年のアラブ・イスラエル戦争では、イギリス委任統治領の大部分をイスラエルが占領したが、ヨルダン川西岸とガザは近隣のアラブ諸国が占領していた。その後、イスラエルはアラブ諸国といくつかの戦争を経験し、1967年6月の第三次中東戦争以降は、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原、ガザ地区などの占領地を保有している(2005年の分離独立後も占領地とみなされているが、法律の専門家の中にはこの主張に異論がある)。その後の立法措置により、ゴラン高原と東エルサレムではイスラエル法が全面的に適用され、ヨルダン川西岸ではイスラエルの入植地への「パイプライニング」により部分的に適用されている。イスラエルによるパレスチナ自治区の占領は、現代における世界最長の軍事占領であると国際的に考えられている。イスラエルとパレスチナの紛争を解決するための努力は、最終的な和平合意には至っていないが、イスラエルはエジプトとヨルダンの両国と和平条約を締結している。 イスラエルは基本法の中で、自らをユダヤ人と民主主義の国家であり、ユダヤ人の国民国家であると定義している。国は、議会制、比例代表制、普通選挙を採用した自由民主主義国家である。首相は政府の長であり、クネセトは立法府である。2019年現在の人口は約900万人で、イスラエルは先進国であり、OECD加盟国である。名目GDPでは世界第29位の経済規模を持ち、現在紛争中の国の中では最も先進的な国である。中東で最も生活水準が高く、軍事訓練を受けた国民の割合、高等教育の学位を持つ国民の割合、GDP比の研究開発費、女性の安全性、平均寿命、革新性、幸福度などで世界の上位にランクインしている。ただし、相対貧困率はOECDで最も高く、ジニ係数も高い格差社会という課題もある。 イスラエルという名称はヘブライ語で「神が支配する」「神と競う」「神が勝つ」などの意味をもつと解釈される。これは旧約聖書に登場するヤコブの改名後の名前であり、ヤコブは伝統的にはユダヤ人の祖先と考えられている。そのため、古代にユダヤ人が王国を築いた地域はイスラエルの地(エレツ・イスラエル)と呼ばれた。独立直前にはユダ(Judea)、エレツ・イスラエル、シオン(Zion)、新ユダ(NewJudea)なども国名候補として存在した。国名を「ユダ」とすると、宗教・民族上の「ユダヤ人」と国籍上の「ユダヤ人」の区別が難しくなること。「シオン」とすると、非ユダヤ人国民も「シオニスト」と呼ばれるようになることから、二つは候補から外されたという説がある。漢字表記は、以色列。 古代にはこの地は肥沃な三日月地帯であり、カナンの地と呼ばれ、カナン人をはじめ様々な民族が住んでいた。ユダヤ人の祖先となるヘブライ人も移住してきたが、子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷となっていった。長い期間を経てエジプトを脱出したヘブライ人(イスラエル人)はこの地を征服し、紀元前11世紀ごろにイスラエル王国が成立した。しかし紀元前930年ごろ、内乱のためイスラエル王国は南北に分裂した。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされた。新バビロニアもペルシア帝国に滅ぼされ、その後、パレスチナの地はアレクサンダー大王の東方遠征により征服される。アレクサンダー大王の死後、マケドニアは分裂し、パレスチナはセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入るが、マカバイ戦争を経てユダヤ人の王朝であるハスモン朝が成立する。紀元前1世紀にハスモン朝はローマ帝国の保護国となり、のちにローマ帝国の属州(ユダヤ属州)となる。西暦66年には独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発するが、70年にローマ帝国により鎮圧された。132年にバル・コクバに率いられたバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)が起き、一時はユダヤ人による支配権を取り戻したが、135年に再びローマ帝国に鎮圧され、名称もシリア・パレスティナ属州に変わった。離散ユダヤ人(ディアスポラ)は早い時期から存在したが、この時に数多くのユダヤ人がディアスポラとなっていった。 636年に東ローマ帝国が正統カリフに敗北し、以後、第一次世界大戦におけるオスマン帝国の敗退までのほとんどをイスラム教国家の支配下に置かれることになる。1099年に第1回十字軍によりエルサレムが占領されキリスト教国であるエルサレム王国が成立した。しかし1187年、ヒッティーンの戦いでアイユーブ朝に破れエルサレムを再占領されると、1200年ごろにはエルサレム王国の支配地域は地中海沿いのみとなっていた。わずかな支配地域を維持していたエルサレム王国は、1291年にマムルーク朝により完全に滅亡した。1517年にはオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしこの地方を支配した。 1834年にセルビアに住むセファルディム系の宗教的指導者イェフダー・アルカライが小冊子を発行し、聖地での贖罪を前提とした帰還を唱えた。こうした宗教的意味合いの強い宗教的シオニズム(英語版)とは別にモーゼス・ヘスは1862年、反ユダヤ主義への解決策としてユダヤ人の民族主義を復興し、ユダヤ人の国家を築くべきだと訴えた。これは世俗的(政治的)シオニズムと呼ばれる。 1882年に第一次アリヤー(ヘブライ語で「上がる」こと、シオン(エルサレム)への帰還の意)が始まる。東ヨーロッパから2万5000人から3万5000人のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住した。のちにシオニズム運動を主導していくテオドール・ヘルツルは同化主義者であったが、ユダヤ人が冤罪で逮捕されたドレフュス事件を新聞記者として取材し、ユダヤ人に対する差別に衝撃を受け民族主義者へと転じた。このころからシオニズムという言葉が現れるようになる。ヘルツルはオスマン帝国のスルタンアブデュルハミト2世を含む、各国の要人たちにユダヤ人国家設立を請願した。このころ、東欧やロシア帝国ではユダヤ人が虐殺されるポグロムが繰り返し発生していた。 1897年にはスイスのバーゼルで第1回シオニスト会議が開催され、世界シオニスト機構が設立された。1904年から始まった第二次アリヤーでは4万人ほどが移住し、1909年にはルーマニアからの移民がテルアビブを建設した。ヘルツルは「ユダヤ人国家」の候補地としては必ずしもパレスチナにこだわってはおらず、初期にはアルゼンチンやウガンダも挙がっていたが、「シオンなきシオニズム」はあり得ないとされ、パレスチナ以外の選択肢は存在しなくなった。 最も戒律を厳格に守る超正統派は、パレスチナ人の地域の領土を奪いイスラエルを建国した事に対し、イスラエルが聖書の「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」に違反しているとして、「彼らは禁忌を犯した」という認識を持つ。「聖書の教えに反した行いは同胞といえど肯定できない」とし、「真のイスラエルは人ではなく我らの神が作る天の御国である。」、「メシア(救世主)が現れないと真のユダヤ国家は実現できない、しかし、まだメシアは現れていない、だから現在のイスラエル国家は偽物であり、認められない。」という立場をとっている。中でも「超正統派の中の超正統派」とされる団体ナートーレー=カルターはイスラエル国内でパレスチナ解放運動と反シオニズム活動を行っており、正統派などの他のユダヤ系やイスラエル国民から批判を浴びる事もあるが、超正統派は「我々が仕えるのは神である」と反論している。 厳格なユダヤ教徒の一人であるヤコブ・ラプキン教授は、「寛大な古き良きユダヤ教徒の姿をシオニストは侮辱した」と批判している。 1914年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国はドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国の三国同盟側で参戦する。イギリスは戦争を有利に進めるため、「三枚舌外交」と呼ばれる数々の密約を結んだ。フランスやロシアとはサイクス・ピコ協定を結び、アラブ人とはフサイン=マクマホン協定を結んだ。そしてユダヤ人に対してはバルフォア宣言を行った。これは1917年11月2日、英国外相バルフォアがユダヤ人の民族郷土建設について支持を表明したもので、ロスチャイルド卿に宛てた書簡に記されていたものである。 1918年10月30日、オスマン帝国は降伏し、イギリスの占領統治が始まった。1922年には国際連盟で定められた委任統治制度により、この地はイギリス委任統治領パレスチナとして運営されることとなった。施政を担当する初代高等弁務官にはユダヤ人のハーバート・サミュエルが就いた。この委任統治決議の文書には、バルフォア宣言を再確認する文言が含まれていた。アラブ人はバルフォア宣言の撤回を要求し続け、イギリスの提案する立法評議会への協力やアラブ機関の設立などを頑なに拒否した。その間にもユダヤ人は移民を進め、ユダヤ機関の設立、自警組織ハガナーの結成、ヘブライ大学の開校など、ユダヤ人国家建設に向けてパレスチナにおけるユダヤ人コミュニティー(イシューブ)を着実に大きくしていった。 1929年、嘆きの壁事件が発生した。アラブ人によるユダヤ人襲撃が行われ、133名のユダヤ人が殺害され339名が負傷した。アラブ人にも110名の死者が出たが、そのほとんどはイギリスの警察や軍によるものだった。この事件を受けイギリスは2つの調査委員会を派遣した。調査委員会はどちらも、事件の要因はユダヤ人移民のコミュニティーが大きくなり、アラブ人がそれに脅威を感じたこととし、ユダヤ人の移民と土地購入について再検討を勧告した。一時は勧告に従った白書が出るものの、ユダヤ側の反発に遭って撤回され、方針が変わることはなかった。 1936年、アラブ人によるユダヤ人襲撃とその報復が引き金となり、アラブ反乱が発生する。イギリスはピール調査委員会を派遣し、パレスチナの分割を提案した。ユダヤ側は国家創設の足がかりとしてこれを受け入れたが、アラブ側はこれを拒否した。調査委員会の活動が終わると、再びパレスチナ全土で反乱が起こり、1939年に収束するまでに、アラブ人に多数の死傷者と逮捕者を出した。 1939年5月に、イギリス政府の方針を大きく変えるマクドナルド白書が出される。この白書は移民および土地売買に関して制限を設けるものであった。アラブの主張に沿った方針であったが、アラブ人はイギリスをもはや信用せず拒絶し、当然ユダヤ人も拒否しイギリス政府に対する不信を強めることになった。ユダヤ人はアラブ反乱からさらなる防衛力の必要性を感じ、またイギリス政府の方針変更に武力で抵抗するため、ハガナーやイルグン、レヒといった武装組織を強化していった。 第二次世界大戦が始まり、ナチスのホロコーストがイシューブに伝わり、多くのユダヤ人を震撼させた。ユダヤ人にとってパレスチナへの避難は急を要したが、イギリスは移民制限を変えることはなかった。しかしながら、戦時中はユダヤ人の反英闘争は鳴りを潜め、義勇兵としてイギリス軍とともに戦った。戦争が終わるとイギリス政府はアメリカに共同調査委員会の設立を提案し、英米調査委員会が設立された。委員会は強制収容所にいる10万人のユダヤ人をパレスチナに移住させるようイギリス政府に勧告したが、イギリス政府はこの勧告を受け入れず移民制限を変更しなかった。これを受け、キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件などユダヤ人過激派の反英闘争が激化することとなった。 ついにイギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題について国際連合の勧告に委ねることにした。国連の調査委員会では、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案と連邦制国家とする案が出たが、最終的に分割案が国連総会で採択された。イギリスは「1948年5月15日をもって委任統治を終了する」とした。イギリスは紛争への介入を止め、両陣営の相手に対する攻撃は活発となった。ベン・イェフダ通り爆破事件(死者ユダヤ人55名)とその報復で起こったレホヴォトの列車爆破事件(死者イギリス人28名)やデイル・ヤシーン事件(死者アラブ人100名以上)、ハダサー医療従事者虐殺事件(死者ユダヤ人70名以上)など、ユダヤ人・アラブ人双方による襲撃事件が多発した。 緊迫した状況であったが、ユダヤ人は1948年5月14日イスラエル独立宣言を行った。 これに対しアラブ諸国は、パレスチナ人を支援するため軍隊を動員し、5月15日、パレスチナに侵攻、第一次中東戦争が勃発した。装備が整っていなかったイスラエル軍は苦戦を強いられるもののアラブ諸国の軍を食い止め、両陣営は5月29日の国連の停戦呼びかけに応じて6月11日から4週間の停戦に至った。イスラエルはこの期にハガナーを中心とした軍の再編成を行い、イスラエル国防軍を創設した。国連特使のフォルケ・ベルナドッテがパレスチナの問題解決のため新たな連邦案を提案したが、イスラエル・パレスチナ双方ともに受け入れることはなかった。彼は9月17日にイスラエルの過激派レヒによって暗殺された。イスラエルには非難が集まり、レヒとイルグンの解体につながった。1949年2月24日、イスラエルはエジプトと休戦協定を締結した。続いて、レバノンと3月23日、トランス・ヨルダンと4月3日、シリアとは7月20日にそれぞれ休戦協定を結び、第一次中東戦争は終結した。イスラエルの兵力は開戦当初3万人ほどであったが、終戦時には11万人近くになっていた。また、戦争前の内戦状態から戦時中にかけ数十万人ものパレスチナ難民が発生することとなった。こうした難民が放棄していった財産は、1950年の不在者財産没収法により、イスラエルに没収された。エジプトはガザ地区に軍隊を駐留させ、ヨルダンは1950年にヨルダン川西岸地区を領土に編入した。 イスラエルは1949年5月11日に国際連合の加盟を承認された。 1956年10月29日、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、第二次中東戦争が勃発した。エジプトの敗北は目前と思われたが、この侵攻はアメリカとソビエト連邦という超大国たちの猛烈な反発を招き、結局11月8日に停戦した。 1960年5月11日、イスラエル諜報特務庁(モサド)はナチスのホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンの身柄を確保した。裁判はメディアによって大々的に報道された。1961年12月15日、アイヒマンに死刑が宣告され、翌年5月31日に刑が執行された。 1967年5月、エジプトはティラン海峡を封鎖した。これに対しイスラエルは6月5日に奇襲攻撃を仕掛け、エジプト軍航空機のほとんどを離陸前に破壊した。エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、ヨルダンからエルサレム旧市街を含む東エルサレムとヨルダン川西岸を奪い取り、その領土は戦前の3.5倍にもなった。6月10日、この第三次中東戦争はわずか6日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わった。1967年11月22日、国際連合安全保障理事会は、イスラエルが占領した領地からの撤退を求める内容を含んだ国連安保理決議242号を全会一致で採択した。この決議は中東和平の基本的枠組みとなっていくが、条文が曖昧といった問題をはらんでいた。イスラエルはこの決議に対し、「すべての」占領地域から撤退するとは書かれていないと主張した。 1950年代の終わりごろ、パレスチナ側ではヤーセル・アラファート率いるファタハが結成された。またアラブ諸国主導でパレスチナ解放機構(PLO)が設立された。当初PLOは過激な武装闘争グループではなかったが、アラファートがトップに立つと、その性格を過激なものに変えていった。PLOはヨルダンを活動拠点としていたが、次第に関係が悪化し1970年9月17日ヨルダン軍はPLOを攻撃、内戦状態となった。これは「黒い九月事件」と呼ばれ、過激派組織「黒い九月」はここから名称をとっている。黒い九月は1972年9月5日に、ミュンヘンオリンピック事件を引き起こしている。 ミュンヘンオリンピック事件後の1972年9月16日、イスラエル軍は空・陸からレバノン領に侵攻。レバノン南部にあるアラブ・ゲリラの基地、拠点群を攻撃後、短期間でイスラエル領内へ引き揚げている。 1973年10月6日、エジプトとシリアはイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争が始まった。開戦当初、エジプトとシリアは不意を突き、イスラエルに大きな損害を与えたが、その後の反攻でイスラエルは前線を押し戻した。10月22日には停戦を要求する国連安保理決議338号が採択され、戦争は終結に向かった。イスラエル国内では先制されたことに対し軍と政府に批判が集まり、首相ゴルダ・メイアが辞任することになった。 エジプトのサダト大統領は、アラブの大統領として初めてイスラエルを訪問し、11月20日、イスラエルの国会であるクネセトで演説を行った。 1978年9月5日から、米国メリーランド州キャンプ・デービッドにおいて、カーター米国大統領、エジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相の三者会談が開かれ、キャンプ・デービッド合意が成立した。イスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ人の自決権についての合意であり、サダトとベギンは平和貢献を認められ1978年のノーベル平和賞を共同受賞している。1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が締結された。当事者であるパレスチナ人は「合意内容はイスラエルの主張寄りであり、パレスチナ人のためのものではなく、エジプトとイスラエルのための合意である」と合意に反対した。1981年10月6日、サダトはイスラム過激派により暗殺(英語版)された。 1981年6月、イスラエルはイラクの核兵器開発を阻止すべく、イラクの原子炉を攻撃した(イラク原子炉爆撃事件)。 1978年3月と1982年6月の2度にかけて、イスラエルはレバノンの首都ベイルートに本部を移したPLOを駆逐し、内戦中であったレバノンの少数派キリスト教徒保護と親イスラエル政権の樹立を目指し、レバノン侵攻を開始した。シャロン国防相に率いられたイスラエル軍とレバノンの同盟勢力ファランヘ党は、PLOをベイルートから追放し、ファランヘ党のバシール・ジュマイエルがレバノンの大統領に選出された。しかしジュマイエルは就任直前に暗殺され、ファランヘ党員は報復のためサブラ・シャティーラ難民キャンプに侵入し、数百人とも3,000人ともいわれる非武装の難民を虐殺した(サブラー・シャティーラ事件)。アリエル・シャロン国防相は「殺害を傍観した不作為の罪」を問われ、国防相を辞任した。 1987年12月、イスラエル軍の車両が、アラブ人の労働者を乗せた2台の車と衝突して4人が死亡したことをきっかけに、民衆蜂起(インティファーダ)が起こった。民衆はバリケードを築き、投石を行い、火炎瓶を投げた。イスラエル当局はこれを鎮圧し、死傷者も出たが、インティファーダは全占領地に広がった。インティファーダには大人だけでなく子どもも参加した。武装した兵士に立ち向かう少年の映像が報道され、国際的な非難がイスラエルに集まった。国連安保理は1987年12月22日、イスラエルを非難する決議を採択した。1988年7月、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の主権を放棄し、それに伴い1988年11月、PLOはエルサレムを首都とするパレスチナ国の樹立を宣言した。 1991年、湾岸戦争が勃発し、イラクによるスカッドミサイルの攻撃を受けたが、イスラエルの報復攻撃は行われなかった。 1992年、米ソ共催によるマドリード中東和平国際会議が開かれた。同年、パレスチナとの和平交渉に前向きな姿勢を見せるイツハク・ラビンが首相に選出された。また、ノルウェーの仲介によりパレスチナとの交渉が進められ、1993年9月13日にオスロ合意が成された。PLOはイスラエルを国家として承認し、イスラエルもまたPLOをパレスチナ人の代表として認め、パレスチナ人の暫定的な自治を認めるものだった。この功績からヤーセル・アラファート、イツハク・ラビンと外務大臣のシモン・ペレスはノーベル平和賞を共同受賞している。しかし、イスラエル・アラブ双方の過激派はこれを認めなかった。イスラエル人のバールーフ・ゴールドシュテインがヘブロン事件を起こし29人を殺害すると、報復にハマースが自爆テロを何度となく繰り返し起こした。このような状況下であったが、ラビンはさらなる和平に向けてオスロIIに向けて邁進し、1995年9月、調印を行った。オスロIIはイスラエル国内の批判も大きく、野党からはラビンを売国奴と罵る者もいた。1995年11月4日、平和集会に参加していたラビンはユダヤ人学生に射殺された。 その後も、自爆テロを含むテロ行為が、ハマースなどによって絶え間なく引き起こされた。2000年9月にはアリエル・シャロンのエルサレム、アル=アクサー・モスク(神殿の丘)訪問をきっかけにアル・アクサ・インティファーダ(第2次インティファーダ)が起こった。 2002年に、テロリストの侵入を阻むため、分離壁の建設を開始した。 2006年7月12日、ヒズボラの攻撃に対し、報復として拠点を破壊すべくレバノンに侵攻した。2008年12月27日、ハマース掃討のためガザ地区に大規模な空爆を実行、翌年1月には地上からの侵攻も開始した。この攻撃で民間人にも犠牲者が出た。 2016年12月23日、国連安保理でイスラエルのパレスチナ占領地への入植活動を「法的な正当性がなく国際法に違反する」とし「東エルサレムを含む占領地でのすべての入植活動を迅速かつ完全に中止するよう求める」決議が採択され、賛成14票、反対1票で可決された。同様の決議に対ししばしば拒否権を行使していたバラク・オバマ政権下のアメリカは今回は棄権した。この決議の後にネタニヤフ首相は、賛成した10か国の大使を呼び出して直接注意し、外務省に対して、(賛成した14か国のうちイスラエルと外交関係にある)12か国(日本、イギリス、フランス、ロシア連邦、中国、ウクライナ、アンゴラ、エジプト、ウルグアイ、スペイン、セネガル、ニュージーランド)との外交関係を制限するように命じた。 イスラエル建国70周年を迎えた2018年5月14日、ドナルド・トランプ政権下のアメリカは在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。これを受け、パレスチナとイスラエルとの軍事衝突が一時的に拡大した。アメリカ大使館の移転に続いて、グアテマラとパラグアイも大使館をエルサレムに移転した。 2018年7月19日、クネセトは、イスラエルを「ユダヤ人の国家」と定義する法案の採決を行い、これを採択した。この「ユダヤ人国家法」はエルサレムを「統一された首都」と位置づけ、公用語はヘブライ語のみとしてアラビア語を除外した。このためアラブ系議員らは抗議し、賛成62人、反対55人だった。 2023年10月7日、パレスチナのガザ地区を支配するイスラム組織ハマスがイスラエルに数千発のロケット弾を撃ち込み、戦闘員を侵入させた。同日、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は「我々は戦争状態にある」とする声明を出し、イスラエル軍も報復作戦を開始した。また、イスラエルは11日に「戦時内閣」を発足させた。この戦争で、14日までにガザ地区で2215人、イスラエル側で少なくとも1300人が死亡した。イスラエルにこれほどの被害が出たのは第4次中東戦争以来だと報じられた。 イスラエルの政治は行政、司法、立法と国家元首である大統領からなる。議会制民主主義を採用し、行政府(政府)は、立法府(クネセト)の信任を受け、司法府(裁判所)は法により完全なる独立を保証されている。イスラエルは非成典憲法であり、国家の政治制度を規定した各基本法は通常の法律と同等に改正することができる。選挙権は18歳以上に与えられ、被選挙権は21歳以上に与えられる。選挙投票日は休日となり、入院中の人間や受刑者にも投票権が与えられる。投票率は通常8割から9割程度である。 イスラエルは建国宣言で「ユダヤ人の国家(JewishState)」と規定されており、ユダヤ人の定義は、『帰還法』(1970年改正)により、「ユダヤ教徒もしくはユダヤ人の母親から生まれたもの」と定義している。同時にアラブ人の市民権なども認めており、ユダヤ人「のみ」の国家というわけではない。ユダヤ教の教義に基づく安息日の労働を禁ずる法が存在し、教育に関する法ではユダヤ教文化を重視することが盛り込まれている。1990年代に『基本法:人間の尊厳と自由』と『基本法:職業の自由』が制定された。また、1995年に最高裁が基本法は一般の法に優越するとの判断を下し、この時期を「憲法革命」と呼ぶ。 イスラエルの大統領の任務は象徴的・儀礼的な性格が強く、新国会の開会式の開会宣言、外国大使の信任状受理、クネセトの採択した法ないしは批准した条約の署名、当該機関の推薦するイスラエルの大使、裁判官、イスラエル銀行総裁の任命などである。大統領はクネセトの投票で決定され、任期は当初5年であったが、1999年の法改正により、7年に延長された代わりに再選は禁止されるようになった。 イスラエルの国会であるクネセトは一院制。議員定数は120名で、政党名簿比例代表(拘束名簿式)により選出される。その名称と定数は紀元前5世紀にエズラとネヘミヤによってエルサレムに招集されたユダヤの代表機関、クネセット・ハグドラ(大議会)に由来する。 イスラエルの政府は、伝統的に複数の政党による連立政権により運営されてきた。これは完全な比例代表制をとり、最低得票率も低いため、多数の政党が存在するためである。 左派である労働党は1973年の選挙までは第一党であり、120議席のうち50議席程度を占めていた。1977年の選挙で右派のリクードが第一党となり、その後も労働党とリクードによる二大政党時代が続いた。しかし少数政党が乱立するようになり、2006年には中道のカディマが29議席という議席数ながらも第一党となり、労働党などと左派中道連立政権が発足した。2009年、2013年の選挙ではリクードを中心とした政権が発足している。 国家の最高行政機関である政府は、国家の安全保障を含む内外の諸問題を担当し、クネセトに対して責任を有し、その信任を受けねばならない。政府の政策決定権には極めて幅がある。法により他の機関に委任されていない問題について、行動をとる権利を認められている。首相は日本と同様、議会で選出されているが、1996年から2001年までは首相公選制を採用し首相選挙を行っていた。 現在のイスラエルがある地域には古代から人類が居住し多数の遺跡が残されておいるため保全や調査を統括する省庁として「考古学庁」が設置されている。 司法の独立は法により完全に保証されている。最高裁判事3名、弁護士協会メンバー、政官界者(閣僚、国会議員など)で構成される指名委員会があり、判事はこの委員会の推薦により大統領が任命する。判事の任期は無期(70歳定年)。最高裁判所、地方裁判所、治安判事裁判所、そして宗教裁判所が存在し、結婚および離婚に関する裁判は各宗教の宗教裁判所が扱っている。 死刑は戦時の反逆罪および敵性行為に対する法律と、ナチスおよびその協力者を処罰する法律においてのみ存在する。なお、死刑判決は軍法会議においても下すことが可能である。アドルフ・アイヒマンとジョン・デミャニュクに死刑判決が下されたが、後者は後に無罪となっている。 また、テロ対策のために、裁判も起訴状も、時には説明すらなく、国家にとって危険だと見なされた人物を逮捕・拘束できる行政拘束(予防拘禁)という制度を持ち、治安立法も数多く制定されている。 占領地のヨルダン川西岸地区(イスラエル側の呼称は「ユダヤ・サマリア地区」)では、パレスチナ自治政府が実効支配する地域を除き、非ユダヤ人はイスラエル国防軍の占領統治下にある。占領地の非ユダヤ人はイスラエル国防軍軍律で統制されており、軍事裁判所は占領地の非ユダヤ人のみを対象としている。一方、占領地のユダヤ人は通常の民事裁判所の対象となるため、占領民と被占領民に対して、異なる司法が適用されていることになる。 軍事裁判所では、未成年でも12歳から起訴できると定めている。国連児童基金によれば、世界でもこうした例は他にないという。2016年現在、イスラエルは約450人の未成年パレスチナ人の身柄を拘束しており、うち100人ほどが16歳未満とされる。また、パレスチナ側の報告によると、5歳の子どもが拘束された例もあり、セーブ・ザ・チルドレンは、拘束された子どもの81%が肉体的暴力を振るわれ、47%が弁護士接見を拒否されるなど、国際法に反した虐待が日常的に行われていると報告した。 2023年にはベンヤミン・ネタニヤフ政権が裁判所の権限を縮小する司法改革に取り組み、同年7月24日には最高裁判所が合理性がないと判断した政府の行為を無効にすることが不可能となる合理性法案が国会において賛成64、反対0票で可決された(野党は採決をボイコット)。この改革には国内から反対の声が上がり、アメリカ合衆国のジョー・バイデン大統領が懸念を示すなど大きな波紋を広げた。 長年自民族の国家を持たなかったことにより、幾度もポグロムなどの迫害を受け、ついには600万人のユダヤ人が殺されたホロコーストに至った教訓から、イスラエルは「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回して戦ってでも生き残る」ということを国是にしているとされる。 イスラエルは建国直後の1949年に国際連合へ加盟している。2011年時点で、イスラエルは157の国連加盟国と外交関係を有している。残りの国連加盟35か国のうち、サウジアラビアやシリアなどのイスラム圏を中心とする24か国はパレスチナ問題を理由として建国以来一度もイスラエルを国家承認していない。また、イランやキューバなどの9か国は一時期イスラエルと外交関係を有していたが、2011年までに関係が断絶している。イスラエルと国交のない33か国はいずれもパレスチナ国を国家承認している。 欧米諸国とは欧州連合の研究機関への参加など、良好な関係を保っている。フランスは第三次中東戦争までは最大の兵器供給国であり、核開発の協力もなされていた。ドイツとはホロコーストの記憶もあり外交関係は冷え切っていたが、ドイツの補償金と軍事支援を受け入れ、当時の西ドイツと1965年に国交を樹立している。ただし、補償金の受け取りについては反対派がデモを起こし、国会を襲撃するなど受け取りの是非について激しい論争を呼んだ。その他にも欧米諸国に対しては、ホロコーストを始めとした過去の反ユダヤ主義への同情を利用した外交や事業といったものも行われているが、これについてはノーマン・フィンケルスタインらは「ホロコースト産業」と批判している。 1995年には北大西洋条約機構(NATO)のパートナー諸国である「地中海対話(Mediterranean Dialogue)」の加盟国となっている。また2010年には経済協力開発機構(OECD)にも加盟している。欧州連合の研究・技術開発フレームワーク・プログラムにも参加しており、欧州原子核研究機構(CERN)には1991年からオブザーバー国として参加していたが、2014年に正式にメンバー国となった。欧州分子生物学機構(英語版)(EMBO)および欧州分子生物学研究所(EMBL)のメンバー国でもある。 イスラエルは元来、アメリカ合衆国との関係を最重要視してきたが、イラク戦争後から「世界の警察官」としてのアメリカ合衆国の国際的影響力に陰りが出てきたと判断して、日本、中華人民共和国、インド、フランスなど多方面の外交に乗り出し、中華人民共和国の主導する上海協力機構(SCO)にも参加を申請している。 近隣諸国とは建国直後から何度か戦争状態となり敵対関係だったが、1979年にエジプトと、1994年にヨルダンと平和条約を結んでいる。一方で、近年では反イラン国家も多いアラブ諸国との関係改善を図る動きが急速に進んでおり、2018年10月26日にはオマーンを首相が公式訪問。また2020年8月13日にはアラブ首長国連邦と、9月11日にはバーレーンと、10月23日にはスーダンが国交正常化に合意している。(アブラハム合意)また、12月10日にはモロッコと国交正常化で合意した(イスラエルとモロッコの国交正常化)。またイスラエル機でのアラブ首長国連邦との往復にサウジアラビアの上空通過を許すなど、サウジアラビアとの関係改善も急激に進んでいる。 イスラエルが「脅威」としてあげる中東諸国ではイランがある。イランとは核兵器開発問題、ヒズボラおよびハマースを支援している国家として強い警戒を示し、国連事務総長にイランの国連除名を要求したこともある。また、イラン大統領のマフムード・アフマディーネジャードは、ホロコーストを認めない発言をするなどイスラエルに強硬な姿勢を示していた。ただし、2009年には外相のアヴィグドール・リーベルマンは、パキスタンおよびアフガニスタンをイランよりも戦略的脅威と見ているとの発言を行った。アフガニスタンではガザ侵攻の際、「イスラエルに死を」という声を上げ、イスラエルとの戦闘を望む多くの若者が集まった。 シリアとレバノンも紛争当事国であり、関係修復には至っていない。2006年、レバノン首相のフアード・シニオラはレバノン侵攻を受けて「イスラエルとの国交樹立はありえない」と発言した。またシリア内戦時にはヒズボラへの武器輸送や、シリアにおけるイランの伸長を阻むためイスラエルはシリアに空爆を行っている一方で、イスラム過激派の影響力拡大や混乱の波及を警戒し、アサド政権崩壊を企図した本格的な介入は行っていない。 2023年10月7日、ハマス(パレスチナ)に対し、宣戦布告を行った。 アメリカ合衆国は建国当初から最大の「盟友」であり、「特別な関係」とも言われる。アメリカはイスラエルを「中東における最も信頼できるパートナー」と評し、国家承認も建国と同日に行っている。エジプト・イスラエル平和条約をはじめ和平仲介も行っている。毎年30億ドル以上の対外軍事援助を行い、合同軍事演習も実施している。またイスラエルの最大の貿易相手国でもある。 イスラエルの経済発展においてアメリカの経済支援が果たした役目は大きく、2008年以降経済援助は行われておらず軍事援助のみとなっているが、それでもなおアメリカの2012年の国別対外援助費では2番目に大きい。軍事援助は対エジプト平和条約締結後の1981年以降全額無償援助となり、1985年以降は毎年経済援助12億ドル、軍事援助18億ドルであった。1999年より経済援助は毎年1.2億ドルずつ減額され10年間でゼロにすることとされたが、その半額は軍事援助の増額分として振り分けられた。 国連でイスラエルへの非難決議が提出されると、アメリカが拒否権を発動させることが''恒例''となっており、採択はほとんど成立しない。バラク・オバマ政権末期の2016年12月23日にはアメリカが棄権し、決議成立を容認するという異例の対応に出られたが、次期大統領に選出されたトランプに働きかけ、提案者であるエジプトに撤回させた。また、アメリカは、イスラエルから中華人民共和国への軍事技術提供問題やヴェラ・インシデントなどのイスラエルの核兵器開発問題に対しては、見てみぬふりをしていると言われることもある。 このようなアメリカの親イスラエル政策の背景には在米ユダヤ人のロビー活動がある。在米ユダヤ人は540万人ほどでアメリカの総人口の2%以下であるが投票率が高く、結束力も強いため選挙に無視できない影響を与えている。またニューヨーク州などの都市部や政治中枢に近い地域ではユダヤ人比率が高く、アメリカ合衆国大統領選挙においては重要な意味を持つ。このように在米ユダヤ人は政治に対し強い影響を持ち、さらにクリスチャン・シオニストたちがそれを後押ししている。在米ユダヤ人は、政治に対し強い影響力を持つことが、ユダヤ陰謀論と結びつけられ反ユダヤ主義につながっていくことに対し、強い警戒を持っている。 また、アメリカ大統領のドナルド・トランプは2017年12月に「エルサレムをイスラエルの首都と公式に認める時がきた」と発言したり、ゴラン高原のイスラエルの主権を認める宣言に署名したりするなど、さらにイスラエルとの友好関係を築く姿勢を見せている。 イスラエル建国当初、南アフリカとは緊密な同盟関係にあった。アパルトヘイト体制の基礎を築いたダニエル・フランソワ・マランは、英連邦諸国からイスラエルを表敬訪問した最初の首相だった。一方、1950年代から1960年代にかけて、イスラエルは南アフリカのアパルトヘイト体制を公然と批判するようになった。 しかし、第三次中東戦争の直前に、エジプトがチラン海峡を封鎖していたのを破る目的で、南アはイスラエルに海軍艦艇を提供した。このころから双方向の貿易関係が急速に進展した。イスラエルは化学製品や電気機器などを輸出、南アは鉱産資源を輸出したが、特筆に値するものは鉄、石炭、ダイヤモンドの3つであった。イスラエルは、ダイヤモンド産業を政府主導で基幹産業へと発展させてきた。イスラエルは加工貿易が盛んで、2012年現在、研磨ダイヤモンドの輸出額は、イスラエルの総輸出額のうち約4分の1を占めている。 資本の交流も盛んであった。イスラエルは1978年に南アへの直接投資限度額を引き上げ、2年後には投資額が本当に増えた。このころに特別の協定が結ばれ、南アの市民はドル建てでイスラエル債権を買えるという金融史上初の特権を得た。イスラエルは南アのシオニストから長年にわたる援助を受けていた。1962-1967年を除いて、この援助は資本流出を防ぐ措置としての規制を免れている。 しかし、アパルトヘイトが廃止され、アフリカ民族会議(ANC)率いる新政権発足後の1995年に南アフリカはパレスチナ国を国家承認、ノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツら反アパルトヘイト活動家はパレスチナへの行為をアパルトヘイトであると非難し、イスラエルとの関係は弱まりつつある。2019年には大使館を連絡事務所に降格した。 かつて第一の輸出先は南アフリカであり、第二は軍事政権下のアルゼンチンであった。同国首都ブエノスアイレスのイスラエル大使館が、ラテンアメリカで兵器を販売する企業を20社超にわたりマネジメントした。イスラエルは、ブラジル、キューバ、ニカラグアを除くラテンアメリカ諸国のほとんどに兵器を供給した。 トルコも主要な輸出先であり、近隣のイスラム諸国の中では珍しく友好な関係を築いてきた。しかしガザ侵攻においてトルコのパレスチナ支援団体と武力衝突が発生し、トルコ人活動家が9名死亡、外交関係は冷え切っていた。しかし2013年にはイスラエルからの謝罪が行われ、両者の関係は修復したと見られている。 インドおよび中華人民共和国にもイスラエルは兵器輸出または軍事技術の提供を行っている。国際世論調査でもインドはアメリカよりもイスラエルに好意的であり、中華人民共和国では国際的な非難のあったガザ侵攻について理解を示す報道がなされている。 ソビエト連邦はアメリカに次いで2番目(建国から2日後)にイスラエルを国家承認した国である。1967年の第三次中東戦争でソ連とイスラエルは国交を断絶となったが、1991年に国交を回復した。ソビエト連邦が崩壊すると、1990年代の10年間ほどで80万人以上が旧ソ連からイスラエルに移住している。ロシア系移民は独自のコミュニティーを形成し、クネセトに議員も送り込んでいる。街ではロシア語表記が見かけられるだけでなく、ロシア語が通用することさえある。 エチオピアにはベタ・イスラエルと呼ばれるユダヤ人が住んでおり、ソマリア内戦中の1991年にはソロモン作戦と呼ばれるイスラエルへの移民も行われている。 第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、1952年4月28日の日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)発効により、外交権を含む主権を回復した。その直後の同年5月15日に、日本はイスラエルを承認した。 2006年、持続的な経済発展を通じてイスラエル・ヨルダン・パレスチナ自治政府間の協力・信頼関係を築き、ひいてはパレスチナの平和を形成するという「平和と繁栄の回廊」構想を提案している。2008年には4者協議が東京で開催されている。2008年以降4者協議は開催されていなかったが、2013年に再開した。2014年5月には、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相が日本を訪問、天皇皇后や安倍晋三首相と会談を行った。安倍とネタニヤフの会談では、安全保障分野での協力や、中東和平交渉に関して意見が交わされた。 2011年、タイ王国と2国間協定を結ぶ。 1948年の建国とともに創設されたイスラエル国防軍(IDF)は、国の防衛の任にあたる。建国以来の度重なる周辺アラブ諸国との実戦経験を持つ。 文字通りの国民皆兵国家であり、満18歳で男子は3年、女子は2年の兵役に服さねばならないが、優秀な学生は徴兵が延期されることもある。なお、その後も予備役がある。女性は結婚している者は兵役が免除される。また信仰上の理由により兵役免除も可能であるが、これも女性のみである。少数派のドゥルーズ派の信徒とチェルケス人は兵役に服すが、ユダヤ人でないその他のマイノリティは男子でも兵役が免除されている。また、かつては超正統派も兵役を免除されていたが、これには批判も多く1998年に最高裁は兵役免除は違法との判断を下しており、2014年3月に超正統派の男性を対象とした兵役を課す法案が国会で可決され、2017年から兵役の対象となった。様々な理由から兵役を拒否する人間も増えてきており問題となっている。 イスラエルは国土が縦深性に欠け、一部でも占領されれば国土や産業、国民にとって致命的なダメージを受ける。そのため、戦時には戦域を敵の領土に限定し早急に決着をつけることを戦略計画としている。先制攻撃を仕掛け、敵の攻撃力を早期に無力化することを主眼に置いている。この姿勢は、イスラエルには国家の安寧を守るという前提があるにもかかわらず、イスラエルを好戦的な国家とみなす論者が多い一因となっている。なお、イスラエル国防軍の現在の任務には、パレスチナ自治機関と協調しつつヨルダン川西岸およびガザの治安を保持すること、国内および国境周辺で生じるテロ対策も含まれている。 兵器の多くは、建国初期は西側諸国からの供給や中古兵器の再利用に頼っていたが、その後は主力戦車メルカバや戦闘機クフィルなど特別のニーズに応じた兵器を国内で開発・生産しており、輸出も積極的に行っている。海外との軍事技術交流(下記の科学研究参照)も多い。なお、国産兵器は、メルカバに代表されるように人的資源の重要性から防御力・生存性に重点を置いた設計となっている。 国連児童基金(ユニセフ)はパレスチナ人の子供達がイスラエル軍から軍事裁判にかけられ、拘留下において「広範囲にわたる計画的で制度化された」暴行・虐待を受けているとする報告書を発表した。 イスラエル政府は核兵器の保有に関して肯定も否定もしていないが、核拡散防止条約(NPT)にも加盟していない。「イスラエルは最初に核を使用する国にはならないが、2番目に甘んじることもない」という談話もあり、「曖昧政策」とも称されている。しかし、核技術者モルデハイ・ヴァヌヌの内部告発による状況証拠などから核保有は確実視されており、一種の「公然の秘密」となっている。イスラエルは1969年にフランスの協力で核兵器を開発したとされており、アメリカ科学者連盟は、2000年代後半時点で80-100発程度の核弾頭を保有していると推測している。 この曖昧な態度は核兵器の有無を疑わせ、抑止効果を高めようとする狙いと、最大の同盟国アメリカに対する配慮からである。NPT非加盟のイスラエルが核武装を公表すれば、アメリカとの友好関係が崩れるか、これまで印・パの核保有やイランの核開発計画を非難してきたアメリカがダブルスタンダードの謗りを受けることは免れず、また周辺国のNPT脱退と核武装を招き、ただでさえ不安定な中東のバランスを崩壊させかねないからである。 2006年12月5日、アメリカ上院軍事委員会公聴会で、次期国防長官に内定していたロバート・ゲーツが「(イランが核兵器開発を進めるのは)核保有国に囲まれているからだ。東にパキスタン、北にロシア、西にイスラエル、ペルシャ湾には我々(アメリカ)がいる」と発言。アメリカが初めてイスラエルの核保有について公言したことになるため、注目された。イスラエルのシモン・ペレス特別副首相はこれについて「イスラエルは核保有をこれまで確認したことはない」と従来の見解を繰り返した。しかし、12月11日、ドイツの衛星放送テレビ局「SAT1」のインタビューで、エフード・オルメルト首相は「イスラエルは、他国を脅かしたりしない。しかし、イランはイスラエルを地図上から消滅させると公言している。そのイランが核兵器を保有しようとしていて、フランス、アメリカ、ロシア、イスラエルと同じレベルで話し合えるはずがない」と、核保有を暗に認めたとも取れる発言を行った。オルメルトは、翌日のドイツのアンゲラ・メルケル首相との合同記者会見で核保有を否定したが、イランは非難声明を出した。 オーストラリアに本部を置き、アメリカ、オランダ、ベルギーなどに支部を持つ経済平和研究所の2023年版世界平和度指数では、イスラエルは核保有国としてきちんとカウントされている。その上、イスラエルの軍事化度は3.783と世界一で、2位のロシア3.187、3位のアメリカ3.081、4位の北朝鮮3.000と大差をつけて単独1位である。 北にレバノン、北東にシリア、東にヨルダン、南にエジプトと接する。ガザ地区とヨルダン川西岸地区を支配するパレスチナ自治政府(パレスチナ国)とは南西および東で接する。西に地中海があり、南は紅海につながっている。ヨルダンとの国境付近に、世界的にも高濃度の塩湖である死海がある。 イスラエルの支配地域は2万2,072kmである。国土は狭く、南北に細長い。南北には470キロメートルあるが、東西は一番離れた地点間でも135キロメートルである。車での走行時間は、北のメトゥーラから最南端の町エイラットまでは約9時間かかるが、西の地中海から東の死海までならば90分ほどしかかからない。ジュディアの丘陵にあるエルサレムから海岸沿いのテルアビブまで、また、標高835メートルにあるエルサレムから海抜下398メートルの死海までならば、1時間とかからない。 地中海沿岸の平野部は肥沃な農地地帯となっている。また、平野部に国民の大半が住んでおり、工業施設の大半も平野部に存在する。地中海側のハイファからエルサレムにかけては人工知能(AI)などの新興企業4000社が集積し、アメリカ合衆国のシリコンバレーにちなんで「シリコン・ワディ」(ワディは谷を意味するヘブライ語)と呼ばれる。 北部のガリラヤおよびゴラン高原は比較的豊富な雨量で、常に緑が保たれている。南部のネゲブ砂漠は国土のかなりの割合を占めており、乾燥し切り立った山々が存在する。 「イスラエルの地(英語版)」を意味するエレツ・イスラエル(ארץ ישראל)は神がアブラハム、子のイサク、孫のヤコブと与えることを約束した「約束の地」を意味する。その範囲は創世記、出エジプト記、民数記、エゼキエル書に記されている。現在のイスラエル国の領土よりも広い範囲であるが、大イスラエル主義者(英語版)においては、これらの地域をイスラエルが支配すべき領域とみなす。第三次中東戦争において膨大な地域を占領すると大イスラエル主義は大いに広まった。イツハク・ラビン暗殺の理由も、オスロ合意は約束の地を売り渡す裏切り行為であると見られたからである。 イスラエルは7つの地区に分かれ、その下に郡が存在する(エルサレム地区とテルアビブ地区には存在しない)。郡には地方政府が設置されている。 IMFの統計によると、2019年のイスラエルのGDPは3,877億ドル(約42.5兆円)で、愛知県や大阪府よりやや大きい経済規模である。1人あたりの名目GDPは42,823米ドル(2019年)で、40,847米ドルの日本より高い。イスラエルはOECD加盟国であり、いわゆる先進国である。貿易収支は慢性的な赤字となっている。また、イスラエルは中東のシリコンバレーとも呼ばれ、インテルやマイクロソフトなどの世界的に有名な企業の研究所が軒を連ねる。大企業は少ないがベンチャー企業は多いことでも知られ、失敗を恐れない起業家精神に富んだイスラエルの国民性が影響していると考えられている。 イスラエルは人口900万人程度の小さな国ではあるが、農業、灌漑、そして様々なハイテクおよび電子ベンチャー産業において最先端の技術力を持つ。建国からしばらくは、キブツやモシャブでの共同生活と、主導的立場にあった労働シオニズムの影響から社会主義的な経済体制であった。建国当時は産業基盤もないうえに周辺アラブ諸国との戦争状態にあるという悪条件であったが、ドイツの補償金やアメリカのユダヤ人社会から送られる寄付金など海外からの多額の資金援助を受けて経済を発展させていった。これが1980年代後半に入り、ヨーロッパ諸国およびアメリカと自由貿易協定を結ぶなど自由主義経済へと転換していき、1990年代の加速度的な経済成長をもたらした。2001年から2002年にかけて、ITバブルの崩壊とパレスチナ情勢の悪化により経済成長率がマイナスに転じるも、2003年以降は堅実な成長を続け、2008年のリーマン・ショック以降もプラス成長を維持している。2010年にはOECDに加盟した。またイスラエル経済の発展にはアメリカ政府からの累計で300億ドル以上という多大な経済援助が大きく寄与している。 1990年、イスラエルへの直接投資は1.51億ドル、証券投資はマイナス1.71億ドルという慎ましいものだった。それが直接・証券ともに漸増していき、特に1998年から飛躍した。2000年には直接投資が52.7億ドル、証券投資がプラス46.13億ドルに達した。こうした外資の集中投下がイスラエルの経済成長率を回復させた。2011-2013年の間にはApple、Alphabet、マイクロソフト、フェイスブック、Amazon.com、Twitter、AOL、Yahoo!、テスラ、Netflix、スペースX、ブルーオリジン、オラクルがイスラエルのベンチャーキャピタルを買収した。2012年でイスラエルのベンチャーキャピタル投資額は、総額で8.67億ドル、英仏独とおよそ等しく、日本やカナダの5分の3程度である。アメリカの266.52億ドルには遠く及ばない。しかし、国内総生産比では合衆国の0.17%を引き離してイスラエルは0.36%である。 イスラエルの農業技術は先進的で、国土のほとんどが砂漠または半砂漠で降雨量も少ないといった農業には厳しい環境ながら食糧のほとんどを自給でき、農産物の輸出も行う農業大国である。少ない水資源を有効に活用するため、水のリサイクルに力を入れ、リサイクル率は70%を超えているという。また水の利用効率が高い点滴灌漑を行っている。設備の制御は携帯電話などのモバイル機器からも可能であるという。取水も効率的であり、ヨルダン川の流域は3%しかイスラエルを通っていないにもかかわらず60%を国内需要に充てている。 海水淡水化にも優れた技術を持つ。2005年以降、地中海沿いに相次ぎ淡水化プラントを設置し、2017年時点ではイスラエルで消費される飲料水の8割が海水から作られている。車載型の海水淡水化装置も実用化している。イスラエルのウオータージェン社は大気中の水分から飲料水を作る技術を持ち、水道の漏水防止や運営管理などを海外で請け負う企業もある。こうした水関連技術の輸出額は2016年で約22億ドルと推定され、10年で3倍に増えた。2017年7月にはイスラエルを訪問したインドのナレンドラ・モディ首相と、水・農業分野の協力覚書を結んだ。 ダイヤモンド産業はイスラエル経済を語るうえで重要な位置を占める。イスラエルはダイヤモンドの流通拠点として世界的に有名であり、研磨ダイヤモンドの輸出額はイスラエルの総輸出額のうち約4分の1を占めている。イスラエルはダイヤモンド産業を政府主導で基幹産業へと発展させてきた。産業の確立にはユダヤ系資本のデビアスが貢献したが、デビアスとは後に対立を引き起こしてもいる。 また兵器産業も経済に大きな影響を与えている。高度な技術の民間転用がハイテク産業を急成長させ、また兵器の輸出によって直接的な収入源ともなっている。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によればイスラエルは2008年から2012年のデータにおいて兵器の輸出元として世界10位となっている。またエルサレム・ポストは、2010年度の武器輸出額が72億ドルに上り、世界4位になったと報じた。2010年の時点では兵器製造企業は約200社ほど存在する。 イスラエルの鉱業を支えているのは、カリ塩とリン鉱石である。2003年の時点で、それぞれの世界シェアは5位(193万トン)、9位(102万トン)である。金属鉱物は採掘されていない。有機鉱物では亜炭、原油、天然ガスを産出する。天然ガスについては、2010年以降イスラエル沖の東地中海にタマルガス田(英語版)やリヴァイアサンガス田などの大規模ガス田が発見されており、2020年には国内の天然ガス需要を産出量が上回り近隣国への天然ガスの輸出が行われている。ギリシャ企業のエネルジーン・オイル・アンド・ガス社が2019年にも採掘を始める計画である。 国土が狭いイスラエルでは、車、バス、トラックなどが主な交通機関である。近年、車の急速な増大に対応し、辺鄙な地域への交通の便を図るため、道路網の拡充が図られた。多車線のハイウェーは目下300キロの運営だが、2004年の時点で、南のベエルシェバから北のロシュハニクラ、ロシュピナまでハイウェー網が整備されつつある。さらに、人口稠密地にはバイパスが設けられた。緑色のエゲッドバスは、イスラエル全土を網羅しており、後部にトイレがある。運賃はエルサレム-エイラット間で70NIS(約2,000円)。主要道路には、公道1号線(中央部を東西)、公道60号線(中央部を南北)、公道90号線(東部を南北)などがある。 イスラエルは2011年から国家プロジェクトとして電気自動車の導入を推進している。イスラエルは国土が小さいうえ、主要な石油原産国である近隣アラブ諸国との関係から電気自動車の導入に積極的である。 イスラエル鉄道は、エルサレム、テルアビブ、ハイファ、ナハリヤの間で旅客運送を行っている。貨物運送としては、アシュドッド港、アシュケロン市、ベエルシェバ市、ディモナの南部の鉱山採掘場など、より南部にまで及んでいる。貨物鉄道の利用は年々増加し、乗客の利用も近年増えている。 テルアビブとハイファでは、道路の交通渋滞を緩和するため、既存の路線を改善した高速鉄道サービスが導入されつつある。また、2004年10月より、ベングリオン空港とテルアビブ市内を結ぶ空港連絡鉄道が運行されている。 国際線を運航する航空会社として国営航空会社のエル・アル航空とアルキア・イスラエル航空、イスラエアーがあり、テルアビブのベン・グリオン国際空港をハブ空港として中東やヨーロッパ、日本を含むアジア、アメリカ諸国に路線を設けている。 イスラエルは科学において高度先進国であり、Bloomberg Innovation Indexから『最も革新的な国』の5位にランクされている。 科学技術は、同国で最も発展した分野の1つであり、科学研究の水準も非常に高いものとなっている。 イスラエルは専門資格を持った人材資源が豊富であり、科学技術の研究開発に注がれる資金の額は、2007年度のデータではGDPとの比率でみると世界1位である。また国際的な研究協力も重視し、欧米諸国のみならず各国と積極的に連携を行っている。 医学とその周辺分野、ならびに生物工学の分野では極めて進んだ研究開発基盤を持ち、広範囲な研究に取り組んでいる。研究は大学医学部・各種国立研究機関をはじめ、医薬、生物工学、食品加工、医療機器、軍需産業の各メーカーの研究開発部門でも活発に行われている。イスラエルの研究水準の高さは世界によく知られており、海外の医学、科学分野、軍事技術の研究諸機関との相互交流も盛んである。臨床医学では、熱傷の治療について、高い水準を誇った他、幹細胞研究など、イスラエルが高いレベルを誇る領域は、枚挙にいとまが無い。こうした高い医学水準を背景にイスラエルでは医学上の様々な議題の国際会議が頻繁に開催されている。さらに軍需製品の性能・品質は世界に見ても非常に高く、このような科学技術の発展にはソ連崩壊による100万人近くの移民に多くの研究者・技術者が含まれていたことも大きく影響している。 イスラエルには兵役があるため、イスラエル出身者は軍隊のチームマネジメントや、政府で運用されているサイバーセキュリティなどの高度な技術を学ぶことになる。また、起業に失敗したとしても再就職は容易である。その結果として、兵役終了後に大学を卒業した後は、起業する事も普通である。特にIT分野でスタートアップが多数存在し、2年~3年のサイクルで大半が入れ替わっており、「第2のシリコンバレー」とも呼ばれている。 サイバーセキュリティにおいて世界最高峰の技術を持つ。特に暗号理論の水準が高いとされ、インターネットのセキュリティーで重要な役割を演じるファイアウォールや公開鍵の開発において、イスラエルは重要な役割を果たしてきた。関連して、「ペガサス」と呼ばれる高性能スパイウェアもイスラエルで開発されており、世界中の政府機関や軍事組織で使われている。2016年にはイスラエルに開発拠点を置くSirin Labs社が軍用並みかつ世界一のセキュリティを謳う「Solarin」という150万円のスマートフォンを発売した。 インテルが2つ保有するCPU開発拠点の1つがイスラエルのハイファに存在し、CoreマイクロアーキテクチャやSandy Bridgeマイクロアーキテクチャを開発してCPUの動作効率を大幅に高めた実績がある。ユーザーの感想からしても、単純なクロック数重視の開発でCPUの高消費電力化を招いたアメリカ合衆国オレゴン州の開発チームよりも高い実力があると評されている。 また宇宙開発技術も高く、独自に人工衛星も打ち上げている。通常の人工衛星では地球の自転を利用して東向きに打ち上げられるが、イスラエルの衛星は西方以外に他国が存在するため、全て非効率的な西向きに打ち上げられている。また、2003年、イスラエル初の宇宙飛行士として空軍パイロットのイラン・ラモーン大佐がアメリカのスペースシャトル「コロンビア」で宇宙に飛び立ったが、大気圏再突入時の空中分解事故により死亡した。 パレスチナからのロケット弾攻撃の迎撃を成功させて世界的に有名になった「アイアンドーム」もイスラエルの国防企業であるラファエル・アドバンスド・ディフェンス・システムズとイスラエル・エアロスペース・インダストリーズが開発を行っており、イスラエルのミサイル関連技術はアメリカ合衆国をも凌ぐという。 2013年のイスラエル中央統計局のデータでは、総人口は802万人である。そのうちユダヤ人が604万人(75.3%)、アラブ人が166万人(20.7%)、その他32万人(4.0%)となっている。アラブ人の大半はムスリムで、2009年のデータではアラブ人の78%がムスリムである。なお、イスラエルでは1970年に改正された『帰還法』により、ユダヤ人の定義を「ユダヤ教を信仰しているか、母親がユダヤ人のもの」としている。イスラエルは移民国家であり、出身地ごとに欧米系をアシュケナジム、アジア・アフリカ系をセファルディム、オリエント系をミズラヒムと呼び、同じユダヤ人でも異なる人種の場合もある(「ユダヤ人」も参照)。 1990年から2009年までの統計によればユダヤ人の人口は減少傾向にあり、対してアラブ人は増加傾向にあるという。これはユダヤ人移民の減少によるものとイスラエル中央統計局は推測している。 2割前後存在するアラブ人とユダヤ人との人種間では宗教上の理由もあり、交流は限定的なものとなっている。2015年の婚姻の統計例でみれば、結婚した58,000組のうちユダヤ系とアラブ系のカップルは23組にとどまっている。 ユダヤ人は、主に出身地ごとに大まかなグループに分類される。 その他、ユダヤ教に改宗した人々(ブラック・ジュー、ミゾ)などもユダヤ教徒として住んでいる。 21世紀に入って以降、アフリカのエリトリア、スーダン、南スーダンなどからシナイ半島を経由してイスラエルに不法入国する人々が後を絶たない。2012年時点、アフリカ系移民の人口は約6万人と推測されている。これは、母国での深刻な貧困や紛争などから逃れるためという側面があるが、イスラエル国内ではこの不法移民の扱いについて大きな議論を呼んでいる。「ユダヤ人国家」を穢されると懸念する右派勢力は移民排斥を訴え、特に過激なグループ(カハネ主義者)たちは不法移民の滞在するアパートに放火したり、移民に暴力を振るったりしている。しかし、一方でホロコーストの記憶を有する国として、移民には寛容であるべきという意見もある。 一部のユダヤ人による、アラブ系イスラエル人への襲撃事件が相次いでいる。アラブ系イスラエル人への敵視は政府内でも目立ってきており、2015年3月17日、アヴィグドール・リーベルマン外相が、イスラエル国家に忠誠を誓わないアラブ系イスラエル人は「斬首の刑」に処すべきだと発言し問題となったが、イスラエルの右派はこの演説を聞いて熱狂した。 イスラエルには13万5,000人のエチオピア系市民がいるが、彼らは日常的に暴力を受けている。エチオピア系兵士が警察官2人から暴行される様子が撮影されたビデオが公開されたことをきっかけに、2015年5月3日、テルアビブで大規模なデモが発生、参加者の一部は暴徒化した。ネタニヤフ首相はエチオピア系市民の指導者と会談し、差別の撤廃を約束した。 2015年5月20日、イスラエルは一部のバス路線でパレスチナ人がイスラエル人と同じバスに乗ることを禁止する措置を取った。これについて、人権団体などは南アフリカの人種隔離政策アパルトヘイトと同じだと強く批判。この措置は、運用の数時間後に撤回された。 2018年7月19日、クネセトで可決したユダヤ国民国家基本法(国籍法)では、民族自決権を持つのはユダヤ人のみと明確に限定した。公用語もヘブライ語のみとして、パレスチナ・アラビア系住民が主な話者のアラビア語は「特別な地位」を持つとしたが、公用語からは外された。 公用語はヘブライ語。ほかイディッシュ語、アラビア語が使われる。アラビア語は法律に定められた公用語の一つであったが、2018年7月19日に除外された。 なお、現代イスラエルの公用語であるヘブライ語は、古代ヘブライ語を元に20世紀になって復元されたものである。全くの文章語となっていた言語が復元されて公用語にまでなったのは、これが唯一のケースである。 上記の理由から、現代ヘブライ語の方言はないとされる。あるとすれば、他国からの移住者のネイティブ言語の影響による「なまり」や、各コミュニティーでの伝統的な(聖書やラビ文学の朗読、礼拝などに用いる音声言語化された文語としての)ヘブライ語の発音などがそれにあたる。 イスラエル中北部やヨルダン川西岸地区に多く住むアラブ人はアラビア語の「ヨルダン定住方言」(アラビア語方言学の名称と思われるが、多分に反シオニズム的表現であると思われる。「パレスチナ方言」「イスラエル方言」という表現も可能である)を、イスラエル南部に多いアラブ人は「ネゲヴ・ベドウィン方言」を、エルサレムのアラブ人は「エルサレム方言」を、ゴラン高原の住民は「ハウラン方言」を話し、全てシリアからシナイ半島にかけて話される「シリア・パレスチナ方言」の一部であるとされる。 また、西岸地区ではサマリア語の新聞も出されている。 テルアビブ市内にはヘブライ語に並んでロシア語の看板なども多く見られる。 イスラエルは宗教婚のみ認めており、民事婚は認めていない。ユダヤ教はもちろんイスラム教など各宗教ごとに宗教裁判所が存在し、婚姻などを管轄している。ユダヤ教においては超正統派が婚姻を司っており、宗教法により異教徒間の結婚は認められない。そのためユダヤ教徒以外のものと結婚する場合やその他の事情がある場合は、海外で結婚し、帰国後に結婚証明書を役所に提出するという国外結婚の形をとる。国外結婚はキプロスで行うものが最も多く、毎年1000組ほどが結婚を行うという。 結婚の際、伝統的には女性は婚姻に際して夫の姓を称する(夫婦同姓)が、いつでも自己の未婚時の姓または従前の夫の姓を夫の姓に付加(結合姓)することができ、また、未婚時の姓または従前の姓のみを称する(夫婦別姓)こともできる。 イスラエルは宗教の自由を認めている。2004年のデータではユダヤ教徒が523.8万人(76.2%)、ムスリムが110.7万人(16.1%)、キリスト教徒が14.4万人(2.1%)、ドゥルーズ派が11.3万人(1.6%)、その他26.5万人(3.9%)となっている。信仰のあり方についても多様で、戒律を厳しく守ろうとするユダヤ教徒は20%、ある程度個人の自由で守るものが多数派で60%、全く守ろうとしないものも20%いる。 キリスト教徒の多くは東方正教会のエルサレム総主教庁ないしはローマ・カトリックの信者が多いがコプト正教会、アルメニア正教会などの信者もいる。一部のユダヤ人の中にはイエス・キリストをメシアとする「メシアニック・ジュダイズム」の人々もいる。 イスラエルは「ジューイッシュ・マザー(ユダヤ人の母)」という言葉が教育ママを意味するように、教育が重視されている。これにはユダヤ人が歴史的に教育熱心であったという背景もある。イスラエルの教育は小学校6年、中学校3年、高等学校3年の6-3-3制である。義務教育は5歳から始まり、義務教育期間は5歳から18歳までである。1949年に義務教育に関する法が施行された時点では5歳から15歳までであったが、法改正により18歳までとなっている。この期間延長は徐々に移行が進んでおり、イスラエル政府は2014年か2015年には全国に適用させる予定としている。義務教育期間と高等学校までの学費は無料である。18歳になると通常は兵役に就き、その後進学する者は大学に入学することになる。入学にはアメリカのSATに類似した試験が年に4回ある。兵役後も海外旅行などで見聞を広めてから大学に進学するものも多い。そのため、大学生の平均年齢は高くなっている。大学(ウニバルシタ)はすべて公立であり、比較的安価で高等教育を受けることができる。ほとんどの大学生はダブルメジャー(2つの専攻)で、平均3年で学位を取得する。また、専門学校(ミクララ)が各地に存在する。教育水準は高いが、欧米との結びつきが強いためか、優秀な研究者がイスラエルを離れ海外移住することも多く、この頭脳流出は大きな問題となっている。 健康保険は1995年に、国民新保健医療法(NHCL)が成立し18歳以上の全国民に加入を義務づける国民皆保険となっている。社会福祉支出はOECDの2012年のデータによると、2007年と比べ21.2%増加しているものの、GDP比15.8%でOECD諸国平均21.9%より低い値となっている。相対的貧困率は2012年のデータで20.9%とOECD諸国でもっとも貧困率が高い。しかし、2012年の人間開発指数は0.900の「非常に高い」となっており世界16位である。 聖書には「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という言葉もあり、子どもに対しては特別の配慮が払われている。出産に関しては不妊治療が45歳まで健康保険の対象項目となっており、大きな病院には大抵の場合体外受精科が存在する。実際に体外受精は広く行われており、ヨーロッパ生殖医学学会(ESHRE)が刊行するHumanReproductionUpdateの2002年号では、イスラエルの体外受精実施件数は100万人あたり1,657件と報告している。2位のアイスランドの899件を大きく引き離している。女性1人あたりの平均出産数(合計特殊出生率)はOECDの調査によれば2011年のデータでは3.0となり、OECD諸国平均の1.7を大きく上回っている。世界銀行の調査でも2019年のデータで3.01である。一般家庭には児童手当も支払われている。また児童虐待について、NICHDプロトコルを用いた司法面接を1998年に国家で採用している。 出生時平均余命はOECDの2013年に公表されたデータによれば、2011年度は81.8歳となっており、先進国の中でも9位となっている。また、国連開発計画の2012年のデータによれば81.9歳で、世界で7位となっている。 長寿国であるため高齢者問題も大きな課題となってきている。特に旧ソ連からはソ連崩壊に伴い、100万人近くが移民してきたが、そのうち12%以上が65歳以上の高齢者であったという。高齢者は公共交通の割引や減税を受けられ、また高齢者介護を理由に有給休暇を認める法律も制定されている。終末期医療については2006年に法律が制定され、尊厳死が認められている。2008年の時点では65歳以上の高齢者の割合は10.0%となっている。しかしこれはOECD諸国平均の14.4%よりは低い数値である。 先進国とされているイスラエルだが、深刻な貧困問題を抱えている。イスラエルには1954年に制定された『国民健康法』に基づき、収入が最低基準以下の世帯と個人に対しては国民保険機構から補助金が支給されている。また、児童手当も支給されており、特に4人以上の子どもがいる家庭には手厚い福祉が施されている。しかしイスラエルは、かねてから所得格差が大きいことや貧困に苦しむ国民が多いことが指摘されていた。2010年12月22日の『ハアレツ』紙によると、イスラエルの全人口のうち、およそ177万人が貧困状態にあり、うち85万人は子どもであるという。貧困状態にある世帯の約75%は日々の食料にも事欠いているとされ、きわめて深刻な実態が浮き彫りとなった。貧困状態にある子供たちの中には物乞いをしたり、親に盗みを働くよう強制されたりする事例もあるという。イスラエルの中央統計局と福祉省の調査によると、2011年に福祉省に助成を求めた世帯の割合は28%で、これは1998年と比べて75%の増加にあたるという。 貧しい子どもたちのために無料給食や補講などを実施している学校「エル・ハ=マーヤン」の運営母体である超正統派政党「シャス」のエリ・イシャイ党首は「国民保険制度研究所さえ、政府の俸給を増やすことのみが貧困を解消する唯一の方法と断定した。このようなほかの政府機関からかけ離れた見通しが長きに渡ってなされているのは恥である」と述べた。また、中道左派政党「労働党」の議員であるシェリー・ヤシモビッチはイスラエル国内でのワーキングプアの増大を指摘している。また、左派政党「メレツ」のハイム・オロン党首は「政府は(資本主義における)結果的格差を肯定しているが、貧困の根本原因を取り除かなければならない」と指摘している。 2011年7月30日には、イスラエル国内で住宅価格や生活費の高騰、貧富の格差に対して抗議する15万人規模のデモが起きている。左派系のみでなく、保守系の人々も多数参加した極めて大規模なものである。8月6日には、最低賃金引上げなどを求め30万人規模のイスラエル建国至上最大の抗議運動が起きた。 経済協力開発機構(OECD)が2013年にまとめた報告書では、イスラエルが全てのOECD加盟国の中で最も貧困率が高いことが記されている。また、同年10月に発表されたイスラエル中央統計局の報告書では、イスラエルの全人口のうち31%が貧困線以下の生活をしているという。また、同報告書ではイスラエルの子供の40%が貧困に直面しているとしている。また、2013年に入ってから多くのイスラエル人がアメリカ合衆国やドイツなどへ経済的理由から移住しているという。ヘブライ大学のモミー・ダハン教授は、この問題の背景として、イスラエル政府が社会保障や児童予算を削減し続けていることを指摘している。 イスラエル国家警察の犯罪統計によれば、2019年(12月末現在)のイスラエル国内での犯罪発生件数は約30万件で、日本の犯罪発生件数と人口比を基に比較した場合、イスラエルは日本の約5倍となっている。日本人の犯罪被害は、主に旅券や現金などの貴重品の盗難被害(スリ、置き引きなど)となっており、一瞬の隙に被害に遭ったなどの報告が挙げられている。 テロならび誘拐情勢においては、2022年07月15日時点では同国並びにヨルダン川西岸地区及びガザ地区からなるパレスチナ自治区における近年のテロ事案は、2000年代前半にテロが多発した時期と比較すると大幅に減少しているとの報告がされており、特に、自爆テロ事件については、2009年以降発生していない点から安全面は比較的保たれている。 反面でヨルダン川西岸地区内のイスラエル人入植地(入口付近のバス停など)やイスラエル兵士が配置されている交差点、同地区とイスラエルとの境界の検問所などにおいて、ナイフなどを使用してイスラエル治安要員を狙う事案や車両での突入事案が散発的に発生している。その為、同国に滞在の際は不用意な散策などを慎むことが求められる状態となっている。 電話および携帯電話が広く利用されている。国際電話番号は972。 イスラエルのインターネット普及率は高く、主な場所で無線LANが利用できる。インターネットカフェも普及しており、店内は禁煙の所が多い。日本の漫画喫茶のように雑然としておらず、端末ごとに整然と区画されている。 イスラエル国民の中には外国の食文化を楽しむ者もおり、2017年の朝日新聞の記事によると世俗派の間で豚骨スープのラーメンが人気であるという。 ピンカス・ズーカーマン、イツァーク・パールマンをはじめとする優れた音楽家を多数輩出している。イスラエル・フィルは、世界屈指のオーケストラと評価されており、多くの演奏家が共演している。 イスラエル映画はその殆どがヘブライ語で制作されているが、アラビア語や英語などの他言語での制作も行なわれている。 イスラエルにおける建築は、当該地域に住んでいた人々の様々な建築様式の影響を受けている面が強い。 イスラエル国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1999年にプロサッカーリーグの『イスラエル・プレミアリーグ』が創設された。リーグ最多優勝はマッカビ・テルアビブFCであり、UEFAチャンピオンズリーグの本大会にも2度出場している。イスラエルサッカー協会(IFA)によって構成されるサッカーイスラエル代表は、FIFAワールドカップには1970年大会で初出場を果たしている。AFCアジアカップでは1964年大会で初優勝に輝いた。しかし、UEFA加盟後のUEFA欧州選手権には未出場である。著名な選手としては、プレミアリーグの舞台で長年プレーし、主にリヴァプールで活躍したヨッシ・ベナユンが知られている。 イスラエルではバスケットボールも盛んであり、1953年にプロバスケットボールリーグの『イスラエル・バスケットボール・プレミアリーグ』が創設されている。リーグ最多優勝はマッカビ・テルアビブBCであり、ユーロリーグでは2003-04シーズンと2004-05シーズンに大会連覇を果たしている。また、イスラエルではかつて競馬も無かったが2006年に初めて開催された。ただし、金銭を賭けることは禁止されているため、入場者は馬が走る姿や馬術競技を観戦するだけの純粋なスポーツとして行われている。 イスラエルサッカー協会は欧州サッカー連盟に加盟している。イスラエルは地勢的にはアジアの国であり、1954年5月8日に他の12ヶ国と共にアジアサッカー連盟を設立したが、直後には加盟せず2年後の1956年にAFCに加盟した。AFCは、政治的配慮によりイスラエルサッカー協会をAFC創立メンバーとしては認めていない。しかし、パレスチナ問題および中東戦争などの「アラブ・イスラエル紛争」により周辺のアラブ諸国との関係が悪化し、それ以外にもインドネシア・北朝鮮・中国などの国を中心に、対戦拒否や大会参加拒否などのボイコットが激化した。 1973年に第四次中東戦争が勃発すると、もはや対戦不可能な状態に陥った。そして、イラン開催のアジア大会が開催中であった1974年9月14日に、イランの首都テヘランで開催されたAFC総会で、AFCから除名された。除名以降は地域連盟未所属のまま活動し、FIFAワールドカップのアジア・オセアニア予選へ組み込まれたり、オセアニアサッカー連盟(OFC)の暫定メンバーとなるなどの紆余曲折を経て、1992年にUEFAに加盟した。これはイスラエルオリンピック委員会についても同様で、かつてはアジア競技連盟に所属していたものの、以後ヨーロッパオリンピック委員会へと加入した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イスラエル国(イスラエルこく、ヘブライ語: מְדִינַת יִשְׂרָאֵל、アラビア語: دَوْلَة إِسْرَائِيل、英語: State of Israel :[ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl])、通称イスラエル(ヘブライ語: יִשְׂרָאֵל)は、西アジアに位置する共和制国家。北はレバノン、北東はシリア、東はヨルダン、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸、西はガザ地区、南西はエジプトと国境を接している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "実質的な首都はテルアビブであり、経済と技術の中心地をなす。国内総生産では世界29位、一人当たりGDPでは13位にランクされている。一方、イスラエルの基本法であるエルサレム基本法ではエルサレムを首都と規定しているが、エルサレムに対する国家の主権は国際的には限定的にしか認められていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イスラエルにおけるカナン族の存在は青銅器時代中期から考古学的に証明されており、イスラエル王国とユダ王国は鉄器時代に誕生した。紀元前720年ごろ、新アッシリア帝国がイスラエル王国を滅ぼした。ユダ王国はその後、バビロニア帝国、ペルシャ帝国、ヘレニズムの帝国に征服され、ユダヤ人の自治州として存在していた。マカバイ戦争が成功し、紀元前110年にはハスモン朝の独立国となったが、紀元前63年にはローマ共和国の従属国となり、紀元前37年にはヘロデ朝が置かれ、紀元後6年にはローマ帝国のユダヤ属州が誕生したのである。ユダヤ人の反乱により、ユダヤ属州は壊滅的な打撃を受け、ユダヤ人は追放され、シリア・パレスティナに改称されるまで、ユダヤはローマの属州として存続した。この地域におけるユダヤ人の存在は、何世紀にもわたってある程度継続している。7世紀にビザンチン帝国からアラブ人に奪われたレバント地方は、1099年の第1回十字軍、1187年のアイユーブ朝による征服までイスラム教徒の支配下にあった。13世紀にはエジプトのマムルーク朝がレバントに支配を広げ、1517年にオスマン帝国に敗れるまで支配した。19世紀には、ユダヤ人の民族意識の高まりからシオニスト運動が起こり、パレスチナへの移住が始まったと思われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "パレスチナは、第一次世界大戦後にオスマン帝国から割譲され、1920年から1948年まで大英帝国の委任統治領となった。第二次世界大戦が始まると、委任統治領は大規模な爆撃を受け、イシューブのユダヤ人は連合国側に従軍した。1944年、イギリスは武器の供給とユダヤ人旅団の結成に同意した。緊張が高まる中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の両派をなだめるために、1947年に国際連合がパレスチナ分割決議を採択し、アラブ人とユダヤ人の独立国家と国際化されたエルサレムの設立を勧告した。翌年、ユダヤ機関はイスラエルの独立を宣言し、1948年のアラブ・イスラエル戦争では、イギリス委任統治領の大部分をイスラエルが占領したが、ヨルダン川西岸とガザは近隣のアラブ諸国が占領していた。その後、イスラエルはアラブ諸国といくつかの戦争を経験し、1967年6月の第三次中東戦争以降は、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原、ガザ地区などの占領地を保有している(2005年の分離独立後も占領地とみなされているが、法律の専門家の中にはこの主張に異論がある)。その後の立法措置により、ゴラン高原と東エルサレムではイスラエル法が全面的に適用され、ヨルダン川西岸ではイスラエルの入植地への「パイプライニング」により部分的に適用されている。イスラエルによるパレスチナ自治区の占領は、現代における世界最長の軍事占領であると国際的に考えられている。イスラエルとパレスチナの紛争を解決するための努力は、最終的な和平合意には至っていないが、イスラエルはエジプトとヨルダンの両国と和平条約を締結している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "イスラエルは基本法の中で、自らをユダヤ人と民主主義の国家であり、ユダヤ人の国民国家であると定義している。国は、議会制、比例代表制、普通選挙を採用した自由民主主義国家である。首相は政府の長であり、クネセトは立法府である。2019年現在の人口は約900万人で、イスラエルは先進国であり、OECD加盟国である。名目GDPでは世界第29位の経済規模を持ち、現在紛争中の国の中では最も先進的な国である。中東で最も生活水準が高く、軍事訓練を受けた国民の割合、高等教育の学位を持つ国民の割合、GDP比の研究開発費、女性の安全性、平均寿命、革新性、幸福度などで世界の上位にランクインしている。ただし、相対貧困率はOECDで最も高く、ジニ係数も高い格差社会という課題もある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イスラエルという名称はヘブライ語で「神が支配する」「神と競う」「神が勝つ」などの意味をもつと解釈される。これは旧約聖書に登場するヤコブの改名後の名前であり、ヤコブは伝統的にはユダヤ人の祖先と考えられている。そのため、古代にユダヤ人が王国を築いた地域はイスラエルの地(エレツ・イスラエル)と呼ばれた。独立直前にはユダ(Judea)、エレツ・イスラエル、シオン(Zion)、新ユダ(NewJudea)なども国名候補として存在した。国名を「ユダ」とすると、宗教・民族上の「ユダヤ人」と国籍上の「ユダヤ人」の区別が難しくなること。「シオン」とすると、非ユダヤ人国民も「シオニスト」と呼ばれるようになることから、二つは候補から外されたという説がある。漢字表記は、以色列。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "古代にはこの地は肥沃な三日月地帯であり、カナンの地と呼ばれ、カナン人をはじめ様々な民族が住んでいた。ユダヤ人の祖先となるヘブライ人も移住してきたが、子孫たちはエジプトに移住しエジプト人の奴隷となっていった。長い期間を経てエジプトを脱出したヘブライ人(イスラエル人)はこの地を征服し、紀元前11世紀ごろにイスラエル王国が成立した。しかし紀元前930年ごろ、内乱のためイスラエル王国は南北に分裂した。北のイスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされた。新バビロニアもペルシア帝国に滅ぼされ、その後、パレスチナの地はアレクサンダー大王の東方遠征により征服される。アレクサンダー大王の死後、マケドニアは分裂し、パレスチナはセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入るが、マカバイ戦争を経てユダヤ人の王朝であるハスモン朝が成立する。紀元前1世紀にハスモン朝はローマ帝国の保護国となり、のちにローマ帝国の属州(ユダヤ属州)となる。西暦66年には独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発するが、70年にローマ帝国により鎮圧された。132年にバル・コクバに率いられたバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)が起き、一時はユダヤ人による支配権を取り戻したが、135年に再びローマ帝国に鎮圧され、名称もシリア・パレスティナ属州に変わった。離散ユダヤ人(ディアスポラ)は早い時期から存在したが、この時に数多くのユダヤ人がディアスポラとなっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "636年に東ローマ帝国が正統カリフに敗北し、以後、第一次世界大戦におけるオスマン帝国の敗退までのほとんどをイスラム教国家の支配下に置かれることになる。1099年に第1回十字軍によりエルサレムが占領されキリスト教国であるエルサレム王国が成立した。しかし1187年、ヒッティーンの戦いでアイユーブ朝に破れエルサレムを再占領されると、1200年ごろにはエルサレム王国の支配地域は地中海沿いのみとなっていた。わずかな支配地域を維持していたエルサレム王国は、1291年にマムルーク朝により完全に滅亡した。1517年にはオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしこの地方を支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1834年にセルビアに住むセファルディム系の宗教的指導者イェフダー・アルカライが小冊子を発行し、聖地での贖罪を前提とした帰還を唱えた。こうした宗教的意味合いの強い宗教的シオニズム(英語版)とは別にモーゼス・ヘスは1862年、反ユダヤ主義への解決策としてユダヤ人の民族主義を復興し、ユダヤ人の国家を築くべきだと訴えた。これは世俗的(政治的)シオニズムと呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1882年に第一次アリヤー(ヘブライ語で「上がる」こと、シオン(エルサレム)への帰還の意)が始まる。東ヨーロッパから2万5000人から3万5000人のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住した。のちにシオニズム運動を主導していくテオドール・ヘルツルは同化主義者であったが、ユダヤ人が冤罪で逮捕されたドレフュス事件を新聞記者として取材し、ユダヤ人に対する差別に衝撃を受け民族主義者へと転じた。このころからシオニズムという言葉が現れるようになる。ヘルツルはオスマン帝国のスルタンアブデュルハミト2世を含む、各国の要人たちにユダヤ人国家設立を請願した。このころ、東欧やロシア帝国ではユダヤ人が虐殺されるポグロムが繰り返し発生していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1897年にはスイスのバーゼルで第1回シオニスト会議が開催され、世界シオニスト機構が設立された。1904年から始まった第二次アリヤーでは4万人ほどが移住し、1909年にはルーマニアからの移民がテルアビブを建設した。ヘルツルは「ユダヤ人国家」の候補地としては必ずしもパレスチナにこだわってはおらず、初期にはアルゼンチンやウガンダも挙がっていたが、「シオンなきシオニズム」はあり得ないとされ、パレスチナ以外の選択肢は存在しなくなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "最も戒律を厳格に守る超正統派は、パレスチナ人の地域の領土を奪いイスラエルを建国した事に対し、イスラエルが聖書の「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」に違反しているとして、「彼らは禁忌を犯した」という認識を持つ。「聖書の教えに反した行いは同胞といえど肯定できない」とし、「真のイスラエルは人ではなく我らの神が作る天の御国である。」、「メシア(救世主)が現れないと真のユダヤ国家は実現できない、しかし、まだメシアは現れていない、だから現在のイスラエル国家は偽物であり、認められない。」という立場をとっている。中でも「超正統派の中の超正統派」とされる団体ナートーレー=カルターはイスラエル国内でパレスチナ解放運動と反シオニズム活動を行っており、正統派などの他のユダヤ系やイスラエル国民から批判を浴びる事もあるが、超正統派は「我々が仕えるのは神である」と反論している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "厳格なユダヤ教徒の一人であるヤコブ・ラプキン教授は、「寛大な古き良きユダヤ教徒の姿をシオニストは侮辱した」と批判している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1914年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国はドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国の三国同盟側で参戦する。イギリスは戦争を有利に進めるため、「三枚舌外交」と呼ばれる数々の密約を結んだ。フランスやロシアとはサイクス・ピコ協定を結び、アラブ人とはフサイン=マクマホン協定を結んだ。そしてユダヤ人に対してはバルフォア宣言を行った。これは1917年11月2日、英国外相バルフォアがユダヤ人の民族郷土建設について支持を表明したもので、ロスチャイルド卿に宛てた書簡に記されていたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1918年10月30日、オスマン帝国は降伏し、イギリスの占領統治が始まった。1922年には国際連盟で定められた委任統治制度により、この地はイギリス委任統治領パレスチナとして運営されることとなった。施政を担当する初代高等弁務官にはユダヤ人のハーバート・サミュエルが就いた。この委任統治決議の文書には、バルフォア宣言を再確認する文言が含まれていた。アラブ人はバルフォア宣言の撤回を要求し続け、イギリスの提案する立法評議会への協力やアラブ機関の設立などを頑なに拒否した。その間にもユダヤ人は移民を進め、ユダヤ機関の設立、自警組織ハガナーの結成、ヘブライ大学の開校など、ユダヤ人国家建設に向けてパレスチナにおけるユダヤ人コミュニティー(イシューブ)を着実に大きくしていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1929年、嘆きの壁事件が発生した。アラブ人によるユダヤ人襲撃が行われ、133名のユダヤ人が殺害され339名が負傷した。アラブ人にも110名の死者が出たが、そのほとんどはイギリスの警察や軍によるものだった。この事件を受けイギリスは2つの調査委員会を派遣した。調査委員会はどちらも、事件の要因はユダヤ人移民のコミュニティーが大きくなり、アラブ人がそれに脅威を感じたこととし、ユダヤ人の移民と土地購入について再検討を勧告した。一時は勧告に従った白書が出るものの、ユダヤ側の反発に遭って撤回され、方針が変わることはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1936年、アラブ人によるユダヤ人襲撃とその報復が引き金となり、アラブ反乱が発生する。イギリスはピール調査委員会を派遣し、パレスチナの分割を提案した。ユダヤ側は国家創設の足がかりとしてこれを受け入れたが、アラブ側はこれを拒否した。調査委員会の活動が終わると、再びパレスチナ全土で反乱が起こり、1939年に収束するまでに、アラブ人に多数の死傷者と逮捕者を出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1939年5月に、イギリス政府の方針を大きく変えるマクドナルド白書が出される。この白書は移民および土地売買に関して制限を設けるものであった。アラブの主張に沿った方針であったが、アラブ人はイギリスをもはや信用せず拒絶し、当然ユダヤ人も拒否しイギリス政府に対する不信を強めることになった。ユダヤ人はアラブ反乱からさらなる防衛力の必要性を感じ、またイギリス政府の方針変更に武力で抵抗するため、ハガナーやイルグン、レヒといった武装組織を強化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が始まり、ナチスのホロコーストがイシューブに伝わり、多くのユダヤ人を震撼させた。ユダヤ人にとってパレスチナへの避難は急を要したが、イギリスは移民制限を変えることはなかった。しかしながら、戦時中はユダヤ人の反英闘争は鳴りを潜め、義勇兵としてイギリス軍とともに戦った。戦争が終わるとイギリス政府はアメリカに共同調査委員会の設立を提案し、英米調査委員会が設立された。委員会は強制収容所にいる10万人のユダヤ人をパレスチナに移住させるようイギリス政府に勧告したが、イギリス政府はこの勧告を受け入れず移民制限を変更しなかった。これを受け、キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件などユダヤ人過激派の反英闘争が激化することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ついにイギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題について国際連合の勧告に委ねることにした。国連の調査委員会では、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案と連邦制国家とする案が出たが、最終的に分割案が国連総会で採択された。イギリスは「1948年5月15日をもって委任統治を終了する」とした。イギリスは紛争への介入を止め、両陣営の相手に対する攻撃は活発となった。ベン・イェフダ通り爆破事件(死者ユダヤ人55名)とその報復で起こったレホヴォトの列車爆破事件(死者イギリス人28名)やデイル・ヤシーン事件(死者アラブ人100名以上)、ハダサー医療従事者虐殺事件(死者ユダヤ人70名以上)など、ユダヤ人・アラブ人双方による襲撃事件が多発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "緊迫した状況であったが、ユダヤ人は1948年5月14日イスラエル独立宣言を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これに対しアラブ諸国は、パレスチナ人を支援するため軍隊を動員し、5月15日、パレスチナに侵攻、第一次中東戦争が勃発した。装備が整っていなかったイスラエル軍は苦戦を強いられるもののアラブ諸国の軍を食い止め、両陣営は5月29日の国連の停戦呼びかけに応じて6月11日から4週間の停戦に至った。イスラエルはこの期にハガナーを中心とした軍の再編成を行い、イスラエル国防軍を創設した。国連特使のフォルケ・ベルナドッテがパレスチナの問題解決のため新たな連邦案を提案したが、イスラエル・パレスチナ双方ともに受け入れることはなかった。彼は9月17日にイスラエルの過激派レヒによって暗殺された。イスラエルには非難が集まり、レヒとイルグンの解体につながった。1949年2月24日、イスラエルはエジプトと休戦協定を締結した。続いて、レバノンと3月23日、トランス・ヨルダンと4月3日、シリアとは7月20日にそれぞれ休戦協定を結び、第一次中東戦争は終結した。イスラエルの兵力は開戦当初3万人ほどであったが、終戦時には11万人近くになっていた。また、戦争前の内戦状態から戦時中にかけ数十万人ものパレスチナ難民が発生することとなった。こうした難民が放棄していった財産は、1950年の不在者財産没収法により、イスラエルに没収された。エジプトはガザ地区に軍隊を駐留させ、ヨルダンは1950年にヨルダン川西岸地区を領土に編入した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "イスラエルは1949年5月11日に国際連合の加盟を承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1956年10月29日、エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、第二次中東戦争が勃発した。エジプトの敗北は目前と思われたが、この侵攻はアメリカとソビエト連邦という超大国たちの猛烈な反発を招き、結局11月8日に停戦した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1960年5月11日、イスラエル諜報特務庁(モサド)はナチスのホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンの身柄を確保した。裁判はメディアによって大々的に報道された。1961年12月15日、アイヒマンに死刑が宣告され、翌年5月31日に刑が執行された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1967年5月、エジプトはティラン海峡を封鎖した。これに対しイスラエルは6月5日に奇襲攻撃を仕掛け、エジプト軍航空機のほとんどを離陸前に破壊した。エジプトからシナイ半島とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアからゴラン高原を、ヨルダンからエルサレム旧市街を含む東エルサレムとヨルダン川西岸を奪い取り、その領土は戦前の3.5倍にもなった。6月10日、この第三次中東戦争はわずか6日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わった。1967年11月22日、国際連合安全保障理事会は、イスラエルが占領した領地からの撤退を求める内容を含んだ国連安保理決議242号を全会一致で採択した。この決議は中東和平の基本的枠組みとなっていくが、条文が曖昧といった問題をはらんでいた。イスラエルはこの決議に対し、「すべての」占領地域から撤退するとは書かれていないと主張した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1950年代の終わりごろ、パレスチナ側ではヤーセル・アラファート率いるファタハが結成された。またアラブ諸国主導でパレスチナ解放機構(PLO)が設立された。当初PLOは過激な武装闘争グループではなかったが、アラファートがトップに立つと、その性格を過激なものに変えていった。PLOはヨルダンを活動拠点としていたが、次第に関係が悪化し1970年9月17日ヨルダン軍はPLOを攻撃、内戦状態となった。これは「黒い九月事件」と呼ばれ、過激派組織「黒い九月」はここから名称をとっている。黒い九月は1972年9月5日に、ミュンヘンオリンピック事件を引き起こしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ミュンヘンオリンピック事件後の1972年9月16日、イスラエル軍は空・陸からレバノン領に侵攻。レバノン南部にあるアラブ・ゲリラの基地、拠点群を攻撃後、短期間でイスラエル領内へ引き揚げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1973年10月6日、エジプトとシリアはイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争が始まった。開戦当初、エジプトとシリアは不意を突き、イスラエルに大きな損害を与えたが、その後の反攻でイスラエルは前線を押し戻した。10月22日には停戦を要求する国連安保理決議338号が採択され、戦争は終結に向かった。イスラエル国内では先制されたことに対し軍と政府に批判が集まり、首相ゴルダ・メイアが辞任することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "エジプトのサダト大統領は、アラブの大統領として初めてイスラエルを訪問し、11月20日、イスラエルの国会であるクネセトで演説を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1978年9月5日から、米国メリーランド州キャンプ・デービッドにおいて、カーター米国大統領、エジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相の三者会談が開かれ、キャンプ・デービッド合意が成立した。イスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ人の自決権についての合意であり、サダトとベギンは平和貢献を認められ1978年のノーベル平和賞を共同受賞している。1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が締結された。当事者であるパレスチナ人は「合意内容はイスラエルの主張寄りであり、パレスチナ人のためのものではなく、エジプトとイスラエルのための合意である」と合意に反対した。1981年10月6日、サダトはイスラム過激派により暗殺(英語版)された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1981年6月、イスラエルはイラクの核兵器開発を阻止すべく、イラクの原子炉を攻撃した(イラク原子炉爆撃事件)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1978年3月と1982年6月の2度にかけて、イスラエルはレバノンの首都ベイルートに本部を移したPLOを駆逐し、内戦中であったレバノンの少数派キリスト教徒保護と親イスラエル政権の樹立を目指し、レバノン侵攻を開始した。シャロン国防相に率いられたイスラエル軍とレバノンの同盟勢力ファランヘ党は、PLOをベイルートから追放し、ファランヘ党のバシール・ジュマイエルがレバノンの大統領に選出された。しかしジュマイエルは就任直前に暗殺され、ファランヘ党員は報復のためサブラ・シャティーラ難民キャンプに侵入し、数百人とも3,000人ともいわれる非武装の難民を虐殺した(サブラー・シャティーラ事件)。アリエル・シャロン国防相は「殺害を傍観した不作為の罪」を問われ、国防相を辞任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1987年12月、イスラエル軍の車両が、アラブ人の労働者を乗せた2台の車と衝突して4人が死亡したことをきっかけに、民衆蜂起(インティファーダ)が起こった。民衆はバリケードを築き、投石を行い、火炎瓶を投げた。イスラエル当局はこれを鎮圧し、死傷者も出たが、インティファーダは全占領地に広がった。インティファーダには大人だけでなく子どもも参加した。武装した兵士に立ち向かう少年の映像が報道され、国際的な非難がイスラエルに集まった。国連安保理は1987年12月22日、イスラエルを非難する決議を採択した。1988年7月、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の主権を放棄し、それに伴い1988年11月、PLOはエルサレムを首都とするパレスチナ国の樹立を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1991年、湾岸戦争が勃発し、イラクによるスカッドミサイルの攻撃を受けたが、イスラエルの報復攻撃は行われなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1992年、米ソ共催によるマドリード中東和平国際会議が開かれた。同年、パレスチナとの和平交渉に前向きな姿勢を見せるイツハク・ラビンが首相に選出された。また、ノルウェーの仲介によりパレスチナとの交渉が進められ、1993年9月13日にオスロ合意が成された。PLOはイスラエルを国家として承認し、イスラエルもまたPLOをパレスチナ人の代表として認め、パレスチナ人の暫定的な自治を認めるものだった。この功績からヤーセル・アラファート、イツハク・ラビンと外務大臣のシモン・ペレスはノーベル平和賞を共同受賞している。しかし、イスラエル・アラブ双方の過激派はこれを認めなかった。イスラエル人のバールーフ・ゴールドシュテインがヘブロン事件を起こし29人を殺害すると、報復にハマースが自爆テロを何度となく繰り返し起こした。このような状況下であったが、ラビンはさらなる和平に向けてオスロIIに向けて邁進し、1995年9月、調印を行った。オスロIIはイスラエル国内の批判も大きく、野党からはラビンを売国奴と罵る者もいた。1995年11月4日、平和集会に参加していたラビンはユダヤ人学生に射殺された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "その後も、自爆テロを含むテロ行為が、ハマースなどによって絶え間なく引き起こされた。2000年9月にはアリエル・シャロンのエルサレム、アル=アクサー・モスク(神殿の丘)訪問をきっかけにアル・アクサ・インティファーダ(第2次インティファーダ)が起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2002年に、テロリストの侵入を阻むため、分離壁の建設を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2006年7月12日、ヒズボラの攻撃に対し、報復として拠点を破壊すべくレバノンに侵攻した。2008年12月27日、ハマース掃討のためガザ地区に大規模な空爆を実行、翌年1月には地上からの侵攻も開始した。この攻撃で民間人にも犠牲者が出た。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2016年12月23日、国連安保理でイスラエルのパレスチナ占領地への入植活動を「法的な正当性がなく国際法に違反する」とし「東エルサレムを含む占領地でのすべての入植活動を迅速かつ完全に中止するよう求める」決議が採択され、賛成14票、反対1票で可決された。同様の決議に対ししばしば拒否権を行使していたバラク・オバマ政権下のアメリカは今回は棄権した。この決議の後にネタニヤフ首相は、賛成した10か国の大使を呼び出して直接注意し、外務省に対して、(賛成した14か国のうちイスラエルと外交関係にある)12か国(日本、イギリス、フランス、ロシア連邦、中国、ウクライナ、アンゴラ、エジプト、ウルグアイ、スペイン、セネガル、ニュージーランド)との外交関係を制限するように命じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "イスラエル建国70周年を迎えた2018年5月14日、ドナルド・トランプ政権下のアメリカは在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。これを受け、パレスチナとイスラエルとの軍事衝突が一時的に拡大した。アメリカ大使館の移転に続いて、グアテマラとパラグアイも大使館をエルサレムに移転した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2018年7月19日、クネセトは、イスラエルを「ユダヤ人の国家」と定義する法案の採決を行い、これを採択した。この「ユダヤ人国家法」はエルサレムを「統一された首都」と位置づけ、公用語はヘブライ語のみとしてアラビア語を除外した。このためアラブ系議員らは抗議し、賛成62人、反対55人だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2023年10月7日、パレスチナのガザ地区を支配するイスラム組織ハマスがイスラエルに数千発のロケット弾を撃ち込み、戦闘員を侵入させた。同日、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は「我々は戦争状態にある」とする声明を出し、イスラエル軍も報復作戦を開始した。また、イスラエルは11日に「戦時内閣」を発足させた。この戦争で、14日までにガザ地区で2215人、イスラエル側で少なくとも1300人が死亡した。イスラエルにこれほどの被害が出たのは第4次中東戦争以来だと報じられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "イスラエルの政治は行政、司法、立法と国家元首である大統領からなる。議会制民主主義を採用し、行政府(政府)は、立法府(クネセト)の信任を受け、司法府(裁判所)は法により完全なる独立を保証されている。イスラエルは非成典憲法であり、国家の政治制度を規定した各基本法は通常の法律と同等に改正することができる。選挙権は18歳以上に与えられ、被選挙権は21歳以上に与えられる。選挙投票日は休日となり、入院中の人間や受刑者にも投票権が与えられる。投票率は通常8割から9割程度である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "イスラエルは建国宣言で「ユダヤ人の国家(JewishState)」と規定されており、ユダヤ人の定義は、『帰還法』(1970年改正)により、「ユダヤ教徒もしくはユダヤ人の母親から生まれたもの」と定義している。同時にアラブ人の市民権なども認めており、ユダヤ人「のみ」の国家というわけではない。ユダヤ教の教義に基づく安息日の労働を禁ずる法が存在し、教育に関する法ではユダヤ教文化を重視することが盛り込まれている。1990年代に『基本法:人間の尊厳と自由』と『基本法:職業の自由』が制定された。また、1995年に最高裁が基本法は一般の法に優越するとの判断を下し、この時期を「憲法革命」と呼ぶ。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "イスラエルの大統領の任務は象徴的・儀礼的な性格が強く、新国会の開会式の開会宣言、外国大使の信任状受理、クネセトの採択した法ないしは批准した条約の署名、当該機関の推薦するイスラエルの大使、裁判官、イスラエル銀行総裁の任命などである。大統領はクネセトの投票で決定され、任期は当初5年であったが、1999年の法改正により、7年に延長された代わりに再選は禁止されるようになった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イスラエルの国会であるクネセトは一院制。議員定数は120名で、政党名簿比例代表(拘束名簿式)により選出される。その名称と定数は紀元前5世紀にエズラとネヘミヤによってエルサレムに招集されたユダヤの代表機関、クネセット・ハグドラ(大議会)に由来する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "イスラエルの政府は、伝統的に複数の政党による連立政権により運営されてきた。これは完全な比例代表制をとり、最低得票率も低いため、多数の政党が存在するためである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "左派である労働党は1973年の選挙までは第一党であり、120議席のうち50議席程度を占めていた。1977年の選挙で右派のリクードが第一党となり、その後も労働党とリクードによる二大政党時代が続いた。しかし少数政党が乱立するようになり、2006年には中道のカディマが29議席という議席数ながらも第一党となり、労働党などと左派中道連立政権が発足した。2009年、2013年の選挙ではリクードを中心とした政権が発足している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国家の最高行政機関である政府は、国家の安全保障を含む内外の諸問題を担当し、クネセトに対して責任を有し、その信任を受けねばならない。政府の政策決定権には極めて幅がある。法により他の機関に委任されていない問題について、行動をとる権利を認められている。首相は日本と同様、議会で選出されているが、1996年から2001年までは首相公選制を採用し首相選挙を行っていた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "現在のイスラエルがある地域には古代から人類が居住し多数の遺跡が残されておいるため保全や調査を統括する省庁として「考古学庁」が設置されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "司法の独立は法により完全に保証されている。最高裁判事3名、弁護士協会メンバー、政官界者(閣僚、国会議員など)で構成される指名委員会があり、判事はこの委員会の推薦により大統領が任命する。判事の任期は無期(70歳定年)。最高裁判所、地方裁判所、治安判事裁判所、そして宗教裁判所が存在し、結婚および離婚に関する裁判は各宗教の宗教裁判所が扱っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "死刑は戦時の反逆罪および敵性行為に対する法律と、ナチスおよびその協力者を処罰する法律においてのみ存在する。なお、死刑判決は軍法会議においても下すことが可能である。アドルフ・アイヒマンとジョン・デミャニュクに死刑判決が下されたが、後者は後に無罪となっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、テロ対策のために、裁判も起訴状も、時には説明すらなく、国家にとって危険だと見なされた人物を逮捕・拘束できる行政拘束(予防拘禁)という制度を持ち、治安立法も数多く制定されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "占領地のヨルダン川西岸地区(イスラエル側の呼称は「ユダヤ・サマリア地区」)では、パレスチナ自治政府が実効支配する地域を除き、非ユダヤ人はイスラエル国防軍の占領統治下にある。占領地の非ユダヤ人はイスラエル国防軍軍律で統制されており、軍事裁判所は占領地の非ユダヤ人のみを対象としている。一方、占領地のユダヤ人は通常の民事裁判所の対象となるため、占領民と被占領民に対して、異なる司法が適用されていることになる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "軍事裁判所では、未成年でも12歳から起訴できると定めている。国連児童基金によれば、世界でもこうした例は他にないという。2016年現在、イスラエルは約450人の未成年パレスチナ人の身柄を拘束しており、うち100人ほどが16歳未満とされる。また、パレスチナ側の報告によると、5歳の子どもが拘束された例もあり、セーブ・ザ・チルドレンは、拘束された子どもの81%が肉体的暴力を振るわれ、47%が弁護士接見を拒否されるなど、国際法に反した虐待が日常的に行われていると報告した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2023年にはベンヤミン・ネタニヤフ政権が裁判所の権限を縮小する司法改革に取り組み、同年7月24日には最高裁判所が合理性がないと判断した政府の行為を無効にすることが不可能となる合理性法案が国会において賛成64、反対0票で可決された(野党は採決をボイコット)。この改革には国内から反対の声が上がり、アメリカ合衆国のジョー・バイデン大統領が懸念を示すなど大きな波紋を広げた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "長年自民族の国家を持たなかったことにより、幾度もポグロムなどの迫害を受け、ついには600万人のユダヤ人が殺されたホロコーストに至った教訓から、イスラエルは「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回して戦ってでも生き残る」ということを国是にしているとされる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "イスラエルは建国直後の1949年に国際連合へ加盟している。2011年時点で、イスラエルは157の国連加盟国と外交関係を有している。残りの国連加盟35か国のうち、サウジアラビアやシリアなどのイスラム圏を中心とする24か国はパレスチナ問題を理由として建国以来一度もイスラエルを国家承認していない。また、イランやキューバなどの9か国は一時期イスラエルと外交関係を有していたが、2011年までに関係が断絶している。イスラエルと国交のない33か国はいずれもパレスチナ国を国家承認している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "欧米諸国とは欧州連合の研究機関への参加など、良好な関係を保っている。フランスは第三次中東戦争までは最大の兵器供給国であり、核開発の協力もなされていた。ドイツとはホロコーストの記憶もあり外交関係は冷え切っていたが、ドイツの補償金と軍事支援を受け入れ、当時の西ドイツと1965年に国交を樹立している。ただし、補償金の受け取りについては反対派がデモを起こし、国会を襲撃するなど受け取りの是非について激しい論争を呼んだ。その他にも欧米諸国に対しては、ホロコーストを始めとした過去の反ユダヤ主義への同情を利用した外交や事業といったものも行われているが、これについてはノーマン・フィンケルスタインらは「ホロコースト産業」と批判している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1995年には北大西洋条約機構(NATO)のパートナー諸国である「地中海対話(Mediterranean Dialogue)」の加盟国となっている。また2010年には経済協力開発機構(OECD)にも加盟している。欧州連合の研究・技術開発フレームワーク・プログラムにも参加しており、欧州原子核研究機構(CERN)には1991年からオブザーバー国として参加していたが、2014年に正式にメンバー国となった。欧州分子生物学機構(英語版)(EMBO)および欧州分子生物学研究所(EMBL)のメンバー国でもある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "イスラエルは元来、アメリカ合衆国との関係を最重要視してきたが、イラク戦争後から「世界の警察官」としてのアメリカ合衆国の国際的影響力に陰りが出てきたと判断して、日本、中華人民共和国、インド、フランスなど多方面の外交に乗り出し、中華人民共和国の主導する上海協力機構(SCO)にも参加を申請している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "近隣諸国とは建国直後から何度か戦争状態となり敵対関係だったが、1979年にエジプトと、1994年にヨルダンと平和条約を結んでいる。一方で、近年では反イラン国家も多いアラブ諸国との関係改善を図る動きが急速に進んでおり、2018年10月26日にはオマーンを首相が公式訪問。また2020年8月13日にはアラブ首長国連邦と、9月11日にはバーレーンと、10月23日にはスーダンが国交正常化に合意している。(アブラハム合意)また、12月10日にはモロッコと国交正常化で合意した(イスラエルとモロッコの国交正常化)。またイスラエル機でのアラブ首長国連邦との往復にサウジアラビアの上空通過を許すなど、サウジアラビアとの関係改善も急激に進んでいる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "イスラエルが「脅威」としてあげる中東諸国ではイランがある。イランとは核兵器開発問題、ヒズボラおよびハマースを支援している国家として強い警戒を示し、国連事務総長にイランの国連除名を要求したこともある。また、イラン大統領のマフムード・アフマディーネジャードは、ホロコーストを認めない発言をするなどイスラエルに強硬な姿勢を示していた。ただし、2009年には外相のアヴィグドール・リーベルマンは、パキスタンおよびアフガニスタンをイランよりも戦略的脅威と見ているとの発言を行った。アフガニスタンではガザ侵攻の際、「イスラエルに死を」という声を上げ、イスラエルとの戦闘を望む多くの若者が集まった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "シリアとレバノンも紛争当事国であり、関係修復には至っていない。2006年、レバノン首相のフアード・シニオラはレバノン侵攻を受けて「イスラエルとの国交樹立はありえない」と発言した。またシリア内戦時にはヒズボラへの武器輸送や、シリアにおけるイランの伸長を阻むためイスラエルはシリアに空爆を行っている一方で、イスラム過激派の影響力拡大や混乱の波及を警戒し、アサド政権崩壊を企図した本格的な介入は行っていない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2023年10月7日、ハマス(パレスチナ)に対し、宣戦布告を行った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国は建国当初から最大の「盟友」であり、「特別な関係」とも言われる。アメリカはイスラエルを「中東における最も信頼できるパートナー」と評し、国家承認も建国と同日に行っている。エジプト・イスラエル平和条約をはじめ和平仲介も行っている。毎年30億ドル以上の対外軍事援助を行い、合同軍事演習も実施している。またイスラエルの最大の貿易相手国でもある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "イスラエルの経済発展においてアメリカの経済支援が果たした役目は大きく、2008年以降経済援助は行われておらず軍事援助のみとなっているが、それでもなおアメリカの2012年の国別対外援助費では2番目に大きい。軍事援助は対エジプト平和条約締結後の1981年以降全額無償援助となり、1985年以降は毎年経済援助12億ドル、軍事援助18億ドルであった。1999年より経済援助は毎年1.2億ドルずつ減額され10年間でゼロにすることとされたが、その半額は軍事援助の増額分として振り分けられた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "国連でイスラエルへの非難決議が提出されると、アメリカが拒否権を発動させることが''恒例''となっており、採択はほとんど成立しない。バラク・オバマ政権末期の2016年12月23日にはアメリカが棄権し、決議成立を容認するという異例の対応に出られたが、次期大統領に選出されたトランプに働きかけ、提案者であるエジプトに撤回させた。また、アメリカは、イスラエルから中華人民共和国への軍事技術提供問題やヴェラ・インシデントなどのイスラエルの核兵器開発問題に対しては、見てみぬふりをしていると言われることもある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "このようなアメリカの親イスラエル政策の背景には在米ユダヤ人のロビー活動がある。在米ユダヤ人は540万人ほどでアメリカの総人口の2%以下であるが投票率が高く、結束力も強いため選挙に無視できない影響を与えている。またニューヨーク州などの都市部や政治中枢に近い地域ではユダヤ人比率が高く、アメリカ合衆国大統領選挙においては重要な意味を持つ。このように在米ユダヤ人は政治に対し強い影響を持ち、さらにクリスチャン・シオニストたちがそれを後押ししている。在米ユダヤ人は、政治に対し強い影響力を持つことが、ユダヤ陰謀論と結びつけられ反ユダヤ主義につながっていくことに対し、強い警戒を持っている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また、アメリカ大統領のドナルド・トランプは2017年12月に「エルサレムをイスラエルの首都と公式に認める時がきた」と発言したり、ゴラン高原のイスラエルの主権を認める宣言に署名したりするなど、さらにイスラエルとの友好関係を築く姿勢を見せている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "イスラエル建国当初、南アフリカとは緊密な同盟関係にあった。アパルトヘイト体制の基礎を築いたダニエル・フランソワ・マランは、英連邦諸国からイスラエルを表敬訪問した最初の首相だった。一方、1950年代から1960年代にかけて、イスラエルは南アフリカのアパルトヘイト体制を公然と批判するようになった。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "しかし、第三次中東戦争の直前に、エジプトがチラン海峡を封鎖していたのを破る目的で、南アはイスラエルに海軍艦艇を提供した。このころから双方向の貿易関係が急速に進展した。イスラエルは化学製品や電気機器などを輸出、南アは鉱産資源を輸出したが、特筆に値するものは鉄、石炭、ダイヤモンドの3つであった。イスラエルは、ダイヤモンド産業を政府主導で基幹産業へと発展させてきた。イスラエルは加工貿易が盛んで、2012年現在、研磨ダイヤモンドの輸出額は、イスラエルの総輸出額のうち約4分の1を占めている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "資本の交流も盛んであった。イスラエルは1978年に南アへの直接投資限度額を引き上げ、2年後には投資額が本当に増えた。このころに特別の協定が結ばれ、南アの市民はドル建てでイスラエル債権を買えるという金融史上初の特権を得た。イスラエルは南アのシオニストから長年にわたる援助を受けていた。1962-1967年を除いて、この援助は資本流出を防ぐ措置としての規制を免れている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "しかし、アパルトヘイトが廃止され、アフリカ民族会議(ANC)率いる新政権発足後の1995年に南アフリカはパレスチナ国を国家承認、ノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツら反アパルトヘイト活動家はパレスチナへの行為をアパルトヘイトであると非難し、イスラエルとの関係は弱まりつつある。2019年には大使館を連絡事務所に降格した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "かつて第一の輸出先は南アフリカであり、第二は軍事政権下のアルゼンチンであった。同国首都ブエノスアイレスのイスラエル大使館が、ラテンアメリカで兵器を販売する企業を20社超にわたりマネジメントした。イスラエルは、ブラジル、キューバ、ニカラグアを除くラテンアメリカ諸国のほとんどに兵器を供給した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "トルコも主要な輸出先であり、近隣のイスラム諸国の中では珍しく友好な関係を築いてきた。しかしガザ侵攻においてトルコのパレスチナ支援団体と武力衝突が発生し、トルコ人活動家が9名死亡、外交関係は冷え切っていた。しかし2013年にはイスラエルからの謝罪が行われ、両者の関係は修復したと見られている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "インドおよび中華人民共和国にもイスラエルは兵器輸出または軍事技術の提供を行っている。国際世論調査でもインドはアメリカよりもイスラエルに好意的であり、中華人民共和国では国際的な非難のあったガザ侵攻について理解を示す報道がなされている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ソビエト連邦はアメリカに次いで2番目(建国から2日後)にイスラエルを国家承認した国である。1967年の第三次中東戦争でソ連とイスラエルは国交を断絶となったが、1991年に国交を回復した。ソビエト連邦が崩壊すると、1990年代の10年間ほどで80万人以上が旧ソ連からイスラエルに移住している。ロシア系移民は独自のコミュニティーを形成し、クネセトに議員も送り込んでいる。街ではロシア語表記が見かけられるだけでなく、ロシア語が通用することさえある。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "エチオピアにはベタ・イスラエルと呼ばれるユダヤ人が住んでおり、ソマリア内戦中の1991年にはソロモン作戦と呼ばれるイスラエルへの移民も行われている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦で敗戦国となった日本は、1952年4月28日の日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)発効により、外交権を含む主権を回復した。その直後の同年5月15日に、日本はイスラエルを承認した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2006年、持続的な経済発展を通じてイスラエル・ヨルダン・パレスチナ自治政府間の協力・信頼関係を築き、ひいてはパレスチナの平和を形成するという「平和と繁栄の回廊」構想を提案している。2008年には4者協議が東京で開催されている。2008年以降4者協議は開催されていなかったが、2013年に再開した。2014年5月には、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相が日本を訪問、天皇皇后や安倍晋三首相と会談を行った。安倍とネタニヤフの会談では、安全保障分野での協力や、中東和平交渉に関して意見が交わされた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2011年、タイ王国と2国間協定を結ぶ。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1948年の建国とともに創設されたイスラエル国防軍(IDF)は、国の防衛の任にあたる。建国以来の度重なる周辺アラブ諸国との実戦経験を持つ。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "文字通りの国民皆兵国家であり、満18歳で男子は3年、女子は2年の兵役に服さねばならないが、優秀な学生は徴兵が延期されることもある。なお、その後も予備役がある。女性は結婚している者は兵役が免除される。また信仰上の理由により兵役免除も可能であるが、これも女性のみである。少数派のドゥルーズ派の信徒とチェルケス人は兵役に服すが、ユダヤ人でないその他のマイノリティは男子でも兵役が免除されている。また、かつては超正統派も兵役を免除されていたが、これには批判も多く1998年に最高裁は兵役免除は違法との判断を下しており、2014年3月に超正統派の男性を対象とした兵役を課す法案が国会で可決され、2017年から兵役の対象となった。様々な理由から兵役を拒否する人間も増えてきており問題となっている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "イスラエルは国土が縦深性に欠け、一部でも占領されれば国土や産業、国民にとって致命的なダメージを受ける。そのため、戦時には戦域を敵の領土に限定し早急に決着をつけることを戦略計画としている。先制攻撃を仕掛け、敵の攻撃力を早期に無力化することを主眼に置いている。この姿勢は、イスラエルには国家の安寧を守るという前提があるにもかかわらず、イスラエルを好戦的な国家とみなす論者が多い一因となっている。なお、イスラエル国防軍の現在の任務には、パレスチナ自治機関と協調しつつヨルダン川西岸およびガザの治安を保持すること、国内および国境周辺で生じるテロ対策も含まれている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "兵器の多くは、建国初期は西側諸国からの供給や中古兵器の再利用に頼っていたが、その後は主力戦車メルカバや戦闘機クフィルなど特別のニーズに応じた兵器を国内で開発・生産しており、輸出も積極的に行っている。海外との軍事技術交流(下記の科学研究参照)も多い。なお、国産兵器は、メルカバに代表されるように人的資源の重要性から防御力・生存性に重点を置いた設計となっている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "国連児童基金(ユニセフ)はパレスチナ人の子供達がイスラエル軍から軍事裁判にかけられ、拘留下において「広範囲にわたる計画的で制度化された」暴行・虐待を受けているとする報告書を発表した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "イスラエル政府は核兵器の保有に関して肯定も否定もしていないが、核拡散防止条約(NPT)にも加盟していない。「イスラエルは最初に核を使用する国にはならないが、2番目に甘んじることもない」という談話もあり、「曖昧政策」とも称されている。しかし、核技術者モルデハイ・ヴァヌヌの内部告発による状況証拠などから核保有は確実視されており、一種の「公然の秘密」となっている。イスラエルは1969年にフランスの協力で核兵器を開発したとされており、アメリカ科学者連盟は、2000年代後半時点で80-100発程度の核弾頭を保有していると推測している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "この曖昧な態度は核兵器の有無を疑わせ、抑止効果を高めようとする狙いと、最大の同盟国アメリカに対する配慮からである。NPT非加盟のイスラエルが核武装を公表すれば、アメリカとの友好関係が崩れるか、これまで印・パの核保有やイランの核開発計画を非難してきたアメリカがダブルスタンダードの謗りを受けることは免れず、また周辺国のNPT脱退と核武装を招き、ただでさえ不安定な中東のバランスを崩壊させかねないからである。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2006年12月5日、アメリカ上院軍事委員会公聴会で、次期国防長官に内定していたロバート・ゲーツが「(イランが核兵器開発を進めるのは)核保有国に囲まれているからだ。東にパキスタン、北にロシア、西にイスラエル、ペルシャ湾には我々(アメリカ)がいる」と発言。アメリカが初めてイスラエルの核保有について公言したことになるため、注目された。イスラエルのシモン・ペレス特別副首相はこれについて「イスラエルは核保有をこれまで確認したことはない」と従来の見解を繰り返した。しかし、12月11日、ドイツの衛星放送テレビ局「SAT1」のインタビューで、エフード・オルメルト首相は「イスラエルは、他国を脅かしたりしない。しかし、イランはイスラエルを地図上から消滅させると公言している。そのイランが核兵器を保有しようとしていて、フランス、アメリカ、ロシア、イスラエルと同じレベルで話し合えるはずがない」と、核保有を暗に認めたとも取れる発言を行った。オルメルトは、翌日のドイツのアンゲラ・メルケル首相との合同記者会見で核保有を否定したが、イランは非難声明を出した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "オーストラリアに本部を置き、アメリカ、オランダ、ベルギーなどに支部を持つ経済平和研究所の2023年版世界平和度指数では、イスラエルは核保有国としてきちんとカウントされている。その上、イスラエルの軍事化度は3.783と世界一で、2位のロシア3.187、3位のアメリカ3.081、4位の北朝鮮3.000と大差をつけて単独1位である。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "北にレバノン、北東にシリア、東にヨルダン、南にエジプトと接する。ガザ地区とヨルダン川西岸地区を支配するパレスチナ自治政府(パレスチナ国)とは南西および東で接する。西に地中海があり、南は紅海につながっている。ヨルダンとの国境付近に、世界的にも高濃度の塩湖である死海がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "イスラエルの支配地域は2万2,072kmである。国土は狭く、南北に細長い。南北には470キロメートルあるが、東西は一番離れた地点間でも135キロメートルである。車での走行時間は、北のメトゥーラから最南端の町エイラットまでは約9時間かかるが、西の地中海から東の死海までならば90分ほどしかかからない。ジュディアの丘陵にあるエルサレムから海岸沿いのテルアビブまで、また、標高835メートルにあるエルサレムから海抜下398メートルの死海までならば、1時間とかからない。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "地中海沿岸の平野部は肥沃な農地地帯となっている。また、平野部に国民の大半が住んでおり、工業施設の大半も平野部に存在する。地中海側のハイファからエルサレムにかけては人工知能(AI)などの新興企業4000社が集積し、アメリカ合衆国のシリコンバレーにちなんで「シリコン・ワディ」(ワディは谷を意味するヘブライ語)と呼ばれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "北部のガリラヤおよびゴラン高原は比較的豊富な雨量で、常に緑が保たれている。南部のネゲブ砂漠は国土のかなりの割合を占めており、乾燥し切り立った山々が存在する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "「イスラエルの地(英語版)」を意味するエレツ・イスラエル(ארץ ישראל)は神がアブラハム、子のイサク、孫のヤコブと与えることを約束した「約束の地」を意味する。その範囲は創世記、出エジプト記、民数記、エゼキエル書に記されている。現在のイスラエル国の領土よりも広い範囲であるが、大イスラエル主義者(英語版)においては、これらの地域をイスラエルが支配すべき領域とみなす。第三次中東戦争において膨大な地域を占領すると大イスラエル主義は大いに広まった。イツハク・ラビン暗殺の理由も、オスロ合意は約束の地を売り渡す裏切り行為であると見られたからである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "イスラエルは7つの地区に分かれ、その下に郡が存在する(エルサレム地区とテルアビブ地区には存在しない)。郡には地方政府が設置されている。", "title": "地方行政区画" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2019年のイスラエルのGDPは3,877億ドル(約42.5兆円)で、愛知県や大阪府よりやや大きい経済規模である。1人あたりの名目GDPは42,823米ドル(2019年)で、40,847米ドルの日本より高い。イスラエルはOECD加盟国であり、いわゆる先進国である。貿易収支は慢性的な赤字となっている。また、イスラエルは中東のシリコンバレーとも呼ばれ、インテルやマイクロソフトなどの世界的に有名な企業の研究所が軒を連ねる。大企業は少ないがベンチャー企業は多いことでも知られ、失敗を恐れない起業家精神に富んだイスラエルの国民性が影響していると考えられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "イスラエルは人口900万人程度の小さな国ではあるが、農業、灌漑、そして様々なハイテクおよび電子ベンチャー産業において最先端の技術力を持つ。建国からしばらくは、キブツやモシャブでの共同生活と、主導的立場にあった労働シオニズムの影響から社会主義的な経済体制であった。建国当時は産業基盤もないうえに周辺アラブ諸国との戦争状態にあるという悪条件であったが、ドイツの補償金やアメリカのユダヤ人社会から送られる寄付金など海外からの多額の資金援助を受けて経済を発展させていった。これが1980年代後半に入り、ヨーロッパ諸国およびアメリカと自由貿易協定を結ぶなど自由主義経済へと転換していき、1990年代の加速度的な経済成長をもたらした。2001年から2002年にかけて、ITバブルの崩壊とパレスチナ情勢の悪化により経済成長率がマイナスに転じるも、2003年以降は堅実な成長を続け、2008年のリーマン・ショック以降もプラス成長を維持している。2010年にはOECDに加盟した。またイスラエル経済の発展にはアメリカ政府からの累計で300億ドル以上という多大な経済援助が大きく寄与している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1990年、イスラエルへの直接投資は1.51億ドル、証券投資はマイナス1.71億ドルという慎ましいものだった。それが直接・証券ともに漸増していき、特に1998年から飛躍した。2000年には直接投資が52.7億ドル、証券投資がプラス46.13億ドルに達した。こうした外資の集中投下がイスラエルの経済成長率を回復させた。2011-2013年の間にはApple、Alphabet、マイクロソフト、フェイスブック、Amazon.com、Twitter、AOL、Yahoo!、テスラ、Netflix、スペースX、ブルーオリジン、オラクルがイスラエルのベンチャーキャピタルを買収した。2012年でイスラエルのベンチャーキャピタル投資額は、総額で8.67億ドル、英仏独とおよそ等しく、日本やカナダの5分の3程度である。アメリカの266.52億ドルには遠く及ばない。しかし、国内総生産比では合衆国の0.17%を引き離してイスラエルは0.36%である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "イスラエルの農業技術は先進的で、国土のほとんどが砂漠または半砂漠で降雨量も少ないといった農業には厳しい環境ながら食糧のほとんどを自給でき、農産物の輸出も行う農業大国である。少ない水資源を有効に活用するため、水のリサイクルに力を入れ、リサイクル率は70%を超えているという。また水の利用効率が高い点滴灌漑を行っている。設備の制御は携帯電話などのモバイル機器からも可能であるという。取水も効率的であり、ヨルダン川の流域は3%しかイスラエルを通っていないにもかかわらず60%を国内需要に充てている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "海水淡水化にも優れた技術を持つ。2005年以降、地中海沿いに相次ぎ淡水化プラントを設置し、2017年時点ではイスラエルで消費される飲料水の8割が海水から作られている。車載型の海水淡水化装置も実用化している。イスラエルのウオータージェン社は大気中の水分から飲料水を作る技術を持ち、水道の漏水防止や運営管理などを海外で請け負う企業もある。こうした水関連技術の輸出額は2016年で約22億ドルと推定され、10年で3倍に増えた。2017年7月にはイスラエルを訪問したインドのナレンドラ・モディ首相と、水・農業分野の協力覚書を結んだ。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ダイヤモンド産業はイスラエル経済を語るうえで重要な位置を占める。イスラエルはダイヤモンドの流通拠点として世界的に有名であり、研磨ダイヤモンドの輸出額はイスラエルの総輸出額のうち約4分の1を占めている。イスラエルはダイヤモンド産業を政府主導で基幹産業へと発展させてきた。産業の確立にはユダヤ系資本のデビアスが貢献したが、デビアスとは後に対立を引き起こしてもいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "また兵器産業も経済に大きな影響を与えている。高度な技術の民間転用がハイテク産業を急成長させ、また兵器の輸出によって直接的な収入源ともなっている。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によればイスラエルは2008年から2012年のデータにおいて兵器の輸出元として世界10位となっている。またエルサレム・ポストは、2010年度の武器輸出額が72億ドルに上り、世界4位になったと報じた。2010年の時点では兵器製造企業は約200社ほど存在する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "イスラエルの鉱業を支えているのは、カリ塩とリン鉱石である。2003年の時点で、それぞれの世界シェアは5位(193万トン)、9位(102万トン)である。金属鉱物は採掘されていない。有機鉱物では亜炭、原油、天然ガスを産出する。天然ガスについては、2010年以降イスラエル沖の東地中海にタマルガス田(英語版)やリヴァイアサンガス田などの大規模ガス田が発見されており、2020年には国内の天然ガス需要を産出量が上回り近隣国への天然ガスの輸出が行われている。ギリシャ企業のエネルジーン・オイル・アンド・ガス社が2019年にも採掘を始める計画である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "国土が狭いイスラエルでは、車、バス、トラックなどが主な交通機関である。近年、車の急速な増大に対応し、辺鄙な地域への交通の便を図るため、道路網の拡充が図られた。多車線のハイウェーは目下300キロの運営だが、2004年の時点で、南のベエルシェバから北のロシュハニクラ、ロシュピナまでハイウェー網が整備されつつある。さらに、人口稠密地にはバイパスが設けられた。緑色のエゲッドバスは、イスラエル全土を網羅しており、後部にトイレがある。運賃はエルサレム-エイラット間で70NIS(約2,000円)。主要道路には、公道1号線(中央部を東西)、公道60号線(中央部を南北)、公道90号線(東部を南北)などがある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "イスラエルは2011年から国家プロジェクトとして電気自動車の導入を推進している。イスラエルは国土が小さいうえ、主要な石油原産国である近隣アラブ諸国との関係から電気自動車の導入に積極的である。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "イスラエル鉄道は、エルサレム、テルアビブ、ハイファ、ナハリヤの間で旅客運送を行っている。貨物運送としては、アシュドッド港、アシュケロン市、ベエルシェバ市、ディモナの南部の鉱山採掘場など、より南部にまで及んでいる。貨物鉄道の利用は年々増加し、乗客の利用も近年増えている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "テルアビブとハイファでは、道路の交通渋滞を緩和するため、既存の路線を改善した高速鉄道サービスが導入されつつある。また、2004年10月より、ベングリオン空港とテルアビブ市内を結ぶ空港連絡鉄道が運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "国際線を運航する航空会社として国営航空会社のエル・アル航空とアルキア・イスラエル航空、イスラエアーがあり、テルアビブのベン・グリオン国際空港をハブ空港として中東やヨーロッパ、日本を含むアジア、アメリカ諸国に路線を設けている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "イスラエルは科学において高度先進国であり、Bloomberg Innovation Indexから『最も革新的な国』の5位にランクされている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "科学技術は、同国で最も発展した分野の1つであり、科学研究の水準も非常に高いものとなっている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "イスラエルは専門資格を持った人材資源が豊富であり、科学技術の研究開発に注がれる資金の額は、2007年度のデータではGDPとの比率でみると世界1位である。また国際的な研究協力も重視し、欧米諸国のみならず各国と積極的に連携を行っている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "医学とその周辺分野、ならびに生物工学の分野では極めて進んだ研究開発基盤を持ち、広範囲な研究に取り組んでいる。研究は大学医学部・各種国立研究機関をはじめ、医薬、生物工学、食品加工、医療機器、軍需産業の各メーカーの研究開発部門でも活発に行われている。イスラエルの研究水準の高さは世界によく知られており、海外の医学、科学分野、軍事技術の研究諸機関との相互交流も盛んである。臨床医学では、熱傷の治療について、高い水準を誇った他、幹細胞研究など、イスラエルが高いレベルを誇る領域は、枚挙にいとまが無い。こうした高い医学水準を背景にイスラエルでは医学上の様々な議題の国際会議が頻繁に開催されている。さらに軍需製品の性能・品質は世界に見ても非常に高く、このような科学技術の発展にはソ連崩壊による100万人近くの移民に多くの研究者・技術者が含まれていたことも大きく影響している。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "イスラエルには兵役があるため、イスラエル出身者は軍隊のチームマネジメントや、政府で運用されているサイバーセキュリティなどの高度な技術を学ぶことになる。また、起業に失敗したとしても再就職は容易である。その結果として、兵役終了後に大学を卒業した後は、起業する事も普通である。特にIT分野でスタートアップが多数存在し、2年~3年のサイクルで大半が入れ替わっており、「第2のシリコンバレー」とも呼ばれている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "サイバーセキュリティにおいて世界最高峰の技術を持つ。特に暗号理論の水準が高いとされ、インターネットのセキュリティーで重要な役割を演じるファイアウォールや公開鍵の開発において、イスラエルは重要な役割を果たしてきた。関連して、「ペガサス」と呼ばれる高性能スパイウェアもイスラエルで開発されており、世界中の政府機関や軍事組織で使われている。2016年にはイスラエルに開発拠点を置くSirin Labs社が軍用並みかつ世界一のセキュリティを謳う「Solarin」という150万円のスマートフォンを発売した。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "インテルが2つ保有するCPU開発拠点の1つがイスラエルのハイファに存在し、CoreマイクロアーキテクチャやSandy Bridgeマイクロアーキテクチャを開発してCPUの動作効率を大幅に高めた実績がある。ユーザーの感想からしても、単純なクロック数重視の開発でCPUの高消費電力化を招いたアメリカ合衆国オレゴン州の開発チームよりも高い実力があると評されている。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "また宇宙開発技術も高く、独自に人工衛星も打ち上げている。通常の人工衛星では地球の自転を利用して東向きに打ち上げられるが、イスラエルの衛星は西方以外に他国が存在するため、全て非効率的な西向きに打ち上げられている。また、2003年、イスラエル初の宇宙飛行士として空軍パイロットのイラン・ラモーン大佐がアメリカのスペースシャトル「コロンビア」で宇宙に飛び立ったが、大気圏再突入時の空中分解事故により死亡した。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "パレスチナからのロケット弾攻撃の迎撃を成功させて世界的に有名になった「アイアンドーム」もイスラエルの国防企業であるラファエル・アドバンスド・ディフェンス・システムズとイスラエル・エアロスペース・インダストリーズが開発を行っており、イスラエルのミサイル関連技術はアメリカ合衆国をも凌ぐという。", "title": "科学技術" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "2013年のイスラエル中央統計局のデータでは、総人口は802万人である。そのうちユダヤ人が604万人(75.3%)、アラブ人が166万人(20.7%)、その他32万人(4.0%)となっている。アラブ人の大半はムスリムで、2009年のデータではアラブ人の78%がムスリムである。なお、イスラエルでは1970年に改正された『帰還法』により、ユダヤ人の定義を「ユダヤ教を信仰しているか、母親がユダヤ人のもの」としている。イスラエルは移民国家であり、出身地ごとに欧米系をアシュケナジム、アジア・アフリカ系をセファルディム、オリエント系をミズラヒムと呼び、同じユダヤ人でも異なる人種の場合もある(「ユダヤ人」も参照)。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "1990年から2009年までの統計によればユダヤ人の人口は減少傾向にあり、対してアラブ人は増加傾向にあるという。これはユダヤ人移民の減少によるものとイスラエル中央統計局は推測している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2割前後存在するアラブ人とユダヤ人との人種間では宗教上の理由もあり、交流は限定的なものとなっている。2015年の婚姻の統計例でみれば、結婚した58,000組のうちユダヤ系とアラブ系のカップルは23組にとどまっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "ユダヤ人は、主に出身地ごとに大まかなグループに分類される。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "その他、ユダヤ教に改宗した人々(ブラック・ジュー、ミゾ)などもユダヤ教徒として住んでいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "21世紀に入って以降、アフリカのエリトリア、スーダン、南スーダンなどからシナイ半島を経由してイスラエルに不法入国する人々が後を絶たない。2012年時点、アフリカ系移民の人口は約6万人と推測されている。これは、母国での深刻な貧困や紛争などから逃れるためという側面があるが、イスラエル国内ではこの不法移民の扱いについて大きな議論を呼んでいる。「ユダヤ人国家」を穢されると懸念する右派勢力は移民排斥を訴え、特に過激なグループ(カハネ主義者)たちは不法移民の滞在するアパートに放火したり、移民に暴力を振るったりしている。しかし、一方でホロコーストの記憶を有する国として、移民には寛容であるべきという意見もある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "一部のユダヤ人による、アラブ系イスラエル人への襲撃事件が相次いでいる。アラブ系イスラエル人への敵視は政府内でも目立ってきており、2015年3月17日、アヴィグドール・リーベルマン外相が、イスラエル国家に忠誠を誓わないアラブ系イスラエル人は「斬首の刑」に処すべきだと発言し問題となったが、イスラエルの右派はこの演説を聞いて熱狂した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "イスラエルには13万5,000人のエチオピア系市民がいるが、彼らは日常的に暴力を受けている。エチオピア系兵士が警察官2人から暴行される様子が撮影されたビデオが公開されたことをきっかけに、2015年5月3日、テルアビブで大規模なデモが発生、参加者の一部は暴徒化した。ネタニヤフ首相はエチオピア系市民の指導者と会談し、差別の撤廃を約束した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "2015年5月20日、イスラエルは一部のバス路線でパレスチナ人がイスラエル人と同じバスに乗ることを禁止する措置を取った。これについて、人権団体などは南アフリカの人種隔離政策アパルトヘイトと同じだと強く批判。この措置は、運用の数時間後に撤回された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "2018年7月19日、クネセトで可決したユダヤ国民国家基本法(国籍法)では、民族自決権を持つのはユダヤ人のみと明確に限定した。公用語もヘブライ語のみとして、パレスチナ・アラビア系住民が主な話者のアラビア語は「特別な地位」を持つとしたが、公用語からは外された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "公用語はヘブライ語。ほかイディッシュ語、アラビア語が使われる。アラビア語は法律に定められた公用語の一つであったが、2018年7月19日に除外された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "なお、現代イスラエルの公用語であるヘブライ語は、古代ヘブライ語を元に20世紀になって復元されたものである。全くの文章語となっていた言語が復元されて公用語にまでなったのは、これが唯一のケースである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "上記の理由から、現代ヘブライ語の方言はないとされる。あるとすれば、他国からの移住者のネイティブ言語の影響による「なまり」や、各コミュニティーでの伝統的な(聖書やラビ文学の朗読、礼拝などに用いる音声言語化された文語としての)ヘブライ語の発音などがそれにあたる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "イスラエル中北部やヨルダン川西岸地区に多く住むアラブ人はアラビア語の「ヨルダン定住方言」(アラビア語方言学の名称と思われるが、多分に反シオニズム的表現であると思われる。「パレスチナ方言」「イスラエル方言」という表現も可能である)を、イスラエル南部に多いアラブ人は「ネゲヴ・ベドウィン方言」を、エルサレムのアラブ人は「エルサレム方言」を、ゴラン高原の住民は「ハウラン方言」を話し、全てシリアからシナイ半島にかけて話される「シリア・パレスチナ方言」の一部であるとされる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "また、西岸地区ではサマリア語の新聞も出されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "テルアビブ市内にはヘブライ語に並んでロシア語の看板なども多く見られる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "イスラエルは宗教婚のみ認めており、民事婚は認めていない。ユダヤ教はもちろんイスラム教など各宗教ごとに宗教裁判所が存在し、婚姻などを管轄している。ユダヤ教においては超正統派が婚姻を司っており、宗教法により異教徒間の結婚は認められない。そのためユダヤ教徒以外のものと結婚する場合やその他の事情がある場合は、海外で結婚し、帰国後に結婚証明書を役所に提出するという国外結婚の形をとる。国外結婚はキプロスで行うものが最も多く、毎年1000組ほどが結婚を行うという。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "結婚の際、伝統的には女性は婚姻に際して夫の姓を称する(夫婦同姓)が、いつでも自己の未婚時の姓または従前の夫の姓を夫の姓に付加(結合姓)することができ、また、未婚時の姓または従前の姓のみを称する(夫婦別姓)こともできる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "イスラエルは宗教の自由を認めている。2004年のデータではユダヤ教徒が523.8万人(76.2%)、ムスリムが110.7万人(16.1%)、キリスト教徒が14.4万人(2.1%)、ドゥルーズ派が11.3万人(1.6%)、その他26.5万人(3.9%)となっている。信仰のあり方についても多様で、戒律を厳しく守ろうとするユダヤ教徒は20%、ある程度個人の自由で守るものが多数派で60%、全く守ろうとしないものも20%いる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "キリスト教徒の多くは東方正教会のエルサレム総主教庁ないしはローマ・カトリックの信者が多いがコプト正教会、アルメニア正教会などの信者もいる。一部のユダヤ人の中にはイエス・キリストをメシアとする「メシアニック・ジュダイズム」の人々もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "イスラエルは「ジューイッシュ・マザー(ユダヤ人の母)」という言葉が教育ママを意味するように、教育が重視されている。これにはユダヤ人が歴史的に教育熱心であったという背景もある。イスラエルの教育は小学校6年、中学校3年、高等学校3年の6-3-3制である。義務教育は5歳から始まり、義務教育期間は5歳から18歳までである。1949年に義務教育に関する法が施行された時点では5歳から15歳までであったが、法改正により18歳までとなっている。この期間延長は徐々に移行が進んでおり、イスラエル政府は2014年か2015年には全国に適用させる予定としている。義務教育期間と高等学校までの学費は無料である。18歳になると通常は兵役に就き、その後進学する者は大学に入学することになる。入学にはアメリカのSATに類似した試験が年に4回ある。兵役後も海外旅行などで見聞を広めてから大学に進学するものも多い。そのため、大学生の平均年齢は高くなっている。大学(ウニバルシタ)はすべて公立であり、比較的安価で高等教育を受けることができる。ほとんどの大学生はダブルメジャー(2つの専攻)で、平均3年で学位を取得する。また、専門学校(ミクララ)が各地に存在する。教育水準は高いが、欧米との結びつきが強いためか、優秀な研究者がイスラエルを離れ海外移住することも多く、この頭脳流出は大きな問題となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "健康保険は1995年に、国民新保健医療法(NHCL)が成立し18歳以上の全国民に加入を義務づける国民皆保険となっている。社会福祉支出はOECDの2012年のデータによると、2007年と比べ21.2%増加しているものの、GDP比15.8%でOECD諸国平均21.9%より低い値となっている。相対的貧困率は2012年のデータで20.9%とOECD諸国でもっとも貧困率が高い。しかし、2012年の人間開発指数は0.900の「非常に高い」となっており世界16位である。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "聖書には「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という言葉もあり、子どもに対しては特別の配慮が払われている。出産に関しては不妊治療が45歳まで健康保険の対象項目となっており、大きな病院には大抵の場合体外受精科が存在する。実際に体外受精は広く行われており、ヨーロッパ生殖医学学会(ESHRE)が刊行するHumanReproductionUpdateの2002年号では、イスラエルの体外受精実施件数は100万人あたり1,657件と報告している。2位のアイスランドの899件を大きく引き離している。女性1人あたりの平均出産数(合計特殊出生率)はOECDの調査によれば2011年のデータでは3.0となり、OECD諸国平均の1.7を大きく上回っている。世界銀行の調査でも2019年のデータで3.01である。一般家庭には児童手当も支払われている。また児童虐待について、NICHDプロトコルを用いた司法面接を1998年に国家で採用している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "出生時平均余命はOECDの2013年に公表されたデータによれば、2011年度は81.8歳となっており、先進国の中でも9位となっている。また、国連開発計画の2012年のデータによれば81.9歳で、世界で7位となっている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "長寿国であるため高齢者問題も大きな課題となってきている。特に旧ソ連からはソ連崩壊に伴い、100万人近くが移民してきたが、そのうち12%以上が65歳以上の高齢者であったという。高齢者は公共交通の割引や減税を受けられ、また高齢者介護を理由に有給休暇を認める法律も制定されている。終末期医療については2006年に法律が制定され、尊厳死が認められている。2008年の時点では65歳以上の高齢者の割合は10.0%となっている。しかしこれはOECD諸国平均の14.4%よりは低い数値である。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "先進国とされているイスラエルだが、深刻な貧困問題を抱えている。イスラエルには1954年に制定された『国民健康法』に基づき、収入が最低基準以下の世帯と個人に対しては国民保険機構から補助金が支給されている。また、児童手当も支給されており、特に4人以上の子どもがいる家庭には手厚い福祉が施されている。しかしイスラエルは、かねてから所得格差が大きいことや貧困に苦しむ国民が多いことが指摘されていた。2010年12月22日の『ハアレツ』紙によると、イスラエルの全人口のうち、およそ177万人が貧困状態にあり、うち85万人は子どもであるという。貧困状態にある世帯の約75%は日々の食料にも事欠いているとされ、きわめて深刻な実態が浮き彫りとなった。貧困状態にある子供たちの中には物乞いをしたり、親に盗みを働くよう強制されたりする事例もあるという。イスラエルの中央統計局と福祉省の調査によると、2011年に福祉省に助成を求めた世帯の割合は28%で、これは1998年と比べて75%の増加にあたるという。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "貧しい子どもたちのために無料給食や補講などを実施している学校「エル・ハ=マーヤン」の運営母体である超正統派政党「シャス」のエリ・イシャイ党首は「国民保険制度研究所さえ、政府の俸給を増やすことのみが貧困を解消する唯一の方法と断定した。このようなほかの政府機関からかけ離れた見通しが長きに渡ってなされているのは恥である」と述べた。また、中道左派政党「労働党」の議員であるシェリー・ヤシモビッチはイスラエル国内でのワーキングプアの増大を指摘している。また、左派政党「メレツ」のハイム・オロン党首は「政府は(資本主義における)結果的格差を肯定しているが、貧困の根本原因を取り除かなければならない」と指摘している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "2011年7月30日には、イスラエル国内で住宅価格や生活費の高騰、貧富の格差に対して抗議する15万人規模のデモが起きている。左派系のみでなく、保守系の人々も多数参加した極めて大規模なものである。8月6日には、最低賃金引上げなどを求め30万人規模のイスラエル建国至上最大の抗議運動が起きた。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "経済協力開発機構(OECD)が2013年にまとめた報告書では、イスラエルが全てのOECD加盟国の中で最も貧困率が高いことが記されている。また、同年10月に発表されたイスラエル中央統計局の報告書では、イスラエルの全人口のうち31%が貧困線以下の生活をしているという。また、同報告書ではイスラエルの子供の40%が貧困に直面しているとしている。また、2013年に入ってから多くのイスラエル人がアメリカ合衆国やドイツなどへ経済的理由から移住しているという。ヘブライ大学のモミー・ダハン教授は、この問題の背景として、イスラエル政府が社会保障や児童予算を削減し続けていることを指摘している。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "イスラエル国家警察の犯罪統計によれば、2019年(12月末現在)のイスラエル国内での犯罪発生件数は約30万件で、日本の犯罪発生件数と人口比を基に比較した場合、イスラエルは日本の約5倍となっている。日本人の犯罪被害は、主に旅券や現金などの貴重品の盗難被害(スリ、置き引きなど)となっており、一瞬の隙に被害に遭ったなどの報告が挙げられている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "テロならび誘拐情勢においては、2022年07月15日時点では同国並びにヨルダン川西岸地区及びガザ地区からなるパレスチナ自治区における近年のテロ事案は、2000年代前半にテロが多発した時期と比較すると大幅に減少しているとの報告がされており、特に、自爆テロ事件については、2009年以降発生していない点から安全面は比較的保たれている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "反面でヨルダン川西岸地区内のイスラエル人入植地(入口付近のバス停など)やイスラエル兵士が配置されている交差点、同地区とイスラエルとの境界の検問所などにおいて、ナイフなどを使用してイスラエル治安要員を狙う事案や車両での突入事案が散発的に発生している。その為、同国に滞在の際は不用意な散策などを慎むことが求められる状態となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "電話および携帯電話が広く利用されている。国際電話番号は972。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "イスラエルのインターネット普及率は高く、主な場所で無線LANが利用できる。インターネットカフェも普及しており、店内は禁煙の所が多い。日本の漫画喫茶のように雑然としておらず、端末ごとに整然と区画されている。", "title": "メディア" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "イスラエル国民の中には外国の食文化を楽しむ者もおり、2017年の朝日新聞の記事によると世俗派の間で豚骨スープのラーメンが人気であるという。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "ピンカス・ズーカーマン、イツァーク・パールマンをはじめとする優れた音楽家を多数輩出している。イスラエル・フィルは、世界屈指のオーケストラと評価されており、多くの演奏家が共演している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "イスラエル映画はその殆どがヘブライ語で制作されているが、アラビア語や英語などの他言語での制作も行なわれている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "イスラエルにおける建築は、当該地域に住んでいた人々の様々な建築様式の影響を受けている面が強い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "イスラエル国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、1999年にプロサッカーリーグの『イスラエル・プレミアリーグ』が創設された。リーグ最多優勝はマッカビ・テルアビブFCであり、UEFAチャンピオンズリーグの本大会にも2度出場している。イスラエルサッカー協会(IFA)によって構成されるサッカーイスラエル代表は、FIFAワールドカップには1970年大会で初出場を果たしている。AFCアジアカップでは1964年大会で初優勝に輝いた。しかし、UEFA加盟後のUEFA欧州選手権には未出場である。著名な選手としては、プレミアリーグの舞台で長年プレーし、主にリヴァプールで活躍したヨッシ・ベナユンが知られている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "イスラエルではバスケットボールも盛んであり、1953年にプロバスケットボールリーグの『イスラエル・バスケットボール・プレミアリーグ』が創設されている。リーグ最多優勝はマッカビ・テルアビブBCであり、ユーロリーグでは2003-04シーズンと2004-05シーズンに大会連覇を果たしている。また、イスラエルではかつて競馬も無かったが2006年に初めて開催された。ただし、金銭を賭けることは禁止されているため、入場者は馬が走る姿や馬術競技を観戦するだけの純粋なスポーツとして行われている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "イスラエルサッカー協会は欧州サッカー連盟に加盟している。イスラエルは地勢的にはアジアの国であり、1954年5月8日に他の12ヶ国と共にアジアサッカー連盟を設立したが、直後には加盟せず2年後の1956年にAFCに加盟した。AFCは、政治的配慮によりイスラエルサッカー協会をAFC創立メンバーとしては認めていない。しかし、パレスチナ問題および中東戦争などの「アラブ・イスラエル紛争」により周辺のアラブ諸国との関係が悪化し、それ以外にもインドネシア・北朝鮮・中国などの国を中心に、対戦拒否や大会参加拒否などのボイコットが激化した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "1973年に第四次中東戦争が勃発すると、もはや対戦不可能な状態に陥った。そして、イラン開催のアジア大会が開催中であった1974年9月14日に、イランの首都テヘランで開催されたAFC総会で、AFCから除名された。除名以降は地域連盟未所属のまま活動し、FIFAワールドカップのアジア・オセアニア予選へ組み込まれたり、オセアニアサッカー連盟(OFC)の暫定メンバーとなるなどの紆余曲折を経て、1992年にUEFAに加盟した。これはイスラエルオリンピック委員会についても同様で、かつてはアジア競技連盟に所属していたものの、以後ヨーロッパオリンピック委員会へと加入した。", "title": "スポーツ" } ]
イスラエル国、通称イスラエルは、西アジアに位置する共和制国家。北はレバノン、北東はシリア、東はヨルダン、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸、西はガザ地区、南西はエジプトと国境を接している。 実質的な首都はテルアビブであり、経済と技術の中心地をなす。国内総生産では世界29位、一人当たりGDPでは13位にランクされている。一方、イスラエルの基本法であるエルサレム基本法ではエルサレムを首都と規定しているが、エルサレムに対する国家の主権は国際的には限定的にしか認められていない。
{{Otheruses}} {{For|継続中の戦闘|2023年パレスチナ・イスラエル戦争}} {{特殊文字|説明=[[ヘブライ語]]や[[アラビア語]]}} {{基礎情報 国 | 略名 = イスラエル | 日本語国名 = イスラエル国 | 公式国名 = {{rtl-lang|he|'''מדינת ישראל'''}}<br />{{rtl-lang|ar|'''دولة إسرائيل'''}} | 国旗画像 = Flag of Israel.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat_of_arms_of_Israel.svg|100px|イスラエルの国章]] | 国章リンク = ([[イスラエルの国章|国章]]) | 標語 = | 位置画像 = ISR orthographic.svg | 公用語 = [[ヘブライ語]] | 首都 = [[エルサレム]]([[イスラエルの基本法]]の一つ[[エルサレム基本法]]の規定及び限定的な外国による承認であり、[[国連]]は認めていない。)<br />[[テルアビブ]](国連決議){{refn|group=fn|イスラエルは、基本法においてエルサレムを首都と規定しているが、国際連合はこれを承認しておらず国連加盟国の多くはテルアビブを首都としている。[[アメリカ合衆国]]<ref>{{Cite news|url=https://www.nytimes.com/2017/12/06/world/middleeast/trump-jerusalem-israel-capital.html|title=Trump Recognizes Jerusalem as Israel's Capital and Orders U.S. Embassy to Move|newspaper=The New York Times|date=2017-12-06|accessdate=2017-12-06}}</ref>と[[グアテマラ]]<ref>{{Cite web|url=https://www.infobae.com/america/mundo/2017/12/24/guatemala-se-suma-a-eeuu-y-tambien-trasladara-su-embajada-en-israel-a-jerusalen/|title=Guatemala se suma a EEUU y también trasladará su embajada en Israel a Jerusalén|website=Infobae|accessdate=2017-12-24|language=es}}</ref>はエルサレムを首都と認めており、[[ロシア]]<ref>{{Cite web |title=Foreign Ministry statement regarding Palestinian-Israeli settlement |url=https://archive.mid.ru/en/foreign_policy/news/-/asset_publisher/cKNonkJE02Bw/content/id/2717182 |website=www.mid.ru |accessdate=2017-04-06}}</ref>、[[オーストラリア]]<ref name="ausj">{{Cite web |url=https://www.bbc.co.uk/news/world-australia-46576716 |title=Australia recognises West Jerusalem as Israeli capital |publisher=BBC |accessdate=2018-12-15}}</ref>、[[チェコ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jpost.com/Breaking-News/Czech-Republic-announces-it-recognizes-West-Jerusalem-as-Israels-capital-517241|title=Czech Republic announces it recognizes West Jerusalem as Israel's capital|newspaper=Jerusalem Post|date=2017-12-06|accessdate=2017-12-06}}</ref>は、[[西エルサレム]]をイスラエルの首都と認めている。詳細は「[[エルサレムの地位]]」「[[エルサレム#首都問題]]」を参照。}}<ref name="UN_data"/> | 最大都市 = [[エルサレム]] | 元首等肩書 = [[イスラエルの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[イツハク・ヘルツォグ]] | 首相等肩書 = [[イスラエルの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ベンヤミン・ネタニヤフ]] | 他元首等肩書1 = [[クネセト議長]] | 他元首等氏名1 = {{ill|アミール・オハナ|en|Amir Ohana}} | 他元首等肩書2 = [[:en:Supreme Court of Israel|最高裁判所長官]] | 他元首等氏名2 = {{ill|ウージー・フォーゲルマン|en|Uzi Vogelman}}(代理) | 面積順位 = 153 | 面積大きさ = 1 E10 | 面積値 = 22,072 | 面積追記 = <ref name="UN_data">{{Cite web|url=http://data.un.org/en/iso/il.html|accessdate=2019-04-30|title=country profile &#124; Israel|publisher={{仮リンク|国連統計部|en|United Nations Statistics Division}} }}</ref> | 水面積率 = 2.12% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 98 | 人口大きさ = 1 E6 | 人口値 = 9,289,761<ref name="cbs">{{Cite web|url=https://www.cbs.gov.il/he/publications/LochutTlushim/2021/%D7%90%D7%95%D7%9B%D7%9C%D7%95%D7%A1%D7%99%D7%99%D7%AA%20%D7%99%D7%A9%D7%A8%D7%90%D7%9C,%20%D7%9C%D7%A4%D7%99%20%D7%92%D7%99%D7%9C%20%D7%95%D7%9E%D7%99%D7%9F,%20%D7%A1%D7%95%D7%A3%202020.xlsx|format=XLSX|accessdate=2021-10-31|title=אוכלוסיית ישראל, לפי גיל ומין, סוף 2020|date=2000-12|publisher=[[イスラエル中央統計局]]|language=he}}</ref> | 人口密度値 = 400<ref>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/il.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-31}}</ref> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 1兆4014億600万<ref name="economy">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2013/02/weodata/weorept.aspx?pr.x=55&pr.y=11&sy=2011&ey=2018&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=436&s=NGDP_R%2CNGDP_RPCH%2CNGDP%2CNGDPD%2CNGDP_D%2CNGDPRPC%2CNGDPPC%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC%2CPPPSH%2CPPPEX%2CNID_NGDP%2CNGSD_NGDP%2CPCPI%2CPCPIPCH%2CPCPIE%2CPCPIEPCH%2CTM_RPCH%2CTMG_RPCH%2CTX_RPCH%2CTXG_RPCH%2CLUR%2CLE%2CLP%2CGGR%2CGGR_NGDP%2CGGX%2CGGX_NGDP%2CGGXCNL%2CGGXCNL_NGDP%2CGGSB%2CGGSB_NPGDP%2CGGXONLB%2CGGXONLB_NGDP%2CGGXWDN%2CGGXWDN_NGDP%2CGGXWDG%2CGGXWDG_NGDP%2CNGDP_FY%2CBCA%2CBCA_NGDPD&grp=0&a=|accessdate=2014-04-04|title=Report for Selected Countries and Subjects|publisher=[[国際通貨基金]]|language=en}}</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 28 | GDP値MER = 4071億100万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 44,181.168<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP値 = 3802億8600万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 41,271.022<ref name="economy" /> | 建国年月日 = [[1948年]][[5月14日]] | 通貨 = [[新シェケル]] (₪) | 通貨コード = ILS | 時間帯 = +2 | 夏時間 = +3 | 国歌 = [[ハティクヴァ|{{lang|he| התקווה }}]]{{he icon}}<br />''希望''<br />{{center|[[File:Hatikvah instrumental.ogg]]}} | ISO 3166-1 = IL / ISR | ccTLD = [[.il]] | 国際電話番号 = 972 | 注記=<references group="fn"/> }} '''イスラエル国'''(イスラエルこく、{{lang-he-n|'''מְדִינַת יִשְׂרָאֵל'''}}、{{lang-ar|دَوْلَة إِسْرَائِيل}}、{{lang-en|State of Israel}} :{{IPA-en|ˈɪzrɪəl, ˈɪzreɪəl|}})、通称'''イスラエル'''({{lang-he-n|'''יִשְׂרָאֵל'''}})は、[[西アジア]]に位置する[[共和制国家]]。北は[[レバノン]]、北東は[[シリア]]、東は[[ヨルダン]]、[[パレスチナ|パレスチナ自治区]]の[[ヨルダン川西岸地区|ヨルダン川西岸]]、西は[[ガザ地区]]<ref>{{Cite web|date=22 April 2008|title=Palestinian Territories|url=https://2009-2017.state.gov/p/nea/ci/pt|accessdate=26 December 2012|publisher=State.gov}}</ref>、南西は[[エジプト]]と国境を接している。 実質的な首都は[[テルアビブ]]であり、経済と技術の中心地をなす<ref name="lboro.ac.uk">{{Cite web|title=GaWC&nbsp;– The World According to GaWC 2008|website=Globalization and World Cities Research Network|accessdate=1 March 2009|url=http://www.lboro.ac.uk/gawc/world2008t.html}}</ref>。国内総生産では世界29位、一人当たりGDPでは13位にランクされている。一方、イスラエルの基本法である[[エルサレム基本法]]では[[エルサレム]]を首都と規定しているが、エルサレムに対する国家の[[主権]]は国際的には限定的にしか認められていない<ref>Aldajani, Ra'fat, and Drew Christiansen. 22 June 2015. "[https://berkleycenter.georgetown.edu/essays/the-controversial-sovereignty-over-the-city-of-jerusalem The Controversial Sovereignty over the City of Jerusalem]." ''[[:en:National Catholic Reporter|The National Catholic Reporter]]''. via Berkley Center for Religion, Peace & World Affairs: "No U.S. president has ever officially acknowledged Israeli sovereignty over any part of Jerusalem (...) The refusal to recognize Jerusalem as Israeli territory is a near universal policy among Western nations."</ref><ref>Akram, Susan M., Michael Dumper, Michael Lynk, and Iain Scobbie, eds. 2010.&nbsp;''International Law and the Israeli-Palestinian Conflict: A Rights-Based Approach to Middle East Peace''.&nbsp;Routledge. p. 119: "UN General Assembly Resolution 181 recommended the creation of an international zone, or&nbsp;corpus separatum, in Jerusalem to be administered by the UN for a 10-year period, after which there would be a referendum to determine its future.&nbsp;This approach applies equally to West and East Jerusalem and is not affected by the occupation of East Jerusalem in 1967.&nbsp;To a large extent it is this approach that still guides the diplomatic behaviour of states and thus has greater force in international law."</ref><ref>"[https://www.bbc.com/news/world-middle-east-42218042 Jerusalem: Opposition to mooted Trump Israel announcement grows]." ''BBC News''. 4 December 2017: "Israeli sovereignty over Jerusalem has never been recognised internationally"</ref><ref>Whither Jerusalem (Lapidot) p. 17: "Israeli control in west Jerusalem since 1948 was illegal and most states have not recognized its sovereignty there"</ref>。 == 概要 == イスラエルにおける[[カナン]]族の存在は[[青銅器時代]]中期から考古学的に証明されており<ref>[https://www.britannica.com/place/Canaan-historical-region-Middle-East Encyclopædia Britannica] article on Canaan</ref><ref name="Golden">Jonathan M Golden,[https://books.google.com/books?id=EResmS5wOnkC&pg=PA3 ''Ancient Canaan and Israel: An Introduction,''] OUP, 2009 pp. 3–4.</ref>、[[古代イスラエル|イスラエル王国とユダ王国]]は[[鉄器時代]]に誕生した<ref name="Finkelstein">{{Cite book|last=Finkelstein|first=Israel|last2=Silberman|first2=Neil Asher|title=The Bible unearthed : archaeology's new vision of ancient Israel and the origin of its stories|date=2001|publisher=Simon & Schuster|location=New York|isbn=978-0-684-86912-4|edition=1st Touchstone}}</ref><ref name="Pitcher">[https://books.google.com/books?id=tu02muKUVJ0C&pg=PA229 The Pitcher Is Broken: Memorial Essays for Gosta W. Ahlstrom, Steven W. Holloway, Lowell K. Handy, Continuum, 1 May 1995] Quote: "For Israel, the description of the battle of Qarqar in the Kurkh Monolith of Shalmaneser III (mid-ninth century) and for Judah, a Tiglath-pileser III text mentioning (Jeho-) Ahaz of Judah (IIR67 = K. 3751), dated 734–733, are the earliest published to date."</ref>。紀元前720年ごろ、[[新アッシリア王国|新アッシリア帝国]]が[[イスラエル王国]]を滅ぼした<ref name="Broshi 2001 174">{{Cite book|last=Broshi|first=Maguen|title=Bread, Wine, Walls and Scrolls|url={{Google books|etTUEorS1zMC|page=PA174|keywords=|text=|plainurl=yes}}|publisher=Bloomsbury Publishing|year=2001|page=174|isbn=978-1-84127-201-6}}</ref>。[[ユダ王国]]はその後、[[バビロニア|バビロニア帝国]]、ペルシャ帝国、[[コイレ・シリア|ヘレニズムの帝国]]に征服され、[[ユダヤ人|ユダヤ]]人の自治州として存在していた<ref name="BabylonianChronicles">{{Cite web|url=https://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/me/c/cuneiform_nebuchadnezzar_ii.aspx|title=British Museum – Cuneiform tablet with part of the Babylonian Chronicle (605–594 BCE)|accessdate=30 October 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141030154541/https://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/me/c/cuneiform_nebuchadnezzar_ii.aspx|archivedate=30 October 2014}}</ref><ref name="Berquist2007">{{Cite book|last=Jon L. Berquist|title=Approaching Yehud: New Approaches to the Study of the Persian Period|url={{Google books|X8uK-dZr_BAC|page=PA195|keywords=|text=|plainurl=yes}}|year=2007|publisher=Society of Biblical Lit|isbn=978-1-58983-145-2|pages=195–}}</ref>。[[マカバイ戦争]]が成功し、紀元前110年には[[ハスモン朝]]の独立国となった<ref name="BangScheidel2013">{{Cite book|last=Peter Fibiger Bang|last2=Walter Scheidel|title=The Oxford Handbook of the State in the Ancient Near East and Mediterranean|url={{Google books|GCj09AmtvvwC|page=PA184|keywords=|text=|plainurl=yes}}|year=2013|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-518831-8|pages=184–187}}</ref>が、紀元前63年には[[共和政ローマ|ローマ共和国]]の従属国となり、紀元前37年には[[ヘロデ朝]]が置かれ、紀元後6年には[[ローマ帝国]]の[[ユダヤ属州]]が誕生したのである<ref name="Malamat1976">{{Cite book|last=Abraham Malamat|title=A History of the Jewish People|url={{Google books|2kSovzudhFUC|page=PA223|keywords=|text=|plainurl=yes}}|year=1976|publisher=Harvard University Press|isbn=978-0-674-39731-6|pages=223–239}}</ref>。ユダヤ人の反乱により、[[ユダヤ属州]]は壊滅的な打撃を受け<ref name="BangScheidel20132">{{Cite book|last=Peter Fibiger Bang|last2=Walter Scheidel|title=The Oxford Handbook of the State in the Ancient Near East and Mediterranean|url={{Google books|GCj09AmtvvwC|page=PA184|keywords=|text=|plainurl=yes}}|year=2013|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-518831-8|pages=184–187}}</ref>、ユダヤ人は追放され<ref name="BangScheidel20133">{{Cite book|last=Peter Fibiger Bang|last2=Walter Scheidel|title=The Oxford Handbook of the State in the Ancient Near East and Mediterranean|url={{Google books|GCj09AmtvvwC|page=PA184|keywords=|text=|plainurl=yes}}|year=2013|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-518831-8|pages=184–187}}</ref><ref name="Aharoni2006">{{Cite book|last=Yohanan Aharoni|title=The Jewish People: An Illustrated History|url=https://archive.org/details/jewishpeopleillu00ahar_0/page/99|date=15 September 2006|publisher=A&C Black|isbn=978-0-8264-1886-9|pages=[https://archive.org/details/jewishpeopleillu00ahar_0/page/99 99–]}}</ref>、シリア・パレスティナに改称されるまで、ユダヤはローマの属州として存続した<ref name="FahlbuschBromiley2005">{{Cite book|last=Erwin Fahlbusch|last2=Geoffrey William Bromiley|title=The Encyclopedia of Christianity|url={{Google books|C5V7oyy69zgC|page=PA15|keywords=|text=|plainurl=yes}}|year=2005|publisher=Wm. B. Eerdmans Publishing|isbn=978-0-8028-2416-5|pages=15–}}</ref>。この地域におけるユダヤ人の存在は、何世紀にもわたってある程度継続している。7世紀に[[東ローマ帝国|ビザンチン帝国]]から[[アラブ人]]に奪われた[[レバント]]地方は、1099年の[[第1回十字軍]]、1187年の[[アイユーブ朝]]による征服までイスラム教徒の支配下にあった。13世紀にはエジプトの[[マムルーク朝]]が[[レバント]]に支配を広げ、1517年に[[オスマン帝国]]に[[オスマン・マムルーク戦争 (1516年-1517年)|敗れる]]まで支配した。19世紀には、ユダヤ人の民族意識の高まりから[[シオニズム|シオニスト運動]]が起こり、[[パレスチナ]]への移住が始まったと思われる。 パレスチナは、[[第一次世界大戦]]後にオスマン帝国から割譲され、1920年から1948年まで[[イギリス帝国|大英帝国]]の委任統治領となった。[[第二次世界大戦]]が始まると、委任統治領は大規模な爆撃を受け、[[イシューブ]]のユダヤ人は連合国側に従軍した。1944年、イギリスは武器の供給とユダヤ人旅団の結成に同意した。緊張が高まる中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の両派をなだめるために、1947年に[[国際連合]]が[[パレスチナ分割決議]]を採択し、アラブ人とユダヤ人の独立国家と国際化されたエルサレムの設立を勧告した<ref name="181(II)">{{Cite web|url=https://unispal.un.org/DPA/DPR/unispal.nsf/0/7F0AF2BD897689B785256C330061D253|title=Resolution 181 (II). Future government of Palestine|date=29 November 1947|publisher=United Nations|accessdate=21 March 2017}}</ref>。翌年、ユダヤ機関は[[イスラエル独立宣言|イスラエルの独立]]を宣言し、1948年のアラブ・イスラエル戦争では、[[イギリス委任統治領パレスチナ|イギリス委任統治領]]の大部分をイスラエルが占領したが、ヨルダン川西岸とガザは近隣のアラブ諸国が占領していた<ref name="Declaration">{{Cite web|url=http://www.mfa.gov.il/mfa/foreignpolicy/peace/guide/pages/declaration%20of%20establishment%20of%20state%20of%20israel.aspx|title=Declaration of Establishment of State of Israel|date=14 May 1948|publisher=Israel Ministry of Foreign Affairs|accessdate=21 March 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170317223538/http://www.mfa.gov.il/mfa/foreignpolicy/peace/guide/pages/declaration%20of%20establishment%20of%20state%20of%20israel.aspx|archivedate=17 March 2017}}</ref>。その後、イスラエルはアラブ諸国といくつかの戦争を経験し<ref name="RoutledgeAtlas2">{{Harvnb|Gilbert|2005|p=1}}</ref>、1967年6月の[[第三次中東戦争]]以降は、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原、ガザ地区などの占領地を保有している([[ガザ地区等撤退|2005年の分離独立後]]も占領地とみなされているが、法律の専門家の中にはこの主張に異論がある)<ref>{{Cite web|url=http://opil.ouplaw.com/page/israel-gaza-debate-map|title=Debate Map: Israel|accessdate=2021-07-15}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Cuyckens|first=Hanne|date=1 October 2016|title=Is Israel Still an Occupying Power in Gaza?|journal=Netherlands International Law Review|volume=63|issue=3|pages=275–295|DOI=10.1007/s40802-016-0070-1}}</ref>。その後の立法措置により、[[ゴラン高原]]と[[東エルサレム]]ではイスラエル法が全面的に適用され、ヨルダン川西岸ではイスラエルの入植地への「パイプライニング」により部分的に適用されている<ref>{{Cite book|title=The Question of Palestine & the United Nations|publisher=United Nations Department of Public Information|chapter=The status of Jerusalem|chapterurl=https://www.un.org/Depts/dpi/palestine/ch12.pdf|quote=East Jerusalem has been considered, by both the General Assembly and the Security Council, as part of the occupied Palestinian territory.}}</ref><ref name="Olmertquote">{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/4856762.stm|title=Analysis: Kadima's big plans|newspaper=BBC News|accessdate=10 October 2010|date=29 March 2006}}</ref><ref name="HomelandSecurityBorders">{{Cite web|url=http://www.hstoday.us/index.php?id=483&cHash=081010&tx_ttnews%5Btt_news%5D=873|title=Israel's Hard-Learned Lessons|author=Kessner|first=BC|date=2 April 2006|publisher=Homeland Security Today|accessdate=26 April 2012}}</ref><ref name="TelAvivNotes">{{Cite web|url=http://www.inss.org.il/publications.php?cat=21&incat=&read=203|title=The Legacy of Undefined Borders|author=Kumaraswamy|first=P.R.|date=5 June 2002|publisher=Tel Aviv Notes|accessdate=25 March 2013}}</ref>。イスラエルによるパレスチナ自治区の占領は、現代における世界最長の[[占領|軍事占領]]であると国際的に考えられている<ref name="occhist">See for example: * {{Cite book|title=Courting Conflict: The Israeli Military Court System in the West Bank and Gaza|last=Hajjar|first=Lisa|publisher=University of California Press|date=2005|isbn=978-0-520-24194-7|page=96|url={{Google books|mcjoHq2wqdUC|page=PA96|keywords=|text=|plainurl=yes}}|quote=The Israeli occupation of the West Bank and Gaza is the longest military occupation in modern times.}} * {{Cite journal|last=Anderson|first=Perry|author-link=:en:Perry Anderson|date=July–August 2001|title=Editorial: Scurrying Towards Bethlehem|url=https://newleftreview.org/article/download_pdf?id=2330|journal=New Left Review|volume=10}} * {{Cite book|first=Saree|last=Makdisi|author-link=:en:Saree Makdisi|url={{Google books|2dBM3Ago2BAC|page=PA299|keywords=|text=|plainurl=yes}}|quote=longest-lasting military occupation of the modern age|title=Palestine Inside Out: An Everyday Occupation|publisher=W.W. Norton & Company|date=2010|isbn=978-0-393-33844-7}} * {{Cite journal|last=Kretzmer|first=David|author-link=:en:David Kretzmer|date=Spring 2012|title=The law of belligerent occupation in the Supreme Court of Israel|url=https://www.icrc.org/eng/assets/files/review/2012/irrc-885-kretzmer.pdf|journal=International Review of the Red Cross|volume=94|issue=885|pages=207–236|DOI=10.1017/S1816383112000446}} * {{Citation|title=The Justice of Occupation|quote=Israel is the only modern state that has held territories under military occupation for over four decades|first1=Ra'anan|last=Alexandrowicz|date=24 January 2012|journal=The New York Times|url=https://www.nytimes.com/2012/01/25/opinion/the-justice-of-occupation.html}} * {{Cite book|title=The Role of National Courts in Applying International Humanitarian Law|first=Sharon|last=Weill|url={{Google books|bDnnAgAAQBAJ|page=PA22|keywords=|text=|plainurl=yes}}|page=22|date=2014|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0-19-968542-4|quote=Although the basic philosophy behind the law of military occupation is that it is a temporary situation modem occupations have well demonstrated that ''rien ne dure comme le provisoire'' A significant number of post-1945 occupations have lasted more than two decades such as the occupations of Namibia by South Africa and of East Timor by Indonesia as well as the ongoing occupations of Northern Cyprus by Turkey and of Western Sahara by Morocco. The Israeli occupation of the Palestinian territories, {{underline|which is the longest in all occupation's history}} has already entered its fifth decade.}} * Azarova, Valentina. 2017, [http://www.ecfr.eu/publications/summary/israels_unlawfully_prolonged_occupation_7294 Israel's Unlawfully Prolonged Occupation: Consequences under an Integrated Legal Framework], European Council on Foreign Affairs Policy Brief: "June 2017 marks 50 years of Israel's belligerent occupation of Palestinian territory, making it the longest occupation in modern history."</ref>。[[パレスチナ問題|イスラエルとパレスチナの紛争]]を解決するための努力は、最終的な和平合意には至っていないが、イスラエルは[[エジプト・イスラエル平和条約|エジプト]]と[[イスラエル・ヨルダン平和条約|ヨルダン]]の両国と和平条約を締結している。 イスラエルは[[イスラエルの基本法|基本法]]の中で、自らをユダヤ人と民主主義の国家であり、ユダヤ人の国民国家であると定義している<ref name="freedomhouse2008">{{Cite web|url=http://www.freedomhouse.org/report/freedom-world/2008/israel|website=Freedom in the World|title=Israel|publisher=Freedom House|year=2008|accessdate=20 March 2012}}</ref>。国は、[[議院内閣制|議会制]]、[[比例代表制|比例代表]]制、[[普通選挙]]を採用した[[自由民主主義]]国家である<ref>{{Harvnb|Rummel|1997|p=11}}. "A current list of liberal democracies includes: Andorra, Argentina, ..., Cyprus, ..., Israel, ..."</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.freedomhouse.org/article/global-survey-2006-middle-east-progress-amid-global-gains-freedom|title=Global Survey 2006: Middle East Progress Amid Global Gains in Freedom|accessdate=20 March 2012|date=19 December 2005|publisher=Freedom House}}</ref>。首相は政府の長であり、[[クネセト]]は[[立法府]]である。2019年現在の人口は約900万人<ref>{{Cite web|url=https://www.jewishvirtuallibrary.org/latest-population-statistics-for-israel|title=Latest Population Statistics for Israel|website=www.jewishvirtuallibrary.org|accessdate=23 March 2019}}</ref>で、イスラエルは先進国であり、[[経済協力開発機構|OECD]]加盟国である<ref>{{Cite web|url=https://www.acleddata.com/curated-data-files/|title=Current conflicts|accessdate=2021-07-15}}</ref>。[[各国の名目GDPリスト|名目GDPでは世界第29位]]の経済規模を持ち、[[進行中の武力紛争のリスト|現在紛争中の国]]の中では最も[[人間開発指数による国順リスト|先進的な国]]である。中東で最も生活水準が高く、軍事訓練を受けた国民の割合<ref name="IISS_military">IISS 2018, pp. 339–340</ref>、高等教育の学位を持つ国民の割合<ref name="OECD_education">{{Cite report|date=2016-09-15|title=Education at a Glance: Israel|url=http://www.keepeek.com/Digital-Asset-Management/oecd/education/education-at-a-glance-2016/israel_eag-2016-63-en|publisher=Organisation for Economic Co-operation and Development|accessdate=2017-01-18}}</ref>、[[各国の研究開発費一覧|GDP比の研究開発費]]<ref name="OECD_R&D">{{Cite web|url=https://data.oecd.org/rd/gross-domestic-spending-on-r-d.htm|title=Research and development (R&D) – Gross domestic spending on R&D – OECD Data|website=data.oecd.org|accessdate=10 February 2016}}</ref>、女性の安全性<ref name="NWW_women">{{Cite web|author=Australia|first=Chris Pash, Business Insider|date=2017|title=The 10 safest countries in the world for women|url=https://www.businessinsider.com/the-10-safest-countries-in-the-world-for-women-2018-1|accessdate=23 March 2019|website=Business Insider}}</ref>、平均寿命<ref name="OECD_life_expec">{{Cite web|url=https://data.oecd.org/healthstat/life-expectancy-at-birth.htm|title=Health status – Life expectancy at birth – OECD Data|website=theOECD|accessdate=2021-07-15}}</ref>、革新性<ref name="Bloomberg_innovation">{{Cite web|url=https://www.bloomberg.com/news/articles/2019-01-22/germany-nearly-catches-korea-as-innovation-champ-u-s-rebounds|title=These Are the World's Most Innovative Countries|website=Bloomberg.com|accessdate=24 January 2019}}</ref>、[[世界幸福度報告|幸福度]]<ref name="UN_happiness">{{Cite web|url=http://worldhappiness.report/ed/2018/|title=World Happiness Report 2018|author=Report|first=World Happiness|date=14 March 2018|website=World Happiness Report|language=en-US|accessdate=26 February 2019}}</ref>などで世界の上位にランクインしている。ただし、[[相対的貧困率|相対貧困率]]はOECDで最も高く、[[ジニ係数]]も高い格差社会という課題もある<ref>{{Cite web|和書|title=貧困率トップはイスラエル:OECD加盟国の経済格差調査 |url=https://www.huffingtonpost.jp/2013/05/22/israel_poverty_rate_n_3316773.html |website=ハフポスト |date=2013-05-22 |access-date=2022-05-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/06/post-10295.php |title=イスラエルを逃げ出す優秀な頭脳 |access-date=2022-05-16 |publisher=Newsweek}}</ref>。 == 国名 == イスラエルという名称は[[ヘブライ語]]で「神が支配する」「神と競う」「神が勝つ」などの意味をもつと解釈される<ref>{{Cite Kotobank|word=イスラエル|author=高橋和夫|encyclopedia=日本大百科全書|access-date=2023年11月22日}}</ref>。これは旧約聖書に登場する[[ヤコブ (旧約聖書)|ヤコブ]]の改名後の名前であり、ヤコブは伝統的には[[ユダヤ人]]の祖先と考えられている。そのため、古代にユダヤ人が王国を築いた地域はイスラエルの地(エレツ・イスラエル)と呼ばれた。独立直前にはユダ(Judea)、エレツ・イスラエル、シオン(Zion)、新ユダ(NewJudea)なども国名候補として存在した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jpress.org.il/Repository/getFiles.asp?style=OliveXLib:LowLevelEntityToSaveGifMSIE_TAUEN&Type=text/html&Locale=english-skin-custom&Path=PLS/1947/12/07&ChunkNum=-1&ID=Ar00105&PageLabel=1|accessdate=2014-04-07|title=Popular Opinion|date=1947-12-07|publisher=[[エルサレム・ポスト|パレスチナ・ポスト]]}}</ref>。国名を「ユダ」とすると、宗教・民族上の「ユダヤ人」と国籍上の「ユダヤ人」の区別が難しくなること。「シオン」とすると、非ユダヤ人国民も「シオニスト」と呼ばれるようになることから、二つは候補から外されたという説がある<ref>{{Cite book|和書|author=シュロモー・サンド |authorlink=シュロモー・ザンド |others=[[高橋武智]] 監訳、佐々木康之・木村高子 訳 |title=ユダヤ人の起源: 歴史はどのように創作されたのか |origyear=2008 |date=2017-07-06 |publisher=[[筑摩書房]] |series=ちくま学芸文庫 |isbn=978-4480097996 |pages=549-550}}</ref>。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は、'''以色列'''。 == 歴史 == {{Main|イスラエルの歴史}} === 古代 === {{Main|古代イスラエル}} [[File:イスラエル王国とユダ王国.svg|thumb|[[イスラエル王国]]と[[ユダ王国]]]] 古代にはこの地は[[肥沃な三日月地帯]]であり、[[カナン]]の地と呼ばれ、カナン人をはじめ様々な民族が住んでいた。ユダヤ人の祖先となる[[ヘブライ人]]も移住してきたが、子孫たちは[[エジプト]]に移住しエジプト人の[[奴隷]]となっていった。長い期間を経て[[出エジプト記|エジプトを脱出]]したヘブライ人([[イスラエル (民族)|イスラエル人]])はこの地を征服し、[[紀元前11世紀]]ごろに[[イスラエル王国]]が成立した{{sfn|ロス|1997|pp=8-20}}。しかし[[紀元前930年]]ごろ、内乱のためイスラエル王国は南北に分裂した。北の[[イスラエル王国]]は[[紀元前722年]]に[[アッシリア]]に滅ぼされ、南の[[ユダ王国]]は[[紀元前586年]]に[[新バビロニア]]に滅ぼされた{{sfn|ロス|1997|pp=24-37}}{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=12}}。新バビロニアも[[アケメネス朝|ペルシア帝国]]に滅ぼされ、その後、パレスチナの地は[[アレクサンドロス3世|アレクサンダー大王]]の東方遠征により征服される。アレクサンダー大王の死後、[[マケドニア王国|マケドニア]]は分裂し、パレスチナは[[セレウコス朝]](シリア王国)の支配下に入るが、[[マカバイ戦争]]を経てユダヤ人の王朝である[[ハスモン朝]]が成立する{{sfn|ロス|1997|pp=53-59}}。[[紀元前1世紀]]にハスモン朝は[[ローマ帝国]]の保護国となり、のちにローマ帝国の[[属州]]([[ユダヤ属州]])となる{{sfn|ロス|1997|pp=63-64}}。[[西暦]][[66年]]には独立を目指して[[ユダヤ戦争]](第1次ユダヤ戦争)が勃発するが、[[70年]]にローマ帝国により鎮圧された{{sfn|ロス|1997|pp=75-79}}。[[132年]]に[[バル・コクバ]]に率いられた[[バル・コクバの乱]](第2次ユダヤ戦争)が起き、一時はユダヤ人による支配権を取り戻したが、[[135年]]に再びローマ帝国に鎮圧され、名称もシリア・パレスティナ属州に変わった{{sfn|ロス|1997|pp=82-59}}<ref>{{Cite book|title=Judaea in Hellenistic and Roman Times: Historical and Archaeological Essays|author=Shimon Applebaum|publisher=Brill Archive|year=1989|isbn=978-9004088214|url=https://books.google.co.jp/books?id=ScwUAAAAIAAJ&pg=PA93|page=93}}</ref>{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=20}}。離散ユダヤ人([[ディアスポラ]])は早い時期から存在したが、この時に数多くのユダヤ人がディアスポラとなっていった{{sfn|ロス|1997|pp=98-99}}。 === 中世 === [[ファイル:1099 Siege of Jerusalem.jpg|thumb|180px|[[エルサレム攻囲戦 (1099年)|エルサレム攻囲戦(1099年)]]]] [[636年]]に[[東ローマ帝国]]が[[正統カリフ]]に敗北し、以後、[[第一次世界大戦]]における[[オスマン帝国]]の敗退までのほとんどを[[イスラム教]]国家の支配下に置かれることになる。[[1099年]]に[[第1回十字軍]]によりエルサレムが占領され[[キリスト教]]国である[[エルサレム王国]]が成立した。しかし[[1187年]]、[[ヒッティーンの戦い]]で[[アイユーブ朝]]に破れエルサレムを再占領されると、1200年ごろにはエルサレム王国の支配地域は地中海沿いのみとなっていた。わずかな支配地域を維持していたエルサレム王国は、[[1291年]]に[[マムルーク朝]]により完全に滅亡した。[[1517年]]にはオスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼしこの地方を支配した{{sfn|イスラエル外務省|2010|pp=22-25}}。 === シオニズムの興隆 === {{see also|シオニズム}} 1834年に[[セルビア]]に住む[[セファルディム]]系の宗教的指導者[[イェフダー・アルカライ]]が小冊子を発行し、[[聖地]]での[[贖罪]]を前提とした帰還を唱えた{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=113}}。こうした宗教的意味合いの強い{{仮リンク|宗教的シオニズム|en|Religious Zionism}}とは別に[[モーゼス・ヘス]]は1862年、[[反ユダヤ主義]]への解決策としてユダヤ人の民族主義を復興し、ユダヤ人の国家を築くべきだと訴えた。これは世俗的(政治的)シオニズムと呼ばれる{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=118}}。 1882年に第一次[[アリヤー]](ヘブライ語で「上がる」こと、[[シオン]]([[エルサレム]])への帰還の意)が始まる。[[東ヨーロッパ]]から2万5000人{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=129}}から3万5000人<ref>{{Cite web|url=http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Immigration/First_Aliyah.html|accessdate=2014-04-04|title=The First Aliyah (1882-1903)|publisher=Jewish Virtual Library}}</ref>{{sfn|立山|2012|p=44}}のユダヤ人がオスマン帝国支配下のパレスチナに移住した。のちにシオニズム運動を主導していく[[テオドール・ヘルツル]]は[[同化政策|同化]]主義者であったが、ユダヤ人が[[冤罪]]で逮捕された[[ドレフュス事件]]を新聞記者として取材し、ユダヤ人に対する差別に衝撃を受け民族主義者へと転じた{{sfn|シュラキ|1974|p=21}}{{sfn|立山|2012|p=33}}。このころからシオニズムという言葉が現れるようになる{{sfn|ハレヴィ|1990|p=246}}。ヘルツルはオスマン帝国の[[スルタン]][[アブデュルハミト2世]]を含む、各国の要人たちにユダヤ人国家設立を請願した{{sfn|ハレヴィ|1990|p=255}}{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=8-11, 125-127}}。このころ、東欧や[[ロシア帝国]]ではユダヤ人が虐殺される[[ポグロム]]が繰り返し発生していた{{sfn|ロス|1997|pp=251-254}}。 1897年には[[スイス]]の[[バーゼル]]で第1回[[シオニスト会議]]が開催され、世界シオニスト機構が設立された{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=124-125}}。1904年から始まった第二次アリヤーでは4万人ほどが移住し<ref>{{Cite web|url=http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Immigration/Second_Aliyah.html|accessdate=2014-04-04|title=The Second Aliyah (1904-1914)|publisher=Jewish Virtual Library}}</ref>{{sfn|立山|2012|p=44}}、1909年には[[ルーマニア]]からの移民が[[テルアビブ]]を建設した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=130}}。ヘルツルは「ユダヤ人国家」の候補地としては必ずしもパレスチナにこだわってはおらず、初期には[[アルゼンチン]]や[[ウガンダ]]も挙がっていたが、「シオンなきシオニズム」はあり得ないとされ、パレスチナ以外の選択肢は存在しなくなった{{sfn|ハレヴィ|1990|p=251}}{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=128}}。 最も戒律を厳格に守る[[超正統派 (ユダヤ教)|超正統派]]は、パレスチナ人の地域の領土を奪いイスラエルを建国した事に対し、イスラエルが[[旧約聖書|聖書]]の「[[モーセの十戒|汝、殺すなかれ、盗むなかれ]]」に違反しているとして、「彼らは禁忌を犯した」という認識を持つ。「聖書の教えに反した行いは同胞といえど肯定できない」とし、「真のイスラエルは人ではなく我らの神が作る天の御国である。」、「[[メシア]](救世主)が現れないと真のユダヤ国家は実現できない、しかし、まだメシアは現れていない、だから現在のイスラエル国家は偽物であり、認められない。」という立場をとっている<ref>{{Cite web |title=「パレード」から読み解くニューヨーク|橘宏樹 {{!}} 遅いインターネット |url=https://slowinternet.jp/article/officialsdiary10/ |website=遅いインターネット BY PLANETS |date=2023-10-12 |access-date=2023-10-16 |language=ja}}</ref><ref name=":22">{{Cite web |title=Ultra-Orthodox & Anti-Zionist |url=https://www.myjewishlearning.com/article/ultra-orthodox-anti-zionist/ |website=My Jewish Learning |access-date=2023-10-14 |language=en-US}}</ref><ref name=":12">{{Citation|title=Rebel Rabbis: Anti-Zionist Jews Against Israel|url=https://www.youtube.com/watch?v=FKplabTRuak|language=ja-JP|access-date=2023-10-14}}</ref>。中でも「超正統派の中の超正統派」とされる団体[[ナートーレー=カルター]]はイスラエル国内でパレスチナ解放運動と[[反シオニズム]]活動を行っており、[[正統派 (ユダヤ教)|正統派]]などの他のユダヤ系やイスラエル国民から批判を浴びる事もあるが、超正統派は「我々が仕えるのは神である」と反論している。 厳格なユダヤ教徒の一人である[[ヤコヴ・ラブキン|ヤコブ・ラプキン]]教授は、「寛大な古き良きユダヤ教徒の姿をシオニストは侮辱した」と批判している<ref name="Kamali">ムハンマド・ハーシム・カマリー(Mohammad Hashim Kamali)「イスラームとユダヤ教 ―法的・神学的視点から―」一神教学際研究 5,2010年2月</ref>。 === イギリス委任統治領パレスチナ === {{Main|イギリス委任統治領パレスチナ}} [[ファイル:Sykes-Picot-1916.gif|thumb|200px|サイクス・ピコ協定により分割された中東]] [[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が勃発し、オスマン帝国は[[ドイツ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[中央同盟国|三国同盟]]側で参戦する。[[イギリス]]は戦争を有利に進めるため、「[[三枚舌外交]]」と呼ばれる数々の密約を結んだ。[[フランス]]やロシアとは[[サイクス・ピコ協定]]を結び、[[アラブ人]]とは[[フサイン=マクマホン協定]]を結んだ。そしてユダヤ人に対しては[[バルフォア宣言]]を行った{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=15-18}}。これは1917年11月2日、[[外務・英連邦大臣|英国外相]][[アーサー・バルフォア|バルフォア]]がユダヤ人の民族郷土建設について支持を表明したもので、[[ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵)|ロスチャイルド卿]]に宛てた書簡に記されていたものである{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=133}}。 1918年10月30日、オスマン帝国は降伏し、イギリスの占領統治が始まった。1922年には[[国際連盟]]で定められた[[委任統治]]制度により、この地はイギリス委任統治領パレスチナとして運営されることとなった。施政を担当する初代[[高等弁務官]]にはユダヤ人の[[ハーバート・サミュエル (初代サミュエル子爵)|ハーバート・サミュエル]]が就いた。この委任統治決議の文書には、バルフォア宣言を再確認する文言が含まれていた{{sfn|シュラキ|1974|p=26}}。アラブ人はバルフォア宣言の撤回を要求し続け、イギリスの提案する立法評議会への協力やアラブ機関の設立などを頑なに拒否した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=22-31}}。その間にもユダヤ人は移民を進め、ユダヤ機関の設立、自警組織[[ハガナー]]の結成、[[ヘブライ大学]]の開校など、ユダヤ人国家建設に向けてパレスチナにおけるユダヤ人コミュニティー([[イシューブ]])を着実に大きくしていった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=134-141}}。 1929年、[[嘆きの壁事件]]が発生した。アラブ人によるユダヤ人襲撃が行われ、133名のユダヤ人が殺害され339名が負傷した。アラブ人にも110名の死者が出たが、そのほとんどはイギリスの警察や軍によるものだった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=33-34, 142-143}}。この事件を受けイギリスは2つの調査委員会を派遣した。調査委員会はどちらも、事件の要因はユダヤ人移民のコミュニティーが大きくなり、アラブ人がそれに脅威を感じたこととし、ユダヤ人の移民と土地購入について再検討を勧告した。一時は勧告に従った白書が出るものの、ユダヤ側の反発に遭って撤回され、方針が変わることはなかった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=34-35, 144-145}}{{sfn|立山|2012|p=46}}。 1936年、アラブ人によるユダヤ人襲撃とその報復が引き金となり、[[パレスチナ独立戦争|アラブ反乱]]が発生する。イギリスは[[ピール調査委員会]]を派遣し、パレスチナの分割を提案した。ユダヤ側は国家創設の足がかりとしてこれを受け入れたが、アラブ側はこれを拒否した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=149-150}}。調査委員会の活動が終わると、再びパレスチナ全土で反乱が起こり、1939年に収束するまでに、アラブ人に多数の死傷者と逮捕者を出した{{sfn|ロス|1997|pp=277-278}}。 1939年5月に、[[イギリス政府]]の方針を大きく変えるマクドナルド白書が出される。この白書は移民および土地売買に関して制限を設けるものであった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=41-42}}。アラブの主張に沿った方針であったが、アラブ人はイギリスをもはや信用せず拒絶し、当然ユダヤ人も拒否しイギリス政府に対する不信を強めることになった{{sfn|阿部|2004|p=33}}。ユダヤ人はアラブ反乱からさらなる防衛力の必要性を感じ、またイギリス政府の方針変更に武力で抵抗するため、[[ハガナー]]や[[イルグン]]、[[レヒ]]といった武装組織を強化していった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=44, 150-152}}。 [[第二次世界大戦]]が始まり、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[ホロコースト]]がイシューブに伝わり、多くのユダヤ人を震撼させた。ユダヤ人にとってパレスチナへの避難は急を要したが、イギリスは移民制限を変えることはなかった。しかしながら、戦時中はユダヤ人の反英闘争は鳴りを潜め、[[義勇兵]]として[[イギリス軍]]とともに戦った{{sfn|ロス|1997|pp=291-292}}{{sfn|シュラキ|1974|pp=30-31}}。戦争が終わるとイギリス政府は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に共同調査委員会の設立を提案し、英米調査委員会が設立された。委員会は[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]にいる10万人のユダヤ人をパレスチナに移住させるようイギリス政府に勧告したが、イギリス政府はこの勧告を受け入れず移民制限を変更しなかった。これを受け、[[キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件]]などユダヤ人[[過激派]]の反英闘争が激化することとなった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=157-159}}。 === 建国と第一次中東戦争 === {{Main|パレスチナ分割決議|第一次中東戦争|イスラエル銀行}} ついにイギリスは委任統治を諦め、パレスチナ問題について[[国際連合]]の勧告に委ねることにした。国連の調査委員会では、ユダヤ人の国家とアラブ人の国家を創設する分割案と連邦制国家とする案が出たが、最終的に分割案が国連総会で採択された<ref>{{Cite web|url=http://unispal.un.org/UNISPAL.NSF/0/07175DE9FA2DE563852568D3006E10F3|accessdate=2014-01-20|title=UNITED NATIONS: General Assembly: A/364: 3 September 1947: OFFICIAL RECORDS OF THE SECOND SESSION OF THE GENERAL ASSEMBLY: SUPPLEMENT No. 11: UNTIED NATIONS SPECIAL COMMITTEE ON PALESTINE: REPORT TO THE GENERAL ASSEMBLY: VOLUME 1|date=1947-09-03}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://unispal.un.org/UNISPAL.NSF/eed216406b50bf6485256ce10072f637/46815f76b9d9270085256ce600522c9e?OpenDocument|accessdate=2014-01-22|title=A/PV.128 of 29 November 1947|date=1947-11-29}}</ref>。イギリスは「[[1948年]][[5月15日]]をもって委任統治を終了する」とした。イギリスは紛争への介入を止め、両陣営の相手に対する攻撃は活発となった。ベン・イェフダ通り爆破事件(死者ユダヤ人55名)とその報復で起こった[[レホヴォト]]の列車爆破事件(死者イギリス人28名)や[[デイル・ヤシーン事件]](死者アラブ人100名以上)、[[ハダサー医療従事者虐殺事件]](死者ユダヤ人70名以上)など、ユダヤ人・アラブ人双方による襲撃事件が多発した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=161-162}}。 緊迫した状況であったが、ユダヤ人は[[1948年]][[5月14日]]'''[[イスラエル独立宣言]]'''を行った{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=37}}。 [[File:1948 Arab Israeli War - May 15-June 10.svg|thumb|[[第一次中東戦争]]]] これに対しアラブ諸国は、パレスチナ人を支援するため軍隊を動員し、5月15日、パレスチナに侵攻、[[第一次中東戦争]]が勃発した。装備が整っていなかったイスラエル軍は苦戦を強いられるもののアラブ諸国の軍を食い止め、両陣営は5月29日の国連の停戦呼びかけに応じて6月11日から4週間の停戦に至った{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=163-164}}。イスラエルはこの期に[[ハガナー]]を中心とした軍の再編成を行い、'''[[イスラエル国防軍]]'''を創設した。国連特使の[[フォルケ・ベルナドッテ]]がパレスチナの問題解決のため新たな連邦案を提案したが、イスラエル・パレスチナ双方ともに受け入れることはなかった。彼は9月17日にイスラエルの過激派[[レヒ]]によって暗殺された。イスラエルには非難が集まり、レヒと[[エツェル|イルグン]]の解体につながった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=164-165}}。1949年2月24日、イスラエルは[[エジプト]]と[[休戦協定]]を締結した。続いて、[[レバノン]]と3月23日、[[ヨルダン|トランス・ヨルダン]]と4月3日、[[シリア]]とは7月20日にそれぞれ休戦協定を結び、第一次中東戦争は終結した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=167}}。イスラエルの兵力は開戦当初3万人ほどであったが、終戦時には11万人近くになっていた。また、戦争前の内戦状態から戦時中にかけ数十万人もの[[パレスチナ難民]]が発生することとなった{{sfn|シュラキ|1974|pp=44-46}}。こうした難民が放棄していった財産は、1950年の不在者財産没収法により、イスラエルに没収された{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=178-179}}。エジプトは[[ガザ地区]]に軍隊を駐留させ、ヨルダンは1950年に[[ヨルダン川西岸地区]]を領土に編入した{{sfn|阿部|2004|pp=55-58}}。 イスラエルは1949年5月11日に国際連合の加盟を承認された<ref>{{Cite web|url=http://www.un.org/en/ga/search/view_doc.asp?symbol=A/PV.207&Lang=E|accessdate=2014-04-03|title=Admission of Israel to membership in the United Nations (A/PV.207) |publisher=国際連合|date=1949-05-11|format=PDF}}</ref>。 === 第二、第三次中東戦争 === 1956年10月29日、エジプトの[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル大統領]]の[[スエズ運河]]国有化宣言に対応して、英・[[フランス|仏]]・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻し、[[第二次中東戦争]]が勃発した。エジプトの敗北は目前と思われたが、この侵攻はアメリカと[[ソビエト連邦]]という[[超大国]]たちの猛烈な反発を招き、結局11月8日に停戦した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=168-170}}。 1960年5月11日、[[イスラエル諜報特務庁]](モサド)はナチスのホロコーストに関与した[[アドルフ・アイヒマン]]の身柄を確保した。裁判はメディアによって大々的に報道された。1961年12月15日、アイヒマンに死刑が宣告され、翌年5月31日に刑が執行された{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=172}}{{sfn|立山|2012|pp=53-54}}。 [[File:Six Day War Territories.svg|thumb|200px|第三次中東戦争にて占領した地域]] 1967年5月、エジプトは[[ティラン海峡]]を封鎖した。これに対しイスラエルは6月5日に[[奇襲]]攻撃を仕掛け、エジプト軍航空機のほとんどを離陸前に破壊した。エジプトから[[シナイ半島]]とガザ地区を、同戦争に参戦したシリアから[[ゴラン高原]]を、ヨルダンからエルサレム旧市街を含む東エルサレムとヨルダン川西岸を奪い取り、その領土は戦前の3.5倍にもなった。6月10日、この[[第三次中東戦争]]はわずか6日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=173-176}}{{sfn|立山|2012|p=64}}。1967年11月22日、[[国際連合安全保障理事会]]は、イスラエルが占領した領地からの撤退を求める内容を含んだ[[国際連合安全保障理事会決議242|国連安保理決議242号]]を全会一致で採択した<ref>{{Cite web|url=http://unispal.un.org/unispal.nsf/0/7D35E1F729DF491C85256EE700686136|accessdate=2014-04-05|title=S/RES/242 (1967) of 22 November 1967|date=1967-11-22}}</ref>。この決議は中東和平の基本的枠組みとなっていくが、条文が曖昧といった問題をはらんでいた。イスラエルはこの決議に対し、「すべての」占領地域から撤退するとは書かれていないと主張した{{sfn|阿部|2004|p=75}}。 1950年代の終わりごろ、パレスチナ側では[[ヤーセル・アラファート]]率いる[[ファタハ]]が結成された。またアラブ諸国主導で[[パレスチナ解放機構]](PLO)が設立された。当初PLOは過激な武装闘争グループではなかったが、アラファートがトップに立つと、その性格を過激なものに変えていった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=58-68}}。PLOはヨルダンを活動拠点としていたが、次第に関係が悪化し1970年9月17日ヨルダン軍はPLOを攻撃、内戦状態となった。これは「黒い九月事件」と呼ばれ、過激派組織「[[黒い九月]]」はここから名称をとっている。黒い九月は1972年9月5日に、[[ミュンヘンオリンピック事件]]を引き起こしている{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=67-72}}。 ミュンヘンオリンピック事件後の1972年9月16日、イスラエル軍は空・陸からレバノン領に侵攻。レバノン南部にあるアラブ・ゲリラの基地、拠点群を攻撃後、短期間でイスラエル領内へ引き揚げている<ref>「レバノンへ侵攻 半日で一部撤収 南部ゲリラ基地を掃討」『[[朝日新聞]]』昭和47年(1972年)9月17日、13版、1面</ref>。 === 第四次中東戦争からインティファーダ === 1973年10月6日、エジプトとシリアはイスラエルを奇襲し、[[第四次中東戦争]]が始まった。開戦当初、エジプトとシリアは不意を突き、イスラエルに大きな損害を与えたが、その後の反攻でイスラエルは前線を押し戻した。10月22日には停戦を要求する国連安保理決議338号が採択され、戦争は終結に向かった。イスラエル国内では先制されたことに対し軍と政府に批判が集まり、[[イスラエルの首相|首相]][[ゴルダ・メイア]]が辞任することになった{{sfn|立山|2012|p=68}}。 [[File:Sadat Carter Begin handshake (cropped) - USNWR.jpg|thumb|エジプトの[[アンワル・アッ=サーダート|サダト]]大統領とイスラエルの[[メナヘム・ベギン|ベギン]]首相]]エジプトのサダト大統領は、アラブの大統領として初めてイスラエルを訪問し、11月20日、イスラエルの国会である[[クネセト]]で演説を行った{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=75-76, 185}}。 1978年9月5日から、米国[[メリーランド州]][[キャンプ・デービッド]]において、[[ジミー・カーター|カーター]][[アメリカ合衆国大統領|米国大統領]]、エジプトの[[アンワル・アッ=サーダート|サダト]]大統領、イスラエルの[[メナヘム・ベギン|ベギン]]首相の三者会談が開かれ、[[キャンプ・デービッド合意]]が成立した。イスラエルの占領地からの撤退とパレスチナ人の自決権についての合意であり、サダトとベギンは平和貢献を認められ1978年の[[ノーベル平和賞]]を共同受賞している。1979年3月に[[エジプト・イスラエル平和条約]]が締結された。当事者であるパレスチナ人は「合意内容はイスラエルの主張寄りであり{{sfn|阿部|2004|pp=78-79}}、パレスチナ人のためのものではなく、エジプトとイスラエルのための合意である」と合意に反対した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=76, 83}}。1981年10月6日、サダトは[[イスラム過激派]]により{{仮リンク|アンワル・アッ=サーダート暗殺事件|en|Assassination of Anwar Sadat|label=暗殺}}された。 1981年6月、イスラエルは[[イラク]]の[[核兵器]]開発を阻止すべく、イラクの[[原子炉]]を攻撃した([[イラク原子炉爆撃事件]]){{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|p=186}}。 1978年3月と1982年6月の2度にかけて、イスラエルはレバノンの首都[[ベイルート]]に本部を移したPLOを駆逐し、内戦中であったレバノンの少数派[[キリスト教徒]]保護と親イスラエル政権の樹立を目指し、[[レバノン内戦|レバノン侵攻]]を開始した。[[アリエル・シャロン|シャロン]]国防相に率いられたイスラエル軍とレバノンの同盟勢力[[ファランヘ党 (レバノン)|ファランヘ党]]は、PLOをベイルートから追放し、ファランヘ党のバシール・ジュマイエルがレバノンの大統領に選出された。しかしジュマイエルは就任直前に[[暗殺]]され、ファランヘ党員は報復のためサブラ・シャティーラ難民キャンプに侵入し、数百人とも3,000人ともいわれる非武装の難民を[[虐殺]]した([[サブラー・シャティーラ事件]]){{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=187-188}}{{sfn|立山|2012|p=69}}。アリエル・シャロン国防相は「殺害を傍観した不作為の罪」を問われ、国防相を辞任した。 1987年12月、イスラエル軍の車両が、アラブ人の労働者を乗せた2台の車と衝突して4人が死亡したことをきっかけに、民衆蜂起([[第1次インティファーダ|インティファーダ]])が起こった。民衆は[[バリケード]]を築き、[[投石]]を行い、[[火炎瓶]]を投げた。イスラエル当局はこれを鎮圧し、死傷者も出たが、インティファーダは全占領地に広がった。インティファーダには大人だけでなく子どもも参加した。武装した兵士に立ち向かう少年の映像が報道され、国際的な非難がイスラエルに集まった{{sfn|奈良本|1997|pp=177-183}}。国連安保理は1987年12月22日、イスラエルを非難する決議を採択した<ref>{{Cite web|url=http://unispal.un.org/UNISPAL.NSF/0/A734F62E7C6F8EF9852560DE00695C66|accessdate=2014-04-05|title=S/RES/605 (1987) of 22 December 1987|date=1987-12-22|publisher=国際連合}}</ref>。1988年7月、ヨルダンはヨルダン川西岸地区の[[主権]]を放棄し、それに伴い1988年11月、PLOはエルサレムを首都とするパレスチナ国の樹立を宣言した{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=84-85}}。 1991年、[[湾岸戦争]]が勃発し、イラクによる[[スカッド|スカッドミサイル]]の攻撃を受けたが、イスラエルの報復攻撃は行われなかった{{sfn|立山|2012|p=70}}。 === オスロ合意から現在 === [[File:Flickr - Government Press Office (GPO) - THE NOBEL PEACE PRIZE LAUREATES FOR 1994 IN OSLO..jpg|thumb|左から[[ヤーセル・アラファート]]、[[シモン・ペレス]]、[[イツハク・ラビン]](1994年のノーベル平和賞受賞時)]] 1992年、米ソ共催による[[マドリード]]中東和平国際会議が開かれた。同年、パレスチナとの和平交渉に前向きな姿勢を見せる[[イツハク・ラビン]]が首相に選出された。また、[[ノルウェー]]の仲介によりパレスチナとの交渉が進められ、1993年9月13日に[[オスロ合意]]が成された。PLOはイスラエルを[[国家の承認|国家として承認]]し、イスラエルもまたPLOをパレスチナ人の代表として認め、パレスチナ人の暫定的な自治を認めるものだった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=92, 199}}。この功績からヤーセル・アラファート、イツハク・ラビンと外務大臣の[[シモン・ペレス]]はノーベル平和賞を共同受賞している。しかし、イスラエル・アラブ双方の過激派はこれを認めなかった。イスラエル人の[[バールーフ・ゴールドシュテイン]]が[[マクペラの洞窟虐殺事件|ヘブロン事件]]を起こし29人を殺害すると、報復に[[ハマース]]が[[自爆テロ]]を何度となく繰り返し起こした{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=199-201}}。このような状況下であったが、ラビンはさらなる和平に向けてオスロIIに向けて邁進し、1995年9月、調印を行った。オスロIIはイスラエル国内の批判も大きく、野党からはラビンを売国奴と罵る者もいた{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=201-203}}。1995年11月4日、平和集会に参加していたラビンはユダヤ人学生に射殺された{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=93, 203}}。 その後も、自爆テロを含むテロ行為が、ハマースなどによって絶え間なく引き起こされた。2000年9月にはアリエル・シャロンのエルサレム、[[アル=アクサー・モスク]]([[神殿の丘]])訪問をきっかけに[[:en:Al-Aqsa Intifada|アル・アクサ・インティファーダ]](第2次インティファーダ)が起こった{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=203-209}}。 2002年に、テロリストの侵入を阻むため、[[イスラエル西岸地区の分離壁|分離壁]]の建設を開始した。 2006年7月12日、[[ヒズボラ]]の攻撃に対し、報復として拠点を破壊すべく[[レバノン侵攻 (2006年)|レバノンに侵攻]]した。2008年12月27日、ハマース掃討のため[[ガザ地区]]に大規模な空爆を実行、翌年1月には地上からの侵攻も開始した。この攻撃で民間人にも犠牲者が出た{{sfn|立山|2012|p=339}}。 2016年12月23日、国連安保理でイスラエルのパレスチナ占領地への入植活動を「法的な正当性がなく[[国際法]]に違反する」とし「東エルサレムを含む占領地でのすべての入植活動を迅速かつ完全に中止するよう求める」決議が採択され、賛成14票、反対1票で可決された。同様の決議に対ししばしば拒否権を行使していた[[バラク・オバマ]]政権下のアメリカは今回は棄権した<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM24H0W_U6A221C1NNE000/] - 2016年12月27日閲覧</ref>。この決議の後にネタニヤフ首相は、賛成した10か国の[[大使]]を呼び出して直接注意し、[[外務省 (イスラエル)|外務省]]に対して、(賛成した14か国のうちイスラエルと外交関係にある)12か国([[日本]]、イギリス、フランス、[[ロシア連邦]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[ウクライナ]]、[[アンゴラ]]、エジプト、[[ウルグアイ]]、[[スペイン]]、[[セネガル]]、[[ニュージーランド]])との外交関係を制限するように命じた<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/35094315.html] - 2016年12月27日閲覧。</ref>。 イスラエル建国70周年を迎えた2018年5月14日、[[ドナルド・トランプ]]政権下のアメリカは在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムに移転した。これを受け、パレスチナとイスラエルとの軍事衝突が一時的に拡大した。アメリカ大使館の移転に続いて、[[グアテマラ]]と[[パラグアイ]]も大使館をエルサレムに移転した<ref>{{Cite web|和書|title=米に続き豪やブラジル、エルサレムへの大使館移転を検討 イスラエル首相「歴史的な一歩」|url=https://www.sankei.com/article/20181111-JRNXEOL6WRIYJM7M44ARWWRPFM/|website=[[産経デジタル|産経ニュース]]|publisher=産経新聞社|date=2018-11-11|accessdate=2021-08-10}}</ref>。 2018年7月19日、[[クネセト]]は、イスラエルを「ユダヤ人の国家」と定義する法案の採決を行い、これを採択した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3183010|title=イスラエル議会、「ユダヤ国家法」採択 アラブ系住民排斥への不安高まる|publisher=AFP|date=2018-07-19|accessdate=2018-07-29}}</ref>。この「[[ユダヤ人国家法]]」はエルサレムを「統一された首都」と位置づけ、[[公用語]]は[[ヘブライ語]]のみとして[[アラビア語]]を除外した。このためアラブ系議員らは抗議し、賛成62人、反対55人だった<ref>[https://www.sankei.com/article/20180719-55DXBQAF6FIOFCWVOHWTYHWIHY/ 「ユダヤ国民国家法案 可決/イスラエル国会 2国家共存封じ」]『産経新聞』朝刊2018年7月20日(国際面)2018年7月31日閲覧</ref>。 === 2023年の戦闘 === {{main|2023年パレスチナ・イスラエル戦争}} 2023年10月7日、パレスチナのガザ地区を支配するイスラム組織ハマスがイスラエルに数千発のロケット弾を撃ち込み、戦闘員を侵入させた<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20231007-OYT1T50201/|title=イスラエルの死者100人、首相「我々は戦争状態にある」…ガザへの報復空爆で198人死亡 : 読売新聞|accessdate=2023-10-15}}</ref>。同日、イスラエルの[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]首相は「我々は戦争状態にある」とする声明を出し、イスラエル軍も報復作戦を開始した<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231007/k10014218571000.html|title=ガザ地区からロケット攻撃 イスラエル報復 首相“戦争状態に” | NHK | イスラエル・パレスチナ|accessdate=2023-10-15}}</ref>。また、イスラエルは11日に「戦時内閣」を発足させた<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20231012/k00/00m/030/020000c|title=イスラエル、戦時内閣を発足「ハマスを地球上から消し去る」 | 毎日新聞|accessdate=2023-10-15}}</ref>。この戦争で、14日までにガザ地区で2215人、イスラエル側で少なくとも1300人が死亡した<ref>{{Cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231014/k10014225381000.html|title=イスラエル軍 ハマス幹部ら殺害 大規模軍事作戦に向け準備か | NHK | イスラエル・パレスチナ|accessdate=2023-10-15}}</ref>。イスラエルにこれほどの被害が出たのは第4次中東戦争以来だと報じられた<ref>{{Cite news|url=https://www.iza.ne.jp/article/20231008-IJTWTBXEDRJ3BGHZLEQAC4WRF4/|title=戦闘の死者900人超に イスラエル「第4次中東戦争」以来50年ぶり大被害 - イザ!|accessdate=2023-10-15}}</ref>。 == 政治 == [[イスラエルの政治]]は行政、司法、立法と国家[[元首]]である大統領からなる。[[間接民主主義|議会制民主主義]]を採用し、[[行政機関|行政府]]([[政府]])は、[[立法府]]([[クネセト]])の信任を受け、[[司法府]]([[裁判所]])は[[法 (法学)|法]]により完全なる独立を保証されている。イスラエルは[[非成典憲法]]であり、国家の政治制度を規定した各[[イスラエルの基本法|基本法]]は通常の法律と同等に改正することができる{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=76}}。[[選挙権]]は18歳以上に与えられ、[[被選挙権]]は21歳以上に与えられる。選挙投票日は休日となり、入院中の人間や受刑者にも投票権が与えられる。投票率は通常8割から9割程度である{{sfn|イスラエル外務省|2010|pp=83-84}}<ref name="syugiin_report">{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/report2001.pdf/$File/report2001.pdf|title=衆議院ロシア等欧州各国及びイスラエル憲法調査議員団報告書|accessdate=2014-04-07|date=2001-11|pages=269-279|format=PDF|publisher=[[衆議院]]}}</ref>。 イスラエルは建国宣言で「ユダヤ人の国家(JewishState)」と規定されており、ユダヤ人の定義は、『[[帰還法]]』(1970年改正)により、「ユダヤ教徒もしくはユダヤ人の母親から生まれたもの」と定義している。同時にアラブ人の[[市民権]]なども認めており、ユダヤ人「のみ」の国家というわけではない<ref>{{Cite web|url=http://www.mfa.gov.il/mfa/foreignpolicy/peace/guide/pages/declaration%20of%20establishment%20of%20state%20of%20israel.aspx|accessdate=2014-04-07|title=Declaration of Establishment of State of Israel|date=1948-05-14|publisher=イスラエル外務省}}</ref>。ユダヤ教の教義に基づく[[安息日]]の労働を禁ずる法が存在し、教育に関する法ではユダヤ教文化を重視することが盛り込まれている<ref name="syugiin_report"/>。1990年代に『基本法:人間の尊厳と自由』と『基本法:職業の自由』が制定された。また、1995年に最高裁が基本法は一般の法に優越するとの判断を下し、この時期を「憲法革命」と呼ぶ<ref name="syugiin_report"/>{{sfn|立山|2012|p=171}}。 === 大統領 === [[イスラエルの大統領]]の任務は象徴的・儀礼的な性格が強く、新国会の開会式の開会宣言、外国大使の[[信任状]]受理、クネセトの採択した法ないしは[[批准]]した[[条約]]の署名、当該機関の推薦するイスラエルの大使、裁判官、[[イスラエル銀行]]総裁の任命などである。大統領はクネセトの投票で決定され、任期は当初5年であったが、1999年の法改正により、7年に延長された代わりに再選は禁止されるようになった<ref name="syugiin_report"/>{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=77}}。 === 立法 === {{Main|クネセト|イスラエルの政党}} [[File:PikiWiki Israel 7260 Knesset-Room.jpg|thumb|[[クネセト]]]] イスラエルの国会である[[クネセト]]は[[一院制]]。議員定数は120名で、[[政党名簿比例代表]](拘束名簿式)により選出される。その名称と定数は[[紀元前5世紀]]に[[エズラ]]と[[ネヘミヤ]]によってエルサレムに招集されたユダヤの代表機関、クネセット・ハグドラ(大議会)に由来する{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=79}}。 イスラエルの政府は、伝統的に複数の[[政党]]による[[連立政権]]により運営されてきた。これは完全な[[比例代表制]]をとり、最低得票率も低いため、多数の政党が存在するためである{{sfn|立山|2000|p=16}}。 [[左翼|左派]]である[[労働党 (イスラエル)|労働党]]は1973年の選挙までは第一党であり、120議席のうち50議席程度を占めていた。1977年の選挙で[[右翼|右派]]の[[リクード]]が第一党となり、その後も労働党とリクードによる二大政党時代が続いた<ref name="tateyama2000_p18">[[イスラエル#CITEREF立山2000|立山『揺れるユダヤ人国家 : ポスト・シオニズム』2000年]] pp.17-18</ref>。しかし少数政党が乱立するようになり、2006年には中道の[[カディマ党|カディマ]]が29議席という議席数ながらも第一党となり、労働党などと左派中道連立政権が発足した<ref>{{Cite web|url=http://fpc.state.gov/documents/organization/66767.pdf|title=Israel: Background and Relations with the United States|accessdate=2014-04-07|date=2006-05-18|page=7|publisher=[[アメリカ議会図書館]]|format=PDF}}</ref>。2009年、2013年の選挙ではリクードを中心とした政権が発足している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/data.html#02|accessdate=2014-04-07|title=イスラエル基礎データ | 外務省|date=2013-10-01|publisher=[[外務省]]}}</ref>。 === 行政 === {{See also|イスラエルの首相}} [[国家]]の最高[[行政機関]]である政府は、国家の安全保障を含む内外の諸問題を担当し、クネセトに対して責任を有し、その信任を受けねばならない。政府の政策決定権には極めて幅がある。法により他の機関に委任されていない問題について、行動をとる権利を認められている{{sfn|イスラエル外務省|2010|pp=81-82}}。首相は日本と同様、議会で選出されているが、1996年から2001年までは[[首相公選制]]を採用し首相選挙を行っていた<ref name="tateyama2000_p18"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousen/dai5/5siryou1.html|accessdate=2014-04-07|author=池田明史|title=イスラエルに於ける首相公選制度:導入と蹉跌|date=2001-11-21|publisher=[[内閣官房]]内閣広報室}}</ref>。 現在のイスラエルがある地域には古代から人類が居住し多数の遺跡が残されておいるため保全や調査を統括する省庁として「考古学庁」が設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://embassies.gov.il/tokyo/AboutIsrael/Culture/Pages/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6.aspx|title=考古学|accessdate=2021/04/26|publisher=駐日イスラエル大使館}}</ref>。 === 司法 === [[File:Elyon.JPG|thumb|最高裁判所]] [[司法]]の独立は法により完全に保証されている。最高裁判事3名、弁護士協会メンバー、政官界者(閣僚、国会議員など)で構成される指名委員会があり、判事はこの委員会の推薦により大統領が任命する。判事の任期は無期(70歳定年){{sfn|イスラエル外務省|2010|p=85}}。最高裁判所、地方裁判所、治安判事裁判所、そして宗教裁判所が存在し、結婚および離婚に関する裁判は各宗教の宗教裁判所が扱っている<ref name="syugiin_report"/>。 [[死刑]]は戦時の反逆罪および敵性行為に対する法律と、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]およびその協力者を処罰する法律においてのみ存在する。なお、死刑判決は[[軍法会議]]においても下すことが可能である。[[アドルフ・アイヒマン]]と[[ジョン・デミャニュク]]に死刑判決が下されたが、後者は後に無罪となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/judaica/ejud_0002_0004_0_03929.html|accessdate=2014-04-07|title=Capital Punishment|publisher=Jewish Virtual Library}}</ref>。 また、テロ対策のために、[[裁判]]も起訴状も、時には説明すらなく、国家にとって危険だと見なされた人物を逮捕・拘束できる行政拘束([[予防拘禁]])という制度を持ち<ref>{{Cite news |title=イスラエルが考え出した新たな「拷問」|newspaper=[[ニューズウィーク]] |date=2015-7-1|url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/07/post-3742.php|accessdate=2015-7-11|author=アリス・ミリケン}}</ref>、治安立法も数多く制定されている<ref>{{Cite web|url=http://www.imemc.org/article/52564 |accessdate=2014-04-05|title=Palestinian Sources: Israel transferred 120 Palestinian prisoners to administrative detention|newspaper=International Middle East Media Center|date=2008-02-02|author=Najeeb Farraj}}</ref>。 占領地の[[ヨルダン川西岸地区]](イスラエル側の呼称は「[[ユダヤ・サマリア地区]]」)では、パレスチナ自治政府が実効支配する地域を除き、非ユダヤ人はイスラエル国防軍の[[占領統治]]下にある。占領地の非ユダヤ人は[[イスラエル国防軍軍律]]で統制されており、軍事裁判所は占領地の非ユダヤ人のみを対象としている。一方、占領地のユダヤ人は通常の民事裁判所の対象となるため、占領民と被占領民に対して、異なる司法が適用されていることになる<ref>{{Cite web|url=https://www.dci-palestine.org/issues_military_detention|accessdate=2020-11-05|title=Military Detention|publisher=Defense for Children}}</ref>。 軍事裁判所では、未成年でも12歳から起訴できると定めている。[[国際連合児童基金|国連児童基金]]によれば、世界でもこうした例は他にないという。2016年現在、イスラエルは約450人の未成年パレスチナ人の身柄を拘束しており、うち100人ほどが16歳未満とされる<ref>{{Cite news |title=イスラエル刑務所に2か月超 パレスチナ人12歳少女、釈放される|newspaper=[[フランス通信社]] |date=2016-4-25|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3085186 |accessdate=2016-5-22 }}</ref>。また、パレスチナ側の報告によると、5歳の子どもが拘束された例もあり<ref>{{Cite web|url=https://www.unicef.org/sop/media/216/file/Children%20in%20Israeli%20Military.pdf|accessdate=2020-11-05|title=Children in Israeli Military Detention Observations and Recommendations Bulletin No. 2: February 2015|publisher=国際連合児童基金|date=2015-02-02}}</ref>、[[セーブ・ザ・チルドレン]]は、拘束された子どもの81%が肉体的暴力を振るわれ、47%が[[接見交通権|弁護士接見]]を拒否されるなど、国際法に反した虐待が日常的に行われていると報告した<ref>{{Cite web|url=https://www.unicef.org/sop/media/216/file/Children%20in%20Israeli%20Military.pdf |accessdate=2020-11-05|title=“Treated like animals”: Palestinian children face inhumane treatment in Israeli-run prisons|publisher=セーブ・ザ・チルドレン|date= 2020-10-29}}</ref>。 2023年には[[ベンヤミン・ネタニヤフ]]政権が裁判所の権限を縮小する司法改革に取り組み、同年7月24日には最高裁判所が合理性がないと判断した政府の行為を無効にすることが不可能となる合理性法案が[[クネセト|国会]]において賛成64、反対0票で可決された(野党は採決をボイコット)。この改革には国内から反対の声が上がり、[[アメリカ合衆国]]の[[ジョー・バイデン]]大統領が懸念を示すなど大きな波紋を広げた<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/66297606|title=イスラエル、司法改革法案を可決 激しい抗議行動が続くなか|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2023-07-25|accessdate=2023-07-25}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20230725/k00/00m/030/036000c|title=イスラエルで司法改革法案が可決 最高裁の権限抑制 混乱深まる|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2023-07-25|accessdate=2023-07-25}}</ref>。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|イスラエルの国際関係|en|Foreign relations of Israel}}}} 長年自民族の国家を持たなかったことにより、幾度もポグロムなどの迫害を受け、ついには600万人のユダヤ人が殺された[[ホロコースト]]に至った教訓から、イスラエルは「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回して戦ってでも生き残る」ということを[[国是]]にしているとされる<ref>[[手嶋龍一]]・[[佐藤優]]『インテリジェンス 武器なき戦争』[[幻冬舎新書]]</ref>。 [[File:Foreign relations of Israel (map).png|thumb|400px|{{legend|#0000ff|外交関係を有している国}} {{legend|#80ffff|外交関係が未決の国}} {{legend|#00ff00|過去に外交関係を有していたが、現在は有していない国}} {{legend|#ff00ff|外交関係を有していないが、過去に貿易関係を有していた国}} {{legend|#ff8040|外交関係を有していない国}}]] イスラエルは建国直後の1949年に[[国際連合]]へ加盟している。2011年時点で、イスラエルは157の[[国際連合加盟国|国連加盟国]]と[[外交関係]]を有している。残りの国連加盟35か国のうち、[[サウジアラビア]]や[[シリア]]などの[[イスラム圏]]を中心とする24か国<ref group="注釈">アフガニスタン、[[アルジェリア]]、[[イエメン]]、イラク、[[インドネシア]]、[[カタール]]、[[クウェート]]、[[コモロ]]、[[サウジアラビア]]、[[ジブチ]]、シリア、[[ソマリア]]、[[チュニジア]]、ニカラグア、[[マレーシア]]、パキスタン、[[バングラデシュ]]、[[ブータン]]、[[ブルネイ]]、[[モロッコ]]、[[リビア]]、及びレバノンの24か国。</ref>は[[パレスチナ問題]]を理由として建国以来一度もイスラエルを[[国家承認]]していない。また、[[イラン]]や[[キューバ]]などの9か国<ref group="注釈">イラン、キューバ、[[チャド]]、[[ニジェール]]、[[ベネズエラ]]、[[ボリビア]]、[[マリ共和国|マリ]]、及び[[モーリタニア]]の9か国。</ref>は一時期イスラエルと外交関係を有していたが、2011年までに関係が断絶している。イスラエルと国交のない33か国はいずれも[[パレスチナ国]]を国家承認している。 欧米諸国とは[[欧州連合]]の研究機関への参加など、良好な関係を保っている。フランスは第三次中東戦争までは最大の兵器供給国であり、核開発の協力もなされていた{{sfn|立山|2012|p=188}}<ref>{{Cite book|title=Exporting the Bomb: Technology Transfer and the Spread of Nuclear Weapons|author=Matthew Kroenig|publisher=Cornell University Press|year=2010|isbn=9780801476402|url=https://books.google.co.jp/books?id=8Rm8IqbPuZIC&pg=PA71|pages=71-74}}</ref>。ドイツとはホロコーストの記憶もあり外交関係は冷え切っていたが、ドイツの補償金と軍事支援を受け入れ、当時の[[西ドイツ]]と1965年に国交を樹立している{{sfn|立山|2012|pp=306-308}}。ただし、補償金の受け取りについては反対派がデモを起こし、国会を襲撃するなど受け取りの是非について激しい論争を呼んだ{{sfn|立山|2000|pp=149-150}}。その他にも欧米諸国に対しては、ホロコーストを始めとした過去の反ユダヤ主義への同情を利用した外交や事業といったものも行われているが、これについては[[ノーマン・フィンケルスタイン]]らは「ホロコースト産業」と批判している。 1995年には[[北大西洋条約機構]](NATO)のパートナー諸国である「地中海対話(Mediterranean Dialogue)」の加盟国となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999739|title=冷戦後のNATOのパートナーシップ政策の発展|author=福田毅|accessdate=2014-04-08|date=2007-06|page=3|publisher=[[国立国会図書館]]|format=PDF}}</ref>。また2010年には[[経済協力開発機構]](OECD)にも加盟している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/oecd/html/|accessdate=2014-04-08|title=OECDとは?|publisher=[[経済産業省]]}}</ref>。欧州連合の[[研究・技術開発フレームワーク・プログラム]]にも参加しており<ref>{{Cite web|url=http://www.enpi-info.eu/medportal/news/latest/34160/EU-and-Israel-initiate-negotiations-on-Israel-participation-in-Framework-Programme-for-Research-and-Innovation-2014-2020|accessdate=2014-04-08|title=EU and Israel initiate negotiations on Israel participation in Framework Programme for Research and Innovation 2014-2020|date=2013-08-20|publisher=EU Neighbourhood Info Centre}}</ref>、[[欧州原子核研究機構]](CERN)には1991年からオブザーバー国として参加していたが、2014年に正式にメンバー国となった<ref>{{Cite web|url=http://press.web.cern.ch/press-releases/2014/01/cern-admit-israel-first-new-member-state-1999 |accessdate=2014-04-08|title=CERN to admit Israel as first new Member State since 1999|date=2014-01-15|publisher=[[欧州原子核研究機構]]}}</ref>。{{仮リンク|欧州分子生物学機構|en|European Molecular Biology Organization}}(EMBO)<ref>{{Cite web|url=http://www.embo.org/about-embo/member-states|accessdate=2014-04-08|title=EMBC Member States|publisher={{仮リンク|欧州分子生物学機構|en|European Molecular Biology Organization}} }}</ref>および[[欧州分子生物学研究所]](EMBL)のメンバー国でもある<ref>{{Cite web|url=http://www.embl.de/aboutus/general_information/history/|accessdate=2014-04-08|title=EMBL History|publisher=[[欧州分子生物学研究所]]}}</ref>。 イスラエルは元来、アメリカ合衆国との関係を最重要視してきたが、[[イラク戦争]]後から「世界の警察官」としてのアメリカ合衆国の国際的影響力に陰りが出てきたと判断して、日本、中華人民共和国、[[インド]]、フランスなど多方面の外交に乗り出し<ref>{{Cite news |title=イスラエルが外交多角化 中印に急接近、日仏と連携強化 |newspaper=『[[日本経済新聞]]』 |date=2014-5-10 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0804P_Z00C14A5FF2000/ |accessdate=2014-5-17 }}</ref>、中華人民共和国の主導する[[上海協力機構]](SCO)にも参加を申請している<ref>{{Cite web|date=2016-06-23|url=http://www.interfax.com/newsinf.asp?id=683491|title=Syria, Israel, Egypt willing to join SCO's activity - president's special envoy|publisher=[[インテルファクス通信]]|accessdate=2019-08-18}}</ref><ref>{{Cite web|date=2019-08-15|url=https://ria.ru/20190814/1557503885.html|title=В МИД рассказали о странах, которые хотят участвовать в работе ШОС|publisher=[[RIAノーボスチ]]|accessdate=2019-08-18}}</ref>。 === 中東外交 === {{main|{{仮リンク|アラブ連盟と中東戦争|en|Arab League and the Arab–Israeli conflict}}}} 近隣諸国とは建国直後から何度か戦争状態となり敵対関係だったが、1979年にエジプトと、1994年にヨルダンと平和条約を結んでいる。一方で、近年では反イラン国家も多い[[アラブ世界|アラブ諸国]]との関係改善を図る動きが急速に進んでおり、2018年10月26日には[[オマーン]]を首相が公式訪問。また2020年8月13日には[[アラブ首長国連邦]]と<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO62630790U0A810C2000000/|title=イスラエル・UAE、国交正常化に合意 米発表|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2020-08-14|accessdate=2020-08-14}}</ref>、9月11日には[[バーレーン]]と、10月23日には[[スーダン]]が国交正常化に合意している<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/israel-bahrain-usa-idJPKBN2622YK|title=バーレーンもイスラエルと国交正常化、米仲介で合意|agency=[[ロイター]]|date=2020-09-12|accessdate=2020-09-14}}</ref>。([[アブラハム合意]])また、12月10日には[[モロッコ]]と国交正常化で合意した<ref>{{Cite web|和書|title=モロッコもイスラエルと国交合意 米国が西サハラ主権を承認 独立派は猛反発|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3320738|website=www.afpbb.com|accessdate=2020-12-13}}</ref>([[イスラエルとモロッコの国交正常化]])。またイスラエル機でのアラブ首長国連邦との往復に[[サウジアラビア]]の上空通過を許すなど、サウジアラビアとの関係改善も急激に進んでいる。 イスラエルが「脅威」としてあげる中東諸国ではイランがある。イランとは[[イランの核開発問題|核兵器開発問題]]、ヒズボラおよびハマースを支援している国家<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/international/update/0617/TKY201306170478.html|accessdate=2014-04-09|title=ハマス、ヒズボラにシリア撤退要請 「敵はイスラエル」|date=2013-06-17|publisher=『[[朝日新聞]]』}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.moj.go.jp/ITH/organizations/ME_N-africa/hizballah.html|accessdate=2014-04-08|title=ヒズボラ &#124; 国際テロリズム要覧(要約版)|publisher=[[公安調査庁]]}}</ref>として強い警戒を示し<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/data.html#03|accessdate=2014-04-09|title=イスラエル基礎データ|publisher=外務省}}</ref>、[[国際連合事務総長|国連事務総長]]にイランの国連除名を要求したこともある<ref>{{Cite newspaper|url=http://www.haaretz.com/news/lieberman-asks-new-un-chief-to-revoke-iran-s-membership-1.208874|accessdate=2014-04-06|title=Lieberman asks new UN chief to revoke Iran's membership Israel News|date=2007-01-02|newspaper=[[ハアレツ]]|agency=[[AP通信]]}}</ref>。また、イラン大統領の[[マフムード・アフマディーネジャード]]は、[[ホロコースト否認#イスラム圏における概況|ホロコーストを認めない発言]]をするなどイスラエルに強硬な姿勢を示していた<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-11579820090918|accessdate=2014-04-08|title=ホロコースト、イスラエル建設のための口実=イラン大統領|date=2009-09-18|publisher=[[ロイター]]}}</ref>。ただし、2009年には外相の[[アヴィグドール・リーベルマン]]は、[[パキスタン]]および[[アフガニスタン]]をイランよりも戦略的脅威と見ているとの発言を行った<ref>{{Cite web|url=http://www.haaretz.com/print-edition/news/lieberman-u-s-will-accept-any-israeli-policy-decision-1.274559|accessdate=2014-04-08|title=Lieberman: U.S. will accept any Israeli policy decision Israel News|date=2009-04-22|publisher=『[[ハアレツ]]』}}</ref>。アフガニスタンではガザ侵攻の際、「イスラエルに死を」という声を上げ、イスラエルとの戦闘を望む多くの若者が集まった<ref>{{Cite web|url=http://uk.reuters.com/article/2009/01/08/us-afghan-gaza-sb-idUKTRE50749E20090108|accessdate=2014-04-08|title=Afghans sign up to fight Israeli troops in Gaza|date=2009-01-08|publisher=[[ロイター]]}}</ref>。 シリアとレバノンも紛争当事国であり、関係修復には至っていない。2006年、レバノン首相の[[フアード・シニオラ]]はレバノン侵攻を受けて「イスラエルとの国交樹立はありえない」と発言した<ref>{{Cite web|url=http://www.dailystar.com.lb/News/Lebanon-News/2006/Aug-31/43398-siniora-vows-to-be-last-in-making-peace-with-israel.ashx|accessdate=2014-04-08|title=Siniora vows to be last in making peace with Israel|date=2006-08-31|author=Leila Hatoum|publisher=The Daily Star}}</ref>。また[[シリア内戦]]時にはヒズボラへの武器輸送や、シリアにおけるイランの伸長を阻むためイスラエルはシリアに空爆を行っている一方で、[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]の影響力拡大や混乱の波及を警戒し、[[バッシャール・アル=アサド|アサド]]政権崩壊を企図した本格的な介入は行っていない<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/articles/TKY201311010023.html|accessdate=2014-04-08|title=イスラエル、またシリア空爆か ミサイルの輸送阻む狙い|date=2013-11-01|publisher=『朝日新聞』}}</ref>。 {{Main|2023年パレスチナ・イスラエル戦争}} [[2023年]][[10月7日]]、[[ハマス]]([[パレスチナ国|パレスチナ]])に対し、[[宣戦布告]]を行った<ref>{{Cite web|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3485347|title=死者双方で1100人超に イスラエルはハマスに宣戦布告|accessdate=2023-10-12|publisher=AFP}}</ref>。 === 米以関係 === {{main|米以関係}} [[アメリカ合衆国]]は建国当初から最大の「盟友」であり、「特別な関係」とも言われる{{sfn|立山|2012|p=297}}。アメリカはイスラエルを「[[中東]]における最も信頼できるパートナー」と評し、国家承認も建国と同日に行っている<ref name="usdos">{{Cite web|url=http://www.state.gov/r/pa/ei/bgn/3581.htm|accessdate=2014-04-09|title=U.S. Relations With Israel|date=2014-03-10|publisher=[[アメリカ合衆国国務省]]}}</ref>。エジプト・イスラエル平和条約をはじめ和平仲介も行っている。毎年30億ドル以上の対外軍事援助を行い、合同[[軍事演習]]も実施している。またイスラエルの最大の貿易相手国でもある<ref name="usdos"/>。 イスラエルの経済発展においてアメリカの経済支援が果たした役目は大きく、2008年以降経済援助は行われておらず軍事援助のみとなっているが、それでもなおアメリカの2012年の国別対外援助費では2番目に大きい<ref>{{Cite web|url=http://gbk.eads.usaidallnet.gov/data/fast-facts.html|accessdate=2014-04-14|title=Foreign Assistance Fast Facts: FY2012|publisher=[[アメリカ合衆国国際開発庁]]}}</ref>。軍事援助は対エジプト平和条約締結後の1981年以降全額無償援助となり、1985年以降は毎年経済援助12億ドル、軍事援助18億ドルであった。1999年より経済援助は毎年1.2億ドルずつ減額され10年間でゼロにすることとされたが、その半額は軍事援助の増額分として振り分けられた<ref>外務省 [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/data.html イスラエル国基礎データ] 2015年6月19日</ref>。 国連でイスラエルへの非難決議が提出されると、アメリカが[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を発動させることが<nowiki>''恒例''</nowiki>となっており、採択はほとんど成立しない。[[バラク・オバマ]]政権末期の2016年12月23日にはアメリカが棄権し、決議成立を容認するという異例の対応に出られたが、次期大統領に選出されたトランプに働きかけ、提案者であるエジプトに撤回させた<ref>{{Cite news|title=国連安保理、イスラエル入植地非難決議を採択 米国棄権|url=https://www.bbc.com/japanese/38425927|work=BBCニュース|access-date=2022-05-16|language=ja}}</ref>。また、アメリカは、イスラエルから中華人民共和国への軍事技術提供問題や[[ヴェラ (人工衛星)|ヴェラ・インシデント]]などのイスラエルの[[核兵器]]開発問題に対しては、見てみぬふりをしていると言われることもある{{sfn|立山|2000|pp=179-180}}。 このようなアメリカの親イスラエル政策の背景には在米ユダヤ人の[[軍産複合体#イスラエル・ロビー|ロビー活動]]がある。在米ユダヤ人は540万人ほどでアメリカの総人口の2%以下である<ref>{{Cite web|url=http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/Judaism/jewpop.html|accessdate=2014-04-14|title=Jewish Population of the World|publisher=Jewish Virtual Library}}</ref>が投票率が高く、結束力も強いため選挙に無視できない影響を与えている。また[[ニューヨーク州]]などの都市部や[[アメリカ合衆国の政治|政治]]中枢に近い地域ではユダヤ人比率が高く、[[アメリカ合衆国大統領選挙]]においては重要な意味を持つ{{sfn|立山|2012|pp=291-292}}{{sfn|立山|2000|p=180}}。このように在米ユダヤ人は政治に対し強い影響を持ち、さらに[[クリスチャン・シオニズム|クリスチャン・シオニスト]]たちがそれを後押ししている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2011-11/20111031_06.pdf|title=シリーズ:なぜ日本人は中東情勢を読み誤るのか 第三回:米国「イスラエル・ロビー」にまつわる7つの神話:中東情勢分析|accessdate=2014-04-14|date=2011-10-30|author=宮家邦彦|publisher=中東協力センター|format=PDF}}</ref>。在米ユダヤ人は、政治に対し強い影響力を持つことが、[[ユダヤ陰謀論]]と結びつけられ反ユダヤ主義につながっていくことに対し、強い警戒を持っている{{sfn|立山|2000|p=188}}。 また、アメリカ大統領の[[ドナルド・トランプ]]は2017年12月に「エルサレムをイスラエルの首都と公式に認める時がきた」と発言したり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bbc.com/japanese/42261585|title=トランプ大統領、エルサレムをイスラエルの首都と承認|publisher=[[BBCニュース]]|accessdate=2018年1月8日}}</ref>、ゴラン高原のイスラエルの主権を認める宣言に署名したりするなど、さらにイスラエルとの友好関係を築く姿勢を見せている。 === 南アフリカ共和国との関係 === {{main|{{仮リンク|イスラエルと南アフリカ共和国との関係|en|Israel–South Africa relations}}|イスラエルによるアパルトヘイト}} イスラエル建国当初、南アフリカとは緊密な同盟関係にあった。[[アパルトヘイト]]体制の基礎を築いた[[ダニエル・フランソワ・マラン]]は、英連邦諸国からイスラエルを表敬訪問した最初の首相だった。一方、1950年代から1960年代にかけて、イスラエルは南アフリカのアパルトヘイト体制を公然と批判するようになった。 しかし、[[第三次中東戦争]]の直前に、エジプトが[[チラン海峡]]を封鎖していたのを破る目的で、南アはイスラエルに海軍艦艇を提供した。このころから双方向の貿易関係が急速に進展した。イスラエルは化学製品や電気機器などを輸出、南アは鉱産資源を輸出したが、特筆に値するものは[[鉄]]、[[石炭]]、[[ダイヤモンド]]の3つであった{{sfn|広河|パレスチナ・ユダヤ人問題研究会|1986|pp=124-127}}。イスラエルは、ダイヤモンド産業を政府主導で基幹産業へと発展させてきた。イスラエルは[[加工貿易]]が盛んで、2012年現在、研磨ダイヤモンドの輸出額は、イスラエルの総輸出額のうち約4分の1を占めている<ref name="jetro"/>。 資本の交流も盛んであった。イスラエルは1978年に南アへの[[直接投資]]限度額を引き上げ、2年後には投資額が本当に増えた。このころに特別の協定が結ばれ、南アの市民はドル建てでイスラエル債権を買えるという金融史上初の特権を得た。イスラエルは南アのシオニストから長年にわたる援助を受けていた。1962-1967年を除いて、この援助は資本流出を防ぐ措置としての規制を免れている{{sfn|広河|パレスチナ・ユダヤ人問題研究会|1986|pp=128-132}}。 しかし、[[アパルトヘイト]]が廃止され、[[アフリカ民族会議]](ANC)率いる新政権発足後の1995年に南アフリカは[[パレスチナ国]]を国家承認、[[ノーベル平和賞]]を受賞した[[デズモンド・ツツ]]ら反アパルトヘイト活動家はパレスチナへの行為を[[イスラエルによるアパルトヘイト|アパルトヘイト]]であると非難し<ref>{{Cite news |title=Desmond Tutu: U.S. Christians Must Recognize Israel as Apartheid State |url=https://www.haaretz.com/2014-06-17/ty-article/tutu-israel-is-apartheid-state/0000017f-db3f-df9c-a17f-ff3ff3f00000 |work=Haaretz |access-date=2023-10-09 |date=2014-6-17}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://cjpip.org/0609_esack.html |title=Building a Just Peace: Important Perspectives on the Israeli-Palestinian Conflict |access-date=2023-10-9 |archive-url=https://web.archive.org/web/20071021063756/http://cjpip.org/0609_esack.html |archive-date=2007-10-21}}</ref>、イスラエルとの関係は弱まりつつある。[[2019年]]には大使館を連絡事務所に降格した<ref>{{Cite news|first=Tovah|last=Lazaroff|title=South Africa downgrades embassy in Israel to liaison office|url=https://www.jpost.com/israel-news/south-africa-downgrade-embassy-in-israel-to-liaison-office-585883|newspaper=The Jerusalem Post|date=April 6, 2019}}</ref>。 === 兵器の輸出 === かつて第一の輸出先は南アフリカであり、第二は[[軍事政権]]下の[[アルゼンチン]]であった。同国首都[[ブエノスアイレス]]のイスラエル大使館が、[[ラテンアメリカ]]で兵器を販売する企業を20社超にわたりマネジメントした。イスラエルは、[[ブラジル]]、キューバ、ニカラグアを除くラテンアメリカ諸国のほとんどに兵器を供給した。{{sfn|広河|パレスチナ・ユダヤ人問題研究会|1986|pp=144-145}} [[トルコ]]も主要な輸出先であり<ref>{{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/281909.stm |accessdate=2014-04-08|title=Analysis: Middle East's 'phantom alliance'|date=1999-02-18|publisher=[[BBCニュース]]|author=Jonathan Marcus }}</ref>、近隣のイスラム諸国の中では珍しく友好な関係を築いてきた。しかしガザ侵攻においてトルコのパレスチナ支援団体と武力衝突が発生し、[[トルコ人]]活動家が9名死亡、外交関係は冷え切っていた。しかし2013年にはイスラエルからの謝罪が行われ、両者の関係は修復したと見られている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/page6_000024.html|accessdate=2014-04-08|title=外務省: トルコとイスラエルの関係正常化について(外務報道官談話)|date=2013-03-25|publisher=[[外務省]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cnn.co.jp/world/35029876.html|accessdate=2014-04-08|title=イスラエル首相、支援船急襲事件でトルコに謝罪|date=2013-03-23|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]}}</ref>。 インドおよび中華人民共和国にもイスラエルは兵器輸出または軍事技術の提供を行っている<ref>{{Cite web|url=http://www.haaretz.com/print-edition/news/israel-india-relations-strong-but-low-key-1.258562|accessdate=2014-04-08|title=Israel-India relations / Strong, but low-key Israel News|date=2008-12-01|publisher=[[ハアレツ]]}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.atimes.com/atimes/China/DL04Ad01.html|accessdate=2014-04-08|title=Israel's role in China's new warplane|date=2002-12-04|author=David Isenberg |publisher=Asia Times}}</ref>。国際世論調査でもインドはアメリカよりもイスラエルに好意的であり<ref>{{Cite news|url=http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-3696887,00.html|title=From India with love|work=Ynetnews|accessdate=2020-01-21}}</ref>、中華人民共和国では国際的な非難のあったガザ侵攻について理解を示す報道がなされている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jpost.com/Opinion/Op-Ed-Contributors/Israels-image-in-China|accessdate=2014-04-08|title=Israel's image in China|date=2009-03-16|publisher=[[エルサレム・ポスト]]}}</ref>。 === 移民 === [[ソビエト連邦]]はアメリカに次いで2番目(建国から2日後)にイスラエルを国家承認した国である{{sfn|コンシャーボク|アラミー|2011|pp=163-164}}。1967年の第三次中東戦争でソ連とイスラエルは国交を断絶となったが、1991年に国交を回復した。[[ソビエト連邦の崩壊|ソビエト連邦が崩壊]]すると、1990年代の10年間ほどで80万人以上が旧ソ連からイスラエルに移住している<ref>{{Cite web|url=http://www1.cbs.gov.il/reader/shnaton/templ_shnaton_e.html?num_tab=st04_04&CYear=2011|accessdate=2014-04-07|title=Statistical Abstract of Israel 2011 - No. 62 Subject 4 - Table No. 4|date=2011|publisher=[[イスラエル中央統計局]]}}</ref>。ロシア系移民は独自のコミュニティーを形成し、クネセトに議員も送り込んでいる<ref name="syugiin_report_ru">{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/report2001.pdf/$File/report2001.pdf|title=衆議院ロシア等欧州各国及びイスラエル憲法調査議員団報告書|accessdate=2014-04-07|date=2001-11|pages=269-279|format=PDF|publisher=[[衆議院]]}}</ref>。街では[[ロシア語]]表記が見かけられるだけでなく、ロシア語が通用することさえある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jetro.go.jp/jfile/report/07000961/il_womans_fashion_market.pdf#page=6 |format=PDF |title=イスラエルの女性ファッション市場調査|accessdate=2014-04-14|date=2013-05-31|publisher=[[日本貿易振興機構]]|page=1|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151119233649/https://www.jetro.go.jp/jfile/report/07000961/il_womans_fashion_market.pdf#page=6 |archivedate=2015-11-19}}</ref>。 [[エチオピア]]には[[ベタ・イスラエル]]と呼ばれるユダヤ人が住んでおり、[[ソマリア内戦]]中の1991年には[[ソロモン作戦]]と呼ばれるイスラエルへの移民も行われている。 === 日本との関係 === {{Main|日本とイスラエルの関係}} 第二次世界大戦で敗戦国となった[[日本]]は、[[1952年]]4月28日の[[日本国との平和条約]](サンフランシスコ条約)発効により、[[外交]]権を含む[[主権]]を回復した。その直後の同年[[5月15日]]に、日本はイスラエルを[[国家の承認|承認]]した。 2006年、持続的な経済発展を通じてイスラエル・ヨルダン・パレスチナ自治政府間の協力・信頼関係を築き、ひいてはパレスチナの平和を形成するという「平和と繁栄の回廊」構想を提案している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0713b_3.html|accessdate=2014-04-08|title=イスラエルとパレスチナの共存共栄に向けた日本の中長期的な取組:「平和と繁栄の回廊」創設構想|date=2006-07|publisher=[[外務省]]}}</ref>。2008年には4者協議が東京で開催されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/chuto/4kaigo_0807/ps.html|accessdate=2014-04-08|title=「平和と繁栄の回廊」構想第3回4者協議閣僚級会合におけるプレス・ステートメント(仮訳)|date=2008-07-02|publisher=[[外務省]]}}</ref>。2008年以降4者協議は開催されていなかったが、2013年に再開した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2300S_T20C13A7EB1000/|accessdate=2014-04-08|title=外相、23日から中東歴訪 5年ぶり4者閣僚級会合開く|date=2013-07-23|publisher=『日本経済新聞』}}</ref>。2014年5月には、イスラエルの[[ベンヤミン・ネタニヤフ]][[イスラエルの首相|首相]]が日本を訪問、[[明仁|天皇]][[上皇后美智子|皇后]]や[[安倍晋三]][[内閣総理大臣|首相]]と会談を行った。安倍とネタニヤフの会談では、[[安全保障]]分野での協力や、中東和平交渉に関して意見が交わされた<ref>{{Cite news |title=安保分野の協力推進で一致…日・イスラエル首脳 |newspaper=『[[読売新聞]]』 |date=2014-5-12 |url=https://web.archive.org/web/20140517154314/http://www.yomiuri.co.jp/politics/20140512-OYT1T50138.html |accessdate=2014-5-17 }}</ref>。 === タイ王国 === 2011年、タイ王国と2国間協定を結ぶ<ref>{{cite news|url=https://www.hrw.org/ja/news/2015/01/21/266326|title=イスラエル:タイ人移住労働者への深刻な人害侵害|newspaper=|publisher=|date=2015-01-21|accessdate=2023-12-03}}</ref>。 == 軍事 == === 国防軍 === {{main|イスラエル国防軍}} [[File:Merkava4-pic001.jpg|thumb|left|国産主力戦車[[メルカバ (戦車)|メルカバMk4]]]] [[File:Flickr - Israel Defense Forces - Female Soldiers Unload their Weapons.jpg|thumb|250px|イスラエルの女性兵士]] 1948年の建国とともに創設されたイスラエル国防軍(IDF)は、国の防衛の任にあたる。建国以来の度重なる周辺アラブ諸国との実戦経験を持つ。 文字通りの[[国民皆兵]]国家であり、満18歳で男子は3年、女子は2年の[[兵役]]に服さねばならないが、優秀な学生は徴兵が延期されることもある{{sfn|イスラエル外務省|2010|pp=91-92}}。なお、その後も予備役がある。女性は結婚している者は兵役が免除される。また信仰上の理由により兵役免除も可能であるが、これも女性のみである<ref>{{Cite web|url=http://www.mfa.gov.il/mfa/mfa-archive/1980-1989/pages/defence%20service%20law%20-consolidated%20version--%205746-1.aspx|accessdate=2014-04-08|title=Defence Service Law -Consolidated Version 5746-1986|date=1986-01-30|publisher=イスラエル外務省}}</ref>。少数派の[[ドゥルーズ派]]の信徒と[[チェルケス人]]は兵役に服すが、ユダヤ人でないその他のマイノリティは男子でも兵役が免除されている<ref name="syugiin_report"/>{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=143}}。また、かつては[[超正統派 (ユダヤ教)|超正統派]]も兵役を免除されていたが{{sfn|立山|2012|p=102}}、これには批判も多く1998年に最高裁は兵役免除は違法との判断を下しており{{sfn|立山|2000|p=77}}、2014年3月に超正統派の男性を対象とした兵役を課す法案が国会で可決され、2017年から兵役の対象となった。様々な理由から兵役を拒否する人間も増えてきており問題となっている{{sfn|科学技術振興機構|2010|p=6}}{{sfn|立山|2000|p=139}}。 イスラエルは国土が縦深性に欠け、一部でも占領されれば国土や産業、国民にとって致命的なダメージを受ける。そのため、戦時には戦域を敵の領土に限定し早急に決着をつけることを戦略計画としている{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=91}}。先制攻撃を仕掛け、敵の攻撃力を早期に無力化することを主眼に置いている。この姿勢は、イスラエルには国家の安寧を守るという前提があるにもかかわらず、イスラエルを好戦的な国家とみなす論者が多い一因となっている。なお、イスラエル国防軍の現在の任務には、パレスチナ自治機関と協調しつつヨルダン川西岸およびガザの治安を保持すること、国内および国境周辺で生じるテロ対策も含まれている。 兵器の多くは、建国初期は[[西側諸国]]からの供給や中古兵器の再利用に頼っていたが、その後は主力戦車[[メルカバ (戦車)|メルカバ]]や戦闘機[[クフィル (航空機)|クフィル]]など特別のニーズに応じた兵器を国内で開発・生産しており、輸出も積極的に行っている。海外との軍事技術交流(下記の科学研究参照)も多い。なお、国産兵器は、メルカバに代表されるように人的資源の重要性から防御力・生存性に重点を置いた設計となっている。 [[国連児童基金]](ユニセフ)はパレスチナ人の子供達がイスラエル軍から軍事裁判にかけられ、拘留下において「広範囲にわたる計画的で制度化された」暴行・虐待を受けているとする報告書を発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2932705?pid=10379789 |accessdate=2014-04-05|title=イスラエル軍がパレスチナ人未成年者を虐待、ユニセフ報告|date=2013-03-07|publisher=[[フランス通信社]]}}</ref>。 === 核兵器保有の有無について === {{See also|イスラエルの大量破壊兵器}} イスラエル政府は[[核兵器]]の保有に関して肯定も否定もしていないが、[[核拡散防止条約]](NPT)にも加盟していない。「イスラエルは最初に核を使用する国にはならないが、2番目に甘んじることもない」という談話もあり、「曖昧政策」とも称されている{{sfn|立山|2000|p=129}}。しかし、核技術者[[モルデハイ・ヴァヌヌ]]の内部告発による状況証拠などから核保有は確実視されており、一種の「公然の秘密」となっている。イスラエルは[[1969年]]にフランスの協力で核兵器を開発したとされており、[[アメリカ科学者連盟]]は、2000年代後半時点で80-100発程度の[[核弾頭]]を保有していると推測している<ref>{{Cite web|url=http://www.fas.org/nuke/guide/israel/nuke/|accessdate=2014-04-05|title=Nuclear Weapons - Israel|date=2007-01-08|publisher=アメリカ科学者連盟}}</ref>{{sfn|立山|2012|pp=183-184}}。 この曖昧な態度は核兵器の有無を疑わせ、抑止効果を高めようとする狙いと、最大の同盟国アメリカに対する配慮からである。NPT非加盟のイスラエルが核武装を公表すれば、アメリカとの友好関係が崩れるか、これまで印・パの核保有や[[イランの核開発計画]]を非難してきたアメリカが[[二重規範|ダブルスタンダード]]の謗りを受けることは免れず{{sfn|立山|2012|pp=183-184}}、また周辺国のNPT脱退と核武装を招き、ただでさえ不安定な中東のバランスを崩壊させかねないからである。 2006年12月5日、[[アメリカ合衆国上院|アメリカ上院]]軍事委員会公聴会で、次期[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]に内定していた[[ロバート・ゲーツ]]が「(イランが核兵器開発を進めるのは)核保有国に囲まれているからだ。東にパキスタン、北にロシア、西にイスラエル、ペルシャ湾には我々(アメリカ)がいる」と発言。アメリカが初めてイスラエルの核保有について公言したことになるため、注目された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/international/update/1208/011.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20061210043301/http://www.asahi.com/international/update/1208/011.html|archivedate=2006-12-10|accessdate=2014-04-05|title=asahi.com:イスラエルの核保有「公表」 米次期国防長官|date=2006-12-08|publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>。イスラエルの[[シモン・ペレス]]特別副首相はこれについて「イスラエルは核保有をこれまで確認したことはない」と従来の見解を繰り返した。しかし、12月11日、ドイツの衛星放送テレビ局「SAT1」のインタビューで、[[エフード・オルメルト]]首相は「イスラエルは、他国を脅かしたりしない。しかし、イランはイスラエルを地図上から消滅させると公言している。そのイランが核兵器を保有しようとしていて、フランス、アメリカ、ロシア、イスラエルと同じレベルで話し合えるはずがない」と、核保有を暗に認めたとも取れる発言を行った<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.cri.cn/151/2006/12/13/[email protected]|accessdate=2014-04-05|title=イスラエル首相、核兵器保有示唆で波紋広がる|date=2006-12-13|publisher=中国国際放送局}}</ref>。オルメルトは、翌日のドイツの[[アンゲラ・メルケル]]首相との合同記者会見で核保有を否定したが、イランは非難声明を出した。 オーストラリアに本部を置き、アメリカ、オランダ、ベルギーなどに支部を持つ経済平和研究所の2023年版世界平和度指数では、イスラエルは核保有国としてきちんとカウントされている。その上、イスラエルの軍事化度は3.783と世界一で、2位のロシア3.187、3位のアメリカ3.081、4位の北朝鮮3.000と大差をつけて単独1位である<ref name=":0">{{Cite web |url=https://www.visionofhumanity.org/wp-content/uploads/2022/06/GPI-2022-web.pdf |title=GLOBAL PEACE INDEX Measuring peace in a complex world |access-date=2023-12-01}}</ref><ref>{{Cite web |title=Global Peace Index Map » The Most & Least Peaceful Countries |url=https://www.visionofhumanity.org/maps/ |website=Vision of Humanity |access-date=2023-12-08 |language=en-US}}</ref>。 == 地理 == {{multiple image | direction = horizontal | align = right | width = | image1 = Israel_Topography.png | width1 = 242 | caption1 = イスラエルの地形図 | image2 = Is-map-ja.PNG | width2 = 220 | caption2 = イスラエルの地図 }} {{main|{{仮リンク|イスラエルの地理|en|Geography of Israel}}}} === 地理上の特徴 === 北にレバノン、北東にシリア、東にヨルダン、南にエジプトと接する。ガザ地区とヨルダン川西岸地区を支配するパレスチナ自治政府(パレスチナ国)とは南西および東で接する。西に地中海があり、南は紅海につながっている。ヨルダンとの国境付近に、世界的にも高濃度の[[塩湖]]である[[死海]]がある。 イスラエルの支配地域は2万2,072[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]である。国土は狭く、南北に細長い。南北には470キロメートルあるが、東西は一番離れた地点間でも135キロメートルである。車での走行時間は、北の[[メトゥーラ]]から最南端の町[[エイラット]]までは約9時間かかるが、西の地中海から東の死海までならば90分ほどしかかからない{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=98}}。[[ユダヤ|ジュディア]]の丘陵にあるエルサレムから海岸沿いの[[テルアビブ]]まで、また、[[標高]]835メートルにある[[エルサレム]]から[[海抜]]下398メートルの死海までならば、1時間とかからない。 地中海沿岸の平野部は肥沃な農地地帯となっている。また、平野部に国民の大半が住んでおり、工業施設の大半も平野部に存在する。地中海側の[[ハイファ]]からエルサレムにかけては[[人工知能]](AI)などの新興企業4000社が集積し、アメリカ合衆国の[[シリコンバレー]]にちなんで「シリコン・ワディ」(ワディは谷を意味するヘブライ語)と呼ばれる<ref>中東変動(中)経済連携 石油マネー狙い/イスラエル 本命はサウジ『[[読売新聞]]』朝刊2020年9月19日(国際面)</ref>。 北部の[[ガリラヤ]]および[[ゴラン高原]]は比較的豊富な雨量で、常に緑が保たれている。南部の[[ネゲブ砂漠]]は国土のかなりの割合を占めており、乾燥し切り立った山々が存在する{{sfn|イスラエル外務省|2010|pp=98-101}}。 === イスラエルの地 === 「{{仮リンク|イスラエルの地|en|Land of Israel|redirect=1}}」を意味するエレツ・イスラエル({{Hebrew|ארץ ישראל}})は神がアブラハム、子の[[イサク]]、孫のヤコブと与えることを約束した「[[約束の地]]」を意味する。その範囲は[[創世記]]<ref>{{Bible ws|創世記|15|18|21}}</ref>、[[出エジプト記]]<ref>{{Bible ws|出エジプト記|23|30|31}}</ref>、[[民数記]]<ref>{{Bible ws|民数記|34|1|15}}</ref>、[[エゼキエル書]]<ref>{{Bible ws|エゼキエル書|47|13|20}}</ref>に記されている。現在のイスラエル国の領土よりも広い範囲であるが、{{仮リンク|大イスラエル|en|Greater Israel|label=大イスラエル主義者}}においては、これらの地域をイスラエルが支配すべき領域とみなす{{sfn|阿部|2004|pp=263-268}}。第三次中東戦争において膨大な地域を占領すると大イスラエル主義は大いに広まった。イツハク・ラビン暗殺の理由も、オスロ合意は約束の地を売り渡す裏切り行為であると見られたからである{{sfn|立山|2000|pp=48-55}}。 == 地方行政区画 == {{main|イスラエルの行政区画}} イスラエルは7つの地区に分かれ、その下に[[郡]]が存在する(エルサレム地区とテルアビブ地区には存在しない)。郡には地方政府が設置されている。 {{see also|イスラエルの都市の一覧}} == 経済 == {{main|{{仮リンク|イスラエルの経済|en|Economy of Israel}}}} [[ファイル:Ranat gan.jpg|サムネイル|250x250ピクセル|[[ラマト・ガン]]のダイヤモンド取引所地区]] [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、2019年のイスラエルの[[国内総生産|GDP]]は3,877億ドル(約42.5兆円)で<ref>{{Cite web|和書|title=概況・基本統計 {{!}} イスラエル - 中東 - 国・地域別に見る - ジェトロ|url=https://www.jetro.go.jp/world/middle_east/il/basic_01.html|website=www.jetro.go.jp|accessdate=2021-06-13}}</ref>、[[愛知県]]や[[大阪府]]よりやや大きい経済規模である<ref>{{Cite web|和書|title=県民経済計算(平成18年度 - 平成30年度)(2008SNA、平成23年基準計数)<44都道府県、7政令指定都市分> - 内閣府|url=https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/main_2018.html|website=内閣府ホームページ|accessdate=2021-06-13}}</ref>。1人あたりの名目GDPは42,823米ドル(2019年)で、40,847米ドルの日本より高い。イスラエルは[[OECD]]加盟国であり、いわゆる[[先進国]]である{{sfn|立山|2012|p=214}}。貿易収支は慢性的な赤字となっている<ref>{{Cite web|url=http://www1.cbs.gov.il/reader/shnaton/templ_shnaton_diag_e.html?num_tab=16_01&CYear=2013|accessdate=2014-04-13|title=Statistical Abstract of Israel 2013 No.of Diagram 64 Chapter 16 No. of Diagram 1|publisher=[[イスラエル中央統計局]]}}</ref><ref name="jetro">{{Cite web|和書|url=http://www.jetro.go.jp/world/gtir/2012/pdf/2012-il.pdf|title=ジェトロ世界貿易投資報告2012年版|accessdate=2014-04-13|date=2012-08-31|publisher=日本貿易振興機構|format=PDF}}</ref>。また、イスラエルは中東の[[シリコンバレー]]とも呼ばれ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goldmansachs.com/japan/gsitm/column/emerging/guide/israel.html|accessdate=2014-04-13|title=イスラエル国 / 新成長国各国ガイド|BRICs ネクスト11 新興国|publisher=[[ゴールドマン・サックス]]}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140110/258065/?P=2|accessdate=2014-04-13|title=イスラエルの至宝、女性起業家ヤエル・カロブ|date=2014-01-14|publisher=[[日経BP]]}}</ref>、[[インテル]]や[[マイクロソフト]]などの世界的に有名な企業の研究所が軒を連ねる。大企業は少ないが[[ベンチャー企業]]は多いことでも知られ、失敗を恐れない起業家精神に富んだイスラエルの国民性が影響していると考えられている{{sfn|立山|2012|p=228}}{{sfn|科学技術振興機構|2010|p=8}}。 イスラエルは人口900万人程度の小さな国ではあるが、[[農業]]、[[灌漑]]、そして様々な[[ハイテク]]および電子ベンチャー産業において最先端の技術力を持つ。建国からしばらくは、[[キブツ]]や[[モシャブ]]での共同生活と、主導的立場にあった[[労働シオニズム]]の影響から[[社会主義]]的な経済体制であった{{sfn|立山|2012|p=214}}。建国当時は産業基盤もないうえに周辺アラブ諸国との戦争状態にあるという悪条件であったが、ドイツの補償金やアメリカのユダヤ人社会から送られる寄付金など海外からの多額の資金援助を受けて経済を発展させていった{{sfn|立山|2012|pp=215-216}}。これが1980年代後半に入り、ヨーロッパ諸国およびアメリカと[[自由貿易協定]]を結ぶなど[[自由主義]]経済へと転換していき、1990年代の加速度的な経済成長をもたらした。2001年から2002年にかけて、[[ITバブル]]の崩壊とパレスチナ情勢の悪化により経済成長率がマイナスに転じるも、2003年以降は堅実な成長を続け、2008年の[[リーマン・ショック]]以降もプラス成長を維持している。2010年には[[OECD]]に加盟した。またイスラエル経済の発展にはアメリカ政府からの累計で300億ドル以上という多大な経済援助が大きく寄与している{{sfn|立山|2012|p=302}}。 1990年、イスラエルへの直接投資は1.51億ドル、証券投資はマイナス1.71億ドルという慎ましいものだった。それが直接・証券ともに漸増していき、特に1998年から飛躍した。2000年には直接投資が52.7億ドル、証券投資がプラス46.13億ドルに達した。<ref>Israel Central Bureau of Statistics, ''Statistical Abstract of Israel 2008'', p.642.</ref>こうした外資の集中投下がイスラエルの経済成長率を回復させた。2011-2013年の間には[[Apple]]、[[Alphabet (企業)|Alphabet]]、[[マイクロソフト]]、[[フェイスブック]]、[[Amazon.com]]、[[Twitter]]、[[AOL]]、[[Yahoo!]]、[[テスラ (会社)|テスラ]]、[[Netflix]]、[[スペースX]]、[[ブルーオリジン]]、[[オラクル (企業)|オラクル]]がイスラエルの[[ベンチャーキャピタル]]を買収した。2012年でイスラエルの[[ベンチャーキャピタル]]投資額は、総額で8.67億ドル、英仏独とおよそ等しく、日本や[[カナダ]]の5分の3程度である。アメリカの266.52億ドルには遠く及ばない。しかし、[[国内総生産]]比では合衆国の0.17%を引き離してイスラエルは0.36%である<ref>OECD, ''Entrepreneurship at a Glance''</ref>。 イスラエルの農業技術は先進的で、国土のほとんどが砂漠または半砂漠で降雨量も少ないといった農業には厳しい環境ながら食糧のほとんどを自給でき、農産物の輸出も行う農業大国である{{sfn|立山|2012|p=219}}。少ない水資源を有効に活用するため、水のリサイクルに力を入れ、リサイクル率は70%を超えているという。また水の利用効率が高い[[点滴灌漑]]を行っている。設備の制御は携帯電話などのモバイル機器からも可能であるという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.zennoh.or.jp/eigi/pdf_hiryo/gr496_09.pdf|title=間近で見たイスラエル農業の先進性|accessdate=2014-04-13|date=2011-03-28|publisher=[[全国農業協同組合連合会|JA全農]]|format=PDF}}</ref>。取水も効率的であり、ヨルダン川の流域は3%しかイスラエルを通っていないにもかかわらず60%を国内需要に充てている<ref>Helena Lindholm "Water and the Arab-Israeli Conflict" in Ohlsson ed. ''Hydropolitics'' p.58.</ref>。 [[海水淡水化]]にも優れた技術を持つ。2005年以降、地中海沿いに相次ぎ淡水化プラントを設置し、2017年時点ではイスラエルで消費される飲料水の8割が海水から作られている。車載型の海水淡水化装置も実用化している。イスラエルのウオータージェン社は大気中の水分から飲料水を作る技術を持ち、[[水道]]の漏水防止や運営管理などを海外で請け負う企業もある。こうした水関連技術の輸出額は2016年で約22億ドルと推定され、10年で3倍に増えた。2017年7月にはイスラエルを訪問したインドの[[ナレンドラ・モディ]]首相と、水・農業分野の協力覚書を結んだ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nikkei.com/article/DGXLZO19957220U7A810C1EAF000/|title=イスラエル、水技術輸出に力/10年で3倍 2400億円|publisher=日本経済新聞 電子版(2017年8月14日)|accessdate=2017-8-18}}</ref>。 ダイヤモンド産業はイスラエル経済を語るうえで重要な位置を占める。イスラエルは[[ダイヤモンド]]の流通拠点として世界的に有名であり、研磨ダイヤモンドの輸出額はイスラエルの総輸出額のうち約4分の1を占めている<ref name="jetro"/>。イスラエルはダイヤモンド産業を政府主導で基幹産業へと発展させてきた。産業の確立にはユダヤ系資本の[[デビアス]]が貢献したが、デビアスとは後に対立を引き起こしてもいる{{sfn|立山|2012|p=222}}。 また兵器産業も経済に大きな影響を与えている。高度な技術の民間転用がハイテク産業を急成長させ、また兵器の輸出によって直接的な収入源ともなっている。[[ストックホルム国際平和研究所]](SIPRI)によればイスラエルは2008年から2012年のデータにおいて兵器の輸出元として世界10位となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.sipri.org/yearbook/2013/files/SIPRIYB13Summary.pdf|title=A summary of SIPRI Yearbook 2013|accessdate=2014-04-13|date=2013-06-03|publisher=ストックホルム国際平和研究所}}</ref>。また[[エルサレム・ポスト]]は、2010年度の武器輸出額が72億ドルに上り、世界4位になったと報じた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jpost.com/Defense/Israel-marks-record-defense-exports-in-2010|accessdate=2014-04-13|title=Israel marks record defense exports in 2010|date=2011-06-16|publisher=エルサレム・ポスト}}</ref>。2010年の時点では兵器製造企業は約200社ほど存在する{{sfn|立山|2012|p=189}}。 イスラエルの鉱業を支えているのは、[[塩化カリウム|カリ塩]]と[[リン鉱石]]である。2003年の時点で、それぞれの世界シェアは5位(193万トン)、9位(102万トン)である。金属鉱物は採掘されていない。有機鉱物では[[亜炭]]、[[原油]]、[[天然ガス]]を産出する。天然ガスについては、2010年以降イスラエル沖の東地中海に{{仮リンク|タマルガス田|en|Tamar gas field}}や[[リヴァイアサンガス田]]などの大規模ガス田が発見されており、2020年には国内の天然ガス需要を産出量が上回り近隣国への天然ガスの輸出が行われている<ref>{{Cite report|和書|title=イスラエル・キプロス・エジプトを中心とする東地中海の天然ガス事情 ―Leviathanガス田生産開始―|author=川田眞子|date=2020-04-20|url=https://oilgas-info.jogmec.go.jp/info_reports/1008604/1008736.html|publisher=[[エネルギー・金属鉱物資源機構]]|accessdate=2023-11-26}}</ref>。[[ギリシャ]]企業のエネルジーン・オイル・アンド・ガス社が2019年にも採掘を始める計画である<ref>「ギリシャ資源会社・エネルジーン イスラエル沖でガス開発 1700億円を投資」『[[日経産業新聞]]』2018年5月31日(グローバル面)。</ref>。 == 交通 == {{main|{{仮リンク|イスラエルの交通|en|Transport in Israel}}}} [[File:BenGuDuty.jpg|thumb|[[ベン・グリオン国際空港]]]] === 自動車・バス === 国土が狭いイスラエルでは、車、[[バス (交通機関)|バス]]、[[貨物自動車|トラック]]などが主な交通機関である。近年、車の急速な増大に対応し、辺鄙な地域への交通の便を図るため、道路網の拡充が図られた。多車線のハイウェーは目下300キロの運営だが、2004年の時点で、南の[[ベエルシェバ]]から北のロシュハニクラ、ロシュピナまでハイウェー網が整備されつつある。さらに、人口稠密地には[[バイパス道路|バイパス]]が設けられた。緑色の[[エゲッドバス]]は、イスラエル全土を網羅しており、後部にトイレがある。運賃はエルサレム-エイラット間で70NIS(約2,000円)。主要道路には、[[公道1号線 (イスラエル)|公道1号線]](中央部を東西)、[[公道60号線 (イスラエル)|公道60号線]](中央部を南北)、[[公道90号線 (イスラエル)|公道90号線]](東部を南北)などがある。 イスラエルは2011年から国家プロジェクトとして[[電気自動車]]の導入を推進している。イスラエルは国土が小さいうえ、主要な石油原産国である近隣アラブ諸国との関係から電気自動車の導入に積極的である{{sfn|科学技術振興機構|2010|p=5}}。 === 鉄道 === {{see|イスラエルの鉄道}} [[イスラエル鉄道]]は、エルサレム、テルアビブ、[[ハイファ]]、[[ナハリヤ]]の間で旅客運送を行っている。貨物運送としては、[[アシュドッド]]港、[[アシュケロン]]市、ベエルシェバ市、[[ディモナ]]の南部の[[鉱山]]採掘場など、より南部にまで及んでいる。貨物鉄道の利用は年々増加し、乗客の利用も近年増えている。 テルアビブとハイファでは、道路の交通渋滞を緩和するため、既存の路線を改善した高速鉄道サービスが導入されつつある。また、2004年10月より、[[ベングリオン空港]]とテルアビブ市内を結ぶ[[空港連絡鉄道]]が運行されている。 === 航空 === {{see|イスラエルの空港の一覧}} 国際線を運航する[[航空会社]]として国営航空会社の[[エル・アル航空]]と[[アルキア・イスラエル航空]]、[[イスラエアー]]があり、テルアビブの[[ベン・グリオン国際空港]]を[[ハブ空港]]として中東やヨーロッパ、[[日本]]を含む[[アジア]]、アメリカ諸国に路線を設けている。 == 科学技術 == [[ファイル:Israel Hiking Map מגדל קופלר.jpeg|サムネイル|333x333ピクセル|[[レホヴォト]]にある[[ヴァイツマン科学研究所]]の[[粒子加速器]]]] {{main|{{仮リンク|イスラエルの科学技術|en|Science and technology in Israel}}}} イスラエルは科学において高度先進国であり、Bloomberg Innovation Indexから『最も革新的な国』の5位にランクされている。 科学技術は、同国で最も発展した分野の1つであり、科学研究の水準も非常に高いものとなっている。 イスラエルは専門資格を持った人材資源が豊富であり、科学技術の研究開発に注がれる資金の額は、2007年度のデータではGDPとの比率でみると世界1位である{{sfn|科学技術振興機構|2010|p=7}}。また国際的な研究協力も重視し、欧米諸国のみならず各国と積極的に連携を行っている{{sfn|科学技術振興機構|2010|pp=50-55}}。 医学とその周辺分野、ならびに[[生物工学]]の分野では極めて進んだ研究開発基盤を持ち、広範囲な研究に取り組んでいる。研究は大学医学部・各種国立研究機関をはじめ、医薬、生物工学、食品加工、医療機器、軍需産業の各メーカーの研究開発部門でも活発に行われている。イスラエルの研究水準の高さは世界によく知られており、海外の医学、科学分野、軍事技術の研究諸機関との相互交流も盛んである。臨床医学では、熱傷の治療について、高い水準を誇った他、幹細胞研究など、イスラエルが高いレベルを誇る領域は、枚挙にいとまが無い。こうした高い医学水準を背景にイスラエルでは医学上の様々な議題の国際会議が頻繁に開催されている。さらに軍需製品の性能・品質は世界に見ても非常に高く、このような科学技術の発展にはソ連崩壊による100万人近くの移民に多くの研究者・技術者が含まれていたことも大きく影響している{{sfn|立山|2012|p=216}}{{sfn|科学技術振興機構|2010|p=11}}。 イスラエルには[[徴兵制度|兵役]]があるため、イスラエル出身者は軍隊のチームマネジメントや、政府で運用されているサイバーセキュリティなどの高度な技術を学ぶことになる。また、起業に失敗したとしても再就職は容易である。その結果として、[[徴兵制度|兵役]]終了後に大学を卒業した後は、起業する事も普通である。特に[[情報技術|IT]]分野で[[スタートアップ]]が多数存在し、2年~3年のサイクルで大半が入れ替わっており、「第2の[[シリコンバレー]]」とも呼ばれている。 [[サイバーセキュリティ]]において世界最高峰の技術を持つ。特に[[暗号理論]]の水準が高いとされ、[[インターネット]]のセキュリティーで重要な役割を演じる[[ファイアウォール]]や[[公開鍵]]の開発において、イスラエルは重要な役割を果たしてきた。関連して、「ペガサス」と呼ばれる高性能[[スパイウェア]]もイスラエルで開発されており、[[世界]]中の[[政府機関]]や[[軍事組織]]で使われている。[[2016年]]にはイスラエルに開発拠点を置くSirin Labs社が軍用並みかつ世界一のセキュリティを謳う「Solarin」という150万円のスマートフォンを発売した。 [[インテル]]が2つ保有する[[CPU]]開発拠点の1つがイスラエルの[[ハイファ]]に存在し、[[Coreマイクロアーキテクチャ]]や[[Sandy Bridgeマイクロアーキテクチャ]]を開発してCPUの動作効率を大幅に高めた実績がある。ユーザーの感想からしても、単純なクロック数重視の開発でCPUの高消費電力化を招いた[[アメリカ合衆国]][[オレゴン州]]の開発チームよりも高い実力があると評されている。 また宇宙開発技術も高く、独自に[[人工衛星]]も打ち上げている<ref name="jss">{{Cite web|和書|url=http://www.jspacesystems.or.jp/project_alset/wp-content/uploads/sites/16/2013/03/132alset_index.pdf|title=マイクロ衛星打ち上げ用空中発射システムに関する調査研究|accessdate=2014-04-15|date=2007-03|publisher=[[宇宙システム開発利用推進機構]]|format=PDF|page=17}}</ref>。通常の人工衛星では地球の[[自転]]を利用して東向きに打ち上げられるが<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jaxa.jp/pr/inquiries/qa/satellite.html|accessdate=2014-04-15|title=人工衛星についてのFAQ|publisher=[[宇宙航空研究開発機構]]}}</ref>、イスラエルの衛星は西方以外に他国が存在するため、全て非効率的な西向きに打ち上げられている<ref name="jss"/>。また、2003年、イスラエル初の[[宇宙飛行士]]として空軍パイロットの[[イラン・ラモーン]]大佐がアメリカの[[スペースシャトル]]「[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]」で宇宙に飛び立ったが、[[大気圏再突入]]時の[[コロンビア号空中分解事故|空中分解事故]]により死亡した。 [[パレスチナ]]からの[[ロケット弾]]攻撃の迎撃を成功させて世界的に有名になった「[[アイアンドーム]]」もイスラエルの国防企業である[[ラファエル・アドバンスド・ディフェンス・システムズ]]と[[イスラエル・エアロスペース・インダストリーズ]]が開発を行っており、イスラエルの[[ミサイル]]関連技術はアメリカ合衆国をも凌ぐという。 {{節スタブ}} == 国民 == {{main|{{仮リンク|イスラエルの人口統計|en|Demographics of Israel|redirect=1}}}} {{See also|{{仮リンク|ユダヤ人のディアスポラ|en|Jewish diaspora}}}} === 民族 === 2013年のイスラエル中央統計局のデータでは、総人口は802万人である。そのうちユダヤ人が604万人(75.3%)、アラブ人が166万人(20.7%)、その他32万人(4.0%)となっている<ref>{{Cite web|url=http://www1.cbs.gov.il/www/hodaot2013n/11_13_097e.pdf|title=65th Independence Day - More than 8 Million Residents in the State of Israel|accessdate=2014-04-05|date=2013-05-19|format=PDF|publisher=イスラエル中央統計局}}</ref>。アラブ人の大半は[[ムスリム]]で{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=129}}、2009年のデータではアラブ人の78%がムスリムである<ref name="cbs1990-2009">{{Cite web|url=http://www1.cbs.gov.il/www/statistical/isr_pop_eng.pdf|title=The population of Israel 1990-2009 Demographic characteristics|accessdate=2014-04-05|date=2010-10-20|format=PDF|publisher=[[イスラエル中央統計局]]}}</ref>。なお、イスラエルでは1970年に改正された『[[帰還法]]』により、ユダヤ人の定義を「ユダヤ教を信仰しているか、母親がユダヤ人のもの」としている。イスラエルは移民国家であり、出身地ごとに欧米系を[[アシュケナジム]]、アジア・アフリカ系を[[セファルディム]]、オリエント系を[[ミズラヒム]]と呼び{{sfn|立山|2012|p=20}}、同じユダヤ人でも異なる[[人種]]の場合もある(「[[ユダヤ人]]」も参照)。 1990年から2009年までの統計によればユダヤ人の人口は減少傾向にあり、対してアラブ人は増加傾向にあるという。これはユダヤ人移民の減少によるものとイスラエル中央統計局は推測している<ref name="cbs1990-2009"/>。 2割前後存在するアラブ人とユダヤ人との人種間では宗教上の理由もあり、交流は限定的なものとなっている。2015年の婚姻の統計例でみれば、結婚した58,000組のうちユダヤ系とアラブ系のカップルは23組にとどまっている<ref>{{Cite web|和書|date=2018-10-16 |url=https://jp.reuters.com/article/jews-idJPKCN1MQ041 |title= ユダヤ教徒とイスラム教徒のセレブが結婚、イスラエルで賛否|publisher=ロイター |accessdate=2020-04-29}}</ref>。 === ユダヤ人の多様性 === {{bar box |title=イスラエルのユダヤ人の出身地の割合<ref>{{citenews|url=http://www.cbs.gov.il/reader/shnaton/templ_shnaton_e.html?num_tab=st02_24x&CYear=2009|title= "Table 2.24 – Jews, by country of origin and age" (PDF)|publisher=[[イスラエル中央統計局]]|date=2010-03-22|accessdate=2015-06-03}}</ref> |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[ロシア]]・[[旧ソ連]]|lightblue|20.9}} {{bar percent|[[モロッコ]]|yellow|15.2}} {{bar percent|[[ポーランド]]|Purple|8.3}} {{bar percent|[[イラク]]|silver|7.7}} {{bar percent|[[ルーマニア]]|red|7.6}} {{bar percent|[[イエメン]]|green|4.9}} {{bar percent|[[イラン]]|pink|4.0}} }} ユダヤ人は、主に出身地ごとに大まかなグループに分類される。 ; [[アシュケナジム]] : おもに[[ドイツ語]]や[[イディッシュ語]]を母語とするドイツ・東欧からの移民で、エリート層を占める。イスラエル独立以前からの移民はアシュケナジームが多く、都市は西洋風である。無神論者も多い(アシュケナジム・セファルディムとは、[[シナゴーグ]]や生活面での宗教的伝統、言語的な違いなどによる呼称であって、そういう民族がいるわけではない)。独立以降は旧ソ連・ロシアからの移民が大半を占め、全ユダヤ人の2割を占めている。 ; [[セファルディム]](イベリア系、[[イタリア]]、[[オランダ]]、[[南アメリカ|南米]]、かつての[[オスマン帝国]]領域) : [[東アフリカ]]や[[北アフリカ]]などのイスラム教圏、地中海や[[北海]]・[[バルト海]]などのヨーロッパ沿海部からの移民(および欧州から中南米への移民を経てパレスチナ地域に再移住した移民)が多い。失業率も高く、多くは辺境の砂漠地帯での居住・生活を甘受している。イスラエル国家の独立後に移住してきた場合が多い。ユダヤ教の戒律を重視する人が比較的多いが、イスラム教徒はおおむねユダヤ教徒やキリスト教徒を同じ「'''[[啓典の民]]'''」として敬意を示すため、迫害されることは少なく、ユダヤ教徒としての伝統に則した暮らしを続けてきたからである。 ; [[ミズラヒム]]([[山岳ユダヤ人]]、[[ジョージア (国)|ジョージア(グルジア)]]、インド、[[ブハラ]]、イラン、[[アラブ世界]]、[[イエメン]]、[[エチオピア]]などの[[オリエント]]系移民の総称) : イスラエルには現在主席ラビが2つしかないため、アシュケナジム・セファルディムで総称されることが多いが、セファルディムとミズラヒムは本来は別のものである。ただ、セファルディムの故郷も一時はミズラヒムと同じイスラム圏に属したこともあり、居住地から、身体的形質や使用言語・宗教的慣習などでも類似性・共通性はある。セファルディム・ミズラヒムは国民の40%弱を占め、ミズラヒムのうち最大グループは[[モロッコ]]出身のユダヤ人である。 ; [[サマリア人]] : 現在ではユダヤ教徒の一派として認められている。 ; [[カライム]]・[[クリムチャク人]] : [[ハザール]]との関連も唱えられる[[テュルク諸語|テュルク系言語]]の話者。 その他、ユダヤ教に改宗した人々([[ブラック・ジュー]]、[[ミゾ]])などもユダヤ教徒として住んでいる。 === 非ユダヤ人の扱い === 21世紀に入って以降、アフリカの[[エリトリア]]、[[スーダン]]、[[南スーダン]]などから[[シナイ半島]]を経由してイスラエルに不法入国する人々が後を絶たない。2012年時点、アフリカ系移民の人口は約6万人と推測されている。これは、母国での深刻な貧困や紛争などから逃れるためという側面があるが、イスラエル国内ではこの不法移民の扱いについて大きな議論を呼んでいる。「ユダヤ人国家」を穢されると懸念する右派勢力は移民排斥を訴え、特に過激なグループ([[カハネ主義]]者)たちは不法移民の滞在するアパートに放火したり、移民に暴力を振るったりしている。しかし、一方でホロコーストの記憶を有する国として、移民には寛容であるべきという意見もある<ref>{{citenews|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/120610/mds12061007000001-n4.htm|title=【海外事件簿】イスラエルで強まるアフリカ移民排斥感情|publisher=『産経新聞』|date=2012年6月10日|accessdate=2012年8月6日}}</ref>。 一部のユダヤ人による、アラブ系イスラエル人への襲撃事件が相次いでいる<ref>{{Cite news |title=平和だったアラブ系イスラエル人の村、憎悪犯罪の標的に |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2013-6-26 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2952275?pid=10926640 |accessdate=2013-6-26}}</ref>。アラブ系イスラエル人への敵視は政府内でも目立ってきており、[[2015年]][[3月17日]]、[[アヴィグドール・リーベルマン]]外相が、イスラエル国家に忠誠を誓わないアラブ系イスラエル人は「[[斬首刑|斬首の刑]]」に処すべきだと発言し問題となったが、イスラエルの右派はこの演説を聞いて熱狂した<ref>{{Cite news |title=イスラエル総選挙でアラブ系統一会派が歴史的躍進|newspaper=『[[ニューズウィーク]]』 |date=2015-3-12 |url=http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2015/03/post-3584.php|accessdate=2015-3-21 |author=ジャック・ムーア}}</ref>。 イスラエルには13万5,000人のエチオピア系市民がいるが、彼らは日常的に暴力を受けている。エチオピア系兵士が警察官2人から暴行される様子が撮影されたビデオが公開されたことをきっかけに、2015年5月3日、テルアビブで大規模なデモが発生、参加者の一部は暴徒化した。[[ベンヤミン・ネタニヤフ|ネタニヤフ]]首相はエチオピア系市民の指導者と会談し、差別の撤廃を約束した<ref>{{Cite news |title=イスラエル、「人種差別」取り締まり約束 エチオピア系市民のデモ暴徒化|newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2015-5-5|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3047424|accessdate=2015-5-7|author=Hazel Ward }}</ref>。 [[2015年]][[5月20日]]、イスラエルは一部のバス路線で[[パレスチナ人]]が[[イスラエル人]]と同じバスに乗ることを禁止する措置を取った。これについて、人権団体などは[[南アフリカ共和国|南アフリカ]]の人種隔離政策[[アパルトヘイト]]と同じだと強く批判。この措置は、運用の数時間後に撤回された<ref name="cnn35064844">{{Cite news |title=イスラエル、パレスチナ人のバス同乗禁止を凍結 国内で批判 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2015-5-21 |url=http://www.cnn.co.jp/world/35064844.html |accessdate=2015-5-24 }}</ref><ref name="afpbb3049252">{{Cite news |title=パレスチナ人のバス同乗禁止措置、イスラエル首相が凍結命令 |newspaper=[[フランス通信社|AFPBB News]] |date=2015-5-20 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3049252 |accessdate=2015-5-21 }}</ref><ref>{{Cite news |title=パレスチナ人のバス同乗禁止 一転して中止 |newspaper=[[日本放送協会|NHK]] |date=2015-5-21 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150521/k10010086501000.html|accessdate=2015-5-24 }}</ref>。 [[2018年]][[7月19日]]、[[クネセト]]で可決したユダヤ国民国家基本法(国籍法)<ref>[https://www.timesofisrael.com/knesset-votes-contentious-jewish-nation-state-bill-into-law/ Israel passes Jewish state law, enshrining ‘national home of the Jewish people’ 19 July 2018, 2:58 am] - "[[:en:The Times of Israel|The Times of Israel]]" Raoul Wootliff</ref>では、[[民族自決]]権を持つのはユダヤ人のみと明確に限定した。公用語もヘブライ語のみとして、パレスチナ・アラビア系住民が主な話者のアラビア語は「特別な地位」を持つとしたが、公用語からは外された。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|イスラエルの言語|en|Languages of Israel}}}} {{See also|ウルパン|イスラエルにおけるロシア語}} [[公用語]]は[[ヘブライ語]]{{sfn|イスラエル外務省|2010|pp=79-80}}。ほか[[イディッシュ語]]、[[アラビア語]]が使われる。アラビア語は法律に定められた公用語の一つであったが、2018年7月19日に除外された。 なお、現代イスラエルの公用語であるヘブライ語は、[[古代ヘブライ語]]を元に20世紀になって復元されたものである。全くの文章語となっていた言語が復元されて公用語にまでなったのは、これが唯一のケースである。 上記の理由から、現代ヘブライ語の[[方言]]はないとされる。あるとすれば、他国からの移住者のネイティブ言語の影響による「なまり」や、各コミュニティーでの伝統的な([[聖書]]や[[ラビ]]文学の朗読、礼拝などに用いる音声言語化された[[文語]]としての)ヘブライ語の発音などがそれにあたる。 イスラエル中北部やヨルダン川西岸地区に多く住むアラブ人は[[アラビア語]]の「ヨルダン定住方言」(アラビア語方言学の名称と思われるが、多分に反シオニズム的表現であると思われる。「パレスチナ方言」「イスラエル方言」という表現も可能である)を、イスラエル南部に多いアラブ人は「ネゲヴ・ベドウィン方言」を、エルサレムのアラブ人は「エルサレム方言」を、ゴラン高原の住民は「ハウラン方言」を話し、全てシリアからシナイ半島にかけて話される「シリア・[[アラビア語パレスチナ方言|パレスチナ方言]]」の一部であるとされる。 また、西岸地区では[[サマリア語]]の新聞も出されている。 テルアビブ市内にはヘブライ語に並んで[[ロシア語]]の看板なども多く見られる。 === 結婚 === {{Main|{{仮リンク|イスラエルにおける婚姻|en|Marriage in Israel}}}} イスラエルは宗教婚のみ認めており、民事婚は認めていない。ユダヤ教はもちろんイスラム教など各宗教ごとに宗教裁判所が存在し、婚姻などを管轄している{{sfn|立山|2012|p=88}}。ユダヤ教においては超正統派が婚姻を司っており、宗教法により異教徒間の結婚は認められない。そのためユダヤ教徒以外のものと結婚する場合やその他の事情がある場合は、海外で結婚し、帰国後に結婚証明書を役所に提出するという国外結婚の形をとる{{sfn|立山|2012|pp=81-82}}。国外結婚は[[キプロス]]で行うものが最も多く、毎年1000組ほどが結婚を行うという<ref>{{Cite web|url=http://www.haaretz.com/news/national/israeli-couples-wed-at-mass-civil-ceremony-in-cyprus-1.368554|accessdate=2014-04-17|title=Israeli couples wed at mass civil ceremony in Cyprus|date=2011-01-19|publisher=[[ハアレツ]]}}</ref>。 結婚の際、伝統的には女性は婚姻に際して夫の姓を称する(夫婦同姓)が、いつでも自己の未婚時の姓または従前の夫の姓を夫の姓に付加(結合姓)することができ、また、未婚時の姓または従前の姓のみを称する([[夫婦別姓]])こともできる。 === 宗教 === {{main|[[イスラエルの宗教]]|{{仮リンク|イスラエルのイスラム教|en|Islam in Israel}}}} [[File:Population of israel by religion no text alt.svg|thumb|イスラエルの宗教別人口の推移(1949年-2015年){{Legend2|#65acef|ユダヤ教徒}}{{Legend2|#71c837|ムスリム}}{{Legend2|#f05844|キリスト教徒}}{{Legend2|#ffd42a|ドゥルーズ派 }}{{Legend2|#d8d1cc|その他}}]] イスラエルは宗教の自由を認めている{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=145}}。2004年のデータではユダヤ教徒が523.8万人(76.2%)、ムスリムが110.7万人(16.1%)、キリスト教徒が14.4万人(2.1%)、[[ドゥルーズ派]]が11.3万人(1.6%)、その他26.5万人(3.9%)となっている<ref>{{Cite web|url=http://www1.cbs.gov.il/shnaton56/st02_01.pdf|title=POPULATION, BY RELIGION AND POPULATION GROUP|accessdate=2014-04-05|date=2005-09-14|format=PDF|publisher=イスラエル中央統計局}}</ref>。信仰のあり方についても多様で、戒律を厳しく守ろうとするユダヤ教徒は20%、ある程度個人の自由で守るものが多数派で60%、全く守ろうとしないものも20%いる{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=135}}。 [[キリスト教徒]]の多くは[[正教会|東方正教会]]の[[エルサレム総主教庁]]ないしは[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の信者が多いが[[コプト正教会]]、[[アルメニア正教会]]などの信者もいる。一部のユダヤ人の中には[[イエス・キリスト]]を[[メシア]]とする「[[メシアニック・ジュダイズム]]」の人々もいる<ref>[http://www.bbc.com/news/world-middle-east-15239529 Guide: Christians in the Middle East]([[英国放送協会|BBC]])</ref>。 === 教育 === [[File:Technion Computer Science Faculty.jpg|thumb|[[イスラエル工科大学]]]] {{Main|イスラエルの教育}} イスラエルは「[[:en:Stereotypes of Jews#Jewish mother|ジューイッシュ・マザー]](ユダヤ人の母)」という言葉が[[教育ママ]]を意味するように、教育が重視されている。これにはユダヤ人が歴史的に教育熱心であったという背景もある{{sfn|科学技術振興機構|2010|p=11}}。イスラエルの教育は小学校6年、中学校3年、高等学校3年の6-3-3制である。義務教育は5歳から始まり、義務教育期間は5歳から18歳までである<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcif.or.jp/report/world/163.pdf|title=イスラエル|accessdate=2014-04-15|date=2013-10-28|publisher=国際金融情報センター|format=PDF}}</ref>。1949年に義務教育に関する法が施行された時点では5歳から15歳までであったが、法改正により18歳までとなっている<ref>{{Cite web|url=http://www.haaretz.com/print-edition/news/knesset-raises-school-dropout-age-to-18-1.225752|accessdate=2014-04-15|title=Knesset raises school dropout age to 18|date=2007-07-18|publisher=[[ハアレツ]]}}</ref>。この期間延長は徐々に移行が進んでおり、イスラエル政府は2014年か2015年には全国に適用させる予定としている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jpost.com/National-News/Piron-extends-compulsory-education-law-324425 |accessdate=2014-04-16|title=Piron extends compulsory education law|date=2013-08-27|publisher=[[エルサレム・ポスト]]}}</ref>。義務教育期間と高等学校までの学費は無料である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/06middleeast/infoC60400.html|accessdate=2014-04-14|title=諸外国・地域の学校情報(国・地域の詳細情報)|date=2011-03|publisher=外務省}}</ref>。18歳になると通常は兵役に就き、その後進学する者は大学に入学することになる。入学にはアメリカの[[SAT (大学進学適性試験)|SAT]]に類似した試験が年に4回ある<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=20200212world0002 【地球コラム】22歳の元日本人女性軍曹が兵役後に考えたこと] - [[時事通信]]</ref>。兵役後も海外旅行などで見聞を広めてから大学に進学するものも多い<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/0509israel.html|accessdate=2014-04-14|title=外務省: 世界の学校を見てみよう! イスラエル国|publisher=外務省}}</ref>。そのため、大学生の平均年齢は高くなっている。[[大学]](ウニバルシタ)はすべて公立であり、比較的安価で[[高等教育]]を受けることができる。ほとんどの大学生はダブルメジャー(2つの専攻)で、平均3年で学位を取得する。また、[[専門学校]](ミクララ)が各地に存在する。教育水準は高いが、欧米との結びつきが強いためか、優秀な研究者がイスラエルを離れ海外移住することも多く、この[[頭脳流出]]は大きな問題となっている{{sfn|科学技術振興機構|2010|p=8}}。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|イスラエルの保健|en|Health in Israel}}}} {{節スタブ}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|イスラエルの医療|en|Healthcare in Israel}}}} {{節スタブ}} == 社会 == {{節スタブ}} === 社会福祉 === {{see|{{仮リンク|イスラエルの福祉|en|Welfare in Israel}}}} 健康保険は1995年に、国民新保健医療法(NHCL)が成立し18歳以上の全国民に加入を義務づける[[国民皆保険]]となっている<ref name="ilc">{{Cite web|和書|url=http://www.ilcjapan.org/chojuGIJ/pdf/08_02_10.pdf|title=シンポジウム「高齢社会における人権」ILCイスラエル|accessdate=2014-04-15|date=2007-10-16|publisher=国際長寿センター|format=PDF}}</ref>{{sfn|立山|2012|p=105}}。社会福祉支出はOECDの2012年のデータによると、2007年と比べ21.2%増加しているものの、GDP比15.8%でOECD諸国平均21.9%より低い値となっている<ref name="oecd_isr"/>。相対的貧困率は2012年のデータで20.9%とOECD諸国でもっとも貧困率が高い<ref name="oecd_isr"/>。しかし、2012年の[[人間開発指数]]は0.900の「非常に高い」となっており世界16位である<ref>{{Cite web|url=http://hdr.undp.org/en/countries/profiles/ISR|accessdate=2014-04-15|title=Human Development Reports|publisher=[[国際連合開発計画]]}}</ref>。 聖書には「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」という言葉もあり<ref>{{Bible ws|創世記|1|28}}</ref>、子どもに対しては特別の配慮が払われている。出産に関しては[[不妊治療]]が45歳まで健康保険の対象項目となっており、大きな病院には大抵の場合[[体外受精|体外受精科]]が存在する{{sfn|立山|2012|p=96}}。実際に体外受精は広く行われており、[[ヨーロッパ生殖医学学会]](ESHRE)が刊行する''HumanReproductionUpdate''の2002年号では、イスラエルの体外受精実施件数は100万人あたり1,657件と報告している。2位のアイスランドの899件を大きく引き離している<ref>{{Cite web|url=http://www.nytimes.com/2011/07/18/world/middleeast/18israel.html?pagewanted=all&_r=0|accessdate=2014-04-16|title=Israel Is Leading the World in In Vitro Fertilization|date=2011-07-17|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]}}</ref><ref>{{Cite journal|url=http://humupd.oxfordjournals.org/content/8/3/265.full.pdf|title=An international survey of the health economics of IVF and ICSI|author=John A.Collins|journal=Human Reproduction Update|volume=8|number=3|year=2002|publisher={{仮リンク|ヨーロッパ生殖医学学会|en|European Society of Human Reproduction and Embryology}}|accessdate=2014-04-17|page=268|format=PDF}}</ref>。女性1人あたりの平均出産数([[合計特殊出生率]])はOECDの調査によれば2011年のデータでは3.0となり、OECD諸国平均の1.7を大きく上回っている<ref name="oecd_isr">{{Cite web|url=http://www.oecd.org/israel/OECD-SocietyAtaGlance2014-Highlights-Israel.pdf|title=Society at a Glance 2014 - Highlights: ISRAEL - OECD Social Indicators|accessdate=2014-04-16|date=2014|publisher=経済協力開発機構}}</ref>。世界銀行の調査でも2019年のデータで3.01である<ref>{{Cite web|url=https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.TFRT.IN?locations=IL|title=Fertility rate, total (births per woman) - Israel|accessdate=2021-09-14|date=2021|publisher=WordBank}}</ref>。一般家庭には児童手当も支払われている{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=163}}。また[[児童虐待]]について、[[NICHDプロトコル]]を用いた[[司法面接]]を1998年に国家で採用している<ref>{{Cite web|和書|url=http://child.let.hokudai.ac.jp/report/?r=142|accessdate=2014-04-15|title=子どもへの司法面接:面接法の改善その評価:イスラエルを訪問し,司法面接事情を視察しました。|date=2010-06-05|publisher=[[北海道大学]]}}</ref>。 [[平均寿命|出生時平均余命]]はOECDの2013年に公表されたデータによれば、2011年度は81.8歳となっており、先進国の中でも9位となっている<ref>{{Cite web|url=http://www.oecd-ilibrary.org/social-issues-migration-health/life-expectancy-at-birth-total-population_20758480-table8|accessdate=2014-04-15|title=Life expectancy at birth, total population|date=2013-12-06|publisher=OECD iLibrary}}</ref>。また、[[国際連合開発計画|国連開発計画]]の2012年のデータによれば81.9歳で、世界で7位となっている<ref>{{Cite web|url=http://hdr.undp.org/sites/default/files/reports/14/hdr2013_en_complete.pdf|title=Human Development Report 2013|accessdate=2014-04-16|date=2013|pages=144-146|publisher=国際連合開発計画}}</ref>。 長寿国であるため高齢者問題も大きな課題となってきている。特に旧ソ連からはソ連崩壊に伴い、100万人近くが移民してきたが、そのうち12%以上が65歳以上の高齢者であったという{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=161}}。高齢者は公共交通の割引や減税を受けられ、また高齢者介護を理由に有給休暇を認める法律も制定されている<ref name="ilc"/>。終末期医療については2006年に法律が制定され、[[尊厳死]]が認められている<ref name="ilc"/>。2008年の時点では65歳以上の高齢者の割合は10.0%となっている。しかしこれはOECD諸国平均の14.4%よりは低い数値である<ref>{{Cite web|url=http://www.oecd-ilibrary.org/sites/factbook-2011-en/02/01/04/index.html?contentType=&itemId=/content/chapter/factbook-2011-12-en&containerItemId=/content/serial/18147364&accessItemIds=&mimeType=text/h|accessdate=2014-04-16|title=OECD iLibrary: Statistics / OECD Factbook / 2011 / Elderly population by region|date=2011|publisher=[[経済協力開発機構]]}}</ref>。 === 貧困問題 === [[先進国]]とされているイスラエルだが、深刻な貧困問題を抱えている。イスラエルには1954年に制定された『国民健康法』に基づき、収入が最低基準以下の世帯と個人に対しては国民保険機構から補助金が支給されている。また、[[児童手当]]も支給されており、特に4人以上の子どもがいる家庭には手厚い福祉が施されている{{sfn|イスラエル外務省|2010|p=163}}。しかしイスラエルは、かねてから所得格差が大きいことや貧困に苦しむ国民が多いことが指摘されていた{{sfn|立山|2012|p=237}}。2010年12月22日の『[[ハアレツ]]』紙によると、イスラエルの全人口のうち、およそ177万人が貧困状態にあり、うち85万人は子どもであるという。貧困状態にある世帯の約75%は日々の食料にも事欠いているとされ、きわめて深刻な実態が浮き彫りとなった。貧困状態にある子供たちの中には物乞いをしたり、親に盗みを働くよう強制されたりする事例もあるという<ref>{{citenews|url=http://www.haaretz.com/news/national/study-850-000-children-live-in-poverty-in-israel-1.332047|title=Study: 850,000 children live in poverty in Israel|publisher=ハアレツ|date=2010-12-22|accessdate=2010-12-24}}</ref>。イスラエルの中央統計局と福祉省の調査によると、2011年に福祉省に助成を求めた世帯の割合は28%で、これは1998年と比べて75%の増加にあたるという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.israel.emb-japan.go.jp/html/ecoMonthlyJP_Feb2013.pdf|title=イスラエル経済月報|accessdate=2014-04-13|date=2013-02|publisher=[[在イスラエル日本国大使館]]|format=PDF}}</ref>。 貧しい子どもたちのために無料[[給食]]や補講などを実施している[[学校]]「[[エル・ハ=マーヤン]]」の運営母体である[[超正統派 (ユダヤ教)|超正統派]]政党「[[シャス]]」のエリ・イシャイ党首は「国民保険制度研究所さえ、政府の俸給を増やすことのみが貧困を解消する唯一の方法と断定した。このようなほかの政府機関からかけ離れた見通しが長きに渡ってなされているのは恥である」と述べた。また、[[中道左派]]政党「[[労働党 (イスラエル)|労働党]]」の議員であるシェリー・ヤシモビッチはイスラエル国内での[[ワーキングプア]]の増大を指摘している。また、[[左翼|左派]]政党「[[メレツ]]」のハイム・オロン党首は「政府は([[資本主義]]における)結果的格差を肯定しているが、貧困の根本原因を取り除かなければならない」と指摘している<ref>{{citenews|url=http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-3506852,00.html|title=Report: Standard of living rises, poor remain impoverished|publisher=ynetnews.com|date=2008-2-14|accessdate=2010-12-25}}</ref>。 2011年7月30日には、イスラエル国内で住宅価格や[[生活費]]の高騰、[[貧富の差|貧富の格差]]に対して抗議する15万人規模のデモが起きている。左派系のみでなく、保守系の人々も多数参加した極めて大規模なものである<ref>{{citenews|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110731/mds11073110240000-n1.htm|title=イスラエルで15万人デモ 住宅価格高騰に抗議|publisher=産経新聞|date=2011年7月31日|accessdate=2011年7月31日}}</ref>。8月6日には、[[最低賃金]]引上げなどを求め30万人規模のイスラエル建国至上最大の抗議運動が起きた<ref>{{citenews|url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/110807/mds11080711310005-n1.htm|title=イスラエルで30万人デモ 物価高騰で「史上最大規模」|publisher=『産経新聞』|date=2011年8月7日|accessdate=2011年8月7日}}</ref>。 [[経済協力開発機構]](OECD)が2013年にまとめた報告書では、イスラエルが全てのOECD加盟国の中で最も貧困率が高いことが記されている。また、同年10月に発表された[[イスラエル中央統計局]]の報告書では、イスラエルの全人口のうち31%が[[貧困線]]以下の生活をしているという。また、同報告書ではイスラエルの子供の40%が貧困に直面しているとしている。また、2013年に入ってから多くのイスラエル人が[[アメリカ合衆国]]や[[ドイツ]]などへ経済的理由から移住しているという。[[ヘブライ大学]]のモミー・ダハン教授は、この問題の背景として、イスラエル政府が社会保障や児童予算を削減し続けていることを指摘している<ref>{{Cite web|url=http://www.presstv.ir/detail/2013/12/08/338900/israel-ranked-poorest-oecd-member/|accessdate=2014-04-05|title=Israel ranked poorest member of OECD|date=2013-12-08|publisher=[[PressTV]]}}</ref>。 == 治安 == {{main|{{仮リンク|イスラエルにおける犯罪|en|Crime in Israel}}}} イスラエル国家警察の犯罪統計によれば、2019年(12月末現在)のイスラエル国内での犯罪発生件数は約30万件で、日本の犯罪発生件数と人口比を基に比較した場合、イスラエルは日本の約5倍となっている。日本人の犯罪被害は、主に旅券や現金などの貴重品の盗難被害(スリ、置き引きなど)となっており、一瞬の隙に被害に遭ったなどの報告が挙げられている。 テロならび誘拐情勢においては、2022年07月15日時点では同国並びにヨルダン川西岸地区及びガザ地区からなるパレスチナ自治区における近年のテロ事案は、2000年代前半にテロが多発した時期と比較すると大幅に減少しているとの報告がされており、特に、自爆テロ事件については、2009年以降発生していない点から安全面は比較的保たれている。 反面でヨルダン川西岸地区内のイスラエル人入植地(入口付近のバス停など)やイスラエル兵士が配置されている交差点、同地区とイスラエルとの境界の検問所などにおいて、ナイフなどを使用してイスラエル治安要員を狙う事案や車両での突入事案が散発的に発生している。その為、同国に滞在の際は不用意な散策などを慎むことが求められる状態となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_044.html#ad-image-0|title=イスラエル 危険・スポット・広域情報|accessdate=2022-9-24|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 人権 === {{see|{{仮リンク|イスラエルにおける人権|en|Human rights in Israel}}}} {{節スタブ}} == メディア == {{main|{{仮リンク|イスラエルのメディア|en|Mass media in Israel}}}} {{節スタブ}} === 通信 === {{see|{{仮リンク|イスラエルの通信|en|Telecommunications in Israel}}}} {{節スタブ}} === 電話 === {{see|{{仮リンク|イスラエルの電話番号|en|Telephone numbers in Israel}}}} [[電話]]および[[携帯電話]]が広く利用されている。[[国際電話]]番号は972。 === インターネット === {{see|{{仮リンク|イスラエルのインターネット|en|Internet in Israel}}}} イスラエルの[[インターネット]]普及率は高く、主な場所で[[無線LAN]]が利用できる。[[インターネットカフェ]]も普及しており、店内は禁煙の所が多い。日本の[[漫画喫茶]]のように雑然としておらず、端末ごとに整然と区画されている。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|イスラエルの文化|en|Culture of Israel|redirect=1}}}} {{節スタブ}} === 食文化 === {{main|{{仮リンク|イスラエル料理|en|Israeli cuisine|he|המטבח הישראלי}}|[[ユダヤ料理]]}} イスラエル国民の中には外国の食文化を楽しむ者もおり、2017年の朝日新聞の記事によると世俗派の間で豚骨スープのラーメンが人気であるという<ref>「[http://www.asahi.com/articles/ASK1P2JXDK1PUHBI026.html 豚骨スープは禁断の味?イスラエルに日本のラーメン店]」『朝日新聞』朝日新聞社 2017年1月23日11時47分(文・テルアビブ=渡辺丘、2017年8月19日閲覧)</ref>。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|古代イスラエル料理|en|Ancient Israelite cuisine}}}} === 哲学 === {{main|[[ユダヤ哲学]]}} {{節スタブ}} === 文学 === {{main|[[イスラエル文学]]}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|イスラエルの音楽|en|Music of Israel|he|זמר עברי}}}} [[ピンカス・ズーカーマン]]、[[イツァーク・パールマン]]をはじめとする優れた音楽家を多数輩出している。[[イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団|イスラエル・フィル]]は、世界屈指の[[オーケストラ]]と評価されており、多くの演奏家が共演している。 {{節スタブ}} ==== 舞踊 ==== {{main|{{仮リンク|イスラエルの舞踊|en|Dance in Israel}}}} {{節スタブ}} === 美術 === {{main|{{仮リンク|イスラエルの視覚芸術|en|Visual arts in Israel}}}} {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|イスラエルの映画|en|Cinema of Israel}}}} イスラエル映画はその殆どがヘブライ語で制作されているが、アラビア語や英語などの他言語での制作も行なわれている。 {{節スタブ}} === 被服・ファッション === {{main|{{仮リンク|イスラエルのファッション|en|Israeli fashion}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|イスラエルの建築|en|Architecture of Israel}}}} イスラエルにおける建築は、当該地域に住んでいた人々の様々な建築様式の影響を受けている面が強い。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{main|イスラエルの世界遺産}} {{節スタブ}} === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|イスラエルの祝日|en|Public holidays in Israel}}}} <!--{| class="wikitable" style="text-align: left;font-size:small" |- ! 日付 !! 日本語表記 !! ヘブライ語表記 !! 備考 |---> {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ユダヤ教の祝日|en|Jewish holidays}}}} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|イスラエルのスポーツ|en|Sport in Israel|he|ספורט בישראל}}}} {{See also|オリンピックのイスラエル選手団}} イスラエル国内では[[サッカー]]が最も人気の[[スポーツ]]となっており、[[1999年]]にプロサッカーリーグの『[[イスラエル・プレミアリーグ]]』が創設された。リーグ最多優勝は[[マッカビ・テルアビブFC]]であり、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の本大会にも2度出場している。[[イスラエルサッカー協会]](IFA)によって構成される[[サッカーイスラエル代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]には[[1970 FIFAワールドカップ|1970年大会]]で初出場を果たしている。[[AFCアジアカップ]]では[[AFCアジアカップ1964|1964年大会]]で初優勝に輝いた。しかし、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]加盟後の[[UEFA欧州選手権]]には未出場である。著名な選手としては、[[プレミアリーグ]]の舞台で長年プレーし、主に[[リヴァプールFC|リヴァプール]]で活躍した[[ヨッシ・ベナユン]]が知られている<ref>[https://www.footballchannel.jp/2019/04/11/post317393/ 38歳MFベナユンが引退。リバプールなどで活躍したイスラエルのレジェンド] フットボールチャンネル 2019年4月11日</ref>。 イスラエルでは[[バスケットボール]]も盛んであり、[[1953年]]にプロバスケットボールリーグの『[[イスラエル・バスケットボール・プレミアリーグ]]』が創設されている。リーグ最多優勝は[[マッカビ・テルアビブBC]]であり、[[ユーロリーグ]]では2003-04シーズンと2004-05シーズンに大会連覇を果たしている。また、イスラエルではかつて[[競馬]]も無かったが[[2006年]]に初めて開催された。ただし、金銭を賭けることは禁止されているため、入場者は馬が走る姿や[[馬術 #馬術競技|馬術競技]]を観戦するだけの純粋なスポーツとして行われている。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|イスラエルのサッカー|en|Football in Israel|he|ספורט בישראל}}}} [[イスラエルサッカー協会]]は[[欧州サッカー連盟]]に加盟している。イスラエルは地勢的には[[アジア]]の国であり、[[1954年]][[5月8日]]に他の12ヶ国と共に[[アジアサッカー連盟]]を設立したが、直後には加盟せず2年後の[[1956年]]にAFCに加盟した<ref>[http://www.the-afc.com/en/about-afc About AFC(AFCについて 歴史など説明)-AFC公式HP英語版2007年9月6日]</ref>。AFCは、政治的配慮によりイスラエルサッカー協会をAFC創立メンバーとしては認めていない<ref name="autogenerated1">[http://www.neko.co.jp/page/publish/syousai.php?book_id=20050614192000001621 デイヴィッド・ゴールドブラッド著・野間けいこ訳『2002ワールドカップ32カ国・データブック』株式会社ネコ・パブリッシング ネコウェブ<!-- Bot generated title -->]</ref>。しかし、[[パレスチナ問題]]および[[中東戦争]]などの「アラブ・イスラエル紛争」により周辺のアラブ諸国との関係が悪化し、それ以外にも[[インドネシアサッカー協会|インドネシア]]・[[朝鮮民主主義人民共和国サッカー協会|北朝鮮]]・[[中国サッカー協会|中国]]などの国を中心に、対戦拒否や大会参加拒否などの[[ボイコット]]が激化した。 [[1973年]]に[[第四次中東戦争]]が勃発すると、もはや対戦不可能な状態に陥った。そして、[[イラン]]開催の[[1974年アジア競技大会|アジア大会]]が開催中であった[[1974年]][[9月14日]]に、イランの首都[[テヘラン]]で開催されたAFC総会で、AFCから除名された<ref>後藤健生「日本サッカー史 日本代表の90年 1917→2006」</ref>。除名以降は地域連盟未所属のまま活動し、[[FIFAワールドカップ]]の[[1974 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選|アジア・オセアニア予選]]へ組み込まれたり、[[オセアニアサッカー連盟]](OFC)の暫定メンバーとなるなどの紆余曲折を経て、[[1992年]]にUEFAに加盟した{{sfn|立山|2012|p=273}}。これは[[オリンピックのイスラエル選手団|イスラエルオリンピック委員会]]についても同様で、かつては[[アジアオリンピック評議会|アジア競技連盟]]に所属していたものの、以後[[ヨーロッパオリンピック委員会]]へと加入した。 == 著名な出身者 == {{Main|イスラエル人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=ユダヤ人の歴史|author=シーセル・ロス|others=[[長谷川真太郎|長谷川真]]、安積鋭二 訳|publisher=[[みすず書房]]|edition=新装版|date=1997-06-07|isbn=978-4622049081|ref={{sfnref|ロス|1997}} }} * {{Cite book|和書|title=ユダヤ人の歴史|author=イラン・ハレヴィ|authorlink=イラン・ハレヴィ|others=[[奥田暁子]] 訳|publisher=[[三一書房]]|date=1990-05-01|isbn=978-4380902154|ref={{sfnref|ハレヴィ|1990}} }} * {{Cite book|和書|title=揺れるユダヤ人国家 ポスト・シオニズム|author=立山良司 |authorlink=立山良司 |publisher=[[文藝春秋]]|series=文春新書|date=2000-02-01|isbn=978-4166600878|ref={{sfnref|立山|2000}} }} * {{Cite book|和書|title=イスラエル|author=アンドレ・シュラキ|others=増田治子 訳|publisher=[[白水社]]|series=文庫クセジュ|volume=555|date=1974-06-01|isbn=978-4560055557|ref={{sfnref|シュラキ|1974}} }} * {{Cite book|和書|title=君はパレスチナを知っているか パレスチナの100年|author=奈良本英佑|publisher=[[ほるぷ出版]]|series=もっと知りたい ほるぷ選書|date=1997-09-30|isbn=978-4593535200|ref=奈良本1997}} * {{Cite book|和書|title=双方の視点から描くパレスチナ/イスラエル紛争史|author=ダン・コンシャーボク|author2=ダウド・アラミー|others=[[臼杵陽]] 監訳|publisher=[[岩波書店]]|date=2011-03-25|isbn=978-4000244640|ref={{sfnref|コンシャーボク|アラミー|2011}} }} * {{Cite book|和書|title=パレスチナ 紛争と最終的地位問題の歴史|author=阿部俊哉|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|series=Minerva21世紀ライブラリー|date=2004-11-01|isbn=978-4623041268|ref={{sfnref|阿部|2004}} }} * {{Cite book|和書|author=立山良司 |authorlink=立山良司 |editor=立山良司 |title=イスラエルを知るための60章 |date=2012-07-31 |publisher=[[明石書店]] |series=エリア・スタディーズ |isbn=978-4750336411 |ref={{sfnref|立山|2012}} }} * {{Cite web|和書|url=http://mfa.gov.il/MFA_Graphics/MFA%20Gallery/Documents%20languages/FactsJapanese08.pdf |format=PDF |title=イスラエルの情報 |publisher=イスラエル外務省 |date=2010 |accessdate=2021-08-09 |ref={{sfnref|イスラエル外務省|2010}} }} * {{Cite web|和書|url=https://www.jst.go.jp/crds/pdf/2010/OR/CRDS-FY2010-OR-03.pdf |format=PDF |title=科学技術・イノベーション政策動向報告 イスラエル編 ~2010年度版~ |publisher=[[科学技術振興機構]] |date=2010-06-18 |accessdate=2014-04-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171122103056/https://www.jst.go.jp/crds/pdf/2010/OR/CRDS-FY2010-OR-03.pdf |archivedate=2017-11-22 |ref={{sfnref|科学技術振興機構|2010}} }} * {{Cite book|和書|author=広河隆一 ||authorlink=広河隆一 |author2=パレスチナ・ユダヤ人問題研究会 |title=ユダヤ人とは何か 「ユダヤ人」I |date=1985-01-01 |publisher=[[三友社出版]] |isbn= |id={{ASIN|B000J6R5A8}} |ref={{sfnref|広河|パレスチナ・ユダヤ人問題研究会|1985}} }} * {{Cite book|和書|author=広河隆一 |author2=パレスチナ・ユダヤ人問題研究会 |title=ダイヤモンドと死の商人 イスラエルの世界戦略 「ユダヤ人」II |date=1986-01-01 |publisher=三友社出版 |isbn= |id={{ASIN|B07W8SSQ2Z}} |ref={{sfnref|広河|パレスチナ・ユダヤ人問題研究会|1986}} }} == 関連項目 == * [[イスラエル関係記事の一覧]] * [[ユダヤ関連用語一覧]] * [[古代イスラエル]]、[[約束の地]]、[[旧約聖書]] * [[ディアスポラ]] * [[ユダヤ教]]、[[ユダヤ人]]、[[ユダヤ暦]]、[[ヘブライ語]]、[[聖地]] * [[シオニズム]] * {{仮リンク|大イスラエル|en|Greater Israel|label=大イスラエル主義}} * [[クネセト]]-イスラエルの議会 * [[キブツ]] * [[世界シオニスト機構]]、[[ユダヤ機関]] * [[アシュケナジム]]と[[セファルディム]]、[[イディッシュ文学]] * [[ヘブライ語文化]]<sub>([[ヘブライ文学]])</sub>、[[イスラエル文学]] * [[イスラエルの国歌]] * [[駐日イスラエル大使館]] * [[イスラエルの基本法]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Israel|Israel}} {{Wiktionary|イスラエル}} {{Wikivoyage|Israel|イスラエル{{en icon}}}} * 政府 ** [https://www.gov.il/ イスラエル国政府]{{he icon}}{{ar icon}}{{en icon}} ** [https://www.gov.il/he/departments/president_of_the_state_of_israel/govil-landing-page イスラエル大統領府]{{he icon}}{{ar icon}}{{en icon}} ** [https://embassies.gov.il/tokyo/Pages/default.aspx 在日イスラエル大使館]{{ja icon}}{{he icon}}{{en icon}} ** {{Twitter|IsraelinJapan|イスラエル大使館}}{{ja icon}} * 日本政府 ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/israel/ 日本外務省-イスラエル]{{ja icon}} * 観光 ** [https://www.gov.il/he/departments/ministry_of_tourism/govil-landing-page イスラエル観光省]{{he icon}}{{en icon}} * その他 ** [https://www.jetro.go.jp/world/middle_east/il/ JETRO-イスラエル]{{ja icon}} ** [https://japan-israel-friendship.or.jp/ 日本イスラエル親善協会]{{ja icon}} ** {{Wikiatlas|Israel}}{{en icon}} ** {{Kotobank}} {{アジア}} {{イスラエルの政党|state=collapsed}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いすらえる}} [[Category:イスラエル|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:共和国]] [[Category:ユダヤ人]] [[Category:ユダヤ教]] [[Category:ロシア語圏]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:先進国]]
2003-03-17T03:05:28Z
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狭軌
狭軌(きょうき、英: Narrow gauge ナローゲージ)とは、鉄道における線路のレール間隔をあらわす軌間が、標準軌の1,435 mm(4フィート8+1⁄2インチ)未満のものを指す。 元々「狭軌」はより広い軌間に対する相対的な言い方であり、現在「標準軌」と呼ばれる4 ft8+1⁄2 in(1,435 mm)軌間も、イギリスで1846年に勅裁された「鉄道のゲージ規制に関する法律」ができる前は、2 m以上あるブルネルの軌間に比べて狭く「標準」ではなかったため、法律が適用される以前はもちろん、適用後の1850年代頃までは狭軌と呼ばれていた。1870年頃においても、現在の標準軌を狭軌と呼ぶことが残っていたと言われる。 現在でも旧大英帝国領(植民地)等の3 ft6 in(1,067 mm)軌間を使用する地域では、その地域でこれよりも広い軌間が存在しないため、これを狭軌と呼ばずに標準軌と呼ぶことがある。これは1,000 mm軌間(メーターゲージ)についても同様である。このような事情により、今日では「1,000 mm未満は確実に狭軌」とみなされているが、これ以上は状況によっては狭軌に入れない場合もある。 日本の場合、かつての日本国有鉄道(国鉄)の軌間は1,067 mmが標準であったためこれを「狭軌」と呼ぶことは少なく、新幹線やいくつかの私鉄で使用されている1,435 mm軌間(標準軌)の方を誤って「広軌」と呼ぶ人が多かったという。国鉄の中で買収・国有化路線の中に存在した762 mm軌間の路線(ナローゲージ)については特殊狭軌線と呼称され、同じく日本の私鉄でも、三岐鉄道北勢線や四日市あすなろう鉄道などの現存する該当路線に対して、同様の呼び方をする。 なお、特殊狭軌線と軽便鉄道は混同されやすいが、特殊狭軌線は軌間が762 mmの線路を意味し、軽便鉄道法に従って敷設された鉄道という意味である。軽便鉄道法もまた軌間を762 mm以上と定めているため、軽便鉄道の大半は特殊狭軌線ではあるが、西大寺鉄道(914 mm)や新宮軽便鉄道(1,435 mm)などの例もあり、必ずしも一致するものではない。 意図的に狭い軌間を選択する鉄道は、元々機関車さえもない時代の人力や家畜動力のトロッコのような路線から生まれた。こうした鉄道で使用される車両はホイールベースや軌間が小さくても不安定ではなく、むしろ急カーブ(障害物を避けられるのでトンネルなどの施設費用を抑えられる)を曲がりやすくなって好都合であったため、機関車が開発されてからも鉱山鉄道や、線路施設が簡易的なもので済むことから木材の伐採が終わったら線路を移動しなくてはならない森林鉄道に採用例が多い。 また、枕木および砂利などの道床にかかるコストも最低限軌間分の幅が必要となるため、標準軌であれば「1,435mm+レールの厚み」の枕木が必要となるところ、狭軌であればそれだけ短縮でき、より低規格かつ低コストの路線を作ることが可能である。そのため第一次世界大戦時には、同盟国と連合国の双方とも前線(en:front line)での輸送用に狭軌の鉄道を盛んに建設した。第一次世界戦後(en:Aftermath of World War I)のヨーロッパでは、その資材を流用した狭軌鉄道が一時流行した。 初めて記録された鉄道は、ゲオルク・アグリーコラの1556年作 「デ・レ・メタリカ」(日本語で「金属について」)に登場している。この書籍に登場する鉄道は、ボヘミアの鉱山にあり、軌間は約2フィート(約610mm)であった。16世紀、鉄道は主にヨーロッパ中の鉱山で手押しされた狭軌の線路に限られていた。17世紀、鉱山鉄道は地上への輸送を提供するために拡張された。これらの路線は鉱山を近くの輸送ポイント(通常は運河または他の水路)に接続する工業用であった。これらの鉄道は通常、開発元の鉱山鉄道と同じ軌間で建設された。 1802年にリチャード・トレビシックによってコールブルックデールカンパニーのため製造された世界初の蒸気機関車は、914mm軌間のプレートウェイを走行した。商業的に初めての蒸気機関車は、1812年に製造されたマシュー・マレーのサラマンカ(英語版)で、リーズにあるミドルトン鉄道(軌間1245 mm)で利用された。サラマンカは初めてのラック式鉄道の機関車でもあった。1820年代と1830年代、イギリスの多くの産業向けの狭軌鉄道が蒸気機関車を使用していた。1842年、イギリス国外で初めての狭軌の蒸気機関車がベルギーにあるアントワープ - ゲント鉄道(軌間1100 mm)で製造された。旅客輸送用の狭軌鉄道で蒸気機関車が初めて使用されたのは1865年で、フェスティニオグ鉄道が、旅客輸送のために導入した。 多くの狭軌鉄道は工業企業の一部であり、一般輸送ではなく、主に専用鉄道として機能していた。これらの産業用狭軌鉄道の一般的な用途には、採掘、伐採、建設、トンネル掘削、採石、および農産物の運搬が含まれている。狭軌による広範囲のネットワークが世界の多くの地域で構築された。19世紀の森林伐採作業では、製材所から市場に丸太を輸送するために狭軌の鉄道がよく使われていた。キューバ、フィジー、ジャワ、フィリピン、オーストラリアクイーンズランド州では、現在も重要なサトウキビ鉄道が運行されており、トンネルの建設には狭軌の鉄道が一般的に使用されている。 狭軌の機関車の動力に内燃機関を初めて使用したのは1902年であった。フランシス・クロード・ブレイク(英語版)は、イギリスのロンドンリッチモンド・アポン・テムズ区モートレイク(英語版)にあるリッチモンドメイン下水道委員会の下水プラント用に7馬力のガソリン機関車を製造した。この機関車の軌間は838 mmであり、3気筒ガソリンエンジンを搭載していた。 第一次世界大戦では、広範な狭軌の鉄道システムが両陣の最前線の塹壕戦に貢献した。それらは短期間の軍事用途であり、戦後、余剰設備はヨーロッパの狭軌鉄道の建設に小さなブームをもたらした。 狭軌の鉄道は通常、小さい客車や機関車(小さい車両限界)、小さい橋やトンネル(小さい建築限界)、および、急曲線を使用しているため、建設費用が少なくなる。狭軌は、技術的に大幅に節約できる可能性のある山岳地帯でよく使用されるほか、経済的に成り立つための潜在的な需要の低い人口の少ない地域でも使用される。これは不毛の大地のため人口密度が低く、標準軌の鉄道の運行が厳しいオーストラリアの一部と南部アフリカにほとんどの場合当てはまる。 伐採、鉱業、または大規模な建設プロジェクト(特に、英仏海峡トンネルなどの限られたスペース)のような短期間の使用後に撤去される仮設鉄道の場合、狭軌の鉄道は大幅にコストが安く容易に設置・撤去することができる。しかし、そのような鉄道は、現代のトラックの性能の向上によりほとんど姿を消した。 多くの国では、建設コストが低いため、狭軌の鉄道が支線として建設され、標準軌の鉄道に乗り換えてきた。多くの場合、狭軌か標準軌かの鉄道の選択ではなく、狭軌の鉄道か敷設しないかの間で選択であった。 狭軌の鉄道は、鉄道車両(客車など)を標準軌または広軌の鉄道にそのまま乗り入れることはできない。また、旅客と貨物の移動には、旅客の乗り換えや、貨物の積み替えが必要となる。石炭、鉱石、砂利などの一部のバルク商品は機械的に積み替えることができるが、この方法だと時間がかかり、積み替えに必要な設備の維持に手間がかかる。 鉄道網内に異なる軌間がある場合、ピーク需要時に異なる軌間の区域を超えて車両を移動させることができないので、必要な場所に車両を移動することは困難となる。狭軌の鉄道のピーク需要を満たすために十分な車両が利用可能である必要があり、需要が少ない期間には余剰設備となりキャッシュフローを生成しない。狭軌が鉄道網のごく一部を形成している地域では(かつてのロシアのサハリン地方の鉄道のように)、狭軌の設備の設計、製造、または輸入には追加の費用が必要となる。 互換性の問題に対する解決策には、輪軸あるいは台車の交換、ロールボック、軌間可変、デュアルゲージ、または改軌がある。 歴史的に、多くの狭軌の鉄道は、安くて早く建設することを優先するために低水準で建設された。その結果、多くの狭軌鉄道は、重量化または高速化の制約を受けることがよくある。例として、急カーブが使われるため、最大許容速度が制限される。日本では、田沢湖線、奥羽本線の一部の在来線(軌間1067 mm)を標準軌のミニ新幹線に改軌し、標準軌の新幹線が直通するようにした。ただし、路線の形状により、最大速度は元の狭軌の路線と同じである。日本の提案するスーパー特急のように、狭軌の線路が高水準に建設されている場合、この問題を最小限に抑えることができる。 狭軌の線路が潜在的な成長を考慮して(または標準軌と同じ基準で)設計されている場合、将来の成長に対する障害は他の軌間と同様になる。低水準で建設された路線の場合、線路を再調整してカーブを緩やかにし、踏切の数を減らし、車体傾斜式車両を導入することで、速度を上げることができる。 オーストラリアクイーンズランド州、南アフリカ、およびニュージーランドの1067 mm軌間の鉄道は、線路が標準軌の水準と同じ基準に合わせて建設された場合、標準軌の線路とほぼ同じ性能が可能であることを示している。200両編成の列車が南アフリカの鉄鉱石線で運行され、高速ティルト列車がオーストラリアクイーンズランド州で運行されている。もう1つの例は、ブラジルのヴィトーリア・ミナス鉄道(ポルトガル語版)である。1000 mm軌間で、100ポンド超のレール(100 lb/ydまたは49.6 kg/m)を敷設している。この路線には、4000馬力(3000 kW)の機関車と200両以上の貨車を連結した列車が運行している。南アフリカとニュージーランドでは、車両限界は制約されたイギリスの車両限界と類似している。ニュージーランドでは、イギリスのレールマーク2の車両が新しい台車で再構築され、トランツ・シーニック(ウェリントン-パーマストンノース)、トランツ・メトロ(ウェリントン-マスタートン)、トランス・デヴ・オークランド(オークランド郊外)で使用されている。 狭軌では安定性が低下することは、その列車が広軌と同じくらいの速度で走ることができないことを意味する。たとえば、標準軌の線路のカーブが時速145 kmまで走行できる場合、狭軌の同じカーブは時速130 kmまでの速度しか走行できない。 ただし、19世紀半ば(1865年)の時点でもノルウェーの1067mm軌間で最高時速56kmほど(標準軌のイギリスでも当時のローカル線はこの程度)の走行が可能であると分かっており、さらに狭軌でも20世紀前半では朝鮮鉄道の黄海線(762mm軌間)で1935年から最高時速70kmの列車を走らせている など、蒸気機関車時代でもこれより広軌のローカル路線と比べてもそこまで変わらないケースもあった。 日本とオーストラリアのクイーンズランド州では、最近の路線改良により、軌間1067mmの線路で、時速160 kmを超えることができた。クイーンズランド鉄道の車体傾斜式電車は、オーストラリアで最速の電車であり、世界最速の1067 mm軌間の列車で、時速210 kmの記録を樹立した。1067 mm軌間の線路での速度記録は、1978年に南アフリカ共和国で記録された時速245 kmである。 設計速度が時速137 kmの610 mm軌間の鉄道車両が、オタヴィ鉱山鉄道会社(英語版)のために製造された。 このうち幹線鉄道に用いられるのは914mm以上のもので、英語では「medium gauge ミディアム・ゲージ」とも呼ばれる。 イギリスから鉄道技術を導入した国々(日本も含む)では1067mmが主に用いられ、フランスなどのヨーロッパ大陸諸国の影響下の国では1000mmが、アメリカ合衆国の影響下にあった国では914mmが用いられる傾向にある。 なお、営業用として運行される鉄道で最も狭いゲージは381mm(15インチ)で、イギリスのロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道が有名である。日本の静岡県伊豆市修善寺にある虹の郷には、この鉄道と同規格の車両による園内路線が敷設・運行されている。 914 mm(3フィート)はアメリカ大陸でよく見られる軌間で、「American Narrow アメリカンナロー」とも呼ばれる。 日本では、北陸地方や九州地方などで見られた。後に両備バスとなった岡山県の西大寺鉄道が廃止されて以来、普通鉄道・軌道としては日本に存在しないが、青森県の青函トンネル記念館にあるケーブルカーの青函トンネル竜飛斜坑線で営業用として使用されている。東京ディズニーランドにかつて存在した路面電車のアトラクションである「ジョリートロリー」やかつて存在したテーマパーク「ウェスタン村」の村内鉄道アトラクション「ウェスタン村鉄道」でも使用されていた。 イギリス帝国の植民地で広く用いられたことから「British imperial gauge(イギリス帝国軌間)」という呼称も存在した。特にケープ植民地(後の南アフリカ)で用いられたことから「Cape gauge」と呼ばれるほか、この軌間を最初に用いたノルウェー人カール・アブラハム・ピルのイニシャルにちなんで「CAP gauge」あるいは「Kapspur」(ドイツ語:CがKに書き換えられている)とも呼ばれる。 後述するように、日本で多く用いられている軌間はこの1067mm、3フィート6インチである。日本国内では「三六軌間」と呼ばれている(「三六」は3フィート6インチから)。→#日本の三六軌間 1067mmの軌間を採用したことのある国・地域、現在もしている国・地域の例は以下の通り。 なおノルウェーやスウェーデンでは19世紀に1067mm軌間の鉄道網が作られたが、後に1435mmへ改軌された。 1,372 mm(4フィート6インチ)軌間は、かつてスコットランドの一部で採用されていた ため、英語ではスコッチ・ゲージ(Scotch gauge)と呼ばれる。 日本では東京とその周辺で一時広く採用されたのに対し、日本国内のみならず世界的に見ても、東京(とその周辺)以外での使用例がきわめて少ないことから、これを東京ゲージと呼ぶ鉄道史家もいる。 日本国内ではその出自から「馬車軌間」とも呼ばれ、標準軌・旧国鉄採用軌間とも違うことや日本で使用された線区の特殊性から、日本では「偏軌」・「変則軌道」とも言われる。 →#日本国内の1372mm 日本で3ft6in軌間(三六軌間)を選択した理由について、「イギリスから植民地扱いされていた」「山が多いから急曲線に強い」という説がしばしば提唱されるが両説とも穴がある。 前者は標準軌であるイギリス本土においても、1860年代後半から1870年代初頭にかけて新規路線に限らず既存路線も狭軌化した方が経済的という説が提唱されており、フェアリー式関節式機関車の開発者であるロバート・フランシス・フェアリーは1870年9月の英国学術協会の会合で「西海岸本線のLNWRの路線を4ft8in軌間から3ft軌間にしても同じ貨物輸送が可能で車両を小型化できる分コストは半分に抑えられる。」という説を上げている。 後者についても、日本の路線は急曲線・急勾配どころかむしろ緩やかで、1929年(昭和4年)の線路等級制定以前は本線は一律半径300 m以上・勾配は25 ‰以下(等級制定後の甲線と同じ)であり、同じ軌間のノルウェーと南アフリカの最小半径が150 mと100 mだが、日本の場合はこれはのちに制定された線路等級で認められた一番程度が低い簡易線(本線半径160 m以上)以下になる。また、当初導入された機関車もノルウェー・クイーンズランド州(オーストラリア)・ニュージーランド・インドの3ft6in軌間の路線では動輪直径が3ftほどなのに対し、日本は4ftから4ft6inと大きく(機関車自体も大きい)、先従輪が付いていても固定でホイールベースが長いことからも急曲線通過のために狭軌採用ではないことが読み取れる。 もっとも、以上の数値は鉄道需要が先進国を上回るようになり設定された数値である。鉄道導入当初は曲線の最小半径は最小160mとし一般的には 300mも限度が目安とされ、明治33年の建設規程では本線の最小曲線半径は200m、分岐附帯では本線路が120m、その他が60mである。勾配に関しては勾配は25‰を目標として最急 40‰までが認められていた。9600形やD51を運用していた根室本線旧線では半径225.31m、181.05m、181.05m、最小179.04mの連続カーブが1966年の新線開業まで残っていた。 イギリスもゲージ法で1,435mmが「標準」になり一時他の軌間敷設が認められなくなったが、日本では1900年(明治33年)の私設鉄道法第40条に「軌間は特例を除き三尺六寸に限る」と明記されていた ため、国鉄だけではなく私鉄も含めてこれに定められた1,067 mm軌間が日本の標準になったが、軌道法は軌間制限が特になかったため、特に近畿地方の私鉄ではこれを拡大解釈して標準軌の専用軌道を敷設した路線がいくつもあったほか、東京でも馬車鉄道から開業した東京馬車鉄道(現在の東京都電車)などは1,372 mm軌間(後述)であった。その後、軌間以外も規制が厳しすぎたことで私鉄が作られなくなったため、1910年に基準の緩い軽便鉄道法が施行され、これやこの後継に当たる地方鉄道法(1919年)では異なる軌間を認めていたため、下限の762 mm軌間(多数)から標準軌の1,435 mm軌間(新宮軽便鉄道や塩江温泉鉄道など)までのさまざまな軌間が建設されている。 なお、国鉄では鉄道院時代に後藤新平総裁の指示で島安次郎らによって標準軌への改軌の技術的な検討もされたが、改軌は狭くするのは容易だが広くするのは難しく、島自身もなるべく改軌中のゲージ分断による悪影響が出ないように配慮するなどの具体案を研究したものの、膨大な経費の壁は政党間の政争の具となり、1919年に原内閣によって路線網を広げる方を優先(建主改従)、幹線の輸送力増大は狭軌のまま補強(強度狭軌)するとされ、ここで改軌の根は完全に絶たれた(日本の改軌論争も参照)。また、この前後期に日本が支配していた現在の台湾では、当時の日本国政府により鉄道網の構築が台湾の近代化において最重要施策とされ、狭軌による鉄道網が構築された。現在でも在来線は狭軌のまま運用され有効に活用されている。 その後、未完に終わったが既存路線と無関係に敷設される弾丸列車計画においては車両限界や軸重などのしがらみもなく、南満州鉄道(満鉄)などのような大きな車両限界を持った標準軌で建設される予定で、この流れを汲んだ戦後の新幹線計画は国鉄初となる標準軌で建設された。 日本で1,067mm軌間を採用する主な路線は次の通り。 日本で1,067 mm未満の軌間を採用している路線で、現存するものには次のものがある。 かつて存在した路線は非常に多く、第二次世界大戦中に不要不急線として廃止されたもの、1960年代前後に道路交通の整備により役目を終えて廃止されたものがある。なお、国鉄に存在した特殊狭軌線については国鉄の特殊狭軌線を参照。 日本国内の鉱山や、工事現場で使用された手押しトロッコの軌間は主に610 mmと508 mmであり、機関車を用いた工事用軌道は610 mmと762 mmが多い。
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"多くの国では、建設コストが低いため、狭軌の鉄道が支線として建設され、標準軌の鉄道に乗り換えてきた。多くの場合、狭軌か標準軌かの鉄道の選択ではなく、狭軌の鉄道か敷設しないかの間で選択であった。", "title": "利点と欠点" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "狭軌の鉄道は、鉄道車両(客車など)を標準軌または広軌の鉄道にそのまま乗り入れることはできない。また、旅客と貨物の移動には、旅客の乗り換えや、貨物の積み替えが必要となる。石炭、鉱石、砂利などの一部のバルク商品は機械的に積み替えることができるが、この方法だと時間がかかり、積み替えに必要な設備の維持に手間がかかる。", "title": "利点と欠点" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "鉄道網内に異なる軌間がある場合、ピーク需要時に異なる軌間の区域を超えて車両を移動させることができないので、必要な場所に車両を移動することは困難となる。狭軌の鉄道のピーク需要を満たすために十分な車両が利用可能である必要があり、需要が少ない期間には余剰設備となりキャッシュフローを生成しない。狭軌が鉄道網のごく一部を形成している地域では(かつてのロシアのサハリン地方の鉄道のように)、狭軌の設備の設計、製造、または輸入には追加の費用が必要となる。", "title": "利点と欠点" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "互換性の問題に対する解決策には、輪軸あるいは台車の交換、ロールボック、軌間可変、デュアルゲージ、または改軌がある。", "title": "利点と欠点" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "歴史的に、多くの狭軌の鉄道は、安くて早く建設することを優先するために低水準で建設された。その結果、多くの狭軌鉄道は、重量化または高速化の制約を受けることがよくある。例として、急カーブが使われるため、最大許容速度が制限される。日本では、田沢湖線、奥羽本線の一部の在来線(軌間1067 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"狭軌では安定性が低下することは、その列車が広軌と同じくらいの速度で走ることができないことを意味する。たとえば、標準軌の線路のカーブが時速145 kmまで走行できる場合、狭軌の同じカーブは時速130 kmまでの速度しか走行できない。", "title": "高水準化した狭軌の鉄道" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ただし、19世紀半ば(1865年)の時点でもノルウェーの1067mm軌間で最高時速56kmほど(標準軌のイギリスでも当時のローカル線はこの程度)の走行が可能であると分かっており、さらに狭軌でも20世紀前半では朝鮮鉄道の黄海線(762mm軌間)で1935年から最高時速70kmの列車を走らせている など、蒸気機関車時代でもこれより広軌のローカル路線と比べてもそこまで変わらないケースもあった。", "title": "高水準化した狭軌の鉄道" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "日本とオーストラリアのクイーンズランド州では、最近の路線改良により、軌間1067mmの線路で、時速160 kmを超えることができた。クイーンズランド鉄道の車体傾斜式電車は、オーストラリアで最速の電車であり、世界最速の1067 mm軌間の列車で、時速210 kmの記録を樹立した。1067 mm軌間の線路での速度記録は、1978年に南アフリカ共和国で記録された時速245 kmである。", "title": "高水準化した狭軌の鉄道" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "設計速度が時速137 kmの610 mm軌間の鉄道車両が、オタヴィ鉱山鉄道会社(英語版)のために製造された。", "title": "高水準化した狭軌の鉄道" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このうち幹線鉄道に用いられるのは914mm以上のもので、英語では「medium gauge ミディアム・ゲージ」とも呼ばれる。", "title": "狭軌の主な軌間と採用国の傾向" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イギリスから鉄道技術を導入した国々(日本も含む)では1067mmが主に用いられ、フランスなどのヨーロッパ大陸諸国の影響下の国では1000mmが、アメリカ合衆国の影響下にあった国では914mmが用いられる傾向にある。", "title": "狭軌の主な軌間と採用国の傾向" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "なお、営業用として運行される鉄道で最も狭いゲージは381mm(15インチ)で、イギリスのロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道が有名である。日本の静岡県伊豆市修善寺にある虹の郷には、この鉄道と同規格の車両による園内路線が敷設・運行されている。", "title": "狭軌の主な軌間と採用国の傾向" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "914 mm(3フィート)はアメリカ大陸でよく見られる軌間で、「American Narrow アメリカンナロー」とも呼ばれる。", "title": "914mm(3フィート)" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本では、北陸地方や九州地方などで見られた。後に両備バスとなった岡山県の西大寺鉄道が廃止されて以来、普通鉄道・軌道としては日本に存在しないが、青森県の青函トンネル記念館にあるケーブルカーの青函トンネル竜飛斜坑線で営業用として使用されている。東京ディズニーランドにかつて存在した路面電車のアトラクションである「ジョリートロリー」やかつて存在したテーマパーク「ウェスタン村」の村内鉄道アトラクション「ウェスタン村鉄道」でも使用されていた。", "title": "914mm(3フィート)" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "イギリス帝国の植民地で広く用いられたことから「British imperial gauge(イギリス帝国軌間)」という呼称も存在した。特にケープ植民地(後の南アフリカ)で用いられたことから「Cape gauge」と呼ばれるほか、この軌間を最初に用いたノルウェー人カール・アブラハム・ピルのイニシャルにちなんで「CAP gauge」あるいは「Kapspur」(ドイツ語:CがKに書き換えられている)とも呼ばれる。", "title": "1067mm(3フィート6インチ・「三六軌間」)" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "後述するように、日本で多く用いられている軌間はこの1067mm、3フィート6インチである。日本国内では「三六軌間」と呼ばれている(「三六」は3フィート6インチから)。→#日本の三六軌間", "title": "1067mm(3フィート6インチ・「三六軌間」)" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1067mmの軌間を採用したことのある国・地域、現在もしている国・地域の例は以下の通り。", "title": "1067mm(3フィート6インチ・「三六軌間」)" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "なおノルウェーやスウェーデンでは19世紀に1067mm軌間の鉄道網が作られたが、後に1435mmへ改軌された。", "title": "1067mm(3フィート6インチ・「三六軌間」)" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1,372 mm(4フィート6インチ)軌間は、かつてスコットランドの一部で採用されていた ため、英語ではスコッチ・ゲージ(Scotch gauge)と呼ばれる。", "title": "1372mm(4フィート6インチ・「馬車軌間」)" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "日本では東京とその周辺で一時広く採用されたのに対し、日本国内のみならず世界的に見ても、東京(とその周辺)以外での使用例がきわめて少ないことから、これを東京ゲージと呼ぶ鉄道史家もいる。", "title": "1372mm(4フィート6インチ・「馬車軌間」)" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本国内ではその出自から「馬車軌間」とも呼ばれ、標準軌・旧国鉄採用軌間とも違うことや日本で使用された線区の特殊性から、日本では「偏軌」・「変則軌道」とも言われる。 →#日本国内の1372mm", "title": "1372mm(4フィート6インチ・「馬車軌間」)" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本で3ft6in軌間(三六軌間)を選択した理由について、「イギリスから植民地扱いされていた」「山が多いから急曲線に強い」という説がしばしば提唱されるが両説とも穴がある。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "前者は標準軌であるイギリス本土においても、1860年代後半から1870年代初頭にかけて新規路線に限らず既存路線も狭軌化した方が経済的という説が提唱されており、フェアリー式関節式機関車の開発者であるロバート・フランシス・フェアリーは1870年9月の英国学術協会の会合で「西海岸本線のLNWRの路線を4ft8in軌間から3ft軌間にしても同じ貨物輸送が可能で車両を小型化できる分コストは半分に抑えられる。」という説を上げている。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "後者についても、日本の路線は急曲線・急勾配どころかむしろ緩やかで、1929年(昭和4年)の線路等級制定以前は本線は一律半径300 m以上・勾配は25 ‰以下(等級制定後の甲線と同じ)であり、同じ軌間のノルウェーと南アフリカの最小半径が150 mと100 mだが、日本の場合はこれはのちに制定された線路等級で認められた一番程度が低い簡易線(本線半径160 m以上)以下になる。また、当初導入された機関車もノルウェー・クイーンズランド州(オーストラリア)・ニュージーランド・インドの3ft6in軌間の路線では動輪直径が3ftほどなのに対し、日本は4ftから4ft6inと大きく(機関車自体も大きい)、先従輪が付いていても固定でホイールベースが長いことからも急曲線通過のために狭軌採用ではないことが読み取れる。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "もっとも、以上の数値は鉄道需要が先進国を上回るようになり設定された数値である。鉄道導入当初は曲線の最小半径は最小160mとし一般的には 300mも限度が目安とされ、明治33年の建設規程では本線の最小曲線半径は200m、分岐附帯では本線路が120m、その他が60mである。勾配に関しては勾配は25‰を目標として最急 40‰までが認められていた。9600形やD51を運用していた根室本線旧線では半径225.31m、181.05m、181.05m、最小179.04mの連続カーブが1966年の新線開業まで残っていた。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "イギリスもゲージ法で1,435mmが「標準」になり一時他の軌間敷設が認められなくなったが、日本では1900年(明治33年)の私設鉄道法第40条に「軌間は特例を除き三尺六寸に限る」と明記されていた ため、国鉄だけではなく私鉄も含めてこれに定められた1,067 mm軌間が日本の標準になったが、軌道法は軌間制限が特になかったため、特に近畿地方の私鉄ではこれを拡大解釈して標準軌の専用軌道を敷設した路線がいくつもあったほか、東京でも馬車鉄道から開業した東京馬車鉄道(現在の東京都電車)などは1,372 mm軌間(後述)であった。その後、軌間以外も規制が厳しすぎたことで私鉄が作られなくなったため、1910年に基準の緩い軽便鉄道法が施行され、これやこの後継に当たる地方鉄道法(1919年)では異なる軌間を認めていたため、下限の762 mm軌間(多数)から標準軌の1,435 mm軌間(新宮軽便鉄道や塩江温泉鉄道など)までのさまざまな軌間が建設されている。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "なお、国鉄では鉄道院時代に後藤新平総裁の指示で島安次郎らによって標準軌への改軌の技術的な検討もされたが、改軌は狭くするのは容易だが広くするのは難しく、島自身もなるべく改軌中のゲージ分断による悪影響が出ないように配慮するなどの具体案を研究したものの、膨大な経費の壁は政党間の政争の具となり、1919年に原内閣によって路線網を広げる方を優先(建主改従)、幹線の輸送力増大は狭軌のまま補強(強度狭軌)するとされ、ここで改軌の根は完全に絶たれた(日本の改軌論争も参照)。また、この前後期に日本が支配していた現在の台湾では、当時の日本国政府により鉄道網の構築が台湾の近代化において最重要施策とされ、狭軌による鉄道網が構築された。現在でも在来線は狭軌のまま運用され有効に活用されている。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その後、未完に終わったが既存路線と無関係に敷設される弾丸列車計画においては車両限界や軸重などのしがらみもなく、南満州鉄道(満鉄)などのような大きな車両限界を持った標準軌で建設される予定で、この流れを汲んだ戦後の新幹線計画は国鉄初となる標準軌で建設された。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本で1,067mm軌間を採用する主な路線は次の通り。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本で1,067 mm未満の軌間を採用している路線で、現存するものには次のものがある。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "かつて存在した路線は非常に多く、第二次世界大戦中に不要不急線として廃止されたもの、1960年代前後に道路交通の整備により役目を終えて廃止されたものがある。なお、国鉄に存在した特殊狭軌線については国鉄の特殊狭軌線を参照。", "title": "日本の狭軌" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "日本国内の鉱山や、工事現場で使用された手押しトロッコの軌間は主に610 mmと508 mmであり、機関車を用いた工事用軌道は610 mmと762 mmが多い。", "title": "日本の狭軌" } ]
狭軌とは、鉄道における線路のレール間隔をあらわす軌間が、標準軌の1,435 mm(4フィート8+1⁄2インチ)未満のものを指す。
{{出典の明記|date=2013年9月}} {{軌間}} '''狭軌'''(きょうき、{{Lang-en-short|Narrow gauge}} ナローゲージ)とは、[[鉄道]]における[[線路 (鉄道)|線路]]の[[軌条|レール]]間隔をあらわす[[軌間]]が、[[標準軌]]の1,435 [[ミリメートル|mm]](4[[フィート]]{{分数|8|1|2}}[[インチ]])未満のものを指す。 == 概要 == [[ファイル:CombinedTrack.jpg|thumb|250px|none|[[標準軌]](青)と'''狭軌'''(赤)の幅の比較]] 元々「狭軌」はより広い軌間に対する相対的な言い方であり、現在「[[標準軌]]」と呼ばれる4 ft{{分数|8|1|2}} in(1,435 mm)軌間も、[[イギリス]]で[[1846年]]に勅裁された「鉄道のゲージ規制に関する法律」ができる前は、2 m以上ある[[イザムバード・キングダム・ブルネル|ブルネル]]の軌間に比べて狭く「標準」ではなかったため、法律が適用される以前はもちろん、適用後の[[1850年代]]頃までは狭軌と呼ばれていた。[[1870年]]頃においても、現在の標準軌を狭軌と呼ぶことが残っていたと言われる<ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.70・117]]</ref>。 現在でも旧[[イギリス帝国|大英帝国]]領([[植民地]])等の3 ft6 in(1,067 mm)軌間を使用する地域では、その地域でこれよりも広い軌間が存在しないため、これを狭軌と呼ばずに標準軌と呼ぶことがある。これは1,000 mm軌間(メーターゲージ)についても同様である。このような事情により、今日では「1,000 mm未満は確実に狭軌」とみなされているが、これ以上は状況によっては狭軌に入れない場合もある<ref>[[#ウェストウッド2010|(ウェストウッド2010) p.288-290「狭軌鉄道」]]</ref>。 === 日本国内での呼び方 === 日本の場合、かつての[[日本国有鉄道]](国鉄)の軌間は1,067 mmが標準であったためこれを「狭軌」と呼ぶことは少なく、[[新幹線]]やいくつかの[[私鉄]]で使用されている1,435 mm軌間(標準軌)の方を誤って「広軌」と呼ぶ人が多かったという<ref name='nipponica'>小学館『日本大百科全書』(ニッポニカ)「鉄道」</ref><ref group="注">「弾丸鉄道計画」など</ref>。国鉄の中で買収・国有化路線の中に存在した762 mm軌間の路線(ナローゲージ)については'''[[#日本の特殊狭軌線|特殊狭軌線]]'''と呼称され、同じく日本の私鉄でも、[[三岐鉄道北勢線]]や[[四日市あすなろう鉄道]]などの現存する該当路線に対して、同様の呼び方をする。 なお、特殊狭軌線と[[軽便鉄道]]は混同されやすいが、特殊狭軌線は軌間が762 mmの線路を意味し、[[軽便鉄道法]]に従って敷設された鉄道という意味である。軽便鉄道法もまた軌間を762 mm以上と定めているため、軽便鉄道の大半は特殊狭軌線ではあるが、[[西大寺鉄道]](914 mm)や[[播電鉄道|新宮軽便鉄道]](1,435 mm)などの例もあり、必ずしも一致するものではない。 === 狭軌の特性と採用されやすい場所 === 意図的に狭い軌間を選択する鉄道は、元々[[機関車]]さえもない時代の人力や家畜動力の[[トロッコ]]のような路線から生まれた。こうした鉄道で使用される車両はホイールベースや軌間が小さくても不安定ではなく、むしろ急カーブ(障害物を避けられるのでトンネルなどの施設費用を抑えられる)を曲がりやすくなって好都合であったため、機関車が開発されてからも[[鉱山鉄道]]や<ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.118]]</ref>、線路施設が簡易的なもので済むことから木材の伐採が終わったら線路を移動しなくてはならない[[森林鉄道]]に採用例が多い。 また、[[枕木]]および[[バラスト|砂利]]などの道床にかかるコストも最低限軌間分の幅が必要となるため、標準軌であれば「1,435mm+レールの厚み」の枕木が必要となるところ、狭軌であればそれだけ短縮でき<ref group="注">逆に狭軌で広い道床を使うことも可能である。</ref>、より低規格かつ低[[費用|コスト]]の路線を作ることが可能である。そのため[[第一次世界大戦]]時には、[[中央同盟国|同盟国]]と[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の双方とも前線([[:en:front line]])での輸送用に狭軌の鉄道を盛んに建設した。第一次世界戦後([[:en:Aftermath of World War I]])のヨーロッパでは、その資材を流用した狭軌鉄道が一時流行した。 == 歴史 == === 人力による運搬 === [[Image:DeReMetallicaShaft.jpg|thumb|right|upright|alt=Woodcut of a mine with three shafts|''De re metallica''の木版画より。鉱山内に人力の鉄道が描かれている]] [[Image:Waldenburgerbahn.jpg|thumb|alt=Red-and-white electric train outdoors|750 mm軌間の鉄道であるヴァルデンブルク鉄道バッド・ブベンドルフ駅に停車中の列車]] 初めて記録された鉄道は、[[ゲオルク・アグリーコラ]]の1556年作 「[[:en:De re metallica|デ・レ・メタリカ]]」(日本語で「金属について」)に登場している。この書籍に登場する鉄道は、[[ボヘミア]]の鉱山にあり、軌間は約2フィート(約610mm)であった。16世紀、鉄道は主にヨーロッパ中の鉱山で手押しされた狭軌の線路に限られていた。17世紀、[[鉱山鉄道]]は地上への輸送を提供するために拡張された。これらの路線は鉱山を近くの輸送ポイント(通常は運河または他の水路)に接続する工業用であった。これらの鉄道は通常、開発元の鉱山鉄道と同じ軌間で建設された<ref name="WHITESNELL">{{cite book |title=Narrow Gauge Railways of the British Isles |author1=Whitehouse, Patrick |author2=Snell, John B.|year=1984 |isbn=0-7153-0196-9}}</ref>。 === 蒸気機関車の導入 === 1802年に[[リチャード・トレビシック]]によってコールブルックデールカンパニーのため製造された世界初の蒸気機関車は、[[3フィート軌間|914mm軌間]]の[[:en:Plateway|プレートウェイ]]を走行した。商業的に初めての蒸気機関車は、1812年に製造された[[マシュー・マレー]]の{{仮リンク|サラマンカ (機関車)|label=サラマンカ|en|Salamanca (locomotive)}}で、[[リーズ]]にあるミドルトン鉄道(軌間1245 mm)で利用された。サラマンカは初めての[[ラック式鉄道]]の機関車でもあった。1820年代と1830年代、イギリスの多くの産業向けの狭軌鉄道が蒸気機関車を使用していた。1842年、イギリス国外で初めての狭軌の蒸気機関車が[[ベルギー]]にあるアントワープ - ゲント鉄道<ref>{{cite web|url=http://rixke.tassignon.be/spip.php?article1224&lang=fr|title=Rixke Rail's Archives|accessdate=2020-06-13}}</ref>(軌間1100 mm)で製造された。旅客輸送用の狭軌鉄道で蒸気機関車が初めて使用されたのは1865年で、[[フェスティニオグ鉄道]]が、旅客輸送のために導入した<ref name=QUI>{{Cite web |author= Quine, Dan|authorlink= |coauthors= |year= 2013|url= http://www.festinioglocos.com/|title= The George England locomotives of the Ffestiniog Railway|format= |doi= |work= |publisher= |page= |pages= |language= en|archiveurl= |archivedate= |accessdate= 2020-06-13|quote= |ref=}}</ref>。 === 工業のための狭軌の鉄道 === 多くの狭軌鉄道は工業企業の一部であり、一般輸送ではなく、主に[[専用鉄道]]として機能していた。これらの産業用狭軌鉄道の一般的な用途には、採掘、伐採、建設、トンネル掘削、採石、および農産物の運搬が含まれている。狭軌による広範囲のネットワークが世界の多くの地域で構築された。19世紀の森林伐採作業では、製材所から市場に丸太を輸送するために狭軌の鉄道がよく使われていた。[[キューバ]]、[[フィジー]]、[[ジャワ]]、[[フィリピン]]、[[オーストラリア]][[クイーンズランド州]]では、現在も重要なサトウキビ鉄道が運行されており、トンネルの建設には狭軌の鉄道が一般的に使用されている。 === 内燃機関車の導入 === 狭軌の機関車の動力に内燃機関を初めて使用したのは1902年であった。{{仮リンク|フランシス・クロード・ブレイク|en|Francis Claude Blake}}は、イギリスの[[ロンドン]][[リッチモンド・アポン・テムズ区]]{{仮リンク|モートレイク|en|Mortlake}}にあるリッチモンドメイン下水道委員会の下水プラント用に7馬力のガソリン機関車を製造した。この機関車の軌間は838 mmであり、3気筒ガソリンエンジンを搭載していた<ref>{{cite journal |journal=Industrial Railway Record |number=236 |date=March 2019 |first=Dan |last=Quine |authorlink=Dan Quine |title=F.C. Blake and the Mortlake Tramways |publisher=the Industrial Railway Society}}</ref>。 === 第一次世界大戦以降 === [[第一次世界大戦]]では、広範な[[:en:Trench railways|狭軌の鉄道システム]]が両陣の最前線の塹壕戦に貢献した<ref>{{cite book |title=Narrow gauge to no man's land: U.S. Army 60 cm gauge railways of the First World War in France |first=Richard |last=Dunn |publisher=Benchmark Publications |date=1 January 1990}}</ref><ref>{{cite book |title=Railways at War |first=J. N. |last=Westwood |publisher=Howell-North Books |date=1980}}</ref>。それらは短期間の軍事用途であり、戦後、余剰設備はヨーロッパの狭軌鉄道の建設に小さなブームをもたらした。 == 利点と欠点 == === 利点 === 狭軌の鉄道は通常、小さい客車や機関車(小さい[[車両限界]])、小さい橋やトンネル(小さい[[建築限界]])、および、急曲線を使用しているため、建設費用が少なくなる<ref>{{cite book |first=Charles Easton |last=Spooner |url=https://books.google.com/books?id=3pUpAAAAYAAJ&pg=PA71 |title=Narrow Gauge Railways |date=1879 |page=71}}</ref>。狭軌は、技術的に大幅に節約できる可能性のある山岳地帯でよく使用されるほか、経済的に成り立つための潜在的な需要の低い人口の少ない地域でも使用される。これは不毛の大地のため人口密度が低く、標準軌の鉄道の運行が厳しいオーストラリアの一部と南部アフリカにほとんどの場合当てはまる。 伐採、鉱業、または大規模な建設プロジェクト(特に、[[英仏海峡トンネル]]などの限られたスペース)のような短期間の使用後に撤去される仮設鉄道の場合、狭軌の鉄道は大幅にコストが安く容易に設置・撤去することができる。しかし、そのような鉄道は、現代のトラックの性能の向上によりほとんど姿を消した。 多くの国では、建設コストが低いため、狭軌の鉄道が支線として建設され、標準軌の鉄道に乗り換えてきた。多くの場合、狭軌か標準軌かの鉄道の選択ではなく、狭軌の鉄道か敷設しないかの間で選択であった。 === 欠点とその改良 === ==== 互換性 ==== 狭軌の鉄道は、鉄道車両(客車など)を標準軌または広軌の鉄道にそのまま乗り入れることはできない。また、旅客と貨物の移動には、旅客の乗り換えや、貨物の積み替えが必要となる<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=8OVGAQAAMAAJ&pg=RA1-PA200 |title=Irish Railways including Light Railways (Vice-Regal Commission |date=1908 |volume=XLVII |page=200 |publisher=House of Commons |location=London)}}</ref>。石炭、鉱石、砂利などの一部のバルク商品は機械的に積み替えることができるが、この方法だと時間がかかり、積み替えに必要な設備の維持に手間がかかる。 鉄道網内に異なる軌間がある場合、ピーク需要時に異なる軌間の区域を超えて車両を移動させることができないので、必要な場所に車両を移動することは困難となる。狭軌の鉄道のピーク需要を満たすために十分な車両が利用可能である必要があり、需要が少ない期間には余剰設備となりキャッシュフローを生成しない。狭軌が鉄道網のごく一部を形成している地域では(かつての[[ロシア]]のサハリン地方の鉄道のように)、狭軌の設備の設計、製造、または輸入には追加の費用が必要となる。 互換性の問題に対する解決策には、輪軸あるいは台車の交換、[[ロールボック]]、[[軌間可変]]、[[三線軌条|デュアルゲージ]]、または[[改軌]]がある。 ==== 高速化の困難さ ==== 歴史的に、多くの狭軌の鉄道は、安くて早く建設することを優先するために低水準で建設された。その結果、多くの狭軌鉄道は、重量化または高速化の制約を受けることがよくある。例として、急カーブが使われるため、最大許容速度が制限される。日本では、[[田沢湖線]]、[[奥羽本線]]の一部の在来線(軌間1067 mm)を標準軌の[[ミニ新幹線]]に改軌し、標準軌の新幹線が直通するようにした。ただし、路線の形状により、最大速度は元の狭軌の路線と同じである。日本の提案する[[新幹線鉄道規格新線|スーパー特急]]のように、狭軌の線路が高水準に建設されている場合、この問題を最小限に抑えることができる。 狭軌の線路が潜在的な成長を考慮して(または標準軌と同じ基準で)設計されている場合、将来の成長に対する障害は他の軌間と同様になる。低水準で建設された路線の場合、線路を再調整してカーブを緩やかにし、踏切の数を減らし、[[車体傾斜式車両]]を導入することで、速度を上げることができる。 == 高水準化した狭軌の鉄道 == [[File:City of Rockhampton train (Sunshine railway station, Brisbane).jpg|thumb|alt=Electric silver-and-yellow train|クイーンズランド州の車体傾斜式電車。オーストラリアクイーンズランド州の鉄道網は軌間1067 mmの鉄道で構成されている]] オーストラリアクイーンズランド州、南アフリカ、およびニュージーランドの1067 mm軌間の鉄道は、線路が標準軌の水準と同じ基準に合わせて建設された場合、標準軌の線路とほぼ同じ性能が可能であることを示している。200両編成の列車が南アフリカの[[鉄鉱石線 (南アフリカ)|鉄鉱石線]]で運行され、高速ティルト列車がオーストラリアクイーンズランド州で運行されている。もう1つの例は、ブラジルの{{仮リンク|ヴィトーリア・ミナス鉄道|pt|Estrada de Ferro Vitória a Minas}}である。1000 mm軌間で、100ポンド超のレール(100 lb/ydまたは49.6 kg/m)を敷設している。この路線には、4000馬力(3000 kW)の機関車と200両以上の貨車を連結した列車が運行している。南アフリカとニュージーランドでは、車両限界は制約されたイギリスの車両限界と類似している。ニュージーランドでは、イギリスの[[:en:New Zealand British Rail Mark 2 carriage|レールマーク2の車両]]が新しい台車で再構築され、トランツ・シーニック(ウェリントン-パーマストンノース)、トランツ・メトロ(ウェリントン-マスタートン)、トランス・デヴ・オークランド(オークランド郊外)で使用されている。 === 最速の列車 === 狭軌では安定性が低下することは、その列車が広軌と同じくらいの速度で走ることができないことを意味する。たとえば、標準軌の線路のカーブが時速145 kmまで走行できる場合、狭軌の同じカーブは時速130 kmまでの速度しか走行できない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.doro-chiba.org/nikkan_dc/n2005_07_12/n6145.htm|title=車両軽量化・ボルスタレス台車と尼崎事故 №3|website=www.doro-chiba.org|publisher= 日刊 動労千葉|date=2005-08-11|accessdate=2020-06-13}}</ref>。 ただし、19世紀半ば(1865年)の時点でも[[ノルウェー]]の1067㎜軌間で最高時速56㎞ほど(標準軌のイギリスでも当時のローカル線はこの程度)の走行が可能であると分かっており<ref>齋藤晃『蒸気機関車200年史』NTT出版、2007年、ISBN 978-4-7571-4151-3、p.146。</ref>、さらに狭軌でも20世紀前半では[[朝鮮鉄道]]の[[黄海線]](762㎜軌間)で1935年から最高時速70kmの列車を走らせている<ref>宮田寛之「762mm軌間では世界最大級のミカド形とプレーリー形テンダー機関車(その2)」『鉄道模型趣味2021年2月号(No.949・雑誌コード06455-02)』、株式会社機芸出版社、2021年2月、p.60 。</ref> など、蒸気機関車時代でもこれより広軌のローカル路線と比べてもそこまで変わらないケースもあった。 日本と[[オーストラリア]]の[[クイーンズランド州]]では、最近の路線改良により、軌間1067mmの線路で、時速160 kmを超えることができた。クイーンズランド鉄道の車体傾斜式電車は、オーストラリアで最速の電車であり、世界最速の1067 mm軌間の列車で、時速210 kmの記録を樹立した<ref>{{Cite web |author= クイーンズランド鉄道|authorlink= |coauthors= |year= 2013|url= http://www.corporate.qr.com.au/Images/QR_Annual_Report_tcm15-2468.pdf|title= Annual Report(1998-1999)|format= pdf|doi= |work= |publisher= |page= |pages= |language= en|archiveurl= https://web.archive.org/web/20090930024735/http://www.corporate.qr.com.au/Images/QR_Annual_Report_tcm15-2468.pdf|archivedate= 2009-09-30|accessdate= 2020-06-13|quote= |ref=}}</ref>。1067 mm軌間の線路での速度記録は、1978年に[[南アフリカ共和国]]で記録された時速245 kmである<ref>{{Cite web |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |url= http://www.speedrecordclub.com/outrail.php|title= Speed Record Club|format= |doi= |work= |publisher= Speed Record Club|page= |pages= |language= |archiveurl= https://web.archive.org/web/20120211074300/http://www.speedrecordclub.com/outrail.php|archivedate= 2012-02-11|accessdate= 2020-06-13|quote= |ref=}}</ref><ref>{{Cite web |last= |first= |author= |authorlink= |coauthors= |date= |url= http://home.intekom.com/bluegrass/sites/steamsa/historical11.html|title=Class 5E/6E Electric|format= |doi= |work= |publisher= |page= |pages= |language= |archiveurl= https://web.archive.org/web/20080615020009/http://home.intekom.com/bluegrass/sites/steamsa/historical11.html|archivedate= 2008-06-15|accessdate= 2008-06-15|quote= |ref=}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.traintesting.com/SAR.htm |title=Pantograph testing in South Africa |publisher=Traintesting.com |date= |accessdate=2020-06-13}}</ref>。 設計速度が時速137 kmの610 mm軌間の鉄道車両が、{{仮リンク|オタヴィ鉱山鉄道会社|en|Otavi Mining and Railway Company}}のために製造された<ref>{{cite book|title=Little Railways of the World |author=Shaw, Frederic J.|publisher=Howell-North |year=1958}}</ref>。 == 狭軌の主な軌間と採用国の傾向 == === 主な軌間 === * 381mm(15インチ) * 508mm(20インチ) * 597mm * 600mm * 610mm(24インチ=2フィート) * 750mm * 762mm(30インチ=2フィート6インチ)「ニブロク」・「特殊狭軌」 * 800mm * 914mm(3フィート) * 1000mm「メーターゲージ」 * 1050mm * 1067mm(3フィート6インチ)「三六軌間」・「サブロク」 * 1372mm(4フィート6インチ)「馬車軌間」 このうち幹線鉄道に用いられるのは914mm以上のもので、英語では「medium gauge ミディアム・ゲージ」とも呼ばれる。 === 採用国の傾向 === イギリスから鉄道技術を導入した国々(日本も含む)では1067mmが主に用いられ、[[フランス]]などのヨーロッパ大陸諸国の影響下の国では1000mmが、[[アメリカ合衆国]]の影響下にあった国では914mmが用いられる傾向にある。 なお、営業用として運行される鉄道で最も狭いゲージは381mm(15インチ)で、イギリスの[[ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道]]が有名である。日本の[[静岡県]][[伊豆市]]修善寺にある[[修善寺虹の郷|虹の郷]]には、この鉄道と同規格の車両による園内路線が敷設・運行されている。 == 914mm(3フィート) == {{main|3フィート軌間}} 914&nbsp;mm(3フィート)は[[アメリカ大陸]]でよく見られる軌間で、「American Narrow アメリカンナロー」とも呼ばれる。 日本では、[[北陸地方]]や[[九州|九州地方]]などで見られた。後に[[両備バス]]となった[[岡山県]]の西大寺鉄道が廃止されて以来、普通鉄道・軌道としては日本に存在しないが、[[青森県]]の[[道の駅みんまや#青函トンネル記念館|青函トンネル記念館]]にある[[ケーブルカー]]の[[青函トンネル竜飛斜坑線]]で営業用として使用されている。[[東京ディズニーランド]]にかつて存在した[[路面電車]]のアトラクションである「[[ジョリートロリー]]」やかつて存在したテーマパーク「[[ウェスタン村]]」の村内鉄道アトラクション「ウェスタン村鉄道」でも使用されていた。 == 1067mm(3フィート6インチ・「三六軌間」) == {{main|3フィート6インチ軌間}} イギリス帝国の植民地で広く用いられたことから「British imperial gauge(イギリス帝国軌間)」という呼称も存在した。特に[[ケープ植民地]](後の南アフリカ)で用いられたことから「Cape gauge」と呼ばれるほか、この軌間を最初に用いたノルウェー人[[カール・アブラハム・ピル]]のイニシャルにちなんで「CAP gauge」あるいは「Kapspur」(ドイツ語:CがKに書き換えられている)とも呼ばれる。 後述するように、日本で多く用いられている軌間はこの1067mm、3フィート6インチである。日本国内では「三六軌間」と呼ばれている(「三六」は3フィート6インチから)。→[[#日本の三六軌間]] === 世界で1067mm、3フィート6インチを用いた国々・地域 === 1067mmの軌間を採用したことのある国・地域、現在もしている国・地域の例は以下の通り。 * アフリカ ** [[コンゴ民主共和国]] ** [[ザンビア]] ** [[タンザニア]] *** [[タンザン鉄道]] ** [[モザンビーク]] ** [[ジンバブエ]] ** [[ボツワナ]] ** [[マラウイ]] ** [[アンゴラ]] ** [[ナミビア]] ** [[エスワティニ]] ** [[南アフリカ共和国]] - メートル法の採用時に軌間を1065mmと定めているが、実質は同じである ** [[スーダン]] ** [[南スーダン]] ** [[ナイジェリア]] ** [[ガーナ]] * オセアニア ** オーストラリア *** [[クイーンズランド州]] *** [[西オーストラリア州]] *** [[南オーストラリア州]] *** [[タスマニア州]] ** [[ニュージーランド]] * 南アメリカ ** [[コスタリカ]] ** [[エクアドル]] ** [[ハイチ]] * 北アメリカ ** [[アメリカ合衆国]] ** {{see also|アメリカ合衆国の3フィート6インチ軌間の鉄道}} *** [[サンフランシスコ・ケーブルカー|サンフランシスコのケーブルカー]] *** [[ロサンゼルス鉄道]]- [[ロサンゼルス]]の[[路面電車|市街電車]](1963年全廃) *** [[デンバー軌道]] - [[デンバー]]の市街電車(1950年廃止) ** [[カナダ]] *** [[ニューファンドランド島]]内の[[カナディアン・ナショナル鉄道]](1988年廃止) * アジア ** [[フィリピン]] *** [[フィリピン国鉄]] ** [[インドネシア]](ジャカルタ・ライトレールを除く) ** [[台湾]] *** [[台湾鉄路管理局]] ** [[香港]](市街電車のみ) ** [[中華人民共和国]] *** [[繁昌県]]の[[:zh:桃沖鉱山|桃沖鉱山]] ** [[日本]] *** {{main|#日本の狭軌}} なお[[ノルウェー]]や[[スウェーデン]]では19世紀に1067mm軌間の鉄道網が作られたが、後に1435mmへ改軌された。 == 1372mm(4フィート6インチ・「馬車軌間」) == [[ファイル:Keio6413F+9702F.jpg|right|thumb|200px|1,372mm軌間の京王線]] {{main|4フィート6インチ軌間}} 1,372&nbsp;mm(4フィート6インチ)軌間は、かつて[[スコットランド]]の一部で採用されていた<ref group="注">[[1846年軌間統一法|1846年の法整備]]によってブリテン島の軌間が[[標準軌]]に統一されたため、スコットランドに1,372mm軌間の実用鉄道は現存していない。</ref> ため、英語では'''スコッチ・ゲージ'''([[:en:Scotch gauge|Scotch gauge]])と呼ばれる。 日本では東京とその周辺で一時広く採用されたのに対し、日本国内のみならず世界的に見ても、東京(とその周辺)以外での使用例がきわめて少ないことから、これを'''東京ゲージ'''と呼ぶ鉄道史家もいる<ref>{{Cite journal|和書|author=加藤新一|title=『東京ゲージ』をめぐる鉄道史|journal=[[地理 (雑誌)|地理]]|publisher=[[古今書院]]|volume=41|issue=11号(通巻491号)|date=1996年11月|pages=48-53|naid =40002447064}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=宮田道一、広岡友紀|title=[https://books.google.co.jp/books?id=2Tf3AgAAQBAJ&pg=PA155&dq=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%B8&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjJ69uLy4HbAhUPQLwKHfX7DOoQ6AEIQzAG#v=onepage&q=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%82%B8&f=false 東急電鉄まるごと探見 歴史・路線・運転・ステンレスカー]|publisher=[[JTBパブリッシング]]|date=2014年3月|isbn=978-4-533-09630-3|page=155}}</ref>。 日本国内ではその出自から「'''[[馬車鉄道|馬車]]軌間'''」とも呼ばれ、標準軌・旧国鉄採用軌間とも違うことや日本で使用された線区の特殊性から、日本では「'''偏軌'''」・「'''変則軌道'''」とも言われる。 →[[#日本国内の1372mm]] == 欧州の狭軌 == {{節スタブ|date=2019年9月}} * [[スイス]]の鉄道会社[[レーティッシュ鉄道]]の全線が[[メーターゲージ]]({{RailGauge|1000mm}})である。 * [[ドイツ]](旧[[東ドイツ]])の鉄道会社[[ハルツ狭軌鉄道]]の保有する4路線のうち、以下の3路線が[[メーターゲージ]]である。 ** {{仮リンク|ブロッケン鉄道|en|Brocken Railway}} - {{仮リンク|ブロッケン駅|en|Brocken station}}([[ブロッケン山]]山頂の近く。標高1,125mと、[[ドイツ]]最高地点の駅。)から{{仮リンク|ドライ・アネン・ホーネ|en|Drei Annen Hohne station}}間19km(最大勾配3.3パーミル)。 ** {{仮リンク|ハルツ鉄道|en|Harz Railway}} - [[ヴェルニゲローデ]]([[ブロッケン山]]麓の街。[[ドイツ鉄道]]乗換駅。) - {{仮リンク|ドライ・アネン・ホーネ|en|Drei Annen Hohne station}} - [[ノルトハウゼン]]([[ドイツ鉄道]]乗換駅。)間61km。 ** {{仮リンク|南ハルツ鉄道|en|South Harz Railway}} - [[ノルトハウゼン]]([[ドイツ鉄道]]乗換駅。) - [[ノルトハイム]]([[ドイツ鉄道]]乗換駅。[[ハノーファー]]より89km。)間69km。 == 日本の狭軌 == === 日本の三六軌間 === [[ファイル:E353 Super Azusa Kokubunzhi Station 20180407.jpg|right|thumb|200px|1,067mm軌間のJR線]] [[ファイル:D51 254 of JNR.jpg|thumb|200px|1,067mm軌間と蒸気機関車。[[杉並児童交通公園]]の[[国鉄D51形蒸気機関車|D51]]]] 日本で3ft6in軌間('''三六軌間''')を選択した理由について、「イギリスから植民地扱いされていた」「山が多いから急曲線に強い」という説がしばしば提唱されるが両説とも穴がある。 前者は標準軌であるイギリス本土においても、1860年代後半から1870年代初頭にかけて新規路線に限らず既存路線も狭軌化した方が経済的<ref group="注">既存の客車や貨車は大きすぎて重量過多なため小型化した方がよく、技術革新によって狭軌でもこれに十分な機関車は製造できるようになっていた。</ref>という説が提唱されており、[[関節式機関車#フェアリー式|フェアリー式関節式機関車]]の開発者であるロバート・フランシス・フェアリーは1870年9月の英国学術協会の会合で「西海岸本線のLNWRの路線を4ft8in軌間から3ft軌間にしても同じ貨物輸送が可能で車両を小型化できる分コストは半分に抑えられる。」という説を上げている<ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.142-144]]</ref>。 後者についても、日本の路線は急曲線・急勾配どころかむしろ緩やかで、1929年(昭和4年)の線路等級制定以前は本線は一律半径300 m以上・勾配は25 ‰以下<ref group="注">国有鉄道建設規定(大正十年十月十四日)には、第十三条「本線における曲線の最小半径は三百メートル以上たることを要す」、同じく第十四条「本線路における勾配は千分の二十五より急ならざることを要す」とある。([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954877/1l 『官報1921年10月14日』P.2])国立国会図書館デジタルコレクションより</ref>(等級制定後の甲線と同じ)であり、同じ軌間のノルウェーと南アフリカの最小半径が150 mと100 mだが、日本の場合はこれはのちに制定された線路等級で認められた一番程度が低い簡易線(本線半径160 m以上)以下になる<ref group="注">『蒸気機関車200年史』P148では「簡易線の最小半径が300m」とあるが「甲線」の誤記か直径と半径の誤りと判断。</ref>。また、当初導入された機関車も[[ノルウェー]]・[[クイーンズランド州]](オーストラリア)・[[ニュージーランド]]・[[インド]]の3ft6in軌間の路線では動輪直径が3ftほどなのに対し、日本は4ftから4ft6inと大きく(機関車自体も大きい)、先従輪が付いていても固定でホイールベースが長いことからも急曲線通過のために狭軌採用ではないことが読み取れる<ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.148]]</ref>。 もっとも、以上の数値は鉄道需要が先進国を上回るようになり設定された数値である。鉄道導入当初は曲線の最小半径は最小160mとし一般的には 300mも限度が目安とされ<ref name="鉄道技術発達史 第2篇P.30">鉄道技術発達史 第2篇P.30</ref>、明治33年の建設規程では本線の最小曲線半径は200m、分岐附帯では本線路が120m、その他が60mである<ref>鉄道技術発達史 第1篇P.65</ref>。勾配に関しては勾配は25‰を目標として最急 40‰までが認められていた<ref name="鉄道技術発達史 第2篇P.30"/>。9600形やD51を運用していた根室本線旧線では半径225.31m、181.05m、181.05m、最小179.04mの連続カーブが1966年の新線開業まで残っていた。<ref>[http://www.karikachi.org/heritage/ NOP法人「旧狩勝線を楽しむ会」旧狩勝線の近代化遺産]</ref><ref>[http://ecotorocco.jp/railhistory/largecurve1/ 狩勝高原エコトロッコ鉄道」根室本線旧線 大カーブ(狩勝信号場~新内駅間)その1]</ref> イギリスもゲージ法で1,435mmが「標準」になり一時他の軌間敷設が認められなくなったが、日本では1900年(明治33年)の[[私設鉄道法]]第40条に「軌間は特例を除き三尺六寸に限る」と明記されていた<ref group="注">この制限は、後で政府が私鉄を買い上げて国有鉄道に一体化することを前提としていたからである。また、国有鉄道が狭軌であることから、貨物輸送を行う場合は貨車の直通が不可能になることを避ける目的もある。この法律そのものは1900年(明治33年)施行だが、1887年(明治20年)の私設鉄道条例にすでに私鉄の軌間も三尺六寸規定の説明がある</ref> ため、国鉄だけではなく私鉄も含めてこれに定められた1,067 mm軌間が日本の標準になったが、[[軌道法]]は軌間制限が特になかったため、特に[[近畿地方]]の私鉄ではこれを拡大解釈して標準軌の専用軌道を敷設した路線がいくつもあったほか、東京でも馬車鉄道から開業した[[東京馬車鉄道]](現在の[[東京都電車]])などは1,372 mm軌間(後述)であった。その後、軌間以外も規制が厳しすぎたことで私鉄が作られなくなったため、1910年に基準の緩い[[軽便鉄道法]]が施行され、これやこの後継に当たる[[地方鉄道法]](1919年)では異なる軌間を認めていたため、下限の762 mm軌間(多数)から標準軌の1,435 mm軌間(新宮軽便鉄道や[[琴平電鉄塩江線|塩江温泉鉄道]]など)までのさまざまな軌間が建設されている。 なお、国鉄では鉄道院時代に[[後藤新平]]総裁の指示で[[島安次郎]]らによって標準軌への改軌の技術的な検討もされたが、改軌は狭くするのは容易だが広くするのは難しく<ref group="注">短期間で広げた例としては、[[南満州鉄道]](満鉄)の最初期に1年間で3ft6inを4ft8inにした事はあるが、これは元々ロシアが5ft軌間で敷いた広軌を日露戦争中に日本の機関車を使えるように軌間が3ft6inになるようにレールを中央にずらして敷き直したのをまたずらしたものであり、元をたどるとむしろ狭軌化である。</ref>、島自身もなるべく改軌中のゲージ分断による悪影響が出ないように配慮するなどの具体案を研究したものの、膨大な経費の壁は政党間の政争の具となり、1919年に原内閣によって路線網を広げる方を優先(建主改従)、幹線の輸送力増大は狭軌のまま補強(強度狭軌)するとされ、ここで改軌の根は完全に絶たれた<ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.247-248]]</ref>([[日本の改軌論争]]も参照)。また、この前後期に日本が支配していた現在の台湾では、当時の日本国政府により鉄道網の構築が台湾の近代化において最重要施策とされ、狭軌による鉄道網が構築された。現在でも在来線は狭軌のまま運用され有効に活用されている。 その後、未完に終わったが既存路線と無関係に敷設される弾丸列車計画においては車両限界や軸重などのしがらみもなく<ref group="注">島が改軌論争の際に描いた標準軌機関車の計画はイギリスの車両限界を参考にしていたらしく、アメリカどころかヨーロッパ大陸の機関車と比べても一回り小さく、軸重に至っては14.37 tと、強度狭軌後の日本の機関車と比べても低い。</ref><ref>[[#齋藤2007|齋藤(2007) p.248-249]]</ref>、[[南満州鉄道]](満鉄)などのような大きな車両限界を持った[[標準軌]]で建設される予定で、この流れを汲んだ戦後の[[新幹線]]計画は国鉄初となる標準軌で建設された。 日本で1,067mm軌間を採用する主な路線は次の通り。 * [[JR]]グループ/[[日本国有鉄道]]および旧国鉄・JR路線を転換した[[第三セクター鉄道]](新幹線・[[博多南線]]・[[上越線]][[越後湯沢駅]] - [[ガーラ湯沢駅]]間および[[ミニ新幹線|新在直通区間]]を除く) * [[東京地下鉄]]([[東京メトロ銀座線|銀座線]]、[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]を除く) * [[札幌市交通局]]([[札幌市電]]一条線、山鼻西線、山鼻線、都心線) * [[仙台市交通局]]([[仙台市地下鉄南北線|南北線]]) * [[関東鉄道]] * [[京王電鉄]]([[京王井の頭線|井の頭線]]) * [[東急電鉄]]([[東急世田谷線|世田谷線]]を除く) * [[小田急電鉄]] * [[江ノ島電鉄]] * [[箱根登山鉄道]]([[小田原駅]] - [[箱根湯本駅]]間) * [[西武鉄道]] * [[東武鉄道]] * [[秩父鉄道]] * [[相模鉄道]] * [[東京都交通局]]([[都営地下鉄三田線|都営三田線]]) * [[東京臨海高速鉄道]]([[東京臨海高速鉄道りんかい線|りんかい線]]) * [[首都圏新都市鉄道]]([[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス線]]) * [[名古屋鉄道]] * [[名古屋市交通局]]([[名古屋市営地下鉄鶴舞線|鶴舞線]]、[[名古屋市営地下鉄桜通線|桜通線]]、[[名古屋市営地下鉄上飯田線|上飯田線]]) * [[名古屋臨海高速鉄道]]([[名古屋臨海高速鉄道西名古屋港線|あおなみ線]]) * [[京阪電気鉄道]]([[京阪鋼索線|鋼索線]]) * [[南海電気鉄道]] * [[泉北高速鉄道]] * [[近畿日本鉄道]]([[近鉄南大阪線|南大阪線]]系統、[[近鉄生駒鋼索線|生駒鋼索線]]) * [[伊賀鉄道]] * [[養老鉄道]] * [[西日本鉄道]]([[西鉄貝塚線|貝塚線]]) * [[豊橋鉄道]] * [[静岡鉄道]] * [[富士急行]] * [[伊豆急行]] * [[伊豆箱根鉄道]] * [[遠州鉄道]] * [[大井川鐵道]] * [[三岐鉄道]]([[三岐鉄道三岐線|三岐線]]) * [[上信電鉄]] * [[上毛電鉄]] * [[上田電鉄]] * [[長野電鉄]] * [[えちぜん鉄道]] * [[福井鉄道]] * [[北陸鉄道]] * [[富山地方鉄道]] * [[弘南鉄道]] * [[津軽鉄道]] * [[水間鉄道]] * [[神戸電鉄]] * [[福岡市交通局]]([[福岡市地下鉄七隈線|七隈線]]を除く) * [[ケーブルカー|鋼索線]]([[箱根登山鉄道鋼索線]]、[[十国峠十国鋼索線]]、[[鞍馬山鋼索鉄道]]、[[能勢電鉄妙見の森ケーブル]]を除く) * [[岡山電気軌道]] * [[一畑電車]] * [[伊予鉄道]] * [[土佐電気鉄道]] * [[島原鉄道]] * [[熊本電気鉄道]] * [[近江鉄道]] * [[宇都宮ライトレール|宇都宮ライトライン]]([[宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線|宇都宮芳賀ライトレール線]]) === 日本国内の1372mm === {{main|4フィート6インチ軌間#日本}} === 日本の特殊狭軌線 === [[ファイル:Kintetsu-260Series-01.jpg|200px|thumb|right|762 mm軌間の内部・八王子線]] 日本で1,067&nbsp;mm未満の軌間を採用している路線で、現存するものには次のものがある。 * 普通鉄道線 ** [[四日市あすなろう鉄道内部・八王子線]] (762&nbsp;mm、[[2015年]][[4月1日]]に近畿日本鉄道から移管) ** [[三岐鉄道北勢線]](762&nbsp;mm、[[2003年]][[4月1日]]に近畿日本鉄道から移管) ** [[黒部峡谷鉄道本線]] (762&nbsp;mm) * 工事用軌道・森林軌道・専用軌道 ** [[安房森林軌道]] (762&nbsp;mm) ** [[国土交通省立山砂防工事専用軌道]] (610&nbsp;mm) ** [[小口川軌道]] (762&nbsp;mm) ** [[日本製鉄関西製鉄所]]尼崎地区 (762&nbsp;mm) ** [[釧路コールマイン]] (610 mm) かつて存在した路線は非常に多く、[[第二次世界大戦]]中に[[不要不急線]]として廃止されたもの、[[1960年代]]前後に[[道路]]交通の整備により役目を終えて廃止されたものがある。なお、国鉄に存在した特殊狭軌線については[[国鉄の特殊狭軌線]]を参照。 * 旧日本陸軍[[鉄道連隊]] (600&nbsp;mm) 、後の[[新京成電鉄新京成線]]([[1946年]]に1,067&nbsp;mm、[[1953年]]に1,372&nbsp;mm、[[1959年]]に1,435&nbsp;mm〈標準軌〉へ改軌)および[[陸上自衛隊]][[第101建設隊]]([[1960年]]に1,067 mmへ改軌、[[1966年]]に廃止) * [[根室拓殖鉄道]](762&nbsp;mm、[[1959年]]廃止) * [[浜中町営軌道]](762&nbsp;mm、[[1972年]]廃止) * [[鶴居村営軌道]](762&nbsp;mm、[[1968年]]廃止) * [[歌登町営軌道]](762&nbsp;mm、[[1971年]]廃止) * [[花巻電鉄]](762&nbsp;mm、[[1969年]]廃止) * [[釜石鉱山鉄道]](838&nbsp;mm→762&nbsp;mm、[[1965年]]廃止) * [[仙北鉄道]](762&nbsp;mm、[[1968年]]廃止) * [[仙台鉄道]](762&nbsp;mm、[[1960年]]廃止) * [[磐梯急行電鉄]](762&nbsp;mm、1969年廃止) * [[西武山口線]](762&nbsp;mm、[[1985年]]廃止、[[自動案内軌条式旅客輸送システム|AGT]]転換) * [[湘南軌道]](762&nbsp;mm、[[1937年]]廃止) * [[九十九里鉄道]](762&nbsp;mm、[[1961年]]廃止) * [[越後交通栃尾線]](762&nbsp;mm、[[1975年]]廃止) * [[頸城鉄道線]](762&nbsp;mm、[[1971年]]廃止) * [[草軽電気鉄道|草津軽便鉄道]](後の草軽電気鉄道。762&nbsp;mm、[[1961年]]廃止) * [[尾小屋鉄道]](762&nbsp;mm、[[1977年]]廃止) * [[坂川鉄道]](762&nbsp;mm、 [[1944年]]廃止) * [[静岡鉄道駿遠線]](762&nbsp;mm、[[1970年]]廃止) * [[遠州鉄道奥山線]](762&nbsp;mm、[[1964年]]廃止) * [[三重電気鉄道松阪線]](762&nbsp;mm、[[1964年]]廃止) * [[三重交通|三重電気鉄道]]湯の山線(後の[[近鉄湯の山線]]。762&nbsp;mm、[[1964年]]に1,435&nbsp;mm〈標準軌〉へ改軌) * [[安濃鉄道]](762&nbsp;mm、[[1972年]]廃止) * [[中勢鉄道]]([[大日本軌道]]伊勢支社。762&nbsp;mm、[[1943年]]廃止) * [[阪堺鉄道]](後の[[南海本線]]の一部。838&nbsp;mm、[[1897年]]に1,067 mmへ改軌) * [[赤穂鉄道]](762&nbsp;mm、[[1951年]]廃止) * [[西大寺鉄道]](914&nbsp;mm、[[1962年]]廃止) * [[下津井電鉄]](762&nbsp;mm、[[1990年]]廃止) * [[井笠鉄道]](762&nbsp;mm、[[1971年]]廃止) * [[鞆鉄道]](762&nbsp;mm、[[1954年]]廃止) * [[朝倉軌道]](914&nbsp;mm、[[1940年]]廃止) * [[日本鉱業佐賀関鉄道]](762&nbsp;mm、[[1963年]]廃止) * [[沖縄県営鉄道]](762&nbsp;mm、[[1945年]]運行停止) * [[沖縄軌道]](762&nbsp;mm、[[1945年]]運行停止) 日本国内の[[鉱山]]や、工事現場で使用された[[人車軌道|手押しトロッコ]]の軌間は主に610 mmと508 mmであり、機関車を用いた工事用軌道は610 mmと762 mmが多い。 === 日本における狭軌の保存鉄道 === * [[千葉県]][[成田市]]にある[[成田ゆめ牧場]]において、狭軌鉄道 (610mm) の保存が行われている。 * 762mm軌間のものは[[石川県]][[小松市]]に尾小屋鉄道の動態保存があるほか、森林鉄道など全国で数か所の動態保存がある。詳細は[[軽便鉄道]]を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書| author = 齋藤晃| year= 2007| title = 蒸気機関車200年史| publisher = NTT出版| isbn = 978-4-7571-4151-3| ref = 齋藤2007}} * {{Cite journal|和書| author = ジョン・ウェストウッド| translator = 青木栄一、菅建彦 | title = 世界の鉄道の歴史図鑑 <small>蒸気機関車から超高速列車までの200年 ビジュアル版 </small>| publisher = 柊風舎|| isbn = 978-4-903530-39-0| date = 2010年9月| ref = ウェストウッド2010}} * {{Citation|和書 |title=3フィート6インチ・ゲージ採用についてのノート |author=青木栄一 |journal=文化情報学 : 駿河台大学文化情報学部紀要 |publisher=[[駿河台大学]] |year=2002 |volume=9 |issue=1 |pages=29-39 |url=https://www.surugadai.ac.jp/sogo/media/bulletin/Bunjo09-01_AOKI.pdf |ref=Aoki2002 }} == 関連項目 == {{Wiktionary|狭軌}} * [[日本の改軌論争]] * [[軌間]] * [[標準軌]] * [[広軌]] * [[軽便鉄道]] * [[保存鉄道]] * [[大日本軌道]] * [[雨宮敬次郎]] * [[国鉄の特殊狭軌線]] * [[最小軌間鉄道]] * [[ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道|ロムニー鉄道]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きようき}} [[Category:軌間]] [[Category:軽便鉄道|*きようき]]
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ビデオカメラ
ビデオカメラ(video camera)とは、ビデオ(映像信号)で映像(動画)を撮影するためのカメラ。 (ビデオカメラ(カメラヘッド)と録画部(ビデオデッキ)が一体化したものについてはカムコーダも参照。) レンズを通した映像を、古くは撮像管、現在ではCCD撮像板などの個体撮像素子に結像させ、それを電気信号であるビデオ信号として出力する。信号は、画面を細かく区切っていきそれを端から時系列に並べたものとなる。画面の区切り方は、ビデオ信号の規格に従う。 最初に開発されたビデオカメラは撮像管と機械式シャッター(回転円盤によって機械的に画面の一部を撮影していくもの)を組み合わせたものであった。次世代のビデオカメラは、撮像管に画面の一部を切り出す機能を搭載し機械式シャッターを追放したものとなった。更にその次世代は、撮像管を廃して半導体による撮像板を採用している。 画質面では、放送用、業務用カメラが高性能で、民生用カメラはそれに劣る。しかしこの差は、徐々に埋まってきている。監視用カメラでは、そもそもあまり画質は要求されない。 ビデオカメラは、さまざまな要素から分類することができる。必須では無いが多くの製品には音声を収録するマイクや音声入力と音声信号を撮影したビデオ信号の音声領域に付加する機能が搭載されている。 ビデオカメラには用途に応じてさまざまなものが存在する。用途で大別すると以下のような分類ができる。 放送用ビデオカメラは、絶対の信頼性と高画質・機動性を追求したビデオカメラの最高位に位置する存在であり、妥協を許さない製品である。 スタビライザーや三脚など関連する物品がシステム化されており、基本的には一式を導入する。 ソニーなどの電機メーカーの他、池上通信機などの専門メーカーもある。 業務用ビデオカメラは、ビデオパッケージ(カラオケ用画像撮影・結婚式や説明用ビデオの撮影・等)など、コスト管理にシビアな映像を高画質で撮影することを主な目的としたカメラ。放送用に次ぐ高い画質とハードな使用に耐えうる堅牢性が求められ、使用するに当たってはある程度以上の知識と操作の習熟が必要である。 電機メーカーや専門メーカーが放送用の下位モデルとしてラインナップしていることがある。近年では小型のカムコーダでも放送に耐えうる性能を有しており、制作会社にも導入が進んでいる。 2009年以降は、キヤノン EOS 5D Mark IIなどの動画撮影機能が標準採用のデジタル一眼レフカメラ(静止画撮影目的の一眼レフカメラ)の登場に伴い、業務用ビデオカメラの代わりにデジタル一眼レフカメラが使用されつつある。デジタル一眼レフカメラ用のスタビライザー、ヘッドフォンやマイク、外部モニタ/液晶ファインダーなど動画撮影用の機材も登場している。 業務用ビデオカメラ用として使用する記録媒体は、転送速度の速さと大容量により、CFカードが使用されている。 民生用ビデオカメラは、映像撮影・映像製作を業としない一般市民が、プライベートな目的で動画を気軽に撮影することを主な目的としたカメラ。画質や堅牢性については、業務用ほどは高い要求がされない反面、素人でもそこそこの動画が撮影できるような、分かりやすい操作性などが求められる。業務的な利用がなされるものと比べて、たとえば照明明度などはよりシビアな状況で使われることがあるため、最低撮影照度などでは業務用を上回る性能を持つ部分がある。また本体が小型なものが多いために手ぶれが発生しやすいことを見越し、各社とも『手ぶれ補正』などの技術を投入している。 近年では民生用であってもビデオパッケージには十分な映像が得られ、画質を優先しなければ放送可能なレベルになっているため、メーカーでもハイエンドモデルにXLR端子を追加するなどプロユースを想定した設計を行っている。 固定型ビデオカメラは主に監視カメラなどに用いられるもので、高い画質は求められないが、風雨に耐える堅牢性や長時間の安定運用性能が求められる。 ビデオカメラには、用途に応じてさまざまな構造のものがある。構造で大別すると以下のような分類ができる。 撮影部分が独立したものは、「カメラヘッド」などとも呼ばれる。カメラヘッドからはビデオ信号を出力するライン(線)が出ており、その線をカメラ制御部(CCU)を経て必要な機材につなげて使用する。業務用ビデオカメラの一部(スタジオカメラ)や監視用ビデオカメラのほとんどがこのタイプである。ENGカメラの分野では、一体化したものが一般化する前はタイプが主流であり、カメラヘッドと録画部(ビデオデッキ)を、それぞれカメラマンとビデオエンジニアが2人がかりでかついで走り回っていた。 撮影部分と録画部分が一体化したものは、「一体型」「カムコーダ」などとも呼ばれ、単体で使用する。レンズや撮像管・CCDから構成される撮影部と、信号を録画するビデオテープレコーダ・ハードディスクレコーダ・DVDレコーダなどの録画部が一体となっている。業務用ビデオカメラの一部(ENGカメラ)と民生用カメラの大半がこのタイプである。業務用機においては、登場当初、単体のカメラヘッドよりは一体型の方が大きく重いためカメラマンの負担重量が増えるとして不評だったが、カメラマンが単独で行動できる利便性が買われて主流となった。民生用では、もともとカメラと録画部(ビデオデッキ)を一人で抱えることが多かったため、一体型は歓迎され、速やかに主流となった。 組み立て型は、「カメラヘッド」と「録画部」は別のコンポーネントとなっているが、それを組み合わせて一体型として使うことが前提とされている。業務用ビデオカメラの一部がこれに該当する。以前は業務用ENGカメラの大半がこのタイプであり、カメラヘッドと録画部を必要に応じて選択できることから、必要とするシステムを容易に組み立てられるというメリットがあった。また、カメラヘッド専業メーカーのカメラヘッドを採用する場合にはこのスタイルになるのが一般的だった。しかし録画部の形式が寡占化したことなどから組み立て式であることのメリットが薄れ、一体型にトレンドが移行した。 カメラの大きさなどによっても分類が可能である。 スタジオカメラは、数十キロから、(レンズまで含めると)数百キロに達する程度の重量級カメラであり、三脚に固定するか自由にカメラを上下させる為のガススプリングを内蔵したカメラペデスタルに載せて使う。テレビ局のスタジオやスポーツ中継などに使われるタイプのものであり、もっぱら業務用である。肩乗せカメラも手持ちカメラもなかった頃(1976年以前)は、外からの中継であっても、スタジオカメラが使われていた。運搬の際はカメラヘッドとレンズは分解した状態でそれぞれの専用ケースに詰めている。スタジオカメラヘッドの代わりにファインダー+肩乗せカメラ+スタジオカメラレンズ取り付け用のアダプターを用いてスタジオカメラ用レンズと組み合わせて使用する例もある。 肩乗せカメラは、重量十数キロ程度までの比較的大型のポータブルカメラで、肩に乗せて使用する。三脚や移動台に載せて使うこともある。ある程度の重量があるためカメラブレしにくく安定した映像を撮影することができるが、軽くはないので一般人が気軽に撮影するといった用途には向かない。もっぱら業務用・ハイエンドアマチュア用である。このタイプのビデオカメラが登場したのは、撮影部(カメラヘッド)のみのものが1976年(業務用)。撮影部と録画部が一体化したカムコーダは1980年であり、こちらは最初は民生機の試作機であった(業務用機で一体型のものが登場したのは1982年)。 手持ちカメラは、重量数キロ程度までの比較的小型のポータブルカメラで、片手あるいは両手で持って使用する。ほとんどは撮影部と録画部が一体化したカムコーダ様式のものである。三脚や移動台に載せて使うことも、もちろん可能である。非常に小さなものもあるため気軽に使うことができるが、軽いことと手に持って使うというスタイルのせいでカメラブレがしやすく、見易い映像を撮影するにはかなりの鍛錬が必要である。以前はもっぱら民生用として作られており画質は明らかに見劣りのするものだったが、デジタルビデオカメラが登場したことによって業務用機なみの画質を持つものが出現し、業務用域にも食い込んできている。 据え置きカメラは、監視用カメラなどに使われるもので、小さな金具などで壁や天井などに固定して使う。リモートコントロールで角度を調整できる架台などと組み合わせて使われることもある。屋外で使用する場合は耐候性にすぐれたカメラハウジングに収めて使用する。また、非常に小さなものもある(最小では親指第一関節程度のサイズ)。 スタジオカメラ、肩乗せカメラ、手持ちカメラでは水しぶきがかかるような状況で使用する場合、機材保護のためにレンズ部分を除いて透明または黄色などの保護シートで全体を覆うことが一般的である(主に前者2種類はバラエティー番組や屋外におけるスポーツ中継に見られる)。 機構によっても分類が可能である。 3管式/3板式カメラは、ダイクロイックミラー(特定の色のみを反射する特殊な鏡)によって、光の三原色である赤・青・緑色ごとに入射光をRGB3分割し、それぞれの色に対応した撮像管・撮像板を用いるという機構のもの。撮像板としてはCCDやCMOSの半導体撮像素子が使われる。3CCD/3CMOSなどとも呼ばれる。 単管式/単板式カメラは、撮像管や撮像板の前にバイヤー配列等の色フィルタを設け、一本の撮像管ないしは一枚の撮像板でカラー映像を撮影する機構のもの。 重量・サイズ・コストでは単管式/単板式が有利であるが、画質面では3管式/3板式が有利である。業務用・放送用ビデオカメラは、よほど特殊なもの以外は3管式/3板式である。民生機では、以前は3管式/3板式を採用したものは一部の高級機種に限られていたが、1990年代から民生機においても3板式が数多く登場し始め、その後はハイエンド民生機ではそれなりの勢力を持つに至っている。 なお、民生用として初の3CCD方式カメラ(ソニーCCD-VX1)が1992年9月に販売される以前に、輝度信号と色信号に分解した2CCD方式カメラ(ソニーEDC-50/EDW-75、松下NV-M10000)と、RGB信号をG/RB原色色分解した2CCD方式カメラ(ミノルタEX-1/日立VM-H1000)がリリースされ、現在も一部機種で採用されている。 また、放送用として4CCD方式カメラというのが一時期存在していた(池上HK-477、HK477P)。RGB信号のうちGチャンネルのCCDを2枚用意して、空間画素ずらしを行い、高画質、高解像度を狙ったデュアルグリーン方式と呼ばれるカメラ設計になっていたが、コストの割に画質効果が得られず、また、Gchシェードノイズ増加のため、間もなく消え去った。
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"手持ちカメラは、重量数キロ程度までの比較的小型のポータブルカメラで、片手あるいは両手で持って使用する。ほとんどは撮影部と録画部が一体化したカムコーダ様式のものである。三脚や移動台に載せて使うことも、もちろん可能である。非常に小さなものもあるため気軽に使うことができるが、軽いことと手に持って使うというスタイルのせいでカメラブレがしやすく、見易い映像を撮影するにはかなりの鍛錬が必要である。以前はもっぱら民生用として作られており画質は明らかに見劣りのするものだったが、デジタルビデオカメラが登場したことによって業務用機なみの画質を持つものが出現し、業務用域にも食い込んできている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "据え置きカメラは、監視用カメラなどに使われるもので、小さな金具などで壁や天井などに固定して使う。リモートコントロールで角度を調整できる架台などと組み合わせて使われることもある。屋外で使用する場合は耐候性にすぐれたカメラハウジングに収めて使用する。また、非常に小さなものもある(最小では親指第一関節程度のサイズ)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スタジオカメラ、肩乗せカメラ、手持ちカメラでは水しぶきがかかるような状況で使用する場合、機材保護のためにレンズ部分を除いて透明または黄色などの保護シートで全体を覆うことが一般的である(主に前者2種類はバラエティー番組や屋外におけるスポーツ中継に見られる)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "機構によっても分類が可能である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "3管式/3板式カメラは、ダイクロイックミラー(特定の色のみを反射する特殊な鏡)によって、光の三原色である赤・青・緑色ごとに入射光をRGB3分割し、それぞれの色に対応した撮像管・撮像板を用いるという機構のもの。撮像板としてはCCDやCMOSの半導体撮像素子が使われる。3CCD/3CMOSなどとも呼ばれる。", 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ビデオカメラとは、ビデオ(映像信号)で映像(動画)を撮影するためのカメラ。 (ビデオカメラと録画部が一体化したものについてはカムコーダも参照。)
[[File:Camera crew at Candlestick Park 8-29-08.JPG|thumb|250px|[[プロ野球]]を撮影する放送用ビデオカメラ]] '''ビデオカメラ'''(video camera)とは、[[映像信号|ビデオ(映像信号)]]で映像([[動画]])を[[撮影]]するためのカメラ。 (ビデオカメラ(カメラヘッド)と録画部(ビデオデッキ)が一体化したものについては[[カムコーダ]]も参照。) == 概要 == ;原理 レンズを通した映像を、古くは[[撮像管]]、現在では[[CCDイメージセンサ|CCD撮像板]]などの個体撮像素子に結像させ、それを[[電気]]信号である[[映像信号|ビデオ信号]]として出力する。信号は、画面を細かく区切っていきそれを端から時系列に並べたものとなる。画面の区切り方は、ビデオ信号の規格に従う。 最初に開発されたビデオカメラは撮像管と機械式シャッター(回転円盤によって機械的に画面の一部を撮影していくもの)を組み合わせたものであった。次世代のビデオカメラは、撮像管に画面の一部を切り出す機能を搭載し機械式シャッターを追放したものとなった。更にその次世代は、撮像管を廃して半導体による撮像板を採用している。 ;画質 画質面では、放送用、業務用カメラが高性能で、民生用カメラはそれに劣る。しかしこの差は、徐々に埋まってきている。監視用カメラでは、そもそもあまり画質は要求されない。 ==分類== ビデオカメラは、さまざまな要素から分類することができる。必須では無いが多くの製品には音声を収録する[[マイク]]や音声入力と音声信号を撮影したビデオ信号の音声領域に付加する機能が搭載されている。 ===用途=== [[ファイル:NHK News Kobe caravan at Aioi J09 214.jpg|thumb|[[池上通信機]]のテレビ放送用ビデオカメラ]] [[Image:Betacam SP Camcorder 01 KMJ.jpg|200px|thumb|Sony [[BETACAM]]-SP 放送用、業務用ビデオカメラ「Digital 1000」]] [[ファイル:Canon EOS 5D Mark III.jpg|200px|thumb|キヤノン EOS 5D Mark III<br />(EF 135mm F2レンズを装着)]] [[画像:John E Fry Steadicam Operator UK.jpg|thumb|200px|right|基本的な[[ステディカム]]の装備。]] [[File:Canon HF10 front.jpg|200px|thumb|[[キヤノン]] HD 民生用ビデオカメラ([[カムコーダ]])]] [[Image:Security camera closeup.jpeg|200px|thumb|監視カメラ]] ビデオカメラには用途に応じてさまざまなものが存在する。用途で大別すると以下のような分類ができる。 #放送用ビデオカメラ。({{lang-en-short|[[w:Professional video camera|Professional video camera]]、[[w:television camera|television camera]]}}) #業務用ビデオカメラ。 #民生用ビデオカメラ。 #固定型ビデオカメラ。 ====放送用ビデオカメラ==== {{see also|映画用カメラ|デジタル映画カメラ}} 放送用ビデオカメラは、絶対の信頼性と高画質・機動性を追求したビデオカメラの最高位に位置する存在であり、妥協を許さない製品である<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010375 特集 その時、舞台裏では…カメラ機材の変遷と撮影・表現方法の変化 NHKアーカイブス]</ref>。 [[スタビライザー]]や三脚など関連する物品がシステム化されており、基本的には一式を導入する。 [[ソニー]]などの電機メーカーの他、[[池上通信機]]などの専門メーカーもある。 ====業務用ビデオカメラ==== 業務用ビデオカメラは、ビデオパッケージ([[カラオケ]]用画像撮影・[[結婚式]]や説明用ビデオの撮影・等)など、コスト管理にシビアな映像を高画質で撮影することを主な目的としたカメラ。放送用に次ぐ高い画質とハードな使用に耐えうる堅牢性が求められ、使用するに当たってはある程度以上の知識と操作の習熟が必要である。 電機メーカーや専門メーカーが放送用の下位モデルとしてラインナップしていることがある。近年では小型の[[カムコーダ]]でも放送に耐えうる性能を有しており、制作会社にも導入が進んでいる<ref>[https://www.sony.jp/nxcam/sample/antarctica-live-streaming.html 事例紹介] - [[ソニー]]</ref>。 2009年以降は、[[キヤノン EOS 5D Mark II]]などの[[動画撮影]]機能が標準採用の[[デジタル一眼レフカメラ]](静止画撮影目的の一眼レフカメラ)の登場に伴い、業務用ビデオカメラの代わりにデジタル一眼レフカメラが使用されつつある。デジタル一眼レフカメラ用のスタビライザー、[[ヘッドフォン]]や[[マイク]]、[[モニタ|外部モニタ]]/[[ファインダー|液晶ファインダー]]など動画撮影用の機材も登場している。 業務用ビデオカメラ用として使用する記録媒体は、転送速度の速さと大容量により、[[コンパクトフラッシュ|CFカード]]が使用されている。 ====民生用ビデオカメラ==== [[民生用]]ビデオカメラは、映像撮影・映像製作を業としない一般市民が、プライベートな目的で動画を気軽に撮影することを主な目的としたカメラ。画質や堅牢性については、業務用ほどは高い要求がされない反面、素人でもそこそこの動画が撮影できるような、分かりやすい操作性などが求められる。業務的な利用がなされるものと比べて、たとえば照明明度などはよりシビアな状況で使われることがあるため、最低撮影照度などでは業務用を上回る性能を持つ部分がある。また本体が小型なものが多いために[[手ぶれ]]が発生しやすいことを見越し、各社とも『手ぶれ補正』などの技術を投入している。 近年では民生用であってもビデオパッケージには十分な映像が得られ、画質を優先しなければ放送可能なレベルになっているため、メーカーでもハイエンドモデルにXLR端子を追加するなどプロユースを想定した設計を行っている<ref>[https://www.sony.jp/handycam/special/interview/ AX700 Project Member’s Voice] - [[ソニー]]</ref>。 ====固定型ビデオカメラ==== 固定型ビデオカメラは主に[[監視カメラ]]などに用いられるもので、高い画質は求められないが、風雨に耐える堅牢性や長時間の安定運用性能が求められる。 ===構造=== ビデオカメラには、用途に応じてさまざまな構造のものがある。構造で大別すると以下のような分類ができる。 #撮影部分が独立したもの。 #撮影部分と録画部分が一体化して分割できないもの。 #組み立て型のもので、組み立てて一体化して使うもの。 撮影部分が独立したものは、「カメラヘッド」などとも呼ばれる。カメラヘッドからはビデオ信号を出力するライン(線)が出ており、その線をカメラ制御部(CCU)を経て必要な機材につなげて使用する。業務用ビデオカメラの一部(スタジオカメラ)や監視用ビデオカメラのほとんどがこのタイプである。[[ENG (放送)|ENG]]カメラの分野では、一体化したものが一般化する前はタイプが主流であり、カメラヘッドと録画部(ビデオデッキ)を、それぞれカメラマンとビデオエンジニアが2人がかりでかついで走り回っていた。 撮影部分と録画部分が一体化したものは、「一体型」「[[カムコーダ]]」などとも呼ばれ、単体で使用する。レンズや撮像管・CCDから構成される撮影部と、信号を録画するビデオテープレコーダ・ハードディスクレコーダ・DVDレコーダなどの録画部が一体となっている。業務用ビデオカメラの一部(ENGカメラ)と民生用カメラの大半がこのタイプである。業務用機においては、登場当初、単体のカメラヘッドよりは一体型の方が大きく重いためカメラマンの負担重量が増えるとして不評だったが、カメラマンが単独で行動できる利便性が買われて主流となった。民生用では、もともとカメラと録画部(ビデオデッキ)を一人で抱えることが多かったため、一体型は歓迎され、速やかに主流となった。 組み立て型は、「カメラヘッド」と「録画部」は別のコンポーネントとなっているが、それを組み合わせて一体型として使うことが前提とされている。業務用ビデオカメラの一部がこれに該当する。以前は業務用ENGカメラの大半がこのタイプであり、カメラヘッドと録画部を必要に応じて選択できることから、必要とするシステムを容易に組み立てられるというメリットがあった。また、カメラヘッド専業メーカーのカメラヘッドを採用する場合にはこのスタイルになるのが一般的だった。しかし録画部の形式が寡占化したことなどから組み立て式であることのメリットが薄れ、一体型にトレンドが移行した。 ===大きさ=== カメラの大きさなどによっても分類が可能である。 #スタジオカメラ。 #肩乗せカメラ。 #手持ちカメラ。 #据え置きカメラ。 スタジオカメラは、数十キロから、(レンズまで含めると)数百キロに達する程度の重量級カメラであり、三脚に固定するか自由にカメラを上下させる為のガススプリングを内蔵したカメラペデスタルに載せて使う。テレビ局のスタジオやスポーツ中継などに使われるタイプのものであり、もっぱら業務用である。肩乗せカメラも手持ちカメラもなかった頃([[1976年]]以前)は、外からの中継であっても、スタジオカメラが使われていた。運搬の際はカメラヘッドとレンズは分解した状態でそれぞれの専用ケースに詰めている。スタジオカメラヘッドの代わりにファインダー+肩乗せカメラ+スタジオカメラレンズ取り付け用のアダプターを用いてスタジオカメラ用レンズと組み合わせて使用する例もある。 肩乗せカメラは、重量十数キロ程度までの比較的大型のポータブルカメラで、肩に乗せて使用する。三脚や移動台に載せて使うこともある。ある程度の重量があるためカメラブレしにくく安定した映像を撮影することができるが、軽くはないので一般人が気軽に撮影するといった用途には向かない。もっぱら業務用・[[ハイエンド]]アマチュア用である。このタイプのビデオカメラが登場したのは、撮影部(カメラヘッド)のみのものが[[1976年]](業務用)。撮影部と録画部が一体化した[[カムコーダ]]は[[1980年]]であり、こちらは最初は民生機の試作機であった(業務用機で一体型のものが登場したのは[[1982年]])。 手持ちカメラは、重量数キロ程度までの比較的小型のポータブルカメラで、片手あるいは両手で持って使用する。ほとんどは撮影部と録画部が一体化した[[カムコーダ]]様式のものである。三脚や移動台に載せて使うことも、もちろん可能である。非常に小さなものもあるため気軽に使うことができるが、軽いことと手に持って使うというスタイルのせいでカメラブレがしやすく、見易い映像を撮影するにはかなりの鍛錬が必要である。以前はもっぱら民生用として作られており画質は明らかに見劣りのするものだったが、デジタルビデオカメラが登場したことによって業務用機なみの画質を持つものが出現し、業務用域にも食い込んできている。 据え置きカメラは、監視用カメラなどに使われるもので、小さな金具などで壁や天井などに固定して使う。リモートコントロールで角度を調整できる架台などと組み合わせて使われることもある。屋外で使用する場合は耐候性にすぐれたカメラハウジングに収めて使用する。また、非常に小さなものもある(最小では親指第一関節程度のサイズ)。 スタジオカメラ、肩乗せカメラ、手持ちカメラでは水しぶきがかかるような状況で使用する場合、機材保護のためにレンズ部分を除いて透明または黄色などの保護シートで全体を覆うことが一般的である(主に前者2種類はバラエティー番組や屋外におけるスポーツ中継に見られる)。 ===機構=== 機構によっても分類が可能である。 #3管式/3板式カメラ。 #単管式/単板式カメラ。 #その他/2板式カメラ・4板式カメラ。 3管式/3板式カメラは、[[ダイクロイックミラー]](特定の色のみを反射する特殊な鏡)によって、光の[[原色|三原色]]である赤・青・緑色ごとに入射光を[[RGB]]3分割し、それぞれの色に対応した撮像管・撮像板を用いるという機構のもの。撮像板としてはCCDやCMOSの半導体撮像素子が使われる。3CCD/3CMOSなどとも呼ばれる<!--か?(=^_^;=) 後者は聞いたことないが、3CCDという言葉を入れないわけにはいかないしなぁ-->。 単管式/単板式カメラは、撮像管や撮像板の前に[[CCDイメージセンサ#CCDイメージセンサによるカラー撮像|バイヤー配列]]等の色フィルタを設け、一本の撮像管ないしは一枚の撮像板でカラー映像を撮影する機構のもの。 重量・サイズ・コストでは単管式/単板式が有利であるが、画質面では3管式/3板式が有利である。業務用・放送用ビデオカメラは、よほど特殊なもの以外は3管式/3板式である。民生機では、以前は3管式/3板式を採用したものは一部の高級機種に限られていたが、[[1990年代]]から民生機においても3板式が数多く登場し始め、その後は[[ハイエンド]]民生機ではそれなりの勢力を持つに至っている。 なお、民生用として初の3CCD方式カメラ(ソニーCCD-VX1)が[[1992年]]9月に販売される以前に、輝度信号と色信号に分解した2CCD方式カメラ(ソニーEDC-50/EDW-75、松下NV-M10000)と、RGB信号をG/RB原色色分解した2CCD方式カメラ(ミノルタEX-1/日立VM-H1000)がリリースされ、現在も一部機種で採用されている。 また、放送用として4CCD方式カメラというのが一時期存在していた(池上HK-477、HK477P)。RGB信号のうちGチャンネルのCCDを2枚用意して、空間画素ずらしを行い、高画質、高解像度を狙った[[デュアルグリーン]]方式と呼ばれるカメラ設計になっていたが、コストの割に画質効果が得られず、また、Gchシェードノイズ増加のため、間もなく消え去った。 == 歴史 == ;世界のビデオカメラの歴史 {{節スタブ|date=2022年8月}} ==脚注== {{脚注ヘルプ}} <references /> ==関連項目== {{Commonscat|Video cameras}} *[[映像機器]] *[[カムコーダ]] *[[デジタルカメラ]] *[[ビデオグラファー]]({{lang-en-short|[[w:Videographer|Videographer]]}}) *[[監視カメラ]] *[[Webカメラ]] *[[撮影技師]](カメラマン) *[[3次元映像]] *[[Super HAD CCD]] *[[ソニーのビデオカメラ製品一覧]] *[[ウェアラブルカメラ]]([[アクションカメラ]]、[[w:action camera|action camera]]、[[w:action-cam|action-cam]]) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひておかめら}} [[Category:ビデオカメラ|*]] [[Category:ビデオ]] [[Category:光学機器]] [[Category:入力機器]]
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2023-05-09T19:25:36Z
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パレスチナ
パレスチナ(アラビア語: فلسطين、ヘブライ語: פלשתינה)は、西アジアの地理的地域であり、通常はイスラエル、ヨルダン西部の一部、西岸地区、ガザ地区を含むと考えられている。 パレスチナという名前は古代ギリシャの作家が使っていたもので、後にローマ帝国のシリア・パラエスティナ州、ビザンチン帝国のパラエスティナ・プリマ州、イスラム帝国のジュンド・フィラスティン州にも使われた。この地域は、聖書に登場する「イスラエルの地」(ヘブライ語: ארץ־ישראל)、「聖地」、「約束の地」として知られる地域の大部分を占めており、カナン、シリア、アッシュ・シャム、レバントなどの広い地域名の南側に位置している。 エジプト、シリア、アラビアの分かれ目に位置し、ユダヤ教とキリスト教の発祥の地でもあるこの地域は、宗教、文化、商業、政治の交差点として波乱に満ちた歴史を持っている。古代エジプト人、カナン人、イスラエル人、ユダヤ人、アッシリア人、バビロニア人、アケメネス朝、古代ギリシャ人、ユダヤ人のハスモン朝王国、ローマ人、パルティア人、ビザンチン人、サーサーン朝、アラブのラシドゥン、ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝イスラム帝国、十字軍、アイユーブ朝、マムルーク朝、モンゴル帝国、オスマン帝国、イギリス帝国、そして現代のイスラエル人、ヨルダン人、エジプト人、パレスチナ人など、多くの民族に支配されてきた。 この地域の境界は、歴史の中で変化してきた。今日、政治的に定義されたこの地域は、イスラエルとパレスチナの州(=パレスチナ自治区)で構成されている。 歴史的には、現代の国家でおおよそイスラエルとパレスチナ国(パレスチナ自治区)、東部の砂漠地域を除くヨルダン、レバノンとシリアの一部(おおむねシリア地域南部)を指す。特に、旧国際連盟イギリス委任統治領パレスチナにあたる、現在のイスラエル、パレスチナ自治区、ヨルダンを指すこともある。 第二次世界大戦後は、より狭く、ヨルダン川より西の、現在のイスラエルとパレスチナ自治区(古代のカナン地域を含む)を指すことが多い。パレスチナ人とはこれらの地域の人々だが、後述するようにパレスチナ人と呼ばれるには地理的な条件以外も必要である。 最も狭義では、国際司法裁判所 (ICJ) が「占領されたパレスチナ領域」と呼称し、パレスチナ国が自国の領土であると主張している地域を指す。これは地理的には一つながりではなく、イスラエルを挟んでヨルダン川西岸地区とガザ地区に分かれている。 アメリカ合衆国大統領トランプ政権が提示した和平案では、パレスチナの飛び地(英語版)はスイスチーズと揶揄され拒否された。 イスラエルは、境界にヨルダン川西岸地区の分離壁を建てている。 古称は「フル」、「カナン」という。 その後ペリシテ人という民族が沿岸部に住むようになり、パレスチナという言葉はこのペリシテ(Philistines)という言葉がなまったものと考えられている。 紀元前15世紀、古代エジプトのファラオ・トトメス3世が、メギドの戦いで勝利、パレスチナはエジプトの支配下に置かれた。 紀元前13世紀頃には、ペリシテ人によるペリシテ文明が栄えていたが、ペリシテ人は民族集団としてはその後滅亡し、その後紀元前10世紀頃にイスラエル民族によるイスラエル王国がエルサレムを中心都市として繁栄した。 紀元前930年頃に、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世に滅ぼされた。もう一つの南のユダ王国は、紀元前609年のメギドの戦いでヨシアが、エジプトのファラオ・ネコ2世に敗死させられ、エジプトの支配下に置かれることになる。さらに紀元前597年には東より攻めてきたバビロニアの支配下に置かれ、紀元前587年にはそのバビロニアに滅ぼされた。 これ以後も三大陸の結節点に位置するその軍事上、地政学上の重要性から相次いで周辺大国の支配を受けたが「パレスチナ」という呼称自体は根強く残っており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』では、『創世記』の内容を引用する形で各地の地名の由来を説明する際、ミツライム(注:ヘブライ語でのエジプトを指す)の系統で唯一今日(注:1世紀後半)に残った名前として「パレスチナ」の名を挙げている。 ローマ帝国内では当初この辺の行政区分はシリア属州(パレスチナ以外に北東部の中東内陸の地域も含む)とユダヤ属州と呼ばれていたが、135年にバル・コクバの乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、それまでのユダヤ属州名を廃し、属州シリア・パレスチナ (en:Syria Palaestina) と改名した。 7世紀にはイスラム帝国が侵入し、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の戦争の舞台となった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が派遣され、エルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝のサラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝が治めた。16世紀になると、エジプトのマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの支配者となる。オスマン帝国ではパレスチナはシリアと呼ばれた。 19世紀以降、ヨーロッパで次々に国民国家が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ユダヤ人もオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。第一次世界大戦でオスマン帝国は崩壊し、シオニズムに押された大英帝国と列強は国際連盟で「ユダヤ人のナショナル・ホームをパレスチナに確立する」としてイギリス委任統治領パレスチナの創設を決議した。イギリス委任統治領メソポタミアのようにパレスチナという古い呼称を復活させたのはマーク・サイクス(英語版)の方針であった。パレスチナの初代高等弁務官はユダヤ人のハーバート・サミュエルが選ばれた。第二次世界大戦後、ホロコーストで同情を集めたシオニズムに押されてアメリカ合衆国などの国は国際連合でパレスチナ分割決議を採択した。それに伴いイスラエルが建国され、反発したアラブ諸国とイスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発、イスラエルが勝利しパレスチナの8割を占領するに至る。この時期に多くのパレスチナ人が難民化してパレスチナ問題が発生。 1967年に起こった第三次中東戦争では、イスラエルがさらにガザ地区、ヨルダン川西岸地区を占領。 1987年には第一次インティファーダが勃発。 イスラエル政府とパレスチナ解放機構 (PLO) は長い闘争の末、1993年になってオスロ合意を結び、1994年からパレスチナの一部でPLOのヤーセル・アラファート大統領が主導する自治が開始された。しかし、オスロ合意で定められたパレスチナ問題の包括的解決に向けた話し合いは頓挫し、さらにイスラエルとの和平に合意しない非PLO系の組織によるテロや軍事行動が続いた。2000年以降、再びイスラエルとパレスチナ自治政府との間でゲリラ戦が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にある。 一方、パレスチナ自治政府側は、停戦に応じても、イスラエルが一方的に攻撃を続けていると指摘。実情は、「停戦とはパレスチナ側だけに課せられたもの」となっていると主張している。たとえば、2001年、イスラエルのアリエル・シャロン首相はパレスチナ自治政府との交渉停止を通告し、アラファート大統領を軟禁。再開に「7日間の平穏」とさらに「6週間の冷却期間」を要求した。しかし、平穏が達成されたかどうかは、イスラエル側が判断するとした。パレスチナ自治政府側の停戦は37日間続き、ハマースが反撃したため、なし崩し的に停戦は消えてしまった。 アラファートの死後、マフムード・アッバースが後継者となった。2005年2月8日、2000年10月以来4年4ヶ月ぶりにシャロン首相は首脳会談に応じた。両者の暴力停止(停戦)が合意されたが、交渉再開は停戦継続を条件としている。現在でも双方の攻撃が完全に収まったわけではなく、困難が予想される。 パレスチナ自治区は、パレスチナ地域のうちヨルダンに接するヨルダン川西岸地区(ウェストバンク)とエジプトに接するガザ地区、及び東エルサレム(パレスチナ領域)からなるパレスチナ人の自治地区である。その行政は、パレスチナ解放機構 (PLO) が母体となって設立されたパレスチナ自治政府が行う。ただし、最終的な地位は将来イスラエルとパレスチナとの間で結ばれる包括的和平によって定められることになっており、目下の正式な地位は暫定自治区・暫定自治政府となっている。 パレスチナ自治区の人口は約330万人で、西岸地区が3分の2、ガザ地区が3分の1を占めるとされる。これは、900万人強いるとされるパレスチナ人の全人口の3分の1にあたる。 自治政府は1995年の暫定自治拡大合意に基づき、1996年に行われた立法評議会選挙によって正式に発足した。 パレスチナ自治区は、イスラエル建国直前の1947年に行われた国際連合総会決議181号(パレスチナ分割決議)が定めた、パレスチナをユダヤ人、アラブ人、国連統括地の3つに分割する決定を基礎としている。この決議は、これに反対する周辺のヨルダンとエジプトが第一次中東戦争でヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領したためにパレスチナのアラブ人には寸土の領域も残されず、ユダヤ人によるイスラエル国家しか建設されなかった。 その後、西岸地区とガザ地区はイスラエルによって占領されるが、1964年にエジプトのナーセル大統領の後押しによって西岸地区とガザ地区のアラブ系住民とパレスチナ難民の統合抵抗組織としてパレスチナ解放機構 (PLO) が設立され、事実上のパレスチナ亡命政府となった。 当初、パレスチナ解放機構はイスラエル国家を打倒し、パレスチナの地にムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒の全てが共存する非宗派的な民主国家を樹立することを目標としていた。しかし、1980年代後半に繰り広げられたイスラエルに対する大規模な抵抗運動(インティファーダ)の中で現実主義路線に転じ、ヨルダンに西岸地区の放棄を宣言させて、西岸地区とガザ地区を中心にパレスチナ人の独立国家を樹立してイスラエルと平和共存する道を模索するようになった。 こうしてイスラエルと解放機構の直接交渉の末、1993年のオスロ合意、1994年のカイロ協定(ガザ・エリコ暫定自治合意)に基づいてパレスチナ暫定自治区が設立された。 しかし、オスロ合意へのパレスチナ解放機構 (PLO) 側の不満は強く、また、ヨルダン川西岸地区では、現在でもパレスチナ自治政府の支配権が及んでいる地域は半ばに満たず、残りはイスラエルの占領下にある(◆パレスチナの歴史的変遷図 - 白抜きがイスラエル領土および占領地)。 暫定自治政府は、憲法にあたる基本法に基づいて運営される。最高議決機関は民選によって選出されたパレスチナ立法評議会 (PLC) で、立法府に相当する。立法評議会の当初の定数は88であった。2005年6月の法改正で定数は132に増やされた。 行政事項を執行するのはパレスチナ行政機関で、自治政府の長である自治政府大統領(ライース、マスコミでは議長、外務省はかつては長官といっていたが現在はこの訳をあてている)がその長を務める。また、行政機関の各庁長官(外務省はこの訳をあてているが、マスコミでは省、大臣、相ということが多い)が閣僚となり、内閣を構成する。2003年からは内閣の長として首相が置かれるようになったが、大統領であるアラファートPLO議長が安全保障関係の権限を内閣に委譲することを拒否し、翌年のアラファート死去まで大統領のワンマン支配が続いた。 治安維持を担当するのはパレスチナ警察隊で、パレスチナ解放機構の軍事部門であるパレスチナ解放軍を基礎として設立された。しかし、アラファート議長が独占する自治政府の治安維持部門について、イスラエル政府やアメリカは対イスラエルテロの抑制に十分働いていないと認識し、不信の目を向けている。イスラエルは、しばしばテロへの報復であるとしてパレスチナ警察を攻撃した。イスラエル側はテロリストを支援、黙認していると見なしているため、パレスチナ側のテロ事件があるたびに、パレスチナ警察を報復の対象とした。アラファートPLO議長は、2001年12月より、死の直前までイスラエル軍に軟禁された。 アラファート死後、2005年1月9日に後任を選ぶ自治政府大統領選でPLOのマフムード・アッバースが当選するも、翌2006年の総選挙では初めて選挙に参加したハマースが過半数を獲得する勝利を収めた。 ハマースをテロ組織と認識するイスラエルは直ちに「イスラエル破壊を訴える武装テロ組織が参画する自治政府とは交渉しない」との声明を発表。さらに、軍高官の発言としてハマースの議員のヨルダン川西側地区とガザ地区の自由な移動を認めないと報じられ、政治活動の妨害を宣言した。実際に、パレスチナ人の通行はその後完全封鎖された。そのため、選挙後2月18日より開会された立法評議会は、ガザとラマッラーでの分裂開会を余儀なくされ、ビデオカメラで両会議場を中継して行われた。 米国・欧州連合も同様の認識から、パレスチナ自治政府への経済支援打ち切りを示唆した。米国は直接の援助ではなく、非政府組織や国際開発局 (USAID) を通しての援助だが、米国のブッシュ大統領はハマースがイスラエルの「生存権」を認めなければ支援をすべきではないと主張した。さらに、米国防総省は2005年にガザ復興費として援助した5000万ドルの返還を要求した。イスラエルは、自らが代理徴収している関税などを差し押さえ、ハマースへの兵糧攻めに出た。 2006年3月29日、正式にハマース政権が発足したが、職員給与すら払えない極度の財政難に苦しんだ。4月10日、欧州連合もパレスチナ自治政府への援助を停止。6月4日、ようやく給与の一部を支払った。しかし、その後もイスラエルによる差し押さえのため、給与を支払えない状態が続いている。アラブ諸国などからパレスチナ自治政府への献金運動も行われたが、米欧とイスラエル政府が送金はテロ支援であると金融機関に圧力を掛けているため、パレスチナ自治政府には届いていない。 米国、欧州連合は、制裁解除の条件として、(1)イスラエルの承認(2)武装解除(3)過去の自治政府とイスラエルの合意事項の尊重などを要求している。また、イスラエルのエフード・オルメルト首相は5月23日にブッシュ大統領と会談し、ハマース政権を相手にせず、アッバス自治政府議長ら穏健派と和平交渉を進めることで合意。また、オルメルトは、パレスチナ自治政府との合意が無くても、3 - 4年でユダヤ人入植地を自国領に取り込む形で国境を決めたいと表明した。 6月には、イスラエル軍の兵士2名がハマース系と見られる組織に拉致されたとされる事件を理由に、イスラエルはガザ侵攻を強めた。さらに、評議員を含むハマース系の政治家・活動家約80人を拉致し、評議会を機能停止に追い込んだ。 これに先立つ6月27日、アッバース大統領とハマースのハニーヤ首相が1967年の国連停戦決議に基づく国境線の合意(事実上のイスラエル承認)で合意した。しかしイスラエルは、完全に無視した形である。 米国、欧州連合、日本などは、より穏健なファタハ(パレスチナ自治政府主流派)のアッバース議長を交渉相手と見ており、ハニーヤ首相などハマースは事実上相手にしていない。米国はパレスチナへの経済制裁を続ける一方で、ファタハに対しては独自の支援を行っている。 2007年3月17日、ハマースとファタハの連立交渉が合意に達し、挙国一致内閣が発足した。閣僚25人の内訳は、ハマースから首相を含む12人、ファタハから6人、その他の党派からは7人。首相はハニーヤが続投。ハニーヤ首相はイスラエル承認を含めた過去の合意を「尊重する」と表明した。ただし、イスラエル承認を公にはしなかった。一方、イスラエルのオルメルト首相は3月18日、「テロを正当化するような内閣とは接触しない」と演説。ハニーヤ連立内閣の不承認を表明すると共に、他国にも引き続きハニーヤ政権を相手にしないよう主張した。イスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区の間の閣僚の通行を認めていないため、閣議はテレビ電話を介して行われた。 ハマースとファタハの内部抗争は、連立政権の発足後も続いた。また、イスラエルによって立法評議会(国会)員が多数逮捕されており、立法評議会は事実上機能停止に追い込まれている。両者の内部抗争では、イスラエル・アメリカは一貫してファタハを援助しており、両者が内戦を煽っているとする批判もある。イギリスの『ガーディアン』紙によると、中東和平の実務者会議の中で、米国の特使は二度も「この武装衝突はいいね」と放言したという。 2007年6月11日からの抗争は、本格的な内戦に突入。ハマースはガザ地区を武力で占拠し、ファタハはこれを「クーデター」と批判。背景には、パレスチナ自治政府治安維持相で、ハマースと敵対し、また親米派と目されていたムハンマド・ダハラーンとの抗争があり、またダハラン側が先に手を出していたとする主張もある。結果、ファタハは内閣からの閣僚引き上げを宣言した。6月14日、ファタハのアッバース議長は非常事態宣言を出し、内閣の解散を宣言。6月15日、親米派のサラーム・ファイヤードをハニーヤの後任の首相に指名したが、ハニーヤは解散を無効として無視した。ハマースは立法評議会の多数を握っているため、基本法(憲法)上後任の首相もハマースから任命しなければならず、アッバースの行為は違憲とする批判がある。ファイヤードは6月17日に「非常事態内閣」として30日間の限定で組閣したが、ハニーヤは組閣は「非合法」と反発。逆にアッバース議長は、ハマースの軍事部門を非合法化する議長令を発表し、「メンバーは処罰する」方針を示した。こうしてパレスチナ自治政府は、分裂した。イスラエルや米国は、ハマースを排除したファイヤード政権を正式な交渉相手と認めた。また、イスラエルは、差し押さえを続けていた代理徴収した税のファイヤード政権への返還を表明した。6月20日、アッバース議長は「人殺しのテロリストたちとは対話はしない」と、ハマースを相手にしないことを表明した。また、1か月前、ハマースによる暗殺未遂事件があったと主張した。 現在、ガザ地区をハマースが実効支配し、ヨルダン川西岸のみファイヤード政権の支配下にある。もちろん、イスラエルの入植者に占拠されている地域は、いずれの支配も及んでいない。7月2日、イスラエルが差し押さえていた税収の一部引き渡しを受け、ファイヤード政権は17か月ぶりにハマース党員を除く公務員給与の満額支払いを発表。ガザ地区では、ファイヤード政権に従うことを条件に給与を支払うと発表した。 従来、欧米諸国は、経済制裁解除の条件として、早期の総選挙を要求して来た。経済制裁による財政難は引き続き続いており、総選挙になれば自国に都合の悪い存在であるハマースの勝利はあり得ない(裏返せば、ハマースを敗北させなければ制裁を止めないと、パレスチナの有権者を脅したと言える)との読みといわれている。結果として、総選挙を経ることなくハマースの排除が実現した形となった。しかし、経済制裁を武器に、選挙により成立した政権を否定する行為に対し、民主主義の否定とする強い批判がある。 パレスチナ囚人保護団体のナファ協会によると、イスラエルは拉致したハマースなどの評議員に対し、釈放の条件として議員辞職するよう脅した。評議員らのほとんどは、「(辞職するくらいなら)喜んでイスラエルの拘置所に留まることを選ぶ」と声明を出した。 また、日本は2007年6月12日に、いったんはODA再開の意向をパレスチナ自治政府側に伝えたが、挙国一致内閣の崩壊で、再び棚上げになった。 2007年5月20日より、レバノンのナハル・アル=バーリドパレスチナ難民キャンプでイスラム教スンナ派武装組織「ファタハ・イスラム」とレバノン政府軍の武力衝突が起きた。ファタハ・イスラムはファタハとは無関係で、パレスチナ人による組織でもないが、パレスチナ人の支援を名目に、合法的にレバノン入国を果たしたといわれる。レバノン政府側は、ファタハ・イスラムが軍組織を攻撃しようとしたことを攻撃の理由に挙げている。ファタハ・イスラム側は「いわれのない攻撃」と反論している。レバノンの国会は、全会一致で難民キャンプへの攻撃を承認した。 アルジャジーラによると、5月23日現在で武装メンバー20人、政府軍兵士32人、民間人27人が殺されたとしている。また、『毎日新聞』によると、5月27日現在で、キャンプにいた難民約4万のうち3分の2は避難したが、銃撃戦の巻き添えや、レバノン人によるパレスチナ人狩りの噂などが立ち、避難に踏み切れない者もいるという。 1988年のパレスチナの独立宣言以降、国家としてのパレスチナ国の承認国が増えている。2010年12月、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが相次いで国家としてのパレスチナを承認することを表明した。また国際機関へ国家として加盟する方針を打ち出しており、2011年9月23日には史上初めて国際連合への加盟申請を行ったほか、同年10月31日には国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) の加盟国として承認された。 2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が採択され、国連では「国家」の扱いを受けることとなった。 アメリカ合衆国政府は1947年11月のパレスチナ分割決議、1948年5月のイスラエル建国と国連への加盟を支援し、1948年の第一次中東戦争、1956年の第二次中東戦争、1967年の第三次中東戦争の結果、イスラエルがヨルダン川西岸地区、エルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領し、占領地として統治することを正当化してきた。その後の歴代のアメリカ合衆国政府は、1956年にシナイ半島のエジプトへの返還とイスラエル軍の撤退、1978年9月のキャンプ・デービッド合意と1979年3月のエジプト・イスラエル平和条約、1982年にシナイ半島のエジプトへの返還、1992年に中東和平マドリッド会議を開催し、1994年10月のイスラエル・ヨルダン平和条約を仲介したが、1947年のパレスチナ分割、1948年のイスラエル建国以来、歴代のアメリカ合衆国議会・政府は、イスラエルの存続を優先する立場に基づいてパレスチナ問題を解決する政策を遂行している。 選挙は中選挙区比例代表並立制。選挙区、比例区共に66議席ずつ。重複立候補制度はない。日本の参議院に近いが、選挙区は完全連記制。また、選挙区は少数派のキリスト教徒枠として6議席があらかじめ割り当てられている。18歳以上の普通選挙。 1996年1月20日に初めて行われ、ファタハが第一党となった。しかし、多くの党派は選挙をボイコットした。 2006年1月15日、二度目の総選挙が行われた。アメリカはハマース躍進を恐れ、ファタハに肩入れする選挙干渉を行ったとも言われた。また、事前にハマースの立候補予定者など300人が、イスラエルに逮捕された。 ファタハは45議席と惨敗し、ハマースは74議席と過半数を獲得する地滑り的勝利を収めた。ファタハの腐敗や、イスラエルによる白色テロを阻止できないことへの不満があり、一方でハマースが社会福祉に力を入れたことなどが勝因と言われる。とはいえ、比例区では28議席ずつと互角で、ファタハは選挙区での候補者乱立による共倒れが多かったとも指摘されている。 ガザ地区 ヨルダン川西岸地区 ガザ地区 ヨルダン川西岸地区
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"歴史的には、現代の国家でおおよそイスラエルとパレスチナ国(パレスチナ自治区)、東部の砂漠地域を除くヨルダン、レバノンとシリアの一部(おおむねシリア地域南部)を指す。特に、旧国際連盟イギリス委任統治領パレスチナにあたる、現在のイスラエル、パレスチナ自治区、ヨルダンを指すこともある。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後は、より狭く、ヨルダン川より西の、現在のイスラエルとパレスチナ自治区(古代のカナン地域を含む)を指すことが多い。パレスチナ人とはこれらの地域の人々だが、後述するようにパレスチナ人と呼ばれるには地理的な条件以外も必要である。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "最も狭義では、国際司法裁判所 (ICJ) が「占領されたパレスチナ領域」と呼称し、パレスチナ国が自国の領土であると主張している地域を指す。これは地理的には一つながりではなく、イスラエルを挟んでヨルダン川西岸地区とガザ地区に分かれている。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国大統領トランプ政権が提示した和平案では、パレスチナの飛び地(英語版)はスイスチーズと揶揄され拒否された。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "イスラエルは、境界にヨルダン川西岸地区の分離壁を建てている。", "title": "範囲" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古称は「フル」、「カナン」という。 その後ペリシテ人という民族が沿岸部に住むようになり、パレスチナという言葉はこのペリシテ(Philistines)という言葉がなまったものと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紀元前15世紀、古代エジプトのファラオ・トトメス3世が、メギドの戦いで勝利、パレスチナはエジプトの支配下に置かれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "紀元前13世紀頃には、ペリシテ人によるペリシテ文明が栄えていたが、ペリシテ人は民族集団としてはその後滅亡し、その後紀元前10世紀頃にイスラエル民族によるイスラエル王国がエルサレムを中心都市として繁栄した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "紀元前930年頃に、イスラエルは北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世に滅ぼされた。もう一つの南のユダ王国は、紀元前609年のメギドの戦いでヨシアが、エジプトのファラオ・ネコ2世に敗死させられ、エジプトの支配下に置かれることになる。さらに紀元前597年には東より攻めてきたバビロニアの支配下に置かれ、紀元前587年にはそのバビロニアに滅ぼされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "これ以後も三大陸の結節点に位置するその軍事上、地政学上の重要性から相次いで周辺大国の支配を受けたが「パレスチナ」という呼称自体は根強く残っており、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』では、『創世記』の内容を引用する形で各地の地名の由来を説明する際、ミツライム(注:ヘブライ語でのエジプトを指す)の系統で唯一今日(注:1世紀後半)に残った名前として「パレスチナ」の名を挙げている。 ローマ帝国内では当初この辺の行政区分はシリア属州(パレスチナ以外に北東部の中東内陸の地域も含む)とユダヤ属州と呼ばれていたが、135年にバル・コクバの乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、それまでのユダヤ属州名を廃し、属州シリア・パレスチナ (en:Syria Palaestina) と改名した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "7世紀にはイスラム帝国が侵入し、シリアを支配する勢力とエジプトを支配する勢力の戦争の舞台となった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が派遣され、エルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝のサラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝が治めた。16世紀になると、エジプトのマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの支配者となる。オスマン帝国ではパレスチナはシリアと呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "19世紀以降、ヨーロッパで次々に国民国家が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ユダヤ人もオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。第一次世界大戦でオスマン帝国は崩壊し、シオニズムに押された大英帝国と列強は国際連盟で「ユダヤ人のナショナル・ホームをパレスチナに確立する」としてイギリス委任統治領パレスチナの創設を決議した。イギリス委任統治領メソポタミアのようにパレスチナという古い呼称を復活させたのはマーク・サイクス(英語版)の方針であった。パレスチナの初代高等弁務官はユダヤ人のハーバート・サミュエルが選ばれた。第二次世界大戦後、ホロコーストで同情を集めたシオニズムに押されてアメリカ合衆国などの国は国際連合でパレスチナ分割決議を採択した。それに伴いイスラエルが建国され、反発したアラブ諸国とイスラエルとの間で第一次中東戦争が勃発、イスラエルが勝利しパレスチナの8割を占領するに至る。この時期に多くのパレスチナ人が難民化してパレスチナ問題が発生。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1967年に起こった第三次中東戦争では、イスラエルがさらにガザ地区、ヨルダン川西岸地区を占領。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1987年には第一次インティファーダが勃発。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "イスラエル政府とパレスチナ解放機構 (PLO) は長い闘争の末、1993年になってオスロ合意を結び、1994年からパレスチナの一部でPLOのヤーセル・アラファート大統領が主導する自治が開始された。しかし、オスロ合意で定められたパレスチナ問題の包括的解決に向けた話し合いは頓挫し、さらにイスラエルとの和平に合意しない非PLO系の組織によるテロや軍事行動が続いた。2000年以降、再びイスラエルとパレスチナ自治政府との間でゲリラ戦が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "一方、パレスチナ自治政府側は、停戦に応じても、イスラエルが一方的に攻撃を続けていると指摘。実情は、「停戦とはパレスチナ側だけに課せられたもの」となっていると主張している。たとえば、2001年、イスラエルのアリエル・シャロン首相はパレスチナ自治政府との交渉停止を通告し、アラファート大統領を軟禁。再開に「7日間の平穏」とさらに「6週間の冷却期間」を要求した。しかし、平穏が達成されたかどうかは、イスラエル側が判断するとした。パレスチナ自治政府側の停戦は37日間続き、ハマースが反撃したため、なし崩し的に停戦は消えてしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アラファートの死後、マフムード・アッバースが後継者となった。2005年2月8日、2000年10月以来4年4ヶ月ぶりにシャロン首相は首脳会談に応じた。両者の暴力停止(停戦)が合意されたが、交渉再開は停戦継続を条件としている。現在でも双方の攻撃が完全に収まったわけではなく、困難が予想される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "パレスチナ自治区は、パレスチナ地域のうちヨルダンに接するヨルダン川西岸地区(ウェストバンク)とエジプトに接するガザ地区、及び東エルサレム(パレスチナ領域)からなるパレスチナ人の自治地区である。その行政は、パレスチナ解放機構 (PLO) が母体となって設立されたパレスチナ自治政府が行う。ただし、最終的な地位は将来イスラエルとパレスチナとの間で結ばれる包括的和平によって定められることになっており、目下の正式な地位は暫定自治区・暫定自治政府となっている。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "パレスチナ自治区の人口は約330万人で、西岸地区が3分の2、ガザ地区が3分の1を占めるとされる。これは、900万人強いるとされるパレスチナ人の全人口の3分の1にあたる。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "自治政府は1995年の暫定自治拡大合意に基づき、1996年に行われた立法評議会選挙によって正式に発足した。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "パレスチナ自治区は、イスラエル建国直前の1947年に行われた国際連合総会決議181号(パレスチナ分割決議)が定めた、パレスチナをユダヤ人、アラブ人、国連統括地の3つに分割する決定を基礎としている。この決議は、これに反対する周辺のヨルダンとエジプトが第一次中東戦争でヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領したためにパレスチナのアラブ人には寸土の領域も残されず、ユダヤ人によるイスラエル国家しか建設されなかった。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "その後、西岸地区とガザ地区はイスラエルによって占領されるが、1964年にエジプトのナーセル大統領の後押しによって西岸地区とガザ地区のアラブ系住民とパレスチナ難民の統合抵抗組織としてパレスチナ解放機構 (PLO) が設立され、事実上のパレスチナ亡命政府となった。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "当初、パレスチナ解放機構はイスラエル国家を打倒し、パレスチナの地にムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒の全てが共存する非宗派的な民主国家を樹立することを目標としていた。しかし、1980年代後半に繰り広げられたイスラエルに対する大規模な抵抗運動(インティファーダ)の中で現実主義路線に転じ、ヨルダンに西岸地区の放棄を宣言させて、西岸地区とガザ地区を中心にパレスチナ人の独立国家を樹立してイスラエルと平和共存する道を模索するようになった。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "こうしてイスラエルと解放機構の直接交渉の末、1993年のオスロ合意、1994年のカイロ協定(ガザ・エリコ暫定自治合意)に基づいてパレスチナ暫定自治区が設立された。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "しかし、オスロ合意へのパレスチナ解放機構 (PLO) 側の不満は強く、また、ヨルダン川西岸地区では、現在でもパレスチナ自治政府の支配権が及んでいる地域は半ばに満たず、残りはイスラエルの占領下にある(◆パレスチナの歴史的変遷図 - 白抜きがイスラエル領土および占領地)。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "暫定自治政府は、憲法にあたる基本法に基づいて運営される。最高議決機関は民選によって選出されたパレスチナ立法評議会 (PLC) で、立法府に相当する。立法評議会の当初の定数は88であった。2005年6月の法改正で定数は132に増やされた。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "行政事項を執行するのはパレスチナ行政機関で、自治政府の長である自治政府大統領(ライース、マスコミでは議長、外務省はかつては長官といっていたが現在はこの訳をあてている)がその長を務める。また、行政機関の各庁長官(外務省はこの訳をあてているが、マスコミでは省、大臣、相ということが多い)が閣僚となり、内閣を構成する。2003年からは内閣の長として首相が置かれるようになったが、大統領であるアラファートPLO議長が安全保障関係の権限を内閣に委譲することを拒否し、翌年のアラファート死去まで大統領のワンマン支配が続いた。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "治安維持を担当するのはパレスチナ警察隊で、パレスチナ解放機構の軍事部門であるパレスチナ解放軍を基礎として設立された。しかし、アラファート議長が独占する自治政府の治安維持部門について、イスラエル政府やアメリカは対イスラエルテロの抑制に十分働いていないと認識し、不信の目を向けている。イスラエルは、しばしばテロへの報復であるとしてパレスチナ警察を攻撃した。イスラエル側はテロリストを支援、黙認していると見なしているため、パレスチナ側のテロ事件があるたびに、パレスチナ警察を報復の対象とした。アラファートPLO議長は、2001年12月より、死の直前までイスラエル軍に軟禁された。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アラファート死後、2005年1月9日に後任を選ぶ自治政府大統領選でPLOのマフムード・アッバースが当選するも、翌2006年の総選挙では初めて選挙に参加したハマースが過半数を獲得する勝利を収めた。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ハマースをテロ組織と認識するイスラエルは直ちに「イスラエル破壊を訴える武装テロ組織が参画する自治政府とは交渉しない」との声明を発表。さらに、軍高官の発言としてハマースの議員のヨルダン川西側地区とガザ地区の自由な移動を認めないと報じられ、政治活動の妨害を宣言した。実際に、パレスチナ人の通行はその後完全封鎖された。そのため、選挙後2月18日より開会された立法評議会は、ガザとラマッラーでの分裂開会を余儀なくされ、ビデオカメラで両会議場を中継して行われた。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "米国・欧州連合も同様の認識から、パレスチナ自治政府への経済支援打ち切りを示唆した。米国は直接の援助ではなく、非政府組織や国際開発局 (USAID) を通しての援助だが、米国のブッシュ大統領はハマースがイスラエルの「生存権」を認めなければ支援をすべきではないと主張した。さらに、米国防総省は2005年にガザ復興費として援助した5000万ドルの返還を要求した。イスラエルは、自らが代理徴収している関税などを差し押さえ、ハマースへの兵糧攻めに出た。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2006年3月29日、正式にハマース政権が発足したが、職員給与すら払えない極度の財政難に苦しんだ。4月10日、欧州連合もパレスチナ自治政府への援助を停止。6月4日、ようやく給与の一部を支払った。しかし、その後もイスラエルによる差し押さえのため、給与を支払えない状態が続いている。アラブ諸国などからパレスチナ自治政府への献金運動も行われたが、米欧とイスラエル政府が送金はテロ支援であると金融機関に圧力を掛けているため、パレスチナ自治政府には届いていない。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "米国、欧州連合は、制裁解除の条件として、(1)イスラエルの承認(2)武装解除(3)過去の自治政府とイスラエルの合意事項の尊重などを要求している。また、イスラエルのエフード・オルメルト首相は5月23日にブッシュ大統領と会談し、ハマース政権を相手にせず、アッバス自治政府議長ら穏健派と和平交渉を進めることで合意。また、オルメルトは、パレスチナ自治政府との合意が無くても、3 - 4年でユダヤ人入植地を自国領に取り込む形で国境を決めたいと表明した。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "6月には、イスラエル軍の兵士2名がハマース系と見られる組織に拉致されたとされる事件を理由に、イスラエルはガザ侵攻を強めた。さらに、評議員を含むハマース系の政治家・活動家約80人を拉致し、評議会を機能停止に追い込んだ。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これに先立つ6月27日、アッバース大統領とハマースのハニーヤ首相が1967年の国連停戦決議に基づく国境線の合意(事実上のイスラエル承認)で合意した。しかしイスラエルは、完全に無視した形である。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "米国、欧州連合、日本などは、より穏健なファタハ(パレスチナ自治政府主流派)のアッバース議長を交渉相手と見ており、ハニーヤ首相などハマースは事実上相手にしていない。米国はパレスチナへの経済制裁を続ける一方で、ファタハに対しては独自の支援を行っている。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2007年3月17日、ハマースとファタハの連立交渉が合意に達し、挙国一致内閣が発足した。閣僚25人の内訳は、ハマースから首相を含む12人、ファタハから6人、その他の党派からは7人。首相はハニーヤが続投。ハニーヤ首相はイスラエル承認を含めた過去の合意を「尊重する」と表明した。ただし、イスラエル承認を公にはしなかった。一方、イスラエルのオルメルト首相は3月18日、「テロを正当化するような内閣とは接触しない」と演説。ハニーヤ連立内閣の不承認を表明すると共に、他国にも引き続きハニーヤ政権を相手にしないよう主張した。イスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区の間の閣僚の通行を認めていないため、閣議はテレビ電話を介して行われた。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ハマースとファタハの内部抗争は、連立政権の発足後も続いた。また、イスラエルによって立法評議会(国会)員が多数逮捕されており、立法評議会は事実上機能停止に追い込まれている。両者の内部抗争では、イスラエル・アメリカは一貫してファタハを援助しており、両者が内戦を煽っているとする批判もある。イギリスの『ガーディアン』紙によると、中東和平の実務者会議の中で、米国の特使は二度も「この武装衝突はいいね」と放言したという。 2007年6月11日からの抗争は、本格的な内戦に突入。ハマースはガザ地区を武力で占拠し、ファタハはこれを「クーデター」と批判。背景には、パレスチナ自治政府治安維持相で、ハマースと敵対し、また親米派と目されていたムハンマド・ダハラーンとの抗争があり、またダハラン側が先に手を出していたとする主張もある。結果、ファタハは内閣からの閣僚引き上げを宣言した。6月14日、ファタハのアッバース議長は非常事態宣言を出し、内閣の解散を宣言。6月15日、親米派のサラーム・ファイヤードをハニーヤの後任の首相に指名したが、ハニーヤは解散を無効として無視した。ハマースは立法評議会の多数を握っているため、基本法(憲法)上後任の首相もハマースから任命しなければならず、アッバースの行為は違憲とする批判がある。ファイヤードは6月17日に「非常事態内閣」として30日間の限定で組閣したが、ハニーヤは組閣は「非合法」と反発。逆にアッバース議長は、ハマースの軍事部門を非合法化する議長令を発表し、「メンバーは処罰する」方針を示した。こうしてパレスチナ自治政府は、分裂した。イスラエルや米国は、ハマースを排除したファイヤード政権を正式な交渉相手と認めた。また、イスラエルは、差し押さえを続けていた代理徴収した税のファイヤード政権への返還を表明した。6月20日、アッバース議長は「人殺しのテロリストたちとは対話はしない」と、ハマースを相手にしないことを表明した。また、1か月前、ハマースによる暗殺未遂事件があったと主張した。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "現在、ガザ地区をハマースが実効支配し、ヨルダン川西岸のみファイヤード政権の支配下にある。もちろん、イスラエルの入植者に占拠されている地域は、いずれの支配も及んでいない。7月2日、イスラエルが差し押さえていた税収の一部引き渡しを受け、ファイヤード政権は17か月ぶりにハマース党員を除く公務員給与の満額支払いを発表。ガザ地区では、ファイヤード政権に従うことを条件に給与を支払うと発表した。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "従来、欧米諸国は、経済制裁解除の条件として、早期の総選挙を要求して来た。経済制裁による財政難は引き続き続いており、総選挙になれば自国に都合の悪い存在であるハマースの勝利はあり得ない(裏返せば、ハマースを敗北させなければ制裁を止めないと、パレスチナの有権者を脅したと言える)との読みといわれている。結果として、総選挙を経ることなくハマースの排除が実現した形となった。しかし、経済制裁を武器に、選挙により成立した政権を否定する行為に対し、民主主義の否定とする強い批判がある。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "パレスチナ囚人保護団体のナファ協会によると、イスラエルは拉致したハマースなどの評議員に対し、釈放の条件として議員辞職するよう脅した。評議員らのほとんどは、「(辞職するくらいなら)喜んでイスラエルの拘置所に留まることを選ぶ」と声明を出した。 また、日本は2007年6月12日に、いったんはODA再開の意向をパレスチナ自治政府側に伝えたが、挙国一致内閣の崩壊で、再び棚上げになった。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2007年5月20日より、レバノンのナハル・アル=バーリドパレスチナ難民キャンプでイスラム教スンナ派武装組織「ファタハ・イスラム」とレバノン政府軍の武力衝突が起きた。ファタハ・イスラムはファタハとは無関係で、パレスチナ人による組織でもないが、パレスチナ人の支援を名目に、合法的にレバノン入国を果たしたといわれる。レバノン政府側は、ファタハ・イスラムが軍組織を攻撃しようとしたことを攻撃の理由に挙げている。ファタハ・イスラム側は「いわれのない攻撃」と反論している。レバノンの国会は、全会一致で難民キャンプへの攻撃を承認した。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "アルジャジーラによると、5月23日現在で武装メンバー20人、政府軍兵士32人、民間人27人が殺されたとしている。また、『毎日新聞』によると、5月27日現在で、キャンプにいた難民約4万のうち3分の2は避難したが、銃撃戦の巻き添えや、レバノン人によるパレスチナ人狩りの噂などが立ち、避難に踏み切れない者もいるという。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1988年のパレスチナの独立宣言以降、国家としてのパレスチナ国の承認国が増えている。2010年12月、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが相次いで国家としてのパレスチナを承認することを表明した。また国際機関へ国家として加盟する方針を打ち出しており、2011年9月23日には史上初めて国際連合への加盟申請を行ったほか、同年10月31日には国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) の加盟国として承認された。 2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が採択され、国連では「国家」の扱いを受けることとなった。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国政府は1947年11月のパレスチナ分割決議、1948年5月のイスラエル建国と国連への加盟を支援し、1948年の第一次中東戦争、1956年の第二次中東戦争、1967年の第三次中東戦争の結果、イスラエルがヨルダン川西岸地区、エルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ゴラン高原を占領し、占領地として統治することを正当化してきた。その後の歴代のアメリカ合衆国政府は、1956年にシナイ半島のエジプトへの返還とイスラエル軍の撤退、1978年9月のキャンプ・デービッド合意と1979年3月のエジプト・イスラエル平和条約、1982年にシナイ半島のエジプトへの返還、1992年に中東和平マドリッド会議を開催し、1994年10月のイスラエル・ヨルダン平和条約を仲介したが、1947年のパレスチナ分割、1948年のイスラエル建国以来、歴代のアメリカ合衆国議会・政府は、イスラエルの存続を優先する立場に基づいてパレスチナ問題を解決する政策を遂行している。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "選挙は中選挙区比例代表並立制。選挙区、比例区共に66議席ずつ。重複立候補制度はない。日本の参議院に近いが、選挙区は完全連記制。また、選挙区は少数派のキリスト教徒枠として6議席があらかじめ割り当てられている。18歳以上の普通選挙。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1996年1月20日に初めて行われ、ファタハが第一党となった。しかし、多くの党派は選挙をボイコットした。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2006年1月15日、二度目の総選挙が行われた。アメリカはハマース躍進を恐れ、ファタハに肩入れする選挙干渉を行ったとも言われた。また、事前にハマースの立候補予定者など300人が、イスラエルに逮捕された。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ファタハは45議席と惨敗し、ハマースは74議席と過半数を獲得する地滑り的勝利を収めた。ファタハの腐敗や、イスラエルによる白色テロを阻止できないことへの不満があり、一方でハマースが社会福祉に力を入れたことなどが勝因と言われる。とはいえ、比例区では28議席ずつと互角で、ファタハは選挙区での候補者乱立による共倒れが多かったとも指摘されている。", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ガザ地区", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ヨルダン川西岸地区", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ガザ地区", "title": "パレスチナ自治区" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ヨルダン川西岸地区", "title": "パレスチナ自治区" } ]
パレスチナは、西アジアの地理的地域であり、通常はイスラエル、ヨルダン西部の一部、西岸地区、ガザ地区を含むと考えられている。 パレスチナという名前は古代ギリシャの作家が使っていたもので、後にローマ帝国のシリア・パラエスティナ州、ビザンチン帝国のパラエスティナ・プリマ州、イスラム帝国のジュンド・フィラスティン州にも使われた。この地域は、聖書に登場する「イスラエルの地」、「聖地」、「約束の地」として知られる地域の大部分を占めており、カナン、シリア、アッシュ・シャム、レバントなどの広い地域名の南側に位置している。 エジプト、シリア、アラビアの分かれ目に位置し、ユダヤ教とキリスト教の発祥の地でもあるこの地域は、宗教、文化、商業、政治の交差点として波乱に満ちた歴史を持っている。古代エジプト人、カナン人、イスラエル人、ユダヤ人、アッシリア人、バビロニア人、アケメネス朝、古代ギリシャ人、ユダヤ人のハスモン朝王国、ローマ人、パルティア人、ビザンチン人、サーサーン朝、アラブのラシドゥン、ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝イスラム帝国、十字軍、アイユーブ朝、マムルーク朝、モンゴル帝国、オスマン帝国、イギリス帝国、そして現代のイスラエル人、ヨルダン人、エジプト人、パレスチナ人など、多くの民族に支配されてきた。 この地域の境界は、歴史の中で変化してきた。今日、政治的に定義されたこの地域は、イスラエルとパレスチナの州(=パレスチナ自治区)で構成されている。
{{Otheruses}} {{脚注の不足|date=2022年8月}} [[ファイル:MiddleEast.A2003031.0820.250m.jpg|thumb|パレスチナの衛星写真]] [[ファイル:BritishMandatePalestine1920.png|thumb|[[イギリス委任統治領パレスチナ|旧国際連盟イギリス委任統治領パレスチナ]]。当初は現在のヨルダンも含む範囲であった]] '''パレスチナ'''({{lang-ar|&#1601;&#1604;&#1587;&#1591;&#1610;&#1606;}}<ref group="注">[[ラテン文字]]転記:{{lang|ar-Latn|Filasṭ&#299;n}}、[[仮名文字]]転記:{{lang|ar-Kana|フィラスティーン}}、口語(現地方言)発音:{{lang|ar-Latn|Falasṭ&#299;n}}(ファラスティーン)</ref>、{{lang-he|&#1508;&#1500;&#1513;&#1514;&#1497;&#1504;&#1492;}}<ref group="注">ラテン文字転記:{{lang|he-Latn|Palestina}}、仮名文字転記:{{lang|he-Kana|パレスティナ}}</ref>)は、[[西アジア]]の地理的地域であり、通常は[[イスラエル]]、[[ヨルダン]]西部の一部、[[ヨルダン川西岸地区]]、[[ガザ地区]]を含むと考えられている。 パレスチナという名前は[[古代ギリシア語|古代ギリシャ]]の作家が使っていたもので、後にローマ帝国のシリア・パラエスティナ州、ビザンチン帝国のパラエスティナ・プリマ州、イスラム帝国のジュンド・フィラスティン州にも使われた。この地域は、聖書に登場する「イスラエルの地」({{Lang-he|ארץ־ישראל}})、「[[聖地 (アブラハムの宗教)|聖地]]」、「[[約束の地]]」として知られる地域の大部分を占めており、[[カナン]]、[[シリア]]、[[歴史的シリア|アッシュ・シャム]]、[[レバント]]などの広い地域名の南側に位置している。 [[エジプト]]、[[歴史的シリア|シリア]]、[[アラビア半島|アラビア]]の分かれ目に位置し、[[ユダヤ教]]と[[キリスト教]]の発祥の地でもあるこの地域は、宗教、文化、商業、政治の交差点として波乱に満ちた歴史を持っている。[[古代エジプト|古代エジプト人]]、[[カナン]]人、[[イスラエル (民族)|イスラエル人]]、[[ユダヤ人]]、[[アッシリア]]人、[[バビロニア]]人、[[アケメネス朝]]、[[ヘレニズム|古代ギリシャ人]]、ユダヤ人の[[ハスモン朝|ハスモン朝王国]]、[[ローマ帝国|ローマ人]]、[[パルティア]]人、[[東ローマ帝国|ビザンチン]]人、[[サーサーン朝]]、アラブのラシドゥン、[[ウマイヤ朝]]、[[アッバース朝]]、[[ファーティマ朝]][[イスラム帝国|イスラム帝国、]][[エルサレム王国|十字軍]]、[[アイユーブ朝]]、[[マムルーク朝]]、[[モンゴル帝国]]、[[オスマン帝国]]、[[イギリス帝国]]、そして現代の[[イスラエル人]]、ヨルダン人、[[エジプト民族|エジプト人]]、[[パレスチナ人]]など、多くの民族に支配されてきた。 この地域の境界は、歴史の中で変化してきた。今日、政治的に定義されたこの地域は、[[イスラエル]]と[[パレスチナ国|パレスチナ]]の州(=パレスチナ自治区)で構成されている。 == 範囲 == [[ファイル:Gaza Strip in Palestine.svg|thumb|パレスチナと赤く示される[[ガザ地区]]]] {{Annotated image |image= Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 sheet index georef.png |frame=no |image-width=230 |caption= [[イギリス委任統治領パレスチナ]]の測量機関{{ill2|パレスチナ測量局|en|Survey of Palestine}}によって 1942–1958に作られた 1–100,000 地形図。斜線の場所は、後継組織の{{ill2|イスラエル測量局|en|Survey of Israel}}の地図。 |annotations= {{Annotation |1=150 |2=25 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 01Metulla.jpg|Metulla]]}} {{Annotation |1=95 |2=88 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 02Haifa.jpg|Haifa]]}} {{Annotation |1=165 |2=88 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 03Safad.jpg|Safad]]}} {{Annotation |1=93 |2=145 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 04ZikhronYaaqov.jpg|Zikhron<br/>Yaaqov]]}} {{Annotation |1=155 |2=155 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 05Nazareth.jpg|Nazareth]]}} {{Annotation |1=93 |2=215 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 06JaffaTelAviv.jpg|Jaffa<br/>Tel&nbsp;Aviv]]}} {{Annotation |1=160 |2=215 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 07Nablus.jpg|Nablus]]}} {{Annotation |1=38 |2=277 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 08Yibna.jpg|Yibna]]}} {{Annotation |1=97 |2=277 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 09Ramle.jpg|Ramle]]}} {{Annotation |1=150 |2=277 |3=[[:File:Survey of Palestine 1942-1958 1-100,000 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[[第二次世界大戦]]後は、より狭く、[[ヨルダン川]]より西の、現在のイスラエルとパレスチナ自治区(古代の[[カナン]]地域を含む)を指すことが多い。パレスチナ人とはこれらの地域の人々だが、後述するようにパレスチナ人と呼ばれるには地理的な条件以外も必要である。 最も狭義では、[[国際司法裁判所]] (ICJ) が「[[パレスチナ領域|占領されたパレスチナ領域]]」と呼称し、パレスチナ国が自国の領土であると主張している地域を指す。これは地理的には一つながりではなく、イスラエルを挟んで[[ヨルダン川西岸地区]]と[[ガザ地区]]に分かれている。 アメリカ合衆国大統領トランプ政権が提示した和平案では、{{ill2|パレスチナの飛び地|en|Palestinian enclaves}}はスイスチーズと揶揄され拒否された<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/ASN2D36DGN2DUHBI006.html?iref=ogimage_rek |title=米の和平案「スイスチーズのよう」 アッバス議長が批判:朝日新聞デジタル |access-date=2023-11-20 |date=2020-02-12 |website=朝日新聞デジタル |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO55745230X10C20A2FF8000/ |title=(グローバル語録)「米の和平案はスイスチーズのようだ」 |access-date=2023-11-20 |date=2020-02-18 |website=日本経済新聞 |language=ja}}</ref>。 イスラエルは、境界に[[ヨルダン川西岸地区の分離壁]]を建てている。 == 歴史 == 古称は「[[フル]]」、「[[カナン]]」という。 その後[[ペリシテ人]]という民族が沿岸部に住むようになり<ref group="注">旧約聖書ではカナン先住民族のカナン人とペリシテ人は別系統で、「カフトル」という所から来たのがペリシテ人としている(『創世記』10:13-14、『申命記』2:23など)。</ref>、パレスチナという言葉はこのペリシテ(Philistines)という言葉がなまったものと考えられている。 [[紀元前15世紀]]、[[古代エジプト]]の[[ファラオ]]・[[トトメス3世]]が、[[メギドの戦い (紀元前15世紀)|メギドの戦い]]で勝利、パレスチナはエジプトの支配下に置かれた。 [[紀元前13世紀]]頃には、ペリシテ人による[[ペリシテ文明]]が栄えていたが、ペリシテ人は民族集団としてはその後滅亡し、その後[[紀元前10世紀]]頃に[[イスラエル民族]]による[[イスラエル王国]]が[[エルサレム]]を中心都市として繁栄した。 [[紀元前930年]]頃に、イスラエルは北のイスラエル王国と南の[[ユダ王国]]に分裂した。イスラエル王国は[[紀元前722年]]に[[アッシリア]]の[[サルゴン2世]]に滅ぼされた。もう一つの南のユダ王国は、[[紀元前609年]]の[[メギドの戦い (紀元前609年)|メギドの戦い]]で[[ヨシア]]が、エジプトのファラオ・[[ネコ2世]]に敗死させられ、エジプトの支配下に置かれることになる。さらに[[紀元前597年]]には東より攻めてきた[[バビロニア]]の支配下に置かれ、[[紀元前587年]]にはそのバビロニアに滅ぼされた。 これ以後も三大陸の結節点に位置するその軍事上、地政学上の重要性から相次いで周辺大国の支配を受けたが「パレスチナ」という呼称自体は根強く残っており、[[フラウィウス・ヨセフス]]の『[[ユダヤ古代誌]]』では、『創世記』の内容を引用する形で各地の地名の由来を説明する際、ミツライム(注:ヘブライ語でのエジプトを指す)の系統で唯一今日(注:1世紀後半)に残った名前<ref group="注">『創世記』の第10章では「ノアの子孫が様々な所に移住し、その名前が地名となった。」という趣旨の神話が乗っているが、この中でノアの孫ミツライムの系統の1つがペリシテとなっている。</ref>として「パレスチナ」の名を挙げている<ref>『ユダヤ古代誌』第1巻第6章。(日本語訳はフラウィウス・ヨセフス 著、秦剛平 訳『ユダヤ古代誌1 旧約時代編[I][II][III][IV]』株式会社筑摩書房、1999年、ISBN 4-480-08531-9、P62-64。)</ref>。 ローマ帝国内では当初この辺の行政区分は[[シリア属州]](パレスチナ以外に北東部の中東内陸の地域も含む)と[[ユダヤ属州]]と呼ばれていたが、[[135年]]に[[バル・コクバの乱]]を鎮圧した[[ローマ皇帝]][[ハドリアヌス]]は、それまでのユダヤ属州名を廃し、属州シリア・パレスチナ ([[:en:Syria Palaestina]]) と改名した。 [[7世紀]]には[[イスラム帝国]]が侵入し、[[シリア]]を支配する勢力と[[エジプト]]を支配する勢力の戦争の舞台となった。[[11世紀]]には[[ヨーロッパ]]から[[十字軍]]が派遣され、[[エルサレム王国]]が建国されるが、[[12世紀]]末には[[アイユーブ朝]]の[[サラーフッディーン]]に奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝が治めた。[[16世紀]]になると、エジプトの[[マムルーク朝]]を滅ぼした[[オスマン帝国]]がパレスチナの支配者となる。オスマン帝国ではパレスチナはシリアと呼ばれた。 {{multiple image | align = | footer = {{ill2|イギリス委任統治領パレスチナのパスポート|en|Mandatory Palestine passport}}と委任統治領時代に使われた通貨{{ill2|パレスチナ・ポンド|en|Palestine pound}}。 | image1 = British Mandate Palestinian passport.jpg | caption1 = | width1 = 99 | image2 = Mill (British Mandate for Palestine currency, 1927).jpg | caption2 = | width2 = 150 }} [[19世紀]]以降、ヨーロッパで次々に[[国民国家]]が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ユダヤ人もオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。[[第一次世界大戦]]でオスマン帝国は崩壊し、[[シオニズム]]に押された[[大英帝国]]と列強は[[国際連盟]]で「ユダヤ人のナショナル・ホームをパレスチナに確立する」として[[イギリス委任統治領パレスチナ]]の創設を決議した。[[イギリス委任統治領メソポタミア]]のようにパレスチナという古い呼称を復活させたのは{{仮リンク|マーク・サイクス|en|Mark Sykes}}の方針であった<ref>Easterly, William (27 February 2007). The White Man's Burden: Why the West's Efforts to Aid the Rest Have Done So Much Ill and So Little Good. Penguin (Non-Classics). p. 295. ISBN 0-14-303882-6.</ref>。パレスチナの初代[[高等弁務官]]はユダヤ人の[[ハーバート・サミュエル]]が選ばれた。[[第二次世界大戦]]後、[[ホロコースト]]で同情を集めたシオニズムに押されて[[アメリカ合衆国]]などの国は[[国際連合]]で[[パレスチナ分割決議]]を採択した。それに伴い[[イスラエル]]が[[イスラエル独立宣言|建国]]され、反発したアラブ諸国とイスラエルとの間で[[第一次中東戦争]]が勃発、イスラエルが勝利しパレスチナの8割を占領するに至る。この時期に多くのパレスチナ人が[[パレスチナ難民|難民]]化して[[パレスチナ問題]]が発生。 1967年に起こった[[第三次中東戦争]]では、イスラエルがさらに[[ガザ地区]]、[[ヨルダン川西岸地区]]を占領。 1987年には[[第一次インティファーダ]]が勃発。 イスラエル政府と[[パレスチナ解放機構]] (PLO) は長い闘争の末、[[1993年]]になって[[オスロ合意]]を結び、[[1994年]]からパレスチナの一部でPLOの[[ヤーセル・アラファート]]大統領が主導する自治が開始された。しかし、オスロ合意で定められたパレスチナ問題の包括的解決に向けた話し合いは頓挫し、さらにイスラエルとの和平に合意しない非PLO系の組織による[[テロリズム|テロ]]や軍事行動が続いた。[[2000年]]以降、再びイスラエルと[[パレスチナ自治政府]]との間でゲリラ戦が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にある。 一方、パレスチナ自治政府側は、停戦に応じても、イスラエルが一方的に攻撃を続けていると指摘。実情は、「停戦とはパレスチナ側だけに課せられたもの」となっていると主張している。たとえば、[[2001年]]、イスラエルの[[アリエル・シャロン]]首相はパレスチナ自治政府との交渉停止を通告し、アラファート大統領を軟禁。再開に「7日間の平穏」とさらに「6週間の冷却期間」を要求した。しかし、平穏が達成されたかどうかは、イスラエル側が判断するとした。パレスチナ自治政府側の停戦は37日間続き、[[ハマース]]が反撃したため、なし崩し的に停戦は消えてしまった。 アラファートの死後、[[マフムード・アッバース]]が後継者となった。[[2005年]][[2月8日]]、2000年10月以来4年4ヶ月ぶりにシャロン首相は首脳会談に応じた。両者の暴力停止(停戦)が合意されたが、交渉再開は停戦継続を条件としている。現在でも双方の攻撃が完全に収まったわけではなく、困難が予想される。 == パレスチナ自治区 == {{main|パレスチナ自治政府|パレスチナ問題}} パレスチナ自治区は、パレスチナ地域のうち[[ヨルダン]]に接する[[ヨルダン川西岸地区]](ウェストバンク)と[[エジプト]]に接する[[ガザ地区]]、及び[[東エルサレム]]<ref group="注">ただし、[[第三次中東戦争]]以降はイスラエルが[[イスラエルの東エルサレム併合|実効支配]]し続けている。</ref>([[パレスチナ領域]])からなるパレスチナ人の自治地区である。その行政は、[[パレスチナ解放機構]] (PLO) が母体となって設立された[[パレスチナ自治政府]]が行う。ただし、最終的な地位は将来イスラエルとパレスチナとの間で結ばれる包括的和平によって定められることになっており、目下の正式な地位は暫定自治区・暫定自治政府となっている。 パレスチナ自治区の人口は約330万人で、西岸地区が3分の2、ガザ地区が3分の1を占めるとされる。これは、900万人強いるとされるパレスチナ人の全人口の3分の1にあたる。 自治政府は[[1995年]]の暫定自治拡大合意に基づき、[[1996年]]に行われた立法評議会選挙によって正式に発足した。 === 設立の経緯 === [[ファイル:UN Partition Plan Palestine.png|thumb|right|200px|1947年のパレスチナ分割決議にて定められた分割案<br>{{Color|orange|橙}} : ユダヤ人地区<br>{{Color|yellow|黄}} : アラブ人地区<br>白 : エルサレム国連統括地]] パレスチナ自治区は、イスラエル建国直前の[[1947年]]に行われた[[国際連合総会決議181号]]([[パレスチナ分割決議]])が定めた、[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ]]を[[ユダヤ人]]、[[アラブ人]]、国連統括地の3つに分割する決定を基礎としている。この決議は、これに反対する周辺のヨルダンとエジプトが[[第一次中東戦争]]でヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領したためにパレスチナのアラブ人には寸土の領域も残されず、ユダヤ人によるイスラエル国家しか建設されなかった。 [[ファイル:IsraëlCitiesBlank.png|thumb|left|150px|現在のパレスチナ自治区(薄灰、ただし実際には西岸の半分以上が入植地を含めたイスラエルの支配下)]] その後、西岸地区とガザ地区はイスラエルによって占領されるが、[[1964年]]にエジプトの[[ガマール・アブドゥン=ナーセル|ナーセル]]大統領の後押しによって西岸地区とガザ地区のアラブ系住民とパレスチナ難民の統合抵抗組織としてパレスチナ解放機構 (PLO) が設立され、事実上のパレスチナ亡命政府となった。 当初、パレスチナ解放機構はイスラエル国家を打倒し、パレスチナの地にムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒の全てが共存する非宗派的な民主国家を樹立することを目標としていた。しかし、[[1980年代]]後半に繰り広げられたイスラエルに対する大規模な抵抗運動([[インティファーダ]])の中で現実主義路線に転じ、ヨルダンに西岸地区の放棄を宣言させて、西岸地区とガザ地区を中心にパレスチナ人の独立国家を樹立してイスラエルと平和共存する道を模索するようになった。 こうしてイスラエルと解放機構の直接交渉の末、[[1993年]]の[[オスロ合意]]、[[1994年]]のカイロ協定(ガザ・エリコ暫定自治合意)に基づいてパレスチナ暫定自治区が設立された。 しかし、オスロ合意へのパレスチナ解放機構 (PLO) 側の不満は強く、また、ヨルダン川西岸地区では、現在でもパレスチナ自治政府の支配権が及んでいる地域は半ばに満たず、残りはイスラエルの占領下にある([http://palestine-heiwa.org/map/s-note/img/l/historical_dl-l.png ◆パレスチナの歴史的変遷図]{{リンク切れ|date=2022年6月}} - 白抜きがイスラエル領土および占領地)。 === 機構 === 暫定自治政府は、憲法にあたる基本法に基づいて運営される。最高議決機関は民選によって選出されたパレスチナ立法評議会 (PLC) で、[[立法府]]に相当する。立法評議会の当初の定数は88であった。2005年6月の法改正で定数は132に増やされた。 行政事項を執行するのはパレスチナ行政機関で、自治政府の長である自治政府大統領(ライース、マスコミでは議長、外務省はかつては長官といっていたが現在はこの訳をあてている)がその長を務める。また、行政機関の各庁長官(外務省はこの訳をあてているが、マスコミでは省、大臣、相ということが多い)が閣僚となり、内閣を構成する。[[2003年]]からは内閣の長として[[首相]]が置かれるようになったが、大統領であるアラファートPLO議長が安全保障関係の権限を内閣に委譲することを拒否し、翌年のアラファート死去まで大統領のワンマン支配が続いた。 治安維持を担当するのはパレスチナ警察隊で、パレスチナ解放機構の軍事部門であるパレスチナ解放軍を基礎として設立された。しかし、アラファート議長が独占する自治政府の治安維持部門について、イスラエル政府や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]は対イスラエルテロの抑制に十分働いていないと認識し、不信の目を向けている。イスラエルは、しばしばテロへの報復であるとしてパレスチナ警察を攻撃した。イスラエル側はテロリストを支援、黙認していると見なしているため、パレスチナ側のテロ事件があるたびに、パレスチナ警察を報復の対象とした。アラファートPLO議長は、[[2001年]][[12月]]より、死の直前までイスラエル軍に軟禁された。 ===ハマース政権から挙国一致政権へ=== アラファート死後、[[2005年]][[1月9日]]に後任を選ぶ自治政府大統領選でPLOの[[マフムード・アッバース]]が当選するも、翌[[2006年]]の[[#立法評議会選挙|総選挙]]では初めて選挙に参加した[[ハマース]]が過半数を獲得する勝利を収めた。 ハマースをテロ組織と認識するイスラエルは直ちに「イスラエル破壊を訴える武装テロ組織が参画する自治政府とは交渉しない」との声明を発表。さらに、軍高官の発言としてハマースの議員のヨルダン川西側地区とガザ地区の自由な移動を認めないと報じられ、政治活動の妨害を宣言した。実際に、パレスチナ人の通行はその後完全封鎖された。そのため、選挙後[[2月18日]]より開会された立法評議会は、ガザとラマッラーでの分裂開会を余儀なくされ、ビデオカメラで両会議場を中継して行われた。 米国・[[欧州連合]]も同様の認識から、パレスチナ自治政府への経済支援打ち切りを示唆した。米国は直接の援助ではなく、非政府組織や[[アメリカ合衆国国際開発庁|国際開発局]] (USAID) を通しての援助だが、米国の[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]大統領はハマースがイスラエルの「生存権」を認めなければ支援をすべきではないと主張した。さらに、[[アメリカ国防総省|米国防総省]]は2005年にガザ復興費として援助した5000万ドルの返還を要求した。イスラエルは、自らが代理徴収している関税などを差し押さえ、ハマースへの兵糧攻めに出た。 [[2006年]][[3月29日]]、正式にハマース政権が発足したが、職員給与すら払えない極度の財政難に苦しんだ。4月10日、欧州連合もパレスチナ自治政府への援助を停止。6月4日、ようやく給与の一部を支払った。しかし、その後もイスラエルによる差し押さえのため、給与を支払えない状態が続いている。アラブ諸国などからパレスチナ自治政府への献金運動も行われたが、米欧とイスラエル政府が送金はテロ支援であると金融機関に圧力を掛けているため、パレスチナ自治政府には届いていない。 米国、欧州連合は、制裁解除の条件として、(1)イスラエルの承認(2)武装解除(3)過去の自治政府とイスラエルの合意事項の尊重などを要求している。また、イスラエルの[[エフード・オルメルト]]首相は5月23日にブッシュ大統領と会談し、ハマース政権を相手にせず、アッバス自治政府議長ら穏健派と和平交渉を進めることで合意。また、オルメルトは、パレスチナ自治政府との合意が無くても、3 - 4年で[[ユダヤ人入植地]]を自国領に取り込む形で国境を決めたいと表明した。 6月には、イスラエル軍の兵士2名がハマース系と見られる組織に拉致されたとされる事件を理由に、イスラエルはガザ侵攻を強めた。さらに、評議員を含むハマース系の政治家・活動家約80人を拉致し、評議会を機能停止に追い込んだ。 これに先立つ6月27日、アッバース大統領とハマースの[[イスマーイール・ハニーヤ|ハニーヤ]]首相が1967年の国連停戦決議に基づく国境線の合意(事実上のイスラエル承認)で合意した。しかしイスラエルは、完全に無視した形である。 米国、欧州連合、日本などは、より穏健な[[ファタハ]](パレスチナ自治政府主流派)のアッバース議長を交渉相手と見ており、ハニーヤ首相などハマースは事実上相手にしていない。米国はパレスチナへの経済制裁を続ける一方で、ファタハに対しては独自の支援を行っている<ref>『読売新聞』1月15日{{いつ|date=2022年8月}}号「米国務長官、アッバス議長への軍事支援を明言」</ref>。 [[2007年]][[3月17日]]、ハマースとファタハの連立交渉が合意に達し、挙国一致内閣が発足した。閣僚25人の内訳は、ハマースから首相を含む12人、ファタハから6人、その他の党派からは7人。首相はハニーヤが続投。ハニーヤ首相はイスラエル承認を含めた過去の合意を「尊重する」と表明した。ただし、イスラエル承認を公にはしなかった。一方、イスラエルのオルメルト首相は3月18日、「テロを正当化するような内閣とは接触しない」と演説。ハニーヤ連立内閣の不承認を表明すると共に、他国にも引き続きハニーヤ政権を相手にしないよう主張した。イスラエルがヨルダン川西岸とガザ地区の間の閣僚の通行を認めていないため、閣議はテレビ電話を介して行われた。 ===挙国一致政権崩壊とパレスチナ自治政府分裂=== {{節スタブ}} ハマースとファタハの内部抗争は、連立政権の発足後も続いた。また、イスラエルによって立法評議会(国会)員が多数逮捕されており、立法評議会は事実上機能停止に追い込まれている。両者の内部抗争では、イスラエル・アメリカは一貫してファタハを援助しており、両者が内戦を煽っているとする批判もある<ref>{{Cite web|和書|url= http://palestine-heiwa.org/note2/200706151156.htm |title= ハマスとファタハの抗争と連立内閣崩壊を言う前に――意図的な連立潰し |author= 早尾貴紀 |work= Staff Note |publisher= パレスチナ情報センター |date= 2007-06-15 |accessdate= 2020-06-12 }}</ref>。イギリスの『[[ガーディアン]]』紙によると、中東和平の実務者会議の中で、米国の特使は二度も「この武装衝突はいいね」と放言したという<ref>{{Cite news|url= https://www.theguardian.com/commentisfree/2007/jun/18/israel.comment |title= The people of Palestine must finally be allowed to determine their own fate |author= Karma Nabulsi |newspaper= The Guardian |date= 2007-06-18 |accessdate= 2020-06-12 }}</ref>。 [[2007年]][[6月11日]]からの抗争は、本格的な内戦に突入。ハマースはガザ地区を武力で占拠し、ファタハはこれを「クーデター」と批判。背景には、パレスチナ自治政府治安維持相で、ハマースと敵対し、また親米派と目されていた[[ムハンマド・ダハラーン]]との抗争があり、またダハラン側が先に手を出していたとする主張もある<ref>[http://www.onweb.to/palestine/siryo/pinochet-may07.html 「パレスチナのピノチェト」が動き出した?] トニー・カロン(Tony KARON)</ref>。結果、ファタハは内閣からの閣僚引き上げを宣言した。[[6月14日]]、ファタハのアッバース議長は[[非常事態宣言]]を出し、内閣の解散を宣言。[[6月15日]]、親米派の[[サラーム・ファイヤード]]をハニーヤの後任の首相に指名したが、ハニーヤは解散を無効として無視した。ハマースは立法評議会の多数を握っているため、基本法(憲法)上後任の首相もハマースから任命しなければならず、アッバースの行為は[[憲法|違憲]]とする批判がある<ref>{{Cite web|url= https://electronicintifada.net/content/whose-coup-exactly/7012 |title= Whose Coup, Exactly? |author= Virginia Tilley |website= The Electronic Intifada |date= 2007-06-18 |accessdate= 2020-06-12 }}</ref>。ファイヤードは[[6月17日]]に「非常事態内閣」として30日間の限定で組閣したが、ハニーヤは組閣は「非合法」と反発。逆にアッバース議長は、ハマースの軍事部門を非合法化する議長令を発表し、「メンバーは処罰する」方針を示した。こうしてパレスチナ自治政府は、分裂した。イスラエルや米国は、ハマースを排除したファイヤード政権を正式な交渉相手と認めた。また、イスラエルは、差し押さえを続けていた代理徴収した税のファイヤード政権への返還を表明した。[[6月20日]]、アッバース議長は「人殺しのテロリストたちとは対話はしない」と、ハマースを相手にしないことを表明した。また、1か月前、ハマースによる暗殺未遂事件があったと主張した。 現在、ガザ地区をハマースが[[実効支配]]し、ヨルダン川西岸のみファイヤード政権の支配下にある。もちろん、イスラエルの入植者に占拠されている地域は、いずれの支配も及んでいない。[[7月2日]]、イスラエルが差し押さえていた税収の一部引き渡しを受け、ファイヤード政権は17か月ぶりにハマース党員を除く公務員給与の満額支払いを発表。ガザ地区では、ファイヤード政権に従うことを条件に給与を支払うと発表した。 従来、欧米諸国は、経済制裁解除の条件として、早期の総選挙を要求して来た<ref>{{Cite news|url= https://imemc.org/article/48079/ |title= Various Arab and European countries urge P.A to go for early elections |newspaper= IMEMC News |publisher= International Middle East Media Center |date= 2007-04-30 |accessdate= 2020-06-12 }}</ref>。[[経済制裁]]による財政難は引き続き続いており、総選挙になれば自国に都合の悪い存在であるハマースの勝利はあり得ない(裏返せば、ハマースを敗北させなければ制裁を止めないと、パレスチナの有権者を脅したと言える)との読みといわれている。結果として、総選挙を経ることなくハマースの排除が実現した形となった。しかし、経済制裁を武器に、選挙により成立した政権を否定する行為に対し、民主主義の否定とする強い批判がある。 パレスチナ囚人保護団体のナファ協会によると、イスラエルは拉致したハマースなどの評議員に対し、釈放の条件として議員辞職するよう脅した。評議員らのほとんどは、「(辞職するくらいなら)喜んでイスラエルの拘置所に留まることを選ぶ」と声明を出した<ref>[http://www.imemc.org/article/49248 Israeli interrogators demand detained MP's to resign from their posts]{{リンク切れ|date=2020年6月}}</ref>。 また、日本は2007年6月12日に、いったんは[[政府開発援助|ODA]]再開の意向をパレスチナ自治政府側に伝えたが、挙国一致内閣の崩壊で、再び棚上げになった。 ===2007年のレバノン難民キャンプの武力衝突=== 2007年[[5月20日]]より、[[レバノン]]の[[ナハル・アル=バーリド]]パレスチナ難民キャンプでイスラム教スンナ派武装組織「[[ファタハ・イスラム]]」と[[レバノン軍|レバノン政府軍]]の武力衝突が起きた。ファタハ・イスラムはファタハとは無関係で、パレスチナ人による組織でもないが、パレスチナ人の支援を名目に、合法的にレバノン入国を果たしたといわれる。レバノン政府側は、ファタハ・イスラムが軍組織を攻撃しようとしたことを攻撃の理由に挙げている。ファタハ・イスラム側は「いわれのない攻撃」と反論している。レバノンの国会は、全会一致で難民キャンプへの攻撃を承認した。 [[アルジャジーラ]]によると、[[5月23日]]現在で武装メンバー20人、政府軍兵士32人、民間人27人が殺されたとしている。また、『毎日新聞』によると、[[5月27日]]現在で、キャンプにいた難民約4万のうち3分の2は避難したが、銃撃戦の巻き添えや、レバノン人によるパレスチナ人狩りの噂などが立ち、避難に踏み切れない者もいるという。 === 国家承認 === [[File:Palestine recognition only.svg|thumb|right|340px|[[パレスチナ国]]の承認国。]] [[1988年]]の[[パレスチナの独立宣言]]以降、国家としての[[パレスチナ国]]の承認国が増えている。2010年12月、[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]、[[ウルグアイ]]が相次いで国家としてのパレスチナを承認することを表明した<ref>[[時事通信社]] [http://www.jiji.com/jc/zc?k=201012/2010120700525 南米諸国、相次ぐパレスチナ国家承認=和平交渉に一石も、イスラエルは反発]</ref>。また国際機関へ国家として加盟する方針を打ち出しており、2011年9月23日には史上初めて国際連合への加盟申請を行った<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110924-OYT1T00095.htm |title=パレスチナ、国連加盟を申請…米は拒否権行使へ |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2011-09-24 |accessdate=2011-11-02 }}</ref>ほか、同年10月31日には[[国際連合教育科学文化機関]] (UNESCO) の加盟国として承認された<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111031-OYT1T01157.htm |title=パレスチナ、ユネスコ加盟…米は「時期尚早」 |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2011-11-01 |accessdate=2011-11-02 }}</ref>。 2012年11月29日には[[国際連合総会|国連総会]]においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が採択され、国連では「国家」の扱いを受けることとなった<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK30006_Q2A131C1000000/ |title=国連、パレスチナを「国家」に格上げ 決議案採択 |work= |newspaper=[[日本経済新聞]] |date=2012-11-30 |accessdate=2012-11-30 }}</ref>。 ==== 米国の対パレスチナ政策 ==== アメリカ合衆国政府は1947年11月の[[パレスチナ分割決議]]、1948年5月の[[イスラエル]]建国と[[国際連合|国連]]への加盟を支援し、1948年の[[第一次中東戦争]]、1956年の[[第二次中東戦争]]、1967年の[[第三次中東戦争]]の結果、イスラエルが[[ヨルダン川西岸地区]]、[[エルサレム]]、[[ガザ地区]]、[[シナイ半島]]、[[ゴラン高原]]を占領し、占領地として統治することを正当化してきた。その後の歴代のアメリカ合衆国政府は、1956年にシナイ半島のエジプトへの返還とイスラエル軍の撤退、1978年9月の[[キャンプ・デービッド合意]]と1979年3月の[[エジプト・イスラエル平和条約]]、1982年にシナイ半島のエジプトへの返還、1992年に中東和平マドリッド会議を開催し、1994年10月の[[イスラエル・ヨルダン平和条約]]を仲介したが、1947年のパレスチナ分割、1948年のイスラエル建国以来、歴代のアメリカ合衆国議会・政府は、イスラエルの存続を優先する立場に基づいて[[パレスチナ問題]]を解決する政策を遂行している。 ===立法評議会選挙=== [[選挙]]は[[中選挙区制|中選挙区]][[比例代表制|比例代表]]並立制。選挙区、比例区共に66議席ずつ。[[重複立候補制度]]はない。[[日本]]の[[参議院]]に近いが、選挙区は完全連記制。また、選挙区は少数派の[[キリスト教徒]]枠として6議席があらかじめ割り当てられている。18歳以上の[[普通選挙]]。 [[1996年]][[1月20日]]に初めて行われ、ファタハが第一党となった。しかし、多くの党派は選挙をボイコットした。 [[2006年]][[1月15日]]、二度目の総選挙が行われた。アメリカはハマース躍進を恐れ、ファタハに肩入れする選挙干渉を行ったとも言われた。また、事前にハマースの立候補予定者など300人が、イスラエルに逮捕された。 ファタハは45議席と惨敗し、ハマースは74議席と過半数を獲得する地滑り的勝利を収めた。ファタハの腐敗や、イスラエルによる[[白色テロ]]を阻止できないことへの不満があり、一方でハマースが社会福祉に力を入れたことなどが勝因と言われる。とはいえ、比例区では28議席ずつと互角で、ファタハは選挙区での候補者乱立による共倒れが多かったとも指摘されている。 === 地方行政区分 === ==== 地域区分 ==== *[[ガザ地区]] *[[ヨルダン川西岸地区]] *[[東エルサレム]](イスラエルが実質支配している) ==== 地方政府 ==== [[ファイル:Palestine governorates.png|300px|right|thumb|パレスチナ地方政府]] '''ガザ地区''' *[[北ガザ県]] *[[ガザ県]] *[[ディール・バラフ県]](ダイル・アル=バラフ) *[[ハーン・ユーニス県]] *[[ラファフ県]] '''ヨルダン川西岸地区''' {{columns-start|num=2}} *[[エルサレム県]](アル=クドゥス) *[[:en:Jericho Governorate|エリコ]](アリーハー) *[[カルキーリーヤ県]] *[[:en:Salfit Governorate|サルフィート]] *[[ジェニーン県]] *[[トゥールカリム県]] {{column}} *[[:en:Tubas Governorate|トゥーバース]] *[[ナーブルス県]] *[[ベツレヘム県]](ベート・ラハム) *[[ヘブロン県]](アル=ハリール) *[[ラマッラー・アル=ビーレ県]] {{columns-end}} ==== 市 ==== {{columns-start|num=2}} '''ガザ地区''' *[[ガザ市]] *[[ハーン・ユーニス]] *[[ジャバリア]] *[[ラファフ]] *{{仮リンク|デイル・アル・バラフ|en|Deir al-Balah}} {{column}} '''ヨルダン川西岸地区''' *[[ヘブロン]](アル=ハリール) *[[ナーブルス]] *{{仮リンク|トゥールカリム|en|Tulkarm}} *{{仮リンク|ジェニーン|en|Jenin}} *{{仮リンク|カルキーリヤ|en|Qalqilya}} *[[ベツレヘム]](ベート・ラハム) *[[ラマッラー]] *[[エリコ]](アリーハー) {{columns-end}} ==== 交通機関 ==== *[[ヤーセル・アラファト国際空港]](閉鎖中) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『パレスチナ新版』([[広河隆一]] 著 / [[岩波書店]] 岩波新書 / ISBN 4004307848 / 2002年5月20日) *岡倉徹志『パレスチナ・アラブ その歴史と現在』三省堂 *エリアス・サンバー『パレスチナ 動乱の100年』創元社 *『パレスチナの歴史』明石書店 *横田勇人『パレスチナ紛争史』集英社 *山崎雅弘『中東戦争全史』学習研究社 *立山良司『図説 中東戦争全史』学習研究社 *森戸幸次『中東百年紛争 パレスチナと宗教ナショナリズム』平凡社 *PLO研究センター『パレスチナ問題』亜紀書房 *阿部俊哉『パレスチナ』ミネルヴァ書房 *エドワード・サイード『パレスチナとは何か』岩波書店 *エドワード・サイード『パレスチナ問題』みすず書房 *エドワード・サイード『戦争とプロパガンダ』みすず書房 *エドワード・サイード『戦争とプロパガンダ2』みすず書房 *エドワード・サイード『戦争とプロパガンダ3』みすず書房 *立山良司『揺れるユダヤ人国家 ポスト・シオニズム』文藝春秋 *池田明史『イスラエル国家の諸問題』アジア経済研究所 *ウリ・ラーナン『イスラエル現代史』明石書店 *高橋和夫『アラブとイスラエル パレスチナ問題の構図』講談社 *立山良司『イスラエルとパレスチナ 和平への接点をさぐる』中央公論社 *土井敏邦『和平合意とパレスチナ イスラエルとの共存は可能か』朝日新聞社 *M・ブーバー『ひとつの土地にふたつの民 ユダヤ、アラブ問題によせて』みすず書房 *ミシェル・ワルシャウスキー『イスラエル・パレスチナ民族共生国家への挑戦』柘植書房新社 == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[イスラエル]] * [[パレスチナ国]] * {{ill2|ペレセト|en|Peleset}} * [[イスラエルの歴史]]、{{ill2|パレスチナの歴史|en|History of Palestine}}、{{ill2|パレスチナという名前の歴史|en|Timeline of the name Palestine}} * [[パレスチナ自治政府]] * [[イギリス委任統治領パレスチナ]] * [[パレスチナ問題]] * [[パレスチナ難民]] * [[エドワード・サイード]] * [[レジスタンス運動]] * [[インティファーダ]] * [[サマリア人]] * [[パレスチナの法]] * [[マクペラの洞窟虐殺事件]] * [[国境なき子どもたち|特定非営利活動法人国境なき子どもたち]] - パレスチナで活動している日本NGO {{colend}} == 外部リンク == {{Commons|Palestina}} ; 政府 * [http://palst-jp.com/jp/jp_top.html 駐日パレスチナ常駐総代表部]{{ja icon}}{{en icon}} * [https://state-recognition.themedia.jp/ パレスチナ国家承認 特設ウェブサイト]{{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/plo/ 日本外務省 パレスチナの情報]{{ja icon}} ; メディア * [http://www.alquds.com/ アル・クドゥス]{{ar icon}} - [[エルサレム]]を本拠地とし、パレスチナ最大発行部数の日刊紙 * [http://arabic.wafa.ps/arabic/ WAFA]{{ar icon}}{{en icon}} - パレスチナ解放通信 ; その他 * [http://pinfo.html.xdomain.jp/ パレスチナ情報センター] * [http://www.palestine-info.co.uk/ The Palestinian Information Center]{{ar icon}}{{en icon}}{{fr icon}}{{tr icon}}{{ur icon}} - パレスチナ情報センター(邦訳すると上記と同名だが、無関係) * [https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/palestine/index.html 日本国際ボランティアセンター] - パレスチナで活動している日本のNGO * [http://www.ottomanpalestine.com Ottoman Palestine] {{アジア}} {{OIC}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はれすちな}} [[Category:パレスチナ|*]] [[Category:中東]] [[Category:アジアの地域]]
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H2g2
h2g2は、ウェブサイトのひとつで、読者の自由な参加、投稿によって百科事典を作成するもの。イギリスの公共放送局であるBBCによって所有されている。 元は、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の作者として知られるダグラス・アダムスが始めたもので、生命、宇宙、その他何でもを扱うことを標榜していた。 同じく自由参加型の百科事典作成プロジェクトであるウィキペディアや、百科事典に限らずエッセイやデータや文章を執筆、相互批評していく自由参加型プロジェクトのEverything2などとしばしば比較される。
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4,372
1882年
1882年(1882 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。明治15年。 ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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1882年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。明治15年。
{{年代ナビ|1882}} {{year-definition|1882}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[壬午]] * 日本(月日は一致) ** [[明治]]15年 ** [[皇紀]]2542年 * [[清]]:[[光緒]]7年11月12日 - 光緒8年11月22日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]19年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4215年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]) ** [[嗣徳]]34年11月12日 - 嗣徳35年11月22日  * [[仏滅紀元]]:2424年 - 2425年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1299年2月10日 - 1300年2月20日 * [[ユダヤ暦]]:5642年4月10日 - 5643年4月21日 * [[修正ユリウス日]](MJD):8446 - 8810 * [[リリウス日]](LD):109287 - 109651 <div style="font-size:smaller"> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]に法的根拠を与えられたが、[[1962年]]からは公式な場では使用されていない。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1882}} == できごと == === 1月 === * [[1月4日]] - [[軍人勅諭]]発布{{要出典|date=2021-03}} * [[1月26日]] - [[フランス第三共和政|仏]][[レオン・ガンベタ|ガンベタ]]内閣総辞職{{要出典|date=2021-03}} === 2月 === * [[2月10日]] - [[ニコライ・リムスキー=コルサコフ|リムスキー=コルサコフ]]歌劇「[[雪娘 (オペラ)|雪娘]]」初演([[サンクトペテルブルク]]) * [[2月25日]] - [[偕行社]]附属[[遊就館]]開館 === 3月 === * [[3月1日]] - [[時事新報]]創刊([[福澤諭吉]]) * [[3月3日]] - [[伊藤博文]]ヨーロッパ視察へ * [[3月6日]] - [[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]成立 * [[3月19日]] - [[サグラダ・ファミリア]]建設開始([[2026年]]完成予定) * [[3月20日]] - [[上野動物園]]開園 日本初の[[動物園]] * [[3月23日]] - 米国で[[重婚]]を犯罪とする法律([[:en:Edmunds Act|Edmunds Act]])が成立 * [[3月24日]] - [[ロベルト・コッホ]]が[[結核菌]]を発見 * [[3月31日]] - [[朝鮮国]][[元山]]港[[居留地]]の日本人5人が朝鮮人暴徒に襲撃されて荷物を奪われ、1人が殺され2人が重傷を負う。 === 4月 === * [[4月6日]] - [[板垣退助]][[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]党首が遊説中に暴漢に襲われる([[岐阜事件]]) * [[4月6日]] - [[立憲改進党]]結党式([[大隈重信]]・[[河野敏鎌]]ら) * [[4月19日]] - [[チャールズ・ダーウィン]]が死去 * [[4月25日]] - {{仮リンク|アンリ・リヴィエール (海軍士官)|en|Henri Rivière (naval officer)|label=アンリ・リヴィエール}}率いるフランス軍が[[ハノイ]]を占拠 * [[4月30日]] - 神宮皇學館(後の[[皇學館大学]])創立 === 5月 === * [[5月5日]] - [[嘉納治五郎]]により[[講道館]]設立 * [[5月6日]] - 米国で[[排華移民法]]([[:en:Chinese Exclusion Act|Chinese Exclusion Act]])成立 * [[5月20日]] ** [[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]締結 ** [[ヘンリック・イプセン]] 戯曲「幽霊」初演([[シカゴ]]) ** [[ゴッタルド鉄道トンネル]]開通 * [[5月22日]] - [[米朝修好通商条約]]締結 * [[5月27日]] - [[文部省]]が医学校通則を公布 === 6月 === * [[6月3日]] - [[集会条例]]改正(政党活動の制限強化) * [[6月5日]] - 嘉納治五郎が東京下谷稲荷の永昌寺に柔道場(後の講道館)を開く。 * [[6月6日]] ** [[ボンベイ]]が[[サイクロン]](Great Bombay Cyclone)に襲われ十万名が死亡 ** 米国で抵抗式[[アイロン|電気アイロン]]が特許化(Henry W. Seely) * [[6月11日]] - [[ウラービー革命|英埃戦争]]: [[アレクサンドリア]]で暴動発生,ヨーロッパ人が五十名殺害される * [[6月25日]] - [[東京馬車鉄道]]開業([[新橋 (東京都港区)|新橋]] - [[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]) * [[6月27日]] - 日本銀行条例制定 * [[6月30日]] - 米大統領[[ジェームズ・ガーフィールド]]を暗殺したチャールズ・J・ギトーが絞首刑に処せられる。 === 7月 === * [[7月11日]] - 英埃戦争: [[アレクサンドリア砲撃]] * [[7月18日]] - [[文部省]]が薬学校通則を公布 * [[7月23日]] - [[壬午事変]]: [[李氏朝鮮|朝鮮]]の[[漢城]]で兵士の暴動により,日本公使館員らが多数殺傷さる * [[7月26日]] - [[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]歌劇「[[パルジファル]]」初演([[バイロイト祝祭劇場]]) === 8月 === * [[8月5日]] - [[戒厳令]]制定 * [[8月12日]] - 徴発令制定 * [[8月16日]] - 英埃戦争: 英軍が[[アレクサンドリア]]に上陸 * [[8月20日]] - [[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]序曲「[[1812年 (序曲)|1812年]]」初演([[救世主ハリストス大聖堂]]) * [[8月23日]] - [[皇典講究所]](後の[[國學院大學]]、[[日本大学]])設立 * [[8月30日]] - 壬午事変: [[済物浦条約]]締結 === 9月 === * [[9月13日]] - 英埃戦争: 英国が[[エジプト]]を占領 * [[9月17日]] - [[1882年の大彗星]]が太陽表面から46万kmのところを通過し、太陽のすぐ脇でも明るく見える[[大彗星]]となった。                         * 9月8日-トーマス・アルヴァ・エジソンが大型発電機を作る === 10月 === * [[10月2日]] - [[東京馬車鉄道]]: [[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]] - [[上野]] - [[浅草]] - 日本橋の環状線開通 * [[10月10日]] - [[日本銀行]]開業 * [[10月15日]] - 曹洞宗大学林専門本校(後の[[駒澤大学]])開校 * [[10月21日]] - [[東京専門学校 (旧制)|東京専門学校]](後の[[早稲田大学]])創立 === 11月 === * [[11月5日]] - [[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]交響詩「[[わが祖国 (スメタナ)|わが祖国]]」初演 * [[11月13日]] - 陸軍大学校条例制定 === 12月 === * [[12月1日]] - [[自由民権運動]]: [[福島事件]] * [[12月4日]] ** 英国で[[王立裁判所]]落成 ** [[鍛冶橋]]の[[警視庁 (内務省)|警視庁]]庁舎が新築 * [[12月6日]] - 地球上からの[[金星の太陽面通過]]が起こった<ref>{{Cite web |url=http://astro.ukho.gov.uk/nao/transit/V_1882/index.html |title=1882 December 6th Transit of Venus |publisher=HM Nautical Almanac Office |accessdate=2017-09-16}}</ref>。 * [[12月16日]] - 郵便条例制定 * [[12月22日]] - [[電飾]][[クリスマスツリー]]が初めて登場([[:en:Edward Hibberd Johnson|Edward Hibberd Johnson]]) <!-- ===日付未詳=== --> == 誕生 == {{see also|Category:1882年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月2日]] - [[石山賢吉]]、実業家・[[ジャーナリスト]]・[[ダイヤモンド社]]創業者(+ [[1964年]]) * [[1月4日]] - [[梅津美治郎]]、陸軍軍人(+ [[1949年]]) * [[1月18日]] - [[A・A・ミルン]]、[[小説家]](+ [[1956年]]) * [[1月24日]] - [[ハロルド・バブコック]]、[[天文学者]](+ [[1968年]]) * [[1月25日]] - [[ヴァージニア・ウルフ]]、小説家(+ [[1941年]]) * [[1月28日]] - [[柴田雄次]]、[[化学者]](+ [[1980年]]) * [[1月30日]] - [[フランクリン・ルーズベルト|フランクリン・デラノ・ルーズベルト]]、第32代[[アメリカ合衆国大統領]](+[[1945年]]) * [[2月2日]] - [[ジェイムズ・ジョイス]]、小説家(+ 1941年) * [[2月6日]] - [[ウォルター・ヤコブソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1957年]]) * [[2月13日]] - [[イグナーツ・フリードマン]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](+ [[1948年]]) * [[2月15日]] - [[ジョン・バリモア]]、[[俳優]](+ [[1942年]]) * [[2月17日]] - [[前田米蔵]]、[[政治家]](+ [[1954年]]) * [[2月20日]] - [[エリー・ナーデルマン]]、[[彫刻家]](+ [[1946年]]) * [[2月22日]] - {{仮リンク|エリック・ギル|en|Eric Gill}}、彫刻家・[[タイポグラファー]]・[[版画家]](+ [[1940年]]) * [[3月2日]] - [[坂本繁二郎]]、[[洋画家]](+ [[1969年]]) * [[3月8日]] - [[嶋田青峰]]、[[俳人]](+ [[1944年]]) * [[3月9日]] - [[素木得一]]、[[昆虫学者]](+ [[1970年]]) * [[3月30日]] - [[久野寧]]、[[生理学者]](+ [[1977年]]) * [[4月4日]] - [[エミール・フィラ]]、[[画家]]・彫刻家(+ [[1953年]]) * [[4月7日]] - [[小川未明]]、小説家(+ [[1961年]]) * [[4月17日]] - [[アルトゥル・シュナーベル]]、[[ピアニスト]](+ [[1951年]]) * [[4月18日]] - [[五島慶太]]、実業家・[[東京急行電鉄]]創始者(+ [[1959年]]) * 4月18日 - [[レオポルド・ストコフスキー]]、[[指揮者]](+ 1977年) * [[4月21日]] - [[生田長江]]、[[評論家]]・[[翻訳家]](+ [[1936年]]) * [[4月29日]] - [[オーギュスト・エルバン]]、[[画家]](+ [[1960年]]) * [[5月4日]] - [[堀切善兵衛]]、政治家・第26代衆議院議長(+ 1946年) * [[5月5日]] - [[金田一京助]]、言語学者(+ [[1971年]]) * 5月5日 - [[ダグラス・モーソン]]、[[探検家]]・[[地質学者]](+ [[1958年]]) * [[5月13日]] - [[ジョルジュ・ブラック]]、[[画家]](+ [[1963年]]) * [[5月14日]] - [[斎藤茂吉]]、[[歌人]]・[[精神科医]](+ [[1953年]]) * [[5月15日]] - [[羽田亨]]、[[東洋史]]学者(+ [[1955年]]) * [[5月29日]] - [[野口雨情]]、[[詩人]]・[[作詞家]](+ [[1945年]]) * [[6月1日]] - [[宇井伯寿]]、[[曹洞宗]]の[[僧侶]]・[[仏教学者]](+ [[1963年]]) * [[6月10日]] - [[長谷部言人]]、[[人類学者]](+ [[1969年]]) * [[6月17日]]([[ユリウス暦]]6月5日)- [[イーゴリ・ストラヴィンスキー]]、作曲家(+ [[1971年]]) * [[6月18日]] - [[リカルト・ヨハンソン]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1952年]]) * 6月18日 - [[ゲオルギ・ディミトロフ]]、[[ブルガリア]]の指導者(+ [[1949年]]) * [[6月27日]] - [[エドゥアルト・シュプランガー]]、[[教育学者]]・[[哲学者]]・[[心理学者]](+ [[1963年]]) * [[6月28日]] - [[滝田樗陰]]、[[編集者]](+ [[1925年]]) * [[7月13日]] - [[青木繁]]、洋画家(+ [[1911年]]) * [[7月21日]] - [[ダヴィド・ブルリューク]]、[[画家]](+ [[1967年]]) * [[7月22日]] - [[エドワード・ホッパー]]、画家(+ 1967年) * [[8月1日]] - [[石原謙]]、キリスト教史学者(+ [[1976年]]) * [[8月2日]] - [[アルベルト・ブロッホ]]、画家・[[翻訳家]](+ [[1961年]]) * [[9月17日]] - [[フランク・シュルト]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1949年]]) * [[9月23日]] - [[博恭王妃経子]]、皇族、[[伏見宮博恭王]]妃(+ [[1939年]]) * [[9月27日]] - [[エリー・ナイ]]、[[ピアニスト]](+ [[1968年]]) * [[9月29日]] - [[鈴木三重吉]]、[[児童文学]]作家(+ [[1936年]]) * [[9月30日]] - [[ハンス・ガイガー]]、ドイツの物理学者(+ [[1945年]]) * [[10月1日]] - [[内藤伸]]、[[彫刻家]](+ [[1967年]]) * [[10月5日]] - [[ロバート・ゴダード]]、ロケット工学者(+ [[1945年]]) * [[10月14日]] - [[原志免太郎]]、[[医者]](+ [[1991年]]) * [[10月15日]] - [[野村胡堂]]、小説家・音楽評論家(+ [[1963年]]) * [[10月19日]] - [[ウンベルト・ボッチョーニ]]、[[画家]]・[[彫刻家]](+ [[1916年]]) * [[10月29日]] - [[ジャン・ジロドゥ]]、[[外交官]]・[[劇作家]]・[[小説家]](+ [[1944年]]) * [[11月18日]] - [[パーシー・ウインダム・ルイス]]、画家(+ [[1957年]]) * [[11月26日]] - [[有島生馬]]、洋画家(+ [[1974年]]) * [[11月29日]] - [[藤井浩佑]]、彫刻家(+ [[1958年]]) * [[12月1日]] - [[エド・ロイルバック]]、メジャーリーガー(+ [[1961年]]) * [[12月3日]] - [[種田山頭火]]、俳人(+ [[1940年]]) * [[12月4日]] - [[宮原清]]、[[実業家]]、[[日本社会人野球協会]]初代会長(+ [[1963年]]) * [[12月10日]] - [[東郷茂徳]]、外交官(+ [[1950年]]) * [[12月16日]] - [[ウォルサー・マイスナー]]、[[物理学者]](+ [[1974年]]) * [[12月19日]] - [[ブロニスラフ・フーベルマン]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1947年]]) * [[12月23日]] - [[江崎利一]]、[[実業家]] 、[[江崎グリコ]]の創業者(+ [[1980年]]) * [[12月24日]] - [[橋本進吉]]、[[言語学者]]・[[国語学者]](+ [[1945年]]) == 死去 == {{see also|Category:1882年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月11日]] - [[テオドール・シュワン]]、[[生物学|生物学者]](* [[1810年]]) * [[2月1日]] - [[アントワーヌ・ビュシー]]、[[化学者]](* [[1794年]]) * [[2月11日]] - [[フランチェスコ・アイエツ]]、[[画家]](* [[1791年]]) * [[2月19日]] - [[岩井半四郎 (8代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1829年]]) * [[3月3日]] - [[ホーレス・メイナード]]、第31代[[アメリカ合衆国郵政長官]](* [[1814年]]) * [[3月15日]] - [[トーマス・ヒル・グリーン]]、[[哲学者]](* [[1836年]]) * [[3月24日]] - [[カーリー・ビル]]、[[西部開拓時代]]の[[ガンマン]](* [[1845年]]) * 3月24日 - [[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Henry-Wadsworth-Longfellow Henry Wadsworth Longfellow American poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[詩人]](* [[1807年]]) * [[4月3日]] - [[ジェシー・ジェイムズ]]、西部開拓時代のガンマン・[[アウトロー]](* [[1847年]]) * [[4月4日]] - [[朝日嶽鶴之助]]、[[大相撲]]の[[力士]](* [[1840年]]) * [[4月10日]] - [[ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ]]、画家・[[詩人]](* [[1828年]]) * 4月10日 - [[ウィリアム・ハルバート]]、[[ナショナルリーグ]]第2代会長(* [[1832年]]) * [[4月17日]] - [[アントニオ・フォンタネージ]]、[[アントニオ・フォンタネージ]](* [[1818年]]) * [[4月18日]] - [[ヴィルヘルム・ファトケ]]、[[神学者]](* [[1806年]]) * [[4月19日]] - [[チャールズ・ダーウィン]]、[[科学者]]、[[生物学者]](* [[1809年]]) * [[4月20日]] - [[トゥイスコン・ツィラー]]、[[文献学|文献学者]]・[[教育学者]](* [[1817年]]) * [[4月25日]] - [[カール・フリードリッヒ・ツェルナー]]、[[天文学者]]・[[物理学者]](* [[1834年]]) * [[4月27日]] - [[ラルフ・ワルド・エマーソン]]、[[哲学|哲学者]]・作家(* [[1803年]]) * [[5月6日]] - [[フレデリック・キャヴェンディッシュ (1836-1882)|フレデリック・キャヴェンディッシュ]]、[[アイルランド担当大臣]](* [[1836年]]) * [[6月2日]] - [[ジュゼッペ・ガリバルディ]]、[[イタリア王国]]の[[リソルジメント]]指導者(* [[1807年]]) * [[7月6日]] - [[松田道之]]、[[東京都知事一覧|東京府知事]](* [[1839年]]) * [[7月16日]] - [[メアリー・トッド・リンカーン]]、第16代[[アメリカ合衆国大統領|米大統領]][[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]]の妻(* [[1818年]]) * [[7月23日]] - [[佐藤尚中]]、[[医師]]・[[蘭学|蘭学者]](* [[1828年]]) * [[8月13日]] - [[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ]]、[[経済学者]](* [[1835年]]) * [[9月23日]] - [[フリードリヒ・ヴェーラー]]、化学者(* [[1800年]]) * [[10月5日]] - [[鷲津毅堂]]、[[儒学者]](* [[1825年]]) * [[10月8日]] - [[橋本実麗]]、[[江戸時代]]の[[公卿]](* [[1809年]]) * [[10月13日]] - [[アルテュール・ド・ゴビノー]]、[[思想|思想家]](* [[1816年]]) * [[12月1日]] - [[松平定安]]、第10代[[松江藩|松江藩主]](* [[1835年]]) * [[12月3日]] - [[ジェームズ・チャリス]]、天文学者(* [[1803年]]) * [[12月9日]] - [[佐田介石]]、[[浄土真宗本願寺派]]の[[僧]](* [[1818年]]) * [[12月16日]] - [[ルイ・ブラン]]、[[フランス第二共和政]]の政治家(* [[1811年]]) * 12月16日 - [[オールドバルディー]]、[[南北戦争]]期の[[軍馬]](* [[1852年]]) * [[12月24日]] - [[ヨハン・リスティング]]、[[数学者]](* [[1808年]]) * [[12月31日]] - [[清水谷公考]]、江戸時代の公卿・[[箱館府]]知事・[[開拓使|開拓]]次官(* [[1845年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1882}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1882ねん}} [[Category:1882年|*]]
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バス
バス(bass, bus, buss, bath)
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バス
{{pp-vandalism|small=yes}} '''バス'''([[:en:bass|bass]], [[:en:bus (disambiguation)|bus]], [[:en:buss (disambiguation)|buss]], [[:en:bath|bath]]) == 交通 == * [[バス (交通機関)]] - [[自動車]]を用いた[[公共交通機関]]のひとつ。 **各国のバス({{interlang|en|bus}}) ***[[日本のバス]] - [[日本のバス車両]] ***[[韓国のバス]] == 音楽・音響 == * 「低音」([[:en:Bass (sound)]]、[[wikt:低音]]) * [[バス (声域)]] - [[声楽]]の低音パート。 * [[和声]]および[[対位法]]で、最低声部。 * 弦楽器の[[コントラバス]]の略。 * 最低音部を受け持つ[[金管楽器]]。 **[[サクソルン|コントラバス・サクソルン]]や[[チューバ]]の通称。 * バス記号 - 低域用の音部記号。{{main|[[音部記号#バス記号]]}} * [[ハム音]] - 商用電源などが原因で発生する低周波の雑音バス音。 == 人名 == === Bas === {{seealso|:en:Bas}} * [[バス・ドスト]] - オランダのサッカー選手。 === Bass === {{seealso|:en:Bass}} * [[アダム・バス]] - アメリカの野球選手。 * [[アンソニー・バス]] - アメリカの野球選手。 * [[ソール・バス]] - アメリカのグラフィックデザイナー。 * [[マイク・バス]] - アメリカのアメリカンフットボール選手。 * [[ランス・バス]] - アメリカの歌手。 * [[ランディ・バース]] - 野球選手。原音(Bass)に即した発音はバス。 * [[リチャード・バス]] - アメリカ合衆国の実業家・登山家。 * [[ジェローム・ベティス]] - アメリカのアメリカンフットボール選手の愛称。 === Buss === {{seealso|:en:Buss}} * [[ニック・バス]] - アメリカの野球選手 == 架空の人名 == * リプレイ『[[新ソード・ワールドRPGリプレイ]]』のプレイヤー・キャラクター。[[ドワーフ]]の[[吟遊詩人]]。 == 地名 == * [[バス海峡]] - オーストラリアの海峡 * [[バス諸島]] - アメリカ合衆国・エリー湖内の諸島 * [[バース (イギリス)]] - イギリス・サマセット州の都市 ** [[バース大学]] * [[バス (メイン州)]] - アメリカ合衆国[[メイン州]]の市 ** [[バス鉄工所]] - メイン州バス市の[[造船所]] * [[バス郡 (ケンタッキー州)]] * [[バス郡 (バージニア州)]] == 艦船 == * アメリカ海軍の潜水艦 ** [[バス (SS-164)]] - 1925年9月26日就役 ** [[バス (SSK-2)]] - 1952年11月16日就役 == その他 == * [[オムニバス (曖昧さ回避)|オムニバス]] (omnibus、乗り合い) の略 * [[バス (魚)]] - [[スズキ目]]の魚。 * ばす - [[福島県]][[会津若松市]]にある[[芦ノ牧温泉駅]]に住み着いていた猫。{{main|[[芦ノ牧温泉駅]]}} * [[バス (コンピュータ)]]、[[バスマスタリング]] - 電子回路内部での共通化された配線。 **[[トークンバス]]など回路外部の接続でもバスと呼ぶ。 * [[衛星バス]] - 人工衛星・宇宙探査機の、共通して使われる基本的な機器群。 * [[ミサイルバス]] - 多弾頭弾道ミサイルの複数の弾頭を収納する台。 * [[浴槽]] (bath) ** [[ユニットバス]] * イギリスのビールのブランド Bass、およびそのかつてのオーナー企業[[バス・ブリュワリー]]。 **なお、2000年以降のオーナーは[[アンハイザー・ブッシュ・インベブ]]。 == 関連項目 == * [[バース (曖昧さ回避)]] * [[ベース (曖昧さ回避)]] *{{Prefix}} *{{intitle}} * [[バズ]]、[[ハズ]] {{aimai}} {{DEFAULTSORT:はす}} [[Category:英語の語句]] [[Category:英語の姓]] [[Category:英語の地名]] [[Category:同名の地名]] [[Category:人物の愛称]]
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実数
数学における実数(じっすう、仏: nombre réel, 独: reelle Zahl, 英: real number)とは、連続な量を表すために有理数を拡張した数の体系である。 実数全体の空間は、途切れのなさにあたる完備性とよばれる位相的な性質を持ち、代数的には加減乗除ができるという体の構造を持っている。幾何学や解析学ではこれらのよい性質を利用して様々な対象が定義され、研究されている。一方でその構成方法に自明でない手続きが含まれるため、実数の空間は数学基礎論の観点からも興味深い性質を持っている。また、自然科学における連続的なものの計測値を表すのに十分な数の体系だとも考えられている。 実数の概念は、その形式的な定義が19世紀に達成される前から数の体系として使われていた。「実数」という名前は複素数の概念が導入された後に「普通の数」を表現する言葉として導入されたものである。 実数体とは順序体であって空でない上有界な部分集合が上限を持つようなものをいう。実数体の元(=要素)を実数という。 また位相的特徴付けである次を定義として採用することも出来よう:非自明な順序体であって順序位相に関して連結なものは唯一つに定まる(アルキメデス的順序群に関するHölderの定理による)。これを実数体と呼ぶ。実数体の元(=要素)を実数という。 これで実数(体)の概念は定まったがこれだけではまだ実数(体)というものが存在するかどうかは分からない。しかし#構成節で述べるようにそのようなものは実際に存在する、即ちこのような性質を満たす順序体が構成できることが分かる。またその構成方法は複数ある。また本記事では言及されていないが本来存在するならば、それがある意味で一意的なものであるかを確かめる必要があるが、実数体は実際にある意味で一意的に定まる。 現代数学の体系において実数が構成されるときは#構成節で述べるような、数の表示に直接依存しない方法が用いられるが、個々の実数を表すときは −1.13 や 3.14159... のような(有限とは限らない)小数表示がよく用いられる。 また、実数の集まりを幾何学的に表示する方法として数直線があげられる。これは実数 0 に対応する原点とよばれる点を持った一つの直線で、直線上のそれぞれの点と原点との向きをこめた位置関係が各実数に対応している。 実数の構成は有理数の空間 Q の完備化とよばれる手続きによる方法が一般的である。 有理数の空間には二つの数の差の絶対値として定義される距離 d(a, b) = |a − b| から定まる点の近さを考えることができる。これについてのコーシー列たちを適当な同値関係によって同一視した空間として R が得られる。こうして構成された実数の空間の中では、収束数列によって近似的に与えられる対象が実際に実数として存在している。また、Q 上の距離が代数構造と両立するようになっているので、R の上でも Q の代数構造を基にした代数構造を考えることができる。この際、コーシー列全体が自然に環をなし、0に収束するコーシー列全体Iが極大イデアルであることが示せる。このIによる剰余環を考えるとこれはRそのもので、環論の一般論からこれが体をなすことがすぐにわかる。こうして代数構造を持つことは実は綺麗に示すことができる。あとは順序構造を定義すれば実数体の出来上がりである。 この完備化による定義の変種として、コーシー列たちの空間のかわりに長さがどんどん小さくなっていくような閉区間の列たちを適当な同値関係によって同一視したものを考えてもやはり実数を得ることができる。この考え方はより一般的で強力な手法であるフィルターの特別な例と見なすことができる。 有理数の集合 Q 上に通常の意味での大小関係を考えて、それをもとにした Q の分割の方法として実数を定めることもでき、この方法はデデキント切断と呼ばれる。この考え方では Q を { q ∈ Q : q < r } と Ur = { q ∈ Q : r ≤ q } に分けるという操作である数 r を定義する。√2 のような有理数でない r によって与えられる切断 Ur は有理数の範囲での最小の数よりも r が小さくなるため、有理数の間の数として無理数の実在を示すことができる。一方実数の範囲ではその定義からいつでも r が Ur の最小の数になっている。 有理数体 Q の超準モデル(超有理数体) Q を取る。ある正の有理数よりも絶対値の小さい超有理数は有限という。有限数の全体を F とおく。任意の正の有理数よりも絶対値の小さい超有理数は無限小という。無限小数の全体を I とおく。このとき剰余環 F/I は完備順序体となる。 エウドクソスの実数(Eudoxus real number)とはシャヌエルによって1984年に発見され(しかし論文は出版しなかった)、また名付けられた構成法である。整数から直接、有理数を経由することなく実数を構成するという特徴を持っている。この構成法は2003年にアカンポ(A'Campo 2003)によって再発見された。 実数という数のクラスが初めてはっきりと取り出されたのはカントールによる集合の研究においてだった。彼は集合論的には実数全体の集合は有理数全体の集合からはっきりと区別されるべき大きさ(濃度)を持っていること(実数の集合は可算でないこと)を示した。 また、カントールは実数全体の集合と有理数全体の集合のちょうど中間の大きさの集合は存在することするかどうかいう問いをたてた。これは後になって連続体仮説とよばれ、結局通常用いられる集合論の体系からは証明も反証もできないことがわかった。 実数の体系の持つ超越的な性格は集合論の初期から様々な数学者の嫌悪の的となった。実数を定めるのに便利な集合論的定式化はやがて多くの数学者に受け入れられるようになったが、20世紀初めに論理学者のブラウワーは直観主義とよばれる、具体的に構成できるようなものだけを認める論理の体系をつくったが、彼はそこでは実数について通常の数学におけるものとは著しく異なった結論を導きだせることを示した。これには Kripke-Joyal の層の意味論によって現代的な解釈が与えられる。 実数の完備性により、実数に値を持つ関数の範疇で様々な近似操作を考えることができ、微積分などが定義される。特定のクラスの関数たちに対して距離の概念などを用いて位相を考えると位相線形空間が得られる。こうして得られるものは多くの場合に無限次元であるが、考えている位相に関して完備になっている。関数解析学では、この概念を公理化した実数体上で考えられる完備位相線形空間とよばれる様々な空間が研究される。 位相空間上の関数やその積分の収束を考えるときは、問題にしている関数たちによって指定される位相空間の部分集合が重要になるが、こうして可測集合の概念が得られる。例えば実閉区間 [0, 1] 上の関数を考えるときには一点集合 {t} (0 ≤ t ≤ 1) 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代数体のうちで複素数体への埋め込み先が必ず実数に含まれるようなものは総実代数体とよばれ、代数的整数論において重要な役割を果たしている。 実数体は加法に関して群であるが、その部分群は離散部分群か稠密部分群のいずれかしかない。なお前者の場合は巡回群となる。 自然科学のさまざまな分野において、連続的に変化する量の計測値を表す数の体系として実数がもちいられている。たとえば時間は基準となる時刻からの経過を表す一つの実数によって指定される。また、現実には離散的な値をとる量でもその単位があまりに小さい場合には実数による連続的な定式化が用いられる。たとえば化学における溶液の濃度や経済学における通貨流通量などは微分や積分が可能な関数によって表され、解析されるのが普通である。 一方で、20世紀に入って量子力学において複素数(値の関数)が本質的なものとしてもちいられることや、物理量が離散的な値をとる(量子化)ことなど、現実世界の現象の記述にいつでも実数が適合しているわけではないことが認識されるようになった。ベルンハルト・リーマンなど何人かの数学者は、空間における物体の位置を表す数の体系としても、実数はひとつの近似を提示しているにすぎないのかもしれないという疑念を表明している。 紀元前1000年頃のエジプトで帯分数がすでに使われており、紀元前600年頃のインド「シュルバ・スートラ」(サンスクリット語で「コードの規則」)では無理数の使用や円周率の近似値として 3.16 が与えられている。 数の体系としての実数をとらえる試みは古代ギリシャにおける「大きさの理論」にさかのぼることができる。この「大きさ」とは大小比較や加法、自然数倍ができるようなものとして定式化される。幾何学における線分の長さなどがこの大きさの理論を適用できる概念になるが、こうして考えられた量が自然数(あるいは整数)の比である有理数だけではとらえきれないという紀元前500年頃のピタゴラス学派による発見は大きな意義をもっていた。 6世紀にはインドの数学者によって負数の概念が発明されており、ほどなくして中国の数学者たちも独立にその概念を発明した。ヨーロッパでは16世紀まで負数が用いられていなかったし、1700年代後半のレオンハルト・オイラーでさえ方程式の負の解をあり得ないものとして切り捨てている。 17世紀にアイザック・ニュートンとほぼ同時に微分の概念に到達したゴットフリート・ライプニッツは数の無限小変動(モナド)の考え方によって微分をとらえようとした。彼の考え方は十分に形式化されず、厳密性を欠いたものだった。18~19世紀にベルナルト・ボルツァーノ、オーギュスタン・コーシー、カール・ワイエルシュトラスらによりイプシロン-デルタ論法にもとづく微分の定式化が達成された。これにより数のコーシー列の「収束先」の存在を保証するものとして実数の体系がはっきりとした存在意義を持つようになった。 また、18世紀から19世紀にかけて無理性や超越性についての研究が大きく進展した。代表的な成果に、ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトによる円周率の無理性の証明(1761年)、パオロ・ルフィニとニールス・アーベルによる五次以上の代数方程式が一般には冪根を用いて解けないこと(1799年、1824年)の証明、ジョゼフ・リウヴィルによる超越数の存在証明、シャルル・エルミートによるネイピア数の超越性の証明、フェルディナント・リンデマンによる円周率の超越性の証明(1882年)などがある。 ゲオルク・カントールはフーリエ級数の収束の問題を研究するうちに実数の部分集合を考察するようになり、整数や有理数などのよく知られていたクラスの数の集合と実数の集合が本質的に異なるサイズのものであることを示した。このような実数の超越性によりレオポルト・クロネッカーなど一部の数学者たちは嫌悪を示した。カントールが提起した「実数集合はどの程度大きいか」という問題は通常採用される数学の枠組み(ZFC 集合論)からは独立であることが後になってわかった。 アンリ・ルベーグはルベーグ積分の理論によって積分論の構造化を達成する過程で「積分可能」な関数のクラスである可測関数の概念と、それらによって指定されるような実数の部分集合である可測集合の概念をえた。この可測集合は具体的に構成できるような実数の集合を尽くしていて、選択公理を仮定しなければ非可測な集合の存在を導くことができない。 ライプニッツの無限小の概念はその曖昧さ故に ε–δ 論法の陰に葬り去られていたが、1960年代に超準解析という枠組みのもとで厳密な定式化が達成された。
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数学における実数とは、連続な量を表すために有理数を拡張した数の体系である。 実数全体の空間は、途切れのなさにあたる完備性とよばれる位相的な性質を持ち、代数的には加減乗除ができるという体の構造を持っている。幾何学や解析学ではこれらのよい性質を利用して様々な対象が定義され、研究されている。一方でその構成方法に自明でない手続きが含まれるため、実数の空間は数学基礎論の観点からも興味深い性質を持っている。また、自然科学における連続的なものの計測値を表すのに十分な数の体系だとも考えられている。 実数の概念は、その形式的な定義が19世紀に達成される前から数の体系として使われていた。「実数」という名前は複素数の概念が導入された後に「普通の数」を表現する言葉として導入されたものである。
{{出典の明記|date=2019年5月}} {{Wikibooks|解析学基礎/実数|実数}} [[数学]]における'''実数'''(じっすう、{{lang-fr-short|''nombre réel''}}, {{lang-de-short|''reelle Zahl''}}, {{lang-en-short|''real number''}})とは、[[実数の連続性|連続]]な[[量]]を表すために[[有理数]]を拡張した[[数]]の体系である。 実数全体の空間は、途切れのなさにあたる[[実数の完備性|完備性]]とよばれる[[位相空間|位相]]的な性質を持ち、[[代数学|代数]]的には加減乗除ができるという[[可換体|体]]の構造を持っている。[[幾何学]]や[[解析学]]ではこれらのよい性質を利用して様々な対象が定義され、研究されている。一方でその構成方法に自明でない手続きが含まれるため、実数の空間は[[数学基礎論]]の観点からも興味深い性質を持っている。また、[[自然科学]]における連続的なものの[[計測]]値を表すのに十分な数の体系だとも考えられている。 実数の概念は、その形式的な定義が[[19世紀]]に達成される前から数の体系として使われていた。「実数」という名前は[[複素数]]の概念が導入された後に「普通の数」を表現する言葉として導入されたものである。 == 定義 == 実数体とは[[順序体]]であって[[空集合|空]]でない[[有界|上に有界]]な部分集合が[[順序集合#上界、最大、極大、上限、上方集合|上限]]を持つようなものをいう{{efn2|この性質を順序完備性と呼ぶことがある。実数体においては特に「上限性質」という呼称で呼ばれることが多い。なおこの性質には[[実数の連続性]]にある通り同値な言い換えが複数ある。}}。実数体の元(=要素)を実数という。 また位相的特徴付けである次を定義として採用することも出来よう:非自明な[[順序体]]であって[[順序集合#順序位相|順序位相]]に関して連結なものは唯一つに定まる([[:en:Archimedean group|アルキメデス的順序群に関するHölderの定理]]による)。これを実数体と呼ぶ。実数体の元(=要素)を実数という。 これで実数(体)の概念は定まったがこれだけではまだ実数(体)というものが存在するかどうかは分からない。しかし[[#実数の様々な構成|#構成]]節で述べるようにそのようなものは実際に存在する、即ちこのような性質を満たす順序体が構成できることが分かる。またその構成方法は複数ある。また本記事では言及されていないが本来存在するならば、それがある意味で一意的なものであるかを確かめる必要があるが、実数体は実際にある意味で一意的に定まる{{efn2|これは正確に述べると「実数体の定義を満たす二つの順序体は順序体として同型(=順序同型かつ体同型であるような写像が存在する)」という意味である。}}。 == 実数の表示 == 現代数学の体系において実数が構成されるときは[[#実数の様々な構成|#構成]]節で述べるような、数の表示に直接依存しない方法が用いられるが、個々の実数を表すときは {{math|&minus;1.13}} や {{math|3.14159...}} のような(有限とは限らない)[[小数]]表示がよく用いられる。 また、実数の集まりを幾何学的に表示する方法として[[数直線]]があげられる。これは実数 {{math|0}} に対応する原点とよばれる点を持った一つの直線で、直線上のそれぞれの点と原点との向きをこめた位置関係が各実数に対応している。 == 実数の様々な構成 == {{details|:en:Construction of the real numbers}} === コーシー列を用いた構成 === {{details|コーシー列#実数の構成}} 実数の構成は[[有理数]]の空間 {{math|'''Q'''}} の[[完備化]]とよばれる手続きによる方法が一般的である。 有理数の空間には二つの数の差の絶対値として定義される[[距離空間|距離]] {{math|''d''(''a'', ''b'') {{=}} {{!}}''a'' &minus; ''b''{{!}}}} から定まる点の近さを考えることができる。これについての[[コーシー列]]たちを適当な同値関係によって同一視した空間として {{math|'''R'''}} が得られる。こうして構成された実数の空間の中では、収束数列によって近似的に与えられる対象が実際に実数として存在している。また、{{math|'''Q'''}} 上の距離が代数構造と両立するようになっているので、{{math|'''R'''}} の上でも {{math|'''Q'''}} の代数構造を基にした代数構造を考えることができる。この際、コーシー列全体が自然に[[環 (数学)|環]]をなし、0に収束するコーシー列全体Iが[[極大イデアル]]であることが示せる。このIによる[[剰余環]]を考えるとこれは{{math|'''R'''}}そのもので、[[環論]]の一般論からこれが体をなすことがすぐにわかる。こうして代数構造を持つことは実は綺麗に示すことができる。あとは順序構造を定義すれば実数体の出来上がりである。 この完備化による定義の変種として、コーシー列たちの空間のかわりに長さがどんどん小さくなっていくような[[閉区間]]の列たちを適当な同値関係によって同一視したものを考えてもやはり実数を得ることができる。この考え方はより一般的で強力な手法である[[フィルター (数学)|フィルター]]の特別な例と見なすことができる。 === デデキント切断による構成 === {{main|デデキント切断}} 有理数の集合 {{math|'''Q'''}} 上に通常の意味での大小関係を考えて、それをもとにした {{math|'''Q'''}} の分割の方法として実数を定めることもでき、この方法は[[デデキント切断]]と呼ばれる。この考え方では {{math|'''Q'''}} を {{math|{{(}} ''q'' &isin; '''Q''' : ''q'' &lt; ''r'' {{)}}}} と {{math|''U''<sub>''r''</sub> {{=}} {{(}} ''q'' &isin; '''Q''' : ''r'' &le; ''q'' {{)}}}} に分けるという操作である数 {{mvar|r}} を定義する。{{math|{{sqrt|2}}}} のような有理数でない {{mvar|r}} によって与えられる切断 {{mvar|U<sub>r</sub>}} は有理数の範囲での最小の数よりも {{mvar|r}} が小さくなるため、有理数の間の数として無理数の実在を示すことができる。一方実数の範囲ではその定義からいつでも {{mvar|r}} が {{mvar|U<sub>r</sub>}} の最小の数になっている。 === 超準解析に基づく構成 === 有理数体 {{math|'''Q'''}} の超準モデル(超有理数体) {{math|<sup>*</sup>'''Q'''}} を取る。ある正の有理数よりも絶対値の小さい超有理数は有限という。有限数の全体を {{math|'''F'''}} とおく。任意の正の有理数よりも絶対値の小さい超有理数は無限小という。無限小数の全体を {{math|'''I'''}} とおく。このとき剰余環 {{math|'''F'''/'''I'''}} は完備順序体となる。 === エウドクソスの実数 === [[エウドクソス]]の実数(Eudoxus real number)とは[[:en:Stephen Schanuel|シャヌエル]]によって1984年に発見され(しかし論文は出版しなかった)、また名付けられた構成法である{{sfn|Arthan|2004}}。整数から直接、有理数を経由することなく実数を構成するという特徴を持っている。この構成法は2003年にアカンポ({{harvnb|A'Campo|2003}})によって再発見された{{sfn|Arthan|2004}}。 == 論理学における実数 == 実数という数のクラスが初めてはっきりと取り出されたのは[[ゲオルク・カントール|カントール]]による[[集合]]の研究においてだった。彼は集合論的には実数全体の集合は有理数全体の集合からはっきりと区別されるべき大きさ([[濃度 (数学)|濃度]])を持っていること(実数の集合は[[可算]]でないこと)を示した。 また、カントールは実数全体の集合と有理数全体の集合のちょうど中間の大きさの集合は存在することするかどうかいう問いをたてた。これは後になって[[連続体仮説]]とよばれ、結局通常用いられる集合論の体系からは証明も反証もできないことがわかった。 実数の体系の持つ超越的な性格は集合論の初期から様々な数学者の嫌悪の的となった。実数を定めるのに便利な集合論的定式化はやがて多くの数学者に受け入れられるようになったが、20世紀初めに論理学者の[[ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワー|ブラウワー]]は[[直観主義 (数学の哲学)|直観主義]]とよばれる、具体的に構成できるようなものだけを認める論理の体系をつくったが、彼はそこでは実数について通常の数学におけるものとは著しく異なった結論を導きだせることを示した。これには Kripke-Joyal の[[層 (数学)|層]]の意味論によって現代的な解釈が与えられる。 == 解析学における実数 == 実数の完備性により、実数に値を持つ[[関数 (数学)|関数]]の範疇で様々な近似操作を考えることができ、[[微積分]]などが定義される。特定のクラスの関数たちに対して距離の概念などを用いて位相を考えると[[位相線形空間]]が得られる。こうして得られるものは多くの場合に無限[[次元]]であるが、考えている位相に関して完備になっている。[[関数解析学]]では、この概念を公理化した実数体上で考えられる完備位相線形空間とよばれる様々な空間が研究される。 位相空間上の関数やその積分の[[収束]]を考えるときは、問題にしている関数たちによって指定される位相空間の部分集合が重要になるが、こうして[[可測集合]]の概念が得られる。例えば実閉区間 {{math|[0, 1]}} 上の関数を考えるときには一点集合 {{math|{{(}}''t''{{)}} (0 &le; ''t'' &le; 1)}} や開集合を含んで、補集合をとったり[[可算]]個の[[合併 (集合論)|合併]]について閉じていたりするような集合族を考えることになる。距離を持つコンパクト空間の可測集合のなす構造は、高々可算集合または閉区間 {{math|[0, 1]}} の構造に[[同型]]となることが知られている。 == 幾何学における実数 == {{日本語版にない記事リンク|ウリゾーンの補題|en|Urysohn's lemma}}から[[正規空間]]とよばれる広いクラスの位相空間の[[位相構造]](つまり、どの部分集合が開集合か)はその上の実数値連続関数のなす空間に完全に反映されていることがわかる。 [[ユークリッド空間]]は有限次元の実[[ベクトル空間]]にその構造と両立するような距離をあたえたものとして定式化される。実1次元ベクトル空間を平行移動したものが[[直線]]を示し、実2次元ベクトル空間を平行移動したものが[[平面]]を表していると見なせる。古典的なユークリッド幾何学は2次元や3次元のユークリッド空間とその構造を保つような変換についての研究だと解釈できる。 現代数学における図形の基本的な定式化の方法として[[多様体]]の概念が挙げられるが、これは局所的にはユークリッド空間のように見える「端切れ」を張り合わせたものとして定式化される。したがって多様体の点は局所的にはいくつかの実数の組による座標付けを持ち、多様体上の実数値関数について微分や積分を考えることが可能になる。 多様体は連続的なものとして定義されるので、その連続的な「時間発展」、「変化」、あるいは「変形」を考えることができるが、これはしばしば加法群 {{math|'''R'''}} の微分同相による作用と考えることができる。このような作用は力学系とよばれ、その類似として様々な分野でも {{math|'''R'''}} の作用が研究される。 == 代数学における実数 == 実数の集合 {{math|'''R'''}} は[[可換体|体]]の構造を持っており、実数を係数とした多項式や実数の拡大体を考えることができる。ここで実数が極大順序体であることにより実数係数の多項式は 3 次以上なら既約にならない。したがって {{math|'''R'''}} の有限次元拡大になっている可換体は {{math|'''R'''}} 自身と複素数体 {{math|'''C'''}} しかなく、可換性を外してもほかの有限次拡大体は[[四元数]]体 {{math|'''H'''}} しかない。 数論的に重要と見なされる位相群に({{math|'''Q'''}} の)[[イデアル類群]] {{mvar|C}} があるが、その[[単位元]]の[[連結成分]]は加法群 {{math|'''R'''}} と同型である。{{math|'''Q'''}} の[[アデール環|アデール]] {{math|'''A'''}} を {{math|'''Q'''}} の乗法群で割った {{math|'''A'''/'''Q'''<sup>&times;</sup>}} へのこの {{mvar|C}} の[[正規部分群]]の作用の理解が[[アラン・コンヌ]]による[[リーマン予想]]プログラムの一部分をなしている。 [[代数体]]のうちで[[複素数]]体への埋め込み先が必ず実数に含まれるようなものは[[総実体|総実代数体]]とよばれ、代数的整数論において重要な役割を果たしている。 == 部分群 == 実数体は加法に関して群であるが、その部分群は[[離散空間|離散]]部分群か[[稠密集合|稠密]]部分群のいずれかしかない。なお前者の場合は巡回群となる{{efn2|https://proofwiki.org/wiki/Subgroup_of_Real_Numbers_is_Discrete_or_Dense}}。 == 自然科学における実数の使用 == [[自然科学]]のさまざまな分野において、連続的に変化する量の計測値を表す数の体系として実数がもちいられている。たとえば[[時間]]は基準となる時刻からの経過を表す一つの実数によって指定される。また、現実には離散的な値をとる量でもその単位があまりに小さい場合には実数による連続的な定式化が用いられる。たとえば[[化学]]における[[溶液]]の[[濃度]]や[[経済学]]における通貨流通量などは微分や積分が可能な関数によって表され、解析されるのが普通である。 一方で、20世紀に入って[[量子力学]]において複素数(値の関数)が本質的なものとしてもちいられることや、物理量が離散的な値をとる(量子化)ことなど、現実世界の現象の記述にいつでも実数が適合しているわけではないことが認識されるようになった。[[ベルンハルト・リーマン]]など何人かの数学者は、空間における物体の位置を表す数の体系としても、実数はひとつの近似を提示しているにすぎないのかもしれないという疑念を表明している。 == 歴史 == 紀元前1000年頃の[[エジプト数学|エジプト]]で帯分数がすでに使われており、紀元前600年頃の[[インド]]「[[シュルバ・スートラ]]」([[サンスクリット語]]で「コードの規則」)では無理数の使用や円周率の近似値として {{math|3.16}} が与えられている。 数の体系としての実数をとらえる試みは[[古代ギリシャ]]における「大きさの理論」<!-- theory of magnitudes -->にさかのぼることができる。この「大きさ」とは大小比較や加法、自然数倍ができるようなものとして定式化される。幾何学における線分の長さなどがこの大きさの理論を適用できる概念になるが、こうして考えられた量が自然数(あるいは整数)の比である有理数だけではとらえきれないという紀元前500年頃の[[ピタゴラス教団|ピタゴラス学派]]による発見は大きな意義をもっていた。 6世紀にはインドの数学者によって[[正の数と負の数|負数]]の概念が発明されており、ほどなくして中国の数学者たちも独立にその概念を発明した。ヨーロッパでは16世紀まで負数が用いられていなかったし、1700年代後半の[[レオンハルト・オイラー]]でさえ方程式の負の解をあり得ないものとして切り捨てている。 17世紀に[[アイザック・ニュートン]]とほぼ同時に微分の概念に到達した[[ゴットフリート・ライプニッツ]]は数の無限小変動([[モナド (哲学)|モナド]])の考え方によって微分をとらえようとした。彼の考え方は十分に形式化されず、厳密性を欠いたものだった。18~19世紀に[[ベルナルト・ボルツァーノ]]、[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|オーギュスタン・コーシー]]、[[カール・ワイエルシュトラス]]らにより[[イプシロン-デルタ論法]]にもとづく微分の定式化が達成された。これにより数のコーシー列の「収束先」の存在を保証するものとして実数の体系がはっきりとした存在意義を持つようになった。 また、18世紀から19世紀にかけて[[無理数|無理性]]や[[超越数|超越性]]についての研究が大きく進展した。代表的な成果に、[[ヨハン・ハインリッヒ・ランベルト]]による[[円周率の無理性の証明]](1761年)、[[パオロ・ルフィニ]]と[[ニールス・アーベル]]による五次以上の代数方程式が一般には冪根を用いて解けないこと(1799年、1824年{{Sfn|kotobank-アーベル(Niels Henrik Abel)}})の証明、[[ジョゼフ・リウヴィル]]による超越数の存在証明、[[シャルル・エルミート]]による[[ネイピア数]]の超越性の証明、[[フェルディナント・フォン・リンデマン|フェルディナント・リンデマン]]による円周率の超越性の証明(1882年)などがある。 [[ゲオルク・カントール]]は[[フーリエ級数]]の収束の問題を研究するうちに実数の部分集合を考察するようになり、整数や有理数などのよく知られていたクラスの数の集合と実数の集合が本質的に異なるサイズのものであることを示した。このような実数の超越性により[[レオポルト・クロネッカー]]など一部の数学者たちは嫌悪を示した。カントールが提起した「実数集合はどの程度大きいか」という問題は通常採用される数学の枠組み([[公理的集合論|ZFC 集合論]])からは独立であることが後になってわかった。 [[アンリ・ルベーグ]]は[[ルベーグ積分]]の理論によって積分論の構造化を達成する過程で「積分可能」な関数のクラスである可測関数の概念と、それらによって指定されるような実数の部分集合である可測集合の概念をえた。この可測集合は具体的に構成できるような実数の集合を尽くしていて、[[選択公理]]を仮定しなければ非可測な集合の存在を導くことができない。 ライプニッツの無限小の概念はその曖昧さ故に {{math|''&epsilon;''&ndash;''&delta;''}} 論法の陰に葬り去られていたが、1960年代に[[超準解析]]という枠組みのもとで厳密な定式化が達成された。 == 注釈 == {{脚注ヘルプ}} {{notelist2}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{cite book|和書 |last=高木 |first=貞治 |author1-link=高木貞治 |title=数の概念 |publisher=岩波書店 |year=1970 |isbn=4-00-005153-9 |ref=harv }} * {{cite book|和書 |last=デーデキント |first=リヒャルト |author1-link=リヒャルト・デデキント |title=数について 連続性と数の本質 |translator=[[河野伊三郎]] |publisher=岩波書店 |series=岩波文庫 |year=1961 |isbn=4-00-339241-8 |ref=harv }} * {{cite book |last=Robinson |first=Abraham |author1-link=アブラハム・ロビンソン |year=1966 |title=Non-standard analysis |isbn=9780444534071 |lccn=66005818 |series=Studies in logic and the foundations of mathematics |publisher=North-Holland Publishing Company |ref=harv }} * {{citation |last=A'Campo |first=Nobert |title=A natural construction for the real numbers |publisher=arXiv |date=2003-01-03 |arxiv=math/0301015 |doi=10.48550/arXiv.math/0301015 |ref=harv }} * {{citation |last=Arthan |first=R. D. |title=The Eudoxus Real Numbers |publisher=arXiv |date=2004-05-24 |arxiv=math/0405454 |doi=10.48550/arXiv.math/0405454 |ref=harv }} * {{Cite Kotobank |word=アーベル(Niels Henrik Abel) |accessdate=2023-02-13 |encyclopedia=日本大百科全書(ニッポニカ) |hash=#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 }} == 関連項目 == * [[複素数]] - [[虚数]] * [[有理数]] * [[無理数]] * [[小数]] * [[イプシロン-デルタ論法]] * [[デデキント切断]] * [[実解析]] * [[超実数]] * [[p進数]] == 外部リンク == * {{MathWorld|urlname=RealNumber|title=Real Number}} * {{nlab|urlname=real+number|title=real number}} * {{PlanetMath|urlname=RealNumber|title=real number}} * {{SpringerEOM|urlname=Real_number|title=Real number|author=Kudryavtsev, L.D.}} * {{Kotobank}} {{数の体系}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しつすう}} [[Category:数]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:レトロニム]]
2003-03-17T07:04:37Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E6%95%B0
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無理数
無理数(むりすう、 英: irrational number)とは、有理数ではない実数、つまり整数の比(英: ratio)(分数)で表すことのできない実数のことである。実数は非可算個で有理数は可算個であるから、無理数は非可算個あり、ほとんど全ての実数は無理数である。 無理数という語は、何かが「無理である数」という意味に受け取れるため、語義的に「無比数」と訳すべきだったという意見もある(有理数#用語の由来も参照)。 以下の実数は無理数である。 任意の ε > 0 に対して不等式 が有理数解 p/q を持つとき、α は無理数である。多くの無理性の証明はこれを用いている。これは α が無理数であるための必要十分条件でもある。 無理数を十進小数で表記すると、繰り返しのない無限小数(非循環小数)になる。これは記数法の底によらず一般の N 進小数でも成り立つ。 α を無理数とすると、 を満たす無限に多くの有理数 p/q が存在する(ディリクレの定理)。なお、このように無理数の有理数による近似を扱う理論はディオファントス近似と呼ばれる数論の分野に属する。 無理数全体の空間を完備とするような距離が存在する。またA-演算が自然に応用できる例でもあり、この空間は点集合論的トポロジーでは重要な対象である。 無理数のうち、代数的数であるものを代数的無理数、そうでないものを超越数という。 α が代数的数、κ > 2 ならば、 を満たす有理数 p/q は有限個しかない(トゥエ-ジーゲル-ロスの定理)。このことは不定方程式の解の有限性を示すときに使われる。 2の平方根は代数的無理数であり、log2 3, e, π, e といった数は超越数である。ζ(3) が超越数であるか否かは未だに解決されていない。 数 α に対して を満たす有理数 p/q は有限個しかない、という性質を満たす κ の下限を α の無理数度 (英: irrationality measure) という。 有理数の無理数度は 1, ディリクレの定理およびロスの定理より代数的無理数の無理数度は 2, リウヴィル数の無理数度は ∞ である。ディリクレの定理より無理数の無理数度は全て 2 以上である。e の無理数度は 2 であることが知られている。また、πの無理数度の上限は7.103程度であることがわかっている。 ルベーグ測度に関してほとんど全ての数の無理数度は 2 である。 無理数の発見は古代ギリシア文明にまで遡る。一説では、無理数の発見者は古代ギリシャの大数学者、ピタゴラスの弟子であったヒッパソスという人物であった。ヒッパソスは正方形の研究をしているうち、その辺と対角線の長さの比は整数でも分数でも表せない未知の数、すなわち無理数であることを発見したという。 彼の師匠のピタゴラスは、宇宙の万物は数から成り立つこと、そして宇宙を構成する数は、調和した比を保っていると信じていた。ピタゴラスと教団は教義の反証である無理数が存在する事実に動揺し、不都合な事実を隠すため、発見者のヒッパソスを縛りあげ、船から海に突き落として殺害したという伝承が残っている。 しかし、プラトンが現れると、彼の著書『テアイテトス』の中で平方数でない数の平方根が有理数でないことを論じ、さらに同じ論法が立方根にも適用できると述べている。これらの数学的な蓄積を受けて、エウクレイデスは『原論』の中で統一した形で実数論を展開している。 円周が円の直径の3倍より少し大きいことは古来知られていた。古代インドやギリシアの数学者たちの間では半径 r の円の面積が円周率 π を使って πr であることも知られ、アルキメデスは半径 r の球の体積が 4/3πr であることや、この球の表面積が 4πr (その球の大円の面積の4倍)であることを示していた。円周率 π が無理数であることはすでにアリストテレスによって予想されていたが、実際に証明されたのはそれよりはるかに後の時代のことである(ヨハン・ハインリヒ・ランベルト)。 自然対数の底であるネイピア数 e は、1618年にジョン・ネイピアが発表した対数の研究の付録の表にその端緒があるが、定性的に研究したのはレオンハルト・オイラーである。 1872年にリヒャルト・デデキントは『連続性と無理数』を出版し、デデキント切断を用いて無理数を定義した。 リーマンゼータ関数の特殊値 ζ(3) は、アペリーによって1979年に無理数であることが証明された(アペリーの定数)。π + e は、ネステレンコ(英語版)によって無理数であることが証明された。 オイラー定数 γ, π + e, eπ, その他 P(e, π)(P(X, Y) は X, Y 双方について次数が 1 以上である多項式)は有理数であるか無理数であるか知られていない。e, π, π といった数も同様である。
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無理数とは、有理数ではない実数、つまり整数の比(分数)で表すことのできない実数のことである。実数は非可算個で有理数は可算個であるから、無理数は非可算個あり、ほとんど全ての実数は無理数である。 無理数という語は、何かが「無理である数」という意味に受け取れるため、語義的に「無比数」と訳すべきだったという意見もある(有理数#用語の由来も参照)。
'''無理数'''(むりすう、 {{lang-en-short|''irrational number''}})とは、[[有理数]]ではない[[実数]]、つまり[[整数]]の[[比]]({{lang-en-short|''ratio''}})([[分数]])で表すことのできない実数のことである。実数は[[非可算集合|非可算個]]で有理数は[[可算集合|可算]]個であるから、無理数は非可算個あり、[[ほとんど (数学)#ほとんど全ての|ほとんど全ての]]実数は無理数である。 無理数という語は、何かが「無理である数」という意味に受け取れるため、語義的に「無比数」と訳すべきだったという意見もある<ref>堀場芳数『無理数の不思議』[[講談社]]、1993年 ISBN 978-4061329782</ref><ref>吉田武『[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]の贈物 人類の至宝[[オイラーの等式|e{{sup|i&#x3C0;}}=-1]]を学ぶ』[[学校法人東海大学出版会|東海大学出版会]]、2010年 ISBN 978-4486018636</ref><ref>吉田武『[[虚数]]の情緒 中学生からの全方位独学法』東海大学出版会、2000年 ISBN 978-4486014850</ref>([[有理数#用語の由来]]も参照)。 [[画像:Square root of 2 triangle.svg|thumb|{{math|{{sqrt|2}}}} は無理数である。]] == 無理数の例 == 以下の実数は無理数である。 *[[平方数]]を除く[[平方根]]( <math>\sqrt{2}</math>、<math>\sqrt{3}</math>など) *[[整数]] {{mvar|N}} の [[冪根|{{mvar|m}} 乗根]] <math>\sqrt[m]{N}</math>(ただし、{{mvar|m}} は {{math|1}} より大きい整数、{{mvar|N}} は {{mvar|m}} 乗数でない整数) *[[対数]] {{math|log{{sub|''m''}} ''n''}}(ただし、{{math2|''m'', ''n''}} は {{math|1}} より大きい整数で、{{math2|1=''m'' = ''N{{sup|a}}'', ''n'' = ''N{{sup|b}}''}} を満たす整数 {{math2|''N'', ''a'', ''b''}} が存在しない) **{{math|log{{sub|2}} 3}} や {{math|log{{sub|2}} 5}} *[[三角関数]]の零でない有理数 {{mvar|x}} における値{{sfn|Niven|2005|page={{google books quote|id=ov-IlIEo47cC|page=21|21}}}} {{math|cos ''x''}}, {{math|sin ''x''}}, {{math|tan ''x''}}, {{math|csc ''x''}}, {{math|sec ''x''}}, {{math|ctn ''x''}} *[[円周率]] {{π}} *[[ネイピア数]] {{mvar|e}} *[[ゲルフォントの定数]] ''e''{{sup|{{π}}}} *[[アペリーの定数]] {{math|''ζ''(3)}} *小数部分が循環しない[[無限小数]]で表される数。例えば[[十進法]]における **[[チャンパーノウン定数]] 0.123456789101112…([[小数]]部分に[[自然数]]を順に並べた小数) **[[コープランド-エルデシュ定数]] 0.2357111317192329…(小数部分に[[素数]]を順に並べた小数) == 無理数判定法 == 任意の {{math|''ε'' > 0}} に対して不等式 :<math>0<\left| \alpha -\frac{p}{q} \right| <\frac{\varepsilon}{q}</math> が有理数解 {{sfrac|''p''|''q''}} を持つとき、{{mvar|α}} は無理数である。多くの無理性の証明はこれを用いている。これは {{mvar|α}} が無理数であるための必要十分条件でもある。 == 性質 == 無理数を十進[[小数]]で表記すると、繰り返しのない[[無限小数]]([[小数#非循環小数|非循環小数]])になる。これは[[位取り記数法|記数法の底]]によらず一般の ''N'' 進小数でも成り立つ。 ''α'' を無理数とすると、 :<math>\left| \alpha -\frac{p}{q} \right| <\frac{1}{q^2}</math> を満たす無限に多くの有理数 {{sfrac|''p''|''q''}} が存在する([[ディリクレのディオファントス近似定理|ディリクレの定理]])。なお、このように無理数の有理数による近似を扱う理論は[[ディオファントス近似]]と呼ばれる[[数論]]の分野に属する。 無理数全体の空間を完備とするような距離が存在する。またA-演算が自然に応用できる例でもあり、この空間は点集合論的トポロジーでは重要な対象である。 == 代数的無理数と超越数 == 無理数のうち、[[代数的数]]であるものを代数的無理数、そうでないものを[[超越数]]という。 ''α'' が代数的数、''κ'' > 2 ならば、 :<math>\left| \alpha -\frac{p}{q} \right| <\frac{1}{q^{\kappa}}</math> を満たす有理数 {{sfrac|''p''|''q''}} は有限個しかない([[トゥエ・ジーゲル・ロスの定理|トゥエ-ジーゲル-ロスの定理]])<ref>{{Cite book|和書 |author = [[ピーター・フランクル]] |year = 2001 |title = ピーターフランクルの中学生でも分かる大学生にも解けない数学問題集1 |publisher = 日本評論社 |page = 10 |id = ISBN 4-535-78262-8}}</ref>。このことは[[不定方程式]]の解の有限性を示すときに使われる。 2の平方根は代数的無理数であり、log{{sub|2}} 3, ''e'', {{π}}, ''e''{{sup|{{π}}}} といった数は超越数である。''ζ''(3) が超越数であるか否かは未だに解決されていない。 {{main|超越数}} == 無理数度 == 数 ''α'' に対して :<math>\left| \alpha -\frac{p}{q} \right| <\frac{1}{q^{\kappa}}</math> を満たす有理数 {{sfrac|''p''|''q''}} は有限個しかない、という性質を満たす ''κ'' の下限を ''α'' の'''無理数度''' ({{lang-en-short|''irrationality measure''}}) という。 有理数の無理数度は 1, ディリクレの定理およびロスの定理より代数的無理数の無理数度は 2, [[リウヴィル数]]の無理数度は ∞ である。ディリクレの定理より無理数の無理数度は全て 2 以上である。''e'' の無理数度は 2 であることが知られている。また、{{π}}の無理数度の上限は7.103程度であることがわかっている<ref>{{Citation |url= https://mathworld.wolfram.com/IrrationalityMeasure.html |title=Irrationality Measure }}</ref>。 ルベーグ測度に関してほとんど全ての数の無理数度は 2 である。 == 歴史 == 無理数の発見は[[古代ギリシア]]文明にまで遡る。一説では、無理数の発見者は古代ギリシャの大数学者、[[ピタゴラス]]の弟子であった[[ヒッパソス]]という人物であった。ヒッパソスは[[正方形]]の研究をしているうち、その辺と対角線の長さの比は整数でも分数でも表せない未知の数、すなわち無理数であることを発見したという。 彼の師匠のピタゴラスは、宇宙の万物は数から成り立つこと、そして宇宙を構成する数は、調和した比を保っていると信じていた。ピタゴラスと教団は教義の反証である無理数が存在する事実に動揺し、不都合な事実を隠すため、発見者のヒッパソスを縛りあげ、船から海に突き落として殺害したという伝承が残っている。 しかし、[[プラトン]]が現れると、彼の著書『テアイテトス』の中で平方数でない数の平方根が有理数でないことを論じ、さらに同じ論法が立方根にも適用できると述べている。これらの数学的な蓄積を受けて、[[エウクレイデス]]は『原論』の中で統一した形で実数論を展開している。 円周が円の直径の3倍より少し大きいことは古来知られていた。古代インドやギリシアの数学者たちの間では半径 ''r'' の円の面積が[[円周率]] {{π}} を使って {{π}}''r''{{sup|2}} であることも知られ、[[アルキメデス]]は半径 ''r'' の球の体積が {{sfrac|4|3}}{{π}}''r''{{sup|3}} であることや、この球の表面積が 4{{π}}''r''{{sup|2}} (その球の大円の面積の4倍)であることを示していた。円周率 {{π}} が無理数であることはすでに[[アリストテレス]]によって予想されていたが、実際に証明されたのはそれよりはるかに後の時代のことである([[ヨハン・ハインリヒ・ランベルト]])。 自然対数の底である[[ネイピア数]] ''e'' は、1618年に[[ジョン・ネイピア]]が発表した対数の研究の付録の表にその端緒があるが、定性的に研究したのは[[レオンハルト・オイラー]]である。 1872年に[[リヒャルト・デデキント]]は『連続性と無理数』を出版し、[[デデキント切断]]を用いて無理数を定義した。 [[リーマンゼータ関数]]の特殊値 ''ζ''(3) は、[[ロジェ・アペリー|アペリー]]によって1979年に無理数であることが証明された([[アペリーの定数]])。{{π}} + ''e''{{sup|{{π}}}} は、{{仮リンク|ユーリ・ヴァレンティノヴィチ・ネステレンコ|en|Yuri Valentinovich Nesterenko|label=ネステレンコ}}によって無理数であることが証明された。 == 未解決の問題 == [[オイラー定数]] ''γ'', {{π}} + ''e'', ''e''{{π}}, その他 ''P''(''e'', {{π}})(''P''(''X'', ''Y'') は ''X'', ''Y'' 双方について次数が 1 以上である多項式)は有理数であるか無理数であるか知られていない。''e{{sup|e}}'', {{π}}{{sup|''e''}}, {{π}}{{sup|{{π}}}} といった数も同様である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == *塩川宇賢:『無理数と超越数』[[森北出版]]、ISBN 978-4627060913、(1999年)。 *[[リヒャルト・デデキント|デーデキント]]『数について 連続性と数の本質』河野伊三郎訳、[[岩波書店]]、ISBN 4-00-339241-8、(1961年)。 *W. M. Schmidt, "Diophantine Approximations", Lecture Notes in Math. 785, Springer-Verlag, 1980. *W. M. Schmidt, "Diophantine approximations and diophantine equations", Lecture Notes in Math. 1467. Springer-Verlag, 1991. *R. Apéry, "Irrationalité de ζ(2) et ζ(3)", Astérisque 61(1979), 11-13. *A. van der Poorten, "A Proof that Euler Missed... Apéry's Proof of the Irrationality of ζ(3)", Math. Intel. 1 (1979), 196-203. *ジュリアン・ハヴィル、松浦俊輔(訳):「無理数の話 √2の発見から超越数の謎まで」青土社、ISBN 978-4791766758、(2012年10月24日)。 *西岡久美子:「超越数とはなにか 代数方程式の解にならない数たちの話」講談社(ブルーバックス)ISBN 978-4062579117(2015年4月21日)。 *{{cite book|title=Irrational Numbers|author=I. Niven|author-link=イヴァン・ニーベン|year=2005|publisher=The Mathematical Association of America|isbn=0-88385-038-9|ref={{sfnref|Niven|2005}}}} == 関連文献 == *高木貞治、1904「第九章 無理數」『新式算術講義』 == 関連項目 == *[[有理数]]、[[循環小数]] *[[平方根]]、[[立方根]] *[[超越数]] *[[円周率の無理性の証明]] *[[ネイピア数の無理性の証明]] *[[アペリーの定理]] *[[近似値]] == 外部リンク == {{commonscat|Irrational numbers}} *{{Wikisource-inline|新式算術講義/第九章}} *{{Wiktionary-inline|無理数}} *{{MathWorld|title=Irrational Number|urlname=IrrationalNumber}} {{数の体系}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:むりすう}} [[Category:数]] [[Category:実数]] [[Category:無理数|*]] [[Category:数論]] [[Category:初等数学]] [[Category:数学に関する記事]]
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プロジェクト杉田玄白
プロジェクト杉田玄白(プロジェクトすぎたげんぱく)は、海外のさまざまな本や文書を日本語に翻訳してオンラインで公開するプロジェクト。主宰者は山形浩生で、2000年の時点で青空文庫の翻訳版とも評価されていた。 ファイル形式はHTMLがメインで、一部にはTXTやPDFも用意されている。正式参加作品の他に、再利用に制限のある翻訳文書も協賛の形で並べられている。
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{{特筆性|ウェブ|date=2015年8月2日 (日) 17:37 (UTC)}} '''プロジェクト杉田玄白'''(プロジェクトすぎたげんぱく)は、海外のさまざまな本や文書を日本語に翻訳してオンラインで公開するプロジェクト<ref name="ITmedia">{{Cite web|和書|author=山口真弘|url=https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1012/31/news004.html|title=2010“無料”日本語電子書籍配信サイトまとめ|website=ITmedia eBook USER|date=2010-12-31|accessdate=2023-01-31}}</ref>。主宰者は[[山形浩生]]で、2000年の時点で[[青空文庫]]の翻訳版とも評価されていた<ref name="晶文社2000">[[津野海太郎]]・[[二木麻里]]編『徹底活用「オンライン読書」の挑戦』晶文社、2000年、73頁、{{ISBN|4-7949-6450-1}}</ref>。 ファイル形式は[[HTML]]がメインで、一部には[[テキストファイル|TXT]]や[[PDF]]も用意されている<ref name="ITmedia" />。正式参加作品の他に、再利用に制限のある翻訳文書も協賛の形で並べられている<ref name="ITmedia" />。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[杉田玄白]] * [[プロジェクト・グーテンベルク]] - 英語を中心とした著作権に問題のない文書や本を再利用可能な形で無料公開している。 * [[青空文庫]] - 日本語の文書や本で、著作権の満了したものを再利用可能な形で無料公開している。翻訳されたものも含む。またプロジェクト杉田玄白内の文章も一部収録している。 * [[近代デジタルライブラリー]] - 国立国会図書館の運営している電子図書館。明治・大正期の資料約14万点が公開されている。 * [[ウィキソース]] - [[ウィキメディア財団]]による電子図書館プロジェクト。 * [[Google ブックス]] - Googleが運営している電子図書館。まだ英語文献が中心になっているが、2007年時点で既に100万点以上の書籍をスキャン済み。 * [[コピーレフト]] * [[オープンコンテント]] == 外部リンク == * [http://www.genpaku.org/ プロジェクト杉田玄白] **[http://www.genpaku.org/sugitaidea.html プロジェクト杉田玄白 趣意書] *[https://cruel.org/jindex.html 山形浩生 公式サイト] {{DEFAULTSORT:ふろしえくとすきたけんはく}} [[Category:電子図書館]] [[Category:電子書籍]] [[Category:オープンコンテントプロジェクト]] [[Category:杉田玄白]]
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ギリシャ
ギリシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシア語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する共和制国家。2011年の国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は日本の約3分の1である。アテネは首都および最大都市であり、テッサロニキは第2の都市および中央マケドニアの州都である。 ギリシャの地理はヨーロッパの南東端にあり、アジアおよびアフリカとの交差点にある。バルカン半島南端に位置し、国境は北西にアルバニア、北に北マケドニア共和国とブルガリア、北東にトルコと接する。同国は9つの地理的地域からなり、マケドニア、中央ギリシャ、ペロポネソス半島、テッサリア、イピロス、ドデカネス諸島およびキクラデス諸島を含むエーゲ海諸島、西トラキア、クレタ島、イオニア諸島がこれに該当する。本土の東にはエーゲ海、西にはイオニア海、南には地中海がそれぞれ位置する。同国の多数の島嶼のうち227島には居住者がおり、海岸線は全長1万3,676キロで地中海盆地最長かつ世界第11位である。国土の80%は山岳地帯であり、オリンポス山は2,917メートルで同国最高峰である。 ギリシャの国民国家はオスマン帝国からの独立戦争後の1830年に建国されたが、同国のルーツは全西洋文明の発祥地だと考えられる古代ギリシアの文明に遡る。ギリシャ自体は民主主義、西洋哲学、近代オリンピック、西洋文学、歴史学、政治学、主要な科学的および数学的原理、悲劇や喜劇などのドラマの発祥地である。ギリシャの文化的・技術的偉業は世界に大きな影響を与え、アレクサンドロス大王の遠征を通じて東洋に影響を受けヘレニズムが形成され、ローマ帝国やそのあとの東ローマ帝国への編入により西洋に大きな影響を与えた。現代のギリシャ人のアイデンティティーはギリシャ正教により形成され、ギリシャの伝統はより広範な正教会に伝播した。ギリシャの豊富な遺産は17件の世界遺産数にも反映され、ヨーロッパや世界でも有数である。 ギリシャは民主主義かつ先進国であり、先進的な高所得経済、高度なクオリティ・オブ・ライフ、高度な生活水準を有する。一方で、数多くの資格や許認可が政治家に委ねられている構造を背景に賄賂や汚職、脱税が横行しており、汚職指数はヨーロッパの国家の中でもイタリアと並んで高いレベルにある。ギリシャ危機に象徴される根深い経済問題に悩む。 国際連合原加盟国であり、欧州連合の前身である欧州諸共同体の10番目の加盟国で、2001年以来ユーロ圏の一部である。そのほか多数の国際機関の加盟国でもあり、欧州評議会、NATO、OECD、OSCE、WTOがこれに該当する。ギリシャは世界有数の海運国および観光立国であり、バルカン半島最大の経済規模を有し、重要な地域投資国である。 公式名称は ギリシア語: Ελληνική Δημοκρατία, Ellinikí Dimokratía, [eliniˈci ðimokraˈti.a] (聞く) エリニキ ディモクラティア, 英語: Hellenic Republic。 ギリシア語: Ελλάδα [ɛˈlaða] ( 音声ファイル) エラダは、古代ギリシア語: Ἑλλάς ヘッラス に由来する(正式名称中の Ελληνική の部分は形容詞形)。ヘッラスはホメーロスではテッサリアの一都市またはプティア地方を指すにすぎなかったが、のちにギリシアそのものを指すようになった。 西洋の諸言語はラテン語: Graeciaに由来する形を持つ。Graecia自体はGraeci(ギリシア人)の土地という意味で、これ自体古代ギリシア人の自称のひとつ、Γραικοί グライコイの借用である。これも本来はギリシア全体ではなく一地方名であったらしいが、それがどこであったかはよくわかっていない。ローマ人はこの語をエトルリア人経由で借用した。 中東の諸言語での呼称、たとえばアラビア語の اليونان (al-Yūnān 、アル=ユーナーン)、ヘブライ語の יוון (Yaván 、ヤヴァン)、トルコ語の Yunanistan (ユナニスタン)などは、すべてイオニアに由来する。 日本語による公式名称はギリシャ共和国で通称はギリシャまたはギリシア。国会の制定法や外務省、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される一方、人文系の世界ではギリシアと表記されることが多い。ギリシャあるいはギリシアという名称は、ポルトガル語Gréciaに由来し、古くは「ゲレシヤ」といったが、明治以降に「ギリシヤ」に変化した。中国語では希臘(シーラ)と表記するが、これは古代ギリシア語「Ἑλλάς」(ヘッラス)に由来する。日本語での漢字表記も同じく希臘で略称は希となる。 古代のギリシャはアテナイ、スパルタ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が各地域に成立しており、ギリシャ全体としては言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体で、マケドニア王国に征服されるまでギリシャ統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀にアケメネス朝(ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後、アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでギリシア全体に渡るペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀半ばにマケドニアのピリッポス2世がカイロネイアの戦いに勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主としたヘラス同盟(コリント同盟)に属することとなる。ギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍し、長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。 大王死後、マケドニアを支配したアンティゴノス朝と対抗。この時期にピュロス(エペイロス王)らが活躍した。やがてアカイア同盟を結成して共和政ローマと手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、紀元前146年にローマ軍に敗北、コリントスの破壊とともにローマ属州アカエアとされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。 395年にローマ帝国が東西に分裂したあとは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属した。 7世紀以降の東ローマ帝国はギリシア語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシア語を母語とする民族が中心となっていったが、彼ら自身は自分をギリシャ人とみなさず、「ローマ人(ロマイオイ/ロメイ)」と称した。東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという)。ただ、東ローマ帝国の中心地はアナトリア・トラキア・マケドニアであり、現在のギリシャにあたる部分は、スラブ人の侵入と移住、アラブ勢力の来襲やブルガリア帝国やノルマン王国といった外部勢力の攻撃が相次ぎ、帝都コンスタンティノープルからは辺境地域とみなされていた(ただしテッサロニキはスラヴ人の侵入でも陥落せず、人口数万人を擁して栄えた、帝国第二の都市であった。)。 1204年に第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも十字軍が侵入してきた。12世紀末のコムネノス王朝末期以降、東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人の多くは混乱を収め、安定をもたらすものとして十字軍を歓迎した。このため、アテネ公国などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。ほかには東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国や、ブルガリア帝国、セルビア王国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。 アナトリアに逃れたギリシャ系の東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国により1261年に東ローマ帝国は再建されたが、以前より力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついてギリシアやアナトリでは14世紀以降イスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていった。 1453年のコンスタンティノープル陥落によって東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノープルに遷都し、369年間のオスマン帝国による統治が続いた。 一方で、オスマン帝国に支配されなかった地域もある。東ローマ帝国滅亡後も、イオニア諸島は1797年までヴェネツィア共和国の領土であり、その後も1800年にイオニア七島連邦国、1815年にイオニア諸島合衆国が成立している。そのほかにも、1669年までのクレタ島、1686年から1715年までのペロポネソス半島もヴェネツィア領であった。 1821年にオデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、1829年、アドリアノープル条約によってギリシャ独立が承認された。1832年、バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王に据えギリシャ王国として独立し、コンスタンティノープル陥落以来379年ぶり、古代ギリシャ滅亡から考えると約1900年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。 その後は汎ギリシャ主義(メガリ・イデア)を標榜し、1897年にはトルコに侵攻(希土戦争)し敗北するも、第一次世界大戦直前の1912年から1913年にはバルカン戦争で勝利し、クレタ島をトルコから奪取した。 1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど反人種差別を表明した。1919年 - 1922年にセーヴル条約を押しつけるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、(希土戦争)ムスタファ・ケマル・パシャが率いるトルコ軍に敗退した。1924年にクーデターにより共和制のギリシャ第二共和政となるが、1935年には王政(ギリシャ王国、1935年 - 1941年)が復活し、国王ゲオルギオス2世の強権発動によって極右政党党首イオアニス・メタクサスが陸軍大臣に任命されていたが、1936年4月12日に暫定首相デメルジスが死去したことに伴い首相に就任。1936年8月4日にメタクサスがクーデターを起こし八月四日体制(1936年 - 1941年)と呼ばれる独裁体制となった。 第二次世界大戦では枢軸国と敵対し、ナチス・ドイツおよびイタリア、ブルガリアの侵攻にあい(ギリシャ・イタリア戦争)、戦いの最中にメタクサスが病死、王室と政府はイギリスに亡命した。1941年4月のギリシャの戦いに敗れ、ギリシャ本土はドイツ・イタリア・ブルガリアの3国による分割占領状態におかれ、傀儡国家ギリシャ国(1941年 - 1944年)体制になった。大戦中、占領軍に対するレジスタンス運動を主導した共産主義左派ギリシャ共産党(KKE)に支援されたギリシャ人民解放軍(英語版)(ELAS)、対立する反共共和主義者のパルチザンギリシャ民族共和同盟(英語版)(EDES)の三つ巴の戦いとなった。さらにナチスによるロマニオットやセファルディムに対するホロコーストが行われた。 ギリシャが枢軸国軍から解放され亡命政府が帰還したあと、1944年12月3日に十二月事件(ギリシア語版)が起き、共産主義左派と王党派右派の間で対立が先鋭化すると、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が「ギリシャ民主軍(英語版)(共産主義者民主主義軍)」というゲリラ部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が王党派右派政府の全面的な支援に乗り出したことと(マーシャル・プラン)、1948年以降ユーゴスラビアとソ連が対立し、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したため、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。 1950年に行われた総選挙の結果、保守連立政権が発足するが政局は安定せず、翌年(1951年)に選挙制度を最大与党に有利に改正して行われた選挙によってようやく政局は安定した。1952年に北大西洋条約機構(NATO)へ加盟、1953年に隣国のユーゴスラビアおよびトルコとの間に三国親善条約と同盟条約が結ばれ、外交的にもようやくの安定をみた。 1950年代の後半になると、キプロスをめぐってトルコとの対立が激化するが、ギリシャ自体は順調な経済成長を続け、1951年から1964年の間に国民平均所得はほぼ4倍になった。 国王と対立した首相コンスタンディノス・カラマンリスの辞任をきっかけに総選挙が行われ、中道勢力と左派勢力が躍進、一旦は中道連合(EK)を率いるゲオルギオス・パパンドレウが首相に任命されるが、他党との連立を拒んだパパンドレウは再び総選挙を行い、1964年、中道連合(EK)は過半数を獲得した。パパンドレウ政権は教育制度改革などの内政面で功績を挙げるが、軍の制度改革に失敗してパパンドレウは国王コンスタンティノス2世によって首相辞任を要求された。 国王はアメリカ合衆国の支援のもとに中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、1967年、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校、スティリアノス・パッタコス(英語版)准将、ゲオルギオス・パパドプロス大佐、ニコラオス・マカレゾス(英語版)大佐を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。 1968年には憲法が改正され軍事独裁政権が確立する。軍部は国内の批判勢力に対して激しい弾圧を行い、前首相パパンドレウを始めとして多数の著名人を国外に追放した。欧州各国からは軍部独裁政権に対して厳しい批判が向けられたが、ギリシャは地勢的にNATOの要であるとしてアメリカが軍事独裁政権を擁護・支援したため、ギリシャに対して実効性のある圧力が加えられることはなかった。 1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対する国民の不満が増大し、学生による大規模なデモなどの抗議行動が活発化する。軍事独裁政権の首班であったゲオルギオス・パパドプロスは大統領制を導入するなどの政策を行うが、国内経済が回復しないこともあって国民の抗議行動は収まらず、1973年、学生デモ隊による大学占拠に対して実力鎮圧を行った結果多数の死傷者を出したことで独裁政権の基盤が揺らぎ、パパドプロスの腹心で秘密警察長官であるディミトリオス・イオアニディス(英語版)がクーデターを起こし、パパドプロスは失脚した。その後、パパドプロス政権の閣僚であったフェドン・キジキスが名目上の大統領に選ばれて軍部の独裁体制は続くが、1974年に軍事政権が支援したキプロスでのクーデターは、大統領マカリオス3世の身柄確保に失敗した挙句、トルコ系住民の保護を口実にトルコ軍がキプロス島に上陸する事態となり、海軍と空軍が陸軍と秘密警察に対して態度を硬化させる。結果、軍事政権の中核を占めていた陸軍と秘密警察は孤立し、軍部の独裁体制は崩壊した。 このように政治的には混乱と弾圧の続いた軍部独裁時代ではあったが、マーシャル・プランほかの欧米各国による経済支援策と、外国資本の積極的な誘致を背景に、戦争とその後の内戦によって壊滅的な打撃を受けた国内インフラを復興させるための大規模な国内投資により、戦後のギリシャ経済は軍事独裁政権の崩壊まで非常に高い経済成長率を誇った。この高成長時代は「ギリシャの奇跡」と呼ばれる。 キジキス大統領は国内の諸政治勢力と協議してフランスへ亡命していたコンスタンディノス・カラマンリス元首相に帰国を要請、帰国したカラマンリスを首相に指名した。 1974年11月11日に行われた軍事政権崩壊後初の選挙の結果、カラマンリス元首相率いる新民主主義党が多数の議席を獲得して与党となり、次いで行われた国民投票により君主制は廃止され共和制への移行が決定した(ギリシャにおける民主主義の回復については、活動的な役割を担ったアレクサンドロス・パナグリスも参照)。 1975年には憲法が再改正され、1977年の選挙の結果左派勢力の伸長があったものの政局の混乱は発生せず、ギリシャの政局は以後安定化する。1981年に欧州共同体(EC)の10番目の加盟国となった。 1980年代には全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が選挙の結果過半数を確保して与党となり、社会主義政権が誕生した。アンドレアス・パパンドレウ(英語版)はNATOと欧州共同体(EC)への加盟に懐疑的で、西側諸国を「帝国主義国家」と呼ぶほど親ソ派であったが、大きな外交政策の変更は行われず、NATOとECへの加盟は続行されたままギリシャは引き続き西側諸国の一員として冷戦の終結を迎える。 2004年には1896年以来108年ぶりに首都アテネにおいて2回目の夏季オリンピック(第28回アテネ大会)が開催された。それに先立つ2001年にはユーロ導入も実現したが、工業生産力が西欧諸国と比較して小さいギリシャの経済は脆弱で、2010年には統計操作による巨額の財政赤字隠蔽が発覚したことから、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機へと発展した(2010年欧州ソブリン危機)。 2020年、新型コロナウイルスの感染が拡大。同年末までに2回のロックダウンが実施された。 国家体制として共和制・議院内閣制を採用している。 大統領が国家元首として儀礼的な責務にあたる。大統領は任期5年で議会により選出される。 現大統領は2020年3月13日に就任したカテリナ・サケラロプル。行政府の長である首相は議会によって選出され大統領により任命される。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。 立法府たるギリシャ議会(Vouli ton Ellinon)は一院制で、300議席、任期4年。比例代表制によって選出される。 70年代の民主化以降、中道右派の新民主主義党(ND)と中道左派の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が二大政党として交代で政権を担当する期間が続いた。財政危機を受けた2012年の選挙では、二大政党は得票を落とし、極左の急進左派連合(SYRIZA)とギリシャ共産党 (KKE)、中道右派の独立ギリシャ人(ANEL)、極右の黄金の夜明けが伸長した。2015年の選挙で緊縮受け入れに反対した極左のSYRIZAが第一党となり、ツィプラス政権が誕生した。しかし、SYRIZAは公約違反を繰り返したため支持率は下落し、2019年7月の選挙では,今まで最大野党であった中道右派の新民主主義党(ND)が39.9%の得票で、単独過半数となる158議席を獲得した。NDのミツォタキス党首が新首相に就任し、SYRIZAは下野した。 失業率が世界的に見ても極めて高く、常に50%を超えている。また、政界における腐敗の問題も指摘されている。 周辺国との関係では、キプロスの帰属問題でトルコとは対立関係にある。2010年代半ば以降、ヨーロッパを目指すシリアやアフガニスタン、イラクなどから移民や難民がトルコ経由で押し寄せることから、国境安全保障上の観点でトルコとの国境沿いに長さ40キロにも及ぶ壁を建設、2021年8月工事が完了した。 ギリシャ民族の国家であったマケドニア王国やギリシャ国内のマケドニア地方と同じ名を名乗るスラヴ系のマケドニア共和国とも対立状態にあったが、マケドニア共和国が国名を北マケドニア共和国に変更したため、両国の対立状態は薄れている。 2021年現在、371人のギリシャ人が日本に住んでいる。詳細は在日ギリシャ人を参照。 ギリシャ軍(ギリシャぐん、ギリシア語: Eλληνικές Ένοπλες Δυνάμεις)は、ギリシャ陸軍、ギリシャ海軍、ギリシャ空軍の3軍で構成されるギリシャ共和国の軍隊。管理・運営はギリシャ国防省が担当している。ギリシャは欧州連合(EU)および北大西洋条約機構(NATO)の加盟国であり、アフガニスタンのISAF、ボスニアとチャドのEUFOR、コソボのKFORなど国際平和維持活動にも積極的に参加している。 ギリシャの国土は4つの地方に分かれる。 ギリシャの国土は山がちである。ピンドス山脈には2,000メートルを超える峰がいくつもあり、北東のブルガリア国境にはロドピ山脈が東西に伸びる。ギリシャの最高峰オリンポス山(2,917メートル)はどちらの山脈にも属さず、東西、南北とも15キロにわたって広がる独立した山塊となっている。平原からそびえ立ち、山頂に雪を帯びたオリンポス山の姿は古代から神聖視されてきた。 ほぼ全土がケッペンの気候区分でいう地中海性気候(Cs)に区分される。したがって、温暖で湿潤な冬季と乾燥し高温の夏季にはっきり分かれる。首都アテネの平均気温は、冬季の1月が10.1°C、夏季の7月では28.0°Cである。年平均降水量は383.8ミリで、これは同じ地中海性気候に分類されるローマの約2分の1と少ない。なお、最北部は山岳地帯であり、冬季に気温が下がる温暖湿潤気候(Cfa)に分類される。 全土は、13のペリフェリア(地方)、74のペリフェリアキ・エノティタ(県)、325のディモス(市)に区画されている。ギリシャ共和国の主権の下に属する特殊な地域として、修道士による自治が行われているアトス自治修道士共和国(アトス山)がある。 (14). アトス自治修道士共和国(アトス山) IMFの統計によると、2013年の国内総生産(GDP)は2,418億ドルであり、神奈川県よりやや小さい経済規模である(なお、神奈川県の人口はギリシャの全人口の82%ほどである)。同年の1人あたりの名目GDPは2万1,857ドルであり、世界平均の2倍を越えている。バルカン半島の国家の中では経済的にもっとも豊かな国であり、1人あたりの名目GDPはルーマニアやトルコの約2倍、アルバニアの約5倍である。2008年には1人あたりの名目GDPは3万ドルを超えていたが、近年は不況と財政問題で下落している。 主力産業は農業、鉱業、工業、輸送業(おもに海運業)、観光業。農業では世界第3位の生産量であるオリーブ(200万トン)や世界8位の綿、同10位の葉タバコが際立つ。いずれも地中海性気候に合った作物である。しかしながら小麦やトウモロコシなど主食となる穀物の生産は振るわず、食料を自給できていない。 鉱業では石炭が有力。石炭の統計は品位別に分かれており、低品位でおもに燃料に用いる亜炭・褐炭では世界第4位(6,600万トン)である。マグネシウム鉱にも富み、鉄、ニッケル、ボーキサイト、原油、天然ガスなど、生産量は少ないながら10種類以上の主要鉱物が見られる。 古代から地中海一帯で貿易を展開してきた歴史があるせいか、オナシス家、ニアルコス家、ラティス家、マルチノス家、ロス家、クルクンディス家、リバノス家と海運王が多く、輸送業の中心は船舶であり、船舶保有量は世界第4位の2,870万総トンに及ぶ。一般貨物船は船舶保有量(総トン)の3%と少なく、オイルタンカー、鉱石や穀物用のばら積み船が80%以上を占める。このような比率は船舶保有量上位10か国には見られない特異な傾向である。ギリシャ人船主はパナマ(世界第1位)やキプロス(世界第6位)など税制優遇措置を利用できる国に自らの船を登録することも多く、実態を反映していない可能性がある。ギリシャには輸出できる製品が少ないため、貿易赤字が続いている。 数多くの古代ギリシャや東ローマ時代の遺跡・遺構、エーゲ海の風光明媚な島々などの観光資源も多く、観光も重要な産業となっており、海運業、移民からの送金と観光業でギリシャの3大収入源となっている。オリンピックの開催地アテネでアテネオリンピックが開催された2004年の時点でギリシャ総労働者数の16,5%、約66万件が何らかの形で観光業に携わっており、さらにそれまでギリシャ観光を統括していたギリシャ政府観光局の上の組織として観光省が新設された。 100億ドルの輸出に対し、輸入は300億ドルであり、慢性的な貿易赤字が続いている。しかしながら、輸送業、観光業などによって貿易赤字をほぼ充当できている。主要輸出品目は、衣料、果実、石油製品である。これらに次いでアルミニウムの輸出が多いことが特徴である。主要輸出相手国は、ドイツ、イタリア、イギリス。主要輸入品目は、原油、機械類、電気機械である。主要輸入相手国はドイツ、イタリア、フランス。 日本との貿易関係は、日本に対してナフサ、葉タバコ、貴金属製品を輸出し、乗用車、タンカー、貨物船を輸入するというものである。このことから、ギリシャの石油化学工業や軽工業が機能しており、輸送業に必要な船舶を自前で調達していることが分かる。なお大理石の輸出も日本への輸出額の4.2%を占めている。 1980年代に入ると、ギリシャの道路、鉄道はかなりの部分が近代化された。この中での重要な箇所にはギリシャ北西部(イグメニツァ)とギリシャ北東部を結ぶギリシャのエグナシア・ハイウェイ (en) が含まれている。リオン・アンティリオン橋(ヨーロッパでもっとも長い斜張橋、総距離は2,252メートル)は中央ギリシャのアンティリオン (en) とペロポネソス半島のリオン (en) (パトラから7キロ)を結んでいる。ペロポネソス半島西部のピルゴス (en) へ続く、パトラ・アテネ高速道路の延長は2014年までに完成される予定となっている。 首都であるアテネの都市圏では2001年に新たにアテネ国際空港が開港し、さらに郊外を走る新たな民間の高速道路であるアッティキ・ハイウェイ (en) が2001年に開通した。そして2000年以降、アテネ地下鉄が拡張された。 ギリシャの島嶼部と主要都市の多くはギリシャの2大航空会社、オリンピック航空とエーゲ航空によって結ばれている。航路は水中翼船、カタマラン(双胴船)を含む最新の高速船で運航されている。ほかのヨーロッパ諸国では重要な位置を占めている鉄道はギリシャでは主要地位ではない。しかし、アテネオリンピックを契機に近郊鉄道プロアスティアコスがアテネ都市圏に新たに開設される、ギリシャ国鉄のアテネ駅とテッサロニキ新駅間の幹線路線も複線電化されるなど、鉄道インフラのスクラップアンドビルドが斬新的に進められている。 かつてはアテネやテッサロニキからほかのヨーロッパ諸国、バルカン諸国、トルコへ直通する列車が運行されていたが、2010年欧州ソブリン危機により国鉄の経営が圧迫されたため、国際列車が全面運休となったこともある。その後、限定的な運行が再開され、2014年夏ダイヤではテッサロニキ新駅よりブルガリアとマケドニア・セルビア方面の一部列車が運行している。また、ペロポネソス半島内の鉄道路線(ペロポネソス狭軌鉄道)は、改軌されたプロアスティアコスの路線など一部を除き、2014年現在、全面運休が続いている。 ギリシャの公式統計機関であるギリシャ国立統計局(英語版)(NSSG)の発表によれば、2001年のギリシャの全人口は1,096万4,020人である。内訳は男性542万7,682人、女性553万6,338人であった。1971年、1981年、2001年とギリシャの人口統計は過去数十年行われることがなかった。 2013年の合計特殊出生率は1.30人と、少子高齢化が進む。2003年の出生率は1,000人に対して9.5人(1981年は1,000人に対して14.5人)であった。同時に死亡率は1981年の1,000人に対して8.9%であったのが、2003年には1,000人に対して9.6%と増加している。2001年の時点で65歳以上の高齢者は16.71%、15歳から64歳までが68.12%、14歳以下が15.18%であった。 ギリシャ社会は時を経るとともに急激に変化した。婚姻率は1981年の1,000人に対して71%から2002年まで低下し続けていたが、2003年にはわずかに増加して61%となったものの、2004年、再び低下して51%となった。一方で離婚率は増加しており、1991年の時点で1,000組に対して191.12件であったが、2004年には1,000組に対して239.5組となっている。ギリシャ人のほぼ3分の2が市街地に居住しており、2001年のギリシャ最大自治体はアテネ、テッサロニキ、ピレウス、パトラ、イラクリオン、ラリサ、ヴォロスであった。 ギリシャ人が98%、ほかにアルーマニア人、トルコ系、ユダヤ系、アルバニア人。 主たる言語はギリシア語であり、北部と南部とで方言がある。北方国境ではスラヴ諸語話者(英語版)もいる。 ギリシャ人は長男に父方の祖父の名をつけるなどの習慣があるが、姓が普及したのは、有力貴族が成長してきた9世紀の東ローマ帝国時代以降のことである。婚姻の際に姓が変わることはない(夫婦別姓)が、社会的な関係においては、配偶者が同意した場合のみ配偶者の姓を用いる、あるいはその姓に自己の姓を付加して使用することが認められている。 主たる宗教は、キリスト教正教会に属するアテネ大主教の管掌下にあるギリシャ正教会である。ただし、クレタ島とアトス山だけはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。少数派としてはイスラム教やカトリックのほか、ネオペイガニズム運動のひとつとして古代ギリシア神話の神々を信仰する「ギリシア多神教復興運動(英語版)」が存在する。 平均寿命は81.4歳。かつてはユニバーサルヘルスケアが実現されていたが、国家経済破綻のため2013年には加入率79.9%に転落し、長期失業者や保険に加入しない自営業者が発生した。 19世紀末から20世紀を通じて、何百万人ものギリシャ人がアメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、イギリス、ドイツなどへ移住し、各地でギリシャ移民らは成功を収めた。特にオーストラリアのメルボルンには、ギリシャ人移民が多く、その数はギリシャ国内のアテネ(75万人)、テッサロニキ(32万人)に次ぐ。 この海外移住傾向は1980年代以降、ギリシャ経済の重要な改善のあと収まりつつあったが、2010年からのギリシャの経済危機により、再び海外への移民が増えている。 ギリシャは欧州でかつて「比較的治安の良好な国」と評されていたが、経済状況の悪化や失業率の増加などから労働組合などによるデモならびストライキが多発している他、不法移民などによる犯罪も発生しており、非常に不安定な状況に陥っている。 特に都市部の地下鉄や観光地では、スリなどの被害が多発していることや荷物の窃盗(液体をかけたり声をかけて気をそらせ、荷物を盗む手口)事案の多さから最大限の注意が必要とされている。 傍らで汚職問題も深刻なものとなっており、ギリシャ市民が公務員や民間企業に賄賂を贈る行為「ファケラキ(英語版)」が問題視されている。 現地警察(英語版)をはじめ、憲兵隊と国境警備隊ならび特別警察(英語版)(かつては都市警察(ギリシア語版、英語版)が担当)が主体となっている。 ギリシャ国内には外国人の移民もいるが、彼らは正式な書類を持たない不法移民が多い。ギリシャでは人種差別的な攻撃に関して有罪判決が下ることはほとんどなく、人種差別が横行している。ギリシャの経済危機があってから、彼ら移民はギリシャ人の不満のはけ口にされており、特に攻撃にさらされている。 ギリシャ当局も不法移民には厳しい態度で当たっており、国連難民高等弁務官事務所によれば、ギリシャの警察は海上で不法入国をする難民を乗せた船を見かけた場合、移民を乗せた船を引っ張ってトルコなどに「押し戻す」行為が行われているという。これにより船が転覆、死亡する者も出ているが、ギリシャはこれを否定している。 また、不法移民を収容する施設は過密状態で不衛生であり、さらに勾留期限は無期限となっている。 紀元前からギリシャは哲学や文化、芸術にさまざまな影響を与えてきた。その影響力の大きさから、ギリシャは「ヨーロッパ文化のゆりかご」と称されることもある。 ギリシャの料理は地中海料理であるが、西方のイタリア料理のみならずトルコ料理やレバノン料理などの東方の地中海料理との共通点も多い。これは、東ローマ帝国やオスマン帝国といった歴史に由来する。 新大陸に原産地とされて以降食として加えられるトマトや他の野菜を多彩に使用する点が特徴とされているが、これは一定期間肉食を禁じられるというギリシャ正教会における戒律にある。また地中海に面するため、タコやイカ、そして魚介類なども使用する。ギリシャの代表的な料理として、タラモサラタやムサカ、ピキリア、ドルマなどがある。 ギリシャ料理は2010年に、イタリア料理やスペイン料理、モロッコ料理とともに『地中海の食事』としてユネスコの無形文化遺産に登録されている。 ギリシャ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産は15件、複合遺産は2件の全17件が存在する。 ギリシャはオリンピック発祥の地である。そのため選手団は近代オリンピックの開会式で常に1番目の入場国となっている。ギリシャではこれまでに第1回大会の1896年アテネオリンピックと、108年ぶり2度目の開催となった2004年アテネオリンピックが行われている。しかし、未だに冬季オリンピックの開催経験はない。 ギリシャ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1927年にサッカーリーグのギリシャ・スーパーリーグが創設された。主なクラブとしては、オリンピアコス、パナシナイコス、AEKアテネ、PAOKなどが挙げられる。 ギリシャサッカー連盟(HFF)によって構成されるサッカーギリシャ代表は、UEFA欧州選手権には4度出場しており2004年大会では悲願の初優勝を果たしている。FIFAワールドカップには1994年大会、2010年大会、2014年大会の3度出場しており、2014年のブラジル大会ではグループリーグを初めて突破しベスト16に進出した。 著名な選手としては、ドイツ・ブンデスリーガで2006-07シーズンに得点王となったテオファニス・ゲカスをはじめ、ヨアニス・アマナティディス、ソクラティス・パパスタソプーロス、コスタス・マノラスなどが存在する。 ギリシャではサッカーの次にバスケットボールが盛んであり、ギリシャバスケットボール連盟によってバスケットボールギリシャ代表が組織されている。日本開催となった2006年世界選手権では、NBAでプレーする選手が不在の中でドリームチームを下すなどして準優勝の成績を収めた。さらにユーロバスケットでは、1987年大会と2005年大会で2度の優勝に輝いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ギリシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシア語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する共和制国家。2011年の国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は日本の約3分の1である。アテネは首都および最大都市であり、テッサロニキは第2の都市および中央マケドニアの州都である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "ギリシャの地理はヨーロッパの南東端にあり、アジアおよびアフリカとの交差点にある。バルカン半島南端に位置し、国境は北西にアルバニア、北に北マケドニア共和国とブルガリア、北東にトルコと接する。同国は9つの地理的地域からなり、マケドニア、中央ギリシャ、ペロポネソス半島、テッサリア、イピロス、ドデカネス諸島およびキクラデス諸島を含むエーゲ海諸島、西トラキア、クレタ島、イオニア諸島がこれに該当する。本土の東にはエーゲ海、西にはイオニア海、南には地中海がそれぞれ位置する。同国の多数の島嶼のうち227島には居住者がおり、海岸線は全長1万3,676キロで地中海盆地最長かつ世界第11位である。国土の80%は山岳地帯であり、オリンポス山は2,917メートルで同国最高峰である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ギリシャの国民国家はオスマン帝国からの独立戦争後の1830年に建国されたが、同国のルーツは全西洋文明の発祥地だと考えられる古代ギリシアの文明に遡る。ギリシャ自体は民主主義、西洋哲学、近代オリンピック、西洋文学、歴史学、政治学、主要な科学的および数学的原理、悲劇や喜劇などのドラマの発祥地である。ギリシャの文化的・技術的偉業は世界に大きな影響を与え、アレクサンドロス大王の遠征を通じて東洋に影響を受けヘレニズムが形成され、ローマ帝国やそのあとの東ローマ帝国への編入により西洋に大きな影響を与えた。現代のギリシャ人のアイデンティティーはギリシャ正教により形成され、ギリシャの伝統はより広範な正教会に伝播した。ギリシャの豊富な遺産は17件の世界遺産数にも反映され、ヨーロッパや世界でも有数である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ギリシャは民主主義かつ先進国であり、先進的な高所得経済、高度なクオリティ・オブ・ライフ、高度な生活水準を有する。一方で、数多くの資格や許認可が政治家に委ねられている構造を背景に賄賂や汚職、脱税が横行しており、汚職指数はヨーロッパの国家の中でもイタリアと並んで高いレベルにある。ギリシャ危機に象徴される根深い経済問題に悩む。 国際連合原加盟国であり、欧州連合の前身である欧州諸共同体の10番目の加盟国で、2001年以来ユーロ圏の一部である。そのほか多数の国際機関の加盟国でもあり、欧州評議会、NATO、OECD、OSCE、WTOがこれに該当する。ギリシャは世界有数の海運国および観光立国であり、バルカン半島最大の経済規模を有し、重要な地域投資国である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "公式名称は ギリシア語: Ελληνική Δημοκρατία, Ellinikí Dimokratía, [eliniˈci ðimokraˈti.a] (聞く) エリニキ ディモクラティア, 英語: Hellenic Republic。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ギリシア語: Ελλάδα [ɛˈlaða] ( 音声ファイル) エラダは、古代ギリシア語: Ἑλλάς ヘッラス に由来する(正式名称中の Ελληνική の部分は形容詞形)。ヘッラスはホメーロスではテッサリアの一都市またはプティア地方を指すにすぎなかったが、のちにギリシアそのものを指すようになった。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西洋の諸言語はラテン語: Graeciaに由来する形を持つ。Graecia自体はGraeci(ギリシア人)の土地という意味で、これ自体古代ギリシア人の自称のひとつ、Γραικοί グライコイの借用である。これも本来はギリシア全体ではなく一地方名であったらしいが、それがどこであったかはよくわかっていない。ローマ人はこの語をエトルリア人経由で借用した。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "中東の諸言語での呼称、たとえばアラビア語の اليونان (al-Yūnān 、アル=ユーナーン)、ヘブライ語の יוון (Yaván 、ヤヴァン)、トルコ語の Yunanistan (ユナニスタン)などは、すべてイオニアに由来する。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本語による公式名称はギリシャ共和国で通称はギリシャまたはギリシア。国会の制定法や外務省、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される一方、人文系の世界ではギリシアと表記されることが多い。ギリシャあるいはギリシアという名称は、ポルトガル語Gréciaに由来し、古くは「ゲレシヤ」といったが、明治以降に「ギリシヤ」に変化した。中国語では希臘(シーラ)と表記するが、これは古代ギリシア語「Ἑλλάς」(ヘッラス)に由来する。日本語での漢字表記も同じく希臘で略称は希となる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "古代のギリシャはアテナイ、スパルタ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が各地域に成立しており、ギリシャ全体としては言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体で、マケドニア王国に征服されるまでギリシャ統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀にアケメネス朝(ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後、アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでギリシア全体に渡るペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀半ばにマケドニアのピリッポス2世がカイロネイアの戦いに勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主としたヘラス同盟(コリント同盟)に属することとなる。ギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍し、長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "大王死後、マケドニアを支配したアンティゴノス朝と対抗。この時期にピュロス(エペイロス王)らが活躍した。やがてアカイア同盟を結成して共和政ローマと手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、紀元前146年にローマ軍に敗北、コリントスの破壊とともにローマ属州アカエアとされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "395年にローマ帝国が東西に分裂したあとは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "7世紀以降の東ローマ帝国はギリシア語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシア語を母語とする民族が中心となっていったが、彼ら自身は自分をギリシャ人とみなさず、「ローマ人(ロマイオイ/ロメイ)」と称した。東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという)。ただ、東ローマ帝国の中心地はアナトリア・トラキア・マケドニアであり、現在のギリシャにあたる部分は、スラブ人の侵入と移住、アラブ勢力の来襲やブルガリア帝国やノルマン王国といった外部勢力の攻撃が相次ぎ、帝都コンスタンティノープルからは辺境地域とみなされていた(ただしテッサロニキはスラヴ人の侵入でも陥落せず、人口数万人を擁して栄えた、帝国第二の都市であった。)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1204年に第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも十字軍が侵入してきた。12世紀末のコムネノス王朝末期以降、東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人の多くは混乱を収め、安定をもたらすものとして十字軍を歓迎した。このため、アテネ公国などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。ほかには東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国や、ブルガリア帝国、セルビア王国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アナトリアに逃れたギリシャ系の東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国により1261年に東ローマ帝国は再建されたが、以前より力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついてギリシアやアナトリでは14世紀以降イスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1453年のコンスタンティノープル陥落によって東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノープルに遷都し、369年間のオスマン帝国による統治が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方で、オスマン帝国に支配されなかった地域もある。東ローマ帝国滅亡後も、イオニア諸島は1797年までヴェネツィア共和国の領土であり、その後も1800年にイオニア七島連邦国、1815年にイオニア諸島合衆国が成立している。そのほかにも、1669年までのクレタ島、1686年から1715年までのペロポネソス半島もヴェネツィア領であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1821年にオデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、1829年、アドリアノープル条約によってギリシャ独立が承認された。1832年、バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王に据えギリシャ王国として独立し、コンスタンティノープル陥落以来379年ぶり、古代ギリシャ滅亡から考えると約1900年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後は汎ギリシャ主義(メガリ・イデア)を標榜し、1897年にはトルコに侵攻(希土戦争)し敗北するも、第一次世界大戦直前の1912年から1913年にはバルカン戦争で勝利し、クレタ島をトルコから奪取した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど反人種差別を表明した。1919年 - 1922年にセーヴル条約を押しつけるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、(希土戦争)ムスタファ・ケマル・パシャが率いるトルコ軍に敗退した。1924年にクーデターにより共和制のギリシャ第二共和政となるが、1935年には王政(ギリシャ王国、1935年 - 1941年)が復活し、国王ゲオルギオス2世の強権発動によって極右政党党首イオアニス・メタクサスが陸軍大臣に任命されていたが、1936年4月12日に暫定首相デメルジスが死去したことに伴い首相に就任。1936年8月4日にメタクサスがクーデターを起こし八月四日体制(1936年 - 1941年)と呼ばれる独裁体制となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦では枢軸国と敵対し、ナチス・ドイツおよびイタリア、ブルガリアの侵攻にあい(ギリシャ・イタリア戦争)、戦いの最中にメタクサスが病死、王室と政府はイギリスに亡命した。1941年4月のギリシャの戦いに敗れ、ギリシャ本土はドイツ・イタリア・ブルガリアの3国による分割占領状態におかれ、傀儡国家ギリシャ国(1941年 - 1944年)体制になった。大戦中、占領軍に対するレジスタンス運動を主導した共産主義左派ギリシャ共産党(KKE)に支援されたギリシャ人民解放軍(英語版)(ELAS)、対立する反共共和主義者のパルチザンギリシャ民族共和同盟(英語版)(EDES)の三つ巴の戦いとなった。さらにナチスによるロマニオットやセファルディムに対するホロコーストが行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ギリシャが枢軸国軍から解放され亡命政府が帰還したあと、1944年12月3日に十二月事件(ギリシア語版)が起き、共産主義左派と王党派右派の間で対立が先鋭化すると、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が「ギリシャ民主軍(英語版)(共産主義者民主主義軍)」というゲリラ部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が王党派右派政府の全面的な支援に乗り出したことと(マーシャル・プラン)、1948年以降ユーゴスラビアとソ連が対立し、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したため、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1950年に行われた総選挙の結果、保守連立政権が発足するが政局は安定せず、翌年(1951年)に選挙制度を最大与党に有利に改正して行われた選挙によってようやく政局は安定した。1952年に北大西洋条約機構(NATO)へ加盟、1953年に隣国のユーゴスラビアおよびトルコとの間に三国親善条約と同盟条約が結ばれ、外交的にもようやくの安定をみた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1950年代の後半になると、キプロスをめぐってトルコとの対立が激化するが、ギリシャ自体は順調な経済成長を続け、1951年から1964年の間に国民平均所得はほぼ4倍になった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国王と対立した首相コンスタンディノス・カラマンリスの辞任をきっかけに総選挙が行われ、中道勢力と左派勢力が躍進、一旦は中道連合(EK)を率いるゲオルギオス・パパンドレウが首相に任命されるが、他党との連立を拒んだパパンドレウは再び総選挙を行い、1964年、中道連合(EK)は過半数を獲得した。パパンドレウ政権は教育制度改革などの内政面で功績を挙げるが、軍の制度改革に失敗してパパンドレウは国王コンスタンティノス2世によって首相辞任を要求された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "国王はアメリカ合衆国の支援のもとに中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、1967年、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校、スティリアノス・パッタコス(英語版)准将、ゲオルギオス・パパドプロス大佐、ニコラオス・マカレゾス(英語版)大佐を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1968年には憲法が改正され軍事独裁政権が確立する。軍部は国内の批判勢力に対して激しい弾圧を行い、前首相パパンドレウを始めとして多数の著名人を国外に追放した。欧州各国からは軍部独裁政権に対して厳しい批判が向けられたが、ギリシャは地勢的にNATOの要であるとしてアメリカが軍事独裁政権を擁護・支援したため、ギリシャに対して実効性のある圧力が加えられることはなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対する国民の不満が増大し、学生による大規模なデモなどの抗議行動が活発化する。軍事独裁政権の首班であったゲオルギオス・パパドプロスは大統領制を導入するなどの政策を行うが、国内経済が回復しないこともあって国民の抗議行動は収まらず、1973年、学生デモ隊による大学占拠に対して実力鎮圧を行った結果多数の死傷者を出したことで独裁政権の基盤が揺らぎ、パパドプロスの腹心で秘密警察長官であるディミトリオス・イオアニディス(英語版)がクーデターを起こし、パパドプロスは失脚した。その後、パパドプロス政権の閣僚であったフェドン・キジキスが名目上の大統領に選ばれて軍部の独裁体制は続くが、1974年に軍事政権が支援したキプロスでのクーデターは、大統領マカリオス3世の身柄確保に失敗した挙句、トルコ系住民の保護を口実にトルコ軍がキプロス島に上陸する事態となり、海軍と空軍が陸軍と秘密警察に対して態度を硬化させる。結果、軍事政権の中核を占めていた陸軍と秘密警察は孤立し、軍部の独裁体制は崩壊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このように政治的には混乱と弾圧の続いた軍部独裁時代ではあったが、マーシャル・プランほかの欧米各国による経済支援策と、外国資本の積極的な誘致を背景に、戦争とその後の内戦によって壊滅的な打撃を受けた国内インフラを復興させるための大規模な国内投資により、戦後のギリシャ経済は軍事独裁政権の崩壊まで非常に高い経済成長率を誇った。この高成長時代は「ギリシャの奇跡」と呼ばれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "キジキス大統領は国内の諸政治勢力と協議してフランスへ亡命していたコンスタンディノス・カラマンリス元首相に帰国を要請、帰国したカラマンリスを首相に指名した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1974年11月11日に行われた軍事政権崩壊後初の選挙の結果、カラマンリス元首相率いる新民主主義党が多数の議席を獲得して与党となり、次いで行われた国民投票により君主制は廃止され共和制への移行が決定した(ギリシャにおける民主主義の回復については、活動的な役割を担ったアレクサンドロス・パナグリスも参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1975年には憲法が再改正され、1977年の選挙の結果左派勢力の伸長があったものの政局の混乱は発生せず、ギリシャの政局は以後安定化する。1981年に欧州共同体(EC)の10番目の加盟国となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1980年代には全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が選挙の結果過半数を確保して与党となり、社会主義政権が誕生した。アンドレアス・パパンドレウ(英語版)はNATOと欧州共同体(EC)への加盟に懐疑的で、西側諸国を「帝国主義国家」と呼ぶほど親ソ派であったが、大きな外交政策の変更は行われず、NATOとECへの加盟は続行されたままギリシャは引き続き西側諸国の一員として冷戦の終結を迎える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2004年には1896年以来108年ぶりに首都アテネにおいて2回目の夏季オリンピック(第28回アテネ大会)が開催された。それに先立つ2001年にはユーロ導入も実現したが、工業生産力が西欧諸国と比較して小さいギリシャの経済は脆弱で、2010年には統計操作による巨額の財政赤字隠蔽が発覚したことから、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機へと発展した(2010年欧州ソブリン危機)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2020年、新型コロナウイルスの感染が拡大。同年末までに2回のロックダウンが実施された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "国家体制として共和制・議院内閣制を採用している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大統領が国家元首として儀礼的な責務にあたる。大統領は任期5年で議会により選出される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "現大統領は2020年3月13日に就任したカテリナ・サケラロプル。行政府の長である首相は議会によって選出され大統領により任命される。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "立法府たるギリシャ議会(Vouli ton Ellinon)は一院制で、300議席、任期4年。比例代表制によって選出される。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "70年代の民主化以降、中道右派の新民主主義党(ND)と中道左派の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が二大政党として交代で政権を担当する期間が続いた。財政危機を受けた2012年の選挙では、二大政党は得票を落とし、極左の急進左派連合(SYRIZA)とギリシャ共産党 (KKE)、中道右派の独立ギリシャ人(ANEL)、極右の黄金の夜明けが伸長した。2015年の選挙で緊縮受け入れに反対した極左のSYRIZAが第一党となり、ツィプラス政権が誕生した。しかし、SYRIZAは公約違反を繰り返したため支持率は下落し、2019年7月の選挙では,今まで最大野党であった中道右派の新民主主義党(ND)が39.9%の得票で、単独過半数となる158議席を獲得した。NDのミツォタキス党首が新首相に就任し、SYRIZAは下野した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "失業率が世界的に見ても極めて高く、常に50%を超えている。また、政界における腐敗の問題も指摘されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "周辺国との関係では、キプロスの帰属問題でトルコとは対立関係にある。2010年代半ば以降、ヨーロッパを目指すシリアやアフガニスタン、イラクなどから移民や難民がトルコ経由で押し寄せることから、国境安全保障上の観点でトルコとの国境沿いに長さ40キロにも及ぶ壁を建設、2021年8月工事が完了した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ギリシャ民族の国家であったマケドニア王国やギリシャ国内のマケドニア地方と同じ名を名乗るスラヴ系のマケドニア共和国とも対立状態にあったが、マケドニア共和国が国名を北マケドニア共和国に変更したため、両国の対立状態は薄れている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2021年現在、371人のギリシャ人が日本に住んでいる。詳細は在日ギリシャ人を参照。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ギリシャ軍(ギリシャぐん、ギリシア語: Eλληνικές Ένοπλες Δυνάμεις)は、ギリシャ陸軍、ギリシャ海軍、ギリシャ空軍の3軍で構成されるギリシャ共和国の軍隊。管理・運営はギリシャ国防省が担当している。ギリシャは欧州連合(EU)および北大西洋条約機構(NATO)の加盟国であり、アフガニスタンのISAF、ボスニアとチャドのEUFOR、コソボのKFORなど国際平和維持活動にも積極的に参加している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ギリシャの国土は4つの地方に分かれる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ギリシャの国土は山がちである。ピンドス山脈には2,000メートルを超える峰がいくつもあり、北東のブルガリア国境にはロドピ山脈が東西に伸びる。ギリシャの最高峰オリンポス山(2,917メートル)はどちらの山脈にも属さず、東西、南北とも15キロにわたって広がる独立した山塊となっている。平原からそびえ立ち、山頂に雪を帯びたオリンポス山の姿は古代から神聖視されてきた。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ほぼ全土がケッペンの気候区分でいう地中海性気候(Cs)に区分される。したがって、温暖で湿潤な冬季と乾燥し高温の夏季にはっきり分かれる。首都アテネの平均気温は、冬季の1月が10.1°C、夏季の7月では28.0°Cである。年平均降水量は383.8ミリで、これは同じ地中海性気候に分類されるローマの約2分の1と少ない。なお、最北部は山岳地帯であり、冬季に気温が下がる温暖湿潤気候(Cfa)に分類される。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "全土は、13のペリフェリア(地方)、74のペリフェリアキ・エノティタ(県)、325のディモス(市)に区画されている。ギリシャ共和国の主権の下に属する特殊な地域として、修道士による自治が行われているアトス自治修道士共和国(アトス山)がある。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "(14). アトス自治修道士共和国(アトス山)", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2013年の国内総生産(GDP)は2,418億ドルであり、神奈川県よりやや小さい経済規模である(なお、神奈川県の人口はギリシャの全人口の82%ほどである)。同年の1人あたりの名目GDPは2万1,857ドルであり、世界平均の2倍を越えている。バルカン半島の国家の中では経済的にもっとも豊かな国であり、1人あたりの名目GDPはルーマニアやトルコの約2倍、アルバニアの約5倍である。2008年には1人あたりの名目GDPは3万ドルを超えていたが、近年は不況と財政問題で下落している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "主力産業は農業、鉱業、工業、輸送業(おもに海運業)、観光業。農業では世界第3位の生産量であるオリーブ(200万トン)や世界8位の綿、同10位の葉タバコが際立つ。いずれも地中海性気候に合った作物である。しかしながら小麦やトウモロコシなど主食となる穀物の生産は振るわず、食料を自給できていない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "鉱業では石炭が有力。石炭の統計は品位別に分かれており、低品位でおもに燃料に用いる亜炭・褐炭では世界第4位(6,600万トン)である。マグネシウム鉱にも富み、鉄、ニッケル、ボーキサイト、原油、天然ガスなど、生産量は少ないながら10種類以上の主要鉱物が見られる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "古代から地中海一帯で貿易を展開してきた歴史があるせいか、オナシス家、ニアルコス家、ラティス家、マルチノス家、ロス家、クルクンディス家、リバノス家と海運王が多く、輸送業の中心は船舶であり、船舶保有量は世界第4位の2,870万総トンに及ぶ。一般貨物船は船舶保有量(総トン)の3%と少なく、オイルタンカー、鉱石や穀物用のばら積み船が80%以上を占める。このような比率は船舶保有量上位10か国には見られない特異な傾向である。ギリシャ人船主はパナマ(世界第1位)やキプロス(世界第6位)など税制優遇措置を利用できる国に自らの船を登録することも多く、実態を反映していない可能性がある。ギリシャには輸出できる製品が少ないため、貿易赤字が続いている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "数多くの古代ギリシャや東ローマ時代の遺跡・遺構、エーゲ海の風光明媚な島々などの観光資源も多く、観光も重要な産業となっており、海運業、移民からの送金と観光業でギリシャの3大収入源となっている。オリンピックの開催地アテネでアテネオリンピックが開催された2004年の時点でギリシャ総労働者数の16,5%、約66万件が何らかの形で観光業に携わっており、さらにそれまでギリシャ観光を統括していたギリシャ政府観光局の上の組織として観光省が新設された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "100億ドルの輸出に対し、輸入は300億ドルであり、慢性的な貿易赤字が続いている。しかしながら、輸送業、観光業などによって貿易赤字をほぼ充当できている。主要輸出品目は、衣料、果実、石油製品である。これらに次いでアルミニウムの輸出が多いことが特徴である。主要輸出相手国は、ドイツ、イタリア、イギリス。主要輸入品目は、原油、機械類、電気機械である。主要輸入相手国はドイツ、イタリア、フランス。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "日本との貿易関係は、日本に対してナフサ、葉タバコ、貴金属製品を輸出し、乗用車、タンカー、貨物船を輸入するというものである。このことから、ギリシャの石油化学工業や軽工業が機能しており、輸送業に必要な船舶を自前で調達していることが分かる。なお大理石の輸出も日本への輸出額の4.2%を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1980年代に入ると、ギリシャの道路、鉄道はかなりの部分が近代化された。この中での重要な箇所にはギリシャ北西部(イグメニツァ)とギリシャ北東部を結ぶギリシャのエグナシア・ハイウェイ (en) が含まれている。リオン・アンティリオン橋(ヨーロッパでもっとも長い斜張橋、総距離は2,252メートル)は中央ギリシャのアンティリオン (en) とペロポネソス半島のリオン (en) (パトラから7キロ)を結んでいる。ペロポネソス半島西部のピルゴス (en) へ続く、パトラ・アテネ高速道路の延長は2014年までに完成される予定となっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "首都であるアテネの都市圏では2001年に新たにアテネ国際空港が開港し、さらに郊外を走る新たな民間の高速道路であるアッティキ・ハイウェイ (en) が2001年に開通した。そして2000年以降、アテネ地下鉄が拡張された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ギリシャの島嶼部と主要都市の多くはギリシャの2大航空会社、オリンピック航空とエーゲ航空によって結ばれている。航路は水中翼船、カタマラン(双胴船)を含む最新の高速船で運航されている。ほかのヨーロッパ諸国では重要な位置を占めている鉄道はギリシャでは主要地位ではない。しかし、アテネオリンピックを契機に近郊鉄道プロアスティアコスがアテネ都市圏に新たに開設される、ギリシャ国鉄のアテネ駅とテッサロニキ新駅間の幹線路線も複線電化されるなど、鉄道インフラのスクラップアンドビルドが斬新的に進められている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "かつてはアテネやテッサロニキからほかのヨーロッパ諸国、バルカン諸国、トルコへ直通する列車が運行されていたが、2010年欧州ソブリン危機により国鉄の経営が圧迫されたため、国際列車が全面運休となったこともある。その後、限定的な運行が再開され、2014年夏ダイヤではテッサロニキ新駅よりブルガリアとマケドニア・セルビア方面の一部列車が運行している。また、ペロポネソス半島内の鉄道路線(ペロポネソス狭軌鉄道)は、改軌されたプロアスティアコスの路線など一部を除き、2014年現在、全面運休が続いている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ギリシャの公式統計機関であるギリシャ国立統計局(英語版)(NSSG)の発表によれば、2001年のギリシャの全人口は1,096万4,020人である。内訳は男性542万7,682人、女性553万6,338人であった。1971年、1981年、2001年とギリシャの人口統計は過去数十年行われることがなかった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2013年の合計特殊出生率は1.30人と、少子高齢化が進む。2003年の出生率は1,000人に対して9.5人(1981年は1,000人に対して14.5人)であった。同時に死亡率は1981年の1,000人に対して8.9%であったのが、2003年には1,000人に対して9.6%と増加している。2001年の時点で65歳以上の高齢者は16.71%、15歳から64歳までが68.12%、14歳以下が15.18%であった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ギリシャ社会は時を経るとともに急激に変化した。婚姻率は1981年の1,000人に対して71%から2002年まで低下し続けていたが、2003年にはわずかに増加して61%となったものの、2004年、再び低下して51%となった。一方で離婚率は増加しており、1991年の時点で1,000組に対して191.12件であったが、2004年には1,000組に対して239.5組となっている。ギリシャ人のほぼ3分の2が市街地に居住しており、2001年のギリシャ最大自治体はアテネ、テッサロニキ、ピレウス、パトラ、イラクリオン、ラリサ、ヴォロスであった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ギリシャ人が98%、ほかにアルーマニア人、トルコ系、ユダヤ系、アルバニア人。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "主たる言語はギリシア語であり、北部と南部とで方言がある。北方国境ではスラヴ諸語話者(英語版)もいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "ギリシャ人は長男に父方の祖父の名をつけるなどの習慣があるが、姓が普及したのは、有力貴族が成長してきた9世紀の東ローマ帝国時代以降のことである。婚姻の際に姓が変わることはない(夫婦別姓)が、社会的な関係においては、配偶者が同意した場合のみ配偶者の姓を用いる、あるいはその姓に自己の姓を付加して使用することが認められている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "主たる宗教は、キリスト教正教会に属するアテネ大主教の管掌下にあるギリシャ正教会である。ただし、クレタ島とアトス山だけはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。少数派としてはイスラム教やカトリックのほか、ネオペイガニズム運動のひとつとして古代ギリシア神話の神々を信仰する「ギリシア多神教復興運動(英語版)」が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "平均寿命は81.4歳。かつてはユニバーサルヘルスケアが実現されていたが、国家経済破綻のため2013年には加入率79.9%に転落し、長期失業者や保険に加入しない自営業者が発生した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "19世紀末から20世紀を通じて、何百万人ものギリシャ人がアメリカ合衆国、オーストラリア、カナダ、イギリス、ドイツなどへ移住し、各地でギリシャ移民らは成功を収めた。特にオーストラリアのメルボルンには、ギリシャ人移民が多く、その数はギリシャ国内のアテネ(75万人)、テッサロニキ(32万人)に次ぐ。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "この海外移住傾向は1980年代以降、ギリシャ経済の重要な改善のあと収まりつつあったが、2010年からのギリシャの経済危機により、再び海外への移民が増えている。", "title": "社会" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ギリシャは欧州でかつて「比較的治安の良好な国」と評されていたが、経済状況の悪化や失業率の増加などから労働組合などによるデモならびストライキが多発している他、不法移民などによる犯罪も発生しており、非常に不安定な状況に陥っている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "特に都市部の地下鉄や観光地では、スリなどの被害が多発していることや荷物の窃盗(液体をかけたり声をかけて気をそらせ、荷物を盗む手口)事案の多さから最大限の注意が必要とされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "傍らで汚職問題も深刻なものとなっており、ギリシャ市民が公務員や民間企業に賄賂を贈る行為「ファケラキ(英語版)」が問題視されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "現地警察(英語版)をはじめ、憲兵隊と国境警備隊ならび特別警察(英語版)(かつては都市警察(ギリシア語版、英語版)が担当)が主体となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "ギリシャ国内には外国人の移民もいるが、彼らは正式な書類を持たない不法移民が多い。ギリシャでは人種差別的な攻撃に関して有罪判決が下ることはほとんどなく、人種差別が横行している。ギリシャの経済危機があってから、彼ら移民はギリシャ人の不満のはけ口にされており、特に攻撃にさらされている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ギリシャ当局も不法移民には厳しい態度で当たっており、国連難民高等弁務官事務所によれば、ギリシャの警察は海上で不法入国をする難民を乗せた船を見かけた場合、移民を乗せた船を引っ張ってトルコなどに「押し戻す」行為が行われているという。これにより船が転覆、死亡する者も出ているが、ギリシャはこれを否定している。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "また、不法移民を収容する施設は過密状態で不衛生であり、さらに勾留期限は無期限となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "紀元前からギリシャは哲学や文化、芸術にさまざまな影響を与えてきた。その影響力の大きさから、ギリシャは「ヨーロッパ文化のゆりかご」と称されることもある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ギリシャの料理は地中海料理であるが、西方のイタリア料理のみならずトルコ料理やレバノン料理などの東方の地中海料理との共通点も多い。これは、東ローマ帝国やオスマン帝国といった歴史に由来する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "新大陸に原産地とされて以降食として加えられるトマトや他の野菜を多彩に使用する点が特徴とされているが、これは一定期間肉食を禁じられるというギリシャ正教会における戒律にある。また地中海に面するため、タコやイカ、そして魚介類なども使用する。ギリシャの代表的な料理として、タラモサラタやムサカ、ピキリア、ドルマなどがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ギリシャ料理は2010年に、イタリア料理やスペイン料理、モロッコ料理とともに『地中海の食事』としてユネスコの無形文化遺産に登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ギリシャ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産は15件、複合遺産は2件の全17件が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ギリシャはオリンピック発祥の地である。そのため選手団は近代オリンピックの開会式で常に1番目の入場国となっている。ギリシャではこれまでに第1回大会の1896年アテネオリンピックと、108年ぶり2度目の開催となった2004年アテネオリンピックが行われている。しかし、未だに冬季オリンピックの開催経験はない。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ギリシャ国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっており、1927年にサッカーリーグのギリシャ・スーパーリーグが創設された。主なクラブとしては、オリンピアコス、パナシナイコス、AEKアテネ、PAOKなどが挙げられる。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ギリシャサッカー連盟(HFF)によって構成されるサッカーギリシャ代表は、UEFA欧州選手権には4度出場しており2004年大会では悲願の初優勝を果たしている。FIFAワールドカップには1994年大会、2010年大会、2014年大会の3度出場しており、2014年のブラジル大会ではグループリーグを初めて突破しベスト16に進出した。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "著名な選手としては、ドイツ・ブンデスリーガで2006-07シーズンに得点王となったテオファニス・ゲカスをはじめ、ヨアニス・アマナティディス、ソクラティス・パパスタソプーロス、コスタス・マノラスなどが存在する。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ギリシャではサッカーの次にバスケットボールが盛んであり、ギリシャバスケットボール連盟によってバスケットボールギリシャ代表が組織されている。日本開催となった2006年世界選手権では、NBAでプレーする選手が不在の中でドリームチームを下すなどして準優勝の成績を収めた。さらにユーロバスケットでは、1987年大会と2005年大会で2度の優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" } ]
ギリシャ共和国、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する共和制国家。2011年の国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は日本の約3分の1である。アテネは首都および最大都市であり、テッサロニキは第2の都市および中央マケドニアの州都である。
{{Otheruses}} {{Redirectlist|ギリシャ共和国'''」と「'''ギリシャ国|歴史上存在したその他の「ギリシャ共和国」|ギリシャ共和国 (曖昧さ回避)|[[第二次世界大戦]]時、[[枢軸国]]によって建てられた傀儡政権|第二次世界大戦時のギリシャ}} {{基礎情報 国 | 略名 = ギリシャ | 日本語国名 = ギリシャ共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|el|Ελληνική Δημοκρατία}}''' | 国旗画像 = Flag of Greece.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Greece.svg|100px|ギリシャの国章]] | 国章リンク = ([[ギリシャの国章|国章]]) | 標語 = ''{{Lang|el|Ελευθερία ή θάνατος}}''<br />(ギリシア語:自由か死か) | 国歌 = {{lang|el|[[自由への賛歌|Ύμνος εις την Ελευθερίαν]]}}{{el icon}}<br />''自由への賛歌''<center>[[File:Greece national anthem.ogg]]</center> | 位置画像 = EU-Greece.svg | 公用語 = [[ギリシア語]] | 首都 = [[アテネ]] | 最大都市 = アテネ | 元首等肩書 = [[ギリシャの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[カテリナ・サケラロプル]] | 首相等肩書 = [[ギリシャの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[キリアコス・ミツォタキス]] | 面積順位 = 97 | 面積大きさ = 1 E11 | 面積値 = 131,957 | 水面積率 = 0.8669% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 86 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 10,423,000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/gr.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-11 }}</ref> | 人口密度値 = 80.9<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2023 | GDP値元 = {{increase}} $3790億&nbsp;(PPP)<ref name="IMFWEO.GR">{{cite web |title=World Economic Outlook Database, October 2023 |url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2023/October/weo-report?c=174,&s=NGDPD,PPPGDP,NGDPDPC,PPPPC,&sy=2020&ey=2028&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |publisher=[[International Monetary Fund]] |access-date=18 October 2023 |location=Washington, D.C. |date=5 October 2023}}</ref> | GDP統計年MER = 2023 | GDP順位MER = 53 | GDP値MER = {{increase}} $2423.85億&nbsp;<ref name="IMFWEO.GR" /> | GDP MER/人 = {{increase}} $23,173<ref name="IMFWEO.GR" /> | GDP統計年 = 2023 | GDP順位 = 54 | GDP値 = {{increase}} $4169.69億&nbsp; | GDP/人 = {{increase}} $39,864<ref name="IMFWEO.GR" /> | 建国形態 = [[独立]] | 確立形態1 = 宣言 | 確立年月日1 = [[1822年]] | 確立形態2 = 承認 | 確立年月日2 = [[1829年]] | 通貨 = [[ユーロ]] (&#8364;) | 通貨コード = EUR | 通貨追記 = <ref group="注記">[[2001年]]以前の通貨は[[ドラクマ]]。[[ギリシャのユーロ硬貨]]も参照。</ref> | 時間帯 = +2 | 夏時間 = +3 | ISO 3166-1 = GR / GRC | ccTLD = [[.gr]] | 国際電話番号 = 30 | 注記 = <references group="注記" /> }} '''ギリシャ共和国'''(ギリシャきょうわこく、{{lang-el|Ελληνική Δημοκρατία}})、通称'''ギリシャ'''は、[[南ヨーロッパ]]に位置する[[共和制]][[国家]]。[[2011年]]の[[国勢調査]]<ref>{{Cite web|url=http://www.statistics.gr/el/2011-census-pop-hous|title=Απογραφή Πληθυσμού-Kατοικιών 2011|accessdate=2018-06-19|language=el}}</ref>によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は[[日本]]の約3分の1である。[[アテネ]]は首都および最大都市であり、[[テッサロニキ]]は第2の都市および[[中央マケドニア]]の州都である。 == 概要 == ギリシャの地理は[[ヨーロッパ]]の南東端にあり、[[アジア]]および[[アフリカ]]との交差点にある。[[バルカン半島]]南端に位置し、国境は北西に[[アルバニア]]、北に[[北マケドニア共和国]]と[[ブルガリア]]、東に[[トルコ]](陸は北東、島嶼は南東)と接する。同国は9つの[[ギリシャの地理的区分|地理的地域]]からなり、[[マケドニア (ギリシャ)|マケドニア]]、[[w:Central Greece|中央ギリシャ]]、[[ペロポネソス半島]]、[[テッサリア]]、[[イピロス]]、[[ドデカネス諸島]]および[[キクラデス諸島]]を含む[[エーゲ海諸島]]、[[w:Western Thrace|西トラキア]]、[[クレタ島]]、[[イオニア諸島]]がこれに該当する。[[w:Geography of Greece|本土]]の東には[[エーゲ海]]、西には[[イオニア海]]、南には[[地中海]]がそれぞれ位置する。同国の多数の[[ギリシャの島の一覧|島嶼]]のうち227島には居住者がおり、海岸線は全長1万3,676キロで[[地中海盆地]]最長かつ[[国の海岸線の長さ順リスト|世界第11位]]である。国土の80%は山岳地帯であり、[[オリンポス山]]は2,917メートルで同国最高峰である。 ギリシャの[[国民国家]]は[[オスマン帝国]]からの[[ギリシャ独立戦争|独立戦争]]後の1830年に建国されたが、同国のルーツは全[[西洋文明]]の発祥地だと考えられる[[古代ギリシア]]の文明に遡る。ギリシャ自体は[[w:Athenian democracy|民主主義]]、[[西洋哲学]]、[[近代オリンピック]]、[[w:Western literature|西洋文学]]<ref name="Strickland2007">{{cite book|author=Carol Strickland|title=The Illustrated Timeline of Western Literature: A Crash Course in Words & Pictures|url=https://books.google.co.jp/books?id=Qw_7eINO_NcC&pg=PA2&redir_esc=y&hl=ja|year=2007|publisher=Sterling Publishing Company, Inc.|isbn=978-1-4027-4860-8|page=2|quote=Although the first writing originates in the cradle of civilization along Middle Eastern rivers — the Tigris, Euphrates, and Nile — the true cradle of Western literature is Athens. As the poet Percy Bysshe Shelley says, "We are all Greeks."}}</ref>、[[歴史学]]、[[政治学]]、主要な[[w:History of science in classical antiquity|科学的]]および[[w:Greek mathematics|数学的]]原理、[[悲劇]]や[[喜劇]]などの[[ドラマ]]の発祥地である。ギリシャの文化的・技術的偉業は世界に大きな影響を与え、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の遠征を通じて[[東洋]]に影響を受け[[ヘレニズム]]が形成され、[[ローマ帝国]]やそのあとの[[東ローマ帝国]]への[[ローマ帝国支配下のギリシャ|編入]]により[[西洋]]に大きな影響を与えた。現代のギリシャ人のアイデンティティーは[[ギリシャ正教]]により形成され、ギリシャの伝統はより広範な[[正教会]]に伝播した<ref name=BritIdent>{{cite encyclopedia |year=2008 |title =Greece during the Byzantine period (c. AD 300–c. 1453), Population and languages, Emerging Greek identity |encyclopedia= Encyclopædia Britannica |publisher= Encyclopædia Britannica Inc. |location=United States |id=Online Edition}}</ref>。ギリシャの豊富な遺産は17件の[[世界遺産の一覧 (ヨーロッパ)|世界遺産数]]にも反映され、[[w:Table of World Heritage Sites by country|ヨーロッパや世界でも有数]]である<ref name=Unesco>{{cite web|title=Greece Properties inscribed on the World Heritage List (17)|url=http://whc.unesco.org/en/statesparties/gr|website=Unesco|publisher=Unesco|accessdate=2015-10-3}}</ref>。 ギリシャは[[民主主義]]かつ[[先進国]]であり、先進的な[[w:World Bank high-income economy|高所得経済]]、高度な[[クオリティ・オブ・ライフ]]、高度な[[人間開発指数|生活水準]]を有する。一方で、数多くの資格や許認可が政治家に委ねられている構造を背景に賄賂や汚職、脱税が横行しており、[[腐敗認識指数|汚職指数]]はヨーロッパの国家の中でもイタリアと並んで高いレベルにある<ref>http://www.j-cast.com/bookwatch/2014/10/15218407.html</ref>。[[ギリシャ危機]]に象徴される根深い経済問題に悩む。 [[国際連合]]原加盟国であり、[[欧州連合]]の前身である[[欧州諸共同体]]の10番目の加盟国で、2001年以来[[ユーロ圏]]の一部である。そのほか多数の国際機関の加盟国でもあり、[[欧州評議会]]、[[北大西洋条約機構|NATO]]{{Refn | name="integrated1974" | On 14 August 1974 Greek forces withdrew from the integrated military structure of [[NATO]] in protest at the Turkish occupation of northern Cyprus; Greece rejoined NATO in 1980.}}、[[経済協力開発機構|OECD]]、[[欧州安全保障協力機構|OSCE]]、[[世界貿易機関|WTO]]がこれに該当する。ギリシャは世界有数の[[w:Greek shipping|海運国]]および[[ギリシャの観光|観光立国]]であり、[[バルカン半島]]最大の[[w:List of sovereign states in Europe by GDP (nominal)|経済規模]]を有し、重要な地域投資国である。 == 国名 == {{seealso|{{仮リンク|ギリシャの国名|en|Name of Greece}}}} 公式名称は {{lang-el|'''Ελληνική Δημοκρατία'''}}, ''Ellinikí Dimokratía'', {{IPA-el|eliniˈci ðimokraˈti.a||}} [http://ja.forvo.com/word/%CE%B5%CE%BB%CE%BB%CE%B7%CE%BD%CE%B9%CE%BA%CE%AE_%CE%B4%CE%B7%CE%BC%CE%BF%CE%BA%CF%81%CE%B1%CF%84%CE%AF%CE%B1/#el (聞く]) {{smaller|エリニキ ディモクラティア}}, {{lang-en|Hellenic Republic}}。 {{lang-el|'''Ελλάδα'''}} {{IPA-el|ɛˈlaða||Ellada.ogg}} {{smaller|エラダ}}は、{{lang-grc|'''Ἑλλάς'''}} {{smaller|ヘッラス}} に由来する(正式名称中の {{lang|el|Ελληνική}} の部分は[[形容詞]]形)。ヘッラスは[[ホメーロス]]では[[テッサリア]]の一都市または[[プティア]]地方を指すにすぎなかったが、のちにギリシアそのものを指すようになった<ref>{{cite book|author=[[ヘンリー・ジョージ・リデル|Henry George Liddel]] and George Scott|title=An Intermediate Greek-English Lexicon|url=http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0058%3Aentry%3D*(ella%2Fs}}</ref>。 西洋の諸言語は{{lang-la|Graecia|グラエキア}}に由来する形を持つ。Graecia自体はGraeci(ギリシア人)の土地という意味で、これ自体古代ギリシア人の自称のひとつ、{{lang|grc|Γραικοί}} {{smaller|グライコイ}}の借用である。これも本来はギリシア全体ではなく一地方名であったらしいが、それがどこであったかはよくわかっていない。ローマ人はこの語を[[エトルリア人]]経由で借用した<ref>{{Cite book|和書|author=風間喜代三|authorlink=風間喜代三|title=ラテン語とギリシア語|publisher=[[三省堂]]|year=1998|isbn=4385358338|pages=37-40}}</ref>。 [[中東]]の諸言語での呼称、たとえば[[アラビア語]]の {{lang|ar|'''اليونان'''}} ({{lang|ar-Latn|al-Yūnān}} 、アル=ユーナーン)、[[ヘブライ語]]の {{lang|he|'''יוון'''}} ({{lang|he-Latn|Yaván}} 、ヤヴァン)、[[トルコ語]]の Yunanistan (ユナニスタン)などは、すべて[[イオニア]]に由来する。 日本語による公式名称は'''ギリシャ共和国'''で通称は'''ギリシャ'''または'''ギリシア'''。[[国会 (日本)|国会]]の制定法や[[外務省]]、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される一方、人文系の世界ではギリシアと表記されることが多い<ref group="注釈">西洋古典学でia を「イア」と書くという習慣からとされているが、英語ではGreece、ギリシア語ではHellas/Elladaでありiaは出てこない。後述の通りギリシャ/ギリシア表記はポルトガル語Gréciaに由来するが、これもギリシアと発音するわけではないため、いずれにしろギリシャ表記もギリシア表記も共に本来の発音とはかけ離れた慣用表記のひとつに過ぎない。[[Wikipedia:記事名の付け方/ギリシャとギリシア]]も参照。</ref>。ギリシャあるいはギリシアという名称は、[[ポルトガル語]]{{lang|pt|Grécia}}に由来し、古くは「ゲレシヤ」といったが、明治以降に「ギリシヤ」に変化した<ref>[[日本国語大辞典]]第2版</ref>。中国語では希臘<ref group="注釈">{{繁体字|希臘}}、{{簡体字|希腊}}、{{lang|zh|Xīlà}}</ref>(シーラ)と表記するが、これは古代ギリシア語「{{lang|grc|'''Ἑλλάς'''}}」(ヘッラス)に由来する。日本語での漢字表記も同じく'''希臘'''で略称は'''希'''となる。 == 歴史 == {{main|ギリシャの歴史}} === ギリシア・ローマ時代 === [[File:Greek Colonization Archaic Period.png|300px|thumb|right|[[アルカイック期]]におけるギリシア領および[[w:Greek colonies|植民地]](紀元前750 - 550年)]] [[File:The Parthenon in Athens.jpg|thumb|right|260px|[[アテナイのアクロポリス]]における[[パルテノン神殿]]は、[[w:Classical Greece|古典ギリシア]]のもっとも有名な象徴のひとつである]] {{main|古代ギリシア|エーゲ文明|アカエア}} 古代のギリシャは[[アテナイ]]、[[スパルタ]]、[[コリントス]]、[[テーバイ]]などの多数の[[ポリス]](都市国家)が各地域に成立しており、ギリシャ全体としては言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体で、[[マケドニア王国]]に征服されるまでギリシャ統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。[[紀元前5世紀]]に[[アケメネス朝]](ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した([[ペルシア戦争]])。しかしその後、アテナイを盟主とする[[デロス同盟]]とスパルタを盟主とする[[ペロポネソス同盟]]とでギリシア全体に渡る[[ペロポネソス戦争]]が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。[[紀元前4世紀]]半ばに[[マケドニア王国|マケドニア]]の[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]が[[カイロネイアの戦い]]に勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主とした[[コリントス同盟|ヘラス同盟]](コリント同盟)に属することとなる。ギリシャ人は[[アレクサンドロス3世]](大王)の東方遠征に従軍し、長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。 大王死後、マケドニアを支配した[[アンティゴノス朝]]と対抗。この時期に[[ピュロス]]([[エペイロス]]王)らが活躍した。やがて[[アカイア同盟]]を結成して[[共和政ローマ]]と手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、[[紀元前146年]]にローマ軍に敗北、[[コリントス]]の破壊とともに[[属州|ローマ属州]][[アカエア]]とされた。古代ギリシアは[[民主主義]]の原点であった。 === 東ローマ帝国 === {{main|東ローマ帝国}} [[395年]]に[[ローマ帝国]]が東西に分裂したあとは、ギリシャ地域は[[東ローマ帝国]]に属した。 7世紀以降の東ローマ帝国は[[ギリシア語]]を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシア語を母語とする民族が中心となっていったが、彼ら自身は自分をギリシャ人とみなさず、「ローマ人(ロマイオイ/ロメイ<sup>中世・現代ギリシア語</sup>)」と称した。東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという{{要出典|date=2018年6月}})。ただ、東ローマ帝国の中心地は[[アナトリア]]・[[トラキア]]・[[マケドニア]]であり、現在のギリシャにあたる部分は、スラブ人の侵入と移住、アラブ勢力の来襲やブルガリア帝国やノルマン王国といった外部勢力の攻撃が相次ぎ、帝都[[コンスタンティノープル]]からは辺境地域とみなされていた(ただし[[テッサロニキ]]はスラヴ人の侵入でも陥落せず、人口数万人を擁して栄えた<ref>『ギリシア史』第4章 ビザンツ時代(桜井万里子編 [[山川出版社]] 2005年 P164-168 同部分は[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]執筆)</ref>、帝国第二の都市であった。)。 [[File:Byzantine Empire Themes 1025-en.svg|thumb|right|300px|1025年の東ローマ帝国]] [[1204年]]に[[第4回十字軍]]によってコンスタンティノープルが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも[[十字軍]]が侵入してきた。12世紀末の[[コムネノス王朝]]末期以降、東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人の多くは混乱を収め、安定をもたらすものとして十字軍を歓迎した<ref>『ギリシア史』第4章 ビザンツ時代(桜井万里子編 [[山川出版社]] 2005年 P196 同部分は[[井上浩一 (歴史学者)|井上浩一]]執筆)</ref>。このため、[[アテネ公国]]などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。ほかには東ローマの亡命政権である[[エピロス専制侯国]]や、[[ブルガリア帝国]]、[[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]]、また都市国家[[ヴェネツィア]]などが割拠するようになった。 アナトリアに逃れたギリシャ系の東ローマ帝国の亡命政権[[ニカイア帝国]]により[[1261年]]に東ローマ帝国は再建されたが、以前より力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついてギリシアやアナトリでは14世紀以降[[イスラム王朝]]の[[オスマン帝国]]が勢力を伸張させていった。 === オスマン朝・ヴェネツィア支配時代 === {{main|トルコクラティア}} [[1453年]]の[[コンスタンティノープル陥落]]によって東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノープルに遷都し、369年間のオスマン帝国による統治が続いた。 一方で、オスマン帝国に支配されなかった地域もある。東ローマ帝国滅亡後も、[[イオニア諸島]]は[[1797年]]まで[[ヴェネツィア共和国]]の領土であり、その後も[[1800年]]に[[イオニア七島連邦国]]、[[1815年]]に[[イオニア諸島合衆国]]が成立している。そのほかにも、[[1669年]]までのクレタ島、[[1686年]]から[[1715年]]までの[[ペロポネソス半島]]もヴェネツィア領であった。 === 独立回復と王政時代 === [[File:Map Greece expansion 1832-1947 ja.jpg|thumb|right|300px|[[ギリシャ王国]]の領土変遷(1832年 - 1947年)]] {{main|東方問題}} [[1821年]]に[[オデッサ|オデッセイ]]において創設された秘密組織[[フィリキ・エテリア]]を中心として、オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、[[ギリシャ独立戦争]]が始まった。[[エジプト]]の助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、[[イギリス|英]]・[[フランス|仏]]・[[ロシア帝国|露]]が介入、[[1829年]]、[[アドリアノープル条約]]によって[[ギリシャ第一共和政|ギリシャ独立]]が承認された。[[1832年]]、[[バイエルン王国]]の王子オットーを[[オソン1世]]として[[国王]]に据え[[ギリシャ王国]]として独立し、[[コンスタンティノープル陥落]]以来379年ぶり、[[古代ギリシャ]]滅亡から考えると約1900年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。 その後は汎ギリシャ主義([[メガリ・イデア]])を標榜し、[[1897年]]にはトルコに侵攻([[希土戦争 (1897年)|希土戦争]])し敗北するも、[[第一次世界大戦]]直前の[[1912年]]から[[1913年]]には[[バルカン戦争]]で勝利し、クレタ島をトルコから奪取した。<!--第一次世界大戦は1914-1918が一般的ですが、wikiでは違う定義を行っている?--> [[1919年]]の[[パリ講和会議]]では[[大日本帝国|日本]]の提出した[[人種差別撤廃案]]に賛成するなど反人種差別を表明した。[[1919年]] - [[1922年]]に[[セーヴル条約]]を押しつけるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、([[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]])[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・パシャ]]が率いるトルコ軍に敗退した。[[1924年]]に[[クーデター]]により[[共和制]]の[[ギリシャ第二共和政]]となるが、[[1935年]]には[[王政]]([[ギリシャ王国]]、[[1935年]] - [[1941年]])が復活し、国王[[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]の強権発動によって極右政党党首[[イオアニス・メタクサス]]が陸軍大臣に任命されていたが、[[1936年]][[4月12日]]に暫定首相[[コンスタンディノス・デメルジス|デメルジス]]が死去したことに伴い首相に就任。[[1936年]][[8月4日]]にメタクサスがクーデターを起こし[[八月四日体制]]([[1936年]] - [[1941年]])と呼ばれる独裁体制となった。 === 第二次世界大戦時代 === [[第二次世界大戦]]では[[枢軸国]]と敵対し、[[ナチス・ドイツ]]および[[イタリア王国|イタリア]]、[[ブルガリア]]の侵攻にあい([[ギリシャ・イタリア戦争]])、戦いの最中にメタクサスが病死、王室と政府はイギリスに亡命した。[[1941年]]4月の[[ギリシャの戦い]]に敗れ、ギリシャ本土はドイツ・イタリア・ブルガリアの3国による分割占領状態におかれ、[[傀儡国家]][[第二次世界大戦時のギリシャ|ギリシャ国]]([[1941年]] - [[1944年]])体制になった。大戦中、占領軍に対する[[レジスタンス運動]]を主導した共産主義左派[[ギリシャ共産党]](KKE)に支援された{{仮リンク|ギリシャ人民解放軍|en|Greek People's Liberation Army}}(ELAS)、対立する反共共和主義者のパルチザン{{仮リンク|ギリシャ民族共和同盟|en|National Republican Greek League}}(EDES)の三つ巴の戦いとなった。さらにナチスによる[[ロマニオット]]や[[セファルディム]]に対する[[第二次世界大戦時のギリシャ#ギリシャにおけるホロコースト|ホロコースト]]が行われた。 === ギリシャ内戦 === ギリシャが枢軸国軍から解放され亡命政府が帰還したあと、[[1944年]][[12月3日]]に{{仮リンク|十二月事件|el|Δεκεμβριανά}}が起き、共産主義左派と王党派右派の間で対立が先鋭化すると、[[1946年]]には[[ギリシャ内戦]]が勃発した。[[ソビエト連邦|ソ連]]と隣国[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]に支援された共産勢力が「{{仮リンク|ギリシャ民主軍|en|Democratic Army of Greece}}(共産主義者民主主義軍)」という[[ゲリラ]]部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむ[[イギリス]]に替わって[[アメリカ合衆国]]が王党派右派政府の全面的な支援に乗り出したことと([[マーシャル・プラン]])、[[1948年]]以降ユーゴスラビアとソ連が対立し、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したため、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は[[1949年]]に[[共産主義者|共産主義勢力]]の敗北によって終結した。 === 戦後 === [[1950年]]に行われた総選挙の結果、保守連立政権が発足するが政局は安定せず、翌年([[1951年]])に選挙制度を最大与党に有利に改正して行われた選挙によってようやく政局は安定した。[[1952年]]に[[北大西洋条約機構]](NATO)へ加盟、[[1953年]]に隣国の[[ユーゴスラビア]]および[[トルコ]]との間に三国親善条約と同盟条約が結ばれ、外交的にもようやくの安定をみた。 1950年代の後半になると、[[キプロス]]をめぐって[[トルコ]]との対立が激化するが、ギリシャ自体は順調な経済成長を続け、[[1951年]]から[[1964年]]の間に国民平均所得はほぼ4倍になった。 国王と対立した首相[[コンスタンディノス・カラマンリス]]の辞任をきっかけに総選挙が行われ、中道勢力と左派勢力が躍進、一旦は中道連合(EK)を率いる[[ゲオルギオス・パパンドレウ]]が首相に任命されるが、他党との連立を拒んだパパンドレウは再び総選挙を行い、[[1964年]]、中道連合(EK)は過半数を獲得した。パパンドレウ政権は教育制度改革などの内政面で功績を挙げるが、軍の制度改革に失敗してパパンドレウは国王[[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス2世]]によって首相辞任を要求された。 === 軍事独裁政権時代 === [[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|国王]]は[[アメリカ合衆国]]の支援のもとに中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、[[1967年]]、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校、{{仮リンク|スティリアノス・パッタコス|en|Stylianos Pattakos}}准将、[[ゲオルギオス・パパドプロス]]大佐、{{仮リンク|ニコラオス・マカレゾス|en|Nikolaos Makarezos}}大佐を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。 [[1968年]]には憲法が改正され[[ギリシャ軍事政権|軍事独裁政権]]が確立する。軍部は国内の批判勢力に対して激しい弾圧を行い、前首相パパンドレウを始めとして多数の著名人を国外に追放した。欧州各国からは軍部独裁政権に対して厳しい批判が向けられたが、ギリシャは地勢的に[[北大西洋条約機構|NATO]]の要であるとしてアメリカが軍事独裁政権を擁護・支援したため、ギリシャに対して実効性のある圧力が加えられることはなかった。 1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対する国民の不満が増大し、学生による大規模なデモなどの抗議行動が活発化する。軍事独裁政権の首班であった[[ゲオルギオス・パパドプロス]]は大統領制を導入するなどの政策を行うが、国内経済が回復しないこともあって国民の抗議行動は収まらず、[[1973年]]、学生デモ隊による大学占拠に対して実力鎮圧を行った結果多数の死傷者を出したことで独裁政権の基盤が揺らぎ、パパドプロスの腹心で秘密警察長官である{{仮リンク|ディミトリオス・イオアニディス|en|Dimitrios Ioannidis}}がクーデターを起こし、パパドプロスは失脚した。その後、パパドプロス政権の閣僚であった[[フェドン・キジキス]]が名目上の大統領に選ばれて軍部の独裁体制は続くが、[[1974年]]に軍事政権が支援した[[キプロス]]でのクーデターは、大統領[[マカリオス3世]]の身柄確保に失敗した挙句、トルコ系住民の保護を口実に[[トルコ軍]]が[[トルコのキプロス侵攻|キプロス島に上陸する]]事態となり、海軍と空軍が陸軍と秘密警察に対して態度を硬化させる。結果、軍事政権の中核を占めていた陸軍と秘密警察は孤立し、軍部の独裁体制は崩壊した。 {{main|キプロス紛争#1973_-_74年}} このように政治的には混乱と弾圧の続いた軍部独裁時代ではあったが、[[マーシャル・プラン]]ほかの欧米各国による経済支援策と、外国資本の積極的な誘致を背景に、戦争とその後の内戦によって壊滅的な打撃を受けた国内インフラを復興させるための大規模な国内投資により、戦後のギリシャ経済は軍事独裁政権の崩壊まで非常に高い経済成長率を誇った。この高成長時代は「[[ギリシャの奇跡]]」と呼ばれる。 {{main|ギリシャの奇跡}} === 共和政治の確立 === キジキス大統領は国内の諸政治勢力と協議して[[フランス]]へ亡命していた[[コンスタンディノス・カラマンリス]]元首相に帰国を要請、帰国したカラマンリスを首相に指名した。 [[1974年]][[11月11日]]に行われた軍事政権崩壊後初の選挙の結果、カラマンリス元首相率いる[[新民主主義党]]が多数の議席を獲得して与党となり、次いで行われた国民投票により[[君主制]]は廃止され[[共和制]]への移行が決定した(ギリシャにおける民主主義の回復については、活動的な役割を担った[[アレクサンドロス・パナグリス]]も参照)。 [[1975年]]には憲法が再改正され、[[1977年]]の選挙の結果左派勢力の伸長があったものの政局の混乱は発生せず、ギリシャの政局は以後安定化する。[[1981年]]に[[欧州共同体]](EC)の10番目の加盟国となった。 1980年代には[[全ギリシャ社会主義運動]](PASOK)が選挙の結果過半数を確保して与党となり、社会主義政権が誕生した。{{仮リンク|アンドレアス・パパンドレウ|en|Andreas Papandreou}}はNATOと[[欧州共同体]](EC)への加盟に懐疑的で、[[西側諸国]]を「[[帝国主義]]国家」と呼ぶほど親ソ派であったが、大きな外交政策の変更は行われず、NATOとECへの加盟は続行されたままギリシャは引き続き西側諸国の一員として冷戦の終結を迎える。 [[2004年]]には[[1896年]]以来108年ぶりに首都[[アテネ]]において2回目の[[夏季オリンピック]]([[2004年アテネオリンピック|第28回アテネ大会]])が開催された。それに先立つ[[2001年]]には[[ユーロ]]導入も実現したが、工業生産力が西欧諸国と比較して小さいギリシャの経済は脆弱で、[[2010年]]には統計操作による巨額の財政赤字隠蔽が発覚したことから、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機へと発展した([[2010年欧州ソブリン危機]])。 [[2020年]]、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染が拡大。同年末までに2回の[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]]が実施された<ref>{{Cite web|和書|date=2020-12-18|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/12/03088cdb822cac2e.html |title= ギリシャ、ロックダウンの延長決定、小売業は予約販売制を導入|publisher=JETRO |accessdate=2020-12-30}}></ref>。 == 政治 == [[ファイル:Hellenic Parliament from high above.jpg|thumb|[[国会議事堂 (ギリシャ)|ギリシャ国会議事堂]]]] {{main|{{仮リンク|ギリシャの政治|en|Politics of Greece}}}} [[国家体制]]として[[共和制]]・[[議院内閣制]]を採用している。 === 行政 === [[ギリシャの大統領|大統領]]が[[元首|国家元首]]として儀礼的な責務にあたる。大統領は任期5年で[[議会]]により選出される。 現大統領は2020年3月13日に就任した[[カテリナ・サケラロプル]]。[[行政|行政府]]の長である[[ギリシャの首相|首相]]は議会によって選出され大統領により任命される。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。 {{See also|ギリシャの大統領|ギリシャの首相}} === 立法 === [[立法|立法府]]たる[[ギリシャ議会]](Vouli ton Ellinon)は[[一院制]]で、300議席、任期4年。[[比例代表制]]によって選出される。 === 政党 === {{main|ギリシャの政党}} 70年代の[[ギリシャ軍事政権|民主化]]以降、中道右派の[[新民主主義党]](ND)と中道左派の[[全ギリシャ社会主義運動]](PASOK)が二大政党として交代で政権を担当する期間が続いた。財政危機を受けた[[2012年5月ギリシャ議会総選挙|2012年の選挙]]では、二大政党は得票を落とし、極左の[[急進左派連合]](SYRIZA)と[[ギリシャ共産党]] (KKE)、中道右派の[[独立ギリシャ人]](ANEL)、極右の[[黄金の夜明け (ギリシャの政党)|黄金の夜明け]]が伸長した。[[2015年1月ギリシャ議会総選挙|2015年の選挙]]で緊縮受け入れに反対した極左のSYRIZAが第一党となり、[[アレクシス・ツィプラス|ツィプラス]]政権が誕生した。しかし、SYRIZAは公約違反を繰り返したため支持率は下落し、2019年7月の選挙では,今まで最大野党であった中道右派の新民主主義党(ND)が39.9%の得票で、単独過半数となる158議席を獲得した。NDのミツォタキス党首が新首相に就任し、SYRIZAは下野した。 === 司法 === {{main|{{仮リンク|ギリシャの司法|en|Judiciary of Greece}}}} {{sectstub}} === その他 === 失業率が世界的に見ても極めて高く、常に50%を超えている。また、[[ギリシャ政治における腐敗|政界における腐敗の問題]]も指摘されている。 {{See also|{{仮リンク|ギリシャ政府債務危機|en|Greek government-debt crisis}}}} == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|ギリシャの国際関係|en|Foreign relations of Greece}}}} 周辺国との関係では、[[キプロス]]の帰属問題で[[トルコ]]とは対立関係にある。2010年代半ば以降、ヨーロッパを目指す[[シリア]]や[[アフガニスタン]]、[[イラク]]などから[[移民]]や[[難民]]がトルコ経由で押し寄せることから、国境安全保障上の観点でトルコとの国境沿いに長さ40キロにも及ぶ壁を建設、2021年8月工事が完了した<ref>{{Cite news|title=ギリシャ、対トルコ国境に壁建設 アフガン情勢も念頭に|newspaper=CNN|date=2021-08-28|url=https://www.cnn.co.jp/world/35175873.html|accessdate=2021-08-28}}</ref>。 ギリシャ民族の国家であった[[マケドニア王国]]やギリシャ国内の[[マケドニア地方]]と同じ名を名乗るスラヴ系のマケドニア共和国とも対立状態にあったが、マケドニア共和国が国名を[[北マケドニア|北マケドニア共和国]]に変更したため、両国の対立状態は薄れている。 === 日本との関係 === {{main|日本とギリシャの関係}} 2021年現在、371人のギリシャ人が日本に住んでいる。詳細は[[在日ギリシャ人]]を参照。 ; 駐日ギリシャ大使館 {{main|駐日ギリシャ大使館}} *住所:東京都港区西麻布三丁目16-30 *アクセス:[[東京メトロ日比谷線]][[広尾駅]]3番出口 <gallery> File:ギリシャ大使館全景.jpg|ギリシャ大使館全景 File:ギリシャ大使館正面玄関.jpg|ギリシャ大使館正面玄関 File:ギリシャ大使館表札.jpg|ギリシャ大使館表札 </gallery> ; 在ギリシャ日本国大使館 {{empty section}} == 軍事 == {{main|ギリシャ軍}}'''ギリシャ軍'''(ギリシャぐん、[[ギリシア語]]: Eλληνικές Ένοπλες Δυνάμεις)は、[[ギリシャ陸軍]]、[[ギリシャ海軍]]、[[ギリシャ空軍]]の3軍で構成される[[ギリシャ共和国]]の[[軍隊]]。管理・運営はギリシャ国防省が担当している。ギリシャは[[欧州連合]](EU)および[[北大西洋条約機構]](NATO)の加盟国であり、[[アフガニスタン]]の[[国際治安支援部隊|ISAF]]、[[ボスニア]]と[[チャド]]の[[欧州連合部隊|EUFOR]]、[[コソボ]]の[[KFOR]]など国際[[平和維持活動]]にも積極的に参加している。 == 地理 == [[File:Mytikas.jpg|thumb|220px|ギリシャ最高峰および神話上の[[オリュンポス十二神]]の居所である[[オリンポス山]]]] {{main|{{仮リンク|ギリシャの地理|en|Geography of Greece}}}} ギリシャの国土は4つの地方に分かれる。 *まず、国土の約2割を占める[[エーゲ海]]を中心とした島嶼である([[ギリシャの島の一覧]]参照)。最大の島はエーゲ海南方に浮かぶ[[クレタ島]](8,336[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]])、次いでエーゲ海西部と本土の間に横たわる[[エヴィア島]](3,670km<sup>2</sup>)である。 *次に[[コリンティアコス湾]]と[[コリントス運河]]によってほかの地域と区別できる南部の[[ペロポネソス半島]]である。 *国土の西海岸線に沿った形で南北に伸びるギリシャ最大の山脈{{仮リンク|ピンドス|en|Pindus|label=ピンドス山脈}}は湿潤な西部と乾燥した東部を分かつ。最高峰は[[:en:Mount Smolikas|スモリカス山]](2,637メートル) 。 *最後に、古代の都市国家を含む[[中央ギリシャ]]である。 ギリシャの国土は山がちである。ピンドス山脈には2,000メートルを超える峰がいくつもあり、北東のブルガリア国境には[[ロドピ山脈]]が東西に伸びる。ギリシャの最高峰[[オリンポス山]](2,917メートル)はどちらの山脈にも属さず、東西、南北とも15キロにわたって広がる独立した山塊となっている。平原からそびえ立ち、山頂に雪を帯びたオリンポス山の姿は古代から神聖視されてきた。 === 気候 === ほぼ全土が[[ケッペンの気候区分]]でいう[[地中海性気候]](Cs)に区分される。したがって、温暖で湿潤な冬季と乾燥し高温の夏季にはっきり分かれる。首都アテネの平均気温は、冬季の1月が10.1°C、夏季の7月では28.0°Cである。年平均降水量は383.8ミリで、これは同じ地中海性気候に分類される[[ローマ]]の約2分の1と少ない。なお、最北部は山岳地帯であり、冬季に気温が下がる[[温暖湿潤気候]](Cfa)に分類される。 == 地方行政区分 == {{main|ギリシャの地方行政区画}} [[File:Peripheries of Greece numbered.svg|thumb|250px|ギリシャのペリフェリア]] 全土は、13のペリフェリア(地方)、74のペリフェリアキ・エノティタ(県)、325のディモス(市)に区画されている。ギリシャ共和国の主権の下に属する特殊な地域として、[[修道士]]による自治が行われている[[アトス自治修道士共和国]]([[アトス山]])がある。 #[[アッティカ]] #[[中央ギリシャ]] #[[中央マケドニア]] #[[クレタ島|クレタ]] #[[東マケドニア・トラキア]] #[[イピロス]] #[[イオニア諸島]] #[[北エーゲ]] #[[ペロポネソス]] #[[南エーゲ]] #[[テッサリア]] #[[西ギリシャ]] #[[西マケドニア]] (14). [[アトス自治修道士共和国]]([[アトス山]]) === 主要都市 === {{Main|ギリシャの都市の一覧}} {|class="wikitable" style="text-align:center" |+ギリシャの10万人以上の都市(2001年) !style="width:30px"| !!都市!!地方!!人口 |- !'''1''' |'''[[アテネ]]''' |[[アッティカ]] |style="text-align:right"|754,514 |- !'''2''' |'''[[テッサロニキ]]''' |[[中央マケドニア]] |style="text-align:right"|363,987 |- !'''3''' |'''[[ピレウス|ピレアス]]''' |[[アッティカ]] |style="text-align:right"|175,697 |- !'''4''' |'''[[パトラ]]''' |[[西ギリシャ]] |style="text-align:right"|171,616 |- !'''5''' |'''[[イラクリオン|イラクリオ]]''' |[[クレタ島|クレタ]] |style="text-align:right"|137,711 |- !'''6''' |'''[[ラリサ]]''' |[[テッサリア]] |style="text-align:right"|126,076 |- |} == 経済 == [[File:Greece public debt 1999-2010.svg|thumb|1999 - 2010年のギリシャの公債割合およびユーロ圏平均の比較]] {{main|ギリシャの経済}} {{See also|2010年欧州ソブリン危機|ギリシャのユーロ圏離脱}} {{節スタブ}} === 産業 === [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]の[[国内総生産]](GDP)は2,418億ドルであり<ref name="imf201410" />、[[神奈川県]]よりやや小さい経済規模である(なお、神奈川県の人口はギリシャの全人口の82%ほどである)<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 平成 22 年度県民経済計算について]内閣府。2013年12月7日閲覧。</ref>。同年の1人あたりの名目GDPは2万1,857ドルであり<ref name="imf201410" />、世界平均の2倍を越えている。バルカン半島の国家の中では経済的にもっとも豊かな国であり、1人あたりの名目GDPは[[ルーマニア]]やトルコの約2倍、アルバニアの約5倍である。[[2008年]]には1人あたりの名目GDPは3万ドルを超えていたが、近年は不況と財政問題で下落している。 主力産業は農業、鉱業、工業、輸送業(おもに海運業)、観光業。農業では世界第3位の生産量である[[オリーブ]](200万トン)や世界8位の[[綿]]、同10位の[[タバコ|葉タバコ]]が際立つ。いずれも地中海性気候に合った作物である。しかしながら小麦やトウモロコシなど主食となる穀物の生産は振るわず、食料を自給できていない<ref>以下、統計資料は[[国際連合食糧農業機関|FAO]] Production Yearbook 2002、[[国際連合|United Nations]] International Trade Statictics Yearbook 2002、United Nations Mineral Yearbook 2002。統計データはいずれも2002年時点の数値である</ref>。 鉱業では[[石炭]]が有力。石炭の統計は品位別に分かれており、低品位でおもに燃料に用いる[[亜炭]]・[[褐炭]]では世界第4位(6,600万トン)である。[[マグネシウム]]鉱にも富み、[[鉄]]、[[ニッケル]]、[[ボーキサイト]]、原油、[[天然ガス]]など、生産量は少ないながら10種類以上の主要鉱物が見られる。 古代から地中海一帯で貿易を展開してきた歴史があるせいか、[[オナシス]]家、[[スタブロス・ニアルコス|ニアルコス]]家、[[ラティス家]]、[[マルチノス家]]、[[ロス家]]、[[クルクンディス家]]、[[:en:Stavros G. Livanos|リバノス]]家と[[海運]]王が多く、輸送業の中心は船舶であり、船舶保有量は世界第4位の2,870万総トンに及ぶ。一般貨物船は船舶保有量(総トン)の3%と少なく、[[オイルタンカー]]、鉱石や穀物用のばら積み船が80%以上を占める。このような比率は船舶保有量上位10か国には見られない特異な傾向である。ギリシャ人船主は[[パナマ]](世界第1位)や[[キプロス]](世界第6位)など税制優遇措置を利用できる国に自らの船を登録することも多く、実態を反映していない可能性がある。<!--(ただし、その内実は[[税制]]的な優遇から外国企業よりの[[名義貸し]]的な数が含まれる)--><!-- 逆です -->ギリシャには輸出できる製品が少ないため、貿易赤字が続いている<ref>https://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-07-03/2015070308_01_1.html</ref>。 === 農業 === {{main|ギリシャの農業}} {{節スタブ}} === 観光業 === [[File:Corfu Town R02.jpg|thumb|center|700px|[[世界遺産]]の[[ケルキラ]]旧市街]] [[File:Ia Santorini-2009-1.JPG|thumb|right|240px|[[サントリーニ島]]]] {{See also|ギリシャの観光}} 数多くの古代ギリシャや東ローマ時代の[[遺跡]]・遺構、[[エーゲ海]]の風光明媚な島々などの観光資源も多く、観光も重要な産業となっており、海運業、[[移民]]からの送金と観光業でギリシャの3大収入源となっている。オリンピックの開催地アテネで[[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]が開催された2004年の時点でギリシャ総労働者数の16,5%、約66万件が何らかの形で観光業に携わっており、さらにそれまでギリシャ観光を統括していたギリシャ政府観光局の上の組織として観光省が新設された。 === エネルギー === {{main|{{仮リンク|ギリシャのエネルギー|en|Energy in Greece}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ギリシャにおける再生可能エネルギー|en|Renewable energy in Greece}}}} === 貿易 === [[ファイル:Greece Export Treemap.jpg|thumb|色と面積で示したギリシャの輸出品目]] 100億ドルの輸出に対し、輸入は300億ドルであり、慢性的な貿易赤字が続いている。しかしながら、輸送業、観光業などによって貿易赤字をほぼ充当できている。主要輸出品目は、衣料、[[果実]]、石油製品である。これらに次いで[[アルミニウム]]の輸出が多いことが特徴である。主要輸出相手国は、ドイツ、イタリア、イギリス。主要輸入品目は、[[原油]]、機械類、電気機械である。主要輸入相手国はドイツ、イタリア、フランス。 日本との貿易関係は、日本に対して[[ナフサ]]、葉タバコ、貴金属製品を輸出し、乗用車、タンカー、貨物船を輸入するというものである。このことから、ギリシャの[[石油化学工業]]や軽工業が機能しており、輸送業に必要な船舶を自前で調達していることが分かる。なお[[大理石]]の輸出も日本への輸出額の4.2%を占めている。 {{See also|{{仮リンク|ギリシャの海運|en|Greek shipping}}|{{仮リンク|ギリシャの商船|en|Greek Merchant Marine}}}} === 課税と脱税 === {{main|{{仮リンク|ギリシャにおける課税|en|Taxation in Greece}}}} {{節スタブ}} == 交通 == {{main|{{仮リンク|ギリシャの交通|en|Transport in Greece}}}} [[1980年代]]に入ると、ギリシャの道路、鉄道はかなりの部分が近代化された。この中での重要な箇所にはギリシャ北西部([[イグメニツァ]])とギリシャ北東部を結ぶギリシャの[[エグナシア・ハイウェイ]]{{enlink|Egnatia Odos (modern road)|a=on}}が含まれている。[[リオン・アンティリオン橋]](ヨーロッパでもっとも長い斜張橋、総距離は2,252メートル)は中央ギリシャの[[アンティリオン]]{{enlink|Antirrio|a=on}}と[[ペロポネソス半島]]の[[リオン (ギリシャ)|リオン]]{{enlink|Rio, Greece|a=on}}([[パトラ]]から7キロ)を結んでいる。ペロポネソス半島西部の[[ピルゴス (ギリシャ)|ピルゴス]]{{enlink|Pyrgos, Ilia|a=on}}へ続く、パトラ・アテネ高速道路の延長は2014年までに完成される予定となっている。 首都であるアテネの都市圏では2001年に新たに[[アテネ国際空港]]が開港し、さらに郊外を走る新たな民間の高速道路である[[アッティキ・ハイウェイ]]{{enlink|Attiki Odos|a=on}}が2001年に開通した。そして2000年以降、[[アテネ地下鉄]]が拡張された。 ギリシャの[[島嶼]]部と主要都市の多くはギリシャの2大航空会社、[[オリンピック航空]]と[[エーゲ航空]]によって結ばれている。航路は[[水中翼船]]、[[双胴船|カタマラン(双胴船)]]を含む最新の高速船で運航されている。ほかのヨーロッパ諸国では重要な位置を占めている鉄道はギリシャでは主要地位ではない。しかし、アテネオリンピックを契機に近郊鉄道[[プロアスティアコス]]がアテネ都市圏に新たに開設される、[[ギリシャ国鉄]]の[[アテネ駅]]と[[テッサロニキ新駅]]間の幹線路線も複線電化されるなど、鉄道インフラのスクラップアンドビルドが斬新的に進められている。 かつてはアテネやテッサロニキからほかのヨーロッパ諸国、バルカン諸国、トルコへ直通する列車が運行されていたが、[[2010年欧州ソブリン危機]]により国鉄の経営が圧迫されたため、国際列車が全面運休となったこともある<ref>[http://www.tanea.gr/ellada/article/?aid=4618021 {{lang|el|Αναστέλλονται όλα τα διεθνή δρομολόγια του ΟΣΕ}}][All international routes of OSE have been suspended]. Ta Nea (2011年2月13日).{{el icon}}{{リンク切れ|date=2019-01-03}}</ref>。その後、限定的な運行が再開され、2014年夏ダイヤでは[[テッサロニキ新駅]]より[[ブルガリア]]と[[マケドニア]]・[[セルビア]]方面の一部列車が運行している。また、ペロポネソス半島内の鉄道路線(ペロポネソス狭軌鉄道)は、改軌されたプロアスティアコスの路線など一部を除き、2014年現在、全面運休が続いている。{{-}} == 国民 == [[File:Greecepop.svg|thumb|right|ギリシャの[[人口ピラミッド]]]] {{Main|{{仮リンク|ギリシャの人口統計|en|Demographics of Greece}}}} ギリシャの公式統計機関である{{仮リンク|ギリシャ国立統計局|en|Hellenic Statistical Authority}}(NSSG)の発表によれば、2001年のギリシャの全人口は1,096万4,020人である<ref name=nssg>{{cite web |url = http://www.statistics.gr/eng_tables/hellas_in_numbers_eng.pdf |title = Greece in Numbers |work = National Statistical Service of Greece |publisher = www.statistis.gr |year = 2006 |accessdate = 2007-12-14 |format = PDF }}</ref>。内訳は男性542万7,682人、女性553万6,338人であった<ref name=nssg/>。1971年、1981年、2001年とギリシャの人口統計は過去数十年行われることがなかった<ref name=nssg/>。 2013年の[[合計特殊出生率]]は1.30人と、[[少子高齢化]]が進む<ref name="OECDstat">{{Cite report|publisher=OECD |date=2016 |title=Demographic references - Fertility rates|doi=10.1787/health-data-en}}</ref>。2003年の出生率は1,000人に対して9.5人(1981年は1,000人に対して14.5人)であった。同時に死亡率は1981年の1,000人に対して8.9%であったのが、2003年には1,000人に対して9.6%と増加している。2001年の時点で65歳以上の高齢者は16.71%、15歳から64歳までが68.12%、14歳以下が15.18%であった<ref name=nssg/>。 ギリシャ社会は時を経るとともに急激に変化した。婚姻率は1981年の1,000人に対して71%から2002年まで低下し続けていたが、2003年にはわずかに増加して61%となったものの、2004年、再び低下して51%となった<ref name=nssg/>。一方で離婚率は増加しており、1991年の時点で1,000組に対して191.12件であったが、2004年には1,000組に対して239.5組となっている<ref name=nssg/>。ギリシャ人のほぼ3分の2が市街地に居住しており、2001年のギリシャ最大自治体は[[アテネ]]、[[テッサロニキ]]、[[ピレウス]]、[[パトラ]]、[[イラクリオン]]、[[ラリサ]]、[[ヴォロス]]<ref name=cities>{{cite web |url=http://www.statistics.gr/Athena2001/Athena2001.ASP?wcu=$cmd=0$id=5200712142356520314915 |title = Athena 2001 Census |work = National Statistical Service of Greece |accessdate = 2007-12-14 |publisher = www.statistics.gr }}</ref>であった。 === 民族 === {{bar box | title=ギリシャの民族構成 | titlebar=#ddd | width= 300px | float=right | bars= {{bar percent|[[ギリシャ人]]|blue|98}} {{bar percent|[[トルコ人]]|green|1}} {{bar percent|その他|lightblue|1}} }} [[ギリシャ人]]が98%、ほかに[[アルーマニア人]]、[[トルコ人|トルコ系]]、[[ユダヤ人|ユダヤ系]]、[[アルバニア人]]。 {{節スタブ}} === 言語 === {{Main|{{仮リンク|ギリシャの言語|en|Languages of Greece}}|ギリシア語}} [[ファイル:Modern Greek dialects en.svg|right|thumb|現代ギリシア語方言の分布]] 主たる言語は[[ギリシア語]]であり、北部と南部とで方言がある。北方国境では{{仮リンク|ギリシャ領マケドニアのスラヴ諸語話者|en|Slavic speakers of Greek Macedonia|label=スラヴ諸語話者}}もいる。 === 人名・婚姻 === ギリシャ人は長男に父方の祖父の名をつけるなどの習慣があるが、姓が普及したのは、有力貴族が成長してきた9世紀の東ローマ帝国時代以降のことである。婚姻の際に姓が変わることはない([[夫婦別姓]])が、社会的な関係においては、配偶者が同意した場合のみ配偶者の姓を用いる、あるいはその姓に自己の姓を付加して使用することが認められている。 === 宗教 === {{main|{{仮リンク|ギリシャの宗教|en|Religion in Greece}}}} {{Bar box |title = ギリシャの宗教(2001年)<ref>https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/gr.html</ref><ref>The newest polls show about 20% Greek citizens being irreligious which is much more than 1%. Ultimately, the statistics are disputed until the results of the [[Greek census 2011|new census]].</ref> |titlebar = #ddd |float = right |bars = {{Bar percent|ギリシャ正教会|blue|98}} {{Bar percent|イスラム教|green|1.3}} {{Bar percent|その他|grey|0.7}} }} 主たる宗教は、[[キリスト教]][[正教会]]に属するアテネ[[大主教]]の管掌下にある[[ギリシャ正教会]]である。ただし、[[クレタ島]]と[[アトス山]]だけは[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]の管轄下にある。少数派としては[[イスラム教]]や[[カトリック教会|カトリック]]のほか、[[ネオペイガニズム]]運動のひとつとして古代[[ギリシア神話]]の神々を信仰する「{{仮リンク|ギリシア多神教復興運動|en|Hellenic Polytheistic Reconstructionism}}」が存在する。 {{節スタブ}} === 教育 === {{main|{{仮リンク|ギリシャの教育|en|Education in Greece}}}} {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|古代ギリシャの教育|en|Education in ancient Greece}}}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|ギリシャの保健|en|Health in Greece}}}} [[平均寿命]]は81.4歳<ref name=OECDhg />。かつては[[ユニバーサルヘルスケア]]が実現されていたが、国家経済破綻のため2013年には加入率79.9%に転落し、長期失業者や保険に加入しない自営業者が発生した<ref name="OECDhg">{{Cite |publisher=OECD |date=2015-11 |title=Health at a Glance 2015 |doi=10.1787/19991312 |isbn=9789264247680 |at=Chapt.7.1}}</ref>。 ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|ギリシャの医療|en|Healthcare in Greece}}}} {{節スタブ}} == 社会 == === 国外への移民 === [[File:50 largest Greek diaspora.png|thumb|380px|[[w:Greek diaspora|ギリシャ人移住]]者数上位50箇国]] 19世紀末から20世紀を通じて、何百万人ものギリシャ人が[[アメリカ合衆国]]、[[オーストラリア]]、[[カナダ]]、[[イギリス]]、[[ドイツ]]などへ移住し、各地でギリシャ移民<!--[[:en:Greek diaspora]]-->らは成功を収めた。特にオーストラリアのメルボルンには、ギリシャ人移民が多く、その数はギリシャ国内の[[アテネ]](75万人)、[[テッサロニキ]](32万人)に次ぐ<ref>{{cite news |title = ギリシャから国民続々脱出で今や豪州に“第3の都市”が誕生 |author = |newspaper = ガジェット通信 |date = |url = http://getnews.jp/archives/269202 |accessdate = 2012-10-30 }}</ref>。 この海外移住傾向は1980年代以降、[[ギリシャの経済|ギリシャ経済]]の重要な改善のあと収まりつつあったが、2010年からのギリシャの経済危機により、再び海外への移民が増えている。 == 治安 == ギリシャは欧州でかつて「比較的治安の良好な国」と評されていたが、経済状況の悪化や失業率の増加などから[[労働組合]]などによる[[デモ]]ならび[[ストライキ]]が多発している他、[[不法移民]]などによる[[犯罪]]も発生しており、非常に不安定な状況に陥っている。 特に都市部の地下鉄や観光地では、[[スリ]]などの被害が多発していることや荷物の[[窃盗]](液体をかけたり声をかけて気をそらせ、荷物を盗む手口)事案の多さから最大限の注意が必要とされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_158.html#ad-image-0|title=ギリシャ 危険・スポット・広域情報|accessdate=2021-12-10|publisher=外務省}}</ref>。 傍らで[[汚職]]問題も深刻なものとなっており、ギリシャ市民が公務員や民間企業に賄賂を贈る行為「{{仮リンク|ファケラキ|en|Fakelaki}}」が問題視されている。 {{See also|{{仮リンク|ギリシャにおける汚職|en|Corruption in Greece}}}} === 治安維持 === {{仮リンク|ギリシャ警察|label=現地警察|en|Hellenic Police}}をはじめ、[[憲兵隊]]と[[国境警備隊]]ならび{{仮リンク|特別警察|en|Special police}}(かつては{{仮リンク|都市警察|el|Αστυνομία Πόλεων|en|Cities Police}}が担当)が主体となっている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|ギリシャにおける犯罪|en|Crime in Greece}}|{{仮リンク|ギリシャにおける人身売買|en|Human trafficking in Greece}}}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|ギリシャにおける人権|en|Human rights in Greece}}}} {{節スタブ}} ==== 国内への移民 ==== {{main|{{仮リンク|ギリシャへの移民|en|Immigration to Greece}}}} ギリシャ国内には外国人の移民もいるが、彼らは正式な書類を持たない不法移民が多い。ギリシャでは[[人種差別]]的な攻撃に関して有罪判決が下ることはほとんどなく、人種差別が横行している。ギリシャの経済危機があってから、彼ら移民はギリシャ人の不満のはけ口にされており、特に攻撃にさらされている<ref>{{cite news |title = アングル:緊縮策のギリシャで「移民危機」、社会不満のはけ口に |author = |newspaper = ロイター |date = |url = http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPTYE8B800420121209 |accessdate = 2012-12-9 }}</ref>。 ギリシャ当局も不法移民には厳しい態度で当たっており、[[国際連合難民高等弁務官事務所|国連難民高等弁務官事務所]]によれば、ギリシャの警察は海上で不法入国をする難民を乗せた船を見かけた場合、移民を乗せた船を引っ張って[[トルコ]]などに「押し戻す」行為が行われているという。これにより船が転覆、死亡する者も出ているが、ギリシャはこれを否定している。 また、不法移民を収容する施設は過密状態で不衛生であり、さらに勾留期限は無期限となっている<ref>{{cite news |title=欧州への不法移民:海から押し寄せる大波 |newspaper=[[日本ビジネスプレス]] |date=2014-8-21 |url=http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41532 |accessdate=2014-8-23 }}</ref>。 == メディア == {{main|{{仮リンク|ギリシャのメディア|en|Mass media in Greece}}}} {{sectstub}} {{See also|{{仮リンク|ギリシャの通信|en|Telecommunications in Greece}}}} == 文化 == [[File:Temple of Hephaestus.jpg|thumb|260px|[[アテネ]]の[[ヘーパイストス神殿]]]] [[File:Corfu Town Hall R01.jpg|thumb|現代ギリシャ初の劇場及びオペラハウスである[[w:Nobile Teatro di San Giacomo di Corfù|Nobile Teatro di San Giacomo di Corfù]]]] [[File:Plato Silanion Musei Capitolini MC1377.jpg|thumb|right|150px|[[プラトン]]。「[[西洋哲学|全欧州哲学史]]はプラトン哲学に対する膨大な注釈に過ぎない」([[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド]]、''[[w:Process and Reality|Process and Reality]]''、1929年)]] {{main|{{仮リンク|ギリシャの文化|en|Culture of Greece}}|ビザンティン文化}} 紀元前からギリシャは[[哲学]]や文化、芸術にさまざまな影響を与えてきた。その影響力の大きさから、ギリシャは「ヨーロッパ文化のゆりかご」と称されることもある。 === 食文化 === {{出典の明記|date=2021年12月|section=1}} {{main|ギリシア料理}} ギリシャの料理は地中海料理であるが、西方の[[イタリア料理]]のみならず[[トルコ料理]]や[[レバノン料理]]などの東方の地中海料理との共通点も多い。これは、[[東ローマ帝国]]や[[オスマン帝国]]といった歴史に由来する。 [[新世界|新大陸]]に原産地とされて以降食として加えられる[[トマト]]や他の[[野菜]]を多彩に使用する点が特徴{{誰範囲2|とされているが|date=2021年12月}}、これは一定期間[[肉食]]を禁じられるという[[ギリシャ正教会]]における戒律にある。また地中海に面するため、[[タコ]]や[[イカ]]、そして[[魚介類]]なども使用する。ギリシャの代表的な料理として、[[タラモサラタ]]や[[ムサカ]]、[[ピキリア]]、[[ドルマ]]などがある。 ギリシャ料理は2010年に、イタリア料理や[[スペイン料理]]、[[モロッコ料理]]とともに『[[地中海食|地中海の食事]]』として[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]に登録されている。 {{節スタブ}} === 文学 === {{main|ギリシア文学}} {{節スタブ}} === 哲学 === {{main|ギリシア哲学}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{main|{{仮リンク|ギリシア音楽|en|Music of Greece}}}} {{節スタブ}} {{See also|古代ギリシアの音楽}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|ギリシア映画|en|Cinema of Greece}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{main|ギリシア建築}} {{節スタブ}} === 美術 === {{main|ギリシア芸術}} {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{main|ギリシャの世界遺産}} ギリシャ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された[[文化遺産 (世界遺産)|文化遺産]]は15件、[[複合遺産 (世界遺産)|複合遺産]]は2件の全'''17'''件が存在する。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|ギリシャの祝日|en|Public holidays in Greece}}}} {|class="wikitable" align="center" style="font-size:95%" |+祝祭日 !日付!!日本語表記!!ギリシア語表記!!備考 |- |[[1月1日]]||元日||{{lang|el|Πρωτοχρονιά}}|| |- |[[1月6日]]||[[エピファニー|神現祭]]||{{lang|el|Αγια Θεοφάνεια}}|| |- |移動祝日||聖灰月曜日||{{lang|el|Καθαρά Δευτέρα}}||[[復活祭]]41日前 |- |[[3月25日]]||独立記念日||{{lang|el|Ευαγγελισμός / Εθνική εορτή}}|| |- |移動祝日||[[聖大金曜日]]||{{lang|el|Μεγάλη Παρασκευή}}||復活祭前金曜日 |- |移動祝日||[[聖大土曜日]]||{{lang|el|Μεγάλο Σάββατο}}||復活祭前土曜日 |- |移動祝日||[[復活大祭]]||{{lang|el|Πάσχα}}||[[春分]]後の満月の次の日曜日 |- |移動祝日||復活祭翌月曜日||{{lang|el|Δευτέρα του Πάσχα}}|| |- |[[5月1日]]||[[メーデー]]||{{lang|el|Εργατική Πρωτομαγιά}}|| |- |移動祝日||[[ペンテコステ|聖神降臨祭]]翌月曜日||{{lang|el|Δευτέρα του Αγίου Πνεύματος}}|| |- |[[8月15日]]||[[生神女就寝祭]]||{{lang|el|Κοίμησις Θεοτόκου}}|| |- |[[10月28日]]||[[参戦記念日 (ギリシャ)|参戦記念日]] || {{lang|el|To "΄Οχι"}}||対伊国土通過拒否の日 ({{lang|el|Επέτειος του Όχι}}) |- |[[12月25日]]||[[クリスマス|主の降誕祭]]||{{lang|el|Χριστούγεννα}}|| |- |[[12月26日]]||[[生神女]]のシナクシス||{{lang|el|Σύναξις Θεοτόκου}}|| |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|ギリシャのスポーツ|en|Sport in Greece}}}} {{See also|オリンピックのギリシャ選手団}} === オリンピック === {{Main|古代オリンピック|オリンピック関連年表}} [[ファイル:Louis entering Kallimarmaron at the 1896 Athens Olympics.jpg|thumb|第1回[[近代オリンピック]]である[[1896年]]の[[1896年アテネオリンピック|アテネ大会]]]] ギリシャは'''[[古代オリンピック|オリンピック]]発祥の地'''である。そのため[[オリンピックのギリシャ選手団|選手団]]は[[近代オリンピック]]の[[開会式]]で常に1番目の入場国となっている。ギリシャではこれまでに第1回大会の[[1896年アテネオリンピック]]と、108年ぶり2度目の開催となった[[2004年アテネオリンピック]]が行われている。しかし、未だに[[冬季オリンピック]]の開催経験はない。 === サッカー === {{Main|{{仮リンク|ギリシャのサッカー|en|Football in Greece}}}} {{Main2|著名な[[ダービーマッチ]]|ギリシャダービー}} [[File:Greece national football team (2010-11-17).jpg|thumb|200px|堅守速攻スタイルに定評のある[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ代表]]]] ギリシャ国内では[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっており、[[1927年]]にサッカーリーグの[[ギリシャ・スーパーリーグ]]が創設された。主なクラブとしては、[[オリンピアコスFC|オリンピアコス]]、[[パナシナイコスFC|パナシナイコス]]、[[AEKアテネFC|AEKアテネ]]、[[PAOKテッサロニキ|PAOK]]などが挙げられる。 [[ギリシャサッカー連盟]](HFF)によって構成される[[サッカーギリシャ代表]]は、[[UEFA欧州選手権]]には4度出場しており[[UEFA EURO 2004|2004年大会]]では悲願の初優勝を果たしている。[[FIFAワールドカップ]]には[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]、[[2010 FIFAワールドカップ|2010年大会]]、[[2014 FIFAワールドカップ|2014年大会]]の3度出場しており、2014年のブラジル大会ではグループリーグを初めて突破しベスト16に進出した<ref>[http://jp.uefa.com/news/newsid=2119382.html#pk16 ギリシャ、劇的PKで16強入り] - UEFA.com 2014年6月24日閲覧</ref>。 著名な選手としては、[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]で[[ドイツ・ブンデスリーガ2006-2007|2006-07シーズン]]に得点王となった[[テオファニス・ゲカス]]をはじめ、[[ヨアニス・アマナティディス]]、[[ソクラティス・パパスタソプーロス]]、[[コスタス・マノラス]]などが存在する。 === バスケットボール === {{Main|バスケットボールギリシャ代表}} ギリシャではサッカーの次に[[バスケットボール]]が盛んであり、ギリシャバスケットボール連盟によって[[バスケットボールギリシャ代表]]が組織されている。日本開催となった[[2006年バスケットボール世界選手権|2006年世界選手権]]では、[[NBA]]でプレーする選手が不在の中で[[バスケットボール男子アメリカ合衆国代表|ドリームチーム]]を下すなどして準優勝の成績を収めた。さらに[[バスケットボール欧州選手権|ユーロバスケット]]では、1987年大会と2005年大会で2度の優勝に輝いている。 == 著名な出身者 == {{Main|ギリシャ人の一覧}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|30em|refs= <ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=174&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=43&pr.y=3|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-10-18}}</ref> }} == 参考文献 == {{節スタブ}} == 関連項目 == * [[ギリシャ関係記事の一覧]] * {{仮リンク|ギリシャの概要|en|Outline of Greece}} * [[ギリシア神話|ギリシャ神話]] * {{仮リンク|ローマ以前のクリミアのギリシャ人|en|Greeks in pre-Roman Crimea}} * [[ギリシャの民俗舞踊]] * [[マケドニア名称論争]] - [[北マケドニア共和国]] * {{仮リンク|ギリシャの国際ランキング|en|International rankings of Greece}} * [[ギリシャ・スーパーリーグ]] == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Ελλάδα|Greece}} ; 政府 * [https://www.presidency.gr/ ギリシャ共和国大統領府] {{el icon}}{{en icon}} * [https://primeminister.gr/ ギリシャ共和国首相府] {{el icon}}{{en icon}} * [https://www.mfa.gr/missionsabroad/ja/japan.html 駐日ギリシャ大使館] {{ja icon}}{{el icon}}{{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/greece/ 日本外務省 - ギリシャ] {{ja icon}} * [https://www.gr.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/ 在ギリシャ日本国大使館] {{ja icon}} ; 観光 * [http://www.visitgreece.jp/ ギリシャ政府観光局] {{ja icon}} ; その他 * [http://www.jetro.go.jp/world/europe/gr/ ジェトロ- ギリシャ] {{ja icon}} {{ヨーロッパ}} {{EU}} {{OECD}} {{OIF}} {{Normdaten}} {{Coord|38||N|24||E|display=title}} {{デフォルトソート:きりしや}} [[Category:ギリシャ|*]] [[Category:ヨーロッパの国]] [[Category:共和国]] [[Category:欧州連合加盟国]] [[Category:フランコフォニー加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:NATO加盟国]] [[Category:経済協力開発機構加盟国]] [[Category:先進国]]
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2020年代
2020年代(にせんにじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2020年から2029年までの10年間を指す十年紀である。この項目では、国際的な視点に基づいた2020年代について記載。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "2020年代(にせんにじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2020年から2029年までの10年間を指す十年紀である。この項目では、国際的な視点に基づいた2020年代について記載。", "title": null } ]
2020年代(にせんにじゅうねんだい)は、西暦(グレゴリオ暦)2020年から2029年までの10年間を指す十年紀である。この項目では、国際的な視点に基づいた2020年代について記載。
{{Otheruses||日本ローカルの事柄|2020年代の日本}} {{Decadebox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 21 | 年代 = 2020 | 年 = 2020 }} '''2020年代'''(にせんにじゅうねんだい)は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])[[2020年]]から[[2029年]]までの10年間を指す[[十年紀]]である。この項目では、国際的な視点に基づいた2020年代について記載。 == できごと == [[File:SARS-CoV-2 (yellow).jpg|thumb|COVID-19を引き起こすSARS-CoV-2の[[走査型電子顕微鏡]]画像<br>(カラー化、黄色がSARS-CoV-2の[[ビリオン]])]] === 2020年 === {{main|2020年}} * [[2019年]]末に[[中華人民共和国|中国]]・[[武漢市]]で発生した'''[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)]]による[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|急性呼吸器疾患(COVID-19)]]'''が、2020年に入ってから'''[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界中で大流行]]'''([[パンデミック]])<ref name="reuters20200312">[https://jp.reuters.com/article/coronavirus-who-pandemic-idJPKBN20Y2PC 新型コロナは「パンデミック」に相当、WHO事務局長が表明] ロイター (2020年3月12日)</ref><ref name="nikkei20200312">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56692120S0A310C2000000/ WHO事務局長、新型コロナ「パンデミック」と表明] 日本経済新聞 (2020年3月12日)</ref>。 * [[1月3日]] - [[バグダード国際空港攻撃事件 (2020年)|バグダード国際空港攻撃事件]]、[[イラン]][[イスラム革命防衛隊|革命防衛隊]]司令官の[[ガーセム・ソレイマーニー]]が[[イラク]]の同空港付近で[[アメリカ軍|米軍]]により殺害された。その報復として革命防衛隊は同月8日、[[2020年1月のイランによる在イラク米軍基地攻撃|在イラク米軍基地に対して複数の弾道ミサイル攻撃]]を行っている。その数時間後には、イラン革命防衛隊が[[ウクライナ国際航空752便撃墜事件|ウクライナ国際航空752便]]を[[地対空ミサイル]]で誤って撃墜し、乗員乗客176人全員が死亡する事件が発生した。 * [[1月31日]] - 同日23時([[グリニッジ標準時|GMT]]/[[中央ヨーロッパ時間]] (CET) では[[2月1日]]0時)をもって[[イギリスの欧州連合離脱|イギリスがEUを離脱(ブレグジット)]]<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/01/eu3123eu.php イギリス、EU離脱関連法が成立 31日23時にEU離脱へ]([[ニューズウィーク]]日本版 2020年1月24日)</ref>。 * [[2月29日]] - [[アメリカ合衆国]]:[[トランプ]]政権とアフガニスタンの反政府勢力[[ターリバーン|タリバン]]が[[カタール]]の首都[[ドーハ]]で、駐留米軍の段階的撤収などを定めた和平合意に調印した。 * [[3月24日]] - [[日本]]:[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの世界的流行]]に伴い、本年夏に[[東京都]]で開催を予定していた[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]・[[2020年東京パラリンピック|パラリンピック]]について1年程度の延期が決まった。 * [[4月8日]] - [[中華人民共和国|中国]]:2月から封鎖していた[[武漢市]]の封鎖を解除し、2ヶ月半ぶりに高速鉄道、航空路線が再開された。 * [[5月22日]] - [[パキスタン]]南部の[[カラチ]]で[[パキスタン国際航空]]8303便が墜落し、乗員乗客97人と地上の住民1人が死亡した。{{main|パキスタン国際航空8303便墜落事故}} * [[6月16日]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]:[[大韓民国|韓国]]の[[脱北者]]団体による体制批判ビラ散布への報復として、午後2時49分ごろ、[[開城工業地区]]にある[[南北共同連絡事務所]]を爆破した。 * [[6月11日]] - [[アメリカ合衆国]]:[[ジョージ・フロイド抗議運動]]参加者らが[[シアトル市警察署]]周辺を占領し、[[キャピトルヒル自治区]]設立を宣言。 * [[7月1日]] - [[ロシア]]:憲法が改正された。今回の改正によってこれまでの任期は「リセット」され、2024年以降の最長12年間、即ち[[2036年]]まで[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]政権の継続が可能になった。 * [[8月4日]] - [[レバノン]]:[[ベイルート港爆発事故]]発生。 * [[9月16日]] - [[日本]]:[[第4次安倍内閣 (第2次改造)]] が午前に行われた臨時閣議により内閣総辞職した。その後衆議院本会議と参議院本会議で行われた[[内閣総理大臣指名選挙]]において自民党の[[菅義偉]]総裁が指名された。 * [[9月27日]] - [[アゼルバイジャン]]と[[アルメニア]]による[[2020年ナゴルノ・カラバフ紛争|大規模戦闘]]が[[ナゴルノ・カラバフ|ナゴルノ・カラバフ地方]]で勃発。民間人および両軍兵士会わせて数百~数千人の死傷者が発生した。アルメニア・アゼルバイジャン両政府は両国全土で[[戒厳令]]を導入。一般総動員態勢を宣言。 * [[9月28日]] - [[アゼルバイジャン]]議会が[[アルメニア]]に対する[[戦争]]状態を宣言。事実上の[[宣戦布告]]。 * [[10月13日]] - [[Microsoft Windows 10]] (2015 LTSB) のメインストリームサポート終了(延長サポート終了は[[2025年]][[10月14日]]の予定)。 * [[11月3日]] - [[2020年アメリカ合衆国大統領選挙]]の一般投票が行われ、[[ドナルド・トランプ]]現大統領([[共和党 (アメリカ)|共和党]])と[[ジョー・バイデン]]([[民主党 (アメリカ)|民主党]])が大接戦。最終的にはバイデンが勝利した。 * [[12月6日]] - 日本の[[宇宙探査機|小惑星探査機]]「[[はやぶさ2]]」が地球へ帰還。回収カプセルを[[オーストラリア]]の[[ウーメラ試験場]]に投下し、本体は地球を[[スイングバイ|フライバイ]]して次の探査目標([[小惑星]]「[[1998 KY26|{{mp|1998 KY|26}}]]」、[[2031年]]7月到着予定)へ向かった<ref>[https://www.astroarts.co.jp/article/hl/a/11506_hayabusa2 地球帰還後の「はやぶさ2」は2031年に小惑星1998 KY26へ]([[アストロアーツ]] 2020年9月15日)</ref>。 === 2021年 === [[File:2021 storming of the United States Capitol 09.jpg|thumb|[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙]]の結果に抗議し、議会議事堂に侵入するドナルド・トランプの支持者ら]] {{main|2021年}} * [[1月6日]] - [[2021年アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件]] * [[1月13日]] - [[アメリカ合衆国下院|米下院本会議]]は現職大統領のドナルド・トランプが支持勢力を扇動して連邦議会議事堂を襲撃・占拠させたとして罷免を求める弾劾訴追決議案を賛成232票、反対197票の賛成多数で可決。共和党からも10人の議員が賛成に回った。2019年にも[[ドナルド・トランプとウクライナ論争|ウクライナ疑惑]]で弾劾訴追されており、米大統領が在任中に2回弾劾訴追されるのは史上初([[ドナルド・トランプの弾劾]])。 * [[1月10日]] - 北朝鮮の[[金正恩]]・[[朝鮮労働党委員長]]が党大会で[[朝鮮労働党中央委員会総書記|党総書記]]に選出。 * [[1月20日]] - [[ジョー・バイデン]]([[民主党 (アメリカ)|民主党]])が46代目の[[アメリカ合衆国大統領]]に就任<ref>[https://www.bbc.com/japanese/55741921 ジョー・バイデン氏が第46代アメリカ大統領に就任] BBCニュース (2021年1月21日) 2021年1月21日閲覧。</ref>。 * [[1月22日]] - [[核兵器禁止条約]](50か国・地域以上が批准)が発効。 * [[2月1日]] - [[2021年ミャンマークーデター]] * [[2月13日]] - [[日本]]・[[福島県沖地震|福島県沖]]を震源とする、[[マグニチュード]] (M) 7.3の[[地震]]が発生。{{main|福島県沖地震 (2021年)}} * [[3月3日]] - [[イーロン・マスク]]が[[最高経営責任者|CEO]]を務める[[スペースX]]が宇宙船・[[スターシップ (宇宙船)|スターシップ]]の高高度飛行に成功。 * [[3月23日]] - [[2021年スエズ運河封鎖事故]] * [[4月2日]] - [[台湾]]東部・[[花蓮県]]、[[台湾鉄道]]・[[北廻線]][[和仁駅]] - [[崇徳駅]]間を乗客498人を乗せ走行していた[[樹林駅|樹林]]発[[台東駅|台東]]行き[[太魯閣号|太魯閣自強号]](タロコ号)第408列車が線路上で[[積載形トラッククレーン]]と衝突、脱線しトンネル内の壁に衝突した。この事故で少なくとも49人が死亡、245人が負傷した。{{main|北廻線太魯閣号脱線事故}} * [[5月23日]] - [[アテネ]]発[[ヴィリニュス]]行きの[[ライアンエアー4978便]]が[[ベラルーシ]]領空を飛行中に[[ミンスク・ナショナル空港]]に着陸させられ、搭乗していたベラルーシ野党系政治活動家ジャーナリストの[[ラマン・プラタセヴィチ|ローマン・プロタセビッチ]]らが拘束される事件が発生した。{{see also|ライアンエアー4978便}} * [[6月24日]] - アメリカ・[[フロリダ州]][[マイアミ]]近郊サーフサイドで12階建ての[[コンドミニアム]]「チャンプレイン・タワーズ・サウス」が崩落する事故が発生。98人が死亡。{{main|サーフサイド・コンドミニアム崩落事故}} * [[7月7日]] - [[ハイチ]]で[[ジョブネル・モイーズ]]大統領が暗殺される事件が発生<ref>{{Cite news|title=ハイチ大統領暗殺される モイーズ氏、首都の私邸で銃撃受け|newspaper=毎日新聞|date=2021-07-07|url=https://mainichi.jp/articles/20210707/k00/00m/030/284000c.amp|accessdate=2021-07-08}}</ref><ref>{{Cite news|title=ハイチで大統領暗殺 暫定首相は非常事態を宣言|newspaper=日本経済新聞|date=2021-07-08|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN07EQA0X00C21A7000000/|accessdate=2021-07-08}}</ref>。犯行グループのうち、当局の治安部隊によって4人が射殺、2人が拘束された。{{main|ジョブネル・モイーズ暗殺事件}} * [[7月23日]]〜[[8月8日]] - 新型コロナウイルスの世界的流行に伴い、史上初の延期が決定された[[2020年東京オリンピック|第32回夏季オリンピック]]('''東京オリンピック''')および[[2020年東京パラリンピック|第16回夏季パラリンピック]]('''東京パラリンピック''')が開催<ref name="bbc20200324">[https://www.bbc.com/japanese/52020509 東京五輪・パラ、「1年程度」の延期決定 「東京2020」の名称は維持] BBC NEWS (2020年3月24日)</ref>。 * [[8月15日]] - [[ターリバーン]]により[[アフガニスタン]]の首都・[[カーブル陥落 (2021年)|カーブル陥落]]。 * [[8月30日]] - バイデン米大統領は[[アメリカ軍|米軍]]のアフガニスタン撤退が<!--31日の-->期日を前に完了し、[[アメリカ同時多発テロ事件|911テロ事件]]直後から約20年間行われた[[軍事作戦]]終結を表明<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/127972 米軍アフガニスタン撤退完了 米最長20年の戦争終結もなお米国人100人残留、協力者ら含めると6万人] 東京新聞 (2021年8月31日)</ref>。{{see also|アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)}} * [[9月5日]] ‐ [[2021年ギニアクーデター]]が発生。 * [[9月7日]] ‐ [[エルサルバドル]]が世界で初めて[[法定通貨]]として[[ビットコイン]]を導入。 * [[9月20日]] - [[中国]][[北京市]]に[[ユニバーサル・スタジオ・北京]]が開園。 * [[10月1日]] - [[アラブ首長国連邦]]で[[ドバイ国際博覧会]]開幕。 * [[12月25日]] - [[ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡]]([[ハッブル宇宙望遠鏡]]の後継機)が打ち上げ。 === 2022年 === [[File:Kharkiv downtown street destroyed by Russian bombardment.jpg|thumb|[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアの攻撃]]による[[ウクライナ]]・[[ハルキウ]]中心部の被害]]<!--ウクライナ侵攻関連で状況が分かる更に良い画像があったら置き換え--> {{main|2022年}} * [[1月1日]] - [[地域的な包括的経済連携協定|地域的包括的経済連携]] (RCEP) 協定が発効。日本、中国、オーストラリアなど10カ国で開始。 * [[1月3日]] - [[核兵器]]を保有する[[アメリカ]]・[[ロシア]]・[[イギリス]]・[[フランス]]・[[中国]]の5カ国が「[[核戦争]]に勝者はいない。核戦争を絶対に始めてはならない」とする[[共同声明]]を発表。 * [[1月15日]] - [[トンガ]]に位置する[[フンガ・トンガ|フンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ]]火山が大規模な噴火活動を起こし、直径300km以上の範囲で[[噴煙]]が広がった。[[サモア]]や[[バヌアツ]]など[[太平洋]]沿岸の各国で津波が観測され、日本近海でも潮位変化が観測されたことから16日未明(日本時間)に太平洋側に[[津波警報]]・[[津波注意報]]が発令された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220115/k10013432611000.html |title=トンガ大規模噴火 日本の津波注意報はすべて解除 |accessdate=2022-01-16 |date=2022-01-16 |publisher=NHK}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM154ZN0V10C22A1000000/ |title=トンガ沖海底噴火、世界でも津波観測 NZが現地支援へ |accessdate=2022年1月16日 |publisher=日本経済新聞}}</ref>。{{main|2022年のフンガ・トンガ噴火}} * [[2月4日]]〜[[2月20日|20日]] - [[北京市|北京]]にて[[2022年北京オリンピック|第24回冬季オリンピック]]('''北京オリンピック''')が開催。 * [[2月24日]] - '''[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアがウクライナへの侵攻]]'''を開始。 * [[3月9日]] - [[2022年大韓民国大統領選挙]]。[[保守政党|保守系]]の最大[[野党]]・[[国民の力]]の[[尹錫悦]]が勝利し、5年ぶりに[[政権交代]]を果たした。 * [[3月31日]] - [[ドバイ国際博覧会]]が閉幕。 * [[3月16日]] - [[日本]]・[[福島県沖地震|福島県沖]]でM7.4の地震が発生。{{main|福島県沖地震 (2022年)}} * [[4月1日]] - 日本の[[成年|成人年齢]]を18歳に引き下げる改正[[民法 (日本)|民法]]が施行。 * [[4月12日]] - [[ジョンズ・ホプキンズ大学]]の集計<!--日本時間では13日午前8時時点-->によると、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染者が世界全体で5億人を超えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220413/k10013579851000.html |title=新型コロナ感染確認 世界全体で5億人を超える |date=2022-04-13 |accessdate= 2022-04-13 |publisher=NHKニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220413022339/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220413/k10013579851000.html |archivedate=2022-04-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20220413-OYT1T50064/ |title=世界のコロナ感染者数が累計5億人超す…2か月で1億人増、収束見通せず |date=2022-04-13 |accessdate= 2022-04-13 |publisher=読売新聞オンライン}}</ref>。 * [[4月19日]] - 世界最高齢の存命人物であった[[田中カ子]]が119歳107日([[長寿]]歴代2位)で死去<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220425140244/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022042500700 |title=世界最高齢の田中カ子さん死去 119歳、国内歴代も更新―福岡:時事ドットコム |publisher=[[時事通信社]] |date=2022-04-25 |accessdate=2022-04-25}}</ref>。 * [[4月24日]] - [[2022年フランス大統領選挙]]の2回目投票([[決選投票]])が行われ、現職の[[エマニュエル・マクロン]]が再選<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20220425140244/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022042500098 |title=マクロン氏再選 ルペン氏と再対決、差縮まる―仏大統領選:時事ドットコム |publisher=[[時事通信社]] |date=2022-04-25 |accessdate=2022-04-25}}</ref>。 * [[5月16日]] - ウクライナ精鋭部隊[[アゾフ大隊]]などは[[ウクライナ軍]]最高司令部の決定に従い[[アゾフスタリ製鉄所]]から撤退を開始。事実上の[[マリウポリ]]陥落。 * [[6月15日]] - [[マイクロソフト]]の[[ウェブブラウザ]]「[[Internet Explorer]]」のサポートが終了 * [[7月8日]] - 日本・[[奈良市]]内の[[大和西大寺駅]]付近にて、元首相の[[安倍晋三]]が銃殺された。{{main|安倍晋三銃撃事件}} * [[8月30日]] - 旧[[ソビエト連邦]]の最後の最高指導者[[ミハイル・ゴルバチョフ]]が腎臓疾患のため入院先のモスクワ中央臨床病院で死去した。{{Main|ミハイル・ゴルバチョフの死と葬儀}} * [[9月8日]] - [[英国]]の君主として70年に渡り在位した[[エリザベス2世]]が[[スコットランド]]の[[バルモラル城]]で崩御。{{Main|エリザベス2世の死}} * [[9月30日]] - [[ロシアによるウクライナ4州の併合宣言]] * [[10月1日]] - [[インドネシア]]の[[東ジャワ州]][[マラン県]][[カンジュルハンスタジアム]]での試合後に暴動が発生。少なくとも125人が死亡した。{{Main|カンジュルハン・スタジアムの悲劇}} * [[10月29日]] - [[大韓民国|韓国]]の[[ソウル特別市]]の[[梨泰院]]・繁華街で[[群集事故|群衆事故]]が発生。少なくとも151人が死亡した。{{Main|ソウル梨泰院雑踏事故}} * [[11月15日]] - [[国際連合経済社会局|国連経済社会局]](UNDESA)人口部が発表した「世界人口推計2022年版」によると、[[世界人口]]が80億人に到達すると予測されている<ref name="tokyo.unfpa-wpp2022">[https://tokyo.unfpa.org/ja/news/wpp2022 世界人口は今年11月<!--15日-->に80億人に:国連が「世界人口推計2022年版」を発表]([[国際連合人口基金|国連人口基金]]駐日事務所 2022年7月12日、2022年8月7日閲覧)</ref><ref name="yomiuri220712">{{Cite web|和書|title=人口14・1億人のインド、来年には中国を上回り世界最多に…国連推計 |url=https://www.yomiuri.co.jp/world/20220712-OYT1T50199/ |website=読売新聞オンライン |date=2022-07-12 |access-date=2022-07-22}}</ref>。 * [[11月20日]]〜[[12月18日]] - [[カタール]]で[[2022 FIFAワールドカップ]]開催。 * [[12月11日]] - [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の月試料収集プロジェクトに参加する日本の宇宙ベンチャー[[ispace]]が、民間初となる[[月探査|月面探査]]プログラム「[[HAKUTO]]-R」の最初のミッション([[月面着陸]]ミッション)で、月面着陸船により[[月]]の表土サンプルを収集する予定(本年はispace Japan〈東京本社〉が実施予定、さらに2024年にはispace Europe〈[[ルクセンブルク]]〉も参加して2回目のミッション〈月面探査ミッション〉を実施予定)<ref>{{Cite web|和書|url=https://techcrunchjapan.com/2020/12/04/2020-12-03-nasa-selects-four-companies-for-moon-material-collection-as-it-seeks-to-set-precedent-on-private-sector-outer-space-mining/|title=NASAが月試料収集プロジェクトに日本のiSpaceなど4社を選抜、宇宙鉱業のパイオニア育成を目指す|website=[[TechCrunch]] Japan|date=2020-12-04|accessdate=2020-12-05}}</ref><ref>[https://response.jp/article/2022/01/26/353588.html 月着陸船と月面車を開発、民間プログラム『HAKUTO-R』の進捗は順調](レスポンス 2022年1月26日)</ref>。 === 2023年 === {{main|2023年}} * [[1月1日]] - [[クロアチア]]が欧州単一通貨[[ユーロ]]に移行、[[シェンゲン協定]]に加入しヨーロッパ域内移動自由化。 * [[1月5日]] - 第265代[[教皇|ローマ教皇]][[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]]の葬儀が[[バチカン]]で行われた。 * [[1月8日]] - 前ブラジル大統領[[ジャイール・ボルソナーロ]]の支持者がルーラ大統領の当選に異議を唱え[[ブラジリア]]の[[国民会議 (ブラジル)|国民議会]]や[[連邦最高裁判所 (ブラジル)|連邦最高裁判所]]、[[プラナルト宮殿]]を襲撃。{{main|2023年ブラジル三権広場襲撃事件}} * [[1月10日]] - [[Microsoft Windows 8|Microsoft Windows 8.1]]の延長サポート終了 * [[1月16日]] - [[ウクライナ]][[ソレダルの戦い]]でソレダルでウクライナ軍敗北、ロシア軍によって攻略される。 * [[1月18日]] - [[ウクライナ]]・[[キーウ]]郊外のブロヴァリーの[[幼稚園]]に[[ウクライナ国家非常事態庁]]所有のヘリコプターが墜落し、搭乗していた内務大臣ら全員と園内にいた子供を含む14人が死亡。{{main|ウクライナ非常事態庁ヘリ墜落事故}} * [[1月25日]] - [[オーストラリア]]の[[西オーストラリア州]]で放射線物質のカプセルが行方不明になる。 * [[2月5日]] - [[2月1日]]に発見された中国の気球を[[アメリカ]]のF-22が領海上で追撃。{{main|2023年中国気球事件}} * [[2月6日]] - トルコ南部のガズィアンテプ付近でM7.8の大地震が発生。{{main|トルコ・シリア地震}} * [[4月15日]] - [[スーダン]]で{{仮リンク|スーダン軍|en|Sudanese Armed Forces}}と[[準軍事組織]]である[[即応支援部隊]](RSF)との間で戦闘が勃発。{{main|2023年スーダンでの戦闘}} === 2024年 === {{main|2024年}} == 予定及び予測 == === 2024年 === {{main|2024年}} * [[パリ]]にて[[2024年パリオリンピック|第33回夏季オリンピック]]('''パリオリンピック''')が開催予定。 * 第60回[[アメリカ合衆国大統領選挙]]の実施。 * [[国際宇宙ステーション]] (ISS) の運用について、この頃までの延長が国際合意されている([[アメリカ航空宇宙局|NASA]]は[[2030年]]まで運用を継続する方針)。 * [[アメリカ合衆国]]の[[エネルギー]]省の傘下にある国立再生可能エネルギー研究所は、この年までに[[風力発電]]によって、本国東海岸地域の総消費電力の20%を供給できると見込んでいる。 * [[カタルーニャ独立運動]]ではパリオリンピックに「独立カタルーニャ共和国」で参加することを標榜しており、この頃までに独立達成を目指すと思われる。同時に[[スペイン]]との独立戦争への発展が危惧される。 <!--* この頃、[[インド]]の[[人口]]が約14億4000万人にまで増加し、[[中華人民共和国|中国]]を抜いて世界最多となる([[国際連合|国連]]の2017年予測<ref>[https://web.archive.org/web/20170812060030/https://www.sankeibiz.jp/macro/news/170711/mcb1707110500008-n1.htm インド人口 24年に中国追い抜き首位に] - SankeiBiz (2017年7月11日)</ref>、2019年の予測では逆転するのは2027年頃とされる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO46497070U9A620C1910M00/ 変わる人口地図(5)―インド、2027年に人口世界1に] - 日本経済新聞 (2019年6月24日)</ref>)。--> * [[TSMC]]は、この年に[[5ナノメートル#Beyond 5 nm|3ナノメートル]]ノードの半導体の大量生産を開始する予定。同社はこの先の2nmプロセスまでの目処が立ったとしているが、1nmを超えて(Sub-1nm)[[集積回路]]の[[微細化]]が進むかどうかは不透明で、[[スピントロニクス]]や[[量子コンピュータ]]の開発が待たれる。 * ドライバー不足により「モノが運べない」[[物流危機]]が始まる([[2024年問題]])。 === 2025年 === {{main|2025年}} * [[大阪市]]で[[2025年日本国際博覧会]](大阪・関西万博)が開催予定。 * [[リチウムイオン二次電池]]の世界需要が、2008年比で約100倍に拡大する。 * [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]が[[アルテミス計画]]によりこの年以降、半世紀ぶりに[[宇宙飛行士]]を[[月面]]に[[月面着陸|着陸]]させる予定(当初目標の2024年から延期)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3226543|title=NASA、有人月面着陸計画「アルテミス」のスケジュール発表|work=AFBニュース|publisher=AFBニュース|date=2019-05-24|accessdate=2019-05-24}}</ref><ref>[https://sorae.info/space/20211113-nasa-artemis.html NASA「アルテミス計画」有人月面着陸は2025年以降に、新型コロナや訴訟も影響] - sorae (2021年11月13日)</ref>。 * [[宇宙航空研究開発機構|JAXA]]は「JAXA Vision 2025」で、月面に人型[[ロボット]]が居住するビジョンを描いている。 * この年の7月頃に[[太陽極大期]]の到来が予測されている<ref>[https://astropics.bookbright.co.jp/solar-cycle-25-is-here 太陽活動の第25周期がスタート](アストロピクス 2020年9月16日)</ref>。 === 2026年 === {{main|2026年}} * [[ミラノ]]と[[コルティナ・ダンペッツォ]]にて[[2026年ミラノ・コルティナダンペッツォオリンピック|第25回冬季オリンピック]]('''ミラノ/コルティナ・ダンペッツォオリンピック''')が開催予定。 * [[2026 FIFAワールドカップ]]が[[アメリカ合衆国]]・[[カナダ]]・[[メキシコ]]において開催される。 * [[スペイン]]の[[サグラダ・ファミリア]]が完成予定。 === 2027年 === {{main|2027年}} * [[ITER]](国際熱[[原子核融合|核融合]]実験炉)が[[核融合炉#D-T反応|重水素-トリチウム]]運転を開始予定<ref>[https://web.archive.org/web/20120922162049/http://www.iter.org/proj/iterandbeyond "Approved! Council gives project green light to proceed"]. ITER & Beyond. 2016年10月15日閲覧。</ref>。 * [[横浜市]]で[[国際園芸博覧会]](花博、A1認定)開催予定<ref>[https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/engeihaku/ 国際園芸博覧会] - 横浜市</ref>。 === 2028年 === {{main|2028年}} * [[ロサンゼルス]]にて[[2028年ロサンゼルスオリンピック|第34回夏季オリンピック]]('''ロサンゼルスオリンピック''')が開催予定。 * [[Secure Sockets Layer|SSL]]のルートキーの期限。 * [[10月26日]]に直径1.6キロの[[小惑星]] [[(35396) 1997 XF11|1997 XF<sub>11</sub>]] が地球に接近。 * 第61回[[アメリカ合衆国大統領選挙]]の実施。 === 2029年 === {{main|2029年}} * [[4月13日]]に直径300メートル以上の小惑星[[アポフィス (小惑星)|アポフィス]]が32,500km([[静止軌道]]近く)の距離まで地球に接近。この接近では衝突しないことが判明している<!--(2019年9月1日現在)-->。 == 世相 == === 社会 === * [[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行]]により、世界各国で[[ロックダウン (政策)|ロックダウン]]や入国制限などの措置が実施されるなどこれまでにない[[緊急事態]]に陥った。また、感染症対策の一環として教育現場では[[遠隔教育|オンライン授業]]、職場でも[[テレワーク]](リモートワーク)が行われるなど、社会の[[オンライン]]環境([[デジタルトランスフォーメーション|デジタル化]])が図らずも進展した。 * [[国際連合|国連]]は、[[2015年]]に終了した[[ミレニアム開発目標]](MDGs)に代わる新たな開発目標として、[[持続可能な開発目標]](SDGs)を同年に採択しており、[[2030年]]までに達成すべき17の具体的指針を掲げている。これに伴い、2020年代には企業の[[持続可能性|サステナビリティ]]への配慮がますます求められるようになった。 * 2022年2月、[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]が起き、大国による[[主権国家]]への[[武力行使]]は世界中に衝撃を与えた。[[ロシア]]に対して多くの国が[[国際連合総会|国連総会]]の非難決議に賛同し、[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]大統領をはじめ政府関係者の[[資産凍結]]や[[国際銀行間通信協会|SWIFT]]排除といった厳しい[[経済制裁]]を課すなど、風当たりが強くなっている。 == 科学と技術 == === 人工知能(AI) === [[File:DALL-E_2_"A_photo_of_a_robot_hand_drawing,_digital_art".jpg|thumb|"A photo of a robot hand drawing, digital art"というプロンプトに対してAIが生成した画像]] * [[DALL-E]]や[[Stable Diffusion]]など、深層学習を利用したテキスト入力に基づく画像生成(text-to-image)の技術が向上した。 * 米国の[[OpenAI]]が開発した[[大規模言語モデル]]による対話型AI・[[ChatGPT]]が注目される。 === 通信・IoT === * [[携帯電話]]や[[モノのインターネット|IoT]]などに使用される[[無線通信]]システムの方式として、[[第5世代移動通信システム]] (5G) の普及が予測されている。 * [[ガートナー]]は、2026年までに25%の人々が1日1時間以上を[[メタバース]]上で過ごすようになると予測している<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.techcrunch.com/2022/02/10/gartner-metaverse/ |title=ガートナー「2026年までに25%の人々が1日1時間以上をメタバースで過ごす」 |accessdate=2022-02-15 |publisher=TechCrunch Japan}}</ref>。 === ブロックチェーン === * デジタル資産を[[ブロックチェーン]]と紐付けることで所有権と価値を担保する、[[非代替性トークン|NFT]](非代替性トークン)の技術が注目される。 === 宇宙 === * [[スペースX]]、[[ブルー・オリジン]]などの民間企業による[[有人宇宙飛行]]ビジネスが進展する。 * [[ハッブル宇宙望遠鏡]]の後継機となる、[[ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡]]の運用が開始される。 === エネルギー === * [[トヨタ]]、[[BMW]]を始めとする複数の自動車メーカーは、2020年代中の実用化に向けて[[全固体電池]]の開発を進めている<ref>{{Cite web|和書|title=トヨタ、全固体電池は特性を考えハイブリッド車から導入へ 2020年代前半に量産車投入で、電池関連の総投資額は1.5兆円 |url=https://car.watch.impress.co.jp/docs/news/1349279.html |website=Car Watch |date=2021-09-07 |accessdate=2022-02-14 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=BMW、全固体電池を市販EVに搭載へ…2020年代終わりまでに |url=https://response.jp/article/2021/04/22/345233.html |website=レスポンス(Response.jp) |accessdate=2022-02-14 |language=ja}}</ref>。 == 文化と芸術 == === 建築 === {{See also|2020年代の建築}} ; {{Visible anchor|超高層建築物・構築物}} * [[セントラル・パーク・タワー]]([[ニューヨーク]]) <gallery widths="140px" heights="210px" perrow="7"> File:SteinwayNov30.jpg|<div align="center">[[111 西57丁目|111 West 57th Street]]<br />(ニューヨーク)</div> </gallery> === 大衆文化 === ==== コンピュータゲーム ==== * [[テレビゲーム]]市場では[[マイクロソフト]]が「[[Xbox Series X/S]]」、[[ソニー・インタラクティブエンタテインメント]] (SIE) が「[[PlayStation 5]]」を2020年にそれぞれ発売(''[[ゲーム機#第9世代|第9世代]]'')。 * [[バーチャル・リアリティ]]市場では[[Meta (企業)|Facebook]](現:Meta)が「[[Oculus Quest 2]]」(現:Meta Quest 2)を2020年に発売。 <gallery widths="150px" heights="150px" perrow="7"> File:Black and white Playstation 5 base edition with controller.png |<div align="center">PlayStation 5</div> File:Xbox Series X 2.jpg|<div align="center">box Series X</div> File:Xbox Series S with controller.jpg|<div align="center">box Series S</div> File:Meta quest 2 6.jpg|<div align="center">Meta Quest 2</div> </gallery> ==== ファッション ==== * 2020年代初頭には、[[1990年代]]と[[2000年代]]のファッションが世界的に再注目され、「[[Y2Kファッション]]」が[[Z世代]]を中心に支持される<ref>{{Cite web|和書|title=Z世代に支持される「Y2Kファッション」の意味とは? {{!}} 大塚商会のERPナビ |url=https://www.otsuka-shokai.co.jp/erpnavi/category/apparel/sp/solving-problems/archive/230222-01.html |website=www.otsuka-shokai.co.jp |access-date=2023-06-24}}</ref>。 == フィクションのできごと == * 2020年頃 - 世界各地で[[半導体]]を分解する生態を持つ微生物「シリコンカビ」が大量発生。これによってコンピュータに依存するインフラが麻痺し、多くの国家の機能が失われる。その後、シリコンカビの影響が軽微だったアジアの大国が欧州へ侵攻し、[[第三次世界大戦]]が勃発する(ゲーム『[[重鉄騎]]』)<ref>[http://www.capcom.co.jp/jutekki/#p-STORY STORY] - 『重鉄騎』公式サイト(R-18)。2018年2月3日閲覧。</ref>。 * 前半 - [[1月29日]]、[[アメリカ航空宇宙局|NASA]]の有人[[火星探査機|火星探査船]]「スキアパレッリ2号」の着陸機によって4名のクルーが初の[[有人火星探査|火星着陸]]を達成。その7分後に着陸機と軌道上の母船の双方が奇妙な物体「テセラック」の攻撃を受け、通信が途絶する。(漫画『[[度胸星]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 山田芳裕|authorlink=山田芳裕 |title = 度胸星 01 |publisher = [[小学館]] |year = 2009 |pages = 3-27,60-62,83-88,172-188,208,209 |isbn = 978-4-09-193704-9}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 山田芳裕 |title = 度胸星 03 |publisher = 小学館 |year = 2010 |page = 150 |isbn = 978-4-09-193706-3}}</ref> * 中頃 - 米国知能電子工学委員会(USIB)によって機械戦略家として製造された光思考装置「GOLEM XIV」が、米国の世界的地位や軍事的ドクトリンの優勢について全面的な無関心を通告する声明を提出。調査委員会の審理により、この「反乱」は[[人工知能]]が進化の結果「思想家」と化したものと判断され、GOLEM XIVは外部世界から自己を遮断した同種の人工知能「HONEST ANNIE」とともに[[マサチューセッツ工科大学]]に無期限貸与されることになる。(小説『{{仮リンク|GOLEM XIV|en|Golem XIV}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author= スタニスワフ・レム|authorlink=スタニスワフ・レム |title = 虚数 |publisher = [[国書刊行会]] |year = 1998 |pages = 139,144-149 |isbn = 978-4-336-03593-6}}</ref> * 時期不明 ** [[彗星]]クルスチョフ7で[[自己複製機械|フォン・ノイマン型]]工場を運営していた{{仮リンク|カリフォルニアイセエビ|label = ロブスター|en|California spiny lobster}}のアップロード群が、[[宇宙人|太陽系外の異種知性]]によるものと見られる2種類の信号を受信する。強い第1の信号は太陽系から100[[光年]]以上彼方の[[プロキシマ・ケンタウリ]]方面から、微弱な第2の信号は3光年先に存在する[[褐色矮星]]ヒュンダイ+4904/-56から放たれたもの。(小説『[[アッチェレランド (小説)|アッチェレランド]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= チャールズ・ストロス|authorlink=チャールズ・ストロス |title = アッチェレランド |publisher = [[早川書房]] |year = 2009 |pages = 35-42,99,100,136-139,194,204,205 |isbn = 978-4-15-209003-4}}</ref> ** [[国際連合安全保障理事会]]航空宇宙軍小委員会の下に[[航空宇宙軍史#航空宇宙軍|航空宇宙軍]]が創設される。(小説『[[航空宇宙軍史]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author= 谷甲州|authorlink=谷甲州 |title = 航空宇宙軍史 終わりなき索敵〔下〕 |publisher = 早川書房 |year = 1996 |page = 345 |isbn = 978-4-15-030570-3}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 谷甲州 |title = [[仮装巡洋艦バシリスク|航空宇宙軍史 仮装巡洋艦バシリスク]] |publisher = 早川書房 |year = 1985 |pages = 12,13 |isbn = 978-4-15-030200-9}}</ref> ** [[東ヨーロッパ]]の某地方にて[[中世]]から続く王族を[[大公]]としてロスアニア公国が独立し、世界中から[[情報技術|IT]]企業や[[バイオベンチャー]]を誘致した結果、小国ながら[[バイオテクノロジー]]の発展で知られるようになる。(漫画『[[終末のハーレム]]』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=原作:LINK|author2=漫画:宵野コタロー|authorlink2=宵野コタロー |title = 終末のハーレム 10 |publisher = [[集英社]] |year = 2020 |page = 61 |isbn = 978-4-08-882188-7}}</ref> == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=3|世紀=21|年代=2000}} {{History-stub}} {{DEFAULTSORT:2020ねんたい}} [[Category:2020年代|*]]
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京成本線
本線(ほんせん)は、東京都台東区の京成上野駅から千葉県船橋市の京成船橋駅を経て同県成田市の成田空港駅までを結ぶ京成電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。 駒井野信号場 - 成田空港駅間(2.1 km)は成田空港高速鉄道が第三種鉄道事業者として線路を保有し、京成電鉄は第二種鉄道事業者として旅客運送を行っている。 東京都23区から東方の千葉県船橋市・佐倉市・成田市方面を結ぶ京成電鉄の基幹路線で、関東地方の主要幹線の一つ。東京通勤輸送のほか、京成電鉄草創期からの目的地であり、毎年初詣で300万人近い人出がある成田山新勝寺への参詣客輸送も特徴として挙げられる。成田国際空港輸送については、その主たる需要の受け皿を成田空港線(成田スカイアクセス線)に移行させつつも、多様なニーズに応える選択肢の一つとしてその役割を担っている。 押上線を介して羽田空港方面(都営地下鉄浅草線・京浜急行電鉄本線・空港線)と、東成田線を介して芝山鉄道線とそれぞれ相互直通運転を行い、また北総鉄道北総線と直通する列車がある。 成田スカイアクセス線開業後は、京成線内でも社名を冠した「京成本線(英: Keisei Main Line)」の名で案内される(路線図・駅の標識・車体表示)。路線識別色は青系。 一部の地図などでは「京成成田線」と表記されたり、京成上野 - 青砥間が「上野線」、京成成田 - 成田空港間が「空港線」と呼ばれる場合があるが、いずれも通称であり正式名称ではない。分岐点の信号機の進路識別標識には線名(本線)ではなく方面・方面略称(成田、成等)が記載され、指差喚呼の際は「上野線」「成田線」などと呼ばれる。 京成船橋駅 - 京成成田駅間においては、千葉駅を経由する形のJR東日本総武本線・成田線の船橋駅 - 成田駅間と比較して短絡ルートとなっており、線形に優れ、所要時間も短いが、京成成田駅あるいは成田駅、あるいはそれより遠いJR駅を乗降駅とする場合の所要時間はほぼ同じとなっており、JR東日本の乗降駅によっては、JR東日本の通し運賃の方が安くなることもある。 東京メトロ東西線に直通する東葉高速線とも勝田台駅(東葉勝田台駅)- 都営浅草線日本橋駅(押上線を経由して直通)間で競合しており、こちらにも運賃では勝るものの所要時間などで劣っている。そのため勝田台駅で乗降し東葉高速線を利用する乗客なども多い。2008年度における勝田台駅の1日の平均乗降客数は日暮里駅についで5位となっている。 都営浅草線直通は近年では1998年の京急空港線羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業以降、京急線発着の列車が主流となり、浅草線の終着駅である西馬込駅発着の列車はラッシュ時以外は大幅に減少していたが、成田スカイアクセス線開業後のダイヤでは日中の西馬込発着列車が増発された。 快速特急・特急・通勤特急の全列車と快速の大半は利用率が比較的高いために、8両編成で運転される。普通列車は、ホーム有効長が6両分しかない駅(本線は京成中山駅と海神駅の2駅のみ)があるため、京成上野駅 - 京成高砂駅間と宗吾参道駅 - 成田空港駅間(・東成田方面芝山鉄道線芝山千代田駅間を含めて)は一部が8両編成だが、それをのぞき全列車が6両編成で運転される。かつては4両編成での運用が存在したが、4両編成の3300形・3500形の廃止減少、6両編成の3000形の増備および輸送力の増強により、本線上での営業運用は消滅した。 2010年7月17日以降は京成高砂駅 - 空港第2ビル駅間の経路が成田スカイアクセス線経由と本線経由の2系統となったため「成田スカイアクセス線・北総線経由」「京成本線・船橋経由」という案内でルートの区別を図っている。 現在、日中のダイヤは成田スカイアクセス線経由の「スカイライナー」が60分サイクル、一般列車が40分サイクルとなっていて、両者を組み合わせたダイヤパターンで運行されている。 2022年(令和4年)11月26日現在のダイヤにおける日中40分あたりの運行本数は以下のとおり。なお、空港第2ビル - 成田空港間の成田スカイアクセス線と青砥 - 京成高砂間の押上線からの直通列車は営業上京成本線と分離されているが、線路を共用しているのでまとめて記す。 座席指定で運賃のほかに料金が必要な列車が下記のとおり運行されている。これらはそれぞれ独立した列車種別となっている。これらの列車の緩急行選別装置の番号対照表の番号は「8」で「その他」と表記されている。 以下は運賃以外の料金が不要な列車である。また、ここでは本線青砥駅以西(日暮里・京成上野方面)あるいは京成高砂駅以南(京成津田沼方面)のどちらも経由しない列車(押上線 - 北総線・成田空港線(成田スカイアクセス線)、押上線 - 京成高砂駅発着)については記載しない。それらについては「京成押上線」「北総鉄道北総線」「京成成田空港線」の各記事を参照。 一般車両による最上位速達列車である。2006年12月10日のダイヤ改正で、日中の特急の京成佐倉駅以東を各駅停車化するにあたり、従前の停車駅で運行する列車を改称する形で設定された。当初、朝方は上り方面、夕方・夜間は下り方面への運行であったが、2019年10月26日のダイヤ改正からは日中も運行されている。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 2002年10月14日より2014年11月7日までの平日には三崎口発京成成田(運転開始当初は成田空港)行き(京急線内特急)という、3社間で最長距離の列車が都営車で1本運転されていた。なお、2010年7月11日までには土休日のみ朝方に成田空港行き(通常とは逆方向に運行される列車)が1本あったが、この列車は羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)始発であり、京急線・都営浅草線を含めて全区間で種別が快特(エアポート快特を含む)であり、なおかつ両空港を乗り換えなしで結んでいる数少ない列車であった。また土休日夕方にも成田空港駅 - 羽田空港駅間の列車が存在した(京成線内は快速特急、都営線内・京急線内はエアポート快特となる列車もあった)。 原則として京成車が主体の運用だが、都営線直通列車はラッシュ時を中心に都営車が入ることがある。また上記の京急線京急蒲田駅より南を始発とする列車は、原則都営車での運用となっていた。 当初は京浜急行電鉄にあわせて種別を「快特」と定めたが、読みが「かいとく」であるため、後述の「快速」(かいそく)との区別がつきにくく、誤乗防止のため、2007年8月16日より、駅構内および車内のアナウンスが「快速特急」に変更された。2010年7月17日のダイヤ改正よりすべての案内上の名称が「快速特急」に改められ、現在は駅の発車案内や車両の方向幕の表示もごく一部(押上駅1・2番線)をのぞき「快速特急」に統一された。 種別カラーは京急と同様の緑色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「7」で、こちらは引き続き「快特」と表記されている。 2010年7月17日に開業した成田空港線(成田スカイアクセス線)経由の一般車両による最上位速達列車(快速特急と経路は違うが同等)である。日中は押上線方面との直通列車のみ運行されるが、日中以外の時間帯に京成上野駅発着での設定がある(ただし、2022年2月26日ダイヤ改正以降、上りは平日3本・土休日1本のみ、下りは平日2本のみ。このほか平日の下り列車で京成上野駅から普通京成高砂行きとして運転し、京成高砂駅で行先・種別を変更してアクセス特急成田空港行きとなる列車が2本設定されている)。 京成・京急・都営車による運用で、通常京成車の運用には3100形が優先的に使用される。3050形は新造時は全車がアクセス線使用を前提とした独自の外観デザインをもっていたが、2019年に本線経由との誤乗防止を図る目的で3100形と類似したデザインへの変更が行われた。しかしながら、3050形は、通常の京成色に変更されたため、アクセス特急での運用は通常時はない。また、京成上野発着の列車は京成車に限定される。 種別カラーは、それまで「通勤特急」が使用していたオレンジ色が使用されている。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。フルカラーLED装備の京成車は本線特急と区別するため、行先と交互に経由路線を表示する。 一般車両による速達列車で、日中における京成上野駅 - 成田空港駅間を本線経由で結ぶ唯一の列車である。スカイライナーとの区別のため、一部構内放送や車内放送では「普通特急」と呼ばれる場合がある。1991年3月19日のダイヤ改正による停車駅変更に伴い2代目通勤特急と本線において停車駅が全く同じになったため種別順位では2006年12月のダイヤ改正で「快速特急」が登場するまでは最上位速達列車であった。京成上野駅 - 成田空港駅間の所要時間は最速71分(1時間11分)で、日中は約40分間隔で運転されていたが、2022年2月改正で日中時間帯の運行がなくなった。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 京成上野駅 - 京成佐倉駅間では快特と同じ停車駅で、2006年12月10日のダイヤ改正で特急停車駅に大佐倉駅・京成酒々井駅・宗吾参道駅・公津の杜駅が加わって京成佐倉駅 - 成田空港駅間の各駅に停車するようになった。所要時間はダイヤ改正前の京成成田駅における3 - 4分の停車時間を短縮したため所要時間は従前と同等となっている。京成佐倉駅 - 成田空港駅間の各駅停車化はこの改正で日中の羽田空港発の快速(2010年7月17日改正より西馬込駅発着)が京成佐倉行きとなったためで、乗り入れる種別が特急しかなくなった京成佐倉駅 - 成田空港駅間の日中において、特急が各駅停車の役割も担うこととなった。 2006年12月9日までは日中時間帯に半数近くが京成高砂駅でスカイライナーの通過待ちをしていたが、翌10日より日中の通過待ちがなくなった。2010年5月16日より、日中の上野方面は宗吾参道駅でスカイライナーの通過待ちを行っていた。同年7月17日のダイヤ改正よりスカイライナーが成田スカイアクセス線経由となり、それ以降は上下列車とも3本中1本が八千代台駅でシティライナーの通過待ちを行っていた。なお、過去(成田スカイアクセス線開通以前)には朝夕ラッシュ時に京成高砂駅・京成津田沼駅・八千代台駅・京成佐倉駅・宗吾参道駅・京成成田駅のいずれかの駅でスカイライナーの通過待ちを行っていた。 都営地下鉄1号線(現:浅草線)を介して京急線に乗り入れを開始する1968年より従前の急行を格上げする形で運行を開始した。なお、これ以前は座席指定制の「開運」号が唯一の特急列車であった(不定期をのぞく)。 種別カラーは赤色(各社局共通)。 上記のアクセス特急・特急の緩急行選別装置の番号対照表の番号は「6」で、「特急」と表記されている。 2002年10月12日のダイヤ改正で再設定された列車種別である(3代目、後述)。京成上野駅・青砥駅 - 勝田台駅間の停車駅は快速特急・特急と同じで、勝田台駅 - 成田空港駅間は各駅に停車する。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 平日上りのみ運転。平日の朝ラッシュ時に京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅発で運転される。 いずれも平日のみの運転で、下りは夕ラッシュ時に羽田空港第1・第2ターミナル発で成田空港行きが、上りは朝に京成成田発で西馬込行きが1本のみ運転される。 2011年12月22日までの平日朝の下りでは京成上野発成田空港行き1本が運行されていた。 種別カラーは空色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。成田スカイアクセス線開業以前はオレンジ色だった。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「5」である。 京成成田および芝山千代田始発の「通勤特急」京成上野行き(8両編成)4本に対して、平日朝ラッシュ時の時間帯に女性専用車が設定されている。設定位置は進行方向最後尾車両(8両目)で、設定区間は芝山鉄道線区間を含めた京成上野駅までの全区間。設定対象列車の最後尾車両には「女性専用車」案内シールが貼付される。成田空港始発の列車には設定されていない。 2002年10月12日のダイヤ改正で運行を開始した、主に都営浅草線直通を担う準速達列車である。この快速は通勤特急と同じく3代目にあたる。 それ以前に運行されていた急行よりも停車駅が少ない。本線では、急行がかつて停車していた町屋駅・千住大橋駅(2010年のダイヤ改正で千住大橋駅が停車駅となった)・堀切菖蒲園駅・国府台駅・市川真間駅・谷津駅は通過とした。これにより京成上野駅 - 京成津田沼駅間では特急などとの停車駅の違いは京成小岩駅・東中山駅・船橋競馬場駅だけになり、ほぼ特急などと同等の所要時間となった。上位速達列車の追い抜きも京成上野駅 - 京成津田沼駅間ではほとんど見られなくなった。京成津田沼駅 - 成田空港駅間は各駅に停車する。登場当初は押上線・都営浅草線を介しての羽田空港方面への直通(京急線内は快特運転)に充てられ、都営車と京成車が主体の運用で、わずかにかつての羽田空港駅 - 成田空港駅間の直通特急であったエアポート特急の名残で京急車による運用も存在する。京成上野・押上方面と京成佐倉・京成成田・成田空港方面を結ぶ列車の一部は、京成高砂駅まで京成高砂行きとして運転し、京成高砂を境に都心方面を普通、成田方面を快速として行先・種別の変更を行う。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 2013年10月26日のダイヤ改正までは、都営浅草線より列車種別がエアポート快特となる上り(押上・羽田空港行き)列車について、種別幕を「(飛行機マーク)快速」として他の快速とは案内を分けていた。ただし、停車駅や正式な列車種別名は同じ「快速」であり、駅の時刻表では同じピンク色の文字で表記している駅もあった。また、(飛行機マーク)は都営線内での停車駅の差異を案内するためのものであるため、下り成田空港行きの列車に使用されることはなかった。 2006年12月10日のダイヤ改正からは、日中のみ羽田空港駅 - 京成佐倉駅間での運転となり、京成佐倉駅到着後、反対側の番線に成田空港駅発着の特急列車に連絡するダイヤになった。そのため、一部の京成佐倉行き列車の方向幕には「(成田空港方面)佐倉」と表示されていた。また、平日朝の一部と夜間に京成上野駅 - 京成高砂駅間の区間運転列車が新設された。夜間に運転される京成上野駅 - 京成高砂駅間の区間運転列車は青砥駅で都営浅草線からの列車に接続する。 2010年7月17日のダイヤ改正からは、京成上野駅発着列車が千住大橋駅に停車し、普通列車との接続が図られている。また、日中の羽田空港駅 - 京成佐倉駅間の快速(京急線内エアポート快特)と西馬込駅 - 京成高砂駅間の普通・急行の種別・行き先が変更され、快速は西馬込駅 - 京成佐倉駅間での運行とし、泉岳寺駅で同駅折り返しの京急線・横浜方面快特に接続する形態に改められた。またエアポート快速は早朝の宗吾参道発羽田空港行き1本のみ(京急線内エアポート快特)となった。また、京成線急行の廃止を受け、平日に北総線で運行される急行のほぼ全列車については、京成線内種別が快速となった。なお、この改正で京急車による運用は平日数本の京成高砂駅 - 都営線間の列車のみとなったが、2015年12月7日ダイヤ改正で平日1本のみ京成佐倉発三崎口行き(京急線内特急)が設定され、2010年7月16日以来の京成高砂以東の定期列車が設定された。このほかにも京成高砂発京成佐倉行きの1本、平日のみ西馬込駅 - 京成佐倉駅間の1往復についても京急車による運用で設定された。京急車におけるこれらの京成高砂以東本線運用はアクセス特急同様に当初は原則として600形と新1000形10次車以降に限定されていたが、ダイヤ乱れ等が発生した場合は1500形・新1000形9次車以前の車両が代走で入線することがあった。現在は京急線限定運用の新1000形1001編成を除き入線している。 2019年10月のダイヤ改正から、日中の列車の半数が成田空港発着に延長された。また、2022年2月のダイヤ改正から日中全ての列車が成田空港発着に統一された。 種別カラーはピンク色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板や行先表示器が導入されていない駅や車両などにおいては赤色・緑色で表示する場合もある。また、エアポート快速はフルカラーLEDの場合緑地に白字で表示される。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「4」である。 各駅に停車する。普通列車では京成押上線 - 京成小岩駅以南への直通系統は存在しないため、本節では本線系統のみ記載する。 大多数の列車は京成上野駅 - 京成津田沼駅・京成臼井駅で運転されるが、日中以外の時間帯は京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅・千葉中央駅・ちはら台駅発着でも運転される。出入庫時は京成高砂駅・宗吾参道駅発着で運転されるほか、ごく一部京成大和田駅・京成佐倉駅発着の列車も存在する。平日の下りに1本、京成上野駅 - 京成高砂駅間で普通京成高砂行きとして運転し、京成高砂で行先・種別を変更して、成田スカイアクセス線経由アクセス特急成田空港行きとして運転する列車が設定されている。 基本的に6両編成で運転される。これは京成高砂駅 - 京成津田沼駅間の快速通過駅の京成中山駅と海神駅のホーム有効長が6両以下のためである。同区間を含まない普通列車は8両で運転されるケースも多い。たとえば、京成上野駅 - 京成高砂駅間・宗吾参道駅 - 成田空港駅・芝山千代田駅間の一部の普通では8両の車両を出入庫など間合い運用で運転している。 2007年12月2日のダイヤ改正から土休日昼間の京成上野駅 - 京成津田沼駅間の普通が6両編成化された。臨時列車として佐倉ふるさと広場で佐倉・印旛沼国際花火大会(現・佐倉市民花火大会)が行われる時には京成臼井発八千代台行き(過去には京成津田沼行きも)普通が8両編成で走る。近年は停車が4両編成に限定されていた博物館動物園駅が廃止されたことや6両編成の3000形の増備、4両編成の3500形・3300形の営業運転終了、4両編成で運行される金町線直通列車の廃止などにより、6両編成の列車が増加傾向にある。 4両編成運転については、2018年12月のダイヤ改正で宗吾参道駅 - 芝山千代田駅間のみに限定され、京成上野駅発着では4両編成の定期列車が消滅、京成高砂駅 - 宗吾参道駅間については、金町線運用絡みの回送で走行する以外は定期列車に充当されなくなった。 なお、行商専用列車が1982年2月に廃止後、朝の上り列車に成田寄り1両を指定して行商専用車が設定され、末期には京成上野行き普通1本に残存していたが2013年3月29日をもって廃止された。 快速が京成佐倉駅発着になった2007年以降の正月期間や1月上旬には日中を中心に一部の京成臼井行き列車が京成成田行きとして延長運転される。 種別表示や肉声放送・車内自動放送は「普通」であるが、駅の接近自動放送では基本的に「各駅停車」と案内する。種別カラーは黒色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板や行先表示器が導入されていない駅や車両などにおいてはオレンジ色で表示する場合もある。緩急行選別装置の番号対照表の番号は「1」である。 2002年10月12日のダイヤ改正の前までは、京成本線・押上線で急行が運転されていた。停車駅は現在の快速の停車駅に町屋・千住大橋(2010年7月17日からは快速停車)・堀切菖蒲園・国府台・市川真間・谷津を加えたものであった。朝晩は主に上野直通、日中は主に押上線方面直通であり、下り列車で成田空港に乗り入れる列車は少なく、主に京成成田・東成田行きがほとんどであった。2002年のダイヤ改正で、本線内のみの急行は快速に置き換えられて廃止となった。その後も押上線では2010年7月17日の成田スカイアクセス線開業に伴うダイヤ改正まで存続したが、こちらについては「京成押上線#過去の列車種別」を参照。 1968年11月10日の改正で、それ以前の上野系統の初代急行は特急に格上げされ、同改正で準急に代って2代目急行が新設された。初代通勤特急廃止の1974年12月16日までは2002年10月12日改正前よりも停車駅は少なく、上野系統と浅草線直通系統で一部停車駅が異なっていた。急行表示板も2種類あり、前者は逆台形に「急行」表示、後者は丸地に「急」表示であった。なお1963年頃には丸に2本の線入りの「急」表示のものも存在した。1983年10月1日ダイヤ改正で都営浅草線車両による急行が京成佐倉駅まで乗り入れるようになった際には、誤乗防止の観点から前面貫通扉に内側から「急行」の表示を吸盤で貼付けていた。都営車の乗り入れは、後に東成田駅までに拡大されたが、1998年11月18日ダイヤ改正時に急行表示板は廃止された。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は末期には「3」(快速設定前は「4」)であった。 2002年までエアポート快特(エアポート特急を含む)は京成線内では「特急」として運転され羽田空港方面・成田空港方面とも「(飛行機マーク)特急」と表示されていたが、これ以外に京成上野駅 - 成田空港駅間の特急も「(飛行機マーク)特急」とされており、京成線内のほとんどの特急が「(飛行機マーク)特急」となっていた(ただし、案内上は都営線内で速達運転をするエアポート特急を除き単に「特急」と読まれていた)。単に飛行機マークのない「特急」とされたのは都営浅草線西馬込 - 成田空港間の特急(都営線内は各駅に停車)と京成佐倉止まりなど主に成田空港発着でない特急のみであった。 この飛行機マーク付きの特急は青砥駅・京成高砂駅発着であったエアポート特急およびエアポート快特に接続する京成上野駅 - 京成高砂駅間の特急列車にも適用された。 1960年代後半 - 1974年12月16日と、1985年10月19日より1998年11月18日(以下2代目)のダイヤ改正まで運行されていた。 初代の通勤特急の投入当時の停車駅は、2006年12月9日までの特急停車駅に京成小岩駅、東中山駅および押上線京成曳舟駅、京成立石駅を加えたものであった。しかし、初代は列車種別整理のため「特急」に統合される形で廃止された。この時の種別板は丸に青縁取りで「特急」であった(特急種別板との相違点は青縁取りの有無。無い方が特急種別板)。 1985年10月19日に通勤ラッシュ時の都営浅草線への速達化を図るため、通勤特急が再登場した。再登場時の特急停車駅はすでに初代通勤特急の停車駅と同じであったため、2代目通勤特急は京成小岩駅・東中山駅・京成曳舟駅・京成立石駅は通過となった。 1991年3月19日に京成本線内の特急の停車駅が現在の快速特急と同じとなり「特急」は上野方面直通、2代目「通勤特急」は押上線・都営浅草線方面直通で運行(通勤ラッシュ時のみ)されていた。 1998年11月18日の京急線羽田空港駅開業に伴うダイヤ改正で、通勤ラッシュ時以外にも押上線・都営浅草線・京急線直通の特急が運行されるようになった。この時に押上線に定められていた特急停車駅から京成曳舟駅・京成立石駅が外れ「通勤特急」と種別を区別する意義がなくなったことから通勤特急という名前から"通勤"の文字が消えて「特急」に統合され、この2代目「通勤特急」は消滅した。 1960年代後半 - 1974年12月16日に朝晩通勤ラッシュ時に上野系統で運行された種別。当初は通勤準急という名称であったが、1968年11月に準急が廃止され急行の停車駅が増えたために通勤急行に改称された。停車駅は2002年10月12日改正前の急行停車駅から谷津遊園(現:谷津)とセンター競馬場前(現:船橋競馬場)をのぞいた設定であった。初代通勤特急同様、列車種別整理のため急行に統合され消滅。種別板は通勤準急時代は菱に縦書きで「準急」(文字は横書きの種別板も存在。八千代台行は行先表示板に設定がなかったため例外として種別板に併記)通勤急行格上げ後は菱に「通急」。 初代快速は1960年代前半頃に京成上野駅 - 京成成田駅間で夕方ラッシュ時への移行期に運行されていた。前述した通勤準急→通勤急行の前身で停車駅は同じである。種別板は菱に「快速」。 2代目快速は1968年頃 - 1974年12月16日に日中に京成上野 - 千葉系統で運行されていた。停車駅は京成上野・日暮里・町屋・堀切菖蒲園・青砥(この間各駅停車)京成津田沼・京成幕張・京成稲毛・みどり台・国鉄千葉駅前(現京成千葉)・京成千葉(現千葉中央)。列車種別整理のため普通に格下げされた。種別板は楕円に横書きの「快速」。 1968年11月9日まで運転されていた。停車駅は京成上野・日暮里・町屋・堀切菖蒲園・青砥・京成高砂・市川真間・京成八幡・東中山・京成船橋・センター競馬場前(現船橋競馬場)から先終点までの各駅。急行の停車駅増加により消滅した。種別板は丸に「準急」。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「2」であった。 開業時は、起点が京成上野駅ではなく、現在の押上線の押上駅だった。後に、筑波高速度電気鉄道の所有する免許を取得し、日暮里駅開業時に起点が現在の京成上野駅方面へ変更された。 2021年度の朝ラッシュ時最混雑区間は大神宮下 → 京成船橋間であり、ピーク時(7:20 - 8:20)の混雑率は98%である。 当路線は市川真間駅 - 京成津田沼駅で東日本旅客鉄道(JR東日本)総武線と競合している。この区間では総武線が所要時間・行先等で圧倒的に有利であり、都心から京成船橋以東へ向かう乗客は総武線との乗り換えに適した京成船橋駅から乗車することが多い。また、青砥以西のアクセスも都営地下鉄浅草線に直通する京成押上線が便利であり、押上駅の乗降人員は京成上野駅と日暮里駅を合算した乗降人員よりも多く、運行頻度も多い。 そのため、山手線に接続する都心側のターミナル駅である京成上野駅・日暮里駅手前よりも、郊外側のターミナル駅である京成船橋駅手前のほうがラッシュ時の輸送人員が多く、混雑率も高いという特徴をもつ。しかし1996年に東葉高速鉄道東葉高速線が開業して勝田台駅以西が競合路線となった後は、最混雑区間のピーク1時間あたりの輸送人員が3万人を割り込んだ。その後は都心回帰の動きが強まり、輸送人員の減少と混雑率の低下が続いている。 2018年度の一日平均通過人員は青砥 - 京成高砂間が263,706人であり、この区間が京成線全線で最も通過人員が多い。青砥駅で押上線に、京成高砂駅で北総線に分岐するが、それぞれの路線に直通しているためこの区間は運行密度が非常に高く、京成線唯一の複々線区間となっている。次いで一日平均通過人員が多いのは京成津田沼 - 京成大久保間であり、203,720人である。京成船橋 - 京成津田沼間の各駅は一日平均通過人員が19万人を越えており、都心に最も近い京成上野 - 青砥間の各駅よりも通過人員は多い。日暮里 - 青砥間の一日平均通過人員は15万人程度、京成高砂 - 京成八幡間の一日平均通過人員は13万人程度、京成八幡 - 京成船橋間の一日平均通過人員は14万人程度でそれぞれ横ばいである。 京成津田沼駅より東側に進むにつれて一日平均通過人員は漸減するが、成田空港のアクセス路線であることから郊外側も一定の需要があり、公津の杜 - 京成成田間の一日平均通過人員は55,630人である。京成上野駅から60km程度離れているが、この区間の通過人員は京成上野 - 日暮里間の50,819人よりも多い。最も一日平均通過人員が少ないのは空港第2ビル - 成田空港間で、14,396人である。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 「京成」を冠する駅名(15駅)は、2019年頃までに取りやめられるまでは原則として「京成」を省いた略称で案内されていた。略称のあった駅は次の通り。 乗降客数は2014年度のものである。()内の数字は京成線全線での順位。都心側のターミナル駅では、JR東日本や地下鉄の上野駅とやや距離がある京成上野駅より、山手線などと容易に乗り換え可能な日暮里駅の方が利用者数が多い。 地下駅の京成上野駅を出ると、上野公園の下を最小曲線半径120 mで左右にカーブしながら進む。途中、博物館動物園駅、寛永寺坂駅の跡がある。40 ‰の勾配でトンネルを抜けると左に急カーブしながらJR山手線、京浜東北線、宇都宮線・高崎線、常磐線を跨いで荒川区に入る、下り線はそのまま日暮里駅高架ホームにつながる。同駅は成田スカイアクセス線(成田空港線)対応の改築工事が終了し、下り線ホームが高架化された。上り線は日暮里駅地上ホームから急勾配を上ってJR線を乗り越しトンネルに入る。日暮里を出ると右カーブしながら常磐線を乗り越し、次いで尾久橋通り上の日暮里・舎人ライナーの下をくぐり、高架を進む。途中、新三河島駅で明治通りを、町屋駅で都電荒川線を跨ぐ。隅田川を渡り、足立区に入った先で一旦地上に降りるが、再び高架となって日光街道(国道4号)上の千住大橋駅となる。橋は南に200 m程の所にある。高架の常磐線、つくばエクスプレス、東京メトロ日比谷線を、さらに高い高架で越え、左手に東武伊勢崎線が並行すると京成関屋駅で、細い道を挟んで東武の牛田駅がある。東武伊勢崎線を乗り越し荒川、綾瀬川を鉄橋で越えて葛飾区に入り、首都高速中央環状線をくぐると右カーブし、堀切菖蒲園駅の先で地上に降りるが、お花茶屋駅の先で再び高架になり、水戸街道(国道6号)を越える。大きく左手にカーブしながら、25 ‰の勾配で登り、右手より押上線が合流すると、3階建て高架駅の青砥駅に到着する。成田方面は3階、上野・押上方面は2階である。 青砥駅を出ると、次の京成高砂駅まで複々線である。朝夕は、ほぼ同じタイミングで駅を出て、同じタイミングで駅に着くため、列車の隣を常にもう片方の列車が走る。この列車は、青砥駅で上野方面と、都営浅草線方面に分かれる。両駅間は、かつて複線であった時代でも上り方向に1時間当り最大36本もの列車が運行された高密度運転区間である。南側に引き上げ線を見つつ、上下線の高低差を縮小しながら環七通りを越え、さらに4線が並んだあたりで中川を越える。ここまでの区間は、高架が高い位置なので非常に見晴らしがよい。中川を越えると24‰の下り勾配で貨物専用のJR新金線を越え、右カーブしながら地上に下りると金町線と北総線とが分岐する京成高砂駅となる。ホームは狭い島式ホーム2面4線という構造である。ホーム成田寄りはすぐ横が踏切で、開かずの踏切として葛飾区からも名指しされて問題視されている。なお、当面の対策として金町線のみ高架化された。金町線が左に逸れ、進路を南東に取りつつ高砂車庫沿いに進むと北総線が高架となってこちらも左に逸れていく。ここから京成小岩駅までは直線となる。柴又街道を越えると江戸川区に入り、京成小岩駅に入る。緩いカーブを過ぎて、次の江戸川駅手前で高架となり江戸川を渡ると千葉県に入る。このカーブ付近でJR総武本線が接近し、ここから並行区間に入る。千葉県に入ると、沿線には下総台地と低地、そしてその間の崖面が多くなる。国府台駅の先で地上に戻り、市川市内の住宅密集地を走る。左カーブ上にある市川真間駅は2面4線の待避駅である。JR市川駅は南側、千葉街道(国道14号)を渡った先にある。これより先、暫く千葉街道とJR総武本線とほぼ並行して東へ進む。次の菅野駅付近では、地下に東京外環自動車道と国道298号が通っている。そのままほぼ直線で進むと京成八幡駅となる。島式ホーム1本の駅で、南側に隣接して都営新宿線の本八幡駅がある。 八幡駅を出て船橋までは、カーブと高低差の多い線形となる。真間川を渡ると少し先に鬼越駅があり、その先で千葉県道59号市川印西線(木下街道)と平面交差するが、ここを含めて付近の道路は立体交差化されていない。京成中山駅手前で船橋市に入る。次の東中山駅は、2面4線の駅で、周辺施設として、中山競馬場が北に1.5 km程の所にある。競馬場に通じる道路をくぐり、下り勾配の先が京成西船駅であるが、JR西船橋駅からは500 m程離れている。駅の東で武蔵野線が高い高架橋で跨いでいる。海神駅を過ぎると地面が低くなって盛土の上を進み、船橋市街と東武野田線の高架橋を遠くに望みつつ、右カーブしながらJR総武本線を越える。左カーブしながら高架を駆け上がり、相対式ホームの京成船橋駅に着く。シティライナーの停車駅で、乗降客数も多い京成を代表する駅の一つである。 京成船橋駅を出ると、総武線に接近したのち、右カーブで南に一旦進路をとる。大神宮下駅付近で、今度は左カーブし、千葉街道(国道14号)に沿って走るようになる。高架が終わり地上に降りると、島式ホーム2面4線の船橋競馬場駅である。国道296号(成田街道)の陸橋をくぐって習志野市に入り、谷津駅付近で左カーブすると進路がほぼ真東となる。上下線の間に折り返し線が割り込み、左から新京成線が合流し、踏切を越えると千葉線と分岐する京成津田沼駅となる。新京成線と併せると3面6線の規模である。 京成津田沼駅を出ると千葉線が左に分かれ、本線は右手に津田沼検車区を見ながら右、続いて大きく左にカーブを描き、内陸部へと入っていく。先ほど分かれた千葉線やJR総武線の線路をくぐると掘割による線路が続く。やがて右にカーブを切り京成大久保駅に着く。京成大久保駅から実籾駅まではほぼ直線であり、その後は左カーブとその先しばしの間千葉市花見川区内(作新台、長作町)を走るが、まもなく八千代市内に入り、八千代台駅に着く。八千代台は日本で最初に住宅団地ができた場所として知られ、現在でも同市の中で最も人口密度が高い密集した住宅地が広がる。ここから京成大和田駅付近までは千葉市との境界付近を走行する。 八千代台駅を出ると住宅街の中を走り、大きく右にカーブすると京成大和田駅に到着。ここはかつて八千代市の中心部であった場所である。大和田駅を出ると京成臼井駅付近までは国道296号とほぼ併走するようになる。新川を渡り、その後国道16号をくぐり、勝田台駅に到着。勝田台駅は周辺に多くの中学校や高等学校があり、また東葉高速線と連絡しているために非常に乗降客数の多い駅である。勝田台駅を出ると、すぐに佐倉市に入る。直線が続いたあと、左にカーブを描き、その途中にある志津駅に到着。志津駅を出た後は小さいS字カーブを描いてユーカリが丘駅に到着する。ユーカリが丘駅と京成臼井駅の間は掘割の線路がほぼ半分を占めるが、両駅のちょうど中間付近には田園地帯が広がっている。臼井の住宅街の間に入ると左にカーブを描き、まもなく京成臼井駅に到着。京成臼井駅を出て、始発列車のための待避線の先にあるかつての旧駅跡からは、しばらく国道296号と併走する。国道と分かれると、左側には印旛沼が見えるようになり、田園地帯も広がっている。その後右に急カーブを描き、風車を中心とした「佐倉ふるさと広場」の横を通過する。急カーブを超えると左側の田園地帯とは対照的に、右側には住宅街が広がる。広いロータリーのような広場が見えるが、ここはかつて「江原台駅(仮称)」が建設される予定だった場所(詳細は江原台の項目を参照)。その後左にカーブを曲がると佐倉市の中心街が見え、京成佐倉駅に到着する。 京成佐倉駅を出ると右手に住宅街、左手にゴルフ場を見ながら走る。左にカーブし、大佐倉駅を過ぎると再び田園地帯となる。その先を大きく左にカーブすると酒々井町中心部に入り、京成酒々井駅に到着する。京成酒々井駅を出ると再び田園地帯となり、右手に京成電鉄の車両基地である宗吾基地が見えてくると宗吾参道駅である。宗吾参道駅を出てトンネルをくぐるとニュータウンの中の掘割の中を進む。次の公津の杜駅はホームの半分がトンネルとなっている。トンネルを抜け、しばらく続く掘割が終わるとJR成田線をくぐりながら大きく左右にカーブする。右手に成田市役所が見えてくると間もなく京成成田駅に到着する。成田山新勝寺へは同駅西口から表参道につながっている。 京成成田駅を出るとしばらくは高架線で、成田市の市街地を過ぎると掘割による線路となる。市街地と成田空港の間は森林・農村地帯が続く。空港が近づくと駒井野信号場を通過して左へ分岐する。直進方向は東成田線である。これはもともと東成田線が先に建設されたためである。分岐してまもなく地下のトンネルに入り、成田スカイアクセス線と合流、JR成田線(空港支線)と併走し空港第2ビル駅に着く。空港第2ビル駅から終着の成田空港駅までは単線区間となり成田空港駅に到着する。 京成高砂駅 - 江戸川駅付近間で連続立体交差事業(鉄道高架化)を進める計画がある。2022年度に、国から新規着工準備箇所として採択された。 成田市では、京成成田駅 - 東成田駅・空港第2ビル駅間の同市吉倉地区に開院した国際医療福祉大学成田病院と共に、(仮称)吉倉駅の新設を含めたまちづくり事業構想がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "本線(ほんせん)は、東京都台東区の京成上野駅から千葉県船橋市の京成船橋駅を経て同県成田市の成田空港駅までを結ぶ京成電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "駒井野信号場 - 成田空港駅間(2.1 km)は成田空港高速鉄道が第三種鉄道事業者として線路を保有し、京成電鉄は第二種鉄道事業者として旅客運送を行っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京都23区から東方の千葉県船橋市・佐倉市・成田市方面を結ぶ京成電鉄の基幹路線で、関東地方の主要幹線の一つ。東京通勤輸送のほか、京成電鉄草創期からの目的地であり、毎年初詣で300万人近い人出がある成田山新勝寺への参詣客輸送も特徴として挙げられる。成田国際空港輸送については、その主たる需要の受け皿を成田空港線(成田スカイアクセス線)に移行させつつも、多様なニーズに応える選択肢の一つとしてその役割を担っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "押上線を介して羽田空港方面(都営地下鉄浅草線・京浜急行電鉄本線・空港線)と、東成田線を介して芝山鉄道線とそれぞれ相互直通運転を行い、また北総鉄道北総線と直通する列車がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "成田スカイアクセス線開業後は、京成線内でも社名を冠した「京成本線(英: Keisei Main Line)」の名で案内される(路線図・駅の標識・車体表示)。路線識別色は青系。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "一部の地図などでは「京成成田線」と表記されたり、京成上野 - 青砥間が「上野線」、京成成田 - 成田空港間が「空港線」と呼ばれる場合があるが、いずれも通称であり正式名称ではない。分岐点の信号機の進路識別標識には線名(本線)ではなく方面・方面略称(成田、成等)が記載され、指差喚呼の際は「上野線」「成田線」などと呼ばれる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "京成船橋駅 - 京成成田駅間においては、千葉駅を経由する形のJR東日本総武本線・成田線の船橋駅 - 成田駅間と比較して短絡ルートとなっており、線形に優れ、所要時間も短いが、京成成田駅あるいは成田駅、あるいはそれより遠いJR駅を乗降駅とする場合の所要時間はほぼ同じとなっており、JR東日本の乗降駅によっては、JR東日本の通し運賃の方が安くなることもある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "東京メトロ東西線に直通する東葉高速線とも勝田台駅(東葉勝田台駅)- 都営浅草線日本橋駅(押上線を経由して直通)間で競合しており、こちらにも運賃では勝るものの所要時間などで劣っている。そのため勝田台駅で乗降し東葉高速線を利用する乗客なども多い。2008年度における勝田台駅の1日の平均乗降客数は日暮里駅についで5位となっている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "都営浅草線直通は近年では1998年の京急空港線羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業以降、京急線発着の列車が主流となり、浅草線の終着駅である西馬込駅発着の列車はラッシュ時以外は大幅に減少していたが、成田スカイアクセス線開業後のダイヤでは日中の西馬込発着列車が増発された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "快速特急・特急・通勤特急の全列車と快速の大半は利用率が比較的高いために、8両編成で運転される。普通列車は、ホーム有効長が6両分しかない駅(本線は京成中山駅と海神駅の2駅のみ)があるため、京成上野駅 - 京成高砂駅間と宗吾参道駅 - 成田空港駅間(・東成田方面芝山鉄道線芝山千代田駅間を含めて)は一部が8両編成だが、それをのぞき全列車が6両編成で運転される。かつては4両編成での運用が存在したが、4両編成の3300形・3500形の廃止減少、6両編成の3000形の増備および輸送力の増強により、本線上での営業運用は消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2010年7月17日以降は京成高砂駅 - 空港第2ビル駅間の経路が成田スカイアクセス線経由と本線経由の2系統となったため「成田スカイアクセス線・北総線経由」「京成本線・船橋経由」という案内でルートの区別を図っている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "現在、日中のダイヤは成田スカイアクセス線経由の「スカイライナー」が60分サイクル、一般列車が40分サイクルとなっていて、両者を組み合わせたダイヤパターンで運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2022年(令和4年)11月26日現在のダイヤにおける日中40分あたりの運行本数は以下のとおり。なお、空港第2ビル - 成田空港間の成田スカイアクセス線と青砥 - 京成高砂間の押上線からの直通列車は営業上京成本線と分離されているが、線路を共用しているのでまとめて記す。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "座席指定で運賃のほかに料金が必要な列車が下記のとおり運行されている。これらはそれぞれ独立した列車種別となっている。これらの列車の緩急行選別装置の番号対照表の番号は「8」で「その他」と表記されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "以下は運賃以外の料金が不要な列車である。また、ここでは本線青砥駅以西(日暮里・京成上野方面)あるいは京成高砂駅以南(京成津田沼方面)のどちらも経由しない列車(押上線 - 北総線・成田空港線(成田スカイアクセス線)、押上線 - 京成高砂駅発着)については記載しない。それらについては「京成押上線」「北総鉄道北総線」「京成成田空港線」の各記事を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一般車両による最上位速達列車である。2006年12月10日のダイヤ改正で、日中の特急の京成佐倉駅以東を各駅停車化するにあたり、従前の停車駅で運行する列車を改称する形で設定された。当初、朝方は上り方面、夕方・夜間は下り方面への運行であったが、2019年10月26日のダイヤ改正からは日中も運行されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2002年10月14日より2014年11月7日までの平日には三崎口発京成成田(運転開始当初は成田空港)行き(京急線内特急)という、3社間で最長距離の列車が都営車で1本運転されていた。なお、2010年7月11日までには土休日のみ朝方に成田空港行き(通常とは逆方向に運行される列車)が1本あったが、この列車は羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)始発であり、京急線・都営浅草線を含めて全区間で種別が快特(エアポート快特を含む)であり、なおかつ両空港を乗り換えなしで結んでいる数少ない列車であった。また土休日夕方にも成田空港駅 - 羽田空港駅間の列車が存在した(京成線内は快速特急、都営線内・京急線内はエアポート快特となる列車もあった)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "原則として京成車が主体の運用だが、都営線直通列車はラッシュ時を中心に都営車が入ることがある。また上記の京急線京急蒲田駅より南を始発とする列車は、原則都営車での運用となっていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当初は京浜急行電鉄にあわせて種別を「快特」と定めたが、読みが「かいとく」であるため、後述の「快速」(かいそく)との区別がつきにくく、誤乗防止のため、2007年8月16日より、駅構内および車内のアナウンスが「快速特急」に変更された。2010年7月17日のダイヤ改正よりすべての案内上の名称が「快速特急」に改められ、現在は駅の発車案内や車両の方向幕の表示もごく一部(押上駅1・2番線)をのぞき「快速特急」に統一された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "種別カラーは京急と同様の緑色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "緩急行選別装置の番号対照表の番号は「7」で、こちらは引き続き「快特」と表記されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2010年7月17日に開業した成田空港線(成田スカイアクセス線)経由の一般車両による最上位速達列車(快速特急と経路は違うが同等)である。日中は押上線方面との直通列車のみ運行されるが、日中以外の時間帯に京成上野駅発着での設定がある(ただし、2022年2月26日ダイヤ改正以降、上りは平日3本・土休日1本のみ、下りは平日2本のみ。このほか平日の下り列車で京成上野駅から普通京成高砂行きとして運転し、京成高砂駅で行先・種別を変更してアクセス特急成田空港行きとなる列車が2本設定されている)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "京成・京急・都営車による運用で、通常京成車の運用には3100形が優先的に使用される。3050形は新造時は全車がアクセス線使用を前提とした独自の外観デザインをもっていたが、2019年に本線経由との誤乗防止を図る目的で3100形と類似したデザインへの変更が行われた。しかしながら、3050形は、通常の京成色に変更されたため、アクセス特急での運用は通常時はない。また、京成上野発着の列車は京成車に限定される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "種別カラーは、それまで「通勤特急」が使用していたオレンジ色が使用されている。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。フルカラーLED装備の京成車は本線特急と区別するため、行先と交互に経由路線を表示する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一般車両による速達列車で、日中における京成上野駅 - 成田空港駅間を本線経由で結ぶ唯一の列車である。スカイライナーとの区別のため、一部構内放送や車内放送では「普通特急」と呼ばれる場合がある。1991年3月19日のダイヤ改正による停車駅変更に伴い2代目通勤特急と本線において停車駅が全く同じになったため種別順位では2006年12月のダイヤ改正で「快速特急」が登場するまでは最上位速達列車であった。京成上野駅 - 成田空港駅間の所要時間は最速71分(1時間11分)で、日中は約40分間隔で運転されていたが、2022年2月改正で日中時間帯の運行がなくなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "京成上野駅 - 京成佐倉駅間では快特と同じ停車駅で、2006年12月10日のダイヤ改正で特急停車駅に大佐倉駅・京成酒々井駅・宗吾参道駅・公津の杜駅が加わって京成佐倉駅 - 成田空港駅間の各駅に停車するようになった。所要時間はダイヤ改正前の京成成田駅における3 - 4分の停車時間を短縮したため所要時間は従前と同等となっている。京成佐倉駅 - 成田空港駅間の各駅停車化はこの改正で日中の羽田空港発の快速(2010年7月17日改正より西馬込駅発着)が京成佐倉行きとなったためで、乗り入れる種別が特急しかなくなった京成佐倉駅 - 成田空港駅間の日中において、特急が各駅停車の役割も担うこととなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2006年12月9日までは日中時間帯に半数近くが京成高砂駅でスカイライナーの通過待ちをしていたが、翌10日より日中の通過待ちがなくなった。2010年5月16日より、日中の上野方面は宗吾参道駅でスカイライナーの通過待ちを行っていた。同年7月17日のダイヤ改正よりスカイライナーが成田スカイアクセス線経由となり、それ以降は上下列車とも3本中1本が八千代台駅でシティライナーの通過待ちを行っていた。なお、過去(成田スカイアクセス線開通以前)には朝夕ラッシュ時に京成高砂駅・京成津田沼駅・八千代台駅・京成佐倉駅・宗吾参道駅・京成成田駅のいずれかの駅でスカイライナーの通過待ちを行っていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "都営地下鉄1号線(現:浅草線)を介して京急線に乗り入れを開始する1968年より従前の急行を格上げする形で運行を開始した。なお、これ以前は座席指定制の「開運」号が唯一の特急列車であった(不定期をのぞく)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "種別カラーは赤色(各社局共通)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "上記のアクセス特急・特急の緩急行選別装置の番号対照表の番号は「6」で、「特急」と表記されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2002年10月12日のダイヤ改正で再設定された列車種別である(3代目、後述)。京成上野駅・青砥駅 - 勝田台駅間の停車駅は快速特急・特急と同じで、勝田台駅 - 成田空港駅間は各駅に停車する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "平日上りのみ運転。平日の朝ラッシュ時に京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅発で運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "いずれも平日のみの運転で、下りは夕ラッシュ時に羽田空港第1・第2ターミナル発で成田空港行きが、上りは朝に京成成田発で西馬込行きが1本のみ運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2011年12月22日までの平日朝の下りでは京成上野発成田空港行き1本が運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "種別カラーは空色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。成田スカイアクセス線開業以前はオレンジ色だった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "緩急行選別装置の番号対照表の番号は「5」である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "京成成田および芝山千代田始発の「通勤特急」京成上野行き(8両編成)4本に対して、平日朝ラッシュ時の時間帯に女性専用車が設定されている。設定位置は進行方向最後尾車両(8両目)で、設定区間は芝山鉄道線区間を含めた京成上野駅までの全区間。設定対象列車の最後尾車両には「女性専用車」案内シールが貼付される。成田空港始発の列車には設定されていない。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2002年10月12日のダイヤ改正で運行を開始した、主に都営浅草線直通を担う準速達列車である。この快速は通勤特急と同じく3代目にあたる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "それ以前に運行されていた急行よりも停車駅が少ない。本線では、急行がかつて停車していた町屋駅・千住大橋駅(2010年のダイヤ改正で千住大橋駅が停車駅となった)・堀切菖蒲園駅・国府台駅・市川真間駅・谷津駅は通過とした。これにより京成上野駅 - 京成津田沼駅間では特急などとの停車駅の違いは京成小岩駅・東中山駅・船橋競馬場駅だけになり、ほぼ特急などと同等の所要時間となった。上位速達列車の追い抜きも京成上野駅 - 京成津田沼駅間ではほとんど見られなくなった。京成津田沼駅 - 成田空港駅間は各駅に停車する。登場当初は押上線・都営浅草線を介しての羽田空港方面への直通(京急線内は快特運転)に充てられ、都営車と京成車が主体の運用で、わずかにかつての羽田空港駅 - 成田空港駅間の直通特急であったエアポート特急の名残で京急車による運用も存在する。京成上野・押上方面と京成佐倉・京成成田・成田空港方面を結ぶ列車の一部は、京成高砂駅まで京成高砂行きとして運転し、京成高砂を境に都心方面を普通、成田方面を快速として行先・種別の変更を行う。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2013年10月26日のダイヤ改正までは、都営浅草線より列車種別がエアポート快特となる上り(押上・羽田空港行き)列車について、種別幕を「(飛行機マーク)快速」として他の快速とは案内を分けていた。ただし、停車駅や正式な列車種別名は同じ「快速」であり、駅の時刻表では同じピンク色の文字で表記している駅もあった。また、(飛行機マーク)は都営線内での停車駅の差異を案内するためのものであるため、下り成田空港行きの列車に使用されることはなかった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2006年12月10日のダイヤ改正からは、日中のみ羽田空港駅 - 京成佐倉駅間での運転となり、京成佐倉駅到着後、反対側の番線に成田空港駅発着の特急列車に連絡するダイヤになった。そのため、一部の京成佐倉行き列車の方向幕には「(成田空港方面)佐倉」と表示されていた。また、平日朝の一部と夜間に京成上野駅 - 京成高砂駅間の区間運転列車が新設された。夜間に運転される京成上野駅 - 京成高砂駅間の区間運転列車は青砥駅で都営浅草線からの列車に接続する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2010年7月17日のダイヤ改正からは、京成上野駅発着列車が千住大橋駅に停車し、普通列車との接続が図られている。また、日中の羽田空港駅 - 京成佐倉駅間の快速(京急線内エアポート快特)と西馬込駅 - 京成高砂駅間の普通・急行の種別・行き先が変更され、快速は西馬込駅 - 京成佐倉駅間での運行とし、泉岳寺駅で同駅折り返しの京急線・横浜方面快特に接続する形態に改められた。またエアポート快速は早朝の宗吾参道発羽田空港行き1本のみ(京急線内エアポート快特)となった。また、京成線急行の廃止を受け、平日に北総線で運行される急行のほぼ全列車については、京成線内種別が快速となった。なお、この改正で京急車による運用は平日数本の京成高砂駅 - 都営線間の列車のみとなったが、2015年12月7日ダイヤ改正で平日1本のみ京成佐倉発三崎口行き(京急線内特急)が設定され、2010年7月16日以来の京成高砂以東の定期列車が設定された。このほかにも京成高砂発京成佐倉行きの1本、平日のみ西馬込駅 - 京成佐倉駅間の1往復についても京急車による運用で設定された。京急車におけるこれらの京成高砂以東本線運用はアクセス特急同様に当初は原則として600形と新1000形10次車以降に限定されていたが、ダイヤ乱れ等が発生した場合は1500形・新1000形9次車以前の車両が代走で入線することがあった。現在は京急線限定運用の新1000形1001編成を除き入線している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2019年10月のダイヤ改正から、日中の列車の半数が成田空港発着に延長された。また、2022年2月のダイヤ改正から日中全ての列車が成田空港発着に統一された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "種別カラーはピンク色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板や行先表示器が導入されていない駅や車両などにおいては赤色・緑色で表示する場合もある。また、エアポート快速はフルカラーLEDの場合緑地に白字で表示される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "緩急行選別装置の番号対照表の番号は「4」である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "各駅に停車する。普通列車では京成押上線 - 京成小岩駅以南への直通系統は存在しないため、本節では本線系統のみ記載する。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "大多数の列車は京成上野駅 - 京成津田沼駅・京成臼井駅で運転されるが、日中以外の時間帯は京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅・千葉中央駅・ちはら台駅発着でも運転される。出入庫時は京成高砂駅・宗吾参道駅発着で運転されるほか、ごく一部京成大和田駅・京成佐倉駅発着の列車も存在する。平日の下りに1本、京成上野駅 - 京成高砂駅間で普通京成高砂行きとして運転し、京成高砂で行先・種別を変更して、成田スカイアクセス線経由アクセス特急成田空港行きとして運転する列車が設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "基本的に6両編成で運転される。これは京成高砂駅 - 京成津田沼駅間の快速通過駅の京成中山駅と海神駅のホーム有効長が6両以下のためである。同区間を含まない普通列車は8両で運転されるケースも多い。たとえば、京成上野駅 - 京成高砂駅間・宗吾参道駅 - 成田空港駅・芝山千代田駅間の一部の普通では8両の車両を出入庫など間合い運用で運転している。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2007年12月2日のダイヤ改正から土休日昼間の京成上野駅 - 京成津田沼駅間の普通が6両編成化された。臨時列車として佐倉ふるさと広場で佐倉・印旛沼国際花火大会(現・佐倉市民花火大会)が行われる時には京成臼井発八千代台行き(過去には京成津田沼行きも)普通が8両編成で走る。近年は停車が4両編成に限定されていた博物館動物園駅が廃止されたことや6両編成の3000形の増備、4両編成の3500形・3300形の営業運転終了、4両編成で運行される金町線直通列車の廃止などにより、6両編成の列車が増加傾向にある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "4両編成運転については、2018年12月のダイヤ改正で宗吾参道駅 - 芝山千代田駅間のみに限定され、京成上野駅発着では4両編成の定期列車が消滅、京成高砂駅 - 宗吾参道駅間については、金町線運用絡みの回送で走行する以外は定期列車に充当されなくなった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "なお、行商専用列車が1982年2月に廃止後、朝の上り列車に成田寄り1両を指定して行商専用車が設定され、末期には京成上野行き普通1本に残存していたが2013年3月29日をもって廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "快速が京成佐倉駅発着になった2007年以降の正月期間や1月上旬には日中を中心に一部の京成臼井行き列車が京成成田行きとして延長運転される。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "種別表示や肉声放送・車内自動放送は「普通」であるが、駅の接近自動放送では基本的に「各駅停車」と案内する。種別カラーは黒色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板や行先表示器が導入されていない駅や車両などにおいてはオレンジ色で表示する場合もある。緩急行選別装置の番号対照表の番号は「1」である。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2002年10月12日のダイヤ改正の前までは、京成本線・押上線で急行が運転されていた。停車駅は現在の快速の停車駅に町屋・千住大橋(2010年7月17日からは快速停車)・堀切菖蒲園・国府台・市川真間・谷津を加えたものであった。朝晩は主に上野直通、日中は主に押上線方面直通であり、下り列車で成田空港に乗り入れる列車は少なく、主に京成成田・東成田行きがほとんどであった。2002年のダイヤ改正で、本線内のみの急行は快速に置き換えられて廃止となった。その後も押上線では2010年7月17日の成田スカイアクセス線開業に伴うダイヤ改正まで存続したが、こちらについては「京成押上線#過去の列車種別」を参照。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1968年11月10日の改正で、それ以前の上野系統の初代急行は特急に格上げされ、同改正で準急に代って2代目急行が新設された。初代通勤特急廃止の1974年12月16日までは2002年10月12日改正前よりも停車駅は少なく、上野系統と浅草線直通系統で一部停車駅が異なっていた。急行表示板も2種類あり、前者は逆台形に「急行」表示、後者は丸地に「急」表示であった。なお1963年頃には丸に2本の線入りの「急」表示のものも存在した。1983年10月1日ダイヤ改正で都営浅草線車両による急行が京成佐倉駅まで乗り入れるようになった際には、誤乗防止の観点から前面貫通扉に内側から「急行」の表示を吸盤で貼付けていた。都営車の乗り入れは、後に東成田駅までに拡大されたが、1998年11月18日ダイヤ改正時に急行表示板は廃止された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "緩急行選別装置の番号対照表の番号は末期には「3」(快速設定前は「4」)であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2002年までエアポート快特(エアポート特急を含む)は京成線内では「特急」として運転され羽田空港方面・成田空港方面とも「(飛行機マーク)特急」と表示されていたが、これ以外に京成上野駅 - 成田空港駅間の特急も「(飛行機マーク)特急」とされており、京成線内のほとんどの特急が「(飛行機マーク)特急」となっていた(ただし、案内上は都営線内で速達運転をするエアポート特急を除き単に「特急」と読まれていた)。単に飛行機マークのない「特急」とされたのは都営浅草線西馬込 - 成田空港間の特急(都営線内は各駅に停車)と京成佐倉止まりなど主に成田空港発着でない特急のみであった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "この飛行機マーク付きの特急は青砥駅・京成高砂駅発着であったエアポート特急およびエアポート快特に接続する京成上野駅 - 京成高砂駅間の特急列車にも適用された。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1960年代後半 - 1974年12月16日と、1985年10月19日より1998年11月18日(以下2代目)のダイヤ改正まで運行されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "初代の通勤特急の投入当時の停車駅は、2006年12月9日までの特急停車駅に京成小岩駅、東中山駅および押上線京成曳舟駅、京成立石駅を加えたものであった。しかし、初代は列車種別整理のため「特急」に統合される形で廃止された。この時の種別板は丸に青縁取りで「特急」であった(特急種別板との相違点は青縁取りの有無。無い方が特急種別板)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1985年10月19日に通勤ラッシュ時の都営浅草線への速達化を図るため、通勤特急が再登場した。再登場時の特急停車駅はすでに初代通勤特急の停車駅と同じであったため、2代目通勤特急は京成小岩駅・東中山駅・京成曳舟駅・京成立石駅は通過となった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1991年3月19日に京成本線内の特急の停車駅が現在の快速特急と同じとなり「特急」は上野方面直通、2代目「通勤特急」は押上線・都営浅草線方面直通で運行(通勤ラッシュ時のみ)されていた。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1998年11月18日の京急線羽田空港駅開業に伴うダイヤ改正で、通勤ラッシュ時以外にも押上線・都営浅草線・京急線直通の特急が運行されるようになった。この時に押上線に定められていた特急停車駅から京成曳舟駅・京成立石駅が外れ「通勤特急」と種別を区別する意義がなくなったことから通勤特急という名前から\"通勤\"の文字が消えて「特急」に統合され、この2代目「通勤特急」は消滅した。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1960年代後半 - 1974年12月16日に朝晩通勤ラッシュ時に上野系統で運行された種別。当初は通勤準急という名称であったが、1968年11月に準急が廃止され急行の停車駅が増えたために通勤急行に改称された。停車駅は2002年10月12日改正前の急行停車駅から谷津遊園(現:谷津)とセンター競馬場前(現:船橋競馬場)をのぞいた設定であった。初代通勤特急同様、列車種別整理のため急行に統合され消滅。種別板は通勤準急時代は菱に縦書きで「準急」(文字は横書きの種別板も存在。八千代台行は行先表示板に設定がなかったため例外として種別板に併記)通勤急行格上げ後は菱に「通急」。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "初代快速は1960年代前半頃に京成上野駅 - 京成成田駅間で夕方ラッシュ時への移行期に運行されていた。前述した通勤準急→通勤急行の前身で停車駅は同じである。種別板は菱に「快速」。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2代目快速は1968年頃 - 1974年12月16日に日中に京成上野 - 千葉系統で運行されていた。停車駅は京成上野・日暮里・町屋・堀切菖蒲園・青砥(この間各駅停車)京成津田沼・京成幕張・京成稲毛・みどり台・国鉄千葉駅前(現京成千葉)・京成千葉(現千葉中央)。列車種別整理のため普通に格下げされた。種別板は楕円に横書きの「快速」。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1968年11月9日まで運転されていた。停車駅は京成上野・日暮里・町屋・堀切菖蒲園・青砥・京成高砂・市川真間・京成八幡・東中山・京成船橋・センター競馬場前(現船橋競馬場)から先終点までの各駅。急行の停車駅増加により消滅した。種別板は丸に「準急」。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "緩急行選別装置の番号対照表の番号は「2」であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "開業時は、起点が京成上野駅ではなく、現在の押上線の押上駅だった。後に、筑波高速度電気鉄道の所有する免許を取得し、日暮里駅開業時に起点が現在の京成上野駅方面へ変更された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2021年度の朝ラッシュ時最混雑区間は大神宮下 → 京成船橋間であり、ピーク時(7:20 - 8:20)の混雑率は98%である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "当路線は市川真間駅 - 京成津田沼駅で東日本旅客鉄道(JR東日本)総武線と競合している。この区間では総武線が所要時間・行先等で圧倒的に有利であり、都心から京成船橋以東へ向かう乗客は総武線との乗り換えに適した京成船橋駅から乗車することが多い。また、青砥以西のアクセスも都営地下鉄浅草線に直通する京成押上線が便利であり、押上駅の乗降人員は京成上野駅と日暮里駅を合算した乗降人員よりも多く、運行頻度も多い。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "そのため、山手線に接続する都心側のターミナル駅である京成上野駅・日暮里駅手前よりも、郊外側のターミナル駅である京成船橋駅手前のほうがラッシュ時の輸送人員が多く、混雑率も高いという特徴をもつ。しかし1996年に東葉高速鉄道東葉高速線が開業して勝田台駅以西が競合路線となった後は、最混雑区間のピーク1時間あたりの輸送人員が3万人を割り込んだ。その後は都心回帰の動きが強まり、輸送人員の減少と混雑率の低下が続いている。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "2018年度の一日平均通過人員は青砥 - 京成高砂間が263,706人であり、この区間が京成線全線で最も通過人員が多い。青砥駅で押上線に、京成高砂駅で北総線に分岐するが、それぞれの路線に直通しているためこの区間は運行密度が非常に高く、京成線唯一の複々線区間となっている。次いで一日平均通過人員が多いのは京成津田沼 - 京成大久保間であり、203,720人である。京成船橋 - 京成津田沼間の各駅は一日平均通過人員が19万人を越えており、都心に最も近い京成上野 - 青砥間の各駅よりも通過人員は多い。日暮里 - 青砥間の一日平均通過人員は15万人程度、京成高砂 - 京成八幡間の一日平均通過人員は13万人程度、京成八幡 - 京成船橋間の一日平均通過人員は14万人程度でそれぞれ横ばいである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "京成津田沼駅より東側に進むにつれて一日平均通過人員は漸減するが、成田空港のアクセス路線であることから郊外側も一定の需要があり、公津の杜 - 京成成田間の一日平均通過人員は55,630人である。京成上野駅から60km程度離れているが、この区間の通過人員は京成上野 - 日暮里間の50,819人よりも多い。最も一日平均通過人員が少ないのは空港第2ビル - 成田空港間で、14,396人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "「京成」を冠する駅名(15駅)は、2019年頃までに取りやめられるまでは原則として「京成」を省いた略称で案内されていた。略称のあった駅は次の通り。", "title": "駅一覧" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "乗降客数は2014年度のものである。()内の数字は京成線全線での順位。都心側のターミナル駅では、JR東日本や地下鉄の上野駅とやや距離がある京成上野駅より、山手線などと容易に乗り換え可能な日暮里駅の方が利用者数が多い。", "title": "主要駅の乗降客数" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "地下駅の京成上野駅を出ると、上野公園の下を最小曲線半径120 mで左右にカーブしながら進む。途中、博物館動物園駅、寛永寺坂駅の跡がある。40 ‰の勾配でトンネルを抜けると左に急カーブしながらJR山手線、京浜東北線、宇都宮線・高崎線、常磐線を跨いで荒川区に入る、下り線はそのまま日暮里駅高架ホームにつながる。同駅は成田スカイアクセス線(成田空港線)対応の改築工事が終了し、下り線ホームが高架化された。上り線は日暮里駅地上ホームから急勾配を上ってJR線を乗り越しトンネルに入る。日暮里を出ると右カーブしながら常磐線を乗り越し、次いで尾久橋通り上の日暮里・舎人ライナーの下をくぐり、高架を進む。途中、新三河島駅で明治通りを、町屋駅で都電荒川線を跨ぐ。隅田川を渡り、足立区に入った先で一旦地上に降りるが、再び高架となって日光街道(国道4号)上の千住大橋駅となる。橋は南に200 m程の所にある。高架の常磐線、つくばエクスプレス、東京メトロ日比谷線を、さらに高い高架で越え、左手に東武伊勢崎線が並行すると京成関屋駅で、細い道を挟んで東武の牛田駅がある。東武伊勢崎線を乗り越し荒川、綾瀬川を鉄橋で越えて葛飾区に入り、首都高速中央環状線をくぐると右カーブし、堀切菖蒲園駅の先で地上に降りるが、お花茶屋駅の先で再び高架になり、水戸街道(国道6号)を越える。大きく左手にカーブしながら、25 ‰の勾配で登り、右手より押上線が合流すると、3階建て高架駅の青砥駅に到着する。成田方面は3階、上野・押上方面は2階である。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "青砥駅を出ると、次の京成高砂駅まで複々線である。朝夕は、ほぼ同じタイミングで駅を出て、同じタイミングで駅に着くため、列車の隣を常にもう片方の列車が走る。この列車は、青砥駅で上野方面と、都営浅草線方面に分かれる。両駅間は、かつて複線であった時代でも上り方向に1時間当り最大36本もの列車が運行された高密度運転区間である。南側に引き上げ線を見つつ、上下線の高低差を縮小しながら環七通りを越え、さらに4線が並んだあたりで中川を越える。ここまでの区間は、高架が高い位置なので非常に見晴らしがよい。中川を越えると24‰の下り勾配で貨物専用のJR新金線を越え、右カーブしながら地上に下りると金町線と北総線とが分岐する京成高砂駅となる。ホームは狭い島式ホーム2面4線という構造である。ホーム成田寄りはすぐ横が踏切で、開かずの踏切として葛飾区からも名指しされて問題視されている。なお、当面の対策として金町線のみ高架化された。金町線が左に逸れ、進路を南東に取りつつ高砂車庫沿いに進むと北総線が高架となってこちらも左に逸れていく。ここから京成小岩駅までは直線となる。柴又街道を越えると江戸川区に入り、京成小岩駅に入る。緩いカーブを過ぎて、次の江戸川駅手前で高架となり江戸川を渡ると千葉県に入る。このカーブ付近でJR総武本線が接近し、ここから並行区間に入る。千葉県に入ると、沿線には下総台地と低地、そしてその間の崖面が多くなる。国府台駅の先で地上に戻り、市川市内の住宅密集地を走る。左カーブ上にある市川真間駅は2面4線の待避駅である。JR市川駅は南側、千葉街道(国道14号)を渡った先にある。これより先、暫く千葉街道とJR総武本線とほぼ並行して東へ進む。次の菅野駅付近では、地下に東京外環自動車道と国道298号が通っている。そのままほぼ直線で進むと京成八幡駅となる。島式ホーム1本の駅で、南側に隣接して都営新宿線の本八幡駅がある。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "八幡駅を出て船橋までは、カーブと高低差の多い線形となる。真間川を渡ると少し先に鬼越駅があり、その先で千葉県道59号市川印西線(木下街道)と平面交差するが、ここを含めて付近の道路は立体交差化されていない。京成中山駅手前で船橋市に入る。次の東中山駅は、2面4線の駅で、周辺施設として、中山競馬場が北に1.5 km程の所にある。競馬場に通じる道路をくぐり、下り勾配の先が京成西船駅であるが、JR西船橋駅からは500 m程離れている。駅の東で武蔵野線が高い高架橋で跨いでいる。海神駅を過ぎると地面が低くなって盛土の上を進み、船橋市街と東武野田線の高架橋を遠くに望みつつ、右カーブしながらJR総武本線を越える。左カーブしながら高架を駆け上がり、相対式ホームの京成船橋駅に着く。シティライナーの停車駅で、乗降客数も多い京成を代表する駅の一つである。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "京成船橋駅を出ると、総武線に接近したのち、右カーブで南に一旦進路をとる。大神宮下駅付近で、今度は左カーブし、千葉街道(国道14号)に沿って走るようになる。高架が終わり地上に降りると、島式ホーム2面4線の船橋競馬場駅である。国道296号(成田街道)の陸橋をくぐって習志野市に入り、谷津駅付近で左カーブすると進路がほぼ真東となる。上下線の間に折り返し線が割り込み、左から新京成線が合流し、踏切を越えると千葉線と分岐する京成津田沼駅となる。新京成線と併せると3面6線の規模である。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "京成津田沼駅を出ると千葉線が左に分かれ、本線は右手に津田沼検車区を見ながら右、続いて大きく左にカーブを描き、内陸部へと入っていく。先ほど分かれた千葉線やJR総武線の線路をくぐると掘割による線路が続く。やがて右にカーブを切り京成大久保駅に着く。京成大久保駅から実籾駅まではほぼ直線であり、その後は左カーブとその先しばしの間千葉市花見川区内(作新台、長作町)を走るが、まもなく八千代市内に入り、八千代台駅に着く。八千代台は日本で最初に住宅団地ができた場所として知られ、現在でも同市の中で最も人口密度が高い密集した住宅地が広がる。ここから京成大和田駅付近までは千葉市との境界付近を走行する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "八千代台駅を出ると住宅街の中を走り、大きく右にカーブすると京成大和田駅に到着。ここはかつて八千代市の中心部であった場所である。大和田駅を出ると京成臼井駅付近までは国道296号とほぼ併走するようになる。新川を渡り、その後国道16号をくぐり、勝田台駅に到着。勝田台駅は周辺に多くの中学校や高等学校があり、また東葉高速線と連絡しているために非常に乗降客数の多い駅である。勝田台駅を出ると、すぐに佐倉市に入る。直線が続いたあと、左にカーブを描き、その途中にある志津駅に到着。志津駅を出た後は小さいS字カーブを描いてユーカリが丘駅に到着する。ユーカリが丘駅と京成臼井駅の間は掘割の線路がほぼ半分を占めるが、両駅のちょうど中間付近には田園地帯が広がっている。臼井の住宅街の間に入ると左にカーブを描き、まもなく京成臼井駅に到着。京成臼井駅を出て、始発列車のための待避線の先にあるかつての旧駅跡からは、しばらく国道296号と併走する。国道と分かれると、左側には印旛沼が見えるようになり、田園地帯も広がっている。その後右に急カーブを描き、風車を中心とした「佐倉ふるさと広場」の横を通過する。急カーブを超えると左側の田園地帯とは対照的に、右側には住宅街が広がる。広いロータリーのような広場が見えるが、ここはかつて「江原台駅(仮称)」が建設される予定だった場所(詳細は江原台の項目を参照)。その後左にカーブを曲がると佐倉市の中心街が見え、京成佐倉駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "京成佐倉駅を出ると右手に住宅街、左手にゴルフ場を見ながら走る。左にカーブし、大佐倉駅を過ぎると再び田園地帯となる。その先を大きく左にカーブすると酒々井町中心部に入り、京成酒々井駅に到着する。京成酒々井駅を出ると再び田園地帯となり、右手に京成電鉄の車両基地である宗吾基地が見えてくると宗吾参道駅である。宗吾参道駅を出てトンネルをくぐるとニュータウンの中の掘割の中を進む。次の公津の杜駅はホームの半分がトンネルとなっている。トンネルを抜け、しばらく続く掘割が終わるとJR成田線をくぐりながら大きく左右にカーブする。右手に成田市役所が見えてくると間もなく京成成田駅に到着する。成田山新勝寺へは同駅西口から表参道につながっている。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "京成成田駅を出るとしばらくは高架線で、成田市の市街地を過ぎると掘割による線路となる。市街地と成田空港の間は森林・農村地帯が続く。空港が近づくと駒井野信号場を通過して左へ分岐する。直進方向は東成田線である。これはもともと東成田線が先に建設されたためである。分岐してまもなく地下のトンネルに入り、成田スカイアクセス線と合流、JR成田線(空港支線)と併走し空港第2ビル駅に着く。空港第2ビル駅から終着の成田空港駅までは単線区間となり成田空港駅に到着する。", "title": "沿線風景" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "京成高砂駅 - 江戸川駅付近間で連続立体交差事業(鉄道高架化)を進める計画がある。2022年度に、国から新規着工準備箇所として採択された。", "title": "構想・計画" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "成田市では、京成成田駅 - 東成田駅・空港第2ビル駅間の同市吉倉地区に開院した国際医療福祉大学成田病院と共に、(仮称)吉倉駅の新設を含めたまちづくり事業構想がある。", "title": "構想・計画" } ]
本線(ほんせん)は、東京都台東区の京成上野駅から千葉県船橋市の京成船橋駅を経て同県成田市の成田空港駅までを結ぶ京成電鉄の鉄道路線である。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。 駒井野信号場 - 成田空港駅間は成田空港高速鉄道が第三種鉄道事業者として線路を保有し、京成電鉄は第二種鉄道事業者として旅客運送を行っている。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名 = [[File:Keisei Logo.svg|45px|baseline|link=京成電鉄]] 本線 |路線色 = #005aaa |ロゴ = File:Number prefix Keisei.svg |ロゴサイズ = 40px |画像 = Keisei-Series3000-3042.jpg |画像サイズ = 300px |画像説明 = 京成本線を走行する[[京成3000形電車 (2代)|3000形]]<br>(2021年3月 [[宗吾参道駅]] - [[京成酒々井駅]]間) |国 = {{JPN}} |所在地 = [[東京都]]・[[千葉県]] |起点 = [[京成上野駅]] |終点 = [[成田空港駅]] |駅数 = 42駅 |路線記号 = KS |開業 = [[1912年]][[11月3日]] |最終延伸 = [[1991年]][[3月19日]] |休止 = |廃止 = |所有者 = [[京成電鉄]](京成上野 - 駒井野信号場間)<br />[[成田空港高速鉄道]](駒井野信号場 - 成田空港間) |運営者 = 京成電鉄 |車両基地 = [[高砂検車区]]、[[宗吾車両基地]] |使用車両 = [[京成電鉄#車両]]を参照 |路線距離 = 69.3&nbsp;[[キロメートル|km]] |軌間 = 1,435&nbsp;[[ミリメートル|mm]] |線路数 = [[複々線]](青砥 - 京成高砂間)<br />[[複線]](京成上野 - 青砥間、京成高砂 - 空港第2ビル間)<br />[[単線]](空港第2ビル - 成田空港間) |電化方式 = [[直流電化|直流]]1,500&nbsp;[[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配 = 40&nbsp;[[パーミル|‰]]<ref name="gaho0902-14" />(京成上野 - 日暮里間) |最小曲線半径 = 120&nbsp;m<ref name="gaho0902-14" />(京成上野 - 日暮里間) |閉塞方式 = 自動閉塞式 |保安装置 = [[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]] |最高速度 = 110&nbsp;[[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="kiseki">三好好三『京浜東北線100年の軌跡』JTBパブリッシング、2015年 p.178</ref> |路線図 = Keisei Electric Railway Linemap.svg }} {{BS-map |width = |title = 停車場・施設・接続路線 |title-bg = #005aaa |title-color = white |collapse = no |map = {{BS|tKBHFa|0.0|KS01 [[京成上野駅]]|<ref group="接続" name="ueno">上野接続を下に示す</ref>|}} {{BS3|BHF|tSTR||||[[上野駅]] {{rint|tokyo|toden}}''[[東京都電車|都電]]''|}} {{BS3|STR|etBHF||0.9|''[[博物館動物園駅]]''|-2004|}} {{BS3|HST|tSTR||||[[鶯谷駅]]|}} {{BS3|STR|etBHF||1.4|''[[寛永寺坂駅]]''|-1953|}} {{BS3|STR|tSTRe|||||}} {{BS3|STRl|KRZo|STR+r||||}} {{BS3|uKBHFa|O1=HUBaq|BHF|O2=HUBq|BHF|O3=HUBeq|2.1|KS02 [[日暮里駅]]||}} {{BS5|STR+l|O1=POINTERf@g|umKRZo|KRZo|ABZgr||||[[常磐快速線|常磐線(快速)]]|}} {{BS5|STR|uSTR|STR|ABZgl||||[[山手線]]・[[京浜東北線]]|}} {{BS5|STR|uSTR|STR|STRl||||[[宇都宮線]]・[[高崎線]]|}} {{BS5|STR|uSTRl|mKRZu|uSTRq||||[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]|}} {{BS5|STR||eBHF|||2.7|''[[道灌山通駅]]''|-1947|}} {{BS5|STR|tSTR+l|KRZt|tSTRq||||[[東京地下鉄]] {{rint|tokyo|c}} [[東京メトロ千代田線|千代田線]]|}} {{BS5|ABZg+l|tKRZ|KRZo|STRq||||常磐線貨物線|}} {{BS5|STR|tSTR|BHF|||3.4|KS03 [[新三河島駅]]||}} {{BS5|HST|tSTRl|KRZt|tSTR+r||||[[三河島駅]]|}} {{BS5|LSTR||BHF|O3=HUBaq|tBHF|O4=HUBq||O5=HUBlg|4.3|KS04 [[町屋駅]]||}} {{BS5|LSTR||mKRZo|mtKRZ|uBHFq|O5=HUBe|||[[町屋駅|町屋駅前]]|}} {{BS5|LSTR||STR|tSTR||||[[東京都電車|都電]][[都電荒川線|荒川線]]|}} {{BS5|LSTR|WASSERq|hKRZWae|tKRZW||||[[隅田川]]|}} {{BS5|LSTR||eBHF|tSTR|||''[[西千住駅]]''|-1947|}} {{BS5|LSTR||BHF|tSTR||5.9|KS05 [[千住大橋駅]]|{{rint|tokyo|toden}} ''都電''|}} {{BS5|LSTR||STR|tSTR|POINTERf@f|||[[北千住駅]]|}} {{BS5|LSTR||STR|tSTRl|tHSTq|O5=HUBa|||東京地下鉄 {{rint|tokyo|c}} 千代田線|}} {{BS5|STRl|STRq|KRZo|STRq|HSTq|O5=HUB|||常磐線(快速)|}} {{BS5||STRq|KRZo|STRq|HSTq|O5=HUB|||[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]|}} {{BS5||STRq|KRZo|ABZq+l|HSTq|O5=HUBe|||←東京地下鉄 {{rint|tokyo|h}} [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]|}} {{BS3||STR|STR|||{{rint|tokyo|ts}} [[東武鉄道|東武]][[東武伊勢崎線|伊勢崎線]]→|}} {{BS3||STR|eBST|||''[[中千住駅|千住分岐点]]''|}} {{BS3|exKBSTaq|eKRZ|eABZgr|||''千住駅''|}} {{BS3||BHF|O2=HUBaq|BHF|O3=HUBeq|7.3|KS06 [[京成関屋駅]]||}} {{BS3||STR|STR|||[[牛田駅 (東京都)|牛田駅]]|}} {{BS3|HSTq|KRZo|STRr|||[[堀切駅]]|}} {{BS|STR|||{{rint|tokyo|ts}} 東武伊勢崎線|}} {{BS|hKRZWae|||[[荒川 (関東)|荒川]]|}} {{BS|hKRZWae|||[[綾瀬川]]|}} {{BS|BHF|8.8|KS07 [[堀切菖蒲園駅]]||}} {{BS|BHF|9.9|KS08 [[お花茶屋駅]]||}} {{BS3|STRq|ABZg+r||||{{rint|tokyo|ks}} [[京成押上線|押上線]]<ref group="直通先" name="chokutsu">列車直通先を下に示す</ref>|}} {{BS|BHF|11.5|KS09 [[青砥駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||[[中川]]|}} {{BS|KRZo|||[[新金貨物線]]|}} {{BS|BHF|12.7|KS10 [[京成高砂駅]]||}} {{BS3||ABZgl|STRq|||[[京成金町線|金町線]]|}} {{BS3||ABZgl|KDSTeq||[[京成電鉄の車両検修施設|高砂検車区]]||}} {{BS3||ABZgl|STRq|||[[北総鉄道]] {{rint|tokyo|hs}} [[北総鉄道北総線|北総線]]<ref group="直通先" name="chokutsu" />|}} {{BS|BHF|14.5|KS11 [[京成小岩駅]]||}} {{BS|BHF|15.7|KS12 [[江戸川駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||[[江戸川]]|}} {{BS|BHF|16.4|KS13 [[国府台駅]]||}} {{BS5|STR+r||STR|||||[[総武本線|総武線]]([[総武快速線|快速]]・[[中央・総武緩行線|各駅停車]])|}} {{BS5|HST||BHF|||17.3|KS14 [[市川真間駅]]||}} {{BS5|LSTR||STR|||||[[市川駅]]|}} {{BS5|LSTR||BHF|||18.2|KS15 [[菅野駅]]||}} {{BS5|STR||STR|||||[[都営地下鉄|都営]] {{rint|tokyo|s}} [[都営地下鉄新宿線|新宿線]]|}} {{BS5|KRZt|tKBHFeq|O2=HUBa|STR|||||[[本八幡駅]]|}} {{BS5|HST||O2=HUBlf|BHF|O3=HUBeq|||19.1|KS16 [[京成八幡駅]]||}} {{BS5|LSTR||eBHF|||19.3|''八幡駅''|-1942|}} {{BS5|LSTR||BHF|||20.1|KS17 [[鬼越駅]]||}} {{BS5|HST||BHF|||20.8|KS18 [[京成中山駅]]||}} {{BS5|LSTR||STR||||| [[下総中山駅]]|}} {{BS5|STR2|STRc3|BHF|||21.6|KS19 [[東中山駅]]||}} {{BS5|STR+r|O1=STRc1|STR+4|STR|||||東京地下鉄 {{rint|tokyo|t}} [[東京メトロ東西線|東西線]]|}} {{BS5|HST|O1=HUBaq|STR|O2=HUBtf|BHF|O3=HUBeq|||22.2|KS20 [[京成西船駅]]||}} {{BS5|KRZu|TBHFu|O2=HUBe|KRZu|||||[[西船橋駅]]|}} {{BS5|KRWgl|KRWg+r|STR|||||←[[京葉線]] / [[武蔵野線]]→|}} {{BS5|tSTRa|STR|BHF|O3=HUBaq|exKBHFa|O4=HUBeq||23.6|KS21 [[海神駅]]||}} {{BS5|tSTRl|KRZt|KRZt|xKRZt|tSTRq|||{{rint|tokyo|tr}} [[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]|}} {{BS5||STR|STR|exSTR2|O4=POINTERf@gq|exSTRc3|||''[[総武鉄道海神線]]''|}} {{BS5||STRl|KRZo|STR+r|O4=exSTRc1|ABZ+lx4|||{{rint|tokyo|td}} 東武[[東武野田線|野田線]]|}} {{BS5|||STR|BHF|O4=HUBrg|KBHFe|O5=HUBeq|||[[船橋駅]]|}} {{BS3||BHF|O2=HUBaq|STR|O3=HUBrf|25.1|KS22 [[京成船橋駅]]||}} {{BS3||BHF|STR|26.4|KS23 [[大神宮下駅]]||}} {{BS3||BHF|LSTR|27.2|KS24 [[船橋競馬場駅]]||}} {{BS3|exSTR+l|eABZgr||||''[[京成谷津支線|谷津支線]]''|}} {{BS3|exKHSTe|STR||||''[[谷津遊園地駅]]'' -1934|}} {{BS3||BHF|LSTR|28.2|KS25 [[谷津駅]]||}} {{BS5|||STR|HST|O4=HUBaq|STR+l|O5=HUBlg|||[[津田沼駅]]|}} {{BS5|||STR|STR|HST|O5=HUBe|||[[新津田沼駅]]|}} {{BS5|||ABZg+l|KRZu|STRr|O5=POINTERg@f|||{{rint|tokyo|sl}} [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]|}} {{BS5|||BHF|STR2|STRc3|29.7|KS26 [[京成津田沼駅]]||}} {{BS5||KDSTaq|ABZglr|STR+r|O4=STRc1|STR+4||[[京成電鉄の車両検修施設|津田沼車庫]]||}} {{BS5|STR+l|STRq|KRZu|STRr|STR|||{{rint|tokyo|ks}} [[京成千葉線|千葉線]]<ref group="直通先" name="chokutsu" />|}} {{BS5|STR|STR+l|KRZu|STRq|STRr|||総武線(快速・各駅停車)|}} {{BS|BHF|32.1|KS27 [[京成大久保駅]]||}} {{BS|BHF|34.0|KS28 [[実籾駅]]||}} {{BS|BHF|36.6|KS29 [[八千代台駅]]||}} {{BS|BHF|38.7|KS30 [[京成大和田駅]]||}} {{BS|hKRZWae|||[[印旛放水路|新川]]|}} {{BS|STR|||{{rint|tokyo|tr}} 東葉高速線|}} {{BS|STR|||[[東葉勝田台駅]]|}} {{BS3||BHF|O2=HUBaq|tKBHFaq|O3=HUBeq|40.3|KS31 [[勝田台駅]]||}} {{BS|BHF|42.1|KS32 [[志津駅]]||}} {{BS|STR|||[[山万]][[山万ユーカリが丘線|ユーカリが丘線]]|}} {{BS3||BHF|O2=HUBaq|uKBHFaq|O3=HUBeq|43.2|KS33[[ユーカリが丘駅]]||}} {{BS|BHF|45.7|KS34 [[京成臼井駅]]||}} {{BS|eHST|49.5|''[[鹿島川専用乗継場]]''|<ref group="図">1959年10月18日開業、同月21日廃止</ref>|}} {{BS|BHF|51.0|KS35 [[京成佐倉駅]]||}} {{BS|BHF|53.0|KS36 [[大佐倉駅]]||}} {{BS|BHF|55.0|KS37 [[京成酒々井駅]]||}} {{BS3|KDSTa|STR|||[[京成電鉄の車両検修施設|宗吾車両基地]]||}} {{BS3|STRl|ABZg+r|||||}} {{BS|BHF|57.0|KS38 [[宗吾参道駅]]||}} {{BS|TUNNEL2||宗吾トンネル||}} {{BS|BHF|58.6|KS39 [[公津の杜駅]]||}} {{BS3|STRc2|STR3|||||}} {{BS3|STR+1|uexSTR+1|O2=STRc4||||''[[成宗電気軌道]]''|}} {{BS5||KRZu|uxmKRZu|STRq|STR+r|||[[成田線]]([[佐倉駅|佐倉]]方面)|}} {{BS5||eHST|uexSTR||STR|60.8|''成田花咲町駅''|-1930|}} {{BS5||BHF|O2=HUBaq|uexBHF|O3=HUBq||O4=HUBq|STR|O5=HUBlg|61.2|KS40 [[京成成田駅]]||}} {{BS5||STR|uexHST||STR|O5=HUB|||''本社前駅''|}} {{BS5||STR|uexABZgl|uexKHSTeq|BHF|O5=HUBe|||[[成田駅]]|}} {{BS5||STR|uexSTR||ABZgl|||成田線([[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]方面)|}} {{BS5||STR|uexKHSTe||STR|||''不動尊駅''|}} {{BS5||SKRZ-Au|||STR|||[[東関東自動車道]]|}} {{BS5||exSTRq|O2=TUNNEL1|exSTRq|exSTRq|eABZgr|||''成田鉄道[[成田鉄道多古線|多古線]]''|}} {{BS5||STR2|STRc3||ABZgl|||成田線([[松岸駅|松岸]]方面)|}} {{BS5||STRc1|STR+4|STR+l|KRZu|||{{rint|tokyo|sa}} [[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]<ref group="直通先" name="chokutsu" />|}} {{BS5|||STR|SKRZ-Au|SKRZ-Au|||東関東自動車道|}} {{BS5|||DST|STR|STR|67.2|[[駒井野信号場]]||}} {{BS5||tSTRc2|ABZgt3a|STR|STR||||}} {{BS5||tSTR+1|O2=POINTERf@gq|tSTRc4|O3=tSTRa|tSTRa|tSTRa|||{{rint|tokyo|ks}} [[京成東成田線|東成田線]]|}} {{BS5||tSTR|tSTR|O3=tSTRc2|tSTRc2|O4=tSTR3|tSTR3||||}} {{BS5||tSTR|tABZg+1|tSTRc4|O4=tSTR+1|tSTRc4|||[[成田国際空港]]|}} {{BS5||tSTR|tBHF|tBHF|FLUG|68.3|KS41 [[空港第2ビル駅]]||}} {{BS3|tHST|tSTR|tSTR|||KS44 [[東成田駅]]|}} {{BS3|tSTRl|O1=POINTERf@gq|tKRZt|tKRZt|||{{rint|tokyo|sr}} [[芝山鉄道線]]<ref group="直通先" name="chokutsu" />|}} {{BS5|||tKBHFe|tKBHFe|FLUG|69.3|KS42 [[成田空港駅]]||}} {{BS-colspan}} ---- {{Reflist|group="直通先"}} {{BS|KHSTa|||KK72 [[三崎口駅]]|}} {{BS3|KHSTa|STR||||KK64 [[浦賀駅]]|}} {{BS3|STR|O1=POINTERg@fq|STR||||{{rint|tokyo|kk}} 京急[[京急本線|本線]]|}} {{BS3|ABZg+l|STRr|O2=POINTERg@f||||{{rint|tokyo|kk}} [[京浜急行電鉄|京急]][[京急久里浜線|久里浜線]]|}} {{BS3|HST|||||KK61 [[堀ノ内駅]]|}} {{BS5|KHSTa|STR||||||KK53 [[逗子・葉山駅]]|}} {{BS5|STRl|O1=POINTERg@f|ABZg+r||||||{{rint|tokyo|kk}} 京急[[京急逗子線|逗子線]]|}} {{BS3|HST|||||KK49 [[金沢文庫駅]]|}} {{BS3|STR||||||}} {{BS5|FLUG|STR|||||||}} {{BS5|KHSTa|STR||||||KK17 [[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]|}} {{BS5|STRl|O1=POINTERg@f|ABZg+r||||||{{rint|tokyo|kk}} 京急[[京急空港線|空港線]]|}} {{BS3|HST|||||KK11 [[京急蒲田駅]]|}} {{BS3|STR|KHSTa||||A-01[[西馬込駅]]|}} {{BS3|STR|STR|O2=POINTERg@fq||||[[都営地下鉄|都営]] {{rint|tokyo|a}} [[都営地下鉄浅草線|浅草線]]|}} {{BS3|HST|STR||||KK01 [[品川駅]]|}} {{BS3|STRl|O1=POINTERg@f|ABZg+r||||{{rint|tokyo|kk}} 京急本線|}} {{BS|HST|||A-07 [[泉岳寺駅]]|}} {{BS|STR|||都営 {{rint|tokyo|a}} 浅草線|}} {{BS|HST||KS45 A-20 '''押上駅'''||}} {{BS3||STRl|O2=POINTERg@f|ABZg+r|||{{rint|tokyo|ks}} 京成押上線|}} {{BS3|||BHF||KS09 '''青砥駅'''||}} {{BS3|||STR||||}} {{BS3|||BHF||KS10 '''京成高砂駅'''||}} {{BS5||||ABZgl|STR+r|O5=POINTERf@g|||北総鉄道 {{rint|tokyo|hs}} 北総線|}} {{BS5||||STR|HST||||}} {{BS5||||STR|STR|O5=POINTERg@fq|||{{rint|tokyo|sa}} 成田スカイアクセス線|}} {{BS5||||BHF|STR||KS26 '''京成津田沼駅'''||}} {{BS5|||STR+l|O3=POINTERf@g|ABZgr|STR|||{{rint|tokyo|ks}} 千葉線|}} {{BS5|||HST|STR|STR|||KS60 千葉中央駅|}} {{BS5|||STR|O3=POINTERg@fq|STR|STR|||{{rint|tokyo|ks}} [[京成千原線|千原線]]|}} {{BS5|||KHSTe|STR|STR|||KS65 [[ちはら台駅]]|}} {{BS5||||BHF|STR||'''京成成田駅'''||}} {{BS5|||STR+l|O3=POINTERf@g|ABZgr|STR|||{{rint|tokyo|ks}} 東成田線|}} {{BS5|||STR|ABZg+l|STRr|O5=POINTERg@f|||{{rint|tokyo|sa}} 成田スカイアクセス線|}} {{BS3||STR|BHF||KS41 '''空港第2ビル駅'''||}} {{BS3||HST|STR|||KS44 東成田駅|}} {{BS3||STR|KBHFe||KS42 '''成田空港駅'''||}} {{BS|STR|O1=POINTERg@fq|||[[芝山鉄道]] {{rint|tokyo|sr}} [[芝山鉄道線]]|}} {{BS|KHSTe|||SR01 [[芝山千代田駅]]|}} {{BS-colspan}} ---- {{Reflist|group="接続"}} {{BS3||tSTR+l|tSTRq||||}} {{BS|tKBHFe||KS01 '''京成上野駅'''||}} {{BS3|tSTRq|tSTR+r|||||}} {{BS3|STRq|tKRZ|BHFq|||[[山手線]]|}} {{BS3|STRq|tKRZ|BHFq|||[[京浜東北線]]|}} {{BS3|ABZq+r|tKRZ|BHFq|||[[宇都宮線]]・[[高崎線]]→|}} {{BS3|STRl|tKRZ|BHFq|||[[常磐快速線|常磐線(快速)]]→|}} {{BS|tSTR|||←[[上野東京ライン]]|}} {{BS3|tSTRq|tKRZt|tBHFq|||[[東北新幹線|東北]]・[[上越新幹線|上越]]・[[北陸新幹線|北陸]]|}} {{BS|tSTR|||・[[山形新幹線|山形]]・[[秋田新幹線]]|}} {{BS|tBHF|||[[東京地下鉄]] {{rint|tokyo|g}} [[東京メトロ銀座線|銀座線]]|}} {{BS3|tBHFq|tKRZt|tSTRq|||東京地下鉄 {{rint|tokyo|h}} [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]|}} {{BS-colspan}} |bottom = ---- {{Reflist|group="図"}} }} '''本線'''(ほんせん)は、[[東京都]][[台東区]]の[[京成上野駅]]から[[千葉県]][[船橋市]]の[[京成船橋駅]]を経て同県[[成田市]]の[[成田空港駅]]までを結ぶ[[京成電鉄]]の[[鉄道路線]]である。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KS'''。 [[駒井野信号場]] - 成田空港駅間(2.1 km)は[[成田空港高速鉄道]]が[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]として線路を保有し、京成電鉄は[[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]]として旅客運送を行っている。 == 概要 == [[東京都区部|東京都23区]]から東方の[[千葉県]][[船橋市]]・[[佐倉市]]・成田市方面を結ぶ京成電鉄の基幹路線で、[[関東地方]]の主要幹線の一つ。東京通勤輸送のほか、京成電鉄草創期からの目的地であり、毎年[[初詣]]で300万人近い人出がある[[成田山新勝寺]]への参詣客輸送も特徴として挙げられる。[[成田国際空港]]輸送については、その主たる需要の受け皿を[[京成成田空港線|成田空港線]](成田スカイアクセス線)に移行させつつも、多様なニーズに応える選択肢の一つとしてその役割を担っている。 [[京成押上線|押上線]]を介して[[東京国際空港|羽田空港]]方面([[都営地下鉄浅草線]]・[[京急本線|京浜急行電鉄本線]]・[[京急空港線|空港線]])と、[[京成東成田線|東成田線]]を介して[[芝山鉄道線]]とそれぞれ[[直通運転|相互直通運転]]を行い、また[[北総鉄道北総線]]と直通する列車がある。 成田スカイアクセス線開業後は、京成線内でも社名を冠した「'''京成本線'''({{Lang-en-short|Keisei Main Line}})」の名で案内される(路線図<ref>[http://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/railmap/railmap.pdf 京成電鉄路線図]</ref>・駅の標識<ref>[http://atsu-shi.img.jugem.jp/20100828_1132179.jpg 成田空港駅] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150601153626/http://atsu-shi.img.jugem.jp/20100828_1132179.jpg|date=2015-06-01}}</ref>・車体表示)。路線識別色は[[青]]系。 一部の地図などでは「京成成田線」と表記されたり、京成上野 - 青砥間が「上野線」、京成成田 - 成田空港間が「空港線」<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』1970年8月号</ref><ref group="注">成田空港線とは異なる。</ref>と呼ばれる場合があるが、いずれも通称であり正式名称ではない。分岐点の信号機の進路識別標識には線名(本線)ではなく方面・方面略称('''成田'''、'''成'''等)が記載され、[[指差喚呼]]の際は「上野線」「成田線」などと呼ばれる。 [[File:Narita Airport Station-Keisei-Intermediate-wicket-20100719.jpg|250px|thumb|none|路線の識別色は青系]] === 路線データ === * 管轄・路線距離(営業キロ):全長69.3&nbsp;km ** 京成電鉄([[鉄道事業者#第一種鉄道事業|第一種鉄道事業者]]): *** 京成上野 - [[駒井野信号場]]間 67.2&nbsp;km ** 京成電鉄([[鉄道事業者#第二種鉄道事業|第二種鉄道事業者]])・成田空港高速鉄道([[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]): *** 駒井野信号場 - 成田空港間 2.1&nbsp;km ** 京成成田 - 駒井野信号場間 6.0&nbsp;kmは[[京成東成田線|東成田線]]、空港第2ビル - 成田空港間 1.0&nbsp;kmは[[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]との重複区間。 * [[軌間]]:1435&nbsp;mm * 駅数:42駅(起終点駅含む) * [[単線]]区間:空港第2ビル - 成田空港間 1.0&nbsp;km * [[複線]]区間:京成上野 - 青砥間、京成高砂 - 空港第2ビル間 67.1&nbsp;km * [[複々線]]区間:青砥 - 京成高砂間 1.2&nbsp;km * [[鉄道の電化|電化]]区間:全線電化([[直流電化|直流]]1500&nbsp;V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * [[車両基地]]所在駅:[[京成高砂駅]]・[[京成津田沼駅]]・[[宗吾参道駅]] * 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]] * 最高速度:110&nbsp;km/h<ref name="kiseki" /> <!--スカイライナーが160km/h出す区間は京成本線にはない--> == 運行形態 == 京成船橋駅 - 京成成田駅間においては、[[千葉駅]]を経由する形のJR東日本[[総武本線]]・[[成田線]]の船橋駅 - 成田駅間と比較して短絡ルートとなっており、線形に優れ、所要時間も短いが、[[京成成田駅]]あるいは[[成田駅]]、あるいはそれより遠いJR駅を乗降駅とする場合の所要時間はほぼ同じとなっており<ref group="注">参考に有料列車以外の最速達列車を利用した場合の所要時間を記す。 ; 成田空港駅 - 成田駅 : JR線11分、京成線9分 ; 成田駅 - 船橋駅 : JR線46分、京成線34分 ; 勝田台駅 - 西船橋駅・京成西船駅 : 東葉高速線21分、京成線22分 ; 船橋駅 - 本八幡駅・京成八幡駅 : JR線8分、京成線6分 ; 船橋駅 - 日暮里駅 : JR線39分、京成線24分</ref>、JR東日本の乗降駅によっては、JR東日本の通し運賃の方が安くなることもある<ref group="注">例 [[新橋駅]] - [[船橋駅]] - 京成成田駅あるいは成田駅の定期乗車券の場合、JR単独の方が安い。</ref>。 [[東京メトロ東西線]]に直通する[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]とも[[勝田台駅]]([[東葉勝田台駅]])- [[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]][[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]](押上線を経由して直通)間で競合しており、こちらにも運賃では勝るものの所要時間などで劣っている。そのため勝田台駅で乗降し東葉高速線を利用する乗客なども多い。2008年度における勝田台駅の1日の平均乗降客数は日暮里駅についで5位となっている。 都営浅草線直通は近年では1998年の[[京急空港線]]羽田空港駅(現:[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])開業以降、京急線発着の列車が主流となり、浅草線の終着駅である[[西馬込駅]]発着の列車はラッシュ時以外は大幅に減少していたが、成田スカイアクセス線開業後のダイヤでは日中の西馬込発着列車が増発された。 快速特急・特急・通勤特急の全列車と快速の大半は利用率が比較的高いために、8両編成で運転される。普通列車は、ホーム有効長が6両分しかない駅(本線は[[京成中山駅]]と[[海神駅]]の2駅のみ)があるため、京成上野駅 - 京成高砂駅間と宗吾参道駅 - 成田空港駅間(・東成田方面芝山鉄道線芝山千代田駅間を含めて)は一部が8両編成だが、それをのぞき全列車が6両編成で運転される。かつては4両編成での運用が存在したが、4両編成の[[京成3300形電車|3300形]]・[[京成3500形電車|3500形]]の廃止減少、6両編成の[[京成3000形電車 (2代)|3000形]]の増備および輸送力の増強により、本線上での営業運用は消滅した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20181101_180649947093.pdf|title=2018年12月8日(土) 京成線ダイヤ改正を実施します|accessdate=2023-01-18}}</ref>。 2010年7月17日以降は京成高砂駅 - 空港第2ビル駅間の経路が成田スカイアクセス線経由と本線経由の2系統となったため「成田スカイアクセス線・北総線経由」「京成本線・船橋経由」という案内でルートの区別を図っている。 現在、日中のダイヤは成田スカイアクセス線経由の「スカイライナー」が60分サイクル、一般列車が40分サイクルとなっていて、両者を組み合わせたダイヤパターンで運行されている。 === 運行本数 === [[2022年]](令和4年)[[11月26日]]現在のダイヤにおける日中'''40分'''あたりの運行本数は以下のとおり。なお、空港第2ビル - 成田空港間の[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]と青砥 - 京成高砂間の[[京成押上線|押上線]]からの直通列車は営業上京成本線と分離されているが、線路を共用しているのでまとめて記す。 {| class="wikitable" style="font-size:90%" |+日中の運行パターン |- ! colspan="2" |種別\駅名 ! {{縦書き|京成上野}} ! … ! {{縦書き|青砥}} ! {{縦書き|京成高砂}} ! … ! {{縦書き|京成津田沼}} !… ! {{縦書き|京成臼井}} ! {{縦書き|京成佐倉}} !… ! {{縦書き|京成成田}} ! {{縦書き|空港第2ビル}} ! {{縦書き|成田空港}} !運行本数 |- style="text-align:center;" ! rowspan="9" style="width:1em;" |運行範囲 | style="background:#abf;" |スカイライナー | colspan="4" style="background:#abf;" | | rowspan="2" colspan="7" |(成田スカイアクセス線経由) | colspan="2" style="background:#abf;" | |2本 |- style="text-align:center;" | style="background:#fdb;" |アクセス特急 | colspan="2" style="text-align:right;" |[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]] <ref group="*">浅草線内・京急線内エアポート快特</ref>← | colspan="2" style="background:#fdb;" | | colspan="2" style="background:#fdb;" | | 1本 |- style="text-align:center;" | style="background-color:#9db;" |快速特急 | colspan="11" style="background-color:#9db;" | | colspan="2" style="text-align:left;" | | 1本 |- style="text-align:center;" | style="background-color:#e64;" |特急 | colspan="2" style="text-align:right;" |[[横浜駅|横浜]]方面 <ref name="浅草線" group="*">浅草線内普通・京急線内特急</ref>← | colspan="2" style="background-color:#e64;" | | colspan="9" style="text-align:left;" | | 1本 |- style="text-align:center;" | rowspan="2" style="background:#fdf;" |快速 | colspan="9" style="background:#fdf;" | | colspan="4" | | 1本 |- style="text-align:center;" | colspan="2" style="text-align:right;" |[[西馬込駅|西馬込]]← | colspan="11" style="background:#fdf;" | | 2本 |- style="text-align:center;" | rowspan="3" style="background:#ddd;" |普通 | colspan="8" style="background:#ddd;" | | colspan="5" | | 1本 |- style="text-align:center;" |colspan="6" style="background:#ddd;" | | colspan="7" | | 3本 |- style="text-align:center;" | colspan="2" style="text-align:right;" |羽田空港 <ref name="浅草線" group="*"/>← | colspan="2" style="background:#ddd;" | | colspan="9" style="text-align:left;" |→[[北総鉄道北総線|北総線]]直通 | 2本 |} {{Reflist|group="*"}} === 有料列車 === {{Main|スカイライナー}} 座席指定で運賃のほかに料金が必要な列車が下記のとおり運行されている。これらはそれぞれ独立した[[列車種別]]となっている。これらの列車の緩急行選別装置の番号対照表の番号は「8」で「その他」と表記されている。 ;成田スカイアクセス系統 :*'''[[スカイライナー]]''' - 東京都心部と成田空港を結ぶ列車として京成上野駅 - 成田空港駅間で運行。京成上野駅 - 京成高砂駅間は本線(当線)、京成高砂駅 - 成田空港駅間は成田スカイアクセス線経由で運行される。 ;本線系統 :*'''[[スカイライナー#モーニングライナー・イブニングライナー|モーニングライナー・イブニングライナー]]''' - [[ホームライナー]]のような役割を果たす列車。「モーニングライナー」は朝上りに、「イブニングライナー」は夕方下りに、それぞれ運行される。運行区間はいずれも全区間本線経由で京成上野駅 - 京成成田駅・成田空港駅間。 :*'''[[スカイライナー#シティライナー(臨時運行)|シティライナー]]''' - [[成田山新勝寺|成田山]]初詣客などのための臨時列車。全区間本線経由で京成上野駅 - 京成成田駅間を運行。 === 一般列車 === 以下は運賃以外の料金が不要な列車である。また、ここでは本線青砥駅以西(日暮里・京成上野方面)あるいは京成高砂駅以南(京成津田沼方面)のどちらも経由しない列車(押上線 - 北総線・成田空港線(成田スカイアクセス線)、押上線 - 京成高砂駅発着)については記載しない。それらについては「[[京成押上線]]」「[[北総鉄道北総線]]」「[[京成成田空港線]]」の各記事を参照。 ==== 快速特急 ==== {{See also|快速特急}} 一般車両による最上位速達列車である。[[2006年]][[12月10日]]のダイヤ改正で、日中の特急の京成佐倉駅以東を各駅停車化するにあたり、従前の停車駅で運行する列車を改称する形で設定された<ref name = 2006-12>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20061208024317if_/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/18-047.pdf 12月10日 京成線ダイヤ改正実施 ]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2006年時点の版)</ref>。当初、朝方は上り方面、夕方・夜間は下り方面への運行であったが、2019年10月26日のダイヤ改正からは日中も運行されている。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 ; 京成上野駅発着 : 日中、40分間隔で京成成田駅との間で運転され、青砥駅でアクセス特急に接続する。夕方以降、下り電車は平日には設定されず、土休日のみ京成成田行きに加えて成田空港行きや芝山千代田行きが運転される。なお、朝ラッシュ時には上り・下りともに運転されない(上り電車は全て押上線方面への運用となる)。 ; 押上線直通 : 上りは、平日・土休日とも朝時間帯に西馬込行き・羽田空港行きが京成成田発(一部京成佐倉駅・成田空港駅・芝山千代田駅発)、下りは平日夕ラッシュ時に京成成田行き・成田空港行き・芝山千代田行きが運転される。 2002年10月14日より2014年11月7日までの平日には[[三崎口駅|三崎口]]発京成成田(運転開始当初は成田空港)行き(京急線内特急)という、3社間で最長距離の列車が都営車で1本運転されていた。なお、2010年7月11日までには土休日のみ朝方に成田空港行き(通常とは逆方向に運行される列車)が1本あったが、この列車は羽田空港駅(現在の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])始発であり、京急線・都営浅草線を含めて全区間で種別が快特(エアポート快特を含む)であり、なおかつ両空港を乗り換えなしで結んでいる数少ない列車であった。また土休日夕方にも成田空港駅 - 羽田空港駅間の列車が存在した(京成線内は快速特急、都営線内・京急線内はエアポート快特となる列車もあった)。 原則として京成車が主体の運用だが、都営線直通列車はラッシュ時を中心に都営車が入ることがある。また上記の京急線京急蒲田駅より南を始発とする列車は、原則都営車での運用となっていた。 当初は[[京浜急行電鉄]]にあわせて種別を「快特」と定めたが、読みが「かい'''と'''く」であるため、後述の「[[#快速|快速]]」(かい'''そ'''く)との区別がつきにくく、誤乗防止のため、[[2007年]][[8月16日]]より、駅構内および車内のアナウンスが「快速特急」に変更された。[[2010年]][[7月17日]]のダイヤ改正よりすべての案内上の名称が「快速特急」に改められ、現在は駅の発車案内や車両の方向幕の表示もごく一部([[押上駅]]1・2番線)をのぞき「快速特急」に統一された。 種別カラーは京急と同様の緑色。ただし、フルカラー[[発光ダイオード|LED]]の[[発車標|発車案内板]]が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「7」で、こちらは引き続き「快特」と表記されている。 <gallery widths="150px"> ファイル:Keisei3700 Limited Express.jpg|快速特急成田空港行<br />(3700形) ファイル:5300narita1.jpg|快速特急京成成田行。<br />都営5300形の種別表示は京成線内でも'''快特'''のまま。 </gallery> ==== アクセス特急 ==== {{See also|京成成田空港線#アクセス特急}} 2010年7月17日に開業した成田空港線(成田スカイアクセス線)経由の一般車両による最上位速達列車(快速特急と経路は違うが同等)である<ref name = 2010-7>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20131109110321fw_/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/22-017.pdf 成田スカイアクセス開業!! 7月17日(土)京成線ダイヤ改正 ]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2013年時点の版)</ref>。日中は押上線方面との直通列車のみ運行されるが、日中以外の時間帯に京成上野駅発着での設定がある(ただし、2022年2月26日ダイヤ改正以降、上りは平日3本・土休日1本のみ、下りは平日2本のみ。このほか平日の下り列車で京成上野駅から普通京成高砂行きとして運転し、京成高砂駅で行先・種別を変更してアクセス特急成田空港行きとなる列車が2本設定されている)。 京成・京急・都営車による運用で、通常京成車の運用には[[京成3100形電車 (2代)|3100形]]が優先的に使用される。[[京成3000形電車 (2代)#7次車(3050形)|3050形]]は新造時は全車がアクセス線使用を前提とした独自の外観デザインをもっていたが、2019年に本線経由との誤乗防止を図る目的で3100形と類似したデザインへの変更が行われた。しかしながら、3050形は、通常の京成色に変更されたため、アクセス特急での運用は通常時はない。また、京成上野発着の列車は京成車に限定される。 種別カラーは、それまで「通勤特急」が使用していたオレンジ色が使用されている。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。フルカラーLED装備の京成車は本線特急と区別するため、行先と交互に経由路線を表示する。 <gallery widths="150px"> ファイル:Keisei3050-Access4.jpg|成田空港行<br />アクセス特急(京成車)(現在は飛行機マークの表示はない) ファイル:Keikyu600 Access express.JPG|[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]行<br />アクセス特急(京急車)(現在は飛行機マークの表示はない) ファイル:Keisei3050-Airport-Ltd-Exp1.JPG|[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]経由<br />[[エアポート快特]]<br />(経由路線表示) </gallery> ==== 特急 ==== 一般車両による速達列車で、日中における京成上野駅 - 成田空港駅間を本線経由で結ぶ唯一の列車である。スカイライナーとの区別のため、一部構内放送や車内放送では「普通特急」と呼ばれる場合がある。1991年3月19日のダイヤ改正による停車駅変更に伴い2代目通勤特急と本線において停車駅が全く同じになったため種別順位では2006年12月のダイヤ改正で「快速特急」が登場するまでは最上位速達列車であった。京成上野駅 - 成田空港駅間の所要時間は最速71分(1時間11分)で、日中は約40分間隔で運転されていたが、2022年2月改正で日中時間帯の運行がなくなった。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 ; 京成上野駅発着 : 下りは京成上野駅発9時台までと平日は15時以降夕ラッシュ前までの時間帯と土休日は夜間に2本、上りは成田空港駅発朝ラッシュ後10時半までと平日は16時以降、土休日は18時以降の時間帯を中心に運転。基本的に京成上野駅 - 成田空港駅間で運転されるが、一部、京成成田駅発着や芝山千代田駅行きの列車もある。 ; 押上線直通 : いずれも平日のみの運転で、下りは夕ラッシュ時に西馬込駅発・羽田空港駅発で京成成田駅行き・成田空港駅行き・芝山千代田駅行きが、上りは成田空港駅発で西馬込駅行き・羽田空港行きが各1本のみ運転される。 京成上野駅 - 京成佐倉駅間では快特と同じ停車駅で、2006年12月10日のダイヤ改正で特急停車駅に[[大佐倉駅]]・[[京成酒々井駅]]・[[宗吾参道駅]]・[[公津の杜]]駅が加わって京成佐倉駅 - 成田空港駅間の各駅に停車するようになった<ref name = 2006-12/>。所要時間はダイヤ改正前の京成成田駅における3 - 4分の停車時間を短縮したため所要時間は従前と同等となっている。京成佐倉駅 - 成田空港駅間の各駅停車化はこの改正で日中の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]発の快速([[2010年]][[7月17日]]改正より西馬込駅発着)が京成佐倉行きとなったためで、乗り入れる種別が特急しかなくなった京成佐倉駅 - 成田空港駅間の日中において、特急が各駅停車の役割も担うこととなった。 2006年12月9日までは日中時間帯に半数近くが[[京成高砂駅]]でスカイライナーの通過待ちをしていたが、翌10日より日中の通過待ちがなくなった。2010年5月16日より、日中の上野方面は[[宗吾参道駅]]でスカイライナーの通過待ちを行っていた。同年7月17日のダイヤ改正よりスカイライナーが成田スカイアクセス線経由となり、それ以降は上下列車とも3本中1本が[[八千代台駅]]でシティライナーの通過待ちを行っていた。なお、過去(成田スカイアクセス線開通以前)には朝夕ラッシュ時に京成高砂駅・[[京成津田沼駅]]・八千代台駅・[[京成佐倉駅]]・宗吾参道駅・[[京成成田駅]]のいずれかの駅でスカイライナーの通過待ちを行っていた。 [[都営地下鉄浅草線|都営地下鉄1号線(現:浅草線)]]を介して[[京急本線|京急線]]に乗り入れを開始する[[1968年]]より従前の急行を格上げする形で運行を開始した。なお、これ以前は座席指定制の[[スカイライナー|「開運」号]]が唯一の特急列車であった(不定期をのぞく)。 種別カラーは赤色(各社局共通)。 * 停車駅の変遷(京成上野駅 - 京成成田駅間のみ掲載) ** [[1968年]][[10月10日]](特急の運行開始時) *** 京成上野駅 - 日暮里駅 - 青砥駅 - 京成高砂駅 - 京成八幡駅 - 東中山駅 - 京成船橋駅 - 谷津遊園駅(現・谷津駅) - 京成津田沼駅 - 八千代台駅 - 京成佐倉駅 - 京成成田駅 *** 従前の急行を改称する形で設定。同時に京成八幡駅が停車駅に加えられ、初代急行が停車していた町屋駅・堀切菖蒲園駅は通過とされた(従前の準急を改称して同時に設定された2代目急行は停車)。 ** [[1974年]][[12月16日]] - 京成小岩駅と勝田台駅が停車駅に加えられる。 ** [[1985年]][[10月19日]] - 谷津駅が通過駅となる。 ** [[1991年]][[3月19日]] - 京成小岩駅と東中山駅が通過駅となる *** 但し、東中山駅は[[中山競馬場]]での[[中央競馬]]開催日(中でも特に混雑する[[競馬の競走格付け|GI]][[重賞]]競走<ref group="注">中山競馬場でのGI開催は、[[皐月賞]]・[[スプリンターズステークス]]・[[有馬記念]]と、2017年にGIIから昇格した[[ホープフルステークス (中央競馬)|ホープフルステークス]]の4つ。</ref>開催日)に限り、一部臨時停車する。 ** [[2006年]][[12月10日]] - 大佐倉駅 - 公津の杜駅の各駅が停車駅に加えられる<ref name = 2006-12/>。 上記のアクセス特急・特急の緩急行選別装置の番号対照表の番号は「6」で、「特急」と表記されている。 <gallery widths="150px"> ファイル:AotoSetsuzoku.JPG|青砥駅での接続<br />右:京成本線 特急 [[京成上野駅|上野]]行<br />左:[[京成押上線|押上線]] [[快速特急]] [[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]行 ファイル:Keisei 3000 Main Line Ltd Exp.JPG|'''京成本線'''経由<br />特急(経由路線表示) </gallery> ==== 通勤特急 ==== [[2002年]][[10月12日]]のダイヤ改正で再設定された列車種別である(3代目、[[#通勤特急|後述]])。京成上野駅・青砥駅 - 勝田台駅間の停車駅は快速特急・特急と同じで、勝田台駅 - 成田空港駅間は各駅に停車する。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 ===== 京成上野行き ===== 平日上りのみ運転。平日の朝ラッシュ時に京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅発で運転される。 ===== 京成押上線直通 ===== いずれも平日のみの運転で、下りは夕ラッシュ時に羽田空港第1・第2ターミナル発で成田空港行きが、上りは朝に京成成田発で西馬込行きが1本のみ運転される。 [[2011年]][[12月22日]]までの平日朝の下りでは京成上野発成田空港行き1本が運行されていた。 種別カラーは空色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板が導入されていない駅などにおいては赤色で表示する場合もある。成田スカイアクセス線開業以前はオレンジ色だった。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「5」である。 京成成田および芝山千代田始発の「通勤特急」京成上野行き(8両編成)4本に対して、平日朝ラッシュ時の時間帯に[[女性専用車両|女性専用車]]が設定されている。設定位置は進行方向最後尾車両(8両目)で、設定区間は芝山鉄道線区間を含めた京成上野駅までの全区間。設定対象列車の最後尾車両には「女性専用車」案内シールが貼付される。成田空港始発の列車には設定されていない。 ==== 快速 ==== {{See also|京成押上線#快速}} [[2002年]][[10月12日]]のダイヤ改正で運行を開始した、主に都営浅草線直通を担う準速達列車である。この快速は通勤特急と同じく3代目にあたる。 それ以前に運行されていた[[#急行|急行]]よりも停車駅が少ない。本線では、急行がかつて停車していた町屋駅・千住大橋駅(2010年のダイヤ改正で千住大橋駅が停車駅となった)・堀切菖蒲園駅・国府台駅・市川真間駅・谷津駅は通過とした。これにより京成上野駅 - 京成津田沼駅間では特急などとの停車駅の違いは京成小岩駅・東中山駅・船橋競馬場駅だけになり、ほぼ特急などと同等の所要時間となった。上位速達列車の追い抜きも京成上野駅 - 京成津田沼駅間ではほとんど見られなくなった。京成津田沼駅 - 成田空港駅間は各駅に停車する。登場当初は押上線・都営浅草線を介しての[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]方面への直通(京急線内は快特運転)に充てられ、都営車と京成車が主体の運用で、わずかにかつての羽田空港駅 - 成田空港駅間の直通特急であった[[エアポート快特|エアポート特急]]の名残で京急車による運用も存在する。京成上野・押上方面と京成佐倉・京成成田・成田空港方面を結ぶ列車の一部は、京成高砂駅まで京成高砂行きとして運転し、京成高砂を境に都心方面を普通、成田方面を快速として行先・種別の変更を行う。 現行ダイヤでは以下の運行パターンがある。 ; 京成上野駅発着 : 日中、京成上野駅 - 京成佐倉駅間で40分間隔で運転。青砥駅で横浜方面快特(京成線内快速特急)と接続する。日中以外は宗吾参道駅、京成成田駅、成田空港駅、芝山千代田駅との間で少数運転される他、京成上野駅 - 京成高砂駅間のみの短区間運行となる列車もある。また、京成高砂駅以南のみ運行となる列車も存在する。 ; 京成押上線直通 : 日中、西馬込駅 - 成田空港駅間で20分間隔で運転。日中以外は京成佐倉駅、宗吾参道駅、京成成田駅、芝山千代田駅との間で少数運転される。一部は京急線へ直通する。 ; 京成高砂駅 - 京成成田駅(発のみ)・成田空港駅 : 平日は上り5本と下り1本、土休日は上り3本で、京成高砂発着の快速も運転されている。 2013年10月26日のダイヤ改正までは、都営浅草線より列車種別が[[エアポート快特]]となる上り(押上・羽田空港行き)列車について、種別幕を「(飛行機マーク)快速」として他の快速とは案内を分けていた<ref>{{PDFlink|[https://web.archive.org/web/20140427235623fw_/http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/130926_04.pdf 10月26日(土)京成線ダイヤ一部変更]}}(京成電鉄ニューリリース・インターネットアーカイブ・2014年時点の版)</ref>。ただし、停車駅や正式な列車種別名は同じ「快速」であり、駅の時刻表では同じピンク色の文字で表記している駅もあった。また、(飛行機マーク)は都営線内での停車駅の差異を案内するためのものであるため、下り成田空港行きの列車に使用されることはなかった。 2006年12月10日のダイヤ改正からは、日中のみ羽田空港駅 - 京成佐倉駅間での運転となり、京成佐倉駅到着後、反対側の番線に成田空港駅発着の特急列車に連絡するダイヤになった。そのため、一部の京成佐倉行き列車の方向幕には「<small>(成田空港方面)</small>佐倉」と表示されていた。また、平日朝の一部と夜間に京成上野駅 - 京成高砂駅間の区間運転列車が新設された。夜間に運転される京成上野駅 - 京成高砂駅間の区間運転列車は青砥駅で都営浅草線からの列車に接続する。 2010年7月17日のダイヤ改正からは、京成上野駅発着列車が[[千住大橋駅]]に停車し、普通列車との接続が図られている<ref name = 2010-7/>。また、日中の羽田空港駅 - 京成佐倉駅間の快速(京急線内エアポート快特)と西馬込駅 - 京成高砂駅間の普通・急行の種別・行き先が変更され、快速は西馬込駅 - 京成佐倉駅間での運行とし、泉岳寺駅で同駅折り返しの京急線・[[横浜駅|横浜]]方面快特に接続する形態に改められた。またエアポート快速は早朝の宗吾参道発羽田空港行き1本のみ(京急線内エアポート快特)となった<ref>京成時刻表vol.25 97ページ、165ページ</ref>。また、京成線急行の廃止を受け、平日に北総線で運行される急行のほぼ全列車については、京成線内種別が快速となった<ref group="注">その後2012年10月21日改正で全列車が京成線内快速となったが、2015年12月7日のダイヤ改正で北総線直通急行は京成線内普通になった。</ref>。なお、この改正で京急車による運用は平日数本の京成高砂駅 - 都営線間の列車のみとなったが、2015年12月7日ダイヤ改正で平日1本のみ京成佐倉発三崎口行き(京急線内特急)が設定され、2010年7月16日以来の京成高砂以東の定期列車が設定された。このほかにも京成高砂発京成佐倉行きの1本、平日のみ西馬込駅 - 京成佐倉駅間の1往復についても京急車による運用で設定された。京急車におけるこれらの京成高砂以東本線運用はアクセス特急同様に当初は原則として600形と新1000形10次車以降に限定されていたが、ダイヤ乱れ等が発生した場合は1500形・新1000形9次車以前の車両が代走で入線することがあった。現在は京急線限定運用の新1000形1001編成を除き入線している。 2019年10月のダイヤ改正から、日中の列車の半数が成田空港発着に延長された。また、2022年2月のダイヤ改正から日中全ての列車が成田空港発着に統一された。 種別カラーはピンク色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板や行先表示器が導入されていない駅や車両などにおいては赤色・緑色で表示する場合もある。また、エアポート快速はフルカラーLEDの場合緑地に白字で表示される。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「4」である。 <gallery widths="150px"> ファイル:Keisei 3400 Rapid.jpg|快速<br />[[京成佐倉駅|京成佐倉]]行 ファイル:Keisei3500 renewal.JPG|2013年10月までは浅草線内エアポート快特運転の快速は(飛行機マーク)快速と表示されていた ファイル:Keikyu N1000 Series 1033F Rapid Sakura 20190413.jpg|京急などの他社車両による快速 </gallery> ==== 普通 ==== 各駅に停車する。普通列車では京成押上線 - 京成小岩駅以南への直通系統は存在しないため、本節では本線系統のみ記載する。 大多数の列車は京成上野駅 - 京成津田沼駅・[[京成臼井駅]]で運転されるが、日中以外の時間帯は京成成田駅・成田空港駅・芝山千代田駅・千葉中央駅・ちはら台駅発着でも運転される。出入庫時は京成高砂駅・宗吾参道駅発着で運転されるほか、ごく一部京成大和田駅・京成佐倉駅発着の列車も存在する。平日の下りに1本、京成上野駅 - 京成高砂駅間で普通京成高砂行きとして運転し、京成高砂で行先・種別を変更して、成田スカイアクセス線経由アクセス特急成田空港行きとして運転する列車が設定されている。 基本的に6両編成で運転される。これは京成高砂駅 - 京成津田沼駅間の快速通過駅の[[京成中山駅]]と[[海神駅]]のホーム[[有効長]]が6両以下のためである。同区間を含まない普通列車は8両で運転されるケースも多い。たとえば、京成上野駅 - 京成高砂駅間・宗吾参道駅 - 成田空港駅・芝山千代田駅間の一部の普通では8両の車両を出入庫など間合い運用で運転している。 2007年12月2日のダイヤ改正から土休日昼間の京成上野駅 - 京成津田沼駅間の普通が6両編成化された。臨時列車として[[佐倉ふるさと広場]]で佐倉・印旛沼国際花火大会(現・佐倉市民花火大会)が行われる時には京成臼井発[[八千代台駅|八千代台]]行き(過去には京成津田沼行きも)普通が8両編成で走る。近年は停車が4両編成に限定されていた[[博物館動物園駅]]が廃止されたことや6両編成の[[京成3000形電車 (2代)|3000形]]の増備、4両編成の[[京成3500形電車|3500形]]・[[京成3300形電車|3300形]]の営業運転終了、4両編成で運行される[[京成金町線|金町線]]直通列車の廃止などにより、6両編成の列車が増加傾向にある。 4両編成運転については、2018年12月のダイヤ改正で宗吾参道駅 - 芝山千代田駅間のみに限定され、京成上野駅発着では4両編成の定期列車が消滅、京成高砂駅 - 宗吾参道駅間については、金町線運用絡みの回送で走行する以外は定期列車に充当されなくなった。 なお、[[行商専用列車]]が1982年2月に廃止後、朝の上り列車に成田寄り1両を指定して行商専用車が設定され、末期には京成上野行き普通1本に残存していたが2013年3月29日をもって廃止された。 快速が京成佐倉駅発着になった2007年以降の正月期間や1月上旬には日中を中心に一部の京成臼井行き列車が京成成田行きとして延長運転される。 種別表示や肉声放送・車内自動放送は「普通」であるが、駅の接近自動放送では基本的に「各駅停車」と案内する。種別カラーは黒色。ただし、フルカラーLEDの発車案内板や行先表示器が導入されていない駅や車両などにおいてはオレンジ色で表示する場合もある。緩急行選別装置の番号対照表の番号は「1」である。 <gallery> ファイル:Keisei electric railway 3324F 20090914.jpg|本線系統の4両編成の普通(宗吾参道以西は2018年12月以降廃止) ファイル:Keisei-Type3600-3688F.jpg|ホーム有効長の関係で6両編成で運行される普通 ファイル:Keisei 3400 series at Nippori Station 2019-05-06 (48606847868).jpg|日暮里駅付近を走行する[[京成3400形電車|3400形]]8両編成による普通。京成上野駅 - 京成高砂駅間・宗吾参道駅 - 成田空港駅間・京成成田駅 - 芝山千代田駅間では、ごく一部のみだが8両編成の普通も存在する。 </gallery> === 過去の列車種別 === ==== 急行 ==== [[2002年]][[10月12日]]のダイヤ改正の前までは、京成本線・押上線で急行が運転されていた。停車駅は現在の快速の停車駅に[[町屋駅|町屋]]・[[千住大橋駅|千住大橋]](2010年7月17日からは快速停車)・[[堀切菖蒲園駅|堀切菖蒲園]]・[[国府台駅|国府台]]・[[市川真間駅|市川真間]]・[[谷津駅|谷津]]を加えたものであった。朝晩は主に上野直通、日中は主に押上線方面直通であり、下り列車で成田空港に乗り入れる列車は少なく、主に[[京成成田駅|京成成田]]・[[東成田駅|東成田]]行きがほとんどであった。2002年のダイヤ改正で、本線内のみの急行は快速に置き換えられて廃止となった。その後も押上線では2010年7月17日の[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]開業に伴うダイヤ改正まで存続したが、こちらについては「[[京成押上線#過去の列車種別]]」を参照。 1968年11月10日の改正で、それ以前の上野系統の初代急行は特急に格上げされ、同改正で[[#準急|準急]]に代って2代目急行が新設された。初代通勤特急廃止の1974年12月16日までは2002年10月12日改正前よりも停車駅は少なく、上野系統と浅草線直通系統で一部停車駅が異なっていた。急行表示板も2種類あり、前者は逆台形に「急行」表示、後者は丸地に「急」表示であった。なお[[1963年]]頃には丸に2本の線入りの「急」表示のものも存在した<ref group="注">同年9月に[[京成八幡駅]]前に[[京成百貨店|市川京成百貨店]]が開店。当時のシンボルマークを急行表示板にあしらった。</ref>。1983年10月1日ダイヤ改正で都営浅草線車両による急行が[[京成佐倉駅]]まで乗り入れるようになった際には、誤乗防止の観点から前面貫通扉に内側から「急行」の表示を吸盤で貼付けていた。都営車の乗り入れは、後に東成田駅までに拡大されたが、1998年11月18日ダイヤ改正時に急行表示板は廃止された<ref>{{Cite journal|和書|journal=鉄道ピクトリアル|date=1999-03|volume=49|issue=3|page=83|publisher=電気車研究会}}</ref>。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は末期には「3」(快速設定前は「4」)であった。 ==== エアポート特急 ==== 2002年まで[[エアポート快特]](エアポート特急を含む)は京成線内では「[[#特急|特急]]」として運転され羽田空港方面・成田空港方面とも「(飛行機マーク)特急」と表示されていたが、これ以外に京成上野駅 - 成田空港駅間の特急も「(飛行機マーク)特急」とされており、京成線内のほとんどの特急が「(飛行機マーク)特急」となっていた(ただし、案内上は都営線内で速達運転をするエアポート特急を除き単に「特急」と読まれていた)。単に飛行機マークのない「特急」とされたのは都営浅草線西馬込 - 成田空港間の特急(都営線内は各駅に停車)と京成佐倉止まりなど主に成田空港発着でない特急のみであった。 この飛行機マーク付きの特急は青砥駅・京成高砂駅発着であった[[エアポート快特|エアポート特急]]およびエアポート快特に接続する京成上野駅 - 京成高砂駅間の特急列車にも適用された。 ==== 通勤特急(初代・2代) ==== [[1960年代]]後半 - [[1974年]][[12月16日]]と、[[1985年]][[10月19日]]より[[1998年]][[11月18日]](以下2代目)のダイヤ改正まで運行されていた。 初代の通勤特急の投入当時の停車駅は、2006年12月9日までの特急停車駅に[[京成小岩駅]]、[[東中山駅]]および[[京成押上線|押上線]][[京成曳舟駅]]、[[京成立石駅]]を加えたものであった。しかし、初代は列車種別整理のため「特急」に統合される形で廃止された。この時の種別板は丸に青縁取りで「特急」であった(特急種別板との相違点は青縁取りの有無。無い方が特急種別板)。 1985年10月19日に通勤ラッシュ時の都営浅草線への速達化を図るため、通勤特急が再登場した。再登場時の特急停車駅はすでに初代通勤特急の停車駅と同じであったため、2代目通勤特急は京成小岩駅・東中山駅・京成曳舟駅・京成立石駅は通過となった。 [[1991年]][[3月19日]]に京成本線内の特急の停車駅が現在の快速特急と同じとなり「特急」は上野方面直通、2代目「通勤特急」は押上線・都営浅草線方面直通で運行(通勤ラッシュ時のみ)されていた。 1998年11月18日の京急線[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港駅]]開業に伴うダイヤ改正で、通勤ラッシュ時以外にも押上線・都営浅草線・京急線直通の特急が運行されるようになった。この時に押上線に定められていた特急停車駅から京成曳舟駅・京成立石駅が外れ「通勤特急」と種別を区別する意義がなくなったことから通勤特急という名前から"通勤"の文字が消えて「特急」に統合され、この2代目「通勤特急」は消滅した。 ==== 通勤急行(旧称:通勤準急) ==== [[1960年代]]後半 - [[1974年]][[12月16日]]に朝晩通勤ラッシュ時に上野系統で運行された種別。当初は通勤準急という名称であったが、1968年11月に準急が廃止され急行の停車駅が増えたために通勤急行に改称された。停車駅は2002年10月12日改正前の急行停車駅から谷津遊園(現:谷津)とセンター競馬場前(現:船橋競馬場)をのぞいた設定であった。初代通勤特急同様、列車種別整理のため急行に統合され消滅。種別板は通勤準急時代は菱に縦書きで「準急」(文字は横書きの種別板も存在。[[八千代台駅|八千代台]]行は行先表示板に設定がなかったため例外として種別板に併記)通勤急行格上げ後は菱に「通急」。 ==== 快速(初代・2代) ==== 初代快速は[[1960年代]]前半頃に京成上野駅 - 京成成田駅間で夕方[[ラッシュ時]]への移行期に運行されていた。前述した通勤準急→通勤急行の前身で停車駅は同じである。種別板は菱に「快速」。 2代目快速は[[1968年]]頃 - [[1974年]][[12月16日]]に日中に京成上野 - 千葉系統で運行されていた。停車駅は京成上野・日暮里・町屋・堀切菖蒲園・青砥(この間各駅停車)京成津田沼・京成幕張・京成稲毛・みどり台・国鉄千葉駅前(現京成千葉)・京成千葉(現千葉中央)。列車種別整理のため普通に格下げされた。種別板は楕円に横書きの「快速」。 ==== 準急 ==== 1968年11月9日まで運転されていた。停車駅は京成上野・日暮里・町屋・堀切菖蒲園・青砥・京成高砂・市川真間・京成八幡・東中山・京成船橋・センター競馬場前(現船橋競馬場)から先終点までの各駅。急行の停車駅増加により消滅した。種別板は丸に「準急」。 緩急行選別装置の番号対照表の番号は「2」であった。 == 歴史 == 開業時は、起点が[[京成上野駅]]ではなく、現在の[[京成押上線|押上線]]の[[押上駅]]だった。後に、[[筑波高速度電気鉄道]]の所有する免許を取得し、[[日暮里駅]]開業時に起点が現在の京成上野駅方面へ変更された。 * [[1912年]]([[大正]]元年)[[11月3日]] (押上 - )曲金(現・京成高砂) - 伊予田(現・江戸川)間が開業。軌間1372&nbsp;mm。 * [[1913年]](大正2年)[[6月26日]] 曲金駅を高砂駅(現・京成高砂駅)に改称。 * [[1914年]](大正3年) ** [[8月30日]] 江戸川 - 市川新田(現・市川真間)間が開業。市川駅(元・伊予田駅)を江戸川駅に改称。 ** [[12月11日]] 市川鴻の台駅を市川駅(現・国府台駅)に改称。 * [[1915年]](大正4年)11月3日 市川新田 - 中山(現・京成中山)間が開業。 * [[1916年]](大正5年) ** [[2月9日]] 菅野駅開業。 ** 6月 市川新田駅を市川真間駅に改称。 ** [[12月30日]] 中山 - 船橋(現・京成船橋)間が開業。 * [[1919年]](大正8年)[[10月25日]] 海神駅開業<ref name="chizucho">今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳 3号 関東1』新潮社、2008年、p.37</ref>。 * [[1921年]](大正10年) ** [[4月6日]] 市川駅を市川国府台駅に改称。 ** [[7月17日]] 船橋 - 津田沼(現・京成津田沼)間が開業。 * [[1926年]](大正15年) ** [[12月9日]] 津田沼 - 酒々井(現・京成酒々井)間が開業。 ** [[12月24日]] 酒々井 - 成田花咲町(仮)間が開業。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月21日]] 花輪駅(現・船橋競馬場駅)開業。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[3月18日]] 志津駅開業。 ** [[4月1日]] 宗吾駅(現・宗吾参道駅)開業。 ** [[11月1日]] 青砥駅開業。 * [[1930年]](昭和5年)[[4月25日]] 成田花咲町(仮) - 成田(現・京成成田)間が開業。成田花咲町(仮)駅廃止。[[ファイル:Nakayama KankoChizu.jpg|thumb|中山競馬・千葉県観光案内地図(昭和5年) 押上から成田までの路線が表示されている]] * [[1931年]](昭和6年) ** [[11月18日]] 以下の駅を「京成」を冠した駅名に改称。 *** 高砂駅・中山駅・船橋駅・花輪駅・津田沼駅・大久保駅・大和田駅・臼井駅・佐倉駅・酒々井駅・成田駅 ** [[12月19日]] 日暮里 - 青砥間が開業。 * [[1932年]](昭和7年)[[5月15日]] 京成小岩駅開業。 * [[1933年]](昭和8年)[[12月10日]] 上野公園(現・京成上野) - 日暮里間が開業。 * [[1934年]](昭和9年)[[4月18日]] 道灌山通駅開業。 * [[1935年]](昭和10年) ** [[6月1日]] 西千住駅開業。 ** [[8月3日]] 中山鬼越駅(現・鬼越駅)開業。 ** [[10月4日]] (臨)中山競馬場駅開業。 * [[1936年]](昭和11年)[[4月10日]] 谷津海岸駅を谷津遊園駅に改称。 * [[1939年]](昭和14年) 谷津遊園駅を谷津海岸駅に改称。 * [[1942年]](昭和17年) ** [[8月15日]] 八幡駅廃止。 ** 11月1日 新八幡駅を京成八幡駅に改称。 * [[1943年]](昭和18年) ** [[2月1日]] 中山鬼越駅を鬼越駅に改称。 ** 10月 寛永寺坂駅・道灌山通駅・西千住駅が休止。 * [[1944年]](昭和19年) 上野公園(現・京成上野) - 京成成田間を本線、押上 - 青砥間を押上線とする。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[2月20日]] 全線を[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更。 ** [[6月10日]] 上野公園 - 日暮里間が休止。 ** [[10月1日]] 上野公園 - 日暮里間が営業再開。 * [[1946年]](昭和21年)11月1日 寛永寺坂駅営業再開。 * [[1947年]](昭和22年) ** [[2月28日]] 休止していた日暮里 - 新三河島間の道灌山通駅、町屋 - 千住大橋間の西千住駅廃止。 ** 8月21日 寛永寺坂駅休止。 * [[1948年]](昭和23年)4月1日 市川国府台駅を国府台駅に、谷津海岸駅を谷津遊園駅に改称。 * [[1950年]](昭和25年)[[7月5日]] 京成花輪駅を船橋競馬場駅に改称。 * [[1951年]](昭和26年)[[7月1日]] 宗吾駅を宗吾参道駅に改称。 * [[1953年]](昭和28年) ** [[2月23日]] 休止していた博物館動物園 - 日暮里間の寛永寺坂駅廃止。 ** 5月1日 上野公園駅を京成上野駅に改称。 ** [[9月1日]] (臨)中山競馬場駅を常設駅とし、東中山駅開業。 * [[1956年]](昭和31年)[[3月20日]] 八千代台駅開業。 * [[1959年]](昭和34年) ** [[10月14日]] 宗吾参道 - 京成成田間を標準軌(1435&nbsp;mm軌間)に改軌。 ** [[10月18日]] 鹿島川専用乗継場 - 宗吾参道間を標準軌に改軌。京成臼井 - 京成佐倉間に[[鹿島川専用乗継場]]開設。 ** [[10月21日]] 京成大和田 - 鹿島川専用乗継場間を標準軌に改軌。鹿島川専用乗継場廃止。 ** 10月25日 京成津田沼 - 京成大和田間を標準軌に改軌。 ** [[10月29日]] 東中山 - 京成津田沼間を標準軌に改軌。 ** [[11月5日]] 京成高砂 - 東中山間を標準軌に改軌。 ** [[11月17日]] お花茶屋 - 京成高砂間を標準軌に改軌。 ** [[11月23日]] 日暮里 - お花茶屋間を標準軌に改軌。 ** [[11月30日]] 京成上野 - 日暮里間を標準軌に改軌し、標準軌化完成。 * [[1963年]](昭和38年)[[12月1日]] 船橋競馬場駅をセンター競馬場前駅に改称。 * [[1968年]](昭和43年)5月1日 勝田台駅開業。 * [[1970年]](昭和45年)[[8月25日]] お花茶屋 - 青砥間の[[国道6号]]と交差する地点が高架化<ref>{{Cite news |和書|title=お花茶屋-青砥間 高架化が完成 京成電鉄、二十五日から使用開始 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1970-08-19 |page=1 }}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年) ** [[6月16日]] 京成上野 - 日暮里間が休止。京成上野駅改装工事(1976年7月完成)のため。 ** [[12月16日]] 京成上野 - 日暮里間が営業再開。 ** 12月30日 スカイライナー運行開始。 * [[1978年]](昭和53年)[[5月21日]] 京成成田 - 成田空港(現在の東成田)間が開業。 * [[1979年]](昭和54年)[[10月18日]] 京成上野駅、高砂車庫、宗吾車庫に留置していたスカイライナーからそれぞれ出火。中核派が犯行声明を出した<ref>京成特急にゲリラ 二時間半ストップ『朝日新聞』1979年(昭和54年)10月18日夕刊 3版 15面</ref>。 * [[1982年]](昭和57年)11月1日 ユーカリが丘駅開業。 * [[1984年]](昭和59年)[[11月24日]] 谷津遊園駅を谷津駅に改称。 * [[1985年]](昭和60年)[[8月12日]] 青砥 - 京成高砂間複々線化。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日 葛飾駅を京成西船駅に、センター競馬場前駅を船橋競馬場駅に改称。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[3月19日]] 駒井野分岐点 - 成田空港間が開業。京成成田 - 東成田(旧・成田空港)を東成田線とする(京成成田 - 駒井野分岐点間は本線と重複)。 * [[1992年]](平成4年)[[12月3日]] 空港第2ビル駅開業。 * [[1994年]](平成6年)4月1日 宗吾参道 - 京成成田間を経路変更。公津の杜駅開業。 * [[1997年]](平成9年)4月1日 京成上野 - 日暮里間の博物館動物園駅が休止。 * [[2004年]](平成16年)4月1日 博物館動物園駅が廃止。 * [[2006年]](平成18年)[[11月25日]] 海神 - 船橋競馬場間の複線高架完成。京成船橋駅・大神宮下駅が上下とも高架化。 * [[2009年]](平成21年) ** [[10月3日]] 日暮里駅下り線が高架化されホームが上下線別に分離(上りは1階、下りは3階)。 ** [[11月14日]] 空港第2ビル駅のホームが島式になる(上下線共用→下り線に変更・上り線新設)。駒井野信号場 - 空港第2ビル間複線化。 * [[2010年]](平成22年) ** 7月5日 金町線京成高砂駅付近の高架化に伴うダイヤ改正により、本線と金町線の直通運転が廃止。 ** 7月17日 成田スカイアクセス線開業に伴うダイヤ改正により、本線の運転系統が見直される<ref name = 2010-7/>。スカイライナー・京急空港線[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港]]発着の直通列車の大半が成田スカイアクセス線経由となり、本線からの都営浅草線直通列車の大半が西馬込発着に変更される<ref name = 2010-7/>。押上線方面の急行が廃止、シティライナーとアクセス特急が新設され、従前スカイライナーが停車していた京成船橋駅・京成成田駅はシティライナーの停車駅となる<ref name = 2010-7/>。また、千住大橋駅が快速の停車駅に、青砥駅がシティライナーの停車駅となる<ref name = 2010-7/>。 * [[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]] [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生。都営地下鉄浅草線・京急線・北総鉄道北総線・芝山鉄道線との相互直通運転およびスカイライナー・シティライナー・イブニングライナーの運転が休止。 ** 3月12日 運行再開。ただし、京急線・[[泉岳寺駅|泉岳寺]] - [[品川駅|品川]]間の閉鎖に伴い、同線への直通運転は中止(13日より再開)。またユーカリが丘 - 京成臼井間で線路の変形が確認されたため、応急処置を施した上、同区間を徐行運転。 ** [[3月14日]] [[東日本大震災による電力危機|震災による電力供給逼迫]]のため、[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から都営地下鉄浅草線・京急線・北総鉄道北総線・芝山鉄道線との相互直通運転およびスカイライナー・シティライナー・モーニングライナー・イブニングライナーの運転が休止。 ** 3月 京急線・都営地下鉄・北総鉄道北総線との相互直通運転を再開。 ** 3月16日 スカイライナー・モーニングライナー・イブニングライナーの運転を再開。 ** [[4月11日]] 3月11日の地震の余震とみられる巨大地震が発生したため、スカイライナー・モーニングライナー・イブニングライナーの運転が休止(翌日運行再開)。 ** 9月10日 シティライナーの運転を京成上野 - 京成成田間で再開。 ** 12月23日 ユーカリが丘 - 京成臼井間の徐行運転が解除され、すべての一般列車の運転を再開。 * [[2013年]](平成25年) ** 10月16日 - 台風26号の影響で、京成成田駅1番線脇で土砂崩れ発生<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1016/TKY201310160033.html 京成成田駅で線路脇の土砂流出 架線切れ運転見合わせ] - 朝日新聞デジタル、2013年10月16日8時50分</ref>。宗吾参道 - 成田空港・芝山千代田間が終日運転見合わせとなる。 * 2014年(平成26年) ** 6月7日 京成高砂 - 八千代台間が1号ATSからC-ATSに更新され、全線がC-ATSに<ref>{{Cite web|和書|title=平成26年6月7日(土)始発より京成高砂〜八千代台間にデジタルATSを導入しました |url=http://www.keisei.co.jp/keisei/kouhou/news/140607_01.pdf |publisher=京成電鉄株式会社 |format=PDF |date=2014-06-07 |accessdate=2014-06-10|deadlinkdate=2023-06-26}}</ref>。 == 利用状況 == 2022年度の朝ラッシュ時最混雑区間は[[大神宮下駅|大神宮下]] → [[京成船橋駅|京成船橋]]間であり、ピーク時(7:20 - 8:20)の[[混雑率]]は'''93%'''である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mlit.go.jp/report/press/content/001619625.pdf|title=最混雑区間における混雑率(令和4年度)|date=2023-07-14|accessdate=2023-08-02|publisher=国土交通省|page=4|format=PDF}}</ref>。 当路線は[[市川真間駅]] - [[京成津田沼駅]]で[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線|総武線]]と競合している。この区間では総武線が所要時間・行先等で圧倒的に有利であり、[[都心]]から京成船橋以東へ向かう乗客は総武線との乗り換えに適した京成船橋駅から乗車することが多い。また、青砥以西のアクセスも[[都営地下鉄浅草線]]に直通する[[京成押上線]]が便利であり、[[押上駅]]の乗降人員は[[京成上野駅]]と[[日暮里駅]]を合算した乗降人員よりも多く、運行頻度も多い。 そのため、[[山手線]]に接続する都心側のターミナル駅である京成上野駅・日暮里駅手前よりも、郊外側のターミナル駅である[[京成船橋駅]]手前のほうがラッシュ時の輸送人員が多く、混雑率も高いという特徴をもつ。しかし1996年に[[東葉高速鉄道東葉高速線]]が開業して[[勝田台駅]]以西が競合路線となった後は、最混雑区間のピーク1時間あたりの輸送人員が3万人を割り込んだ。その後は[[都心回帰]]の動きが強まり、輸送人員の減少と混雑率の低下が続いている。 2018年度の一日平均通過人員は青砥 - 京成高砂間が263,706人であり、この区間が京成線全線で最も通過人員が多い。青砥駅で押上線に、京成高砂駅で北総線に分岐するが、それぞれの路線に直通しているためこの区間は運行密度が非常に高く、京成線唯一の複々線区間となっている。次いで一日平均通過人員が多いのは京成津田沼 - 京成大久保間であり、203,720人である。京成船橋 - 京成津田沼間の各駅は一日平均通過人員が19万人を越えており、都心に最も近い京成上野 - 青砥間の各駅よりも通過人員は多い。日暮里 - 青砥間の一日平均通過人員は15万人程度、京成高砂 - 京成八幡間の一日平均通過人員は13万人程度、京成八幡 - 京成船橋間の一日平均通過人員は14万人程度でそれぞれ横ばいである。 京成津田沼駅より東側に進むにつれて一日平均通過人員は漸減するが、成田空港のアクセス路線であることから郊外側も一定の需要があり、公津の杜 - 京成成田間の一日平均通過人員は55,630人である。京成上野駅から60km程度離れているが、この区間の通過人員は京成上野 - 日暮里間の50,819人よりも多い。最も一日平均通過人員が少ないのは空港第2ビル - 成田空港間で、14,396人である<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.train-media.net/report/1910/keisei.pdf|format=PDF|title=京成電鉄 平成30年度1日平均乗降人員・通過人員|publisher=関東交通広告協議会|date= |accessdate=2019-11-11|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。 近年の輸送実績を下表に記す。表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。 {| class="wikitable" cellspacing="0" cellpadding="2" style="font-size:90%; text-align:center;" |- !rowspan="2"|年度 !colspan="4"|最混雑区間(大神宮下 → 京成船橋間)輸送実績<ref>「都市交通年報」各年度版</ref><ref>[http://www.pref.chiba.lg.jp/koukei/tetsudou/konzatsu.html 路線別のラッシュ時における混雑率の推移] - 千葉県</ref><ref>{{Cite web|和書|date=1987-09 |url=http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |title=地域の復権―東京一極集中を越えて(昭和62年9月) |publisher=神奈川県 |accessdate=2015-05-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150113231849/http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/373047.pdf |archivedate=2015-01-13}}</ref> !rowspan="2"|特記事項 |- ! 運転本数:本 !! 輸送力:人 !! 輸送量:人 !! 混雑率:% |- |1955年(昭和30年) | 15 || 3,892 || 8,547 || '''220''' |style="text-align:left;"|最混雑区間は新三河島→日暮里間 |- |1965年(昭和40年) | 20 || 9,233 || 20,269 || '''220''' | |- |1968年(昭和43年) | 18 || 9,906 || 20,798 || '''210''' |style="text-align:left;"|1969年3月29日、営団地下鉄東西線全線開業 |- |1969年(昭和44年) | 19 || 9,906 || 20,536 || '''207''' |style="text-align:left;"|1969年12月20日、営団地下鉄千代田線開業 |- |1970年(昭和45年) | 19 || 11,176 || 19,835 || '''177''' | |- |1971年(昭和46年) | 19 || 11,176 || 18,285 || '''164''' | |- |1972年(昭和47年) | || 10,414 || 17,323 || '''166''' |style="text-align:left;"|1972年7月15日、総武快速線開業 |- |1973年(昭和48年) | 20 || 13,132 || 28,100 || '''214''' |style="text-align:left;"|最混雑区間を大神宮下→京成船橋間に変更 |- |1974年(昭和49年) | 20 || 13,132 || 30,180 || style="background-color: #ffcccc;"|'''230''' | |- |1975年(昭和50年) | 20 || 13,386 || 30,440 || '''227''' | |- |1976年(昭和51年) | 20 || 13,716 || 31,160 || '''227''' | |- |1977年(昭和52年) | 20 || 13,716 || 30,690 || '''224''' | |- |1978年(昭和53年) | 20 || 13,716 || 30,050 || '''220''' | |- |1979年(昭和54年) | 20 || 14,478 || 29,580 || '''204''' | |- |1980年(昭和55年) | 20 || 14,478 || 29,610 || '''205''' | |- |1981年(昭和56年) | 20 || 15,240 || 29,300 || '''192''' | |- |1982年(昭和57年) | 20 || 15,240 || 29,670 || '''195''' | |- |1983年(昭和58年) | 20 || 16,510 || 29,590 || '''179''' | |- |1984年(昭和59年) | 20 || 16,510 || 29,830 || '''181''' | |- |1985年(昭和60年) | 20 || 16,764 || 30,680 || '''179''' | |- |1986年(昭和61年) | 20 || 16,764 || 31,090 || '''185''' | |- |1987年(昭和62年) | 20 || 16,764 || 31,130 || '''185''' | |- |1988年(昭和63年) | 20 || 17,272 || 31,340 || '''181''' | |- |1989年(平成元年) | 20 || 18,288 || 31,800 || '''174''' | |- |1990年(平成{{0}}2年) | 20 || 18,288 || 32,310 || '''177''' | |- |1991年(平成{{0}}3年) | 20 || 18,288 || 32,610 || '''178''' | |- |1992年(平成{{0}}4年) | 20 || 18,288 || style="background-color: #ffcccc;"|32,800 || '''179''' | |- |1993年(平成{{0}}5年) | 20 || 18,288 || 32,700 || '''179''' | |- |1994年(平成{{0}}6年) | 20 || 18,796 || 32,540 || '''173''' | |- |1995年(平成{{0}}7年) | 20 || 18,796 || 32,380 || '''172''' | |- |1996年(平成{{0}}8年) | 18 || 16,764 || 28,020 || '''167''' |style="text-align:left;"|1996年4月27日、東葉高速鉄道線開業 |- |1997年(平成{{0}}9年) | 18 || 16,764 || 27,523 || '''164''' | |- |1998年(平成10年) | 18 || 16,764 || 27,355 || '''163''' | |- |1999年(平成11年) | 18 || 16,764 || 26,823 || '''160''' | |- |2000年(平成12年) | 18 || 16,764 || 26,780 || '''160''' | |- |2001年(平成13年) | 18 || 15,972 || 25,483 || '''160''' | |- |2002年(平成14年) | 18 || 15,246 || 24,294 || '''159''' | |- |2003年(平成15年) | 18 || 15,246 || 24,080 || '''158''' | |- |2004年(平成16年) | 18 || 15,246 || 24,008 || '''157''' | |- |2005年(平成17年) | 18 || 15,246 || 23,944 || '''157''' | |- |2006年(平成18年) | 18 || 15,246 || 23,531 || '''154''' | |- |2007年(平成19年) | 18 || 15,246 || 22,990 || '''151''' | |- |2008年(平成20年) | 18 || 15,246 || 22,770 || '''149''' | |- |2009年(平成21年) | 18 || 15,246 || 22,760 || '''149''' | |- |2010年(平成22年) | 18 || 15,246 || 22,370 || '''147''' | |- |2011年(平成23年) | 18 || 15,246 || 21,726 || '''143''' | |- |2012年(平成24年) | 18 || 15,246 || 21,045 || '''138''' | |- |2013年(平成25年) | 18 || 15,246 || 20,469 || '''134''' | |- |2014年(平成26年) | 18 || 15,246 || 20,222 || '''133''' | |- |2015年(平成27年) | 18 || 15,246 || 20,128 || '''132''' | |- |2016年(平成28年) | 18 || 15,246 || 19,785 || '''130''' | |- |2017年(平成29年) | 18 || 15,246 || 19,393 || '''127''' | |- |2018年(平成30年) | 18 || 15,246 || 19,810 || '''130''' | |- |2019年(令和元年) | 18 || 15,246 || 19,396 || '''127''' | |- |2020年(令和{{0}}2年) | 17 || 14,520 || 14,142 || '''97''' | |- |2021年(令和{{0}}3年) | 17 || 14,520 || 14,186 || '''98''' | |- |2022年(令和{{0}}4年) | 17 || 14,520 || style="background-color: #ccffff;"|13,520 || style="background-color: #ccffff;"|'''93''' | |} == 駅一覧 == ; 凡例 : 停車駅… ●:停車、|:通過、◇:一部臨時停車、◆:[[中山競馬場]]の[[中央競馬]]開催時(特に[[皐月賞]]・[[有馬記念]]等の重賞レース開催日)に一部臨時停車(東中山駅) :* 普通列車は各駅に停車する(表では省略)。 :* スカイライナー・モーニングライナー・イブニングライナー・シティライナーの停車駅は列車記事「[[スカイライナー]]」を参照のこと。 :* シティライナーは2016年3月現在、定期列車としての運行はない。 : 線路・列車待避… ∥・◇・△・▽:複線区間(◇:上下とも待避可能、△:上りのみ待避可能、▽:下りのみ待避可能)、|:単線区間(列車交換可能)、∨:ここより下は単線 {| class="wikitable" rules="all" style="font-size:90%;" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅番号 !style="width:11em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅間<br />キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|累計<br />キロ !style="width:1em; background:#fdf; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|快速|height=8em}} !style="width:1em; background:#cff; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|通勤特急|height=8em}} !style="width:1em; background:#faa; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|特急|height=8em}} !style="width:1em; background:#fdb; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|アクセス特急|height=8em}} !style="width:1em; background:#9db; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|快速特急|height=8em}} !style="border-bottom:solid 3px #005aaa;"|接続路線 !style="width:1em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|{{縦書き|線路・列車待避|height=8em}} !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #005aaa;"|所在地 |- !KS01 |[[京成上野駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#fdb;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:Shinkansen-E.svg|18px|■]] [[東北新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[山形新幹線]]・[[秋田新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]・[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] [[山手線]]・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] [[京浜東北線]]・[[ファイル:JR JU line symbol.svg|18px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]]・[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] [[常磐快速線|常磐線(快速)]]・[[上野東京ライン]]([[上野駅]]:JY 05・JK 30・JU 02・JJ 01)<br />[[東京地下鉄]]:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|18px|銀座線]] [[東京メトロ銀座線|銀座線]](上野駅:G-16)・[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|18px|日比谷線]] [[東京メトロ日比谷線|日比谷線]](上野駅:H-18)<br />[[都営地下鉄]]:[[ファイル:Toei Oedo line symbol.svg|18px|E]] [[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]([[上野御徒町駅]]:E-09、連絡運輸なし) |∥ |rowspan="12" style="text-align:center; vertical-align:middle; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[東京都]]|height=6em}} |[[台東区]] |- !KS02 |[[日暮里駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#fdb;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JY line symbol.svg|18px|JY]] 山手線 (JY 07)・[[ファイル:JR JK line symbol.svg|18px|JK]] 京浜東北線 (JK 32)<ref group="注">日中時間帯は通過。上野駅または[[田端駅]]まで山手線を利用して乗り換えとなる。</ref>・[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|18px|JJ]] 常磐線(快速)(JJ 02)・上野東京ライン<br />[[東京都交通局]]:[[ファイル:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|18px|NT]] [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]] (NT 01) |∥ |rowspan="3"|[[荒川区]] |- !KS03 |[[新三河島駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|3.4 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#fdb;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS04 |[[町屋駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|4.3 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#fdb;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |東京地下鉄:[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|18px|千代田線]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] (C-17)<br />[[東京都交通局]]:[[ファイル:Tokyo Sakura Tram symbol.svg|18px|SA]] [[都電荒川線|都電荒川線(東京さくらトラム)]]([[町屋駅|町屋駅前停留場]]:SA 06) |∥ |- !KS05 |[[千住大橋駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|5.9 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#fdb;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |◇ |rowspan="2"|[[足立区]] |- !KS06 |[[京成関屋駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|7.3 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#fdb;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |[[東武鉄道]]:[[ファイル:Tobu Skytree Line (TS) symbol.svg|18px|TS]] [[東武伊勢崎線|伊勢崎線(東武スカイツリーライン)]]([[牛田駅 (東京都)|牛田駅]]:TS-08) |∥ |- !KS07 |[[堀切菖蒲園駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|8.8 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#fdb;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="4"|[[葛飾区]] |- !KS08 |[[お花茶屋駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|9.9 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#fdb;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS09 |[[青砥駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|11.5 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#fdb;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成押上線|押上線]](京成高砂方面と直通運転) |∥ |- !KS10 |[[京成高砂駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|12.7 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#fdb;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成金町線|金町線]]<br />京成電鉄・[[北総鉄道]]:[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] [[京成成田空港線|成田空港線(成田スカイアクセス線)]]・[[ファイル:Number prefix Hokusō.svg|18px|HS]] [[北総鉄道北総線|北総線]](京成上野・押上方面と直通運転) |◇ |- !KS11 |[[京成小岩駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|14.5 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |rowspan="34" style="text-align:center; vertical-align:top; width:1em; line-height:2; background:#fff;"|{{縦書き|成田空港線 ( 成田スカイアクセス線 ) 直通|height=22em}} |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |◇ |rowspan="2" style="white-space:nowrap;"|[[江戸川区]] |- !KS12 |[[江戸川駅]] |style="text-align:right;"|1.2 |style="text-align:right;"|15.7 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS13 |[[国府台駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|16.4 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="32" style="text-align:center; vertical-align:middle; width:1em; letter-spacing:0.5em;"|{{縦書き|[[千葉県]]|height=6em}} |rowspan="5"|[[市川市]] |- !KS14 |[[市川真間駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|17.3 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| | |◇ |- !KS15 |[[菅野駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|18.2 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS16 |[[京成八幡駅]] |style="text-align:right;"|0.9 |style="text-align:right;"|19.1 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |都営地下鉄:[[ファイル:Toei Shinjuku line symbol.svg|18px|新宿線]] [[都営地下鉄新宿線|新宿線]]([[本八幡駅]]:S-21)<!-- JR線との連絡定期券は発売していない。 --> |∥ |- !KS17 |[[鬼越駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|20.1 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS18 |[[京成中山駅]] |style="text-align:right;"|0.7 |style="text-align:right;"|20.8 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="7"|[[船橋市]] |- !KS19 |[[東中山駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|21.6 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|◆ |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |◇ |- !KS20 |[[京成西船駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|22.2 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| | |∥ |- !KS21 |[[海神駅]] |style="text-align:right;"|1.4 |style="text-align:right;"|23.6 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS22 |[[京成船橋駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|25.1 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線|総武線(快速)]]・[[ファイル:JR JB line symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]([[船橋駅]]:JO 25・JB 31)<br />東武鉄道:[[ファイル:Tobu Noda Line (TD) symbol.svg|18px|TS]] [[東武野田線|野田線(東武アーバンパークライン)]](船橋駅:TD-35) |∥ |- !KS23 |[[大神宮下駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|26.4 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS24 |[[船橋競馬場駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|27.2 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |◇ |- !KS25 |[[谷津駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|28.2 |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="4"|[[習志野市]] |- !KS26 |[[京成津田沼駅]] |style="text-align:right;"|1.5 |style="text-align:right;"|29.7 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成千葉線|千葉線]](京成上野・押上方面と直通運転)<br />[[新京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|18px|SL]] [[新京成電鉄新京成線|新京成線]] (SL24) |◇ |- !KS27 |[[京成大久保駅]] |style="text-align:right;"|2.4 |style="text-align:right;"|32.1 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS28 |[[実籾駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|34.0 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS29 |[[八千代台駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|36.6 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |&nbsp; |◇ |rowspan="3"|[[八千代市]] |- !KS30 |[[京成大和田駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|38.7 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS31 |[[勝田台駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|40.3 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |[[東葉高速鉄道]]:[[ファイル:Number prefix Toyo-Rapid.svg|18px|TR]] [[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]([[東葉勝田台駅]]:TR09) |∥ |- !KS32 |[[志津駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|42.1 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="5"|[[佐倉市]] |- !KS33 |[[ユーカリが丘駅]] |style="text-align:right;"|1.1 |style="text-align:right;"|43.2 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |[[山万]]:[[山万ユーカリが丘線|ユーカリが丘線]] |△ |- !KS34 |[[京成臼井駅]] |style="text-align:right;"|2.5 |style="text-align:right;"|45.7 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS35 |[[京成佐倉駅]] |style="text-align:right;"|5.3 |style="text-align:right;"|51.0 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |&nbsp; |◇ |- !KS36 |[[大佐倉駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|53.0 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |- !KS37 |[[京成酒々井駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|55.0 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="2"|[[印旛郡]]<br />[[酒々井町]] |- !KS38 |[[宗吾参道駅]] |style="text-align:right;"|2.0 |style="text-align:right;"|57.0 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |△ |- !KS39 |[[公津の杜駅]] |style="text-align:right;"|1.6 |style="text-align:right;"|58.6 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|| |&nbsp; |∥ |rowspan="6"|[[成田市]] |- !KS40 |[[京成成田駅]] |style="text-align:right;"|2.6 |style="text-align:right;"|61.2 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成東成田線|東成田線]](京成上野・押上方面と直通運転)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]]{{Color|#00b261|■}}[[成田線]]([[上野東京ライン]]含む)([[成田駅]]:JO 35) |◇ |- !&nbsp; |[[駒井野信号場]] |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|(67.2) |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |''東成田線との実際の分岐'' |∥ |- !&nbsp; |(成田空港線接続点) |style="text-align:center;"| - |style="text-align:right;"|(67.8) |style="text-align:center; background:#fdf;"|| |style="text-align:center; background:#cff;"|| |style="text-align:center; background:#faa;"|| |style="text-align:center; background:#9db;"|| |''成田空港線([[成田湯川駅|成田湯川]]方面)との実際の分岐'' |∥ |- !KS41 |[[空港第2ビル駅]]<br />(成田第2・第3ターミナル) |style="text-align:right;"|7.1 |style="text-align:right;"|68.3 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |京成電鉄:[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] 成田空港線(成田スカイアクセス線)(成田空港駅まで線路共用)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] 成田線 (JO 36) |∨ |- !KS42 |[[成田空港駅]]<br />(成田第1ターミナル) |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|69.3 |style="text-align:center; background:#fdf;"|● |style="text-align:center; background:#cff;"|● |style="text-align:center; background:#faa;"|● |style="text-align:center; background:#9db;"|● |京成電鉄:[[ファイル:Number prefix SkyAccess.svg|18px|KS]] 成田空港線(成田スカイアクセス線)<br />東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] 成田線 (JO 37) || |} === 駅の略称 === {{See also|京成電鉄#「京成」を冠する駅名の扱い}} 「'''京成'''」を冠する駅名(15駅)は、2019年頃までに取りやめられるまでは原則として「京成」を省いた略称で案内されていた。略称のあった駅は次の通り。 *上野(駅名標では京成省略せず)、関屋、高砂、小岩、八幡、中山、西船、船橋、津田沼(路線図・駅名標では京成省略せず)、大久保、大和田、うすい(北総線[[白井駅|白井]]との混同防止のため平仮名化)、佐倉、酒々井、成田。 === 廃駅 === * [[博物館動物園駅]](はくぶつかんどうぶつえんえき、現・京成上野 - 日暮里間、1933年12月10日開業、1997年4月1日休止、2004年4月1日廃止) * [[寛永寺坂駅]](かんえいじさかえき、現・京成上野 - 日暮里間、1933年12月10日開業、1943年10月1日休止、1946年11月1日再開、1947年8月21日休止、1953年2月23日廃止) * [[道灌山通駅]](どうかんやまどおりえき、現・日暮里 - 新三河島間、1934年4月18日開業、1943年10月1日休止、1947年2月28日廃止) * [[西千住駅]](にしせんじゅえき、現・町屋 - 千住大橋間、1935年6月1日開業、1943年10月1日休止、1947年2月28日廃止) * 八幡駅(やわたえき、現・京成八幡 - 鬼越間、1915年11月3日開業、1942年8月15日廃止。現・京成八幡駅は新八幡駅が1942年11月1日に改称したもの) * 成田花咲町駅(なりたはなさきちょうえき、現・公津の杜 - 京成成田間、1926年12月24日開業、1930年4月25日廃止) == 主要駅の乗降客数 == 乗降客数は2014年度のものである。()内の数字は京成線全線での順位<ref>[https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/people_top.html 駅別乗降人員] - 京成電鉄</ref>。都心側のターミナル駅では、JR東日本や地下鉄の[[上野駅]]とやや距離がある京成上野駅より、[[山手線]]などと容易に乗り換え可能な日暮里駅の方が利用者数が多い。 * [[京成上野駅]] 43,363人(9) * [[日暮里駅]] 95,301人(3) * [[青砥駅]] 46,501人(7) * [[京成高砂駅]] 96,669人(2、[[北総鉄道北総線|北総線]]との連絡人員を含む) * [[京成八幡駅]] 32,222人(12) * [[京成船橋駅]] 92,109人(4) * [[京成津田沼駅]] 56,213人(5、[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]との連絡人員を含む) * [[八千代台駅]] 45,792人(8) * [[勝田台駅]] 53,652人(6) * [[京成佐倉駅]] 19,003人(26) * [[京成成田駅]] 34,871人(11) * [[空港第2ビル駅]] 21,111人(22) * [[成田空港駅]] 21,432人(19) == 沿線風景 == === 京成上野 - 青砥 === [[ファイル:Keisei 4Lines.png|thumb|120px|right|青砥駅 - 京成高砂駅間の複々線区間(2010年の金町線高架化前時点)]] 地下駅の[[京成上野駅]]を出ると、[[上野恩賜公園|上野公園]]の下を最小曲線半径120&nbsp;mで左右にカーブしながら進む<ref name="gaho0902-14">{{Cite journal |和書 |author=百武定一 |date=1933-02-01 |title=京成電気軌道日暮里上野公園間工事概要 |journal=土木建築工事画報 |volume=9 |issue=2 |pages=14-25 |url=http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/09_02.html |publisher=工事書報社|issn= }}</ref>。途中、[[博物館動物園駅]]、[[寛永寺坂駅]]の跡がある。40&nbsp;[[パーミル|‰]]の[[線形 (路線)#勾配|勾配]]で[[トンネル]]を抜けると<ref name="gaho0902-14" />左に急カーブしながら[[東日本旅客鉄道|JR]][[山手線]]、[[京浜東北線]]、[[宇都宮線]]・[[高崎線]]、[[常磐線]]を跨いで[[荒川区]]に入る、下り線はそのまま[[日暮里駅]]高架ホームにつながる。同駅は[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]](成田空港線)対応の改築工事が終了し、下り線ホームが高架化された。上り線は日暮里駅地上ホームから急勾配を上ってJR線を乗り越しトンネルに入る。日暮里を出ると右カーブしながら常磐線を乗り越し、次いで[[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|尾久橋通り]]上の[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]の下をくぐり、高架を進む。途中、[[新三河島駅]]で[[明治通り (東京都)|明治通り]]を、[[町屋駅]]で[[都電荒川線]]を跨ぐ。[[隅田川]]を渡り、[[足立区]]に入った先で一旦地上に降りるが、再び高架となって[[日光街道]]([[国道4号]])上の[[千住大橋駅]]となる。橋は南に200&nbsp;m程の所にある。高架の常磐線、[[首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス|つくばエクスプレス]]、[[東京メトロ日比谷線]]を、さらに高い高架で越え、左手に[[東武伊勢崎線]]が並行すると[[京成関屋駅]]で、細い道を挟んで東武の[[牛田駅 (東京都)|牛田駅]]がある。東武伊勢崎線を乗り越し[[荒川 (関東)|荒川]]、[[綾瀬川]]を鉄橋で越えて[[葛飾区]]に入り、[[首都高速中央環状線]]をくぐると右カーブし、[[堀切菖蒲園駅]]の先で地上に降りるが、[[お花茶屋駅]]の先で再び高架になり、[[水戸街道]]([[国道6号]])を越える。大きく左手にカーブしながら、25&nbsp;‰の勾配で登り、右手より[[京成押上線|押上線]]が合流すると、3階建て高架駅の[[青砥駅]]に到着する。[[京成成田駅|成田]]方面は3階、[[京成上野駅|上野]]・[[押上駅|押上]]方面は2階である。 === 青砥 - 京成八幡 === [[青砥駅]]を出ると、次の京成高砂駅まで[[複々線]]である。朝夕は、ほぼ同じタイミングで駅を出て、同じタイミングで駅に着くため、列車の隣を常にもう片方の列車が走る。この列車は、青砥駅で上野方面と、[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]]方面に分かれる。両駅間は、かつて複線であった時代でも上り方向に1時間当り最大36本もの列車が運行された高密度運転区間である。南側に引き上げ線を見つつ、上下線の高低差を縮小しながら[[東京都道318号環状七号線|環七通り]]を越え、さらに4線が並んだあたりで[[中川]]を越える。ここまでの区間は、高架が高い位置なので非常に見晴らしがよい。中川を越えると24‰の下り勾配で貨物専用のJR[[新金貨物線|新金線]]を越え、右カーブしながら地上に下りると[[京成金町線|金町線]]と[[北総鉄道北総線|北総線]]とが分岐する[[京成高砂駅]]となる。ホームは狭い[[島式ホーム]]2面4線という構造である。ホーム成田寄りはすぐ横が踏切で、[[開かずの踏切]]として[[葛飾区]]からも名指しされて問題視されている<ref>[http://www.city.katsushika.lg.jp/30/134/002574.html 京成本線(京成高砂駅〜江戸川駅付近)連続立体交差化の早期実現] - 葛飾区</ref>。なお、当面の対策として金町線のみ高架化された。金町線が左に逸れ、進路を南東に取りつつ高砂車庫沿いに進むと北総線が高架となってこちらも左に逸れていく。ここから[[京成小岩駅]]までは直線となる。[[柴又街道]]を越えると[[江戸川区]]に入り、京成小岩駅に入る。緩いカーブを過ぎて、次の[[江戸川駅]]手前で高架となり[[江戸川]]を渡ると[[千葉県]]に入る。このカーブ付近でJR[[総武本線]]が接近し、ここから並行区間に入る。千葉県に入ると、沿線には下総台地と低地、そしてその間の崖面が多くなる。[[国府台駅]]の先で地上に戻り、[[市川市]]内の住宅密集地を走る。左カーブ上にある[[市川真間駅]]は2面4線の待避駅である。JR[[市川駅]]は南側、[[千葉街道]]([[国道14号]])を渡った先にある。これより先、暫く千葉街道とJR総武本線とほぼ並行して東へ進む。次の[[菅野駅]]付近では、地下に[[東京外環自動車道]]と[[国道298号]]が通っている。そのままほぼ直線で進むと[[京成八幡駅]]となる。島式ホーム1本の駅で、南側に隣接して[[都営地下鉄新宿線|都営新宿線]]の[[本八幡駅]]がある。 === 京成八幡 - 京成船橋 === 八幡駅を出て船橋までは、カーブと高低差の多い線形となる。[[真間川]]を渡ると少し先に[[鬼越駅]]があり、その先で[[千葉県道59号市川印西線]]([[木下街道]])と平面交差するが、ここを含めて付近の道路は立体交差化されていない。[[京成中山駅]]手前で[[船橋市]]に入る。次の[[東中山駅]]は、2面4線の駅で、周辺施設として、[[中山競馬場]]が北に1.5&nbsp;km程の所にある。競馬場に通じる道路をくぐり、下り勾配の先が[[京成西船駅]]であるが、JR[[西船橋駅]]からは500&nbsp;m程離れている。駅の東で[[武蔵野線]]が高い高架橋で跨いでいる。[[海神駅]]を過ぎると地面が低くなって盛土の上を進み、船橋市街と[[東武野田線]]の高架橋を遠くに望みつつ、右カーブしながらJR[[総武本線]]を越える。左カーブしながら高架を駆け上がり、[[相対式ホーム]]の[[京成船橋駅]]に着く。シティライナーの停車駅で、乗降客数も多い京成を代表する駅の一つである。 === 京成船橋 - 京成津田沼 === 京成船橋駅を出ると、[[総武本線|総武線]]に接近したのち、右カーブで南に一旦進路をとる。[[大神宮下駅]]付近で、今度は左カーブし、[[千葉街道]]([[国道14号]])に沿って走るようになる。高架が終わり地上に降りると、[[島式ホーム]]2面4線の[[船橋競馬場駅]]である。[[国道296号]]([[成田街道]])の陸橋をくぐって[[習志野市]]に入り、[[谷津駅]]付近で左カーブすると進路がほぼ真東となる。上下線の間に折り返し線が割り込み、左から[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]が合流し、踏切を越えると[[京成千葉線|千葉線]]と分岐する[[京成津田沼駅]]となる。[[新京成電鉄新京成線|新京成線]]と併せると3面6線の規模である。 === 京成津田沼 - 八千代台 === 京成津田沼駅を出ると千葉線が左に分かれ、本線は右手に[[京成電鉄の車両検修施設#津田沼車庫|津田沼検車区]]を見ながら右、続いて大きく左にカーブを描き、内陸部へと入っていく。先ほど分かれた千葉線やJR総武線の線路をくぐると掘割による線路が続く。やがて右にカーブを切り[[京成大久保駅]]に着く。京成大久保駅から[[実籾駅]]まではほぼ直線であり、その後は左カーブとその先しばしの間[[千葉市]][[花見川区]]内(作新台、長作町)を走るが、まもなく[[八千代市]]内に入り、[[八千代台駅]]に着く。八千代台は日本で最初に住宅団地ができた場所として知られ、現在でも同市の中で最も人口密度が高い密集した住宅地が広がる。ここから[[京成大和田駅]]付近までは千葉市との境界付近を走行する。 === 八千代台 - 京成佐倉 === 八千代台駅を出ると住宅街の中を走り、大きく右にカーブすると[[京成大和田駅]]に到着。ここはかつて八千代市の中心部であった場所である。大和田駅を出ると[[京成臼井駅]]付近までは[[国道296号]]とほぼ併走するようになる。[[印旛放水路|新川]]を渡り、その後[[国道16号]]をくぐり、[[勝田台駅]]に到着。勝田台駅は周辺に多くの中学校や高等学校があり、また[[東葉高速鉄道東葉高速線|東葉高速線]]と連絡しているために非常に乗降客数の多い駅である。勝田台駅を出ると、すぐに[[佐倉市]]に入る。直線が続いたあと、左にカーブを描き、その途中にある[[志津駅]]に到着。志津駅を出た後は小さいS字カーブを描いて[[ユーカリが丘駅]]に到着する。ユーカリが丘駅と[[京成臼井駅]]の間は掘割の線路がほぼ半分を占めるが、両駅のちょうど中間付近には田園地帯が広がっている。臼井の住宅街の間に入ると左にカーブを描き、まもなく[[京成臼井駅]]に到着。京成臼井駅を出て、始発列車のための待避線の先にあるかつての旧駅跡からは、しばらく国道296号と併走する。国道と分かれると、左側には[[印旛沼]]が見えるようになり、田園地帯も広がっている。その後右に急カーブを描き、[[風車]]を中心とした「佐倉ふるさと広場」の横を通過する。急カーブを超えると左側の田園地帯とは対照的に、右側には住宅街が広がる。広いロータリーのような広場が見えるが、ここはかつて「江原台駅(仮称)」が建設される予定だった場所(詳細は[[江原台#鉄道|江原台]]の項目を参照)。その後左にカーブを曲がると佐倉市の中心街が見え、[[京成佐倉駅]]に到着する。 === 京成佐倉 - 京成成田 === 京成佐倉駅を出ると右手に住宅街、左手にゴルフ場を見ながら走る。左にカーブし、[[大佐倉駅]]を過ぎると再び田園地帯となる。その先を大きく左にカーブすると酒々井町中心部に入り、[[京成酒々井駅]]に到着する。京成酒々井駅を出ると再び田園地帯となり、右手に京成電鉄の車両基地である宗吾基地が見えてくると[[宗吾参道駅]]である。宗吾参道駅を出てトンネルをくぐるとニュータウンの中の掘割の中を進む。次の[[公津の杜駅]]はホームの半分がトンネルとなっている。トンネルを抜け、しばらく続く掘割が終わるとJR成田線をくぐりながら大きく左右にカーブする。右手に成田市役所が見えてくると間もなく[[京成成田駅]]に到着する。[[成田山新勝寺]]へは同駅西口から表参道につながっている。 === 京成成田 - 成田空港 === [[京成成田駅]]を出るとしばらくは高架線で、[[成田市]]の市街地を過ぎると掘割による線路となる。市街地と成田空港の間は森林・農村地帯が続く。空港が近づくと[[駒井野信号場]]を通過して左へ分岐する。直進方向は[[京成東成田線|東成田線]]である。これはもともと東成田線が先に建設されたためである。分岐してまもなく地下のトンネルに入り、[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]と合流、[[成田線|JR成田線(空港支線)]]と併走し[[空港第2ビル駅]]に着く。空港第2ビル駅から終着の[[成田空港駅]]までは単線区間となり成田空港駅に到着する。 == 構想・計画 == 京成高砂駅 - 江戸川駅付近間で[[連続立体交差事業]](鉄道高架化)を進める計画がある<ref name="連立新規">{{Cite report |和書 |title=新規事業採択時評価結果(令和4年度新規着工準備箇所) |url=https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-hyouka/r4sinki/1_r3_040.pdf |publisher=国土交通省 |accessdate=2022-3-27}}</ref>。2022年度に、国から新規着工準備箇所として採択された<ref name="連立新規" />。 [[成田市]]では、京成成田駅 - 東成田駅・空港第2ビル駅間の同市吉倉地区に開院した[[国際医療福祉大学成田病院]]と共に、(仮称)吉倉駅の新設を含めたまちづくり事業構想がある<ref>{{Cite news |title=令和元年度成田市議会報告会 建設水道常任委員会【 地域公共交通網形成計画 】|url=https://www.city.narita.chiba.jp/content/000086557.pdf |date=2019-12-26 |accessdate=2019-12-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-04-13 |url=https://www.kensetsunews.com/archives/442339# |title=土屋駅・吉倉駅設置需要予測調査/4月14日まで質疑受付/成田市 |website=建設通信新聞Digital |publisher=日刊建設通信新聞社 |accessdate=2020-04-22}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Keisei Main Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[空港連絡鉄道]] ==外部リンク== *[https://zaisen.tid-keisei.jp/html/zaisen.html?line=1 京成本線] - 列車走行位置 {{京成電鉄の路線}} {{成田国際空港のアクセス}} {{デフォルトソート:けいせいほんせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|ほんせん]] [[Category:京成電鉄の鉄道路線|ほん]] [[Category:千葉県の交通]] [[Category:東京都の交通]] [[Category:成田国際空港の鉄道]]
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空飛ぶ円盤
空飛ぶ円盤(そらとぶえんばん、英:flying saucer または flying disc)は、円盤や皿などの形状をした飛行物体のことで、一般的に円盤状の未確認飛行物体(UFO)のことを指す。 物理学的・科学的常識から外れた不思議さから、異星からの宇宙船ではないかとして一般社会で大きな反響を呼び、創作物の題材としても盛んに取り上げられている。 常識では考えられない形状や動きの飛行物体とされ、宇宙人の乗り物とされる。「空飛ぶ円盤」という言葉は20世紀半ば以降に普及したが、それ以前の時代に目撃された同種と思われるものもその名で呼ぶことがある。 関連する学界は、「空飛ぶ円盤(flying saucer)」 を公式な用語として認めていない。 「UFO」とも呼ぶことがあるが、"UFO(未確認飛行物体)" は本来はアメリカ空軍やアメリカ海軍の用語であり、 正体が確認されていない飛行物体のことである。仮に、特定の空飛ぶ円盤が「宇宙人の乗り物」であると確認されば、その物体は"UFO" から"IFO(確認飛行物体)" となる。 1947年6月24日、アメリカ人実業家ケネス・アーノルドは、アメリカ合衆国西海岸ワシントン州のレーニア山付近上空を自家用機で飛行中、当時としては信じられないほどの高速で編隊飛行を行う9つの三日月形の物体を目撃したという(ケネス・アーノルド事件)。アーノルドは新聞記者の取材を受けた際、水面を "saucer(ソーサー、受け皿)" が跳ねながら飛んでゆくような独特の飛び方をしていたと語ったことから、"flying saucer" という名称が生まれた。アーノルドが saucer に譬えたのはあくまで飛び方であって形体ではなかったが、この言葉をきっかけに皿形・円盤形の謎の飛行物体というイメージが定着することになった。 もっとも、空飛ぶ円盤が異星人の宇宙船であるという説は、アーノルドの事件で語られ始めたわけではない。アメリカ人航空ジャーナリストD・E・キーホー (D.E. Keyhoe) が1949年に唱えたのが公的には最初であり、これが瞬く間に人々の関心事となり、「空飛ぶ円盤、すなわち、異星の宇宙船」という概念が普及し始めた。 「空飛ぶ円盤」は "flying saucer" の日本語訳であるとされているが、日本では第二次世界大戦中から独自の目撃例があり、その際にこの名称が発案されたと主張する研究者もいる。 米国国立公文書館は2012年に空飛ぶ円盤の機密を解除し、空飛ぶ円盤は米国空軍の極秘プロジェクトであった旨を明らかにした。空飛ぶ円盤の構造などは、米国特許2953320号などで公表されている。
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空飛ぶ円盤は、円盤や皿などの形状をした飛行物体のことで、一般的に円盤状の未確認飛行物体(UFO)のことを指す。 物理学的・科学的常識から外れた不思議さから、異星からの宇宙船ではないかとして一般社会で大きな反響を呼び、創作物の題材としても盛んに取り上げられている。
{{出典の明記|date=2020年4月30日}} {{Expand English|Flying saucer|date=2020-08}} [[ファイル:Supposed UFO, Passaic, New Jersey.jpg|thumb|230px|1952年の写真([[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ニュージャージー州]])]] [[ファイル:Walton(reconstitution).png|thumb|230px|空飛ぶ円盤にアブダクションされる(連れ去られる){{仮リンク|トラヴィス・ウォルトン|en|Travis_Walton_UFO_incident}}のイメージ]] '''空飛ぶ円盤'''(そらとぶえんばん、英:flying saucer または flying disc)は、[[円盤]]や[[皿]]などの形状をした飛行物体のことで、一般的に円盤状の[[未確認飛行物体]](UFO)のことを指す<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E7%A9%BA%E9%A3%9B%E3%81%B6%E5%86%86%E7%9B%A4-90385|title=空飛ぶ円盤|publisher=コトバンク |accessdate=2020-04-30}}</ref>。 [[物理学]]的・科学的常識から外れた不思議さから、異星からの[[宇宙船]]ではないかとして一般社会で大きな反響を呼び、創作物の題材としても盛んに取り上げられている<ref name="kotobank" />。 == 概要 == 常識では考えられない形状や動きの飛行物体とされ、宇宙人の乗り物とされる。「空飛ぶ円盤」という言葉は20世紀半ば以降に普及したが、それ以前の時代に目撃された同種と思われるものもその名で呼ぶことがある。 [[ファイル:Himmelserscheinung über Nürnberg vom 14. April 1561.jpg|thumb|250px|[[1561年のニュルンベルク上空の天文現象]]を伝える当時のニュース記事。空飛ぶ円盤の飛来だと解釈する向きもある。]] 関連する学界は、「空飛ぶ円盤(flying saucer)」 を公式な用語として認めていない<ref name="kotobank" />。 「UFO」とも呼ぶことがあるが、"'''UFO'''('''[[未確認飛行物体]]''')" は本来は[[アメリカ空軍]]や[[アメリカ海軍]]の用語であり、 正体が確認されていない飛行物体のことである。仮に、特定の空飛ぶ円盤が「[[宇宙人]]の[[乗り物]]」であると確認されば、その物体は"UFO" から"'''IFO'''('''確認飛行物体''')" となる。 == 歴史 == [[1947年]][[6月24日]]、[[アメリカ人]][[実業家]][[ケネス・アーノルド]]は、[[アメリカ合衆国西海岸]][[ワシントン州]]の[[レーニア山]]付近上空を自家用機で飛行中、当時としては信じられないほどの高速で[[編隊飛行]]を行う9つの[[三日月]]形の物体を目撃したという([[ケネス・アーノルド事件]]){{r|"kb平百_UFO"}}。アーノルドは新聞記者の取材を受けた際、水面を "[[wikt:en:saucer|saucer]](ソーサー、受け皿)" が跳ねながら飛んでゆくような独特の飛び方をしていたと語ったことから、"{{lang|en|'''flying saucer'''}}" という名称が生まれた{{r|"kb平百_UFO"}}。アーノルドが {{lang|en|saucer}} に譬えたのはあくまで飛び方であって形体ではなかったが、この言葉をきっかけに皿形・円盤形の謎の飛行物体というイメージが定着することになった。 もっとも、空飛ぶ円盤が異星人の宇宙船であるという説は、アーノルドの事件で語られ始めたわけではない。アメリカ人航空[[ジャーナリスト]]D・E・キーホー (D.E. Keyhoe) が[[1949年]]に唱えたのが公的には最初であり、これが瞬く間に人々の関心事となり、「空飛ぶ円盤、すなわち、異星の宇宙船」という概念が普及し始めた<ref name="kotobank" />。 「'''空飛ぶ円盤'''」は "flying saucer" の[[日本語訳]]であるとされているが、[[日本]]では[[第二次世界大戦]]中から独自の目撃例があり、その際にこの名称が発案されたと主張する研究者もいる<ref name="kotobank" />。 米国国立公文書館は[[2012年]]に空飛ぶ円盤の機密を解除し、空飛ぶ円盤は米国空軍の極秘プロジェクトであった旨を明らかにした<ref>{{Cite web |title=How to Build a FLYING SAUCER |url=https://declassification.blogs.archives.gov/2012/09/20/how-to-build-a-flying-saucer/ |website=The NDC Blog |date=2012-09-20 |access-date=2023-01-22 |language=en-US |first=US National |last=Archives}}</ref><ref>{{Cite web |title=Declassified: Air Force plans for a flying saucer |url=https://www.cnet.com/culture/declassified-air-force-plans-for-a-flying-saucer/ |website=CNET |access-date=2023-01-22 |language=en |first=Tim |last=Hornyak}}</ref><ref>{{Cite news |title=Declassified at Last: Air Force's Supersonic Flying Saucer Schematics |url=https://www.wired.com/2012/10/the-airforce/ |work=Wired |access-date=2023-01-22 |issn=1059-1028 |language=en-US |first=Benjamin |last=Plackett}}</ref>。空飛ぶ円盤の構造などは、米国特許2953320号などで公表されている<ref>{{Cite journal|author=小池誠|year=2022|title=空飛ぶ円盤のファクトチェック|journal=情報処理学会研究報告|volume=2022-EIP-97|issue=1|pages=1-10}}</ref>。 {{-}} == ギャラリー == * 世界初の[[サイエンス・フィクション|SF]]専門[[パルプ・マガジン|パルプマガジン]]『[[アメージング・ストーリーズ]]』 表紙 <gallery> Amazing stories 195704.jpg|1957年4月号。[[触手]]のような捕獲機で女性が円盤内部へ引き込まれようとしている。 Amazing Stories October 1957.jpg|1957年10月号。[[編隊飛行]]する空飛ぶ円盤がどこかへ向かう。旅客機のエンジンが炎上している。 Amazing stories 195712.jpg|1957年12月号。空飛ぶ円盤に乗った宇宙人達が[[ギザの大スフィンクス]]を観察している。 Amazing stories 195802.jpg|1958年3月号。地球人の攻撃を受けて撃墜される空飛ぶ円盤。 Amazing stories 196109.jpg|1961年9月号。月の峡谷を探索する空飛ぶ円盤。 </gallery> * SF専門パルプマガジン『[[ワンダー・ストーリーズ]]』 表紙 <gallery> Science Wonder Stories Nov 1929 - flying saucer.jpg|1929年11月号。[[フランク・R・パウル]]が空飛ぶ円盤の凶行を描いている。 Air wonder stories 192911.jpg|1929年11月号。上部が都市になっていて、夥しい数の葉巻形母船が周囲を飛び交っている。 Air wonder stories 193004.jpg|1930年4月号。飛行機を真っ二つにしてしまう[[丸鋸]]形の空飛ぶ円盤。 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2|refs= <!--※以下は辞事典の出典。--> <ref name="kb平百_UFO">{{Cite web |title=UFO |url=https://kotobank.jp/word/UFO-144947 |author=日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-04-30 }}</ref> }} == 関連項目 == {{Wiktionary|:en:flying saucer}} * [[虚舟]] - 日本の民俗伝承に登場する円盤型の飛行物体。 * [[ジョージ・アダムスキー]] - 空飛ぶ円盤に関する著書がベストセラーとなった人物。 * {{仮リンク|フライングソーサー (菓子)|en|flying saucer (confectionery)}} - ベルギーやイギリスの伝統菓子。文字通り空飛ぶ円盤のような形をしている。 * [[XF5U (航空機)]] - [[アメリカ海軍]]の[[艦上戦闘機]]。[[円盤翼]]を用いていることから「空飛ぶ円盤」と呼ばれることがある。 * {{仮リンク|アブロカー|en|Avro Canada VZ-9 Avrocar}} - アメリカ軍が[[冷戦]]時代に開発していた空飛ぶ円盤型の航空機。実用化に至らず開発中止となった。 {{Paranormal-stub}} {{DEFAULTSORT:そらとふえんはん}} [[Category:未確認飛行物体|*]]
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株式会社 (日本)
株式会社(かぶしきがいしゃ, ローマ字表記: Kabushiki-kaisha)は、日本の会社法に基づいて設立される会社形態の1つで、株式と呼ばれる細分化された社員権を有する有限責任の社員(株主)のみから成るものの事である。出資者たる株主は出資額に応じて株式を取得し、配当により利益を得る。広義には外国における同種または類似の会社形態を含む(会社法823条)が、これについては株式会社を参照。 株式会社に出資することにより株式を有する者(すなわち株式会社の社員)を株主という。株主は購入などで手に入れた株式の数に応じて、株式会社の経営に関与する事ができる(経営参加権)。具体的には株式会社の意思決定会議である株主総会において、原則として株式の保有数、またはその保有単元数に応じて議決権を持つ(株主平等の原則)。 日本の株式会社に対応する同様の構造の会社形態は、日本以外の世界各国にも存在する。以下に例を挙げる。 なお、日本の会社は株式会社以外に有限会社(現在は新設不可)、合資会社、合名会社、合同会社があるが、株式会社の会社数はこれらとは桁違いに突き抜けている。 株式会社の表記については、法務省日本法令外国語データベースの会社法第六条第二項において、 Kabushiki-Kaisha (連濁せずに、かぶしき 「か」いしゃ)とローマ字表記されている。ただし外国語データベースは参考資料であって、法的効力は有せず、また公定訳でもない。 また、省略する場合、「(株)」(銀行振込の場合は「カ」)となる。英文では「"KK"」(Kabusiki Kaisha)、また「Corp.」、「Inc.」、「Ltd.」、「Co., Ltd.」などが使われる(後述)。 なお、商法はドイツ法を参考に立法されたため、株式会社もドイツの株式会社(AG)を参考に立法された。もっとも、第二次世界大戦後の連合国軍占領下で、商法の株式会社に関する部分は占領当局によりアメリカ合衆国の1933年イリノイ州会社法(Illinois Business Corporation Act of 1933)に基づく全面改訂がなされ、その後もアメリカ法の強い影響を受けて幾度もの改正がなされて現在に至っているが、日本法とアメリカ法の間には差異があるため、アメリカのビジネス・コーポレーションと日本の株式会社は異なる特徴を有している。専門職として、1872年(明治5年)に司法書士が創設され、設立およびそれ以後の権利義務の変動に関する登記(商業登記)のための書類の作成、登記の申請などを業務として行っている。 株式会社は、その本店の所在地において設立の登記をすることによって成立する(49条)。法人格は準則主義により、法定の手続きが履行されたときに付与される。 会社法第2編第1章 設立に規定がある。 株式会社の設立の企画者として定款に署名する者をいう。 株式会社の成立後は、錯誤、又は詐欺若しくは強迫を理由として設立時発行株式の引受けの無効又は取消しをすることができない(51条)。 擬似発起人とは、募集広告等で設立を賛助する者をいい、発起人とみなされる(103条4項)。 定款とは、会社の組織活動に関する根本規則(実質的意義の定款)、およびそのような規則を記載した書面・電磁気的記録(形式的意義の定款)のことを指す。 株式会社を設立するためには、発起人が定款を作成、署名・押印しなければならない(26条)。 定款の記載事項は必ず記載しなければならない絶対的記載事項と、記載しなくてもいいが記載しなければその記載の効力が認められない相対的記載事項、定款以外の規則でも効力を及ぼすが定款に記載することもできる任意的記載事項がある。(詳細は定款を参照)。 発起人が作成した定款は公証人によって認証される。また、相対的記載事項の一部は変態設立事項といい、検査役の調査が必要とされる。 商号には「株式会社」をどこかに含まなければならない。一般に、「株式会社」は先頭(株式会社○○、いわゆる「前株」)か末尾(○○株式会社、いわゆる「後株」)に置かれ、しばしば(株)と略記される(法的には、○○株式会社□□のような法人名も認められるが、実例はごく少ない)。銀行振込の場合、前株は「カ)」、後株は「(カ」と表記される。 発起人の全員の同意が必要である(32条)。 発起人は、設立時発行株式の引受け後遅滞なく、その引き受けた設立時発行株式につき、その出資に係る金銭の全額を払い込み、又はその出資に係る金銭以外の財産の全部を給付しなければならない(34条)。 設立時役員等の選任は、発起設立では発起人の議決権の過半数をもって決定し(40条)、募集設立では、創立総会の決議によって行わなければならない(88条)。 定款で設立時役員等として定められた者は、出資の履行が完了した時に、それぞれ設立時役員等に選任されたものとみなす(38条)。 設立時取締役・設立時監査役は、選任後遅滞なく、設立事項を調査しなければならない(46条、93条)。 本店の所在地において設立の登記をすることによって成立する(49条)。成立の日における貸借対照表を作成しなければならない(435条)。株式会社の設立の登記(911条) 会社の設立の無効は、会社の成立の日から2年以内に訴えをもってのみ主張することができる(828条1項1号)。 会社の設立の無効の訴えは、設立する会社を被告として訴え(834条)、認容判決が確定したときは、将来に向かってその効力を失う(839条)。 株主は、その有する株式につき次に掲げる権利その他会社法の規定により認められた権利を有する(105条1項)。 株式会社は、その発行する株式又はその処分する自己株式を引き受ける者の募集をしようとするときは、その都度、募集株式について次に掲げる事項を定めなければならない(199条1項)。 原則として、この事項の決定は、株主総会の決議によらなければならない(199条2項)。この決議は、当該株主総会において議決権を行使することができる株主の議決権の過半数(三分の一以上の割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の三分の二(これを上回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合)以上に当たる多数をもって行わなければならない(309条2項5号)。 原則として、募集に応じて募集株式の引受けの申込みをする者は、次に掲げる事項を記載した書面を株式会社に交付しなければならない(203条2項)。 原則として、株式会社は、申込者の中から募集株式の割当てを受ける者を定め、かつ、その者に割り当てる募集株式の数を定めなければならない(204条1項)。 原則として、募集株式の引受人は、第199条第1項第4号の期日又は同号の期間内に、株式会社が定めた銀行等の払込みの取扱いの場所において、それぞれの募集株式の払込金額の全額を払い込まなければならない(208条1項)。 株式会社は法人であり、その意思決定や行為を実際に行うのは、かかる権限を有する機関である。 日本のかつての商法における株式会社は、従来(1950年(昭和25年)改正以降)、全株主により構成される株主総会の下、株主総会により選任された取締役および取締役により構成される取締役会、取締役会により選任される代表取締役、ならびに株主総会が選任する監査役によって構成される。 日本の株式会社は、代表取締役の権能が非常に強く、株主が軽視されがちであるとの主に欧米の機関投資家からの批判を受け、コーポレートガバナンスの観点から、米法型の委員会等設置会社が2003年(平成15年)4月、株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律(商法特例法)改正により規定された。委員会等設置会社に対して、従来の株式会社を呼称する場合には監査役設置会社といった。 2005年(平成17年)の会社法の成立により、従来の有限会社の枠組みに属するタイプの会社が株式会社の基本的な形態とされることになったため、取締役会の設置も任意になった。その他会社の機関構造の自由度は飛躍的に増加した。また委員会等設置会社は委員会設置会社に名称が改められた。 現行法では、指名委員会、監査委員会および報酬委員会を置く株式会社を指名委員会等設置会社という(2条12号)。 一 執行役等の職務の執行の監査および監査報告の作成 二 株主総会に提出する会計監査人の選任および解任並びに会計監査人を再任しないことに関する議案の内容の決定 株式会社は、当該株式会社を除く株主に対し、剰余金の配当をすることができる(453条)。 株式会社は、事業の全部の譲渡等をする場合には、その行為がその効力を生ずる日の前日までに、株主総会の決議によって、その行為に係る契約の承認を受けなければならない(467条1項)。 株式会社が、活動を止め財産の整理し、清算することをいい、法人格は、合併の以外では清算手続の完了まで存続する。 清算中の株式会社は清算株式会社と呼ぶ。清算が結了するまでは、清算株式会社は、株式会社として(解散の決議後なども)存続し、定期株主集会も開かれ(491条)、原則として清算結了の登記を行うことで、株式会社は消滅する。 日本の株式会社に対応する英語での呼称には、以下のようなものがある。 なお、以上とは別に、kabushiki kaishaと呼ぶこともある。特に英文契約書などではこの表現が好まれる。 英語表記の場合には、「株式会社」をローマ字表記にして頭文字を取った「KK」(kabushiki kaisha)の他、米国や英国に倣って「Corp.」、「Inc.」、「Ltd.」とすることが多い。日本においては Co., Ltd. の形もよく使われている。最近では、カンマを外した「Co. Ltd.」の表記を採用する企業もある。また、多国籍企業ではAIGのように日本国外の本社と日本法人を区別するために、前者を「Inc.」など英語の略称、後者を「KK」として区別に用いている例もある。 外国企業等との取引の際に便利なように、英文での商号を定めている日本の株式会社もあり、定款に定めることもある。ただし、日本に英文商号を規制する法律や登記する制度はない。日本の株式会社が定める英文商号の中で、「株式会社」の翻訳として通常使われているのは、以下の4種類である(実例とともに示す)。 なお、英語圏には日本の会社の種類を表す語を前に置く習慣がないため、「株式会社○○」(前株)であっても"XXX Co., LTD"などのように後ろに置くのが普通である。 英語では「Kabusiki Kaisha」の略としてKKという記号が使われることもあり、Unicodeなどではこの記号を「全角KK」として定めている。また日本語では「全角括弧付き株」の(株)記号も使われている。
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Ltd.」の表記を採用する企業もある。また、多国籍企業ではAIGのように日本国外の本社と日本法人を区別するために、前者を「Inc.」など英語の略称、後者を「KK」として区別に用いている例もある。", "title": "英語" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "外国企業等との取引の際に便利なように、英文での商号を定めている日本の株式会社もあり、定款に定めることもある。ただし、日本に英文商号を規制する法律や登記する制度はない。日本の株式会社が定める英文商号の中で、「株式会社」の翻訳として通常使われているのは、以下の4種類である(実例とともに示す)。", "title": "英語" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、英語圏には日本の会社の種類を表す語を前に置く習慣がないため、「株式会社○○」(前株)であっても\"XXX Co., LTD\"などのように後ろに置くのが普通である。", "title": "英語" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "英語では「Kabusiki Kaisha」の略としてKKという記号が使われることもあり、Unicodeなどではこの記号を「全角KK」として定めている。また日本語では「全角括弧付き株」の(株)記号も使われている。", "title": "記号" } ]
株式会社は、日本の会社法に基づいて設立される会社形態の1つで、株式と呼ばれる細分化された社員権を有する有限責任の社員(株主)のみから成るものの事である。出資者たる株主は出資額に応じて株式を取得し、配当により利益を得る。広義には外国における同種または類似の会社形態を含む(会社法823条)が、これについては株式会社を参照。
{{law}} '''株式会社'''(かぶしきがいしゃ、ローマ字表記: Kabushiki-kaisha)は、[[日本]]の[[会社法]]に基づいて設立される[[会社]]形態の1つで、[[株式]]と呼ばれる細分化された[[社員権]]を有する[[有限責任]]の[[社員]]([[株主]])のみから成るものの事である。[[出資]]者たる株主は出資額に応じて[[株式]]を取得し、[[配当]]により[[利益]]を得る。広義には外国における同種または類似の会社形態を含む([[b:会社法第823条|会社法823条]])が、これについては[[株式会社]]を参照。 == 概要 == 株式会社に[[出資]]することにより[[株式]]を有する者(すなわち株式会社の[[社員]])を[[株主]]という。株主は[[購入]]などで手に入れた株式の数に応じて、株式会社の[[経営]]に関与する事ができる([[経営参加権]])。具体的には株式会社の[[意思]]決定会議である[[株主総会]]において、原則として株式の保有数、またはその保有単元数に応じて[[株主の議決権|議決権]]を持つ([[株主平等の原則]])。 [[日本]]の株式会社に対応する同様の構造の会社形態は、日本以外の世界各国にも存在する。以下に例を挙げる。 *[[アメリカ合衆国]]各州における「{{読み仮名|{{lang|en-US|[[:en:business corporation|business corporation]]}}|ビジネス・[[コーポレーション]]}}」 *イギリスにおける「{{読み仮名|{{lang|en-UK|[[:en:company limited by shares|company limited by shares]]}}|カンパニー・リミティド・バイ・シェアーズ}}」(株式有限責任会社) *[[ドイツ]]における「{{読み仮名|{{lang|de-DE|[[株式会社 (ドイツ)|Aktiengesellschaft]]}}|アクティエンゲーゼルシャフト}}」(直訳すると「株式会社」) *[[フランス]]における「{{読み仮名|{{lang|fr-FR|société anonyme}}|ソシエテ・アノニム}}」(直訳すると「[[匿名組合|匿名会社]]」) なお、日本の会社は株式会社以外に'''[[有限会社]]'''(現在は新設不可)、'''[[合資会社]]'''、'''[[合名会社]]'''、'''[[合同会社]]'''があるが、株式会社の会社数はこれらとは桁違いに突き抜けている。 == 表記方法 == 株式会社の表記については、[[法務省 (日本)|法務省]]日本法令外国語データベースの[[会社法]]<ref name="外国語訳会社法">[http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?ft=2&re=01&dn=1&yo=%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E6%B3%95&x=0&y=0&ia=03&ja=04&ph=&ky=&page=5 日本法令外国語訳データベースシステム「会社法(第一編第二編第三編第四編)」](2022年2月5日閲覧、[[日本法令外国語訳データベースシステム]] [http://www.japaneselawtranslation.go.jp/]、[[法務省 (日本)]])</ref>第六条第二項において、 Kabushiki-Kaisha ([[連濁]]せずに、かぶしき 「か」いしゃ)と[[ローマ字]]表記されている。ただし外国語データベースは参考資料であって、法的効力は有せず、また公定訳でもない。 また、[[省略]]する場合、「'''(株)'''」([[振込|銀行振込]]の場合は「カ」<ref group="注釈">「株式会社」が前につく”前株”の場合は「カ)会社名」、後につく”後株”の場合は「会社名(カ」</ref>)となる。[[英文]]では「'''"KK"'''」('''K'''abusiki '''K'''aisha)、また「'''[[コーポレーション|Corp.]]'''」、「'''[[:en:Incorporation (business)|Inc.]]'''」、「'''[[:en:Limited company|Ltd.]]'''」、「'''Co., Ltd.'''」などが使われる(後述)。 == 起源 == ;[[日本]]初の株式会社 :*'''[[第一銀行|第一国立銀行]]''' - [[1872年]]([[明治]]5年)の[[国立銀行条例]]に基づき、[[1873年]](明治6年)[[7月20日]]に設立された。 :*'''[[日本郵船]]''' - [[1893年]]([[明治]]26年)、日本で最初の一般的な会社法規である[[商法]]に基づき設立された株式会社。 なお、商法は[[ドイツ法]]を参考に立法されたため、株式会社もドイツの[[株式会社 (ドイツ)|株式会社(AG)]]を参考に立法された。もっとも、第二次世界大戦後の[[連合国軍占領下の日本|連合国軍占領下]]で、商法の株式会社に関する部分は占領当局によりアメリカ合衆国の1933年[[イリノイ州]]会社法(Illinois Business Corporation Act of 1933)に基づく全面改訂がなされ<ref name=ramseyer1>Ramseyer, Mark, and Minoru Nakazato, ''Japanese Law: An Economic Approach'' (Chicago: University of Chicago Press, 1999), p. 111.</ref>、その後も[[アメリカ法]]の強い影響を受けて幾度もの改正がなされて現在に至っているが、日本法とアメリカ法の間には差異があるため、アメリカのビジネス・コーポレーションと日本の株式会社は異なる特徴を有している。専門職として、1872年(明治5年)に[[司法書士]]が創設され、設立およびそれ以後の権利義務の変動に関する[[登記]]([[商業登記]])のための書類の作成、登記の申請などを業務として行っている。 == 設立 == 株式会社は、その[[本店]]の所在地において設立の[[登記]]をすることによって成立する([[b:会社法第49条|49条]])。[[法人格]]は[[準則主義]]により、法定の手続きが履行されたときに付与される。 [[b:第2編第1章 設立 (コンメンタール会社法)|会社法第2編第1章]] 設立に規定がある。 * 第1節 総則([[b:会社法第25条|25条]]) * 第2節 [[定款]]の作成([[b:会社法第26条|26条]]-[[b:会社法第31条|31条]]) * 第3節 出資([[b:会社法第32条|32条]]-[[b:会社法第37条|37条]]) * 第4節 設立時役員の選任及び解任([[b:会社法第38条|38条]]-[[b:会社法第45条|45条]]) * 第5節 設立時取締役等による調査([[b:会社法第46条|46条]]) * 第6節 設立時代表取締役の選定等([[b:会社法第47条|47条]]・[[b:会社法第48条|48条]]) * 第7節 株式会社の成立([[b:会社法第49条|49条]]-[[b:会社法第51条|51条]]) * 第8節 発起人等の責任([[b:会社法第52条|52条]]-[[b:会社法第56条|56条]]) * 第9節 募集による設立([[b:会社法第32条|57条]]-[[b:会社法第102条|102条]]) ===設立方法=== ;発起設立:発起人が設立時発行株式の全部を引き受ける方法([[b:会社法第25条|25条]]1項1号)。 ;募集設立:発起人が設立時発行株式を引き受けるほか、設立時発行株式を引き受ける者の募集をする方法(25条1項2号)。 === 発起人 === 株式会社の設立の企画者として定款に署名する者をいう。 株式会社の成立後は、錯誤、又は詐欺若しくは強迫を理由として設立時発行株式の引受けの無効又は取消しをすることができない([[b:会社法第51条|51条]])。 擬似発起人とは、募集広告等で設立を賛助する者をいい、発起人とみなされる([[b:会社法第103条|103条]]4項)。 *責任 **不足額填補責任([[b:会社法第52条|52条]]) **任務懈怠責任([[b:会社法第53条|53条]]) **責任の免除([[b:会社法第55条|55条]]) **会社不成立の責任([[b:会社法第56条|56条]]) **募集設立の発起人の責任等([[b:会社法第103条|103条]]) === 定款の作成 === [[定款]]とは、会社の組織活動に関する根本規則(実質的意義の定款)、およびそのような規則を記載した書面・電磁気的記録(形式的意義の定款)のことを指す。 株式会社を設立するためには、発起人が定款を作成、署名・押印しなければならない([[b:会社法第26条|26条]])。 定款の記載事項は必ず記載しなければならない'''絶対的記載事項'''と、記載しなくてもいいが記載しなければその記載の効力が認められない'''相対的記載事項'''、定款以外の規則でも効力を及ぼすが定款に記載することもできる'''任意的記載事項'''がある。(詳細は[[定款#株式会社|定款]]を参照)。 発起人が作成した定款は公証人によって認証される。また、相対的記載事項の一部は'''[[変態設立事項]]'''といい、検査役の調査が必要とされる。 ==== 商号 ==== [[商号]]には「株式会社」をどこかに含まなければならない。一般に、「株式会社」は先頭(株式会社○○、いわゆる「前株」)か末尾(○○株式会社、いわゆる「後株」)に置かれ、しばしば'''(株)'''と略記される(法的には、○○株式会社□□のような法人名も認められるが、実例はごく少ない)。[[銀行振込]]の場合、前株は「カ)」、後株は「(カ」と表記される。 === 設立時発行株式 === 発起人の全員の同意が必要である([[b:会社法第32条|32条]])。 *発行可能株式総数の定め等([[b:会社法第37条|37条]]) :公開会社は、設立時発行株式の総数を、発行可能株式総数の四分の一以下にすることができない。 *設立時発行株式を引き受ける者の募集([[b:会社法第57条|57条]]) ===出資の履行=== 発起人は、設立時発行株式の引受け後遅滞なく、その引き受けた設立時発行株式につき、その出資に係る金銭の全額を払い込み、又はその出資に係る金銭以外の財産の全部を給付しなければならない([[b:会社法第34条|34条]])。 *設立時発行株式の株主となる権利の喪失([[b:会社法第36条|36条]]) :期日までに出資の履行をしないときは、当該出資の履行をすることにより設立時発行株式の株主となる権利を失う。 *設立時募集株式の払込金額の払込み([[b:会社法第63条|63条]]) === 設立時役員等 === 設立時役員等の選任は、発起設立では発起人の議決権の過半数をもって決定し([[b:会社法第40条|40条]])、募集設立では、創立総会の決議によって行わなければならない([[b:会社法第88条|88条]])。 定款で設立時役員等として定められた者は、出資の履行が完了した時に、それぞれ設立時役員等に選任されたものとみなす([[b:会社法第38条|38条]])。 設立時取締役・設立時監査役は、選任後遅滞なく、設立事項を調査しなければならない([[b:会社法第46条|46条]]、[[b:会社法第93条|93条]])。 === 創立総会 === *募集設立の場合に発起人が、設立時募集株式の払い込み後招集する、設立時株主の総会([[b:会社法第65条|65条]])。 *創立総会の決議([[b:会社法第73条|73条]]) :創立総会の決議は、当該創立総会において議決権を行使することができる設立時株主の議決権の過半数であって、出席した当該設立時株主の議決権の2/3以上に当たる多数をもって行う。 *延期又は続行の決議([[b:会社法第80条|80条]]) *種類創立総会([[b:会社法第84条|84条]]) === 成立 === 本店の所在地において設立の登記をすることによって成立する(49条)。成立の日における[[貸借対照表]]を作成しなければならない([[b:会社法第435条|435条]])。株式会社の設立の登記([[b:会社法第911条|911条]]) === 設立無効の訴え=== 会社の設立の無効は、会社の成立の日から2年以内に訴えをもってのみ主張することができる([[b:会社法第828条|828条]]1項1号)。 会社の設立の無効の訴えは、設立する会社を被告として訴え([[b:会社法第834条|834条]])、認容判決が確定したときは、将来に向かってその効力を失う([[b:会社法第839条|839条]])。 ==株式== 株主は、その有する株式につき次に掲げる権利その他会社法の規定により認められた権利を有する(105条1項)。 #[[剰余金]]の配当を受ける権利 #残余財産の分配を受ける権利 #株主総会における議決権 ===募集株式の発行=== ====募集事項の決定==== 株式会社は、その発行する株式又はその処分する自己株式を引き受ける者の募集をしようとするときは、その都度、募集株式について次に掲げる事項を定めなければならない([[b:会社法第199条|199条]]1項)。 #募集株式の数 #募集株式の払込金額またはその算定方法 #金銭以外の財産を出資の目的とするときは、その旨並びに当該財産の内容および価額 #募集株式と引換えにする金銭の払込みまたは前号の財産の給付の期日またはその期間 #株式を発行するときは、増加する資本金および資本準備金に関する事項 原則として、この事項の決定は、株主総会の決議によらなければならない(199条2項)。この決議は、当該株主総会において議決権を行使することができる株主の議決権の過半数(三分の一以上の割合を定款で定めた場合にあっては、その割合以上)を有する株主が出席し、出席した当該株主の議決権の三分の二(これを上回る割合を定款で定めた場合にあっては、その割合)以上に当たる多数をもって行わなければならない([[b:会社法309条|309条]]2項5号)。 ====募集株式の割当て==== 原則として、募集に応じて募集株式の引受けの申込みをする者は、次に掲げる事項を記載した書面を株式会社に交付しなければならない([[b:会社法第203条|203条]]2項)。 #申込みをする者の氏名または名称および住所 #引き受けようとする募集株式の数 原則として、株式会社は、申込者の中から募集株式の割当てを受ける者を定め、かつ、その者に割り当てる募集株式の数を定めなければならない([[b:会社法第204条|204条]]1項)。 ====出資の履行==== 原則として、募集株式の引受人は、第199条第1項第4号の期日又は同号の期間内に、株式会社が定めた銀行等の払込みの取扱いの場所において、それぞれの募集株式の払込金額の全額を払い込まなければならない([[b:会社法第208条|208条]]1項)。 {{See also|募集株式}} ==新株予約権== {{See|新株予約権}} == 機関 == 株式会社は法人であり、その意思決定や行為を実際に行うのは、かかる権限を有する[[機関 (法)|機関]]である。 === 変遷 === 日本のかつての商法における株式会社は、従来([[1950年]]([[昭和]]25年)改正以降)、全株主により構成される[[株主総会]]の下、株主総会により選任された[[取締役]]および取締役により構成される[[取締役会]]、取締役会により選任される代表取締役、ならびに株主総会が選任する[[監査役]]によって構成される。 日本の株式会社は、代表取締役の権能が非常に強く、株主が軽視されがちであるとの主に欧米の[[機関投資家]]からの批判を受け、[[コーポレートガバナンス]]の観点から、[[アメリカ法|米法]]型の委員会等設置会社が[[2003年]]([[平成]]15年)[[4月]]、[[株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律]](商法特例法)改正により規定された。委員会等設置会社に対して、従来の株式会社を呼称する場合には'''[[監査役設置会社]]'''といった。 [[2005年]]([[平成]]17年)の会社法の成立により、従来の[[有限会社]]の枠組みに属するタイプの会社が株式会社の基本的な形態とされることになったため、取締役会の設置も任意になった。その他会社の機関構造の自由度は飛躍的に増加した。また委員会等設置会社は'''委員会設置会社'''に名称が改められた。 現行法では、指名委員会、監査委員会および報酬委員会を置く株式会社を[[指名委員会等設置会社]]という(2条12号)。 === 種類 === ; 株主 : 株式会社の出資者にして究極的な所有者。その所有形態は、共有であり、狭義の共有では合有である。 : 株主総会における議決権の行使の他、[[会計帳簿|帳簿閲覧請求権]]や[[株主の差止請求|差止請求権]]、[[株主代表訴訟]]などを通じて会社の経営を監視することができる。多数の株主により構成されることを想定され(例外として、日本特有の小規模な株式会社や、一人会社がある)、株主ら自身によって会社を運営してゆくのは効率的とはいえない。そこで日常的な業務については取締役会、およびさらにそこから日常業務を委任された代表取締役といった経営陣が執り行う。 : 株式会社は株式を発行して出資を募り、株主は転々流通する株式を購入することによって会社に出資することを目的として設計された制度である。法律学において'''[[社員]]'''とは、社団の構成員(株式会社においては「株主」)のことを指す言葉であり、一般的な用法である'''従業員'''のことを指す言葉ではない<ref group="注釈">会社は[[社団]]であり、社団の構成員を社員という。社団法人、医療法人社団などにおいても同様である。</ref>。従業員とは一般に、会社との間で雇用契約を締結している者を言い、[[社団]]構成員としての<!--本来的な-->意味の社員とは別の概念である。 ;[[株主総会]] :株主総会は、会社法に規定する事項および株式会社の組織、運営、管理その他株式会社に関する一切の事項について決議をすることができる([[b:会社法第295条|295条]]1項)。取締役会設置会社においては、株主総会は、会社法に規定する事項および定款で定めた事項に限り、決議をすることができる(295条2項)。 :役員(取締役、会計参与および監査役)および会計監査人は、株主総会の決議によって選任する([[b:会社法第329条|329条]]1項)。 :会社の日常の業務は、株主総会において選任された取締役で構成する取締役会に委任される(「[[所有と経営の分離]]」){{要出典|date=2020年6月}}。 ; 取締役 :取締役は、定款に別段の定めがある場合を除き、株式会社(取締役会設置会社を除く。)の業務を執行する([[b:会社法第348条|348条]]1項)。 :株式会社における取締役は取締役会を構成し、意思決定に参加する{{要出典|date=2020年6月}}。 :のみで、取締役会で決定されたことを具体的に執行するのは'''代表取締役'''、'''業務担当取締役'''らである{{要出典|date=2020年6月}}。 ; [[取締役会]] : 取締役による合議体。 : 取締役会は、次に掲げる職務を行う([[b:会社法第362条|362条]]2項)。 #取締役会設置会社の業務執行の決定 #取締役の職務の執行の監督 #代表取締役の選定および解職<!--なお商法において「社長」という肩書は規定されておらず、一般社会においては複数の代表取締役の内、その序列に応じて「社長」「専務」などの役職を与えているようである。現行商法262条を解釈すると、「社長」「専務取締役」は会社を代表する権限を有する役職と読める--> : [[2005年]]([[平成]]17年)成立の会社法においては、取締役会は任意の設置機関となった。これは従来の有限会社の機関構造が会社法における株式会社の基本的な機関構造とされたことによる。 ; [[会計参与]] : 会計参与は、取締役と共同して、[[計算書類]]およびその附属明細書、臨時計算書類並びに連結計算書類を作成する([[b:会社法第374条|374条]]1項)。[[税理士]]などが務める。 ;[[監査役]] :監査役は、取締役(会計参与設置会社にあっては、取締役および会計参与)の職務の執行を監査する([[b:会社法第381条|381条]]1項)。 :監査役は、取締役が不正の行為をし、若しくは当該行為をするおそれがあると認めるとき、又は法令若しくは定款に違反する事実若しくは著しく不当な事実があると認めるときは、遅滞なく、その旨を取締役(取締役会設置会社にあっては、取締役会)に報告しなければならない([[b:会社法第382条|382条]]1項)。 :会社の業務が適正に行われているかどうかを[[監査]]し、会社と株主の利益を保護する役割を負う{{要出典|date=2020年6月}}。 ;監査役会 :すべての監査役で構成される組織。 :監査役会は、次に掲げる職務を行う。ただし、下記3.の決定は、監査役の権限の行使を妨げることはできない([[b:会社法第390条|390条]]2項)。 #監査報告の作成 #常勤の監査役の選定および解職 #監査の方針、監査役会設置会社の業務および財産の状況の調査の方法その他の監査役の職務の執行に関する事項の決定 :公開会社かつ大会社では監査役会か監査委員会が必ず設置される。 ; [[会計監査人]] : 会計監査人は、株式会社の計算書類およびその附属明細書、臨時計算書類並びに連結計算書類を監査する([[b:会社法第396条|396条]]1項)。大会社・指名委員会等設置会社では必ずおかれる。[[公認会計士]]か[[監査法人]]が務める。 ;監査等委員会 ; 指名委員会 : 指名委員会は、株主総会に提出する取締役の選任および解任に関する議案の内容を決定する([[b:会社法第404条|404条]]1項)。 ; 監査委員会 : 監査委員会は、次に掲げる職務を行う(404条2項)。 一 執行役等の職務の執行の監査および監査報告の作成 二 株主総会に提出する会計監査人の選任および解任並びに会計監査人を再任しないことに関する議案の内容の決定 ; 報酬委員会 : 報酬委員会は、執行役等の個人別の報酬等の内容を決定する(404条3項)。 ;[[執行役]] : 業務の決定・執行を行う。 ; 検査役 ==計算== 株式会社は、当該株式会社を除く株主に対し、[[剰余金]]の[[配当]]をすることができる([[b:会社法第453条|453条]])。 ==事業の譲渡等== 株式会社は、事業の全部の譲渡等をする場合には、その行為がその効力を生ずる日の前日までに、株主総会の決議によって、その行為に係る契約の承認を受けなければならない(467条1項)。 {{See also|事業譲渡}} == 解散 == 株式会社が、活動を止め財産の整理し、清算することをいい、法人格は、合併の以外では[[清算]]手続の完了まで存続する。 *解散事由([[b:会社法第471条|471条]]) # [[定款]]で定めた存続期間の満了 # 定款で定めた解散の事由の発生 # [[株主総会]]の特別決議 # [[合併 (企業)|合併]](合併により当該株式会社が消滅する場合に限る。) # [[破産手続開始決定]] # 解散命令([[b:会社法第824条|824条]])又は解散請求([[b:会社法第833条|833条]])による解散を命ずる裁判 :株主総会の決議による解散:[[2002年]]([[平成]]14年)の[[雪印食品]]株式会社 *[[休眠会社]]のみなし解散([[b:会社法第472条|472条]]) *株式会社の継続([[b:会社法第473条|473条]]) === 清算 === 清算中の株式会社は清算株式会社と呼ぶ。清算が結了するまでは、清算株式会社は、株式会社として(解散の決議後なども)存続し、定期株主集会も開かれ([[b:会社法第491条|491条]])、原則として清算結了の登記を行うことで、株式会社は消滅する。 *解散した株式会社の合併等の制限([[b:会社法第474条|474条]]) *清算からの除斥([[b:会社法第503条|503条]]) ;特別清算 :清算手続の特則として、清算中の株式会社に債務超過の疑いがある場合などには、倒産処理手続の一種と分類される特別清算の手続が利用されることとなる。 :[[会社法]](平成17年法律第86号)[[b:第2編第9章 清算 (コンメンタール会社法)#2|第2編第9章第2節]]第1款により規律され、解散して'''清算手続に入った株式会社'''について、清算の遂行に著しい支障を来す事情がある場合や債務超過の疑いがある場合に、[[清算人]]が裁判所の監督の下で清算を行う手続である。会社法に組み込まれている手続であり独立した[[法典]]が存在しないが、倒産四法制の一つとして位置づけられている。破産手続と異なり、原則として従前の清算人がそのまま清算手続を行う。 == 関連する法律 == * [[会社法]](第2編 株式会社で規定されている) **[[b:第2編第1章 設立 (コンメンタール会社法)|第1章]] [[設立]] **[[b:第2編第2章 株式 (コンメンタール会社法)|第2章]] [[株式]] **[[b:第2編第3章 新株予約権 (コンメンタール会社法)|第3章]] [[新株予約権]] **[[b:第2編第4章 機関 (コンメンタール会社法)|第4章]] [[機関]] *** 第1節 [[株主総会]]及び種類株主総会 *** 第2節 株主総会以外の機関の設置 *** 第3節 [[会社役員|役員]]及び[[会計監査人]]の選任及び解任 *** 第4節 [[取締役]] *** 第5節 [[取締役会]] *** 第6節 [[会計参与]] *** 第7節 [[監査役]] *** 第8節 [[監査役会]] *** 第9節 [[会計監査人]] *** 第9節の2 監査等委員会 *** 第10節 指名委員会等及び[[執行役]] *** 第11節 役員等の[[損害賠償責任]] **[[b:第2編第5章 計算等 (コンメンタール会社法)|第5章]] 計算等 **[[b:第2編 株式会社 (コンメンタール会社法)#6|第6章]] [[定款|定款の変更]] **[[b:第2編 株式会社 (コンメンタール会社法)#7|第7章]] [[事業譲渡|事業の譲渡等]] **[[b:第2編 株式会社 (コンメンタール会社法)#8|第8章]] [[解散]] **[[b:第2編第9章 清算 (コンメンタール会社法)|第9章]] [[清算]] == 英語 == 日本の株式会社に対応する[[英語]]での呼称には、以下のようなものがある。 # stock company - [[イギリス]]風の直訳。比較的標準的な訳語で、政府による[http://www.japaneselawtranslation.go.jp/dict/list?re=01&ft=1&dn=1&ky=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE&co=1&x=34&y=13 『法令用語日英標準対訳辞書』]および[http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail/?ft=2&re=01&dn=1&yo=%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E6%B3%95&x=0&y=0&ia=03&ja=04&ph=&ky=&page=5 『会社法』第一編の英訳](公式訳ではない)でも採用されている<ref>法務省:日本法令外国語訳データベースシステム公式ページ、[[2022年]](令和4年)[[2月5日]]閲覧。</ref>。 # stock corporation - [[アメリカ]]での、[[株式]]を発行する[[コーポレーション]]を指す用語である。 # business corporation - アメリカで、[[営利]]目的のコーポレーションを指すのに用いられる表現である。 # joint-stock company - [[英米法]]に存在する概念で、かつ、直訳に近い。実際に[[大陸法]]諸国の株式会社の訳語として使われることが多い。ただし、英米いずれも株式会社とは似て非なる概念であり、誤解を招くため避けるべきとの指摘がある。 なお、以上とは別に、kabushiki kaishaと呼ぶこともある。特に英文契約書などではこの表現が好まれる。 === 商号の英訳 === 英語表記の場合には、「株式会社」を<!-- そのまま -->ローマ字表記にして頭文字を取った「KK」({{lang|ja-Latn|kabushiki kaisha}})の他、米国や英国に倣って「{{lang|en|Corp.}}」、「{{lang|en|Inc.}}」、「{{lang|en|Ltd.}}」とすることが多い。日本においては {{lang|en|Co., Ltd.}} の形もよく使われている。最近では、[[カンマ]]を外した「{{lang|en|Co. Ltd.}}」の表記を採用する企業もある。また、[[多国籍企業]]では[[アメリカン・インターナショナル・グループ|AIG]]のように日本国外の[[本社]]と[[日本法人]]を区別するために、前者を「{{lang|en|Inc.}}」など英語の略称、後者を「{{lang|ja-Latn|KK}}」として区別に用いている例もある。 外国企業等との[[取引]]の際に便利なように、[[英文]]での[[商号]]を定めている日本の株式会社もあり、[[定款]]に定めることもある。ただし、日本に英文商号を規制する法律や[[登記]]する制度はない。日本の株式会社が定める英文商号の中で、「株式会社」の翻訳として通常使われているのは、以下の4種類である(実例とともに示す)。 * '''XXX, Limited'''(あるいはその略称である、'''XXX, Ltd.'''。'''XXX Co., Ltd.'''や'''XXX Co. Ltd.'''("Co."は"company"の略である。)、'''XXX Kaisha, Ltd.'''と定めているものもある。):特に"Co., Ltd."の採用例が圧倒的に多いが、真ん中のスペースが欠落していることも多い。なお、アメリカ合衆国において、Ltd.ないしはLimitedを含む名称を用いるのは、通常[[LLC]]であり、日本では[[合同会社]]に相当する。イギリス(本土)では、[[私会社]] ([[:en:private company|private company]]<!-- 公企業に対する意味ではない -->) である場合に強制されるものであり、これは、日本のいわゆる[[非公開会社]]に近い。一方、イギリス(本土)およびアメリカ以外の[[英語圏]]では上場会社であってもこのような名称が用いられることがある。 ** [[日立製作所|株式会社日立製作所]] Hitachi, Limited ** [[三菱UFJ銀行|株式会社三菱UFJ銀行]] MUFG Bank, Limited ** [[野村證券|野村證券株式会社]] Nomura Securities Company, Limited ** [[三井物産|三井物産株式会社]] Mitsui & Company, Limited ** [[川崎汽船|川崎汽船株式会社]] Kawasaki Kisen Kaisha, Limited ** <!-- 2013.5 現在の名称ではないのでさげ -->(旧)[[明治製菓|明治製菓株式会社]] Meiji Seika Kaisha, Limited * '''XXX Corporation'''(略して'''XXX Corp.'''):アメリカ合衆国における例に倣ったものである。 <!-- ** (旧)[[新日鐵住金|新日鐵住金株式会社]] Nippon Steel & Sumitomo Metal Corporation--> ** [[日本製鉄]]株式会社 NIPPON STEEL CORPORATION ** [[日本電信電話|日本電信電話株式会社]] Nippon Telegraph and Telephone Corporation ** [[日本テレビ放送網|日本テレビ放送網株式会社]] Nippon Television Network Corporation ** [[三井住友銀行|株式会社三井住友銀行]] Sumitomo Mitsui Banking Corporation (「[[三井]]」と「[[住友]]」が反対) ** [[三菱電機|三菱電機株式会社]] Mitsubishi Electric Corporation ** [[ソニー|ソニーグループ株式会社]] Sony Group Corporation ** [[トヨタ自動車|トヨタ自動車株式会社]] Toyota Motor Corporation ** [[パナソニック|パナソニック株式会社]] Panasonic Corporation * '''XXX, Incorporated'''(略して'''XXX, Inc.''')または'''XXX Incorporated'''(略して'''XXX Inc.'''):アメリカ合衆国における例に倣ったものである。 ** [[キヤノン|キヤノン株式会社]] Canon Incorporated ** [[電通|株式会社電通]] Dentsu Incorporated ** [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント]] Sony Music Entertainment Incorporated ** (旧)[[東京放送ホールディングス|株式会社東京放送]] Tokyo Broadcasting System, Incorporated * '''XXX Kabushiki Kaisha'''(略して'''XXX KK'''または'''XXX K.K.'''):株式会社をローマ字表記したものである。日本法に準拠して設立された株式会社であることが明らかとなるメリットがあるが、取引関係者が日本語のkabushiki kaishaの意味を解さないと意味がない。そのため、通常の企業では採用例は少なく、<!--[[日本法人]]、-->[[特定目的会社]]においてよく用いられる。 ** [[昭和電工|昭和電工株式会社]] Showa Denko Kabushiki Kaisha ** [[日本郵船|日本郵船株式会社]] Nippon Yusen Kabushiki Kaisha <!-- このうち、XXX Kabushiki KaishaやXXX Kaisha, Limitedといった商号は、かなり昔に英文商号を定めた会社が多いとされるが、一部の[[外資系企業]]ではXXX Kabushiki Kaishaを用いる場合があり、例えば、英国[[ボーダフォン]]・グループの[[日本法人]]であるボーダフォン株式会社だったときは、[[定款]]上でVodafone K.K.と定めている。XXX Corporationが好まれるようであり、英文商号を変更する際によく採用される。例えば、[[豊田自動織機|株式会社豊田自動織機]]の英文商号はToyoda Automatic Loom Works, LimitedからToyota Industries Corporationに変更された。特に英文表記が定められていない場合には、日本語表記の音訳にCo.,Ltd.を付加するだけでも十分である。 --> なお、[[英語圏]]には日本の会社の種類を表す語を前に置く習慣がないため、「株式会社○○」(前株)であっても"XXX Co., LTD"などのように後ろに置くのが普通である。 == 記号 == {{redirect|㈱|日本国外のそれ|株式会社}}<!--韓国ではハングルを訳すと「株式會社」--> {{特殊文字|説明=[[全角文字]]1文字でこれを示す記号}} 英語では「'''K'''abusiki '''K'''aisha」の略として'''㏍'''という記号が使われることもあり、[[Unicode]]などではこの記号を「[[全角]]KK」として定めている。また日本語では「全角[[括弧]]付き株」の'''㈱'''記号も使われている。 {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|13261|33cd|1-13-67|全角KK<br />SQUARE KK}} {{CharCode|12849|3231|1-13-74|全角括弧付き株<br />PARENTHESIZED IDEOGRAPH STOCK}} {{CharCode|12945|3291|-|丸株<br />CIRCLED IDEOGRAPH STOCK}} {{CharCode|13183|337F|-|全角株式会社<br />SQUARE CORPORATION}} |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[法人]] * [[親会社]] / [[子会社]] - [[持分法適用会社]] * [[公開会社]] * [[公開会社でない株式会社]] * [[大会社]] * [[取締役会設置会社]] / [[監査役設置会社]] / [[監査役会設置会社]] / [[会計監査人設置会社]] / [[監査等委員会設置会社]] / [[指名委員会等設置会社]] * [[合名会社]] * [[合資会社]] * [[合同会社]] * [[有限会社]] - [[特例有限会社]] * [[相互会社]] * [[特殊会社]] * [[特定非営利活動法人]] * [[株式相場]] * [[株式会社 (ドイツ)]] *[[ディスクロージャー (金融機関)|ディスクロージャー]](情報公開) == 外部リンク == * [https://rex-gyoseishoshi.com/company/seturitsuflow/ 株式会社設立手続きの流れ] {{日本の法人}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かふしきかいしや}} [[Category:日本の株式会社|*]] [[Category:株式会社|にほん]] [[Category:会社法]]
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フリーコンテント
フリーコンテント (free content) はオープンコンテントと類似した概念。フリーコンテンツ (free contents) とも呼ばれる。ソフトウェア以外の、自由にライセンスされた作品に対して使われ、自由ソフトウェアと同じ自由の意味を持つ。簡単に言うと、受け取り人は内容をどんな目的でも使う許可が与えられ、複製や変更、変更された版の再配布が認められる。 自由ソフトウェアのライセンスの様に、フリーコンテントのライセンスはコピーレフトであることもできるし、非コピーレフトであることもできる。コピーレフトとは変更した作品の再配布は、変更前のものと同じ自由なライセンスの元でのみ認められるというものである。 デザイン・科学ライセンス (DSL) と GNUフリー文書ライセンス (GFDL) は、フリーコンテントのライセンスの例であり、FreeBSD文書ライセンス は、非コピーレフトライセンスの例である。
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ブッダ (曖昧さ回避)
ブッダ
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ブッダ 仏陀 - 仏教でいう悟りを開いた人のこと。 基本的には仏教の開祖釈迦のことを指す。 ブッダ (漫画) - 手塚治虫の漫画。釈迦を主人公とする。 仏陀 (交響曲) - 貴志康一の交響曲。
'''ブッダ''' * [[仏陀]] - [[仏教]]でいう悟りを開いた人のこと。 ** 基本的には仏教の開祖[[釈迦]]のことを指す。 * [[ブッダ (漫画)]] - [[手塚治虫]]の漫画。釈迦を主人公とする。 * [[仏陀 (交響曲)]] - [[貴志康一]]の交響曲。 {{Aimai}} {{デフォルトソート:ふつた}} [[Category:同名の作品]]
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南極大陸
南極大陸(なんきょくたいりく、英: Antarctica、([æntˈɑːrtɪkə] ( 音声ファイル)または[ænˈtɑːktɪkə]) 、西: Antártica、仏: Antarctique、諾: Antarktika、葡: Antártica)は、地球の最も南にあり、南極点を含む大陸。 南半球の南極地方にあり、南氷洋に囲まれた南極圏に位置する。5番目に大きな大陸であり約1400万kmの面積は、オーストラリア大陸のほぼ2倍に相当する。約98%は氷で覆われ、その厚さは平均2.00325kmに及ぶ。 南極大陸は、平均気温が最も低く、乾燥し、強風に晒され、また平均海抜も最も高い大陸である。年間降水量が海岸部分で200mm、内陸ではさらに少ない砂漠と考えられる。南極大陸で観測された最低気温は、2018年7月に記録した-97.8°Cである。 この気温では人間が定住することは難しいが、約1000-5000人が大陸中に点在する研究所に年間を通して滞在している。 自然状態では、寒冷な環境に適応可能な生物のみが生存し、多くの藻類、ダニ・線虫やペンギン・鰭脚類・節足動物などの動物類、バクテリア、菌類、植物および原生生物が繁殖している。植生はツンドラである。 かつて、「南の地」を意味するテラ・アウストラリス (Terra Australis) という大陸が空想されていた南極域に、公式に大陸が存在する事が確認されたのは1820年にロシアの探検家ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフ(英語版)がボストーク号(en)とミールヌイ号(en)で行った遠征に端を発する。しかし、厳しい自然環境や、当時は資源が見つからなかった事、そして孤立的な地理条件から、19世紀中はほとんど注目されなかった。 1959年、12ヶ国の批准で始まった南極条約は、その後加盟国が49にまで増えた。条約は、軍事的活動や鉱物採掘や核爆発や核廃棄物の発生の禁止、各国家による領域主権主張の凍結、科学的研究の支援と生物地理区としての保護を定めた。多くの国から派遣された科学者たちが、研究や実験を行っている。 大陸の名称として単語「Antarctica」を公式に初めて使ったのは、1890年代のスコットランド人地図学者ジョン・ジョージ・バーソロミュー(英語版)である。「Antarctica」は、北極または北の反対という意味であるギリシア語の複合語 ἀνταρκτικός (antarktikos) を女性名詞化した ἀνταρκτική (antarktiké) を元に、ラテン文字化したものである。 約2億年前、南極大陸は超大陸ゴンドワナの一部であった。1億8000万年前頃からゴンドワナは徐々に分裂し、南極大陸の現在の形は約2500万年前に形成された。南極大陸は常に寒冷で渇き氷に覆われていた訳ではなく、大陸は現在よりもはるかに北に位置し、熱帯または温帯の気候であった時期が長く、当時は森林で覆われ多様な生物が生きていた。 カンブリア紀にゴンドワナは穏やかな気候にあり、現在の西南極に相当する地域は北半球に位置した。この時期、砂岩や石灰岩または頁岩の堆積が進行した。東南極に相当する地域は赤道上にあり、熱帯の海には無脊椎動物や三葉虫などが繁殖していた。デボン紀初期(4億1600万年前)ゴンドワナは南へ移動を始め、当時の陸上植物の化石を分析した結果から、気候は寒冷になっていったことが分かった。砂やシルトが堆積し、今日のエルスワース山脈、ホーリック山脈、ペンサコーラ山脈の地層を形成した。デボン紀末(3億6000万年前)にはカルー氷河時代が始まり、南極大陸部分は南極点を中心とする位置まで移動し、気温は低下したが、植物は南極植物相(英語版)として生き残っていた。ペルム紀には湿地帯に繁殖するグロッソプテリスのようなシダ植物門系の植物が優勢になり、後に南極横断山脈の石炭層を形成した。ペルム紀の終わり頃までは、地球温暖化の影響からゴンドワナは暖かく乾燥した状態が保たれていた。 温暖な環境の中、極氷冠は溶けた状態にあり、ゴンドワナ系の大陸では砂漠化が進んでいた。東南極ではシダ種子類が繁殖し、この頃には砂岩や頁岩の堆積が大量に進んだ。後ペルム紀から三畳紀初期にはリストロサウルスなど哺乳類型爬虫類として知られる単弓類が繁殖した。ジュラ紀(2億600万-1億4600万年前)には南極半島形成や島々の隆起が始まった。この頃にはイチョウの木やソテツ類が旺盛に繁殖した。西南極では球果植物門の森が形成されていたが、白亜紀(1億4600万-6500万年前)の終わり頃にはナンキョクブナ科が優勢になりつつあった。アンモナイトが周辺海域で一般的な生物であった。恐竜も棲息していたが、知られているものは3属に留まっている。ハンソン層(英語版)からは、クリョロフォサウルス(獣脚類)とグラシャリサウルス(en:Glacialisaurus、竜脚類)およびアンタークトペルタ(鳥盤類)が見つかっている。 1億6000万年前にアフリカ大陸が南極大陸と分離し、白亜紀の初期(1億2500万年前頃)にインド亜大陸も離れた。6500万年前頃には、オーストラリア大陸と分かれていなかった南極大陸は熱帯もしくは亜熱帯気候にあり、有袋類中心の動物相を持っていた。約4000万年前、オーストラリアとニューギニア島が分離し、南極大陸が独立した。そしてこの頃から最初の氷が形成され始めた。約3400万年前のE/O境界(英語版)を過ぎる頃、二酸化炭素の濃度はそれ以前から数百ppm下がった約760ppmになった。2300万年前後には南アメリカ大陸との陸峡が切れてドレーク海峡が開かれ、その結果南極環流が生じて南極大陸は完全に孤立した。二酸化炭素の減少は環境変化に大きく影響し、森林に取って替わって氷が大陸に広がり始めた。約1500万年以降、大陸は氷で閉ざされている。 1986年、オハイオ州立大学の古生物学者ピーター・ウェブのチームは、南極点から640kmの地点に、300万年前(鮮新世)に繁殖していた大規模な温帯森林の痕跡を発見した。 北半球の大陸(ヨーロッパ・アジア・北アフリカ)と地球規模のバランスを取る大陸が南の果てにあるという考えは、プトレマイオスが「世界の陸塊には対称性がある」と示した通り、2世紀頃には存在した。この概念は、南アメリカやオーストラリアの発見を経た17世紀末に至ってもなお、これらの面積が釣り合わないことから依然として残っていた。ゲラルドゥス・メルカトルが1569年に出版した世界初の世界地図には「テラ・アウストラリス・インコングニタ」(未知の南の国)という、フエゴ島からオーストラリア大陸までを含めた巨大な大陸が書かれている。船乗りたちの興味は、この架空かつ未知の大陸へ向けられるようになり、マゼラン、ドレーク、タスマン、そしてジェームズ・クックなどが南海を何回も探検した。 前述の仮想上の陸地は、クック船長率いるレゾリューション号とアドヴェンチャー号が1773年1月17日と12月そして1774年12月に南氷洋の南極環流を突っ切るまで、ヨーロッパの世界地図に痕跡を残していた。1773年1月、クック一行は南極大陸沿岸から約121kmまで近づいたが、結局は陸地を発見できなかった。それでもクックはテーブル型氷山が多いことから陸地は存在するだろうと推測していた。そして と記している。 様々な機関(例えばアメリカ国立科学財団 、アメリカ航空宇宙局、カリフォルニア大学サンディエゴ校など)は、南極大陸上陸は3人の船長が率いた船によって成されたという。 南極大陸は1820年1月28日にエストニア出身のロシア帝国海軍タデウス・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフが率いるロシアの遠征隊によって発見された。彼らはスループでボストークとミルニーが棚氷に近づき、氷に覆われた土地を発見した。記録された最初の上陸は、1821年2月7日にアメリカ人アザラシ猟師ジョン・デイビス(英語版)と言われる。 1840年1月22日、バレニー諸島西岸を発見した2日後、3年前からジュール・デュモン・デュルヴィルの冒険に同行していたメンバーらが、アデリーランドのジオデシー岬(英語版)沖約4kmにあるデュムラン諸島(英語版)内の最も標高が高い小島に上陸した。ここで彼らは鉱物や藻類および動物のサンプルを得た。 1839年12月には、アメリカ海軍が実施した1838-42年のアメリカ合衆国探検遠征隊の調査("Ex. Ex.",または"the Wilkes Expedition"とも呼ばれる)がオーストラリアのシドニーから出発し、南氷洋を渡って翌年1月25日にはバレニー諸島西岸を発見した。当時、この場所はウィルクスランドと命名された。 探検家ジェイムズ・クラーク・ロスは、1841年に現在ロス海と呼ばれる海域を通過し、ロス島を発見した。これらには彼の姓が冠された。彼が淵に沿って航行した巨大な氷の壁はロス棚氷と呼ばれる。エレバス山とテラー山は、それぞれ彼の一行が乗っていた2隻の船(エレバス(英語版)とテラー(英語版))に由来する。1853年1月26日にはマーケイター・クーパーが東南極に到達した。 アーネスト・シャクルトンが率いた1907年のニムロデ探査において、エッジワース・デイヴィッド(英語版)の隊は初めてエレバス山を登頂し、南磁極に到達した。ダグラス・モーソンは危険な帰路から生還し、その後も1931年に引退するまで様々な探検を続けた。シャクルトン自身も他のメンバー3人を従え、1908年12月に数々の未踏の地を探検し、1909年2月にはロス棚氷を横断、バードモア氷河を渡って南極横断山脈を越え、そして南極高原に到達した。 ノルウェー人探検家ロアール・アムンセンの隊がフラム号を出発しクジラ湾からアクセルハイベルグ氷河を遡上するルートで南極点を目指し、1911年12月14日に彼らは到達を成し遂げた。テラ・ノヴァ号探検隊のロバート・スコット一行が南極点に到達したのは、彼らに遅れる事1ヶ月だった。 1930年代から40年代にかけて、リチャード・バードは飛行機による南極飛行を数度行った。彼は、南極大陸の通行手段を確立し、大規模な地質学的および生物学的調査を実施したことで知られる。しかし、1956年10月31日にジョージ・J・ドゥフェク(英語版)率いるアメリカ海軍のグループが航空機で南極点に降り立つまで、訪れる者はいない空白期間があった。 単独で南極大陸に到達した初めての人物はニュージーランド人のデヴィッド・ヘンリー・ルイス(英語版)であり、彼は「アイス・バード」と名づけた10mサイズの鉄製スループでこれを成し遂げた。 南極大陸は、南極点の周囲に非対称的に広がり、おおむね南極圏の南側に位置する世界最南の大陸である。周囲を南氷洋が取り囲んでいる。あるいは太平洋・大西洋・インド洋の南端、もしくは世界大洋の南端が取り囲んでいるとも言える。 面積は1400万kmで大陸としては5番目に当り、ヨーロッパ大陸の1.3倍に相当する。最高峰はエルスワース山脈にある海抜4,892mのヴィンソン・マシフである。海岸線17,968kmは、以下の表で示される通り、ほとんどが氷で閉ざされている。 南極大陸地表の約98%は、南極氷床で覆われており、その厚みは平均1.6km以上に達する。地球上の氷の90%が南極大陸に集中しており、その結果淡水の70%が存在していることになる。もし全ての氷が解けると、海水面は約60m上昇する。内陸の降水量は年間20mm以下と非常に少ない。ブルー・アイス(英語版)と呼ばれる特徴的な地域は、降水量よりも昇華によって失われる水の量の方が多い場所である。 南極大陸には70を超える湖が大陸氷床の下に存在する。ボストーク湖は、1996年にロシアのボストーク基地直下に発見された最大の氷底湖である。これは50-100万年前に氷によって封鎖されたものと考えられていたが、最近の調査では他の湖へ大きな水の流れのあることが判明した。 南極大陸は、ロス海とウェッデル海岸を繋いだ南極横断山脈で二分される。ウェッデル海西側とロス海東側に挟まれた西半球にある地域は西南極 (West Antarctica) と呼ばれ、残りの東半球にある地域は東南極 (East Antarctica) と呼ばれる。この東西の呼び分けは、それぞれがグリニッジ子午線に対しておおよそ西と東にある事を理由とする便宜上のものである。 西南極は西南極氷床で覆われている。この氷床はわずかながらも崩壊する可能性が指摘され、注目を集めている。もし崩壊すれば数世紀単位で起こる緩やかなものながら、何メートルかの海面上昇に繋がると考えられる。氷床の10%に相当するいくつかの南極氷河流は、南極棚氷のひとつに流れ注いでいる。 東南極は南極横断山脈から見てインド洋側にあり、中にはコーツランド、ドロンニング・モード・ランド、マック・ロバートソン・ランド、エンダービーランド、ウィルクスランド、ヴィクトリアランドが広がる。ほとんどの領域は東半球にある。そして、広い面積を東南極氷床で覆われている。 南極大陸や周辺諸島には多くの山々や火山帯がある。火山帯は2つあり、マクマード入江付近のものとサウスシェトランド諸島付近のものである。この内マクマード入江の火山群はホットスポットであり、サウスシェトランド諸島の火山群はプレートの沈み込み口である。ロス島のエレバス山は世界で最も南にある活火山であり、マクマード入江の火山群に含まれる。南極にあるもう一つの活火山はサウスシェトランド諸島のデセプション島であり、1970年に噴火を起こし、その後も温泉や小規模な噴火が確認され、今後も噴火の可能性がある。 休火山の中にも再噴火の可能性は否定できないものがある。2004年、南極半島で海底火山がアメリカとカナダの研究チームにより確認された。最近の研究でも、この無名の火山が活動している可能性を示す証拠が見つかった。 南極大陸は地球上で最も寒い場所である。1983年7月21日には、ボストーク基地で−89.2 °C (−128.6 °F)という最低気温が記録された。また、2010年8月10日にはドームA付近の氷原において、地表面温度が-93.2°Cに達した。これは同地点の典型的な気圧下におけるドライアイスの昇華点よりも低く、さらにはアンモニアの融点(-77°C)よりも低い。東南極は西南極よりも標高が高いため、より寒冷である。 南極が北極よりも寒い理由は、 の2つが挙げられ、北極は南極の地表のように極端な状態になることがない。 高緯度にあることから、一日中太陽が昇ったままであったり逆に沈んだままである状態が発生する。夏の晴天時には一日中太陽が沈まないため、太陽光の照射量は南極点の方が同時期の赤道上よりも多い。南極大陸における最高気温の記録は、2015年3月24日に南極半島北端のアルゼンチン管轄のエスペランサ基地で観測された17.5°Cである。上空のオゾン層が破壊され、真っ白な雪に覆われた大地は、降り注ぐ紫外線のほとんどを反射し、しばしば日焼けが健康問題にもなる。 南極大陸は降水量が非常に少ない、「凍りついた砂漠」と言える。南極点における年間降水量は平均100ミリメートル未満である。最低気温は冬季内陸で−80 °C (−112 °F)から−90 °C (−130 °F)程度にまで達し、最高気温は夏季沿岸部でも5 °C (41 °F)から15 °C (59 °F)程度にしかならない。中心部の冷たく乾いた環境ゆえに、気象前線が大陸にかかることは稀である。大陸中心部の降水は少ないが、氷が非常に長い期間解けずに残存する。 大陸沿岸部は南極台地が吹き降ろす強い滑降風に晒され、時に嵐にもなる。それに対し内陸部の風速は特に強いものではない。 南極点付近の夜空には南極光とも呼ばれるオーロラが見られる。これは太陽風のプラズマが地球の大気を通過することで発生する光学現象である。他の珍しい現象には、太陽光の異常屈折がもたらすグリーンフラッシュや、細氷(ダイヤモンドダスト)という、細かな氷の結晶が降ることがある。これは通常、晴天か晴天に近い時に発生するため、しばしば天気雨の一種と考えられている。またそれに伴うサンピラーが現れることもある。幻日は、太陽の脇に別に光点が見られるものであり、大気中で起こる光学現象の一種である。 南極大陸には永住している者はいない。しかし多くの国が恒常的な研究所(基地)を大陸上に設置している。そこではたくさんの人々が科学的研究関連の業務に従事し、周辺諸島を加えると冬には約1000人、夏には約5000人程が常駐している。多くの基地には1年を通じて滞在し越冬する者がいる。ロシアのベリングスハウゼン基地には、2004年に正教会の至聖三者聖堂が置かれ、年度交替で1-2人の聖職者が常駐している。 南極大陸の周囲を含む南極収束線内で初めて半恒常的に居住した人々は、1786年から1年以上の期間をサウスジョージア島で過ごしたアザラシ猟師のイギリス人やアメリカ人であった。1966年までの捕鯨が行われていた時代、この島には夏に1000人以上、最盛期には2000人以上が住み、冬にも200人程度が残っていた。この頃に住んだ人々はノルウェー人だったが、イギリス人の比率も増えつつあった。定住地は、グリトビケン、リース港(英語版)、キング・エドワード・ポイント、ストロムネス(英語版)、フースヴィーク(英語版)、プリンスオーラブ港(英語版)、オーシャン港(英語版)などがあった。捕鯨基地の長官や上級役人たちはしばしば家族とともにこれらの地に住んだ。彼らの中にはグリトビケンの設立者であり、1910年には家族とともにイギリスの市民権を得た捕鯨者で冒険家のカール・アントン・ラーセン(英語版)がいた。 南極収束線の内側で誕生した初の人物は、1913年10月8日にグリトビケンで生まれたノルウェー国籍の女性ソルヴェイグ・ヤコブセンである。南緯60度線(南極条約によって定められた大陸境界)の内側では、1978年に南極半島先端のエスペランサ基地で誕生したアルゼンチン人のエミリオ・パルマになる。大陸本土では、1984年に家族で居住する設備を備えていたエドゥアルド・フレイ・モンタルバ基地で生まれたJuan Pablo Camachoである。 南極大陸に生きる陸生脊椎動物は非常に少ない。無脊椎動物では、南極ササラダニ(英語版)など5種類のダニ、ハジラミ、線形動物、緩歩動物、輪形動物、オキアミ、トビムシ目などがいる。体長6mmにもならない飛べない小虫(英語版)のナンキョクユスリカは、南極大陸に広く分布する固有種である。ユキドリは、南極大陸でもっぱら繁殖活動を行う3種の鳥のひとつである。 植物プランクトンを餌とする海洋生物は多様に存在する。南極には、ペンギン、シロナガスクジラ、シャチ、ダイオウホウズキイカ、オットセイ、アザラシなどが棲息している。亜南極域を含めると、ペンギンはコウテイペンギン・アデリーペンギン・キングペンギン(オウサマペンギン)・ヒゲペンギンなど8種類が棲息している。 18-19世紀にはアメリカやイギリスの狩猟者によって、ナンキョクオットセイが乱獲された。イギリスのアザラシ狩猟者でありウェッデル海へ遠征したジェームズ・ウェッデル(英語版)から名を取ったウェッデルアザラシを始め、南極にはヒョウアザラシ、カニクイアザラシ、ロスアザラシ、ミナミゾウアザラシの5種類がいる。大規模な群れをつくるナンキョクオキアミは、南氷洋における生態系のキーストーン種であり、アザラシ、イカ、ノトテニア亜目、ペンギン、アホウドリ科など鳥類にとって重要な餌となる。 500人規模の研究者が投入された海洋生物に対する調査が国際極年(英語版)に行われ、結果が2010年に纏められた。この研究は海洋生物センサス(英語版)(CoML)の一環であり、有意義な報告を含んでいた。12000kmの隔たりを持つ南北両極には250種以上の生物が存在する。クジラや鳥など、大型の生物は周遊を行う。驚くべき事には、蠕虫やナマコまた遊泳するカタツムリなどが両極海洋部で発見された。このような分布状況が生じた要因は複数考えられる。両極と赤道域を繋いで流れる海洋深層水は温度変化がさほど激しく無く、差異は5°Cを上回らない。この熱塩循環が卵や幼虫を運んだという考えもある。 凍りつく気温、痩せた土壌、乾燥、光量の不足などの厳しい条件下では、南極大陸で繁殖できる植物は非常に限られてくる。地表に生える藻類や地衣類を含む菌類以外では、約100種の蘚類や25種の苔類などコケ植物が大陸に広く分布し、顕花植物に至っては南極半島で見られるナンキョクコメススキとナンキョクミドリナデシコの2種類しか存在しない。成長する季節は夏のみ、期間は長くとも2-3週間に限られる。しかし、地球温暖化の進行に伴いスズメノカタビラの帰化が確認されるなどしている。 菌類は1150種が確認され、400種が地衣類、750種がそれ以外である。中には、厳しい環境に対応した岩石内微生物(英語版)の種もいる。藻類も数百種存在するが、ほとんどは植物プランクトンである。夏の期間、さまざまな氷雪藻や珪藻が沿岸水域で豊富に繁殖する。近年、氷河の下になる深いところから、古代生態系に属する複数のバクテリアが生きた状態で発見された。独立栄養生物の集団はほとんどが原生生物で占められている。 環境保護に関する南極条約議定書(マドリッド協定書)が1998年に発効され、南極の生物多様性の保護と管理に関する主要な手段となった。南極条約協議会は、環境保全委員会から環境や保護に関する勧告を受ける。委員会は特に、域外から意図せざる外来生物が南極大陸に持ち込まれる事のリスクに注意を払っている。 1978年、アメリカはAntarctic Conservation Actを採択し、南極大陸における自国の活動に制限を加えるようになった。これは、外来動物や植物の持ち込みに刑事罰を加えられる。また、南極の生態系において大きな位置を占めるオキアミの乱獲には、漁業方法を公的に制定する事で対処している。1980年に発効された南極の海洋生物資源の保存に関する条約 (CCAMLR) は、南極全体の生態系に及ぼす潜在的な影響を考慮し、南氷洋で操業するすべての漁業活動を制御するよう定めている。このような新たな取り組みにもかかわらず、野放しや密漁は止まず、特にマジェランアイナメはチリ沿岸産と偽ってアメリカ市場で売られるなど深刻な問題となっている。アイナメの密漁は増加し、2000年には32,000トンが乱獲された。 南極大陸の地域に領有権を持つと主張する国は複数あるが、実際には政府は存在しない。これら国々の一部には相互に主張を承認しているところもあるが、世界的にはこれらの主張は正当性を持たないと認識されている。 新たな領有権主張は1959年以降中断しており、南極大陸は政治的な中立地とみなされている。この1959年は南極条約が批准された年であり、他の関連する合意とともに、この規制された状態は「南極条約体制」と呼ばれる。南極条約体制では、全陸地および南緯60°線以南の棚氷を南極と規定し、その対象と定める。条約は、ソビエト連邦(これはロシアに引き継がれた)、イギリス、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、アメリカ合衆国など12ヶ国が調印している。この体制では、南極を自由な学術調査と環境保護が維持される科学的な保護区と位置づけ、大陸での軍事活動を禁止している。これは、冷戦中に初めて確立された軍備管理協定である。 1983年、南極条約の調印国は資源採掘に対する協定制定に向けた交渉を開始した。この際、グリーンピースなど国際的な組織が公衆による圧力活動を展開して採掘への反対を押し進め、人間の活動が大陸に与える影響を記録するために例年の派遣を行った。1988年、南極鉱物資源活動規制条約(英語版)が採択された。しかし翌年オーストラリアとフランスは、同条約の意図も目的も意味をなさないと解釈して、批准しないと発表した。両国は、その代わりに南極環境を保護するための包括的な制度を定めるべき議論をすべきだと主張した。これを他国も認め、議論の末に1998年1月14日に環境保護に関する南極条約議定書が取り交わされた。この議定書では、南極は「平和と科学のための自然保護区」と定め、すべての採掘を禁止している。 南極条約が定める南極における軍事行動禁止は、軍事基地や要塞の建設、軍事的作戦行動、武器の実験試用も禁止している。ただし、純粋な科学研究を目的とする場合のみ、軍人や軍備の受け入れを認めている。例えばアメリカ空軍はニュージーランドからアムンゼン・スコット基地まで軍用機で物資を輸送している(ディープフリーズ作戦(英語版))。なお過去において南極に設置された、記録に残る唯一の軍事施設はアルゼンチン軍のオペレーション90(英語版)のみである。 アメリカ軍は、南極における研究活動に功績があった軍人や民間人を表彰する南極派遣章(英語版)を設けている。この章の授与者には、冬の6ヶ月間を2度大陸で越冬した者に対する線章も与えられる。 1908年のイギリスに始まる南極大陸での領有権主張は、ニュージーランド、フランス、オーストラリア、ノルウェー、チリ、アルゼンチンの計7ヶ国が行った。これらは実効支配が無いと、当時のアメリカとソ連が認めなかった。第二次世界大戦後、政治・軍事的な重要性から、南極条約によって領土の主張を棚上げする決定が下された。それぞれの国が主張する領土は、南極点を要に扇形になっており、これはセクター理論と呼ばれる。アルゼンチン・イギリス・チリの主張する地域には重なった部分がある。 その他の国では、ブラジル 、ペルー、旧ソ連に引き続きロシア、南アフリカそしてアメリカも南極の領有に関する権利を何らかの形で表明している。 南極大陸からは石炭・石油・天然ガスが発見され、大陸棚を含めるとコバルト・鉛・マンガン・ニッケル・銀・チタン・ウラン・プラチナ・クロムの存在も推定されている。宝石類では、昭和基地近郊だけでもルビー、サファイア、ベリル、ガーネットなどが発見されている。1991年の南極環境保護条約によって積極的な採掘は制限された。1998年の議定書にて経済的な発掘や採掘は、2048年まで一切が禁止された。そのため、南極における最大の経済活動は漁業およびその国際取引であり、2000-2001年には112,934トンの漁獲量が挙がった。 小規模な「冒険的観光」は1957年から行われており、その内容は環境保護に関する南極条約議定書による制限が加えられるが、事実上は国際南極旅行業協会(IAATO)が定める内規に基づいている。全てでは無いが、南極観光の95%はIAATO加盟業者によって運用されている。旅行のほとんどは中規模以下の船を使い、象徴的な野生生活を観察しやすい、決まった場所が選ばれる。2006-2007年の夏には総計37,506名の旅行者が、ほぼ全てが商用船に乗って訪れた。2010年までの累計訪問者は 80,000人を越えると予想された。 訪問者の流入が環境や生態系に与える潜在的な悪影響が懸念される。自然保護派や科学者からは、船舶や旅行者に対する一段と厳しい規制を求める声があがった。南極条約加盟国からの最初の回答は、環境保全委員会が IAATOとの協力の下でガイダンスを定め、頻繁に観光が行われていた地域に対して、上陸時間の制限や立ち入り禁止区域の設定を推進した。上陸を伴わない航空機による、オーストラリアやニュージーランド発着の遊覧旅行では、1979年にニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故が起き、全乗組員257名が死亡した。カンタス航空は1990年代半ばに、オーストラリア発の南極上空飛行を再開した。 毎年、28の国々から研究者たちが南極大陸に向かい、他の地域ではまねの出来ない実験に取り組む。その人数は夏には4000を超え、冬でも1000人以上が研究所に泊まる。南極大陸最大の研究所であるマクマード基地では、1000人を超える科学者や訪問者らが滞在可能である。 研究は、生物学、地質学、海洋学、物理学、天文学、雪氷学、気象学など様々な分野で行われる。地質学ではプレートテクトニクス、宇宙空間からの隕石、ゴンドワナ大陸分裂の証拠探査が主に行われる。南極の雪氷学は浮氷・雪・氷河や氷床の履歴や氷床力学(英語版)研究が盛んである。生物学者の興味は、極寒の環境における野生生物の存在や、人間の存在が与える悪影響、そして有機体がどのように適応し生き残っているかに注がれる。医学者は、極端な環境温度下でのウイルスの拡散および人体への影響に注目する。アムンゼン・スコット基地の天文学者はドームで宇宙マイクロ波背景放射の調査を行う。多くの天体観測にとって、高地であるため大気が薄く、気温や大気中の湿度が低く、光害の影響も少ない南極大陸内陸部は、地球上でも鮮明な宇宙の画像を得られる稀な場所であり、より良い観測結果を得られる。アムンゼン・スコット基地の下1.5kmの氷の中にはアイスキューブ・ニュートリノ観測所があり、世界最大の遮蔽性と検出媒体となる性質の両方を持つ南極大陸の氷を活かしてニュートリノの観測が行われている。 1970年代から、南極大陸上空の大気圏にあるオゾン層の観測が行われている。1985年、ブラント棚氷上のハリー研究基地で集められたデータを3人の科学者が分析し、この層に穴(オゾンホール)があることを発見した。最終的にこの穴は、人類が使用するフロン類(CFCs)によってオゾンが破壊され生じたものと判明した。1989年にモントリオール議定書にてCFCsの使用が禁止され、オゾンホールは2065年頃には閉じるものと信じられた。しかし2006年9月にアメリカ航空宇宙局の衛星が捉えたデータから、オゾンホールは2750万kmと、それまでの最大に広がっていることが判明した。 2007年9月6日、ベルギーを拠点とする国際極地財団は、気候変動を研究する初のゼロ・エミッション南極研究所プリンス・エリザベス基地(英語版)を公開した。国際極年(英語版)の一環として、1630万ドルを投じたプレハブ工法の研究所を2008年末までにベルギーから持ち込み、極圏における健康状態の調査を開始した。ベルギーの極地探険家アラン・ヒュバートは、「これはゼロ・エミッションを実現するために作られた最初の基地で、南極においていかにエネルギーが使われるべきかを示すユニークなモデルになる」と語った。気候学と雪氷学および微生物学の研究は、所長であるヨハン・ベルケがプロジェクトの企画と管理の下で行われる。 2008年1月、Hugh CorrとDavid Vaughanが率いるイギリス南極調査研究所(英語版)(BAS)は、レーダーを用いた航空測量の結果から、2200年前に南極大陸の氷の下で火山の噴火が起こったという報告を、雑誌Nature Geoscienceに発表した。パイン島氷河(英語版)付近にあるハドソン山脈(英語版)氷床の下から、この1万年の中で最も大きな噴火の火山灰が発見された。 南極大陸の地質調査は、溶ける事が無い厚い層の氷に阻まれてきた。これに対し、リモートセンシングや地中レーダー探査また衛星画像の使用など、新たな技術が導入される事で、氷の下に眠る構造が明らかになり始めた。 西南極の地質はアンデス山脈のそれと似ており、南極半島は古生代終盤から中生代初頭に、海底沈殿物が隆起と変成作用を起こして形づくられた。これは火成岩の貫入および火山現象によって引き起こされたものである。西南極で一般的な岩はジュラ紀に形成された火山岩の安山岩と流紋岩である。火山活動は氷床がつくられた後にも続き、その証拠はマリーバードランドやアレクサンダー島にある。西南極で唯一変則的な部分はエルスワース山脈であり、ここは層序学的に大陸東部の様相に近い。 東南極の地質は変化に富み、30億年以上前の岩などを含む先カンブリア時代をさかのぼった頃に形成された。これらは楯状地を基礎とする変成岩や火成岩の台地で構成される。この基礎の上には比較的近年に当るデボン紀やジュラ紀に積みあがった砂岩や石灰岩・頁岩などがあり、南極横断山脈が形成された。沿岸のシャックルトン山脈やヴィクトリアランドなどには断層が見られる。 南極大陸で採掘される主な鉱物資源は石炭であり、記録上最初の発見はニムロデ探査においてバードモア氷河で見つけたフランク・ワイルド(英語版)に遡る。現在では低品位炭が南極横断山脈の様々な場所にある事が知られている。他にも、プリンスチャールズ山地(英語版)には豊富な鉄鉱石があり、ロス海の沖合には1973年に油田やガス田が発見された。これら鉱物資源は、環境保護に関する南極条約議定書(英語版)にて、2048年まで採掘が法的に禁止されている。 南極大陸の氷床をボーリングで取り出し、採取した氷床コアを分析すると堆積した時代の大気や気候を知ることができる。また穿孔穴を利用した氷床の動きや歪みなども測定される。 地下のボストーク湖には微生物がいる可能性が指摘されており、2012年2月6日に湖面まで到達した掘削孔を利用した研究の結果が待たれる。また、氷で閉ざされた湖の表面は木星の衛星エウロパとの類似性があり、ボストーク湖で生命が発見されればエウロパでも同様の可能性を検証する資料になりうる。2008年2月7日、NASAのチームがアンタシー湖(英語版)の高アルカリ水の中に生きる極限環境微生物の調査に着手した。仮に発見されれば、メタンが中心成分をなす非常に冷たい環境における地球外生命の考察に影響を与えることが期待される。 南極大陸で発見される隕石群は、初期太陽系を構成した物質を知る上で非常に重要である。そのほとんどは小惑星起源のものであり、中には惑星から飛来したと考えられるものもある。最初の隕石発見は1912年に遡る。1969年には日本調査隊が9個の隕石を発見した。これらの隕石の大部分は100万年間にわたって氷の上に降り注いだもので、その上に雪が積もって埋まり、やがて何世紀もの期間をかけて移動する氷床が山地などとぶつかる所に溜まる。それが風食作用等で表面に浮き上がり発見される。南極大陸で発見される隕石は、他の地域で見つかるものよりも保存状態が良好である。 このような大規模な収集は、太陽系における隕石の種類や、小惑星や彗星との関係に対する理解を深める。新しいタイプや珍しい隕石も発見された。この中には衝撃によって月や火星から飛び出し飛来したものもあった。これらのうち、特に南極隕石探査(英語版)にて発見されたアラン・ヒルズ84001などは、火星に微生物が存在したかどうかの論争を喚起した。隕石は宇宙空間で浴びた宇宙線の履歴を残すため、地球に落下してからの経過時間を実験室の分析で明らかにできる。この経過時間、すなわち地球上に存在した時代の解析は、南極氷床の環境を知る上で有効な情報になる可能性を秘めている。 2006年にオハイオ州立大学の研究チームは、NASAのGRACE衛星を用いて行った重力測定の結果から、大きさ約480kmのウィルクスランドクレーター(英語版)を発見した。これは、約2億5000万年前に形成されたと考えられる。 その位置ゆえ、南極大陸が受ける太陽照射は比較的少ない。そのため、気温が非常に低く、水はほとんど氷の状態で存在する。少ない降水は雪として降り注ぎ、夏に溶けないフィンと呼ばれる分は蓄積され、巨大な氷床を形成して陸を覆う。その一部は氷河流を呼ばれる大陸沿岸へ向かう、年間数-数十mから沿岸部では数百mの動きを持つ。その先では、大陸上の氷の塊が押し出されて棚氷を形成する。沖合に至っても気温は低いままであり、海水も凍りつかせて氷は年間を通してほぼ維持される。このような多様な南極の氷が、海洋面の高さへの影響を与えたり、地球温暖化へ関連する。 海洋部の氷は毎年冬に拡大し、夏にはほとんどが溶ける。この氷は海洋水から形成されるため、浮いている状態では海洋面の高さを左右しない。南極大陸を囲む氷は、その厚みの変化は明確ではないが、範囲はここ数十年においてさほどの変化を見せていない。 浮いている氷は影響を与えないが、棚氷を形成する陸上から移動した氷は地球全体の海面上昇を引き起こす。これは内陸に降る雪で相殺されるものだが、この数十年間は沿岸部、特に南極半島に沿った部分で発生した大規模な棚氷の崩壊が報告されている。このような棚氷の分断が、大陸の氷河から供給される水の量を増加させる可能性が懸念される。 大陸上の氷そのものが、世界中の淡水の70%を占める。これは降雪によって増加し、海への流出によって減少する。現在、西南極では流出量が降雪を上回り、徐々に海面上昇を引き起こしている。1992年から2006年までの科学的調査によれば、氷は1年当たり約500億トンが失われ、海面は約0.14mm上昇していると示唆された。アムンゼン海への氷河流出は大幅に加速しており、この数値は倍以上になっているという説もある。 東南極は大陸の大部分を占める広大かつ標高が高く、寒冷な領域である。ここは、結果的に氷床を沿岸へ押し出す役目をする降雪が少ない。そのため東南極氷床全体の質量収支は、ほぼ均衡またはわずかに増加(海洋面水位にとっては低下)していると考えられる。しかし、局地的には流出が増加している箇所も発見されている。 南極大陸の地域の中には明らかに気温が上昇しているところがあり、南極半島において顕著である。エリック・スタイグが2009年に発表した研究において、1957年から2006年にかけて南極大陸全体の平均気温が0.05°C高くなり、特に西南極の春から夏にかけての上昇が大きいという結果が初めて公表された。この上昇は、秋の東南極の寒冷化と一部相殺される。 ある研究結果によると、南極大陸は人間が排出した二酸化炭素の影響によって温暖化しているという証拠が提示された。しかし、西南極表層のごくわずかな温暖化が、海洋面の高さに対する西南極氷床の作用へ直接効果を与えているとはにわかには信じられていない。その代わり、深海から到達する暖かい海水が氷河に影響し、大陸棚から離されると考えられている。南極半島部分が水位へ実際にもたらす影響は、その場所の大気が温暖化するよりも非常に大きくなる。 2002年、南極半島のラーセン棚氷Bが崩壊した。2008年の2月28日から3月8日にかけ、南極半島南西部のウィルキンス棚氷から570kmに及ぶ氷が分離して崩壊し、残りの氷15000kmにも同じ事が起こりうる。2009年4月5日の崩壊では、分離される前に氷は幅6kmの「筋」で繋がっていた。NASAによると、この30年間で南極表面の氷が最も多く溶けた年は2005年であり、急速に溶け再氷結した面積はカリフォルニアに匹敵すると言い、それは気温が5°Cまで上昇した事に起因する可能性を示唆した。 年々、オゾンが集中する大気層に見られる巨大な劣化部分(オゾンホール)が南極上空で成長している。2008年9月、この部分が南極大陸を上回る過去最大の大きさとなり、12月末までの長い期間にわたり持続していた点も過去に見られなかった。 最初にオゾンホールを発見したのは南極地域観測隊の忠鉢繁である。観測したオゾン全量があまりに小さかったことに気づいた忠鉢は、初めは計器の故障を疑った。やがて本当にオゾンが少ないことに気づき、1984年の国際オゾンシンポジウムでこの事実を発表した。イギリスも観測結果から1985年にオゾンホールを発見し、「オゾンホール」というわかりやすい言葉を使った報道も相まってオゾンホールの存在は世界に知れ渡ることとなった。観測の結果から年を追うごとに拡大傾向にあることが分かった。これは、オゾンを他のガスに変質させる効果を持つフロン類(CFCs)が大気中に放出された結果、大気の大循環によって南極に集められていたことが判明したのである。 このオゾン層破壊が南極そして南半球へ気候変動を引き起こす要因となる可能性が、いくつかの研究から指摘された。成層圏でオゾン層はほとんどの紫外線を吸収する。これが南極上空で欠乏すると、そこの成層圏の温度が約6°C程下がる可能性がある。そうなると、南極大陸を取り囲むように吹く西風(極渦)が強まり、大陸の冷気を封じ込めてしまい、大陸塊にある東南極の氷床の温度が下がると考えられる。相対的に南極半島など周辺の温度は上昇し、氷の溶解を促進する。この理論では、オゾン層破壊による極圏への紫外線照射量増加、そして極渦効果の高まりによって、大陸沿岸の海氷はむしろ増えることが見込まれる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "南極大陸(なんきょくたいりく、英: Antarctica、([æntˈɑːrtɪkə] ( 音声ファイル)または[ænˈtɑːktɪkə]) 、西: Antártica、仏: Antarctique、諾: Antarktika、葡: Antártica)は、地球の最も南にあり、南極点を含む大陸。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "南半球の南極地方にあり、南氷洋に囲まれた南極圏に位置する。5番目に大きな大陸であり約1400万kmの面積は、オーストラリア大陸のほぼ2倍に相当する。約98%は氷で覆われ、その厚さは平均2.00325kmに及ぶ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "南極大陸は、平均気温が最も低く、乾燥し、強風に晒され、また平均海抜も最も高い大陸である。年間降水量が海岸部分で200mm、内陸ではさらに少ない砂漠と考えられる。南極大陸で観測された最低気温は、2018年7月に記録した-97.8°Cである。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "この気温では人間が定住することは難しいが、約1000-5000人が大陸中に点在する研究所に年間を通して滞在している。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自然状態では、寒冷な環境に適応可能な生物のみが生存し、多くの藻類、ダニ・線虫やペンギン・鰭脚類・節足動物などの動物類、バクテリア、菌類、植物および原生生物が繁殖している。植生はツンドラである。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "かつて、「南の地」を意味するテラ・アウストラリス (Terra Australis) という大陸が空想されていた南極域に、公式に大陸が存在する事が確認されたのは1820年にロシアの探検家ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフ(英語版)がボストーク号(en)とミールヌイ号(en)で行った遠征に端を発する。しかし、厳しい自然環境や、当時は資源が見つからなかった事、そして孤立的な地理条件から、19世紀中はほとんど注目されなかった。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1959年、12ヶ国の批准で始まった南極条約は、その後加盟国が49にまで増えた。条約は、軍事的活動や鉱物採掘や核爆発や核廃棄物の発生の禁止、各国家による領域主権主張の凍結、科学的研究の支援と生物地理区としての保護を定めた。多くの国から派遣された科学者たちが、研究や実験を行っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大陸の名称として単語「Antarctica」を公式に初めて使ったのは、1890年代のスコットランド人地図学者ジョン・ジョージ・バーソロミュー(英語版)である。「Antarctica」は、北極または北の反対という意味であるギリシア語の複合語 ἀνταρκτικός (antarktikos) を女性名詞化した ἀνταρκτική (antarktiké) を元に、ラテン文字化したものである。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "約2億年前、南極大陸は超大陸ゴンドワナの一部であった。1億8000万年前頃からゴンドワナは徐々に分裂し、南極大陸の現在の形は約2500万年前に形成された。南極大陸は常に寒冷で渇き氷に覆われていた訳ではなく、大陸は現在よりもはるかに北に位置し、熱帯または温帯の気候であった時期が長く、当時は森林で覆われ多様な生物が生きていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "カンブリア紀にゴンドワナは穏やかな気候にあり、現在の西南極に相当する地域は北半球に位置した。この時期、砂岩や石灰岩または頁岩の堆積が進行した。東南極に相当する地域は赤道上にあり、熱帯の海には無脊椎動物や三葉虫などが繁殖していた。デボン紀初期(4億1600万年前)ゴンドワナは南へ移動を始め、当時の陸上植物の化石を分析した結果から、気候は寒冷になっていったことが分かった。砂やシルトが堆積し、今日のエルスワース山脈、ホーリック山脈、ペンサコーラ山脈の地層を形成した。デボン紀末(3億6000万年前)にはカルー氷河時代が始まり、南極大陸部分は南極点を中心とする位置まで移動し、気温は低下したが、植物は南極植物相(英語版)として生き残っていた。ペルム紀には湿地帯に繁殖するグロッソプテリスのようなシダ植物門系の植物が優勢になり、後に南極横断山脈の石炭層を形成した。ペルム紀の終わり頃までは、地球温暖化の影響からゴンドワナは暖かく乾燥した状態が保たれていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "温暖な環境の中、極氷冠は溶けた状態にあり、ゴンドワナ系の大陸では砂漠化が進んでいた。東南極ではシダ種子類が繁殖し、この頃には砂岩や頁岩の堆積が大量に進んだ。後ペルム紀から三畳紀初期にはリストロサウルスなど哺乳類型爬虫類として知られる単弓類が繁殖した。ジュラ紀(2億600万-1億4600万年前)には南極半島形成や島々の隆起が始まった。この頃にはイチョウの木やソテツ類が旺盛に繁殖した。西南極では球果植物門の森が形成されていたが、白亜紀(1億4600万-6500万年前)の終わり頃にはナンキョクブナ科が優勢になりつつあった。アンモナイトが周辺海域で一般的な生物であった。恐竜も棲息していたが、知られているものは3属に留まっている。ハンソン層(英語版)からは、クリョロフォサウルス(獣脚類)とグラシャリサウルス(en:Glacialisaurus、竜脚類)およびアンタークトペルタ(鳥盤類)が見つかっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1億6000万年前にアフリカ大陸が南極大陸と分離し、白亜紀の初期(1億2500万年前頃)にインド亜大陸も離れた。6500万年前頃には、オーストラリア大陸と分かれていなかった南極大陸は熱帯もしくは亜熱帯気候にあり、有袋類中心の動物相を持っていた。約4000万年前、オーストラリアとニューギニア島が分離し、南極大陸が独立した。そしてこの頃から最初の氷が形成され始めた。約3400万年前のE/O境界(英語版)を過ぎる頃、二酸化炭素の濃度はそれ以前から数百ppm下がった約760ppmになった。2300万年前後には南アメリカ大陸との陸峡が切れてドレーク海峡が開かれ、その結果南極環流が生じて南極大陸は完全に孤立した。二酸化炭素の減少は環境変化に大きく影響し、森林に取って替わって氷が大陸に広がり始めた。約1500万年以降、大陸は氷で閉ざされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1986年、オハイオ州立大学の古生物学者ピーター・ウェブのチームは、南極点から640kmの地点に、300万年前(鮮新世)に繁殖していた大規模な温帯森林の痕跡を発見した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "北半球の大陸(ヨーロッパ・アジア・北アフリカ)と地球規模のバランスを取る大陸が南の果てにあるという考えは、プトレマイオスが「世界の陸塊には対称性がある」と示した通り、2世紀頃には存在した。この概念は、南アメリカやオーストラリアの発見を経た17世紀末に至ってもなお、これらの面積が釣り合わないことから依然として残っていた。ゲラルドゥス・メルカトルが1569年に出版した世界初の世界地図には「テラ・アウストラリス・インコングニタ」(未知の南の国)という、フエゴ島からオーストラリア大陸までを含めた巨大な大陸が書かれている。船乗りたちの興味は、この架空かつ未知の大陸へ向けられるようになり、マゼラン、ドレーク、タスマン、そしてジェームズ・クックなどが南海を何回も探検した。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "前述の仮想上の陸地は、クック船長率いるレゾリューション号とアドヴェンチャー号が1773年1月17日と12月そして1774年12月に南氷洋の南極環流を突っ切るまで、ヨーロッパの世界地図に痕跡を残していた。1773年1月、クック一行は南極大陸沿岸から約121kmまで近づいたが、結局は陸地を発見できなかった。それでもクックはテーブル型氷山が多いことから陸地は存在するだろうと推測していた。そして", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "と記している。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "様々な機関(例えばアメリカ国立科学財団 、アメリカ航空宇宙局、カリフォルニア大学サンディエゴ校など)は、南極大陸上陸は3人の船長が率いた船によって成されたという。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "南極大陸は1820年1月28日にエストニア出身のロシア帝国海軍タデウス・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフが率いるロシアの遠征隊によって発見された。彼らはスループでボストークとミルニーが棚氷に近づき、氷に覆われた土地を発見した。記録された最初の上陸は、1821年2月7日にアメリカ人アザラシ猟師ジョン・デイビス(英語版)と言われる。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1840年1月22日、バレニー諸島西岸を発見した2日後、3年前からジュール・デュモン・デュルヴィルの冒険に同行していたメンバーらが、アデリーランドのジオデシー岬(英語版)沖約4kmにあるデュムラン諸島(英語版)内の最も標高が高い小島に上陸した。ここで彼らは鉱物や藻類および動物のサンプルを得た。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1839年12月には、アメリカ海軍が実施した1838-42年のアメリカ合衆国探検遠征隊の調査(\"Ex. Ex.\",または\"the Wilkes Expedition\"とも呼ばれる)がオーストラリアのシドニーから出発し、南氷洋を渡って翌年1月25日にはバレニー諸島西岸を発見した。当時、この場所はウィルクスランドと命名された。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "探検家ジェイムズ・クラーク・ロスは、1841年に現在ロス海と呼ばれる海域を通過し、ロス島を発見した。これらには彼の姓が冠された。彼が淵に沿って航行した巨大な氷の壁はロス棚氷と呼ばれる。エレバス山とテラー山は、それぞれ彼の一行が乗っていた2隻の船(エレバス(英語版)とテラー(英語版))に由来する。1853年1月26日にはマーケイター・クーパーが東南極に到達した。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アーネスト・シャクルトンが率いた1907年のニムロデ探査において、エッジワース・デイヴィッド(英語版)の隊は初めてエレバス山を登頂し、南磁極に到達した。ダグラス・モーソンは危険な帰路から生還し、その後も1931年に引退するまで様々な探検を続けた。シャクルトン自身も他のメンバー3人を従え、1908年12月に数々の未踏の地を探検し、1909年2月にはロス棚氷を横断、バードモア氷河を渡って南極横断山脈を越え、そして南極高原に到達した。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ノルウェー人探検家ロアール・アムンセンの隊がフラム号を出発しクジラ湾からアクセルハイベルグ氷河を遡上するルートで南極点を目指し、1911年12月14日に彼らは到達を成し遂げた。テラ・ノヴァ号探検隊のロバート・スコット一行が南極点に到達したのは、彼らに遅れる事1ヶ月だった。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1930年代から40年代にかけて、リチャード・バードは飛行機による南極飛行を数度行った。彼は、南極大陸の通行手段を確立し、大規模な地質学的および生物学的調査を実施したことで知られる。しかし、1956年10月31日にジョージ・J・ドゥフェク(英語版)率いるアメリカ海軍のグループが航空機で南極点に降り立つまで、訪れる者はいない空白期間があった。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "単独で南極大陸に到達した初めての人物はニュージーランド人のデヴィッド・ヘンリー・ルイス(英語版)であり、彼は「アイス・バード」と名づけた10mサイズの鉄製スループでこれを成し遂げた。", "title": "探検の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "南極大陸は、南極点の周囲に非対称的に広がり、おおむね南極圏の南側に位置する世界最南の大陸である。周囲を南氷洋が取り囲んでいる。あるいは太平洋・大西洋・インド洋の南端、もしくは世界大洋の南端が取り囲んでいるとも言える。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "面積は1400万kmで大陸としては5番目に当り、ヨーロッパ大陸の1.3倍に相当する。最高峰はエルスワース山脈にある海抜4,892mのヴィンソン・マシフである。海岸線17,968kmは、以下の表で示される通り、ほとんどが氷で閉ざされている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "南極大陸地表の約98%は、南極氷床で覆われており、その厚みは平均1.6km以上に達する。地球上の氷の90%が南極大陸に集中しており、その結果淡水の70%が存在していることになる。もし全ての氷が解けると、海水面は約60m上昇する。内陸の降水量は年間20mm以下と非常に少ない。ブルー・アイス(英語版)と呼ばれる特徴的な地域は、降水量よりも昇華によって失われる水の量の方が多い場所である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "南極大陸には70を超える湖が大陸氷床の下に存在する。ボストーク湖は、1996年にロシアのボストーク基地直下に発見された最大の氷底湖である。これは50-100万年前に氷によって封鎖されたものと考えられていたが、最近の調査では他の湖へ大きな水の流れのあることが判明した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "南極大陸は、ロス海とウェッデル海岸を繋いだ南極横断山脈で二分される。ウェッデル海西側とロス海東側に挟まれた西半球にある地域は西南極 (West Antarctica) と呼ばれ、残りの東半球にある地域は東南極 (East Antarctica) と呼ばれる。この東西の呼び分けは、それぞれがグリニッジ子午線に対しておおよそ西と東にある事を理由とする便宜上のものである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "西南極は西南極氷床で覆われている。この氷床はわずかながらも崩壊する可能性が指摘され、注目を集めている。もし崩壊すれば数世紀単位で起こる緩やかなものながら、何メートルかの海面上昇に繋がると考えられる。氷床の10%に相当するいくつかの南極氷河流は、南極棚氷のひとつに流れ注いでいる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東南極は南極横断山脈から見てインド洋側にあり、中にはコーツランド、ドロンニング・モード・ランド、マック・ロバートソン・ランド、エンダービーランド、ウィルクスランド、ヴィクトリアランドが広がる。ほとんどの領域は東半球にある。そして、広い面積を東南極氷床で覆われている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "南極大陸や周辺諸島には多くの山々や火山帯がある。火山帯は2つあり、マクマード入江付近のものとサウスシェトランド諸島付近のものである。この内マクマード入江の火山群はホットスポットであり、サウスシェトランド諸島の火山群はプレートの沈み込み口である。ロス島のエレバス山は世界で最も南にある活火山であり、マクマード入江の火山群に含まれる。南極にあるもう一つの活火山はサウスシェトランド諸島のデセプション島であり、1970年に噴火を起こし、その後も温泉や小規模な噴火が確認され、今後も噴火の可能性がある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "休火山の中にも再噴火の可能性は否定できないものがある。2004年、南極半島で海底火山がアメリカとカナダの研究チームにより確認された。最近の研究でも、この無名の火山が活動している可能性を示す証拠が見つかった。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "南極大陸は地球上で最も寒い場所である。1983年7月21日には、ボストーク基地で−89.2 °C (−128.6 °F)という最低気温が記録された。また、2010年8月10日にはドームA付近の氷原において、地表面温度が-93.2°Cに達した。これは同地点の典型的な気圧下におけるドライアイスの昇華点よりも低く、さらにはアンモニアの融点(-77°C)よりも低い。東南極は西南極よりも標高が高いため、より寒冷である。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "南極が北極よりも寒い理由は、", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "の2つが挙げられ、北極は南極の地表のように極端な状態になることがない。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "高緯度にあることから、一日中太陽が昇ったままであったり逆に沈んだままである状態が発生する。夏の晴天時には一日中太陽が沈まないため、太陽光の照射量は南極点の方が同時期の赤道上よりも多い。南極大陸における最高気温の記録は、2015年3月24日に南極半島北端のアルゼンチン管轄のエスペランサ基地で観測された17.5°Cである。上空のオゾン層が破壊され、真っ白な雪に覆われた大地は、降り注ぐ紫外線のほとんどを反射し、しばしば日焼けが健康問題にもなる。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "南極大陸は降水量が非常に少ない、「凍りついた砂漠」と言える。南極点における年間降水量は平均100ミリメートル未満である。最低気温は冬季内陸で−80 °C (−112 °F)から−90 °C (−130 °F)程度にまで達し、最高気温は夏季沿岸部でも5 °C (41 °F)から15 °C (59 °F)程度にしかならない。中心部の冷たく乾いた環境ゆえに、気象前線が大陸にかかることは稀である。大陸中心部の降水は少ないが、氷が非常に長い期間解けずに残存する。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "大陸沿岸部は南極台地が吹き降ろす強い滑降風に晒され、時に嵐にもなる。それに対し内陸部の風速は特に強いものではない。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "南極点付近の夜空には南極光とも呼ばれるオーロラが見られる。これは太陽風のプラズマが地球の大気を通過することで発生する光学現象である。他の珍しい現象には、太陽光の異常屈折がもたらすグリーンフラッシュや、細氷(ダイヤモンドダスト)という、細かな氷の結晶が降ることがある。これは通常、晴天か晴天に近い時に発生するため、しばしば天気雨の一種と考えられている。またそれに伴うサンピラーが現れることもある。幻日は、太陽の脇に別に光点が見られるものであり、大気中で起こる光学現象の一種である。", "title": "気候" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "南極大陸には永住している者はいない。しかし多くの国が恒常的な研究所(基地)を大陸上に設置している。そこではたくさんの人々が科学的研究関連の業務に従事し、周辺諸島を加えると冬には約1000人、夏には約5000人程が常駐している。多くの基地には1年を通じて滞在し越冬する者がいる。ロシアのベリングスハウゼン基地には、2004年に正教会の至聖三者聖堂が置かれ、年度交替で1-2人の聖職者が常駐している。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "南極大陸の周囲を含む南極収束線内で初めて半恒常的に居住した人々は、1786年から1年以上の期間をサウスジョージア島で過ごしたアザラシ猟師のイギリス人やアメリカ人であった。1966年までの捕鯨が行われていた時代、この島には夏に1000人以上、最盛期には2000人以上が住み、冬にも200人程度が残っていた。この頃に住んだ人々はノルウェー人だったが、イギリス人の比率も増えつつあった。定住地は、グリトビケン、リース港(英語版)、キング・エドワード・ポイント、ストロムネス(英語版)、フースヴィーク(英語版)、プリンスオーラブ港(英語版)、オーシャン港(英語版)などがあった。捕鯨基地の長官や上級役人たちはしばしば家族とともにこれらの地に住んだ。彼らの中にはグリトビケンの設立者であり、1910年には家族とともにイギリスの市民権を得た捕鯨者で冒険家のカール・アントン・ラーセン(英語版)がいた。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "南極収束線の内側で誕生した初の人物は、1913年10月8日にグリトビケンで生まれたノルウェー国籍の女性ソルヴェイグ・ヤコブセンである。南緯60度線(南極条約によって定められた大陸境界)の内側では、1978年に南極半島先端のエスペランサ基地で誕生したアルゼンチン人のエミリオ・パルマになる。大陸本土では、1984年に家族で居住する設備を備えていたエドゥアルド・フレイ・モンタルバ基地で生まれたJuan Pablo Camachoである。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "南極大陸に生きる陸生脊椎動物は非常に少ない。無脊椎動物では、南極ササラダニ(英語版)など5種類のダニ、ハジラミ、線形動物、緩歩動物、輪形動物、オキアミ、トビムシ目などがいる。体長6mmにもならない飛べない小虫(英語版)のナンキョクユスリカは、南極大陸に広く分布する固有種である。ユキドリは、南極大陸でもっぱら繁殖活動を行う3種の鳥のひとつである。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "植物プランクトンを餌とする海洋生物は多様に存在する。南極には、ペンギン、シロナガスクジラ、シャチ、ダイオウホウズキイカ、オットセイ、アザラシなどが棲息している。亜南極域を含めると、ペンギンはコウテイペンギン・アデリーペンギン・キングペンギン(オウサマペンギン)・ヒゲペンギンなど8種類が棲息している。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "18-19世紀にはアメリカやイギリスの狩猟者によって、ナンキョクオットセイが乱獲された。イギリスのアザラシ狩猟者でありウェッデル海へ遠征したジェームズ・ウェッデル(英語版)から名を取ったウェッデルアザラシを始め、南極にはヒョウアザラシ、カニクイアザラシ、ロスアザラシ、ミナミゾウアザラシの5種類がいる。大規模な群れをつくるナンキョクオキアミは、南氷洋における生態系のキーストーン種であり、アザラシ、イカ、ノトテニア亜目、ペンギン、アホウドリ科など鳥類にとって重要な餌となる。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "500人規模の研究者が投入された海洋生物に対する調査が国際極年(英語版)に行われ、結果が2010年に纏められた。この研究は海洋生物センサス(英語版)(CoML)の一環であり、有意義な報告を含んでいた。12000kmの隔たりを持つ南北両極には250種以上の生物が存在する。クジラや鳥など、大型の生物は周遊を行う。驚くべき事には、蠕虫やナマコまた遊泳するカタツムリなどが両極海洋部で発見された。このような分布状況が生じた要因は複数考えられる。両極と赤道域を繋いで流れる海洋深層水は温度変化がさほど激しく無く、差異は5°Cを上回らない。この熱塩循環が卵や幼虫を運んだという考えもある。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "凍りつく気温、痩せた土壌、乾燥、光量の不足などの厳しい条件下では、南極大陸で繁殖できる植物は非常に限られてくる。地表に生える藻類や地衣類を含む菌類以外では、約100種の蘚類や25種の苔類などコケ植物が大陸に広く分布し、顕花植物に至っては南極半島で見られるナンキョクコメススキとナンキョクミドリナデシコの2種類しか存在しない。成長する季節は夏のみ、期間は長くとも2-3週間に限られる。しかし、地球温暖化の進行に伴いスズメノカタビラの帰化が確認されるなどしている。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "菌類は1150種が確認され、400種が地衣類、750種がそれ以外である。中には、厳しい環境に対応した岩石内微生物(英語版)の種もいる。藻類も数百種存在するが、ほとんどは植物プランクトンである。夏の期間、さまざまな氷雪藻や珪藻が沿岸水域で豊富に繁殖する。近年、氷河の下になる深いところから、古代生態系に属する複数のバクテリアが生きた状態で発見された。独立栄養生物の集団はほとんどが原生生物で占められている。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "環境保護に関する南極条約議定書(マドリッド協定書)が1998年に発効され、南極の生物多様性の保護と管理に関する主要な手段となった。南極条約協議会は、環境保全委員会から環境や保護に関する勧告を受ける。委員会は特に、域外から意図せざる外来生物が南極大陸に持ち込まれる事のリスクに注意を払っている。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1978年、アメリカはAntarctic Conservation Actを採択し、南極大陸における自国の活動に制限を加えるようになった。これは、外来動物や植物の持ち込みに刑事罰を加えられる。また、南極の生態系において大きな位置を占めるオキアミの乱獲には、漁業方法を公的に制定する事で対処している。1980年に発効された南極の海洋生物資源の保存に関する条約 (CCAMLR) は、南極全体の生態系に及ぼす潜在的な影響を考慮し、南氷洋で操業するすべての漁業活動を制御するよう定めている。このような新たな取り組みにもかかわらず、野放しや密漁は止まず、特にマジェランアイナメはチリ沿岸産と偽ってアメリカ市場で売られるなど深刻な問題となっている。アイナメの密漁は増加し、2000年には32,000トンが乱獲された。", "title": "生物" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "南極大陸の地域に領有権を持つと主張する国は複数あるが、実際には政府は存在しない。これら国々の一部には相互に主張を承認しているところもあるが、世界的にはこれらの主張は正当性を持たないと認識されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "新たな領有権主張は1959年以降中断しており、南極大陸は政治的な中立地とみなされている。この1959年は南極条約が批准された年であり、他の関連する合意とともに、この規制された状態は「南極条約体制」と呼ばれる。南極条約体制では、全陸地および南緯60°線以南の棚氷を南極と規定し、その対象と定める。条約は、ソビエト連邦(これはロシアに引き継がれた)、イギリス、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、アメリカ合衆国など12ヶ国が調印している。この体制では、南極を自由な学術調査と環境保護が維持される科学的な保護区と位置づけ、大陸での軍事活動を禁止している。これは、冷戦中に初めて確立された軍備管理協定である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1983年、南極条約の調印国は資源採掘に対する協定制定に向けた交渉を開始した。この際、グリーンピースなど国際的な組織が公衆による圧力活動を展開して採掘への反対を押し進め、人間の活動が大陸に与える影響を記録するために例年の派遣を行った。1988年、南極鉱物資源活動規制条約(英語版)が採択された。しかし翌年オーストラリアとフランスは、同条約の意図も目的も意味をなさないと解釈して、批准しないと発表した。両国は、その代わりに南極環境を保護するための包括的な制度を定めるべき議論をすべきだと主張した。これを他国も認め、議論の末に1998年1月14日に環境保護に関する南極条約議定書が取り交わされた。この議定書では、南極は「平和と科学のための自然保護区」と定め、すべての採掘を禁止している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "南極条約が定める南極における軍事行動禁止は、軍事基地や要塞の建設、軍事的作戦行動、武器の実験試用も禁止している。ただし、純粋な科学研究を目的とする場合のみ、軍人や軍備の受け入れを認めている。例えばアメリカ空軍はニュージーランドからアムンゼン・スコット基地まで軍用機で物資を輸送している(ディープフリーズ作戦(英語版))。なお過去において南極に設置された、記録に残る唯一の軍事施設はアルゼンチン軍のオペレーション90(英語版)のみである。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アメリカ軍は、南極における研究活動に功績があった軍人や民間人を表彰する南極派遣章(英語版)を設けている。この章の授与者には、冬の6ヶ月間を2度大陸で越冬した者に対する線章も与えられる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "1908年のイギリスに始まる南極大陸での領有権主張は、ニュージーランド、フランス、オーストラリア、ノルウェー、チリ、アルゼンチンの計7ヶ国が行った。これらは実効支配が無いと、当時のアメリカとソ連が認めなかった。第二次世界大戦後、政治・軍事的な重要性から、南極条約によって領土の主張を棚上げする決定が下された。それぞれの国が主張する領土は、南極点を要に扇形になっており、これはセクター理論と呼ばれる。アルゼンチン・イギリス・チリの主張する地域には重なった部分がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "その他の国では、ブラジル 、ペルー、旧ソ連に引き続きロシア、南アフリカそしてアメリカも南極の領有に関する権利を何らかの形で表明している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "南極大陸からは石炭・石油・天然ガスが発見され、大陸棚を含めるとコバルト・鉛・マンガン・ニッケル・銀・チタン・ウラン・プラチナ・クロムの存在も推定されている。宝石類では、昭和基地近郊だけでもルビー、サファイア、ベリル、ガーネットなどが発見されている。1991年の南極環境保護条約によって積極的な採掘は制限された。1998年の議定書にて経済的な発掘や採掘は、2048年まで一切が禁止された。そのため、南極における最大の経済活動は漁業およびその国際取引であり、2000-2001年には112,934トンの漁獲量が挙がった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "小規模な「冒険的観光」は1957年から行われており、その内容は環境保護に関する南極条約議定書による制限が加えられるが、事実上は国際南極旅行業協会(IAATO)が定める内規に基づいている。全てでは無いが、南極観光の95%はIAATO加盟業者によって運用されている。旅行のほとんどは中規模以下の船を使い、象徴的な野生生活を観察しやすい、決まった場所が選ばれる。2006-2007年の夏には総計37,506名の旅行者が、ほぼ全てが商用船に乗って訪れた。2010年までの累計訪問者は 80,000人を越えると予想された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "訪問者の流入が環境や生態系に与える潜在的な悪影響が懸念される。自然保護派や科学者からは、船舶や旅行者に対する一段と厳しい規制を求める声があがった。南極条約加盟国からの最初の回答は、環境保全委員会が IAATOとの協力の下でガイダンスを定め、頻繁に観光が行われていた地域に対して、上陸時間の制限や立ち入り禁止区域の設定を推進した。上陸を伴わない航空機による、オーストラリアやニュージーランド発着の遊覧旅行では、1979年にニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故が起き、全乗組員257名が死亡した。カンタス航空は1990年代半ばに、オーストラリア発の南極上空飛行を再開した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "毎年、28の国々から研究者たちが南極大陸に向かい、他の地域ではまねの出来ない実験に取り組む。その人数は夏には4000を超え、冬でも1000人以上が研究所に泊まる。南極大陸最大の研究所であるマクマード基地では、1000人を超える科学者や訪問者らが滞在可能である。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "研究は、生物学、地質学、海洋学、物理学、天文学、雪氷学、気象学など様々な分野で行われる。地質学ではプレートテクトニクス、宇宙空間からの隕石、ゴンドワナ大陸分裂の証拠探査が主に行われる。南極の雪氷学は浮氷・雪・氷河や氷床の履歴や氷床力学(英語版)研究が盛んである。生物学者の興味は、極寒の環境における野生生物の存在や、人間の存在が与える悪影響、そして有機体がどのように適応し生き残っているかに注がれる。医学者は、極端な環境温度下でのウイルスの拡散および人体への影響に注目する。アムンゼン・スコット基地の天文学者はドームで宇宙マイクロ波背景放射の調査を行う。多くの天体観測にとって、高地であるため大気が薄く、気温や大気中の湿度が低く、光害の影響も少ない南極大陸内陸部は、地球上でも鮮明な宇宙の画像を得られる稀な場所であり、より良い観測結果を得られる。アムンゼン・スコット基地の下1.5kmの氷の中にはアイスキューブ・ニュートリノ観測所があり、世界最大の遮蔽性と検出媒体となる性質の両方を持つ南極大陸の氷を活かしてニュートリノの観測が行われている。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1970年代から、南極大陸上空の大気圏にあるオゾン層の観測が行われている。1985年、ブラント棚氷上のハリー研究基地で集められたデータを3人の科学者が分析し、この層に穴(オゾンホール)があることを発見した。最終的にこの穴は、人類が使用するフロン類(CFCs)によってオゾンが破壊され生じたものと判明した。1989年にモントリオール議定書にてCFCsの使用が禁止され、オゾンホールは2065年頃には閉じるものと信じられた。しかし2006年9月にアメリカ航空宇宙局の衛星が捉えたデータから、オゾンホールは2750万kmと、それまでの最大に広がっていることが判明した。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2007年9月6日、ベルギーを拠点とする国際極地財団は、気候変動を研究する初のゼロ・エミッション南極研究所プリンス・エリザベス基地(英語版)を公開した。国際極年(英語版)の一環として、1630万ドルを投じたプレハブ工法の研究所を2008年末までにベルギーから持ち込み、極圏における健康状態の調査を開始した。ベルギーの極地探険家アラン・ヒュバートは、「これはゼロ・エミッションを実現するために作られた最初の基地で、南極においていかにエネルギーが使われるべきかを示すユニークなモデルになる」と語った。気候学と雪氷学および微生物学の研究は、所長であるヨハン・ベルケがプロジェクトの企画と管理の下で行われる。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2008年1月、Hugh CorrとDavid Vaughanが率いるイギリス南極調査研究所(英語版)(BAS)は、レーダーを用いた航空測量の結果から、2200年前に南極大陸の氷の下で火山の噴火が起こったという報告を、雑誌Nature Geoscienceに発表した。パイン島氷河(英語版)付近にあるハドソン山脈(英語版)氷床の下から、この1万年の中で最も大きな噴火の火山灰が発見された。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "南極大陸の地質調査は、溶ける事が無い厚い層の氷に阻まれてきた。これに対し、リモートセンシングや地中レーダー探査また衛星画像の使用など、新たな技術が導入される事で、氷の下に眠る構造が明らかになり始めた。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "西南極の地質はアンデス山脈のそれと似ており、南極半島は古生代終盤から中生代初頭に、海底沈殿物が隆起と変成作用を起こして形づくられた。これは火成岩の貫入および火山現象によって引き起こされたものである。西南極で一般的な岩はジュラ紀に形成された火山岩の安山岩と流紋岩である。火山活動は氷床がつくられた後にも続き、その証拠はマリーバードランドやアレクサンダー島にある。西南極で唯一変則的な部分はエルスワース山脈であり、ここは層序学的に大陸東部の様相に近い。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "東南極の地質は変化に富み、30億年以上前の岩などを含む先カンブリア時代をさかのぼった頃に形成された。これらは楯状地を基礎とする変成岩や火成岩の台地で構成される。この基礎の上には比較的近年に当るデボン紀やジュラ紀に積みあがった砂岩や石灰岩・頁岩などがあり、南極横断山脈が形成された。沿岸のシャックルトン山脈やヴィクトリアランドなどには断層が見られる。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "南極大陸で採掘される主な鉱物資源は石炭であり、記録上最初の発見はニムロデ探査においてバードモア氷河で見つけたフランク・ワイルド(英語版)に遡る。現在では低品位炭が南極横断山脈の様々な場所にある事が知られている。他にも、プリンスチャールズ山地(英語版)には豊富な鉄鉱石があり、ロス海の沖合には1973年に油田やガス田が発見された。これら鉱物資源は、環境保護に関する南極条約議定書(英語版)にて、2048年まで採掘が法的に禁止されている。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "南極大陸の氷床をボーリングで取り出し、採取した氷床コアを分析すると堆積した時代の大気や気候を知ることができる。また穿孔穴を利用した氷床の動きや歪みなども測定される。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "地下のボストーク湖には微生物がいる可能性が指摘されており、2012年2月6日に湖面まで到達した掘削孔を利用した研究の結果が待たれる。また、氷で閉ざされた湖の表面は木星の衛星エウロパとの類似性があり、ボストーク湖で生命が発見されればエウロパでも同様の可能性を検証する資料になりうる。2008年2月7日、NASAのチームがアンタシー湖(英語版)の高アルカリ水の中に生きる極限環境微生物の調査に着手した。仮に発見されれば、メタンが中心成分をなす非常に冷たい環境における地球外生命の考察に影響を与えることが期待される。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "南極大陸で発見される隕石群は、初期太陽系を構成した物質を知る上で非常に重要である。そのほとんどは小惑星起源のものであり、中には惑星から飛来したと考えられるものもある。最初の隕石発見は1912年に遡る。1969年には日本調査隊が9個の隕石を発見した。これらの隕石の大部分は100万年間にわたって氷の上に降り注いだもので、その上に雪が積もって埋まり、やがて何世紀もの期間をかけて移動する氷床が山地などとぶつかる所に溜まる。それが風食作用等で表面に浮き上がり発見される。南極大陸で発見される隕石は、他の地域で見つかるものよりも保存状態が良好である。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "このような大規模な収集は、太陽系における隕石の種類や、小惑星や彗星との関係に対する理解を深める。新しいタイプや珍しい隕石も発見された。この中には衝撃によって月や火星から飛び出し飛来したものもあった。これらのうち、特に南極隕石探査(英語版)にて発見されたアラン・ヒルズ84001などは、火星に微生物が存在したかどうかの論争を喚起した。隕石は宇宙空間で浴びた宇宙線の履歴を残すため、地球に落下してからの経過時間を実験室の分析で明らかにできる。この経過時間、すなわち地球上に存在した時代の解析は、南極氷床の環境を知る上で有効な情報になる可能性を秘めている。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2006年にオハイオ州立大学の研究チームは、NASAのGRACE衛星を用いて行った重力測定の結果から、大きさ約480kmのウィルクスランドクレーター(英語版)を発見した。これは、約2億5000万年前に形成されたと考えられる。", "title": "研究" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "その位置ゆえ、南極大陸が受ける太陽照射は比較的少ない。そのため、気温が非常に低く、水はほとんど氷の状態で存在する。少ない降水は雪として降り注ぎ、夏に溶けないフィンと呼ばれる分は蓄積され、巨大な氷床を形成して陸を覆う。その一部は氷河流を呼ばれる大陸沿岸へ向かう、年間数-数十mから沿岸部では数百mの動きを持つ。その先では、大陸上の氷の塊が押し出されて棚氷を形成する。沖合に至っても気温は低いままであり、海水も凍りつかせて氷は年間を通してほぼ維持される。このような多様な南極の氷が、海洋面の高さへの影響を与えたり、地球温暖化へ関連する。", "title": "氷の収支" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "海洋部の氷は毎年冬に拡大し、夏にはほとんどが溶ける。この氷は海洋水から形成されるため、浮いている状態では海洋面の高さを左右しない。南極大陸を囲む氷は、その厚みの変化は明確ではないが、範囲はここ数十年においてさほどの変化を見せていない。", "title": "氷の収支" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "浮いている氷は影響を与えないが、棚氷を形成する陸上から移動した氷は地球全体の海面上昇を引き起こす。これは内陸に降る雪で相殺されるものだが、この数十年間は沿岸部、特に南極半島に沿った部分で発生した大規模な棚氷の崩壊が報告されている。このような棚氷の分断が、大陸の氷河から供給される水の量を増加させる可能性が懸念される。", "title": "氷の収支" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "大陸上の氷そのものが、世界中の淡水の70%を占める。これは降雪によって増加し、海への流出によって減少する。現在、西南極では流出量が降雪を上回り、徐々に海面上昇を引き起こしている。1992年から2006年までの科学的調査によれば、氷は1年当たり約500億トンが失われ、海面は約0.14mm上昇していると示唆された。アムンゼン海への氷河流出は大幅に加速しており、この数値は倍以上になっているという説もある。", "title": "氷の収支" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "東南極は大陸の大部分を占める広大かつ標高が高く、寒冷な領域である。ここは、結果的に氷床を沿岸へ押し出す役目をする降雪が少ない。そのため東南極氷床全体の質量収支は、ほぼ均衡またはわずかに増加(海洋面水位にとっては低下)していると考えられる。しかし、局地的には流出が増加している箇所も発見されている。", "title": "氷の収支" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "南極大陸の地域の中には明らかに気温が上昇しているところがあり、南極半島において顕著である。エリック・スタイグが2009年に発表した研究において、1957年から2006年にかけて南極大陸全体の平均気温が0.05°C高くなり、特に西南極の春から夏にかけての上昇が大きいという結果が初めて公表された。この上昇は、秋の東南極の寒冷化と一部相殺される。", "title": "地球温暖化への影響" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ある研究結果によると、南極大陸は人間が排出した二酸化炭素の影響によって温暖化しているという証拠が提示された。しかし、西南極表層のごくわずかな温暖化が、海洋面の高さに対する西南極氷床の作用へ直接効果を与えているとはにわかには信じられていない。その代わり、深海から到達する暖かい海水が氷河に影響し、大陸棚から離されると考えられている。南極半島部分が水位へ実際にもたらす影響は、その場所の大気が温暖化するよりも非常に大きくなる。", "title": "地球温暖化への影響" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2002年、南極半島のラーセン棚氷Bが崩壊した。2008年の2月28日から3月8日にかけ、南極半島南西部のウィルキンス棚氷から570kmに及ぶ氷が分離して崩壊し、残りの氷15000kmにも同じ事が起こりうる。2009年4月5日の崩壊では、分離される前に氷は幅6kmの「筋」で繋がっていた。NASAによると、この30年間で南極表面の氷が最も多く溶けた年は2005年であり、急速に溶け再氷結した面積はカリフォルニアに匹敵すると言い、それは気温が5°Cまで上昇した事に起因する可能性を示唆した。", "title": "地球温暖化への影響" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "年々、オゾンが集中する大気層に見られる巨大な劣化部分(オゾンホール)が南極上空で成長している。2008年9月、この部分が南極大陸を上回る過去最大の大きさとなり、12月末までの長い期間にわたり持続していた点も過去に見られなかった。", "title": "オゾン層の劣化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "最初にオゾンホールを発見したのは南極地域観測隊の忠鉢繁である。観測したオゾン全量があまりに小さかったことに気づいた忠鉢は、初めは計器の故障を疑った。やがて本当にオゾンが少ないことに気づき、1984年の国際オゾンシンポジウムでこの事実を発表した。イギリスも観測結果から1985年にオゾンホールを発見し、「オゾンホール」というわかりやすい言葉を使った報道も相まってオゾンホールの存在は世界に知れ渡ることとなった。観測の結果から年を追うごとに拡大傾向にあることが分かった。これは、オゾンを他のガスに変質させる効果を持つフロン類(CFCs)が大気中に放出された結果、大気の大循環によって南極に集められていたことが判明したのである。", "title": "オゾン層の劣化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "このオゾン層破壊が南極そして南半球へ気候変動を引き起こす要因となる可能性が、いくつかの研究から指摘された。成層圏でオゾン層はほとんどの紫外線を吸収する。これが南極上空で欠乏すると、そこの成層圏の温度が約6°C程下がる可能性がある。そうなると、南極大陸を取り囲むように吹く西風(極渦)が強まり、大陸の冷気を封じ込めてしまい、大陸塊にある東南極の氷床の温度が下がると考えられる。相対的に南極半島など周辺の温度は上昇し、氷の溶解を促進する。この理論では、オゾン層破壊による極圏への紫外線照射量増加、そして極渦効果の高まりによって、大陸沿岸の海氷はむしろ増えることが見込まれる。", "title": "オゾン層の劣化" } ]
南極大陸は、地球の最も南にあり、南極点を含む大陸。 南半球の南極地方にあり、南氷洋に囲まれた南極圏に位置する。5番目に大きな大陸であり約1400万km2の面積は、オーストラリア大陸のほぼ2倍に相当する。約98%は氷で覆われ、その厚さは平均2.00325kmに及ぶ。 南極大陸は、平均気温が最も低く、乾燥し、強風に晒され、また平均海抜も最も高い大陸である。年間降水量が海岸部分で200mm、内陸ではさらに少ない砂漠と考えられる。南極大陸で観測された最低気温は、2018年7月に記録した-97.8°Cである。 この気温では人間が定住することは難しいが、約1000-5000人が大陸中に点在する研究所に年間を通して滞在している。 自然状態では、寒冷な環境に適応可能な生物のみが生存し、多くの藻類、ダニ・線虫やペンギン・鰭脚類・節足動物などの動物類、バクテリア、菌類、植物および原生生物が繁殖している。植生はツンドラである。 かつて、「南の地」を意味するテラ・アウストラリス という大陸が空想されていた南極域に、公式に大陸が存在する事が確認されたのは1820年にロシアの探検家ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフがボストーク号(en)とミールヌイ号(en)で行った遠征に端を発する。しかし、厳しい自然環境や、当時は資源が見つからなかった事、そして孤立的な地理条件から、19世紀中はほとんど注目されなかった。 1959年、12ヶ国の批准で始まった南極条約は、その後加盟国が49にまで増えた。条約は、軍事的活動や鉱物採掘や核爆発や核廃棄物の発生の禁止、各国家による領域主権主張の凍結、科学的研究の支援と生物地理区としての保護を定めた。多くの国から派遣された科学者たちが、研究や実験を行っている。
{{Otheruses||テレビドラマ|南極大陸 (テレビドラマ)}} {{Infobox Continent |image = [[ファイル:Antarctica (orthographic projection).svg|200px]] |area = 14,000,000 km<sup>2</sup><ref name="CIAfactbook-People">{{Cite web|title=Antarctica|year=2011|work=The World Factbook|author=United States Central Intelligence Agency|publisher=Government of the United States|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ay.html|language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref> |population = 定住0([[大陸#面積と人口|7位]])<br />夏季約5,000-冬季約1,000 |density = |demonym = |countries = |list_countries = |dependencies = {{Collapsible list | title = {{voidd}} | frame_style = border: none; padding: 0; | list_style = display: none; | 1 = [[ブーベ島]] | 2 = [[フランス領南方・南極地域]] | 3 = [[ハード島とマクドナルド諸島]] | 4 = [[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島]] }} |unrecognized = {{Collapsible list | title = {{voidd}} | frame_style = border: none; padding: 0; | list_style = display: none; | 1 = [[アデリーランド]] | 2 = [[チリ領南極]] | 3 = [[アルゼンチン領南極]] | 4 = [[オーストラリア南極領土]] | 5 = [[イギリス領南極地域]] | 6 = [[ドロンニング・モード・ランド]] | 7 = [[ピョートル1世島]] | 8 = [[ロス海属領]] }} |languages = |time = 該当なし <br /> [[UTC-3]] <small>([[グレアムランド]])</small> |internet = [[.aq]] |cities = }} '''南極大陸'''(なんきょくたいりく、{{Lang-en-short|Antarctica}}、({{IPAc-en|audio=en-us-Antarctica.ogg|æ|n|t|ˈ|ɑr|t|ɪ|k|ə}}または{{IPAc-en|æ|n|ˈ|t|ɑː|k|t|ɪ|k|ə}}) {{#tag:ref|元々は{{IPA|/k/}}を発音しなかったが、語源への忠実さに即し"c"が加えられ、やがて{{仮リンク|綴り字発音|en|spelling pronunciation}}が一般化して発音されるようになった<ref>{{Cite book|author=Crystal, David|title=The Fight for English|publisher=オックスフォード大学出版局|year=2006|page=172|isbn=978-0-19-920764-0}}</ref><ref>{{Cite web|author=Harper, Douglas|title=Antarctic|url=http://www.etymonline.com/index.php?term=antarctic&allowed_in_frame=0|work=Online Etymology Dictionary| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>|group="注"}}、{{Lang-es-short|Antártica}}、{{Lang-fr-short|Antarctique}}、{{Lang-no-short|Antarktika}}、{{Lang-pt-short|Antártica}})は、[[地球]]の最も[[南]]にあり、[[南極点]]を含む[[大陸]]。 [[南半球]]の[[南極]][[地方]]にあり、[[南氷洋]]に囲まれた[[南極圏]]に位置する。5番目に大きな[[大陸]]であり約1400万km<sup>2</sup>の[[面積]]は、[[オーストラリア大陸]]のほぼ2倍に相当する。約98%は[[氷]]で覆われ、その厚さは平均2.00325kmに及ぶ。 南極大陸は、平均[[気温]]が最も低く、[[乾燥]]し、強風に晒され、また平均[[海抜]]も最も高い大陸である<ref>{{Cite web|author=National Satellite, Data, and Information Service|title=National Geophysical Data Center|publisher=アメリカ合衆国政府|url=http://www.ngdc.noaa.gov/mgg/image/2minrelief.html| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。年間[[降水]]量が[[海岸]]部分で200mm、[[内陸]]ではさらに少ない[[砂漠]]と考えられる<ref>{{Cite web|author=Joyce, C. Alan|url=http://www.worldalmanac.com/blog/2007/01/the_world_at_a_glance_surprisi.html|title=The World at a Glance: Surprising Facts|work=The World Almanac|date=2007-01-18|language=英語|accessdate=2012-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090304001123/http://www.worldalmanac.com/blog/2007/01/the_world_at_a_glance_surprisi.html|archivedate=2009年3月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。南極大陸で観測された最低気温は、[[2018年]]7月に記録した-97.8{{℃}}である。 この気温では人間が定住することは難しいが、約1000-5000人が大陸中に点在する[[研究所]]に年間を通して滞在している。 自然状態では、寒冷な環境に適応可能な生物のみが生存し、多くの[[藻類]]、[[ダニ]]・[[線虫]]や[[ペンギン]]・[[鰭脚類]]・[[節足動物]]などの[[動物]]類、[[バクテリア]]、[[菌類]]、[[植物]]および[[原生生物]]が繁殖している。[[植生]]は[[ツンドラ]]である。 かつて、「南の地」を意味する[[メガラニカ|テラ・アウストラリス]] (Terra Australis) という大陸が空想されていた南極域に、公式に大陸が存在する事が確認されたのは1820年に[[ロシア]]の探検家[[ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン]]と{{仮リンク|ミハイル・ラザレフ|en|Mikhail Lazarev}}がボストーク号[[:en:Vostok (sloop-of-war)|(en)]]とミールヌイ号[[:en:Mirny (sloop-of-war)|(en)]]で行った遠征に端を発する。しかし、厳しい自然環境や、当時は[[資源]]が見つからなかった事、そして孤立的な地理条件から、19世紀中はほとんど注目されなかった。 1959年、12ヶ国の[[批准]]で始まった[[南極条約]]は、その後加盟国が49にまで増えた。条約は、軍事的活動や鉱物採掘や核爆発や核廃棄物の発生の禁止、各[[国家]]による[[領域主権]]主張の凍結、科学的研究の支援と[[生物地理区]]としての保護を定めた。多くの国から派遣された科学者たちが、研究や実験を行っている。 == 語源 == 大陸の名称として単語「{{en|Antarctica}}」を公式に初めて使ったのは、1890年代のスコットランド人地図学者{{仮リンク|ジョン・ジョージ・バーソロミュー|en|John George Bartholomew}}である<ref>John George Bartholomew and the naming of Antarctica, CAIRT Issue 13, National Library of Scotland, July 2008, ISSN 1477-4186, and also {{Cite web|title=The Bartholomew Archive|url=http://digital.nls.uk/bartholomew/highlights/antarctica.html| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。「{{en|Antarctica}}」は、[[北極]]または[[北]]の反対という意味である<ref>{{Cite book|author=Hince, Bernadette|url=https://books.google.co.jp/books?id=lJd8_owUxFEC&pg=PA6&lpg=PA6&dq=antarctica+opposite+of+north+greek&redir_esc=y&hl=ja|title=The Antarctic Dictionary|publisher=CSIRO Publishing|page=6|isbn=978-0-9577471-1-1|year=2000}}</ref>[[ギリシア語]]の複合語 {{el|ἀνταρκτικός}} (''antarktikos'') を女性名詞化した {{el|ἀνταρκτική}} (''antarktiké'') を元に、[[ラテン文字]]化したものである<ref>{{Citation|author=Liddell, Henry George|coauthors=Scott, Robert|url=http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3D%239514|contribution=Antarktikos|title=A Greek–English Lexicon|editor=Crane, Gregory R.|series=Perseus Digital Library|publisher=[[タフツ大学]] | language=英語|accessdate=2012-06-14}}.</ref>。 <gallery> 061212-nordkapp.jpg GletscherMM.jpg Mount Erebus Aerial 2.jpg Aurore australe - Aurora australis.jpg </gallery> == 歴史 == [[ファイル:AntarcticBedrock.jpg|thumb|left|氷床の下に眠る南極大陸の岩盤地形]] [[ファイル:Antarctica Without Ice Sheet.png|thumb|これは、氷床がすべて除かれ、その圧力からの解放による地盤の上昇と海面の上昇を計算した南極の地図である。この地図は氷床の形成を阻むほど温暖だった3,500万年前の南極大陸の状態を示唆するものである。]] 約2億年前、南極大陸は[[超大陸]][[ゴンドワナ大陸|ゴンドワナ]]の一部であった。1億8000万年前頃からゴンドワナは徐々に分裂し<ref name=niprpub>{{Cite web|和書|url= http://www.nipr.ac.jp/~kouhou/pamph/kansoku2011.pdf |format=PDF|title= 南極観測|publisher= [[国立極地研究所]] |accessdate=2012-06-14}}</ref>、南極大陸の現在の形は約2500万年前に形成された。南極大陸は常に寒冷で渇き氷に覆われていた訳ではなく、大陸は現在よりもはるかに[[北]]に位置し、[[熱帯]]または[[温帯]]の気候であった時期が長く、当時は[[森林]]で覆われ<ref name=niprpub />多様な生物が生きていた。 === 古生代(5億4000万–2億5000万年前) === [[カンブリア紀]]にゴンドワナは穏やかな気候にあり、現在の西南極に相当する地域は[[北半球]]に位置した。この時期、[[砂岩]]や[[石灰岩]]または[[頁岩]]の堆積が進行した。東南極に相当する地域は[[赤道]]上にあり、熱帯の海には[[無脊椎動物]]や[[三葉虫]]などが繁殖していた。[[デボン紀]]初期(4億1600万年前)ゴンドワナは南へ移動を始め、当時の陸上植物の化石を分析した結果から、気候は寒冷になっていったことが分かった。[[砂]]や[[シルト]]が堆積し、今日の[[エルスワース山脈]]、[[ホーリック山脈]]、[[ペンサコーラ山脈]]の地層を形成した。デボン紀末(3億6000万年前)には[[カルー氷河時代]]が始まり、南極大陸部分は南極点を中心とする位置まで移動し、気温は低下したが、植物は{{仮リンク|南極植物相|en|Antarctic flora}}として生き残っていた。[[ペルム紀]]には湿地帯に繁殖する[[グロッソプテリス]]のような[[シダ植物門]]系の植物が優勢になり、後に南極横断山脈の石炭層を形成した。ペルム紀の終わり頃までは、地球温暖化の影響からゴンドワナは暖かく乾燥した状態が保たれていた<ref name="Stonehouse">{{cite book | editor-last = Stonehouse | editor-first = B. | title = Encyclopedia of Antarctica and the Southern Oceans | year = 2002 | month = June | publisher = John Wiley & Sons | isbn = 0-471-98665-8 }}</ref>。 === 中生代(2億5000万–6500万年前) === 温暖な環境の中、極氷冠は溶けた状態にあり、ゴンドワナ系の大陸では砂漠化が進んでいた。東南極では[[シダ種子類]]が繁殖し、この頃には砂岩や頁岩の堆積が大量に進んだ。後ペルム紀から[[三畳紀]]初期には[[リストロサウルス]]など哺乳類型爬虫類として知られる[[単弓類]]が繁殖した。[[ジュラ紀]](2億600万-1億4600万年前)には南極半島形成や島々の隆起が始まった。この頃には[[イチョウ]]の木や[[ソテツ類]]が旺盛に繁殖した。西南極では[[球果植物門]]の森が形成されていたが、[[白亜紀]](1億4600万-6500万年前)の終わり頃には[[ナンキョクブナ科]]が優勢になりつつあった。[[アンモナイト]]が周辺海域で一般的な生物であった。[[恐竜]]も棲息していたが、知られているものは3[[属 (分類学)|属]]に留まっている。{{仮リンク|ハンソン層|en|Mount Kirkpatrick Formation}}からは、[[クリョロフォサウルス]]([[獣脚類]])と[[グラシャリサウルス]]<ref name="SmithPol2007">{{cite journal | last = Smith | first = Nathan D. | last2 = Pol | first2 = Diego | year = 2007 | title = Anatomy of a basal sauropodomorph dinosaur from the Early Jurassic Hanson Formation of Antarctica | journal = Acta Palaeontologica Polonica | volume = 52 | issue = 4 | pages = 657–674 | url = http://www.app.pan.pl/archive/published/app52/app52-657.pdf | format = PDF | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>([[:en:Glacialisaurus]]、[[竜脚類]])および[[アンタークトペルタ]]<ref>{{cite web | author=Leslie, Mitch | title = The Strange Lives of Polar Dinosaurs | url = http://www.smithsonianmag.com/history-archaeology/polar-dinosaurs-200712.html| publisher=Smithsonian Magazine| month=December | year=2007 | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>([[鳥盤類]])が見つかっている。 === ゴンドワナ大陸の分裂(1億6000万-2300万年) === 1億6000万年前に[[アフリカ大陸]]が南極大陸と分離し、白亜紀の初期(1億2500万年前頃)に[[インド亜大陸]]も離れた。6500万年前頃には、[[オーストラリア大陸]]と分かれていなかった南極大陸は熱帯もしくは亜熱帯気候にあり、[[有袋類]]中心の[[動物相]]を持っていた。約4000万年前、オーストラリアと[[ニューギニア島]]が分離し、南極大陸が独立した。そしてこの頃から最初の氷が形成され始めた。約3400万年前の{{仮リンク|E/O境界|en|Eocene-Oligocene extinction event}}を過ぎる頃、[[二酸化炭素]]の濃度はそれ以前から数百ppm下がった約760ppmになった<ref>{{cite web | url = http://www.physorg.com/news172072921.html | title = New CO2 data helps unlock the secrets of Antarctic formation | publisher = Physorg.com | date = | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。2300万年前後には南アメリカ大陸との陸峡が切れて[[ドレーク海峡]]が開かれ、その結果[[南極環流]]が生じて南極大陸は完全に孤立した。二酸化炭素の減少は環境変化に大きく影響し<ref name="DeContoPollard2003">{{cite journal | last1 = DeConto | first1 = Robert M. | last2 = Pollard | first2 = David | title = Rapid Cenozoic glaciation of Antarctica induced by declining atmospheric CO<sub>2</sub> | journal = Nature | volume = 421 | pages = 245–9 | date = 2003-01-16 | url = http://www.nature.com/nature/journal/v421/n6920/abs/nature01290.html | doi = 10.1038/nature01290 | language=英語|accessdate=2012-06-14| issue = 6920 | pmid = 12529638 }}</ref>、森林に取って替わって氷が大陸に広がり始めた。約1500万年以降、大陸は氷で閉ざされている<ref name="Trewby2002">{{cite book| editor-last = Trewby | editor-first = Mary | year = 2002 | month = September | title = Antarctica: An Encyclopedia from Abbott Ice Shelf to Zooplankton | publisher = Firefly Books | isbn = 1-55297-590-8 }}</ref>。 === 新第三紀(2300万年-5000年前)以降 === 1986年、[[オハイオ州立大学]]の古生物学者ピーター・ウェブのチームは、南極点から640kmの地点に、300万年前([[鮮新世]])に繁殖していた大規模な温帯森林の痕跡を発見した<ref>{{Cite web|url= http://findarticles.com/p/articles/mi_m1200/is_v129/ai_4164401/ |title= A forest grows in Antarctica – an extensive forest may have flourished about 3 million years ago |publisher= Science News | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref><ref>{{Cite news|author=O'Hanl, Larry|title=Antarctic Forests Reveal Ancient Trees|date=2004-11-05|url=http://dsc.discovery.com/news/briefs/20041101/leaves.html?ct=6817.32046957226|newspaper=Discovery News|language=英語|accessdate=2012-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110628230903/http://dsc.discovery.com/news/briefs/20041101/leaves.html?ct=6817.32046957226|archivedate=2011年6月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.antarctica.ac.uk/about_antarctica/geography/rock/fossil-collection.php|title=Frozen in time: Fossils from the Antarctic| language=英語|accessdate=2012-06-14|author=British Antarctic Survey|publisher=Natural Environment Research Council}}</ref>。 == 探検の歴史 == {{Main|南極の歴史}} === 発見まで === [[ファイル:Atlas Cosmographicae (Mercator) 041.jpg|thumb|メルカトルによる世界地図]] 北半球の大陸(ヨーロッパ・アジア・北アフリカ)と地球規模のバランスを取る大陸が南の果てにあるという考えは、[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]が「世界の陸塊には[[対称性]]がある」と示した通り、2世紀頃には存在した<ref>[[#神沼|神沼 pp44-45]]</ref>。この概念は、南アメリカやオーストラリアの発見を経た17世紀末に至ってもなお、これらの面積が釣り合わないことから依然として残っていた。[[ゲラルドゥス・メルカトル]]が1569年に出版した世界初の世界地図には「[[メガラニカ|テラ・アウストラリス・インコングニタ]]」(未知の南の国)という、[[フエゴ島]]から[[オーストラリア大陸]]までを含めた巨大な大陸が書かれている<ref>[[#神沼|神沼 p.45]]</ref>。船乗りたちの興味は、この架空かつ未知の大陸へ向けられるようになり、[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]、[[フランシス・ドレーク|ドレーク]]、[[アベル・タスマン|タスマン]]、そして[[ジェームズ・クック]]などが南海を何回も探検した<ref>[[#神沼|神沼 p.46]]</ref>。 前述の仮想上の陸地は、クック船長率いる[[レゾリューション (帆船)|レゾリューション]]号と[[アドヴェンチャー (帆船)|アドヴェンチャー]]号が1773年1月17日と12月そして1774年12月に[[南氷洋]]の[[南極環流]]を突っ切るまで、ヨーロッパの世界地図に痕跡を残していた<ref>{{Cite web|publisher=The Mariners' Museum|title=Age of Exploration: John Cook|url=http://www.mariner.org/educationalad/ageofex/cook.php|language=英語|accessdate=2012-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060207175624/http://www.mariner.org/educationalad/ageofex/cook.php|archivedate=2006年2月7日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。1773年1月、クック一行は南極大陸沿岸から約121kmまで近づいたが<ref>James Cook, ''The Journals'', edited by Philip Edwards. Penguin Books, 2003, p. 250.</ref>、結局は陸地を発見できなかった<ref name="kaminuma47">[[#神沼|神沼 p.47]]</ref>。それでもクックはテーブル型氷山が多いことから陸地は存在するだろうと推測していた<ref name="kaminuma47" />。そして{{Quotation|その地は南緯60度より高緯度にあり、小さく氷雪に覆われた不毛の地で、人類に対し何の富ももたらさないだろう。}}と記している<ref name="kaminuma47" />。 === 到達と探検 === [[ファイル:Lazarev MP by Schwede rectangle.jpg|thumb|right|ミハイル・ラーザレフは、南極の土地を発見した最初のナビゲーターである。]] 様々な機関(例えば[[アメリカ国立科学財団]] <ref>{{Cite web|author=U.S. Antarctic Program External Panel of the National Science Foundation|title=Antarctica—Past and Present|url=http://www.nsf.gov/pubs/1997/antpanel/antpan05.pdf|publisher=Government of the United States| language=英語|accessdate=2012-06-14|format=PDF}}</ref>、[[アメリカ航空宇宙局]]<ref>{{Cite web|url=http://quest.arc.nasa.gov/antarctica/background/NSF/palmer.html|title=Nathaniel Brown Palmer, 1799–1877|author=Guthridge, Guy G|publisher=Government of the United States, National Aeronautics and Space Administration|language=英語|accessdate=2012-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060202101525/http://quest.arc.nasa.gov/antarctica/background/NSF/palmer.html|archivedate=2006年2月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、[[カリフォルニア大学サンディエゴ校]]<ref>{{Cite web|url=http://arcane.ucsd.edu/pstat.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060210005949/http://arcane.ucsd.edu/pstat.html|archivedate=2006年2月10日|title=Palmer Station|publisher=University of the City of San Diego|language=英語|accessdate=2012-06-14|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>など<ref>{{Cite web|url=http://www.south-pole.com/p0000052.htm|title=An Antarctic Time Line: 1519–1959|work=South-Pole.com| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://ku-prism.org/polarscientist/timeline/antarcticexplorers1800.html|title=Antarctic Explorers Timeline: Early 1800s|publisher=Polar Radar for Ice Sheet Measurements (PRISM)| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>)は、南極大陸上陸は3人の船長が率いた船によって成されたという。 南極大陸は1820年1月28日に[[エストニア]]出身の[[ロシア帝国海軍]]タデウス・ベリングスハウゼンとミハイル・ラザレフが率いるロシアの遠征隊によって発見された。彼らはスループでボストークとミルニーが棚氷に近づき、氷に覆われた土地を発見した。記録された最初の上陸は、1821年2月7日にアメリカ人アザラシ猟師{{仮リンク|ジョン・デイビス (アザラシ猟師)|en|John Davis (sealer)|label=ジョン・デイビス}}と言われる<ref>{{Cite web|url=http://data.aad.gov.au/aadc/events/display_event.cfm?event_id=32|title=The first landing on the mainland of Antarctica |publisher=Australian Antarctic Data Centre| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 1840年1月22日、[[バレニー諸島]]西岸を発見した2日後、3年前から[[ジュール・デュモン・デュルヴィル]]の冒険に同行していたメンバーらが、[[アデリーランド]]の{{仮リンク|ジオデシー岬|en|Cape Geodesie}}沖約4kmにある{{仮リンク|デュムラン諸島|en|Dumoulin Islands}}内の最も標高が高い小島に上陸した<ref>{{Cite web|url= http://www.ats.aq/documents/ATCM29/wp/ATCM29_wp019_f.doc |title= Proposition de classement du rocher du débarquement dans le cadre des sites et monuments historiques |publisher= Antarctic Treaty Consultative meeting 2006, note 4 | language=フランス語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。ここで彼らは[[鉱物]]や藻類および動物のサンプルを得た<ref>{{Cite web|url= http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k97685c.image.f2.langFR |title= Voyage au Pôle sud et dans l'Océanie sur les corvettes "l'Astrolabe" et "la Zélée |publisher=exécuté par ordre du Roi pendant les années 1837-1838-1839-1840 sous le commandement de M. J. Dumont-d'Urville, capitaine de vaisseau''}, Paris, Gide publisher, 1842-1846, tome 8, p. 149-152, site of Gallica, BNF | language=フランス語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 1839年12月には、[[アメリカ海軍]]が実施した1838-42年の[[アメリカ合衆国探検遠征隊]]の調査("Ex. Ex.",または"the Wilkes Expedition"とも呼ばれる)がオーストラリアのシドニーから出発し、南氷洋を渡って翌年1月25日には[[バレニー諸島]]西岸を発見した。当時、この場所は[[ウィルクスランド]]と命名された。 探検家[[ジェイムズ・クラーク・ロス]]は、1841年に現在[[ロス海]]と呼ばれる海域を通過し、[[ロス島]]を発見した。これらには彼の姓が冠された。彼が淵に沿って航行した巨大な氷の壁は[[ロス棚氷]]と呼ばれる。[[エレバス山]]と[[テラー山 (ロス島)|テラー山]]は、それぞれ彼の一行が乗っていた2隻の船({{仮リンク|エレバス (1826年)|en|HMS Erebus (1826)|label=エレバス}}と{{仮リンク|テラー (1813年)|en|HMS Terror (1813)|label=テラー}})に由来する<ref>{{Cite web|url=http://www.south-pole.com/p0000081.htm|title=James Clark Ross |work=South-Pole.com|language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。1853年1月26日には[[マーケイター・クーパー]]が[[東南極]]に到達した<ref>{{Cite web|url=http://www.antarctic-circle.org/firsts.htm|title=Antarctic Circle – Antarctic First|date=2005-02-09| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 [[ファイル:TheSouthernParty (cropped).jpg|thumb|left|ニムロデ探査の南極点調査隊。左から: {{仮リンク|フランク・ワイルド|en|Frank Wild}}、[[アーネスト・シャクルトン]]、{{仮リンク|エリック・マーシャル|en|Eric Marshall}}、{{仮リンク|ジェームソン・アダムス|en|Jameson Adams}}]] [[アーネスト・シャクルトン]]が率いた1907年の[[ニムロド遠征|ニムロデ探査]]において、{{仮リンク|エッジワース・デイヴィッド|en|Edgeworth David}}の隊は初めてエレバス山を登頂し、[[南磁極]]に到達した。[[ダグラス・モーソン]]は危険な帰路から生還し、その後も1931年に引退するまで様々な探検を続けた<ref>{{Cite web|url=http://www.antarctica.gov.au/about-antarctica/history/people-of-antarctic-history/tannatt-edgeworth-david|title=Tannatt William Edgeworth David|publisher=Australian Antarctic Division| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。シャクルトン自身も他のメンバー3人を従え、1908年12月に数々の未踏の地を探検し、1909年2月にはロス棚氷を横断、[[ベアードモア氷河|バードモア氷河]]を渡って南極横断山脈を越え、そして南極高原に到達した。 {{see|ロアール・アムンセン|ロバート・スコット}} ノルウェー人探検家[[ロアール・アムンセン]]の隊が[[フラム号]]を出発し[[クジラ湾]]から[[アクセルハイベルグ氷河]]を遡上するルートで南極点を目指し、1911年12月14日に彼らは到達を成し遂げた<ref>{{Cite web|url=http://www.south-pole.com/p0000101.htm|title=Roald Amundsen|publisher=South-Pole.com| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。[[テラ・ノヴァ号探検隊]]の[[ロバート・スコット]]一行が南極点に到達したのは、彼らに遅れる事1ヶ月だった。 1930年代から40年代にかけて、[[リチャード・バード]]は[[飛行機]]による南極飛行を数度行った。彼は、南極大陸の通行手段を確立し、大規模な地質学的および生物学的調査を実施したことで知られる<ref>{{Cite web|url=http://www.70south.com/information/antarctic-history/explorers/richardbyrd|title=Richard Byrd|work=70South.com|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071011225212/http://www.70south.com/information/antarctic-history/explorers/richardbyrd|archivedate=2007年10月11日|language=英語|accessdate=2012-06-14|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。しかし、1956年10月31日に{{仮リンク|ジョージ・J・ドゥフェク|en|George J. Dufek}}率いるアメリカ海軍のグループが航空機で南極点に降り立つまで、訪れる者はいない空白期間があった<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20010106213500/http://www.history.navy.mil/wars/datesoct.htm|title=Dates in American Naval History: October|work=Naval History and Heritage Command|publisher=United States Navy| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 単独で南極大陸に到達した初めての人物はニュージーランド人の{{仮リンク|デヴィッド・ヘンリー・ルイス|en|David Henry Lewis}}であり、彼は「アイス・バード」と名づけた10mサイズの鉄製[[スループ]]でこれを成し遂げた<ref>{{Cite web|url=http://www.smh.com.au/articles/2002/11/15/1037080913844.html|title=The sailor who set out to see it all |publisher=smh.com | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 == 地理 == {{Main|南極の地理}} {{See also|南極周辺の島の一覧}} [[ファイル:Antarctica.svg|thumb|300px|南極大陸の地図]] 南極大陸は、南極点の周囲に非対称的に広がり、おおむね南極圏の南側に位置する世界最南の大陸である。周囲を[[南氷洋]]が取り囲んでいる。あるいは[[太平洋]]・[[大西洋]]・[[インド洋]]の南端、もしくは[[世界の大洋|世界大洋]]の南端が取り囲んでいるとも言える。 面積は1400万km<sup>2</sup><ref name="CIAfactbook-People" />で大陸としては5番目に当り、ヨーロッパ大陸の1.3倍に相当する。最高峰は[[エルスワース山脈]]にある海抜4,892mの[[ヴィンソン・マシフ]]である<ref>{{cite web | url = http://7summits.com/vinson/vinson.htm | title = Summit of Antarctica, 4897m | publisher = 7summits.com: voluminous information within commercial site | language=英語|accessdate=2012-07-09}}</ref>。海岸線17,968km<ref name="CIAfactbook-People" />は、以下の表で示される通り、ほとんどが氷で閉ざされている。 {| class="wikitable" |+ 南極大陸海岸線の種類<ref>{{cite book |editor=Drewry, D. J. |year=1983 |title=Antarctica: Glaciological and Geophysical Folio |publisher=Scott Polar Research Institute, University of Cambridge |ISBN= 0-901021-04-0}}</ref> |- ! 種類 ! 比率 |- | [[棚氷]](浮遊した氷の縁) | align = right | 44% |- | 氷壁(陸地にある氷の部分) | align = right | 38% |- | 氷河流/溢流氷河(氷河の先端) | align = right | 13% |- | 岩石 | align = right | 5% |- align = right | 合計 | 100% |} 南極大陸地表の約98%は、[[南極氷床]]で覆われており、その厚みは平均1.6km以上に達する。地球上の氷の90%が南極大陸に集中しており、その結果[[淡水]]の70%が存在していることになる。もし全ての氷が解けると、海水面は約60m上昇する<ref name="howstuffworks">{{cite web | url = http://science.howstuffworks.com/question473.htm | title = How Stuff Works: polar ice caps | publisher = howstuffworks.com | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。内陸の[[降水]]量は年間20mm以下と非常に少ない。{{仮リンク|ブルー・アイス|en|Blue ice (glacial)}}と呼ばれる特徴的な地域は、降水量よりも[[昇華 (化学)|昇華]]によって失われる水の量の方が多い場所である<ref>{{Cite web|url= http://www2.umaine.edu/climatechange/Research/projects/blueice.html |title=Glaciology of Blue Ice Areas In Antarctica |publisher=Climate Change Institute | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 {{main|氷底湖}} 南極大陸には70を超える湖が大陸氷床の下に存在する。[[ボストーク湖]]は、1996年にロシアの[[ボストーク基地]]直下に発見された最大の[[氷底湖]]である。これは50-100万年前に氷によって封鎖されたものと考えられていたが、最近の調査では他の湖へ大きな水の流れのあることが判明した<ref name="Briggs2006">{{cite news | last = Briggs | first = Helen | date = 2006-04-19 | url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/sci/tech/4908292.stm | title = Secret rivers found in Antarctic | publisher = BBC News | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 <gallery> ファイル:Antarctica surface.jpg|海抜で色分けされた南極大陸 ファイル:Europe antarctica size.png|ヨーロッパとの比較 ファイル:Antarctica 6400px from Blue Marble.jpg|衛星画像 </gallery> === 西南極と東南極 === 南極大陸は、ロス海と[[ウェッデル海]]岸を繋いだ[[南極横断山脈]]で二分される。ウェッデル海西側とロス海東側に挟まれた[[西半球]]にある地域は[[西南極]] (West Antarctica) と呼ばれ、残りの[[東半球]]にある地域は[[東南極]] (East Antarctica) と呼ばれる<ref>[[#神沼|神沼 p.33]]</ref>。この東西の呼び分けは、それぞれが[[グリニッジ子午線]]に対しておおよそ西と東にある事を理由とする便宜上のものである<ref>{{Cite web|和書|url=http://wwwsoc.nii.ac.jp/jepsjmo/cd-rom/2000cd-rom/pdf/ab/ab-p012.pdf|format=|title=東南極大陸におけるレイリー波位相速度と地殻・上部マントルの構造|author=小林励司|publisher=日本地球惑星科学連合|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 西南極は[[西南極氷床]]で覆われている。この氷床はわずかながらも崩壊する可能性が指摘され、注目を集めている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/topics/gaibuhyouka/chapter1-1.html|title=南極地域観測事業外部評価書 第1章 学術研究活動に関する評価 1.地球環境、地球システムの研究領域|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>。もし崩壊すれば数世紀単位で起こる緩やかなものながら、何メートルかの[[海面上昇]]に繋がると考えられる。氷床の10%に相当するいくつかの南極[[氷河流]]は、南極棚氷のひとつに流れ注いでいる。 東南極は南極横断山脈から見てインド洋側にあり、中には[[コーツランド]]、[[ドロンニング・モード・ランド]]、[[マック・ロバートソン・ランド]]、[[エンダービーランド]]、[[ウィルクスランド]]、[[ヴィクトリアランド]]が広がる。ほとんどの領域は[[東半球]]にある。そして、広い面積を[[東南極氷床]]で覆われている。 === 南極の火山 === [[ファイル:Mt erebus.jpg|thumb|ロス島の活火山、エレバス山]] 南極大陸や周辺諸島には多くの山々や火山帯がある。火山帯は2つあり、マクマード入江付近のものと[[サウスシェトランド諸島]]付近のものである<ref name="kaminuma82">[[#神沼|神沼 p.82]]</ref>。この内マクマード入江の火山群はホットスポットであり<ref name="kaminuma82" />、サウスシェトランド諸島の火山群はプレートの沈み込み口である<ref name="kaminuma83">[[#神沼|神沼 p.83]]</ref>。ロス島の[[エレバス山]]は世界で最も南にある[[活火山]]<ref name="kaminuma83" />であり、マクマード入江の火山群に含まれる<ref name="kaminuma82" />。南極にあるもう一つの活火山はサウスシェトランド諸島の[[デセプション島]]であり、1970年に噴火を起こし、その後も[[温泉]]や小規模な噴火が確認され、今後も噴火の可能性がある<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.env.go.jp/nature/nankyoku/kankyohogo/database/jyouyaku/asma/asma_pdf/ASMA04.pdf | title = デセプション島総合管理方策 | publisher = | language=日本語|accessdate=2012-07-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url = http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/01/01_05.html | title = 南極大陸の紹介 南極にも火を噴く山がある | publisher = 国立極地研究所 | language=日本語|accessdate=2012-07-10}}</ref>。 [[休火山]]の中にも再噴火の可能性は否定できないものがある<ref>{{Cite web|url=http://www.antarctica.ac.uk//about_antarctica/geography/rock/volcanoes.php|title=Volcanoes|author=British Antarctic Survey|publisher=Natural Environment Research Council|| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。2004年、[[南極半島]]で海底火山がアメリカとカナダの研究チームにより確認された。最近の研究でも、この無名の火山が活動している可能性を示す証拠が見つかった<ref>{{cite web | url = http://www.nsf.gov/news/news_summ.jsp?cntn_id=100385 | title = Scientists Discover Undersea Volcano Off Antarctica | publisher = United States National Science Foundation | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 == 気候 == {{Main|南極の気候}} {{Weather box |metric first = Y |single line = Y |location = [[南極点]] |Jan high C = -25.9 |Jan record high C = -14 |Feb high C = -38.1 |Feb record high C = -20 |Mar high C = -50.3 |Mar record high C = -26 |Apr high C = -54.2 |Apr record high C = -27 |May high C = -53.9 |May record high C = -30 |Jun high C = -54.4 |Jun record high C = -31 |Jul high C = -55.9 |Jul record high C = -33 |Aug high C = -55.6 |Aug record high C = -32 |Sep high C = -55.1 |Sep record high C = -29 |Oct high C = -48.4 |Oct record high C = -29 |Nov high C = -36.9 |Nov record high C = -18 |Dec high C = -26.5 |Dec record high C = -13 |Year high C = -46.3 |Year record high C = -13.6 |Jan low C = -29.4 |Jan record low C = -41 |Feb low C = -42.7 |Feb record low C = -57 |Mar low C = -57.0 |Mar record low C = -71 |Apr low C = -61.2 |Apr record low C = -75 |May low C = -61.7 |May record low C = -78 |Jun low C = -61.2 |Jun record low C = -82 |Jul low C = -62.8 |Jul record low C = -80 |Aug low C = -62.5 |Aug record low C = -77 |Sep low C = -62.4 |Sep record low C = -79 |Oct low C = -53.8 |Oct record low C = -71 |Nov low C = -40.4 |Nov record low C = -55 |Dec low C = -29.3 |Dec record low C = -38 |Year low C = -52.0 |Year record low C = -82.8 |Jan sun= 558 |Feb sun= 480 |Mar sun= 217 |Apr sun= 0 |May sun= 0 |Jun sun= 0 |Jul sun= 0 |Aug sun= 0 |Sep sun= 60 |Oct sun= 434 |Nov sun= 600 |Dec sun= 589 |Year sun= 2938 |Jan_Precip_mm = ---- |Feb_Precip_mm = ---- |Mar_Precip_mm = ---- |Apr_Precip_mm = ---- |May_Precip_mm = ---- |Jun_Precip_mm = ---- |Jul_Precip_mm = ---- |Aug_Precip_mm = ---- |Sep_Precip_mm = ---- |Oct_Precip_mm = ---- |Nov_Precip_mm = ---- |Dec_Precip_mm = ---- |Year_Precip_mm = ---- |source 1 =WeatherBase<ref>{{cite web| url =http://www.weatherbase.com/weather/weather.php3?s=90098&refer=&units=metric | title =South Pole, Antarctica |language=英語|accessdate=2010-09-03|publisher =WeatherBase}}</ref>|accessdate =2010年09月03日 |source 2 =Cool Antarctica<ref>{{cite web|url=http://www.coolantarctica.com/Antarctica%20fact%20file/antarctica%20environment/climate_graph/vostok_south_pole_mcmurdo.htm|title = Antarctica Climate data and graphs|publisher=Cool Antarctica|language=英語|accessdate =2010-09-03 }}</ref> |accessdate2 =2010-09-03}} {{Showa Station weatherbox}} [[ファイル:AntarcticaDomeCSnow.jpg|thumb|right|{{仮リンク|コンコルディア基地|en|Concordia Station}}がある{{仮リンク|ドームC|en|Dome C}}の雪原。大陸のほとんどにこの風景が広がる]] 南極大陸は[[地球]]上で最も寒い場所である。1983年7月21日には、ボストーク基地で{{convert|−89.2|C|F|1|abbr=on}}という最低気温が記録された<ref name=Naga>{{Cite web|和書| url = http://home.hiroshima-u.ac.jp/hubol/members/naganuma/kagaku04_vostok.pdf|format=PDF | title =南極科学の新時代|author=長沼毅、伊村智| publisher =[[広島大学]]海洋生態系評価論研究室| accessdate =2012-06-14}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.expertsure.com/2008/12/14/the-coldest-inhabited-places-on-earth/|title=The Coldest Inhabited Places on Earth|work=Eco Localizer|date=2008-12-14|author=Hudson, Gavin| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。また、[[2010年]][[8月10日]]には[[ドームA]]付近の[[氷原]]において、地表面温度が-93.2℃に達した<ref>{{Cite news |title= NASA-USGS Landsat 8 Satellite Pinpoints Coldest Spots on Earth |date=2013-12-09 |author=NASA |url= http://www.nasa.gov/content/goddard/nasa-usgs-landsat-8-satellite-pinpoints-coldest-spots-on-earth/ |accessdate = 2013-12-10}}</ref>。これは同地点の典型的な気圧下における[[ドライアイス]]の[[昇華点]]よりも低く、さらには[[アンモニア]]の融点(-77℃)よりも低い。東南極は西南極よりも標高が高いため、より寒冷である<ref name="CIAfactbook-People" />。 南極が北極よりも寒い理由は、 # 標高がほとんど海抜3000メートル以上であること。 # 北極には北極海があり、海洋は相対的に暖かいので、浮氷を通してそれが伝わるため。 の2つが挙げられ、北極は南極の地表のように極端な状態になることがない。 高緯度にあることから、[[白夜|一日中太陽が昇ったまま]]であったり[[極夜|逆に沈んだまま]]である状態が発生する。夏の晴天時には一日中太陽が沈まないため、[[太陽光]]の照射量は南極点の方が同時期の赤道上よりも多い<ref name="CIAfactbook-People" />。南極大陸における最高気温の記録は、[[2015年]][[3月24日]]に南極半島北端のアルゼンチン管轄の[[エスペランサ基地]]で観測された17.5℃である<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/antarctica-idJPKBN1690R0|title=アルゼンチンの南極基地、2015年に過去最高の17.5度を記録|work=|publisher=[[ロイター通信]]|date=2017-03-02}}</ref>。上空の[[オゾン層]]が破壊され、真っ白な雪に覆われた大地は、降り注ぐ[[紫外線]]のほとんどを反射し、しばしば日焼けが健康問題にもなる<ref name="BAS-weather">{{Cite web|url=http://www.antarctica.ac.uk/met/jds/weather/weather.htm|title=Weather in the Antarctic|author=British Antarctic Survey|publisher=Natural Environment Research Council| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 南極大陸は降水量が非常に少ない、「凍りついた砂漠」と言える。南極点における年間降水量は平均100ミリメートル未満である。最低気温は冬季内陸で{{convert|−80|C|F|0|abbr=on}}から{{convert|−90|C|F|0|abbr=on}}程度にまで達し、最高気温は夏季沿岸部でも{{convert|5|C|F|0|abbr=on}}から{{convert|15|C|F|0|abbr=on}}程度にしかならない。中心部の冷たく乾いた環境ゆえに、[[前線 (気象)|気象前線]]が大陸にかかることは稀である。大陸中心部の降水は少ないが、氷が非常に長い期間解けずに残存する。 大陸沿岸部は[[南極台地]]が吹き降ろす強い[[滑降風]]に晒され、時に嵐にもなる。それに対し内陸部の風速は特に強いものではない<ref name="CIAfactbook-People" />。 南極点付近の夜空には南極光とも呼ばれる[[オーロラ (代表的なトピック)|オーロラ]]が見られる。これは[[太陽風]]のプラズマが地球の大気を通過することで発生する光学現象である。他の珍しい現象には、太陽光の異常屈折がもたらす[[グリーンフラッシュ]]や<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/05/05_07_1.html|title=南極の自然 グリーンフラッシュ|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>、[[細氷]](ダイヤモンドダスト)という、細かな[[氷晶|氷の結晶]]が降ることがある。これは通常、晴天か晴天に近い時に発生するため、しばしば天気雨の一種と考えられている。またそれに伴う[[サンピラー]]が現れることもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/05/05_07_2.html|title=南極の自然 サンピラー|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>。[[幻日]]は、太陽の脇に別に光点が見られるものであり、大気中で起こる[[大気光学現象|光学現象]]の一種である<ref name="BAS-weather" />。 == 人口 == {{See also|南極観測基地の一覧}} [[ファイル:AmundsenScottSuedpolStation.jpg|thumb|[[アムンゼン・スコット基地]]のセレモニアル・ポール]] 南極大陸には永住している者はいない。しかし多くの国が恒常的な研究所(基地)を大陸上に設置している。そこではたくさんの人々が科学的研究関連の業務に従事し、周辺諸島を加えると冬には約1000人、夏には約5000人程が常駐している。多くの基地には1年を通じて滞在し越冬する者がいる。ロシアの[[ベリングスハウゼン基地]]には、2004年に[[正教会]]の[[至聖三者聖堂 (南極)|至聖三者聖堂]]が置かれ、年度交替で1-2人の聖職者が常駐している<ref>{{Cite web|url=http://www.spc.rs/eng/flock_antarcticas_orthodox_temple_celebrates_holy_trinity_day|title=Flock of Antarctica's Orthodox temple celebrates Holy Trinity Day|publisher=Serbian Orthodox Church|date=2004-05-24| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://pravoslavye.org.ua/index.php?action=fullinfo&r_type=&id=22495|title=Владимир Петраков: 'Антарктика – это особая атмосфера, где живут очень интересные люди'| language=ロシア語|accessdate=2012-06-14}} (Vladimir Petrakov: "Antarctic is a special world, full of very interesting people"). Interview with Father Vladimir Petrakov, a priest who twice spent a year at the station.</ref>。 南極大陸の周囲を含む[[南極収束線]]内で初めて半恒常的に居住した人々は、1786年から1年以上の期間を[[サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島#地理|サウスジョージア島]]で過ごしたアザラシ猟師のイギリス人やアメリカ人であった。1966年までの[[捕鯨]]が行われていた時代、この島には夏に1000人以上、最盛期には2000人以上が住み、冬にも200人程度が残っていた。この頃に住んだ人々はノルウェー人だったが、イギリス人の比率も増えつつあった。定住地は、[[グリトビケン]]、{{仮リンク|リース港|en|Leith Harbour}}、[[キング・エドワード・ポイント]]、{{仮リンク|ストロムネス (サウスジョージア諸島)|label=ストロムネス|en|Stromness (South Georgia)}}、{{仮リンク|フースヴィーク|en|Husvik}}、{{仮リンク|プリンスオーラブ港|en|Prince Olav Harbour}}、{{仮リンク|オーシャン港|en|Ocean Harbour}}などがあった。捕鯨基地の長官や上級役人たちはしばしば家族とともにこれらの地に住んだ。彼らの中にはグリトビケンの設立者であり、1910年には家族とともにイギリスの市民権を得た捕鯨者で冒険家の{{仮リンク|カール・アントン・ラーセン|en|Carl Anton Larsen}}がいた。 南極収束線の内側で誕生した初の人物は、1913年10月8日にグリトビケンで生まれたノルウェー国籍の女性[[ソルヴェイグ・ヤコブセン]]である<ref>{{Cite book|author=Headland, Robert K.|title=The Island of South Georgia|publisher=Cambridge University Press|year=1984|isbn=978-0-521-25274-4|oclc=473919719|pages=12, 130}}</ref>。[[南緯60度線]](南極条約によって定められた大陸境界)の内側では、1978年に南極半島先端のエスペランサ基地で<ref>{{Cite journal|title=[title missing]|journal=Explorer's Gazette|url=http://www.oaea.net/Volume9,Issue1.pdf|volume=9|issue=1|author=Old Antarctic Explorers Association|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110723231425/http://www.oaea.net/Volume9%2CIssue1.pdf|archivedate=2011年7月23日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>誕生した[[アルゼンチン人]]の[[エミリオ・パルマ]]になる<ref>[[:s:Antarctic Treaty|Antarctic Treaty]], Art. VI ("Area covered by Treaty"): "The provisions of the present Treaty shall apply to the area south of 60° South latitude."</ref>。大陸本土では、1984年に家族で居住する設備を備えていた[[エドゥアルド・フレイ・モンタルバ基地]]で生まれたJuan Pablo Camachoである<ref>{{Cite web|url=http://antarcticsun.usap.gov/oldissues2002-2003/answer.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060211123941/http://antarcticsun.usap.gov/oldissues2002-2003/answer.html|archivedate=2006年2月11日|title=Questions to the Sun for the 2002-03 season|work=The Antarctic Sun|language=英語|accessdate=2012-06-14|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 ;火災について {{main|en:Firefighting in Antarctica}} :風が強く火が燃え広がりやすく、消火しようにも液体の水の確保が難しいため、建物の間は火災の延焼防止のため離されている。 :[[マクマード基地]]にフルタイムで対応する唯一の南極最大の消防署がある。この消防施設はマクマード基地に2か所置かれており、ステーション1はマクマード中央部にあり、ステーション2は飛行場の専属である。ほかにもサザンモストやボストーク基地などパートタイムの消防署が置かれている。 ::南極で最初の火災は、[[サザンクロス遠征]]の時に起きたもので、ろうそくが倒れ小屋を全焼させている。その後も何度も起きており、少なくない死者や物資の喪失を被っている。 == 生物 == {{See also|南極区}} [[ファイル:Emperor penguin.jpg|thumb|left|upright|ロス海の[[コウテイペンギン]]]] 南極大陸に生きる陸生[[脊椎動物]]は非常に少ない<ref>{{Cite web|url=http://www.antarctica.ac.uk/about_antarctica/wildlife/land_animals/index.php|title=Land Animals of Antarctica|author=British Antarctic Survey|publisher=Natural Environment Research Council|language=英語|accessdate=2012-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121122145509/http://www.antarctica.ac.uk/about_antarctica/wildlife/land_animals/index.php|archivedate=2012年11月22日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。無脊椎動物では、{{仮リンク|南極ササラダニ|en|Alaskozetes antarcticus}}<ref>{{Cite web|url=http://www.itis.gov/servlet/SingleRpt/SingleRpt?search_topic=TSN&search_value=741099|title= Alaskozetes antarcticus |publisher=ITIS | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>など5種類の[[ダニ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/05/05_05_9.html|title=南極の自然 陸の上|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>、[[ハジラミ]]、[[線形動物]]、[[緩歩動物]]、[[輪形動物]]、[[オキアミ]]、[[トビムシ目]]などがいる。体長6mmにもならない飛べない{{仮リンク|小虫|en|midge (insect)}}の[[ナンキョクユスリカ]]は、南極大陸に広く分布する固有種である<ref>{{Cite web|title=Antarctic Bestiary – Terrestrial Animals|url=http://www.units.muohio.edu/cryolab/education/antarcticbestiary_terrestrial.htm#Belgica|publisher=Laboratory for Ecophysiological Cryobiology, Miami University| language=英語|accessdate=2012-06-14|author=Sandro, Luke|coauthors=Constible, Juanita}}</ref>。[[ユキドリ]]は、南極大陸でもっぱら繁殖活動を行う3種の鳥のひとつである<ref>{{Cite web|url=http://www.birdlife.org/datazone/speciesfactsheet.php?id=3876&m=1|title=Snow Petrel Pagodroma nivea|publisher=BirdLife International| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 植物プランクトンを餌とする海洋生物は多様に存在する。南極には、[[ペンギン]]、[[シロナガスクジラ]]、[[シャチ]]、[[ダイオウホウズキイカ]]、[[オットセイ]]、[[アザラシ]]などが棲息している。亜南極域を含めると、ペンギンは[[コウテイペンギン]]・[[アデリーペンギン]]・[[キングペンギン]](オウサマペンギン)・[[ヒゲペンギン]]など8種類が棲息している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/05/05_05_1.html|title=南極の自然 ペンギン|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 18-19世紀にはアメリカやイギリスの狩猟者によって、[[ナンキョクオットセイ]]が乱獲された。イギリスのアザラシ狩猟者でありウェッデル海へ遠征した{{仮リンク|ジェームズ・ウェッデル|en|James Weddell}}から名を取った[[ウェッデルアザラシ]]を始め、南極には[[ヒョウアザラシ]]、[[カニクイアザラシ]]、[[ロスアザラシ]]、[[ミナミゾウアザラシ]]の5種類がいる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/05/05_05_5.html|title=南極の自然 アザラシ|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>。大規模な群れをつくる[[ナンキョクオキアミ]]は、南氷洋における[[生態系]]の[[キーストーン種]]であり、アザラシ、イカ、[[ノトテニア亜目]]、ペンギン、[[アホウドリ科]]など鳥類にとって重要な餌となる<ref>{{Cite web|url=http://www.knet.co.za/antarctica/fauna_and_flora.htm|title=Creatures of Antarctica|date=2006-02-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20050214015049/http://www.knet.co.za/antarctica/fauna_and_flora.htm|archivedate=2005年2月14日|accessdate=2012-06-14|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 500人規模の研究者が投入された海洋生物に対する調査が{{仮リンク|国際極年|en|International Polar Year}}に行われ、結果が2010年に纏められた。この研究は{{仮リンク|海洋生物センサス|en|Census of Marine Life}}(CoML)の一環であり、有意義な報告を含んでいた。12000kmの隔たりを持つ南北両極には250種以上の生物が存在する。クジラや鳥など、大型の生物は周遊を行う。驚くべき事には、蠕虫や[[ナマコ]]また遊泳するカタツムリなどが両極海洋部で発見された。このような分布状況が生じた要因は複数考えられる。両極と赤道域を繋いで流れる海洋深層水は温度変化がさほど激しく無く、差異は5℃を上回らない。この[[熱塩循環]]が卵や幼虫を運んだという考えもある<ref>{{Cite news|last=Kinver|first=Mark|date=2009-02-15|title=Ice oceans 'are not poles apart'|newspaper=BBC News|publisher=British Broadcasting Corporation|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/7888558.stm| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 [[ファイル:Lichen squamulose.jpg|thumb|南極大陸には、[[地衣類]]系の菌類が約400種生息している]] 凍りつく気温、痩せた[[土壌]]、乾燥、光量の不足などの厳しい条件下では、南極大陸で繁殖できる植物は非常に限られてくる。地表に生える[[藻類]]や[[地衣類]]を含む[[菌類]]以外では、約100種の[[蘚類]]や25種の[[苔類]]など[[コケ植物]]が大陸に広く分布し、顕花植物に至っては南極半島で見られる[[ナンキョクコメススキ]]と[[ナンキョクミドリナデシコ]]の2種類しか存在しない。成長する季節は夏のみ、期間は長くとも2-3週間に限られる<ref name="aadplants">{{Cite web|url=http://www.antarctica.gov.au/about-antarctica/fact-files/plants|title=Antarctic Wildlife|author=Australian Antarctic Division|publisher=Government of Australia| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref><ref name="basplants">{{Cite web|url=http://www.antarctica.ac.uk/about_antarctica/wildlife/plants/index.php|title=Plants of Antarctica|author=British Antarctic Survey|publisher=Natural Environment Research Council| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。しかし、地球温暖化の進行に伴い[[スズメノカタビラ]]の帰化が確認されるなどしている<ref>{{Cite web|和書|title=スズメノカタビラとは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A9-845167|website=コトバンク|accessdate=2021-08-28|language=ja|first=日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,世界大百科事典|last=第2版}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=侵入生物種、気候変動に乗じて南極に定着 研究|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3257229|website=www.afpbb.com|accessdate=2021-08-28|language=ja}}</ref>。 菌類は1150種が確認され、400種が地衣類、750種がそれ以外である<ref>{{Cite journal|author=Bridge, Paul D.; Spooner, Brian M.; Roberts, Peter J.|year=2008|title=Non-lichenized fungi from the Antarctic region|journal=Mycotaxon|volume=106|pages=485–490|url=http://www.cybertruffle.org.uk/cyberliber/59575/0106/0485.htm| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref><ref name="basplants" />。中には、厳しい環境に対応した{{仮リンク|岩石内微生物|en|cryptoendolith}}の種もいる<ref>{{Cite journal|author=de Hoog, G.S.|year=2005|title=Fungi of the Antarctic: evolution under extreme conditions|journal=Studies in Mycology|volume=51|pages=1–79}}</ref>。藻類も数百種存在するが、ほとんどは[[植物プランクトン]]である。夏の期間、さまざまな[[氷雪藻]]や[[珪藻]]が沿岸水域で豊富に繁殖する<ref name="aadplants" />。近年、氷河の下になる深いところから、古代生態系に属する複数のバクテリアが生きた状態で発見された<ref>{{Cite web|url=http://worldwidenewslinks.blogspot.com/2009/06/below-antarctica.html|title=Below Antractica| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。[[独立栄養生物]]の集団はほとんどが[[原生生物]]で占められている<ref name="aadplants" />。 === 保護 === [[ファイル:Antarctica, pollution, environment, Russia, Bellingshausen 1.JPG|thumb|left|ベリングスハウゼン基地、1992年。写真のような投棄や廃棄は、古くなった乗り物も含めて、1998年の環境保護に関する南極条約議定書発行以降禁止されている]] [[環境保護に関する南極条約議定書]](マドリッド協定書)が1998年に発効され、南極の生物多様性の保護と管理に関する主要な手段となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kankyo/jyoyaku/k_hogo.html|title=環境保護に関する南極条約議定書| publisher=外務省 | language=日本語|accessdate=2012-07-09}}</ref>。南極条約協議会は、環境保全委員会から環境や保護に関する勧告を受ける。委員会は特に、域外から意図せざる外来生物が南極大陸に持ち込まれる事のリスクに注意を払っている<ref name="BridgeHughes73">{{cite journal | last1 = Bridge | first1 = Paul D. | first2 = Kevin. A. | last2 = Hughes | year = 2010 | title = Conservation issues for Antarctic fungi | journal = Mycologia Balcanica | volume = 7 | issue = 1 | pages = 73–76 | url = http://www.cybertruffle.org.uk/cyberliber/59687/0007/001/0073.htm | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 1978年、アメリカは[[:en:Antarctic Conservation Act|Antarctic Conservation Act]]を採択し、南極大陸における自国の活動に制限を加えるようになった。これは、外来動物や植物の持ち込みに刑事罰を加えられる。また、南極の生態系において大きな位置を占めるオキアミの[[乱獲]]には、漁業方法を公的に制定する事で対処している。1980年に発効された[[南極の海洋生物資源の保存に関する条約]] (CCAMLR) は、南極全体の生態系に及ぼす潜在的な影響を考慮し、南氷洋で操業するすべての漁業活動を制御するよう定めている<ref name="CIAfactbook-People" />。このような新たな取り組みにもかかわらず、野放しや密漁は止まず、特に[[マジェランアイナメ]]はチリ沿岸産と偽ってアメリカ市場で売られるなど深刻な問題となっている。アイナメの密漁は増加し、2000年には32,000トンが乱獲された<ref name="KirbyBBC-2001">{{cite news | last = Kirby | first = Alex | date = 2001-08-15 | title = Toothfish at risk from illegal catches | publisher = BBC News | url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/1492380.stm | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref><ref name="AUgovAntartica-toothfish">{{cite web | title = Toothfish | publisher = Australian Antarctic Division | url = http://www.antarctica.gov.au/about-antarctica/fact-files/animals/fish/toothfish | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:Emblem of the Antarctic Treaty.svg|left|thumb|2002年に締結された南極条約のシンボルマーク]] 南極大陸の地域に領有権を持つと主張する国は複数あるが、実際には[[政府]]は存在しない。これら国々の一部には相互に主張を承認しているところもあるが<ref name="mutualrecog">{{cite book |last=Rogan-Finnemore |first=Michelle |year=2005 |contribution=What Bioprospecting Means for Antarctica and the Southern Ocean |editor-last=Von Tigerstrom |editor-first=Barbara |title=International Law Issues in the South Pacific |publisher=Ashgate Publishing |page=204 |isbn=0-7546-4419-7 |postscript=<!--None-->}} "Australia, New Zealand, France, Norway and the United Kingdom reciprocally recognize the validity of each other's claims." – Google Books link: [https://books.google.com.au/books?id=xlAQUX3zCrIC&lpg=PP1&ots=qUrPfjr19i&dq=International%20Law%20Issues%20in%20the%20South%20Pacific&pg=PA204#v=onepage&q&f=false]</ref>、世界的にはこれらの主張は正当性を持たないと認識されている<ref name="CIAfactbook-People" />。 新たな領有権主張は1959年以降中断しており、南極大陸は政治的な中立地とみなされている。この1959年は南極条約が批准された年であり、他の関連する合意とともに、この規制された状態は「南極条約体制」と呼ばれる。南極条約体制では、全陸地および南緯60°線以南の[[棚氷]]を南極と規定し、その対象と定める。条約は、ソビエト連邦(これはロシアに引き継がれた)、イギリス、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、アメリカ合衆国など12ヶ国が調印している<ref>{{cite web | url = http://www.ats.aq/devAS/ats_parties.aspx?lang=e | title = Antarctic Treaty System – Parties | publisher = Antarctic Treaty and the Secretariat | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。この体制では、南極を自由な学術調査と環境保護が維持される科学的な保護区と位置づけ、大陸での軍事活動を禁止している。これは、[[冷戦]]中に初めて確立された[[軍備管理]]協定である。 1983年、南極条約の調印国は資源採掘に対する協定制定に向けた交渉を開始した<ref>{{cite web | url = http://www.antarcticanz.govt.nz/downloads/information/infosheets/mining.pdf | format = PDF | title = Mining Issues in Antarctica | publisher = Antarctica New Zealand | language = 英語 | accessdate = 2012-06-14 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20050510093511/http://www.antarcticanz.govt.nz/downloads/information/infosheets/mining.pdf | archivedate = 2005年5月10日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。この際、[[グリーンピース (NGO)|グリーンピース]]<ref>{{cite web | url = http://www.greenpeace.org/international/about/history/how-we-saved-antarctica | title = World Park Antarctica | publisher = Greenpeace International | work = Greenpeace.org | date = 2010-02-25 | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>など国際的な組織<ref>{{cite web | url = http://www.asoc.org | title = Antarctic and Southern Ocean Coalition | publisher = Asoc.org | date = | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>が公衆による圧力活動を展開して採掘への反対を押し進め、人間の活動が大陸に与える影響を記録するために例年の派遣を行った<ref>{{cite web | url = http://www.newscientist.com/article/mg13017745.500-antarctica-exploration-or-exploitation--thirty-years-agothe-antarctic-treaty-came-into-force-the-continents-future-lies-in-thehands-of-the-increasing-number-of-nations-now-working-there-.html | title = Antarctica: exploration or exploitation? | publisher = New Scientist | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。1988年、{{仮リンク|南極鉱物資源活動規制条約|en|Convention on the Regulation of Antarctic Mineral Resource Activities}}が採択された<ref>{{cite web | url = http://www.newscientist.com/article/mg12817431.300-antarctica-a-tale-of-two-treaties-.html | title = Antarctica, a tale of two treaties | publisher = New Scientist | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。しかし翌年オーストラリアとフランスは、同条約の意図も目的も意味をなさないと解釈して、批准しないと発表した。両国は、その代わりに南極環境を保護するための包括的な制度を定めるべき議論をすべきだと主張した<ref name="AUgovAntartica-Madrid">{{cite web | title = The Madrid Protocol | publisher = Australian Antarctic Division | url = http://www.antarctica.gov.au/antarctic-law-and-treaty/the-madrid-protocol | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。これを他国も認め、議論の末に1998年1月14日に環境保護に関する南極条約議定書が取り交わされた<ref name="AUgovAntartica-Madrid" />。この議定書では、南極は「平和と科学のための自然保護区」と定め、すべての採掘を禁止している。 === 軍事活動 === [[ファイル:HMS Endurance, Portsmouth.jpg|thumb|HMSエンデュランス。[[イギリス海軍]]の[[イギリス領南極地域]][[哨戒艦艇]]]] 南極条約が定める[[南極における軍事行動]]禁止は、軍事基地や要塞の建設、軍事的作戦行動、武器の実験試用も禁止している。ただし、純粋な科学研究を目的とする場合のみ、軍人や軍備の受け入れを認めている<ref>{{cite web | url = http://www.scar.org/treaty/ | title = ''Antarctic Treaty'' | publisher = Scientific Committee on Antarctic Research | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。例えばアメリカ空軍はニュージーランドからアムンゼン・スコット基地まで軍用機で物資を輸送している({{仮リンク|ディープフリーズ作戦|en|Operation Deep Freeze}})<ref>{{cite web | url = http://www.south-pole.com/p0000149.htm | title = ''OPERATION DEEPFREEZE'' | publisher = South-Pole.com | language=英語|accessdate=2012-06-19}}</ref>。なお過去において南極に設置された、記録に残る唯一の軍事施設は[[アルゼンチンの軍事|アルゼンチン軍]]の{{仮リンク|オペレーション90|en|Operación 90}}のみである<ref>{{cite web | url = http://www.dna.gov.ar/INGLES/DIVULGAC/ARGANT.HTM | title = Argentina in Antarctica | publisher = Antarctica Institute of Argentina | language = 英語 | accessdate = 2012-06-14 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20060306211514/http://www.dna.gov.ar/INGLES/DIVULGAC/ARGANT.HTM | archivedate = 2006年3月6日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 [[アメリカ軍]]は、南極における研究活動に功績があった軍人や民間人を表彰する{{仮リンク|南極派遣章|en|Antarctica Service Medal}}を設けている。この章の授与者には、冬の6ヶ月間を2度大陸で越冬した者に対する線章も与えられる<ref>{{cite web | url = http://www.history.navy.mil/medals/antarc.htm | title = Antarctic Service Medal | publisher = U.S. Navy | language = 英語 | accessdate = 2012-06-14 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20060209171901/http://www.history.navy.mil/medals/antarc.htm | archivedate = 2006年2月9日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 === 南極における領有権主張 === [[ファイル:Antarctica, territorial claims.svg|thumb|left|南極での領有権主張([[面積]]順)。主張のいくつかは地域が重複している : {{legend|#EEAE66|オーストラリア}}{{legend|#C37ACF|ノルウェー}}{{legend|#E65D61|イギリス}}{{legend|#77D0EB|チリ}}{{legend|#F2DC56|アルゼンチン}}{{legend|#4CBA96|ニュージーランド}}{{legend|#5377CD|フランス}}]] {{Main|南極における領有権主張の一覧}} 1908年のイギリスに始まる南極大陸での領有権主張は、ニュージーランド、フランス、オーストラリア、ノルウェー、チリ、アルゼンチンの計7ヶ国が行った。これらは実効支配が無いと、当時のアメリカとソ連が認めなかった。第二次世界大戦後、政治・軍事的な重要性から、南極条約によって領土の主張を棚上げする決定が下された。それぞれの国が主張する領土は、南極点を要に扇形になっており、これはセクター理論と呼ばれる<ref name=Shiba>{{Cite web|和書| url =http://www2.kobe-u.ac.jp/~akihos/images/shibataArcticAntarctica.pdf |format=PDF| title = 北極と南極をめぐる領有権問題|author=柴田明穂| publisher =[[神戸大学]] |accessdate=2012-06-14}}</ref>。アルゼンチン・イギリス・チリの主張する地域には重なった部分がある<ref name=Shiba />。 その他の国では、[[ブラジル領南極|ブラジル]] <ref name="Morris1988">{{cite book | last = Morris | first = Michael | title = The Strait of Magellan | year = 1988 | publisher = Martinus Nijhoff Publishers | isbn = 0-7923-0181-1 | page = 219 | url = https://books.google.co.jp/books?id=vqZJLAOnj58C&pg=PA145&lpg=PA145&dq=brazil+antarctica+zone+of+interest&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=brazil%20antarctica%20zone%20of%20interest&f=false | language=英語|accessdate=2012-06-14| quote = ...Brazil has even designated a zone of Antarctic interest that overlaps the Argentine sector but not the Chilean one... }}</ref>、ペルー<ref name="peecug2">{{cite web | title = La Antarctica | publisher = Afese.com | url = http://www.afese.com/img/revistas/revista40/laantartida.pdf | accessdate = 2012-06-14 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20160410080228/http://www.afese.com/img/revistas/revista40/laantartida.pdf | archivedate = 2016年4月10日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>、旧ソ連に引き続きロシア<ref name="CIAfactbook-US-RusClaim">{{cite web | title = Antarctica | year = 2011 | work = The World Factbook | publisher = United States Central Intelligence Agency | url = https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ay.html | language=英語|accessdate=2012-06-14}} ...the US and Russia reserve the right to make claims... </ref>、南アフリカ<ref name="peecug2" />そしてアメリカも<ref name="CIAfactbook-US-RusClaim" />南極の領有に関する権利を何らかの形で表明している。 == 経済 == {{Main|南極の経済}} 南極大陸からは石炭<ref name=niprpub />・石油・[[天然ガス]]が発見され、大陸棚を含めると[[コバルト]]・[[鉛]]・[[マンガン]]・[[ニッケル]]・[[銀]]・[[チタン]]・[[ウラン]]・[[プラチナ]]・[[クロム]]の存在も推定されている<ref>{{Cite journal |和書|url=https://hdl.handle.net/2115/15791 |title=環境保護に関する南極条約システムの変容 |author=臼杵知史 |journal=北大法学論集 |publisher=北海道大学法学部 |volume=49 |issue=4 |pages=1-44|accessdate=2012-06-14}}</ref>。[[宝石]]類では、[[昭和基地]]近郊だけでも[[ルビー]]、[[サファイア]]、[[ベリル]]、[[ガーネット]]などが発見されている<ref name=niprKyoku-no05>{{Cite web |和書|url=https://www.nipr.ac.jp/kouhou/PDF/Kyoku-no05.pdf |format=PDF|title=ゴンドワナ超大陸の宝石たち|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>。1991年の南極環境保護条約によって積極的な採掘は制限された。1998年の議定書にて経済的な発掘や採掘は、2048年まで一切が禁止された。そのため、南極における最大の経済活動は漁業およびその国際取引であり、2000-2001年には112,934トンの漁獲量が挙がった。 小規模な「冒険的観光」は1957年から行われており、その内容は環境保護に関する南極条約議定書による制限が加えられるが、事実上は[[国際南極旅行業協会]](IAATO)が定める内規に基づいている。全てでは無いが、南極観光の95%はIAATO加盟業者によって運用されている。旅行のほとんどは中規模以下の船を使い、象徴的な野生生活を観察しやすい、決まった場所が選ばれる。2006-2007年の夏には総計37,506名の旅行者が、ほぼ全てが商用船に乗って訪れた。2010年までの累計訪問者は 80,000人を越えると予想された<ref>{{cite web | url = http://www.knet.co.za/antarctica/political.htm | title = Politics of Antarctica | language = 英語 | accessdate = 2012-06-14 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20050214014631/http://www.knet.co.za/antarctica/political.htm | archivedate = 2005年2月14日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 訪問者の流入が環境や生態系に与える潜在的な悪影響が懸念される。自然保護派や科学者からは、船舶や旅行者に対する一段と厳しい規制を求める声があがった<ref>{{cite news | url = http://www.telegraph.co.uk/travel/734551/Tourism-%27threatens-Antarctic%27.html | title = ''Tourism threatens Antarctic'' | publisher = Telegraph UK | language=英語|accessdate=2012-06-14| location = London | first = Mark | last = Rowe | date = 2006-02-11 }}</ref>。南極条約加盟国からの最初の回答は、環境保全委員会が IAATOとの協力の下でガイダンスを定め、頻繁に観光が行われていた地域に対して、上陸時間の制限や立ち入り禁止区域の設定を推進した。上陸を伴わない航空機による、オーストラリアやニュージーランド発着の遊覧旅行では、1979年に[[ニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故]]が起き、全乗組員257名が死亡した。[[カンタス航空]]は1990年代半ばに、オーストラリア発の南極上空飛行を再開した。 == 研究 == {{See also|南極観測基地の一覧}} [[ファイル:Amundsen-Scott marsstation ray h edit.jpg|thumb|アムンゼン・スコット基地で撮影した[[オーロラ]]の様子。基地は左遠方に見え、中央に[[発電所]]、右下にガレージがある。]] 毎年、28の国々から研究者たちが南極大陸に向かい、他の地域ではまねの出来ない[[実験]]に取り組む。その人数は夏には4000を超え、冬でも1000人以上が研究所に泊まる<ref name="CIAfactbook-People" />。南極大陸最大の研究所である[[マクマード基地]]では、1000人を超える科学者や訪問者らが滞在可能である。 研究は、[[生物学]]、[[地質学]]、[[海洋学]]、[[物理学]]、[[天文学]]、[[雪氷学]]、[[気象学]]など様々な分野で行われる。地質学では[[プレートテクトニクス]]、[[宇宙空間]]からの隕石、ゴンドワナ大陸分裂の証拠探査が主に行われる。南極の雪氷学は浮氷・雪・氷河や氷床の履歴や{{仮リンク|氷床力学|en|ice sheet dynamics}}研究が盛んである。生物学者の興味は、極寒の環境における野生生物の存在や、人間の存在が与える悪影響、そして有機体がどのように適応し生き残っているかに注がれる。医学者は、極端な環境温度下でのウイルスの拡散および人体への影響に注目する。アムンゼン・スコット基地の天文学者はドームで[[宇宙マイクロ波背景放射]]の調査を行う。多くの天体観測にとって、高地であるため大気が薄く、気温や大気中の湿度が低く、[[光害]]の影響も少ない南極大陸内陸部は、地球上でも鮮明な宇宙の画像を得られる稀な場所であり、より良い観測結果を得られる。アムンゼン・スコット基地の下1.5kmの氷の中には[[アイスキューブ・ニュートリノ観測所]]があり、世界最大の遮蔽性と検出媒体となる性質の両方を持つ南極大陸の氷を活かして[[ニュートリノ]]の観測が行われている<ref>{{cite web | url = http://icecube.wisc.edu/ | title = IceCube South Pole Neutrino Observatiory | publisher = National Science Foundation, University of Wisconsin-Madison | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 1970年代から、南極大陸上空の[[大気圏]]にある[[オゾン層]]の観測が行われている。1985年、[[ブラント棚氷]]上の[[ハリー研究基地]]で集められたデータを3人の科学者が分析し、この層に穴([[オゾンホール]])があることを発見した。最終的にこの穴は、人類が使用する[[フロン類]](CFCs)によって[[オゾン]]が破壊され生じたものと判明した。1989年に[[モントリオール議定書]]にてCFCsの使用が禁止され、オゾンホールは2065年頃には閉じるものと信じられた<ref name="ozone record" />。しかし2006年9月に[[アメリカ航空宇宙局]]の衛星が捉えたデータから、オゾンホールは2750万km<sup>2</sup>と、それまでの最大に広がっていることが判明した<ref name="ozone record">{{cite web | url = http://www.nasa.gov/vision/earth/lookingatearth/ozone_record.html | title = NASA and NOAA Announce Ozone Hole is a Double Record Breaker | publisher = Goddard Space Flight Center, NASA | date = 2006-10-19 | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 2007年9月6日、ベルギーを拠点とする国際極地財団は、[[気候変動]]を研究する初の[[ゼロ・エミッション]]南極研究所{{仮リンク|プリンス・エリザベス基地|en|Princess Elisabeth Base}}を公開した。{{仮リンク|国際極年|en|International Polar Year}}の一環として、1630万ドルを投じた[[プレハブ工法]]の研究所を2008年末までにベルギーから持ち込み、[[極圏]]における[[健康]]状態の調査を開始した。ベルギーの極地探険家アラン・ヒュバートは、「これはゼロ・エミッションを実現するために作られた最初の基地で、南極においていかにエネルギーが使われるべきかを示すユニークなモデルになる」と語った。[[気候学]]と[[雪氷学]]および[[微生物学]]の研究は、所長であるヨハン・ベルケがプロジェクトの企画と管理の下で行われる<ref>{{Cite web|url= http://www.belspo.be/belspo/bepoles/science/station/index_en.stm |title= Princess Elisabeth Station |publisher= belspo.be | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 2008年1月、Hugh CorrとDavid Vaughanが率いる{{仮リンク|イギリス南極調査研究所|en|British Antarctic Survey}}(BAS)は、レーダーを用いた[[航空測量]]の結果から、2200年前に南極大陸の氷の下で火山の噴火が起こったという報告を、雑誌[[Nature Geoscience]]に発表した。{{仮リンク|パイン島氷河|en|Pine Island Glacier}}付近にある{{仮リンク|ハドソン山脈|en|Hudson Mountains}}氷床の下から、この1万年の中で最も大きな噴火の[[火山灰]]が発見された<ref>{{cite news | last = Black | first = Richard | url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/7194579.stm | title = Ancient Antarctic eruption noted | publisher = BBC News | date = 2008-01-20 | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 === 地質調査 === [[ファイル:Fryxellsee Opt.jpg|thumb|{{仮リンク|フリクセル湖|en|Lake Fryxell}}を覆うブルー・アイス。南極横断山脈の[[カナダ氷河]]など複数の[[氷河]]から融水が流れ込んでいる。]] 南極大陸の地質調査は、溶ける事が無い厚い層の氷に阻まれてきた。これに対し、[[リモートセンシング]]や[[地中レーダー探査]]また[[衛星画像]]の使用など、新たな技術が導入される事で、氷の下に眠る構造が明らかになり始めた。 西南極の地質は[[アンデス山脈]]のそれと似ており<ref name="Stonehouse" />、[[南極半島]]は[[古生代]]終盤から[[中生代]]初頭に、海底沈殿物が隆起と[[変成作用]]を起こして形づくられた。これは[[火成岩]]の貫入および[[火山現象]]によって引き起こされたものである。西南極で一般的な岩はジュラ紀に形成された火山岩の[[安山岩]]と[[流紋岩]]である。火山活動は氷床がつくられた後にも続き、その証拠は[[マリーバードランド]]や[[アレクサンダー島]]にある。西南極で唯一変則的な部分は[[エルスワース山脈]]であり、ここは[[層序学]]的に大陸東部の様相に近い。 東南極の地質は変化に富み、30億年以上前の岩などを含む[[先カンブリア時代]]をさかのぼった頃に形成された。これらは[[楯状地]]を基礎とする[[変成岩]]や[[火成岩]]の台地で構成される。この基礎の上には比較的近年に当るデボン紀やジュラ紀に積みあがった[[砂岩]]や[[石灰岩]]・[[頁岩]]などがあり、南極横断山脈が形成された。沿岸の[[シャックルトン山脈]]や[[ヴィクトリアランド]]などには[[断層]]が見られる。 南極大陸で採掘される主な鉱物資源は石炭であり<ref name="Trewby2002" />、記録上最初の発見はニムロデ探査において[[ベアードモア氷河|バードモア氷河]]で見つけた{{仮リンク|フランク・ワイルド|en|Frank Wild}}に遡る。現在では低品位炭が南極横断山脈の様々な場所にある事が知られている。他にも、{{仮リンク|プリンスチャールズ山地|en|Prince Charles Mountains}}には豊富な鉄鉱石があり、ロス海の沖合には1973年に[[油田]]や[[ガス田]]が発見された。これら鉱物資源は、{{仮リンク|環境保護に関する南極条約議定書|en|Protocol on Environmental Protection to the Antarctic Treaty}}にて、2048年まで採掘が法的に禁止されている<ref>[[#神沼|神沼 p.93]]</ref>。 === 氷床コアボーリング === 南極大陸の氷床をボーリングで取り出し、採取した[[氷床コア]]を分析すると堆積した時代の大気や気候を知ることができる<ref name=Kato>{{Cite web|和書| url = http://www.umekkii.jp/college/syllabus/03w_enviro_energy/report_kato.pdf|format=PDF | title = 地球環境| publisher = 梅城崇師 システム創生学科シミュレーションコース| accessdate =2012-06-14}}</ref><ref name=Naga />。また穿孔穴を利用した氷床の動きや歪みなども測定される<ref name=Kato />。 地下のボストーク湖には[[微生物]]がいる可能性が指摘されており、2012年2月6日に湖面まで到達した掘削孔を利用した研究の結果が待たれる<ref name=Naga />。また、氷で閉ざされた湖の表面は[[木星]]の衛星[[エウロパ (衛星)|エウロパ]]との類似性があり、ボストーク湖で生命が発見されればエウロパでも同様の可能性を検証する資料になりうる<ref name=Kato /><ref name=Naga /><ref group="注">S. A. Bulat et al. : International Journal of Astrobioligy, 3. 1 (2004)</ref>。2008年2月7日、NASAのチームが{{仮リンク|アンタシー湖|en|Lake Untersee}}の高アルカリ水の中に生きる[[極限環境微生物]]の調査に着手した。仮に発見されれば、メタンが中心成分をなす非常に冷たい環境における地球外生命の考察に影響を与えることが期待される<ref name="NASA-CloroxLake">{{cite web | url = http://science.nasa.gov/headlines/y2008/07feb_cloroxlake.htm | title = Extremophile Hunt Begins | work = Science News | publisher = NASA | language = 英語 | accessdate = 2012-06-14 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20100323002712/http://science.nasa.gov/headlines/y2008/07feb_cloroxlake.htm | archivedate = 2010年3月23日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 === 隕石 === {{main|南極隕石}} [[ファイル:ALH84001.jpg|thumb|left|[[火星]]から飛来し南極大陸で発見された隕石[[アラン・ヒルズ84001]]]] 南極大陸で発見される[[隕石]]群は、初期[[太陽系]]を構成した物質を知る上で非常に重要である。そのほとんどは[[小惑星]]起源のものであり、中には[[惑星]]から飛来したと考えられるものもある。最初の隕石発見は1912年に遡る。1969年には[[日本]]調査隊が9個の隕石を発見した。これらの隕石の大部分は100万年間にわたって氷の上に降り注いだもので、その上に雪が積もって埋まり、やがて何世紀もの期間をかけて移動する氷床が山地などとぶつかる所に溜まる。それが風食作用等で表面に浮き上がり発見される。南極大陸で発見される隕石は、他の地域で見つかるものよりも保存状態が良好である<ref name="meteorite">{{cite web | url = http://www-curator.jsc.nasa.gov/antmet/index.cfm | title = Meteorites from Antarctica | publisher = NASA | language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 このような大規模な収集は、太陽系における隕石の種類や、小惑星や彗星との関係に対する理解を深める。新しいタイプや珍しい隕石も発見された。この中には衝撃によって月や火星から飛び出し飛来したものもあった。これらのうち、特に{{仮リンク|南極隕石探査|en|ANSMET}}にて発見された[[アラン・ヒルズ84001]]などは、火星に微生物が存在したかどうかの論争を喚起した。隕石は宇宙空間で浴びた宇宙線の履歴を残すため、地球に落下してからの経過時間を実験室の分析で明らかにできる。この経過時間、すなわち地球上に存在した時代の解析は、南極氷床の環境を知る上で有効な情報になる可能性を秘めている<ref name="meteorite" />。 2006年に[[オハイオ州立大学]]の研究チームは、NASAの[[GRACE (人工衛星)|GRACE衛星]]を用いて行った重力測定の結果から、大きさ約480kmの{{仮リンク|ウィルクスランドクレーター|en|Wilkes Land crater}}を発見した。これは、約2億5000万年前に形成されたと考えられる<ref name="crater">{{Cite web|url=http://researchnews.osu.edu/archive/erthboom.htm|title=Big Bang in Antarctica—Killer Crater Found Under Ice|publisher=Research News|first=Pam Frost|last=Gorder|date=2006-06-01|language=英語|accessdate=2012-06-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306140004/http://researchnews.osu.edu/archive/erthboom.htm|archivedate=2016年3月6日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 == 氷の収支 == {{See also|海面上昇}} [[ファイル:Flow of Ice Across Antarctica.ogv|thumb|300px|南極の氷の動き]] その位置ゆえ、南極大陸が受ける太陽照射は比較的少ない。そのため、気温が非常に低く、水はほとんど氷の状態で存在する。少ない降水は雪として降り注ぎ、夏に溶けないフィンと呼ばれる分は蓄積され、巨大な氷床を形成して陸を覆う<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/05/05_01_2_1.html|title=南極の自然 氷床の一生|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>。その一部は[[氷河流]]を呼ばれる大陸沿岸へ向かう、年間数-数十mから沿岸部では数百mの動き<ref name=nipr0505012>{{Cite web|和書|url=http://www.nipr.ac.jp/jare/nankyoku/05/05_01_2.html|title=南極の自然 氷床の一生|publisher=国立極地研究所|accessdate=2012-06-14}}</ref>を持つ。その先では、大陸上の氷の塊が押し出されて棚氷を形成する。沖合に至っても気温は低いままであり、海水も凍りつかせて氷は年間を通してほぼ維持される。このような多様な南極の氷が、海洋面の高さへの影響を与えたり、[[地球温暖化]]へ関連する。 海洋部の氷は毎年冬に拡大し、夏にはほとんどが溶ける。この氷は海洋水から形成されるため、浮いている状態では海洋面の高さを左右しない。南極大陸を囲む氷は、その厚みの変化は明確ではないが、範囲はここ数十年においてさほどの変化を見せていない<ref name="United Nations Environment Programme">{{cite web | title = Regional changes in Arctic and Antarctic sea ice | publisher = United Nations Environment Programme | url = http://maps.grida.no/go/graphic/regional-changes-in-arctic-and-antarctic-sea-ice | language = 英語 | accessdate = 2012-06-14 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20080614093532/http://maps.grida.no/go/graphic/regional-changes-in-arctic-and-antarctic-sea-ice | archivedate = 2008年6月14日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref name="National Snow and Ice Data Center">{{cite web | title = All About Sea Ice | publisher = National Snow and Ice Data Center | url = http://nsidc.org/seaice/characteristics/difference.html| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 浮いている氷は影響を与えないが、棚氷を形成する陸上から移動した氷は地球全体の海面上昇を引き起こす。これは内陸に降る雪で相殺されるものだが、この数十年間は沿岸部、特に南極半島に沿った部分で発生した大規模な棚氷の崩壊が報告されている。このような棚氷の分断が、大陸の氷河から供給される水の量を増加させる可能性が懸念される<ref name="RignotCasassa2004">{{cite journal|last1=Rignot|first1=E.|title=Accelerated ice discharge from the Antarctic Peninsula following the collapse of Larsen B ice shelf|journal=Geophysical Research Letters|volume=31|issue=18|year=2004|issn=0094-8276|doi=10.1029/2004GL020697}}</ref>。 大陸上の氷そのものが、世界中の淡水の70%を占める<ref name="howstuffworks" />。これは降雪によって増加し、海への流出によって減少する。現在、西南極では流出量が降雪を上回り、徐々に海面上昇を引き起こしている。1992年から2006年までの科学的調査によれば、氷は1年当たり約500億トンが失われ、海面は約0.14mm上昇していると示唆された<ref name="ShepherdWingham2007">{{cite journal|last1=Shepherd|first1=A.|last2=Wingham|first2=D.|title=Recent Sea-Level Contributions of the Antarctic and Greenland Ice Sheets|journal=Science|volume=315|issue=5818|year=2007|pages=1529–1532|issn=0036-8075|doi=10.1126/science.1136776}}</ref>。[[アムンゼン海]]への氷河流出は大幅に加速しており、この数値は倍以上になっているという説もある<ref name="RignotBamber2008">{{cite journal|last1=Rignot|first1=Eric|last2=Bamber|first2=Jonathan L.|last3=van den Broeke|first3=Michiel R.|last4=Davis|first4=Curt|last5=Li|first5=Yonghong|last6=van de Berg|first6=Willem Jan|last7=van Meijgaard|first7=Erik|title=Recent Antarctic ice mass loss from radar&nbsp;interferometry and regional climate&nbsp;modelling|journal=Nature Geoscience|volume=1|issue=2|year=2008|pages=106–110|issn=1752-0894|doi=10.1038/ngeo102}}</ref>。 東南極は大陸の大部分を占める広大かつ標高が高く、寒冷な領域である。ここは、結果的に氷床を沿岸へ押し出す役目をする降雪が少ない。そのため[[東南極氷床]]全体の質量収支は、ほぼ均衡またはわずかに増加(海洋面水位にとっては低下)していると考えられる<ref name="ShepherdWingham2007" /><ref name="RignotBamber2008" />。しかし、局地的には流出が増加している箇所も発見されている<ref name="RignotBamber2008" /><ref name="ChenWilson2008">{{cite journal|last1=Chen|first1=J.L.|last2=Wilson|first2=C.R.|last3=Tapley|first3=B.D.|last4=Blankenship|first4=D.|last5=Young|first5=D.|title=Antarctic regional ice loss rates from GRACE|journal=Earth and Planetary Science Letters|volume=266|issue=1-2|year=2008|pages=140–148|issn=0012821X|doi=10.1016/j.epsl.2007.10.057}}</ref>。 {| class="wikitable" |+ 南極における氷の収支<ref name=nipr0505012 /> |- ! 項目 ! 質量 |- | (収)雪が蓄積する量 | align = right | 2000 ×10<sup>9</sup>[[トン]] |- | (支)氷山が分裂して溶解する量 | align = right | 1200-1500 ×10<sup>9</sup>トン |- | (支)氷床や棚氷の底が溶解する量 | align = right | 200-3000 ×10<sup>9</sup>トン |- | (支)氷床の表面から蒸発や融解する量 | align = right | 10 ×10<sup>9</sup>トン |- align = right |} == 地球温暖化への影響 == {{multiple image | direction = vertical | width = 230 | footer = | image1 = AntarcticaTemps 1957-2006.jpg | alt1 = Antarctican Temperature | caption1 = <center> 1957–2006年における温暖化の推移</center> | image2 = AntarcticaTemps 1957-2006a.jpg | alt2 = Legend | caption2 = }} 南極大陸の地域の中には明らかに気温が上昇しているところがあり、南極半島において顕著である。エリック・スタイグが2009年に発表した研究において、1957年から2006年にかけて南極大陸全体の平均気温が0.05℃高くなり、特に西南極の春から夏にかけての上昇が大きいという結果が初めて公表された。この上昇は、秋の東南極の寒冷化と一部相殺される<ref name="SteigSchneider2009">{{cite journal|last1=Steig|first1=Eric J.|last2=Schneider|first2=David P.|last3=Rutherford|first3=Scott D.|last4=Mann|first4=Michael E.|last5=Comiso|first5=Josefino C.|last6=Shindell|first6=Drew T.|title=Warming of the Antarctic ice-sheet surface since the 1957 International Geophysical Year|journal=Nature|volume=457|issue=7228|year=2009|pages=459–462|issn=0028-0836|doi=10.1038/nature07669}}</ref>。 ある研究結果によると、南極大陸は人間が排出した[[二酸化炭素]]の影響によって温暖化しているという証拠が提示された<ref name="Gillett2008">{{cite journal|last1=Gillett|first1=Nathan P.|last2=Stone|first2=Dáithí A.|last3=Stott|first3=Peter A.|last4=Nozawa|first4=Toru|last5=Karpechko|first5=Alexey Yu.|last6=Hegerl|first6=Gabriele C.|last7=Wehner|first7=Michael F.|last8=Jones|first8=Philip D.|title=Attribution of polar warming to human&nbsp;influence|journal=Nature Geoscience|volume=1|issue=11|year=2008|pages=750–754|issn=1752-0894|doi=10.1038/ngeo338}}</ref>。しかし、西南極表層のごくわずかな温暖化が、海洋面の高さに対する[[西南極氷床]]の作用へ直接効果を与えているとはにわかには信じられていない。その代わり、深海から到達する暖かい海水が氷河に影響し、[[大陸棚]]から離されると考えられている<ref name="PayneVieli2004">{{cite journal|last1=Payne|first1=Antony J.|last2=Vieli|first2=Andreas|last3=Shepherd|first3=Andrew P.|last4=Wingham|first4=Duncan J.|last5=Rignot|first5=Eric|title=Recent dramatic thinning of largest West Antarctic ice stream triggered by oceans|journal=Geophysical Research Letters|volume=31|issue=23|year=2004|issn=00948276|doi=10.1029/2004GL021284}}</ref><ref name="ThomaJenkins2008">{{cite journal|last1=Thoma|first1=Malte|last2=Jenkins|first2=Adrian|last3=Holland|first3=David|last4=Jacobs|first4=Stan|title=Modelling Circumpolar Deep Water intrusions on the Amundsen Sea continental shelf, Antarctica|journal=Geophysical Research Letters|volume=35|issue=18|year=2008|issn=0094-8276|doi=10.1029/2008GL034939}}</ref>。南極半島部分が水位へ実際にもたらす影響は、その場所の大気が温暖化するよりも非常に大きくなる<ref>{{Cite journal|author=Pritchard, H., and D. G. Vaughan|title=Widespread acceleration of tidewater glaciers on the Antarctic Peninsula|journal=Journal of Geophysical Research|volume=112|year=2007|doi=10.1029/2006JF000597}}</ref>。 2002年、南極半島の[[ラーセン棚氷]]Bが崩壊した<ref>{{Cite news|author=Glasser, Neil|title=Antarctic Ice Shelf Collapse Blamed On More Than Climate Change|url=http://www.sciencedaily.com/releases/2008/02/080210100441.htm|date=2008-02-10|newspaper=ScienceDaily |language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。2008年の2月28日から3月8日にかけ、南極半島南西部の[[ウィルキンス棚氷]]から570km<sup>2</sup>に及ぶ氷が分離して崩壊し、残りの氷15000km<sup>2</sup>にも同じ事が起こりうる。2009年4月5日の崩壊では、分離される前に氷は幅6kmの「筋」で繋がっていた<ref>{{Cite news|author=Staff writers|title=Huge Antarctic ice chunk collapses|newspaper=CNN.com|publisher=Cable News 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Meteorology and Ozone Monitoring Unit|publisher=Natural Environment Research Council|url=http://www.antarctica.ac.uk/met/jds/ozone/index.html| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>。 最初にオゾンホールを発見したのは[[南極地域観測隊]]の[[忠鉢繁]]である<ref name="onosiba139">[[#小野 & 柴田|小野 & 柴田p.139]]</ref>。観測したオゾン全量があまりに小さかったことに気づいた忠鉢は、初めは計器の故障を疑った。やがて本当にオゾンが少ないことに気づき、1984年の国際オゾンシンポジウムでこの事実を発表した<ref name="onosiba139" />。イギリスも観測結果から1985年にオゾンホールを発見し<ref name="schiermeier2009">{{Cite journal|title=Atmospheric science: Fixing the sky|author=Schiermeier, Quirin|url=http://www.nature.com/news/2009/090812/full/460792a.html|journal=Nature|publisher=Nature Publishing Group|doi=10.1038/460792a|date=2009-08-12|volume=460|pages=792–795| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>、「オゾンホール」というわかりやすい言葉を使った報道も相まってオゾンホールの存在は世界に知れ渡ることとなった<ref name="onosiba139" />。観測の結果から年を追うごとに拡大傾向にあることが分かった。これは、オゾンを他のガスに変質させる効果を持つ[[フロン類]](CFCs)が大気中に放出された結果<ref>{{Cite web|url=http://www.nas.nasa.gov/About/Education/Ozone/antarctic.html|title=The Antarctic Ozone hole|author=National Aeronautics and Space Administration, Advanced Supercomputing Division (NAS)|publisher=Government of the United States|date=2001-06-26| language=英語|accessdate=2012-06-14}}</ref>、大気の大循環によって南極に集められていたことが判明したのである<ref>[[#小野 & 柴田|小野 & 柴田p.140]]</ref>。 このオゾン層破壊が南極そして南半球へ気候変動を引き起こす要因となる可能性が、いくつかの研究から指摘された<ref name="schiermeier2009" />。[[成層圏]]でオゾン層はほとんどの紫外線を吸収する。これが南極上空で欠乏すると、そこの成層圏の温度が約6℃程下がる可能性がある。そうなると、南極大陸を取り囲むように吹く西風([[極渦]])が強まり、大陸の冷気を封じ込めてしまい、大陸塊にある東南極の氷床の温度が下がると考えられる。相対的に南極半島など周辺の温度は上昇し、氷の溶解を促進する<ref name="schiermeier2009" />。この理論では、オゾン層破壊による極圏への紫外線照射量増加、そして極渦効果の高まりによって、大陸沿岸の海氷はむしろ増えることが見込まれる<ref>{{Cite journal|author=Turner J., Comiso J.C., Marshall G.J., Lachlan-Cope T.A., Bracegirdle T., Maksym T., Meredith M.P., Wang Z., Orr A.|title=Non-annular atmospheric circulation change induced by stratospheric ozone depletion and its role in the recent increase of Antarctic sea ice extent|journal=[[:en:Geophysical Research Letters|Geophysical Research Letters]]|volume=36|pages=L08502|year=2009|doi=10.1029/2009GL037524|bibcode=2009GeoRL..3608502T|issue=8}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | author=[[神沼克伊]] | year=2009 | title=地球環境を映す鏡 南極の科学 氷に覆われた大陸のすべて | publisher=[[講談社]] | isbn=978-4062576598 | ref=神沼}} * {{Cite book | 和書 | author=[[小野延雄]] & [[柴田鉄治]] | year=2006 | title=ニッポン南極観測隊 人間ドラマ50年 | publisher=[[丸善雄松堂|丸善株式会社]] | isbn=978-4621077757 | ref=小野 & 柴田}} == 関連項目 == [[ファイル:Souvenir-Sheet.jpg|thumb|200px|南極が描かれた切手]] * [[南極]] * [[南極関係記事の一覧]] * [[南極周辺の島の一覧]] * [[南極地域の環境の保護に関する法律]] * [[南極氷床]] * [[北極]] {{-}} == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|地理学|[[ファイル:Gnome-globe.svg|34px|Portal:地理学]]}} {{Sister project links|南極|commons=Antarctica|commonscat=Antarctica|d=Q51}} {{Wikisourcelang|en|CIA World Fact Book, 2004/Antarctica}} * {{In Our Time|Antarctica.|b00ss2th|Antarctica. }} * {{Curlie|Regional/Polar_Regions/Antarctic/|Antarctic region}} * {{CIA World Factbook link|ay|Antarctica}} * [https://www.env.go.jp/nature/nankyoku/kankyohogo/database/jyouyaku/tebiki/index.html 南極訪問者のための手引き](環境省のウェブページ内) * {{EoE|Antarctica|Antarctica}} * [http://www.bsae2012.co.uk/ British Services Antarctic Expedition 2012] * [http://www.ats.aq/ Antarctic Treaty Secretariat], ''de facto'' government * [http://www.antarctica.ac.uk/ British Antarctic Survey (BAS)] * [http://www.usap.gov/ U.S. Antarctic Program Portal] * [http://www.antarctica.gov.au/ Australian Antarctic Division] * [https://web.archive.org/web/20090109040456/http://www.sanap.ac.za/ South African National Antarctic Programme – Official Website] * [http://www.loc.gov/rr/international/frd/antarctica/antarctica.html Portals on the World – Antarctica] from the [[Library of Congress]] * [http://lima.nasa.gov/ NASA's LIMA] (Landsat Image Mosaic of Antarctica) ([http://lima.usgs.gov/ USGS mirror]) * ''[http://antarcticsun.usap.gov/ The Antarctic Sun]'' (Online newspaper of the U.S. Antarctic Program) * [http://www.nzhistory.net.nz/politics/antarctica-and-nz Antarctica and New Zealand (NZHistory.net.nz)] * [http://www.nytimes.com/slideshow/2010/08/23/science/23saw_antarctica.html Journey to Antarctica in 1959] – slideshow by ''[[The New York Times]]'' * [[アーネスト・シャクルトン]]の語り、1908年[http://aso.gov.au/titles/spoken-word/my-south-polar-expedition/ South Pole Expedition] * The recording describing Shackleton's 1908 South Pole Expedition was added to the [[:en:National Film and Sound Archive|National Film and Sound Archive]]'s [http://nfsa.gov.au/collection/national-collection/sound/sounds-australia/complete-list/ Sounds of Australia Registry] in 2007 * {{Kotobank}} * {{wikiatlas|Antarctica}}{{en icon}} * {{Osmrelation|2186646}} {{Coord|-90|0|region:AQ_scale:60000000|display=title}} {{世界の地理 |continents}} {{地理座標|state=collapsed}} {{南極}} {{砂漠}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:なんきよくたいりく}} [[Category:南極|**なんきよくたいりく]] [[Category:大陸]] [[Category:非武装地帯]]
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バンゲリング ベイ
『バンゲリング ベイ』 (Raid on Bungeling Bay) は、アメリカ合衆国のブローダーバンドが制作したシューティングゲームであり、『チョップリフター』(1982年)、『ロードランナー』(1983年)とともに「バンゲリング帝国三部作」の一つである。 本作は、1984年にコモドール64用ゲームソフトとして発売された。日本においては1985年2月22日にハドソンがファミリーコンピュータ(以下、FC)用ソフト向けに移植し発売された。このFC版を元に操作方法など仕様を変更した移植作品が制作され、任天堂からアーケード版、ソニー(HiTBiTブランド)からは1985年7月21日にMSX版がそれぞれ発売された。 見下ろし視点の平面全方位任意スクロールシューティングゲームである。縦幅10画面×横幅10画面の100画面からなるマップで構成されている。プレイヤーは、自機のヘリコプターを操り、自軍の空母を防衛し敵機やレーダー・砲台などの防空網を破壊しながら、敵国「バンゲリング帝国」の戦略拠点(工場)を破壊するのがゲームクリアの目的となる。 攻撃方法は、対空用のバルカン砲と対地用の爆弾(最大9発)の2種類。自機はヒットポイント制で、被弾するたびにダメージ値が蓄積され徐々に飛行速度が落ち、100を超えると操縦困難に陥り墜落しミスとなる。爆弾の補給やダメージ値の修理は空母か敵の駐機場に着陸することで行える。なお、自機の墜落地点が工場や戦艦などだった場合はそれらにダメージを与えることができる。 自軍の空母は敵の攻撃機から一定以上の攻撃を受けるか、プレイヤーが故意に空母を爆撃した場合や敵戦艦が同じ画面に侵入すると自動的に撃沈され、その時点での残機は全て失われ、その後は一切復活しない。その場合でも敵の駐機場での補給と修理は可能なためゲーム続行は可能だが、受けたダメージは完全回復しない。このためゲーム後半は被弾によるダメージ増加やレーダー網と敵戦闘機の連携が増す事などにより、攻略が著しく困難になる。また、ゲームクリアの目的である敵拠点の工場は、時間の経過やステージにより工場の耐久力が向上し、周辺に高射砲や戦車などが徐々に配備されるため、破壊するのが困難になっていく。 FC版のオリジナルモードとして、2人対戦プレイが可能である。2人対戦プレイ時には、2P側は「バンゲリング帝国」を操作し、戦闘機やミサイルなどにより1P側を攻撃する。FCのIIコントローラで高射砲の向きを操作でき砲弾やミサイルを発砲できる。さらに内蔵されたマイクを使うことで戦闘機をスクランブルさせ、このときは攻撃機も戦闘機となってヘリ掃討任務にあてることができる。 198X年、突如カリブ海に現れた謎の次元侵略者「バンゲリング帝国」は、カリブ海一帯を地球の空間から隔離した。内部から脱出する事も、外部から侵入することも不可能な異次元空間に取り残されたアメリカ第2艦隊は、謎の発光現象によりバンゲリング帝国の尖兵と化してしまう。 いまやカリブ海は地球侵略用兵器の生産拠点へと改造され、多数の航空機や陸上兵器、最新鋭のQ型戦艦などが人類に牙を剥こうとしていた。 司令官ジミー・ハーディーの迅速な判断により、唯一バンゲリング帝国の支配を逃れた最新鋭空母「R・レーガン」は、ただ一隻でバンゲリング帝国への反撃を開始。わずかに5機のみ残された新型攻撃ヘリがバンゲリング帝国の拠点を破壊する為に飛び立った。 装備兵器はすべて米軍の兵器をバンゲリング帝国が乗っ取ったものである。 本作は『シムシティ』(1989年)の作者であるウィル・ライトのデビュー作である。ライトはこのゲームのマップエディッタでマップをエディットしているうちに、シムシティのゲームデザインとしての構想が生まれた。また、このゲームの「敵の拠点破壊が敵の戦力に影響する」という見えない戦略性は、『シムシティ』の原形といえるものである。 再び世界征服計画に乗り出した悪のバンゲリング帝国(Bungeling Empire)は、全方位侵略プログラムを埋め込まれた戦争機械(War Machine)の開発に着手していた。幸いにもそれはまだバンゲリング湾(Bungeling Bay)に点在する六個の工場で製造途中の段階だった。戦争機械の完成を阻止するには全工場を速やかに破壊せねばならない。こうしてフォーセズオブグッド(Forces of Good)通称「FOG」が作戦を開始した。FOGは、即席空母「アディクエイト」に改造ヘリコプター「ワイルドファイア Z-39」五機を載せただけという、無いよりはマシな程度の装備でバンゲリング湾に向けて出動した。とは言え、世界の自由と民主主義の命運は実は彼らにかかっていた。 一説上の補足として、バンゲリング帝国はカリブ海のどこかにあるミニ国家であり、前作ロードランナーで多数の金塊を奪われて資金難に陥った事から世界征服計画を一度諦めている。「FOG」は環境保護のNGO団体で、バンゲリング帝国の監視を主な活動にするようになっていた。戦争機械の詳細は不明だが、プログラムといったワードは当時の映画ターミネーターを彷彿とさせるので、パッケージに謎の四行文と重ねて顔アップで描かれているそれを指していると思われる。ゲーム中には全く登場しない。 ファミコン版はラジコンがうまくなりたいというハドソン社員が開発したとされている。実際、主役メカであるヘリの操縦は十字ボタンの上下で加減速、左右で旋回方向の決定というラジコン的なものとなっており、上下左右方向のボタンを押すことで同方向に画面上の自キャラが移動するという当時の主流とは異なるものであった。 自機の操作が左右で旋回、上下でスピード調整というラジコン的な方法であったことから、慣れない人にとって非常に難しい操作性であった上、発射する弾は一発ずつで、航空機との格闘戦時に「見越し射撃」が必須で、敵機撃墜の難易度は高い。ただし、アーケード版では操作方法は変更されており、レバーを操作した方向に向くように旋回し、そのままレバーを入れ続けると加速(背後方向にレバーを入れると減速・後退)するようになっている。 発売当時、当たり前のように「ボーナスステージ」や「ボスキャラ」「隠れキャラ」構成が主流になっていたファミコン市場において、攻略順序が任意な上に展開がシビアな本作は、操作性もさることながら、地味な割に高度な攻撃戦略を求められるという言わばマニア向けのゲームシステムであった。その中で発売元であるハドソン社と小学館の『月刊コロコロコミック』と連携し小学生を対象にした過剰な広告戦略をしたため、プレイヤーの多くがマニアのような高度な戦略が立てられない小学生であったことなども実際にプレーヤーの嗜好とゲーム内容にギャップを生むことになった。発売日当日に、ゲームの操作方法などが理解できなかった子供からのクレーム電話を、当時宣伝部所属の高橋名人が受けたというエピソードも残っている。 ゲーム誌『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マニア向けシューティングだ」、「ヘリを操作して、空母を守りながらマップ上にある工場を爆撃してゆく。自機はダメージ制。非常に面倒くさい操作だ。マニア向けだろう」と紹介されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『バンゲリング ベイ』 (Raid on Bungeling Bay) は、アメリカ合衆国のブローダーバンドが制作したシューティングゲームであり、『チョップリフター』(1982年)、『ロードランナー』(1983年)とともに「バンゲリング帝国三部作」の一つである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "本作は、1984年にコモドール64用ゲームソフトとして発売された。日本においては1985年2月22日にハドソンがファミリーコンピュータ(以下、FC)用ソフト向けに移植し発売された。このFC版を元に操作方法など仕様を変更した移植作品が制作され、任天堂からアーケード版、ソニー(HiTBiTブランド)からは1985年7月21日にMSX版がそれぞれ発売された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "見下ろし視点の平面全方位任意スクロールシューティングゲームである。縦幅10画面×横幅10画面の100画面からなるマップで構成されている。プレイヤーは、自機のヘリコプターを操り、自軍の空母を防衛し敵機やレーダー・砲台などの防空網を破壊しながら、敵国「バンゲリング帝国」の戦略拠点(工場)を破壊するのがゲームクリアの目的となる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "攻撃方法は、対空用のバルカン砲と対地用の爆弾(最大9発)の2種類。自機はヒットポイント制で、被弾するたびにダメージ値が蓄積され徐々に飛行速度が落ち、100を超えると操縦困難に陥り墜落しミスとなる。爆弾の補給やダメージ値の修理は空母か敵の駐機場に着陸することで行える。なお、自機の墜落地点が工場や戦艦などだった場合はそれらにダメージを与えることができる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "自軍の空母は敵の攻撃機から一定以上の攻撃を受けるか、プレイヤーが故意に空母を爆撃した場合や敵戦艦が同じ画面に侵入すると自動的に撃沈され、その時点での残機は全て失われ、その後は一切復活しない。その場合でも敵の駐機場での補給と修理は可能なためゲーム続行は可能だが、受けたダメージは完全回復しない。このためゲーム後半は被弾によるダメージ増加やレーダー網と敵戦闘機の連携が増す事などにより、攻略が著しく困難になる。また、ゲームクリアの目的である敵拠点の工場は、時間の経過やステージにより工場の耐久力が向上し、周辺に高射砲や戦車などが徐々に配備されるため、破壊するのが困難になっていく。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "FC版のオリジナルモードとして、2人対戦プレイが可能である。2人対戦プレイ時には、2P側は「バンゲリング帝国」を操作し、戦闘機やミサイルなどにより1P側を攻撃する。FCのIIコントローラで高射砲の向きを操作でき砲弾やミサイルを発砲できる。さらに内蔵されたマイクを使うことで戦闘機をスクランブルさせ、このときは攻撃機も戦闘機となってヘリ掃討任務にあてることができる。", "title": "ゲーム内容" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "198X年、突如カリブ海に現れた謎の次元侵略者「バンゲリング帝国」は、カリブ海一帯を地球の空間から隔離した。内部から脱出する事も、外部から侵入することも不可能な異次元空間に取り残されたアメリカ第2艦隊は、謎の発光現象によりバンゲリング帝国の尖兵と化してしまう。", "title": "ストーリー(ファミコン版)" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "いまやカリブ海は地球侵略用兵器の生産拠点へと改造され、多数の航空機や陸上兵器、最新鋭のQ型戦艦などが人類に牙を剥こうとしていた。", "title": "ストーリー(ファミコン版)" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "司令官ジミー・ハーディーの迅速な判断により、唯一バンゲリング帝国の支配を逃れた最新鋭空母「R・レーガン」は、ただ一隻でバンゲリング帝国への反撃を開始。わずかに5機のみ残された新型攻撃ヘリがバンゲリング帝国の拠点を破壊する為に飛び立った。", "title": "ストーリー(ファミコン版)" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "装備兵器はすべて米軍の兵器をバンゲリング帝国が乗っ取ったものである。", "title": "登場兵器" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "本作は『シムシティ』(1989年)の作者であるウィル・ライトのデビュー作である。ライトはこのゲームのマップエディッタでマップをエディットしているうちに、シムシティのゲームデザインとしての構想が生まれた。また、このゲームの「敵の拠点破壊が敵の戦力に影響する」という見えない戦略性は、『シムシティ』の原形といえるものである。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "再び世界征服計画に乗り出した悪のバンゲリング帝国(Bungeling Empire)は、全方位侵略プログラムを埋め込まれた戦争機械(War Machine)の開発に着手していた。幸いにもそれはまだバンゲリング湾(Bungeling Bay)に点在する六個の工場で製造途中の段階だった。戦争機械の完成を阻止するには全工場を速やかに破壊せねばならない。こうしてフォーセズオブグッド(Forces of Good)通称「FOG」が作戦を開始した。FOGは、即席空母「アディクエイト」に改造ヘリコプター「ワイルドファイア Z-39」五機を載せただけという、無いよりはマシな程度の装備でバンゲリング湾に向けて出動した。とは言え、世界の自由と民主主義の命運は実は彼らにかかっていた。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一説上の補足として、バンゲリング帝国はカリブ海のどこかにあるミニ国家であり、前作ロードランナーで多数の金塊を奪われて資金難に陥った事から世界征服計画を一度諦めている。「FOG」は環境保護のNGO団体で、バンゲリング帝国の監視を主な活動にするようになっていた。戦争機械の詳細は不明だが、プログラムといったワードは当時の映画ターミネーターを彷彿とさせるので、パッケージに謎の四行文と重ねて顔アップで描かれているそれを指していると思われる。ゲーム中には全く登場しない。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ファミコン版はラジコンがうまくなりたいというハドソン社員が開発したとされている。実際、主役メカであるヘリの操縦は十字ボタンの上下で加減速、左右で旋回方向の決定というラジコン的なものとなっており、上下左右方向のボタンを押すことで同方向に画面上の自キャラが移動するという当時の主流とは異なるものであった。", "title": "開発" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "自機の操作が左右で旋回、上下でスピード調整というラジコン的な方法であったことから、慣れない人にとって非常に難しい操作性であった上、発射する弾は一発ずつで、航空機との格闘戦時に「見越し射撃」が必須で、敵機撃墜の難易度は高い。ただし、アーケード版では操作方法は変更されており、レバーを操作した方向に向くように旋回し、そのままレバーを入れ続けると加速(背後方向にレバーを入れると減速・後退)するようになっている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "発売当時、当たり前のように「ボーナスステージ」や「ボスキャラ」「隠れキャラ」構成が主流になっていたファミコン市場において、攻略順序が任意な上に展開がシビアな本作は、操作性もさることながら、地味な割に高度な攻撃戦略を求められるという言わばマニア向けのゲームシステムであった。その中で発売元であるハドソン社と小学館の『月刊コロコロコミック』と連携し小学生を対象にした過剰な広告戦略をしたため、プレイヤーの多くがマニアのような高度な戦略が立てられない小学生であったことなども実際にプレーヤーの嗜好とゲーム内容にギャップを生むことになった。発売日当日に、ゲームの操作方法などが理解できなかった子供からのクレーム電話を、当時宣伝部所属の高橋名人が受けたというエピソードも残っている。", "title": "評価" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ゲーム誌『ファミリーコンピュータMagazine』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マニア向けシューティングだ」、「ヘリを操作して、空母を守りながらマップ上にある工場を爆撃してゆく。自機はダメージ制。非常に面倒くさい操作だ。マニア向けだろう」と紹介されている。", "title": "評価" } ]
『バンゲリング ベイ』 は、アメリカ合衆国のブローダーバンドが制作したシューティングゲームであり、『チョップリフター』(1982年)、『ロードランナー』(1983年)とともに「バンゲリング帝国三部作」の一つである。 本作は、1984年にコモドール64用ゲームソフトとして発売された。日本においては1985年2月22日にハドソンがファミリーコンピュータ(以下、FC)用ソフト向けに移植し発売された。このFC版を元に操作方法など仕様を変更した移植作品が制作され、任天堂からアーケード版、ソニー(HiTBiTブランド)からは1985年7月21日にMSX版がそれぞれ発売された。
{{otheruses|シューティングゲーム|キックボクシングジム|バンゲリングベイ (キックボクシングジム)}} {{表記揺れ案内|表記1=バンゲリングベイ}} {{コンピュータゲーム | Title = バンゲリング ベイ | Genre = [[シューティングゲーム|多方向スクロールシューティング]] | Plat = [[コモドール64]]{{Collapsible list |title = 対応機種一覧 |1 = [[ファミリーコンピュータ]] (FC)<br />[[アーケードゲーム|アーケード]] (AC)<br />[[MSX]]}} | Dev = [[ブローダーバンド]] | Pub = ブローダーバンド | producer = | director = | designer = [[ウィル・ライト]] | writer = | programmer = | composer = | artist = | license = | series = [[バンゲリング帝国三部作]] | Ver = | Play = 1人 | Media = [[フロッピーディスク]] | Date = {{vgrelease new|NA|1984年}}{{Collapsible list |title = 発売日一覧 |1 = '''FC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-2-22}}'''AC'''<br />{{vgrelease new|JP|1985年}}'''MSX'''<br />{{vgrelease new|JP|1985-7-21}}}} | Rating = | ContentsIcon = | Download content = | Device = | Spec = | Engine = | aspect ratio = | resolution = | Sale = | etc = }} 『'''バンゲリング ベイ'''』 (Raid on Bungeling Bay) は、[[アメリカ合衆国]]の[[ブローダーバンド]]が制作した[[シューティングゲーム]]であり、『[[チョップリフター]]』([[1982年]])、『[[ロードランナー]]』([[1983年]])とともに「[[バンゲリング帝国三部作]]」の一つである。 本作は、[[1984年]]に[[コモドール64]]用ゲームソフトとして発売された。[[日本]]においては[[1985年]][[2月22日]]に[[ハドソン]]が[[ファミリーコンピュータ]](以下、FC)用ソフト向けに移植し発売された。このFC版を元に操作方法など仕様を変更した移植作品が制作され、[[任天堂]]から[[アーケードゲーム|アーケード]]版{{Efn|使用基板はFC互換基板である[[任天堂VS.システム]]。}}、[[ソニー]]([[HiTBiT]]ブランド)からは[[1985年]][[7月21日]]に[[MSX]]版がそれぞれ発売された。 == ゲーム内容 == 見下ろし視点の平面全方位任意スクロールシューティングゲームである。縦幅10画面×横幅10画面の100画面からなるマップで構成されている。プレイヤーは、自機の[[ヘリコプター]]を操り、自軍の[[航空母艦|空母]]を防衛し敵機やレーダー・砲台などの防空網を破壊しながら、敵国「バンゲリング帝国」の戦略拠点(工場)を破壊するのがゲームクリアの目的となる<ref name="bunge">マイウェイ出版『ファミコンクソゲー番付』2017年1月25日、p21</ref>。 攻撃方法は、対空用のバルカン砲と対地用の爆弾(最大9発)の2種類。自機は[[ヒットポイント]]制で、被弾するたびにダメージ値が蓄積され徐々に飛行速度が落ち、100を超えると操縦困難に陥り墜落しミスとなる。爆弾の補給やダメージ値の修理は空母か敵の駐機場に着陸することで行える。なお、自機の墜落地点が工場や戦艦などだった場合はそれらにダメージを与えることができる。 自軍の空母は敵の攻撃機から一定以上の攻撃を受けるか{{Efn|FC版の説明書によれば、攻撃機を全滅させて警報を解除した時には空母のダメージはゼロに戻る。}}、プレイヤーが故意に空母を爆撃した場合や敵戦艦が同じ画面に侵入すると自動的に撃沈され、その時点での残機は全て失われ、その後は一切復活しない。その場合でも敵の駐機場での補給と修理は可能なためゲーム続行は可能だが、受けたダメージは完全回復しない。このためゲーム後半は被弾によるダメージ増加やレーダー網と敵戦闘機の連携が増す事などにより、攻略が著しく困難になる。また、ゲームクリアの目的である敵拠点の工場は、時間の経過やステージにより工場の耐久力が向上し、周辺に高射砲や戦車などが徐々に配備されるため、破壊するのが困難になっていく。 FC版のオリジナルモードとして、2人対戦プレイが可能である。2人対戦プレイ時には、2P側は「バンゲリング帝国」を操作し、[[戦闘機]]や[[ミサイル]]などにより1P側を攻撃する。FCの[[ゲームコントローラ|IIコントローラ]]で高射砲の向きを操作でき砲弾やミサイルを発砲できる。さらに内蔵されたマイクを使うことで戦闘機をスクランブルさせ、このときは攻撃機も戦闘機となってヘリ掃討任務にあてることができる。 == ストーリー(ファミコン版) == 198X年、突如カリブ海に現れた謎の次元侵略者「バンゲリング帝国」は、カリブ海一帯を地球の空間から隔離した。内部から脱出する事も、外部から侵入することも不可能な異次元空間に取り残されたアメリカ第2艦隊は、謎の発光現象によりバンゲリング帝国の尖兵と化してしまう。 いまやカリブ海は地球侵略用兵器の生産拠点へと改造され、多数の航空機や陸上兵器、最新鋭のQ型戦艦などが人類に牙を剥こうとしていた。 司令官ジミー・ハーディーの迅速な判断により、唯一バンゲリング帝国の支配を逃れた最新鋭空母「R・レーガン」は、ただ一隻でバンゲリング帝国への反撃を開始。わずかに5機のみ残された新型攻撃ヘリがバンゲリング帝国の拠点を破壊する為に飛び立った。 == 登場兵器 == === 自軍 === ; AH-16 シーアパッチ{{Efn|実際に「[[:en:Boeing AH-64 Apache#Sea Apache|シーアパッチ]]」と名付けられた艦載型アパッチの開発計画は存在した。}} : [[アメリカ海軍]]と[[アメリカ陸軍|陸軍]]、[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]が共同開発した新型[[攻撃ヘリコプター]]。[[AH-64 アパッチ]]を原型として空母での運用を可能としたものであり、航続距離の延長を始めとした様々な改良がなされている。[[1987年]]に初飛行し、作中ではテストのために「R・レーガン」に5機が艦載されていた。 : 全長26m、主回転翼直径18m。エンジンは[[ターボシャフトエンジン|タービンエンジン]]1基と[[ジェットエンジン]]2基を搭載しており、攻撃ヘリとしては破格ともいえる最大飛行速度880km/hを発揮できる。武装はコンピューター制御の30mmバルカン砲1門と、高性能爆弾9発。また、特殊な防弾構造を有しており、少々の被弾では飛行・戦闘に影響をおよぼさない強靭な防御力を持つ。このほか、夜間索敵用の[[暗視装置|赤外線スコープ]]や母艦の位置を知る超レーダーを装備している。 ; 原子力空母「R・レーガン」{{Efn|同型同名の原子力空母(ニミッツ級原子力空母9番艦[[ロナルド・レーガン (空母)|ロナルド・レーガン]])が存在するが、全くの偶然である。本作のロナルド・レーガンは、[[1985年]]当時建造途中で艦名未定だったニミッツ級4番艦に[[ロナルド・レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]](当時)の名を冠したものであった。実際の4番艦は[[セオドア・ルーズベルト (空母)|セオドア・ルーズベルト]]として[[1986年]]に就役し、ロナルド・レーガンは9番艦として[[2001年]]に就役した。}} : [[ニミッツ級航空母艦|ニミッツ級]][[原子力空母]]4番艦。アメリカ海軍[[第2艦隊 (アメリカ軍)|第2艦隊]]の旗艦を務めており、[[ヴァージニア州]][[ノーフォーク (バージニア州)|ノーフォーク]]を母港としている。全長332.8m、全幅76.8m、速度30ノット。乗組員は艦乗組員3061名、航空機乗組員2627名の計5688名。武装は[[ファランクス (火器)|バルカン・ファランクス]]が3門、[[シースパロー (ミサイル)|シースパロー対空ミサイル]]発射器が8連装3基24門となっているが、ゲーム中では攻撃機への反撃は行われない。この他カタパルト4基を装備しており、最大95機の艦載機を搭載できる。また、劇中では対核攻撃用の装備(詳細は不明)を有しており、これによりバンゲリング帝国からの攻撃(正体不明の発光現象)を逃れることが出来た。 === バンゲリング帝国軍 === 装備兵器はすべて米軍の兵器をバンゲリング帝国が乗っ取ったものである。 ;哨戒艇 :海上を航行しており、自機が同じ画面に侵入すると機銃で攻撃してくる。初期には受けるダメージは低い(HP1~2/sec程度)が、弾が飛んでくる描写はなく(銃撃音のみ)命中判定はランダムで処理されるため、自分からは回避できない。同じ画面内で、銃撃音がするかぎり一定のダメージを被る。ステージが進むに連れ命中判定が増加し、5周目付近では会敵後数秒で自機が撃墜されてしまう。空母に体当たり攻撃してくることがある。 ;[[M1エイブラムス|M1戦車]] :工場の周辺を一定周期で移動しており、自機が接近すると機銃で攻撃してくる。攻撃に関しては哨戒艇と同じM2機関銃に依る。 ;高射砲 :陸地に配備されており、最初の頃のステージでは高射砲弾、ステージが進むと誘導ミサイルで攻撃してくる。また、ミサイルはバルカンで撃破できる。誘導ミサイルは燃料が切れるのが早く一定時間で破裂するが、当たると大きなダメージ(初期HP38程度)を受ける。 ;レーダー :自機及び空母が索敵範囲内に侵入すると、戦闘機及び攻撃機を呼び寄せる。直接攻撃してこないからといって放置していると危険。 ;[[F-14 (戦闘機)|F-14]]戦闘機 :ステージが進むに連れ不意に飛来し、プレイヤーが着艦中、着陸中、飛行中を問わずミサイルで攻撃してくる。自機への攻撃が専門で空母は攻撃しない。敵機着陸中に同じ場所に自機を着陸させると、自機に体当たり攻撃を行いミサイル被弾と同程度の被害を受け、ファミコン版では一撃の体当たりで自機が破壊される。攻撃機と共に「ガガガガ…」と言う耳障りな飛行音が特徴である。 :風防の色は黒。 ;[[F/A-18]]攻撃機 :戦闘機に比べあまり旋回せず、直線的に飛来し空母に攻撃を仕掛けてくる。空母を撃沈するまで執拗に周辺を旋回し決して撤退せず、また必ず2機で攻撃をしてくる為、2機とも撃墜しないと空爆は続き、空母は撃沈されてしまう。原則として、空母への攻撃が専門で自機へは攻撃しないものの、2コントローラーのマイクを使い、大きな声などで(説明書によれば「ハドソン」と叫ぶと書いてある<ref name="natsukashi">M.B.MOOK『懐かしファミコンパーフェクトガイド』17ページ</ref>)音声入力すると戦闘機同様に、ミサイルで攻撃してくる。小技として、空母が空襲を受けているときに、この方法を使うことによって爆撃を回避できる。 :風防の色は赤。 ;Q型戦艦 :アメリカ軍が対核戦用として極秘に建造を進めていた[[原子力船|原子力]][[戦艦]]で、[[アイオワ級戦艦]]「[[ニュージャージー (戦艦)|ニュージャージー]]」を改装した物であるという事以外、詳細は不明。多数の対艦ミサイルランチャーと16インチ主砲を持ち、さらにバンゲリング帝国に改装を受け、艦首に謎の重力波兵器(Qシステム)が搭載されている。自機が接近すると誘導ミサイルで攻撃をしてくる。また、空母が同一画面に侵入すると、Qシステムにより一瞬で撃沈されてしまう。ステージが進むとドック内で建造が開始されるがこの時点では接近しても攻撃してこず、数発の爆弾で簡単に撃破できるがしばらくすると再建造が始まる。完成して一旦出航すると、耐久力が大幅に増加するため撃沈は困難を極める。しかし出航後の戦艦を撃沈すれば、ドック内の時とは違い再建造はされない。 ;工場 :不気味に明滅を繰り返す、バンゲリング帝国の兵器生産拠点。陸地に点在するこの工場を全て撃破することがゲームの目的となる。爆弾を一定数以上命中させると明滅が止まり、機能が停止する。その間は戦車や高射砲の配備が止まるが、しばらく時間を置くと復旧する。機能停止状態からさらに爆弾を一定数以上命中させると全壊し、そのステージ中は復旧しない。 == 移植版 == {|class="wikitable" style="font-size:85%" |- ! No. ! タイトル ! 発売日 ! 対応機種 ! 開発元 ! 発売元 ! メディア ! 型式 ! 売上本数 ! 備考 |- | style="text-align:right" | 1 ! バンゲリング ベイ | {{vgrelease new|JP|1985年2月15日<ref>{{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=BungelingBay|title=バンゲリングベイ(ハドソンゲームナビ)|date=20040815040950 }}</ref>}} | [[ファミリーコンピュータ]] | [[ハドソン]] | ハドソン | [[ロムカセット]] | HFC-RB | - | |- | style="text-align:right" | 2 ! VS.バンゲリングベイ | {{vgrelease new|JP|1985年4月上旬<ref>『ゲームマシン』(アミューズメント通信社発行)1985年4月15日号12ページ</ref>}} | [[アーケードゲーム|アーケード]] | ハドソン | 任天堂レジャーシステム | [[アーケードゲーム基板|業務用基板]] | - | - | [[任天堂VS.システム]]対応 |- | style="text-align:right" | 3 ! バンゲリングベイ | {{vgrelease new|JP|1985-7-21}} | [[MSX]] | [[ソニー]] | ソニー ([[HiTBiT]]) | ロムカセット | HBS-G036C | - | |} == 開発 == 本作は『[[シムシティ]]』([[1989年]])の作者である[[ウィル・ライト]]のデビュー作である{{R|4Gamer.net20200718}}。ライトはこのゲームのマップエディッタでマップをエディットしているうちに、シムシティのゲームデザインとしての構想が生まれた<ref name="4Gamer.net20200718">{{Cite web|和書|title=レトロンバーガー Order 42:夏だ,海だ,「バンゲリングベイ」だ!! 夏の雨を降らす厚い雲に亡国の幻影を見た編 |url=https://www.4gamer.net/games/376/G037693/20200717038/ |website=4Gamer.net |access-date=2022-05-27 |publisher=Aetas |date=2020/07/18}}</ref>。また、このゲームの「敵の拠点破壊が敵の戦力に影響する」という見えない戦略性は、『シムシティ』の原形といえるものである。 === ブローダーバンド版のストーリー === 再び世界征服計画に乗り出した悪のバンゲリング帝国(''Bungeling Empire'')は、全方位侵略プログラムを埋め込まれた戦争機械(''War Machine'')の開発に着手していた。幸いにもそれはまだバンゲリング湾(''Bungeling Bay'')に点在する六個の工場で製造途中の段階だった。戦争機械の完成を阻止するには全工場を速やかに破壊せねばならない。こうしてフォーセズオブグッド(''Forces of Good'')通称「FOG」が作戦を開始した。FOGは、即席空母「アディクエイト」に改造ヘリコプター「ワイルドファイア Z-39」五機を載せただけという、無いよりはマシな程度の装備でバンゲリング湾に向けて出動した。とは言え、世界の自由と民主主義の命運は実は彼らにかかっていた。 一説上の補足として、バンゲリング帝国は[[カリブ海]]のどこかにあるミニ国家であり、前作[[ロードランナー]]で多数の金塊を奪われて資金難に陥った事から世界征服計画を一度諦めている。「FOG」は環境保護の[[NGO|NGO団体]]で、バンゲリング帝国の監視を主な活動にするようになっていた。戦争機械の詳細は不明だが、プログラムといったワードは当時の映画[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]を彷彿とさせるので、パッケージに謎の四行文と重ねて顔アップで描かれているそれを指していると思われる。ゲーム中には全く登場しない。 * ''It's a machine... Yet, it lives.''(それは機械のままだが・・生きている。) * ''It reasons. It defends itself.''(それは推論する。それは自身を守る。) * ''It is programmed for survival.''(それは生存するようにプログラムされている。) * ''It is programmed to destroy.''(それは破壊するようにプログラムされている。) === ファミコン版の開発 === ファミコン版はラジコンがうまくなりたいというハドソン社員が開発したとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://live.nicovideo.jp/watch/lv316016997|title=コロコロ生アニキ#9~星馬兄弟、再復活!~ - 2018/10/06(土) 21:00開始 - ニコニコ生放送|accessdate=平成30年10月14日|publisher=|quote=1:44:04 高橋名人「昔ね198…4年かな。あのー当時僕がいたハドソンでもラジコンが大人気に成って。 であの走らすと当然さバッテリーが無くなるから充電する訳じゃん。 だから充電してる間仕事をして。充電が終わったら屋上行って走らせてっていう。 でその内にあのーラジコンがもうちょっとうまく成りたいなっていうんで、それでプログラムしたのがバンゲリングベイなんだよね。 バンゲリングベイってだからラジコン風な操作有るでしょ。 だからヘリコプターがどっちを向いてても、右行ったらヘリコプターに対して右に曲がるじゃない。 とすると上から下行きたい時は、左やりたい時は右切んなきゃいけないとか。だからラジコンですよあれは」}}</ref>。実際、主役メカであるヘリの操縦は十字ボタンの上下で加減速、左右で旋回方向の決定というラジコン的なものとなっており、上下左右方向のボタンを押すことで同方向に画面上の自キャラが移動するという当時の主流とは異なるものであった。 == スタッフ == ; コモドール64版 *PROGRAM:ウィル・ライト ; ファミリーコンピュータ版 *メインプログラム:菊田昌昭 *サブプログラム:野沢勝広(マップ圧縮) *グラフィック:山本次行 == 評価 == 自機の操作が左右で旋回、上下でスピード調整という[[ラジコン]]的な方法であったことから、慣れない人にとって非常に難しい操作性であった上、発射する弾は一発ずつで、航空機との格闘戦時に「見越し射撃」が必須で、敵機撃墜の難易度は高い<ref name="natsukashi"/>。ただし、アーケード版では操作方法は変更されており、レバーを操作した方向に向くように旋回し、そのままレバーを入れ続けると加速(背後方向にレバーを入れると減速・後退)するようになっている{{Efn|アーケード版ではこの他に、沈められた空母が、ミスからの復帰時に復活するなどの仕様変更もあり、ファミコン版よりも難易度が低い。また、対戦モードがない。}}<ref name="bunge"/>。 発売当時、当たり前のように「ボーナスステージ」や「[[ボスキャラ]]」「[[隠れキャラ]]」構成が主流になっていたファミコン市場において、攻略順序が任意な上に展開がシビアな本作は、操作性もさることながら、地味な割に高度な攻撃戦略を求められるという言わばマニア向けのゲームシステムであった。その中で発売元であるハドソン社と[[小学館]]の『[[月刊コロコロコミック]]』と連携し小学生を対象にした過剰な広告戦略をしたため、プレイヤーの多くがマニアのような高度な戦略が立てられない小学生であったことなども実際にプレーヤーの嗜好とゲーム内容にギャップを生むことになった<ref name="bunge"/>。発売日当日に、ゲームの操作方法などが理解できなかった子供からのクレーム電話を、当時宣伝部所属の[[高橋名人]]が受けたというエピソードも残っている。 ゲーム誌『[[ファミリーコンピュータMagazine]]』の1991年5月10日号特別付録の「ファミコンロムカセット オールカタログ」では、「マニア向けシューティングだ」、「ヘリを操作して、空母を守りながらマップ上にある工場を爆撃してゆく。自機はダメージ制。非常に面倒くさい操作だ。マニア向けだろう」と紹介されている<ref name="famimaga230">{{Cite journal |和書 |author = |authorlink = |title = 5月10日号特別付録 ファミコンロムカセット オールカタログ |date = 1991-05-10 |publisher = [[徳間書店]] |journal = [[ファミリーコンピュータMagazine]] |volume = 7 |number = 9 |naid = |pages = 230 |url = |ref = harv}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * 『ファミリーコンピュータ・ゲーム必勝法シリーズ3 バンゲリングベイ』([[勁文社|ケイブンシャ]]大百科別冊、1985年) == 関連項目 == * [[ファミコン風雲児]] - 劇中にて架空の改造版「バンゲリングベイ」が登場。メモリーを増強し複数の本体をリンクさせ、帝国側を3つのコントローラーで操作し、3vs1の対戦ができるという内容だった。 * [[ファミコンロッキー]] - 劇中にて実際のゲームには登場しないボスキャラ(魔の海域の最終兵器)が登場する。 == 外部リンク == *{{Wayback |url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/index.cgi?mode=info&f=BungelingBay|title=バンゲリングベイ(ハドソンゲームナビ)|date=20040815040950 }} * {{MobyGames|id=/11506/raid-on-bungeling-bay/|name=Raid on Bungeling Bay}} {{Video-game-stub}} {{デフォルトソート:はんけりんくへい}} [[Category:1984年のコンピュータゲーム]] [[Category:MSX/MSX2用ソフト]] [[Category:アメリカで開発されたコンピュータゲーム]] [[Category:コモドール64用ゲームソフト]] [[Category:ソニーのゲームソフト]] [[Category:多方向スクロールシューティングゲーム]] [[Category:ヘリコプターを題材としたコンピュータゲーム]] [[Category:ハドソンのゲームソフト]] [[Category:ブローダーバンドのゲームソフト]] [[Category:ファミリーコンピュータ用ソフト]]
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中央省庁再編
中央省庁再編(ちゅうおうしょうちょうさいへん)は、日本の政治において森喜朗内閣総理大臣の自公保連立政権(自由民主党、公明党、保守党)下の2001年(平成13年)1月6日に施行された中央省庁の再編統合を指す(中央省庁再編前第2次森改造内閣→中央省庁再編後第2次森改造内閣)。 中央省庁再編の目的には、「縦割り行政による弊害をなくし、内閣機能の強化、事務および事業の減量、効率化すること」などが挙げられた。 それまでの1府22省庁は、1府12省庁に再編された。 なお、法令および政府の公文書においては「中央省庁再編」でなく「中央省庁等改革」(ちゅうおうしょうちょうとうかいかく)という表記が正式なものとして用いられる。 しかし、この再編によっても当初の目的である縦割り行政の弊害はほとんど解消されなかったため、その後は消費者庁の新設(2009年)など、各省庁を総合的に調整する組織が作られた。 ここでの庁とは、総理府および内閣府の外局のうち機関の長(長官、委員長)に国務大臣をもって充てる、いわゆる大臣庁、大臣委員会である。 中央省庁再編前の1府22省庁 中央省庁再編後の1府12省庁(2001年1月6日時点) それぞれの前身を示した表。太字は、新設あるいは名称変更のあった省庁。(2001年1月6日時点) 後身を示した表。旧省庁の太字は、国務大臣をトップに置いた府、省、庁、委員会。 なお、再編による新体制の組織図、および2001年(平成13年)1月6日以降の組織変更については、「日本の行政機関」の項目を参照。
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中央省庁再編(ちゅうおうしょうちょうさいへん)は、日本の政治において森喜朗内閣総理大臣の自公保連立政権(自由民主党、公明党、保守党)下の2001年(平成13年)1月6日に施行された中央省庁の再編統合を指す(中央省庁再編前第2次森改造内閣→中央省庁再編後第2次森改造内閣)。
'''中央省庁再編'''(ちゅうおうしょうちょうさいへん)は、[[日本の政治]]において[[森喜朗]][[内閣総理大臣]]の[[自公連立政権|自公保連立政権]]([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]、[[公明党]]、[[保守新党|保守党]])下の[[2001年]](平成13年)[[1月6日]]に施行された[[日本の行政機関|中央省庁]]の再編統合を指す([[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編前)|中央省庁再編前第2次森改造内閣]]→[[第2次森内閣 (改造 中央省庁再編後)|中央省庁再編後第2次森改造内閣]])。 == 概要 == 中央省庁再編の目的には、「[[縦割り行政]]による弊害をなくし、[[内閣 (日本)|内閣]]機能の強化、事務および事業の減量、効率化すること」などが挙げられた。 それまでの'''1府22省庁'''は、'''1府12省庁'''に再編された。 なお、法令および[[日本国政府|政府]]の公文書においては「中央省庁再編」でなく「'''中央省庁等改革'''」(ちゅうおうしょうちょうとうかいかく)という表記が正式なものとして用いられる。 {{要出典範囲|しかし、この再編によっても当初の目的である縦割り行政の弊害はほとんど解消されなかった|date=2023年11月}}ため、その後は[[消費者庁]]の新設([[2009年]])など、{{要出典範囲|各省庁を総合的に調整する組織|date=2023年11月}}が作られた。 ==1府22省庁から1府12省庁へ== ここでの庁とは、[[総理府]]および[[内閣府]]の[[外局]]のうち機関の長([[長官]]、[[委員長]])に[[国務大臣]]をもって充てる、いわゆる[[大臣庁]]、[[大臣委員会]]である。 ===1府22省庁=== 中央省庁再編前の1府22省庁 *府(1):総理府 *省(12):[[法務省]]、[[外務省]]、[[大蔵省]]、[[文部省]]、[[厚生省]]、[[農林水産省]]、[[通商産業省]]、[[運輸省]]、[[郵政省]]、[[労働省]]、[[建設省]]、[[自治省]] *庁(10):[[国家公安委員会]]、[[金融再生委員会]]、[[総務庁]]、[[北海道開発庁]]、防衛庁、[[経済企画庁]]、[[科学技術庁]]、環境庁、[[沖縄振興局|沖縄開発庁]]、[[国土庁]] ===1府12省庁=== 中央省庁再編後の1府12省庁(2001年1月6日時点) *府(1):内閣府 *省(10):[[総務省]]、法務省、外務省、[[財務省]]、[[文部科学省]]、[[厚生労働省]]、農林水産省、[[経済産業省]]、[[国土交通省]]、[[環境省]] *庁(2):国家公安委員会、防衛庁{{Efn2|name="JDA"|ただし後の[[2007年]](平成19年)[[1月9日]]に'''[[防衛省]]'''へ移行}}<!--2001年1月6日の再編時の名称なので「防衛省」にはしないでください。--> ==新省庁とその前身== それぞれの前身を示した表。'''太字'''は、新設あるいは名称変更のあった省庁。(2001年1月6日時点) {| class="wikitable" !style="background-color:#c8d9ff;"|新省庁!!style="background-color:#c8d9ff;"|前身 |- |'''[[内閣府]]'''||←[[総理府]]、[[経済企画庁]]、 [[沖縄振興局|沖縄開発庁]] 、[[総務庁]](一部)、[[科学技術庁]](一部)、[[国土庁]](一部) |- |'''[[総務省]]'''||←総務庁、[[郵政省]]、[[自治省]] |- |[[法務省]]||←法務省 |- |[[外務省]]||←外務省 |- |'''[[財務省]]'''||←[[大蔵省]] |- |'''[[文部科学省]]'''||←[[文部省]]、科学技術庁 |- |'''[[厚生労働省]]'''||←[[厚生省]]、[[労働省]] |- |[[農林水産省]]||←農林水産省 |- |'''[[経済産業省]]'''||←通商産業省 |- |'''[[国土交通省]]'''||←[[運輸省]]、[[建設省]]、国土庁、[[北海道開発庁]] |- |'''[[環境省]]'''||←環境庁、厚生省(一部) |- |[[国家公安委員会]]||←国家公安委員会 |- |防衛庁{{Efn2|name="JDA"}}||←防衛庁<!--2001年1月6日の再編時の名称なので「防衛省」にはしないでください。--> |} ==旧省庁とその後身== 後身を示した表。旧省庁の'''太字'''は、[[国務大臣]]をトップに置いた府、省、庁、委員会。 なお、再編による新体制の組織図、および2001年(平成13年)1月6日以降の組織変更については、「[[日本の行政機関]]」の項目を参照。 {| class="wikitable" |- !style="background-color:#c8d9ff;" colspan="2"|旧省庁!!style="background-color:#c8d9ff;"|新省庁 |- |colspan="2" style="border-bottom-style:none;"|'''[[総理府]]''' |→[[内閣府]]・[[総務省]] |- |rowspan="13" style="border-top-style:none;" |&nbsp; |[[公正取引委員会]] |→総務省の外局へ{{Efn2|後の[[2003年]](平成15年)[[4月9日]]に[[内閣府]]の外局へ移行}} |- |'''[[国家公安委員会]]''' |→内閣府の外局へ |- |[[公害等調整委員会]] |→総務省の外局へ |- |'''[[金融再生委員会]]''' *[[金融庁]] |→金融庁に統合して内閣府の外局へ |- |[[宮内庁]] |→「[[内閣総理大臣]]の管理に属する機関」として内閣府へ |- |'''[[総務庁]]''' |→総務省・内閣府 |- |'''[[北海道開発庁]]''' |→[[国土交通省]] |- |'''防衛庁'''<!--2001年1月6日の再編時の名称なので「防衛省」にはしないでください。--> *[[防衛施設庁]] |→内閣府の外局へ *→「防衛庁の機関」として内閣府の外局へ{{Efn2|外局の外局という規定がないため、防衛庁の外局ではなく内閣府の外局として設置された。2007年に防衛庁が防衛省に格上げされるのと同時にその外局へ移行、その後同年9月1日に廃止}} <!--2001年1月6日の再編時の名称なので「防衛省」にはしないでください。--> |- |'''[[経済企画庁]]''' |→内閣府 |- |'''[[科学技術庁]]''' |→[[文部科学省]]・内閣府 |- |'''環境庁''' |→[[環境省]] |- |'''[[沖縄振興局|沖縄開発庁]]''' |→内閣府 |- |'''[[国土庁]]''' |→国土交通省・内閣府 |- |colspan="2"|'''[[法務省]]''' |→法務省 |- |colspan="2"|'''[[外務省]]''' |→外務省 |- |colspan="2"|'''[[大蔵省]]''' |→[[財務省]] |- |colspan="2"|'''[[文部省]]''' |→文部科学省 |- |colspan="2"|'''[[厚生省]]''' |→[[厚生労働省]]・環境省 |- |colspan="2"|'''[[農林水産省]]''' |→農林水産省 |- |colspan="2"|'''通商産業省''' |→[[経済産業省]] |- |colspan="2"|'''[[運輸省]]''' |→国土交通省 |- |colspan="2"|'''[[郵政省]]''' |→総務省・[[郵政事業庁]]{{Efn2|後の2003年(平成15年)[[4月1日]]に[[日本郵政公社]]へ移行し、2007年(平成19年)10月1日に[[郵政民営化]]によって日本郵政グループとなる}} |- |colspan="2"|'''[[労働省]]''' |→厚生労働省 |- |colspan="2"|'''[[建設省]]''' |→国土交通省 |- |colspan="2"|'''[[自治省]]''' |→総務省 |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} <!--=== 出典 === {{Reflist}}--> == 関連項目 == *[[行政改革]] *[[経済財政諮問会議]] *[[中央省庁等改革基本法]] == 外部リンク == *{{Wayback|url=https://www.kantei.go.jp/jp/cyuo-syocho/ |title=中央省庁等改革のホームページ |date=20010124034900}} - [[首相官邸]] *{{Egov law|410AC0000000103|中央省庁等改革基本法}} {{中央省庁(中央省庁再編前)}} {{中央省庁}} {{DEFAULTSORT:ちゆうおうしようちようさいへん}} [[Category:日本の中央省庁|*さいへん]] [[Category:戦後日本の政治改革]] [[Category:2001年の日本の政治]] [[Category:2001年1月]] [[Category:橋本龍太郎]]
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越部信義
越部 信義(こしべ のぶよし、1933年8月21日 - 2014年11月21日)は、日本の作曲家。 東京都出身。1957年東京藝術大学作曲科卒業。池内友次郎に師事。 大学在学中の1956年に朝日放送主催の作曲コンクールで1位入賞し、その時の審査員だった三木鶏郎に誘われ、大学卒業後、三木が主宰するクリエイター集団、冗談工房に所属し三木に師事して修行。 三木作品の編曲やゴーストライター(作曲)を神津善行や中村八大や桜井順(能 吉利人)らと務める。 おもに、NHKの子供向けテレビ番組『おかあさんといっしょ』の中で歌われる曲やアニメソング等を作曲。特に『おかあさんといっしょ』で1982年4月から10年半放送された人形劇『にこにこぷん』では、開始から終了まで2000話以上ある同作全ての劇中音楽を担当した。「おもちゃのチャチャチャ」で日本レコード大賞童謡賞、日本童謡賞、「上海バンスキング」で日本アカデミー賞音楽賞優秀賞を受賞。テレビアニメ「パーマン」「マッハGoGoGo」の主題歌を作曲し、「サザエさん」「ドラえもん(日本テレビ版)」の音楽なども手掛けた。 また、串田和美主宰のオンシアター自由劇場(1970年結成)の舞台音楽を1972年から1996年の解散まで勤め上げた。 2009年には自身初のCM作品集『越部信義CM WORKS』(CDSOL-1277)が発売された。 2014年11月21日、脳梗塞と肺炎の合併症のため死去。81歳没。 ロンドンブリッジによるピアノコンチェルト
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越部 信義は、日本の作曲家。
{{Infobox Musician | Name = 越部信義 | Background = maker | School_background = [[東京藝術大学]] | Born = {{生年月日|1933|8|21|no}} | Died = {{死亡年月日と没年齢|1933|8|21|2014|11|21}} | Blood = [[ABO式血液型|B型]] | Origin = {{JPN}} [[東京都]] | Genre = [[童謡]]<br />[[CMソング]]<br />[[劇伴]]<br />[[アニメソング|アニメ]] | Occupation = [[作曲家]] | Years_active = [[1963年]] - [[2014年]] }} '''越部 信義'''(こしべ のぶよし、[[1933年]][[8月21日]] - [[2014年]][[11月21日]])は、[[日本]]の[[作曲家]]<ref name="nat1127" />。 == 人物 == [[東京都]]出身<ref name="nat1127">{{Cite news |title=「サザエさん」作曲家の越部信義、逝去 |url=https://natalie.mu/music/news/132314 |date=2014-11-27 |newspaper=音楽ナタリー |publisher=ナターシャ |accessdate=2014-12-29}}</ref>。1957年[[東京藝術大学]]作曲科卒業<ref name="asa1127">{{Cite news |title=おもちゃのチャチャチャなど作曲 越部信義さん死去 |url=http://www.asahi.com/articles/ASGCW55STGCWUCLV00G.html |date=2014-11-27 |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2014-12-29}}</ref>。[[池内友次郎]]に師事。 大学在学中の1956年に朝日放送主催の作曲コンクールで1位入賞し、その時の審査員だった[[三木鶏郎]]に誘われ<ref>読売新聞、2015年2月28日夕刊13面「追悼抄」</ref>、大学卒業後、三木が主宰するクリエイター集団、[[冗談工房]]に所属し三木に師事して修行。 三木作品の編曲や[[ゴーストライター]](作曲)を[[神津善行]]や[[中村八大]]や[[桜井順]](能 吉利人)らと務める。 おもに、[[日本放送協会|NHK]]の子供向け[[テレビ番組]]『[[おかあさんといっしょ]]』の中で歌われる曲やアニメソング等を作曲。特に『おかあさんといっしょ』で1982年4月から10年半放送された人形劇『[[にこにこぷん]]』では、開始から終了まで2000話以上ある同作全ての劇中音楽を担当した。「[[おもちゃのチャチャチャ]]」で[[日本レコード大賞]]童謡賞、日本童謡賞、「[[上海バンスキング]]」で[[日本アカデミー賞]]音楽賞優秀賞を受賞。テレビアニメ「パーマン」「マッハGoGoGo」の主題歌を作曲し、「サザエさん」「[[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|ドラえもん]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]版)」の音楽なども手掛けた<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H9X_X21C14A1CZ8000/|title=越部信義氏が死去 作曲家 |publisher=日本経済新聞|date=2014-11-27|accessdate=2020-01-31}}</ref>。 また、[[串田和美]]主宰の[[オンシアター自由劇場]]([[1970年]]結成)の舞台音楽を[[1972年]]から[[1996年]]の解散まで勤め上げた。 2009年には自身初のCM作品集『越部信義CM WORKS』(CDSOL-1277)が発売された<ref>[http://www.cdjournal.com/main/news/koshibe-nobuyoshi/21906 「オー・モーレツ!」に「シウマイ旅情」も! 作曲家・越部信義のCM作品集が初登場] - CDJournal ニュース</ref>。 2014年11月21日、[[脳梗塞]]と[[肺炎]]の[[合併症]]のため死去。81歳没<ref name="asa1127" />。 == 作品 == === 純音楽 === * 京都賞「祝典序曲」 === 童謡 === * [[勇気一つを友にして]] * [[おもちゃのチャチャチャ]] * 地下鉄 * ホ!ホ!ホ! * あら どこだ * ジグザグお散歩 * 半袖君 * おしえて タンゴせんせい * おばけになろう * 白い小人さん * あつまれ! ファンファンファン * 元気に一、二 * ピクニックマーチ * [[あさいちばん早いのは]] * いっぴきでもサンマ * オーストラリアの動物ファミリー * シュビ・ドゥビ・パパヤ * 朝を一丁! * [[わたしの紙風船]] * 南の島の花嫁さん * はたらくくるまシリーズ  * のりたいでんしゃはしるきかんしゃ * ぼくは電車 * そらとぶなかま * ぼくはきかんしゃ * ピポピポ救急車 * ダンプカー * パトカーのうた * おうだんほどうのうた * のろうよ地下鉄  * はしれヨット * バスだいすき * パンの唄 === 合唱曲 === *ひとみ(第34回[[NHK全国学校音楽コンクール]]中学校の部課題曲) *びっくりしゃっくり(第47回同小学校の部課題曲) === アニメ関連 === ==== 主題歌 ==== * [[鉄人28号 (テレビアニメ第1作)|鉄人28号]]([[1963年]]) * [[パーマン]]([[1967年]]) * [[マッハGoGoGo]](1967年) * [[昆虫物語 みなしごハッチ]]([[1970年]]) * [[樫の木モック]]([[1972年]]) * [[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|ドラえもん]]([[1973年]]) * [[けろっこデメタン]](1973年) * [[ジムボタン]]([[1974年]]) * [[あしたへアタック!]]([[1977年]]) * [[ジェッターマルス]](1977年) * [[風船少女テンプルちゃん]](1977年) * [[ずっこけナイトドンデラマンチャ]](1980年) * [[ジャンケンマン]]([[1991年]]) ==== 劇伴音楽 ==== * マッハGoGoGo(1967年) * 樫の木モック(1972年) * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](1969年)<ref>1998年に[[河野土洋]]が参加して以降クレジットから外されたが、楽曲は引き続き使用された。2013年の『サザエさん音楽大全』発売を機に、河野と連名で再度クレジットされるようになる。</ref> * 昆虫物語みなしごハッチ(1970年) * [[アニメンタリー 決断]](1971年) * [[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|ドラえもん]](1973年) * [[パンをふんだ娘#影絵劇|パンをふんだむすめ]](1975年) * [[ハックルベリィの冒険]](1976年) * あしたへアタック!(1977年) * ジェッターマルス(1977年) * ずっこけナイトドンデラマンチャ(1980年) * [[太陽の子エステバン]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/102532/|title=太陽の子エステバン : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-12-08}}</ref>(1982年) * [[炎の料理人・北大路魯山人]](1987年6月30日放送 制作 NTV 主演 緒形拳 第5回ATP賞'88「ベスト20番組」選出作品) ==== 舞台音楽 ==== * [[上海バンスキング]] ([[オンシアター自由劇場]] [[1979年]] 編曲・音楽指導も担当) * [[飛べ!京浜ドラキュラ]] ([[シアターアプル]] [[1982年]] 作曲・編曲 担当) ==== 映画音楽 ==== * 上海バンスキング(オンシアター自由劇場版 [[1988年]]) ==== テレビCM ==== * [[光る東芝の歌]]([[TBSテレビ|TBS]]「[[日曜劇場|東芝日曜劇場]]」の[[オープニングキャッチ]]でも使用) * [[日石]]灯油の歌『日石灯油だもんネ』作詞:のぶひろし([[五木寛之]]) * [[日立のうた-H.I.T.A.C.H.I. 日立]] * [[八木山ベニーランド]]・テーマソング * [[崎陽軒]]CMソング「シウマイ旅情」([[1968年]]、崎陽軒の創業60周年記念に製作されたPR映画「シウマイに夢をのせて」の主題歌。作詞は[[伊藤アキラ]]) *もったいないおばけ([[ACジャパン | 公共広告機構]]、1982年) *ツンツン娘([[ACジャパン | 公共広告機構]]、1983年) *お手伝いタヌキ([[ACジャパン | 公共広告機構]]、1984年) *仲よし地蔵([[ACジャパン | 公共広告機構]]、1985年) *ごめんの鐘([[ACジャパン | 公共広告機構]]、1986年) === 校歌 === * 練馬区立光が丘第三小学校 * 瀬戸市立原山小学校 *[[綾瀬市]]立北の台中学校校歌(1983年) * [[横浜市]]立奈良の丘小学校校歌(2002年) * [[千葉県]][[印旛郡]][[酒々井町立大室台小学校]]校歌(1984年) * 魚沼市立小出中学校 === 歌謡曲 === * 女学生 (1964年) 唄 [[安達明]] === その他 === * [[日立 世界・ふしぎ発見!|世界・ふしぎ発見!]]<!--2006年4月現在。番組初期からか途中からかは不明 --> * [[松戸競輪場|松戸競輪]]CMソング「走れ!自転車」[https://www.youtube.com/watch?v=OLkC8fU91Yc] ロンドンブリッジによるピアノコンチェルト * [[ウルトラアイ]](NHK総合テレビ、1978 - 1986放送) * [[楯の会]]の歌([[起て!紅の若き獅子たち]])([[1970年]]) * [[宇宙海賊キャプテンハーロック]]([[〜DIGITAL TRIP〜シンセサイザー・ファンタジー]])(1983年) * [[聖戦士ダンバイン]](〜DIGITAL TRIP〜シンセサイザー・ファンタジー)(1983年) * [[巨神ゴーグ]](〜DIGITAL TRIP〜シンセサイザー・ファンタジー)(1984年) * [[機動戦士Ζガンダム]](〜DIGITAL TRIP〜シンセサイザー・ファンタジー)(1985年) === 学校向け音楽(校内放送・運動会) === * さわやかな朝 * はるかな山脈 * 春 * 夏 * 秋 * 冬 * 楽しいお昼 * 清掃開始の音楽 * 清掃終了の音楽 * 楽しいお昼 * 校内放送テーマ音楽 1 2 3 4 5 6 * リズミカルな曲 * 大追跡 * クラリネット超特急 * アメリカ超特急 * ぼくらは旅の音楽隊 * 開会用ファンファーレ * 開会式入場用長時間マーチ * コミックな曲 * 勇壮な曲 * 軽快な曲 * 鈴割りチャチャチャ * 玉入れマンボ * つなひきゴーゴー * 力強い曲 * 昼の音楽(「さわやかな朝」と同曲) *(ファンファーレ)準備 * (ファンファーレ)その他 * 夕べの音楽(夕食) * 夕べの音楽(キャンプの集い) * 夕べの音楽(就寝) * 元気なこども * 小鳥のくらし * ステップ・ステップ・ステップ * お話つくり * えにっき * 海の動物たち * 二人で組んで * 時計屋さん * キッチン・マーチ * 運動会入場音楽 * はたらくくるま(行進曲) * 恐ろしい曲 * 機械 * 鳥の行進  == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E8%B6%8A%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%BE%A9-1689619 |title=越部信義(こしべのぶよし)とは |work=コトバンク |accessdate=2014-12-29}} {{おかあさんといっしょ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こしへ のふよし}} [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:日本のアニメ音楽の作曲家]] [[Category:おかあさんといっしょ]] [[Category:東京芸術大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1933年生]] [[Category:2014年没]]
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平方根
aの平方根(へいほうこん、英語: square root)とは、数に対して平方するとaになる数のことである。 複素数の平方根は、代数学の基本定理より、0 を除いて2個だけ存在する。 特に実数の範囲では、正の実数の平方根は、互いに反数である2個の実数となる。幾何学的には、正の実数に対する正の平方根は、与えられた正方形の面積に対するその一辺の長さのことである。 二乗根(にじょうこん)、自乗根(じじょうこん)とも呼ばれる。 0 の平方根は 0 のみであり、平方根が一意に定まるのはこのときに限られる。 任意の a に対して、a の正の平方根の長さは、単位長が与えられれば、定規とコンパスだけで作図することができる。 数 a に対して、x = a を満たす x を a の平方根という。元の数 a がどのような数の範囲であるかによって、この概念は、意味を持つかどうかということを含め、さまざまな点で差異が生じるということに注意が必要である。 0 の平方根は 0 のみである。元の数 a が正の数である場合は、その平方根は正と負の2つ存在するが、それらの絶対値は等しい。そのうち正である方を根号(こんごう、radical symbol) {\displaystyle {\sqrt {\;}}} を用いて と表す。これは a の「正の(あるいは非負の)平方根」(principal square root; 主平方根)である(文脈上紛れのおそれの無いと思われるときは「正の」を省略することもある)。このとき、他方の「負の平方根」は − a {\displaystyle -{\sqrt {a}}} である。また、2つの平方根を併せて ± a {\displaystyle \pm {\sqrt {a}}} と表記することもできる。例えば、9 の平方根は ±3、すなわち +3 と −3 の2つであり、 9 {\displaystyle {\sqrt {9}}} は正である 3 の方を表す。 0 {\displaystyle {\sqrt {0}}} は、0 の唯一の平方根 0 を意味すると約束する。 a<0 のときは、a の平方根は実数にはならず、2つある平方根を数の大小で区別することはできなくなる。 また、数とは限らず、もっと一般にいくつかの数学的対象についても、それぞれに意味のある仕方で平方根が定義されるものがある(正定値行列など)。 a が正の整数でも、a の平方根が整数とは限らない。 元の数が平方数でない正の整数だと、その平方根は無理数であることが証明されている。 a > 0, b > 0 のとき、 が成り立つ。例えば、 である。 したがって特に、正の整数 x が平方因子を持たなければ、 x {\displaystyle {\sqrt {x}}} は無理数である。 有理数の平方でない正の実数の平方根は、その小数部分が循環しない。その小数表示を効率的に求める方法として、開平法が知られている。 比較的小さな数の平方根については、概数を知る必要がしばしばあることから、以下のような小数部分の数桁目までの語呂合わせが知られている。 任意の実数 x に対して が成り立つ。 a>0、 b>0 のとき、 が成り立つ。 x ≥ 0 に対して、その冪乗と冪根について が成り立ち、特に と定めることは(指数の表示 1/2 = 2/4 = 3/6 = ... に依らずに一定という意味で)well-defined で、指数法則とも整合する。 入力 x に対してその非負の平方根 x {\displaystyle {\sqrt {x}}} を返す函数 f ( x ) = x {\displaystyle f(x)={\sqrt {x}}} を非負実数全体の集合 R ∪ {0} 上で定義されていると考えた正の平方根函数 は(函数として well-defined で)、それ自身への全単射になる。正の平方根函数のグラフと負の平方根函数 のグラフの和集合は、二次函数 y = x のグラフと直線 y = x に関して線対称な放物線に等しい。 正の平方根函数 √ は連続かつ x > 0 で微分可能であり、導関数は 不定積分は で与えられる。また、収束冪級数としての二項展開 が |x| < 1 で成り立つ。 x > 0, 自然数 n に対して帰納的に (x および根号の個数は n)と定めると、函数列 (fn) は漸化式 に従い、(fn) は α(x) > 0 に収束するならば α(x) − α(x) − x = 0 でなければならないから、 が成り立つ。 負の数の平方根は実数でない(つまり虚数となる)が、虚数単位 i (i = −1) を用いて表すことができる。a > 0 のとき、 −a の平方根は a A i {\displaystyle {\sqrt {a{\vphantom {A}}}}i} と − a A i {\displaystyle -{\sqrt {a{\vphantom {A}}}}i} で、 x = −a の解は、 x = ± a A i {\displaystyle x=\pm {\sqrt {a{\vphantom {A}}}}i} である。 a > 0 のとき、 − a A {\displaystyle {\sqrt {-a{\vphantom {A}}}}} を で定義する。例えば、−3 の平方根は 3 i {\displaystyle {\sqrt {3}}i} と − 3 i {\displaystyle -{\sqrt {3}}i} で、 x = −3 の解は ± 3 i {\displaystyle \pm {\sqrt {3}}i} である。また、 − 3 = 3 i {\displaystyle {\sqrt {-3}}={\sqrt {3}}i} である。 有理数体 Q(有理数全体(負の数も含む))上で定義される函数 において、その値域は(虚数も含めた)代数的数(の一部)からなる。有理数の平方根が再び有理数となるならば、その有理数は(有理数の範囲での)平方数であるという。有理数内で平方数とならない有理数 d に対して √d は二次の無理数であって、Q に √d を付け加えて得られる体(たい)は二次体と総称される。 a が 0 でない複素数のとき、z = a を満たす複素数 z は2個存在する。a の極形式を とすると、z の動径の2乗が r、z の偏角の2倍が θ であるから、 と定義すると、これは a に対して一意に定まり、(√a) = a を満たす。これを a の平方根の主値(しゅち、principal value)という。この主値により定義される平方根函数 は、実軸の負の部分を除くガウス平面 C の全域で至る所正則である。しかし実軸の負の部分上では連続でさえない。これを2枚のガウス平面を実軸の負の部分で張り合わせた平方根函数のリーマン面上で考えるならば、至る所解析的である。 一般に、正方行列 A に対して、X =A を満たす正方行列 X を A の平方根行列と呼び、記号で √A あるいは A と表す。平方根行列は存在するとは限らず、存在しても1つだけの場合や複数個の場合、無限個存在する場合がある。例えば、二次単位行列 I2 は無数の平方根を持つ。ただしその中で正定値となるのはただ一つ I2 自身である。 また、半正定値複素(resp. 実)正方行列 A に対して、A = BB*(あるいは A = B*B. ここに ∗ はエルミート共軛)を満たす(正方とは限らない)任意の行列 B をしばしば、 A の非エルミート (resp. 非対称) 平方根 (non-Hermitian (resp. symmetric) square root) と呼ぶ(とくに適当な三角行列となるときコレスキー因子 (Cholesky factor)とも呼ぶ)。B がそれ自身エルミート(実係数の場合は対称)ならば、これは上で述べた平方根の概念と一致する。任意の正定値エルミート行列 P に対し、それ自身正定値エルミートとなる平方根は一意であり、これを主平方根 (unique square root, principal square root)と呼ぶが、しばしば記号 √P や P は専ら主平方根を表すために予約されることに注意すべきである。また、正定値エルミート行列の任意の非エルミート平方根は、ユニタリ行列を掛ける分の不定性を持つが、これは正実数の場合に、(正値の主平方根が一意に決まること、および)主平方根に ±1 を掛けたものがその平方根のすべてであることと対応している。 このような半正定値行列の平方根の計算および一意性の証明には、エルミート作用素に関するスペクトル論(固有値分解)や特異値分解あるいはコレスキー分解などが利用できる。 (可換)整域の各元が二つより多くの平方根を持つことはない。実際、乗法の可換性により二平方数の差の公式(英語版) u − v = (u − v)(u + v) が成り立つことに注意すれば、u, v が同じ元の平方根であるとき u − v = 0, ゆえに零因子を持たないことから u = v または u + v = 0 であることが従う。後者は、二つの平方根が互いに加法逆元の関係にあることを言っているのだから、すなわち一つの元の平方根は(存在すれば)符号の違いを除いて一意である。特に、整域において零元 0 の平方根は 0 自身のみである。 標数 2 の可換体において、各元の平方根は一つ持つ(各元が自身を加法逆元にもつことに注意せよ)か、全く持たないかの何れかとなる(標数 2 の有限体においては任意の元が一意な平方根を持つ)。それ以外の任意の標数の体においては、先の段落のとおり任意の非零元が二つの平方根を持つか全く持たないかの何れかとなる。 奇素数 p と適当な正整数 e に対し q = p と置く。q-元体 Fq の非零元が平方剰余であるとは、その平方根が Fq に属することを言い、さもなくば平方非剰余であるという。この体において (q − 1)/2 個の元が平方剰余であり、(q − 1)/2 個が非剰余である(零元はいずれのクラスにも属さないことに注意)。平方剰余元の全体は乗法に関して群を成す。この性質は代数的整数論において広く用いられる。 一般の環において、a の平方根 b を b = a のことと定めるならば、一般には平方根は符号を除いて一意とは限らない。 たとえば合同類環 Z/8Z を考えれば、この環において単位元 1 は相異なる四つの平方根を持つ(具体的には ±1, ±3)。他方、元 2 は平方根を持たない。詳細は平方剰余の項を参照されたい。 他の例として四元数体 H において、−1 は ±i, ±j, ±k を含む無数の平方根を持つ。実は −1 の平方根の全体はちょうど集合 であり、したがって各平方根は絶対値が等しく、この集合は三次元空間内の二次元単位球面を描く。四元数#−1 の平方根も参照。 零元 0 の平方根は、定義により、0 自身または零因子である。四元数体のような可除環では零因子が存在しないから、一般に 0 の平方根は 0 のみである。しかし、零因子が存在しうる一般の環では必ずしもそうでないことは、反例として任意の自然数 n に対するZ/nZ を考えればよい(この場合、n は零因子であり、実際に n = 0 を満たす)。
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0, 自然数 n に対して帰納的に", "title": "平方根関数" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "(x および根号の個数は n)と定めると、函数列 (fn) は漸化式", "title": "平方根関数" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "に従い、(fn) は α(x) > 0 に収束するならば α(x) − α(x) − x = 0 でなければならないから、", "title": "平方根関数" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "が成り立つ。", "title": "平方根関数" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "負の数の平方根は実数でない(つまり虚数となる)が、虚数単位 i (i = −1) を用いて表すことができる。a > 0 のとき、 −a の平方根は a A i {\\displaystyle {\\sqrt {a{\\vphantom {A}}}}i} と − a A i {\\displaystyle -{\\sqrt {a{\\vphantom {A}}}}i} で、 x = −a の解は、 x = ± a A i {\\displaystyle x=\\pm {\\sqrt {a{\\vphantom {A}}}}i} である。 a > 0 のとき、 − a A {\\displaystyle {\\sqrt {-a{\\vphantom {A}}}}} を", "title": "負の数の平方根" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "で定義する。例えば、−3 の平方根は 3 i {\\displaystyle {\\sqrt {3}}i} と − 3 i {\\displaystyle -{\\sqrt {3}}i} で、 x = −3 の解は ± 3 i {\\displaystyle \\pm {\\sqrt {3}}i} である。また、 − 3 = 3 i {\\displaystyle {\\sqrt {-3}}={\\sqrt {3}}i} である。", "title": "負の数の平方根" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "有理数体 Q(有理数全体(負の数も含む))上で定義される函数", "title": "二次体" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "において、その値域は(虚数も含めた)代数的数(の一部)からなる。有理数の平方根が再び有理数となるならば、その有理数は(有理数の範囲での)平方数であるという。有理数内で平方数とならない有理数 d に対して √d は二次の無理数であって、Q に √d を付け加えて得られる体(たい)は二次体と総称される。", "title": "二次体" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "a が 0 でない複素数のとき、z = a を満たす複素数 z は2個存在する。a の極形式を", "title": "複素数の平方根" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "とすると、z の動径の2乗が r、z の偏角の2倍が θ であるから、", "title": "複素数の平方根" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "と定義すると、これは a に対して一意に定まり、(√a) = a を満たす。これを a の平方根の主値(しゅち、principal value)という。この主値により定義される平方根函数", "title": "複素数の平方根" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "は、実軸の負の部分を除くガウス平面 C の全域で至る所正則である。しかし実軸の負の部分上では連続でさえない。これを2枚のガウス平面を実軸の負の部分で張り合わせた平方根函数のリーマン面上で考えるならば、至る所解析的である。", "title": "複素数の平方根" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一般に、正方行列 A に対して、X =A を満たす正方行列 X を A の平方根行列と呼び、記号で √A あるいは A と表す。平方根行列は存在するとは限らず、存在しても1つだけの場合や複数個の場合、無限個存在する場合がある。例えば、二次単位行列 I2 は無数の平方根を持つ。ただしその中で正定値となるのはただ一つ I2 自身である。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、半正定値複素(resp. 実)正方行列 A に対して、A = BB*(あるいは A = B*B. ここに ∗ はエルミート共軛)を満たす(正方とは限らない)任意の行列 B をしばしば、 A の非エルミート (resp. 非対称) 平方根 (non-Hermitian (resp. symmetric) square root) と呼ぶ(とくに適当な三角行列となるときコレスキー因子 (Cholesky factor)とも呼ぶ)。B がそれ自身エルミート(実係数の場合は対称)ならば、これは上で述べた平方根の概念と一致する。任意の正定値エルミート行列 P に対し、それ自身正定値エルミートとなる平方根は一意であり、これを主平方根 (unique square root, principal square root)と呼ぶが、しばしば記号 √P や P は専ら主平方根を表すために予約されることに注意すべきである。また、正定値エルミート行列の任意の非エルミート平方根は、ユニタリ行列を掛ける分の不定性を持つが、これは正実数の場合に、(正値の主平方根が一意に決まること、および)主平方根に ±1 を掛けたものがその平方根のすべてであることと対応している。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "このような半正定値行列の平方根の計算および一意性の証明には、エルミート作用素に関するスペクトル論(固有値分解)や特異値分解あるいはコレスキー分解などが利用できる。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "(可換)整域の各元が二つより多くの平方根を持つことはない。実際、乗法の可換性により二平方数の差の公式(英語版) u − v = (u − v)(u + v) が成り立つことに注意すれば、u, v が同じ元の平方根であるとき u − v = 0, ゆえに零因子を持たないことから u = v または u + v = 0 であることが従う。後者は、二つの平方根が互いに加法逆元の関係にあることを言っているのだから、すなわち一つの元の平方根は(存在すれば)符号の違いを除いて一意である。特に、整域において零元 0 の平方根は 0 自身のみである。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "標数 2 の可換体において、各元の平方根は一つ持つ(各元が自身を加法逆元にもつことに注意せよ)か、全く持たないかの何れかとなる(標数 2 の有限体においては任意の元が一意な平方根を持つ)。それ以外の任意の標数の体においては、先の段落のとおり任意の非零元が二つの平方根を持つか全く持たないかの何れかとなる。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "奇素数 p と適当な正整数 e に対し q = p と置く。q-元体 Fq の非零元が平方剰余であるとは、その平方根が Fq に属することを言い、さもなくば平方非剰余であるという。この体において (q − 1)/2 個の元が平方剰余であり、(q − 1)/2 個が非剰余である(零元はいずれのクラスにも属さないことに注意)。平方剰余元の全体は乗法に関して群を成す。この性質は代数的整数論において広く用いられる。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "一般の環において、a の平方根 b を b = a のことと定めるならば、一般には平方根は符号を除いて一意とは限らない。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "たとえば合同類環 Z/8Z を考えれば、この環において単位元 1 は相異なる四つの平方根を持つ(具体的には ±1, ±3)。他方、元 2 は平方根を持たない。詳細は平方剰余の項を参照されたい。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "他の例として四元数体 H において、−1 は ±i, ±j, ±k を含む無数の平方根を持つ。実は −1 の平方根の全体はちょうど集合", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "であり、したがって各平方根は絶対値が等しく、この集合は三次元空間内の二次元単位球面を描く。四元数#−1 の平方根も参照。", "title": "数以外の平方根" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "零元 0 の平方根は、定義により、0 自身または零因子である。四元数体のような可除環では零因子が存在しないから、一般に 0 の平方根は 0 のみである。しかし、零因子が存在しうる一般の環では必ずしもそうでないことは、反例として任意の自然数 n に対するZ/nZ を考えればよい(この場合、n は零因子であり、実際に n = 0 を満たす)。", "title": "数以外の平方根" } ]
aの平方根とは、数に対して平方するとaになる数のことである。
{{Mvar|a}}の'''平方根'''(へいほうこん、{{lang-en-short|square root}})とは、[[数]]に対して[[自乗|平方]]すると{{Mvar|a}}になる数のことである。 == 概要 == [[複素数]]の平方根は、[[代数学の基本定理]]より、{{math|0}} を除いて2個だけ存在する。  特に[[実数]]の範囲では、正の実数の平方根は、互いに[[反数]]である2個の実数となる。[[幾何学]]的には、正の実数に対する正の平方根は、与えられた[[正方形]]の[[面積]]に対するその一辺の長さのことである。 '''二乗根'''(にじょうこん)、'''自乗根'''(じじょうこん)とも呼ばれる。 {{math|0}} の平方根は {{math|0}} のみであり、平方根が一意に定まるのはこのときに限られる。 任意の {{mvar|a}} に対して、{{mvar|a}} の正の平方根の長さは、単位長が与えられれば、[[定規とコンパスによる作図|定規とコンパスだけで作図]]することができる。 == 定義 == 数 {{mvar|a}} に対して、{{math2|1=''x''{{sup|2}} = ''a''}} を満たす {{mvar|x}} を {{mvar|a}} の'''平方根'''という。元の数 {{mvar|a}} がどのような数の範囲であるかによって、この概念は、意味を持つかどうかということを含め、さまざまな点で差異が生じるということに注意が必要である。 {{math|[[0]]}} の平方根は {{math|0}} のみである。元の数 {{mvar|a}} が正の数である場合は、その平方根は正と負の2つ存在するが、それらの[[絶対値]]は等しい。そのうち'''正である方'''を'''[[根号]]'''(こんごう、radical symbol)<math>\sqrt{\;}</math> を用いて :<math>\sqrt{a}</math> と表す。これは {{mvar|a}} の「'''正の'''(あるいは'''非負の''')'''平方根'''」({{lang|en|principal square root}}; 主平方根)である(文脈上紛れのおそれの無いと思われるときは「正の」を省略することもある)。このとき、他方の「負の平方根」は <math>-\sqrt{a}</math> である。また、2つの平方根を併せて <math>\pm\sqrt{a}</math> と表記することもできる。例えば、{{math|9}} の平方根は {{math|±3}}、すなわち {{math|+3}} と {{math|&minus;3}} の2つであり、<math>\sqrt{9}</math> は正である {{math|3}} の方を表す。<math>\sqrt{0}</math> は、{{math|0}} の唯一の平方根 {{math|0}} を意味すると約束する。 {{math|''a''<0}} のときは、{{mvar|a}} の平方根は[[実数]]にはならず、2つある平方根を数の大小で区別することはできなくなる。 <!--負の数の平方根は、考える数の範囲を[[複素数]]まで拡大すれば定義できる。-->また、数とは限らず、もっと一般にいくつかの数学的対象についても、それぞれに意味のある仕方で平方根が定義されるものがある([[行列の定値性|正定値行列]]など)。 == 基本的な性質 == === 実数の平方根 === {{mvar|a}} が正の[[整数]]でも、{{mvar|a}} の平方根が整数とは限らない。 元の数が[[平方数]]でない正の整数だと、その平方根は[[無理数]]であることが証明されている。 :(例):<math>\sqrt{10} = 3.162277660168 \cdots</math> {{main2|証明は、例えば、[[2の平方根#無理数であることの証明]]を}} === 簡略化 === {{math2|''a'' > 0, ''b'' > 0}} のとき、 :<math>\sqrt{a^2 b} = a \sqrt{b}</math> が成り立つ。例えば、 :<math>\sqrt{8}=\sqrt{2^2 \times 2}=2\sqrt{2}</math> :<math>\sqrt{12}=\sqrt{2^2 \times 3}=2\sqrt{3}</math> :<math>\sqrt{54}=\sqrt{3^2 \times 6}=3\sqrt{6}</math> :… である。 したがって特に、正の整数 {{mvar|x}} が平方因子を持たなければ、<math>\sqrt{x}</math> は無理数である。 === 概数とその求め方 === 有理数の[[自乗|平方]]でない正の実数の平方根は、その小数部分が循環しない。その小数表示を効率的に求める方法として、'''[[開平法]]'''が知られている。 比較的小さな数の平方根については、概数を知る必要がしばしばあることから、以下のような小数部分の数桁目までの[[語呂合わせ]]が知られている。 *<math>\sqrt{2} = 1.41421356\cdots</math> 一夜一夜に人見頃(ひとよひとよにひとみごろ) *<math>\sqrt{3} = 1.7320508075\cdots</math> 人並みに奢れや女子(ひとなみにおごれやおなご) *<math>\sqrt{5} = 2.2360679\cdots</math> [[富士山]]麓[[オウム|鸚鵡]]鳴く(ふじさんろくおうむなく) **「富士山麓'''''に''''' 鸚鵡鳴く」と誤って覚える向きも多い。 **<math>\sqrt{5} = 2.236067977\cdots</math> なので、小数点以下 8 桁ならば、切り捨てた「 2.2360679 」よりは、四捨五入した「 2.2360680 」の方が近い。 *<math>\sqrt{6} = 2.4494897\cdots</math> ツヨシ串焼くな(つよしくしやくな)、煮よ良く弱くな(によよくよわくな)<br /> {{0|000}}≈ 2.44949 似よ良く良く(によよくよく)、二夜しくしく(によしくしく) *<math>\sqrt{7} = 2.64575\cdots</math> 菜 (7) に虫来ない((な)にむしこない)、「菜に虫いない」とも。 *<math>\sqrt{8} = 2\sqrt{2} = 2.828427\cdots</math> ニヤニヤ呼ぶな(にやにやよぶな) *<math>\sqrt{10} = 3.162277\cdots</math> 父 (10) さん一郎兄さん(とうさんいちろうにいさん) === 絶対値 === 任意の実数 {{math|''x''}} に対して :<math>\sqrt{x^2} =|x|\left( =\begin{cases} x &(x \ge 0) \\ -x &(x < 0) \end{cases}\right)</math> が成り立つ。 === 積・商に関する計算法則 === {{math|''a''>0}}、 {{math|''b''>0}} のとき、 :<math>\begin{align} \sqrt{ab} &=\sqrt{a} \sqrt{b},\\ \sqrt{\frac{a}{b}} &=\frac{\sqrt{a}}{\sqrt{b}} \end{align}</math> が成り立つ<ref name="NHK数学2第53回">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_math2/archive/2016_suu2_53.pdf |title=NHK高校講座|数学Ⅱ|第4章 指数関数と対数関数[指数関数]|累乗根(1)累乗根とその性質 |accessdate=2019-09-23}}</ref>。 === 累乗根による表記 === {{math|''x'' ≥ 0}} に対して、その[[冪乗]]と[[冪根]]について :<math>x=\left(\sqrt{x} \right)^2 =\left(\sqrt[4]{x^2} \right)^2 =\left(\sqrt[6]{x^3} \right)^2 =\cdots</math> が成り立ち、特に :<math>x^{1/2} :=\sqrt{x}</math> と定めることは(指数の表示 {{math2|1={{sfrac|1|2}} = {{sfrac|2|4}} = {{sfrac|3|6}} = …}} に依らずに一定という意味で)[[well-defined]] で、[[指数関数#定義|指数法則]]とも整合する。 == 平方根関数 ==<!-- 実解析的な話--> 入力 {{mvar|x}} に対してその非負の平方根 <math>\sqrt{x}</math> を返す[[函数]] <math>f(x)=\sqrt{x}</math> を非負実数全体の集合 {{math|'''R'''{{sup|+}} ∪ {0{{)}}}} 上で定義されていると考えた'''正の平方根函数''' :<math>\sqrt{\bullet}\colon \mathbb{R}^+ \cup \{ 0\} \ni x\ \xrightarrow{\text{1-1,onto}}\ \sqrt{x} \in \mathbb{R}^+ \cup \{ 0\}</math> は(函数として [[well-defined]] で)、それ自身への[[全単射]]になる。正の平方根函数の[[グラフ (関数)|グラフ]]と負の平方根函数 :<math>{-\sqrt{\bullet}}\colon \mathbb{R}^+ \cup \{ 0\} \ni x\ \xrightarrow{\text{1-1,onto}}\ {-\sqrt{x}} \in \mathbb{R}^- \cup \{ 0\}</math> のグラフの[[合併 (集合論)|和集合]]は、二次函数 {{math2|''y'' {{=}} ''x''{{sup|2}}}} のグラフと直線 {{math2|''y'' {{=}} ''x''}} に関して線対称な放物線に等しい。 [[画像:Graph of square roots.png|400px|thumb|正の平方根函数のグラフ。これは放物線の半分になっている。]] 正の平方根函数 √ は[[連続 (数学)|連続]]かつ {{math|''x'' > 0}} で[[微分可能関数|微分可能]]であり、[[導関数]]は :<math>\frac{d}{dx} \sqrt{x} =\frac{1}{2\sqrt{x}}</math> [[不定積分]]は :<math>\int \sqrt{x} \, dx=\frac{2}{3} ( \sqrt{x} )^3+C =\frac{2}{3} x^{\frac{3}{2}}+C</math> ( {{math|''C''}} は積分定数) で与えられる。また、収束冪級数としての[[二項展開]] :<math>\sqrt{1+x} =\sum_{n=0}^{\infty} \binom{1/2}{n} x^n =1+\frac{x}{2} -\frac{x^2}{8} +\cdots= \sum_{n=0}^\infty \frac{(-1)^n(2n)!}{(1-2n)(n!)^2(4^n)}x^n</math> が {{math|{{abs|''x''}} < 1}} で成り立つ。 {{math|''x'' > 0}}, [[自然数]] {{mvar|n}} に対して帰納的に :<math>f_n (x)=\sqrt{x+\sqrt{x+\sqrt{x+\sqrt{x + ...}}}}</math> ({{mvar|x}} および根号の個数は {{mvar|n}})と定めると、函数列 {{math|(''f{{sub|n}}'')}} は漸化式 :<math>f_{n+1}(x)^2 =x+f_n (x)</math> に従い、{{math|(''f{{sub|n}}'')}} は {{math|''α''(''x'') > 0}} に収束するならば {{math|''α''(''x''){{sup|2}} &minus; ''α''(''x'') &minus; ''x'' {{=}} 0}} でなければならないから、 :<math>\lim_{n \to \infin} f_n (x)=\sqrt{x+\frac{1}{4}} +\frac{1}{2}</math> が成り立つ。 == 負の数の平方根 == 負の数の平方根は[[実数]]でない(つまり[[虚数]]となる)が、[[虚数単位]] {{math2|1=''i'' (''i''{{sup|2}} = &minus;1)}} を用いて表すことができる。{{math2|''a'' > 0}} のとき、 {{math|&minus;''a''}} の平方根は <math>\sqrt{a\vphantom{A}}i</math> と <math>-\sqrt{a\vphantom{A}}i</math>で、 {{math2|1=''x''{{sup|2}} = &minus;''a''}} の解は、<math>x=\pm \sqrt{a\vphantom{A}}i</math>である<ref name="NHK数学2第7回">{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/kokokoza/radio/r2_math2/archive/2016_suu2_07.pdf |title=NHK高校講座|数学Ⅱ|第1章 方程式・式と証明[2次方程式]|複素数1 &#x301C;負の数の平方根&#x301C; |accessdate=2019-09-23}}</ref>。 {{math2|''a'' > 0}} のとき、<math>\sqrt{-a\vphantom{A}}</math> を : <math>\sqrt{-a\vphantom{A}}=\sqrt{a\vphantom{A}}i</math> で定義する。例えば、{{math|&minus;3}} の平方根は <math>\sqrt{3}i</math> と <math>-\sqrt{3}i</math> で、 {{math2|1=''x''{{sup|2}} = &minus;3}} の解は <math>\pm \sqrt{3}i</math>である<ref name="NHK数学2第7回"/>。また、<math>\sqrt{-3}=\sqrt{3}i</math>である。 == 二次体 ==<!-- 代数的な話--> 有理数[[可換体|体]] {{math|'''Q'''}}(有理数全体(負の数も含む))上で定義される函数 :<math>\mathbb{Q} \ni x\mapsto \sqrt{x} \in \mathbb{A}</math> において、その値域は(虚数も含めた)[[代数的数]](の一部)からなる。有理数の平方根が再び有理数となるならば、その有理数は(有理数の範囲での)平方数であるという。有理数内で平方数とならない有理数 {{mvar|d}} に対して {{math|{{sqrt|''d''}}}} は二次の無理数であって、{{math|'''Q'''}} に {{math|{{sqrt|''d''}}}} を付け加えて得られる体(たい)は'''[[二次体]]'''と総称される。 == 複素数の平方根 ==<!-- 複素解析、複素関数論的な話--> {{mvar|a}} が {{math|0}} でない[[複素数]]のとき、{{math|''z''{{sup|2}} {{=}} ''a''}} を満たす複素数 {{mvar|z}} は2個存在する。{{mvar|a}} の[[極形式]]を :<math>a=re^{i\theta} \ (r>0,\, -\pi <\theta \le \pi)</math> とすると、{{mvar|z}} の動径の2乗が {{mvar|r}}、{{mvar|z}} の偏角の2倍が {{mvar|θ}} であるから、 :<math>\sqrt{a} =\sqrt{r} \, e^{i\theta/2}</math> と定義すると、これは {{mvar|a}} に対して一意に定まり、{{math|({{sqrt|''a''}}){{sup|2}} {{=}} ''a''}} を満たす。これを {{mvar|a}} の平方根の'''[[主値]]'''(しゅち、principal value)という。この主値により定義される平方根函数 :<math>\mathbb{C} \ni z\mapsto \sqrt{z} \in \mathbb{C}</math> は、実軸の負の部分を除く[[ガウス平面]] {{math|'''C'''}} の全域で至る所[[正則関数|正則]]である。しかし実軸の負の部分上では[[連続]]でさえない。これを2枚のガウス平面を実軸の負の部分で張り合わせた平方根函数の[[リーマン面]]上で考えるならば、至る所解析的である。 <gallery> Complex sqrt leaf1.jpg|ガウス平面上の平方根函数を色で示したもの。原点の周りを偏角が正の方向(反時計回り)に回って、実軸の負の部分を跨ぐときもう一枚のガウス平面へ跳ぶ(緑→緑)。 Complex sqrt leaf2.jpg|もう一枚のガウス平面上の平方根函数。こちらもやはり原点を正の方向に回ると、実軸の負の部分を境に最初のガウス平面に帰る(紫→紫)。 Riemann surface_sqrt.jpg|原点付近での平方根函数のリーマン面(2つのガウス平面を張り合わせたときの様子)<br />平方根関数 Re ''z''{{sup|1/2}}<br />ここで、{{mvar|z}} は複素数。 </gallery> == 数以外の平方根 == === 行列の平方根 === {{Main|行列の平方根}} 一般に、[[正方行列]] {{mvar|A}} に対して、{{mvar|1=X{{exp|2}} =A}} を満たす正方行列 {{mvar|X}} を {{mvar|A}} の'''平方根行列'''と呼び<ref name="Higham">{{Cite journal |last = Higham |first = Nicholas J. |authorlink = :en:Nicholas Higham |month = April |year = 1986 |title = Newton's Method for the Matrix Square Root |journal = [[:en:Mathematics of Computation]] |volume = 46 |number = 174 |pages = 537–549 |doi = 10.2307/2007992 |url = http://www.ams.org/journals/mcom/1986-46-174/S0025-5718-1986-0829624-5/S0025-5718-1986-0829624-5.pdf }}</ref>、記号で {{math|{{sqrt|''A''}}}} あるいは {{math|''A''{{exp|{{fraction|1|2}}}}}} と表す。平方根行列は存在するとは限らず、存在しても1つだけの場合や複数個の場合、無限個存在する場合がある。例えば、二次単位行列 {{math|''I''{{sub|2}}}} は無数の平方根を持つ<ref>Mitchell, Douglas W., "Using Pythagorean triples to generate square roots of I{{sub|2}}", ''Mathematical Gazette'' 87, November 2003, 499–500.</ref>。ただしその中で正定値となるのはただ一つ {{math|''I''{{sub|2}}}} 自身である。 また、半正定値複素(resp. 実)正方行列 {{mvar|A}} に対して、{{math|1=''A'' = ''BB''*}}(あるいは {{math|1=''A'' = ''B''*''B''.}} ここに {{math|&lowast;}} は[[共軛転置|エルミート共軛]])を満たす(正方とは限らない)任意の行列 {{mvar|B}} をしばしば、 {{mvar|A}} の'''非エルミート''' (resp. '''非対称''') '''平方根''' (''non-Hermitian (resp. symmetric) square root'')<ref>{{Citation |title=Inequalities |first1=Albert W. |last1= Marshall |first2=Ingram |last2= Olkin |first3=Barry |last3=Arnold |page=773 |url={{google books |id= I9wfajyOrooC |page=773 |text=asymmetric+square+root |plainurl=1}}}}</ref> と呼ぶ(とくに適当な三角行列となるときコレスキー因子 (Cholesky factor)<ref>{{Citation |title=Matrix Algebra |first=James E. |last=Gentle |page=194 |url={{google books |id=PDjIV0iWa2cC |page=194 |text=Cholesky factor |plainurl=1}}}}</ref>とも呼ぶ)。{{mvar|B}} がそれ自身エルミート(実係数の場合は対称)ならば、これは上で述べた平方根の概念と一致する。任意の正定値エルミート行列 {{mvar|P}} に対し、それ自身正定値エルミートとなる平方根は一意であり、これを'''主平方根''' (unique square root, principal square root)<ref>{{Citation |title=Functions of Matrices |first1=Nicholas J. |last1= Higham |page=20 |url={{google books |id=2Wz_zVUEwPkC |page= 20 |text=unique+square+root |plainurl=1}}}}</ref>と呼ぶが、しばしば記号 {{math|{{sqrt|''P''}}}} や {{math|''P''{{sup|1/2}}}} は専ら主平方根を表すために予約される<ref>{{Citation |title=Matrix Algebra |first=James E. |last=Gentle |page=125 |url={{google books |id=PDjIV0iWa2cC |page=125 |text=Cholesky factor |plainurl=1}}}}</ref>ことに注意すべきである。また、正定値エルミート行列の任意の非エルミート平方根は、[[ユニタリ行列]]を掛ける分の不定性を持つ<ref>{{Citation |title=Practical Optimization |first1=Andreas |last1=Antoniou |first2=Wu-Sheng |last=Lu |page=601 |url={{google books |id=6_2RhaMFPLcC |page=601 |text=non-hermitian+square+root |plainurl=1}}}}</ref>が、これは正実数の場合に、(正値の主平方根が一意に決まること、および)主平方根に {{math|&plusmn;1}} を掛けたものがその平方根のすべてであることと対応している。 このような半正定値行列の平方根の計算および一意性の証明には、エルミート作用素に関する[[スペクトル論]](固有値分解)や[[特異値分解]]あるいは[[コレスキー分解]]などが利用できる<ref>{{Citation |title=Functions of Matrices |first=Nicholas J. |last=Higham |page=20 |url={{google books |id=2Wz_zVUEwPkC |page=20 |text=spectral+decomposition |plainurl=1}}}}</ref><ref>{{Citation |title=Matrix Algebra |first=James E. |last=Gentle |page=193 |url={{google books |id=PDjIV0iWa2cC |page=193 |text=nonnegative+definite |plainurl=1}}}}</ref><ref>{{Citation |title=Numerical Analysis for Statisticians |first= Kenneth |last=Lange |page=99 |url={{google books |id=va4_AAAAQBAJ |page=99 |text=unique |plainurl=1}}}}</ref>。 === 可換整域および可換体の場合 === ([[可換環|可換]])[[整域]]の各元が二つより多くの平方根を持つことはない。実際、乗法の[[交換法則|可換性]]により{{仮リンク|二平方数の差の公式|en|difference of two squares}} {{math|1=''u''<sup>2</sup> − ''v''<sup>2</sup> = (''u'' − ''v'')(''u'' + ''v'')}} が成り立つことに注意すれば、{{mvar|u, v}} が同じ元の平方根であるとき {{math|1=''u''<sup>2</sup> − ''v''<sup>2</sup> = 0}}, ゆえに[[零因子]]を持たないことから {{math|1=''u'' = ''v''}} または {{math|1=''u'' + ''v'' = 0}} であることが従う。後者は、二つの平方根が互いに[[加法逆元]]の関係にあることを言っているのだから、すなわち一つの元の平方根は(存在すれば)符号の[[違いを除いて]]一意である。特に、整域において[[加法単位元|零元]] {{math|0}} の平方根は {{math|0}} 自身のみである。 [[標数]] {{math|2}} の[[可換体]]において、各元の平方根は一つ持つ(各元が自身を加法逆元にもつことに注意せよ)か、全く持たないかの何れかとなる(標数 {{math|2}} の[[有限体]]においては任意の元が一意な平方根を持つ)。それ以外の任意の標数の体においては、先の段落のとおり任意の非零元が二つの平方根を持つか全く持たないかの何れかとなる。 [[奇素数]] {{mvar|p}} と適当な正整数 {{mvar|e}} に対し {{math|1=''q'' = ''p''<sup>''e''</sup>}} と置く。[[有限体|{{mvar|q}}-元体 {{math|'''F'''<sub>''q''</sub>}}]] の非零元が[[平方剰余]]であるとは、その平方根が {{math|'''F'''<sub>''q''</sub>}} に属することを言い、さもなくば平方非剰余であるという。この体において {{math|(''q'' − 1)/2}} 個の元が平方剰余であり、{{math|(''q'' − 1)/2}} 個が非剰余である(零元はいずれのクラスにも属さないことに注意)。平方剰余元の全体は乗法に関して[[群 (数学)|群]]を成す。この性質は[[代数的整数論]]において広く用いられる。 === 非可換または零因子を持つ環の場合 === 一般の[[環 (数学)|環]]において、{{mvar|a}} の平方根 {{mvar|b}} を {{math|1=''b''<sup>2</sup> = ''a''}} のことと定めるならば、一般には平方根は符号を除いて一意とは限らない。 たとえば[[合同類環]] {{math|'''Z'''/8'''Z'''}} を考えれば、この環において単位元 {{math|1}} は相異なる四つの平方根を持つ(具体的には {{math|±1, ±3}})。他方、元 {{math|2}} は平方根を持たない。詳細は[[平方剰余]]の項を参照されたい。 他の例として[[四元数]]体 {{math|'''H'''}} において、{{math|&minus;1}} は {{math|±''i'', ±''j'', ±''k''}} を含む無数の平方根を持つ。実は {{math|&minus;1}} の平方根の全体はちょうど集合 : <math>\{ai + bj + ck \mid a^2 + b^2 + c^2 = 1\}</math> であり、したがって各平方根は絶対値が等しく、この集合は三次元空間内の二次元[[単位球面]]を描く。[[四元数#−1 の平方根]]も参照。 零元 {{math|0}} の平方根は、定義により、{{math|0}} 自身または[[零因子]]である。四元数体のような[[可除環]]では零因子が存在しないから、一般に {{math|0}} の平方根は {{math|0}} のみである。しかし、零因子が存在しうる一般の環では必ずしもそうでないことは、反例として任意の自然数 {{mvar|n}} に対する[[合同類環|{{math|'''Z'''/''n''<sup>2</sup>'''Z'''}}]] を考えればよい(この場合、{{mvar|n}} は零因子であり、実際に {{math|1=''n''{{exp|2}} = 0}} を満たす)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}}{{Reflist}} == 参考文献 == *[[一松信]]『<math>\sqrt{2}</math>の数学―無理数を見直す』海鳴社 ISBN 4875250568 == 関連項目 == *[[2の平方根]] *[[3の平方根]] *[[5の平方根]] *[[6の平方根]] *[[7の平方根]] *[[平方数]] *[[素因数分解]] *[[冪根]] *[[立方根]] *[[多重根号]] *[[二次体]] *[[リーマン面]] *[[ド・モアブルの定理]] == 外部リンク == {{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}} {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}} *{{Wayback |url=http://members2.jcom.home.ne.jp/seroron/kazunoizumi/index.htm |title=数の泉 |date=20161019024845 }}(<math>\sqrt{2}</math>や<math>\sqrt{3}</math>などを小数点以下100万桁まで掲載しているサイト) *{{Wayback|url=http://www.geocities.jp/fukuharaorenji/shiryoko_square_root.html |title=資料庫(平方根) |date=20190330042543}}(<math>\sqrt{1}</math>から<math>\sqrt{100}</math>までを小数点以下30桁まで掲載している) *[http://webhome.idirect.com/~totton/soroban/katoSq/ Japanese soroban techniques] - 加藤福太郎教授が考案した計算法(英語) *[http://www.kk62526.server-shared.com/root2/ 2の平方根の求め方をまとめたサイト] * {{Kotobank}} {{DEFAULTSORT:へいほうこん}} [[Category:算術]] [[Category:初等数学]] [[Category:代数的数]] [[Category:数学に関する記事]]
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京成千葉線
千葉線(ちばせん)は、千葉県習志野市の京成津田沼駅と千葉市中央区の千葉中央駅を結ぶ、京成電鉄の鉄道路線。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。 京成津田沼駅で京成本線から分岐する路線で、同駅で本線・新京成電鉄新京成線、千葉中央駅で千原線と接続、直通運転を行っている。東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線と京葉線の中間地帯の総武本線寄りの場所を走り、京成津田沼 - 京成幕張間ではJR総武本線と、京成千葉駅 - 千葉中央駅間ではJR外房線と並走している。 各駅に停車する普通のみの運行で、日中は京成津田沼駅 - ちはら台駅間の千原線直通列車と、松戸駅 - 千葉中央駅間の新京成線直通列車がそれぞれ20分間隔で運行されている。この2つの系統が交互に運転されるため、京成千葉線内では10分間隔の運行である。また、京成津田沼駅 - 京成千葉駅間の途中駅はホーム長が6両編成分しかないため、すべての電車が4両または6両編成で運行されている。4両編成での運転は、2018年12月8日実施のダイヤ改正で消滅したが、2022年11月26日のダイヤ改正より千原線内で日中時間帯にワンマン運転を開始したことから、千葉線においても4両編成での運転が再び行われることとなった(千葉線内ではワンマン運転は行われず車掌が乗務する)。 朝夜の一部に本線直通の京成上野駅発着列車があるが、全区間が各駅停車の普通のみの設定である。朝は上り(京成津田沼方面)は日中と同じ10分間隔、下り(千葉中央方面)は6 - 10分間隔で設定されている。 新京成線との直通運転においては、「京成・新京成直通車両規格」に準拠している新京成電鉄の一部車両が乗り入れている。新京成線内では「普通」の表示を出さない新京成車両も千葉線では「普通」の表示および運行番号表示を出して運行している。表示の切り替えは京成津田沼駅で行われる。 千原線ちはら台行きの列車の方向幕・行き先表示は「(千葉)ちはら台」(ちはら台の前に改行)となっているが、LED表示車や新京成電鉄の車両は「ちはら台」と表記されている。 なお、運転実績はないが土曜・休日の夕方に1往復不定期特急の設定があり、試運転列車などでこのダイヤを使用していたこともあった。千葉線内の停車駅は京成稲毛駅と京成千葉駅のみである。このため千葉線内の速度標識には特急の速度表示も示してある。 また、これとは別に1968年(昭和43年)5月1日より同年6月14日までは線内に通過駅がある急行が、同年6月15日より1974年(昭和49年)12月15日までは同じく線内に通過駅がある快速が存在した。停車駅は、急行は稲毛のみ。快速は幕張・稲毛・黒砂(現・みどり台)・国鉄千葉駅前(現・京成千葉)。なお国鉄千葉駅前の停車は1968年(昭和43年)11月改正からである。 また過去には臨時特急や臨時急行、ごく短期間ながら上記の急行とは別に定期急行が1度設定されていた。臨時特急は千葉線内は京成津田沼と京成千葉(現・千葉中央)以外は無停車であった。 1921年(大正10年)に本線の船橋 - 津田沼間と同時に津田沼 - 千葉間が開業した。これは本線の津田沼 - 成田間よりも優先され早い開業となった(京成津田沼駅から京成本線が当線下をくぐり、大きく内陸方へカーブする形で分岐しているのはそのためである)。千葉線はこの年に市となった県都である千葉市への輸送、東京湾岸への観光客の輸送を目的として設置された。当時の千葉線はみどり台駅、西登戸駅のそれぞれ開業時の駅名「浜海岸駅」、「千葉海岸駅」が示すとおり現在よりも遥かに海に近く(おおよそ現在の国道14号線が昭和30年代ごろまでの海岸線であると考えて相違ない)、海水浴客や、潮干狩りを楽しむ行楽客でにぎわった。また住環境が良かったため、京成稲毛駅や西登戸駅周辺は別荘地としても賑わいを見せた。1935年(昭和10年)に省線(国鉄)の千葉駅までの電化が完成する前までは、千葉線の方が運転間隔や利用客数において圧倒的優位に立っていた。省線電化後は、両者の線路が並行する津田沼-幕張間において「国鉄の電車が走っていたら必ず追い抜け」との通達が出ていたとされるほどライバル意識があり、戦後GHQからこの区間での競走を禁止する通達が出された。 1970年代以降、旧国鉄の「通勤五方面作戦」の一環としての、1972年(昭和47年)の東京駅と津田沼駅を結ぶ総武快速線開通(中央・総武緩行線と合わせ、総武線が津田沼まで複々線化)や1981年(昭和56年)の複々線区間の千葉駅までの延長、さらに1990年には海側に建設された新規路線である京葉線が東京駅まで開通したことで、京成千葉線は東京駅と千葉市を結ぶJRの両路線に挟まれた形となり、千葉線は都心アクセスの上で不利な状況となり、本線直通列車の本数も大幅に削減された。 2006年(平成18年)からは松戸・鎌ケ谷方面へのアクセス強化を図るため、1955年(昭和30年)に約4か月ほど実施されただけであった新京成線との直通運転を再開する。新京成車両による片乗り入れで、千原線への直通運転は行わないものの、千葉への新たなアクセスルートが確立した。 ホーム有効長は京成津田沼駅、京成千葉駅、千葉中央駅が8両編成、その他の駅は6両編成対応である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "千葉線(ちばせん)は、千葉県習志野市の京成津田沼駅と千葉市中央区の千葉中央駅を結ぶ、京成電鉄の鉄道路線。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "京成津田沼駅で京成本線から分岐する路線で、同駅で本線・新京成電鉄新京成線、千葉中央駅で千原線と接続、直通運転を行っている。東日本旅客鉄道(JR東日本)総武本線と京葉線の中間地帯の総武本線寄りの場所を走り、京成津田沼 - 京成幕張間ではJR総武本線と、京成千葉駅 - 千葉中央駅間ではJR外房線と並走している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "各駅に停車する普通のみの運行で、日中は京成津田沼駅 - ちはら台駅間の千原線直通列車と、松戸駅 - 千葉中央駅間の新京成線直通列車がそれぞれ20分間隔で運行されている。この2つの系統が交互に運転されるため、京成千葉線内では10分間隔の運行である。また、京成津田沼駅 - 京成千葉駅間の途中駅はホーム長が6両編成分しかないため、すべての電車が4両または6両編成で運行されている。4両編成での運転は、2018年12月8日実施のダイヤ改正で消滅したが、2022年11月26日のダイヤ改正より千原線内で日中時間帯にワンマン運転を開始したことから、千葉線においても4両編成での運転が再び行われることとなった(千葉線内ではワンマン運転は行われず車掌が乗務する)。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "朝夜の一部に本線直通の京成上野駅発着列車があるが、全区間が各駅停車の普通のみの設定である。朝は上り(京成津田沼方面)は日中と同じ10分間隔、下り(千葉中央方面)は6 - 10分間隔で設定されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "新京成線との直通運転においては、「京成・新京成直通車両規格」に準拠している新京成電鉄の一部車両が乗り入れている。新京成線内では「普通」の表示を出さない新京成車両も千葉線では「普通」の表示および運行番号表示を出して運行している。表示の切り替えは京成津田沼駅で行われる。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "千原線ちはら台行きの列車の方向幕・行き先表示は「(千葉)ちはら台」(ちはら台の前に改行)となっているが、LED表示車や新京成電鉄の車両は「ちはら台」と表記されている。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、運転実績はないが土曜・休日の夕方に1往復不定期特急の設定があり、試運転列車などでこのダイヤを使用していたこともあった。千葉線内の停車駅は京成稲毛駅と京成千葉駅のみである。このため千葉線内の速度標識には特急の速度表示も示してある。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、これとは別に1968年(昭和43年)5月1日より同年6月14日までは線内に通過駅がある急行が、同年6月15日より1974年(昭和49年)12月15日までは同じく線内に通過駅がある快速が存在した。停車駅は、急行は稲毛のみ。快速は幕張・稲毛・黒砂(現・みどり台)・国鉄千葉駅前(現・京成千葉)。なお国鉄千葉駅前の停車は1968年(昭和43年)11月改正からである。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また過去には臨時特急や臨時急行、ごく短期間ながら上記の急行とは別に定期急行が1度設定されていた。臨時特急は千葉線内は京成津田沼と京成千葉(現・千葉中央)以外は無停車であった。", "title": "運行形態" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1921年(大正10年)に本線の船橋 - 津田沼間と同時に津田沼 - 千葉間が開業した。これは本線の津田沼 - 成田間よりも優先され早い開業となった(京成津田沼駅から京成本線が当線下をくぐり、大きく内陸方へカーブする形で分岐しているのはそのためである)。千葉線はこの年に市となった県都である千葉市への輸送、東京湾岸への観光客の輸送を目的として設置された。当時の千葉線はみどり台駅、西登戸駅のそれぞれ開業時の駅名「浜海岸駅」、「千葉海岸駅」が示すとおり現在よりも遥かに海に近く(おおよそ現在の国道14号線が昭和30年代ごろまでの海岸線であると考えて相違ない)、海水浴客や、潮干狩りを楽しむ行楽客でにぎわった。また住環境が良かったため、京成稲毛駅や西登戸駅周辺は別荘地としても賑わいを見せた。1935年(昭和10年)に省線(国鉄)の千葉駅までの電化が完成する前までは、千葉線の方が運転間隔や利用客数において圧倒的優位に立っていた。省線電化後は、両者の線路が並行する津田沼-幕張間において「国鉄の電車が走っていたら必ず追い抜け」との通達が出ていたとされるほどライバル意識があり、戦後GHQからこの区間での競走を禁止する通達が出された。 1970年代以降、旧国鉄の「通勤五方面作戦」の一環としての、1972年(昭和47年)の東京駅と津田沼駅を結ぶ総武快速線開通(中央・総武緩行線と合わせ、総武線が津田沼まで複々線化)や1981年(昭和56年)の複々線区間の千葉駅までの延長、さらに1990年には海側に建設された新規路線である京葉線が東京駅まで開通したことで、京成千葉線は東京駅と千葉市を結ぶJRの両路線に挟まれた形となり、千葉線は都心アクセスの上で不利な状況となり、本線直通列車の本数も大幅に削減された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2006年(平成18年)からは松戸・鎌ケ谷方面へのアクセス強化を図るため、1955年(昭和30年)に約4か月ほど実施されただけであった新京成線との直通運転を再開する。新京成車両による片乗り入れで、千原線への直通運転は行わないものの、千葉への新たなアクセスルートが確立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ホーム有効長は京成津田沼駅、京成千葉駅、千葉中央駅が8両編成、その他の駅は6両編成対応である。", "title": "駅一覧" } ]
千葉線(ちばせん)は、千葉県習志野市の京成津田沼駅と千葉市中央区の千葉中央駅を結ぶ、京成電鉄の鉄道路線。駅ナンバリングで使われる路線記号はKS。
{{Infobox 鉄道路線 |路線名=[[File:Keisei Logo.svg|45px|link=京成電鉄]] 千葉線 |路線色=#005aaa |ロゴ=File:Number prefix Keisei.svg |ロゴサイズ=40px |画像=Keisei Series N3000 EC 0002.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=千葉線を走行する3000形3025編成(2010年12月) |国={{JPN}} |所在地=[[千葉県]][[習志野市]]、[[千葉市]] |起点=[[京成津田沼駅]] |終点=[[千葉中央駅]] |駅数=10駅 |路線記号=KS |開業=[[1921年]][[7月17日]] |休止= |廃止= |所有者=[[京成電鉄]] |運営者=京成電鉄 |車両基地= |使用車両=[[京成電鉄#車両]]を参照 |路線距離=12.9 [[キロメートル|km]] |軌間=1,435 [[ミリメートル|mm]] |線路数=[[複線]] |電化方式=[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]<br>[[架空電車線方式]] |最大勾配= |最小曲線半径= |閉塞方式=自動閉塞式 |保安装置=[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]] |最高速度=95 [[キロメートル毎時|km/h]]<ref name="terada">寺田裕一『改訂新版 データブック日本の私鉄』 - ネコ・パブリッシング</ref> |路線図=File:Keisei Electric Railway Linemap.svg }} {| {{Railway line header}} {{UKrail-header2|停車場・施設・接続路線|#005aaa|#fff}} {{BS-table}} {{BS||||1: [[京成電鉄|京成]]:{{rint|tokyo|ks}} [[京成本線|本線]]|}} {{BS||||2: [[東日本旅客鉄道|JR東]]:[[中央・総武緩行線|総武線]]<!-- 他社線は簡略に -->|}} {{BS4text|1||2|3||3: [[新京成電鉄|新京成]]:{{rint|tokyo|sl}} [[新京成電鉄新京成線|新京成線]]|}} {{BS4|KHSTa||||||KS01 [[京成上野駅]]|}} {{BS4|LSTR|||KHSTa|||SL01 [[松戸駅]]|}} {{BS4|LSTR||HST|O3=HUBaq|LSTR|O4=HUBlg|||[[津田沼駅]]|}} {{BS4|ABZg+l|STR+r|STR|HST|O4=HUBe|||SL23 [[新津田沼駅]]|}} {{BS4|BHF|STRl|KRZu|STRr|0.0|KS26 [[京成津田沼駅]]||}} {{BS6|KDSTaq|ABZgr||STR||||[[京成電鉄の車両検修施設|津田沼車庫]]||}} {{BS6|STR+l|ABZgr||STR||||||}} {{BS6|STRl|KRZo|STRq|KRZo|||||京成:{{rint|tokyo|ks}} 本線|}} {{BS4|BHF|O1=HUBaq|HUBq|HST|O3=HUBeq||2.1|KS52 [[幕張本郷駅|京成幕張本郷駅]]|[[幕張本郷駅]]|}} {{BS4|BHF||STR||4.0|KS53 [[京成幕張駅]]||}} {{BS4|STR||HST||||[[幕張駅]]|}} {{BS4|hKRZWae||LSTR||||[[花見川]]|}} {{BS4|BHF||||5.3|KS54 [[検見川駅]]||}} {{BS4|BHF||||8.1|KS55 [[京成稲毛駅]]||}} {{BS4|BHF||LSTR||9.9|KS56 [[みどり台駅]]||}} {{BS4|BHF||STR2|STRc3|10.9|KS57 [[西登戸駅]]||}} {{BS6||BHF||STRc1|O4=HUBrg-L|STR+4|O5=HUB-Rq||O6=HUBlg-R|11.7|KS58 [[新千葉駅]]||}} {{BS6||STR|||O4=HUB-L|HST|O5=HUBa||O6=HUB-R|||[[千葉駅]]|}} {{BS6||eABZgl|exSTR+r|STR+l|O4=HUB-L|ABZlr|O5=HUB|eABZq+l|O6=HUB-R|||JR東:総武本線・[[成田線]]|}} {{BS6||O1=HUBrg-L|KRZu|O2=HUB-Rq|xKRZ|O3=HUB-Rq|KRZu|O4=HUBrf-L|HSTq|O5=HUBe|xKRZ|O6=HUB-R|||[[千葉都市モノレール]]:[[千葉都市モノレール1号線|1号]]・[[千葉都市モノレール2号線|2号]]線<!-- 旧線とモノレールは同時に存在したことがないので立体交差ではなく単なる交差で表現 -->|}} {{BS6||O1=HUB-L|BHF|exSTRl|eKRZ|exSTR+r|exSTR|O6=HUB-R|12.3|KS59 [[京成千葉駅]]|(II) 1958-|}} {{BS6||O1=HUBlf-L|STR|O2=HUB-Lq|STR+l|O3=HUB-Lq|xABZqr|O4=HUB-Lq|exKRZo|O5=HUB-Lq|exSTRr|O6=HUBrf-R||||}} {{BS4|STR|STR||exKBHFe||''京成千葉駅''|(I) -[[1958年|1958]]|}} {{BS4|BHF|eHST|||12.9|KS60 [[千葉中央駅]]||}} {{BS4|STR|STR|||||''[[本千葉駅]]'' (I)|}} {{BS4|STR|HST|||||[[本千葉駅]] (II)|}} {{BS6|STRq|KRZo|STRr||||||JR東:[[内房線]]・[[外房線]]|}} {{BS4|LSTR||||||{{rint|tokyo|ks}} [[京成千原線|千原線]]|}} {{BS4|KHSTe||||||KS65 [[ちはら台駅]]|}} |} |} '''千葉線'''(ちばせん)は、[[千葉県]][[習志野市]]の[[京成津田沼駅]]と[[千葉市]][[中央区 (千葉市)|中央区]]の[[千葉中央駅]]を結ぶ、[[京成電鉄]]の[[鉄道路線]]。[[駅ナンバリング]]で使われる路線記号は'''KS'''。 == 概要 == 京成津田沼駅で[[京成本線]]から分岐する路線で、同駅で本線・[[新京成電鉄]][[新京成電鉄新京成線|新京成線]]、千葉中央駅で[[京成千原線|千原線]]と接続、[[直通運転]]を行っている。[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[総武本線]]と[[京葉線]]の中間地帯の総武本線寄りの場所を走り、京成津田沼 - 京成幕張間ではJR[[総武本線]]と、京成千葉駅 - 千葉中央駅間ではJR[[外房線]]と並走している<ref>川島令三 『全国鉄道事情大研究-東京東部・千葉編2』 草思社、2003年2月25日、166-168頁。</ref>。 === 路線データ === * 路線距離:12.9km * [[軌間]]:1435mm * 駅数:10駅(起終点駅含む) * 複線区間:全線 * 電化区間:全線(直流1500V) * [[閉塞 (鉄道)|閉塞方式]]:自動閉塞式 * 保安装置:[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]] * 最高速度:95km/h<ref name="terada" /> == 運行形態 == 各駅に停車する普通のみの運行で、日中は京成津田沼駅 - ちはら台駅間の千原線直通列車と、松戸駅 - 千葉中央駅間の新京成線直通列車がそれぞれ20分間隔で運行されている。この2つの系統が交互に運転されるため、京成千葉線内では10分間隔の運行である。また、京成津田沼駅 - 京成千葉駅間の途中駅はホーム長が6両編成分しかないため、すべての電車が4両または6両編成で運行されている。4両編成での運転は、[[2018年]][[12月8日]]実施のダイヤ改正で消滅した<ref>{{PDFlink|[http://www.keisei.co.jp/information/files/info/20181101_180649947093.pdf 2018年12月8日(土) 京成線ダイヤ改正を実施します]}} - 京成電鉄、2018年11月1日</ref>が、[[2022年]][[11月26日]]のダイヤ改正より千原線内で日中時間帯に[[ワンマン運転]]を開始したことから<ref>{{PDFlink|[https://www.keisei.co.jp/cms/files/keisei/MASTER/0110/Aq5eJLly.pdf 2022年11月26日(土) 京成線ダイヤ改正を実施します]}} - 京成電鉄、2022年10月24日</ref>、千葉線においても4両編成での運転が再び行われることとなった(千葉線内ではワンマン運転は行われず[[車掌]]が乗務する)。 朝夜の一部に本線直通の京成上野駅発着列車があるが、全区間が各駅停車の普通のみの設定である。朝は上り(京成津田沼方面)は日中と同じ10分間隔、下り(千葉中央方面)は6 - 10分間隔で設定されている。 新京成線との直通運転においては、「京成・新京成直通車両規格」に準拠している[[新京成電鉄]]の一部車両が乗り入れている。新京成線内では「普通」の表示を出さない新京成車両も千葉線では「普通」の表示および運行番号表示を出して運行している。表示の切り替えは京成津田沼駅で行われる。 千原線ちはら台行きの列車の[[方向幕]]・行き先表示は「(千葉)ちはら台」(ちはら台の前に改行)となっているが、LED表示車や新京成電鉄の車両は「ちはら台」と表記されている。 [[ファイル:Keisei chiba line 3300.jpg|thumb|none|240px|「(千葉)ちはら台」行き方向幕を掲出して走行する[[京成3300形電車|3300形電車]]]] === かつて運行された列車種別 === なお、運転実績はないが土曜・休日の夕方に1往復不定期特急の設定があり、試運転列車などでこのダイヤを使用していたこともあった。千葉線内の停車駅は[[京成稲毛駅]]と[[京成千葉駅]]のみである。このため千葉線内の速度標識には特急の速度表示も示してある。 また、これとは別に1968年(昭和43年)5月1日より同年6月14日までは線内に通過駅がある急行が、同年6月15日より[[1974年]](昭和49年)12月15日までは同じく線内に通過駅がある快速が存在した。停車駅は、急行は稲毛のみ。快速は幕張・稲毛・黒砂(現・みどり台)・国鉄千葉駅前(現・京成千葉)。なお国鉄千葉駅前の停車は1968年(昭和43年)11月改正からである。 また過去には臨時特急や臨時急行、ごく短期間ながら上記の急行とは別に定期急行が1度設定されていた。臨時特急は千葉線内は京成津田沼と京成千葉(現・千葉中央)以外は無停車であった。 == 歴史 == [[ファイル:Chiba map circa 1930.PNG|thumb|right|240px|1930年頃([[昭和]]初頭)の千葉市周辺の地図。千葉線は東京湾の砂浜海岸沿いの諸集落の背後を通っていた。京成と国鉄の千葉駅は各々現在と異なる位置にあり、西院内通町(現・栄町通り「ハミングロードパルサ」)で繋がっていた。]] [[1921年]]([[大正]]10年)に本線の[[京成船橋駅|船橋]] - 津田沼間と同時に津田沼 - 千葉間が開業した。これは本線の津田沼 - 成田間よりも優先され早い開業となった(京成津田沼駅から京成本線が当線下をくぐり、大きく内陸方へカーブする形で分岐しているのはそのためである)。千葉線はこの年に市となった県都である千葉市への輸送、[[東京湾]]岸への観光客の輸送を目的として設置された。当時の千葉線はみどり台駅、西登戸駅のそれぞれ開業時の駅名「浜海岸駅」、「千葉海岸駅」が示すとおり現在よりも遥かに海に近く(おおよそ現在の[[国道14号]]線が昭和30年代ごろまでの海岸線であると考えて相違ない)、[[海水浴]]客や、[[潮干狩り]]を楽しむ行楽客でにぎわった。また住環境が良かったため、京成稲毛駅や西登戸駅周辺は[[別荘]]地としても賑わいを見せた。[[1935年]]([[昭和]]10年)に省線([[日本国有鉄道|国鉄]])の[[千葉駅]]までの[[鉄道の電化|電化]]が完成する前までは、千葉線の方が運転間隔や利用客数において圧倒的優位に立っていた<ref>[[早尾興]]・[[諸河久]]共著 『日本の私鉄-15 京成』 [[保育社]]<[[カラーブックス]]>、1982年5月5日、99頁。</ref>。省線電化後は、両者の線路が並行する津田沼-幕張間において「国鉄の電車が走っていたら必ず追い抜け」との通達が出ていたとされる<ref name="canbooks">[[石本祐吉]] 『京成の駅 今昔・昭和の面影』 [[JTBパブリッシング]]<[[JTBキャンブックス]]>、2014年2月1日、157頁。</ref>ほどライバル意識があり、戦後[[GHQ]]からこの区間での競走を禁止する通達が出された<ref name="canbooks" />。 [[1970年代]]以降、旧国鉄の「[[通勤五方面作戦]]」の一環としての、[[1972年]](昭和47年)の[[東京駅]]と[[津田沼駅]]を結ぶ[[総武快速線]]開通([[中央・総武緩行線]]と合わせ、総武線が津田沼まで[[複々線]]化)や[[1981年]](昭和56年)の複々線区間の千葉駅までの延長、さらに[[1990年]]には海側に建設された新規路線である[[京葉線]]が東京駅まで開通したことで、京成千葉線は東京駅と千葉市を結ぶJRの両路線に挟まれた形となり、千葉線は都心アクセスの上で不利な状況となり、本線直通列車の本数も大幅に削減された。 2006年(平成18年)からは松戸・鎌ケ谷方面へのアクセス強化を図るため、1955年(昭和30年)に約4か月ほど実施されただけであった新京成線との直通運転を再開する。新京成車両による片乗り入れで、千原線への直通運転は行わないものの、千葉への新たなアクセスルートが確立した。 === 年表 === * [[1921年]]([[大正]]10年)[[7月17日]] - 津田沼(現在の京成津田沼) - 千葉(現在の千葉市中央区・中央公園付近)間開業。 * [[1922年]](大正11年)[[3月8日]] - 千葉海岸駅(現在の西登戸駅)開業。 * [[1923年]](大正12年) ** [[2月22日]] - 浜海岸駅(現在のみどり台駅)開業。 ** [[7月24日]] - 新千葉駅開業。 * [[1931年]]([[昭和]]6年)[[11月18日]] - 幕張駅を京成幕張駅、稲毛駅を京成稲毛駅、千葉駅を京成千葉駅に改称。 * [[1942年]](昭和17年)[[4月1日]] - 浜海岸駅を帝大工学部前駅に改称。 * [[1945年]](昭和20年)[[2月20日]] - 全線を[[軌道法]]による軌道から[[地方鉄道法]]による鉄道に変更。 **[[7月7日]] - [[千葉空襲]]により京成千葉駅の駅舎が焼失する<ref>白土貞夫 「総武緩行線 歴史拾遺」『鉄道ピクトリアル』977号、電気車研究会、2020年、11頁。</ref>。 * [[1948年]](昭和23年)4月1日 - 帝大工学部前駅を工学部前駅に改称。 * [[1951年]](昭和26年)[[7月1日]] - 工学部前駅を黒砂駅に改称。 * [[1955年]](昭和30年) ** [[4月21日]] - [[新京成電鉄]][[新京成電鉄新京成線|新京成線]]と直通運転開始。 ** [[9月1日]] - 新京成電鉄新京成線との直通運転を廃止する。 * [[1958年]](昭和33年) ** [[2月10日]] - [[戦災復興都市計画]]に伴う[[土地区画整理事業|区画整理事業]]に伴い、新千葉 - 京成千葉間の線路を現在地に移設。[[日本国有鉄道|国鉄]][[本千葉駅]]を南に約400m移転させ、京成千葉駅をその跡である現在の千葉中央駅の場所に移転。駅舎などが未完成のため、仮開業だった<ref>[[実業之日本社]]発行・千葉「地理・地名・地図」の謎 意外と知らない千葉県の歴史を読み解く! じっぴコンパクト新書p168-171</ref>。 ** 6月14日 - 地上4階、地下1階からなる京成千葉駅ビルが竣工。当時県内唯一だったエスカレーターが設置された<ref name="keisei85">京成電鉄総務部編『京成電鉄85年の歩み』 京成電鉄、1996年6月11日、109、131、147頁。</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)[[10月10日]] - 軌間を1372mmから1435mmに改軌。 * [[1966年]](昭和41年)[[12月17日]] - 新千葉 - 京成千葉間高架線完成。暫定的に単線運転での運行。 * [[1967年]](昭和42年) ** 4月1日 - 千葉海岸駅を西登戸駅に改称。 ** [[6月24日]] - 新千葉 - 京成千葉間複線化<ref>{{Cite news |和書|title=新千葉-京成千葉 高架複線が開業 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1967-06-24 |page=1 }}</ref>。 ** [[12月1日]] - 国鉄千葉駅前駅(現在の京成千葉駅)開業。 * [[1971年]](昭和46年)[[10月1日]] - 黒砂駅をみどり台駅に改称。 * [[1987年]](昭和62年)4月1日 - 京成千葉駅を千葉中央駅に、国鉄千葉駅前駅を京成千葉駅に改称。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[8月7日]] - 京成幕張本郷駅開業。 * [[1992年]](平成4年)4月1日 - [[千葉急行電鉄]]([[1998年]](平成10年)10月1日京成電鉄に路線を譲渡し[[京成千原線|千原線]]となる)と相互直通運転開始。 * [[2006年]](平成18年)[[12月10日]] - 新京成電鉄車両による片乗り入れにより、新京成線松戸から千葉中央までの直通運転が再開される。 * [[2010年]](平成22年)[[9月8日]] - [[平成22年台風第9号|台風9号]]から変化した熱帯低気圧がもたらした集中豪雨によって検見川 - 京成稲毛間で土砂崩れが発生し、千葉線・千原線が終日運休となる。[[ファイル:Keisei20100908rain.jpg|thumb|none|平成22年集中豪雨復旧時の作業]] * [[2011年]](平成23年) ** [[3月11日]] - [[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])が発生した影響で、千葉線・千原線が運休となる。 ** [[3月14日]] - [[東日本大震災による電力危機|東日本大震災による電力供給逼迫]]を理由として[[東京電力]]が[[輪番停電|輪番停電(計画停電)]]を実施。これに伴い、この日から新京成線との直通運転が休止される。 ** [[4月11日]]-12日 - 東北地方太平洋沖地震の余震とみられる巨大地震が発生したため、千葉線・千原線が一時運休となる。 ** [[6月27日]] - 新京成線との直通運転が一部再開される。9月10日に全面再開。 * [[2019年]]([[令和]]元年)[[10月20日]] - 京成トラベルサービスが企画した「スカイライナーミステリーツアー」で、京成上野→高砂車両基地→八広→千葉中央→京成上野という経路でスカイライナー[[京成AE形電車 (2代)|AE形]]を運転し、AE形が千葉線に初入線<ref>[https://railf.jp/news/2019/10/21/200000.html 京成AE形が押上線・千葉線に入線] - 鉄道ファン・railf.jp 鉄道ニュース、2019年10月21日</ref>。 == 駅一覧 == * 全線[[千葉県]]内に所在。 * 全列車全駅に停車する。 {| class="wikitable" rules="all" |- !style="width:4em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅番号 !style="width:8em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅名 !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|駅間キロ !style="width:2.5em; border-bottom:solid 3px #005aaa;"|累計キロ !style="border-bottom:solid 3px #005aaa;"|接続路線 !colspan="2" style="border-bottom:solid 3px #005aaa;"|所在地 |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="4"|[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|18px|SL]] [[新京成電鉄]][[新京成電鉄新京成線|新京成線]][[松戸駅]]まで(新京成車のみ、日中)<br />[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成本線]][[京成上野駅]]まで(京成車のみ、日中以外) |- !style="width:2.5em;"|KS26 |[[京成津田沼駅]] |style="text-align:center;"|- |style="text-align:right;"|0.0 |[[京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] '''[[京成本線|本線]](直通運転:上記参照)'''<br />[[新京成電鉄]]:[[ファイル:Number prefix Shin-Keisei.svg|18px|SL]] '''[[新京成電鉄新京成線|新京成線]](SL24、直通運転:上記参照)''' |colspan="2"|[[習志野市]] |- !style="width:2.5em;"|KS52 |[[幕張本郷駅|京成幕張本郷駅]] |style="text-align:right;"|2.1 |style="text-align:right;"|2.1 |[[東日本旅客鉄道]]:[[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|18px|JB]] [[中央・総武緩行線|総武線(各駅停車)]]([[幕張本郷駅]]:JB 34) |rowspan="9" style="width:1em; style="text-align:center;"|{{縦書き|[[千葉市]]|height=4em}} |rowspan="3" style="white-space:nowrap;"|[[花見川区]] |- !style="width:2.5em;"|KS53 |[[京成幕張駅]] |style="text-align:right;"|1.9 |style="text-align:right;"|4.0 |&nbsp; |- !style="width:2.5em;"|KS54 |[[検見川駅]] |style="text-align:right;"|1.3 |style="text-align:right;"|5.3 |&nbsp; |- !style="width:2.5em;"|KS55 |[[京成稲毛駅]] |style="text-align:right;"|2.8 |style="text-align:right;"|8.1 |&nbsp; |rowspan="2"|[[稲毛区]] |- !style="width:2.5em;"|KS56 |[[みどり台駅]] |style="text-align:right;"|1.8 |style="text-align:right;"|9.9 |&nbsp; |- !style="width:2.5em;"|KS57 |[[西登戸駅]] |style="text-align:right;"|1.0 |style="text-align:right;"|10.9 |&nbsp; |rowspan="4"|[[中央区 (千葉市)|中央区]] |- !style="width:2.5em;"|KS58 |[[新千葉駅]] |style="text-align:right;"|0.8 |style="text-align:right;"|11.7 |&nbsp; |- !style="width:2.5em;"|KS59 |[[京成千葉駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|12.3 |東日本旅客鉄道:[[ファイル:JR_JB_line_symbol.svg|18px|JB]] 総武線(各駅停車)・[[ファイル:JR_JO_line_symbol.svg|18px|JO]] [[総武快速線|総武線(快速)]]・{{Color|#ffc20d|■}} [[総武本線]]({{Color|#00b261|■}} [[ファイル:JR JO line symbol.svg|18px|JO]] [[成田線]]直通含む)・{{Color|#db4028|■}}[[外房線]]({{Color|#00B2E5|■}} [[内房線]]直通含む)([[千葉駅]]:JB 39・JO 28)<br />[[千葉都市モノレール]]:[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール1号線|1号線]]・[[File:Number prefix Chiba monorail.svg|18px|CM]] [[千葉都市モノレール2号線|2号線]](千葉駅:CM03) |- !style="width:2.5em;"|KS60 |[[千葉中央駅]] |style="text-align:right;"|0.6 |style="text-align:right;"|12.9 |京成電鉄:[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] '''[[京成千原線|千原線]](直通運転:下記参照)''' |- !colspan="4"|直通運転区間 |colspan="4"|[[ファイル:Number prefix Keisei.svg|18px|KS]] [[京成千原線]][[ちはら台駅]]まで(平常時は京成車のみ) |} ホーム[[有効長]]は京成津田沼駅、京成千葉駅、千葉中央駅が8両編成、その他の駅は6両編成対応である。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|Keisei Chiba Line}} * [[日本の鉄道路線一覧]] * [[BVE Trainsim]] - バージョン5の基本路線としてみどり台〜京成千葉間を運転できる。 {{京成電鉄の路線}} {{デフォルトソート:けいせいちはせん}} [[Category:関東地方の鉄道路線|ちはせん]] [[Category:京成電鉄の鉄道路線|ちは]] [[Category:千葉県の交通|けいせいちはせん]]
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4,401
1809年
1809年(1809 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
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1809年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1809}} {{year-definition|1809}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[己巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文化 (元号)|文化]]6年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2469年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]]:[[嘉慶 (清)|嘉慶]]14年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]:[[純祖]]9年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4142年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]]:[[嘉隆]]8年  * [[仏滅紀元]]:2351年 - 2352年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1223年11月14日 - 1224年11月24日 * [[ユダヤ暦]]:5569年4月13日 - 5570年4月24日 * [[ユリウス暦]]:1808年12月20日 - 1809年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD):-18217 - -17853 * [[リリウス日]](LD):82624 - 82988 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1809}} == できごと == * [[3月4日]] - [[ジェームズ・マディソン|マディソン]]が第4代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任 * [[7月5日]]-[[7月6日]] - [[ヴァグラムの戦い]] * [[8月10日]] - [[エクアドル]]が[[スペイン]]からの独立を宣言 * [[9月17日]] - [[ロシア帝国]]と[[スウェーデン]]との間で[[フレデリクスハムンの和約]]締結 * [[10月4日]] - イギリスで[[スペンサー・パーシヴァル]]内閣が成立(-[[1812年]]) * [[10月8日]] - [[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]が[[オーストリア帝国]]の外相に就任 * [[10月14日]] - フランスとオーストリア帝国の間で[[シェーンブルンの和約]]締結 === 日付不詳 === * [[ナポレオン・ボナパルト]]、[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ]]と離婚し、[[ハプスブルク家|ハプスブルク]]皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]]と結婚。 == 誕生 == {{see also|Category:1809年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月4日]] - [[ルイ・ブライユ]]、[[点字]]の開発者(+ [[1852年]]) * [[1月15日]] - [[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]、フランスの[[社会主義]]者・[[無政府主義者]](+ [[1865年]]) * [[1月19日]] - [[エドガー・アラン・ポー]]、[[小説家]](+ [[1849年]]) * [[2月3日]] - [[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、ドイツの[[音楽家]](+ [[1847年]]) * [[2月12日]] - [[エイブラハム・リンカーン]]、第16代[[アメリカ合衆国大統領]](+ [[1865年]]) * 2月12日 - [[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]、イギリスの[[科学者]]、[[生物学者]](+ [[1882年]]) *[[2月24日]] - [[エドヴィン・フォン・マントイフェル]]、プロイセン陸軍(+ [[1885年]]) * [[3月27日]] - [[ジョルジュ・オスマン|オスマン]]、[[パリ改造]]計画を指揮した[[政治家]](+ [[1891年]]) * [[3月31日]] - [[ニコライ・ゴーゴリ|ゴーゴリ]]、ロシアの[[小説家]](+ [[1852年]]) * [[4月7日]] - [[ジェームズ・グレーシャー]]、[[気象学者]](+ [[1903年]]) * [[4月21日]] - [[ロバート・マーサー・タリアフェロー・ハンター]] - 第2代[[アメリカ連合国国務長官]]、第18代[[アメリカ合衆国下院議長]](+ [[1887年]]) * [[4月27日]]([[文化 (元号)|文化]]6年[[3月13日 (旧暦)|3月13日]]) - [[岡部長寛]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第12代藩主(+[[1887年]]) * [[4月28日]](文化6年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[島津斉彬]]、[[薩摩藩]]第11代藩主(+ [[1858年]]) * [[6月4日]] - [[ベンジャミン・スタントン]]、第6代[[オハイオ州副知事]](+ [[1872年]]) * 6月4日 - [[コロンバス・デラノ]]、第11代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1896年]]) * [[6月8日]] - [[リチャード・トンプソン (海軍長官)|リチャード・トンプソン]]、第27代[[アメリカ合衆国海軍長官]](+ [[1900年]]) * [[7月10日]] - [[フリードリッヒ・アウグスト・クヴェンシュテット]]、[[地質学者]]・[[古生物学者]](+ [[1889年]]) * [[8月23日]] - [[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー|ムラヴィヨフ=アムールスキー]]、ロシアの[[政治家]](+ [[1881年]]) * [[9月22日]](文化6年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]) - [[横井小楠]]、[[熊本藩]]士・[[儒学者]](+ [[1869年]]) * [[9月27日]] - [[レオン・ロッシュ|ロッシュ]]、フランスの[[外交官]]・幕末の駐日[[公使]](+ [[1901年]]) * [[12月17日]](文化6年[[11月11日 (旧暦)|11月11日]]) - [[中山忠能]]、[[公家]]・[[明治天皇]]の[[外祖父]](+ [[1888年]]) * [[12月29日]] - [[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]、イギリスの[[政治家]]、首相(+ [[1898年]]) * 誕生日不明 - [[ラザフォード・オールコック|オールコック]]、イギリスの[[外交官]](+ [[1897年]]) * 誕生日不明 - [[馮桂芬]]、中国、[[清]]末の[[政治家]]・[[学者]](+ [[1874年]]) * 誕生日不明 - [[井上清直]]、[[幕臣]]・[[外国奉行]](+ [[1867年]]) == 死去 == {{see also|Category:1809年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[5月31日]] - [[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]、[[作曲家]](* [[1732年]]) * [[8月2日]](文化6年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - [[桂川甫周]]、[[医師]]・[[蘭学者]](* [[1751年]]) * [[8月8日]](文化6年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[上田秋成]]、[[読本]]作家(* [[1734年]]) * [[9月7日]] - [[ラーマ1世]]、[[タイ王国|タイ]]国王(* [[1737年]]) * [[9月17日]](文化6年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - [[岡部長住]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第6代藩主(* [[1740年]]) * [[10月11日]] - [[メリウェザー・ルイス]]、[[探検家]](* [[1774年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1809}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:1809ねん}} [[Category:1809年|*]]
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4,402
1800年代
1800年代(せんはっぴゃくねんだい)は、 19世紀の開始年
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1800年代(せんはっぴゃくねんだい)は、 西暦(グレゴリオ暦)1800年から1809年までの10年間を指す十年紀。本項で詳述する。 西暦1800年から1899年までの100年間を指す。19世紀とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。
{{Decadebox| 千年紀 = 2 | 世紀 = 19 | 年代 = 1800 | 年 = 1800 }} '''1800年代'''(せんはっぴゃくねんだい)は、 # [[西暦]]([[グレゴリオ暦]])1800年から1809年までの10年間を指す[[十年紀]]。'''本項で詳述する'''。 # 西暦1800年から1899年までの100年間を指す。[[19世紀]]とほぼ同じ意味であるが、開始と終了の年が1年ずれている。 == できごと == === 1800年 === {{main|1800年}} * 1799年か1800年に最後の[[ブルーバック亜科|ブルーバック]]が絶滅した。 * [[ギリシャ人]]国家[[イオニア七島連邦国]]が成立。 * [[伊能忠敬]]、[[蝦夷地]]を測量。 * [[アレッサンドロ・ボルタ]]が[[ボルタ電池]]を開発。 * 3月14日 - [[ピウス7世 (ローマ教皇)|ピウス7世]]、[[ローマ教皇]]に選出される。 * [[武装中立同盟]](-[[1801年]])。 === 1801年 === ''19世紀の開始年'' {{main|1801年}} * 1月1日 - [[小惑星]][[ケレス (準惑星)|ケレス]]が発見される。 * 2月9日 - [[リュネヴィルの和約]]。 * 3月4日 - [[トーマス・ジェファーソン]]、[[アメリカ合衆国]]第3代[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に就任。 * 3月21日 - フランス、旧[[トスカーナ大公国]]の継承国として[[エトルリア王国]]創設。 * 4月2日 - [[コペンハーゲンの海戦]]。 * [[カール・フリードリヒ・ガウス]]、『整数論の研究』出版。[[複素数]]表記の導入。 === 1802年 === {{main|1802年}} * [[徳川幕府]]、蝦夷奉行を置く(後に箱館奉行となる)。 * [[2月5日 (旧暦)|2月5日]] - 日本、改元して[[享和]]元年。 * [[3月25日]] - [[アミアンの和約]]、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]と[[フランス第一共和政|フランス]]の休戦。 === 1803年 === {{main|1803年}} * [[2月25日]] - [[帝国代表者会議主要決議]]。 * アメリカ合衆国、フランスから1500万ドルで[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]を購入。 === 1804年 === {{main|1804年}} * [[2月11日 (旧暦)|2月11日]] - 日本、改元して[[文化 (元号)|文化]]元年。 * [[12月2日]] - [[ナポレオン・ボナパルト]]、[[フランス第一帝政|フランス皇帝]]となる。 === 1805年 === {{main|1805年}} * [[5月17日]] - [[ムハンマド・アリー]]がエジプト総督に就任。 * [[10月21日]]、[[トラファルガーの海戦]]。 === 1806年 === {{main|1806年}} * フランス、[[大陸封鎖令]]を発布。 * [[神聖ローマ帝国]]の終焉。 === 1807年 === {{main|1807年}} * [[イェーナの戦い]]。 * [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ゲオルク・ヘーゲル]]、『精神現象学』出版。 * [[ティルジット条約]]。 * [[ワルシャワ公国]]の設置(- [[1815年]])。 * 8月17日 - [[ロバート・フルトン]]が、[[蒸気船|外輪式蒸気船]]「クラーモント号」の試運転に成功。 * 9月 - [[コペンハーゲンの海戦 (1807年)|コペンハーゲンの海戦]]。 * [[英露戦争]](-[[1812年]])。 * 11月 - [[ポルトガル王国|ポルトガル]]の[[ブラガンサ王朝]]、[[ブラジル]]へと逃亡。 * 12月、[[エトルリア王国]]廃止、フランス帝国に併合される。 * 西蝦夷地を幕府直轄化、全蝦夷地が直轄化される。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く。 === 1808年 === {{main|1808年}} * 1月 - ブラガンサ王朝、ブラジルに到着。 * 3月 - ブラガンサ王朝、[[リオデジャネイロ]]を首都と定める。 * 10月 - [[フェートン号事件]]。 * 12月22日 - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|交響曲第5番]](運命交響曲)初演。 * [[ジョゼフ・ボナパルト]]、[[スペイン]]王となる。 * [[第二次ロシア・スウェーデン戦争|ロシア・スウェーデン戦争]](-1809年)。 * [[イベリア半島戦争]](-[[1813年]])。 * [[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』第1部出版。 * [[アメリカ合衆国|アメリカ]]、[[奴隷]]貿易を禁止。 * [[間宮林蔵]]、[[樺太]]を探検。 === 1809年 === {{main|1809年}} * [[ヴァグラムの戦い]]。 * ナポレオン・ボナパルト、[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]と離婚し、[[ハプスブルク家|ハプスブルク]]皇女[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー・ルイーズ]]と結婚。 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[十年紀の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀と十年紀|千年紀=2|世紀=11|年代=1000}} {{History-stub}} {{デフォルトソート:1800ねんたい}} [[Category:1800年代|*]]
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4,403
7月18日
7月18日(しちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から199日目(閏年では200日目)にあたり、年末まであと166日ある。
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7月18日(しちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から199日目(閏年では200日目)にあたり、年末まであと166日ある。
{{カレンダー 7月}} '''7月18日'''(しちがつじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から199日目([[閏年]]では200日目)にあたり、年末まであと166日ある。 == できごと == [[Image:Siemiradski Fackeln.jpg|thumb|240px|[[ローマ大火]](AD64)。画像は{{仮リンク|ヘンリク・シェミラツキ|en|Henryk Siemiradzki}}画『ネロの松明』(1876)。[[ネロ]]は火災の原因を[[キリスト教]]徒に帰し弾圧したとされる]] [[Image:Cowdray_engraving-full-lowres.jpg|thumb|300px|[[イタリア戦争|第4次イタリア戦争]]、{{仮リンク|ソレントの戦い|it|Battaglia del Solent}}(1545)]] [[Image:Samurai_troops_in_the_Second_Choshu_expedition.jpg|thumb|300px|[[長州征討|第二次長州征討]]はじまる(1863)]] {{multiple image | footer = [[アドルフ・ヒトラー]]『[[我が闘争]]』上巻が刊行(1925)。{{Squote|周囲の[[政治]]世界を全く理解していない者には、批判や不平を言う権利はない。}}{{Squote|かくて、我が行いが全能の創造主の意志に合致したものと信じる。[[ユダヤ人]]を撃退することで、私は主の創造物を護っているのである。}} | image1 = Erstausgabe von Mein Kampf.jpg | width1 = 140 | alt1 = 『我が闘争』初版(1925) | image2 = FrMeinKampf20050214.jpg | width2 = 100 | alt2 = フランス語版(1934) }} [[Image:Japanese_General_election%2C_1993_ja.svg|thumb|160px|[[第40回衆議院議員総選挙]](1993)。[[日本社会党]]の惨敗と[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の野党転落により[[55年体制]]が崩壊]] [[Image:Bush_%26_Singh_in_New_Delhi.jpg|thumb|160px|[[米印原子力協力]]合意(2005)。画像は翌2006年の[[マンモーハン・シン]]インド首相と[[ジョージ・W・ブッシュ]]米大統領]] [[Image:Kyoto animation arson attack 1 20190721.jpg|thumb|160px|[[京都アニメーション放火殺人事件]](2019)]] * [[紀元前390年]] - ローマ・ガリア戦争: [[アッリアの戦い]](伝承による日付) * [[64年]] - [[ローマ大火]]起こる<ref>{{Cite web|url=https://www.historyandheadlines.com/july-18-64-ad-great-fire-rome-nero-blames-christians/|title=July 18, 64 AD: The Great Fire of Rome, Nero Blames Christians! |work=HISTORY & HEADLINES|accessdate=2020-07-18}}</ref>。 * [[660年]]([[顕慶]]5年[[6月6日 (旧暦)|6月6日]]) - [[百済]]が[[唐]]・[[新羅]]連合軍([[唐・新羅の同盟]])により滅ぼされる。 * [[993年]]([[正暦]]4年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - 903年に歿した[[菅原道真]]に[[左大臣]]と[[正一位]]を追贈。 * [[1419年]]([[応永]]26年/[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]元年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[応永の外寇]]。朝鮮が、[[対馬]]に来襲。 * [[1545年]] - [[イタリア戦争|第4次イタリア戦争]]: {{仮リンク|ソレントの海戦|en|Battle of the Solent}}。 * [[1862年]] - [[アルプス山脈]]の[[ダン・ブランシュ]]に初登頂。 * [[1864年]]([[元治]]元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - 工事中の[[五稜郭]]で江戸幕府の[[遠国奉行#箱館奉行・松前奉行・蝦夷奉行|箱館奉行所]]としての業務を開始。 * [[1866年]]([[慶応]]2年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]])- [[江戸幕府|幕府]]艦隊が[[屋代島]](周防大島)を砲撃、第二次[[長州征討|長州征伐]]が始まる。 * [[1870年]] - [[第1バチカン公会議]]で[[ローマ教皇]]首位説・[[教皇不可謬説]]に関する教義憲章『{{仮リンク|パストル・エテルヌス|en|Pastor aeternus}}』が採択。 * [[1871年]] - [[文部省]]創設。 * [[1872年]] - [[イギリス]]で[[秘密投票]]法が制定<ref>{{Cite web|url=https://www.squaducation.com/blog/ballot-act|title=The Ballot Act|work=60second histories|accessdate=2020-07-18}}</ref>。 * [[1911年]] - [[第二次モロッコ事件]]: 英仏が軍事協定締結。 * [[1915年]] - [[第一次世界大戦]]: [[第二次イゾンツォの戦い]]が始まる。 * [[1925年]] - [[アドルフ・ヒトラー]]の『[[我が闘争]]』上巻が刊行。 * [[1929年]] - [[阪和電気鉄道|阪和電鉄]](現在の[[阪和線]])が天王寺-和泉府中間で開業。 * [[1936年]] - [[二・二六事件]]により[[2月27日]]に出された[[東京市]]の[[戒厳令]]を解除。 * [[1941年]] - [[松岡洋右]]外相を更迭し、[[第3次近衛内閣|第3次近衛文麿内閣]]が成立。 * [[1944年]] - [[サイパンの戦い|サイパン失陥]]の責任を問われて[[東條内閣|東條英機内閣]]が総辞職。 * [[1950年]] - [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が、[[日本共産党]]機関誌『[[しんぶん赤旗|アカハタ]]』の無期限停刊を指令。 * [[1953年]] - 活発な梅雨前線の影響で紀伊半島で10日間雨量700mm超の大雨(南紀豪雨)が降ったことにより、有田川や日高川などが決壊した[[和歌山県]]を中心に死者・行方不明者1124人、損壊・浸水家屋約100,000棟という甚大な被害が発生。 * [[1955年]] - [[冷戦]]: [[ジュネーヴ]]で[[イギリス|英]]・[[アメリカ合衆国|米]]・[[フランス|仏]]・[[ソビエト連邦|ソ]]4か国による東西首脳会談。冷戦の「雪どけ」ムードが高まる。 * [[1966年]] - アメリカで[[有人宇宙飛行|有人宇宙船]]「[[ジェミニ10号]]」打ち上げ。 * [[1968年]] - [[カリフォルニア州]][[サンタクララ (カリフォルニア州)|サンタクララ]]で[[インテル]]社が創業。 * [[1969年]] - [[チャパキディック事件]]。[[エドワード・ケネディ]]上院議員が[[飲酒運転]]で事故を起こすがその場から逃げ出し、同乗者が死亡。 * [[1970年]] - [[東京都]][[杉並区]]で日本初の[[光化学スモッグ]]公害。 * [[1974年]] - [[大阪府警察]][[南警察署 (大阪府)|南警察署]]高津派出所で[[拳銃]]が二丁盗まれる<ref>「派出所で短銃盗難 巡査4人が仮眠中」『朝日新聞』昭和49年(1974年)7月18日夕刊、3版、11面</ref>。盗まれた拳銃は、後に[[朴正熙]][[暗殺]]未遂事件([[文世光事件]])に使用された<ref>「ピストル盗難 文が単独で犯行」『朝日新聞』昭和49年(1974年)10月3日朝刊、13版、23面</ref>。 * [[1976年]] - [[1976年モントリオールオリンピックの体操競技|モントリオールオリンピックの体操競技]]で[[ルーマニア]]の[[ナディア・コマネチ]]が史上初の10点満点<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/daily?d=0718|title=今日は何の日?1976年7月18日|work=[[時事通信]]|accessdate=2020-07-18}}</ref>。 * [[1982年]] - [[グアテマラ内戦]]: {{仮リンク|プラン・デ・サンチェスの虐殺|en|Plan de Sánchez massacre}}。[[グアテマラ]]・[[バハ・ベラパス県]]の{{仮リンク|プラン・デ・サンチェス|en|Plan de Sánchez}}で国軍と自警団 (PAC) が村人268人を虐殺。 * [[1984年]] - [[サン・イシドロ・マクドナルド銃乱射事件]]: [[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]のファーストフード店でジェイムズ・オリヴァー・ヒューバティが銃を乱射、21人を射殺し19人を負傷させた。警察官がヒューバティを射殺。 * [[1986年]] - [[東京都]]、東京籐工芸を[[伝統工芸品]]に指定<ref>{{Cite web|和書|url=https://dento-tokyo.jp/items/25.html|title=東京籐工芸|work=東京都産業労働局|accessdate=2020-07-18}}</ref>。 * [[1988年]] - [[イラン]]政府が[[イラン・イラク戦争]]の即時停戦を求めた国連安保理決議を受諾<ref>{{Cite web|url=https://peacemaker.un.org/iraqiran-resolution598|title=Security Council Resolution 598: Iraq-Islamic Republic of Iran|work=UNITED NATIONS Peacemaker|accessdate=2020-07-18}}</ref>。 * [[1993年]] - [[第40回衆議院議員総選挙]]。新党が躍進して[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[日本社会党|社会党]]が大敗し、[[55年体制]]が崩壊。 * [[1996年]] - [[宮崎空港線]]開業。 * [[1998年]] - [[大館能代空港]]開港。 * [[2004年]] - 福井県北部から岐阜県で[[平成16年7月福井豪雨]]が発生。 * [[2005年]] - インドの[[マンモーハン・シン]]首相とアメリカの[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領が[[米印原子力協力]]に合意。 * [[2011年]] - 最後の[[サティ (チェーンストア)|サティ]]、[[広島サティ]]が閉店。 * [[2014年]] - 日本の[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]が「永住外国人は生活保護法の適用対象ではない」と判断<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei.com/affairs/news/140718/afr1407180003-n1.html |title=永住外国人は「生活保護法の対象外」 最高裁が初判断 |work=産経ニュース |publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2014-07-18|accessdate=2020-07-18}}</ref>。 * [[2015年]] - [[京都縦貫自動車道]]が全線開通<ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/710256.html|title=7月18日開通の京都縦貫道 京丹波わちIC~丹波IC間を事前公開 京都縦貫道の全線約100kmが全通へ|work=トラベルWatche|publisher=Impress Corporation.|date=2015-07-06|accessdate=2020-07-18}}</ref>。 * [[2019年]] - [[京都アニメーション放火殺人事件]]が発生。死者36名、負傷者33名の[[平成]]以降最悪の放火殺人事件となった<ref>{{Cite web|和書|date=2019年12月26日 |url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/105045 |title=2019年 京都10大ニュース |publisher=京都新聞 |accessdate=2020-07-20}}</ref>。 == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|260px]]}} {{multiple image | footer = 物理学者・生物学者、[[ロバート・フック]](1635-1703)誕生。自作の顕微鏡(右画像)でコルクを観察し、見出された構造に"cell"([[細胞]])と名付けた | image1 = 13_Portrait_of_Robert_Hooke.JPG | width1 = 100 | alt1 = ロバート・フック | image2 = Hooke-microscope.png | width2 = 100 | alt2 = フックの顕微鏡。これでコルクを観察し細胞を発見した }} [[Image:Immanuel_Hermann_Fichte_1859.jpg|thumb|100px|哲学者[[イマヌエル・ヘルマン・フィヒテ]](1797-1879)誕生]] {{multiple image | footer = 物理学者[[ヘンドリック・ローレンツ]](1853-1928)誕生。[[オランダ]]政府は7月18日を「ローレンツの日」としている。右画像は[[特殊相対性理論]]の基礎となった[[ローレンツ変換]] | image1 = Hendrik_Antoon_Lorentz.jpg | width1 = 90 | alt1 = ヘンドリック・ローレンツ | image2 = Lorenz_tf_grid.PNG | width2 = 120 | alt2 = ローレンツ変換 }} {{multiple image | footer = [[アパルトヘイト]]を終結させた[[南アフリカ共和国]]の政治家、[[ネルソン・マンデラ]](1918-2013)誕生。{{Squote|あまりにも長く続きすぎた異常な人災の経験からは、全人類が誇りに思うような社会が生まれるに違いない。――大統領就任演説(1994)}} | image1 = Young Mandela.jpg | width1 = 100 | alt1 = 1937年頃のマンデラ | image2 = Nelson_Mandela-2008_%28edit%29.jpg | width2 = 100 | alt2 = }} * [[680年]] - [[ムハンマド・ムンタザル]] 12番目のイマーム, (マハディ)イスラム教徒 の救世主(特にシーア派)。(+ [[870年]]) * [[1013年]] - [[ヘルマヌス・コントラクトゥス]]、 [[作曲家]]、[[音楽理論]]家 (+ [[1054年]]) * [[1587年]]([[天正]]15年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[稲葉一通]]、豊後[[臼杵藩]]第3代藩主(+ [[1641年]]) * [[1635年]] - [[ロバート・フック]]、[[物理学者]](+ [[1703年]]) * [[1659年]]([[万治]]2年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]) - [[浅野綱長]]、安芸[[広島藩]]第4代藩主(+ [[1708年]]) * [[1670年]] - [[ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ]]、[[作曲家]]、[[チェリスト]](+ [[1747年]]) * [[1720年]] - [[ギルバート・ホワイト]]、[[博物学者]](+ [[1793年]]) * [[1754年]]([[宝暦]]4年[[5月28日 (旧暦)|5月28日]]) - [[黒田治高]]、筑前[[福岡藩]]第8代藩主(+ [[1782年]]) * [[1769年]]([[明和]]6年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]])- [[佐藤信淵]]、[[思想家]]、[[経世家]](+ [[1850年]]) * [[1797年]] - [[イマヌエル・ヘルマン・フィヒテ]]、[[神学者]]、[[思想家]](+ [[1879年]]) * [[1811年]] - [[ウィリアム・メイクピース・サッカレー|サッカレー]]、[[小説家]](+ [[1863年]]) * [[1844年]]([[天保]]15年[[6月4日 (旧暦)|6月4日]])- [[尾上菊五郎 (5代目)]]、[[歌舞伎]]役者(+ [[1903年]]) * [[1853年]] - [[ヘンドリック・ローレンツ]]、物理学者(+ [[1928年]]) * [[1871年]] - [[ジャコモ・バッラ]]、画家(+ [[1958年]]) * [[1887年]] - [[ヴィドクン・クヴィスリング]]、[[政治家]]、軍人(+ [[1945年]]) * [[1889年]] - [[木戸幸一]]、[[政治家]](+ [[1977年]]) * [[1900年]] - [[ナタリー・サロート]]、[[小説家]]、[[劇作家]](+ [[1999年]]) * [[1901年]] - [[日野草城]]、[[俳人]](+ [[1956年]]) * [[1906年]] - [[シドニー・ダーリントン]]、[[電子工学]]研究者(+ [[1997年]]) * [[1909年]] - [[アンドレイ・グロムイコ]]、[[ソビエト連邦]]外相、[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]](+ [[1989年]]) * [[1916年]] - [[坂田道太]]、第64代[[衆議院議長]](+ [[2004年]]) * [[1918年]] - [[ネルソン・マンデラ]]、第11代[[南アフリカ共和国の大統領|南アフリカ共和国大統領]](+ [[2013年]]) * [[1921年]] - [[桑名重治]]、元[[プロ野球選手]] * 1921年 - [[ジョン・ハーシェル・グレン]]、軍人、[[宇宙飛行士]]、政治家(+ [[2016年]]) * [[1922年]] - [[トマス・クーン]]、[[哲学者]](+ [[1996年]]) * 1922年 - [[牛山善政]]、[[実業家]](+ [[2000年]]) * [[1923年]] - [[森嶋通夫]]、[[経済学者]](+ [[2004年]]) * [[1924年]] - [[草柳大蔵]]、[[評論家]]、[[ノンフィクション作家]](+ [[2002年]]) * [[1925年]] - [[能見正比古]]、文筆家(+ [[1981年]]) * [[1926年]] - [[ジョシュア・フィッシュマン]]、[[社会言語学]]者(+ [[2015年]]) * [[1927年]] - [[クルト・マズア]]、[[指揮者]](+ [[2015年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://yomikyo.or.jp/2015/12/post-493.php|title=【お悔やみ】名誉指揮者のクルト・マズア氏が死去 |publisher=読売日本交響楽団|date=2015-12-20|accessdate=2020-11-27}}</ref>) * [[1929年]] - [[ディック・バトン]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1929年 - [[セケイラ・コスタ]]、[[ピアニスト]]、音楽教師(+ [[2019年]]) * [[1933年]] - [[シド・ミード]]、工業デザイナー(+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S14313866.html|title=シド・ミードさん死去|publisher=朝日新聞デジタル|date=2020-01-01|accessdate=2020-12-11}}</ref><ref name="itmedia_20191231">{{Cite news |title = 未来を描いたデザイナー、巨匠シド・ミード氏、死去 |newspaper = ITmedia NEWS |date = 2019-12-31 |url = https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1912/31/news018.html |accessdate = 2020-10-30}}</ref>) * [[1935年]] - [[宅和本司]]、元プロ野球選手 * 1935年 - [[テンリー・オルブライト]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1935年 - [[中村大成]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * 1935年 - [[吉岡史郎]]、元プロ野球選手 * [[1937年]] - [[高井研一郎]]、[[漫画家]](+ [[2016年]]) * 1937年 - [[かすや昌宏]]、[[絵本作家]] * [[1940年]] - [[ジョー・トーリ]]、元プロ野球選手 * [[1943年]] - [[岡村晃]]、元プロ野球選手 * [[1944年]] - [[又市征治]]、政治家(+ [[2023年]]) * [[1946年]] - [[高石かつ枝]]、[[歌手]] * [[1948年]] - [[三浦正規]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[リチャード・ブランソン]]、実業家、[[ヴァージン・グループ]]創設者 * [[1951年]] - [[小笠原直樹]]、実業家(+ [[2021年]]) * 1951年 - [[末田正雄]]、[[アナウンサー]] * [[1952年]] - [[白井貴子 (バレーボール)|白井貴子]]、元バレーボール選手 * 1952年 - [[才田修]]、元プロ野球選手 * [[1955年]] - [[天満敦子]]、[[ヴァイオリニスト]] * 1955年 - [[森谷昭]]、元プロ野球選手 * [[1956年]] - [[河上敢二]]、政治家、元農林水産官僚 * [[1957年]] - [[クリス・スミス (内野手)|クリス・スミス]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[久保寺雄二]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0801/kiji/K20100101Z00002220.html 【1月4日】1985年(昭60) 突然もがき苦しんで…26歳久保寺雄二、就寝中に突然死]</ref>、プロ野球選手(+ [[1985年]]) * [[1959年]] - [[望月幹也]]、政治家 * [[1960年]] - [[佐藤純一 (野球)|佐藤純一]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[大石直弘]]、元プロ野球選手 * [[1961年]] - [[杉山直 (天文学者)|杉山直]]、[[天文学者]] * 1961年 - [[松原のぶえ]]、[[演歌歌手]] * 1961年 - [[中西保志]]、歌手 * 1961年 - [[彩恵津子]]、歌手 * 1961年 - [[アラン・パーデュー]]、元サッカー選手、指導者 * [[1962年]] - [[浜田麻里]]、[[シンガーソングライター]] * 1962年 - [[森野熊八]]、[[料理研究家|料理人]]、タレント * 1962年 - [[ジャック・アイアンズ]]、[[音楽家|ミュージシャン]] * [[1963年]] - [[板尾創路]]、[[お笑いタレント]]、[[俳優]]([[130R]]) * 1963年 - [[和田隆志]]、政治家 * 1963年 - [[マイク・グリーンウェル]]、元プロ野球選手 * [[1964年]] - [[大沼ひろみ]]、アナウンサー * [[1965年]] - [[エヴァ・イオネスコ]]、モデル、女優 * 1965年 - [[桂文春]]、落語家 * [[1966年]] - [[カトリン・ナイムケ]]、[[砲丸投]]競技選手 * 1966年 - [[ダン・オブライエン]]、十種競技選手 * 1966年 - [[井上ヨシマサ]]、作曲家 * [[1967年]] - [[アマル・オシム]]、サッカー監督 * 1967年 - [[ヴィン・ディーゼル]]、俳優 * [[1968年]] - [[鈴木淳 (ベーシスト)|鈴木淳]]、[[ベーシスト]] * 1968年 - [[西村龍次]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[ローランド・アローホ]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[ザ・グレート・サスケ]]、[[プロレスラー]]、元[[岩手県議会]]議員 * [[1971年]] - [[種田仁]]、元プロ野球選手 * 1971年 - [[水谷麻里]]、元歌手 * [[1972年]] - [[大石昌義]]、元プロ野球選手 * [[1974年]] - [[大倉孝二]]、俳優 * [[1975年]] - [[トリー・ハンター]]、元プロ野球選手 * [[1976年]] - [[千葉真子]]、元陸上選手、スポーツコメンテーター * 1976年 - [[山元保美]]、元[[野球選手]] * 1976年 - [[田中宏和 (野球)|田中宏和]]、元プロ野球選手 * [[1977年]] - [[グレン・ウィリアムス]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[吉村涼]]、女優 * 1978年 - [[チュ・サンウク]]、俳優 * [[1979年]] - [[ヤスカ・ラーチカイネン]]、ミュージシャン * [[1980年]] - [[広末涼子]]、女優 * 1980年 - [[竹村洋平]]、[[漫画家]] * 1980年 - [[クリスティン・ベル]]、女優 * [[1981年]] - [[水谷智佳]]、元[[プロボクサー]] * [[1982年]] - [[プリヤンカー・チョープラー]]、女優 * [[1983年]] - [[柴原央明]]、元[[騎手]] * [[1984年]] - [[松岡正海]]、騎手 * 1984年 - [[宮本賢]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[マイケル・コリンズ (野球)|マイケル・コリンズ]]、元プロ野球選手 * 1984年 - [[高平慎士]]、陸上選手 * 1984年 - [[副島淳]]、タレント * [[1985年]] - [[明瀬山光彦]]、元大相撲力士、年寄17代井筒 * 1985年 - [[ラミロ・ペーニャ]]、プロ野球選手 * [[1986年]] - [[青山直晃]]、元プロサッカー選手 * 1986年 - [[カルフィン・ヨン・ア・ピン]]、プロサッカー選手 * 1986年 - [[ナタリア・ミハイロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1987年]] - [[柴田亮輔]]、元プロ野球選手 * 1987年 - [[真道ゴー]]、元プロボクサー * 1987年 - [[クラウディオ・ジャコブ]]、サッカー選手 * [[1988年]] - [[ブレット・ニコラス]]、プロ野球選手 * [[1989年]] - [[佐藤あり紗]]、元バレーボール選手、指導者 * 1989年 - [[ドミトリー・ソロビエフ]]、[[フィギュアスケート]][[アイスダンス]]選手 * 1989年 - [[デレク・ディートリック]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[郭書瑤]]、モデル * 1990年 - [[レイディ・アフロディータ]]、プロレスラー * 1990年 - [[サウル・アルバレス]]、プロボクサー * [[1991年]] - [[山本美月]]、女優 * [[1992年]] - [[メフディ・タレミ]]、サッカー選手 * 1992年 - [[齋藤小浪]]、声優 * [[1993年]] - [[テミン]]、アイドル、俳優、タレント([[SHINee]]、[[SuperM]]) * 1993年 - [[石川恋]]、女優、モデル * 1993年 - [[片岡沙耶]]、女優、タレント * 1993年 - [[ナビル・フェキル]]、サッカー選手 * 1993年 - [[ロバート・ガゼルマン]]、プロ野球選手 * [[1994年]] - [[日向滉一]]、俳優 * 1994年 - [[Matt]]、タレント * [[1995年]] - [[隋文静]]、フィギュアスケート選手 * 1995年 - [[石田健人マルク]]、元プロ野球選手 * [[1996年]] - [[加藤ジーナ]]、ファッションモデル、タレント * 1996年 - [[夏川椎菜]]、声優 * [[1997年]] - [[相澤晃]]、陸上選手 * 1997年 - [[大黒柚姫]]、[[アイドル]]([[TEAM SHACHI]]) * [[2001年]] - [[川鍋朱里]]、元ファッションモデル * 2001年 - 春乃きいな、アイドル([[ばってん少女隊]]) * 生年不明 - [[朝倉崇]]、声優 * 生年不明 - ココ・パーティン・ココ、アイドル([[PARADISES]]、元[[GANG PARADE]]) * 生年不明 - Asami、シンガーソングライター([[ナナカラット]]) == 忌日 == {{multiple image | caption1 = [[バロック]]の画家[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|ミケランジェロ・メリージ]](1571-1610)没。 | image1 = Bild-Ottavio_Leoni%2C_Caravaggio.jpg | width1 = 110 | alt1 = ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ | caption2 = 画像は『[[果物籠を持つ少年]]』(1593-94) | image2 = Boy with a Basket of Fruit-Caravaggio (1593).jpg | width2 = 150 | alt2 = 『果物籠を持つ少年』 | caption3 = 画像は『キリストの埋葬』(1602-03) | image3 = Caravaggio_-_La_Deposizione_di_Cristo.jpg | width3 = 130 | alt3 = 『キリストの埋葬』 }} {{multiple image | footer = [[ロココ]]の画家[[アントワーヌ・ヴァトー]](1684-1721)没。右画像は『シテール島への船出』(1717) | image1 = Rosalba_Carriera_Portrait_Antoine_Watteau.jpg | width1 = 100 | alt1 = アントワーヌ・ヴァトー | image2 = Antoine_Watteau_-_L%27imbarco_per_Citera.jpg | width2 = 220 | alt2 = 『シテール島への船出』 }} {{multiple image | footer = 作家[[ジェーン・オースティン]](1775-1817)没。右画像は晩年を過ごした家 | image1 = Jane-Austen-portrait-victorian-engraving.png | width1 = 100 | alt1 = ジェーン・オースティン | image2 = Jane_Austen_%28House_in_Chawton%29.jpg | width2 = 100 | alt2 = 晩年を過ごした家 }} {{multiple image | footer = 実業家[[笹川良一]](1899-1995)没。競艇の創設に尽力。 | image1 = RyoichiSasakawa_face.jpg | width1 = 100 | alt1 = 笹川良一 | image2 = Amagasaki-kyotei-11.jpg | width2 = 220 | alt2 = 競艇 }} [[File:20190829 三浦春馬在台灣與粉絲見面.jpg|thumb|160px|俳優、[[三浦春馬]](1990-2020)]] [[File:Tigers_yokotashintaro_20160812.jpg|thumb|160px|プロ野球選手、[[横田慎太郎]](1995-2023)]] * [[707年]]([[慶雲]]4年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[文武天皇]]、第42代[[天皇]](* [[683年]]) * [[912年]]([[乾化]]2年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]) - [[朱全忠]]、[[後梁]]の初代[[皇帝]](* [[852年]]) * [[1100年]] - [[ゴドフロワ・ド・ブイヨン]]、[[第1回十字軍]]の指導者、[[ロレーヌ公|下ロートリンゲン公]](* [[1060年]]頃) * [[1591年]] - [[ヤコブス・ガルス]]、[[作曲家]](* [[1550年]]) * [[1608年]] - [[ヨアヒム・フリードリヒ (ブランデンブルク選帝侯)|ヨアヒム・フリードリヒ]]、[[ブランデンブルク選帝侯]](* [[1546年]]) * [[1610年]] - [[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ]]、[[画家]](* [[1573年]]) * [[1639年]] - [[ベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマル]]、[[三十年戦争]]期の将軍、[[傭兵]]隊長(* [[1604年]]) * [[1650年]] - [[クリストフ・シャイナー]]、[[天文学者]](* [[1575年]]?) * [[1721年]] - [[アントワーヌ・ヴァトー]]、画家(* [[1684年]]) * [[1792年]] - [[ジョン・ポール・ジョーンズ (軍人)|ジョン・ポール・ジョーンズ]]、[[アメリカ海軍]]の[[提督]](* [[1747年]]) * [[1817年]] - [[ジェーン・オースティン]]、[[小説家]](* [[1775年]]) * [[1872年]] - [[ベニート・フアレス]]、[[政治家]]、[[メキシコの大統領|メキシコ大統領]](* [[1806年]]) * [[1887年]] - [[ロバート・マーサー・タリアフェロー・ハンター]] - 第2代[[アメリカ連合国国務長官]]、第18代[[アメリカ合衆国下院議長]](* [[1809年]]) * [[1892年]] - [[トーマス・クック]]、[[実業家]]、[[トーマス・クック・グループ]]創業者(* [[1808年]]) * [[1899年]] - [[ホレイショ・アルジャー]]、小説家(* [[1832年]]) * [[1902年]] - [[西郷従道]]、[[政治家]]、[[軍人]](* [[1843年]]) * [[1949年]] - [[ヴィーチェスラフ・ノヴァーク]]、作曲家(* [[1870年]]) * [[1962年]] - [[大河内伝次郎]]、[[俳優]](* [[1898年]]) * [[1968年]] - [[コルネイユ・ハイマンス]]、[[生理学|生理学者]](* [[1892年]]) * [[1973年]] - [[三島雅夫]]、俳優(* [[1906年]]) * 1973年 - [[ジャック・ホーキンス]]、俳優(* [[1910年]]) * [[1981年]] - [[北条浩]]、[[創価学会]]第4代会長(* [[1923年]]) * [[1982年]] - [[ローマン・ヤーコブソン]]、[[言語学者]](* [[1896年]]) * [[1988年]] - [[ニコ]]、[[歌手]]、[[俳優|女優]]、[[ファッションモデル]](* [[1938年]]) * [[1989年]] - [[レベッカ・シェイファー]]、女優(* [[1967年]]) * [[1990年]] - [[尹潽善]]、政治家、[[大韓民国]]第4代[[大統領 (大韓民国)|大統領]](* [[1897年]]) * [[1995年]] - [[笹川良一]]、政治家、[[日本船舶振興会]]創設者(* [[1899年]]) * 1995年 - [[ファビオ・カサルテッリ]]、[[自転車]]選手(* [[1970年]]) * [[1996年]] - [[石館守三]]、[[薬学者]]、[[薬理学者]](*[[1901年]]) * [[2002年]] - [[戸川京子]]、女優(* [[1964年]]) * [[2004年]] - [[ジョン・D・クラウス]]、オハイオ州立大学教授、天文学者、[[8JKビーム・アンテナ]]考案者(* [[1910年]]) * [[2005年]] - [[ウィリアム・ウェストモーランド]]、[[アメリカ陸軍]]の[[参謀本部|参謀総長]](* [[1914年]]) * [[2006年]] - [[牧野直隆]]、第4代[[日本高等学校野球連盟]]会長(* [[1910年]]) * [[2007年]] - [[宮本顕治]]、元[[日本共産党]][[日本共産党議長|中央委員会議長]](* [[1908年]]) * [[2009年]] - [[山田豊三郎]]、政治家、第21代[[大津市]]長(* [[1927年]]) * [[2010年]] - [[砂押邦信]]、元[[プロ野球監督]](* [[1922年]]) * [[2011年]] - 一志、[[歌手]]([[Kagrra,]])(* [[1978年]]) * [[2016年]] - [[古内一成]]、[[脚本家]](* [[1956年]]) * [[2017年]] - [[日野原重明]]、[[医師]](* [[1911年]]) * [[2018年]] - [[常田富士男]]、俳優、[[ナレーター]](* [[1937年]]) * [[2019年]] - [[木上益治]]、[[アニメーター]](* [[1957年]]) * 2019年 - [[武本康弘]]、アニメーター(* [[1972年]]) * 2019年 - [[池田晶子 (アニメーター)|池田晶子]]、アニメーター(* [[1975年]]) * 2019年 - [[西屋太志]]、アニメーター(* 生年不明) * 2019年 - [[伊藤早苗]]、[[物理学者]](* [[1952年]]) * [[2020年]] - [[リリアン (タレント)|リリアン]]、[[タレント]]、歌手(* [[1950年]]) * 2020年 - [[三浦春馬]]<ref name="amuse0720">{{Cite web|和書|url=https://sp.amuse.co.jp/20200720/|title=三浦春馬に関するお知らせ(2020年7月20日)|website= AMUSE|publisher=[[アミューズ]]|date=2020-07-20|accessdate=2020-11-13}}</ref>、俳優(* [[1990年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://m.crank-in.net/news/74536/1|title=三浦春馬、30歳の誕生日に47都道府県を巡った旅をまとめた書籍発売|publisher=クランクイン!|date=2020-03-05|accessdate=2021-01-15}}</ref>) * [[2021年]] - [[和田洋人]]、[[漫画家]](* [[1974年]]) * [[2023年]] - [[横田慎太郎]]、プロ野球選手(* [[1995年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:SmogNY.jpg|thumb|240px|[[ニューヨーク]]で発生した[[スモッグ]]]] * [[ネルソン・マンデラ・デー]]({{World}}) *: [[ネルソン・マンデラ]]を賛える国際的な記念日。ネルソン・マンデラの誕生日。 * [[憲法記念日]]({{URY}}) *: [[1830年]]のこの日、ウルグアイの最初の憲法が採択された。 * [[光化学スモッグ]]の日({{JPN}}) *: [[1970年]]のこの日、[[東京都]][[杉並区]]の[[東京立正中学校・高等学校]]で体育授業中の生徒が突然目の痛みや頭痛等を訴えて次々と倒れた。東京都公害研究所は、これが光化学スモッグによるものと推定し、光化学スモッグ予報を出すこととなった<ref>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 下|publisher=[[創元社]]|year=2020|page=27|isbn=978-4422021157}}</ref>。 * [[海の日]]({{JPN}}、[[2005年]]・[[2011年]]・[[2016年]]・[[2022年]])※7月の第3月曜日 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0718|date=2014年4月}} * 1947年(昭和22年)- 歌川珠緒の絞殺体が発見される。歌川家連続殺人事件の第二の殺人。(小説『[[不連続殺人事件]]』第6章) * [[2048年]] - 暴走したムーンベースのマザーコンピューター「MARIKO」が、軌道戦闘機OF-1によって撃破される。(ゲーム『[[イメージファイト]]』) === 誕生日(フィクション) === * 2284年 - 綾川姫子 - ゲーム『[[銀河お嬢様伝説ユナ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/yuna3/char/himeko.html|title=銀河お嬢様伝説ユナ:キャラクター紹介:綾川姫子|date=20100923090842}}</ref> * 生年不明 - 白浜帆南美、地域活性プロジェクト『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/shirahama_honami|title=白浜 帆南美|温泉娘公式サイト|work=温泉むすめ/Enbound, Inc.|accessdate=2020-07-18}}</ref> * 生年不明 - スマイリー、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/smiley.html|title=スマイリー|work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]|accessdate=2020-07-18}}</ref> * 生年不明 - ワイヤー、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/wire.html|title=ワイヤー|work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]|accessdate=2020-07-18}}</ref> * 生年不明 - 池田雅也、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[テニスの王子様]]|volume=10.5巻|author=許斐剛|authorlink=許斐剛|publisher=[[集英社]]|page=265|year=2001|isbn=4-08-873193-X}}</ref> * 生年不明 - 桜井雅也、漫画・アニメ『テニスの王子様』に登場するキャラクター<!--10.5巻では7月1日になっている--><ref>{{Cite book|和書|title=[[テニスの王子様]]|volume=20.5巻|author=許斐剛|authorlink=許斐剛|publisher=[[集英社]]|page=337|year=2003|isbn=4-08-873549-8}}</ref> * 生年不明 - 射場鉄左衛門、漫画・アニメ『[[BLEACH]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=久保帯人|authorlink=久保帯人|date=2006-02-03|title=BLEACH―ブリーチ― OFFICIAL CHARACTER BOOK SOULs.|page=181|publisher= [[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088740799}}</ref> * 生年不明 - 柳瀬川八恵子、漫画・アニメ『[[テラフォーマーズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ジェシカ・ベルウッド、漫画・アニメ『テラフォーマーズ』に登場するキャラクター * 生年不明 - 笹倉葉子、漫画・アニメ『[[スクールランブル]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 佐々木姫子、漫画・アニメ『[[ベイビーステップ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 長瀬純、漫画・アニメ『[[神のみぞ知るセカイ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=若木民喜|authorlink=若木民喜|editor=キャラメル・ママ |date=2013-09-18 |title = 神のみぞ知るセカイ公式ガイドブック |page =52 |publisher = [[小学館]] |series=少年サンデーコミックススペシャル|isbn = 978-4091244512 }}</ref> * 生年不明 - 法月仁 、アニメ『[[プリティーリズム・レインボーライブ]]』、『[[KING OF PRISM by PrettyRhythm]]』、『[[KING OF PRISM -PRIDE the HERO-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://kinpri.com/character/detail.php#jin|title=法月 仁 キャラクター|「KING OF PRISM」|work=T-ARTS syn Sophia [[エイベックス・ピクチャーズ]] [[タツノコプロ]] キングオブプリズムSSS製作委員会|accessdate=2020-07-17}}</ref> * 生年不明 - 霧島龍馬、アニメ『[[美男高校地球防衛部HAPPY KISS!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 鷺森公子、漫画・アニメ『[[咲-Saki-|咲-Saki-阿知賀編 episode of side-A]]』に登場するキャラクター<ref name=saki2>{{Cite web|和書|url=http://sciasta.com/characters.html|title= 咲-Saki- Characters|work=小林立公式サイト|accessdate=2020-07-18}}</ref> * 生年不明 - 愛宕洋榎、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref name=saki2/> * 生年不明 - 松雪藍、漫画・アニメ『[[ロッキン★ヘブン]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ステラ、漫画・アニメ『[[キューティクル探偵因幡]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 馬場健一郎、ゲーム『[[サンパギータ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 双葉理子、ゲーム・アニメ『[[桃華月憚]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 林田希羅、漫画・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 大神晃牙、ゲーム『[[あんさんぶるスターズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://ensemble-stars.jp/characters/ogami_koga/|title=大神 晃牙 {{!}} CHARACTER {{!}} あんさんぶるスターズ!!|accessdate=2020-07-18|publisher=Happy Elements K.K}}</ref> * 生年不明 - 葉音一矢、アニメ『[[イナズマイレブン アレスの天秤]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-22|url=https://corocoro.jp/special/68074/2/|title=【イナイレ㊙ネタ】円堂 守8月22日生誕記念!!! 好評発売中の「イレブンライセンス」で、イナズマイレブンのキャラクター達の誕生日まとめてみた!!|website=コロコロオンライン|publisher=[[小学館]]|page=2|accessdate=2022-05-05}}</ref> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|July 18|18 July}} {{新暦365日|7|17|7|19|[[6月18日]]|[[8月18日]]|[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]|0718|7|18}} {{1年の月と日}}
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