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単位一覧
単位一覧(たんいいちらん)は、様々な単位を列挙したものである。 計量単位、計量単位一覧、計量法に基づく計量単位一覧を参照。 学校制度における単位(en:Course credit)とは、学校における「科目ごとの学習量」 である。詳細は、単位#学校制度、学年制と単位制を参照のこと。 コンピュータ関連では2進接頭辞も使用される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "単位一覧(たんいいちらん)は、様々な単位を列挙したものである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "計量単位、計量単位一覧、計量法に基づく計量単位一覧を参照。", "title": "計量単位" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "学校制度における単位(en:Course credit)とは、学校における「科目ごとの学習量」 である。詳細は、単位#学校制度、学年制と単位制を参照のこと。", "title": "学校における単位" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "コンピュータ関連では2進接頭辞も使用される。", "title": "2進接頭辞" } ]
単位一覧(たんいいちらん)は、様々な単位を列挙したものである。
{{出典の明記|date=2020-1}} '''単位一覧'''(たんいいちらん)は、様々な[[単位]]を列挙したものである。 == 計量単位 == [[計量単位]]、[[計量単位一覧]]、[[計量法に基づく計量単位一覧]]を参照。 == 計量単位以外の単位 == === 音楽 === * [[オクターブ]] * [[デカート]] * [[セント (音楽) |セント]] * [[小節]] * [[テンポ|BPM]](音楽のビートカウント) === 画像入出力 === * [[ピクセル]] * [[ドット]] * [[スクリーン線数|ライン]] * [[dpi]] * [[lpi]] * [[ppi]] <!-- 「一幅の絵」の「幅」は単位ではなく助数詞です! --> === 情報・通信 === * [[ビット]](2進数の桁数、および底が2のときの情報量の単位) * [[ナット (単位)|ナット]]([[ネイピア数|e]]進数の桁数、および底がeのときの情報量の単位) * [[ディット (単位)|ディット]](10進数の桁数および、底が10のときの情報量の単位) * [[シャノン (単位)|シャノン]] (底が2のときの情報量の単位。シャノンISO推奨だが現在は[[ビット]]のほうが一般的) * [[ハートレー (単位)|ハートレー]] (底が10のときの情報量の単位。ハートレーはISO推奨だが現在は[[ディット]]のほうが一般的) * [[バイト (情報)|バイト]] * [[ワード]] * [[オクテット (コンピュータ)|オクテット]] * [[ビット毎秒]](bps)(ビット転送レート。ボーbaudと混同しやすい) * [[ボー]] * [[MIPS]] * [[FLOPS]] * [[パーセントポイント]](ポイント)<!-- パーセント同士を比較したもの。(例 : 内閣支持率 xx ポイント上昇) --> === 発電 === * [[ワットピーク]](Wp)([[太陽光発電]]や[[風力発電]]などの設備容量の表記に用いられる) === 心理学 === * [[フォン (単位)|フォン]] === 競馬 === * [[ハロン (単位)|ハロン]](1ハロンは201.168m) == 通貨単位 == {{See|通貨単位}} {{See also|通貨の一覧|通貨の補助単位}} * [[円 (通貨)|円]]/[[銭 (曖昧さ回避)|銭]] * [[ドル]] * [[バーツ]] * [[ユーロ]] * [[スターリング・ポンド|UKポンド]] * [[ウォン]] * [[フラン (通貨)|フラン]] * [[クローネ]] * [[ドゥカート]] * [[フローリン]](グルデン) * 元:[[人民元]]・[[ニュー台湾ドル]](台湾元) == 学校における単位 == 学校制度における単位([[:en:Course credit]])とは、学校における「科目ごとの学習量」 である。詳細は、[[単位#学校制度]]、[[学年制と単位制]]を参照のこと。 == 漢数字による単位接頭語 == {{main|[[命数法#漢数字]]}} == 2進接頭辞 == [[コンピュータ]]関連では[[2進接頭辞]]も使用される。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[計量単位]] * [[国際単位系]](SI) ** [[国際単位系国際文書]] ** [[SI単位]] ** [[SI組立単位]] ** [[SI接頭語]] ** [[SI併用単位]] * [[非SI単位]] * [[MKS単位系]] * [[CGS単位系]] * [[原子単位]] * [[物理単位]] * [[単位の換算一覧]] * [[2進接頭辞]] * [[計量法に基づく計量単位一覧]] {{DEFAULTSORT:たんいいちらん}} [[Category:単位|*いちらん]] [[Category:技術関連の一覧]]
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中国地方
中国地方(ちゅうごくちほう)は、日本の地域の1つで、本州西部に位置する地方。人口最多および最大の都市は広島県広島市。 「中国」地方という呼称の由来ははっきりしていない。日本神話に、葦原中国(あしはらのなかつくに)または豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)が日本全体の名称として登場している。一説には古代、畿内を中心に令制国を「近国」「中国」「遠国」に区別したとき、この地方のほとんどが「中国」に相当したからだとされている。 その一方、間宮林蔵の資料を用いて村上貞助が著作した間宮林蔵述村上貞助編『東韃紀行』では、「日本」と対置する用語として大陸を「中国」と呼んだ事例もあり、江戸時代までは「中国」という言葉は多義的に用いられた。明治時代の内村鑑三は広島人と山口人を「中国人」と呼んだ。一方現在混同しやすい大陸中国のことは、仏教界では古代インドが中国を称した「チーナ」の漢語訳「支那」「震旦」「真丹」を用いており、日本の仏教界でもこれらの用語を用いてきた。仏教界以外では、「唐土(もろこし)」の用語も用いられていた。江戸時代中期に西欧での呼称Sinae(ラテン語)の当て字として仏教界で用いられてきた「支那」が発見され、明治期以降、歴代の王朝名とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称として大陸中国を「支那」と言い換えることが行われ、日本人にとっての「中国」は日本の「中国地方」の意味合いが強まった。 文献上の早い例は、南朝 : 正平4年/北朝 : 貞和5年(1349年)に足利直冬が備中、備後、安芸、周防、長門、出雲、伯耆、因幡の8カ国を成敗する「中国探題」として見られる(「師守記」「太平記」)こと、翌1350年に高師泰が足利直冬討伐に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「祇園執行日記」)、1354年に将軍義詮が細川頼有に「中国凶徒退治」を命じた(「永青文庫文書」)こと等。南北朝時代中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央政治権力にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった。天正10年(1582年)には、豊臣秀吉による中国大返しと称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは大正時代以降である。大陸において「中国」と称する国(中華民国)が成立した明治末期において、日本では府県は「行政上の区画」とされており、地方区分は、当時「地理上の区画」と呼ばれた令制国の区分をもとに、五畿八道が使用されていた。 また、旅行業などを中心に、日本海側の称である山陰と瀬戸内海側の称である山陽を合わせて山陰山陽地方(さんいんさんようちほう)の呼称を用いることもある。「陰陽」(いんよう)と称する事例もあり、特に山陰と山陽を結ぶ交通手段については、古くから「陰陽連絡」という語句が用いられている。 東国に対して西国(さいごく)と呼ぶこともあり、現代では例外的となっているが、かつては多用されていた呼称である。また、より広域的に四国地方と合わせて、中国・四国地方(中四国)と呼ぶこともある。また、国の中国とは関係ない。 中国地方の気候は山陰と山陽で大きく異なる。内陸部は緯度の割に寒冷なのが特徴で、東北地方の同標高の地点より低い気温を観測する場合もある。山陰は日本海側気候で、冬には雪が多い。鳥取県全域・島根県内陸部・岡山県北部の一部・広島県北部の一部は豪雪地帯となっている。一方、山陽は瀬戸内海式気候で年間を通して雨が少ないが、山口県・広島県など西部では梅雨に暖湿流の影響を受けやすく大雨となることがある。 脊梁山脈である中国山地が、山口県東部から島根県南部・広島県北部を抜けて鳥取県南部・岡山県北部まで延びる。最高峰は鳥取県の大山で1729m。 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。 便宜的に、兵庫県の南西部(旧播磨国)と北部(旧但馬国)を含める場合もある。 ※順位・人口・割合は2020年国勢調査確定値による。 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人] 年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人] 中国地方五県の主要都市を掲載する。 上記以外の県庁所在地 (本節では、大陸の「中国」と区別するために、「中国地方」を「山陰山陽」と表記する。) 3世紀に近畿でヤマト王権が成立すると、近畿に近い山陰山陽の政治勢力は、早々とヤマト王権に参加した。 当時の二大勢力圏であった、山陽の吉備国や山陰の出雲国は、独立性を保つ一方でヤマト王権とのパワーバランスも保ち、奈良時代には吉備真備などの高官を輩出した。しかし、吉備国の繁栄に危機感を覚えたヤマト王権によって、吉備国は分割され、勢力を削がれた。 10世紀の天慶3年(940年)頃に、関東で平将門が畿内政権に対して反乱を起こすと、山陽では藤原純友が畿内政権に対して反乱を起こした(承平天慶の乱)。元歴2年(1185年)には山口県下関市の関門海峡の壇ノ浦で、源氏と平家最後の戦い(壇ノ浦の戦い)が起き、この戦で平家は滅亡した。 鎌倉時代から室町時代にかけては、村上水軍が瀬戸内海を本拠地とした。室町時代に勘合貿易(日明貿易)が執られるまでは、瀬戸内海の海賊たちは、倭寇となって朝鮮半島近辺で略奪を行った。 この地方は山陰は山名氏、山陽は大内氏と赤松氏が南北朝の戦乱の中で強大な力を有するようになった。将軍足利義満はこれらの力を半減させることに成功するが、室町幕府の力が衰えると再び強大化し応仁の乱の一因となった。 戦国時代のこの地方は大内氏、武田氏、山名氏、赤松氏など守護大名が戦国大名化したのが多かったが、京極氏を下克上で追い出した尼子氏が出雲の守護となると9カ国の太守となった。16世紀前半には大内氏が山陰山陽から北部九州に跨がって勢力圏を伸ばし、その本拠地たる山口は「西京」(西の京都)と呼ばれるまでに繁盛した。大内義隆が守護代の陶晴賢の謀反で自害すると、安芸国人衆の中で勢力を伸ばした毛利元就が陶氏や尼子氏を滅ぼし山陰山陽を制覇した。毛利氏は山陽中南部の広島に拠点を定め、それ以来広島は、山陰山陽に及ぶ広大な毛利氏支配域で随一の都市となる。毛利氏は殆ど無傷のまま豊臣政権下でも勢力を保った。 ところが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍の石田三成が徳川家康率いる東軍に敗れ毛利輝元も大坂城を退去すると、本拠地を広島から萩に移され(長州藩)、領地も東軍に内応した吉川広家に宛がわれる予定だった周防・長門の2国に削減された。このほか備前の宇喜多秀家も西軍に味方したため改易された。 江戸時代になると大小さまざまな大名が領するようになった。主な藩としては鳥取藩、松江藩、浜田藩、津和野藩、岡山藩、津山藩、福山藩、広島藩、岩国藩、萩藩がある。このうち、鳥取藩や岡山藩の池田家は徳川家康の血縁であり、福山藩は徳川家康の母方の従兄弟である猛将水野勝成を配されるなど幕府の信頼度も厚かった。ことに岡山と広島は、藩内経済の進展も手伝って、江戸時代後期には日本で十指に入る城下町へと成長した。 幕末から明治維新にかけての動乱期には江戸幕府への敵対心を燃やしていた長州藩が終始倒幕運動をリードした。このため、長州藩は明治期においての日本政治界に多くの人材を生み出した。津和野藩は明治初期に西周や森鷗外などの知識人を輩出した。 欧米列強による植民地化が世界中で進む中、明治政府は富国強兵政策を執って植民地化を免れた。当時、朝鮮半島や中国にも近い山陽や北九州は、経済や軍事における要衝ともなった。1894年(明治27年)に日清戦争が起こると、帝国議会と大本営が臨時に広島へ移転し、これ以来、広島は兵站も置かれて軍需都市ともなった。また、広島近郊に位置する呉や江田島も、帝国海軍の本拠地ともなった。この影響か、第二次世界大戦の終結直前には、軍都たる広島にはアメリカ軍によって原子爆弾が投下され、岡山、呉、徳山、下関、福山などの当時の主要都市は軒並み激しい空襲を受けた。 高度経済成長期には概して東日本で中央たる東京への人口流入が起こったため、山陰山陽では大きな地殻変動を招くには至らなかった。 1970年代に田中角栄政権が「地方への再分配」を掲げると、山陰山陽でも交通網が整備されるようになる。山陽新幹線は1972年に岡山駅まで開通し、1975年(昭和50年)に全通した。 高度経済成長期以後は「過疎と過密」が顕在化するようになり、山陰山陽を横断する幹線高速道路のひとつである中国自動車道は津山や新見、三次などの山間部を経由するルートとして建設された。山陽自動車道の全通は、1997年(平成9年)末であった。これと前後して1988年には瀬戸大橋が、1999年にはしまなみ海道が開通したものの山陰と山陽の格差が大きくなる結果となった。 さらにバブル経済が破綻すると、1996年以後のデフレーションの進行や不良債権の処理、郊外型ショッピングセンターの隆盛などとも相まって、地方全体が不況に悩まされた。 近年は山陽側の各都市において再び好景気となる反面、山陰側の都市や中山間地域では引き続いて厳しい状況が続いており、早急な格差是正対策が求められている。 平成19年度の中国地方の域内総生産は29兆8596億円である。これはアラブ首長国連邦の国内総生産よりも大きく、世界で30位前後の「国」に相当する経済規模を有している。 鳥取県では梨の栽培が、岡山平野ではマスカットや桃の栽培が、広島湾などでは牡蛎の養殖が、下関漁港ではフグやあんこうなどの水揚げがそれぞれ盛んに行われている。 瀬戸内海沿岸には軽重さまざまの工場が立地し、瀬戸内工業地域を形成している。このうち、重工業地帯としては、水島(倉敷)、福山、徳山などに見られる。また、造船業も盛んで、軍港であった呉市や港湾都市として栄えた下関市などに造船所がある。 製造品出荷額等(2019年工業統計) 中国地方は、平野や盆地が狭く少ないため、交通網の整備が遅れを取っている。 高速道路は、南北間の連絡線(山陰と山陽)は、ジャンクション一回毎に東西の幹線(中国地方対近畿・九州)に入ってから再び連絡線に入る構造の路線が多い。さらに、山陰・山陽間の連絡線となる高速道路は、幹線国道(国道53号、国道54号)から大きく外れたルートで建設されたため、利便性と地域間の連帯に乏しい。 現在は中国横断自動車道の広島と島根を結ぶ尾道松江線、兵庫と鳥取を結ぶ姫路鳥取線の2路線が、新直轄方式で建設中で、開通後は通行料が無料となることから、沿線の市町村では、地域の活力向上に期待を寄せている。また山陰自動車道についても、多くの区間が一般国道自動車専用道路としての整備が決まるなど、全線開通に向けた取り組みが積極的に行われている。 高速道路と同じく、鉄道も南北間の移動には不便な場合が多い。主な路線としては、伯備線や智頭急行智頭線などが主に使われるが、地方内の移動よりも、東京・大阪方面に向かうルート設定であるため、場所によっては遠回りになることもある。実際、松江方面から広島方面に抜ける場合には、木次線・芸備線経由の方が明らかに近回りであるが、列車の便数が少ないため、利用者は高速バスに流れている。 この地方が抱える交通基盤整備の遅れは経済界からも問題視されており、5県の県庁所在地相互間を可能な限り短時間で結ぶことを目的として、在来線と新幹線を直通できるフリーゲージトレインや、広島西飛行場を中心としたコミューター航空網による、新しい交通体系整備の要望が挙がっている。 国内旅客数は、中国地方全体でここ数年若干の減少傾向があり、2005年には700万の大台を割り込んで697.9万人/年度となった。国際線旅客数は53.8万人/年度におよび、増加傾向を示している。 JR線については、関門トンネル区間(山陽本線下関駅~門司駅)を除く全域がJR西日本の経営となっており、在来線については旧国鉄鉄道管理局の流れを汲む岡山支社、広島支社、米子支社が地域別に置かれ、分担区域を管轄している。なお新幹線については新幹線鉄道事業本部が直接統括している。 私鉄線は一般的な鉄道・軌道事業を行うものの他に、広島県内に広島高速交通の運営する新交通システムとスカイレールサービスの運営するモノレールに近い交通機関が1路線ずつ存在する。広島高速交通の運営する路線のうち、本通駅〜新白島駅間は地下線であるが、本通駅〜県庁前駅間のみが鉄道事業の免許と地下鉄の建設補助を受けており、国土交通省の統計資料ではこの区間に限り地下鉄として扱われている。中国地方および隣の四国地方も含めて、地下鉄とされる区間が存在するのはここだけである。 旅客営業を行う私鉄は5県全県に存在するが、うち純粋な民間資本によるものは一畑電車、岡山電軌、広島電鉄、スカイレールサービスのみで、これ以外の事業者は国鉄・JRから経営分離された路線の運営、建設が中断した未成線の開業、都市交通の整備、臨海工業地帯の開発のために地方公共団体が一部出資して設立した第三セクターとなっている。 施設の保有のみを行う第三種鉄道事業者、および鉄軌道の事業を行う公営交通は存在しない。JR宇野線(瀬戸大橋線)について、2009年に完成した改良工事後は瀬戸大橋高速鉄道保有が鉄道施設の一部を保有しているが、保有するのがあくまで一部であるため、第三種鉄道事業者の免許は受けていない。公営鉄道については、かつての呉市交通局が呉市電を運営していた他、玉野市営電気鉄道をはじめ複数例存在したが、いずれも昭和中期から後期にかけて廃止されている。 西日本旅客鉄道 一般私鉄(軌道、広義での新交通システムを含む) 専用線・貨物専業線 中国地方各地で話される方言は中国方言(広島弁・山口弁・岡山弁など)と雲伯方言(出雲弁など)に分類され、どちらも西日本方言に属する。アクセントはほとんどの地域で東京式アクセントであり、「よる(よう)」と「とる(ちょる・とう)」によるアスペクトの区別や、理由の接続助詞「けん・けえ」が特徴的である。山陰方言と山陽方言で対立する要素もある。
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"中国地方の気候は山陰と山陽で大きく異なる。内陸部は緯度の割に寒冷なのが特徴で、東北地方の同標高の地点より低い気温を観測する場合もある。山陰は日本海側気候で、冬には雪が多い。鳥取県全域・島根県内陸部・岡山県北部の一部・広島県北部の一部は豪雪地帯となっている。一方、山陽は瀬戸内海式気候で年間を通して雨が少ないが、山口県・広島県など西部では梅雨に暖湿流の影響を受けやすく大雨となることがある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "脊梁山脈である中国山地が、山口県東部から島根県南部・広島県北部を抜けて鳥取県南部・岡山県北部まで延びる。最高峰は鳥取県の大山で1729m。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県より構成される。なお、行政上の管轄としては気象庁は山口県を除き、海上保安庁は山口県西北部、国土交通省海事事務所は下関市を除く。", "title": "中国地方の範囲" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "便宜的に、兵庫県の南西部(旧播磨国)と北部(旧但馬国)を含める場合もある。", "title": "中国地方の範囲" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "※順位・人口・割合は2020年国勢調査確定値による。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 総計 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "年齢5歳階級別人口 2004年10月1日現在推計人口 男女別 [単位 千人]", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "中国地方五県の主要都市を掲載する。", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "上記以外の県庁所在地", "title": "人口" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "(本節では、大陸の「中国」と区別するために、「中国地方」を「山陰山陽」と表記する。)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "3世紀に近畿でヤマト王権が成立すると、近畿に近い山陰山陽の政治勢力は、早々とヤマト王権に参加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "当時の二大勢力圏であった、山陽の吉備国や山陰の出雲国は、独立性を保つ一方でヤマト王権とのパワーバランスも保ち、奈良時代には吉備真備などの高官を輩出した。しかし、吉備国の繁栄に危機感を覚えたヤマト王権によって、吉備国は分割され、勢力を削がれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "10世紀の天慶3年(940年)頃に、関東で平将門が畿内政権に対して反乱を起こすと、山陽では藤原純友が畿内政権に対して反乱を起こした(承平天慶の乱)。元歴2年(1185年)には山口県下関市の関門海峡の壇ノ浦で、源氏と平家最後の戦い(壇ノ浦の戦い)が起き、この戦で平家は滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "鎌倉時代から室町時代にかけては、村上水軍が瀬戸内海を本拠地とした。室町時代に勘合貿易(日明貿易)が執られるまでは、瀬戸内海の海賊たちは、倭寇となって朝鮮半島近辺で略奪を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この地方は山陰は山名氏、山陽は大内氏と赤松氏が南北朝の戦乱の中で強大な力を有するようになった。将軍足利義満はこれらの力を半減させることに成功するが、室町幕府の力が衰えると再び強大化し応仁の乱の一因となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "戦国時代のこの地方は大内氏、武田氏、山名氏、赤松氏など守護大名が戦国大名化したのが多かったが、京極氏を下克上で追い出した尼子氏が出雲の守護となると9カ国の太守となった。16世紀前半には大内氏が山陰山陽から北部九州に跨がって勢力圏を伸ばし、その本拠地たる山口は「西京」(西の京都)と呼ばれるまでに繁盛した。大内義隆が守護代の陶晴賢の謀反で自害すると、安芸国人衆の中で勢力を伸ばした毛利元就が陶氏や尼子氏を滅ぼし山陰山陽を制覇した。毛利氏は山陽中南部の広島に拠点を定め、それ以来広島は、山陰山陽に及ぶ広大な毛利氏支配域で随一の都市となる。毛利氏は殆ど無傷のまま豊臣政権下でも勢力を保った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ところが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍の石田三成が徳川家康率いる東軍に敗れ毛利輝元も大坂城を退去すると、本拠地を広島から萩に移され(長州藩)、領地も東軍に内応した吉川広家に宛がわれる予定だった周防・長門の2国に削減された。このほか備前の宇喜多秀家も西軍に味方したため改易された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "江戸時代になると大小さまざまな大名が領するようになった。主な藩としては鳥取藩、松江藩、浜田藩、津和野藩、岡山藩、津山藩、福山藩、広島藩、岩国藩、萩藩がある。このうち、鳥取藩や岡山藩の池田家は徳川家康の血縁であり、福山藩は徳川家康の母方の従兄弟である猛将水野勝成を配されるなど幕府の信頼度も厚かった。ことに岡山と広島は、藩内経済の進展も手伝って、江戸時代後期には日本で十指に入る城下町へと成長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "幕末から明治維新にかけての動乱期には江戸幕府への敵対心を燃やしていた長州藩が終始倒幕運動をリードした。このため、長州藩は明治期においての日本政治界に多くの人材を生み出した。津和野藩は明治初期に西周や森鷗外などの知識人を輩出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "欧米列強による植民地化が世界中で進む中、明治政府は富国強兵政策を執って植民地化を免れた。当時、朝鮮半島や中国にも近い山陽や北九州は、経済や軍事における要衝ともなった。1894年(明治27年)に日清戦争が起こると、帝国議会と大本営が臨時に広島へ移転し、これ以来、広島は兵站も置かれて軍需都市ともなった。また、広島近郊に位置する呉や江田島も、帝国海軍の本拠地ともなった。この影響か、第二次世界大戦の終結直前には、軍都たる広島にはアメリカ軍によって原子爆弾が投下され、岡山、呉、徳山、下関、福山などの当時の主要都市は軒並み激しい空襲を受けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "高度経済成長期には概して東日本で中央たる東京への人口流入が起こったため、山陰山陽では大きな地殻変動を招くには至らなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1970年代に田中角栄政権が「地方への再分配」を掲げると、山陰山陽でも交通網が整備されるようになる。山陽新幹線は1972年に岡山駅まで開通し、1975年(昭和50年)に全通した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "高度経済成長期以後は「過疎と過密」が顕在化するようになり、山陰山陽を横断する幹線高速道路のひとつである中国自動車道は津山や新見、三次などの山間部を経由するルートとして建設された。山陽自動車道の全通は、1997年(平成9年)末であった。これと前後して1988年には瀬戸大橋が、1999年にはしまなみ海道が開通したものの山陰と山陽の格差が大きくなる結果となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "さらにバブル経済が破綻すると、1996年以後のデフレーションの進行や不良債権の処理、郊外型ショッピングセンターの隆盛などとも相まって、地方全体が不況に悩まされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "近年は山陽側の各都市において再び好景気となる反面、山陰側の都市や中山間地域では引き続いて厳しい状況が続いており、早急な格差是正対策が求められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "平成19年度の中国地方の域内総生産は29兆8596億円である。これはアラブ首長国連邦の国内総生産よりも大きく、世界で30位前後の「国」に相当する経済規模を有している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "鳥取県では梨の栽培が、岡山平野ではマスカットや桃の栽培が、広島湾などでは牡蛎の養殖が、下関漁港ではフグやあんこうなどの水揚げがそれぞれ盛んに行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "瀬戸内海沿岸には軽重さまざまの工場が立地し、瀬戸内工業地域を形成している。このうち、重工業地帯としては、水島(倉敷)、福山、徳山などに見られる。また、造船業も盛んで、軍港であった呉市や港湾都市として栄えた下関市などに造船所がある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "製造品出荷額等(2019年工業統計)", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "中国地方は、平野や盆地が狭く少ないため、交通網の整備が遅れを取っている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "高速道路は、南北間の連絡線(山陰と山陽)は、ジャンクション一回毎に東西の幹線(中国地方対近畿・九州)に入ってから再び連絡線に入る構造の路線が多い。さらに、山陰・山陽間の連絡線となる高速道路は、幹線国道(国道53号、国道54号)から大きく外れたルートで建設されたため、利便性と地域間の連帯に乏しい。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "現在は中国横断自動車道の広島と島根を結ぶ尾道松江線、兵庫と鳥取を結ぶ姫路鳥取線の2路線が、新直轄方式で建設中で、開通後は通行料が無料となることから、沿線の市町村では、地域の活力向上に期待を寄せている。また山陰自動車道についても、多くの区間が一般国道自動車専用道路としての整備が決まるなど、全線開通に向けた取り組みが積極的に行われている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "高速道路と同じく、鉄道も南北間の移動には不便な場合が多い。主な路線としては、伯備線や智頭急行智頭線などが主に使われるが、地方内の移動よりも、東京・大阪方面に向かうルート設定であるため、場所によっては遠回りになることもある。実際、松江方面から広島方面に抜ける場合には、木次線・芸備線経由の方が明らかに近回りであるが、列車の便数が少ないため、利用者は高速バスに流れている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "この地方が抱える交通基盤整備の遅れは経済界からも問題視されており、5県の県庁所在地相互間を可能な限り短時間で結ぶことを目的として、在来線と新幹線を直通できるフリーゲージトレインや、広島西飛行場を中心としたコミューター航空網による、新しい交通体系整備の要望が挙がっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "国内旅客数は、中国地方全体でここ数年若干の減少傾向があり、2005年には700万の大台を割り込んで697.9万人/年度となった。国際線旅客数は53.8万人/年度におよび、増加傾向を示している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "JR線については、関門トンネル区間(山陽本線下関駅~門司駅)を除く全域がJR西日本の経営となっており、在来線については旧国鉄鉄道管理局の流れを汲む岡山支社、広島支社、米子支社が地域別に置かれ、分担区域を管轄している。なお新幹線については新幹線鉄道事業本部が直接統括している。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "私鉄線は一般的な鉄道・軌道事業を行うものの他に、広島県内に広島高速交通の運営する新交通システムとスカイレールサービスの運営するモノレールに近い交通機関が1路線ずつ存在する。広島高速交通の運営する路線のうち、本通駅〜新白島駅間は地下線であるが、本通駅〜県庁前駅間のみが鉄道事業の免許と地下鉄の建設補助を受けており、国土交通省の統計資料ではこの区間に限り地下鉄として扱われている。中国地方および隣の四国地方も含めて、地下鉄とされる区間が存在するのはここだけである。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "旅客営業を行う私鉄は5県全県に存在するが、うち純粋な民間資本によるものは一畑電車、岡山電軌、広島電鉄、スカイレールサービスのみで、これ以外の事業者は国鉄・JRから経営分離された路線の運営、建設が中断した未成線の開業、都市交通の整備、臨海工業地帯の開発のために地方公共団体が一部出資して設立した第三セクターとなっている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "施設の保有のみを行う第三種鉄道事業者、および鉄軌道の事業を行う公営交通は存在しない。JR宇野線(瀬戸大橋線)について、2009年に完成した改良工事後は瀬戸大橋高速鉄道保有が鉄道施設の一部を保有しているが、保有するのがあくまで一部であるため、第三種鉄道事業者の免許は受けていない。公営鉄道については、かつての呉市交通局が呉市電を運営していた他、玉野市営電気鉄道をはじめ複数例存在したが、いずれも昭和中期から後期にかけて廃止されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "西日本旅客鉄道", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一般私鉄(軌道、広義での新交通システムを含む)", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "専用線・貨物専業線", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "中国地方各地で話される方言は中国方言(広島弁・山口弁・岡山弁など)と雲伯方言(出雲弁など)に分類され、どちらも西日本方言に属する。アクセントはほとんどの地域で東京式アクセントであり、「よる(よう)」と「とる(ちょる・とう)」によるアスペクトの区別や、理由の接続助詞「けん・けえ」が特徴的である。山陰方言と山陽方言で対立する要素もある。", "title": "文化" } ]
中国地方(ちゅうごくちほう)は、日本の地域の1つで、本州西部に位置する地方。人口最多および最大の都市は広島県広島市。
{{otheruses|[[日本]]国内の一[[地方]]|その他|中国 (曖昧さ回避)}} {{Infobox |bodyclass = bordered |abovestyle = background-color:#9900cc; text-align:center; |above = '''中国地方'''のデータ |headerstyle = background-color: #cc99ff |header1 = 5県の合計 |label2 = 国 |data2 = {{JPN}} |label3 = 面積 |data3 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体面積/鳥取県|鳥取県}} + {{自治体面積/島根県|島根県}} + {{自治体面積/岡山県|岡山県}} + {{自治体面積/広島県|広島県}} + {{自治体面積/山口県|山口県}} }}}}'''[[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]] |label4 = [[推計人口]] |data4 = '''{{formatnum:{{#expr:{{自治体人口/鳥取県|鳥取県}} + {{自治体人口/島根県|島根県}} + {{自治体人口/岡山県|岡山県}} + {{自治体人口/広島県|広島県}} + {{自治体人口/山口県|山口県}} }}}}'''人 <br />({{自治体人口/広島県|date}}) |label5 = 人口密度 |data5 = '''{{formatnum:{{#expr:({{自治体人口/鳥取県|鳥取県}} + {{自治体人口/島根県|島根県}} + {{自治体人口/岡山県|岡山県}} + {{自治体人口/広島県|広島県}} + {{自治体人口/山口県|山口県}})/31922.26 round 1}}}}'''人/km<sup>2</sup><br />({{自治体人口/広島県|date}}) |header6 = 位置 |data7 = [[ファイル:Japan Chugoku Region large.png|center|240px|中国地方の位置]] }} '''中国地方'''(ちゅうごくちほう)は、[[日本の地域]]の1つで、[[本州]]西部に位置する[[地方]]。[[人口]]最多および最大の[[都市]]は[[広島県]][[広島市]]。 == 概要 == ===名前の由来=== 「中国」地方という[[地名|呼称]]の由来ははっきりしていない。[[日本神話]]に、[[葦原中国]](あしはらのなかつくに)または豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)が日本全体の[[名称]]として登場している。一説には[[古代]]、[[畿内]]を中心に[[令制国]]を「[[近国]]」「[[中国 (令制国)|中国]]」「[[遠国]]」に区別したとき、この地方のほとんどが「中国」に相当したからだとされている<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9C%B0%E6%96%B9/ 中国地方 - Yahoo!百科事典]{{リンク切れ|date=2021年2月}}</ref>。 その一方、[[間宮林蔵]]の資料を用いて[[村上貞助]]が[[著作]]した間宮林蔵述村上貞助編『[[東韃紀行]]』では、「日本」と対置する用語として大陸を「中国」と呼んだ事例もあり<ref>間宮林蔵述村上貞助編『東韃紀行 [http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0400000000/0000001319][[国立公文書館]]<span>デシタルアーカイブ 東韃地方紀行 中巻</span>([[文化]]八年([[1811年]])筆原本画像)の最終頁に「中国」の呼称が複数登場し、「日本と中国」ともある。日本と中国が対置する概念として記載されている。なお、同書に掲載されている[[清朝]][[役人]]の[[名刺]]は「大清国」である。</ref>、[[江戸時代]]までは「中国」という言葉は多義的に用いられた。[[明治|明治時代]]の[[内村鑑三]]は[[広島県|広島]]人と[[山口県|山口]]人を「中国人」と呼んだ。一方現在混同しやすい大陸中国のことは、[[仏教界]]では[[古代インド]]が中国を称した「チーナ」の[[漢語訳]]「[[支那]]」「[[震旦]]」「[[真丹]]」を用いており、日本の仏教界でもこれらの用語を用いてきた。仏教界以外では、「[[唐土|唐土(もろこし)]]」の用語も用いられていた。江戸時代中期に[[西欧]]での呼称[[wiktionary:Sinae|Sinae]]([[ラテン語]])の当て字として仏教界で用いられてきた「[[支那]]」が発見され、明治期以降、歴代の[[王朝]]名とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称として大陸中国を「支那」と言い換えることが行われ、日本人にとっての「中国」は日本の「中国地方」の意味合いが強まった。 [[文献]]上の早い例は、[[南朝 (日本)|南朝]] : [[正平 (日本)|正平]]4年/[[北朝 (日本)|北朝]] : [[貞和]]5年([[1349年]])に[[足利直冬]]が[[備中]]、[[備後]]、[[安芸]]、[[周防]]、[[長門]]、[[出雲]]、[[伯耆]]、[[因幡]]の8カ国を成敗する「[[中国探題]]」として見られる(「[[師守記]]」「[[太平記]]」)こと、翌[[1350年]]に[[高師泰]]が[[足利直冬]][[討伐]]に「発向中国(ちゅうごくにはっこうす)」(「[[祇園執行日記]]」)、[[1354年]]に[[将軍]][[足利義詮|義詮]]が[[細川頼有]]に「中国凶徒退治」を命じた(「[[永青文庫文書]]」)こと等。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]中頃には中央の支配者層に、現在の中国地方(時には四国を含めた範囲)がほぼ「中国」として認識されていた。また、中央[[政治権力]]にとって敵方地、あるいは敵方との拮抗地域であった<ref>[[岸田裕之]]執筆「中国」の項、『日本史大事典4』[[平凡社]]、[[1993年]]</ref>。[[天正]]10年([[1582年]])には、[[豊臣秀吉]]による[[中国大返し]]と称された軍団大移動もあった。とはいえ、この当時の「中国」の呼称は俗称に過ぎず、日本の八地方制度の1つとして「中国地方」とされるのは[[大正時代]]以降である。大陸において「中国」と称する国([[中華民国]])が成立した明治末期において、日本では[[府県]]は「行政上の区画」とされており、地方区分は、当時「地理上の区画」と呼ばれた[[令制国]]の区分をもとに、[[五畿八道]]が使用されていた。<!-- 当時の国定教科書及び複数の資料により確認済み。一例として明治35年刊「言文一致 日本地理 全」(冨山房編輯所編纂) --> また、[[旅行業]]などを中心に、[[日本海]]側の称である'''[[山陰地方|山陰]]'''と[[瀬戸内海]]側の称である'''[[山陽地方|山陽]]'''を合わせて'''山陰山陽地方'''(さんいんさんようちほう)の呼称を用いることもある。'''「[[陰陽]]」'''(いんよう)と称する事例もあり<ref>[http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/shimane/sityouson/oonan.html 島根県HP] の[[二ツ山城]]跡の[[記述]]の中</ref>、特に山陰と山陽を結ぶ[[交通手段]]については、古くから「[[陰陽連絡路線|陰陽連絡]]」という語句が用いられている<ref group="注釈">[[大阪朝日新聞]]広島山口版の[[1918年]][[12月17日]]付けで、[[記事]][[見出し]]が「[[陰陽連絡鉄道]]」となっている他、バスジャパン・ハンドブック5『中国ジェイアールバス』p18-19、p24、p27、p29、p33、[[鈴木文彦]]『高速バス大百科』([[1989年]]・[[中央書院]])p81など、用例多数。</ref>。 [[東国]]に対して'''[[西国]]'''(さいごく)と呼ぶこともあり、現代では例外的となっているが、かつては多用されていた呼称である。また、より広域的に[[四国|四国地方]]と合わせて、[[中国・四国地方]](中四国)と呼ぶこともある。また、[[中国|国の中国]]とは関係ない。 == 地理 == [[ファイル:Geofeatures map of Chugoku Japan ja.svg|300px|thumb|中国地方の主要地形]] [[ファイル:Chugoku-Region-Shikoku-Japan-ISS-Space.png|thumb|250px|[[国際宇宙ステーション]]から見た中国地方と[[四国]]]] [[ファイル:Chugoku_Region_Japan_2018.png|thumb|250px|中国地方の衛星画像]] === 気候 === 中国地方の[[気候]]は山陰と山陽で大きく異なる。[[内陸部]]は[[緯度]]の割に[[寒冷]]なのが特徴で、[[東北地方]]の同[[標高]]の地点より低い[[気温]]を[[観測]]する場合もある。山陰は[[日本海側気候]]で、[[冬]]には[[雪]]が多い。鳥取県全域・島根県内陸部・岡山県北部の一部・広島県北部の一部は[[豪雪地帯]]となっている。一方、山陽は[[瀬戸内海式気候]]で年間を通して[[雨]]が少ないが、山口県・広島県など西部では[[梅雨]]に[[暖湿流]]の影響を受けやすく[[大雨]]となることがある。 ===地形=== [[脊梁山脈]]である[[中国山地]]が、[[山口県]]東部から[[島根県]]南部・[[広島県]]北部を抜けて[[鳥取県]]南部・[[岡山県]]北部まで延びる。[[最高峰]]は鳥取県の[[大山 (鳥取県)|大山]]で1729m。 ==== 山地 ==== *[[大山 (鳥取県)|大山]] *[[三瓶山]] *[[蒜山]] ==== 河川 ==== *日本海へ流れる川 **[[江の川]] **[[日野川]] **[[千代川]] **[[斐伊川]] **[[高津川]] *瀬戸内海へ流れる川 **[[太田川]] **[[芦田川]] **[[沼田川]] **[[旭川 (岡山県)|旭川]] **[[高梁川]] **[[吉井川]] ==== 平野 ==== *[[鳥取平野]] *[[倉吉平野]] *[[米子平野]] *[[松江平野]] *[[出雲平野]] *[[岡山平野]] *[[広島平野]] *[[福山平野]] ==== 盆地 ==== *[[津山盆地]] *[[三次盆地]] *[[山口盆地]] *[[西条盆地]] ==== 島嶼 ==== ;日本海側 *[[隠岐諸島]] **[[島後]] **[[西ノ島]] **[[中ノ島 (島根県)|中ノ島]] **[[知夫里島]] *[[竹島 (代表的なトピック)|竹島]] *[[大根島]] *[[江島 (島根県)|江島]] *[[高島 (島根県)|高島]] *[[大島 (山口県萩市)|鹿島]] *[[相島 (山口県)|相島]] *[[青海島]] *[[見島]] *[[角島]] *[[蓋井島]] *[[彦島]] ;太平洋側 *[[備讃諸島]] **[[鹿久居島]] **[[犬島]] **[[井島|石島]] **[[白石島]] **[[北木島]] *[[芸予諸島]] **[[田島 (広島県)|田島]] **[[横島 (広島県福山市)|横島]] **[[百島 (広島県)|百島]] **[[向島 (広島県)|向島]] **[[因島]] **[[佐木島]] **[[生口島]] **[[高根島]] **[[大崎上島]] **[[大崎下島]] **[[上蒲刈島]] **[[下蒲刈島]] **[[江田島]] **[[倉橋島]] **[[厳島]] *[[防予諸島]] **[[屋代島]] **[[平郡島]] **[[笠戸島]] **[[向島 (山口県)|向島]] ==中国地方の範囲== [[鳥取県]]・[[島根県]]・[[岡山県]]・[[広島県]]・[[山口県]]の5[[都道府県|県]]より構成される<ref name="daihyakka">『日本地名大百科』、[[小学館]]、1996年、p.730 ISBN 4-09-523101-7</ref>。なお、[[行政]]上の管轄としては[[気象庁]]は山口県を除き、[[海上保安庁]]は山口県西北部、[[国土交通省]][[海事事務所]]は[[下関市]]を除く。 便宜的に、[[兵庫県]]の南西部(旧[[播磨国]])と北部(旧[[但馬国]])を含める場合もある<ref>{{国立国会図書館のデジタル化資料|762725|女子日本地理教科書. 明治34年2月}}</ref>。 ==人口== {| class="wikitable" |- !ISO 3166-2 !都道府県名 !全国順位 !人口 !割合(全国) !割合(中国) |- | style="text-align: center;"|JP-31 | style="text-align: center;"|[[鳥取県]] | style="text-align: right;"|47 | style="text-align: right;"|553,847 | style="text-align: right;"|0.46% | style="text-align: right;"|7.8% |- | style="text-align: center;"|JP-32 | style="text-align: center;"|[[島根県]] | style="text-align: right;"|46 | style="text-align: right;"|671,602 | style="text-align: right;"|0.56% | style="text-align: right;"|9.5% |- | style="text-align: center;"|JP-33 | style="text-align: center;"|[[岡山県]] | style="text-align: right;"|21 | style="text-align: right;"|1,889,607 | style="text-align: right;"|1.52% | style="text-align: right;"|25.7% |- | style="text-align: center;"|JP-34 | style="text-align: center;"|[[広島県]] | style="text-align: right;"|12 | style="text-align: right;"|2,801,388 | style="text-align: right;"|2.23% | style="text-align: right;"|37.8% |- | style="text-align: center;"|JP-35 | style="text-align: center;"|[[山口県]] | style="text-align: right;"|25 | style="text-align: right;"|1,342,987 | style="text-align: right;"|1.13% | style="text-align: right;"|19.2% |- !colspan="3"|合計 | style="text-align: right;"|7,259,341 | style="text-align: right;"|5.91% | style="text-align: right;"|100.0% |} ※[[順位]]・[[人口]]・[[割合]]は[[2020年]][[国勢調査]]確定値による<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.stat.go.jp/data/kokusei/2015/kekka/kihon1/pdf/gaiyou2.pdf|title=年齢(5歳階級),男女別人口,年齢別割合,平均年齢及び年齢中位数|accessdate=2021年10月21日|publisher=総務省}}</ref>。 === 年齢構成 === {{中国地方/5歳階級別人口}} === 主要都市 === 中国地方五県の主要[[都市]]を掲載する。 {| class="infobox" style="text-align:center; width:100%; margin-right:10px; font-size:100%" ! colspan="10" style="background:#e9e9e9; padding:0.3em; line-height:1.2em;"| '''中国地方の主要都市''' |- !rowspan=30| [[File:City Views from Mount Kogane02.jpg|150px]]<br /><small>[[広島市]]</small><br />[[File:Appearance in Okayama Station eastward exit.JPG|150px]]<br /><small>[[岡山市]]</small><br /> ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| <small>#</small> ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 都市名 ! style="text-align:left; background:#f5f5f5;"| 県名 ! style="text-align:center; background:#f5f5f5;"| 人口 !rowspan=21| [[File:Kurashiki - panoramio - Nagono.jpg|150px]]<br /><small>[[倉敷市]]</small><br />[[File:1 Chome-8 Marunouchi, Fukuyama-shi, Hiroshima-ken 720-0061, Japan - panoramio (2).jpg|150px]]<br /><small>[[福山市]]</small><br /> |- | style="background:#f0f0f0"| 1 ||align=left | '''[[広島市]]''' || {{Flagicon|広島県}}[[広島県]] || {{自治体人口/広島県|広島市}}人 || 11 ||align=left | '''[[出雲市]]''' || {{Flagicon|島根県}}[[島根県]] || {{自治体人口/島根県|出雲市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 2 ||align=left | '''[[岡山市]]''' || {{Flagicon|岡山県}}[[岡山県]] || {{自治体人口/岡山県|岡山市}}人 || 12 ||align=left | '''[[宇部市]]''' || {{Flagicon|山口県}}[[山口県]] || {{自治体人口/山口県|宇部市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 3 ||align=left | '''[[倉敷市]]''' || {{Flagicon|岡山県}}[[岡山県]] || {{自治体人口/岡山県|倉敷市}}人 || 13 ||align=left | '''[[米子市]]''' || {{Flagicon|鳥取県}}[[鳥取県]] || {{自治体人口/鳥取県|米子市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 4 ||align=left | '''[[福山市]]''' || {{Flagicon|広島県}}[[広島県]] || {{自治体人口/広島県|福山市}}人 || 14 ||align=left | '''[[周南市]]''' || {{Flagicon|山口県}}[[山口県]] || {{自治体人口/山口県|周南市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 5 ||align=left | '''[[下関市]]''' || {{Flagicon|山口県}}[[山口県]] || {{自治体人口/山口県|下関市}}人 || 15 ||align=left | '''[[尾道市]]''' || {{Flagicon|広島県}}[[広島県]] || {{自治体人口/広島県|尾道市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 6 ||align=left | '''[[呉市]]''' || {{Flagicon|広島県}}[[広島県]] || {{自治体人口/広島県|呉市}}人 || 16 ||align=left | '''[[岩国市]]''' || {{Flagicon|山口県}}[[山口県]] || {{自治体人口/山口県|岩国市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 7 ||align=left | '''[[松江市]]''' || {{Flagicon|島根県}}[[島根県]] || {{自治体人口/島根県|松江市}}人 || 17 ||align=left | '''[[防府市]]''' || {{Flagicon|山口県}}[[山口県]] || {{自治体人口/山口県|防府市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 8 ||align=left | '''[[東広島市]]''' || {{Flagicon|広島県}}[[広島県]] || {{自治体人口/広島県|東広島市}}人 || 18 ||align=left | '''[[廿日市市]]''' || {{Flagicon|広島県}}[[広島県]] || {{自治体人口/広島県|廿日市市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 9 ||align=left | '''[[山口市]]''' || {{Flagicon|山口県}}[[山口県]] || {{自治体人口/山口県|山口市}}人 || 19 ||align=left | '''[[津山市]]''' || {{Flagicon|岡山県}}[[岡山県]] || {{自治体人口/岡山県|津山市}}人 |- | style="background:#f0f0f0"| 10 ||align=left | '''[[鳥取市]]''' || {{Flagicon|鳥取県}}[[鳥取県]] || {{自治体人口/鳥取県|鳥取市}}人 || 20 ||align=left | '''[[三原市]]''' || {{Flagicon|広島県}}[[広島県]] || {{自治体人口/広島県|三原市}}人 |} {{Clear}} ;[[政令指定都市]] :[[広島市]]({{formatnum:{{自治体人口/広島県|広島市}}}}人)・[[岡山市]]({{formatnum:{{自治体人口/岡山県|岡山市}}}}人) ;[[中核市]] :[[倉敷市]]({{formatnum:{{自治体人口/岡山県|倉敷市}}}}人)・[[福山市]]({{formatnum:{{自治体人口/広島県|福山市}}}}人)・[[下関市]]({{formatnum:{{自治体人口/山口県|下関市}}}}人)・[[呉市]]({{formatnum:{{自治体人口/広島県|呉市}}}}人)・[[松江市]]({{formatnum:{{自治体人口/島根県|松江市}}}}人)・[[鳥取市]]({{formatnum:{{自治体人口/鳥取県|鳥取市}}}}人) ;[[特例市|施行時特例市]] : 該当市なし ;その他 上記以外の[[都道府県庁所在地|県庁所在地]] : [[山口市]]({{formatnum:{{自治体人口/山口県|山口市}}}}人) ===地域圏=== {{Col| ; [[広島経済圏]] :* [[広島都市圏]]([[広島市]]・[[呉市]]・[[東広島市]]・[[廿日市市]]・[[岩国市]]・[[府中町]]・[[海田町]]・[[坂町]]・[[熊野町]]など) ; [[東瀬戸経済圏]] :* [[岡山都市圏]]([[岡山市]]・[[倉敷市]]・[[総社市]]・[[玉野市]]・[[浅口市]]・[[備前市]]・[[瀬戸内市]]・[[赤磐市]]・[[和気町]]・[[矢掛町]]・[[吉備中央町]]・[[早島町]]・[[久米南町]]など) :* [[備後都市圏]]([[福山市]]・[[尾道市]]・[[三原市]]など) :* [[津山都市圏]]([[津山市]]) ; [[関門都市圏]] :* [[下関都市圏]]・[[関門都市圏]]([[下関市]]) :* [[宇部都市圏]]([[宇部市]]・[[山陽小野田市]]) | ;[[中海・宍道湖・大山圏域]] :* [[米子都市圏]]([[米子市]]) :* [[松江都市圏]]([[松江市]]) :* [[出雲都市圏]]([[出雲市]]) ; その他 :* [[山口都市圏]]([[山口市]]) :* [[鳥取都市圏]]([[鳥取市]]) }}{{clear|left}} == 歴史 == ''(本節では、大陸の「[[中国]]」と区別するために、「中国地方」を「山陰山陽」と表記する。)'' === 古代 === [[ファイル:Tsukuriyama Kofun, Okayama air.jpg|thumb|200px|right|[[造山古墳]](岡山市北区)]] [[3世紀]]に[[近畿地方|近畿]]で[[ヤマト王権]]が成立すると、近畿に近い山陰山陽の政治勢力は、早々とヤマト王権に参加した。 当時の二大勢力圏であった、山陽の[[吉備国]]や山陰の[[出雲国]]は、独立性を保つ一方でヤマト王権とのパワーバランスも保ち、奈良時代には[[吉備真備]]などの高官を輩出した。しかし、吉備国の繁栄に危機感を覚えたヤマト王権によって、吉備国は分割され、勢力を削がれた。 === 平安時代 === [[10世紀]]の[[天慶]]3年([[940年]])頃に、[[関東地方|関東]]で[[平将門]]が[[畿内]]政権に対して[[反乱]]を起こすと、山陽では[[藤原純友]]が畿内政権に対して反乱を起こした([[承平天慶の乱]])。[[元歴]]2年([[1185年]])には[[山口県]][[下関市]]の[[関門海峡]]の[[壇ノ浦]]で、[[源氏]]と[[平家]]最後の戦い([[壇ノ浦の戦い]])が起き、この戦で平家は滅亡した。 === 鎌倉時代 - 室町時代 === [[鎌倉時代]]から[[室町時代]]にかけては、[[村上水軍]]が瀬戸内海を本拠地とした。室町時代に勘合貿易([[日明貿易]])が執られるまでは、瀬戸内海の[[海賊]]たちは、[[倭寇]]となって[[朝鮮半島]]近辺で略奪を行った。 この地方は山陰は山名氏、山陽は大内氏と赤松氏が南北朝の戦乱の中で強大な力を有するようになった。将軍[[足利義満]]はこれらの力を半減させることに成功するが、室町幕府の力が衰えると再び強大化し[[応仁の乱]]の一因となった。 === 戦国時代 - 江戸時代 === [[ファイル:Mori Motonari.jpg|thumb|200px|right|広島を本拠地に山陰山陽を制覇した[[毛利元就]] ]] [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]のこの地方は大内氏、武田氏、山名氏、赤松氏など守護大名が戦国大名化したのが多かったが、京極氏を下克上で追い出した尼子氏が出雲の守護となると9カ国の太守となった。[[16世紀]]前半には[[大内氏]]が山陰山陽から[[北部九州]]に跨がって勢力圏を伸ばし、その本拠地たる[[山口市|山口]]は「西京」(西の[[京都]])と呼ばれるまでに繁盛した。[[大内義隆]]が[[守護代]]の[[陶晴賢]]の謀反で自害すると、安芸国人衆の中で勢力を伸ばした[[毛利元就]]が[[陶氏]]や[[尼子氏]]を滅ぼし山陰山陽を制覇した。毛利氏は山陽中南部の[[広島市|広島]]に拠点を定め、それ以来広島は、山陰山陽に及ぶ広大な毛利氏支配域で随一の都市となる。毛利氏は殆ど無傷のまま豊臣政権下でも勢力を保った。 : ところが、[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で、西軍の[[石田三成]]が[[徳川家康]]率いる東軍に敗れ[[毛利輝元]]も[[大坂城]]を退去すると、本拠地を広島から[[萩市|萩]]に移され([[長州藩]])、領地も東軍に内応した[[吉川広家]]に宛がわれる予定だった[[周防国|周防]]・[[長門国|長門]]の2国に削減された。このほか備前の[[宇喜多秀家]]も西軍に味方したため改易された。 : [[江戸時代]]になると大小さまざまな大名が領するようになった。主な藩としては[[鳥取藩]]、[[松江藩]]、[[浜田藩]]、[[津和野藩]]、[[岡山藩]]、[[津山藩]]、[[備後福山藩|福山藩]]、[[広島藩]]、[[岩国藩]]、[[萩藩]]がある。このうち、鳥取藩や岡山藩の池田家は徳川家康の血縁であり、福山藩は徳川家康の母方の従兄弟である猛将[[水野勝成]]を配されるなど幕府の信頼度も厚かった。ことに[[岡山市|岡山]]と[[広島市|広島]]は、藩内経済の進展も手伝って、江戸時代後期には日本で十指に入る[[城下町]]<!--江戸時代後期、三都(江戸、京都、大坂)以外の十大都市は、鹿児島、熊本、長崎、広島、岡山、徳島、堺、名古屋、金沢、仙台の十都市であった。-->へと成長した。 === 幕末から第二次大戦まで === [[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|200px|right|原爆投下後の広島市街]] [[幕末]]から[[明治維新]]にかけての動乱期には[[江戸幕府]]への敵対心を燃やしていた[[長州藩]]が終始倒幕運動をリードした。このため、長州藩は明治期においての日本政治界に多くの人材を生み出した。[[津和野藩]]は明治初期に[[西周 (啓蒙家)|西周]]や[[森鷗外]]などの知識人を輩出した。 欧米列強による[[植民地]]化が世界中で進む中、[[明治政府]]は[[富国強兵]]政策を執って植民地化を免れた。当時、[[朝鮮半島]]や[[中国]]にも近い山陽や[[北九州地区|北九州]]は、[[経済]]や[[軍事]]における要衝ともなった。[[1894年]]([[明治]]27年)に[[日清戦争]]が起こると、[[帝国議会]]と[[大本営]]が臨時に[[広島市|広島]]へ移転し、これ以来、広島は[[兵站]]も置かれて軍需都市ともなった。また、広島近郊に位置する[[呉市|呉]]や[[江田島市|江田島]]も、帝国海軍の本拠地ともなった。この影響か、[[第二次世界大戦]]の終結直前には、軍都たる広島には[[アメリカ軍]]によって[[原子爆弾]]が投下され、岡山、[[呉市|呉]]、徳山、[[下関市|下関]]、[[福山市|福山]]などの当時の主要都市は軒並み激しい空襲を受けた。 === 第二次大戦後 === [[高度経済成長]]期には概して[[東日本]]で[[首都|中央]]たる[[東京都|東京]]への人口流入が起こったため、山陰山陽では大きな[[地殻]]変動を招くには至らなかった。 1970年代に[[田中角栄]]政権が「地方への再分配」を掲げると、山陰山陽でも交通網が整備されるようになる。[[山陽新幹線]]は[[1972年]]に[[岡山駅]]まで開通し、[[1975年]]([[昭和]]50年)に全通した。 高度経済成長期以後は「[[過疎]]と[[過密]]」が顕在化するようになり、山陰山陽を横断する幹線[[高速道路]]のひとつである[[中国自動車道]]は[[津山市|津山]]や[[新見市|新見]]、[[三次市|三次]]などの山間部を経由するルートとして建設された。[[山陽自動車道]]の全通は、[[1997年]]([[平成]]9年)末であった。これと前後して[[1988年]]には[[瀬戸大橋]]が、[[1999年]]には[[しまなみ海道]]が開通したものの山陰と山陽の格差が大きくなる結果となった。 さらに[[バブル経済]]が破綻すると、[[1996年]]以後の[[デフレーション]]の進行や[[不良債権]]の処理、[[郊外]]型[[ショッピングセンター]]の隆盛などとも相まって、地方全体が不況に悩まされた。 近年は山陽側の各都市において再び好景気となる反面、山陰側の都市や[[中山間地域]]では引き続いて厳しい状況が続いており、早急な格差是正対策が求められている。 == 経済 == ; 総生産 平成19年度の中国地方の域内総生産は29兆8596億円である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h19/main.html 平成19年度県民経済計算] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20101220043131/http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/kenmin/h19/main.html |date=2010年12月20日 }}</ref>。これは[[アラブ首長国連邦]]の[[国内総生産]]よりも大きく、世界で30位前後の「国」に相当する経済規模を有している<ref>[http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2010/02/weodata/index.aspx World Economic Outlook Database]</ref>。 ; [[農林水産業]] 鳥取県では[[ナシ|梨]]の栽培が、[[岡山平野]]では[[マスカット (ブドウ)|マスカット]]や[[モモ|桃]]の栽培が、[[広島湾]]などでは[[牡蛎]]の養殖が、[[下関漁港]]では[[フグ]]や[[あんこう]]などの水揚げがそれぞれ盛んに行われている。 ; [[工業]] [[瀬戸内海]]沿岸には軽重さまざまの工場が立地し、[[瀬戸内工業地域]]を形成している。このうち、[[重工業]]地帯としては、[[水島地域|水島]]([[倉敷市|倉敷]])、[[福山市|福山]]、[[周南市|徳山]]などに見られる。また、造船業も盛んで、軍港であった[[呉市]]や港湾都市として栄えた[[下関市]]などに造船所がある。 ; 「中国」を冠する企業名 * [[中国電力]] * [[中国銀行 (日本)|中国銀行]] * [[西中国信用金庫]] * [[中国バス]] * [[中国新聞社]] * [[中国放送]] '''製造品出荷額等'''(2019年工業統計<ref>[https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/kougyo/result-2.html 経済産業省・工業統計調査]</ref>) * '''中国地方''':26兆179億円(2019年度) {{Col-begin|width=none}} {{Col-break}} *''' 広島県''':9兆7415億3100万円(2019年度) * '''岡山県''':7兆7041億3600万円(2019年度) * '''山口県''':6兆5534億7900万円(2019年度) * '''島根県''':1兆2371億9200万円(2019年度) * '''鳥取県''':7815億8300万円(2019年度) * 1.[[倉敷市]]:3兆8786億1070万円 * 2.[[広島市]]:3兆1008億3951万円 * 3.[[福山市]]:1兆7163億5066万円 * 4.[[周南市]]:1兆5247億0285万円 * 5.[[呉市]]:1兆1203億8843万円 * 6.[[防府市]]:1兆1180億8609万円 * 7.[[岡山市]]:1兆656億5350万円 * 8.[[東広島市]]:1兆0245億8976万円 * 9.[[山陽小野田市]]:7604億7565万円 * 10.[[光市]]:6169億3265万円 * 11.[[下関市]]:5995億7304万円 * 12.[[尾道市]]:5670億8421万円 * 13.[[出雲市]]:5584億815万円 * 14.[[玖珂郡]][[和木町]]:5031億7944万円 * 15.[[宇部市]]:4754億1669万円 {{Col-break}} * 16.[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]:4428億3327万円 * 17.[[三原市]]:4134億8728万円 * 18.[[下松市]]:3650億8650万円 * 19.[[玉野市]]:3428億8701万円 * 20.[[岩国市]]:3348億4561万円 * 21.[[備前市]]:3206億992万円 * 22.[[大竹市]]:2723億8164万円 * 23.[[鳥取市]]:2706億6499万円 * 24.[[総社市]]:2553億9000万円 * 25.[[瀬戸内市]]:2328億5098万円 * 26.[[津山市]]:2052億9116万円 * 27.[[廿日市市]]:2042億6694万円 * 28.[[府中市 (広島県)|府中市]]:1892億7409万円 * 29.[[山口市]]:1879億8664万円 * 30.[[米子市]]:1825億6836万円 {{Col-end}} ==教育== ===大学=== ; 国公立大学 {{col| * [[鳥取大学]] * [[公立鳥取環境大学]]<ref group="注釈">2012年度から学校法人から公立大学法人に移行</ref> * [[島根大学]] * [[島根県立大学]] * [[岡山大学]] * [[岡山県立大学]] | * [[新見公立大学]] * [[広島大学]] * [[県立広島大学]] * [[広島市立大学]] * [[尾道市立大学]] * [[叡啓大学]] | * [[福山市立大学]] * [[山口大学]] * [[周南公立大学]] * [[下関市立大学]] * [[山口県立大学]] * [[山陽小野田市立山口東京理科大学]]<ref group="注釈">2016年度より設置者が学校法人東京理科大学から公立大学法人山陽小野田市立山口東京理科大学となり、公立大学に移行した</ref> }} ; 私立大学 {{col| * [[岡山商科大学]] * [[岡山理科大学]] * [[岡山学院大学]] * [[ノートルダム清心女子大学]] * [[山陽学園大学]] * [[就実大学]] * [[中国学園大学]] * [[環太平洋大学]] * [[川崎医科大学]] * [[川崎医療福祉大学]] * [[吉備国際大学]] * [[倉敷芸術科学大学]] | * [[くらしき作陽大学]] * [[美作大学]] * [[比治山大学]] * [[広島経済大学]] * [[広島工業大学]] * [[広島国際大学]] * [[広島国際学院大学]] * [[広島女学院大学]] * [[広島修道大学]] * [[広島文化学園大学]] * [[広島文教女子大学]] * [[安田女子大学]] * [[エリザベト音楽大学]] | * [[広島都市学園大学]] * [[福山大学]] * [[福山平成大学]] * [[近畿大学]]工学部<ref group="注釈">近畿大学広島キャンパス(広島県東広島市)にある。本部は[[大阪府]][[東大阪市]]。</ref> * [[日本赤十字広島看護大学]] * [[宇部フロンティア大学]] * [[東亜大学]] * [[梅光学院大学]] * [[至誠館大学]] * [[山口学芸大学]] }} === 短期大学 === ; 公立 * [[島根県立大学短期大学部]] * [[倉敷市立短期大学]] ;私立 {{col| * [[鳥取短期大学]] * [[山陽学園短期大学]] * [[就実短期大学]] * [[中国短期大学]] * [[川崎医療短期大学]] * [[岡山短期大学]] * [[美作大学短期大学部]] | * [[作陽音楽短期大学]] * [[吉備国際大学短期大学部]] * [[広島文化学園短期大学]] * [[安田女子短期大学]] * [[比治山大学短期大学部]] | * [[山陽女子短期大学]] * [[岩国短期大学]] * [[宇部フロンティア大学短期大学部]] * [[下関短期大学]] * [[山口芸術短期大学]] * [[山口短期大学]] }} === 高等専門学校 === * [[米子工業高等専門学校]] * [[松江工業高等専門学校]] * [[津山工業高等専門学校]] * [[呉工業高等専門学校]] * [[宇部工業高等専門学校]] * [[広島商船高等専門学校]] * [[大島商船高等専門学校]] * [[徳山工業高等専門学校]] === 文部科学省所管外の教育施設 === * [[中国職業能力開発大学校|中国職業能力開発大学校(厚生労働省所管独立行政法人)]] * [[中国職業能力開発大学校附属島根職業能力開発短期大学校|中国職業能力開発大学校附属島根職業能力開発短期大学校(厚生労働省所管独立行政法人)]] * [http://www3.jeed.or.jp/hiroshima/college/index.html 中国職業能力開発大学校附属福山職業能力開発短期大学校(厚生労働省所管独立行政法人)] * [[海上保安大学校]]([[国土交通省]][[文教研修施設]]) * [[水産大学校]]([[農林水産省]]所管独立行政法人) == 交通 == === 概要 === 中国地方は、[[平野]]や[[盆地]]が狭く少ないため、交通網の整備が遅れを取っている。 : [[高速道路]]は、南北間の連絡線(''山陰と山陽'')は、[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]一回毎に東西の幹線(''中国地方対[[近畿地方|近畿]]・[[九州]]'')に入ってから再び連絡線に入る構造の路線が多い。さらに、山陰・山陽間の連絡線となる高速道路は、[[一般国道|幹線国道]]([[国道53号]]、[[国道54号]])から大きく外れたルートで建設されたため、利便性と地域間の連帯に乏しい。 : 現在は[[中国横断自動車道]]の[[広島県|広島]]と[[島根県|島根]]を結ぶ尾道松江線、[[兵庫県|兵庫]]と[[鳥取県|鳥取]]を結ぶ姫路鳥取線の2路線が、[[新直轄方式]]で建設中で、開通後は通行料が無料となることから、沿線の市町村では、地域の活力向上に期待を寄せている。また[[山陰自動車道]]についても、多くの区間が[[高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路|一般国道自動車専用道路]]としての整備が決まるなど、全線開通に向けた取り組みが積極的に行われている。 : 高速道路と同じく、鉄道も南北間の移動には不便な場合が多い。主な路線としては、[[伯備線]]や[[智頭急行智頭線]]などが主に使われるが、地方内の移動よりも、[[東京都|東京]]・[[大阪府|大阪]]方面に向かうルート設定であるため、場所によっては遠回りになることもある。実際、[[松江市|松江]]方面から[[広島市|広島]]方面に抜ける場合には、[[木次線]]・[[芸備線]]経由の方が明らかに近回りであるが、列車の便数が少ないため、利用者は高速バスに流れている。 : この地方が抱える交通基盤整備の遅れは経済界からも問題視されており、5県の県庁所在地相互間を可能な限り短時間で結ぶことを目的として、[[在来線]]と[[新幹線]]を直通できる[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]]や、[[広島西飛行場]]を中心とした[[コミューター航空]]網による、新しい交通体系整備の要望が挙がっている。 : * [[2011年]][[3月9日]]:[[広島市議会]]で「広島シティ空港」設置条例案が賛成少数で否決。これにより広島西空港は開港から50年で廃港になる事が事実上決定した。定期路線があった空港が移転せずに廃止した例は日本初<ref group="注釈">2009年9月に遊覧飛行用の空港であった北海道[[弟子屈町]]の[[弟子屈飛行場]]が廃止になった例はある。</ref>。 === 空港 === 国内旅客数は、中国地方全体でここ数年若干の減少傾向があり、2005年には700万の大台を割り込んで697.9万人/年度となった。国際線旅客数は53.8万人/年度におよび、増加傾向を示している。 {| class="wikitable" style="text-align: center;" |-style="background-color: #a4aaf9;" |rowspan="2" style="background-color: #ffcc99;"|'''[[空港]]''' |rowspan="2" style="background-color: #ff9966;"|'''旅客合計''' |colspan="2" |'''国内線''' |colspan="2" style="background-color: #ccccff;"|'''国際線''' |- |style="background-color: #cccccc;"|旅客数 |定期便 |style="background-color: #cccccc;"|旅客数 |定期便 |- |style="background-color: #ffffff;"|[[広島空港|広島]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|204<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>7630人</span> |style="text-align: right;"|203<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>6571人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">[[新千歳空港|新千歳]]・[[仙台空港|仙台]]・'''[[東京国際空港|東京]]・<br/>[[成田国際空港|成田]]'''・[[那覇空港|那覇]]</span> |style="text-align: right;"|1<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>1059人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">[[北京首都国際空港|北京]]・[[上海浦東国際空港|上海]]・[[大連周水子国際空港|大連]]・[[仁川国際空港|ソウル]]・[[台湾桃園国際空港|台北]]・[[香港]]</span> |- |style="background-color: #ffffff;"|[[岡山空港|岡山]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|87<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>4972人</span> |style="text-align: right;"|87<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>4277人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">新千歳・'''東京'''・那覇</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">695人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">上海・ソウル・台北・[[香港]]</span> |- |style="background-color: #ffffff;"|[[山口宇部空港|山口宇部]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|70<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>2434人</span> |style="text-align: right;"|70<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>2434人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">'''東京'''</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">0人</span> |style="text-align: left;"|- |- |style="background-color: #ffffff;"|[[出雲空港|出雲]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|83<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>8254人</span> |style="text-align: right;"|83<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>8254人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">'''東京・[[大阪国際空港|大阪]]'''・[[隠岐空港|隠岐]]・[[福岡空港|福岡]]</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">0人</span> |style="text-align: left;"|- |- |style="background-color: #ffffff;"|[[美保飛行場|米子]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|39<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>9444人</span> |style="text-align: right;"|39<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>9348人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">'''東京'''</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">96人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">ソウル・[[香港]]</span> |- |style="background-color: #ffffff;"|[[鳥取空港|鳥取]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|28<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>5544人</span> |style="text-align: right;"|28<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>5544人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">'''東京'''</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">0人</span> |style="text-align: left;"|- |- |style="background-color: #ffffff;"|[[石見空港|石見]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|10<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>9604人</span> |style="text-align: right;"|10<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>9604人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">'''東京・(大阪)'''</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">0人</span> |style="text-align: left;"|- |- |style="background-color: #ffffff;"|[[広島西飛行場|広島西]]<ref>[[2012年]](平成24年)[[11月15日]]に広島西飛行場としての供用廃止。(国土交通省告示1143号) 同日より広島ヘリポートとして供用開始。(国土交通省告示1144号)</ref> |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"| - |style="text-align: right;"| - |style="text-align: left;"|- |style="text-align: right;"| - |style="text-align: left;"|- |- |style="background-color: #ffffff;"|[[隠岐空港|隠岐]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|6<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>1416人</span> |style="text-align: right;"|6<span style="font-size: smaller;"><sup>万</sup>1416人</span> |style="text-align: left;"|<span style="font-size: smaller;">'''大阪'''・出雲</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">0人</span> |style="text-align: left;"|- |- |style="background-color: #ffffff;"|[[岡南飛行場|岡南]] |style="text-align: right; background-color: #ffffcc;"|<span style="font-size: smaller;">4人</span> |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">4人</span> |style="text-align: left;"|- |style="text-align: right;"|<span style="font-size: smaller;">0人</span> |style="text-align: left;"|- |} * 出典は[[国土交通省]][[航空局]]・[https://www.mlit.go.jp/koku/content/001625303.xlsx 空港管理状況調書](2022年度) * [[チャーター便]]の旅客数含む * [[三大都市圏]]への便は'''太字''' * 全国の空港の乗降客数は[[日本の空港#統計情報]]参照 === 鉄道 === JR線については、[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]区間([[山陽本線]][[下関駅]]~[[門司駅]])を除く全域が[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の経営となっており、在来線については[[日本国有鉄道|旧国鉄]][[鉄道管理局]]の流れを汲む[[西日本旅客鉄道岡山支社|岡山支社]]、[[西日本旅客鉄道広島支社|広島支社]]、[[西日本旅客鉄道米子支社|米子支社]]が地域別に置かれ、分担区域を管轄している。なお[[新幹線]]については[[西日本旅客鉄道新幹線鉄道事業本部|新幹線鉄道事業本部]]が直接統括している。 私鉄線は一般的な[[鉄道]]・[[路面電車|軌道]]事業を行うものの他に、広島県内に[[広島高速交通]]の運営する[[新交通システム]]と[[スカイレールサービス]]の運営する[[モノレール]]に近い交通機関が1路線ずつ存在する。広島高速交通の運営する路線のうち、[[本通駅]]〜[[新白島駅]]間は地下線であるが、本通駅〜[[県庁前駅 (広島県)|県庁前駅]]間のみが鉄道事業の免許と地下鉄の建設補助を受けており、[[国土交通省]]の統計資料ではこの区間に限り[[日本の地下鉄|地下鉄]]として扱われている。中国地方および隣の[[四国地方]]も含めて、地下鉄とされる区間が存在するのはここだけである。 旅客営業を行う私鉄は5県全県に存在するが、うち純粋な民間資本によるものは[[一畑電車]]、[[岡山電気軌道|岡山電軌]]、[[広島電鉄]]、スカイレールサービスのみで、これ以外の事業者は国鉄・JRから経営分離された路線の運営、建設が中断した[[未成線]]の開業、都市交通の整備、臨海工業地帯の開発のために地方公共団体が一部出資して設立した[[第三セクター鉄道|第三セクター]]となっている。 施設の保有のみを行う[[鉄道事業者#第三種鉄道事業|第三種鉄道事業者]]、および鉄軌道の事業を行う[[公営交通]]は存在しない。JR[[宇野線]](瀬戸大橋線)について、2009年に完成した改良工事後は[[瀬戸大橋高速鉄道保有]]が鉄道施設の一部を保有しているが、保有するのがあくまで一部であるため、第三種鉄道事業者の免許は受けていない。公営鉄道については、かつての[[呉市交通局]]が[[呉市電]]を運営していた他、[[玉野市営電気鉄道]]をはじめ複数例存在したが、いずれも[[昭和]]中期から後期にかけて廃止されている。 '''[[西日本旅客鉄道]]''' {{col| * [[山陽新幹線]] * [[山陽本線]] * [[山陰本線]] * [[赤穂線]] * [[因美線]] * [[宇野線]] | * [[宇部線]] * [[小野田線]] * [[可部線]] * [[岩徳線]] * [[姫新線]] * [[木次線]] | * [[吉備線]] * [[呉線]] * [[芸備線]] * [[境線]] * [[津山線]] | * [[瀬戸大橋線]](宇野線・[[本四備讃線]]) * [[伯備線]] * [[福塩線]] * [[美祢線]] * [[山口線]] }} '''一般私鉄'''(軌道、広義での新交通システムを含む) {{col| * [[智頭急行]][[智頭急行智頭線|智頭線]] * [[若桜鉄道]][[若桜鉄道若桜線|若桜線]] * [[一畑電車]] ** [[一畑電車北松江線]] ** [[一畑電車大社線]] * [[水島臨海鉄道]] **[[水島臨海鉄道水島本線]] * [[井原鉄道]][[井原鉄道井原線|井原線]] * [[岡山電気軌道]] ** [[岡山電気軌道東山本線]] ** [[岡山電気軌道清輝橋線]] | * [[広島電鉄]] ** [[広島電鉄宇品線]] ** [[広島電鉄江波線]] ** [[広島電鉄白島線]] ** [[広島電鉄本線]] ** [[広島電鉄皆実線]] ** [[広島電鉄宮島線]] ** [[広島電鉄横川線]] *[[広島高速交通]][[広島高速交通広島新交通1号線]] *[[スカイレールサービス]][[スカイレールサービス広島短距離交通瀬野線|広島短距離交通瀬野線]] * [[錦川鉄道]][[錦川鉄道錦川清流線|錦川清流線]] }} '''専用線・貨物専業線''' {{see also|専用鉄道#中国地方}} *[[水島臨海鉄道港東線]] *[[水島臨海鉄道西埠頭線]] === 道路 === {{see|中国地方の道路一覧}} ==文化== ===方言=== 中国地方各地で話される方言は[[中国方言]]([[広島弁]]・[[山口弁]]・[[岡山弁]]など)と[[雲伯方言]](出雲弁など)に分類され、どちらも[[西日本方言]]に属する。アクセントはほとんどの地域で[[東京式アクセント]]であり、「よる(よう)」と「とる(ちょる・とう)」による[[相 (言語学)|アスペクト]]の区別や、理由の接続助詞「けん・けえ」が特徴的である。[[山陰方言]]と[[山陽方言]]で対立する要素もある。 ==スポーツ== ===野球=== * [[プロ野球]] ** [[広島東洋カープ]] * [[社会人野球]] {{col| :* [[シティライト岡山硬式野球部|シティライト岡山]] :* [[三菱自動車倉敷オーシャンズ]] :* [[ショウワコーポレーション硬式野球部|ショウワコーポレーション]] :* [[倉敷ピーチジャックス]] :* [[ツネイシブルーパイレーツ]] :* [[伯和ビクトリーズ]] :* [[JFE西日本硬式野球部|JFE西日本]] :* [[MSH医療専門学校硬式野球部|MSH医療専門学校]] | :* [[JR西日本硬式野球部|JR西日本]] :* [[広島鯉城クラブ]] :* [[福山ローズファイターズ]] :* [[航空自衛隊防府クラブ]] :* [[山口防府ベースボールクラブ]] :* [[日鉄ステンレス硬式野球部|日鉄ステンレス]] :* [[海上自衛隊岩国クラブ]] :* [[岩国五橋クラブ]] :* [[MJG島根]] }} ===サッカー=== {{col| * [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] ** [[サンフレッチェ広島F.C]] ** [[ファジアーノ岡山FC]] ** [[ガイナーレ鳥取]] ** [[レノファ山口FC]] | * [[日本女子プロサッカーリーグ|WEリーグ]] ** [[サンフレッチェ広島レジーナ]] | * [[日本女子サッカーリーグ|なでしこリーグ]] ** [[岡山湯郷Belle]] ** [[FC吉備国際大学Charme]] **[[アンジュヴィオレ広島]] | * [[日本フットボールリーグ]] ** [[FC神楽しまね]] }} {{col| * [[中国サッカーリーグ]] ** [[三菱自動車水島FC]] ** [[FCバレイン下関]] ** [[環太平洋大学体育会サッカー部|環太平洋大学FC]] ** [[ベルガロッソ浜田]] ** [[NTN岡山サッカー部]] ** [[SRC広島]] ** [[富士フイルムビジネスイノベーションジャパン広島SC|富士フイルムBIJ広島SC]] ** [[SC松江]] ** [[福山シティFC]] | * [[中国女子サッカーリーグ]] ** [[ディオッサ出雲F.C.]] ** [[徳山大学]] ** [[岡山県作陽高等学校]] ** [[吉備国際大学Charme岡山高梁|吉備国際大学Charme岡山高梁Defi]] ** [[広島文教大学]] ** [[広島文教大学附属高等学校]] | * [[日本フットサルリーグ|Fリーグ]] ** [[広島エフ・ドゥ]] ** [[ポルセイド浜田]] }} ===ラグビー=== * [[JAPAN RUGBY LEAGUE ONE]] ** [[マツダスカイアクティブズ広島]] ** [[中国電力レッドレグリオンズ]] ===バレーボール=== {{col| * [[V.LEAGUE]](男子) ** [[JTサンダーズ広島]] | * [[V.LEAGUE]](女子) ** [[岡山シーガルズ]] ** [[大野石油広島オイラーズ]] }} ===バスケットボール=== {{col| * [[ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ|B.LEAGUE]] ** [[島根スサノオマジック]] ** [[広島ドラゴンフライズ]] | * [[ジャパン・バスケットボールリーグ|B3.LEAGUE]] ** [[トライフープ岡山]] ** [[山口パッツファイブ|山口ペイトリオッツ]] }} ===卓球=== *[[Tリーグ (卓球)]] (男子) ** [[岡山リベッツ]] ===ハンドボール=== {{col| * [[日本ハンドボールリーグ|日本リーグ]](男子) ** [[安芸高田ワクナガハンドボールクラブ]] | * [[日本ハンドボールリーグ|日本リーグ]](女子) ** 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SoftBank (携帯電話)
SoftBank(ソフトバンク)は、ソフトバンクが展開する携帯電話のサービスブランドの一つである。 デジタルホン/デジタルツーカー→J-PHONE→ボーダフォンの流れを汲む。 1991年 - 1992年に日本テレコム株式会社が主体となり、東名阪で第二世代携帯電話事業のデジタルホンを設立。 1994年から日産自動車(以下「日産」)が主体のツーカーグループと同時に、NTTドコモ、DDIセルラー/IDOグループ(現KDDIのau)に続く第3勢力として、第二世代携帯電話の事業開始。東名阪以外の地区は日産と日本テレコムとの共同出資で旧デジタルツーカーを設立し、1996年1月より、ツーカーグループと合同で全国展開が行われた。 2013年10月2日、ソフトバンクは携帯端末を買った一部顧客の支払い情報を「未入金」と信用情報機関に誤登録したと発表した。携帯電話端末の分割支払いを適切に行っている利用者情報が、信用情報機関であるCIC(シー・アイ・シー)および日本信用情報機構に、誤って「携帯端末料金未払い利用者」として登録された。誤って登録された利用者情報は63,133件である。信用情報機関に加盟する企業が、それらの誤った情報を参照した回数は16,827件である。最大で3ヶ月間の支払い滞納者として登録された。利用者によっては、クレジットカード・ローン・家賃保証会社の与信審査に落ちるなどの弊害が発生している。 ソフトバンクにおける個人情報の取り扱いが、公式ウェブサイトによって提示されている。 番号ポータビリティ (MNP) 開始前日の10月23日に新プランなどの発表を行った影響で、さまざまな出来事が発生した。ソフトバンクは10月28日15時頃から10月30日20時にかけて、ゴールドプランへの申し込み殺到によりソフトバンクの登録業務システムにトラブルが生じたと発表した。NTTドコモおよびKDDI (au) はホームページ上において、ソフトバンクモバイルに対して厳重に抗議したと発表した。また、一部店頭では「お客様各位 NTTドコモとKDDI(au)においてシステム障害が発生しております」との誤った説明がなされたと言われ(「ZAKZAK」による報道)、当時の混乱ぶりがうかがえる。このトラブルについて11月11日付ゲンダイネットの報道では、実際はソフトバンクから他社へのキャリア変更(転出)が殺到したのではないかとの推測がなされた。しかし減少数は少なかったので、MNPによる転出者が多すぎたというのも定かでない。また新規契約がかなり多く、ゴールドプランによる影響とも考えられる。別の報道では、家族割引契約の主副回線を決定するプログラムに問題があったとされる。家族まるごとMNPを利用して他事業者に引っ越しした場合、集約すべき主回線契約がなくなるため無限ループに陥ったと説明された。 なお時期は違えど、同様のMNP情報交換に関するトラブルがツーカーを含む携帯事業者4社全てで起こったことから、システムの拡充を急ぐことが各社に求められた。 契約時に通信速度の制御について“不利益の不告知”の疑い 通信契約締結時に通信速度の制御について がある場合に説明をしない、消費者に対して消費者関連法の“不利益の不告知”の疑いがある。 通信速度の制御については、 4G/4G LTEパケット定額サービス・料金プランでの通信制御実施条件 において、 “パケットし放題フラット for 4G LTE”等の料金プランが、データ通信量が過去3日間で約3GB以上の場合は、速度制限が約3GB以上ご利用した翌日の午前6時から24時間に実施される。2019年11月2日の行政の公開イベントにて、消費者団体が無線電波の国民共有財産の観点から、各社の通信条件の比較表を公開説明したことにより、来場した消費者がソフトバンクに対する従来のイメージや説明等と異なる事に気づいた。 2006年12月に放送されたゴールドプラン紹介のテレビCMでは、ラクロスの女子学生同士の会話を、他携帯ユーザーに対するいじめを助長するものだと受け取った視聴者からの苦情が、JAROに対して1日約250件寄せられた。広報部は「ゴールドプランの便利さを紹介したいがために制作したものであり、いじめを助長するために作ったものではない」とコメントしている。なお、当該CMの放送は同年12月24日に終了している(ソフトバンクは「予定通りの終了」としている)。 「通話料、メール代0円」と大きく書かれたゴールドプラン(予想外割)の新聞広告が掲載されたが、「ソフトバンク以外の通話、メールは有料」といった注意文言の文字が小さくわかりにくかった。こうした広告は景品表示法違反(有利誤認)にあたるおそれがあるとして、公正取引委員会はソフトバンクモバイルに対して警告した。また同時にドコモ、KDDIも広告が同規定に違反するおそれがあるとして注意を受けている。 iPhoneの3G通信機能をONにしている場合、アプリケーションを追加しない初期状態で利用者がアプリケーションやメールを利用していなくても、利用者が認識しない自動通信によりパケット定額の下限額(1029円)を上回る通信料が発生することが確認された。そのため2011年5月、総務省はソフトバンクモバイルの広告表示が不適正であったと同社に対し、下限額を越える通信料が発生した原因と不適正な広告表示となった原因を究明するとともに広告表示の適正化などの改善措置を行い、それらの報告を求める行政指導を行った。 2006年11月22日、ソフトバンクショップを運営する株式会社エムデジが携帯電話不正利用防止法に基づく譲渡時本人確認を行っておらず、同法第5条第1項の違反で総務省が是正を命じた。またソフトバンクに対しては再発防止措置の徹底を要請した。 しかし2007年4月12日、ソフトバンクショップを運営している代理店2店舗(有限会社ウエスタン・有限会社アイシーエス)が、携帯電話購入時に個人確認を怠ったとして、総務省が代理店2店舗と監督元であるソフトバンクモバイルに対し再発防止措置の徹底を行なうよう行政指導を行なった。ソフトバンクモバイルはこの代理店2店舗に対し、販売促進支援およびショップ支援を3カ月間停止を決定し、ソフトバンクショップ全代理店に対し、携帯電話を販売する際の個人確認を徹底するように指導した。 さらに2007年6月12日には、ソフトバンクモバイルの携帯電話販売代理店を運営するケアアンドコミュニケーションが、契約者の本人確認を怠ったとして、総務省は同社に是正命令を出した。ソフトバンクモバイルにも代理店に対する監督を徹底するよう再度行政指導を行った。 2008年1月から6月に振り込め詐欺・オレオレ詐欺で使用された携帯電話約2,300台のうち約7割がソフトバンク携帯だった との報道が12月にあった。警察庁では、同社を含む携帯電話各社に本人確認の徹底を再度要請した。その後同社は、2008年度下期決算報告において、iPhone割賦販売開始当初は信用情報調査を十分に行わなかったため、割賦代金を支払わない契約が続出し、累積で500億円の負債焦げ付きも発生していたが、その後購入時の審査を強化し、このような事態は概ね防ぐことができているとした。 2008年4月9日、5月5日、5月6日に音声通話不可・パケット通信不可等の事故が3件発生した。これらの事故は影響が大規模かつ長時間にわたったことから重大な事故として取り扱われた。また、いずれの事故も予備系の設備が設置されていたにもかかわらず適切に機能せず、大規模なサービス停止に至ったと判明している。重大な事故が相次いだことを受けて総務省は5月14日、改善を行うようソフトバンクモバイルに指導した。なお、その後も同年10月に鹿児島県で約71,000人、2009年1月に徳島県で約49,000人、2月には北海道で約54,000人が、携帯電話の音声通話ができなくなる通信障害が発生している。 2009年4月19日にはYahoo!ケータイ、S!メールが1570万以上の端末で最大7時間近く利用ができない事故が発生した。当初は東日本のみの障害としていたが、翌日、softbank.ne.jpドメインのS!メールの送受信について全国で障害が発生していたと訂正。また、4月23日にソフトバンクモバイルのコーポレートサイトにおいてこの事故についてのプレスリリースを発行した。この事故の発生を受け、総務省はソフトバンクモバイルに対し再発防止策や(他の設備も含む)設備の点検を求める行政指導を行った。また、利用者への周知が不十分であったとして、利用者への障害周知方法の改善策も求めた。それに伴い、ソフトバンクモバイルでは2009年5月25日付けで総務省へ報告書を提出。再発防止策として、ネットワークが不通に至った事象を防止する新たな機能を実装したことや故障検出機能の強化をしたこと、事故情報をホームページの見やすい位置に掲載するなど、利用者への告知性を向上したと報告した。 2009年7月18日に、午前7時ごろから約10時間にわたって、約14万6000人が第2世代の携帯電話機での通信通話が行えなくなるという、当年4度目の重大な事故が生じた。第2世代携帯電話機の使用者のうち、東北6県と新潟県での契約者および、障害発生時にこの地域にいた人が影響を受けた。 2010年3月9日、沖縄県を含む九州エリアで緊急通報番号(110番・119番・118番)への発信ができない状態が11時20分ごろから5時間弱にわたり発生(118番への発信障害は山口県も影響を受けた)。ネットワーク設備の不具合が原因。復旧した16時35分近くまで不具合の状況を把握できておらず、利用者への通知もなされていなかった。 2010年7月4日、午前5時58分ごろから北海道・東北・関東・東海地区でSoftBank 3G端末からのWeb接続ができなくなった。また、一部機種とiPhoneではMMS(S!メール)の利用ができない状態となった。障害は4時間半後に一部コンテンツサービスの利用を除き復旧、午後1時53分に完全復旧と発表されたが、当日いっぱい影響が続いた。なお本件では最大で契約者約1476万人に影響がでている。同年7月15日、この障害の原因と対策について報告された。原因はハードウェアの故障と、予備サーバーへの自動切り替えが適切に機能しなかったことによると発表している。 2010年9月17日、19時37分頃からメールの送受信・Webへの接続がつながりにくいといった障害が発生した。発生エリアは日本全国であった。発生から3時間後の21時35分に復旧の発表がされたが、影響人数、原因等は発表されていない。 2011年5月25日、近畿2府3県(大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・滋賀県)の一部地域で、ソフトバンクモバイルの契約者約7万2,000人について、携帯電話の通話や電子メールの送受信が困難になる障害が発生した。同社は、人為的に障害が引き起こされたとして、6月に大阪府警に被害届を提出。7月8日に同府警は、同社の大阪府内の事務所内にある通信機器端末のデータを、不正プログラムを仕込むことで破壊し、基地局からの電波発信を不可能にさせることで通信障害を引き起こしたとして、同社の業務委託先の元社員の男性を、電子計算機損壊等業務妨害罪で逮捕した。 2018年12月6日、午後1時39分ごろから全国でデータ通信や通話ができなくなったり、インターネット事業の「おうちのでんわ」および「SoftBank Air」で通信障害が発生した。この障害は同日午後6時4分復旧した。原因はエリクソン製のパケット交換機全台にソフトウェア異常が発生し、4Gネットワークに問題が発生、3Gネットワークにも輻輳が起こって通信障害が起きたとしている。また、この障害はイギリスのO2などエリクソン製の交換設備を使用する海外11カ国の通信事業者でもほぼ同時刻に発生したことも明らかにされた。 2009年3月より、ソフトバンクモバイルは、イー・モバイル網を使ったMVNOにおけるデータ通信サービスを実施した。これらのようなMNOによるMVNOに対し、社団法人テレコムサービス協会 MVNO協議会は次のように反対をしている。 本行為は違法ではなくガイドラインにも反してはいないが、第1種通信免許をもつ事業者(MNO)が他のMNOの通信網を利用するMVNO事業を行うことは、第1種通信事業者としてのモバイル通信網の拡大に対する怠慢であり、有限な周波数の公平な利用に反するにとどまらず、事業者の多様化にもつながらず、移動体通信の競争を阻害する。 これに対し孫社長は、周波数を有効利用するものであり問題はないと反論をしている。 これをふまえ、総務省は同問題に対し、総務省情報通信審議会電気通信事業政策部会および接続政策委員会において調査審議の上、抑制を踏まえた答申が取りまとめられる予定であると発表している。なおPHS事業者のウィルコムもNTTドコモおよびMVNO協議会議長である日本通信の設備を利用し、MVNOサービスを実施している。これをふまえ、総務省は2009年7月7日、「情報通信審議会 電気通信事業政策部会 接続政策委員会」の第7回会合を開催し、ソフトバンクとイー・モバイルのようなMNOのMVNOは「MNOは自ら基地局などの設備投資を行うのが義務である」という考え方に基づき原則禁止にする方向性をうちだした。ただし、NTTドコモとWILLCOMのMVNOのように異なる市場のサービスを提供する場合や、新規参入したMNOが基地局を全国展開するまで暫定的に利用する場合、MNOによるMVNO化は許容できるとした。 なお、2010年10月1日より、ウィルコムのMVNOサービス、WILLCOM CORE 3Gのラインナップに、ソフトバンクモバイル・3G ハイスピード網が追加された(同日には法人向けデータ通信プランのみ、同年10月8日より、PHSとのデュアルプランが開始されるが、個人向けのデータ通信プランは用意されない)。これに伴って、同年9月30日を以って、従前のドコモ網を利用したサービスの新規受付は終了された。 ソフトバンクモバイルから発売されたかんたん携帯 821Tに関して、NTTドコモと富士通はソフトバンクモバイルおよび東芝に対して、不正競争防止法の模倣品販売の条項に基づき同端末の製造・販売などの差し止めを求め、東京地方裁判所に仮処分申請を申し立てた。ドコモおよび富士通は、NTTドコモから販売されている富士通製端末FOMAらくらくホンIIIのボタンレイアウト、ユーザインタフェースなど複数の項目でデザインなどが酷似していると主張。NTTドコモおよび富士通は、ソフトバンクモバイルおよび東芝に対し警告してきたが、満足のいく回答が得られなかったために仮処分申請に踏み切ったと記者会見で述べた。本件は2009年4月に和解が成立した。なお、和解金等の条件は非公表。 2007年5月30日、ソフトバンクモバイルも他社と同様の緊急地震速報配信システムの開発を表明した。このとき、提供時期は「2008年度中」とアナウンスされた。NTTドコモは2007年11月発売のFOMA 905iシリーズ全機種から、auは2008年1月以降発売の2008年春モデル10機種中6機種が対応し、以降は全機種が対応したが、ソフトバンクは2009年9月18日発売のSoftBank 831N一機種のみと出遅れた。同年5月19日に当端末が発表された際、サービス開始時期は、「今秋」 とアナウンスされたが、端末発売二日前の同年9月16日には「2009年11月下旬以降」に繰り下げられ、開始当時のサービスエリアも佐賀県・長崎県・熊本県・宮崎県・鹿児島県の九州5県に限定された。同年10月27日になってサービスエリアが長崎, 熊本, 宮崎, 鹿児島の4県に縮小され、予告されていた開始予定時期の直前の同年12月24日になって、九州4県でのサービス開始も撤回された。サービス開始時期は「2010年夏以降」に延期され、サービス提供エリアについても白紙となった。 2010年10月7日に全国対応完了を告知した。最初の対応機種は、SoftBank 831Nのみだったが、東日本大震災後の2011年7月にSoftBank 840Nがソフトウェア更新後、利用可能になり、また、既に発売されていたAndroidプラットフォームのスマートフォンが緊急地震速報の受信に対応するようになったが既存のフィーチャーフォン(いわゆるガラケー)には対応しない(対応できない)と明言している。 横浜市に拠点を置き、慈善事業を展開していた2つのNPO法人は、ソフトバンクモバイルの携帯電話端末約2,000台を法人名義(会員向け)で契約していたが、そのうちの一部が法人以外の組織に流失していた。また、うち約100台の端末は、薬物の密売や特殊詐欺などの犯罪に悪用されていた。NPO法人はこれらの端末を使う目的がなく、利用料金は代理店が負担していた。 前述の「デジタルツーカー」提携以降、ツーカーは「スカイメッセージ」などソフトバンクに準じたサービスも併せ持っていた(「スカイメッセージ」はソフトバンクと相互送受信可能だった)。また、ツーカーの営業区域外(旧「デジタルツーカー」区域)では、同一の通信方式のソフトバンクにローミングしていた。 なお、カスタマーオペレーションセンター(コールセンター含む)は、統合の過程で宮城県黒川郡富谷町(現・富谷市)、愛知県内、大阪府内、福岡市早良区の4箇所に集約された。富谷市は旧東日本会社と北陸エリアを、早良区は北陸・関西を除く旧西日本会社のエリアとディズニー・モバイル利用者を、それぞれ管轄している。愛知県内設置分は旧東海エリア、大阪府内設置分は旧関西エリアをそれぞれ管轄しているが、出納関係は、早良区のオペレーションセンターが管轄する。
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"ソフトバンクにおける個人情報の取り扱いが、公式ウェブサイトによって提示されている。", "title": "信用情報機関への誤登録事件" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "番号ポータビリティ (MNP) 開始前日の10月23日に新プランなどの発表を行った影響で、さまざまな出来事が発生した。ソフトバンクは10月28日15時頃から10月30日20時にかけて、ゴールドプランへの申し込み殺到によりソフトバンクの登録業務システムにトラブルが生じたと発表した。NTTドコモおよびKDDI (au) はホームページ上において、ソフトバンクモバイルに対して厳重に抗議したと発表した。また、一部店頭では「お客様各位 NTTドコモとKDDI(au)においてシステム障害が発生しております」との誤った説明がなされたと言われ(「ZAKZAK」による報道)、当時の混乱ぶりがうかがえる。このトラブルについて11月11日付ゲンダイネットの報道では、実際はソフトバンクから他社へのキャリア変更(転出)が殺到したのではないかとの推測がなされた。しかし減少数は少なかったので、MNPによる転出者が多すぎたというのも定かでない。また新規契約がかなり多く、ゴールドプランによる影響とも考えられる。別の報道では、家族割引契約の主副回線を決定するプログラムに問題があったとされる。家族まるごとMNPを利用して他事業者に引っ越しした場合、集約すべき主回線契約がなくなるため無限ループに陥ったと説明された。", "title": "番号ポータビリティに関する問題" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "なお時期は違えど、同様のMNP情報交換に関するトラブルがツーカーを含む携帯事業者4社全てで起こったことから、システムの拡充を急ぐことが各社に求められた。", "title": "番号ポータビリティに関する問題" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "契約時に通信速度の制御について“不利益の不告知”の疑い", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "通信契約締結時に通信速度の制御について 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3G端末からのWeb接続ができなくなった。また、一部機種とiPhoneではMMS(S!メール)の利用ができない状態となった。障害は4時間半後に一部コンテンツサービスの利用を除き復旧、午後1時53分に完全復旧と発表されたが、当日いっぱい影響が続いた。なお本件では最大で契約者約1476万人に影響がでている。同年7月15日、この障害の原因と対策について報告された。原因はハードウェアの故障と、予備サーバーへの自動切り替えが適切に機能しなかったことによると発表している。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2010年9月17日、19時37分頃からメールの送受信・Webへの接続がつながりにくいといった障害が発生した。発生エリアは日本全国であった。発生から3時間後の21時35分に復旧の発表がされたが、影響人数、原因等は発表されていない。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2011年5月25日、近畿2府3県(大阪府・京都府・兵庫県・奈良県・滋賀県)の一部地域で、ソフトバンクモバイルの契約者約7万2,000人について、携帯電話の通話や電子メールの送受信が困難になる障害が発生した。同社は、人為的に障害が引き起こされたとして、6月に大阪府警に被害届を提出。7月8日に同府警は、同社の大阪府内の事務所内にある通信機器端末のデータを、不正プログラムを仕込むことで破壊し、基地局からの電波発信を不可能にさせることで通信障害を引き起こしたとして、同社の業務委託先の元社員の男性を、電子計算機損壊等業務妨害罪で逮捕した。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2018年12月6日、午後1時39分ごろから全国でデータ通信や通話ができなくなったり、インターネット事業の「おうちのでんわ」および「SoftBank Air」で通信障害が発生した。この障害は同日午後6時4分復旧した。原因はエリクソン製のパケット交換機全台にソフトウェア異常が発生し、4Gネットワークに問題が発生、3Gネットワークにも輻輳が起こって通信障害が起きたとしている。また、この障害はイギリスのO2などエリクソン製の交換設備を使用する海外11カ国の通信事業者でもほぼ同時刻に発生したことも明らかにされた。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2009年3月より、ソフトバンクモバイルは、イー・モバイル網を使ったMVNOにおけるデータ通信サービスを実施した。これらのようなMNOによるMVNOに対し、社団法人テレコムサービス協会 MVNO協議会は次のように反対をしている。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "本行為は違法ではなくガイドラインにも反してはいないが、第1種通信免許をもつ事業者(MNO)が他のMNOの通信網を利用するMVNO事業を行うことは、第1種通信事業者としてのモバイル通信網の拡大に対する怠慢であり、有限な周波数の公平な利用に反するにとどまらず、事業者の多様化にもつながらず、移動体通信の競争を阻害する。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これに対し孫社長は、周波数を有効利用するものであり問題はないと反論をしている。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "これをふまえ、総務省は同問題に対し、総務省情報通信審議会電気通信事業政策部会および接続政策委員会において調査審議の上、抑制を踏まえた答申が取りまとめられる予定であると発表している。なおPHS事業者のウィルコムもNTTドコモおよびMVNO協議会議長である日本通信の設備を利用し、MVNOサービスを実施している。これをふまえ、総務省は2009年7月7日、「情報通信審議会 電気通信事業政策部会 接続政策委員会」の第7回会合を開催し、ソフトバンクとイー・モバイルのようなMNOのMVNOは「MNOは自ら基地局などの設備投資を行うのが義務である」という考え方に基づき原則禁止にする方向性をうちだした。ただし、NTTドコモとWILLCOMのMVNOのように異なる市場のサービスを提供する場合や、新規参入したMNOが基地局を全国展開するまで暫定的に利用する場合、MNOによるMVNO化は許容できるとした。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "なお、2010年10月1日より、ウィルコムのMVNOサービス、WILLCOM CORE 3Gのラインナップに、ソフトバンクモバイル・3G ハイスピード網が追加された(同日には法人向けデータ通信プランのみ、同年10月8日より、PHSとのデュアルプランが開始されるが、個人向けのデータ通信プランは用意されない)。これに伴って、同年9月30日を以って、従前のドコモ網を利用したサービスの新規受付は終了された。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ソフトバンクモバイルから発売されたかんたん携帯 821Tに関して、NTTドコモと富士通はソフトバンクモバイルおよび東芝に対して、不正競争防止法の模倣品販売の条項に基づき同端末の製造・販売などの差し止めを求め、東京地方裁判所に仮処分申請を申し立てた。ドコモおよび富士通は、NTTドコモから販売されている富士通製端末FOMAらくらくホンIIIのボタンレイアウト、ユーザインタフェースなど複数の項目でデザインなどが酷似していると主張。NTTドコモおよび富士通は、ソフトバンクモバイルおよび東芝に対し警告してきたが、満足のいく回答が得られなかったために仮処分申請に踏み切ったと記者会見で述べた。本件は2009年4月に和解が成立した。なお、和解金等の条件は非公表。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2007年5月30日、ソフトバンクモバイルも他社と同様の緊急地震速報配信システムの開発を表明した。このとき、提供時期は「2008年度中」とアナウンスされた。NTTドコモは2007年11月発売のFOMA 905iシリーズ全機種から、auは2008年1月以降発売の2008年春モデル10機種中6機種が対応し、以降は全機種が対応したが、ソフトバンクは2009年9月18日発売のSoftBank 831N一機種のみと出遅れた。同年5月19日に当端末が発表された際、サービス開始時期は、「今秋」 とアナウンスされたが、端末発売二日前の同年9月16日には「2009年11月下旬以降」に繰り下げられ、開始当時のサービスエリアも佐賀県・長崎県・熊本県・宮崎県・鹿児島県の九州5県に限定された。同年10月27日になってサービスエリアが長崎, 熊本, 宮崎, 鹿児島の4県に縮小され、予告されていた開始予定時期の直前の同年12月24日になって、九州4県でのサービス開始も撤回された。サービス開始時期は「2010年夏以降」に延期され、サービス提供エリアについても白紙となった。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2010年10月7日に全国対応完了を告知した。最初の対応機種は、SoftBank 831Nのみだったが、東日本大震災後の2011年7月にSoftBank 840Nがソフトウェア更新後、利用可能になり、また、既に発売されていたAndroidプラットフォームのスマートフォンが緊急地震速報の受信に対応するようになったが既存のフィーチャーフォン(いわゆるガラケー)には対応しない(対応できない)と明言している。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "横浜市に拠点を置き、慈善事業を展開していた2つのNPO法人は、ソフトバンクモバイルの携帯電話端末約2,000台を法人名義(会員向け)で契約していたが、そのうちの一部が法人以外の組織に流失していた。また、うち約100台の端末は、薬物の密売や特殊詐欺などの犯罪に悪用されていた。NPO法人はこれらの端末を使う目的がなく、利用料金は代理店が負担していた。", "title": "諸問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "前述の「デジタルツーカー」提携以降、ツーカーは「スカイメッセージ」などソフトバンクに準じたサービスも併せ持っていた(「スカイメッセージ」はソフトバンクと相互送受信可能だった)。また、ツーカーの営業区域外(旧「デジタルツーカー」区域)では、同一の通信方式のソフトバンクにローミングしていた。", "title": "ツーカーとの提携" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "なお、カスタマーオペレーションセンター(コールセンター含む)は、統合の過程で宮城県黒川郡富谷町(現・富谷市)、愛知県内、大阪府内、福岡市早良区の4箇所に集約された。富谷市は旧東日本会社と北陸エリアを、早良区は北陸・関西を除く旧西日本会社のエリアとディズニー・モバイル利用者を、それぞれ管轄している。愛知県内設置分は旧東海エリア、大阪府内設置分は旧関西エリアをそれぞれ管轄しているが、出納関係は、早良区のオペレーションセンターが管轄する。", "title": "地域会社時代の各社の業務区域" } ]
SoftBank(ソフトバンク)は、ソフトバンクが展開する携帯電話のサービスブランドの一つである。 デジタルホン/デジタルツーカー→J-PHONE→ボーダフォンの流れを汲む。
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デジタルツーカー中国設立 * 1995年 ** [[4月28日]] - デジタルツーカー東北設立 ** [[7月28日]] - デジタルツーカー北海道設立 ** [[9月4日]] - デジタルツーカー北陸設立 ** [[10月4日]] - デジタルツーカー四国設立 === J-PHONE === [[File:Jan14 01.JPG|thumb|right|150px|J-フォンセンター名古屋]] * 1997年 ** 2月 : 東京デジタルホンがコミュニケーションネーム「'''J-PHONE'''」を使用開始。イメージキャラクターに[[永瀬正敏]]と{{仮リンク|キャシー・チャウ|zh|周海媚}}を起用した[[コマーシャルメッセージ|CM]]や[[広告]]を展開する。ロゴマークは斜体で、'''''J-PHONE''''' ** 11月 : 携帯電話での[[Eメール]]送受信サービスとしては日本初となるSky Walker(スカイウォーカー)を開始 * 1998年3月 : イメージキャラクターに[[藤原紀香]](当初は旧J-フォン東京地区のみ、後に東海地区を除く全国)や[[優香]](東海地区のみ)や[[原田知世]]・[[王菲|フェイ・ウォン]](どちらも関西地区のみ)を起用したCMや広告が流れ、[[OL]]など女性を中心にブームが起こる * 1999年 ** 8月 : 日産の経営悪化で、携帯電話事業など[[自動車]]との関連が薄い事業から撤退する事になり、日産が保有していたデジタルツーカー6社の株式を、デジタルホン3社を有する日本テレコムに譲渡 ** 10月 : デジタルツーカー各社が「J-フォン」を冠した商号に変更し、全国統一ブランドとなった(デジタルツーカーの合弁相手であった[[ツーカー]]3社は、第二電電(現[[KDDI]]{{efn|KDDIは翌年2000年の10月にDDI、[[ケイディディ|KDD]]、[[日本移動通信|IDO]]の3社が[[合併 (企業)|合併]]して発足。}})に譲渡) ** 12月 : J-スカイサービス(現[[Yahoo!ケータイ]])開始 * 2000年 ** 10月 : 9地域会社のうち、東海のみがそのまま存続。北海道・東北・東京が東日本、関西・北陸・四国・中国、九州が西日本の2社へ集約統合し、全国3社体制となる。 ** 11月 : 現在の[[カメラ付き携帯電話]]の定礎になる機種([[J-SH04]])発売 * 2001年 ** 6月 : [[写メール]]キャンペーン開始 ** 11月 : 東日本・東海・西日本の3社が持株会社に統合され、全国1社体制となる * 2002年3月 : 契約者数が、事業開始後初めてauを上回る * 2003年10月 : ブランド・会社名をJ-PHONEからVodafoneへ変更 === ボーダフォン === [[File:Vodafone Mobile SHOP ikebukuro japan.jpg|thumb|right|150px|ボーダフォンショップ]] * 2001年10月 : 筆頭株主である日本テレコムが英ボーダフォングループの傘下となった事に伴い、J-フォンもVodafoneグループとなった。これにより、2003年のブランド名変更まで、J-PHONEロゴの下にVodafoneロゴを並べる形のロゴマークへ変更した。 * 2002年12月 : [[NTTドコモ]]や[[エリクソン]]等が中心となって開発した、[[W-CDMA]]方式(別名:UMTS)による第三世代携帯電話サービスVodafone Global Standard(略称VGS、2004年末発売シリーズから「Vodafone 3G」に名称変更)を開始。エリアは小型[[基地局]]を中心として急速に広めたが、一部の地域では最高速度が64k[[ビット毎秒|bps]]に制限され、屋内や地下鉄のカバレッジにも問題があった。さらに、初期の端末は[[ボーダフォンライブ]]の機能が使えないなど、競合するNTTドコモの[[FOMA]]、auの[[CDMA 1X]]に劣り、見通しに暗雲が垂れ込めていた。その間ボーダフォンは第2世代PDC方式サービスを主力とし、2004年末から発売のVodafone 3Gより第三世代へ注力することが発表された。 * 2003年10月1日 : 商号、ブランド名共にJ-フォンから'''ボーダフォン'''に変更した。当初は社名に「J-フォン」を残したままボーダフォンブランドを導入する予定であったが、親会社の意向もあり、[[社長]]のダリル・E・グリーン(当時)の決断で社名も含めて変更することになった。なおボーダフォングループでは、通常社名がボーダフォン××と地域名が付く。これに倣うとボーダフォンジャパンとなるが、グループ内では「ボーダフォンK.K.」と定義された。また登記簿上の名称も(地域名を付けない)ボーダフォン株式会社とし、他地域のボーダフォン事業会社(OpCo: オプコという)にない名称となった。 * 2004年 ** 4月 : 前年のブランド名変更の際掲げられた'''「[[ソフトバンク#ボーダフォンから10の約束|ボーダフォンから10の約束]]」'''を、自社[[ウェブサイト]]上から削除し、以下のようなサービスの改定が発表された。 *** 「[[ハッピータイム (ソフトバンクモバイル)|ハッピータイム]]」(土日祝日はVodafone端末に電話をすると終日1分5円)は「[[ハッピータイム (ソフトバンクモバイル)#ハッピータイム2|ハッピータイム2]]」(土日祝日のVodafone端末への電話は5分話せばその後の30分間が無料)となり、「[[TVコール]]」(テレビ電話)の通話料を[[音声通話]]と同額から1.8倍へと改定前の料金に戻すなど、迷走する姿が明らかになる。「[[ハッピーボーナス]]」(2年契約することで[[携帯電話の基本料金|基本料金]]が安くなるなどの特典が受けられるオプション契約)などで顧客を集めた後の改定にユーザーから反感の声が上がった。ボーダフォンは料金改定の措置として「[[年間割引]]」や「ハッピーボーナス」の解除料を一時的に無料にした<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/19378.html ボーダフォン、ハッピーボーナスなどの解除料を条件付きで無料に]</ref>。 *** 第三世代携帯電話サービスの遅れや料金制度の変更に対する強い不満を感じた契約者の解約などで、契約数は低迷。2004年3月期連結[[決算]]では減収減益。日本テレコム売却の影響もでて[[黒字と赤字|赤字]]に転落した。NTTドコモやKDDI(au)が増収増益で過去最高の最終利益を記録する中で対照的な結果となった。 ** [[6月23日]] : 社長のダリル・E・グリーンは役員改選の[[取締役会]]直前にして「一身上の都合」を理由に辞任(J.ブライアン・クラークが暫定的に社長を務める)。その後、[[インド]]の通信会社・TETEの社長に就任したが、2007年5月に退任。翌6月、日本にまた戻りマンパワージャパンの代表取締役社長に就任した。 ** 7月 : 解約者数が新規契約者数を上回る(純減)になった。この状況を巻き返すため、8月、NTTドコモで[[iモード]]や[[FOMA]]の開発で中心的な役割を担ったNTTドコモ前副社長の[[津田志郎]]を社長に迎え入れることを発表した。 ** [[11月21日]] : Vodafone 3GシリーズおよびVGSシリーズ限定で[[パケット定額制]]サービス「[[デュアルパケット定額|パケットフリー]]」を開始した。 ** [[12月1日]] : 津田が社長に就任。また、2005年より[[埼玉県]][[さいたま市]]の[[サッカー]]クラブ・[[浦和レッドダイヤモンズ]]のユニフォームスポンサーになる。 ** オンネットグループ内の通話が無料になる[[ソフトバンクモバイルオフィス|ボーダフォンモバイルオフィス]](通称: 社員間通話定額)を開始(2005年改定)。 ** 3G端末の出遅れや3G冬モデルで採用された「世界共通[[ユーザインタフェース]]」への馴染みの無さからの敬遠、犯罪に悪用されるなどの[[ボーダフォンプリペイドサービス|プリペイド携帯]]へのネガティブイメージにより、2005年1月 - 3月に再び純減を記録。2005年4月より、津田が会長へ退き英ボーダフォン社長で元日本テレコム社長でもあり、日本の携帯ユーザーの志向や市場を知る、ウィリアム・T・モロー(通称: ビル・モロー)を社長に迎え入れることとなった。その後、国内市場のニーズに合わせた端末の導入などの梃入れを行い、加入者の激減に多少歯止めがかかった。 ** [[12月31日]] : この日をもって一部の旧デジタルツーカー端末によるツーカーへのローミングが廃止され、当該端末は東名阪地区での使用ができなくなった。 * 2005年 ** [[4月20日]] : 新たに3つの料金定額サービス(通称:ボーダフォン3つの定額、後に「LOVE定額」が加わり「ボーダフォン[[#4つの定額|4つの定額]]」)を追加発表<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0504/20/news044.html ITmedia:ボーダフォン「メール定額」「家族間通話定額」を発表]</ref>。 ** [[10月11日]] : 携帯電話業界初、料金定額の新サービス[[LOVE定額]]を発表<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/26010.html ボーダフォン、4つ目の定額「LOVE定額」導入]</ref>。 * 2006年 ** [[3月17日]] : 英ボーダフォンはボーダフォン日本法人をソフトバンクに1兆7,500億円で譲渡することを決定。今後は日本法人の社名変更をする方針である事が明らかになった。 ** [[4月4日]] : 津田ほか6人の取締役の退任予定とソフトバンク側からの役員派遣予定が発表された(モローは留任)。 ** [[9月1日]] : 家族向け割引サービス「[[家族割引]]」改定。請求先名義や契約者名義の異なる回線で加入できるように改定され、また地域が異なる回線同士でも加入できるようになり、副回線も4回線から9回線に拡大される。これにより、[[単身赴任]]などでも加入でき、支払口座を個別にすることもできるようになった。 *** 日本初の携帯電話端末の[[割賦]]支払制度[[スーパーボーナス]]を開始。 ** [[9月13日]] : [[iPod nano]]と携帯電話のセット販売「スーパーボーナス + iPod nano」を開始。 ** 10月1日 : 商号を「ソフトバンクモバイル株式会社」へ変更。社名変更と同時にブランド名も「SoftBank」に変更。日本における「Vodafone」ブランドはわずか3年で消滅した。 ; <span id="4つの定額">4つの定額</span> : '''[[家族通話定額]]''' :: [[家族割引サービス|家族割引]]加入者を対象に、家族間の通話を月額315円の定額で利用できるプラン。 : '''[[メール定額]]''' :: 3G端末を対象に、国内の[[ショートメッセージサービス|SMS]]、[[マルチメディアメッセージングサービス|MMS]]、VGSメールの送受信を月額840円の定額で利用できるプラン。 : '''[[デュアルパケット定額]]''' :: 3G端末を対象に1,050円から4,095円の2段階で[[パケット通信]]を定額で利用できるプラン{{efn|既に「パケットフリー」という定額プランがあったが、利用できる料金プランの制限があった。「デュアルパケット定額」では料金プランの関係なしに加入できる。「パケットフリー」加入者は自動的に「デュアルパケット定額」への移行となった。}}。 : '''[[LOVE定額]]''' :: 全加入者(プリペイド式を含むがプリペイド式の電話からの発信は適用外)を対象に、登録した1件のボーダフォン携帯電話への、国内のSMS・MMS・[[スカイメール]]・ロングメールの送受信、通話(発信)を月額315円の定額で利用できるプラン(TVコールは2006年5月度までは定額の対象、その後は通常料金の半額)。 === SoftBank === [[File:SoftBank Hankyu-Ibaraki.JPG|thumb|right|200px|ソフトバンク阪急茨木]] [[File:ソフトバンク今宿.jpg|thumb|right|200px|ソフトバンク今宿旧店舗<br />(ロゴの一部が立体的になっている)]] [[File:Softbank in Sendai & the decorations of Sendai Star Festival.JPG|thumb|right|200px|ソフトバンク[[仙台市|仙台]][[クリスロード]]と[[仙台七夕]]飾り]] * 2006年 ** 10月 : ソフトバンクモバイルへの社名変更およびブランド名の変更にあたり、10月以降変更または新規登録したメールアドレスに対しては新しいドメイン "softbank.ne.jp" を設定するが、それ以前に設定したアドレスについてドメインの変更をしない旨が告知された。 ** ボーダフォン時のサービス名称が変更された。下記は例。 *** 「[[Vodafone live!]]」→「'''[[Yahoo!ケータイ]]'''」(Y!ケータイ)(インターネット接続サービス) *** メインページがポータルサイト[[Yahoo! JAPAN]]のソフトバンク携帯専用版([[Yahoo!モバイル]](他キャリア向けには現在も提供中)とは異なる) *** 「Vアプリ」→「'''[[S!アプリ]]'''」(アプリサービス) *** 「ボーダフォンライブ!基本使用料」」→「'''[[S!ベーシックパック]]'''」 *** 「Vodafone 3G」→「'''[[SoftBank 3G]]'''」 *** 携帯電話端末「V6-2シリーズ」→「'''[[SoftBank 6-2]]'''」 ** [[10月23日]] : ソフトバンク携帯電話同士の通話料とSMSの利用が無料(翌24日にMMS無料も発表)となる新料金プランの「'''[[ゴールドプラン (SoftBank)|ゴールドプラン]]'''」、割賦契約の「'''[[スーパーボーナス|新スーパーボーナス]]'''」及び2007年[[1月15日]]までに契約すると基本料がずっと70%オフやオプション、基本使用料が一定期間無料になる「ソフトバンク大創業祭キャンペーン」の3つから成る「[[予想外割]]」を発表。同時に、[[オレンジ/ブループラン|「ブループラン」・「オレンジプラン」]]の2つの新料金プラン、全機種購入料金(頭金)「0円」も発表。 ** 10月24日 : [[番号ポータビリティ]] (MNP) では、ソフトバンクへの転入はSoftBank 3G契約のみ受け付け、SoftBank 6-2の契約は受け付けない。 ** [[10月31日]] : 新しく打ち出した全機種の通話料・メール代「0円」広告に対し、0円となる条件がわかりにくかったことから[[公正取引委員会]]が[[不当景品類及び不当表示防止法|景品表示法]]違反の疑いがあるとして調査を開始<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/31749.html 公取、「0円」についてソフトバンクに説明求める]</ref>。 ** [[11月1日]] : 公正取引委員会の指導により、ソフトバンクモバイルは「0円」広告を修正することを発表<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/31782.html ソフトバンク、「0円」広告を修正へ]。</ref>。 ** [[11月2日]] : ソフトバンクモバイルのサイトに『「0円」への質問にお答えします。』と題した、質問集などを掲載。 ** [[12月12日]] : 「景品表示法第4条第1項第2号(有利誤認)の規定に違反するおそれがある表示を行っていた」として、公正取引委員会から警告を受ける(⇒[[#広告・テレビCMに関する問題|広告・テレビCMに関する問題]])。 * 2007年 ** [[1月]] : 1月課金分の料金から[[基礎的電気通信役務|ユニバーサルサービス料]]が設定。 ** [[1月5日]] : 月額基本使用料980円の新料金プラン「'''[[ホワイトプラン]]'''」を発表。 ** [[1月25日]] : ホワイトプラン専用の割引サービス「'''[[Wホワイト]]'''」を発表。 ** [[5月10日]] : ホワイトプラン加入者に対して、追加料金なしで家族割引加入回線間の通話が24時間無料になるサービス「'''ホワイト家族24'''」を発表。 ** [[9月28日]] : ボーダフォン時代から展開していた[[S!CAST]]と[[S!ケータイ動画]]のサービスを終了。ケータイ動画はYahoo!動画β版へ移行する。 ** [[10月5日]] : auの新サービス「[[シンプルコース]]」の各料金プランに対抗する「[[シンプルオレンジS]]」「[[シンプルオレンジL]]」を発表。auの場合と異なり、特にコース分けはされず、その代わりに「新スーパーボーナス」による端末購入を条件とし、さらにシンプルオレンジ選択時のスーパーボーナス特別割引額を減額することで対応した。 ** [[12月6日]] : CM好感度調査『2007年度消費者のCM-Branding評価best10』にて、ソフトバンクモバイルが年間首位(2009年まで3年連続1位)に選ばれる。<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20071207/1005135/?ST=digital 今年のCM好感度1位は“あの一家”〜CM総研がCM-Branding評価best10を発表〜 - 日経トレンディネット]</ref> * 2008年 ** [[1月10日]] : [[ソフトバンク呼び出し音]]が全国でサービス開始。 ** [[1月22日]] : [[ウォルト・ディズニー・ジャパン]]が、ソフトバンクモバイルとの協業で行う[[ディズニー・モバイル]]のサービス内容について発表。[[3月1日]]にサービス開始。 ** [[1月28日]] : S!キャストの後継サービスとして、[[S!情報チャンネル]]を開始。また、[[ティファニー]]と提携し[[823SH]]をベースとした[[コラボレーション]]モデルを制作することを発表。同時に、着せ替えパネル「JAPAN TEXTURE」も発表。[[京友禅]]の木村染匠が制作する「友禅」と[[京漆器]]の象彦が制作する「漆」2タイプが用意される。 *** [[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の[[電子メール|メール]]がケータイメールと同様に使える「[[PCメール]]」の導入を発表。 ** [[2月1日]] : 一般的な[[学校]]に通学し、かつ[[新規契約 (携帯電話)|新規契約]]する[[学生]][[ユーザー]]の基本使用料を3年間無料にする「'''[[ホワイト学割]]'''」受付、提供開始。 ** [[2月4日]] : 3G[[プリペイド式携帯電話|プリペイドサービス]]「[[プリモバイル]]」を開始。 ** [[2月14日]] : [[週刊新潮]]2月21日号記事より[[在日韓国人]]だけが安いという割引サービスについて報道される。なお、韓国人以外にも同様のプランがeLifeTimeや[[光通信 (企業)|光通信]](法人向け)などから提供されている。 ** [[2月22日]] : 最大10回線まで社員同士の通話が24時間無料となる「ホワイト法人24」を発表。また[[2月28日]]には「ホワイト法人24+」を発表。 ** [[3月31日]] : 「パケットし放題」での「PCサイトダイレクト」利用時の上限額の値下げとブループラン用「パケット定額Biz」「パケット定額フル」の新規申し込み受付終了。 ** [[4月15日]] : 既存加入者の「ホワイト学割」申し込み受付開始。2008年3月31日時点でSoftBank携帯電話利用者かつ学生だった者が対象で、この日以降最初の機種変更時に申し込み可能。 ** [[4月24日]] : ソフトバンクと[[チャイナモバイル]]、ボーダフォンが合弁会社「ジョイント・イノベーション・ラボ(JIL)」を同年夏をめどに設立すると発表。JILは携帯電話向けインターネットサービスの高度化を目指して新技術やサービスを開発することを目的とする。 ** [[5月8日]] : BBフォンとの通話が24時間無料となる「[[ホワイトコール24]]」と、「おとくライン」を利用する法人向けの同様のサービス「ホワイトライン24」を発表。 ** [[6月3日]] : 「[[ダブルナンバー]]」などの新サービスを発表。 ** [[6月4日]] : 「[[iPhone]](アイフォーン)」の日本国内販売に関する契約を、米Apple社と締結したことを発表<ref>[http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2008/20080604_01/ 「iPhone」について]</ref>。 ** [[7月3日]] : 2010年3月31日第2世代携帯電話(PDC)サービスを終了すると発表。 ** [[7月11日]] : 「iPhone 3G」の販売を開始。 ** [[11月21日]] : ソフトバンク初のカシオ製端末[[830CA]]発売。 ** [[12月5日]] : ソフトバンク初のシエラ・ワイヤレス製端末[[C01SW]]発売。 * 2009年 ** [[3月6日]] : イー・モバイル網利用のパソコン向けモバイルデータ通信サービス開始。 ** [[4月1日]] : 新たに[[ベライゾン・ワイヤレス]]がJILに参画することを発表。また、最初の実績としてウィジェットの稼働環境などが2010年3月末をめどに提供される見通し<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090508/329682/ JILの活動が本格化,2010年3月末をメドにウィジェット利用環境を提供]</ref>。 ** [[6月26日]] : 「iPhone 3GS」の販売を開始。 * 2010年 ** [[3月28日]] : 「電波改善宣言」と称して、基地局の増設、自宅・店舗用小型基地局の提供、Wi-Fiルータ提供を発表<ref>[http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2010/20100328_03/index.html ソフトバンク電波改善宣言]</ref>。 ** [[3月31日]] : Softbank 6-2のサービスが終了。 ** [[5月28日]] : 「[[iPad]]」の日本国内独占販売開始。 ** [[6月24日]] : 「[[iPhone 4]]」の販売を開始。 ** [[6月28日]] : 一部の国・地域への国際ローミング時の通信割引サービス「[[海外パケットし放題]]」の提供を[[7月21日]]より開始すると発表<ref>[http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2010/20100628_02/index.html 海外向けパケット定額サービス登場!]</ref>。 ** [[12月15日]] : 「ソフトバンクかんたん保険」の提供を開始。 * 2011年 ** [[2月]] : 1.5GHz帯による高速データ通信サービス「[[ULTRA SPEED]]」を法人向けに提供開始。 ** [[7月1日]] : PSコミュニケーションズ株式会社が提供する「ほっと電報」の、ソフトバンク携帯電話からの送信受付サービスを開始。 ** [[10月14日]] : 「[[iPhone#iPhone 4S|iPhone 4S]]」を販売開始。 * 2012年 ** [[2月24日]] : [[Wireless City Planning]]のAXGP(TD-LTE)及びULTRA SPEEDを組み合わせたサービス「[[SoftBank 4G]]」を開始。 ** [[2月29日]] : [[900MHz帯]](15MHz幅×2)がソフトバンクモバイルへ割り当てられる事が決定<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/515372.html “プラチナバンド”900MHz帯はソフトバンクへ、電監審が答申 - ケータイ Watch]</ref>。 ** [[3月1日]] : ソフトバンクモバイルに割り当てられる事が決定した900MHz帯によるサービスが総務省により認可され、その後行われた会見において900MHz帯によるサービスを[[プラチナバンド (ソフトバンク)|プラチナ電波]]とする事を発表<ref>[http://mb.softbank.jp/mb/service_area/900mhz/?cid=gntp_cmtp_900m_stlw20120301a 新規周波数900MHz帯 使用基地局の認定について:サービスエリア ソフトバンクモバイル]</ref>。 ** [[7月25日]] : 新規に獲得した900MHz帯の一部(5MHz幅×2)を使用してW-CDMA (HSPA+) 方式によるサービスを開始。 ** [[9月21日]] : 「[[iPhone 5]]」の取り扱いを開始。 ** [[10月1日]] : [[イー・モバイル]]を運営する[[イー・アクセス]]と業務提携する。親会社の[[ソフトバンク]]による完全子会社に伴うもので、[[1.7GHz帯]]の[[テザリング]]の総量規制緩和や実施時期の前倒しが行われる<ref>[http://webcast.softbank.co.jp/ja/pdf/20121001_01/20121001_01.pdf ソフトバンク株式会社による株式交換を通じてのイー・アクセス株式会社の完全子会社化に関するお知らせ 兼 ソフトバンクモバイル株式会社とイー・アクセス株式会社の業務提携のお知らせ] - ソフトバンク株式会社 2012年10月1日</ref>。 *[[2013年]][[4月2日]] : [[ダブルナンバー]]の新規受付終了<ref name="ダブルナンバー新規受け付けの終了について">[http://mb.softbank.jp/mb/news/contents/201303131003530000/ ダブルナンバー新規受け付けの終了について]:ソフトバンクモバイル2013年3月19日</ref><ref name="ソフトバンクの「ダブルナンバー」、新規受付を終了">[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/592320.html ソフトバンクの「ダブルナンバー」、新規受付を終了] ケータイwatch2013年3月19日</ref>。既存契約者へのサービスもその後2014年3月31日に終了した。 <!-- * :ソフトバンクモバイルとイー・アクセス、[[ウィルコム]]のグループ3社間での無料通話提供を代表者の孫正義が表明<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1306/21/news072.html ソフトバンク、イー・アクセス/ウィルコムとの通話も無料に 株主総会で孫氏が「やりましょう」]ITmedia、2013年6月21日</ref>。 (スマ放題プランや誰とでも定額などの拡充で実施済み) --> * 2014年 ** [[6月7日]] : 国内通話無料の新料金プラン「'''[[スマ放題]]'''」を発表。 ** [[7月]] : W-CDMA方式を運用していない残りの900MHz帯(10MHz幅×2)にてLTE方式によるサービスを開始。 ** 10月1日 : ソニーモバイル(現ソニー)「[[Xperia]]」の取り扱いを表明。 ** 11月21日 : 「[[Xperia Z3]]」の販売を開始。 * [[2015年]] ** [[4月1日]] : [[ソフトバンクBB]]株式会社、[[ソフトバンクテレコム]]株式会社、[[ワイモバイル]]株式会社を吸収合併<ref>[http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2015/20150123_01/ 合併に関するお知らせ] ITmedia、2015年1月23日</ref>。 :: Y!mobileブランドの回線が、従来からの当社の回線使用分についても自社回線となり、SoftBankブランドと[[Y!mobile]]ブランドのAXGP回線とウィルコム3Gネットワークのうち、[[インターネットイニシアティブ]]に譲渡して同社からサポート委託を受けている契約を除き、すべてがソフトバンクモバイルの自社回線で行う体制となった。なおブランドとしては会社の合併後も過去の経緯上の名残により、現在も「ソフトバンク」と[[Y!mobile|「ワイモバイル」]]のデュアルブランドとして併存しており、それぞれの加入者サービスも引き続いて継続している。 :* 5月29日 :「[[Galaxy S6 edge (SoftBank)|Galaxy S6 Edge]]」の販売を開始。 *[[2016年]]:3月「パ・リーグLIVE」サービス終了(2月発表)<ref>[http://www.softbank.jp/mobile/info/personal/news/service/20160216a/ 「パ・リーグLIVE」サービス終了のご案内]</ref> *2018年 **10月10日 : 日本初上陸となる[[Google Pixel]]の取り扱いを表明。 **11月1日:「[[Pixel 3|Google Pixel 3]]」の販売を開始。 *[[2019年]] ** 5月17日 : 「[[Pixel 3a|Google Pixel 3a]]」の販売を開始。 ** 9月12日:「スマ放題」シリーズが新規受付終了。同プランは3Gサービスで唯一契約可能なプランだったため、事実上3Gサービス自体の新規受付も終了となった。 ** 10月24日 : 「[[Pixel 4|Google Pixel 4]]」の販売を開始。 ** 11月12日:フォトビジョン・みまもりカメラ・みまもりホームセキュリティ・スマート体組成計の各専用プラン、シンプルスタイル(3Gケータイ/3Gスマートフォン)の新規受付終了<ref>[https://www.softbank.jp/mobile/info/personal/news/service/20191011a/ 一部料金プランの新規受付終了のご案内]</ref>。 *[[2020年]] **3月27日 : SoftBank 5G のサービスを開始。 **10月13日 : 5G対応の「[[iPhone 12]]」を販売開始。 **10月15日 : 5G対応の「[[Pixel 5|Google Pixel 4a (5G)]]」を国内キャリア独占販売開始。 *[[2021年]] **7月14日 : eSIMのサービスを開始。当初はiPhoneとGoogle Pixelに対応。 **7月16日 : [[シャープ]]と[[ライカ]]の共同開発機「[[LEITZ PHONE 1]]」の販売を開始。 **8月26日 : 「[[Pixel 5a|Google Pixel 5a (5G)]]」を世界の通信事業者で唯一発売した。 **11月17日 : 新プログラム「新トクするサポート」の提供を開始。 **11月26日 : [[バルミューダ]]の「[[BALMUDA Phone]]」の販売を開始。 *[[2022年]] **12月16日 :「[[神ジューデン]]」スマホ第一弾となる[[Xiaomi|シャオミ]]製の端末を発売<ref>{{Cite web |title=ソフトバンク「今後は急速充電市場を開拓」、“神ジューデン”第1弾「Xiaomi 12T Pro」を皮切りに |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1462113.html |website=ケータイ Watch |date=2022-12-08 |access-date=2023-10-06 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>。 *[[2023年]] **4月12日 : 緊急時にau回線が利用可能な「副回線サービス」の提供を開始。 **10月3日 : 新料金プラン「メリハリ無制限+」の提供を開始。 **10月6日 : [[OPPO]]製の神ジューデンスマホ新機種を発売。 **11月20日 : [[モトローラ・モビリティ|Motorola]]の廉価版の折りたたみスマートフォンの取り扱いを表明。 == 現行のサービス == === 料金プラン === ;2020年3月12日時点で新規契約が可能なプラン *メリハリプラン *:最大50ギガバイトまでのデータ通信が可能。一部の動画・SNSサイトに対する通信をデータ通信料から除外する(カウントフリー)。カウントフリー対象分を含む月間通信量が2GB以下の場合、料金が1500円割引となる。なお当プラン契約の場合[[月月割]]の適用対象外となる。 *ミニフィットプラン *:データ通信量に応じて料金が変動するプラン(閾値は1GB・2GB)。月間通信量の上限は5GBで、上限を超えた場合は通信速度が128kbpsに制限される。なお当プラン契約の場合月月割の適用対象外となる。 *通話オプション *:上記2プランとセットで契約する通話料金プラン。1回5分以内の通話が無料になる「準定額オプション+」およびほぼ全ての通話が無料になる「定額オプション+」を別途付加することができる。 *[[シンプルスタイル (ソフトバンク)|シンプルスタイル]] *:2008年2月4日新規受付開始した、料金先払い([[プリペイド]])制プラン。2019年11月13日以降は4Gのみ。 ;2020年3月11日に新規契約受付を終了したプラン *ウルトラギガモンスター+(データ定額50GB+) *:最大50ギガバイトまでのデータ通信が可能。一部の動画・SNSサイトに対する通信をデータ通信料から除外する(カウントフリー)。当プラン契約の場合[[月月割]]の適用対象外となる。 **{{要出典範囲|date=2020-05|※3日間で3GB以上を通信した場合は、翌日が速度制限の対象となる。}} **{{要出典範囲|date=2020-05|:※動画や音楽等のコンテンツのストリーミング時は通信制御にて500kbpsに変換されるため、本来の品質より劣化したコンテンツしか鑑賞できない場合がある。}} *データ定額ミニモンスター *:データ通信量に応じて料金が変動するプラン(閾値は1GB・2GB・4GB)。当プラン契約の場合月月割の適用対象外となる。 ;2019年9月12日に新規受付を終了したプラン *[[スマ放題|スマ放題・スマ放題ライト]] *:2014年7月受付を開始した料金プラン。2018年9月以降は、携帯・[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]機種のみ契約可能。本プランの新規受付終了により、3G通常契約(シンプルスタイル・特殊端末以外)で契約可能なプランは消滅し、事実上3G通常契約自体の新規受付が同日をもって終了となった。 ;2018年9月までに新規契約受付を終了したプラン *[[ホワイトプラン]] *:申込時期によりサービス内容に相違があるが、広告等ではすべて「ホワイトプラン」表記である。 *ホワイトプランR *:2012年11月1日から受付を開始した料金プランである。ホワイトプランNとの違いは、基本料が無料になる月がなくなったことと、初回の契約更新月が25ヶ月目のみになったことである。 *ホワイトプランN *:2010年4月27日から[[2012年]][[10月31日]]まで受け付けていた料金プランである。旧ホワイトプランに違約金(9500円(税抜)、更新月除く)付きの2年契約(2年ごとに自動更新)が付加された。障害者向けのハードフレンド割引が適用されている場合は、違約金付きの2年契約は免除される。ソフトバンクオンラインショップで新規契約で携帯電話端末を買うとホワイトプランNになる(旧ホワイトプランで利用している場合の機種変更の場合はそのまま)。 *旧ホワイトプラン *:2007年1月に登場した、ソフトバンクの主力料金プラン。2010年4月26日をもって新規受付終了。 *[[ゴールドプラン (SoftBank)|ゴールドプラン]] *:2006年10月に登場。[[ホワイトプラン]]の登場で存在価値が薄れている。2015年8月31日をもって新規受付終了。 *[[オレンジ/ブループラン|オレンジプラン]] *:2006年10月に登場した、[[Au (携帯電話)|au]]の[[CDMA 1X]]、[[CDMA 1X WIN]]の2つの料金プランより基本使用料が200円安い料金プラン。2015年8月31日をもって新規受付終了。 *[[オレンジ/ブループラン|ブループラン]] *:2006年10月に登場した、[[NTTドコモ]]の[[FOMA]]・[[mova]]の新・料金プランより基本使用料が200円安い料金プラン。2015年8月31日をもって新規受付終了。 *[[レッドプラン]] *:[[ボーダフォン]]時代の料金プランで、2007年3月で新規受付終了。 === 主なオプション === ; [[ウェブ使用料]] : Web、[[S!メール]](MMS)などの基本サービス。月額300円(税抜)。 ;[[S!メール(MMS)どこでもアクセス]] :S!メール(@*.vodafone.ne.jp、@softbank.ne.jp)をブラウザー経由で利用できる。月額300円(税抜)。 ;[[あんしん保証パックプラス]] :あんしん保証パックとの違いは、ケータイなんでもサポート(単品での加入の場合、月額500円(税抜)。)が付くこと。月額650円(税抜)。 ; [[あんしん保証パック]] : 修理無料になるパック。1年後の電池無料提供の特典や、機種変更時の特典等もある。月額500円(税抜)。 : '''''いかなる現象でも水濡れの痕跡を発見したら原因は水濡れ故障として扱われる'''''(ソフトバンク本社より回答)[http://faq.softbank.jp/faq/sbm/app/servlet/qadoc?010644] ; [[ケータイ基本パック]](旧・スーパー便利パック→旧・[[基本オプションパック]]) : 機能強化版の留守番電話や紛失時の遠隔ロック(対応機のみ)などのサービスをひとまとめにしたオプションパック。月額500円(税抜)。 ; [[スマートフォン基本パック]] : ケータイ基本パックのスマートフォン版で、ウイルス対策ソフトの[[マカフィー]]など、パッケージ内容が一部スマートフォン向けに変更されたオプションパック。月額500円(税抜)。ただし、[[iPhone]]の場合は[[iPhone基本パック]]となり、内容も別となる(金額は同一)。 ; [[S!電話帳バックアップ]](旧・S!アドレスブック) : 電話帳のデータをサーバへ預けておき、機種変更時の移行や迷惑メール対策に利用できる。パソコンからの編集も可能。基本オプションパックに含まれ、単独で付与した場合は月額100円(税抜)。 ; [[パケットし放題]] : パケット定額制サービス。 ; 請求書オプション : 請求書を紙面で受け取りたい場合に付加するオプション。請求先ごとに月額100円(税抜)。「[[障害者割引|ハートフレンド割引]]」加入回線を含む請求先など、手数料が無料となる場合がある。 === サービス === * [[Yahoo!ケータイ]] * [[位置ナビ]](旧・イチなび)([[SoftBank 3G|3G]]) * [[S!情報チャンネル]](3G) * [[ちかチャット]](3G) * [[S!FeliCa]](3G) * [[フルブラウザ|PCサイトブラウザ]](3G) * [[PCサイトダイレクト]]([[SoftBank X|Xシリーズ]]) * [[ソフトバンクワイヤレスアシスタント]] * [[データ通信]] * [[アクセスインターネット]] - [[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]契約をせずに[[インターネット]]に接続できるサービス * [[テレビ電話|TVコール]](3G、Xシリーズ) * [[各種テレホンサービス]] * [[情報知っ得ダイヤル]] * [[ソフトバンクモバイルグルメ]] * [[きせかえアレンジ]](3G) * [[S!まとめて支払い]](3G) * [[ダブルナンバー]](3G) - [[2013年]][[4月2日]]で新規加入受付終了<ref name="ダブルナンバー新規受け付けの終了について"/><ref name="ソフトバンクの「ダブルナンバー」、新規受付を終了"/>。既存加入者は継続。 * [[世界対応ケータイ]](旧・国際ローミング)(3G、Xシリーズ) ==== コンテンツ ==== * [[タダデコ]](3G) * [[タダコミ]](3G) * [[タダゲーム]](3G) * [[タダ歌ばん]](3G) * [[電子コミック]](3G) * [[S!アプリ]] * [[着うた]](6-5及び3G) * [[着うたフル]](3G) * [[コンテンツおすすめメール]](旧・レコメール)(3G) * [[S!GPSナビ]](3G) ==== メール ==== * [[S!メール]] * [[S!メール|SMS]] == 提供を終了したサービス == * スカイウェブ(デジタルホン/J-PHONE時代に提供されていた、スカイメールを利用した情報サービスおよびWWW閲覧サービス) - 2002年3月27日終了 * スカイファックス(携帯電話から[[ファクシミリ|ファックス]]へ文字や写真を送信できるサービス) - 2007年6月30日終了 * オープンコンテンツ情報料課金サービス(非公式サイトの情報料集金サービス) - 2007年7月31日終了 * [[S!CAST]](3G) - 2007年9月28日終了(2008年1月28日に類似サービス[[S!情報チャンネル]]を開始) * [[S!ケータイ動画]](3G) - 2007年9月30日終了 * 写メールカード - 2008年8月31日終了 * ソフトバンクワイヤレスアシスト(3G) - 2008年10月31日終了 * [[S!ミュージックコネクト]](3G、Xシリーズ) - 2009年3月31日終了 * [[S!ループ]](3G) - 2009年3月31日終了 * 第二世代携帯電話向けナンバーロック(6-2) - 2009年3月31日終了 * [[S!タウン]](3G) - 2009年9月30日終了 * [[S!おなじみ操作]](3G) - 2009年10月31日終了(ただし、ダウンロード済みのファイルを対応端末で利用することは可能) * [[Yahoo! mocoa]](3G) - 2009年12月2日終了 * [[S!一斉トーク]](旧・サークルトーク)(3G) - 2011年9月30日終了 * S!ともだち状況(旧・ホットステータス)(3G) - 2011年9月30日終了 * [[着デコ]](3G) - 2011年9月30日終了 * [[SoftBank 6-2]] ** [[第2世代携帯電話]]([[PDC]]方式)サービス。かつてのJフォン・ボーダフォン時代の主力サービス。2010年3月31日終了。 * [[ソフトバンクプリペイドサービス|ソフトバンクプリペイドサービス・Pj]] ** SoftBank2シリーズ(V1-2シリーズ)端末による料金先払い制。2008年3月で新規受付停止。2010年3月31日終了。 * [[スカイメロディ]]・[[スカイメール]](ロングメール・ロングEメール)・[[ステーション (ソフトバンクモバイル)|ステーション]] ** いずれもSoftBank 6-2と同じく2010年3月31日終了。 * [[S!速報ニュース]](旧・ライブモニター)(3G) - 2018年3月13日サービス終了。 == 信用情報機関への誤登録事件 == === 概要 === [[2013年]][[10月2日]]、ソフトバンクは携帯端末を買った一部顧客の支払い情報を「未入金」と[[信用情報]]機関に誤登録したと発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2013年10月1日 |url=http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/info/2013/20131001_01/ |title=信用情報機関への入金登録情報の誤りについて |publisher=[[ソフトバンク]]|accessdate=2014-12-04}}</ref>。携帯電話端末の分割支払いを適切に行っている利用者情報が、信用情報機関である[[信用情報#シー・アイ・シー|CIC]](シー・アイ・シー)および[[日本信用情報機構]]に、誤って「携帯端末料金未払い利用者」として登録された。誤って登録された利用者情報は63,133件である。信用情報機関に加盟する企業が、それらの誤った情報を参照した回数は16,827件である。最大で3ヶ月間の支払い滞納者として登録された。利用者によっては、[[クレジットカード (日本)|クレジットカード]]・ローン・家賃保証会社の与信審査に落ちるなどの弊害が発生している。 === 問題点 === * 利用者から指摘された後、6ヶ月間公表を控えたこと。信用情報機関の加盟企業が機関に情報を照会した記録(申込情報)は6ヶ月で消去されるため、それ以前に誤った情報が参照されたことを調べることができない。 * 発覚した時点で早期の[[情報公開]]を行うことで、被害が最小限にとどまった可能性があるにもかかわらず、調査を優先して6ヶ月の遅れを来たしたことである。 * 6万件超の列挙方法が未公開である。 * [[コンピュータシステム]]の不具合と発表したが、engadgetの取材には「人為的な設定ミス」が原因であり、2回ミスがあったと回答した。 * [[9月30日]]のソフトバンクの冬春モデル発表会において、事実を把握しているにもかかわらず、「[[総務省]]に報告すべき通信の重大な事故は850日以上ない」と[[孫正義]]は発表した。 * ソフトバンクとしては個別対応するとしているが、実際には信用情報が照会された先の企業が取得した情報への修正は、現実的に不可能であり、利用者の不利益を取り戻すことは出来無い。 === ソフトバンクにおける個人情報の取り扱い === ソフトバンクにおける[[個人情報]]の取り扱いが、公式[[ウェブサイト]]によって提示されている<ref>{{Cite web|和書|date= |url=http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/privacy/ |title=個人情報の取り扱いについて |publisher=[[ソフトバンク]]|accessdate=2013-11-26}}</ref>。 #個人情報保護 #電気通信事業等における個人情報の取り扱い #割賦販売・個別信用購入あっせん等における個人情報の取り扱い #保険関連サービスにおける個人情報の取り扱い #ソフトバンク携帯サイト向け広告事業の個人情報の取り扱い #ソフトバンク携帯サイト向けインターネット検索サービス事業における個人情報の取り扱い #発電事業における個人情報の取り扱い #古物取引における個人情報の取り扱い #社員等個人情報の取り扱い == 番号ポータビリティに関する問題 == === 概要 === [[番号ポータビリティ]] (MNP) 開始前日の10月23日に新プランなどの発表を行った影響で、さまざまな出来事が発生した。ソフトバンクは[[10月28日]]15時頃から[[10月30日]]20時にかけて、[[ゴールドプラン (SoftBank)|ゴールドプラン]]への申し込み殺到によりソフトバンクの登録業務システムにトラブルが生じたと発表した。NTTドコモおよびKDDI (au) はホームページ上において、ソフトバンクモバイルに対して厳重に抗議したと発表した。また、一部店頭では「お客様各位 NTTドコモとKDDI(au)においてシステム障害が発生しております」との誤った説明がなされたと言われ(「[[ZAKZAK]]」による報道)、当時の混乱ぶりがうかがえる。このトラブルについて11月11日付[[日刊ゲンダイ|ゲンダイネット]]の報道では、実際はソフトバンクから他社へのキャリア変更(転出)が殺到したのではないかとの推測がなされた。しかし減少数は少なかったので、MNPによる転出者が多すぎたというのも定かでない。また新規契約がかなり多く、ゴールドプランによる影響とも考えられる。別の報道では、家族割引契約の主副回線を決定するプログラムに問題があったとされる。家族まるごとMNPを利用して他事業者に引っ越しした場合、集約すべき主回線契約がなくなるため無限ループに陥ったと説明された。 なお時期は違えど、同様のMNP情報交換に関するトラブルがツーカーを含む携帯事業者4社全てで起こったことから、システムの拡充を急ぐことが各社に求められた。 === 経過 === * 2006年[[10月28日]] - 新プラン発表と大々的なキャンペーンが功を奏し、さらに週末という条件が重なり新規加入・機種変更・契約変更ユーザーが殺到した。同日17時30分頃、予想外の集客に契約に関するシステムがダウン、全登録業務を停止し、通常21時頃まで営業している受け付け時間を切り上げた<ref>[https://megalodon.jp/2008-1028-2246-37/mb.softbank.jp/scripts/japanese/information/kinkyu/detail.jsp?oid=537164471 10/28(土)の各種申し込み受付時間の繰上げについて]、ソフトバンクモバイル、2006年10月28日。</ref>。 * 2006年[[10月29日]] - システムを回復させ営業を再開したが、MNP登録に関する遅延が発生していたため他キャリアへの転出・他キャリアからの転入業務を停止<ref>[https://web.archive.org/web/20130523153959/http://mb.softbank.jp/scripts/japanese/information/kinkyu/detail.jsp?oid=537164448 携帯電話番号ポータビリティ(MNP)への申し込み一時停止について]、ソフトバンクモバイル、2006年10月29日。</ref>。それ以外の契約業務については引き続き営業中であったが、その後事務処理能力が限界に達する恐れが出てきたため、同日12時10分に再停止した。 * 同日 - [[東京都]]内の一部の「ソフトバンクショップ」にて「NTTドコモ、KDDIにてシステム障害が発生している」という、事実と異なる説明の張り紙を行っていた事が判明。企業姿勢を問われる報道が10月30日になされた。 * 同日 - NTTドコモ、KDDIは連名で、MNPに関する障害によって商機を逸したとしてソフトバンクへ強く抗議。さらに障害の原因究明と対策、そしてキャリア三社連携の必要性をソフトバンクに求めた<ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=太田 亮三 |date=2006/10/30 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/31727.html |title=ソフトバンクとのMNP業務再開、ドコモ・auは改善を要求 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018/12/10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170714121554/http://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/31727.html |archivedate=2017-07-14 |deadlinkdate=}}</ref>。 * 2006年[[10月30日]] - 8時にシステムを復旧。他キャリアへの転出・他キャリアからの転入業務を再開。しかし、今後またシステムが停止する恐れがあるとし、[[11月5日]]までは新規加入及びMNPに関するもののみの受付とし機種変更は停止状態になっていた<ref>[https://web.archive.org/web/20130403175336/http://mb.softbank.jp/scripts/japanese/information/kinkyu/detail.jsp?oid=537164485 携帯電話番号ポータビリティ(MNP)の登録受付再開について]、ソフトバンクモバイル、2006年10月30日。</ref>。 * 同日 - 社長の孫正義は記者会見を開き、顧客・NTTドコモ・KDDIに対して「ご迷惑をおかけしたことをお詫びしたい」とコメントした<ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=津田 啓夢 |date=2006/10/30 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/31744.html |title=孫社長がお詫び、ソフトバンクのMNPシステム障害で |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018/12/10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170714185643/http://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/31744.html |archivedate=2017-07-14 |deadlinkdate=}}</ref>。 * 2006年[[11月6日]] - 当初全業務完全復旧の予定であったが、既存客からの携帯電話の機種変更や料金プラン変更の受付を停止した。通常の平日より申し込みが多く、システムへの負荷を軽くするためとされる。同日中に処理できる分に限って申し込みを受け付け、東海から関西地域以西は16時、他の地域も18時で受付中止。6日は再開待ちの客の受付が増えたためとみられる。[[11月7日]]から[[11月10日]]までの既存客からの受付時間を19時までに早めることに決定した<ref>[http://mb.softbank.jp/mb/information/details/061106.html 受付業務時間について]</ref>。 * 2006年[[12月17日]] - KDDIが番号ポータビリティの受付を停止、ソフトバンクモバイルおよびドコモに影響が出た。 == 諸問題 == '''契約時に通信速度の制御について“不利益の不告知”の疑い''' 通信契約締結時に通信速度の制御について がある場合に説明をしない、消費者に対して消費者関連法の“不利益の不告知”の疑いがある。 通信速度の制御については、 4G/4G LTEパケット定額サービス・料金プランでの通信制御実施条件<ref>{{Cite web|和書|title=通信速度の制御について {{!}} スマートフォン・携帯電話|url=https://www.softbank.jp/mobile/support/procedure/data_traffic/about/|website=ソフトバンク|accessdate=2019-11-19|language=ja}}</ref> において、 “パケットし放題フラット for 4G LTE”等の料金プランが、データ通信量が過去3日間で約3GB以上の場合は、速度制限が約3GB以上ご利用した翌日の午前6時から24時間に実施される。2019年11月2日の行政の公開イベントにて、消費者団体が無線電波の国民共有財産の観点から、各社の通信条件の比較表を公開説明したことにより、来場した消費者がソフトバンクに対する従来のイメージや説明等と異なる事に気づいた。{{main2|「予想外割」における騒動|予想外割}} {{See also|日本における携帯電話#ビジネスモデルにおける問題点}} === 広告・テレビCMに関する問題 === 2006年12月に放送されたゴールドプラン紹介の[[テレビ]][[コマーシャルメッセージ|CM]]では、[[ラクロス]]の女子学生同士の会話を、他携帯ユーザーに対する[[いじめ]]を助長するものだと受け取った視聴者からの苦情が、[[日本広告審査機構|JARO]]に対して1日約250件寄せられた。広報部は「ゴールドプランの便利さを紹介したいがために制作したものであり、いじめを助長するために作ったものではない」とコメントしている。なお、当該CMの放送は同年12月24日に終了している(ソフトバンクは「予定通りの終了」としている)。 「通話料、メール代0円」と大きく書かれたゴールドプラン(予想外割)の新聞広告が掲載されたが、「ソフトバンク以外の通話、メールは有料」といった注意文言の文字が小さくわかりにくかった。こうした広告は[[景品表示法]]違反(有利誤認)にあたるおそれがあるとして、公正取引委員会はソフトバンクモバイルに対して警告した。また同時にドコモ、KDDIも広告が同規定に違反するおそれがあるとして注意を受けている<ref>[https://web.archive.org/web/20130120133921/http://www.jftc.go.jp/pressrelease/06.december/06121202.html 携帯電話事業者3社に対する警告等について]、[[公正取引委員会]]、2006年12月12日。</ref>。 ====iPhoneの自動通信機能に関する広告表示問題==== iPhoneの3G通信機能をONにしている場合、アプリケーションを追加しない初期状態で利用者がアプリケーションやメールを利用していなくても、利用者が認識しない自動通信によりパケット定額の下限額(1029円)を上回る通信料が発生することが確認された。そのため2011年5月、総務省はソフトバンクモバイルの広告表示が不適正であったと同社に対し、下限額を越える通信料が発生した原因と不適正な広告表示となった原因を究明するとともに広告表示の適正化などの改善措置を行い、それらの報告を求める行政指導を行った<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban08_01000029.html ソフトバンクモバイル株式会社に対する iPhoneに適用される二段階パケット定額プランに関する広告表示に係る措置(指導)]、総務省、2011年5月10日。</ref>。 === 本人確認を怠った問題 === 2006年[[11月22日]]、ソフトバンクショップを運営する株式会社エムデジが[[携帯電話不正利用防止法]]に基づく譲渡時本人確認を行っておらず、同法第5条第1項の違反で総務省が是正を命じた。またソフトバンクに対しては再発防止措置の徹底を要請した<ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=津田 啓夢 |date=2006/11/22 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/32086.html |title=総務省、本人確認違反の携帯ショップに是正命令 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018/12/10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210131233/https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/32086.html |archivedate=2018/12/10 |deadlinkdate=}}</ref>。 しかし2007年[[4月12日]]、ソフトバンクショップを運営している代理店2店舗(有限会社ウエスタン・有限会社アイシーエス)が、携帯電話購入時に個人確認を怠ったとして、総務省が代理店2店舗と監督元であるソフトバンクモバイルに対し再発防止措置の徹底を行なうよう行政指導を行なった。ソフトバンクモバイルはこの代理店2店舗に対し、販売促進支援およびショップ支援を3カ月間停止を決定し、ソフトバンクショップ全代理店に対し、携帯電話を販売する際の個人確認を徹底するように指導した<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3193264/www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/2007/070411_5.html 携帯電話不正利用防止法違反事案等に対する措置]、総務省、2007年4月11日。</ref>。 さらに2007年[[6月12日]]には、ソフトバンクモバイルの携帯電話販売代理店を運営するケアアンドコミュニケーションが、契約者の本人確認を怠ったとして、総務省は同社に是正命令を出した。ソフトバンクモバイルにも代理店に対する監督を徹底するよう再度行政指導を行った<ref>[https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3193264/www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/2007/070612_1.html 携帯電話不正利用防止法違反事案に対する措置]、総務省、2007年6月12日。</ref>。 === 振り込め詐欺対策 === 2008年1月から6月に[[特殊詐欺|振り込め詐欺・オレオレ詐欺]]で使用された携帯電話約2,300台のうち約7割がソフトバンク携帯だった<ref>[https://web.archive.org/web/20081205080219/http://www.zakzak.co.jp/top/200812/t2008120201_all.html ソフトバンク「悪用携帯」No.1…本人確認「甘い」]、ZAKZAK([[夕刊フジ]])、2008年12月2日。</ref> との報道が12月にあった。[[警察庁]]では、同社を含む携帯電話各社に本人確認の徹底を再度要請した。その後同社は、2008年度下期決算報告において、[[iPhone]]割賦販売開始当初は[[信用情報]]調査を十分に行わなかったため、割賦代金を支払わない契約が続出し、累積で500億円の負債焦げ付きも発生していたが、その後購入時の審査を強化し、このような事態は概ね防ぐことができているとした<ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=関口 聖 |date=2008/10/29 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/42530.html |title=ソフトバンク決算会見、孫氏は健全経営をアピール |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018/12/10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210072832/https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/42530.html |archivedate=2018/12/10 |deadlinkdate=}}</ref>。 === 通信障害 === [[2008年]][[4月9日]]、[[5月5日]]、[[5月6日]]に音声通話不可・パケット通信不可等の事故が3件発生した。これらの事故は影響が大規模かつ長時間にわたったことから重大な事故として取り扱われた。また、いずれの事故も予備系の設備が設置されていたにもかかわらず適切に機能せず、大規模なサービス停止に至ったと判明している。重大な事故が相次いだことを受けて総務省は5月14日、改善を行うようソフトバンクモバイルに指導した。なお、その後も同年10月に[[鹿児島県]]で約71,000人、2009年1月に[[徳島県]]で約49,000人、2月には[[北海道]]で約54,000人が、携帯電話の音声通話ができなくなる通信障害が発生している。 [[2009年]][[4月19日]]にはYahoo!ケータイ、S!メールが1570万以上の端末で最大7時間近く利用ができない事故が発生した。当初は[[東日本]]のみの障害としていたが、翌日、softbank.ne.jpドメインのS!メールの送受信について全国で障害が発生していたと訂正。また、[[4月23日]]にソフトバンクモバイルのコーポレートサイトにおいてこの事故についてのプレスリリースを発行した<ref>{{Cite press release |和書 |title=2009年4月19日に発生したパケット通信障害について |publisher=ソフトバンクモバイル |date=2009年4月23日 |url=http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2009/20090423_01/ |language=ja |accessdate=2018年12月10日 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131031083756/http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2009/20090423_01/ |archivedate=2013-10-31-->}}。</ref>。この事故の発生を受け、総務省はソフトバンクモバイルに対し再発防止策や(他の設備も含む)設備の点検を求める行政指導を行った。また、利用者への周知が不十分であったとして、利用者への障害周知方法の改善策も求めた<ref>{{Cite press release |和書 |title=総務省報道発表資料、電気通信設備の適切な管理の徹底等に関するソフトバンクモバイル株式会社に対する指導 |publisher=総務省 |date=2009年4月24日 |url=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02kiban05_000011.html |language=ja |accessdate=2018年12月10日 |archiveurl= |archivedate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=関口 聖 |date=2009/04/24 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/45108.html |title=総務省、ソフトバンクの通信障害で文書指導 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210065150/https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/45108.html |archivedate=2018年12月10日 |deadlinkdate=}}</ref>。それに伴い、ソフトバンクモバイルでは2009年[[5月25日]]付けで総務省へ報告書を提出。再発防止策として、ネットワークが不通に至った事象を防止する新たな機能を実装したことや故障検出機能の強化をしたこと、事故情報をホームページの見やすい位置に掲載するなど、利用者への告知性を向上したと報告した<ref>{{Cite press release |和書 |title=ソフトバンクモバイル株式会社に対する行政指導に係る報告 |publisher=総務省 |date=2009年5月25日 |url=https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/02kiban05_000017.html |language=ja |accessdate=2018年12月10日 |archiveurl= |archivedate=}}</ref>。 2009年[[7月18日]]に、午前7時ごろから約10時間にわたって、約14万6000人が第2世代の携帯電話機での通信通話が行えなくなるという、当年4度目の重大な事故が生じた。第2世代携帯電話機の使用者のうち、東北6県と新潟県での契約者および、障害発生時にこの地域にいた人が影響を受けた。 2010年3月9日、沖縄県を含む九州エリアで緊急通報番号(110番・119番・118番)への発信ができない状態が11時20分ごろから5時間弱にわたり発生(118番への発信障害は山口県も影響を受けた)。ネットワーク設備の不具合が原因。復旧した16時35分近くまで不具合の状況を把握できておらず、利用者への通知もなされていなかった<ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=津田 啓夢 |date=2010/3/9 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/353655.html |title=ソフトバンク、九州で5時間に渡り110/119番できない不具合 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170912030454/http://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/353655.html |archivedate=2017-09-12 |deadlinkdate=}}</ref>。 2010年[[7月4日]]、午前5時58分ごろから北海道・東北・関東・東海地区でSoftBank 3G端末からのWeb接続ができなくなった。また、一部機種とiPhoneではMMS(S!メール)の利用ができない状態となった。障害は4時間半後に一部コンテンツサービスの利用を除き復旧、午後1時53分に完全復旧と発表された<ref>[https://web.archive.org/web/20100708020109/www.yomiuri.co.jp/national/news/20100704-OYT1T00540.htm ソフトバンク携帯、一時ネット接続などに障害] 、[[読売新聞]](YOMIURI ONLINE)、2010年7月4日。</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=【復旧】パケット通信サービスにおける通信障害について |publisher=ソフトバンクモバイル |date=2010年7月4日 |url=http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2010/20100704_01/ |language=ja |accessdate=2018年12月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131102080154/http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2010/20100704_01/ |archivedate=2013-11-02}}</ref>{{要出典範囲|が、当日いっぱい影響が続いた。なお本件では最大で契約者約1476万人に影響がでている|date=2010年7月}}。同年7月15日、この障害の原因と対策について報告された<ref>{{Cite press release |和書 |title=【ご報告】7月4日に発生したパケット通信サービスにおける障害について |publisher=ソフトバンクモバイル |date=2010年7月15日 |url=http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/info/2010/20100715_01/ |language=ja |accessdate=2018年12月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150503212904/http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/info/2010/20100715_01/ |archivedate=2015-05-03}}</ref>。原因はハードウェアの故障と、予備サーバーへの自動切り替えが適切に機能しなかったことによると発表している。 2010年[[9月17日]]、19時37分頃からメールの送受信・Webへの接続がつながりにくいといった障害が発生した。発生エリアは日本全国であった。発生から3時間後の21時35分に復旧の発表がされたが、影響人数、原因等は発表されていない<ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=関口 聖 |date=2010/9/17 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/394709.html |title=ソフトバンクの3Gサービス、全国でパケット通信が繋がりにくく |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210065108/https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/394709.html |archivedate=2018年12月10日 |deadlinkdate=}}</ref>。 2011年[[5月25日]]、[[近畿地方|近畿]]2府3県([[大阪府]]・[[京都府]]・[[兵庫県]]・[[奈良県]]・[[滋賀県]])の一部地域で、ソフトバンクモバイルの契約者約7万2,000人について、携帯電話の通話や電子メールの送受信が困難になる障害が発生した。同社は、人為的に障害が引き起こされたとして、[[6月]]に[[大阪府警察|大阪府警]]に[[被害届]]を提出。[[7月8日]]に同府警は、同社の大阪府内の事務所内にある[[通信機器]]端末の[[データ]]を、[[マルウェア|不正プログラム]]を仕込むことで破壊し、[[基地局]]からの電波発信を不可能にさせることで通信障害を引き起こしたとして、同社の業務委託先の元社員の男性を、[[信用毀損罪・業務妨害罪#電子計算機損壊等業務妨害罪|電子計算機損壊等業務妨害罪]]で逮捕した<ref>[https://web.archive.org/web/20110713035720/http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110708-OYT1T00916.htm 7万2千人の携帯に通信障害起こす、31歳逮捕] 読売新聞(YOMIURI ONLINE)、 2011年7月8日。</ref><ref>{{Cite press release |和書 |title=業務委託先の元社員の逮捕について |publisher=ソフトバンクモバイル |date=2011年7月8日 |url=http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2011/20110708_01/ |language=ja |accessdate=2018年12月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131031031650/http://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2011/20110708_01/ |archivedate=2013-10-31}}</ref>。 2018年12月6日、午後1時39分ごろから全国でデータ通信や通話ができなくなったり、インターネット事業の「おうちのでんわ」および「SoftBank Air」で通信障害が発生した。この障害は同日午後6時4分復旧した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.softbank.jp/mobile/info/personal/important/20181206-14/|title=【復旧】携帯電話サービスにおける通信障害について {{!}} モバイル|accessdate=2018-12-06|website=ソフトバンク|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=太田 亮三 |date=2018年12月6日 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1156995.html |title=ソフトバンク、スマホで通信障害 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181207005915/https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1156995.html |archivedate=2018年12月7日 |deadlinkdate= }}</ref>。原因は[[エリクソン]]製のパケット交換機全台にソフトウェア異常が発生し、4Gネットワークに問題が発生、3Gネットワークにも輻輳が起こって通信障害が起きたとしている。また、この障害はイギリスのO2などエリクソン製の交換設備を使用する海外11カ国の通信事業者でもほぼ同時刻に発生したことも明らかにされた<ref>{{Cite web|和書|author=山川晶之 |date=2018年12月7日 |url=https://japan.cnet.com/article/35129765/ |title=ソフトバンクの通信障害、エリクソン製交換機が原因と公表--海外11カ国でも同様の障害 |publisher=[[CNET#日本における展開|朝日インタラクティブ]] |website=CNET Japan |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181206162515/https://japan.cnet.com/article/35129765/ |archivedate=2018年12月6日 |deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=太田 亮三 |date=2018年12月7日 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1157148.html |title=ソフトバンク大規模通信障害、「原因はエリクソン」と弁解 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181206171014/https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1157148.html |archivedate=2018年12月6日 |deadlinkdate= }}</ref>。 === その他の問題 === ==== MNO事業者によるMVNO ==== 2009年3月より、ソフトバンクモバイルは、イー・モバイル網を使った[[MVNO]]におけるデータ通信サービスを実施した。これらのようなMNOによるMVNOに対し、社団法人テレコムサービス協会 MVNO協議会は次のように反対をしている<ref>[http://www.telesa.or.jp/consortium/mvno/20090204_mno.html 社団法人テレコムサービス協会 MVNO協議会MNOのMVNO事業進出に対する意見表明について]</ref>。 <blockquote> 本行為は違法ではなくガイドラインにも反してはいないが、第1種通信免許をもつ事業者(MNO)が他のMNOの通信網を利用するMVNO事業を行うことは、第1種通信事業者としてのモバイル通信網の拡大に対する怠慢であり、有限な周波数の公平な利用に反するにとどまらず、事業者の多様化にもつながらず、移動体通信の競争を阻害する。 </blockquote> これに対し孫社長は、周波数を有効利用するものであり問題はないと反論をしている。 これをふまえ、総務省は同問題に対し、総務省情報通信審議会電気通信事業政策部会および接続政策委員会において調査審議の上、抑制を踏まえた答申が取りまとめられる予定であると発表している。なおPHS事業者の[[ウィルコム]]もNTTドコモおよびMVNO協議会議長である[[日本通信]]の設備を利用し、MVNOサービスを実施している。これをふまえ、総務省は2009年[[7月7日]]、「情報通信審議会 電気通信事業政策部会 接続政策委員会」の第7回会合を開催し、ソフトバンクとイー・モバイルのようなMNOのMVNOは「MNOは自ら基地局などの設備投資を行うのが義務である」という考え方に基づき原則禁止にする方向性をうちだした。ただし、NTTドコモとWILLCOMのMVNOのように異なる市場のサービスを提供する場合や、新規参入したMNOが基地局を全国展開するまで暫定的に利用する場合、MNOによるMVNO化は許容できるとした<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20090707/333362/ 総務省が「MNOのMVNO化は原則禁止」の方向性での議論を提示、接続政策委員会から]</ref>。 なお、[[2010年]][[10月1日]]より、[[ウィルコム]]のMVNOサービス、[[WILLCOM CORE 3G]]のラインナップに、ソフトバンクモバイル・[[3G ハイスピード]]網が追加された(同日には法人向けデータ通信プランのみ、同年[[10月8日]]より、[[新ウィルコム定額プランGS|PHSとのデュアルプラン]]が開始されるが、個人向けのデータ通信プランは用意されない)。これに伴って、同年[[9月30日]]を以って、従前のドコモ網を利用したサービスの新規受付は終了された。 ==== 「らくらくホン」問題 ==== ソフトバンクモバイルから発売された[[SoftBank 821T|かんたん携帯 821T]]に関して、NTTドコモと[[富士通]]はソフトバンクモバイルおよび[[東芝]]に対して、[[不正競争防止法]]の[[模倣品]]販売の条項に基づき同端末の製造・販売などの差し止めを求め、[[東京地方裁判所]]に仮処分申請を申し立てた<ref>{{Cite news |author=小山安博 |date=2008/03/17 |url=https://news.mynavi.jp/news/2008/03/17/044/index.html |title=らくらくホンそっくり?ドコモがソフトバンク携帯の販売差し止め仮処分申請 |newspaper=[[マイナビニュース]]|publisher=[[マイナビ]]|accessdate=2018年12月10日 <!--|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210140718/https://news.mynavi.jp/article/20080317-a044/ |archivedate=2018年12月10日-->}}</ref>。ドコモおよび[[富士通]]は、NTTドコモから販売されている富士通製端末[[FOMAらくらくホンIII]]のボタンレイアウト、[[ユーザインタフェース]]など複数の項目でデザインなどが酷似していると主張。NTTドコモおよび富士通は、ソフトバンクモバイルおよび東芝に対し警告してきたが、満足のいく回答が得られなかったために仮処分申請に踏み切ったと記者会見で述べた。本件は2009年4月に和解が成立した。なお、和解金等の条件は非公表<ref>{{Cite web|和書|website=ITmedia News |date=2009年04月16日 |url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0904/16/news015.html |title=「らくらくホン」問題でドコモとソフトバンクが和解 |publisher=[[ITmedia]] |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090417072335/http://www.itmedia.co.jp:80/news/articles/0904/16/news015.html |archivedate=2009-04-17 |deadlinkdate=}}</ref>。 ==== 緊急地震速報対応の遅延 ==== 2007年5月30日、ソフトバンクモバイルも他社と同様の[[緊急地震速報]]配信システムの開発を表明した<ref>{{Cite web|和書|date=2007年5月30日 |url=http://broadband.mb.softbank.jp/corporate/release/pdf/20070530_2j.pdf |title=「緊急地震速報」について |format=PDF |publisher=ソフトバンクモバイル |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090704145421/http://broadband.mb.softbank.jp/corporate/release/pdf/20070530_2j.pdf |archivedate=2009-07-04 |deadlinkdate=2018年12月}}</ref>。このとき、提供時期は「2008年度中」とアナウンスされた<ref>{{Cite web|和書|website=ケータイWatch |author=津田 啓夢 |date=2007/05/30 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/34757.html |title=携帯各社、「緊急地震速報」を携帯に一斉配信するシステム開発 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210135321/https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/34757.html |archivedate=2018年12月10日 |deadlinkdate=}}</ref>。NTTドコモは2007年11月発売の[[FOMA#905iシリーズ|FOMA 905iシリーズ]]全機種から、auは2008年1月以降発売の2008年春モデル10機種中6機種が対応し、以降は全機種が対応したが、ソフトバンクは2009年9月18日発売の[[SoftBank 831N]]一機種のみと出遅れた。同年5月19日に当端末が発表された際、サービス開始時期は、「今秋」<ref>{{Cite press release |和書 |title=緊急地震速報の提供開始について |publisher=ソフトバンクモバイル |date=2009年5月19日 |url=http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2009/20090519_02/ |language=ja |accessdate=2018年12月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210134341/https://www.softbank.jp/corp/group/sbm/news/press/2009/20090519_02/ |archivedate=2018年12月10日}}</ref> とアナウンスされたが、端末発売二日前の同年9月16日には「2009年11月下旬以降」に繰り下げられ<ref>[http://www.softbankmobile.co.jp/ja/news/press/2009/20090916_01/ 使いやすさにこだわったケータイ「831N」、9月18日発売]</ref>、開始当時のサービスエリアも[[佐賀県]]・[[長崎県]]・[[熊本県]]・[[宮崎県]]・[[鹿児島県]]の九州5県に限定された<ref>{{Cite web|和書|website=○○Watch |author=関口 聖 |date=2009/9/16 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/315879.html |title=ソフトバンク、緊急地震速報対応の「831N」を18日発売 |publisher=[[インプレス]] |accessdate=2018/12/10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20181210134208/https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/315879.html |archivedate=2018/12/10 |deadlinkdate=}}</ref>。同年10月27日になってサービスエリアが長崎, 熊本, 宮崎, 鹿児島の4県に縮小され、予告されていた開始予定時期の直前の同年12月24日になって、九州4県でのサービス開始も撤回された。サービス開始時期は「2010年夏以降」に延期され、サービス提供エリアについても白紙となった。 [[2010年]][[10月7日]]に全国対応完了を告知した<ref>{{Cite web|和書|work=個人のお客さまへのお知らせ |date=2010年10月7日 |url=http://www.softbank.jp/mobile/info/personal/news/service/090916a/ |title=「緊急地震速報」について |publisher=ソフトバンクモバイル |accessdate=2018年12月10日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131031053950/http://www.softbank.jp/mobile/info/personal/news/service/090916a/ |archivedate=2013-10-31 |deadlinkdate=}}</ref>。最初の対応機種は、[[SoftBank 831N]]のみだったが、[[東日本大震災]]後の2011年7月に[[SoftBank 840N]]がソフトウェア更新後、利用可能になり、また、既に発売されていたAndroidプラットフォームのスマートフォンが緊急地震速報の受信に対応するようになったが既存のフィーチャーフォン(いわゆるガラケー)には対応しない(対応できない)と明言している。 ==== NPO法人から犯罪組織に携帯電話端末が流出 ==== 横浜市に拠点を置き、慈善事業を展開していた2つの[[特定非営利活動法人|NPO法人]]は、ソフトバンクモバイルの携帯電話端末約2,000台を法人名義(会員向け)で契約していたが、そのうちの一部が法人以外の組織に流失していた。また、うち約100台の端末は、[[薬物乱用|薬物]]の密売や[[特殊詐欺]]などの犯罪に悪用されていた。NPO法人はこれらの端末を使う目的がなく、利用料金は代理店が負担していた<ref>[https://web.archive.org/web/20120902040429/http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012082701001959.html 犯罪グループに携帯100台流出 詐欺、薬物密売に使用] 47NEWS(共同通信) 2012年8月27日</ref>。 == 現在の端末ラインアップ == {{see|ソフトバンクの端末一覧}} * [[SoftBank 3G]] - [[第3世代移動通信システム|第3世代携帯電話]]([[W-CDMA]]方式)サービス。 * [[3G ハイスピード]] - HSPAサービス。 * [[第3.5世代移動通信システム|第3.5世代携帯電話]]([[HSDPA]]方式)サービス。全国の主な都市圏で利用できるサービス。 * [[SoftBank X]]/[[SoftBank スマートフォン]] *: 前者は、第3.5世代携帯電話(HSDPA方式)サービス。基本的に3Gと変わらないが、[[スマートフォン]]及び[[Pocket PC]]での呼称。ただし、2010年冬モデル以降は、型番ルールを SoftBank 3G と共通化するとともに、専用の[[USIMカード]]を採用した上で、呼称も「SoftBank スマートフォン」に改めた。後者は、2015年時点での主力サービス。 *: 後者は、第3.5世代携帯電話(HSDPA方式)サービス。2010年冬モデル以降の端末の新型番方式の導入に伴い、上述のXシリーズに代わり[[スマートフォン]]及び[[タブレット (コンピュータ)|タブレットデバイス]]の呼称となった。 * [[4Gケータイ]] - [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] OSを採用した、[[フィーチャーフォン]]。ただし、[[SoftBank 501SH]]のように、LTEはおろか3Gネットワークにしか対応していないものも、便宜上含まれる。 * [[ULTRA SPEED]] - 実質的な逼迫対策バンドである、[[UMTS]]バンド11を利用した、[[HSPA+]](データ専用端末は[[DC-HSDPA]]を含む)サービス。 * [[ULTRA PHONE]] - データ通信方式は[[3G ハイスピード]]、[[ULTRA SPEED]]の併用で、音声通話は従来の[[SoftBank 3G]]の方式で採用したサービス。 * [[SoftBank 4G]] - [[Wireless City Planning]]の[[MVNO]]としての[[AXGP]]サービスのブランド名。 * [[SoftBank 4G LTE]] - FDD-LTE方式による高速データ通信サービス。なお、旧[[ワイモバイル]]網を併用するものについては、別途[[ダブルLTE]]と称する。 * [[Hybrid 4G LTE]] - 上記4Gと4G LTEのデュアルモード。 * ソフトバンクコネクトUSB・ソフトバンクコネクトカード *: W-CDMA方式またはHSDPA方式によるデータ通信専用端末。現行商品は、HSDPA方式による高速データ通信端末のほか、ULTRA SPEEDに対応した、DC-HSDPA対応端末もある。 * [[デジタルフォトフレーム]] * [[みまもりシリーズ]] == 主な携帯電話端末納入メーカー == {{see|ソフトバンクの主な携帯電話端末納入メーカー}} == ツーカーとの提携 == 前述の「デジタルツーカー」提携以降、[[ツーカー]]は「スカイメッセージ」などソフトバンクに準じたサービスも併せ持っていた(「スカイメッセージ」はソフトバンクと相互送受信可能だった)。また、ツーカーの営業区域外(旧「デジタルツーカー」区域)では、同一の通信方式のソフトバンクにローミングしていた。 == 専売取扱店 == {{main|ソフトバンクショップ}} == 地域会社時代の各社の業務区域 == ; 2000年10月にジェイフォン東日本となった会社 :* 東京デジタルホン(TDP) → ジェイフォン東京(JPT) → ジェイフォン東日本(JPE/存続、エリアとしてはJET) :** [[茨城県]]、[[栃木県]]、[[群馬県]]、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、[[東京都]]、[[神奈川県]]、[[山梨県]]及び[[長野県]] :* デジタルツーカー北海道(DTD) → ジェイフォン北海道「JPD」(東日本会社時代の、支社略号はJED) :** [[北海道]] :* デジタルツーカー東北(DTT) → ジェイフォン東北「JPH」(東日本会社時代の、支社略号はJEH) :** [[青森県]]、[[岩手県]]、[[宮城県]]、[[秋田県]]、[[山形県]]、[[福島県]]及び[[新潟県]] ; 2000年10月にジェイフォン西日本となった会社 :* 関西デジタルホン(KDP) → ジェイフォン関西(JPK) → ジェイフォン西日本(JPW/存続、エリアとしてはJWK) :** [[滋賀県]]、[[京都府]]、[[大阪府]]、[[兵庫県]]、[[奈良県]]及び[[和歌山県]] :* デジタルツーカー北陸(DTH) → ジェイフォン北陸「JPR」(西日本会社時代の、支社略号はJWR) :** [[富山県]]、[[石川県]]及び[[福井県]] :* デジタルツーカー中国(DTC) → ジェイフォン中国「JPN」(西日本会社時代の、支社略号はJWN) :** [[鳥取県]]、[[島根県]]、[[岡山県]]、[[広島県]]及び[[山口県]] :* デジタルツーカー四国(DTS) → ジェイフォン四国「JPS」(西日本会社時代の、支社略号はJWS) :** [[徳島県]]、[[香川県]]、[[愛媛県]]及び[[高知県]] :* デジタルツーカー九州(DTQ) → ジェイフォン九州「JPQ」(西日本会社時代の、支社略号はJWQ) :** [[福岡県]]、[[佐賀県]]、[[長崎県]]、[[熊本県]]、[[大分県]]、[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]及び[[沖縄県]] ; 全国1社体制になるまで存続した会社 :* 東海デジタルホン(CDP) → ジェイフォン東海「JPC」 :** [[岐阜県]]、[[静岡県]]、[[愛知県]]及び[[三重県]] * 各社名の後に記載されているアルファベット(大文字)はグループ内で呼称されていた略称。他事業社の内部資料でも使用されていた。 * デジタルツーカーからジェイフォンへの各社の変更は1999年10月。 * 2000年5月に全ての会社の筆頭株主をつとめる親会社となった「ジェイフォン株式会社」が、ボーダフォンの経営参入に際し2001年11月に上記の全社を合併・統合し、地域分割の形は終了した。 なお、カスタマーオペレーションセンター(コールセンター含む)は、統合の過程で[[宮城県]][[黒川郡]]富谷町(現・[[富谷市]])、[[愛知県]]内、[[大阪府]]内、[[福岡市]][[早良区]]の4箇所に集約された。富谷市は旧東日本会社と北陸エリアを、早良区は北陸・関西を除く旧西日本会社のエリアと[[ディズニー・モバイル]]利用者を、それぞれ管轄している。愛知県内設置分は旧東海エリア、大阪府内設置分は旧関西エリアをそれぞれ管轄しているが、出納関係は、早良区のオペレーションセンターが管轄する。 == イメージキャラクター == {{see|ソフトバンクのイメージキャラクター}} == ヤフーおよびウォルト・ディズニー・ジャパンとの協業による移動体通信事業 == <!-- 外部サイトや書籍からのコピペ・丸写しによる著作権侵害はしないでください。削除の対象となり、投稿者はブロックされる可能性もあります。 --> {{see|ワイモバイル|Y!mobile}}{{see|イー・モバイル|ウィルコム}}{{see|ディズニー・モバイル}} == 固定通信事業 == <!-- 外部サイトや書籍からのコピペ・丸写しによる著作権侵害はしないでください。削除の対象となり、投稿者はブロックされる可能性もあります。 --> {{see|ソフトバンクBB|ワイモバイル}}{{see|ソフトバンクテレコム}} <!-- ワイモバイルは、イー・アクセスがADSLを手掛けていたため、固定系も行っていたので併せて記載。 --> == 関連項目 == {{Wikinews|ソフトバンクモバイル、基本料金980円の料金プランを発表}} === 端末関連 === * [[SoftBank 3G]](旧・ボーダフォングローバルスタンダード→Vodafone 3G) ** [[3G ハイスピード]] * [[SoftBank X シリーズ]] * [[SoftBank スマートフォン]] * [[神ジューデン]] * [[iPhone]] *[[Google Pixel]] * [[SoftBank 6-2 シリーズ]](旧・J-5X/J-0Xシリーズ→V3/V4/V5/V6シリーズ) * [[写メール]] * [[デルモジ表示]] * [[S!アプリ]] === 料金・サービス関連 === * [[SoftBank 5G]] *[[SoftBank 4G]] * [[SoftBank 4G LTE]] * [[S!ミュージックコネクト]] * [[ULTRA SPEED]] * [[Yahoo!ケータイ]] ** [[S!ケータイ動画]]/[[S!情報チャンネル]]/[[S!GPSナビ]]/[[S!FeliCa]] /[[S!ループ]] * [[オレンジ/ブループラン]] * [[クレディセゾン|SoftBankカード]] * [[ゴールドプラン (SoftBank)|ゴールドプラン]] * [[スーパー安心パック]] * [[スーパーボーナス]] * [[ステーション (ソフトバンクモバイル)|ステーション]] * [[スマート一括]] * [[ソフトバンクプリペイドサービス]] * [[パケットし放題]] * [[パケット定額]] * [[ハッピーボーナス]] * [[プラチナバンド (ソフトバンク)|プラチナバンド]] * [[プリモバイル]] * [[ホワイトプラン]] ** [[Wホワイト]] * [[スマ放題]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ; 注釈 {{notelist}} ; 出典 {{Reflist|2}} == 外部リンク == ===SoftBankGroup株式会社=== * {{Official website|https://group.softbank/}} * {{Twitter|SoftBank_Group}} * {{YouTube|u=SoftBankCorp}} ===SoftBankブランド移動体通信関連=== * [https://www.softbank.jp/mobile/ ソフトバンク - サービスサイト] * [https://www.youtube.com/user/SoftBank ソフトバンク チャンネル] - [[YouTube]] * [https://ch.nicovideo.jp/ch1000 ソフトバンク チャンネル] - [[ニコニコチャンネル]] * {{Twitter|SHIRATOJIRO|白戸次郎 (白戸家のお父さん)}} * {{Twitter|Norika_e|のりか (SoftBank)}} * {{Twitter|SoftBank|SoftBank)}} * {{Twitter|SBCare|カスタマーサービス担当}} * {{Twitter|SBCareWiFi|SBM Wi-Fi担当}} * {{Twitter|SBCareDenpa|SBMエリア担当}} ===SoftBankブランド固定系通信関連=== * [http://tm.softbank.jp/consumer/ 個人のお客様向けサービス(固定系) - サービスサイト] * [https://www.softbank.jp/ybb/ インターネット - サービスサイト] * [http://www.eaccess.net/service/ eAccess,ADSL・モバイル通信サービス] * [http://www.eaccess.net/acca/ eAccess,ACCAサービス] * [http://www.aol.jp/ AOL] ===Y!mobileブランド関連=== * [http://www.ymobile.jp/ Y!mobile - サービスサイト] *{{Twitter|ymobileOfficial |ワイモバイル}} * {{Twitter|ymobile_Care|カスタマーサービス担当}} ===LINEMOブランド関連=== * [https://www.linemo.jp/ LINEMO] * {{Twitter|LINEMO_official|LINEMO}} * {{Twitter|LINEMO_support|LINEMOカスタマーサービス担当}} {{ソフトバンク}} {{ソフトバンクグループ}} {{日本の携帯電話事業者}} {{携帯電話の世代}} {{DEFAULTSORT:そふとはんく}} [[Category:日本の電気通信事業者]] [[Category:日本の携帯電話事業者]] [[Category:ソフトバンクグループ|そふとはんく]] [[Category:携帯電話 (ソフトバンク)|*]] [[Category:携帯電話 (ワイモバイル)|*]] [[Category:携帯電話 (LINEMO)|*]] [[Category:PHS (ワイモバイル)|*]] [[Category:格安 (LINEMO)|*]]
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ツーカー
ツーカー (Tu-Ka) は、かつて存在した日本の移動体通信事業者であるツーカーセルラー2社とツーカーホン関西およびそれらを承継したKDDIが提供していた第2世代移動通信システム (2G) サービスである。東京、東海、関西の三大都市圏を中心に、デジタルホングループやNTTドコモのシティフォンと共に、1.5GHz帯のPDC方式を採用した移動体通信を提供していた。 1991年の創立以来、筆頭出資者だった日産が1999年に資本撤退してからは第二電電(DDI)傘下となり、2001年以降は、ローコスト、レガシー志向のユーザーに向けた事業展開をしていたが、2006年6月30日をもって新規加入の受付を終了し、同年12月31日の24:00をもって機種変更用端末の販売も終了(持込機種変更は継続)し、2008年3月31日の24:00をもってツーカー電話サービスそのものが終了し、14年の歴史に幕を下ろした。なお、ツーカーの電話契約数はピーク時で4,018,200契約(2001年6月末)だった。 1992年、日産自動車を母体に、第二電電(以下DDI、現・KDDI)および京セラらの共同出資により「株式会社ツーカーセルラー東京」と「株式会社ツーカーセルラー東海」が設立された。ブランド名の「ツーカー」は、「気心の知れた人間関係」を意味する『つぅと言えばかぁ』が戦後に砕けて『ツーカー(―の仲)』という言葉になったものを採り入れたものである。 DDIはDDIセルラーグループで携帯電話事業を営んでいたが、関東・東海甲信は当時別資本のIDOとのローミングによる協業体制でサービスが提供されており、同地域にDDI直轄の移動体通信事業者が存在しなかったこともあり経営参画していた。東京・東海のシンボルマークはDDIセルラーと同じ六角形マークで「cellular」を「Tu-Ka」に差し替えたものであった。一方、関西地区はDDIセルラーグループの中核会社となる関西セルラー電話(2000年に株式会社エーユーに社名変更し現・KDDI)が存在したことから、日産主体で「株式会社ツーカーホン関西」が設立された。 1994年に日本テレコムが出資の中心だったデジタルホン(その後ジェイフォン、ボーダフォンジャパン、ソフトバンクモバイルを経て現在のソフトバンク)グループと同時に、当初からPDC方式による携帯電話第三グループの通信キャリアとして新規参入した。関東・甲信、東海、関西以外の地区に関しては郵政省(現・総務省)の指導により日産と日本テレコムとの合弁出資でデジタルツーカーを設立し、全国展開を行った。デジタルツーカーのロゴはデジタルホンのDマークの中にツーカーのロゴ(Tu-Ka)が合わさったものであった。この結果、1996年前後の携帯電話の移動体通信事業者(通信キャリア)は東名阪エリアにおいて四社、東名阪以外は三社となった。 開業当初から1998年ごろまでは市場占有率はデジタルホングループと拮抗していた。ツーカーセルラーグループは日産の資本が入っていたことから、日産のディーラーでもツーカー向け携帯電話を扱っていた。また、日産がかつて展開していたテレマティクスサービス「コンパスリンク」(後の「カーウイングス」)は、NTTドコモ以外の携帯電話はツーカーのみ対応していた。 1998年10月に業界初のプリペイド式携帯電話「プリケー」が、ツーカーホン関西地域を皮切りに市販化した。 1998年後半、設立母体であり大株主であった日産自動車は経営危機状態となり、日産リバイバルプランに基づき非中核事業のリストラを行った。ツーカーセルラーグループ各社はDDIに、合弁企業であったデジタルツーカーはデジタルホンの母体である日本テレコムにそれぞれ株式譲渡した。 1999年3月後半、日産自動車がDDIからツーカーセルラー株を買い取った後にジェイフォンに経営統合させる案を検討していたことと、DDIがcdmaOneサービスで提携していたトヨタ自動車系のIDOとの経営統合を想定してツーカーセルラー株の手放しを表明したことから、日産自動車はツーカー3社とデジタルツーカー6社を一括して、デジタルホングループの主体だった旧・日本テレコムに株式譲渡する予定だった。しかし同年7月後半、DDIは株式売却価格への不満を理由にしてツーカーセルラー株の手放しを撤回し、この影響で唯一DDIとの関わりが無かったツーカーホン関西もDDI傘下入りした。 1999年10月に、デジタルツーカーの地域会社はジェイフォン(旧デジタルホングループ)に吸収されたことから、ツーカーセルラーグループ3社では全国をカバーせず、営業外区域(旧「デジタルツーカー」区域)においては、2008年3月のサービス終了まで引き続きジェイフォン(後のボーダフォンジャパン→ソフトバンクモバイル、現・ソフトバンク)とのローミングにより全国におけるサービスを維持提供することになった。これにより、ショートメールサービスはジェイフォン側の「スカイメッセージ」を継続採用し(後身のソフトバンクモバイルと相互送受信可能)、携帯電話IP接続サービスはジェイフォンのローミングにおいてもIDO・DDIセルラー連合(後のau)と同じEZwebを提供するというねじれ状態が生じる事になった。なお、後にTU-KA事業を実質的に巻き取ることになるauとは周波数帯・通信方式は終始異なっていた。 占有率においてはデジタルツーカーがジェイフォンに吸収されたこともあり、イー・モバイル(のちワイモバイル、現在はソフトバンクに吸収)の新規参入までNTTドコモ・au(KDDI・沖縄セルラー電話連合)・ジェイフォンに続く加入者数で最下位であった。 2000年に親会社のDDIがIDO・KDDと合併しKDDIとなり、2001年に「第3世代携帯電話(3G)」への移行を行わない方針を決定。当時の総務省は3Gの参入事業者は全国で3社のみ(事実上、東名阪以外で携帯電話事業を行っていた3社)に制限することとしており、KDDIは3Gを全国でサービス展開しているau携帯電話に一本化することとしたためである。また、将来的に新規参入が出来ることとなっても投資所要額が巨額となることもあって、当面は準備もしないこととした。 2G(PDC)サービスのみの提供を決断してからはローコスト・レガシーデバイスのメリットを追及した事業展開を開始した。2000年12月にツーカーホン関西が業界初の2年契約(縛り)の基本料金割引プラン「ツーカーV3(ブイスリー)」を提供を開始したほか、64和音の着信メロディが再生できる端末「funstyle」(正式な機種名は『TK11』)を発売するなど、auと比べて高性能ではない機種を取り揃えて廉価な料金で提供するといった棲み分けを図り、より独自性の強いサービスを提供し差別化を模索していた。auをレイトマジョリティ以上の層へ向けたサービスとして構築し、残ったラガードの層をツーカーで獲得する狙いもあった。なお、2年契約の基本料金割引プランはローミング提携先でもあるボーダフォンジャパンが2002年にハッピーボーナスを導入し、auもMY割で追従することになった。 2004年にはダウンタウンの松本人志をCMキャラクターに起用し、「通話とメールだけのシンプルなケータイ」というコンセプトを打ち出した。さらに「ツーカーシンプル料金シリーズ」として通話・通信料のわかりやすい料金プランや骨伝導式スピーカー付き携帯電話、説明書がいらないほどのスペックと使いやすさである“ケータイ版黒電話”ことツーカーS(TK50)といった特色ある端末、サービスを提供してきた。なかでも「ツーカーS」に関しては特に65歳以上の高齢者層(2004年 - 2005年当時)の大きな反響を呼び、ライバルNTTドコモも同様の機種(らくらくホンシンプル(D880SS))で追随し、また、親会社のKDDIは将来のツーカーのauブランドへの統合を想定し、通信方式の違いを除きほぼ同型の機種「簡単ケータイS(A101K)」を発売した。 KDDIがツーカーを同じ移動体通信子会社だったPHSのDDIポケット(のちウィルコム→ワイモバイル)のように他社へ売却するか、本体へ統合するか検討している中で、意思決定の迅速化のため2005年3月25日付でツーカー3社はKDDIによる株式交換で完全子会社化された。 完全子会社化後は、携帯電話電話番号ポータビリティ(MNP)導入によりKDDIから他陣営へ顧客流出することの抑止と、ローミング先のボーダフォンジャパン(当時)における将来の3G移行を控え、ツーカー(PDC携帯電話)使用者のau携帯電話への移行により全国サービスの継続を図った。 2005年10月1日にツーカー3社がKDDIにより吸収合併され、ツーカー携帯電話はau携帯電話に順次移行していくことになり、「Tu-Ka by KDDI」(コーポレートイメージカラーは青のCIロゴの入った黄色)というブランド名が与えられ、これに伴い端末の新規開発・基地局の新規設置も打ち切られた。 合併後の2005年10月11日より、ツーカー電話の使用中の電話番号をそのまま用いauへ移行する契約変更制度が開始され、auへの巻き取り施策が開始された。ただし、KDDIの予想を超えた手続きの申し込みがあり処理が逼迫したため、手続き提供開始から1週間の同年10月18日より一時的に受付を中断した。11月2日より暫定的に受付を再開し、11月9日に正式に再開した。EZwebのEメールアドレスは、EZweb@mailとEZweb@mail2に限り、2006年2月20日より引き継ぐことが出来るようになった。 2006年3月30日にKDDIは同年6月30日限りでツーカー電話の新規契約を終了すること、将来的にはサービス自体の廃止も視野に入れていることを発表した。ツーカー携帯電話のauへの巻き取りが加速する。 同年6月1日よりツーカープリペイドサービス(プリケー、プリティ)からauの通常契約へ同じ電話番号で契約変更が可能になった。変更時点でプリdeEZまたはプリdeメールを利用している場合は、Eメールアドレスを引き継げた。また、auぷりペイドへの同番移行も同年11月15日より可能となった。しかしツーカープリペイドサービスの解約後、auプリペイドサービスへ新規契約という形になり、プリdeEZ等は使えなくなった(2007年4月10日以前は登録済みの通話料の引継ぎもできなかった)。 2006年6月30日でツーカー電話の新規契約受付が終了した。同年12月7日には2008年3月31日限りでの電話サービスの終了が発表され、同年12月31日には機種変更向けのツーカー携帯電話の販売も終了した。 その後、auへの契約変更への巻き取り条件は徐々に改善された。当初はツーカーポイントの機種変更時使用不可かつメールアドレス移行不可、契約変更手数料(2835円)の負担が条件だったが、2007年1月以降これらはすべて撤廃された。2007年10月からは解約(MNP転出を含む)の際の定期契約解除料やMNP転出予約手数料の無料化、プリペイドサービスでの登録済み通話料残高の返金(1契約回線につき上限6万円)なども実施された。しかし、指定された無料交換機種の種類や在庫が少ないこと、移行特典が日を追うごとによくなること、その特典も店舗・電話応対者(実際は郵送)・訪問員によってバラツキがあるなどで、スムーズに移行出来ないという混乱も発生した。 2008年3月31日24:00(JST)ツーカー携帯電話はサービスそのものを終了した。前日の3月30日時点での残存契約数は約237,800件で、残存契約数のおよそ90%がプリペイド契約(約219,100件)だった。なお、一部のサービス店舗はauショップへ転換している。停波後にはツーカー端末を使った通信や通話は行えなくなり、契約も強制的に解除される。auへの移行やMNPを利用したau以外の他キャリアへの移行などの契約変更は4月以降も継続することとなったが、MNPを利用したau以外の他キャリアへの契約変更は2008年6月30日をもって終了し、auへの番号・ポイントの移行も同年9月30日をもって終了した。 ツーカーサービス終了後、KDDIが有する1.5GHzの周波数帯域は3G携帯電話サービスの逼迫緩和用として転用することを総務省が明らかにしている。。その後、一部の基地局設備跡地は2009年以降、UQコミュニケーションズのモバイルWiMAX、もしくはauの4GLTEの基地局設備設置スペースへ転用されている。 なお、ツーカーグループ営業エリア外での旧「デジタルツーカー」営業エリアへのローミングはソフトバンクモバイルが継続していたため、停波後も2010年3月31日のソフトバンク2G携帯電話サービス終了までは旧「デジタルツーカー」区域にツーカー携帯電話を持ち込むと、通話は不能ではあるもののアンテナピクトが表示されていた。 チャットでのメッセージ交換も可能。 以後他社携帯等でも利用が出来るようになった。 旧ツーカーグループ 旧デジタルツーカーグループ(後にJ-PHONE、Vodafone、ソフトバンクモバイルを経て現在はソフトバンク) 主に、京セラ・三洋電機(大阪、携帯電話事業のみ後に京セラへ譲渡)・東芝(携帯電話事業は後に富士通と合弁し後の富士通モバイルコミュニケーションズ)の三社が端末を納入してきた(かつての納入会社としてはソニー・三菱電機・ケンウッド・NEC・富士通・モトローラ・松下通信工業(現:パナソニック モバイルコミュニケーションズ)が挙げられる)。 2003年以降に発売された機種 型番ルール 1999年11月以降に発売された端末では最初にツーカーのT、次に製造メーカーの頭文字が付き、二桁の数字で発売年とメーカーがその年内に何番目に発売した端末であるかを表す。たとえば、2001年に京セラが2番目に発売した端末は、TK12となる。ただし、TT01(1999年11月発売、新ルール適用第1号)・TS41(発売時期:2003.12)のように、12月に発売される端末は、翌年に分類されることもある。また、TK40のような付番例もある。 なお、新ルール適用の時点で京セラ・東芝・三洋以外のメーカーはほとんどツーカー向け端末から撤退しており、三菱電機はTD11、松下通信工業はTP11(いずれも2001年)が最後となった。 過去の型番
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2005年当時)の大きな反響を呼び、ライバルNTTドコモも同様の機種(らくらくホンシンプル(D880SS))で追随し、また、親会社のKDDIは将来のツーカーのauブランドへの統合を想定し、通信方式の違いを除きほぼ同型の機種「簡単ケータイS(A101K)」を発売した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "KDDIがツーカーを同じ移動体通信子会社だったPHSのDDIポケット(のちウィルコム→ワイモバイル)のように他社へ売却するか、本体へ統合するか検討している中で、意思決定の迅速化のため2005年3月25日付でツーカー3社はKDDIによる株式交換で完全子会社化された。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "完全子会社化後は、携帯電話電話番号ポータビリティ(MNP)導入によりKDDIから他陣営へ顧客流出することの抑止と、ローミング先のボーダフォンジャパン(当時)における将来の3G移行を控え、ツーカー(PDC携帯電話)使用者のau携帯電話への移行により全国サービスの継続を図った。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2005年10月1日にツーカー3社がKDDIにより吸収合併され、ツーカー携帯電話はau携帯電話に順次移行していくことになり、「Tu-Ka by KDDI」(コーポレートイメージカラーは青のCIロゴの入った黄色)というブランド名が与えられ、これに伴い端末の新規開発・基地局の新規設置も打ち切られた。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "合併後の2005年10月11日より、ツーカー電話の使用中の電話番号をそのまま用いauへ移行する契約変更制度が開始され、auへの巻き取り施策が開始された。ただし、KDDIの予想を超えた手続きの申し込みがあり処理が逼迫したため、手続き提供開始から1週間の同年10月18日より一時的に受付を中断した。11月2日より暫定的に受付を再開し、11月9日に正式に再開した。EZwebのEメールアドレスは、EZweb@mailとEZweb@mail2に限り、2006年2月20日より引き継ぐことが出来るようになった。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2006年3月30日にKDDIは同年6月30日限りでツーカー電話の新規契約を終了すること、将来的にはサービス自体の廃止も視野に入れていることを発表した。ツーカー携帯電話のauへの巻き取りが加速する。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "同年6月1日よりツーカープリペイドサービス(プリケー、プリティ)からauの通常契約へ同じ電話番号で契約変更が可能になった。変更時点でプリdeEZまたはプリdeメールを利用している場合は、Eメールアドレスを引き継げた。また、auぷりペイドへの同番移行も同年11月15日より可能となった。しかしツーカープリペイドサービスの解約後、auプリペイドサービスへ新規契約という形になり、プリdeEZ等は使えなくなった(2007年4月10日以前は登録済みの通話料の引継ぎもできなかった)。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2006年6月30日でツーカー電話の新規契約受付が終了した。同年12月7日には2008年3月31日限りでの電話サービスの終了が発表され、同年12月31日には機種変更向けのツーカー携帯電話の販売も終了した。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その後、auへの契約変更への巻き取り条件は徐々に改善された。当初はツーカーポイントの機種変更時使用不可かつメールアドレス移行不可、契約変更手数料(2835円)の負担が条件だったが、2007年1月以降これらはすべて撤廃された。2007年10月からは解約(MNP転出を含む)の際の定期契約解除料やMNP転出予約手数料の無料化、プリペイドサービスでの登録済み通話料残高の返金(1契約回線につき上限6万円)なども実施された。しかし、指定された無料交換機種の種類や在庫が少ないこと、移行特典が日を追うごとによくなること、その特典も店舗・電話応対者(実際は郵送)・訪問員によってバラツキがあるなどで、スムーズに移行出来ないという混乱も発生した。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2008年3月31日24:00(JST)ツーカー携帯電話はサービスそのものを終了した。前日の3月30日時点での残存契約数は約237,800件で、残存契約数のおよそ90%がプリペイド契約(約219,100件)だった。なお、一部のサービス店舗はauショップへ転換している。停波後にはツーカー端末を使った通信や通話は行えなくなり、契約も強制的に解除される。auへの移行やMNPを利用したau以外の他キャリアへの移行などの契約変更は4月以降も継続することとなったが、MNPを利用したau以外の他キャリアへの契約変更は2008年6月30日をもって終了し、auへの番号・ポイントの移行も同年9月30日をもって終了した。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ツーカーサービス終了後、KDDIが有する1.5GHzの周波数帯域は3G携帯電話サービスの逼迫緩和用として転用することを総務省が明らかにしている。。その後、一部の基地局設備跡地は2009年以降、UQコミュニケーションズのモバイルWiMAX、もしくはauの4GLTEの基地局設備設置スペースへ転用されている。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、ツーカーグループ営業エリア外での旧「デジタルツーカー」営業エリアへのローミングはソフトバンクモバイルが継続していたため、停波後も2010年3月31日のソフトバンク2G携帯電話サービス終了までは旧「デジタルツーカー」区域にツーカー携帯電話を持ち込むと、通話は不能ではあるもののアンテナピクトが表示されていた。", "title": "KDDIへの吸収合併" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "チャットでのメッセージ交換も可能。 以後他社携帯等でも利用が出来るようになった。", "title": "オリジナルコンテンツ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "旧ツーカーグループ", "title": "事業開始時期" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "旧デジタルツーカーグループ(後にJ-PHONE、Vodafone、ソフトバンクモバイルを経て現在はソフトバンク)", "title": "事業開始時期" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "主に、京セラ・三洋電機(大阪、携帯電話事業のみ後に京セラへ譲渡)・東芝(携帯電話事業は後に富士通と合弁し後の富士通モバイルコミュニケーションズ)の三社が端末を納入してきた(かつての納入会社としてはソニー・三菱電機・ケンウッド・NEC・富士通・モトローラ・松下通信工業(現:パナソニック モバイルコミュニケーションズ)が挙げられる)。", "title": "端末" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2003年以降に発売された機種", "title": "端末" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "型番ルール", "title": "端末" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1999年11月以降に発売された端末では最初にツーカーのT、次に製造メーカーの頭文字が付き、二桁の数字で発売年とメーカーがその年内に何番目に発売した端末であるかを表す。たとえば、2001年に京セラが2番目に発売した端末は、TK12となる。ただし、TT01(1999年11月発売、新ルール適用第1号)・TS41(発売時期:2003.12)のように、12月に発売される端末は、翌年に分類されることもある。また、TK40のような付番例もある。", "title": "端末" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "なお、新ルール適用の時点で京セラ・東芝・三洋以外のメーカーはほとんどツーカー向け端末から撤退しており、三菱電機はTD11、松下通信工業はTP11(いずれも2001年)が最後となった。", "title": "端末" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "過去の型番", "title": "端末" } ]
ツーカー (Tu-Ka) は、かつて存在した日本の移動体通信事業者であるツーカーセルラー2社とツーカーホン関西およびそれらを承継したKDDIが提供していた第2世代移動通信システム (2G) サービスである。東京、東海、関西の三大都市圏を中心に、デジタルホングループやNTTドコモのシティフォンと共に、1.5GHz帯のPDC方式を採用した移動体通信を提供していた。 1991年の創立以来、筆頭出資者だった日産が1999年に資本撤退してからは第二電電(DDI)傘下となり、2001年以降は、ローコスト、レガシー志向のユーザーに向けた事業展開をしていたが、2006年6月30日をもって新規加入の受付を終了し、同年12月31日の24:00をもって機種変更用端末の販売も終了(持込機種変更は継続)し、2008年3月31日の24:00をもってツーカー電話サービスそのものが終了し、14年の歴史に幕を下ろした。なお、ツーカーの電話契約数はピーク時で4,018,200契約(2001年6月末)だった。
{{otheruses2||日本語の言葉の意味|[https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%A4%E3%81%86%E3%81%8B%E3%81%82/ goo国語辞書「つうかあ」]|[https://kotobank.jp/word/%E3%81%A4%E3%81%86%E3%81%8B%E3%81%82-570418 コトバンク「つうかあ」]}} {{混同|デジタルツーカー|x1=[[三大都市圏|東名阪]]以外の地域で1996年から1999年まで存在し、携帯電話会社[[ソフトバンク]]の前身の1つになった}} [[ファイル:TH-781.jpg|thumb|right|240px|TU-KAの端末例・TH-781 [[NEC]]製 1998年]] '''ツーカー''' ('''Tu-Ka''') は、かつて存在した日本の[[電気通信事業者|移動体通信事業者]]であるツーカーセルラー2社と[[ツーカーホン関西]]およびそれらを承継した[[KDDI]]が提供していた[[第2世代移動通信システム]] (2G) サービスである。[[首都圏 (日本)|東京]]、[[中京圏|東海]]、[[京阪神|関西]]の[[三大都市圏]]を中心に、[[デジタルホン]]グループや[[NTTドコモ]]の[[シティフォン]]と共に、[[1.5GHz帯]]の[[PDC]]方式を採用した移動体通信を提供していた。 [[1991年]]の創立以来、筆頭出資者だった日産が[[1999年]]に資本撤退してからは第二電電(DDI)傘下となり、[[2001年]]以降は、ローコスト、レガシー志向のユーザーに向けた事業展開をしていたが、[[2006年]][[6月30日]]をもって新規加入の受付を終了し、同年[[12月31日]]の24:00をもって機種変更用端末の販売も終了(持込機種変更は継続)し、[[2008年]][[3月31日]]の24:00をもってツーカー電話サービスそのものが終了し、14年の歴史に幕を下ろした。なお、ツーカーの電話契約数はピーク時で4,018,200契約(2001年6月末<ref>[http://www.tca.or.jp/japan/database/daisu/yymm/0106matu.html TCA 事業者別契約数 2001年6月末現在]</ref>)だった。 == 概要 == [[1992年]]、[[日産自動車]]を母体に<ref>[https://web.archive.org/web/19970616214405/http://www.nissan.co.jp/TU-KA/QA/qa.html#Q2 TU-KAサイバートークQ&A]</ref>、[[第二電電]](以下DDI、現・[[KDDI]])および[[京セラ]]らの共同出資により「'''株式会社ツーカーセルラー東京'''」と「'''株式会社ツーカーセルラー東海'''」が設立された。ブランド名の「ツーカー」は、「気心の知れた[[人間関係]]」を意味する『つぅと言えばかぁ』が戦後に砕けて『ツーカー(―の仲)』という言葉になったものを採り入れたものである。 DDIは[[DDIセルラーグループ]]で[[携帯電話]]事業を営んでいたが、[[関東地方|関東]]・[[東海地方|東海]][[甲信地方|甲信]]は当時別資本の[[日本移動通信|IDO]]との[[ローミング]]による協業体制でサービスが提供されており、同地域にDDI直轄の移動体通信事業者が存在しなかったこともあり経営参画していた。東京・東海のシンボルマークはDDIセルラーと同じ[[六角形]]マークで「cellular」を「Tu-Ka」に差し替えたものであった。一方、関西地区はDDIセルラーグループの中核会社となる関西セルラー電話(2000年に株式会社[[Au (携帯電話)|エーユー]]に社名変更し現・KDDI)が存在したことから、日産主体で「'''株式会社[[ツーカーホン関西]]'''」が設立された。 [[1994年]]に[[日本テレコム]]が出資の中心だった'''デジタルホン'''(その後ジェイフォン、[[ボーダフォン]]ジャパン、ソフトバンクモバイルを経て現在の[[ソフトバンク]])グループと同時に、当初から[[PDC]]方式による携帯電話第三グループの通信キャリアとして新規参入した。関東・甲信、東海、関西以外の地区に関しては[[郵政省]](現・[[総務省]])の指導により日産と日本テレコムとの合弁出資で'''[[デジタルツーカー]]'''を設立し、全国展開を行った。デジタルツーカーのロゴはデジタルホンのDマークの中にツーカーのロゴ(Tu-Ka)が合わさったものであった。この結果、1996年前後の携帯電話の移動体通信事業者(通信キャリア)は東名阪エリアにおいて四社、東名阪以外は三社となった。 開業当初から1998年ごろまでは市場占有率はデジタルホングループと拮抗していた。ツーカーセルラーグループは日産の資本が入っていたことから、日産の[[自動車ディーラー|ディーラー]]でもツーカー向け携帯電話を扱っていた<ref>資本撤退後もツーカーのステッカーが店内に貼られている販売店もごく一部に存在するが、携帯電話の販売事業は撤退している。</ref>。また、日産がかつて展開していたテレマティクスサービス「コンパスリンク」(後の「[[カーウイングス]]」)は、NTTドコモ以外の携帯電話はツーカーのみ対応していた<ref>関東・甲信・東海・関西地方以外では、交換機がツーカー仕様([[日本電気|NEC]]製)だった東北(新潟県含む)・中国・四国地方のみ使用できた。北海道・北陸・九州地方は交換機がデジタルホン仕様([[エリクソン]]製)のため使用できなかった。</ref>。 1998年10月に業界初の[[プリペイド式携帯電話]]「'''プリケー'''」が、ツーカーホン関西地域を皮切りに市販化した。 1998年後半、設立母体であり大株主であった日産自動車は経営危機状態となり、[[日産リバイバルプラン]]に基づき非中核事業のリストラを行った。ツーカーセルラーグループ各社はDDIに、合弁企業であったデジタルツーカーはデジタルホンの母体である日本テレコムにそれぞれ株式譲渡した。 === KDDIグループ入り後の事業展開 === 1999年3月後半、日産自動車がDDIからツーカーセルラー株を買い取った後にジェイフォンに経営統合させる案を検討していたことと、DDIが[[cdmaOne]]サービスで提携していた[[トヨタ自動車]]系の[[日本移動通信|IDO]]との経営統合を想定してツーカーセルラー株の手放しを表明したことから、日産自動車はツーカー3社とデジタルツーカー6社を一括して、デジタルホングループの主体だった旧・日本テレコムに株式譲渡する予定だった。しかし同年7月後半、DDIは株式売却価格への不満を理由にしてツーカーセルラー株の手放しを撤回し<ref>1999/08/06 [[日経産業新聞]]</ref>、この影響で唯一DDIとの関わりが無かったツーカーホン関西もDDI傘下入りした。 1999年10月に、デジタルツーカーの地域会社はジェイフォン(旧デジタルホングループ)に吸収されたことから、ツーカーセルラーグループ3社では全国をカバーせず、営業外区域(旧「デジタルツーカー」区域)においては、2008年3月のサービス終了まで引き続きジェイフォン(後のボーダフォンジャパン→ソフトバンクモバイル、現・[[ソフトバンク]])との[[ローミング]]により全国におけるサービスを維持提供することになった。これにより、ショートメールサービスはジェイフォン側の「[[スカイメール|スカイメッセージ]]」を継続採用し(後身のソフトバンクモバイルと相互送受信可能)、[[携帯電話IP接続サービス]]はジェイフォンのローミングにおいてもIDO・DDIセルラー連合(後のau)と同じ[[EZweb]]を提供するという[[ねじれ]]状態が生じる事になった。なお、後にTU-KA事業を実質的に[[巻き取り (携帯電話)|巻き取る]]ことになるauとは周波数帯・通信方式は終始異なっていた。 占有率においてはデジタルツーカーがジェイフォンに吸収されたこともあり、[[イー・モバイル]](のち[[ワイモバイル]]、現在はソフトバンクに吸収)の新規参入まで[[NTTドコモ]]・[[Au (携帯電話)|au]](KDDI・[[沖縄セルラー電話]]連合)・ジェイフォンに続く加入者数で最下位であった。 2000年に親会社のDDIがIDO・[[ケイディディ|KDD]]と合併し[[KDDI]]<ref>当初は「株式会社ディーディーアイ」の通称。2001年4月より正式社名となる。</ref>となり、<!--当初は[[浜崎あゆみ]]をCMキャラクターに採用し「[[EZweb]]」など共通のサービス展開をアピールした。一方、KDDI([[沖縄セルラー電話]]を含む)の展開する-->2001年に「第3世代携帯電話(3G)」への移行を行わない方針を決定。当時の総務省は3Gの参入事業者は全国で3社のみ(事実上、東名阪以外で携帯電話事業を行っていた3社)に制限することとしており、KDDIは3Gを全国でサービス展開しているau携帯電話に一本化することとしたためである。また、将来的に新規参入が出来ることとなっても投資所要額が巨額となることもあって、当面は準備もしないこととした。 2G(PDC)サービスのみの提供を決断してからはローコスト・レガシーデバイスのメリットを追及した事業展開を開始した。2000年12月に<ref>{{Cite web|和書|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/3992.html|title=『ツーカー東京、新料金プラン「ツーカーコンボ」導入』(2001年5月1日付記事)/第3段落文中にツーカーホン関西「ツーカーV3」について言及有り|work=|author=|publisher=インプレス・『ケータイWatch』編集部|accessdate=2019-06-19}}</ref>ツーカーホン関西が業界初の2年契約(縛り)の基本料金割引プラン「ツーカーV3(ブイスリー)」を提供を開始した<ref>その後、ツーカーセルラー東京では、ほぼ同様の料金プランを「ツーカーコンボ」という名称で2001年6月に導入。ツーカーセルラー東海は更に遅れて2002年6月に「BEST」の名称で導入したが、東京・関西とは料金体系が異なる。次の脚注のリンク先を参照されたし。</ref>ほか<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/mobile/0205/22/n_tukatokai.html|title=『ツーカー(東海)、低料金プラン「BEST」導入』(ITmediaMobile・2002年5月22日付記事)|work=|author=|publisher=ITmedia・ITmediaMobile|accessdate=2019-06-19}}</ref>、64和音の[[着信メロディ]]が再生できる端末「funstyle」(正式な機種名は『TK11』)を発売するなど、auと比べて高性能ではない機種を取り揃えて廉価な料金で提供するといった棲み分けを図り、より独自性の強いサービスを提供し差別化を模索していた。auを[[流行#イノベーター理論|レイトマジョリティ]]以上の層へ向けたサービスとして構築し、残った[[流行#イノベーター理論|ラガード]]の層をツーカーで獲得する狙いもあった。なお、2年契約の基本料金割引プランはローミング提携先でもあるボーダフォンジャパンが2002年に[[ハッピーボーナス]]を導入し、auも[[MY割]]で追従することになった。 2004年には[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]の[[松本人志]]をCMキャラクターに起用し、「'''通話とメールだけ'''のシンプルなケータイ」というコンセプトを打ち出した。さらに「ツーカーシンプル料金シリーズ」として通話・通信料のわかりやすい料金プランや[[骨伝導]]式スピーカー付き携帯電話、説明書がいらないほどのスペックと使いやすさである“ケータイ版[[黒電話]]”こと'''[[ツーカーS]]'''(TK50)といった特色ある端末、サービスを提供してきた。なかでも「ツーカーS」に関しては特に65歳以上の高齢者層(2004年 - 2005年当時)の大きな反響を呼び、ライバルNTTドコモ{{refnest|2004年9月に同じ1.5GHz帯で関東・東海・関西のシンプルユーザー向けの[[シティフォン]]の新規加入受付を終了していた。}}も同様の機種([[らくらくホンシンプル]](D880SS))で追随し、また、親会社のKDDIは将来のツーカーのauブランドへの統合を想定し、通信方式の違いを除きほぼ同型の機種「[[簡単ケータイS]](A101K)」を発売した<ref>2009年5月をもって販売終了。事実上の後継機種は[[大韓民国|韓]][[パンテック]]社製の[[PT001]]となるものの、こちらも2013年3月をもって販売終了となっている。</ref>。 == KDDIへの吸収合併 == KDDIがツーカーを同じ移動体通信子会社だった[[PHS]]のDDIポケット(のち[[ウィルコム]]→ワイモバイル)のように他社へ売却するか、本体へ統合するか検討している中で、意思決定の迅速化のため[[2005年]][[3月25日]]付でツーカー3社はKDDIによる[[株式交換]]で完全子会社化された。 完全子会社化後は、携帯電話電話[[番号ポータビリティ]](MNP)導入によりKDDIから他陣営へ顧客流出することの抑止と、ローミング先のボーダフォンジャパン(当時)における将来の3G移行を控え、ツーカー(PDC携帯電話)使用者のau携帯電話への移行により全国サービスの継続を図った。 2005年[[10月1日]]にツーカー3社がKDDIにより吸収合併され、ツーカー携帯電話はau携帯電話に順次移行していくことになり、「''Tu-Ka by KDDI''」(コーポレートイメージカラーは青のCIロゴの入った黄色)というブランド名が与えられ、これに伴い端末の新規開発・基地局の新規設置も打ち切られた。 === サービス終了 === 合併後の[[2005年]][[10月11日]]より、ツーカー電話の使用中の電話番号をそのまま用いauへ移行する契約変更制度が開始され、auへの[[巻き取り (携帯電話)|巻き取り]]施策が開始された。ただし、KDDIの予想を超えた手続きの申し込みがあり処理が逼迫したため、手続き提供開始から1週間の同年[[10月18日]]より一時的に受付を中断した。[[11月2日]]より暫定的に受付を再開し、[[11月9日]]に正式に再開した。[[EZweb]]の[[Eメールアドレス]]は、EZweb@mailとEZweb@mail2に限り、[[2006年]]2月20日より引き継ぐことが出来るようになった。 2006年[[3月30日]]にKDDIは同年[[6月30日]]限りでツーカー電話の新規契約を終了すること、将来的にはサービス自体の廃止も視野に入れていることを発表した。ツーカー携帯電話のauへの巻き取りが加速する。 同年[[6月1日]]よりツーカープリペイドサービス(プリケー、プリティ)からauの通常契約へ同じ電話番号で契約変更が可能になった。変更時点でプリdeEZまたはプリdeメールを利用している場合は、Eメールアドレスを引き継げた。また、auぷりペイドへの同番移行も同年11月15日より可能となった。しかしツーカープリペイドサービスの解約後、auプリペイドサービスへ新規契約という形になり、プリdeEZ等は使えなくなった(2007年4月10日以前は登録済みの通話料の引継ぎもできなかった)。 2006年[[6月30日]]でツーカー電話の新規契約受付が終了した。同年[[12月7日]]には[[2008年]][[3月31日]]限りでの電話サービスの終了が発表され、同年[[12月31日]]には機種変更向けのツーカー携帯電話の販売も終了した。 その後、auへの契約変更への巻き取り条件は徐々に改善された。当初はツーカーポイントの機種変更時使用不可かつメールアドレス移行不可、契約変更手数料(2835円)の負担が条件だったが、[[2007年]]1月以降これらはすべて撤廃された。[[2007年]]10月からは解約(MNP転出を含む)の際の定期契約解除料やMNP転出予約手数料の無料化、プリペイドサービスでの登録済み通話料残高の返金(1契約回線につき上限6万円)なども実施された。しかし、指定された無料交換機種の種類や在庫が少ないこと、移行特典が日を追うごとによくなること、その特典も店舗・電話応対者(実際は郵送)・訪問員によってバラツキがあるなどで、スムーズに移行出来ないという混乱も発生した。 [[2008年]][[3月31日]]24:00(JST)ツーカー携帯電話はサービスそのものを終了した。前日の[[3月30日]]時点での残存契約数は約237,800件で、残存契約数のおよそ90%がプリペイド契約(約219,100件)だった。<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/39222.html ケータイWatch KDDI 2008年3月31日 ツーカー終了に伴う乗換施策を延長]</ref>なお、一部のサービス店舗はauショップへ転換している。停波後にはツーカー端末を使った通信や通話は行えなくなり、契約も強制的に解除される。auへの移行やMNPを利用したau以外の他キャリアへの移行などの契約変更は4月以降も継続することとなったが、MNPを利用したau以外の他キャリアへの契約変更は2008年6月30日をもって終了し、auへの番号・ポイントの移行も同年[[9月30日]]をもって終了した。 ツーカーサービス終了後、KDDIが有する1.5GHzの周波数帯域は3G携帯電話サービスの逼迫緩和用として転用することを総務省が明らかにしている。<ref>[https://web.archive.org/web/20070705111943/http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/policyreports/joho_tsusin/keitai_syuuha/061214_1.html 携帯電話等周波数有効利用方策委員会(第23回)]</ref>。その後、一部の基地局設備跡地は2009年以降、[[UQコミュニケーションズ]]の[[モバイルWiMAX]]、もしくはauの4G[[Long Term Evolution|LTE]]の基地局設備設置スペースへ転用されている。 なお、ツーカーグループ営業エリア外での旧「デジタルツーカー」営業エリアへのローミングはソフトバンクモバイルが継続していたため、停波後も2010年3月31日の[[SoftBank 6-2|ソフトバンク2G携帯電話サービス]]終了までは旧「デジタルツーカー」区域にツーカー携帯電話を持ち込むと、通話は不能ではあるもののアンテナピクトが表示されていた。 == オリジナルコンテンツ == ; funstyle : 2001年6月発売のfunstyle TK11で始まった音楽配信サービス。「音楽配信」と称しているが、前後して商用化した[[ウィルコム|feel H"]]のSound Market・ドコモの[[m-stage|M-Stage music]]、後の[[着うたフル]]のように[[音声圧縮]]による音声ファイルを配信するのではなく、[[着信メロディ]]と同じく[[MIDI]]データであり、編集機能により楽曲の一部を切り取り[[着信メロディ]]としての利用も可能である。特徴として内蔵チップの[[MIDIシーケンサー]]が最大14パート・64和音迄の演奏が可能で黎明期の[[通信カラオケ]]と肩を並べるスペックであり、着信メロディとしては開始当時最高の性能であった。楽曲データのダウンロード機能を利用した同キャリアの[[カラオケ]]専門サイトも存在していた。 ; 朝刊サービス・夕刊ツーカー : 朝刊サービスは、[[読売新聞]]と[[スポーツ報知|報知新聞]]が提供した52種類のニュースジャンルと16種類のジャンルからユーザーが好みのものを選ぶもので、朝6時に配信されていた[[メールマガジン]]。夕刊ツーカーは[[夕刊紙]]感覚で週3回(月・水・金)配信されていたメールマガジン。夕刊ツーカーに関しては[[伊集院光]]が編集長として毎回コラムを執筆していた。朝刊サービスは2004年10月15日、夕刊ツーカーは2001年10月31日開始。共に2006年9月29日終了。 ; ホームページ広場 : 2002年6月27日に始まった簡単に携帯上でホームページを作成できるサービス。1MBのスペースが用意され、カメラ付ケータイで撮った写真をサイト上にアップロードすることも可能だった。[[電子掲示板|掲示板]]やページの解説や更新を案内する招待状システムが搭載されていた<ref>[http://www.kddi.com/tu-ka/tokai/news/release/back-2004/134.html 「ホームページ広場」サービス開始について」] ツーカー東海2002年6月24日付プレスリリース</ref>。2006年8月31日新規受け付け終了。同年9月29日サービス終了。 ; Tu-Ka Messenger : TT21に搭載された。状態を知りたい「友達」を30人までリストに登録でき、そのうち6人までの状態をリアルタイムに知ることができる。 チャットでのメッセージ交換も可能。 以後他社携帯等でも利用が出来るようになった。 ; スカイメールトリプル : 通常のスカイメッセージの文字数を3倍送ることが出来た。 == 事業開始時期 == 旧ツーカーグループ * 1994年4月 - ツーカーホン関西 * 1994年6月 - ツーカーセルラー東京 * 1994年7月 - ツーカーセルラー東海 旧デジタルツーカーグループ(後にJ-PHONE、Vodafone、ソフトバンクモバイルを経て現在はソフトバンク) * 1996年1月 - デジタルツーカー九州 * 1996年5月 - デジタルツーカー中国 * 1996年12月 - デジタルツーカー東北、デジタルツーカー北海道 * 1997年1月 - デジタルツーカー北陸 * 1997年2月 - デジタルツーカー四国 == サービス終了時点での営業地域 == * ツーカー東京(旧ツーカーセルラー東京) ** [[群馬県]]、[[栃木県]]、[[茨城県]]、[[埼玉県]]、[[東京都]]、[[千葉県]]、[[神奈川県]]、[[山梨県]]、[[長野県]] * ツーカー東海(旧ツーカーセルラー東海) ** [[静岡県]]、[[愛知県]]、[[三重県]]、[[岐阜県]] * ツーカー関西(旧ツーカーホン関西) ** [[滋賀県]]、[[京都府]]、[[大阪府]]、[[兵庫県]]、[[奈良県]]、[[和歌山県]] == 端末 == 主に、京セラ・[[三洋電機]](大阪、携帯電話事業のみ後に京セラへ譲渡)・[[東芝]](携帯電話事業は後に[[富士通]]と合弁し後の[[富士通モバイルコミュニケーションズ]])の三社が端末を納入してきた(かつての納入会社としては[[ソニー]]・[[三菱電機]]・[[ケンウッド]]・[[日本電気|NEC]]・[[富士通]]・[[モトローラ]]・松下通信工業(現:[[パナソニック モバイルコミュニケーションズ]])が挙げられる)。 {{右|center|<gallery> ファイル:TT02.jpg|TU-KAの端末例・TT02 東芝製 2000年 ファイル:TS-01 s.jpg|TU-KAの端末例・TS-01 三洋製 1999年 </gallery>}} '''2003年以降に発売された機種''' * [[京セラ]] ** TK31 ** [[TK40]] ** TK41 ** [[ツーカーS]](TK50) ** [[TK51]](同機がツーカーの最終機種(2005年8月発売)) * [[東芝]] ** TT31 ** TT32 ** [[TT41]] ** [[TT51]] * [[三洋電機]] ** TS31 ** TS41 '''型番ルール''' {{右|center|<gallery> ファイル:TH-671 d.jpg|TU-KAの端末例・TH-671 富士通製 1997年 ファイル:TH291.jpg|TU-KAの端末例・TH291 ソニー製 1999年 </gallery>}} {{右|center|<gallery> ファイル:TH271.jpg|TU-KAの端末例・[[TH371]] 東芝製 1997年 ファイル:TH-391.jpg|TU-KAの端末例・TH-391 東芝製 1999年 </gallery>}} 1999年11月以降に発売された端末では最初にツーカーのT、次に製造メーカーの頭文字が付き、二桁の数字で発売年とメーカーがその年内に何番目に発売した端末であるかを表す。たとえば、'''2001年'''に'''京セラ'''が'''2番目'''に発売した端末は、'''[[TK12]]'''となる。ただし、[[TT01]](1999年11月発売、新ルール適用第1号)・TS41(発売時期:2003.12)のように、12月に発売される端末は、翌年に分類されることもある。また、TK40のような付番例もある。 なお、新ルール適用の時点で京セラ・東芝・三洋以外のメーカーはほとんどツーカー向け端末から撤退しており、三菱電機は[[TD11]]、松下通信工業は[[TP11]](いずれも2001年)が最後となった。 '''過去の型番''' * ツーカーセルラー東京では開業当初から、ツーカーセルラー東海では1996年頃から、ツーカーホン関西では1997年秋以降に発売の機種から、'''THxxx'''という3桁の型番が使われていた(一部は、'''THZxx'''の型番)。以下にて詳述の通り、1桁目は製造したメーカーを、2桁目は発売した西暦年の下1桁を、3桁目はそのメーカーに於けるその年に発売した端末の順番・世代を示していた(THZxx型番の場合は、1桁目が製造メーカー、2桁目がTHxxx型番の3桁目に相当する数字が割り当てられていた)<ref>なお、この項では、[http://arch.casio.jp/hpc/support/1_cellular.html CASIO社の携帯電話データ通信カード(A-51V/A-51/A-50版)対応機種表のページの『ツーカーグループ』の項]を参考にした</ref>。 *なお、一部の数字とメーカーの組み合わせ(1~3・5・7)はDDIセルラーグループと同じだった。 ** 0 松下通信工業(現・[[パナソニック モバイルコミュニケーションズ]]) - 1996年頃までのツーカーセルラー東海(以下、『東海』)・1997年夏までのツーカーホン関西(以下、『関西』)では『Pxxx』 ** 1 [[京セラ]] - 東海・関西では『Kxxx』 ** 2 [[ソニー]](現・[[ソニーモバイルコミュニケーションズ]]) - 東海では『Sxx』(=東京の『TH251』以前の端末に相当)、関西では『SOxx』(=東海での『Sxx』シリーズに相当)→『Yxxx』(=東京・東海での『TH261』・『TH271』に相当) ** 3 [[東芝]] - 東京の『TH361』相当の端末を東海では『TII』として販売、『TH362』以降は東京・東海で型番統一。 ** 4 [[三菱電機]] - 東海・関西では『Dxxx』。関西では限定端末として『X201』も販売 ** 5 [[モトローラ]] - 東京の『TH541』・東海の『M』のみでツーカーグループ向け端末からは撤退。 ** 6 [[富士通]] - 東海・関西では『Fxxx』 ** 7 [[日本電気|NEC]](現・[[NECモバイルコミュニケーションズ]]) - 東海・関西では『Nxxx』 ** 8 [[三洋電機]] - 東海では『Yxx』、関西では『Sxxx』 ** 9 [[ケンウッド]] - 東海では『Kw』(東京の『TH951』相当)、関西では『Wxxx』 == 以前、CMに出演したタレント == * [[松本人志]]([[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]])-後にソフトバンクのCMに出演。 * [[小林桂樹]]&[[藤岡琢也]] * [[TIM (お笑いコンビ)|TIM]] * [[浜崎あゆみ]] *: 当初はツーカーセルラー東京・東海のみ(ツーカーホン関西で[[安室奈美恵]]を起用していたため)。後にソフトバンクのCMにも出演。 * [[桜井裕美]] *: [[ソフトバンクモバイル]]のカタログ広告に登場していた。 * [[観月ありさ]] *: 当初はツーカーホン関西限定で[[ハリソン・フォード]]と共演。 * [[大土井裕二]] === ツーカーセルラー東京のみ === * [[細川俊之]] & [[いしだ壱成]] * [[本木雅弘]] & [[大浦龍宇一]] & 山口忍 & 原秀樹 *: 「ツーカーズ」という4人組バンドの設定で出演。ツーカーズについては[[ジャニーズ関連OBユニット#ツーカーズ]]を参照のこと。 *: 本木は後にツーカーホン関西のCMにも別の役柄で出演。 === ツーカーセルラー東海のみ === * [[田中律子]] * YANAGIYA-V&[[Mr.No1se]] * [[坂下千里子]] * [[中山エミリ]] === ツーカーホン関西のみ === * [[ハリソン・フォード]] * [[ジャネット・ジャクソン]] * [[PUFFY]] * [[キダ・タロー]] * [[安室奈美恵]] - 後にドコモのCMにも出演。 * [[よゐこ]] * [[夏帆]]([[プリケー]]) - 後にauのCMにも出演。 * [[観月ありさ]]&[[ブラッド・ピット]] - 観月ありさは当初はツーカーホン関西限定。のちにツーカーセルラー東京のCMに出演。ブラッド・ピットは後に[[ソフトバンク|ソフトバンクモバイル]]のイメージキャラクターとなる。 ==関連項目== *[[UQ mobile]] - [[2015年]][[10月1日]]にKDDIバリューイネイブラーを吸収合併して、[[仮想移動体通信事業者|MVNO]]に参入。2020年10月からは[[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]]がメインブランドの「[[au (携帯電話)|au]]」の[[サブブランド]]化し、事実上ライトユーザー向けへのサービス展開となったが、独自の周波数帯の割り当てでなかったことやツーカーSのような「ないものづくし」の機種を出していない点がツーカーと異なる。 *[[DDIポケット]] - 現在の[[Y!mobile]]の前身の一つ。2004年9月まではDDI(現在のKDDIの前身)の傘下で[[PHS]]事業で低価格機種やデータ通信特化端末へのサービスを行なっていた。 == 脚注 == <references /> {{au}} {{KDDI}} {{かつて存在した日本の携帯電話事業者}} {{DEFAULTSORT:つか}} [[Category:日本の携帯電話事業者|廃つか]] [[Category:携帯電話 (au)]] [[Category:KDDIグループの歴史]] [[Category:日産自動車]] [[Category:かつて存在したブランド]]
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国際単位系
国際単位系(こくさいたんいけい、仏: Système International d'unités、英: International System of Units、略称: SI)は、メートル法の後継として国際的に定められ、世界中で広く使用されている単位系である(⇒#国際単位系の定義)。 メートル条約に基づき、メートル法におけるMKS単位系が国際的な標準規格の単位として広く使用されていた。すなわち、長さの単位にメートル (m)と質量の単位にキログラム (kg)、時間の単位に秒 (s) を用いて、この3つの単位の組み合わせで、様々な物理量の単位と値を表現していた。SIは、これをより拡張した一貫性のある単位系である(詳細は後述)。SIは1948年の第9回国際度量衡総会 (CGPM) で設立が決定され、1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でその包括的な規定が確立された。SIについて、準拠すべき最新の公式国際文書は、2019年に発行された第9版 (2019) である(⇒#公式国際文書)。 なお、SIはメートル法を発展・洗練させたものであるが、同じくメートル法系から発展した単位系として工学単位系(重力単位系)やCGS単位系などがある。これらは異なる単位系であり、使用に当たって混同しないよう注意を要する。また、近年のSIは普遍的な自然法則を重視した単位を志向しているが、純粋に自然のみに拠った自然単位系も存在する。 略称の SI はフランス語の「Système International d'unités」に由来する。これはメートル法がフランスの発案であったという歴史的経緯があること、及びメートル条約・国際度量衡委員会 (CIPM)・国際度量衡局 (BIPM) の公用語がフランス語であるという事情による。「SI」 は言語の違い(英語、日本語、中国語、タイ語など)に関係なく共通して用いられる略称である。 SI は国際単位系の略称であるため「SI単位系」というのは重複表現であるが、単に「SI」では分かりづらい場合に用いられる。「SI単位」(仏: unité(s) du SI、英: SI unit(s))は「国際単位系の単位」という意味で正しい用語である。 国際単位系の単位システムとしての特徴は次の通りである。 これらは簡便性と合理性を保つ工夫である。例えば、1881年の第1回国際電気会議の時点で、少なくとも12の起電力の単位、10の電流の単位、15の抵抗の単位が存在していた。多様な単位が併存すると相互の換算に煩わされるが、「一貫性」のある単位だけなら換算係数の煩雑さは避けられる。 国際単位系 (SI) は2019年の第9版に至って初めて、全ての定義が人工物を使った標準、物質の特性、測定方法のいずれにも関連づけられない形で確立された。こうした改定によって、あらゆる単位の実現の精度が、定義自体によって制約されることなく、自然界の量子構造と人類の技術力のみによって制約されるようになった。定義定数をある単位に結びつける有効な物理式であればいかなるものでも、その単位の実現に使うことができ、これによって、今後の技術の進展に伴って更に精度を高めた革新と実現の機会があらゆるところで拓かれていく。このように、2019年の定義改定は、大きな意義を持つ歴史的一歩を前に踏み出す節目となるものである。 以下に、SIの構造上の重要な決定を列挙する。 2019年5月20日以降の国際単位系についての最新の公式文書は、BIPMによるフランス語と英語による「国際単位系第9版 (2019)Ver.2.01」2022年12月 である。この文書の日本語訳は以下である。 この文書は、BIPMの英語版(ただし、以前のVer1.08版、2019年5月)を日本語に翻訳したものである。したがって、2022年11月に追加された新しいSI接頭語のクエタ(Q)、ロナ(R)、ロント(r)、クエクト(q)およびこれらに関するCGPMの決議文などは含まれていない。 国際単位系の公式文書はフランス語によるものであり、正式な本文の確認が必要な場合、あるいは、文章の解釈に疑義がある場合は、フランス語版を参照する必要がある。 国際単位系国際文書を日本語に翻訳した産業技術総合研究所、計量標準総合センターは、国際単位系 (SI) 第9版 (2019) の概要(新しいSI接頭語を含んでいる。)を下記のパンフレットにまとめている。このパンフレットは、非営利目的の複製が自由にできる。すなわち営利目的の使用でなければ、許諾の必要なく、複写・複製することができる。 1970年の第1版以降の経緯は次の通りであり、BIPMのHPで閲覧できる。 2019年に、国際単位系の定義は根本的に改められた。すなわち2006年公式文書までは、7つの基本単位をベースにして組立単位、接頭語からなる単位の組み合わせ(単位系)を国際単位系と定義していた。しかし2019年の第9版の公式文書は以下の定義のように、「7つの定義定数の数値を固定する」ことによって逆にSIを定義することとしたのである。 ここで、ヘルツ(記号: Hz)、ジュール(記号: J)、クーロン(記号: C)、ルーメン(記号: lm)、ワット(記号: W)は、それぞれ秒(記号: s)、メートル(記号: m)、キログラム(記号: kg)、アンペア(記号: A)、ケルビン(記号: K)、モル(記号: mol)、カンデラ(記号: cd)と、 Hz = s、J = kg m s、C = A s、lm = cd m m = cd sr、W = kg m s で関係付けられている。 7つの定義定数の数値には不確かさはない。 この定義ではそれぞれの定数の値を対応するSI単位で表現したときの厳密な数値を定めている。 定数の値は数値と単位の積であるため、厳密な数値を固定することによって単位を定めることができる。 7つの定数はすべてのSI単位がこれらの積と比によって表すことができるように選ばれている。 現行のSIは、合わせて7つの物理定数や物質固有の特性値について、これらを定義された値(曖昧さをもたない固定化された値)として扱うことで構築されている。すべてのSI単位は7つの定義された値をもとに定めることが可能である。SI単位としては、7つの定義された値と直接結びつく基本単位、および、これらの積としての組立単位がある。 7つの定義された物理定数あるいは物質固有の特性値をもとにしたSIにおいては、これらの定義値を固定された値とみなして、7つのSI基本単位が定義されている。すなわち、秒 (s)、メートル (m)、キログラム (kg)、アンペア (A)、ケルビン (K)、モル (mol)、カンデラ (cd)の7つの単位がこれに該当する。 これらに対応する物理量はそれぞれ順に時間、長さ、質量、電流、熱力学温度、物質量、光度である。 2019年5月20日には、この7つの基本単位のうち特にキログラム (kg)、アンペア (A)、ケルビン (K)、モル (mol) の4つについて、国際度量衡総会(CGPM)の定めるところによって、それらの定義が根本的に改訂された。同時に、残りの秒 (s)、メートル (m)、カンデラ (cd) については定義文の表現が改められた。 上表にあるように、ある単位の定義に別の単位の定義が用いられているものもある。例えば、長さ(メートル)の定義においては、光速とともに秒の定義も使用されている。7つの基本単位はSIにおいて骨格となる基本の単位群だが、必ずしもそれらは完全に独立に定義されているものではない。 基本量の次元の記号には、サンセリフ立体を用いる。 組立単位は基本単位のべき乗の積と定義される。このうち特に、積の係数が1である組立単位を「一貫性のある組立単位」と言う。 SIにおいて、一貫性のある組立単位の一部(全部で22個)には、固有の名称とその記号が与えられている。それらは、ラジアン (rad)、ステラジアン (sr)、ヘルツ (Hz)、ニュートン (N)、パスカル (Pa)、ジュール (J)、ワット (W)、クーロン (C)、ボルト (V)、ファラド (F)、オーム (Ω)、ジーメンス (S)、ウェーバ (Wb)、テスラ (T)、ヘンリー (H)、セルシウス度 (°C)、ルーメン (lm)、ルクス (lx)、ベクレル (Bq)、グレイ (Gy)、シーベルト (Sv)、カタール (kat) の22個である。 SI接頭語は、SI単位の10進の倍量単位・分量単位を作るための接頭語である。前項までの基本単位や組立単位と組み合わせて用いることができる。しかし、接頭語が SI単位と共に使われる場合、接頭語によって、1 以外の係数が導入されるため、結果として生ずる単位は一貫性を持たないものとなる。 次項に述べるSI併用単位を除いた国際単位系(SI)全体が一貫性のある単位系というわけではない。このことを明確にするために、CIPM(2001年)は、「SI単位」の語と「一貫性のあるSI単位」の語とを区別して、次のように定義した。 つまり、「基本単位+一貫性のある組立単位」の範囲の単位であれば、一貫性のある単位系であるが、これにSI接頭語を付加すると、もはや一貫性は失われるのである。 日々の生活で広く SI とともに用いられているため、CIPM により国際単位系と併用することが認められている非SI単位である。これらの使用は今後ずっと続くものと考えられ、SI単位によって正確な定義が与えられている。 以下に、SI国際文書SI第9版 (2019) 第4章「SIとの併用が認められる非SI単位(Non-SI units that are accepted for use with the SI )」の表8で挙げられている非SI単位の全て(15個)を列挙する。この表中の単位は、SI単位との併用が認められる。ただし、これらのSI併用単位を一貫性のあるSI単位と組み合わせると、もはや一貫性は失われることに注意すべきである。 (a)~(h)の注については、SI併用単位を参照のこと。 国際単位系国際文書第9版 (2019) は、「SI接頭語は、SI併用単位の一部とは併用できるが、例えば時間の非SI単位との併用はできない。」と記述しているのみで、分・時・日以外の12個のSI併用単位のうち、どの単位がSI接頭語と組み合わせることができるかについては、明確に述べていない。詳細は、SI併用単位#SI接頭語との組合わせを参照のこと。 SI国際文書第8版 (2006)(廃版)の第4章には、SI併用単位とは別に様々な非SI単位が列挙されていた。しかし、2019年に改訂された国際単位系 (SI)(第9版)では、SI併用単位以外の非SI単位は全て削除された。削除された非SI単位の詳細は、非SI単位#2006年第8版に掲げられていた非SI単位を参照のこと。 国際単位系 (SI) は、数値と単位を記述するときの記法について詳細な規定を定めている。 単位の名称を英語で書く場合は、立体活字(立体)で表記し、普通名詞として扱う。文頭の場合もしくは表題のように大文字で書き始めるものを除き、単位の名称は単位記号が大文字で始まる場合でも小文字で書き始める。なお、°Cの単位名称の正しいつづりは「degree Celsius」であって、「degree celsius」ではない(Celsius は人名に由来するため大文字の C で始まる)。 SI接頭語と単位の間には空白やハイフンを置かない。 個々の単位を並べて作った組立単位の名称は空白もしくはハイフンで区切る。 量(物理量)の記号は斜体(イタリック体)で表記し、通常は、ラテン語またはギリシャ語のアルファベット1文字である。大文字と小文字のいずれも使ってよい。量に関する追加情報は、下付き文字で、または、括弧の中に入れて、加えることができる。 単位記号は、その前後の文章で使われている書体にかかわらず、立体(ローマン体)で表記する。 単位記号は小文字で表記する。ただし、単位記号が固有名詞に由来する場合は最初の文字を大文字にする。 量の性質についての付随情報は量記号に与えるものとし,単位記号に与えてはならない。 Unicode標準では、互換性の為に割り当てられている特殊な単位記号ではなく通常のラテン文字を使うことを推奨している。 数値は、常に単位の前に来て、必ず 1 字分の空白を使って数字と単位を離す。量の値は数字と単位の積として表され、空白は乗算記号 を表す(二つの単位の間に挿入される空白がそれらの積を表すのと同じである)。この原則は、セルシウス度と(SI単位ではないが)パーセントにも適用され、その単位記号である °C や % の前に空白を挿入する。また、SI接頭語と単位記号の間に空白を置いてはならない。 この原則における唯一の例外は、平面角を表す単位である角度、分、及び秒であり、それぞれの単位記号である「°」(度)、「′」(分)、及び「′′」(秒)に対しては、数値と単位記号との間に空白を挿入しない(度 (角度)#記法)。 数値と単位の間の空白については、SI国際文書の原文(仏語、英語)では、半角・全角の概念がないので、単に空白(仏語 une espace, 英語 a space)と規定している。これは日本語翻訳版でも同じである。ただし日本語文献上の実際の記法としては、この空白は、「半角の空白(スペース)」として運用されている。 小数点(decimal marker)は、「.」(ピリオド)でも「,」(コンマ)でもよい。どちらを選ぶかは関連する文章やその言語の習慣によるものとする(小数点#二つの方式)。現在の日本では、「.」(ピリオド)を用いることがほとんどである。 数値が +1 と −1 との間にある場合、小数点の前には常に 0 を置く。 桁の多い数を表す場合には、読みやすくするために、空白(space)を用いて3桁毎のグループに分けてもよい。ただし、グループの間に点「.」やカンマ「,」を挿入してはならない。 しかし、小数点の前または後の桁数が 4 桁のみの場合は、1 桁だけを分けるための空白は設けないことが一般的である。 このようなかたちで桁数をグループ分けするか否かは、それぞれの選択に委ねられる。設計図、財務諸表、コンピュータが読み取るスクリプト(scripts)などの特定の専門的分野では、このやりかたは必ずしも使われていない。 表中の数字の場合、同じ欄の中で使用する形式は統一する。 日本の計量法は、法定計量単位を限定的に定めている。SI単位及びSI併用単位の多くは、法定計量単位になっているが、次のものはそうではない。 固有の名称を持つSI組立単位である、酵素活性の単位 カタール(kat) は法定計量単位ではない。国際単位系国際文書が規定・例示するSI単位のうち、法定計量単位となっていない単位は、このカタール(kat)および酵素活性濃度(kat m) だけである。 以下の6個のSI併用単位は、法定計量単位ではない。 現在では、世界のほとんどの国で合法的に使用でき、多くの国で使用することが義務づけられている。しかしアメリカなど一部の国では、それまで使用していた単位系の単位を使用することも認められている。 日本は、1885年(明治18年)にメートル条約に加入、1891年(明治24年)施行の度量衡法で尺貫法と併用することになり、1951年(昭和26年)施行の計量法で一部の例外を除きメートル法の使用が義務付けられた。1974年には国際単位系が導入され、1991年(平成3年)にはJIS規格が完全に国際単位系準拠となり、JIS Z 8203「国際単位系 (SI) 及びその使い方」が規定された。この国際単位系への移行に伴い、1992年に気象庁が気圧の単位をミリバールからヘクトパスカルに変更するなど、いくつかの単位が変更された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "国際単位系(こくさいたんいけい、仏: Système International d'unités、英: International System of Units、略称: SI)は、メートル法の後継として国際的に定められ、世界中で広く使用されている単位系である(⇒#国際単位系の定義)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "メートル条約に基づき、メートル法におけるMKS単位系が国際的な標準規格の単位として広く使用されていた。すなわち、長さの単位にメートル (m)と質量の単位にキログラム (kg)、時間の単位に秒 (s) を用いて、この3つの単位の組み合わせで、様々な物理量の単位と値を表現していた。SIは、これをより拡張した一貫性のある単位系である(詳細は後述)。SIは1948年の第9回国際度量衡総会 (CGPM) で設立が決定され、1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でその包括的な規定が確立された。SIについて、準拠すべき最新の公式国際文書は、2019年に発行された第9版 (2019) である(⇒#公式国際文書)。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、SIはメートル法を発展・洗練させたものであるが、同じくメートル法系から発展した単位系として工学単位系(重力単位系)やCGS単位系などがある。これらは異なる単位系であり、使用に当たって混同しないよう注意を要する。また、近年のSIは普遍的な自然法則を重視した単位を志向しているが、純粋に自然のみに拠った自然単位系も存在する。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "略称の SI はフランス語の「Système International d'unités」に由来する。これはメートル法がフランスの発案であったという歴史的経緯があること、及びメートル条約・国際度量衡委員会 (CIPM)・国際度量衡局 (BIPM) の公用語がフランス語であるという事情による。「SI」 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"経緯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2019年5月20日以降の国際単位系についての最新の公式文書は、BIPMによるフランス語と英語による「国際単位系第9版 (2019)Ver.2.01」2022年12月 である。この文書の日本語訳は以下である。", "title": "公式国際文書" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この文書は、BIPMの英語版(ただし、以前のVer1.08版、2019年5月)を日本語に翻訳したものである。したがって、2022年11月に追加された新しいSI接頭語のクエタ(Q)、ロナ(R)、ロント(r)、クエクト(q)およびこれらに関するCGPMの決議文などは含まれていない。", "title": "公式国際文書" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "国際単位系の公式文書はフランス語によるものであり、正式な本文の確認が必要な場合、あるいは、文章の解釈に疑義がある場合は、フランス語版を参照する必要がある。", "title": "公式国際文書" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国際単位系国際文書を日本語に翻訳した産業技術総合研究所、計量標準総合センターは、国際単位系 (SI) 第9版 (2019) の概要(新しいSI接頭語を含んでいる。)を下記のパンフレットにまとめている。このパンフレットは、非営利目的の複製が自由にできる。すなわち営利目的の使用でなければ、許諾の必要なく、複写・複製することができる。", "title": "公式国際文書" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1970年の第1版以降の経緯は次の通りであり、BIPMのHPで閲覧できる。", "title": "公式国際文書" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2019年に、国際単位系の定義は根本的に改められた。すなわち2006年公式文書までは、7つの基本単位をベースにして組立単位、接頭語からなる単位の組み合わせ(単位系)を国際単位系と定義していた。しかし2019年の第9版の公式文書は以下の定義のように、「7つの定義定数の数値を固定する」ことによって逆にSIを定義することとしたのである。", "title": "国際単位系の定義" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ここで、ヘルツ(記号: Hz)、ジュール(記号: J)、クーロン(記号: C)、ルーメン(記号: lm)、ワット(記号: W)は、それぞれ秒(記号: s)、メートル(記号: m)、キログラム(記号: kg)、アンペア(記号: A)、ケルビン(記号: K)、モル(記号: mol)、カンデラ(記号: cd)と、 Hz = s、J = kg m s、C = A s、lm = cd m m = cd sr、W = kg m s で関係付けられている。 7つの定義定数の数値には不確かさはない。", "title": "国際単位系の定義" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この定義ではそれぞれの定数の値を対応するSI単位で表現したときの厳密な数値を定めている。 定数の値は数値と単位の積であるため、厳密な数値を固定することによって単位を定めることができる。 7つの定数はすべてのSI単位がこれらの積と比によって表すことができるように選ばれている。", "title": "国際単位系の定義" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "現行のSIは、合わせて7つの物理定数や物質固有の特性値について、これらを定義された値(曖昧さをもたない固定化された値)として扱うことで構築されている。すべてのSI単位は7つの定義された値をもとに定めることが可能である。SI単位としては、7つの定義された値と直接結びつく基本単位、および、これらの積としての組立単位がある。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "7つの定義された物理定数あるいは物質固有の特性値をもとにしたSIにおいては、これらの定義値を固定された値とみなして、7つのSI基本単位が定義されている。すなわち、秒 (s)、メートル (m)、キログラム (kg)、アンペア (A)、ケルビン (K)、モル (mol)、カンデラ (cd)の7つの単位がこれに該当する。 これらに対応する物理量はそれぞれ順に時間、長さ、質量、電流、熱力学温度、物質量、光度である。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2019年5月20日には、この7つの基本単位のうち特にキログラム (kg)、アンペア (A)、ケルビン (K)、モル (mol) の4つについて、国際度量衡総会(CGPM)の定めるところによって、それらの定義が根本的に改訂された。同時に、残りの秒 (s)、メートル (m)、カンデラ (cd) については定義文の表現が改められた。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "上表にあるように、ある単位の定義に別の単位の定義が用いられているものもある。例えば、長さ(メートル)の定義においては、光速とともに秒の定義も使用されている。7つの基本単位はSIにおいて骨格となる基本の単位群だが、必ずしもそれらは完全に独立に定義されているものではない。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "基本量の次元の記号には、サンセリフ立体を用いる。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "組立単位は基本単位のべき乗の積と定義される。このうち特に、積の係数が1である組立単位を「一貫性のある組立単位」と言う。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "SIにおいて、一貫性のある組立単位の一部(全部で22個)には、固有の名称とその記号が与えられている。それらは、ラジアン (rad)、ステラジアン (sr)、ヘルツ (Hz)、ニュートン (N)、パスカル (Pa)、ジュール (J)、ワット (W)、クーロン (C)、ボルト (V)、ファラド (F)、オーム (Ω)、ジーメンス (S)、ウェーバ (Wb)、テスラ (T)、ヘンリー (H)、セルシウス度 (°C)、ルーメン (lm)、ルクス (lx)、ベクレル (Bq)、グレイ (Gy)、シーベルト (Sv)、カタール (kat) の22個である。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "SI接頭語は、SI単位の10進の倍量単位・分量単位を作るための接頭語である。前項までの基本単位や組立単位と組み合わせて用いることができる。しかし、接頭語が SI単位と共に使われる場合、接頭語によって、1 以外の係数が導入されるため、結果として生ずる単位は一貫性を持たないものとなる。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "次項に述べるSI併用単位を除いた国際単位系(SI)全体が一貫性のある単位系というわけではない。このことを明確にするために、CIPM(2001年)は、「SI単位」の語と「一貫性のあるSI単位」の語とを区別して、次のように定義した。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "つまり、「基本単位+一貫性のある組立単位」の範囲の単位であれば、一貫性のある単位系であるが、これにSI接頭語を付加すると、もはや一貫性は失われるのである。", "title": "SI単位" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日々の生活で広く SI とともに用いられているため、CIPM により国際単位系と併用することが認められている非SI単位である。これらの使用は今後ずっと続くものと考えられ、SI単位によって正確な定義が与えられている。", "title": "SI単位と併用される非SI単位" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下に、SI国際文書SI第9版 (2019) 第4章「SIとの併用が認められる非SI単位(Non-SI units that are accepted for use with the SI )」の表8で挙げられている非SI単位の全て(15個)を列挙する。この表中の単位は、SI単位との併用が認められる。ただし、これらのSI併用単位を一貫性のあるSI単位と組み合わせると、もはや一貫性は失われることに注意すべきである。", "title": "SI単位と併用される非SI単位" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "(a)~(h)の注については、SI併用単位を参照のこと。", "title": "SI単位と併用される非SI単位" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "国際単位系国際文書第9版 (2019) は、「SI接頭語は、SI併用単位の一部とは併用できるが、例えば時間の非SI単位との併用はできない。」と記述しているのみで、分・時・日以外の12個のSI併用単位のうち、どの単位がSI接頭語と組み合わせることができるかについては、明確に述べていない。詳細は、SI併用単位#SI接頭語との組合わせを参照のこと。", "title": "SI単位と併用される非SI単位" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "SI国際文書第8版 (2006)(廃版)の第4章には、SI併用単位とは別に様々な非SI単位が列挙されていた。しかし、2019年に改訂された国際単位系 (SI)(第9版)では、SI併用単位以外の非SI単位は全て削除された。削除された非SI単位の詳細は、非SI単位#2006年第8版に掲げられていた非SI単位を参照のこと。", "title": "SI単位と併用される非SI単位" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "国際単位系 (SI) は、数値と単位を記述するときの記法について詳細な規定を定めている。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "単位の名称を英語で書く場合は、立体活字(立体)で表記し、普通名詞として扱う。文頭の場合もしくは表題のように大文字で書き始めるものを除き、単位の名称は単位記号が大文字で始まる場合でも小文字で書き始める。なお、°Cの単位名称の正しいつづりは「degree Celsius」であって、「degree celsius」ではない(Celsius は人名に由来するため大文字の C で始まる)。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "SI接頭語と単位の間には空白やハイフンを置かない。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "個々の単位を並べて作った組立単位の名称は空白もしくはハイフンで区切る。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "量(物理量)の記号は斜体(イタリック体)で表記し、通常は、ラテン語またはギリシャ語のアルファベット1文字である。大文字と小文字のいずれも使ってよい。量に関する追加情報は、下付き文字で、または、括弧の中に入れて、加えることができる。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "単位記号は、その前後の文章で使われている書体にかかわらず、立体(ローマン体)で表記する。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "単位記号は小文字で表記する。ただし、単位記号が固有名詞に由来する場合は最初の文字を大文字にする。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "量の性質についての付随情報は量記号に与えるものとし,単位記号に与えてはならない。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Unicode標準では、互換性の為に割り当てられている特殊な単位記号ではなく通常のラテン文字を使うことを推奨している。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "数値は、常に単位の前に来て、必ず 1 字分の空白を使って数字と単位を離す。量の値は数字と単位の積として表され、空白は乗算記号 を表す(二つの単位の間に挿入される空白がそれらの積を表すのと同じである)。この原則は、セルシウス度と(SI単位ではないが)パーセントにも適用され、その単位記号である °C や % の前に空白を挿入する。また、SI接頭語と単位記号の間に空白を置いてはならない。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この原則における唯一の例外は、平面角を表す単位である角度、分、及び秒であり、それぞれの単位記号である「°」(度)、「′」(分)、及び「′′」(秒)に対しては、数値と単位記号との間に空白を挿入しない(度 (角度)#記法)。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "数値と単位の間の空白については、SI国際文書の原文(仏語、英語)では、半角・全角の概念がないので、単に空白(仏語 une espace, 英語 a space)と規定している。これは日本語翻訳版でも同じである。ただし日本語文献上の実際の記法としては、この空白は、「半角の空白(スペース)」として運用されている。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "小数点(decimal marker)は、「.」(ピリオド)でも「,」(コンマ)でもよい。どちらを選ぶかは関連する文章やその言語の習慣によるものとする(小数点#二つの方式)。現在の日本では、「.」(ピリオド)を用いることがほとんどである。 数値が +1 と −1 との間にある場合、小数点の前には常に 0 を置く。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "桁の多い数を表す場合には、読みやすくするために、空白(space)を用いて3桁毎のグループに分けてもよい。ただし、グループの間に点「.」やカンマ「,」を挿入してはならない。 しかし、小数点の前または後の桁数が 4 桁のみの場合は、1 桁だけを分けるための空白は設けないことが一般的である。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "このようなかたちで桁数をグループ分けするか否かは、それぞれの選択に委ねられる。設計図、財務諸表、コンピュータが読み取るスクリプト(scripts)などの特定の専門的分野では、このやりかたは必ずしも使われていない。 表中の数字の場合、同じ欄の中で使用する形式は統一する。", "title": "単位と数値の記法" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "日本の計量法は、法定計量単位を限定的に定めている。SI単位及びSI併用単位の多くは、法定計量単位になっているが、次のものはそうではない。", "title": "法定計量単位との関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "固有の名称を持つSI組立単位である、酵素活性の単位 カタール(kat) は法定計量単位ではない。国際単位系国際文書が規定・例示するSI単位のうち、法定計量単位となっていない単位は、このカタール(kat)および酵素活性濃度(kat m) だけである。", "title": "法定計量単位との関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "以下の6個のSI併用単位は、法定計量単位ではない。", "title": "法定計量単位との関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "現在では、世界のほとんどの国で合法的に使用でき、多くの国で使用することが義務づけられている。しかしアメリカなど一部の国では、それまで使用していた単位系の単位を使用することも認められている。", "title": "各国における国際単位系" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "日本は、1885年(明治18年)にメートル条約に加入、1891年(明治24年)施行の度量衡法で尺貫法と併用することになり、1951年(昭和26年)施行の計量法で一部の例外を除きメートル法の使用が義務付けられた。1974年には国際単位系が導入され、1991年(平成3年)にはJIS規格が完全に国際単位系準拠となり、JIS Z 8203「国際単位系 (SI) 及びその使い方」が規定された。この国際単位系への移行に伴い、1992年に気象庁が気圧の単位をミリバールからヘクトパスカルに変更するなど、いくつかの単位が変更された。", "title": "各国における国際単位系" } ]
国際単位系は、メートル法の後継として国際的に定められ、世界中で広く使用されている単位系である(⇒#国際単位系の定義)。 メートル条約に基づき、メートル法におけるMKS単位系が国際的な標準規格の単位として広く使用されていた。すなわち、長さの単位にメートル (m)と質量の単位にキログラム (kg)、時間の単位に秒 (s) を用いて、この3つの単位の組み合わせで、様々な物理量の単位と値を表現していた。SIは、これをより拡張した一貫性のある単位系である(詳細は後述)。SIは1948年の第9回国際度量衡総会 (CGPM) で設立が決定され、1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) でその包括的な規定が確立された。SIについて、準拠すべき最新の公式国際文書は、2019年に発行された第9版 (2019) である(⇒#公式国際文書)。 なお、SIはメートル法を発展・洗練させたものであるが、同じくメートル法系から発展した単位系として工学単位系(重力単位系)やCGS単位系などがある。これらは異なる単位系であり、使用に当たって混同しないよう注意を要する。また、近年のSIは普遍的な自然法則を重視した単位を志向しているが、純粋に自然のみに拠った自然単位系も存在する。
{{数量の比較}} '''国際単位系'''(こくさいたんいけい、{{lang-fr-short|Système International d'unités}}、{{lang-en-short|International System of Units}}、略称: '''SI''')は、[[メートル法]]の後継として国際的に定められ、世界中で広く使用されている[[単位系]]である(⇒[[#国際単位系の定義]])。 [[メートル条約]]に基づき、メートル法における[[MKS単位系]]が国際的な標準規格の単位として広く使用されていた。すなわち、長さの単位に'''[[メートル]]''' '''(m)'''と質量の単位に'''[[キログラム]] (kg)'''、時間の単位に'''[[秒]] (s)''' を用いて、この3つの単位の組み合わせで、様々な[[物理量]]の単位と値を表現していた。SIは、これをより拡張した[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある単位系である(詳細は[[国際単位系#「SI単位」と「一貫性のあるSI単位」の違い|後述]])。SIは[[1948年]]の第9回[[国際度量衡総会]] (CGPM) で設立が決定され、[[1960年]]の第11回[[国際度量衡総会]] (CGPM) でその包括的な規定が確立された{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|pp=122,129-134}}<ref>「図解入門 よくわかる最新単位の基本と仕組み」p67 伊藤幸夫・寒川陽美著 秀和システム 2004年8月10日第1版第1刷</ref>。SIについて、準拠すべき最新の公式[[国際単位系国際文書|国際文書]]は、2019年に発行された第9版 (2019) である(⇒[[#公式国際文書]])。 なお、SIは[[メートル法]]を発展・洗練させたものであるが、同じくメートル法系から発展した[[単位系]]として工学単位系([[重力単位系]])や[[CGS単位系]]などがある。これらは異なる単位系であり、使用に当たって混同しないよう注意を要する。また、近年のSIは普遍的な[[自然法則]]を重視した単位を志向しているが、純粋に自然のみに拠った[[自然単位系]]も存在する。 [[File:International System of Units Logo.png|thumb|SI単位を表したロゴ。<br/>上から時計回りに、[[キログラム]] (kg)、[[メートル]] (m)、[[秒]] (s)、[[アンペア]] (A)、[[ケルビン]] (K)、[[モル]] (mol)、[[カンデラ]] (cd)]] == 名称 == 略称の '''SI''' は[[フランス語]]の「{{fr|Système International d'unités}}」に由来する。これは[[メートル法]]がフランスの発案であったという歴史的経緯があること、及び[[メートル条約]]・[[国際度量衡委員会]] (CIPM)・[[国際度量衡局]] (BIPM) の[[公用語]]がフランス語であるという事情による<ref name="名前なし-1">「図解入門 よくわかる最新単位の基本と仕組み」p.23 伊藤幸夫・寒川陽美著 秀和システム 2004年8月10日第1版第1刷</ref>。「'''SI'''」 は言語の違い(英語、日本語、中国語、タイ語など)に関係なく共通して用いられる略称である。 '''SI''' は国際単位系の略称であるため「SI単位系」というのは重複表現であるが、単に「SI」では分かりづらい場合に用いられる<ref>[[佐藤文隆]]、北野正雄 『新SI単位と電磁気学』、pp.2-3、[[岩波書店]]、2018年6月19日、ISBN 978-4-00-061261-6</ref>。「[[SI単位]]」({{Lang-fr-short|unit&eacute;(s) du SI}}、{{Lang-en-short|SI unit(s)}})は「国際単位系の単位」という意味で正しい用語である。 == 国際単位系の特徴 == 国際単位系の単位システムとしての特徴は次の通りである<ref name="名前なし-2">佐藤文隆・北野正雄、「新SI単位と電磁気学」、p.148、岩波書店、2018-06-19、ISBN 978-4-00-061261-6</ref>。 * 1量1単位 * [[現示]]の一本化 * [[SI基本単位|基本単位]]と[[SI組立単位|組立単位]]の系統的分類 * 名称を定義する[[SI組立単位|組立単位]]の一貫性 * 10進法と[[SI接頭語|接頭語]] これらは簡便性と合理性を保つ工夫である。例えば、1881年の第1回[[国際電気会議]]<ref group="注">[[国際電気標準会議]](International Electrotechnical Commission、IEC)の前身である。</ref>の時点で、少なくとも12の起電力の単位、10の電流の単位、15の抵抗の単位が存在していた。多様な単位が併存すると相互の換算に煩わされるが、「一貫性」のある単位だけなら換算係数の煩雑さは避けられる<ref name="名前なし-2"/>。 === 第9版 (2019) の意義 === {{Main|SI基本単位の再定義 (2019年)}} 国際単位系 (SI) は2019年の第9版に至って初めて、全ての定義が人工物を使った標準、物質の特性、測定方法のいずれにも関連づけられない形で確立された。こうした改定によって、あらゆる単位の実現の精度が、定義自体によって制約されることなく、自然界の量子構造と人類の技術力のみによって制約されるようになった。定義定数をある単位に結びつける有効な物理式であればいかなるものでも、その単位の実現に使うことができ、これによって、今後の技術の進展に伴って更に精度を高めた革新と実現の機会があらゆるところで拓かれていく。このように、2019年の定義改定は、大きな意義を持つ歴史的一歩を前に踏み出す節目となるものである{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=91|loc=第9版への緒言}}。 == 経緯 == 以下に、SIの構造上の重要な決定を列挙する{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=122}}。 * 1948年 第9回[[CGPM]]:国際単位系の設立の決定。この時点では「国際実用計量単位系(practical system of units of measurement for international use)」と称していた。固有の名称を持つ[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある[[SI組立単位|組立単位]]の一覧を示した。 * 1954年 第10回CGPM:最初の6つの[[SI基本単位|基本単位]]の決定。名称「'Système international d'unités」の決定。 * 1960年 第11回CGPM:略称「SI」の決定。[[SI接頭語]]、[[SI組立単位|組立単位]]、[[補助単位]]などの包括的な規定が'''確立'''{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=173}}。 * 1971年 第14回CGPM:基本単位[[モル]]の追加。 * 1995年 第20回CGPM:[[補助単位]]([[ラジアン]]、[[ステラジアン]])の階級の廃止。 * 2018年 第26回CGPM:SI基本単位の基礎[[物理定数]]による定義が完成。これに伴いSIの定義の最も単純かつ根本的な改定{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=175}}。 == 公式国際文書 == {{main|国際単位系国際文書}} 2019年5月20日<ref group="注">2019年の改定は、2018年11月に開催された[[国際度量衡総会]]で合意に達し、2019年5月20日に発効した。この日が選ばれた理由は、5月20日が1875年に[[メートル条約]]が締結された日で「[[世界計量記念日]]」となっているためである。</ref>以降の国際単位系についての最新の公式文書は、[[BIPM]]によるフランス語と英語による「国際単位系第9版 (2019)Ver.2.01」2022年12月 <ref>[https://www.bipm.org/en/publications/si-brochure/ SI Brochure: The International System of Units (SI)]</ref>である。この文書の[[日本語]]訳は以下である。 * {{Cite|和書|date=2020-04|title=国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf|type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター}} 【正誤表】 2022年7月15日 更新{{Cite|和書|date=2022-07-15|title=国際単位系(SI)第9版(2019)正誤表|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/20220714_seigohyo.pdf|type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター}} この文書は、BIPMの英語版(ただし、以前のVer1.08版、2019年5月)を日本語に翻訳したものである。したがって、2022年11月に追加された新しい[[SI接頭語]]の[[クエタ (単位)|クエタ]](Q)、[[ロナ (単位)|ロナ]](R)、[[ロント (SI接頭語)|ロント]](r)、[[クエクト (単位)|クエクト]](q)およびこれらに関する[[CGPM]]の決議文などは含まれていない。 国際単位系の公式文書はフランス語によるものであり、正式な本文の確認が必要な場合、あるいは、文章の解釈に疑義がある場合は、フランス語版を参照する必要がある{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=93|loc=本文に関する注釈}}。 === 広報用パンフレット === [[国際単位系国際文書]]を日本語に翻訳した[[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センターは、国際単位系 (SI) 第9版 (2019) の概要([[SI接頭語#新しい接頭語への拡張|新しいSI接頭語]]を含んでいる。)を下記のパンフレットにまとめている。このパンフレットは、非営利目的の複製が自由にできる。すなわち営利目的の使用でなければ、許諾の必要なく、複写・複製することができる<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/pamphlet/pdf/SIdata.pdf 国際単位系 (SI) は世界共通のルールです] SIパンフレット、産業技術総合研究所 計量標準総合センター 計量標準普及センター 計量標準調査室、2023年3月、最終の第8ページ下段</ref>。 * [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/pamphlet/pdf/SIdata.pdf 国際単位系 (SI) は世界共通のルールです] SIパンフレット、産業技術総合研究所 計量標準総合センター 計量標準普及センター 計量標準調査室、2020年4月、2023年3月改訂 === 公式文書の経緯 === 1970年の第1版以降の経緯は次の通りであり、[[BIPM]]のHPで閲覧できる<ref>[https://www.bipm.org/en/publications/si-brochure/ Previous editions of the SI Brochure] SI Brochure: The International System of Units (SI), BIPM</ref>。{{main|国際単位系国際文書#各版の経緯}} * 1970年(第1版)仏語版 * 1973年(第2版)仏語版 * 1977年(第3版)仏語版 * 1981年(第4版)仏語版 * 1985年(第5版)仏語版、英語版 * 1991年(第6版)仏語版、英語版 * 1998年(第7版)仏語版、英語版 * 2006年(第8版)仏語版、英語版 * 2019年(第9版)(2022年12月改訂のVer.2.01のみ)仏語版、英語版 == 国際単位系の定義 == 2019年に、国際単位系の定義は根本的に改められた。すなわち2006年公式文書までは、7つの[[SI基本単位|基本単位]]をベースにして[[SI組立単位|組立単位]]、[[SI接頭語|接頭語]]からなる単位の組み合わせ([[単位系]])を国際単位系と定義していた。しかし2019年の第9版の公式文書は以下の定義のように、'''「7つの定義定数の数値を固定する」ことによって逆にSIを定義する'''こととしたのである<ref>{{Cite web |url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/ |title=SI文書第9版(2019)日本語版及び関連資料 |access-date=2023-10-04 |publisher=国立研究開発法人産業技術総合研究所 |archive-url=https://web.archive.org/web/20230816151048/https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/ |archive-date=2023-08-16 |page=98 |work=国際単位系(SI)第9 版(2019)日本語版}}</ref>。 {{Quotation|国際単位系(SI)は * [[基底状態]]にある[[摂動]]を受けない[[セシウム133]]原子の[[超微細構造|超微細遷移]]の[[振動数]] {{math|{{mvar|&Delta;&nu;}}{{sub|Cs}}}}が {{val|9192631770|u=Hz}} * [[自由空間|真空]]における[[光速度]] {{mvar|c}} が {{val|299792458|u=m/s}} * [[プランク定数]] {{mvar|h}} が {{val|6.62607015|e=-34|u=J&nbsp;s}} * [[電気素量]] {{mvar|e}} が {{val|1.602176634|e=-19|u=C}} * [[ボルツマン定数]] {{mvar|k}} が {{val|1.380649|e=-23|u=J/K}} * [[アボガドロ定数]] {{math|{{mvar|N}}{{sub|A}}}} が {{val|6.02214076|e=23|u=mol{{sup-|1}}}} * [[周波数]] {{val|540|e=12|u=Hz}} の[[単色光]]の[[視感効果度]] {{math|{{mvar|K}}{{sub|cd}}}} が {{val|683|u=lm/W}} である単位系である<ref name="9ed-2-2">[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-EN.pdf The InternationalSystem of Units (SI) 9th ed. Text in English] 2.2 Definition of the SI, '' p.127</ref>。}} ここで、[[ヘルツ (単位)|ヘルツ]]([[単位記号|記号]]: Hz)、[[ジュール]](記号: J)、[[クーロン]](記号: C)、[[ルーメン]](記号: lm)、[[ワット (単位)|ワット]](記号: W)は、それぞれ[[秒]](記号: s)、[[メートル]](記号: m)、[[キログラム]](記号: kg)、[[アンペア]](記号: A)、[[ケルビン]](記号: K)、[[モル]](記号: mol)、[[カンデラ]](記号: cd)と、 Hz = s{{sup-|1}}、J = kg&nbsp;m{{sup|2}}&nbsp;s{{sup-|2}}、C = A&nbsp;s、lm = cd&nbsp;m{{sup|2}}&nbsp;m{{sup-|2}} = cd&nbsp;sr、W = kg&nbsp;m{{sup|2}}&nbsp;s{{sup-|3}} で関係付けられている。 7つの定義定数の数値には不確かさはない。 この定義ではそれぞれの定数の値を対応する[[SI単位]]で表現したときの厳密な数値を定めている。 定数の値は数値と単位の積であるため、厳密な数値を固定することによって単位を定めることができる。 7つの定数はすべてのSI単位がこれらの積と比によって表すことができるように選ばれている。 {|class="wikitable" |+ 表1 SIの七つの定義定数とそれらによって定義される七つの単位<ref name="9ed-2-2"/> |- ! 定義定数 !! 記号 !! 数値 !! 単位 |- | セシウムの超微細遷移周波数 | {{math|{{mvar|&Delta;&nu;}}{{sub|Cs}}}} | {{val|9192631770}} || Hz |- | 真空中の光の速さ || {{mvar|c}} | {{val|299792458}} || m/s |- | プランク定数 ||{{mvar|h}} | {{val|6.62607015|e=-34}} || J&nbsp;s |- | 電気素量 || {{mvar|e}} | {{val|1.602176634|e=-19}} || C |- | ボルツマン定数 || {{mvar|k}} | {{val|1.380649|e=-23}} || J/K |- | アボガドロ定数 || {{math|{{mvar|N}}{{sub|A}}}} | {{val|6.02214076|e=23}} || mol{{sup-|1}} |- | 視感効果度 || {{math|{{mvar|K}}{{sub|cd}}}} | {{val|683}} || lm/W |- |} == SI単位 == 現行のSIは、合わせて7つの物理定数や物質固有の特性値について、これらを定義された値(曖昧さをもたない固定化された値)として扱うことで構築されている。すべての[[SI単位]]は7つの定義された値をもとに定めることが可能である。SI単位としては、7つの定義された値と直接結びつく[[SI基本単位|'''基本単位''']]、および、これらの[[積]]としての[[物理単位#単位の組み立て|'''組立単位''']]がある。 === SI基本単位 === [[ファイル:Unit relations in the new SI.svg|サムネイル|7つの物理量・物理定数とSI基本単位の関係]] {{main|SI基本単位}} 7つの定義された物理定数あるいは物質固有の特性値をもとにしたSIにおいては、これらの定義値を固定された値とみなして、7つの[[SI基本単位]]が定義されている。すなわち、'''秒''' (s)、'''メートル''' (m)、'''キログラム''' (kg)、'''アンペア''' (A)、'''ケルビン''' (K)、'''モル''' (mol)、'''カンデラ''' (cd)の7つの単位がこれに該当する<!-- 記事作成上の確認; 基本単位の列挙順序は、秒、メートル、キログラム、アンペア、……の順である。SI文書第8版(2006)までは、メートル、キログラム、秒、アンペア、……の順であった。 --><ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88%E8%A6%81%E7%B4%84_r.pdf#page=3 国際単位系(SI)第9版(2019)要約 日本語版] {{リンク切れ|date=2023-10-04}}、計量標準総合センター、産総研、経済産業省。表1 SI の七つの基本単位</ref><ref group="注">組み立て単位の定義において基本単位を記載する順序は、SI文書第8版(2006年)と同第9版(2019年)とで異なる。この意図は、対応する物理量の表式によるもので、[[物理学]]を基礎としたものである。ただし、一部の組み立て単位についてこの順序は絶対のものではない。</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=国際単位系(SI)第9 版(2019)日本語版 |date=2020-03 |year=2019 |publisher=国立研究開発法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター}}</ref>。 これらに対応する[[物理量]]はそれぞれ順に[[時間]]、[[長さ]]、[[質量]]、[[電流]]、[[熱力学温度]]、[[物質量]]、[[光度 (光学)|光度]]である。 {{Main|SI基本単位の再定義 (2019年)}} 2019年5月20日には、この7つの基本単位のうち特に'''キログラム''' (kg)、'''アンペア''' (A)、'''ケルビン''' (K)、'''モル''' (mol) の4つについて、[[国際度量衡総会]](CGPM)の定めるところによって、それらの定義が根本的に改訂された。同時に、残りの'''秒''' (s)、'''メートル''' (m)、'''カンデラ''' (cd) については定義文の表現が改められた<ref group="注">なお、この改訂案が議決された日は2018年11月16日である。</ref>{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|pp=99-103}}。 {| class="wikitable" |+ SI基本単位の量、名称、記号とその定義 ! rowspan="2" style="width:5em" | 量 ! colspan="2" | 基本単位 ! rowspan="2" | 定義(抜粋<ref group="注">より正確な定義文は[[SI基本単位]]を参照。</ref>) |- ! style="width:5em" | 名称 ! style="width:2.5em" | 記号 |- |[[時間]]||'''[[秒]]''' (second)||s||[[セシウム]][[周波数]] ''∆ν''{{sub|Cs}}、すなわち、[[セシウム133|セシウム 133]] 原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s{{sup-|1}} に等しい)で表したときに、その数値を {{val|9192631770}} と定めることによって定義される。 |- |[[長さ]]||'''[[メートル]]''' (metre<ref group="注">[[国際単位系国際文書]]における英語の綴りである。met'''er'''ではない。</ref>)||m||真空中の[[光の速さ]] ''c'' を単位 m s{{sup-|1}} で表したときに、その数値を {{val|299792458}} と定めることによって定義される。 |- |[[質量]]||'''[[キログラム]]''' (kilogram)||kg||[[プランク定数]] ''h'' を単位 J s(kg m{{sup|2}} s{{sup-|1}} に等しい)で表したときに、その数値を {{val|6.62607015|e=-34}} と定めることによって定義される。 |- |[[電流]]||'''[[アンペア]]''' (ampere)||A||[[電気素量]] ''e'' を単位 C(A s に等しい)で表したときに、その数値を {{val|1.602176634|e=-19}} と定めることによって定義される。 |- |[[熱力学温度]]||'''[[ケルビン]]''' (kelvin)||K||[[ボルツマン定数]] ''k'' を単位 J K{{sup-|1}}(kg m{{sup|2}} s{{sup-|2}} K{{sup-|1}} に等しい)で表したときに、その数値を {{val|1.380649|e=-23}} と定めることによって定義される。 |- |[[物質量]]||'''[[モル]]''' (mole)||mol||1 モルには、厳密に {{val|6.02214076|e=23}} の要素粒子が含まれる。この数は、[[アボガドロ定数]] ''N''{{sub|A}} を単位 mol{{sup-|1}} で表したときの数値であり、アボガドロ数と呼ばれる。 系の物質量(記号は ''n'')は、特定された要素粒子の数の尺度である。要素粒子は、原子、分子、イオン、電子、その他の粒子、あるいは、粒子の集合体のいずれであってもよい。 |- |[[光度 (光学)|光度]]||'''[[カンデラ]]''' (Candela)||cd||周波数 {{val|540|e=12|u=Hz}} の単色放射の視感効果度 ''K''{{sub|cd}} を単位 lm W{{sup-|1}}(cd sr W{{sup-|1}} あるいは cd sr kg{{sup-|1}} m{{sup-|2}} s{{sup|3}} に等しい)で表したときに、その数値を 683 と定めることによって定義される。 |} 上表にあるように、ある単位の定義に別の単位の定義が用いられているものもある。例えば、長さ(メートル)の定義においては、光速とともに秒の定義も使用されている。7つの基本単位はSIにおいて骨格となる基本の単位群だが、必ずしもそれらは完全に独立に定義されているものではない<ref group="注">独立した存在は、7つの単位そのものではなく、それらのもととなる7つの定義値(物理定数あるいは物質固有の特性値)である。</ref>。 ==== 量の次元 ==== 基本量の次元の記号には、[[サンセリフ]][[立体活字|立体]]を用いる<ref>[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf#page=16 国際単位系(SI)国際文書第8版(2006)] p.15</ref>。 {|class="wikitable" |+ 表 SIで使われている基本量と次元{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=104|loc=表3}} |- !基本量!!量に関する代表的な記号!!次元の記号 |- |[[時間]]||''t'' || style = "text-align:center"| T |- |[[長さ]]||''l'', ''x'', ''r'' など ||style = "text-align:center"| L |- |[[質量]]||''m'' || style = "text-align:center"| M |- |[[電流]]||''I'', ''i'' ||style = "text-align:center"| I |- |[[熱力学温度]]||''T'' ||style = "text-align:center"| Θ |- |[[物質量]]||''n'' ||style = "text-align:center"| N |- |[[光度 (光学)|光度]]||{{math|{{mvar|I}}{{sub|v}}}} ||style = "text-align:center"| J |} === SI組立単位 === {{main|SI組立単位}} 組立単位は基本単位のべき乗の積と定義される。このうち特に、積の係数が1である組立単位を「[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある組立単位」と言う{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=105}}。 SIにおいて、一貫性のある組立単位の一部(全部で22個)には、固有の名称とその[[単位記号|記号]]が与えられている。それらは、[[ラジアン]] (rad)、[[ステラジアン]] (sr)、[[ヘルツ (単位)|ヘルツ]] (Hz)、[[ニュートン (単位)|ニュートン]] (N)、[[パスカル (単位)|パスカル]] (Pa)、[[ジュール]] (J)、[[ワット (単位)|ワット]] (W)、[[クーロン]] (C)、[[ボルト (単位)|ボルト]] (V)、[[ファラド]] (F)、[[オーム]] (Ω)、[[ジーメンス]] (S)、[[ウェーバ]] (Wb)、[[テスラ (単位)|テスラ]] (T)、[[ヘンリー (単位)|ヘンリー]] (H)、[[セルシウス度]] (°C)、[[ルーメン]] (lm)、[[ルクス]] (lx)、[[ベクレル]] (Bq)、[[グレイ (単位)|グレイ]] (Gy)、[[シーベルト]] (Sv)、[[カタール (単位)|カタール]] (kat) の22個である。 === SI接頭語 === {{main|SI接頭語}} [[SI接頭語]]は、[[SI単位]]の[[10進数|10進]]の倍量単位・分量単位を作るための接頭語である。前項までの基本単位や組立単位と組み合わせて用いることができる。しかし、接頭語が SI単位と共に使われる場合、接頭語によって、1 以外の係数が導入されるため、結果として生ずる単位は[[一貫性 (単位系)|一貫性]]を持たないものとなる。SI基本単位あるいは組立単位に使用可能なSI接頭語の一覧を以下の表に示す<ref name=":0" group="注" />。 {{SI接頭語}} ==== 「SI単位」と「一貫性のあるSI単位」の違い ==== 次項に述べる[[SI併用単位]]を除いた国際単位系(SI)全体が[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある単位系というわけではない。このことを明確にするために、[[CIPM]](2001年)は、「[[SI単位]]」の語と「一貫性のあるSI単位」の語とを区別して、次のように定義した{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=148}}。 * SI単位(SI units<ref group="注">units of the SIとも。</ref>):[[基本単位]]、[[一貫性 (単位系)|一貫性]]のある[[組立単位]]、および推奨される[[SI接頭語]]<ref group="注">倍量および分量接頭語</ref>と結合することによって得られる全ての単位の名称。 * 一貫性のあるSI単位(coherent SI units):基本単位と一貫性のある組立単位のみに制限される単位の名称。つまりSI接頭語を付加しない単位の集合である<ref group="注" name=":0">ただし、歴史的経緯による例外として、キログラム (kg)は、一貫性のあるSI単位でありながら、その名称・記号に接頭語のキロ (k)が含まれている。既にSI接頭語が付いており、キログラムにさらにSI接頭語は付けられない。もちろん、グラム (g; キログラムの1000分の1。一貫性を持たない単位)に対してはSI接頭語を付けてもよい。</ref>{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=105}}。 つまり、「基本単位+一貫性のある組立単位」の範囲の単位であれば、一貫性のある単位系であるが、これにSI接頭語を付加すると、もはや一貫性は失われるのである{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=106|ps=しかし、接頭語が SI単位と共に使われる場合、接頭語によって、1 以外の係数が導入されるため、結果として生ずる単位は一貫性を持たないものとなる。}}<ref>[https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf 国際単位系(SI)国際文書第8版(2006)] p.16下欄訳注、* 訳注:第2章で述べる SI基本単位(表1),そのべき乗の積からなる SI組立単位(表2),固有の名称と[[単位記号|記号]]を与えられた SI組立単位(表3),及び SI基本単位とSI組立単位のべき乗の積からなる SI組立単位(表4)のことを本文書では「一貫性のあるSI単位」と呼ぶ.第3章で述べる SI接頭語(表5)を付した単位は,SI単位ではあるが一貫性のある単位ではない. </ref>。 == SI単位と併用される非SI単位 == === SI併用単位 === {{main|SI併用単位}} 日々の生活で広く SI とともに用いられているため、[[CIPM]] により国際単位系と併用することが認められている[[非SI単位]]である。これらの使用は今後ずっと続くものと考えられ、[[SI単位]]によって正確な定義が与えられている{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=114}}。 以下に、SI国際文書SI第9版 (2019) 第4章「SIとの併用が認められる非SI単位(Non-SI units that are accepted for use with the SI )」の表8<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9.pdf The International System of Units(SI) 9th edition 2019] Bureau International des Poids et Mesures, 2019-05-20, pp.145-146</ref>で挙げられている[[非SI単位]]の全て(15個)を列挙する。この表中の単位は、SI単位との併用が認められる。ただし、これらのSI併用単位を[[国際単位系#「SI単位」と「一貫性のあるSI単位」の違い|一貫性のあるSI単位]]と組み合わせると、もはや一貫性は失われることに注意すべきである。 {| class="wikitable" !量!!単位の名称!!単位の記号!!SI単位による値 |- |rowspan=3|[[時間]] |[[分]]||min||1 min = 60 [[秒|s]] |- |[[時間 (単位)|時]]||h||1 h = 60 min = 3600 s |- |[[日#時間の単位としての日|日]]||d||1 d = 24 h = {{val|86400|u=s}} |- |[[長さ]] |[[天文単位]](a)||au||1 au = {{val|149597870700|u=m}} |- |rowspan=3|[[平面角]]および[[位相|位相角]] |[[度 (角度)|度]]||°||1° = ([[円周率|''{{π}}'']]/180) [[ラジアン|rad]] |- |[[分 (角度)|分]]||′||1′ = (1/60)° = (''{{π}}''/{{val|10800}}) rad |- |[[秒 (角度)|秒]](b)||″||1″ = (1/60)′ = (''{{π}}''/{{val|648000}}) rad |- |[[面積]] |[[ヘクタール]](c)||ha||1 ha = 1 hm<sup>2</sup> = 10<sup>4</sup> [[平方メートル|m<sup>2</sup>]] |- |[[体積]] |[[リットル]](d)||L, l||1 L = 1 l = 1 dm<sup>3</sup> = 10<sup>3</sup> [[立方センチメートル|cm<sup>3</sup>]] = 10<sup>−3</sup> [[立方メートル|m<sup>3</sup>]] |- |rowspan=2|[[質量]] |[[トン]](e)||t||1 t = 10<sup>3</sup> [[キログラム|kg]] |- |[[統一原子質量単位|ダルトン]](f)||Da||1 Da = {{val|1.66053906660|(50)|e=-27|u=kg}}<ref group="注">[[BIPM]]による原表では当初はCODATA2014の数値が掲げられていたが、その後、CODATA2018の数値に差し替えられた。</ref><ref>[https://physics.nist.gov/cgi-bin/cuu/Value?ukg|search_for=unified unified atomic mass unit] The NIST Reference on Constants, Units, and Uncertainty. US National Institute of Standards and Technology. 2019-05-20. 2018 CODATA recommended values</ref> |- |[[エネルギー]] |[[電子ボルト]](g)||eV||1 eV = {{val|1.602176634|e=-19|u=J}} |- |rowspan=3|[[比の対数]] |[[ネーパ]](h)||Np|| |- |[[デシベル|ベル]](h)||B|| |- |[[デシベル]](h)||dB|| |} :(欄外注)[[ガル]](記号Gal)は、加速度の非SI単位である。[[重力加速度]]を表す単位として測地学と地球物理学で用いられる。1&nbsp;Gal = 1&nbsp;cm&nbsp;s<sup>−2</sup> = 10<sup>−2</sup>&nbsp;m&nbsp;s<sup>−2</sup> (a)~(h)の注については、[[SI併用単位]]を参照のこと。 === SI接頭語との組合わせ === [[国際単位系国際文書]]第9版 (2019) は、「[[SI接頭語]]は、[[SI併用単位]]の一部とは併用できるが、例えば時間の[[非SI単位]]との併用はできない。」と記述しているのみで、分・時・日以外の12個の[[SI併用単位]]のうち、どの単位が[[SI接頭語]]と組み合わせることができるかについては、明確に述べていない。詳細は、[[SI併用単位#SI接頭語との組合わせ]]を参照のこと。 === その他の非SI単位の削除 === SI国際文書第8版 (2006)(廃版)の第4章には、[[SI併用単位]]とは別に様々な[[非SI単位]]が列挙されていた。しかし、2019年に改訂された国際単位系 (SI)(第9版)では、[[SI併用単位]]以外の[[非SI単位]]は全て削除された。削除された[[非SI単位]]の詳細は、[[非SI単位#2006年第8版に掲げられていた非SI単位]]を参照のこと。 == 単位と数値の記法 == 国際単位系 (SI) は、[[数値]]と[[単位]]を記述するときの記法について詳細な規定を定めている<ref>[https://www.bipm.org/utils/common/pdf/si-brochure/SI-Brochure-9-EN.pdf The International System of Units (SI) 9th ed. Text in English] 5.4 Rules and style conventions for expressing values of quantities, pp.149-150</ref>{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|pp=116-120}}。 === 単位の英語名称 === 単位の名称を英語で書く場合は、[[立体活字|立体活字(立体)]]で表記し、[[普通名詞]]として扱う。文頭の場合もしくは表題のように大文字で書き始めるものを除き、単位の名称は'''[[単位記号]]が大文字で始まる場合でも'''小文字で書き始める。なお、[[セルシウス度|{{℃}}]]の単位名称の正しいつづりは「degree Celsius」であって、「degree celsius」ではない(Celsius は人名に由来するため大文字の C で始まる)。 * 例:newton、pascal、weber、sievert SI接頭語と単位の間には空白やハイフンを置かない。 * 例:kilometre<ref group="注">[[国際単位系国際文書]]における英語の綴りである。met'''er'''ではない。</ref>、milligram 個々の単位を並べて作った組立単位の名称は空白もしくはハイフンで区切る。 * 例:pascal second または pascal-second === 量記号と単位記号 === [[量]]([[物理量]])の記号は'''[[斜体]]'''([[イタリック体]])で表記し、通常は、ラテン語またはギリシャ語のアルファベット1文字である。大文字と小文字のいずれも使ってよい。量に関する追加情報は、下付き文字で、または、括弧の中に入れて、加えることができる。 * 例: ''g'' = {{Val|9.80665|u=m/s2}} : ''g''は'''斜体'''であり、[[重力加速度]]を表す量記号である。  [[単位記号]]は、その前後の文章で使われている書体にかかわらず、'''[[立体活字|立体]]'''([[ローマン体]])で表記する。 * 例:''m'' = {{Val|239.6|u=g}} : g は'''立体'''であり、[[グラム]]([[質量]]の単位)を表す単位記号である。 単位記号は小文字で表記する。ただし、単位記号が[[固有名詞]]に由来する場合は最初の文字を大文字にする。 * 例:m([[メートル]])、mol([[モル]])、rad([[ラジアン]])、lm([[ルーメン]]) * 例:N([[アイザック・ニュートン]]に由来)、Pa([[ブレーズ・パスカル]]に由来)、Wb([[ヴィルヘルム・ヴェーバー]]に由来)、Sv([[ロルフ・マキシミリアン・シーベルト]]に由来) * 例外として、[[リットル]]の単位記号は、数字の 1(いち)と小文字の l(エル)との混乱を避けるため、大文字の L も小文字の l に加えて使っても良いことになっている。 量の性質についての付随情報は量記号に与えるものとし,単位記号に与えてはならない。 * 例:最大電位差の表現  ''U''<sub>max</sub> = 1000 V とする。 ''U'' = 1000 V<sub>max</sub> は不可。 [[ユニコード|Unicode]]標準では、互換性の為に割り当てられている特殊な単位記号<ref>[https://altcodeunicode.com/alt-codes-for-cjk-squared-latin-abbreviations/ AltCodeUnicode.com ALT Codes for CJK Squared Latin Abbreviations]</ref><ref>[http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf CJK Compatibility]</ref>ではなく通常のラテン文字を使うことを推奨している<ref>[https://www.unicode.org/versions/Unicode14.0.0/ch22.pdf The Unicode Standard, Version 14.0 Chapter 22 Symbols] p.839 p.865 p.896</ref><ref>[https://www.unicode.org/reports/tr25/ Unicode Technical Report #25 UNICODE SUPPORT FOR MATHEMATICS] p.11</ref>。 === 量の値の形式 === 数値は、常に単位の前に来て、必ず 1 字分の空白を使って数字と単位を離す。量の値は数字と単位の積として表され、空白は[[乗算]]記号 を表す(二つの単位の間に挿入される空白がそれらの積を表すのと同じである)。この原則は、セルシウス度と(SI単位ではないが)[[パーセント]]にも適用され、その単位記号である {{℃}} や % の前に空白を挿入する{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=118}}。また、SI接頭語と[[単位記号]]の間に空白を置いてはならない。 * 例: 123.4 kg、30.2 °C    * 不適例: 30.2°C(数値と単位記号の間に空白がない)   * 不適例: 30.2 ° C(「°」と「C」の間に空白がある) この原則における唯一の例外は、[[平面角]]を表す単位である[[度 (角度)|角度]]、[[分 (角度)|分]]、及び[[秒 (角度)|秒]]であり、それぞれの単位記号である「°」(度)、「′」(分)、及び「″」(秒)に対しては、数値と単位記号との間に空白を挿入しない([[度 (角度)#記法]])。 * 例: 30°28′8″ ==== {{Vanc|半角の空白}}({{Vanc|スペース}}) ==== 数値と単位の間の空白については、[[国際単位系国際文書|SI国際文書]]の原文(仏語、英語)では、[[半角]]・[[全角]]の概念がないので、単に空白(仏語 une espace, 英語 a space)と規定している<ref>[https://www.bipm.org/documents/20126/41483022/SI-Brochure-9.pdf/fcf090b2-04e6-88cc-1149-c3e029ad8232 SI国際文書(仏語、英語)] (仏語)p.38 5.4.3 Écriture de la valeur d’une grandeur, (英語)p.149 5.4.3 Formatting the value of a quantity </ref>。これは日本語翻訳版でも同じである。ただし日本語文献上の実際の記法としては、この空白は、「'''半角'''の空白(スペース)」として運用されている<ref>[[理科年表]]2022、p.372、ISBN 978-4-621-30649-9、2021-11-30</ref><ref>[https://www.jab.or.jp/files/items/5019/File/NL5122015V1.pdf 単位や学名等の記載方法について JAB NL512:2015] p.3/9、公益財団法人 日本適合性認定協会、2015-10-01(第1版)</ref><ref>[https://www.jsac.or.jp/bunseki/pdf/bunseki2017/201708izumi.pdf 物理量・数値・単位と分率の表記についての提言] 岩本振武、ぶんせきの泉、p.342、ぶんせき、2017年8月</ref>。 === 数字の形式及び小数点 === [[小数点]](decimal marker)は、「.」([[終止符|ピリオド]])でも「,」([[コンマ]])でもよい。どちらを選ぶかは関連する文章やその言語の習慣によるものとする([[小数点#二つの方式]])。現在の日本では、「.」(ピリオド)を用いることがほとんどである。 数値が +1 と −1 との間にある場合、小数点の前には常に 0 を置く。 * 例:−0.234 * 不適例:−.234 桁の多い数を表す場合には、読みやすくするために、[[スペース|空白]](space)を用いて3桁毎のグループに分けてもよい。ただし、グループの間に点「.」やカンマ「,」を挿入してはならない。 しかし、小数点の前または後の桁数が 4 桁のみの場合は、1 桁だけを分けるための空白は設けないことが一般的である。 * 例:43 279.168 29 * 不適例:43,279.168,29 このようなかたちで桁数をグループ分けするか否かは、それぞれの選択に委ねられる。設計図、財務諸表、コンピュータが読み取るスクリプト(scripts)などの特定の専門的分野では、このやりかたは必ずしも使われていない{{Sfn|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|p=119}}。  表中の数字の場合、同じ欄の中で使用する形式は統一する。 == 法定計量単位との関係 == 日本の[[計量法]]は、[[法定計量単位]]を限定的に定めている。SI単位及びSI併用単位の多くは、法定計量単位になっているが、次のものはそうではない。 === 法定計量単位ではないSI単位 === 固有の名称を持つSI組立単位である、[[酵素活性]]の単位 [[カタール (単位)|カタール]](kat) は法定計量単位ではない。[[国際単位系国際文書]]が規定・例示する[[SI単位]]のうち、法定計量単位となっていない単位は、このカタール(kat)および[[酵素活性濃度]](kat m<sup>−3</sup>) だけである。 === 法定計量単位ではないSI併用単位 === 以下の6個の[[SI併用単位]]は、[[法定計量単位]]ではない。 * [[日#時間の単位としての日|日]] (d) <ref group="注"> [[日#時間の単位としての日|日]]は計量法上は計量単位ではなく、[[暦]]の単位と位置づけられている。</ref> * [[天文単位]] (au) * [[統一原子質量単位|ダルトン]] (Da) * [[電子ボルト]] (eV) * [[ネーパ]] (Np) * [[デシベル#ベル|ベル]] (B) == 各国における国際単位系 == {{See also|メートル法化}} 現在では、世界のほとんどの国で合法的に使用でき、多くの国で使用することが義務づけられている。しかしアメリカなど一部の国では、それまで使用していた単位系の単位を使用することも認められている。 === アメリカ合衆国 === {{See|アメリカ合衆国のメートル法化}} === イギリス === {{See| {{仮リンク|イギリスのメートル法化|en|Metrication in the United Kingdom}} }} === カナダ === {{See| {{仮リンク|カナダのメートル法化|en|Metrication in Canada}} }} === 日本 === {{See also|日本のメートル法化}} 日本は、[[1885年]](明治18年)にメートル条約に加入、[[1891年]](明治24年)施行の[[度量衡法]]で[[尺貫法]]と併用することになり、[[1951年]](昭和26年)施行の[[計量法]]で一部の例外を除きメートル法の使用が義務付けられた。[[1974年]]には国際単位系が導入され<ref name="名前なし-1"/>、[[1991年]](平成3年)には[[日本産業規格|JIS規格]]が完全に国際単位系準拠となり、JIS Z 8203「国際単位系 (SI) 及びその使い方」が規定された<ref group="注">[[国際標準化機構]](ISO)による [[ISO 1000]] を翻訳した物。ISO 1000 は2009年に [[ISO 80000-1]] に置き換えられ、JIS Z 8203 も2014年に ISO 80000-1 を翻訳した JIS Z 8000-1 に置き換えられた。</ref>。この国際単位系への移行に伴い、[[1992年]]に[[気象庁]]が[[気圧]]の単位を[[ミリバール]]から[[ヘクトパスカル]]に変更するなど、いくつかの単位が変更された<ref>「図解入門 よくわかる最新単位の基本と仕組み」p24 伊藤幸夫・寒川陽美著 秀和システム 2004年8月10日第1版第1刷</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注"/> === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * (準拠すべき基本文献){{Cite|和書|author=BIPM|authorlink=BIPM|date=2020-04|translator=[[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター|title=国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf|type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|ref={{SfnRef|国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|}}|id= |isbn= |quote= }} 【正誤表】 2022年7月15日 更新{{Cite|和書|date=2022-07-15|title=国際単位系(SI)第9版(2019)正誤表|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/20220714_seigohyo.pdf|type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター}} * パンフレット [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/pamphlet/pdf/SIdata.pdf 国際単位系 (SI) は世界共通のルールです] 国立研究開発法人 産業技術総合研究所 計量標準総合センター 計量標準普及センター 計量標準調査室、2020年4月、2022年11月改訂。(※このパンフレットは、非営利目的の複製が自由にできる。すなわち営利目的の使用でなければ、許諾の必要なく、複写・複製することができる) * {{cite book|和書|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf|title=国際文書 国際単位系 (SI)|edition=第 8 版日本語版|year=2006|author=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|ref=SI8thja}} (※旧版であり、廃止されている) == 関連項目 == * [[国際単位系国際文書]] * [[SI単位]] * [[SI基本単位]] * [[SI組立単位]] * [[SI併用単位]] * [[SI接頭語]] * [[非SI単位]] * [[一貫性 (単位系)]] * [[SI基本単位の再定義 (2019年)]] * [[法定計量単位]] * [[数量の比較]] * [[単位の換算]] * [[単位の換算一覧]] * [[物理量]] * [[尺貫法]] * [[ヤード・ポンド法]] * [[メートル条約]] * [[自然単位系]] * [[ISO 1000]] - [[国際標準化機構]] (ISO) で、'''SI units and recommendations for the use of their multiples and of certain other units'''(国際単位系及びその使い方)の文書名で公表されている。 * [[ISO/IEC 80000]] - 国際標準化機構 (ISO) および [[国際電気標準会議]] (IEC) で、'''Quantities and units'''の文書名で、量及び単位それぞれについて具体的に公表されている。 == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} * (準拠すべき基本文献){{Cite|和書|author=BIPM|authorlink=BIPM|date=2020-03|translator=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|title=国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf |type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター|id= |isbn= |quote= }} 【正誤表】 2022年7月15日 更新{{Cite|和書|date=2022-07-15|title=国際単位系(SI)第9版(2019)正誤表|url=https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/si-brochure/pdf/20220714_seigohyo.pdf|type=pdf|publisher=産業技術総合研究所 計量標準総合センター}} * [https://www.bipm.org/en/publications/si-brochure/ SI brochure] &mdash; 国際単位系の利用案内書。[[国際度量衡局]] (BIPM) による。 * {{EoE|International_System_of_Units_%28SI%29|International System of Units (SI)}} * [https://www.keiryou-keisoku.co.jp/databank/kokusai/si/si.pdf 新計量法とSI化の進め方] 通商産業省、SI単位等普及推進委員会、1999年3月 * [https://kikakurui.com/z8/Z8203-2000-01.html JIS Z8203「国際単位系 (SI) 及びその使い方」] KIKAKURUI.COM * {{Kotobank}} {{SI units navbox}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こくさいたんいけい}} [[Category:国際単位系|*]] [[Category:計量学]] [[Category:単位系]] [[Category:度量衡]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%98%E4%BD%8D%E7%B3%BB
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井上ひさし
井上 ひさし(いのうえ ひさし、本名:井上 廈(読み同じ)、1934年〈昭和9年〉11月16日 - 2010年〈平成22年〉4月9日)は、日本の小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者、日本芸術院会員。 1961年から1986年までの本名は内山 廈(うちやま ひさし)。遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもあった。 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した(後述)。 先妻は西舘代志子。後妻のユリは元衆議院議員米原昶の娘。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢。 1934年11月16日、井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる。修吉は実家が薬屋だったため薬剤師を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰したほか、1935年には小松滋の筆名で書いた小説『H丸傳奇』が『サンデー毎日』第17回大衆文芸新人賞に入賞している。プロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は非嫡出子(婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、『H丸傳奇』の舞台となった中国の厦門(アモイ)に由来する。5歳のとき父が脊髄カリエスで死亡。青年共産同盟(現在の日本民主青年同盟、通称・民青)に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や美容院経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症と吃音症になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「神童」と言われていた。 母は一関市で飯場を営んでいた義父の居場所を突き止め、会社から義父を追い出して自ら社長の座につき土建業「井上組」を立ち上げた。当時アイオン・カスリーン台風の被害により一関市内の復興需要に対し土建業を担っていた。その際井上自身は、現在の世嬉の一酒造の蔵を借りて運営していた新星映画館(現:一関シネプラザ)にて切符もぎりのバイトをしていた。しかし、井上組の経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会の孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。そこではカナダ人修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人となった(洗礼名:マリア・ヨゼフ。上京後、棄教している)。一方、井上の孤児院時代の友人によると、この孤児院は理不尽な体罰といじめが横行する弱肉強食の環境であり、当時の井上は弟と一緒だったが「小さな弟がいじめられて泣いてもかばえないような奴でした」「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」、という。井上在園当時に園長を務めた石井恭一修道士も「ひさしさんはおとなしい子でしたよ。弟さんは小さくて、よくおねしょをしたので、皆にからかわれていました。彼はかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていました」と証言している。この当時のことは自著『四十一番の少年』にも描かれている。 1950年、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学。在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。在学中は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷。東北大学と東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず、孤児院の神父の推薦で1953年、上智大学文学部ドイツ文学科に入学し、代々木上原のラ・サール修道院から通う。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し、東北大学医学部と岩手医科大学を受験して失敗。1956年、上智大学外国語学部フランス語科に復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした。 在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一、関敬六、長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。 1960年に上智大学を卒業。放送作家として活動し、1961年、広告代理店に勤めていた好子と結婚(婿養子)、1963年から年子で娘を3人もうける。山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、1964年4月から5年間放映される国民的人気番組となる。舞台であるひょうたん島が「流れ着いた国」の一つ、「国民すべてが郵便局員」であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった。のち1970年4月より『ネコジャラ市の11人』が放送され、作風は近代化されたが時代的背景から体制批判であるとの抗議が立ち、『ひょっこりひょうたん島』に比べれば短期間の3年間の放映で終了となった。また、このころ、お茶の間の人気者として台頭しつつあったてんぷくトリオのコント台本を数多く手がけている(これらの作品は「コント台本」として出版されている)。1969年に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。 1972年7月、「手鎖心中」(『別冊文藝春秋』119号)で第67回直木三十五賞を受賞した。選考委員会では柴田錬三郎が「江戸爛熟期の風俗の調べがゆきとどかず、挿入の小唄が大正製であったりする不備があった」、司馬遼太郎も「作品そのものには多少の瑕瑾を指摘できる」と消極的意見も出される中、水上勉が「軽妙にしてずっしりと重い。おそらく日本文壇は、何年ぶりかで、個性ゆたかな作家を得たといえる」、松本清張も「ふざけた小説だとみるのは皮相で、作者は戯作者の中に入って現代の「寛政」を見ている」など、積極的意見に推されるかたちで綱淵謙錠の『斬』との同時受賞が決まった。 1974年1月から初の連載小説となる「熱風至る」を『週刊文春』に連載した。新選組をモチーフとした時代小説で、掲載予告では「人気絶頂作家の長篇小説が初めて週刊誌に登場」「ひさしの新選組」などの文言が踊る鳴り物入りの連載スタートだった。しかし、近藤勇が被差別部落出身だったとするなどの内容が編集部の不興を買い、連載は丸2年続いた後、完結を待たずに終了となった。 1982年2月、『吉里吉里人』で第33回読売文学賞、第2回日本SF大賞を受賞した。 1983年1月、劇団こまつ座を立ち上げている。第1回は1984年4月5日の『頭痛肩こり樋口一葉』であった。パンフレット「the座」を発行していて、前口上や後口上やシナリオを掲載していた。1986年、好子と離婚。井上、好子ともに記者会見をし、マスコミを賑わせた。この間、1985年12月4日、自宅で睡眠薬を服用して首を吊り、自殺を図ったが未遂に終わっている。翌年、米原ユリと再婚、男児をもうける。 日本ペンクラブ会長、日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月 - )、世界平和アピール七人委員会委員、仙台文学館館長(初代)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002年 - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており直木三十五賞、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、大佛次郎賞、川端康成文学賞、吉川英治文学賞、岸田國士戯曲賞、講談社エッセイ賞、日本ファンタジーノベル大賞、小説すばる新人賞が挙げられる。2009年より文化学院の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院でフランス語を教えていたことと、娘らが文化学院に在籍経験があることから引き受けたという。同年、日本藝術院会員に選ばれた。 1日40本はたばこを吸うという愛煙家で、「喫煙と肺癌は無関係」という見解をたびたび披露していたが、井上自身が2009年10月に肺癌と診断され、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという。治療中の2010年4月9日に死去した。75歳没。 沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』の上演が2010年7月に予定され、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011年に上演する計画もあったが、いずれも執筆に至らなかった。 戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」。墓所は浄光明寺。 命日の4月9日は没後5年にあたる2015年より、代表作「吉里吉里人」にちなんで吉里吉里忌と名付けられている(文学忌)。 ひさしが電通のディレクターから寸借詐欺に遭ったときに、前妻である好子も被害者の一人であったことが交際するきっかけとなった。 ひさしの三女である石川麻矢が1998年に自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)によると、ひさしと当時の夫人・好子(麻矢の母)は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っており、子どもに対して暴力をふるったことはなかった。当時は家庭内が険悪だったわけではなく、好子はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している。執筆でひさしの足がむくむと好子はそれを取るためのマッサージをした。やがて、筆が進まなくなるなどで、ひさしは好子に暴力を振るうようになり、編集者も「好子さん、あと二、三発殴られてください」などと、ひさしの暴力を煽った。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している。 ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している。その時期から、好子はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている。 この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との不倫が発覚、1985年に井上家を出て翌年6月離婚。石川は“不倫”が発覚した当時、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、ひさしが好子にとても厳しかったことを挙げている。 離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた家庭内暴力を明かした。この本で「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て...」と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れている。一方で、好子がひさしに「嚙み付く、ひっかく、飛び道具を使う、嚙んだら離さない」等の暴力を一方的に振るわれていたわけではなかったという矢崎泰久の目撃証言もある。 これらのDVについて、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、特に追及する声も起らずに話題としては終息した。小谷野敦も『週刊新潮』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に園遊会問題(政治的発言の項参照)への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。西舘好子はその自著で、ひさしが人気作家であることから、いかに出版社の人間たちがひさしを守っていたかを綴っている。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『週刊ポスト』に指摘された。なお『激突家族 井上家に生まれて』には、都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(189ページ)。なお、二女の綾も臨終・葬儀に呼ばれていない。 後妻の井上ユリはひさし没後の2010年6月に発売された『文藝春秋』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。 また、西舘好子は2018年2月20日に発行された『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』(幻冬舎)の「第四幕 切っても切れない深い結びつき 家族の晩期」において、「泥沼離婚をしたあと、私たちは真夜中の電話を二十数年間続けていました。(中略)今振り返れば、あの二十数年という歳月は、お互いの憎悪を浄化するために必要な時間だったのかもしれない、と思います。冗談を言い合い、ふざけ合っていたときは、単なる仲のいい友人同士でした。」と述べ、また「家族戦争を終えた今は、井上さんの書いた作品が次の世代に読み継がれ、多くの人に笑ったり泣いたりしてもらえることを、私は心より願っています。」と記した。 1987年、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫」が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講した。農業関係の催しが多い。 1996年、岩手県一関市で3日間、作文教室を行い、この時の講義録が『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(後に新潮文庫)になる。 1998年には仙台文学館の初代館長、現大崎市の吉野作造記念館(後に作造兄弟の評伝劇「兄おとうと」2003年を書く)の名誉館長に就任する。 1999年3月、日本共産党委員長・不破哲三との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版した。また、2004年6月、「九条の会(きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり各地で「(日本の平和を守るために)日本国憲法第9条を変えるな」と訴えるなど政治的な活動も古くから行っていた。国鉄分割民営化については「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」とし反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿した。 無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」と発言をしている。なお、小説『吉里吉里人』には吉里吉里国の国策として同様の設定が見られ、「文明による武装」として作中に登場する自衛隊員に訴えている。 前妻・西舘好子はひさしを「徹底した天皇制批判者」と記し(『修羅の棲む家』)、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている(『激突家族 井上家に生まれて』)。しかし、その後考えに変化があったのか、ひさしが文化功労者を辞退せず、その後天皇主催の茶会に出席し、大岡昇平、木下順二、武田泰淳ら、反体制文学者が辞退した芸術院会員になったことを小谷野敦は批判しており(『天皇制批判の常識』洋泉社)、『週刊新潮』の追悼特集でも、いくつかの戯曲への絶賛に添える形ではあるが、あえてこの件に触れた。また、絓秀実なども「天皇制支持、反戦というのは『戦後民主主義』だ」としてひさしを批判していた(『小ブル急進主義批評宣言』)。 活動初期はテアトル・エコーの座付き作者に近い存在であり、主宰者・熊倉一雄らとの交友も長い。その後は木村光一、栗山民也、鵜山仁、晩年は蜷川幸雄との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』『忍者ハットリくん』など放送台本の多くを共同執筆した山元護久は1978年に早世している。 小説関係では、晩年は大江健三郎と行動をともにすることが多かったが、同い年でやはり笑いを武器にする筒井康隆との親交も深く、この三人は相互にエールを送る文章が多い。ともに娯楽色の強い小説が多かったひさしと筒井が『吉里吉里人』と『虚人たち』以降、強い実験性を打ち出すようになったのも軌を一にしており、劇作との二足のわらじなど共通点も多い。井上の死の数日後、筒井はネットエッセイ「偽文士実録」(当該部分は2013年6月角川書店刊)で「井上ひさしが死んでしばらくは茫然として何も手がつかなかった」と記している。なお、新潮社は一時期「小説新潮新人賞」をひさしと筒井の二人だけで選考させていた。 一世代上の司馬遼太郎を尊敬しており、親交があるほか、対談をし共著で『国家・宗教・日本人』を出している (後にひさしは司馬遼太郎賞の選考委員を長く務めた)。親交はなかったが、安部公房も尊敬しており、同じ読売文学賞の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという。 高校の先輩である菅原文太とは中年以降に交友が再開し、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。これは結局実現しなかったにもかかわらず、30年近くも引き上げることなく預けっぱなしになっていたことが死の際に明らかになった(読売新聞ほか)。 マンガ家の本宮ひろ志とは、市川市で長く隣家の関係だったことがあり、交流があった。本宮はエッセイ『天然まんが家』(集英社)で、井上への尊敬を記している。 劇作家、演出家のロジャー・パルバースは井上作品の翻訳を行っているほか、個人的にも交流があり、1976年に彼の招きにより井上は、オーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行っている。 イラストレーターでも安野光雅、和田誠など何人かの名コンビが存在するが、山藤章二が他を圧して多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を思い切って強調した井上像は本人の写真や映像以上に広く浸透している。 ※情報は初演時のもの。
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"1960年に上智大学を卒業。放送作家として活動し、1961年、広告代理店に勤めていた好子と結婚(婿養子)、1963年から年子で娘を3人もうける。山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、1964年4月から5年間放映される国民的人気番組となる。舞台であるひょうたん島が「流れ着いた国」の一つ、「国民すべてが郵便局員」であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった。のち1970年4月より『ネコジャラ市の11人』が放送され、作風は近代化されたが時代的背景から体制批判であるとの抗議が立ち、『ひょっこりひょうたん島』に比べれば短期間の3年間の放映で終了となった。また、このころ、お茶の間の人気者として台頭しつつあったてんぷくトリオのコント台本を数多く手がけている(これらの作品は「コント台本」として出版されている)。1969年に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1972年7月、「手鎖心中」(『別冊文藝春秋』119号)で第67回直木三十五賞を受賞した。選考委員会では柴田錬三郎が「江戸爛熟期の風俗の調べがゆきとどかず、挿入の小唄が大正製であったりする不備があった」、司馬遼太郎も「作品そのものには多少の瑕瑾を指摘できる」と消極的意見も出される中、水上勉が「軽妙にしてずっしりと重い。おそらく日本文壇は、何年ぶりかで、個性ゆたかな作家を得たといえる」、松本清張も「ふざけた小説だとみるのは皮相で、作者は戯作者の中に入って現代の「寛政」を見ている」など、積極的意見に推されるかたちで綱淵謙錠の『斬』との同時受賞が決まった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1974年1月から初の連載小説となる「熱風至る」を『週刊文春』に連載した。新選組をモチーフとした時代小説で、掲載予告では「人気絶頂作家の長篇小説が初めて週刊誌に登場」「ひさしの新選組」などの文言が踊る鳴り物入りの連載スタートだった。しかし、近藤勇が被差別部落出身だったとするなどの内容が編集部の不興を買い、連載は丸2年続いた後、完結を待たずに終了となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1982年2月、『吉里吉里人』で第33回読売文学賞、第2回日本SF大賞を受賞した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1983年1月、劇団こまつ座を立ち上げている。第1回は1984年4月5日の『頭痛肩こり樋口一葉』であった。パンフレット「the座」を発行していて、前口上や後口上やシナリオを掲載していた。1986年、好子と離婚。井上、好子ともに記者会見をし、マスコミを賑わせた。この間、1985年12月4日、自宅で睡眠薬を服用して首を吊り、自殺を図ったが未遂に終わっている。翌年、米原ユリと再婚、男児をもうける。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本ペンクラブ会長、日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(2004年4月 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(2004年7月 - )、世界平和アピール七人委員会委員、仙台文学館館長(初代)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002年 - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており直木三十五賞、読売文学賞、谷崎潤一郎賞、大佛次郎賞、川端康成文学賞、吉川英治文学賞、岸田國士戯曲賞、講談社エッセイ賞、日本ファンタジーノベル大賞、小説すばる新人賞が挙げられる。2009年より文化学院の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院でフランス語を教えていたことと、娘らが文化学院に在籍経験があることから引き受けたという。同年、日本藝術院会員に選ばれた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1日40本はたばこを吸うという愛煙家で、「喫煙と肺癌は無関係」という見解をたびたび披露していたが、井上自身が2009年10月に肺癌と診断され、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという。治療中の2010年4月9日に死去した。75歳没。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』の上演が2010年7月に予定され、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011年に上演する計画もあったが、いずれも執筆に至らなかった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」。墓所は浄光明寺。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "命日の4月9日は没後5年にあたる2015年より、代表作「吉里吉里人」にちなんで吉里吉里忌と名付けられている(文学忌)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ひさしが電通のディレクターから寸借詐欺に遭ったときに、前妻である好子も被害者の一人であったことが交際するきっかけとなった。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ひさしの三女である石川麻矢が1998年に自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)によると、ひさしと当時の夫人・好子(麻矢の母)は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っており、子どもに対して暴力をふるったことはなかった。当時は家庭内が険悪だったわけではなく、好子はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している。執筆でひさしの足がむくむと好子はそれを取るためのマッサージをした。やがて、筆が進まなくなるなどで、ひさしは好子に暴力を振るうようになり、編集者も「好子さん、あと二、三発殴られてください」などと、ひさしの暴力を煽った。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している。その時期から、好子はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との不倫が発覚、1985年に井上家を出て翌年6月離婚。石川は“不倫”が発覚した当時、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、ひさしが好子にとても厳しかったことを挙げている。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた家庭内暴力を明かした。この本で「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て...」と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れている。一方で、好子がひさしに「嚙み付く、ひっかく、飛び道具を使う、嚙んだら離さない」等の暴力を一方的に振るわれていたわけではなかったという矢崎泰久の目撃証言もある。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "これらのDVについて、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、特に追及する声も起らずに話題としては終息した。小谷野敦も『週刊新潮』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に園遊会問題(政治的発言の項参照)への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。西舘好子はその自著で、ひさしが人気作家であることから、いかに出版社の人間たちがひさしを守っていたかを綴っている。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『週刊ポスト』に指摘された。なお『激突家族 井上家に生まれて』には、都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(189ページ)。なお、二女の綾も臨終・葬儀に呼ばれていない。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "後妻の井上ユリはひさし没後の2010年6月に発売された『文藝春秋』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また、西舘好子は2018年2月20日に発行された『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』(幻冬舎)の「第四幕 切っても切れない深い結びつき 家族の晩期」において、「泥沼離婚をしたあと、私たちは真夜中の電話を二十数年間続けていました。(中略)今振り返れば、あの二十数年という歳月は、お互いの憎悪を浄化するために必要な時間だったのかもしれない、と思います。冗談を言い合い、ふざけ合っていたときは、単なる仲のいい友人同士でした。」と述べ、また「家族戦争を終えた今は、井上さんの書いた作品が次の世代に読み継がれ、多くの人に笑ったり泣いたりしてもらえることを、私は心より願っています。」と記した。", "title": "ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1987年、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫」が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講した。農業関係の催しが多い。", "title": "社会活動" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1996年、岩手県一関市で3日間、作文教室を行い、この時の講義録が『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(後に新潮文庫)になる。", "title": "社会活動" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1998年には仙台文学館の初代館長、現大崎市の吉野作造記念館(後に作造兄弟の評伝劇「兄おとうと」2003年を書く)の名誉館長に就任する。", "title": "社会活動" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1999年3月、日本共産党委員長・不破哲三との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版した。また、2004年6月、「九条の会(きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり各地で「(日本の平和を守るために)日本国憲法第9条を変えるな」と訴えるなど政治的な活動も古くから行っていた。国鉄分割民営化については「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」とし反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿した。", "title": "社会的・政治的な事柄についての見解" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」と発言をしている。なお、小説『吉里吉里人』には吉里吉里国の国策として同様の設定が見られ、「文明による武装」として作中に登場する自衛隊員に訴えている。", "title": "社会的・政治的な事柄についての見解" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "前妻・西舘好子はひさしを「徹底した天皇制批判者」と記し(『修羅の棲む家』)、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている(『激突家族 井上家に生まれて』)。しかし、その後考えに変化があったのか、ひさしが文化功労者を辞退せず、その後天皇主催の茶会に出席し、大岡昇平、木下順二、武田泰淳ら、反体制文学者が辞退した芸術院会員になったことを小谷野敦は批判しており(『天皇制批判の常識』洋泉社)、『週刊新潮』の追悼特集でも、いくつかの戯曲への絶賛に添える形ではあるが、あえてこの件に触れた。また、絓秀実なども「天皇制支持、反戦というのは『戦後民主主義』だ」としてひさしを批判していた(『小ブル急進主義批評宣言』)。", "title": "社会的・政治的な事柄についての見解" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "活動初期はテアトル・エコーの座付き作者に近い存在であり、主宰者・熊倉一雄らとの交友も長い。その後は木村光一、栗山民也、鵜山仁、晩年は蜷川幸雄との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』『忍者ハットリくん』など放送台本の多くを共同執筆した山元護久は1978年に早世している。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "小説関係では、晩年は大江健三郎と行動をともにすることが多かったが、同い年でやはり笑いを武器にする筒井康隆との親交も深く、この三人は相互にエールを送る文章が多い。ともに娯楽色の強い小説が多かったひさしと筒井が『吉里吉里人』と『虚人たち』以降、強い実験性を打ち出すようになったのも軌を一にしており、劇作との二足のわらじなど共通点も多い。井上の死の数日後、筒井はネットエッセイ「偽文士実録」(当該部分は2013年6月角川書店刊)で「井上ひさしが死んでしばらくは茫然として何も手がつかなかった」と記している。なお、新潮社は一時期「小説新潮新人賞」をひさしと筒井の二人だけで選考させていた。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一世代上の司馬遼太郎を尊敬しており、親交があるほか、対談をし共著で『国家・宗教・日本人』を出している (後にひさしは司馬遼太郎賞の選考委員を長く務めた)。親交はなかったが、安部公房も尊敬しており、同じ読売文学賞の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "高校の先輩である菅原文太とは中年以降に交友が再開し、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。これは結局実現しなかったにもかかわらず、30年近くも引き上げることなく預けっぱなしになっていたことが死の際に明らかになった(読売新聞ほか)。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "マンガ家の本宮ひろ志とは、市川市で長く隣家の関係だったことがあり、交流があった。本宮はエッセイ『天然まんが家』(集英社)で、井上への尊敬を記している。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "劇作家、演出家のロジャー・パルバースは井上作品の翻訳を行っているほか、個人的にも交流があり、1976年に彼の招きにより井上は、オーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行っている。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "イラストレーターでも安野光雅、和田誠など何人かの名コンビが存在するが、山藤章二が他を圧して多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を思い切って強調した井上像は本人の写真や映像以上に広く浸透している。", "title": "交友関係" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "※情報は初演時のもの。", "title": "作品一覧" } ]
井上 ひさしは、日本の小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者、日本芸術院会員。 1961年から1986年までの本名は内山 廈。遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもあった。 日本劇作家協会理事、社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した(後述)。 先妻は西舘代志子。後妻のユリは元衆議院議員米原昶の娘。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢。
{{画像提供依頼|顔写真|date=2023年6月|cat=人物}} {{Infobox 作家 | name = {{ruby|井上|いのうえ}} ひさし | image = | image_size = | caption = 画像募集中 | pseudonym = {{読み仮名|遅筆堂|ちひつどう}}<br />服部 半蔵<ref group="†">[[山元護久]]と共に第1シリーズ実写版『忍者ハットリくん』(1966年)、第2シリーズ実写版『忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ』(1967年)を手がけた時の共同ペンネーム。</ref><br />エンリコ・トリゾーニ<ref group="†">山元護久と共に『ピュンピュン丸』(1967年、1970年)を手がけた時の共同ペンネーム。</ref> | birth_name = {{読み仮名|井上 廈|いのうえ ひさし}} | birth_date = {{生年月日と年齢|1934|11|16|no}} | birth_place = {{JPN}}・[[山形県]][[東置賜郡]]川西町(山形県) | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1934|11|16|2010|4|9}}<ref name="chibanippo2010413">{{Cite news | title = 市川の偉大な文化人 井上ひさし氏が死去 20年間在住、文化振興財団の理事長も | newspaper = [[千葉日報]] | pages = 朝刊 1,15,18 | publisher = 千葉日報社 | date = 2010-04-13 }}</ref> | death_place = {{JPN}}・[[神奈川県]][[鎌倉市]] | resting_place = | occupation = [[小説家]]・[[劇作家]]・[[放送作家]] | nationality = {{JPN}} | education = [[学士]] | alma_mater = [[上智大学外国語学部]][[フランス語]]学科 | period = [[1964年]] - [[2010年]] | genre = [[小説]]・[[戯曲]]・[[随筆]] | subject = | movement = | notable_works = 『[[ひょっこりひょうたん島]]』(1964年 - 1969年、人形劇)<br />『手鎖心中』(1972年)<br />『[[藪原検校]]』(1973年、戯曲)<br />『新釈遠野物語』(1976年)<br />『[[吉里吉里人]]』(1981年)<br />『[[四千万歩の男]]』(1986年)<br />『[[父と暮せば]]』(1994年、戯曲)<br />『東京セブンローズ』(1999年) | awards = [[岸田國士戯曲賞]](1972年)<br />[[芸術選奨新人賞]](1972年)<br />[[直木三十五賞]](1972年)<br />[[読売文学賞]](戯曲賞)(1980年)<br />[[日本SF大賞]](1981年)<br />読売文学賞(小説賞)(1982年)<br />[[星雲賞]](1982年)<br />[[吉川英治文学賞]](1986年)<br />[[谷崎潤一郎賞]](1991年)<br />[[菊池寛賞]](1999年)<br />[[朝日賞]](2001年)<br />[[毎日芸術賞]](2003年)<br />[[鶴屋南北戯曲賞]](2003年)<br />[[日本芸術院賞]]・[[恩賜賞 (日本芸術院)|恩賜賞]](2009年) | debut_works = | spouse = [[西舘代志子]](1961年 - 1986年)<br />井上ユリ(米原ユリ)(1987年 - 2010年) | partner = | children = [[井上都]](元[[こまつ座]]主宰)<br />井上綾(編集者<ref>[https://www.zakzak.co.jp/soc/news/170709/soc1707090001-n3.html 井上綾さん、父の残した仕事を世間に 亡くなって7年…恩返しの思い込めて出版決意]zakzak 2017年7月9日</ref>)<br />[[石川麻矢]](こまつ座社長) | relations = [[井上マス]](実母)<br />[[米原章三]]([[義祖父]])<br />[[米原昶]]([[岳父]])<br />[[米原万里]]([[義姉]]) | influences = | influenced = | signature = | website = <!--| footnotes = --> }} '''井上 ひさし'''(いのうえ ひさし、本名:井上 廈(読み同じ)、[[1934年]]〈[[昭和]]9年〉[[11月16日]] - [[2010年]]〈[[平成]]22年〉[[4月9日]]<ref name="chibanippo2010413"/>)は、[[日本]]の[[小説家]]、[[劇作家]]、[[放送作家]]である。[[文化功労者]]、[[日本芸術院]][[会員]]。 [[1961年]]から[[1986年]]までの本名は{{読み仮名_ruby不使用|'''内山 廈'''|うちやま ひさし}}<ref group="†">[[西舘代志子]]と結婚していた当時は、西舘の実家である「内山」姓が本名であった。これは結婚に際して、それまでの転居の間に本籍地が遠くなり取り寄せが手間になったことから、好子の実家に婿入りする形にすれば手続きが簡便になるという理由であったと著書『ブラウン監獄の四季』に記している。</ref>。{{読み仮名_ruby不使用|'''遅筆堂'''|ちひつどう}}を名乗ることもあった。 [[日本劇作家協会]][[理事]]、[[社団法人]][[日本文藝家協会]]理事、社団法人[[日本ペンクラブ]][[会長]](第14代)などを歴任した。晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した(後述)。 先妻は[[西舘代志子]]。後妻のユリは元衆議院議員[[米原昶]]の娘。長女は元[[こまつ座]]主宰の[[井上都]]。三女は株式会社こまつ座社長の[[井上麻矢|石川麻矢]]。 == 来歴 == === 幼少時代 === [[1934年]][[11月16日]]、[[井上靖]]と競った文学青年の井上修吉を父とし、[[井上マス]]を母として[[山形県]][[東置賜郡]][[小松町 (山形県)|小松町]]中小松(現・[[川西町 (山形県)|川西町]])に生まれる<ref>[https://www.inouehisashi.jp/profile.html プロフィール] 井上ひさし公式サイト</ref><ref name="BiologyKomatsu">[http://www.komatsuza.co.jp/aboutus/inoue.html 井上ひさし](こまつ座)</ref>。修吉は実家が薬屋だったため[[薬剤師]]を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方[[劇団]]「小松座」を主宰したほか、[[1935年]]には小松滋の筆名で書いた小説『H丸傳奇』が『[[サンデー毎日]]』第17回大衆文芸新人賞に入賞している。[[プロレタリア文学]]雑誌『[[戦旗]]』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた<ref name="subaru"/>。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は[[非嫡出子]](婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、『H丸傳奇』の舞台となった[[中国]]の[[厦門]](アモイ)に由来する<ref>[[西舘好子]]『表裏井上ひさし協奏曲』p.146</ref>。5歳のとき父が[[脊髄]][[カリエス]]で死亡。[[日本民主青年同盟|青年共産同盟(現在の日本民主青年同盟、通称・民青)]]に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた<ref name="subaru">すばる2011年5月号「座談会 井上ひさしの文学」</ref>。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や[[美容院]]経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その[[義父]]から[[虐待]]を受け、ストレスから[[円形脱毛症]]と[[吃音症]]になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「[[神童]]」と言われていた。 母は[[一関市]]で[[飯場]]を営んでいた義父の居場所を突き止め、会社から義父を追い出して自ら社長の座につき土建業「井上組」を立ち上げた。当時アイオン・カスリーン台風の被害により一関市内の復興需要に対し土建業を担っていた。その際井上自身は、現在の[[世嬉の一酒造]]の蔵を借りて運営していた新星映画館(現:[[一関シネプラザ]])にて切符もぎりのバイトをしていた。しかし、井上組の経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母は[[カトリック教会|カトリック]]修道会[[ラ・サール会]]の[[孤児院]](現在の[[児童養護施設]])「[[ラ・サール・ホーム|光が丘天使園]]」([[宮城県]][[仙台市]])にひさしを預ける。そこでは[[カナダ]]人[[修道士]]たちが[[児童]]に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた[[羅紗]]もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる[[野菜]]などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、[[洗礼]]を受ける児童が続出した。ひさしもその一人となった(洗礼名:マリア・ヨゼフ。上京後、棄教している)。一方、井上の孤児院時代の友人によると、この孤児院は理不尽な[[体罰]]と[[いじめ]]が横行する弱肉強食の環境であり、当時の井上は弟と一緒だったが「小さな弟がいじめられて泣いてもかばえないような奴でした」「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」、という<ref>西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.206</ref>。井上在園当時に園長を務めた石井恭一修道士も「ひさしさんはおとなしい子でしたよ。弟さんは小さくて、よくおねしょをしたので、皆にからかわれていました。彼はかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていました」と証言している<ref>西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.211</ref>。この当時のことは自著『四十一番の少年』にも描かれている。 === 学生時代 === [[1950年]]、[[宮城県仙台第一高等学校]]へ進み孤児院から通学<ref name="BiologyKomatsu"/>。在校中の思い出を半自伝的小説『[[青葉繁れる]]』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の[[樋口陽一]]、1学年上級生には俳優の[[菅原文太]]がいた。在学中は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷。[[東北大学]]と[[東京外国語大学]]の受験に失敗して[[早稲田大学]]の補欠合格と{{要検証範囲|[[慶應義塾大学]]図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず|date=2014年11月}}<ref>井上ひさし『本の運命』(文藝春秋、1997年)p.105</ref>、孤児院の神父の推薦で[[1953年]]、[[上智大学文学部]][[ドイツ文学|ドイツ文学科]]に入学し<ref name="BiologyKomatsu"/>、[[代々木上原]]のラ・サール修道院から通う<ref group="†">しかし、井上の孤児院時代の友人は「彼の輝かしい経歴というのを奥さんは信じているのですか? 僕は彼が東北大学と東京外語大学の受験に失敗して、早稲田大学と慶応大学に合格を果たしたが、学費が払えずやむなく上智大学に入ったという箇所では笑いましたね。おまけに医師を志して東北大と岩手大の医学部(ママ)を志したって言うのですから、あきれて物も言えません。孤児院がどんな所か、大学受験などどうしてできるんですか。有名になれば何を言ってもいいんですね。たまたま学生の少ない上智大学に推薦してもらっただけでしょう」と語り、井上の自称する経歴に多数の虚構が含まれていると主張している。西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』p.207による。</ref>。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して[[岩手県]]の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し<ref>井上ひさし『続家庭口論』、中央公論社</ref><ref>井上ひさし『ブラウン監獄の四季』、講談社</ref>、[[東北大学]][[医学部]]と[[岩手医科大学]]を受験して失敗。[[1956年]]、[[上智大学外国語学部]][[フランス語|フランス語科]]に復学<ref name="BiologyKomatsu"/>。釜石で働いて貯めた15万円は、[[赤線]]に通い詰めて2か月で使い果たした<ref>井上ひさし『モッキンポット師ふたたび』、講談社文庫([[1985年]])、巻末の年譜([[1984年]]10月著者自筆)の中に述べられている。</ref>。 在学中から、浅草の[[ストリップティーズ|ストリップ]]劇場[[フランス座]]を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は[[渥美清]]を筆頭として[[谷幹一]]、[[関敬六]]、[[長門勇]]と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。 === 放送作家・劇作家時代 === [[1960年]]に上智大学を卒業<ref name="BiologyKomatsu"/>。[[放送作家]]として活動し、[[1961年]]、広告代理店に勤めていた好子と結婚(婿養子)、[[1963年]]から年子で娘を3人もうける。[[山元護久]]と共に『[[ひょっこりひょうたん島]]』を手がけ、[[1964年]][[4月]]から5年間放映される国民的人気番組となる。舞台であるひょうたん島が「流れ着いた国」の一つ、「国民すべてが郵便局員」であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった<ref>{{Cite journal|和書|author=井上ひさし|coauthors=[[中山千夏]]・[[宇野誠一郎]]|year=2004|month=4|title=近い昔の物語 ひょっこりひょうたん島の真実 田中角栄の一言で『ひょっこりひょうたん島』打ち切り!?|journal=論座|issue=107|pages=pp. 102-117|publisher=朝日新聞社}}</ref>。のち[[1970年]][[4月]]より『[[ネコジャラ市の11人]]』が放送され、作風は近代化されたが時代的背景から{{要出典範囲|体制批判であるとの抗議が立ち|date=2010年4月}}、『ひょっこりひょうたん島』に比べれば短期間の3年間の放映で終了となった。また、このころ、お茶の間の人気者として台頭しつつあった[[てんぷくトリオ]]のコント台本を数多く手がけている(これらの作品は「[[#コント台本|コント台本]]」として出版されている)。[[1969年]]に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた[[熊倉一雄]]が主宰する劇団[[テアトル・エコー]]に『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。 === 直木賞受賞とその後の活動 === [[1972年]]7月、「手鎖心中」(『[[別冊文藝春秋]]』119号)で第67回[[直木三十五賞]]を受賞した。選考委員会では[[柴田錬三郎]]が「江戸爛熟期の風俗の調べがゆきとどかず、挿入の小唄が大正製であったりする不備があった」、[[司馬遼太郎]]も「作品そのものには多少の瑕瑾を指摘できる」と消極的意見も出される中、[[水上勉]]が「軽妙にしてずっしりと重い。おそらく日本文壇は、何年ぶりかで、個性ゆたかな作家を得たといえる」、[[松本清張]]も「ふざけた小説だとみるのは皮相で、作者は戯作者の中に入って現代の「寛政」を見ている」など、積極的意見に推されるかたちで[[綱淵謙錠]]の『斬』との同時受賞が決まった<ref>{{Cite web|和書|url=https://prizesworld.com/naoki/jugun/jugun67IH.htm|title=候補作家の群像 井上ひさし|website=直木賞のすべて|accessdate=2023-07-11}}</ref>。 [[1974年]]1月から初の連載小説となる「熱風至る」を『[[週刊文春]]』に連載した。[[新選組]]をモチーフとした[[時代小説]]で、掲載予告では「人気絶頂作家の長篇小説が初めて週刊誌に登場」「ひさしの新選組」などの文言が踊る鳴り物入りの連載スタートだった。しかし、[[近藤勇]]が被差別部落出身だったとするなどの内容が編集部の不興を買い、連載は丸2年続いた後、完結を待たずに終了となった{{Refnest|group="†"|1982年に行われたインタビューで井上は連載が打ち切りとなった経緯をこう述べている――「確かに出自が違う、育ちが違うというのは誰でもあるわけだから、それはあんまり問題じゃないんじゃないか。そこをハッキリ、キチッと整理したうえで、新撰組のやったことを通して幕末史を考えてみたかった。ところが、書き進むにつれて、編集長あたりから、自己検閲がはじまった。どっからもこないんですよ、その文句は。こないのにくるんじゃないかとおそれはじめた。こっちもやる気が出なくなって途中でやめちゃった」<ref>{{Cite book|和書|editor1=岡庭昇|editor2=高橋敏夫|title=七人の作家たち|publisher=土曜美術社|date=1983-09|page=26}}</ref>。}}。 [[1982年]]2月、『[[吉里吉里人]]』で第33回[[読売文学賞]]、第2回[[日本SF大賞]]を受賞した。 [[1983年]]1月、劇団[[こまつ座]]を立ち上げている。第1回は[[1984年]][[4月5日]]の『頭痛肩こり樋口一葉』であった。パンフレット「the座」を発行していて、前口上や後口上やシナリオを掲載していた<ref>「前口上集」は[[扇田昭彦]]責任編集『井上ひさし』([[白水社]][[2011年]]に再掲)。</ref>。[[1986年]]、好子と離婚。井上、好子ともに記者会見をし、マスコミを賑わせた。この間、[[1985年]][[12月4日]]、自宅で睡眠薬を服用して首を吊り、自殺を図ったが未遂に終わっている<ref>『井上ひさし全芝居』第4巻、p.514。</ref>。翌年、米原ユリと再婚、男児をもうける。 [[日本ペンクラブ]][[会長]]、[[日本文藝家協会]]理事、[[日本劇作家協会]]理事([[2004年]][[4月]] - )、[[千葉県]][[市川市]]文化振興財団理事長([[2004年]][[7月]] - )、[[世界平和アピール七人委員会]]委員、[[仙台文学館]]館長(初代)、[[もりおか啄木・賢治青春館]]名誉館長([[2002年]] - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており[[直木三十五賞]]、[[読売文学賞]]、[[谷崎潤一郎賞]]、[[大佛次郎賞]]、[[川端康成文学賞]]、[[吉川英治文学賞]]、[[岸田國士戯曲賞]]、[[講談社エッセイ賞]]、[[日本ファンタジーノベル大賞]]、[[小説すばる新人賞]]が挙げられる。[[2009年]]より[[文化学院]]の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院で[[フランス語]]を教えていたことと、娘らが文化学院に在籍経験があることから引き受けたという{{要出典|date=2010年4月}}。同年、日本藝術院会員に選ばれた。 1日40本は[[タバコ|たばこ]]を吸うという[[喫煙|愛煙家]]で、「喫煙と[[肺癌]]は無関係」という見解をたびたび披露していたが、井上自身が[[2009年]][[10月]]に肺癌と診断され、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという<ref>[https://web.archive.org/web/20100413144521/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20100412-OHT1T00028.htm 井上ひさしさん逝く 闘病半年…最後まで創作意欲衰えず]</ref>。治療中の[[2010年]][[4月9日]]に死去した<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100411/acd1004110201000-n1.htm |title=「ひょっこりひょうたん島」の井上ひさしさん死去 |publisher=[[産経新聞]] |date=2010-04-11 |accessdate=2010-04-11 }}</ref><ref> {{ cite news | title = 激痛耐え闘病、井上ひさしさん支えた創作意欲 三女語る | newspaper = [[朝日新聞]] | date = 2010-04-15 | url = http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201004140508.html | accessdate = 2013-09-26 }}</ref>。{{没年齢|1934|11|16|2010|4|9}}。 [[沖縄戦]]を題材にした新作戯曲『[[木の上の軍隊]]』の上演が[[2010年]][[7月]]に予定され、[[豊竹咲大夫]]の求めに応じて[[井原西鶴]]の作品を元にした[[文楽]]の新作台本を[[2011年]]に上演する計画もあったが、いずれも執筆に至らなかった。 [[戒名]]は「'''智筆院戯道廈法居士'''(ちひついんぎどうかほうこじ)」。{{要出典範囲|date=2021年5月9日 (日) 09:56 (UTC)|墓所は[[浄光明寺]]}}。 命日の4月9日は没後5年にあたる[[2015年]]より、代表作「吉里吉里人」にちなんで'''吉里吉里忌'''と名付けられている([[文学忌]])。 == 人物 == * [[推理小説|ミステリー小説]]が好きで『[[エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン]]』を購読していた。自分が書いた芝居も「ほとんどが、全部推理仕立てなんです。推理仕立てで失敗した作品はそうないんです」<ref>{{Cite book|和書|author=生島治郎|title=生島治郎の誘導訊問:反逆の心をとり戻せ|publisher=双葉社|date=1974-11|page=221}}</ref>と語っている。 * 1982年に行われたインタビューで「僕も[[エスペラント]]を、夢中になってやった時期があります」<ref>{{Cite book|和書|editor1=岡庭昇|editor2=高橋敏夫|title=七人の作家たち|publisher=土曜美術社|date=1983-9|page=16}}</ref>と語るなど、エスペラント語への関心が高かった。戯曲『[[イーハトーボの劇列車]]』では、登場人物である[[宮沢賢治]]がエスペラントの講習を行っている。 * 謂れのない批判には猛然と反撃した。[[朝日新聞]]の書評で『[[吉里吉里人]]』が[[大江健三郎]]の『[[同時代ゲーム]]』のパロディだと書かれたことをめぐって「僕に対しては勿論、大江さんにも失礼です。書評家の名前が分ったら、僕は決闘を申し込みます。僕は[[杖術]]の使い手だから負けません。あの書評家の脳味噌をゴチャゴチャに掻きまわしてやります。批判してはいけない、といっているのじゃありません。事実を調べずに、また肝腎の本を読みもせずにきいた風のことを言う文筆家は困るのです。毒虫です。人間じゃない。言葉の本当の意味で「馬鹿」です」<ref>{{Cite book|和書|editor1=岡庭昇|editor2=高橋敏夫|title=七人の作家たち|publisher=土曜美術社|date=1983-9|page=19}}</ref>と語っている。 * プロ野球の[[東京ヤクルトスワローズ]]のファンの著名人として知られているが、数少ない国鉄スワローズ時代からのファン。これは1952年に同郷の[[佐藤孝夫]]がもしも新人王を取ったらば未来永劫応援し続けると[[キリスト]]に祈ったらその通りとなり、結果やめたら「'''天罰が下るのが怖い'''」から応援し続けているとのことである。また、三女の石川麻矢によると、[[パシフィック・リーグ]]では[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]のファンであったという{{Sfn|石川麻矢|1998|p=50}}。 == 作家としての特徴 == * 「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に書くこと」<ref group="†">「法に則り、比喩を用い、因縁を語るべし」という、[[永六輔]]が紹介した[[仏教]]の[[説教者]]の話術の極意を分かりやすく言い換えたもの。</ref>を創作の[[モットー]]としており、文体は軽妙であり言語感覚に鋭い。 * [[言葉]]に関する[[知識]]が、「[[日本語学者|国語学者]]も顔負け」と称されるほど深く、『[[週刊朝日]]』において[[大野晋]]、[[丸谷才一]]、[[大岡信]]といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載する。また、『私家版日本語文法』や『自家製文章読本』など、[[日本語]]に関する[[エッセイ]]等も多い。 * 自他共に認めるたいへんな遅筆で有名。自ら「遅筆堂」という戯号を用いるほどで、特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は有名。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補填したという。1983年に自作の戯曲を専門に上演する劇団「[[こまつ座]]」を創立したが、その後も唯一の座付き作家である井上の遅筆により、公演中止や幕開け初日の延期による公演期間短縮などの騒動も何度か起こしている。 * あまりの遅筆のため、ふつうは上演前に台本の原稿が仕上がると業者に回して[[謄写版]]を切ってもらうのだが井上の場合それが間に合わず、自らガリ版を切ることが多かった<ref>[http://zenkanren.sakura.ne.jp/02toukoukikou/25zuisou/2502bunndan19.html 井上ひさしさんのこと](文壇こぼれ話)</ref>。娘の麻矢によると「書き始めると早いのだが、それまでに時間がかかった」とのこと<ref>[https://dot.asahi.com/articles/-/9551?page=1 司馬遼太郎も認めていた「遅筆堂」井上ひさしの伝説](週刊朝日)</ref>。親交のある[[永六輔]]によると「『遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えている』と話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」という。ただし、自ら台本のガリ版を切っていただけあって、井上の原稿は丁寧で大変読みやすいものだった。 * 戯曲の完成度の高さは現代日本においては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」([[別役実]]、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」([[三谷幸喜]]、朝日新聞)「父のような存在でした。いつか“ライバルです”って、言ってみたかった」([[野田秀樹]]、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大級の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の[[蜷川幸雄]]は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。彼の書評眼の鋭さに対する賞賛の声もまた存在している。 * 膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名で、蔵書は後述の「遅筆堂文庫」として寄贈された。同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。 *井上の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた[[右翼]]に対し「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話もある<ref>[http://www.magazine9.jp/kunio/100120/ 第42回「井上ひさしとクニオ」]([[鈴木邦男]]の愛国問答)</ref>。 * 井上には戯曲『[[父と暮せば]]』や『[[紙屋町さくらホテル]]』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』など[[広島市への原子爆弾投下|広島への原爆投下]]を題材にした作品も多いが、これについて2009年7月に広島市で行われた講演会で「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と話した<ref>中国新聞、2009年7月2日13面</ref><ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201004130069.html 【天風録】井上ひさしさん - 中国新聞]</ref>。 *「浅草フランス座は、ストリップ界の東京大学だった」と語っている。<ref>{{Cite web|和書|title=「井上ひさし」“ストリップ界の東京大学”から飛び立った天才作家!<第3回>浅草六区芸能伝|月刊浅草ウェブ|url=https://gekkan-asakusa.com/asakusa-rokku-geinouden3/|website=月刊浅草ウェブ【毎日10時更新!】伝統と革新の交差点「浅草」の魅力を配信|accessdate=2021-06-27|language=ja}}</ref> == ドメスティック・バイオレンス(DV)をめぐって == ひさしが[[電通]]のディレクターから[[寸借詐欺]]に遭ったときに、前妻である好子も被害者の一人であったことが交際するきっかけとなった。 ひさしの三女である石川麻矢が1998年に自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』([[中央公論社]])によると、ひさしと当時の夫人・好子(麻矢の母)は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っており<ref name="maya1">{{Harvnb|石川麻矢|1998|p=45-46}}</ref>、子どもに対して暴力をふるったことはなかった。当時は家庭内が険悪だったわけではなく、好子はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している<ref name="maya2">{{Harvnb|石川麻矢|1998|p=76}}</ref>。執筆でひさしの足がむくむと好子はそれを取るためのマッサージをした{{Sfn|石川麻矢|1998|p=73}}。やがて、筆が進まなくなるなどで、ひさしは好子に暴力を振るうようになり、編集者も「好子さん、あと二、三発殴られてください」などと、ひさしの暴力を煽った<ref name="maya2"/>。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している<ref name="maya2"/>。 ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している<ref name="maya3">『激突家族 井上家に生まれて』55、77ページ</ref>。その時期から、好子はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている<ref name="maya3"/>。 この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との[[不倫]]が発覚、1985年に井上家を出て翌年6月離婚。石川は“不倫”が発覚した当時、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、[[更年期]]に当たっていたこと、ひさしが好子にとても厳しかったことを挙げている{{Sfn|石川麻矢|1998|p=103}}。 離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた[[ドメスティックバイオレンス|家庭内暴力]]を明かした。この本で「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」{{Sfn|西舘好子|1998}}と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れている。一方で、好子がひさしに「嚙み付く、ひっかく、飛び道具を使う、嚙んだら離さない」等の暴力を一方的に振るわれていたわけではなかったという[[矢崎泰久]]の目撃証言もある<ref>矢崎泰久x永六輔の「ぢぢ放談」、『創』2013年4月号 創出版</ref>。 これらの[[ドメスティックバイオレンス|DV]]について、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、特に追及する声も起らずに話題としては終息した。小谷野敦も『[[週刊新潮]]』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に[[園遊会]]問題([[#社会的・政治的な事柄についての見解|政治的発言]]の項参照)への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。西舘好子はその自著で、ひさしが人気作家であることから、いかに出版社の人間たちがひさしを守っていたかを綴っている。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『[[週刊ポスト]]』に指摘された。なお『激突家族 井上家に生まれて』には、都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(189ページ)。なお、二女の綾も臨終・葬儀に呼ばれていない。 後妻の井上ユリはひさし没後の2010年6月に発売された『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。 また、西舘好子は2018年2月20日に発行された『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』(幻冬舎)の「第四幕 切っても切れない深い結びつき 家族の晩期」において、「泥沼離婚をしたあと、私たちは真夜中の電話を二十数年間続けていました。(中略)今振り返れば、あの二十数年という歳月は、お互いの憎悪を浄化するために必要な時間だったのかもしれない、と思います。冗談を言い合い、ふざけ合っていたときは、単なる仲のいい友人同士でした。」と述べ、また「家族戦争を終えた今は、井上さんの書いた作品が次の世代に読み継がれ、多くの人に笑ったり泣いたりしてもらえることを、私は心より願っています。」と記した。 == 社会活動 == 1987年、故郷である[[山形県]][[東置賜郡]][[川西町 (山形県)|川西町]]に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫」<ref group="†">遠藤征広『遅筆堂文庫物語―小さな町に大きな図書館と劇場ができるまで』(日外教養選書 1998年によれば、1980年1月から翌年12月まで[[大江健三郎]]の後を継いで朝日新聞「文芸時評」を担当することになるが、時評のために月に四、五百万も本を購入し、一冊のためにその作家の全集まで読破したという)。</ref>が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講した。農業関係の催しが多い。 1996年、岩手県[[一関市]]で3日間、作文教室を行い、この時の講義録が『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(後に新潮文庫)になる。 1998年には[[仙台文学館]]の初代館長、現[[大崎市]]の[[吉野作造記念館]](後に作造兄弟の評伝劇「兄おとうと」2003年を書く)の名誉館長に就任する。 == 社会的・政治的な事柄についての見解 == 1999年3月、[[日本共産党]]委員長・[[不破哲三]]との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版した。また、2004年6月、「[[九条の会]](きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり各地で「(日本の[[平和]]を守るために)[[日本国憲法第9条]]を変えるな」と訴えるなど政治的な活動も古くから行っていた。[[国鉄分割民営化]]については「ナショナル[[アイデンティティ]]の崩壊につながる」とし反対する議論を『[[しんぶん赤旗|赤旗日曜版]]』に寄稿した。 [[無防備都市宣言]]を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、[[ノーベル医学賞]]は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]さんも[[ウラジーミル・プーチン|プーチン]]さんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり[[人質]]同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」と発言をしている<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/talk/news/20080204ddf012070014000c.html 今、平和を語る:小説家、劇作家 井上ひさしさん] [[毎日新聞]] 2008年2月4日。</ref>。なお、小説『吉里吉里人』には吉里吉里国の国策として同様の設定が見られ、'''「文明による武装」'''として作中に登場する自衛隊員に訴えている。 前妻・西舘好子はひさしを「徹底した[[天皇制]]批判者」と記し(『修羅の棲む家』)、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている(『激突家族 井上家に生まれて』)。しかし、その後考えに変化があったのか、ひさしが文化功労者を辞退せず、その後[[天皇]]主催の茶会に出席し、[[大岡昇平]]、[[木下順二]]、[[武田泰淳]]ら、反体制文学者が辞退した[[芸術院]]会員になったことを[[小谷野敦]]は批判しており(『天皇制批判の常識』洋泉社)、『週刊新潮』の追悼特集でも、いくつかの戯曲への絶賛に添える形ではあるが、あえてこの件に触れた。また、[[絓秀実]]なども「天皇制支持、反戦というのは『戦後民主主義』だ」としてひさしを批判していた(『小ブル急進主義批評宣言』)。 == 交友関係 == {{独自研究|section=1|date=2013年1月|ソートキー=人2010年没}} 活動初期は[[テアトル・エコー]]の座付き作者に近い存在であり、主宰者・[[熊倉一雄]]らとの交友も長い。その後は[[木村光一]]、[[栗山民也]]、[[鵜山仁]]、晩年は[[蜷川幸雄]]との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』『忍者ハットリくん』など放送台本の多くを共同執筆した[[山元護久]]は1978年に早世している。 小説関係では、晩年は[[大江健三郎]]と行動をともにすることが多かったが、同い年でやはり笑いを武器にする[[筒井康隆]]との親交も深く、この三人は相互にエールを送る文章が多い。ともに娯楽色の強い小説が多かったひさしと筒井が『吉里吉里人』と『[[虚人たち]]』以降、強い実験性を打ち出すようになったのも軌を一にしており、劇作との二足のわらじなど共通点も多い。井上の死の数日後、筒井はネットエッセイ「偽文士実録」(当該部分は2013年6月角川書店刊)で「井上ひさしが死んでしばらくは茫然として何も手がつかなかった」と記している。なお、新潮社は一時期「小説新潮新人賞」をひさしと筒井の二人だけで選考させていた。 一世代上の[[司馬遼太郎]]を尊敬しており、親交があるほか、対談をし共著で『国家・宗教・日本人』を出している (後にひさしは[[司馬遼太郎賞]]の選考委員を長く務めた)。親交はなかったが、[[安部公房]]も尊敬しており、同じ[[読売文学賞]]の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという<ref>「[[すばる (雑誌)|すばる]]」2000年10月号 座談会「三島由紀夫と安部公房」=『座談会 昭和文学史四』2003年[[集英社]]刊にも収録</ref>。 高校の先輩である[[菅原文太]]とは中年以降に交友が再開し、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。これは結局実現しなかったにもかかわらず、30年近くも引き上げることなく預けっぱなしになっていたことが死の際に明らかになった(読売新聞ほか)。 マンガ家の[[本宮ひろ志]]とは、市川市で長く隣家の関係だったことがあり、交流があった。本宮はエッセイ『天然まんが家』(集英社)で、井上への尊敬を記している。 劇作家、演出家の[[ロジャー・パルバース]]は井上作品の翻訳を行っているほか、個人的にも交流があり、1976年に彼の招きにより井上は、[[オーストラリア国立大学]]日本語科で客員教授として講義を行っている。 イラストレーターでも[[安野光雅]]、[[和田誠]]など何人かの名コンビが存在するが、[[山藤章二]]が他を圧して多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を思い切って強調した井上像は{{独自研究範囲|本人の写真や映像以上に広く浸透している|date=2012年1月}}。 == 受賞等 == * 1972年 - 『道元の冒険』で第17回[[岸田國士戯曲賞]]、第22回[[芸術選奨新人賞]] * 1972年 - 『手鎖心中』で第67回[[直木三十五賞]] * 1980年 - 『しみじみ日本・乃木大将』『小林一茶』で第31回[[読売文学賞]](戯曲賞) * 1982年 - 『[[吉里吉里人]]』で第2回[[日本SF大賞]]、第33回読売文学賞(小説賞)、第13回[[星雲賞]](日本長編部門) * 1986年 - 『腹鼓記』『不忠臣蔵』で第20回[[吉川英治文学賞]] * 1991年 - 『シャンハイムーン』で第27回[[谷崎潤一郎賞]] * 1999年 - 『東京セブンローズ』で第47回[[菊池寛賞]]、[[川西町 (山形県)|川西町]]名誉町民 * 2001年 - 第71回[[朝日賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 1971-2000年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738070 |accessdate=2022-08-16}}</ref> * 2003年 - 『太鼓たたいて笛吹いて』で第44回[[毎日芸術賞]]、第6回[[鶴屋南北戯曲賞]] * 2004年 - [[文化功労者]] * 2009年 - 第65回[[日本芸術院賞]]・[[恩賜賞 (日本芸術院)|恩賜賞]] * 2010年 - 第17回[[読売演劇大賞]]芸術栄誉賞、山形県県民栄誉賞<ref>{{Cite web|和書|title=山形県名誉県民・山形県県民栄誉賞|website=山形県|url=https://www.pref.yamagata.jp/020020/kensei/shoukai/yamagataken/meiyokemmin/meiyo_eiyo.html|accessdate=2022-07-29}}</ref> == 作品一覧 == === ラジオ === * Xマン(1960年 旧[[TBSラジオ]]) * モグッチョチビッチョこんにちは(1962年 [[NHKラジオ第1放送|NHK第1放送]]) * 吉里吉里独立す(1964年 NHK第1放送。ラジオ小劇場枠。『[[吉里吉里人]]』の前駆) * [[ブンとフン]](1969年 NHK第1放送。1970年小説化) === テレビ === * [[ひょっこりひょうたん島]](1964年 - 1969年 [[山元護久]]と共作。[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]) * [[忍者ハットリくん#実写版|忍者ハットリくん (実写版)]](1966年。「服部半蔵」名義。主題歌『忍者ハットリくん』の作詞も担当) * [[忍者ハットリくん#+忍者怪獣ジッポウ|忍者ハットリくん+忍者怪獣ジッポウ]](1967年、「服部半蔵」名義) * [[ピュンピュン丸]](1967年、1970年 エンリコ・トリゾーニ名義で山元護久と共同脚本。番組打ち切りの影響で作品の一部が後年放送された) * [[ムーミン (アニメ)|ムーミン]](1969年 『ムーミンのテーマ』作詞他) * [[ひみつのアッコちゃん]](第1期(1969年)主題歌『ひみつのアッコちゃん』『すきすきソング』作詞(山元護久と共作)) * [[ネコジャラ市の11人]](1970年 山元護久、[[山崎忠昭]]と共作。NHK総合テレビ) * [[アンデルセン物語]](1971年 オープニングソング『ミスター・アンデルセン』作詞他) * モッキンポット師の後始末(1972年 家庭口論と共に原作とした連続ドラマ『ボクのしあわせ』が[[フジテレビジョン]]にて毎週月曜日放送。[[今野勉]]演出。1973年8月6日 - 12月24日) * [[國語元年]](1985年 [[ドラマ人間模様]]枠にて45分5話構成で放送。翌年舞台劇化。NHK総合テレビ) * 月なきみそらの天坊一座(1986年 [[銀河テレビ小説]]枠にて20分15話構成で放送。翌年再編集され[[ファミリードラマ (NHK)|ファミリードラマ]]枠で再放送。 NHK総合テレビ) === 小説・童話 === *『[[ブンとフン]]』([[朝日ソノラマ]] 1970年 のち[[新潮文庫]] ISBN 978-4101168012) *『モッキンポット師の後始末』([[講談社]] 1972年 のち文庫 ISBN 978-4061312586) *『手鎖心中』(文藝春秋 1972年 のち文庫 ISBN 978-4167111274) *『[[青葉繁れる]]』(文藝春秋 1973年 のち文庫 ISBN 978-4167111267)([[岡本喜八]]監督で同名[[青葉繁れる|映画]]化) *『四十一番の少年』(文藝春秋 1973年 のち文庫 ISBN 978-4167111021) *『イサムよりよろしく』(文藝春秋 1974年 のち文庫 ISBN 978-4167111045) *『いとしのブリジット・ボルドー』(講談社 1974年 のち文庫 ISBN 978-4061313804) *『おれたちと大砲』(文藝春秋 1975年 のち文庫 ISBN 978-4167111052) *『合牢者』(文藝春秋 1975年 のち文庫 ISBN 978-4167111069) *『[[ドン松五郎の生活]]』(新潮社 1975年 のち文庫 ISBN 978-4101168043) - [[中田新一]]監督で同名[[ドン松五郎の生活|映画]]化<ref>中田新一 『奔れ! 助監督〜奮闘昭和映画史〜』(早稲田出版、2010年)</ref> *『浅草鳥越あずま床』(新潮社 1975年 のち文庫 ISBN 978-4101168081) *『日本亭主図鑑』(新潮社 1975年 のち文庫 ISBN 978-4101168050) *『新東海道五十三次』(文藝春秋 1976年 のち文庫 ISBN 978-4167111076) *『[[偽原始人]]』(朝日新聞社 1976年 のち新潮文庫 ISBN 978-4101168067) *『新釈[[遠野物語]]』(筑摩書房 1976年 のち新潮文庫 ISBN 978-4101168074) *『黄色い鼠』(文藝春秋 1977年 のち文庫 ISBN 978-4167111083) *『十二人の手紙』(中央公論社 1978年 のち文庫 ISBN 978-4122051034) *『ファザー・グース 第1集』(青銅社 1978年) *『さそりたち』(文藝春秋 1979年 のち文庫 ISBN 978-4167111090) *『戯作者銘々伝』(中央公論社 1979年 のち文庫、ちくま文庫) *『他人の血』(講談社 1979年 のち文庫 ISBN 978-4102124048) *『花石物語』(文藝春秋 1980年 のち文庫 ISBN 978-4167111106) *『喜劇役者たち』(講談社 1980年 のち文庫 ISBN 978-4061831049) *『下駄の上の卵』(岩波書店 1980年 のち新潮文庫 ISBN 978-4101168104) *『[[吉里吉里人]]』(新潮社 1981年 のち文庫 ISBN 978-4101168166) *『月なきみそらの天坊一座』(新潮現代文学、1981 のち文庫) *『にっぽん博物誌』(朝日新聞社 1983年 のち文庫) *『ライオンとソフトクリーム』ひさかたチャイルド(ひさかたメルヘン)1983 *『四捨五入殺人事件』(新潮文庫 1984年) *『犯罪調書』(集英社文庫 1984年) *『不忠臣蔵』(集英社 1985年 のち文庫) - 討ち入りに参加しなかった赤穂藩士たちを描く。ただし史実と異なる内容もある。 *『モッキンポット師ふたたび』(講談社文庫 1985年) *『江戸紫絵巻源氏』(文春文庫 1985年) *『腹鼓記』(新潮社 1985年 のち文庫) *『馬喰八十八伝』(朝日新聞社 1986年 のち文庫) *『[[四千万歩の男]] 蝦夷篇』 (「日本歴史文学館」講談社 1986年 のち文庫) *『野球盲導犬チビの告白』(実業之日本社 1986年 のち文春文庫) *『ナイン』(講談社 1987年6月 のち文庫) *『四千万歩の男 伊豆篇』(「日本歴史文学館」別巻)(講談社 1989年 のち文庫) *『たそがれやくざブルース』(講談社文庫 1991年 ISBN 978-4061849150) *『百年戦争』(講談社文庫 1994年 ISBN 978-4061856622) *『わが友[[ルイス・フロイス|フロイス]]』(ネスコ 1999年 ISBN 978-4890360956) *『東京セブンローズ』(文藝春秋 1999年 のち文庫 ISBN 978-4163183800) *『イソップ株式会社』和田誠絵(中央公論新社 2005年 のち文庫 ISBN 978-4120036422) *『京伝店の烟草入れ 井上ひさし江戸小説集』(講談社文芸文庫 2009年 ISBN 978-4062900461) *『一週間』(新潮社 2010年)のち文庫 *『グロウブ号の冒険 附ユートピア諸島航海記』(未完)(岩波書店 2011年) *『黄金の騎士団』(未完)(講談社 2011年)のち文庫 *『[[東慶寺]]花だより』(未完)(文藝春秋 2011年)のち文庫(『[[駆込み女と駆出し男]]』の題で映画化([[原田眞人]]監督)) *『一分ノ一』(未完)(講談社 2011年)のち文庫 *『熱風至る』(未完)([[幻戯書房]] 2022年) === 戯曲 === ※情報は初演時のもの。 * 日本人のへそ(1969年 [[テアトル・エコー]])※1977年に[[須川栄三]]監督で映画化 *表裏源内蛙合戦(1970年 テアトル・エコー) * [[11ぴきのねこ|十一ぴきのネコ]](1971年 テアトル・エコー) *道元の冒険(1971年 テアトル・エコー) *珍訳聖書(1973年 テアトル・エコー) * [[藪原検校]](1973年 五月舎/[[西武劇場]])- 『雨』と「小林一茶』とともに「江戸三部作」とされる<ref>[[笹沢信]]『ひさし伝』([[新潮社]] 2012年pp.238)。</ref> * [[天保十二年のシェイクスピア]](1974年 西武劇場) * [[それからのブンとフン]](1975年 テアトル・エコー) - 井上の小説『ブンとフン』の自身による劇化 * たいこどんどん(1975年 五月舎)※井上の小説『江戸の夕立ち』の自身による劇化 *四谷諧談(1975年 芸能座) * 雨(1976年 五月舎/西武劇場) *浅草キヨシ伝(1977年 芸能座) *花子さん(1978年 五月舎) * [[日の浦姫物語]](1978年 [[文学座]]) *しみじみ日本・[[乃木希典|乃木大将]](1979年 芸能座) * [[小林一茶]](1979年 五月舎) * [[イーハトーボの劇列車]](1980年 三越劇場/五月舎) * [[唐来参和]](1982年 しゃぼん玉座)※井上の同名小説の[[小沢昭一]]による劇化 *国語事件殺人辞典(1982年 しゃぼん玉座) *化粧(1982年 [[地人会]]) *吾輩は漱石である(1982年 しゃぼん玉座) *化粧 二幕(1982年 地人会) *もとの[[黙阿弥]](1983年 [[松竹]]) *うかうか三十、ちょろちょろ四十(1983年 [[劇団若草]]) * 芭蕉通夜舟(1983年 しゃぼん玉座) *頭痛肩こり[[樋口一葉]](1984年 こまつ座) *きらめく星座(1985年 こまつ座) - 『闇に咲く花』『雪やこんこん』とともに「昭和庶民伝三部作」とされる<ref>[[扇田昭彦]]「『昭和庶民伝』三部作を書き上げた井上ひさしに聞く」『井上ひさし』([[白水社]] 2011年pp.99-111)。</ref> * [[國語元年]](1986年 こまつ座) *泣き虫なまいき[[石川啄木]](1986年 こまつ座) *花よりタンゴ(1986年 こまつ座) * [[キネマの天地]](1986年 松竹) *きらめく星座(1987年 こまつ座) *闇に咲く花(1987年 こまつ座)- 『きらめく星座』『雪やこんこん』とともに「昭和庶民伝三部作」とされる * [[雪やこんこん]](1987年 こまつ座)- 『きらめく星座』『闇に咲く花』とともに「昭和庶民伝三部作」とされる *イヌの仇討(1988年 こまつ座) - 討ち入り当夜の[[吉良義央]]が[[生類憐れみの令]]に反発し、犬のいない理想郷を夢見る。「登場人物」は吉良方の男女十名余のみで、赤穂義士は声のみの「発声人物」<ref>『イヌの仇討』([[文芸春秋]] 1992年pp.11)</ref>。 *人間合格(1989年 こまつ座) *シャンハイムーン(1991年 こまつ座) *ある[[水谷八重子 (初代)|八重子]]物語(1991年 松竹) *中村岩五郎(1992年 地人会) *マンザナ、わが町(1993年 こまつ座) * [[父と暮せば]](1994年 こまつ座)※2004年に[[黒木和雄]]監督で映画化 *黙阿彌オペラ(1995年 こまつ座) * [[紙屋町さくらホテル]](1997年 [[新国立劇場]]) *貧乏物語(1998年 こまつ座) *連鎖街のひとびと(2000年 こまつ座) *化粧二題(2000年 こまつ座) *夢の裂け目(2001年 新国立劇場)- 「夢の泪」「夢の痂」とともに「[[東京裁判]]三部作」とされる<ref>[[笹沢信]]『ひさし伝』([[新潮社]] 2012年pp.421-457)。『初日への手紙: 「東京裁判三部作」のできるまで』。</ref> *太鼓たたいて笛ふいて(2002年 こまつ座) *イヌの仇討あるいは吉良の決断(2002年 [[オペラシアターこんにゃく座]]) *兄おとうと(2003年 こまつ座) *夢の泪(2003年 新国立劇場) - 「東京裁判三部作」の一つ *水の手紙(2003年 [[国民文化祭]]・やまがた2003) * [[三遊亭圓生 (6代目)|円生]]と[[古今亭志ん生 (5代目)|志ん生]](2005年 こまつ座) * [[箱根強羅ホテル]](2005年 新国立劇場) *夢の痂(〜のかさぶた)(2006年 新国立劇場) - 「東京裁判三部作」の一つ *私はだれでしょう(2007年 こまつ座) *ロマンス(2007年 こまつ座/[[シス・カンパニー]]) *リトル・ボーイ、ビッグ・タイフーン〜少年口伝隊一九四五〜(2008年 [[日本ペンクラブ]]) * [[ムサシ (戯曲)|ムサシ]](2009年こまつ座/[[ホリプロ]]) *組曲虐殺(2009年 こまつ座/ホリプロ) === 随筆 === *『家庭口論』正続(中央公論社 1974年 - 1975年 のち文庫 ISBN 978-4122003095) *『ブラウン監獄の四季』(講談社 1977年 のち文庫 ISBN 978-4061315761) *『笑談笑発 対談集』(講談社文庫 1978年 ISBN 978-4061315211) *『パロディ志願 エッセイ集1』(中央公論社 1979年 のち文庫) *『風景はなみだにゆすれ エッセイ集2』(中央公論社 1979年 のち文庫) *『ジャックの正体 エッセイ集3』(中央公論社 1979年 のち文庫) *『さまざまな自画像 エッセイ集4』(中央公論社 1979年 のち文庫) *『私家版日本語文法』(新潮社 1981年 のち文庫 ISBN 978-4101168142) *『聖母の道化師 エッセイ集5』(中央公論社 1981年 のち文庫) *『ことばを読む』(中央公論社 1982年 のち文庫) *『井上ひさしの世界』(白水社 1982年) *『本の枕草紙』(文藝春秋 1982年 のち文庫) *『自家製文章読本』(新潮社 1984年 のち文庫 ISBN 978-4101168197) *『ああ幕があがる 井上芝居ができるまで』(こまつ座共著 朝日新聞社 1986年) *『遅れたものが勝ちになる エッセイ集6』(中央公論社 1989年 のち文庫) *『悪党と幽霊 エッセイ集7』(中央公論社 1989年 のち文庫) *『井上ひさしのコメ講座』正続(岩波ブックレット 1989年 - 1991年) *『やあおげんきですか』(集英社文庫 1989年) *『コメの話』(新潮文庫 1992年) *『どうしてもコメの話』(新潮文庫 1993年) *『ニホン語日記』全2巻(文藝春秋 1993年 - 1996年 のち文庫) *『死ぬのがこわくなくなる薬 エッセイ集8』(中央公論社 1993年 のち文庫) *『文学強盗の最後の仕事 エッセイ集9』(中央公論社 1994年 のち文庫) *『餓鬼大将の論理 エッセイ集10』(中央公論社 1994年 のち文庫) *『[[宮沢賢治]]に聞く』(こまつ座共著 ネスコ 1995年 のち文春文庫) *『井上ひさしの日本語相談』(朝日文芸文庫 1995年 ISBN 978-4022640888) *『ベストセラーの戦後史』全2巻(文藝春秋 1995年 のち文春学藝ライブラリーにて「完本」版) *『[[樋口一葉]]に聞く』(こまつ座共著 ネスコ 1995年 のち文春文庫) *『[[本の運命]]』(文藝春秋 1997年 のち文庫) *『演劇ノート』(白水Uブックス 1997年) *『井上ひさしの農業講座』(こまつ座共著 [[家の光協会]] 1997年 ISBN 978-4259545246) *『[[太宰治]]に聞く』(こまつ座共著 ネスコ 1998年 のち文春文庫) *『[[菊池寛]]の仕事 文藝春秋、大映、競馬、麻雀…時代を編んだ面白がり屋の素顔』(こまつ座共著 ネスコ 1999年) *『物語と夢 対談集』(岩波書店 1999年) *『わが人生の時刻表』(集英社文庫 2000年 ISBN 978-4087472523) *『四千万歩の男 忠敬の生き方』(講談社 2000年 のち文庫 ISBN 978-4062095365) *『浅草フランス座の時間』(こまつ座共著 文春ネスコ 2001年 ISBN 978-4890361236) *『日本語は七通りの虹の色』(集英社文庫 2001年) *『吾輩はなめ猫である』(集英社文庫 2001年 ISBN 978-4087473575) *『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫 2001年 ISBN 978-4101168296) *『にほん語観察ノート』(中央公論新社 2002年 のち文庫 ISBN 978-4122043510) *『あてになる国のつくり方 フツー人の誇りと責任』(生活者大学校講師陣共著 光文社 2002年) *『井上ひさしの大連 写真と地図で見る満州』(こまつ座共著 小学館「ショトル・ミュージアム」 2002年) *『井上ひさしコレクション』全3巻 (岩波書店 2005年4月 - 6月) *『ふふふ』(講談社 2005年 のち文庫 ISBN 978-4062125666) *『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社 2006年) *『映画をたずねて 対談集』(ちくま文庫 2006年) *『ボローニャ紀行』(文藝春秋 2008年 のち文庫) *『わが蒸発始末記 エッセイ選』(中公文庫 2009年 ISBN 978-4122051348) *『ふふふふ』(講談社 2009年 のち文庫 ISBN 978-4062159364) *『井上ひさし全選評』(白水社 2010年 ISBN 978-4560080382) *『日本語教室』(新潮新書 2011年 ISBN 978-4106104107) *『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(PHP研究所 2011年 ISBN 978-4569781396) *『初日への手紙:「東京裁判三部作」のできるまで』(白水社 2013年 ISBN 978-4560082966) === 刊行された戯曲 === *『表裏[[平賀源内|源内]]蛙合戦』新潮社 1971年 のち文庫 *『[[道元]]の冒険』新潮社 1971年 のち文庫 *『珍訳聖書』新潮社(書下ろし新潮劇場) 1973年 のち文庫 *『天保十二年の[[シェイクスピア]]』新潮社(書下ろし新潮劇場) 1973年 *『藪原検校』新潮社 1974年 のち文庫 *『井上ひさしコント集』講談社 1974年 「井上ひさし笑劇全集」文庫 *『たいこどんどん』新潮社(書下ろし新潮劇場) 1975年 *『[[てんぷくトリオ]]のコント』全3巻 サンワイズ・エンタープライズ 1975年-1977年 *『しみじみ日本・[[乃木希典|乃木大将]]』新潮社 1979年 のち文庫 *『[[小林一茶]]』中央公論社 1980年 のち文庫 *『イーハトーボの劇列車』新潮社 1980年 のち文庫 *『国語事件殺人辞典』新潮社 1982年 *『吾輩は[[夏目漱石|漱石]]である』集英社 1982年 のち文庫 *『もとの黙阿弥』文藝春秋 1983年 のち文庫 *『仇討』中央公論社 1983年 *『化粧』集英社 1983年 のち文庫 *『頭痛肩こり樋口一葉』集英社 1984年 のち文庫 *『空き缶ユートピア』集英社文庫 1984年 *『きらめく星座 昭和オデオン堂物語』集英社 1985年 のち文庫 *『泣き虫なまいき石川啄木』新潮社 1986年 のち文庫 *『花よりタンゴ 銀座ラッキーダンスホール物語』集英社 1986年 *『雪やこんこん 湯の花劇場物語』朝日新聞社 1987年 のち文庫 *『闇に咲く花 愛敬稲荷神社物語』講談社 1987年 のち文庫 *『ひょっこりひょうたん島』全13冊 山元護久共著 1990年-1992年 (ちくま文庫) *『シャンハイムーン』集英社 1991年 *『ある八重子物語』集英社 1992年 のち文庫 *『マンザナ、わが町』集英社 1993年 *『井上ひさし全芝居』全7巻 新潮社 1巻から5巻 1993年-1994年 6巻、7巻 2010年 *『黙阿弥オペラ』新潮社 1995年 のち文庫 *『父と暮せば』新潮社 1998年 のち文庫 *『わが友フロイス』ネスコ 1999年 *『夢の裂け目』小学館 2001年 *『紙屋町さくらホテル』小学館 2001年 *『太鼓たたいて笛ふいて』新潮社 2002年 のち文庫 *『兄おとうと』新潮社 2003年 *『夢の泪』新潮社 2004年 *『箱根強羅ホテル』集英社 2006年 *『夢の痂』集英社 2007年 *『ロマンス』集英社 2008年 *『ムサシ』集英社、2009年 *『うま —馬に乗ってこの世の外へ―』集英社、2022年 未発表戯曲 === 共著 === *『ひょっこりひょうたん島』全4巻 山元護久 日本放送出版協会 1964年-1965年 *『長靴をはいた猫』山元護久 小学館の絵文庫 1969年 *『ひさし・章二巷談辞典』文藝春秋 [[山藤章二]] 1981年 のち文庫 ISBN 978-4163365305 *『月のパロディ大全集』丸谷才一 1984年 朝日文庫 *『花のパロディ大全集』丸谷才一 1984年 朝日文庫 *『星のパロディ大全集』丸谷才一 1984年 朝日文庫 *『国ゆたかにして義を忘れ』[[つかこうへい]] 角川書店 1985年 *『国鉄を考える』[[伊東光晴]] 1986年(岩波ブックレット) *『ユートピア探し 物語探し』(1988年 [[大江健三郎]]・[[筒井康隆]])岩波書店 *『「日本国憲法」を読み直す』[[樋口陽一]] 講談社 1994年 のち文庫 *『拝啓水谷八重子様 往復書簡』[[水谷良重]] 集英社 1995年 *『国家・宗教・日本人』対談[[司馬遼太郎]] 講談社 1996年 のち文庫 *『新日本共産党宣言』[[不破哲三]]対談、1999年 光文社 *『話し言葉の日本語』[[平田オリザ]] 小学館 2003年 === コント台本 === * [[てんぷくトリオ]]の[[コント]] 1 - 3 さわ出版 1973年 のち講談社(「井上ひさしコント集」) * 井上ひさし笑劇全集 1976年 講談社文庫(上 ISBN 4061313347 下 ISBN 4061313355) === 校歌 === * [[小さな火花]](1982年 [[北京日本人学校]]校歌 作詞を担当、作曲は[[團伊玖磨]]) * 川西町立第一中学校<ref>{{Cite web|和書|url= http://www2.town.kawanishi.yamagata.jp/kyouikubunka/jhs_dai1.html |title= 川西町立第一中学校 |publisher= 山形県川西町 |accessdate= 2020-07-28 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110518153321/http://www2.town.kawanishi.yamagata.jp/kyouikubunka/jhs_dai1.html |archivedate= 2011-05-18 }}</ref> * 川西町立第二中学校<ref>{{Cite web|和書|url= http://www2.town.kawanishi.yamagata.jp/kyouikubunka/jhs_dai2.html |title= 川西町立第二中学校 |publisher= 山形県川西町 |accessdate= 2020-07-28 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110518163526/http://www2.town.kawanishi.yamagata.jp/kyouikubunka/jhs_dai2.html |archivedate= 2011-05-18 }}</ref> * 川西町立川西中学校 - 2011年4月に川西町の3つの中学校(第一中学校、第二中学校、玉庭中学校)が統合して開校<ref>{{Cite web|和書|url= https://kawanishi-jhs.jimdofree.com/ |title= 7/3情報更新しました |publisher= 川西町立川西中学校 |accessdate= 2020-07-28 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20200728082713/https://kawanishi-jhs.jimdofree.com/ |archivedate= 2020-07-28}}</ref>。 * [[釜石市立釜石小学校]](作曲:[[宇野誠一郎]]) === その他 === * 映画『[[平成狸合戦ぽんぽこ]]』(1994年、[[高畑勲]]監督) - [[水木しげる]]らとともに資料提供などに協力しておりエンドロールの「協力」にクレジットされている。井上が小説「腹鼓記」の執筆にあたるために収集したものなどで、井上が蔵書を寄贈して開設された先述の「遅筆堂文庫」もこの映画の「協力」にクレジットされている。 * 文楽作品『金壺親父恋達引』 - 1972年に[[NHKラジオ]]放送用に執筆され、1973年に人形を加えて撮影されテレビ放送。2016年に[[国立文楽劇場]]にて上演<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/ff4bd6e21f8aeedc655526ca4ea79c520aa40de0 |title=井上ひさし文楽を舞台初上演 拝金オヤジが恋したら? |date=2016-07-25 |publisher=Yahoo ニュース |archiveurl=https://archive.ph/Y0iMa |archivedate=2021-04-15 |accessdate=2021-04-15}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20160524-OYO1T50009.html|title=井上ひさし文楽、初の舞台化…国立文楽劇場で|newspaper=[[読売新聞]]|date=2016-05-24|accessdate=2016-05-25}}{{リンク切れ|date=2021年4月}}</ref>。 === ドキュメンタリー === * 井上ひさしのボローニャ日記(2004年、[[NHK BSプレミアム|NHK-BS]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.nhk.or.jp/pcafe/x/2020-11-13/10/3853/2325268/ |title=井上ひさしのボローニャ日記 |date=2020-11-13 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/EGsNU |archivedate=2021-04-24 |accessdate=2021-04-24}}</ref> == 演じた人物 == *[[北村有起哉]] - 劇作家井上ひさし 誕生の物語([[NHK BSプレミアム]]、[[2013年]][[12月15日]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="†"}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|author=西舘好子 |title=修羅の棲む家 |publisher=はまの出版 |date=1998-10 |isbn=4893612700 |ref=harv}} * {{Cite book|和書|author=石川麻矢 |title=激突家族 : 井上家に生まれて |publisher=中央公論社 |date=1998-06 |isbn=4120028011 |ref=harv}} * 桐原良光『井上ひさし伝』白水社(2001/05) * 高橋敏夫『井上ひさし 希望としての笑い』角川SSC新書(2010/9) * 扇田昭彦責任編集『日本の演劇人 井上ひさし』白水社(2011/09) * 西舘好子『表裏井上ひさし協奏曲』牧野出版(2011/09) * [[笹沢信]]『ひさし伝』[[新潮社]](2012/04) * [[小田島雄志]]『井上ひさしの劇ことば』[[新日本出版社]](2014/09) == 関連項目 == * [[文章読本]] * [[日本語の世界]] * [[進歩的文化人]] * [[菅原文太]] * [[若尾文子]] * [[光村図書]] == 外部リンク == * [https://www.inouehisashi.jp/ 井上ひさし公式サイト] * [http://www.komatsuza.co.jp/index.html こまつ座ホームページ] * {{NHK人物録|D0009072361_00000}} {{S-start}} {{S-culture}} {{Succession box | title = [[日本ペンクラブ|日本ペンクラブ会長]] | years = 第14代:[[2003年]] - [[2007年]] | before = [[梅原猛]] | after = [[阿刀田高]] }} {{Succession box | title = [[ファイル:Flag of Sendai, Miyagi.svg|22x20px]] [[仙台文学館|仙台文学館館長]] | years = 初代:[[1999年]] - 2007年 | before = (新設) | after = [[小池光|小池比加児]] }} {{S-end}} {{Navboxes |list= {{毎日芸術賞}} {{日本芸術院賞}} {{直木賞|第67回}} {{谷崎潤一郎賞|第27回}} {{岸田國士戯曲賞|第17回}} {{吉川英治文学賞|第20回}} {{日本SF大賞|第2回}} 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ISDN
ISDN(アイエスディーエヌ、Integrated Services Digital Network、サービス総合ディジタル網)とは交換機・中継回線・加入者線まで全てデジタル化された、パケット通信・回線交換データ通信にも利用できる公衆交換電話網である。ITU-T(電気通信標準化部門)によって世界共通のIシリーズ規格として定められている。 音声は、0.3 - 3.4kHzを64kbpsの回線交換でISDN網内を伝送しているため、VoIPよりも音声品質が安定している。また北アメリカ・日本はμ則、その他の国々ではA則がPCM非直線符号化に使用されているため北アメリカ・日本側の関門電話交換機で変換している。 データ通信では、通信相手が電話番号で特定でき、回線交換は通信速度が、パケット通信はQoS(サービスの品質)が保証されている。 情報通信の要素には音声・データ・画像などがあるが、1970年代から1980年代になるまで音声通信は電話網、データ通信はデータ通信網で行われ、通信方式もアナログが全盛であった。しかしデジタル技術の台頭とともに通信網にどのようにその技術を導入するかが検討されるようになり、加入者線の部分もディジタル化することで音声・データ・画像を同一伝送路で扱うことができるように考え出されたのがISDNである。 1972年、CCITTのジュネーブ総会でISDNの基本概念が発表された。 ISDNの構想は1977年から国際電気通信連合で取り上げられ、1984年に暫定勧告、1988年に本格勧告が承認された。 1985年4月、シンガポールにおいて富士通製のデジタル電話交換機で、世界初のIインタフェースによる実環境を用いた試験が開始された。 日本では一般的な基本速度TCM-ISDNはヨーロッパ・アジアの基本速度Euro-ISDNと加入者線インタフェースが異なるため、回線終端装置(DSU)の互換性は無い。また、一次群速度加入者線インタフェースについても地域によって異なっている。 DSU以外の部分は、ソフトウエアの変更のみで各国対応となる機器が多い。 基本インタフェースのNTの端末側(S点・T点)は終端された4線式のバス配線であり、ポイント・マルチポイント構成と呼ばれる1本当たり最大8台の端末の接続が可能である。 次の2種類がある。 また端末接続用のモジュラージャックはバス配線に直接取り付けるか、長さ1m以内のスタブを介して取り付ける。モジュラージャックから端末までのコードは原則は10m以内に制限されているが、ポイント・ポイント構成の場合に限り25mまで延長できる。 一次群速度インタフェースのNTの端末側(S点・T点)は4線式の配線であり、ポイント・ポイント構成と呼ばれる1本当たり1台のみの端末の接続が可能である。 伝送路から伝送された信号を回線終端装置(NT1)でS点インタフェースに変換し、超高速伝送の可能なルータ・G4 FAXなどのS点インタフェース機器(TE1)を接続する。また、構内交換機(NT2)などを使用し内線通信などを可能にすることもある。 S点インタフェースが複雑なために実際にS点インタフェースを備えた端末機器(G4 FAXやISDN対応電話機)は少なく、ターミナルアダプタ(TA)で変換して従来のアナログ電話機・ファクシミリ(TE2)やLAN・コンピュータ機器を接続して利用する形態が一般的に行われている。 ターミナルアダプタは、ISDN回線からの給電のみでは動作しない。そのため、乾電池などで停電補償を行うものがある。 NT2とTAの機能を持ったターミナルアダプタの場合 また、NT1、NT2、TAの機能を全て備えたターミナルアダプタの場合は以下のようになる。 端末設備と電気通信回線設備との最初の接続点が分界点となる。具体的には基本速度インタフェースの場合は保安器または主配線盤の端末側ねじ止め部分、一次群速度インタフェースの場合は配線盤の光コネクタ部分である。 ISDNにはBとDの2つのチャネルがある。 Bチャネルを束ねたチャネルも定義されている。 ISDNには、基本速度インタフェースと一次群速度インタフェースの2種類がある。 基本速度インタフェース(BRI:Basic Rate Interface)は64kbpsの2個のデータチャネルと16kbpsの信号チャネルから構成され、2B+Dなどと表記される。基本速度インタフェースはSOHO、個人、バックアップ回線として利用される。 加入者線伝送方式として、アナログ電話回線と同じ2芯ツイストペアケーブル通信線路が使用されることが多い。電話局設置の電話交換機からDSUの動作と音声通話に必要な最低限の給電が行われる。 伝送方式は、地域や電気通信事業者によって異なっている。 TCM-ISDNは、日本のNTT東日本・NTT西日本の「INSネット64」で使用されている。 ピンポン伝送とも呼ばれる時分割方向制御方式(Time Compression Multiplexing)でAMI符号化によるベースバンド伝送を行っている。使用する周波数帯域が広くなるが、伝送装置が単純となる。また加入者線間でタイミングを合わせて送受信を切り替えるため近端漏話が無く遠端漏話のみとなり、細い加入者線で長距離伝送が可能である。 日本国内において遍く提供されているように思われているがINSネット64の場合(メタル線)、収容局から加入者宅までのメタル線路長が8 - 10kmを超えるような場合には、サービス提供が困難であると言う問題がある。また、基礎的電気通信役務でも無いためNTT東日本・西日本は日本全国に遍く提供する義務も無い。 周波数帯域が重なってしまうためADSL回線と加入者線(ISDN回線)の同時使用は不可能である。また相互干渉を抑えるAnnex C規格の採用や同じより対線の組にISDNとADSLを収容しないようにする収容代えが必要であるなど、日本国内の一部からはADSL普及を阻害したと批判されたこともあった。 日本におけるEuro-ISDNは、電力系通信事業者のISDNにて使用されている。また平成電電のISDNサービスもEuro-ISDNを採用していた。 ヨーロッパ・アジア諸国で使用されているEuro-ISDNはエコーキャンセラを用い、上り下りを同じ周波数帯域のデジタル変調で伝送している。使用する周波数帯域が狭くなるが、伝送装置が複雑となる。 Annex BのADSLと加入者線の同時使用が可能である。 一次群速度インタフェース(PRI:Primary Rate Interface)は、より多くのチャネルから構成される。企業やプロバイダの回線として利用される。 構成は、地域によって異なっている。 加入者線伝送方式として、2芯の光ケーブルが使用されることが多い。給電が行われないため、加入者側で電源の確保が必要である。 一次群速度インタフェースよりも高速な回線インタフェースである。 開発や試験サービスが行われていたが安価な常時接続で定額料金のIP加入者線サービスが提供されるようになり、一般家庭向けの商用サービス化は行われなかった。 総合デジタル通信回線に端末設備等を接続するための工事には、電気通信設備工事担任者のうち、種別が第一級または第二級アナログ通信もしくは総合通信の資格を有する者が、直接工事を行うか実地に監督をする必要がある。 電話番号は、通常の市外局番と同じものが、Dチャネル1つあたり1つ割り当てられる。また「ダイヤルイン」や「i・ナンバー」を申し込むことにより、電話番号の追加が有料で可能である。 ダイヤルインを利用した番号の追加はDチャネル毎に与えられた1つの番号を含めて最大で9999番号、i・ナンバーを利用した番号の追加はDチャネル毎に与えられた1つの番号を含めて最大3番号で番号の利用は回線につながったISDNターミナルアダプタに番号を設定する事で、Iインターフェースに2チャネルあるBチャネルと1チャネルあるDチャネルで自由に利用することが出来る。 また、ダイヤルインやi・ナンバーの電話番号は通常の市外局番の電話番号以外に、フリーダイヤルの0120や0800で始まる番号や情報提供料を発信者に課金するダイヤルQ2の0990で始まる番号、#ダイヤル(着信短縮ダイヤルサービス)の番号などの割り当てを受けることも可能。 ISDN相互間の通信の場合、サブアドレスという付加番号を電話番号の後に付け同じ電話番号の中から特定の端末を指定しての呼び出しが可能である。またサービスクラスと呼ばれる可能な通信方法を呼び出し時に知らせる機能により、ファクシミリからの発信の場合にファクシミリのみ応答させるといったことが可能である。 回線交換方式の場合、接続時間と通信地点間距離とで課金される。日本では、アナログ電話網と同じ料金である(離島特例通信を除く)。 バーチャルコール方式のパケット通信の場合、接続時間に関係なくパケットの長さと数のみで定まるデータ量課金である。 月額基本料金は、アナログ電話回線2回線分より安く設定されている。 アメリカではISDN(128kbps)は2000年頃までブロードバンドの定義に含まれていた。しかし、ADSLやケーブルモデムの出現によりアメリカ議会やFCC報告書などでは375Kbps以上をブロードバンドと定義するものが多くなった。 2001年の時点ではISDN回線が市場シェア35%を占めていたが、そのシェアは急速に低下しADSLやSDSLが普及した。
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ISDNとは交換機・中継回線・加入者線まで全てデジタル化された、パケット通信・回線交換データ通信にも利用できる公衆交換電話網である。ITU-T(電気通信標準化部門)によって世界共通のIシリーズ規格として定められている。 音声は、0.3 - 3.4kHzを64kbpsの回線交換でISDN網内を伝送しているため、VoIPよりも音声品質が安定している。また北アメリカ・日本はμ則、その他の国々ではA則がPCM非直線符号化に使用されているため北アメリカ・日本側の関門電話交換機で変換している。 データ通信では、通信相手が電話番号で特定でき、回線交換は通信速度が、パケット通信はQoS(サービスの品質)が保証されている。
{{Otheruses|通信網|医薬品|硝酸イソソルビド}} {{IPstack}} [[File:NTT-AT DSU AT144K.jpg|thumb|right|ディジタル回線終端装置 NTT-AT DSU AT144K]] '''ISDN'''(アイエスディーエヌ、'''Integrated Services Digital Network'''、'''サービス総合ディジタル網'''<ref group="注釈">日本ITU協会による[[ITU-T|CCITT]]勧告和訳本の表記による。また[[東日本電信電話|NTT東日本]]、[[西日本電信電話|NTT西日本]]、[[KDDI]]などの商用ISDNサービスの解説でもこの表記を用いている。</ref><ref group="注釈">[[シスコシステムズ]]による[http://www.cisco.com/japanese/warp/public/3/jp/service/info/tips/terms/AI.shtml インターネットワーキング用語・略語集]では'''サービス総合ディジタルネットワーク'''と解説しているなど、他の日本語表記も多く見られる。</ref>)とは[[交換機]]・中継回線・[[加入者線]]まで全て[[デジタル]]化された、[[パケット通信]]・[[回線交換]][[データ通信]]にも利用できる[[公衆交換電話網]]である。[[ITU-T]](電気通信標準化部門)によって世界共通のIシリーズ規格として定められている。 音声は、0.3 - 3.4[[キロヘルツ|kHz]]を64k[[ビット毎秒|bps]]の回線交換でISDN網内を伝送しているため、[[VoIP]]よりも音声品質が安定している。また北アメリカ・日本は[[μ-lawアルゴリズム|μ則]]、その他の国々では[[A-lawアルゴリズム|A則]]が[[PCM]]非直線[[符号化方式|符号化]]に使用されているため北アメリカ・日本側の関門[[電話交換機]]で変換している。 データ通信では、通信相手が[[電話番号]]で特定でき、回線交換は通信速度が、パケット通信は[[Quality of Service|QoS]](サービスの品質)が保証されている。 == ISDNの構想 == 情報通信の要素には音声・データ・画像などがあるが、1970年代から1980年代になるまで音声通信は電話網、データ通信はデータ通信網で行われ、通信方式もアナログが全盛であった<ref name="bplus" />。しかしデジタル技術の台頭とともに通信網にどのようにその技術を導入するかが検討されるようになり、加入者線の部分もディジタル化することで音声・データ・画像を同一伝送路で扱うことができるように考え出されたのがISDNである<ref name="bplus" />。 1972年、[[ITU-T|CCITT]]のジュネーブ総会でISDNの基本概念が発表された。 ISDNの構想は1977年から国際電気通信連合で取り上げられ、1984年に暫定勧告、1988年に本格勧告が承認された<ref name="bplus">加納貞彦、北見憲一、[https://doi.org/10.1587/bplus.5.63 「開発物語 ISDNの標準化」] 『電子情報通信学会 通信ソサイエティマガジン』 2011年 5巻 1号 p.63-69, {{Doi|10.1587/bplus.5.63}}</ref>。 1985年4月、[[シンガポール]]において[[富士通]]製のデジタル[[電話交換機]]で、世界初のIインタフェースによる実環境を用いた試験が開始された。 == ISDNの構成 == === 機器の接続 === 日本では一般的な基本速度TCM-ISDNは[[ヨーロッパ]]・[[アジア]]の基本速度Euro-ISDNと加入者線インタフェースが異なるため、回線終端装置(DSU)の互換性は無い。また、一次群速度加入者線インタフェースについても地域によって異なっている。 DSU以外の部分は、ソフトウエアの変更のみで各国対応となる機器が多い。 ==== S点インタフェース機器 ==== 基本インタフェースのNTの端末側(S点・T点)は終端された4線式のバス配線であり、ポイント・マルチポイント構成と呼ばれる1本当たり最大8台の端末の接続が可能である。 次の2種類がある。 ; 短距離受動バス配線 : 最大ケーブル長が200m以下の配線であり、任意の場所に端末接続用のモジュラージャックを設置できる。 ; 延長受動バス配線 : 最大ケーブル長が500m以下の配線であり、末端部付近に集中して端末接続用のモジュラージャックを設置できる。 また端末接続用のモジュラージャックはバス配線に直接取り付けるか、長さ1m以内のスタブを介して取り付ける。モジュラージャックから端末までのコードは原則は10m以内に制限されているが、ポイント・ポイント構成の場合に限り25mまで延長できる。 一次群速度インタフェースのNTの端末側(S点・T点)は4線式の配線であり、ポイント・ポイント構成と呼ばれる1本当たり1台のみの端末の接続が可能である。 伝送路から伝送された信号を回線終端装置(NT1)でS点インタフェースに変換し、超高速伝送の可能な[[ルータ]]・[[ファクシミリ#規格|G4 FAX]]などのS点インタフェース機器(TE1)を接続する。また、[[構内交換機]](NT2)などを使用し内線通信などを可能にすることもある。 |TE1|--S点--|NT2|--T点--|NT1|--(LI)U点--加入者線 ==== アナログ電話回線機器など ==== S点インタフェースが複雑なために実際にS点インタフェースを備えた端末機器(G4 FAXやISDN対応電話機)は少なく、[[ターミナルアダプタ]](TA)で変換して従来のアナログ[[電話機]]・ファクシミリ(TE2)や[[Local Area Network|LAN]]・[[コンピュータ]]機器を接続して利用する形態が一般的に行われている。 ターミナルアダプタは、ISDN回線からの給電のみでは動作しない。そのため、乾電池などで停電補償を行うものがある。 |TE2|--R点--|TA|--S点--|NT2|--T点--|NT1|--(LI)U点--加入者線 NT2とTAの機能を持ったターミナルアダプタの場合 |TE2|--R点--|TA + NT2|--T点--|NT1|--(LI)U点--加入者線 また、NT1、NT2、TAの機能を全て備えたターミナルアダプタの場合は以下のようになる。 |TE2|--R点--|TA + NT2 + NT1|--(LI)U点--加入者線 ==== 機能群 ==== ; NT1 : 回線終端装置(DSU:Digital Service Unit) - 加入者線の終端・Iインタフェースへの変換・端末機器などへの給電を行う。 ; NT2 : 端末制御装置・[[構内交換機]](PBX:Private automatic Branch eXchange) - 端末装置間の通信手順制御・交換・多重化・集線などを行う。 ; TE1 : S点インタフェース端末装置 ; TE2 : S点インタフェース以外の端末装置 ; TA : ターミナルアダプタ ==== 参照点 ==== ; (LI)U点 : 伝送路インタフェース規定点 - 基本速度インタフェースの場合はNT1のRJ-11の電話用6極[[Registered jack|モジュラージャック]]またはねじ止め部分、一次群速度インタフェースの場合は、NT1の光コネクタ部分である。 ; T点 : ISDNユーザー網インタフェース規定点 - 基本速度インタフェースの場合はNT1の[[8P8C|RJ-45]]の8極モジュラージャックまたはねじ止め部分、一次群速度インタフェースの場合は、NT1のねじ止め部分である。 ; S点 : NT2のRJ-45の8極モジュラージャックまたはねじ止め部分である。 ; R点 : TEの電話用6極モジュラージャック部分である。 ==== 分界点 ==== [[端末]]設備と電気通信回線設備との最初の接続点が分界点となる。具体的には基本速度インタフェースの場合は[[保安器]]または[[主配線盤]]の端末側ねじ止め部分、一次群速度インタフェースの場合は配線盤の光コネクタ部分である。 === 回線構成 === ISDNにはBとDの2つのチャネルがある。 * Bチャネル - データ用(64kbpsが2チャネル)。データリンク層のプロトコルはLAPD。 * Dチャネル - 信号・制御用(パケットデータ通信にも利用可能、16kbps、64kbps)。データリンク層のプロトコルはPPP、HDLC。 Bチャネルを束ねたチャネルも定義されている。 * H<sub>01</sub>チャネル - Bチャネルを6個束ねたもの。 * H<sub>11</sub>チャネル - Bチャネルを24個束ねたもの。 * H<sub>12</sub>チャネル - Bチャネルを30個束ねたもの。 ISDNには、基本速度インタフェースと一次群速度インタフェースの2種類がある。 === 基本速度インタフェース === 基本速度[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]](BRI:Basic Rate Interface)は64kbpsの2個のデータチャネルと16kbpsの信号チャネルから構成され、2B+Dなどと表記される。基本速度インタフェースはSOHO、個人、バックアップ回線として利用される。 加入者線伝送方式として、アナログ電話回線と同じ2芯[[ツイストペアケーブル]][[通信線路]]が使用されることが多い。電話局設置の[[電話交換機]]からDSUの動作と[[音声通話]]に必要な最低限の給電が行われる。 伝送方式は、地域や[[電気通信事業者]]によって異なっている。 ==== TCM-ISDN ==== TCM-ISDNは、日本の[[東日本電信電話|NTT東日本]]・[[西日本電信電話|NTT西日本]]の「[[INSネット]]64」で使用されている。 ピンポン伝送とも呼ばれる時分割方向制御方式(Time Compression Multiplexing)でAMI[[符号化方式|符号化]]による[[ベースバンド伝送]]を行っている。使用する[[周波数]]帯域が広くなるが、伝送装置が単純となる。また加入者線間でタイミングを合わせて送受信を切り替えるため近端漏話が無く遠端漏話のみとなり、細い加入者線で長距離伝送が可能である。 日本国内において遍く提供されているように思われているがINSネット64の場合(メタル線)、収容局から加入者宅までのメタル線路長が8 - 10kmを超えるような場合には、サービス提供が困難であると言う問題がある。また、[[基礎的電気通信役務]]でも無いためNTT東日本・西日本は日本全国に遍く提供する義務も無い。 周波数帯域が重なってしまうため[[ADSL]]回線と加入者線(ISDN回線)の同時使用は不可能である。また相互干渉を抑えるAnnex C規格の採用や同じより対線の組にISDNとADSLを収容しないようにする収容代えが必要であるなど、日本国内の一部からはADSL普及を阻害したと批判されたこともあった。 ==== Euro-ISDN ==== 日本におけるEuro-ISDNは、[[電力系通信事業者]]のISDNにて使用されている。また[[平成電電]]のISDNサービスもEuro-ISDNを採用していた。 [[ヨーロッパ]]・[[アジア]]諸国で使用されているEuro-ISDNは[[エコー除去|エコーキャンセラ]]を用い、上り下りを同じ周波数帯域の[[デジタル変調]]で伝送している。使用する周波数帯域が狭くなるが、伝送装置が複雑となる。 Annex BのADSLと加入者線の同時使用が可能である。 === 一次群速度インタフェース === 一次群速度インタフェース(PRI:Primary Rate Interface)は、より多くのチャネルから構成される。企業やプロバイダの回線として利用される。 構成は、地域によって異なっている。 ; 北アメリカ及び日本(NTTの「INSネット1500」) : 23B+D(64kbps)(他の回線とDチャネルを共用する場合は24Bも可能)で、通信速度は1.544Mbit/s(T1)。 ; ヨーロッパ及びオーストラリア : 30B+D(64kbps)で、通信速度は2.048Mbit/s(E1)。 加入者線伝送方式として、2芯の[[光ケーブル]]が使用されることが多い。給電が行われないため、加入者側で電源の確保が必要である。 === B-ISDNインタフェース === 一次群速度インタフェースよりも高速な回線インタフェースである。 開発や試験サービスが行われていたが安価な常時接続で定額料金の[[Internet Protocol|IP]]加入者線サービスが提供されるようになり、一般家庭向けの商用サービス化は行われなかった。 == 各国の通信事業とISDN == === 日本 === {{main|INSネット}} 総合デジタル通信回線に端末設備等を接続するための工事には、[[電気通信設備工事担任者]]のうち、[[工事担任者#種別|種別]]が第一級または第二級<ref group="注釈">回線の数が基本インタフェースで1のものに限る</ref>アナログ通信もしくは総合通信の資格を有する者が<ref group="注釈">みなし旧資格の所有者を含む。ISDNはデジタル伝送ではあるが、アナログ電話と同様の回線を使用するため([[#基本速度インタフェース|基本速度インタフェース]])。アナログ電話回線の工事は、新築やリフォームなどの際、[[電気工事]]と同じ業者の施工が多い。なお同様にアナログ回線を使用する[[ADSL]]は、高速であること等のためデジタル用の資格を要する。</ref>、直接工事を行うか実地に監督をする必要がある<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=359AC0000000086&openerCode=1 電気通信事業法 第71条]</ref>。 ==== 電話番号 ==== [[電話番号]]は、通常の[[市外局番]]と同じものが、Dチャネル1つあたり1つ割り当てられる。また「[[ダイヤルイン]]」や「[[i・ナンバー]]」を申し込むことにより、電話番号の追加が有料で可能である。 ダイヤルインを利用した番号の追加はDチャネル毎に与えられた1つの番号を含めて最大で9999番号、i・ナンバーを利用した番号の追加はDチャネル毎に与えられた1つの番号を含めて最大3番号で番号の利用は回線につながったISDN[[ターミナルアダプタ]]に番号を設定する事で、Iインターフェースに2チャネルあるBチャネルと1チャネルあるDチャネルで自由に利用することが出来る。 また、ダイヤルインやi・ナンバーの電話番号は通常の市外局番の電話番号以外に、[[フリーダイヤル]]の0120や0800で始まる番号や情報提供料を発信者に課金する[[ダイヤルQ2]]の0990で始まる番号、#ダイヤル(着信短縮ダイヤルサービス)の番号などの割り当てを受けることも可能。 ISDN相互間の通信の場合、[[サブアドレス]]という付加番号を電話番号の後に付け同じ電話番号の中から特定の端末を指定しての呼び出しが可能である。またサービスクラスと呼ばれる可能な通信方法を呼び出し時に知らせる機能により、[[ファクシミリ]]からの発信の場合にファクシミリのみ応答させるといったことが可能である。 ==== 料金 ==== 回線交換方式の場合、接続時間と通信地点間距離とで課金される。日本では、アナログ電話網と同じ料金である([[離島特例通信]]を除く)。<!--離島特例通信については[[基礎的電気通信役務#日本の基礎的電気通信役務の範囲]]に若干記述がある--> バーチャルコール方式の[[パケット通信]]の場合、接続時間に関係なく[[パケット]]の長さと数のみで定まるデータ量課金である。 月額基本料金は、アナログ電話回線2回線分より安く設定されている。 === アメリカ === アメリカではISDN(128kbps)は2000年頃までブロードバンドの定義に含まれていた<ref name="forum">[https://www.nttcom.co.jp/comzine/archive/forum/sep4.html ITフォーラム] - NTTコムウェア</ref>。しかし、ADSLやケーブルモデムの出現によりアメリカ議会やFCC報告書などでは375Kbps以上をブロードバンドと定義するものが多くなった<ref name="forum" />。 2001年の時点ではISDN回線が市場シェア35%を占めていたが、そのシェアは急速に低下しADSLやSDSLが普及した<ref name="forum" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[INSネット]]:日本でのサービス * [[H.320]] * [[ターミナルアダプタ]] * [[ルーター#ダイヤルアップルーター|ダイヤルアップルーター]] <!--* IDDN(Integrated Defense Digital Network、防衛統合デジタル通信網) : 防衛の用に供するものとして、[[防衛省]]とNTTとの間で専用線契約を締結した回線、またはその整備事業全般を指す語。--> == 外部リンク == * [http://www.ieice-hbkb.org/files/05/05gun_06hen_01.pdf#page=15 電子情報通信学会 知識ベース ISDN] {{Internet access}} {{Telecommunications}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:ISDN}} [[Category:電話網]] [[Category:ITU-T勧告]] [[Category:コンピュータネットワーク]]
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Netscapeシリーズ
Netscapeシリーズ(ネットスケープ シリーズ)は、ジム・クラークとNCSA Mosaicの開発を抜けたマーク・アンドリーセン、ジェイミー・ザウィンスキー(英語版)らによって開発されたネットスケープコミュニケーションズのウェブブラウザであるNetscape Navigatorを起源とするウェブブラウザシリーズである。日本では「ネスケ」や「NN」といった略称でも呼ばれた。2008年2月をもってサポートを終了した。 Netscape Navigatorのバージョン4以降は、Netscape Navigator単体での配布以外に電子メールクライアント、ウェブページ作成ソフトなどをまとめたNetscape Communicatorとしても配布されるようになった。なお、Netscape Communicatorはバージョン6から名前がNetscapeに変更され、同時に旧版のNetscape Navigatorも名称をNavigatorに変更されている。またバージョン8では名称がNetscape Browserへと変更されたが、バージョン9では再びNetscape Navigatorとなった。ただし6や7、時折8も初期版の名称Netscape Navigatorで呼ぶユーザーが存在していた。 セキュリティーホールの修正は、修正パッチが配布されるInternet Explorerに対し、Netscape Navigatorはバージョンアップすることで対応していた。 Netscape Navigatorは、バージョン1.0から4.8までのウェブブラウザの名称である。最初のベータ版リリースは1994年。Netscapeの初期の開発者の多くが開発していたNCSA Mosaicの開発元である米国立スーパーコンピュータ応用研究所から法的な異議申し立てが届いてNetscape Navigatorと改名するまでは Mosaic Netscapeとしてリリースされていた。ウェブブラウザの改名と同時に会社名もモザイクコミュニケーションズからネットスケープコミュニケーションズに改名された。 Netscape Navigatorは非常に高機能で簡単に使えたため、まだベータ版であったにもかかわらずマーケットリーダーとなり短期間でシェアを獲得した。Netscape Navigatorの機能の数とシェアはバージョン1.0リリース後にもどんどん伸びつづけた。 バージョン2.0では、Netscape Mailという名称の電子メールクライアントが追加されたため、Netscapeは単なるウェブブラウザからインターネットスイートへの変貌を遂げた。この時点では、「Netscape Navigator」という名称は、ウェブブラウザ単体とインターネットスイートの両方を指し示す名称だった。また、それと同時期にAOLは、Internet ExplorerとともにNetscape Navigatorのバンドルを行いはじめた。 バージョン3.0は、Internet Explorer 3.0という初めての本当の競争相手と対峙することになった。しかし、ネットスケープ社はマイクロソフト社の挑戦をはねつけ、当時最も使われたブラウザであり続けた。バージョン3.0でWYSIWYGのHTMLエディタの機能を持つGoldバージョンが提供されていた。Netscape 3.0は新しいプラグイン、テーブルの背景色、APPLET 要素や archive 属性などの多数の機能を導入した。Netscape Navigator 3は大成功をおさめ、当時誰もが認めるウェブブラウザの巨人となった。最終バージョンは3.04である。 バージョン4では、インターネットスイートの名称をNetscape Communicatorと改名し、ウェブブラウザ単体と名称が混乱する問題を解決した。なお、Netscape Communicatorに同梱されているウェブブラウザの名称はNetscape Navigatorのままであった。 1996年から1997年にかけて5つのプレビュー版をリリースした後の1997年6月にNetscape Communicatorの最後のバージョンがリリースされた。このバージョンの新機能としては、CSS1の幾つかのプロパティのサポートや最小限のダイナミックフォントのサポート、独自拡張のHTML要素がある。激化するInternet Explorer 4との競争やウェブブラウザの基幹部分が時代遅れだという問題があるにもかかわらず、この新しいインターネットスイートは成功した。このNetscape Communicatorは、ウェブブラウザのNavigator、メールクライアント兼ニュースリーダーMail and Newsgroups、アドレス帳、HTMLエディタのComposerで構成されている。 1998年10月、Netscape Communicator 4.5がリリースされた。このリリースでは、特にメールクライアント/ニュースリーダーのコンポーネントについてさまざまな機能の向上が行われた。しかし、ウェブブラウザの基幹部分の更新は行われず、基本的にはバージョン4.08と同様であった。このリリースからほんの1か月後の1998年11月にネットスケープコミュニケーションズはAOLに買収された。(ウェブブラウザ単体である)スタンドアローン版のNetscape Navigatorはまだ利用可能だったが、Microsoft Windows用のバージョン4.08より後のバージョンはリリースされていない。また、UnixやLinuxなどの他のオペレーティングシステム用のスタンドアローン版については、バージョン4.8まで保守された。 1998年1月、ネットスケープコミュニケーションズは、将来のすべてのバージョンを(フリーソフトウェアのように)無償で提供し、コミュニティによって開発と保守を行うと発表した。これが後のMozilla Application Suiteである。そしてNetscape Communicator 5.0が発表された。しかし、元にしたソースが長年使われ複雑化していたために、NetscapeとCommunicatorのメジャーバージョンアップのリリースに重大な遅れが生じた。その結果、Internet Explorer 4から本格的にはじまったHTML4やCSS、DOM、JavaScriptの高度な実装を経て、Internet Explorer 5.0はマーケットリーダーになった。1998年11月、Netscape 5の開発を中止し、まったく新しいプログラムをゼロから作成することになった。ここで、ソースコードのつながりがまったく失われてしまったことと、マーケティングな意図も含めて、次にリリースするバージョンは6になる。このため、バージョン5は幻のバージョンとなった。 ちなみに、そのソースコードは「Mozilla Classic」と呼ばれ、現在でも mozilla.org のサイトからダウンロードすることができる。 2005年から2007年にかけて、Netscape Browserという名称のウェブブラウザがリリースされた。 AOL は比較的成功しているMozilla FirefoxをNetscape Browserのベースに選んだ。このリリースは、従来のようなインターネットスイートではなく単一のウェブブラウザだった。また、論争を招きそうな変更点としては、Windowsのみを対象として作られており、HTMLレンダリングエンジンとして、以前のバージョンでも採用していたGecko以外にInternet Explorer用のTridentの両方を使えるように実装されている。 AOLは、Netscapeチームを解雇し、Mercurial Communicationsに開発の外注を行った。ネットスケープコミュニケーションズは数年前に買収されていたため、この解雇はそれほど驚きではなかった。 バージョン8.0から8.1.2までに存在した一般的なバグを修正したNetscape Browser 8.1.3は2007年4月3日にリリースされた。 2007年1月23日、新しいスタンドアローン版ウェブブラウザのNetscape Navigator 9のリリースが表明された。このバージョンでは、ニュースフィードのサポートやウェブページ上での議論・投稿・投票手段を強化し、インターネットポータルPropellerとの統合が強化されている。また、再びWindows、Linux、Mac OS Xをサポートするマルチプラットフォームとなった。このバージョンはMozilla Firefox 2.0をベースにしており、FirefoxのアドオンやNetscapeが提供しているプラグインを完全サポートしている。また、このブラウザは2004年以降初めて社内のプログラミングスタッフによって作られた。 最初のベータ版は2007年6月5日にリリースされた。最終バージョンは2007年10月15日にリリースされた。 2007年12月28日、Netscape全バージョンのサポートを2008年2月1日をもって終了するとNetscape公式ブログで発表された。Netscape公式ブログでは利用者にFirefoxへの移行を促している。その後、NetscapeからFirefoxやFlockへの移行機能を追加する関係から、開発・サポートの終了が1か月延長されることが発表された。なお、この動きを受けてMozilla JapanではNetscapeからFirefoxやThunderbirdへの移行ガイドを公開している。また、サポート終了後にはNetscape日本語版公式ページ上でも同移行ガイドが紹介された。 2007年11月15日に開発元のブログにおいて、「Netscape Messenger」の名前を冠した電子メールクライアントの開発の公表と、最初の評価版に当たる9.0α1が公開された。2004年8月の7.2から途絶えていたNetscapeブランドのメールソフトは3年ぶりの復活となった。また、Messengerの名前は、1997年のCommunicator 4.0の頃にメール機能の名称として採用されていた名前であり、2002年の4.78から実に5年ぶりに名称が復活した。 Messenger 9はMozilla Thunderbird 2.0.0.9をベースとしており、Navigator 9同様Thunderbird 2.0.0.xの拡張機能をサポートし、Windows以外の環境もサポートした。AOL Instant Messengerのアドレス帳との統合機能が実装されていた。しかし、AOLがNetscapeの開発終了を宣言したため、Messengerは正式版のリリースがなされることなく役目を終えることとなった。
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"title": "変遷" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2007年12月28日、Netscape全バージョンのサポートを2008年2月1日をもって終了するとNetscape公式ブログで発表された。Netscape公式ブログでは利用者にFirefoxへの移行を促している。その後、NetscapeからFirefoxやFlockへの移行機能を追加する関係から、開発・サポートの終了が1か月延長されることが発表された。なお、この動きを受けてMozilla JapanではNetscapeからFirefoxやThunderbirdへの移行ガイドを公開している。また、サポート終了後にはNetscape日本語版公式ページ上でも同移行ガイドが紹介された。", "title": "変遷" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2007年11月15日に開発元のブログにおいて、「Netscape Messenger」の名前を冠した電子メールクライアントの開発の公表と、最初の評価版に当たる9.0α1が公開された。2004年8月の7.2から途絶えていたNetscapeブランドのメールソフトは3年ぶりの復活となった。また、Messengerの名前は、1997年のCommunicator 4.0の頃にメール機能の名称として採用されていた名前であり、2002年の4.78から実に5年ぶりに名称が復活した。", "title": "Netscape Messenger 9" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "Messenger 9はMozilla Thunderbird 2.0.0.9をベースとしており、Navigator 9同様Thunderbird 2.0.0.xの拡張機能をサポートし、Windows以外の環境もサポートした。AOL Instant Messengerのアドレス帳との統合機能が実装されていた。しかし、AOLがNetscapeの開発終了を宣言したため、Messengerは正式版のリリースがなされることなく役目を終えることとなった。", "title": "Netscape Messenger 9" } ]
Netscapeシリーズは、ジム・クラークとNCSA Mosaicの開発を抜けたマーク・アンドリーセン、ジェイミー・ザウィンスキーらによって開発されたネットスケープコミュニケーションズのウェブブラウザであるNetscape Navigatorを起源とするウェブブラウザシリーズである。日本では「ネスケ」や「NN」といった略称でも呼ばれた。2008年2月をもってサポートを終了した。 Netscape Navigatorのバージョン4以降は、Netscape Navigator単体での配布以外に電子メールクライアント、ウェブページ作成ソフトなどをまとめたNetscape Communicatorとしても配布されるようになった。なお、Netscape Communicatorはバージョン6から名前がNetscapeに変更され、同時に旧版のNetscape Navigatorも名称をNavigatorに変更されている。またバージョン8では名称がNetscape Browserへと変更されたが、バージョン9では再びNetscape Navigatorとなった。ただし6や7、時折8も初期版の名称Netscape Navigatorで呼ぶユーザーが存在していた。 セキュリティーホールの修正は、修正パッチが配布されるInternet Explorerに対し、Netscape Navigatorはバージョンアップすることで対応していた。
{{Infobox Software |名称=Netscape Navigator |ロゴ= Netscape 7.2Logo.png |スクリーンショット= Netscape 9.0.0.6.png |説明文=Netscape Navigatorのスクリーンショット |開発元=Mercurial Communications for AOL |最新版=9.0.0.6 |最新版発表日=[[2008年]][[2月20日]] |対応OS=[[Microsoft Windows|Windows]]、[[macOS|Mac OS X]]、[[Linux]] |対応プラットフォーム=[[クロスプラットフォーム]] |種別=[[ウェブブラウザ]] |ライセンス= |公式サイト=<code><nowiki>http://browser.netscape.com/</nowiki></code> |サポート状況=終了、[[Mozilla Firefox|Firefox]] へ移行 }} {{Infobox Software |名称=Netscape Messenger |ロゴ= |スクリーンショット= |説明文= |開発元=Mercurial Communications for AOL |最新版= |最新版発表日= |最新評価版=9.0 α1 |最新評価版発表日=[[2007年]][[11月15日]] |対応OS=Windows、Mac OS X、Linux |対応プラットフォーム=[[クロスプラットフォーム]] |種別=[[電子メールクライアント]]、[[ネットニュース|ニュースリーダ]] |ライセンス= |公式サイト=<code><nowiki>http://mailnews.netscape.com/</nowiki></code> |サポート状況=終了、[[Mozilla Thunderbird|Thunderbird]] へ移行 }} '''Netscapeシリーズ'''(ネットスケープ シリーズ)は、[[ジム・クラーク (事業家)|ジム・クラーク]]と[[NCSA Mosaic]]の開発を抜けた[[マーク・アンドリーセン]]、{{仮リンク|ジェイミー・ザウィンスキー|en|Jamie Zawinski}}らによって開発された[[ネットスケープコミュニケーションズ]]の[[ウェブブラウザ]]である'''Netscape Navigator'''{{efn2|開発コードネームが「Netscape Navigator」であったため、「Netscapeと書いてMozilla(モジラ)と読む」などといわれた。}}を起源とするウェブブラウザシリーズである。日本では「ネスケ」や「NN」といった略称でも呼ばれた。[[2008年]]2月をもってサポートを終了した。 Netscape Navigatorのバージョン4以降は、Netscape Navigator単体での配布以外に[[電子メールクライアント]]、[[ウェブページ]]作成[[ソフトウェア|ソフト]]などをまとめた'''Netscape Communicator'''としても配布されるようになった。なお、Netscape Communicatorはバージョン6から名前が'''Netscape'''に変更され、同時に旧版のNetscape Navigatorも名称をNavigatorに変更されている。またバージョン8では名称が'''Netscape Browser'''へと変更されたが、バージョン9では再びNetscape Navigatorとなった。ただし6や7、時折8も初期版の名称Netscape Navigatorで呼ぶユーザーが存在していた。 [[セキュリティーホール]]の修正は、[[パッチ|修正パッチ]]が配布される[[Internet Explorer]]に対し、Netscape Navigatorはバージョンアップすることで対応していた。 ==変遷== ===バージョン1から4=== {{main|Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)}} Netscape Navigatorは、バージョン1.0から4.8までのウェブブラウザの名称である。最初のベータ版リリースは1994年。Netscapeの初期の開発者の多くが開発していたNCSA Mosaicの開発元である[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]]から法的な異議申し立てが届いてNetscape Navigatorと改名するまでは '''Mosaic Netscape'''としてリリースされていた。ウェブブラウザの改名と同時に会社名も'''モザイクコミュニケーションズ'''<ref>Mosaic Communications.</ref>から'''[[ネットスケープコミュニケーションズ]]'''<ref>Netscape Communications.</ref>に改名された。 Netscape Navigatorは非常に高機能で簡単に使えたため、まだベータ版であったにもかかわらずマーケットリーダーとなり短期間でシェアを獲得した。Netscape Navigatorの機能の数とシェアはバージョン1.0リリース後にもどんどん伸びつづけた。 バージョン2.0では、Netscape Mailという名称の[[電子メールクライアント]]が追加されたため、Netscapeは単なるウェブブラウザから[[インターネットスイート]]への変貌を遂げた。この時点では、「Netscape Navigator」という名称は、ウェブブラウザ単体とインターネットスイートの両方を指し示す名称だった。また、それと同時期に[[AOL]]は、Internet ExplorerとともにNetscape Navigatorのバンドルを行いはじめた。 バージョン3.0{{efn2|最初のベータ版のコードネームは「Atlas(アトラス)」。}}は、Internet Explorer 3.0という初めての本当の競争相手と対峙することになった。しかし、ネットスケープ社はマイクロソフト社の挑戦をはねつけ、当時最も使われたブラウザであり続けた。バージョン3.0で[[WYSIWYG]]のHTMLエディタ{{efn2|後に標準機能としてNetscape Communicator に追加された。}}の機能を持つGoldバージョンが提供されていた。Netscape 3.0は新しいプラグイン、テーブルの背景色、<code>APPLET</code> 要素や <code>archive</code> 属性などの多数の機能を導入した。Netscape Navigator 3は大成功をおさめ、当時誰もが認めるウェブブラウザの巨人となった。最終バージョンは3.04である。 バージョン4では、インターネットスイートの名称をNetscape Communicatorと改名し、ウェブブラウザ単体と名称が混乱する問題を解決した。なお、Netscape Communicatorに同梱されているウェブブラウザの名称はNetscape Navigatorのままであった。 [[1996年]]から[[1997年]]にかけて5つのプレビュー版をリリースした後の1997年6月にNetscape Communicatorの最後のバージョンがリリースされた。このバージョンの新機能としては、[[Cascading Style Sheets|CSS]]1の幾つかのプロパティのサポートや最小限のダイナミックフォントのサポート、独自拡張の[[HTML要素]]がある。激化するInternet Explorer 4との競争やウェブブラウザの基幹部分が時代遅れだという問題があるにもかかわらず、この新しいインターネットスイートは成功した。このNetscape Communicatorは、ウェブブラウザのNavigator、メールクライアント兼[[ネットニュース|ニュース]]リーダーMail and Newsgroups、アドレス帳、HTMLエディタのComposerで構成されている。 [[1998年]]10月、Netscape Communicator 4.5がリリースされた。このリリースでは、特にメールクライアント/ニュースリーダーのコンポーネントについてさまざまな機能の向上が行われた。しかし、ウェブブラウザの基幹部分の更新は行われず、基本的にはバージョン4.08と同様であった。このリリースからほんの1か月後の1998年11月にネットスケープコミュニケーションズはAOLに買収された。(ウェブブラウザ単体である)スタンドアローン版のNetscape Navigatorはまだ利用可能だったが、Microsoft Windows用のバージョン4.08より後のバージョンはリリースされていない。また、[[Unix]]や[[Linux]]などの他の[[オペレーティングシステム]]用のスタンドアローン版については、バージョン4.8まで保守された。 ===幻のバージョン5=== [[1998年]]1月、[[ネットスケープコミュニケーションズ]]は、将来のすべてのバージョンを([[フリーソフトウェア]]のように)無償で提供し、コミュニティによって開発と保守を行うと発表した。これが後の[[Mozilla Application Suite]]である。そしてNetscape Communicator 5.0{{efn2|コードネーム「Gromit(グルミット)」}}が発表された。しかし、元にしたソースが長年使われ複雑化していたために、NetscapeとCommunicatorのメジャーバージョンアップのリリースに重大な遅れが生じた。その結果、Internet Explorer 4から本格的にはじまった[[HyperText Markup Language|HTML]]4や[[Cascading Style Sheets|CSS]]、[[Document Object Model|DOM]]、[[JavaScript]]の高度な実装を経て、Internet Explorer 5.0はマーケットリーダーになった。1998年11月、Netscape 5の開発を中止し、まったく新しいプログラムをゼロから作成することになった。ここで、ソースコードのつながりがまったく失われてしまったことと、マーケティングな意図も含めて、次にリリースするバージョンは6になる。このため、バージョン5は幻のバージョンとなった。 ちなみに、そのソースコードは「Mozilla Classic」と呼ばれ、現在でも [https://www.mozilla.org/ <code>mozilla.org</code>] のサイトからダウンロードすることができる。 ===バージョン6と7=== {{Main|Netscape (Mozillaベース)}} ===バージョン8=== {{Main|Netscape Browser}} [[2005年]]から[[2007年]]にかけて、Netscape Browserという名称のウェブブラウザがリリースされた。 AOL は比較的成功している[[Mozilla Firefox]]をNetscape Browserのベースに選んだ。このリリースは、従来のような[[インターネットスイート]]ではなく単一のウェブブラウザだった。また、論争を招きそうな変更点としては、Windowsのみを対象として作られており、[[HTMLレンダリングエンジン]]として、以前のバージョンでも採用していた[[Gecko]]以外にInternet Explorer用の[[Trident]]の両方を使えるように実装されている。 AOLは、Netscapeチームを解雇し、Mercurial Communicationsに開発の外注を行った。ネットスケープコミュニケーションズは数年前に買収されていたため、この解雇はそれほど驚きではなかった。 バージョン8.0から8.1.2までに存在した一般的なバグを修正したNetscape Browser 8.1.3は<!--日本時間の-->[[2007年]][[4月3日]]にリリースされた<ref>[http://community.netscape.com/n/pfx/forum.aspx?tsn=1&nav=messages&webtag=ws-nscpbrowser&tid=6596 Netscape Community - Netscape 8.1.3](2007年2月8日に確認)</ref><ref>[http://community.netscape.com/n/pfx/forum.aspx?tsn=1&nav=messages&webtag=ws-nscpbrowser&tid=7647&redirCnt=1 Netscape Community - Netscape 8.1.3 released](2007年2月8日に確認)</ref>。 ===バージョン9=== {{Main|Netscape Navigator 9}} [[2007年]][[1月23日]]、新しいスタンドアローン版ウェブブラウザの[[Netscape Navigator 9]]のリリースが表明された。このバージョンでは、[[ニュースフィード]]のサポートやウェブページ上での議論・投稿・投票手段を強化し<ref>[http://community.netscape.com/n/pfx/forum.aspx?tsn=1&nav=messages&webtag=ws-nscpbrowser&tid=6926 Netscape 9 - 20 February Announcement](2007年2月20日に確認)</ref>、インターネットポータルPropellerとの統合が強化されている<ref>[http://community.netscape.com/n/pfx/forum.aspx?tsn=1&nav=messages&webtag=ws-nscpbrowser&tid=6418 Netscape 9.0 confirmed on Netscape's community support board](2007年1月24日に確認)</ref>。また、再びWindows、Linux、[[macOS|Mac OS X]]をサポートするマルチプラットフォームとなった<ref>[http://community.netscape.com/n/pfx/forum.aspx?tsn=1&nav=messages&webtag=ws-nscpbrowser&tid=6459 Netscape 9.0 30- Jan 07 announcement](2007年1月30日に確認)</ref>。このバージョンはMozilla Firefox 2.0をベースにしており、Firefoxの[[アドオン]]やNetscapeが提供している[[プラグイン]]を完全サポートしている<ref>[http://community.netscape.com/n/pfx/forum.aspx?tsn=1&nav=messages&webtag=ws-nscpbrowser&tid=6558 Netscape 9 - 6 February 2007 announcement](2007年2月6日に確認)</ref>。また、このブラウザは[[2004年]]以降初めて社内のプログラミングスタッフによって作られた<ref>[http://www.mozillazine.org/talkback.html?article=20397 Netscape announces cross-platform Netscape 9 to be developed in-house - Mozillazine](2007年2月5日に確認)</ref>。 最初のベータ版は[[2007年]][[6月5日]]にリリースされた<ref>[http://community.netscape.com/n/pfx/forum.aspx?tsn=1&nav=messages&webtag=ws-nscpbrowser&tid=8525 Netscape 9.0b1 released](2007年6月5日に確認)</ref>。最終バージョンは2007年[[10月15日]]にリリースされた。 ===シリーズの終焉=== {{wikinews|AOL、Netscape の開発を終了}} [[2007年]]12月28日、Netscape全バージョンのサポートを2008年2月1日をもって終了するとNetscape公式ブログで発表された<ref>[https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20071229/290303/ 【速報】Netscape ブランドのWeb ブラウザの全サポートが終了へ:ITpro]</ref><ref>[https://forest.watch.impress.co.jp/article/2008/01/08/netscape_end.html 窓の杜 - 【NEWS】“Netscape”ブラウザーの開発・サポートが2月1日をもって完全に終了]</ref><ref>[http://blog.netscape.com/2007/12/28/end-of-support-for-netscape-web-browsers/End of Support for Netscape web browsers - The Netscape Blog]</ref>。Netscape公式ブログでは利用者に[[Mozilla Firefox|Firefox]]への移行を促している。その後、NetscapeからFirefoxや[[Flock]]への移行機能を追加する関係から、開発・サポートの終了が1か月延長されることが発表された<ref>[https://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/01/29/18274.html AOL、「Netscape」のサポート期間を3月1日まで延長]</ref><ref>[http://blog.netscape.com/2008/01/28/netscape-browser-support-extended-to-march-1st/Netscape Browser Support extended to March 1st - The Netscape Blog]</ref>。なお、この動きを受けて[[Mozilla Japan]]ではNetscapeからFirefoxや[[Mozilla Thunderbird|Thunderbird]]への移行ガイドを公開している<ref>[http://www.mozilla-japan.org/switch/netscape/Mozilla Japan -Netscape ユーザのためのFirefox/Thunderbird 移行ガイド]</ref>。また、サポート終了後にはNetscape日本語版公式ページ上でも同移行ガイドが紹介された。 ==Netscape Messenger 9== 2007年[[11月15日]]に開発元のブログにおいて、「Netscape Messenger」の名前を冠した[[電子メールクライアント]]の開発の公表と、最初の評価版に当たる9.0α1が公開された<ref>[http://blog.netscape.com/2007/11/15/netscape-messenger-9-alpha-1-released/Netscape Messenger 9 Alpha 1 Released - The Netscape Blog]</ref>。2004年8月の7.2から途絶えていたNetscapeブランドのメールソフトは3年ぶりの復活となった。また、Messengerの名前は、1997年のCommunicator 4.0の頃にメール機能の名称として採用されていた名前であり、2002年の4.78から実に5年ぶりに名称が復活した。 Messenger 9は[[Mozilla Thunderbird]] 2.0.0.9をベースとしており、Navigator 9同様Thunderbird 2.0.0.xの拡張機能をサポートし、Windows以外の環境もサポートした。[[AOL Instant Messenger]]のアドレス帳との統合機能が実装されていた。しかし、AOLがNetscapeの開発終了を宣言したため、Messengerは正式版のリリースがなされることなく役目を終えることとなった。 ===バージョンの変遷=== *[[2007年]][[11月15日]] - Messengerに関する情報が開発元の[[ブログ]]において公開され、α1が公開された。 <!--==推奨ブラウザとしてのNetscape== 第一次[[ブラウザ戦争]]以前はNetscapeが圧倒的な市場シェアを占めていた為、ウェブサイトで[[推奨ブラウザ]]に指定するブラウザといえばNetscapeのことであった。第一次ブラウザ戦争で市場シェアを逆転されるが、それまでの知名度の高さなどを理由に、その後も推奨ブラウザとされたままになっていることが多かった。 Netscapeの7.1までは日本語版が存在しているが、バージョン8以降には無い。そのため日本国内においては推奨ブラウザにNetscape 7.1までのバージョンが指定される事が多かった。またMacintosh版においてはバージョン8そのものが存在しなかったことも7.1を指定するようになった理由となっていた。 しかし、Netscape 7.1が登場してから日本語版での[[セキュリティホール]]は数年間放置されており、ネットスケープコミュニケーションズの日本法人が撤退したこともあり、日本語版の更新は停止したままとなっていた。さらに、Netscape 7.1は末期においても100件以上の脆弱性が存在していると指摘されている<ref>[http://www.mozilla-japan.org/switch/netscape/faq Mozilla Japan - Netscape ユーザのためのFirefox/Thunderbird 移行ガイド - よくある質問]</ref>。このような理由から、Netscape日本語版を[[推奨ブラウザ]]とするのはセキュリティ面で問題が多い。 また英語版のNetscape 8.x系列は、セキュリティフィックスが終了しているFirefox 1.0.xをベースとしていたが、Firefox 1.5.xベースへの移行は1.5のサポート終了期限が発表された後も移行が行われず、アップデートの頻度そのものも長いなど、素早いセキュリティフィックスができているとは言いがたい状況であった。 このため、HTMLレンダリングエンジンにNetscapeと同系統のGeckoが使用されており、かつセキュリティフィックスが継続されている他のブラウザ(Mozilla Firefox、[[Camino]](カミノ)など)への乗換を推奨されることが増加することとなった。 Netscape 9系列ではFirefox 2.0.0.xベースとなり、Netscape 8.x系列の時よりもセキュリティフィックスがすばやく行われるようになったが、2008年2月にはNetscapeが開発サポート停止となることが発表された。その後、乗換ツールを開発する関係から3月まで延長することが発表されたが、サポートの停止が覆るものでないことは乗換ツールの搭載が示しているともいえ、今後新たにNetscapeが推奨される理由は失われた。 既に[[Yahoo!Japan]]の推奨環境からは外されるなど<ref>[http://help.yahoo.co.jp/help/jp/common/sys/sys-01.html Yahoo! JAPAN のページ全般 ヘルプ -Yahoo! JAPAN の推奨ブラウザ]</ref>、NetscapeのかわりにFirefoxなどが推奨環境として記載されることが増えた現在では推奨環境としての役目を終えつつある。 また、Netscape公式ブログで乗換先にFirefoxが推奨されていることなどを受け、Mozilla Japanによりウェブサイト制作者・管理者向けの移行ガイド<ref>[http://www.mozilla-japan.org/switch/netscape/webmaster Mozilla Japan - Netscape ユーザのためのFirefox/Thunderbird 移行ガイド -Web サイト制作者・管理者の方へ]</ref>が公開されるなど、推奨環境をNetscapeからFirefoxに書き換える動きがよりいっそう進みつつある。 なお、HTMLやCSSなどウェブ技術が[[標準化]]([[ウェブ標準]])されたことに伴い、標準仕様に従うすべてのウェブブラウザで閲覧が出来るようにサイトを作成することが求められるようになってきている(求められているのはすべてのブラウザで閲覧できることであり、全く同じ表示にすることではない)。前述のウェブサイト制作者・管理者向けの移行ガイドにおいても、Firefox専用ではなくウェブ標準にのっとったサイト作成を推奨している。このように、推奨ブラウザを記述する場合においてもウェブ標準への準拠が求められるようになってきていることは考慮しておく必要がある。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2|2}} === 出典 === {{reflist|2}} ==関連項目== {{columns-list|3| *[[ネットスケープコミュニケーションズ]] *[[Mosaic]] *[[Mozilla]] *[[Mozilla Firefox]] *[[Camino]] *[[Gecko]] *[[Trident]] *[[ウェブブラウザ]] *[[推奨ブラウザ]] }} ==外部リンク== {{Commonscat}} *[http://browser.netscape.com/ The Netscape Archive]{{リンク切れ|date=2018年12月}} *[http://blog.netscape.com/ The Netscape Blog]{{リンク切れ|date=2018年12月}} {{Netscape プロジェクト}} {{ウェブブラウザ}} {{電子メールクライアント}} {{DEFAULTSORT:Netscapeしりいす}} [[Category:ウェブブラウザ]] [[Category:Netscape|*]] [[Category:Mozilla]] [[Category:クロスプラットフォームのソフトウェア]] [[Category:1994年のソフトウェア]] [[Category:マーク・アンドリーセン]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Netscape%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
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賞の一覧
賞の一覧(しょうのいちらん)は、さまざまな賞の一覧である。 賞は何らかの組織が主に個人に対してその業績を讃えるため、または組織の目的に関連した活動の活性化などを目的として行う。賞の価値は、それを授与する組織によって決まる。副賞として金銭の授与を伴うものもある。
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賞の一覧(しょうのいちらん)は、さまざまな賞の一覧である。 賞は何らかの組織が主に個人に対してその業績を讃えるため、または組織の目的に関連した活動の活性化などを目的として行う。賞の価値は、それを授与する組織によって決まる。副賞として金銭の授与を伴うものもある。
'''賞の一覧'''(しょうのいちらん)は、さまざまな賞の一覧である。 [[賞]]は何らかの組織が主に個人に対してその業績を讃えるため、または組織の目的に関連した活動の活性化などを目的として行う。賞の価値は、それを授与する組織によって決まる。副賞として金銭の授与を伴うものもある。 == 世界的な賞 == === 学術 === {{See also|学術賞}} * [[ノーベル賞]] ** [[ノーベル物理学賞]] ** [[ノーベル化学賞]] ** [[ノーベル生理学・医学賞]] ** [[ノーベル文学賞]] ** [[ノーベル平和賞]] ** [[ノーベル経済学賞]] * [[ウルフ賞]] ** [[ウルフ賞農業部門]] ** [[ウルフ賞化学部門]] ** [[ウルフ賞数学部門]] ** [[ウルフ賞医学部門]] ** [[ウルフ賞物理学部門]] ** [[ウルフ賞芸術部門]] * [[ブレイクスルー賞]] ** [[基礎物理学ブレイクスルー賞]] ** [[生命科学ブレイクスルー賞]] ** [[数学ブレイクスルー賞]] * [[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)]] - 化学、計算機科学・認知科学、地球科学・環境科学、電気工学、生命科学、機械工学、物理学 * [[フィールズ賞]] - 数学 * [[アーベル賞]] - 数学 * [[ネヴァンリンナ賞]] - 情報科学 * [[チューリング賞]] - 情報工学・計算機科学 * [[ゲーデル賞]] - 理論計算機科学 * [[チャールズ・スターク・ドレイパー賞]] - 工学 * [[アルバート・ラスカー医学研究賞|ラスカー賞]] - 医学 * [[ガードナー国際賞]] - 医学 * [[慶應医学賞]] - 医学 * [[ルイザ・グロス・ホロウィッツ賞]] - 生物学、生化学 * [[マックス・プランク・メダル]] - 理論物理学 * [[ジョン・ベイツ・クラーク賞]] - 経済学 * [[バルザン賞]] - 自然科学、人文科学 * [[クラフォード賞]] - 天文学と数学、生物科学、地球科学、または関節炎 * [[ディラック賞]] - 理論物理学・数学 * [[エジソンメダル]] - 電気・電子技術 * [[IEEE栄誉賞]] - 電気・電子技術 * [[ゴードン・ベル賞]] - 電気・電子技術 * [[コプリ・メダル]] - 物理学・生物学 * [[レーウェンフック・メダル]] - 微生物学 * [[ウォラストン・メダル]] - 地質学 * [[カラム地理学メダル]] - 地理学 * [[ウィリアム・ボウイ・メダル]] - 地球物理学 * [[ランフォード・メダル]] - 熱と光の分野 * [[アニー・J・キャノン賞]] - 天文学 * [[エディントン・メダル]] - 天文学 * [[ブルース・メダル]] - 天文学 * [[J・J・サクライ賞]] - 理論物理学 * [[日本国際賞]] * [[京都賞]] ** [[京都賞先端技術部門|先端技術部門]] ** [[京都賞基礎科学部門|基礎科学部門]] ** [[京都賞思想・芸術部門|思想・芸術部門]] * [[フランツ・カフカ賞]] - 文学 * [[ノイシュタット国際文学賞]] - 文学 === 文化・芸能 === * [[プリツカー賞]] - 建築 * [[アカデミー賞]] - 映画 * [[グラミー賞]] - 音楽 * [[トニー賞]] - 演劇・ミュージカル * [[エミー賞]] - テレビ番組 * [[ピューリッツアー賞]] - 報道・文学・音楽 === 環境 === {{See also|環境賞}} === 平和 === {{Main|Category:平和の賞}} * [[インディラ・ガンディー賞]] * [[オットー・ハーン平和メダル]] * [[学生平和賞]] * [[孔子平和賞]] * [[国連平和賞]] * [[シドニー平和賞]] * [[ソウル平和賞]] * [[ライト・ライブリフッド賞]] * [[レーニン平和賞]] === ゲーム === * [[ドイツ年間ゲーム大賞]] - ボードゲーム * [[ドイツゲーム大賞]] - ボードゲーム * [[CEDEC AWARDS]] - デジタルゲーム * [[ゲーム・オブ・ザ・イヤー]] - [[PCゲーム|PC]]・[[コンシューマーゲーム]] ** [[D.I.C.E. Awards]] ** [[英国アカデミー賞ゲーム部門]] ** [[ゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワード]] ** [[ゴールデンジョイスティックアワード]] ** [[The Game Awards]] === その他 === * [[イグノーベル賞]] - 多部門 * [[ユネスコ世宗識字賞]] - 識字率の向上 * [[パブリックアイ賞]] - 企業の不正義や欺瞞を揶揄 * ヘルダー賞 - 文化への貢献。中央ヨーロッパ・南東ヨーロッパの学者や芸術家を対象とする。基本的な位置付けとしては『'''国際文化賞'''』の扱いとなっている * [[世界食糧賞]] - [[食糧]]の質、量、供給力改善への貢献 *[[ダーウィン賞]]-愚かな行為をすることにより生殖能力を失った人に送られる。 == 日本 == === 政府 === * [[内閣総理大臣賞]] * [[文部科学大臣賞]] * [[総務大臣#大臣表彰|総務大臣賞]] * [[厚生労働大臣#厚生労働大臣表彰|厚生労働大臣賞]] * [[防衛大臣#防衛大臣表彰(防衛大臣賞、防衛大臣感謝状を含む)|防衛大臣賞]] * [[法務大臣|法務大臣賞]] * [[外務大臣 (日本)|外務大臣賞]] * [[財務大臣 (日本)|財務大臣賞]] * [[農林水産大臣|農林水産大臣賞]] * [[経済産業大臣|経済産業大臣賞]] * [[国土交通大臣|国土交通大臣賞]] * [[環境大臣|環境大臣賞]] * [[都道府県知事#知事賞|都道府県知事賞]] === 学術 === {{See also|学術賞}} * [[恩賜賞 (日本学士院)]] * [[日本国際賞]] * [[日本学士院賞]] * [[日本学士院エジンバラ公賞]] * [[日本学術振興会賞]] * [[日本医療研究開発大賞]] * [[仁科記念賞]] * [[小柴賞]] * [[湯川・朝永奨励賞]] * [[西宮湯川記念賞]] * [[サントリー学芸賞]] * [[石橋湛山賞]] * [[猿橋賞]] * [[ロレアル-ユネスコ女性科学者 日本奨励賞]] * [[井上学術賞]] * [[日本IBM科学賞]] * [[大川賞]] * [[C&C賞]] * [[マイクロソフトリサーチ日本情報学研究賞]] * [[船井学術賞]] * [[武田賞]] * [[読売・吉野作造賞]] * [[アジア・太平洋賞]] * [[大佛次郎論壇賞]] * [[冲永賞]] * [[亀井勝一郎賞]] * [[河竹賞]] * [[京都賞]] * [[桑原武夫学芸賞]] * [[小林秀雄賞]] * [[島津賞]] * [[新潮学芸賞]] * [[中村元賞]] * [[山川菊栄賞]] * [[山本七平賞]] * [[和辻哲郎文化賞]] === 文芸・芸術・文化 === * [[恩賜賞 (日本芸術院)]] * [[日本芸術院賞]] * [[朝日賞]] * [[毎日芸術賞]] * [[日本アカデミー賞]] ; 作家名が冠されたもの * [[芥川龍之介賞]] * [[鮎川哲也賞]] * [[泉鏡花文学賞]] * [[伊藤整文学賞]] * [[H氏賞]] * [[江戸川乱歩賞]] * [[大宅壮一ノンフィクション賞]] * [[大藪春彦賞]] * [[織田作之助賞]] * [[川端康成文学賞]] * [[菊池寛賞]] * [[小松左京賞]] * [[佐藤愛子奨励賞]] * [[柴田錬三郎賞]] * [[直木三十五賞]] * [[中山義秀文学賞]] * [[松本清張賞]] * [[三島由紀夫賞]] * [[山田風太郎賞]] * [[山本周五郎賞]] * [[横溝正史ミステリ大賞]] * [[吉川英治文学賞]]、[[吉川英治文学新人賞]] ; 純文学誌の賞 * [[群像新人文学賞]] * [[新潮新人賞]] * [[すばる文学賞]] * [[文學界新人賞]] * [[文藝賞]] * [[朝日新人文学賞]] * [[海燕新人文学賞]] ; その他 * [[本屋大賞]] * [[オール讀物新人賞]] * [[小説すばる新人賞]] * [[日本ファンタジーノベル大賞]] * [[日本ホラー小説大賞]] * [[メフィスト賞]] * [[ファウスト賞]] * [[講談社BOX新人賞]] * [[講談社Birth]] * [[電撃ゲーム小説大賞]] * [[スニーカー大賞]] * [[角川小説賞]] * [[京都アニメーション大賞]] - [[京都アニメーション|自社]]の[[KAエスマ文庫]]向け * [[ひろすけ童話賞]] * [[野間文芸賞]]、 [[野間文芸新人賞]]、 [[野間児童文芸賞]] * [[野間文芸翻訳賞]] * [[野間アフリカ出版賞]] * [[講談社ノンフィクション賞]]、 [[講談社エッセイ賞]]、 [[講談社科学出版賞]] * [[SCHOOL OF LOCK!|蒼き賞]] === SF関連の賞 === {{Main|SFの賞一覧}} * [[暗黒星雲賞]] * [[小松左京賞]] * [[星雲賞]] * [[創元SF短編賞]] * [[日本SF新人賞]] * [[日本SF大賞]] * [[ハヤカワ・SFコンテスト]] === 推理小説関連の賞 === {{Main|推理小説の賞}} * [[鮎川哲也賞]] * [[江戸川乱歩賞]] * [[オール讀物推理小説新人賞]] * [[幻影城新人賞]] * [[『このミステリーがすごい!』大賞]] * [[サントリーミステリー大賞]] * [[新潮ミステリー倶楽部賞]] * [[創元推理短編賞]] * [[日本推理作家協会賞]] * [[日本ミステリー文学大賞]] * [[日本ミステリー文学大賞新人賞]] * [[ばらのまち福山ミステリー文学新人賞]] * [[本格ミステリ大賞]] * [[翻訳ミステリー大賞]] * [[ミステリーズ!新人賞]] * [[メフィスト賞]] * [[横溝正史ミステリ大賞]] === マンガ === * 新人登竜門 ** [[赤塚賞]] ** [[アフタヌーン四季賞]] ** [[ちばてつや賞]] ** [[手塚賞]] ** [[なかよし新人まんが賞]] ** [[白泉社アテナ新人大賞]] * 出版社の賞 ** [[講談社漫画賞]] ** [[小学館漫画賞]] ** [[文藝春秋漫画賞]]([[2002年]]をもって廃止) * 公的機関の賞 ** [[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門賞 * その他の賞 ** [[手塚治虫文化賞]] ** [[日本漫画家協会賞]] ** [[国際漫画賞]] ** [[マンガ大賞]] ** ガイマン賞 === アニメーション === * [[日本アカデミー賞アニメーション作品賞]] * [[アニメーション神戸]] * [[東京アニメアワード]] * [[アニメグランプリ]] * [[声優アワード]] * [[大藤信郎賞]] === 写真 === * [[伊奈信男賞]] * [[木村伊兵衛写真賞]] * [[講談社出版文化賞]] * [[さがみはら写真賞]] * [[写真新世紀]] * [[全国高等学校写真選手権大会]] * [[太陽賞]] * [[土門拳賞]] * [[日経ナショナルジオグラフィック|日経ナショナルジオグラフィック写真賞]] * [[林忠彦賞]] * [[東川賞]] * [[フォト・プレミオ]] * [[富士フォトサロン新人賞]] * [[三木淳賞]] * [[民家の甲子園]] * [[Juna 21]] * [[1 WALL]] === 演芸 === * [[上方お笑い大賞]] * [[上方漫才大賞]] * [[ABCお笑い新人グランプリ]] * [[NHK上方漫才コンテスト]] * [[NHK新人演芸大賞]] * [[M-1グランプリ]] * [[キングオブコント]] * [[R-1グランプリ]] * [[女芸人No.1決定戦 THE W]] * [[お笑いホープ大賞]] * 雑誌芸能記者会賞([[ゴールデン・アロー賞]]) === 広告・文化 === * [[講談社出版文化賞]] * [[吉川英治文化賞]] * [[フジサンケイグループ広告大賞]] === ファッション === * [[装苑賞]] * [[毎日ファッション大賞]] * [[ベストドレッサー賞]] * [[日本ジュエリーベストドレッサー賞]] * [[日本メガネベストドレッサー賞]] * [[ベストファーザー賞]] * [[ベストジーニスト賞]] * [[ベスト・ジャージスト]] * [[ネイルクィーン]] === ゲーム === * [[日本ゲーム大賞]] * [[CEDEC AWARDS]] * [[ゲーメスト大賞]] * [[ファミ通・電撃ゲームアワード]] * [[日本ボードゲーム大賞]] === スポーツ === * [[ゴールデングラブ賞|三井ゴールデングラブ賞]] * [[沢村栄治賞]] * [[カムバック賞 (日本プロ野球)]] * [[スピードアップ賞]] * [[スカパー! 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サウジアラビア
サウジアラビア王国(サウジアラビアおうこく、アラビア語: المملكة العربية السعودية)、通称サウジアラビアは、中東・西アジアに位置する絶対君主制国家。首都はリヤド。 世界2位の原油埋蔵量を持つ国であり、世界最大級の石油輸出国でもある。イスラム教最大の聖地メッカ(マッカ)と第2のマディーナ(メディナ)を擁する。世界銀行の定義では高所得国に分類され、アラブ諸国で唯一G20に加盟しているが、産業の多様性には乏しく、天然資源開発が主要産業となっている。 サウジアラビアにおける死刑、また信教の自由などが抑制されている状況など、欧州と異なる文化・法体制に対して国際社会から批判もある。 アラビア文字による正式名称はالمملكة العربية السعودية(翻字: al-mamlakah al-ʿarabīyah al-suʿūdīyah(実際の発音はal-mamlakatu-l-ʿarabīyatu-s-suʿūdīyah), アル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤ(実際の発音はアル=マムラカトゥ・ル=アラビーヤトゥ・ッ=スウーディーヤ、簡略発音はアル=マムラカ・ル=アラビーヤ・ッ=スウーディーヤ 音声))であり、「サウード家のアラビアの王国」を意味する。通称السعودية(al-suʿūdīyah, アッ=スウーディーヤ)。 公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia(キングダム・オヴ・サウディ/ソーディ・アレイビア)。通称 Saudi Arabia([ˌsaʊdi/ˌsɔːdi əˈreɪbiə])。国民・形容詞はSaudi。日本語表記はサウジアラビア、サウジアラビア王国で、サウディアラビアとも表記される。サウジと略して呼ばれることもある。漢字表記は沙地亜剌比亜もしくは沙特阿拉伯、1文字での表記は「沙」。 リヒテンシュタインと同様に、国際連合加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている国家である。 1744年、サウード王家は中央アラビアのナジュド地方に勃興(第一次サウード王国)した。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウードは宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと盟約を結び、新たな国家体制をつくった。これが今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。 続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国やラシード家(英語版)のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した。 第三次サウード王国に当たる現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。 アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー、1921年のハーイル征服(英語版)までにカティーフ、ナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。 一方、1915年にメッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)であったハーシム家のフサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。アブドゥルアズィーズは、1926年までにこのヒジャーズ王国を制圧(サウード家のヒジャーズ征服(英語版))し、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となった。 つづく1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日にはジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認めて、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立した。さらに1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュド、ヒジャーズを統一してサウジアラビア王国が成立した。その後1934年には、サウジ・イエメン戦争がおこりイドリシ朝アシール首長国(英語版)を併合した。 しかし、アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばなかった。1933年にサウジアラムコが設立され、1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史(英語版))。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。 アブドゥルアズィーズは、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図った。1953年にアブドゥルアズィーズが崩御し、次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウード国王の経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトのナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウード国王は退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王として即位した。 1973年、第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアをはじめとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。 1974年、リチャード・ニクソン米大統領とヘンリー・キッシンジャー国務長官がサウジアラビアを訪問してファイサル国王らとの会談でドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を結んでオイルダラーが確立された。 1975年、家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド(英語版)王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。 1979年、イラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。 1982年、ハーリド国王が崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。 1990年、イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。敬虔なイスラム教徒たちは聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。 2005年、ファハド国王が崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。 2015年1月、アブドゥッラー国王が崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。 政体はサウード家による絶対君主制であり、ワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており政教一致体制である。国王(マリク)はワッハーブ派イマームを兼ね、要職は王族が独占している。王族の数が世界最大というギネス世界記録を持つ。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代(国王予定者)まで誕生している。 建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いていたが、ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた。 政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが『憲法』である。同じイスラム教でも、シーア派は敵視されている。 従来は内閣も議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンやシャリーアに則って施行されてきたが、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置された。なお、地方議会は選挙がある。 首相格の閣僚評議会議長は長らく国王が兼任してきたが、第7代国王のサルマンは2022年9月27日に皇太子(英語版)のムハンマド・ビン・サルマーンを閣僚評議会議長に任命した。 国内は13の州に分割されている。勅任の知事(アミール)が就任するがサウード家出身者以外は認められない。 税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税管轄は「所得税およびザカート税省」が担う。属人主義であるシャリーアを基準とするため、サウジアラビア人と外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、外国人には所得税や人頭税を課す。 税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートとワクフ以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところの税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これはオイルマネーで潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものである、とする主張を採用すれば税金のない国となる。近年では、消費税や水道税など新たな税が導入され王族への特権も廃止された。 長らくオイルマネーにより潤沢な国家財政が確保されてきたが、2010年代後半以降、原油価格が下落する局面では、公共事業の見直しなど緊縮財政を余儀なくされ始め、2018年1月1日に5%の付加価値税(VAT)の導入も行われた。加えて2020年前半には、原油価格の暴落と2019新型コロナウイルスの感染拡大に伴う世界的な景気減退が発生。サウジアラビアは同年6月より国際協調の下、原油生産量を削減して原油価格の上昇を図ることとなったが、生産減により生じる財政の穴を埋めるため、同年7月より付加価値税の税率を5%から15%へ引き上げることとなった。 サウジアラビアでは宗教が法律となり、コーランに基づくシャリーア(イスラム法)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、これが数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。近年では、この複雑な法体系の近代化が進められ、大幅に制度改革が実施されている。 司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は、例外的に法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派裁判官(カーディー)による裁判権が認められている。このため一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって、適用される法律が異なる場合もある。ただしシーア派に認められているのは24条にある、刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合には、ワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。 かつては通常の警察組織とは別に、勧善懲悪委員会(宗教警察)が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕されていた。しかし国内外でも不満の声が強くなったことに加え、改革路線を強めるムハンマド・ビン・サルマーン皇太子の意向により宗教警察の逮捕権は縮小された。 原則的に女性と男性は完全に区別されている。公共の場所でのアバヤ(コート)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(ベール)の着用は、一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。女性による自動車の運転も世界で唯一禁止されてきたが(イスラムでは禁じられていない)、2017年9月26日にサルマーン国王が運転を許可する勅令を出し、2018年6月24日解禁された。結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。このシステムは20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。しかしながらこの制度を守っているものは実際には少なくムハンマド・ビン・サルマーン皇太子の改革で徐々に制限が解かれている。2019年8月には男性後見人制度は実質廃止された。 裁判はアラビア語のみで行われ、仮に被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人はイスラム教徒の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない外国人労働者には極めて不利な裁判になる。 酒やポルノ類の持込などに対しては、重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、麻薬、強姦、殺人、同性愛においては死刑となる。また窃盗においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの身体刑を行っている(鞭打ち刑は2020年4月サウジアラビア最高裁により廃止)。裁判についても、被告人が外国人である場合、理解できないアラビア語で公判が進められたりするため、公平でない上、判決を容認しない場合は、弁護士などは資格を剥奪される。これらの法令は西欧各国のメディアにより非難されている。 2005年5月には、スリランカから出稼ぎに来ていたリザナ・ナシカというメイド(事件当時17歳)の与えたミルクが乳児の気管に詰まり、救命措置を取ったにもかかわらず死亡してしまった。これが公判では事故死ではなく殺人であると判定され、死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたにもかかわらず、2013年1月、斬首刑が執行された。 ムハンマドの慣例に従い、9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている。一例として親の借金のかたに結婚させられる8歳の幼女までも存在し、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されている。これに関しては批判も少なくないが、サウジの大ムフティーであるアブドルアジズ・アール=アッシャイフが、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した。 名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。一例として家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男は、名誉殺人と認定され無罪判決が下った。しかしながらサウジの諮問評議会はこれらの問題に対し対策を促しており、幼女との結婚や名誉殺人は一般大衆にも認められていないという点には注意すべきである。また、同性愛の罪で死刑に処せられた者は確認されておらず、斬首もテロリストなどの重罪犯にしか適用されず、窃盗もほぼ全員が5年以下の懲役ですんでいる。最近はハッド刑はなくなってきているともされる。なお、斬首より軽いとされるのが銃殺、その下が一般的な絞首刑である。 2019年末には男女分離政策(レストランなどにおける)の撤廃を宣言した。しかしながら、最近は男女分離撤廃を大衆が自然に遂行している。またディーヤと呼ばれる制度があり、被害者の法定相続人が加害者を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。2020年1月1日には、一日五回の礼拝の時間も(実質24時間)仕事や店の営業を許可した。 保守的なサウジアラビアの司法制度であるが、近年になってからはさまざまな司法制度改革が行われている。まず、建国以来、長年にわたって憲法がなかったが、1993年3月1日に公布された統治基本法が実質的な憲法となった。そして長らくシャリーアでは特許や著作権などの欧米では一般的な権利について認めていなかったが、1989年に特許と著作権に関する法律が施行され、1990年には特許を認定する特許局が設置された。サウジアラビア人の特許が初めて認められたのは1996年のことである。特許は15年間有効とされ、さらに5年間の延長が可能である。ただし、サウジアラビアで公式の暦はヒジュラ暦であり、1年がグレゴリオ暦にくらべて11日ほど短いため、期限切れがグレゴリオ暦のそれよりも若干早く来るという特徴がある。 2007年10月の勅令に始まり、さらに2009年2月14日の勅令で大規模な司法制度改革が行われた。今までの最高司法委員会に代わり最高裁判所、控訴裁判所、普通裁判所が設置され、日本や欧米のような三審制の裁判が行えるようになった。続く2009年2月14日の勅令では大規模な人事異動が実施され、初めての女性副大臣が誕生するなどリベラル派人材への大幅入れ替えが実施されている。 国際人権規約(自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が多々ある。しかし、批判国に対する石油輸出停止などの経済制裁をたびたび実行しているため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっている。また中東有数の親米国家であることから、アメリカ合衆国は、アメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国を牽制している。 基本統治法は第26条で「王国はイスラム法にのっとり人間の権利を保護するものとする」と明文規定するが、ここに定める“人間の権利”とはイスラム法における権利であって、西洋的な「人権」とは異なる概念である。また、雇用主による外国人就労者に対するパスポートの取り上げ(スポンサー制度)も横行しており、国際労働機関から再三にわたり改善勧告を受けている。近年、スポンサー制度を一括管理する民間機関の設置が議論されているが、本格的な実施には至っていない。 2014年2月には、「社会の安全や国家の安定を損なう」全ての犯罪行為、「国家の名声や立場に背く」行為をテロリズムと判じ、処罰対象にする対テロ法を施行した。これにより捜査当局は“容疑者”の尾行や盗聴、家宅捜索が可能になる。ヒューマン・ライツ・ウォッチは「当局がすぐに平和的な反体制活動家に対して新法を利用するだろう」と警鐘を鳴らした。 2020年4月、サウジアラビア最高裁は、「世界の人権基準に合わせる」として、むち打ち刑の廃止を宣言した。 最初に国交を結んだ国はソビエト連邦であったが、サウジアラビア王国自体は反共主義と絶対王政と神権政治であったため、独立後、冷戦時はアメリカ合衆国や旧宗主国イギリスなどの西側諸国と緊密な関係を築いていた(ただし、冷戦時代でもアメリカに無断で中華人民共和国から弾道ミサイルを導入して摩擦もあった)。そのため、サウジアラビアの内政を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、同様にイスラム法をめぐる人権問題が取り上げられている反米国家イランに対する対応とは正反対となっている。 一方で湾岸協力会議やイスラム協力機構の盟主として、湾岸アラブ諸国とイスラム圏(特にスンナ派)に影響力を持つことから、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していなかったが、近年は国交正常化に向けた動きもある。また、両国ともにイランと対立してアメリカやイギリスとの関係が深い共通点があることから協調することもある。また歴史的な関係が深く、ともに王室が存在するスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。なお、タイ王国とはブルーダイヤモンド事件が起きた。さらにウガンダのイディ・アミン、パキスタンのナワーズ・シャリーフ、チュニジアのザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーなどの亡命も受け入れた。 日本とは1970年代に田中角栄の特使で訪問した三木武夫が、親アラブ外交を約束した際の対日石油供給制限解除以来、日本最大の原油輸入先なこともあって経済的に密接な関係にある。一方でサウジアラビア王国とは文化の大きな違いがあるため、宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重であるが、経済的理由からサウジアラビア王国とのつながりを深めたい内閣などの強い要望で、天皇徳仁が皇太子時代に複数回訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問している。 シーア派のイランとは、同じ君主制で比較的友好関係にあったパフラヴィー朝を打倒したイスラム革命後に激しい敵対関係となり、イラン・イラク戦争ではスンニ派のイラクのサッダーム・フセイン政権をサウジアラビアは湾岸アラブ諸国を主導して支援し、湾岸戦争が起きる1991年まで外交関係もなかった。2016年1月2日にはサウジアラビア王国がシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃され、その際イランとの国交を断絶した。なお、これにバーレーン、スーダンも続いてイランとの断交を表明した。 しかし、2023年3月に中国の仲介によってイランと国交正常化で合意している。同年6月6日、両国は大使館を7年ぶりに再開させた。イランのビクデリ副外相は「イランとサウジにとって歴史的な日だ。地域の安定や繁栄、発展に向けた協力が進むだろう」と語った。 また、イランの同盟国でシーア派に近いアラウィー派であるシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。さらにシリアに軍事基地を置くロシアとの関係も、冷戦時代のソ連のアフガニスタン侵攻やチェチェン紛争、シリア内戦でムジャヒディンの反政府組織を支援したこともあって親密ではない。 基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」(マスジド・ハラームと預言者のモスク)、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。 アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。安全保障政策では西側諸国と歩調を揃えているが、中国が主導する上海協力機構にも参加している。 装備も西側諸国のものだけでなく、例えば中国からは弾道ミサイルのDF-3と無人攻撃機の翼竜や彩虹4、自走砲のPLZ-45(英語版)を導入している。また、軍部と軍事産業との汚職もあり、特に、駐米大使を長く務めたバンダル・ビン・スルターン王子(当時国防大臣だったスルターン皇太子の息子 2012年から2014年まで総合情報庁長官)は1982年のF15の輸入に際してアメリカ議会で強力なロビー活動を展開し、またBAEシステムズとの400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている。2011年の軍事支出は485億USドルと若干の増加傾向にある。 使用する兵器の大半は輸入に頼っているが、国産のファハド装甲車や無人機を生産するなど、工業基盤の成熟に伴い兵器の国産化を始めている。湾岸戦争とイラク戦争では後方基地としての役目を担っていた。なお志願制であり、職業軍人によって構成されている。 アラビア半島の大部分を占め、紅海、ペルシア湾に面する。中東地域においては面積が最大級である。北はクウェート、イラク、ヨルダン、南はイエメン、オマーン、アラブ首長国連邦、カタールと国境を接する。 かつては、イエメン、オマーン、アラブ首長国連邦との国境線は大部分が未画定であったが、2000年までにすべて画定した。アラブ首長国連邦との国境は1974年の条約(英語版)によって一時画定し、これによりサウジアラビアはアル・アイン周辺の数ヶ村をアラブ首長国連邦へ譲り渡す代わりにカタールとアブダビとの間のペルシア湾に面した地域の割譲を受けて、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。 クウェートおよびイラク(英語版)との国境は、1922年のオカイル議定書によって画定されたが、このときの国境には、両国の間に中立地帯が設けられていた。クウェートとの中立地帯は1970年に、イラクとの中立地帯は1991年に消滅した。 国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ山地から南東のアシール山地)があり、標高2500m前後に達する。その間のマッカ州、バーハ州、アスィール州にかけては標高2000mを超える高原地帯が広がっている。南部には国内最高地点であるサウダ山(英語版)(標高3313m)がそびえる。 気候は砂漠気候で夏は平均45°C、春と秋は29°Cで、冬はまれに零下になり、標高2000mの高原地帯では過去に積雪も観測されている。ジッダやダンマームなどの沿岸部は高温多湿、リヤドなどの内陸部は高温乾燥となり内陸部は昼夜の気温差が大きい。標高1500~2200mに位置するターイフ、ハミース・ムシャイト、アブハー、バーハなどが位置する高原地帯は避暑地となり快適な気候となる。インド洋モンスーンの影響を受けるバーハ州、アスィール州は降水量が多く、年間降水量が200mm~500mmに達する。 国内には13の州があるが、知事は、すべて王族が勅任されている。 西部にはイスラム教の2大聖地であるメッカとマディーナがあり、世界各地から巡礼者が訪れる。2007年からは非ムスリムに対しても団体ツアーのみ観光ビザが発行されるようになった。個人には発行されていなかったが、2019年9月28日より個人旅行者に対しても観光ビザが発行されるようになった。2019年9月28日以前について、個人入国を認める査証は巡礼(巡礼ビザ、ムスリムのみ)か政府や各種団体(外交官ビザ、公用ビザ)、現地企業の招聘による仕事(商用短期訪問ビザ)、サウジアラビア在留者の家族(家族訪問ビザ)の場合のみ発行されていた。女性は既婚者が原則で夫または男性の近親者同伴、単独の場合は30歳以上であることが条件。 国営航空会社のサウジアラビア航空が世界各国を結んでいる他、外国航空会社がリヤードやジッダなどの主要都市に乗り入れている。 世界で唯一女性が自動車を運転することが禁止されていた国であるが、2017年9月に解禁される方針が発表された(法的に禁止しているわけではないが運転免許の発給がされず、社会通念的にも運転は禁止されていると見なされた)。ただし、女性が財産として自動車を所有することは禁止されていない。このため、女性が自動車を利用する場合は運転手を雇うか、親族男性に運転してもらわなければならなかった。政府の統計によると、サウジアラビアの家庭が雇う男性運転手の数は約140万人で、多くは海外からの出稼ぎ労働者であった。そして、2018年6月24日女性の運転が解禁された。 鉄道ではかつてはヒジャーズ鉄道が運行されていたが現在は廃止になっている。現代はサウジアラビア鉄道公社によってリヤド - ダンマーム間に旅客路線が運行されている。またハラマイン高速鉄道が建設されている。その他都市鉄道としてメッカにメッカ・メトロが運行され、リヤドでもリヤド・メトロの建設が進められている。ガルフ鉄道構想もある。 2015年のGDPは約6,320億ドルであり、日本の近畿地方よりやや小さい経済規模である。同年の一人当たりGDPは2万138ドルである。サウジアラビアはG20の一員であり、2024年1月1日からはBRICSにも加盟する。巨大企業はサウディア、サウジアラムコ、サウジ基礎産業公社、キングダム・ホールディング・カンパニー、サウディ・ビンラディン・グループ、パブリック・インベストメント・ファンドなど、石油関連の国営や王族が経営する企業であり、純粋な株式会社は少ない。 OPECの盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約75%を占めている)となっている他、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。中央銀行は1952年に設立された通貨庁であり、ソブリン・ウエルス・ファンド(政府系投資ファンド)としても知られている。金融センターとしても整備されており著名な投資家も多いが、2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、首都リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタール、バーレーンと比較するとまだ出遅れている。 製造業などは小規模なものしか存在していない。巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていなかったことから観光業は低調であり、メッカの巡礼者を相手にするだけであった。こうした状況を打開するために、ムハンマド・ビン・サルマーンが中心となり、一般向けの観光ビザの解禁による観光産業、外国資本受け入れによるIT産業、半導体製造など新たな産業を育成する改革プラン「ビジョン2030」を打ち出すなどしているが、法整備の遅れなどにより天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない。 サウジアラビアの水資源は、古くはオアシスなどの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地メッカではザムザムの泉と呼ばれる湧水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。汲み上げられる地下水は、アラビア半島が湿潤だった1万年以上前に降った雨水が地下の帯水層に閉じこめられた化石水であり、今後補給されることはほぼない。このため各地の井戸では水位の低下が深刻化し、現在のペースで水を使い続ければ、地下水資源は2040年までに枯渇すると予測されている。 サウジアラビアは世界最大の海水淡水化プラント稼働国である。その多くは省エネの逆浸透法 (RO:Reverse Osmosis) 海水淡水化プラントであり自力で建設し自国に逆浸透膜 (RO膜) 工場をつくるなど特にサウジ政府は力を入れている。その88%は農業用水で残りは工業用水と飲料水に使われている。20余りの主要都市に人口の80%が集中し、都市部ではオアシスや地下水の水源だけでは全く不足するため、海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。アシュベールにある世界最大のプラントは毎日100万トンを生産しており、国全体では年間で12億2千万立方メートルの水を海水淡水化によって得ている。プラントの多くは1970~1980年代に建設されており、2000年ごろから多くのプラントが老朽化を迎え始め、メンテナンスと建て替えのために多くの事業が日本を始めとする海外へ発注されている。 主要都市では下水を再処理して都市周辺の農業用水に回すための浄化施設がある。海水淡水化プラントから供給される水は1リットルあたり2リヤルのコストがかかり、さらに内陸部へ送水するのに1 - 2リヤルのコストがかかるため、大変に高価な水である。しかし、水道代は10トン1リヤルほどで、一般家庭の水道代が1か月4リヤルを超えることはあまりない。送水設備とコストの関係から主要都市部以外への送水はあまり活発ではなく、地方では古来からの井戸とオアシスの水源に頼っている。地方の内陸都市などではダムをつくり雨水をためてそれを使っており、リヤドの真ん中を通るワディ・ハニーファもダムなどによって川と化している。海水淡水化プラント自体は、サウジ国内で15から20箇所ほどあるとされる。 リヤドなど内陸部でも毎年冬場になると数日は雨が降る。ただ、砂漠気候であるため、降雨はわずかな期間に集中、数日経てば再び乾燥するため水資源としての価値はない。近年になってからは降雨量は増加傾向にあり、雨が降ると都市の低地が水没するようになっている。もともと砂漠であるため都市部には排水路などの水害対策の設備が全くなく、毎年水害によって数十人の死者が出ている。膨大な地下水のくみ上げと淡水化プラントによって総雨量を超えるほどの水が使用されていることが原因ではないかと言われており、実際にここ20年あまりでサウジアラビアの気候が穏やかになってきている。 広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、サウード家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にもかかわらずサウジアラビア人という民族意識の形成には至っていない。部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している。しかしながら、アラビア半島諸国の統一とオスマンへの反逆をワッハーブ運動の名の下成功させたという点では、サウジ人という意識もあり国民国家とも呼べる。 概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」(部族対立)、「どの地方の出身か」(地方対立)、「どの宗派を信じるか」(宗派対立)、「どの階級に属するか」(階級対立)で、自らを認識しているという。 統計局が発表した、2010年の人口統計は27,136,977人で、サウジアラビア国籍が18,707,576人と全体の69%に過ぎず、外国人が8,429,401人となっており、総人口の31%が外国人労働者である。最も多い外国人はインド人とパキスタン人でそれぞれ130万~150万人に達する。次いで、エジプト人、イエメン人、バングラデシュ人、フィリピン人、ヨルダン人、インドネシア人、スリランカ人、スーダン人などが多くなっている。労働省によると、登録されている家庭内労働者120万人のうち、女性48万人がメイド(アラビア語:خادمة)として登録されている。 言語は公用語が古典アラビア語で、日常生活での共通口語は、サウジアラビアの現代口語アラビア語変種である。 外国人労働者の母語として、いくつかの言語が話されている。 宗教はイスラム教スンナ派が国教である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地であるメッカがあるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。 このため、サウジアラビア国民はイスラム教徒が100%であると公表されているが、これは他の宗派や宗教の存在を公式に認めていないという建前上の見解によるものである。実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、財団法人中東経済研究所の調査によると、シーア派はイランと地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定されている。また、イエメンに近い南部のアブハーなどもシーア派(イスマーイール派、ザイド派)が多いとみられる。アメリカ合衆国中央情報局による統計では、スンナ派が85~90%、シーア派が10~15%と推計されている。 多数のシーア派の居住する東部地方は、アハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地である。初代国王アブドルアジーズは東部州を併合するのに際しシーア派住民による一定の自治を認めたが、時代と共に自治権を奪われ名目上は存在しないことにされてしまったという経緯がある。このため、長年にわたりシーア派の宗教機関は非合法な存在とされてきた。湾岸戦争以降は、反体制運動を行っていたシーア派を容認、和解した。 湾岸戦争以降は、他の宗派を容認する方向へ方針転換を行い、法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認めている。近年では、他宗教の信仰も限定的ながら解禁されてきている。しかし、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている。また、他宗教の容認は国政の一層のイスラーム化を求めるイスラム原理主義への改革運動の激化を引き起こし、サウジアラビア人によるイスラーム主義武装闘争派のテロを引き起こした。このため、各個人や集団による私的なジハードを禁止するために、国王の勅令がなければ禁止とする法令が出された。 国民の4%はキリスト教徒だとも言われているが、内務省の統計では外国人居住者(数十万人のアメリカ軍関係者と外国人)もキリスト教徒に含まれている。近年では宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進み、国民が宗教的な指導に従わなくなってきており、宗教指導者がハラーム(禁忌)であるとファトワー(宗教見解)を出したものの、多くの民衆が禁忌に従わず利用を継続することが珍しくなくなった。代表的なものとしてポケモン、バレンタインデー、クリスマスなどがある。 民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である勧善懲悪委員会による取り締まりを過激化させる傾向にある。このような過激な発言がニュースで配信されたりしてネット上で話題になることがあるが、発言と実情がかけ離れていることが多い。2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている。 サウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議は長年にわたりワッハーブ派が独占してきたが、近年になって近い宗派であるシャーフィイー学派がわずかに参加するようになり、2009年2月14日に21名に増員されるとハナフィー学派とマーリク学派のウラマーも入った。これによってサウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議がワッハーブ派の独占ではなくなりスンナ派の四大法学派が全てそろったことになる。 アラブ社会に近現代日本のような姓は存在しない。その代わりに といった形でその人物の出自が示され、これらがフルネームとして扱われている。 このうち本人のファーストネーム以降の部分を非アラブ諸国における姓・苗字/名字・家名に相当する部分として用いるため、サウジ人を含むアラブ人のラストネームは本人の父もしくはそれ以前の祖先の名前や一族が所属する部族の名前(多くは遠い父祖の名前由来)になっていることが一般的である。 これらは出自表示であり姓とは異なるため、結婚時に夫のラストネーム・家名に変更するといった改姓を行う習慣は存在せず、いわゆる夫婦別姓とは異なる概念となっている。いくつかのアラブ諸国では西洋風に結婚後夫のラストネームを名乗ることも行われているが、サウジアラビアでは一般的ではない。 イスラム教を国教とする祭政一致国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。初等教育の段階でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制のサウジアラビア王立科学技術大学(英語版) (KAUST) が、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。また、シーア派を邪教とする教育が、シーア派を含むすべての国民に対して長らく行われてきたとされる。 2008年10月29日、これまで女性が学ぶことが困難であった医学、経営学、外国語などを教えるサウジアラビア初の女性専用の総合大学を創設することが国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードによって決定され、リヤド郊外で起工式が行われた。 女子がスポーツを行う機会は限られており、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「公教育で女子の体育を禁じている唯一の国」として批判している。サウジアラビア教育省は、2013年5月、一部私立校で女子の体育の授業を認めると発表した。2012年のロンドンオリンピックに、初めて女性選手を送るなど、近年、僅かながらではあるが女子のスポーツへの門戸が徐々に開かれている。 サウジアラビア国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1976年に創設された『サウジ・プロフェッショナルリーグ』は、アジアの中でもレベルの高いリーグとして知られており、近年では、クリスティアーノ・ロナウドやネイマールをはじめとした世界的に有名な選手が数多く同国のリーグに移籍している。AFCチャンピオンズリーグにおいては、アル・ヒラルが大会最多4度の優勝を達成している。 サッカーサウジアラビア代表はアジア地域における強豪として知られており、AFCアジアカップでは3度の優勝を誇る。FIFAワールドカップには1994年大会で初出場して以降、完全に常連として定着しており6回の出場を果たしている。さらにキング・ファハド・カップ(現:コンフェデレーションズカップ)では、1992年大会で準優勝に輝いている。 また、過去には女性がスタジアムでサッカー観戦する事が禁止されていたが、2018年以降はアクリル板で区切るなどの条件付きで解禁されている。さらに2021年にはサッカーサウジアラビア女子代表(英語版)が新設され、2022年2月20日に初めてサッカーセーシェル女子代表(英語版)との国際試合が行われた。 クリケットはサッカーに次いで、サウジアラビア国内で2番目に人気のスポーツである。国内競技連盟であるサウジアラビアクリケット連盟 (SACF) の本部はリヤドに所在しており、クリケットの試合を管理するためにスポーツ省に登録されている唯一の法人である。2003年に国際クリケット評議会に加盟し、2016年に準会員に昇格した。クリケットが圧倒的に人気のある地域である南アジア出身の外国人労働者が、同国の人口を部分的に占めていることもクリケット人気の要因の一つである。国内には100以上のクリケット場があり、370の登録されたクリケットクラブがある。 バスケットボールは、サウジアラビアで人気のスポーツの一つある。バスケットボール・サウジ・プレミアリーグ(英語版)には、FIBA男子アジアカップ(旧:FIBAアジア選手権)に出場する選手も所属しており、マクムード・アブドゥル=ラウーフのようにNBAでプレーした選手も所属するようになっている。他方で、2021年よりF1世界選手権のサウジアラビアGP(ジッダ市街地コース)なども開催されている。 1965年からテレビ放送が始まったが、宗教指導者がテレビに対して否定的見解を示しているため、現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある。娯楽番組の視聴には衛星放送が広く利用されており、同じアラビア語圏の番組が衛星放送を利用して視聴されている。近年では国営放送でも日本のアニメを放送するなど非常に軟化した態度を示すようになったが、これに反発した宗教指導者が2001年にポケモン禁止令を出した。しかし、数年後に事件が鎮火すると再び放送されており、ポケモン禁止直後にデジモンアドベンチャーが放送されるなど放送業界は柔軟な態度を示している。近年ではインターネットによる視聴も多いが、違法にアップロードされた海賊版も多い。 派手なライフスタイルで知られる米国人のパリス・ヒルトンがサウジアラビアなどの中東でのみファッションブランドを展開し、その店舗はイスラム教の聖地メッカにも進出しているという事実があり、一般の欧米人よりも派手で身体の露出の大きい衣服を売り物にしたファッションブランドが女性に人気という側面がある。創作においてもイスラム教の戒律に配慮した表現が求められるが、美少女フィギュアについては水着の着せ替えパーツは不可だが膝上スカートは可など独特の基準が存在する。近年ではムハンマド・ビン・ナーイフが推進する経済政策の一環として娯楽への制限が緩和されつつある。また、ムハンマド・ビン・サルマーンは石油に代わる産業としてエンターテインメント産業を育成するため、自身の財団傘下のアニメ制作会社と日本の共同制作の劇場作品を手がけるなどしている。また、イベントのノウハウを学ぶため、定期的に大規模イベントを開催している。 インターネットの規制が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている。国内ではアラビア語の出会い系サイトやSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが、親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。 厳重な報道管制と言論統制が敷かれており、当局が許可した書籍でなければ販売することが出来ない。特に王族に関する批判的な書籍は検閲で発売を禁じられ、世界の長者番付が掲載されアブドゥッラー現国王の資産が公開されたビジネス誌『フォーブス』は国内発禁となるなど不敬規定がある。内政に関する外国マスメディアの取材も大幅に制限され、日本ではNHK『クローズアップ現代』が2006年12月にようやく許された程度である。 しかし、2007年にはサウジアラビアの女性を主人公にした小説「リヤドの女たち」の発禁処分が解かれ、ベストセラーになるなど少しずつ自由化してきている。厳しい検閲が実施されているが、出版の抜け道としてメールマガジンがある。メールの送信は出版とはみなされていないため、紙に印刷されないメールマガジンによる発行は合法とされている。リヤドの女たちも元はメールマガジンで発行されていた小説だった。 出版物に関する著作権は著作権審議委員会によって管理されており、カーディ裁判は著作権問題による訴えを扱わないため、著作権侵害があった場合は民事訴訟などではなく委員会に申し立てることになっている。ただし、申し立てが出来るのは検閲による許可を受けている出版物のみで、日本や欧米のように無条件に著作物に著作権があるわけではない。 2018年4月20日、約35年ぶりに映画が一般向けに上映された(映画自体はDVDやブルーレイで視聴でき、設備を備えた文化センターのような施設がありたびたび上映されていた)。1980年代には、映画館を低俗で罪深いものと非難する宗教界の保守強硬派の働きかけを受け、国内の映画館を閉鎖していた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "サウジアラビア王国(サウジアラビアおうこく、アラビア語: المملكة العربية السعودية)、通称サウジアラビアは、中東・西アジアに位置する絶対君主制国家。首都はリヤド。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界2位の原油埋蔵量を持つ国であり、世界最大級の石油輸出国でもある。イスラム教最大の聖地メッカ(マッカ)と第2のマディーナ(メディナ)を擁する。世界銀行の定義では高所得国に分類され、アラブ諸国で唯一G20に加盟しているが、産業の多様性には乏しく、天然資源開発が主要産業となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "サウジアラビアにおける死刑、また信教の自由などが抑制されている状況など、欧州と異なる文化・法体制に対して国際社会から批判もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アラビア文字による正式名称はالمملكة العربية السعودية(翻字: al-mamlakah al-ʿarabīyah al-suʿūdīyah(実際の発音はal-mamlakatu-l-ʿarabīyatu-s-suʿūdīyah), アル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤ(実際の発音はアル=マムラカトゥ・ル=アラビーヤトゥ・ッ=スウーディーヤ、簡略発音はアル=マムラカ・ル=アラビーヤ・ッ=スウーディーヤ 音声))であり、「サウード家のアラビアの王国」を意味する。通称السعودية(al-suʿūdīyah, アッ=スウーディーヤ)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia(キングダム・オヴ・サウディ/ソーディ・アレイビア)。通称 Saudi Arabia([ˌsaʊdi/ˌsɔːdi əˈreɪbiə])。国民・形容詞はSaudi。日本語表記はサウジアラビア、サウジアラビア王国で、サウディアラビアとも表記される。サウジと略して呼ばれることもある。漢字表記は沙地亜剌比亜もしくは沙特阿拉伯、1文字での表記は「沙」。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "リヒテンシュタインと同様に、国際連合加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている国家である。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1744年、サウード王家は中央アラビアのナジュド地方に勃興(第一次サウード王国)した。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウードは宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと盟約を結び、新たな国家体制をつくった。これが今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国やラシード家(英語版)のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "第三次サウード王国に当たる現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー、1921年のハーイル征服(英語版)までにカティーフ、ナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方、1915年にメッカ(マッカ)の太守(シャリーフ)であったハーシム家のフサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国した(アラブ反乱)。アブドゥルアズィーズは、1926年までにこのヒジャーズ王国を制圧(サウード家のヒジャーズ征服(英語版))し、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "つづく1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日にはジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認めて、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立した。さらに1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュド、ヒジャーズを統一してサウジアラビア王国が成立した。その後1934年には、サウジ・イエメン戦争がおこりイドリシ朝アシール首長国(英語版)を併合した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかし、アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばなかった。1933年にサウジアラムコが設立され、1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史(英語版))。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アブドゥルアズィーズは、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図った。1953年にアブドゥルアズィーズが崩御し、次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウード国王の経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトのナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウード国王は退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王として即位した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1973年、第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアをはじめとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1974年、リチャード・ニクソン米大統領とヘンリー・キッシンジャー国務長官がサウジアラビアを訪問してファイサル国王らとの会談でドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を結んでオイルダラーが確立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1975年、家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド(英語版)王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1979年、イラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1982年、ハーリド国王が崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1990年、イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。敬虔なイスラム教徒たちは聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2005年、ファハド国王が崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2015年1月、アブドゥッラー国王が崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "政体はサウード家による絶対君主制であり、ワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており政教一致体制である。国王(マリク)はワッハーブ派イマームを兼ね、要職は王族が独占している。王族の数が世界最大というギネス世界記録を持つ。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代(国王予定者)まで誕生している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いていたが、ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが『憲法』である。同じイスラム教でも、シーア派は敵視されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "従来は内閣も議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンやシャリーアに則って施行されてきたが、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置された。なお、地方議会は選挙がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "首相格の閣僚評議会議長は長らく国王が兼任してきたが、第7代国王のサルマンは2022年9月27日に皇太子(英語版)のムハンマド・ビン・サルマーンを閣僚評議会議長に任命した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "国内は13の州に分割されている。勅任の知事(アミール)が就任するがサウード家出身者以外は認められない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税管轄は「所得税およびザカート税省」が担う。属人主義であるシャリーアを基準とするため、サウジアラビア人と外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、外国人には所得税や人頭税を課す。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートとワクフ以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところの税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これはオイルマネーで潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものである、とする主張を採用すれば税金のない国となる。近年では、消費税や水道税など新たな税が導入され王族への特権も廃止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "長らくオイルマネーにより潤沢な国家財政が確保されてきたが、2010年代後半以降、原油価格が下落する局面では、公共事業の見直しなど緊縮財政を余儀なくされ始め、2018年1月1日に5%の付加価値税(VAT)の導入も行われた。加えて2020年前半には、原油価格の暴落と2019新型コロナウイルスの感染拡大に伴う世界的な景気減退が発生。サウジアラビアは同年6月より国際協調の下、原油生産量を削減して原油価格の上昇を図ることとなったが、生産減により生じる財政の穴を埋めるため、同年7月より付加価値税の税率を5%から15%へ引き上げることとなった。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "サウジアラビアでは宗教が法律となり、コーランに基づくシャリーア(イスラム法)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、これが数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。近年では、この複雑な法体系の近代化が進められ、大幅に制度改革が実施されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は、例外的に法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派裁判官(カーディー)による裁判権が認められている。このため一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって、適用される法律が異なる場合もある。ただしシーア派に認められているのは24条にある、刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合には、ワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "かつては通常の警察組織とは別に、勧善懲悪委員会(宗教警察)が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕されていた。しかし国内外でも不満の声が強くなったことに加え、改革路線を強めるムハンマド・ビン・サルマーン皇太子の意向により宗教警察の逮捕権は縮小された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "原則的に女性と男性は完全に区別されている。公共の場所でのアバヤ(コート)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(ベール)の着用は、一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。女性による自動車の運転も世界で唯一禁止されてきたが(イスラムでは禁じられていない)、2017年9月26日にサルマーン国王が運転を許可する勅令を出し、2018年6月24日解禁された。結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。このシステムは20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。しかしながらこの制度を守っているものは実際には少なくムハンマド・ビン・サルマーン皇太子の改革で徐々に制限が解かれている。2019年8月には男性後見人制度は実質廃止された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "裁判はアラビア語のみで行われ、仮に被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人はイスラム教徒の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない外国人労働者には極めて不利な裁判になる。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "酒やポルノ類の持込などに対しては、重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、麻薬、強姦、殺人、同性愛においては死刑となる。また窃盗においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの身体刑を行っている(鞭打ち刑は2020年4月サウジアラビア最高裁により廃止)。裁判についても、被告人が外国人である場合、理解できないアラビア語で公判が進められたりするため、公平でない上、判決を容認しない場合は、弁護士などは資格を剥奪される。これらの法令は西欧各国のメディアにより非難されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2005年5月には、スリランカから出稼ぎに来ていたリザナ・ナシカというメイド(事件当時17歳)の与えたミルクが乳児の気管に詰まり、救命措置を取ったにもかかわらず死亡してしまった。これが公判では事故死ではなく殺人であると判定され、死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたにもかかわらず、2013年1月、斬首刑が執行された。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ムハンマドの慣例に従い、9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている。一例として親の借金のかたに結婚させられる8歳の幼女までも存在し、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されている。これに関しては批判も少なくないが、サウジの大ムフティーであるアブドルアジズ・アール=アッシャイフが、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。一例として家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男は、名誉殺人と認定され無罪判決が下った。しかしながらサウジの諮問評議会はこれらの問題に対し対策を促しており、幼女との結婚や名誉殺人は一般大衆にも認められていないという点には注意すべきである。また、同性愛の罪で死刑に処せられた者は確認されておらず、斬首もテロリストなどの重罪犯にしか適用されず、窃盗もほぼ全員が5年以下の懲役ですんでいる。最近はハッド刑はなくなってきているともされる。なお、斬首より軽いとされるのが銃殺、その下が一般的な絞首刑である。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2019年末には男女分離政策(レストランなどにおける)の撤廃を宣言した。しかしながら、最近は男女分離撤廃を大衆が自然に遂行している。またディーヤと呼ばれる制度があり、被害者の法定相続人が加害者を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。2020年1月1日には、一日五回の礼拝の時間も(実質24時間)仕事や店の営業を許可した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "保守的なサウジアラビアの司法制度であるが、近年になってからはさまざまな司法制度改革が行われている。まず、建国以来、長年にわたって憲法がなかったが、1993年3月1日に公布された統治基本法が実質的な憲法となった。そして長らくシャリーアでは特許や著作権などの欧米では一般的な権利について認めていなかったが、1989年に特許と著作権に関する法律が施行され、1990年には特許を認定する特許局が設置された。サウジアラビア人の特許が初めて認められたのは1996年のことである。特許は15年間有効とされ、さらに5年間の延長が可能である。ただし、サウジアラビアで公式の暦はヒジュラ暦であり、1年がグレゴリオ暦にくらべて11日ほど短いため、期限切れがグレゴリオ暦のそれよりも若干早く来るという特徴がある。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2007年10月の勅令に始まり、さらに2009年2月14日の勅令で大規模な司法制度改革が行われた。今までの最高司法委員会に代わり最高裁判所、控訴裁判所、普通裁判所が設置され、日本や欧米のような三審制の裁判が行えるようになった。続く2009年2月14日の勅令では大規模な人事異動が実施され、初めての女性副大臣が誕生するなどリベラル派人材への大幅入れ替えが実施されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "国際人権規約(自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が多々ある。しかし、批判国に対する石油輸出停止などの経済制裁をたびたび実行しているため、これらの報復を恐れて国交断絶や経済制裁などを発動する先進国は皆無となっている。また中東有数の親米国家であることから、アメリカ合衆国は、アメリカ中央軍の部隊を駐留させて中東の反米諸国を牽制している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "基本統治法は第26条で「王国はイスラム法にのっとり人間の権利を保護するものとする」と明文規定するが、ここに定める“人間の権利”とはイスラム法における権利であって、西洋的な「人権」とは異なる概念である。また、雇用主による外国人就労者に対するパスポートの取り上げ(スポンサー制度)も横行しており、国際労働機関から再三にわたり改善勧告を受けている。近年、スポンサー制度を一括管理する民間機関の設置が議論されているが、本格的な実施には至っていない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2014年2月には、「社会の安全や国家の安定を損なう」全ての犯罪行為、「国家の名声や立場に背く」行為をテロリズムと判じ、処罰対象にする対テロ法を施行した。これにより捜査当局は“容疑者”の尾行や盗聴、家宅捜索が可能になる。ヒューマン・ライツ・ウォッチは「当局がすぐに平和的な反体制活動家に対して新法を利用するだろう」と警鐘を鳴らした。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2020年4月、サウジアラビア最高裁は、「世界の人権基準に合わせる」として、むち打ち刑の廃止を宣言した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "最初に国交を結んだ国はソビエト連邦であったが、サウジアラビア王国自体は反共主義と絶対王政と神権政治であったため、独立後、冷戦時はアメリカ合衆国や旧宗主国イギリスなどの西側諸国と緊密な関係を築いていた(ただし、冷戦時代でもアメリカに無断で中華人民共和国から弾道ミサイルを導入して摩擦もあった)。そのため、サウジアラビアの内政を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、同様にイスラム法をめぐる人権問題が取り上げられている反米国家イランに対する対応とは正反対となっている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "一方で湾岸協力会議やイスラム協力機構の盟主として、湾岸アラブ諸国とイスラム圏(特にスンナ派)に影響力を持つことから、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していなかったが、近年は国交正常化に向けた動きもある。また、両国ともにイランと対立してアメリカやイギリスとの関係が深い共通点があることから協調することもある。また歴史的な関係が深く、ともに王室が存在するスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。なお、タイ王国とはブルーダイヤモンド事件が起きた。さらにウガンダのイディ・アミン、パキスタンのナワーズ・シャリーフ、チュニジアのザイン・アル=アービディーン・ベン=アリーなどの亡命も受け入れた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "日本とは1970年代に田中角栄の特使で訪問した三木武夫が、親アラブ外交を約束した際の対日石油供給制限解除以来、日本最大の原油輸入先なこともあって経済的に密接な関係にある。一方でサウジアラビア王国とは文化の大きな違いがあるため、宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重であるが、経済的理由からサウジアラビア王国とのつながりを深めたい内閣などの強い要望で、天皇徳仁が皇太子時代に複数回訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問している。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "シーア派のイランとは、同じ君主制で比較的友好関係にあったパフラヴィー朝を打倒したイスラム革命後に激しい敵対関係となり、イラン・イラク戦争ではスンニ派のイラクのサッダーム・フセイン政権をサウジアラビアは湾岸アラブ諸国を主導して支援し、湾岸戦争が起きる1991年まで外交関係もなかった。2016年1月2日にはサウジアラビア王国がシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃され、その際イランとの国交を断絶した。なお、これにバーレーン、スーダンも続いてイランとの断交を表明した。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかし、2023年3月に中国の仲介によってイランと国交正常化で合意している。同年6月6日、両国は大使館を7年ぶりに再開させた。イランのビクデリ副外相は「イランとサウジにとって歴史的な日だ。地域の安定や繁栄、発展に向けた協力が進むだろう」と語った。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "また、イランの同盟国でシーア派に近いアラウィー派であるシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。さらにシリアに軍事基地を置くロシアとの関係も、冷戦時代のソ連のアフガニスタン侵攻やチェチェン紛争、シリア内戦でムジャヒディンの反政府組織を支援したこともあって親密ではない。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」(マスジド・ハラームと預言者のモスク)、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。安全保障政策では西側諸国と歩調を揃えているが、中国が主導する上海協力機構にも参加している。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "装備も西側諸国のものだけでなく、例えば中国からは弾道ミサイルのDF-3と無人攻撃機の翼竜や彩虹4、自走砲のPLZ-45(英語版)を導入している。また、軍部と軍事産業との汚職もあり、特に、駐米大使を長く務めたバンダル・ビン・スルターン王子(当時国防大臣だったスルターン皇太子の息子 2012年から2014年まで総合情報庁長官)は1982年のF15の輸入に際してアメリカ議会で強力なロビー活動を展開し、またBAEシステムズとの400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている。2011年の軍事支出は485億USドルと若干の増加傾向にある。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "使用する兵器の大半は輸入に頼っているが、国産のファハド装甲車や無人機を生産するなど、工業基盤の成熟に伴い兵器の国産化を始めている。湾岸戦争とイラク戦争では後方基地としての役目を担っていた。なお志願制であり、職業軍人によって構成されている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アラビア半島の大部分を占め、紅海、ペルシア湾に面する。中東地域においては面積が最大級である。北はクウェート、イラク、ヨルダン、南はイエメン、オマーン、アラブ首長国連邦、カタールと国境を接する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "かつては、イエメン、オマーン、アラブ首長国連邦との国境線は大部分が未画定であったが、2000年までにすべて画定した。アラブ首長国連邦との国境は1974年の条約(英語版)によって一時画定し、これによりサウジアラビアはアル・アイン周辺の数ヶ村をアラブ首長国連邦へ譲り渡す代わりにカタールとアブダビとの間のペルシア湾に面した地域の割譲を受けて、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "クウェートおよびイラク(英語版)との国境は、1922年のオカイル議定書によって画定されたが、このときの国境には、両国の間に中立地帯が設けられていた。クウェートとの中立地帯は1970年に、イラクとの中立地帯は1991年に消滅した。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ山地から南東のアシール山地)があり、標高2500m前後に達する。その間のマッカ州、バーハ州、アスィール州にかけては標高2000mを超える高原地帯が広がっている。南部には国内最高地点であるサウダ山(英語版)(標高3313m)がそびえる。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "気候は砂漠気候で夏は平均45°C、春と秋は29°Cで、冬はまれに零下になり、標高2000mの高原地帯では過去に積雪も観測されている。ジッダやダンマームなどの沿岸部は高温多湿、リヤドなどの内陸部は高温乾燥となり内陸部は昼夜の気温差が大きい。標高1500~2200mに位置するターイフ、ハミース・ムシャイト、アブハー、バーハなどが位置する高原地帯は避暑地となり快適な気候となる。インド洋モンスーンの影響を受けるバーハ州、アスィール州は降水量が多く、年間降水量が200mm~500mmに達する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "国内には13の州があるが、知事は、すべて王族が勅任されている。", "title": "行政区画" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "西部にはイスラム教の2大聖地であるメッカとマディーナがあり、世界各地から巡礼者が訪れる。2007年からは非ムスリムに対しても団体ツアーのみ観光ビザが発行されるようになった。個人には発行されていなかったが、2019年9月28日より個人旅行者に対しても観光ビザが発行されるようになった。2019年9月28日以前について、個人入国を認める査証は巡礼(巡礼ビザ、ムスリムのみ)か政府や各種団体(外交官ビザ、公用ビザ)、現地企業の招聘による仕事(商用短期訪問ビザ)、サウジアラビア在留者の家族(家族訪問ビザ)の場合のみ発行されていた。女性は既婚者が原則で夫または男性の近親者同伴、単独の場合は30歳以上であることが条件。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "国営航空会社のサウジアラビア航空が世界各国を結んでいる他、外国航空会社がリヤードやジッダなどの主要都市に乗り入れている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "世界で唯一女性が自動車を運転することが禁止されていた国であるが、2017年9月に解禁される方針が発表された(法的に禁止しているわけではないが運転免許の発給がされず、社会通念的にも運転は禁止されていると見なされた)。ただし、女性が財産として自動車を所有することは禁止されていない。このため、女性が自動車を利用する場合は運転手を雇うか、親族男性に運転してもらわなければならなかった。政府の統計によると、サウジアラビアの家庭が雇う男性運転手の数は約140万人で、多くは海外からの出稼ぎ労働者であった。そして、2018年6月24日女性の運転が解禁された。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "鉄道ではかつてはヒジャーズ鉄道が運行されていたが現在は廃止になっている。現代はサウジアラビア鉄道公社によってリヤド - ダンマーム間に旅客路線が運行されている。またハラマイン高速鉄道が建設されている。その他都市鉄道としてメッカにメッカ・メトロが運行され、リヤドでもリヤド・メトロの建設が進められている。ガルフ鉄道構想もある。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2015年のGDPは約6,320億ドルであり、日本の近畿地方よりやや小さい経済規模である。同年の一人当たりGDPは2万138ドルである。サウジアラビアはG20の一員であり、2024年1月1日からはBRICSにも加盟する。巨大企業はサウディア、サウジアラムコ、サウジ基礎産業公社、キングダム・ホールディング・カンパニー、サウディ・ビンラディン・グループ、パブリック・インベストメント・ファンドなど、石油関連の国営や王族が経営する企業であり、純粋な株式会社は少ない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "OPECの盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約75%を占めている)となっている他、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。中央銀行は1952年に設立された通貨庁であり、ソブリン・ウエルス・ファンド(政府系投資ファンド)としても知られている。金融センターとしても整備されており著名な投資家も多いが、2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、首都リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタール、バーレーンと比較するとまだ出遅れている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "製造業などは小規模なものしか存在していない。巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていなかったことから観光業は低調であり、メッカの巡礼者を相手にするだけであった。こうした状況を打開するために、ムハンマド・ビン・サルマーンが中心となり、一般向けの観光ビザの解禁による観光産業、外国資本受け入れによるIT産業、半導体製造など新たな産業を育成する改革プラン「ビジョン2030」を打ち出すなどしているが、法整備の遅れなどにより天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "サウジアラビアの水資源は、古くはオアシスなどの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地メッカではザムザムの泉と呼ばれる湧水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。汲み上げられる地下水は、アラビア半島が湿潤だった1万年以上前に降った雨水が地下の帯水層に閉じこめられた化石水であり、今後補給されることはほぼない。このため各地の井戸では水位の低下が深刻化し、現在のペースで水を使い続ければ、地下水資源は2040年までに枯渇すると予測されている。", "title": "水資源" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "サウジアラビアは世界最大の海水淡水化プラント稼働国である。その多くは省エネの逆浸透法 (RO:Reverse Osmosis) 海水淡水化プラントであり自力で建設し自国に逆浸透膜 (RO膜) 工場をつくるなど特にサウジ政府は力を入れている。その88%は農業用水で残りは工業用水と飲料水に使われている。20余りの主要都市に人口の80%が集中し、都市部ではオアシスや地下水の水源だけでは全く不足するため、海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。アシュベールにある世界最大のプラントは毎日100万トンを生産しており、国全体では年間で12億2千万立方メートルの水を海水淡水化によって得ている。プラントの多くは1970~1980年代に建設されており、2000年ごろから多くのプラントが老朽化を迎え始め、メンテナンスと建て替えのために多くの事業が日本を始めとする海外へ発注されている。", "title": "水資源" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "主要都市では下水を再処理して都市周辺の農業用水に回すための浄化施設がある。海水淡水化プラントから供給される水は1リットルあたり2リヤルのコストがかかり、さらに内陸部へ送水するのに1 - 2リヤルのコストがかかるため、大変に高価な水である。しかし、水道代は10トン1リヤルほどで、一般家庭の水道代が1か月4リヤルを超えることはあまりない。送水設備とコストの関係から主要都市部以外への送水はあまり活発ではなく、地方では古来からの井戸とオアシスの水源に頼っている。地方の内陸都市などではダムをつくり雨水をためてそれを使っており、リヤドの真ん中を通るワディ・ハニーファもダムなどによって川と化している。海水淡水化プラント自体は、サウジ国内で15から20箇所ほどあるとされる。", "title": "水資源" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "リヤドなど内陸部でも毎年冬場になると数日は雨が降る。ただ、砂漠気候であるため、降雨はわずかな期間に集中、数日経てば再び乾燥するため水資源としての価値はない。近年になってからは降雨量は増加傾向にあり、雨が降ると都市の低地が水没するようになっている。もともと砂漠であるため都市部には排水路などの水害対策の設備が全くなく、毎年水害によって数十人の死者が出ている。膨大な地下水のくみ上げと淡水化プラントによって総雨量を超えるほどの水が使用されていることが原因ではないかと言われており、実際にここ20年あまりでサウジアラビアの気候が穏やかになってきている。", "title": "水資源" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、サウード家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にもかかわらずサウジアラビア人という民族意識の形成には至っていない。部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している。しかしながら、アラビア半島諸国の統一とオスマンへの反逆をワッハーブ運動の名の下成功させたという点では、サウジ人という意識もあり国民国家とも呼べる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」(部族対立)、「どの地方の出身か」(地方対立)、「どの宗派を信じるか」(宗派対立)、「どの階級に属するか」(階級対立)で、自らを認識しているという。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "統計局が発表した、2010年の人口統計は27,136,977人で、サウジアラビア国籍が18,707,576人と全体の69%に過ぎず、外国人が8,429,401人となっており、総人口の31%が外国人労働者である。最も多い外国人はインド人とパキスタン人でそれぞれ130万~150万人に達する。次いで、エジプト人、イエメン人、バングラデシュ人、フィリピン人、ヨルダン人、インドネシア人、スリランカ人、スーダン人などが多くなっている。労働省によると、登録されている家庭内労働者120万人のうち、女性48万人がメイド(アラビア語:خادمة)として登録されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "言語は公用語が古典アラビア語で、日常生活での共通口語は、サウジアラビアの現代口語アラビア語変種である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "外国人労働者の母語として、いくつかの言語が話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "宗教はイスラム教スンナ派が国教である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地であるメッカがあるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "このため、サウジアラビア国民はイスラム教徒が100%であると公表されているが、これは他の宗派や宗教の存在を公式に認めていないという建前上の見解によるものである。実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、財団法人中東経済研究所の調査によると、シーア派はイランと地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定されている。また、イエメンに近い南部のアブハーなどもシーア派(イスマーイール派、ザイド派)が多いとみられる。アメリカ合衆国中央情報局による統計では、スンナ派が85~90%、シーア派が10~15%と推計されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "多数のシーア派の居住する東部地方は、アハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地である。初代国王アブドルアジーズは東部州を併合するのに際しシーア派住民による一定の自治を認めたが、時代と共に自治権を奪われ名目上は存在しないことにされてしまったという経緯がある。このため、長年にわたりシーア派の宗教機関は非合法な存在とされてきた。湾岸戦争以降は、反体制運動を行っていたシーア派を容認、和解した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "湾岸戦争以降は、他の宗派を容認する方向へ方針転換を行い、法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認めている。近年では、他宗教の信仰も限定的ながら解禁されてきている。しかし、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている。また、他宗教の容認は国政の一層のイスラーム化を求めるイスラム原理主義への改革運動の激化を引き起こし、サウジアラビア人によるイスラーム主義武装闘争派のテロを引き起こした。このため、各個人や集団による私的なジハードを禁止するために、国王の勅令がなければ禁止とする法令が出された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "国民の4%はキリスト教徒だとも言われているが、内務省の統計では外国人居住者(数十万人のアメリカ軍関係者と外国人)もキリスト教徒に含まれている。近年では宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進み、国民が宗教的な指導に従わなくなってきており、宗教指導者がハラーム(禁忌)であるとファトワー(宗教見解)を出したものの、多くの民衆が禁忌に従わず利用を継続することが珍しくなくなった。代表的なものとしてポケモン、バレンタインデー、クリスマスなどがある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である勧善懲悪委員会による取り締まりを過激化させる傾向にある。このような過激な発言がニュースで配信されたりしてネット上で話題になることがあるが、発言と実情がかけ離れていることが多い。2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "サウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議は長年にわたりワッハーブ派が独占してきたが、近年になって近い宗派であるシャーフィイー学派がわずかに参加するようになり、2009年2月14日に21名に増員されるとハナフィー学派とマーリク学派のウラマーも入った。これによってサウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議がワッハーブ派の独占ではなくなりスンナ派の四大法学派が全てそろったことになる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "アラブ社会に近現代日本のような姓は存在しない。その代わりに", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "といった形でその人物の出自が示され、これらがフルネームとして扱われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "このうち本人のファーストネーム以降の部分を非アラブ諸国における姓・苗字/名字・家名に相当する部分として用いるため、サウジ人を含むアラブ人のラストネームは本人の父もしくはそれ以前の祖先の名前や一族が所属する部族の名前(多くは遠い父祖の名前由来)になっていることが一般的である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "これらは出自表示であり姓とは異なるため、結婚時に夫のラストネーム・家名に変更するといった改姓を行う習慣は存在せず、いわゆる夫婦別姓とは異なる概念となっている。いくつかのアラブ諸国では西洋風に結婚後夫のラストネームを名乗ることも行われているが、サウジアラビアでは一般的ではない。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "イスラム教を国教とする祭政一致国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。初等教育の段階でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制のサウジアラビア王立科学技術大学(英語版) (KAUST) が、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。また、シーア派を邪教とする教育が、シーア派を含むすべての国民に対して長らく行われてきたとされる。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2008年10月29日、これまで女性が学ぶことが困難であった医学、経営学、外国語などを教えるサウジアラビア初の女性専用の総合大学を創設することが国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードによって決定され、リヤド郊外で起工式が行われた。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "女子がスポーツを行う機会は限られており、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「公教育で女子の体育を禁じている唯一の国」として批判している。サウジアラビア教育省は、2013年5月、一部私立校で女子の体育の授業を認めると発表した。2012年のロンドンオリンピックに、初めて女性選手を送るなど、近年、僅かながらではあるが女子のスポーツへの門戸が徐々に開かれている。", "title": "教育" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "サウジアラビア国内でも他の中東諸国同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1976年に創設された『サウジ・プロフェッショナルリーグ』は、アジアの中でもレベルの高いリーグとして知られており、近年では、クリスティアーノ・ロナウドやネイマールをはじめとした世界的に有名な選手が数多く同国のリーグに移籍している。AFCチャンピオンズリーグにおいては、アル・ヒラルが大会最多4度の優勝を達成している。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "サッカーサウジアラビア代表はアジア地域における強豪として知られており、AFCアジアカップでは3度の優勝を誇る。FIFAワールドカップには1994年大会で初出場して以降、完全に常連として定着しており6回の出場を果たしている。さらにキング・ファハド・カップ(現:コンフェデレーションズカップ)では、1992年大会で準優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また、過去には女性がスタジアムでサッカー観戦する事が禁止されていたが、2018年以降はアクリル板で区切るなどの条件付きで解禁されている。さらに2021年にはサッカーサウジアラビア女子代表(英語版)が新設され、2022年2月20日に初めてサッカーセーシェル女子代表(英語版)との国際試合が行われた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "クリケットはサッカーに次いで、サウジアラビア国内で2番目に人気のスポーツである。国内競技連盟であるサウジアラビアクリケット連盟 (SACF) の本部はリヤドに所在しており、クリケットの試合を管理するためにスポーツ省に登録されている唯一の法人である。2003年に国際クリケット評議会に加盟し、2016年に準会員に昇格した。クリケットが圧倒的に人気のある地域である南アジア出身の外国人労働者が、同国の人口を部分的に占めていることもクリケット人気の要因の一つである。国内には100以上のクリケット場があり、370の登録されたクリケットクラブがある。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "バスケットボールは、サウジアラビアで人気のスポーツの一つある。バスケットボール・サウジ・プレミアリーグ(英語版)には、FIBA男子アジアカップ(旧:FIBAアジア選手権)に出場する選手も所属しており、マクムード・アブドゥル=ラウーフのようにNBAでプレーした選手も所属するようになっている。他方で、2021年よりF1世界選手権のサウジアラビアGP(ジッダ市街地コース)なども開催されている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "1965年からテレビ放送が始まったが、宗教指導者がテレビに対して否定的見解を示しているため、現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある。娯楽番組の視聴には衛星放送が広く利用されており、同じアラビア語圏の番組が衛星放送を利用して視聴されている。近年では国営放送でも日本のアニメを放送するなど非常に軟化した態度を示すようになったが、これに反発した宗教指導者が2001年にポケモン禁止令を出した。しかし、数年後に事件が鎮火すると再び放送されており、ポケモン禁止直後にデジモンアドベンチャーが放送されるなど放送業界は柔軟な態度を示している。近年ではインターネットによる視聴も多いが、違法にアップロードされた海賊版も多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "派手なライフスタイルで知られる米国人のパリス・ヒルトンがサウジアラビアなどの中東でのみファッションブランドを展開し、その店舗はイスラム教の聖地メッカにも進出しているという事実があり、一般の欧米人よりも派手で身体の露出の大きい衣服を売り物にしたファッションブランドが女性に人気という側面がある。創作においてもイスラム教の戒律に配慮した表現が求められるが、美少女フィギュアについては水着の着せ替えパーツは不可だが膝上スカートは可など独特の基準が存在する。近年ではムハンマド・ビン・ナーイフが推進する経済政策の一環として娯楽への制限が緩和されつつある。また、ムハンマド・ビン・サルマーンは石油に代わる産業としてエンターテインメント産業を育成するため、自身の財団傘下のアニメ制作会社と日本の共同制作の劇場作品を手がけるなどしている。また、イベントのノウハウを学ぶため、定期的に大規模イベントを開催している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "インターネットの規制が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている。国内ではアラビア語の出会い系サイトやSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが、親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "厳重な報道管制と言論統制が敷かれており、当局が許可した書籍でなければ販売することが出来ない。特に王族に関する批判的な書籍は検閲で発売を禁じられ、世界の長者番付が掲載されアブドゥッラー現国王の資産が公開されたビジネス誌『フォーブス』は国内発禁となるなど不敬規定がある。内政に関する外国マスメディアの取材も大幅に制限され、日本ではNHK『クローズアップ現代』が2006年12月にようやく許された程度である。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "しかし、2007年にはサウジアラビアの女性を主人公にした小説「リヤドの女たち」の発禁処分が解かれ、ベストセラーになるなど少しずつ自由化してきている。厳しい検閲が実施されているが、出版の抜け道としてメールマガジンがある。メールの送信は出版とはみなされていないため、紙に印刷されないメールマガジンによる発行は合法とされている。リヤドの女たちも元はメールマガジンで発行されていた小説だった。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "出版物に関する著作権は著作権審議委員会によって管理されており、カーディ裁判は著作権問題による訴えを扱わないため、著作権侵害があった場合は民事訴訟などではなく委員会に申し立てることになっている。ただし、申し立てが出来るのは検閲による許可を受けている出版物のみで、日本や欧米のように無条件に著作物に著作権があるわけではない。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2018年4月20日、約35年ぶりに映画が一般向けに上映された(映画自体はDVDやブルーレイで視聴でき、設備を備えた文化センターのような施設がありたびたび上映されていた)。1980年代には、映画館を低俗で罪深いものと非難する宗教界の保守強硬派の働きかけを受け、国内の映画館を閉鎖していた。", "title": "文化" } ]
サウジアラビア王国、通称サウジアラビアは、中東・西アジアに位置する絶対君主制国家。首都はリヤド。 世界2位の原油埋蔵量を持つ国であり、世界最大級の石油輸出国でもある。イスラム教最大の聖地メッカ(マッカ)と第2のマディーナ(メディナ)を擁する。世界銀行の定義では高所得国に分類され、アラブ諸国で唯一G20に加盟しているが、産業の多様性には乏しく、天然資源開発が主要産業となっている。 サウジアラビアにおける死刑、また信教の自由などが抑制されている状況など、欧州と異なる文化・法体制に対して国際社会から批判もある。
{{基礎情報 国 | 略名 = サウジアラビア | 日本語国名 = サウジアラビア王国 | 公式国名 = '''{{Lang|ar|المملكة العربية السعودية}}''' | 国旗画像 = Flag of Saudi Arabia.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Saudi Arabia.svg|100px]] | 国章リンク = ([[サウード家]][[サウジアラビアの国章|大紋章]]) | 標語 = لا إله إلا الله محمد رسول الله<br />(lā ʾilāha ʾilla-llāhu, muḥammadun rasūlu-llāh)<br />([[シャハーダ]]。アラビア語:[[アッラー]]の他に神はなし、[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]はアッラーの使徒なり) | 国歌 = [[サウジアラビアの国歌]]<br />[[ファイル:Saudi Arabian national anthem, performed by the United States Navy Band.oga|Saudi Arabian national anthem, performed by the United States Navy Band]] | 位置画像 = Saudi Arabia (orthographic projection).svg | 公用語 = [[アラビア語]] | 首都 = [[リヤド]] | 最大都市 = リヤド | 元首等肩書 = [[サウジアラビアの国王一覧|国王]] | 元首等氏名 = [[サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ]] | 首相等肩書 = {{仮リンク|サウジアラビアの皇太子|en|Crown Prince of Saudi Arabia|label=皇太子}}兼[[サウジアラビアの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ムハンマド・ビン・サルマーン]] | 他元首等肩書1 = [[諮問評議会 (サウジアラビア)|諮問評議会]](立法府)議長 | 他元首等氏名1 = アブドゥッラー・アル・シェイク | 面積順位 = 13 | 面積大きさ = 1 E12 | 面積値 = 2,149,690 | 水面積率 = 極僅か | 人口統計年 = 2022 | 人口順位 = 41 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 3481万4000<ref name="population">{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/sa.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2022-01-03}}</ref> | 人口密度値 = 16.2<ref name="population" /> | GDP統計年元 = 2020 | GDP値元 = 2兆6254億4200万<ref name="economy">IMF Data and Statistics 2021年10月13日閲覧([https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=456,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDN,GGXWDN_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1])</ref> | GDP統計年MER = 2020 | GDP順位MER = 19 | GDP値MER = 7001億1800万<ref name="economy" /> | GDP MER/人 = 1万9995.704<ref name="economy" /> | GDP統計年 = 2020 | GDP順位 = 14 | GDP値 = 1兆6277億5000万<ref name="economy" /> | GDP/人 = 4万6489.329<ref name="economy" /> | 建国形態 = [[統一]] | 建国年月日 = [[1932年]][[9月23日]] | 通貨 = [[サウディ・リヤル]](Riyal) | 通貨コード = SAR | 時間帯 = +3 | 夏時間 = なし | ISO 3166-1 = SA / SAU | ccTLD = [[.sa]] | 国際電話番号 = 966 | 注記 = }} '''サウジアラビア王国'''(サウジアラビアおうこく、{{lang-ar|المملكة العربية السعودية}})、通称'''サウジアラビア'''は、[[中東]]・[[西アジア]]に位置する[[絶対君主制]][[国家]]。首都は[[リヤド]]。 世界2位の[[原油]]埋蔵量を持つ国であり、世界最大級の[[石油|石油輸出国]]でもある。[[イスラム教]]最大の[[聖地]][[メッカ]](マッカ)と第2の[[マディーナ]](メディナ)を擁する。[[世界銀行]]の定義では高所得国に分類され、[[アラブ世界|アラブ諸国]]で唯一[[G20]]に加盟しているが、産業の多様性には乏しく、天然資源開発が主要産業となっている。 [[サウジアラビアにおける死刑]]、また[[サウジアラビアにおける信教の自由|信教の自由]]などが抑制されている状況など、[[ヨーロッパ|欧州]]と異なる文化・法体制に対して国際社会から批判もある<ref>{{Cite web|和書|date=2016-08-20 |url=http://parstoday.com/ja/news/middle_east-i15016 |title=サウジの人権侵害への世界的な非難 |publisher=Pars Today |accessdate=2017-09-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2013-11-08 |url=http://www.sankei.com/world/news/131108/wor1311080016-n1.html |title=中国とサウジ、国連人権理事会入り濃厚も「人権侵害国家に?」批判の声 |publisher=[[産業経済新聞社|産経新聞社]] |accessdate=2017-09-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2016-10-08 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3103691 |title=サウジに子どもの死刑撤廃など要求、国連子どもの権利委員会 |publisher=[[フランス通信社|AFP通信]] |accessdate=2017-09-10}}</ref><ref>{{cite book |title=Sharia Incorporated: A Comparative Overview of the Legal Systems of Twelve Muslim Countries in Past and Present |last=Otto |first=Jan Michiel |year=2010 |isbn=978-90-8728-057-4 |page=175}}</ref>。 {{TOC limit}} == 国名 == [[アラビア文字]]による正式名称は{{lang|ar|المملكة العربية السعودية}}([[翻字]]: {{transl|ar|DIN|al-mamlakah al-ʿarabīyah al-suʿūdīyah(実際の発音はal-mamlakatu-l-ʿarabīyatu-s-suʿūdīyah)}}, アル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤ(実際の発音はアル=マムラカトゥ・ル=アラビーヤトゥ・ッ=スウーディーヤ、簡略発音はアル=マムラカ・ル=アラビーヤ・ッ=スウーディーヤ {{audio|Ar-Kingdom Saudi Arabia.oga|音声|help=no}}))であり、「サウード家のアラビアの王国」を意味する。通称{{lang|ar|السعودية}}({{transl|ar|DIN|al-suʿūdīyah}}, アッ=スウーディーヤ)。 公式の[[英語]]表記は {{en|Kingdom of Saudi Arabia}}(キングダム・オヴ・サウディ/ソーディ・アレイビア)。通称 {{en|Saudi Arabia}}({{IPA-en|ˌsaʊdi/ˌsɔːdi əˈreɪbiə|}})。国民・形容詞はSaudi。[[日本語]]表記は'''サウジアラビア'''、'''サウジアラビア王国'''で、'''サウディアラビア'''とも表記される<ref>[http://www.newsweekjapan.jp/sakai/2017/08/post-8.php 距離が縮まるイラクとサウジアラビア] ニューズウィーク日本版公式ホームページ</ref>。'''サウジ'''と略して呼ばれることもある。漢字表記は'''沙地亜剌比亜'''もしくは'''沙特阿拉伯'''、1文字での表記は「'''沙'''」。 [[リヒテンシュタイン]]と同様に、[[国際連合]]加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている[[国家]]である。 == 歴史 == {{main|サウジアラビアの歴史}} === 第一次サウード王国の支配 === [[1744年]]、[[サウード家|サウード王家]]は中央アラビアの[[ナジュド]]地方に勃興([[第一次サウード王国]])した。この年、[[リヤド]]の近くにある[[ディルイーヤ]]の支配者[[ムハンマド・イブン・サウード]]は宗教指導者[[ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ]]と盟約を結び、新たな国家体制をつくった。これが今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。 === オスマン帝国などへの抗争 === 続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡って[[エジプト]]や[[オスマン帝国]]や{{仮リンク|ラシード家|en|Rashidi_dynasty}}の[[ジャバル・シャンマル王国]]と争い興亡を繰り返した{{efn|詳細は「[[第二次サウード王国]]」を参照。}}。 [[ファイル:Franklin D. Roosevelt with King Ibn Saud aboard USS Quincy (CA-71) on 14 February 1945 (USA-C-545).jpg|thumb|left|現在のサウジアラビアの建国者[[アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード|アブドゥルアズィーズ]]国王。[[1945年]]、[[ヤルタ会談]]の帰路にあった[[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領と船上会談を行った。]] === ナジュド及びハッサ王国の支配 === 第三次サウード王国に当たる現在のサウード国家は、[[1902年]]に僅か22歳の[[アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード]]国王([[サウジアラビアの国王一覧|サウジアラビア王国の初代国王]])がサウード王家先祖伝来の本拠地[[リヤド]]をラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである([[ナジュド及びハッサ王国]])。 ==== 勢力拡大 ==== アブドゥルアズィーズは、[[1913年]]から[[アル=ハサー|ハサー]]、[[1921年]]の{{仮リンク|ハーイル征服|en|Conquest of Ha'il}}までに[[カティーフ]]、[[ナジュド]]の残り([[ナジュド・スルタン国]])を制圧した。 一方、1915年に[[メッカ]](マッカ)の太守(シャリーフ)であった[[ハーシム家]]の[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]が、イギリス軍の[[トーマス・エドワード・ロレンス]]の協力を得て[[アカバ]]を占領し、その後ダマスカスに進軍して[[ヒジャーズ王国]]を建国した([[アラブ反乱]])。アブドゥルアズィーズは、[[1926年]]までにこの[[ヒジャーズ王国]]を制圧({{仮リンク|サウード家のヒジャーズ征服|en|Saudi conquest of Hejaz}})し、[[1926年]][[1月8日]]、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王([[マリク]])となった。 === サウジアラビア王国の成立 === つづく[[1927年]][[1月29日]]にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号は[[スルタン]])。[[1927年]][[5月20日]]には[[ジッダ条約 (1927年)|ジッダ条約]]によって[[イギリス]]はアブドゥルアズィーズの領域の独立を認めて、[[ナジュド及びヒジャーズ王国|ヒジャーズ・ナジュド王国]]が成立した。さらに[[1932年]]に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュド、ヒジャーズを統一してサウジアラビア王国が成立した。その後[[1934年]]には、[[サウジ・イエメン戦争]]がおこり{{仮リンク|イドリシ朝アシール首長国|en|Idrisid Emirate of Asir}}を併合した。 ==== 経済の発展 ==== しかし、アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばなかった。[[1933年]]に[[サウジアラムコ]]が設立され、[[1938年]]3月に[[ダーラン]](ザフラーン)で「[[ダンマーム|ダンマン]][[油田]]」が発見されるまで国は貧しい状態だった({{仮リンク|サウジアラビアの石油産業の歴史|en|History of the oil industry in Saudi Arabia}})。油田開発は[[第二次世界大戦]]のために中断したものの、[[1946年]]には開発が本格的に始まり、[[1949年]]に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。 ==== 王家の失脚 ==== [[アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード|アブドゥルアズィーズ]]は、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図った。[[1953年]]にアブドゥルアズィーズが崩御し、次男[[サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ|サウード]]が父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウード国王の経済的失政によって王国は危機に陥り、また[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥン=ナーセル|ナーセル]]大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、[[1964年]]にサウード国王は退位させられ、代わって異母弟の[[ファイサル (サウジアラビア王)|ファイサル]]が第3代国王として即位した。 [[1973年]]、[[第四次中東戦争|第4次中東戦争]]に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、[[石油危機]]を引き起こした。この後、サウジアラビアをはじめとする[[石油輸出国機構]] (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。 [[1974年]]、[[リチャード・ニクソン]]米大統領と[[ヘンリー・キッシンジャー]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]がサウジアラビアを訪問してファイサル国王らとの会談で[[ドル]]建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を結んで[[オイルダラー]]が確立された<ref>{{cite web |title=The Untold Story Behind Saudi Arabia's 41-Year U.S. Debt Secret|url=https://www.bloomberg.com/news/features/2016-05-30/the-untold-story-behind-saudi-arabia-s-41-year-u-s-debt-secret |website=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]]|date=2016-05-30|accessdate=2019-11-25}}</ref><ref>Clark, William R. Petrodollar Warfare: Oil, Iraq and the Future of the Dollar, New Society Publishers, 2005, Canada, ISBN 0-86571-514-9</ref><ref>"Petrodollar power". The Economist. 7 December 2006.</ref><ref>{{cite web |title=‘MILESTONE’ PACT IS SIGNED BY U.S. AND SAUDI ARABIA |url=https://www.nytimes.com/1974/06/09/archives/milestone-pact-is-signed-by-us-and-saudi-arabia-acclaimed-by.html |website=[[ニューヨーク・タイムズ]] date=1974-06-09|accessdate=2019-11-25}}</ref><ref>{{cite web |title=What Is The Petrodollar?|url=https://www.fxcm.com/uk/insights/what-is-the-petrodollar/ |website=FXCM.com| accessdate=2019-11-25}}</ref>。 [[1975年]]、家族間抗争が一因でファイサル国王が甥の{{仮リンク|ファイサル・ビン・ムサーイド|en|Faisal bin Musaid}}王子により暗殺された。その後、やはり異母弟の[[ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ|ハーリド]]が王位を継ぎ第4代国王となった。 ==== イスラム過激派への配慮 ==== [[1979年]]、[[イラン革命]]に影響を受けたイスラム過激主義者による[[アル=ハラム・モスク占拠事件]]が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。 [[1982年]]、ハーリド国王が崩御して異母弟の[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド]](「[[スデイリー・セブン]]」の一人)が第5代国王に即位する。 [[1990年]]、[[イラク]]が隣国[[クウェート]]を侵略して[[湾岸危機]]が起こると、国土防衛のために[[アメリカ軍|米軍]]の駐留を許可した。敬虔な[[イスラム教|イスラム教徒]]たちは聖地[[メッカ]]のあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに反発し、後に同国人の[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサーマ・ビン=ラーディン]]が反米テロを組織する原因ともなった。 [[2005年]]、ファハド国王が崩御し、彼の異母弟の[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドゥッラー]]が第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、[[ナーイフ・ビン・アブドゥルアズィーズ|ナーイフ]]、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。 [[2015年]]1月、アブドゥッラー国王が崩御し、異母弟の[[サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ|サルマーン]]が第7代国王に即位、異母弟の[[ムクリン・ビン・アブドゥルアズィーズ|ムクリン]]が皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子の[[ムハンマド・ビン・ナーイフ]]が皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。 == 政治 == {{main|{{仮リンク|サウジアラビアの政治|en|Politics of Saudi Arabia}}}} === 絶対君主制・政教一致 === [[ファイル:Salman bin Abdull aziz December 9, 2013.jpg|150px|thumb|サルマーン国王]] [[ファイル:Mohammed Bin Salman al-Saud2.jpg|150px|thumb|ムハンマド皇太子]] 政体は[[サウード家]]による[[絶対君主制]]であり、[[ワッハーブ派|ワッハーブ主義]]に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としており[[政教一致]]体制である。国王([[マリク]])はワッハーブ派[[イマーム]]を兼ね、要職は王族が独占している。王族の数が世界最大という[[ギネス世界記録]]を持つ。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代(国王予定者)まで誕生している。 建国以来、長年にわたって[[不文憲法]]を貫いていたが、[[ヒジュラ暦]]1412年[[シャアバーン]]27日([[1993年]][[3月1日]])に公布された[[統治基本法 (サウジアラビア)|統治基本法]]が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた<ref>[http://www.jetro.go.jp/world/middle_east/sa/business/pdf/b3/07.pdf 統治基本法日本語訳文]</ref>。 政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「'''憲法は[[クルアーン]]および[[スンナ]]とする'''」と明記されており、実態はクルアーンこそが『'''憲法'''』である。同じ[[イスラム教]]でも、[[シーア派]]は敵視されている。 === 行政・立法 === {{main|諮問評議会 (サウジアラビア)}} 従来は[[内閣]]も[[議会]]も存在せず、[[勅令]]が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンや[[シャリーア]]に則って施行されてきたが、[[統治基本法 (サウジアラビア)|統治基本法]]公布によって選挙が行われ、内閣に相当する[[:en:Council_of_Ministers_of_Saudi_Arabia|閣僚評議会]]や国会に相当する[[諮問評議会 (サウジアラビア)|諮問評議会]]、そして[[地方議会]]も設置された。なお、地方議会は選挙がある。 [[首相]]格の[[サウジアラビアの首相|閣僚評議会議長]]は長らく国王が兼任してきたが、第7代国王のサルマンは2022年9月27日に{{仮リンク|サウジアラビアの皇太子|en|Crown Prince of Saudi Arabia|label=皇太子}}の[[ムハンマド・ビン・サルマーン]]を閣僚評議会議長に任命した。 国内は13の[[州]]に分割されている。[[勅任]]の知事([[アミール]])が就任するがサウード家出身者以外は認められない。 {{see also|サウジアラビアの州}} ==== 税制 ==== 税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法に[[ザカート]]税([[喜捨]]の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税管轄は「所得税およびザカート税省」が担う。属人主義である[[シャリーア]]を基準とするため、サウジアラビア人と外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、[[外国人]]には[[所得税]]や[[人頭税]]を課す。 税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートと[[ワクフ]]以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところの税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これは[[オイルマネー]]で潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものである、とする主張を採用すれば税金のない国となる。近年では、消費税や水道税など新たな税が導入され王族への特権も廃止された。 長らくオイルマネーにより潤沢な国家財政が確保されてきたが、[[2010年代]]後半以降、[[原油価格]]が下落する局面では、公共事業の見直しなど緊縮財政を余儀なくされ始め<ref>{{Cite web|和書|date=2019 |url=https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/fuji-kazuhiko/149.html |title=原油価格急落、「OPECプラス」に何が起きたのか |publisher=REITI |accessdate=2020-04-29}}</ref>、2018年1月1日に5%の[[付加価値税]](VAT)の導入も行われた<ref>{{Cite web|和書|date=2019-10-31 |url=https://www.jetro.go.jp/world/middle_east/sa/invest_04.html |title=その他税制 |publisher=JETRO |accessdate=2020-05-22}}</ref>。加えて[[2020年]]前半には、原油価格の暴落と[[2019新型コロナウイルス]]の感染拡大に伴う世界的な景気減退が発生。サウジアラビアは同年6月より国際協調の下、原油生産量を削減して原油価格の上昇を図ることとなったが、生産減により生じる財政の穴を埋めるため、同年7月より付加価値税の税率を5%から15%へ引き上げることとなった<ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-13 |url= https://www.cnn.co.jp/business/35153685.html|title=財政危機のサウジ、「消費税」を3倍に 原油価格下落と新型コロナが打撃 |publisher=CNN |accessdate=2020-05-14}}</ref>。 === 司法 === サウジアラビアでは宗教が法律となり、コーランに基づく[[シャリーア]](イスラム法)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、これが数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。近年では、この複雑な法体系の[[近代化]]が進められ、大幅に制度改革が実施されている。 司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は、例外的に法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派裁判官([[カーディー]])による裁判権が認められている。このため一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって、適用される法律が異なる場合もある。ただしシーア派に認められているのは24条にある、刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合には、ワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。 かつては通常の[[警察]]組織とは別に、[[勧善懲悪委員会]]([[ムタワ|宗教警察]])が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で[[逮捕]]されていた。しかし国内外でも不満の声が強くなったことに加え、改革路線を強める[[ムハンマド・ビン・サルマーン]]皇太子の意向により宗教警察の逮捕権は縮小された。 原則的に女性と男性は完全に区別されている。公共の場所での[[アバヤ]](コート)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(ベール)の着用は、一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。女性による[[自動車]]の運転も世界で唯一禁止されてきたが(イスラムでは禁じられていない)、2017年9月26日にサルマーン国王が運転を許可する勅令を出し<ref name="BBC170927">{{Cite news|url=http://www.bbc.com/japanese/41410207|title=サウジアラビア、女性の自動車運転を許可する国王令|work=BBC News|publisher=[[英国放送協会|BBC]]|date=2017-09-27|accessdate=2017-09-27}}</ref>、2018年6月24日解禁された<ref name="afp2018">[https://www.afpbb.com/articles/-/3179746 サウジアラビアで女性の運転解禁] AFP、2018年6月26日閲覧。</ref><ref name="mainichi2018">[https://mainichi.jp/articles/20180625/k00/00m/030/033000c 「とても興奮しています」女性の車運転解禁] 毎日新聞、2018年6月26日閲覧。</ref><ref name="sankei2018">[https://www.sankei.com/world/news/180624/wor1806240009-n1.html サウジで女性の車の運転が解禁 「とても興奮しています」] 産経新聞、2018年6月26日閲覧。</ref><ref name="huffingtonpost2018">[https://www.huffingtonpost.jp/entry/women-can-drive-in-saudi-arabia_jp_5c5b7e8ee4b0faa1cb6817be 女性たちは笑顔でハンドルを握った。サウジアラビアで運転解禁] HUFFPOST、2018年6月26日閲覧。</ref><ref name="BBC2018">[http://www.bbc.com/japanese/44598113 サウジで女性の自動車運転が解禁 現地女性が喜び語る] BBC、2018年6月26日閲覧。</ref>。結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。このシステムは20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。しかしながらこの制度を守っているものは実際には少なく[[ムハンマド・ビン・サルマーン]]皇太子の改革で徐々に制限が解かれている。2019年8月には男性後見人制度は実質廃止された。 [[裁判]]は[[アラビア語]]のみで行われ、仮に被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人は[[ムスリム|イスラム教徒]]の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない[[外国人労働者]]には極めて不利な裁判になる。 [[酒]]や[[ポルノグラフィ|ポルノ]]類の持込などに対しては、重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、[[麻薬]]、[[強姦]]、[[殺人]]、[[同性愛]]においては[[死刑]]となる。また[[窃盗]]においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの[[身体刑]]を行っている(鞭打ち刑は2020年4月サウジアラビア最高裁により廃止)。裁判についても、[[被告人]]が外国人である場合、理解できないアラビア語で[[公判]]が進められたりするため、公平でない上、判決を容認しない場合は、[[弁護士]]などは資格を剥奪される。これらの法令は[[西ヨーロッパ|西欧]]各国のメディアにより非難されている。 [[2005年]]5月には、[[スリランカ]]から出稼ぎに来ていた[[リザナ・ナシカ]]という[[メイド]](事件当時17歳)の与えたミルクが乳児の気管に詰まり、救命措置を取ったにもかかわらず死亡してしまった。これが公判では事故死ではなく殺人であると判定され、死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたにもかかわらず、2013年1月、斬首刑が執行された。{{see also|リザナ・ナシカ}} [[ムハンマド]]の慣例に従い、9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている<ref>{{Cite web |author= |date=2008-03-19 |url=https://www.smh.com.au/world/11-year-old-marries-10-year-old-cousin-20080319-gds5xz.html |title=11-year-old marries 10-year-old cousin |publisher=[[シドニー・モーニング・ヘラルド]] |accessdate=2023-04-23 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |date=2008-04-12 |url=http://www.latina.co.jp/html/topics/topics_disp.php?code=Topics-20080412140721 |title=サウジで10歳の少年と9歳の少女が結婚!! |work=Latina@最新海外トピックス |publisher=ラティーナ |accessdate=2008-09-26 }}</ref>。一例として親の借金のかたに結婚させられる8歳の[[幼女]]までも存在し<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/081226/mds0812262250007-n1.htm 父親の借金清算で8歳女児結婚 サウジ、無効確認申し立て退ける]{{リンク切れ|date=2023-04}}</ref>、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されている<ref>[http://www.cnn.co.jp/world/CNN200812240010.html 8歳少女と47歳男性の結婚、裁判所が容認 サウジ]{{リンク切れ|date=2023-04}}</ref>。これに関しては批判も少なくないが、サウジの[[大ムフティー]]である[[アブドルアジズ・アール=アッシャイフ]]が、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/2558451 「10歳少女の結婚も法的に可能」、サウジのイスラム教最高指導者] AFPBB、2009年1月16日付</ref>。 [[名誉の殺人|名誉殺人]]も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。一例として家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男は、名誉殺人と認定され[[無罪]]判決が下った。しかしながらサウジの[[諮問評議会]]はこれらの問題に対し対策を促しており、[[幼女]]との結婚や[[名誉殺人]]は一般大衆にも認められていないという点には注意すべきである。また、[[同性愛]]の罪で死刑に処せられた者は確認されておらず、斬首も[[テロリスト]]などの重罪犯にしか適用されず、窃盗もほぼ全員が5年以下の懲役ですんでいる。最近{{いつ|date=2021年11月}}は[[ハッド刑]]はなくなってきているともされる。なお、斬首より軽いとされるのが[[銃殺]]、その下が[[一般的]]な[[絞首刑]]である。 2019年末には男女分離政策(レストランなどにおける)の撤廃を宣言した。しかしながら、最近{{いつ|date=2021年11月}}は男女分離撤廃を大衆が自然に遂行している。また[[ディーヤ]]と呼ばれる制度があり、[[被害者]]の法定相続人が[[加害者]]を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。2020年1月1日には、一日五回の[[礼拝]]の時間も(実質24時間)仕事や店の営業を許可した。 ==== 司法改革の歴史 ==== [[保守]]的なサウジアラビアの司法制度であるが、近年になってからはさまざまな司法制度改革が行われている。まず、建国以来、長年にわたって憲法がなかったが、1993年3月1日に公布された統治基本法が実質的な憲法となった。そして長らくシャリーアでは[[特許]]や[[著作権]]などの欧米では一般的な権利について認めていなかったが、1989年に特許と著作権に関する法律が施行され、1990年には特許を認定する特許局が設置された。サウジアラビア人の特許が初めて認められたのは1996年のことである。特許は15年間有効とされ、さらに5年間の延長が可能である。ただし、サウジアラビアで公式の暦は[[ヒジュラ暦]]であり、1年がグレゴリオ暦にくらべて11日ほど短いため、期限切れがグレゴリオ暦のそれよりも若干早く来るという特徴がある。 2007年10月の勅令に始まり、さらに2009年2月14日の勅令で大規模な司法制度改革が行われた。今までの最高司法委員会に代わり最高裁判所、控訴裁判所、普通裁判所が設置され、日本や欧米のような三審制の裁判が行えるようになった。続く2009年2月14日の勅令では大規模な人事異動が実施され、初めての女性副大臣が誕生するなど[[自由主義|リベラル]]派人材への大幅入れ替えが実施されている。 === 人権 === {{see also|イスラームと児童性愛|サウジアラビアにおける女性の人権}} [[国際人権規約]](自由権、社会権)に批准しておらず、厳格にシャリーアを執行する姿勢に対して、欧米諸国から批判が多々ある。しかし、批判国に対する[[石油]]輸出停止などの[[経済制裁]]をたびたび実行しているため<ref>[[中東戦争]]及び[[オイルショック]]を参照</ref>、これらの報復を恐れて[[国交]]断絶や経済制裁などを発動する[[先進国]]は皆無となっている。また[[中東]]有数の[[親米]]国家であることから、[[アメリカ合衆国]]は、[[アメリカ中央軍]]の部隊を駐留させて中東の[[反米]]諸国を牽制している。 基本統治法は第26条で「王国はイスラム法にのっとり人間の権利を保護するものとする」と明文規定するが、ここに定める“人間の権利”とはイスラム法における権利であって、西洋的な「[[人権]]」とは異なる概念である。また、[[雇用]]主による外国人就労者に対する[[パスポート]]の取り上げ(スポンサー制度)も横行しており、[[国際労働機関]]から再三にわたり改善勧告を受けている。近年、スポンサー制度を一括管理する民間機関の設置が議論されているが、本格的な実施には至っていない。 2014年2月には、「社会の安全や国家の安定を損なう」全ての犯罪行為、「国家の名声や立場に背く」行為を[[テロリズム]]と判じ、処罰対象にする対テロ法を施行した。これにより[[捜査]]当局は“[[被疑者|容疑者]]”の尾行や盗聴、家宅[[捜索]]が可能になる。[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は「当局がすぐに平和的な反体制活動家に対して新法を利用するだろう」と警鐘を鳴らした。 2020年4月、サウジアラビア最高裁は、「世界の人権基準に合わせる」として、むち打ち刑の廃止を宣言した<ref>{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20200425114918/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020042500386&g=int |title= サウジアラビア、むち打ち刑廃止 最高裁が声明 |newspaper= 時事ドットコム |publisher= 時事通信社 |date= 2020-04-25 |accessdate= 2020-04-25 }}</ref>。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|サウジアラビアの国際関係|en|Foreign relations of Saudi Arabia}}}} [[ファイル:Saudi Crown Prince Abdullah and George W. Bush.jpg|thumb|[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドゥッラー王太子]]と[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]] (両者ともに当時)]] 最初に国交を結んだ国は[[ソビエト連邦]]であったが<ref>Ismael, Tareq Y., ''The Communist Movement in the Arab World''. New York: RoutledgeCurzon, 2005. p. 9.</ref><ref>{{cite web|last=Al Kahtani|first=Mohammad Zaid|title=The Foreign Policy of King Abdulaziz|url=http://etheses.whiterose.ac.uk/529/1/uk_bl_ethos_412035.pdf|publisher=University of Leeds|accessdate=2016-01-26|date=December 2004}}</ref><ref>{{cite journal|last=Quandt|first=William B.|title=Riyadh between the Superpowers|journal=Foreign Policy|date=Autumn 1981|issue=44|pages=37-56|url=http://www.jstor.org/stable/1148544|accessdate=2016-01-26}}</ref>、サウジアラビア王国自体は[[反共主義]]と[[絶対王政]]と[[神権政治]]であったため、独立後、[[冷戦]]時は[[アメリカ合衆国]]や旧[[宗主国]][[イギリス]]などの[[西側諸国]]と緊密な関係を築いていた(ただし、冷戦時代でもアメリカに無断で[[中華人民共和国]]から[[弾道ミサイル]]を導入して摩擦もあった<ref name=saudimerika>Geoffrey Kemp. The East Moves West: India, China, and Asia's Growing Presence in the Middle East. Washington DC: Brookings Institution Press, 2010. Print.</ref>)。そのため、サウジアラビアの内政を西側諸国は表立っては非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢・立場を擁護しており、同様にイスラム法をめぐる人権問題が取り上げられている[[反米]]国家イランに対する対応とは正反対となっている。 一方で[[湾岸協力会議]]や[[イスラム協力機構]]の盟主として、湾岸[[アラブ諸国]]とイスラム圏(特にスンナ派)に影響力を持つことから、[[ユダヤ人]]国家である[[イスラエル]]を承認していなかったが、近年は国交正常化に向けた動きもある。また、両国ともにイランと対立してアメリカやイギリスとの関係が深い共通点があることから協調することもある。また歴史的な関係が深く、ともに王室が存在する[[スペイン]]とは王室同士の交流が頻繁にあるなど、元来友好関係が深い。なお、[[タイ王国]]とは[[ブルーダイヤモンド事件]]が起きた。さらに[[ウガンダ]]の[[イディ・アミン]]、[[パキスタン]]の[[ナワーズ・シャリーフ]]、[[チュニジア]]の[[ザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー]]などの[[亡命]]も受け入れた。 === 日本との関係 === {{Main|日本とサウジアラビアの関係}} [[日本]]とは[[1970年代]]に[[田中角栄]]の特使で訪問した[[三木武夫]]が、親アラブ外交を約束した際の対日石油供給制限解除以来<ref>一七会『われは傍流にあらず 政治改革に生涯をかけた三木武夫の軌跡 政治記者の記録』人間の科学社、1991年, pp. 170,173-177,181-185</ref><ref>海部俊樹、明治大学三木武夫研究会「海部俊樹氏インタビュー」『三木武夫研究II』明治大学史資料センター、明治大学史資料センター、2011年 pp. 419-420.</ref>、日本最大の原油輸入先なこともあって経済的に密接な関係にある<ref>{{Cite news| url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO49859880W9A910C1NN1000/| title=原油4割依存、企業は警戒 サウジ施設攻撃| work=| publisher=[[日本経済新聞]]| date=2019-09-17| accessdate=2019-09-29}}</ref>。一方でサウジアラビア王国とは文化の大きな違いがあるため、[[宮内庁]]は日本の[[皇室]]のサウジアラビアへの接近には極めて慎重であるが、経済的理由からサウジアラビア王国とのつながりを深めたい[[内閣 (日本)|内閣]]などの強い要望で、天皇[[徳仁]]が皇太子時代に複数回訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問している<ref>[http://flyteam.jp/news/article/45614 政府専用機、サウジアラビア国王崩御による皇太子殿下の御弔問で運航 FlyTeam ニュース]</ref>。 === イランとの関係 === {{Main|{{仮リンク|イランとサウジアラビアの関係|en|Iran–Saudi Arabia relations}}}} シーア派の[[イラン]]とは、同じ君主制で比較的友好関係<ref>Ackerman, Harrison (28 November 2011). "Symptoms of Cold Warfare between Saudi Arabia and Iran: Part 1 of 3". Journalism and Political Science. 16.</ref><ref>Iran and Saudi Arabia: External "Game Cocks?" Henner Furtig.</ref>にあった[[パフラヴィー朝]]を打倒した[[イスラム革命]]後に激しい敵対関係となり、[[イラン・イラク戦争]]ではスンニ派の[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]政権をサウジアラビアは湾岸アラブ諸国を主導して支援し<ref>Bowen, Wayne H. "The History of Saudi Arabia", Greenwood Press, 88 Post Road West, Westport, 2008, p. 120.</ref>、[[湾岸戦争]]が起きる1991年まで外交関係もなかった<ref>Katzman, Kenneth (17 June 2013). "Iran: U.S. Concerns and Policy Responses" (CRS Report for US Congress). Congressional Research Service.</ref>。2016年1月2日にはサウジアラビア王国がシーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにイランの首都[[テヘラン]]にあるサウジアラビア大使館が襲撃され、その際イランとの国交を断絶した<ref>{{Cite news | url=https://jp.reuters.com/article/saudi-security-iran-ties-idJPKBN0UH0QK20160104 | title=サウジがイランと断交、シーア派指導者処刑で宗派対立悪化 | work=ロイター | publisher=[[ロイター]] | date=2016-01-04 | accessdate=2016-01-04 }}</ref>。なお、これに[[バーレーン]]、[[スーダン]]も続いてイランとの断交を表明した<ref>{{Cite news | url=https://jp.reuters.com/article/saudi-iran-sudan-idJPKBN0UI1DB20160104 | title=スーダンもイランと断交 UAEは外交格下げ、周辺国に影響拡大 | work=ロイター | publisher=[[ロイター]] | date=2016-01-04 | accessdate=2016-01-04 }}</ref>。 しかし、2023年3月に[[中華人民共和国|中国]]の仲介によってイランと国交正常化で合意している<ref>{{Cite news | url=https://jp.reuters.com/article/iran-saudi-diplomacy-idJPKBN2VC11N | title=イランとサウジ、外交関係再開で合意 中国が仲介 | work=ロイター | publisher=[[ロイター]] | date=2023-03-10 | accessdate=2023-03-12 }}</ref><ref>{{Cite news | url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR10C3F0Q3A310C2000000/ | title=イランとサウジアラビア、外交正常化で合意 中国が仲介 | work=日本経済新聞 | publisher=[[日本経済新聞]] | date=2023-03-10 | accessdate=2023-03-12 }}</ref>。同年6月6日、両国は大使館を7年ぶりに再開させた。イランのビクデリ副外相は「イランとサウジにとって歴史的な日だ。地域の安定や繁栄、発展に向けた協力が進むだろう」と語った<ref>{{Cite web|和書|title=イラン、7年ぶりにサウジで大使館再開 中国仲介で外交関係が正常化 |url=https://mainichi.jp/articles/20230607/k00/00m/030/055000c |website=[[毎日新聞]] |access-date=2023-06-08 |date=2023-06-07 }}</ref>。 また、イランの同盟国でシーア派に近い[[アラウィー派]]である[[シリア]]の[[バッシャール・アル=アサド|アサド政権]]とも強く敵対してきた。さらにシリアに軍事基地を置く[[ロシア]]との関係も、冷戦時代の[[ソ連のアフガニスタン侵攻]]や[[チェチェン紛争]]、[[シリア内戦]]で[[ムジャヒディン]]の反政府組織を支援したこともあって親密ではない。 == 軍事 == {{main|サウジアラビア軍}} 基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」([[マスジド・ハラーム]]と[[預言者のモスク]])、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。 [[アメリカ軍]]と親密な関係を持ち、[[アメリカ中央軍]]の部隊駐留を認め、[[キング・ハリド軍事都市]]など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。[[安全保障政策]]では西側諸国と歩調を揃えているが、中国が主導する[[上海協力機構]]にも参加している<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR14ASP0U1A910C2000000/|publisher=[[日本経済新聞]]|author=|title=イラン、中ロ主導組織加盟へ 上海協力機構が合意|date=2021-09-17|accessdate=2021-09-18}}</ref>。 装備も西側諸国のものだけでなく、例えば中国からは弾道ミサイルの[[DF-3 (ミサイル)|DF-3]]と[[無人攻撃機]]の[[翼竜 (航空機)|翼竜]]や[[彩虹 (航空機)#CH-4|彩虹4]]<ref>{{cite web|url=https://www.jpost.com/Defense/Saudi-rocket-parade-a-signal-to-Iran-Israeli-defense-expert-tells-Post-350975|title=SAUDI MISSILE PARADE A SIGNAL TO IRAN, ISRAELI DEFENSE EXPERT TELLS ‘POST’|publisher=[[エルサレム・ポスト]]|date=2014-05-01|accessdate=2019-06-09}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.cnbc.com/2019/02/21/pentagon-is-scrambling-as-china-sells-the-hell-out-of-armed-drones-to-americas-allies.html|title=Pentagon is scrambling as China ‘sells the hell out of’ armed drones to US allies|publisher=[[CNBC]]|date=2019-02-21|accessdate=2019-06-09}}</ref>、[[自走砲]]の{{仮リンク|PLZ-45|en|PLZ-45}}を導入している<ref>{{cite web|url=https://www.popsci.com/saudis-use-chinese-made-cannons-yemen/|title=Saudis Use Chinese-made Cannons in Yemen|publisher=[[ポピュラーサイエンス]]|date=2015-04-21|accessdate=2019-06-14}}</ref>。また、[[軍部]]と[[軍事産業]]との汚職もあり、特に、駐米大使を長く務めた[[バンダル・ビン・スルターン]]王子(当時国防大臣だったスルターン皇太子の息子 2012年から2014年まで[[サウジアラビア総合情報庁|総合情報庁]]長官)は[[1982年]]の[[F15]]の輸入に際してアメリカ議会で強力な[[ロビー活動]]を展開し、また[[BAEシステムズ]]との400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている<ref>[http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2349512/2627244 サウジ王子の米国内資産の国外移転を禁止、米裁判所。AFP通信2008年2月11日]</ref>。2011年の軍事支出は485億USドルと若干の増加傾向にある。 使用する兵器の大半は輸入に頼っているが、国産の[[ファハド装甲車]]や[[無人機]]<ref>{{cite news |publisher=Aviation analysis |title=Saudi unveils indigenous combat drone Saqr 1 |date=2017-05-11 |access-date=2019-07-10|url=http://www.aviationanalysis.net/2017/05/saudi-unveils-indigenous-combat-drone.html}}</ref>を生産するなど、工業基盤の成熟に伴い兵器の国産化を始めている。[[湾岸戦争]]と[[イラク戦争]]では後方基地としての役目を担っていた。なお[[志願制]]であり、[[職業軍人]]によって構成されている。 * 正規軍 ** [[サウジアラビア陸軍]] ** [[サウジアラビア海軍]] ** [[サウジアラビア空軍]] ** [[サウジアラビア防空軍]] **[[サウジアラビア戦略ミサイル軍]] * 準軍事組織 ** [[サウジアラビア国家警備隊]] ** [[サウジアラビア王室警備隊]] ** [[サウジアラビア国境警備隊]] ** [[サウジアラビア総合情報庁]] ** 武装警察 ** サウジライトニングフォース == 地理 == [[ファイル:Arabian Peninsula dust SeaWiFS-2.jpg|thumb|200px|[[アラビア半島]]の衛星画像]] [[ファイル:Saudi Arabia Topography.png|thumb|right|200px|サウジアラビアの地勢図]] [[ファイル:Saudi Arabia 2003 CIA map.jpg|thumb|right|200px|サウジアラビアの地図]] {{main|{{仮リンク|サウジアラビアの地理|en|Geography of Saudi Arabia}}}} [[アラビア半島]]の大部分を占め、[[紅海]]、[[ペルシア湾]]に面する。中東地域においては面積が最大級である。北は[[クウェート]]、[[イラク]]、[[ヨルダン]]、南は[[イエメン]]、[[オマーン]]、[[アラブ首長国連邦]]、[[カタール]]と国境を接する。 かつては、イエメン、オマーン、アラブ首長国連邦との国境線は大部分が未画定であったが、2000年までにすべて画定した。[[アラブ首長国連邦]]との[[サウジアラビア=アラブ首長国連邦国境|国境]]は{{仮リンク|ジッダ条約 (1974年)|en|Treaty of Jeddah (1974)|label=1974年の条約}}によって一時画定し、これによりサウジアラビアは[[アル・アイン]]周辺の数ヶ村をアラブ首長国連邦へ譲り渡す代わりにカタールとアブダビとの間のペルシア湾に面した地域の割譲を受けて、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。 [[クウェート=サウジアラビア国境|クウェート]]および{{仮リンク|イラク=サウジアラビア国境|en|Iraq–Saudi Arabia border|label=イラク}}との国境は、1922年の[[オカイル議定書]]によって画定されたが、このときの国境には、両国の間に中立地帯が設けられていた。[[中立地帯 (サウジアラビアとクウェート)|クウェートとの中立地帯]]は1970年に、[[中立地帯 (サウジアラビアとイラク)|イラクとの中立地帯]]は1991年に消滅した。 国土の大部分は砂漠で、北部に[[ネフド砂漠]]、南部に[[ルブアルハリ砂漠]](広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ山地から南東のアシール山地)があり、標高2500m前後に達する。その間の[[マッカ州]]、[[バーハ州]]、[[アスィール州]]にかけては標高2000mを超える高原地帯が広がっている。南部には国内最高地点である{{仮リンク|サウダ山|en|Jabal Sawda}}(標高3313m)がそびえる。 === 気候 === {{see|{{仮リンク|サウジアラビアの気候|en|Climate of Saudi Arabia}}}} 気候は砂漠気候で夏は平均45°C、春と秋は29°Cで、冬はまれに零下になり、標高2000mの高原地帯では過去に積雪も観測されている。ジッダやダンマームなどの沿岸部は高温多湿、リヤドなどの内陸部は高温乾燥となり内陸部は昼夜の気温差が大きい。標高1500~2200mに位置する[[ターイフ]]、[[ハミース・ムシャイト]]、[[アブハー]]、[[バーハ]]などが位置する高原地帯は避暑地となり快適な気候となる。インド洋モンスーンの影響を受ける[[バーハ州]]、[[アスィール州]]は降水量が多く、年間降水量が200㎜~500㎜に達する。 == 行政区画 == {{main|サウジアラビアの州}} 国内には13の州があるが、知事は、すべて王族が勅任されている。 === 主要都市 === [[ファイル:Saudi Arabia map.png|thumb|right|200px|サウジアラビアの都市の位置]] {{see|サウジアラビアの都市の一覧}} * [[リヤド]](リヤード:首都、650万、標高612 m) * [[ジッダ]](ジェッダ:397万、標高12 m) * [[メッカ]](マッカ:191万、標高277 m) * [[マディーナ]](メディナ:127万、標高608 m) * [[フフーフ]](アル・フフーフ:113万、標高154 m) * [[ターイフ]](110万、標高1,879 m) * [[ダンマーム]](ダンマン:97万) * [[ブライダ]](65万) * [[アル・コバール|アル=フバル]](62万) * [[タブーク]](60万、標高760 m) * [[カティーフ]](55万) * [[ハミース・ムシャイト]](54万、標高2,066 m) * [[ハーイル]](44万、標高992 m) * [[ジュバイル (サウジアラビア)|アル=ジュバイル]](41万) - {{仮リンク|王立委員会 (ジュバイル・ヤンブー)|en|Royal Commission for Jubail and Yanbu|label=ロイヤルコミッション}}([[:en:Royal Commission for Jubail and Yanbu|Royal Commission for Jubail and Yanbu]])管轄の石油工業団地都市 * [[アブハー]](39万、標高2,270 m) * [[ナジュラーン]](35万、標高1,293 m) * [[ヤンブー]](ヤンブウ:32万) * [[バーハ]](アル・バハ:10万、標高2,155 m) * [[ジーザーン]](ジャーザーン:10万、標高40 m) == 交通 == {{main|{{仮リンク|サウジアラビアの交通|en|Transport in Saudi Arabia}}}} 西部には[[イスラム教]]の2大聖地である[[メッカ]]と[[マディーナ]]があり、世界各地から巡礼者が訪れる。[[2007年]]からは非ムスリムに対しても団体ツアーのみ観光[[査証|ビザ]]が発行されるようになった。個人には発行されていなかったが、2019年9月28日より個人旅行者に対しても観光ビザが発行されるようになった<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3248665 サウジに観光客2万4000人、ビザ解禁から10日で] AFP(2019年10月9日)2019年12月16日閲覧</ref>。2019年9月28日以前について、個人入国を認める査証は巡礼(巡礼ビザ、ムスリムのみ)か政府や各種団体(外交官ビザ、公用ビザ)、現地企業の招聘による仕事(商用短期訪問ビザ)、サウジアラビア在留者の家族(家族訪問ビザ)の場合のみ発行されていた。女性は既婚者が原則で夫または男性の近親者同伴、単独の場合は30歳以上であることが条件。 国営航空会社の[[サウジアラビア航空]]が世界各国{{efn|極東地域は香港までが限度としており、[[成田国際空港]]の発着枠がないことから、現段階では[[日本]]への路線がない。また、外国人の出入国に対してもとりわけ厳しい。}}を結んでいる他、外国航空会社がリヤードやジッダなどの主要都市に乗り入れている。 {{see also|サウジアラビアの空港の一覧}} 世界で唯一女性が自動車を運転することが禁止されていた国であるが、2017年9月に解禁される方針が発表された<ref name="BBC170927"/>(法的に禁止しているわけではないが運転免許の発給がされず、社会通念的にも運転は禁止されていると見なされた<ref name="榊原">[http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2011-06/josei03.pdf サウジアラビアの女性自動車運転容認問題]({{wayback|url=http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2011-06/josei03.pdf|date=20180615164157}}), 中東協力センターニュース, 2011年6/7月号, pp. 29-34.</ref>)。ただし、女性が財産として自動車を所有することは禁止されていない。このため、女性が自動車を利用する場合は運転手を雇うか、親族男性に運転してもらわなければならなかった<ref name="榊原"/>。政府の統計によると、サウジアラビアの家庭が雇う男性運転手の数は約140万人で、多くは海外からの[[出稼ぎ労働者]]であった<ref>[https://www.cnn.co.jp/business/35107962.html?tag=mcol;relStories 男性運転手が大量失職か、女性の車運転解禁で] CNN(2017年9月28日)2018年1月12日閲覧</ref>。そして、2018年6月24日女性の運転が解禁された<ref name="afp2018"/><ref name="mainichi2018"/><ref name="sankei2018"/><ref name="huffingtonpost2018"/><ref name="BBC2018"/>。 鉄道ではかつては[[ヒジャーズ鉄道]]が運行されていたが現在は廃止になっている。現代は[[サウジアラビア鉄道公社]]によって[[リヤド]] - [[ダンマーム]]間に旅客路線が運行されている。また[[ハラマイン高速鉄道]]が建設されている。その他都市鉄道として[[メッカ]]に[[メッカ・メトロ]]が運行され、リヤドでも[[リヤド・メトロ]]の建設が進められている。[[ガルフ鉄道]]構想もある。 {{see also|サウジアラビアの鉄道}} == 経済 == {{Main|サウジアラビアの経済}} {{See also|サウジビジョン2030}} 2015年の[[国内総生産|GDP]]は約6,320億ドルであり<ref name="IMF2">[https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2015/02/weodata/weorept.aspx?sy=2013&ey=2020&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=456&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a=&pr.x=31&pr.y=14 IMF] 2016年1月2日閲覧。</ref>、日本の[[近畿地方]]よりやや小さい経済規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html 県民経済計算] 内閣府 2016年10月30日閲覧。</ref>。同年の一人当たりGDPは2万138ドルである<ref name="IMF2"/>。サウジアラビアは[[G20]]の一員であり、2024年1月1日からは[[BRICS]]にも加盟する<ref>{{Cite web|和書|title=BRICS、サウジなど6カ国が来年加盟 歴史的拡大と習中国主席 |url=https://jp.reuters.com/article/brics-summit-ramaphosa-idJPKBN2ZZ0JI |website=ロイター |access-date=2023-08-31 |date=2023-08-24}}</ref>。巨大企業は[[サウディア]]、[[サウジアラムコ]]、[[サウジ基礎産業公社]]、[[キングダム・ホールディング・カンパニー]]、[[サウディ・ビンラディン・グループ]]、[[パブリック・インベストメント・ファンド]]など、石油関連の国営や王族が経営する企業であり、純粋な株式会社は少ない。 [[石油輸出国機構|OPEC]]の盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約75%を占めている)となっている他、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。[[中央銀行]]は1952年に設立された通貨庁であり、[[ソブリン・ウエルス・ファンド]](政府系投資ファンド)としても知られている。[[金融センター]]としても整備されており著名な[[投資家]]も多いが、2010年9月、英国の[[シンクタンク]]のZ/Yenグループによると、首都[[リヤド]]は世界第69位の金融センターと評価されており、[[中東]]では[[ドバイ]]、[[カタール]]、[[バーレーン]]と比較するとまだ出遅れている<ref>[http://www.zyen.com/GFCI/GFCI%208.pdf The Global Financial Centres Index8]</ref>。 製造業などは小規模なものしか存在していない。巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていなかったことから観光業は低調であり、メッカの巡礼者を相手にするだけであった。こうした状況を打開するために、[[ムハンマド・ビン・サルマーン]]が中心となり、一般向けの観光ビザの解禁による観光産業、外国資本受け入れによるIT産業、半導体製造など新たな産業を育成する改革プラン「[[サウジビジョン2030|ビジョン2030]]」を打ち出すなどしているが、法整備の遅れなどにより天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない<ref>{{Cite web|和書|url=http://markethack.net/archives/52008041.html|title=サウジアラビアの「ビジョン2030」とは?|publisher=|date=2016-05-09|accessdate=2017-03-11}}</ref>。 == 水資源 == サウジアラビアの水資源は、古くは[[オアシス]]などの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地[[メッカ]]では[[ザムザムの泉]]と呼ばれる湧水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。汲み上げられる地下水は、アラビア半島が湿潤だった1万年以上前に降った雨水が地下の帯水層に閉じこめられた化石水であり、今後補給されることはほぼない。このため各地の井戸では水位の低下が深刻化し、現在のペースで水を使い続ければ、地下水資源は2040年までに枯渇すると予測されている。 サウジアラビアは世界最大の[[海水淡水化]]プラント稼働国である。その多くは省エネの逆浸透法 (RO:Reverse Osmosis) 海水淡水化プラントであり自力で建設し自国に逆浸透膜 (RO膜) 工場をつくるなど特にサウジ政府は力を入れている。その88%は農業用水で残りは工業用水と飲料水に使われている。20余りの主要都市に人口の80%が集中し、都市部ではオアシスや地下水の水源だけでは全く不足するため、海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。アシュベールにある世界最大のプラントは毎日100万トンを生産しており、国全体では年間で12億2千万立方メートルの水を海水淡水化によって得ている。プラントの多くは1970~1980年代に建設されており、2000年ごろから多くのプラントが老朽化を迎え始め、メンテナンスと建て替えのために多くの事業が日本を始めとする海外へ発注されている。 主要都市では下水を再処理して都市周辺の農業用水に回すための浄化施設がある。海水淡水化プラントから供給される水は1リットルあたり2リヤルのコストがかかり、さらに内陸部へ送水するのに1 - 2リヤルのコストがかかるため、大変に高価な水である。しかし、水道代は10トン1リヤルほどで、一般家庭の水道代が1か月4リヤルを超えることはあまりない。送水設備とコストの関係から主要都市部以外への送水はあまり活発ではなく、地方では古来からの井戸とオアシスの水源に頼っている。地方の内陸[[都市]]などでは[[ダム]]をつくり雨水をためてそれを使っており、[[リヤド]]の真ん中を通るワディ・ハニーファも[[ダム]]などによって川と化している。海水淡水化プラント自体は、サウジ国内で15から20箇所ほどあるとされる。 [[リヤド]]など内陸部でも毎年冬場になると数日は雨が降る<ref>[https://ja.weatherspark.com/y/104018/リヤド、サウジアラビアにおける年間の平均的な気候 weather spark] 降水量・降雨参照</ref>。ただ、砂漠気候であるため、降雨はわずかな期間に集中、数日経てば再び乾燥するため水資源としての価値はない。近年になってからは降雨量は増加傾向にあり、雨が降ると都市の低地が水没するようになっている。もともと砂漠であるため都市部には排水路などの水害対策の設備が全くなく、毎年水害によって数十人の死者が出ている。膨大な地下水のくみ上げと淡水化プラントによって総雨量を超えるほどの水が使用されていることが原因ではないかと言われており、実際にここ20年あまりでサウジアラビアの気候が穏やかになってきている。 == 国民 == {{bar box |title=国籍 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|サウジアラビア国籍|green|69}} {{bar percent|外国籍|silver|31}} }} {{main|{{仮リンク|サウジアラビアの人口統計|en|Demographics of Saudi Arabia}}}} === 民族 === [[ファイル:Saudi Arabia population density 2010.png|thumb|サウジアラビアの人口密度分布図]] 広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、[[サウード家]]による長年の[[中央集権化]]政策・部族解体政策にもかかわらずサウジアラビア人という民族意識の形成には至っていない{{要出典|date=2017年9月}}。部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している{{要出典|date=2017年9月}}。しかしながら、[[アラビア半島]]諸国の統一とオスマンへの反逆をワッハーブ運動{{efn|詳細は「[[ワッハーブ派]]」を参照。}}の名の下成功させたという点では、サウジ人という意識もあり[[国民国家]]とも呼べる。 概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」(部族対立)、「どの地方の出身か」(地方対立)、「どの宗派を信じるか」(宗派対立)、「どの階級に属するか」(階級対立)で、自らを認識しているという{{要出典|date=2017年9月}}。 統計局が発表した、2010年の人口統計は27,136,977人で、サウジアラビア国籍が18,707,576人と全体の69%に過ぎず、外国人が8,429,401人となっており、総人口の31%が外国人労働者である。最も多い外国人はインド人とパキスタン人でそれぞれ130万~150万人に達する。次いで、エジプト人、イエメン人、バングラデシュ人、フィリピン人、ヨルダン人、インドネシア人、スリランカ人、スーダン人などが多くなっている。労働省によると、登録されている[[家庭内労働者]]120万人のうち、女性48万人が[[メイド]](アラビア語:خادمة)として登録されている。 === 言語 === 言語は公用語が[[古典アラビア語]]で、日常生活での共通口語は、サウジアラビアの現代口語アラビア語変種である。 * [[アラビア語ヒジャーズ方言]] (約600万人) - アラビア半島の紅海沿岸の地方 * [[アラビア語ナジュド方言]] (約800万人) - アラビア半島の中央部にある高原地帯 * [[アラビア語湾岸方言]] (約20万人) - ペルシャ湾岸 外国人労働者の母語として、いくつかの言語が話されている。 * [[タガログ語]] (約70万人) * [[ロヒンギャ語]] (約40万人) * [[ウルドゥー語]] (約38万人) * [[アラビア語エジプト方言]] (約30万人) === 宗教 === [[ファイル:The Holy Mosque in Mecca.jpg|thumb|[[メッカ]]の[[カアバ神殿]]]] [[ファイル:HAC_2010_MEDINE_MESCIDI_NEBEVI_-_panoramio.jpg|thumb|[[メディナ]]のナバウィ[[モスク]]]] {{bar box |title=宗教構成(サウジアラビア) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|イスラム教[[スンナ派]]|green|85}} {{bar percent|イスラム教[[シーア派]]|yellowgreen|15}} }} {{see|{{仮リンク|サウジアラビアの宗教|en|Religion in Saudi Arabia}}}} 宗教は[[イスラム教]][[スンナ派]]が[[国教]]である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア[[国籍]]の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地である[[メッカ]]があるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。 このため、サウジアラビア国民はイスラム教徒が100%であると公表されているが、これは他の宗派や宗教の存在を公式に認めていないという建前上の見解によるものである。実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、財団法人中東経済研究所の調査によると、シーア派は[[イラン]]と地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定されている。また、[[イエメン]]に近い南部の[[アブハー]]などもシーア派([[イスマーイール派]]、[[ザイド派]])が多いとみられる。アメリカ合衆国[[中央情報局]]による統計では、スンナ派が85~90%、シーア派が10~15%と推計されている<ref>{{cite web|title=The World Factbook|url=https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/sa.html|work=2012|publisher=Central Intelligence Agency|accessdate=22 April 2014}}</ref>。 多数のシーア派の居住する東部地方は、アハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地である。初代国王アブドルアジーズは東部州を併合するのに際しシーア派住民による一定の自治を認めたが、時代と共に自治権を奪われ名目上は存在しないことにされてしまったという経緯がある。このため、長年にわたりシーア派の宗教機関は非合法な存在とされてきた。[[湾岸戦争]]以降は、反体制運動を行っていた[[シーア派]]を容認、和解した。 [[湾岸戦争]]以降は、他の宗派を容認する方向へ方針転換を行い、法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認めている。近年では、他宗教の信仰も限定的ながら解禁されてきている{{要出典|date=2017年9月}}。しかし、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている。また、他宗教の容認は国政の一層のイスラーム化を求める[[イスラム原理主義]]への改革運動の激化を引き起こし、サウジアラビア人によるイスラーム主義武装闘争派の[[テロ]]を引き起こした。このため、各個人や集団による私的な[[ジハード]]を禁止するために、国王の勅令がなければ禁止とする法令が出された。 国民の4%は[[キリスト教徒]]だとも言われているが、内務省の統計では外国人居住者(数十万人の[[アメリカ軍]]関係者と外国人)もキリスト教徒に含まれている。近年では宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進み、国民が宗教的な指導に従わなくなってきており、宗教指導者が[[ハラーム]](禁忌)であると[[ファトワー]](宗教見解)を出したものの、多くの民衆が禁忌に従わず利用を継続することが珍しくなくなった。代表的なものとして[[ポケットモンスター|ポケモン]]、[[バレンタインデー]]、[[クリスマス]]などがある。 民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である[[勧善懲悪委員会]]による取り締まりを過激化させる傾向にある。このような過激な発言がニュースで配信されたりしてネット上で話題になることがあるが、発言と実情がかけ離れていることが多い。2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている{{要出典|date=2017年9月}}。 サウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議は長年にわたり[[ワッハーブ派]]が独占してきたが、近年になって近い宗派である[[シャーフィイー学派]]がわずかに参加するようになり、2009年2月14日に21名に増員されると[[ハナフィー学派]]と[[マーリク学派]]の[[ウラマー]]も入った{{要出典|date=2017年9月}}。これによってサウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議がワッハーブ派の独占ではなくなりスンナ派の四大法学派が全てそろったことになる。 === 婚姻と姓 === アラブ社会に近現代日本のような姓は存在しない。その代わりに * 本人のファーストネーム+父の名前+出身部族を示す語 * 本人のファーストネーム+父の名前+出身氏族を示す語 * 本人のファーストネーム+父の名前+先祖名由来の家名 * 本人のファーストネーム+父の名前+祖父の名前 * 本人のファーストネーム+父の名前+祖父の名前+出身部族を示す語 * 本人のファーストネーム+父の名前+祖父の名前+出身氏族を示す語 * 本人のファーストネーム+父の名前+祖父の名前+先祖名由来の家名 * 本人のファーストネーム+父の名前+祖父の名前+曽祖父の名前 といった形でその人物の出自が示され<ref>{{Cite web |title=Saudi Arabian Culture - Naming |url=http://culturalatlas.sbs.com.au/saudi-arabian-culture/saudi-arabian-culture-naming |website=Cultural Atlas |date=2019 |access-date=2023-08-15 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=Saudis free to discard their tribal surnames |url=https://gulfnews.com/world/gulf/saudi/saudis-free-to-discard-their-tribal-surnames-1.106246 |website=gulfnews.com |date=2008-05-22 |access-date=2023-08-15 |language=en}}</ref>、これらがフルネームとして扱われている。 このうち本人のファーストネーム以降の部分を非アラブ諸国における姓・苗字/名字・家名に相当する部分として用いるため、サウジ人を含むアラブ人のラストネームは本人の父もしくはそれ以前の祖先の名前や一族が所属する部族の名前(多くは遠い父祖の名前由来)になっていることが一般的である。 これらは出自表示であり姓とは異なるため、結婚時に夫のラストネーム・家名に変更するといった改姓を行う習慣は存在せず、いわゆる夫婦別姓とは異なる概念となっている。いくつかのアラブ諸国では西洋風に結婚後夫のラストネームを名乗ることも行われているが、サウジアラビアでは一般的ではない。 == 教育 == {{main|{{仮リンク|サウジアラビアの教育|en|Education in Saudi Arabia}}}} イスラム教を国教とする[[祭政一致]]国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。初等教育の段階で[[クルアーン]](コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制の{{仮リンク|サウジアラビア王立科学技術大学|en|King Abdullah University of Science and Technology}} (KAUST) が、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。また、シーア派を[[邪教]]とする教育が、シーア派を含むすべての国民に対して長らく行われてきたとされる。 [[2008年]][[10月29日]]、これまで女性が学ぶことが困難であった[[医学]]、[[経営学]]、[[外国語]]などを教えるサウジアラビア初の[[女子大学|女性専用の総合大学]]を創設することが国王[[アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ|アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウード]]によって決定され、リヤド郊外で起工式が行われた。 女子がスポーツを行う機会は限られており、[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は、「公教育で女子の体育を禁じている唯一の国」として批判している。サウジアラビア教育省は、2013年5月、一部私立校で女子の体育の授業を認めると発表した<ref>{{cite news |title=サウジアラビア:女子生徒の体育授業、初めて公認 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2013-5-13 |url=http://mainichi.jp/select/news/20130513k0000e030168000c.html |accessdate=2013-5-13 }}</ref>。[[2012年]]の[[ロンドンオリンピック (2012年)|ロンドンオリンピック]]に、初めて女性選手を送るなど、近年、僅かながらではあるが女子のスポーツへの門戸が徐々に開かれている<ref>{{cite news |title=サウジ女性が初のエベレスト登頂 |newspaper=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2013-5-20|url=http://www.cnn.co.jp/showbiz/35032262.html |accessdate=2013-5-22}}</ref>。 == スポーツ == {{Main|サウジアラビアのスポーツ}} [[File:Sdm 4680.jpg|thumb|200px|[[2018 FIFAワールドカップ|2018年ロシアW杯]]開幕戦での[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア代表]]。]] [[File:Hamad Al-Montashari 2009.jpg|thumb|150px|2005年に[[アジア年間最優秀選手賞]]を受賞した[[ハマド・アル=モンタシャリ|アル・モンタシャリ]]。]] === サッカー === {{Main|{{仮リンク|サウジアラビアのサッカー|en|Football in Saudi Arabia}}}} サウジアラビア国内でも他の[[中東]]諸国同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている<ref>{{Cite web|和書|title=人気スポーツ「圧倒的にサッカー」 サウジアラビアのスポーツ事情 |url=https://mainichi.jp/articles/20221122/k00/00m/050/355000c |website=[[毎日新聞]] |access-date=2023-06-20 |date=2022-11-22 }}</ref>。1976年に創設された『[[サウジ・プロフェッショナルリーグ]]』は、[[アジア]]の中でもレベルの高いリーグとして知られており、近年では、[[クリスティアーノ・ロナウド]]や[[ネイマール]]をはじめとした世界的に有名な選手が数多く同国のリーグに移籍している。[[AFCチャンピオンズリーグ]]においては、[[アル・ヒラル]]が大会最多4度の優勝を達成している。 [[サッカーサウジアラビア代表]]はアジア地域における強豪として知られており、[[AFCアジアカップ]]では3度の優勝を誇る。[[FIFAワールドカップ]]には[[1994 FIFAワールドカップ|1994年大会]]で初出場して以降、完全に常連として定着しており6回の出場を果たしている<ref>{{Cite web|url=http://www.fifa.com/associations/association=ksa/index.html|title=Saudi Arabia - Honours - FIFA World Cup appearances|publisher=FIFA.com|accessdate=2012-11-28}}</ref>。さらに[[FIFAコンフェデレーションズカップ|キング・ファハド・カップ]](現:コンフェデレーションズカップ)では、[[キング・ファハド・カップ1992|1992年大会]]で準優勝に輝いている。 また、過去には女性がスタジアムでサッカー観戦する事が禁止されていたが、2018年以降は[[アクリル板]]で区切るなどの条件付きで解禁されている<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3158363?cx_part=top_block&cx_position=2 サウジで初、女性がサッカー生観戦 「歴史的な日」と喜び] AFP(2018年1月13日)2018年1月13日閲覧</ref>。さらに2021年には{{仮リンク|サッカーサウジアラビア女子代表|en|Saudi Arabia women's national football team}}が新設され、2022年2月20日に初めて{{仮リンク|サッカーセーシェル女子代表|en|Seychelles women's national football team}}との国際試合が行われた。 === クリケット === {{Main|{{仮リンク|サウジアラビアのクリケット|en|Cricket in Saudi Arabia}}}} [[クリケット]]はサッカーに次いで、サウジアラビア国内で2番目に人気のスポーツである<ref>[https://fortune.com/2023/09/01/saudi-arabia-sports-soccer-football-cricket-money-pif-wealth-cricket-golf-f1-ben-stokes-messi-ronaldo-neymar-salary-pro-league-al-hilal-al-nassr/ Saudi Arabia has so much money to spend on sports no one else can compete, says one of the world’s most popular athletes] Fortune 2023年9月18日閲覧。</ref><ref>[https://finance.yahoo.com/news/saudi-arabia-much-money-spend-111719337.html?guccounter=1&guce_referrer=aHR0cHM6Ly93d3cuZ29vZ2xlLmNvLmpwLw&guce_referrer_sig=AQAAAJw0dOBCMbWo3ZllelrkGiJyHvntU1TNlZPWWtZTGiEwGZMcHFdA6CIRNqIEmwHQjN3Air0rQdPJWmhbWmpKW43y1Z7OncytgKJNVRh-6ZyLUkvNC3SPaVrenlmi8kLzGiE_zKzs-xH4ugwZ8OeU74riy8n2svnTrD06UlzRIPkl Saudi Arabia has so much money to spend on sports no one else can compete, says one of world’s most popular athletes] Yahoo!finance 2023年9月18日閲覧。</ref>。[[国内競技連盟]]であるサウジアラビアクリケット連盟 (SACF) の本部はリヤドに所在しており、クリケットの試合を管理するためにスポーツ省に登録されている唯一の法人である<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/associate/139 Saudi Arabian Cricket Federation] 国際クリケット評議会 2023年9月30日閲覧。</ref>。2003年に[[国際クリケット評議会]]に加盟し、2016年に準会員に昇格した<ref name="ICC"/>。クリケットが圧倒的に人気のある地域である[[南アジア]]出身の[[外国人労働者]]が、同国の人口を部分的に占めていることもクリケット人気の要因の一つである。国内には100以上のクリケット場があり、370の登録されたクリケットクラブがある<ref name="ICC"/>。 === その他の競技 === {{See also|オリンピックのサウジアラビア選手団}} [[バスケットボール]]は、サウジアラビアで人気のスポーツの一つある。{{仮リンク|サウジ・プレミアリーグ (バスケットボール)|label=バスケットボール・サウジ・プレミアリーグ|en|Saudi Premier League (basketball)}}には、[[FIBA男子アジアカップ]](旧:FIBAアジア選手権)に出場する選手も所属しており、[[マクムード・アブドゥル=ラウーフ]]のように[[NBA]]でプレーした選手も所属するようになっている。他方で、2021年より[[フォーミュラ1|F1世界選手権]]の[[サウジアラビアグランプリ|サウジアラビアGP]]([[ジッダ市街地コース]])なども開催されている。 == 文化 == {{Main|{{仮リンク|サウジアラビアの文化|en|Culture of Saudi Arabia}}}} === 大衆文化 === 1965年からテレビ放送が始まったが、宗教指導者がテレビに対して否定的見解を示しているため、現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある。娯楽番組の視聴には衛星放送が広く利用されており、同じアラビア語圏の番組が衛星放送を利用して視聴されている。近年では国営放送でも日本のアニメを放送するなど非常に軟化した態度を示すようになったが、これに反発した宗教指導者が2001年にポケモン禁止令を出した<ref>{{cite web |url=http://archives.cnn.com/2001/WORLD/meast/03/26/saudi.pokemon/ |title=Saudi bans Pokemon |accessdate=2016年2月5日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080525034521/http://archives.cnn.com/2001/WORLD/meast/03/26/saudi.pokemon/ |archivedate=2008年5月25日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。しかし、数年後に事件が鎮火すると再び放送されており、ポケモン禁止直後に[[デジモンアドベンチャー]]が放送されるなど放送業界は柔軟な態度を示している。近年ではインターネットによる視聴も多いが、違法にアップロードされた海賊版も多い<ref name=saudi-anime1>[https://www3.nhk.or.jp/news/special/new-middle-east/saudi-anime/?utm_int=detail_contents_special_004 サウジでアニメエキスポ? 「進撃」だけじゃないファンの熱量|中東解体新書] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。 派手なライフスタイルで知られる米国人の[[パリス・ヒルトン]]がサウジアラビアなどの中東でのみファッションブランドを展開し、その店舗はイスラム教の聖地メッカにも進出しているという事実があり、一般の欧米人よりも派手で身体の露出の大きい衣服を売り物にしたファッションブランドが女性に人気という側面がある。創作においてもイスラム教の戒律に配慮した表現が求められるが、[[美少女]][[フィギュア]]については[[水着]]の着せ替えパーツは不可だが膝上スカートは可など独特の基準が存在する<ref name=saudi-anime1 />。近年では[[ムハンマド・ビン・ナーイフ]]が推進する経済政策の一環として娯楽への制限が緩和されつつある<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191115/k10012178141000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002 娯楽解禁のサウジアラビア 日本のアニメ集めた初のイベント] - [[日本放送協会|NHK]]</ref>。また、[[ムハンマド・ビン・サルマーン]]は石油に代わる産業としてエンターテインメント産業を育成するため、自身の財団傘下のアニメ制作会社と日本の共同制作の劇場作品を手がけるなどしている<ref name=saudi-anime1 />。また、イベントのノウハウを学ぶため、定期的に大規模イベントを開催している<ref>{{Cite web|和書|title=戸惑うほどの日本好き “サウジ”で日本アニメが急上昇しているワケ |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2207/24/news020.html |website=ねとらぼ |access-date=2022-07-28 |language=ja}}</ref>。 === ネット文化 === [[インターネット]]の[[ネット検閲|規制]]が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている。国内ではアラビア語の[[出会い系サイト]]やSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが、親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。 === 出版 === 厳重な報道管制と[[言論統制]]が敷かれており、当局が許可した書籍でなければ販売することが出来ない。特に王族に関する批判的な書籍は[[検閲]]で発売を禁じられ、世界の長者番付が掲載されアブドゥッラー現国王の資産が公開されたビジネス誌『[[フォーブス (雑誌)|フォーブス]]』は国内発禁となるなど[[不敬]]規定がある。内政に関する外国マスメディアの取材も大幅に制限され、[[日本]]では[[日本放送協会|NHK]]『[[クローズアップ現代]]』が2006年12月にようやく許された程度である<ref>{{Cite web|和書 |date=2007-01-09 |url=https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/2347/index.html |title=苦悩する石油大国〜サウジアラビア最新報告〜 |work=クローズアップ現代 |publisher=日本放送協会 |accessdate=2008-09-26 }}</ref>。 しかし、2007年にはサウジアラビアの女性を主人公にした小説「[[リヤドの女たち]]」の発禁処分が解かれ、ベストセラーになるなど少しずつ自由化してきている。厳しい検閲が実施されているが、出版の抜け道として[[メールマガジン]]がある。メールの送信は出版とはみなされていないため、紙に印刷されないメールマガジンによる発行は合法とされている。リヤドの女たちも元はメールマガジンで発行されていた小説だった。 出版物に関する著作権は著作権審議委員会によって管理されており、[[カーディ]]裁判は著作権問題による訴えを扱わないため、著作権侵害があった場合は民事訴訟などではなく委員会に申し立てることになっている。ただし、申し立てが出来るのは検閲による許可を受けている出版物のみで、日本や欧米のように無条件に著作物に著作権があるわけではない。 === 食文化 === {{see|サウジアラビア料理}} {{節スタブ|date=2023年6月}} === 映画 === {{see|{{仮リンク|サウジアラビアの映画|en|Cinema of Saudi Arabia}}}} [[2018年]][[4月20日]]、約35年ぶりに映画が一般向けに上映された(映画自体はDVDやブルーレイで視聴でき、設備を備えた文化センターのような施設がありたびたび上映されていた<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/hosaka/2018/04/post-20.php 「映画禁止ではなかった」サウジ映画館解禁の伝えられない話] newsweek、2018年6月15日閲覧。</ref>)。[[1980年代]]には、映画館を低俗で罪深いものと非難する宗教界の保守強硬派の働きかけを受け、国内の映画館を閉鎖していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3171961?cx_position=8|title=サウジアラビア、35年ぶりに映画一般公開|publisher=AFP|date=2018-04-21|accessdate=2018-05-03}}</ref>。 === 祝祭日 === {{see|{{仮リンク|サウジアラビアの祝日|en|Public holidays in Saudi Arabia}}}} {{節スタブ|date=2023年6月}} == 著名な出身者 == {{Main|Category:サウジアラビアの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[サウジアラビア関係記事の一覧]] * {{仮リンク|サウジアラビアの政治|en|Politics of Saudi Arabia}} * [[サウジアラビアの経済]] * [[サウジビジョン2030]] * [[サウジアラムコ]] * [[パブリック・インベストメント・ファンド]] * [[サウジ・プロフェッショナルリーグ]] * [[ウサーマ・ビン・ラーディン|オサマ・ビンラディン]] {{colend}} == 外部リンク == {{Commons&cat|Saudi_Arabia|Saudi_Arabia}} {{Wikivoyage|Saudi_Arabia|サウジアラビア{{en icon}}}} ; 政府 * [http://www.saudinf.com/ サウジアラビア王国政府]{{リンク切れ|date=2022年1月}} {{en icon}} * [https://embassies.mofa.gov.sa/sites/japan/EN/Pages/default.aspx 在日サウジアラビア大使館] {{en icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/saudi/ サウジアラビア王国](外務省) * [https://www.ksa.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在サウジアラビア日本大使館] ; 観光 * [http://www.sct.gov.sa/sctSiteaction.do?goToPage=VVI7PGS3S8&lang=ar 最高観光委員会]{{リンク切れ|date=2022年1月}} {{ar icon}}{{en icon}} ; その他 * [https://www.jetro.go.jp/world/middle_east/sa/ サウジアラビア]([[日本貿易振興機構]]){{ja icon}} * [https://globalnewsview.org/archives/5026 「ISのような国」:サウジアラビアの実態](GNV){{ja icon}} * [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-12.html サウジアラビア](財団法人中東協力センター){{ja icon}} * [http://www.aii-t.org/ アラブ・イスラーム学院] * {{CIA World Factbook link|sa|Saudi Arabia}} {{en icon}} * {{Curlie|Regional/Middle_East/Saudi_Arabia}} {{en icon}} * {{NHK for School clip|D0005311285_00000|サウジアラビア}} * {{Kotobank}} * {{Wikiatlas|Saudi Arabia}} {{en icon}} * {{Googlemap|サウジアラビア}} {{アジア}} {{OIC}} {{OPEC}} {{G20}}{{シリア内戦}}{{サウジアラビア国王}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さうしあらひあ}} [[Category:サウジアラビア|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:王国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:イスラーム原理主義]] [[Category:宗教国家]]<!--「政教一致」と明記--> [[Category:イスラム国家]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:G20加盟国]] [[Category:アラブ連盟]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]]
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湾岸戦争
湾岸戦争(わんがんせんそう、英語: Gulf War、アラビア語: حرب الخليج الثانية)は、1990年8月2日にイラクが隣国クウェートに侵攻した(クウェート侵攻)事件を発端とし、侵攻後もクウェートから撤退しないイラクに対する強制措置としてアメリカ合衆国主導の多国籍軍が結成され、その多国籍軍とイラクの間で勃発した戦争である。なお、侵攻したイラクに対しては経済制裁が行われた他、増援による軍事的圧力も加えられたが、結局イラクは撤退せず、多国籍軍は砂漠の嵐作戦を発動してイラクを攻撃。続いて地上戦も行われ、多国籍軍の勝利によってイラク軍は撤退。クウェートは解放され停戦協定が締結された。 イラクは、イラン・イラク戦争を通じて軍備を増強し、ペルシア湾岸の一大軍事国家として台頭した一方、戦費調達のため多額の債務を負ったうえに、折からの原油価格の下落により石油収入が低下したことで、経済的には苦境に陥っていた。この原油価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦が石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、イラクは両国を非難した。一方、クウェートは戦争中のイラクに対し多額の融資を行っていたが、終戦後にその返済を要請したところ、当時のイラクのサッダーム・フセイン大統領は、これはアメリカ合衆国やイスラエルがイラクを陥れようとする陰謀の一環であると考えて、対決姿勢を強めていった。 1990年8月2日、イラク共和国防衛隊はクウェートへ侵攻、約6時間で同国全土を制圧・占領して傀儡政権であるクウェート共和国を擁立し、8月8日にはクウェートのイラクへの併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。国際連合安全保障理事会は、侵攻同日のうちにイラクに対して即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソが一致して可決し、マルタ会談とともに冷戦の終わりを象徴する出来事になった。翌1991年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「多国籍軍」が構成された。これは、第二次世界大戦以来の連合であった。 多国籍軍ではアメリカ軍が主力をなしていたが、ほかにもイギリスやフランスなどといった西側ヨーロッパ諸国のみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、更に比較的中立的な立場の国であるカタールやイラクと同じバアス党政権で東側諸国の一員であるシリアなども参加した。ヨーロッパ諸国軍はノーマン・シュワルツコフ米陸軍大将が司令官を務めるアメリカ中央軍の指揮下に入ったのに対し、アラブ諸国軍はサウジアラビア軍の作戦統制下に入り、ハリド・ビン・スルタン(英語版)中将を司令官としてアラブ合同軍を組織した。ただしアメリカの軍事能力は他国よりずば抜けて高かったために、面子等に留意しつつも、軍事作戦に関しては全軍を実質的に統制していたとされる。 国際連合により認可された、アメリカ、イギリスをはじめとする34ヵ国からなる多国籍軍は、イラクへの攻撃態勢を整えていった。その後イラク政府に決議履行への意思が無い事を確認した多国籍軍は、国連憲章第42条に基づき、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。 イラクの大統領サッダーム・フセインは開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の生みの親である」と言った。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれるこの戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた。 このクウェートの占領と併合を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まり、これに続いて2月23日から地上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。 空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。 戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた。 1989年11月、イラクのバグダードを訪問したクウェートのジャービル首長は、イラクに対してイラン・イラク戦争時の400億ドルの借款の返済を要請した。しかし当時のイラクは、アラブ世界以外の国からの負債に対する返済だけで、毎年の石油収入の約半分に達する状況であった。またアラブ世界からの負債も似たような状況であったが、イラクは、同国こそがアラブ世界をイランから守る唯一の守護神であると考えていたことから、借款の返済どころか新たな援助さえも要求した。 8年間のイラン・イラク戦争を通じてイラク軍の規模は4倍となり、1988年夏の時点で、ペルシア湾岸の一大軍事国家となっていた。イラク陸軍だけでも湾岸協力会議(アラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア)諸国全ての陸軍よりも3倍強力であった。イラクのフセイン大統領は、自分には弱みがなく、湾岸地域のリーダーとして振舞えると確信していた。 しかしイラクの経済的苦境は歴然としていた。イラン・イラク戦争前は外貨準備高350億ドル以上を保有していたが、戦争によって800億ドル以上の負債を抱えるとともに、経済復興に2,300億ドル以上が必要な状況になってしまい、1988年のイラクの国内総生産(GDP)は380億ドルに過ぎなかった。しかもクウェートなど他国の石油増産によって原油価格も下落した結果、石油収入は以前の50パーセントにまで低下していた。 1990年7月に入ると、原油価格は従来の1バレル当たり18ドル程度から12ドル程度にまで下落したが、イラクは、この価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦が石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、両国を非難した。また、このような経済的苦境下でクウェートが借款の返済を要請してきたことについて、フセイン大統領はアメリカ合衆国やイスラエルの陰謀が背景にあると考えるようになっており、この陰謀論は、イラク指導部の間で広く共有されていった。 7月10日の湾岸5か国石油相会議において1990年前半の生産枠の遵守が確認され、この問題も一段落着いたかとみられていたが、7月16日にはアズィーズ外相がアラブ連盟のクリービー事務総長(英語版)に対してクウェートを非難する書簡を送付した。7月17日は1968年のクーデターでバアス党政権が成立した記念日であったが、この日の演説で、フセイン大統領は「クウェート等が石油の過剰生産をやめなければ武力を行使する」と述べた。OPEC総会を控えて、7月中旬頃からは、クウェートとの国境地帯において軍部隊の集結が開始された。7月27日には、ジュネーヴで行われていたOPEC総会において、原油最低価格の引き上げや原油の減産などイラクの立場を配慮した形での妥協が成立したものの、既にこの程度の妥協ではフセイン大統領を納得させることができないほど、イラク・クウェート間の対立は厳しさを増していた。 これに対してエジプトとサウジアラビアが両国間の仲介を試み、7月31日にはサウジアラビアのジッダで両国間の会談が実現した。このジッダでの会談は、クウェートとしては今後長期にわたる交渉を実現する上での第一段階として位置づけていたのに対し、フセイン大統領には、そのように悠長に構えるつもりは全くなかった。この会談で、イラクはクウェートに対して負債の帳消しとともにブビヤン島などの割譲を要求したが、クウェートはこれらの要求を拒絶した。この時、イラクは開戦を決意したとされる。 1990年8月2日午前1時(現地時間)、イラクの共和国防衛隊はクウェート国境を越えて侵攻を開始した。アメリカ国防情報局(DIA)は、偵察衛星からの画像によって早くからイラクの侵攻準備体制を把握していたが、アメリカでの軍事常識として本格侵攻に必要と考えられていた諸装備や兆候が欠けていたことから、DIAから報告を受けた統合参謀本部(JCS)および中央軍(CENTCOM)は、直前まで「クウェートとの交渉を有利に進めようとする恫喝の可能性が高い」と評価しており、本格侵攻であることを把握したときには既に対応困難となっていた。 フセイン大統領はクウェート王族を確保してイラクへの併合を承諾させることを狙っており、侵攻開始30分後には特殊部隊がクウェート市に対してヘリボーン強襲を実施、また海からもコマンド部隊が王族を捕らえるための上陸作戦を行っていた。しかし首長のジャービル3世はサウジアラビアに亡命し、クウェート首長一族のほとんどは逃亡に成功。首長の弟であるシェイク・ファハド・アル=サバーハのみが宮殿に残っていたために殺害された。一方、クウェート軍の抵抗は弱体で、イラク侵攻部隊は早くも5時30分にはクウェート市へ突入、市内にいたコマンド部隊と合流した。主要なクウェート政府施設は5時間以内にイラク軍に確保され、翌朝までに全土の戦略拠点が占領された。 クウェート王族の拘束に失敗したイラク側は、クウェートとイラクの二重国籍を持ち、バアス党員であるとともにクウェート陸軍の初級幹部でもあったアラー・フセイン・アリーを大佐に昇進させるとともに、彼を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させ、その要請により介入したと報じた。8月7日には、クウェート暫定政府はクウェート共和国へと名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。 イラクの軍事侵攻に対して国際社会は激しく抗議し、国際連合では、侵攻当日の8月2日のうちに、イラク軍の即時無条件撤退を求める安全保障理事会決議660が採択された。イラクがこの決議を無視したことから、国際連合安全保障理事会は、6日には加盟国に対イラク経済制裁を義務付ける決議661、また9日にはイラクによるクウェート併合を無効とする決議662を採択した。 アメリカ合衆国のブッシュ大統領は、8月4日の国家安全保障会議において、まずはイラクがクウェートに続いてサウジアラビアにまで侵攻することを阻止することが最優先課題であることを確認し、国連を通じて他国と協調しつつ外交的・経済的な圧力を加えることでイラク軍をクウェートから撤退させることを志向した。ただし最後の手段として、軍事的な圧力、更にはクウェート解放戦争を遂行する可能性をも念頭に置いていた。 アメリカ軍のサウジアラビア国内への展開は、宗教的問題からサウジアラビア側が躊躇すると思われていたが、実際には、8月6日にチェイニー国防長官・中央軍司令官シュワルツコフ大将から説明を受けたファハド国王の決断によって即座に了承されたことで、8月7日(アメリカ東部標準時)には指定された部隊に対して湾岸地域への展開命令が発令され、砂漠の盾作戦が発動された。その後も、アメリカを含む西側諸国やアラブ諸国は同国に陸軍及び空軍の部隊を派遣し、また西側諸国はペルシャ湾及びその近海に艦隊を派遣した。10月までに、アメリカ陸軍・海兵隊のほか、地元サウジアラビア軍やイギリス陸軍、フランス陸軍などが加わった多国籍軍により、地上での防御態勢が概ね確立された。 イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県(英語版)」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。 8月12日にイラクは「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。 さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。 なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空やブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は、アントニオ猪木が訪問した後に解放した日本人人質41人など、小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。 だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。 イラクが態度を軟化させないまま撤退期限が過ぎたのち、現地時刻で1月17日未明より、多国籍軍による攻勢作戦が開始された。 午前2時39分、アメリカ陸軍のAH-64攻撃ヘリコプターがイラク軍の早期警戒レーダーを破壊し、続く攻撃隊のためにイラク防空網に間隙を生じさせた。またこの攻撃と前後して国境を通過した空軍のF-117攻撃機がバグダッドを中心とする重要目標に向けて散開しており、2時51分より各目標への攻撃を開始した。またこれとほぼ同時に、海軍艦艇が発射したトマホーク巡航ミサイルがバグダッド周辺の目標に着弾し始めた。これに続いて、イラク指導者層への攻撃および防空システム制圧(SEAD)作戦が大規模に行われた結果、同日中に、イラクの防空システムは統合したシステムとしての運用能力を喪失した。 一方、イラク側は18日早朝よりスカッド短距離弾道ミサイルの射撃を開始し、まずイスラエルに対して、また20日からはサウジアラビアを標的とした攻撃が行われた。これはイスラエルを挑発してイラクに対する軍事行動を誘発すれば、アラブ諸国がイラクに対する軍事行動を躊躇する効果が期待でき、またサウジアラビアの石油施設が損傷すれば世界的な石油危機が発生し、各国の動揺を誘う効果が期待できると考えたものであった。多国籍軍は直ちにスカッド発射機に対する攻撃を強化したものの、移動式ミサイル発射機の発見は難しく、この部分は特殊部隊を潜入させて対応することになった。またあわせて、イスラエルおよびサウジアラビアにパトリオット地対空ミサイルを装備した防空部隊を展開して、防空も強化した。 多国籍軍の航空攻撃に対して、イラク空軍の反撃は極めて不活発であった。最初の3日間の航空戦でイラクが行った空対空任務は100ソーティをわずかに超える程度であり、約750機の保有作戦機数の点から見ると極めて少なかった。多国籍軍の空対空戦果は第3日より後は事実上無くなった。 これは、圧倒的優位にある多国籍軍に対して戦いを挑むのを避けて、航空機を強化掩体壕に収容して空軍を温存する意図があったと思われる。しかし1月21日からは航空機が収容された掩体壕に対して地中貫通爆弾による攻撃が開始され、この温存戦略も維持困難となったことから、1月26日より、イラクは、イランまで飛べる飛行機を同地に脱出させる作戦を開始した。 1月27日、中央軍司令官は、イラク空軍は戦闘において無力化されたと宣言し、絶対的航空優勢(air supremacy)が確保された。 作戦第2週(1月24 - 30日)に入ると、戦略的航空作戦に加えて、陸上攻勢作戦の準備として、イラク軍のクウェート戦域への移動を遮断する航空作戦も本格的に開始された。多国籍軍航空部隊は、陸上攻勢作戦開始前に10万ソーティに近い戦闘および支援任務を飛行し、288発のトマホーク対地ミサイルと35発の空中発射巡航ミサイルを発射した。また2月7日には、第8特殊作戦飛行隊(英語版)がBLU-82をクウェート南西部に投下、心理戦用兵器として使用している。 一方、アメリカ陸軍は既に砂漠の盾作戦の段階で第18空挺軍団を派遣していたほか、陸上攻勢作戦のために第7軍団も追加派遣されており、戦略的航空作戦の開始後、攻撃発起位置へと進入していった。 フセイン大統領は、多国籍軍に地上戦を挑むことで反撃を誘発し、態勢が整う前に消耗戦に引き込むことを狙ってカフジに対する攻撃を命じ、1月29日よりカフジの戦闘が開始された。多国籍軍が頑強な抵抗を行わずに後退したことで、イラク軍はカフジの占領に成功したものの、アメリカ軍の援護を受けたアラブ合同軍の反撃によってまもなく同地は奪還された。また多国籍軍は慎重に作戦を進めており、これを契機として過早に地上戦に突入することもなかった。 多国籍軍は、サウジアラビアの国境線沿いに東西に展開しており、展開線は480キロに及んだ。陸上攻勢作戦は砂漠の剣作戦と命名されており、右翼(東部)においてはクウェートに向けて直接前進する一方、左翼(中央部・西部)では一旦イラク領を北上ののち東に転針するという「左フック」行動を行うことになった。このうち、最左翼(西部)において最も長距離を移動する第18空挺軍団は、配属されたフランス陸軍部隊を含めてヘリボーンを活用できる軽装備の部隊を主力として構成されていたのに対し、中央部において濃密なイラク軍展開地域を突破する第7軍団は、配属されたイギリス陸軍部隊を含めて重装備の機甲師団が中心となった。 計画では、2月24日朝にまず東部および西部において攻撃を開始したのち、翌25日朝に中央部での攻撃を開始する予定だった。このように攻撃開始時刻に約1日間の差を設けた目的は、多国籍軍が多国籍軍右翼のクウェート正面から攻撃してくるとイラク軍に誤認させることにあった。しかし右翼での攻撃が予想以上に順調に進展したことから、中央部での攻撃開始は予定よりも繰り上げられた。 東部においては、2月27日午前9時にはクウェート市の解放に成功したが、この際には政治的事情が配慮され、アラブ合同軍が先に市内に入る形となった。また中央部・西部でも、地形・天候に悩まされつつ進撃を続け、2月26日に第7軍団の第2装甲騎兵連隊がタワカルナ機械化師団と接触したのち(73イースティングの戦い)、イラク軍の中核的戦力である共和国防衛隊への攻撃態勢が整えられつつあった。しかし政治的事情により、2月28日午前8時をもって戦闘が停止されたことで、共和国防衛隊の戦力の相当部分が温存されることになった。 巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1,000個以上のソーティーが飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。イラク軍の統制及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。 地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。 カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテの調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された。 小児がんの患者は1990年には32,000人だったが、1997年には13万人に増えたとされる。イラク南部では、生まれてきた赤ん坊の10人中2人が先天性奇形であり、多くは生まれて直ぐに死んでしまうとされる。 生まれたときから手足がない、目が一つしかない赤ちゃんもいる。イラク人医師は湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の影響だと考えており、WHOはそれを否定しているものの、WHOの見解にはイギリスの大手メディアが疑問を呈している。 戦争そのものに加えて、国連によって課された経済制裁もイラク社会にダメージを与えた。失業率は50%に達し、UNICEFによれば幼児の3人に1人が栄養失調になった。食料や医薬品の不足等の原因で、UNICEFによれば、50万人の幼児が犠牲になったという。国連人道問題調整事務所のHPによれば、150万人が犠牲になったとされる。こういった報告を誤りであると批判する論文もある。 正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。もっとも、捕虜となったイラク軍兵士37000人中に負傷者が800人ほどだったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある。また、イラク軍全体の雰囲気としてこの戦争に反対で士気が低かったため、士気維持のため兵員の交代休暇を開戦の日まで継続しており、定数の25%程度が任地に居なかったものと考えられ、こうした将兵は多国籍軍の空爆が始まると任務に戻れなくなっていた。このような事情も当初は把握されていなかったため、多国籍軍による過大な人的戦果の推定につながったと考えられている。 フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した。 国防総省は、MIA(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名のあるパイロット(英語版)が追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した。イギリス兵は47名(友軍砲火により9名)、フランス軍人は2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である。 多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、ペンシルベニア州からのアメリカ陸軍予備兵(英語版)28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。友軍砲火により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した。 多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった。 しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている。 イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。またアメリカ人女性兵3名が死亡した。 これは国別の多国籍軍の死亡者数である。 イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に少なく、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍A-10攻撃機がウォーリア歩兵戦闘車部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。 クウェートにおける石油火災はイラク軍により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された。 生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には地雷が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約6百万バレル (950,000 m)の石油が毎日失われていった。結果、15億USドルの経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した。作業には少なくとも2年かかると予想されていたが、爆風による吹き消し消火や、ジェットエンジンで消火剤を吹き付けるハンガリーの消防車が威力を発揮し、予想よりも早く鎮火させることができた。しかし、火災は発生より10か月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。 1月23日、イラクは400億ガロンの原油をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合石油流出だった。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった。 国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。 フセイン政権は1994年から賠償金を支払いを開始したが、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。 2021年12月24日、イラク当局は524億ドルの支払いを終了したことを発表した。 アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)、ドイツが70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた。多国籍軍のうちアメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。 現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、国際連合安全保障理事会決議833(英語版)に基づいて画定された。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。 サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからF-15戦闘機などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に第5艦隊在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身のウサーマ・ビン=ラーディンは、自身のムジャヒディンでイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ、イスラム教の聖地メッカとマディーナを有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、イスラム原理主義組織アルカーイダによるアメリカへの同時多発テロを実行したと発表されている。このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており、また、アメリカ上院情報特別委員会はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。 過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦コールを攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時アフガニスタンでアルカーイダを保護していたタリバンにアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる国際連合安全保障理事会決議でも引き渡しが要求された。しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このためNATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃が行われた。 湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンのマロン派キリスト教勢力およびレバノン国軍に対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織レバノン軍団とミシェル・アウン率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。 一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。 アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。 湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、アメリカ政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼した。全日本海員組合はこれに反対したが、政労協定を締結し、2隻の「中東貢献船」を派遣した。さらに当時の外務大臣の中山太郎が、外国人の看護士・介護士・医師を日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空の労働組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した。 さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党内のハト派や、社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は第二次海部内閣の改造内閣であった。 取り残された邦人への情報提供を行うため八俣送信所から有事放送を行った。 また、鶴見俊輔や自動車雑誌『NAVI』編集者鈴木正文などの文化人は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織して、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らは湾岸戦争に反対する文学者声明を発表した。これらの文化人や作家の多くはイラクによるクウェート侵攻については批判していたが、これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者もいた。 日本政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行った。 クウェートは戦後に参戦国などに対して感謝決議をし、『ワシントンポスト』に感謝広告を掲載したが、新規増税により130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。また、凱旋パレードでのシュワルツコフ大将による演説においても、多国籍軍に参加した28カ国の駐米大使を壇上に上げたうえで「28の同盟国とその他の国(28 alliance and the other countries)」に対する感謝の意が述べられた。壇上に呼ばれなかったことに抗議した駐米日本大使の村田良平に急遽折りたたみ椅子が与えられたが、扱いの差は歴然であった。日本の資金協力のうち、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)中、クウェートに直接入ったのは6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカに渡り、またクルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)のうち695億円がアメリカに渡っていた。日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある。 しかし人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした多国籍軍の参加国から「小切手外交」と非難された。なお、ドイツも同様に非戦協力のみであったが格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも中央上段に国名が掲載されている。 同盟国のアメリカから非難された結果、「国際貢献」が政界や論壇で流行語になり、自民党・外務省・保守的文化人などの間で「『人的貢献』がなければ評価されない」との意識が形成され、その後の自衛隊の派遣対象や任務の拡大の根拠に度々使われた。そして日本政府は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させた。中山太郎外務大臣は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している。その後、ペルシャ湾の機雷除去を目的として海上自衛隊の掃海艇を派遣し、自衛隊の海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動への参加が可能となった。 2015年9月10日付で東京新聞は、クウェート側が広告掲載のためにアメリカ国防総省に求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告はサバハ駐米大使(娘のナイラが「ナイラ証言」をしたことで知られる)による発案であり、サバハ大使の求めでアメリカ国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話した。また同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明があること、2011年3月の東日本大震災の際にはクウェートからも富裕層から労働者まで多くの人々から義捐金が寄せられ、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。 湾岸戦争時に編成された多国籍軍には様々な国の軍が参加・参戦しているが、その国の内訳に関しては資料によって異なる。そのため、ここではいくつかの資料から多国籍軍参加国を挙げていく。 湾岸戦争の多国籍軍は「多国籍軍」とはいっても開戦時の兵力680,000人の内540,000人がアメリカ軍の将兵たちであり、その内実はほぼアメリカ軍であった。とは言っても、それはあくまで多国籍軍であり、その名の通り多国籍の軍隊・部隊によって構成されたものであった。ここでは、アメリカ陸軍戦略大学の教員が発行した資料(Englehardt 1991)を基に、多国籍軍参加・参戦国別の参戦部隊について解説する。 以上 日本では英語名を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが戦場になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。 一方のイラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ (イスラーム) 対イスラエルとその支持者 (アメリカやキリスト教国などの異教徒) 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。 アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争 (حرب الخليج الثانية)、あるいは過去4度の中東戦争との関連で第五次中東戦争と呼ぶことがある。 また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、世界的には「ニンテンドー戦争」(Nintendo War)とも呼ばれた。日本国内では「テレビゲーム戦争」と報道された。 ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。 これらに加え、各々の戦闘の各段階には、個々に作戦名が与えられた可能性がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "湾岸戦争(わんがんせんそう、英語: Gulf War、アラビア語: حرب الخليج الثانية)は、1990年8月2日にイラクが隣国クウェートに侵攻した(クウェート侵攻)事件を発端とし、侵攻後もクウェートから撤退しないイラクに対する強制措置としてアメリカ合衆国主導の多国籍軍が結成され、その多国籍軍とイラクの間で勃発した戦争である。なお、侵攻したイラクに対しては経済制裁が行われた他、増援による軍事的圧力も加えられたが、結局イラクは撤退せず、多国籍軍は砂漠の嵐作戦を発動してイラクを攻撃。続いて地上戦も行われ、多国籍軍の勝利によってイラク軍は撤退。クウェートは解放され停戦協定が締結された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イラクは、イラン・イラク戦争を通じて軍備を増強し、ペルシア湾岸の一大軍事国家として台頭した一方、戦費調達のため多額の債務を負ったうえに、折からの原油価格の下落により石油収入が低下したことで、経済的には苦境に陥っていた。この原油価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦が石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、イラクは両国を非難した。一方、クウェートは戦争中のイラクに対し多額の融資を行っていたが、終戦後にその返済を要請したところ、当時のイラクのサッダーム・フセイン大統領は、これはアメリカ合衆国やイスラエルがイラクを陥れようとする陰謀の一環であると考えて、対決姿勢を強めていった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1990年8月2日、イラク共和国防衛隊はクウェートへ侵攻、約6時間で同国全土を制圧・占領して傀儡政権であるクウェート共和国を擁立し、8月8日にはクウェートのイラクへの併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。国際連合安全保障理事会は、侵攻同日のうちにイラクに対して即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソが一致して可決し、マルタ会談とともに冷戦の終わりを象徴する出来事になった。翌1991年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「多国籍軍」が構成された。これは、第二次世界大戦以来の連合であった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "多国籍軍ではアメリカ軍が主力をなしていたが、ほかにもイギリスやフランスなどといった西側ヨーロッパ諸国のみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、更に比較的中立的な立場の国であるカタールやイラクと同じバアス党政権で東側諸国の一員であるシリアなども参加した。ヨーロッパ諸国軍はノーマン・シュワルツコフ米陸軍大将が司令官を務めるアメリカ中央軍の指揮下に入ったのに対し、アラブ諸国軍はサウジアラビア軍の作戦統制下に入り、ハリド・ビン・スルタン(英語版)中将を司令官としてアラブ合同軍を組織した。ただしアメリカの軍事能力は他国よりずば抜けて高かったために、面子等に留意しつつも、軍事作戦に関しては全軍を実質的に統制していたとされる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "国際連合により認可された、アメリカ、イギリスをはじめとする34ヵ国からなる多国籍軍は、イラクへの攻撃態勢を整えていった。その後イラク政府に決議履行への意思が無い事を確認した多国籍軍は、国連憲章第42条に基づき、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "イラクの大統領サッダーム・フセインは開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の生みの親である」と言った。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれるこの戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "このクウェートの占領と併合を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まり、これに続いて2月23日から地上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1989年11月、イラクのバグダードを訪問したクウェートのジャービル首長は、イラクに対してイラン・イラク戦争時の400億ドルの借款の返済を要請した。しかし当時のイラクは、アラブ世界以外の国からの負債に対する返済だけで、毎年の石油収入の約半分に達する状況であった。またアラブ世界からの負債も似たような状況であったが、イラクは、同国こそがアラブ世界をイランから守る唯一の守護神であると考えていたことから、借款の返済どころか新たな援助さえも要求した。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "8年間のイラン・イラク戦争を通じてイラク軍の規模は4倍となり、1988年夏の時点で、ペルシア湾岸の一大軍事国家となっていた。イラク陸軍だけでも湾岸協力会議(アラブ首長国連邦、バーレーン、クウェート、オマーン、カタール、サウジアラビア)諸国全ての陸軍よりも3倍強力であった。イラクのフセイン大統領は、自分には弱みがなく、湾岸地域のリーダーとして振舞えると確信していた。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "しかしイラクの経済的苦境は歴然としていた。イラン・イラク戦争前は外貨準備高350億ドル以上を保有していたが、戦争によって800億ドル以上の負債を抱えるとともに、経済復興に2,300億ドル以上が必要な状況になってしまい、1988年のイラクの国内総生産(GDP)は380億ドルに過ぎなかった。しかもクウェートなど他国の石油増産によって原油価格も下落した結果、石油収入は以前の50パーセントにまで低下していた。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1990年7月に入ると、原油価格は従来の1バレル当たり18ドル程度から12ドル程度にまで下落したが、イラクは、この価格下落はクウェート及びアラブ首長国連邦が石油輸出国機構(OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、両国を非難した。また、このような経済的苦境下でクウェートが借款の返済を要請してきたことについて、フセイン大統領はアメリカ合衆国やイスラエルの陰謀が背景にあると考えるようになっており、この陰謀論は、イラク指導部の間で広く共有されていった。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "7月10日の湾岸5か国石油相会議において1990年前半の生産枠の遵守が確認され、この問題も一段落着いたかとみられていたが、7月16日にはアズィーズ外相がアラブ連盟のクリービー事務総長(英語版)に対してクウェートを非難する書簡を送付した。7月17日は1968年のクーデターでバアス党政権が成立した記念日であったが、この日の演説で、フセイン大統領は「クウェート等が石油の過剰生産をやめなければ武力を行使する」と述べた。OPEC総会を控えて、7月中旬頃からは、クウェートとの国境地帯において軍部隊の集結が開始された。7月27日には、ジュネーヴで行われていたOPEC総会において、原油最低価格の引き上げや原油の減産などイラクの立場を配慮した形での妥協が成立したものの、既にこの程度の妥協ではフセイン大統領を納得させることができないほど、イラク・クウェート間の対立は厳しさを増していた。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "これに対してエジプトとサウジアラビアが両国間の仲介を試み、7月31日にはサウジアラビアのジッダで両国間の会談が実現した。このジッダでの会談は、クウェートとしては今後長期にわたる交渉を実現する上での第一段階として位置づけていたのに対し、フセイン大統領には、そのように悠長に構えるつもりは全くなかった。この会談で、イラクはクウェートに対して負債の帳消しとともにブビヤン島などの割譲を要求したが、クウェートはこれらの要求を拒絶した。この時、イラクは開戦を決意したとされる。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1990年8月2日午前1時(現地時間)、イラクの共和国防衛隊はクウェート国境を越えて侵攻を開始した。アメリカ国防情報局(DIA)は、偵察衛星からの画像によって早くからイラクの侵攻準備体制を把握していたが、アメリカでの軍事常識として本格侵攻に必要と考えられていた諸装備や兆候が欠けていたことから、DIAから報告を受けた統合参謀本部(JCS)および中央軍(CENTCOM)は、直前まで「クウェートとの交渉を有利に進めようとする恫喝の可能性が高い」と評価しており、本格侵攻であることを把握したときには既に対応困難となっていた。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "フセイン大統領はクウェート王族を確保してイラクへの併合を承諾させることを狙っており、侵攻開始30分後には特殊部隊がクウェート市に対してヘリボーン強襲を実施、また海からもコマンド部隊が王族を捕らえるための上陸作戦を行っていた。しかし首長のジャービル3世はサウジアラビアに亡命し、クウェート首長一族のほとんどは逃亡に成功。首長の弟であるシェイク・ファハド・アル=サバーハのみが宮殿に残っていたために殺害された。一方、クウェート軍の抵抗は弱体で、イラク侵攻部隊は早くも5時30分にはクウェート市へ突入、市内にいたコマンド部隊と合流した。主要なクウェート政府施設は5時間以内にイラク軍に確保され、翌朝までに全土の戦略拠点が占領された。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "クウェート王族の拘束に失敗したイラク側は、クウェートとイラクの二重国籍を持ち、バアス党員であるとともにクウェート陸軍の初級幹部でもあったアラー・フセイン・アリーを大佐に昇進させるとともに、彼を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させ、その要請により介入したと報じた。8月7日には、クウェート暫定政府はクウェート共和国へと名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。", "title": "湾岸危機の勃発" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "イラクの軍事侵攻に対して国際社会は激しく抗議し、国際連合では、侵攻当日の8月2日のうちに、イラク軍の即時無条件撤退を求める安全保障理事会決議660が採択された。イラクがこの決議を無視したことから、国際連合安全保障理事会は、6日には加盟国に対イラク経済制裁を義務付ける決議661、また9日にはイラクによるクウェート併合を無効とする決議662を採択した。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国のブッシュ大統領は、8月4日の国家安全保障会議において、まずはイラクがクウェートに続いてサウジアラビアにまで侵攻することを阻止することが最優先課題であることを確認し、国連を通じて他国と協調しつつ外交的・経済的な圧力を加えることでイラク軍をクウェートから撤退させることを志向した。ただし最後の手段として、軍事的な圧力、更にはクウェート解放戦争を遂行する可能性をも念頭に置いていた。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アメリカ軍のサウジアラビア国内への展開は、宗教的問題からサウジアラビア側が躊躇すると思われていたが、実際には、8月6日にチェイニー国防長官・中央軍司令官シュワルツコフ大将から説明を受けたファハド国王の決断によって即座に了承されたことで、8月7日(アメリカ東部標準時)には指定された部隊に対して湾岸地域への展開命令が発令され、砂漠の盾作戦が発動された。その後も、アメリカを含む西側諸国やアラブ諸国は同国に陸軍及び空軍の部隊を派遣し、また西側諸国はペルシャ湾及びその近海に艦隊を派遣した。10月までに、アメリカ陸軍・海兵隊のほか、地元サウジアラビア軍やイギリス陸軍、フランス陸軍などが加わった多国籍軍により、地上での防御態勢が概ね確立された。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県(英語版)」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "8月12日にイラクは「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空やブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は、アントニオ猪木が訪問した後に解放した日本人人質41人など、小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。", "title": "国際社会の初期対応" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イラクが態度を軟化させないまま撤退期限が過ぎたのち、現地時刻で1月17日未明より、多国籍軍による攻勢作戦が開始された。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "午前2時39分、アメリカ陸軍のAH-64攻撃ヘリコプターがイラク軍の早期警戒レーダーを破壊し、続く攻撃隊のためにイラク防空網に間隙を生じさせた。またこの攻撃と前後して国境を通過した空軍のF-117攻撃機がバグダッドを中心とする重要目標に向けて散開しており、2時51分より各目標への攻撃を開始した。またこれとほぼ同時に、海軍艦艇が発射したトマホーク巡航ミサイルがバグダッド周辺の目標に着弾し始めた。これに続いて、イラク指導者層への攻撃および防空システム制圧(SEAD)作戦が大規模に行われた結果、同日中に、イラクの防空システムは統合したシステムとしての運用能力を喪失した。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "一方、イラク側は18日早朝よりスカッド短距離弾道ミサイルの射撃を開始し、まずイスラエルに対して、また20日からはサウジアラビアを標的とした攻撃が行われた。これはイスラエルを挑発してイラクに対する軍事行動を誘発すれば、アラブ諸国がイラクに対する軍事行動を躊躇する効果が期待でき、またサウジアラビアの石油施設が損傷すれば世界的な石油危機が発生し、各国の動揺を誘う効果が期待できると考えたものであった。多国籍軍は直ちにスカッド発射機に対する攻撃を強化したものの、移動式ミサイル発射機の発見は難しく、この部分は特殊部隊を潜入させて対応することになった。またあわせて、イスラエルおよびサウジアラビアにパトリオット地対空ミサイルを装備した防空部隊を展開して、防空も強化した。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "多国籍軍の航空攻撃に対して、イラク空軍の反撃は極めて不活発であった。最初の3日間の航空戦でイラクが行った空対空任務は100ソーティをわずかに超える程度であり、約750機の保有作戦機数の点から見ると極めて少なかった。多国籍軍の空対空戦果は第3日より後は事実上無くなった。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "これは、圧倒的優位にある多国籍軍に対して戦いを挑むのを避けて、航空機を強化掩体壕に収容して空軍を温存する意図があったと思われる。しかし1月21日からは航空機が収容された掩体壕に対して地中貫通爆弾による攻撃が開始され、この温存戦略も維持困難となったことから、1月26日より、イラクは、イランまで飛べる飛行機を同地に脱出させる作戦を開始した。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1月27日、中央軍司令官は、イラク空軍は戦闘において無力化されたと宣言し、絶対的航空優勢(air supremacy)が確保された。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "作戦第2週(1月24 - 30日)に入ると、戦略的航空作戦に加えて、陸上攻勢作戦の準備として、イラク軍のクウェート戦域への移動を遮断する航空作戦も本格的に開始された。多国籍軍航空部隊は、陸上攻勢作戦開始前に10万ソーティに近い戦闘および支援任務を飛行し、288発のトマホーク対地ミサイルと35発の空中発射巡航ミサイルを発射した。また2月7日には、第8特殊作戦飛行隊(英語版)がBLU-82をクウェート南西部に投下、心理戦用兵器として使用している。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一方、アメリカ陸軍は既に砂漠の盾作戦の段階で第18空挺軍団を派遣していたほか、陸上攻勢作戦のために第7軍団も追加派遣されており、戦略的航空作戦の開始後、攻撃発起位置へと進入していった。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "フセイン大統領は、多国籍軍に地上戦を挑むことで反撃を誘発し、態勢が整う前に消耗戦に引き込むことを狙ってカフジに対する攻撃を命じ、1月29日よりカフジの戦闘が開始された。多国籍軍が頑強な抵抗を行わずに後退したことで、イラク軍はカフジの占領に成功したものの、アメリカ軍の援護を受けたアラブ合同軍の反撃によってまもなく同地は奪還された。また多国籍軍は慎重に作戦を進めており、これを契機として過早に地上戦に突入することもなかった。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "多国籍軍は、サウジアラビアの国境線沿いに東西に展開しており、展開線は480キロに及んだ。陸上攻勢作戦は砂漠の剣作戦と命名されており、右翼(東部)においてはクウェートに向けて直接前進する一方、左翼(中央部・西部)では一旦イラク領を北上ののち東に転針するという「左フック」行動を行うことになった。このうち、最左翼(西部)において最も長距離を移動する第18空挺軍団は、配属されたフランス陸軍部隊を含めてヘリボーンを活用できる軽装備の部隊を主力として構成されていたのに対し、中央部において濃密なイラク軍展開地域を突破する第7軍団は、配属されたイギリス陸軍部隊を含めて重装備の機甲師団が中心となった。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "計画では、2月24日朝にまず東部および西部において攻撃を開始したのち、翌25日朝に中央部での攻撃を開始する予定だった。このように攻撃開始時刻に約1日間の差を設けた目的は、多国籍軍が多国籍軍右翼のクウェート正面から攻撃してくるとイラク軍に誤認させることにあった。しかし右翼での攻撃が予想以上に順調に進展したことから、中央部での攻撃開始は予定よりも繰り上げられた。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "東部においては、2月27日午前9時にはクウェート市の解放に成功したが、この際には政治的事情が配慮され、アラブ合同軍が先に市内に入る形となった。また中央部・西部でも、地形・天候に悩まされつつ進撃を続け、2月26日に第7軍団の第2装甲騎兵連隊がタワカルナ機械化師団と接触したのち(73イースティングの戦い)、イラク軍の中核的戦力である共和国防衛隊への攻撃態勢が整えられつつあった。しかし政治的事情により、2月28日午前8時をもって戦闘が停止されたことで、共和国防衛隊の戦力の相当部分が温存されることになった。", "title": "多国籍軍の攻勢作戦" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1,000個以上のソーティーが飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。イラク軍の統制及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテの調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "小児がんの患者は1990年には32,000人だったが、1997年には13万人に増えたとされる。イラク南部では、生まれてきた赤ん坊の10人中2人が先天性奇形であり、多くは生まれて直ぐに死んでしまうとされる。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "生まれたときから手足がない、目が一つしかない赤ちゃんもいる。イラク人医師は湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の影響だと考えており、WHOはそれを否定しているものの、WHOの見解にはイギリスの大手メディアが疑問を呈している。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "戦争そのものに加えて、国連によって課された経済制裁もイラク社会にダメージを与えた。失業率は50%に達し、UNICEFによれば幼児の3人に1人が栄養失調になった。食料や医薬品の不足等の原因で、UNICEFによれば、50万人の幼児が犠牲になったという。国連人道問題調整事務所のHPによれば、150万人が犠牲になったとされる。こういった報告を誤りであると批判する論文もある。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。もっとも、捕虜となったイラク軍兵士37000人中に負傷者が800人ほどだったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある。また、イラク軍全体の雰囲気としてこの戦争に反対で士気が低かったため、士気維持のため兵員の交代休暇を開戦の日まで継続しており、定数の25%程度が任地に居なかったものと考えられ、こうした将兵は多国籍軍の空爆が始まると任務に戻れなくなっていた。このような事情も当初は把握されていなかったため、多国籍軍による過大な人的戦果の推定につながったと考えられている。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "国防総省は、MIA(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名のあるパイロット(英語版)が追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した。イギリス兵は47名(友軍砲火により9名)、フランス軍人は2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、ペンシルベニア州からのアメリカ陸軍予備兵(英語版)28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。友軍砲火により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。またアメリカ人女性兵3名が死亡した。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "これは国別の多国籍軍の死亡者数である。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に少なく、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍A-10攻撃機がウォーリア歩兵戦闘車部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "クウェートにおける石油火災はイラク軍により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には地雷が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約6百万バレル (950,000 m)の石油が毎日失われていった。結果、15億USドルの経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した。作業には少なくとも2年かかると予想されていたが、爆風による吹き消し消火や、ジェットエンジンで消火剤を吹き付けるハンガリーの消防車が威力を発揮し、予想よりも早く鎮火させることができた。しかし、火災は発生より10か月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1月23日、イラクは400億ガロンの原油をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合石油流出だった。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "フセイン政権は1994年から賠償金を支払いを開始したが、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。 2021年12月24日、イラク当局は524億ドルの支払いを終了したことを発表した。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国議会の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)、ドイツが70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた。多国籍軍のうちアメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、国際連合安全保障理事会決議833(英語版)に基づいて画定された。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカからF-15戦闘機などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に第5艦隊在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身のウサーマ・ビン=ラーディンは、自身のムジャヒディンでイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ、イスラム教の聖地メッカとマディーナを有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、イスラム原理主義組織アルカーイダによるアメリカへの同時多発テロを実行したと発表されている。このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており、また、アメリカ上院情報特別委員会はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖でアメリカ海軍艦コールを攻撃した(米艦コール襲撃事件)。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時アフガニスタンでアルカーイダを保護していたタリバンにアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる国際連合安全保障理事会決議でも引き渡しが要求された。しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このためNATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃が行われた。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンのマロン派キリスト教勢力およびレバノン国軍に対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織レバノン軍団とミシェル・アウン率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、アメリカ政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼した。全日本海員組合はこれに反対したが、政労協定を締結し、2隻の「中東貢献船」を派遣した。さらに当時の外務大臣の中山太郎が、外国人の看護士・介護士・医師を日本政府の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、日本航空の労働組合が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカのエバーグリーン航空機をチャーターしてこれに対応した。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党内のハト派や、社会党などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は第二次海部内閣の改造内閣であった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "取り残された邦人への情報提供を行うため八俣送信所から有事放送を行った。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "また、鶴見俊輔や自動車雑誌『NAVI』編集者鈴木正文などの文化人は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「反戦デモ」を組織して、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らは湾岸戦争に反対する文学者声明を発表した。これらの文化人や作家の多くはイラクによるクウェート侵攻については批判していたが、これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者もいた。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "日本政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行った。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "クウェートは戦後に参戦国などに対して感謝決議をし、『ワシントンポスト』に感謝広告を掲載したが、新規増税により130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。また、凱旋パレードでのシュワルツコフ大将による演説においても、多国籍軍に参加した28カ国の駐米大使を壇上に上げたうえで「28の同盟国とその他の国(28 alliance and the other countries)」に対する感謝の意が述べられた。壇上に呼ばれなかったことに抗議した駐米日本大使の村田良平に急遽折りたたみ椅子が与えられたが、扱いの差は歴然であった。日本の資金協力のうち、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)中、クウェートに直接入ったのは6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカに渡り、またクルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)のうち695億円がアメリカに渡っていた。日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "しかし人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした多国籍軍の参加国から「小切手外交」と非難された。なお、ドイツも同様に非戦協力のみであったが格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも中央上段に国名が掲載されている。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "同盟国のアメリカから非難された結果、「国際貢献」が政界や論壇で流行語になり、自民党・外務省・保守的文化人などの間で「『人的貢献』がなければ評価されない」との意識が形成され、その後の自衛隊の派遣対象や任務の拡大の根拠に度々使われた。そして日本政府は国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させた。中山太郎外務大臣は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している。その後、ペルシャ湾の機雷除去を目的として海上自衛隊の掃海艇を派遣し、自衛隊の海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動への参加が可能となった。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2015年9月10日付で東京新聞は、クウェート側が広告掲載のためにアメリカ国防総省に求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告はサバハ駐米大使(娘のナイラが「ナイラ証言」をしたことで知られる)による発案であり、サバハ大使の求めでアメリカ国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話した。また同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明があること、2011年3月の東日本大震災の際にはクウェートからも富裕層から労働者まで多くの人々から義捐金が寄せられ、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。", "title": "戦争による影響" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "湾岸戦争時に編成された多国籍軍には様々な国の軍が参加・参戦しているが、その国の内訳に関しては資料によって異なる。そのため、ここではいくつかの資料から多国籍軍参加国を挙げていく。", "title": "多国籍軍参加国" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "湾岸戦争の多国籍軍は「多国籍軍」とはいっても開戦時の兵力680,000人の内540,000人がアメリカ軍の将兵たちであり、その内実はほぼアメリカ軍であった。とは言っても、それはあくまで多国籍軍であり、その名の通り多国籍の軍隊・部隊によって構成されたものであった。ここでは、アメリカ陸軍戦略大学の教員が発行した資料(Englehardt 1991)を基に、多国籍軍参加・参戦国別の参戦部隊について解説する。", "title": "多国籍軍参加国" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "以上", "title": "多国籍軍参加国" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "日本では英語名を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが戦場になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。", "title": "呼称の変動" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "一方のイラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ (イスラーム) 対イスラエルとその支持者 (アメリカやキリスト教国などの異教徒) 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。", "title": "呼称の変動" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争 (حرب الخليج الثانية)、あるいは過去4度の中東戦争との関連で第五次中東戦争と呼ぶことがある。", "title": "呼称の変動" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、世界的には「ニンテンドー戦争」(Nintendo War)とも呼ばれた。日本国内では「テレビゲーム戦争」と報道された。", "title": "呼称の変動" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。", "title": "呼称の変動" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "これらに加え、各々の戦闘の各段階には、個々に作戦名が与えられた可能性がある。", "title": "呼称の変動" } ]
湾岸戦争は、1990年8月2日にイラクが隣国クウェートに侵攻した(クウェート侵攻)事件を発端とし、侵攻後もクウェートから撤退しないイラクに対する強制措置としてアメリカ合衆国主導の多国籍軍が結成され、その多国籍軍とイラクの間で勃発した戦争である。なお、侵攻したイラクに対しては経済制裁が行われた他、増援による軍事的圧力も加えられたが、結局イラクは撤退せず、多国籍軍は砂漠の嵐作戦を発動してイラクを攻撃。続いて地上戦も行われ、多国籍軍の勝利によってイラク軍は撤退。クウェートは解放され停戦協定が締結された。
{{複数の問題 |出典の明記=2012年10月 |独自研究=2015年4月12日 (日) 12:01 (UTC) |正確性=2015年4月12日 (日) 12:01 (UTC) |観点=2020年9月 }} {{Battlebox | battle_name = 湾岸戦争 | campaign = 湾岸戦争 |colour_scheme = background:#ffccaa | image = [[File:WarGulf photobox.jpg|300px]] | caption = 上から時計回りに、炎上するクウェートの[[油田]]上空を飛行する[[アメリカ空軍]]の[[F-15 (戦闘機)|F-15]]・[[F-16 (戦闘機)|F-16]]戦闘機、作戦行動中の[[イギリス軍]]、攻撃を受け破壊されるイラク軍の施設、多国籍軍による[[虐殺]]疑惑の残る[[死のハイウェイ]]、[[地雷]]除去作業を行う[[アメリカ陸軍]]の[[M728戦闘工兵車]]。 | conflict = 湾岸戦争<ref name="kotobank">{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B9%BE%E5%B2%B8%E6%88%A6%E4%BA%89-169629 |title=湾岸戦争 |publisher=[[コトバンク]] |date=2007 |accessdate=2023-11-29}}</ref> | date = [[1990年]][[8月2日]](クウェート侵攻)/[[1991年]][[1月17日]] - 同年[[3月3日]]<ref name="imidas">{{Cite web |url=https://imidas.jp/genre/detail/D-121-0066.html |title=湾岸戦争 |publisher=[[イミダス]] |date=2009-02 |accessdate=2023-11-29}}</ref> | place = イラク、クウェート、サウジアラビア東北部など{{R|"kotobank"}}。 | result = [[多国籍軍]]の勝利。地上戦開始100時間後にクウェートを解放し[[停戦]]{{R|"kotobank"}}。 | combatant1 = '''多国籍軍'''<br/>{{KWT}}<br/>{{USA}}<br/>{{GBR}}<br/>{{FRA1976}}<br/>{{KSA1973}}<br/>{{EGY}}<br/>{{ITA1946}}<br/>{{ARE}}<br/>{{SYR}}<br/>{{BHR1972}}<br/>{{OMN1970}}<br/>{{QAT}} | combatant2 = '''{{IRQ1991-2}}''' | commander1 = {{Flagicon|KWT}} [[ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ジョージ・H・W・ブッシュ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ディック・チェイニー]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[コリン・パウエル]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[ノーマン・シュワルツコフ]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[:en:Calvin Waller|カルビン・ウォーラー]]<br/>{{Flagicon|USA}} [[:en:John J. 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[[クサイ・サッダーム・フセイン]]<br/>{{Flagicon|IRQ1991}} [[アリー・ハサン・アル=マジード]]<br/>{{Flagicon|IRQ1991}} [[:en:Iyad Futayyih|イヤード・フタイーフ・アル・ラワイ]]<br/>{{Flagicon|IRQ1991}} [[:en:Abdul Jabbar Shanshal|アブドゥル・ジャビール・シャンシャル]]<br/>{{Flagicon|IRQ1991}} [[サアディー・トゥーマ・アッバース]]<br/>{{Flagicon|IRQ1991}} [[:ar:نزار الخزرجي|ニザール・アル・ハズラジ]]<br/>{{Flagicon|IRQ1991}} [[フセイン・ラシード・アル=ティクリーティー]]<br/>{{Flagicon|IRQ1991}} [[ターハー・ヤースィーン・ラマダーン]] | strength1 = 侵攻時[[クウェート軍]]<br/>陸軍16,000人<br/>海軍2,200人<br/>空軍1,800人<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20041029065620/http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/query/r?frd/cstdy:@field(DOCID+kw0058) |title=Kuwait |publisher=[[アメリカ議会図書館]] |date=1993-01 |accessdate=2023-11-29}}</ref><br/>多国籍軍<br/>派遣時<br/>680,000人<br/>内[[アメリカ軍|米軍]]540,000人<ref name="maeda">{{Cite book |和書 |editor=[[前田哲男 (ジャーナリスト)|前田哲男]] |author1=前田哲男 |author2=河辺一郎 |author3=[[纐纈厚]] |title=岩波小辞典 現代の戦争 |publisher=[[岩波書店]] |date=2002-05-08 |page=272-273}}</ref><br/>開戦時<br/>兵力850,000人<br/>[[戦闘機]]2,900機<br/>出撃65,000人<ref name="sakai">{{Cite book |和書 |author=[[酒井啓子]] |title=イラクとアメリカ |publisher=[[岩波書店]] |date=2002-08-20 |pages=114-120}}</ref><br/>別説700,000人<br/>別説米軍500,000人{{R|"kotobank"}}<br/>クウェート解放時<br/>総兵力737,000人<ref name="norman">{{Cite book |和書 |author1=[[:en:Norman Friedman|ノーマン・フリードマン]] |author2=高井三郎 |title=湾岸戦争-砂漠の勝利 |publisher=(株)大日本絵画 |date=1993-02 |pages=80-382}}</ref> | strength2 = クウェート侵攻時<br/>兵力120,000人<br/>[[戦車]]350両<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20060925160750/http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog211.html |title=湾岸戦争、日本の迷走 |publisher=伊勢雅臣 |date=2001-10-14 |accessdate=2023-11-29}}</ref><br/>[[イラク治安部隊|イラク軍]]全体<br/>正規軍1,000,000人<br/>[[主力戦車]]5,500両<br/>[[装甲車]]7,500両<br/>[[作戦機]]689機<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20020414200812/http://www.mofa.go.jp:80/mofaj/area/iraq/data.html |title=イラク共和国 |publisher=[[外務省]] |date=2001-10 |accessdate=2023-11-29}}</ref><br/>在クウェート部隊<br/>総兵力545,000人{{R|"norman"}}<br/>別説180,000人-630,000人{{R|"kotobank"}} | casualties1 = 侵攻時クウェート軍<br/>570人[[戦死]]・犠牲<br/>[[捕虜]]605人<ref>{{Cite web |url=https://web.archive.org/web/20140920131947/http://www.kkamcm.org/Public/Content.aspx?PageID=3 |title=قوائم و إحصائيات |publisher=جمعية أهالي الشهداء الأسرى والمفقودين الكويتية |accessdate=2023-11-29}}</ref><br/>戦争全体<br/>500人死傷{{R|"sakai"}}<br/>300人戦死{{R|"kotobank"}}<br/>クウェート解放時<br/>147人戦死<br/>捕虜45人{{R|"norman"}} | casualties2 = クウェート侵攻時<br/>295人戦死<br/>361人以上[[戦傷]]<ref>{{Cite web |url=http://www.moqatel.com/openshare/Behoth/IraqKwit/10/sec05.doc_cvt.htm |title=رابعاً: إجمالي خسائر الجانبَين، خلال الفترة من 2 إلى 4 أغسطس 1990 |publisher=[[アルジャジーラ]] |accessdate=2023-11-29}}</ref><br/>戦争全体<br/>25,000人-100,000人死傷{{R|"sakai"}}<br/>別説8,000人-100,000人戦死{{R|"kotobank"}}<br/>在クウェート部隊<br/>最大85,000人-100,000人戦死<br/>最少25,000人-50,000人戦死<br/>80,000人捕虜{{R|"norman"}} }} '''湾岸戦争'''(わんがんせんそう、{{lang-en|Gulf War}}、{{lang-ar|حرب الخليج الثانية}})は、1990年8月2日に[[イラク]]が隣国[[クウェート]]に侵攻した([[クウェート侵攻]])事件を発端とし、侵攻後もクウェートから撤退しないイラクに対する強制措置として[[アメリカ合衆国]]主導の多国籍軍が結成され、その多国籍軍とイラクの間で勃発した[[戦争]]である。なお、侵攻したイラクに対しては[[経済制裁]]が行われた他、増援による軍事的圧力も加えられたが、結局イラクは撤退せず、多国籍軍は[[砂漠の嵐作戦]]を発動してイラクを攻撃。続いて地上戦も行われ、多国籍軍の勝利によってイラク軍は撤退。クウェートは解放され停戦協定が締結された{{R|"imidas"}}。 == 概要 == イラクは、[[イラン・イラク戦争]]を通じて軍備を増強し、[[ペルシア湾]]岸の一大軍事国家として台頭した一方、戦費調達のため多額の[[債務]]を負ったうえに、折からの[[原油価格]]の下落により石油収入が低下したことで、経済的には苦境に陥っていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。この原油価格下落は[[クウェート]]及び[[アラブ首長国連邦]]が[[石油輸出国機構]](OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、イラクは両国を非難した{{Sfn|外務省|1991}}。一方、クウェートは戦争中のイラクに対し多額の[[融資]]を行っていたが、終戦後にその返済を要請したところ、当時のイラクの[[サッダーム・フセイン]]大統領は、これは[[アメリカ合衆国]]や[[イスラエル]]がイラクを陥れようとする陰謀の一環であると考えて、対決姿勢を強めていった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。 [[1990年]][[8月2日]]、イラク[[共和国防衛隊]]はクウェートへ侵攻、約6時間で同国全土を制圧・占領して[[傀儡政権]]である[[クウェート共和国]]を擁立し、[[8月8日]]にはクウェートのイラクへの併合を発表した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。これに対し、諸外国は[[第二次世界大戦]]後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた<ref name="hakusho1991">{{Cite web|和書|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1991/w1991_01.html|title=平成3年度 防衛白書|publisher=防衛省|accessdate=2010-11-15}}</ref>。[[国際連合安全保障理事会]]は、侵攻同日のうちにイラクに対して即時撤退を求めるとともに、[[11月29日]]に[[武力行使容認決議]]である[[国際連合安全保障理事会決議678|決議678]]を米ソが一致して可決し、[[マルタ会談]]とともに[[冷戦]]の終わりを象徴する出来事になった。翌[[1991年]][[1月17日]]に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジョージ・H・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は[[アメリカ軍]]部隊を[[サウジアラビア]]へ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「[[多国籍軍]]」が構成された。これは、第二次世界大戦以来の連合であった<ref>"The Unfinished War: A Decade Since Desert Storm". CNN In-Depth Specials. 2001.</ref>。 多国籍軍ではアメリカ軍が主力をなしていたが、ほかにも[[イギリス]]や[[フランス]]などといった[[西側諸国|西側]][[ヨーロッパ]]諸国のみならず、[[イスラム世界]]の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国([[湾岸協力会議]])や[[アラブ連盟]]の盟主[[エジプト]]といった親米アラブ諸国、更に比較的中立的な立場の国である[[カタール]]やイラクと同じ[[バアス党]]政権で[[東側諸国]]の一員である[[シリア]]なども参加した。ヨーロッパ諸国軍はノーマン・シュワルツコフ米陸軍大将が司令官を務める[[アメリカ中央軍]]の指揮下に入ったのに対し、アラブ諸国軍はサウジアラビア軍の作戦統制下に入り、{{仮リンク|ハリド・ビン・スルタン|en|Khalid bin Sultan}}中将を司令官としてアラブ合同軍を組織した<ref>{{Cite web|author=|url=http://houseofsaud.com/saudi-royal-family-profiles/prince-khalid-bin-sultan-al-saud/|title=Khalid bin Sultan al Saud |publisher=House of Saud|accessdate=2016-11-01}}</ref>{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=63-71}}。ただしアメリカの軍事能力は他国よりずば抜けて高かったために、面子等に留意しつつも、軍事作戦に関しては全軍を実質的に統制していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=596-604}}とされる。 [[国際連合]]により認可された、アメリカ、イギリスをはじめとする34ヵ国からなる多国籍軍は、[[バアス党政権 (イラク)|イラク]]への攻撃態勢を整えていった。その後イラク政府に決議履行への意思が無い事を確認した多国籍軍は、国連憲章第42条に基づき<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/shiryo/teroiraq_200709_terotaisaku.pdf/$File/teroiraq_200709_terotaisaku.pdf|title=テロ対策特別措置法に関する資料|publisher=衆議院|accessdate=2010-11-15}}</ref>、[[1991年]][[1月17日]]にイラクへの攻撃を開始した。 イラクの大統領[[サッダーム・フセイン]]は開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の生みの親である」と言った<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/17/newsid_2530000/2530375.stm|title=BBC ON THIS DAY &#124;17 &#124;1991:'Mother of all Battles' begins|publisher=BBC News|accessdate=2010-03-18|date=16 January 1991}}</ref><!--Saddam Hussein was referring to what was about to occur, and was not necessarily seeking to name the conflict. With this in mind, bold print as a name is not appropriate.-->。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「'''[[砂漠の嵐作戦]]'''」とも呼ばれる<ref>http://ehistory.osu.edu/world/WarView.Cfm?WID=41</ref>この戦争は、「第1次湾岸戦争」、また[[2003年]]の[[イラク戦争]]開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた<ref name="FrontlineCron">{{Cite web|url=http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/gulf/cron/|title=Frontline Chronology|accessdate=2007-03-20|format=PDF|publisher=Public Broadcasting Service}}</ref><ref>{{Cite journal|publisher=CNN|date=16 January 2001|title=Tenth anniversary of the Gulf War:A look back|url=http://archives.cnn.com/2001/US/01/16/gulf.anniversary/index.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/19960101-re_/http://archives.cnn.com/2001/US/01/16/gulf.anniversary/index.html|archivedate=16 January 2001|postscript=<!--None-->}}</ref><ref name="cfr.org">{{Cite web|author=Kenneth Estes|url=http://www.cfr.org/publication/13865/isn.html|title=ISN:The Second Gulf War (1990-1991) - Council on Foreign Relations|publisher=Cfr.org|date=|accessdate=2010-03-18}}</ref>。 このクウェートの占領と併合を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まり、これに続いて2月23日から地上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。 空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクは[[スカッド]]ミサイルをサウジアラビア及び[[イスラエル]]に向け発射した。 戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた<ref>{{Cite book|last1=Peters|first1=John E|last2=Deshong|first2=Howard|title=Out of Area or Out of Reach? European Military Support for Operations in Southwest Asia|url=http://www.rand.org/pubs/monograph_reports/2007/MR629.pdf|year=1995|publisher=RAND|isbn=0833023292}}{{要ページ番号|date=2010年8月}}</ref>。 == 湾岸危機の勃発 == [[File:Iraq, Saddam Hussein (222).jpg|thumb|left|220px|[[サッダーム・フセイン]]]] === イラクの経済的苦境 === 1989年11月、イラクの[[バグダード]]を訪問したクウェートの[[ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ|ジャービル首長]]は、イラクに対して[[イラン・イラク戦争]]時の400億ドルの借款の返済を要請した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。しかし当時のイラクは、[[アラブ世界]]以外の国からの負債に対する返済だけで、毎年の石油収入の約半分に達する状況であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。またアラブ世界からの負債も似たような状況であったが、イラクは、同国こそがアラブ世界をイランから守る唯一の守護神であると考えていたことから、借款の返済どころか新たな援助さえも要求した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。 8年間のイラン・イラク戦争を通じてイラク軍の規模は4倍となり、1988年夏の時点で、[[ペルシア湾]]岸の一大軍事国家となっていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。イラク陸軍だけでも[[湾岸協力会議]]([[アラブ首長国連邦]]、[[バーレーン]]、[[クウェート]]、[[オマーン]]、[[カタール]]、[[サウジアラビア]])諸国全ての陸軍よりも3倍強力であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。イラクの[[サッダーム・フセイン|フセイン大統領]]は、自分には弱みがなく、湾岸地域のリーダーとして振舞えると確信していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。 しかしイラクの経済的苦境は歴然としていた。イラン・イラク戦争前は[[外貨準備]]高350億ドル以上を保有していたが、戦争によって800億ドル以上の負債を抱えるとともに、経済復興に2,300億ドル以上が必要な状況になってしまい、1988年のイラクの[[国内総生産]](GDP)は380億ドルに過ぎなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。しかもクウェートなど他国の石油増産によって[[原油価格]]も下落した結果、石油収入は以前の50パーセントにまで低下していた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。 === クウェートとの摩擦 === 1990年7月に入ると、原油価格は従来の1バレル当たり18ドル程度から12ドル程度にまで下落したが、イラクは、この価格下落はクウェート及び[[アラブ首長国連邦]]が[[石油輸出国機構]](OPEC)の国別生産枠を超えて原油を過剰に生産したことによって引き起こされたものであるとして、両国を非難した{{Sfn|外務省|1991}}。また、このような経済的苦境下でクウェートが借款の返済を要請してきたことについて、フセイン大統領は[[アメリカ合衆国]]や[[イスラエル]]の陰謀が背景にあると考えるようになっており、この[[陰謀論]]は、イラク指導部の間で広く共有されていった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}{{Efn2|1990年3月15日、イラク当局がスパイ容疑で[[死刑]]判決を下していたイギリス『[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]』紙の[[:en:Farzad Bazoft|バゾフト]]記者に対し、判決から5日後という異例の早さで刑を執行したのをきっかけとして、欧米において対イラク批判が高まっていた{{Sfn|玉井|1990}}。}}。 [[7月10日]]の湾岸5か国石油相会議において1990年前半の生産枠の遵守が確認され、この問題も一段落着いたかとみられていたが、[[7月16日]]には[[ターリク・ミハイル・アズィーズ|アズィーズ外相]]が[[アラブ連盟]]の{{ill|シャドリ・クリービー|en|Chedli Klibi|label=クリービー事務総長}}に対してクウェートを非難する書簡を送付した{{Sfn|玉井|1990}}。[[7月17日]]は[[7月17日革命|1968年のクーデター]]で[[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]]が成立した記念日であったが、この日の演説で、フセイン大統領は「クウェート等が石油の過剰生産をやめなければ武力を行使する」と述べた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。OPEC総会を控えて{{Sfn|玉井|1990}}、7月中旬頃からは、クウェートとの国境地帯において軍部隊の集結が開始された{{Sfn|山崎|2010|pp=56-63}}。7月27日には、ジュネーヴで行われていたOPEC総会において、原油最低価格の引き上げや原油の減産などイラクの立場を配慮した形での妥協が成立したものの、既にこの程度の妥協ではフセイン大統領を納得させることができないほど、イラク・クウェート間の対立は厳しさを増していた{{Sfn|玉井|1990}}。 これに対して[[エジプト]]とサウジアラビアが両国間の仲介を試み、[[7月31日]]にはサウジアラビアの[[ジッダ]]で両国間の会談が実現した{{Sfn|外務省|1991}}。このジッダでの会談は、クウェートとしては今後長期にわたる交渉を実現する上での第一段階として位置づけていたのに対し、フセイン大統領には、そのように悠長に構えるつもりは全くなかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。この会談で、イラクはクウェートに対して負債の帳消しとともに[[ブビヤン島]]などの割譲を要求したが、クウェートはこれらの要求を拒絶した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。この時、イラクは開戦を決意したとされる{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=10-12}}。 {{Anchors|湾岸危機(開戦までの経緯)}} === クウェートへの侵攻 === [[File:Kuwait towers.jpg|thumb|right|220px|クウェート市]] {{main|クウェート侵攻}} {{Anchors|イラクのクウェート侵攻}}1990年[[8月2日]]午前1時(現地時間)、イラクの[[共和国防衛隊]]はクウェート国境を越えて侵攻を開始した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。[[アメリカ国防情報局]](DIA)は、[[偵察衛星]]からの画像によって早くからイラクの侵攻準備体制を把握していたが、アメリカでの軍事常識として本格侵攻に必要と考えられていた諸装備や兆候が欠けていたことから、DIAから報告を受けた[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部(JCS)]]および[[アメリカ中央軍|中央軍(CENTCOM)]]は、直前まで「クウェートとの交渉を有利に進めようとする恫喝の可能性が高い」と評価しており、本格侵攻であることを把握したときには既に対応困難となっていた{{Sfn|山崎|2010|pp=56-63}}。 フセイン大統領はクウェート王族を確保してイラクへの併合を承諾させることを狙っており{{Sfn|山崎|2010|pp=56-63}}、侵攻開始30分後には[[特殊部隊]]が[[クウェート市]]に対して[[ヘリボーン]]強襲を実施、また海からも[[コマンド部隊]]が王族を捕らえるための上陸作戦を行っていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。しかし首長の[[ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ|ジャービル3世]]はサウジアラビアに亡命し、クウェート首長一族のほとんどは逃亡に成功。首長の弟である[[シェイク・ファハド・アル=サバーハ]]のみが宮殿に残っていたために殺害された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。一方、[[クウェート軍]]の抵抗は弱体で、イラク侵攻部隊は早くも5時30分にはクウェート市へ突入、市内にいたコマンド部隊と合流した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。主要なクウェート政府施設は5時間以内にイラク軍に確保され、翌朝までに全土の戦略拠点が占領された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。 クウェート王族の拘束に失敗したイラク側は、クウェートとイラクの二重国籍を持ち、[[バアス党]]員であるとともにクウェート陸軍の初級幹部でもあった[[アラー・フセイン・アリー]]を大佐に昇進させるとともに、彼を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させ{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}{{Sfn|山崎|2010}}、その要請により介入したと報じた<ref name=mainichi0805c05>不透明な暫定自由政府『毎日新聞』1990年8月5日朝刊、5面</ref><ref name=asahi0803c01>イラク軍 クウェートを武力制圧『朝日新聞』1990年8月3日朝刊、1面</ref><ref name=yomiuri0803c01>イラク軍、クウェート制圧『読売新聞』1990年8月3日朝刊、1面</ref>。[[8月7日]]には、クウェート暫定政府は[[クウェート共和国]]へと名前を変えたが<ref name=mainichi0808c1-2>新国名「クウェート共和国」と声明『毎日新聞』1990年8月8日朝刊、1面</ref><ref name=asahi0808c01>クウェート「暫定政府」共和制を宣言『朝日新聞』1990年8月8日朝刊、1面</ref><ref name=yomiuri0808c05-3>共和国を宣言 暫定自由政府『読売新聞』1990年8月8日朝刊、5面</ref>、翌日にはイラクに併合された<ref name=asahi0809c01>クウェートを統合 イラク宣言『朝日新聞』1990年8月9日朝刊、1面</ref><ref name=yomiuri0809c01>イラク、クウェートを併合『読売新聞』1990年8月9日朝刊、1面</ref>。 == 国際社会の初期対応 == === 多国籍軍の結成 === [[File:Cheney meeting with Prince Sultan.jpg|thumb|right|220px|サウジアラビアのスルターン・ビン・アブドゥル=アズイーズ皇太子と会談するアメリカの[[ディック・チェイニー]][[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]。]] イラクの軍事侵攻に対して国際社会は激しく抗議し、[[国際連合]]では、侵攻当日の[[8月2日]]のうちに、イラク軍の即時無条件撤退を求める[[国際連合安全保障理事会決議660|安全保障理事会決議660]]が採択された{{Sfn|外務省|1991}}{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。イラクがこの決議を無視したことから、[[国際連合安全保障理事会]]は、6日には加盟国に[[対イラク経済制裁]]を義務付ける[[国際連合安全保障理事会決議661|決議661]]、また9日にはイラクによるクウェート併合を無効とする[[国際連合安全保障理事会決議662|決議662]]を採択した{{Sfn|外務省|1991}}{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=22-25}}。 [[アメリカ合衆国]]の[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ大統領]]は、[[8月4日]]の[[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]]において、まずはイラクがクウェートに続いて[[サウジアラビア]]にまで侵攻することを阻止することが最優先課題であることを確認し、国連を通じて他国と協調しつつ外交的・経済的な圧力を加えることでイラク軍をクウェートから撤退させることを志向した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=608-614}}。ただし最後の手段として、軍事的な圧力、更にはクウェート解放戦争を遂行する可能性をも念頭に置いていた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=608-614}}。 [[アメリカ軍]]のサウジアラビア国内への展開は、宗教的問題からサウジアラビア側が躊躇すると思われていたが、実際には、8月6日に[[ディック・チェイニー|チェイニー国防長官]]・[[ノーマン・シュワルツコフ|中央軍司令官シュワルツコフ大将]]から説明を受けた[[ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ|ファハド国王]]の決断によって即座に了承されたことで、8月7日(アメリカ[[東部標準時]])には指定された部隊に対して湾岸地域への展開命令が発令され、'''[[砂漠の盾作戦]]'''が発動された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=59-63}}。その後も、アメリカを含む[[西側諸国]]やアラブ諸国は同国に陸軍及び空軍の部隊を派遣し、また西側諸国はペルシャ湾及びその近海に艦隊を派遣した{{Sfn|外務省|1991}}。10月までに、[[アメリカ陸軍]]・[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]のほか、地元[[サウジアラビア軍]]や[[イギリス陸軍]]、[[フランス陸軍]]などが加わった[[多国籍軍]]により、地上での防御態勢が概ね確立された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=63-71}}。 === イラクの反応 === [[File:Saddam1990.jpg|thumb|right|220px|会見を行うフセイン大統領。]] イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートを[[バスラ県]]の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「{{仮リンク|クウェート県 (イラク)|en|Kuwait Governorate|label=クウェート県}}」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。 8月12日にイラクは「イスラエルの[[パレスチナ]]侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日に[[エルサレム]]で、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、[[中東戦争]]以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機に[[パレスチナ問題]]が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後の[[オスロ合意]]調印へと繋がる事になった。 ===「人間の盾」=== さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「[[人間の盾]]」として人質にすると国際社会に発表し、その後[[日本]]や[[ドイツ]]、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。 なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、[[日本航空]]や[[ブリティッシュ・エアウェイズ]]の乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は、[[アントニオ猪木]]が訪問した後に解放した[[日本人]]人質41人など、小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。 だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした[[国際連合安全保障理事会決議678|決議678]](いわゆる「'''対イラク武力行使容認決議'''」)を採択した。 == 多国籍軍の攻勢作戦 == {{main|砂漠の嵐作戦}} === 戦略的航空作戦 === イラクが態度を軟化させないまま撤退期限が過ぎたのち、[[UTC+3|現地時刻]]で1月17日未明より、多国籍軍による攻勢作戦が開始された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=400-405}}。 午前2時39分、[[アメリカ陸軍]]の[[AH-64 アパッチ|AH-64攻撃ヘリコプター]]がイラク軍の[[早期警戒レーダー]]を破壊し、続く攻撃隊のためにイラク防空網に間隙を生じさせた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=400-405}}。またこの攻撃と前後して国境を通過した[[アメリカ空軍|空軍]]の[[F-117 (航空機)|F-117攻撃機]]がバグダッドを中心とする重要目標に向けて散開しており、2時51分より各目標への攻撃を開始した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=400-405}}。またこれとほぼ同時に、[[アメリカ海軍|海軍]]艦艇が発射した[[トマホーク (ミサイル)|トマホーク巡航ミサイル]]がバグダッド周辺の目標に着弾し始めた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=400-405}}。これに続いて、イラク指導者層への攻撃および[[航空作戦#敵防空網制圧|防空システム制圧(SEAD)]]作戦が大規模に行われた結果、同日中に、イラクの防空システムは統合したシステムとしての運用能力を喪失した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=400-405}}。 一方、イラク側は18日早朝より[[アル・フセイン (ミサイル)|スカッド短距離弾道ミサイル]]の射撃を開始し、まず[[イスラエル]]に対して、また20日からはサウジアラビアを標的とした攻撃が行われた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=409-410}}。これはイスラエルを挑発してイラクに対する軍事行動を誘発すれば、アラブ諸国がイラクに対する軍事行動を躊躇する効果が期待でき、またサウジアラビアの石油施設が損傷すれば世界的な[[オイルショック|石油危機]]が発生し、各国の動揺を誘う効果が期待できると考えたものであった{{Sfn|山崎|2010|pp=64-69}}。多国籍軍は直ちにスカッド発射機に対する攻撃を強化したものの、[[輸送起立発射機|移動式ミサイル発射機]]の発見は難しく{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=409-410}}、この部分は[[特殊部隊]]を潜入させて対応することになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=89-94}}。またあわせて、イスラエルおよびサウジアラビアに[[パトリオットミサイル|パトリオット地対空ミサイル]]を装備した防空部隊を展開して、[[防空]]も強化した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=89-94}}。 === 絶対的航空優勢 === 多国籍軍の航空攻撃に対して、イラク空軍の反撃は極めて不活発であった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=405-409}}。最初の3日間の航空戦でイラクが行った空対空任務は100[[ソーティ]]をわずかに超える程度であり、約750機の保有作戦機数の点から見ると極めて少なかった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=405-409}}。多国籍軍の空対空戦果は第3日より後は事実上無くなった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=410-412}}。 これは、圧倒的優位にある多国籍軍に対して戦いを挑むのを避けて、航空機を強化掩体壕に収容して空軍を温存する意図があったと思われる{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=405-409}}。しかし1月21日からは航空機が収容された掩体壕に対して[[BLU-109|地中貫通爆弾]]による攻撃が開始され、この温存戦略も維持困難となったことから、1月26日より、イラクは、イランまで飛べる飛行機を同地に脱出させる作戦を開始した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=410-412}}。 1月27日、中央軍司令官は、イラク空軍は戦闘において無力化されたと宣言し、[[制空権|絶対的航空優勢]]({{Lang|en|air supremacy}})が確保された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=410-412}}。 === 陸上攻勢作戦準備 === 作戦第2週(1月24 - 30日)に入ると、戦略的航空作戦に加えて、陸上攻勢作戦の準備として、イラク軍のクウェート戦域への移動を遮断する航空作戦も本格的に開始された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=410-412}}。多国籍軍航空部隊は、陸上攻勢作戦開始前に10万ソーティに近い戦闘および支援任務を飛行し、288発のトマホーク対地ミサイルと35発の空中発射巡航ミサイルを発射した{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=418-419}}。また2月7日には、{{仮リンク|第8特殊作戦飛行隊 (アメリカ空軍)|label=第8特殊作戦飛行隊|en|8th Special Operations Squadron}}が[[BLU-82]]をクウェート南西部に投下、心理戦用兵器として使用している{{Sfn |ニューズウィーク1991年6月20日 |p=15}}。 一方、アメリカ陸軍は既に砂漠の盾作戦の段階で第18空挺軍団を派遣していたほか、陸上攻勢作戦のために[[第7軍団 (アメリカ軍)|第7軍団]]も追加派遣されており{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=76-80}}、戦略的航空作戦の開始後、攻撃発起位置へと進入していった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=109-117}}。 フセイン大統領は、多国籍軍に地上戦を挑むことで反撃を誘発し、態勢が整う前に消耗戦に引き込むことを狙って[[カフジ]]に対する攻撃を命じ、[[1月29日]]より[[カフジの戦闘]]が開始された{{Sfn|山崎|2010|pp=64-69}}{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=94-109}}。多国籍軍が頑強な抵抗を行わずに後退したことで、イラク軍は[[カフジ]]の占領に成功したものの、アメリカ軍の援護を受けたアラブ合同軍の反撃によってまもなく同地は奪還された{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=94-109}}。また多国籍軍は慎重に作戦を進めており、これを契機として過早に地上戦に突入することもなかった{{Sfn|山崎|2010|pp=64-69}}。 === 陸上攻勢作戦 === [[File:Desert Storm Map.svg|thumb|400px|地上部隊の進撃経路図。]] 多国籍軍は、サウジアラビアの国境線沿いに東西に展開しており、展開線は480キロに及んだ{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=156-163}}。陸上攻勢作戦は'''砂漠の剣作戦'''と命名されており、右翼(東部)においてはクウェートに向けて直接前進する一方、左翼(中央部・西部)では一旦イラク領を北上ののち東に転針するという「左フック」行動を行うことになった{{Sfn|山崎|2003}}。このうち、最左翼(西部)において最も長距離を移動する第18空挺軍団は、配属された[[フランス陸軍]]部隊を含めて[[ヘリボーン]]を活用できる軽装備の部隊を主力として構成されていたのに対し、中央部において濃密なイラク軍展開地域を突破する第7軍団は、配属された[[イギリス陸軍]]部隊を含めて重装備の[[機甲師団]]が中心となった{{Sfn|山崎|2003}}。 計画では、2月24日朝にまず東部および西部において攻撃を開始したのち、翌25日朝に中央部での攻撃を開始する予定だった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=156-163}}。このように攻撃開始時刻に約1日間の差を設けた目的は、多国籍軍が多国籍軍右翼のクウェート正面から攻撃してくるとイラク軍に誤認させることにあった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=156-163}}。しかし右翼での攻撃が予想以上に順調に進展したことから、中央部での攻撃開始は予定よりも繰り上げられた{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=156-163}}。 東部においては、2月27日午前9時には[[クウェート市]]の解放に成功したが、この際には政治的事情が配慮され、アラブ合同軍が先に市内に入る形となった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=211-224}}。また中央部・西部でも、地形・天候に悩まされつつ進撃を続け、2月26日に第7軍団の第2装甲騎兵連隊がタワカルナ機械化師団と接触したのち([[73イースティングの戦い]])、イラク軍の中核的戦力である[[共和国防衛隊]]への攻撃態勢が整えられつつあった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=198-207}}。しかし政治的事情により、2月28日午前8時をもって戦闘が停止されたことで、共和国防衛隊の戦力の相当部分が温存されることになった{{Sfn|防衛研究所戦史研究センター|2021|pp=211-224}}。 {{-}} == 戦争による影響 == === 人的被害 === ==== 一般市民 ==== 巡航ミサイル及び航空戦力による、空爆の重要性の増加は、戦争初期段階における一般市民の犠牲者の数をめぐる論争を引き起こした。戦争開始24時間以内に、1,000個以上の[[ソーティ|ソーティー]]が飛行しており、その多くがバグダッドを標的とした。イラク軍の[[統制]]及びフセイン大統領の権力が座すバグダッドは、爆撃の重要な標的となったにもかかわらず、イラク政府は政府主導の疎開や避難を行わなかった。これは、市民の多大な数の犠牲者を生む原因となった。 地上戦の前に行われた多くの航空爆撃は、民間人の被害を多数引き起こした。特筆すべき事件として、ステルス機によるアミリヤへの爆撃が挙げられる。この空爆により同地へ避難していた200人から400人の市民が死亡した<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/shared/spl/hi/middle_east/02/iraq_events/html/collateral_damage.stm|title=Saddam's Iraq:Key events}}</ref>。火傷を負い、切断された遺体が転がる場面が報道され、さらに爆撃された掩体壕は市民の避難所であったと述べられた。一方では、同地はイラクの軍事作戦の中心地であり、市民は人間の盾となるために故意に動かされたとみなされ、これを巡る論争は激化した。 カーネギーメロン大学ベス・オズボーン・ダポンテ{{Efn2|{{lang-en-short|Beth Osborne Daponte}}}}の調査によると、3,500人が空爆で、100,000人が戦争による影響で死亡したと推定された<ref name="autogenerated1"/><ref>{{Cite web|title=Toting the Casualties of War |url=http://www.businessweek.com/bwdaily/dnflash/feb2003/nf2003026_0167_db052.htm|work=Businessweek|date=6 February 2003 |accessdate=2009-08-03}}</ref><ref>{{Cite web|last=Ford|first=Peter|title=Bid to stem civilian deaths tested|url=http://www.csmonitor.com/2003/0409/p06s01-woiq.html|work=Christian Science Monitor|date=2003-04-09 |accessdate=2009-08-03}}</ref>。 ===== 新生児の先天性奇形と小児癌 ===== 小児がんの患者は1990年には32,000人だったが、1997年には13万人に増えたとされる。イラク南部では、生まれてきた赤ん坊の10人中2人が先天性奇形であり、多くは生まれて直ぐに死んでしまうとされる<ref>{{Cite web|和書|title=日本ユニセフ協会・世界の子どもたち > 世界の子どもたちは今 「イラクで増加する先天性奇形児」 |url=https://www.unicef.or.jp/children/children_now/iraq/sek_iraq_1.html |website=www.unicef.or.jp |access-date=2023-10-29}}</ref>。 生まれたときから手足がない、目が一つしかない赤ちゃんもいる<ref>{{Cite web|和書|title=戦火に苦しむイラクの子どもたち(セイブ・イラクチルドレン・名古屋) :: 2023あいち・平和のための戦争展 8/10~8/13 |url=https://sensoten.net/tenji/2022/1-15 |website= |access-date=2023-10-29}}</ref>。イラク人医師は湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の影響だと考えており、WHOはそれを否定しているものの、WHOの見解にはイギリスの大手メディアが疑問を呈している<ref>{{Cite web|和書|title=日本と縁の深いイラクの病院で起きている新生児の先天異常 ファルージャ編 (4)(伊藤めぐみ) - エキスパート |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/382f9202f688d9f5876b82645535c540bbfa88c4 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-10-29 |language=ja |date=2019-12-26}}</ref>。 ===== 経済制裁による影響 ===== 戦争そのものに加えて、国連によって課された[[対イラク経済制裁|経済制裁]]もイラク社会にダメージを与えた<ref>{{Cite web |title=‘We Kill People with Sanctions’: An Interview with Denis Halliday |url=https://progressive.org/api/content/528cc2a4-a90a-11eb-bdac-1244d5f7c7c6/ |website=Progressive.org |date=2021-04-29 |access-date=2023-10-29 |language=en-us |first=Nicolas J. S. |last=Davies}}</ref>。失業率は50%に達し、UNICEFによれば幼児の3人に1人が栄養失調になった<ref>{{Cite web |url=https://www.icrc.org/en/doc/resources/documents/report/57jqap.htm |title=Iraq: 1989-1999, a decade of sanctions |access-date=2023-10-24 |publisher=INTERNATIONAL COMMITTEE OF THE RED CROSS |date=1999-12-14 |language=en}}</ref>。食料や医薬品の不足等の原因で、UNICEFによれば、50万人の幼児が犠牲になったという<ref>{{Cite web |title=Iraq surveys show 'humanitarian emergency' - Iraq {{!}} ReliefWeb |url=https://reliefweb.int/report/iraq/iraq-surveys-show-humanitarian-emergency |website=reliefweb.int |date=1999-08-12 |access-date=2023-10-24 |language=en |publisher=OCHA(国連人道問題調整事務所)}}</ref>。国連人道問題調整事務所のHPによれば、150万人が犠牲になったとされる<ref>{{Cite web |title=Sanctioned genocide: Was 'the price' of disarming Iraq worth it? - Iraq {{!}} ReliefWeb |url=https://reliefweb.int/report/iraq/sanctioned-genocide-was-price-disarming-iraq-worth-it |website=reliefweb.int |date=2003-06-10 |access-date=2023-10-29 |language=en |publisher=OCHA(国連人道問題調整事務所)}}</ref>。こういった報告を誤りであると批判する論文もある<ref>{{Cite web |url=https://gh.bmj.com/content/bmjgh/2/2/e000311.full.pdf |title=Changing views on child mortality and economic sanctions in Iraq: a history of lies, damned lies and statistics |access-date=2023-10-24 |publisher=BMJ Global Health |author=Tim Dyson, Valeria Cetorelli |date=2017}}</ref>。 ==== イラク軍 ==== 正確なイラク戦闘犠牲者数は不明だが、調査によると20,000人から35,000人であると見積もられている<ref name="autogenerated1">Robert Fisk, ''The Great War For Civilisation;The Conquest of the Middle East'' (Fourth Estate, 2005), p.853.</ref>。アメリカ空軍の報道によると、空爆による戦闘死者数は約10,000から12,000人、地上戦による犠牲者数は10,000人であった。この分析は、戦争報道によるイラク人捕虜に基づいている。もっとも、捕虜となったイラク軍兵士37000人中に負傷者が800人ほどだったことや、戦後に反体制勢力を迅速に鎮圧した状況を見るに、実際の死者は10,000人以下との見解もある。また、イラク軍全体の雰囲気としてこの戦争に反対で士気が低かったため、士気維持のため兵員の交代休暇を開戦の日まで継続しており、定数の25%程度が任地に居なかったものと考えられ、こうした将兵は多国籍軍の空爆が始まると任務に戻れなくなっていた。このような事情も当初は把握されていなかったため、多国籍軍による過大な人的戦果の推定につながったと考えられている<ref>{{Cite book|last=Keaney|first=Thomas|coauthors=Eliot A. Cohen|title=Gulf War Air Power Survey|publisher=United States Dept. of the Air Force|year=1993|location=|isbn=0-16-041950-6}}</ref>。 フセイン政権は、諸外国からの同情と支援を得るため市民からの死傷者数を大きく発表した。イラク政府は、2,300人の市民が空爆の間に死亡したと主張した{{要出典|date=2009年11月}}。 Project on Defense Alternativesの調査によると、イラク市民3,664人と20,000から26,000名の軍人が紛争により死亡し、一方で75,000名のイラク兵士が負傷した<ref>[http://www.comw.org/pda/0310rm8ap2.html Wages of War - Appendix 2:Iraqi Combatant and Noncombatant Fatalities in the 1991 Gulf War<!-- Bot generated title -->]</ref>。 ==== 多国籍軍 ==== [[File:Patriot missile launch b.jpg|thumb|upright|right|パトリオットミサイルの発射]] 国防総省は、{{仮リンク|戦闘中行方不明|en|Missing In Action|label=MIA}}(戦闘中行方不明)と呼ばれるリストを作成し、友軍の砲火による35名の戦死者を含む148名のアメリカ軍人が戦死したと発表した。なお、このリストには2009年8月に1名の{{仮リンク|スコット・スピッチャー|en|Scott Speicher|label=あるパイロット}}が追加された。更に145名のアメリカ兵は、戦闘外事故で死亡した<ref name="cnn"/>。イギリス兵は47名(友軍砲火により9名)、フランス軍人は2名が死亡した。クウェートを含まないアラブ諸国は37名(サウジ18名、エジプト10名、アラブ首長国連邦6名、シリア3名)が死亡した<ref name="cnn">{{Cite journal|url=http://www.cnn.com/SPECIALS/2001/gulf.war/facts/gulfwar/|publisher=CNN|title=In-Depth Specials - Gulf War|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070510125644/http://edition.cnn.com/SPECIALS/2001/gulf.war/facts/gulfwar/|archivedate=2001|year=2001|postscript=<!--None-->}}</ref>。最低でも605人のクウェート兵は未だに行方不明である<ref>{{Cite journal|first=Nicholas|last=Blanford|url=http://www.csmonitor.com/2002/1223/p07s01-wome.html|title=Kuwait hopes for answers on its Gulf War POWs|publisher=Christian Science Monitor|year=2001|postscript=<!--None-->}}</ref>。 多国籍軍間における最大の損失は、1991年2月25日に起こった。イラク軍アル・フセインはサウジアラビア・ダーランのアメリカ軍宿舎に命中、[[ペンシルベニア州]]からの{{仮リンク|アメリカ陸軍予備兵|en|United States Army Reserve}}28名が死亡した。戦時中、合計で190名の多国籍軍兵がイラクからの砲火により死亡、うち113名がアメリカ兵であり、連合軍の死者数は合計368名だった。[[友軍砲火]]により、44名の兵士が死亡し、57名が負傷した。また、145名の兵士が軍需品の爆発事故もしくは戦闘外事故により死亡した{{要出典|date=2008年10月}}。 多国籍軍の戦闘による負傷者数は、アメリカ軍人458名を含む776名であった<ref>{{cite encyclopedia|title=Persian Gulf War - MSN Encarta<!-- Bot generated title -->|url=http://encarta.msn.com/encyclopedia_761551555_2/Arabian_Gulf_War.html|work=|archiveurl=https://webcitation.org/5kwqLuiZR|archivedate=2009-10-31}}</ref>。 しかし2000年現在、湾岸戦争に参加した軍人の約4分の1にあたる183,000人の復員軍人は、復員軍人省により恒久的に参戦不能であると診断された<!--(National Gulf War Resource Center 31 May 2000--><ref>[https://web.archive.org/web/20060923034503/http://www.ngwrc.org/?page=article&id=158 NGWRC:Serving veterans of recent and current wars<!-- Bot generated title -->] (archived from [http://www.ngwrc.org/?page=article&id=158 the original] on 23 September 2006)</ref><ref>[http://www.otohns.net/default.asp?id=8945 Of Desert Storm's 700,000 U.S. Troops, 26% Now Disabled], June 19, 2000, otohns.com, citing newsrx.com</ref>。湾岸戦争時にアメリカ軍に従事した男女の30%は、原因が完全には判明していない、多数の重大な症候に悩まされ続けている<ref>[http://www.commondreams.org/headlines06/0812-06.htm Is an Armament Sickening U.S. Soldiers?<!-- Bot generated title -->]</ref>。 [[File:DF-ST-92-08022-C.jpg|thumb|upright|砂漠の嵐作戦に参加し、地雷を除去する[[サウジアラビア陸軍]][[M113装甲兵員輸送車]]及び軍事車両。1991年3月1日、クウェートにて。]] イラク兵により190名の多国籍軍部隊員が殺され、友軍砲火または事故により379名が死亡した。 この数字は、予想されたものに比べ非常に少ないものである。またアメリカ人女性兵3名が死亡した。 これは国別の多国籍軍の死亡者数である。 :{{Flagicon|United States}} アメリカ合衆国 - 294名 (114名が敵からの攻撃、145名が事故、35名が友軍相撃による。) :{{Flagicon|United Kingdom}} イギリス - 47名 (38名が敵からの攻撃、9名が友軍相撃による。) :{{Flagicon|Saudi Arabia}} サウジアラビア - 18名<ref>[http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-11661.html Saudi Arabia - Persian Gulf War, 1991]</ref> :{{Flagicon|Egypt}} エジプト - 11名<ref>The Associated Press. "Soldier Reported Dead Shows Up at Parents' Doorstep." 22 March 1991.</ref> :{{Flagicon|United Arab Emirates}} アラブ首長国連邦 - 6名<ref>[http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-14256.html The Role of the United Arab Emirates in the Iran-Iraq War and the Persian Gulf War]</ref> :{{Flagicon|Syria}} シリア - 2名<ref>Miller, Judith. "Syria Plans to Double Gulf Force." ''The New York Times'', 27 March 1991.</ref> :{{Flagicon|France}} フランス - 2名 :{{Flagicon|Kuwait}} クウェート - 1名 (砂漠の嵐作戦下)<ref>[http://www.country-data.com/cgi-bin/query/r-14245.html Role of Kuwaiti Armed Forces in the Persian Gulf War]</ref> ==== 友軍相撃 ==== イラク戦闘員による多国籍軍の死亡者数は非常に少なく、友軍相撃による死亡者数は相当な数に上った。148名のアメリカ兵が戦闘中に死亡し、そのうち24%にあたる35名の従軍要員は友軍相撃により死亡、さらに11名が軍備品の爆発により死亡した。 アメリカ空軍[[A-10 (航空機)|A-10]]攻撃機が[[ウォーリア装甲戦闘車|ウォーリア]][[歩兵戦闘車]]部隊2個を攻撃したことにより、9名のイギリス軍従軍要員が死亡した。 === 物的被害 === ==== クウェートにおける石油火災 ==== {{Main|en:Kuwaiti oil fires}} [[File:Operation_Desert_Storm_22.jpg|thumb|220px|クウェートにおける石油火災(1991年)]] クウェートにおける石油火災は[[イラク治安部隊|イラク軍]]により起こされた。多国籍軍に追跡されていたイラク軍は、焦土作戦の一環として700の油井に放火した。火災は1991年1月及び2月に始まり、1991年11月に最後の火が消された<ref>{{Cite web|url=http://earthshots.usgs.gov/Iraq/Iraqtext|title="Iraq and Kuwait:1972, 1990, 1991, 1997." Earthshots:Satellite Images of Environmental Change|last=Wellman|first=Robert Campbell|date=14 February 1999|publisher=U.S. Geological Survey. http://earthshots.usgs.gov|accessdate=27 July 2010}}</ref>。 生じた火災は制御できないほど燃え広がった。これは消火作業員の投入が困難であったためである。油井周辺には[[地雷]]が設置されており、消火活動の前段階として同地域の地雷除去作業が必要となった。約{{Convert|6|Moilbbl|m3|-4}}の石油が毎日失われていった。結果、15億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]の経費がつぎ込まれ、消火作業は終了した<ref>{{Cite book|last=Husain|first=T.|title=Kuwaiti Oil Fires:Regional Environmental Perspectives|year=1995|publisher=BPC Wheatons Ltd|location=[[オックスフォード|Oxford]]|pages=68}}</ref>。作業には少なくとも2年かかると予想されていたが、爆風による吹き消し消火や、ジェットエンジンで消火剤を吹き付けるハンガリーの消防車が威力を発揮し、予想よりも早く鎮火させることができた。しかし、火災は発生より10か月が経過し、広範囲にわたる環境汚染が生じた。 ==== ペルシャ湾への石油流出 ==== {{Main|湾岸戦争における石油流出}} 1月23日、イラクは400億ガロンの[[原油]]をペルシア湾に流出させた。これは当時としては最大の沖合[[石油流出]]だった<ref>[https://web.archive.org/web/20100613021006/http://www.dukemagazine.duke.edu/dukemag/issues/030403/oil1.html Duke Magazine-Oil Spill-After the Deluge, by Jeffrey Pollack-Mar/Apr 2003<!-- Bot generated title -->]</ref>。この天然資源への襲撃はアメリカ海兵隊部隊の沿岸上陸を阻むためのものであると報道された。<!--軍は戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ]]及び[[ウィスコンシン (戦艦)|ウィスコンシン]]を[[ファイラカ島]]に向け砲撃させ、その事件を拡大させようとした{{要出典|date=January 2008}}。出典が見つかり次第復活予定。-->このうち約30から40%は多国籍軍によるイラク沿岸目標への攻撃によるものであった<ref>{{Cite book|author=Leckie, Robert|title=The Wars of America|publisher=Castle Books|year=1998}}</ref>。 === 金銭問題 === ==== 戦後補償 ==== 国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。国連安保理決議687に基づき、総額で524億ドルの賠償を求め、石油収入の5%の支払いを義務付けられた。 フセイン政権は1994年から賠償金を支払いを開始したが、復興途上にあるイラクにとっては負担が大きく、再三減免を求めてきたがクウェートはこれを拒否。逆にクウェート側は、イラク側の補償が不十分とし、2009年に国連に対してイラクに対する経済制裁をまだ解除しないよう求め、イラク側の反発を呼んだ。 [[2021年]][[12月24日]]、イラク当局は524億ドルの支払いを終了したことを発表した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3382504 |title=イラク、クウェートへの賠償支払い完了 侵攻から30年超 |publisher=AFP |date=2021-12-24 |accessdate=2021-12-24}}</ref>。 ==== 戦費 ==== [[アメリカ合衆国議会]]の計算によると、アメリカ合衆国はこの戦争に611億ドルを費やした<ref name="autogenerated2">[http://people.psych.cornell.edu/~fhoran/gulf/GW_cost/GW_payments.html How much did the Gulf War cost the US?<!-- Bot generated title -->]</ref>。その内約520億ドルは他の諸国より支払われ、クウェート、サウジアラビアを含むペルシア湾岸諸国が360億ドル、日本が130億ドル(紛争周辺3か国に対する20億ドルの経済援助を含む)<ref>{{cite news|url=http://www.asahi.com/business/update/1012/TKY201110120697.html|title=原油無償提供、湾岸戦争の恩返し クウェートが日本に|accessdate=2011-10-13}}</ref>、[[ドイツ]]が70億ドルを支払った。サウジアラビアの出資のうち25%は、食糧や輸送といった軍へ用務という形で物納により支払われた<ref name="autogenerated2"/>。多国籍軍のうちアメリカ軍部隊はその74%を占め、包括的な出費はより大きくなされた。日本の戦費供出も、当時の自国防衛予算の約3割にあたる多額の支出が行われた。 === 国際関係 === ==== 国境画定問題 ==== 現在のイラク・クウェート国境は、1993年5月27日、{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議833|en|United Nations Security Council Resolution 833}}に基づいて画定された<ref name="u.s.state19850"/>。1994年にサッダーム・フセイン政権はこれを承認した<ref name="u.s.state19850">{{Cite web|url=http://fpc.state.gov/documents/organization/19850.pdf|title=Iraq:Weapons Programs,U.N. Requirements, and U.S. Policy|format=PDF|publisher=[[アメリカ合衆国国務省]]|accessdate=2010-11-15}}</ref>。しかし、イラク現政府は同決議の承認を公式には表明しておらず、2010年7月14日、同国のアラブ連盟大使カーイス・アッザーウィーは、「現在の国境線は認められない」と発言したと報道された<ref>{{Cite web|和書||date=2010-7-16|url=http://www.meij.or.jp/members/kawaraban/20100716122427000000.pdf|title=かわら版|format=PDF|publisher=[[中東調査会]]|accessdate=2010-11-15}}</ref>。クウェート政府はこれに抗議し、イラク外相が釈明する事態となった。 ==== テロリストへの影響 ==== サウジアラビアはイラン・イラク戦争の折に、アメリカから[[F-15 (戦闘機)|F-15戦闘機]]などを導入し、アメリカはイラク監視を名目に[[第5艦隊 (アメリカ軍)|第5艦隊]]在バーレーン軍司令部とともに戦後も駐留を継続した。同国出身の[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサーマ・ビン=ラーディン]]は、自身の[[ムジャヒディン]]でイラク軍から防衛する計画を提案したところ当時のファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ国王に断られ<ref>Jehl, Douglas (December 27, 2001). "A Nation Challenged:Holy war lured Saudis as rulers looked away". The New York Times. pp. A1, B4. Retrieved September 5, 2009.</ref>、イスラム教の聖地メッカと[[マディーナ]]を有する同国にアメリカ軍を駐留させたことに反発し、[[イスラム原理主義]]組織[[アルカーイダ]]によるアメリカへの[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]を実行したと発表されている<ref>{{Cite web|和書|date=2004|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2004/2004/html/1613c1.html|title=平成16年版 防衛白書|publisher=[[防衛庁]]|accessdate=2011-03-06}}</ref>。このことからフセイン政権とアルカイダの関連が疑われてイラク戦争の開戦事由となったが、しかし、ビン=ラーディンはサダム・フセインをアラブ世界の汚物と酷評しており<ref>Bergen, Peter. "Vanity Fair excerpt of the book "The Osama bin Laden I Know"". (archive)</ref>、また、アメリカ上院情報特別委員会{{Efn2|{{lang-en-short|Senate Select Committee on Intelligence}}}}はフセイン政権はアルカイダを脅威と見做していたと結論づけており、フセイン政権とアルカイダを繋げる証拠はなかった。 過激派は数度にわたって中東に在留するアメリカ軍を襲撃したが、1996年のアメリカ軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名のアメリカ兵が死亡した。1998年には[[ケニア]]などで[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]を起こし約200名を殺害。2000年には[[イエメン]]沖でアメリカ海軍艦[[コール (ミサイル駆逐艦)|コール]]を攻撃した([[米艦コール襲撃事件]])。これらの事件でアメリカはアルカーイダを非難し、当時[[アフガニスタン]]でアルカーイダを保護していた[[ターリバーン|タリバン]]にアルカーイダの引き渡しを求めた。さらに2度にわたる[[国際連合安全保障理事会決議]]でも引き渡しが要求された。しかしタリバンは引き渡しに応じず、2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生した後にもアルカーイダを保護し続けた。このため[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|NATOと北部同盟によるターリバーン政府攻撃]]が行われた。 ==== レバノン内戦への影響 ==== {{See also|[[レバノン内戦#解放戦争|レバノン内戦]]}} 湾岸戦争前に、フセイン政権はレバノンの[[マロン派|マロン派キリスト教]]勢力および[[レバノン軍|レバノン国軍]]に対して、(対立関係にある)シリア・バース党に対する対抗策として余剰の軍備を供与するなど同内戦に関与を深めていた。しかし、湾岸戦争の勃発により、これらの支援は途絶。マロン派キリスト教勢力は外国からの支援が途絶え、さらに民兵組織の処遇を巡って、同派の有力民兵組織[[レバノン軍団]]と[[ミシェル・アウン]]率いるレバノン国軍は軍事衝突するに至った。また、イラクから支援を得ていた事から、レバノン政府及び軍に対する欧米からの支援も凍結され、レバノンのマロン派キリスト教勢力は深刻な内紛を抱え込み国際的に孤立する事となった。 一方、シリアは多国籍軍への参戦を表明。アメリカはその見返りとして、(手詰まりに陥っていた)レバノン問題の解決をシリアに事実上一任する形となった。また、この事態はイラクを支持し、レバノン国内のパレスチナ難民キャンプを事実上支配地域としていたPLOに対する牽制ともなった。 アメリカの黙認を得たシリア軍は、レバノン国軍に対して、各宗派の民兵組織と連携して大攻勢を仕掛け、これを降伏させた。レバノン内戦はシリア主導によって終結に向かう事となった。 ==== 日本への影響 ==== {{出典の明記|section=1|date=2020年9月}} {{観点|section=1|date=2020年9月}} 湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本に対して、アメリカ政府は[[軍事同盟|同盟]]国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の[[海運]]業者に依頼した。[[全日本海員組合]]はこれに反対したが、政労協定を締結し<ref>[http://www.jsu.or.jp/member/jsu/nenpu.html 全日本海員組合|主要年譜] 全日本海員組合HP</ref>、2隻の「中東貢献船」を派遣した<ref>[https://www.nagoyatv.com/document/entry-13999.html 葬られた危機~イラク日報問題の原点~] 2018年5月28日、メ~テレ</ref>。さらに当時の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の[[中山太郎]]が、外国人の[[看護士]]・[[介護士]]・[[医師]]を[[日本国政府|日本政府]]の負担で近隣諸国に運ぼうとした際にも、[[日本航空の労働組合]]が近隣諸国への飛行を拒否したため、やむなくアメリカの[[エバーグリーン航空]]機を[[チャーター便|チャーター]]してこれに対応した<!--<ref>[http://www.taro-nakayama.com/hitokoto/hitokoto7.html 「議員が読み解く国際政治」中山太郎]</ref>ドメイン無効-->。 さらに、急遽作成した「国連平和協力法案」は[[自由民主党 (日本)|自民党]]内の[[ハト派]]や、[[日本社会党|社会党]]などの反対によって廃案となった。なお、時の内閣は[[第2次海部内閣 (改造)|第二次海部内閣の改造内閣]]であった。 取り残された邦人への情報提供を行うため[[八俣送信所]]から有事放送を行った<ref>{{Cite web|和書|title=なにもかもが巨大な短波放送施設「KDDI八俣送信所」に潜入|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1321717.html|website=ケータイ Watch|date=2021-05-03|accessdate=2021-05-05|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。 [[ファイル:NAVI hansen shukai.jpg|thumb|right|鈴木による「自動車込み反戦集会」[[野立て看板|立て看板]](1991年)]] また、[[鶴見俊輔]]や[[自動車雑誌]]『[[NAVI]]』[[編集長|編集者]][[鈴木正文 (編集者)|鈴木正文]]<ref>[http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/lcc/20100121/1030836/?P=6 「日経トレンディネット」2010年01月21日]</ref>などの[[文化人]]は、多国籍軍によるイラクへの攻撃に対して、攻撃開始前の時点から「[[反戦運動|反戦デモ]]」を組織して<ref>『[[NAVI]]』1991年2月号{{要ページ番号|date=2014年1月}}{{要高次出典|date=2020年9月}}</ref>、[[柄谷行人]]、[[中上健次]]、[[津島佑子]]、[[田中康夫]]らは[[湾岸戦争に反対する文学者声明]]を発表した。これらの文化人や作家の多くはイラクによるクウェート侵攻については批判していたが、{{誰範囲|これを「イラクによる正当な領土回復行為」とみなす者もいた。|date=2019-12}} 日本政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル、さらに[[為替]]相場の変動により目減りがあったとして5億ドルを追加する資金援助を行った。 クウェートは戦後に参戦国などに対して感謝決議をし、『[[ワシントンポスト]]』に感謝広告を掲載したが、新規[[増税]]により130億ドルに上る協力を行なった日本はその対象に入らなかった。また、凱旋パレードでのシュワルツコフ大将による演説においても、多国籍軍に参加した28カ国の駐米大使を壇上に上げたうえで「28の同盟国とその他の国(28 alliance and the other countries)」に対する感謝の意が述べられた。壇上に呼ばれなかったことに抗議した駐米日本大使の[[村田良平]]に急遽折りたたみ椅子が与えられたが、扱いの差は歴然であった<ref>{{Citation|和書|title=私を通り過ぎた政治家達|year=2014|last=佐々|first=淳行|edition=|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=|page=85}}</ref>。日本の資金協力のうち、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)中、クウェートに直接入ったのは6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカに渡り<ref name="sato" />、またクルド人[[難民]]支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)のうち695億円がアメリカに渡っていた<ref name="sato">1993年(平成5年)4月19日[[参議院]]決算委員会、[[外務省]]北米局長・佐藤行雄の答弁より。</ref>。{{誰範囲|日本政府の対応が10億ドルずつの逐次的支出で、全体として印象に残らなかったとする意見もある|date=2019-12}}。 しかし人的貢献が無かったとして、アメリカを中心とした多国籍軍の参加国から「小切手外交」と非難された<ref>{{Cite web |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15159048.html |title=外交文書公開 「湾岸外交」検証の時 |access-date=2023-12-13 |publisher=株式会社朝日新聞社 |website=朝日新聞デジタル |language=ja}}</ref>。なお、ドイツも同様に非戦協力のみであったが格別非難はされず、クウェートの感謝広告でも中央上段に国名が掲載されている。 同盟国のアメリカから非難された結果、「国際貢献」が政界や論壇で流行語になり<ref>[https://www.nippon.com/ja/features/c00202/ nippon.com 「湾岸戦争と日本外交」2011年12月6日]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20220207121548/http://www.y-history.net/appendix/wh1703-048.html 教材工房 世界史用語解説「湾岸戦争」]</ref>、自民党・外務省・[[保守]]的文化人などの間で「『人的貢献』がなければ評価されない」との意識が形成され、その後の自衛隊の派遣対象や任務の拡大の根拠に度々使われた。そして日本政府は[[国連平和維持活動]](PKO)への参加を可能にする[[PKO協力法]]を成立させた。[[中山太郎]][[外務大臣]]は、感謝広告に日本が掲載されなかったことを引き合いに出し「人命をかけてまで平和のために貢献する」ときのみ「国際社会は敬意を払い尊敬する」旨答弁している<ref>{{Cite web|和書|title=第121回国会 衆議院 国際平和協力等に関する特別委員会 第6号 平成3年10月1日|url=https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=112104306X00619911001&spkNum=70|website=国会会議録検索システム|accessdate=2021-01-08|publisher=}}</ref>。その後、[[ペルシャ湾]]の[[機雷]]除去を目的として[[海上自衛隊]]の[[掃海艇]]を派遣し、[[自衛隊]]の[[自衛隊海外派遣|海外派遣]]を実現させた([[自衛隊ペルシャ湾派遣]])。このPKO協力法が施行されたことにより自衛隊はPKO活動への参加が可能となった。 2015年9月10日付で[[東京新聞]]は、クウェート側が広告掲載のために[[アメリカ国防総省]]に求めた多国籍軍参加国のリストから日本が漏れていたとする記事を掲載した。アルシャリク元駐日クウェート大使はインタビューに対し、感謝広告は[[サウード・ナシール・アル・サーウド・アル=サバー|サバハ]]駐米大使(娘のナイラが「[[ナイラ証言]]」をしたことで知られる)による発案であり、サバハ大使の求めでアメリカ国防総省が示した参加国リストに日本が掲載されていなかったと話した。また同記事はクウェートの湾岸戦争記念館に日本の掃海作業や資金援助についての説明があること、2011年3月の[[東日本大震災]]の際にはクウェートからも[[富裕層]]から[[労働者]]まで多くの人々から[[義捐金]]が寄せられ、500万バレルの石油の無償提供が決議されたことを紹介し、クウェート人の間では湾岸戦争において日本が多額の資金援助をしたことは感謝の念とともに記憶されているとしている。 == 多国籍軍参加国 == === 様々な資料による多国籍軍 === [[File:Gulf War coalition map3.png|thumb|多国籍軍に参加・参戦した国を世界地図上に表示したもの]] 湾岸戦争時に編成された多国籍軍には様々な国の軍が参加・参戦しているが、その国の内訳に関しては資料によって異なる。そのため、ここではいくつかの資料から多国籍軍参加国を挙げていく。 ;クウェートの感謝広告 :戦後にクウェートがアメリカの新聞『[[ワシントン・ポスト]]』に掲載した感謝広告による多国籍軍は以下の通り<ref name="saitou">{{Cite web|和書|url=https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0615110.pdf |title=はじめに 日本の国益とイラン |publisher=[[齊藤貢]] |date=2022-02-22 |accessdate=2023-09-26}}</ref>。 :[[アルゼンチン]]、[[オーストラリア]]、[[バーレーン]]、[[バングラデシュ]]、[[ベルギー]]、[[カナダ]]、[[チェコスロバキア]]、[[デンマーク]]、[[エジプト]]、[[フランス]]、[[ドイツ]]、[[ギリシャ]]、[[イタリア]]、[[クウェート]]、[[モロッコ]]、[[オランダ]]、[[ニュージーランド]]、[[ニジェール]]、[[ノルウェー]]、[[オマーン]]、[[パキスタン]]、[[ポーランド]]、[[カタール]]、[[サウジアラビア]]、[[セネガル]]、[[スペイン]]、[[シリア]]、[[アラブ首長国連邦|UAE]]、[[イギリス]]、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]。 ;クウェートの感謝切手 :上記と同様に戦後クウェートが発行し感謝[[切手]]に掲載した感謝広告による多国籍軍は以下の通り{{R|"saitou"}}。 :[[スウェーデン]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]、アメリカ、クウェート、サウジアラビア、[[国際連合|国連]]、[[シンガポール]]、フランス、イタリア、エジプト、モロッコ、イギリス、[[フィリピン]]、UAE、シリア、ポーランド、オーストラリア、[[日本]]、[[ハンガリー]]、オランダ、デンマーク、ニュージーランド、チェコスロバキア、バーレーン、[[ホンジュラス]]、[[トルコ]]、ギリシャ、オマーン、カタール、ベルギー、[[シエラレオネ]]、アルゼンチン、ノルウェー、カナダ、ドイツ、[[大韓民国|韓国]]、バングラデシュ、[[ブルガリア]]、セネガル、スペイン、ニジェール、パキスタン。 ;アメリカ側の資料 :アメリカ側の資料に基づく多国籍軍は以下の通り{{R|"norman"}}。 :[[アフガニスタン]]の[[ムジャーヒディーン]]、アルゼンチン、オーストラリア、バーレーン、バングラデシュ、ベルギー、カナダ、チェコスロバキア、デンマーク、エジプト、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、ホンジュラス、イタリア、クウェート、モロッコ、オランダ、ニュージーランド、ニジェール、ノルウェー、オマーン、パキスタン、ポーランド、[[ポルトガル]]、カタール、サウジアラビア、セネガル、韓国、スペイン、シリア、トルコ、UAE、イギリス、アメリカ、ソ連、[[ルーマニア]]。 ;その他の資料 :その他個別の資料にも多国籍軍参戦国は示されている。[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]によると、[[ルクセンブルク]]は湾岸戦争での財政支援や平和維持活動を行った<ref>{{Cite web |url=https://2009-2017.state.gov/outofdate/bgn/luxembourg/74191.htm |title=Luxembourg (09/06) |publisher=[[アメリカ合衆国国務省]] |date=2009-06 |accessdate=2023-11-29}}</ref>。また別の資料によると[[ガンビア]]が部隊を派遣した<ref>{{Cite web |url=https://www.economist.com/middle-east-and-africa/2017/01/26/after-gambias-dictator-democracy |title=After Gambia’s dictator, democracy? |publisher=[[エコノミスト]] |date=2017-01-26 |accessdate=2023-11-29}}</ref>他、[[タイ王国]]や[[ザイール]]が参戦したとの資料<ref>{{Cite web |url=https://nap.nationalacademies.org/read/9636/chapter/10 |title=Appendix A Coalition Forces and Force Strength |publisher=National Academies Press |date=1999 |accessdate=2023-11-29}}</ref>や[[マレーシア]]が参戦したという資料<ref>{{Cite web |url=http://www.ndswm.org/coalition-members |title=COALITION MEMBERS |publisher=NATIONAL DESERT STORM WAR MEMORIAL |accessdate=2023-11-29}}</ref>も存在する。また当時の日本は憲法上[[自衛隊]]を国外に派遣する事が出来ず、そもそも当時の自衛隊には輸送能力が無かったため民間船を政府が借り入れて新会社を設立し、軍事物資や兵員、食料、水、医薬品等の輸送任務を行った。そしてこのような船は「中東貢献船」と呼ばれ「平戸丸」や「きいすぷれんだあ」「シービーナス」といった船が活躍した<ref>{{Cite web |url=http://seamen.boy.jp/vol-24-%E8%BB%8D%E3%81%A8%E6%B0%91%E3%80%81%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%9E%E3%82%8C%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E3%81%A8%E6%B5%B7%E4%B8%8A%E5%8A%B4%E5%83%8D%EF%BC%96/ |title=VOL.24 軍と民、それぞれの論理と海上労働6 |publisher=羅針盤を発行する会 |accessdate=2023-11-30}}</ref>。 === 各国の参戦部隊 === [[File:Various Arabic Troops during Operation Desert Storm.jpg|thumb|作戦終了後に整列した多国籍軍の兵士たち。手前から奥にエジプト、フランス、オマーン、シリア等の各部隊。]] [[File:Troops from Syria, Oman and other Allied nations gather for review by King Fahd of Saudi Arabia as they take part in an assembly of international coalition forces united against Sad - DPLA - 198c2bed31b6f78e0659fcc03009a120.jpeg|thumb|同じく作戦後の多国籍軍。手前から奥にフランス、オマーン、シリア、サウジアラビア、イギリスの各部隊。]] [[File:International coalition forces united during Operation Desert Storm.jpeg|thumb|戦後の多国籍軍。手前から奥にモロッコ、クウェート、ニジェール、セネガル、フィリピンの各部隊。]] 湾岸戦争の多国籍軍は「多国籍軍」とはいっても開戦時の兵力680,000人の内540,000人が[[アメリカ軍]]の将兵たちであり、その内実はほぼアメリカ軍であった{{R|"maeda"}}。とは言っても、それはあくまで多国籍軍であり、その名の通り多国籍の軍隊・部隊によって構成されたものであった。ここでは、[[アメリカ陸軍戦略大学]]の教員が発行した資料{{Harv|Englehardt|1991}}を基に、多国籍軍参加・参戦国別の参戦部隊について解説する。 ;[[アメリカ合衆国]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[アメリカ中央軍]]将兵532,000人、[[戦車]]2,000両、[[作戦機]]1,800機以上、[[軍艦|艦艇]]120隻参戦。 :内[[第3軍 (アメリカ軍)|第3軍]]280,000人、[[アメリカ海兵隊]]25,000人。 :同[[:en:United States Naval Forces Central Command|中央海軍]]80,000人、[[戦闘爆撃機]]400機以上、艦艇120隻以上。 :同[[:en:United States Marine Corps Forces Central Command|中央海兵隊]]90,000人、また兵員18,000人と艦艇31隻。 :同[[:en:Ninth Air Force|中央空軍]]50,000人、作戦機1,200機。 ;[[アフガニスタン民主共和国|アフガニスタン]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[ムジャーヒディーン]](イスラム戦士)300人。 ;[[アルゼンチン]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :450人、[[フリゲート]]艦2隻。 ;[[オーストラリア]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :ミサイルフリゲート艦、[[駆逐艦]]、[[情報収集艦]]それぞれ1隻ずつ。 ;[[バーレーン]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :3,500人。 ;[[バングラデシュ]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :2,000人。 ;[[ベルギー]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[掃海艇]]2隻、トルコに戦闘部隊を派遣。 ;[[カナダ]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :1,700人、駆逐艦2隻、[[CF-18 ホーネット]]等[[戦闘機]]30機以上。 ;[[チェコスロバキア]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :兵員200人、医療部隊150人。 ;[[デンマーク]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[コルベット]]艦1隻。 ;[[エジプト]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :40,000人、戦車400人。 ;[[フランス]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :兵員20,000人、艦艇14隻、作戦機75機以上、戦車350両。 ;[[ドイツ]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :トルコに戦闘機部隊を派遣。 ;[[ギリシャ]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[紅海]]にフリゲート艦1隻派遣。 ;[[ハンガリー]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :医療部隊40人、空軍部隊。 ;[[ホンジュラス]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :150-350人。 ;[[イタリア]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :艦艇4隻、戦闘機8機、トルコに戦闘部隊を派遣。 ;[[クウェート]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :7,000人。陸軍4,500人、作戦機35機。 ;[[モロッコ]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :2,000人。 ;[[オランダ]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :フリゲート艦2隻、トルコに戦闘部隊を派遣。 ;[[ニジェール]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[メディナ]]と[[メッカ]]の聖地を防衛する部隊480人。 ;[[ノルウェー]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[巡視船]]1隻。 ;[[ニュージーランド]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[C-130 (航空機)|C-130]]輸送機2機。 ;[[オマーン]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :25,500人、戦車75両、巡視船12隻、作戦機50機。 ;[[パキスタン]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :10,000人。 ;[[ポーランド]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :艦艇2隻、医療部隊。 ;[[ポルトガル]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :イギリス軍を支援する海上部隊。 ;[[カタール]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :兵員7,000人、戦車24両、艦艇9隻、作戦機19機。 ;[[サウジアラビア]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :[[サウジアラビア陸軍|陸軍]]38,000人、[[サウジアラビア国家警備隊|国家警備隊]]56,000人、[[サウジアラビア空軍|空軍]]16,500人、戦車550両、作戦機180機、フリゲート艦8隻。 ;[[セネガル]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :500人。 ;[[ソビエト連邦]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :艦艇2隻。ただしアメリカ率いる多国籍軍の指揮下には入らないとした。 ;[[スペイン]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :コルベット艦2隻、駆逐艦1隻。監視任務を行った。 ;[[シリア]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :サウジアラビアに19,000人と[[特殊部隊]]2,000人、武装民間船300隻、イラクとの国境に50,000人、UAEに2,000人。 ;[[トルコ]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :フリゲート艦2隻、イラクとの国境に120,000人。先頭には参加しなかったが防衛的任務を行い、自国内のNATO軍を防衛するなどした。 ;[[アラブ首長国連邦]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :陸軍40,000人、空軍1,500人、海軍1,500人、戦車200両、作戦機80機、艦艇15隻。 ;[[イギリス]]{{Sfn|Englehardt|1991}} :42,000人、艦艇16隻、作戦機58機 以上 ==呼称の変動== 日本では英語名を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが戦場になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。イラクのクウェートへの侵攻から始まったことから、「イラク戦争」と呼ぶ人もおり{{Efn2|日本では[[本多勝一]]<ref>本多勝一『貧困なる精神 Y集』[[毎日新聞社]]、1994年、166頁。ISBN 4-620-31002-6。</ref>など。}}、2003年のイラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。また、2003年のイラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。 一方のイラクでは、多国籍軍が30か国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは、当時のイラクのフセイン大統領が「アラブ (イスラーム) 対イスラエルとその支持者 (アメリカやキリスト教国などの異教徒) 」と位置付けたこともあり、当時のアメリカの大統領の名前を取って「ブッシュ戦争」などと呼んでいた。 [[アラブ諸国]]では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを'''第二次湾岸戦争''' (حرب الخليج الثانية)、あるいは過去4度の中東戦争との関連で'''第五次中東戦争'''と呼ぶことがある。 また、メディアによるリアルタイムの報道映像は、ミサイルによる空爆をテレビゲームのように映し出し、世界的には「[[Nintendo Entertainment System|ニンテンドー]]戦争」({{lang|en|Nintendo War}})とも呼ばれた。日本国内では「テレビゲーム戦争」と報道された<ref group=注>当時主流のゲーム機であったNES(ファミコン)の愛称がニンテンドーであったことから。</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2005-12|url=https://web.archive.org/web/20111019171324/http://www.jica.go.jp/jica-ri/publication/archives/jica/kyakuin/pdf/200512_hea.pdf|title=紛争時、紛争後におけるメンタル・ヘルスの役割|format=PDF|publisher=[[国際協力機構]] 国際協力総合研究所|accessdate=2011-03-06}}</ref><ref>{{Cite web|date=2004-05 |url=https://web.archive.org/web/20181104085533/http://www.au.af.mil/au/awc/awcgate/army-usawc/csl-embedded-media.pdf|title=Leveraging the Media:The Embedded Media Program in Operation Iraqi Freedom |format=PDF |publisher=[[アメリカ空軍大学]] |language=English |accessdate=2014-09-06 }}</ref>。 ===作戦名=== ほとんどの連合軍諸国は、自らの作戦及び戦闘を様々な名称で呼んだ。これらはアメリカ軍による「砂漠の嵐」をはじめ、しばしば戦争全体を表す名称として誤って使われる。 *[[砂漠の盾作戦]] - 1990年8月2日から1991年1月16日にかけて行われた、アメリカによる、戦力増強及びサウジアラビア防衛の作戦名。 *[[砂漠の嵐作戦]] - 1991年1月17日から1991年4月11日にかけての[[エアランド・バトル]]。 *{{仮リンク|ダゲ作戦|en|Opération Daguet}} - フランス軍による作戦名 *{{仮リンク|フリクション作戦|en|Operation FRICTION}} - カナダ軍の作戦名 *{{仮リンク|ロクスタ作戦|en|Operazione Locusta}} - イタリアの諸作戦 *{{仮リンク|グランビー作戦|en|Operation Granby}} - イギリス軍の諸作戦 *{{仮リンク|砂漠の送別作戦|en|Operation Desert Farewell}} - 1991年のクウェート解放後のアメリカ軍部隊および装備のアメリカ合衆国本国への帰還作戦。しばしば「砂漠の平穏作戦」{{Efn2|{{lang-en-short|Operation Desert Calm}}}}と呼称される *[[砂漠の剣作戦]]{{Efn2|{{lang-en-short|Operation Desert Sabre}}}} - 1991年2月24–28日、「砂漠の嵐作戦」の一部として行われた、アメリカ軍によるクウェート地域のイラク軍への「100時間戦争」{{Efn2|{{lang-en-short|the "100-hour war"}}}}。 砂漠の剣作戦の初期においては、デザート・ソード作戦{{Efn2|{{lang-en-short|Operation Desert Sword}}}}とも呼ばれた。 これらに加え、各々の戦闘の各段階には、個々に作戦名が与えられた可能性がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|last=石川|first=潤一|year=2006|month=12|title=制空からマルチロールへ-トムキャット空戦記|journal=[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]|publisher=文林堂|naid=40015147782|ref=harv}} * {{Citation|和書||author=外務省|year=1991|chapter=第2章 湾岸危機と日本の外交|title=外交青書 - わが外交の近況|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1991/h03-2-1.htm|publisher=[[国立印刷局|大蔵省印刷局]]|ncid=BN01367050|ref=harv}} * {{Citation|和書|authorlink=佐々木良昭|last=佐々木|first=良昭|year=1991|title=フセイン流戦略の深層|publisher=フットワーク出版|isbn=978-4876890408|ref=harv}} * {{Citation|和書|last=玉井|first=秀樹 |date=1990-01 |url=https://soka.repo.nii.ac.jp/records/38304 |title=湾岸戦争の意味 : ヴェトナム・シンドロームは克服されたか? |journal=創大平和研究 |ISSN=03876209 |publisher=創価大学平和問題研究所 |issue=12 |pages=91-113 |hdl=10911/2309 |naid=110007149799 |id={{CRID|1050564287682962816}} |ref=harv}} * {{Citation|和書|authorlink=防衛研究所|author=防衛研究所戦史研究センター|year=2021|title=湾岸戦争史|publisher=防衛研究所|url=http://www.nids.mod.go.jp/publication/falkland/gulf_war.html|ncid=BC07347365|ref=harv}} * {{Citation|和書|last=松岡|first=完|title=湾岸戦争再考 : ベトナム症候群はなぜ生き延びたか|journal=筑波法政|issue=34|pages=11-44|date=2003/03/31|publisher=[[筑波大学]]社会科学系(法学・政治学)|naid=120006642686 |url=https://hdl.handle.net/2241/00156011}} * {{Citation|和書|authorlink=山崎雅弘|last=山崎|first=雅弘|year=2003||month=2|title=湾岸戦争に隠されたエネルギー戦略 イラクVSアメリカ 対立の13年史|journal=[[歴史群像]]|volume=12|number=1|pages=66-80|publisher=[[学研プラス|学研パブリッシング]]|naid=40020663172|ref=harv}} * {{Citation|和書|last=山崎|first=雅弘|year=2010||month=8||title=湾岸戦争|chapter=ドキュメント湾岸戦争|series=歴史群像アーカイブ Vol.15||pages=55-79|publisher=[[学研プラス]]|isbn=978-4056060560|ref=harv}} * {{Cite book|和書|first=Ramsey |last=Clark|year=1994|title=湾岸戦争―いま戦争はこうして作られる|others=中平信也 (翻訳)|publisher=地湧社|isbn=978-4885031151|ref=harv}} * {{Citation|first=Joseph P.|last=Englehardt|year=1991|title=Desert Shield and Desert Storm: A Chronology and Troop List for the 1990-1991 Persian Gulf Crisis|publisher=[[アメリカ陸軍戦略大学|United States Army War College]]|url=https://apps.dtic.mil/dtic/tr/fulltext/u2/a234743.pdf}} * {{Cite magazine|title = [[ニューズウィーク]]日本版(1991年6月20日号) |chapter = 秘密部隊かく戦えり |newspaper = |publisher = TBSブリタニカ |date = 1991-6-20 |ref = {{Sfnref |ニューズウィーク1991年6月20日}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Gulf War (1990-1991)}} * [[湾岸戦争の軍備一覧]] * [[ウィリアム・マクレイヴン]] - 砂漠の嵐・[[砂漠の盾作戦|砂漠の盾]]両作戦において任務部隊(task unit)を指揮した *[[ヴォイセス・ザット・ケア]] - 湾岸戦争の従軍兵士とその家族を支援するチャリティのために結成され、作られたテーマソング *[[対イラク経済制裁]]:クウェート侵攻を止めるために行われた。UNICEFから50万人の犠牲者が出たとの調査結果が出た。調査を否定する論文もある。 ;冷戦終結期の世界 *[[現代 (時代区分)]] *[[六四天安門事件]]:1989年6月。 *[[東欧革命]] **[[ベルリンの壁崩壊]]:1989年11月。 **[[ルーマニア革命 (1989年)]]:1989年12月。 *[[ドイツ再統一]]:1990年10月。 *'''湾岸戦争''':1991年1月。 *[[ソビエト連邦の崩壊]]:1991年12月。 ;中東の戦争 *[[西アジア・中東史]] *[[中東戦争]] *[[イラン・イラク戦争]]:1980年~1988年。 *[[イラク戦争]]:2003年。 *[[砂漠の盾作戦]] *[[サザン・ウォッチ作戦]] ;派兵と関連イベント *[[湾岸戦争症候群]] *[[多国籍軍]] *[[自衛隊ペルシャ湾派遣]] *[[イラク武装解除問題]] *[[大統領親衛隊]](大統領警護隊) *[[スポーツと平和の祭典]] ;題材とした作品 :映画 * [[戦火の勇気]](1996年) * [[スリー・キングス]](1999年) * [[クライシス・オブ・アメリカ]](2004年) * [[ジャーヘッド (映画)|ジャーヘッド]](2005年) :テレビ映画 * [[ガルフ・ウォー スカッドミサイル爆破指令]](1996年) * [[ガルフ・ウォー (映画)|ガルフ・ウォー]](1998年) * [[ライブ・フロム・バグダッド 湾岸戦争最前線]](2002年) :漫画作品 *[[ガルフの鷹]](原作:八城正幸 作画:[[井上紀良]])(1991年) ;影響を受けた作品 *[[メタルギアソリッド]]:1998年9月発売のゲーム。湾岸戦争で派遣された兵士をモデルにしている。 *[[楽しいムーミン一家]]:他の東京キー局が湾岸戦争で緊急放送を流す中で、通常放送して話題を集めた。 *[[三つ目がとおる]]:湾岸戦争当時の『ムーミン』の次番組で、こちらも緊急放送にならず通常放送した。 *[[燃えろ!トップストライカー]]:ソ連崩壊当時の『ムーミン』の次番組。湾岸戦争の「多国籍軍」と似た設定で、「多国籍チーム」である「ジュピター・ウィングス」のストーリーが登場している。 == 外部リンク == * {{NHK放送史|D0009030238_00000|湾岸戦争}} * [https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/feature-movie/feature-movie_09.html 平成3年(1991)湾岸戦争|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB] * {{Kotobank}} * [https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/cac02036462/1920-2eme-emission-du-17-janvier-1991 19/20 2EME : émission du 17 janvier 1991] - [[フランス国立視聴覚研究所|INA]]{{fr icon}} * {{YouTube|zu0yr53WqTc|19/20 : EMISSION DU 17 JANVIER 1991}} - [[フランス国立視聴覚研究所|INA Actu]]{{fr icon}} {{アメリカの戦争}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:わんかんせんそう}} [[Category:湾岸戦争|*]] [[Category:アメリカ合衆国の戦争]] [[Category:20世紀の戦争]] [[Category:イラク・クウェート関係]] [[Category:マーガレット・サッチャー]] [[Category:ジョージ・H・W・ブッシュ]] [[Category:ジョン・メージャー]] [[Category:サッダーム・フセイン]] [[Category:ウィリアム・マクレイヴン]]
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4,420
8月8日
8月8日(はちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。 日本記念日協会によると、同協会が認定した8月8日の記念日は69件あり、一年の中で最も多い日となっている(2023年11月現在)。2位が10月10日、3位が11月11日。
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8月8日(はちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。
{{カレンダー 8月}} '''8月8日'''(はちがつようか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から220日目([[閏年]]では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。 == できごと == {{multiple image | footer = [[メルセン条約]]締結(870)、現在のイタリア・フランス・ドイツの原型が形成。前年同日の[[ロタール2世]](835-869)の死が契機となった | image1 = Western_Empire-Europe870.JPG | width1 = 180 | alt1 = メルセン条約の地図 | image2 = Lothair_II_of_Lotharingia.jpg | width2 = 100 | alt2 = ロタール2世 }} [[Image:Loutherbourg-Spanish_Armada.jpg|thumb|スペイン無敵艦隊がグレイブラインの海戦で敗北(1583)]] [[Image:Chamonix valley from la Flégère,2010 07.JPG|thumb|[[モンブラン]]初登頂(1786)画像はモンブランとシャモニーの街並み]] [[Image:Tenguto_no_ran.jpg|thumb|300px|[[天狗党の乱]](1864)、幕府・諸藩と天狗党が戦闘状態に入る。画像は筑波での戦闘]] [[Image:Wright-Fort_Myer.jpg|thumb|220px|[[ライト兄弟|ウィルバー・ライト]]、初の公開飛行を行う(1908)。画像は9月のもの]] [[File:8th August 1918 (Will Longstaff).jpg|300px|thumb|第一次世界大戦・ドイツ陸軍暗黒の日 (1918)]] {{multiple image | footer = 飛行船[[LZ 127 (飛行船)|LZ 127]]、世界一周に出発(1929)。左画像は19日、[[霞ヶ浦海軍航空隊|霞ヶ浦航空隊]]基地に来港したLZ 127「ツェッペリン伯号」 | image1 = LZ_127_Graf_Zeppelin_arriving_in_Kasumi-ga-Ura.jpg | width1 = 100 | alt1 = 霞ヶ浦航空隊基地に来港したLZ127ツェッペリン伯号 | image2 = Weltrundfahrt_Map_1929.jpg | width2 = 140 | alt2 = 世界一周のルート }} {{multiple image | header = [[第二次世界大戦]]のできごと | direction = vertical | image1 = USS Quincy (CA-39) under fire during the Battle of Savo Island on 9 August 1942 (NH 50346).jpg | width1 = 220 | caption1 = [[第一次ソロモン海戦]]はじまる(1942) | image2 = TulagiBeachBlue.jpg | width2 = 220 | caption2 = [[フロリダ諸島の戦い]]、日本軍の玉砕で終結(1942)。画像は7日、[[ツラギ島]]に上陸する米海兵隊 | image3 = | width3 = 220 | caption3 = [[ソ連対日参戦]](1945)。画像は牡丹江へ進撃するソ連軍 }} [[Image:XB-36 first flight.jpg|thumb|アメリカ合衆国の[[戦略爆撃機]][[B-36 (航空機)|B-36]]が初飛行(1946)]] [[Image:Association_of_Southeast_Asian_Nations_%28orthographic_projection%29.svg|thumb|upright|[[東南アジア諸国連合]]発足(1967)。画像は2010年現在の加盟国]] [[Image:金大中.jpg|thumb|[[金大中事件]]。]] [[Image:Nixon-depart.png|thumb|[[ウォーターゲート事件]]でニクソン米大統領が辞意を表明(1974)。画像は翌9日[[ホワイトハウス]]を去る[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]]] {{multiple image | footer = 当時世界で最も高い建築物であった[[ワルシャワラジオ塔]]が倒壊(1991)。画像は1992年撮影 | image1 = Maszt_radiowy_w_Konstantynowie.jpg | width1 = 80 | alt1 = ワルシャワラジオ塔 | image2 = Foto_308_web.jpg | width2 = 140 | alt2 = 倒壊したワルシャワラジオ塔 }} [[Image:2008 Summer Olympics Opening Ceremony 2.jpg|thumb|[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]開幕(2008)]] * [[870年]] - [[メルセン条約]]締結。[[中部フランク王国]]が[[東フランク王国]]・[[西フランク王国]]・[[イタリア王国 (中世)|イタリア王国]]に割譲。 * [[1220年]] - [[リフラの戦い]] : [[スウェーデン王国]]が[[北方十字軍]]遠征の際に獲得した[[エストニア]]・[[レーネ県|レーネ地方]]の守備を任されていたスウェーデン貴族[[カール・ドーヴ]]が、現地部族の連合軍に敗北。これによりスウェーデンはエストニア地方への進出を断念した。 * [[1503年]] - [[スコットランド王国|スコットランド]]王[[ジェームズ4世 (スコットランド王)|ジェームズ4世]]が、[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]の娘[[マーガレット・テューダー]]と結婚。 * [[1588年]] - [[スペイン]]無敵艦隊が[[アルマダの海戦]]で[[イングランド]]艦隊に敗北。 * [[1786年]] - ジャック・バルマとミッシェル・ガブリエル・バッカールが[[モンブラン]]初登頂に成功。 * [[1864年]]([[元治]]元年[[7月7日 (旧暦)|7月7日]])- [[天狗党の乱]]: [[江戸幕府]]・[[藩|諸藩]]の軍勢と天狗党が戦闘状態に入る。 * [[1892年]] - [[第2次伊藤内閣|第2次伊藤博文内閣]]成立。[[1896年]][[8月31日]]まで。 * [[1900年]] - [[デビスカップ1900|第1回国際ローンテニス・チャレンジ]]([[デビスカップ]])開幕。 * [[1904年]] - [[大韓帝国]]で政治結社「維新会」(ほどなく[[一進会]]に改称)設立。 * [[1908年]] - [[ウィルバー・ライト]]が[[フランス]]・[[ル・マン]]の競馬場で初の公開飛行を行う。 * [[1911年]] - [[稗田山崩れ]]。[[長野県]][[小谷村]]の稗田山が大崩壊<ref>{{Twitter status|naganosabo|1556636672292319232}}</ref>。日本三大崩れに挙げられる20世紀最大級の[[土砂災害]]になった。 * [[1918年]] - [[第一次世界大戦]]・「{{仮リンク|ドイツ陸軍暗黒の日|de|Schwarzer Tag des deutschen Heeres}}」。この日に開始された{{仮リンク|アミアンの戦い (1918年)|en|Battle of Amiens (1918)|label=アミアンの戦い}}におけて、ドイツ軍が大敗。 * [[1928年]] - [[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]の[[1928年アムステルダムオリンピックの競泳競技|競泳]]男子200m[[平泳ぎ]]で[[鶴田義行]]が[[金メダル]]。 * [[1929年]] - ドイツの飛行船[[LZ 127 (飛行船)|LZ 127]](ツェッペリン伯号)が[[世界一周飛行]]を開始 * [[1940年]] - [[大和 (戦艦)|戦艦大和]]が[[呉海軍工廠]]にて進水 * [[1942年]] - [[第二次世界大戦]]・[[ソロモン諸島の戦い]]: [[第一次ソロモン海戦]]。翌日、日本の勝利で終結。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦・[[ソ連対日参戦]]: [[ソビエト連邦]]が日本に[[ソ連対日宣戦布告|宣戦布告]]。モスクワでの通告の数十分後の[[8月9日|9日]]未明、満州・朝鮮・樺太で一斉に進撃開始。 * 1945年 - 第二次世界大戦・[[日本本土空襲]]: [[福山大空襲]]。 * 1945年 - 第二次世界大戦・日本本土空襲: [[筑紫駅列車空襲事件]]。 * [[1946年]] - [[戦略爆撃機]][[B-36 (航空機)|B-36]]が初飛行。 * [[1952年]] - [[義務教育費国庫負担法]]公布。 * 1952年 - [[読売ジャイアンツ|巨人]]、プロ野球初の1000勝達成。 * [[1953年]] - ソ連の[[ゲオルギー・マレンコフ]]首相がソ連の[[水素爆弾|水爆]]保有を公表<ref>{{Cite web |url=https://ahf.nuclearmuseum.org/ahf/history/soviet-hydrogen-bomb-program/ |title=Soviet Hydrogen Bomb Program |access-date=6 Mar 2023 |publisher=The Atomic Heritage Foundation |date=8 August 2014}}</ref>。 * 1953年 - [[ラズエズノイ号事件]]。ソ連の漁業巡回船ラズエズノイ号が日本の[[領海侵犯|領海を侵犯]]。 *1953年 - 米韓外相が[[青瓦台]]で[[米韓相互防衛条約]]に仮調印<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=今日の歴史(8月8日) |url=https://jp.yna.co.kr/view/AJP20210803002600882 |website=[[聯合ニュース]] |accessdate=5 Mar 2023 |date=2021-08-08}}</ref>。 * [[1955年]] - [[長崎市]]の[[平和公園]]で[[平和祈念像]]の除幕式。 * [[1961年]] - [[松川事件]]の差し戻し審で[[仙台高等裁判所|仙台高裁]]が被告人全員無罪の判決。[[9月12日]]に最高裁が再上告を棄却し、無罪が確定。 * [[1963年]] - [[イギリス]]で大列車強盗事件 ([[:en:Great Train Robbery (1963)|Great Train Robbery]]) 発生。260万[[ポンド (通貨)|ポンド]]が強奪される。 * [[1966年]] - [[中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議]]で「[[プロレタリアート|プロレタリア]][[文化大革命]]についての決定」(通称 16か条)が採択。 * [[1967年]] - [[バンコク]]で[[東南アジア諸国連合]](ASEAN)が結成される。 * 1967年 - [[米軍燃料輸送列車事故]] * [[1968年]] - [[和田寿郎]]の執刀によって日本初の[[心臓]][[移植 (医療)|移植]][[手術]]が行なわれる。([[和田心臓移植事件]]) * [[1973年]] - [[金大中事件]]。後に韓国大統領となる[[金大中]]が東京都内のホテルから拉致され、[[8月13日]]にソウルにある自宅で発見される。 * [[1974年]] - [[ウォーターゲート事件]]: [[リチャード・ニクソン|ニクソン]]米大統領がテレビ演説を行い、翌9日正午での辞任と[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]副大統領の大統領昇格を公表。 * [[1990年]] - [[湾岸戦争]]: [[イラク]]が[[クウェート]]の併合を宣言。 * [[1991年]] - 当時史上最も高い建造物であった[[ワルシャワラジオ塔]]が倒壊。 * 1991年 - [[国連]][[安全保障理事会]]が[[韓国]]と[[北朝鮮]]の同時加盟を総会に勧告する決議を採択<ref name=":1" />。 * [[1998年]] - [[蝶野正洋]]が[[IWGPヘビー級王座]]になる。 * [[2005年]] - [[郵政民営化法|郵政民営化関連法案]]が[[参議院]]で否決され、[[第2次小泉改造内閣|第2次小泉内閣]]は[[衆議院]]を[[衆議院解散|解散]]。([[郵政解散]]) * [[2008年]] - 第29回[[夏季オリンピック]]、[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]が開幕。[[8月24日]]まで17日間開催<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joc.or.jp/games/olympic/beijing/ |title=北京オリンピック2008 |access-date=5 Mar 2023 |publisher=公益財団法人日本オリンピック委員会}}</ref>。 * [[2014年]] - [[2014年の西アフリカエボラ出血熱流行|西アフリカのエボラ出血熱流行]]について[[世界保健機関|WHO]]が「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」であると宣言<ref>{{Cite web|和書|title=2014年08月08日更新 西アフリカにおける2014エボラ発生に関する国際保健規則緊急委員会会合についてのWHO声明(概要) |url=https://www.forth.go.jp/topics/2014/08082224.html |access-date=2023-03-05 |publisher=[[厚生労働省]]}}</ref>。 * [[2016年]] - [[明仁|天皇明仁]]が、ビデオメッセージの形で[[象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば|お気持ち]]を発表<ref>{{Cite web|和書|date=2016-08-09 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08HEU_Y6A800C1MM8000/ |title=天皇陛下、生前退位を示唆 「象徴の務め難しくなる」 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=5 Mar 2023}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=8 Aug 2016 |url=https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 |title=象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(ビデオ) |publisher=[[宮内庁]] |accessdate=5 Mar 2023}}</ref>。 == 誕生日 == {{右|[[Image:1D line.svg|260px]]}} {{multiple image | image1 = Tokugawa ietsugu.jpg | width1 = 100 | caption1 = 江戸幕府第7代将軍、[[徳川家継]](1709-1716) | image2 = Georg_von_Sachsen_1895.jpg | width2 = 100 | caption2 = ザクセン王[[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]](1838-1904) }} [[Image:Cecile_chaminade.jpg|thumb|100px|作曲家[[セシル・シャミナード]](1857-1944)誕生。{{audio|Chaminade - Concertino.ogg|『コンチェルティーノ』作品107を聴く}}]] {{multiple image | image1 = Emiliano_Zapata5.jpg | width1 = 100 | caption1 = [[メキシコ革命]]の指導者の1人、[[エミリアーノ・サパタ]](1879-1919)。{{Squote|私は信条の[[奴隷]]として死にたい。人間の奴隷としてではなく。}} | image2 = Bundesarchiv_Bild_183-R93434%2C_Albert_Kesselring.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[ナチス・ドイツ]]の空軍元帥、[[アルベルト・ケッセルリンク]](1881-1960) }} [[Image:Nigelcropped.jpg|thumb|right|200px|F1ドライバー、[[ナイジェル・マンセル]](1953-)]] [[ファイル:Shawn Mendes VMA 2015.jpg|代替文=|サムネイル|237x237ピクセル|[[シンガーソングライター]]、[[ショーン・メンデス]](1998-)]] * [[1079年]]([[承暦]]3年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[堀河天皇]]、第73代[[天皇]](+ [[1107年]]) * [[1694年]] - [[フランシス・ハッチソン]]、哲学者 (+ [[1746年]]) * [[1709年]]([[宝永]]6年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[徳川家継]]、[[江戸幕府]]第7代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1716年]]) * [[1741年]]([[寛保]]元年[[6月27日 (旧暦)|6月27日]]) - [[宗義暢]]、第10代[[対馬国]][[対馬府中藩|府中藩主]](+ [[1778年]]) * [[1764年]]([[明和]]元年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[上杉治広]]、第10代[[出羽国]][[米沢藩|米沢藩主]](+ [[1822年]]) * [[1798年]]([[寛政]]10年[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]) - [[松平光庸]]、第8代[[信濃国]][[松本藩|松本藩主]](+ [[1878年]]) * [[1838年]] - [[ゲオルク (ザクセン王)|ゲオルク]]、[[ザクセン王国]]第6代国王(+ [[1904年]]) * [[1839年]] - [[オットー・フィンシュ]]、[[民俗学者]]・[[博物学者]]、[[探検家]](+ [[1917年]]) * [[1857年]] - [[セシル・シャミナード]]、[[作曲家]]、[[ピアニスト]](+ [[1944年]]) * 1857年 - [[ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン]]、[[古生物学者]]、[[地質学者]](+ [[1935年]]) * [[1861年]] - [[ウィリアム・ベイトソン]]、[[遺伝学者]](+ [[1926年]]) * [[1864年]] - [[トード・ラムゼイ]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1906年]]) * [[1879年]] - [[寺内寿一]]、[[陸軍軍人]](+ [[1946年]]) * 1879年 - [[エミリアーノ・サパタ]]、[[メキシコ革命]]指導者(+ [[1919年]]) * [[1881年]] - [[エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)|エヴァルト・フォン・クライスト]]、軍人(+ [[1954年]]) * [[1883年]] - [[土肥原賢二]]、陸軍軍人(+ [[1948年]]) * [[1884年]] - [[サラ・ティーズデール]]、[[詩人]](+ [[1933年]]) * [[1890年]] - [[務台理作]]、[[哲学者]](+ [[1974年]]) * [[1891年]] - [[アドルフ・ブッシュ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1951年]]) * [[1892年]] - [[三遊亭小圓朝#3代目|三遊亭小圓朝 (3代目)]]、[[落語家]](+ [[1973年]]) * [[1897年]] - [[ニコラス・ポッペ]]、[[言語学者]](+ [[1991年]]) * [[1899年]] - [[ヴィクター・ヤング]]、[[作曲家]]、[[バイオリニスト]](+ [[1956年]]) * [[1901年]] - [[アーネスト・ローレンス]]、[[物理学者]](+ [[1958年]]) * [[1902年]] - [[ポール・ディラック]]、物理学者(+ [[1984年]]) * [[1905年]] - [[アンドレ・ジョリヴェ]]、作曲家(+ [[1974年]]) * [[1905年]] - [[池田不二男]]、作曲家(+ [[1943年]]) * [[1907年]] - [[長谷川周重]]、[[経営者]](+ [[1998年]]) * 1907年 - [[ベニー・カーター]]、[[ジャズ]][[サクソフォーン]]奏者(+ [[2003年]]) * [[1908年]] - [[植草甚一]]、[[映画]]・[[音楽評論家]]、[[エッセイスト]](+ [[1979年]]) * 1908年 - [[エミリオ・フロレス・マルケス]]、男性[[長寿]]世界一(+ [[2021年]]) * [[1910年]] - [[シルヴィア・シドニー]]、[[俳優|女優]](+ [[1999年]]) * [[1915年]] - [[天藤真]]、[[推理作家]](+ [[1983年]]) * 1915年 - [[堀内平八郎]]、[[浜松ホトニクス]]創業者(+ [[1997年]]) * [[1918年]] - [[吉野文六]]、[[外交官]](+ [[2015年]]) * [[1919年]] - [[ディノ・デ・ラウレンティス]]、[[映画プロデューサー]](+ [[2010年]]) * [[1926年]] - [[古田武彦]]、[[思想史]]学者、古代史研究家(+ [[2015年]]) * 1926年 - [[畑中時雄]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1995年]]) * [[1927年]] - [[岩井半四郎 (10代目)]]、[[歌舞伎役者]](+ [[2011年]]) * [[1929年]] - [[ヨゼフ・スーク (ヴァイオリニスト)|ヨゼフ・スーク]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[2011年]]) * [[1930年]] - [[ジョーン・モンデール]]、[[セカンドレディ|アメリカ合衆国のセカンドレディ]](+ [[2014年]]) * [[1931年]] - [[ロジャー・ペンローズ]]、[[数理物理学|数理物理学者]] * [[1933年]] - [[近藤洋介 (俳優)|近藤洋介]]、[[俳優]] * 1933年 - [[ロミ・山田]]、女優、[[歌手]] * [[1934年]] - [[中島貞夫]]、[[映画監督]](+ [[2023年]]) * 1934年 - [[長坂衛]]、元プロ野球選手 * [[1936年]] - [[フランク・ハワード]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]]) * [[1937年]] - [[ダスティン・ホフマン]]、俳優 * 1937年 - [[藤本勝巳]]、元プロ野球選手 * [[1938年]] - [[もず唱平]]、[[作詞家]] * [[1941年]] - [[和田洋子]]、政治家 * [[1942年]] - [[平井誠一 (野球)|平井誠一]]、元プロ野球選手 * [[1943年]] - [[細川律夫]]、政治家 * [[1944年]] - [[麦人]]、[[声優]] * [[1947年]] - [[ホセ・クルーズ]]、元プロ野球選手 * [[1948年]] - [[前田美波里]]、女優 * 1948年 - [[八月真澄]]、歌手 * 1948年 - [[吉野正芳]]、政治家 * 1948年 - [[山本幸三]]、政治家 * 1948年 - [[松永章]]、[[サッカー選手]]、指導者 * [[1949年]] - [[キース・キャラダイン]]、俳優 * 1949年 - [[ベーラ・マジャーリ]]、[[ハンガリー空軍]]大佐 * 1949年 - [[楠本秀雄]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[押井守]]、[[映画監督]] * 1951年 - [[マーティン・ブレスト]]、映画監督 * 1951年 - [[ルイ・ファン・ハール]]、元サッカー選手、指導者 * [[1952年]] - [[池畑慎之介]]、歌手、俳優、舞踊家 * 1952年 - [[織田無道]]、[[僧|僧侶]](+ [[2020年]]) * 1952年 - [[ヨースタイン・ゴルデル]]、[[小説家]] * [[1953年]] - [[ナイジェル・マンセル]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 1953年 - [[ロイド・オースティン]]、政治家、[[アメリカ合衆国国防長官]] * 1953年 - [[緑川信之]]、[[図書館情報学]][[研究者]] * [[1954年]] - [[松本匡史]]、元プロ野球選手 * [[1956年]] - [[清原なつの]]、[[漫画家]] * 1956年 - [[須田清見]]、元プロ野球選手 * [[1958年]] - [[日笠淳]]、プロデューサー * 1958年 - [[西村昭宏]]、元[[サッカー選手]]、指導者 * [[1959年]] - [[高橋洋 (映画監督)|高橋洋]]、映画監督、[[脚本家]] * [[1960年]] - [[新井素子]]、[[SF作家]] * [[1961年]] - [[ジ・エッジ]]、ギタリスト * 1961年 - [[久保田雅人]]、声優 * 1961年 - [[DJ KOO]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[TRF]]) * [[1962年]] - [[真地勇志]]、声優 * 1962年 - [[大津一洋]]、元プロ野球選手 * [[1963年]] - [[影山正彦]]、レーシングドライバー * 1963年 - [[篠原恵美]]、声優 * 1963年 - [[田中要次]]、俳優 * 1963年 - [[露木康浩]]、警察官僚 * 1963年 - [[深見梨加]]、声優 * [[1964年]] - [[久保田雅晴]]、国土交通技官 * 1964年 - [[ジュゼッペ・コンテ]]、政治家、第58代[[イタリアの首相|イタリア首相]] * [[1967年]] - [[天海祐希]]、女優 * 1967年 - [[シェーン・ガラース]]、[[ドラマー]]、ミュージシャン * 1967年 - [[東野幸治]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]] * 1967年 - [[マット・ホワイトサイド]]、元プロ野球選手 * [[1969年]] - [[フェイ・ウォン]]、歌手、女優 * [[1970年]] - [[種子田健]]、ミュージシャン * 1970年 - [[堀江賢治]]、元プロ野球選手、監督 * 1970年 - [[里美和]]、元プロレスラー、[[キリスト教]][[伝道師]] * [[1971年]] - [[河合美果]]、元[[ヌードモデル]] * 1971年 - [[林明美]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイナー]] * [[1972年]] - [[織田淳哉]]、元プロ野球選手 * 1972年 - [[アナスタシア・チェボタリョーワ]]、[[ヴァイオリニスト]] * [[1973年]] - [[:en:Mark_Wills|マーク・ウィルズ]]、[[カントリー・ミュージック|カントリー歌手]] * [[1974年]] - [[多田健二]]、お笑いタレント([[COWCOW]]) * [[1975年]] - [[田中誠 (サッカー選手)|田中誠]]、元[[サッカー選手]] * 1975年 - [[加山徹]]、俳優 * 1975年 - [[上林美穂]]、元レスリング選手 * [[1976年]] - [[安藤玉恵]]、女優 * 1976年 - [[JC・シャゼイ]]、ミュージシャン * [[1977年]] - [[猫ひろし]]、タレント * 1977年 - [[松井千夏]]、スカッシュ選手 * 1977年 - [[小澤栄里]]、元タレント * 1977年 - [[新垣寿子]]、元歌手(元[[SUPER MONKEY'S]]) * [[1978年]] - [[和泉聡志]]、ギタリスト * 1978年 - ハヤシ、ミュージシャン([[POLYSICS]]) * 1978年 - [[白石美帆]]、タレント * 1978年 - [[桑谷夏子]]、声優 * 1978年 - [[コカドケンタロウ]]、お笑いタレント([[ロッチ]]) * 1978年 - [[アレクシス・ゴメス]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[ルイ・サハ]]、サッカー選手 * [[1979年]] - [[吉村圭司]]、元サッカー選手 * 1979年 - [[リチャード・ライアン]]、[[レーシングドライバー]] * [[1980年]] - [[ディエゴマー・マークウェル]]、野球選手 * 1980年 - [[田尾耕太郎]]、[[歯科医師]] * 1980年 - [[クレイグ・ブレスロウ]]、プロ野球選手 * [[1981年]] - [[阿部裕太]]、[[バレーボール選手]] * 1981年 - [[飯田圭織]]、[[歌手]] * 1981年 - [[ロジャー・フェデラー]]、[[テニス]]選手 * [[1982年]] - [[三木均]]、元プロ野球選手 * 1982年 - [[ロス・オーレンドルフ]]、プロ野球選手 * [[1983年]] - [[金原ひとみ]]、[[小説家]] * 1983年 - [[安藤誠之]]、歌手 * [[1984年]] - [[橋本マナミ]]、タレント、[[グラビアアイドル]] * 1984年 - [[長峰昌司]]、元プロ野球選手 * 1984年 - ユ・ホリン、女優 * [[1986年]] - FUJI、ドラマー([[WANIMA]]) * [[1987年]] - [[ケイティ・リューング]]、女優 * 1987年 - [[稲葉将太]]、歯科医師 * [[1988年]] - [[藤原あこ]]、グラビアアイドル * 1988年 - [[リンク・シン]]、元プロ野球選手 * 1988年 - イ・ウンソン、女優 * [[1989年]] - [[伊藤俊介 (お笑い芸人)|伊藤俊介]]、お笑いタレント([[オズワルド (お笑いコンビ)|オズワルド]]) * [[1990年]] - [[渡辺大知]]、俳優、ミュージシャン([[黒猫チェルシー]]) * 1990年 - [[赤木野々花]]、アナウンサー * 1990年 - [[内田清輝]]、映画監督 * 1990年 - [[佐藤亜耶]]、タレント * 1990年 - [[森永ひよこ]]、元[[AV女優]] * 1990年 - [[久保尚暉]]、俳優 * 1990年 - [[アベル・エルナンデス]]、サッカー選手 * 1990年 - [[桜子 (タレント)|桜子]]、アイドル(元[[Predia]]) * [[1991年]] - [[バレッタ裕]]、声優 * 1991年 - [[行平あい佳]]、女優 * [[1992年]] - [[逢田梨香子]]、声優 * 1992年 - [[土田快樹]]、サッカー選手 * 1992年 - [[福田周平 (野球)|福田周平]]、プロ野球選手 * [[1993年]] - [[藤岡裕大]]、プロ野球選手 * 1993年 - [[川越ゆい]]、AV女優 * [[1994年]] - [[河邑ミク]]、お笑いタレント * 1994年 - [[田中和基]]、プロ野球選手 * 1994年 - [[夏未エレナ]]、元女優、元[[ファッションモデル]] * [[1995年]] - [[森友哉]]、プロ野球選手 * 1995年 - S.COUPS、アイドル([[SEVENTEEN (音楽グループ)|SEVENTEEN]]) * [[1996年]] - 磯原杏華、アイドル(元[[SKE48]]) * 1996年 - [[松岡菜摘]]、アイドル([[HKT48]]) * 1996年 - [[遼花]]、女優、タレント、歌手 * 1996年 - [[髙濱祐仁]]、プロ野球選手 * 1996年 - [[石垣幸大]]、元プロ野球選手 * [[1997年]] - [[中村晨]]、元プロ野球選手 * 1997年 - [[小川航基]]、サッカー選手 * 1997年 - ヨンフン、アイドル([[THE BOYZ|THE BOYS]]) * [[1998年]] - [[ショーン・メンデス]]、歌手 * [[1999年]] - [[シャオジュン]]、アイドル([[NCT (音楽グループ)|NCT]]) * [[2000年]] - [[岡田彩夢]]、アイドル([[虹のコンキスタドール]]) * [[2001年]] - [[賀喜遥香]]、アイドル([[乃木坂46]]) * 2001年 - [[北川悠理]]、アイドル(元乃木坂46) * 2001年 - [[長谷川新奈]]、元アイドル(元[[AKB48]]) * [[2002年]] - [[田畑百葉]]、カーリング選手 * 2002年 - イ・カンソン、アイドル、モデル([[GHOST9]]) * [[2003年]] - カン・スンチャン、アイドル(Newkidd) * 2003年 - [[長島暉実]]、俳優 * [[2005年]] - [[さくら (モデル)|さくら]]、モデル、[[YouTuber]] * [[2006年]] - [[関谷瑠紀]]、ファッションモデル * 生年不明 - [[桜木アミサ]]、声優 * 生年不明 - [[吉川寛司]]、声優 {{-}} == 忌日 == {{multiple image | image1 = Jacburc2.gif | width1 = 100 | caption1 = 歴史家[[ヤーコプ・ブルクハルト]](1818-1897)没 | image2 = Carl Peter Thunberg.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[植物学者]][[カール・ツンベルク|カール・ペーテル・ツンベルク]](1743-1828)没 }} {{multiple image | footer = [[外光派]]の画家、「空の王者」[[ウジェーヌ・ブーダン]](1824-1898)没。右画像は『トルヴィル』(1864) | image1 = Boudin.jpeg | width1 = 80 | alt1 = ウジェーヌ・ブーダン | image2 = Boudin_Trouville1864.jpg | width2 = 160 | alt2 = 『トルヴィル』 }} {{multiple image | image1 = 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[[1696年]]) * [[1801年]]([[享和]]元年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[細井平洲]]、[[儒学者]](* [[1728年]]) * [[1827年]] - [[ジョージ・カニング]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1770年]]) * [[1828年]] - [[カール・ツンベルク]]、[[植物学|植物学者]](* [[1743年]]) * [[1845年]]([[弘化]]2年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[徳川斉荘]]、第4代[[田安徳川家|田安家]]当主・第12代[[尾張藩|尾張藩主]](* [[1810年]]) * [[1867年]] - [[マリーア・テレーザ・ダズブルゴ=テシェン|マリーア・テレーザ]]、[[両シチリア王国|両シチリア王]][[フェルディナンド2世 (両シチリア王)|フェルディナンド2世]]の妃(* [[1816年]]) * [[1873年]] - [[アントワーヌ・シャントルイユ]]、[[画家]](* [[1814年]]) * [[1879年]] - [[イマヌエル・ヘルマン・フィヒテ]]、[[神学者]]、[[思想家]](* [[1797年]]) * [[1886年]] - [[玉乃世履]]、初代・第3代[[大審院|大審院長]](* [[1825年]]) * [[1897年]] - [[ヤーコプ・ブルクハルト]]、[[歴史家]](* [[1818年]]) * [[1898年]] - [[ウジェーヌ・ブーダン]]、[[画家]](* [[1824年]]) * [[1916年]] - [[山葉寅楠]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamaha.com/ja/about/history/ |title=ブランドと歴史 |access-date=5 Mar 2023 |publisher=YAMAHA}}</ref>、[[ヤマハ]]創業者(* [[1851年]]) * [[1932年]] - [[スティーブ・ベリャン]]、元プロ野球選手(* [[1849年]]) * [[1933年]] - [[伊藤直純]]、[[政治家]](* [[1860年]]) * [[1934年]] - [[ウィルバート・ロビンソン]]、元プロ野球選手(* [[1863年]]) * [[1944年]] - [[エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]の[[元帥]](* [[1881年]]) * 1944年 - [[エーリヒ・ヘプナー]]、ドイツ陸軍の[[上級大将]](* [[1888年]]) * 1944年 - [[ミハエル・ヴィットマン]]、[[ナチス・ドイツ]][[親衛隊大尉]](* [[1914年]]) * [[1950年]] - [[ニコライ・ミャスコフスキー]]、作曲家(* [[1881年]]) * [[1961年]] - [[梅蘭芳]]、[[京劇]]俳優(* [[1894年]]) * [[1962年]] - [[柳田國男]]、民俗学者(* [[1875年]]) * [[1968年]] - [[フリッツ・シュティードリー]]、[[指揮者]](* [[1883年]]) * [[1970年]] - [[長井真琴]]、仏教学者(* [[1881年]]) * [[1974年]] - [[バルドゥール・フォン・シーラッハ]]、[[ヒトラー・ユーゲント]]の指導者(* [[1907年]]) * 1974年 - [[いわさきちひろ]]、[[画家]](* [[1918年]]) * [[1975年]] - [[キャノンボール・アダレイ]]、[[音楽家]](* [[1928年]]) * [[1982年]] - [[ジョン・ローレンス・サリヴァン]]、国防総省発足後初の[[アメリカ合衆国海軍長官]](* [[1899年]]) * [[1984年]] - [[かがみあきら|かがみ♪あきら]]、[[漫画家]](* [[1958年]]) * [[1985年]] - [[ルイーズ・ブルックス]]、[[俳優|女優]](* [[1906年]]) * [[1986年]] - [[野本喜一郎]]<ref>{{Cite book|和書|chapter=野本喜一郎氏死去|title=[[埼玉新聞]]|volume=1986年8月10日 1面}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1922年]]) * [[1989年]] - [[エンリコ・ロレンツェッティ]]、[[オートバイ]]レーサー(* [[1911年]]) * [[1993年]] - [[渡部雄吉]]、[[写真家]](* [[1924年]]) * [[1994年]] - [[鳳啓助]]、俳優、漫才師(* [[1923年]]) * [[1995年]] - [[田辺哲夫]]、[[政治家]](* [[1929年]]) * [[1996年]] - [[ネヴィル・モット]]、[[物理学者]](* [[1905年]]) * 1996年 - [[星野道夫]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/event/hoshino20/ |title=没後20年 特別展 星野道夫の旅 |access-date=5 Mar 2023 |publisher=[[朝日新聞]]}}</ref>、写真家(* [[1952年]]) * [[1998年]] - [[村山聖]]、[[棋士 (将棋)|将棋棋士]](* [[1969年]]) * [[2000年]] - [[大友昇]]、将棋棋士(* [[1931年]]) * [[2001年]] - [[小葉田淳]]、[[歴史学者]](* [[1905年]]) * [[2006年]] - [[団優太]]、[[俳優]](* [[1967年]]) * [[2007年]] - [[奈良陽]]、[[アナウンサー]](* [[1942年]]) * [[2008年]] - [[田中殖一]]、[[徳島製粉]]創業者(* [[1907年]]) * [[2009年]] - [[ダニエル・ハルケ]]、[[サッカー選手]](* [[1983年]]) * [[2011年]] - [[河野昭修]]、元プロ野球選手(* [[1930年]]) * [[2017年]] - [[瀬能礼子]]、[[声優]](* [[1933年]]) * 2017年 - [[グレン・キャンベル]]、[[音楽家|ミュージシャン]](* [[1936年]]) * [[2018年]] - [[翁長雄志]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180808-NZE4QSHIO5IV7B3QLXATGUYQTY/ |title=翁長雄志・沖縄知事が死去 辺野古移設反対の象徴 知事選9月に前倒し(1/2ページ) |publisher=[[産経新聞]] |date=2018-08-08 |accessdate=5 Mar 2023}}</ref>、政治家(* [[1950年]]) == 記念日・年中行事 == [[Image:Pedicularis verticillata 01.jpg|thumb|240px|[[立秋]](8日頃)。画像は[[タカネシオガマ]]]] [[File:Emblem of Nagoya, Aichi.svg|thumb|名古屋市章。○八となっている。]] [[日本記念日協会]]によると、同協会が認定した8月8日の記念日は69件あり、一年の中で最も多い日となっている(2023年11月現在)。2位が[[10月10日]]、3位が[[11月11日]]<ref>[https://www.kinenbi.gr.jp/mypage/5255 一般社団法人 日本記念日協会]</ref>。 * [[立秋]]({{JPN}})※年により異なり[[8月7日]]になることもある *: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が135度の時で、夏至と秋分の中間にあたる。暦の上ではこの日から秋になるが、実際には残暑が厳しく一年で最も暑い時期。この日を境に、暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すようになる。 *[[鍵盤 (曖昧さ回避)|鍵盤]]の日({{JPN}}) *: ピアノの鍵盤の数が88鍵であることから。制定したのはピアノとボーカルのユニット「[[ナチュラル ハイ]]」。 * 地球歌の日({{JPN}}) *: 国境や人種を越えて人々が歌い合う日。日付は広島が被爆した8月6日と長崎が被爆した8月9日の間で平和への願いを込める意味と、丸を重ねた形の数字の8が二つ続く日から丸い地球をイメージ。平和を願い歌い続けている歌手の呼びかけにより生まれた。 * 農民の日({{TZA}}) *: [[スワヒリ語]]で8を[[:sv:wikt:nane|nane]]、農民をnane naneということから。 * [[笑い]]の日({{JPN}}) *: 笑い声「ハ(8)ハ(8)ハ」の語呂合せ。「笑いの日を作る会」が1994年に制定。 * [[スマイル]]記念日({{JPN}}) *:漢字の「八」が末広がりで笑顔が世界中に広がるようにと、88が笑い声の「ハハッ」と読めることから。[[2008年]]制定。 * [[親孝行]]の日({{JPN}}) *: 「ハハ」「パパ」の語呂合わせから。 親孝行全国推進運動本部が[[1989年]]に制定。 * パパの日({{JPN}}) *: 8と8で「パパ」と読む語呂合わせ。この日はパパが家族のために家事や育児、買い物などをする日。2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以降、家族の絆の大切さを感じる人が増え、家事の分担、子育てに積極的なイクメン、料理をする主夫などが多くなったことから、企業の広告などを手がけるシーレックス株式会社のコミュニケーションサービスカンパニー(CSC)が制定。 * [[父の日]]({{TWN}}) *: 中国語で[[父]]を意味する「[[:zh:wikt:爸爸|爸爸]]」が「八八」と同じ発音であることから。 * おばあさんの日({{JPN}}) *: 8と8でおばあさんの愛称である「ばあ(8)ば(8)」の語呂合せから。おばあさんに感謝する日。あわせて[[2月2日]]を「おじいさんの日」としている。伊藤忠食品株式会社が制定。高齢化が進むなか「敬老の日」だけでなく「母の日」のようにアピールをしていく。 * [[子ども会]]の日({{JPN}}) *: 3月3日の「ひな祭り」と5月5日の「端午の節句」を足した日が、8月8日となることから、全国子ども会連合会が制定。同会の主催する行事のほか、毎年、各地で催し物が行なわれている。 * 歯並びの日({{JPN}}) *:正しい矯正歯科治療の普及を目的としている。8と8で歯(8)並びの語呂合わせと、笑いの声の「ハッハッハッ」のイメージが健康をテーマとした矯正歯科にふさわしいことから。日本臨床矯正歯科医会が制定。 * イキイキワークワークの日({{JPN}}) *: 8と8でイキイキワクワクのワクワクをワークワーク(work=仕事)と読む語呂合わせから。「イキイキワクワク」をコンセプトにしている株式会社キャレオは、働く人がより良い環境で働けるようにとこの日を働く人を応援する日とした。総合人材サービス業を展開する株式会社キャレオが制定。 * [[LOVOT]]の日({{JPN}}) *: 「LOVOT[らぼっと]」の開発を手がける GROOVE X 株式会社が制定。「命はないのに、あったかい。それは、あなたに愛されるために生まれてきた。」をコンセプトとするLOVOTを、より多くの人に知ってもらうのが目的。日付はLOVOTの形が球体を2つ重ねたイメージで、シルエットが数字の8に似ていることと、2体で協調して動くという特徴があることから8月8日に。 * 山の日({{JPN}}) *: 漢字の「八」が山の形に似ていることから[[岐阜県]]、[[山梨県]]などで制定。山に親しむイベントなどを開いている。 * [[気泡緩衝材|プチプチ]]の日({{JPN}}) *: 商品などのクッション材として使われる「プチプチ」のPRと、その用途の広がりを図ることを目的としている。数字の8が「プチプチ」の粒々の配列を連想させることと、8をパチと読むとプチと似ていることから。気泡シート「プチプチ」の専門メーカーの[[川上産業]]株式会社が制定。 * パパウォッシュの日 *: 8と8でパパウォッシュの「パパ」の語呂合わせから。パパウォッシュはパパイヤからとった天然植物酵素に乾燥卵白を配合した洗顔料。会社設立のきっかけとなったパパウォッシュ洗顔の感動を多くの人に伝えたいとの思いから、化粧品や健康食品を販売する株式会社イー・エス・エスが制定。 * [[パチンコ|ぱちんこ]]の日({{JPN}}) *:身近で手軽な大衆娯楽として発展を続けるぱちんこ遊技のPRを目的としている。8と8を「パチパチ」と読む語呂合わせ。昭和の初期に「ガチャンコ」「パチパチ」と呼ばれていた「ぱちんこ」の名前の由来となった玉を弾く音から。ぱちんこ遊技機などを製造する企業で構成する日本遊技機工業組合が制定。 * DMMぱちタウンの日({{JPN}}) *:株式会社[[DMM.com]]が制定。同社が運営するパチンコ関連アプリ「DMMぱちタウン」を、さらに多くの人に活用してもらうのが目的。日付は「DMMぱちタウン」がリリースされた2013年8月8日にちなむ。 * [[ひげ]]の日({{JPN}}) *:漢字の「八」が髭の形に似ていることと、88が「パパ」と読めることから。日本ワーナーランバード(現[[シック・ジャパン]])が[[1978年]]に制定。 * [[屋根]]の日({{JPN}}) *: 漢字の「八」が屋根の形に似ていることや屋根の屋(ヤ=8)を重ねるのが瓦を重ねることに通じるなどの理由から。社団法人全日本瓦工事業連盟が制定。 * かわらの日({{JPN}}) *: 八・八は瓦が重なった姿に似ているということから。 * ありあけハーバーの日({{JPN}}) *: [[神奈川県]][[横浜市]]に本社を置く「株式会社ありあけ」が制定。同社の主力商品である「ハーバー」は船の形をした洋菓子で60年以上にわたって横浜を代表するお土産菓子になっている。「ハーバー」の記念日を設け、さらに横浜を盛り立てて社会貢献を果たすことが目的。日付は8と8で「ハー(8)バー(8)」と読む語呂合わせから。 * Dr.シーバのエラスチンの日({{JPN}}) *: [[静岡県]][[焼津市]]に本社を置く株式会社Dr.シーバが制定。マグロの海洋性エラスチンなどのたんぱく質を抽出して基礎化粧品を開発、販売しており、エラスチンの魅力と知名度を高めるのが目的。日付はバネ(8)、ハリ(8)の語呂合わせと、同社のロゴマークが8を横にした「∞」であることから。 * [[しろたん]]の日({{JPN}}) *: たてごとあざらしのキャラクター「しろたん」の企画製造販売を手がける[[長野県]][[長野市]]の[http://www.creativeyoko.co.jp/ 株式会社クリエイティブ・ヨーコ]が制定。癒やしの魅力をさらに多くの人に知ってもらうことを目的としている。日付は「しろたん」の誕生日から。 * こうじの日({{JPN}}) *: [[長野県]][[伊那市]]に本社を置く[[ハナマルキ]]株式会社が制定。古くから食べられてきた味噌や醤油などの発酵食品の原料となる「麹(こうじ)」を、より広めるのが目的。日付は「麹」の文字の中に「米」の字があり、「米」の字を分解すると「八十八」になることから。 * 夢ケーキの日({{JPN}}) *: 家族で夢を語り合えば、親が本気で生きる姿を子どもたちに見せることで世の中が明るくなるとの思いから、家族で夢を語るチャンスを提供したいと[[長野県]][[伊那市]]のケーキ店「株式会社菓匠shimizu」の清水慎一が制定。毎年この日に子どもたちや家族の夢を絵にしてもらい、それをケーキにしてプレゼントしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inadanikankou.jp/blog/page/id=1080 |title=伊那谷のお菓子を楽しんで!想いを込めて夢を描く「夢ケーキ」 |access-date=5 Mar 2023 |publisher=一般社団法人長野伊那谷観光局}}</ref>。 * [[まるはちの日]]({{JPN}}) *: 1907年に、尾張徳川家が合印として使っていた「まるはち印(○に八)」を[[名古屋市]]の市章に決定し、その88年後の[[1996年]](平成8年)に記念日を制定した。名古屋市が制定。名古屋市内各地でイベントが行われる。 * ハハとチチに感謝する日({{JPN}}) *: [[大阪府]][[大阪市]]に本社を置く株式会社山星屋が制定。お菓子を通じて夢と安らぎを提供するという同社の理念から、母と父に感謝の気持ちを伝えることで家族の絆を深めてもらいたいとの願いから。日付は8(ハチ)と8(ハチ)の音を組み合わせると母(ハハ)と父(チチ)となることと、8を横に倒すと∞(無限)となり、いつまでも家庭円満で幸せが続くようにとの思いから。 * [[そろばん]]の日({{JPN}}) *: 88がそろばんをはじく「パチパチ」という音に通じることから。[[京都市]]に本部を置く社団法人全国珠算教育連盟が、そろばんの普及とその優れた機能をアピールするために[[1968年]]に制定。毎年全日本珠算選手権大会を開いている。 * [[ブルーベリー]]の日({{JPN}}) *: BlueBerryのBBが88に似ていることと、ブルベリーの収穫時期に当たることから。ブルーベリーなどの果実を素材としたサプリメントの研究及び企画、販売を手がける[[京都市]]に本社を置く株式会社「[[わかさ生活]]」が制定。目の働きを助ける効果のあるブルーベリーを摂取することで健康な生活を送って欲しいとの願いが込められている。 * がま口の日({{JPN}}) *: がま口を閉める音が「パチン」と鳴ることから、[[京都市]]のがま口の専門店「あやの小路」を運営する[[秀和 (がま口)|秀和株式会社]]が制定。 * [[発酵食品]]の日({{JPN}}) *: 発酵の8(ハチ)と、末広がりの八で、発酵食品の無限の可能性を示す意味から。チーズや納豆等の発酵食品の大切さをPRする日。[[広島県]][[尾道市]]に本社を置く万田発酵株式会社が1994年に制定。 * 醤油豆の日({{JPN}}) *: [[香川県]]の郷土料理である醤油豆は、香ばしく煎ったそら豆を醤油や砂糖などでつくったタレに漬け込んで味付けしたもの。その由来が四国八十八カ所巡りのお遍路さんへの接待、あるいは弘法大師によるとのことから、八十八カ所にちなんで8月8日を「醤油豆の日」と制定した。香川県醤油豆協議会が制定。 * たこ焼の日({{JPN}}) *: たこの足が8本であることと、焼を8と読む語呂合わせ。[[香川県]][[三豊市]]に本社を置き、各種の冷凍食品の製造販売を手がけ、全国の量販店、コンビニ、外食産業などに流通させている株式会社[[味のちぬや]]が制定。また、この時期は花火大会など屋外のイベントが多く、たこ焼を気軽に食べてもらいたいとの思いも込められている。 * [[阿波尾鶏]]の日({{JPN}}) *: [[徳島県]][[徳島市]]に事務局を置く徳島県阿波尾鶏ブランド確立対策協議会が制定。徳島の地鶏である「阿波尾鶏」の安全性や美味しさを多くの人に知ってもらうのが目的。日付は徳島の夏の最大のイベント「[[鳴門市阿波おどり|阿波おどり]]」が、8月9日に[[鳴門市]]で行われることから、その前日に「阿波尾鶏」を食べ、「阿波おどり」を精一杯楽しんでもらいたいとの願いから8月8日に。 * 洋食の日({{JPN}}) *: 日付は洋食の代表的な料理ハヤシライスの「ハ(8)ヤ(8)」を語呂合わせとしたもので、ビーフシチュー、ハンバーグなどの洋食文化をアピールする日としている。[[福岡県]][[北九州市]]でホテルを経営する株式会社千草が制定。 * 小浜水産グループ・カンパチの日({{JPN}}) *: [[鹿児島県]][[垂水市]]に本社を置く株式会社小浜水産グループが制定。カンパチという魚とその美味しさを広く全国に知ってもらうのが目的。日付は、カンパチの頭部には漢数字の「八」のように見える模様があることから八が並ぶ8月8日に。 * 蝶々の日({{JPN}}) *: [[沖縄県]][[本部町]]の観光施設、琉宮城蝶々園が制定。蝶々の美しさなどの魅力を伝えるのが目的。日付は8の字を横にすると蝶々の姿に似ていることと、蝶々の食べ物が葉っぱという語呂合わせから。 * [[ベーグル]]の日({{JPN}}) *:16世紀のポーランドではベーグルを安産のお守りとして作られ「終わることのない人生の輪」を意味していたという説があり、数字の無限大を示す∞の形と似ている8を重ねた8月8日を記念日とした。 「おいしい本物のベーグル」を全国の20店舗以上で販売している株式会社ジュノエスクベーグルが制定。 * マルちゃん焼そばの日({{JPN}}) *: 焼そばを食べる機会が増える夏であり、8は○(マル)を重ねた形に似ていることからマルちゃんをイメージ。焼そばの「ヤ」が8に通じることから。マルちゃんブランドで知られる総合食品メーカーの[[東洋水産]]が制定。 * [[パパイヤ]]の日(ハワイ) *: 「パ(8)パ(8)イヤ」の語呂合わせ。アメリカ・ハワイ州のパパイヤ管理委員会日本事務所が[[1978年]]に制定。 * ドール・フィリピン産パパイヤの日({{JPN}}) *: 「パ(8)パ(8)イヤ」の語呂合わせ。フィリピン産のパパイヤにもっと親しんでもらおうと、このパパイヤを扱っている株式会社[[ドール・フード・カンパニー|ドール]]が制定。 * 葉っぱの日({{JPN}}) *: 「は(8)っぱ(8)」の語呂合せ、青汁の主原料であるケール、大麦若葉から。野菜不足を手軽に補うことのできる青汁を毎日飲んで、健康で快適な生活を送ってもらおうと、青汁の商品を扱うヤクルトヘルスフーズ株式会社が制定。 * [[チャーハン]]の日({{JPN}}) *: 株式会社[[ニチレイフーズ]]が制定。チャーハンは夏場に需要が高まることから、中華料理業界全体でチャーハンを盛り上げていくことが目的。日付はおいしいチャーハンの特徴である「パラ(8)パラ(8)」の語呂合わせと、お米のパワーが詰まった熱いチャーハンで元気に夏を乗り切ってもらいたいとの願いから。 * [[ひょうたん]]の日({{JPN}}) *: 数字の「8」がひょうたんの形に似ていることから。全日本愛瓢会が制定。 * [[白玉]]の日({{JPN}}) *:八が重なると米という字になることから、米を使った白玉を通じて穀類を見直してもらおうと制定された。 全国穀類工業協同組合が制定。 *[[球磨焼酎]]の日({{JPN}}) *: 球磨焼酎は、米を原料とした焼酎であり、[[米]]の字を崩すと、「八」、「十」、「八」になることから、2013年に人吉球磨の焼酎組合によって制定された。 * [[パインアメ]]の日<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202309120000955.html|title=阪神岡田彰布監督の好物「パインアメ」もアレを心待ち「カラーも一緒なので一緒に盛り上げたい」|publisher=日刊スポーツ|date=2023-09-12|accessdate=2023-09-12}}</ref> *: パインアメの製造発売元の[[パイン (企業)|パイン]]株式会社が制定。「パインアメ」の美味しさをさらに多くの人に知ってもらうことが目的。日付はパイナップルが夏の果物であることと「パインアメ」の形は缶詰に入っている輪切りのパイナップルをモチーフにしてることから、輪(◎)の形が4つそろう8月8日とした。因みに、パインアメ第一号には穴がなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pine.co.jp/secret/|title=パインアメの秘密|accessdate=2021-2-11|website=パイン株式会社}}</ref>。 * チョコラBBの日({{JPN}}) *: [[エーザイ]]株式会社が制定。人々のキレイと元気を60年以上に渡って応援し続けてきた「チョコラBB」が、記念日を通してさらなるエールを送ることが目的。日付は「チョコラBB」のBが数字の8に似ていることから8が重なるこの日に。 * 4Cの日({{JPN}}) *: 「ラザール ダイヤモンド」の販売代理店でブライダルジュエリー専門店を運営するプリモ・ジャパン株式会社が制定。ダイヤモンドの世界的評価基準である「4C」(ヨンシー=「カラット」「カラー」「クラリティ」「カット」の頭文字から)を広く普及させるのが目的。日付は8月8日の8と8はCを4つ重ねたように見え「4C」となることから。 * ペアリングの日({{JPN}}) *: ジュエリー・アクセサリーのショップを全国展開する株式会社ザ・キッスが制定。「ふたりの宝物」のペアリングの普及が目的。日付は数字の8が2本のリング(指輪)を重ねたように見えることから8が並ぶ8月8日に。 * [[エプロン]]の日({{JPN}}) *: 株式会社エレグランスが制定。エプロンを使う楽しさ、選ぶ楽しさをさらに多くの人に広めて幸せになってもらうのが目的。日付は8と8で「ハッピーのハ(8)」と「エプロンのエ(8=エイト)」を合わせて。 * 潤う瞳の日({{JPN}}) *: 粧美堂株式会社が制定。多くの女性に潤った美しい瞳になってほしいとの願いから。日付は8と8で「ぱちぱち」のまばたきの音から。 * [[デブ]]の日({{JPN}}) *: 大日本肥満者連盟(大ピ連)が「8」の字のふくよかなイメージと、肥満型こそ水着が似合うことから制定。 * 世界[[猫の日]]({{USA}}) *: 2002年に米国に本部を置く世界的組織である国際動物福祉基金 (International Fund for Animal Welfare) が制定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://sputniknews.jp/20180808/5206584.html |title=世界猫の日 世界一ネコ好きで打倒ナチスに命を賭した国はどこ? |publisher=Sputnik 日本 |date=2020-08-08 |accessdate=5 Mar 2023}}</ref>。 * [[フジテレビの日]]({{JPN}}) *:フジテレビの放送チャンネルが8チャンネルで、この日が8が並ぶ日であることから。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が[[1988年]]に制定。 * [[米米CLUB]]の日({{JPN}}) *: 米の文字が八十八(=88)を組み合わせた漢字にちなんで、[[2008年]]に制定。 * パヤオの日({{JPN}}) *: 1982年8月8日に日本国内で初めての[[浮魚礁]](パヤオ)が[[伊良部島]]近海に設置されてから25年を迎えたこと記念して、2007年に宮古地区パヤオ管理運営委員会が制定<ref>{{Cite news|url=https://ryukyushimpo.jp/photo/prentry-26224.html|title=8月8日は「パヤオの日」 伊良部沖設置から25年|newspaper=[[琉球新報]]|date=2007-08-11|accessdate=2020-08-08|deadlinkdate=2020-08-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170819133920/https://ryukyushimpo.jp/photo/prentry-26224.html|archivedate=2017-08-19}}</ref>。 *[[:zh:全民健身日|全民健身日]]({{PRC}}) *: [[2008年]]に開催された[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]の開幕日にちなみ制定。 *[[ガシャポン]]の日({{JPN}}) *: 株式会社[[バンダイ]]が制定。日付は「8」という数字がガシャポンのカプセルを2つ積み重ねた形に似ていることと、一年で最も「丸=カプセル」が多い日であることから。 *サステナブルファッションの日({{JPN}}) *:株式会社ベクトルが制定。8という数字を横にすると、無限を表す記号∞になるため、サステナブル=持続になぞらえた。また、企業や個人が協力しながら、共に取り組もうという意思を込めて、8が2つ並ぶ8月8日を記念日とした。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0808|date=2011年6月}} * 1947年(昭和22年)- 歌川邸の広間に「宿命の日 八月九日」と貼り紙される。(小説『[[不連続殺人事件]]』第22章) * 1998年 - 夜見山市の咲谷記念館で火災事故と殺人事件が発生し、数名の死傷者を出す。<ref group="注">[[メディアミックス]]における展開によって犠牲者などの詳細がそれぞれ異なる。このため、本項目ではその詳細を割愛している。</ref>(小説・漫画・アニメ・映画『[[Another]]』) * 年不明 - インディアン島に10人の客が招かれる。(小説『[[そして誰もいなくなった]]』) * 年不明 - キキが魔女になって初めて寝坊する。(小説『[[魔女の宅急便]]』 その4) * 年不明 - 和泉正宗が紗霧にプロポーズする。(小説『[[エロマンガ先生]]』 第8巻) * 1986年(昭和61年)- 上杉達也、甲子園の開会式に参加せず鳥取へ。河川敷で浅倉南に愛の告白。(漫画『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』) === 誕生日(フィクション) === * [[1950年]] - 坂本金八、ドラマ『[[3年B組金八先生]]』の主人公<ref>第2シリーズ第18回より</ref> * [[1963年]] - 山崎竜二、ゲーム『[[餓狼伝説]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.garou15th.com/character/yamazaki.php |title=山崎竜二 |access-date=2022-09-14 |publisher=餓狼伝説総合公式サイト}}</ref><ref>{{Twitter status|KOFG_info|1291750954199584768}}</ref> * [[1985年]] - [[鉄道むすめの登場人物#mai|八木沢まい]]、トミーテックのコンテンツ(ゲーム)『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author = みぶなつき/株式会社トミーテック|year = 2010 |title = みぶなつき画集 鉄道むすめ~鉄道制服読本~| page = 30 | publisher = アスキー・メディアワークス |isbn = 978-4-04-868420-0 }}</ref> * [[コズミック・イラ|C.E.]]54年 - [[イザーク・ジュール]]、アニメ『[[機動戦士ガンダムSEED]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author=ガンダムエース編集部|authorlink=ガンダムエース|year = 2004 |title = ガンダムSEED占い|page = 94 |publisher = [[角川書店]] |isbn = 978-4-04-853746-9}}</ref> * 生年不明 - 別府環綺、地域活性化プロジェクト『[[温泉むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://onsen-musume.jp/character/beppu_tamaki |title=別府 環綺|温泉娘公式サイト |work=温泉むすめ/Enbound, Inc. |accessdate=2022-09-14 |publisher=ONSEN MUSUME PROJECT}}</ref> * 生年不明 - 獅堂光、漫画・アニメ『[[魔法騎士レイアース]]』の主人公<ref>{{Twitter status|tmsent_jp|1027029887473709056}}</ref> * 生年不明 - 渡瀬青葉、アニメ『[[バディ・コンプレックス]]』の主人公 * 生年不明 - 藍原柚子、漫画・アニメ『[[citrus]]』の主人公<ref>{{Twitter status|citrus_anime|1159284667775774720}}</ref> * 生年不明 - 比企谷八幡、小説・アニメ『[[やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。]]』の主人公<ref>『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』原作1巻より</ref><ref>[https://twitter.com/anime_oregairu/status/497396889688346624 アニメ公式Twitter:2014年8月8日のつぶやき]</ref> * 生年不明 - 八十亀最中、漫画・アニメ『[[八十亀ちゃんかんさつにっき]]』の主人公 * 生年不明 - [[レッド (ポケットモンスターSPECIAL)|レッド]]、漫画『[[ポケットモンスターSPECIAL]]』の最初の主人公<ref>{{Twitter status|pokesp_special|1424173781367484419}}</ref> * 生年不明 - 陽比野まつり、ゲーム・アニメ『[[ワッチャプリマジ!]]』の主人公<ref>{{Twitter status|prettyseriespr|1553908372251897856}}</ref> * 生年不明 - 津辺愛香、アニメ・小説『[[俺、ツインテールになります。]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/anime/ore_twi/chara/chara02.html |title=キャラクター 津辺愛香/テイルブルー(CV:相坂優歌) |work=水沢夢・[[小学館]]/製作委員会はツインテールになります。 |publisher=[[TBSテレビ]] |accessdate=2022-09-14}}</ref> * 生年不明 - かばやまかんた、ベネッセの教材『[[こどもちゃれんじ]]』、アニメ『[[しまじろうヘソカ]]』『[[しまじろうのわお!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|kodomochallenge|100385785756389376}}(未ログイン時は[[太平洋標準時]]で2011年8月7日19:00と表示されるが[[日本標準時]]に換算すると2011年8月8日11:00である。)</ref> * 生年不明 - 香山ピエール(36才)、[[タカラトミー]]の[[着せ替え人形]]『[[リカちゃん]]』のキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://licca.takaratomy.co.jp/profile/index.html |title=パパ(香山ピエール) |website=リカちゃん プロフィール |accessdate=2022-09-14 |publisher=タカラトミー公式サイト}}</ref> * 生年不明 - [[キャプテン翼の登場人物#南葛中学校|滝一]]、漫画・アニメ『[[キャプテン翼]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-782789-5|page = 57 }}</ref> * 生年不明 - [[キャプテン翼の登場人物#ブラジル|ペペ]]、漫画・アニメ『キャプテン翼』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=高橋陽一|authorlink=高橋陽一|year = 2003|title = キャプテン翼 3109日全記録|publisher = 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新渡米稲吉、漫画・アニメ『テニスの王子様』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=[[テニスの王子様]]|volume=20.5巻|author=許斐剛|authorlink=許斐剛|publisher=[[集英社]]|page=300|year=2003|isbn=4-08-873549-8}}</ref><ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1424024042525315075}}</ref> * 生年不明 - フウ、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|762303621509812224}}</ref> * 生年不明 - ガリ、漫画・アニメ『NARUTO -ナルト-』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1424022547616583685}}</ref> * 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#モモ|モモ・ベリア・デビルーク]]、漫画・アニメ『[[To LOVEる -とらぶる-]]』『[[To LOVEる -とらぶる- ダークネス]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author = 矢吹健太朗、長谷見沙貴|year = 2011 |title = To LOVEる -とらぶる-&To LOVEる -とらぶる- ダークネス公式データブック「ぱ〜ふぇくとらぶる! 」|page = 114 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-874852-8 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 矢吹健太朗、長谷見沙貴|year = 2014 |title = To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|page = 16 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-880260-2 }}</ref> * 生年不明 - [[To LOVEる -とらぶる-の登場人物#ナナ|ナナ・アスタ・デビルーク]]、漫画・アニメ『To LOVEる -とらぶる-』『To LOVEる -とらぶる- ダークネス』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書 |author1=矢吹健太朗|authorlink1=矢吹健太朗|author2=長谷見沙貴|authorlink2=長谷見沙貴|year = 2011 |title = To LOVEる -とらぶる-&To LOVEる -とらぶる- ダークネス公式データブック「ぱ〜ふぇくとらぶる! 」|page = 110 |publisher = [[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]] |isbn = 978-4-08-874852-8 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 矢吹健太朗、長谷見沙貴|year = 2014 |title = To LOVEる-とらぶる-ダークネス 楽園計画ガイドブック「とらぶまにあ」|page = 30 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-880260-2 }}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 矢吹健太朗、長谷見沙貴|year = 2015 |title = To LOVEる -とらぶる- ダークネス総選挙BOOK「とらぶるくいーんず」|page = 40 |publisher = 集英社 |series = ジャンプ・コミックス |isbn = 978-4-08-880576-4 }}</ref> * 生年不明 - 霧隠シュラ、漫画・アニメ『[[青の祓魔師]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|aoex_official|1556294214199021571}}</ref> * 生年不明 - エンデヴァー、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|title=エンデヴァー |url=https://mhaoj2.bn-ent.net/character/endeavor.php |work=『僕のヒーローアカデミア』 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國崎八雲、漫画『[[國崎出雲の事情]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ロナルド、漫画『[[吸血鬼すぐ死ぬ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|akitaolstore|1385116519252647940}}</ref> * 生年不明 - 後光院ランコ、漫画・アニメ『[[突撃!パッパラ隊]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 天瀬早季、漫画・アニメ『[[屍姫]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 条河麻耶、漫画・アニメ『[[ご注文はうさぎですか?]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書 |author=koi|authorlink=koi|title=「ご注文はうさぎですか?」画集 Cafe de Lapin|date=|year=2014|publisher=芳文社|page=22|isbn=978-4-83-224448-1}}</ref> * 生年不明 - 大柴康介、漫画・アニメ『[[ひとりじめマイヒーロー]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|myhero_pr|894573858619043840}}</ref> * 生年不明 - 倉本千夏、漫画『[[ふらいんぐうぃっち]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|flying_tv|727854769922924544}}</ref> * 生年不明 - 早瀬千夏、漫画・アニメ『[[政宗くんのリベンジ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|masamune_tv|1159239798495666176}}</ref> * 生年不明 - 三枝あおば、漫画『[[オリーブ! 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4,422
1288年
1288年(1288 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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1288年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|1288}} {{year-definition|1288}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]]:[[戊子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[弘安]]11年、[[正応]]元年[[4月28日 (旧暦)|4月28日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1948年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]]:[[至元 (元世祖)|至元]]25年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]]:[[忠烈王]]14年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3621年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]]:[[重興 (陳朝)|重興]]4年 * [[仏滅紀元]]:1830年 - 1831年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:686年 - 687年 * [[ユダヤ暦]]:5048年 - 5049年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1288|Type=J|表題=可視}} == できごと == *4月9日 - [[白藤江の戦い (1288年)]] *4月28日 - [[伏見天皇]]が[[正応]]に改元 == 誕生 == {{see also|Category:1288年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月5日]](弘安11年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[後伏見天皇]]、第93代[[天皇]](+ [[1336年]]) * [[11月26日]](正応元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]) - [[後醍醐天皇]]、第96代天皇(+ [[1339年]]) * [[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]](+ [[1342年]]) * [[ゲルソニデス]]、[[フランス]]の[[ユダヤ教徒]]の[[哲学者]]、[[数学者]]、[[天文学者]]、[[聖書学者の一覧|聖書学者]](+ [[1344年]]) * [[ビアンカ・ディ・ボルゴーニャ]]、[[サヴォイア伯]][[エドアルド (サヴォイア伯)|エドアルド]]の妃(+ [[1348年]]) == 死去 == {{see also|Category:1288年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月15日]] - [[ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)|ハインリヒ3世]]、[[マイセン辺境伯]]、[[ラウジッツ]][[辺境伯]]、[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]]、[[ザクセン公国|ザクセン]][[宮中伯]](* [[1215年]]?) * [[9月30日]] - [[レシェク2世]]、[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]](* [[1241年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1288}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1288ねん}} [[Category:1288年|*]]
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1215年
1215年(1215 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "1215年(1215 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "", "title": "フィクションのできごと" } ]
1215年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1215}} {{year-definition|1215}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[建保]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1875年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[嘉定 (南宋)|嘉定]]8年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[貞祐 (金)|貞祐]]3年 *** [[大真国]] : [[天泰]]元年旧10月 - *** [[東遼]] : [[元統 (東遼)|元統]]3年 * 中国周辺 ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[光定 (西夏)|光定]]5年 ** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太祖([[チンギス・カン|チンギス・ハーン]])10年 ** [[大理国]] : [[天開 (大理)|天開]]11年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[高宗 (高麗王)|高宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3548年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[建嘉]]5年 * [[仏滅紀元]] : 1757年 - 1758年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 611年 - 612年 * [[ユダヤ暦]] : 4975年 - 4976年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1215|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[6月19日]] - [[イングランド]]諸侯が国王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]に「[[マグナ・カルタ]](大憲章)」を提出 * [[第4ラテラン公会議]]が開かれる == 誕生 == {{see also|Category:1215年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[9月23日]] - [[クビライ]]、[[モンゴル帝国]]の第5代皇帝、[[ハーン|カアン]](+ [[1294年]]) * [[ケレスティヌス5世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス5世]]、第192代[[教皇|ローマ教皇]](+ [[1296年]]) * [[聖守]]、[[鎌倉時代]]の[[東大寺]]の[[僧]](+ [[1291年]]) * [[大休正念]]、鎌倉時代の[[宋 (王朝)|宋]]からの渡来僧、[[臨済宗]]の僧(+ [[1290年]]) * [[北条時章]]、[[鎌倉幕府]]の[[評定衆]](+ [[1272年]]) * [[ヨハネス21世 (ローマ教皇)|ヨハネス21世]]、第187代ローマ教皇(+ [[1277年]]) == 死去 == {{see also|Category:1215年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月14日]](建保2年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]) - [[栄実]]、[[鎌倉幕府]]第2代[[征夷大将軍|将軍]][[源頼家]]の三男(* [[1201年]]) * [[2月6日]](建保3年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]]) - [[北条時政]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]]、鎌倉幕府の初代[[執権]](* [[1138年]]) * [[7月2日]](建保3年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[明菴栄西]]、平安時代、鎌倉時代の僧、[[臨済宗]]の開祖(* [[1141年]]) * [[10月8日]](建保3年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]) - [[伊賀朝光]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[福興]]、[[金 (王朝)|金]]の官僚(* 生年未詳) * [[ギラウト・デ・ボルネーユ]]、[[リムーザン地域圏|リムーザン]]出身の[[トルバドゥール]](* [[1138年]]頃) * [[ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス]]、[[エピロス専制侯国]]の初代[[専制公]](* 生年未詳) == フィクションのできごと == * ロボットのカメリオンがイングランド王になりすます。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1215}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1215ねん}} [[Category:1215年|*]]
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1609年
1609年(1609 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1609年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1609}} {{year-definition|1609}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]14年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2269年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]37年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[光海君]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3942年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[弘定]]10年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]17年 * [[仏滅紀元]] : 2151年 - 2152年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1017年 - 1018年 * [[ユダヤ暦]] : 5369年 - 5370年 * [[ユリウス暦]] : 1608年12月22日 - 1609年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1609}} == できごと == * 1月 - [[アムステルダム銀行]]設立{{要出典|date=2021-04}}。 * [[5月6日]](慶長14年[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[島津氏|島津]]の[[琉球王国|琉球]]出兵。[[薩摩藩]]軍が[[首里城]]を陥し、[[琉球国王]][[尚寧王|尚寧]]を捕らえる。 * [[7月10日]] - [[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)]]が[[カトリック連盟]]を組織。 * 10月(慶長14年9月) - [[大船建造の禁|大船没収令]] * [[10月10日]](慶長14年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]) - [[前田利長]]が[[高岡城]]に入り、現在の[[富山県]][[高岡市]]が開町される。 * [[10月20日]](慶長14年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]]) - 朝廷の大スキャンダル[[猪熊事件]]の処分者が決まり、首謀者の[[猪熊教利]]が極刑となる。 * [[フーゴー・グローティウス|グロティウス]]が『[[自由海論]]』を出版し、[[海洋の自由|海洋自由]]説を主張。 * [[スペイン]]でのイスラム教徒([[モリスコ]])追放令。 * [[オランダ東インド会社]]が[[平戸]]に[[オランダ商館]]を設置し、[[江戸幕府]]と通商関係を開く。 * [[対馬藩]]と[[李氏朝鮮]]の間で[[己酉約条]]締結。 == 誕生 == {{see also|Category:1609年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月16日]]([[慶長]]13年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[堀田正盛]]、[[江戸幕府]][[老中]]・[[下総国|下総]][[佐倉藩]]主(+ [[1651年]]) * [[2月18日]] - [[エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵) |クラレンドン伯爵(初代)]]、[[イギリス]]の政治家(+ [[1674年]]) * [[2月21日]] - [[ライモンド・モンテクッコリ]]、[[ハプスブルク君主国]]([[オーストリア大公国]])の軍人(+ [[1680年]]) * [[3月7日]](慶長14年[[2月2日 (旧暦)|2月2日]]) - [[向井元升]]、[[本草学]]者。医師(+ [[1677年]]) * [[3月18日]] - [[フレデリク3世 (デンマーク王)|フレデリク3世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](+ [[1670年]]) * [[3月22日]] - [[ヤン2世 (ポーランド王)|ヤン2世]]、[[ポーランド王国|ポーランド王]](+ [[1672年]]) * [[5月10日]](慶長14年[[4月4日 (旧暦)|4月4日]]) - [[池田光政]]、[[備前国|備前]][[岡山藩]]主(+ [[1682年]]) * [[7月28日]] - [[ユディト・レイステル]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Judith-Leyster Judith Leyster Dutch painter] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[画家]](+ [[1660年]]) * [[11月25日]] - [[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス]]、[[チャールズ1世 (イングランド王)|イングランド王チャールズ1世]]の妃(+ [[1669年]]) * (月日不明) - [[キャーティプ・チェレビー]]、[[オスマン帝国]]の文人(+ [[1657年]]) == 死去 == {{see also|Category:1609年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月23日]](慶長14年[[2月18日 (旧暦)|2月18日]]) - [[田中吉政]]、[[武将]]、[[筑後国]][[柳河藩]]初代藩主(*[[1548年]]) * [[4月16日]] - [[フランシスコ・カブラル]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[ポルトガル|ポルトガル人]]の[[イエズス会]]の[[宣教師]](* [[1530年]]) * [[4月22日]] - [[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ|ニェッキ・ソルディ・オルガンティノ]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[江戸時代]]の[[イタリア|イタリア人]]の[[イエズス会]]の[[宣教師]](* [[1560年]]) *[[6月1日]](慶長14年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]) - [[天野元政]]、武将、[[右田毛利家]]の祖(*[[1559年]]) * [[6月4日]](慶長14年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[京極高次]]、[[大名]]、[[若狭国|若狭]][[小浜藩]]初代藩主(* [[1563年]]) * [[7月15日]] - [[アンニーバレ・カラッチ]]、[[バロック|バロック期]]のイタリア人の[[画家]](* [[1560年]]) * [[10月19日]] - [[ヤーコブス・アルミニウス]]、[[オランダ]]の[[神学者]](* [[1560年]]) * [[11月13日]](慶長14年[[10月17日 (旧暦)|10月17日]]) - [[猪熊教利]]、[[公家]](* [[1583年]]) * [[11月15日]](慶長14年[[10月19日 (旧暦)|10月19日]]) - [[石川家成]]、[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]第2代藩主(* [[1534年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1609}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1609ねん}} [[Category:1609年|*]]
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188年
188年(188 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
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188年は、西暦(ユリウス暦)による、閏年。
{{年代ナビ|188}} {{year-definition|188}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊辰]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[成務天皇]]58年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]848年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[後漢]] : [[中平]]5年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[故国川王]]10年 ** [[新羅]] : [[伐休尼師今|伐休王]]5年 ** [[百済]] : [[肖古王]]23年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2521年 * [[仏滅紀元]] : 731年 * [[ユダヤ暦]] : 3948年 - 3949年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=188|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:188年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:188年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|188}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=2|年代=100}} {{デフォルトソート:188ねん}} [[Category:188年|*]]
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239年
239年(239 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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239年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|239}} {{year-definition|239}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[己未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[神功皇后]]摂政39年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]899年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[魏 (三国)|魏]] : [[景初]]3年 ** [[蜀]] : [[延熙 (蜀)|延熙]]2年 ** [[呉 (三国)|呉]] : [[赤烏]]2年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[東川王]]13年 ** [[新羅]] : [[助賁尼師今|助賁王]]10年 ** [[百済]] : [[古尓王]]6年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2572年 * [[仏滅紀元]] : 782年 * [[ユダヤ暦]] : 3999年 - 4000年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=239|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 6月、[[邪馬台国]]の女王・[[卑弥呼]]が[[魏 (三国)|魏]]に使者を派遣した。{{Sfn|ファータド|2013|p=97|ps=「倭が魏に使者を送る」}} * 12月、明帝から「[[親魏倭王]]」の金印・紫綬と銅鏡などを下賜される([[魏志倭人伝]]。ただし皇帝を曹芳とする説あり)。 * [[曹叡]](明帝)が[[崩御]]。[[養子]]の[[曹芳]]が第3代皇帝に即位する。 == 誕生 == {{see also|Category:239年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:239年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ピーター・ファータド(編集) |year=2013 |title=世界の歴史を変えた日 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-4198-8 |ref={{Sfnref|ファータド|2013}}}}<!-- 2013年10月15日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|239}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200}} {{デフォルトソート:239ねん}} [[Category:239年|*]]
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243年
243年(243 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "243年(243 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。", "title": null } ]
243年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|243}} {{year-definition|243}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[癸亥]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[神功皇后]]摂政43年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]903年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[魏 (三国)|魏]] : [[正始 (魏)|正始]]4年 ** [[蜀]] : [[延熙 (蜀)|延熙]]6年 ** [[呉 (三国)|呉]] : [[赤烏]]6年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高句麗]] : [[東川王]]17年 ** [[新羅]] : [[助賁尼師今|助賁王]]14年 ** [[百済]] : [[古尓王]]10年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2576年 * [[仏滅紀元]] : 786年 * [[ユダヤ暦]] : 4003年 - 4004年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=243|Type=J|表題=可視}} == できごと == == 誕生 == {{see also|Category:243年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == 死去 == {{see also|Category:243年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> == フィクションのできごと == * [[コンスタンティノープル]]で[[ドクター (ドクター・フー)|ドクター]]とフェンリクが対決。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|243}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200}} {{デフォルトソート:243ねん}} [[Category:243年|*]]
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4,428
5世紀
5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。
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5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{centurybox}} [[ファイル:NintokuTomb Aerial photograph 2007.jpg|right|thumb|220px|[[大仙古墳]]。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の[[前方後円墳]]で、[[大阪府]][[堺市]]に広がる[[百舌鳥古墳群]]を代表する。伝承では[[仁徳天皇]]陵とされている。<br/><small>{{国土航空写真}}</small> ]] {{Double image aside|right|稲荷山古墳出土鉄剣 (表面).JPG|110|稲荷山古墳出土鉄剣 (裏面).JPG|110|{{Center|稲荷山古墳出土鉄剣(国宝)。[[埼玉県立さきたま史跡の博物館]]展示。左は表面、右は裏面。}}}} [[ファイル:Leoattila-Raphael.jpg|right|thumb|300px|[[フン族]]の王[[アッティラ]]。アッティラの侵入は東西ローマ帝国を驚倒させた。画像は[[ヴァティカン]]教皇宮殿[[ラファエロの間|ヘリオドロスの間]]にある[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]の「教皇[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]とアッティラの会見」。]] [[ファイル:Meister des Mausoleums der Galla Placidia in Ravenna 002.jpg|right|thumb|300px|[[ラヴェンナ]]の[[ガッラ・プラキディア廟堂]]。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。[[初期キリスト教美術]]を代表する[[モザイク]]壁画が残されている。]] [[File:RomulusAugustus.jpg|thumb|right|180px|[[西ローマ帝国]]の滅亡。ゲルマン諸族の自立によりこの帝国の統治機構は寸断され、最後の皇帝ロムルス・アウグストゥルスは[[スキリア族]]傭兵隊長[[オドアケル]]に廃位され、ここに西ローマ帝国は滅亡した。画像は少年皇帝ロムルス・アウグストゥルスの肖像が刻印された金貨。]] [[File:Goguryeo tomb mural.jpg|thumb|right|250px|[[集安市|丸都城]]から[[平壌直轄市|平壌]]へ。[[高句麗]]では427年に平壌に都が遷された。丸都城があった中国[[吉林省]]集安市には[[高句麗前期の都城と古墳]]が残されている。画像は禹山墓区第458号墓の「狩猟図」。]] [[ファイル:The Three Laughers of Tiger Ravine, Soga Shohaku - Indianapolis Museum of Art - DSC00768.JPG|right|thumb|180px|仏教と道教の融合。政権が不安定だった六朝時代は儒教が不振で、深遠な形而上学を扱う仏教や道教が歓迎された。画像は江戸時代の[[曽我蕭白]]の「虎渓三笑図」でこの時代を代表する仏僧の[[慧遠 (東晋)|慧遠]]と道士の陸修静と詩人の[[陶淵明]]の邂逅が画題となっている。]] [[ファイル:Yungang Caves.jpg|right|thumb|300px|[[雲崗石窟]]。[[北魏]]の[[文成帝]]の時代に[[曇曜]]の奏上によって、都の[[平城]]([[大同市]])から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。]] [[ファイル:God and Female Musician, Kizil, Cave 171, 417-435 AD, wall painting - Ethnological Museum, Berlin - DSC01720.JPG|thumb|right|200px|[[キジル石窟|キジル千仏洞]]壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家[[亀茲]](クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い[[鳩摩羅什]]もここの出身である。]] [[ファイル:Ajanta Padmapani.jpg|right|thumb|200px|[[アジャンター石窟寺院]]。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。]] [[ファイル:Sigiriya lion gate 05.JPG|thumb|right|250px|[[シーギリヤ]]。[[スリランカ]]のシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、[[アヌラーダプラ]]からこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。]] [[File:SilverBowlNFPPakistan5-6thcenturyCE.JPG|thumb|right|250px|[[エフタル]]の侵攻。現在のアフガニスタン北部に興起した遊牧民族エフタルは幾度となくサーサーン朝ペルシアと干戈を交え、インドではグプタ朝衰退の原因となった。画像は5世紀後半に作られたエフタル騎馬人物像のある銀碗([[大英博物館]]蔵)。]] [[File:Honduras-0164 (2214381854).jpg|thumb|right|250px|[[コパン]]の王権。コパンは古典期マヤの都市国家の一つ。画像は776年に作られた「コパンの祭壇Q」で、426年に初代コパン王となった[[キニチ・ヤシュ・クック・モ]]から16代の王の姿が刻まれている。]] [[File:Orca mitica nasca.jpg|right|thumb|200px|[[ナスカ文化]]。紀元前1世紀から紀元後8世紀まで栄えたナスカ文化の編年はおよそ9期に分けられるが、5期から6期にかけての多色彩土器は巧緻な造形の絶頂期と位置づけられる。画像は[[ペルー]]の[[リマ]]にある{{仮リンク|ラルコ博物館|en|Larco Museum}}所蔵の[[シャチ]]をモチーフにした多色彩土器。]] [[ファイル:Ejmiadzin Cathedral2.jpg|right|thumb|250px|[[カルケドン公会議]]以後に[[キリスト論]]をめぐりキリスト教は分立した。「[[単性説|単性論]]派」と呼ばれる「[[非カルケドン派正教会]]」(自らの教理は単性論ではなく[[合性論]]であると自認する)には、[[シリア正教会]]・[[コプト正教会]]・[[アルメニア使徒教会]]などがある。画像は483年に再建されたアルメニア使徒教会の[[首座主教]]座、{{仮リンク|エチミアジン大聖堂|en|Etchmiadzin Cathedral}}。]] [[File:Simeon Stylites Syria.jpg|right|thumb|180px|[[シリア教会]]。シリアでも修道生活が独自に発展した。[[アレッポ]]近郊で高い塔の上に登り、そこで祈りと瞑想の日々を送ったのが[[登塔者シメオン]]である。画像はこの修道士を描いた500年頃の浮き彫り(シリア・[[ハマー]]博物館蔵)。]] [[File:Vandal cavalryman, c. AD 500, from a mosaic pavement at Bordj Djedid near Carthage.jpg|thumb|right|250px|[[ヴァンダル人]]の躍進。ゲルマン諸族の中で最も故地から遠方に本拠地を構えたのがヴァンダル人である。指導者[[ガイセリック]]のもとローマを略奪して、その後帝国の穀倉地帯である北アフリカに定住した。画像は[[カルタゴ]]から出土したヴァンダル騎兵を描いたモザイク断片(大英博物館蔵)。]] [[ファイル:AugustineLateran.jpg|right|thumb|180px|[[ヒッポレギウス]]の[[アウグスティヌス]]。異民族の跳梁する衰勢の西ローマ帝国にあって、神の救済の歴史を描き出す『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』を執筆した。画像は6世紀に[[ローマ]]の[[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂|ラテラノ大聖堂]]に描かれた肖像画。]] [[File:Saint Remigius binding Medieval Picardie Museum.jpg|right|thumb|180px|[[クローヴィス]]の洗礼。ゲルマン系諸民族の中でもフランク族はいち早くカトリック教会に従った。画像はランス司教レミギウスの伝記を浮き彫りにした9世紀の象牙板([[ピカルディー]]美術館)だが、その下段はレミギウスがフランク王クローヴィスを受洗している場面である。]] '''5世紀'''(ごせいき)は、[[西暦]][[401年]]から西暦[[500年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 == できごと == * [[日本]]では[[倭国]]の[[古墳時代]]中期にあたる。各地で巨大な[[前方後円墳]]が築造され、地方と[[ヤマト王権]]中枢双方の首長たちの祭祀儀礼が執り行われる。この世紀の倭国は[[朝鮮半島]]諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録から伺われる。当時の5代に及ぶ[[治天下大王]]が[[東晋]]から[[南北朝時代 (中国)|南朝]]にかけての[[江南]]の王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国[[正史]]の記述に残されており、[[倭の五王]]として知られている。 * 北海道北部や東部では[[続縄文文化]]とは異質な海獣漁労民の[[オホーツク文化]](中期)が拡大する。 * [[オーストロネシア語族]]の[[マレー系]]民族が[[アフリカ]]東部の[[マダガスカル]]島に定着する。 === 400年代 === {{main|400年代}} * 400年代初頭 - [[大王 (ヤマト王権)|大王]]クラスの大形[[前方後円墳]]が[[奈良盆地]]から[[大阪平野]]に移り更に巨大化する。 ** [[大仙古墳]](伝仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)が代表例。副葬品に人物[[埴輪]]が現れる。 ** [[河内平野]]には[[茨田堤]]や[[難波の堀江]]などの土木工事跡も残る。 * 401年 - [[クチャ]]の仏僧である[[鳩摩羅什]]が[[後秦]]の[[姚興]]に迎えられ[[長安]]に来訪。 * 402年 ** [[柔然]]の[[社崙]]が初めて[[可汗]]を称する。 ** [[柴壁の戦い]]で[[北魏]]が[[後秦]]に勝利する。 ** 西ローマ皇帝[[ホノリウス]]が[[ミラノ]]([[メディオラヌム]])から[[ラヴェンナ]]へ遷都。 ** 西ローマ帝国軍最高司令官[[スティリコ]]が{{仮リンク|ポルレンティアの戦い|en|Battle of Pollentia}}で西ゴート族の王[[アラリック1世]]に勝利。 * 403年 - [[桓玄]]が東晋の安帝から帝位を簒奪( - 404年)。 * 404年 ** 倭軍がもとの[[帯方郡]]の地域に出兵し、[[高句麗]]軍に撃退される([[好太王碑|広開土王碑]])。 ** [[コンスタンティノポリス]][[大主教]][[ヨハネス・クリュソストモス]]が追放される。 *** この追放に伴う混乱で、皇帝[[コンスタンティウス2世]]に奉献された初代の[[ハギア・ソフィア大聖堂]]は焼失する。 ** 修道士テレマクスの死亡事故により西ローマ皇帝ホノリウスが[[剣闘士]]観戦を禁止し競技場を閉鎖。 * 405年 ** [[雲南省|雲南]]に[[爨宝子碑]]が建てられる。 ** ゴート人[[ラダガイスス]]による[[フィレンツェ包囲戦 (405年)|フィレンツェ包囲戦]]と[[フィエーゾレの戦い (5世紀)|フィエーゾレの戦い]]。 * 405年頃 - [[ヒエロニムス]]が[[ラテン語]]訳聖書「[[ウルガータ]]」を完成させる。 * 406年 - ヴァンダル・スエビ・アラン人などの集団が[[ライン川]]を渡り[[ガリア]]に侵入({{仮リンク|406年のゲルマン諸族のライン川渡河|en|Crossing of the Rhine}})。 * 408年 - 西ローマ帝国軍最高司令官スティリコが処刑される。 * 409年 - 北魏の[[道武帝]]が息子[[拓跋紹]]に殺害される。 === 410年代 === {{main|410年代}} * 410年 ** [[西ゴート族|西ゴート人]]の[[アラリック1世]]が[[ローマ略奪 (410年)|ローマ市を占領し掠奪]]。[[西ローマ帝国]]の衰亡が決定的になる。 ** ローマ軍が属州[[ブリタンニア]]から撤退し、西ローマ帝国のブリタンニア支配が終わる。 * 411年 ** [[ガリシア]]に[[スエビ王国]]が成立する([[ガリシア王国]])。 ** {{仮リンク|カルタゴ教会会議|en|Councils of Carthage#Conference of 411}}で[[ドナトゥス派]]が断罪される。 * 413年 ** 東晋で[[劉裕]]による「義熙[[土断]]」が行われる。 ** [[法顕]]が海路から東晋に帰国する。帰国後その旅行記『[[仏国記]](法顕伝)』を著す。 ** [[倭国]]が[[東晋]]に朝貢する(東晋・義熙9年、『[[晋書]]』安帝紀、『太平御覧』)。 ** 東ローマ皇帝[[テオドシウス2世]]により首都コンスタンティノポリスの[[コンスタンティノープルの城壁#テオドシウスの城壁]]が完成する。 * 414年 ** 西ローマ皇女[[ガッラ・プラキディア]]と西ゴート王[[アタウルフ]]が[[ナルボンヌ]]で結婚。西ゴート人が[[イベリア半島]]に侵入。 ** 高句麗の[[長寿王]]が[[好太王碑|広開土王(好太王)碑]]を建てる。 * 415年 ** [[ワリア]]王が[[トロサ]](トゥールーズ)に遷都し[[西ゴート王国]]が自立する。 ** エジプトの[[アレクサンドリア]]で女性哲学者[[ヒュパティア]]がキリスト教の修道士らに惨殺される。 ** [[デリーの鉄柱]]が建立される。 ** 『[[日本書紀]]』では[[允恭天皇]]4年のこの年に[[氏姓]]の乱れを正すために[[甘樫丘]](甘樫坐神社)で[[盟神探湯]]を行ったと記録されている。 * 416年 - 『[[日本書紀]]』では[[允恭天皇]]5年のこの年に地震が起きたと記録されている([[允恭地震]]、日本最古の地震の記録)。 * 417年 - 東晋の劉裕が[[後秦]]を滅ぼし、一時的に[[洛陽]]・[[長安]]を奪還する。 * 418年 ** [[夏 (五胡十六国)|夏]]の[[赫連勃勃]]が長安を占領。 ** {{仮リンク|カルタゴ教会会議|en|Councils of Carthage#Council of 418}}にて[[ペラギウス主義]]が断罪される。 === 420年代 === {{main|420年代}} * 420年 - 東晋に代わり[[宋 (南朝)|宋]]を建国した劉裕が皇帝(武帝)となる。 * 421年 ** [[ヴェネト]]地方住民が[[アドリア海]]に面した[[ヴェネツィアの潟|ラグーナ]](潟)に都市を建設([[ヴェネツィア]]建国の伝説)。 ** (宋・永初2年)- 倭王の讃、宋に朝貢し、宋の武帝から、除綬の詔うける(おそらく安東将軍倭国王)(『[[宋書]]』倭国伝)。 * 425年 ** (宋・元嘉2年)- 倭王の讃、司馬の[[曹達 (倭)|曹達]]を遣わし、宋の[[文帝 (南朝宋)|文帝]]に貢物を献ずる(『宋書』倭国伝)。 ** [[エフタル]]が[[バクトリア]]地方に侵入し、サーサーン朝と激突。 ** 東ローマ皇帝テオドシウス2世により[[コンスタンティノープル大学|コンスタンティノポリス大学]](パンディダクテリオン)が創建される。 ** 東ローマ皇帝テオドシウス2世の命により騎兵長官[[アスパル]]が[[西ローマ皇帝]][[ヨハンネス (西ローマ皇帝)|ヨハンネス]]を殺害。 *** テオドシウス2世の甥[[ウァレンティニアヌス3世]]が西ローマ皇帝となる。 * 426年 ** 皇帝テオドシウス2世が異教神殿破壊令を発し、オリンピア祭典競技施設を破壊する。 ** [[ヒッポレギウス]]司教アウグスティヌスが『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』を完成させる([[413年]] - )。 ** {{仮リンク|コパンの祭壇Q|en|Copán Altar Q}}銘文によると[[コパン]]の初代王[[キニチ・ヤシュ・クック・モ]]が即位する。 *** このコパン王の後見により[[キリグア]]王トク・「キャスパー」も即位する。 * 427年 ** 高句麗の[[長寿王]]が[[集安市|丸都城]]から[[平壌直轄市|平壌]]に遷都する。 ** 東晋の詩人[[陶淵明]]が死去。 * 428年 - サーサーン朝支配下の[[アルメニア王国]]で王政が廃絶される。 * 429年 - [[ガイセリック]]率いるゲルマン系[[ヴァンダル族]]が[[ジブラルタル海峡]]を越えて北アフリカに移動。 === 430年代 === {{main|430年代}} * 430年 ** ヴァンダル族に包囲された[[アンナバ|ヒッポレギウス]]にて司教[[アウグスティヌス]]が死去。 ** (宋・元嘉7年<!-- 1月なのは、たぶん中国暦 -->)- 倭国王、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(おそらく讃)(『宋書』文帝紀)。 * 430年頃 ** 日本各地に巨大古墳出現する。馬具や甲冑、刀などの武器が副葬されるようになる。 ** [[ベツレヘム]]で発見された最古の[[グルジア語]]碑文である「[[ビール・エル・クット碑文]]」はこの時期のもの。 * 431年 - [[エフェソス公会議]]で[[ネストリウス派]](のちの[[景教]])が異端宣告される。 ** [[聖母マリア]]の「[[テオトコス]](神の母・[[生神女]])」の称号が公式に認められる。 * 432年 ** ローマ教皇[[シクストゥス3世 (ローマ教皇)|シクストゥス3世]]の命により[[ローマ]]の[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]が建立される。 ** [[パトリキウス]]が[[アイルランド]]でのキリスト教宣教を始める。 ** [[ヴェスヴィオ]]火山大噴火。 * 433年 - 東晋の詩人[[謝霊運]]が刑死する。 * 434年 ** [[アッティラ]]が[[フン族]]の王となる。 ** ローマ教皇[[シクストゥス3世 (ローマ教皇)|シクストゥス3世]]によりローマの[[サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂]]が奉献される。 * 435年 - 西ローマ帝国が北アフリカの領土をヴァンダル人に譲り、[[ヴァンダル王国]]が成立する。 * 437年 - 西ローマ帝国将軍[[アエティウス]]がフン族を派遣し第一[[ブルグント王国]]を滅ぼす。 ** [[ヴォルムス]]のグンダハール王と[[ブルグント族]]が殺害されたこの事件は叙事詩『[[ニーベルンゲンの歌]]』のもととなる。 * 438年 ** (宋・元嘉15年)- これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、珍宋に朝貢し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める(『倭国』倭国伝)。4月、宋の文帝、珍を安東将軍倭国王とする(『宋書』文帝紀)。珍はまた[[倭隋]]ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(『宋書』倭国伝)。 ** 東ローマ帝国で『[[テオドシウス法典]]』が発布される。 * 439年 ** [[カルタゴ]]がヴァンダル族に占領され、この国の首都とされる。 ** [[北魏]]の[[太武帝]]が[[甘粛省|甘粛]][[河西回廊|河西]]の[[北涼]]を滅ぼし華北を統一。[[五胡十六国時代]]が終わり、[[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]が始まる。 === 440年代 === {{main|440年代}} * [[440年|440]]-[[450年]] - [[千葉県]][[市原市]]の[[養老川]]下流域の北岸台地上の[[稲荷台1号古墳|稲荷台1号墳]]で出土した「王賜銘」鉄剣が房総の王に授けられる。 * 442年 - [[沮渠無諱|沮渠氏]]により[[高昌]]国が成立。 * 443年 ** (宋・元嘉20年)- 倭国王の済、宋に朝貢して、安東将軍倭国王とされる。 ** スイス・フランス東南部に第二[[ブルグント王国]]が成立。 * 445年 - 北魏が[[鄯善]]国([[楼蘭]])を滅ぼす。 * 446年 - 北魏の太武帝が廃仏の詔を出す。 * 449年 - [[エフェソス強盗会議]]が開かれる。 ** この会議に対抗してローマ教皇[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]が「フラウィアヌスへの書簡({{仮リンク|レオのトムス|en|Leo's Tome}})」を送付する。 === 450年代 === {{main|450年代}} * 450年 ** 北魏で国史の獄が起こり、[[崔浩]]らが処刑される。 ** 宋の文帝が北伐の軍を起こすが、北魏の太武帝の反撃により長江北岸[[六合区|瓜歩]]まで奪取される。 * 450年頃 - [[アングロ・サクソン]]族がブリテン島に移住。 * 451年 ** [[カタラウヌムの戦い]]で西ローマ・ゴート連合軍がフン族の[[アッティラ]]王を破る。 ** [[カルケドン公会議]]で[[単性説|単性論]](モノフィシティズム)が異端宣告される。 *** エウテュケス主義が断罪され、[[合性論]](ミアフィジズム)の立場を取る[[非カルケドン派正教会]]が分立。 ** {{仮リンク|アヴァライアの戦い|en|Battle of Avarayr}}でサーサーン朝ペルシアがアルメニアに辛勝する。 * 452年 ** 北魏の太武帝が宦官の[[宗愛]]により殺害される。 ** アッティラ率いるフン族がイタリアに進攻。[[マントヴァ]]にてアッティラと教皇レオ1世の会見。 *** フン族の侵攻を恐れた北イタリア住民が[[ヴェネタ潟]]に逃れて[[ヴェネツィア]]が成立。 * 453年 - アッティラが急逝。フン族の後継者争いが起こり、息子の[[エラク]]が勝利する。 * 454年 - {{仮リンク|ネダオ川の戦い|en|Battle of Nedao}}で、フン族の王エラクがゲピド族長アルダリックに敗北し、フン族の国家は崩壊する。 * 455年 ** [[ヴァレンティニアヌス3世]]の暗殺による西ローマ帝国でのテオドシウス朝の断絶。 ** ヴァンダル王[[ガイセリック]]がローマを占領し、[[ローマ略奪 (455年)|ローマを略奪]]。 * 456年 [[ティカル]]の「嵐の空」王([[シヤフ・チャン・カウィール2世]])が亡くなる(神殿3,48号墓)。 * 457年 - 日本で[[雄略天皇]]が即位する。 ** この年からの日本書紀の記録は[[元嘉暦]]によって記載される([[古天文学]]研究者[[小川清彦 (天文学者)|小川清彦]]ほかの研究による)。 === 460年代 === {{main|460年代}} * 460年 - 北魏で[[雲崗石窟]]の工事始まる。 * 462年 - [[武寧王陵]]墓誌から百済[[武寧王]]はこの年に生まれたことが確認できる。 ** これは『日本書紀』の雄略5年に武寧王が生まれたという記事と対応する。 * 463年 ** [[吉備氏の乱]]が起こる。 ** [[コンスタンティノポリス]]にストゥディオス修道院が設立される。 * 468年 - [[バシリスクス]]司令官率いる東西ローマ帝国連合軍が北アフリカの{{仮リンク|ボン岬の戦い|en|Battle of Cape Bon (468)}}でヴァンダル王国に大敗。 === 470年代 === {{main|470年代}} * 470年 ** 伝承ではイランの[[ヤズド]]にある[[ゾロアスター教]]の[[拝火神殿]](アーティシュガーフ)の火はこの年より今日まで燃え続けている。 * 471年 ** [[埼玉県]][[行田市]][[稲荷山古墳 (行田市)|稲荷山古墳]]から出土した「辛亥年七月中」の干支銘を持つ[[稲荷山古墳出土鉄剣|金錯銘鉄剣]]が製作される。 ** 東ローマ皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]がイサウリア人タラシコデッサ(後の皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]])とともに軍事長官[[アスパル]]を倒す。 * 475年 ** 高句麗が百済の都[[漢城]]を制圧し、百済の[[蓋鹵王]]が戦死する。後継の[[文周王]]が[[熊津]]に遷都する。 ** 西ゴート王[[エウリック]]がゲルマン法に基づく成文法の「[[エウリック法典]]」を編纂。 * 476年 - ゲルマン人傭兵隊長[[オドアケル]]により皇帝[[ロムルス・アウグストゥルス]]が廃位され、西ローマ帝国が滅亡する。 ** 帝位は東ローマ皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]に返上され、オドアケルはパトリキウスとしてイタリアを支配する。 * 477年 - 倭国が宋に朝貢する(『宋書』順帝紀)。これより先、興没し、弟の武立つ。 * 478年 - 倭王武が宋に入貢して上表する。「父祖の功績と父兄の志を述べ、高句麗の無道を糾弾し、自ら開府儀同三司と称し、正式の任命を求める。宋の順帝武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」とする(『宋書』順帝紀、『宋書』倭国伝)。 * 479年 ** 中国で[[南朝 (中国)|南朝]]の宋に代わり[[蕭道成]](高祖)が[[斉 (南朝)|斉]]を建てる。 ** [[加耶]]諸国の大加耶国王荷知が中国斉に使者を送り「輔国将軍加羅国王」の称号を得る。 ** 百済の[[三斤王]]が死去し、[[東城王]]が即位。 ** 雄略天皇が死去し、[[清寧天皇]]が即位、[[星川皇子の乱]]が起こる。 === 480年代 === {{main|480年代}} * 480年 - [[ダルマティア]]の支配者で西ローマ皇帝でもあった[[ユリウス・ネポス]]が[[スプリト|スパラトゥム]]で暗殺される。 * 481年 ** [[メロヴィング朝]]の[[フランク王国|フランク国王]][[キルデリク1世]]が死去。 *** キルデリク1世はベルギーの[[トゥルネー]]の墓に多数の黄金の宝飾品とともに埋葬される。 *** キルデリク1世の息子[[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]がメロヴィング朝のフランク国王として即位。 * 482年 - 東ローマ皇帝ゼノンが「ヘノティコン(統一令)」を発布。 * 484年 ** ヘラートの戦いで、エフタルのアフシュワルがサーサーン朝のペーローズ1世を敗死させる。 ** 山西省大同郊外にある北魏の吏部尚書[[司馬金龍]]墓が作られ、「{{仮リンク|彩絵人物故事漆屏|zh|彩繪人物故事漆屏}}」が置かれる。 * 485年 - 北魏の[[馮太后]]の[[摂政]]のもと[[孝文帝]]が[[均田制]]を実施する。翌年には[[三長制]]を実施。 * 486年 - [[ソワソン]]の戦いで、クロヴィス1世がガリア北部を支配していた西ローマ系軍閥[[シアグリウス]]を破る。 * 487年 - [[高車]]が柔然の支配から脱して[[ジュンガリア]]に建国。 * 488年 - 東ローマ皇帝ゼノンが[[シャンルウルファ|エデッサ]]の学院閉鎖を命じ、教師と学生は{{仮リンク|ニシビス|en|Nusaybin}}へと移動する。 * 489年 - [[イゾンツォの戦い (489年)|イゾンツォの戦い]]と[[ヴェローナの戦い (489年)|ヴェローナの戦い]]。 ** 東ゴート族長[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]がオドアケルに勝利しイタリア各地に進出。 === 490年代 === {{main|490年代}} * 490年 - [[ラヴェンナ包囲戦 (490年-493年)|ラヴェンナ包囲戦]]( - 493年)。 * 491年 - 北魏で[[山西省]][[大同市|大同]]にある[[懸空寺]]が創建される。 * 493年 - [[東ゴート族|東ゴート人]]の族長テオドリックがオドアケルを暗殺し[[東ゴート王国]]を建国。 ** 都はラヴェンナで、この時期に[[サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂]]や{{仮リンク|アリウス派洗礼堂|en|Arian Baptistery}}を建立する。 ** テオドリック王はフランク王クロヴィス1世の娘オードフレダを王妃とし、娘二人を西ゴート王やブルグントに嫁がせる。 * 494年 - 北魏の孝文帝が平城([[大同市|大同]])から[[洛陽市|洛陽]]に遷都。 ** 洛陽近郊に[[竜門石窟]]寺院が建立され、[[漢化政策]]が推進される。 * 496年 ** 北魏の孝文帝が太子[[元恂]]を廃し、翌年殺害する。 ** 河南省[[鄭州市]]の[[嵩山少林寺]]が創建される。 ** {{仮リンク|トルビアックの戦い|en|Battle of Tolbiac}}でフランク王国が[[アラマンニ族]]に勝利する。 ** サーサーン朝のカワード1世が廃位され、{{仮リンク|忘却の城|en|Castle of Oblivion}}に幽閉される。 * 498年 ** フランク国王クロヴィス1世が[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ランス]]司教[[レミギウス]]のもとカトリックに改宗する。 *** この改宗にはブルグント王家出身の王妃[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルド]]の勧めもあった。 *** この地でのクロヴィス1世の戴冠により、ランス大聖堂は歴代フランス王戴冠の場とされていく。 ** [[ネストリウス派]]が[[セレウキア]]・[[クテシフォン]]に独自の[[総主教]]を立てる([[アッシリア東方教会]])。 ** [[トゥルファン|トルファン]]地方に[[麹嘉|麴氏]]の[[高昌]]国が興る。 * 499年 ** インドの[[アーリヤバタ]]が[[円周率]]の近似値や[[三角関数]]に言及した『アーリヤバティーヤ』を執筆。 === 500年代 === {{main|500年代}} * 500年前後 - [[ベイドン山の戦い]]で[[ブリトン人]]が[[アングロ・サクソン人]]を打ち破ったか。この事件が[[アーサー王]]伝説の起源となったか。 * 500年 - 倭軍が新羅の長嶺鎮を攻め陥落させる。新羅の[[炤知麻立干|炤知王]]が死去し、[[智証麻立干|智証王]]が即位。 * 500年頃 ** [[ボリビア]]の[[チチカカ湖]]周辺の[[ティワナク文化]]が最盛期を迎える(ティワナクIV期前半)。 *** 代表的な建築にカラササヤやそれに隣接する半地下神殿、アカパナ、カンタタリータ、プトゥニ他がある。 ** [[コロンビア]]北部の[[カリブ海]]に注ぐシヌー川下流流域で[[シヌー文化]]が展開( - 800年頃)。 *** 近接するコロンビアの[[マグダレナ川]]上流の山岳地帯では[[サン・アグスティン]]文化が展開する。 * 5世紀後半から6世紀前半 ** [[朝鮮半島南部の前方後円形墳]](長鼓墳)が作られる。 *** 現在の大韓民国の[[全羅北道]]・[[全羅南道]]の[[栄山江]]流域に複数が点在するが、倭系か百済系か[[伽耶]]系かは結論が出ていない。 * 5世紀末から7世紀 ** [[ブリテン島]]の[[ブルトン人]]が[[アルモリカ]](現フランスの[[ブルターニュ]]地方)や、ブリトニア(現スペインの[[ガリシア]]地方)に移住する。 == 文化 == ==人物== ===地中海世界=== ==== フン族の帝国 ==== * [[アッティラ]] ([[406年]]? - [[453年]])- 遊牧民族フン族の王。東西ローマ帝国を圧迫するが[[カタラウヌムの戦い]]では敗北。 ==== ゲルマン諸王 ==== * [[アラリック1世]]([[360年]] - [[410年]])- 西ゴート王国国王(在位[[395年]] - [[410年]])・ローマ市を陥落させ略奪。 * [[ガイセリック]]([[389年]]頃 - [[477年]])- ヴァンダル王国国王(在位[[428年]] - [[477年]])・属州北アフリカを占領。 * [[オドアケル]]([[433年]] - [[493年]])- ゲルマン系スキリア族出身の傭兵隊長・西ローマ帝国を滅ぼしイタリアを支配。 * [[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]([[454年]] - [[526年]])- 東ゴート王国初代国王(大王)(在位[[493年]] - [[526年]])・オドアケルを滅ぼす。 * [[クローヴィス1世 (フランク王)|クローヴィス1世]]([[466年]] - [[511年]])- メロヴィング朝フランク王国初代国王(在位[[481年]] - [[511年]])・カトリックに改宗。 ==== 西ローマ帝国とその周辺 ==== * [[ヒエロニムス]]([[340年]]頃 - [[420年]])- [[キリスト教]][[神学者]]・[[聖書]](ウルガタ)の翻訳者。ローマ教皇[[ダマスス1世 (ローマ教皇)|ダマスス1世]]に近侍。 * [[プルデンティウス]]([[348年]] - [[405年]]以降) - キリスト教ラテン詩人・「[[プシュコマキア]](魂の闘い)」「シュンマクス駁論」などの詩がある。 * {{仮リンク|ホノラトゥス|en|Honoratus}}([[350年]]頃 - [[429年]]) - ガリアの[[アルル]]大司教・東方修道制を手本に[[レランス諸島|レランス]]修道院を設立。 * ノラのパウリヌス([[353年]]頃 - [[431年]]) - イタリアの[[ノーラ (ナポリ県)|ノラ]]司教・元老院議員・詩人として『歌謡三一』などの作がある。 * [[アウグスティヌス]]([[354年]] - [[430年]])- キリスト教神学者・北アフリカのヒッポ[[司教]]・著作に『[[告白 (アウグスティヌス)|告白]]』『[[神の国 (アウグスティヌス)|神の国]]』がある。 * [[ペラギウス]]([[354年]] - [[420年]]/[[440年]]) - キリスト教神学者・その主張は[[異端]]とされる([[ペラギウス主義]])。 * オロシウス(生没年不詳)- イベリア出身の司祭・キリスト教神学者・アウグスティヌスの弟子・歴史書『異教徒に反論する歴史』を執筆。 * [[マクロビウス]](生没年不詳) - ローマの著述家。『「スキピオの夢」注釈』や『サトゥルナリア』のほか著作を残す。 * [[マルティアヌス・カペラ]]([[365年]] - [[440年]])- ローマの著述家。著作に自由七学芸を選別した『文献学とメルクリウスの結婚』がある。 * [[スティリコ|フラウィウス・スティリコ]]([[365年]] - [[408年]]) - 西ローマ帝国の将軍・西ゴート族を締め出し帝国の維持に奔走・皇帝の命で暗殺される。 * [[パトリキウス]]([[387年]]? - [[461年]]) - アイルランドで宣教した司教。もとは[[ウェールズ]]出身の[[ケルト]]人。「アイルランドの使徒」と呼ばれる。 * [[ガッラ・プラキディア]]([[390年]]頃 - [[450年]]) - 西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世の母・ラヴェンナの[[ガッラ・プラキディア廟堂]]を建立。 * [[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]([[390年]] - [[461年]]) - [[ローマ教皇]](在位[[440年]] - [[461年]])。マントヴァの会見でアッティラのイタリア侵攻を制止。 * [[フラウィウス・アエティウス]]([[391年]]頃 - [[454年]]) - 西ローマ帝国の将軍・[[パトリキ]]・[[カタラウヌムの戦い]]でフン族に勝利するが暗殺される。 * サルウィアヌス([[400年]]頃 - [[470年]]/[[480年]]) - ガリア出身の司祭・キリスト教神学者・『神の支配について』を執筆。 * [[リキメル]]([[405年]]? - [[472年]])- 西ローマ帝国のゲルマン系将軍・パトリキ・最末期の西ローマ皇帝を改廃する。 * ゲノフェーファ({{仮リンク|ジュヌヴィエーヴ(聖人)|en|Genevieve}})([[419年]]/[[422年]] - [[502年]]/[[512年]]) - ガリアの修道女・フン族の攻撃から[[パリ]]を守った聖女とされる。 * [[シドニウス・アポリナリス]]([[431年]]頃 - [[489年]]) - [[トゥール (ムルト=エ=モゼル県)|トゥール]]司教。末期ラテン語詩人を代表し「書簡」や「頌詩」を残す。 * [[ゲラシウス1世 (ローマ教皇)|ゲラシウス1世]](? - [[496年]]) - ローマ教皇(在位[[492年]] - [[496年]])。皇帝[[アナスタシウス1世]]宛書簡で聖俗並立の「両剣論」を唱える。 * [[ロムルス・アウグストゥルス]]([[460年]] - [[511年]]以降) - 西ローマ帝国最後の皇帝(在位[[475年]] - [[476年]])。オドアケルに廃位され追放される。 * [[アンブロシウス・アウレリアヌス]](5世紀後半) - [[ブリトン人]]指導者・[[アングロ・サクソン人]]と戦い[[アーサー王]]伝説の原型となったと言われる。 ==== 東ローマ帝国とその周辺 ==== * [[ヨハネス・クリュソストモス]]([[349年]]頃 - [[407年]])- キリスト教神学者・[[コンスタンティノポリス]][[総主教]]・[[三成聖者]]の一人。 * {{仮リンク|アエリア・エウドクシア|en|Aelia Eudoxia}}(? - [[404年]]) - 東ローマ皇帝アルカディウスの皇后・ヨハネス・クリュソストモスの追放に大きな影響力を持った。 * [[モプスエスティアのテオドロス]]([[350年]]頃 - [[428年]])- キリスト教神学者・ネストリオスの師・その著作が{{仮リンク|三章問題|en|Three-Chapter Controversy}}で異端とされる。 * マロン(? - [[410年]]) - キリスト教の修道士・シリアの[[アンティオキア]]で活躍・のちに[[単意論]]を唱える[[マロン派]]の祖とされる。 * [[メスロプ・マシュトツ]]([[360年]] - [[440年]]) - キリスト教神学者・[[アルメニア文字]]を考案し聖書の[[アルメニア語]]訳を行う。 * [[ヒュパティア]]([[370年]]? - [[415年]])- [[エジプト]]の女性[[数学者]]・[[天文学者]]・[[新プラトン主義]][[哲学者]]・キリスト教徒に虐殺される。 * [[アレクサンドリアのキュリロス]]([[376年]] - [[444年]])- キリスト教神学者・エジプトの[[アレクサンドリア総主教]]。ネストリオスの論敵。 * [[エウテュケス]]([[380年]]頃 - [[456年]]頃) - キリスト教神学者・コンスタンティノポリスの大修道院長。その主張は[[単性論]]とされる。 * ディオスコロス(? - [[454年]]) - キリスト教神学者・エジプトの[[アレクサンドリア総主教]]。[[エフェソス強盗会議]]でエウテュケスを支持。 * ソクラテス・スコラスティコス([[380年]]頃 - [[439年]]以降) - 歴史家・エウセビオスの著作に続く4世紀から5世紀の『教会史』を執筆する * [[ネストリウス|ネストリオス]]([[381年]]? - [[451年]]?)- キリスト教神学者・コンスタンティノポリス総主教。その主張は異端とされる([[ネストリウス派]])。 * [[登塔者聖シメオン|登塔者シメオン]]([[390年]]頃 - [[459年]]) - キリスト教の修道士・シリアで柱頭行なる修行に励み、それを記念して[[聖シメオン教会]]が建てられる。 * [[テオドレトス]]([[393年]]頃 - [[457年]]頃) - キリスト教神学者・キュロス主教・『教会史』『敬神者列伝』がある・三章問題で断罪される。 * {{仮リンク|エデッサのイバス|en|Ibas of Edessa}}(? - [[457年]]頃) - キリスト教神学者・ペルシアのマリス宛て書簡による三章問題で断罪される。 * [[テオドシウス2世]](カリグラフォス)([[401年]] - [[450年]]) - 東ローマ帝国の皇帝(在位[[408年]] - [[450年]])・「テオドシウスの城壁」や法典を整備。 * [[アスパル]](? - [[471年]]) - 東ローマ帝国のゲルマン系軍司令官・ヴァンダルやフンと戦う・マルキアヌス帝やレオ帝の擁立に力があった。 * {{仮リンク|パニウムのプリスクス|en|Priscus}}([[410年]]/[[420年]] - [[472年]]以降) - 東ローマ帝国の外交官・歴史家・テオドシウス2世の命でフン族のアッティラと会見し記録を残す * [[プロクロス]] ([[412年]] - [[485年]]) - [[アカデメイア]]学頭・新プラトン主義哲学者・伝統継承者(ディアドコス)の別名があり『神学原論』を執筆。 * [[偽ディオニシウス・アレオパギタ]](生没年不詳) - キリスト教神学者・プロクロスの影響を受け『天上位階論』『神名論』『神秘神学』を執筆。 * [[イベリアのペトル]]([[413年]]頃 - [[491年]]) - [[イベリア王国]]の王子・神学者・新プラトン主義を教義に導入・偽ディオニュシオス文書の執筆者説あり。 * アカキオス(? - [[489年]])- キリスト教神学者・コンスタンティノポリス総主教。皇帝ゼノンに「ヘノティコン」発布を勧めローマ教会と対立。 * [[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]([[426年]] - [[491年]]) - 東ローマ帝国の皇帝(在位[[474年]] - [[491年]])・東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じる * ゾシモス(活躍時期[[490年]]頃 - [[510年]]頃) - 官僚・歴史家・『新しい歴史(ヒストリア・ネア)』は帝政ローマ後期の重要資料。 ===西アジア=== * バハラーム5世([[406年]] - [[438年]]) - サーサーン朝の第15代君主(在位[[420年]] - [[438年]])・後世[[ニザーミー]]の『七王妃物語』のモデルとなる ===南アジア=== * [[チャンドラグプタ2世]](生没年不詳) - [[インド]]の[[グプタ朝]]第3代の王(在位[[376年]] - [[415年]])・グプタ朝の最盛期・[[法顕]]『[[仏国記]]』では「超日王」と記す * {{仮リンク|クマーラグプタ1世|en|Kumaragupta I}}(生没年不詳) - インドのグプタ朝第4代の王(在位[[415年]] - [[455年]])・[[ナーランダ僧院]]設立・[[デリーの鉄柱]]を建立 * [[バルトリハリ]](生没年不詳) - インドの文人・文法学者として『ヴァーキヤ・パディーヤ』が、詩人として『三百頌(離欲・処世・恋愛)』がある * カーシャパ(? - [[495年]]) - [[スリランカ]]の王(在位[[477年]] - [[495年]])・父王ダートゥセーナを倒し[[シーギリヤ]]に王宮を営む * [[ブッダゴーサ]](5世紀) - スリランカの僧・[[パーリ語]]経典に注釈をつけ[[シンハラ語]]の解説を行った・著作に『[[清浄道論]]』がある * [[ティルヴァッルヴァル]](生没年不詳) - 南インドの詩人・思想家・[[タミル文学]]を代表する箴言詩集『[[ティルックラル]]』を残す ===東アジア=== ==== 五胡十六国 ==== * [[鳩摩羅什]]([[350年]] - [[409年]]、一説に[[344年]] - [[413年]]) - [[クチャ|亀茲]]国出身の[[訳経僧]]・[[五胡十六国]]の[[後秦]]で仏典を漢訳 * [[姚興]]([[366年]] - [[416年]]) - 五胡十六国の後秦の第2代皇帝(高祖)(在位[[399年]] - [[416年]])・華北に覇を唱える・鳩摩羅什の庇護者 * [[赫連勃勃]]([[381年]] - [[425年]]) - 五胡十六国時代の夏の初代皇帝(在位[[407年]] - [[425年]])・後秦から独立し長安を占領・暴君でも有名 ==== 東晋 ==== * [[慧遠 (東晋)|慧遠]]([[334年]] - [[416年]]) - 東晋の僧・中国念仏宗の祖・[[廬山]]に[[白蓮社]]を結成し『[[沙門不敬王者論]]』を残す * [[法顕]]([[337年]] - [[422年]]) - 東晋の僧・グプタ朝のインドからスリランカなど各国を歴訪・『[[仏国記]]』を残す * [[陶淵明]]([[365年]] - [[427年]]) - 東晋末から南朝宋の[[詩人]]・田園詩を得意とし「帰去来の辞」や「桃花源記」を残す * [[桓玄]]([[369年]] - [[404年]]) - 東晋の軍人・政治家・[[司馬道子]]政権を倒し安帝より禅譲を受けるが劉裕に制圧される * [[謝霊運]]([[385年]] - [[433年]]) - 東晋末から南朝宋の詩人・山水詩を得意とし作品に「登池上樓」を残す * [[范曄]] ([[398年]] - [[445年]]) - 東晋末から南朝宋の政治家・歴史家として『[[後漢書]]』を撰述 * 陸修静([[406年]] - [[477年]]) - 東晋末から南朝宋の道士・道教経典の整理を行い『三洞経書目録』にまとめる ==== 南朝 ==== * [[劉裕]]([[363年]] - [[422年]])- 南朝宋の初代皇帝(武帝)(在位[[420年]] - [[422年]]) * [[文帝 (南朝宋)|文帝]]([[407年]] - [[453年]]) - 南朝宋の三代皇帝(在位[[424年]] - [[452年]])・その治世が「[[元嘉の治]]」 * [[何承天]]([[370年]] - [[447年]]) - 南朝の思想家・数学者・天文学者・南朝宋の歴史を整理し[[元嘉暦]]を編纂した * [[裴松之]]([[372年]] - [[451年]]) - 南朝の政治家・歴史家・[[陳寿]]の『[[三国志]]』に注をつけたことで知られる * [[劉義慶]]([[403年]] - [[444年]]) - 南朝宋の王族・政治家・文学者として『[[世説新語]]』を著す * [[顧歓]]([[420年]]頃 - [[483年]]以後) - 南朝の道士・「夷夏論」を執筆して外来宗教の仏教を批判し中国の伝統を擁護 * [[蕭道成]]([[427年]] - [[482年]]) - 南朝斉の初代皇帝(高帝)(在位[[479年]] - [[482年]]) * [[祖沖之]]([[429年]] - [[500年]]) - 南朝の天文学者・数学者・発明家・[[円周率]]の計算や[[大明暦]]の編纂で知られる * [[武帝 (南朝斉)|武帝]]([[440年]] - [[493年]]) - 南朝斉の二代皇帝(在位[[482年]] - [[493年]])・その治世が「永明の治」 * [[沈約]]([[441年]] - [[513年]]) - 南朝斉から梁の文学者・政治家・「竟陵八友」の一人・『[[宋書]]』の編纂に当たる * [[蕭子良]]([[460年]] - [[494年]]) - 南朝斉の皇子(竟陵王)・文人集団「竟陵八友」を庇護・著作に『浄住子浄住法門』がある * [[謝赫]](生没年不詳) - 南朝斉から梁の画家・評論家・画論書『[[古画品録]]』を著し顧愷之の画論を発展させた「画の六法」を提言 ==== 北朝 ==== * [[拓跋珪]]([[398年]] - [[409年]]) - 北朝北魏の初代皇帝(道武帝)(在位[[371年]] - [[409年]]) * [[太武帝]]([[408年]] - [[452年]]) - 北朝北魏の第3代皇帝(在位[[423年]] - [[452年]])・[[三武一宗の法難|魏武の法難]](廃仏)を実施する * [[孝文帝]]([[467年]] - [[499年]]) - 北朝北魏の第7代皇帝(在位[[471年]] - [[499年]])・[[平城]]から洛陽に遷都し[[漢化政策]]を行う * [[馮太后]](文明皇后)([[442年]] - [[490年]]) - 北朝北魏の[[文成帝 (北魏)|文成帝]]の皇后・続く[[献文帝]]・[[孝文帝]]で[[垂簾聴政]]を行い[[均田制]]や[[三長制]]を導入 * [[寇謙之]]([[365年]] - [[448年]]) - [[北朝 (中国)|北朝]]北魏の道士・新天師道の開祖・自ら「太平真君」と称し北魏太武帝に廃仏を勧める * [[崔浩]]([[381年]] - [[450年]]) - 北魏の漢人宰相・寇謙之とともに廃仏を実行・漢化政策が鮮卑の反発を招き誅殺される(国史の獄) * [[曇曜]](生没年不詳) - 北魏の僧侶([[沙門統]])・太武帝の廃仏以後の仏教を復興・[[雲崗石窟]]寺院を造営し五体の仏像を安置したことで有名 * {{仮リンク|李安世|zh|李安世}}([[443年]] - [[493年]]) - 北朝北魏の政治家・孝文帝時代に土地制度改革を奏上し均田制を導入する ==== 柔然 ==== * [[郁久閭社崙|社崙可汗]](? - [[410年]]) - 柔然の初代可汗(在位[[402年]] - [[410年]])・西は[[焉耆]]から東は朝鮮に至る国家を形成し北魏と対決 ==== 満州 ==== * [[好太王]]([[374年]] - [[412年]]) - 高句麗の第19代の王(在位[[391年]] - [[412年]])・朝鮮半島諸国や倭国の外交史資料「[[好太王碑]]」でも有名 * [[長寿王]]([[394年]] - [[491年]]) - 高句麗の第20代の王(在位[[413年]] - [[491年]])・百済の蓋鹵王を攻め滅ぼす・98歳の長寿でも有名 ==== 朝鮮半島 ==== * [[蓋鹵王]](? - [[475年]]) - [[百済]]の第21代の王(在位[[455年]] - [[475年]])・高句麗の侵攻により首都慰礼城を攻められ王は戦死する * [[慈悲麻立干|慈悲王]](? - [[479年]]) - [[新羅]]の第20代の王(在位[[458年]] - [[479年]])・高句麗に急襲された百済を救援に向かうが成功せず ==== 日本 ==== * [[雄略天皇]]([[418年]] - [[479年]]) - 第21代天皇(在位[[456年]] - [[479年]])・[[倭の五王]]の[[武 (倭王)|武]]に比定される == 架空のできごと == * 5世紀 - 西ローマ帝国支配下のガリア(フランス)。羊飼いの少女アストレと青年セラドンは純粋に愛し合っていたが、あらぬ誤解からアストレはセラドンを拒絶してしまう。絶望したセラドンは川に身を投げ自殺を図るが、森の妖精ニンフに救われ一命を取り留める。(オノレ・デュルフェの小説『アストレ』。これを映画化したのが[[エリック・ロメール]]監督作『[[我が至上の愛〜アストレとセラドン〜]]』)。 * 5世紀 - 現在の[[ブルターニュ]]地方にコルヌアイユという国があり、グラドロン王が支配していた。聖{{仮リンク|コランタン|fr|Corentin de Quimper}}により王はキリスト教に改宗したが、娘のダユーはそれを良しとせず、新たに海に面した都イスを建造し移り住んだ。イスの支配者となったダユーは海行く船から富を略奪し、その豊かな富で享楽に溺れ、この地は背徳のはびこる都となっていった。コランタンは弟子の聖{{仮リンク|ゲノル|fr|Guénolé de Landévennec}}にイスの人々を改悛させようとするもかなわず、ダユーが悪魔にそそのかされて水門が開けられると、この都はダユーとともにみるみる水没し、海の奈落に沈んでいった(ブルターニュ民譚集『[[バルザス・ブレイズ]]』他の「[[イス (伝説都市)|イスの伝説]]」)。 * 5世紀 - 6年6週と6日もの間、シモン([[登塔者シメオン]])は砂漠の柱で修行に励む。柱の上で一心不乱に祈りを捧げるシモンの前に、魔女や豪勢な食料を持った悪魔が現れては甘言を弄し堕落を促す。その誘惑に負けまいとしつつも、朦朧とした意識からついにシモンは塔から降りてしまう。([[ルイス・ブニュエル]]の映画「砂漠のシモン」)。 * 448年 - ローマ皇帝[[デキウス]]治世下の251年、迫害されていたキリスト教徒の若者7名が、[[小アジア]]の[[エフェソス]]近郊の洞窟に閉じ込められる。以来、彼らは深い眠りに落ち196年の歳月が経った。[[東ローマ皇帝]][[テオドシウス2世]]が治めるこの年に洞窟の封鎖は解かれ、彼らは覚醒し、キリスト教がローマ帝国の国教に変わっていたことに驚く。([[ヤコブス・デ・ウォラギネ]]の『[[黄金伝説]] (聖人伝)』ほかの「[[七人の眠り聖人]]伝説」)。 * 478年 - [[丹波国]]余社郡筒川の人である[[浦島太郎|瑞江浦島子]]が海へ船を出し、沖合で釣りをしていたところ、巨大な亀を釣り上げる。その亀が美女に姿を変えたので、浦島子はその美女を妻とし、二人でともに海へ入り、[[蓬萊山]]へ至って仙境を見て回ったと言う(『[[日本書紀]]』雄略紀22年条。最古の「浦島太郎伝説」)。 <!-- == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 5 | 年代 = 400 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:5せいき}} [[Category:5世紀|*]]
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1567年
1567年(1567 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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緋色の研究
『緋色の研究』(ひいろのけんきゅう、英: A Study in Scarlet)は、アーサー・コナン・ドイルによる長編小説。シャーロック・ホームズシリーズの最初の作品で(時系列ではのちに発表される「グロリア・スコット号」が最も古い事件)、1886年に執筆され、翌1887年に発表された。 ホームズとワトスンの出会いと、その後起こる殺人事件を描く。事件の捜査が行われる第1部「医学博士、元陸軍軍医ジョン・H・ワトスンの回想録の翻刻」と、犯行に至った歴史が導かれる第2部(無題)の2部構成を採る。 第1部はワトソンの回想の形で始まる。 医学博士ジョン・H・ワトスンはイギリス軍の軍医としてアフガニスタンの戦場に赴くが、左肩に重傷を負い(後の作品では部位が脚に変わっていて、ホームズシリーズの謎の一つ)、イギリスに送還された。為す事もなく過ごしていると、かつて助手をしていた男からシャーロック・ホームズという特異な人物を紹介され、ベーカー街221Bで共同生活を開始する。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰ってきたことや、見知らぬ男の前歴を言い当てたホームズの観察力と推理力は、ワトスンを驚かせる(岩波少年文庫版「冒険」に記されている「ホームズからの挨拶―初めてホームズの物語を読む人のために―」にも述べられている)。 共同生活を始めて間もなく、ホームズの元にスコットランド・ヤードのグレグスン刑事から殺人事件が発生したとの手紙が届き、ホームズはワトスンを連れて現場に向かう。そこは空き家であったが、巡回中の巡査が部屋に明かりがついていることを不思議に思い、中に入ってみたところ死体を発見したのである。グレグスンとレストレード刑事は難事件にお手上げの様子である。殺されていたのは立派な服装の中年男で、イーノック・ドレッバーの名刺を持っており、壁には RACHE (ラッヘ:ドイツ語で復讐の意)と血で書かれた文字があって、女の結婚指輪が落ちていた。 ホームズは綿密な現場検証をして、被害者が毒殺されたことや犯人の人相・特徴を推理し、第一発見者の巡査に事情聴取をしたりと、次々に捜査を進めた上、新聞に結婚指輪の拾得記事を出す。指輪を使って犯人をおびき出そうというのだ。予想通り指輪の受取人が来るが、ホームズが推理した赤ら顔の大男ではなく、老婆であった。しかもその老婆を尾行したホームズは見事に巻かれてしまう。 一方グレグスンは、ついに犯人を逮捕したと得意満面であった。彼が捕らえたのは、ドレッバーが秘書のスタンガスンと共に下宿していた家の女主人の息子である海軍将校だった。事件前日、ドレッバーがそこを引き払う際にその家の娘を無理やり連れ出そうとし、兄であった海軍将校に叩き出された事実があったのだ。それが犯行の動機だとグレグスンはホームズに言うが、続いてやって来たレストレイドが、秘書のスタンガスンが宿泊先のホテルで刺殺死体で発見されたと伝える。 ホームズは、準備万端整えた上で辻馬車を呼ぶ。何事かといぶかしむワトスン、グレグスン、レストレイドの前で、ホームズは入ってきた馭者にあっという間に手錠をかけ、目を輝かせてこう叫んだ。「諸君! イーノック・ドレッバーおよびジョゼフ・スタンガスン殺害の犯人、ジェファースン・ホープ氏を紹介しましょう!」と。 第2部は、一転してこの事件の裏に潜む過去の深い因縁が語られる。 北アメリカ内陸部の砂漠。ジョン・フェリアと孤児のルーシーは、道に迷ったうえに食料と水も無く、死に掛けていたところを、ブリガム・ヤングに率いられた移動中のモルモン教徒(末日聖徒イエス・キリスト教会の信者)の集団・モルモン開拓者に救われる。彼らはソルトレイクシティ(末日聖徒イエス・キリスト教会本部)を建設し、ジョン・フェリアは郊外で一生懸命働き、やがては地域でも屈指の富豪になった。また彼は、ルーシーを養女にして実の娘のようにかわいがった。成長したルーシーは、並ぶ者の無い美しい少女となったのである。 ある日、乗馬していたルーシーは、馬が暴れだしたところを旅の青年ジェファースン・ホープに助けられ、彼の実直さと強さに引かれた。ホープも彼女に好意を持った。父親のジョンは2人の結婚を認めた。ところが、一時的にホープが町を去っているあいだに、モルモン教の指導者ブリガム・ヤングは、ルーシーに青年ドレッバーかスタンガスンとの結婚を命令した(一夫多妻制であった)。指導者に背けば命は無い。ジョンは町からの脱出を決意し、ホープを呼び戻す。見張りに囲まれている家へ、夜のとばりにまぎれて匍匐前進で到着したホープ。彼に導かれて、何とか家から脱け出したジョンとルーシー。土地勘のあるホープの指示によって、人跡未踏の荒野を踏破する。ここまで来れば一安心と、つい気を抜いたホープは、食糧とする獣を捕らえるためにキャンプを離れた。その裏をかくようにドレッバーとスタンガスンの追跡隊が襲い、ジョンを殺害し、ルーシーを奪って去った。無人となったキャンプに戻ったホープは、追跡隊によって作られたジョンの粗末な墓を見つけて事の推移を察する。ジョンを殺害したのはスタンガスンであったが、最終的にルーシーはドレッバーと結婚させられた。しかし意に沿わぬ結婚に体調をくずして程なく病死した。男たちは妻の一人が死んだだけ、と意に介さないなかで、女たちが催した葬儀の場に飛び込んだホープは、ルーシーの指から結婚指輪を抜き取って去った。 それ以後、ドレッバーとスタンガスンは、ホープから執拗に命を狙われる。彼らはソルトレイクシティを離れ、アメリカ国内からヨーロッパを転々としてホープの追跡から逃れる。しかしホープも超人的な執念で彼らを追った。年月がたち、彼らはロンドンに来る。そこでついに件の殺人事件に至ったのであった。下宿を追い出されたドレッバーは辻馬車を拾う。この馬車こそ、ホープが2人を追うために馭者に扮していたものだった。空き家の鍵は、その所有者が家を点検するためにたまたま乗ったとき、鍵型をとっていた。酒好きのドレッバーは、飲み屋をはしごして酔っぱらった。時は至れりと思ったホープは、ドレッバーを空き家の鍵を開けて連れ込み、毒薬の決闘を挑む。彼は自分の復讐を神の手にゆだねたのだ。毒入り丸薬とそうでない丸薬を用意し、両者で同時に飲み込み、毒入りに当った方が死ぬという方法である。そしてホープが勝った。興奮のあまりにホープは、鼻血を出した。例の文字は、その血で書かれたものであり、結婚指輪はその時に落としたのである。スタンガスンが滞在していた宿屋には、ホープは梯子を使って忍び込んだ。スタンガスンにも同じく毒薬を使う方法で挑んだが、彼がいきなり襲いかかって来たため、やむなくナイフで刺殺したのだった。 取り押さえられたホープはおとなしく縛につき、スコットランド・ヤードに連行され、以上のようないきさつをホームズ、ワトスン、刑事たちに語った。そして、長い追跡のため無理を続けて動脈瘤になっていたホープは、起訴を待たずして獄中で病死した。ホープを犯人と見破ったホームズの慧眼にワトスンは敬服し、しかし手柄をグレグスンとレストレイドに横取りされても何も言わない彼を見て、自分がホームズの活躍を記録して世に出そうと決心する(ワトスンの台詞で物語が締めくくられる正典は本作のみである)。 『A Study in Scarlet』が初めて日本で紹介されたのは、発表から12年後の1899年(明治32年)に『毎日新聞』で連載された『血染の壁』である。訳者は「無名氏」となっていて不明であり、内容を日本に移した翻案だった。作中、ホームズの名前は小室泰六とされ、挿絵では髭を生やした恰幅の良い人物として描かれた。明治時代は翻案が主流で、『新陰陽博士』『モルモン奇譚』『神通力』といったタイトルで紹介された。その後は翻訳が主流となったが、タイトルは『壁上の血書』『疑問の指環』『深紅の一絲』『スタディ・イン・スカアレット』と、様々であった。初めて『緋色の研究』と題されたのは1931年(昭和6年)、改造社の『ドイル全集 第1巻』収録作で、延原謙の翻訳である。以降の翻訳では、タイトルが『緋色の研究』で定着した。 初めてシャーロック・ホームズシリーズ全編の翻訳をした延原謙が『緋色の研究』と訳したことでこの題名で定着したが、原題『A Study in Scarlet』の「study」は「研究」ではなく「習作」と訳すべきだと主張される場合がある。原題『A Study in Scarlet』は作中のホームズの発言に由来する。その発言内に「a little art jargon」という表現があり、美術史学では絵画のタイトルに「study」とあれば「習作」と訳されることなどから、ここでの「study」は「習作」と訳されるべき美術用語であると結論付ける内容である。1997年に翻訳を刊行した河出書房の版(小林司・東山あかね訳)ではこの説により、『緋色の習作』と題している。1953年に延原謙が翻訳した新潮文庫版は、1996年に嗣子の延原展により訳の修正が行なわれた改版となったが、日本では「研究」の訳で定着していること、探偵小説のタイトルとしては「研究」の方が「習作」より優れている説があることなどを理由とし、引き続き『緋色の研究』の訳を採用している。日本以外では、study を étude(フランス)、estudo(ポルトガル)、studie(デンマーク)などと訳しているが、いずれの語にも英語同様、「研究」と「習作」両方の意味があるため、問題は発生していない。 この作品はモルモン教の主流派である末日聖徒イエス・キリスト教会が一夫多妻制を放棄した1890年よりも前に書かれており、現在では一夫多妻を教会としては認めていない。ただし「一夫多妻を続けている」という、脱会した、あるいは分派の元信者による主張は存在する。 イーノック・ドレッバーがモルモン教徒であるにもかかわらず大酒を飲んでいたり、「高級ラシャ」を着たモルモン教徒がいたり、「被迫害者が迫害者として行動し」ていたり、「異教徒」の娘をめとったり、ブリガム・ヤングがカトリックの教理問答のような台詞を喋っていたりと、本編中でのモルモン開拓者やブリガム・ヤングに関する記述は相当な誤解と偏見を含んでおり、現在もなお多くの部分では修正されていない。ジョセフ・スミス・ジュニアによって創設された当時の末日聖徒イエス・キリスト教会には確かに過激な面があり、ブリガム・ヤングらの努力でそうした部分は是正されていったが、当時のヨーロッパにはまだ強い誤解と偏見が残っていた。 また、モルモン教に登場する「天使モロニ」(教団の発音はモロナイ)という単語が、アイルランド系の響きであった為、意図的に「メローナ」としたらしい。 同様に、創作である「四長老神聖会議」は、河出書房刊行の『緋色の習作』注によれば、ドイルが何の資料を元に創作したのかは不明である。 なお、ジェレミー・ブレット主演のテレビシリーズでは、このホームズ・シリーズ第1作は映像化されていない。一方、ベネディクト・カンバーバッチ主演のテレビシリーズではこの話をベースにした作品が放送されたが、原作と比べて内容がかなり異なっている。また、漫画などで「モルモン教」に代えて別の名前を用いる例もある。
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『緋色の研究』は、アーサー・コナン・ドイルによる長編小説。シャーロック・ホームズシリーズの最初の作品で(時系列ではのちに発表される「グロリア・スコット号」が最も古い事件)、1886年に執筆され、翌1887年に発表された。 ホームズとワトスンの出会いと、その後起こる殺人事件を描く。事件の捜査が行われる第1部「医学博士、元陸軍軍医ジョン・H・ワトスンの回想録の翻刻」と、犯行に至った歴史が導かれる第2部(無題)の2部構成を採る。
{{Portal|文学}} {{シャーロック・ホームズ|1887年|緋色の研究|グレグスン警部|1881年以後<ref>冒頭で「{{仮リンク|マイワンドの戦い|en|Battle of Maiwand}}(1880年7月27日)によって私(ワトスン)は負傷し、それから現地の病院で数か月以上、1カ月の船旅でイギリスに戻ってきた。」という主旨の説明があり(以上第1章)、それから少ししてホームズと出会って、それ以後の「3月4日」に事件の知らせが来ている(以上第2章)。</ref>(1881年?)|イーノック・J・ドレッバー殺人事件}} [[ファイル:ArthurConanDoyle AStudyInScarlet annual.jpg|thumb|200px|right|『緋色の研究』が掲載された「[[ビートンのクリスマス年鑑]]」]] 『'''緋色の研究'''』(ひいろのけんきゅう、{{Lang-en-short|''A Study in Scarlet''}})は、[[アーサー・コナン・ドイル]]による[[長編小説]]。[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の最初の作品で<ref>{{Cite web|和書|url=https://president.jp/articles/-/40561|title=130年前から「名探偵といえばホームズ」と言われる本当の理由 現代にも通用するキャラクター造形|publisher=PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)|date=2020-11-20|accessdate=2020-11-24}}</ref>(時系列ではのちに発表される「[[グロリア・スコット号事件|グロリア・スコット号]]」が最も古い事件)、[[1886年]]に執筆され、翌[[1887年]]に発表された。 [[シャーロック・ホームズ|ホームズ]]と[[ジョン・H・ワトスン|ワトスン]]の出会いと、その後起こる[[殺人事件]]を描く。事件の捜査が行われる第1部「医学博士、元陸軍軍医ジョン・H・ワトスンの回想録の翻刻」と、犯行に至った歴史が導かれる第2部(無題)の2部構成を採る。 == 主な登場人物 == === 第一部 === ; イーノック・J・ドレッバー<ref>綴りはDrebberであり、ホームズ解説書などで「ドレッパー」などと書かれるのは誤り。</ref> : 洒落た身なりのアメリカ人旅行客。空き家で外傷の無い遺体が発見される。色がなまっちろい。 ; ジョゼフ・スタンガスン : ドレッバーの秘書。彼よりは幾分か年上。首がずんぐりと太く短い。 ; ランス巡査 : 地域担当の警察官。遺体の最初の発見者。 ; [[レストレード|レストレード警部]] : [[いたち]]に似た風貌の[[スコットランドヤード]]所属の刑事。 ; [[トバイアス・グレグスン|グレグソン]] : レストレードの[[ライバル]]刑事。 ; ジェファスン・ホープ : 辻馬車の御者。 ; [[ジョン・H・ワトソン]] : 物語の語り手。ホームズ物語の記述者で彼の相棒。 ; スタンフォード医師 : かつてワトソンの手術助手を務めていた青年。ホームズとのシェアハウスを持ち掛ける。 ; [[シャーロック・ホームズ]] : 主人公の名探偵。 === 第二部 === ; ジョン・フェリア : モルモン教徒に援けられた遭難者。 ; ルーシー・フェリア : ジョンの養女。ジョンとともに援けられる。成長して魅力的な娘になる。 ; ジェファスン・ホープ : ルーシーの婚約者。第一部のホープ御者が若かったころの姿。 ; [[ブリガム・ヤング]] : モルモン教徒の指導者。 == あらすじ == === 第1部 === 第1部はワトソンの回想の形で始まる。 医学博士ジョン・H・ワトスンは[[イギリス軍]]の[[軍医]]として[[アフガン戦争|アフガニスタンの戦場]]に赴くが、左肩に重傷を負い(後の作品では部位が脚に変わっていて、ホームズシリーズの謎の一つ)、イギリスに送還された。為す事もなく過ごしていると、かつて助手をしていた男からシャーロック・ホームズという特異な人物を紹介され、[[ベーカー街221B]]で共同生活を開始する。初対面にもかかわらず、ワトスンが負傷してアフガニスタンから帰ってきたことや、見知らぬ男の前歴を言い当てたホームズの観察力と推理力は、ワトスンを驚かせる(岩波少年文庫版「冒険」に記されている「ホームズからの挨拶―初めてホームズの物語を読む人のために―」にも述べられている)。 共同生活を始めて間もなく、ホームズの元に[[スコットランド・ヤード]]のグレグスン[[刑事]]から殺人事件が発生したとの手紙が届き、ホームズはワトスンを連れて現場に向かう。そこは空き家であったが、巡回中の巡査が部屋に明かりがついていることを不思議に思い、中に入ってみたところ死体を発見したのである。グレグスンと[[レストレード]]刑事は難事件にお手上げの様子である。殺されていたのは立派な服装の中年男で、イーノック・ドレッバーの名刺を持っており、壁には {{Lang|de|RACHE}} (ラッヘ:[[ドイツ語]]で復讐の意)と血で書かれた文字があって、女の[[結婚指輪]]が落ちていた。 ホームズは綿密な現場検証をして、被害者が毒殺されたことや犯人の人相・特徴を推理し、第一発見者の巡査に事情聴取をしたりと、次々に捜査を進めた上、[[新聞]]に結婚指輪の拾得記事を出す。指輪を使って犯人をおびき出そうというのだ。予想通り指輪の受取人が来るが、ホームズが推理した赤ら顔の大男ではなく、老婆であった。しかもその老婆を尾行したホームズは見事に巻かれてしまう。<!--老婆は、犯人に依頼された若い男の変装だったのである。これはホームズの数少ない失敗の一例。--> 一方グレグスンは、ついに犯人を逮捕したと得意満面であった。彼が捕らえたのは、ドレッバーが[[秘書]]のスタンガスンと共に下宿していた家の女主人の息子である[[イギリス海軍|海軍]][[将校]]だった。事件前日、ドレッバーがそこを引き払う際にその家の娘を無理やり連れ出そうとし、兄であった海軍将校に叩き出された事実があったのだ。それが犯行の動機だとグレグスンはホームズに言うが、続いてやって来たレストレイドが、秘書のスタンガスンが宿泊先の[[ホテル]]で刺殺死体で発見されたと伝える。 ホームズは、準備万端整えた上で辻馬車を呼ぶ。何事かといぶかしむワトスン、グレグスン、レストレイドの前で、ホームズは入ってきた馭者にあっという間に手錠をかけ、目を輝かせてこう叫んだ。「諸君! イーノック・ドレッバーおよびジョゼフ・スタンガスン殺害の犯人、ジェファースン・ホープ氏を紹介しましょう!」と。 === 第2部 === 第2部は、一転してこの事件の裏に潜む過去の深い因縁が語られる。 [[北アメリカ]]内陸部の[[砂漠]]。ジョン・フェリアと孤児のルーシーは、道に迷ったうえに食料と水も無く、死に掛けていたところを、[[ブリガム・ヤング]]に率いられた移動中の[[モルモン教|モルモン教徒]]([[末日聖徒イエス・キリスト教会]]の信者)の集団・[[モルモン開拓者]]に救われる。彼らは[[ソルトレイクシティ]]([[末日聖徒イエス・キリスト教会]]本部)を建設し、ジョン・フェリアは郊外で一生懸命働き、やがては地域でも屈指の富豪になった。また彼は、ルーシーを養女にして実の娘のようにかわいがった。成長したルーシーは、並ぶ者の無い美しい少女となったのである。 ある日、乗馬していたルーシーは、馬が暴れだしたところを旅の青年ジェファースン・ホープに助けられ、彼の実直さと強さに引かれた。ホープも彼女に好意を持った。父親のジョンは2人の結婚を認めた。ところが、一時的にホープが町を去っているあいだに、モルモン教の指導者ブリガム・ヤングは、ルーシーに青年ドレッバーかスタンガスンとの結婚を命令した(一夫多妻制であった)。指導者に背けば命は無い。ジョンは町からの脱出を決意し、ホープを呼び戻す。見張りに囲まれている家へ、夜のとばりにまぎれて匍匐前進で到着したホープ。彼に導かれて、何とか家から脱け出したジョンとルーシー。土地勘のあるホープの指示によって、人跡未踏の荒野を踏破する。ここまで来れば一安心と、つい気を抜いたホープは、食糧とする獣を捕らえるためにキャンプを離れた。その裏をかくようにドレッバーとスタンガスンの追跡隊が襲い、ジョンを殺害し、ルーシーを奪って去った。無人となったキャンプに戻ったホープは、追跡隊によって作られたジョンの粗末な墓を見つけて事の推移を察する。ジョンを殺害したのはスタンガスンであったが、最終的にルーシーはドレッバーと結婚させられた。しかし意に沿わぬ結婚に体調をくずして程なく病死した。男たちは妻の一人が死んだだけ、と意に介さないなかで、女たちが催した葬儀の場に飛び込んだホープは、ルーシーの指から結婚指輪を抜き取って去った。 それ以後、ドレッバーとスタンガスンは、ホープから執拗に命を狙われる。彼らはソルトレイクシティを離れ、アメリカ国内から[[ヨーロッパ]]を転々としてホープの追跡から逃れる。しかしホープも超人的な執念で彼らを追った。年月がたち、彼らは[[ロンドン]]に来る。そこでついに件の殺人事件に至ったのであった。下宿を追い出されたドレッバーは辻馬車を拾う。この馬車こそ、ホープが2人を追うために馭者に扮していたものだった。空き家の鍵は、その所有者が家を点検するためにたまたま乗ったとき、鍵型をとっていた。酒好きのドレッバーは、飲み屋をはしごして酔っぱらった。時は至れりと思ったホープは、ドレッバーを空き家の鍵を開けて連れ込み、毒薬の決闘を挑む。彼は自分の復讐を神の手にゆだねたのだ。毒入り丸薬とそうでない丸薬を用意し、両者で同時に飲み込み、毒入りに当った方が死ぬという方法である。そしてホープが勝った。興奮のあまりにホープは、鼻血を出した。例の文字は、その血で書かれたものであり、結婚指輪はその時に落としたのである。スタンガスンが滞在していた宿屋には、ホープは梯子を使って忍び込んだ。スタンガスンにも同じく毒薬を使う方法で挑んだが、彼がいきなり襲いかかって来たため、やむなくナイフで刺殺したのだった。 取り押さえられたホープはおとなしく縛につき、スコットランド・ヤードに連行され、以上のようないきさつをホームズ、ワトスン、刑事たちに語った。そして、長い追跡のため無理を続けて[[動脈瘤]]になっていたホープは、起訴を待たずして獄中で病死した。ホープを犯人と見破ったホームズの慧眼にワトスンは敬服し、しかし手柄をグレグスンとレストレイドに横取りされても何も言わない彼を見て、自分がホームズの活躍を記録して世に出そうと決心する(ワトスンの台詞で物語が締めくくられる[[シャーロック・ホームズシリーズ#正典|正典]]は本作のみである)。 == 翻案・翻訳の歴史 == 『A Study in Scarlet』が初めて日本で紹介されたのは、発表から12年後の[[1899年]](明治32年)に『[[横浜毎日新聞|毎日新聞]]』で連載された『血染の壁』である<ref>川戸道昭ほか編『明治期シャーロック・ホームズ翻訳集成』第1巻、アイアールディー企画、2001年収録</ref>。訳者は「無名氏」となっていて不明であり、内容を日本に移した翻案だった。作中、ホームズの名前は小室泰六とされ、挿絵では髭を生やした恰幅の良い人物として描かれた。明治時代は翻案が主流で、『新陰陽博士』『モルモン奇譚』『神通力』といったタイトルで紹介された。その後は翻訳が主流となったが、タイトルは『壁上の血書』『疑問の指環』『深紅の一絲』『スタディ・イン・スカアレット』と、様々であった。初めて『緋色の研究』と題されたのは1931年(昭和6年)、改造社の『ドイル全集 第1巻』収録作で、[[延原謙]]の翻訳である<ref>延原謙はこれより前、1928年(昭和3年)に『深紅の絲』のタイトルで翻訳している。</ref>。以降の翻訳では、タイトルが『緋色の研究』で定着した<ref>新井清司「《緋色の習作》移入史余談」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、651-652頁</ref>。 == Study と研究 == 初めてシャーロック・ホームズシリーズ全編の翻訳をした延原謙が『緋色の研究』と訳したことでこの題名で定着したが、原題『A Study in Scarlet』の「'''study'''」は「研究」ではなく「[[習作]]」と訳すべきだと主張される場合がある。原題『A Study in Scarlet』は作中のホームズの発言<ref>原文 I might not have gone but for you, and so have missed the finest study I ever came across : a study in scarlet, eh? Why shouldn't we use a little art jargon.</ref>に由来する。その発言内に「a little art jargon」という表現があり、美術史学では絵画のタイトルに「study」とあれば「習作」と訳されることなどから、ここでの「study」は「習作」と訳されるべき美術用語であると結論付ける内容である<ref>土屋朋之「《緋色の研究》は誤訳だった」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、650-651頁</ref>。1997年に翻訳を刊行した[[河出書房新社|河出書房]]の版([[小林司 (精神医学者)|小林司]]・東山あかね訳)ではこの説により、『'''緋色の習作'''』と題している。1953年に延原謙が翻訳した[[新潮文庫]]版は、1996年に嗣子の延原展により訳の修正が行なわれた改版となったが、日本では「研究」の訳で定着していること、探偵小説のタイトルとしては「研究」の方が「習作」より優れている説があることなどを理由とし、引き続き『緋色の研究』の訳を採用している<ref>延原展「改版にあたって」『緋色の研究』コナン・ドイル著、延原謙訳、新潮文庫、1996年、241-242頁</ref>。日本以外では、study を étude(フランス)、estudo(ポルトガル)、studie(デンマーク)などと訳しているが、いずれの語にも英語同様、「研究」と「習作」両方の意味があるため、問題は発生していない<ref>田中喜芳『シャーロッキアンの優雅な週末 ホームズ学はやめられない』中央公論社、1998年、201-217頁</ref>。 == モルモン教への言及について == この作品はモルモン教の主流派である末日聖徒イエス・キリスト教会が[[一夫多妻制]]を放棄した1890年よりも前に書かれており、現在では一夫多妻を教会としては認めていない。ただし「一夫多妻を続けている」という、脱会した、あるいは分派の元信者による主張は存在する。 イーノック・ドレッバーがモルモン教徒であるにもかかわらず大酒を飲んでいたり、「高級ラシャ」を着たモルモン教徒がいたり、「被迫害者が迫害者として行動し」ていたり、「異教徒」の娘をめとったり、ブリガム・ヤングがカトリックの教理問答のような台詞を喋っていたりと、本編中でのモルモン開拓者やブリガム・ヤングに関する記述は相当な誤解と偏見を含んでおり、現在もなお多くの部分では修正されていない。[[ジョセフ・スミス・ジュニア]]によって創設された当時の末日聖徒イエス・キリスト教会には確かに過激な面があり、ブリガム・ヤングらの努力でそうした部分は是正されていったが、当時のヨーロッパにはまだ強い誤解と偏見が残っていた。 また、モルモン教に登場する「天使モロニ」(教団の発音は[[モロナイ]])という単語が、アイルランド系の響きであった為、意図的に「メローナ」としたらしい。 同様に、創作である「四長老神聖会議」は、河出書房刊行の『緋色の習作』注によれば、ドイルが何の資料を元に創作したのかは不明である。 なお、[[ジェレミー・ブレット]]主演の[[シャーロック・ホームズの冒険 (テレビドラマ)|テレビシリーズ]]では、このホームズ・シリーズ第1作は映像化されていない。一方、[[ベネディクト・カンバーバッチ]]主演の[[SHERLOCK(シャーロック)|テレビシリーズ]]では[[ピンク色の研究|この話をベースにした作品]]が放送されたが、原作と比べて内容がかなり異なっている。また、漫画などで「モルモン教」に代えて別の名前を用いる例もある。 == ストーリーの瑕疵 == * 警察は、第1の殺人事件の現場である{{Lang|en|Brixton house}}の所有者から一度も事情を聞いていない。家の扉は施錠されていたのだから、第1の殺人事件の犯人は鍵を持っていたはずである。そうなると、前にジェファースン・ホープの馬車に乗ってブリクストン通りの空き家を見にきた客が鍵を持っていたということで、その客が第1の候補となるはずである。 * また、馭者のジェファースン・ホープが、自分の[[ハンサムキャブ|キャブ]]がベイカー街221B番地に呼び出されたとき、何の疑いも抱かなかったことも不自然である(彼は同じ住所に老女に扮した友人を送り込んでいる)。前日に金の指輪についての新聞記事を読んだ直後に、彼がその住所を忘れてしまうとは考えにくい。 == 脚注 == {{wikisourcelang|en|A Study in Scarlet}} {{Commons|Category:A Study in Scarlet|緋色の研究}} <references /> ==外部リンク== * {{青空文庫|000009|55881|新字新仮名|緋のエチュード}}(大久保ゆう訳) == 関連項目 == * [[モルモン教]] {{シャーロック・ホームズシリーズ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひいろのけんきゆう}} [[Category:シャーロック・ホームズシリーズの長編小説]] [[Category:1880年代の小説]] [[Category:モルモン教]]
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赤毛組合
『赤毛組合』(あかげくみあい、The Red-Headed League)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち2番目に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年8月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes) に収録された。 1927年6月、ドイルは『ストランド・マガジン』に発表した自選12編の中で、「プロットに独創性がある」として、「赤毛組合」を第2位に置いている。 日本語版では訳者により、「赤毛連盟」「赤髪組合」「赤髪連盟」「赤毛クラブ」などの邦題も使用される。 1890年10月9日の土曜日、ベーカー街221Bに住む私立諮問探偵のシャーロック・ホームズの住居兼事務所を、医師で伝記作家でもある友人のジョン・H・ワトスンが訪ねた。ホームズは燃えるような赤毛の初老の男性、ジェイベズ・ウィルスンから相談を受けていた。とても奇妙な体験をしたというウィルスンから、ホームズとワトスンは詳しい事情を聞く。 ウィルスンは小さなさびれた質屋の店主で、ヴィンセント・スポールディングという男を雇っている。スポールディングは「通常の半額の給料で構わない」と言ってウィルスンの店に採用された店員で、気が利いてよく働き、店員としては優秀だが、ひとつ欠点がある。彼は写真が趣味で、撮影した写真を現像するために暗室代わりにしている店の地下室へ頻繁に潜り込むのだという。 8週間前、そのスポールディングがウィルスンに新聞広告を見せた。その内容は、「赤毛組合」に欠員が出たので組合員を1名募集するというものであった。「赤毛組合」は、百万長者だった赤毛の男が自分の遺産を同じく赤毛の人々に分け与えるために創立した団体で、組合員は簡単な仕事をするだけで高額の給料が得られ、ロンドンに住む健康な赤毛の成人男性であれば誰でも応募できるらしい。 スポールディングから応募を勧められたウィルスンは、指定された日時にスポールディングに案内されて「赤毛組合」の事務所を訪れた。そこには審査を受けるために大勢の赤毛の男たちが集まっていたが、彼らはことごとく審査で不合格にされていた。ところが、審査を行っていた赤毛の小男、ダンカン・ロスはウィルスンをひと目で気に入り、新たな組合員として認めたのである。 組合員の仕事というのは、毎日午前10時から午後2時までの4時間、事務所にこもって『大英百科事典』を書写するというものであった。この4時間、ウィルスンはどんな事情があっても絶対に事務所の外へ出てはならず、これに違反した場合は組合員の地位を失うことになると言い渡された。幸いなことに質屋の仕事は夕方が忙しく、昼間は来客が少ないため、ウィルスンは翌日から昼間の店番をスポールディングに任せ、ロスから指示された通りに毎日10時から2時まで一人きりの事務所で書写の仕事を行う。給料は週に4ポンドずつロスから支払われ、順調に8週間が過ぎていった。 ところが今朝、ウィルスンが事務所へ行くと、入口の扉は施錠されていて、「赤毛組合は解散した」とだけ書かれた貼り紙があるのみだった。驚いたウィルスンはロスを探そうとしたが、事務所の家主は「赤毛組合」のこともロスの名前も知らなかった。家主によると、事務所を借りていた赤毛の男は違う名前を名乗っており、その男はすでに引っ越したという。ウィルスンは家主から聞いた男の引っ越し先を訪ねてみたが、そこにも「赤毛組合」とロスの正体を知る手がかりはなかった。その上、店に戻ってスポールディングに事情を説明しても、スポールディングは「そのうち連絡の手紙が来るかもしれない」などと無責任な返答をするだけで、ウィルスンはどうしても納得がいかないため、「赤毛組合」とロスの正体を何とかホームズに調べてもらいたいと依頼しに来たのである。 ウィルスンの話に興味を持って依頼を引き受けることにしたホームズは、スポールディングの特徴について質問した。ウィルスンの説明を聞いたホームズは、何か思い当たる所があったらしい。ウィルスンが帰ると、ホームズとワトスンはウィルスンの質屋に向かった。ホームズは質屋の前の敷石を数回ステッキで叩いてから、質屋のドアをノックする。そして応対に出たスポールディングに道を尋ね、その場を立ち去る。ホームズはワトスンに向かって「あの男はロンドンで4番目に悪賢く、3番目に大胆な男だ」と言い、続いて質屋の裏の大通りへ向かう。そこにはタバコ屋、新聞屋、銀行の支店、馬車製造会社の倉庫などが並んでいた。 「今夜仕事を手伝って欲しい。来る時には拳銃を忘れずに」とホームズに頼まれたワトスンは、一度家に戻り、夜に再度ベーカー街221Bを訪ねる。部屋にはホームズの他に、知り合いの警察官ピーター・ジョーンズ警部と、銀行の頭取であるというメリーウェザーがいた。ホームズは、この4人でジョン・クレイという犯罪者を捕まえるつもりなのである。 クレイはジョーンズが以前から追っているロンドンでも指折りの悪党で、ホームズも1~2度関わりを持ったことがあるという。4人は馬車で質屋の裏の銀行に向かい、地下室へと入った。メリーウェザーによると、この地下室には増資のためにフランス銀行から借り入れたナポレオン金貨3万枚、額にして60万フランが保管されているという。クレイはそのナポレオン金貨を狙っているに違いないとメリーウェザーは説明した。4人は暗闇の中、黙ってクレイを待ち伏せ続けた。 やがて地下室の敷石の一つが持ち上げられ、中からスポールディングを名乗っていたクレイが姿を現す。クレイが赤毛の仲間アーチー(ダンカン・ロスを演じていた男)を床下から引き上げようとした時、ホームズとジョーンズが飛び出した。ホームズは鞭でクレイの拳銃を叩き落とすが、ジョーンズが捕らえようとしたアーチーは上着だけを残して床下へ逃げ込んで行く。しかし、アーチーが逃げる先には、ジョーンズの指示であらかじめ3人の警察官が配置されており、クレイ一味が逃げ切ることは不可能の状態になっていた。逮捕されたクレイはホームズの手際の良さを賞賛すると、悪びれることもなくジョーンズの手で警察署へ連行されていき、メリーウェザーはクレイ一味の犯行計画を事前に阻止したホームズに感謝の言葉を述べるのであった。 ベーカー街の住所に戻ったホームズは、ワトスンに事件の種明かしを説明した。そもそも問題の店員が通常の半額の給料でウィルスンの店に雇用を希望したのは、彼がどうしてもウィルスンの店に入らねばならない理由があったためであること、さらに店員が赤毛の仲間と共謀して「赤毛組合」なる架空の団体をでっち上げ、組合員の仕事と称してウィルスンに百科事典の書写をさせていたのは、ウィルスンを毎日数時間ずつ外出させて、その間に店で何らかの作業を行うことが目的であったことを、ホームズは最初から見抜いていたのである。 一味がわざわざ高い給料を支払ってまでウィルスンを外出させていた点を考慮すると、一味がよほど莫大な価値のある物を狙っていたことは明らかであったが、そのような価値の高い物がウィルスンの小さなさびれた質屋にあるとは思えず、一味の真の狙いは店の外にあると考えられた。ウィルスンから聞いた店員の特徴から、店員の正体はクレイであると思われ、彼が頻繁に店の地下室へ潜っているというウィルスンの話を考慮すると、彼は店の地下室からどこかへ続くトンネルを掘っていたに違いない。 そのように推理したホームズは、ワトスンと共に質屋を訪ね、店の前の敷石をステッキで叩いて音を聴き、トンネルが店の前ではなく後ろの方に伸びていることを確認した。さらに道を尋ねる振りをしながらクレイの膝を見て、彼のズボンがひどく汚れ擦り切れていたことから、彼が間違いなくトンネル掘りの作業をしていたことを確信したのである。そして、質屋の裏の大通りに銀行の支店があるのを見付け、ここがクレイの目標だと知ったのだった。その上で、ホームズはスコットランドヤードを訪ねてジョーンズの応援を頼み、メリーウェザーに面会して段取りを整え、クレイ一味を逮捕するに至ったのである。 ホームズの説明を聞いたワトスンが「それでは、なぜ一味が計画を今夜実行することが分かったのか?」と質問すると、ホームズは次のように答えた。一味が「赤毛組合」の事務所を閉めたのは、トンネルが完成してそれ以上ウィルスンを外出させる必要がなくなったためであり、一味としてはトンネルの完成後できるだけ早く計画を実行する必要があった。加えて、土曜日の夜に計画を実行すれば、(次の日は日曜日で銀行が休業であり、少なくとも月曜日の朝までは犯行が発覚する恐れはないため)逃げるのに2日の余裕があることから、一味は必ず今夜銀行に現れると確信したのだという。「素晴らしい推理だ」と絶賛するワトスンに対し、「おかげで退屈からまぬがれることができた」と言いながら、ホームズはあくびをしてみせるのだった。 この事件の発生年代については、1890年10月9日に「赤毛組合」が解散したと明記されているが、シャーロキアンの間では、発生を1887年・1888年・1889年・1890年とする説がある。「赤毛組合」は「ワトスン博士の日付の間違いの最も顕著な例」と評される作品でもある。作中の記述によれば、ウィルスンが組合員の募集を知ったのは1890年4月27日付『ザ・モーニング・クロニクル(英語版)』紙の広告で、その広告を読んだワトスンはちょうど2ヶ月前だと発言している。ウィルスンは翌日から仕事を開始し、その8週間後に組合解散の張り紙を見たと書かれているのである。 まず、1890年4月27日は日曜日で、当時日曜日には新聞が発行されていないうえ、『ザ・モーニング・クロニクル』紙は既に廃刊となっていた。解散は10月9日と書かれているので、2ヶ月前や8週間後では計算が合わない。また、この1890年10月9日は木曜日だが、ホームズは今日が土曜日で逃亡に2日の余裕ができるため、今夜犯行に及ぶはずだと推理しているのである。 正典60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版 シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリング=グールドの説では、新聞広告は1887年8月27日土曜日付のもので、事件は「赤毛組合」が解散した1887年10月29日の土曜日から30日の日曜日までとしている。短編の冒頭に「去年の秋」(発表は『ストランド・マガジン』1891年8月号)とある点については、発表のかなり前に事件を原稿にまとめていたのだと解釈した。リチャード・ランセリン・グリーンはオックスフォード版全集の注釈で、4月27日の新聞広告について、ドイルの原稿では AG(8月)となっていたのを、AP(4月)と読み間違えて発表されてしまったのだろうとしたが、発生年については触れていない。 ワトソンが持って来た拳銃は回転式、それもホームズが「軍用ピストルを」と言っているのでおそらくウェブリー・リボルバーである。世界初の自動拳銃であるモーゼルC96が1896年登場、また量産された機種は20世紀になってからジョン・ブローニングによって発明されたもので、この当時は存在しない。 この「銀行の裏の無関係な家から穴をあけて金庫に侵入」という、突飛な窃盗手段は、若干やり方が違うが実行した人物がいる。1869年11月にアメリカ・ボストンで、犯罪界のナポレオンと異名を取ったアダム・ワース(英語版)がボイルストン州法銀行に侵入し、15万から20万ドルほどを盗み取ったというものだった。 ジョン・クレイ(ヴィンセント・スポールディング)とアーチー(ダンカン・ロス)の2人が掘ったトンネルに関して、様々な考察がなされている。作中、ホームズが歩道の敷石をステッキで叩いてトンネルの方向を確認する場面がある。これは正典中に「赤毛組合」と「高名な依頼人」での2回しかない、ホームズがステッキを持っている場面である。日本のシャーロキアンの一人である田中喜芳の実験では、トンネルの位置がごく浅い場合以外は叩いた時の音がほとんど変わらないという結果が出たため、ホームズの聴覚はかなり優れていたと考えられる。 クレイとアーチーの2人だけでトンネルが掘れるかという点について、日本のシャーロキアンの一人である紀伊国屋渡舟は、質屋から銀行まで約30メートル、トンネルが直径1メートルで、作業時間が「週5日間×8週間×1日4時間=160時間」と仮定した場合、1時間に20センチメートルのペースで掘れば到達できるので、可能であるとした。次の問題はトンネルから出る土砂で、量は前述の仮定に従うと約30立方メートル、重さは60-90トンになると推定される。この土砂の処分については、荷馬車に積んで運び出したとするS・タッパー・ビジローの説、歩道の下に貯めておく空間があったのだとするW・J・バーンズの説をベアリング=グールドが紹介している。紀伊国屋渡舟は、現場にちょうど地下水道か暗渠になった川がある場合、そこへ土砂を流せるため処分する手間が省けるとし、作中でトンネルについて詳細が語られなかったのは、同じ手口による事件の再発防止のためではないかと推測している。なお、ワースの場合は隣の建物の部屋から「壁を破って横に侵入」したため、残土問題は起きていない。 ナポレオン金貨1枚の重さは6.4516グラムで、3万枚だと190キログラム以上になり、この搬出方法も問題である。仮に質屋の付近に馬車を停めて金貨の箱を積み、そのまま馬車で移動するとした場合、人目を引くと考えられるからである。チャールズ・スコールフィールドは、トンネルは銀行の近くにあった馬車製造会社の倉庫へも掘られていて、この倉庫の馬車を使って運び出す予定だったとの説を唱えている。 一方、クレイとアーチーが肉体作業に向いているとは思えないこと、トンネルの掘削には土木工学の知識も必要とされることから、他に協力者がいたのではないかとする説がある。「赤毛組合」の審査の際にはサクラがいたと考えられ、ナポレオン金貨の情報が外部に漏れているにもかかわらず銀行が対策を取っていないため、多数の構成員を束ね銀行上層部への影響力も持つ、大規模な組織が事件の背後にいて、クレイは組織の中心人物の一人だった可能性がある。ロバート・R・パトリックや原章は、この組織の首領、事件の黒幕がジェームズ・モリアーティ教授であったと推測している。 イギリスのグラナダ・テレビが製作した『シャーロック・ホームズの冒険』では、第12話として「THE RED-HEADED LEAGUE」(赤髪連盟)が放映された。劇中では上記の推測が取り入れられ、事件の黒幕としてモリアーティ教授が登場している。この登場は、直後に続く第13話「THE FINAL PROBLEM」(最後の事件)への前兆でもあった。 ドイルの原稿や書簡の調査などから、短編で2番目に発表された「赤毛組合」は3番目の「花婿失踪事件」より後に書かれたことが判明している。発表順が前後したのは、ドイルの著作権代理人A・P・ワットから『ストランド・マガジン』編集部へこの2編が同時に送られたため、編集部が順番を取り違えて「赤毛組合」を先に掲載してしまったのだと考えられている。「赤毛組合」の冒頭で「花婿失踪事件」(劇中では「メアリー・サザーランド譲が持ち込んだちょっと簡単な事件」)について触れる場面があり、そこで「花婿失踪事件」が発表済みのような言い回しになっているのは、これが原因である。 なお、劇中での年代説明は上述以外に「赤毛組合」は冒頭の一行目で「(これを執筆した時から見て)去年の秋のある日」と言われ、赤毛組合の解散日が「1890年10月9日」とドアに張ってあり、また終盤で警官のジョーンズが「四つの署名(本編の呼称は「ショルトー殺しのアグラ大宝物事件」)」に触れる場面がある。一方、「花婿失踪事件」は時期は明記してないが、ホームズが中盤でウィンディバンクを呼び出す手紙を書き始めた際にワトソンが「緋色の研究」、「四つの署名」、「ボヘミアの醜聞(本編の呼称は「アイリーン・アドラーの写真事件」)」を思い返している場面がある。 当時のヨーロッパでは赤毛の人々に対して様々な偏見があった。 店員のスポールディング(クレイ)がウィルスンに「赤毛組合」のことを説明する際、百万長者だった赤毛の男は自分と同じ赤毛の人々に深く同情しており、赤毛の人々を支援する目的で「赤毛組合」を創立したのだと語っている。 なお、シャーロック・ホームズ関連の小説が日本に紹介されたのは明治30年代(1897年~1907年)だが、欧米文化や欧米人の髪の色に疎い当時の日本人には、「赤毛」のニュアンスが理解できなかった。そのため、初めてホームズ関連作品を体系的に邦訳した翻訳家・水田南陽(1869-1958)は、当作品を翻訳するに当たり「赤毛」の設定を「禿頭」に変え、題名も「禿頭倶楽部」とした。ちなみに水田の訳では、英語の人名や地名はつとめて「日本的」なものに変えられ、ホームズは「大探偵」、ワトソンは「医学士」、2人が住むベーカー街は「麺麭屋町」、赤毛のウィルスン氏は「禿頭の植木氏」として登場する。 犯罪者が理由をつけてターゲットを外出させ、その間に留守宅で悪事を行うという、いわゆる「赤毛トリック」はここから生まれた。ドイル自身このトリックを他に3度(「三人ガリデブ」と「株式仲買店員」、「隠居絵具師」で)使っている。 三谷幸喜脚本の人形劇『シャーロックホームズ』では、赤髪に劣等感を持つ生徒・ジェイベズウィルソンは、赤毛クラブの活動として、与えられた物を赤く塗る作業を行っていた。ウィルソンが立ち入り禁止区域の沼地に行ってほしくないのが、ダンカンロスのねらいであった(沼地にいる水鳥の写生をしたかったが、ウィルソンがいると水鳥が警戒してしまうから、追い出す必要があった)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "『赤毛組合』(あかげくみあい、The Red-Headed League)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち2番目に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年8月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes) に収録された。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1927年6月、ドイルは『ストランド・マガジン』に発表した自選12編の中で、「プロットに独創性がある」として、「赤毛組合」を第2位に置いている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本語版では訳者により、「赤毛連盟」「赤髪組合」「赤髪連盟」「赤毛クラブ」などの邦題も使用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1890年10月9日の土曜日、ベーカー街221Bに住む私立諮問探偵のシャーロック・ホームズの住居兼事務所を、医師で伝記作家でもある友人のジョン・H・ワトスンが訪ねた。ホームズは燃えるような赤毛の初老の男性、ジェイベズ・ウィルスンから相談を受けていた。とても奇妙な体験をしたというウィルスンから、ホームズとワトスンは詳しい事情を聞く。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ウィルスンは小さなさびれた質屋の店主で、ヴィンセント・スポールディングという男を雇っている。スポールディングは「通常の半額の給料で構わない」と言ってウィルスンの店に採用された店員で、気が利いてよく働き、店員としては優秀だが、ひとつ欠点がある。彼は写真が趣味で、撮影した写真を現像するために暗室代わりにしている店の地下室へ頻繁に潜り込むのだという。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "8週間前、そのスポールディングがウィルスンに新聞広告を見せた。その内容は、「赤毛組合」に欠員が出たので組合員を1名募集するというものであった。「赤毛組合」は、百万長者だった赤毛の男が自分の遺産を同じく赤毛の人々に分け与えるために創立した団体で、組合員は簡単な仕事をするだけで高額の給料が得られ、ロンドンに住む健康な赤毛の成人男性であれば誰でも応募できるらしい。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "スポールディングから応募を勧められたウィルスンは、指定された日時にスポールディングに案内されて「赤毛組合」の事務所を訪れた。そこには審査を受けるために大勢の赤毛の男たちが集まっていたが、彼らはことごとく審査で不合格にされていた。ところが、審査を行っていた赤毛の小男、ダンカン・ロスはウィルスンをひと目で気に入り、新たな組合員として認めたのである。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "組合員の仕事というのは、毎日午前10時から午後2時までの4時間、事務所にこもって『大英百科事典』を書写するというものであった。この4時間、ウィルスンはどんな事情があっても絶対に事務所の外へ出てはならず、これに違反した場合は組合員の地位を失うことになると言い渡された。幸いなことに質屋の仕事は夕方が忙しく、昼間は来客が少ないため、ウィルスンは翌日から昼間の店番をスポールディングに任せ、ロスから指示された通りに毎日10時から2時まで一人きりの事務所で書写の仕事を行う。給料は週に4ポンドずつロスから支払われ、順調に8週間が過ぎていった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ところが今朝、ウィルスンが事務所へ行くと、入口の扉は施錠されていて、「赤毛組合は解散した」とだけ書かれた貼り紙があるのみだった。驚いたウィルスンはロスを探そうとしたが、事務所の家主は「赤毛組合」のこともロスの名前も知らなかった。家主によると、事務所を借りていた赤毛の男は違う名前を名乗っており、その男はすでに引っ越したという。ウィルスンは家主から聞いた男の引っ越し先を訪ねてみたが、そこにも「赤毛組合」とロスの正体を知る手がかりはなかった。その上、店に戻ってスポールディングに事情を説明しても、スポールディングは「そのうち連絡の手紙が来るかもしれない」などと無責任な返答をするだけで、ウィルスンはどうしても納得がいかないため、「赤毛組合」とロスの正体を何とかホームズに調べてもらいたいと依頼しに来たのである。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ウィルスンの話に興味を持って依頼を引き受けることにしたホームズは、スポールディングの特徴について質問した。ウィルスンの説明を聞いたホームズは、何か思い当たる所があったらしい。ウィルスンが帰ると、ホームズとワトスンはウィルスンの質屋に向かった。ホームズは質屋の前の敷石を数回ステッキで叩いてから、質屋のドアをノックする。そして応対に出たスポールディングに道を尋ね、その場を立ち去る。ホームズはワトスンに向かって「あの男はロンドンで4番目に悪賢く、3番目に大胆な男だ」と言い、続いて質屋の裏の大通りへ向かう。そこにはタバコ屋、新聞屋、銀行の支店、馬車製造会社の倉庫などが並んでいた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "「今夜仕事を手伝って欲しい。来る時には拳銃を忘れずに」とホームズに頼まれたワトスンは、一度家に戻り、夜に再度ベーカー街221Bを訪ねる。部屋にはホームズの他に、知り合いの警察官ピーター・ジョーンズ警部と、銀行の頭取であるというメリーウェザーがいた。ホームズは、この4人でジョン・クレイという犯罪者を捕まえるつもりなのである。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "クレイはジョーンズが以前から追っているロンドンでも指折りの悪党で、ホームズも1~2度関わりを持ったことがあるという。4人は馬車で質屋の裏の銀行に向かい、地下室へと入った。メリーウェザーによると、この地下室には増資のためにフランス銀行から借り入れたナポレオン金貨3万枚、額にして60万フランが保管されているという。クレイはそのナポレオン金貨を狙っているに違いないとメリーウェザーは説明した。4人は暗闇の中、黙ってクレイを待ち伏せ続けた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "やがて地下室の敷石の一つが持ち上げられ、中からスポールディングを名乗っていたクレイが姿を現す。クレイが赤毛の仲間アーチー(ダンカン・ロスを演じていた男)を床下から引き上げようとした時、ホームズとジョーンズが飛び出した。ホームズは鞭でクレイの拳銃を叩き落とすが、ジョーンズが捕らえようとしたアーチーは上着だけを残して床下へ逃げ込んで行く。しかし、アーチーが逃げる先には、ジョーンズの指示であらかじめ3人の警察官が配置されており、クレイ一味が逃げ切ることは不可能の状態になっていた。逮捕されたクレイはホームズの手際の良さを賞賛すると、悪びれることもなくジョーンズの手で警察署へ連行されていき、メリーウェザーはクレイ一味の犯行計画を事前に阻止したホームズに感謝の言葉を述べるのであった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ベーカー街の住所に戻ったホームズは、ワトスンに事件の種明かしを説明した。そもそも問題の店員が通常の半額の給料でウィルスンの店に雇用を希望したのは、彼がどうしてもウィルスンの店に入らねばならない理由があったためであること、さらに店員が赤毛の仲間と共謀して「赤毛組合」なる架空の団体をでっち上げ、組合員の仕事と称してウィルスンに百科事典の書写をさせていたのは、ウィルスンを毎日数時間ずつ外出させて、その間に店で何らかの作業を行うことが目的であったことを、ホームズは最初から見抜いていたのである。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一味がわざわざ高い給料を支払ってまでウィルスンを外出させていた点を考慮すると、一味がよほど莫大な価値のある物を狙っていたことは明らかであったが、そのような価値の高い物がウィルスンの小さなさびれた質屋にあるとは思えず、一味の真の狙いは店の外にあると考えられた。ウィルスンから聞いた店員の特徴から、店員の正体はクレイであると思われ、彼が頻繁に店の地下室へ潜っているというウィルスンの話を考慮すると、彼は店の地下室からどこかへ続くトンネルを掘っていたに違いない。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "そのように推理したホームズは、ワトスンと共に質屋を訪ね、店の前の敷石をステッキで叩いて音を聴き、トンネルが店の前ではなく後ろの方に伸びていることを確認した。さらに道を尋ねる振りをしながらクレイの膝を見て、彼のズボンがひどく汚れ擦り切れていたことから、彼が間違いなくトンネル掘りの作業をしていたことを確信したのである。そして、質屋の裏の大通りに銀行の支店があるのを見付け、ここがクレイの目標だと知ったのだった。その上で、ホームズはスコットランドヤードを訪ねてジョーンズの応援を頼み、メリーウェザーに面会して段取りを整え、クレイ一味を逮捕するに至ったのである。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ホームズの説明を聞いたワトスンが「それでは、なぜ一味が計画を今夜実行することが分かったのか?」と質問すると、ホームズは次のように答えた。一味が「赤毛組合」の事務所を閉めたのは、トンネルが完成してそれ以上ウィルスンを外出させる必要がなくなったためであり、一味としてはトンネルの完成後できるだけ早く計画を実行する必要があった。加えて、土曜日の夜に計画を実行すれば、(次の日は日曜日で銀行が休業であり、少なくとも月曜日の朝までは犯行が発覚する恐れはないため)逃げるのに2日の余裕があることから、一味は必ず今夜銀行に現れると確信したのだという。「素晴らしい推理だ」と絶賛するワトスンに対し、「おかげで退屈からまぬがれることができた」と言いながら、ホームズはあくびをしてみせるのだった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "この事件の発生年代については、1890年10月9日に「赤毛組合」が解散したと明記されているが、シャーロキアンの間では、発生を1887年・1888年・1889年・1890年とする説がある。「赤毛組合」は「ワトスン博士の日付の間違いの最も顕著な例」と評される作品でもある。作中の記述によれば、ウィルスンが組合員の募集を知ったのは1890年4月27日付『ザ・モーニング・クロニクル(英語版)』紙の広告で、その広告を読んだワトスンはちょうど2ヶ月前だと発言している。ウィルスンは翌日から仕事を開始し、その8週間後に組合解散の張り紙を見たと書かれているのである。 まず、1890年4月27日は日曜日で、当時日曜日には新聞が発行されていないうえ、『ザ・モーニング・クロニクル』紙は既に廃刊となっていた。解散は10月9日と書かれているので、2ヶ月前や8週間後では計算が合わない。また、この1890年10月9日は木曜日だが、ホームズは今日が土曜日で逃亡に2日の余裕ができるため、今夜犯行に及ぶはずだと推理しているのである。", "title": "年代学" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "正典60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版 シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリング=グールドの説では、新聞広告は1887年8月27日土曜日付のもので、事件は「赤毛組合」が解散した1887年10月29日の土曜日から30日の日曜日までとしている。短編の冒頭に「去年の秋」(発表は『ストランド・マガジン』1891年8月号)とある点については、発表のかなり前に事件を原稿にまとめていたのだと解釈した。リチャード・ランセリン・グリーンはオックスフォード版全集の注釈で、4月27日の新聞広告について、ドイルの原稿では AG(8月)となっていたのを、AP(4月)と読み間違えて発表されてしまったのだろうとしたが、発生年については触れていない。", "title": "年代学" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": 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"犯罪者が理由をつけてターゲットを外出させ、その間に留守宅で悪事を行うという、いわゆる「赤毛トリック」はここから生まれた。ドイル自身このトリックを他に3度(「三人ガリデブ」と「株式仲買店員」、「隠居絵具師」で)使っている。", "title": "備考" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "三谷幸喜脚本の人形劇『シャーロックホームズ』では、赤髪に劣等感を持つ生徒・ジェイベズウィルソンは、赤毛クラブの活動として、与えられた物を赤く塗る作業を行っていた。ウィルソンが立ち入り禁止区域の沼地に行ってほしくないのが、ダンカンロスのねらいであった(沼地にいる水鳥の写生をしたかったが、ウィルソンがいると水鳥が警戒してしまうから、追い出す必要があった)。", "title": "備考" } ]
『赤毛組合』は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編小説。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、56ある短編小説のうち2番目に発表された作品である。『ストランド・マガジン』1891年8月号初出。1892年発行の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』(The Adventures of Sherlock Holmes) に収録された。 1927年6月、ドイルは『ストランド・マガジン』に発表した自選12編の中で、「プロットに独創性がある」として、「赤毛組合」を第2位に置いている。 日本語版では訳者により、「赤毛連盟」「赤髪組合」「赤髪連盟」「赤毛クラブ」などの邦題も使用される。
{{Portal|文学}} {{シャーロック・ホームズ|1891年|シャーロック・ホームズの冒険|ジェイベズ・ウィルスン|本文中に1890年とあるが、後述の通り異説もある|金庫破り}} 『'''赤毛組合'''』(あかげくみあい、{{En|''The Red-Headed League''}})は、イギリスの小説家、[[アーサー・コナン・ドイル]]による短編小説。[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の一つで、56ある短編小説のうち2番目に発表された作品である。『[[ストランド・マガジン]]』1891年8月号初出。1892年発行の短編集『[[シャーロック・ホームズの冒険]]』({{En|''The Adventures of Sherlock Holmes''}}) に収録された<ref name="JT">ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、22頁</ref>。 1927年6月、ドイルは『ストランド・マガジン』に発表した自選12編の中で、「プロットに独創性がある」として、「赤毛組合」を第2位に置いている<ref>『[[シャーロック・ホームズの冒険]]』から『[[シャーロック・ホームズ最後の挨拶]]』までに収録された、44編の短編から選出した。 - マシュー・バンソン編著『シャーロック・ホームズ百科事典』日暮雅通監訳、原書房、1997年、XXI頁</ref>。 日本語版では訳者により、「赤毛'''連盟'''」「赤髪'''組合'''」「赤髪'''連盟'''」「赤毛'''クラブ'''」などの邦題も使用される。 == あらすじ == [[ファイル:Redh-02.jpg|thumb|200px|right|ウィルスン、ホームズ、新聞を読むワトスン - [[シドニー・パジェット]]画、『ストランド・マガジン』掲載の挿絵]] 1890年10月9日の土曜日、[[ベーカー街221B]]に住む私立諮問[[探偵]]の[[シャーロック・ホームズ]]の[[住居]]兼[[事務所]]を、[[医師]]で[[伝記作家]]でもある[[友人]]の[[ジョン・H・ワトスン]]が訪ねた。ホームズは燃えるような[[ヒトの髪の色#赤毛|赤毛]]の[[初老]]の男性、'''ジェイベズ・ウィルスン'''から相談を受けていた。とても奇妙な体験をしたというウィルスンから、ホームズとワトスンは詳しい事情を聞く。 ウィルスンは小さなさびれた[[質屋]]の店主で、'''ヴィンセント・スポールディング'''という男を[[雇用|雇っている]]。スポールディングは「通常の半額の[[給料]]で構わない」と言ってウィルスンの店に採用された店員で、気が利いてよく働き、店員としては優秀だが、ひとつ欠点がある。彼は[[写真]]が趣味で、撮影した写真を[[現像]]するために[[暗室]]代わりにしている店の地下室へ頻繁に潜り込むのだという。 8週間前、そのスポールディングがウィルスンに[[新聞]][[広告]]を見せた。その内容は、'''「赤毛組合」'''に欠員が出たので組合員を1名募集するというものであった。「赤毛組合」は、[[百万長者]]だった赤毛の男が自分の遺産を同じく赤毛の人々に分け与えるために創立した[[団体]]で、組合員は簡単な仕事をするだけで高額の給料が得られ、[[ロンドン]]に住む健康な赤毛の成人男性であれば誰でも応募できるらしい。 スポールディングから応募を勧められたウィルスンは、指定された日時にスポールディングに案内されて「赤毛組合」の事務所を訪れた。そこには審査を受けるために大勢の赤毛の男たちが集まっていたが、彼らはことごとく審査で不合格にされていた。ところが、審査を行っていた赤毛の小男、'''ダンカン・ロス'''はウィルスンをひと目で気に入り、新たな組合員として認めたのである。 [[ファイル:Redh-05.jpg|thumb|200px|left|“THE RED-HEADED LEAGUE IS DISSOLVED” - シドニー・パジェット画、『ストランド・マガジン』掲載の挿絵]] 組合員の[[労働|仕事]]というのは、毎日午前10時から午後2時までの4時間、事務所にこもって『[[ブリタニカ百科事典|大英百科事典]]』を書写するというものであった。この4時間、ウィルスンはどんな事情があっても絶対に事務所の外へ出てはならず、これに違反した場合は組合員の地位を失うことになると言い渡された。幸いなことに質屋の仕事は夕方が忙しく、昼間は来客が少ないため、ウィルスンは翌日から昼間の店番をスポールディングに任せ、ロスから指示された通りに毎日10時から2時まで一人きりの事務所で書写の仕事を行う。給料は週に4[[ポンド (通貨)|ポンド]]ずつロスから支払われ、順調に8週間が過ぎていった。 ところが今朝、ウィルスンが事務所へ行くと、入口の扉は施錠されていて、「'''赤毛組合は[[解散]]した'''」とだけ書かれた貼り紙があるのみだった。驚いたウィルスンはロスを探そうとしたが、事務所の家主は「赤毛組合」のこともロスの名前も知らなかった。家主によると、事務所を借りていた赤毛の男は違う名前を名乗っており、その男はすでに引っ越したという。ウィルスンは家主から聞いた男の引っ越し先を訪ねてみたが、そこにも「赤毛組合」とロスの正体を知る手がかりはなかった。その上、店に戻ってスポールディングに事情を説明しても、スポールディングは「そのうち連絡の手紙が来るかもしれない」などと無責任な返答をするだけで、ウィルスンはどうしても納得がいかないため、「赤毛組合」とロスの正体を何とかホームズに調べてもらいたいと[[依頼]]しに来たのである。 ウィルスンの話に興味を持って依頼を引き受けることにしたホームズは、スポールディングの特徴について質問した。ウィルスンの説明を聞いたホームズは、何か思い当たる所があったらしい。ウィルスンが帰ると、ホームズとワトスンはウィルスンの質屋に向かった。ホームズは質屋の前の敷石を数回ステッキで叩いてから、質屋のドアをノックする。そして応対に出たスポールディングに道を尋ね、その場を立ち去る。ホームズはワトスンに向かって「あの男はロンドンで4番目に悪賢く、3番目に大胆な男だ」と言い、続いて質屋の裏の大通りへ向かう。そこにはタバコ屋、新聞屋、銀行の支店、[[馬車]]製造会社の倉庫などが並んでいた。 [[ファイル:Redh-10.jpg|thumb|200px|right|クレイを取り押さえるホームズ - シドニー・パジェット画、『ストランド・マガジン』掲載の挿絵]] 「今夜仕事を手伝って欲しい。来る時には[[拳銃]]を忘れずに」とホームズに頼まれたワトスンは、一度家に戻り、夜に再度[[ベーカー街]]221Bを訪ねる。部屋にはホームズの他に、知り合いの[[警察官]]'''ピーター・ジョーンズ警部'''と、銀行の[[頭取]]であるという'''メリーウェザー'''がいた。ホームズは、この4人で'''ジョン・クレイ'''という犯罪者を捕まえるつもりなのである。 クレイはジョーンズが以前から追っているロンドンでも指折りの悪党で、ホームズも1~2度関わりを持ったことがあるという。4人は馬車で質屋の裏の銀行に向かい、地下室へと入った。メリーウェザーによると、この地下室には増資のために[[フランス銀行]]から[[借入金|借り入れた]][[ナポレオン金貨]]3万枚、額にして60万[[フラン (通貨)|フラン]]が保管されているという。クレイはそのナポレオン金貨を狙っているに違いないとメリーウェザーは説明した。4人は暗闇の中、黙ってクレイを待ち伏せ続けた。 やがて地下室の[[敷石]]の一つが持ち上げられ、中からスポールディングを名乗っていたクレイが姿を現す。クレイが赤毛の仲間'''アーチー'''(ダンカン・ロスを演じていた男)を床下から引き上げようとした時、ホームズとジョーンズが飛び出した。ホームズは[[鞭]]でクレイの拳銃を叩き落とすが、ジョーンズが捕らえようとしたアーチーは上着だけを残して床下へ逃げ込んで行く。しかし、アーチーが逃げる先には、ジョーンズの指示であらかじめ3人の警察官が配置されており、クレイ一味が逃げ切ることは不可能の状態になっていた。逮捕されたクレイはホームズの手際の良さを賞賛すると、悪びれることもなくジョーンズの手で警察署へ連行されていき、メリーウェザーはクレイ一味の犯行計画を事前に阻止したホームズに[[感謝]]の言葉を述べるのであった。 ベーカー街の住所に戻ったホームズは、ワトスンに事件の種明かしを説明した。そもそも問題の店員が通常の半額の給料でウィルスンの店に雇用を希望したのは、彼がどうしてもウィルスンの店に入らねばならない理由があったためであること、さらに店員が赤毛の仲間と共謀して「赤毛組合」なる架空の団体をでっち上げ、組合員の仕事と称してウィルスンに百科事典の書写をさせていたのは、ウィルスンを毎日数時間ずつ外出させて、その間に店で何らかの作業を行うことが目的であったことを、ホームズは最初から見抜いていたのである。 一味がわざわざ高い給料を支払ってまでウィルスンを外出させていた点を考慮すると、一味がよほど莫大な価値のある物を狙っていたことは明らかであったが、そのような価値の高い物がウィルスンの小さなさびれた質屋にあるとは思えず、一味の真の狙いは店の外にあると考えられた。ウィルスンから聞いた店員の特徴から、店員の正体はクレイであると思われ、彼が頻繁に店の地下室へ潜っているというウィルスンの話を考慮すると、彼は店の地下室からどこかへ続くトンネルを掘っていたに違いない。 そのように推理したホームズは、ワトスンと共に質屋を訪ね、店の前の敷石をステッキで叩いて音を聴き、[[トンネル]]が店の前ではなく後ろの方に伸びていることを確認した。さらに道を尋ねる振りをしながらクレイの膝を見て、彼のズボンがひどく汚れ擦り切れていたことから、彼が間違いなくトンネル掘りの作業をしていたことを確信したのである。そして、質屋の裏の大通りに銀行の支店があるのを見付け、ここがクレイの目標だと知ったのだった。その上で、ホームズは[[スコットランドヤード]]を訪ねてジョーンズの応援を頼み、メリーウェザーに面会して段取りを整え、クレイ一味を逮捕するに至ったのである。 ホームズの説明を聞いたワトスンが「それでは、なぜ一味が計画を今夜実行することが分かったのか?」と質問すると、ホームズは次のように答えた。一味が「赤毛組合」の事務所を閉めたのは、トンネルが完成してそれ以上ウィルスンを外出させる必要がなくなったためであり、一味としてはトンネルの完成後できるだけ早く計画を実行する必要があった。加えて、土曜日の夜に計画を実行すれば、(次の日は日曜日で銀行が休業であり、少なくとも月曜日の朝までは犯行が発覚する恐れはないため)逃げるのに2日の余裕があることから、一味は必ず今夜銀行に現れると確信したのだという。「素晴らしい推理だ」と絶賛するワトスンに対し、「おかげで退屈からまぬがれることができた」と言いながら、ホームズはあくびをしてみせるのだった。 == 年代学 == この事件の発生年代については、1890年10月9日に「赤毛組合」が解散したと明記されているが、[[シャーロキアン]]の間では、発生を1887年・1888年・1889年・1890年とする説がある<ref name="JT" />。「赤毛組合」は「ワトスン博士の日付の間違いの最も顕著な例」と評される作品でもある<ref>マシュー・バンソン編著『シャーロック・ホームズ百科事典』日暮雅通監訳、原書房、1997年、4-5頁</ref>。作中の記述によれば、ウィルスンが組合員の募集を知ったのは1890年4月27日付『{{仮リンク|ザ・モーニング・クロニクル|en|The Morning Chronicle}}』紙の広告で、その広告を読んだワトスンはちょうど2ヶ月前だと発言している。ウィルスンは翌日から仕事を開始し、その8週間後に組合解散の張り紙を見たと書かれているのである。 まず、1890年4月27日は日曜日で、当時日曜日には新聞が発行されていないうえ、『ザ・モーニング・クロニクル』紙は既に廃刊となっていた<ref name="BG">コナン・ドイル著、ベアリング=グールド解説と注『詳注版 シャーロック・ホームズ全集3』小池滋監訳、筑摩書房〈ちくま文庫〉、1997年、461-540頁</ref>。解散は10月9日と書かれているので、2ヶ月前や8週間後では計算が合わない。また、この1890年10月9日は木曜日だが、ホームズは今日が土曜日で逃亡に2日の余裕ができるため、今夜犯行に及ぶはずだと推理しているのである。 [[シャーロック・ホームズシリーズ#正典と外典|正典]]60編の事件を発生年代順に並べた『詳注版 シャーロック・ホームズ全集』を発表したベアリング=グールドの説では、新聞広告は1887年8月27日土曜日付のもので、事件は「赤毛組合」が解散した1887年10月29日の土曜日から30日の日曜日までとしている。短編の冒頭に「去年の秋」(発表は『ストランド・マガジン』1891年8月号)とある点については、発表のかなり前に事件を原稿にまとめていたのだと解釈した<ref name="BG" />。リチャード・ランセリン・グリーンはオックスフォード版全集の注釈で、4月27日の新聞広告について、ドイルの原稿では AG(8月)となっていたのを、AP(4月)と読み間違えて発表されてしまったのだろうとしたが、発生年については触れていない<ref name="RLG">コナン・ドイル著、リチャード・ランセリン・グリーン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第3巻 シャーロック・ホームズの冒険』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1998年、518-538頁</ref>。 ワトソンが持って来た拳銃は回転式、それもホームズが「軍用ピストルを」と言っているのでおそらく[[ウェブリー・リボルバー]]である。世界初の自動拳銃である[[モーゼルC96]]が1896年登場、また量産された機種は20世紀になってから[[ジョン・ブローニング]]によって発明されたもので、この当時は存在しない。 == トンネルと真犯人 == [[ファイル:The Adventure of the Final Problem 03.jpg|thumb|200px|right|モリアーティ教授 - シドニー・パジェット画、「[[最後の事件]]」『ストランド・マガジン』掲載の挿絵]] この「銀行の裏の無関係な家から穴をあけて金庫に侵入」という、突飛な窃盗手段は、若干やり方が違うが実行した人物がいる。1869年11月にアメリカ・ボストンで、'''犯罪界のナポレオン'''と異名を取った{{仮リンク|アダム・ワース|en|Adam Worth}}がボイルストン州法銀行に侵入し、15万から20万ドルほどを盗み取ったというものだった<ref>『科学探偵シャーロック・ホームズ』J・オブライエン 著、日暮雅通 訳、東京化学同人、2021年、ISBN 978-4-8079-0983-4、p75-77.</ref>。 ジョン・クレイ(ヴィンセント・スポールディング)とアーチー(ダンカン・ロス)の2人が掘った[[トンネル]]に関して、様々な考察がなされている。作中、ホームズが歩道の敷石を[[杖|ステッキ]]で叩いてトンネルの方向を確認する場面がある。これは正典中に「赤毛組合」と「[[高名な依頼人]]」での2回しかない、ホームズがステッキを持っている場面である<ref name="BG" />。日本のシャーロキアンの一人である田中喜芳の実験では、トンネルの位置がごく浅い場合以外は叩いた時の音がほとんど変わらないという結果が出たため、ホームズの聴覚はかなり優れていたと考えられる<ref>紀伊国屋渡舟「赤髪組合の質屋」『ホームズまるわかり事典 『緋色の研究』から『ショスコム荘』まで』平賀三郎編著、青弓社、2009年、17-18頁</ref>。 クレイとアーチーの2人だけでトンネルが掘れるかという点について、日本のシャーロキアンの一人である紀伊国屋渡舟は、質屋から銀行まで約30メートル、トンネルが直径1メートルで、作業時間が「週5日間×8週間×1日4時間=160時間」と仮定した場合、1時間に20センチメートルのペースで掘れば到達できるので、可能であるとした<ref name="紀伊国屋">紀伊国屋渡舟「赤髪組合のトンネルの謎」『ホームズまるわかり事典 『緋色の研究』から『ショスコム荘』まで』平賀三郎編著、青弓社、2009年、19-20頁</ref>。次の問題はトンネルから出る土砂で、量は前述の仮定に従うと約30立方メートル、重さは60-90トンになると推定される。この土砂の処分については、荷馬車に積んで運び出したとするS・タッパー・ビジローの説、歩道の下に貯めておく空間があったのだとするW・J・バーンズの説をベアリング=グールドが紹介している<ref name="BG" />。紀伊国屋渡舟は、現場にちょうど地下水道か暗渠になった川がある場合、そこへ土砂を流せるため処分する手間が省けるとし、作中でトンネルについて詳細が語られなかったのは、同じ手口による事件の再発防止のためではないかと推測している<ref name="紀伊国屋" />。なお、ワースの場合は隣の建物の部屋から「壁を破って横に侵入」したため、残土問題は起きていない。 [[ナポレオン金貨]]1枚の重さは6.4516グラムで、3万枚だと190キログラム以上になり、この搬出方法も問題である。仮に質屋の付近に馬車を停めて金貨の箱を積み、そのまま馬車で移動するとした場合、人目を引くと考えられるからである。チャールズ・スコールフィールドは、トンネルは銀行の近くにあった馬車製造会社の倉庫へも掘られていて、この倉庫の馬車を使って運び出す予定だったとの説を唱えている<ref name="BG" />。 一方、クレイとアーチーが肉体作業に向いているとは思えないこと<ref>クレイとアーチーはどちらも小柄な男と記述されていて、クレイについては女性のような手の持ち主と表現される場面もある。</ref>、トンネルの掘削には[[土木工学]]の知識も必要とされることから、他に協力者がいたのではないかとする説がある。「赤毛組合」の審査の際には[[サクラ (おとり)|サクラ]]がいたと考えられ、ナポレオン金貨の情報が外部に漏れているにもかかわらず銀行が対策を取っていないため、多数の構成員を束ね銀行上層部への影響力も持つ、大規模な組織が事件の背後にいて、クレイは組織の中心人物の一人だった可能性がある。ロバート・R・パトリックや原章は、この組織の首領、事件の黒幕が[[ジェームズ・モリアーティ]]教授であったと推測している<ref name="BG" /><ref>原章「《赤毛組合》の真犯人」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、25-26頁</ref>。 イギリスのグラナダ・テレビが製作した『[[シャーロック・ホームズの冒険 (テレビドラマ)|シャーロック・ホームズの冒険]]』では、第12話として「THE RED-HEADED LEAGUE」(赤髪連盟)が放映された。劇中では上記の推測が取り入れられ、事件の黒幕としてモリアーティ教授が登場している。この登場は、直後に続く第13話「THE FINAL PROBLEM」(最後の事件)への前兆でもあった<ref>ピーター・ヘイニング『NHKテレビ版 シャーロック・ホームズの冒険』岩井田雅行・緒方桂子訳、求龍堂、1998年、237頁</ref>。 == 執筆と発表の順番 == ドイルの原稿や書簡の調査などから、短編で2番目に発表された「赤毛組合」は3番目の「[[花婿失踪事件]]」より後に書かれたことが判明している。発表順が前後したのは、ドイルの著作権代理人A・P・ワットから『ストランド・マガジン』編集部へこの2編が同時に送られたため、編集部が順番を取り違えて「赤毛組合」を先に掲載してしまったのだと考えられている。「赤毛組合」の冒頭で「花婿失踪事件」(劇中では「メアリー・サザーランド譲が持ち込んだちょっと簡単な事件」)について触れる場面があり、そこで「花婿失踪事件」が発表済みのような言い回しになっているのは、これが原因である<ref>コナン・ドイル著、リチャード・ランセリン・グリーン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第3巻 シャーロック・ホームズの冒険』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1998年、518頁・671-672頁</ref>。 なお、劇中での年代説明は上述以外に「赤毛組合」は冒頭の一行目で「(これを執筆した時から見て)去年の秋のある日」と言われ、赤毛組合の解散日が「1890年10月9日」とドアに張ってあり、また終盤で警官のジョーンズが「四つの署名(本編の呼称は「ショルトー殺しのアグラ大宝物事件」)」に触れる場面がある。一方、「花婿失踪事件」は時期は明記してないが、ホームズが中盤でウィンディバンクを呼び出す手紙を書き始めた際にワトソンが「緋色の研究」、「四つの署名」、「ボヘミアの醜聞(本編の呼称は「アイリーン・アドラーの写真事件」)」を思い返している場面がある。 == 備考 == 当時のヨーロッパでは[[赤毛#文化|赤毛の人々に対して様々な偏見]]があった。 店員のスポールディング(クレイ)がウィルスンに「赤毛組合」のことを説明する際、百万長者だった赤毛の男は自分と同じ赤毛の人々に深く同情しており、赤毛の人々を支援する目的で「赤毛組合」を創立したのだと語っている<ref>ストランド・マガジン版(1891年)および『シャーロック・ホームズの冒険』版(1892年)で He was himself red-headed, and he had a great sympathy for all red-headed men; との記述を確認できる https://en.wikisource.org/wiki/The_Red-Headed_League</ref>。 なお、シャーロック・ホームズ関連の小説が日本に紹介されたのは明治30年代([[1897年]]~[[1907年]])だが、欧米文化や欧米人の髪の色に疎い当時の日本人には、「赤毛」のニュアンスが理解できなかった。そのため、初めてホームズ関連作品を体系的に邦訳した翻訳家・[[水田南陽]](1869-1958)は、当作品を翻訳するに当たり「赤毛」の設定を「禿頭」に変え、題名も「禿頭倶楽部」とした。ちなみに水田の訳では、英語の人名や地名はつとめて「日本的」なものに変えられ、ホームズは「大探偵」、ワトソンは「医学士」、2人が住むベーカー街は「麺麭屋町」、赤毛のウィルスン氏は「禿頭の植木氏」として登場する<ref>堀啓子『日本ミステリー小説史 黒岩涙香から松本清張へ』中公新書、2014年、142-149頁</ref>。 犯罪者が理由をつけてターゲットを外出させ、その間に留守宅で悪事を行うという、いわゆる「赤毛トリック」はここから生まれた。ドイル自身このトリックを他に3度(「[[三人ガリデブ]]」と「[[株式仲買店員]]」、「[[隠居絵具師]]」で)使っている<ref>「[[隠居絵具師]]」ではホームズが捜査のためにこのトリックを使っている。</ref>。 [[三谷幸喜]]脚本の人形劇『[[シャーロック ホームズ (人形劇)|シャーロックホームズ]]』では、赤髪に劣等感を持つ生徒・ジェイベズウィルソンは、赤毛クラブの活動として、与えられた物を赤く塗る作業を行っていた。ウィルソンが立ち入り禁止区域の沼地に行ってほしくないのが、ダンカンロスのねらいであった(沼地にいる水鳥の写生をしたかったが、ウィルソンがいると水鳥が警戒してしまうから、追い出す必要があった)。 == 脚注 == <references /> == 外部リンク == {{Wikisourcelang|en|The Red-headed League}} *{{青空文庫|000009|8|新字新仮名|赤毛連盟}}(大久保ゆう訳) {{シャーロック・ホームズの冒険}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あかけくみあい}} [[Category:シャーロック・ホームズシリーズの短編小説]] [[Category:1890年代の小説]]
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シャーロック・ホームズの冒険
『シャーロック・ホームズの冒険』(シャーロック・ホームズのぼうけん、The Adventures of Sherlock Holmes)は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編集。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、五つの短編集のうち最初に発行された作品である。1892年の発行で、イギリスの『ストランド・マガジン』1891年7月号から1892年6月号にかけて発表された12の短編を収録している。 『ストランド・マガジン』連載時にはシドニー・パジェットが挿絵を担当した。 イギリスでの初版はジョージ・ニューンズ社から1892年10月14日に、アメリカでの初版はハーパー・アンド・ブラザーズ社から10月15日に出版された。 イギリスで出版された単行本の初版は1万部で、大量に発行された『ストランド・マガジン』の合本版と競合していた。年内に8000部が売れていたが、ドイルは翌1893年1月に新聞各紙へ自腹を切って『シャーロック・ホームズの冒険』の広告を出している。初版は間もなく完売し、1893年と1894年に5000部ずつ増刷された。 収録された12の短編は、第一シリーズの6編と第二シリーズの6編に分けることができ、見出しの相違ではっきり区別する事ができる。 第一シリーズは1891年7月号から『Adventures of Sherlock Holmes』(シャーロック・ホームズの冒険)のタイトルで連載が始まり、題名は「Adventures of Sherlock Holmes. ADVENTURE I.―A SCANDAL IN BOHEMIA.」(冒険その一――ボヘミアの醜聞)、「Adventures of Sherlock Holmes. ADVENTURE II.―THE RED-HEADED LEAGUE.」(冒険その二――赤毛組合)のような形式であった。 ドイル自身はホームズ物語の執筆は6編で終わりにしようと考えていたが、『ストランド・マガジン』での連載が好評だったため、編集部から続きを書くよう強く依頼された。はじめドイルはこれを拒絶していたが、原稿料の上昇などにより、執筆を継続することになる。 第二シリーズは引き続き1892年1月号から連載された。短編の題は「The Adventure of」をつけたものへ変わり、「Adventures of Sherlock Holmes. VII.―THE ADVENTURE OF THE BLUE CARBUNCLE.」(その七――青い紅玉の冒険)、「Adventures of Sherlock Holmes. VIII.―THE ADVENTURE OF THE SPECKLED BAND.」(その八――まだらの紐の冒険)といった形式になった。 単行本へ収録される際には、第一シリーズにも「The Adventure of」がつけられ、「The Adventures of A Scandal in Bohemia」(ボヘミアの醜聞の冒険)、「The Adventure of The Red-Headed League」(赤毛組合の冒険)などとなっている。 舞台や映画、テレビドラマの原作として世界中で有名になったが、中でも1980年代にグラナダテレビ制作、ジェレミー・ブレット主演でテレビドラマ化された『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズは特に有名で、日本でもNHKが放送した(その際、ホームズ役の吹き替えは露口茂が担当)。最近ではスカパー!、ケーブルテレビなどでミステリチャンネルが放送している。 タイトルは『ストランド・マガジン』に掲載されたもの。日本語版では訳者により様々な訳題が使用されている。括弧内は掲載号。
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『シャーロック・ホームズの冒険』は、イギリスの小説家、アーサー・コナン・ドイルによる短編集。シャーロック・ホームズシリーズの一つで、五つの短編集のうち最初に発行された作品である。1892年の発行で、イギリスの『ストランド・マガジン』1891年7月号から1892年6月号にかけて発表された12の短編を収録している。 『ストランド・マガジン』連載時にはシドニー・パジェットが挿絵を担当した。
{{otheruses|[[アーサー・コナン・ドイル]]の短編集|その他の用法|シャーロック・ホームズ (曖昧さ回避)}} {{Portal|文学}} [[ファイル:Adventures of sherlock holmes.jpg|thumb|200px|The Adventures of Sherlock Holmes、1892年の初版本]] 『'''シャーロック・ホームズの冒険'''』(シャーロック・ホームズのぼうけん、''The Adventures of Sherlock Holmes'')は、イギリスの小説家、[[アーサー・コナン・ドイル]]による短編集。[[シャーロック・ホームズシリーズ]]の一つで、五つの短編集のうち最初に発行された作品である。1892年の発行で、イギリスの『[[ストランド・マガジン]]』1891年7月号から1892年6月号にかけて発表された12の短編を収録している<ref>ジャック・トレイシー『シャーロック・ホームズ大百科事典』日暮雅通訳、河出書房新社、2002年、152頁</ref>。 『ストランド・マガジン』連載時には[[シドニー・パジェット]]が挿絵を担当した。 == 初版 == イギリスでの初版はジョージ・ニューンズ社から1892年10月14日に、アメリカでの初版はハーパー・アンド・ブラザーズ社から10月15日に出版された<ref>コナン・ドイル著、リチャード・ランセリン・グリーン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第3巻 シャーロック・ホームズの冒険』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1998年、485頁</ref>。 イギリスで出版された単行本の初版は1万部で、大量に発行された『ストランド・マガジン』の合本版と競合していた。年内に8000部が売れていたが、ドイルは翌1893年1月に新聞各紙へ自腹を切って『シャーロック・ホームズの冒険』の広告を出している。初版は間もなく完売し、1893年と1894年に5000部ずつ増刷された<ref name="RLG">コナン・ドイル著、リチャード・ランセリン・グリーン注・解説『シャーロック・ホームズ全集 第3巻 シャーロック・ホームズの冒険』小林司・東山あかね、高田寛訳、河出書房新社、1998年、657-691頁</ref>。 == 第一シリーズと第二シリーズ == 収録された12の短編は、第一シリーズの6編と第二シリーズの6編に分けることができ、見出しの相違ではっきり区別する事ができる<ref name="RLG" />。 第一シリーズは1891年7月号から『'''Adventures of Sherlock Holmes'''』(シャーロック・ホームズの冒険)のタイトルで連載が始まり、題名は「Adventures of Sherlock Holmes. ADVENTURE I.―A SCANDAL IN BOHEMIA.」(冒険その一――ボヘミアの醜聞)、「Adventures of Sherlock Holmes. ADVENTURE II.―THE RED-HEADED LEAGUE.」(冒険その二――赤毛組合)のような形式であった<ref name="笹野">笹野史隆「ストランド・マガジン(に載った題名)」『シャーロック・ホームズ大事典』小林司・東山あかね編、東京堂出版、2001年、403-406頁</ref><ref name="RLG" />。 ドイル自身はホームズ物語の執筆は6編で終わりにしようと考えていたが、『ストランド・マガジン』での連載が好評だったため、編集部から続きを書くよう強く依頼された。はじめドイルはこれを拒絶していたが、原稿料の上昇などにより、執筆を継続することになる<ref name="RLG" />。 第二シリーズは引き続き1892年1月号から連載された。短編の題は「The Adventure of」をつけたものへ変わり、「Adventures of Sherlock Holmes. VII.―THE ADVENTURE OF THE BLUE CARBUNCLE.」(その七――青い紅玉の冒険)、「Adventures of Sherlock Holmes. VIII.―THE ADVENTURE OF THE SPECKLED BAND.」(その八――まだらの紐の冒険)といった形式になった<ref name="笹野" /><ref name="RLG" />。 単行本へ収録される際には、第一シリーズにも「The Adventure of」がつけられ、「The Adventures<!-- ここだけ複数形なのはママ --> of A Scandal in Bohemia」(ボヘミアの醜聞の冒険)、「The Adventure of The Red-Headed League」(赤毛組合の冒険)などとなっている<ref name="RLG" />。 == グラナダ・テレビ版 == 舞台や映画、テレビドラマの原作として世界中で有名になったが、中でも[[1980年代]]に[[グラナダテレビ]]制作、[[ジェレミー・ブレット]]主演で[[テレビドラマ]]化された『[[シャーロック・ホームズの冒険 (テレビドラマ)|シャーロック・ホームズの冒険]]』シリーズは特に有名で、日本でも[[日本放送協会|NHK]]が放送した(その際、ホームズ役の吹き替えは[[露口茂]]が担当)。最近では[[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]]、ケーブルテレビなどで[[ミステリチャンネル]]が放送している。 == 収録作品 == タイトルは『ストランド・マガジン』に掲載されたもの。日本語版では訳者により様々な訳題が使用されている。括弧内は掲載号。 *''A Scandal in Bohemia'' - [[ボヘミアの醜聞]](1891年7月号) *''The Red-Headed League'' - [[赤毛組合]](1891年8月号) *''A Case Of Identity'' - [[花婿失踪事件]](1891年9月号) *''The Boscombe Valley Mystery'' - [[ボスコム渓谷の惨劇]](1891年10月号) *''The Five Orange Pips'' - [[オレンジの種五つ]](1891年11月号) *''The Man with the Twisted Lip'' - [[唇のねじれた男]](1891年12月号) *''The Adventure of the Blue Carbuncle'' - [[青い紅玉]](1892年1月号) *''The Adventure of the Speckled Band'' - [[まだらの紐]](1892年2月号) *''The Adventure of the Engineer's Thumb'' - [[技師の親指]](1892年3月号) *''The Adventure of the Noble Bachelor'' - [[独身の貴族]](1892年4月号) *''The Adventure of the Beryl Coronet'' - [[緑柱石の宝冠]](1892年5月号) *''The Adventure of the Copper Beeches'' - [[ぶな屋敷]](1892年6月号) == 脚注 == <references /> {{Wikisourcelang|en|The Adventures of Sherlock Holmes}} {{シャーロック・ホームズシリーズ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやあろつくほおむすのほうけん}} [[Category:シャーロック・ホームズシリーズの短編小説集|ほうけん]] [[Category:19世紀の小説の短編集]]
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メソポタミア
メソポタミア(ギリシャ語: Μεσοποταμία、ラテン文字転写: Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。 世界最古の文明が発祥した地であり、メソポタミアに生まれた文明を古代メソポタミア文明と呼ぶ。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。シュメールの後も、アッカド、バビロニア、アッシリアなどに代表される国々が興亡を繰り返した。やがて周辺勢力の伸張とともに独立勢力としてのメソポタミアの地位は低下していき、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってヘレニズムの世界の一部となった。 メソポタミアには、西のユーフラテス川と東のティグリス川という2つの大河川が南北に流れており、とくに下流域には両大河によって堆積した肥沃な土壌が広がっている。地形は平坦で高低差が少ないため河道が変遷しやすく、河口近くでは広大な湿地帯が広がっている。また両大河はメソポタミア南端でペルシャ湾に注いでいるが、非常に低平であるため海面変動の影響を受けやすく、海水面の上昇がピークに達した紀元前3500年頃(いわゆる縄文海進)にはペルシャ湾の湾頭は200km以上も西進した。植生としては気候が乾燥しているために森林が存在せず、また地質的には沖積平野であるために岩石のほぼ存在しない泥の平原となっていて、金属資源は存在しない。 降水量は非常に少なく、メソポタミアのほぼ中央にあるバグダッドの降水量は年間140mmにすぎない。このため、南部メソポタミアでは灌漑なしで農業を行うことはできない。降水量は南から北に向かうにつれて多くなり、北部メソポタミアでは年間200mmを超えるため、天水農業が可能となる。このため人類が居住し農耕を発達させたのは当初は北メソポタミアであり、南メソポタミアへの入植は遅れた。ただし南メソポタミアの土壌は非常に肥沃であり、灌漑を行えば両大河の水や洪水を農耕に利用することもできたため、いったん入植が開始されると豊富な収穫によって南メソポタミアが文明の揺籃の地となった。 ティグリス川はユーフラテス川に対して河況係数が大きく、源流山地からの距離が短くて勾配が急であるため、洪水を起こしやすい暴れ川であった。それに対しユーフラテス川はやや山地からの距離が長く勾配が緩やかで、ティグリス川よりも高地を流れていたため、シュメールの諸都市の多くはユーフラテス河畔かその近辺に位置していた。ただしどちらの河川も氾濫は頻繁に起き、とくに晩秋に起きる洪水はシュメール時代の農耕にはなくてはならないものだったが、エジプトのナイル川のような穏やかな洪水ではなく、激しい洪水ですべてを押し流されることも珍しくはなかった。こうした自然環境から大洪水の神話が生まれ、旧約聖書創世記のノアの方舟の話にも影響を与えたと考えられている。メソポタミアは地形が平坦な上2本の大河が流れる交通の要衝であり、さまざまな民族が流入し活発な交易が行われてきた。 古代文明時代には、地域的に現在のバグダッド付近を境にして、北部がアッシリア、南部がバビロニアとされ、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられていた。文明揺籃の地は最南部の下流域であるシュメールであり、ここから上流の北部に向かって文明が広がっていった。 暦は太陰太陽暦を用いたが、太陰太陽暦では1年が約11日短くなることが紀元前3000年紀にはすでに知られていたため、調整のため適宜閏月が挿入されていた。シュメール時代の暦は各都市によって異なっており、新年のはじまりも春分が多かったものの、夏至や秋分を起点とする都市も存在した。その後、バビロン第一王朝時代にはバビロニアで暦が統一され、のちに周辺地域にも広まった。六十進法もメソポタミアで生まれたものであり、現在の時間の単位に用いられている。一週間を七日(七曜)にしたのもシュメール時代である。暦と共に占星術(天文学の雛形)も発達し、「カルデア人の智恵」と呼ばれた。 紀元前8000年紀から西アジア一帯で簿記のためのしるしとして使われていたトークンと呼ばれる道具が印章へと変化し、さらにその印を手で書いて絵文字化することで、紀元前3200年頃にウルク市において最古の文字とされるウルク古拙文字が誕生した。この文字は象形文字・表語文字であったが、紀元前2500年頃にはこれを発展させた楔形文字が誕生した。楔形文字は周辺諸民族にも表音文字として借用され、紀元後1世紀頃まで西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用された。記録媒体は粘土板が用いられた。楔形文字によって書かれたものとしてはハンムラビ法典がよく知られている。 初期メソポタミアでは、南部のシュメール人たちは言語系統不明のシュメール語を、北部のアッカド人たちはセム語族のアッカド語を使用していた。シュメール語はウル第三王朝期までは日常語として使用されていたものの、アッカド語や新たに侵入したアモリ人の言語の中に埋没し、イシン・ラルサ時代には口語としては死語となっていた。ただし法律言語や典礼言語としてはその後もシュメール語は使用され続け、新バビロニア時代まではその使用が確認されている。アッカド語はその後も広く使用され、さらにオリエント諸国における外交用語として用いられ、エジプト第18王朝の外交文書(アマルナ文書)に、その言葉で書き記されたものが残っている。各都市には学校が設立され、文書を扱うための書記が養成されたが、識字能力は彼らの特殊技能であり、一般市民のほとんどは文字の読み書きができなかった。これは王侯貴族においても同様であり、稀に識字能力を持った王が現れた場合、その王の記録にはそのことが高らかに謳われることがあった。 メソポタミアの土地は肥沃であり、経済の基盤は農業に置かれていた。降水量が少ないため天水農耕は不可能であり、このためメソポタミアへの入植は灌漑技術の獲得後のこととなったが、その豊かな収穫は多くの人口の扶養を可能とし、文明を成立させる基礎となった。灌漑用水の確保のために運河やため池が整備され、家畜による犂耕や条播器による播種が行われた。主穀は大麦で、その反収は高く、紀元前24世紀頃の大麦の収量倍率は約76倍と推定されている。ただし農地に多量の塩分が含まれていたため塩に弱い小麦の栽培はできず、さらに時代を下るにつれて土地の塩化が進行したため大麦の反収も減少していった。大麦は主食となるほか、この地域で大変好まれたビールの原料ともなった。農作物としてはナツメヤシも重要で、食糧・甘味料・酒造原料・救荒作物・保存食など食用としての用途の他、樹木の少ないメソポタミアにおいて建材などにも使用された。菜園ではタマネギなどの野菜が栽培されたほか、家畜としては羊やヤギ、牛やブタなどが飼育され、また魚も広く食用とされた。 メソポタミアには資源が非常に少なく、金属資源や木材・石材といった基本的な資源さえ不足していたため、周辺地域との交易によって資源を確保することは不可欠であった。貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やインダス文明とも交易を行っている。交通の大動脈はチグリス・ユーフラテスの両河であり、また河口からペルシャ湾を通ってディルムン(現在のバーレーン)などにも交易船を送り込んでいる。貨幣としては古代を通じて銀が基本であり、初期王朝時代から秤量貨幣として使用されたが、他に銅などの金属も貨幣として使用されることがあり、物々交換も盛んに行われた。シュメールやバビロニアでは食物を始めとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった。タムカルムと呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についての記述がある。 メソポタミアにおける都市の発達は非常に古く、エリドゥのようにウバイド期から集住がはじまった集落さえある。紀元前3500年ごろからのウルク期に入ると集住はさらに進み、紀元前3300年頃にはウルクが完全に都市としての実体を備えるに至った。その後都市は周辺各地に成立し、紀元前2900年頃からは各地に都市国家が分立して抗争を繰り返すようになった。この時期にはシュメール人の大部分が都市に居住しており、彼らは都市に住むことを文明人のあかしと見なしていた。 これらの都市には環濠が張り巡らされ、日干しレンガによる高い城壁で他都市からの防御をおこなっていた。また都市の中心には神殿が建設され、基本的に移転することはなく都市の建設から消滅まで同じ位置に存在していた。神殿は基壇上に建てられており、その都市のランドマークとして機能していた。さらにウル第三王朝期に入ると、基壇は多層化して巨大化し、上に神殿を載せたジッグラトと呼ばれる聖塔となった。 このころの有力都市としては、北からキシュ、ニップル、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなどが挙げられる。このうちニップル市がシュメールの北限にあたり、キシュ市はアッカド地方に属していた。やがてウル第三王朝が滅亡すると中部のイシン市と南部のラルサ市が強大となるが、北のアッカド地方ではバビロン市が、北メソポタミアではアッシュール市が、西方ではマリ市が強大となった。紀元前18世紀に入るとバビロンを首都とするバビロン第1王朝が強大化し、ハンムラビ王の下でメソポタミアを統一した。以後、バビロンはメソポタミアを代表する都市となり、メソポタミア南部地域そのものがバビロニアと呼ばれるようになった。その繁栄はセレウコス朝の建国まで続いた。 セレウコス朝期に入るとバビロンの北にセレウキア市が建設され、バビロンに代わるメソポタミアの中心としてヘレニズム期の大都市となった。パルティア期に入るとセレウキアの対岸にクテシフォン市が建設され、パルティア及びサーサーン朝の首都が置かれた。正統カリフ時代に入ると中部のクーファが重要性を増していき、第4代カリフのアリー時代には一時首都が置かれ、またアッバース朝建国時にも再度首都が置かれたものの、762年にはマンスールによってティグリス河畔に新都バグダードが造営され、以後ここがメソポタミアの中心都市となった。 メソポタミアに集落が発達し始めた時期は金石併用時代にあたり、銅と銀の利用は知られていた。すでにウバイド期の遺跡において、銅器や銅の工房が多く発見されている。やがて錫と銅の合金である青銅が発明され、メソポタミアは青銅器時代へと移行する。その時期には諸説あるが、おおよそ紀元前3000年から2500年頃の初期王朝時代であろうと考えられている。鉄器の利用が一般化したのはずっと遅れ、紀元前1190年頃にヒッタイトが滅亡して鋼の製造法が周辺諸国に伝わってからのこととなる。 交通手段としては、すでにウバイド期には船が河川交通に用いられて、水上交通が主力となっていた。紀元前3500年頃になると家畜化されたロバが出現し、またほぼ同時に車輪の実用化がなされて、荷車を利用する陸上交通もはじまった。 都市国家が成立し社会が複雑化していく中で、もめ事を仲裁し規範とするための法が成立していった。現存する最古の法典であるウル・ナンム法典は、ウル第三王朝を建国したウル・ナンム王によって紀元前2100年頃に制定された。その後各王朝によってこうした法典が制定されるようになり、紀元前1930年頃にはイシン第1王朝の第5代王リピト・イシュタルによってリピト・イシュタル法典が、紀元前1780年頃にはエシュヌンナ市においてエシュヌンナ法典が制定され、そして紀元前1750年までにはメソポタミアの法典の中で最も名高いハンムラビ法典が制定された。 楔形文字ではさまざまな神話や物語も編まれるようになり、なかでもウルクの伝説的な王であるギルガメシュの物語であるギルガメシュ叙事詩はシュメールのみならず周辺諸民族にも翻訳され伝えられた。 ギルガメッシュ叙事詩の文字の傍らには、音楽に関する記号や指示が見られれる。このことから、弦楽器リラの調弦法・音階理論も整備され音楽が芸能として扱われていたことが示される。しかし音楽を示す語が存在したかは不明。 北部メソポタミアでは、後期新石器時代に入ると紀元前6000年から紀元前5500年ごろのハッスーナ期、紀元前5600年ごろから紀元前5000年ごろにかけてのサーマッラー期、そして紀元前5500年ごろから紀元前4300年ごろにかけてのハラフ期の、3つの文化が栄えていた。 天水農業が可能な周辺地域と異なり、乾燥した南部メソポタミアへの人類の定着は遅れ、紀元前5500年頃に始まるウバイド期に入って初めて農耕が開始された。この時期にはエリドゥをはじめとしていくつかの大規模な定住地が誕生し、やがて町となっていった。 紀元前3500年頃にはウルク期がはじまり、メソポタミア最南部にシュメール人によるいくつかの都市が誕生した。エリドゥ、ウル、ウルクなどがこの時期に成立した都市であり、ウルク期の名も代表的な都市であるウルク市に由来するものである。紀元前3100年頃にはジェムデット・ナスル期がはじまり、都市はバビロニア全土に広がった。 紀元前2900年頃には初期王朝時代となり、ウル、ウルク、ラガシュなどの多数の都市国家が成立して絶え間ない抗争が続いた。紀元前24世紀に入ると統合の動きが強まり、ウンマの王だったルガルザゲシが周辺諸都市を征服し、ウルク市に本拠を移して「国土の王」を名乗り、シュメールを統一した。しかし紀元前2350年頃、北のアッカド王サルゴンがルガルザゲシを打倒し、アッカド・シュメール両地域の最初の統一王朝であるアッカド帝国を建国した。この王朝は150年ほど続き、第4代のナラム・シン王の下で周囲に進出して大きく国土を広げたものの、次の第5代シャル・カリ・シャッリ王の時代に東方から進出したグティ人などの侵攻によってアッカド帝国は衰退し、100年ほどの混乱期に入った。この時期各都市は再び独立し割拠したが、やがて紀元前2100年頃、シュメール人によるウル第三王朝がウル・ナンムによって建てられ、メソポタミアを再統一した。ウル第三王朝は2代シュルギ王の時代に最盛期を迎えたもののその後衰退し、100年ほどで滅亡した。 セム人系のアムル人が西方から進出し、紀元前2004年にウル第三王朝が滅亡すると、南メソポタミアではアムル人系の王朝が多く立てられるようになった。この時期には中部のイシン第一王朝が強大となりウル第三王朝の後継者を自任したものの、やがて南部のラルサも強大となり、この2強国を中心にいくつかの都市国家が分立する情勢となった。イシン・ラルサ時代である。同じくアムル人系であるバビロンを都とする古バビロニア王国(バビロン第1王朝)もこの頃建国された。さらに、このころには北メソポタミアでアッシリアが勃興した。 紀元前18世紀に入ると統合の動きが強まり、まず紀元前1794年にはイシンがラルサによって滅ぼされたものの、やがてバビロン第1王朝が第6代のハンムラビ王の元で強大となり、30年間にわたる戦争の後、紀元前1759年にメソポタミアを統一した。ハンムラビ法典(ハムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」の復讐法が有名)は彼によって作られた。ハンムラビの死後バビロン第1王朝は少しずつ衰退していき、また北のアッシリアはミタンニ王国の支配下に入った。 紀元前1595年頃、現在のトルコにあったヒッタイトにより古バビロニア帝国は滅ぼされる。 その後、紀元前1500年頃にはバビロニアでカッシート人が統一王朝を築き、その北では紀元前1340年にミタンニが滅亡するとアッシリアが一時中興した。この時期のオリエントはエジプトやヒッタイト、アッシリア、バビロニアといった大国が併存していたが、紀元前1200年頃に前1200年のカタストロフが起き、オリエント一帯が動乱期に突入した。紀元前1155年にはカッシート朝が滅亡し、イシン第二王朝が一時勃興したものの、その滅亡後バビロニアは長い混乱期に入った。またアッシリアの勢力もこの時期に一時縮小した。 紀元前9世紀、馬や戦車、鉄器を使用し、残虐行為によって恐れられたアッシリアが勢力を広げる。アッシリアの拡張はその後も続き、紀元前745年即位したティグラト・ピレセル3世の時代にアッシリア帝国はメソポタミア全域とシリア、パレスチナを支配した。紀元前722年にはアッシリア帝国によりイスラエル王国(分裂後の北王国)が滅ぼされた。紀元前671年、アッシリアのエサルハドン王の侵攻によりエジプトが支配され、アッシリア帝国はオリエント地域全体を支配する大帝国になった。次代のアッシュールバニパル王の時期にアッシリア帝国は最盛期を迎えるものの、治世後半期から急速に衰退していく。 各地で地方勢力が独立し、紀元前625年にはナボポラッサルによってバビロンに新バビロニアが建国される。紀元前612年、新バビロニアとメディアの反撃により、アッシリア帝国の首都ニネヴェが陥落して破壊される。紀元前609年にはアッシリア帝国が完全に滅亡し、オリエントはイラン高原のメディア、メソポタミアの新バビロニア、小アジアのリュディア、エジプト第26王朝の4帝国時代を迎える。 新バビロニアは第2代ネブカドネザル2世の次代に最盛期を迎えた。ネブカドネザル2世は首都バビロンの再建を積極的に行う一方、シリアやパレスチナ方面へと進出し、紀元前597年にはユダヤ人のユダ王国(南王国)の首都エルサレムを占領して、同国の王族は捕えられてバビロンに送られる。「バビロン捕囚」である。紀元前586年にはユダ王国が再び反乱を起こしたが再度バビロニアに鎮圧され、残る人々も捕囚の身となって新バビロニアのニップル付近に強制移住させられた。 紀元前539年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを含むオリエント全域を領土とする大帝国を築き上げた。アケメネス朝の支配は200年ほど続いたが、紀元前331年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世がバビロンに入城し、ペルシアの支配は終わった。 紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると彼の帝国はほどなくして瓦解し、メソポタミアはディアドコイ国家のひとつであるセレウコス朝によって支配されることとなった。紀元前141年にはペルシア高原から侵攻してきたパルティアがこの地を占領した。116年、トラヤヌスが率いるローマ帝国軍は、パルティアを破ってメソポタミアを占領するが、翌年トラヤヌスが死去(117年)すると、後継皇帝ハドリアヌスは翌118年にメソポタミアから撤退し、再びパルティア領となった。しかしその後もローマはしばしばパルティアへと侵攻を続け、メソポタミアは基本的にはパルティアに属しながらもたびたび支配勢力が変化した。パルティアが滅亡し、230年にメソポタミアがサーサーン朝の領土となると、メソポタミア中部に首都クテシフォンを置いて繁栄した。 636年、イスラム帝国がクテシフォンに入城し、以後ウマイヤ朝、アッバース朝、モンゴル帝国、イルハン朝、オスマン帝国などの諸帝国の支配を受け、1920年にはイギリス委任統治領メソポタミアが成立し、1932年にイラクが独立するとその領土となった。 多神教であったが、時代の支配民族によって、最高神は変わっていった。 古代メソポタミア時代から存続している都市は存在しないものの、メソポタミアには当時の遺跡がいくつか現存している。そのうち、アッシュール(カラット・シェルカット)は2003年に、バビロンは2019年にユネスコの世界遺産に文化遺産として登録された。また、ウル、ウルク、エリドゥの3都市遺跡は、周辺の湿地帯とともに南イラクのアフワール:生物の避難所と古代メソポタミア都市景観の残影として2016年に世界遺産(複合遺産)に登録された。 多くの遺跡で発掘が行われているものの、ほとんどの遺跡はイラク国内に存在するため、1990年の湾岸戦争から2003年のイラク戦争へと続く政治的混乱により遺跡の発掘はほとんどの場所で停止し、また戦災や略奪などで多くの遺跡が破損したうえ、適切な管理が行われず放置された遺跡も多く存在した。その後、2010年代に入ると情勢の安定したイラク南部において発掘が再開されることも多くなり、2015年にはウルの発掘が再開された。一方、北部で活動するISILはイスラム教以前の遺跡の完全破壊を目標に掲げており、2015年にはアッシリアの遺跡であるニムルド遺跡が破壊され、また出土品の密売や略奪も積極的に行われていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "メソポタミア(ギリシャ語: Μεσοποταμία、ラテン文字転写: Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "世界最古の文明が発祥した地であり、メソポタミアに生まれた文明を古代メソポタミア文明と呼ぶ。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。シュメールの後も、アッカド、バビロニア、アッシリアなどに代表される国々が興亡を繰り返した。やがて周辺勢力の伸張とともに独立勢力としてのメソポタミアの地位は低下していき、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってヘレニズムの世界の一部となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "メソポタミアには、西のユーフラテス川と東のティグリス川という2つの大河川が南北に流れており、とくに下流域には両大河によって堆積した肥沃な土壌が広がっている。地形は平坦で高低差が少ないため河道が変遷しやすく、河口近くでは広大な湿地帯が広がっている。また両大河はメソポタミア南端でペルシャ湾に注いでいるが、非常に低平であるため海面変動の影響を受けやすく、海水面の上昇がピークに達した紀元前3500年頃(いわゆる縄文海進)にはペルシャ湾の湾頭は200km以上も西進した。植生としては気候が乾燥しているために森林が存在せず、また地質的には沖積平野であるために岩石のほぼ存在しない泥の平原となっていて、金属資源は存在しない。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "降水量は非常に少なく、メソポタミアのほぼ中央にあるバグダッドの降水量は年間140mmにすぎない。このため、南部メソポタミアでは灌漑なしで農業を行うことはできない。降水量は南から北に向かうにつれて多くなり、北部メソポタミアでは年間200mmを超えるため、天水農業が可能となる。このため人類が居住し農耕を発達させたのは当初は北メソポタミアであり、南メソポタミアへの入植は遅れた。ただし南メソポタミアの土壌は非常に肥沃であり、灌漑を行えば両大河の水や洪水を農耕に利用することもできたため、いったん入植が開始されると豊富な収穫によって南メソポタミアが文明の揺籃の地となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ティグリス川はユーフラテス川に対して河況係数が大きく、源流山地からの距離が短くて勾配が急であるため、洪水を起こしやすい暴れ川であった。それに対しユーフラテス川はやや山地からの距離が長く勾配が緩やかで、ティグリス川よりも高地を流れていたため、シュメールの諸都市の多くはユーフラテス河畔かその近辺に位置していた。ただしどちらの河川も氾濫は頻繁に起き、とくに晩秋に起きる洪水はシュメール時代の農耕にはなくてはならないものだったが、エジプトのナイル川のような穏やかな洪水ではなく、激しい洪水ですべてを押し流されることも珍しくはなかった。こうした自然環境から大洪水の神話が生まれ、旧約聖書創世記のノアの方舟の話にも影響を与えたと考えられている。メソポタミアは地形が平坦な上2本の大河が流れる交通の要衝であり、さまざまな民族が流入し活発な交易が行われてきた。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "古代文明時代には、地域的に現在のバグダッド付近を境にして、北部がアッシリア、南部がバビロニアとされ、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられていた。文明揺籃の地は最南部の下流域であるシュメールであり、ここから上流の北部に向かって文明が広がっていった。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "暦は太陰太陽暦を用いたが、太陰太陽暦では1年が約11日短くなることが紀元前3000年紀にはすでに知られていたため、調整のため適宜閏月が挿入されていた。シュメール時代の暦は各都市によって異なっており、新年のはじまりも春分が多かったものの、夏至や秋分を起点とする都市も存在した。その後、バビロン第一王朝時代にはバビロニアで暦が統一され、のちに周辺地域にも広まった。六十進法もメソポタミアで生まれたものであり、現在の時間の単位に用いられている。一週間を七日(七曜)にしたのもシュメール時代である。暦と共に占星術(天文学の雛形)も発達し、「カルデア人の智恵」と呼ばれた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "紀元前8000年紀から西アジア一帯で簿記のためのしるしとして使われていたトークンと呼ばれる道具が印章へと変化し、さらにその印を手で書いて絵文字化することで、紀元前3200年頃にウルク市において最古の文字とされるウルク古拙文字が誕生した。この文字は象形文字・表語文字であったが、紀元前2500年頃にはこれを発展させた楔形文字が誕生した。楔形文字は周辺諸民族にも表音文字として借用され、紀元後1世紀頃まで西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用された。記録媒体は粘土板が用いられた。楔形文字によって書かれたものとしてはハンムラビ法典がよく知られている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初期メソポタミアでは、南部のシュメール人たちは言語系統不明のシュメール語を、北部のアッカド人たちはセム語族のアッカド語を使用していた。シュメール語はウル第三王朝期までは日常語として使用されていたものの、アッカド語や新たに侵入したアモリ人の言語の中に埋没し、イシン・ラルサ時代には口語としては死語となっていた。ただし法律言語や典礼言語としてはその後もシュメール語は使用され続け、新バビロニア時代まではその使用が確認されている。アッカド語はその後も広く使用され、さらにオリエント諸国における外交用語として用いられ、エジプト第18王朝の外交文書(アマルナ文書)に、その言葉で書き記されたものが残っている。各都市には学校が設立され、文書を扱うための書記が養成されたが、識字能力は彼らの特殊技能であり、一般市民のほとんどは文字の読み書きができなかった。これは王侯貴族においても同様であり、稀に識字能力を持った王が現れた場合、その王の記録にはそのことが高らかに謳われることがあった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "メソポタミアの土地は肥沃であり、経済の基盤は農業に置かれていた。降水量が少ないため天水農耕は不可能であり、このためメソポタミアへの入植は灌漑技術の獲得後のこととなったが、その豊かな収穫は多くの人口の扶養を可能とし、文明を成立させる基礎となった。灌漑用水の確保のために運河やため池が整備され、家畜による犂耕や条播器による播種が行われた。主穀は大麦で、その反収は高く、紀元前24世紀頃の大麦の収量倍率は約76倍と推定されている。ただし農地に多量の塩分が含まれていたため塩に弱い小麦の栽培はできず、さらに時代を下るにつれて土地の塩化が進行したため大麦の反収も減少していった。大麦は主食となるほか、この地域で大変好まれたビールの原料ともなった。農作物としてはナツメヤシも重要で、食糧・甘味料・酒造原料・救荒作物・保存食など食用としての用途の他、樹木の少ないメソポタミアにおいて建材などにも使用された。菜園ではタマネギなどの野菜が栽培されたほか、家畜としては羊やヤギ、牛やブタなどが飼育され、また魚も広く食用とされた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "メソポタミアには資源が非常に少なく、金属資源や木材・石材といった基本的な資源さえ不足していたため、周辺地域との交易によって資源を確保することは不可欠であった。貿易の交易範囲は広大で、エジプト文明やインダス文明とも交易を行っている。交通の大動脈はチグリス・ユーフラテスの両河であり、また河口からペルシャ湾を通ってディルムン(現在のバーレーン)などにも交易船を送り込んでいる。貨幣としては古代を通じて銀が基本であり、初期王朝時代から秤量貨幣として使用されたが、他に銅などの金属も貨幣として使用されることがあり、物々交換も盛んに行われた。シュメールやバビロニアでは食物を始めとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において分配し、バザールで手工業品の販売を行なった。タムカルムと呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、等価概念についての記述がある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "メソポタミアにおける都市の発達は非常に古く、エリドゥのようにウバイド期から集住がはじまった集落さえある。紀元前3500年ごろからのウルク期に入ると集住はさらに進み、紀元前3300年頃にはウルクが完全に都市としての実体を備えるに至った。その後都市は周辺各地に成立し、紀元前2900年頃からは各地に都市国家が分立して抗争を繰り返すようになった。この時期にはシュメール人の大部分が都市に居住しており、彼らは都市に住むことを文明人のあかしと見なしていた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これらの都市には環濠が張り巡らされ、日干しレンガによる高い城壁で他都市からの防御をおこなっていた。また都市の中心には神殿が建設され、基本的に移転することはなく都市の建設から消滅まで同じ位置に存在していた。神殿は基壇上に建てられており、その都市のランドマークとして機能していた。さらにウル第三王朝期に入ると、基壇は多層化して巨大化し、上に神殿を載せたジッグラトと呼ばれる聖塔となった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このころの有力都市としては、北からキシュ、ニップル、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなどが挙げられる。このうちニップル市がシュメールの北限にあたり、キシュ市はアッカド地方に属していた。やがてウル第三王朝が滅亡すると中部のイシン市と南部のラルサ市が強大となるが、北のアッカド地方ではバビロン市が、北メソポタミアではアッシュール市が、西方ではマリ市が強大となった。紀元前18世紀に入るとバビロンを首都とするバビロン第1王朝が強大化し、ハンムラビ王の下でメソポタミアを統一した。以後、バビロンはメソポタミアを代表する都市となり、メソポタミア南部地域そのものがバビロニアと呼ばれるようになった。その繁栄はセレウコス朝の建国まで続いた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "セレウコス朝期に入るとバビロンの北にセレウキア市が建設され、バビロンに代わるメソポタミアの中心としてヘレニズム期の大都市となった。パルティア期に入るとセレウキアの対岸にクテシフォン市が建設され、パルティア及びサーサーン朝の首都が置かれた。正統カリフ時代に入ると中部のクーファが重要性を増していき、第4代カリフのアリー時代には一時首都が置かれ、またアッバース朝建国時にも再度首都が置かれたものの、762年にはマンスールによってティグリス河畔に新都バグダードが造営され、以後ここがメソポタミアの中心都市となった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "メソポタミアに集落が発達し始めた時期は金石併用時代にあたり、銅と銀の利用は知られていた。すでにウバイド期の遺跡において、銅器や銅の工房が多く発見されている。やがて錫と銅の合金である青銅が発明され、メソポタミアは青銅器時代へと移行する。その時期には諸説あるが、おおよそ紀元前3000年から2500年頃の初期王朝時代であろうと考えられている。鉄器の利用が一般化したのはずっと遅れ、紀元前1190年頃にヒッタイトが滅亡して鋼の製造法が周辺諸国に伝わってからのこととなる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "交通手段としては、すでにウバイド期には船が河川交通に用いられて、水上交通が主力となっていた。紀元前3500年頃になると家畜化されたロバが出現し、またほぼ同時に車輪の実用化がなされて、荷車を利用する陸上交通もはじまった。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "都市国家が成立し社会が複雑化していく中で、もめ事を仲裁し規範とするための法が成立していった。現存する最古の法典であるウル・ナンム法典は、ウル第三王朝を建国したウル・ナンム王によって紀元前2100年頃に制定された。その後各王朝によってこうした法典が制定されるようになり、紀元前1930年頃にはイシン第1王朝の第5代王リピト・イシュタルによってリピト・イシュタル法典が、紀元前1780年頃にはエシュヌンナ市においてエシュヌンナ法典が制定され、そして紀元前1750年までにはメソポタミアの法典の中で最も名高いハンムラビ法典が制定された。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "楔形文字ではさまざまな神話や物語も編まれるようになり、なかでもウルクの伝説的な王であるギルガメシュの物語であるギルガメシュ叙事詩はシュメールのみならず周辺諸民族にも翻訳され伝えられた。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ギルガメッシュ叙事詩の文字の傍らには、音楽に関する記号や指示が見られれる。このことから、弦楽器リラの調弦法・音階理論も整備され音楽が芸能として扱われていたことが示される。しかし音楽を示す語が存在したかは不明。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": 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"紀元前2900年頃には初期王朝時代となり、ウル、ウルク、ラガシュなどの多数の都市国家が成立して絶え間ない抗争が続いた。紀元前24世紀に入ると統合の動きが強まり、ウンマの王だったルガルザゲシが周辺諸都市を征服し、ウルク市に本拠を移して「国土の王」を名乗り、シュメールを統一した。しかし紀元前2350年頃、北のアッカド王サルゴンがルガルザゲシを打倒し、アッカド・シュメール両地域の最初の統一王朝であるアッカド帝国を建国した。この王朝は150年ほど続き、第4代のナラム・シン王の下で周囲に進出して大きく国土を広げたものの、次の第5代シャル・カリ・シャッリ王の時代に東方から進出したグティ人などの侵攻によってアッカド帝国は衰退し、100年ほどの混乱期に入った。この時期各都市は再び独立し割拠したが、やがて紀元前2100年頃、シュメール人によるウル第三王朝がウル・ナンムによって建てられ、メソポタミアを再統一した。ウル第三王朝は2代シュルギ王の時代に最盛期を迎えたもののその後衰退し、100年ほどで滅亡した。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "セム人系のアムル人が西方から進出し、紀元前2004年にウル第三王朝が滅亡すると、南メソポタミアではアムル人系の王朝が多く立てられるようになった。この時期には中部のイシン第一王朝が強大となりウル第三王朝の後継者を自任したものの、やがて南部のラルサも強大となり、この2強国を中心にいくつかの都市国家が分立する情勢となった。イシン・ラルサ時代である。同じくアムル人系であるバビロンを都とする古バビロニア王国(バビロン第1王朝)もこの頃建国された。さらに、このころには北メソポタミアでアッシリアが勃興した。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "紀元前18世紀に入ると統合の動きが強まり、まず紀元前1794年にはイシンがラルサによって滅ぼされたものの、やがてバビロン第1王朝が第6代のハンムラビ王の元で強大となり、30年間にわたる戦争の後、紀元前1759年にメソポタミアを統一した。ハンムラビ法典(ハムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」の復讐法が有名)は彼によって作られた。ハンムラビの死後バビロン第1王朝は少しずつ衰退していき、また北のアッシリアはミタンニ王国の支配下に入った。 紀元前1595年頃、現在のトルコにあったヒッタイトにより古バビロニア帝国は滅ぼされる。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "その後、紀元前1500年頃にはバビロニアでカッシート人が統一王朝を築き、その北では紀元前1340年にミタンニが滅亡するとアッシリアが一時中興した。この時期のオリエントはエジプトやヒッタイト、アッシリア、バビロニアといった大国が併存していたが、紀元前1200年頃に前1200年のカタストロフが起き、オリエント一帯が動乱期に突入した。紀元前1155年にはカッシート朝が滅亡し、イシン第二王朝が一時勃興したものの、その滅亡後バビロニアは長い混乱期に入った。またアッシリアの勢力もこの時期に一時縮小した。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "紀元前9世紀、馬や戦車、鉄器を使用し、残虐行為によって恐れられたアッシリアが勢力を広げる。アッシリアの拡張はその後も続き、紀元前745年即位したティグラト・ピレセル3世の時代にアッシリア帝国はメソポタミア全域とシリア、パレスチナを支配した。紀元前722年にはアッシリア帝国によりイスラエル王国(分裂後の北王国)が滅ぼされた。紀元前671年、アッシリアのエサルハドン王の侵攻によりエジプトが支配され、アッシリア帝国はオリエント地域全体を支配する大帝国になった。次代のアッシュールバニパル王の時期にアッシリア帝国は最盛期を迎えるものの、治世後半期から急速に衰退していく。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "各地で地方勢力が独立し、紀元前625年にはナボポラッサルによってバビロンに新バビロニアが建国される。紀元前612年、新バビロニアとメディアの反撃により、アッシリア帝国の首都ニネヴェが陥落して破壊される。紀元前609年にはアッシリア帝国が完全に滅亡し、オリエントはイラン高原のメディア、メソポタミアの新バビロニア、小アジアのリュディア、エジプト第26王朝の4帝国時代を迎える。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "新バビロニアは第2代ネブカドネザル2世の次代に最盛期を迎えた。ネブカドネザル2世は首都バビロンの再建を積極的に行う一方、シリアやパレスチナ方面へと進出し、紀元前597年にはユダヤ人のユダ王国(南王国)の首都エルサレムを占領して、同国の王族は捕えられてバビロンに送られる。「バビロン捕囚」である。紀元前586年にはユダ王国が再び反乱を起こしたが再度バビロニアに鎮圧され、残る人々も捕囚の身となって新バビロニアのニップル付近に強制移住させられた。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "紀元前539年、アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを含むオリエント全域を領土とする大帝国を築き上げた。アケメネス朝の支配は200年ほど続いたが、紀元前331年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世がバビロンに入城し、ペルシアの支配は終わった。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると彼の帝国はほどなくして瓦解し、メソポタミアはディアドコイ国家のひとつであるセレウコス朝によって支配されることとなった。紀元前141年にはペルシア高原から侵攻してきたパルティアがこの地を占領した。116年、トラヤヌスが率いるローマ帝国軍は、パルティアを破ってメソポタミアを占領するが、翌年トラヤヌスが死去(117年)すると、後継皇帝ハドリアヌスは翌118年にメソポタミアから撤退し、再びパルティア領となった。しかしその後もローマはしばしばパルティアへと侵攻を続け、メソポタミアは基本的にはパルティアに属しながらもたびたび支配勢力が変化した。パルティアが滅亡し、230年にメソポタミアがサーサーン朝の領土となると、メソポタミア中部に首都クテシフォンを置いて繁栄した。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "636年、イスラム帝国がクテシフォンに入城し、以後ウマイヤ朝、アッバース朝、モンゴル帝国、イルハン朝、オスマン帝国などの諸帝国の支配を受け、1920年にはイギリス委任統治領メソポタミアが成立し、1932年にイラクが独立するとその領土となった。", "title": "メソポタミアの歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "多神教であったが、時代の支配民族によって、最高神は変わっていった。", "title": "メソポタミアの神々" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "古代メソポタミア時代から存続している都市は存在しないものの、メソポタミアには当時の遺跡がいくつか現存している。そのうち、アッシュール(カラット・シェルカット)は2003年に、バビロンは2019年にユネスコの世界遺産に文化遺産として登録された。また、ウル、ウルク、エリドゥの3都市遺跡は、周辺の湿地帯とともに南イラクのアフワール:生物の避難所と古代メソポタミア都市景観の残影として2016年に世界遺産(複合遺産)に登録された。", "title": "遺跡" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "多くの遺跡で発掘が行われているものの、ほとんどの遺跡はイラク国内に存在するため、1990年の湾岸戦争から2003年のイラク戦争へと続く政治的混乱により遺跡の発掘はほとんどの場所で停止し、また戦災や略奪などで多くの遺跡が破損したうえ、適切な管理が行われず放置された遺跡も多く存在した。その後、2010年代に入ると情勢の安定したイラク南部において発掘が再開されることも多くなり、2015年にはウルの発掘が再開された。一方、北部で活動するISILはイスラム教以前の遺跡の完全破壊を目標に掲げており、2015年にはアッシリアの遺跡であるニムルド遺跡が破壊され、また出土品の密売や略奪も積極的に行われていた。", "title": "遺跡" } ]
メソポタミアは、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。 世界最古の文明が発祥した地であり、メソポタミアに生まれた文明を古代メソポタミア文明と呼ぶ。文明初期の中心となったのは民族系統が不明のシュメール人である。シュメールの後も、アッカド、バビロニア、アッシリアなどに代表される国々が興亡を繰り返した。やがて周辺勢力の伸張とともに独立勢力としてのメソポタミアの地位は低下していき、紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)の遠征によってヘレニズムの世界の一部となった。 メソポタミアには、西のユーフラテス川と東のティグリス川という2つの大河川が南北に流れており、とくに下流域には両大河によって堆積した肥沃な土壌が広がっている。地形は平坦で高低差が少ないため河道が変遷しやすく、河口近くでは広大な湿地帯が広がっている。また両大河はメソポタミア南端でペルシャ湾に注いでいるが、非常に低平であるため海面変動の影響を受けやすく、海水面の上昇がピークに達した紀元前3500年頃(いわゆる縄文海進)にはペルシャ湾の湾頭は200km以上も西進した。植生としては気候が乾燥しているために森林が存在せず、また地質的には沖積平野であるために岩石のほぼ存在しない泥の平原となっていて、金属資源は存在しない。 降水量は非常に少なく、メソポタミアのほぼ中央にあるバグダッドの降水量は年間140mmにすぎない。このため、南部メソポタミアでは灌漑なしで農業を行うことはできない。降水量は南から北に向かうにつれて多くなり、北部メソポタミアでは年間200mmを超えるため、天水農業が可能となる。このため人類が居住し農耕を発達させたのは当初は北メソポタミアであり、南メソポタミアへの入植は遅れた。ただし南メソポタミアの土壌は非常に肥沃であり、灌漑を行えば両大河の水や洪水を農耕に利用することもできたため、いったん入植が開始されると豊富な収穫によって南メソポタミアが文明の揺籃の地となった。 ティグリス川はユーフラテス川に対して河況係数が大きく、源流山地からの距離が短くて勾配が急であるため、洪水を起こしやすい暴れ川であった。それに対しユーフラテス川はやや山地からの距離が長く勾配が緩やかで、ティグリス川よりも高地を流れていたため、シュメールの諸都市の多くはユーフラテス河畔かその近辺に位置していた。ただしどちらの河川も氾濫は頻繁に起き、とくに晩秋に起きる洪水はシュメール時代の農耕にはなくてはならないものだったが、エジプトのナイル川のような穏やかな洪水ではなく、激しい洪水ですべてを押し流されることも珍しくはなかった。こうした自然環境から大洪水の神話が生まれ、旧約聖書創世記のノアの方舟の話にも影響を与えたと考えられている。メソポタミアは地形が平坦な上2本の大河が流れる交通の要衝であり、さまざまな民族が流入し活発な交易が行われてきた。 古代文明時代には、地域的に現在のバグダッド付近を境にして、北部がアッシリア、南部がバビロニアとされ、バビロニアのうち北部バビロニアがアッカド、下流地域の南部バビロニアがシュメールとさらに分けられていた。文明揺籃の地は最南部の下流域であるシュメールであり、ここから上流の北部に向かって文明が広がっていった。
{{Otheruses}} {{出典の明記|date=2019年9月}} [[File:N-Mesopotamia and Syria english.svg|350px|thumb|メソポタミアの位置]] [[ファイル:Assyria map.png|thumb|right|350px|メソポタミアに関連した地域の位置関係]] {{イラクの歴史}} '''メソポタミア'''({{翻字併記|el|Μεσοποταμία|Mesopotamia|区=、}}、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、[[チグリス川]]と[[ユーフラテス川]]の間の[[沖積平野]]である。現在の[[イラク]]の一部にあたる。 世界最古の文明が発祥した地であり、メソポタミアに生まれた[[文明]]を'''古代メソポタミア文明'''と呼ぶ。文明初期の中心となったのは民族系統が不明の[[シュメール|シュメール人]]である。シュメールの後も、[[アッカド]]、[[バビロニア]]、[[アッシリア]]などに代表される国々が興亡を繰り返した。やがて周辺勢力の伸張とともに独立勢力としてのメソポタミアの地位は低下していき、[[紀元前4世紀]]、[[アレクサンドロス3世]](大王)の遠征によって[[ヘレニズム]]の世界の一部となった。 メソポタミアには、西のユーフラテス川と東のティグリス川という2つの大河川が南北に流れており、とくに下流域には両大河によって堆積した肥沃な土壌が広がっている。地形は平坦で高低差が少ないため河道が変遷しやすく、河口近くでは広大な湿地帯が広がっている。また両大河はメソポタミア南端で[[ペルシャ湾]]に注いでいるが、非常に低平であるため海面変動の影響を受けやすく、[[海水準変動|海水面の上昇]]がピークに達した紀元前3500年頃(いわゆる[[縄文海進]])にはペルシャ湾の湾頭は200km以上も西進した<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p72 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。[[植生]]としては気候が乾燥しているために[[森林]]が存在せず、また[[地質]]的には沖積平野であるために[[岩石]]のほぼ存在しない泥の平原となっていて、金属資源は存在しない<ref>「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p1 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行</ref>。 降水量は非常に少なく、メソポタミアのほぼ中央にある[[バグダッド]]の降水量は年間140mmにすぎない<ref>「データブック オブ・ザ・ワールド 2019年版 世界各国要覧と最新統計」p173 二宮書店 平成31年1月10日発行</ref>。このため、南部メソポタミアでは灌漑なしで農業を行うことはできない。降水量は南から北に向かうにつれて多くなり、北部メソポタミアでは年間200mmを超えるため、天水農業が可能となる。このため人類が居住し農耕を発達させたのは当初は北メソポタミアであり、南メソポタミアへの入植は遅れた<ref>「図説メソポタミア文明」p14 前川和也編著 2011年12月30日初版発行</ref>。ただし南メソポタミアの土壌は非常に肥沃であり、灌漑を行えば両大河の水や洪水を農耕に利用することもできたため、いったん入植が開始されると豊富な収穫によって南メソポタミアが文明の揺籃の地となった。 ティグリス川はユーフラテス川に対して[[河況係数]]が大きく、源流山地からの距離が短くて勾配が急であるため、洪水を起こしやすい暴れ川であった。それに対しユーフラテス川はやや山地からの距離が長く勾配が緩やかで、ティグリス川よりも高地を流れていたため、シュメールの諸都市の多くはユーフラテス河畔かその近辺に位置していた{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=4-8}}。ただしどちらの河川も氾濫は頻繁に起き、とくに晩秋に起きる洪水はシュメール時代の農耕にはなくてはならないものだったが、[[エジプト]]の[[ナイル川]]のような穏やかな洪水ではなく、激しい洪水ですべてを押し流されることも珍しくはなかった。こうした自然環境から[[大洪水]]の神話が生まれ、[[旧約聖書]][[創世記]]の[[ノアの方舟]]の話にも影響を与えたと考えられている{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=8-13}}。メソポタミアは地形が平坦な上2本の大河が流れる交通の要衝であり、さまざまな民族が流入し活発な交易が行われてきた{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=14-15}}。 古代文明時代には、地域的に現在のバグダッド付近を境にして、北部が[[アッシリア]]、南部が[[バビロニア]]とされ、バビロニアのうち北部バビロニアが[[アッカド]]、下流地域の南部バビロニアが[[シュメール]]とさらに分けられていた。文明揺籃の地は最南部の下流域であるシュメールであり、ここから上流の北部に向かって文明が広がっていった<ref>「古代メソポタミア全史」p7-8 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。 == 特徴 == === 暦 === [[暦]]は[[太陰太陽暦]]を用いたが、太陰太陽暦では1年が約11日短くなることが[[紀元前3000年紀]]にはすでに知られていたため、調整のため適宜[[閏月]]が挿入されていた<ref>「文明の誕生」p63-64 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。シュメール時代の暦は各都市によって異なっており、新年のはじまりも[[春分]]が多かったものの、[[夏至]]や[[秋分]]を起点とする都市も存在した<ref>「文明の誕生」p66-67 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。その後、バビロン第一王朝時代にはバビロニアで暦が統一され、のちに周辺地域にも広まった<ref>「文明の誕生」p71-72 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。[[六十進法]]もメソポタミアで生まれたものであり、現在の時間の単位に用いられている<ref>「宇宙観5000年史 人類は宇宙をどうみてきたか」p8 中村士・岡村定矩 東京大学出版会 2011年12月26日初版</ref>。一[[週]]間を[[7|七]]日([[七曜]])にしたのもシュメール時代である<ref>「文明の誕生」p67 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。暦と共に[[占星術]]([[天文学]]の雛形)も発達し、「[[カルデア|カルデア人]]の智恵」と呼ばれた。 === 言語 === [[Image:GilgameshTablet.jpg|right|thumb|楔形文字でギルガメシュ叙事詩の一部が刻まれた粘土板。アッカド語]] 紀元前8000年紀から西アジア一帯で[[簿記]]のためのしるしとして使われていた[[トークン]]と呼ばれる道具が[[印章]]へと変化し、さらにその印を手で書いて絵文字化することで、紀元前3200年頃にウルク市において最古の文字とされる[[ウルク古拙文字]]が誕生した{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=36-38}}。この文字は[[象形文字]]・[[表語文字]]であったが、紀元前2500年頃にはこれを発展させた[[楔形文字]]が誕生した{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=40}}。楔形文字は周辺諸民族にも[[表音文字]]として借用され、紀元後[[1世紀]]頃まで西アジア諸国のさまざまな言語を表すのに利用された{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=48-50}}。記録媒体は[[粘土板]]が用いられた。楔形文字によって書かれたものとしては[[ハンムラビ法典]]がよく知られている。 初期メソポタミアでは、南部のシュメール人たちは言語系統不明の[[シュメール語]]を、北部のアッカド人たちはセム語族の[[アッカド語]]を使用していた。シュメール語はウル第三王朝期までは日常語として使用されていたものの、アッカド語や新たに侵入した[[アモリ人]]の言語の中に埋没し、[[イシン・ラルサ時代]]には口語としては死語となっていた。ただし法律言語や典礼言語としてはその後もシュメール語は使用され続け、新バビロニア時代まではその使用が確認されている{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=274-275}}。[[アッカド語]]はその後も広く使用され、さらにオリエント諸国における外交用語として用いられ、[[エジプト第18王朝]]の外交文書([[アマルナ文書]])に、その言葉で書き記されたものが残っている。各都市には学校が設立され、文書を扱うための[[書記]]が養成されたが、[[識字]]能力は彼らの特殊技能であり、一般市民のほとんどは文字の読み書きができなかった。これは王侯貴族においても同様であり、稀に識字能力を持った王が現れた場合、その王の記録にはそのことが高らかに謳われることがあった{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=200-203}}。 === 経済 === メソポタミアの土地は肥沃であり、経済の基盤は農業に置かれていた。降水量が少ないため天水農耕は不可能であり、このためメソポタミアへの入植は灌漑技術の獲得後のこととなったが、その豊かな収穫は多くの人口の扶養を可能とし、文明を成立させる基礎となった。灌漑用水の確保のために[[運河]]やため池が整備され、家畜による犂耕や条播器による播種が行われた{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=59-63}}。主穀は[[大麦]]で、その反収は高く、紀元前24世紀頃の大麦の収量倍率は約76倍と推定されている{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=59}}。ただし農地に多量の塩分が含まれていたため塩に弱い[[小麦]]の栽培はできず、さらに時代を下るにつれて土地の塩化が進行したため大麦の反収も減少していった{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=59-60}}。大麦は主食となるほか、この地域で大変好まれた[[ビール]]の原料ともなった{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=56-57}}。農作物としては[[ナツメヤシ]]も重要で、食糧・甘味料・酒造原料・救荒作物・保存食など食用としての用途の他{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=64}}、[[樹木]]の少ないメソポタミアにおいて[[建材]]などにも使用された<ref>「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p69 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行</ref>。菜園では[[タマネギ]]などの[[野菜]]が栽培されたほか<ref>「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p68-69 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行</ref>、[[家畜]]としては[[羊]]や[[ヤギ]]、[[牛]]や[[ブタ]]などが飼育され、また[[魚]]も広く食用とされた<ref>「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p70-72 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行</ref>。 メソポタミアには資源が非常に少なく、[[金属]]資源や[[木材]]・[[石材]]といった基本的な資源さえ不足していたため、周辺地域との交易によって資源を確保することは不可欠であった。[[貿易]]の交易範囲は広大で、[[古代エジプト|エジプト文明]]や[[インダス文明]]とも交易を行っている。交通の大動脈はチグリス・ユーフラテスの両河であり<ref>「文明の誕生」p83-86 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>、また河口から[[ペルシャ湾]]を通ってディルムン(現在の[[バーレーン]])などにも交易船を送り込んでいる<ref>「海を渡った人類の遙かな歴史 古代海洋民の航海」p225 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2018年2月20日初版発行</ref>。[[貨幣]]としては古代を通じて[[銀]]が基本であり、初期王朝時代から[[秤量貨幣]]として使用されたが、他に銅などの金属も貨幣として使用されることがあり、[[物々交換]]も盛んに行われた<ref>「文明の誕生」p119-123 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。シュメールやバビロニアでは食物を始めとする必需品を貯蔵して宮殿や都市の門において[[再配分|分配]]し、[[バザール]]で手工業品の販売を行なった{{sfn|『人間の経済 II』|loc=第10章}}。[[タムカルム]]と呼ばれる身分型の交易者が存在し、仲買人、代理人、競売人、保管人、銀行家、仲裁人、旅商人、奴隷取締官、徴税吏などを担当した。また、ハンムラビ法典には、損害賠償、負債取り消し、報酬、[[等価交換|等価]]概念についての記述がある。 === 都市 === [[ファイル:Ziggarat of Ur 001.jpg|300px|right|thumb|[[ウル]]の[[ジッグラト]]([[ウル第三王朝]])]] メソポタミアにおける都市の発達は非常に古く、エリドゥのようにウバイド期から集住がはじまった集落さえある<ref>「古代メソポタミア全史」p16-17 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。紀元前3500年ごろからのウルク期に入ると集住はさらに進み、紀元前3300年頃にはウルクが完全に都市としての実体を備えるに至った<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p20-22 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。その後都市は周辺各地に成立し、紀元前2900年頃からは各地に都市国家が分立して抗争を繰り返すようになった<ref>「文明の誕生」p4 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。この時期にはシュメール人の大部分が都市に居住しており、彼らは都市に住むことを文明人のあかしと見なしていた<ref>「文明の誕生」p5 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。 これらの都市には[[環濠]]が張り巡らされ、日干しレンガによる高い[[城壁]]で他都市からの防御をおこなっていた<ref>「文明の誕生」p10-11 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。また都市の中心には神殿が建設され、基本的に移転することはなく都市の建設から消滅まで同じ位置に存在していた{{sfn|『シュメル 人類最古の文明』|p=18-19}}。神殿は基壇上に建てられており、その都市の[[ランドマーク]]として機能していた。さらにウル第三王朝期に入ると、基壇は多層化して巨大化し、上に神殿を載せた[[ジッグラト]]と呼ばれる聖塔となった<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p190-192 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。 このころの有力都市としては、北から[[キシュ]]、[[ニップル]]、[[シュルッパク]]、[[ウンマ (シュメールの都市国家)|ウンマ]]、[[ラガシュ]]、[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]、[[ウル]]などが挙げられる。このうちニップル市がシュメールの北限にあたり、キシュ市はアッカド地方に属していた<ref>「都市国家の誕生」(世界史リブレット1)p21-23 前田徹 山川出版社 1996年6月25日1版1刷発行</ref>。やがてウル第三王朝が滅亡すると中部の[[イシン]]市と南部の[[ラルサ]]市が強大となるが、北のアッカド地方では[[バビロン]]市が、北メソポタミアでは[[アッシュール]]市が、西方では[[マリ (シリア)|マリ]]市が強大となった。紀元前18世紀に入るとバビロンを首都とする[[バビロン第1王朝]]が強大化し、ハンムラビ王の下でメソポタミアを統一した。以後、バビロンはメソポタミアを代表する都市となり、メソポタミア南部地域そのものがバビロニアと呼ばれるようになった。その繁栄はセレウコス朝の建国まで続いた<ref>「古代メソポタミア全史」p266 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。 セレウコス朝期に入るとバビロンの北に[[セレウキア]]市が建設され、バビロンに代わるメソポタミアの中心としてヘレニズム期の大都市となった。パルティア期に入るとセレウキアの対岸にクテシフォン市が建設され、パルティア及びサーサーン朝の首都が置かれた。[[正統カリフ時代]]に入ると中部の[[クーファ]]が重要性を増していき、第4代カリフの[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|アリー]]時代には一時首都が置かれ、また[[アッバース朝]]建国時にも再度首都が置かれたものの、762年には[[マンスール]]によってティグリス河畔に新都[[バグダード]]が造営され、以後ここがメソポタミアの中心都市となった。 === 技術 === メソポタミアに集落が発達し始めた時期は[[金石併用時代]]にあたり、[[銅]]と[[銀]]の利用は知られていた。すでにウバイド期の遺跡において、銅器や銅の工房が多く発見されている<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p152-153 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。やがて[[錫]]と銅の合金である[[青銅]]が発明され、メソポタミアは[[青銅器時代]]へと移行する。その時期には諸説あるが、おおよそ紀元前3000年<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p155 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>から2500年頃<ref>「文明の誕生」p116 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>の初期王朝時代であろうと考えられている。鉄器の利用が一般化したのはずっと遅れ、紀元前1190年頃にヒッタイトが滅亡して鋼の製造法が周辺諸国に伝わってからのこととなる<ref>「文明の誕生」p128 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。 交通手段としては、すでにウバイド期には[[船]]が河川交通に用いられて、水上交通が主力となっていた<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p47 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。紀元前3500年頃になると[[家畜化]]された[[ロバ]]が出現し、またほぼ同時に[[車輪]]の実用化がなされて、荷車を利用する陸上交通もはじまった<ref>「都市の起源 古代の先進地域西アジアを掘る」p158 小泉龍人 講談社 2016年3月10日第1刷発行</ref>。 === 文化 === {{main|{{ill2|メソポタミアの音楽|en|Music of Mesopotamia}}}} 都市国家が成立し社会が複雑化していく中で、もめ事を仲裁し規範とするための[[法 (法学)|法]]が成立していった。現存する最古の[[法典]]である[[ウル・ナンム法典]]は、ウル第三王朝を建国したウル・ナンム王によって紀元前2100年頃に制定された。その後各王朝によってこうした法典が制定されるようになり、紀元前1930年頃にはイシン第1王朝の第5代王[[リピト・イシュタル]]によって[[リピト・イシュタル法典]]が、紀元前1780年頃には[[エシュヌンナ]]市において[[エシュヌンナ法典]]が制定され、そして紀元前1750年までにはメソポタミアの法典の中で最も名高い[[ハンムラビ法典]]が制定された<ref>「文明の誕生」p158-161 小林登志子 中公新書 2015年6月25日発行</ref>。 楔形文字ではさまざまな神話や物語も編まれるようになり、なかでもウルクの伝説的な王である[[ギルガメシュ]]の物語である[[ギルガメシュ叙事詩]]はシュメールのみならず周辺諸民族にも翻訳され伝えられた<ref>「古代メソポタミア全史」p31 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。 ギルガメッシュ叙事詩の文字の傍らには、音楽に関する記号や指示が見られれる。このことから、弦楽器リラの調弦法・音階理論も整備され音楽が芸能として扱われていたことが示される。しかし音楽を示す語が存在したかは不明<ref>{{Cite web|和書|url=http://dsr.nii.ac.jp/music/02persian.html |title=2. 古代メソポタミアからササン朝ペルシアに至る音楽文化―DSRシルクロードの音楽 |access-date=2023-04-26 |website=dsr.nii.ac.jp}}</ref>。 == メソポタミアの歴史 == === 先史時代 === 北部メソポタミアでは、後期[[新石器時代]]に入ると紀元前6000年から紀元前5500年ごろの[[ハッスーナ文化|ハッスーナ期]]、紀元前5600年ごろから紀元前5000年ごろにかけてのサーマッラー期、そして紀元前5500年ごろから紀元前4300年ごろにかけての[[テル・ハラフ|ハラフ期]]の、3つの文化が栄えていた{{sfn|『石器時代の人々(上)』|p=19-20}}。 === シュメール文明 === {{main|シュメール|シュメール#初期王朝時代}} 天水農業が可能な周辺地域と異なり、乾燥した南部メソポタミアへの人類の定着は遅れ、[[紀元前6千年紀|紀元前5500年]]頃に始まる[[ウバイド文化|ウバイド期]]に入って初めて農耕が開始された{{sfn|『石器時代の人々(上)』|p=21}}。この時期には[[エリドゥ]]をはじめとしていくつかの大規模な定住地が誕生し、やがて町となっていった。 [[紀元前3500年]]頃には[[ウルク文化|ウルク期]]がはじまり、メソポタミア最南部にシュメール人によるいくつかの都市が誕生した。エリドゥ、[[ウル]]、[[ウルク (メソポタミア)|ウルク]]などがこの時期に成立した都市であり、ウルク期の名も代表的な都市であるウルク市に由来するものである。[[紀元前31世紀|紀元前3100年]]頃にはジェムデット・ナスル期がはじまり、都市はバビロニア全土に広がった。 [[紀元前29世紀|紀元前2900年]]頃には初期王朝時代となり、ウル、ウルク、[[ラガシュ]]などの多数の都市国家が成立して絶え間ない抗争が続いた。紀元前24世紀に入ると統合の動きが強まり、ウンマの王だった[[ルガルザゲシ]]が周辺諸都市を征服し、ウルク市に本拠を移して「国土の王」を名乗り、シュメールを統一した<ref>「古代メソポタミア全史」p51 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。しかし[[紀元前24世紀|紀元前2350年]]頃、北の[[アッカド]]王[[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]がルガルザゲシを打倒し、アッカド・シュメール両地域の最初の統一王朝である[[アッカド帝国]]を建国した<ref>「古代メソポタミア全史」p54 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。この王朝は150年ほど続き、第4代の[[ナラム・シン]]王の下で周囲に進出して大きく国土を広げたものの<ref>「古代メソポタミア全史」p60-62 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>、次の第5代[[シャル・カリ・シャッリ]]王の時代に東方から進出した[[グティ人]]などの侵攻によってアッカド帝国は衰退し、100年ほどの混乱期に入った。この時期各都市は再び独立し割拠したが、やがて[[紀元前21世紀|紀元前2100年]]頃、シュメール人による[[ウル第三王朝]]が[[ウル・ナンム]]によって建てられ、メソポタミアを再統一した<ref name="名前なし-1">「古代メソポタミア全史」p64 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。ウル第三王朝は2代[[シュルギ]]王の時代に最盛期を迎えたもののその後衰退し、100年ほどで滅亡した<ref name="名前なし-1"/>。 === バビロニア === {{main|バビロニア}} [[セム人]]系の[[アムル人]]が西方から進出し、[[紀元前2004年]]にウル第三王朝が滅亡すると、南メソポタミアではアムル人系の王朝が多く立てられるようになった。この時期には中部のイシン第一王朝が強大となりウル第三王朝の後継者を自任したものの、やがて南部のラルサも強大となり、この2強国を中心にいくつかの都市国家が分立する情勢となった<ref>「古代メソポタミア全史」p108-109 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。[[イシン・ラルサ時代]]である。同じくアムル人系である[[バビロン]]を都とする[[バビロン第1王朝|古バビロニア王国]](バビロン第1王朝)もこの頃建国された。さらに、このころには北メソポタミアで[[アッシリア]]が勃興した。 [[紀元前18世紀]]に入ると統合の動きが強まり、まず紀元前1794年にはイシンがラルサによって滅ぼされた<ref>「古代メソポタミア全史」p110 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>ものの、やがてバビロン第1王朝が第6代の[[ハンムラビ|ハンムラビ王]]の元で強大となり、30年間にわたる戦争の後、紀元前1759年にメソポタミアを統一した<ref>「古代メソポタミア全史」p128-129 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。[[ハンムラビ法典]](ハムラビ法典。「目には目を、歯には歯を」の復讐法が有名)は彼によって作られた。ハンムラビの死後バビロン第1王朝は少しずつ衰退していき、また北のアッシリアは[[ミタンニ王国]]の支配下に入った。 [[紀元前16世紀|紀元前1595年]]頃、現在の[[トルコ]]にあった[[ヒッタイト]]により古バビロニア帝国は滅ぼされる<ref>「古代メソポタミア全史」p136 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。 その後、紀元前1500年頃にはバビロニアで[[カッシート]]人が統一王朝を築き、その北では紀元前1340年にミタンニが滅亡するとアッシリアが一時中興した。この時期のオリエントはエジプトやヒッタイト、アッシリア、バビロニアといった大国が併存していたが、紀元前1200年頃に[[前1200年のカタストロフ]]が起き、オリエント一帯が動乱期に突入した。紀元前1155年にはカッシート朝が滅亡し<ref>「古代メソポタミア全史」p185 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>、イシン第二王朝が一時勃興したものの、その滅亡後バビロニアは長い混乱期に入った<ref>「古代メソポタミア全史」p243 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。またアッシリアの勢力もこの時期に一時縮小した。 === アッシリア === [[ファイル:Assyria max territory.png|230px|thumb|アッシリアの勢力範囲]] {{main|アッシリア}} [[紀元前9世紀]]、馬や戦車、鉄器を使用し、残虐行為によって恐れられたアッシリアが勢力を広げる。アッシリアの拡張はその後も続き、[[紀元前745年]]即位した[[ティグラト・ピレセル3世]]の時代にアッシリア帝国はメソポタミア全域とシリア、パレスチナを支配した。[[紀元前722年]]にはアッシリア帝国により[[イスラエル王国]](分裂後の北王国)が滅ぼされた<ref>「古代メソポタミア全史」p213 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。[[紀元前671年]]、アッシリアの[[エサルハドン]]王の侵攻によりエジプトが支配され、アッシリア帝国はオリエント地域全体を支配する大帝国になった<ref>「古代メソポタミア全史」p226-227 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。次代の[[アッシュールバニパル]]王の時期にアッシリア帝国は最盛期を迎えるものの、治世後半期から急速に衰退していく。 各地で地方勢力が独立し、紀元前625年には[[ナボポラッサル]]によってバビロンに[[新バビロニア]]が建国される。[[紀元前612年]]、新バビロニアと[[メディア王国|メディア]]の反撃により、アッシリア帝国の首都[[ニネヴェ]]が陥落して破壊される<ref>「古代メソポタミア全史」p238 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。[[紀元前609年]]にはアッシリア帝国が完全に滅亡し<ref>「古代メソポタミア全史」p239 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>、オリエントはイラン高原のメディア、メソポタミアの新バビロニア、小アジアの[[リュディア]]、[[エジプト第26王朝]]の4帝国時代を迎える。 === 新バビロニア === 新バビロニアは第2代[[ネブカドネザル2世]]の次代に最盛期を迎えた。ネブカドネザル2世は首都バビロンの再建を積極的に行う一方、シリアやパレスチナ方面へと進出し、[[紀元前597年]]にはユダヤ人の[[ユダ王国]](南王国)の首都エルサレムを占領して、同国の王族は捕えられてバビロンに送られる。「[[バビロン捕囚]]」である。[[紀元前586年]]にはユダ王国が再び反乱を起こしたが再度バビロニアに鎮圧され、残る人々も捕囚の身となって新バビロニアのニップル付近に強制移住させられた<ref>「古代メソポタミア全史」p248-249 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。 === ペルシャ === {{main|ペルシア帝国}} [[紀元前539年]]、[[アケメネス朝]]ペルシアの[[キュロス2世]]が新バビロニアを滅ぼし、メソポタミアを含むオリエント全域を領土とする大帝国を築き上げた<ref>「古代メソポタミア全史」p253-254 小林登志子 中公新書 2020年10月25日初版</ref>。アケメネス朝の支配は200年ほど続いたが、[[紀元前331年]]に[[マケドニア王国]]の[[アレクサンドロス3世]]がバビロンに入城し、ペルシアの支配は終わった。 === アレクサンドロスの征服以降 === [[ファイル:Mesopotamia (Imperium Romanum).png|230px|thumb|メソポタミア属州]] [[紀元前323年]]にアレクサンドロス3世が死去すると彼の帝国はほどなくして瓦解し、メソポタミアは[[ディアドコイ]]国家のひとつである[[セレウコス朝]]によって支配されることとなった。[[紀元前141年]]にはペルシア高原から侵攻してきた[[パルティア]]がこの地を占領した。[[116年]]、[[トラヤヌス]]が率いる[[ローマ帝国]]軍は、パルティアを破ってメソポタミアを占領するが、翌年トラヤヌスが死去(117年)すると、後継皇帝[[ハドリアヌス]]は翌[[118年]]にメソポタミアから撤退し、再びパルティア領となった。しかしその後もローマはしばしばパルティアへと侵攻を続け、メソポタミアは基本的にはパルティアに属しながらもたびたび支配勢力が変化した。パルティアが滅亡し、[[230年]]にメソポタミアが[[サーサーン朝]]の領土となると、メソポタミア中部に首都[[クテシフォン]]を置いて繁栄した。 [[636年]]、[[イスラム帝国]]がクテシフォンに入城し、以後[[ウマイヤ朝]]、[[アッバース朝]]、[[モンゴル帝国]]、[[イルハン朝]]、[[オスマン帝国]]などの諸帝国の支配を受け、[[1920年]]には[[イギリス委任統治領メソポタミア]]が成立し、[[1932年]]に[[イラク]]が独立するとその領土となった。 == メソポタミアの神々 == 多神教であったが、時代の支配民族によって、最高神は変わっていった。 {{main|メソポタミア神話}} {{see also|メソポタミア神話の神々の系図}} * [[アンシャル]] - 天国の父 * [[アヌ (メソポタミア神話)|アヌ]] - 最も高い天国の神 * [[アプスー]] - 神々と地下世界の海の支配者 * [[アンシャル|アシュル]] - アッシリアの国神 * [[ダムガルヌンナ|ダムキナ]] - 地球の母なる女神 * [[エンキ|エア]] - 知恵の神 * [[エンリル]] - 天候と嵐の神 * [[エヌルタ]] - 戦争の神 * [[アダド|ハダド]] - 天候の神 * [[イシュタル]] - 愛と豊穣を司る女神 * [[キングー]] - ティアマトの夫 * [[キシャル]] - 地を司る女神([[アンシャル]]の妻にして妹) * [[マルドゥク]] - バビロニア人の国神 * [[ムンム]] - 霧の神 * [[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー]] - 書記の守護神 * [[ニンツ]] - 全ての神々の母 * [[シャマシュ]] - 太陽と正義の神 * [[シン (メソポタミア神話)|スィン]] - 月の神 * [[ティアマト]] - 原初の女神 * [[ラフム]] [[アプスー]]と[[ティアマト]]の子。[[ラハム]]の夫。[[アンシャル]]と[[キシャル]]の父。 * [[ラハム]] [[アプスー]]と[[ティアマト]]の娘。[[ラフム]]の妻。[[アンシャル]]と[[キシャル]]の母。 == 遺跡 == 古代メソポタミア時代から存続している都市は存在しないものの、メソポタミアには当時の遺跡がいくつか現存している。そのうち、[[アッシュール]](カラット・シェルカット)は2003年に<ref>http://whc.unesco.org/ja/list/1130#top 「アッシュール(カラット・シェルカット)」 ユネスコ世界遺産センター 2021年3月14日閲覧</ref>、[[バビロン]]は2019年にユネスコの[[世界遺産]]に文化遺産として登録された<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3233947 「イラクの古代遺跡バビロンが世界遺産に、ユネスコ」AFPBB 2019年7月7日 2021年3月14日閲覧</ref><ref>http://whc.unesco.org/ja/list/278#top 「Babylon」 ユネスコ世界遺産センター 2021年3月14日閲覧</ref>。また、ウル、ウルク、エリドゥの3都市遺跡は、周辺の湿地帯とともに[[アフワール|南イラクのアフワール:生物の避難所と古代メソポタミア都市景観の残影]]として2016年に世界遺産([[複合遺産]])に登録された<ref>http://whc.unesco.org/ja/list/1481#top 「南イラクのアフワール:生物の避難所と古代メソポタミア都市景観の残影」ユネスコ世界遺産センター 2021年3月14日閲覧</ref>。 多くの遺跡で発掘が行われているものの、ほとんどの遺跡はイラク国内に存在するため、[[1990年]]の[[湾岸戦争]]から[[2003年]]の[[イラク戦争]]へと続く政治的混乱により遺跡の発掘はほとんどの場所で停止し、また戦災や略奪などで多くの遺跡が破損したうえ、適切な管理が行われず放置された遺跡も多く存在した<ref>https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/250/ 「イラク古代遺跡、略奪より放置が問題」ナショナルジオグラフィック 2008.08.12 2021年3月14日閲覧</ref>。その後、2010年代に入ると情勢の安定したイラク南部において発掘が再開されることも多くなり、2015年にはウルの発掘が再開された<ref>https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/a/031500018/ 「最古の国際都市ウル、50年ぶり発掘再開」2016.03.16 2021年3月14日閲覧</ref>。一方、北部で活動する[[ISIL]]はイスラム教以前の遺跡の完全破壊を目標に掲げており、2015年にはアッシリアの遺跡である[[ニムルド]]遺跡が破壊され<ref>https://www.afpbb.com/articles/-/3089902 「イラクのニムルド遺跡、ISが新たな破壊 衛星画像で確認」AFPBB 2016年6月10日 2021年3月14日閲覧</ref>、また出土品の密売や略奪も積極的に行われていた<ref>https://www.sankei.com/premium/news/150320/prm1503200005-n1.html 「【イスラム国】偶像敵視、資金源、注目…「イスラム国」はなぜメソポタミア遺跡を破壊するのか」産経新聞 2015.3.20 2021年3月14日閲覧</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *{{Cite |和書 | others = 大貫良夫監訳 | title = 石器時代の人々(上) | date = 2004-04 | publisher = [[朝倉書店]] | series = 図説 人類の歴史3 | isbn = 978-4254535433 | ref = {{sfnRef|『石器時代の人々(上)』}} }} *{{Cite |和書 | author = カール・ポランニー | authorlink = カール・ポランニー | translator = [[玉野井芳郎]]・[[栗本慎一郎]] | title = 人間の経済 I 市場社会の虚構性 | date = 2005-07 | publisher = [[岩波書店]] | series = 岩波モダンクラシックス | isbn = 978-4000271363 | ref = {{sfnRef|『人間の経済 I』}} }} *{{Cite |和書 | author = カール・ポランニー | authorlink = カール・ポランニー | translator = [[玉野井芳郎]]・[[中野忠]] | title = 人間の経済 II 交易・貨幣および市場の出現 | date = 2005-07 | publisher = [[岩波書店]] | series = 岩波モダンクラシックス | isbn = 978-4000271370 | ref = {{sfnRef|『人間の経済 II』}} }} *{{Cite |和書 | author = 小林登志子 | authorlink = 小林登志子 | title = シュメル 人類最古の文明 | date = 2005-10 | publisher = [[中央公論新社]] | series = [[中公新書]] | isbn = 978-4121018182 | ref = {{sfnRef|『シュメル 人類最古の文明』}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Mesopotamia}} * [[中東]] * [[イラク]]、[[イラクの歴史]] * [[レバント]] * [[ギルガメシュ叙事詩]] * [[メソポタミア (アルゼンチン)|メソポタミア地方]] - アルゼンチンの地方名 * [[古代イスラエル]] * [[トルコ]] * [[コーカサス|カフカス]] * [[ペルシア]]、[[イラン]] * [[アラビア半島|アラビア]]、[[アラブ人|アラブ]] * [[エジプト]] * [[先史時代]] * [[石器時代]] ** [[新石器時代]] * [[鉄器時代]] ;宗教 * {{ill2|アーシプ|en|Ašipu}} - 神官、技術者、治療者などの役割があった役職者。 * {{ill2|ガラ神官|en|Gala (priests)}} - 去勢して宗教歌などを歌った神職。 == 外部リンク == * [https://ancientneareast.tripod.com/Mesopotamia.html 古代近東の歴史] {{en icon}} * {{Kotobank}} {{古代文明}} {{ローマ帝国の属州}} {{normdaten}} {{デフォルトソート:めそほたみあ}} [[Category:イラクの地理]] [[Category:メソポタミア|*]] [[Category:古代ローマの属州]]
2003-03-18T05:18:36Z
2023-12-04T21:49:40Z
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[ "Template:Sfn", "Template:See also", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:Kotobank", "Template:古代文明", "Template:ローマ帝国の属州", "Template:Otheruses", "Template:出典の明記", "Template:イラクの歴史", "Template:Reflist", "Template:En icon", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite", "Template:翻字併記", "Template:Main", "Template:Ill2", "Template:Normdaten" ]
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衆議院
衆議院(しゅうぎいん、英語: House of Representatives)は、日本の立法府たる国会(両院制)の議院のひとつである(日本国憲法第42条)。 帝国憲法施行後の1890年(明治23年)11月29日に帝国議会の下院として設立された議院であり、上院の貴族院とともに帝国議会を構成していた。 1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行後は国会の下院として再編され、上院の参議院(さんぎいん)とともに国会を構成している。 日本国憲法下で参議院とともに国会を構成している(日本国憲法第42条)。参議院と同じく全国民を代表する、選挙により選出された議員で組織される。 衆議院の任期(4年)は参議院の任期(6年)より短く、衆議院は任期途中での解散がある。因みに、日本国憲法施行後、衆議院が任期満了を迎えたのは1回しかない。任期の短さと解散により忠実に民意を反映できると解されていることから、参議院に対して優越的地位が認められている(衆議院の優越)。 なお、憲法改正の発議などについては優越はない。 衆議院のみに認められる権能として、内閣不信任決議権のほか参議院の緊急集会でとられた措置に対する同意権(日本国憲法第54条第3項)がある。 議員定数は日本国憲法第43条第2項の規定に基づき公職選挙法第4条第1項に明記されている。 1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行後初めて召集された第1回国会は、施行直前の1947年(昭和22年)4月25日に執行された第23回衆議院議員総選挙で選出された議員により構成された。この総選挙は新憲法に考慮して第92回帝国議会で改正した衆議院議員選挙法(同年3月31日公布)に基づいて行われ、選出方法は中選挙区制、定数は466人。 1950年(昭和25年)に衆議院議員選挙法を廃止して、新たに「公職選挙法」を制定したが、選出方法・定数はそのまま引き継がれ、中選挙区制・定数466人と定められた。1953年(昭和28年)には、現在の鹿児島県奄美市および大島郡に属する奄美群島が同年12月に本土復帰することに伴い、「奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」が制定され、奄美群島が新たに選挙区となったことで、定数は同暫定措置法により1増の467人となり、戦後初の定数変更が行われた。1964年(昭和39年)、暫定措置法の議員定数に関する規定は削除され、公職選挙法に引き継がれたが、この際、大都市の人口増加に伴い定数は19増の486人となった。 1970年(昭和45年)、沖縄の本土復帰に先立ち沖縄住民の民意を国政に反映させるべく、日本の国会が「沖縄住民の国政参加特別措置法」を制定、および同特別措置法を受け琉球政府の立法院が「沖縄住民の国政参加特別措置法に基づく衆議院議員及び参議院議員選挙法」を制定し、沖縄県が新たに選挙区となったことで、定数は5増の491人となった。同特別措置法は沖縄が正式に本土復帰した1972年(昭和47年)、「沖縄の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律」に基づき廃止され、議員定数の規定はそのまま公職選挙法に引き継がれた。1975年(昭和50年)には20増の511人と増員され、以後、この定数が1986年(昭和61年)まで続いた。定数是正の直接の理由は、第二次世界大戦後の都市部の食糧難とインフラ壊滅状態から戦中の疎開地に都市住民が留まっていた状態で定数割り当てがなされたことに加え、農業の機械化と産業構造の変化によって農村人口が減少し一票の格差が5倍前後にまで膨れ上がったことによる。ただ、増員のみが続発した背景には、当時の日本が人口増を続けていたことに加え、減員が現職議員の失職に繋がるものであることや、政権を担う与党にとって不利な定数変更とならないことに配慮した、などの点が指摘されている。 1983年(昭和58年)、一票の格差が3倍以上に達する場合には憲法第14条に違反するとも解される最高裁判所の判決が出された。これを受けて、1986年(昭和61年)に初めての減員を含む8増7減(8選挙区で1人ずつ増員し、7選挙区で1人ずつ減員。差し引き1増)の512人となる。さらに、1992年(平成4年)には9増10減(9選挙区で1人ずつ増員し、10選挙区で1人ずつ減員。差し引き1減)の511人となった。 1993年(平成5年)、いわゆる政治改革の一つとして選挙制度改革が論じられた。その結果、従来の中選挙区制は廃止され、小選挙区比例代表並立制が導入された。同時に定数も改定され、511人から500人(小選挙区300人、比例代表200人)に減員された。2000年(平成12年)に比例代表の定数について20削減され、定数は480人(小選挙区300人、比例代表180人)となった。なお、議員1人当たりの人口は26.7万人であり、これはOECD加盟国34ヶ国中33位と、人口に対して定数が非常に少ない部類に入る。2014年(平成26年)に小選挙区の格差是正により5減され、475人(小選挙区295人、比例代表180人)となった。 2017年(平成29年)9月28日の解散により行われた第48回衆議院議員総選挙は、同年6月施行の選挙区改正により小選挙区では0増6減(青森、岩手、三重、奈良、熊本、鹿児島の6県で各1減)、比例代表区では0増4減(東北、北関東、近畿、九州の4ブロックで各1減)が実施され、定数465人(小選挙区289人、比例代表176人)となった。これにより衆議院の定数は、日本国憲法施行後最少となる。 公職選挙法、区画審理法が改正され、各都道府県の議席が国勢調査の人口に応じたアダムズ方式で決められるようになった。10年毎の国勢調査で見直され、5年毎の簡易国勢調査では較差が2倍以上になった場合は区割り変更で対応される。 衆議院議員の選挙は、小選挙区比例代表並立制によって行われる。小選挙区比例代表並立制とは、選挙人が小選挙区と比例代表のそれぞれに1票ずつ投票する制度。被選挙人(立候補者)は、小選挙区と比例代表の双方に立候補することができる(重複立候補制度)。 なお、1993年(平成5年)の第40回衆院選挙までは、中選挙区制(大選挙区制の一種)で行われていた。 選挙資格および被選挙資格は法律で定められる(日本国憲法第44条本文)。 衆議院議員の任期は4年だが、衆議院が解散された場合には任期満了前に失職する(日本国憲法第45条)。 議員は、院内では会派(院内会派)を作って行動することが多い。院内会派とは、2人以上の院所属議員で結成する団体のことである。政党とほぼ重なるものの、2つ以上の政党で一つの会派を作ったり、無所属議員が院内会派に所属することもある。その院の各委員会の委員数や、発言・質問の時間配分などは、政党ではなく会派の所属議員数によって左右される。衆参両院とも、慣例により議長と副議長は会派を離脱する。 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する(日本国憲法第58条)。国会法上の役員は議長、副議長、仮議長、常任委員長、事務総長とされている(国会法第16条)。また、衆議院では、これに特別委員長、憲法審査会会長、政治倫理審査会会長を加えた八職を「役員等」としている。 議長は、議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する(国会法第19条)。副議長は、議長に事故があるときまたは議長が欠けたときは、議長の職務を行う(国会法第21条)。議長および副議長とも各々一人で(国会法第17条)、任期は各々議員としての任期までとなる(国会法第18条)。 議長は内閣総理大臣の親任式に列席する(衆議院先例集69号)。第21回国会の鳩山一郎内閣総理大臣の親任式の際は、議長が欠員していたので原彪副議長が列席した例がある(衆議院先例集69号)。 議長および副議長がともにまたはいずれかが欠けた場合は、直ちに選挙をしなければならない(国会法第23条)。総選挙後に召集される国会では、召集当日に議長および副議長がともにないので、まずその選挙をおこなう(国会法第6条、衆議院規則第3条および同第9条)。この選挙は、事務総長 が取り仕切る。召集当日に選挙が実施できなかった例が、第1回、第29回、第37回、第45回および第127回国会にある(衆議院先例集38号)。 衆参の議長は三権の長で唯一親任式の対象ではないが、議長、副議長は、就任の際、皇居・宮殿に参内して国会の召集者である天皇に面会のうえ挨拶をし(官報では「拝謁(はいえつ)」と表記)、辞任の際には、挨拶の記帳をする(衆議院先例集51号)こととなっている。 第50回帝国議会において「議長は不偏不党・厳正公平であるべき」との決議が全会一致で可決され、以後おおむね議長および副議長は就任に際し党籍を離脱している(衆議院先例集65号)。 議長および副議長に共に事故があるときは仮議長に議長の職務を行わせることになっており、選挙または議長の委任で選出することになっている(国会法第22条)。 常任委員長は国会法上の役員である(国会法第16条)。常任委員長は、本会議で委員の中から選挙(国会法第25条)もしくは議長において指名(衆議院規則第15条第1項)で選任されるが、後者の場合がほとんどである。この場合、事前に各会派間で協議された常任委員長各会派割当てと会派申出の候補者に基づいておこなわれる。委員の選任は、総選挙後初めて召集される会期の始めに行われる(国会法第42条および衆議院委員会先例集9号)か、国会法または衆議院規則の改正により必要となったとき(衆議院委員会先例集10号)のみであり、その他の場合は異動とみなし、委員の辞任と補欠選任で対処することになっている。また、多くの会派は、毎年秋に召集される臨時会の冒頭で各委員の構成を見直すことを例としていることから、実際に委員の構成が大きく変わるのは総選挙後の国会と毎年秋に召集される臨時会であり、常任委員長が選任されるのはその際である。現職は第182回国会冒頭に議長によって指名された。 各議院において特に必要があると認めるときは、その院の議決をもって(すなわち本会議において)、常任委員長を解任することができる(国会法第30条の2)。委員会でも、不信任動議を可決することは可能であるが、この動議は法的拘束力をもたない。 衆議院の本会議で解任決議が可決された実例はない。衆議院の委員会での不信任動議可決例は過去に2例あり、1948年(昭和23年)12月の予算委員長に対するものと、2007年(平成19年)6月の懲罰委員長に対するものとがある。 委員長は、委員会の議事を整理し、秩序を保持する(国会法第48条)。 事務総長は、議長の監督の下に、議院の事務を統理し、公文に署名する(国会法第28条)。本会議において国会議員外より選挙(国会法第27条)されるが、その手続を省略し議長において指名(衆議院規則第16条第1項)することができることとなっている。手続を省略する場合がほとんどである。 現職は、2019年(令和元年)6月26日に議長において指名された。 特に必要があると判断された場合、特別委員会を設けることができる(国会法第45条)。第211回国会の召集日には8特別委員会が設置され、特別委員長は各委員会委員の互選によって選出された。 憲法審査会は、日本国憲法および日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議または国民投票に関する法律案等を審査するため、第167回国会から設けられた。ただし、憲法改正原案の審査については2010年(平成22年)5月18日から可能になる。しかし、実際には第167回国会で野党側の要求により、憲法審査会規程について制定することを見送ることになり、2009年(平成21年)6月11日に自民・公明の与党の賛成多数で規程が制定され、委員50名から構成されることなどが定められた。しばらく委員の指名は見送られ、休眠状態が継続していたが、2011年(平成23年)10月21日に委員が選任されて始まった。 情報監視審査会は、行政における特定秘密(2013年(平成25年)制定の「特定秘密の保護に関する法律」(平成25年法律第108号。以下「特定秘密保護法」という。)第3条第1項に規定する特定秘密をいう。以下同じ。)の保護に関する制度の運用を常時監視するため特定秘密の指定(同項の規定による指定をいう。)およびその解除ならびに適性評価(特定秘密保護法第12条第1項に規定する適性評価をいう。)の実施の状況について調査し、ならびに各議院または各議院の委員会もしくは参議院の調査会からの第104条第1項(第54条の4第1項において準用する場合を含む。)の規定による特定秘密の提出の要求に係る行政機関の長(特定秘密保護法第3条第1項に規定する行政機関の長をいう。以下同じ。)の判断の適否等を審査するため、各議院に情報監視審査会を設ける。(国会法第102条の13)。しばらく委員の指名は見送られ、休眠状態が継続していたが、2015年(平成27年)2月26日に委員が選任されて始動した。 政治倫理審査会は、政治倫理の確立のため、議員が「行為規範」その他の法令の規定に著しく違反し、政治的道義的に責任があると認めるかどうかについて審査する(国会法第124条の3)。 政治倫理審査会会長は総選挙後に召集される国会で委員の互選によって選出される。 なお参議院で行われている表決方法で押しボタン式投票があるが、2023年1月10日現在衆議院では採用されていない。 定数は衆議院議員選挙法によって定められていた。1889年(明治22年)に衆議院議員選挙法によって300人と定められた後、増員が繰り返され、1925年(大正14年)に466人となった。ただ、実際に466人が選出されたのは1928年(昭和3年)の第16回総選挙であった。昭和20年に朝鮮や台湾や樺太にも選挙区が設定されたことで、それらの選出議員を合わせて497人が定数となったが、これらの地域の議員については総選挙の機会がないまま敗戦を迎えたため実際には選出されなかった。敗戦後、大選挙区制が採用された1945年(昭和20年)12月の選挙法改正で468人とされたが、うち2人を占める沖縄県は米軍の統治下に置かれて、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還で本土復帰するまで、日本の選挙法が施行されなかったので、1946年(昭和21年)4月の戦後第1回総選挙(現行憲法下での初の衆議院選挙、第22回総選挙)は沖縄を除く466人について実施され、新憲法下に継承された(議員定数も参照)。 1889年市制郡を単位に257の選挙区に分け、1選挙区から1人を選出する小選挙区制を原則としたが、43選挙区は2人区とされ、全体で定数300人となった。投票方法について1人区においては当然に1名単記とされたが、2人区では2名連記が採用された。1890年(明治23年)7月1日執行の第1回総選挙から1898年(明治31年)8月10日執行の第6回総選挙までがこの選挙法によって実施された。 1900年(明治33年)、第2次山県有朋内閣により選挙法が改正され選挙権・被選挙権が拡大されるとともに、従来の小選挙区制から原則として1つの府県を1つの選挙区としてそれぞれから2人~12人を選出する大選挙区制に改められた。ただし、市部や離島は1選挙区として郡部からは分離され、東京市(現在のほぼ東京23区に該当)・京都市・大阪市(のち横浜市も追加)を除いて定数1人の小選挙区とされた。これにより総定数は369人となったが、1902年(明治35年)に第1次桂太郎内閣の下で再度選挙法が改正されて、この間に新たに発足した市が郡部選挙区から分離して総定数は381人となった。このうち、札幌区・小樽区・函館区を除く北海道と沖縄県への施行は当初は見合わされ、千島列島を除く北海道全域には1903年(明治36年)、宮古郡・八重山郡を除く沖縄県には1912年(明治45年・大正元年)にようやく選挙法が施行された。この改正から大選挙区においても単記制が採用された。1902年(明治35年)8月10日実施の第7回総選挙から1917年(大正6年)4月20日実施の第13回総選挙までがこの選挙法によって行われた。 大正デモクラシーの下での普選運動の高まりに対して原敬内閣は1919年(大正8年)に選挙法を改正して、納税額による選挙権の制限を残しながらも選挙権の拡大を図るとともに、大選挙区となっていた郡部選挙区を分割して、従来から事実上の小選挙区であった市部・離島と合わせて小選挙区を原則とする選挙制度に改めた。総定数は464と大幅に増員され374の選挙区が設定されたが、そのうち68選挙区が2人区、さらに11選挙区は3人区とされて、小選挙区制の原則からは大きく逸脱したものであった。1920年(大正9年)5月10日執行の第14回総選挙および1924年(大正13年)2月20日の第15回総選挙がこの選挙法によって行われた。沖縄の宮古郡・八重山郡での衆院選は1920年・第14回から施行された。 第2次護憲運動の高まりの下で行われた第15回総選挙で護憲三派が勝利することによって発足した加藤高明内閣が1925年(大正14年)に衆議院議員選挙法を全面改正することによって普通選挙(ただし男子のみ)が実現した。この改正衆議院議員選挙法を一般に普通選挙法と呼称する。北海道から沖縄県までの全国(得撫島以北の千島列島および小笠原島を除く)に1選挙区の定数を3人~5人とする122選挙区が設定され、総定数は466となった。直前の小選挙区制とも府県を1選挙区とする大選挙区制とも違うという意味で中選挙区制と呼ぶ。1928年(昭和3年)2月20日執行の第16回総選挙から1942年(昭和17年)4月30日執行の第21回総選挙までの総選挙がこの選挙法によって行われた。 この選挙法は植民地である樺太・朝鮮・台湾には最後まで施行されなかった。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月に、これら地域にも議席を割り当てる選挙法改正が公布されたが、施行日は勅令で定めるとされ、未施行のまま8月の日本の敗戦となった。この未施行法による各地域への議席配分は樺太:3人(3人区1つ)、朝鮮:23人(3人区1つ、2人区7つ、1人区5つ)、台湾:5人(1人区5つ)とされ、選挙権・被選挙権は当該地域に居住する日本人だけでなく朝鮮人や台湾人などにも当然に与えられる事となっていたが、選挙権については「引続キ一年以上直接国税十五円以上ヲ納ムル者」という制限があった。 また、得撫島以北の千島列島と小笠原島と新南群島(現在の南沙諸島、1939年から台湾高雄州高雄市に編入されていた)には最後まで選挙法が施行されなかった。 敗戦後、連合国軍の占領下に置かれ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導の下に行われた「民主化政策」の一環として幣原喜重郎内閣によって1945年(昭和20年)12月に衆議院議員選挙法が改正されて女性に選挙権が与えられるとともに、都道府県を単位とする大選挙区制が導入された。1900年(明治33年)の大選挙区制とは違い、各都道府県全域を1選挙区とすることを原則に総定数468人を沖縄県を含む各47都道府県の人口に基づいて配分された。これにより15人以上が配分される東京都・大阪府・兵庫県・新潟県・愛知県・福岡県および北海道の7都道府県についてはこれを分割して2選挙区とした。この結果、各選挙区では4人~14人の議員(沖縄県は2人)を選挙することとなり、定数10人以下の選挙区では2名、11人以上の選挙区では3名を連記して投票する制限連記が採用された。これによる総選挙は1946年(昭和21年)4月10日に執行された第22回総選挙が、米軍の直接統治下に置かれた沖縄県には実施されず、実際にはこれを除いた466人について選挙が行われた。 新憲法施行を控えた1947年(昭和22年)3月の衆議院議員選挙法改正により中選挙区制が復活し、同年4月25日に執行された第23回総選挙はこの復活した中選挙区制によって行われたので、大選挙区制による総選挙は第22回のみに終わった。 1890年(明治23年)第1回総選挙から1932年(昭和7年)第19回総選挙で選出された議員の任期は4年(ただし、解散時には任期満了前に議員資格を失う)。1900年(明治33年)の衆議院議員選挙法の改正によって、1902年(明治35年)の第7回総選挙以降において選出された議員は議会開会中に任期を終了しても閉会となるまで在任となった。そのような例として、第9回総選挙において選出された議員がある。 衆議院議員ノ任期延長ニ関スル法律の制定によって、1937年(昭和12年)第20回総選挙において選出された議員は1941年(昭和16年)4月から任期が1年延長されて1942年(昭和17年)4月までとなった。 帝国議会では第1回から速記録の「衆議院議事速記録」、要領筆記の「衆議院議事録」が作成されたが、公式記録は議長が署名を行う議事録とされ速記録に優先して扱われた。また委員会では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成され、本会議と同じく速記録と議事録が作成されていたが、第15回帝国議会で速記録に一本化されこれを「衆議院委員会議録」とした(貴族院では委員会の会議録とされ「貴族院委員会会議録」が作成された)。 国会では第1回から速記録の「衆議院会議録」が作成されている。委員会では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成されている(参議院では委員会の会議録とされ「参議院委員会会議録」が作成されている)。 旧憲法下の貴族院議員は、旧公家・旧大名・華族(旧憲法下で設けられた近代日本の貴族階級)や、政府に人選され天皇に任命された元官僚や大学教授などの学識経験者や勲功者、高額納税者の互選といった、上階層の代表としての位置づけであった。これに対し帝国議会においての衆議院は、選挙による民選という位置づけであり、全議員が国民のより広い階層の投票で選出されたことから衆議院議員は代議士(だいぎし)と呼ばれ、議会制度は代議制度と称された。 日本国憲法下では貴族院は廃止され、衆議院同様に選挙された議員からなる「参議院」(参議院議員)が誕生した。これにより、すべての国会議員が「全国民を代表」(第43条第1項)する民選議員となったものの、今日でも衆議院議員を指して代議士と呼び、参議院議員は一般に代議士と呼ばない。国会内で行なわれる「代議士会」とは、各政党所属の衆議院議員のみの議員総会であり、衆参あわせての議員総会は「両院議員総会」と呼ばれる。
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"text": "議員定数は日本国憲法第43条第2項の規定に基づき公職選挙法第4条第1項に明記されている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行後初めて召集された第1回国会は、施行直前の1947年(昭和22年)4月25日に執行された第23回衆議院議員総選挙で選出された議員により構成された。この総選挙は新憲法に考慮して第92回帝国議会で改正した衆議院議員選挙法(同年3月31日公布)に基づいて行われ、選出方法は中選挙区制、定数は466人。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)に衆議院議員選挙法を廃止して、新たに「公職選挙法」を制定したが、選出方法・定数はそのまま引き継がれ、中選挙区制・定数466人と定められた。1953年(昭和28年)には、現在の鹿児島県奄美市および大島郡に属する奄美群島が同年12月に本土復帰することに伴い、「奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」が制定され、奄美群島が新たに選挙区となったことで、定数は同暫定措置法により1増の467人となり、戦後初の定数変更が行われた。1964年(昭和39年)、暫定措置法の議員定数に関する規定は削除され、公職選挙法に引き継がれたが、この際、大都市の人口増加に伴い定数は19増の486人となった。 1970年(昭和45年)、沖縄の本土復帰に先立ち沖縄住民の民意を国政に反映させるべく、日本の国会が「沖縄住民の国政参加特別措置法」を制定、および同特別措置法を受け琉球政府の立法院が「沖縄住民の国政参加特別措置法に基づく衆議院議員及び参議院議員選挙法」を制定し、沖縄県が新たに選挙区となったことで、定数は5増の491人となった。同特別措置法は沖縄が正式に本土復帰した1972年(昭和47年)、「沖縄の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律」に基づき廃止され、議員定数の規定はそのまま公職選挙法に引き継がれた。1975年(昭和50年)には20増の511人と増員され、以後、この定数が1986年(昭和61年)まで続いた。定数是正の直接の理由は、第二次世界大戦後の都市部の食糧難とインフラ壊滅状態から戦中の疎開地に都市住民が留まっていた状態で定数割り当てがなされたことに加え、農業の機械化と産業構造の変化によって農村人口が減少し一票の格差が5倍前後にまで膨れ上がったことによる。ただ、増員のみが続発した背景には、当時の日本が人口増を続けていたことに加え、減員が現職議員の失職に繋がるものであることや、政権を担う与党にとって不利な定数変更とならないことに配慮した、などの点が指摘されている。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1983年(昭和58年)、一票の格差が3倍以上に達する場合には憲法第14条に違反するとも解される最高裁判所の判決が出された。これを受けて、1986年(昭和61年)に初めての減員を含む8増7減(8選挙区で1人ずつ増員し、7選挙区で1人ずつ減員。差し引き1増)の512人となる。さらに、1992年(平成4年)には9増10減(9選挙区で1人ずつ増員し、10選挙区で1人ずつ減員。差し引き1減)の511人となった。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)、いわゆる政治改革の一つとして選挙制度改革が論じられた。その結果、従来の中選挙区制は廃止され、小選挙区比例代表並立制が導入された。同時に定数も改定され、511人から500人(小選挙区300人、比例代表200人)に減員された。2000年(平成12年)に比例代表の定数について20削減され、定数は480人(小選挙区300人、比例代表180人)となった。なお、議員1人当たりの人口は26.7万人であり、これはOECD加盟国34ヶ国中33位と、人口に対して定数が非常に少ない部類に入る。2014年(平成26年)に小選挙区の格差是正により5減され、475人(小選挙区295人、比例代表180人)となった。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2017年(平成29年)9月28日の解散により行われた第48回衆議院議員総選挙は、同年6月施行の選挙区改正により小選挙区では0増6減(青森、岩手、三重、奈良、熊本、鹿児島の6県で各1減)、比例代表区では0増4減(東北、北関東、近畿、九州の4ブロックで各1減)が実施され、定数465人(小選挙区289人、比例代表176人)となった。これにより衆議院の定数は、日本国憲法施行後最少となる。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "公職選挙法、区画審理法が改正され、各都道府県の議席が国勢調査の人口に応じたアダムズ方式で決められるようになった。10年毎の国勢調査で見直され、5年毎の簡易国勢調査では較差が2倍以上になった場合は区割り変更で対応される。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "衆議院議員の選挙は、小選挙区比例代表並立制によって行われる。小選挙区比例代表並立制とは、選挙人が小選挙区と比例代表のそれぞれに1票ずつ投票する制度。被選挙人(立候補者)は、小選挙区と比例代表の双方に立候補することができる(重複立候補制度)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "なお、1993年(平成5年)の第40回衆院選挙までは、中選挙区制(大選挙区制の一種)で行われていた。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "選挙資格および被選挙資格は法律で定められる(日本国憲法第44条本文)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "衆議院議員の任期は4年だが、衆議院が解散された場合には任期満了前に失職する(日本国憲法第45条)。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "議員は、院内では会派(院内会派)を作って行動することが多い。院内会派とは、2人以上の院所属議員で結成する団体のことである。政党とほぼ重なるものの、2つ以上の政党で一つの会派を作ったり、無所属議員が院内会派に所属することもある。その院の各委員会の委員数や、発言・質問の時間配分などは、政党ではなく会派の所属議員数によって左右される。衆参両院とも、慣例により議長と副議長は会派を離脱する。", "title": "構成" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "両議院は、各々その議長その他の役員を選任する(日本国憲法第58条)。国会法上の役員は議長、副議長、仮議長、常任委員長、事務総長とされている(国会法第16条)。また、衆議院では、これに特別委員長、憲法審査会会長、政治倫理審査会会長を加えた八職を「役員等」としている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "議長は、議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する(国会法第19条)。副議長は、議長に事故があるときまたは議長が欠けたときは、議長の職務を行う(国会法第21条)。議長および副議長とも各々一人で(国会法第17条)、任期は各々議員としての任期までとなる(国会法第18条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "議長は内閣総理大臣の親任式に列席する(衆議院先例集69号)。第21回国会の鳩山一郎内閣総理大臣の親任式の際は、議長が欠員していたので原彪副議長が列席した例がある(衆議院先例集69号)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "議長および副議長がともにまたはいずれかが欠けた場合は、直ちに選挙をしなければならない(国会法第23条)。総選挙後に召集される国会では、召集当日に議長および副議長がともにないので、まずその選挙をおこなう(国会法第6条、衆議院規則第3条および同第9条)。この選挙は、事務総長 が取り仕切る。召集当日に選挙が実施できなかった例が、第1回、第29回、第37回、第45回および第127回国会にある(衆議院先例集38号)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "衆参の議長は三権の長で唯一親任式の対象ではないが、議長、副議長は、就任の際、皇居・宮殿に参内して国会の召集者である天皇に面会のうえ挨拶をし(官報では「拝謁(はいえつ)」と表記)、辞任の際には、挨拶の記帳をする(衆議院先例集51号)こととなっている。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第50回帝国議会において「議長は不偏不党・厳正公平であるべき」との決議が全会一致で可決され、以後おおむね議長および副議長は就任に際し党籍を離脱している(衆議院先例集65号)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "議長および副議長に共に事故があるときは仮議長に議長の職務を行わせることになっており、選挙または議長の委任で選出することになっている(国会法第22条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "常任委員長は国会法上の役員である(国会法第16条)。常任委員長は、本会議で委員の中から選挙(国会法第25条)もしくは議長において指名(衆議院規則第15条第1項)で選任されるが、後者の場合がほとんどである。この場合、事前に各会派間で協議された常任委員長各会派割当てと会派申出の候補者に基づいておこなわれる。委員の選任は、総選挙後初めて召集される会期の始めに行われる(国会法第42条および衆議院委員会先例集9号)か、国会法または衆議院規則の改正により必要となったとき(衆議院委員会先例集10号)のみであり、その他の場合は異動とみなし、委員の辞任と補欠選任で対処することになっている。また、多くの会派は、毎年秋に召集される臨時会の冒頭で各委員の構成を見直すことを例としていることから、実際に委員の構成が大きく変わるのは総選挙後の国会と毎年秋に召集される臨時会であり、常任委員長が選任されるのはその際である。現職は第182回国会冒頭に議長によって指名された。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "各議院において特に必要があると認めるときは、その院の議決をもって(すなわち本会議において)、常任委員長を解任することができる(国会法第30条の2)。委員会でも、不信任動議を可決することは可能であるが、この動議は法的拘束力をもたない。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "衆議院の本会議で解任決議が可決された実例はない。衆議院の委員会での不信任動議可決例は過去に2例あり、1948年(昭和23年)12月の予算委員長に対するものと、2007年(平成19年)6月の懲罰委員長に対するものとがある。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "委員長は、委員会の議事を整理し、秩序を保持する(国会法第48条)。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "事務総長は、議長の監督の下に、議院の事務を統理し、公文に署名する(国会法第28条)。本会議において国会議員外より選挙(国会法第27条)されるが、その手続を省略し議長において指名(衆議院規則第16条第1項)することができることとなっている。手続を省略する場合がほとんどである。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "現職は、2019年(令和元年)6月26日に議長において指名された。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "特に必要があると判断された場合、特別委員会を設けることができる(国会法第45条)。第211回国会の召集日には8特別委員会が設置され、特別委員長は各委員会委員の互選によって選出された。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "憲法審査会は、日本国憲法および日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議または国民投票に関する法律案等を審査するため、第167回国会から設けられた。ただし、憲法改正原案の審査については2010年(平成22年)5月18日から可能になる。しかし、実際には第167回国会で野党側の要求により、憲法審査会規程について制定することを見送ることになり、2009年(平成21年)6月11日に自民・公明の与党の賛成多数で規程が制定され、委員50名から構成されることなどが定められた。しばらく委員の指名は見送られ、休眠状態が継続していたが、2011年(平成23年)10月21日に委員が選任されて始まった。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "情報監視審査会は、行政における特定秘密(2013年(平成25年)制定の「特定秘密の保護に関する法律」(平成25年法律第108号。以下「特定秘密保護法」という。)第3条第1項に規定する特定秘密をいう。以下同じ。)の保護に関する制度の運用を常時監視するため特定秘密の指定(同項の規定による指定をいう。)およびその解除ならびに適性評価(特定秘密保護法第12条第1項に規定する適性評価をいう。)の実施の状況について調査し、ならびに各議院または各議院の委員会もしくは参議院の調査会からの第104条第1項(第54条の4第1項において準用する場合を含む。)の規定による特定秘密の提出の要求に係る行政機関の長(特定秘密保護法第3条第1項に規定する行政機関の長をいう。以下同じ。)の判断の適否等を審査するため、各議院に情報監視審査会を設ける。(国会法第102条の13)。しばらく委員の指名は見送られ、休眠状態が継続していたが、2015年(平成27年)2月26日に委員が選任されて始動した。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "政治倫理審査会は、政治倫理の確立のため、議員が「行為規範」その他の法令の規定に著しく違反し、政治的道義的に責任があると認めるかどうかについて審査する(国会法第124条の3)。 政治倫理審査会会長は総選挙後に召集される国会で委員の互選によって選出される。", "title": "組織" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "なお参議院で行われている表決方法で押しボタン式投票があるが、2023年1月10日現在衆議院では採用されていない。", "title": "表決方法" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "定数は衆議院議員選挙法によって定められていた。1889年(明治22年)に衆議院議員選挙法によって300人と定められた後、増員が繰り返され、1925年(大正14年)に466人となった。ただ、実際に466人が選出されたのは1928年(昭和3年)の第16回総選挙であった。昭和20年に朝鮮や台湾や樺太にも選挙区が設定されたことで、それらの選出議員を合わせて497人が定数となったが、これらの地域の議員については総選挙の機会がないまま敗戦を迎えたため実際には選出されなかった。敗戦後、大選挙区制が採用された1945年(昭和20年)12月の選挙法改正で468人とされたが、うち2人を占める沖縄県は米軍の統治下に置かれて、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還で本土復帰するまで、日本の選挙法が施行されなかったので、1946年(昭和21年)4月の戦後第1回総選挙(現行憲法下での初の衆議院選挙、第22回総選挙)は沖縄を除く466人について実施され、新憲法下に継承された(議員定数も参照)。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1889年市制郡を単位に257の選挙区に分け、1選挙区から1人を選出する小選挙区制を原則としたが、43選挙区は2人区とされ、全体で定数300人となった。投票方法について1人区においては当然に1名単記とされたが、2人区では2名連記が採用された。1890年(明治23年)7月1日執行の第1回総選挙から1898年(明治31年)8月10日執行の第6回総選挙までがこの選挙法によって実施された。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1900年(明治33年)、第2次山県有朋内閣により選挙法が改正され選挙権・被選挙権が拡大されるとともに、従来の小選挙区制から原則として1つの府県を1つの選挙区としてそれぞれから2人~12人を選出する大選挙区制に改められた。ただし、市部や離島は1選挙区として郡部からは分離され、東京市(現在のほぼ東京23区に該当)・京都市・大阪市(のち横浜市も追加)を除いて定数1人の小選挙区とされた。これにより総定数は369人となったが、1902年(明治35年)に第1次桂太郎内閣の下で再度選挙法が改正されて、この間に新たに発足した市が郡部選挙区から分離して総定数は381人となった。このうち、札幌区・小樽区・函館区を除く北海道と沖縄県への施行は当初は見合わされ、千島列島を除く北海道全域には1903年(明治36年)、宮古郡・八重山郡を除く沖縄県には1912年(明治45年・大正元年)にようやく選挙法が施行された。この改正から大選挙区においても単記制が採用された。1902年(明治35年)8月10日実施の第7回総選挙から1917年(大正6年)4月20日実施の第13回総選挙までがこの選挙法によって行われた。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "大正デモクラシーの下での普選運動の高まりに対して原敬内閣は1919年(大正8年)に選挙法を改正して、納税額による選挙権の制限を残しながらも選挙権の拡大を図るとともに、大選挙区となっていた郡部選挙区を分割して、従来から事実上の小選挙区であった市部・離島と合わせて小選挙区を原則とする選挙制度に改めた。総定数は464と大幅に増員され374の選挙区が設定されたが、そのうち68選挙区が2人区、さらに11選挙区は3人区とされて、小選挙区制の原則からは大きく逸脱したものであった。1920年(大正9年)5月10日執行の第14回総選挙および1924年(大正13年)2月20日の第15回総選挙がこの選挙法によって行われた。沖縄の宮古郡・八重山郡での衆院選は1920年・第14回から施行された。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "第2次護憲運動の高まりの下で行われた第15回総選挙で護憲三派が勝利することによって発足した加藤高明内閣が1925年(大正14年)に衆議院議員選挙法を全面改正することによって普通選挙(ただし男子のみ)が実現した。この改正衆議院議員選挙法を一般に普通選挙法と呼称する。北海道から沖縄県までの全国(得撫島以北の千島列島および小笠原島を除く)に1選挙区の定数を3人~5人とする122選挙区が設定され、総定数は466となった。直前の小選挙区制とも府県を1選挙区とする大選挙区制とも違うという意味で中選挙区制と呼ぶ。1928年(昭和3年)2月20日執行の第16回総選挙から1942年(昭和17年)4月30日執行の第21回総選挙までの総選挙がこの選挙法によって行われた。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この選挙法は植民地である樺太・朝鮮・台湾には最後まで施行されなかった。第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月に、これら地域にも議席を割り当てる選挙法改正が公布されたが、施行日は勅令で定めるとされ、未施行のまま8月の日本の敗戦となった。この未施行法による各地域への議席配分は樺太:3人(3人区1つ)、朝鮮:23人(3人区1つ、2人区7つ、1人区5つ)、台湾:5人(1人区5つ)とされ、選挙権・被選挙権は当該地域に居住する日本人だけでなく朝鮮人や台湾人などにも当然に与えられる事となっていたが、選挙権については「引続キ一年以上直接国税十五円以上ヲ納ムル者」という制限があった。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、得撫島以北の千島列島と小笠原島と新南群島(現在の南沙諸島、1939年から台湾高雄州高雄市に編入されていた)には最後まで選挙法が施行されなかった。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "敗戦後、連合国軍の占領下に置かれ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導の下に行われた「民主化政策」の一環として幣原喜重郎内閣によって1945年(昭和20年)12月に衆議院議員選挙法が改正されて女性に選挙権が与えられるとともに、都道府県を単位とする大選挙区制が導入された。1900年(明治33年)の大選挙区制とは違い、各都道府県全域を1選挙区とすることを原則に総定数468人を沖縄県を含む各47都道府県の人口に基づいて配分された。これにより15人以上が配分される東京都・大阪府・兵庫県・新潟県・愛知県・福岡県および北海道の7都道府県についてはこれを分割して2選挙区とした。この結果、各選挙区では4人~14人の議員(沖縄県は2人)を選挙することとなり、定数10人以下の選挙区では2名、11人以上の選挙区では3名を連記して投票する制限連記が採用された。これによる総選挙は1946年(昭和21年)4月10日に執行された第22回総選挙が、米軍の直接統治下に置かれた沖縄県には実施されず、実際にはこれを除いた466人について選挙が行われた。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "新憲法施行を控えた1947年(昭和22年)3月の衆議院議員選挙法改正により中選挙区制が復活し、同年4月25日に執行された第23回総選挙はこの復活した中選挙区制によって行われたので、大選挙区制による総選挙は第22回のみに終わった。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1890年(明治23年)第1回総選挙から1932年(昭和7年)第19回総選挙で選出された議員の任期は4年(ただし、解散時には任期満了前に議員資格を失う)。1900年(明治33年)の衆議院議員選挙法の改正によって、1902年(明治35年)の第7回総選挙以降において選出された議員は議会開会中に任期を終了しても閉会となるまで在任となった。そのような例として、第9回総選挙において選出された議員がある。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "衆議院議員ノ任期延長ニ関スル法律の制定によって、1937年(昭和12年)第20回総選挙において選出された議員は1941年(昭和16年)4月から任期が1年延長されて1942年(昭和17年)4月までとなった。", "title": "帝国憲法下の衆議院" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "帝国議会では第1回から速記録の「衆議院議事速記録」、要領筆記の「衆議院議事録」が作成されたが、公式記録は議長が署名を行う議事録とされ速記録に優先して扱われた。また委員会では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成され、本会議と同じく速記録と議事録が作成されていたが、第15回帝国議会で速記録に一本化されこれを「衆議院委員会議録」とした(貴族院では委員会の会議録とされ「貴族院委員会会議録」が作成された)。", "title": "会議録" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "国会では第1回から速記録の「衆議院会議録」が作成されている。委員会では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成されている(参議院では委員会の会議録とされ「参議院委員会会議録」が作成されている)。", "title": "会議録" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "旧憲法下の貴族院議員は、旧公家・旧大名・華族(旧憲法下で設けられた近代日本の貴族階級)や、政府に人選され天皇に任命された元官僚や大学教授などの学識経験者や勲功者、高額納税者の互選といった、上階層の代表としての位置づけであった。これに対し帝国議会においての衆議院は、選挙による民選という位置づけであり、全議員が国民のより広い階層の投票で選出されたことから衆議院議員は代議士(だいぎし)と呼ばれ、議会制度は代議制度と称された。", "title": "備考" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "日本国憲法下では貴族院は廃止され、衆議院同様に選挙された議員からなる「参議院」(参議院議員)が誕生した。これにより、すべての国会議員が「全国民を代表」(第43条第1項)する民選議員となったものの、今日でも衆議院議員を指して代議士と呼び、参議院議員は一般に代議士と呼ばない。国会内で行なわれる「代議士会」とは、各政党所属の衆議院議員のみの議員総会であり、衆参あわせての議員総会は「両院議員総会」と呼ばれる。", "title": "備考" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "", "title": "備考" } ]
衆議院は、日本の立法府たる国会(両院制)の議院のひとつである(日本国憲法第42条)。  帝国憲法施行後の1890年(明治23年)11月29日に帝国議会の下院として設立された議院であり、上院の貴族院とともに帝国議会を構成していた。 1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行後は国会の下院として再編され、上院の参議院(さんぎいん)とともに国会を構成している。
{{注意|[[教育無償化を実現する会]]の結党により一部の情報が古い可能性があります。}} {{Otheruseslist|日本の衆議院|プロイセンの衆議院|プロイセン衆議院|明治時代初期に存在した立法機関|集議院}} {{Infobox Legislature | background_color = #8b0000 | text_color = #C4C974 | name = 衆議院<br/><small>House of Representatives</small> | legislature = [[第212回国会]] | coa_pic = Shugiin logo2.png | coa_res = 150px | coa_caption = 衆議院ロゴタイプ | logo_pic = Flag of Japan.svg{{!}}border | logo_res = 250px | logo_caption = [[日本の国旗|日本国旗]] | house_type = 下院 | body = 国会 (日本){{!}}国会 | foundation = [[1890年]]([[明治]]23年)[[11月29日]]<br/>{{small|明治憲法下の衆議院については[[#明治憲法下の衆議院|下記]]参照}} | leader1_type = [[衆議院議長]] | leader1 = [[額賀福志郎]] | party1 = [[自由民主党 (日本)|自由民主党]] | election1 = 2023年(令和5年)10月20日 | leader2_type = 衆議院副議長 | leader2 = [[海江田万里]] | party2 = [[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]] | election2 = 2021年(令和3年)11月10日 | members = 465 | structure1 = Svgfiles House of Representatives Japan Nov 2021.svg | structure1_res = 270px | political_groups1 = '''[[与党]](293)''' {{legend|{{Liberal Democratic Party (Japan)/meta/color}}|[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[無所属の会]](261)}} {{legend|{{New Komeito Party/meta/color}}|[[公明党]](32)}} '''[[野党]](165)''' {{legend|{{Constitutional Democratic Party of Japan/meta/color}}|[[立憲民主党 (日本 2020)|立憲民主党]]・無所属(96)}} {{legend|{{Japan Restoration Party/meta/color}}|[[日本維新の会 (2016-)|日本維新の会]](41)}} {{legend|{{Japanese Communist Party/meta/color}}|[[日本共産党]](10)}} {{legend|{{Democratic Party for the People/meta/color}}|[[国民民主党 (日本 2020)|国民民主党]]・[[無所属クラブ]](7)}} {{legend|#FF6666|[[有志の会]](4)}} {{legend|#0205D4|[[教育無償化を実現する会]](4)}} {{legend|{{Reiwa Shinsengumi/meta/color}}|[[れいわ新選組]](3)}} '''無所属・欠員(7)''' {{legend|{{Independent (politician)/meta/color}}|[[無所属]](6)}}{{refnest|group=注釈|[[衆議院議長|議長]]:[[額賀福志郎]](自由民主党)・副議長:[[海江田万里]](立憲民主党)を含む。}} {{legend|#ffffff|欠員(1)}}<!--欠員が生じたときはコメントアウト解除--> {{small|2023年(令和5年)12月14日時点<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/kaiha_m.htm|title=会派名及び会派別所属議員数|publisher=衆議院|accessdate=2023-12-14}}</ref>}} | committees1 = [[内閣委員会]]<br />[[総務委員会]]<br />[[法務委員会]]<br />[[外務委員会]]<br />[[財務金融委員会]]<br />[[文部科学委員会]]<br />[[厚生労働委員会]]<br />[[農林水産委員会]]<br />[[経済産業委員会]]<br />[[国土交通委員会]]<br />[[環境委員会]]<br />[[安全保障委員会]]<br />[[国家基本政策委員会]]<br />[[予算委員会]]<br />[[決算行政監視委員会]]<br />[[議院運営委員会]]<br />[[懲罰委員会]] | term_length = 4年(解散あり) | authority = | salary = 月額217万円(議長)<br/>月額158万4千円(副議長)<br/>月額129万4千円(議員) | voting_system2 = [[中選挙区制]](1947年 - 1993年)<br>[[小選挙区比例代表並立制]](1996年 - ) | last_election3 = [[第49回衆議院議員総選挙]]<br>:2021年(令和3年)[[10月31日]]執行 | next_election3 = [[第50回衆議院議員総選挙|2025年(令和7年)(最長)]] | redistricting = 2022年(令和4年)12月28日 | session_room = Diet of Japan Kokkai 2009.jpg | session_res = 270px | meeting_place = {{JPN}}[[東京都]][[千代田区]][[永田町]]1丁目7番1号[[国会議事堂]] | constitution = [[日本国憲法]] | website = [https://www.shugiin.go.jp/internet/index.nsf/html/index.htm 衆議院] | footnotes = }} {{日本の統治機構}} [[File:20231023shu honkaigi10.jpg|thumb|250px|2023年10月23日、本会議場、[[第212回国会]]衆議院本会議にて]] '''衆議院'''(しゅうぎいん、{{lang-en|House of Representatives}})は、[[日本]]の[[立法府]]たる[[国会 (日本)|国会]]([[両院制]])の[[議院]]のひとつである([[日本国憲法第42条]])。  [[大日本帝国憲法|帝国憲法]][[施行]]後の[[1890年]]([[明治]]23年)[[11月29日]]に[[帝国議会]]の[[下院]]として設立された議院であり、[[上院]]の[[貴族院 (日本)|貴族院]]とともに帝国議会を構成していた。 [[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月3日]]の[[日本国憲法]]施行後は国会の下院として再編され、上院の'''[[参議院]]'''(さんぎいん)とともに国会を構成している。 == 概説 ==  日本国憲法下で参議院とともに国会を構成している(日本国憲法第42条)。参議院と同じく全[[国民]]を代表する、[[選挙]]により選出された[[日本の国会議員|議員]]で組織される。 == 衆議院の優越 == [[ファイル:国会議事堂 衆議院議場-1.jpg|thumb|250px|衆議院議場]]  衆議院の任期(4年)は[[参議院]]の任期(6年)より短く、衆議院は任期途中での解散がある。因みに、[[日本国憲法]]施行後、衆議院が任期満了を迎えたのは1回しかない<ref>{{Cite web|和書|title=任期満了で衆院選は1度のみ 3年超の解散は11回|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODE11B5F0R11C20A2000000/|website=日本経済新聞|date=2021-01-04|accessdate=2021-10-17|language=ja}}</ref>。任期の短さと解散により忠実に民意を反映できると解されていることから、参議院に対して優越的地位が認められている([[衆議院の優越]])。 === 議決上の優越 === ; 法律案の議決 : 衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした'''法律案'''は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で[[衆議院の再議決|再び可決]]した場合に[[法律]]となる([[日本国憲法第59条|憲法第59条第2項]])。 ; 内閣総理大臣の指名・予算の議決・条約の承認 : [[内閣総理大臣]]の指名、[[予算]]の議決、[[条約]]の承認について両議院で異なった議決をした場合に、[[両院協議会]]を開いても意見が一致しないとき、または衆議院の議決から一定期間内に参議院が議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする([[日本国憲法第60条|憲法第60条2項]]、[[日本国憲法第61条|第61条]]、[[日本国憲法第67条|第67条2項]])。 ; 会期の決定 : 会期の決定について、両議院の議決が一致しないとき、または参議院が議決しないときは、衆議院の議決したところによる([[国会法]]第13条)。 なお、憲法改正の発議などについては優越はない。 === 権限上の優越 === ; 予算先議権 : 予算は、先に衆議院に提出され、審議される([[日本国憲法第60条]]1項)。 ; 内閣不信任決議権 : 内閣不信任決議は、衆議院のみが行うことができる([[日本国憲法第69条]])。内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、または信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院を解散しない限り、[[内閣総辞職|総辞職]]しなければならない。なお、個々の[[国務大臣]]に対する[[不信任決議]]を行うこともできるが、法的効果はない。 衆議院のみに認められる権能として、内閣不信任決議権のほか[[参議院の緊急集会]]でとられた措置に対する同意権([[日本国憲法第54条]]第3項)がある<ref>松澤浩一著 『議会法』 ぎょうせい、1987年、119-122頁</ref>。 == 構成 == {{main2|衆議院議員一般については[[日本の国会議員]]を}} === 定数 === [[議員定数]]は[[日本国憲法第43条]]第2項の規定に基づき[[公職選挙法]]第4条第1項に明記されている。 [[1947年]](昭和22年)[[5月3日]]の[[日本国憲法]]施行後初めて召集された[[第1回国会]]は、施行直前の[[1947年]](昭和22年)[[4月25日]]に執行された[[第23回衆議院議員総選挙]]で選出された議員により構成された。この総選挙は新憲法に考慮して第92回[[帝国議会]]で改正した衆議院議員選挙法(同年[[3月31日]]公布)に基づいて行われ、選出方法は[[中選挙区制]]、定数は'''466人'''。 [[1950年]](昭和25年)に衆議院議員選挙法を廃止して、新たに「'''公職選挙法'''」を制定したが、選出方法・定数はそのまま引き継がれ、中選挙区制・定数'''466人'''と定められた。[[1953年]](昭和28年)には、現在の[[鹿児島県]][[奄美市]]および[[大島郡 (鹿児島県)|大島郡]]に属する[[奄美群島]]が同年12月に[[本土復帰]]することに伴い、「[[奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律]]」が制定され、奄美群島が新たに選挙区となったことで、定数は同暫定措置法により1増の'''467人'''となり、戦後初の定数変更が行われた。[[1964年]](昭和39年)、暫定措置法の議員定数に関する規定は削除され、公職選挙法に引き継がれたが、この際、大都市の人口増加に伴い定数は19増の'''486人'''となった。 [[1970年]](昭和45年)、[[沖縄返還|沖縄の本土復帰]]に先立ち沖縄住民の民意を国政に反映させるべく、日本の国会が「[[沖縄住民の国政参加特別措置法]]」を制定、および同特別措置法を受け[[琉球政府]]の[[立法院 (琉球)|立法院]]が「[[沖縄住民の国政参加特別措置法に基づく衆議院議員及び参議院議員選挙法]]」を制定し、沖縄県が新たに[[沖縄県全県区|選挙区]]となったことで、定数は5増の'''491人'''となった。同特別措置法は沖縄が正式に本土復帰した[[1972年]](昭和47年)、「沖縄の復帰に伴う関係法令の改廃に関する法律」に基づき廃止され、議員定数の規定はそのまま公職選挙法に引き継がれた。[[1975年]](昭和50年)には20増の'''511人'''と増員され、以後、この定数が[[1986年]](昭和61年)まで続いた。定数是正の直接の理由は、[[第二次世界大戦]]後の都市部の食糧難とインフラ壊滅状態から戦中の疎開地に都市住民が留まっていた状態で定数割り当てがなされたことに加え、農業の機械化と産業構造の変化によって農村人口が減少し[[一票の格差]]が5倍前後にまで膨れ上がったことによる。ただ、増員のみが続発した背景には、当時の日本が人口増を続けていたことに加え、減員が現職議員の[[失職]]に繋がるものであることや、政権を担う[[与党]]にとって不利な定数変更とならないことに配慮した、などの点が指摘されている。 [[1983年]](昭和58年)、一票の格差が3倍以上に達する場合には[[日本国憲法第14条|憲法第14条]]に違反するとも解される[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]の[[判決 (日本法)|判決]]が出された。これを受けて、1986年(昭和61年)に初めての減員を含む8増7減(8選挙区で1人ずつ増員し、7選挙区で1人ずつ減員。差し引き1増)の'''512人'''となる。さらに、[[1992年]](平成4年)には9増10減(9選挙区で1人ずつ増員し、10選挙区で1人ずつ減員。差し引き1減)の'''511人'''となった。 [[1993年]](平成5年)、いわゆる政治改革の一つとして選挙制度改革が論じられた。その結果、従来の中選挙区制は廃止され、[[小選挙区比例代表並立制]]が導入された。同時に定数も改定され、511人から'''500人'''(小選挙区300人、比例代表200人)に減員された。[[2000年]](平成12年)に比例代表の定数について20削減され、定数は'''480人'''(小選挙区300人、比例代表180人)となった。なお、議員1人当たりの人口は26.7万人であり、これは[[経済協力開発機構|OECD]]加盟国34ヶ国中33位<ref>[https://web.archive.org/web/20120515030856/http://www.sasaki-kensho.jp/bt/updata/bt_20120125150309.pdf OECD諸国の国会議員1人当たりの人口、人口当たりの議員数(2011年)] ※ 現在は[[インターネットアーカイブ]]内に残存《2017年10月14日閲覧》</ref>と、人口に対して定数が非常に少ない部類に入る。[[2014年]](平成26年)に小選挙区の格差是正により5減され、'''475人'''(小選挙区295人、比例代表180人)となった。 [[2017年]](平成29年)9月28日の解散により行われた[[第48回衆議院議員総選挙]]は、同年6月施行の選挙区改正により小選挙区では0増6減(青森、岩手、三重、奈良、熊本、鹿児島の6県で各1減)、比例代表区では0増4減(東北、北関東、近畿、九州の4ブロックで各1減)が実施され、定数'''465人'''(小選挙区289人、比例代表176人)となった。これにより衆議院の定数は、日本国憲法施行後最少となる。 公職選挙法、区画審理法が改正され、各都道府県の議席が国勢調査の人口に応じたアダムズ方式で決められるようになった。10年毎の国勢調査で見直され、5年毎の簡易国勢調査では較差が2倍以上になった場合は区割り変更で対応される<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000458487.pdf]</ref>。 {| width="600" style="float:left;margin:10px;border:solid 1px #aaa" cellspacing="0" cellpadding="0" |+ 2017年(平成29年)改選後の議席数 |- | style="padding:5px" | {| style="border:none;margin:0 auto" | width="50%" |小選挙区 定数289人(改選数289人) | width="50%" |{{Composition bar|289|465}} |} <small>下図の数字は各都道府県の小選挙区数を示す。都道府県選挙区の定数ではない。</small> |- |<div style="width:600px;margin:0;position:relative">[[File:Prefectures of Japan nallow gray.svg|600px|link=]] <div style="position:absolute;left:130px;top:120px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#北海道|北海道 12]]</div> <div style="position:absolute;left:520px;top:038px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#青森県|青森 3]]</div> <div style="position:absolute;left:535px;top:090px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#岩手県|岩手 3]]</div> <div style="position:absolute;left:520px;top:142px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#宮城県|宮城 6]]</div> <div style="position:absolute;left:492px;top:080px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#秋田県|秋田 3]]</div> <div style="position:absolute;left:480px;top:128px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#山形県|山形 3]]</div> <div style="position:absolute;left:485px;top:190px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#福島県|福島 5]]</div> <div style="position:absolute;left:483px;top:250px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#茨城県|茨城 7]]</div> <div style="position:absolute;left:465px;top:230px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#栃木県|栃木 5]]</div> <div style="position:absolute;left:428px;top:225px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#群馬県|群馬 5]]</div> <div style="position:absolute;left:442px;top:255px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#埼玉県|埼玉 15]]</div> <div style="position:absolute;left:470px;top:299px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#千葉県|千葉 13]]</div> <div style="position:absolute;left:446px;top:270px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#東京都|東京 25]]</div> <div style="position:absolute;left:435px;top:285px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#神奈川県|神奈川 18]]</div> <div style="position:absolute;left:440px;top:175px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#新潟県|新潟 6]]</div> <div style="position:absolute;left:365px;top:215px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#富山県|富山 3]]</div> <div style="position:absolute;left:340px;top:190px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#石川県|石川 3]]</div> <div style="position:absolute;left:315px;top:240px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#福井県|福井 2]]</div> <div style="position:absolute;left:405px;top:271px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#山梨県|山梨 2]]</div> <div style="position:absolute;left:393px;top:245px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#長野県|長野 5]]</div> <div style="position:absolute;left:345px;top:260px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#岐阜県|岐阜 5]]</div> <div style="position:absolute;left:395px;top:299px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#静岡県|静岡 8]]</div> <div style="position:absolute;left:347px;top:290px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#愛知県|愛知 15]]</div> <div style="position:absolute;left:320px;top:327px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#三重県|三重 4]]</div> <div style="position:absolute;left:310px;top:279px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#滋賀県|滋賀 4]]</div> <div style="position:absolute;left:282px;top:266px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#京都府|京都 6]]</div> <div style="position:absolute;left:280px;top:299px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#大阪府|大阪 19]]</div> <div style="position:absolute;left:255px;top:280px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#兵庫県|兵庫 12]]</div> <div style="position:absolute;left:298px;top:313px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#奈良県|奈良 3]]</div> <div style="position:absolute;left:261px;top:344px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#和歌山県|和歌山 3]]</div> <div style="position:absolute;left:225px;top:245px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#鳥取県|鳥取 2]]</div> <div style="position:absolute;left:165px;top:250px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#島根県|島根 2]]</div> <div style="position:absolute;left:216px;top:275px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#岡山県|岡山 5]]</div> <div style="position:absolute;left:170px;top:280px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#広島県|広島 7]]</div> <div style="position:absolute;left:117px;top:290px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#山口県|山口 4]]</div> <div style="position:absolute;left:225px;top:322px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#徳島県|徳島 2]]</div> <div style="position:absolute;left:215px;top:305px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#香川県|香川 3]]</div> <div style="position:absolute;left:165px;top:315px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#愛媛県|愛媛 4]]</div> <div style="position:absolute;left:193px;top:336px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#高知県|高知 2]]</div> <div style="position:absolute;left:085px;top:305px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#福岡県|福岡 11]]</div> <div style="position:absolute;left:054px;top:320px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#佐賀県|佐賀 2]]</div> <div style="position:absolute;left:035px;top:345px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#長崎県|長崎 4]]</div> <div style="position:absolute;left:062px;top:365px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#熊本県|熊本 4]]</div> <div style="position:absolute;left:115px;top:340px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#大分県|大分 3]]</div> <div style="position:absolute;left:095px;top:385px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#宮崎県|宮崎 3]]</div> <div style="position:absolute;left:045px;top:408px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#鹿児島県|鹿児島 4]]</div> <div style="position:absolute;left:530px;top:410px;font-size:12px">[[衆議院小選挙区制選挙区一覧#沖縄県|沖縄 4]]</div> </div> |- | style="padding:5px;border-top:solid 1px #aaa" | {| style="border:none;margin:0 auto" | width="50%" |比例代表 定数176人(改選数176人) | width="50%" |{{Composition bar|176|465}} |} |- |<div style="width:300px;float:center;margin:0 auto;position:relative">[[File:House of Representives Japan Proportional Blocks.svg|300px|link=]] <div style="position:absolute;left:055px;top:055px;font-size:12px">[[比例北海道ブロック|北海道 8]]</div> <div style="position:absolute;left:195px;top:040px;font-size:12px">[[比例東北ブロック|東北 13]]</div> <div style="position:absolute;left:227px;top:112px;font-size:12px">[[比例北関東ブロック|北関東 19]]</div> <div style="position:absolute;left:223px;top:130px;font-size:12px">[[比例東京ブロック|東京 17]]</div> <div style="position:absolute;left:222px;top:145px;font-size:12px">[[比例南関東ブロック|南関東 22]]</div> <div style="position:absolute;left:155px;top:96px;font-size:12px">[[比例北陸信越ブロック|北陸信越 11]]</div> <div style="position:absolute;left:170px;top:145px;font-size:12px">[[比例東海ブロック|東海 21]]</div> <div style="position:absolute;left:123px;top:135px;font-size:12px">[[比例近畿ブロック|近畿 28]]</div> <div style="position:absolute;left:070px;top:130px;font-size:12px">[[比例中国ブロック|中国 11]]</div> <div style="position:absolute;left:087px;top:160px;font-size:12px">[[比例四国ブロック|四国 6]]</div> <div style="position:absolute;left:025px;top:182px;font-size:12px">[[比例九州ブロック|九州 20]]</div> </div> |}{{clear}} === 選挙 === {{main|衆議院議員総選挙}} 衆議院議員の選挙は、'''[[小選挙区比例代表並立制]]'''によって行われる。小選挙区比例代表並立制とは、選挙人が[[小選挙区制|小選挙区]]と[[比例代表制|比例代表]]のそれぞれに1票ずつ投票する制度。被選挙人(立候補者)は、小選挙区と比例代表の双方に立候補することができる([[重複立候補制度]])。 なお、[[1993年]](平成5年)の[[第40回衆議院議員総選挙|第40回衆院選挙]]までは、[[中選挙区制]]([[大選挙区制]]の一種)で行われていた。 === 選挙資格と被選挙資格 === 選挙資格および被選挙資格は法律で定められる([[日本国憲法第44条]]本文)。 * 選挙資格:18歳以上の[[日本国籍|日本国民]](公職選挙法第9条第1項)。 ** 2015年(平成27年)まで20歳以上だったが、同年6月17日に改正公職選挙法が成立し、[[第24回参議院議員通常選挙]]の期日の公示日である2016年(平成28年)6月22日から選挙権年齢は20歳以上から18歳以上に引き下げられた([[18歳選挙権]])<ref>{{cite news |title= 選挙権年齢「18歳以上」に 改正公選法が成立 |newspaper= [[47NEWS]] |date= 2015-06-17 |url= https://web.archive.org/web/20150617032536/http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html |accessdate= 2017-10-14}} ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存</ref>。 **公職選挙法に住所要件があるため、住居のない[[ホームレス]]等は住民登録ができず選挙権は行使できない<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a180120.htm 衆議院 質問本文情報]</ref>。 * 被選挙資格:25歳以上の日本国民(公職選挙法第10条第1項1号)。 ** なお、選挙区で300万円、比例区で600万円の[[供託金]]を納めなければならない。一定の得票が得られない場合は供託金は国により没収される<ref>[https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/shuin2021-system/ 日経新聞 衆議院の仕組み]</ref>。この供託金が高すぎて立候補の権利が侵されるという識者もいる。 === 任期 === 衆議院議員の任期は4年だが、衆議院が[[衆議院解散|解散]]された場合には任期満了前に失職する([[日本国憲法第45条]])。 === 院内勢力 === <!-- [[ファイル:衆議院会派別勢力図(2013.2.27).png|thumb|right|400px|衆議院会派別勢力図(2013年(平成25年)9月12日現在)]] --> 議員は、院内では会派([[院内会派]])を作って行動することが多い。院内会派とは、2人以上の院所属議員で結成する団体のことである。[[日本の政党|政党]]とほぼ重なるものの、2つ以上の政党で一つの会派を作ったり、[[無所属]]議員が院内会派に所属することもある。その院の各委員会の委員数や、発言・質問の時間配分などは、政党ではなく会派の所属議員数によって左右される。衆参両院とも、慣例により議長と副議長は会派を離脱する。 {{衆議院の現在の構成}} {| class="wikitable" |+ 衆議院における各種要件(参考) ! 人数 !! 内容 |- ! 100人 | [[憲法改正論議|憲法改正]]原案の提出(国会法第68条の2)<br />憲法改正原案の修正の動議(国会法第68条の4) |- ! 50人 | 予算を伴う議案の発議(国会法第56条第1項前段)<br />[[本会議]]での予算の増額あるいは予算を伴う法律案の修正の動議(国会法第57条)<br />本会議での予算の修正の動議(国会法第57条の2)<br />議長・副議長・仮議長・常任委員長の信任・不信任に関する動議若しくは決議案の発議(衆議院規則第28条の2)<br />内閣の信任・不信任に関する動議若しくは決議案の発議(衆議院規則第28条の3) |- ! 40人 | 議員懲罰の動議(国会法第121条第3項) |- ! 20人 | 予算を伴わない議案の発議(国会法第56条第1項前段)<br />本会議での予算の増額あるいは予算を伴わない議案の修正の動議(国会法第57条)<br />会期前に[[逮捕]]された議員の[[保釈|釈放]]要求の発議(国会法第34条の3)<br />質疑終局の動議(衆議院規則第140条)<br />討論終局の動議(衆議院規則第141条)<br />起立採決の要求(衆議院規則第157条) |- ! 10人 | 本会議の公開停止の発議(国会法第62条)<br />[[党首討論]]への参加要件([[院内交渉団体]]の資格を満たす[[野党]]党首のみ) |} == 組織 == === 役員 === 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する([[日本国憲法第58条]])。国会法上の役員は議長、副議長、仮議長、常任委員長、事務総長とされている([[国会法]]第16条)。また、衆議院では、これに特別委員長、憲法審査会会長、政治倫理審査会会長を加えた八職を「役員等」としている。 [[ファイル:国会議事堂 衆議院議場-2.jpg|thumb|200px|衆議院議場の中央が衆議院議長席]] ==== 議長および副議長 ==== {{see also|衆議院議長}} 議長は、議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する(国会法第19条)。副議長は、議長に事故があるときまたは議長が欠けたときは、議長の職務を行う(国会法第21条)。議長および副議長とも各々一人で(国会法第17条)、任期は各々議員としての任期までとなる(国会法第18条)。 議長は[[内閣総理大臣]]の[[親任式]]に列席する(衆議院先例集69号)。第21回国会の[[鳩山一郎]]内閣総理大臣の親任式の際は、議長が欠員していたので[[原彪]]副議長が列席した例がある(衆議院先例集69号)。 議長および副議長がともにまたはいずれかが欠けた場合は、直ちに選挙をしなければならない(国会法第23条)。総選挙後に召集される国会では、召集当日に議長および副議長がともにないので、まずその選挙をおこなう(国会法第6条、衆議院規則第3条および同第9条)。この選挙は、[[事務総長 (国会)|事務総長]] が取り仕切る。召集当日に選挙が実施できなかった例が、第1回、第29回、第37回、第45回および第127回国会にある(衆議院先例集38号)。 衆参の議長は[[三権の長]]で唯一[[親任官|親任式]]の対象ではないが、議長、副議長は、就任の際、[[皇居]]・宮殿に参内して国会の召集者である[[天皇]]に面会のうえ挨拶をし(官報では「拝謁(はいえつ)」と表記)、辞任の際には、挨拶の記帳をする(衆議院先例集51号)こととなっている。 第50回帝国議会において「議長は不偏不党・厳正公平であるべき」との決議が全会一致で可決され、以後おおむね議長および副議長は就任に際し党籍を離脱している(衆議院先例集65号)。 {{main|衆議院議長}} {| class="wikitable" |- !役職!!氏名!!所属会派(出身会派) |- |議長||[[額賀福志郎]]||無所属(自由民主党) |- |副議長||[[海江田万里]]||無所属(立憲民主党・無所属) |- |} ==== 仮議長 ==== 議長および副議長に共に事故があるときは仮議長に議長の職務を行わせることになっており、選挙または議長の委任で選出することになっている(国会法第22条)。 ==== 常任委員長 ==== 常任委員長は国会法上の役員である(国会法第16条)。常任委員長は、本会議で委員の中から選挙(国会法第25条)もしくは議長において指名(衆議院規則第15条第1項)で選任されるが、後者の場合がほとんどである。この場合、事前に各会派間で協議された常任委員長各会派割当てと会派申出の候補者に基づいておこなわれる。委員の選任は、総選挙後初めて召集される会期の始めに行われる(国会法第42条および衆議院委員会先例集9号)か、国会法または衆議院規則の改正により必要となったとき(衆議院委員会先例集10号)のみであり、その他の場合は異動とみなし、委員の辞任と補欠選任で対処することになっている。また、多くの会派は、毎年秋に召集される臨時会の冒頭で各委員の構成を見直すことを例としていることから、実際に委員の構成が大きく変わるのは総選挙後の国会と毎年秋に召集される臨時会であり、常任委員長が選任されるのはその際である。現職は[[第182回国会]]冒頭に議長によって指名された。 各議院において特に必要があると認めるときは、その院の議決をもって(すなわち本会議において)、常任委員長を解任することができる(国会法第30条の2)。委員会でも、不信任動議を可決することは可能であるが、この動議は[[法的拘束力]]をもたない。 衆議院の本会議で[[解任決議]]が可決された実例はない。衆議院の委員会での不信任動議可決例は過去に2例あり、1948年(昭和23年)12月の予算委員長に対するものと、2007年(平成19年)6月の懲罰委員長に対するものとがある。 委員長は、委員会の議事を整理し、秩序を保持する(国会法第48条)。 ==== 事務総長 ==== 事務総長は、議長の監督の下に、議院の事務を統理し、公文に署名する(国会法第28条)。本会議において国会議員外より選挙(国会法第27条)されるが、その手続を省略し議長において指名(衆議院規則第16条第1項)することができることとなっている。手続を省略する場合がほとんどである。 現職は、[[2019年]](令和元年)[[6月26日]]に議長において指名された。 {{main|事務総長 (国会)}} {| class="wikitable" |- !役職!!氏名!!前職 |- |事務総長||[[岡田憲治 (国会職員)|岡田憲治]]||衆議院事務次長 |- |} === 委員会 === ==== 衆議院常任委員会 ==== {| class="wikitable" |+衆議院常任委員会:2022年(令和3年)1月17日時点<ref name="officer">{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/officer.htm|title=衆議院の役員等一覧|publisher=衆議院|accessdate=2022-03-14}}</ref> !委員会!!{{Nowrap|員数}}!!所管!! style="width:5em" |委員長!! style="white-space:nowrap;" |委員長の所属会派 |- |[[内閣委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|[[内閣 (日本)|内閣]]の所管に属する事項(安全保障会議の所管に属する事項を除く。)<br />[[宮内庁]]の所管に属する事項<br />[[国家公安委員会]]の所管に属する事項<br />他の常任委員会の所管に属さない[[内閣府]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[上野賢一郎]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[総務委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|[[総務省]]の所管に属する事項(経済産業委員会および環境委員会の所管に属する事項を除く。)<br />[[地方公共団体]]に関する事項<br />[[人事院]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[赤羽一嘉]] |style="text-align: left;"|公明党 |- |[[法務委員会]] |style="text-align: center;"|35 |style="text-align: left;"|[[法務省]]の所管に属する事項<br />[[裁判所]]の司法行政に関する事項 |style="text-align: left;"|[[鈴木馨祐]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[外務委員会]] |style="text-align: center;"|30 |style="text-align: left;"|[[外務省]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[城内実]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[財務金融委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|[[財務省 (日本)|財務省]]の所管に属する事項(予算委員会および決算行政監視委員会の所管に属する事項を除く。)<br />[[金融庁]]の所管に属する事項智隆 |style="text-align: left;"|[[薗浦健太郎]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[文部科学委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|[[文部科学省]]の所管に属する事項<br />[[教育委員会]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[義家弘介]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[厚生労働委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|[[厚生労働省]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[橋本岳]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[農林水産委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|[[農林水産省]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[平口洋]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[経済産業委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|[[経済産業省]]の所管に属する事項<br />[[公正取引委員会]]の所管に属する事項<br />[[公害等調整委員会]]の所管に属する事項(鉱業等に係る土地利用に関する事項に限る。) |style="text-align: left;"|[[古屋範子]] |style="text-align: left;"|公明党 |- |[[国土交通委員会]] |style="text-align: center;"|45 |style="text-align: left;"|[[国土交通省]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[中根一幸]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[環境委員会]] |style="text-align: center;"|30 |style="text-align: left;"|[[環境省]]の所管に属する事項<br />[[公害等調整委員会]]の所管に属する事項(経済産業委員会の所管に属する事項を除く。) |style="text-align: left;"|[[関芳弘]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[安全保障委員会]] |style="text-align: center;"|30 |style="text-align: left;"|[[防衛省]]の所管に属する事項<br />[[国家安全保障会議 (日本)|国家安全保障会議]]の所管に属する事項 |style="text-align: left;"|[[大塚拓]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[国家基本政策委員会]] |style="text-align: center;"|30 |style="text-align: left;"|国家の基本政策に関する事項 |style="text-align: left;"|[[渡海紀三朗]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[予算委員会]] |style="text-align: center;"|50 |style="text-align: left;"|予算 |style="text-align: left;"|[[根本匠]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- | style="white-space:nowrap;" |[[決算行政監視委員会]] |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: left;"|決算<br />[[予備費]]支出の承諾に関する事項<br />決算調整資金からの歳入への組入れの承諾に関する事項<br />国庫債務負担行為総調書<br />国有財産増減および現在額総計算書ならびに無償貸付状況総計算書<br />その他会計検査院の所管に属する事項<br />会計検査院が行う検査の結果ならびに総務省が行う評価および監視ならびに総務省が評価および監視に関連して行う調査の結果についての調査に関する事項<br />行政に関する国民からの苦情の処理に関する事項<br />以上に掲げる事項に係る行政監視およびこれに基づく勧告に関する事項 |style="text-align: left;"|[[原口一博]] |style="text-align: left;"|立憲民主党・無所属 |- |[[議院運営委員会]] |style="text-align: center;"|25 |style="text-align: left;"|議院の運営に関する事項<br />国会法および議院の諸規則に関する事項<br />議長の諮問に関する事項<br />[[裁判官弾劾裁判所]]および[[裁判官訴追委員会]]に関する事項<br />[[国立国会図書館]]に関する事項 |style="text-align: left;"|[[山口俊一]] |style="text-align: left;"|自由民主党 |- |[[懲罰委員会]] |style="text-align: center;"|20 |style="text-align: left;"|議員の懲罰に関する事項<br />議員の資格争訟に関する事項 |style="text-align: left;"|[[安住淳]] |style="text-align: left;"|立憲民主党・無所属 |} ==== 衆議院特別委員会 ==== 特に必要があると判断された場合、特別委員会を設けることができる(国会法第45条)。[[第211回国会]]の召集日には8特別委員会が設置され、特別委員長は各委員会委員の互選によって選出された。 {| class="wikitable" |+衆議院特別委員会:2023年(令和5年)1月23日時点<ref name="officer" /> !委員会!!委員長!!委員長の所属会派 |- |[[災害対策特別委員会]]||style="white-space:nowrap"|[[江藤拓]]||style="white-space:nowrap"|自由民主党・無所属の会 |- |[[政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会]]||[[平口洋]]||自由民主党・無所属の会 |- |[[沖縄及び北方問題に関する特別委員会]]||[[松木謙公]]||立憲民主党・無所属 |- |[[北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会]]||[[亀岡偉民]]||自由民主党・無所属の会 |- |[[消費者問題に関する特別委員会]]||[[稲田朋美]]||自由民主党・無所属の会 |- |[[東日本大震災復興特別委員会]]||[[長島昭久]]||自由民主党・無所属の会 |- |[[原子力問題調査特別委員会]]||[[鈴木淳司]]||自由民主党・無所属の会 |- |[[地域活性化・こども政策・デジタル社会形成に関する特別委員会]]||[[橋本岳]]||自由民主党・無所属の会 |} === 憲法審査会 === 憲法審査会は、[[日本国憲法]]および日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、[[憲法改正論議|憲法改正]]原案、日本国憲法に係る改正の発議または[[国民投票]]に関する法律案等を審査するため、[[第167回国会]]から設けられた。ただし、憲法改正原案の審査については2010年(平成22年)5月18日から可能になる。しかし、実際には第167回国会で野党側の要求により、憲法審査会規程について制定することを見送ることになり、2009年(平成21年)6月11日に自民・公明の与党の賛成多数で規程が制定され、委員50名から構成されることなどが定められた。しばらく委員の指名は見送られ、休眠状態が継続していたが、2011年(平成23年)10月21日に委員が選任されて始まった。 {| class="wikitable" |+衆議院憲法審査会:2021年(令和3年)11月12日時点<ref name="officer" /> !役職!!氏名!!所属会派 |- |憲法審査会会長||[[森英介]]||自由民主党 |} === 情報監視審査会 === 情報監視審査会は、行政における特定秘密(2013年(平成25年)制定の「[[特定秘密の保護に関する法律]]」(平成25年法律第108号。以下「特定秘密保護法」という。)第3条第1項に規定する特定秘密をいう。以下同じ。)の保護に関する制度の運用を常時監視するため特定秘密の指定(同項の規定による指定をいう。)およびその解除ならびに適性評価(特定秘密保護法第12条第1項に規定する適性評価をいう。)の実施の状況について調査し、ならびに各議院または各議院の委員会もしくは参議院の調査会からの第104条第1項(第54条の4第1項において準用する場合を含む。)の規定による特定秘密の提出の要求に係る行政機関の長(特定秘密保護法第3条第1項に規定する行政機関の長をいう。以下同じ。)の判断の適否等を審査するため、各議院に情報監視審査会を設ける。(国会法第102条の13)。しばらく委員の指名は見送られ、休眠状態が継続していたが、2015年(平成27年)2月26日に委員が選任されて始動した<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/jyouhoukanshi.htm 本会議・委員会等~情報監視審査会] - 衆議院Webサイトより</ref>。 {| class="wikitable" |+衆議院情報監視審査会:2021年(令和3年)11月12日時点<ref name="officer" /> !役職!!氏名!!所属会派 |- |情報監視審査会会長||[[小野寺五典]]||自由民主党 |} === 政治倫理審査会 === 政治倫理審査会は、政治倫理の確立のため、議員が「[[s:行為規範 (衆議院)|行為規範]]」その他の法令の規定に著しく違反し、政治的道義的に責任があると認めるかどうかについて審査する(国会法第124条の3)。 政治倫理審査会会長は総選挙後に召集される国会で委員の互選によって選出される。<!--現職は[[第182回国会]]にて選出された。--> {| class="wikitable" |+衆議院政治倫理審査会:2022年(令和3年)10月3日時点<ref name="officer" /> !役職!!氏名!!所属会派 |- |[[政治倫理審査会]]会長||[[逢沢一郎]]||自由民主党 |} === 附置機関 === ; 事務局 : 議院には事務局が置かれ、事務局には事務総長、参事、常任委員会専門員および常任委員会調査員、その他の職員が置かれる([[議院事務局法]]第1条第1項)。 ; 法制局 : 議員の法制に関する立案に資するため、各議院に法制局が置かれている(国会法第131条第1項)。 == 表決方法 == ; 起立投票 : 問題を可とする者を起立させ、起立者の多少を認定して、問題の可否を決する表決方法である。衆議院において基本的な表決方法である。 ; 記名投票 : 問題を可とする議員は白票を、問題を否とする議員は青票を投票箱にて投票し、問題の可否を決する表決方法である。議長もしくは出席議員の5分の1以上の要求があった場合に行われる。記名投票中は議場が閉鎖される。 ; 異議なし採決 : 議長が問題について異議の有無を議院に諮り、異議がない場合には問題を可決する方法である。ただし20名以上の異議があった場合は、起立投票を行わなければならない。 なお参議院で行われている表決方法で押しボタン式投票があるが、2023年1月10日現在衆議院では採用されていない<ref>[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/kokkai/kokkai_giji.htm#shingi 国会について~本会議の主な議事(5 議案の審議)] - 衆議院Webサイトより</ref>。 == 帝国憲法下の衆議院 == {{Infobox Legislature | background_color = #112FA7 | text_color = | name = {{JPN}}の議会<br/>衆議院<br/>{{small|(しゅうぎいん)}} | native_name = | transcription_name = | legislature = | coa_pic = File:Terauchi? addressing Lower House, Japan LOC 17254584962.jpg | coa_res = 250px | coa_caption = 大正期の衆議院本会議場 | house_type = 下院 | body = 帝国議会 | foundation = [[1890年]]([[明治]]23年)[[11月29日]]<br/>{{small|日本国憲法下の衆議院については[[#概説|上記]]参照}} | disbanded = | preceded_by = | succeeded_by = | members = 466(1928年){{sfn|百瀬孝|1990|p=36}} | joint_committees = | term_length = 4年(解散あり) | authority = | salary = | voting_system1 = | voting_system2 = [[小選挙区制]](1890年 - 1898年、1920年 - 1924年)<br />[[中選挙区制]](1928年 - 1942年)<br />[[大選挙区制]](1902年 - 1917年、1946年) | last_election1 = | last_election2 = | last_election3 = | session_room = File:State Funeral of Kinmochi Saionji 01.jpg | session_res = 200px | meeting_place = {{JPN}}[[東京府]][[東京市]][[麹町区]][[永田町]]1丁目7番1号[[国会議事堂]](昭和15年12月時){{sfn|百瀬孝|1990|p=36}} | redistricting = | constitution = [[大日本帝国憲法|帝国憲法]]{{sfn|百瀬孝|1990|p=36}} | website = | footnotes = }} === 選挙権・被選挙権 === ; 選挙権 : [[大日本帝国憲法|帝国憲法]]下では[[1890年]](明治23年)年の帝国議会開設から[[1925年]](大正14年)の[[普通選挙法]]制定までは、1年以上その府県内において一定額以上の直接国税を納めている者に制限していた。普通選挙制導入により、日本国内([[北海道]]から[[沖縄県]]までの47道府県、いわゆる「[[内地]]」)に居住する25歳以上男子で日本国籍(俗に「[[外地]]」と呼ばれた[[日本統治時代の台湾|台湾]]・[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]等の国籍者を含む)を有する者に与えられた。[[樺太]]では[[1943年]](昭和18年)まで、また「外地」と呼ばれる台湾や朝鮮半島などの地域では終戦まで選挙区が設定されなかったために選挙は行われず、これらの地域の住民には選挙権がなかった。[[在外日本人|在外邦人]]にも選挙権はなかった。また、[[皇族]]、[[華族]]の戸主、旧[[大日本帝国陸軍|陸]][[大日本帝国海軍|海軍]]現役[[軍人]]にも選挙権はなかった{{sfn|百瀬孝|1990|p=40}}。 ; 被選挙権 : 30歳以上の日本内外地籍を問わず、日本国籍の男子なら立候補出来た。選挙権は大正14年まで納税資格が設けられていたのに対し、被選挙権はそれ以前の明治33年に納税資格が撤廃された{{sfn|百瀬孝|1990|p=40}}。選挙区は日本内地にしかないので外地からの立候補は不可能である。選挙権も被選挙権もない者としては、皇族、華族の戸主、現役軍人がある。選挙権はあるが、被選挙権のみない者としては[[裁判官|判事]]・[[検察官|検事]]、[[会計検査院|会計検査官]]、[[税務署|収税官吏]]、[[日本の警察|警察官吏]]がある。一般官吏や府県議会議員には被選挙権があるが、衆議院議員と兼務できないので当選した場合は職を辞す必要がある{{sfn|百瀬孝|1990|p=40}}。 {| class="wikitable" |+ '''選挙権・被選挙権における<br />直接国税納税額''' |- !実施年!!選挙権!!被選挙権 |- |[[1890年]](明治23年)||15円以上||15円以上 |- |[[1902年]](明治35年)||10円以上||制限なし |- |[[1920年]](大正9年)||3円以上||制限なし |- |[[1928年]](昭和3年)||制限なし||制限なし |- |} === 定数 === 定数は衆議院議員選挙法によって定められていた。[[1889年]](明治22年)に衆議院議員選挙法によって300人と定められた後、増員が繰り返され、[[1925年]](大正14年)に466人となった。ただ、実際に466人が選出されたのは1928年(昭和3年)の[[第16回衆議院議員総選挙|第16回総選挙]]であった。昭和20年に朝鮮や台湾や樺太にも選挙区が設定されたことで、それらの選出議員を合わせて497人が定数となったが、これらの地域の議員については総選挙の機会がないまま敗戦を迎えたため実際には選出されなかった{{sfn|百瀬孝|1990|p=40}}。[[日本の降伏|敗戦]]後、大選挙区制が採用された1945年(昭和20年)12月の選挙法改正で468人とされたが、うち2人を占める沖縄県は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|米軍の統治下]]に置かれて、[[1972年]](昭和47年)[[5月15日]]の[[沖縄返還]]で[[本土復帰]]するまで、日本の選挙法が施行されなかったので、[[1946年]](昭和21年)4月の戦後第1回総選挙(現行憲法下での初の衆議院選挙、[[第22回衆議院議員総選挙|第22回総選挙]])は沖縄を除く466人について実施され、新憲法下に継承された([[議員定数]]も参照)。 === 選挙区 === ==== 小選挙区制(第1次) ==== 1889年[[市制]][[郡]]を単位に257の選挙区に分け、1選挙区から1人を選出する[[小選挙区制]]を原則としたが、43選挙区は2人区とされ、全体で定数300人となった。投票方法について1人区においては当然に1名単記とされたが、2人区では2名連記が採用された。[[1890年]](明治23年)[[7月1日]]執行の[[第1回衆議院議員総選挙|第1回総選挙]]から[[1898年]](明治31年)[[8月10日]]執行の[[第6回衆議院議員総選挙|第6回総選挙]]までがこの選挙法によって実施された。 ==== 大選挙区制(第1次) ==== [[1900年]](明治33年)、[[第2次山縣内閣|第2次山県有朋内閣]]により選挙法が改正され選挙権・被選挙権が拡大されるとともに、従来の小選挙区制から原則として1つの府県を1つの選挙区としてそれぞれから2人~12人を選出する大選挙区制に改められた。ただし、市部や離島は1選挙区として郡部からは分離され、[[東京市]](現在のほぼ[[東京都区部|東京23区]]に該当)・[[京都市]]・[[大阪市]](のち[[横浜市]]も追加)を除いて定数1人の小選挙区とされた。これにより総定数は369人となったが、1902年(明治35年)に[[第1次桂内閣|第1次桂太郎内閣]]の下で再度選挙法が改正されて、この間に新たに発足した市が郡部選挙区から分離して総定数は381人となった。このうち、札幌区・小樽区・函館区を除く北海道と沖縄県への施行は当初は見合わされ、千島列島を除く北海道全域には1903年(明治36年)、宮古郡・八重山郡を除く沖縄県には[[1912年]](明治45年・大正元年)にようやく選挙法が施行された。この改正から大選挙区においても単記制が採用された。1902年(明治35年)8月10日実施の[[第7回衆議院議員総選挙|第7回総選挙]]から1917年(大正6年)4月20日実施の第13回総選挙までがこの選挙法によって行われた。 ==== 小選挙区制(第2次) ==== [[大正デモクラシー]]の下での普選運動の高まりに対して[[原内閣|原敬内閣]]は[[1919年]](大正8年)に選挙法を改正して、納税額による選挙権の制限を残しながらも選挙権の拡大を図るとともに、大選挙区となっていた郡部選挙区を分割して、従来から事実上の小選挙区であった市部・離島と合わせて小選挙区を原則とする選挙制度に改めた。総定数は464と大幅に増員され374の選挙区が設定されたが、そのうち68選挙区が2人区、さらに11選挙区は3人区とされて、小選挙区制の原則からは大きく逸脱したものであった。1920年(大正9年)5月10日執行の[[第14回衆議院議員総選挙|第14回総選挙]]および[[1924年]](大正13年)2月20日の[[第15回衆議院議員総選挙|第15回総選挙]]がこの選挙法によって行われた。沖縄の宮古郡・八重山郡での衆院選は1920年・第14回から施行された。 ==== 中選挙区制 ==== [[護憲運動|第2次護憲運動]]の高まりの下で行われた第15回総選挙で[[護憲三派]]が勝利することによって発足した[[加藤高明内閣]]が1925年(大正14年)に衆議院議員選挙法を全面改正することによって[[普通選挙]](ただし男子のみ)が実現した。この改正衆議院議員選挙法を一般に[[普通選挙法]]と呼称する。北海道から沖縄県までの全国(得撫島以北の千島列島および小笠原島を除く)に1選挙区の定数を3人~5人とする122選挙区が設定され、総定数は466となった。直前の小選挙区制とも府県を1選挙区とする大選挙区制とも違うという意味で中選挙区制と呼ぶ。1928年(昭和3年)2月20日執行の[[第16回衆議院議員総選挙|第16回総選挙]]から[[1942年]](昭和17年)4月30日執行の[[第21回衆議院議員総選挙|第21回総選挙]]までの総選挙がこの選挙法によって行われた。 この選挙法は[[植民地]]である[[樺太]]・[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]・[[日本統治時代の台湾|台湾]]には最後まで施行されなかった。[[第二次世界大戦]]末期の1945年(昭和20年)4月に、これら地域にも議席を割り当てる選挙法改正が公布されたが、施行日は勅令で定めるとされ、未施行のまま8月の[[日本の降伏|日本の敗戦]]となった<ref>[https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=009013242X00919460629 衆議院議事速記録 昭和21(1946)年6月29日] 本会議、大村国務大臣発言(P137)参照</ref>。この未施行法による各地域への議席配分は樺太:3人(3人区1つ)、朝鮮:23人(3人区1つ、2人区7つ、1人区5つ)、台湾:5人(1人区5つ)とされ、選挙権・被選挙権は当該地域に居住する[[日本人]]だけでなく[[朝鮮人]]や[[台湾人]]などにも当然に与えられる事となっていたが、選挙権については「引続キ一年以上直接国税十五円以上ヲ納ムル者」という制限があった。 また、得撫島以北の[[千島列島]]と[[小笠原諸島|小笠原島]]と新南群島(現在の[[南沙諸島]]、1939年から台湾高雄州高雄市に編入されていた)には最後まで選挙法が施行されなかった。 ==== 大選挙区制(第2次) ==== 敗戦後、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍の占領下]]に置かれ[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)の指導の下に行われた「民主化政策」の一環として[[幣原内閣|幣原喜重郎内閣]]によって1945年(昭和20年)12月に衆議院議員選挙法が改正されて女性に選挙権が与えられるとともに、[[都道府県]]を単位とする大選挙区制が導入された。1900年(明治33年)の大選挙区制とは違い、各都道府県全域を1選挙区とすることを原則に総定数468人を沖縄県を含む各47都道府県の人口に基づいて配分された。これにより15人以上が配分される[[東京都]]・[[大阪府]]・[[兵庫県]]・[[新潟県]]・[[愛知県]]・[[福岡県]]および[[北海道]]の7都道府県についてはこれを分割して2選挙区とした。この結果、各選挙区では4人~14人の議員(沖縄県は2人)を選挙することとなり、定数10人以下の選挙区では2名、11人以上の選挙区では3名を連記して投票する制限連記が採用された。これによる総選挙は1946年(昭和21年)4月10日に執行された[[第22回衆議院議員総選挙|第22回総選挙]]が、米軍の直接統治下に置かれた沖縄県には実施されず、実際にはこれを除いた466人について選挙が行われた。 新憲法施行を控えた1947年(昭和22年)3月の衆議院議員選挙法改正により中選挙区制が復活し、同年4月25日に執行された[[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]]はこの復活した中選挙区制によって行われたので、大選挙区制による総選挙は第22回のみに終わった。 === 任期 === 1890年(明治23年)[[第1回衆議院議員総選挙|第1回総選挙]]から[[1932年]](昭和7年)[[第19回衆議院議員総選挙|第19回総選挙]]で選出された議員の任期は4年(ただし、解散時には任期満了前に議員資格を失う)。1900年(明治33年)の衆議院議員選挙法の改正によって、1902年(明治35年)の[[第7回衆議院議員総選挙|第7回総選挙]]以降において選出された議員は議会開会中に任期を終了しても閉会となるまで在任となった。そのような例として、第9回総選挙において選出された議員がある。 [[衆議院議員ノ任期延長ニ関スル法律]]の制定によって、[[1937年]](昭和12年)[[第20回衆議院議員総選挙|第20回総選挙]]において選出された議員は[[1941年]](昭和16年)4月から任期が1年延長されて1942年(昭和17年)4月までとなった。 == 会議録 == 帝国議会では第1回から速記録の「衆議院議事速記録」、要領筆記の「衆議院議事録」が作成されたが、公式記録は議長が署名を行う議事録とされ速記録に優先して扱われた<ref name="石倉">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.20722/jcul.769 |author=石倉賢一 |title=国会会議録について |journal=大学図書館研究 |publisher=大学図書館研究編集委員会 |year=1984 |volume=25 |pages=39-44 |naid=110004566590 |doi=10.20722/jcul.769 |ISSN=0386-0507}}</ref>。また委員会では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成され、本会議と同じく速記録と議事録が作成されていたが、第15回帝国議会で速記録に一本化されこれを「衆議院委員会議録」とした(貴族院では委員会の会議録とされ「貴族院委員会会議録」が作成された)<ref name="石倉" />。 国会では第1回から速記録の「衆議院会議録」が作成されている<ref name="石倉" />。委員会では委員の会議録として「衆議院委員会議録」が作成されている(参議院では委員会の会議録とされ「参議院委員会会議録」が作成されている)<ref name="石倉" />。 == 備考 == === 代議士 === 旧憲法下の[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]は、旧[[公家]]・旧[[大名]]・[[華族]](旧憲法下で設けられた近代日本の[[貴族]]階級)や、政府に人選され[[天皇]]に任命された元[[官僚]]や[[教授|大学教授]]などの学識経験者や[[勲功章|勲功者]]、[[高額納税者公示制度|高額納税者]]の互選といった、上階層の代表としての位置づけであった。これに対し[[帝国議会]]においての衆議院は、[[日本の選挙|選挙]]による民選という位置づけであり、全議員が国民のより広い階層の投票で選出されたことから'''衆議院議員は代議士'''(だいぎし)と呼ばれ、議会制度は代議制度と称された。 日本国憲法下では貴族院は廃止され、衆議院同様に選挙された議員からなる「[[参議院]]」(参議院議員)が誕生した。これにより、すべての国会議員が「全国民を代表」(第43条第1項)する民選議員となったものの、今日でも衆議院議員を指して代議士と呼び、参議院議員は一般に代議士と呼ばない。国会内で行なわれる「'''代議士会'''」とは、各[[日本の政党|政党]]所属の'''衆議院議員のみの議員総会'''であり、衆参あわせての議員総会は「'''[[議員総会#日本(両院議員総会)|両院議員総会]]'''」と呼ばれる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=百瀬孝|authorlink=百瀬孝|date=1990年(平成2年)|title=事典 昭和戦前期の日本―制度と実態 |publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642036191|ref=harv}} == 関連項目 == {{Commonscat}} {{Wiktionary|衆議院}} * [[参議院]] * [[貴族院 (日本)|貴族院]] * [[衆議院の優越]] * [[衆議院議員総選挙]] * [[衆議院小選挙区制選挙区一覧|衆議院小選挙区一覧]] * [[衆議院議員一覧]] * [[日本の国会議員]] - [[国会議員一覧]] * [[日本の政党]] - [[日本の政党一覧]] * [[日本の政党別の国会議員数]] * [[衆議院解散]] * [[参議院の緊急集会]] * [[衆議院議長]] * [[両院協議会]] * [[衆議院事務局]] * [[事務総長 (国会)]] * [[国会インターネット審議中継]] * [[一票の格差]] * [[下院]] * [[参議院議員団]] * [[歳費]](議員報酬) == 外部リンク == * [https://www.shugiin.go.jp/internet/index.nsf/html/index.htm 衆議院] * [https://www.shugiintv.go.jp/ 衆議院インターネット審議中継] * [https://www.youtube.com/channel/UCppg061zUuuEbmyJPGuc_BA 衆議院事務局チャンネル] - [[YouTube]] * {{Kotobank}} {{Coord|35|40|30.6|N|139|44|41.8|E|display=title}} {{衆議院小選挙区一覧|state=collapsed}} {{日本関連の項目}} {{立法府の下院}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しゆうきいん}} [[Category:衆議院|*]] [[Category:下院]] [[Category:1890年設立の政府機関]]
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クウェート
クウェート国(クウェートこく、アラビア語: دولة الكويت)、通称クウェートは、西アジア・中東に位置する立憲君主制国家。首都はクウェート市。 1990年にイラクに一時占領された(湾岸危機)。北と西にイラク、南にサウジアラビア、東にペルシャ湾がある。 正式名称はアラビア語で、دَوْلَةُ الْكُوَيْتِ( Dawlat al-Kuwait, ダウラト・アル=クワイト, 実際の発音:ダウラトゥ・ル=クワイト)。アラビア語で「小さな كُوت(kūt, クート, 城)」という意味がある。クウェイトやクウェートはいずれもクワイトの口語発音(現地方言発音)。 公式の英語表記はState of Kuwait。通称 Kuwait [kuːˈweɪt](クウェイト)。 日本語の表記はクウェート国。通称クウェート。クウェイトとも表記される。 16世紀ごろより現クウェート領域はオスマン帝国の支配下にあり、統治拠点はバスラにあった。 18世紀に入ると、当地にバニー・ウトバ族(英語版)のサバーハ家 (Al-Sabah) が勃興し、1756年その首長がオスマン帝国の下で当地域の統治を担うようになる。1756年現首長家(サバーハ家)による支配が始まる。サバーハ家は、サウジアラビアのサウード家を輩出したスンナ派のアナイザ族(英語版)出身のバニー・ウトバ族(英語版)で、バニー・ウトバ族はアラビア半島中部より移動してきたと考えられており、バーレーンのハリーファ家や有名なen:Buccaneerの片目の船長en:Rahmah ibn Jabir al-Jalahimahを輩出したen:Al Jalahmaもその一族である。このころのクウェートは漁業や真珠の採集、交易が主な産業であった。1783年には、ファイラカ島とブビヤン島の中間にある浅瀬リッカでバヌー・カアブ(英語版)と呼ばれるアラブ系の一族とリッカの戦いと呼ばれるものが起きて勝利した。後にバヌー・カアブはフーゼスターンへ移動した。バヌー・カアブが攻撃を行った理由は諸説ある。今日のクウェートの君主と国民の祖形として国史の重要な位置を占める。第一次サウード王国がクウェートに侵攻した際にアブドゥッラー・ビン・サバーハ・ビン・ジャービル・アッ=サバーハはイギリス東インド会社との関係を構築した。 19世紀に入ると、オスマン帝国 (en:Egypt Eyalet) は支配の綻びを繕うために当地へ軍事介入を繰り返し(オスマン・サウジ戦争)、1871年にアブドゥッラー2世・アッ=サバーハはオスマン帝国バスラ総督となり、オスマンの庇護下(バスラ州は自治州)に入った。1899年サバーハ家のムバラク大首長は中東の植民地化を図っていたイギリスへ寝返り、イギリスの影響下に入り当地域を統治した。1899年イギリスの保護領となる。1913年にはオスマン朝とイギリス間で協定が結ばれ (en:Anglo-Ottoman Convention of 1913)、1914年にはイギリスの保護領となった。1914年イギリスの自治保護領となる。第一次世界大戦においてはオスマン朝は敗北し、イラク地域と共にイギリスの植民地となる。 1919年、クウェート・ナジュド国境戦争(英語版)。1920年10月10日、en:Battle of Jahra。1922年、オカイル議定書によりサウジアラビアとの国境が画定した。サウジアラビアとの間には広大な中立地帯が設けられた。 1930年代初頭、天然真珠の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、深刻な経済危機下にあった。それは当時、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖技術開発に成功、これによって日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透し、クウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要を駆逐したことがその主たる理由である。それまでにイラク王国、バーレーンにおいて石油が発見されていたのでクウェートの首長、アフマド首長とクウェート政府は、新しい収入源を探すため石油利権をアメリカメロン財閥が保有するガルフ石油とイギリスのアングロ・ペルシアン石油(英語版)の設立した50/50合弁会社『クウェート石油会社』に付与した。クウェート石油は1938年2月23日に、現在のブルガン油田となる巨大油田を掘り当てた。世界第二位の油田であるブルガン油田は1946年より生産を開始しており、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。 イギリス支配からの独立は1961年のことである。1961年6月19日、イギリスから独立。7月1日、en:Operation Vantage。1962年、第1回クウェート国民議会選挙が行われた。 湾岸危機直前の1990年1月には、1986年以降閉鎖されたままであった国民議会の再開を求めた民主化勢力が弾圧されるという事件も起きている。この弾圧を受けてクウェート国民の間で大規模な抗議デモが起こり、政府は国民議会を再開したという経緯がある。しかし、1990年の議会選挙は大半の議席が首長の任命制であったため、民主化勢力は選挙をボイコット。投票率も選挙が行われた年である85年の80%から、55%と低下した。 以上のような経緯から、クウェートに対するイラクの主権を認めさせようする流れが常にあった。イラクが共和制になっても初代首相のアブドルカリーム・カーシムがクウェートの領有権を主張した。1980年代以降には、イラクの世論を受けたサッダーム・フセイン大統領が、クウェートはイラクの領土であり、イギリスによって不当に分離され、現在はアメリカ合衆国がそれを引き継いでいる旨を内外へ発信した。1990年8月2日のクウェート侵攻でイラクに一時併合される。侵攻直後にイラク傀儡の暫定政府の樹立が宣言され、共和制移行を宣言し国名をクウェート共和国としたあと、イラクに併合された。イラク統治下では同国のバスラ県の一部と、新たに設置された「クウェート県(英語版)」となった。一連の軍事制圧については国連において非難決議が出され、1991年1月にアメリカを中心とした多国籍軍とイラクとの間で湾岸戦争が勃発した。1991年2月26日、イラクによる占領から解放。 女性参政権は、バーレーンやカタール、オマーンなど他の湾岸諸国が先に確立した。2005年、女性参政権獲得(選挙権は21歳から、被選挙権は30歳から)。2006年6月29日、第11回クウェート国民議会選挙が行われた。定数2の25選挙区で計50の議席を249人の候補者が争った。2005年の女性参政権獲得後初の選挙で、249人の候補者のうち28人が女性であったが、初の女性議員は実現しなかった。有権者数34万248人(女性は19万5,000人)、投票数22万3187人(投票率は65.6%)であった。イスラム主義者を中心とする野党勢力が、改選前の29議席から33議席に増加し、過半数を占めた。7月1日、サバーハ首長は、野党勢力が伸張した国民議会選挙の結果を受け、内閣総辞職を受け入れた。 2009年5月16日のクウェート国民議会選挙(定数50)で初の女性議員4人が誕生した。マアスーマ・アル=ムバーラク、サルワ・アル=ジャサール、アシール・アワディー、ローラー・ダシュティーの4人で、いずれも博士号を持つ教育や経済の専門家。アワディ議員は2009年秋、髪を覆うベールを着用しなかったとして罰金を科されたが、その後の訴訟で「ベール着用は女性個人の自由」との判断を勝ち取っている。 2012年2月の国民議会選挙では野党勢力が大きく勝ち越したがその後憲法裁判所により選挙無効が宣言され、野党がボイコットする中で12月1日に改めて行われた国民議会選挙は政府派の圧勝に終わった。 2020年の議会選挙では女性が一人も当選できなかったが、2022年9月に行われた議会選挙では女性候補が2人当選している。 憲法によって立憲君主制を採っているが、首相以下、内閣の要職はサバーハ家によって占められており、実態は一族独裁による事実上の絶対君主制である。憲法に基づき首長(立憲君主制)、国民議会、内閣の三者を中心とした統治形態が取られているが、首長が議会を解散できる・首相を任免できるなど権限が強化されているため、これも建国当初から有名無実化している。 元首は首長である。首長家であるサバーハ家には、ジャービル家とサーリム家という2つの分家が存在し、交互に首長を輩出する慣習が長く続いてきた。しかし2005年にジャービル家のジャービルが没してサーリム家のサアド世子が即位すると、新首長の健康問題を理由にジャービル家を中心とするサアド降ろしが行われ、結局サアドは退位させられて、ジャービルの弟で首相であったサバーハ4世が首長に即位した。サバーハ4世は2020年9月29日に薨去し、生前に世子に指名していた弟のナワーフが翌30日に即位。クウェートの支配体制はジャービル家により固められつつある。 議会制度の歴史は他の湾岸諸国よりも古く、1920年代の諮問議会まで遡るとされる。政党の結成は非合法化されており、すべての立候補者は無所属での出馬となる。2022年9月の議会総選挙(英語版)は反政府派が10年ぶりに選挙に参加し、多数を占めたものの、2023年3月に憲法裁判所により選挙結果が無効とされた。 政党が存在しないため、有権者は選挙の公約より宗派や部族に従って投票する傾向にあることが指摘されている。 2005年には女性も投票することが可能となった。立候補も可能であるが、議員の大半は男性であり、2020年12月の総選挙で唯一の女性議員が落選して以来、女性議員は存在していない。 第36条:意見および科学研究の自由は保証されており、すべての人は、法律で指定された条件に従って、口頭、書面、またはその他の方法で意見を表明し、公表する権利を有します。 長らく近隣の湾岸協力会議の参加諸国と連携して国際関係を築いてきた。イラクとの関係は1990年のクウェート侵攻を機に断絶していたが、2010年以降は外交使節の交換が行われるなど回復しつつある。イランとの関係は、宗教上の軋轢から一線を画してきたサウジアラビアなどとは異なり一定の協調関係を築き、時にはサウジとイランの橋渡し役を担ってきた。2017年6月、湾岸諸国がイランとの関係などを理由にカタールとの断交措置に踏み切ると中立的な立場を採ったが、翌7月には自国のテロ未遂事件の容疑者がイランへ逃げ込むとイランの大使館業務の一部閉鎖や大使館員の国外退去などの措置を行った。 1961年6月の独立時にはイラクがクウェートの領有権を主張していたため国際的な承認がほとんど得られない中で、日本とは同年12月に国交を樹立した。(欧米各国との国交樹立がなされたのは、1963年10月にイラクがクウェート独立を承認した後であった)。 湾岸戦争の際、日本政府は1兆円を超える資金援助をしたが、戦後クウェート政府が発表した協力国への感謝リストから日本だけが外された。人的派遣をしなかったためではないかとも言われていたが、クウェート側による単純ミスであったことが判明している。自衛隊は、湾岸戦争時にペルシャ湾にばらまかれた機雷除去作業に協力した。 同国からは東日本大震災に際し、500万バレルの原油が無償援助されたことがある。また、東日本大震災で被災した三陸鉄道ではクウェート政府の資金援助総額500億円から新車両3両を南リアス線に導入した。また、アクアマリンふくしまの復興に300万ドルの復興支援金を送り、アクアマリンふくしまはその謝意を表すために「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」を整備した 。 陸海空三軍を有し、さらに国家警備隊や沿岸警備隊も保持している。1990年のイラクによる侵攻時には、短時間で国土を占領されている。1991年の湾岸戦争時には脱出した一部部隊が自由クウェート軍として参戦した。湾岸戦争後はアメリカ軍が駐留し、2003年のイラク戦争時には出撃拠点となっている。 ケッペンの気候区分では、国土のほぼ全てが砂漠気候 (BW) であり、山地・丘陵などはなく、平地である。島嶼は9つあり、最大のブビヤン島は、本土と橋で結ばれている。夏季の4 - 10月は厳しい暑さとなり、さらにほとんど降水もないため、焼け付くような天気と猛烈な砂嵐が続く。ただし沿岸部は湿度が高く、サウナのようになる。冬季の12月から3月は気温も下がり快適な気候となるため、避寒地として有名である。時折雷を伴った激しい雨が降り、道路の冠水が見られることもある。 IMFの統計によると、2015年のGDPは約1232億ドルであり、静岡県とほぼ同じ規模である。同年の一人当たりGDPは2万9982ドルである。 石油が主要産業であり、2016年現在の生産量は300万バレル/日を超える。世界第4位の埋蔵量がある。そのため、レンティア国家の一つに数えられる。湾岸戦争により大きな被害を受けたが、1994年に戦前の水準まで回復した。原油価格の高騰による豊富なオイルマネーによって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の充実を図っており、ほとんどの国民は国家公務員・国営企業の社員として働いている。石油収入を利用した金融立国や産業の多角化を目指して外国からの投融資環境を整備したため莫大な雇用が創出され、不足している労働力は周辺外国人が補っている。また、このような砂漠気候では農業は発達せず、食料は外国に大きく依存している。失業率は1.2%と低水準。将来的には石油の枯渇が懸念されるが当面は高い生産量を維持可能であると予想されている。 住民は、アラブ人(クウェート人)が45%、アラブ人(クウェート以外の地域)が35%、南アジア系(印僑)が9%、イラン人が4%、その他が7%である。2011年統計によると全人口のうちクウェート国籍は40%に過ぎず、60%を外国人労働者が占めている。他の湾岸諸国と同じように、インド人、パキスタン人、バングラデシュ人、エジプト人やフィリピン人が多い。なお、ビドゥーン(英語版)と呼ばれる多くの無国籍の人々がいる。 言語は、アラビア語が公用語だが、英語も広く使われている。 宗教は、イスラム教が85%(内訳: スンナ派70%、シーア派30%)と最も多い。その他15%は、キリスト教、ヒンドゥー教などである。 教育制度は小学校5年、中学校4年、高校3年、大学4年の、5・4・3・4制である。 クウェート国内でも他の中東諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1961年にはサッカーリーグのクウェート・プレミアリーグが創設された。クウェートサッカー協会(KFA)によって構成されるサッカークウェート代表は、いわゆる古豪として認識されており、特に1970年代から1980年代にかけてアジア地域において無類の強さを誇っていた。ガルフカップでは歴代最多10度の優勝に輝いており、1970年大会から1976年大会まで前人未到の4連覇を達成した。さらにAFCアジアカップでは、自国開催となった1980年大会で悲願の初優勝を果たした。FIFAワールドカップには1982年大会に1度出場しているが、グループリーグ敗退に終わった。 クリケットも人気スポーツの一つである。1998年に国際クリケット評議会に加盟した。クウェートはICCワールドクリケットリーグや地域の19歳以下ICCワールドカップ予選、シニア、ジュニア、女子クリケットなど数多くの国際トーナメントを開催した。国内競技連盟のクウェートクリケットは、地元住民にクリケットを普及させ、競技レベルまで発展させる取り組みを主導している。女子クリケットにも力を入れており、シニアとU-19レベルの両方で非常に競争力のある女子クリケットチームに成長した。国内の外国人労働者の多くがクリケットが非常に盛んな南アジア出身であることも、クリケット人気の要因の一つとなっている。 クウェート市を中心に、2020年から運行開始予定の都市鉄道システムの建設計画がある。路線は1号線から4号線があり、5段階で建設予定。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "クウェート国(クウェートこく、アラビア語: دولة الكويت)、通称クウェートは、西アジア・中東に位置する立憲君主制国家。首都はクウェート市。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1990年にイラクに一時占領された(湾岸危機)。北と西にイラク、南にサウジアラビア、東にペルシャ湾がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "正式名称はアラビア語で、دَوْلَةُ الْكُوَيْتِ( Dawlat al-Kuwait, ダウラト・アル=クワイト, 実際の発音:ダウラトゥ・ル=クワイト)。アラビア語で「小さな كُوت(kūt, クート, 城)」という意味がある。クウェイトやクウェートはいずれもクワイトの口語発音(現地方言発音)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "公式の英語表記はState of Kuwait。通称 Kuwait [kuːˈweɪt](クウェイト)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本語の表記はクウェート国。通称クウェート。クウェイトとも表記される。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "16世紀ごろより現クウェート領域はオスマン帝国の支配下にあり、統治拠点はバスラにあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "18世紀に入ると、当地にバニー・ウトバ族(英語版)のサバーハ家 (Al-Sabah) が勃興し、1756年その首長がオスマン帝国の下で当地域の統治を担うようになる。1756年現首長家(サバーハ家)による支配が始まる。サバーハ家は、サウジアラビアのサウード家を輩出したスンナ派のアナイザ族(英語版)出身のバニー・ウトバ族(英語版)で、バニー・ウトバ族はアラビア半島中部より移動してきたと考えられており、バーレーンのハリーファ家や有名なen:Buccaneerの片目の船長en:Rahmah ibn Jabir al-Jalahimahを輩出したen:Al Jalahmaもその一族である。このころのクウェートは漁業や真珠の採集、交易が主な産業であった。1783年には、ファイラカ島とブビヤン島の中間にある浅瀬リッカでバヌー・カアブ(英語版)と呼ばれるアラブ系の一族とリッカの戦いと呼ばれるものが起きて勝利した。後にバヌー・カアブはフーゼスターンへ移動した。バヌー・カアブが攻撃を行った理由は諸説ある。今日のクウェートの君主と国民の祖形として国史の重要な位置を占める。第一次サウード王国がクウェートに侵攻した際にアブドゥッラー・ビン・サバーハ・ビン・ジャービル・アッ=サバーハはイギリス東インド会社との関係を構築した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "19世紀に入ると、オスマン帝国 (en:Egypt Eyalet) は支配の綻びを繕うために当地へ軍事介入を繰り返し(オスマン・サウジ戦争)、1871年にアブドゥッラー2世・アッ=サバーハはオスマン帝国バスラ総督となり、オスマンの庇護下(バスラ州は自治州)に入った。1899年サバーハ家のムバラク大首長は中東の植民地化を図っていたイギリスへ寝返り、イギリスの影響下に入り当地域を統治した。1899年イギリスの保護領となる。1913年にはオスマン朝とイギリス間で協定が結ばれ (en:Anglo-Ottoman Convention of 1913)、1914年にはイギリスの保護領となった。1914年イギリスの自治保護領となる。第一次世界大戦においてはオスマン朝は敗北し、イラク地域と共にイギリスの植民地となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1919年、クウェート・ナジュド国境戦争(英語版)。1920年10月10日、en:Battle of Jahra。1922年、オカイル議定書によりサウジアラビアとの国境が画定した。サウジアラビアとの間には広大な中立地帯が設けられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1930年代初頭、天然真珠の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、深刻な経済危機下にあった。それは当時、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖技術開発に成功、これによって日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透し、クウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要を駆逐したことがその主たる理由である。それまでにイラク王国、バーレーンにおいて石油が発見されていたのでクウェートの首長、アフマド首長とクウェート政府は、新しい収入源を探すため石油利権をアメリカメロン財閥が保有するガルフ石油とイギリスのアングロ・ペルシアン石油(英語版)の設立した50/50合弁会社『クウェート石油会社』に付与した。クウェート石油は1938年2月23日に、現在のブルガン油田となる巨大油田を掘り当てた。世界第二位の油田であるブルガン油田は1946年より生産を開始しており、これ以降は石油産業が主要な産業となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "イギリス支配からの独立は1961年のことである。1961年6月19日、イギリスから独立。7月1日、en:Operation Vantage。1962年、第1回クウェート国民議会選挙が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "湾岸危機直前の1990年1月には、1986年以降閉鎖されたままであった国民議会の再開を求めた民主化勢力が弾圧されるという事件も起きている。この弾圧を受けてクウェート国民の間で大規模な抗議デモが起こり、政府は国民議会を再開したという経緯がある。しかし、1990年の議会選挙は大半の議席が首長の任命制であったため、民主化勢力は選挙をボイコット。投票率も選挙が行われた年である85年の80%から、55%と低下した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "以上のような経緯から、クウェートに対するイラクの主権を認めさせようする流れが常にあった。イラクが共和制になっても初代首相のアブドルカリーム・カーシムがクウェートの領有権を主張した。1980年代以降には、イラクの世論を受けたサッダーム・フセイン大統領が、クウェートはイラクの領土であり、イギリスによって不当に分離され、現在はアメリカ合衆国がそれを引き継いでいる旨を内外へ発信した。1990年8月2日のクウェート侵攻でイラクに一時併合される。侵攻直後にイラク傀儡の暫定政府の樹立が宣言され、共和制移行を宣言し国名をクウェート共和国としたあと、イラクに併合された。イラク統治下では同国のバスラ県の一部と、新たに設置された「クウェート県(英語版)」となった。一連の軍事制圧については国連において非難決議が出され、1991年1月にアメリカを中心とした多国籍軍とイラクとの間で湾岸戦争が勃発した。1991年2月26日、イラクによる占領から解放。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "女性参政権は、バーレーンやカタール、オマーンなど他の湾岸諸国が先に確立した。2005年、女性参政権獲得(選挙権は21歳から、被選挙権は30歳から)。2006年6月29日、第11回クウェート国民議会選挙が行われた。定数2の25選挙区で計50の議席を249人の候補者が争った。2005年の女性参政権獲得後初の選挙で、249人の候補者のうち28人が女性であったが、初の女性議員は実現しなかった。有権者数34万248人(女性は19万5,000人)、投票数22万3187人(投票率は65.6%)であった。イスラム主義者を中心とする野党勢力が、改選前の29議席から33議席に増加し、過半数を占めた。7月1日、サバーハ首長は、野党勢力が伸張した国民議会選挙の結果を受け、内閣総辞職を受け入れた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2009年5月16日のクウェート国民議会選挙(定数50)で初の女性議員4人が誕生した。マアスーマ・アル=ムバーラク、サルワ・アル=ジャサール、アシール・アワディー、ローラー・ダシュティーの4人で、いずれも博士号を持つ教育や経済の専門家。アワディ議員は2009年秋、髪を覆うベールを着用しなかったとして罰金を科されたが、その後の訴訟で「ベール着用は女性個人の自由」との判断を勝ち取っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2012年2月の国民議会選挙では野党勢力が大きく勝ち越したがその後憲法裁判所により選挙無効が宣言され、野党がボイコットする中で12月1日に改めて行われた国民議会選挙は政府派の圧勝に終わった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2020年の議会選挙では女性が一人も当選できなかったが、2022年9月に行われた議会選挙では女性候補が2人当選している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": 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"同国からは東日本大震災に際し、500万バレルの原油が無償援助されたことがある。また、東日本大震災で被災した三陸鉄道ではクウェート政府の資金援助総額500億円から新車両3両を南リアス線に導入した。また、アクアマリンふくしまの復興に300万ドルの復興支援金を送り、アクアマリンふくしまはその謝意を表すために「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」を整備した 。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "陸海空三軍を有し、さらに国家警備隊や沿岸警備隊も保持している。1990年のイラクによる侵攻時には、短時間で国土を占領されている。1991年の湾岸戦争時には脱出した一部部隊が自由クウェート軍として参戦した。湾岸戦争後はアメリカ軍が駐留し、2003年のイラク戦争時には出撃拠点となっている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ケッペンの気候区分では、国土のほぼ全てが砂漠気候 (BW) であり、山地・丘陵などはなく、平地である。島嶼は9つあり、最大のブビヤン島は、本土と橋で結ばれている。夏季の4 - 10月は厳しい暑さとなり、さらにほとんど降水もないため、焼け付くような天気と猛烈な砂嵐が続く。ただし沿岸部は湿度が高く、サウナのようになる。冬季の12月から3月は気温も下がり快適な気候となるため、避寒地として有名である。時折雷を伴った激しい雨が降り、道路の冠水が見られることもある。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2015年のGDPは約1232億ドルであり、静岡県とほぼ同じ規模である。同年の一人当たりGDPは2万9982ドルである。 石油が主要産業であり、2016年現在の生産量は300万バレル/日を超える。世界第4位の埋蔵量がある。そのため、レンティア国家の一つに数えられる。湾岸戦争により大きな被害を受けたが、1994年に戦前の水準まで回復した。原油価格の高騰による豊富なオイルマネーによって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の充実を図っており、ほとんどの国民は国家公務員・国営企業の社員として働いている。石油収入を利用した金融立国や産業の多角化を目指して外国からの投融資環境を整備したため莫大な雇用が創出され、不足している労働力は周辺外国人が補っている。また、このような砂漠気候では農業は発達せず、食料は外国に大きく依存している。失業率は1.2%と低水準。将来的には石油の枯渇が懸念されるが当面は高い生産量を維持可能であると予想されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "住民は、アラブ人(クウェート人)が45%、アラブ人(クウェート以外の地域)が35%、南アジア系(印僑)が9%、イラン人が4%、その他が7%である。2011年統計によると全人口のうちクウェート国籍は40%に過ぎず、60%を外国人労働者が占めている。他の湾岸諸国と同じように、インド人、パキスタン人、バングラデシュ人、エジプト人やフィリピン人が多い。なお、ビドゥーン(英語版)と呼ばれる多くの無国籍の人々がいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "言語は、アラビア語が公用語だが、英語も広く使われている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "宗教は、イスラム教が85%(内訳: スンナ派70%、シーア派30%)と最も多い。その他15%は、キリスト教、ヒンドゥー教などである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "教育制度は小学校5年、中学校4年、高校3年、大学4年の、5・4・3・4制である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "クウェート国内でも他の中東諸国と同様に、サッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1961年にはサッカーリーグのクウェート・プレミアリーグが創設された。クウェートサッカー協会(KFA)によって構成されるサッカークウェート代表は、いわゆる古豪として認識されており、特に1970年代から1980年代にかけてアジア地域において無類の強さを誇っていた。ガルフカップでは歴代最多10度の優勝に輝いており、1970年大会から1976年大会まで前人未到の4連覇を達成した。さらにAFCアジアカップでは、自国開催となった1980年大会で悲願の初優勝を果たした。FIFAワールドカップには1982年大会に1度出場しているが、グループリーグ敗退に終わった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "クリケットも人気スポーツの一つである。1998年に国際クリケット評議会に加盟した。クウェートはICCワールドクリケットリーグや地域の19歳以下ICCワールドカップ予選、シニア、ジュニア、女子クリケットなど数多くの国際トーナメントを開催した。国内競技連盟のクウェートクリケットは、地元住民にクリケットを普及させ、競技レベルまで発展させる取り組みを主導している。女子クリケットにも力を入れており、シニアとU-19レベルの両方で非常に競争力のある女子クリケットチームに成長した。国内の外国人労働者の多くがクリケットが非常に盛んな南アジア出身であることも、クリケット人気の要因の一つとなっている。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "クウェート市を中心に、2020年から運行開始予定の都市鉄道システムの建設計画がある。路線は1号線から4号線があり、5段階で建設予定。", "title": "交通" } ]
クウェート国、通称クウェートは、西アジア・中東に位置する立憲君主制国家。首都はクウェート市。 1990年にイラクに一時占領された(湾岸危機)。北と西にイラク、南にサウジアラビア、東にペルシャ湾がある。
{{Otheruses|国|同国の首都|クウェート市}} {{基礎情報 国 | 略名=クウェート | 日本語国名 =クウェート国 | 公式国名={{Lang|ar|'''دولة الكويت'''}} | 国旗画像=Flag of Kuwait.svg | 国章画像=[[ファイル:Coat_of_arms_of_Kuwait.svg|100px|クウェートの国章]] | 国章リンク=([[クウェートの国章|国章]]) | 標語=なし | 位置画像=KWT orthographic.svg | 公用語=[[アラビア語]] | 首都=[[クウェート市|クウェート]] | 最大都市=クウェート | 元首等肩書=[[クウェートの首長|首長]] | 元首等氏名=[[ミシュアル・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ]] | 首相等肩書=[[クウェートの首相|首相]] | 首相等氏名=[[アフマド・ナワーフ・アル=アフマド・アッ=サバーハ]] | 面積順位=152 | 面積大きさ=1 E10 | 面積値=17,820 | 水面積率=極僅か | 人口統計年=2020 | 人口順位=127 | 人口大きさ=1 E6 | 人口値=427万1000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/ph.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-31}}</ref> | 人口密度値=239.7<ref name=population/> | GDP統計年元=2020 | GDP値元=324億4500万<ref name="economy">[https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=443,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1]:IMF Data and Statistics 2021年10月13日閲覧</ref> | GDP統計年MER=2020 | GDP順位MER=59 | GDP値MER=1059億4900万<ref name="economy" /> | GDP MER/人=2万2683.638<ref name="economy" /> | GDP統計年=2020 | GDP順位=52 | GDP値=2020億1100万<ref name="economy" /> | GDP/人=4万3250.466<ref name="economy" /> | 建国形態=[[独立]]<br />&nbsp;- 日付 | 建国年月日=[[イギリス]]より<br />[[1961年]][[6月19日]] | 通貨=[[クウェート・ディナール]] (KD) | 通貨コード=KWD | 時間帯=+3 | 夏時間=なし | ISO 3166-1=KW / KWT | ccTLD=[[.kw]] | 国際電話番号=965 | 注記= |国歌=[[国歌 (クウェート)|{{lang|ar|النشيد الوطني}}]]{{ar icon}}<br>''国歌''<br><center>[[ファイル:National anthem of Kuwait (instrumental).ogg]]}} '''クウェート国'''(クウェートこく、{{Lang-ar|دولة الكويت}})、通称'''クウェート'''は、[[西アジア]]・[[中東]]に位置する[[立憲君主制]][[国家]]。首都は[[クウェート市]]。 [[1990年]]に[[バアス党政権 (イラク)|イラク]]に一時占領された([[湾岸戦争#湾岸危機(開戦までの経緯)|湾岸危機]])。北と西に[[イラク]]、南に[[サウジアラビア]]、東に[[ペルシャ湾]]がある。 == 国名 == 正式名称はアラビア語で、{{Lang|ar|دَوْلَةُ الْكُوَيْتِ}}({{Audio|Ar-State of Kuwait.oga|Dawlat al-Kuwait|help = no}}, ダウラト・アル=クワイト, 実際の発音:ダウラトゥ・ル=クワイト)。アラビア語で「小さな <span lang="ar" dir="rtl">كُوت</span>(kūt, クート, 城)」という意味がある<ref>[http://kuwait-embassy.or.jp/outline_02.html 国名の由来] - [[駐日クウェート大使館|在日クウェート国大使館]]</ref>。クウェイトやクウェートはいずれもクワイトの口語発音(現地方言発音)。 公式の英語表記はState of Kuwait。通称 Kuwait {{IPA-en|kuːˈweɪt|}}(クウェイト)。 日本語の表記は'''クウェート国'''。通称'''クウェート'''。'''クウェイト'''とも表記される。 == 歴史 == {{Main|{{仮リンク|クウェートの歴史|en|History of Kuwait|ar|تاريخ الكويت|preserve=1}}}} === 古代 === {{Main|シュメール|メソポタミア}} === オスマン帝国 === [[16世紀]]ごろより現クウェート領域は[[オスマン帝国]]の支配下にあり、統治拠点はバスラにあった。 === サバーハ家 === [[18世紀]]に入ると、当地に{{仮リンク|バニー・ウトバ|en|Bani Utbah|label=バニー・ウトバ族}}の[[サバーハ家]] (Al-Sabah) が勃興し、[[1756年]]その首長がオスマン帝国の下で当地域の統治を担うようになる。[[1756年]]現首長家(サバーハ家)による支配が始まる。サバーハ家は、[[サウジアラビア]]の[[サウード家]]を輩出したスンナ派の{{仮リンク|アナイザ族|en|`Anizzah}}出身の{{仮リンク|バニー・ウトバ|en|Bani Utbah|label=バニー・ウトバ族}}で、バニー・ウトバ族は[[アラビア半島]]中部より移動してきたと考えられており、[[バーレーン]]の[[ハリーファ家]]や有名な[[:en:Buccaneer]]の片目の船長[[:en:Rahmah ibn Jabir al-Jalahimah]]を輩出した[[:en:Al Jalahma]]もその一族である。このころのクウェートは[[漁業]]や[[真珠]]の採集、[[交易]]が主な産業であった。[[1783年]]には、[[ファイラカ島]]と[[ブビヤン島]]の中間にある浅瀬リッカで{{仮リンク|バヌー・カアブ|en|Banu Kaab}}と呼ばれるアラブ系の一族と[[リッカの戦い]]と呼ばれるものが起きて勝利した。後にバヌー・カアブは[[フーゼスターン州|フーゼスターン]]へ移動した。バヌー・カアブが攻撃を行った理由は諸説ある。今日のクウェートの君主と国民の祖形として[[国史]]の重要な位置を占める。[[第一次サウード王国]]がクウェートに侵攻した際に[[アブドゥッラー・ビン・サバーハ・ビン・ジャービル・アッ=サバーハ]]は[[イギリス東インド会社]]との関係を構築した。 === イギリス === [[ファイル:Mubarak Al-Sabah of Kuwait.jpg|thumb|180px|[[ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ|ムバラク大首長]]]] [[19世紀]]に入ると、オスマン帝国 ([[:en:Egypt Eyalet]]) は支配の綻びを繕うために当地へ軍事介入を繰り返し([[オスマン・サウジ戦争]])、[[1871年]]に[[アブドゥッラー2世・アッ=サバーハ]]はオスマン帝国バスラ総督となり、オスマンの庇護下(バスラ州は自治州)に入った。[[1899年]]サバーハ家の[[ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ|ムバラク大首長]]は中東の植民地化を図っていた[[イギリス]]へ寝返り、イギリスの影響下に入り当地域を統治した。[[1899年]][[イギリス]]の保護領となる。[[1913年]]にはオスマン朝とイギリス間で協定が結ばれ ([[:en:Anglo-Ottoman Convention of 1913]])、[[1914年]]にはイギリスの保護領となった。[[1914年]][[イギリス]]の自治保護領となる。[[第一次世界大戦]]においてはオスマン朝は敗北し、イラク地域と共にイギリスの植民地となる。 [[1919年]]、{{仮リンク|クウェート・ナジュド国境戦争|en|Kuwait–Nejd Border War}}。[[1920年]][[10月10日]]、[[:en:Battle of Jahra]]。[[1922年]]、[[オカイル議定書]]により[[クウェート=サウジアラビア国境|サウジアラビアとの国境]]が画定した。サウジアラビアとの間には広大な[[中立地帯 (サウジアラビアとクウェート)|中立地帯]]が設けられた。 1930年代初頭、天然[[真珠]]の交易が最大の産業で主要な外貨収入源であったクウェートは、深刻な経済危機下にあった。それは当時、[[日本]]の[[御木本幸吉]]が真珠の人工養殖技術開発に成功、これによって日本製養殖真珠が世界の宝石市場に徐々に浸透し、クウェート、バーレーン沖合で採取される天然真珠の需要を駆逐したことがその主たる理由である<ref>ヤーギン、p.496</ref>。それまでにイラク王国、バーレーンにおいて石油が発見されていたのでクウェートの首長、[[アフマド=ビン=ジャービル・アッ=サバーハ|アフマド首長]]とクウェート政府は、新しい収入源を探すため石油利権をアメリカ[[メロン財閥]]が保有する[[ガルフ石油]]とイギリスの{{仮リンク|アングロ・ペルシアン石油|en|Anglo-Persian Oil Company}}の設立した50/50合弁会社『[[クウェート石油会社]]』に付与した。クウェート石油は[[1938年]]2月23日に、現在のブルガン油田となる巨大油田を掘り当てた。世界第二位の油田である[[ブルガン油田]]は[[1946年]]より生産を開始しており、これ以降は[[石油産業]]が主要な産業となっている。 === 独立 === イギリス支配からの独立は[[1961年]]のことである。[[1961年]][[6月19日]]、イギリスから独立。[[7月1日]]、[[:en:Operation Vantage]]。[[1962年]]、第1回クウェート国民議会選挙が行われた。 湾岸危機直前の1990年1月には、1986年以降閉鎖されたままであった国民議会の再開を求めた民主化勢力が弾圧されるという事件も起きている。この弾圧を受けてクウェート国民の間で大規模な抗議デモが起こり、政府は国民議会を再開したという経緯がある。しかし、1990年の議会選挙は大半の議席が首長の任命制であったため、民主化勢力は選挙をボイコット。投票率も選挙が行われた年である85年の80%から、55%と低下した。 === クウェート侵攻 === [[ファイル:BrennendeOelquellenKuwait1991.jpg|thumb|炎上するクウェートの油田]] 以上のような経緯から、クウェートに対するイラクの主権を認めさせようする流れが常にあった。イラクが共和制になっても初代首相の[[アブドルカリーム・カーシム]]がクウェートの領有権を主張した。[[1980年代]]以降には、イラクの世論を受けた[[サッダーム・フセイン]]大統領が、クウェートはイラクの領土であり、イギリスによって不当に分離され、現在は[[アメリカ合衆国]]がそれを引き継いでいる旨を内外へ発信した。[[1990年]][[8月2日]]の[[クウェート侵攻]]でイラクに一時併合される。侵攻直後にイラク傀儡の暫定政府の樹立が宣言され、共和制移行を宣言し国名を[[クウェート共和国]]としたあと、イラクに併合された。イラク統治下では同国の[[バスラ県]]の一部と、新たに設置された「{{仮リンク|クウェート県 (イラク)|en|Kuwait Governorate|label=クウェート県}}」となった。一連の軍事制圧については国連において非難決議が出され、1991年1月にアメリカを中心とした多国籍軍とイラクとの間で[[湾岸戦争]]が勃発した。[[1991年]][[2月26日]]、イラクによる占領から解放。 === 女性参政権 === [[女性参政権]]は、[[バーレーン]]や[[カタール]]、[[オマーン]]など他の湾岸諸国が先に確立した。[[2005年]]、[[女性参政権]]獲得(選挙権は21歳から、被選挙権は30歳から)。[[2006年]][[6月29日]]、第11回クウェート国民議会選挙が行われた。定数2の25選挙区で計50の議席を249人の候補者が争った。2005年の[[女性参政権]]獲得後初の選挙で、249人の候補者のうち28人が女性であったが、初の女性議員は実現しなかった。有権者数34万248人(女性は19万5,000人)、投票数22万3187人(投票率は65.6%)であった。<ref>[https://ja.wikinews.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%A7%E3%80%81%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%8C%E5%88%9D%E5%8F%82%E6%94%BF%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99 クウェートで、女性が初参政となる総選挙 - ウィキニュース]</ref>イスラム主義者を中心とする野党勢力が、改選前の29議席から33議席に増加し、過半数を占めた。7月1日、[[サバーハ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ|サバーハ]]首長は、野党勢力が伸張した国民議会選挙の結果を受け、内閣総辞職を受け入れた。 [[2009年]][[5月16日]]のクウェート国民議会選挙(定数50)で初の女性議員4人が誕生した。マアスーマ・アル=ムバーラク、サルワ・アル=ジャサール、アシール・アワディー、ローラー・ダシュティーの4人で、いずれも博士号を持つ教育や経済の専門家。アワディ議員は2009年秋、髪を覆うベールを着用しなかったとして罰金を科されたが、その後の訴訟で「ベール着用は女性個人の自由」との判断を勝ち取っている<ref>{{cite news |title=権利拡大へ女性4人衆奮闘=国民の期待担う初当選議員-クウェート |agency=時事通信 |date=2010-01-25 |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2010012500037}}</ref>。 2012年2月の国民議会選挙では野党勢力が大きく勝ち越したがその後憲法裁判所により選挙無効が宣言され、野党がボイコットする中で12月1日に改めて行われた[[2012年12月クウェート国民議会選挙|国民議会選挙]]は政府派の圧勝に終わった<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20121202-OYT1T00553.htm |title=クウェート議会選、政府派が勝利…投票率は最低 |work=YOMIURI ONLINE |newspaper=[[読売新聞]] |date=2012-12-02 |accessdate=2012-12-02 }}</ref>。 2020年の議会選挙では女性が一人も当選できなかったが、2022年9月に行われた議会選挙では女性候補が2人当選している<ref>{{cite news |title=反政府派が過半数 クウェート議会選 |agency=時事通信 |date=2022-9-30 |url=https://web.archive.org/web/20220930114336/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022093001191&g=int|accessdate=2022-10-23}}</ref>。 == 政治 == {{出典の明記|date=2022年1月|section=1}} [[ファイル:Conference Center Bayan Palace Kuwait City.jpg|thumb|{{仮リンク|バヤン宮殿|en|Bayan Palace}}]] {{Main|{{仮リンク|クウェートの政治|en|Politics of Kuwait}}}} 憲法によって[[立憲君主制]]を採っているが、首相以下、[[内閣]]の要職は[[サバーハ家]]によって占められており、実態は一族[[独裁政治|独裁]]による事実上の[[絶対君主制]]である。[[憲法]]に基づき[[首長国|首長]](立憲君主制)、国民[[議会]]、[[内閣]]の三者を中心とした統治形態が取られているが、首長が議会を解散できる・首相を任免できるなど権限が強化されているため、これも建国当初から有名無実化している。 === 元首 === 元首は[[首長]]である。首長家であるサバーハ家には、[[ジャービル・アル=ムバーラク・アッ=サバーハ|ジャービル家]]と[[サーリム・アル=ムバーラク・アッ=サバーハ|サーリム家]]という2つの分家が存在し、交互に首長を輩出する慣習が長く続いてきた。しかし2005年にジャービル家の[[ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ|ジャービル]]が没してサーリム家のサアド世子が即位すると、新首長の健康問題を理由にジャービル家を中心とするサアド降ろしが行われ、結局サアドは退位させられて、ジャービルの弟で首相であった[[サバーハ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ|サバーハ4世]]が首長に即位した。サバーハ4世は2020年9月29日に薨去し、生前に世子に指名していた弟の[[ナワーフ・アル=アフマド・アル=ジャービル・アッ=サバーハ|ナワーフ]]が翌30日に即位。クウェートの支配体制はジャービル家により固められつつある。 === 議会 === {{see|国民議会 (クウェート)}} 議会制度の歴史は他の湾岸諸国よりも古く、[[1920年代]]の[[諮問議会]]まで遡るとされる。[[政党]]の結成は非合法化されており、すべての立候補者は無所属での出馬となる<ref name=aljazeera20220929>{{Cite news|url=https://www.aljazeera.com/news/2022/9/29/what-you-need-to-know-about-kuwaits-parliament-explainer|title=What to know about Kuwait’s parliamentary elections|work=Al Jazeera English|agency=[[アルジャジーラ]]|date=2022-09-29|accessdate=2023-03-20}}</ref>。2022年9月の{{ill2|2022年クウェート総選挙|en|2022 Kuwaiti general election|label=議会総選挙}}は反政府派が10年ぶりに選挙に参加し、多数を占めたものの、2023年3月に憲法裁判所により選挙結果が無効とされた<ref>{{Cite news|url=https://www.aljazeera.com/news/2023/3/19/kuwait-court-nullifies-2022-vote-reinstates-previous-parliament|title=Kuwait court nullifies 2022 vote, reinstates previous parliament|work=Al Jazeera English|agency=[[アルジャジーラ]]|date=2023-03-19|accessdate=2023-03-20}}</ref>。 政党が存在しないため、有権者は選挙の公約より宗派や部族に従って投票する傾向にあることが指摘されている<ref name=aljazeera20220929 />。 2005年には女性も投票することが可能となった。立候補も可能であるが、議員の大半は男性であり、2020年12月の総選挙で唯一の女性議員が落選して以来、女性議員は存在していない<ref name=aljazeera20220929 />。 ==== 言論の自由 ==== 第36条:意見および科学研究の自由は保証されており、すべての人は、法律で指定された条件に従って、口頭、書面、またはその他の方法で意見を表明し、公表する権利を有します。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|クウェートの国際関係|en|Foreign relations of Kuwait}}}} ===周辺諸国との関係=== 長らく近隣の[[湾岸協力会議]]の参加諸国と連携して国際関係を築いてきた。イラクとの関係は1990年のクウェート侵攻を機に断絶していたが、2010年以降は外交使節の交換が行われるなど回復しつつある。イランとの関係は、宗教上の軋轢から一線を画してきたサウジアラビアなどとは異なり一定の協調関係を築き<ref>[http://parstoday.com/ja/news/iran-i25355 クウェート外相が、イランを訪問] Pars Today(2017年1月25日)2017年7月21日閲覧</ref>、時にはサウジとイランの橋渡し役を担ってきた。2017年6月、湾岸諸国がイランとの関係などを理由に[[2017年カタール外交危機|カタールとの断交措置]]に踏み切ると中立的な立場を採った<ref>[https://www.cnn.co.jp/world/35103258.html?tag=mcol;topStories カタールと断交の4カ国、13項目要求 アルジャジーラ閉鎖など] CNN(2017年6月24日)2017年7月22日閲覧</ref>が、翌7月には自国のテロ未遂事件の容疑者がイランへ逃げ込むとイランの大使館業務の一部閉鎖や[[ペルソナ・ノン・グラータ|大使館員の国外退去]]などの措置を行った<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201707/CK2017072102000125.html クウェート、イラン外交官らを追放 テロ未遂事件への報復?] 東京新聞(2017年7月21日)2017年7月21日閲覧</ref>。 === 日本との関係 === {{Main|日本とクウェートの関係}} 1961年6月の独立時にはイラクがクウェートの領有権を主張していたため国際的な承認がほとんど得られない中で、日本とは同年12月に国交を樹立した。(欧米各国との国交樹立がなされたのは、1963年10月にイラクがクウェート独立を承認した後であった<ref name="japan"><[https://news.livedoor.com/article/detail/19064055/ 中東はなぜ“親日”が多いのか 東日本大震災義援金の4割はクウェートからだった(2020年10月16日 デイリー新潮)] 2020年10月16日閲覧</ref>)。 湾岸戦争の際、日本政府は1兆円を超える資金援助をしたが、戦後クウェート政府が発表した協力国への感謝リストから日本だけが外された。人的派遣をしなかったためではないかとも言われていたが、クウェート側による単純ミスであったことが判明している<ref name="japan"></ref>。自衛隊は、湾岸戦争時にペルシャ湾にばらまかれた機雷除去作業に協力した。 同国からは[[東日本大震災]]に際し、500万[[バレル]]の原油が無償援助されたことがある<ref name="tyuutou25">{{Cite news |url=http://www.jrc.or.jp/contribution/pdf/kaigaikyuenkin_uketuke.pdf |publisher=日本赤十字社 |title=東日本大震災海外救援金受付状況 3.クウェート政府からの原油輸入代金相当額 |date=2016-02-29 |accessdate=2018-02-11 }}</ref>。また、[[東日本大震災]]で被災した[[三陸鉄道]]ではクウェート政府の資金援助総額500億円から[[三陸鉄道36-700形気動車|新車両]]3両を[[三陸鉄道南リアス線|南リアス線]]に導入した<ref name="sanriku">「[http://www.kahoku.co.jp/news/2013/04/20130403t33037.htm 三陸鉄道南リアス線一部再開 盛-吉浜間 2年ぶり運行]」[[河北新報]](2013年04月03日水曜日)</ref>。また、アクアマリンふくしまの復興に300万ドルの復興支援金を送り、アクアマリンふくしまはその謝意を表すために「クウェート・ふくしま友好記念日本庭園」を整備した <ref>{{Cite news |url=http://www.aquamarine.or.jp/exhibits/exhibit_19_kuwaitgarden.html |publisher=アクアマリンふくしま |title=クウェート・ふくしま友好記念日本庭園 |date=2013 |accessdate=2018-02-11 }}</ref>。 == 軍事 == {{Main|クウェート軍}} 陸海空三軍を有し、さらに国家警備隊や沿岸警備隊も保持している。1990年のイラクによる侵攻時には、短時間で国土を占領されている。1991年の湾岸戦争時には脱出した一部部隊が自由クウェート軍として参戦した。湾岸戦争後はアメリカ軍が駐留し、2003年のイラク戦争時には出撃拠点となっている。 == 地理 == {{Main|{{仮リンク|クウェートの地理|en|Geography of Kuwait|preserve=1}}}} [[ケッペンの気候区分]]では、国土のほぼ全てが[[砂漠気候]] (BW) であり、山地・丘陵などはなく、平地である。[[島|島嶼]]は9つあり、最大の[[ブビヤン島]]は、本土と橋で結ばれている。夏季の4 - 10月は厳しい暑さとなり、さらにほとんど降水もないため、焼け付くような天気と猛烈な砂嵐が続く。ただし沿岸部は湿度が高く、サウナのようになる<ref name="tyuutou25-2">宮田律監修・レッカ社編著『日本人が知っておきたい「中東アラブ25カ国」のすべて』PHP研究所、2011年7月 ISBN 978-4-569-67669-2</ref>。冬季の12月から3月は気温も下がり快適な気候となるため、[[避寒地]]として有名である。時折雷を伴った激しい雨が降り、道路の冠水が見られることもある。 {{中央|<gallery widths="250px" heights="250px"> Ku-map.png|クウェートの地図 Satellite image of Kuwait in November 2001.jpg|衛星写真 </gallery>}} == 地方行政区分 == {{Main|クウェートの行政区画}} * [[アハマディ県]] - [[アハマディ]] * [[アースィマ県]](クウェート県)- [[クウェート市]] * [[ファルワーニーヤ県]] - [[ファルワーニーヤ]] * [[ジャハラー県]] - [[ジャハラー]] * [[ハワリ県|ハワッリー県]] - [[ハワッリー]] * [[ムバーラク・アル=カビール県]] - [[ムバーラク・アル=カビール]] === 主要都市 === {{Main|クウェートの都市の一覧}} == 経済 == [[ファイル:LiberationTower.jpg|thumb|クウェートの首都、[[クウェート市]]]] {{Main|{{仮リンク|クウェートの経済|en|Economy of Kuwait}}}} [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2015年]]の[[国内総生産|GDP]]は約1232億ドルであり<ref name="IMF2"> [https://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2015/02/weodata/weorept.aspx?sy=2013&ey=2020&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=443&s=NGDPD%2CNGDPDPC&grp=0&a=&pr.x=29&pr.y=15 IMF]2016年1月2日閲覧。</ref>、[[静岡県]]とほぼ同じ規模である<ref>[https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/kenmin/kenmin_top.html 県民経済計算]内閣府 2016年1月2日閲覧。</ref>。同年の一人当たりGDPは2万9982ドルである<ref name="IMF2" />。 [[石油]]が主要産業であり、2016年現在の生産量は300万バレル/日を超える。世界第4位の埋蔵量がある<ref group="注釈">石油の確認埋蔵量は990億バレル。</ref>。そのため、[[レンティア国家]]の一つに数えられる。湾岸戦争により大きな被害を受けたが、[[1994年]]に戦前の水準まで回復した。[[原油価格]]の高騰による豊富な[[オイルマネー]]によって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の充実を図っており、ほとんどの国民は[[国家公務員]]・国営企業の社員として働いている。石油収入を利用した[[金融]]立国や産業の多角化を目指して外国からの投融資環境を整備したため莫大な雇用が創出され、不足している労働力は周辺外国人が補っている。また、このような砂漠気候では農業は発達せず、食料は外国に大きく依存している<ref group="注釈">輸入品目の第1位は食料品で15.3%。</ref>。失業率は1.2%と低水準。将来的には石油の枯渇が懸念されるが当面は高い生産量を維持可能であると予想されている。 === 観光 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの観光地|en|Tourism in Kuwait}}}} == 国民 == {{Main|{{仮リンク|クウェートの人口統計|en|Demographics of Kuwait}}}} [[ファイル:The Avenues Kuwait (cropped).jpg|thumb|left|ショッピングモールの買い物客]] === 人口構成 === {{bar box |title=国籍 |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|クウェート国籍|gold|40}} {{bar percent|外国籍|silver|60}} }} === 民族 === 住民は、[[アラブ人]](クウェート人)が45%、アラブ人(クウェート以外の地域)が35%、南アジア系([[印僑]])が9%、イラン人が4%、その他が7%である。2011年統計によると全人口のうちクウェート国籍は40%に過ぎず、60%を外国人労働者が占めている。他の湾岸諸国と同じように、インド人、パキスタン人、バングラデシュ人、エジプト人やフィリピン人が多い。なお、{{仮リンク|ビドゥーン|en|Bedoun}}と呼ばれる多くの[[無国籍]]の人々がいる。 === 言語 === 言語は、[[アラビア語]]が[[公用語]]だが、英語も広く使われている。 === 宗教 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの宗教|en|Religion in Kuwait}}}} 宗教は、[[イスラム教]]が85%(内訳: [[スンナ派]]70%、[[シーア派]]30%)と最も多い。その他15%は、キリスト教、ヒンドゥー教などである。 {{Clearleft}} === 教育 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの教育|en|Education in Kuwait}}}} 教育制度は小学校5年、中学校4年、高校3年、大学4年の、5・4・3・4制である。<ref>https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/kuni/kuwait_2015.html</ref> === 保健 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの保健|en|Health in Kuwait}}}} ==== 医療 ==== {{Main|{{仮リンク|クウェートの医療|en|Healthcare in Kuwait}}}} == 文化 == {{Main|{{仮リンク|クウェートの文化|en|Culture of Kuwait|preserve=1}}}} === 食文化 === {{Main|クウェート料理}} === 映画 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの映画|en|Cinema of Kuwait}}}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの音楽|en|Music of Kuwait}}}} === 芸術 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの芸術|en|Art of Kuwait}}}} === 建築 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの建築|en|Architecture of Kuwait}}}} === 祝祭日 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの祝日|en|Public holidays in Kuwait}}}} {| class="wikitable" |+ style="font-weight: bold; font-size: 120%" | ! 日付 ! 日本語表記 ! 現地語表記 ! 備考 |- |1月1日 |元日 | | |- |2月25日 |クウェート建国記念日 | | |- |2月26日 |クウェート解放記念日 | | |} == スポーツ == {{Main|{{仮リンク|クウェートのスポーツ|en|Sport in Kuwait}}}} {{See also|オリンピックのクウェート選手団}} === サッカー === {{Main|{{仮リンク|クウェートのサッカー|en|Football in Kuwait}}}} クウェート国内でも他の[[中東]]諸国と同様に、[[サッカー]]が圧倒的に1番人気の[[スポーツ]]となっている。[[1961年]]にはサッカーリーグの[[クウェート・プレミアリーグ]]が創設された。[[クウェートサッカー協会]](KFA)によって構成される[[サッカークウェート代表]]は、いわゆる古豪として認識されており、特に[[1970年代]]から[[1980年代]]にかけて[[アジア]]地域において無類の強さを誇っていた。[[ガルフカップ]]では歴代最多10度の優勝に輝いており、[[ガルフカップ1970|1970年大会]]から[[ガルフカップ1976|1976年大会]]まで前人未到の4連覇を達成した。さらに[[AFCアジアカップ]]では、自国開催となった[[AFCアジアカップ1980|1980年大会]]で悲願の初優勝を果たした。[[FIFAワールドカップ]]には[[1982 FIFAワールドカップ|1982年大会]]に1度出場しているが、グループリーグ敗退に終わった。 === クリケット === [[クリケット]]も人気スポーツの一つである。1998年に[[国際クリケット評議会]]に加盟した<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/associate/112 Kuwait Cricket] 国際クリケット評議会 2023年9月30日閲覧。</ref>。クウェートはICCワールドクリケットリーグや地域の19歳以下ICCワールドカップ予選、シニア、ジュニア、女子クリケットなど数多くの国際トーナメントを開催した<ref name="ICC"/>。[[国内競技連盟]]のクウェートクリケットは、地元住民にクリケットを普及させ、競技レベルまで発展させる取り組みを主導している<ref name="ICC"/>。女子クリケットにも力を入れており、シニアとU-19レベルの両方で非常に競争力のある女子クリケットチームに成長した<ref name="ICC"/>。国内の[[外国人労働者]]の多くがクリケットが非常に盛んな[[南アジア]]出身であることも、クリケット人気の要因の一つとなっている<ref name="ICC"/>。 == 交通 == {{Main|クウェートの交通}} === 道路 === {{Main|{{仮リンク|クウェートの道路|en|Roads in Kuwait}}}} === 鉄道 === クウェート市を中心に、[[2020年]]から運行開始予定の[[クウェート都市高速輸送システム計画事業|都市鉄道システムの建設計画]]がある。路線は1号線から4号線があり、5段階で建設予定。 === 航空 === {{Main|クウェートの空港の一覧}} == 著名な出身者 == {{Main|Category:クウェートの人物}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * ダニエル・ヤーギン『石油の世紀(上)』日高義樹、持田直武共訳、日本放送出版協会、1991年 * [[庄司太郎]]『アラビア太郎と日の丸原油』(株)エネルギーフォーラム2007年 * http://www.kna.kw/clt-html5/about-en.asp == 関連項目 == * [[クウェート海軍艦艇一覧]] * [[クウェートの国旗]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Kuwait|Kuwait}} {{wikinewscat|クウェート|クウェート}} ; 政府 : [http://www.kuwait-embassy.or.jp/ 在日クウェート国大使館] {{en icon}}{{ja icon}} ; 日本政府 : [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kuwait/ 日本外務省 - クウェート] : [https://www.kw.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在クウェート日本国大使館] ; その他 : [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-11.html JCCME - クウェート] {{アジア}} {{OIC}} {{OPEC}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Kuwait-stub}} {{authority control}} {{デフォルトソート:くうええと}} [[Category:クウェート|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:首長国]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:石油輸出国機構加盟国]]
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アヌラーダプラ
アヌラーダプラ(シンハラ語: අනුරාධපුර、タミル語: அனுராதபுரம்、英語: Anuradhapura)は、スリランカ北中部州にある古都である。北中部州の州都であり、アヌラーダプラ県の県都でもある。1982年、ユネスコの世界遺産に登録された。 年代記の『マハーワンサ』(大史。6世紀初頭)や『チューラワンサ』(小史)によれば、紀元前5世紀から紀元11世紀に至る長い間、北部を根拠地としたシンハラ人を主とする王朝の王都として繁栄した。別の所に移されたこともあったが、短期間で元に戻っている。 スリー・マハー菩提樹と呼ばれている菩提樹があり、仏教徒の崇拝対象になっている。『マハーワンサ』(第19章)によれば、インドのブッダガヤ(ブッダ・ガヤー)で正覚(悟り)を得たとされるゴータマ・シッダールタが座って瞑想していた金剛座の背後に繁る菩提樹から、アショーカ王の妹のサンガミッターが小枝を瓶に入れて当地にもたらしたとされる。スリーは敬称(聖なる)で、マハーは偉大な(または真の)、ボーディ(菩提)は目覚めたる者の意味である。仏教伝来の王都であったため、たくさんの遺跡が残っている。新しい町と古代の町に分けられて、遺跡群は保護されている。巨大なストゥーパ(仏塔)が散在し、半球状の構造をなし、石または煉瓦で作られている。 最大のストゥーパは、紀元前1世紀に作られたアバヤギリ・ダーガバ(英語版)で、現在でも74メートルの高さがあり、建築当時はその周囲に半球状の屋根を含む構造があり高さは100メートルあったと言われる。周囲には5000人の僧が生活した僧院があった。主な遺跡には、ベッサギリ寺院、イスルムニヤ寺院、ダクヌ仏塔、ミリサワティ仏塔、ルワンワリサーヤ仏塔、ジェーターワナ仏塔、トゥーパーラーマ仏塔、ランカーラーマ仏塔などがある。 仏教の伝来は、紀元前247年の6月満月の日とされ、アショーカ王の王子のマヒンダが当地を訪れ、王都の北東17キロのミヒンタレー(英語版)山で、デーワー・ナンピヤティッサ(英語版)王と出会い、王が仏教に帰依して精舎を寄進したことに始まるとされる。 灌漑用に人工の湖(ウェワ)が数多く作られ、高度な土木技術があったことがわかっている。水の統御に基づいて高い生産力の水田稲作農耕が発達し、国の経済的基盤を形成した。ドライ・ゾーンに位置するため、雨季は年1回であり、溜池灌漑はこの地に生きる人々にとって重要であった。中でもアブハヤ・ウェワ(英語版)は、1950年設立の世界的なNGO国際かんがい排水委員会が推進する「かんがい施設遺産」に登録された。技術的には南インドのタミル・ナードゥと共通しており、海を越えた交流が頻繁に行なわれていたと見られる。 アヌラーダプラは1017年に南インドのタミル系のチョーラ朝の侵入によって崩壊し、王都は南部のローハナに移ったが、その後、当地から90キロ南東のポロンナルワに王都が建設されて、ウィジャヤバーフ1世が1070年にチョーラ朝の勢力を駆逐し、再度、繁栄期を迎えた。 アヌラーダプラはスリランカの北部中央の平野部に位置している。北中部州全体の中では北西側、アヌラーダプラ県の中では中央付近にある。 市街はマルワトゥ川を挟んで西側が遺跡地区、東側の北部が旧市街、東側南部が新市街と3エリアに分かれている。主要な鉄道駅であるアヌラーダプラ駅は旧市街側に位置するが、バスターミナルは新旧両市街に存在している。 アヌラーダプラには複数の幹線道路と鉄道のノーザンラインが通っている。アヌラーダプラ駅は鉄道における都市の玄関口であり、ノーザンラインを通じて、南西のコロンボ首都圏や北部のジャフナと結んでいる。 アヌラーダプラはスリランカの北部中央部に位置する都市であり、多数の幹線道路が交わることから、バブニヤやダンブッラ、プッタラム、トリンコマリー、ジャフナ、クルネーガラ、キャンディといった多くの主要都市に通じている。交通の便が良いことから、アヌラーダプラは周辺の遺跡などの観光拠点ともなっている。 この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
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アヌラーダプラは、スリランカ北中部州にある古都である。北中部州の州都であり、アヌラーダプラ県の県都でもある。1982年、ユネスコの世界遺産に登録された。
{{otheruses|スリランカの都市|同名の2017年産の日本の競走馬|[[アヌラーダプラ (競走馬)]]}} {{インド系文字}} {{世界の市 |正式名称 =アヌラーダプラ <!--必須--> |公用語名称 ={{Lang|si|අනුරාධපුර}}<br />{{Lang|ta|அனுராதபுரம்}}<br />{{lang|en|Anuradhapura}} <!--必須--> |愛称 = |標語 = |画像 =SL Anuradhapura asv2020-01 img24 Jetavanaramaya Stupa.jpg |画像サイズ指定 = |画像の見出し = |市旗 = |市章 = |位置図 = |位置図サイズ指定 = |位置図の見出し = |位置図B = {{Location map|Sri Lanka|relief=1|float=center|label=アヌラーダプラ}} |位置図2 = |位置図サイズ指定2 = |位置図の見出し2 = |緯度度 =8 |緯度分 =21 |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) =N |経度度 =80 |経度分 =23 |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) =E |成立区分 = |成立日 = |成立区分1 = |成立日1 = |成立区分2 = |成立日2 = |旧名 = |創設者 = |下位区分名 ={{LKA}} <!--必須--> |下位区分種類1 =[[スリランカの州|州]] |下位区分名1 ={{Flagicon|North Central (SRI)}} [[北中部州]] |下位区分種類2 =[[スリランカの県|県]] |下位区分名2 =[[アヌラーダプラ県]] |下位区分種類3 = |下位区分名3 = |下位区分種類4 = |下位区分名4 = |規模 =市 <!--必須--> |最高行政執行者称号 = |最高行政執行者名 = |最高行政執行者所属党派 = |総面積(平方キロ) =36 |総面積(平方マイル) =14 |陸上面積(平方キロ) = |陸上面積(平方マイル) = |水面面積(平方キロ) = |水面面積(平方マイル) = |水面面積比率 = |市街地面積(平方キロ) = |市街地面積(平方マイル) = |都市圏面積(平方キロ) = |都市圏面積(平方マイル) = |標高(メートル) = |標高(フィート) = |人口の時点 =2012年<ref>{{Cite web|url=http://world-gazetteer.com/wg.php?x=&men=gcis&lng=en&des=wg&geo=-3&srt=pnan&col=abcdefghinoq&msz=1500&geo=-127|title=Sri Lanka - largest cities (per geographical entity)|publisher=[http://world-gazetteer.com/ World Gazetteer]|accessdate=2012-12-15|archiveurl=https://archive.is/MmxU|archivedate=2012-09-04}}</ref> |人口に関する備考 = |総人口 =63,208 |人口密度(平方キロ当たり) =2,314 |人口密度(平方マイル当たり) =5,990 |市街地人口 = |市街地人口密度(平方キロ) = |市街地人口密度(平方マイル) = |都市圏人口 = |都市圏人口密度(平方キロ) = |都市圏人口密度(平方マイル) = |等時帯 =スリランカ標準時 |協定世界時との時差 =+5:30 |夏時間の等時帯 =なし |夏時間の協定世界時との時差 = |郵便番号の区分 = |郵便番号 = |市外局番 = |ナンバープレート = |ISOコード = |公式ウェブサイト = |備考 = }} {{世界遺産概要表 |site_img = SL Anuradhapura asv2020-01 img11 Ruwanwelisaya Stupa.jpg |site_img_capt = ルワンワリサーヤ仏塔 |site_img_width = 275px |ja_name = 聖地アヌラーダプラ |en_name = Sacred City of Anuradhapura |fr_name = Ville sainte d'Anuradhapura |country = スリランカ |area = 4000ha(中核地域) |criterion_c = (2), (3), (6) |rg_year = 1982年 |ex_rg_year = |remarks = |url_no = 200 |}} '''アヌラーダプラ'''({{Lang-si|අනුරාධපුර}}、{{Lang-ta|அனுராதபுரம்}}、{{lang-en|Anuradhapura}})は、[[スリランカ]][[北中部州]]にある古都である。北中部州の州都であり、[[アヌラーダプラ県]]の県都でもある。[[1982年]]、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録された。 ==歴史== 年代記の『[[マハーワンサ]]』(大史。6世紀初頭)や『[[チューラワンサ]]』(小史)によれば、紀元前5世紀から紀元11世紀に至る長い間、北部を根拠地とした[[シンハラ人]]を主とする[[アヌラーダプラ王国|王朝]]の王都として繁栄した。別の所に移されたこともあったが、短期間で元に戻っている。 [[スリー・マハー菩提樹]]と呼ばれている菩提樹があり、仏教徒の崇拝対象になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hankyu-travel.com/heritage/srilanka/anuradhapura.php |title=アヌラーダプラ|スリランカ 世界遺産 |access-date=2022-07026 |publisher=[[阪急交通社]]}}</ref>。『マハーワンサ』(第19章)によれば、インドの[[ブッダガヤ]](ブッダ・ガヤー)で正覚([[悟り]])を得たとされる[[ゴータマ・シッダールタ]]が座って[[瞑想]]していた金剛座の背後に繁る[[菩提樹]]から、[[アショーカ王]]の妹のサンガミッターが小枝を瓶に入れて当地にもたらしたとされる。スリーは敬称(聖なる)で、マハーは偉大な(または真の)、ボーディ(菩提)は目覚めたる者の意味である。仏教伝来の王都であったため、たくさんの遺跡が残っている。新しい町と古代の町に分けられて、遺跡群は保護されている。巨大な[[ストゥーパ]](仏塔)が散在し、半球状の構造をなし、石または煉瓦で作られている。 最大のストゥーパは、[[紀元前1世紀]]に作られた{{仮リンク|アバヤギリ・ダーガバ|en|Abhayagiri vihāra}}で、現在でも74メートルの高さがあり、建築当時はその周囲に半球状の屋根を含む構造があり高さは100メートルあったと言われる。周囲には5000人の僧が生活した僧院があった。主な遺跡には、ベッサギリ寺院、[[イスルムニヤ精舎|イスルムニヤ寺院]]、ダクヌ仏塔、ミリサワティ仏塔、ルワンワリサーヤ仏塔、ジェーターワナ仏塔、トゥーパーラーマ仏塔、ランカーラーマ仏塔などがある。 仏教の伝来は、[[紀元前247年]]の6月満月の日とされ、アショーカ王の王子の[[マヒンダ]]が当地を訪れ、王都の北東17キロの{{仮リンク|ミヒンタレー|en|Mihintale}}山で、{{仮リンク|デーワー・ナンピヤティッサ|en|Devanampiya Tissa of Anuradhapura}}王と出会い、王が仏教に帰依して精舎を寄進したことに始まるとされる。 [[灌漑]]用に人工の湖(ウェワ)が数多く作られ、高度な土木技術があったことがわかっている。水の統御に基づいて高い生産力の水田稲作農耕が発達し、国の経済的基盤を形成した。ドライ・ゾーンに位置するため、雨季は年1回であり、溜池灌漑はこの地に生きる人々にとって重要であった。中でも{{仮リンク|アブハヤ・ウェワ|en|Abhaya Wewa}}は、1950年設立の世界的なNGO国際かんがい排水委員会が推進する「かんがい施設遺産」に登録された。技術的には南インドの[[タミル・ナードゥ]]と共通しており、海を越えた交流が頻繁に行なわれていたと見られる。 アヌラーダプラは1017年に南インドのタミル系の[[チョーラ朝]]の侵入によって崩壊し、王都は南部のローハナに移ったが、その後、当地から90キロ南東の[[ポロンナルワ]]に王都が建設されて、[[ウィジャヤバーフ1世]]が1070年にチョーラ朝の勢力を駆逐し、再度、繁栄期を迎えた。 == 地理 == アヌラーダプラはスリランカの北部中央の平野部に位置している。[[北中部州]]全体の中では北西側、[[アヌラーダプラ県]]の中では中央付近にある。 市街は[[マルワトゥ川]]を挟んで西側が遺跡地区、東側の北部が旧市街、東側南部が新市街と3エリアに分かれている。主要な鉄道駅であるアヌラーダプラ駅は旧市街側に位置するが、バスターミナルは新旧両市街に存在している。<ref>{{Cite book|title=地球の歩き方 D30 スリランカ 2011~2012年版|year=2011|publisher=[[ダイヤモンド社]]|isbn=978-4-478-04145-1|pages=256-267}}</ref> == 交通 == アヌラーダプラには複数の幹線道路と鉄道の[[スリランカの鉄道|ノーザンライン]]が通っている。アヌラーダプラ駅は鉄道における都市の玄関口であり、ノーザンラインを通じて、南西の[[コロンボ・フォート駅|コロンボ]]首都圏や北部の[[ジャフナ]]と結んでいる。 アヌラーダプラはスリランカの北部中央部に位置する都市であり、多数の幹線道路が交わることから、[[バブニヤ]]や[[ダンブッラ]]、[[プッタラム]]、[[トリンコマリー]]、[[ジャフナ]]、[[クルネーガラ]]、[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]といった多くの主要都市に通じている。交通の便が良いことから、アヌラーダプラは周辺の遺跡などの観光拠点ともなっている。 == 登録基準 == {{世界遺産基準|2|3|6}} == 出身人物 == * [[ウパーリ・ラジャカルナ]] == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * 伊東照司『スリランカ仏教美術入門』(雄山閣、1993)。 == 関連項目 == {{commonscat|Anuradhapura}} {{wikivoyage|Anuradhapura|アヌラーダプラ{{en icon}}}} * [[アヌラーダプラ県]] * [[アヌラーダプラ王国]] * [[仏教遺跡]] * [[スリランカの仏教]] * [[文化三角地帯]] {{スリランカの世界遺産}} {{スリランカの都市}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あぬらあたふら}} [[Category:北中部州 (スリランカ)]] [[Category:スリランカの都市]] [[Category:スリランカの州都]] [[Category:スリランカの計画都市]] [[Category:スリランカの考古遺跡]] [[Category:スリランカの世界遺産]] [[Category:世界遺産 あ行]] [[Category:スリランカの古都]] [[Category:1982年登録の世界遺産]] [[Category:仏教建築物の世界遺産]]
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仏教遺跡
仏教遺跡(ぶっきょういせき)とは、仏教にまつわる遺跡のことである。
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仏教遺跡(ぶっきょういせき)とは、仏教にまつわる遺跡のことである。
'''仏教遺跡'''(ぶっきょういせき)とは、[[仏教]]にまつわる[[遺跡]]のことである。 == 南アジア == === インド === *[[八大聖地]]、[[四大聖地]] - [[釈迦]]の伝説に関する遺跡の総称。 === スリランカ === *[[アヌラーダプラ]] - 紀元前から1000年続いた[[スリランカ]]の過去の[[首都]]。 **仏教都市として繁栄した。二代目の[[ゴータマ・ブッダの菩提樹]]がある。高さ75メートルの[[ストゥーパ]]を始めとした遺跡が数多く残る町。 === インドネシア === *[[ボロブドール遺跡]] - インドネシア・ジャワ島東部にある、ストゥーパとピラミッドを組み合わせたような遺跡。 == 西域 == === アフガニスタン === *[[バーミヤン遺跡]] - 700を越える[[石窟]]群があり、うち70以上の石窟は[[仏教壁画]]で飾られている。[[5世紀]]から[[9世紀]]にかけて作られたと見られている。[[世界遺産]]に選ばれている。 === 中国 === *[[莫高窟]] - 7世紀頃まで存在していた[[石窟]]群。 *[[雲崗石窟]] *[[龍門洞窟]] *[[廬山]] *[[峨眉山]] *[[楽山大仏]] *[[大足石刻]] {{buddhism-stub}} {{Buddhism2}} {{DEFAULTSORT:ふつきよういせき}} [[Category:考古学]] [[Category:仏教遺跡|*]]
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ゴータマ・ブッダの菩提樹
ゴータマ・ブッダの菩提樹(ゴータマ・ブッダのぼだいじゅ)は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダがその木の根元に座って悟りを得た菩提樹(Ficus religiosa、インドボタイジュ)とその挿し木による子孫である。 菩提樹の名前は、パーリ語及びサンスクリット語の“budh”という語根に由来し、覚醒する、転じて知り尽くすまたは完全に理解するという意味をもつ。 動詞語根であるbudhが、仏教関連では名詞形の“ボーディー”(bodhi)として、ブッダの悟りを示す。そのため、下に座って悟りを得たとされる木がボーディーの木(Bodhi vriksha)と知られるようになった。 日本語での菩提樹は中国でボーディーの音写となる菩提(ぼだい)、またボーディーの木が菩提樹(ぼだいじゅ)となり、日本語で取り入れられた。 英語のBodhi tree ははシンハラ語で経由である、同様な語源だが、しばしば、bo-treeと省略されることもある。 現在のインドのビハール州のブッダガヤにあったが、5世紀頃のインドにおける仏教の弾圧により木は切られた。しかし、菩提樹は挿し木により強く育つので各地に同じ木の枝から育った子孫が移植された。 近年になって、スリランカのアヌラーダプラにあった初代の菩提樹から育てられた、三代目のゴータマ・ブッダの菩提樹が、ブッダガヤの大菩提寺に植えられている。 仏教の弾圧があったと思われる北インドの町カジュラーホーでは現在、菩提樹はヒンドゥー教の神であるシヴァの木(Shiva's tree)と呼ばれており、仏陀の木(Buddha's tree)はガジュマルを指す。 なぜ仏陀の木がガジュマルを指すようになったかについては、以下の説が考えられる。 紀元前5、6世紀ころブッダが現ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想しているとき悟りを開いた。紀元前3世紀、仏教を信仰したアショカ王の王女がスリランカ中北部のアヌラダプラに若木を移植した。マハーボディー寺院によると、1880年ころ暴風雨で倒壊した。アヌラダプラから若木を運び、再移植したのが現在の木とされる。2007年、その菩提樹の枝を切って売ったとして寺院の住職らが刑事告発された。
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ゴータマ・ブッダの菩提樹(ゴータマ・ブッダのぼだいじゅ)は、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダがその木の根元に座って悟りを得た菩提樹とその挿し木による子孫である。
[[ファイル:Mahabodhitree.jpg|thumb|right|[[ブッダガヤの大菩提寺]]の[[菩提樹]]]] '''ゴータマ・ブッダの菩提樹'''(ゴータマ・ブッダのぼだいじゅ)は、[[仏教]]の[[開祖]]である[[釈迦|ゴータマ・ブッダ]]がその木の根元に座って[[悟り]]を得た[[菩提樹]]({{snamei|Ficus religiosa}}、[[インドボタイジュ]]){{sfn|岩波 仏教辞典|2002|p=923-924}}とその[[挿し木]]による子孫である。 {{See also|菩提樹}} == 名称 == 菩提樹の名前は、パーリ語及びサンスクリット語の“budh”という語根に由来し、覚醒する、転じて知り尽くすまたは完全に理解するという意味をもつ。 動詞語根であるbudhが、仏教関連では名詞形の“ボーディー”(bodhi)として、ブッダの悟りを示す。そのため、下に座って悟りを得たとされる木がボーディーの木(Bodhi vriksha)と知られるようになった。 日本語での菩提樹は中国でボーディーの音写となる菩提(ぼだい)、またボーディーの木が菩提樹(ぼだいじゅ)となり、日本語で取り入れられた。 英語のBodhi tree ははシンハラ語で経由である、同様な語源だが、しばしば、bo-treeと省略されることもある。 == 概説 == 現在の[[インド]]の[[ビハール州]]の[[ブッダガヤ]]にあったが、[[5世紀]]頃の[[インドにおける仏教の弾圧]]により木は切られた。しかし、菩提樹は挿し木により強く育つので各地に同じ木の枝から育った子孫が移植された。 近年になって、[[スリランカ]]の[[アヌラーダプラ]]にあった初代の菩提樹から育てられた、三代目のゴータマ・ブッダの菩提樹が、[[ブッダガヤの大菩提寺]]に植えられている。 [[インドにおける仏教の弾圧|仏教の弾圧]]があったと思われる[[北インド]]の町[[カジュラーホー]]では現在、菩提樹は[[ヒンドゥー教]]の[[神]]である[[シヴァ]]の木(Shiva's tree)と呼ばれており、仏陀の木(Buddha's tree)は[[ガジュマル]]を指す。 なぜ仏陀の木がガジュマルを指すようになったかについては、以下の説が考えられる。 #ゴータマ・ブッダの菩提樹が切られないように、仏教徒が偽の情報を流した。 #隠れた仏教徒が、ヒンドゥー教のシヴァを崇拝するふりをして菩提樹の崇拝を続けた。 #ヒンドゥー教が仏教の崇拝物を乗っ取った。仏教からヒンドゥー教に改宗したあとも、仏陀の木をシヴァの木として崇拝することを許した。 #偽の情報を流して、(元)仏教徒にガジュマルを崇拝させようとした。 #元々仏陀の木は菩提樹ではなく、ガジュマルであった。 紀元前5、6世紀ころブッダが現ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想しているとき悟りを開いた。紀元前3世紀、仏教を信仰したアショカ王の王女がスリランカ中北部のアヌラダプラに若木を移植した。マハーボディー寺院によると、1880年ころ暴風雨で倒壊した。アヌラダプラから若木を運び、再移植したのが現在の木とされる。2007年、その菩提樹の枝を切って売ったとして寺院の住職らが刑事告発された<ref>朝日新聞2007年7月24日夕刊「ブッダの菩提樹 寺が切り売り? インドで疑惑 住職は否定」</ref>。 == 脚注 == <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |date=2002-10 |title=岩波 仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |ref={{SfnRef|岩波 仏教辞典|2002}} }} == 関連項目 == {{Commons&cat|Ficus_religiosa|Ficus_religiosa}} {{Wikispecies|Ficus|イチジク属}} * [[菩提]] * [[仏教遺跡]] * [[生命の木]] == 外部リンク == * [https://wmghz.blogspot.tw/2017/09/blog-post_11.html 古写真で見る聖なる菩提樹] {{釈迦}} {{Buddhism2}} {{coord|24|41|45.29|N|84|59|29.29|E|display=title}} {{DEFAULTSORT:こおたまふつたのほたいしゆ}} [[Category:仏教の歴史]] [[Category:釈迦]] [[Category:著名な木]] [[Category:ビハール]] [[fa:انجیر معابد]]
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4,445
国会議員
国会議員(こっかいぎいん)は、国家の最高議決機関(立法府)の一般的な呼称である「国会」を構成する議員。投票した有権者によって選出された代表者である例が多いが、必ずしも、そうでない例もある。両院制の場合、上院議員と下院議員とに呼び分けられる例が多い。ほとんどの国会議員は、何らかの政党に所属する。 議員はチャクタラ・ドーラ(Teachta Dála; TD)と呼ばれる。国民議会はウラクタス(Oireachtas)と呼ばれる。 英国議会は二院制であり、下院に相当する庶民院と上院に相当する貴族院が置かれているが、公選制を採っているのは庶民院のみであり、通常「国会議員」(Members of Parliament、略称: MP)といえば、庶民院議員を指す。その任期は5年、定数は650名で、単純小選挙区制 (First-past-the-post system) で選出される。選挙権及び被選挙権の条件は同一で、18歳以上のイギリス国民と、イギリスに在住する英連邦国民及びアイルランド国民に与えられている。 国会議員 (MPs) は、各小選挙区を代表して総選挙及び補欠選挙で選出され、議会が解散されるまで議員でいられる。議会の解散は、およそ5年ごとに行われることが議会任期固定法に規定されている。 国会議員に立候補するには、18歳以上のイギリス国民またはアイルランド国民または英連邦国民でなければならず、かつ公務員や公職者であってはならない。選挙は2006年選挙管理法(英語版)に則って行われる。 貴族院もまた、英国議会を構成する議院であるが、その議員は、「国会議員」 (MPs) ではなく、「貴族」 (peers) または(より畏まって)「上院議員」 (Lords of Parliament) と呼ばれる。世俗貴族 (Lords Temporal) は終身、聖職貴族 (Lords Spiritual) は聖職者の地位を占めている間、議員の任期が続く。最近の貴族院改革の結果、世襲貴族は貴族院の議席を自動的に後継者に譲ることはできなくなった。貴族院法の制定を受けて、世襲貴族の議席は92名を残して失われた。 オーストラリア連邦議会では、元老院議員と代議院議員とが存在するが、通常「国会議員」と言えば代議院議員を指す。代議院議員は、150名の定員が小選挙区から各1名選出される。 両院制。元老院は定数105。庶民院は定数338。庶民院は単純小選挙区制。元老院は総督による任命。 一院制。定数224名。その内、210名が小選挙区制、12名が議長による指名を受ける。 ドイツ連邦議会と連邦参議院の二院制だが、参議院は州首相が議員を務めると定められており、一般に「国会」といえば連邦議会を指す。定数630。 日本の国会は「全国民を代表する選挙された議員」である国会議員で構成されている。 衆議院と参議院から構成される二院制をとっており、衆議院と参議院では被選挙権や任期などが異なる。両議院の独立を確保するため、衆議院議員と参議院議員とを兼ねることができない。 Jatiya Sangsadと呼ばれる国会は、一院制の議会。任期5年、定数345名。その内、45名が女性議員と定められている。 代議院のみの一院制。定数69名で任期5年。
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国会議員(こっかいぎいん)は、国家の最高議決機関(立法府)の一般的な呼称である「国会」を構成する議員。投票した有権者によって選出された代表者である例が多いが、必ずしも、そうでない例もある。両院制の場合、上院議員と下院議員とに呼び分けられる例が多い。ほとんどの国会議員は、何らかの政党に所属する。
[[ファイル:108th-Congress-being-sworn-in.jpg|サムネイル|議会に集まった国会議員]] [[ファイル:House of Commons 2010.jpg|thumb|[[庶民院 (イギリス)|イギリス下院]]の会員は討論中に再会した。]] '''国会議員'''(こっかいぎいん)は、[[国家]]の最高[[議決機関]]([[立法府]])の一般的な呼称である「[[議会|国会]]」を構成する[[議員]]。投票した[[有権者]]によって[[選挙|選出]]された[[代表]]者である例が多いが、必ずしも、そうでない例もある。[[両院制]]の場合、[[上院]]議員と[[下院]]議員とに呼び分けられる例が多い。ほとんどの国会議員は、何らかの[[政党]]に所属する。 == アイルランド == 議員はチャクタラ・ドーラ({{Lang|ga|Teachta Dála; TD}})と呼ばれる。国民議会は[[ウラクタス]]({{Lang|ga|Oireachtas}})と呼ばれる。 ; [[ドイル・エアラン]]議院 : 国民議会下院。任期5年。定数158名。[[単記移譲式投票]]による[[比例代表制]]をとる。 : 選挙権は、18歳以上のアイルランド国民およびイギリス国民。被選挙権は、21歳以上。 ; [[シャナズ・エアラン]]議院 : 国民議会上院。任期5年。定数60名。内訳は、11名が[[アイルランドの首相|首相]]による指名、6名が大学出身者、43名がドイル・エアランの議員から選出される。 == アメリカ合衆国 == {{Main|アメリカ合衆国議会}} ; [[アメリカ合衆国下院|代議院]] : 下院。任期2年。定数435名。単純[[小選挙区制]]。 : 議席は各州の人口によって配分される。 : ; [[アメリカ合衆国上院|元老院]] : 上院。任期6年。定数100名。 : 議席は全米にある50の州から各州2人ずつ選出される。 == イギリス == {{Main|国会議員 (イギリス)}} [[イギリスの議会|英国議会]]は二院制であり、下院に相当する[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]と上院に相当する[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]が置かれているが、公選制を採っているのは庶民院のみであり、通常「国会議員」({{lang|en|Members of Parliament}}、略称: {{lang|en|MP}})といえば、庶民院議員を指す。その任期は5年、定数は650名で、[[単純小選挙区制]]{{enlink|First-past-the-post voting|First-past-the-post system}}で選出される。選挙権及び被選挙権の条件は同一で、18歳以上のイギリス国民と、イギリスに在住する英連邦国民及びアイルランド国民に与えられている。 国会議員 ({{lang|en|MPs}}) は、各小選挙区を代表して[[イギリス総選挙|総選挙]]及び補欠選挙で選出され、議会が解散されるまで議員でいられる。議会の解散は、およそ5年ごとに行われることが[[2011年議会任期固定法|議会任期固定法]]に規定されている。 国会議員に立候補するには、18歳以上<ref group="注">2006年に対象年齢が「21歳以上」から引き下げられた。</ref>のイギリス国民またはアイルランド国民または英連邦国民でなければならず、かつ公務員や公職者であってはならない。選挙は{{仮リンク|2006年選挙管理法|en|Electoral Administration Act 2006}}に則って行われる。<ref>[http://www.opsi.gov.uk/acts/acts2006/20060022.htm Electoral Administration Act 2006] Office of Public Sector Information</ref> 貴族院もまた、英国議会を構成する議院であるが、その議員は、「国会議員」 ({{lang|en|MPs}}) ではなく、「貴族」 ({{lang|en|peers}}) または(より畏まって)「上院議員」 ({{lang|en|Lords of Parliament}}) と呼ばれる。世俗貴族{{enlink|Lords Temporal}}は終身、聖職貴族{{enlink|Lords Spiritual}}は聖職者の地位を占めている間、議員の任期が続く。最近の貴族院改革の結果、[[世襲貴族]]は貴族院の議席を自動的に後継者に譲ることはできなくなった。[[1999年貴族院法|貴族院法]]の制定を受けて、世襲貴族の議席は92名を残して失われた。<ref>[http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/20070222120000/http://www.parliament.uk/documents/upload/HLLReformChronology.pdf House of Lords Reform] UK Parliament </ref> == インド == ; [[ローク・サバー]]議員 : 下院。任期5年だが解散がある。定数545名で、その内、2名がイギリス系インド人の中から大統領によって指名され、残りが小選挙区制。 : 選挙権は、18歳以上のインド公民。被選挙権は、同25歳以上。 ; [[ラージヤ・サバー]]議員 : 上院。任期6年で解散なし、2年ごとに改選される。定数250名で、その内、12名が各分野の専門家を大統領が指名し、残りが[[単記移譲式投票]]で選出される。 : 選挙権は、州議会議員にのみ与えられる。被選挙権は、30歳以上のインド公民。 == オーストラリア == [[オーストラリア連邦議会]]では、[[元老院 (オーストラリア)|元老院]]議員と[[代議院_(オーストラリア)|代議院]]議員とが存在するが、通常「国会議員」と言えば代議院議員を指す。代議院議員は、150名の定員が小選挙区から各1名選出される。 == カナダ == {{Main|カナダ議会}} 両院制。[[元老院]]は定数105。[[庶民院]]は定数338。庶民院は[[単純小選挙区制]]。元老院は総督による任命。 == ケニア == 一院制。定数224名。その内、210名が[[小選挙区制]]、12名が議長による指名を受ける。 == ドイツ == [[ドイツ連邦議会]]と[[連邦参議院]]の二院制だが、参議院は[[連邦州|州]]首相が議員を務めると定められており、一般に「国会」といえば連邦議会を指す。定数630。 == 日本 == {{Main|日本の国会議員}} [[日本]]の[[国会 (日本)|国会]]は「全[[国民]]を代表する選挙された議員」<ref>[[日本国憲法第43条]]</ref>である国会議員で構成されている。 [[衆議院]]と[[参議院]]から構成される[[両院制|二院制]]をとっており、衆議院と参議院では被選挙権や任期などが異なる。両議院の独立を確保するため、衆議院議員と参議院議員とを兼ねることができない<ref>[[日本国憲法第48条]]</ref>。 * 衆議院議員 ** [[議員定数|定数]]は465。 ** [[任期]]は4年だが、[[衆議院解散|衆議院が解散]]された場合には期間満了前に終了する<ref>[[日本国憲法第45条]]</ref>。 ** 任期は[[衆議院議員総選挙|総選挙]]の期日から起算するが、任期満了による総選挙が実際の任期満了の日より前に行われた場合は前任者の任期満了の日の翌日から起算する<ref>[[公職選挙法]]第256条</ref>。 ** [[被選挙権]]は25歳以上の[[日本国民]]に与えられる(投票日に左記年齢に達していればいいため、立候補時点では24歳でも立候補可能である<ref name="koshoku10-2">[[公職選挙法]]第10条第2項</ref>)。 * 参議院議員 ** 定数は245<ref group="注">2022年から248。</ref>。 ** 任期は6年で、3年ごとに半数を改選する(直前の選挙で対象にならなかった議員が次の選挙で対象になる)<ref>[[日本国憲法第46条]]</ref>。解散はない。 ** 任期は前の[[参議院議員通常選挙|通常選挙]]で選ばれた議員の任期満了の日の翌日から起算するが、通常選挙が前任者の任期満了の日の翌日より後に行われた場合は通常選挙の期日から起算する<ref>[[公職選挙法]]第257条</ref><ref group="注">通常選挙が行われる年の[[西暦]]年は必ず3で割り切れる数になる。</ref>。 ** 被選挙権は30歳以上の日本国民に与えられる(投票日に左記年齢に達していればいいため、立候補時点では29歳でも立候補可能である<ref name="koshoku10-2" />)。 * 衆参両院議員共通 ** [[選挙権]]は18歳以上の日本国民に与えられる<ref>公職選挙法第9条第1項、公職選挙法第10条第1項第1号</ref>。 *** 2015年6月に改正公職選挙法が成立し選挙権年齢は20歳以上から18歳以上に引き下げられて[[18歳選挙権]]が認められるようになり<ref name="47news20150617">{{cite news |title= 選挙権年齢「18歳以上」に 改正公選法が成立 |newspaper= 47NEWS |date= 2015/06/17 |url= https://web.archive.org/web/20150617032536/http://www.47news.jp/CN/201506/CN2015061701001110.html |accessdate= 2015/06/18 }}</ref>、[[第24回参議院議員通常選挙|2016年の参議院議員選挙]]より実施された。 == バングラデシュ == Jatiya Sangsadと呼ばれる[[国会 (バングラデシュ)|国会]]は、一院制の議会。任期5年、定数345名。その内、45名が女性議員と定められている。 == マルタ == [[代議院 (マルタ)|代議院]]のみの一院制。定数69名で任期5年。 == マレーシア == ; [[代議院 (マレーシア)|代議院]]議員 : 下院。任期5年だが解散有り。定数222名。[[小選挙区制]]をとる。 : 被選挙権は、21歳以上。 ; [[元老院 (マレーシア)|元老院]]議員 : 上院。任期3年で定数70名。その内、44名を国王が指名し、残り26名を州議会が選出。 == 関連項目 == * [[政党幹部]] {{small|([[:w:Frontbencher|Frontbencher]])}} * [[平議員]] {{small|([[:w:Backbencher|Backbencher]])}} * [[無所属議員]] {{small|([[:w:Independent politician|Independent politician]], [[クロスベンチャー]] (Crossbencher))}} * [[国家公務員]] == 参考文献 == * Johann Caspar Bluntschli, ''[https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433086951245;view=1up;seq=7 Politik als Wissenschaft]''(意: 政治の科学). J. G. Cotta, Stuttgart, 1876年. 664頁. ** (日本語訳){{仮リンク|ヨハン・カスパー・ブルンチュリ|en|Johann Kaspar Bluntschli|preserve=1}}『[{{NDLDC|784010}} 国会議員選挙論]』。[[グイド・フルベッキ|ブエルベッキ]]口訳、[[武者小路実世]]筆記、1879年([[博聞社]])。74頁 ::前書きに「此書ハ原名ヲ『ポリチーク・アルス・ベヒセンシヤフト』ト云ヒ」と記載されてはいるものの、目次構成も頁数もブルンチュリの「Politik als Wissenschaft」とは全く異なり、日本国内で女性に選挙権を与えることの是非などを論じた[[文部省]]の書籍。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こつかいきいん}} [[Category:国会議員|*]]
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大統領
大統領(だいとうりょう、英: President)とは、共和制国家における元首の通称の一つである。 国家によっては、共和国大統領(きょうわこくだいとうりょう)や連邦大統領(れんぽうだいとうりょう)などの正式名称がある。また、合議体の議長や政府の長の呼称として用いられることもある。 多くの場合大統領選挙によって選出されるため、大統領を務める人物が満期を迎えた時には再び選挙を行い選出するが、在任中に職務停止あるいは辞職・死亡した場合にはその間の代理元首として大統領代行(英語版)が就任されるようになっている。 英語の「president」は、ラテン語の動詞で「前に座る」「主宰する」などを意味していた「praesidere」に由来している。元来は「司会者」「議長」の意味で用いられていたが、その後、大学の学長や会社の社長など、様々な組織や団体の長の役職名として用いられるようになった。 アメリカ合衆国の建国時に、国家元首の呼称として権威的な響きのない語を求めて初めて採用され、後に生まれた諸共和国においてもアメリカ合衆国に倣って、これと同系統の自国語を国家元首の呼称に採用した。 国家元首たる「president」の訳語としての「大統領」という言葉は、江戸時代幕末に「President of the United States of America(アメリカ合衆国大統領)」の訳語として「偉大な統領」という意味合いで考案され用いられ始めたとされている。語源として一説に当初「国王」と訳そうとしたが異論があったため「棟梁(『かしら』の意)」を準用して「大統領」としたという。公式文書としては、「日米和親条約」では「合衆國主」とされていたものの、「日米修好通商条約」では「亞米利加合衆國大統領」として用いられたのを初めとして、以後日本では国家元首たる「president」の訳語として「大統領」という言葉が用いられている。現在「大統領」という言葉を使用しているのは日本と大韓民国である。同じく漢字文化圏の中華人民共和国、中華民国、ベトナムでは「総統」ないし「大総統」という訳語を用いている。 日常会話や芝居の掛け声において、相手を持ち上げる目的で「立役者」の意味で用いる場合がある。
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大統領とは、共和制国家における元首の通称の一つである。 国家によっては、共和国大統領(きょうわこくだいとうりょう)や連邦大統領(れんぽうだいとうりょう)などの正式名称がある。また、合議体の議長や政府の長の呼称として用いられることもある。 多くの場合大統領選挙によって選出されるため、大統領を務める人物が満期を迎えた時には再び選挙を行い選出するが、在任中に職務停止あるいは辞職・死亡した場合にはその間の代理元首として大統領代行が就任されるようになっている。
{{複数の問題 | 出典の明記 = 2016年9月 | 脚注の不足 = 2016年9月 }} '''大統領'''(だいとうりょう、{{lang-en-short|President}})とは、[[共和制国家]]における[[元首]]の通称の一つである。<ref name="Digital"> [https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98-557914#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 デジタル大辞泉「大統領」]</ref> [[国家]]によっては、'''[[共和国大統領]]'''(きょうわこくだいとうりょう)や'''[[連邦大統領]]'''(れんぽうだいとうりょう)などの[[正式名称]]がある。また、[[合議体]]の[[議長]]や[[政府の長]]の呼称として用いられることもある。 多くの場合[[大統領選挙]]によって選出されるため、大統領を務める人物が満期を迎えた時には再び選挙を行い選出するが、在任中に職務停止あるいは辞職・死亡した場合にはその間の代理元首として{{仮リンク|大統領代行|en|Acting president}}が就任されるようになっている。 == 「president」の語源 == [[英語]]の「president」は、[[ラテン語]]の[[動詞]]で「前に座る」「主宰する」などを意味していた「praesidere」に由来している。元来は「司会者」「議長」の意味で用いられていたが、その後、大学の[[学長]]や会社の[[社長]]など、様々な組織や団体の長の役職名として用いられるようになった。 [[アメリカ合衆国]]の建国時に、[[国家元首]]の呼称として権威的な響きのない語を求めて初めて採用され、後に生まれた諸共和国においてもアメリカ合衆国に倣って、これと同系統の自国語を国家元首の呼称に採用した。 == 「大統領」の語源 == [[国家元首]]たる「president」の訳語としての「大統領」という言葉は、[[江戸時代]][[幕末]]に「President of the United States of America([[アメリカ合衆国大統領]])」の訳語として「偉大な[[統領]]」という意味合いで考案され用いられ始めたとされている{{要出典|date=2018年11月}}。語源として一説に当初「国王」と訳そうとしたが異論があったため「棟梁(『かしら』の意)」を準用して「大統領」としたという<ref>{{Cite web|和書|title=「大統領」の語源は大工の棟梁 米国トップの訳語の秘密|ライフコラム|NIKKEI STYLE |url=https://style.nikkei.com/article/DGXNASDB30003_Q2A031C1000000 |website=NIKKEI STYLE |access-date=2022-11-03 |language=ja |last=日本経済新聞社・日経BP社}}</ref>。公式文書としては、「[[日米和親条約]]」では「合衆國主」とされていたものの、「[[日米修好通商条約]]」では「亞米利加合衆國大統領」として用いられたのを初めとして、以後日本では[[国家元首]]たる「president」の訳語として「大統領」という言葉が用いられている。現在「大統領」という言葉を使用しているのは日本と[[大韓民国]]である。同じく[[漢字文化圏]]の[[中華人民共和国]]、[[中華民国]]、[[ベトナム]]では「[[総統]]」ないし「[[大総統]]」という訳語を用いている。 == 各国の制度 == ; [[大統領制]] : 大統領が[[議会]]に対して依存せずに、[[行政]]の任を負う体制。[[アメリカ合衆国]]、[[大韓民国]]など。このような体制を取る国では[[内閣]]がないこともある。 ; [[象徴]]・[[儀礼]]的な役目のみの大統領 : 大統領は象徴、儀礼的な役目を果たすのみで、実際の行政は議会が選出した[[首相]]が行っている場合は[[議院内閣制]]に分類される。[[ドイツ]]、[[イタリア]]、[[イスラエル]]、[[インド]]など。 ; [[半大統領制]] : 儀礼的な役目だけではなく実質的な権限を持った大統領と、[[立法府]]に責任を負う[[行政]]府([[内閣]])の長たる首相と、双方が存在し、共に行政の機能を有する体制。[[フランス]]、[[ロシア]]など。 ; [[国家主席|主席制]] : [[社会主義国|社会主義国家]]の元首職。[[中華人民共和国]]や[[金日成]]在世中の[[朝鮮民主主義人民共和国]]<ref group ="注釈">[[1994年]]の金日成の死後、同国の国家主席は空席となり、[[1998年]]の憲法改正で国家主席制は廃止された。ただし、1998年憲法では金日成を「永遠の主席」としている。</ref>、[[ベトナム|ベトナム社会主義共和国]]、[[ラオス|ラオス人民民主共和国]]で国家主席制を採用しており、上記4か国の政府は、国家主席の英語での表記として'''President'''を使用している。中国の場合、この4か国と[[キューバ]]<ref>http://www.xinhuanet.com/video/2019-10/11/c_1210307988.htm</ref>の元首を国家主席と表記するものの、その他の共和制国家の元首は'''総統'''と表記している。ただし、国家主席にせよ総統にせよ、いずれも英語での表記は'''President'''である。ベトナムではかつて[[チュハン|漢字]]を使用していたため、元首職の漢字表記として'''主席'''を充てる([[クオックグー]]表記は{{lang|vi|Chủ tịch}})。なお、ベトナムおよびラオスの'''President'''について、日本では「大統領」と訳す場合もあるが、[[外務省|日本の外務省]]は「国家主席」と訳している。 ; [[中華民国総統|総統制]]([[中華民国]]) : [[中国語]]では、'''President'''を'''[[総統]]'''と翻訳表記し、[[中華民国]]([[台湾]])の元首は、'''総統'''と表記される。[[日本]]においても、中華民国総統に関しては'''大統領'''ではなく、慣例的に中国語表記の'''総統'''を用いている。ただし、日本が中華民国を承認していた[[1975年]]以前の外交文書では、'''大統領'''と表記していた事例もある。中華民国総統は、[[1996年]]以前が[[党国体制|寡頭政治]]の元首、[[1996年]]以後が[[総統民選期の中華民国|民主政治]]の元首である。 ; [[アラブ首長国連邦]]の場合 : 同国では行政中心地である各[[首都]]の名を冠した[[首長国]](世襲制)による連邦制(国家連合制)をとっているが、憲法規定により国家元首として'''大統領'''の称号を用いる。また首相の兼務役として'''副大統領'''も置かれている。なお、同国は世襲制による[[絶対君主制|絶対君主国]]であり、憲法規定上では通常最高意思決定機関である連邦最高評議会 (FSC) より選出されるところ、近年においては[[アブダビ]]首長の[[ナヒヤーン家]]から大統領、[[ドバイ]]首長の[[マクトゥーム家]]から副大統領がそれぞれ選出されるのが慣例化されている状況にある。 ; 行政の長でありながら国家元首ではない大統領 : [[イランの大統領]]([[イラン]])は、国家元首としての権能は持たず、単に行政の長としての役割のみであり、アメリカのような[[軍隊]]の指揮権は無い。元首・[[政府]]の長・軍隊の最高指揮権は[[宗教]]上のトップである[[イランの最高指導者]]が持つため、大統領は事実上、[[超然主義]]の[[首相]]のような役割である。ただ、最高指導者は宗教上の地位であるため、対外的に国家を代表する場合には大統領がその機能を果たしている。 ; 国家元首である合議体の代表としての大統領 : [[スイス]]における[[連邦参事会]]の議長や[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]における[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]]の議長も大統領と呼ばれるが、合議体である[[連邦参事会]]や[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]]が国家元首であり、両国の大統領は国家元首ではない。 == 現在の主な大統領一覧 == {{also|世界各国の指導者一覧}} {| class="wikitable sortable" !名 !国 !齢 !就任 ![[政党]] |- |[[ジョー・バイデン]] |{{flagicon|アメリカ}} [[アメリカ合衆国大統領|アメリカ]] |{{年数|1942|11|20}}歳 |[[2021年]][[1月20日]] |[[民主党 (アメリカ)|民主党]] |- |[[エマニュエル・マクロン]] |{{flagicon|フランス}} [[フランスの大統領|フランス]] |{{年数|1977|12|21}}歳 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|[[2014年]]{{Display none|十/}}[[10月20日]] |[[闘争民主党]] |- |[[尹錫悦]] |{{flagicon|韓国}} [[大統領 (大韓民国)|大韓民国]] |{{年数|1960|12|18}}歳 |[[2017年|2022年]][[5月10日]] |[[国民の力]] |- |[[ターマン・シャンムガラトナム]] |{{flagicon|シンガポール}} [[シンガポールの大統領|シンガポール]] |{{年数|1957|2|25}}歳 |[[2023年]][[9月14日]] |無所属 |} == 現在の社会主義国の国家元首一覧 == {{also|国家主席}} {| class="wikitable sortable" !名 !国 !齢 !就任 ![[政党]] ![[政党]]の役職 |- |[[習近平]] |{{flagicon|中国}} [[中華人民共和国主席|中国]] |{{年数|1953|6|15}}歳 |[[2013年]][[3月14日]] |[[中国共産党]] |[[中国共産党中央委員会総書記]]<br/>[[中国共産党中央軍事委員会|中国共産党軍事委員会主席]] |- |[[金正恩]] |{{flagicon|北朝鮮}} [[朝鮮民主主義人民共和国国務委員会|北朝鮮]] |{{年数|1984|1|8}}歳 |[[2016年]][[6月29日]] |[[朝鮮労働党]] |[[朝鮮労働党総書記]] |- |[[ミゲル・ディアス=カネル]] |{{flagicon|キューバ}} [[キューバの国家元首|キューバ]] |{{年数|1960|4|20}}歳 |[[2019年]][[10月10日]] |[[キューバ共産党]] |キューバ共産党中央委員会第一書記 |- |[[トーンルン・シースリット]] |{{flagicon|ラオス}} [[ラオス人民民主共和国主席|ラオス]] |{{年数|1945|11|10}}歳 |[[2021年]][[3月22日]] |[[ラオス人民革命党]] |ラオス人民革命党中央委員会書記長 |- |[[ヴォー・ヴァン・トゥオン]] |{{flagicon|ベトナム}} [[ベトナム社会主義共和国主席|ベトナム]] |{{年数|1970|12|13}}歳 |[[2023年]][[3月2日]] |[[ベトナム共産党]] |ベトナム共産党政治局員 |} == 各国の名称 == * [[アメリカ合衆国]] - [[アメリカ合衆国大統領|合衆国大統領]]({{lang-en-short|President of the United States of America}}) * [[アイスランド]] - [[アイスランドの大統領|アイスランド大統領]]({{lang-is|Forseti Íslands}}) * [[アイルランド]] - [[アイルランドの大統領|アイルランド大統領]]({{lang-ga|Uachtarán na hÉireann}}) * [[ドイツ]] - [[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]({{lang-de-short|Bundespräsident}}) ** [[ドイツの国家元首一覧]]も参照。 * [[コロンビア]] - [[コロンビアの大統領の一覧|コロンビア共和国大統領]]({{lang-es-short|Presidente de la República de Colombia}}) * [[スイス]] - [[連邦大統領 (スイス)|連邦大統領]]({{lang-de-short|Bundespräsident}}, {{lang-fr-short|Président de la Confédération}}, {{lang-it-short|Presidente della Confederazione}}, {{lang-rm|Presidenta da la confederaziun}}) - 国家元首である[[連邦参事会]]の議長。 * [[オーストリア]] - [[連邦大統領 (オーストリア)|連邦大統領]]({{lang-de-short|Bundespräsident}}) * [[フランス]] - [[共和国大統領 (フランス)|共和国大統領]]({{lang-fr-short|Président de la République}}) ** [[フランスの大統領]]も参照。 * [[イタリア]] - [[共和国大統領 (イタリア)|共和国大統領]]({{lang-it-short|Presidente della Repubblica Italiana}}) * [[フィリピン]] - [[フィリピンの大統領|フィリピン大統領]]({{lang|tl-PH|Pangulo ng Pilipinas}}, {{lang-en-short|President of the Philippines}}) * [[ブラジル]] - [[ブラジル連邦共和国大統領]]({{lang-pt|Presidência da República Federativa do Brasil}}) * [[ロシア|ロシア連邦]] - [[ロシア連邦大統領]]({{lang-ru-short|Президент России}})。 * [[中華民国]] - [[中華民国総統]]({{lang-zh-tw-short|中華民國總統}}) * [[大韓民国]] - [[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]]({{lang-ko-short|대한민국 대통령}}) * [[メキシコ]] - [[メキシコの大統領|メキシコ合衆国大統領]]({{lang-es-short|Presidente Constitucional de los Estados Unidos Mexicanos}}) * [[ギリシャ]] - [[ギリシャの大統領|ギリシャ共和国大統領]]({{lang-el-short|Προέδρων της Ελληνικής Δημοκρατίας}}) * [[スロベニア]] - [[スロベニアの大統領|共和国大統領]]({{lang-sl|Predsednik Republike Slovenije}}) * [[アラブ首長国連邦]] - [[アラブ首長国連邦大統領]] == 比喩的用法 == 日常会話や芝居の掛け声において、相手を持ち上げる目的で「立役者」の意味で用いる場合がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{wikisource|締盟國君主稱號和公文ニハ總テ皇帝ト稱シ共和政治ノ國ハ大統領ト稱セシム|締盟国君主称号和公文ニハ総テ皇帝ト称シ共和政治ノ国ハ大統領ト称セシム}} * {{prefix}} * {{intitle}} * [[首相]] ** {{仮リンク|首相代行|en|Acting prime minister}} * [[総統]] * [[総理]] * [[統領]] * {{仮リンク|終身大統領|en|President for life}} * [[大統領選挙]] (曖昧さ回避) * [[大統領図書館]] * [[国家評議会議長]] * [[最高会議幹部会議長]] * [[欧州理事会議長]] * [[君主]] * [[終身官]] * [[国家主席]] * [[副大統領]] ** {{仮リンク|大統領代行|en|Acting president}} * [[ファーストレディ]] * [[花札]] - [[任天堂]]の商品に「大統領」というものがある。 {{権力分立}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:たいとうりよう}} [[Category:大統領|*]] [[Category:政治家・官僚の称号]]
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元首
絶対君主制の元首 大統領制の元首 半大統領制の元首 一党独裁制の元首 名誉職型大統領制の元首(議院内閣制) 立憲君主制の元首(議院内閣制) 元首(げんしゅ、国家元首、ラテン語: dux civitatis、フランス語: chef d’État、英語:Head of state)とは、対外的代表権を持つ存在のこと。 「国家元首」の概念は、国家有機体説に発している。近代では、行政権の長として対外的代表権を持つ存在(人)、転じて、(行政権の長であるかないかは問わず)対外的代表権を持っている存在(人)を指して「元首」と呼ぶようになった 。 社会契約説の国家観の下では社会的な委任契約における社会的人格の一つ。 君主制の国家では皇帝・国王などの君主、共和制の国家では大統領が元首とされることが通例である。社会主義国では大統領の他、ベトナムの国家主席やかつてのキューバの国家評議会議長、ソ連の最高会議幹部会議長、東ドイツの国家評議会議長なども国家元首に該当する。 国家元首に関する規程を持たない国も少なくなく、そうした国での国家元首は慣習上のものである。各国の憲法により、国家元首が政治の実権を持つ場合も持たない場合もある。実権の有無、統治形態の違いにかかわらず、国家元首は国家の長としての特別な権威を持つべきだと考えられている。しかし同時に自由主義、および国民主権の立場からそうした権威は不要であるとする考えもある。 一般的に国家元首が置かれる場合、ひとつの国に一人とされるが、例外もいくつかある。 以下の項目において国家元首の大まかな分類を行う。各国の憲法上の規定には差異があり、元首の機能も多種多様である。 皇帝や国王のような君主が、強大な政治的権限を有している。君主は世襲であることがほとんどである。憲法を制定していない場合(絶対君主制国家)や、憲法を制定していても実際的には君主の大権が憲法を超越している場合(専制君主制国家)などがある。このような国家では、君主が富裕で国家から歳費を支給されていないことが多い。そのため、政府や議会が歳費の支給を停止して、君主の権限である大権を制限させることができない。さらに、宣伝や教育によって君主による統治の正当化が行われている。 リヒテンシュタインの公(侯) は形式的には立憲君主制の君主であるが、実際的には強大な権限を握っており、絶対君主制または専制君主制の典型であるといわれる。 アラビア半島所在の諸国(サウジアラビア、アラブ首長国連邦を構成する7首長国、オマーン、カタール、クウェート)のスルターンは、絶対君主制の君主の典型である。君主の下に行政の実務を担当する首相が置かれる場合もあるが、君主が首相を兼任していたり、君主の一族(皇太子など)が首相となっている場合も多く、こうした事例では事実上、首相の権限は君主大権の中に包括されている。 アラブ首長国連邦の国家元首は大統領である。これは国家の最高意志決定機関である連邦最高評議会(FSC)で互選されるため、形の上では君主ではない。しかし、連邦最高評議会は絶対君主制を採る7首長国の首長から構成されるとともに、実際には大統領はアブダビ首長、副大統領兼首相はドバイ首長が世襲により継ぐのが慣例化している。さらに、アブダビは連邦の最大国家であるとともに連邦の中心国家である ため、アブダビ首長が兼ねる連邦の大統領は事実上、絶対君主制国家の君主に比肩する強大な権限を行使している。 議院内閣制を採用する立憲君主国であり、行政を担当する首相が存在するが、国家元首である君主(国王)が国政の実権を握っている場合。 ヨルダン・ハシミテ王国の国王などが、これに分類される。 議院内閣制を採用する立憲君主国であり、行政は議会に指名される首相に委ねられ、国家元首である君主(国王)は国政の実権を有さない場合。 イギリス、オランダ、ノルウェー、デンマーク、スペイン、カンボジア、タイなどの国王が、これに分類される。 憲法上、国家元首に期待される役割は、内閣の助言と承認に基づく首相を始めとする官吏の任免や、外国元首・大公使の接受といった儀礼的なものである。これらの国の中には、イギリスの国王のように法律上は強力な権限を与えられているケースもあるが、そうした権限は長年の不行使により形骸化しており、実際には行使されないのが通例である。上記のような理由から政治的発言の自制が求められる。 上記の通り、このタイプの国家の君主は儀礼的役割のみを果たすことが通例であるが、政争やクーデターによる国政の混乱時には、仲裁者としての役割を期待され、権限を行使する場合もある。 君主は世襲によって継承されることが一般的であるが、例外もある。 立憲君主制のひとつではあるが、君主の政治的権限を排除した場合には、君主=国家元首の役割は象徴的なものに限定される。こうした事例に対しては、象徴君主制という新たな区分で説明されることがある。 スウェーデンの国王は、首相の任命や議会の招集・解散の権限を形式的にも失っており、国家元首と行政府を完全に分離している。そのため、世界で最も象徴的な立憲君主制とされており、これを象徴君主制の典型とみなす説がある。 イギリスの国王(女王)もこれに分類されることがある。イギリスの国王は形式的には強力な権限を持っているが、実際にはそれを行使しないのが通例となっているからである。 日本の天皇もこれに分類されることがある。日本国憲法第4条に「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定されているからである(象徴天皇制)。ただし、天皇が元首であるか否かは諸説ある(「#日本の元首」を参照)。 共和制国家では国家元首の権限は各国の政治体系によりまちまちであり、大統領が議会から独立した政府の長として強大な権限を握っている場合(大統領制)、大統領は行政に関して権限を有するが、議会による一定の制限を受ける場合(半大統領制)、大統領は形式的な権限を行使する象徴的なものである場合(議院内閣制)、などがある。社会主義国は君主制でない点において共和制国家に分類されるが、国家元首の地位は形式的・象徴的であり、実権は共産党の書記長・総書記が握っていることが多い。また、国家元首の地位は独任の機関ではなく、合議体の長(ソ連の最高会議幹部会議長、東ドイツなど旧東欧圏やキューバの国家評議会議長など)であることが多い。東アジアの共産圏では、大統領に相当する職位がある場合でも、中国やベトナム、北朝鮮のように国家主席と称する。 大統領は有権者の選挙により選出され(代議員制の場合もある)、一般に政府の長として強大な権限を有する。大統領は議会とは独立した地位にあり、議会の勢力と関係なく一定の任期が保証される。一般に大統領は議会の法案への拒否権を持つが、法案の提出権はない。また閣僚の任免権を有する。閣僚は一般的に、国会議員との兼任はできない。議会の勢力が、大統領派の与党で占められている場合には強大なリーダーシップを発揮できるが、野党が多数派になった場合には厳しい議会運営が強いられる。 議会が選出する首相・内閣と、国民が直接選挙で選ぶ大統領(国家元首)が併存する体制。行政権の主体は大統領と首相(内閣)にあることが多く、内閣の首班たる首相は議会の承認を得て大統領に任命される。大統領は議会と独立した存在でその任期中は地位、身分を保障され、首相の任免権を通じて実質的に法案提出権を行使する。このように内閣は議会に責任を持ち、議院内閣制の枠組みが取り入れられているが、同時に大統領に対しても責任を負っている。大統領は議会解散権や法案拒否権、大統領令の発布など議院内閣制と比べより強大な権限を有することが多い。 議会で大統領側の勢力が多数を占めれば、大統領は内閣を自由に組織し、内政でも強大なリーダーシップを発揮できるが、反対勢力が多数派を占めた場合は、反対勢力の党首に組閣を命じざるをえず、外交・国防は大統領、内政は反対勢力の首相が分担することとなる。このような状態をフランスではコアビタシオンと呼ぶ。 フランスやロシアの大統領や中華民国の総統が、半大統領制に分類される。 議院内閣制を採用する共和国の大統領がこれにあたる。行政は議会に指名される首相に委ねられ、国家元首である大統領は国政の実権を有さない。憲法上、国家元首に期待される役割は、内閣の助言と承認に基づく首相を始めとする官吏の任免や、外国元首・外交官の接受といった儀礼的なものである。大統領は直接選挙で選出される場合と、それによらずに議会の投票により功績のある長老政治家が選出される場合などがある。これらの国の中には、オーストリアの連邦大統領のように法律上は強力な権限を与えられているケースもあるが、そうした権限は長年の不行使により形骸化しており、実際には行使されないのが通例である。 インド、イタリア、アイルランド、アイスランド、ギリシャの大統領、ドイツの連邦大統領、オーストリアの連邦大統領などが、これに分類される。 スイスでは、合議体である連邦参事会(内閣)が国家元首かつ政府の長とされているが、その7人の閣僚の中の1人が輪番制で就任する連邦大統領(任期1年)は、他国において通常、国家元首が果たす儀礼的な機能を果たしている。 スイスに類する例として、かつてのイングランド共和国においても、元首として護国卿が設置されるまでは、合議体である国務院(Council of State)が元首とされた。なお、国務院の議長は(枢密院議長と同じく)Lord President of the Councilと呼ばれたが、ここでいうpresidentは単に議長の意味である。 社会主義国の国家主席の権能は国によりまちまちであるが、通常は議会共和制国家における国家元首に相当する権能を有する。国家主席自体は儀礼的な存在であり、実質的な最高指導者である共産党の党首(書記長・総書記・第一書記など)が兼任したり、長老幹部を礼遇するための名誉職として用いられたりするケースが多いが、元首の職権に実質的権限が付与されるケースとして、毛沢東・劉少奇が就任した時代の中華人民共和国主席や金日成時代の朝鮮民主主義人民共和国主席、ミハイル・ゴルバチョフが就任したソビエト連邦大統領がある。ベトナムでは、最高指導者であるベトナム共産党書記長と元首であるベトナム社会主義共和国主席が分離することが慣例化しているものの、同国の国家主席は憲法上は軍の統帥権を持っているため、全く無力な存在という訳ではない。なお、党中央が動揺する非常時に、儀礼的な国家元首が自らの判断で重要な権限を行使する例 がある。 他に社会主義国の特徴としては、正式には国家の最高決議機関の常設委員会に国家元首の権能が与えられ、その議長が代表して国家元首の権限を執行するケースが見られる。 北朝鮮の国家元首に関する規定は複雑であり、名目上の国家元首と実際の最高権力者が一致しない時期がある。 キューバでは、2019年までは国家元首は国家評議会議長であり、単に儀礼的地位にとどまらず強大な権限を有していた。さらに、内閣に相当するのは閣僚評議会であり、閣僚評議会議長が行政権の担当者としての首相に相当する。機構上ではその両者は分離されているが、1976年制定の新憲法では国家評議会議長は閣僚評議会議長が兼任すると規定されており、国家元首と行政権の首長の権能は統合されて国家の最高指導権が集中していた。ラウル・カストロが死去した2019年以降は大統領制が導入され、国家元首は大統領と定められた。 形式的には共和制などの政体を採っているものの、実際には終身大統領のような独任制の元首が強大な政治的権限を有している。軍部・宗教団体・部族・外部勢力といった特定の集団が権力を掌握し、その代表者が元首に就任していることが多い。これらの場合、形式的に議会は存在していても、それは国家元首や特定集団の追認機関に過ぎない。民主的で公正な選挙が行なわれていないこともよく見られる。北朝鮮、アフリカの多くの諸国や、いわゆる「開発独裁」制を敷く国家、かつての南米の多くが、これに分類される。 軍事国家では、軍部出身の大統領が国家元首となる場合や、軍事政権が樹立した「○○評議会」(革命評議会、救国評議会、国家評議会など)議長が国家元首の役割を果たす場合、などがある。 かつてのナチス・ドイツでは、1934年8月2日に発効した「国家元首に関する法律」によって、それまで国家元首であった大統領と首相の職務が統合され、指導者および首相であるアドルフ・ヒトラー(Der Führer und Reichskanzler Adolf Hitler)個人に大統領権限が委譲された。これはヒトラーが民族共同体の指導者であるという指導者原理に基づくものであり、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった(総統を参照)。 ナチス・ドイツの支配下にあったクロアチア独立国(1941年 - 1945年)では、建国当初の国家元首は国王(トミスラヴ2世)であった。しかしこの地位はまったく形式上のもの(トミスラヴ2世は終始イタリアに居住し、クロアチアには足を踏み入れることがなかった)であり、国家の最高指導者はポグラヴニク(国家指導者または総統と訳される)の称号を名乗るアンテ・パヴェリッチであった。さらに、1943年のイタリア敗戦にともなってトミスラヴ2世国王が退位したため、パヴェリッチはポグラヴニクの称号のもとで名実ともに国家元首となった。 ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)が支配していた時代のリビアはジャマーヒリーヤ(直接民主制)という特異な政体を標榜しており、法的には国家元首は存在しなかった。通常は国家元首の職務とされている権能の一部は、全国人民会議書記が担っており、同書記が事務的には元首代行ともいえる。事実上の最高指導者は革命指導者のカッザーフィーであり、1979年までは革命評議会議長や全国人民会議書記長という役職に就いていた名実ともに国家元首であった。カッザーフィーは1979年に一切の公職を退いているが、それ以降も革命指導者という肩書で他国元首と親書のやり取りをするなど、対外的に国家元首と受け取れる役割を担っていた。その一方でカッザーフィーは1988年に勃発したパンアメリカン航空103便爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連のコフィー・アナン事務総長と会談した際には「私は国家元首でも首相でもないので、容疑者を引き渡す権限を持っていません」と語ったことがある。 イランはイスラム共和制を採っており、国家元首に相当するのはイスラーム聖職者である最高指導者である。それとは別に、直接選挙によって選ばれる大統領は存在するが行政権の首長にすぎず、最高指導者から解任される規定がある。ただ、対外的にはイランの大統領も元首に準ずる存在として扱われている。日本の外務省は最高指導者と大統領が「元首」としての権能を分有しているとしている。 バチカン市国の国家元首はローマ教皇である。ローマ教皇はバチカンという独立国の国家元首であるとともに、全世界のローマ・カトリック教会の統治者であり、イエス・キリストの代理人とされている。教皇の選出はローマ・カトリック教会の高位聖職者である枢機卿による互選(コンクラーヴェ)であるから、大統領制のような国家元首公選制と見ることもできる。ただ、教皇は任期が定められていない上に本人の意に反する退位が認められておらず、事実上終身の地位である。また教皇の地位には特別な権威(聖座)が認められている。そうした点ではバチカン市国の国家元首としてのローマ教皇の地位は大統領制の大統領と同等とはいえず、むしろ選挙君主制のもとでの君主に近い。 チベット(1959年以降は亡命政権)の国家元首は、チベット仏教のダライ・ラマ法王であった。ダライ・ラマ法王の地位は世襲でも選挙制でもなく「転生」という特異な方式により継承されていた。1959年のチベット動乱によってダライ・ラマ14世とチベット政府(ガンデンポタン)はインドに移って亡命政府を樹立した。1961年、将来の独立チベット国家の体制の指針であるとともに亡命チベット人社会を統治するための自由チベット憲法が制定され、ダライ・ラマは立憲君主制体制の元首と定められた。その後、2011年にダライ・ラマ14世の発議によって亡命チベット人憲章が改訂され、ダライ・ラマは「チベットとチベット人の守護者であり象徴」となり、チベット亡命政府の国家元首の座は亡命政府主席大臣に移譲された。 サモア独立国(1997年7月3日までは西サモア(独立国))の国家元首は、オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー(サモア式国家元首)であり、独立前の1960年10月28日の起草によるものであり、1962年1月1日の独立とともに施行された憲法で定められた国家元首の称号である。「アオ」「マーロー」は現地語(サモア語)でそれぞれ「頭(ここでは“長(おさ)”)」「政府/王国」を意味する(詳細はサモア国家元首の「概要」を参照)。 政治的な諸事情によって本来の国家元首を置くことができない場合、それに代わる存在が国家元首となる場合がある。 満洲国は1932年の建国の際、愛新覚羅溥儀が国家元首となった。清の最後の皇帝であった溥儀は、満洲国でも皇帝となることを熱望していたが、同国の実質上の支配者であった日本の関東軍は帝政を採ることによる新国家のイメージの低下を懸念してそれを許さなかったため、建国当初の満洲国の国家元首の称号は執政という曖昧なものとなった。関東軍の意向は「満洲国の元首は執政、ただし執政が善政を敷くこと数年に及ぶならば、全国民の推戴によって執政は皇帝となる」というものであった。1934年(康徳元年)3月1日、満洲国は帝政に移行して溥儀が皇帝に即位、それによって「執政」の称号は消滅した。満洲国の組織法第三条は「皇帝は国の元首にして統治権を総攬し本法の条規によりこれを行ふ」と規定した。 ヴィシー政権のフランス(国号は「フランス国」、1940年 - 1944年)の国家元首はフィリップ・ペタン元帥であった。国家元首としてのペタンはフランス国家主席(フランス語: Chef de l'État français)の称号を名乗っていた。この国は、憲法が「全権力をペタン将軍に委任する」の1条だけから構成されるという、きわめて特異な国家体制を採っていた。 大日本帝国憲法では天皇を元首と規定していたが、日本国憲法を始めとする現行の日本の法律には国家元首の規定がない。 内閣法制局は、「要するに元首の定義いかんに帰する問題である」「かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろう」「今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えない」「天皇は限定された意味における元首である」としており、天皇を元首と呼びうるかは定義によるとしている。 憲法学説上は議論があり、多数説は内閣または内閣総理大臣元首説で、元首不存在説等もある。 外交慣例上では天皇は元首と同様の待遇を受けている。 国家元首の慣例とみなされる例については「兵は誰に忠誠を誓うか」や「自国で開催されたオリンピック開会式の開会宣言は誰が行うか」などがある。 国家元首や政府の長および外務大臣については、慣例により対象国による外交官接受がなくとも外交特権が認められる。 パスポートや査証の扱いも異なり、例えば日本では、皇后を除く皇族が外交の際に用いるパスポートは外交旅券であり、天皇及び皇后は旅券は必要ない。公式訪問の際には、受入れ(接受)国に保護義務が発生する。 古代ローマの昔より軍はインペリウム(ローマ法に承認された命令権)に対して忠誠の宣誓を行なうことが政軍関係の基礎とされていた。 日本では1882年(明治15年)の軍人勅諭において、統帥権は天皇にあり忠節は国家・国権に尽くすものとした。戦後、この忠誠宣誓は自衛隊法施行規則(39-42条)により規定された が、国、日本国憲法、法令および国民の負託に宣誓する体裁をとっており、天皇や内閣総理大臣に対する宣誓の体裁は採用していない。一方で自衛隊法第7条により、内閣総理大臣は内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する、とされる。なお、服務宣誓については国家公務員一般職(国家公務員法第97条)、地方公務員一般職(地方公務員法第31条)においても求められる。 オリンピック憲章では近代オリンピックの開会宣言は、開催国の国家元首によっておこなわれるものと規定されている。 日本で開かれた近代オリンピック(1964年東京・1972年札幌・1998年長野、2021年東京)では、いずれも天皇が開会宣言を行っている。 一個人としての国家元首がいないとされるスイスでは2回のオリンピック(1928年サンモリッツと1948年サンモリッツ)でいずれもその年の連邦大統領が開会宣言を行っている。 1980年にソビエト連邦で開かれた1980年モスクワオリンピックでは最高会議幹部会議長レオニード・ブレジネフが開会宣言を行っている。 英連邦王国においては、1976年モントリオールオリンピックではエリザベス2世がカナダ女王として開会宣言を行っている。その後、1988年カルガリーオリンピックでカナダ総督ジャンヌ・ソーヴェが開会を宣言して以降、2000年シドニーオリンピックではオーストラリア総督ウィリアム・ディーンが、2010年バンクーバーオリンピックではカナダ総督ミカエル・ジャンが開会を宣言している。 ただし、憲章ができる前には閣僚や有力者が、国家元首が出席できない場合は国家元首に準ずる人物(王配や副大統領など)が、開会宣言を行ったことがある。 現在の事例として、次のようなものがある。 かつての事例(近代以降)。 日本では「外国の元首」が関連する法規定として以下のものがある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "絶対君主制の元首", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大統領制の元首", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "半大統領制の元首", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "一党独裁制の元首", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "名誉職型大統領制の元首(議院内閣制)", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "立憲君主制の元首(議院内閣制)", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "元首(げんしゅ、国家元首、ラテン語: dux civitatis、フランス語: chef d’État、英語:Head of state)とは、対外的代表権を持つ存在のこと。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「国家元首」の概念は、国家有機体説に発している。近代では、行政権の長として対外的代表権を持つ存在(人)、転じて、(行政権の長であるかないかは問わず)対外的代表権を持っている存在(人)を指して「元首」と呼ぶようになった 。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "社会契約説の国家観の下では社会的な委任契約における社会的人格の一つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "君主制の国家では皇帝・国王などの君主、共和制の国家では大統領が元首とされることが通例である。社会主義国では大統領の他、ベトナムの国家主席やかつてのキューバの国家評議会議長、ソ連の最高会議幹部会議長、東ドイツの国家評議会議長なども国家元首に該当する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "国家元首に関する規程を持たない国も少なくなく、そうした国での国家元首は慣習上のものである。各国の憲法により、国家元首が政治の実権を持つ場合も持たない場合もある。実権の有無、統治形態の違いにかかわらず、国家元首は国家の長としての特別な権威を持つべきだと考えられている。しかし同時に自由主義、および国民主権の立場からそうした権威は不要であるとする考えもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一般的に国家元首が置かれる場合、ひとつの国に一人とされるが、例外もいくつかある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "以下の項目において国家元首の大まかな分類を行う。各国の憲法上の規定には差異があり、元首の機能も多種多様である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "皇帝や国王のような君主が、強大な政治的権限を有している。君主は世襲であることがほとんどである。憲法を制定していない場合(絶対君主制国家)や、憲法を制定していても実際的には君主の大権が憲法を超越している場合(専制君主制国家)などがある。このような国家では、君主が富裕で国家から歳費を支給されていないことが多い。そのため、政府や議会が歳費の支給を停止して、君主の権限である大権を制限させることができない。さらに、宣伝や教育によって君主による統治の正当化が行われている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "リヒテンシュタインの公(侯) は形式的には立憲君主制の君主であるが、実際的には強大な権限を握っており、絶対君主制または専制君主制の典型であるといわれる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "アラビア半島所在の諸国(サウジアラビア、アラブ首長国連邦を構成する7首長国、オマーン、カタール、クウェート)のスルターンは、絶対君主制の君主の典型である。君主の下に行政の実務を担当する首相が置かれる場合もあるが、君主が首相を兼任していたり、君主の一族(皇太子など)が首相となっている場合も多く、こうした事例では事実上、首相の権限は君主大権の中に包括されている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アラブ首長国連邦の国家元首は大統領である。これは国家の最高意志決定機関である連邦最高評議会(FSC)で互選されるため、形の上では君主ではない。しかし、連邦最高評議会は絶対君主制を採る7首長国の首長から構成されるとともに、実際には大統領はアブダビ首長、副大統領兼首相はドバイ首長が世襲により継ぐのが慣例化している。さらに、アブダビは連邦の最大国家であるとともに連邦の中心国家である ため、アブダビ首長が兼ねる連邦の大統領は事実上、絶対君主制国家の君主に比肩する強大な権限を行使している。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "議院内閣制を採用する立憲君主国であり、行政を担当する首相が存在するが、国家元首である君主(国王)が国政の実権を握っている場合。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ヨルダン・ハシミテ王国の国王などが、これに分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "議院内閣制を採用する立憲君主国であり、行政は議会に指名される首相に委ねられ、国家元首である君主(国王)は国政の実権を有さない場合。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イギリス、オランダ、ノルウェー、デンマーク、スペイン、カンボジア、タイなどの国王が、これに分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "憲法上、国家元首に期待される役割は、内閣の助言と承認に基づく首相を始めとする官吏の任免や、外国元首・大公使の接受といった儀礼的なものである。これらの国の中には、イギリスの国王のように法律上は強力な権限を与えられているケースもあるが、そうした権限は長年の不行使により形骸化しており、実際には行使されないのが通例である。上記のような理由から政治的発言の自制が求められる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "上記の通り、このタイプの国家の君主は儀礼的役割のみを果たすことが通例であるが、政争やクーデターによる国政の混乱時には、仲裁者としての役割を期待され、権限を行使する場合もある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "君主は世襲によって継承されることが一般的であるが、例外もある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "立憲君主制のひとつではあるが、君主の政治的権限を排除した場合には、君主=国家元首の役割は象徴的なものに限定される。こうした事例に対しては、象徴君主制という新たな区分で説明されることがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "スウェーデンの国王は、首相の任命や議会の招集・解散の権限を形式的にも失っており、国家元首と行政府を完全に分離している。そのため、世界で最も象徴的な立憲君主制とされており、これを象徴君主制の典型とみなす説がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イギリスの国王(女王)もこれに分類されることがある。イギリスの国王は形式的には強力な権限を持っているが、実際にはそれを行使しないのが通例となっているからである。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本の天皇もこれに分類されることがある。日本国憲法第4条に「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定されているからである(象徴天皇制)。ただし、天皇が元首であるか否かは諸説ある(「#日本の元首」を参照)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "共和制国家では国家元首の権限は各国の政治体系によりまちまちであり、大統領が議会から独立した政府の長として強大な権限を握っている場合(大統領制)、大統領は行政に関して権限を有するが、議会による一定の制限を受ける場合(半大統領制)、大統領は形式的な権限を行使する象徴的なものである場合(議院内閣制)、などがある。社会主義国は君主制でない点において共和制国家に分類されるが、国家元首の地位は形式的・象徴的であり、実権は共産党の書記長・総書記が握っていることが多い。また、国家元首の地位は独任の機関ではなく、合議体の長(ソ連の最高会議幹部会議長、東ドイツなど旧東欧圏やキューバの国家評議会議長など)であることが多い。東アジアの共産圏では、大統領に相当する職位がある場合でも、中国やベトナム、北朝鮮のように国家主席と称する。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "大統領は有権者の選挙により選出され(代議員制の場合もある)、一般に政府の長として強大な権限を有する。大統領は議会とは独立した地位にあり、議会の勢力と関係なく一定の任期が保証される。一般に大統領は議会の法案への拒否権を持つが、法案の提出権はない。また閣僚の任免権を有する。閣僚は一般的に、国会議員との兼任はできない。議会の勢力が、大統領派の与党で占められている場合には強大なリーダーシップを発揮できるが、野党が多数派になった場合には厳しい議会運営が強いられる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "議会が選出する首相・内閣と、国民が直接選挙で選ぶ大統領(国家元首)が併存する体制。行政権の主体は大統領と首相(内閣)にあることが多く、内閣の首班たる首相は議会の承認を得て大統領に任命される。大統領は議会と独立した存在でその任期中は地位、身分を保障され、首相の任免権を通じて実質的に法案提出権を行使する。このように内閣は議会に責任を持ち、議院内閣制の枠組みが取り入れられているが、同時に大統領に対しても責任を負っている。大統領は議会解散権や法案拒否権、大統領令の発布など議院内閣制と比べより強大な権限を有することが多い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "議会で大統領側の勢力が多数を占めれば、大統領は内閣を自由に組織し、内政でも強大なリーダーシップを発揮できるが、反対勢力が多数派を占めた場合は、反対勢力の党首に組閣を命じざるをえず、外交・国防は大統領、内政は反対勢力の首相が分担することとなる。このような状態をフランスではコアビタシオンと呼ぶ。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "フランスやロシアの大統領や中華民国の総統が、半大統領制に分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "議院内閣制を採用する共和国の大統領がこれにあたる。行政は議会に指名される首相に委ねられ、国家元首である大統領は国政の実権を有さない。憲法上、国家元首に期待される役割は、内閣の助言と承認に基づく首相を始めとする官吏の任免や、外国元首・外交官の接受といった儀礼的なものである。大統領は直接選挙で選出される場合と、それによらずに議会の投票により功績のある長老政治家が選出される場合などがある。これらの国の中には、オーストリアの連邦大統領のように法律上は強力な権限を与えられているケースもあるが、そうした権限は長年の不行使により形骸化しており、実際には行使されないのが通例である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "インド、イタリア、アイルランド、アイスランド、ギリシャの大統領、ドイツの連邦大統領、オーストリアの連邦大統領などが、これに分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "スイスでは、合議体である連邦参事会(内閣)が国家元首かつ政府の長とされているが、その7人の閣僚の中の1人が輪番制で就任する連邦大統領(任期1年)は、他国において通常、国家元首が果たす儀礼的な機能を果たしている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "スイスに類する例として、かつてのイングランド共和国においても、元首として護国卿が設置されるまでは、合議体である国務院(Council of State)が元首とされた。なお、国務院の議長は(枢密院議長と同じく)Lord President of the Councilと呼ばれたが、ここでいうpresidentは単に議長の意味である。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "社会主義国の国家主席の権能は国によりまちまちであるが、通常は議会共和制国家における国家元首に相当する権能を有する。国家主席自体は儀礼的な存在であり、実質的な最高指導者である共産党の党首(書記長・総書記・第一書記など)が兼任したり、長老幹部を礼遇するための名誉職として用いられたりするケースが多いが、元首の職権に実質的権限が付与されるケースとして、毛沢東・劉少奇が就任した時代の中華人民共和国主席や金日成時代の朝鮮民主主義人民共和国主席、ミハイル・ゴルバチョフが就任したソビエト連邦大統領がある。ベトナムでは、最高指導者であるベトナム共産党書記長と元首であるベトナム社会主義共和国主席が分離することが慣例化しているものの、同国の国家主席は憲法上は軍の統帥権を持っているため、全く無力な存在という訳ではない。なお、党中央が動揺する非常時に、儀礼的な国家元首が自らの判断で重要な権限を行使する例 がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "他に社会主義国の特徴としては、正式には国家の最高決議機関の常設委員会に国家元首の権能が与えられ、その議長が代表して国家元首の権限を執行するケースが見られる。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "北朝鮮の国家元首に関する規定は複雑であり、名目上の国家元首と実際の最高権力者が一致しない時期がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "キューバでは、2019年までは国家元首は国家評議会議長であり、単に儀礼的地位にとどまらず強大な権限を有していた。さらに、内閣に相当するのは閣僚評議会であり、閣僚評議会議長が行政権の担当者としての首相に相当する。機構上ではその両者は分離されているが、1976年制定の新憲法では国家評議会議長は閣僚評議会議長が兼任すると規定されており、国家元首と行政権の首長の権能は統合されて国家の最高指導権が集中していた。ラウル・カストロが死去した2019年以降は大統領制が導入され、国家元首は大統領と定められた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "形式的には共和制などの政体を採っているものの、実際には終身大統領のような独任制の元首が強大な政治的権限を有している。軍部・宗教団体・部族・外部勢力といった特定の集団が権力を掌握し、その代表者が元首に就任していることが多い。これらの場合、形式的に議会は存在していても、それは国家元首や特定集団の追認機関に過ぎない。民主的で公正な選挙が行なわれていないこともよく見られる。北朝鮮、アフリカの多くの諸国や、いわゆる「開発独裁」制を敷く国家、かつての南米の多くが、これに分類される。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "軍事国家では、軍部出身の大統領が国家元首となる場合や、軍事政権が樹立した「○○評議会」(革命評議会、救国評議会、国家評議会など)議長が国家元首の役割を果たす場合、などがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "かつてのナチス・ドイツでは、1934年8月2日に発効した「国家元首に関する法律」によって、それまで国家元首であった大統領と首相の職務が統合され、指導者および首相であるアドルフ・ヒトラー(Der Führer und Reichskanzler Adolf Hitler)個人に大統領権限が委譲された。これはヒトラーが民族共同体の指導者であるという指導者原理に基づくものであり、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった(総統を参照)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ナチス・ドイツの支配下にあったクロアチア独立国(1941年 - 1945年)では、建国当初の国家元首は国王(トミスラヴ2世)であった。しかしこの地位はまったく形式上のもの(トミスラヴ2世は終始イタリアに居住し、クロアチアには足を踏み入れることがなかった)であり、国家の最高指導者はポグラヴニク(国家指導者または総統と訳される)の称号を名乗るアンテ・パヴェリッチであった。さらに、1943年のイタリア敗戦にともなってトミスラヴ2世国王が退位したため、パヴェリッチはポグラヴニクの称号のもとで名実ともに国家元首となった。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)が支配していた時代のリビアはジャマーヒリーヤ(直接民主制)という特異な政体を標榜しており、法的には国家元首は存在しなかった。通常は国家元首の職務とされている権能の一部は、全国人民会議書記が担っており、同書記が事務的には元首代行ともいえる。事実上の最高指導者は革命指導者のカッザーフィーであり、1979年までは革命評議会議長や全国人民会議書記長という役職に就いていた名実ともに国家元首であった。カッザーフィーは1979年に一切の公職を退いているが、それ以降も革命指導者という肩書で他国元首と親書のやり取りをするなど、対外的に国家元首と受け取れる役割を担っていた。その一方でカッザーフィーは1988年に勃発したパンアメリカン航空103便爆破事件の容疑者引き渡し問題で国連のコフィー・アナン事務総長と会談した際には「私は国家元首でも首相でもないので、容疑者を引き渡す権限を持っていません」と語ったことがある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "イランはイスラム共和制を採っており、国家元首に相当するのはイスラーム聖職者である最高指導者である。それとは別に、直接選挙によって選ばれる大統領は存在するが行政権の首長にすぎず、最高指導者から解任される規定がある。ただ、対外的にはイランの大統領も元首に準ずる存在として扱われている。日本の外務省は最高指導者と大統領が「元首」としての権能を分有しているとしている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "バチカン市国の国家元首はローマ教皇である。ローマ教皇はバチカンという独立国の国家元首であるとともに、全世界のローマ・カトリック教会の統治者であり、イエス・キリストの代理人とされている。教皇の選出はローマ・カトリック教会の高位聖職者である枢機卿による互選(コンクラーヴェ)であるから、大統領制のような国家元首公選制と見ることもできる。ただ、教皇は任期が定められていない上に本人の意に反する退位が認められておらず、事実上終身の地位である。また教皇の地位には特別な権威(聖座)が認められている。そうした点ではバチカン市国の国家元首としてのローマ教皇の地位は大統領制の大統領と同等とはいえず、むしろ選挙君主制のもとでの君主に近い。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "チベット(1959年以降は亡命政権)の国家元首は、チベット仏教のダライ・ラマ法王であった。ダライ・ラマ法王の地位は世襲でも選挙制でもなく「転生」という特異な方式により継承されていた。1959年のチベット動乱によってダライ・ラマ14世とチベット政府(ガンデンポタン)はインドに移って亡命政府を樹立した。1961年、将来の独立チベット国家の体制の指針であるとともに亡命チベット人社会を統治するための自由チベット憲法が制定され、ダライ・ラマは立憲君主制体制の元首と定められた。その後、2011年にダライ・ラマ14世の発議によって亡命チベット人憲章が改訂され、ダライ・ラマは「チベットとチベット人の守護者であり象徴」となり、チベット亡命政府の国家元首の座は亡命政府主席大臣に移譲された。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "サモア独立国(1997年7月3日までは西サモア(独立国))の国家元首は、オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー(サモア式国家元首)であり、独立前の1960年10月28日の起草によるものであり、1962年1月1日の独立とともに施行された憲法で定められた国家元首の称号である。「アオ」「マーロー」は現地語(サモア語)でそれぞれ「頭(ここでは“長(おさ)”)」「政府/王国」を意味する(詳細はサモア国家元首の「概要」を参照)。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "政治的な諸事情によって本来の国家元首を置くことができない場合、それに代わる存在が国家元首となる場合がある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "満洲国は1932年の建国の際、愛新覚羅溥儀が国家元首となった。清の最後の皇帝であった溥儀は、満洲国でも皇帝となることを熱望していたが、同国の実質上の支配者であった日本の関東軍は帝政を採ることによる新国家のイメージの低下を懸念してそれを許さなかったため、建国当初の満洲国の国家元首の称号は執政という曖昧なものとなった。関東軍の意向は「満洲国の元首は執政、ただし執政が善政を敷くこと数年に及ぶならば、全国民の推戴によって執政は皇帝となる」というものであった。1934年(康徳元年)3月1日、満洲国は帝政に移行して溥儀が皇帝に即位、それによって「執政」の称号は消滅した。満洲国の組織法第三条は「皇帝は国の元首にして統治権を総攬し本法の条規によりこれを行ふ」と規定した。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ヴィシー政権のフランス(国号は「フランス国」、1940年 - 1944年)の国家元首はフィリップ・ペタン元帥であった。国家元首としてのペタンはフランス国家主席(フランス語: Chef de l'État français)の称号を名乗っていた。この国は、憲法が「全権力をペタン将軍に委任する」の1条だけから構成されるという、きわめて特異な国家体制を採っていた。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "大日本帝国憲法では天皇を元首と規定していたが、日本国憲法を始めとする現行の日本の法律には国家元首の規定がない。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "内閣法制局は、「要するに元首の定義いかんに帰する問題である」「かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろう」「今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えない」「天皇は限定された意味における元首である」としており、天皇を元首と呼びうるかは定義によるとしている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "憲法学説上は議論があり、多数説は内閣または内閣総理大臣元首説で、元首不存在説等もある。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "外交慣例上では天皇は元首と同様の待遇を受けている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "国家元首の慣例とみなされる例については「兵は誰に忠誠を誓うか」や「自国で開催されたオリンピック開会式の開会宣言は誰が行うか」などがある。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "国家元首や政府の長および外務大臣については、慣例により対象国による外交官接受がなくとも外交特権が認められる。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "パスポートや査証の扱いも異なり、例えば日本では、皇后を除く皇族が外交の際に用いるパスポートは外交旅券であり、天皇及び皇后は旅券は必要ない。公式訪問の際には、受入れ(接受)国に保護義務が発生する。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "古代ローマの昔より軍はインペリウム(ローマ法に承認された命令権)に対して忠誠の宣誓を行なうことが政軍関係の基礎とされていた。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "日本では1882年(明治15年)の軍人勅諭において、統帥権は天皇にあり忠節は国家・国権に尽くすものとした。戦後、この忠誠宣誓は自衛隊法施行規則(39-42条)により規定された が、国、日本国憲法、法令および国民の負託に宣誓する体裁をとっており、天皇や内閣総理大臣に対する宣誓の体裁は採用していない。一方で自衛隊法第7条により、内閣総理大臣は内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する、とされる。なお、服務宣誓については国家公務員一般職(国家公務員法第97条)、地方公務員一般職(地方公務員法第31条)においても求められる。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "オリンピック憲章では近代オリンピックの開会宣言は、開催国の国家元首によっておこなわれるものと規定されている。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "日本で開かれた近代オリンピック(1964年東京・1972年札幌・1998年長野、2021年東京)では、いずれも天皇が開会宣言を行っている。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "一個人としての国家元首がいないとされるスイスでは2回のオリンピック(1928年サンモリッツと1948年サンモリッツ)でいずれもその年の連邦大統領が開会宣言を行っている。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1980年にソビエト連邦で開かれた1980年モスクワオリンピックでは最高会議幹部会議長レオニード・ブレジネフが開会宣言を行っている。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "英連邦王国においては、1976年モントリオールオリンピックではエリザベス2世がカナダ女王として開会宣言を行っている。その後、1988年カルガリーオリンピックでカナダ総督ジャンヌ・ソーヴェが開会を宣言して以降、2000年シドニーオリンピックではオーストラリア総督ウィリアム・ディーンが、2010年バンクーバーオリンピックではカナダ総督ミカエル・ジャンが開会を宣言している。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ただし、憲章ができる前には閣僚や有力者が、国家元首が出席できない場合は国家元首に準ずる人物(王配や副大統領など)が、開会宣言を行ったことがある。", "title": "国家元首に関する慣例" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "現在の事例として、次のようなものがある。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "かつての事例(近代以降)。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "日本では「外国の元首」が関連する法規定として以下のものがある。", "title": "その他" } ]
元首とは、対外的代表権を持つ存在のこと。
{{Otheruses||古代ローマの地位|プリンケプス}} {{Multiple image | perrow = 3 | total_width = 300 | image1 = Salman of Saudi Arabia - 2020 (49563590728) (cropped).jpg | link1 = [[サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ]] | image2 = Joe Biden presidential portrait.jpg | link2 = [[ジョー・バイデン]] | image3 = MISA Y TE DEUM POR FIESTAS PATRIAS EN LA CATEDRAL DE LIMA, ASISTE PRESIDENTA DE LA REPUBLICA Y GABINETE MINISTERIAL (cropped).jpg | link3 = [[ディナ・ボルアルテ]] | image4 = Emmanuel_Macron_2023_(cropped).jpg | link4 = [[エマニュエル・マクロン]] | image5 = Võ Văn Thưởng in Italy.jpg | link5 = [[ヴォー・ヴァン・トゥオン]] | image6 = Salome Zourabichvili and Antonio Tajani (cropped) 2.jpg | link6 = [[サロメ・ズラビシュヴィリ]] | image7 = Smt._Droupadi_Murmu_official_portrait_(1).jpg | link7 = [[ドラウパディ・ムルム]] | image8 = King Charles III (July 2023).jpg | link8 = [[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]] | image9 = Drottning Margrethe av Danmark.jpg | link9 = [[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]] | footer = 現在、就任している国家元首(写真左→右、上→下へ) '''[[絶対君主制]]の元首''' * [[サルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ]]([[サウジアラビアの国王一覧|国王]]) '''[[大統領制]]の元首''' * [[ジョー・バイデン]]([[アメリカ合衆国大統領|大統領]]) * [[ディナ・ボルアルテ]]([[ペルーの大統領の一覧|大統領]]) '''[[半大統領制]]の元首''' * [[エマニュエル・マクロン]]([[フランスの大統領|大統領]]) '''[[一党独裁制]]の元首''' * [[ヴォー・ヴァン・トゥオン]]([[ベトナム社会主義共和国主席|国家主席]]) '''[[大統領制#名誉職型大統領制|名誉職型大統領制]]の元首'''([[議院内閣制]]) * [[サロメ・ズラビシュヴィリ]]([[ジョージアの大統領|大統領]]) * [[ドラウパディ・ムルム]]([[インドの大統領|大統領]]) '''[[立憲君主制]]の元首(議院内閣制) * [[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]([[イギリスの君主|国王]]) * [[マルグレーテ2世 (デンマーク女王)|マルグレーテ2世]]([[デンマーク君主一覧|女王]]) | align = | direction = | alt1 = | caption1 = | caption2 = }} '''元首'''(げんしゅ、'''国家元首'''、{{lang-la|dux civitatis}}、{{lang-fr|chef d’État}}、[[英語]]:[[:en:Head_of_state|Head of state]]<ref>{{Cite web |title=国家元首の英訳 |url=https://eow.alc.co.jp/search?q=%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%85%83%E9%A6%96 |website=eow.alc.co.jp |access-date=2023-12-19 |language=ja |publisher=[[アルク]]}}</ref>)とは、対外的代表権を持つ存在のこと<ref>{{Cite web |title=元首(げんしゅ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642 |website=コトバンク |access-date=2023-12-19 |language=ja |first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |last=第2版 |publisher=[[DIGITALIO]] |quote=国家を外に向って一般的に代表する資格をもつ機関。}}</ref>。 == 概要 == 「国家元首」の概念は、[[国家有機体説]]に発している。近代では、行政権の長として対外的代表権を持つ存在(人)、転じて、(行政権の長であるかないかは問わず)対外的代表権を持っている存在(人)を指して「元首」と呼ぶようになった <ref>「元首は元来、統治権を総攬し、行政権の首長であると同時に、対外的代表権をも君主を、国家有機体説を背景に、国家の頭になぞらえるところに成立したといわれるが、やがて国家有機体説とは無関係に、行政権の首長として対外的代表権をもつ存在を元首と称するようになり、さらにはもっぱら対外的代表権に着眼して元首がいわれるようになった」佐藤幸治『憲法(第三版)』青林書院1995年、P24。</ref>。 [[社会契約説]]の国家観の下では社会的な委任契約における社会的人格の一つ{{refnest|group="注"|委任契約の命令的性格については議論があり、全権委任と解する立場も可能である(独裁政)。現代では憲法に基づく命令委任と解することが多い。国会議員についてはむしろ純粋代表と解釈し、[[命令的委任]]と解することを否定するものが見られる。第五共和制フランス憲法27条1項「命令的委任はすべて無効である」ドイツ連邦共和国基本法38条「……議員は、国民全体の代表者であって、委任及び指示に拘束されず、かつ自己の良心にのみ従う」<ref>[http://homepage3.nifty.com/constitution/resume/07-gov-5.pdf]</ref>}}。 [[君主制]]の国家では[[皇帝]]・[[国王]]などの君主、[[共和制]]の国家では[[大統領]]が元首とされることが通例である。[[社会主義国]]では大統領の他、[[ベトナム]]の[[ベトナム社会主義共和国主席|国家主席]]やかつての[[キューバ]]の[[国家評議会議長]]、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会議長]]なども国家元首に該当する。 元首の資格を持つ者は通常は憲法で定められている<ref>{{Cite web |title=元首(げんしゅ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642 |website=コトバンク |access-date=2023-12-30 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,改訂新版 世界大百科事典,日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,普及版 |last=字通 |quote=ある国においてどの地位にある者が元首の資格をもつかは通常憲法で定められている。}}</ref>が、{{要出典範囲|国家元首に関する規程を持たない国も少なくなく、そうした国での国家元首は慣習上のものである。各国の[[憲法]]により、国家元首が[[政治]]の実権を持つ場合も持たない場合もある。実権の有無、統治形態の違いにかかわらず、国家元首は国家の長としての特別な権威を持つべきだと考えられている|date=2023年12月}}。{{要出典範囲|しかし同時に[[自由主義]]、および[[国民主権]]の立場からそうした権威は不要であるとする考えもある|date=2023年12月}}。 一般的に国家元首が置かれる場合、ひとつの国に一人とされるが、例外もいくつかある。 *[[サンマリノ|サンマリノ共和国]]では、2名の[[執政]]が元首 *[[アンドラ|アンドラ公国]]では、[[共和国大統領 (フランス)|フランス大統領]]と[[ウルヘル司教]]が「共同元首」 *[[スイス]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]では、それぞれ合議体である[[連邦参事会]]、[[ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会|大統領評議会]]が元首。 == 分類 == 以下の項目において国家元首の大まかな分類を行う。各国の憲法上の規定には差異があり、元首の機能も多種多様である。 === 君主制国家の国家元首 === ==== 絶対君主制国家・専制君主制国家の元首 ==== 皇帝や国王のような君主が、強大な政治的権限を有している。君主は[[世襲]]であることがほとんどである。憲法を制定していない場合([[絶対君主制]]国家)や、憲法を制定していても実際的には君主の[[大権]]が憲法を超越している場合(専制君主制国家)などがある。このような国家では、君主が富裕で国家から歳費を支給されていないことが多い。そのため、[[政府]]や[[議会]]が歳費の支給を停止して、君主の権限である大権を制限させることができない。さらに、宣伝や教育によって君主による統治の正当化が行われている。 [[リヒテンシュタイン]]の[[リヒテンシュタインの統治者一覧|公]](侯)<ref group="注">リヒテンシュタイン家は、ハプスブルク家の重臣として家産を蓄積した。つまり、公国とは無関係なので、「国民の財産を取り返す」というようなことができない。また、第二次世界大戦時、大権によって選挙を停止し、ナチズムの台頭を阻止した。そのため、今でも大権の行使が正当化されている。このような経緯で、象徴・儀礼的存在にとどまらず、強大な政治的権限を有している。そのため、ヨーロッパ最後の[[絶対君主制]]と言われる。</ref> は形式的には[[立憲君主制]]<ref>{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/liechtenstein/data.html |title=リヒテンシュタイン公国 |access-date=2023.12.5 |publisher=[[外務省]]}}</ref><ref>{{Cite web |title=リヒテンシュタイン(国)(りひてんしゅたいん)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%28%E5%9B%BD%29-1606810 |website=コトバンク |access-date=2023-12-05 |language=ja |last=日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>の君主であるが、実際的には強大な権限を握っており、絶対君主制または専制君主制の典型であるといわれる。 [[アラビア半島]]所在の諸国([[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]]を構成する7[[首長国]]、[[オマーン]]、[[カタール]]、[[クウェート]])の[[スルターン]]は、絶対君主制の君主の典型である。君主の下に行政の実務を担当する[[首相]]が置かれる場合もあるが、君主が首相を兼任していたり、君主の一族([[皇太子]]など)が首相となっている場合も多く、こうした事例では事実上、首相の権限は君主大権の中に包括されている。 アラブ首長国連邦の国家元首は[[アラブ首長国連邦の大統領|大統領]]である。これは国家の最高意志決定機関である'''連邦最高評議会(FSC)'''で互選されるため、形の上では君主ではない。しかし、連邦最高評議会は絶対君主制を採る7首長国の首長から構成されるとともに、実際には大統領はアブダビ首長、副大統領兼[[アラブ首長国連邦の首相|首相]]はドバイ首長が世襲により継ぐのが慣例化している。さらに、アブダビは連邦の最大国家であるとともに連邦の中心国家である<ref>[[アラブ首長国連邦#内政|連邦予算の8割を拠出、連邦最高評議会もアブダビとドバイの同意なしに決定をくだすことはできない仕組みになっている]]</ref> ため、アブダビ首長が兼ねる連邦の大統領は事実上、絶対君主制国家の君主に比肩する強大な権限を行使している。 ==== 立憲君主制国家の元首 ==== ===== 君主の政治的権限が強い立憲君主制国家の元首 ===== [[議院内閣制]]を採用する[[立憲君主制|立憲君主国]]であり、行政を担当する首相が存在するが、国家元首である君主(国王)が国政の実権を握っている場合。 [[ヨルダン|ヨルダン・ハシミテ王国]]の[[ヨルダン王の一覧|国王]]などが、これに分類される。 ===== 君主が儀礼上の存在となっている立憲君主制国家の元首 ===== {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[議院内閣制]]を採用する[[立憲君主国]]であり、行政は議会に指名される首相に委ねられ、国家元首である君主(国王)は国政の実権を有さない場合。 [[イギリス]]、[[オランダ]]、[[ノルウェー]]、[[デンマーク]]、[[スペイン]]、[[カンボジア]]、[[タイ王国|タイ]]などの国王が、これに分類される。 憲法上、国家元首に期待される役割は、内閣の助言と承認に基づく首相を始めとする官吏の任免や、外国元首・大公使の接受といった儀礼的なものである。これらの国の中には、[[イギリスの君主|イギリスの国王]]のように法律上は強力な権限を与えられているケースもあるが、そうした権限は長年の不行使により形骸化しており、実際には行使されないのが通例である。上記のような理由から政治的発言の自制が求められる。 *アンドラ公国では、成立の歴史的な経緯によって、フランスの大統領とウルヘル司教がアンドラの君主たる「[[アンドラの共同公|共同公]]」となる。行政の実権は議会が指名する[[アンドラの首相|首相]]にあり、共同公の権限は儀礼的なものに限られる。さらに、共同公がアンドラに来訪することはほとんどなく、それぞれの代行者が来訪して、または駐在代理官が委任を受けて、その権限を行使する。 *[[イギリス連邦]](コモンウェルス)所属の国などの中には、イギリス国王(現在は国王[[チャールズ3世]])を自国の国家元首として戴き、国王から任命された[[総督]]が元首権を代行するところがある。これらは、'''[[英連邦王国]]'''(イギリス連邦王国、コモンウェルス・レルム、イギリス自治領とも称される)と通称されている。[[アンティグア・バーブーダ]]、[[オーストラリア]]、[[バハマ]]、[[バルバドス]]、[[ベリーズ]]、[[カナダ]]、[[グレナダ]]、[[ジャマイカ]]、[[ニュージーランド]]、[[パプアニューギニア]]、[[セントクリストファー・ネイビス]]、[[セントルシア]]、[[セントビンセント・グレナディーン]]、[[ソロモン諸島]]、[[ツバル]]、がこれにあたる。また、それに準ずる事例として、イギリス連邦加盟国であるニュージーランドと[[自由連合 (国家間関係)|自由連合]]を組む[[クック諸島]]と[[ニウエ]]もまた、イギリス国王を自国の国家元首としている。 **ただし、チャールズ3世がイギリス連邦という単一の国家の君主なのではない。チャールズ3世が[[イギリスの君主|イギリス国王]]、[[アンティグア・バーブーダ国王]]、[[オーストラリア国王]]、[[バハマ国王]]、……を兼位するという形式をとっている。 **総督の人選については、現代では他の[[大権]]行使同様に、当該国の首相の助言どおりになされる。国王個人や[[イギリス政府]]の意向はほぼ問われず、通常は当該国国民が指名される。 **形式上、総督は強力な大権を国王から預かるものの、実際にはもっぱら儀礼的な役割を担当し、大権行使については基本的に内閣の助言どおりに行うべきとする憲法的慣行が確立している。ただし、[[1975年]]のオーストラリアでは、政治的混乱をうけて[[オーストラリアの総督#総督、首相を罷免|総督が首相を罷免し、議会の解散を命じるという事件]]が起こり、憲法危機と呼ばれ問題化された。 **君主および総督の保持する大権は憲法的法律や憲法的慣行によって強く制限されるが、わずかではあるが憲法上制限されていない権限が残されている。これは{{仮リンク|留保権限|en|Reserve power}}と呼ばれ、君主および総督の裁量によって行使できる。 **英連邦諸国でイギリス同様に[[ウエストミンスター・システム]]を採用する国では一般に、首相指名選挙を行わず、元首(もしくは元首代理)が自らの判断で首相を任命する。ただし内閣は下院の信任を確保する必要があるため、下院多数派の指導者が明らかである場合はその者を指名するほかなく、実質上の裁量の余地はない。下院過半数を掌握する指導者が存在しない場合、複数の下院指導者のうち元首等により選択された者が首相に任命される。 **英連邦の共和国でも[[インド]]などでは大統領が上記のような役割を担うが、[[ナイジェリア]]のように[[アメリカ合衆国]]型の[[大統領制]]を採用し、行政権を握る大統領が[[上院]]の承認を経て閣僚を任命する国もある。 *リヒテンシュタインの公(侯)は絶対君主制の君主とされているが、現在の公である[[ハンス・アダム2世]]と[[摂政]][[アロイス・フォン・リヒテンシュタイン (1968-)|アロイス・フォン・リヒテンシュタイン]]は政治の実権を徐々に首相に譲り、自らを立憲君主制国家の国家元首へと変貌させつつある。 上記の通り、このタイプの国家の君主は儀礼的役割のみを果たすことが通例であるが、政争や[[クーデター]]による国政の混乱時には、仲裁者としての役割を期待され、権限を行使する場合もある。 *タイの場合、[[1946年]]から[[2016年]]まで在位した国王[[ラーマ9世|ラーマ9世プーミポンアドゥンラヤデート]]がしばしばこうした役割を演じた。 *スペインでは、[[23-F|1981年2月23日に勃発したクーデター]]の際、当時の国王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]は、[[スペイン軍|全軍]]と国民に呼びかけて[[民主主義|民主制]]の維持を図り、これによって反乱を失敗に追い込んだ。一方で、[[2017年カタルーニャ独立住民投票|2017年のカタルーニャ自治州の独立住民投票]]の際には、当時の国王[[フェリペ6世 (スペイン王)|フェリペ6世]]が「[[カタルーニャ州]]政府はスペイン国家に対し許しがたい不誠実な態度をとった」と、[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|カタルーニャ州政府]]と当時の[[カルラス・プッチダモン|カルレス・プッチダモン]]自治州首相に対する批判と敵対を示す演説を行い、当時の[[バスク自治州|バスク]][[レンダカリ|政府首班]]の[[イニゴ・ウルクリュ]]をはじめ、国内外からの批判と失望に晒された。 君主は世襲によって継承されることが一般的であるが、例外もある。 *[[マレーシア]]の[[マレーシアの国王|国王]](アゴン 〈Agong, 「Yang di-Pertuan Agong」〉) は、同国を構成する13の州のうち[[スルターン]]をおいている9州([[ジョホール州]]・[[ケダ州]]・[[クランタン州]]・[[ヌグリ・スンビラン州]]・[[パハン州]]・[[ペラ州]]・[[プルリス州]]・[[セランゴール州]]・[[トレンガヌ州]])のスルターンにより、5年を任期としての輪番制が採られている(形式上はスルターンたちによる互選であるが、実質的には各州スルターンが輪番によって国王をつとめる)。ただし、マレーシアの政治実権は[[マレーシアの首相|首相]]にあり、国王は象徴的存在である。 *[[サモア|サモア独立国]]の元首は[[オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー]](意味は「国家元首」)である。任期は5年で、立法議会において選出される。立法議会議員(ほとんどはサモアの伝統的指導者層である首長〈マタイ〉が占める)から選出されるが、実際にはその中でも特別に高い権威を有する4人の大首長(タマ・ア・アイガ)から選ばれる。選挙制・任期制である点を考慮すると公選制の大統領に該当するとも考えられるが、一般的には同国の政体は立憲君主制と見なされており、敬称も大統領のような「閣下」ではなく、君主制に見られる「殿下」(His Highness)である。すなわち、オ・レ・アオ・オ・レ・マーローは[[選挙君主制]]の君主に該当することになる。 ===== 君主が統治権の行使に関与せず象徴化している立憲君主制(=象徴君主制)国家の元首 ===== {{Main|象徴君主制}} 立憲君主制のひとつではあるが、君主の政治的権限を排除した場合には、君主=国家元首の役割は象徴的なものに限定される。こうした事例に対しては、[[象徴君主制]]という新たな区分で説明されることがある。 [[スウェーデン]]の国王は、[[スウェーデンの首相|首相]]の任命や議会の招集・解散の権限を形式的にも失っており、国家元首と行政府を完全に分離している<ref>{{Cite web |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_11645996_po_202001a.pdf?contentNo=1 |title=各国憲法集(11) スウェーデン憲法【第2版】 |access-date=2023.12.2 |publisher=[[国立国会図書館]] |quote=1974 年の統治法の特色としては、国王の権限が大幅に制限されたことを挙げることができる。王制をとる他の北欧諸国では、憲法の条文上、国王に対し、国政に関する権限をある程度付与している。例えば、大臣の任命、法律の裁可、条約の締結などである。しかし、それらの国では、実際においてはその権限の行使を形式的なものとして運用している。一方、スウェーデン憲法の場合には、こうした形式的権限も廃し、条文上においても国王の権限は限定的なものとなっている。国王に首相の任命権はなく、首相選出手続において重要な役割を担うのは国会議長である(統治法第 6 章第 4 条及び第 6 条)。また、国王は、法律を裁可する権限も持たない。国王は、元首としての地位を有するが(統治法第 1 章第 5 条)、条約の締結権は政府に帰属する(統治法第 10 章第 1 条)。統治法上、国王に認められた権限は、首相から国の状況について報告を受けること、外交諮問委員会(後述第Ⅱ章第 2 節(1)参照)又は統治法が規定する特定の場合(第 10 章第 12 条、第 5 章第 3 条及び第 6 章第 6 条)に大臣会議(konselj)を主宰することである。 |page=4}}</ref>。そのため、世界で最も象徴的な立憲君主制とされており、これを'''象徴君主制'''の典型とみなす説がある<ref>『象徴君主制憲法の現代的展開--象徴的国家元首論の観点から見た日本とスウェーデンとの比較考察』下條芳明 憲法研究(38)2006 pp,29 - 58</ref>。 イギリスの国王(女王)もこれに分類されることがある<ref>『イギリスにおける象徴君主制の成立』浜林正夫 社会思想史研究1991 北樹出版pp,p6 - 17</ref>。イギリスの国王は形式的には[[国王大権 (イギリス)|強力な権限]]を持っているが、実際にはそれを行使しないのが通例となっているからである。 [[日本]]の天皇もこれに分類されることがある。[[日本国憲法第4条]]に「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定されているからである([[象徴天皇制]])。ただし、天皇が元首であるか否かは諸説ある(「[[元首#日本の元首|#日本の元首]]」を参照)。 === 共和制国家の国家元首 === {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 共和制国家では国家元首の権限は各国の政治体系によりまちまちであり、大統領が議会から独立した[[政府の長]]として強大な権限を握っている場合(大統領制)、大統領は行政に関して権限を有するが、議会による一定の制限を受ける場合([[半大統領制]])、大統領は形式的な権限を行使する象徴的なものである場合([[議院内閣制]])、などがある。[[社会主義国]]は君主制でない点において共和制国家に分類されるが、国家元首の地位は形式的・象徴的であり、実権は[[共産党]]の書記長・総書記が握っていることが多い。また、国家元首の地位は独任の機関ではなく、合議体の長(ソ連の最高会議幹部会議長、東ドイツなど旧東欧圏やキューバの国家評議会議長など)であることが多い。[[東アジア]]の共産圏では、大統領に相当する職位がある場合でも、中国や[[ベトナム]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]のように国家主席と称する。 ==== 大統領制国家の国家元首==== {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 大統領は有権者の選挙により選出され(代議員制の場合もある)、一般に政府の長として強大な権限を有する。大統領は議会とは独立した地位にあり、議会の勢力と関係なく一定の任期が保証される。一般に大統領は議会の法案への[[拒否権]]を持つが、法案の提出権はない<ref group="注">米国では[[一般教書演説|教書]]、韓国では議案提出権の形で立法素案が提示される。大統領は拒否権を持つため教書、議案に極端に反する立法はすべて拒否される。</ref>。また閣僚の任免権を有する。閣僚は一般的に、国会議員との兼任はできない。議会の勢力が、大統領派の[[与党]]で占められている場合には強大なリーダーシップを発揮できるが、[[野党 (議会制)|野党]]が多数派になった場合には厳しい議会運営が強いられる。 *大統領が行政を総攬し、首相を置かない場合:アメリカ合衆国、[[フィリピン|フィリピン共和国]]など。 *大統領とは別に首相が置かれ、首相は大統領の補佐役として行政の実務を担当する場合:[[大韓民国]]や[[中華民国]]([[台湾]])がこれにあたる。正式には、前者は[[国務総理 (大韓民国)|国務総理]]、後者は[[中華民国の首相#行政院長|行政院長]]と呼ばれる。韓国の国務総理は国会議員である必要はなく、大統領を補佐しその命を受け行政機関を統括し国務会議(日本の[[内閣 (日本)|内閣]]に相当)の副議長を務める。 *例外として、[[首長国]]による[[連邦|連邦制国家]]であるアラブ首長国連邦は[[アラブ首長国連邦の首長国|各国]]の[[首長]]から選出する独自の大統領制を導入している。 ==== 半大統領制国家の国家元首 ==== {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 議会が選出する首相・内閣と、国民が直接選挙で選ぶ大統領(国家元首)が併存する体制<ref>{{Cite web |title=半大統領制(ハンダイトウリョウセイ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%8A%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E5%88%B6-689937 |website=コトバンク |access-date=2023-12-05 |language=ja |last=デジタル大辞泉}}</ref>。行政権の主体は大統領と首相(内閣)にあることが多く、内閣の首班たる首相は議会の承認を得て大統領に任命される。大統領は議会と独立した存在でその任期中は地位、身分を保障され、首相の任免権を通じて実質的に法案提出権を行使する。このように内閣は議会に責任を持ち、議院内閣制の枠組みが取り入れられているが、同時に大統領に対しても責任を負っている。大統領は議会解散権や法案拒否権、大統領令の発布など議院内閣制と比べより強大な権限を有することが多い。 議会で大統領側の勢力が多数を占めれば、大統領は内閣を自由に組織し、内政でも強大なリーダーシップを発揮できるが、反対勢力が多数派を占めた場合は、反対勢力の党首に組閣を命じざるをえず、外交・国防は大統領、内政は反対勢力の首相が分担することとなる。このような状態をフランスでは[[コアビタシオン]]と呼ぶ。 フランスや[[ロシア]]の大統領や[[中華民国]]の[[中華民国総統|総統]]が、[[半大統領制]]に分類される<ref>{{Cite web |title=半大統領制(ハンダイトウリョウセイ)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%8D%8A%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E5%88%B6-689937 |website=コトバンク |access-date=2023-11-30 |language=ja |last=デジタル大辞泉}}</ref>。 ==== 議会共和制国家の国家元首 ==== {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 議院内閣制を採用する共和国の大統領がこれにあたる。行政は議会に指名される首相に委ねられ、国家元首である大統領は国政の実権を有さない。憲法上、国家元首に期待される役割は、内閣の助言と承認に基づく首相を始めとする官吏の任免や、外国元首・外交官の接受といった儀礼的なものである。大統領は直接選挙で選出される場合と、それによらずに議会の投票により功績のある長老政治家が選出される場合などがある。これらの国の中には、[[オーストリア]]の[[連邦大統領 (オーストリア)|連邦大統領]]のように法律上は強力な権限を与えられているケースもあるが、そうした権限は長年の不行使により形骸化しており、実際には行使されないのが通例である。 [[インド]]、[[イタリア]]、[[アイルランド]]、[[アイスランド]]、[[ギリシャ]]の大統領、[[ドイツ]]の[[連邦大統領 (ドイツ)|連邦大統領]]、[[オーストリア]]の[[連邦大統領 (オーストリア)|連邦大統領]]などが、これに分類される。 スイスでは、合議体である[[連邦参事会]](内閣)が国家元首かつ[[政府の長]]とされているが、その7人の閣僚の中の1人が輪番制で就任する[[連邦大統領 (スイス)|連邦大統領]](任期1年)は、他国において通常、国家元首が果たす儀礼的な機能を果たしている。 スイスに類する例として、かつての[[イングランド共和国]]においても、元首として[[護国卿]]が設置されるまでは、合議体である[[国務会議 (イングランド)|国務院]](Council of State)が元首とされた。なお、国務院の議長は(枢密院議長と同じく)Lord President of the Councilと呼ばれたが、ここでいうpresidentは単に議長の意味である。 ==== 社会主義国の国家元首 ==== {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 社会主義国の'''国家主席'''の権能は国によりまちまちであるが、通常は議会共和制国家における国家元首に相当する権能を有する<ref group="注">いわゆる「社会主義国」の場合も一人の人物に権力が集中していることがあるが、その場合、その人物が国家元首だからではなく[[一党独裁制]]を敷く[[共産主義]]政党の党首だからという場合が大半であり、国家元首自体には権限が殆どない場合が多い。例えば、[[中華人民共和国]]では、[[中華人民共和国主席|国家主席]]の地位にある人物が、外交・内政での強大な権力を行使している場合があるが、これはその人物が[[中国共産党]]の最高職である[[中国共産党中央委員会総書記|総書記]]をも兼任しているためである。国家主席は[[中国共産党中央委員会|党中央委員会]]の決定を追認しているに過ぎず、実質的な権限を有さない。主席と総書記が別の人物である場合も当然にあり得る。</ref>。国家主席自体は儀礼的な存在であり、実質的な最高指導者である[[共産党]]の党首([[書記長]]・[[総書記]]・[[第一書記]]など)が兼任したり、長老幹部を礼遇するための名誉職として用いられたりするケースが多いが、元首の職権に実質的権限が付与されるケースとして、[[毛沢東]]・[[劉少奇]]が就任した時代の[[中華人民共和国主席]]や[[金日成]]時代の[[朝鮮民主主義人民共和国主席]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]が就任した[[ソビエト連邦大統領]]がある。ベトナムでは、最高指導者である[[ベトナム共産党]]書記長と元首である[[ベトナム社会主義共和国主席]]が分離することが慣例化しているものの<ref group="注">書記長と国家主席が兼任になった例として[[ホー・チ・ミン]](1956年11月1日 ‐ 1960年9月10日)、[[チュオン・チン]](1986年7月10日 ‐ 1986年12月18日)、[[グエン・フー・チョン]](2018年10月23日 ‐ 2021年4月5日)がある。</ref>、同国の国家主席は憲法上は[[ベトナム人民軍|軍]]の統帥権を持っているため、全く無力な存在という訳ではない。なお、党中央が動揺する非常時に、儀礼的な国家元首が自らの判断で重要な権限を行使する例<ref group="注">[[六四天安門事件]]の際に戒厳令を発令した[[中国共産党中央軍事委員会|軍事委員会]]副主席[[楊尚昆]]。</ref> がある。 {{Quote|ベトナム社会主義共和国の憲法 第86条|国家主席は,'''国家元首'''であり,対内的及び対外的にベトナム社会主義共和国を代表する。}} {{Quote|中華人民共和国の憲法 第81条|中華人民共和国主席は、中華人民共和国を代表し、国事活動を行い......}} ** 現行の[[中華人民共和国憲法]]には一人で[[国家元首]]の規定がない。外交慣例上では国家主席は元首と同様の待遇を受けている。 {{Quote|ラオス人民民主共和国の憲法 第65条|国家主席は,ラオス人民民主共和国の'''国家元首'''であり,国内外において,多民族からなるラオス国民の代表者である。}} 他に社会主義国の特徴としては、正式には国家の最高決議機関の常設委員会に国家元首の権能が与えられ、その議長が代表して国家元首の権限を執行するケースが見られる<ref group="注">ソビエト連邦の最高会議幹部会議長、[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[国家評議会 (東ドイツ)|国家評議会議長]]、[[ハンガリー人民共和国]]の[[国民議会 (ハンガリー)|国民議会]]幹部会議長、[[国家主席の廃止|国家主席廃止]]時における中華人民共和国の[[全国人民代表大会常務委員会]]委員長やベトナムの国家評議会議長など。</ref>。 北朝鮮の国家元首に関する規定は複雑であり、名目上の国家元首と実際の最高権力者が一致しない時期がある。 * [[1948年]]から[[1972年]]までは、政治的実権は[[朝鮮民主主義人民共和国の首相|首相]]であった[[金日成]]にあったが、形式上は[[最高人民会議常任委員会]]委員長が元首であった。 * 1972年から[[1994年]]までは、金日成が'''朝鮮民主主義人民共和国主席'''として国家元首になったが、1994年に金日成が死去したことによって主席が空席となる。その後、[[1998年]]の憲法改正で金日成を「'''永遠の主席'''」と表記したことに伴い、主席は廃止された。そして、[[2009年]]に改訂された現行の[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]]の序文でも、金日成を「永遠の主席」としている。 * 2009年までの国家元首は'''最高人民会議常任委員会委員長'''であった。1998年憲法第111条で「最高人民会議常任委員会委員長は、国家を代表し、外国の使臣の信任状、召還状を接受する」と規定されているからである。ただしこの職の権能は儀礼的な部分にとどまり、実際の最高権力は[[朝鮮労働党中央委員会総書記]]、[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会]]委員長、[[朝鮮人民軍]]最高司令官の[[金正日]]が掌握していた<ref group="注">このうち、国家の代表(事実上の国家元首)としての肩書きは「朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長」となっていた。2000年6月の[[南北首脳会談]]や2002年9月の[[日朝首脳会談]]ではこの肩書きを使用している。</ref>。 * 2009年に同国の憲法が改正され、'''朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長'''(以下「国防委員長」)を「朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者である」(第100条)と明確に規定した。これにより、[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]が国家の最高指導者としての国家元首に宛てられたことになる。ただし、その一方で「最高人民会議常任委員会委員長(以下「常任委員長」)は、国家を代表し、外国使節の信任状、召喚状を接受する」(第117条)という規定もそのまま残されており、常任委員長も国家元首の権能の一部(ただし儀礼的な部分に限られる)を行使していることになる。 * [[2011年]]に金正日が死去すると[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]は空席となり、翌年の第12期[[最高人民会議]]第5回会議で金正日を「'''永遠の国防委員長'''」と位置づける決議が採択されるとともに、憲法が改正されて国防委員長の職は廃止された。新たに国家の最高指導者として'''国防委員会第一委員長'''が設置され、[[金正恩]]が就任した。 * [[2016年]][[6月29日]]に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が改正され、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会が廃止され、それに代わる国家の最高政策指導機関として[[朝鮮民主主義人民共和国国務委員会]]が設置された。国家の最高指導者と規定された国務委員長には、金正恩が就任した。 * [[2019年]][[8月29日]]に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が改正され、朝鮮民主主義人民共和国国務委員長に法令や重要な政令、決定を公布する権限と外国に駐在する外交代表の任命や解任の権限が規定された。 {{Quote|朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法 第100条|国務委員長は、国を代表する朝鮮民主主義人民共和国の'''最高指導者'''である。}} キューバでは、2019年までは国家元首は国家評議会議長であり、単に儀礼的地位にとどまらず強大な権限を有していた。さらに、内閣に相当するのは[[閣僚評議会]]であり、[[キューバの首相|閣僚評議会議長]]が行政権の担当者としての首相に相当する。機構上ではその両者は分離されているが、[[1976年]]制定の新憲法では国家評議会議長は閣僚評議会議長が兼任すると規定されており、国家元首と行政権の首長の権能は統合されて国家の最高指導権が集中していた<ref group="注">フィデル・カストロが[[2008年]][[2月24日]]に人民権力全国会議で国家評議会議長を退任したが、閣僚評議会議長の辞表や退任表明などは一切行っていない。これは憲法の規定により国家評議会議長が閣僚評議会議長を兼ねることになっているため、国家評議会議長を退任すれば閣僚評議会議長も自動的に退任となるからである。</ref>。[[ラウル・カストロ]]が死去した2019年以降は大統領制が導入され、国家元首は[[キューバの国家元首|大統領]]と定められた。 === 専制国家・軍事国家・独裁政治国家の国家元首 === {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 形式的には共和制などの政体を採っているものの、実際には終身大統領のような独任制の元首が強大な政治的権限を有している。軍部・宗教団体・部族・外部勢力といった特定の集団が権力を掌握し、その代表者が元首に就任していることが多い。これらの場合、形式的に議会は存在していても、それは国家元首や特定集団の追認機関に過ぎない。民主的で公正な選挙が行なわれていないこともよく見られる。北朝鮮、[[アフリカ]]の多くの諸国や、いわゆる「[[開発独裁]]」制を敷く国家、かつての南米の多くが、これに分類される。 [[軍事国家]]では、軍部出身の大統領が国家元首となる場合や、軍事政権が樹立した「○○評議会」(革命評議会、救国評議会、国家評議会など)議長が国家元首の役割を果たす場合、などがある。 *[[1988年]][[9月]]から2011年[[2月]]までの[[ミャンマー]]の国家元首は、'''[[国家平和発展評議会]]議長'''([[ソウ・マウン]]、[[タン・シュエ]])だった。同国は2011年2月に'''大統領制'''に移管し、選挙の結果として[[テイン・セイン]][[ミャンマーの首相|首相]]が大統領に就任した。大統領制移管後も暫くは、国家平和発展評議会議長の[[タン・シュエ]]が国家元首と目されていたが2011年[[3月]]に国家平和発展評議会は解散となり、タン・シュエは政治的影響力を行使しなくなった。軍事政権の基盤は与党の[[連邦団結発展党]]に引き継がれ、2011年3月の国家平和発展評議会解散後の国家元首は名実ともに大統領のテイン・セインになった。それ以降、ミャンマーは少しずつ民主化路線を受け入れていき、2016年[[3月30日]]に[[国民民主連盟]]が選出した[[ティン・チョー]]が大統領に就任し、54年ぶりの文民大統領が誕生した。 *[[モーリタニア]]では[[2008年]]に軍事クーデターが起こって大統領が失脚し、軍事政権の'''高等国家評議会議長'''([[ムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズ]])が国家元首となった。2009年、大統領選が実施されて形式的には民政移管を果たし、国家の形態も大統領制に戻った。ただ、新しい大統領となったのは前高等国家評議会議長のムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズであった。 かつての[[ナチス・ドイツ]]では、[[1934年]][[8月2日]]に発効した「国家元首に関する法律」によって、それまで国家元首であった[[ドイツ国大統領|大統領]]と[[ドイツ国首相|首相]]の職務が統合され、指導者および首相である[[アドルフ・ヒトラー]]({{lang|de|Der Führer und Reichskanzler Adolf Hitler}})個人に大統領権限が委譲された。これはヒトラーが[[民族共同体]]の指導者であるという[[指導者原理]]に基づくものであり、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった([[総統]]を参照)。 ナチス・ドイツの支配下にあった[[クロアチア独立国]]([[1941年]] - [[1945年]])では、建国当初の国家元首は国王([[トミスラヴ2世]])であった。しかしこの地位はまったく形式上のもの(トミスラヴ2世は終始[[イタリア王国|イタリア]]に居住し、クロアチアには足を踏み入れることがなかった)であり、国家の最高指導者は'''ポグラヴニク'''('''国家指導者'''または[[総統]]と訳される)の称号を名乗る[[アンテ・パヴェリッチ]]であった。さらに、[[1943年]]のイタリア敗戦にともなってトミスラヴ2世国王が退位したため、パヴェリッチはポグラヴニクの称号のもとで名実ともに国家元首となった。 === 特殊な政体を採る国家の元首 === {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} [[ムアンマル・アル=カッザーフィー]](カダフィ大佐)が支配していた時代の[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]は[[ジャマーヒリーヤ]]([[直接民主制]])という特異な政体を標榜しており、法的には国家元首は存在しなかった。通常は国家元首の職務とされている権能の一部は、'''全国人民会議書記'''が担っており、同書記が事務的には元首代行ともいえる。事実上の最高指導者は'''革命指導者'''のカッザーフィーであり、1979年までは'''革命評議会議長'''や'''全国人民会議書記長'''という役職に就いていた名実ともに国家元首であった。カッザーフィーは1979年に一切の公職を退いているが、それ以降も革命指導者という肩書で他国元首と[[親書]]のやり取りをするなど、対外的に国家元首と受け取れる役割を担っていた。その一方でカッザーフィーは1988年に勃発した[[パンアメリカン航空103便爆破事件]]の容疑者引き渡し問題で[[国際連合|国連]]の[[コフィー・アナン]][[国際連合事務総長|事務総長]]と会談した際には「私は国家元首でも首相でもないので、容疑者を引き渡す権限を持っていません」と語ったことがある。 [[イラン]]は[[イスラム共和制]]を採っており、国家元首に相当するのは[[ウラマー|イスラーム聖職者]]である'''[[イランの最高指導者|最高指導者]]'''である。それとは別に、直接選挙によって選ばれる[[イランの大統領|大統領]]は存在するが行政権の首長にすぎず、最高指導者から解任される規定がある。ただ、対外的にはイランの大統領も元首に準ずる存在として扱われている。日本の[[外務省]]は最高指導者と大統領が「元首」としての権能を分有しているとしている<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/po/page22_001297.html#section6 外務省 各国元首一覧]</ref>。 [[バチカン市国]]の国家元首は[[ローマ教皇]]である。ローマ教皇はバチカンという独立国の国家元首であるとともに、全世界の[[カトリック教会|ローマ・カトリック教会]]の統治者であり、[[イエス・キリスト]]の代理人とされている。教皇の選出はローマ・カトリック教会の高位聖職者である[[枢機卿]]による互選([[コンクラーヴェ]])であるから、大統領制のような国家元首公選制と見ることもできる。ただ、教皇は任期が定められていない上に本人の意に反する退位が認められておらず、事実上終身の地位である<ref group="注">2013年に退位した[[ベネディクト16世]]のように、本人の意思で退位することは出来る。</ref>。また教皇の地位には特別な権威([[聖座]])が認められている。そうした点ではバチカン市国の国家元首としてのローマ教皇の地位は大統領制の大統領と同等とはいえず、むしろ[[選挙君主制]]のもとでの君主に近い。 [[チベット]]([[1959年]]以降は[[亡命政府|亡命政権]])の国家元首は、[[チベット仏教]]の[[ダライ・ラマ]]法王であった。ダライ・ラマ法王の地位は世襲でも選挙制でもなく「[[化身ラマ|転生]]」という特異な方式により継承されていた。1959年の[[チベット動乱]]によって[[ダライ・ラマ14世]]と[[ガンデンポタン|チベット政府(ガンデンポタン)]]はインドに移って[[ガンデンポタン|亡命政府]]を樹立した。[[1961年]]、将来の独立チベット国家の体制の指針であるとともに亡命チベット人社会を統治するための[[ガンデンポタン#チベット亡命政府の基本法規|自由チベット憲法]]が制定され、ダライ・ラマは立憲君主制体制の元首と定められた。その後、2011年にダライ・ラマ14世の発議によって亡命チベット人憲章が改訂され、ダライ・ラマは「チベットとチベット人の守護者であり象徴」となり、チベット亡命政府の国家元首の座は亡命政府主席大臣に移譲された。 [[サモア|サモア独立国(1997年7月3日までは西サモア(独立国))]]の国家元首は、[[オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー]](サモア式国家元首)であり、独立前の[[1960年]][[10月28日]]の起草によるものであり、1962年1月1日の独立とともに施行された憲法で定められた国家元首の称号である。「アオ」「マーロー」は現地語([[サモア語]])でそれぞれ「頭(ここでは“長(おさ)”)」「政府/王国」を意味する(詳細は[[オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー#概要|サモア国家元首の「概要」]]を参照)。 政治的な諸事情によって本来の国家元首を置くことができない場合、それに代わる存在が国家元首となる場合がある。 *[[第一次世界大戦]]後の[[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]]は、本来は[[ハプスブルク=ロートリンゲン家|ハプスブルク家]]出身の[[オーストリア大公]][[ヨーゼフ・アウグスト・フォン・エスターライヒ|ヨーゼフ・アウグスト]]を国王とする王国として成立するはずであった。しかしハプスブルク家の国王を戴くことに内外の反発が強かったため、ヨーゼフ・アウグストは国王になることができず、さらに[[オーストリア=ハンガリー帝国]]最後の皇帝であった[[カール1世 (オーストリア皇帝)|カール1世]](カーロイ4世)の[[カール1世の復帰運動|ハンガリー国王としての復辟運動]]とその失敗もあり、国王空位の王国となった。国王に代わる国家元首として[[摂政]]が置かれ、建国から1944年まで海軍提督[[ホルティ・ミクローシュ]]が摂政を務めた。 *[[スペイン内戦]]後の[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]では、内戦に勝利した[[フランシスコ・フランコ]]将軍が独裁権を握り、国家元首に就任した。国家元首としてのフランコは'''カウディーリョ'''(Caudillo、日本語では'''[[総統]]'''と訳される)の称号を用いた。なお、軍総司令官としてのフランコの称号は'''ヘネラリッシモ'''(Generalísimo、'''総帥''')である。一方、フランコは自分の後継体制においては王制復古してスペインを王国に戻すべきだと考えていた。1947年にフランコ総統は「国家首長継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが王国の'''「摂政」として終身の国家元首'''となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。 [[満洲国]]は1932年の建国の際、[[愛新覚羅溥儀]]が国家元首となった<ref>{{Cite web|和書|title=満州国|日本大百科全書・世界大百科事典|ジャパンナレッジ |url=https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2092 |website=JapanKnowledge |access-date=2023-11-07 |first=NetAdvance Inc NetAdvance |last=Inc}}</ref>。[[清]]の最後の[[皇帝 (中国)|皇帝]]であった溥儀は、満洲国でも皇帝となることを熱望していたが、同国の実質上の支配者であった日本の[[関東軍]]は帝政を採ることによる新国家のイメージの低下を懸念してそれを許さなかったため、建国当初の満洲国の国家元首の称号は'''執政'''という{{独自研究範囲|曖昧なもの|date=2023年11月}}となった。関東軍の意向は「満洲国の元首は執政、ただし執政が善政を敷くこと数年に及ぶならば、全国民の推戴によって執政は皇帝となる」というものであった。1934年(康徳元年)3月1日、満洲国は帝政に移行して溥儀が皇帝に即位、それによって「執政」の称号は消滅した。満洲国の組織法第三条は「'''皇帝は国の元首にして統治権を総攬し本法の条規によりこれを行ふ'''」と規定した<ref>{{Cite journal|last=増田|author=[[増田知子]]|first=知子|last2=Masuda|first2=Tomoko|date=2007-04-25|title=日本と「満州国」の立憲制 - 一九三四~一九三七年|url=https://nagoya.repo.nii.ac.jp/records/7267|journal=名古屋大学法政論集|page=207|chapter=付表|language=ja}}</ref>。 [[ヴィシー政権]]のフランス(国号は「フランス国」、1940年 - 1944年)の国家元首は[[フィリップ・ペタン]][[元帥]]であった。国家元首としてのペタンは'''フランス国家主席'''(フランス語: Chef de l'État français)の称号を名乗っていた。この国は、憲法が「全権力をペタン将軍に委任する」の1条だけから構成されるという、きわめて特異な国家体制を採っていた。 === 日本の元首 === {{Main|日本の元首|象徴天皇制#議論}} [[大日本帝国憲法]]では天皇を元首と規定していたが、[[日本国憲法]]を始めとする現行の日本の法律には国家元首の規定がない。 [[内閣法制局]]は、「要するに元首の定義いかんに帰する問題である」「かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろう」「今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えない」<ref>1988年(昭和63年)10月11日の参議院内閣委員会における内閣法制局第一部長答弁</ref>「天皇は限定された意味における元首である」としており<ref>1990年(平成2年)5月14日の参議院[[予算委員会]]における内閣法制局長官答弁。もっとも、「天皇は国の象徴であり、さらにはごく一部では…外交関係において国を代表する面」もあるという限定された意味における「元首」であるとする。「{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=111815261X00619900514&page=1&spkNum=0&current=-1 |title=第118回国会参議院予算委員会会議録第6号|accessdate=2022-07-17|format=PDF}}」4頁。</ref>、天皇を元首と呼びうるかは定義によるとしている<ref>[[2001年]][[6月6日]]第151回国会参議院[[憲法調査会]]、[[阪田雅裕]]内閣法制局第一部長答弁</ref>。 [[憲法学]]説上は議論があり、多数説は[[内閣 (日本)|内閣]]または[[内閣総理大臣]]元首説で、元首不存在説等もある。 外交慣例上では天皇は元首と同様の待遇を受けている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=天皇陛下がバッハ会長と競技場に入場、行進する選手団に拍手送る : 東京オリンピック2020速報 : オリンピック・パラリンピック|url=https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210723-OYT1T50142/|website=読売新聞オンライン|date=2021-07-23|accessdate=2021-07-23|language=ja}}</ref>。 == 国家元首に関する慣例 == {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 国家元首の慣例とみなされる例については「兵は誰に忠誠を誓うか」や「自国で開催されたオリンピック開会式の開会宣言は誰が行うか」などがある。 === 外交特権 === 国家元首や政府の長および外務大臣については、慣例により対象国による外交官接受がなくとも[[外交特権]]が認められる。 [[パスポート]]や[[査証]]の扱いも異なり、例えば日本では、皇后を除く皇族が外交の際に用いるパスポートは外交旅券であり、天皇及び皇后は旅券は必要ない。公式訪問の際には、受入れ(接受)国に保護義務が発生する。 === 兵は誰に忠誠を誓うか === [[古代ローマ]]の昔より軍は[[インペリウム]]([[ローマ法]]に承認された命令権)に対して[[忠誠の宣誓]]を行なうことが[[政軍関係]]の基礎とされていた。 日本では[[1882年]](明治15年)の[[軍人勅諭]]において、統帥権は天皇にあり忠節は国家・国権に尽くすものとした。戦後、この[[服務の宣誓|忠誠宣誓]]は[[自衛隊法]]施行規則(39-42条)により規定された<ref>昭和29年6月30日総理府令第40号</ref> が、国、[[日本国憲法]]、[[法令]]および国民の負託に宣誓する体裁をとっており、[[天皇]]や[[内閣総理大臣]]に対する宣誓の体裁は採用していない<ref>自衛隊法施行規則第39条 隊員<!--(学生、予備自衛官等及び非常勤の隊員(法第44条の5第1項に規定する短時間勤務の官職を占める隊員を除く。第46条において同じ。)を除く。以下この条において同じ。)-->となった者は、次の宣誓文を記載した[[宣誓書]]に[[署名]][[印章|押印]]して服務の宣誓を行わなければならない。学生、予備自衛官等又は非常勤の隊員が隊員となったとき<!--(法第70条第3項又は第75条の4第3項の規定により予備自衛官又は即応予備自衛官が自衛官になつたときを除く。)-->も同様とする。宣誓 私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法 及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。</ref>。一方で[[自衛隊法]]第7条により、内閣総理大臣は内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する、とされる。なお、服務宣誓については国家公務員一般職([[国家公務員法]]第97条<ref>宣誓内容の詳細については「職員の服務の宣誓に関する政令」で規定されている。</ref>)、地方公務員一般職([[地方公務員法]]第31条<ref>宣誓内容の詳細については各自治体条例により制定されている。</ref>)においても求められる。 === オリンピックの開会式の開催宣言は誰が行うか === {{See also|オリンピックの開会宣言者一覧}} [[オリンピック憲章]]では[[近代オリンピック]]の開会宣言は、開催国の国家元首によっておこなわれるものと規定されている<ref>[http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2007.pdf オリンピック憲章第5章56]</ref>。 日本で開かれた近代オリンピック([[1964年東京オリンピック|1964年東京]]・[[1972年札幌オリンピック|1972年札幌]]・[[1998年長野オリンピック|1998年長野]]、[[2020年東京オリンピック|2021年東京]])では、いずれも[[天皇]]が開会宣言を行っている<ref name=":0" />。 一個人としての国家元首がいないとされるスイスでは2回のオリンピック([[1928年サンモリッツオリンピック|1928年サンモリッツ]]と[[1948年サンモリッツオリンピック|1948年サンモリッツ]])でいずれもその年の[[連邦大統領 (スイス)|連邦大統領]]が開会宣言を行っている。 1980年に[[ソビエト連邦]]で開かれた[[1980年モスクワオリンピック]]では[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]][[レオニード・ブレジネフ]]が開会宣言を行っている。 [[英連邦王国]]においては、[[1976年モントリオールオリンピック]]では[[エリザベス2世]]が[[カナダ国王|カナダ女王]]として開会宣言を行っている。その後、[[1988年カルガリーオリンピック]]で[[カナダの総督|カナダ総督]]ジャンヌ・ソーヴェが開会を宣言して以降、[[2000年シドニーオリンピック]]では[[オーストラリアの総督|オーストラリア総督]][[ウィリアム・パトリック・ディーン|ウィリアム・ディーン]]が、[[2010年バンクーバーオリンピック]]ではカナダ総督[[ミカエル・ジャン]]が開会を宣言している。 ただし、憲章ができる前には閣僚や有力者が、国家元首が出席できない場合は国家元首に準ずる人物([[王配]]や[[副大統領]]など)が、開会宣言を行ったことがある。 == その他 == === 国家元首が宗教の首長を兼ねる例 === {{出典の明記| date = 2023年12月| section = 1}} 現在の事例として、次のようなものがある。 *{{Flagicon|バチカン市国}}[[教皇|ローマ教皇]] - [[バチカン市国]]元首と[[カトリック教会]]の首長を兼ねる *{{Flagicon|イギリス}}[[イギリス国王]] - [[イギリス]]国王と[[国王至上法|イングランド国教会の地上における唯一最高の首長]]を兼ねる *[[天皇]]-日本国天皇と[[神道]]の[[法王]]を兼ねる。 *{{Flagicon|デンマーク}}[[デンマーク国王]] ‐ [[デンマーク国教会]]([[ルーテル教会|ルター派]])首長 *{{Flagicon|ノルウェー}}[[ノルウェー国王]] ‐ [[ノルウェー国教会]](ルター派)首長 かつての事例([[近代]]以降)。 *[[中国]]の皇帝は[[天命]]を受け[[天子]]として[[天]]を祭る祭政の総攬者であった。 *[[オスマン帝国]]のスルタンは[[イスラーム]]の首長である[[カリフ]]の称号を持ち、オスマン帝国の崩壊後は[[ヒジャーズ王国|ヒジャーズ]]王がカリフを名乗った。 *[[モンテネグロ]]では中世以来[[ツェティニェ]]の主教が「主教公」として支配しており、16世紀以降ペトロヴィチ=ニェゴス家がその地位を保持した。 *[[ネパール王国]]の君主は、[[ヒンドゥー教]]の神[[ヴィシュヌ]]の化身とされた。 *[[チベット]]では1959年まで[[ダライ・ラマ]] が国家元首と[[チベット仏教]]の[[法王]]を兼ねていた。1959年に発足した[[チベット亡命政府]]でもダライ・ラマは元首とチベット仏教の最高指導者を兼ねていた。しかし、2011年5月28日に亡命チベット人憲章が改訂され、ダライ・ラマは政治的権限を'''亡命政府主席大臣'''に委譲し、同大臣がチベット亡命政府の国家元首となった。ダライ・ラマは「チベットとチベット人の'''守護者'''であり'''象徴'''」となった。 * 日本の天皇は、明治から第二次世界大戦終結までは[[国家神道]]([[神社神道]])の頂点に立ち、[[現人神]]と呼ばれた。現在は[[皇室神道]]は神社神道から分離しており、天皇は[[神社本庁]]の長ではない。ただ、現在でも伝統的に皇室は大嘗祭等をはじめとした多くの[[神道]]の祭祀を執り行い、[[伊勢神宮]]や[[勅祭社]]に定期的に勅使を派遣している。 === 日本における「外国の元首」が関連する法規定 === 日本では「外国の元首」が関連する法規定として以下のものがある。 * [[特別永住者]]を外国の元首に対する犯罪行為で[[禁錮]]以上の刑に処せられた上に日本国の外交上の重大な利益が害されたと[[法務大臣]]が認定して[[退去強制]]させる規定([[日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法|入管特例法]]第9条第1項第3号) * 日本国内における外国政府と個人における労働契約終了効力に関する訴えであって、当該外国元首によって当該訴えに係る裁判手続が当該外国等の安全保障上の利益を害するおそれがあるとされた場合は裁判権から免除される規定(対外国等民事裁判権法第9条第2項) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *『{{PDFlink|[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi036.pdf/$File/shukenshi036.pdf 天皇制(皇室典範その他の皇族関連法に関する調査を含む)に関する基礎的資料]}}』衆議院憲法調査会事務局(平成16年2月5日の参考資料) *『{{PDFlink|[https://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi013.pdf/$File/shukenshi013.pdf 象徴天皇制に関する基礎的資料 最高法規としての憲法のあり方に関する調査小委員会]}}』衆議院憲法調査会事務局(平成15年2月6日及び3月6日の参考資料) == 関連項目 == {{Wiktionary|元首}} {{Wikidata property|P35}} * [[日本の元首]] * [[国家]] * [[君主制]] * [[立憲君主制]] * [[共和制]] * [[統治者]] * [[世界各国の指導者一覧]] * [[選出もしくは任命された女性の元首の一覧]] === 日本関連 === * [[天皇制]](皇室制度) * [[象徴天皇制]] == 外部リンク == * [https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E9%A6%96-60642#goog_rewarded 元首] - [[コトバンク]] {{アメリカの元首}} {{ヨーロッパの元首}} {{アフリカの元首}} {{アジアの元首}} {{オセアニアの元首}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けんしゆ}} [[Category:国の象徴]] [[Category:元首|* けんしゅ]]
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インドにおける仏教の弾圧
インドにおける仏教の弾圧(インドにおけるぶっきょうのだんあつ)では、5世紀頃にインドで起きた仏教の弾圧について述べる。これにより、13世紀までにインド国内の仏教はほぼ完全に一掃された。 5世紀中期にアフガニスタンで勃興し、5世紀末にはグプタ朝と衝突し、ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(英語版)(Mihirakula、在位512年–528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた。この王のことは、『洛陽伽藍記』に附載される、北魏の官吏宋雲と沙門恵生の旅行記『宋雲行記』に見ることが出来る。ミヒラクラは、ゾロアスター教系と思われる天神火神を信仰し、仏教を弾圧したとされる。弾圧された仏教側では、この事件を契機に末法思想が盛んになり、東アジアに伝えられることとなる。隋代に中国に来朝した訳経僧那連提耶舎は、釈迦が外道の蓮華面の転生であるミヒラクラ王の破仏のことを予言した、とする内容を説く『蓮華面経』を漢訳している。 中世における後期インド仏教(後期密教)はパーラ朝のもとで庇護を受けていたが、6世紀にインド南部で始まったヒンドゥー教改革運動のバクティ運動や、12世紀にアフガニスタンからのイスラム教政権(ゴール朝)のインド侵略で、インドの仏教徒は壊滅状態となった。 偶像崇拝を否定することを理由にイスラム教徒は、軍事侵攻に伴ってインド各地の仏教寺院を徹底的に破壊するとともに、仏教寺院の僧侶と尼僧を虐殺した。1203年にインド北東部ベンガル地方にあった後期インド仏教(密教)の当時最大の仏教寺院で最期の砦であったヴィクラマシーラ寺が、ゴール朝の武将ムハンマド・バフティヤール・ハルジー率いるイスラム教徒の軍隊によって破壊され、多数の僧侶と尼僧が虐殺された。この惨事をもってインド仏教の終焉とする見方が多い。この際にヴィクラマシラー寺の座主のシャキャーシュリーバトラは、ネパール経由でチベット地方に逃れてサキャ派第4世の名僧サキャ・パンディタに授戒した。 中世におけるイスラム教徒の破壊・殺戮によるインド仏教の衰退は、末法の時代として解釈された。仏教徒はインド仏教の最期を予見して、末法時代におけるインド仏教の存続と将来の復興を祈念し、末法時代に密教でのみ往来が可能なシャンバラの概念や、イスラム教を調伏してインド仏教を再興する時輪タントラ(カーラ・チャクラ)が生まれた。しかし実際には、インドで仏教が存続・復興することはなく、インドの仏教徒はイスラム教またはヒンドゥー教に改宗を余儀なくされるか、もしくは近隣諸国・地域へ逃げ出すことになり、仏教は他のアジアの大域で信仰が継続されるようになった。 1956年、インド憲法の起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民と共に仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。アンベードカルの死後は、その志を継ぐ者が活動を続けている。その一人である日本人僧の佐々井秀嶺が日本ではよく知られている。近年、ヒンドゥー教のカーストを嫌う不可触民や下層階級の人々がヒンドゥー教から仏教に改宗する動きがあり、2001年の国勢調査では仏教徒は人口の0.8%(約800万人)に達している。 また、チベット仏教のダライ・ラマ14世がインド北部のダラムサラにガンデンポタン(チベット亡命政府)を樹立していることから、亡命チベット人組織を中心にチベット仏教の小さな拠点にもなっている。
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インドにおける仏教の弾圧(インドにおけるぶっきょうのだんあつ)では、5世紀頃にインドで起きた仏教の弾圧について述べる。これにより、13世紀までにインド国内の仏教はほぼ完全に一掃された。
'''インドにおける仏教の弾圧'''(インドにおけるぶっきょうのだんあつ)では、[[5世紀]]頃に[[インド]]で起きた[[仏教]]の弾圧について述べる。これにより、[[13世紀]]までにインド国内の仏教はほぼ完全に一掃された。 {{see also|[[インドにおける仏教の衰退]]}} == ミヒラクラ王の破仏 == [[5世紀]]中期に[[アフガニスタン]]で勃興し、5世紀末には[[グプタ朝]]と衝突し、[[ガンダーラ]]・[[北インド]]を支配した[[エフタル]]では、その王{{仮リンク|ミヒラクラ|en|Mihirakula}}(Mihirakula、在位[[512年]]–[[528年]]頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた。この王のことは、『[[洛陽伽藍記]]』に附載される、[[北魏]]の官吏[[宋雲]]と沙門恵生の旅行記『[[宋雲行記]]』に見ることが出来る。ミヒラクラは、[[ゾロアスター教]]系と思われる'''天神火神'''を信仰し、仏教を弾圧したとされる。弾圧された仏教側では、この事件を契機に[[末法思想]]が盛んになり、東アジアに伝えられることとなる。[[隋]]代に中国に来朝した[[訳経僧]][[那連提耶舎]]は、釈迦が[[外道]]の蓮華面の転生であるミヒラクラ王の破仏のことを予言した、とする内容を説く『[[蓮華面経]]』を漢訳している<ref>{{Cite journal |和書 |author=山田 龍城 |year=1955 |title=蓮華面経について: グプタ末期のインド仏教事情 |journal=山口博士還暦記念印度学仏教学論叢}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author=藤善 真澄 |year=1987 |title=末法家としての那連提黎耶舎:周隋革命と徳護長者経 |journal=東洋史研究 |volume=46 |issue=1}}</ref>。 == イスラム教の侵攻 == [[中世]]における後期インド仏教(後期密教)は[[パーラ朝]]のもとで庇護を受けていたが、6世紀に[[南インド|インド南部]]で始まった[[ヒンドゥー教]]改革運動の[[バクティ運動]]や、12世紀に[[アフガニスタン]]からの[[イスラム教]]政権([[ゴール朝]])のインド侵略で、インドの仏教徒は壊滅状態となった。 [[偶像崇拝]]を否定することを理由にイスラム教徒は、軍事侵攻に伴ってインド各地の仏教寺院<ref>ヒンドゥー教や[[ジャイナ教]]寺院も徹底的に破壊された</ref>を徹底的に破壊するとともに、仏教寺院の僧侶と尼僧を虐殺した。[[1203年]]にインド北東部[[ベンガル地方]]にあった後期インド仏教([[密教]])の当時最大の仏教寺院で最期の砦であった[[ヴィクラマシーラ大学|ヴィクラマシーラ寺]]が、ゴール朝の武将[[ムハンマド・バフティヤール・ハルジー]]率いるイスラム教徒の軍隊によって破壊され、多数の僧侶と尼僧が虐殺された。この惨事をもってインド仏教の終焉とする見方が多い<ref>インド仏教史 - 平川彰著 ISBN 978-4393118115</ref>。この際にヴィクラマシラー寺の座主のシャキャーシュリーバトラは、[[ネパール]]経由で[[チベット]]地方に逃れて[[サキャ派]]第4世の名僧[[サキャ・パンディタ]]に授戒した。 中世におけるイスラム教徒の破壊・殺戮によるインド仏教の衰退は、[[末法]]の時代として解釈された。仏教徒はインド仏教の最期を予見して、末法時代におけるインド仏教の存続と将来の復興を祈念し、末法時代に[[密教]]でのみ往来が可能な[[シャンバラ]]の概念や、イスラム教を調伏してインド仏教を再興する時輪[[タントラ]](カーラ・チャクラ)が生まれた。しかし実際には、インドで仏教が存続・復興することはなく、インドの仏教徒はイスラム教またはヒンドゥー教に改宗を余儀なくされるか、もしくは近隣諸国・地域へ逃げ出すことになり、仏教は他のアジアの大域で信仰が継続されるようになった。 == 現代インドにおける仏教の再興 == 1956年、[[インド憲法]]の起草者の一人で初代法務大臣を務めた[[アンベードカル]]が死の直前に、自らと同じ50万人の[[不可触民]]と共に仏教徒に改宗し、[[新仏教運動|インド仏教復興の運動]]が起こった。アンベードカルの死後は、その志を継ぐ者が活動を続けている。その一人である日本人僧の[[佐々井秀嶺]]が日本ではよく知られている。近年、[[ヒンドゥー教]]の[[カースト]]を嫌う不可触民や下層階級の人々がヒンドゥー教から仏教に改宗する動きがあり、[[2001年]]の国勢調査では仏教徒は人口の0.8%(約800万人)<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/india/data.html 日本国政府外務省]</ref>に達している。 また、[[チベット仏教]]の[[ダライ・ラマ14世]]がインド北部の[[ダラムサラ]]に[[ガンデンポタン]]([[チベット亡命政府]])を樹立していることから、亡命チベット人組織を中心にチベット仏教の小さな拠点にもなっている。 == 脚注・出典 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[インドの仏教]] *[[バラモン教]] *[[ヒンドゥー教]] *[[インドにおけるイスラーム]] *[[法難]] *[[廃仏毀釈]] *[[蓮華面経]] {{buddhism-stub}} {{India-stub}} {{DEFAULTSORT:いんとにおけるふつきようのたんあつ}} [[Category:仏教の歴史]] [[Category:宗教的迫害]] [[Category:インドの仏教|たんあつ]] [[Category:インドの歴史|ふつきようのたんあつ]] [[Category:反仏教]]
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ダービー
ダービー(Derby, Darby)
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ダービー ダービー伯爵 - イギリス貴族の爵名。 ダービーステークス - イギリス競馬の競走名。ダービー伯爵に由来。 上記イギリスのダービーステークスを模範とする各国のダービーと名の付く競走はダービー (競馬)を参照。また日本ダービーについては東京優駿を参照。 競馬のダービーにちなみ、他の競走・競争にダービーと名付けたもの。野球のハーラーダービー(勝利投手の回数)・ホームランダービー(本塁打の回数)、クイズ番組『クイズダービー』、バラエティ番組『さんまのナンでもダービー』、音楽番組『熱戦!歌謡ダービー』、日本選手権競輪、全日本選手権競走など。 ダービーマッチ - サッカーなどの、特定の2チームによる対戦。 ライト・オブ・ダービー - ダービー(地名)出身の画家、ジョセフ・ライトのペンネーム。 ダービー社 - 日本・大阪府の公営競技専門新聞社。 ダービー (ミサイル) - イスラエル製のミサイル。 Apache Derby - RDBMSソフトウェア。 ダービー (カクテル) - ジンベースのカクテル。
'''ダービー'''(Derby, Darby) * [[ダービー伯爵]] - イギリス貴族の爵名。 * [[ダービーステークス]] - イギリス競馬の競走名。ダービー伯爵に由来。 ** 上記イギリスのダービーステークスを模範とする各国のダービーと名の付く競走は[[ダービー (競馬)]]を参照。また日本ダービーについては[[東京優駿]]を参照。 ** 競馬のダービーにちなみ、他の競走・競争にダービーと名付けたもの。野球の[[ハーラーダービー]]([[勝利投手]]の回数)・[[本塁打競争|ホームランダービー]]([[本塁打]]の回数)、クイズ番組『[[クイズダービー]]』、バラエティ番組『[[さんまのナンでもダービー]]』、音楽番組『[[熱戦!歌謡ダービー]]』、[[日本選手権競輪]](別名:[[競輪]]ダービー)、[[全日本選手権競走]](別名:[[競艇]]ダービー)など。 *[[ダービーマッチ]] - [[サッカー]]などの、特定の2チームによる対戦。 * ライト・オブ・ダービー - ダービー(地名)出身の[[画家]]、[[ジョセフ・ライト (画家)|ジョセフ・ライト]]のペンネーム。 * [[ダービー社]] - 日本・大阪府の公営競技専門新聞社。 * [[ダービー (ミサイル)]] - イスラエル製のミサイル。 * [[Apache Derby]] - [[関係データベース管理システム|RDBMS]][[ソフトウェア]]。 * [[ダービー (カクテル)]] - [[ジン (蒸留酒)|ジン]]ベースの[[カクテル]]。 {{定義リスト2 | 地名 | * [[ダービー (イギリス)]] - [[イギリス]]の都市。 ** [[ダービー・カウンティ]] - イギリスのサッカークラブチーム。 ** [[ダービー磁器]] - 磁器の種類。18世紀にダービーで開釜された。[[ロイヤルクラウンダービー]]も参照。 | 英語圏の姓 | * [[エイブラハム・ダービー]] - イギリスの製鉄業者一族。 * [[ジョン・ダービ|ジョン・ダービー]] - イギリスの神学者、賛美歌作家。 * [[ジョージ・ダービー]] - アメリカの野球選手。 | 架空の人名 | * [[スターダストクルセイダース#エジプト9栄神のカードに暗示された敵スタンド使い|ダニエル・J・ダービー、テレンス・T・ダービー]] - 漫画『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』の登場人物。 }} == 関連項目 == * {{prefix}} * {{intitle}} * [[ダルビー]] {{aimai}} {{デフォルトソート:たあひい}} [[Category:英語の姓]]
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インドの仏教
インドの仏教(2011年国勢調査) インドの仏教(インドのぶっきょう)は、2011年国勢調査によると840万人以上の仏教徒がおり、人口の約0.7%を占める。うちの87%が新仏教徒(ナヴァヤーナ仏教)であり、彼らは他の宗教、主にヒンドゥー教のカースト制度から逃れるために改宗した不可触民であった。その他13%は、ヒマラヤ北東部と北部地域の伝統的コミュニティ(上座部仏教、大乗仏教、密教)に属している。 仏教は、古代インド十六大国の一つ、コーサラ国に生まれた釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)が、インダス川中流域で提唱し、発生した。インド亜大陸に広まった仏教は、ヒンドゥー教社会のなかで、バラモン教・ヒンドゥー教といったヴェーダの宗教や、ゾロアスター教・ギリシア宗教といった外来の宗教、そして民間信仰といった、他の宗教と相互に影響を及ぼしながら発展した。 しかし、エフタルやモンゴルの侵入による混乱、デリー・スルターン朝を始めとしたムスリムが行った破壊・迫害といった外的要因、それにバクティ運動や不二一元論によるヒンドゥー教側からの巻き返しといった内的要因の結果、13世紀以降、狭義のインドにおける仏教は衰微した。しかし、20世紀に入ってからはインド内外からの働きかけにより再び信徒の数は増えつつある。 インドは仏教発祥の地であるが、21世紀においては、インドの仏教信仰は殆ど消滅してしまった。13世紀初頭にイスラム教の軍がベンガル地方に侵攻し、仏教の拠点精舎を破壊・虐殺したことによって滅んだとも言われるが、その後も零細な集団として、インド仏教はかなりの期間に渡って存続しており、ムスリム勢力の侵攻により、完全には滅んだ訳ではなかった。 なお、カシミール、ネパール、東ベンガルなどには、細々ながら仏教が存続している。第二次世界大戦後には、スリランカから上座部仏教が逆輸入されたり、チベットからの難民受入れによるチベット仏教や、日本山妙法寺による布教、インドの大学に対して講師派遣など日本からの支援によって、2001年の国勢調査では、インドの仏教徒が800万人前後となっている。 僧伽・在俗信者の別なく、インドにおける仏教徒はヒンドゥー世界の一部でありつづけた。ゆえに、出家者に対しては出身ヴァルナは問われなかった一方で、釈迦はカースト制度の存在そのものは否定しなかったし、仏教徒というカーストも形成されなかった。なお、紀元前4世紀末頃にマウリヤ朝を訪れたメガステネスは、仏教を始めとしたインド宗教の特徴として出家者教団内部での平等性を挙げている。 また、釈迦がアーナンダに説いたとされるように、通過儀礼・葬儀といった日常儀礼は僧伽・比丘ではなくバラモン僧によって行われていた。 インドにおける仏教の特色は、きわめて認識論的な行法を外しては考えられない。この特徴は、他の地域に伝承され発展した仏教には見受けにくい。 さらに、修行によって得られた智慧が重要な問題として意識される。その流れは龍樹が興した中観派や、弥勒が興し無著と世親が教学を大成した瑜伽行唯識学派という大きな潮流を形成する。これはチベットにも伝播され、チベット仏教の基礎教学が形成されている。 智慧を主題とする方法論的流れは、部派仏教から大乗仏教に通じるものであったと見られる。そのため、相互の交流はほとんどないと思われるが、互いに補完しながら教学が形成されているように見える。インドの仏教の最終形態として密教に至るが、これは仏教が西方に伝播される時に、その地域の考え方などから影響を受け、すべての事象を象徴化することによって体系化していったものと考えられる。 また、インドにおける仏教は、学派ごとに活動していたことに特色がある。この動きは南伝仏教などにも伝承されているようである。しかし、中国や朝鮮、日本、ベトナムといった大乗仏教圏ではまったく異なった形態がとられている。中国では学派というよりは、寺院ごとのまとまりが強く、いくつかの学派が一つの寺院に並存することがある。また、日本では個人の思想や教えによってグループが形成されている。 一方、仏教徒(檀家、世間)には、将来的に悟りに至るための過程として、「功徳を積み、善い後生を得る」ことが求められた(方便)。 初期仏教においては、呪術、占星術、祖先崇拝、シャーマニズムといった民俗信仰の儀礼・習慣は容認、黙認、忌避、あるいは禁止されていたものの、真言や防護呪といった儀礼や、ジャータカやアヴァダーナといった経典に見られるように、これらの要素のなかは時代が下るにつれて仏教教団側にも取り込まれていったものもあった。 13世紀に衰退するまでの間は、各国の王族の援助によって隆盛衰退を繰りかえす。大きく分けると、 の4つに分けられる。 しかし、大乗仏教が成立しても、部派の教団は存続し教理の展開がある。また、密教の萌芽は大乗仏教に見られるし、中観派との密接な交渉は途切れることはない。つまり、それぞれは重層的に共存していたと考えられている。 英語では最初期の仏教のことをprimitive Buddhismと呼んでいる。日本では、原始仏教とか根本仏教と呼ぶことが多い。このように呼ぶときは、シャーキャムニ・ブッダ(釈尊、いわゆる釈迦)とその直弟子の時代を指すか、アショーカ王時代までを指す。釈尊やその弟子たちの活動範囲は、インドの北東部、ガンジス河中流域であった。釈尊の晩年に、ようやく西方インドのアヴァンティ国に発展した。釈迦自身が使った言語は、古代マガダ語もしくは古代東部インド語であったとされ、痕跡はパーリ語聖典にも残っている。アショーカ王の時代には、西インドのプラークリット語の一方言(いわゆるパーリ語)で聖典の一部が成立し、のちに聖典用語となった。 釈尊が亡くなってほどない頃、ラージャグリハ(王舎城)郊外に500人の比丘が集まり、最初の結集(けちじゅう)が行われ、経典と律とがまとめられた。座長は摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)、経は阿難(あなん、アーナンダ)、律は優波離(うぱり、ウパーリ)が担当したと伝えられている。 仏教が急激に広まるのは、マウリヤ朝第3代アショーカ王の時代である。彼は、仏教以外の宗教も奨励したが、何より仏教を広めるのに尽力をした。この頃、戒律の解釈問題で教団内に対立が起こり、分裂しそうになった。アショーカ王の仲裁もあったが、上座の長老たちが新しい見解を否定して、ついに上座部と大衆部に根本分裂した。仏滅後約100年のことで、この戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われた。さらに仏滅後200年には、アショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。 根本分裂以後も、仏教の布教活動は盛んであった。西方のガンダーラからアフガニスタンへ、さらに中央アジアへと教線は広がっていった。前3世紀中頃、スリランカのデーバーナンピヤ・ティッサの時代に、マヒンダ比丘(伝、アショーカ王の王子)が仏教を伝え、都に大精舎が建てられた。以後、ここを中心に上座部が栄え、社会や文化に大きな影響を与えた。 しかし、この後も教団の分裂は続く。仏滅後300年の初めに上座部は、説一切有部と雪山部に分かれ、説一切有部から犢子部、犢子部から法上部、賢冑部、正量部、密林山部が分かれる。仏滅後300年には説一切有部から飲光部が、さらに400年には、説一切有部から経量部が別れる。これらの主な分裂を含めて、上座部系11部、大衆部系9部に分かれたと伝えられている。この分裂の中で、それぞれの部派は独自の聖典を持つにいたる。 これらの比丘たちの教団とは別に、在家者の中にも仏教の信奉者は多く存在した。在家者は、仏滅後に作られた遺骨などを納めた仏塔(ストゥーパ)に参拝していたようである。信徒たちは、人格の息吹きが感じられる「仏法」を通して仏教を受け止めた。また、仏塔には欄楯があり、そこにレリーフで釈迦牟尼世尊の一代記が描かれていた。参拝者にその一代記を説明する僧が登場し、仏塔の維持と仏教の布教活動を専業としていたようである。このような仏塔崇拝・仏陀崇拝の動きは比丘たちの活動とは別に底辺に流れ続けていたと思われる。 さらに、釈迦が亡くなってから、その偉大さを考える上で、他の誰にもできなかった成仏がなぜなし得たのかという問題が生じた。そこで、前生から輪廻を繰り返しながら修行が続けられたのだということで、本生譚、すなわち前生の話(ジャータカ)がまとめ上げられる。そこでは、インド各地に伝えられた伝説の主人公が、実は仏陀の前生であったとされたのである。その大半は慈悲による利他行を平易に説いたものであった。 信者の仏陀崇拝は、単に釈迦だけでは留まらなかった。同じく悟りを得て(光を得て)仏陀となったであろう、別の仏陀もまた崇拝することとなった。(もともと「仏陀」とは「目覚めた者」の意であった)最初期には、釈迦の伝説上の指導仏であった錠光仏であり、直近の未来に仏となる弥勒菩薩への崇拝である。この崇拝にも次第に理屈が付くようになる。それが信仰となってくるのである。自らの罪を懺悔し、教化を請い(勧請)、仏を讃嘆し、自らの善行を仏にささげる(回向)によって、自らも救済されるという新たな儀礼の登場となる。そこで、出家して比丘とならなくても、広く衆生を救いとるという大乗という概念が登場するのである。 このような信徒側の動きと同時に、僧侶側にも大きな動きがあった。それは最初期の経典が部派ごとに伝えられたために、部派間の聖典の突合せ作業を行わざるを得なかった。それまでの聖典は、ごく少数の人間を相手に釈迦が説く(対機説法)というものであった。そのバラバラな経典を主題ごとにまとめる作業が行われると、聖典に手を加えてはならないというタブーが破られることになった。新たな聖典の可能性がこのころから芽生えたと考えてよい。 そのような時に、ことに智慧や縁起を説明する『般若経』が成立する。あたかもいくつかの聖典を編集したという形ではあるが、そこには空という独自の視点で縁起を説明した教典であった。さらにこの経典には、信徒たちが築いた参拝活動を是認する論理が書き加えられた。 このように信徒の運動と、あい呼応して大乗経典が編纂されていったのである。これらの大乗経典は、ほぼ3期に分けて見られる。 インド仏教が密教化したのは、周辺の宗教から影響を受けた結果である。バラモン教や非アーリヤ文明を継承して、ヒンドゥー教と同じ基盤の上に大乗仏教の一環として成立した。ことに呪術・儀礼を強調することで、当時はライバルであったヒンドゥー教に対抗できる大乗仏教として発展していった。この密教化は、周辺の土着文化や宗教を自らのものとして取り込み、各地の民族宗教と一体化しながら展開されたので、大乗仏教の新しい領域を広げるという面では大きな力を発揮した。7世紀になると、『大日経』や『金剛頂経』が成立した。 また密教化の過程で、ヒンドゥー教やイスラーム教の台頭に対抗するため、仏教保護と怨敵降伏を祈願する憤怒相の護法尊が次々と誕生していった。さらには、ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰の影響も受けた。 しかし、ヒンドゥー教に倣ってマントラ(真言陀羅尼)を唱えたり、多数の新奇な仏尊が礼拝対象となったり、さらには仏法の中心が大日如来や金剛薩埵、法身普賢となったり、タントラの影響で性的な修行も取り入れたりした。また、後期インド仏教とヒンドゥー教との差別化が曖昧になるにつれて、後期インド仏教のヒンドゥー教に対する劣勢は確定的になった。 カスピ海周辺部の遊牧民族の一部が南下東行して前2000年頃インドにアーリア人が、入ったと推測される。そのころにはインダス文明が栄えていたが、後に砂漠化で衰退した。前1500年頃にはパンジャーブ地方に進行し国の基礎を築いたとされる。このころから数世紀にわたって作り上げられたのがヴェーダである。この教典によって成立したのがヴェーダの宗教(バラモン教)であり、そこには支配者としてのアーリア人によって作られた規範が盛り込まれている。前1000年頃になると、祭式をとりしきるバラモン(司祭)の力が増大し、あまりに強固になったので、祭式至上主義を批判する者たちからウパニシャッド哲学が起こってきた。この新たな運動は、バラモンが優位に立っていた政治的制度的力を再検討し、本来のヴェーダに回帰しようとの動きでもあった。このような運動がおし進められて、さらにはヴェーダそのものからも自由になろうとする沙門(シュラマナ、出家した行者)と呼ばれる自由思想家たちが登場する(六師外道)。釈迦もその一人であった。当時の沙門たちの基本的な方法論は、瞑想などの修行によって、認識論的にすべての束縛からの解脱を求めようとするものである。それは、ヴェーダやウパニシャッドからも解脱しようとするものであった。 マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を手厚く保護し、寺院建設や仏教の布教を援助した結果、仏教は、インド全体に広まった。アショーカ王は最初から仏教徒であったわけではなく、インドを統一後に自分の行った殺戮を後悔して仏教に改宗したといわれている。 また、当時はローマ帝国との東西交易によりインド経済が発展・繁栄し、ビジネスで成功した富裕層(長者)が仏教に帰依・支援していたこともインド仏教の興隆の社会的要因の一つである。 それ以降のクシャーナ朝、サータヴァーハナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝、パーラ朝等の北インド歴代王朝は、仏教を保護し、ガンダーラ美術とグプタ美術と呼ばれる仏教美術が盛んに作られた。 グプタ朝のクマーラグプタ1世はナーランダ僧院を壮大な建物に改善、修復を実施し数千人の学僧を集め、仏教教学を中心に、医学、天文学、数学などを研究した。 世界最古の総合大学の一つでもあるナーランダ僧院で学究が進められ、その成果がヴェトナム、中国、朝鮮、日本、チベットに伝わった。 ヴァルダナ朝時代には、玄奘三蔵がナーランダ僧院に留学し、戒賢に師事して唯識を学び、各地の仏跡を巡拝した。 パーラ朝のダルマパーラ王ダルマパーラによって、ヴィクラマシーラ大学が創設された。チベット人の資料によれば、5つの大精舎があったとされている。 ヴィクラマシーラ大学出身の仏教僧アティーシャは、サキャ派のコンチョ・ギェルポ、カギュ派のマルパと共にラン・ダルマ王以降衰退していたチベット仏教の中興の祖の一人である。 また後期インド仏教は、ヴェーダーンタ学派やミーマーンサー学派、ヨーガ学派などの六派哲学の賢人を輩出したヒンドゥー教の台頭と隆盛、タントリズムの流行の影響を受けてヒンドゥー教化し、埋没化しつつあった。 南インドでは、サータヴァーハナ朝の保護の下で、ナーガールジュナは大乗仏教運動を体系化したともいわれ、セイロン、カシミール、ガンダーラ、中国などからの僧侶のために院を設けた。この地(古都ハイデラバードの東 70 km)は後に、ナーガールジュナ・コーンダ(丘)と呼ばれる。 また、パッラヴァ朝の達磨が、中国に伝えた教えが禅宗となった。 1193年に、ゴール朝のアイバク靡下の将軍 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー 率いるトルコ、ムスリムの侵略によってナーランダ僧院やヴィクラマシーラ大学等の偶像崇拝を否定する名目で仏像や仏教寺院は、破壊された。13世紀以降、奴隷王朝やデリー・スルターン朝等の、イスラーム王朝設立によるインドのイスラーム化により、イスラーム到来以前から衰退の途上にあったインドの仏教は決定的に没落した。 インド仏教の衰退後も、ミャンマーに近いベンガル地方では戒律を重視する上座部仏教の集団が現代まで非常にわずかながらも存続しているが(例:en:Chakma people)、後期インド仏教であるタントラ仏教や後期密教はネパールやチベット地方に伝播してインドからは姿を消していった。 19世紀後半、イギリス人によって提婆達多の系列という森林修行者の集団が報告されている。このことは結集に参加しなかったグループがおり、この時期まで存続していたということなのかもしれない。現在は不明。 近代に入って、ダルマパーラら大菩提会(1891年設立)の運動によるスリランカからの仏教再移入があり、インド独立直後、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル (B. R. Ambedkar) の率いた社会運動によって、およそ50万人のダリットの人々が仏教へと改宗したことで、インドにおいて仏教徒が一定の社会的勢力として復活した(いわゆる新仏教運動)。 インド政府の宗教統計によれば、インドでの仏教徒の割合は1961年に0.7%であったが2001年には0.8%(約800万人)程度である。増加しているのはイスラム教徒で、同年を比較すると10.7%から13.4%で、ヒンドゥー教徒の割合は低下しており、同年83.4%から80.5%である。キリスト教やシク教などは、仏教と同じく横ばいである。 一方で、インドに帰化した日本人僧佐々井秀嶺は、日本のマスコミ各社にインドの仏教徒は既に1億人を超えていると主張しているが、全く根拠がない。 ダリットを基盤として復活したインド仏教は「アンベードカル仏教」と揶揄されるように、アンベードカルの仏教理解に立脚しており、仏教の基本教理とされる輪廻による因果応報を、カースト差別との関連から拒否するなど、その合理主義的な教義が、不可触民の解放運動の一環に過ぎないと指摘される側面もある。加えて、カーストと関係のない布教活動を行う上座部との二極化も進んでいる。 イスラム教徒の弾圧で、インドから仏教が消滅したため、置き去りにされていた仏教の遺跡の多くは、史跡公園として整備され、現在、管轄地域の州が管理している。また、インドの推薦によりナーランダやサールナートは仏教の聖地として世界遺産候補に指定されている。 1959年3月31日に、ジャワハルラール・ネルー初代首相は、ダライ・ラマ14世のインド亡命を受け入れた。1959年10月20日に開始された中印国境紛争以後もダライ・ラマ14世を保護し続け、インド北部のダラムシャーラーにガンデンポタン(チベット亡命政府)と多数の亡命 チベット人を今日まで受け入れ、チベット仏教文化の拠点となっており、「リトル・ラサ」とも呼ばれて、観光地として人気が高い。 ヴィパッサナー瞑想の在家指導者、サティア・ナラヤン・ゴエンカ(1924-2013)によるヴィパッサナー運動は、宗教の枠を超え、インドのみならず世界でも活動した。ムンバイに建てられた巨大なヴィパッサナー寺院は、直径97mの石造りのドーム。8000人以上が一度に瞑想出来る。竣工式にはインド大統領も参加した。2012年にゴエンカはパドマ賞をインド大統領から授与された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "インドの仏教(2011年国勢調査)", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "インドの仏教(インドのぶっきょう)は、2011年国勢調査によると840万人以上の仏教徒がおり、人口の約0.7%を占める。うちの87%が新仏教徒(ナヴァヤーナ仏教)であり、彼らは他の宗教、主にヒンドゥー教のカースト制度から逃れるために改宗した不可触民であった。その他13%は、ヒマラヤ北東部と北部地域の伝統的コミュニティ(上座部仏教、大乗仏教、密教)に属している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "仏教は、古代インド十六大国の一つ、コーサラ国に生まれた釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)が、インダス川中流域で提唱し、発生した。インド亜大陸に広まった仏教は、ヒンドゥー教社会のなかで、バラモン教・ヒンドゥー教といったヴェーダの宗教や、ゾロアスター教・ギリシア宗教といった外来の宗教、そして民間信仰といった、他の宗教と相互に影響を及ぼしながら発展した。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "しかし、エフタルやモンゴルの侵入による混乱、デリー・スルターン朝を始めとしたムスリムが行った破壊・迫害といった外的要因、それにバクティ運動や不二一元論によるヒンドゥー教側からの巻き返しといった内的要因の結果、13世紀以降、狭義のインドにおける仏教は衰微した。しかし、20世紀に入ってからはインド内外からの働きかけにより再び信徒の数は増えつつある。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "インドは仏教発祥の地であるが、21世紀においては、インドの仏教信仰は殆ど消滅してしまった。13世紀初頭にイスラム教の軍がベンガル地方に侵攻し、仏教の拠点精舎を破壊・虐殺したことによって滅んだとも言われるが、その後も零細な集団として、インド仏教はかなりの期間に渡って存続しており、ムスリム勢力の侵攻により、完全には滅んだ訳ではなかった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、カシミール、ネパール、東ベンガルなどには、細々ながら仏教が存続している。第二次世界大戦後には、スリランカから上座部仏教が逆輸入されたり、チベットからの難民受入れによるチベット仏教や、日本山妙法寺による布教、インドの大学に対して講師派遣など日本からの支援によって、2001年の国勢調査では、インドの仏教徒が800万人前後となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "僧伽・在俗信者の別なく、インドにおける仏教徒はヒンドゥー世界の一部でありつづけた。ゆえに、出家者に対しては出身ヴァルナは問われなかった一方で、釈迦はカースト制度の存在そのものは否定しなかったし、仏教徒というカーストも形成されなかった。なお、紀元前4世紀末頃にマウリヤ朝を訪れたメガステネスは、仏教を始めとしたインド宗教の特徴として出家者教団内部での平等性を挙げている。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、釈迦がアーナンダに説いたとされるように、通過儀礼・葬儀といった日常儀礼は僧伽・比丘ではなくバラモン僧によって行われていた。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "インドにおける仏教の特色は、きわめて認識論的な行法を外しては考えられない。この特徴は、他の地域に伝承され発展した仏教には見受けにくい。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "さらに、修行によって得られた智慧が重要な問題として意識される。その流れは龍樹が興した中観派や、弥勒が興し無著と世親が教学を大成した瑜伽行唯識学派という大きな潮流を形成する。これはチベットにも伝播され、チベット仏教の基礎教学が形成されている。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "智慧を主題とする方法論的流れは、部派仏教から大乗仏教に通じるものであったと見られる。そのため、相互の交流はほとんどないと思われるが、互いに補完しながら教学が形成されているように見える。インドの仏教の最終形態として密教に至るが、これは仏教が西方に伝播される時に、その地域の考え方などから影響を受け、すべての事象を象徴化することによって体系化していったものと考えられる。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また、インドにおける仏教は、学派ごとに活動していたことに特色がある。この動きは南伝仏教などにも伝承されているようである。しかし、中国や朝鮮、日本、ベトナムといった大乗仏教圏ではまったく異なった形態がとられている。中国では学派というよりは、寺院ごとのまとまりが強く、いくつかの学派が一つの寺院に並存することがある。また、日本では個人の思想や教えによってグループが形成されている。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "一方、仏教徒(檀家、世間)には、将来的に悟りに至るための過程として、「功徳を積み、善い後生を得る」ことが求められた(方便)。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "初期仏教においては、呪術、占星術、祖先崇拝、シャーマニズムといった民俗信仰の儀礼・習慣は容認、黙認、忌避、あるいは禁止されていたものの、真言や防護呪といった儀礼や、ジャータカやアヴァダーナといった経典に見られるように、これらの要素のなかは時代が下るにつれて仏教教団側にも取り込まれていったものもあった。", "title": "インド仏教の特色" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "13世紀に衰退するまでの間は、各国の王族の援助によって隆盛衰退を繰りかえす。大きく分けると、", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "の4つに分けられる。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、大乗仏教が成立しても、部派の教団は存続し教理の展開がある。また、密教の萌芽は大乗仏教に見られるし、中観派との密接な交渉は途切れることはない。つまり、それぞれは重層的に共存していたと考えられている。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "英語では最初期の仏教のことをprimitive Buddhismと呼んでいる。日本では、原始仏教とか根本仏教と呼ぶことが多い。このように呼ぶときは、シャーキャムニ・ブッダ(釈尊、いわゆる釈迦)とその直弟子の時代を指すか、アショーカ王時代までを指す。釈尊やその弟子たちの活動範囲は、インドの北東部、ガンジス河中流域であった。釈尊の晩年に、ようやく西方インドのアヴァンティ国に発展した。釈迦自身が使った言語は、古代マガダ語もしくは古代東部インド語であったとされ、痕跡はパーリ語聖典にも残っている。アショーカ王の時代には、西インドのプラークリット語の一方言(いわゆるパーリ語)で聖典の一部が成立し、のちに聖典用語となった。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "釈尊が亡くなってほどない頃、ラージャグリハ(王舎城)郊外に500人の比丘が集まり、最初の結集(けちじゅう)が行われ、経典と律とがまとめられた。座長は摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)、経は阿難(あなん、アーナンダ)、律は優波離(うぱり、ウパーリ)が担当したと伝えられている。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "仏教が急激に広まるのは、マウリヤ朝第3代アショーカ王の時代である。彼は、仏教以外の宗教も奨励したが、何より仏教を広めるのに尽力をした。この頃、戒律の解釈問題で教団内に対立が起こり、分裂しそうになった。アショーカ王の仲裁もあったが、上座の長老たちが新しい見解を否定して、ついに上座部と大衆部に根本分裂した。仏滅後約100年のことで、この戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われた。さらに仏滅後200年には、アショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "根本分裂以後も、仏教の布教活動は盛んであった。西方のガンダーラからアフガニスタンへ、さらに中央アジアへと教線は広がっていった。前3世紀中頃、スリランカのデーバーナンピヤ・ティッサの時代に、マヒンダ比丘(伝、アショーカ王の王子)が仏教を伝え、都に大精舎が建てられた。以後、ここを中心に上座部が栄え、社会や文化に大きな影響を与えた。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、この後も教団の分裂は続く。仏滅後300年の初めに上座部は、説一切有部と雪山部に分かれ、説一切有部から犢子部、犢子部から法上部、賢冑部、正量部、密林山部が分かれる。仏滅後300年には説一切有部から飲光部が、さらに400年には、説一切有部から経量部が別れる。これらの主な分裂を含めて、上座部系11部、大衆部系9部に分かれたと伝えられている。この分裂の中で、それぞれの部派は独自の聖典を持つにいたる。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "これらの比丘たちの教団とは別に、在家者の中にも仏教の信奉者は多く存在した。在家者は、仏滅後に作られた遺骨などを納めた仏塔(ストゥーパ)に参拝していたようである。信徒たちは、人格の息吹きが感じられる「仏法」を通して仏教を受け止めた。また、仏塔には欄楯があり、そこにレリーフで釈迦牟尼世尊の一代記が描かれていた。参拝者にその一代記を説明する僧が登場し、仏塔の維持と仏教の布教活動を専業としていたようである。このような仏塔崇拝・仏陀崇拝の動きは比丘たちの活動とは別に底辺に流れ続けていたと思われる。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "さらに、釈迦が亡くなってから、その偉大さを考える上で、他の誰にもできなかった成仏がなぜなし得たのかという問題が生じた。そこで、前生から輪廻を繰り返しながら修行が続けられたのだということで、本生譚、すなわち前生の話(ジャータカ)がまとめ上げられる。そこでは、インド各地に伝えられた伝説の主人公が、実は仏陀の前生であったとされたのである。その大半は慈悲による利他行を平易に説いたものであった。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "信者の仏陀崇拝は、単に釈迦だけでは留まらなかった。同じく悟りを得て(光を得て)仏陀となったであろう、別の仏陀もまた崇拝することとなった。(もともと「仏陀」とは「目覚めた者」の意であった)最初期には、釈迦の伝説上の指導仏であった錠光仏であり、直近の未来に仏となる弥勒菩薩への崇拝である。この崇拝にも次第に理屈が付くようになる。それが信仰となってくるのである。自らの罪を懺悔し、教化を請い(勧請)、仏を讃嘆し、自らの善行を仏にささげる(回向)によって、自らも救済されるという新たな儀礼の登場となる。そこで、出家して比丘とならなくても、広く衆生を救いとるという大乗という概念が登場するのである。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このような信徒側の動きと同時に、僧侶側にも大きな動きがあった。それは最初期の経典が部派ごとに伝えられたために、部派間の聖典の突合せ作業を行わざるを得なかった。それまでの聖典は、ごく少数の人間を相手に釈迦が説く(対機説法)というものであった。そのバラバラな経典を主題ごとにまとめる作業が行われると、聖典に手を加えてはならないというタブーが破られることになった。新たな聖典の可能性がこのころから芽生えたと考えてよい。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "そのような時に、ことに智慧や縁起を説明する『般若経』が成立する。あたかもいくつかの聖典を編集したという形ではあるが、そこには空という独自の視点で縁起を説明した教典であった。さらにこの経典には、信徒たちが築いた参拝活動を是認する論理が書き加えられた。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "このように信徒の運動と、あい呼応して大乗経典が編纂されていったのである。これらの大乗経典は、ほぼ3期に分けて見られる。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "インド仏教が密教化したのは、周辺の宗教から影響を受けた結果である。バラモン教や非アーリヤ文明を継承して、ヒンドゥー教と同じ基盤の上に大乗仏教の一環として成立した。ことに呪術・儀礼を強調することで、当時はライバルであったヒンドゥー教に対抗できる大乗仏教として発展していった。この密教化は、周辺の土着文化や宗教を自らのものとして取り込み、各地の民族宗教と一体化しながら展開されたので、大乗仏教の新しい領域を広げるという面では大きな力を発揮した。7世紀になると、『大日経』や『金剛頂経』が成立した。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また密教化の過程で、ヒンドゥー教やイスラーム教の台頭に対抗するため、仏教保護と怨敵降伏を祈願する憤怒相の護法尊が次々と誕生していった。さらには、ヒンドゥー教シャークタ派のタントラやシャクティ(性力)信仰の影響も受けた。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "しかし、ヒンドゥー教に倣ってマントラ(真言陀羅尼)を唱えたり、多数の新奇な仏尊が礼拝対象となったり、さらには仏法の中心が大日如来や金剛薩埵、法身普賢となったり、タントラの影響で性的な修行も取り入れたりした。また、後期インド仏教とヒンドゥー教との差別化が曖昧になるにつれて、後期インド仏教のヒンドゥー教に対する劣勢は確定的になった。", "title": "インド仏教の歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "カスピ海周辺部の遊牧民族の一部が南下東行して前2000年頃インドにアーリア人が、入ったと推測される。そのころにはインダス文明が栄えていたが、後に砂漠化で衰退した。前1500年頃にはパンジャーブ地方に進行し国の基礎を築いたとされる。このころから数世紀にわたって作り上げられたのがヴェーダである。この教典によって成立したのがヴェーダの宗教(バラモン教)であり、そこには支配者としてのアーリア人によって作られた規範が盛り込まれている。前1000年頃になると、祭式をとりしきるバラモン(司祭)の力が増大し、あまりに強固になったので、祭式至上主義を批判する者たちからウパニシャッド哲学が起こってきた。この新たな運動は、バラモンが優位に立っていた政治的制度的力を再検討し、本来のヴェーダに回帰しようとの動きでもあった。このような運動がおし進められて、さらにはヴェーダそのものからも自由になろうとする沙門(シュラマナ、出家した行者)と呼ばれる自由思想家たちが登場する(六師外道)。釈迦もその一人であった。当時の沙門たちの基本的な方法論は、瞑想などの修行によって、認識論的にすべての束縛からの解脱を求めようとするものである。それは、ヴェーダやウパニシャッドからも解脱しようとするものであった。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "マウリヤ朝のアショーカ王は仏教を手厚く保護し、寺院建設や仏教の布教を援助した結果、仏教は、インド全体に広まった。アショーカ王は最初から仏教徒であったわけではなく、インドを統一後に自分の行った殺戮を後悔して仏教に改宗したといわれている。 また、当時はローマ帝国との東西交易によりインド経済が発展・繁栄し、ビジネスで成功した富裕層(長者)が仏教に帰依・支援していたこともインド仏教の興隆の社会的要因の一つである。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "それ以降のクシャーナ朝、サータヴァーハナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝、パーラ朝等の北インド歴代王朝は、仏教を保護し、ガンダーラ美術とグプタ美術と呼ばれる仏教美術が盛んに作られた。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "グプタ朝のクマーラグプタ1世はナーランダ僧院を壮大な建物に改善、修復を実施し数千人の学僧を集め、仏教教学を中心に、医学、天文学、数学などを研究した。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "世界最古の総合大学の一つでもあるナーランダ僧院で学究が進められ、その成果がヴェトナム、中国、朝鮮、日本、チベットに伝わった。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヴァルダナ朝時代には、玄奘三蔵がナーランダ僧院に留学し、戒賢に師事して唯識を学び、各地の仏跡を巡拝した。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "パーラ朝のダルマパーラ王ダルマパーラによって、ヴィクラマシーラ大学が創設された。チベット人の資料によれば、5つの大精舎があったとされている。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ヴィクラマシーラ大学出身の仏教僧アティーシャは、サキャ派のコンチョ・ギェルポ、カギュ派のマルパと共にラン・ダルマ王以降衰退していたチベット仏教の中興の祖の一人である。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また後期インド仏教は、ヴェーダーンタ学派やミーマーンサー学派、ヨーガ学派などの六派哲学の賢人を輩出したヒンドゥー教の台頭と隆盛、タントリズムの流行の影響を受けてヒンドゥー教化し、埋没化しつつあった。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "南インドでは、サータヴァーハナ朝の保護の下で、ナーガールジュナは大乗仏教運動を体系化したともいわれ、セイロン、カシミール、ガンダーラ、中国などからの僧侶のために院を設けた。この地(古都ハイデラバードの東 70 km)は後に、ナーガールジュナ・コーンダ(丘)と呼ばれる。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、パッラヴァ朝の達磨が、中国に伝えた教えが禅宗となった。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1193年に、ゴール朝のアイバク靡下の将軍 ムハンマド・バフティヤール・ハルジー 率いるトルコ、ムスリムの侵略によってナーランダ僧院やヴィクラマシーラ大学等の偶像崇拝を否定する名目で仏像や仏教寺院は、破壊された。13世紀以降、奴隷王朝やデリー・スルターン朝等の、イスラーム王朝設立によるインドのイスラーム化により、イスラーム到来以前から衰退の途上にあったインドの仏教は決定的に没落した。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "インド仏教の衰退後も、ミャンマーに近いベンガル地方では戒律を重視する上座部仏教の集団が現代まで非常にわずかながらも存続しているが(例:en:Chakma people)、後期インド仏教であるタントラ仏教や後期密教はネパールやチベット地方に伝播してインドからは姿を消していった。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "19世紀後半、イギリス人によって提婆達多の系列という森林修行者の集団が報告されている。このことは結集に参加しなかったグループがおり、この時期まで存続していたということなのかもしれない。現在は不明。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "近代に入って、ダルマパーラら大菩提会(1891年設立)の運動によるスリランカからの仏教再移入があり、インド独立直後、ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル (B. R. Ambedkar) の率いた社会運動によって、およそ50万人のダリットの人々が仏教へと改宗したことで、インドにおいて仏教徒が一定の社会的勢力として復活した(いわゆる新仏教運動)。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "インド政府の宗教統計によれば、インドでの仏教徒の割合は1961年に0.7%であったが2001年には0.8%(約800万人)程度である。増加しているのはイスラム教徒で、同年を比較すると10.7%から13.4%で、ヒンドゥー教徒の割合は低下しており、同年83.4%から80.5%である。キリスト教やシク教などは、仏教と同じく横ばいである。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "一方で、インドに帰化した日本人僧佐々井秀嶺は、日本のマスコミ各社にインドの仏教徒は既に1億人を超えていると主張しているが、全く根拠がない。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ダリットを基盤として復活したインド仏教は「アンベードカル仏教」と揶揄されるように、アンベードカルの仏教理解に立脚しており、仏教の基本教理とされる輪廻による因果応報を、カースト差別との関連から拒否するなど、その合理主義的な教義が、不可触民の解放運動の一環に過ぎないと指摘される側面もある。加えて、カーストと関係のない布教活動を行う上座部との二極化も進んでいる。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "イスラム教徒の弾圧で、インドから仏教が消滅したため、置き去りにされていた仏教の遺跡の多くは、史跡公園として整備され、現在、管轄地域の州が管理している。また、インドの推薦によりナーランダやサールナートは仏教の聖地として世界遺産候補に指定されている。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1959年3月31日に、ジャワハルラール・ネルー初代首相は、ダライ・ラマ14世のインド亡命を受け入れた。1959年10月20日に開始された中印国境紛争以後もダライ・ラマ14世を保護し続け、インド北部のダラムシャーラーにガンデンポタン(チベット亡命政府)と多数の亡命 チベット人を今日まで受け入れ、チベット仏教文化の拠点となっており、「リトル・ラサ」とも呼ばれて、観光地として人気が高い。", "title": "インド社会との交流史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ヴィパッサナー瞑想の在家指導者、サティア・ナラヤン・ゴエンカ(1924-2013)によるヴィパッサナー運動は、宗教の枠を超え、インドのみならず世界でも活動した。ムンバイに建てられた巨大なヴィパッサナー寺院は、直径97mの石造りのドーム。8000人以上が一度に瞑想出来る。竣工式にはインド大統領も参加した。2012年にゴエンカはパドマ賞をインド大統領から授与された。", "title": "インド社会との交流史" } ]
インドの仏教(インドのぶっきょう)は、2011年国勢調査によると840万人以上の仏教徒がおり、人口の約0.7%を占める。うちの87%が新仏教徒(ナヴァヤーナ仏教)であり、彼らは他の宗教、主にヒンドゥー教のカースト制度から逃れるために改宗した不可触民であった。その他13%は、ヒマラヤ北東部と北部地域の伝統的コミュニティ(上座部仏教、大乗仏教、密教)に属している。 仏教は、古代インド十六大国の一つ、コーサラ国に生まれた釈迦牟尼(ガウタマ・シッダールタ)が、インダス川中流域で提唱し、発生した。インド亜大陸に広まった仏教は、ヒンドゥー教社会のなかで、バラモン教・ヒンドゥー教といったヴェーダの宗教や、ゾロアスター教・ギリシア宗教といった外来の宗教、そして民間信仰といった、他の宗教と相互に影響を及ぼしながら発展した。 しかし、エフタルやモンゴルの侵入による混乱、デリー・スルターン朝を始めとしたムスリムが行った破壊・迫害といった外的要因、それにバクティ運動や不二一元論によるヒンドゥー教側からの巻き返しといった内的要因の結果、13世紀以降、狭義のインドにおける仏教は衰微した。しかし、20世紀に入ってからはインド内外からの働きかけにより再び信徒の数は増えつつある。
{{複数の問題| |独自研究=2015年11月 |参照方法 = 2015-11 |未検証 = 2015-11 }} {{pie chart | thumb = right | caption = インドの仏教(2011年国勢調査)<ref name="auto1">{{Cite web|url=https://www.financialexpress.com/india-news/dalits-who-converted-to-buddhism-better-off-in-literacy-and-well-being/745230/|title=Dalits who converted to Buddhism better off in literacy and well-being: Survey|date=2 July 2017 |accessdate=2017-07}}</ref><ref name="thequint.com">{{Cite web|url=https://www.thequint.com/india/2017/06/17/dalits-converting-to-buddhism|title=Dalits Are Still Converting to Buddhism, but at a Dwindling Rate|date=17 June 2017|website=The Quint |accessdate=2017-06}}</ref> | label1 = [[インド仏教復興運動|ナヴァヤーナ仏教]] | value1 = 87 | color1 = DodgerBlue | label2 = 伝統的仏教 ([[大乗仏教]], [[上座部仏教]], [[密教]]) | value2 = 13 | color2 = Gold }} [[File:District wise Buddhist population percentage, India census 2011.png|thumb|right|国勢調査による仏教徒分布(2011年)]] '''インドの仏教'''(インドのぶっきょう)は、2011年国勢調査によると840万人以上の仏教徒がおり、人口の約0.7%を占める。うちの87%が新仏教徒([[インド仏教復興運動|ナヴァヤーナ仏教]])であり、彼らは他の宗教、主に[[ヒンドゥー教]]の[[カースト制度]]から逃れるために改宗した[[不可触民]]であった。その他13%は、ヒマラヤ北東部と北部地域の伝統的コミュニティ(上座部仏教、大乗仏教、密教)に属している<ref name="auto1"/><ref name="thequint.com"/>。 [[仏教]]は、古代インド[[十六大国]]の一つ、[[コーサラ国]]に生まれた'''[[釈迦|釈迦牟尼]]'''(ガウタマ・シッダールタ)が、インダス川中流域で提唱し、発生した。[[インド亜大陸]]に広まった仏教は、[[ヒンドゥー教]]社会のなかで、バラモン教・ヒンドゥー教といった[[ヴェーダ]]の宗教や、[[ゾロアスター教]]・[[古代ギリシアの宗教|ギリシア宗教]]といった外来の宗教、そして民間信仰といった、他の宗教と相互に影響を及ぼしながら発展した。 しかし、[[エフタル]]やモンゴルの侵入による混乱、[[デリー・スルターン朝]]を始めとしたムスリムが行った破壊・迫害といった外的要因、それに[[バクティ|バクティ運動]]や[[不二一元論]]によるヒンドゥー教側からの巻き返しといった内的要因の結果、13世紀以降、狭義のインドにおける仏教は[[インドにおける仏教の衰退|衰微]]した。しかし、20世紀に入ってからはインド内外からの働きかけにより再び信徒の数は増えつつある。 == 概要 == インドは仏教発祥の地であるが、[[21世紀]]においては、インドの仏教信仰は殆ど消滅してしまった。[[13世紀]]初頭に[[イスラム教]]の軍が[[ベンガル地方]]に侵攻し、仏教の拠点[[精舎]]を破壊・虐殺したことによって滅んだとも言われるが、その後も零細な集団として、インド仏教はかなりの期間に渡って存続しており、[[ムスリム]]勢力の侵攻により、完全には滅んだ訳ではなかった。 なお、[[カシミール]]、[[ネパール]]、[[東ベンガル]]などには、細々ながら仏教が存続している。[[第二次世界大戦]]後には、[[スリランカ]]から[[上座部仏教]]が逆輸入されたり、[[チベット]]からの難民受入れによる[[チベット仏教]]や、[[日本山妙法寺大僧伽|日本山妙法寺]]による布教、インドの大学に対して講師派遣など[[日本]]からの支援によって、2001年の国勢調査では、インドの仏教徒が800万人前後となっている。 == インド仏教の特色 == 僧伽・在俗信者の別なく、インドにおける仏教徒はヒンドゥー世界の一部でありつづけた。ゆえに、出家者に対しては出身[[ヴァルナ (種姓)|ヴァルナ]]は問われなかった一方で{{Sfn|奈良|2018|p=58}}、釈迦はカースト制度の存在そのものは否定しなかったし、仏教徒というカーストも形成されなかった。なお、[[紀元前4世紀]]末頃に[[マウリヤ朝]]を訪れた[[メガステネス]]は、仏教を始めとしたインド宗教の特徴として出家者教団内部での平等性を挙げている{{Sfn|中村|1993|p=88}}。 また、釈迦が[[阿難|アーナンダ]]に説いたとされるように<ref>『[[大般涅槃経]]』5章10。「アーナンダよ。お前たちは[[如来|修行完成者]]の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のため努力せよ。……王族の賢者たち、バラモンの賢者たち、資産家の賢者たちで修行完成者たちに対して浄らかな信を抱いている人々がいる。かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。」</ref>、通過儀礼・葬儀といった日常儀礼は僧伽・比丘ではなくバラモン僧によって行われていた{{Sfn|奈良|2018|p=34}}{{Sfn|奈良|2018|p=99}}<ref group="注釈">ただし、[[新仏教運動]]の[[ビームラーオ・アンベードカル]]はカースト制度を否定している。</ref>。 === インドにおける僧伽 === インドにおける仏教の特色は、きわめて[[認識論]]的な行法を外しては考えられない。この特徴は、他の地域に伝承され発展した仏教には見受けにくい。 さらに、修行によって得られた[[般若|智慧]]が重要な問題として意識される。その流れは[[龍樹]]が興した[[中観派]]や、[[弥勒]]が興し[[無著]]と[[世親]]が教学を大成した[[瑜伽行唯識学派]]という大きな潮流を形成する。これはチベットにも伝播され、チベット仏教の基礎教学が形成されている。 '''智慧'''を主題とする方法論的流れは、[[部派仏教]]から[[大乗仏教]]に通じるものであったと見られる。そのため、相互の交流はほとんどないと思われるが、互いに補完しながら教学が形成されているように見える。インドの仏教の最終形態として[[密教]]に至るが、これは仏教が西方に伝播される時に、その地域の考え方などから影響を受け、すべての事象を象徴化することによって体系化していったものと考えられる。 また、インドにおける仏教は、学派ごとに活動していたことに特色がある。この動きは[[上座部仏教|南伝仏教]]などにも伝承されているようである。しかし、[[中国の仏教|中国]]や朝鮮、[[日本の仏教|日本]]、ベトナムといった大乗仏教圏ではまったく異なった形態がとられている。中国では学派というよりは、寺院ごとのまとまりが強く、いくつかの学派が一つの寺院に並存することがある。また、日本では個人の思想や教えによってグループが形成されている。 === インドにおける在俗信者 === 一方、仏教徒(檀家、[[世間]])には、将来的に悟りに至るための過程として、「[[功徳|功徳を積み]]、[[天 (仏教)|善い後生]]を得る」ことが求められた([[方便]])<ref>『[[相応部]]』III 3・2・8</ref>。 初期仏教においては、呪術、[[占星術]]、[[祖先崇拝]]、[[シャーマニズム]]といった民俗信仰の儀礼・習慣は容認、黙認、忌避、あるいは禁止されていたものの{{Sfn|奈良|2018|pp=10-14}}、[[真言]]や防護呪といった儀礼や、[[ジャータカ]]や[[アヴァダーナ]]といった経典に見られるように、これらの要素のなかは時代が下るにつれて仏教教団側にも取り込まれていったものもあった。 == インド仏教の歴史 == 13世紀に衰退するまでの間は、各国の王族の援助によって隆盛衰退を繰りかえす。大きく分けると、 # 開教から教団分裂まで - 約100年間 # 部派仏教の成立 - 前3世紀ごろ # 大乗仏教運動の興隆 - 前1世紀ごろ # 密教の成立 - 7世紀ごろ の4つに分けられる。 しかし、大乗仏教が成立しても、部派の教団は存続し教理の展開がある。また、密教の萌芽は大乗仏教に見られるし、[[中観派]]との密接な交渉は途切れることはない。つまり、それぞれは重層的に共存していたと考えられている。 === 最初期 === 英語では最初期の仏教のことを'''primitive Buddhism'''と呼んでいる。日本では、'''[[初期仏教|原始仏教]]'''とか'''[[初期仏教|根本仏教]]'''と呼ぶことが多い。このように呼ぶときは、シャーキャムニ・ブッダ(釈尊、いわゆる釈迦)とその直弟子の時代を指すか、[[アショーカ王]]時代までを指す。[[釈尊]]やその弟子たちの活動範囲は、インドの北東部、[[ガンジス河]]中流域であった。釈尊の晩年に、ようやく西方インドの[[アヴァンティ国]]に発展した。釈迦自身が使った言語は、古代マガダ語もしくは古代東部インド語であったとされ、痕跡は[[パーリ語]]聖典にも残っている。アショーカ王の時代には、西インドの[[プラークリット語]]の一方言(いわゆるパーリ語)で聖典の一部が成立し、のちに聖典用語となった。 釈尊が亡くなってほどない頃、[[ラージャグリハ]]([[王舎城]])郊外に500人の比丘が集まり、最初の[[結集]](けちじゅう)が行われ、[[経典]]と[[律 (仏教)|律]]とがまとめられた。座長は[[十大弟子|摩訶迦葉]](まかかしょう、マハーカッサパ)、経は[[阿難]](あなん、アーナンダ)、律は[[十大弟子|優波離]](うぱり、ウパーリ)が担当したと伝えられている。 仏教が急激に広まるのは、[[マウリヤ朝]]第3代アショーカ王の時代である。彼は、仏教以外の宗教も奨励したが、何より仏教を広めるのに尽力をした。この頃、戒律の解釈問題で教団内に対立が起こり、分裂しそうになった。アショーカ王の仲裁もあったが、上座の長老たちが新しい見解を否定して、ついに[[上座部]]と[[大衆部]]に[[根本分裂]]した。仏滅後約100年のことで、この戒律の異議のため、毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われた。さらに仏滅後200年には、アショーカ王の時代に、[[パータリプトラ]]で1,000人の比丘を集めて、第三結集が行われた。 === 部派仏教 === 根本分裂以後も、仏教の布教活動は盛んであった。西方の[[ガンダーラ]]から[[アフガニスタン]]へ、さらに[[中央アジア]]へと教線は広がっていった。前3世紀中頃、[[スリランカ]]のデーバーナンピヤ・ティッサの時代に、マヒンダ比丘(伝、アショーカ王の王子)が仏教を伝え、都に大[[精舎]]が建てられた。以後、ここを中心に上座部が栄え、社会や文化に大きな影響を与えた。 しかし、この後も教団の分裂は続く。仏滅後300年の初めに上座部は、[[説一切有部]]と[[雪山部]]に分かれ、説一切有部から犢子部、犢子部から法上部、賢冑部、正量部、密林山部が分かれる。仏滅後300年には説一切有部から飲光部が、さらに400年には、説一切有部から[[経量部]]が別れる。これらの主な分裂を含めて、上座部系11部、大衆部系9部に分かれたと伝えられている。この分裂の中で、それぞれの部派は独自の[[聖典]]を持つにいたる。 === 大乗仏教運動の興隆 === これらの比丘たちの教団とは別に、[[在家]]者の中にも仏教の信奉者は多く存在した。在家者は、仏滅後に作られた遺骨などを納めた[[仏塔]](ストゥーパ)に参拝していたようである。信徒たちは、人格の息吹きが感じられる「[[仏法]]」を通して仏教を受け止めた。また、仏塔には欄楯があり、そこに[[レリーフ]]で釈迦牟尼世尊の一代記が描かれていた。参拝者にその一代記を説明する僧が登場し、仏塔の維持と仏教の[[布教]]活動を専業としていたようである。このような仏塔崇拝・仏陀崇拝の動きは比丘たちの活動とは別に底辺に流れ続けていたと思われる。 さらに、釈迦が亡くなってから、その偉大さを考える上で、他の誰にもできなかった成仏がなぜなし得たのかという問題が生じた。そこで、前生から[[輪廻]]を繰り返しながら修行が続けられたのだということで、[[本生譚]]、すなわち前生の話([[ジャータカ]])がまとめ上げられる。そこでは、インド各地に伝えられた[[伝説]]の主人公が、実は仏陀の前生であったとされたのである。その大半は[[慈悲]]による[[利他行]]を平易に説いたものであった。 信者の仏陀崇拝は、単に釈迦だけでは留まらなかった。同じく[[悟り]]を得て(光を得て)仏陀となったであろう、別の仏陀もまた崇拝することとなった。(もともと「仏陀」とは「目覚めた者」の意であった)最初期には、釈迦の伝説上の指導仏であった[[錠光仏]]であり、直近の未来に仏となる[[弥勒菩薩]]への崇拝である。この崇拝にも次第に理屈が付くようになる。それが[[信仰]]となってくるのである。自らの罪を懺悔し、教化を請い([[勧請]])、仏を讃嘆し、自らの善行を仏にささげる([[回向]])によって、自らも[[救済]]されるという新たな儀礼の登場となる。そこで、[[出家]]して比丘とならなくても、広く[[衆生]]を救いとるという[[大乗仏教|大乗]]という概念が登場するのである。 このような信徒側の動きと同時に、僧侶側にも大きな動きがあった。それは最初期の経典が部派ごとに伝えられたために、部派間の聖典の突合せ作業を行わざるを得なかった。それまでの聖典は、ごく少数の人間を相手に釈迦が説く([[対機説法]])というものであった。そのバラバラな経典を主題ごとにまとめる作業が行われると、聖典に手を加えてはならないというタブーが破られることになった。新たな聖典の可能性がこのころから芽生えたと考えてよい。 そのような時に、ことに智慧や縁起を説明する『''[[般若経]]''』が成立する。あたかもいくつかの聖典を編集したという形ではあるが、そこには[[空 (仏教)|空]]という独自の視点で縁起を説明した教典であった。さらにこの経典には、信徒たちが築いた参拝活動を是認する論理が書き加えられた。 このように信徒の運動と、あい呼応して[[大乗経典]]が編纂されていったのである。これらの大乗経典は、ほぼ3期に分けて見られる。 # 初期大乗経典…『''般若経''』、『''[[維摩経]]''』、『''[[法華経]]''』、『''[[無量寿経]]''』――3世紀には[[龍樹]]によって空の理論が体系化され、[[中観派]]の基礎を作る。 # 中期大乗経典…『''[[勝鬘経]]''』、''『[[涅槃経]]''』、『''[[解深密経]]''』、『''[[大乗阿毘達磨経]]''』――5世紀には[[無著]]、[[世親]]兄弟によって[[瑜伽行唯識学派]]が生まれる。 # 後期大乗経典…『''[[楞伽経]]''』、『''[[大乗密厳経]]''』――6世紀になると、大乗経典の中にも密教の萌芽が見られる。 === 密教の成立 === インド仏教が[[密教]]化したのは、周辺の宗教から影響を受けた結果である。[[バラモン教]]や非アーリヤ文明を継承して、[[ヒンドゥー教]]と同じ基盤の上に大乗仏教の一環として成立した。ことに[[呪術]]・[[儀礼]]を強調することで、当時はライバルであったヒンドゥー教に対抗できる大乗仏教として発展していった。この密教化は、周辺の土着文化や宗教を自らのものとして取り込み、各地の民族宗教と一体化しながら展開されたので、大乗仏教の新しい領域を広げるという面では大きな力を発揮した。[[7世紀]]になると、『''[[大毘盧遮那成仏神変加持経|大日経]]''』や『''[[金剛頂経]]''』が成立した。 また密教化の過程で、ヒンドゥー教やイスラーム教の台頭に対抗するため、仏教保護と怨敵降伏を祈願する憤怒相の護法尊が次々と誕生していった。さらには、ヒンドゥー教シャークタ派の[[タントラ教|タントラ]]やシャクティ(性力)信仰の影響も受けた。 しかし、ヒンドゥー教に倣って[[マントラ]]([[真言]][[陀羅尼]])を唱えたり、多数の新奇な仏尊が礼拝対象となったり、さらには仏法の中心が[[大日如来]]や[[金剛薩埵]]、[[法身普賢]]となったり、タントラの影響で[[性行為|性]]的な修行も取り入れたりした。また、後期インド仏教とヒンドゥー教との差別化が曖昧になるにつれて、後期インド仏教のヒンドゥー教に対する劣勢は確定的になった。 == インド社会との交流史 == === ヴェーダとの交渉 === [[カスピ海]]周辺部の遊牧民族の一部が南下東行して[[紀元前2000年|前2000年]]頃インドに[[アーリア人]]が、入ったと推測される。そのころには[[インダス文明]]が栄えていたが、後に砂漠化で衰退した。[[紀元前1500年|前1500年]]頃には[[パンジャーブ]]地方に進行し国の基礎を築いたとされる。このころから数世紀にわたって作り上げられたのが[[ヴェーダ]]である。この教典によって成立したのが[[ヴェーダの宗教]]([[バラモン教]])であり、そこには支配者としてのアーリア人によって作られた規範が盛り込まれている。[[紀元前1000年|前1000年]]頃になると、祭式をとりしきる[[ブラフミン|バラモン]](司祭)の力が増大し、あまりに強固になったので、祭式至上主義を批判する者たちから[[ウパニシャッド]]哲学が起こってきた。この新たな運動は、バラモンが優位に立っていた政治的制度的力を再検討し、本来のヴェーダに回帰しようとの動きでもあった。このような運動がおし進められて、さらにはヴェーダそのものからも自由になろうとする沙門(シュラマナ、出家した行者)と呼ばれる自由思想家たちが登場する(六師外道)。釈迦もその一人であった。当時の沙門たちの基本的な方法論は、[[瞑想]]などの修行によって、認識論的にすべての束縛からの[[解脱]]を求めようとするものである。それは、ヴェーダやウパニシャッドからも解脱しようとするものであった。 === 興隆期から没落期まで === {{see also|[[インドにおける仏教の衰退]]}}[[File:Nalanda Univercity.JPG|270px|thumb|侵略者が略奪や火を放ち修道院を破壊された[[ナーランダ僧院]]。9階建ての図書館は3ヶ月間燃えたと伝えられてる。]] [[マウリヤ朝]]の[[アショーカ王]]は仏教を手厚く保護し、寺院建設や仏教の布教を援助した結果、仏教は、インド全体に広まった。アショーカ王は最初から仏教徒であったわけではなく、インドを統一後に自分の行った殺戮を後悔して仏教に改宗したといわれている。 また、当時は[[ローマ帝国]]との東西交易によりインド経済が発展・繁栄し、ビジネスで成功した富裕層(長者)が仏教に帰依・支援していたこともインド仏教の興隆の社会的要因の一つである。 それ以降の[[クシャーナ朝]]、[[サータヴァーハナ朝]]、[[グプタ朝]]、[[ヴァルダナ朝]]、[[パーラ朝]]等の北インド歴代王朝は、[[仏教]]を保護し、[[ガンダーラ美術]]とグプタ美術と呼ばれる仏教美術が盛んに作られた。 [[グプタ朝]]のクマーラグプタ1世は[[ナーランダ僧院]]を壮大な建物に改善、修復を実施し数千人の学僧を集め、仏教教学を中心に、医学、天文学、数学などを研究した。 世界最古の総合[[大学]]の一つでもあるナーランダ僧院で学究が進められ、その成果が[[ベトナム|ヴェトナム]]、[[中国]]、[[朝鮮]]、[[日本]]、[[チベット]]に伝わった。 [[ヴァルダナ朝]]時代には、[[玄奘三蔵]]が[[ナーランダ僧院]]に留学し、[[戒賢]]に師事して[[唯識]]を学び、各地の仏跡を巡拝した。 [[パーラ朝]]のダルマパーラ王ダルマパーラによって、[[ヴィクラマシーラ大学]]が創設された。チベット人の資料によれば、5つの大精舎があったとされている。 [[ヴィクラマシーラ大学]]出身の仏教僧[[アティーシャ]]は、[[サキャ派]]の[[コンチョ・ギェルポ]]、[[カギュ派]]の[[マルパ]]と共に[[ラン・ダルマ]]王以降衰退していた[[チベット仏教]]の中興の祖の一人である。 また後期インド仏教は、[[ヴェーダーンタ学派]]や[[ミーマーンサー学派]]、[[ヨーガ学派]]などの[[六派哲学]]の賢人を輩出したヒンドゥー教の台頭と隆盛、[[タントリズム]]の流行の影響を受けて[[ヒンドゥー教]]化し、埋没化しつつあった。 南インドでは、[[サータヴァーハナ朝]]の保護の下で、[[龍樹|ナーガールジュナ]]は大乗仏教運動を体系化したともいわれ、[[セイロン島|セイロン]]、[[カシミール]]、[[ガンダーラ]]、[[中国]]などからの僧侶のために院を設けた。この地(古都[[ハイデラバード (インド)|ハイデラバード]]の東 70 km)は後に、[[:en:Nagarjunakonda|ナーガールジュナ・コーンダ]](丘)と呼ばれる。 また、[[パッラヴァ朝]]の[[ボーディダルマ|達磨]]が、中国に伝えた教えが禅宗となった。 [[1193年]]に、[[ゴール朝]]の[[クトゥブッディーン・アイバク|アイバク]]靡下の将軍 [[:en:Ikhtiyar Uddin Muhammad Bin Bakhtiyar Khalji|ムハンマド・バフティヤール・ハルジー]] 率いる[[トルコ]]、[[ムスリム]]の侵略によって[[ナーランダ僧院]]や[[ヴィクラマシーラ大学]]等の[[偶像崇拝]]を否定する名目で[[仏像]]や仏教[[寺院]]は、破壊された。[[13世紀]]以降、[[奴隷王朝]]や[[デリー・スルターン朝]]等の、[[イスラーム王朝]]設立によるインドのイスラーム化により、イスラーム到来以前から衰退の途上にあったインドの仏教は決定的に没落した。 インド仏教の衰退後も、[[ミャンマー]]に近い[[ベンガル地方]]では戒律を重視する[[上座部仏教]]の集団が現代まで非常にわずかながらも存続しているが(例:[[:en:Chakma people]])、後期インド仏教であるタントラ仏教や後期密教は[[ネパール]]や[[チベット]]地方に伝播してインドからは姿を消していった。 [[19世紀]]後半、イギリス人によって[[提婆達多]]の系列という森林修行者の集団が報告されている。このことは結集に参加しなかったグループがおり、この時期まで存続していたということなのかもしれない。現在は不明。 === インドの仏教の現在 === [[File:Srimath Anagarika Dharmapala (1864-1933).jpg|left|150px|thumb|[[アナガーリカ・ダルマパーラ|ダルマパーラ(1864-1933)]]]] [[File:Night_View_of_the_Ambedkar_Memorial_at_Lucknow.jpg|right|250px|thumb|[[ラクナウ]]のアンベードカル記念公園。]] [[File:Pagoda_at_Mumbai.jpg|right|300px|thumb|[[ムンバイ]]に建てられた巨大なヴィパッサナー寺院。]] [[File:Dalailama1_20121014_4639.jpg|left|150px|thumb|インドは[[ダライ・ラマ14世]]の亡命を受け入れた。]] 近代に入って、[[アナガーリカ・ダルマパーラ|ダルマパーラ]]ら[[大菩提会]](1891年設立)の運動によるスリランカからの仏教再移入があり、インド独立直後、[[ビームラーオ・アンベードカル|ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル]] ([[w:B. R. Ambedkar|B. R. Ambedkar]]) の率いた社会運動によって、およそ50万人のダリットの人々が仏教へと改宗したことで、インドにおいて仏教徒が一定の社会的勢力として復活した(いわゆる[[新仏教運動]])。 インド政府の宗教統計によれば、インドでの仏教徒の割合は1961年に0.7%であったが2001年には0.8%(約800万人)程度である。増加しているのはイスラム教徒で、同年を比較すると10.7%から13.4%で、ヒンドゥー教徒の割合は低下しており、同年83.4%から80.5%である。キリスト教やシク教などは、仏教と同じく横ばいである<ref>[https://web.archive.org/web/20050901164835/http://www.censusindia.net/religiondata/statement.pdf インド政府による統計]</ref>。 {{要出典範囲|一方で、インドに帰化した日本人僧佐々井秀嶺は、日本のマスコミ各社にインドの仏教徒は既に1億人を超えていると主張しているが、全く根拠がない。|date=2021年4月}} {{要出典範囲|ダリットを基盤として復活したインド仏教は「アンベードカル仏教」と揶揄されるように、アンベードカルの仏教理解に立脚しており、仏教の基本教理とされる輪廻による因果応報を、カースト差別との関連から拒否するなど、その合理主義的な教義が、不可触民の解放運動の一環に過ぎないと指摘される側面もある。加えて、カーストと関係のない布教活動を行う上座部との二極化も進んでいる。|date=2021年4月}} {{要出典範囲|イスラム教徒の弾圧で、インドから仏教が消滅したため、置き去りにされていた仏教の遺跡の多くは、史跡公園として整備され、現在、管轄地域の州が管理している。また、インドの推薦によりナーランダやサールナートは仏教の聖地として世界遺産候補に指定されている。|date=2021年4月}} [[1959年]][[3月31日]]に、[[ジャワハルラール・ネルー]]初代首相は、[[ダライ・ラマ14世]]のインド亡命を受け入れた。1959年[[10月20日]]に開始された[[中印国境紛争]]以後もダライ・ラマ14世を保護し続け、[[インド北部]]の[[ダラムシャーラー]]に[[ガンデンポタン]](チベット亡命政府)と多数の亡命 [[チベット人]]を今日まで受け入れ、[[チベット仏教]]文化の拠点となっており、「リトル・[[ラサ]]」とも呼ばれて、観光地として人気が高い。 [[ヴィパッサナー瞑想]]の在家指導者、[[サティア・ナラヤン・ゴエンカ]](1924-2013)によるヴィパッサナー運動は、宗教の枠を超え、インドのみならず世界でも活動した<ref>http://zeenews.india.com/news/nation/vipassana-pioneer-sn-goenka-is-dead_880114.html</ref>。[[ムンバイ]]に建てられた巨大なヴィパッサナー寺院は、直径97mの石造りのドーム。8000人以上が一度に瞑想出来る。竣工式にはインド[[大統領]]も参加した。2012年にゴエンカは[[パドマ賞]]をインド大統領から授与された。 == インド国内の仏教遺跡 == <gallery> File:Sanchi2.jpg|[[サーンチー]]の仏教遺跡 File:Bodh Gaya 02.jpg|[[ブッダガヤ]]の大菩提寺 File:Ancient Buddhist monasteries near Dhamekh Stupa Monument Site, Sarnath.jpg|[[サールナート]]ダメークの仏塔跡 File:Vulturepeak1.jpg|[[ラージャグリハ|ラージギール]][[王舎城]]霊鷲山 File:Jetavana.jpg|[[サヘート・マヘート]][[祇園精舎]] File:Angulimalastupa.jpg|アングリマーラの仏塔跡/[[舎衛城]] File:Anandastupa.jpg| [[毘舎離|ヴァイシャリ]]アナンダの仏塔跡 File:kusinara.jpg|[[クシナガラ|クシーナガラ]]涅槃堂 File:Panaromic view of the buddha statue and other monuments.jpg|[[:en:Nagarjunakonda|ナーガールジュナコンダ]](丘) File:Nalanda University India ruins.jpg|[[ナーランダ僧院]]の遺跡 File:Vikramshila-7.jpg|[[ヴィクラマシーラ僧院]]の遺跡 File:Ajanta caves panorama 2010.jpg|[[アジャンター石窟群]]外観 File:Ellora_cave10_002.jpg|[[エローラ石窟群]]の仏教石窟 File:Ladakh Monastery.jpg|[[ラダック]]の修道院 </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=原始仏教の思想 I|date=1993-08-01|year=1993|publisher=[[春秋社]]|ref={{SfnRef|中村|1993}}|author=中村元|authorlink=中村元|isbn=9784393312155}} * {{Cite book|和書|title=ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経|date=2019-05-07|year=2019|publisher=[[岩波書店]]|author=中村元|isbn=9784003332511}} * {{Cite book|和書|title=〈文化〉としてのインド仏教史|date=2018-12-10|year=2018|publisher=大正大学出版会|ref={{SfnRef|奈良|2018}}|author=奈良康明|authorlink=奈良康明|isbn=9784909099273}} * {{Cite book|和書|title=求道者 愛と憎しみのインド|date=2015-1-1|year=2015|publisher=サンガ新書|author=佐々井秀嶺|authorlink=佐々井秀嶺|isbn=9784865640069}} == 関連項目 == {{Portal 仏教}} * [[インドにおける仏教の衰退]] * [[仏教]] | [[チベット仏教]] | [[スリランカの仏教]] | [[東南アジアの仏教]] * [[中国の仏教]] | [[日本の仏教]] | [[朝鮮の仏教]] * [[仏教遺跡]] | [[インドの仏教遺跡]] | [[アジアの仏教遺跡]] * [[インドの宗教]] | [[宗教]] | [[インド]] * [[東洋哲学]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{アジアの題材|仏教||地域別仏教}} {{buddhism2}} {{デフォルトソート:いんとのふつきよう}} [[Category:インドの仏教|*]] [[Category:各国の仏教|いんと]] [[Category:インドの宗教|ふつきよう]]
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2023-09-19T14:48:13Z
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[ "Template:Portal 仏教", "Template:アジアの題材", "Template:Buddhism2", "Template:Pie chart", "Template:Sfn", "Template:See also", "Template:要出典範囲", "Template:Cite book", "Template:複数の問題", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Notelist", "Template:Reflist", "Template:Commonscat-inline" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
4,453
悪の枢軸
悪の枢軸(あくのすうじく、英語: axis of evil)とは、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が2002年1月29日の一般教書演説で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、イラン・イスラム共和国、イラク(バアス党政権)の3か国を名指で批判する際に使った総称である。 アメリカは2001年9月11日に同時多発テロ事件を起こされており、対テロ戦争の一環としてアフガニスタン紛争が勃発した。「悪の枢軸」発言はこれが一定の成果を収めた翌年の2002年1月に一般教書演説において、当時ならずもの国家(あるいはテロ支援国家)とされた国々を念頭にして発言されたものである。なお、仕掛け人はブッシュ政権のスピーチライターで、当時はまだアメリカ国籍でなかったユダヤ系カナダ人のデーヴィド・フラムである(フラムは2007年9月11日にアメリカ国籍を取得)。 当時イラン、イラク、北朝鮮は大量破壊兵器を開発もしくは保持しており、またテロ組織を支援しているという認識が米英を始めとする先進諸国にはあった。イラクは湾岸戦争後の取り決めで大量破壊兵器の破棄および国連による査察団の受け入れが課されていたが、これを拒否し続けていた。 北朝鮮は国際原子力機関 (IAEA) の査察団を追放し、核拡散防止条約を破棄して核兵器開発に乗り出した(北朝鮮核問題)。イランの場合はイランの核開発問題があった。 さらに同年5月には、ジョン・ボルトン国務次官による「悪の枢軸を越えて」の演説において、大量破壊兵器を追求する国々としてシリア、リビア、キューバが追加で指定されている。 そして約1年後の2003年3月19日に、イラク戦争が勃発する。 「悪の枢軸」という表現は第二次世界大戦における「枢軸国」と、ロナルド・レーガン大統領の「悪の帝国」を組み合わせたものと見られる。また、イラク戦争後の2006年2月30日にワシントンで行った講演でも再び「悪の枢軸」という表現を用いて、イランと北朝鮮を批判している。 イラクは反発したものの、同年に4年ぶりの全面査察に応じた。 北朝鮮は同年10月にアメリカとの協議中に「われわれは悪の枢軸の一員だ」と開き直るような発言をした。 イラク、イランといったイスラム国家の他に非イスラム国家である北朝鮮を混ぜたことで、これがキリスト圏とイスラム圏の争いではないと主張する意味を持つという評価もあった。 ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は悪の枢軸をもじって、ベネズエラ、キューバ、ボリビアの連携を善の枢軸 (axis of good) と自称した。 これらの国は中南米の反米・左翼政権であり、アメリカが進める新自由主義やグローバリズムといった点に対抗するための協調を行っている。 2008年2月28日、イスラエルのエフード・オルメルト首相が日本記者クラブの講演で、「北朝鮮とイラン、シリア、ヒズボラ、ハマースは悪の枢軸だ」だと発言した。 これに対し北朝鮮は「イスラエルと言えば、中東地域で侵略と破壊、殺人などの悪事を働くもっとも危険な反動勢力である」「シオニストの巨頭が、犯罪的な反パレスチナ侵略行為やアラブ領土占領政策などで自らに注がれる世界の鋭い視線を他にそらそうとしているが、それは逆に自分の首を絞める愚かな行為である」と激烈に批判した。ただ、北朝鮮がイランやシリアと武器輸出などで懇意なのは確かであり、またアメリカ議会調査局によると、ヒズボラの兵士が1980年代後半から北朝鮮当局の招待に応じて訪朝し、北朝鮮国内での軍事訓練を受けていたとされる。 2010年5月12日には、イスラエルのアヴィグドール・リーベルマン外相が日本記者クラブの講演で、イラン、シリア、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、国際社会が核や大量破壊兵器の拡散防止のために連携するよう訴えた。
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悪の枢軸とは、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が2002年1月29日の一般教書演説で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、イラン・イスラム共和国、イラク(バアス党政権)の3か国を名指で批判する際に使った総称である。
[[Image:Axis of Evil Map.png|400px|thumb| {{Legend|#000080|{{USA}} }} {{Legend|#C60000|[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ大統領]]による「悪の枢軸」、{{IRN}}・{{IRQ1991}}・{{PRK}} }} {{Legend|#FFB366|[[ジョン・ボルトン|ボルトン国務次官]]による「悪の枢軸を越えて」演説で指定された国々、{{CUB}}、{{LBY1977}}、{{SYR}}}} ]] {{wikisource|en:George W. Bush's Second State of the Union Address|ブッシュ大統領の2002年1月29日一般教書演説}} '''悪の枢軸'''(あくのすうじく、{{Lang-en|axis of evil}})とは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が[[2002年]][[1月29日]]の[[一般教書演説]]で<ref>{{Cite web|和書|url=https://shinsho.shueisha.co.jp/column/campus2/040128/index.html |title=007 ブッシュ政権の人々 Part1 |access-date=2022-11-19 |publisher=集英社 |website=集英社新書WEBコラム |archive-url=https://web.archive.org/web/20080404001529/https://shinsho.shueisha.co.jp/column/campus2/040128/index.html |archive-date=2008-04-04 |deadlinkdate=2021-04-29 |quote=[[デイビット・フラム]](ブッシュ政権のスピーチライター)が流行語「悪の枢軸」を仕掛け |author=[[岡崎玲子]]}}</ref>、[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)、[[イラン|イラン・イスラム共和国]]、[[イラク]]([[バアス党政権 (イラク)|バアス党政権]])の3か国を名指で批判する際に使った総称である。 == 概要 == アメリカは[[2001年]][[9月11日]]に[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]を起こされており、[[対テロ戦争]]の一環として[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|アフガニスタン紛争]]が勃発した。「悪の枢軸」発言はこれが一定の成果を収めた翌年の2002年[[1月]]に一般教書演説において、当時[[ならずもの国家]](あるいは[[テロ支援国家]])とされた国々を念頭にして発言されたものである。なお、仕掛け人はブッシュ政権の[[スピーチライター]]で、当時はまだアメリカ国籍でなかった[[ユダヤ人|ユダヤ系]]カナダ人の[[デーヴィド・フラム]]である(フラムは[[2007年]][[9月11日]]にアメリカ国籍を取得)。 当時イラン、イラク、北朝鮮は[[大量破壊兵器]]を開発もしくは保持しており、またテロ組織を支援しているという認識が米[[イギリス|英]]を始めとする先進諸国にはあった。イラクは[[湾岸戦争]]後の取り決めで大量破壊兵器の破棄および[[国際連合|国連]]による査察団の受け入れが課されていたが、これを拒否し続けていた。 北朝鮮は[[国際原子力機関]] (IAEA) の査察団を追放し、[[核拡散防止条約]]を破棄して[[核兵器]]開発に乗り出した([[北朝鮮核問題]])。イランの場合は[[イランの核開発問題]]があった。 さらに同年[[5月]]には、[[ジョン・ボルトン]][[アメリカ合衆国国務次官|国務次官]]による「悪の枢軸を越えて」の演説において、大量破壊兵器を追求する国々として[[シリア]]、[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]、[[キューバ]]が追加で指定されている。 そして約1年後の[[2003年]][[3月19日]]に、[[イラク戦争]]が勃発する。 「悪の枢軸」という表現は[[第二次世界大戦]]における「[[枢軸国]]」と、[[ロナルド・レーガン]]大統領の「[[悪の帝国]]」を組み合わせたものと見られる。また、イラク戦争後の[[2006年]][[2月30日]]に[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で行った講演でも再び「悪の枢軸」という表現を用いて、イランと北朝鮮を批判している。 [[2023年]][[10月]]に、[[ミッチ・マコーネル]][[院内総務 (アメリカ)|上院院内総務]]は[[フォックス放送|FOX]]のインタビューでは、「イラン、北朝鮮、[[中華人民共和国|中国]]、[[ロシア]]が新たな悪の枢軸だ」と発言した<ref>{{Cite web |date=2023-10-22 |url=https://www.newsweek.com/us-faces-new-axis-evil-iran-china-russia-mitch-mcconnell-1836775 |title=米国はイラン、中国、ロシアの新たな「悪の枢軸」に直面している |access-date=2023-12-05 |website=Newsweek |language=en}}</ref>。 == 影響 == イラクは反発したものの、同年に4年ぶりの全面査察に応じた。 北朝鮮は同年[[10月]]にアメリカとの協議中に「われわれは悪の枢軸の一員だ」と開き直るような発言をした。 イラク、イランといった[[イスラム国家]]の他に非イスラム国家である北朝鮮を混ぜたことで、これが[[キリスト教|キリスト圏]]と[[イスラム教|イスラム圏]]の争いではないと主張する意味を持つという評価もあった。 == 「善の枢軸」 == [[ベネズエラ]]の[[ウゴ・チャベス]][[ベネズエラの大統領|大統領]]は悪の枢軸をもじって、ベネズエラ、キューバ、[[ボリビア]]の連携を'''善の枢軸''' ({{en|axis of good}}) と自称した。 これらの国は[[ラテンアメリカ|中南米]]の[[反米]]・[[左翼]]政権であり、アメリカが進める[[新自由主義]]や[[グローバリズム]]といった点に対抗するための協調を行っている。 ==イスラエルによる「悪の枢軸」発言== [[2008年]][[2月28日]]、[[イスラエル]]の[[エフード・オルメルト]][[イスラエルの首相|首相]]が[[日本記者クラブ]]の講演で、「北朝鮮とイラン、シリア、[[ヒズボラ]]、[[ハマース]]は悪の枢軸だ」だと発言した。 これに対し北朝鮮は「イスラエルと言えば、[[中東]]地域で侵略と破壊、殺人などの悪事を働くもっとも危険な反動勢力である」「[[シオニスト]]の巨頭が、犯罪的な反[[パレスチナ]]侵略行為やアラブ領土占領政策などで自らに注がれる世界の鋭い視線を他にそらそうとしているが、それは逆に自分の首を絞める愚かな行為である」と激烈に批判した<ref>{{Cite news|title=〈論調〉イスラエルこそ危険な反動勢力|newspaper=[[朝鮮新報]]|date=2008-03-14|url=http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2008/05/0805j0314-00003.htm|access-date=2010-02-01|archive-url=https://web.archive.org/web/20080324130250/http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2008/05/0805j0314-00003.htm|archive-date=2008-03-24}}</ref>。ただ、北朝鮮がイランやシリアと武器輸出などで懇意なのは確かであり、また[[議会調査局|アメリカ議会調査局]]によると、ヒズボラの兵士が[[1980年代]]後半から北朝鮮当局の招待に応じて訪朝し、北朝鮮国内での軍事訓練を受けていたとされる。 [[2010年]][[5月12日]]には、イスラエルの[[アヴィグドール・リーベルマン]]外相が日本記者クラブの講演で、イラン、シリア、北朝鮮を「悪の枢軸」と呼び、国際社会が核や大量破壊兵器の拡散防止のために連携するよう訴えた<ref>{{citenews|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2725888?pid=5743852 |title=北朝鮮は「悪の枢軸」、来日中のイスラエル外相 |publisher=[[フランス通信社|AFPBB News]]|date=2010-5-12|accessdate=2017-12-14}}</ref>。 ==脚注== {{reflist}} == 関連項目 == * [[枢軸国]] * [[テロ支援国家]] * [[ならずもの国家]] * [[第十次十字軍]] {{対テロ戦争}} {{DEFAULTSORT:あくのすうしく}} [[Category:ジョージ・W・ブッシュ]] [[Category:発言]] [[Category:2002年のアメリカ合衆国の政治]] [[Category:アメリカ合衆国の国際関係 (1990年-)]] [[Category:反共主義]] [[Category:イラク戦争]] [[Category:ネオコン]] [[Category:対テロ戦争]] [[Category:米朝関係]] [[Category:アメリカ合衆国・イラン関係]] [[Category:アメリカ合衆国・イラク関係]] [[Category:2002年の国際関係]] [[Category:2002年1月]] [[Category:反イラン感情]]
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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦
『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦』(クレヨンしんちゃん あらしをよぶ アッパレ せんごくだいかっせん)は、2002年4月20日に劇場公開された日本のアニメーション映画。『クレヨンしんちゃん』の劇場映画シリーズ第10作目(映画化10周年記念作品)。上映時間95分。興行収入は約13億円。 ある夜、野原一家は全員揃って時代劇に出てくるような格好をした綺麗な"おねいさん"の夢を見る。しんのすけが幼稚園から帰ると、犬のシロが庭を掘り返していた。その穴から見つけた文箱の中には「おらてんしょうにねんにいる」と読める汚い字とぶりぶりざえもんの絵が描かれた手紙が入っていた。埋めた覚えはないのにと訝しがるしんのすけだが、「おひめさまはちょーびじん」という一文を見て朝の夢を思い出し、"おねいさん"に思いを馳せながら目を閉じる。 目を開けた瞬間、しんのすけは夢で見た泉の畔に立っていた。訳もわからず歩いているうちに、軍勢同士の合戦に遭遇してしまう。最初は時代劇の撮影だと思い込むしんのすけだが、偶然から一人の侍の命を救う。井尻又兵衛由俊(いじり またべえ よしとし)というその侍は、命を救ってくれた恩からしんのすけを自分たちの城、春日城に案内してくれるという。そこには、しんのすけが夢で見た"おねいさん"こと廉姫(れんひめ)がいた。 又兵衛と廉姫が想いを寄せ合っている事を察したしんのすけは2人の仲を取り持とうとするが、2人は身分の違いからお互いの想いを打ち明けられずにいた。 一方、しんのすけの父ひろしと母みさえは、行方不明になったしんのすけの安否を気遣っていた。警察の捜索も手がかりがなく行き詰まっている中、ひろしはしんのすけの残した手紙が気になり、図書館で史料を調べる。そこには「天正2年に戦で野原信之介とその一族が奮戦」との記録があった。ひろしはしんのすけが戦国時代にタイムスリップしたと確信し、「きっとオレ達も過去に行く事になる」と悟った。反対するみさえを説得し、家族と共に車に乗り込んだひろしだが、過去に行く方法すら解らない。思いつきからシロが掘った穴の上に車を進めてみる。 その頃しんのすけは、廉姫に初めに来た場所に手紙を埋めてはどうかと提案され、泉の前に文箱を埋めていた。そこに突如ひろしたちを乗せた車が現れ、しんのすけは家族との再会を果たす。急いで現代へ戻ろうとするひろしたちだが、いくら念じても戻る事ができない。一家はしばらく春日城に滞在することになってしまう。 春日城の城主・春日康綱(かすが やすつな)は、ひろし達から未来ではどの大国もみな滅び去っていることを聞き、政略結婚によって今日の安寧を得ても無意味と考え、廉姫に婚姻を迫る隣国の大大名・大蔵井高虎(おおくらい たかとら)に婚姻解消の旨を伝える。だが、これを受けた大蔵井は2万の兵を率いて春日城へ攻めてきた。又兵衛らがこれを迎え撃つ為に城の守りを固める中、ひろしはこのままでは史実通り、自分達も戦うことになってしまうと恐れていた。 そして始まる春日合戦。初日は大蔵井側が本気ではなかったことにより、両者痛み分けで終わる。その夜の評定により、翌日は城から打って出、高虎の首を狙うという作戦が決定された。同時に、敵が動揺したところで野原一家を城から逃がすことも。 そして二日目の朝。夜明けとともに城門を開き出撃する春日軍。油断していた大蔵井軍は混乱に陥るもののすぐに態勢を立て直し、迎撃に入る。その頃、無事に城から脱出していた野原一家だが、しんのすけに「おマタのおじさんをお助けしなくていいの?」と問われ、戦場へと引き返す。 多勢に無勢、部隊が寸断され各個撃破されていく春日軍に心を決めた野原一家が加勢、自動車を知らない大蔵井軍は大混乱に陥り、春日軍は進軍を再開、大蔵井の本陣へ進む。野原家の車についで本陣に乗り込んだ又兵衛は、馬廻衆真柄太郎左衛門直高と熾烈な戦いを演じる。その戦いをよそに本陣から逃げ出そうとする高虎をしんのすけが面罵、家族総出で打ち倒すことに成功する。 倒れた高虎の首をとろうとする又兵衛にしんのすけが「もう攻めてこないから許してやろう」と言う。しんのすけの説得を受けいれ、髻だけを取って戦勝を宣言する又兵衛。こうして春日合戦は終わった。 多数の味方を打ち取られながらも凱旋する春日軍。だが、出迎える廉姫の耳に銃声が届き、又兵衛は胸から血を流し馬から落ちる。 又兵衛は、駆け寄るしんのすけに「お前は皆を守る時間をくれるために過去に来たのだ」と語り、父の形見の右手差しを贈り、息を引き取る。 その後、廉姫はしんのすけに又兵衛への恋心を打ち明け、その思いを胸に生涯独身を貫くと語った。 野原一家は現代へと戻り、久しぶりに我が家へと帰宅した。空には「おじさんの旗」のような雲が流れていた。 一方戦国時代でも、廉姫が同じ雲を通して又兵衛へと呼びかけていた。「おい、青空侍。」 『クレヨンしんちゃん』のレギュラーメンバーの基本設定はクレヨンしんちゃんの登場人物一覧および個別記事を参照。 本作はアニメーション映画ではあるものの、制作に際しては文献調査や時代考証に力が入れられており、戦国時代の風景や生活が、丁寧で詳細に描写されている。戦場での白兵戦も、単なるチャンバラではなく、総合的な組討術の所作が考証されている。これについて作家の鈴木輝一郎は「戦国時代の合戦シーンとして、動画の映像資料として最も正確なもの」と述べている。また、『クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん』の脚本を務めた劇作家の中島かずきも、第30回東京国際映画祭の特集上映「原恵一の世界」で開かれた原恵一との対談の中で「合戦を飛礫(つぶて)から始める描写をやるのそうないはず。実際の時代劇ではお金がかかるからという理由で飛ばされる『合戦前の段取りとして田んぼを刈る』という場面も丁寧に描かれていてすごいと思った」と述べている。一方で、原は監督にあたり黒澤明の映画を意識したと対談の中で述べており、ラストの合戦シーンで刀を多用したことについて「『七人の侍』の時代の侍は槍が主な武器だったものの、映画の中では刀が使われている。それでも、時代劇なので刀の方が立ち回りがかっこいいと思う。」と述べている。 本作で主要キャラクターが戦で死ぬ場面が出てくることについて、原恵一は「テレビ局や広告代理店などから猛反対されましたが、最終的に原作者である臼井(儀人)さんにプロットを見せて許可をいただきました」と第30回東京国際映画祭のラインナップ発表会の中で振り返っており、「今はテレビ局が主人公の死ぬ場面をやめたりするんですよね。しかし、僕らは子供のころからそういう作品を見て育ったけど、別にひねくれて育っていないですけどね」とも述べている。 原が当初プロットにつけていたタイトルは『青空侍』であった。茂木仁史プロデューサーは「普段はタイトルなんて適当なのに、本作では非常にこだわっていた」と語っている。しかし、興行的に弱いという理由でこのタイトルは不採用となった。文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞による賞金で作られた関係者配布用DVDのパッケージにこのタイトルを入れている。 春日廉(廉姫)を演じた小林愛は、前作『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のチャコに続けての出演であり、ケンにぞっこんだった彼女とは正反対に、身分の違いから互いの想いを伝えらない、悲愛が描かれている。 本作品で吉永みどりが初めて登場しない。また原作、アニメ、映画を通して、しんのすけの漢字が初めて出てきた(信之介)。さらに、ひろしが映画で初めて自家用車を運転し、大活躍している。 本作は文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞を初め数多くの賞を受賞した。これらは、一連の『クレヨンしんちゃん』のシリーズにおいて初めての公式の受賞である。 本作を原案とした時代劇作品『BALLAD 名もなき恋のうた』が2009年9月5日に公開され、原案となった本作でもそれに連動した企画が行われた。 実写映画化記念として、2009年内にアニメ『クレヨンしんちゃん』内で放映されたスピンオフ作品。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』および『BALLAD 名もなき恋のうた』に関連した話が4週連続で放送された。 2009年8月14日/21日放送。1562年、井尻又兵衛と春日の少年少女時代にカスカベタイムパトロール隊としてタイムスリップしてきたしんのすけ達が活躍するという内容。『漫画アクション』18号にコミカライズを掲載。 2009年8月28日放送。野原城の殿様であるしんのすけが、城下の遊園地群雄割拠ランドにお忍びで遊びに行くという内容。 2009年9月4日放送。現代を舞台に、井尻又兵衛由俊と春日廉の生まれ変わりのような2人を中心に描いた内容(そのため、いつも通りの設定のレギュラーメンバーの設定や名称は割愛する)。『BALLAD 名もなき恋のうた』のキャストが登場。途中所々で映画の実写シーンが「夢の内容」としてはさまれる構成がとられた。なお、新垣結衣は『フレフレ少女』の番宣「応援フレフレお尻もフレフレスペシャル!!」の百山桃子役以来の『しんちゃん』への出演となる。
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『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦』は、2002年4月20日に劇場公開された日本のアニメーション映画。『クレヨンしんちゃん』の劇場映画シリーズ第10作目(映画化10周年記念作品)。上映時間95分。興行収入は約13億円。
{{pp|small=yes}} {{Infobox Film |作品名=クレヨンしんちゃん<br />嵐を呼ぶ<br />アッパレ!戦国大合戦 |原題= |画像= |画像サイズ= |画像解説= |監督=[[原恵一]] |脚本=原恵一 |原案= |原作=[[臼井儀人]] |製作=[[茂木仁史]]<br>[[太田賢司]]<br>生田英隆 |製作総指揮= |ナレーター= |出演者=[[矢島晶子]]<br />[[ならはしみき]]<br />[[藤原啓治]]<br />[[こおろぎさとみ]]<br />[[屋良有作]]<br />[[小林愛]]<br />[[山路和弘]]<br />[[宮迫博之]]<br />[[蛍原徹]] |音楽=[[荒川敏行]]<br />[[浜口史郎]] |主題歌=[[ダンス☆マン]]<br />『二中のファンタジー<br />~体育を休む女の子編~』 |撮影=梅田敏之 |編集=[[岡安肇]]<br>[[小島俊彦]] |製作会社=[[シンエイ動画]]<br />[[ADKホールディングス|ASATSU-DK]]<br />[[テレビ朝日]] |配給=[[東宝]] |公開={{Flagicon|JPN}} [[2002年]][[4月20日]] |上映時間=95分 |製作国={{JPN}} |言語=[[日本語]] |製作費= |興行収入=13億円 |前作=[[クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲]] |次作=[[クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード]] }} 『'''クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦'''』(クレヨンしんちゃん あらしをよぶ アッパレ せんごくだいかっせん)は、[[2002年]][[4月20日]]に劇場公開された[[日本]]の[[アニメーション映画]]。『[[クレヨンしんちゃん]]』の劇場映画シリーズ第10作目(映画化10周年記念作品<ref>[http://anibu.jp/crayon-shinchan-appare-1-10051.html 『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』を暇なので、まじめに解説{{Nowiki|[その1]}}]あにぶ</ref>)。上映時間95分。[[興行収入]]は約13億円。 == あらすじ == ある夜、野原一家は全員揃って時代劇に出てくるような格好をした綺麗な"おねいさん"の夢を見る。'''しんのすけ'''が幼稚園から帰ると、犬の'''シロ'''が庭を掘り返していた。その穴から見つけた文箱の中には「おら[[1574年|てんしょうにねん]]にいる」と読める汚い字と[[ぶりぶりざえもん]]の絵が描かれた手紙が入っていた。埋めた覚えはないのにと訝しがるしんのすけだが、「おひめさまはちょーびじん」という一文を見て朝の夢を思い出し、"おねいさん"に思いを馳せながら目を閉じる。 目を開けた瞬間、しんのすけは夢で見た泉の畔に立っていた。訳もわからず歩いているうちに、軍勢同士の合戦に遭遇してしまう。最初は時代劇の撮影だと思い込むしんのすけだが、偶然から一人の侍の命を救う。'''井尻又兵衛由俊'''(いじり またべえ よしとし)というその侍は、命を救ってくれた恩からしんのすけを自分たちの城、'''春日城'''に案内してくれるという。そこには、しんのすけが夢で見た"おねいさん"こと'''廉姫'''(れんひめ)がいた。 又兵衛と廉姫が想いを寄せ合っている事を察したしんのすけは2人の仲を取り持とうとするが、2人は身分の違いからお互いの想いを打ち明けられずにいた。 一方、しんのすけの父'''ひろし'''と母'''みさえ'''は、行方不明になったしんのすけの安否を気遣っていた。警察の捜索も手がかりがなく行き詰まっている中、ひろしはしんのすけの残した手紙が気になり、[[図書館]]で[[史料]]を調べる。そこには「天正2年に戦で野原信之介<!--映像にある郷土史料では「しんのすけ」ではない-->とその一族が奮戦」との記録があった。ひろしはしんのすけが[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[タイムトラベル|タイムスリップ]]したと確信し、「きっとオレ達も過去に行く事になる」と悟った。反対するみさえを説得し、家族と共に車に乗り込んだひろしだが、過去に行く方法すら解らない。思いつきからシロが掘った穴の上に車を進めてみる。 その頃しんのすけは、廉姫に初めに来た場所に手紙を埋めてはどうかと提案され、泉の前に文箱を埋めていた。そこに突如ひろしたちを乗せた車が現れ、しんのすけは家族との再会を果たす。急いで現代へ戻ろうとするひろしたちだが、いくら念じても戻る事ができない。一家はしばらく春日城に滞在することになってしまう。 春日城の城主・'''春日康綱'''(かすが やすつな)は、ひろし達から未来ではどの大国もみな滅び去っていることを聞き、政略結婚によって今日の安寧を得ても無意味と考え、廉姫に婚姻を迫る隣国の大大名・'''大蔵井高虎'''(おおくらい たかとら)に婚姻解消の旨を伝える。だが、これを受けた大蔵井は2万の兵を率いて春日城へ攻めてきた。又兵衛らがこれを迎え撃つ為に城の守りを固める中、ひろしはこのままでは史実通り、自分達も戦うことになってしまうと恐れていた。 そして始まる春日合戦。初日は大蔵井側が本気ではなかったことにより、両者痛み分けで終わる。その夜の評定により、翌日は城から打って出、高虎の首を狙うという作戦が決定された。同時に、敵が動揺したところで野原一家を城から逃がすことも。 そして二日目の朝。夜明けとともに城門を開き出撃する春日軍。油断していた大蔵井軍は混乱に陥るもののすぐに態勢を立て直し、迎撃に入る。その頃、無事に城から脱出していた野原一家だが、しんのすけに「おマタのおじさんをお助けしなくていいの?」と問われ、戦場へと引き返す。 多勢に無勢、部隊が寸断され各個撃破されていく春日軍に心を決めた野原一家が加勢、自動車を知らない大蔵井軍は大混乱に陥り、春日軍は進軍を再開、大蔵井の本陣へ進む。野原家の車についで本陣に乗り込んだ又兵衛は、馬廻衆'''真柄太郎左衛門直高'''と熾烈な戦いを演じる。その戦いをよそに本陣から逃げ出そうとする高虎をしんのすけが面罵、家族総出で打ち倒すことに成功する。 倒れた高虎の首をとろうとする又兵衛にしんのすけが「もう攻めてこないから許してやろう」と言う。しんのすけの説得を受けいれ、髻だけを取って戦勝を宣言する又兵衛。こうして春日合戦は終わった。 多数の味方を打ち取られながらも凱旋する春日軍。だが、出迎える廉姫の耳に銃声が届き、又兵衛は胸から血を流し馬から落ちる。 又兵衛は、駆け寄るしんのすけに「お前は皆を守る時間をくれるために過去に来たのだ」と語り、父の形見の右手差しを贈り、息を引き取る。 その後、廉姫はしんのすけに又兵衛への恋心を打ち明け、その思いを胸に生涯独身を貫くと語った。 野原一家は現代へと戻り、久しぶりに我が家へと帰宅した。空には「おじさんの旗」のような雲が流れていた。 一方戦国時代でも、廉姫が同じ雲を通して又兵衛へと呼びかけていた。「おい、青空侍。」 == 登場人物 == 『クレヨンしんちゃん』のレギュラーメンバーの基本設定は[[クレヨンしんちゃんの登場人物一覧]]および個別記事を参照。 ; 野原しんのすけ(のはら しんのすけ) : 庭で自身からの手紙を見つけたことから戦国時代に[[タイムスリップ]]することになる。持ち前の明るさで戦国の人々ともすぐに仲良くなる。 : 戦では、自分勝手な大倉井高虎を叱責したことで怒りを買い、一時はピンチとなるが、野原一家で協力して最終的には金的で気絶させる。その後、高虎の首を取ろうとする又兵衛を説得し、[[ちょんまげ]]のみを取ることで戦は終わった。 : 5歳児のため、これまで人の死というものに縁がなく、又兵衛から家族が戦死した話や死生観を聞かされた時にはピンと来ていなかったが、又兵衛の死に際には大粒の涙を流し、初めて人の死の悲しみを知ることとなる。 ; 野原ひろし(のはら ひろし) : しんのすけからの手紙に書かれていた「てんしょうにねん」を調べ、その年に起きた出来事について調べる。 :しんのすけがいないこの世に未練はないと言い、みさえとひまわりを連れて戦国時代へタイムスリップする。 : 戦の際には一家で逃げようとしたが、又兵衛達を放ってはおけず自動車で戦地へ乱入し、劣勢だった戦況を引っくり返す。 ; 野原みさえ(のはら みさえ) : しんのすけが行方不明になった際には警察に連絡するなど心配していた。 :初めはしんのすけからの手紙の内容を信じてはいなかったが、ひろしとひまわりと共に戦国時代へタイムスリップする。 :高虎に殺されそうになったしんのすけを、城から出る前に又兵衛から貰った刀で守った。 ; 井尻又兵衛由俊(いじり またべえ よしとし) : 春日家に仕える[[侍]]。30歳独身。ぼんやりと空を眺めるのが好きで、青地に[[雲]]を模った旗印から「青空侍」と呼ばれている。両親と兄弟がいたが、母は病死、父と兄弟はいずれも戦死(討死)している。 : 戦いに滅法強く、「[[鬼]]の井尻」と呼ばれ恐れられている一方で、女性には非常に弱い。しんのすけからは「おマタのおじさん」と呼ばれている。 : [[合戦]]の最中、敵に狙われていることにも気づかず空を眺めていたが、[[タイムスリップ]]してきたしんのすけと共に伏兵の存在にも気づき、命を救われた。その後、康綱の命でしんのすけをしばらく預かることになる。実は廉姫とは幼馴染で、彼女に密かな好意を寄せているが、身分の違いからその想いを頑なに抑え込んでいた。 : 後に大蔵井高虎が春日国に攻めてきた際、野原一家の助けもあって高虎を討ち取るが、しんのすけの懇願もあって首は取らず、代わりに髻を取った(当時としては、髷を取られることはかなりの恥である)。しかしその後、城へ帰る途中で何者かに撃たれて致命傷を負ってしまう。死の間際、しんのすけがやってきたのは自分に国と大切な人を守る猶予を与えるためであったと悟る。ここで自分の父の形見でもある短刀をしんのすけに託し、短刀を首取りに使わなかったことに安堵しつつ息絶えた。最後まで廉に自分の想いを(明確に)告げることは無かった。彼の死にしんのすけは深く悲しみ、大粒の涙を流す。劇場版において数少ない死亡した味方側の登場人物(人間)である。なお、彼の死はタイムパラドックスを起こさないために避けられないことが示唆されている(銃撃直後、その場にあった全ての火縄銃に使われた形跡はなかった)。 ; 春日廉(かすが れん) : 野原一家の夢に出てきた美しい女性。春日家の姫。しんのすけに「廉ちゃん」と呼ばれる。幼馴染である又兵衛に好意を寄せているが、身分の違いから気持ちを打ち明けられずにいた。毎日彼が戦で命を落とさぬよう祈り、密かに想い続けていた。それが野原家の夢に通じ、結果的にしんのすけ達をタイムスリップさせた。 :戦国の世の[[大名]]の娘としてのさまざまな覚悟は出来ているが、そうした束縛に盲従するのではなく、可能な限り人間らしく生きようとしている。 : 美しく聡明な女性で、よく他国の殿から縁談を申し込まれているがどれも断っている。作中では大蔵井高虎の元に嫁ぐことになっていたが、父康綱が考えを改めたため高虎との婚姻の話は取り消される。戦の真っ只中でも又兵衛を案じて矢面に飛び出す大胆な一面もある。『カスカベ映画スターズ』では映画の登場人物という形で又兵衛と共に現代に来ており、洋服に興味を持っていた。 :戦で疲れている兵士のためにおにぎりを作るが、彼女の握ったおにぎりを知らずに食べた又兵衛はしょっぱいと唸っていた。 ; 春日和泉守康綱(かすが いずみのかみ やすつな) : 春日家の当主。[[武蔵国]]の小国(春日領)を治める。一国の主としての威厳がある一方、逃亡した家来をかばう寛大さ、未来からやって来た野原一家の話を受け入れるといった柔軟さも兼ね備えている。妻に先立たれ、息子も戦で亡くしているため、娘である廉を特に大切にしている。[[家紋]]は[[家紋の一覧#矢紋|並び矢筈]]。 : 野原一家の話を信じ、戦国の世も一時のものと悟り、強国大蔵井家との政略結婚を取り止める。しかし、その決断は大蔵井に腹いせと領土拡大の口実を与えることにもなってしまった。 ; 仁右衛門(にえもん) : 井尻家の[[足軽頭]]で又兵衛の父親の代から仕えている。又兵衛を補佐し戦場では共に戦う。又兵衛の屋敷に夫婦で住み、身の回りの世話や武具の手入れなどをしている。過去に息子を戦で亡くしている。 :又兵衛の父親と言ってもよい年齢であり、ふだんは妻とともに若い主人に軽口を叩いているが、心から彼の幸福を願っている。又兵衛の事を「若」と呼び、戦場でも陽気に冗談を飛ばす明るい性格。 :又兵衛が死亡した際は、彦蔵や儀助と共に高虎陣営の敗残兵に行き場の無い怒りや悲しみをぶつけていた。 ; 吉兵衛(きちべえ) : 鉄砲隊の指揮官。 ; 犬居兵庫助頼久(いぬい ひょうごのすけ よりひさ) : 春日家の[[家老]]。主君に忠実で、非常に落ち着いた性格の人物である。 ; 榊隼人佐晶忠(さかき はやとのすけ あきただ) : 春日家家老。劇中序盤で隣国との合戦に指揮官として出陣する。終盤で大蔵井家の大軍が春日城に押し寄せてきた際に戦いを前に出奔した。 ; 堀川新八郎忠継(ほりかわ しんぱちろう ただつぐ) : 春日家家老。みさえの作った[[カレーライス]]を辛いと言った。実直な性格で、しんのすけが康綱に軽い挨拶をしたりケツだけ星人を披露した時や、隼人が去った時には怒りを露わにしていた。 ; 彦蔵(ひこぞう) : 元は大蔵井家の[[足軽]]であった[[野伏 (日本史)|野伏]]<ref>ただしここでは本来の意味ではなく、雇いを解かれて零落し、盗賊に身を落とした者をさす。</ref>。 : 後年しんのすけの自宅の立つ場所となる泉のほとりを訪れた廉を偶然居合わせたしんのすけ達もろとも襲うが、廉の身を案じて駆け付けた又兵衛に叩き伏せられる。廉の取り成しもあり、成敗どころか金子と併せて再仕官を勧めた又兵衛の懐の深さに惚れ、儀助と共に又兵衛の家来となり、共に大蔵井家の大軍と戦うことになる。顔に大きな傷があり、長い[[大太刀]]を持っているのが特徴。 ; 儀助(ぎすけ) : 彦蔵の仲間の野伏。彦蔵達と廉やしんのすけを襲った際に又兵衛に倒されたことをきっかけに彦蔵と共に又兵衛の家来となる。巨体の強力で大きな[[金棒]]を武器に戦う。 ; 吉乃(よしの) : 廉の傍仕えの老女。わりと子供好き。礼儀には厳しいが、廉のことを一番に思っている。廉の又兵衛への想いを知っていると思われる節がある。 ; お里(おさと) : 仁右衛門の妻。戦で息子を亡くしている。勝気な性格で、夫をやり込めることもある。 ; 大蔵井高虎(おおくらい たかとら) : 廉姫との婚姻を申し込んできた大名。南蛮鎧を身に付けている。家紋は[[弦巻紋|蛇の目]]。春日和泉守康綱が申し出を反故にした際に「小国に馬鹿にされた」ことを名分に春日領へ攻め込む。春日領に戦を挑み疲弊したところで和睦を結ばせ姿を見せたところを男は打ち取り、女は連れ去ろうとしていた。 : 最後は単身逃げ出そうとするが、しんのすけに咎められたことで激昂し、斬りかかるもみさえに阻まれ、その直後にひろしの一撃を顔面に受けた挙句、しんのすけの金的により敗北した。又兵衛により髷を取られた後、兵と共に引き揚げた。 ; 佐久間権兵衛(さくま ごんべえ) : 春日城に一番乗りした大蔵井家の武士。一番乗り(一番槍)の戦功を上げるために先を争って攻め入った武士たちの一人で、遠くからでも存在を誇示できる[[母衣]]を背負っていた。城内で攻め入って名乗りを上げたあと、又兵衛と槍を交わし討ち取られた。 ; 真柄太郎左衛門直高(まがら たろうざえもん なおたか) : 大蔵井家馬廻衆として高虎の護衛役を担っている。本陣に斬り込んで来た又兵衛と互角に戦える程の[[長巻]]の使い手。最後は大蔵井家の敗北に伴い、又兵衛に自分を斬るよう促すが、その武勇を惜しんだ又兵衛に断られる。 ; かずま : しんのすけが戦国時代で出会った風間トオルにそっくりな少年。風間と違って自信のない性格かと思われたが、彦蔵達に襲われた時に突如風間のように饒舌になり、必死に逃げ口上を述べていた。しんのすけ曰く「風間くんのご先祖様」(風間本人は「自分のご先祖様は殿様だった」と言っていた)。 ; ねね : しんのすけが戦国時代で出会った桜田ネネにそっくりな少女。名前はネネと同じ。ネネとは異なり大人しくウサギが苦手と自称していたが、彦蔵達に襲われた時に野伏の脛を殴り付けたり、後述のおおまさの情けなさに「ウサギがいたら殴りたい」と零したりと、ネネのような一面を見せた。 ; おおまさ : しんのすけが戦国時代で出会った佐藤マサオにそっくりな少年。威張り屋で大将風を吹かしていたが、彦蔵達に襲われた時にはマサオ同様、一目散に逃げ出すなど情けない本性をさらした。しんのすけ曰く「マサオくんのご先祖様」。 ; ぼうしち : しんのすけが戦国時代で出会った、ボーちゃんにそっくりな少年。性格までボーちゃんにそっくりで、しんのすけとノリが合う。 == 制作・エピソード == {{出典の明記|section=1|date=2009年9月}} 本作は[[アニメーション映画]]ではあるものの、制作に際しては文献調査や[[時代考証]]に力が入れられており、戦国時代の風景や生活が、丁寧で詳細に描写されている<ref name="IGN"/>。戦場での[[白兵戦]]も、単なる[[チャンバラ]]ではなく、総合的な組討術の所作が考証されている。これについて作家の[[鈴木輝一郎]]は「戦国時代の合戦シーンとして、動画の映像資料として最も正確なもの」と述べている<ref>鈴木輝一郎「時代小説が書きたい」(河出書房新社、2004年)</ref>。また、『[[クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん]]』の脚本を務めた劇作家の[[中島かずき]]も、[[第30回東京国際映画祭]]の特集上映「原恵一の世界」で開かれた原恵一との対談の中で「合戦を飛礫(つぶて)から始める描写をやるのそうないはず。実際の時代劇ではお金がかかるからという理由で飛ばされる『合戦前の段取りとして田んぼを刈る』という場面も丁寧に描かれていてすごいと思った」と述べている<ref name="IGN"/>。一方で、原は監督にあたり[[黒澤明]]の映画を意識したと対談の中で述べており、ラストの合戦シーンで刀を多用したことについて「『[[七人の侍]]』の時代の侍は槍が主な武器だったものの、映画の中では刀が使われている。それでも、時代劇なので刀の方が立ち回りがかっこいいと思う。」と述べている<ref name="IGN"/>。 本作で主要キャラクターが戦で死ぬ場面が出てくることについて、原恵一は「テレビ局や広告代理店などから猛反対されましたが、最終的に原作者である臼井(儀人)さんに[[プロット]]を見せて許可をいただきました」と[[第30回東京国際映画祭]]のラインナップ発表会の中で振り返っており、「今はテレビ局が主人公の死ぬ場面をやめたりするんですよね。しかし、僕らは子供のころからそういう作品を見て育ったけど、別にひねくれて育っていないですけどね」とも述べている<ref>{{cite web|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2017/09/26/0010590541.shtml|title=クレしん名作 制作時に「圧力」と原恵一監督…「大反対されました」|publisher=神戸新聞社|work=デイリースポーツ|date=2017-09-26|accessdate=2018-07-01}}</ref><ref name="IGN">{{cite web|url=http://jp.ign.com/tiff-2017/18751/news/30|title=第30回東京国際映画祭:原恵一監督と中島かずきが語る「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦」の魅力|publisher=IGN|author=谷口隆一|date=2017-10-27|accessdate=2018-07-01}}</ref>。 原が当初プロットにつけていたタイトルは『青空侍』<ref>主要登場人物である井尻又兵衛由俊のあだ名が“青空侍”である。</ref>であった。[[茂木仁史]]プロデューサーは「普段はタイトルなんて適当なのに、本作では非常にこだわっていた」と語っている。しかし、興行的に弱いという理由でこのタイトルは不採用となった。[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]]大賞による賞金で作られた関係者配布用DVDのパッケージにこのタイトルを入れている。 春日廉(廉姫)を演じた[[小林愛]]は、前作『[[クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲]]』のチャコに続けての出演であり、ケンにぞっこんだった彼女とは正反対に、身分の違いから互いの想いを伝えらない、悲愛が描かれている。 本作品で吉永みどりが初めて登場しない。また原作、アニメ、映画を通して、しんのすけの漢字が初めて出てきた('''信之介''')。さらに、ひろしが映画で初めて[[自家用車]]を運転し、大活躍している。 == 登場する地名・道具等 == ; 春日 : 正式には[[武蔵国]]春日領。[[春日部市]]の旧称とされているが、実在しない架空の地名<ref>春日(かすが)という地名自体は日本中の至る所に存在するがどれも現在の春日部とは無関係である。</ref>。同名の作中では城一つと[[宿場]]町、そして農民たちの畑があるのみで、商人もめったに立ち寄らない辺鄙な町。領主である春日和泉守が大蔵井との縁談を断ったことからこの地が戦場となった。 ; 春日城 : 春日合戦の舞台となった城。また、劇場版第3作目の『[[クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望|雲黒斎の野望]]』にも同名の城が登場するが関連性は不明。小高い山を切り出してつくった[[平山城]](丘城)で、頂上に立てられた天守閣から城下を一望できる<ref name="kasugajou">東宝公式webの掲載画像でアニメとスピンオフ作品両方の春日城を確認できる[http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/0810/04ballad_sh.html]</ref>。[[本丸]]に登る道は螺旋状になっていて、渦郭式の縄張として機能している<ref name="kasugajou"/>。大名の権威を示すような豪華な施設はあまり見られないが、[[銃眼]]つきの塀や櫓を備えた実戦的な城郭である<ref name="kasugajou"/>。又兵衛ら城方の軍勢は麓の[[曲輪]]内に収容され、防御施設を頼りに攻め手を迎え撃った。曲輪の空間は、攻め手から見えないようにしながら兵を集結させる機能もあり、城門を開いて逆襲に打って出ることを可能にしている。 ; [[火縄銃|鉄砲]] : この時代では、伝来地になぞらえて「種子島」と呼ばれる。原始的な銃であり、銃口から弾丸と火薬を込めるため、銃弾装填に時間がかかる。次弾装填の時間を稼ぐために「防ぎ矢」を行う。当時の銃は[[ライフリング]]が無いため有効射程が極端に短かった。そのため十分に引きつけてから指揮官の命令で一斉射撃する運用法が作中でよく表現されている。 ; [[攻城塔|攻め櫓]] : 春日合戦の際、大蔵井軍が用いた攻城兵器。櫓に車輪をつけて移動できるようにし、高い位置からの攻撃を可能としたもの。城壁を頼りに防戦していた城方の戦列に対して、城壁を超えて[[焙烙火矢]](原始的な[[手榴弾]])を投げ込み混乱させた。しかし櫓上で攻撃を行っていた攻め方の足軽が、又兵衛に腕を矢で射抜かれ、点火した焙烙火矢を櫓内に落としてしまったことで、自爆する形で破壊された。 ; [[母衣]] : 「ほろ」または「ぼろ」と読む。侍の背部を大きく膨らませ、自身を目立たせる細工。大蔵井軍では伝令(作中では[[使番]]と呼称していた)と城内一番乗りを果たした佐久間権兵衛がこれを用いていた。 ; [[南蛮胴]] : ヨーロッパからもたらされた西洋甲冑(全身鎧)を日本人でも着用できるように調整したもの。西洋甲冑自体が簡単に入手できるものではないため、きわめて入手困難なものだった。また、その重量から攻城戦には不向きとされ敬遠する者もいた。 : しかし当時の日本より優れている冶金技術が使われていること、銃弾をはじきやすい形状をしていることなどから、大将として直接戦闘に加わらない大名などは競って求めた。 : 作中では大蔵井高虎が着用している。 ; [[馬廻|馬廻衆]] : 総大将の親衛隊であり、全員が赤い甲冑に身を包んでいる。武将の信頼篤く、腕に自信のある者のみで構成される。その任務は文字通り総大将の周囲を守ることであり、防衛のために彼らが武器をとる(本陣まで敵が攻めてくる)ことは敗北寸前であることを意味する。 ; [[長巻]] : 馬廻衆の一人である真柄太郎左衛門直高が使用している武器。1メートルほどの刀身と、同じほどの長さの柄を持つ。扱い易さと攻撃力が兼ね備えられており、戦国時代に突入して集団戦法が確立するまでは戦場の主力武器として活躍していた。 ; 髻 : 「もとどり」と読む。[[丁髷]]の「マゲ」の部分。もとは[[兜]]をかぶった時に蒸れないよう隙間を作るための髪型。これがないと兜がかぶれない(戦ができない)という考え方から「武士の魂」とも考えられ、髻を切られた(魂を失った)武士は武士を辞めねばならなかった。 : 作中では大蔵井高虎が首の代わりに井尻又兵衛に髻を取られるが、これは武将にとって討ち取られるよりも屈辱的な行為(生き恥を晒す)である。 == キャスト == * [[野原しんのすけ]] - [[矢島晶子]] * [[野原みさえ]] - [[ならはしみき]] * [[野原ひろし]] - [[藤原啓治]] * [[野原ひまわり]] - [[こおろぎさとみ]] * 風間くん、シロ<ref name = "example2">エンディング表記なし。</ref>、かずま<ref name = "example2"/> - [[真柴摩利]] * ネネちゃん、ねね<ref name = "example2"/> - [[林玉緒]] * マサオくん、おおまさ<ref name = "example2"/> - [[一龍斎貞友]] * ボーちゃん、ぼうしち<ref name = "example2"/> - [[佐藤智恵]] * 井尻又兵衛由俊 - [[屋良有作]] * 春日廉 - [[小林愛]] * 仁右衛門 - [[緒方賢一]] * 吉乃 - [[山本圭子]] * お里 - [[上村典子]] * 侍女 - [[永島由子]] * 鉄砲頭 - [[菅原淳一]] * 春日家の武将 - [[江川央生]] * 門番 - [[布目貞雄]] * 春日和泉守康綱 - [[羽佐間道夫]] * 犬居兵庫助頼久 - [[大塚周夫]] * 堀川新八郎忠継 - [[納谷六朗]] * 榊隼人佐晶忠 - [[玄田哲章]] * 大蔵井高虎 - [[山路和弘]] * 真柄太郎左衛門直高、春日家武将<ref name = "example2"/>- [[立木文彦]] * 侍大将 - [[島香裕]] * 佐久間権兵衛 - [[宇垣秀成]] * 大蔵井家の重臣 - [[中嶋聡彦]] * 馬廻衆 - [[柳沢栄治]] * 狙撃兵 - [[高瀬右光]] * 鉄砲足軽 - [[ダンス☆マン]] * 彦蔵 - [[宮迫博之]]([[雨上がり決死隊]]) * 儀助 - [[蛍原徹]](雨上がり決死隊) == スタッフ == * 原作 - [[臼井儀人]] * 作画監督 - [[原勝徳]]、大森孝敏、間々田益男 * キャラクターデザイン - [[末吉裕一郎]] * 美術監督 - 古賀徹、[[清水としゆき]] * 撮影監督 - 梅田俊之 * ねんどアニメ - [[石田卓也 (クレイアニメ作家)|石田卓也]] * 音楽 - [[荒川敏行]]、[[浜口史郎]] * 録音監督 - [[大熊昭]] * 編集 - [[岡安肇]]、[[小島俊彦]] * チーフプロデューサー - [[茂木仁史]]、[[太田賢司]]、生田英隆 * 監督・脚本 - [[原恵一]] * 絵コンテ - 原恵一、[[水島努]] * 演出 - 水島努 * 色彩設計 - 野中幸子 * 動画チェック - 小原健二 * 動画 - [[京都アニメーション]]、アニメーションDo、[[じゃんぐるじむ]]、[[スタジオダブ]]、[[マッドハウス]]、[[アニメトロトロ]]、[[OH!プロダクション]]、[[Wish (アニメ制作会社)|エムアイ]]、[[夢弦館]]、[[動画工房]]、[[スタジオ座円洞]]、シンエイ動画、[[あにまる屋]]、[[ティー・エヌ・ケー|TNK]] * 仕上 - 京都アニメーション、[[ライトフット (アニメ制作会社)|ライトフット]]、エムアイ、トレーススタジオM、オフィスフウ、マッドハウス * 特殊効果 - 前川孝 * 背景 - [[スタジオユニ]]、[[アトリエローク]] * 背景スキャン - SCAN屋 * 撮影 - [[アニメフィルム]] * 撮影協力 - ライトフット * ねんどアニメクルー - 志賀剛、鈴木徹、堀場久子 * CGI - [[楠部工]]、[[堤規至|つつみのりゆき]] * エンディング合成 - 柏原健二 * タイトル - 道川昭 * 音響制作 - [[AUDIO PLANNING U|オーディオプランニングユー]] * 音響制作デスク - 山口さやか、加藤知美 * 音響制作進行 - [[井澤基]]、鈴木紀子 * レコーディングスタジオ - [[APU MEGURO STUDIO|APUスタジオ]] * ミキサー - [[大城久典]]、内山敬章 * アシスタントミキサー - [[田中章喜]]、山本寿、田口信孝、金子俊也 * 効果 - 松田昭彦、原田敦([[フィズサウンドクリエイション]]) * 効果助手 - 北方将実 * 音楽協力 - [[イマジン (音楽プロダクション)|イマジン]]、斎藤裕二 * スコアミキサー - 中村充時 * 編集 - 中葉由美子、村井秀明、川崎晃洋、三宅圭貴 * 現像 - [[東京現像所]] * ドルビーフィルムコンサルタント - 河東努、森幹生 * デジタル光学録音 - 西尾曻 * プロデューサー - 山川順市、和田泰(シンエイ動画)、福吉健(テレビ朝日) * 制作デスク - [[高橋渉 (アニメ演出家)|高橋渉]]、木野雄 * 制作進行 - 廣川浩二、西川昭彦、高橋麗奈、荒木元道 * 制作 - [[シンエイ動画]]、[[テレビ朝日]]、[[アサツー ディ・ケイ|ASATSU-DK]] == 主題歌 == * オープニング - 「[[ダメダメのうた]]」([[キングレコード]]) ** 作詞、作曲 - LADY Q/編曲 - 森俊也/歌 - LADY Q & 野原しんのすけ([[矢島晶子]])、野原みさえ([[ならはしみき]]) * エンディング - 「二中のファンタジー ~体育を休む女の子編~」([[エイベックス|avex group]]) ** 作詞、作曲、歌 - [[ダンス☆マン]] == 受賞 == 本作は[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]]大賞を初め数多くの賞を受賞した。これらは、一連の『クレヨンしんちゃん』のシリーズにおいて初めての公式の受賞である。 * 2002年度[[文化庁メディア芸術祭]]アニメーション部門大賞 * 2002年度[[日本インターネット映画大賞]]・日本映画作品賞 * 2002年 第7回[[アニメーション神戸]]個人賞 * 第57回[[毎日映画コンクールアニメーション映画賞]] * [[東京国際アニメフェア]]2003・劇場部門優秀作品賞 * [[東京国際アニメフェア]]2003・個人賞部門監督賞 * 第22回[[藤本賞]] == VHS・DVD == * [[VHS]] - 2003年3月28日に[[バンダイビジュアル]]より発売 * [[DVD]] - 2003年11月28日にバンダイビジュアルより発売 ==本作を原案とした映画・スピンオフ == 本作を原案とした時代劇作品『[[BALLAD 名もなき恋のうた]]』が2009年9月5日に公開<ref>「[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/10/07/02.html 草彅&ガッキーで「しんちゃん」実写化]」,スポーツニッポン,2008年10月7日</ref>され、原案となった本作でもそれに連動した企画が行われた。 === BALLAD 名もなき恋のうた === {{see|BALLAD 名もなき恋のうた}} === 戦国しんちゃん === 実写映画化記念として、[[2009年]]内にアニメ『クレヨンしんちゃん』内で放映された[[スピンオフ]]作品。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』および『BALLAD 名もなき恋のうた』に関連した話が4週連続で放送された。 ==== 伝説の軍扇をさがせだゾ ==== 2009年[[8月14日]]/[[8月21日|21日]]放送。[[1562年]]、井尻又兵衛と春日の少年少女時代にカスカベタイムパトロール隊としてタイムスリップしてきたしんのすけ達が活躍するという内容。『[[漫画アクション]]』18号にコミカライズを掲載。 * [[かすかべ防衛隊|カスカベタイムパトロール隊]] *: 「戦に必ず勝利する」という歴史を変えうる伝説の軍扇を追って、戦国時代に行く。 ** [[野原しんのすけ]] - [[矢島晶子]] **: いつも夫婦喧嘩で勝てない父親のために伝説の軍扇を現代に持ち帰ろうとする。 ** 風間くん - [[真柴摩利]] ** ネネちゃん - [[林玉緒]] ** マサオくん - [[一龍斎貞友]] ** ボーちゃん - [[佐藤智恵]] * [[野原みさえ]] - [[ならはしみき]] * [[野原ひろし]] - [[藤原啓治]] * 井尻又兵衛由俊 - [[高城元気]] * 春日廉 - [[福圓美里]] * 春日和泉守康綱 - [[田原アルノ]] * 仁右衛門 - [[五島慎|後藤史彦]] * 吉乃 - [[瀧本富士子]] * お里 - [[堀越真己]] ==== 天下を取るゾ ==== 2009年[[8月28日]]放送。野原城の殿様であるしんのすけが、城下の[[遊園地]]群雄割拠ランドにお忍びで遊びに行くという内容。 * 野原しんのすけ - [[矢島晶子]] *: 野原城の城主。父親はすでに隠居している。お忍びの際は、「遊び人のしんさん」を名乗っている。勝手に城を抜け出して遊園地を遊びに行った為、最後は母親にこっ酷くお仕置きされる羽目になった。 * 風間トオル - [[真柴摩利]] *: 野原城の家老。勝手に城を抜け出したしんのすけと共に行動していたが、最後は先代城主と共に母親にお仕置きされているしんのすけを見ながらぼやいていた。 * 桜田ネネ - [[林玉緒]] * 佐藤マサオ - [[一龍斎貞友]] * ボーちゃん - [[佐藤智恵]] * [[野原みさえ]] - [[ならはしみき]] * [[野原ひろし]] - [[藤原啓治]] *: 野原城の先代城主。既に隠居しているが、勝手に城を抜け出す息子には手を焼いており、心休まぬ日々を送っている。最後は家老と共に妻にお仕置きされているしんのすけを見ながらぼやいていた。 * 井尻又兵衛由俊 *: この作中では十代前半~半ばほどの容姿である。[[ジェットコースター]]が苦手でトオルと意気投合する。 * 春日廉 *: 又兵衛と同様の年齢の容姿でかかれている。姫ゆえの世間知らずな性格からか危険そうなものが大好きで、しんのすけと2人でジェットコースターに乗りたがる。 ==== 恋の戦国メモリーだゾ ==== 2009年[[9月4日]]放送。現代を舞台に、井尻又兵衛由俊と春日廉の生まれ変わりのような2人を中心に描いた内容(そのため、いつも通りの設定のレギュラーメンバーの設定や名称は割愛する)。『BALLAD 名もなき恋のうた』のキャストが登場。途中所々で映画の実写シーンが「夢の内容」としてはさまれる構成がとられた。なお、[[新垣結衣]]は『[[フレフレ少女]]』の番宣「応援フレフレお尻もフレフレスペシャル!!」の百山桃子役以来の『しんちゃん』への出演となる。 * 又郎 - [[草彅剛]] *: 常に竹刀を手に持っている大学生。最近綺麗なお姫様に仕えている夢を見るようになっていた。近所の店のカレーコロッケが大好きで、初対面のしんのすけや風間にそれを振舞うなど温厚で子供好きの性格だが、弱いものが危機に立たされているのを見た時に又兵衛を髣髴させるような勇ましい一面を見せた。顔は声を務めた草彅そのものである。 * 廉 - [[新垣結衣]] *: 夢に出た侍に恋をし、その侍に似た又郎の自宅付近をこっそり[[ストーキング]]していた女子大生。引っ込み思案で又郎のこととなるといささか暴走気味になる性格だが、ゴミをポイ捨てした不良を見たときには廉姫を髣髴させるような毅然とした態度を取り、彼らを注意した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 外部リンク == * {{jmdb title|2002|dz001250}} ※'''大作戦'''と誤記 * {{Allcinema title|237101|クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦}} * {{IMDb title|2180443}} * {{Ann|movie|6748||noparen}} {{クレヨンしんちゃん映画作品}} {{クレヨンしんちゃん}} {{原恵一監督作品}} {{シンエイ動画}} {{文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞}} {{毎日映画コンクールアニメーション映画賞}} {{デフォルトソート:くれよんしんちやんあらしをよふあつはれせんこくたいかつせん}} [[Category:劇場版クレヨンしんちゃん|あらしをよふあつはれせんこくたいかつせん]] [[Category:2002年のアニメ映画]] [[Category:原恵一の監督映画]] [[Category:浜口史郎の作曲映画]] [[Category:時代劇アニメ映画]] [[Category:日本の戦国時代を舞台とした映画作品]] [[Category:16世紀を舞台とした映画作品]] [[Category:タイムトラベルを題材としたアニメ映画]] [[Category:身分違いの恋愛を扱った映画作品]] [[Category:城を舞台にした映画作品]] [[Category:武士を題材にした作品]]
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ジョージ・ブッシュ
ジョージ・ブッシュ(George (W.) Bush) 第41代及び第43代アメリカ大統領(どちらも「ブッシュ大統領」)。一般に第41代を「ジョージ・ブッシュ」、第43代を「ジョージ・W・ブッシュ」と表現することが多い。ちなみに、第43代の甥(おい)もジョージ・ブッシュである(ジョージ・P・ブッシュ(英語版)、第43代の次弟であるジェブ・ブッシュの長男)。 なおアメリカでは一般に “Bush 41”・“Bush 43” といって区別することが多い。
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ジョージ・ブッシュ 第41代及び第43代アメリカ大統領(どちらも「ブッシュ大統領」)。一般に第41代を「ジョージ・ブッシュ」、第43代を「ジョージ・W・ブッシュ」と表現することが多い。ちなみに、第43代の甥(おい)もジョージ・ブッシュである(ジョージ・P・ブッシュ、第43代の次弟であるジェブ・ブッシュの長男)。 なおアメリカでは一般に “Bush 41”・“Bush 43” といって区別することが多い。 第41代アメリカ大統領(親) ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュ) 第43代アメリカ大統領(子) ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(ジョージ・W・ブッシュ)
'''ジョージ・ブッシュ'''(George (W.) Bush) 第41代及び第43代[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]](どちらも「[[ブッシュ大統領]]」)。一般に第41代を「ジョージ・ブッシュ」、第43代を「ジョージ・W・ブッシュ」と表現することが多い。ちなみに、第43代の[[甥]](おい)もジョージ・ブッシュである({{仮リンク|ジョージ・P・ブッシュ|en|George P. Bush}}、第43代の次弟である[[ジェブ・ブッシュ]]の長男)。 なおアメリカでは一般に “[[:en:Bush 41|Bush 41]]”・“[[:en:Bush 43|Bush 43]]” といって区別することが多い。 *第41代アメリカ大統領(親) [[ジョージ・H・W・ブッシュ|ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ]](ジョージ・H・W・ブッシュ) *第43代アメリカ大統領(子) [[ジョージ・W・ブッシュ|ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]](ジョージ・W・ブッシュ) {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ふつしゆ しよし}}
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ブッシュ
ブッシュ(bush、Bush、Busch) ドイツ語圏における姓。
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ブッシュ(bush、Bush、Busch) bush - 茂み。低木。 bush、bushing - 軸受けなどで、隙間を埋める金属やプラスティックでできた部品。すべり軸受#ブッシュを参照。
{{Wiktionary|bush}} '''ブッシュ'''(bush、Bush、Busch) * bush - 茂み。[[低木]]。 * bush、bushing - [[軸受け]]などで、隙間を埋める[[金属]]や[[プラスティック]]でできた部品。[[すべり軸受#ブッシュ]]を参照。 == 人名 == * Bush・Busch - 英語圏における[[姓]]。 ; [[ブッシュ家]] * [[プレスコット・ブッシュ]] - 元[[アメリカ合衆国上院]]議員。 * [[ジョージ・ブッシュ]] ** [[ジョージ・H・W・ブッシュ]] (1924-2018) - 第41代[[アメリカ合衆国大統領]]。 ** [[ジョージ・W・ブッシュ]] - H・W・ブッシュの長男で第43代アメリカ合衆国大統領。 ** [[ジョージ・P・ブッシュ]] - ジェブ・ブッシュの長男。 * [[ウィリアム・H・T・ブッシュ]] - H・W・ブッシュの弟。 * [[バーバラ・ブッシュ]] (1925-2018) - H・W・ブッシュの妻。 * [[ジェブ・ブッシュ]] - H・W・ブッシュの三男で元[[フロリダ州知事]]。 * [[コルンバ・ブッシュ]] - ジェブの妻。 * [[マーヴィン・P・ブッシュ]] - H・W・ブッシュの四男で実業家。 * [[ローレン・ブッシュ]] - H・W・ブッシュの孫でモデル。 * [[ローラ・ブッシュ]] - W・ブッシュの妻。 * [[ジェンナ・ブッシュ]] - W・ブッシュの娘。 * [[バーバラ・ピアース・ブッシュ]] - 同じくW・ブッシュの娘で、ジェンナとは双子。 === その他の姓 === ;Bush * [[アラン・ブッシュ]] - イギリスの作曲家。 * [[デイブ・ブッシュ]] - アメリカのメジャーリーガー。 * [[ケイト・ブッシュ]] - イギリスの歌手。 * [[レジー・ブッシュ]] - アメリカのアメリカンフットボール選手。 * [[スタン・ブッシュ]] - アメリカの歌手・ギタリスト。 * [[ヴァネヴァー・ブッシュ]] - アメリカの[[技術者]]・[[科学技術]]管理者。 ;Busch ドイツ語圏における姓。 * [[オーガスト・ブッシュ]] - アメリカの実業家。[[アンハイザー・ブッシュ]]元会長。 * [[カート・ブッシュ]] - アメリカのレーシングドライバー。カイル・ブッシュの実兄。 * [[カイル・ブッシュ]] - アメリカのレーシングドライバー。カート・ブッシュの実弟。 * [[アドルフ・ブッシュ]] - ドイツのヴァイオリニスト。 * [[フリッツ・ブッシュ]] - ドイツの指揮者。 * [[ガンディ・ブッシュ]] - ドイツのフィギュアスケーター。 * [[ザビーネ・ブッシュ]] - 旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の陸上選手。 * [[ヴィルヘルム・ブッシュ]] - ドイツの画家・詩人。 * [[ニーヴン・ブッシュ]] - アメリカの小説家・映画脚本家。 == その他 == * [[ブッシュ (映画)]] - 2008年製作の[[ジョージ・W・ブッシュ]]の伝記映画。監督は[[オリバー・ストーン]]。 * [[ブッシュ (バンド)]] (Bush) - [[イギリス]]の[[バンド (音楽)|バンド]]。 * [[ブッシュ (スヌープ・ドッグのアルバム)]] * [[日本ブッシュ]] (Busch) - ドイツのブッシュ社の[[日本]][[多国籍企業|法人会社]]。[[真空ポンプ]]の輸入販売。 * [[ブッシュ (DD-529)]] - アメリカ海軍の駆逐艦。 * [[ブッシュ・スタジアム (曖昧さ回避)]] - [[ブッシュ・スタジアム]](アメリカのミズーリ州セントルイスにある野球場)など。 == 関連項目 == * {{Prefix|ブッシュ}} * {{Intitle|ブッシュ}} * [[Wikipedia:索引 ふつ#ふつし]] * [[プッシュ]](曖昧さ回避) {{aimai}} {{DEFAULTSORT:ふつしゆ}} [[Category:英語の姓]] [[Category:ドイツ語の姓]]
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1661年
1661年(1661 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
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1661年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1661}} {{year-definition|1661}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[万治]]4年、[[寛文]]元年4月25日 - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2321年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[順治]]18年 *** [[蕭惟堂]] : [[天順 (蕭惟堂)|天順]]元年 ** [[南明]] : [[永暦 (南明)|永暦]]15年 ** [[朱亶セキ|朱亶塉]]([[南明]]) : [[定武]]16年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]2年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3994年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[永寿 (黎朝)|永寿]]4年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[順徳 (莫朝)|順徳]]24年 * [[仏滅紀元]] : 2203年 - 2204年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1071年 - 1072年 * [[ユダヤ暦]] : 5421年 - 5422年 * [[ユリウス暦]] : 1660年12月22日 - 1661年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1661}} == できごと == * [[2月5日]] - [[清]]の[[康熙帝]]が第4代[[皇帝]]に即位。同年、[[遷界令]]を出す。 * [[3月11日]] - [[フランス王国|フランス国王]][[ルイ14世]]が、宰相[[ジュール・マザラン|マザラン]]の死を受け親政を宣言。 * [[3月30日]] - [[鄭成功]]が[[台湾]]の[[ゼーランディア城包囲戦]]を開始。 * [[6月21日]] - [[カディス条約]]締結、[[北方戦争]]の終結。 * [[スウェーデン]]の[[ストックホルム銀行]]がヨーロッパ最初の[[紙幣]]を発行。 * [[ケプラー予想]](3次元接吻数問題)が作られる。 * フランスで王立舞踏アカデミー(現在の[[パリ国立オペラ|国立オペラ座バレエ団]])創立。 * [[ムンバイ|ボンベイ]]を[[ポルトガル]]がイギリスに譲渡した。 * [[イングランド王国]]で{{仮リンク|1661年イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, 1661}} === 日本 === * [[5月23日]]([[万治]]4年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[改元]]して[[寛文]]元年。 * [[9月12日]](寛文元年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[徳川光圀]]、[[水戸藩]]第2代[[藩主]]となる。 * [[隠元隆琦]]が[[萬福寺]]([[黄檗宗]]の大本山)を開山。 == 誕生 == {{see also|Category:1661年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月]] - [[アンリ・デマレ]]、[[作曲家]](+ [[1741年]]) * [[4月11日]] - [[アントワーヌ・コアペル]]([[w:Antoine Coypel|Antoine Coypel]])、[[画家]](+ [[1722年]]) * [[5月17日]](万治4年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - [[松平忠周]]、[[側用人]]、[[京都所司代]]、[[老中]](+ [[1728年]]) * [[6月9日]] - [[フョードル3世]]、[[ロマノフ朝]]第3代[[ツァーリ|ロシア皇帝]](+ [[1682年]]) * [[8月11日]](寛文元年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[宝井其角]]、[[俳諧師]](+ [[1707年]]) * [[9月2日]] - [[ゲオルク・ベーム]]、[[オルガニスト]](+ [[1733年]]) * [[10月11日]] - [[メルシオール・ド・ポリニャック]]([[w:Melchior de Polignac|Melchior de Polignac]])、[[外交官]](+ [[1742年]]) * [[10月27日]] - [[フョードル・マトヴェイェヴィチ・アプラクシン]]([[w:Fyodor Matveyevich Apraksin|Fyodor Matveyevich Apraksin]])、[[ロシア海軍]][[提督]](+ [[1728年]]) * [[11月1日]] - [[フローラン・カートン・ダンクール]]([[w:Florent Carton Dancourt|Florent Carton Dancourt]])、[[劇作家]]、[[俳優]](+ [[1725年]]) * [[11月6日]] - [[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]、[[スペイン・ハプスブルク朝]]最後の[[国王]](+ [[1700年]]) * [[ジャコモ・アントニオ・ペルティ]]、作曲家(+ [[1756年]]) * [[ニコラス・ホークスムア]]([[w:Nicholas Hawksmoor|Nicholas Hawksmoor]])、[[建築家]](+ [[1736年]]) == 死去 == {{see also|Category:1661年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月5日]]([[順治]]18年正月7日) - [[順治帝]]、[[清|清王朝]]第3代[[皇帝]](* [[1638年]]) * [[3月9日]] - [[ジュール・マザラン]]、[[政治家]]、[[枢機卿]](* [[1602年]]) * [[6月4日]](寛文元年[[5月8日 (旧暦)|5月8日]]) - [[五郎八姫]]、[[伊達政宗]]の娘(* [[1594年]]) * [[6月21日]] - [[アンドレア・サッキ]]、画家(* [[1599年]]頃) * [[8月7日]] - [[金聖歎]]、[[作家]](* [[1608年]]) * [[8月16日]] - [[トマス・フラー]]([[w:Thomas Fuller|Thomas Fuller]])、[[聖職者]](* [[1608年]]) * [[8月23日]](寛文元年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - [[徳川頼房]]<ref>{{Citation|和書|editor=勝浦市史編さん委員会|title=勝浦市史 通史編|year=2006|page=406}}</ref>、[[水戸徳川家]]初代(* [[1603年]]) * [[10月4日]] - [[ジャクリーヌ・パスカル]]、[[ブレーズ・パスカル]]の妹、[[修道女]](* [[1625年]]) * [[10月]] - [[ジラール・デザルグ]]、[[数学者]](* [[1591年]]) * [[永暦帝]]、[[明|明王朝]]([[南明]])最後の皇帝(* [[1623年]]) * [[鄭芝龍]]、明の[[武将]]、[[海商]](* [[1604年]]) * [[ルイ・クープラン]]、作曲家(* [[1626年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1661}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=17|年代=1600}} {{デフォルトソート:1661ねん}} [[Category:1661年|*]]
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1864年
1864年(1864 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
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1864年は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1864}} {{year-definition|1864}} == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[甲子]] * [[日本]]([[天保暦]]) ** [[文久]]3年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]] - 文久4年[[2月19日 (旧暦)|2月19日]]、[[元治]]元年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]] - 元治元年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]] ** [[皇紀]]2524年 * [[清]]:[[同治]]2年11月22日 - 同治3年12月3日  * [[朝鮮]] <!--* [[李氏朝鮮]]:独自の年号なし--> ** [[李氏朝鮮]] : [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4197年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]17年  * [[仏滅紀元]]:2406年 - 2407年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1280年7月21日 - 1281年8月2日 * [[ユダヤ暦]]:5624年4月22日 - 5625年4月2日 * [[修正ユリウス日]](MJD):1871 - 2236 * [[リリウス日]](LD):102712 - 103077 <div style="font-size:smaller"> :※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。 :※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1864}} == できごと == === 1月 === * [[1月11日]] - ロンドンで[[チャリング・クロス駅]]開業{{要出典|date=2021-02}}。 === 2月 === * [[2月1日]] - [[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]( - [[10月30日]]){{要出典|date=2021-02}} * [[2月6日]] - [[横浜鎖港談判使節団]](第2回遣欧使節)出発 * [[2月7日]]([[文久]]3年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - 朝廷が[[江戸幕府|幕府]]の諮問機関として[[参預会議]]設置。 * [[2月19日]] - 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争:プロイセン軍司令官[[フリードリヒ・フォン・ヴランゲル|ヴランゲル]]元帥が独断でデンマーク国境を越えて[[ユトランド]]侵攻 === 3月 === * [[3月10日]] - [[南北戦争]]:[[レッド川方面作戦]]。 * [[3月27日]]([[元治]]元年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]) - [[元号]]が文久から元治に[[改元]]。 === 4月 === * [[4月18日]] - 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争:[[ドゥッブル堡塁の戦い]] * [[4月22日]] - 米国で[[貨幣鋳造法 (米国)|貨幣鋳造法]]成立([[イン・ゴッド・ウィー・トラスト|In God We Trust]]の刻印が義務化)。 * [[4月25日]] - 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争講和をめぐってイギリス外相[[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ラッセル伯爵]]を議長とする{{仮リンク|1864年ロンドン会議|label=ロンドン会議|en|London Conference of 1864}}が開かれるも決裂( - [[6月25日]]) * [[4月27日]](元治元年3月22日) - 新任の[[レオン・ロッシュ|ロッシュ]]駐日[[フランス第二帝政|仏]]公使が横浜に来日。 === 5月 === * [[5月2日]](元治元年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]) - [[天狗党の乱]]。 * [[5月4日]](元治元年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]) - [[高杉晋作]]が[[萩藩]]で野山獄に投獄される。 * [[5月5日]] - [[南北戦争]]:[[荒野の戦い]]。 * [[5月8日]] - 南北戦争:[[スポットシルバニア・コートハウスの戦い]]。 * [[5月9日]] - 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争:[[ヘルゴラント海戦]] *[[5月21日]] - {{仮リンク|ロシア・チェルケス戦争|en|Russo-Circassian War}}終結。 === 6月 === * [[6月10日]] - [[南北戦争]]:[[ブライス交差点の戦い]]。 * [[6月15日]] ** 米国[[アーリントン国立墓地]]設立。 ** [[南北戦争]]:[[ピーターズバーグ包囲戦]]。 * [[6月24日]](元治元年[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]) - 幕府が[[神戸海軍操練所]]を設立(頭取[[勝海舟]])。 * [[6月28日]] - 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争:プロイセン軍、[[アルス島]]上陸作戦に成功。 === 7月 === * [[7月8日]](元治元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[池田屋事件]]。 * [[7月13日]](元治元年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]) - [[明保野亭事件]]。 * [[7月18日]](元治元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[五稜郭]]完成。 * [[7月19日]] - [[太平天国の乱]]終結。 * [[7月20日]] - [[南北戦争]]:[[ピーチツリークリークの戦い]]。 * [[7月22日]] - 南北戦争:[[アトランタの戦い]]。 * [[7月24日]] - 南北戦争: [[第二次カーンズタウンの戦い]]。 * [[7月30日]] - 南北戦争:[[クレーターの戦い]]。 === 8月 === * [[8月1日]] - [[エルジン]]設立。 * [[8月2日]] - [[南北戦争]]:[[モービル湾の海戦]]。 * [[8月20日]](元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[禁門の変]](蛤御門の変)。 * [[8月22日]] - 第1回[[ジュネーヴ条約]]締結([[赤十字国際委員会]]設立)。 === 9月 === * [[9月5日]](元治元年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[四国艦隊下関砲撃事件]]。 * [[9月7日]] - [[南北戦争]]:[[北軍]]が[[アトランタ (ジョージア州)|アトランタ]]を陥落させる。 * [[9月13日]](元治元年[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]) - 幕府が[[第一次長州征伐]]を命ずる。 * 9月 - [[薩摩藩]]、洋学校[[開成所#同名の機関|開成所]]開校 === 10月 === * [[10月1日]] - [[サイクロン]]が[[カルカッタ]]を襲う(死者7万名)。 * [[10月30日]] - [[第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]終結。 * [[10月31日]] - [[ネバダ準州]]が州に昇格してアメリカ合衆国36番目の州・[[ネバダ州]]となる。 === 11月 === * [[11月8日]] - [[1864年アメリカ合衆国大統領選挙|米国大統領選挙]]で[[エイブラハム・リンカーン]]が再選。 * [[11月15日]] - [[南北戦争]]:[[海への進軍]]始まる。 * [[11月21日]](元治元年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]) - 鎌倉見物中の英国士官2名が浪士に斬殺される([[鎌倉事件]])。 * [[11月29日]] - [[インディアン戦争]]:[[サンドクリークの虐殺]]。 * [[11月30日]] - 南北戦争:[[第二次フランクリンの戦い]]。 === 12月 === * [[12月8日]] - 教皇[[ピウス9世 (ローマ教皇)|ピウス9世]]が[[誤謬表]] ([[:en:Syllabus errorum|Syllabus errorum]]) を公布。 * [[12月15日]] - [[南北戦争]]:[[ナッシュビルの戦い]] * [[12月27日]](元治元年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[鎌倉事件]]の主犯・清水清次が[[くらやみ坂|暗闇坂]]刑場で斬首される。 === 日付不詳 === * [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]が[[電磁波]]の存在を予言。 * [[ラ・フランス]]が発見される。 *[[コーカサス戦争]]終結([[チェルケス人虐殺]])。 * [[シャルル・エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブールブール|ブラシュール・ド・ブールブール]]、前年に発見した[[ディエゴ・デ・ランダ]]の『{{仮リンク|ユカタン事物記|en|Relación de las cosas de Yucatán}}』を出版。[[マヤ文字]]解読史のはじまり<ref> {{cite book|和書|author=八杉佳穂|authorlink=八杉佳穂|title=マヤ文字を解く|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|year=2003|page=36}}</ref>。 == 誕生 == {{see also|Category:1864年生}} * [[1月2日]](文久3年[[11月23日 (旧暦)|11月23日]])- [[小松謙次郎]]、[[官僚]]・[[政治家]](+ [[1932年]])  * [[1月5日]] - [[ボブ・カラザーズ]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1911年]]) * [[1月13日]](文久3年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]])- [[中島湘煙|岸田俊子]]、[[フェミニスト|女権拡張運動家]]・[[作家]](+ [[1901年]]) * [[1月13日]](文久3年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]) - [[屋井先蔵]]、[[発明家]](+ [[1927年]]) * [[1月19日]](文久3年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[小山作之助]]、[[作曲家]](+ [[1927年]]) * [[1月24日]] - [[イズレイル・ザングウィル]]、[[作家]](+ [[1926年]]) * [[1月27日]] - [[ジョン・ウォルター・グレゴリー]]、[[地質学者]]・[[探検家]](+ [[1932年]]) * [[2月8日]](文久4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]])- [[川上音二郎]]、[[俳優]]・[[芸人]](+ [[1911年]]) * [[2月13日]] - [[フーゴ・ベッカー]]、[[チェリスト]]・音楽教師・[[作曲家]](+ [[1941年]]) * [[2月14日]] - [[ロバート・E・パーク]]、[[社会学者]](+ [[1944年]]) * [[2月22日]] - [[ジュール・ルナール]]、[[小説家]]・[[詩人]]・[[劇作家]](+ [[1910年]]) * [[3月15日]] - [[ヨハン・ハルヴォルセン]]、作曲家・[[指揮者]](+ [[1935年]]) * 3月15日(文久4年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[威仁親王妃慰子]]、皇族、[[有栖川宮威仁親王]]妃(+ [[1923年]]) * [[3月30日]] - [[フランツ・オッペンハイマー]]、[[社会学者]]・政治経済学者(+ [[1943年]]) * [[4月4日]](元治元年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]) - [[二葉亭四迷]]、小説家・[[翻訳家]](+ [[1909年]]) * [[4月6日]](元治元年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]) - [[若松賎子]]、[[翻訳家]](+ [[1896年]]) ** [[山梨半造]]、第15代[[陸軍大臣]](+ [[1944年]]) * [[4月10日]] - [[オイゲン・ダルベール]]、[[ピアニスト]]・作曲家(+ [[1932年]]) * [[4月21日]] - [[マックス・ヴェーバー]]、[[社会学者]](+ [[1920年]]) * [[4月26日]](元治元年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]) - [[三浦謹之助]]、[[医学者]](+ [[1950年]]) * [[4月27日]] - [[ジェフリー・ホール=セイ]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[1940年]]) * [[5月15日]] - [[ヴィルヘルム・ハンマースホイ]]、[[画家]](+ [[1916年]]) * [[5月19日]](元治元年[[4月14日 (旧暦)|4月14日]])- [[吉田東伍]]、[[歴史学者]]・[[地理学者]](+ [[1918年]]) * [[5月21日]] - [[ステファニー・ド・ベルジック]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国|オーストリア]]皇太子妃(+ [[1945年]]) * [[6月11日]] - [[リヒャルト・シュトラウス]]、作曲家(+ [[1949年]]) * [[6月14日]] - [[アロイス・アルツハイマー]]、[[医学者]]・[[精神科医]](+ [[1915年]]) * [[6月25日]] - [[ヴァルター・ネルンスト]]、[[化学者]]・[[物理化学|物理化学者]](+ [[1941年]]) * [[7月13日]] - [[ジョン・ジェイコブ・アスター4世]]、実業家 * [[7月14日]] - [[エドゥアルト・エンゲルマン]]、フィギュアスケート選手・[[エンジニア]](+ [[1944年]]) * [[7月20日]] - [[ルッジェーロ・オッディ]]、[[解剖学者]]・[[生理学者]](+ [[1913年]]) * [[7月22日]](元治元年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]) - [[伊集院彦吉]]、[[外交官]](+ [[1924年]]) * [[7月24日]] - [[フランク・ヴェーデキント]]、[[劇作家]]・演劇プロデューサー(+ [[1918年]]) * 7月24日 - [[ジャック・クレメンツ]]、メジャーリーガー(+ [[1941年]]) * [[7月25日]](元治元年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[田中義一]]、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]軍人・第26代内閣総理大臣(+ [[1929年]]) * [[8月8日]] - [[トード・ラムゼイ]]、メジャーリーガー(+ [[1906年]]) *[[8月29日]]- [[ルイ・アイエ]]、[[画家]](+[[1940年]]) * [[9月1日]](元治元年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]) - [[明石元二郎]]、陸軍軍人(+ [[1919年]]) * [[9月8日]] - 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[[竹内栖鳳]]、[[日本画家]](+ [[1942年]]) * [[12月31日]](元治元年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[津田梅子]]、教育者(+ [[1929年]]) == 死去 == {{see also|Category:1864年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月8日]] - [[ケイレブ・ブラッド・スミス]]、第6代[[アメリカ合衆国内務長官]](* [[1808年]]) *[[2月10日]] - [[ウィリアム・ヘンリー・ハント (画家)|ウィリアム・ヘンリー・ハント]]、画家(* [[1790年]]) * [[4月26日]](元治元年3月21日) - [[堀田正睦]] 、幕府老中。下総国佐倉藩第5代藩主。 * [[5月19日]] - [[ナサニエル・ホーソーン]]、[[小説家]](* [[1804年]]) * [[7月8日]](元治元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[宮部鼎蔵]]、熊本藩士(* [[1820年]]) * 7月8日(元治元年[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]) - [[吉田稔麿]]、萩藩士(* [[1841年]]) * [[8月12日]](元治元年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]) - [[佐久間象山]]、[[兵学者]]・[[思想家]](* [[1811年]]) * [[8月20日]](元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[久坂玄瑞]]、萩藩士(* [[1840年]]) * 8月20日(元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[平野国臣]]、福岡藩士(* [[1828年]]) * 8月20日(元治元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]) - [[入江九一]]、[[長州藩]]士(* [[1837年]]) * [[8月22日]] - [[ジョン・アップルトン (政治家)|ジョン・アップルトン]]、[[政治家]]・[[外交官]](* [[1815年]]) * 8月22日(元治元年[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]) - [[真木保臣]]、水天宮祠官(* [[1813年]]) * [[9月15日]] - [[ジョン・ハニング・スピーク]]、[[探検家]](* [[1827年]]) * [[12月13日]](元治元年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[中山忠光]]、公卿(* [[1845年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == == 関連項目 == {{Commonscat|1864}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1864ねん}} [[Category:1864年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1864%E5%B9%B4
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金属結合
金属結合(きんぞくけつごう、英: metallic bond)とは、金属で見られる化学結合である。金属原子はいくつかの電子を出して陽イオン(金属結晶の格子点に存在する正電荷を持つ金属の原子核)と、自由電子(結晶全体に広がる負電荷をもったもの)となる。規則正しく配列した陽イオンの間を自由電子が自由に動き回り、これらの間に働くクーロン力(静電気力、静電引力)で結び付けられている。一部では共有結合の一種とみなす主張があるが、原子集団である結晶場で結合電子を共有していて、典型的な共有結合は2原子間でしか共有されていないので、計算手法等が著しく異なり混乱を招くので主流ではない。π結合は分子、あるいはグラフェン内の多くの原子で結合軌道が形成されるので一種の金属結合的性質を持ち、それがグラファイト系物質の導電性の源泉となっている。 金属の場合、最外殻電子など電子の一部は特定の原子核の近傍に留まらず結晶全体に非局在化しており、この様な状態の電子を擬似的な自由電子と呼ぶ。金属の電気伝導性や熱伝導度が高いことは自由電子の存在に起因していると考えられ、それゆえ、自由電子は伝導電子とも呼ばれる。自由電子の分子軌道はほぼ同一のエネルギー準位のエネルギーバンドを形成し、電子ガスとも呼ばれるような自由電子の状態を形成する。電子は光子と相互作用するので、金属の持つ特性である反射率、金属光沢は自由電子のエネルギーバンドの状況を反映していると考えられている。 自由電子の量子力学的説明は自由電子やバンド理論を参照されたい。 一方、金属の原子核は周囲に一様に広がる自由電子ガスと相互作用しているため、原子位置のずれに対するエネルギー障壁は低く、それゆえ、金属は展性や延性が高いと考えられている。それは、電子軌道として局在性(結合異方性)の高いp、d電子ではなくs電子主体の結合だからともいえ、それが等極結合的でありながら最密充填性の高い結晶構造(面心立方、六方最密)を得る源泉ともなっている。 金属結合における結合エネルギーは核外電子に参加する自由電子の範囲で異なり、数十~数百kJ/molの値をとる。例えばアルカリ金属の場合、閉殻電子は自由電子に関与せず、もっぱら価電子(最外殻電子)が金属結合に関与している。そのため結合エネルギーも弱く、80~160 kJ/mol程度である。一方、タングステンなどは結合エネルギーは850 kJ/molにも達するが、これは内殻電子も結合に関与するためであると考えられている。 2種類以上の金属を融解させ混合し、冷却すれば合金ができる。
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金属結合とは、金属で見られる化学結合である。金属原子はいくつかの電子を出して陽イオン(金属結晶の格子点に存在する正電荷を持つ金属の原子核)と、自由電子(結晶全体に広がる負電荷をもったもの)となる。規則正しく配列した陽イオンの間を自由電子が自由に動き回り、これらの間に働くクーロン力(静電気力、静電引力)で結び付けられている。一部では共有結合の一種とみなす主張があるが、原子集団である結晶場で結合電子を共有していて、典型的な共有結合は2原子間でしか共有されていないので、計算手法等が著しく異なり混乱を招くので主流ではない。π結合は分子、あるいはグラフェン内の多くの原子で結合軌道が形成されるので一種の金属結合的性質を持ち、それがグラファイト系物質の導電性の源泉となっている。 金属の場合、最外殻電子など電子の一部は特定の原子核の近傍に留まらず結晶全体に非局在化しており、この様な状態の電子を擬似的な自由電子と呼ぶ。金属の電気伝導性や熱伝導度が高いことは自由電子の存在に起因していると考えられ、それゆえ、自由電子は伝導電子とも呼ばれる。自由電子の分子軌道はほぼ同一のエネルギー準位のエネルギーバンドを形成し、電子ガスとも呼ばれるような自由電子の状態を形成する。電子は光子と相互作用するので、金属の持つ特性である反射率、金属光沢は自由電子のエネルギーバンドの状況を反映していると考えられている。 自由電子の量子力学的説明は自由電子やバンド理論を参照されたい。 一方、金属の原子核は周囲に一様に広がる自由電子ガスと相互作用しているため、原子位置のずれに対するエネルギー障壁は低く、それゆえ、金属は展性や延性が高いと考えられている。それは、電子軌道として局在性(結合異方性)の高いp、d電子ではなくs電子主体の結合だからともいえ、それが等極結合的でありながら最密充填性の高い結晶構造(面心立方、六方最密)を得る源泉ともなっている。 金属結合における結合エネルギーは核外電子に参加する自由電子の範囲で異なり、数十~数百kJ/molの値をとる。例えばアルカリ金属の場合、閉殻電子は自由電子に関与せず、もっぱら価電子(最外殻電子)が金属結合に関与している。そのため結合エネルギーも弱く、80~160 kJ/mol程度である。一方、タングステンなどは結合エネルギーは850 kJ/molにも達するが、これは内殻電子も結合に関与するためであると考えられている。 2種類以上の金属を融解させ混合し、冷却すれば合金ができる。
{{出典の明記|date=2015年11月}} '''金属結合'''(きんぞくけつごう、{{lang-en-short|metallic bond}})とは、[[金属]]で見られる[[化学結合]]である。[[金属元素|金属原子]]はいくつかの電子を出して[[陽イオン]](金属結晶の格子点に存在する'''正'''[[電荷]]を持つ金属の[[原子核]])と、[[自由電子]]([[結晶]]全体に広がる'''負電荷'''をもったもの)となる。規則正しく配列した[[陽イオン]]の間を[[自由電子]]が自由に動き回り、これらの間に働く[[クーロン力]](静電気力、静電引力)で結び付けられている。一部では共有結合の一種とみなす主張があるが、原子集団である結晶場で結合電子を共有していて、典型的な共有結合は2原子間でしか共有されていないので、計算手法等が著しく異なり混乱を招くので主流ではない。π結合は分子、あるいは[[グラフェン]]内の多くの原子で結合軌道が形成されるので一種の金属結合的性質を持ち、それが[[グラファイト]]系物質の導電性の源泉となっている。 金属の場合、[[最外殻電子]]など電子の一部は特定の原子核の近傍に留まらず結晶全体に[[非局在化電子|非局在化]]しており、この様な状態の電子を擬似的な[[自由電子]]と呼ぶ。金属の[[電気伝導性]]や[[熱伝導度]]が高いことは自由電子の存在に起因していると考えられ、それゆえ、自由電子は[[伝導電子]]とも呼ばれる。自由電子の[[分子軌道]]はほぼ同一のエネルギー準位の'''エネルギーバンド'''を形成し、'''電子ガス'''とも呼ばれるような自由電子の状態を形成する。電子は[[光子]]と相互作用するので、金属の持つ特性である[[反射率]]、[[金属光沢]]は自由電子のエネルギーバンドの状況を反映していると考えられている。 自由電子の量子力学的説明は[[自由電子]]や[[バンド理論]]を参照されたい。 一方、金属の原子核は周囲に一様に広がる自由電子ガスと相互作用しているため、原子位置のずれに対するエネルギー障壁は低く、それゆえ、金属は[[展性]]や[[塑性|延性]]が高いと考えられている。それは、電子軌道として局在性(結合異方性)の高いp、d電子ではなくs電子主体の結合だからともいえ、それが等極結合的でありながら最密充填性の高い結晶構造(面心立方、六方最密)を得る源泉ともなっている<ref>[[第1族元素|アルカリ金属]]はp軌道があるため水素との違いを示すため、誤解が生じているが、水素分子も高圧下では金属になり、p軌道が伝導帯s軌道を形成するに足るように核間距離を近づけているのである。典型金属を金属の典型的なモデルと考えるには例えば、結晶構造が体心立方のような密度の低い構造があるなどの難点がある。むしろ、d電子が充填され不活性でs電子の結合の割合が非常に高い、周期律表で遷移金属右端の[[銅|Cu]]、[[銀|Ag]]、[[金|Au]]、[[白金族元素|白金族]]などが金属の本質を考える上で重要となる。</ref>。 金属結合における結合エネルギーは核外電子に参加する自由電子の範囲で異なり、数十~数百kJ/molの値をとる。例えばアルカリ金属の場合、閉殻電子は自由電子に関与せず、もっぱら価電子(最外殻電子)が金属結合に関与している。そのため結合エネルギーも弱く、80~160 kJ/mol程度である。一方、[[タングステン]]などは結合エネルギーは850 kJ/molにも達するが、これは内殻電子も結合に関与するためであると考えられている。 2種類以上の金属を融解させ混合し、冷却すれば[[合金]]ができる。 == 脚注 == {{reflist}} ==関連項目== *[[物性物理学]] **[[バンド理論]] *[[化学]] **[[化学結合]] ***[[共有結合]] ***[[イオン結合]] ***[[ファンデルワールス力#ファンデルワールス結合|ファンデルワールス結合]] ***[[水素結合]] {{化学結合}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きんそくけつこう}} [[Category:固体物理学]] [[Category:化学結合]] [[Category:金属]]
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689年
689年(689 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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689年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|689}} {{year-definition|689}} == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[己丑]] * [[日本]] ** [[持統天皇]]3年 ** [[皇紀]]1349年 * [[中国]] ** [[唐]] : [[永昌 (唐)|永昌]]元年、[[載初]]元年 * [[朝鮮]] : * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=689|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[1月26日]](持統天皇3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]) - 人民を[[大極殿]]に朝賀させる * [[3月9日]](持統天皇3年[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]) - [[防人]]を任期制・交代制とする * [[7月21日]](持統天皇3年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]) - [[飛鳥浄御原令]]を頒布 == 誕生 == {{see also|Category:689年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[行会]]、[[奈良時代]]の[[僧]](+ 没年未詳) * [[孟浩然]]、[[唐]]の[[詩人]](+ [[740年]]) * [[良弁]]、奈良時代の[[華厳宗]]の僧、[[東大寺]]の[[開山 (仏教)|開山]](+ [[774年]]) == 死去 == {{see also|Category:689年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月20日]] - [[キャドワラ]]、[[七王国時代]][[ウェセックス]]の王(* 659年) * [[5月7日]](持統天皇3年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]) - [[草壁皇子]]、[[飛鳥時代]]の[[皇太子]](* [[662年]]) * [[黒歯常之]]、[[百済]]、[[唐]]の将軍(* 生年未詳) * [[李元名]]、唐の皇族(* 生年未詳) * [[李慎]]、唐の皇族(* 生年未詳) * [[盧照鄰]]、唐の[[詩人]](* [[637年]]?) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|689}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=7|年代=600}} {{デフォルトソート:689ねん}} [[Category:689年|*]] [[da:680'erne#689]]
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7世紀
7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。 前世紀末に華北を再統一し、さらに南北朝の対立を解消した武川鎮軍閥出身の楊氏(普六茹氏)の隋が内乱の末に崩壊し、群雄割拠の中からやはり武川鎮軍閥出身の出身の李氏(大野氏)の唐が内乱を収拾して統一王朝を建設する。唐は建国当初はモンゴル高原の東突厥の後塵を拝していたが、第二代皇帝太宗李世民はこれを屈服させて羈縻支配に置き、唐を世界帝国に成長させる。唐は武則天の武周に取って代わった一時期を含め本世紀に最盛期を迎える。しかし、本世紀末の682年より東突厥は唐の支配より再び独立を果たし、唐と南北に対峙するようになる。 日本では飛鳥時代(古墳時代終末期)にあたる。
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7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2023年3月}} {{centurybox}} [[ファイル:Rashid al-Din Tabib - Jami al-Tawarikh, f.45v detail - c. 1306-15.png|thumb|260px|right|イスラム教の誕生。画像は[[天使]][[ガブリエル|ジブリール]]から啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『[[集史]]』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画([[エディンバラ大学]]蔵)。]] [[ファイル:Kaaba mirror edit jj.jpg|thumb|260px|right|聖地[[メッカ]]。ムハンマドはメッカから[[メディナ]]に逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカの[[カアバ]]とそれを取り囲む[[マスジド・ハラーム]]。]] [[ファイル:Palestine-2013(2)-Jerusalem-Temple Mount-Dome of the Rock (SE exposure).jpg|thumb|260px|right|[[岩のドーム]]。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが翼のある天馬({{仮リンク|ブラーク|en|Buraq}})に乗って「[[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅(イスラー)]]」を行った聖地であり、それを記念してこの建物が建てられた。]] [[ファイル:Xuanzang w.jpg|thumb|200px|right|[[玄奘三蔵]]。困難多い求法の旅の果てにインドに到達し[[ヴァルダナ朝]]の[[ハルシャ・ヴァルダナ|ハルシャ王]]に歓待された。旅の記録は『[[大唐西域記]]』にまとめられ、有名な伝奇小説『[[西遊記]]』のもとともなった。画像は[[東京国立博物館]]所蔵の玄奘の肖像画。]] [[ファイル:Nalanda University India ruins.jpg|thumb|right|250px|[[ナーランダ僧院]]。創立は[[グプタ朝]]時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で[[唯識]]派の[[シーラバドラ]](戒賢)に学んでいる。画像は現在の[[ビハール州]]に残るナーランダ僧院跡。]] [[File:Arjunas Penance - Descent of the Ganges.jpg|thumb|right|250px|[[マハーバリプラム]]。南インドの[[パッラヴァ朝]]の貿易港として発展した地域で「海岸寺院」ほか特色あるヒンドゥー建築が並び立った。画像は「ガンガーの降下」とも「アルジュナの苦行」とも知られている浮き彫り(レリーフ)で岩山に掘られたものとしては世界最大級を誇る。]] [[File:Phra Pathom Chedi National Mseum 16.jpg|thumb|right|200px|[[ドヴァーラヴァティー王国]]。[[チャオプラヤー川]]流域に[[モン人]]が築いた国家で、6世紀後半には国家体制の基盤がなされて、仏教を受容し独特の文化を開花させた。画像は、現在のタイの[[プラパトムチェーディー国立博物館]]が所蔵する漆喰の仏像で、[[ワット・プラパトムチェーディー|プラパトムチェーディー寺院]]遺跡から発掘されたもの。]] [[ファイル:Avalokiteçvara, Malayu Srivijaya style.jpg|thumb|200px|right|[[シュリーヴィジャヤ王国]]。[[スマトラ島]]を中心に[[マレー半島]]周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧[[義浄]]が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。]] [[File:Horyu-ji10s3200.jpg|thumb|right|250px|[[法隆寺]]。[[聖徳太子]]により7世紀初頭に創建された寺院で焼亡の後、7世紀後半に再建されたとされる。以後西院伽藍は罹災に遭わず世界最古の木造建築物に認定されている。画像は中門と五重塔を含む法隆寺西院伽藍。]] [[ファイル:Tenjyukoku embroidery.jpg|thumb|250px|right|「[[天寿国繡帳]]」。[[飛鳥時代]]を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である[[橘大郎女]]の発願で作成されたとされ、[[斑鳩]][[中宮寺]]に伝来した。]] [[ファイル:Sakafuneishi Ruins, Kamegata Sekizoubutsu.jpg|thumb|right|270px|[[飛鳥の石造物]]。[[奈良県]][[明日香村]]は[[飛鳥時代]]に都が置かれたこともあり、幾つもの遺構が残るが、その用途が知られないものも多い。画像は[[酒船石遺跡]]の小判形石造物と亀形石造物で、斉明朝の両槻宮との関連があるとも考えられている。]] [[ファイル:SongstenGampoandwives.jpg|thumb|270px|right|吐蕃の王[[ソンツェン・ガンポ]]。この王のもと吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。画像は王とその二人の妃である唐から来た[[文成公主]]とネパールから来たチツン。]] [[ファイル:TangTaizong.jpg|thumb|right|180px|唐の[[太宗 (唐)|太宗]]。父[[李淵]]の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の[[律令体制]]を完成させ「[[貞観の治]]」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は[[台湾]][[国立故宮博物院]]が所蔵する太宗の肖像画。]] [[ファイル:Longmen lu she na.jpg|thumb|right|270px|[[奉先寺]]大仏。[[洛陽]]近郊の[[龍門]]にある石窟寺院で、仏教信仰に篤い則天武后の命で造営されたもの。中央の大仏は[[毘盧遮那仏]]で、その顔は[[則天武后]]をモデルにしているといわれる。]] [[ファイル:Palenque - Maske des Pakal.jpg|thumb|right|270px|[[パレンケ]]遺跡。この遺跡は[[マヤ文明]]の古典期を代表するもので、とりわけ[[パカル王]]の墓所があった「碑文の神殿」は有名である。画像はパカル王の遺体に被せられていた[[翡翠]]の[[仮面]]({{仮リンク|メキシコ国立人類学博物館|en|National Museum of Anthropology (Mexico)}}蔵)。]] [[File:Piero della Francesca 021.jpg|right|thumb|330px|皇帝ヘラクレイオスの栄光と蹉跌。サーサーン朝のホスロー2世を下し、「{{仮リンク|真の十字架|en|True Cross}}」を奪い返したことで東ローマ皇帝ヘラクレイオスの権勢は絶頂に達した。しかしその勝利も束の間、更なる強敵イスラム軍に大敗北を喫することになる。画像は15世紀の画家[[ピエロ・デラ・フランチェスカ]]の壁画「{{仮リンク|真の十字架の歴史|en|The History of the True Cross}}」の「ニネヴェの戦い」の場面。]] [[ファイル:Greekfire-madridskylitzes1.jpg|thumb|right|330px|「[[ギリシア火]]」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵([[マドリッド]]国立図書館蔵)。]] [[ファイル:CoronaRecesvinto01.JPG|thumb|right|200px|西ゴート王国の安定。7世紀のイベリア半島は「西ゴート・ルネサンス」または「イシドールス・ルネサンス」の時代とも呼ばれ、[[レケスウィント]]王のもとでは「西ゴート法典」の整備や、トレド教会会議の開催などの取り組みがなされた。画像は「グアラサールの宝物」の一つであるレケスウィント王の宝冠([[国立考古学博物館 (スペイン)|スペイン国立考古学博物館]]蔵)。]] '''7世紀'''(ななせいき、しちせいき)とは、[[西暦]][[601年]]から西暦[[700年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 == できごと == === 600年代 === {{main|600年代}} * 601年 ** 厩戸皇子([[聖徳太子]])が[[斑鳩宮]]を造る。[[任那]]回復のため、[[高句麗]]と[[百済]]に遣使する。 ** [[カンタベリー]]に大司教座が設置され、[[カンタベリーのアウグスティヌス]]が初代大司教に就任する。 * 602年 ** 東ローマ皇帝[[マウリキウス|マウリキオス]]が[[フォカス]]に帝位を簒奪され処刑される。 ** [[来目皇子]]・[[当麻皇子]]を新羅将軍に任命し、[[国造]]・[[郡司]]らの軍2万5000人を動員する。 ** 百済僧[[観勒]]が来日し、天文・暦法・[[陰陽道]]を伝える。 * 603年 - [[新羅]]攻撃を中止する。[[豊浦宮]]から[[小墾田宮]]に遷る。[[冠位十二階]]を制定する。 * 604年 ** 冠位十二階制を施行する。厩戸皇子が[[十七条憲法]]を作る。[[朝礼]]を改める。 ** [[隋]]で[[煬帝]]が即位する。<!--文帝暗殺はあくまでも伝承なので削除--> * 605年 ** 隋の煬帝が[[大運河]]の建設を命じる。 ** 推古天皇が[[飛鳥寺]]の大仏の鋳造を発願する。 * 606年 ** [[ハルシャ・ヴァルダナ]]が[[北インド]]に[[ヴァルダナ朝]]を建国。 ** [[アクイレイア]][[総大司教]]が[[アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ|アクイレイア]]の[[ランゴバルド]]派と[[グラード (イタリア)|グラード]]の[[ラヴェンナ]]派(東ローマ派)に分裂する。 * 607年 ** 第2回[[遣隋使]]として[[小野妹子]]が派遣される。 *** 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」。 ** [[法隆寺]]が創建される(『[[上宮聖徳法王帝説]]』ほか)。国ごとに[[屯倉]]を置く。 ** 隋の煬帝が「流求国」に使者を送る(中国側史料による最古の[[琉球]]についての言及)。 ** ランゴバルド王{{仮リンク|アギルルフォ|en|Agilulf}}が王妃テオドリンダの勧めでカトリックに改宗する。 *** 王妃テオドリンダにより「[[ロンバルディアの鉄王冠]]」が整備され、[[モンツァ]]大聖堂が造営される。 * 608年 ** 小野妹子が隋使[[裴世清]]らとともに帰国する。隋使が朝廷に参内し帰国する。 *** 同年、小野妹子は再び隋に遣わされる。この時に[[高向玄理]]・[[旻]]・[[南淵請安]]ら8人留学する。 ** 東ローマ皇帝フォカスがローマ教皇[[ボニファティウス4世 (ローマ教皇)|ボニファティウス4世]]に[[パンテオン]]を聖堂として寄進する。 *** この記念に[[フォロ・ロマーノ]]に[[フォカスの記念柱]]が建てられる(ローマ皇帝によるローマ市の記念物としては最後のもの)。 ** [[カルタゴ]]総督ヘラクレイオス(父)が東ローマ皇帝フォカスに反乱を起こす。 * 609年 ** 小野妹子ら帰国する。 ** 教皇[[ボニファティウス4世 (ローマ教皇)|ボニファティウス4世]]がローマの[[パンテオン]]を聖母と諸聖人のための聖堂として改めて奉献する。 === 610年代 === {{main|610年代}} * 610年 ** 隋に使を派遣する。高句麗僧[[曇徴]]が紙墨の技術を伝える。 ** カルタゴから[[ヘラクレイオス]](子)がコンスタンティノポリスに進軍。 *** フォカスが処刑され、ヘラクレイオスが東ローマ皇帝に即位([[ヘラクレイオス王朝|ヘラクレイオス朝]]の成立)。 ** [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が[[ヒラー山]]で[[唯一神]][[アッラー]]からの啓示を受ける([[イスラム教]]の始まり)。 ** 修道士[[コルンバヌス]]がフランク王国(ブルグント)から追放される。 * 611年 - [[隋]]が[[隋の高句麗遠征|高句麗遠征]]を開始( - [[614年]])するが、失敗に終わる。 * 612年 - 百済人[[味摩之]]により日本に[[伎楽]]が伝えられる。 * 613年 ** [[サーサーン朝]]のホスロー2世が東ローマ帝国領[[シリア]]を占領。 ** [[ネウストリア]]王[[クロタール2世 (フランク王)|クロタール2世]]が[[アウストラシア]]摂政[[ブルンヒルド]]を倒してフランク王国を統一し、首都をパリに定める。 ** アイルランド人ガルスが[[ザンクト・ガレン修道院]]のもととなる庵を築く。 ** 隋で[[楊玄感]]の乱。 * 614年 ** {{仮リンク|パリ勅令|en|Edict of Paris}}がクロタール2世によって出される。 *** アウストラシア・ブルグント各分王国では[[宮宰]]が国王の代理人となり、その特別な地位が認められるようになる。 ** 修道士コルンバヌスが北イタリアに[[ボッビオ]]修道院を創設する。 ** サーサーン朝のホスロー2世が東ローマ帝国領[[エルサレム]]を占領する。 * 615年 - 隋の煬帝が雁門で東突厥の[[始畢可汗]]に包囲される。 * 617年 - サーサーン朝が東ローマ帝国の首都[[コンスタンティノポリス]]を包囲する。 * 618年 - [[揚州 (江蘇省)|江都]]([[揚州 (江蘇省)|揚州]])にて煬帝が[[宇文化及]]・[[司馬徳戡]]に殺害され隋が滅亡する。 ** 長安で[[李淵]]が[[唐]]を建国。洛陽で[[王世充]]、河北楽寿で[[竇建徳]]が独自政権を樹立。 * 618年頃 - コンスタンティノポリスでの都市民への穀物支給の廃止(「[[パンとサーカス]]」の終焉)。 === 620年代 === {{main|620年代}} * 620年 - 東ローマ帝国で公用語を[[ラテン語]]から[[ギリシア語]]に変更する。 * 621年 ** 唐で「[[開元通宝]]」の鋳造が始まる。 ** 「[[クルアーン]]」の伝承ではこの年にムハンマドが「[[夜の旅 (クルアーン)|夜の旅]]」を行う。 *** メッカからエルサレムの旅(イスラー)と、エルサレムから天界への旅(ミウラージュ)がある。 * 622年 ** 厩戸皇子が斑鳩宮で死去、その墓は[[叡福寺北古墳]](磯長墓)と伝わる。 ** ムハンマドが[[マディーナ|メディナ]]へ遷る([[ヒジュラ]](聖遷)- [[ヒジュラ暦]]元年)。メディナに最初の[[モスク]]である[[クバー・モスク]]が建設される。 ** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝への反撃を開始。 * 623年 ** [[アヴァール]]から独立した[[西スラブ人]]が[[サモ王国]]を建てる( - [[658年]])。 ** [[鞍作止利]]により法隆寺[[金堂]]本尊銅造[[法隆寺金堂釈迦三尊像|釈迦三尊像]]が作られる。 * 624年 ** [[バドルの戦い]]でムハンマドのメディナ軍がメッカ軍に勝利。[[ラマダーン]]月の始まり。 ** 唐で「武徳律令」が制定され、均田制や租庸調制が定められる。 * 625年 ** [[ウフドの戦い]]でメッカ軍がメディナ軍に勝利。 ** イングランド東部[[イースト・アングリア]]の[[サットン・フー]]の船葬墓からこの年の銘の金貨が出土している。 * 626年 ** 唐で[[玄武門の変]]が起こり、勝利した李世民が第2代皇帝[[太宗 (唐)|太宗]]として即位( - [[649年]])([[貞観の治]])。 ** [[蘇我馬子]]が死去、その墓は[[石舞台古墳]]と伝わる。 ** サーサーン朝・アヴァール人・スラヴ人による[[コンスタンティノープル包囲戦 (626年)|コンスタンティノポリス包囲戦]]。 * 627年 ** [[ニネヴェの戦い (627年)|ニネヴェの戦い]]で東ローマ軍がサーサーン朝軍に勝利。 ** [[ハンダクの戦い]](塹壕の戦い)でメディナ軍がメッカ軍に勝利。 * 628年 ** [[推古天皇]]が死去、その墓は[[山田高塚古墳]](磯長山田陵)と伝わる。 ** [[真臘]]のイシャーナヴァルマン1世が[[扶南]]を滅ぼす。 ** [[フダイビーヤの和議]]。{{仮リンク|ハイバル征服|en|Battle of Khaybar}}。 ** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝の都クテシフォンを陥落させる。 *** サーサーン朝のホスロー2世が暗殺され、息子カワード2世はヘラクレイオスと和睦、サーサーン朝の占領地は返還される。 *** [[カフカス・アルバニア王国]]の{{仮リンク|ヴァラズ・グレゴール|en|Varaz Grigor}}王が独立する。 * 629年 ** [[唐]]の僧侶[[玄奘]](三蔵法師)がインドへ向けて出発( - [[645年]])。 ** 敏達天皇の孫の田村皇子が、第34代[[舒明天皇]]として即位する。 ** 首都コンスタンティノポリスヘ凱旋した皇帝ヘラクレイオスが、「[[バシレウス]]」の称号を始めて用いる。 === 630年代 === {{main|630年代}} * 630年 ** ムハンマドが[[マッカ|メッカ]]を征服。周辺各国にイスラム教への入信を呼びかける(遣使の年)。 ** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスがエルサレムに入城。 *** サーサーン朝から返還された「[[聖十字架|真の十字架]](True Cross)」を奉献する[[聖墳墓教会]]を再建。 ** 唐軍により[[頡利可汗]]が捕えられ[[東突厥]]が滅亡、唐は[[羈縻支配]]を行う。 *** 唐の太宗は西域諸国から「天可汗」に推戴される。 ** 第1回[[遣唐使]]として[[犬上御田鍬]]が派遣される。 * 631年 - 唐の[[魏徴]]らにより『[[群書治要]]』が編纂される。 * 632年 - [[別離の巡礼]]の後に[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]が死去。 ** 遺体は[[預言者のモスク]](マスジッド・アルナバウィ)の墓に葬られる。 ** [[アブー・バクル]]が後継のイスラム指導者である初代[[カリフ]]に選ばれる。 ** 後継カリフの選出をめぐり{{仮リンク|リッダ(背教)の戦い|en|Ridda wars}}が起こる( - 633年)。 * 633年 - [[イスラーム教徒のペルシア征服|イスラム教徒のペルシア征服]]が始まる。 * 634年 - アブー・バクル死去により第2代カリフに[[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]が選ばれる。 * 634年頃 - [[前期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]のプラシーケン2世が[[ナルマダー川]]の戦いで[[ハルシャ・ヴァルダナ]]の軍を破り南インドの独立を維持する。 * 635年以前 - {{仮リンク|クブラト・ハン|en|Kubrat}}により黒海北岸の[[タマン半島]]のファナゴリアを中心とする[[大ブルガリア (中世)|大ブルガリア]]が成立する。 * 635年 ** [[ティカル]]の王子[[バラフ・チャン・カウィール]]が[[ドス・ピラス]]の支配者になる。 ** [[ノーサンブリア]]王オスワルドの招きにより、エイダンが[[リンディスファーン修道院]]を設立する。 ** ペルシア人司祭の[[阿羅本]]らにより唐にキリスト教[[ネストリオス派]]([[景教]])が伝えられる。 ** 唐の[[李靖]]が[[吐谷渾]]を征討する。 * 636年 ** [[ヤルムークの戦い|ヤルムーク河畔の戦い]]で、皇帝ヘラクレイオス率いる東ローマ帝国軍が[[イスラム帝国]]軍に惨敗。 *** 東ローマ帝国はサーサーン朝から奪回したシリアの領土を再び失う。 ** フランク王[[ダゴベルト1世 (フランク王)|ダゴベルト1世]]により王家の墓所となる[[サン=ドニ大聖堂|サン・ドニ教会]]がパリ近郊に設置される。 * 637年 ** [[カーディシーヤの戦い]]で、サーサーン朝がイスラム軍に敗れ、都のクテシフォンを占領される。 ** 唐で「貞観律令」が施行される。 ** [[舒明天皇]]9年のこの年、轟音を伴う[[流星]]が確認される、[[僧旻]]はこれを「[[天狗]]」と呼ぶ。 * 638年 ** 東ローマ皇帝ヘラクレイオスが「{{仮リンク|エクテシス|en|Ecthesis}}」を発布。 ** カリフのウマルにより派遣されたウトバ・イブン・ガズワーンがイスラム最初の[[ミスル]](軍営都市)の[[バスラ]]を建設する。 * 639年 ** 舒明天皇の命で[[大安寺|百済大寺]](吉備池廃寺)が建立される。 *** この寺院は天皇の命による日本初の官寺で、後の高市大寺・大官大寺・[[大安寺]]のもととなる。 ** サアド・イブン・アビー・ワッカースによりミスルの[[クーファ]]が建設される。 === 640年代 === {{main|640年代}} * 640年 ** イスラム帝国の[[シリア|シリア地方]]征服が完了。 ** 唐が麴氏[[高昌国]]を滅ぼし、最初の都護府である西州都護府(後の[[安西都護府]])を設置。 * 640年頃 ** 中部ジャワに[[シャイレーンドラ朝]]が成立。 * 641年 ** 舒明天皇が死去。 ** 吐蕃の[[ソンツェン・ガンポ]]王(松賛干布)が唐の[[文成公主]]を妃として迎える。 ** {{仮リンク|アレクサンドリア攻囲戦 (641年)|en|Siege of Alexandria (641)}}でイスラム軍が勝利。 *** 東ローマ帝国はエジプトを喪失。イスラム軍が[[ミスル]](軍営都市)の[[フスタート]]を建設。 ** 東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世死去、後継の皇帝[[ヘラクロナス]]とその母[[マルティナ (東ローマ皇后)|マルティナ]]が追放され、[[コンスタンス2世]]が即位。 ** 玄奘がハルシャ・ヴァルダナ王臨席のもと[[カナウジ]]城での論戦に勝利し、プラヤーガ(現[[イラーハーバード]])の「無遮大会」に参加する。 * 642年 ** [[ニハーヴァンドの戦い]]でサーサーン朝がイスラム帝国に大敗する。 ** [[シャフレ・レイ|レイ]]でスィヤーワフシュを首領とするゾロアスター教徒の反乱が起きる。 ** フスタートにアフリカ大陸最古のモスクである[[アムル・イブン・アル=アース・モスク]]が建立される。 ** 第35代[[斉明天皇|皇極天皇]]即位。[[船王後|船氏王後墓誌]]([[三井記念美術館]]蔵)が作成される。 ** [[高句麗]]の[[淵蓋蘇文]]が[[栄留王]]を弑害し、[[宝蔵王]]を擁立。 * 643年 ** [[蘇我入鹿]]が[[山背大兄王]]一家(上宮王家)を滅ぼす。皇極天皇が[[飛鳥板葺宮]]に遷る。 ** 唐の太宗の長男[[李承乾|承乾]]が廃太子となる。 ** ランゴバルド王国で最初の法典である『{{仮リンク|エディクトゥム・ロタリ|en|Edictum Rothari}}』が制定される。 ** [[拂菻]]王波多力(東ローマ皇帝[[コンスタンス2世]]か)の使者が唐に来訪。 * 644年 ** ウマルが暗殺され、第3代カリフに[[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]が選ばれる。 ** [[富士川]]周辺で[[大生部多]]により[[常世神]]と称して虫を祀る信仰が流行する。 ** [[信濃国]][[善光寺]]が建造される。 * 645年 ** 玄奘が帰国し長安に到着。 ** [[天智天皇|中大兄皇子]]・[[藤原鎌足|中臣鎌足]]らが蘇我入鹿を宮中で暗殺し([[6月12日]])、[[蘇我蝦夷]]は自殺する([[乙巳の変]])。 *** 皇極天皇が譲位し、第36代[[孝徳天皇]]が即位。[[難波長柄豊碕宮]]へ遷都( - [[655年]])。 *** 日本最初の元号「[[大化]]」を導入し([[大化の改新]])、[[左大臣]]・[[右大臣]]・[[内臣]]・[[国博士]]を設置。 *** [[古人大兄皇子]]が謀反の疑いで処刑される。 * 646年 ** [[改新の詔]]を宣する。大化の[[薄葬令]]が出される。 ** 僧[[道登]]が[[宇治橋 (宇治市)|宇治橋]]を架けたと記す日本最古の石碑が建てられる([[宇治橋断碑]])。 * 647年 - ハルシャ・ヴァルダナ王の死により[[ヴァルダナ朝]]の支配が崩壊し、北インドは混乱状態になる。 ** 唐の使節[[王玄策]]らが北インドでアラナシュの反乱に遭遇、吐蕃らと協力してアラナシュを捕縛し唐に連行する。 * 648年 - 東ローマ皇帝[[コンスタンス2世]]が「{{仮リンク|テュポス|en|Typos of Constans}}」を発布。 * 649年 - [[蘇我倉山田石川麻呂]]が讒言により[[山田寺]]にて自害する。 === 650年代 === {{main|650年代}} * 650年頃 ** [[スマトラ島]]に[[シュリーヴィジャヤ王国]]が成立。 * 650年 ** 内モンゴルの東突厥の旧領フフホト付近に瀚海都護府(後の単于都護府)を設置。 * 651年 ** オクサス川の戦いで敗北したサーサーン朝皇帝[[ヤズデギルド3世]]が暗殺される。 *** 事実上サーサーン朝ペルシアが滅亡、皇子[[ペーローズ3世]]は唐に亡命する。 ** イスラム帝国カリフのウスマーンの命令で『[[クルアーン]](コーラン)』正典が編纂される(ウスマーン版)。 ** イスラム帝国の使者が始めて唐に来訪する。 ** 唐で「永徽律令」が施行される。 * 652年 ** 唐で「[[唐律疏義]](永徽律疏)」が編纂され、漢代からの「[[春秋決獄]]」が廃止される。 ** 玄奘三蔵がインドから招来した経典や仏像を保存するため長安近郊の[[大慈恩寺]]に[[大雁塔]]が建てられる。 * 653年 ** 孝徳天皇と中大兄皇子とが不和になり、中大兄皇子以下は飛鳥に還る。 ** 東ローマ皇帝コンスタンス2世が教皇[[マルティヌス1世 (ローマ教皇)|マルティヌス1世]]を捕縛し[[クリミア半島]]の[[ケルソネソス|ケルソン]]に追放する。 ** 唐で[[孔穎達]]・[[顔師古]]らにより『[[五経正義]]』180巻が選定される。 ** 大慈恩寺大雁塔に書家[[褚遂良]]による「雁塔聖教序」の石碑が置かれる。 * 654年 ** 西ゴート王[[レケスウィント]]が属人法を廃止し「西ゴート法典(リベル法典・裁判法典)」を公布する。 * 655年 ** 皇帝コンスタンス2世率いる東ローマ帝国軍が小アジアの[[リュキア]]の海戦(帆柱の戦い)でイスラム帝国軍に惨敗。 ** 唐の高宗の[[王皇后 (唐高宗)|皇后王氏]]が廃され、[[則天武后|武照]]が皇后に冊立される。 ** 皇極天皇が重祚し、第37代[[斉明天皇]]となる。 * 656年 - ウスマーンが暗殺され、[[アリー・イブン=アビー=ターリブ|アリー]]が第4代カリフに選出される。 ** この選出をめぐりイスラム帝国で第一次内乱が勃発( - [[661年]])。[[ラクダの戦い]]で[[アーイシャ・ビント・アブー・バクル|アーイシャ]]がアリーに敗北。 * 657年 ** 唐軍により[[阿史那賀魯|沙鉢羅可汗]]が捕えられ[[西突厥]]が唐の[[羈縻政策]]下に置かれる。高宗のこの時期に唐の領土は最大となる。 ** [[スィッフィーンの戦い]]、アリーとムアーウィアの間で勝敗はつかず。 *** ドゥーマト・アッ・ジャンダルの和議が結ばれるが、アリーから[[ハワーリジュ派]]が離反。 * 658年 ** [[有間皇子]]が謀反の疑いで処刑される。 ** [[阿倍比羅夫]]が水軍180隻を率いて[[蝦夷]]を討ち、[[みしはせ|粛慎]]を平定する( - [[660年]])。 ** 東ローマ皇帝コンスタンス2世がバルカン半島南部のスラブ人を制圧。 *** この時のスラブ人は小アジアに入植させられ、帝国防衛のための[[テマ制]](軍管区制)の原型が形成される。 * 659年 ** 斉明天皇が[[出雲国造]]に命じて「神の宮([[出雲大社]])」を作らせる。 === 660年代 === {{main|660年代}} * 660年 ** 新羅と唐の連合軍([[唐・新羅の同盟]])が百済を滅ぼす。 ** 唐で「皇帝」と「皇后」をそれぞれ「天皇」と「天后」に改名。 * 661年 ** カリフのアリーが[[ハワーリジュ派]]に暗殺される。 *** シリア総督の[[ムアーウィヤ]]がカリフとなり、[[ダマスクス]]を都とする[[ウマイヤ朝]]が成立。 ** 百済復興支援のため斉明天皇が九州に出兵、百済王子[[扶余豊璋|豊璋]]らと日本軍が渡海。 *** [[筑紫国]][[朝倉橘広庭宮]]にて斉明天皇が死去。中大兄皇子は皇太子のまま[[称制]]を継続。 ** [[大夏|吐火羅]]国を始めとする[[西域]]諸国が遣使を送って唐に内属する。 *** これにより唐は于闐国(ホータン)以西、波斯国(サーサーン朝)以東の16国にそれぞれ[[都督]]を置く。 ** [[モン族 (Mon)|モン族]]の[[ハリプンチャイ王国]]が成立する。 * 663年 ** [[白村江の戦い]]で、日本が唐・新羅連合軍に大敗する。 ** 吐蕃の宰相ガル・トンツェンが[[吐谷渾]]を征服する。 ** 東ローマ皇帝コンスタンス2世がローマに赴き教皇[[ウィタリアヌス (ローマ教皇)|ウィタリアヌス]]と会見。 *** コンスタンス2世は南イタリアからシチリア島に向かい、[[シラクサ]]に宮廷を置く。 * 664年 ** [[ウィットビー教会会議]]が開かれ、ローマ式典礼が[[ケルト系キリスト教|ケルト式典礼]]より優位に立つ。 ** [[甲子の宣]]により、[[冠位二十六階]]を制定し、[[氏上]]・[[民部]]・[[家部]]を定める。 ** [[対馬]]・[[壱岐]]・筑紫などに[[防人]]・[[烽火]]を設置し、筑紫に[[水城]]を築造。 * 665年頃 - {{仮リンク|クブラト・ハン|en|Kubrat}}が死去し大ブルガリアの部族連合が崩壊する。 ** 北方のヴォルガ川中流域には[[ヴォルガ・ブルガール]]人、西方のバルカン半島には[[ドナウ・ブルガール]]人が拡大する。 * 666年 - 唐の高宗が武后とともに[[泰山]]にて[[封禅]]を行う。 * 667年 - 中大兄皇子が[[近江国]][[近江宮]](大津宮)へ遷都( - 672年)。 * 668年 ** 東ローマ皇帝コンスタンス2世が滞在中のシチリア島で暗殺される。 ** 唐が高句麗を滅ぼし、平壌に[[安東都護府]]を設置する([[唐の高句麗出兵]])。 ** 中大兄皇子が即位し、第38代[[天智天皇]]となる。 ** [[尾張国]]の熱田社([[熱田神宮]])から新羅僧の道行が[[草薙剣]]を奪取する([[草薙剣盗難事件]])。 * 669年 ** [[内大臣]][[藤原鎌足|中臣鎌足]]が[[大織冠]]を授けられて、「[[藤原氏|藤原]]」の姓を賜わり、翌日に死去。 ** 藤原鎌足の発願で山城国山階寺([[興福寺]]の前身)が創建される。 === 670年代 === {{main|670年代}} * 670年 ** 全国的に[[戸籍]]をつくる([[古代日本の戸籍制度#庚午年籍|庚午年籍]])。 ** 聖徳太子時代に創建された法隆寺([[若草伽藍]])が炎上する。7世紀末までに再建がなされる。 ** 吐谷渾を復興しようとした唐が{{仮リンク|大非川の戦い|zh|大非川之戰|}}で吐蕃に敗北する。 ** ウマイヤ朝軍が[[チュニジア]]に進軍し、[[ケルアン]](カイラワーン)市の建設に着手( - [[675年]])。 * 671年 ** 唐僧[[義浄]]が渡印のため[[広州]]を出航し室利仏逝([[シュリーヴィジャヤ王国]]か)に到着。 ** 新羅と唐が対立する([[唐・新羅戦争]])。 ** 大友皇子が[[太政大臣]]となる。[[近江令]]の制定、天智天皇が[[水時計]](漏刻)を作らせ[[時報]]を始める。 * 672年 ** 天智天皇死去。 *** 大友皇子が近江宮の首班となる(第39代[[弘文天皇]])。 ** [[壬申の乱]]が起こる。 *** 大海人皇子が大友皇子を倒し、第40代[[天武天皇]]として即位。 *** 近江宮から[[飛鳥浄御原宮]]に遷る。 * 673年 - ウマイヤ朝海軍が[[キュジコス]]半島を前線基地として確保。 * 674年 - キュジコス半島からウマイヤ朝海軍が東ローマ帝国首都[[コンスタンティノープル包囲戦 (674年-678年)|コンスタンティノポリスを包囲]]。 ** ウマイヤ朝の攻撃は[[678年]]まで断続的に行われるが、東ローマ海軍は[[ギリシア火]]でこれを撃退。 * 675年 ** 天武天皇が[[日本の獣肉食の歴史|日本で最初の肉食禁止の詔]]を出す。 ** [[竜門石窟]]の[[奉先寺]]洞[[毘盧遮那仏]]が完成する。 * 676年 - 伎伐浦海戦で唐を破った新羅が[[朝鮮半島]]を統一。 * 678年 - 西安から出土した百済系将軍「[[禰軍]]」の墓誌(拓本)にこの年の唐の年号「儀鳳3年」と最古の「日本」という[[国号]]の記述が見られる。 * 679年 - 唐が[[タリム盆地]]の[[スイアブ]]を占領、碎葉鎮と改称し、安西四鎮の一つとなる。 ** スイアブはかつての西突厥の根拠地で、[[キルギス共和国]]のアク・べシム遺跡がそれに当たる。 === 680年代 === {{main|680年代}} * 680年 ** [[カルバラーの戦い]](カルバラーの悲劇)。 ** [[第3コンスタンティノポリス公会議]]で[[単意論]]が排撃される。 ** [[オングロスの戦い]]で東ローマ軍が[[ブルガール人]]に敗北。 ** 唐で皇太子[[李賢 (唐)|李賢]](章懐太子)が廃される。 ** 天武天皇が[[薬師寺]]建立の発願をする。 * 681年 ** [[飛鳥浄御原令]]の編纂を開始する。[[上野三碑]]の[[山ノ上碑]]が建てられる。 ** ブルガール人[[アスパルフ]]が[[第一ブルガリア帝国]]を建国し、[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]を都に定める。 * 682年 ** [[東突厥]]の[[阿史那骨咄禄]]が唐の[[羈縻政策]]を脱して可汗を名乗り、第二可汗国が成立する。 ** ウマイヤ朝軍のウクバ・イブン・ナーフィウが[[マグリブ]]を制圧し大西洋に到達する。 ** [[ドス・ピラス]]の王女{{仮リンク|ワック・チャニル・アハウ|en|Wak Chanil Ajaw}}(「6の空」)が[[ナランホ]]に新王朝を建てる。 * 683年 ** メッカにて[[アブドゥッラー=イブン・アッズバイル|イブン・アッズバイル]]がカリフを名乗る。 *** ウマイヤ朝が反乱軍と激突しメッカのカーバ神殿が炎上(アルハッラーの戦い)、[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]( - [[692年]])が勃発。 ** [[マヤ]]の[[パレンケ]]「碑文の神殿」の地下室に[[パカル王]]が埋葬される。 ** 唐の皇帝高宗が死去し、息子の中宗が継ぐ。 * 683年頃 - 天武天皇の下で[[富本銭]]が発行される。 * 684年 ** 唐の中宗が退位させられ、[[睿宗 (唐)|睿宗]]が即位。{{仮リンク|徐敬業|zh|徐敬業}}の反乱。 ** [[白鳳地震]]。[[八色の姓]]の制定。 * 685年 - [[ムフタール・アッ=サカフィー|ムフタール]]の反乱。 * 686年 - 天武天皇が死去し、第41代[[持統天皇]]が即位。[[大津皇子]]が謀反の疑いで処刑される。 * 687年 - テルトリーの戦いで、アウストラシア宮宰[[ピピン2世]](中ピピン)がネウストリア宮宰ワラットを倒し、[[フランク王国]]の実権を握る。 * 688年 - 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世とウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクとの間で[[キプロス]]を共同統治することに合意。 * 689年 - [[律令制#飛鳥浄御原令|飛鳥浄御原令]]を発令。 === 690年代 === {{main|690年代}} * 690年 ** 戸令により[[庚寅年籍]]をつくる。第1回[[神宮式年遷宮|伊勢神宮内宮式年遷宮]]。 ** 唐で[[高宗 (唐)|高宗]]の皇后([[則天武后]])が自らを聖神皇帝と称し「天授」と改元する。 *** 国号を「周」とし唐王朝は一時断絶( - [[705年]])。洛陽を[[神都]]と改称して遷都し、中国各地に大雲経寺を設置。 ** 東ローマ皇帝ユスティニアノス2世の命により{{仮リンク|パウリキアヌス派|en|Paulicianism}}の創始者である[[アルメニア]]人{{仮リンク|コンスタンティノス・シルヴァノス|en|Constantine-Silvanus}}が火刑に処される。 * 691年 ** 則天武后が「仏先道後」の国是を定め、仏教保護政策を進める。 ** 唐僧[[義浄]]による『[[南海寄帰内法伝]]』が完成する。 ** 東ローマ皇帝[[ユスティニアノス2世]]が{{仮リンク|トゥルロ教会会議|en|Quinisext Council}}を開催する。 * 692年 ** ウマイヤ朝カリフの[[アブドゥルマリク]]により[[エルサレム]]の[[岩のドーム]]が完成する([[688年]] - )。 ** [[セバストポリスの戦い]]で、ウマイヤ朝軍が東ローマ軍を破る。 * 693年 - ウマイヤ朝カリフのアブドゥルマリクが[[ダマスカス]]でイスラーム王朝初の金貨([[ディナール]])を打刻させる。 * 694年 ** 持統天皇が[[藤原京]]に都を遷す。 ** 唐に[[マニ教]]が伝来する。 * 695年 - [[レオンティオス]]の政変で東ローマ皇帝ユスティニアノス2世が捕縛され、鼻を削がれて[[クリミア半島]][[ケルソネソス|ケルソン]]へ追放される。 * 696年 ** {{仮リンク|ルペルト|en|Rupert of Salzburg}}が[[ザルツブルク]]にドイツ語圏最古の聖ペーター教会修道院を建設する。 ** 則天武后が[[嵩山]]にて封禅を行う。 * 697年 - 持統天皇が譲位し、第42代[[文武天皇]]が即位する。 * 698年 ** ウマイヤ朝のハサン・イブン・アル・ヌゥマーンが{{仮リンク|カルタゴの戦い(698年)|en|Battle of Carthage (698)}}で東ローマ帝国に勝利し、北アフリカのほぼ全域を制圧。 ** 靺鞨人[[大祚栄]]が震国(後の[[渤海 (国)|渤海]])を建国。 * 699年 - [[葛城山]]の行者[[役小角]]を[[伊豆大島]]に配流する。 === 700年代 === {{main|700年代}} * 700年 ** [[飛鳥寺]]の[[大僧都]][[道昭]]が死去、日本最初の[[火葬]]にされる。 ** [[日本三古碑]]の一つとされる[[栃木県]][[大田原市]]の[[那須国造碑]]が建立される。 === 7世紀 === * [[コロンビア]]のボゴタ地方にチブチャ人が定住し、チブチャ文化([[ムイスカ人|ムイスカ文化]])が成立する( - 1600年代) == 時代の動向 == === 東アジア === ==== 大陸 ==== 前世紀末に[[華北]]を再統一し、さらに[[南北朝時代 (中国)|南北朝]]の対立を解消した[[武川鎮軍閥]]出身の楊氏(普六茹氏)の[[隋]]が内乱の末に崩壊し、群雄割拠の中からやはり武川鎮軍閥出身の出身の李氏(大野氏)の[[唐]]が内乱を収拾して統一王朝を建設する。唐は建国当初は[[モンゴル高原]]の[[東突厥]]の後塵を拝していたが、第二代皇帝[[太宗 (唐)|太宗]]李世民はこれを屈服させて[[羈縻支配]]に置き、唐を[[世界帝国]]に成長させる。唐は[[武則天]]の[[武周]]に取って代わった一時期を含め本世紀に最盛期を迎える。しかし、本世紀末の[[682年]]より東突厥は唐の支配より再び独立を果たし、唐と南北に対峙するようになる。 ==== 朝鮮半島 ==== ==== 日本 ==== 日本では[[飛鳥時代]]([[古墳時代]][[終末期古墳|終末期]])にあたる。 * 終末期古墳には[[山田高塚古墳]]・[[石舞台古墳]]・[[牽牛子塚古墳]]・[[キトラ古墳]]・[[高松塚古墳]]が挙げられ、[[天皇陵|大王墓]]を中心に[[八角墳]]が出現する。 * [[645年]]に[[孝徳天皇]]が即位するとこの年を[[大化]]元年と定め、日本における最初の[[元号]]が誕生した(「[[大化の改新]]」を参照)。 * 7世紀後半から8世紀初頭ごろに対外的な[[国号]]を「[[倭国]]」から「[[日本]]」へ改めている<ref group="注">ただし、日本成立以前の倭国および[[倭国王]]の勢力範囲に関しては諸説ある。</ref>。 * 君主の称号が[[治天下大王]](あめのしたしろしめすおほきみ)から[[天皇]]に改められた。 * [[北海道]]では[[続縄文文化]]から[[擦文文化]]に移行。 === 西アジア === === 南アジア === === 東南アジア === === ヨーロッパ === == 人物 == === イスラム世界 === ==== ムハンマドと正統カリフ ==== * [[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|ムハンマド]]([[570年]]頃 - [[632年]])- [[イスラム教]]開祖・最後の[[預言者]]・その言行が『クルアーン』に記録される * [[アブー・バクル]]([[573年]] - [[634年]]) - 初代[[正統カリフ]](在位[[632年]] - [[634年]])・ムハンマドの教友([[サハーバ]]) * [[ウマル・イブン・ハッターブ|ウマル]]([[592年]]? - [[644年]])- 第2代正統カリフ(在位[[634年]] - [[644年]])・ムハンマドの教友(サハーバ) * [[ウスマーン・イブン・アッファーン|ウスマーン]]([[574年]] - [[656年]])- 第3代正統カリフ(在位[[644年]] - [[656年]])・ムハンマドの教友(サハーバ) * [[アリー・イブン・アビー=ターリブ|アリー]]([[600年]]頃 - [[661年]])- 第4代正統カリフ(在位[[656年]] - [[661年]])・ムハンマドの従兄弟で娘婿・シーア派では初代[[イマーム]]とされる * [[アムル・イブン・アル=アース|アムル・イブン・アル・アース]]([[583年]] - [[664年]]) - 正統カリフ時代の将軍・アレクサンドリア包囲戦に勝利しエジプトを征服 * [[ハーリド・イブン・アル=ワリード|ハーリド・イブン・アル・ワリード]]([[592年]] - [[642年]]) - 正統カリフ時代の将軍・ヤルムークの戦いに勝利しシリアを征服・別名「アッラーの剣」 * サード・イブン・アビー・ワッカース([[595年]] - [[664年]]) - 正統カリフ時代の将軍・ニハーヴァンドの戦いに勝利しペルシアを征服 * ザイド・イブン・サービト([[611年]] - [[665年]]/[[666年]]) - イスラム帝国の書記・カリフのウスマーンに命じられ『クルアーン』正典を編纂する * [[ハンサー]]([[575年]] - [[646年]]) - 無明時代からイスラム時代にかけての女流詩人・アラビア語の悲歌({{仮リンク|リサー|en|Rithā’}})を完成させる * [[アーイシャ・ビント=アブー=バクル|アーイシャ]]([[614年]]頃 - [[678年]]) - ムハンマドの3番目の妻・カリフのアブー・バクルの娘・ラクダの戦いではカリフのアリーと対決 ==== ウマイヤ朝 ==== * [[ムアーウィヤ]] ([[603年]]頃 - [[680年]]) - [[ウマイヤ朝]]初代[[カリフ]] (在位[[661年]] - [[680年]])・アリーと敵対しカリフ世襲化を行う * ウクバ・イブン・ナーフィウ([[622年]] - [[683年]]) - ウマイヤ朝の将軍・[[マグリブ]]各地を占領し[[チュニジア]]に軍営都市[[ケルアン]]を建設 * [[アブドゥッラー=イブン・アッズバイル|イブン・アッズバイル]]([[624年]]頃 - [[692年]]) - イスラム帝国の[[第二次内乱 (イスラーム史)|第二次内乱]]の指導者・アブー・バクルの孫でカリフを名乗る * [[フサイン・イブン・アリー (イマーム)|フサイン・イブン・アリー]]([[626年]] - [[680年]]) - アリーの次男・シーア派では第3代[[イマーム]]とされる・[[カルバラーの戦い]]で虐殺される * [[アフタル]]([[640年]] - [[710年]]) - アラブ人キリスト教徒の詩人・ウマイヤ朝に招かれ宮廷詩人となるが部族の争いで殺害される * ハサン・アルバスリー([[642年]] - [[728年]]) - イスラム教の思想家・禁欲主義を唱え最初期の[[スーフィー]]とされる・[[バスラ]]で活躍し墓が残る * [[ヤズィード1世]]([[645年]] - [[683年]]) - ウマイヤ朝第2代カリフ(在位[[680年]] - [[683年]])・カルバラーの戦いでアリー家を殲滅する * [[アブドゥルマリク]]([[647年]] - [[705年]]) - ウマイヤ朝第5代カリフ(在位[[685年]] - [[705年]])・第二次内乱を鎮圧し[[岩のドーム]]を建設 * ハサン・イブン・アル・ヌゥマーン(? - [[700年]]頃) - ウマイヤ朝の将軍・北アフリカのカルタゴを占領し東ローマ帝国の支配を終わらせる * ハッジャージ・イブン・ユースフ([[661年]] - [[714年]]) - ウマイヤ朝の将軍・イラク総督・第二次内乱を徹底的に鎮圧・乱後の国内整備にも携わる === キリスト教世界 === ==== フランク王国 ==== * [[ブルンヒルド]]([[543年]]頃 - [[613年]]) - [[フランク王国]][[アウストラシア]]王[[シギベルト1世]]の王妃・子や孫の[[摂政]]となる * ガルス(ガル)([[550年]]頃 - [[646年]]頃) - アイルランド出身の修道士・コルンバヌスの弟子・現スイスの[[ザンクト・ガレン修道院]]を建立 * [[ピピン1世]]([[580年]]頃 - [[640年]]) - フランク王国の[[宮宰]](在職[[615年]]/[[623年]] - [[629年]])・[[カロリング家]]の祖で「大ピピン」と呼ばれる * [[クロタール2世 (フランク王)|クロタール2世]]([[584年]] - [[629年]]) - フランク王国[[ネウストリア]]王(在位[[613年]] - [[629年]])・ブルンヒルドを倒しフランク王国を再統一 * [[ダゴベルト1世 (フランク王)|ダゴベルト1世]]([[603年]] - [[639年]]) - フランク王国(統一フランク)国王(在位[[629年]] - [[639年]])・パリ郊外の[[サン=ドニ大聖堂|サン・ドニ大聖堂]]を建立 * [[ピピン2世]]([[635年]]/[[640年]] - [[714年]]) - フランク王国の宮宰(在職[[680年]] - [[714年]])・[[ピピン1世]]の娘の子で「中ピピン」と呼ばれる * [[聖ウィリブロルド|ウィリブロルド]]([[658年]] - [[739年]]) - [[ノーサンブリア]]出身の修道士・オランダの[[フリースラント]]地方で宣教し[[ユトレヒト]]初の司教を務めた ==== ローマ教皇 ==== * [[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]([[540年]] - [[604年]])- [[ローマ教皇]](在位[[590年]] - [[604年]])・ゲルマン系諸民族への宣教を推進・四大[[ラテン教父]]の一人 * [[マルティヌス1世 (ローマ教皇)|マルティヌス1世]](? - [[655年]]) - ローマ教皇(在位[[649年]] - [[653年]])・単意論の「テュポス」を否定し東ローマ皇帝に追放される ==== イングランド・アイルランド ==== * [[コルンバヌス]]([[540年]] - [[615年]]) - アイルランドの修道士・[[コルンバ]]の弟子・西欧各地に[[ケルト]]系修道制を伝えボッビオ修道院を建立 * エイダン(? - [[651年]]) - アイルランドの修道士・[[リンデスファーン修道院]]を建立し北部イングランドの布教に努める * オスウィ([[612年]]頃 - [[670年]]) - [[イングランド]][[七王国]]の[[ノーサンブリア]]王(在位[[642年]] - [[670年]])・[[ウィットビー教会会議]]を開催 * ヒルダ([[614年]] - [[680年]]) - [[ノーサンブリア]]王族出身の修道女・エイダンに師事し教会会議開催地ともなるウィットビー修道院を設立 * {{仮リンク|ウィルフリッド|en|Wilfrid}}([[633年]]頃 - [[709年]]頃) - リポン司教・[[ウィットビー教会会議]]ではローマ式典礼側を代表しケルト式典礼派を論破する * カスバート([[634年]]頃 – [[687年]]) - [[リンデスファーン修道院]]長・奇跡譚で知られノーザンバーランドの守護聖人となる * [[エゼルベルト (ケント王) |エゼルベルト]]([[560年]]頃 - [[616年]]) - [[ケント王国|ケント]]王(在位[[580年]]頃 - [[616年]])・[[ブレトワルダ]](上王)・最初期にキリスト教を受容 * キャドモン(7世紀) - イングランドのノーサンブリアの詩人・無学文盲だったが宗教的啓示を得て「創世記」など神を讃える詩を造った ==== 西ゴート王国 ==== * [[セビリャのイシドールス]]([[560年]] - [[636年]]) - [[西ゴート王国]]の[[セビリャ]]大司教・[[神学者]]・著作に『語源論』がある・長兄レアンデルも神学者 * [[レケスウィント]](? - [[672年]]) - 西ゴート王国国王(在位[[649年]] - [[672年]])・西ゴート法典を公布・「グアラザールの宝物」でも有名 ==== 東欧 ==== * {{仮リンク|サモ (スラヴ人の王)|en|Samo}}([[600年]]頃 - [[658年]]) - [[サモ王国]]の建国者・スラブ諸族を最初にまとめ[[シレジア]]から[[スロヴァキア]]に拡がる国家を建設 * [[アスパルフ]]([[644年]]頃 - [[700年]]頃) - [[第一次ブルガリア帝国]]の建国者(在位[[681年]] - [[700年]]頃)・[[プリスカ (ブルガリア)|プリスカ]]を都とし東ローマから自立 ==== 東ローマ帝国 ==== * [[ヘラクレイオス]]([[575年]] - [[641年]]) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位[[610年]] - [[641年]])。シリア・エジプトを喪失・「エクテシス」を発布。 * [[マルティナ (東ローマ皇后)|マルティナ]](? - [[641年]]以降) - ヘラクレイオス帝の後妻で実の姪・実子[[ヘラクロナス]]を皇帝として擁立するも反乱により失脚 * [[コンスタンス2世]]ポゴナトス([[630年]] - [[668年]]) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位[[641年]] - [[668年]])・「テュポス」を発布。 * [[コンスタンティノス4世]]([[650年]]頃 - [[685年]]?) - ヘラクレイオス朝の東ローマ皇帝(在位[[668年]] - [[685年]])・イスラムに反撃を開始。 * {{仮リンク|セルギオス1世|en|Sergius I of Constantinople}}(? - [[638年]]) - [[コンスタンディヌーポリ総主教|コンスタンティノポリス総主教]](在位[[610年]] - [[638年]])・[[単意論]]をまとめ「エクテシス」を起草。 * [[ソフロニオス]]([[560年]] - [[638年]]) - [[エルサレム総主教]](在位[[634年]] - [[638年]])。キリスト教神学者・[[単意論]]に反対するが[[ウマル憲章]]は受容。 * [[ヨアンネス・クリマコス]]([[579年]] - [[649年]]) - [[シナイ山]]の[[聖カタリナ修道院]]長。修道生活の手引きとなる『天国への階梯』を執筆。 * [[聖マクシモス|マクシモス]]([[580年]]頃 - [[662年]]) - [[東ローマ帝国]]の[[神学者]]で[[修道士]](証聖者・表信者)。書簡「神学と受肉の摂理について」が有名。 * [[シリアのイサアク]](7世紀) - [[ニネヴェ]]の[[ネストリウス派]]主教・修道士・神秘主義者・修道生活を通して『修行的説教集』をまとめる * カーヒナ(? - [[698年]]) - 北アフリカの[[ベルベル人]]の女王・東ローマ帝国軍とともにカルタゴの戦いで戦うがイスラム軍に敗北し戦死。 * {{仮リンク|ヘリオポリスのカリニコス|en|Callinicus of Heliopolis}}(生没年不詳) - 東ローマ帝国の技術者・コンスタンティノポリス包囲戦で使われた「[[ギリシア火]]」を開発か。 === イラン === * [[ホスロー2世]] (? - [[628年]])- [[サーサーン朝]]の[[シャー]](在位[[590年]] - [[628年]])。エジプト・シリアをめぐって東ローマ帝国と戦う。 * [[ヤズデギルド3世]] (? - [[651年]])- サーサーン朝最後のシャー(在位[[632年]] - [[651年]])。ニハーヴァンドの戦いで大敗し殺害される。 === インド・チベット === * [[ソンツェン・ガンポ]]([[581年]]頃 - [[649年]]) - 古代[[チベット]]の王で[[吐蕃]]の建国者。唐から[[文成公主]]を、[[ネパール]]からチツンを娶る。 * [[ハルシャ・ヴァルダナ]]([[590年]] - [[647年]]) - [[インド]]のヴァルダナ朝の王(在位[[606年]] - [[647年]])。北インドを統一し[[玄奘]]を引見。 * [[バーナ]](生没年不詳) - インドの詩人・サンスクリットによりハルシャ王を讃える『ハルシャチャリタ』を書く。 * [[プラケーシン2世]](? - [[642年]]) - インドの[[前期チャールキヤ朝]]の王(在位[[609年]] - [[642年]])。[[ハルシャ・ヴァルダナ|ハルシャ]]を[[ナルマダー川]]で撃退。 * [[ブラーマグプタ]]([[598年]] - [[668年]]) - インドの数学者・天文学者・著作『[[ブラーマ・スプタ・シッダーンタ]]』では「[[0|ゼロ]]の概念」の最古の言及あり。 * [[月称|チャンドラキールティ]](月称)(7世紀) - インド仏教の中観派の学僧・[[清弁|バーヴァヴィヴェーカ]]の論証優先を批判し分派する(帰謬論証派)。 === 中央アジア === * [[統葉護可汗]](? - [[628年]]) - [[西突厥]]の可汗(在位[[619年]]頃 - [[628年]])・[[波斯]]を抑え[[鉄勒]]を併合し西突厥に最盛期をもたらすが暗殺される === 東アジア === ==== 隋 ==== * [[煬帝]](楊広)([[569年]] - [[618年]]) - 隋王朝第2代皇帝(在位[[604年]] - [[618年]])・高句麗遠征に失敗し殺害される * [[陸法言]](生没年不詳) - 隋の音韻学者・漢字発音の標準を定め『[[切韻]]』5巻を編纂・これは現存最古の[[韻書]]で[[科挙]]にも影響 * [[竇建徳]]([[573年]] - [[621年]]) - 隋末唐初に割拠した群雄・高句麗遠征軍から逃れて河北で自立・宇文化及を倒すが李世民に敗北 * [[李密 (隋)|李密]]([[582年]] - [[618年]]) - 隋末唐初に割拠した群雄・[[楊玄感]]の反乱に続いて挙兵し河南で自立・王世充に敗北する * [[王世充]](? - [[621年]]) - 隋末唐初に割拠した群雄・洛陽にて[[恭帝侗]]を擁立・さらに自ら皇帝を名乗るが李淵に敗北 ==== 唐 ==== * [[李淵|高祖]](李淵)([[566年]] - [[635年]]) - 唐の初代皇帝(在位[[618年]] - [[626年]])・隋末の混乱から唐を建国 * [[太宗 (唐)|太宗]](李世民)([[598年]] - [[649年]]) - 唐の第2代皇帝(在位[[626年]] - [[649年]])・その治世が「[[貞観の治]]」 * [[高宗 (唐)|高宗]](李治)([[628年]] - [[683年]])- 唐の第3代皇帝(在位[[649年]] - [[683年]])。唐の最大版図を実現。 * [[武則天|則天武后]]([[624年]] - [[705年]]) - 唐の第3代皇帝高宗の皇后・周の女帝(在位[[690年]] - [[705年]])・「[[武韋の禍]]」の一人 * [[李靖]]([[571年]] - [[649年]]) - 唐の政治家・軍人・[[突厥]]や[[吐谷渾]]の征討に功があった・『[[李衛公問対]]』にその言行が残る * [[房玄齢]]([[578年]] - [[648年]]) - 唐の政治家・尚書左僕射・杜如晦とともに「房杜」と呼ばれ「[[貞観の治]]」を指導 * [[魏徴]]([[580年]] - [[643年]]) - 唐の政治家・諫議大夫・『[[貞観政要]]』に多くの言行が残る * [[杜如晦]]([[585年]] - [[630年]]) - 唐の政治家・尚書右僕射・房玄齢とともに「房杜」と呼ばれ「[[貞観の治]]」を指導 * [[長孫無忌]](? - [[659年]]) - 唐の政治家・太宗の皇后の兄・『唐律疏義』『隋書』を編纂・則天武后と対立し失脚し自殺 * [[蘇定方]]([[592年]] - [[667年]]) - 唐の軍人・東西突厥を制圧・吐蕃との戦いや百済・高句麗制圧に功があり唐の領土を拡大 * [[李勣]]([[594年]]? - [[669年]]) - 唐の政治家・軍人・武后の冊立を支持・高句麗を滅ぼすことにも功があった * [[狄仁傑]]([[630年]] - [[700年]]) - 唐の政治家・宰相・高宗から則天武后にまで仕え「国老」と称される。 * [[王玄策]](生没年不詳) - 唐の文官・インドのヴァルダナ朝へ外交使節として赴く。ハルシャ王没後のインドの内紛に介入。 * [[駱賓王]]([[640年]]? - [[684年]]?) - 唐の詩人・「初唐の四傑」の一人・徐敬業の反乱に与し檄文を起草するが乱後は消息不明。 * [[欧陽詢]]([[557年]] - [[641年]]) - 唐の儒家・書家であり[[初唐の三大家]]の一人・代表作に「九成宮醴泉銘」がある。 * [[虞世南]]([[558年]] - [[638年]]) - 唐の政治家・書家であり初唐の三大家の一人・代表作に「孔子廟堂碑」がある。 * [[褚遂良]]([[596年]] - [[658年]]) - 唐の政治家・書家であり初唐の三大家の一人・代表作に「雁塔聖教序」がある。 * [[閻立本]](? - [[673年]]) - 唐の政治家・宮廷画家。人物図・肖像画を得意とし「歴代帝王図巻」ほかを描く。 * [[尉遅乙僧]](生没年不詳) - 唐の画家・西域[[于闐]](ホータン)出身で父も画家・西域の画法を用い『[[歴代名画記]]』での評価は高い * [[法琳]]([[572年]] - [[640年]]) - 唐代の僧侶・道士傅奕の排仏論に対し『破邪論』でこれを攻撃し仏教の優位を説いた * [[孔穎達]]([[574年]] - [[648年]]) - 唐の[[訓詁学]]者・[[国子監]]祭酒・[[孔子]]の子孫・「[[五経正義]]」を撰述。 * [[顔師古]]([[581年]] - [[645年]]) - 唐の訓詁学者・秘書監・[[顔之推]]の子・「五経正義」の選定に参加・『[[漢書]]』に注をつける。 * [[玄奘三蔵|玄奘]](三蔵法師)([[602年]] - [[664年]]) - 唐の僧侶・インドのヴァルダナ朝に渡る・『[[大唐西域記]]』を書く。 * [[基 (僧)|基]](慈恩大師)([[632年]] - [[682年]]) - 唐の僧侶・玄奘の弟子で[[唯識論]]を大成し[[法相宗]]を起こす。 * [[義浄]]([[635年]] - [[713年]]) - 唐の僧侶・海路からヴァルダナ朝崩壊後のインドに渡り、『南海寄帰内法伝』を書く。 * [[慧能]]([[638年]] - [[713年]]) - 唐の僧侶・[[禅宗]]第六祖。漸悟の北宗に対し頓悟の南宗を興す。『[[六祖壇経]]』を残す。 * [[寒山]]・[[拾得]](生没年不詳) - 唐の僧侶・天台山国清寺に属し[[豊干]]とともに「国清三隠」と呼ばれる・寒山は「[[寒山詩]]」の作者か。 * [[薛懐義]](? - [[695年]]) - 唐の僧侶・則天武后の寵愛を受け[[洛陽]][[白馬寺 (洛陽)|白馬寺]]寺主となる・大雲経の効験を説き諸国の大雲経寺に頒布。 * [[法蔵 (唐)|法蔵]](賢首大師)([[643年]] - [[712年]]) - 唐の僧侶・[[華厳宗]]第三祖・則天武后の庇護で[[実叉難陀]]に『[[華厳経]]』を訳させ教学を大成。 * [[阿羅本]](活躍時期[[635年]] - [[638年]]) - キリスト教[[ネストリウス派]](景教)の宣教師で「[[大秦景教流行中国碑]]」に名が残る。 * 張鷟([[658年]]? - [[730年]]) - 唐の文人・その著作『[[遊仙窟]]』は中国では[[佚書]]となり日本で愛好された・ほかに『朝野僉載』など。 * [[孫思邈]](? - [[682年]]) - 唐の医学者・道士・診察や薬方をまとめた『備急千金要方』『千金翼方』が有名で「薬王」とも呼ばれる。 ==== 渤海 ==== * [[大祚栄]](? - [[719年]]) - 渤海の初代国王(在位[[698年]] - [[719年]])。東牟山に都城を築き独立・後に唐の冊封を受ける。 ==== 朝鮮 ==== * [[武烈王]]([[602年]]? - [[661年]]) - 新羅の王(在位[[654年]] - [[661年]])。百済を滅ぼす。[[文武王]]は子。 * [[元暁]]([[617年]] - [[686年]]) - 新羅の[[華厳宗]]の僧侶。渡唐は果たせないが『華厳経疏』ほか著作を残す。諡号は和諍国師。 * [[義湘]]([[625年]] - [[702年]]) - 新羅の華厳宗の僧侶。唐に渡って[[智儼]]に学ぶ。[[浮石寺]]開山で諡号は円教国師。 * [[文武王]](? - [[681年]]) - 新羅の王(在位[[661年]] - [[681年]])。唐との戦争で唐を退け朝鮮半島を統一。 === 日本 === * [[蘇我馬子]]([[551年]]? - [[626年]]) - [[飛鳥時代]]の豪族・[[大臣 (古代日本)|大臣]](嶋大臣)・丁未の乱に勝利し仏教崇拝を進める * [[推古天皇]]([[554年]] - [[628年]]) - 第33代[[天皇]](在位[[592年]] - [[628年]])・[[敏達天皇]]の皇后・日本最初の女帝 * [[聖徳太子]](厩戸皇子)([[574年]] - [[622年]]) - 推古天皇の摂政・[[用明天皇]]の皇子・遣隋使の派遣や法隆寺の建立を行う * [[小野妹子]](生没年不詳) - 飛鳥時代の政治家・遣隋使として隋に赴く・翌年には隋使[[裴世清]]を伴って帰国する * [[鞍作止利]](生没年不詳) - 飛鳥時代の渡来系の仏師・[[法隆寺]]金堂本尊銅造[[釈迦三尊像]]が代表作 * [[蘇我入鹿]]([[610年]]? - [[645年]]) - 飛鳥時代の政治家・大臣・上宮王家を滅ぼすが[[乙巳の変]]で中大兄皇子らに滅ぼされる * [[藤原鎌足]](中臣鎌足)([[614年]] - [[669年]]) - 飛鳥時代の政治家・[[内大臣]][[大織冠]]・[[藤原氏]]の祖・大化の改新で活躍 * [[天智天皇]](中大兄皇子)([[626年]] - [[671年]]) - 第38代天皇(在位[[668年]] - [[671年]])・蘇我氏を滅ぼし大化の改新を進める * [[阿倍比羅夫]](生没年不詳) - 飛鳥時代の軍人・[[蝦夷]]を討ち海を渡って[[みしはせ|粛慎]]を平定した・[[白村江の戦い]]でも活躍する * [[弘文天皇]](大友皇子)([[648年]] - [[672年]]) - 第39代天皇(在位[[672年]] - [[672年]])・天智天皇の皇子・壬申の乱に敗北 * [[天武天皇]](大海人皇子)([[631年]]? - [[686年]]) - 第40代天皇(在位[[673年]] - [[686年]])・天智天皇の弟・壬申の乱に勝利 * [[道昭]]([[629年]] - [[700年]]) - 法相宗の僧・遣唐留学僧として唐で玄奘に学ぶ・帰国後は教化につとめる・行基は弟子 * [[役小角]]([[634年]]? - [[701年]]?) - [[修験道]]の開祖・[[金剛山 (金剛山地)|葛城山]]などで修行・山岳信仰の隆盛により「役行者」と呼ばれ「神変大菩薩」と号される * [[額田王]](生没年不詳) - [[飛鳥時代]]の女性歌人・斉明朝から持統朝に活躍し『[[万葉集]]』に歌が残る * [[持統天皇]]([[645年]]- [[702年]]) - 第41代天皇(在位[[690年]] - [[697年]])・天智天皇の皇女で天武天皇の皇后・藤原京に遷都 == 架空のできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|date=2017年2月}} * [[618年]] - [[619年]] - 突厥の[[曷薩那可汗]]の命により、[[木蘭|花木蘭]]が男装して父の身代わりとなって徴兵に応じ各地で戦う(褚人穫『[[隋唐演義]]』)。 * [[618年]]前後 - 武術家神腿張の息子小虎は鄭王[[王世充]]により父を殺され自身も重傷を負って少林寺に落ち延びる。父の仇を討つため少林寺にて修行に励む小虎の前に将軍[[李世民]]が現れ、共に王世充を倒すために立ち上がることを決意する(張鑫炎監督の香港映画「[[少林寺 (映画)|少林寺]]」)。 * [[629年]] - 天界での乱暴狼藉の罰として、[[釈迦如来]]により500年間五行山に幽閉されていた[[孫悟空]]が、取経渡天の旅の途中の[[玄奘三蔵]]に出会って戒めを解いてもらい、弟子となって旅の列に加わる([[呉承恩]]『[[西遊記]]』)。 * [[671年]] - 後に[[新羅]][[華厳宗]]の祖となる[[義湘]]が入唐して教学を修めて帰国する時、義湘を慕う美女善妙は彼への思いやみがたく、別れの悲しみのあまりその後を追うが、最後には海中に身を投じ、巨大な竜に変じて義湘の船を守護し、新羅への帰路を導いていく([[京都]][[高山寺]]蔵『[[華厳宗祖師絵伝]]』の「義湘絵」)。 * [[684年]] - [[飢饉]]に見舞われた[[羽生蛇村]]に堕辰子が降臨、飢えに耐え切れなかった村人がその肉を食べ、村に呪いが降りかかる(『[[SIREN (ゲームソフト)]]』)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 7 | 年代 = 600 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:7せいき}} [[Category:7世紀|*]]
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紀元前247年
紀元前247年(きげんぜん247ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、ルキウス・カエキリウス・メテッルスとヌメリウス・ ファビウス・ブテオが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元507年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前247年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前247年(きげんぜん247ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、ルキウス・カエキリウス・メテッルスとヌメリウス・ ファビウス・ブテオが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元507年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前247年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 世紀= {{紀元前/世紀|3}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|2}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|260}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|250}} | 10年紀= {{紀元前/年代|240}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|230}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|220}} | 3年前= {{紀元前/年|250}} | 2年前= {{紀元前/年|249}} | 1年前= {{紀元前/年|248}} | 1年後= {{紀元前/年|246}} | 2年後= {{紀元前/年|245}} | 3年後= {{紀元前/年|244}} |}} '''紀元前247年'''(きげんぜん247ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 当時は、[[ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前251年の執政官)|ルキウス・カエキリウス・メテッルス]]と[[ヌメリウス・ ファビウス・ブテオ]]が[[執政官|共和政ローマ執政官]]に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]507年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前247年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[甲寅]] * [[日本]] ** [[皇紀]]414年 ** [[孝霊天皇]]44年 * [[中国]] ** [[秦]] - [[荘襄王]]3年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[考烈王]]16年 ** [[田斉|斉]] - [[田建|斉王建]]18年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[燕王喜]]8年 ** [[趙 (戦国)|趙]] - [[孝成王 (趙)|孝成王]]19年 ** [[魏 (戦国)|魏]] - [[安釐王]]30年 ** [[韓 (戦国)|韓]] - [[桓恵王]]26年 * [[朝鮮]] : * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 300年 * [[ユダヤ暦]] : {{Clear}} == できごと == === カルタゴ === * この頃[[カルタゴ]]は、[[第1次ポエニ戦争]]で[[マルサーラ]]と[[トラーパニ]]を除く[[シチリア島]]の領土をローマに奪われていた。[[ハミルカル・バルカ]]は、ローマの手に落ちつつあったシチリア島の軍勢の指揮を引き継いだ。小規模な[[傭兵]]部隊を率いて島の北西から上陸し、[[パレルモ]]近くの山に陣を築いた。そこで彼は全ての攻撃から身を守っただけではなく、南の湾にまで急襲をかけた。 === 共和政ローマ === * ローマは、[[シラクサ]]の[[僭主]][[ヒエロン2世]]と対等な条約を結んだ。 === 南アジア === * [[マウリヤ朝]]の[[アショーカ王]]が王子を[[スリランカ]]に派遣して、[[仏教]]を伝える。 === 中国 === * [[秦]]の[[王齕]]が上党諸城を攻撃し、初めて[[太原郡]]を置いた。 * 秦の[[蒙驁]]が[[魏 (戦国)|魏]]を攻撃し、高都と汲を奪った。 * [[魏 (戦国)|魏]]の[[信陵君]]が魏・[[趙 (戦国)|趙]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[楚 (春秋)|楚]]・[[燕 (春秋)|燕]]の5か国軍を率いて、河外で[[蒙驁]]率いる秦軍を破った。 * 秦の[[荘襄王]]が死去し、子の[[始皇帝|政]]が王として立った。 * [[湖州市|湖州]]が築かれた。 * 『[[呂氏春秋]]』が完成した。(おおよその年代) == 誕生 == {{see also|Category:紀元前247年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ハンニバル]]:カルタゴの将軍([[紀元前183年]]没) == 死去 == {{see also|Category:紀元前247年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[荘襄王]]:秦の王。([[紀元前281年]]生) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|247 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=3|年代=200|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん247ねん}} [[Category:紀元前247年|*]]
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紀元前3世紀
紀元前3世紀(きげんぜんさんせいき)は、西暦による紀元前300年から紀元前201年までの100年間を指す世紀。
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紀元前3世紀(きげんぜんさんせいき)は、西暦による紀元前300年から紀元前201年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2013年5月}} {{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 3 | 年代 = 200 | BC = 1 }} [[ファイル:Terracotta Army Pit 1 - 2.jpg|thumb|330px|[[秦]]の中国統一。秦の[[始皇帝]]により春秋戦国の混乱に終止符が打たれ、強力な中央集権体制が進められた。画像は[[秦始皇帝陵及び兵馬俑坑|始皇帝陵]]から出土した[[兵馬俑]]の一団。]] [[File:Liu Bang.jpg|thumb|right|200px|[[前漢]]の建国。秦の統一が15年で破綻すると各地で反乱が相次いだが、[[項羽]]らを倒し再び中国をまとめ上げたのが[[劉邦]]であり、市井の民から前漢の初代皇帝高祖となった人物である。画像は清の[[上官周]]が描いた『晩笑堂画伝』の劉邦の肖像。]] [[ファイル:0 Galata Morente - Musei Capitolini (1).jpg|thumb|260px|「{{仮リンク|瀕死のガリア人|en|The Dying Gaul}}」。ヘレニズム時代を代表する彫刻で小アジアのペルガモン国王アッタロス1世がガラティア人(ガリア人)に勝利した記念に作らせたものとされる。画像はローマ時代の模造で[[カピトリーノ美術館]]に所蔵されている。]] [[ファイル:Hannibal3.jpg|thumb|260px|[[ハンニバル]]の[[アルプス山脈|アルプス]]越え。第二次ポエニ戦争ではカルタゴ側の将軍ハンニバルが巧みな軍略でローマ軍を翻弄した。イベリア半島から遠路はるばるアルプスを象で越え油断していたローマの背後を不意打ちしたことで有名である。]] [[ファイル:Archimedes before his death with the Roman soldier, Roman mosaic.jpg|thumb|right|250px|[[アルキメデス]]。[[シラクサ]]王[[ヒエロン2世]]に仕えた学者で、風呂に入ってる途中で王冠の真贋を見極める方法を発見したなど逸話に事欠かない。画像は紀元後2世紀のモザイク画でローマの兵士に殺害される寸前のアルキメデスを描いている。]] [[ファイル:Coloso de Rodas..jpg|thumb|260px|[[ロドス島の巨像]]。ロドス島住民がプトレマイオス朝に与しセレウコス朝を退散させた記念にリンドスのカレスによって作られた太陽神ヘリオスの青銅の像で「世界の七不思議」の一つでもあった。画像はその再現画。]] [[ファイル:Sanchi portique sud.jpg|thumb|260px|[[マウリア朝]]の[[アショーカ]]王。最初のインド統一を果たしたアショーカ王は仏教の興隆にも力を尽くした。画像は[[サーンチー]]の第一[[ストゥーパ]](仏塔)でアショーカ王の時代に建立されシュンガ朝・アーンドラ朝で拡張された。仏塔の前に立つ[[トーラナ]](塔門)には獅子像がある。]] [[ファイル:AiKhanoumSunDial.jpg|thumb|210px|[[グレコ・バクトリア王国]]。アレクサンドロス大王の東方遠征の残留ギリシア人によりこの王国は現在のアフガニスタンに建国された。画像は[[アイ・ハヌム]]遺跡から出土した[[日時計]]でインド天文学の影響が窺われる。]] [[ファイル:PazyrikHorseman.JPG|thumb|210px|[[パジリク古墳群]]。ロシア連邦[[アルタイ共和国]]にあるスキタイ文化の影響を受けた騎馬民族の古墳で、入れ墨をした遺体と数多くの副葬品が出土した。画像は古墳の壁面覆いの「乗馬する男」。]] '''紀元前3世紀'''(きげんぜんさんせいき)は、[[西暦]]による[[紀元前300年]]から[[紀元前201年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 == できごと == === 日本 === * [[弥生時代]]の進展。 ** [[古墳時代]]に先立って、この時代に、[[弥生時代の墓制#墳丘墓|方丘墓と円丘墓]]があった。 *** 一般に[[弥生時代の墓制#墳丘墓|方形周溝墓・方形低墳丘墓]]と呼ばれる。 *** 北部[[九州]]では、方丘墓が少なく、[[弥生時代の墓制#甕棺墓|甕棺墓]]が多い。 *** [[近畿地方]]では、方丘墓が多い。 *** [[瀬戸内海|瀬戸内]]東部地域では、円丘墓が出現する。 * [[続縄文時代]]。 ** 本州北部から北海道では狩猟・漁労の生活が継続する。 === 中国(周・戦国時代から秦・前漢) === * [[紀元前300年]]頃 - [[湖北省]]の[[郭店一号楚墓]]が造営され、大量の[[竹簡]]([[郭店楚簡]])も納められる。 * [[紀元前299年]]頃 - 楚の懐王が秦に抑留され、代わって[[頃襄王]]が即位。 * [[紀元前296年]] - [[趙 (戦国)|趙]]の[[武霊王]]が[[中山国]]を滅ぼす。 * [[紀元前293年]] - [[伊闕の戦い]]で[[白起]]率いる秦軍が韓・魏連合軍を破る。 * [[紀元前286年]] - [[田斉|斉]]が[[宋 (春秋)|宋]]を滅ぼす。 * [[紀元前284年]] - [[燕 (春秋)|燕]]の楽毅が率いる秦・楚・韓・趙・魏・燕6国連合軍が斉を攻め臨淄が陥落(済西の戦い)。 * [[紀元前284年]] - 秦と趙による[[澠池県|黽池]]の会盟。 * [[紀元前278年]] - 白起率いる秦軍が[[鄢・郢の戦い|楚の都郢を陥落]]させる。 ** 楚は[[淮陽区|陳]]に遷都する。楚の詩人[[屈原]]が[[汨羅江]]に入水自殺する。 * [[紀元前269年]] - [[閼与の戦い]]で[[趙奢]]率いる趙軍が秦軍を大破する。 * [[紀元前269年]] - [[陘城の戦い]]で[[白起]]率いる秦軍が韓兵5万人を殺害する。 * [[紀元前260年]] - [[長平の戦い]]で白起率いる秦軍が趙兵40万人を殺害する。 * [[紀元前256年]] - 秦が[[周|東周]]を滅ぼす。[[楚 (春秋)|楚]]が[[魯]]を滅ぼす。 * [[紀元前249年]] - [[呂不韋]]が秦の[[丞相]]となる。 * [[紀元前247年]] - 秦王政の即位。 * [[紀元前241年]] - [[函谷関の戦い (紀元前241年)|函谷関の戦い]]、蕞の戦い。[[春申君]]により楚が[[寿春]]に遷都する。 * [[紀元前238年]] - 秦の長信侯[[嫪毐]]の乱が鎮圧され、連座して呂不韋が失脚、[[李斯]]が丞相となる。 * [[紀元前230年]] - 秦が[[韓 (戦国)|韓]]を滅ぼす。 * [[紀元前228年]] - 秦が[[趙 (戦国)|趙]]を滅ぼす。 * [[紀元前227年]] - [[荊軻]]による秦王政暗殺未遂事件。 * [[紀元前225年]] - 秦が[[魏 (戦国)|魏]]を滅ぼす。 * [[紀元前223年]] - 秦が[[楚 (春秋)|楚]]を滅ぼす。 * [[紀元前222年]] - 秦が[[燕 (春秋)|燕]]を滅ぼす。 * [[紀元前221年]] - 秦王政が[[田斉|斉]]を滅ぼし中国を統一する( - 紀元前206年)。 ** 秦王政は[[始皇帝]]と名乗る。丞相を中心とする官制を整備。度量衡を統一。[[万里の長城]]建設。 * [[紀元前219年]] - 始皇帝が[[泰山]]で[[封禅]]の儀式を行う。「[[始皇七刻石#各刻石の現状♯泰山刻石|泰山刻石]]」が作られる。 * [[紀元前217年]] - [[睡虎地秦簡]]が埋葬者とともに墓に納められる。 * [[紀元前214年]] - [[秦の百越征服]]が終わり、[[南海郡 (中国)|南海郡]]・[[桂林郡]]・[[象郡]]を設置する。[[霊渠]]が完成する。 * [[紀元前213年]] - 秦の始皇帝が宰相の李斯の進言により[[焚書]][[坑儒]]を実施。 * [[紀元前210年]] - 秦の始皇帝が死去し、[[始皇帝陵]]([[驪山]]陵)に埋葬される。二世皇帝[[胡亥]]が即位。 * [[紀元前209年]] - [[陳勝・呉広の乱]]。 * [[紀元前207年]] - [[望夷宮の変]]で胡亥が殺害される。趙高を倒した秦王[[子嬰]]が即位。 * [[紀元前206年]] - 子嬰降伏による秦の滅亡。[[鴻門の会]]。[[楚漢戦争]]始まる。 * [[紀元前202年]] - [[垓下の戦い]]で[[劉邦]]が[[項羽]]を滅ぼし、[[前漢]]を建てる( - [[8年|紀元後8年]]) === 北アジア === * 紀元前3世紀前半 - 後期[[スキタイ]]文化を代表する[[パジリク古墳群]](アルタイ共和国)が造営された。 * [[紀元前219年]] - [[匈奴]]が秦の[[蒙恬]]に討たれオルドスより撤退。 * [[紀元前209年]] - 父の[[頭曼単于]]を倒し、[[冒頓単于]]が匈奴の支配者となる。[[東胡]]を滅ぼし、[[月氏]]を西走させる。 === 東南アジア === * [[紀元前203年]] - [[趙佗]]が[[南越国]]を建国。 === 南アジア === * [[インド]]人交易者がしばしば[[アラビア半島]]に来航。 * [[紀元前268年]]頃 - [[マウリヤ朝]]第3代[[アショーカ王]]が即位。 * [[紀元前261年]]頃 - アショーカ王が[[カリンガ国]]を征服。 * [[紀元前256年]]頃 - [[スリランカ]]に[[仏教]]伝わる。 * [[紀元前244年]]頃 - 第3回[[結集|仏典結集]]。 === 中央アジア・西アジア === * [[スキタイ|スキュタイ人]]が[[ソグディアナ]](現在の[[ウズベキスタン]])を征服。 * [[紀元前255年]] - ギリシア人[[ディオドトス1世]]が[[セレウコス朝シリア]]より独立して[[グレコ・バクトリア王国|バクトリア王国]]成立。 ** 都はバクトラ(現[[バルフ]]、バラヒッサール遺跡)で、他に[[アムダリア川]]北岸の{{仮リンク|タフティサンギン|en|Takht-i Sangin}}遺跡(バクトリアの遺宝)や、南岸の[[アイ・ハヌム]]遺跡が有名。 * [[紀元前248年]] - [[アルサケス1世]]により[[パルティア|パルティア王国]]が成立。 === 地中海世界 === ==== ローマ ==== * [[紀元前300年]] - [[古代ローマ|ローマ]]で[[オグルニウス法]]が成立。 * [[紀元前298年]] - 第三次[[サムニウム戦争]]( - 紀元前290年)。 * [[紀元前287年]] - ローマで[[ホルテンシウス法]]が成立。 * [[紀元前286年]] - ローマでアクィリウス法が成立。 * [[紀元前280年]] - [[ピュロス戦争]]が始まる( - 紀元前275年)。 * [[紀元前280年]]頃 - ローマで青銅貨[[アス (青銅貨)|アス]]が鋳造される。 * [[紀元前272年]] - ローマがギリシア植民市の[[ターラント|タレントゥム]]を占領([[イタリア半島]]征服)。 * [[紀元前264年]] ** ローマと[[カルタゴ]]との間に[[第一次ポエニ戦争]]始まる( - 紀元前241年)。 ** ローマが最後の[[エトルリア人]]勢力の拠点[[ボルセーナ|ウォルシニー]]を陥落させる。 * [[紀元前250年]]頃 - [[400年|紀元後400年]]頃 - {{仮リンク|ローマの温暖期|en|Roman Warm Period}}。 * [[紀元前242年]] - ローマで外国人係[[プラエトル|法務官]](プラエトル・ペレグリヌス)が設置される([[万民法]]の起源となる)。 * [[紀元前241年]] - 第一次ポエニ戦争にてローマが勝利して[[シチリア島]]を獲得し、ローマの属州とする。 * [[紀元前227年]] - カルタゴ将軍[[ハスドルバル・バルカ]]がカルト・ハダシュト(カルタゴ・ノウァ.現[[カルタヘナ (スペイン)|カルタヘナ]])を建設。 * [[紀元前225年]] - [[テラモンの戦い]]で、ローマ軍が[[ガリア]]連合軍団に勝利する。 * [[紀元前222年]] - [[ミラノ|メディオラヌム]]がローマに征服される。 * [[紀元前219年]] - ローマとカルタゴとの間に第二次ポエニ戦争始まる( - 紀元前201年)。 ** [[紀元前218年]] - [[ハンニバル・バルカ|ハンニバル]]の[[ハンニバルのアルプス越え|アルプス越え]]。 ** [[紀元前217年]] - [[トラシメヌス湖畔の戦い]]でローマ敗北、[[独裁官]]に[[クィントゥス・ファビウス・マクシムス|ファビウス]]が選出される。 ** [[紀元前216年]] - [[カンナエの戦い]]。 ** [[紀元前212年]] - ローマがシチリア島の[[シュラクサイ]]を占領、[[アルキメデス]]が殺害される。 ** [[紀元前211年]]頃 - ローマで[[デナリウス]]銀貨が発行される。 ** [[紀元前202年]] - [[ザマの戦い]]。 ** [[紀元前201年]] - [[第二次ポエニ戦争]]でのローマの勝利が確定、ローマは[[ヒスパニア]]を獲得する。 * [[紀元前203年]] - 「マグナ・マテル」として[[キュベレー]]信仰がローマに公式にもたらされる([[キュベレ崇拝のローマ到来]])。 ==== ギリシア・小アジア ==== * [[紀元前284年]] - [[ロドス島の巨像]]が完成する。 * [[紀元前282年]] - [[アッタロス朝]]ペルガモン王国成立。 * [[紀元前281年]] ** [[コルペディオンの戦い]]。 *** [[ディアドコイ戦争]]の最後の戦闘で、シリア王セレウコス1世がトラキア王リュシマコスを敗死させる。 ** [[ポントス]]王ミトリダテス1世が自立する。 * [[紀元前280年]]頃 - [[アカイア同盟]]の結成。 * [[紀元前279年]] - [[ガラティア|ガラティア人]]([[ケルト人]])が[[デルフォイ]]神殿を略奪。 * [[紀元前276年]] - [[アンティゴノス朝]]マケドニア成立。 * [[紀元前272年]] - {{仮リンク|スパルタ包囲戦|en|Siege of Sparta}}、{{仮リンク|アルゴスの戦い|en|Battle of Argos}}、[[エピロス]]王[[ピュロス]]の戦死。 * [[紀元前241年]] - ペルガモン国王[[アッタロス1世]]がガラティア人を撃退する。 * [[紀元前215年]] - [[第一次マケドニア戦争]]始まる( - 紀元前205年)。 ==== エジプト・シリア ==== * [[紀元前300年]] - [[セレウコス朝]]の[[セレウコス1世]]が父アンティオコスを記念して都市[[アンティオキア]]を建設。 * [[紀元前290年]] - [[アレクサンドリア]]に[[ムセイオン]]創立。 * [[紀元前277年]] - [[プトレマイオス朝]]エジプトとセレウコス朝シリアの間で[[第一次シリア戦争]](‐紀元前272年)。 * [[紀元前260年]] - [[第二次シリア戦争]]( - 紀元前255年)。 * [[紀元前247年]] - [[第三次シリア戦争]]( - 紀元前241年)。 * [[紀元前238年]] - [[プトレマイオス3世]]により[[カノプス勅令]]が出される。 * [[紀元前217年]] - [[ラフィアの戦い]]。 === 中央ヨーロッパ・北ヨーロッパ === * 紀元前3世紀 - 中期[[ラ・テーヌ文化]]時代( - 紀元前1世紀)。 ** [[テムズ川]]から発見された「{{仮リンク|バターシーの盾|en|Battersea Shield}}」(大英博物館蔵)が作られる。 ** 南フランスの{{仮リンク|ロクペルテューズ|fr|Roquepertuse}}に頭蓋骨崇拝の聖所が設けられる。 * 紀元前300年頃 - ケルト系ビトゥルゲス族によりブルディガラ(現[[ボルドー]])が建設される。 == 人物 == === 中国と周辺諸国 === * [[武霊王]](? - [[紀元前295年]]) - [[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の趙の王(在位[[紀元前326年|前326年]] - [[紀元前298年|前298年]])・[[胡服騎射]]を取り入れて趙を軍事強国とした * [[孟子]]([[紀元前372年|前372年]]? - [[紀元前289年|前289年]]) - 戦国時代の[[儒家]]([[性善説]])・『[[孟子 (書物)|孟子]]』を著し[[仁義]]に基づく王道政治を理想とする * {{仮リンク|許行|zh|许行}}(生没年不詳) - 戦国時代の[[農家 (諸子百家)|農家]]の思想家・君民平等に農耕する自給自足社会を理想とした・[[孟子]]との論争でも有名 * [[荘子]]([[紀元前369年|前369年]]? - [[紀元前286年|前286年]]?) - 戦国時代の[[道家]]の思想家・諸侯の招聘を拒否し隠棲・著作『[[荘子 (書物)|荘子]]』では[[万物斉同]]の思想を展開 * [[屈原]]([[紀元前343年|前343年]] - [[紀元前278年|前278年]]) - 戦国時代の政治家・楚の[[懐王]]の抑留に絶望し汨羅の淵に身を投げ死ぬ・『[[楚辞]]』の代表的詩人 * [[湣王]](? - [[紀元前284年|前284年]]) - 戦国時代の斉の王(在位[[紀元前300年|前300年]] - [[紀元前284年|前284年]])・秦と斉の二強時代で東帝を称すが[[燕 (春秋)|燕]]の[[楽毅]]に大敗する * [[孟嘗君]](? - [[紀元前279年|前279年]]) - 戦国時代の斉の[[公子]]で宰相・[[戦国四君]]の一人・[[食客]]を多数擁し「鶏鳴狗盗」の故事で有名・塩氏の戦いで秦に勝利 * [[楽毅]](生没年不詳) - 戦国時代の燕の将軍で昭王に仕える・五ヶ国連合軍(趙・魏・韓・秦・燕)を指揮し[[孟嘗君]]不在の斉を蹂躙する * [[田単]](生没年不詳) - 戦国時代の斉の武将・燕の楽毅により滅亡寸前に追い詰められた斉を知略で救い[[臨淄区|臨淄]]ほかの領土を奪還 * [[趙奢]](生没年不詳) - 戦国時代の趙の将軍・閼与の戦いで秦を撃破する・息子[[趙括]]の不才ぶりを予見していたことでも有名 * [[廉頗]](生没年不詳) - 戦国時代の趙の将軍・[[藺相如]]とともに[[恵文王 (趙)|恵文王]]に仕える・藺相如との「[[刎頸の交わり]]」の故事で知られる * [[藺相如]](生没年不詳) - 戦国時代の趙の政治家・[[廉頗]]とともに恵文王に仕える・「[[完璧]]」や「黽池の会」の外交で知られる * [[昭襄王 (秦)|昭襄王]](? - [[紀元前251年|前251年]]) - 戦国時代の秦の王(在位[[紀元前306年|前306年]] - [[紀元前251年|前251年]])・領土を拡張し東周を滅ぼす・斉の湣王に呼応し西帝を自称 * [[范雎]](生没年不詳) - 戦国時代の秦の政治家・昭襄王に[[丞相]]として仕え[[遠交近攻]]策を唱える・讒言して白起を誅殺させた * [[白起]](? - [[紀元前257年|前257年]]) - 戦国時代の秦の将軍・趙との[[長平の戦い]]にて大勝利を収める・昭襄王に仕えるが范雎に警戒され自害する * [[平原君]](? - [[紀元前250年|前250年]]) - 戦国時代の趙の公子で政治家・戦国四君の一人・長平の戦いの敗北後も趙都[[邯鄲]]を死守する * [[公孫竜]]([[紀元前320年|前320年]]頃 - [[紀元前250年|前250年]]) - 戦国時代の思想家で趙の[[平原君]]に仕える・[[名家 (諸子百家)|名家]]の代表的人物で「白馬非馬説」が有名 * [[劇辛]](? - [[紀元前242年|前242年]]) - 戦国時代の趙の出身の燕の将軍・楽毅の協力者・趙に攻撃を仕掛けるも[[龐煖]]に敗北し戦死する * [[龐煖]](生没年不詳) - 戦国時代の趙の将軍・思想家・[[悼襄王]]のもと廉頗出奔後の筆頭将軍として燕の劇辛を倒し[[合従連衡|合従軍]]を指揮 * [[鄒衍]]([[紀元前305年|前305年]]頃 - [[紀元前240年|前240年]]) - 戦国時代の思想家で斉の[[稷下の学士|稷下学派]]の一人・[[陰陽家]]として[[陰陽五行思想]]を大成する * [[信陵君]](? - [[紀元前244年|前244年]]) - 戦国時代の魏の公子・政治家・[[軍人]]・戦国四君の一人・五国連合軍を率いて河外の戦いで秦軍を撃退 * [[春申君]](? - [[紀元前238年|前238年]]) - 戦国時代の楚の政治家・戦国四君の一人・[[考烈王]]を擁立し楚を立て直すが蕞の戦いに敗北し暗殺される * [[荀子]]([[紀元前313年|前313年]]? - [[紀元前238年|前238年]]?) - 戦国時代の儒家([[性悪説]])・斉の[[襄王 (斉)|襄王]]に仕える稷下学派の一人・後に楚の[[春申君]]に用いられる * [[呂不韋]](? - [[紀元前235年|前235年]]) - 戦国時代の秦の政治家・大商人・[[荘襄王]]に仕え[[丞相]]となるがやがて没落・『[[呂氏春秋]]』を編纂 * [[韓非]]([[紀元前280年|前280年]]頃? - [[紀元前233年|前233年]]) - 戦国時代の思想家・[[法家]]の代表で『[[韓非子]]』を著す・秦に招かれるも李斯に妬まれ殺害されたか * [[李牧]](? - [[紀元前229年|前229年]]) - 戦国時代の趙の武将・宜安や番吾の戦いで秦を撃退・衰勢の趙を支えるが秦の陰謀で処刑される * [[荊軻]](? - [[紀元前227年|前227年]]) - 戦国時代の刺客・燕の[[太子丹]]の命を受け秦王政(後の始皇帝)の暗殺を謀るが失敗し殺される * [[王翦]](生没年不詳) - 戦国時代の秦の将軍・秦王政(後の始皇帝)に仕え趙・燕・楚を滅ぼし[[王賁]]とともに秦の天下統一に貢献した * [[始皇帝]]([[紀元前259年|前259年]] - [[紀元前210年|前210年]]) - 秦の初代[[皇帝]](在位[[紀元前246年]] - [[紀元前210年]])・戦国時代を終わらせ中国を統一 * [[徐福]](生没年不詳) - 秦の方士・三神山(蓬莱・方丈・瀛州)の[[不老長寿]]薬を始皇帝に吹聴・海を渡り[[日本]]に到来した伝説がある * [[蒙恬]](? - [[紀元前210年|前210年]]) - 秦の将軍・[[長城]]を築き匈奴を[[オルドス盆地|オルドス]]地方から追い払う・始皇帝死後は[[扶蘇]]とともに自殺を命じられる * [[李斯]](? - [[紀元前208年|前208年]]) - 秦の政治家([[丞相]])・[[度量衡]]統一や[[焚書坑儒]]など秦の体制確立に貢献・[[始皇帝]]死後に処刑される * [[趙高]](? - [[紀元前207年|前207年]]) - 秦の[[宦官]]・「[[馬鹿]]」の故事で知られる二世皇帝[[胡亥]]に近侍し李斯を処刑させる・[[子嬰]]に殺される * [[陳勝]](? - [[紀元前209年|前209年]]) - 秦末の反乱指導者・陳勝・呉広の乱により張楚王を名乗る・秦軍に鎮圧されるが反乱は拡大 * [[章邯]](? - [[紀元前205年|前205年]]) - 秦の将軍・陳勝・呉広の乱を鎮圧するがこの功を賞されず項羽に降伏・楚漢戦争の混乱で自殺 * [[劉邦]]([[紀元前256年|前256年]]/[[紀元前247年|前247年]] - [[紀元前195年|前195年]]) - [[前漢]]の初代皇帝(高祖)(在位[[紀元前202年|前202年]] - [[紀元前195年|前195年]])・[[楚漢戦争|楚漢の戦い]]を制し天下を統一 * [[呂雉]](? - [[紀元前180年|前180年]]) - 前漢の[[劉邦|高祖劉邦]]の皇后・[[恵帝 (漢)|恵帝]]の母・劉邦の死後に政権を恣にし呂氏一族を登用する * [[項羽]]([[紀元前232年|前232年]] - [[紀元前202年|前202年]]) - [[西楚]]の覇王(在位[[紀元前206年|前206年]] - [[紀元前202年|前202年]])・[[楚漢戦争]]で劉邦と戦うが[[垓下の戦い]]で自殺 * [[韓信]](? - [[紀元前196年|前196年]]) - 秦末漢初の武将・劉邦に仕え垓下の戦いでは項羽を滅ぼす主力となる・後に粛清される・漢の三傑の一人 * [[蕭何]](? - [[紀元前193年|前193年]]) - 秦末漢初の政治家・劉邦に仕え内政を担当し前漢の丞相となる・法典「[[九章律]]」を制定か?漢の三傑の一人 * [[張良]](? - [[紀元前186年|前186年]]) - 秦末漢初の政治家・劉邦に仕え[[鴻門の会]]などで活躍・前漢の成立後は一線を退く・漢の三傑の一人 * [[陳平]](? - [[紀元前178年|前178年]]) - 秦末漢初の政治家・劉邦に仕え楚漢戦争で謀略をめぐらす・劉邦没後に丞相となる * [[冒頓単于]](? - [[紀元前174年|前174年]]) - [[匈奴]]の[[単于]](在位[[紀元前209年|前209年]] - [[紀元前174年|前174年]])・[[月氏]]や[[東胡]]を討ち国家統一・秦から前漢の中国を圧倒する === 地中海世界 === ==== ヘレニズム諸国家とギリシア ==== * [[プトレマイオス1世]]([[紀元前367年|前367年]]頃 - [[紀元前283年|前283年]]頃) - プトレマイオス朝エジプトの初代国王(在位[[紀元前323年|前323年]] - [[紀元前285年|前285年]]) * [[マネト]](生没年不詳) - エジプトの歴史家・神官・プトレマイオス朝に仕えギリシア語で30王朝に区分した『エジプト史』を著す * [[クニドスのソストラトス]](生没年不詳) - プトレマイオス朝に仕えた建築家・技術者・[[アレクサンドリアの大灯台]]の銘文に名が残る * [[セレウコス1世]]([[紀元前358年|前358年]] - [[紀元前281年|前281年]]) - セレウコス朝シリアの初代国王(在位[[紀元前312年|前312年]] - [[紀元前281年|前281年]])・[[アンティオキア]]を建設 * [[ベロッソス]](生没年不詳) - [[バビロニア]]の著述家・セレウコス朝に仕え『バビロニア誌』を著す・占星術師でもあったか * [[フィレタイロス]]([[紀元前343年|前343年]] - [[紀元前263年|前263年]]) - アッタロス朝ペルガモン王国の初代国王(在位[[紀元前282年|前282年]] - [[紀元前263年|前263年]]) * [[エピクロス]]([[紀元前341年|前341年]] - [[紀元前270年|前270年]]) - ギリシアの[[ヘレニズム]]期の哲学者・「アタラクシア」を理想とする[[エピクロス派]]の祖 * [[ゼノン (ストア派)|キティオンのゼノン]]([[紀元前335年|前335年]] - [[紀元前263年|前263年]]) - ギリシアのヘレニズム期の哲学者・「アパテイア」を理想とする[[ストア派]]の祖 * [[メニッポス]](生没年不詳) - ギリシアの[[キュニコス派]]哲学者・風刺家として知られ「メニッポス的風刺」は後世ルキアノスらに影響を与える * [[ヘロフィロス]]([[紀元前335年|前335年]] - [[紀元前280年|前280年]]) - ギリシアの医学者・アレクサンドリア医学校を創設・[[人体解剖]]に基づく理論を構築 * {{仮リンク|ゼノドトス|en|Zenodotus}}([[紀元前325年|前325年]]頃 - [[紀元前260年|前260年]]頃) - エジプトの[[アレクサンドリア図書館]]初代館長・ホメロスの著作の校訂でも有名 * [[エウクレイデス]]([[紀元前330年|前330年]]頃 - [[紀元前275年|前275年]]頃) - ギリシアの数学者・『[[原論]](ストイケイア)』でいわゆる[[ユークリッド幾何学]]を大成 * [[アンティゴノス2世]]ゴナタス([[紀元前319年|前319年]] - [[紀元前239年|前239年]]) - アンティゴノス朝マケドニアの国王(在位[[紀元前277年|前277年]] - [[紀元前239年|前239年]])・ガラティア人を撃退 * [[ピュロス]]([[紀元前319年|前319年]] - [[紀元前272年|前272年]]) - ギリシアの[[イピロス]]王・マケドニア王・南イタリアをめぐりローマと戦った・「[[ピュロスの勝利]]」でも有名 * [[アルケシラオス]]([[紀元前316年|前316年]]/[[紀元前315年|前315年]]頃 - [[紀元前241年|前241年]]/[[紀元前240年|前240年]]頃) - ギリシャの哲学者・[[アカデメイア]]学頭・[[エポケー]]と[[懐疑主義]]を学派に導入 * [[テオクリトス]]([[紀元前315年|前315年]]頃 - [[紀元前250年|前250年]]頃) - シチリア出身の詩人・「[[牧歌]]([[パストラル]])」の創始者・「小情景詩」三十編を著す * [[アリスタルコス|サモスのアリスタルコス]]([[紀元前310年|前310年]] - [[紀元前230年|前230年]]頃) - ギリシアの天文学者・『太陽と月の大きさと距離について』で[[地動説]]を提唱 * [[カリマコス]]([[紀元前310年|前310年]]/[[紀元前305年|前305年]] - [[紀元前240年|前240年]]) - エジプトの詩人・批評家・アレクサンドリア図書館の図書目録『ピケナス』を作成 * [[プトレマイオス2世]]([[紀元前308年|前308年]] - [[紀元前246年|前246年]]) - プトレマイオス朝エジプトの国王(在位[[紀元前288年|前288年]] - [[紀元前246年|前246年]])・[[七十人訳聖書]]の翻訳を命じる * エラシストラトス([[紀元前304年|前304年]]頃 - [[紀元前250年|前250年]]頃) - ケオス島出身の医学者・[[大脳]]と[[小脳]]の区分や循環器などを研究し最初の[[生理学]]者とされる * [[ロドスのアポローニオス|ロドスのアポロニオス]](前3世紀初期 - [[紀元前246年|前246年]]以降) - エジプトのアレクサンドリア第2代図書館長・詩人で『[[アルゴナウティカ]]』を書く * [[シュラクサイ]]の[[アルキメデス]]([[紀元前287年|前287年]] - [[紀元前212年|前212年]]) - シチリアの[[数学者]]・[[物理学者]]・「浮体の原理」や「[[円周率]]の計算」で知られる * [[クテシビオス]](活躍時期 [[紀元前285年|前285年]] - [[紀元前222年|前222年]]頃) - エジプトのアレクサンドリア博物館長・ポンプや空気砲で「気体力学の父」と呼ばれる * [[ソロイ]]の[[クリュシッポス]]([[紀元前280年|前280年]] - [[紀元前206年|前206年]]) - ギリシアのストア派の哲学者・[[メガラ学派]]の影響から[[命題論理学]]を構築する * [[エラトステネス]]([[紀元前276年|前276年]]頃 - [[紀元前194年|前194年]]頃) - エジプトのアレクサンドリア第3代図書館長・[[天文学者の一覧|天文学者]]・数学者・[[地理学者]]・地球の測定を行う * [[ペルガのアポロニウス]]([[紀元前262年|前262年]]頃 - [[紀元前190年|前190年]]頃) - ギリシアの数学者・『円錐曲線論』の著者で「[[アポロニウスの円]]」で有名 * [[ビザンチウムのフィロン|ビザンティウムのフィロン]]([[紀元前260年|前260年]] - [[紀元前180年|前180年]]) - ギリシアの数学者・技術者・旅行家・「[[世界の七不思議]]」を取り上げる * [[アンティオコス3世 (セレウコス朝)|アンティオコス3世]]([[紀元前241年|前241年]] - [[紀元前187年|前187年]]) - セレウコス朝の国王(在位[[紀元前223年|前223]] - [[紀元前187年|前187年]])・東方で領土拡大・ローマとの戦争で敗北 ==== 共和政ローマとカルタゴ ==== * [[マニウス・クリウス・デンタトゥス]]([[紀元前330年|前330年]] - [[紀元前270年|前270年]]) - 共和政ローマの[[執政官]]・[[サムニウム戦争]]を終結させたピュロス王を撃退した * クィントゥス・オグルニウス・ガルス([[紀元前330年|前330年]]頃 - [[紀元前250年|前250年]]頃) - 共和政ローマの[[執政官]]・平民も神官となれるオグルニウス法を制定 * クィントゥス・ホルテンシウス(生没年不詳) - 共和政ローマの[[独裁官]](在職[[紀元前287年|前287年]])・ホルテンシウス法を制定する * [[ガイウス・ルタティウス・カトゥルス]](生没年不詳) - 共和政ローマの[[執政官]](在職[[紀元前242年|前242年]])・[[アエガテス諸島沖の海戦]]でカルタゴに勝利する * [[クィントゥス・ファビウス・マクシムス]]([[紀元前275年|前275年]] - [[紀元前203年|前203年]]) - 共和政ローマの政治家・執政官と独裁官・持久戦でカルタゴを攪乱 * [[マルクス・クラウディウス・マルケッルス]]([[紀元前268年|前268年]] - [[紀元前208年|前208年]]) - 共和政ローマの政治家・軍人・カルタゴとの激戦で「ローマの剣」と呼ばれた * [[ルキウス・アエミリウス・パウルス]](? - [[紀元前216年|前216年]]) - 共和政ローマの[[執政官]](在職[[紀元前219年|前219年]]・[[紀元前216年|前216年]])・[[カンナエの戦い]]で敗死 * [[ガイウス・テレンティウス・ウァロ]](生没年不詳) - 共和政ローマの執政官(在職[[紀元前216年|前216年]])・カンナエの戦いで敗北し逃亡 * [[ハンニバル・バルカ]]([[紀元前247年|前247年]] - [[紀元前183年|前183年]]) - カルタゴの[[将軍]]・[[アルプス山脈|アルプス]]越えからイタリアを急襲しカンナエの戦いでローマ軍に大勝利 * [[大スキピオ]]([[紀元前236年|前236年]] - [[紀元前184年|前184年]]) - 共和政ローマの執政官・北アフリカに上陸しハンニバルをザマの戦いで打ち破る === 南アジア・西アジア === * [[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]](生没年不明) - インドのマウリヤ朝の初代の王(在位[[紀元前340年|前340年]] - [[紀元前293年|前293年]])・[[アレクサンドロス3世]](大王)と親交あり? * [[カウティリヤ]]([[紀元前350年|前350年]] - [[紀元前283年|前283年]]) - [[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]]の宰相であり軍師・『[[実利論]]』を著し「インドのマキャヴェリ」と呼ばれる * [[アショーカ王|アショーカ]](生没年不明) - インドのマウリヤ朝の第3代の王(在位[[紀元前268年|前268年]] - [[紀元前232年|前232年]])・「ダルマの政治」を行ったとされる * {{仮リンク|モッガリプッタ・ティッサ|en|Moggaliputta-Tissa}}(生没年不詳) - インドの仏教僧・アショーカ王に仕え仏典結集を指揮する・マヒンダの師 * [[マヒンダ]]([[紀元前285年|前285年]] - [[紀元前205年|前205年]]) - [[スリランカ]]に仏教を伝えた比丘(長老)・インドのアショーカ王の王子(または弟)とされる * [[メガステネス]](生没年未詳) - セレウコス朝に仕えたギリシア人の使者・マウリヤ朝へ赴きインドの内情を記した『インド誌』を著す * [[ディオドトス1世]]([[紀元前285年|前285年]]頃 - [[紀元前239年|前239年]]頃) - ギリシア系バクトリア王国初代国王(在位[[紀元前256年|前256年]]頃 - [[紀元前240年|前240年]]頃)・シリアから独立 * [[アルサケス1世]](? - [[紀元前211年|前211年]]頃) - アルサケス朝パルティアの初代国王(在位[[紀元前247年|前247年]]頃 - [[紀元前211年|前211年]]頃) == 架空のできごと == * 紀元前286年以前 - 琴高仙人は[[趙]]の出身で[[康王 (宋)|宋の康王]]に舎人として仕えた人物で、琴の名手でもあった。各地を遍歴した後に衆人が集まる中、「龍を捕らえる」と言って涿水から巨大な鯉に跨って出現し、天へと登っていった(『[[列仙伝]]』)。 * 紀元前246年 - 天下の大将軍を夢見る戦災孤児の信のもとに、弟の[[成蟜]]に位を奪われた若き秦王[[始皇帝|嬴政]]が逃れてくる、秦王の顔立ちは信のかけがえのない友人漂と瓜二つであった。この運命的な出会いから、中国統一の大きな野望と戦いが繰り広げられることになる([[原泰久]]の漫画『[[キングダム (漫画)|キングダム]]』)。 * 紀元前241年以降 - [[第一次ポエニ戦争]]に敗北した[[カルタゴ]]では各地で反乱が勃発する。ハミルカル・バルカの娘で神殿の巫女[[サランボー]]は、反乱軍に奪われた聖なる布を返還してもらうべく反乱軍指導者マトーのもとを訪れる([[ギュスターヴ・フロベール]]の小説『[[サランボー]]』)。 * 紀元前214年以降 - 北方の遊牧民から中国を守るべく、皇帝の命により[[万里の長城]]の建設が始まったのは、「私」が初等教育を終えたその年のことであった。以来、いつ果てるとも知れぬ終わりなき工事が、延々と続いている。すでに皇帝の命であるとか遊牧民を抑え込むといった目的から逸脱し、何のためのものなのか誰もが知らぬままそれでも工事は更に続く([[フランツ・カフカ]]『万里の長城』)。 == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 3 | 年代 = 200 | BC = 1 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きけんせん3せいき}} [[Category:紀元前3世紀|*]]
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紀元前1世紀
紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもあり、紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。 なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。
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{{出典の明記|date=2013年5月}} {{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 1 | 年代 = 0 | BC = 1 }} [[ファイル:Statue-Augustus.jpg|thumb|[[ローマ帝国]]の成立。紀元前27年に[[オクタウィアヌス]]が「[[アウグストゥス]]」の称号を得てローマの帝政時代が始まった。画像は[[ヴァティカン美術館]]所蔵の「[[プリマポルタのアウグストゥス]]」。]] [[ファイル:Cleopatra and Caesar by Jean-Leon-Gerome.jpg|thumb|エジプト女王[[クレオパトラ7世]]。絶世の美女として知られるが、衰勢のプトレマイオス朝存続のためにローマの有力者と結ばざるを得ない事情があった。画像は19世紀フランスの画家[[ジャン・レオン・ジェローム]]の歴史画で、女王と[[ユリウス・カエサル]]の出会いの状況を描いている。]] [[ファイル:Jean-Léon Gérôme - The Death of Caesar - Walters 37884.jpg|thumb|right|280px|カエサル暗殺。終身独裁官に就任したカエサルは独裁傾向を強めたとみなされ、共和政の維持を唱える[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]や[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]に暗殺された。画像は暗殺直後を描いたジャン・レオン・ジェロームの歴史画「カエサルの死([[ウォルターズ美術館]]蔵)」。]] [[ファイル:Le Pont du Gard.jpg|thumb|right|280px|[[ポン・デュ・ガール]](ガール橋)。ローマの水道橋を代表する南フランスのこの橋はアウグストゥスの腹心[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ|アグリッパ]]によって建設された。]] [[File:Medulas 2018006.jpg|thumb|right|280px|[[ラス・メドゥラス]]。イべリア半島全域がローマの支配下に組み込まれたのは紀元前19年のこと。以後、鉱産資源の金に恵まれた[[レオン県 (スペイン)|レオン県]][[ポンフェラーダ]]近郊のこの地は、[[ローマ水道]]の建造技術を応用した特殊な採掘技術「山崩し」により大きく地形が変わった。]] [[File:S.M. Capua Vetere - Anfiteatro Romano - Ingresso.jpg|thumb|right|280px|[[カプア]]。南イタリア・[[カンパニア]]地方の中心地でローマとは[[アッピア街道]]で結ばれ大いに繁栄した。[[剣闘士]][[奴隷]]の興業が盛んで[[スパルタクス]]を指導者とする[[第三次奴隷戦争]]もこの地の剣闘士養成所から奴隷が逃亡したことに端を発する。画像はカプアの[[円形闘技場]]の遺跡。]] [[ファイル:Silver cauldron.jpg|thumb|right|280px|[[ケルト人]]の消長。カエサルの遠征でアルプス以北の[[ガリア]]は共和政ローマに帰服した。これらの地に住んでいたケルト人(ガリア人)たちは[[ラ・テーヌ文化]]の担い手とも考えられている。画像はラ・テーヌ文化を代表する「[[グンデストルップの大釜]]([[デンマーク国立博物館]]蔵)」。]] [[ファイル:West Terrace (4962168372).jpg|thumb|right|280px|[[ネムルト山]]墳墓の彫刻群。現在のトルコ東部にあった[[コンマゲネ王国]]では[[アンティオコス1世 (コンマゲネ王)|アンティオコス1世]]により独特な墳墓が営まれた。]] [[File:National Meusem Darafsh 6 (59).JPG|thumb|right|200px|[[パルティア]]の挑戦。パルティア王[[オロデス2世]]とその配下の[[スレナス]]率いる軽騎兵に[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]率いる共和政ローマ軍は殲滅された。画像はエリマイス地方から出土した{{仮リンク|パルティア人の肖像彫刻|en|Statue, National Museum of Iran 2401}}で紀元前後の尚武の気風に富んだこの時代の貴人の風貌が窺える(イラク国立博物館蔵)。]] [[File:SungaYaksa.JPG|right|thumb|200px|[[マガダ]]地方の王権。紀元前2世紀に[[マウリア朝]]が崩壊した後のインドでは、[[シュンガ朝]]から[[カーンヴァ朝]]の王権が続いた。画像はシュンガ朝時代に作られた[[ヤクシャ]]像([[パリ]]・[[ギメ美術館]]蔵)。]] [[ファイル:Wang Zhaojun - O Shokun by Hishida Shunso (Zenpoji Tsuruoka).jpg|thumb|right|330px|[[王昭君]]。前漢と匈奴の和平のために[[呼韓邪単于]]へと嫁ぐことになった悲劇の女性として語り継がれた。画像は明治時代の[[菱田春草]]の「王昭君図」([[東京国立近代美術館]]寄託)。]] [[File:China qing blue.JPG|thumb|right|200px|前漢後期の[[神仙思想]]。この時代には様々な民間信仰や[[讖緯]]思想が世情を賑わした。時に武帝時代の[[巫蠱の禍]]のような事件を引き起こし、長じて[[王莽]]の帝位簒奪にもつながる要素を持っていた。画像は[[台湾]][[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]所蔵の加彩灰陶器で、表面には[[中国文様史|雲気紋]]を伴った[[龍]]・[[鳳凰]]・[[饕餮]]といった神仙のイメージが描かれている。]] [[ファイル:150322 Shimane Museum of Ancient Izumo Japan07s.jpg|thumb|right|280px|[[銅鐸]]の祭祀。[[荒神谷遺跡]]と並ぶ[[古代出雲]]を代表する[[加茂岩倉遺跡]]からは39個の銅鐸が出土した。これら銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。画像は[[島根県立古代出雲歴史博物館]]での展示の様子。]] '''紀元前1世紀'''(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、[[西暦]]による[[紀元前100年]]から[[紀元前1年]]までの100年間を指す[[世紀]]。[[紀元前]]を区分する最後の世紀でもあり、紀元[[1世紀]]の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。 なお、[[天文学]]や[[ISO 8601]]では、紀元前1年を西暦[[0年]]と定めている(詳細は「[[紀元前1年#西暦0年]]」または「[[0年#西暦0年]]」を参照のこと)。 == できごと == <!-- 年の記事は、それぞれの年の記事が完成するまでこの記事へのリダイレクトになる --> === 紀元前100年代 === {{main|紀元前100年代}} * [[紀元前100年]]頃 ** [[グアテマラ]]北部[[サン・バルトロ]]の下層1号神殿「絵画の神殿(ラス・ピントゥラス)」壁画が描かれる。 *** これは[[先古典期]]後期のもので、[[マヤ文明]]の壁画としては現時点で最古のもの。 ** イギリス中部[[ノーサンプトンシャー]]の{{仮リンク|デスボロー|en|Desborough}}出土の鏡([[大英博物館]]蔵)はこの時代の[[ラ・テーヌ文化]]のもの。 * [[紀元前100年]] - [[前漢]]の使者[[蘇武]]が[[匈奴]]へ派遣される( - 紀元前81年)。 === 紀元前90年代 === {{main|紀元前90年代}} * [[紀元前99年]] - [[前漢]]の[[李陵]]が[[匈奴]]に降伏する。 ** 李陵を弁護した[[太史令]][[司馬遷]]が獄につながれ、翌年には宮刑に処される。 * [[紀元前98年]] - 前漢の[[武帝 (漢)|武帝]]が[[泰山]]で[[封禅]]の儀を執行する。 * [[紀元前97年]]頃 - 前漢で司馬遷が獄から釈放されて[[中書令]]に就任し『[[史記]]』執筆に専念。 * 紀元前91年 ** 前漢で[[巫蠱の禍]]により、皇太子[[劉拠]]が殺害される。 ** 共和政ローマで[[同盟市戦争]](- 紀元前88年)。 * 紀元前91年頃 - 司馬遷が『史記』を完成させる。 * 紀元前90年 - 共和政ローマの[[執政官]][[ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官)|ルキウス・カエサル]]が、反乱に加わらなかった同盟市に[[ローマ市民権]]を与える法を制定{{sfn|MRR2|p=25}}。 === 紀元前80年代 === {{main|紀元前80年代}} * 紀元前89年 ** 前漢の武帝の「輪台の詔」。 ** 共和政ローマで申請した同盟市の人間に市民権を与える{{仮リンク|プラウティウス・パピリウス法|en|Lex Plautia Papiria}}が成立{{sfn|MRR2|p=34}}。 * 紀元前88年 - 共和政ローマで[[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スッラ]]が[[ローマ]]市を占領して[[ガイウス・マリウス|マリウス]]を追放{{sfn|MRR2|p=40}}。[[第一次ミトリダテス戦争]](- 紀元前85年)。 * 紀元前87年 **前漢の武帝が末子劉弗陵を皇太子とし、その母[[鉤弋夫人]](趙婕妤)を殺害する。 **共和政ローマでマリウス派がローマ市を占領{{sfn|MRR2|p=46}}。 * 紀元前86年 ** 前漢の武帝が死去、劉弗陵が[[昭帝 (漢)|昭帝]]として即位。 ** 共和政ローマのスッラが[[アテナイ]]を陥落させ、[[カイロネイアの戦い (紀元前86年)|カイロネイアの戦い]]に勝利{{sfn|MRR2|p=55}}。この年執政官のマリウスは死亡{{sfn|MRR2|p=53}}。 * 紀元前85年頃 - [[インド・グリーク朝|インド・グリーク王国]]を滅ぼした[[サカ人]]が[[インド・スキタイ王国]]を建てる。 * 紀元前83年 ** [[アルメニア王国]]の[[ティグラネス2世]]がシリアを制圧し「諸王の王」を名乗る。新都[[ティグラノセルタ]]を建設。 ** 共和政ローマのスッラが[[イタリア半島]]に帰還、両執政官の軍を破る{{sfn|MRR2|p=63}}。[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]がスッラに合流{{sfn|MRR2|p=64}}。 * 紀元前82年 - 共和政ローマのスッラが法制定と国家再建の[[独裁官]]に就任{{sfn|MRR2|p=66}}。[[プロスクリプティオ]]による粛清を行う{{sfn|MRR2|p=69}}。 * 紀元前81年 ** 匈奴に抑留されていた[[蘇武]]が前漢に帰国する([[紀元前100年]] - )。 ** 共和政ローマの独裁官スッラが[[コルネリウス法]]を施行{{sfn|MRR2|pp=74-75}}。 * 紀元前80年 ** 元鳳の政変で、[[桑弘羊]]や[[上官桀]]が昭帝を廃して燕王擁立を謀るが、[[霍光]]が鎮圧する。 ** 属州ヒスパニアで[[クィントゥス・セルトリウス|セルトリウス]]の反乱( - [[紀元前72年]])。 === 紀元前70年代 === {{main|紀元前70年代}} * 紀元前79年 - スッラが独裁官を辞任し、[[カンパーニャ]]に引退する。 * 紀元前77年 - [[アルメニア]]王[[ティグラネス2世]]がアルタクサタから[[ティグラノセルタ]]に都を遷す。 * 紀元前75年 - [[ポンペイウス]]が自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現[[パンプローナ]])を[[ヴァスコン人]]の定住地の[[バスク地方]]に建設する。 * 紀元前74年 - 前漢の昭帝が死去。霍光が劉賀を廃位させ、[[宣帝 (漢)|宣帝]]を即位させる。 * 紀元前73年 - 共和政ローマで[[剣闘士]]の[[スパルタクス]]が反乱を起こす(- 紀元前71年)。 * 紀元前70年 - [[ポンペイウス]]と[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]が[[執政官]]に就任。 === 紀元前60年代 === {{main|紀元前60年代}} * 紀元前69年 - [[ティグラノセルタの戦い]]。 * 紀元前66年 - 宣帝の廃位を画策した罪で[[霍禹]]ら霍一族が滅ぼされ、皇后霍氏も廃位される。 * 紀元前63年 ** 共和政ローマの[[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]が[[セレウコス朝]]シリアを滅ぼし、ユダヤを平定する。 ** 共和政ローマで[[ルキウス・セルギウス・カティリナ|カティリナ陰謀事件]]。[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の「[[カティリナ弾劾演説]]」。 * 紀元前60年 - 共和政ローマで[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]が執政官に就任、ポンペイウスや[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]と共に[[第一回三頭政治]]を開始。 === 紀元前50年代 === {{main|紀元前50年代}} * 紀元前59年 ** [[西域]]の南北両道全てを統括する[[西域都護]]が設置され[[鄭吉]]が任じられる。 ** 前漢の廃帝昌邑王[[劉賀]]が死去し、[[江西省]][[南昌市]]の{{仮リンク|海昏侯墓|zh|海昏侯墓}}に葬られる。 ** カエサルらにより「[[アクタ・ディウルナ]](日々の議事録)」と「アクタ・セナトゥス(元老院議事録)」が出される。 ** カエサルらにより「{{仮リンク|ユリウス農地法|it|Leges Iuliae}}(センプロニウス農地法の補正案)」が制定される。 * 紀元前58年 - カエサルが[[ガリア戦争]]を開始(- 紀元前51年)。 * 紀元前56年 - [[ルッカ]]会談でカエサルとポンペイウスとクラッススが密約を行う。 * 紀元前54年 - [[ローマによるブリタンニア侵攻 (紀元前55年-紀元前54年)|ローマによるブリタンニア侵攻]]。 * 紀元前54年 - 匈奴が東匈奴と西匈奴に分裂。 * 紀元前53年 - [[カルラエの戦い]]で[[パルティア]]がクラッススを破る。 * 紀元前52年 ** [[アレシアの戦い]]でカエサルが[[ウェルキンゲトリクス]]率いるガリア連合軍に勝利。 *** ガリアの組織的な抵抗は終了し、翌年までには属州[[ガリア]]として編入される。 ** [[弥生時代]]の[[池上曽根遺跡]]から出土した神殿らしい高床式建物に使用されていた柱を[[年輪年代測定|年輪年代測定法]]で検査すると、この年の伐採[[ヒノキ]]材であることが判明した。 * 紀元前51年 ** 匈奴の[[呼韓邪単于]]が前漢に入朝し、宣帝と会見する。 ** 石渠閣会議。 * 紀元前50年 - エジプトの「{{仮リンク|デンデラの黄道帯|en|Dendera zodiac}}([[ルーヴル美術館]]蔵)」の天体図はこの年の天球配置を示す。 * 紀元前50年頃 - アテナイの「[[ローマ時代のアゴラ]]」に「[[風の塔]](アンドロニコスの時計塔)」が建てられる。 === 紀元前40年代 === {{main|紀元前40年代}} * 紀元前49年 - ローマ元老院がカエサルに「[[元老院最終勧告]]」を下す。 ** [[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]]の始まり。カエサルは「[[ルビコン川]]」を越えてローマに入城。 * 紀元前48年 - [[ファルサルスの会戦|ファルサロスの戦い]]でカエサルがポンペイウスを破る。 ** エジプトに逃亡したポンペイウスはこの地で[[プトレマイオス13世]]の配下に殺害される。 * 紀元前47年 ** [[ナイルの戦い (紀元前47年)|ナイルの戦い]]。 *** [[クレオパトラ7世]]がカエサルの支持を得て弟王プトレマイオス13世を倒し[[エジプト]]の実権を握る。 ** [[ゼラの戦い]]でカエサルがポントゥス王[[ファルナケス2世]]に勝利。 * 紀元前46年 ** ローマにおいて1年が445日存在する。 *** 翌年に[[ローマ暦]]に代わって[[ユリウス暦]]が導入されるための移行措置で、歴史上もっとも1年の日数([[暦年]])が多かった年とされている。 ** タプススの戦いでカエサルが[[ヌミディア]]王[[ユバ1世]]と元老院派の連合軍に勝利。 *** [[ヌミディア王国]]は滅亡し、属州[[ヌミディア]]が成立する。 *** 元老院派の[[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|小カト]]が[[ウティカ]]包囲戦で自殺。 * 紀元前45年 - ムンダの戦いでカエサルが[[グナエウス・ポンペイウス・ミノル|小ポンペイウス]]と元老院派に勝利し、ローマ内戦を終結させる。 ** この功によりカエサルは[[終身独裁官]]に選出され、「最高命令権([[インペリウム]])」を獲得し、「[[インペラトル]]」と称される。 * 紀元前44年 ** カエサルの命で[[フォロ・ロマーノ]]の[[元老院]]議事堂([[クリア・ユリア]])が改築される。 ** カエサルが[[マルクス・ユニウス・ブルートゥス|ブルートゥス]]らにより暗殺される([[3月15日]])。 ** {{仮リンク|アントニウス法|en|Lex Antonia}}により[[独裁官]]が廃止される。 * 紀元前43年 ** [[マルクス・アントニウス|アントニウス]]、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]]、[[アウグストゥス|オクタウィアヌス]]が[[第二回三頭政治]]を開始。 *** プロスクリプティオが布告され、キケロがアントニウスの刺客に暗殺される。 ** 属州ガリアのルグドゥヌム(現[[リヨン]])が建設される。 * 紀元前42年 ** [[フィリッピの戦い]]でアントニウスとオクタウィアヌスの連合軍がカッシウスやブルートゥスらリベラトレス(共和派)に勝利する。 ** 属州[[ガリア・キサルピナ]](ガリア・キテリオル)が [[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]に編入される。 * 紀元前42 - 20年頃 - ヘレニズム時代の彫刻「[[ラオコーン像]]([[ヴァチカン美術館]](ピオ・クレメンティーノ美術館)蔵)」が作られる。 === 紀元前30年代 === {{main|紀元前30年代}} * 紀元前37年 - [[エルサレム攻囲戦 (紀元前37年)|エルサレム攻囲戦]]。 ** この勝利により[[ハスモン朝]]を退けた[[ヘロデ大王]]がユダヤ王となる( - 紀元前4年)。 * 紀元前37年頃 - 『[[三国史記]]』によると[[東明聖王]]高朱蒙により[[高句麗]]が建国される。 * 紀元前36年 ** [[メソアメリカ]]最古とされる[[長期暦]]の日付が[[メキシコ]]・[[チアパス州]]の[[チャパ・デ・コルソ]]の[[石碑]]2号に刻まれる。 ** 東匈奴の呼韓邪単于が西匈奴の[[郅支単于]]を倒し匈奴を再統一する。 ** [[ナウロクス沖の海戦]]でオクタウィアヌス派が[[セクストゥス・ポンペイウス]]に勝利、レピドゥスが失脚。 * 紀元前33年 - 匈奴の呼韓邪単于が再び前漢に入朝し、[[王昭君]]が呼韓邪単于に嫁ぐ。 ** この時期に前漢の領土は最大となる。元帝が死去し、成帝が即位。 * 紀元前32年 - [[オルメカ]]の祭祀センターの[[トレス・サポーテス]]の石碑Cの日付。 * 紀元前31年 - [[アクティウムの海戦]]でオクタウィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る。 * 紀元前30年 - クレオパトラ7世が自殺し、息子[[カエサリオン]](プトレマイオス15世)が殺害される。 ** [[プトレマイオス朝]]が滅び、エジプト(アエギュプトゥス)はローマの属州となる。 === 紀元前20年代 === {{main|紀元前20年代}} * 紀元前27年 ** オクタウィアヌスが[[元老院 (ローマ)|元老院]]から[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]の尊称を与えられる([[1月16日]])。 *** 「市民の第一人者(プリンケプス・キウィタティス)」でもあるオクタウィアヌスが事実上の[[ローマ皇帝]]となる。 *** これにより[[共和政]]ローマが[[帝政]]ローマに移行したとされる([[ローマ帝国]]の始まり)。 ** 属州とは別に[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]]の地域を確定し、都市ローマを含め11行政区に分割する。 ** 属州[[ヒスパニア・タラコネンシス]]の再編成、この時期から[[ラス・メドゥラス]]の金鉱採掘が本格化する。 * 紀元前27年頃 - 前漢が[[夜郎]]を滅ぼす。 * 紀元前25年 ** 属州[[ルシタニア]]に植民市エメリタ・アウグスタ(現[[メリダ (スペイン)|メリダ]])が造営される。 *** 翌年にはアグリッパにより「{{仮リンク|メリダのローマ劇場|en|Roman Theatre (Mérida)}}」が建設される。 ** アウグストゥスの命で{{仮リンク|アエリウス・ガルス|en|Aelius Gallus}}が[[イエメン]]の[[マアリブ (イエメン)|マアリブ]]へ遠征を行うが失敗する。 * 紀元前25年頃 ** ヘロデ大王が属州パレスティナに[[カイサリア・マリティマ]](海辺のカイサリア)を建設。 ** [[大月氏]]から[[クシャーナ朝]](貴霜翕侯)の[[クジュラ・カドフィセス]]が独立する。 * 紀元前22年 - ローマ帝国に南インドの[[パーンディヤ朝]]の使者が到着。 * 紀元前20年頃 - ヘロデ大王がエルサレム[[第二神殿]]の修繕と大拡張工事を行う([[ヘロデ神殿]])。 === 紀元前10年代 === {{main|紀元前10年代}} * 紀元前19年 - [[カンタブリア州|カンタブリア人]]の反乱が鎮圧され、その領土が属州ヒスパニア・タラコネシスに編入される。 ** この時期までにイベリア半島の{{仮リンク|カストロ文化圏|en|Castro culture}}がローマ支配下におかれることなる。 ** この時期を代表するのが[[ガリシア]]地方{{仮リンク|カストロ・デ・サンタ・トレガ|en|Castro of Santa Trega}}の城砦遺跡。 * 紀元前19年頃 - [[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ|アグリッパ]]の命で[[水路橋|水道橋]][[ポン・デュ・ガール]]が架けられる。 * 紀元前18年 - ユリウス姦通罪/渉外交渉罪法とユリウス正式婚姻法が成立する。 * 紀元前16年 - ローマがノリクムに遠征し、属州[[ノリクム]]が設置される。 * 紀元前15年 - ローマがラエティアに遠征し、属州[[ラエティア]]が設置される。 ** この地の首府アウグスタ・ウィンデリコルム(現[[アウクスブルク]])が建設される。 * 紀元前13年 - ローマの[[マルケッルス劇場]]が完成する。 * 紀元前12年 ** アウグストゥスが[[最高神祇官]]に就任する。 ** ローマの[[ガイウス・ケスティウスのピラミッド]]が完成する。 ** ローマの[[ローマ帝国初期のゲルマニア戦役#戦役前期 (紀元前12年-紀元後9年)|大ドルススのゲルマニア遠征]]。 *** この戦役を避けて「{{仮リンク|ヒルデスハイムの遺宝(銀器)|en|Hildesheim Treasure}}」が埋蔵される。 * 紀元前12年頃 ** [[フォロ・ロマーノ]]に「[[凱旋式のファスティ|凱旋式の勝暦]](ファスティ・トリウムファレス)」が建てられる。 === 紀元前0年代 === {{main|紀元前0年代}} * 紀元前9年 ** ローマが[[パンノニア]]を占領し、属州[[イリュリクム]]に併合する。 ** ローマで「アウグストゥスの平和祭壇([[アラ・パキス]])」が奉献される。 * 紀元前7年 - 前漢で限田法が布告される。 * 紀元前7 - 4年頃 - [[イエス・キリスト|ナザレのイエス]]生誕。 * 紀元前6年 - [[アウグストゥス]]の[[アルプス]]諸族平定を記念し{{仮リンク|トロパエム・アルピウム|en|Tropaeum Alpium|en}}がユリア・アウグスタ街道沿いの[[ラ・テュルビー]]に建てられる。 * 紀元前2年 - 大月氏の使者伊存が「浮屠経(仏教の経典)」を博士弟子の景廬に口授する(『魏略』西戎伝)。 * 紀元前1年 - 前漢で[[丞相]]・[[御史大夫]]・大司馬将軍が[[大司徒]]・[[大司空]]・[[大司馬]]に改称され[[三公]]とされる。 ** [[前漢]]の[[哀帝 (漢)|哀帝]]が死去し[[平帝]]が即位。[[大司馬]]の[[董賢]]が失脚し、[[王莽]]が大司馬となる。 ---- <!-- ここから下は年がはっきりしないものを書く --> * 紀元前後 ** モンゴル高原北部の[[ノイン・ウラ]]の匈奴の墓が築かれる。 ** 倭人が百余国に分かれて、一部の国が前漢の楽浪郡に朝献する(『漢書』地理誌)。 ---- <!-- ここより下は年の推定の幅が大きいものを記述 --> * [[日本]]:[[弥生時代]] ** 弥生文化が関東地方に波及する。 ** 近畿地方を中心に[[銅鐸]]、西日本に青銅製武器形祭器による祭祀が行われる。<br />階層の秩序化すすむ。 ** 関東地方や東北地方南部に縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。 ** 北部九州では[[甕棺墓]]が盛行し、その中の一部のものが多くの[[前漢鏡]]を副葬する。 ** 北部九州では、[[鉄器]]や鉄製農具が使用される。また[[吉野ヶ里遺跡]]のような巨大集落現れる。 ** 北部九州勢力と畿内勢力の間で、鉄の獲得のための軍事的緊張が高まる。 == 人物 == === 共和政ローマから帝政ローマ === {{main|[[:Category:紀元前1世紀の古代ローマ人]]}}<!--上の年表にでている人よりも漏れている人を書いた方がいいのでは--> * [[ガイウス・マリウス|マリウス]]([[紀元前157年|前157年]] - [[紀元前86年|前86年]]) - 共和政時代の[[執政官]](7度就任){{sfn|MRR2|p=53}}・[[キンブリ・テウトニ戦争]]、[[マリウスの軍制改革]]で知られる{{sfn|ゴールズワーシー|pp=112-113}} * [[ルキウス・コルネリウス・スッラ|スッラ]]([[紀元前138年|前138年]] - [[紀元前78年|前78年]]) - 共和政時代の[[独裁官]]・[[第一次ミトリダテス戦争]]で知られる{{sfn|MRR2|p=74}}。マリウスのライバル{{sfn|ゴールズワーシー|p=121}} * [[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]([[紀元前115年|前115年]]頃 - [[紀元前53年|前53年]]) - 共和政時代の[[第一回三頭政治]]の一人・資産家で知られる * [[スパルタクス]]([[紀元前109年|前109年]]頃 - [[紀元前71年|前71年]]) - 共和政時代の[[剣闘士]]・「スパルタクスの反乱([[第三次奴隷戦争]])」の指導者 * [[グナエウス・ポンペイウス|ポンペイウス]]([[紀元前106年|前106年]] - [[紀元前48年|前48年]]) - 共和政時代の第一回三頭政治の一人・カエサルのライバル * [[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]([[紀元前106年|前106年]] - [[紀元前43年|前43年]]) - 共和政時代の執政官{{sfn|MRR2|p=165}}・『[[国家について|国家論]]』などの[[ラテン語]][[散文]]の大成者 * [[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]([[紀元前100年|前100年]] - [[紀元前44年|前44年]]) - 共和政時代の第一回三頭政治の一人・終身独裁官{{sfn|MRR2|p=317}}。『[[ガリア戦記]]』でも名高い <!--なぜここに並んでいるのかわからない * [[マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス|小カトー]]([[紀元前95年|前95年]] - [[紀元前46年|前46年]]) - 共和政時代中期の偉人[[大カト]]の末裔・第一回三頭政治や[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]独裁と対決--> * [[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]] - 共和政時代の[[三頭政治|国家再生三人委員]]の一人{{sfn|MRR2|p=337}} * [[マルクス・アントニウス]] - 共和政時代の国家再生三人委員の一人{{sfn|MRR2|p=337}} * [[オクタウィアヌス]] - 共和政時代の国家再生三人委員の一人{{sfn|MRR2|p=337}}・カエサルの養子で元首政を始める{{sfn|ゴールズワーシー|p=126}} * [[ルクレティウス]]([[紀元前99年|前99年]]頃 - [[紀元前55年|前55年]]) - 共和政時代の詩人、哲学者・『{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}』では[[エピクロス派]]の[[唯物論]]を説く * [[シケリアのディオドロス]](前1世紀) - 共和政時代のギリシア人歴史家・エジプトやローマを歴訪し『{{仮リンク|歴史叢書|en|Bibliotheca historica}}』をまとめる === ヘレニズム国家と西アジア === * [[ポセイドニオス]]([[紀元前135年|前135年]]頃 - [[紀元前51年|前51年]]) - シリアの[[アパメア]]出身の地理学者・天文学者・[[アンティキティラ島の機械]]とも関係があったか * [[ロドスのアンドロニコス]](生没年不詳) - [[リュケイオン]]学園の第11代学頭・アリストテレスの草稿を校訂し現行の全集として刊行した * [[ミトリダテス6世]]([[紀元前132年|前132年]] - [[紀元前63年|前63年]]) - [[小アジア]]の[[ポントス|ポントス王国]]国王(在位[[紀元前120年|前120年]] - [[紀元前63年|前63年]])・共和政ローマと三度戦争を行う * [[ミトラダテス2世]](? - [[紀元前88年|前88年]]) - パルティア王(在位[[紀元前123年|前123]] - [[紀元前88年|前88年]])・クテシフォンに遷都・最盛期を迎え「諸王の王」を名乗る * [[アンティオコス13世]](? - [[紀元前64年|前64年]]) - セレウコス朝シリア最後の王(在位[[紀元前69年|前69年]] - [[紀元前64年|前64年]])・ポンペイウスに滅ぼされる * [[ティグラネス2世]](? - [[紀元前55年|前55年]]) - [[アルメニア]]国王(在位[[紀元前95年|前95年]] - [[紀元前55年|前55年]])・セレウコス朝を圧倒し「諸王の王」「大王」を名乗る * [[アンティオコス1世 (コンマゲネ王)|アンティオコス1世]](? - [[紀元前38年|前38年]]) - 小アジアの[[コンマゲネ|コンマゲネ王国]]国王(在位[[紀元前69年|前69年]] - [[紀元前38年|前38年]])・[[ネムルト山]]墳墓を造営 * [[スレナス]]([[紀元前84年|前84年]] - [[紀元前52年|前52年]]) - パルティアの貴族・将軍・カルラエの戦いでローマに大勝し[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]を倒す * [[ヘロデ大王]]([[紀元前73年|前73年]]頃 - [[紀元前4年|前4年]]) - ローマ共和政から帝政にかけてのユダヤの王(在位[[紀元前37年|前37年]] - [[紀元前4年|前4年]])・[[ヘロデ朝]]を創設 * [[クレオパトラ7世]]([[紀元前70年|前70年]] - [[紀元前30年|前30年]]) - プトレマイオス朝エジプト最後の女王・カエサルやアントニウスとの親交で名高い === 南アジア === * ヴァースデーヴァ(生没年不詳) - インドの[[カーンヴァ朝]]の初代の王(在位[[紀元前68年|前68年]]頃 - [[紀元前59年|前59年]]頃)・[[シュンガ朝]]を倒して新王朝を開く ===東アジア=== ====前漢==== * [[武帝 (漢)|武帝]]([[紀元前156年|前156年]] - [[紀元前87年|前87年]]) - 前漢の[[皇帝]](在位[[紀元前141年|前141年]] - [[紀元前87年|前87年]])・匈奴征討など積極外交策を行う・治世後期は内政再建を実施 * [[桑弘羊]]([[紀元前152年|前152年]] - [[紀元前80年|前80年]]) - 前漢の[[政治家]]・財政家・武帝に仕え均輸法・平準法・[[専売制]]の実施など財政改革を行う * [[蘇武]]([[紀元前140年|前140年]]頃? - [[紀元前60年|前60年]]) - 前漢の官僚・使者として匈奴に赴くが捕縛され帰順を拒んで20年近く抑留される * [[李広利]](? - [[紀元前88年|前88年]]) - 前漢の[[軍人]]・武帝の命で[[汗血馬]]を求め[[大宛]]を攻略・後年は匈奴に降伏し粛清される * [[司馬遷]]([[紀元前145年|前145年]] - [[紀元前87年|前87年]]) - 前漢の[[歴史家]]・『[[史記]]』の著者・武帝の前で[[李陵]]を弁護して怒りを買い[[宮刑]]に処せられる * [[李陵]](? - [[紀元前74年|前74年]]) - 前漢の軍人・[[李広利]]の救援に急ぐが匈奴と戦い敗北・降伏した後は匈奴の右校王となる * [[江充]](? - [[紀元前91年|前91年]]) - 前漢の官僚・[[巫蠱の禍]]により[[戾太子|劉拠]]を失脚させんとして太子に斬殺される * [[劉屈氂]](? - [[紀元前90年|前90年]]) - 前漢の[[丞相]]・[[皇族]]で武帝の甥・戾太子の反乱を鎮圧・帝位継承で李広利との密約が露見し処刑される * [[金日磾]]([[紀元前134年|前134年]] - [[紀元前86年|前86年]]) - 前漢の政治家・もとは匈奴の休屠王の太子・武帝の信任を得て霍光らと[[昭帝 (漢)|昭帝]]を補佐する * [[霍光]](? - [[紀元前68年|前68年]]) - 前漢の政治家・大将軍・武帝亡き後の昭帝を補佐・その後は昌邑王[[劉賀]]を廃し[[宣帝 (漢)|宣帝]]を擁立 * [[劉旦]](? - [[紀元前80年|前80年]]) - 前漢の皇族(燕王)・武帝の子で昭帝の異母兄・[[上官桀]]らと[[霍光]]打倒の反乱を起こすが鎮圧される * [[上官桀]](? - [[紀元前80年|前80年]]) - 前漢の政治家・将軍・霍光らとともに昭帝の補佐をするが後に反目・霍光打倒の反乱を起こすが鎮圧される * [[丙吉]](? - [[紀元前55年|前55年]]) - 前漢の丞相・もとは獄吏だったが巫蠱の獄に際し戾太子の孫(後の宣帝)を庇護した功で昇進し善政を行う * [[宣帝 (漢)|宣帝]]([[紀元前91年|前91年]] - [[紀元前49年|前49年]]) - 前漢の[[皇帝]](在位 [[紀元前73年|前73年]] - [[紀元前49年|前49年]])・武帝の曾孫・戾太子の孫・前漢[[中興の祖]]とも呼ばれる * [[鄭吉]](? - [[紀元前48年|前48年]]) - 前漢の軍人・西域南道と西域北道を併せて統括する[[西域都護]]の初代として安遠侯に封じられる * [[呼韓邪単于]](? - [[紀元前31年|前31年]]) - 匈奴の[[単于]]・匈奴の内紛のため前漢に帰順し宣帝と会見・後に[[元帝 (漢)|元帝]]時代にも入朝 * 戴徳(生没年不詳) - 前漢の儒者・宣帝の治世に「礼」の記録を整理し「大戴礼」を編纂・甥の戴聖(小戴)に対し大戴と呼ばれる * 桓寛(生没年不詳) - 前漢の官僚・始元6年の「塩鉄の議」の記録を宣帝の時代に『[[塩鉄論]]』としてまとめたことで知られる * [[劉向]]([[紀元前77年|前77年]] - [[紀元前6年|前6年]]) - 前漢の学者・政治家・宣帝から[[成帝 (漢)|成帝]]に仕え『[[説苑]]』『[[列女伝]]』を著す * [[王昭君]](生没年不詳) - 前漢の宮女・[[元帝 (漢)|元帝]]時代に匈奴の呼韓邪単于の入朝に選ばれてその妻女となる * [[王政君]]([[紀元前71年|前71年]] - [[13年]]) - 前漢の元帝の皇后で成帝の生母・[[外戚]]の王氏一族を伸張させる・甥[[王莽]]の帝位簒奪には反対した * [[王鳳 (前漢)|王鳳]](? - [[紀元前22年|前22年]]) - 前漢の政治家・王政君の兄弟は「五侯」として列侯に封じられたがその中心として大司馬大将軍となる * [[趙飛燕]](? - [[紀元前1年|前1年]]) - 前漢の成帝の皇后・歌舞音曲に通じ成帝の寵を得る・稗史『[[飛燕外伝]]』では傾国の美女とされている * [[王莽]]([[紀元前45年|前45年]] - [[23年]]) - 前漢の政治家・外戚として権力を握り[[哀帝 (漢)|哀帝]]没後に[[平帝 (漢)|平帝]]を擁立・前漢を簒奪して[[新]]王朝を立てる ====高句麗==== * [[東明聖王|朱蒙]]([[紀元前58年|前58年]] - [[紀元前19年|前19年]]) - [[扶余]]の王族・高句麗の初代王(東明聖王)(在位[[紀元前37年|前37年]] - [[紀元前19年|前19年]])・卒本城を造営 == 伝説・架空のできごと == * 紀元前93年以降 - 前漢の武帝に仕えた[[東方朔]]は滑稽でありながら機知に富んだ人物であったが、[[崑崙山]]の仙女[[西王母]]が植えた三千年に一度しかならない桃の実を三つも盗んで、八千歳の長寿を得たという(『漢武故事』)。 * 紀元前50年頃 - [[ユリウス・カエサル]]により[[ガリア]]のほとんどがローマの支配下に編入された中にあって[[アステリックス]]とオベリックスらの仲間たちが自分たちの村を知恵と勇気で守り抜いている([[ルネ・ゴシニ]]と[[アルベール・ユデルゾ]]『アステリックス』)。 ==出典== {{reflist|20em}} ==参考文献== * {{Cite book|ref={{sfnref|MRR2}}|author=T. R. S. Broughton|authorlink=:en:Thomas_Robert_Shannon_Broughton|title=The Magistrates of the Roman Republic Vol.2| publisher=American Philological Association |year=1952}} * {{Cite book|和書|ref={{sfnref|ゴールズワーシー}}|author=エイドリアン・ゴールズワーシー|authorlink=エイドリアン・ゴールズワーシー|translator=遠藤利国|title=図説 古代ローマの戦い|publisher=[[東洋書林]]|year=2003|ISBN=9784887216082}} == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 1 | 年代 = 0 | BC = 1 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:きけんせん1せいき}} [[Category:紀元前1世紀|*]]
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紀元前45年
紀元前45年(きげんぜん45ねん)は、ローマ暦の709年である。ユリウス暦が施行された年である。
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紀元前45年(きげんぜん45ねん)は、ローマ暦の709年である。ユリウス暦が施行された年である。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|2}} | 世紀= {{紀元前/世紀|1}} | 次世紀= 1 | 前10年紀2= {{紀元前/年代|60}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|50}} | 10年紀= {{紀元前/年代|40}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|30}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|20}} | 3年前= {{紀元前/年|48}} | 2年前= {{紀元前/年|47}} | 1年前= {{紀元前/年|46}} | 1年後= {{紀元前/年|44}} | 2年後= {{紀元前/年|43}} | 3年後= {{紀元前/年|42}} |}} '''紀元前45年'''(きげんぜん45ねん)は、[[ローマ暦]]の709年である。[[ユリウス暦]]が施行された年である。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙子]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[崇神天皇]]53年 ** [[皇紀]]616年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[前漢]] : [[初元]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[新羅]] : [[赫居世居西干|赫居世]]13年 ** [[檀君紀元|檀紀]]2289年 * [[仏滅紀元]] : 499年 * [[ユダヤ暦]] : 3716年 - 3717年 {{Clear}} == できごと == === ローマ === * [[1月1日]]より[[ユリウス暦]]施行。 * [[執政官]]は[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]単独であった。 * [[ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)|ローマ内戦]] ** [[3月17日]] - [[ムンダの戦い]]で[[ティトゥス・ラビエヌス]]と[[グナエウス・ポンペイウス・ミノル]]を破り、内戦は終結した。ラビエヌスは戦場で死亡し、ポンペイウスは処刑されたが、[[セクストゥス・ポンペイウス]]は大西洋岸まで逃亡した。 * ユリウス・カエサルが編成した[[第10軍団エクェストリス]]及び第13軍団ゲミナは解散した。第10軍団の退役軍人は[[ナルボンヌ]]に移住し、第13軍団の退役軍人にはイタリア近郊の土地が与えられた。 * ユリウス・カエサルが終身[[独裁官]]に指名された。 * ユリウス・カエサルはおそらくこの年に''Commentaries''を執筆した。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前45年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ユッルス・アントニウス]]、[[マルクス・アントニウス]]と[[フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)|フルウィア]]の息子(+ [[紀元前2年]]) * [[王莽]]、[[新朝]]の皇帝(+ [[23年]]) == 死去 == {{see also|Category:紀元前45年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * 2月 - [[トゥリア・キケロニス]]、[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]の娘(* [[紀元前79年]]/[[紀元前78年]]) * [[3月17日]] - [[ティトゥス・ラビエヌス]]、共和政ローマ期の軍人(* [[紀元前100年]]) * 3月17日 - [[プブリウス・アッティウス・ウァルス]] * [[4月12日]] - [[グナエウス・ポンペイウス・ミノル]]、[[グナエウス・ポンペイウス]]の息子(* [[紀元前75年]]) * [[12月31日]] - [[クィントゥス・ファビウス・マクシムス (紀元前45年の補充執政官)|クィントゥス・ファビウス・マクシムス]] == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|45 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=1|年代=0|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん45ねん}} [[Category:紀元前45年|*]]
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1190年
1190年(1190 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1190年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1190}} {{year-definition|1190}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[庚戌]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[文治]]6年、[[建久]]元年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1850年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[紹熙]]元年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[明昌 (金)|明昌]]元年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]13年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[乾祐 (西夏)|乾祐]]21年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[明宗 (高麗王)|明宗]]20年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3523年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天資嘉瑞]]5年 * [[仏滅紀元]] : 1732年 - 1733年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 585年 - 586年 * [[ユダヤ暦]] : 4950年 - 4951年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1190|Type=J|表題=可視}} == できごと == * 11月 - [[源頼朝]]が鎌倉を立ち、京都へ行く。 * 12月 - 頼朝、権大納言・右近衛大将の位を与えられたが、これを辞任して鎌倉へ帰る。 * 僧[[重源]]、[[東大寺]]を再建。 * [[高田四郎重家]]、[[土佐国]]に流される。 * [[北条時政]]、[[伊豆国]][[願成院]]を修理。 * [[鎌倉幕府]]が成立する<ref>鎌倉幕府の成立年は[[1180年]]、[[1183年]]、[[1185年]]、1190年、[[1192年]]と諸説あり。詳細は[[鎌倉幕府]]を参照</ref>。 == 誕生 == {{see also|Category:1190年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[一条信能]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](+ [[1221年]]) * [[二条定高]]、鎌倉時代の公卿(+ [[1238年]]) * [[元好問]]、[[金 (王朝)|金]]の[[詩人]](+ [[1257年]]) * [[耶律楚材]]、[[モンゴル帝国]]の[[官僚]](+ [[1244年]]<ref>宋子貞:《中書令耶律公神道碑》,節選自蘇天爵編集的《元文類》卷五七</ref>) * [[結城朝広]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[結城氏]]の第2代当主(+ [[1274年]]?) == 死去 == {{see also|Category:1190年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月18日]] - [[オットー (マイセン辺境伯)|オットー]]、[[マイセン辺境伯]](* [[1125年]]) * [[3月15日]] - [[イザベル・ド・エノー]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]の最初の王妃(* [[1170年]]) * [[3月23日]](文治6年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]) - [[西行]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[武士]]、[[僧]]、[[歌人]](* [[1118年]]) * [[4月23日]](文治6年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]) - [[大河兼任]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]](* 生年未詳) * [[5月25日]](建久元年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - [[坊門姫 (一条能保室)|坊門姫]]、[[一条能保]]の妻(* 1145年/1154年) * [[6月10日]] - [[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[神聖ローマ皇帝]](* [[1123年]]) * [[長田景致]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[長田忠致]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[シビーユ (エルサレム女王)|シビーユ]]、[[エルサレム王国]]の女王(* [[1160年]]?) * [[由利維平]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) == フィクションのできごと == * [[12代目ドクター]]が[[ロビン・フッド]]と出会う。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1190}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=12|年代=1100}} {{デフォルトソート:1190ねん}} [[Category:1190年|*]]
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1597年
1597年(1597 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
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1597年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1597}} {{year-definition|1597}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[慶長]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2257年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[明]] : [[万暦]]25年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[宣祖]]30年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3930年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[光興 (黎朝)|光興]]20年 *** [[阮明智]] : [[大徳 (阮明智)|大徳]]3年 *** [[阮当明]] : [[福徳 (阮当明)|福徳]]2年 *** [[莫朝|高平莫氏]] : [[乾統 (莫朝)|乾統]]5年 * [[仏滅紀元]] : 2139年 - 2140年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1005年 - 1006年 * [[ユダヤ暦]] : 5357年 - 5358年 * [[ユリウス暦]] : 1596年12月22日 - 1597年12月21日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1597}} == できごと == * [[2月5日]](慶長元年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[日本二十六聖人]][[殉教]]([[長崎市|長崎]])。 * [[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]] * イギリスの[[ジョン・ジェラード]]が、『本草あるいは一般の植物誌』(the Herbal or General Historie of Plants)を出版する。 * ドイツの[[アンドレアス・リバヴィウス]]が化学(錬金術)の体系的な教科書、『錬金術論』(''Alchemia'')を出版する。 == 誕生 == {{see also|Category:1597年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[岡部宣勝]]、[[美濃国|美濃]][[大垣藩]]の第2代藩主、[[播磨国|播磨]][[龍野藩]]藩主、[[摂津国|摂津]][[高槻藩]]藩主。[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の初代藩主(+ [[1668年]]) == 死去 == {{see also|Category:1597年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月26日]](慶長2年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]) - [[小早川隆景]]、[[大名]]、[[五大老]]の一人(*[[1533年]]) * [[8月21日]](慶長2年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[穂井田元清]]、武将、[[毛利元就]]の四男(*[[1551年]]) * [[10月9日]](慶長2年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]) - [[足利義昭]]、[[室町幕府]]15代[[征夷大将軍|将軍]](*[[1537年]]) == フィクションのできごと == * 初代ドクターらが[[ダーレク]]から逃走する最中、[[エリザベス1世]]と[[シェイクスピア]]が出会う様子を目撃する。(ドラマ『[[ドクター・フー]]』) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1597}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=16|年代=1500}} {{デフォルトソート:1597ねん}} [[Category:1597年|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/1597%E5%B9%B4
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1868年
1868年(1868 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。 ※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。 ※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
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1868年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1868}} {{year-definition|1868}} == 他の紀年法 == {{Year in other calendars|year=1868}} * [[干支]]:[[戊辰]] * [[日本]]([[天保暦]]) ** [[慶応]]3年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]] - 慶応4年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]/[[明治]]元年1月1日(新暦[[1月25日]]) - [[11月18日 (旧暦)|11月18日]] *:<small>([[一世一元の詔]](明治元年9月8日(1868年10月23日)行政官布告)で慶応4年1月1日/明治元年1月1日(新暦[[1月25日]])に遡って[[改元]]する前は慶応3年12月7日 - 慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]](新暦[[10月23日]]))</small> * [[清]]:[[同治]]6年12月7日 - 同治7年11月18日 * [[朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]]・[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]5年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4201年 * [[阮朝]]([[ベトナム]]):[[嗣徳]]20年12月7日 - 嗣徳21年11月18日 * [[仏滅紀元]]:2410年 - 2411年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1284年9月6日 - 1285年9月16日 * [[ユダヤ暦]]:5628年4月6日 - 5629年4月17日 * [[修正ユリウス日]](MJD):3332 - 3697 * [[リリウス日]](LD):104173 - 104538 <div style="font-size:smaller"> ※皇紀は、[[太陽暦]]採用と共に[[1873年]]に施行された。<br /> ※檀紀は、[[大韓民国]]で[[1948年]]9月25日に法的根拠を与えられたが、[[1961年]]年号廃止の法令を制定に伴い、[[1962年]]1月1日からは公式な場での使用禁止。 </div> {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1868}} == できごと == === 1月 === * [[1月3日]]([[慶応]]3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]) - [[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]、[[小御所会議]]{{要出典|date=2021-03}} * [[1月16日]] - ウィリアム・デーヴィス([[:en:William Davis<!-- [[:ja:ウィリー・デービス]] とリンク -->|William Davis]])が[[冷蔵車]]の米国特許を取得{{要出典|date=2021-03}} *1月17日(慶応3年12月23日)江戸城二の丸が焼失 * [[1月21日]] - [[ヨーゼフ・シュトラウス]]のワルツ『[[天体の音楽]]』初演 * [[1月27日]](慶応4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[戊辰戦争]]: [[鳥羽・伏見の戦い]] * [[1月28日]](慶応4年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - 戊辰戦争: [[阿波沖海戦]] === 2月 === * [[2月4日]](慶応4年[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]) - [[神戸事件]] * [[2月24日]] - [[アンドリュー・ジョンソン]]米大統領に対する[[弾劾]]が[[米国下院]]を通過(126対47) * [[2月21日]]、病の英国首相[[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|ダービー卿]]([[保守党 (イギリス)|保守党]])が[[ベンジャミン・ディズレーリ|ディズレーリ]]に後事を託し辞職。 * [[2月29日]] - 英国で[[第一次ディズレーリ内閣]]成立 * 2月-3月 - {{仮リンク|1868年ドイツ関税同盟選挙|label=ドイツ関税同盟選挙|de|Zollparlamentswahl 1868}} === 3月 === * [[3月8日]](慶応4年[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]) - [[堺事件]] * [[3月9日]] - [[アンブロワーズ・トマ]]歌劇『[[ハムレット (オペラ)|ハムレット]]』初演([[パリ国立オペラ|オペラ座]]) * [[3月12日]] - [[エディンバラ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]暗殺未遂([[ニューサウスウェールズ]]) * [[3月13日]] - [[アンドリュー・ジョンソン|ジョンソン]]米大統領に対する[[弾劾裁判]]が[[米国上院]]で開始 * [[3月16日]](慶応4年[[2月23日 (旧暦)|2月23日]]) ** 戊辰戦争: [[寛永寺]]で[[彰義隊]]結成 ** [[太政官日誌]]創刊 * [[3月17日]](慶応4年[[2月24日 (旧暦)|2月24日]]) - [[中外新聞]]創刊([[柳河春三]]) * [[3月23日]](慶応4年[[2月30日 (旧暦)|2月30日]]) - [[ハリー・パークス|パークス]]英公使暗殺未遂 * [[3月24日]] - 米国で[[メトロポリタン生命保険会社]]設立 === 4月 === * [[4月6日]](慶応4年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - 明治天皇が[[五箇条の御誓文]]を発する。 * [[4月9日]]-[[4月13日]]、{{仮リンク|アビシニア遠征|label=イギリス・エチオピア戦争|en|British Expedition to Abyssinia}}: {{仮リンク|マグダラの戦い|en|Battle of Magdala}} === 5月 === * [[5月3日]](慶応4年[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[戊辰戦争]]: [[江戸開城]] * [[5月11日]](慶応4年[[4月19日 (旧暦)|4月19日]]) - 戊辰戦争: [[宇都宮城の戦い]] * [[5月16日]] - [[アンドリュー・ジョンソン|ジョンソン]]米大統領に対する[[弾劾]]が不成立(1票差) * [[5月24日]](慶応4年閏[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]) - [[江湖新聞]]創刊([[福地源一郎]]) === 6月 === * [[6月1日]](慶応4年閏[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]) - [[もしほ草]]創刊([[岸田吟香]]ら) * [[6月10日]](慶応4年閏[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]) - 戊辰戦争: [[会津戦争]] * [[6月11日]](慶応4年閏[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]) - [[政体書]]発布 * [[6月19日]] - [[ヨハン・シュトラウス2世]]のワルツ『[[ウィーンの森の物語]]』初演 * [[6月21日]](慶応4年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]) ** 戊辰戦争: [[北越戦争]] ** [[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]歌劇『[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]』初演([[ミュンヘン]]) * [[6月22日]](慶応4年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - 戊辰戦争: [[奥羽列藩同盟]]成立 === 7月 === * [[7月4日]](慶応4年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) ** [[戊辰戦争]]: [[上野戦争]] ** [[太政官札]]発行 * [[7月8日]](慶応4年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - 戊辰戦争: 北越戦争、[[長岡城]]陥落 * [[7月9日]] - [[アメリカ合衆国憲法修正第14条|米国憲法修正第14条]]が批准 === 8月 === * [[8月4日]](慶応4年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - 戊辰戦争: [[磐城の戦い]] * [[8月13日]] - [[ペルー]](当時)[[アリカ (チリ)|アリカ]]で大地震(M9.1、死者25,000名) * [[8月18日]] - [[ピエール・ジャンサン]]が太陽光の中に未知の[[元素]]を示す輝線[[スペクトル]]を発見(後に[[ヘリウム]]と同定) * [[8月23日]] - 清国[[揚州市|揚州]]で反キリスト教暴動([[揚州教案]]) === 9月 === * [[9月3日]](慶応4年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) - [[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書]] * [[9月15日]](慶応4年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]) - [[戊辰戦争]]: [[二本松の戦い]]、[[二本松城]]が陥落 * [[9月23日]] - [[ラレスの叫び]]([[:en:Grito de Lares|Grito de Lares]]): [[プエルトリコ]]が[[スペイン王国|スペイン]]からの独立を宣言、鎮圧される * [[9月27日]] - [[アルコレアの戦い]]([[:en:Battle of Alcolea (1868)|Battle of Alcolea]]): スペインでクーデター軍が王党派軍を撃破 * [[9月30日]] - スペイン女王[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]がフランスへ亡命 === 10月 === * [[10月1日]] - [[タイ王国]]で[[ラーマ5世]]即位 * [[10月7日]] - [[コーネル大学]]開校 * [[10月10日]] - [[第一次キューバ独立戦争]]勃発 * [[10月12日]](慶応4年[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]) - [[明治天皇]]即位大礼 * [[築地ホテル館]]完成(慶応4年8月) * [[10月23日]](慶応4年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]/[[明治]]元年[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]) - [[元号]]が慶応から明治に[[改元]]([[一世一元の詔]]) === 11月 === * [[11月1日]]([[明治元年]][[9月17日 (旧暦)|9月17日]]) - [[観音埼灯台|観音埼燈台]]着工(1949年に[[灯台記念日]]と制定) * [[11月2日]] - 史上初の[[標準時]]を英国[[ニュージーランド|ニュージーランド植民地]]が導入 * [[11月3日]] - [[1868年アメリカ合衆国大統領選挙|米大統領選挙]]で[[ユリシーズ・グラント]]が勝利 * [[11月26日]](明治元年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]) - 東幸: 明治天皇が東京入りして江戸城を皇居と治定し[[東京城]]と改称 * [[11月27日]] - [[ウォシタ川の戦い]] === 12月 === * [[12月2日]] - 11月末の{{仮リンク|1868年イギリス総選挙|label=解散総選挙|en|United Kingdom general election, 1868}}の結果、第一次ディズレーリ内閣が総辞職 * [[12月4日]](明治元年[[10月21日 (旧暦)|10月21日]]) - 戊辰戦争: [[箱館戦争]] * [[12月9日]] - 英国で[[ウィリアム・グラッドストン|グラッドストン]]を首相とする[[第一次グラッドストン内閣]](自由党)成立 * [[12月19日]](明治元年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - 東幸: 東幸を祝し明治天皇が東京府民に酒約三千樽を下賜([[天盃頂戴]]) === 日付不詳 === * [[イギリス]]において世界初の[[投資信託]]である「海外植民地投信([[:en:Foreign & Colonial Investment Trust|Foreign & Colonial Investment Trust]])」が設立。 *イギリス、西オーストラリアへの流刑を廃止。 == 誕生 == {{see also|Category:1868年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月10日]]([[慶応]]3年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]])- [[尾崎紅葉]]、[[小説家]](+ [[1903年]]) * [[1月11日]] - [[蔡元培]]、[[教育者]](+ [[1940年]]) * 1月11日 - [[シルバー・キング (野球)|シルバー・キング]]、[[メジャーリーガー]](+ [[1938年]]) * [[1月16日]] - [[アーミン・ロイシュナー]]、[[天文学者]](+ [[1953年]]) * [[1月18日]](慶応3年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[鈴木貫太郎]]、海軍軍人・第42代内閣総理大臣(+ [[1948年]]) * [[1月24日]](慶応3年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - [[斎藤緑雨]]、[[小説家]]・[[評論家]](+ [[1904年]]) * [[1月25日]] - [[フベンティーノ・ローサス]]、[[作曲家]](+ [[1894年]]) * [[1月31日]] - [[セオドア・リチャーズ]]、[[物理化学|物理化学者]](+ [[1928年]]) * [[2月8日]] - [[ウォルター・ロスチャイルド (第2代ロスチャイルド男爵)|第2代ロスチャイルド男爵ウォルター・ロスチャイルド]]、[[動物学者]](+ [[1937年]]) * [[2月14日]](慶応4年[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]) - [[岡田啓介]]、海軍軍人・第31代内閣総理大臣(+ [[1952年]]) * [[2月23日]] - [[W・E・B・デュボイス]]、[[公民権運動]]指導者(+ [[1963年]]) * [[3月1日]] - [[ゾフィー・ホテク]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]皇太子[[フランツ・フェルディナント大公]]の妃(+ [[1914年]]) * [[3月3日]](慶応4年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]) - [[新海竹太郎]]、[[彫刻家]](+ [[1927年]]) * [[3月22日]] - [[ロバート・ミリカン]]、物理学者(+ [[1953年]]) * 3月22日 - [[アルフレッド・ファウラー]]、[[天文学者]](+ [[1940年]]) * [[3月28日]] - [[マクシム・ゴーリキー]]、[[作家]](+ [[1936年]]) * [[3月30日]] - [[コロマン・モーザー]]、[[美術家]]・[[デザイナー]](+ [[1918年]]) * [[3月31日]] - [[ジャック・スティベッツ]]、メジャーリーガー(+ [[1930年]]) * [[4月1日]] - [[エドモン・ロスタン]]、[[劇作家]](+ [[1918年]]) * [[4月12日]](慶応4年[[3月30日 (旧暦)|3月30日]]) - [[秋山真之]]、海軍軍人・[[日露戦争]]における[[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]][[参謀]](後に先任参謀)(+ [[1918年]]) * [[4月20日]] - [[シャルル・モーラス]]、[[アクション・フランセーズ]]主催者(+ [[1952年]]) * [[4月22日]] - [[ジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタ]]、[[ピアニスト]]・[[作曲家]](+ [[1948年]]) * [[4月23日]](慶応4年[[4月1日 (旧暦)|4月1日]]) - [[関根金次郎]]、[[将棋棋士]](+ [[1946年]]) * [[4月28日]] - [[ヘルマン・リーツ]]、教育者(+ [[1919年]]) * [[5月6日]] - [[ガストン・ルルー]]、[[小説家]](+ [[1927年]]) *[[5月6日]] - [[陸奥イソ]]、作家、伯爵夫人(+[[1930年]]) * [[5月10日]] - [[エド・バロー]]、[[メジャーリーグ]]監督(+ [[1953年]]) * [[5月14日]] - [[マグヌス・ヒルシュフェルト]]、[[医師]]・[[性科学|性科学者]](+ [[1935年]]) * [[5月18日]] - [[ニコライ2世 (ロシア皇帝)|ニコライ2世]]、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[ツァーリ]](+ [[1918年]]) * [[5月19日]] - [[ジョン・フィルモア・ヘイフォード]]、アメリカ合衆国の[[測地学者]](+[[1925年]]) * [[5月26日]](慶応4年閏[[4月5日 (旧暦)|4月5日]])- [[内田魯庵]]、小説家(+ [[1929年]]) * [[5月29日]] - [[アブデュルメジト2世]]、[[オスマン帝国]]の[[カリフ]](+ [[1944年]]) * [[6月4日]] - [[ヘンリエッタ・スワン・リービット]]、天文学者(+ [[1921年]]) * [[6月5日]] - [[ジェームズ・コノリー]]、[[アイルランド]]の[[民族主義]]運動家(+ [[1916年]]) * [[6月6日]] - [[ロバート・スコット]]、[[南極]]探険家(+ [[1912年]]) * [[6月7日]] - [[チャールズ・レニー・マッキントッシュ]]、[[建築家]](+ [[1928年]]) * [[6月14日]] - [[カール・ラントシュタイナー]]、[[生物学|生物学者]](+ [[1943年]]) * [[6月18日]] - [[ホルティ・ミクローシュ]]、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[軍人]]・[[ハンガリー]][[摂政]](+ [[1957年]]) * [[6月19日]] - [[ハインリヒ・シェンカー]]、[[音楽学者]](+ [[1935年]]) * [[6月29日]](慶応4年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]])- [[瀬戸口藤吉]]、「[[軍艦マーチ]]」などで知られる作曲家(+ [[1941年]]) * [[7月14日]] - [[ガートルード・ベル]]、[[イラク]]建国の立役者として有名な[[イギリス]]の女性[[スパイ|情報員]](+ [[1926年]]) * [[7月16日]](慶応4年[[5月27日 (旧暦)|5月27日]])- [[広瀬武夫]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[中佐]](+ [[1904年]]) * [[7月30日]] - [[アルフレート・ヴェーバー]]、[[社会学者]]・[[経済学者]](+ [[1958年]]) * [[8月2日]] - [[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ王]](+ [[1923年]]) * [[8月6日]] - [[ポール・クローデル]]、詩人・劇作家・[[外交官]](+ [[1955年]]) * [[8月9日]](慶応4年[[6月21日 (旧暦)|6月21日]]) - [[宇垣一成]]、陸軍軍人・政治家(+ [[1956年]]) * [[8月10日]] - [[フーゴー・エッケナー]]、航空機技術者・[[実業家]](+ [[1954年]]) * [[8月13日]](慶応4年[[6月25日 (旧暦)|6月25日]])- [[福澤桃介]]、[[実業家]]・[[政治家]](+ [[1938年]]) * [[8月25日]](慶応4年[[7月8日 (旧暦)|7月8日]])- [[山田美妙]]、小説家(+ [[1910年]]) * [[9月21日]] - [[オリガ・クニッペル]]、[[俳優|女優]](+ [[1959年]]) * [[10月8日]](慶応4年[[8月23日 (旧暦)|8月23日]])- [[原富太郎]]、[[財界人]]・[[茶人]](+ [[1939年]]) * [[10月28日]] - [[フレデリック・ランチェスター]]、[[自動車工学]]・[[航空工学]][[技術者]](+ [[1946年]]) * [[10月30日]]([[明治]]元年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]) - [[大森房吉]]、[[地震学者]](+ [[1923年]]) * [[11月2日]](明治元年[[9月18日 (旧暦)|9月18日]])- [[横山大観]]、[[日本画家]](+ [[1958年]]) * [[11月11日]] - [[エドゥアール・ヴュイヤール]]、[[画家]](+ [[1940年]]) * [[11月22日]] - [[ジョン・N・ガーナー]]、第32代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[1967年]]) * [[11月28日]] - [[フランティシェク・ドルドラ]]、[[ヴァイオリニスト]](+ [[1944年]]) * [[12月4日]] - [[エドワード・ガントレット]]、[[言語学者]](+ [[1956年]]) * 12月4日 - [[ジェシー・バーケット]]、野球選手 (+ [[1953年]]) * [[12月5日]] - [[アーノルト・ゾンマーフェルト]]、物理学者(+ [[1951年]]) * [[12月8日]](明治元年[[10月25日 (旧暦)|10月25日]]) - [[徳富蘆花]]、小説家(+ [[1927年]]) * [[12月9日]] - [[フリッツ・ハーバー]]、[[化学者]](+ [[1934年]]) * [[12月20日]] - [[ハーベイ・ファイアストーン]]、実業家・[[ファイアストン]]社創業者(+ [[1938年]]) * [[12月24日]] - [[エマーヌエール・ラスカー]]、[[数学者]]・[[チェス]]プレイヤー(+ [[1941年]]) * [[12月29日]](明治元年[[11月16日 (旧暦)|11月16日]])- [[北村透谷]]、[[文芸評論家]]・詩人(+ [[1894年]]) == 死去 == {{see also|Category:1868年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月28日]] - [[アーダルベルト・シュティフター]]、[[画家]]・[[小説家]](* [[1805年]]) * [[1月30日]]([[慶応]]4年[[1月6日 (旧暦)|1月6日]])- [[蜂須賀斉裕]]、第13代[[徳島藩|徳島藩主]](* [[1821年]]) * [[2月5日]](慶応4年[[1月12日 (旧暦)|1月12日]])- [[浅野斉粛]]、第9代[[広島藩|広島藩主]](* [[1817年]]) * 2月5日(慶応4年1月12日)- [[佐々木只三郎]]、[[京都見廻組]]隊士(* [[1833年]]) * [[2月10日]] - [[ディヴィッド・ブリュースター]]、[[物理学者]](* [[1781年]]) * [[2月11日]] - [[レオン・フーコー]]、物理学者(* [[1819年]]) * [[2月15日]] - [[ウィリアム・ドーズ]]、[[天文学者]](* [[1799年]]) * [[2月20日]] - [[ジョセフ・リード・インガーソル]]、[[在イギリスアメリカ合衆国大使|在イギリスアメリカ合衆国公使]](* [[1786年]]) * [[2月29日]] - [[ルートヴィヒ1世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ1世]]、[[バイエルン王国|バイエルン王]](* [[1786年]]) * [[3月2日]](慶応4年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]])-[[滝善三郎]]、[[備前藩]]第三砲兵隊長(*[[1837年]]) * [[3月15日]](慶応4年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]])- [[神保修理]]、[[会津藩|会津藩士]](* [[1834年]]) * [[3月26日]](慶応4年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]) - [[相楽総三]]、[[赤報隊]]隊長(* [[1839年]]) * [[3月28日]] [[ジェイムズ・ブルーデネル (第7代カーディガン伯爵)]] - イギリスの陸軍軍人、政治家(* [[1797年]]) * [[4月3日]] - [[フランツ・アドルフ・ベルワルド]]、[[作曲家]](* [[1796年]]) * [[4月7日]](慶応4年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]])- [[川路聖謨]]、[[江戸幕府]][[勘定奉行]]・[[外国奉行]](* [[1801年]]) * [[4月13日]] [[テオドロス2世 (エチオピア皇帝)|テオドロス2世]]、[[エチオピア帝国|エチオピア]]皇帝(* [[1818年]]) * [[4月16日]](慶応4年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]])- [[寺門静軒]]、[[儒学者]](* [[1796年]]) * [[4月27日]](慶応4年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]])- [[徳川慶篤]]、第10代[[水戸藩|水戸藩主]](* [[1832年]]) * [[5月7日]] [[ヘンリー・ブルーム (初代ブルーム=ヴォークス男爵)]] - イギリスの政治家(* [[1778年]]) * [[5月17日]](慶応4年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]) - [[近藤勇]]、新選組局長(* [[1834年]]) * [[5月27日]](慶応4年閏[[4月6日 (旧暦)|4月6日]])- [[小栗忠順]]、江戸幕府勘定奉行・[[軍艦奉行]](* [[1827年]]) * [[5月29日]] - [[レヴィ・リンカーン (2世)|レヴィ・リンカーン]]、[[マサチューセッツ州]]知事・[[アメリカ合衆国下院]]議員(* [[1782年]]) * [[6月1日]] - [[ジェームズ・ブキャナン]]、第15代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1791年]]) * [[6月11日]] - [[ジェームズ・ブルック]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Brooke-Raj Brooke Raj British dynasty of Sarawak] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[探検家]](* [[1803年]]) * [[6月14日]] - [[クロード・プイエ]]、物理学者(* 1791年) * [[6月20日]](慶応4年[[5月1日 (旧暦)|5月1日]])- [[溶姫]]、[[加賀藩|加賀藩主]][[前田斉泰]][[正室]](* [[1813年]]) * [[6月25日]] - [[カルロ・マテウッチ]]、[[物理学者]](* [[1811年]]) * [[7月19日]](慶応4年[[5月30日 (旧暦)|5月30日]])-[[沖田総司]]、新選組一番隊組長(*[[1842年]]?) * [[8月29日]] - [[クリスチアン・シェーンバイン]]、[[化学者]](* [[1799年]]) * [[9月26日]] - [[アウグスト・フェルディナント・メビウス]]、[[数学者]]・[[天文学者]](* [[1790年]]) * [[10月1日]](慶応4年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]])- [[河井継之助]]、[[越後長岡藩|長岡藩]]家老(* 1827年) * 10月1日 - [[ラーマ4世]]、[[タイ王国|シャム王]](* [[1804年]]) * [[10月9日]] - [[ハウエル・コブ]]、第22代[[アメリカ合衆国財務長官]]・[[アメリカ連合国臨時議会]]議長(* [[1815年]]) * [[10月13日]](慶応4年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]])- [[橘曙覧]]、歌人(* [[1812年]]) * [[10月17日]] - [[ローラ・セコール]]、[[カナダ]]の[[王党派]]活動家(* [[1775年]]) * [[10月27日]] - [[アレクサンドル・ヴァレフスキ]]、[[フランス第二帝政]]期の政治家(* [[1810年]]) * [[11月7日]]([[明治]]元年[[9月23日 (旧暦)|9月23日]])- [[神保内蔵助]]、会津藩[[家老]](* [[1816年]]) * [[11月13日]](明治元年[[9月29日 (旧暦)|9月29日]]) ** [[ジョアキーノ・ロッシーニ]]、[[作曲家]](* [[1792年]]) ** [[デイヴィッド・トッド (政治家)|デイヴィッド・トッド]]、第25代[[オハイオ州知事]](* [[1805年]]) *[[11月15日]] - [[ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド]]、銀行家 • 貴族(* [[1792年]]) * [[12月6日]] - [[アウグスト・シュライヒャー]]、[[言語学|言語学者]](* [[1821年]]) * 11月1日 -久保豊三郎、二本松少年隊士。 == フィクションのできごと == * [[4月4日]]:[[ジョナサン・ジョースター]]誕生([[荒木飛呂彦]]『[[ジョジョの奇妙な冒険]] [[ファントムブラッド|Part1 ファントムブラッド]]』) * メアリー・ジョースター、ロンドンで石仮面を購入、購入後、馬車が事故に遭い死亡。その後、ダリオ・ブランドー、ジョースター卿と出会う。(荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 Part1 ファントムブラッド』) * イーサン・エドワードが[[テキサス州]]の故郷に帰り、弟一家を訪れる。その後、弟一家は[[コマンチェ|コマンチ族]]の襲撃にあい、イーサンの姪たちも連れ去られる。彼女たちを救出するため、イーサン達が捜索の旅にでる。([[ジョン・フォード]]『[[捜索者]]』) * 八月に明神弥彦が誕生(『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』) * 七月にパズーの父親が竜の巣を発見する(『[[天空の城ラピュタ]]』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Reflist|group="注"}} ===出典=== {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1868}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1868ねん}} [[Category:1868年|*]]
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紀元前25世紀
紀元前25世紀(きげんぜんにじゅうごせいき)は、西暦による紀元前2500年から紀元前2401年までの100年間を指す世紀。
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紀元前25世紀(きげんぜんにじゅうごせいき)は、西暦による紀元前2500年から紀元前2401年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2011年10月}} {{Centurybox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 25 | BC = 1 }} [[File:Terracotta buffalos - Pre-Harappan BM.jpg|thumb|right|250px|[[クリ文化]]。インダス文明の統合前にあった文化で、画像は大英博物館所蔵の[[テラコッタ]]製の牛の小像。]] [[ファイル:Mohenjodaro Sindh.jpeg|250px|right|thumb|[[インダス文明]]の統合。画像はこの文明を代表する計画都市[[モヘンジョダロ]]の遺跡。]] [[ファイル:Ebih-Il Louvre AO17551 n01.jpg|150px|right|thumb|[[エビフ・イルの像]]。エビフ・イルは東部シリアの都市国家マリの代官。この像は彼が祈りを捧げる姿を模ったもので紀元前25世紀に作られた。またこの像はフランスの考古学者アンドレ・パロットによるマリのイシュタル神殿の発掘中に発見され、現在は[[ルーヴル美術館]]が所蔵している。]] '''紀元前25世紀'''(きげんぜんにじゅうごせいき)は、[[西暦]]による[[紀元前2500年]]から紀元前2401年までの100年間を指す[[世紀]]。 == 出来事 == === 紀元前2500年代 === * 紀元前2500年前 - [[ノルウェー]]北部ラダイ島で[[スキー]]の壁画が描かれる。 * 紀元前2500年頃 ** [[グリーンランド]]に最初の[[イヌイット]]の移住者。 ** [[アンデス]]高地では[[カラル遺跡]]を代表とするカラル文化(ノルテ・チコ文化)が発展する。 ** [[台湾]]近辺にいた[[オーストロネシア語族]]の[[モンゴロイド]]([[ラピタ人]]の祖先)が南方へと移動し始める。 ** 日本では[[縄文時代]]後期が始まる。 *** 寒冷化により関東地方では人口減少が続く。この時代の遺跡として[[大森貝塚]]や[[大湯環状列石]]がある。 ** 中国四川省では[[宝墩文化]]が発展する。 ** 中国湖北省では[[石家河文化]]が成立する。 ** 中国陝西省から河南省では[[龍山文化]]が展開。 *** 陝西省を代表するこの時代最大級の都市遺跡である[[陶寺遺跡]]が形成される。 *** 河南省蘇羊遺跡では約300基の埋葬墓の遺跡が発見されている。 ** 中央アジア東北部からシベリア南部で[[アファナシェヴォ文化]]が衰退。 *** シベリア南部ではモンゴロイド系による[[オクネフ文化]]が発生する。 ** [[バルーチスターン]]では[[クリ文化]]が成立( - [[紀元前2000年]])。 *** 中心地はポラリ川支流のクド川右岸の{{仮リンク|ニンドワリ遺跡|en|Nindowari}}。 ** アナトリアの{{仮リンク|アラジャ・ホユック|en|Alaca Höyük}}の王墓が築かれる( - 紀元前2300年頃)。 *** [[ハッティ|ハッティ人]]の都市アリンナに推定され、数多くの青銅製スタンダードの出土でも知られる。 ** [[ラガシュ]]第1王朝の[[ウル・ナンシェ]]の治世。 *** ラガシュに最初の世襲王朝を確立。治世を復元できるだけの50あまりの碑文記録を残している。 ** [[キクラデス文明]]中期(MC I期)。 ** [[小アジア]]の[[イリオス|トロイ]](ヒッサリク)遺跡第II層Gの時代( - [[紀元前2200年]]頃)。 *** [[シュリーマン]]が叙事詩『[[イリアス]]』当時のトロイの地層だと推定したが今日では否定されている。 *** この地層から黄金製品を含む「[[プリアモスの財宝]]([[プーシキン美術館]]蔵)」が出土している。 ** アフリカの[[ヌビア]]([[スーダン]])では{{仮リンク|ケルマ文化|en|Kerma culture}}が始まる( - [[紀元前1500年]]頃)。 === 紀元前2490年代 === * [[紀元前2494年]]頃 - エジプト第4王朝が終焉し、[[ウセルカフ]]王により[[エジプト第5王朝|第5王朝]]が開かれる。 ** ウセルカフは第4王朝のメンカウラー王の王女ケンタカウエス1世を妃として王位を継承。 ** この王のもとで[[サッカラ]]の「[[ジェセル王のピラミッド]]」のすぐ北側に「[[ウセルカフのピラミッド]]」が建てられる。 ** この王の時代に、太陽神[[ラー]]がエジプトの最高神となり、王の称号に太陽神の息子名が加わる。 === 紀元前2480年代 === * 紀元前2487年頃 - エジプトで[[サフラー]]王が即位。 ** サフラー王の河岸神殿壁画には地中海東岸交易が描かれており[[レバノンスギ|レバノン杉]]の輸入も確認されている。 === 紀元前2470年代 === * 紀元前2475年頃 - エジプトでネフェルイルカラー・カカイ王が即位。 ** エジプト第1王朝から第5王朝までの最古の記録である「[[パレルモ石]]」はこの王の記録で途切れている。 === 紀元前2450年代 === * 紀元前2450年頃 ** [[インダス文明]]統合期(ハラッパーIIIB期)。 *** インダス文明での各都市の繁栄。[[ハラッパー]]や[[モヘンジョダロ]]や[[カーリバンガン]]が代表例。 *** [[インダス文明]]が初めて、家庭の[[トイレ]]と道路沿いの排水溝を直接つなぎ、汚物の処理を行った。{{Sfn|チャロナー|2011|p=74|ps=「インダス川流域に住む人々が、トイレを下水道につなぐ。」}} * 紀元前2450年頃 ** ラガシュ第1王朝の[[エアンナトゥム]]の治世。 *** ラガシュの最盛期の王で、その事績は「{{仮リンク|禿鷹の碑|en|Stele of the Vultures}}(ルーヴル美術館所蔵)」の碑文に刻まれている。 *** [[ウンマ (シュメールの都市国家)|ウンマ]]王ウシュとの間でラガシュ・ウンマ戦争が継続するがエアンナトゥム王はこれを撃退。 <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|25th century BC}} * [[年表]] {{世紀}} {{history-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:-75}} [[Category:紀元前25世紀|*]]
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紀元前469年
紀元前469年(きげんぜん469ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ティトゥス・ヌミキウス・プリスクスとアウルス・ウェルギニウス ・カエリオモンタヌスが執政官の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元285年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前469年と表記されるのが一般的となった。
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紀元前469年(きげんぜん469ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ティトゥス・ヌミキウス・プリスクスとアウルス・ウェルギニウス ・カエリオモンタヌスが執政官の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元285年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前469年と表記されるのが一般的となった。
{{Yearbox| 前世紀= {{紀元前/世紀|6}} | 世紀= {{紀元前/世紀|5}} | 次世紀= {{紀元前/世紀|4}} | 前10年紀2= {{紀元前/年代|480}} | 前10年紀1= {{紀元前/年代|470}} | 10年紀= {{紀元前/年代|460}} | 次10年紀1= {{紀元前/年代|450}} | 次10年紀2= {{紀元前/年代|440}} | 3年前= {{紀元前/年|472}} | 2年前= {{紀元前/年|471}} | 1年前= {{紀元前/年|470}} | 1年後= {{紀元前/年|468}} | 2年後= {{紀元前/年|467}} | 3年後= {{紀元前/年|466}} |}} '''紀元前469年'''(きげんぜん469ねん)は、[[ローマ暦]]の年である。 当時は、「[[ティトゥス・ヌミキウス・プリスクス]]と[[アウルス・ウェルギニウス ・カエリオモンタヌス]]が[[執政官]]の年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、[[ローマ建国紀元]]285年)。[[紀年法]]として[[西暦]](キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前469年と表記されるのが一般的となった。 == 他の紀年法 == * [[干支]] : [[壬申]] * [[日本]] ** [[皇紀]]192年 ** [[孝昭天皇]]7年 * [[中国]] ** [[周]] - [[元王]]8年 ** [[秦]] - [[厲共公]]8年 ** [[晋 (春秋)|晋]] - [[出公 (晋)|出公]]6年 ** [[楚 (春秋)|楚]] - [[恵王 (楚)|恵王]]20年 ** [[斉 (春秋)|斉]] - [[平公 (斉)|平公]]12年 ** [[燕 (春秋)|燕]] - [[孝公 (燕)|孝公]]29年 ** [[趙 (戦国)|趙]] - [[趙無恤|襄子]]7年 * [[朝鮮]] ** [[檀君紀元|檀紀]]1865年 * [[ベトナム]] : * [[仏滅紀元]] : 76年 * [[ユダヤ暦]] : 3292年 - 3293年 {{Clear}} == できごと == === ギリシア === * [[ナクソス島]]は[[デロス同盟]]からの脱退を望んだが、[[アテナイ]]に拒否され、ナクソス島は[[朝貢]]を納める義務のある加盟都市となった。この仕打ちは、他のギリシアの街も高圧的に感じ、不信感を募ることとなった。 * [[テミストクレス]]はアテナイを追放された後、[[ペルシア]]の支配下にある内陸の[[イオニア人]]の街であるエーゲから[[マグネシア]]を巡った。 === 中国 === * [[越]]・[[魯]]・[[宋 (春秋)|宋]]らが[[衛]]に遠征して、[[出公 (衛)|出公]]を復位させようとしたが、果たせずに撤退した。 == 誕生 == {{see also|Category:紀元前469年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[ソクラテス]] - アテナイの哲学者([[紀元前399年]]没) == 死去 == {{see also|Category:紀元前469年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[元王]] - 周の王 * [[景公 (宋)|景公]] - 宋の君主 * [[レオテュキデス (スパルタ王)|レオテュキデス]] - [[スパルタ王]] == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|469 BC}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=5|年代=400|BC=1}} {{デフォルトソート:きけんせん469ねん}} [[Category:紀元前469年|*]]
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紀元前5世紀
紀元前5世紀(きげんぜんごせいき)は、西暦による紀元前500年から紀元前401年までの100年間を指す世紀。
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紀元前5世紀(きげんぜんごせいき)は、西暦による紀元前500年から紀元前401年までの100年間を指す世紀。
{{出典の明記|date=2013年5月}} {{Centurybox| 千年紀 = 1 | 世紀 = 5 | BC = 1 }} [[ファイル:GR-acropolis-parthenon.jpg|thumb|right|250px|[[パルテノン神殿]]。[[アテナイ]]の[[アクロポリス]]に建つ[[アテナ]]女神に捧げられた神殿で、ペルシア戦争に勝利した後に、将軍[[ペリクレス]]によって再建がなされ、今あるような姿となった。]] [[ファイル:20100706 Terrace of the Lions Delos Cyclades Greece.jpg|thumb|right|250px|[[デロス島]]。全盛期のアテナイはこのデロス島に金庫を置いて[[デロス同盟]]を支配した。画像は紀元前7世紀にナクソス人が奉納したと伝わるデロス島のライオンの回廊(レプリカ)。]] [[File:Oedipus and the Sphinx of Thebes, Red Figure Kylix, c. 470 BC, from Vulci, attributed to the Oedipus Painter, Vatican Museums (9665213064).jpg|thumb|right|250px|[[ギリシア悲劇]]の黄金時代。繁栄するアテナイでは[[アイスキュロス]]・[[ソフォクレス]]・[[エウリピデス]]ら悲劇詩人が活躍し、彼らの作品は多くの観衆の涙を誘った。画像はソフォクレスの悲劇でも有名な[[オイディプス]]と怪物[[スフィンクス]]を描いた赤絵式陶器。]] [[ファイル:Diver Paestum 09.JPG|thumb|right|250px|「[[ダイバーの墓]]」。[[マグナ・グラエキア]](イタリア南部)の都市[[パエストゥム]]の近郊で発見された墓で、この時代の風俗を描いた貴重な[[フレスコ画]]が残っている。]] [[ファイル:National Archaeological Museum Sofia - Golden Funeral Mask from the Svetitsata Tumulus (King Teres?).jpg|thumb|right|250px|[[オドリュサイ王国]]の勃興。現在の[[ブルガリア]]を拠点とする[[トラキア人]]の最初の統一国家が生まれたのは紀元前480年頃のことである。黄金による工芸に優れ多くの遺宝が残されている。画像は初代王テレス1世のものとされる黄金のマスク。]] [[ファイル:Helmed Hoplite Sparta.JPG|thumb|right|190px|[[テルモピュライ]]の悲劇。ペルシア戦争でスパルタ王[[レオニダス1世]]とその配下の兵士がペルシア軍100万人に対し300人で奮戦したが、刀折れ矢尽きて敢え無く玉砕した。画像はレオニダスの肖像彫刻として伝わる重装歩兵の大理石像 (スパルタ考古学博物館蔵)。]] [[File:Persepolis 24.11.2009 11-12-14.jpg|thumb|right|250px|「万国の門」。ペルセポリスはダレイオス1世以後も拡張が続けられているが、その北西に設置されたのがこの門で、ペルシア語・エラム語・バビロニア語の三言語で君主[[クセルクセス1世]]と神[[アフラ・マズダー|アフラ・マズダ]]への礼讃が記され「クセルクセス門」とも呼ばれている。]] [[ファイル:Bodh Gaya 03.JPG|thumb|right|190px|釈迦成道の聖地[[ブッダガヤ]]。[[八大聖地]]の一つとされ、[[ブッダガヤの大菩提寺|大菩提寺]](マハーボーディー寺)には多くの信者が集まる。]] [[ファイル:Confucius Tang Dynasty.jpg|thumb|right|180px|[[儒家]]の[[孔子]]。政治的には不遇だったが『[[論語]]』にまとめられたその教えは後世に大きな影響を与えた。画像は唐の[[呉道玄]]によるもの。]] [[ファイル:Wuhanbells.jpg|thumb|right|250px|[[曾侯乙墓]]。中国の[[湖北省]]随県で発見された戦国時代初期の墓で、青銅製の礼器の他に多くの副葬品が発掘された。画像は総重量2567kgで65個の鐘からなる[[編鐘]]で完全な形で残っており、現在は中国の一級文物となっている。]] [[File:Monte Alban - The Dancers.jpg|thumb|right|250px|[[モンテ・アルバン]]。[[メキシコ]]南部[[オアハカ]]にある[[サポテカ文化]]を代表する遺跡。紀元前5世紀までにはオアハカ盆地は政治的に統一され、「踊る人々の神殿」が着工された。画像は神殿前に置かれた「踊る人々」の石彫。]] {{読み仮名_ruby不使用|'''紀元前5世紀'''|きげんぜんごせいき}}は、[[西暦]]による[[紀元前500年]]から[[紀元前401年]]までの100年間を指す[[世紀]]。 == できごと == === 紀元前500年代 === * 紀元前5世紀頃が[[弥生時代]]の始まりと考えられていたが、[[紀元前10世紀]]まで遡る可能性が高まってきた。それにつれて、[[縄文土器]]時代の終わりも遡ることになる。 * 紀元前5世紀 - [[スイス]]の[[ヌーシャテル湖]]北岸にある[[ラ・テーヌ文化|ラ・テーヌ遺跡]]が形成される。 * 紀元前5世紀 - ローマ市の[[ラピス・ニゲル]]遺跡から出土した石碑文に最古級の[[ラテン語]]が書かれる。 * 紀元前5世紀 - ケルト系民族の[[イベリア半島]]進出により、先住民と混交し[[ケルティベリア人]]が形成される。 ** イベリア半島各地に残る「{{仮リンク|ベラッコ|en|Verraco}}(家畜の石像)」はこの時代のもの。 * 紀元前5世紀 - [[ナイジェリア]]中央ジョス高原で初期鉄器文化の[[ノク文化]]が発展( - [[2世紀]])。 * 紀元前5世紀 - [[タジキスタン]]の[[オクサス川]]中流域{{仮リンク|タフティ・サンギーン|en|Takht-i Sangin}}の神殿に「{{仮リンク|オクサスの遺宝|en|Oxus Treasure}}([[大英博物館]]蔵)」が奉納される。 * 紀元前5世紀 - [[シベリア]]の[[パジリク古墳群]]に「[[ウコクの王女]]」が埋葬される。 * 紀元前5世紀 - 中国[[河南省]][[固始県]]城北の[[侯古堆1号墓]]の被葬者が埋葬される。 * 紀元前500年頃 - メキシコの[[オアハカ州|オアハカ盆地]]の[[サン=ホセ=モゴテ]]遺跡が放棄され、[[モンテ・アルバン]]が建設される。 ** モンテ・アルバンⅠ期を代表する「踊る人々の神殿」が建設され、[[サポテカ文字]]が出現。 * 紀元前500年頃 - [[コロンビア]]のシヌー川下流域に[[シヌー文化]]が成立する。 === 紀元前490年代 === * [[紀元前499年]] - [[イオニアの反乱]]より[[ペルシア]]と[[ギリシア]]の間で[[ペルシア戦争]]が始まる( - 紀元前449年)。 * [[紀元前498年]] - 孔子が[[魯]]の[[三桓氏]]排斥に失敗して追放される。 * [[紀元前497年]]頃 - [[紀元前489年]]頃 - [[山西省]]侯馬晋城遺跡から出土した誓約文書「[[侯馬盟書]]」が書かれる。 * [[紀元前496年]] - [[レギッルス湖畔の戦い]](第一次[[ラティウム戦争]])で共和政ローマがラティウム人に勝利。 * [[紀元前494年]] ** ローマで[[モンテ・サクロ|聖山]]事件。この事件後に[[プレブス]]と[[パトリキ]]が和解。[[平民会]]と[[護民官]]が置かれる。 ** [[呉 (春秋)|呉]]王[[夫差]]が会稽で勝利し、[[越]]王[[勾践]]は降伏する(会稽の恥)。 * [[紀元前490年]] ** [[マラトンの戦い]]で、[[ミルティアデス]]率いるギリシア軍がペルシア軍を破る。 ** [[斉 (春秋)|斉]]の[[景公 (斉)|景公]]が死去。[[臨淄]](山東省[[淄博市]])の「殉馬坑」はこの時のものか。 * [[紀元前490年]]頃 ** [[マガダ国]]の[[アジャータシャトル]]王が都[[パータリプトラ]]を建設する。 === 紀元前480年代 === * 紀元前487年 - アテナイの[[アルコン]](最高官職)の選出方法が抽選となる。 * 紀元前486年 - アケメネス朝の[[ダレイオス1世]]が死去し、[[クセルクセス1世]]が即位。 ** [[ペルセポリス]]の拡張工事を行い、{{仮リンク|万国の門|en|Gate of All Nations}}(クセルクセス門)などを併設。 * 紀元前482年 - [[呉 (春秋)|呉]]王[[夫差]]による黄地の会盟。この最中に[[越]]が呉を攻撃する。 * 紀元前483年 - アテナイで[[アッティカ]]地方の[[ラウリオン]]銀山の銀の使用方法が討議される。 ** この銀を用いてアテナイのテミストクレスは[[三段櫂船]](トライリーム)100隻の建造を決議させる。 * 紀元前481年 ** [[シチリア]]島の[[エトナ山]]が噴火( - 紀元前460年)。 ** 斉の田恒(田成子)がその君簡公壬を殺す。斉の実権が事実上田氏に移る。 ** この年で[[魯]]の年代記『[[春秋]]』の筆がおかれる(魯の哀公14年・[[獲麟]])。 * 紀元前480年 ** [[テルモピュライの戦い]]でペルシア軍が[[レオニダス]]王率いる[[スパルタ]]軍を全滅させる。 *** 同じ頃、[[アルテミシオンの海戦]]でもギリシア軍は撤退。ペルシア軍は[[アテナイ]]に侵攻し全土を蹂躙する。 *** [[サラミスの海戦]]で[[テミストクレス]]率いるギリシア軍がペルシア軍に勝利。 ** [[ヒメラの戦い]]で[[シュラクサイ]]僭主[[ゲロン (シュラクサイの僭主)|ゲロン]]が[[カルタゴ]]将軍[[ハミルカル1世]]に勝利。 *** この勝利を記念して[[アクラガス]]の僭主[[テロン]]は[[神殿の谷|ゼウス・オリンピア神殿]]を建立。 === 紀元前470年代 === * 紀元前479年 ** [[プラタイアの戦い]]と[[ミュカレの戦い]]にギリシア軍が勝利し、ペルシアの侵攻が頓挫する。 *** 「{{仮リンク|ペンテコンタエティア|en|Pentecontaetia}}」と呼ばれる「50年間の休戦期間」が始まる。 *** ギリシア側の勝利を記念して[[デルポイ]]に「{{仮リンク|青銅の蛇の柱|en|Serpent Column}}(現在は[[イスタンブル考古学博物館]]蔵)」が設置される。 ** 孔子が死去し、[[曲阜]]の城北の[[泗水]]のほとりに葬られる。 * 紀元前478年 - アテナイを盟主とする[[デロス同盟]]が結成される( - 紀元前404年)。 ** この時期のアテナイを「アテナイ海上帝国」とも呼ぶ。一方でスパルタはギリシアでの指導権を放棄し内向化。 * 紀元前474年 - [[クマイの戦い]]で、[[シュラクサイ]]の[[僭主]][[ヒエロン1世]]が[[エトルリア]]に勝利し、[[ティレニア海]]の制海権を握る。 * 紀元前473年 - 越王勾践が都の[[姑蘇]]を陥落させ、呉王夫差を自殺に追い込み、呉を滅ぼす。 * 紀元前472年 - {{仮リンク|徐州会盟|zh|徐州会盟}}により越王勾践が覇者となる。 * 紀元前471年 - アテナイと[[ピレウス]]を結ぶ「{{仮リンク|テミストクレスの壁|en|Long Walls}}(マクラ・テイケー)」が建設される。 * 紀元前470年頃 ** テミストクレスが[[陶片追放]]によりアテナイから[[アルゴス]]に亡命。 ** 「{{仮リンク|デルポイの御者|en|Charioteer of Delphi}}」が作られる(デルポイ博物館蔵)。 ** イタリア南部[[パエストゥム]]の「[[ダイバーの墓]]」が作られ「饗宴」の壁画が描かれる。 ** イタリア中部[[タルクィニア]]の「{{仮リンク|豹の墓|en|Tomb of the Leopards}}」が作られ「饗宴」の壁画が描かれる。 === 紀元前460年代 === * 紀元前468年 - 越王勾践が都を[[海州区 (連雲港市)|瑯琊]]に遷す。 * 紀元前466年 ** [[鳥海山]]が噴火し、大規模な[[山体崩壊]]を引き起こす。 ** [[エウリュメドン川の戦い (紀元前466年)|エウリュメドン川の戦い]]でギリシア軍がペルシア軍に勝利。 * 紀元前465年 - ペルシア王[[クセルクセス1世]]が側近{{仮リンク|アルタバノス (ペルシア)|en|Artabanus of Persia|label=アルタバノス}}に暗殺される。 * 紀元前464年 - [[スパルタ地震]]によりメッセニア人がスパルタ人に蜂起、[[第三次メッセニア戦争]]が起こる。 * 紀元前462年 - [[ペリクレス]]がエフィアルテスとともに[[アレオパゴス会議]]から実権を奪う。 ** アテナイの政治の中心は[[民会]](エクレシア)と[[評議会]](ブーレ)に移行する。 * 紀元前461年 - [[第一次ペロポネソス戦争]]が起こる( - 紀元前445年)。 * 紀元前460年頃 - {{仮リンク|アルテミシオンの青銅神像|en|Artemision Bronze}}(アテネ国立考古学博物館蔵)が作られる。 === 紀元前450年代 === * 紀元前456年 - {{仮リンク|イキリウス法|it|Lex Icilia de Aventino publicando}}の制定により[[アヴェンティーノ|アウェンティヌス丘]]が平民居住区に開放される。 * 紀元前454年 - デロス同盟の金庫がデロス島からアテナイに移される。 * 紀元前453年 - [[晋陽の戦い]]で[[智瑶]]が敗北、[[晋 (春秋)|晋]]が[[趙 (戦国)|趙]]・[[韓 (戦国)|韓]]・[[魏 (戦国)|魏]]に分裂。 * 紀元前451年 ** 共和政ローマで執政官に代わり[[十人委員会]]が組織される。 *** 十人委員会により共和政ローマの最古の法である[[十二表法]]が制定される。 *** この年に十条が制定され、翌年に二条が追加される。 ** アテナイで両親ともにアテネ出身者にのみ市民を限定する[[市民権法]]を制定。 * 紀元前450年頃 ** アルプス以北の中央ヨーロッパで[[ラ・テーヌ文化]]広がる。 ** [[クレタ島]]で婚姻や財産の規則をまとめた[[ゴルテュス法典]]が成立。 ** カルタゴ人の[[航海者ハンノ]]が西アフリカ湾岸地域を航海し象牙海岸まで達する。 === 紀元前440年代 === * 紀元前449年 - [[カリアスの和約]]。 * 紀元前447年 - アテナイの[[パルテノン神殿]]着工。 * 紀元前445年 ** ペルシアの[[アルタクセルクセス1世]]の許可を得てユダヤ総督ネヘミヤがエルサレムの城壁の再建を行う。 ** 共和政ローマで[[カヌレイウス法]]を制定。 * 紀元前444年 - ペリクレスがアテナイの[[ストラテゴス]](将軍)に選出され、以後これが15年近く続く(ペリクレス時代 - 紀元前430年)。 * 紀元前440年頃 - 「[[エレウシス]]の浮彫」(アテネ国立考古学博物館蔵)が作られる。 === 紀元前430年代 === * 紀元前438年 - [[スパルタコス1世]]が自立し[[ボスポロス王国]]が成立する。 * 紀元前433年 - コリントス系の娘市[[エピダムノス]]と母市[[ケルキュラ]]の紛争。 ** アテナイと組んだケルキュラがコリントスと衝突する[[シュボタの海戦]]が起こる。 * 紀元前433年頃 - [[曾侯乙墓]]の被葬者が埋葬される。 * 紀元前431年 - 第二次[[ペロポネソス戦争]]が起こる( - 紀元前404年)。 ** アテナイのペリクレスによる「{{仮リンク|戦没者追悼演説|en|Pericles's Funeral Oration}}」が行われる。 === 紀元前420年代 === {{main|紀元前420年代}} * 紀元前429年 - {{仮リンク|アテナイで疫病の流行|en|Plague of Athens}}。 ** アテナイで籠城中のペリクレスが死去。[[クレオン (政治家)|クレオン]]がアテナイの指導者となる。 * 紀元前428年 - [[ミュティレネの反乱]]。 * 紀元前422年 - [[アンフィポリス]]の戦いでアテナイが敗北し総司令官クレオンが戦死する。 * 紀元前421年 - [[ニキアスの和約]]。 === 紀元前410年代 === * 紀元前416年 - アテナイ軍による[[メロス島]]攻略([[メロス包囲戦]])。 * 紀元前415年 - アテナイがシチリア遠征軍を派遣する。 ** アテナイで[[ヘルメース]]像破壊事件、遠征途上で総指揮官[[アルキビアデス]]がスパルタに亡命。 * 紀元前414年 - [[白狄]]による[[中山国]]が成立する。 * 紀元前413年 - シチリアのシュラクサイの戦いでアテナイ軍が敗北し、アテナイ軍の[[ニキアス]]や[[デモステネス (将軍)|デモステネス]]が処刑される。 * 紀元前411年 ** [[アンティポン]]らによりアテナイに{{仮リンク|四百人寡頭政権|en|The Four Hundred (oligarchy)}}が建てられるが、民主派に打倒される。 ** [[アリストパネス]]の[[ギリシア喜劇|喜劇]]『[[女の平和]](リューシストラテー)』が上演される。 === 紀元前400年代 === * 紀元前408年 ** アテナイの[[アクロポリス]]の[[エレクテイオン]]が完成する。 ** 魏の[[文侯 (魏)|文侯]]が陽狐の戦い(河西の戦い)で秦から河西(黄河の西)を奪う。 * 紀元前405年 - [[アイゴスポタモイの戦い]]でペロポネソス同盟がアテナイに勝利。 * 紀元前404年 - アテナイがペロポネソス同盟に降伏し、第二次ペロポネソス戦争終結。 ** スパルタの主導でアテナイに[[三十人政権|三十人僭主政権]]が建てられる。 ** [[フリュギア]]に亡命中のアルキビアデスが太守[[ファルナバゾス (ファルナケスの子)|ファルナバゾス]]に暗殺される。 * [[紀元前403年]] - 趙・韓・魏が[[周]]王より諸侯として認定される。 ** これより[[中国]]は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]に入る。また[[司馬光]]の『[[資治通鑑]]』はこの年より記述が始まる。 * 紀元前403年 - [[トラシュブロス (将軍)|トラシュブロス]]率いる民主派がアテナイの三十人僭主政権を打倒する。 * 紀元前401年 - [[クナクサの戦い]]でペルシア王[[アルタクセルクセス1世]]が反乱を起こした弟の[[小キュロス]]を倒す。 ** 小キュロス配下のギリシア人傭兵軍団は[[クセノポン]]らの指揮のもとペルシアからの脱出を敢行。『[[アナバシス]]』に記録が残る。 * 紀元前400年前後 ** 「{{仮リンク|トーディのマルス|en|Mars of Todi}}像(ヴァティカン・グレゴリアーノ・エトルリア美術館蔵)」が作られる。 ** [[中国人]]が[[磁鉄鉱]]に[[指極性]]がある事を発見し、[[磁気コンパス]]を発明した。磁気コンパスは、[[占い]]に使用された{{Sfn|チャロナー|2011|p=110|ps=「磁気コンパス 中国人が、磁気コンパスを発明する。」}}。 == 人物 == === 中国(周・春秋時代) === * [[老子]](生没年不詳) - 春秋時代の周出身の思想家([[道家]])・[[孔子]]とほぼ同時期か先行するか・架空人物説もあり * [[左丘明]](生没年不詳) - 春秋時代の[[魯]]の著述家・孔子に前後して活躍か・『[[春秋左氏伝]](左伝)』『[[国語 (歴史書)|国語]]』の著者か * [[孔子]]([[紀元前551年|前551年]] - [[紀元前479年|前479年]]) - 春秋時代の魯の思想家([[儒家]])・諸国遍歴後に教育に携わる・言行録に『[[論語]]』がある * [[孔門十哲]] ** [[冉伯牛]]([[紀元前544年|前544年]] - ?) - 春秋時代の[[儒者]]・孔門十哲の一人・徳行に優れる ** [[子路]](季路)([[紀元前543年|前543年]] - [[紀元前481年|前481年]]) - 春秋時代の儒者・孔門十哲の一人・衛の高官となるが横死・[[二十四孝]]の一人 ** [[閔子騫]]([[紀元前536年|前536年]] - [[紀元前487年|前487年]]) - 春秋時代の儒者・孔門十哲の一人・[[二十四孝]]の一人 ** [[子貢]](端木賜)([[紀元前520年|前520年]] - [[紀元前446年|前446年]]) - 春秋時代の儒者・孔門十哲の一人・魯の外交担当になる ** [[顔回]]([[紀元前514年|前514年]] - [[紀元前483年|前483年]]) - 春秋時代の儒者・孔門十哲の一人・孔子に将来を期待されるが早世する ** [[子夏]](卜商)([[紀元前504年|前504年]]頃 - [[紀元前420年|前420年]]頃) - 春秋時代の儒者・孔門十哲の一人・魏の文侯に仕え李克や西門豹を育成 * [[霊公 (衛)|霊公]]([[紀元前540年|前540年]] - [[紀元前493年|前493年]]) - 春秋時代の衛の君主(在位[[紀元前534年|前534年]] - [[紀元前493年|前493年]])・[[弥子瑕]]や南子の寵愛で有名・『論語』にその名が残る * [[闔閭]](? - [[紀元前496年|前496年]]) - 春秋時代の呉の王(在位[[紀元前514年|前514年]] - [[紀元前496年|前496年]])・越王勾践に敗れ夫差に復讐を誓わせる * [[夫差]](? - [[紀元前473年|前473年]]) - 春秋時代の呉の王(在位[[紀元前495年|前495年]] - [[紀元前473年|前473年]])・[[春秋五覇]]の一人・父王の仇である越王勾践を捕虜とする * [[勾践]](? - [[紀元前465年|前465年]]) - 春秋時代の越の王(在位[[紀元前496年|前496年]] - [[紀元前465年|前465年]])・春秋五覇の一人・[[范レイ|范蠡]]の補佐を得て呉を滅ぼす * [[伍子胥]](? - [[紀元前485年|前485年]]) - 春秋時代の呉の[[政治家]]・[[軍人]]・[[闔閭]]と夫差に仕え越王[[勾践]]を捕虜とする・後に夫差に自殺を命じられる * [[孫武]]([[紀元前535年|前535年]] - ?) - 春秋時代の呉の思想家([[兵家]])・[[兵法書]]『[[孫子 (書物)|孫子]]』の著者・伍子胥とともに[[楚 (春秋)|楚]]を攻撃 * [[范蠡]](生没年不詳) - 春秋時代の越の政治家・軍人・越王勾践に仕え伍子胥とは知略で争う・呉の滅亡後は越から亡命する * [[西施]](生没年不詳) - 春秋時代の美女・越王勾践により呉王夫差を篭絡するために送り込まれる・[[中国四大美人]]の一人 * [[申包胥]](生没年不詳) - 春秋時代の楚の政治家・伍子胥とは旧友であったが後に離反・柏挙の戦いで呉に敗北した楚を立て直す * [[田恒]](田成子)(生没年不詳) - 春秋時代の斉の政治家・闞止と簡公を殺害し平公を擁立・事実上の斉での田氏支配が始まる * [[公輸盤]]([[紀元前507年|前507年]] - [[紀元前444年|前444年]]) - 春秋時代の魯の工匠・『墨子』『淮南子』では攻城具や兵器を開発し名匠として崇められる * [[曾子]]([[紀元前506年|前506年]] - ?) - 春秋時代の儒者・『[[孝経]]』の著者・弟子に子思や[[呉起]](後に破門)がいる * [[子思]]([[紀元前483年|前483年]]? - [[紀元前402年|前402年]]?) - 春秋時代の儒者・孔子の孫で[[曾子]]の弟子・『[[中庸]]』の著者か * [[趙無恤]](? - [[紀元前425年|前425年]]) - 春秋時代の晋の政治家・[[六卿]]の中で政敵だった[[智瑶]]を倒し魏や韓とともに晋から独立 * [[文侯 (魏)|文侯]](? - [[紀元前396年|前396年]]) - 春秋戦国時代の魏の君主(在位[[紀元前445年|前445年]] - [[紀元前396年|前396年]])・正式に晋から独立し諸侯に封じられる * [[西門豹]](生没年不詳) - 春秋戦国時代の魏の政治家・子夏の弟子・文侯に仕え迷信を排し治水土木を行った故事で有名 * [[李克]](李悝)(? - [[紀元前395年|前395年]]) - 春秋戦国時代の魏の政治家・子夏の弟子・文侯に仕え成文法を定め富国強兵を進める * [[墨子]]([[紀元前450年|前450年]] - [[紀元前390年|前390年]]頃?) - 戦国時代の思想家([[墨家]])・『墨子』の著者・「兼愛」「交利」「尚賢」「非攻」の思想で有名 === 地中海世界 === ==== ギリシア ==== * [[ミレトスのヘカタイオス]]([[紀元前550年|前550年]]頃 - [[紀元前476年|前476年]]頃) - 年代記作者([[ロゴグラポス]])・神話と歴史の分離を主張・[[イオニアの反乱]]で大使を務める * [[アリスタゴラス]](生没年不詳) - [[ミレトス]]の指導者・イオニアの反乱の黒幕となりペルシア帝国に抵抗・ギリシアの諸ポリスを紛争に巻き込む * [[シモーニデース|シモニデス]]([[紀元前556年|前556年]]頃 - [[紀元前468年|前468年]]) - ケオス島出身の[[抒情詩]]人・[[9歌唱詩人|九歌唱詩人]]の一人・ペルシア戦争での勝利を歌う・[[記憶術]]でも有名 * [[ミルティアデス]]([[紀元前550年|前550年]]頃 - [[紀元前489年|前489年]]) - アテナイの軍人・[[ガリポリ半島|ケルソネソス]]の[[僭主]]・マラトンの戦いでペルシア軍を破る * [[パルメニデス]]([[紀元前540年|前540年]]頃 - ?) - [[エレア派]]の哲学者・[[ゼノン (エレア派)|ゼノン]]の師で[[プラトン]]の[[イデア論]]にも影響・教訓詩『自然について』断片が残存 * [[ヘラクレイトス]]([[紀元前540年|前540年]]頃 - [[紀元前540年|前480年頃]]?) - [[エフェソス|エペソス]]出身の哲学者・万物の根源を「火」とし「万物流転」を唱える * [[レオニダス1世]](? - [[紀元前480年|前480年]]) - [[スパルタ]]王(在位[[紀元前489年|前489年]] - [[紀元前480年|前480年]])・テルモピュライの戦いでスパルタ人300人と玉砕を遂げる * [[アリステイデス (将軍)|アリステイデス]]([[紀元前530年|前530年]] - [[紀元前468年|前468年]]) - アテナイの政治家・テミストクレスの政敵・陶片追放にも遭うが「正義の人」と称される * [[アイスキュロス]]([[紀元前525年|前525年]] - [[紀元前456年|前456年]]) - アテナイの[[ギリシア悲劇|悲劇作家]]・三大悲劇詩人の一人・作品に『[[縛られたプロメテウス]]』などがある * [[テミストクレス]]([[紀元前524年|前524年]]/[[紀元前520年|前520年]]頃 - [[紀元前459年|前459年]]/[[紀元前455年|前455年]]頃) - アテナイの政治家・軍人・サラミスの海戦でペルシア軍に勝利する * [[パウサニアス (将軍)|パウサニアス]](? - [[紀元前470年|前470年]]) - スパルタの王族・[[レオニダス1世]]の甥・ギリシア連合軍を率いプラタイアの戦いで勝利する * [[ミレトスのヒッポダモス]](生没年不詳) - ギリシア人の都市計画家・ミレトスやピレウスの都市計画に関与し[[アーバニズム]]の先駆者となる * [[バッキュリデース|バッキュリデス]]([[紀元前520年|前520年]]頃 - [[紀元前450年|前450年]]) - ケオス島出身の詩人・九歌唱詩人の一人・『[[ディテュランボス]]』や多数の[[祝勝歌]]で有名 * [[ピンダロス]]([[紀元前522年|前522年]]/[[紀元前518年|前518年]] - [[紀元前442年|前442年]]/[[紀元前438年|前438年]])・[[テーバイ]]出身の詩人・九歌唱詩人の一人・祝勝歌「ピュティア勝利歌」が有名 * カリアス2世(生没年不詳) - アテナイの政治家・ペルシア王[[アルタクセルクセス1世]]との[[カリアスの和約]]でペルシア戦争を終結 * [[キモン]]([[紀元前510年|前510年]] - [[紀元前450年|前450年]]) - アテナイの政治家・将軍・デロス同盟によるアテナイの海上覇権(アテナイ帝国)を現出させる * [[プロタゴラス]]([[紀元前500年|前500年]]? - [[紀元前430年|前430年]]?) - アテナイの弁論家・[[ソフィスト]]の一人・「万物の尺度は人間」の[[相対主義]]で知られる * [[アナクサゴラース|アナクサゴラス]]([[紀元前500年|前500年]]頃 - [[紀元前428年|前428年]]頃) - [[クラゾメナイ]]出身でアテナイで活躍した哲学者・多元論を唱える・[[ペリクレス]]は弟子 * [[ソポクレス]]([[紀元前496年|前496年]] - [[紀元前406年|前406年]]) - アテナイの悲劇作家・三大悲劇詩人の一人・作品に『[[オイディプス王]]』などがある * {{仮リンク|アテナイのエフィアルテス|en|Ephialtes}}(? - [[紀元前461年|前461年]]) - アテナイの政治家・ペリクレスらとともにキモンを追放し[[アレオパゴス会議]]の実権を奪う * [[ペリクレス]]([[紀元前495年|前495年]]頃 - [[紀元前429年|前429年]]) - アテナイの政治家・キモンを追放し将軍として実権を握り全盛期のアテナイを指導 * [[ゼノン (エレア派)|エレアのゼノン]]([[紀元前490年|前490年]]頃 - [[紀元前430年|前430年]]頃) - エレア派の哲学者・[[パルメニデス]]の弟子・「アキレスと亀」の[[ゼノンのパラドックス]]で有名 * [[エンペドクレス]]([[紀元前490年|前490年]]頃 - [[紀元前430年|前430年]]頃) - アクラガス出身の哲学者・四元素説を唱えた・エトナ山から投身したか * [[ペイディアス]]([[紀元前490年|前490年]]頃 - [[紀元前430年|前430年]]頃) - アテナイの彫刻家・建築家・ペリクレスと知己で[[パルテノン神殿]]造営の総監督を務める * [[ポリュクレイトス]](生没年不詳) - [[アルゴス]]派の彫刻家・ペイディアスと並び古典主義様式を確立・「ドリュポーロス(槍を持つ人)」他がある * [[ゴルギアス]]([[紀元前487年|前487年]] - [[紀元前376年|前376年]]) - [[レオンティノイ]]出身でアテナイで活躍した弁論家・ソフィストの一人・プラトンが『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』を執筆 * [[ヘロドトス]]([[紀元前485年|前485年]]頃 - [[紀元前425年|前425年]]頃) - [[ハリカルナッソス]]出身の[[歴史家]]・ペルシア戦争をもとに『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』を著し「歴史の父」と呼ばれる * [[クレオン (政治家)|クレオン]](? - [[紀元前422年|前422年]]) - アテナイの政治家・もとは靴製造業者・ペリクレス没後の[[衆愚政治]]時代の[[デマゴーグ]]とされる * [[エウリピデス]]([[紀元前480年|前480年]]頃 - [[紀元前406年|前406年]]頃) - アテナイの悲劇作家・三大悲劇詩人の一人・作品に『[[メディア (ギリシア悲劇)|メディア]]』などがある * [[ミュロン]]([[紀元前480年|前480年]]頃 - [[紀元前445年|前445年]]) - [[アッティカ地方]]エレウテライ出身の彫刻家・「円盤を投げる人(ディスコボロス)」が有名 * [[ソクラテス]]([[紀元前469年|前469年]]頃 - [[紀元前399年|前399年]]) - アテナイの哲学者・対話を通じて「[[無知|無知の知]]」を探求・弟子にプラトンや[[クセノポン]]・死刑にされる * [[アスパシア]]([[紀元前470年|前470年]] - [[紀元前400年|前400年]]) - ミレトス出身の女性・将軍ペリクレスの愛人・小ペリクレスの母・ソクラテスとも交渉があった * [[クリティアス (三十人僭主)|クリティアス]]([[紀元前460年|前460年]]頃 - [[紀元前403年|前403年]]) - アテナイの政治家・ソクラテスの弟子・アテナイの三十人政権の指導者となる * [[ヒポクラテス]]([[紀元前460年|前460年]] - [[紀元前370年|前370年]]頃) - [[エーゲ海]]の[[コス島]]出身の医師・迷信を排し[[四体液説]]を唱え「医学の父」と呼ばれる * [[デモクリトス]]([[紀元前460年|前460年]]頃 - [[紀元前370年|前370年]]頃) - [[アブデラ]]出身の哲学者・[[レウキッポス]]の弟子で[[原子論]]を大成する * [[ニキアス]]([[紀元前460年|前460年]]頃 - [[紀元前413年|前413年]]) - アテナイの政治家・ペロポネソス戦争の和平派でニキアスの和約を結ぶがシチリア遠征に失敗 * [[トゥキディデス]]([[紀元前460年|前460年]]頃 - [[紀元前395年|前395年]]) - アテナイの軍人・ペロポネソス戦争を指揮・後に歴史家としてこの戦争の記録『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』を執筆 * [[ヘルモクラテス]]([[紀元前450年|前450年]]頃 - [[紀元前407年|前407年]]) - シチリア島の[[シラクサ|シュラクサイ]]の政治家・ペロポネソス戦争での反アテナイ陣営で活躍 * [[アルキビアデス]]([[紀元前450年|前450年]]頃 - [[紀元前404年|前404年]]頃) - アテナイの政治家・ペロポネソス戦争の主戦派・シチリア遠征を前に逃亡 * [[アギス2世]](? - [[紀元前401年|前401年]]/[[紀元前400年|前400年]]) - スパルタ王(在位[[紀元前427年|前427年]] - [[紀元前401年|前401年]]/[[紀元前400年|前400年]])・ペロポネソス戦争に勝利し覇権を握る * [[アリストパネス]]([[紀元前446年|前446年]] - [[紀元前385年|前385年]]) - アテナイの[[喜劇]]作家・ペロポネソス戦争への批判をこめた『[[女の平和]]』などで知られる ==== 共和政ローマ ==== * アグリッパ・メネニウス・ラナトゥス(? - [[紀元前493年|前493年]]) - ローマの[[執政官]](在任[[紀元前503年|前503年]])・聖山事件でプレブスをパトリキを和解させる * [[グナエウス・マルキウス・コリオラヌス]]([[紀元前519年|前519年]]頃 - ?) - ローマの将軍・ウォルスキ人と戦う・[[シェークスピア]]悲劇『[[コリオレイナス]]』のモデル * [[ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥス]](生没年不詳) - ローマの[[独裁官]](在任[[紀元前458年|前458年]]、[[紀元前439年|前439年]])・[[アエクイ族]]らを斥ける * アッピウス・クラウディウス・クラッスス(生没年不詳) - ローマの執政官(在任[[紀元前451年|前451年]])で[[十人委員会]]の一人・[[十二表法]]を制定 * ガイウス・カヌレイウス(生没年不詳) - ローマの[[護民官]](在任[[紀元前445年|前445年]])・貴族と平民の結婚を認めるカヌレイウス法を制定 * [[マルクス・フリウス・カミルス]]([[紀元前446年|前446年]] - [[紀元前365年|前365年]]) - ローマの軍人・[[ケルト人]]を追い払い「ローマ第二の創建者」と呼ばれる === 西アジア世界 === * [[ダレイオス1世]]([[紀元前558年|前558年]] - [[紀元前486年|前486年]]頃) - [[アケメネス朝]]ペルシア王(在位[[紀元前521年|前521年]] - [[紀元前486年|前486年]])・王国の最盛期で[[ペルセポリス]]を造営 * [[クセルクセス1世]]([[紀元前519年|前519年]] - [[紀元前465年|前465年]]) - アケメネス朝ペルシア王(在位[[紀元前486年|前486年]] - [[紀元前465年|前465年]])・ペルシア戦争に敗北する * [[マルドニオス]](? - [[紀元前479年|前479年]]) - アケメネス朝ペルシアの将軍・クセルクセス1世の従兄弟・アテナイを破壊したがプラタイアイの戦いで敗死 * [[ダレイオス2世]](? - [[紀元前405年|前405年]]) - アケメネス朝ペルシア王(在位[[紀元前424年|前424年]] - [[紀元前405年|前405年]])・ペロポネソス戦争ではスパルタと手を結ぶ * [[アルタクセルクセス2世]]([[紀元前430年|前430年]]頃 - [[紀元前359年|前359年]]頃) - アケメネス朝ペルシア王(在位[[紀元前404年|前404年]] - [[紀元前359年|前359年]]頃)・弟[[小キュロス]]の反乱鎮圧 * [[クテシアス|クニドスのクテシアス]](生没年不詳) - ペルシア王アルタクセルクセス2世の侍医・『ペルシア誌』『インド誌』などの著作で知られる * [[小キュロス]](?- [[紀元前401年]]) - アケメネス朝ペルシアの王子でサルディス総督・兄[[アルタクセルクセス2世]]に反乱を起こすが戦死 * [[エズラ]](生没年不詳) - エルサレムの律法書記官・[[バビロン捕囚]]から解放されたユダヤ人を指導し律法を復興・『[[エズラ記]]』に詳しい * ネヘミヤ(生没年不詳) - ペルシアの総督・バビロン捕囚から帰還したユダヤ人とエルサレム城壁を再建・『[[ネヘミヤ記]]』に詳しい * [[エステル (聖書)|エステル]](生没年不詳) - 旧約聖書の伝承ではペルシア王アハシュエロス(クセルクセス1世)の王妃・ユダヤ人を救い[[プリム祭]]の起源となる === 南アジア === * [[釈迦|ゴータマ・シッダッタ]](シャカ)([[紀元前463年|前463年]] - [[紀元前383年|前383年]]、生没年は諸説あり) - [[仏教]]の開祖・釈迦(釈尊)や[[仏陀]]とも呼ばれる * [[マハーヴィーラ]](シャカと同時代) - [[ジャイナ教]]の開祖・[[マハーヴィーラ|ヴァルダマーナ]]やニガンダとも呼ばれる・仏典では[[六師外道]]の一人 * [[マッカリ・ゴーサーラ]](シャカと同時代) - インドの[[アージーヴィカ教]]の開祖・仏典では六師外道の一人・厳格な決定論と宿命論が特徴 * [[アジタ・ケーサカンバリン]](シャカと同時代) - インドの[[チャールヴァーカ]]派([[順世派]])の思想家・仏典では六師外道の一人・唯物論と快楽主義が特徴 * [[サンジャヤ・ベーラッティプッタ]](シャカと同時代) - インドの[[懐疑論]]者・仏典では六師外道の一人・[[サーリプッタ]]らの師であったと伝わる * [[プーラナ・カッサパ]](シャカと同時代) - インドの道徳否定論者・仏典では六師外道の一人・因縁や業を否定し善悪の区分を否定した * [[パクダ・カッチャーヤナ]](シャカと同時代) - インドの七要素論者・仏典では六師外道の一人・チャールヴァーカ派の四要素論を発展させたものか * [[ビンビサーラ]](シャカと同時代) - インドの[[マガダ国]]の王・[[アジャータシャトル]]は息子・深く仏教に帰依し釈迦に対し[[竹林精舎]]を寄進 * [[アジャータシャトル]](シャカと同時代) - インドのマガダ国の王・仏典では[[提婆達多|デーヴァダッタ]]の教唆で父王[[ビンビサーラ]]を殺害し王となる * [[プラセーナジット]](シャカと同時代) - インドの[[コーサラ国]]の王・第一夫人[[勝鬘夫人|マッリカー]]は『[[勝鬘経]]』でジェータ太子は[[祇園精舎]]寄進で有名 * [[毘瑠璃王|ヴィドゥーダバ]](シャカと同時代) - インドのコーサラ国の王・[[プラセーナジット]]の子でジェータ太子の兄弟・シャカ族を滅ぼす * [[大迦葉|マハーカッサパ]](生没年不詳) - 仏教第2祖・[[釈迦十大弟子]]の一人で頭陀第一と言われる・第1回[[仏典結集]]を指導・漢訳では摩訶迦葉 * [[阿難|アーナンダ]](生没年不詳) - 仏教第3祖・釈迦十大弟子の一人で多聞第一と言われ第1回[[仏典結集]]でも活躍・漢訳では阿難陀 <!-- == 注釈 == {{Reflist|group=†}} --> == 架空のできごと == * 紀元前5世紀 - 2000年10月に[[パキスタン]]の[[バローチスターン州]]カーランで発見された[[アケメネス朝]]時代のミイラは、古代エジプト式のミイラで胸には金のプレートがあり、そこに刻まれた銘文によると、この女性はアケメネス朝の王[[クセルクセス1世]]の娘ロードゥグーネ(Rhodugune)と記されていたため「[[ペルシャ・プリンセス]]」の別名がつけられた。早速2000年11月には[[カラチ]]の{{仮リンク|パキスタン国立博物館|en|National Museum of Pakistan}}でこのミイラの展示が始まった(後の調査によりこのミイラは現代の偽物であるばかりか、1990年代に何らかの殺人事件に巻き込まれた被害者の遺体であることも発覚した)。 * 紀元前5世紀 - [[函谷関]]の関所の役人(関令)[[尹喜]]に『[[道徳経]]』を授けた後、隠棲するため牛に乗って西方へと姿を消した[[老子]]は、実は西方の胡地に赴いて胡人を教化するためにその地で[[仏教]]を興していたのである。従ってインドの[[仏陀]](浮屠)とは老子の変化した姿に他ならない([[西晋]]の[[道士]]王浮の偽経『[[老子化胡経]]』)。 == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 --> == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{十年紀と各年| 世紀 = 5 | 年代 = 400 | BC = 1 }} {{世紀}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きけんせん5せいき}} [[Category:紀元前5世紀|*]]
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紀元前3千年紀
紀元前3千年紀(きげんぜんさんぜんねんき)は、西暦による紀元前3000年から紀元前2001年までを指す千年紀(ミレニアム)である。現在からおよそ4000年〜5000年前に当たる。
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{{Millenniabox| 千年紀 = 3 | 世紀 = 21 | BC = 1 }} '''紀元前3千年紀'''(きげんぜんさんぜんねんき)は、[[西暦]]による[[紀元前3000年]]から[[紀元前2001年]]までを指す[[ミレニアム|千年紀]](ミレニアム)である。現在からおよそ'''4000年〜5000年前'''に当たる。 == 時代 == * [[完新世の気候最温暖期]]が終わりを迎え、以降気温低下が始まる。 * [[シュメール]]文明の勃興。[[メソポタミア]]の[[ウル]]、黄金期を迎える (紀元前25世紀頃) * [[インダス文明]]の形成(紀元前2600年頃) * 中国、黄河流域で[[龍山文化]]、その後[[二里頭文化]]、長江流域で[[石家河文化]]が栄える。 * 日本、[[縄文時代]]中期〜後期。集落が大型化し[[三内丸山遺跡]]のような巨大集落が現れた。植林農法の種類も[[ドングリ]]より食べやすい[[クリ]]に変わり大規模化する。 == できごと == * [[紀元前29世紀]] - 都市[[マリ (シリア)|マリ]]の創建([[歴史的シリア|シリア地方]]) * [[エラム]]諸王国の隆盛([[イラン]]) * [[イガゴヨウマツ]]「[[メトシェラ_(木)|メトシェラ]]」発芽:現在地上に生育する最古の木 (紀元前2700頃) * [[古代エジプト]] - [[エジプト初期王朝時代]]、[[エジプト古王国]] * [[紀元前26世紀]] - [[ギザの大ピラミッド]]完成 * [[紀元前25世紀]] - アナトリア高原の[[カマン・カレホユック]]遺跡で使用痕のある鉄球( - 紀元前2250年頃)。 * [[紀元前23世紀]] - インド・ヨーロッパ系民族、最初の[[古代ギリシア|ギリシア]]侵攻 * [[イングランド]]で第1期[[ストーンヘンジ]]完成 * 中央[[サハラ砂漠|サハラ]]から[[西アフリカ]]へ大規模な移住 * [[夏 (三代)|夏]]創建?(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃) == 人物 == * 紀元前29世紀 - [[ウル・ナンシェ]]、[[ラガシュ]]王 * 紀元前26世紀 - [[クフ]]、エジプト王、ギザのピラミッドを建設 * [[紀元前24世紀]] - [[ウルイニムギナ]]、ラガシュ王「改革者」、現存する最古の成文法作成 * [[紀元前22世紀]] ** [[ルガルザゲシ|ルガルサッギジ]]、[[ウルク]]王、[[ウンマ (シュメールの都市国家)|ウンマ]]王。ラガシュを征服(紀元前2371年 – 2347年) ** [[サルゴン (アッカド王)|サルゴン]]、[[アッカド]]王、シュメール王。アッカド・シュメール帝国を建設 (紀元前2371年 – 2316年) * 紀元前21世紀 - [[ウル・ナンム]]、ウル第3王朝を創建(紀元前2112年 – 2095年) == 発明・発見 == * 紀元前30世紀 - [[アメリカ州|アメリカ]]で[[土器|窯業]]が発達 * 現在のトルコ、シリアなど、[[青銅器文明]]に入る(紀元前3000年頃) * 紀元前2320年に古代[[バビロニア]]で[[彗星]]の観測記録がある。最古の彗星観測記録の可能性があるが、不確かである。 * [[中央アジア]]で[[ウマ]]の家畜化 * 中国、青銅器文明に入る。[[城壁]]に囲まれた都市。 * ギザの大[[ピラミッド]](紀元前2570年頃) * [[シュメール]]で最初の[[ジグラット]]建設 == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == * [[年表]] == 外部リンク == * {{Commonscat-inline}} {{世紀}} {{デフォルトソート:きけんせん3せんねんき}} [[Category:紀元前3千年紀|*]]
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ハイセイコー
ハイセイコー(1970年 - 2000年)は、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。 ※馬齢は旧表記に統一する。 1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった。5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく、むしろ高まり、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった。このブームは、後年1990年前後に起こった武豊とオグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、顕彰馬に選出された。 競走馬引退後に種牡馬となった後も人気は衰えず、種牡馬として繋養された明和牧場には観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになり、それまで馬産地を訪れることが少なかった競馬ファンと馬産地を結び付けた。産駒には自身の勝てなかった東京優駿を勝ったカツラノハイセイコをはじめ3頭の八大競走およびGI優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。1997年(平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、2000年(平成12年)5月4日に心臓麻痺のため同牧場で死亡した。 1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場に生まれる。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きく一際目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った。武田は当歳時から中央競馬にいっても十分通用するレベルの馬だと感じ、夏になると、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった。また1957年の天皇賞(春)を優勝したキタノオー以来の「武田牧場の傑作」として期待を集めて新冠町の評判を呼び、2歳時には「新冠の一番馬」という評判を得るようになった。 ハイセイコーは中央競馬の調教師からも中央でのデビューの誘いを受けたが、母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され、ハイユウを管理していた大井競馬場の調教師の伊藤正美によって管理されることになった。1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている。1972年(昭和47年)5月、担当厩務員の山本武夫はハイセイコーについて、金沢競馬場の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの能力試験を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った。 1972年6月にデビューする予定であったが、出走を予定していたレースが不成立となった。高橋によるとこれは調教師の伊藤が他の出走馬を見下す発言をしたのに反発した調教師たちが「いくら強くてもレースに出られなければそれまでだ」とお灸をすえる意味で故意に管理馬の出走を回避したためであったが、後になって「ハイセイコーとの対戦に恐れをなして出走を回避した」と解釈されるようになったという。翌7月12日、大井競馬場で行われた未出走戦で辻野豊を鞍上にデビュー。このレースを同競馬場のダート1000mのコースレコードとなる59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけて優勝した。従来のレコードはヒカルタカイが記録した1分0秒3で、ハイセイコーは大井競馬史上初めて1000mを1分を切って走った馬となった。この記録を鞍上の辻野に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4コーナーでは馬体を傾けながら走ったためバランスを取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している。 その後、ハイセイコーは大井での最終戦となった11月末の青雲賞にかけて常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成、大井での全6戦で2着馬につけた着差の合計は56馬身、平均着差は9.3馬身に達した。2戦目の条件戦では2着のセッテベロナにおよそ16馬身の大差をつけて逃げ切り勝ちを収め、4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の青雲賞で重賞初優勝を達成した。作家の石川喬司は、連勝中のハイセイコーの評判を聞きつけて競馬評論家の大川慶次郎とともにゴールドジュニアを見に大井競馬場へ出かけ、「こいつは、中央に来ても絶対活躍できる」と話し合っていたことを明かしている。晩秋を迎える頃にはスポーツ紙が「大井に怪物現れる」などと報道し始め、調教師の伊藤は5戦目の白菊特別を勝った頃から「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった。 1973年1月12日、ハイセイコーはホースマンクラブに5000万円で売却された。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった。大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった。 1月16日、ハイセイコーは東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に入厩した。この時ハイセイコーは初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せ、この用心深い性格が後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった。 陣営は移籍初戦として東京4歳ステークス(2月11日に東京競馬場で施行)に出走させようとしたが叶わず、3月4日、増沢末夫を鞍上に据えての弥生賞が移籍初戦となった。 「地方競馬の怪物」ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集め、ジャーナリズムは「野武士登場」「怪物出現」と書き立てた。弥生賞当日の中山競馬場には朝早くから観衆が集まり、およそ12万3000人の観客が入った。ハイセイコーがパドックに姿を現すと500kgを超す雄大な馬体を見た観客からはどよめきが起こり、発走前にハイセイコーがパドックから競走の行われるコースへ移動した際には、あまりの人の多さに金網近くにいた観客が苦しくなって観客席とコースとを仕切る金網を乗り越え、コース内に入りこむ騒ぎも発生した。しかし、ファンがハイセイコーが目の前を通るたびに歓声を上げたことによってハイセイコーは激しく入れ込んだ上に多量の汗をかき、レース直前に集合合図の旗が振られる前からスタンドはざわめいたことで、これによって興奮したハイセイコーはゲートに近づこうとしなかった。 陣営はレース前の調教の内容がよかったことから、「勝てる」というかなり強い見込みを持っていたが、芝の馬場を走るのも中山競馬場で走るのも初めてであったため若干の不安も抱いていた。スタートが切られるとハイセイコーが無事にゲートを出ただけで大歓声が上がり、好位置につけるとさらに歓声は大きくなった。しかし、この時のハイセイコーは調教の時とは異なって走りそうな手応えがなく、序盤4番手を追走し3番手で第4コーナーを回ったハイセイコーは単勝1.1倍の1番人気の支持に応える形で勝利を収めたものの、終始増沢に前進を促され、その増沢に手応えを感じさせないままに終わったレースぶりは陣営に不安を与え、「ハイセイコー勝ちましたが、苦しかった!」と実況された。鈴木勝太郎は弥生賞について「レース中にカッとなるところがあって、これは2000mまでの馬かなと思った。それに初めての芝を気にしたのか、直線で追ってもあんまり延びない。まわりで騒ぐほど強いとは思えなかった」と振り返っている。このレースには後にハイセイコーのライバルと目されるようになるタケホープも出走し、ハイセイコーから約7馬身離された7着に敗れていた。 弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週で3月25日のスプリングステークスに出走させた。しかし、ここでも好位を進み直線で抜け出すというレース運びで勝ちはしたものの、陣営が期待していたほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。レース後、2着に敗れたクリオンワードの騎手安田伊佐夫が増沢に「おめでとう」と声をかけたところ、増沢は「ありがとう。でも、頼りないな」と返答した。レース後のインタビューでも増沢の表情は冴えず、その模様を中継していたテレビ番組の出演者からは「まるで負けた騎手のインタビューみたいでした」と評された。陣営が弥生賞とスプリングステークスにおいて感じた共通の課題は、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)ことであった。 スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した。赤木駿介は、弥生賞とスプリングステークスのレースぶりはともにぎこちなく、「怪物という異名にふさわしいものを感じさせなかった」と評している。一方、当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、弥生賞とスプリングステークスでのレースぶりを、中央競馬移籍に際し喧伝されていた「鋭い差し脚」や「並ぶ間もないスピード」は感じられず、その意味で「どうやらハイセイコーという馬は、われがわれが抱いていたイメージとは、やや違う馬のようであった」と前置きしたうえで、「タイムも速くなく、それほど凄い脚もみせないが、いつも必ず勝つ」、「五冠王シンザンのイメージがオーバーラップしつつある」と評した。ただし、この大橋の分析に対してシンザンの管理調教師であった武田文吾は、「どだいシンザンと比較するのが間違い。ハイセイコーはまだ1冠もとっていない。とれるかどうかもわからない状態だ。シンザンはすでに"5冠"を制しているのだ」と反論した。しかし、阿部珠樹によると弥生賞のレース後には一部から「ダービーはおろか、三冠、いや全てのレースを勝ち、シンザンを超えるのではないか」という声が上がるようになっていたという。 前述のように、陣営は弥生賞とスプリングステークスにおける共通の課題として、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)点を認識していたが、調教師の鈴木勝太郎はスプリングステークスの後、調教中にハイセイコーがハミを噛んではいるものの時折舌を遊ばせることに気づき、そのことがハミ受けの悪さに繋がっているのだろうと考えた。対策として陣営は、ハミ吊りを装着することにした。 4月15日、中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞に出走。当日は雨で馬場状態は重となった。ハイセイコーが初めて経験する芝コースの重馬場をこなせるかについて専門家の見解は分かれたが、好スタートを切ったハイセイコーは7番手から徐々に前方へ進出し、第3コーナーで先頭に立つ積極的な戦法をとり、第4コーナーで進路が外側に逸れて2番手に後退するアクシデントに見舞われたもののすぐに再び先頭に立つとそのままゴールし、優勝した。地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは中央競馬史上初のことであった。陣営の努力が実り、皐月賞でのハイセイコーのハミ受けは良好であった。また増沢は、向こう正面でハイセイコーが重馬場を苦にしないことを察知した。 皐月賞を優勝したことによってハイセイコーの人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった。各方面から、「三冠確実」、「日本競馬史上最強馬」という評価すら与えられるようになり、シンザンと肩を並べるのが既定の事実のように語られるようになった。ただし、広見直樹によるとこの日の中山競馬場は「デビュー戦(弥生賞)の混雑ぶりに嫌気が差し、テレビ観戦を決め込んだファンも多く、場内も落ち着きを取り戻し」ていたといい、また競馬評論家の山野浩一は、ハイセイコーの人気と実力とが調和を保っていたのは皐月賞の頃までであったと分析している。 皐月賞優勝後は、クラシック第2戦の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。しかしハイセイコーには同レースが施行される東京競馬場のレースに出走した経験がなく、そのせいで陣営はローテーションを巡って、具体的には東京優駿の前にトライアルのNHK杯に出走させるかどうかを巡って、難しい判断を迫られることになった。ハイセイコーは前述のように用心深い性格をしており、初めて走るコースでは様子を探りながら走る傾向があった。例年多くの競走馬が出走する東京優駿で様子を探りながら走れば、馬群から抜け出せず十分に能力を発揮することのないまま敗れてしまう可能性があった。陣営は協議を重ね、最終的には鈴木が「ハイセイコーにとってローテーションはきついが、ダービーを考えると、ハイセイコーをNHK杯に出走させなければならない。」とNHK杯出走を決断した。 NHK杯当日の5月6日、東京競馬場には朝から観客が押し寄せ、午前11時前には国鉄と私鉄の駅に東京競馬場へは入場できない旨の掲示がされた。最終的な観客数は16万9174人で、中央競馬史上最多であった。このレースでハイセイコーは終始インコースに閉じ込められ、なかなか抜け出すことができなかった。増沢は「3着ぐらいか」と敗戦を覚悟し、先頭に立てないままゴールまで残り200メートルとなると、レースを実況していたフジテレビのアナウンサー盛山毅は「ハイセイコー負けるか、あと200だ、あと200しかないよ!」と口走った。しかしここからハイセイコーは鋭い伸びを見せ、ゴール手前でカネイコマをアタマ差交わして勝利を収めた。このレースでのハイセイコーの単勝支持率は83.5%を記録し、配当金は単勝・複勝ともに100円の元返しとなった。 鈴木勝太郎の子で調教助手を務めていた鈴木康弘は苦戦の原因について、陣営が懸念した通りハイセイコーがそれまで走ったことのない東京競馬場のコースの様子を探りながら走り、なかなか馬群から抜け出すことができなかったためだと述べている。レース後に増沢は「直線でもう負けた。ダメだと思っていたらいつの間にか勝っていました」というコメントを残している。武田牧場場長の武田隆雄は苦戦の原因について、重馬場で行われた皐月賞での力走の反動が出たと述べている。 NHK杯を勝ったことで、ハイセイコーが東京優駿を勝つということはファンやマスコミの間で既成事実化した。大川慶次郎は「あの展開だったら、負けてもおかしくはなかったと。それを勝つのだからハイセイコーは強い、ダービーもこれでしょうがないなと感じました」と当時を振り返り。阿部珠樹は、ファンの間に「『ハイセイコーはなにがあっても負けない』という宗教的信念といったものが生まれた」と当時を振り返っている。 NHK杯のレース後、増沢はハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」という印象を抱き、さらに2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出したものの、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し、獣医師は疲労の蓄積を指摘した。しかし、鈴木勝太郎は獣医師から「本調子ではないが、かといって欠場するほどの状態でもない」と伝えられ、「あれだけファンに支持されている馬だし、NHK杯でとても届かないような位置から追い込んだレースぶりから、あの馬の勝負根性に賭けてみたい気もあった」として、東京優駿出走を決意した。 東京優駿当日の5月27日、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時)の66.6%に達し、単勝馬券の売り上げの約4億7000万円のうち約3億2000万円がハイセイコーに投じられ、単勝オッズは1.2倍を記録した。このレースで増沢は、展開次第で逃げることも視野に入れつつ先行策をとって3、4番手を進もうとしていた。しかし、スタート後の第1コーナー手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ、さらにインコースに入りすぎてしまった。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、向こう正面でハイセイコーを馬群の外へ誘導した。第3コーナーに差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと第4コーナーの中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、タケホープとイチフジイサミに交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた。タケホープが記録した勝ちタイムの2分27秒8は、前年の勝ち馬ロングエースが記録したレコードタイムを0秒8更新し、タケホープの管理調教師の稲葉幸夫、鞍上の嶋田は前週ナスノチグサで優勝したオークスに続いて、2週連続でのクラシック勝利となった。 赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにした東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれたという。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの視聴率はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった。レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し、「体型的にいってハイセイコーは2000メートルまでで絶対的な強さを見せる馬なのかもしれない」と語った。増沢も距離と左回りに対する不安を語り、またレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げ、1982年のダービー前に受けたインタビューにおいてこの時のダービーを念頭に「ダービーだけは、どんなに強い馬でも勝てないことがあるんですよ。力があって、そこに運がなければ、ダービーはとれませんね」と発言している。レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られたものの、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった。勝ち馬のタケホープに対しては、作家の典厩五郎によると「パラパラと小さな拍手があったのみ」であり、「ダービー馬があれほどもの静かに、あれほど冷淡に迎えられたことがあっただろうか」と回想している。 鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけた時に「もう、だめだ、5着もあぶないだろう......」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている。石川喬司は、「直線でタケホープとイチフジイサミにかわされたとき、ハイセイコーがチラッとスタンドに視線を向けたような気がした」と回顧し、「まるでボクはもうダメです、と訴えているように見えた。あの視線は忘れられない」と振り返っている。詩人の寺山修司は、日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」誌上で自身が執筆したダービーの観戦記の中で「ダービーに出走してきたのは、ハイセイコーではなかった。あれは、ハイセイコーに瓜二つの公営の馬だった」、「並外れた能力の持ち主だが母の父馬がカリムなので距離が少し苦しい。関係者は、ハイセイコーをベルモントステークスに出走させてセクレタリアトの三冠を阻むためにニューヨークへ空輸してしまい、レースに出走したことがない替え馬専門の馬が留守を務めることになった」という持論を展開し、「ハイセイコーがタケホープに負ける訳がない」と述べた。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた栗田勝はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中で最も実力があるのはハイセイコーだと述べた。 東京優駿の敗戦は「不敗神話の崩壊」、「『怪物性』が馬脚を現した」、「偶像が虚像と化した」と評され、マスコミは「ついに"敗"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べ、阿部珠樹は「ダービーの敗戦は、ハイセイコーをオーソドックスな日本の英雄に変えたといってもよいだろう」と述べている。 夏場は気候の涼しい北海道へ移動させず、東京競馬場で調整されることになった。ハイセイコーは暑さに強く、一度涼しい北海道で過ごした後で残暑の残る本州へ戻すリスクを冒すことはないと陣営が判断したためである。鈴木康弘によると、この年の暑さは厳しく体調を崩す馬が多く出たが、ハイセイコーは3日間調教を休むだけで乗り切ることができたという。 秋になると陣営はクラシック最後の一冠である菊花賞を目標に据え、前哨戦である京都新聞杯に出走させることを決定し、9月18日にハイセイコーを東京競馬場から栗東トレーニングセンターへ輸送した。10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持され、皐月賞と同じような先行策をとり、向こう正面で3、4番手から2番手に進出したが、第4コーナーで増沢が馬場状態の悪いインコースを嫌って大きく外を回ったところ、トーヨーチカラ、シャダイオー、ホウシュウエイトがインコースを通ってハイセイコーに並びかけ、激しい競り合いとなった。結果、トーヨーチカラには半馬身遅れをとり、シャダイオーにアタマ差競り勝ち2着でゴールした。鈴木勝太郎はレース後、第4コーナーで外を通り過ぎたことや初めて走る京都競馬場のコースにハイセイコーが戸惑いを見せたことを敗因に挙げ、「これで菊花賞への目安が立ちました」とコメントした。このレースは関西テレビでの競馬中継において杉本清が実況を担当したが、杉本は「京都競馬場の白鳥もうっとり、これが噂のハイセイコーです」「どうだハイセイコー、この淀の走り心地はどうだ」というフレーズを発した。このフレーズに大きな反響があり、この京都新聞杯が自身の実況が「杉本節」と呼ばれるきっかけになったと述べている。 11月11日、菊花賞に出走。1番人気に支持されたハイセイコーであったが、東京優駿で66.6%あった単勝支持率は23.8%に落ち込んでいた。先行策をとったハイセイコーは第3コーナーの手前で先頭に立ち、第4コーナーでは後続を5馬身から6馬身引き離したが、直線でタケホープが追い上げを見せ、2頭はほとんど同時にゴールインした。写真判定の結果、ハナ差でタケホープが先着しており、ハイセイコーは2着に敗れた。タケホープはハイセイコーも出走した京都新聞杯で13頭中8着に敗れており、レース後嶋田功は「ダービー前の状態に近くなってきた」とコメントしていたが、調教師の稲葉幸夫によるとレース前の3日間で体調が大きく上向き、「こわいみたいないい状態」になっていた。タケホープに騎乗した武邦彦は、ハイセイコーが「馬体を合わせるともうひと伸びする、競って強い馬である」という特徴を掴み、直線で最後まで馬体を併せず、ゴールでわずかに前に出るという乗り方を行っていた。寺山修司はこのレースでの武の騎乗を指して、「(ハイセイコーは)タケホープに負けたんじゃない。武邦に負けたんだよ」と述べている。 関西テレビの競馬中継では前走の京都新聞杯に続いてこの菊花賞も杉本清が実況を担当したが、杉本によるとこのレースはハイセイコーが生まれた武田牧場と二元中継を行っており、「スタッフ一同としてはどうしても勝ってほしい気持ちでいっぱいだった」と述べている。杉本は3コーナー付近でシンザンの主戦騎手を務めた栗田勝から教えられた「(京都の3コーナーは)抑えて上り、抑えて下らなければいけません」という言葉を思い出し、「ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと下らなければいけません」というフレーズを発した。ゴールの直後も杉本はタケホープがちょっと出たな、と思ったが、ゴールした瞬間に武田牧場の従業員の顔がテレビに映されたため、「『タケホープ勝った』とは言いにくかったから、『ほとんど同時』というようなことを言った」と当日の実況について回顧している。11月14日、ハイセイコーは東京競馬場の厩舎に戻った。 12月16日、ハイセイコーは有馬記念に出走した(タケホープは出走を回避)。有馬記念ではファン投票により出走馬を選出するが、この年のファン投票でハイセイコーは有馬記念史上最高となる投票者の90.8%に支持され、1位で選出されていた。1番人気に支持されたハイセイコーは4、5番手を進んだが、ハイセイコーよりも後方を走るタニノチカラやベルワイドをマークした結果、逃げたニットウチドリや同馬を第3コーナーでいち早く追いかけたストロングエイトを交わすことができず、3着に敗れた。レース後増沢は、向こう正面で先頭に立つことも考えたが、タニノチカラに勝つためにはそうするべきではないと思いとどまったとコメントした。タニノチカラに騎乗した田島日出雄は、ハイセイコーとマークしあった結果、先行馬有利のレースになったと分析した上で、「最初からハイセイコーを負かせば勝てるつもりで乗っていた。それがクビ差とはいえ抜けなかったんだから、やっぱりハイセイコーが一番強いです」と述べた。なお、田島はレース前に記者たちに対して、「ハイセイコーには絶対に勝つ。新聞にもそう書いてくれ」と豪語していた。大橋巨泉は増沢と田島の騎乗を「『相手に勝つこと』ばかりにかまけて、『レースに勝つこと』を忘れたといわれても仕方があるまい」と批判し、スポーツニッポン記者の山中将行も「あまりにも消極作戦でずるずると敗れた両雄の不甲斐なさ」への不満を表明した。 1974年の優駿賞年度代表馬選考ではタケホープが年度代表馬に選出されたが、ハイセイコーの人気が絶大でありそのことは入場者数などに現れていることを根拠に、「1年を象徴するのが年度代表馬であるなら、ハイセイコーであっても不思議はない」という異論が出た。この意見は「ダービー、菊花賞の重さにおよぶはずはない」と退けられたものの、ファンを湧かせた功労を無視することはできないとして「大衆賞」が与えられ表彰された。中央競馬の年度代表馬選考において、特別賞が授与されたのは史上初のことであった。 陣営は1974年(昭和49年)の初戦として1月20日のアメリカジョッキークラブカップを選んだ。ハイセイコーは1番人気に支持されたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足していたとコメントし、その理由について激戦が続いたことによる疲れが出たのではないかと述べた。鈴木康弘によるとハイセイコーはレース後に微量ではあったものの鼻血が出始めていて、後にこれが肺から出ていたことが判明したため、当初は敗因を冬の稽古で絞れなかったことと考えていたが、「とにかく出るレース全部全力投球なんで、目に見えない疲労が少しづつ、体の内部に広がっていったんでしょう」と分析している。 3月10日、中山記念に出走。ハイセイコーは1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちし、前年のNHK杯以来10か月ぶりとなる勝利を挙げた。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという。 中山記念の後、ハイセイコーは天皇賞(春)に備えて4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送された。5月5日に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた。前年の11月20日に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、ワシントンDCインターナショナルなどに出走するという計画は、この敗戦により中止された。また、この頃からハイセイコーは従来の呼称であった「怪物」ではなく、「怪物くん」という愛嬌のある呼称で呼ばれるようにもなっていた。 6月2日、宝塚記念(第15回)に出走。このレースで単勝1番人気に支持されたのはストロングエイトであり、ハイセイコーはデビュー以来初めて単勝1番人気に支持されなかった。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした。タケホープは天皇賞(春)出走後に屈腱炎を発症し、休養に入っていた。増沢は後に、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている。 さらに同月23日、高松宮杯に出走。レース当日、中京競馬場には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入場した。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、メジロアサマの記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した。 6月27日にハイセイコーは東京競馬場へ戻り、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け、秋になって10月13日の京都大賞典に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという負担重量が響く形でタニノチカラの4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた。 京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営は、天皇賞(秋)へのステップレースとして11月9日のオープン戦を選び、タケホープも出走したこのレースでハイセイコーはヤマブキオーの2着となった。しかしレース後に鼻出血が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた。 12月15日、引退レースの有馬記念に出走。レース前に行われたファン投票では、前年に続き1位に選ばれた。レースではタニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った。 2頭の競り合いに観客は優勝馬がすでに決まっていたにもかかわらず湧き上がり、ハイセイコーが2着でゴールした瞬間にスタンドからは一斉に拍手が沸き起こり、テレビ中継のカメラは勝ったタニノチカラではなくハイセイコーを大映しにした。増沢はこのレースを、体調がいま一つであったため2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた。 ハイセイコーがゴールした後、テレビの中継番組は増沢が11月に吹き込みを済ませていた楽曲『さらばハイセイコー』を流し、勝ったタニノチカラへの言及もそこそこに、ハイセイコーが引退レースでタケホープに先着したことを繰り返し伝えた。タニノチカラに騎乗していた田島日出雄によると、『さらばハイセイコー』は現地の観客スタンドにも流されていたという。 『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の小坂巖が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章をポリドール・レコード関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、猪俣公章が作曲を担当した。1975年(昭和50年)1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオのヒットチャートで1位を、オリコンのヒットチャートで最高4位を獲得し、50万枚を売り上げた。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた。 1975年1月6日、『さらばハイセイコー』が流れる中、東京競馬場で引退式が行われた。スタンド前から走り始めたハイセイコーはゴール板を過ぎたところで動かなくなり、再び走り出すとそのまま芝コースを1周した。引退式でコースを1周したのは中央競馬史上初のことで、これは第4コーナーから500mほど走らせるという一般的な方法ではなかなか走るのをやめようとしないだろうと陣営が判断したためであった。引退式に先立ち、1974年12月26日には東京競馬場で「ハイセイコーとファンの集い」が催され、4000人あまりのファンが集まった。この場で増沢は、『さらばハイセイコー』を披露している。 1月7日、ハイセイコーは北海道新冠町の明和牧場で種牡馬生活を開始するために馬運車に乗せられて厩舎を離れ、翌8日の夕刻、明和牧場に到着した。 ハイセイコーの人気は種牡馬となってからも衰えなかった。後藤正俊は種牡馬としてのハイセイコーの最大の功績として競馬ファンと馬産地とを結びつけたことを挙げ、それまで馬産地を訪れる競馬ファンは少なかったが、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると、観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになった。その後も「ハイセイコー見学」はバスツアーの欠かせないコースとなり、明和牧場は年間数万人が訪れる名所となった。明和牧場ではハイセイコー専用の放牧場を用意してファンの訪問に備え、これに合わせてファンがハイセイコーを見るための展望台も作られ、グッズも飛ぶように売れた。1976年(昭和51年)公開の映画『トラック野郎・望郷一番星』にハイセイコーが出演すると新冠町の知名度が高まり、町がハイセイコーの名を冠したブランドを作って特産品の野菜を販売したところ、爆発的な売れ行きを見せた。日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」の元責任編集者の和田久によると、1975年2月に札幌市で行われたさっぽろ雪まつりではハイセイコーの雪像が作られ、ひっきりなしに「さらばハイセイコー」が流れていたという。 1977年(昭和52年)10月にはデビューした大井競馬場において、「ハイセイコー 大井に帰る」と題されたイベントが3日にわたって催された。高橋三郎によると、この時京浜急行電鉄立会川駅から大井競馬場にかけて、「東京ダービーや東京大賞典の当日ですら見られないほどの人だかりができた」という。 ハイセイコーは種牡馬となった初年度に72頭の繁殖牝馬と交配した。しかし、小柄な馬が多く生まれたこと、産駒の出来不出来の差が激しいといった理由から2年目以降交配頭数は44頭、38頭、29頭と減少していき、種付け料も初年度は80万円に設定されていたが、1979年には40万円にまで下落した。種牡馬としてもクラシックレースに強い血を受け継ぐタケホープを高く評価する人物も多かったが、初年度の産駒からカツラノハイセイコ(東京優駿、天皇賞(春)優勝)など複数の活躍馬が現れたことで種牡馬としての人気を盛り返し、5年目以降は10年連続で50頭以上と交配した。 カツラノハイセイコはハイセイコーと同じく1番人気で東京優駿に出走し、ジャーナリズムは「父の無念を晴らせ」「内国産の夜明け」と期待を書き立てた。その東京優駿を優勝したことで「親の無念を晴らした孝行息子」として大きな話題を集め、東京優駿優勝時には一般紙でも大きく取り上げられ、その活躍はファンの間でも熱狂的に迎えられた。父内国産馬の東京優駿制覇は1959年のコマツヒカリ(父トサミドリ)以来20年ぶりの事であり、カツラノハイセイコに次ぐ2着に入ったリンドプルバンの鞍上は、タケホープで東京優駿を制した嶋田功だった。同馬を管理した庄野穂積のもとには、初勝利を挙げた頃から激励の手紙やお守りを同封した子供からの手紙が殺到し、1979年には増沢の吹き込みによるレコードシングル『いななけカツラノハイセイコ』が発売され、7万枚を売り上げた。血統研究家の吉沢譲治は、1990年の東京優駿前にハイセイコーの種牡馬生活を振り返った際に、「もしもカツラノハイセイコが出ていなかったら、その後のハイセイコーがどうなっていたか分からない」と述べている。 1980年代に入り世界的な広がりを見せていたノーザンダンサーの血統がブームとなると、ハイセイコーの血統は時代遅れであるとみなされ始める。内国産種牡馬もトウショウボーイやマルゼンスキーが次々とクラシックレースの優勝馬を輩出していき、そのような中でハイセイコーも散発的ではあったが活躍馬を輩出し続け、中央・地方を問わず産駒が走ったことで依然生産者の間での人気は高かったものの、80年代後半になるとそれも落ち始め、「種牡馬ハイセイコーは終わった」という見方が広まっていった。しかし1989年にサンドピアリスがエリザベス女王杯に優勝すると、1990年にはハクタイセイが芦毛馬として初となる皐月賞優勝を果たして親子制覇を達成、牝駒のケリーバッグも桜花賞で2着と健闘した。地方競馬でもアウトランセイコーが大井の黒潮盃を制するなど活躍馬が集中し、一時90万円まで下がっていた種付け料は再び100万円台半ばに回復した。1990年、ハイセイコーは地方競馬のリーディングサイアーを獲得した。 1984年には競馬の殿堂の顕彰馬に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した大川慶次郎は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が選定の決め手になったと述べている。 ハイセイコーは1997年の交配を最後に種牡馬を引退し、明和牧場で余生を過ごした。2000年5月4日午後、同牧場の放牧地で倒れているのが発見され、獣医によって死亡が確認された。死因は心臓麻痺。競走馬時代の主戦騎手で、調教師となり北海道の牧場を巡っていた増沢末夫が死亡の報せを聞いて明和牧場を訪れたところ、ハイセイコーはまだ放牧地に横たわったままで、増沢はその場にしばらく無言で佇み、そしてハイセイコー死亡の連絡を自身に報せた人物に対して涙を堪えるように「ありがとうございます」と伝えたという。5月18日、新冠町のレ・コード館で「お別れの会」が催され、およそ500人が参列した。 ハイセイコーの墓は最期を迎えたビッグレッドファーム明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」と記されている。 死後、道の駅サラブレッドロード新冠(新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には銅像が建立され、ハイセイコーが大井競馬場時代に優勝した青雲賞は、2001年より「ハイセイコー記念」と改称された。また、2000年8月には「さらばハイセイコー」が追悼版CDとして再発売された。2004年2月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中山競馬場で施行された。 関係者の証言によるとハイセイコーの馬体は生まれた時から大きく、デビュー前の時点ですでに他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備え、4歳の時点で古馬のように完成されていた。加えてハイセイコーはバランスの取れた体型をしていたことで故障に強く、関係者からも馬体について高く評価されている。一方でその馬体は膝下が短く、洗練された気品にはやや欠けていたとも評されている。体格の大きなハイセイコーの走りは重戦車にたとえられた。1974年12月21日に測定されたハイセイコーの馬体のサイズは、体長163センチメートル、体高(キ甲=首と背の境から足元まで)171センチメートル、尻高169センチメートル、胸囲188センチメートル、管囲21.5センチメートルであり、種牡馬としてのハイセイコーの馬体重は1990年の時点で650kgを超えていた。 鈴木康弘によると、ハイセイコーは心臓をはじめとする内臓が強く、調教を終えると厩舎に戻る前に息が整ったといい、食欲も旺盛であった。サラブレッドの安静時の心拍数は毎分30ないし35拍で一流の競走馬は毎分25ないし30拍といわれるところ、ハイセイコーの心拍数は毎分28拍であった。大井競馬場時代のハイセイコーに騎乗したことのある高橋三郎によると、1971年11月のある日、ハイセイコーが調教後に疲れた様子を見せたのでリンゲル液を注射したところ、リンゲル液が寒さで冷えており、ハイセイコーが体を震わせてショック状態に陥ったことがあった。そのまま倒れると死亡する可能性があったため関係者が10人がかりで支えたところ、崩れ落ちそうになりながらも持ちこたえたという。高橋は「普通の馬だったら保たなかったと思う。よっぽど心臓が強かったんだろうね」と語っている。 厩務員の大場によると、ハイセイコーは皮下脂肪がつきやすい体質で、冬場を苦手としていた。大型馬であるため減量が必要だったハイセイコーの調教は通常でも厳しいものであったが、冬場はいっそう厳しさを増し、「見ているほうが辛くなるときもあるほどだった」と述懐している。逆に暑さには強く、夏が近づくと水を大量に飲み、大量に汗をかいた。 獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの精神面の長所として気の荒さを挙げており、大井競馬場時代の厩務員山本武夫は、ハイセイコーの性格について「気の荒すぎるところがあり、いったん、いうことをきかなくなったら、テコでも動かなくなる」と評している。ただし荒い反面、気の弱いところもあった。調教師の鈴木勝太郎は、気性の激しいハイセイコーに対応した調教方法を考案した。まず15-15と呼ばれる軽めの調教を1週間ないし10日に一度行い、ハイセイコーには、他の馬と並んで走ると負けまいとして走り過ぎる傾向があったため、他の馬がいないタイミングを見計らって調教を行うなどの工夫をした。 ハイセイコーは初めて訪れる場所を警戒するところがあり、増沢によれば元々警戒心や注意力の強いサラブレッドの中でも、ハイセイコーは一際そうした傾向が強かったという。鈴木勝太郎はマスコミの取材やファンの来訪を拒まなかったが、神経質なハイセイコーへの配慮から、カメラ撮影に関してのみ厩舎内では行わず決められた場所で行うように要望を出した。厩務員の大場によると、ハイセイコーは「イライラを抑え、ファンサービスに努め」ていたが、5歳になってからはほとんど動じなくなったという。しかし大場は、ハイセイコーの気性を鑑みたうえでハイセイコーブームを「嬉しいような、ちょっとかわいそうなような騒がれ方だった」と振り返っている。 明和牧場元取締役の浅川明彦は競走馬引退後のハイセイコーについて、怖いくらいの威厳を放ち、担当厩務員以外の者の言うことは聞かず、他の馬と喧嘩をすることもしばしばであったと振り返っている。浅川によると明和牧場でのハイセイコーは体調がいいと人に触られるのを嫌がる反面、体調が悪いと注射にも素直に応じるところを見せたという。浅川はハイセイコーについて、神経質さが良い方向に出て、警戒心と注意力に優れた頭のいい馬であったと評している。 ハイセイコーは引退式でコースを1周した後、速度を落としつつ第1コーナーを過ぎたところで突如立ち止まって首を振り、騎乗していた増沢を振り落した。増沢によると、それまで第1コーナーと第2コーナーの中間地点をゆるやかに通った後はそのまま地下道を通ってコースから出る習慣があったため、引退式でもハイセイコーはコースから出ようとして方向転換を計り、そのことが落馬につながった。増沢はこの逸話を自著で紹介し、ハイセイコーを「じつに利口な馬」と評している。競走馬時代、普段の調教では調教助手の吉田が騎乗したが、増沢が騎乗するとハイセイコーは興奮する仕草を見せた。これについて鈴木勝太郎は、増沢がレースで騎乗することをハイセイコーが理解しているためだと説明した。 弥生賞当日、発走前に蹄鉄をレース用のものに打ち替えようとしたところ、ハイセイコーは落ち着きをなくし、興奮する様子を見せた。そのため、以降のレースでは当日の早朝に打ち替えが行われるようになった。 ハイセイコーは前述のように荒い気性と気の弱さを併せ持っていたが、競馬では他の馬と並んで走ると抜かせまいとする勝負根性を発揮した。増沢は、そうした根性、闘争心こそがハイセイコーの真骨頂だと述べている。 ハイセイコーは後脚の力が強く、「滑らかさよりも力で走る」タイプの競走馬であり、後脚の蹄鉄は装着してから1週間ほどで擦り減ってしまったといわれている。橋本邦治は、このような特徴を持つ競走馬は長い距離を走るとスタミナを消耗する傾向にあり、ハイセイコーの場合も「2000m以上は駄目」と評価されるような競走成績に繋がったと分析している。鈴木勝太郎はハイセイコーの引退後、当初抱いていた印象について、胴の詰まった体型からこなせる距離は1800mまでで、2000m以上で行われる中央競馬のクラシックでは苦しいと感じたと証言し、予想を覆す活躍を見せたハイセイコーを「大した馬だよ」と評している。 ハイセイコーはストライドの大きな馬で、マスコミは「ひと跳び8メートル」と報じた。高橋三郎は、馬体もストライドも大きいハイセイコーにはダッシュ力はなかったと評したが、その一方で一度加速がつくと他の馬を引き離すほどの速さで走ることができたとも振り返っている。増沢によると跳びの大きい馬は雨が降って状態の悪い馬場を苦手とする傾向があるが、ハイセイコーは得意としたという。杉本清はハイセイコーは跳びが大きいためスピード感がないとしながらも、「見た目にはゆっくり見えるんだけど、実際にはかなりスピードのある馬だったのです」と評し、そのため自然とハイセイコーのペースに巻き込まれてしまって気が付いたら喉が痛くなってしまい、菊花賞を実況した際には一瞬声が出なくなってしまったため、ハイセイコーは実況においてしゃべりにくい馬だったと評している。東京優駿を日本短波放送の中継で実況を行ったアナウンサーの長岡一也も、杉本との対談の中でこの話題となった時に当日の実況で「喉が締め付けられて、声が裏返りながら」実況を行っていたといい、杉本と同様の見解を示している。 増沢はハイセイコーがスピードに乗った時の感触について、「ぐーんと躰が沈みこんでいく」と表現している。ただし、ハイセイコーは一瞬の切れ味を発揮するタイプではなく、相撲のがぶり寄りのようにジリジリと伸びるタイプだと評している。また首を下げたまま走るハイセイコーとは騎乗時に人馬一体の感覚を味わえなかったとし、「決して乗りやすい馬ではなかった」と評している。一方で鈴木康弘は、クビを少し下げてひたすら前に進もうとする走行フォームが懸命に走っているという印象を人々に与え、共感を呼んだのではないかと述べている。ハイセイコーが連勝していた時期に増沢は、「物凄い末脚を使う馬が出てくるとこわい」とコメントし、鈴木勝太郎も「一瞬の切れ味の鋭い馬」を警戒していた。 高橋三郎によると、ハイセイコーはダートコース向きの走り方をしていたといい、増沢もダート向きの馬だったと述懐している。鈴木康弘も中央へ移籍してきたハイセイコーを調教で走らせてみてダートでの競走能力を実感したといい、また「大きくて、力強い」走りをするハイセイコーの姿が、自身がイギリスで厩舎経営と馬づくりの修行を行っていた際に実際に目にしていた三冠馬のニジンスキーと面影が重なったと述べている。後藤正俊は、ハイセイコーの現役時代にダートグレード競走が設けられていたら、「セクレタリアト級のぶっちぎり勝ちを続け、ダート史上最強馬として違った形の歴史を作っていたことだろう」と推測している。競馬記者の大島輝久はハイセイコーのダートにおける競走能力を高く評価し、「アメリカのダート競馬で走らせてみたかった」と述べている。 増沢は騎乗した16戦全てで先行策をとった。増沢はハイセイコーの引退後、「1回くらいは追い込んでみてもよかったのではと思う」と述べつつ、それを実行しなかった理由について、「あれで負けたのなら、仕方がない」とファンが納得するレースをするために手堅い戦法をとらざるを得ず、「実験」ができなかったと弁明している。 大川慶次郎は、ハイセイコーは左回りのコースを苦手としていたと述べており、「右と左でかなり極端なレースをする馬だった」と評している。増沢もかつてNHK杯で抱いた「左回りは右回りほど走らないのではないか」という疑念はハイセイコーの引退後も変わらないと述べている。 1991年発行の『優駿増刊号 TURF』が競馬関係者を対象に行ったアンケートでは、「思い出の馬」部門で第5位に選ばれた。1999年に『Sports Graphic Number』が10月に出版した「競馬 黄金の蹄跡」の誌内においては、シンザン、シンボリルドルフ、オグリキャップと共に「その時代に輝いた四大スーパーホース」の一頭に選ばれている。2001年に日本馬主協会連合会が馬主に向けて行ったアンケートでは、「一番好きな競走馬」で第1位、「一番印象に残る競走馬」で第4位、「一番の名馬と思う競走馬」で第6位、さらに「一番印象に残っているレース」で「ハイセイコーが出走した全レース」が第4位に選ばれた。2004年に日本中央競馬会が発行する競馬雑誌『優駿』が行った特集「THE GREATEST 記憶に残る名馬たち」の第1弾「年代別代表馬BEST10」において、ハイセイコーは1970年代部門の第10位に選ばれた。 『優駿』が1985年に読者を対象に行った歴代最強馬を問うアンケートでは、第18位に選出されている。2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」では15302票を獲得し、8位となった。2010年に『優駿』が読者を対象に行った「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」では第17位、2015年に同じく『優駿』が読者を対象に行った「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」においては第20位に選出されている。また、「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」にランクインした各馬のベストレースの投票において、ハイセイコーは皐月賞が投票率55.5%で第一位、以下1974年の宝塚記念が18.1%、1973年の弥生賞が10.3%という結果となっている。 ハイセイコーの人気、ブームは社会現象ともいえるほどの規模に達し、競馬に興味のない人にまで名が知れ渡り、ブームに巻き込んでいった。国民的アイドルホースとなったハイセイコーは「週刊少年サンデー」や「週刊少年マガジン」の表紙や女性週刊誌の表紙にまで登場し、オグリキャップが登場するまで日本競馬史において比較対象すらない存在であった。ハイセイコーが立役者となって作り出した競馬ブームは「第一次競馬ブーム」と呼ばれ、後年オグリキャップと武豊の活躍が中心となった第二次競馬ブームと並び、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている。 朝日新聞のコラム『天声人語』は、「馬の名で浮かぶ時代がある」とした上で、「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として、テンポイントとともにハイセイコーを挙げている。赤木駿介は、ハイセイコーブームとは「表面的な物質享楽と、加速度的なインフレーションの谷間に落ちて」何かに飢えていた大衆が、マスコミの露骨な商業主義を感じ取りつつも、「一個の動物でしかすぎないサラブレッドに、純粋なるものを求めた」ものであり、「世相の反映であり、70年代の1つの象徴といえよう」と評している。競馬評論家の井崎脩五郎は、「1970年の3月6日に生まれ、1970年代を突っ走り、1979年の日本ダービーを自らの産駒が勝ったハイセイコーこそ、この10年の代表馬であったと、当然のことのように思い返すのではないだろうか。」と述べている。競馬評論家の石川ワタルはハイセイコー、テンポイント、オグリキャップの三頭を「ファンの心を捉えて離さなかった三頭」と評し、その中でもハイセイコーは「"大衆賞"にふさわしい元祖アイドルホースだった」と述べている。日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」の元編集責任者の和田久は、ハイセイコーとオグリキャップを「公営競馬から来たその生い立ちからして同一視されるところがある『ヒーロー』だが、全く別なヒーローであった。しかし、たしかに時代が必要としたヒーローでもあった」と述べている。 前述のように、ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集めた。このことについて日刊競馬解説者の吉川彰彦は2005年に、「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか、今思ってもやはり不思議だ。」と振り返っている。ライターのかなざわいっせいは、オグリキャップの中央競馬移籍が決まった際のメディアの報道の仕方について、ハイセイコーのそれと比較すると「東京湾でハゼが3匹釣れた程度のニュースでしかなかった」と述べている。 当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や橋本邦治(元日刊スポーツ記者)は、血統的には決して無名の出ではないハイセイコーをマスコミが擬人化し、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」、「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というストーリーを作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託したのだと分析している。読売新聞記者の片山一弘は、そのようなストーリーが、高度経済成長期の学歴社会において、判官びいきを伴った共感を集めたのだと述べている。渡辺敬一郎は「思えばハイセイコーが走った時代は、日本の高度経済成長期であり、地方から都会に出てきた人々が、人気に火をつけ、それがあっという間に老若男女、年齢を問わない超人気アイドルになっていったのだ」と述べている。 前述のように誕生した年の夏には生産した武田牧場場長の武田隆雄から「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と喧伝され、地方でデビューしたのは、単に当初ハイセイコーを所有した(株)王優が地方の馬主資格しか持っていなかったために過ぎなかった。江面弘也によると、前述のように(株)王優への売却に際して武田牧場は大井でデビューさせた後中央へ移籍させるという条件を付けていたといい、さらに2代目の馬主であるホースマンクラブは有力な生産牧場を出資者とする組織で、ハイセイコーは中央へ移籍した時点で既に将来種牡馬となることが想定されていたという。 ハイセイコーが大井競馬場でデビューしたのと同じ1972年7月、日本では田中角栄が第64代内閣総理大臣に就任した。朝日新聞be編集グループは、田中角栄が世間の注目を集めていたことがハイセイコーにまつわる「地方出身者の出世物語」が世間の共感を呼ぶ要因になったと示唆し、藤島大は、人々が「鼻持ちならぬエリートをへこませる野武士」田中角栄の姿をハイセイコーに重ねたとしても不思議はないと述べており、和田久も「田中角栄の生い立ちにハイセイコーを擬した論法もあった」と述べている。日本経済新聞記者の野元賢一は、「地方競馬出身馬が中央競馬に乗り込み、エリートを打ち負かす」というハイセイコーの物語が人気となったのは、当時の日本社会が「出自がどうあれ、ある程度の努力をすれば成功できる」という認識を共有していたからだと指摘している。田中角栄は、ハイセイコー引退の1か月前の1974年12月に内閣総理大臣を辞任した。遠山彰は、田中の辞任とハイセイコーの引退により「地方の時代、野武士の時代」が幕を閉じ、「ブランド志向の時代」が再来したと評している。 一方で、山野浩一はハイセイコーは望まれて中央へ移籍した生まれながらのエリートであるとして、その活躍が地方出身で「雑草育ち」の馬が中央のエリート相手に勝ちまくる出世物語とみることを「あまりにも安易な虚構」と批判している。父のチャイナロックはハイセイコーの登場以前にメジロタイヨウ、タケシバオー、アカネテンリュウと三頭の八大競走勝ち馬を輩出し、ハイセイコーが中央へ移籍した1973年にはリーディングサイアーとなる好成績を収めた種牡馬で、母のハイユウも南関東の地方競馬で16勝を挙げていた。阿部珠樹は「野武士どころか上級の血統馬であり、最初から中央にいれば、クラシック候補と騒がれたかもしれない血統背景を持っていた」と述べ、関口隆哉は、「ハイセイコーが生まれた70年当時の感覚としては、モダンな血筋を受け継いだ、血統的な期待も大きい馬だったことは間違いない」と述べている。 赤木駿介は、マスコミがプロ野球の読売ジャイアンツとON砲(王貞治・長嶋茂雄)に代わる「売り」となる素材を探す中でハイセイコーに注目が集まり、「マスコミの巨大な力が、じわじわと世評を育んで」いったのだと述べている。一方藤島大は、ハイセイコーの物語が支持されたのは、単にマスコミが仕立てたからだけではなく、人々もそれを願ったからだと述べている。島田明宏は、ハイセイコーは長嶋茂雄と1973年5月に週刊少年マガジンにおける連載が完結した「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈に代わる「時代が求めた正統派のヒーローだった」と評している。ハイセイコーは野球選手の江川卓、プロゴルファーのジャンボ尾崎の両名と共に「怪物」として並び称され、「江川尾崎にハイセイコー」というキャッチコピーも流れた。 横尾一彦は、ハイセイコーブームが起こった1973年はオイルショックが起こりインフレーションに見舞われた、それまでの好景気が一転して不況に陥った年であり、庶民が「せめてもの慰み」としてハイセイコーに関心を寄せた可能性を示唆している。歴史学者の本村凌二(雅人)は、日本の経済成長に陰りが見える中、カネのためではなく純粋に競走馬として走るひたむきな姿が、「何でもカネ、カネ」という生き方に疑問を持ち始めていた人々の胸を打ったのだと分析している。 東京優駿で敗れると、マスコミの中には「ただの馬」、「落ちた偶像」、「"敗"セイコー」などと叩くものも現れた。しかし前述のようにその人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。鈴木康弘も、東京優駿に敗れたことでかえって多くの手紙や電話が寄せられるようになり、「応援が足りなかったんでしょうか」と書かれた手紙も届いたと回顧している。広見直樹は東京優駿以降のハイセイコーについて、「挑戦者としてライバル(タケホープ)に一矢報いる戦いが始まった」、「畏怖の念すら感じさせたヒーローが、身近で守ってあげたくなる存在として帰ってきた」と表現し、同時にファンも「アイドルを迎えるように温かい眼差しで応援することにした」のだと述べている。高見沢秀はこうした現象を、ファンが東京優駿での敗北という信じがたい悪夢を現実として見つめ直した後、「また新しい夢を見せてくれる存在としてハイセイコーを支持し続けた」のだと分析している。石川喬司は、挫折を経てなお走り続けるハイセイコーの姿から、ファンは「高度成長の挫折に見舞われた人間界からは失われつつあるものを見出し、その無垢な生物の素顔にしびれた」のだと述べている。阿部珠樹は、ハイセイコーが宝塚記念と高松宮杯を連勝した頃には「もうハイセイコーの勝敗は、ファンにとって、あまり問題ではなくなってきていた」と述べている。 遠山彰は、ハイセイコー人気が高まる中、女性や子供のファンからファンレターやプレゼントが届いたことをきっかけに「男ばかりのギャンブルの世界」が変質し始めたと分析している。競馬評論家の原良馬によると変化は「汚い」「暗い」「怖い」という目で見られていた競馬場にも及び、ハイセイコーが活躍した頃から女性ファンの姿が見られるようになった。片山一弘も、「中年男のものだった競馬場に...若い女性が集まり、黄色い声援が飛び交うようになった」ことを指摘し、ハイセイコーの出現によって日本の競馬が、ギャンブルからレジャーに転換したと評価している。高見沢秀は、それまでギャンブルに過ぎなかった日本の競馬が、ハイセイコーの出現によってカルチャーとエンターテインメント、ギャンブルを横断する独特のジャンルへと変貌したと分析している。広見直樹はハイセイコーを「競馬を単なるギャンブルから大衆の娯楽にまで広めるきっかけを作った立役者として語り継がれるべき名馬である」と評している。結城恵助は、1988年にオグリキャップが出走した高松宮杯が1974年にハイセイコーが記録した入場記録に及ばない3万812人だったことについて、オグリキャップ人気は「純粋に競馬を愛好する人たちに支持された地に足が着いたもの」であると述べ、一方でハイセイコー人気は「一目パンダを見ておこうというのに通じるブームだった」と評している。 『日本中央競馬会50年史』は、ハイセイコーブームが従来の「公営競技=ギャンブル=悪」というイメージを脱し、競馬が健全な娯楽として認知される基盤を築く一因となったと評している。管理調教師であった鈴木勝太郎は、ハイセイコーの登場により競馬新聞を人前で読むのが憚られるような雰囲気が解消され、「あの馬のおかげで、競馬そのものが真っすぐな方向に変わったように思います」と述べ、横尾一彦も同様に、「ようやく『私は競馬ファンです』と胸を張れる時代がやってきた」と述べ、作家の典厩五郎は「(ハイセイコーが生まれた昭和45年ごろの競馬場は)修羅場であり博奕場で、義理と人情の男の世界。女なんて穴場(投票場)のオバチャン以外に見たこともなかった」という『競馬=根暗』のイメージが、ハイセイコーの出現によってぶち破られたと述べている。 ハイセイコーのファン層は子供や女性、老人など馬券を購入せず、ハイセイコー以外の競走馬に関心を抱かない人々にまで広がった。中には、子供に喝を入れるときに「ハイセイコーみたいにがんばりなさい」と言った親もいた。片山一弘は、こうした点でハイセイコーは「競馬という枠組みを超えたスーパースター」であったと評している。鈴木康弘はハイセイコーのファンがギャンブルを抜きに、愛情をもってハイセイコーに接したことに感動を覚えたと回顧している。ファンの中にはハイセイコーを見ようと厩舎を訪れるファンも多く、夏休みの時期には親に連れられて子供のファンが多く厩舎を訪れたという。鈴木康弘によるとある時3人の女子中学生が厩舎を訪ね、「ブラシについたたてがみでいいからほしい」と言われて「『そういうものでも欲しいのか』と驚かされましたね」といい、1975年1月に明和牧場へ向かう前日には宇都宮市に住む小学生の男児から「ハイセイコーの馬運車は、何時ごろ、宇都宮を通るのですか」という長距離電話がかかってきたという。阿部珠樹は「こうした愛され方をした馬は、後にも先にもいないだろう」と述べている。増沢はハイセイコーが女性ファンに人気を集めた要因として、「綺麗な顔をしていて、真っ黒な馬体もバランスが取れて見栄えがする」ということを挙げている。 ハイセイコーのもとには日本全国から多くのファンレターが届き、「東京都 ハイセイコー様」という宛名だけ書かれたはがきが東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に届いたこともあった。ファンレターの中には「死んでしまおうかと思っていました。でも、あなたの懸命に走る姿に心打たれ、自殺を思いとどまりました。」という内容のものまであり、引退後も年賀状やクリスマスカード、誕生祝いなどが届いた。明和牧場責任者の堤益登は、当初はファンレターに返事を書いていたが、あまりに数が多いため葉書にスタンプを押して送り返すようにしたという。浅草のブロマイド屋のもとにはハイセイコーのブロマイドを求める声が多く寄せられ、写真を撮らせてほしいとブロマイド屋が厩舎を訪れたこともあった。 ブームが高まるとハイセイコーは少年雑誌や女性週刊誌など、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった。阿部珠樹はハイセイコーが少年雑誌の表紙に登場したことについて、「それまで健全な市民社会の対極にあるものとみなされていた競馬の世界では、考えられないことだった」と述べている。ハイセイコーが東京優駿に出走した1973年5月27日には、ギャンブル嫌いの漫画家である長谷川町子が、朝日新聞朝刊に連載中の『サザエさん』でハイセイコーを取り上げた。5歳時の1974年に旧日本海軍少尉の小野田寛郎がフィリピン・ルバング島から29年ぶりに帰国した際、小野田は「ハイセイコーは知っています」というコメントを残した。 ハイセイコーが中央競馬で現役生活を送った1973年・1974年の2年間において、1973年は馬券売上額が33.55%、入場者数が15.64%、それぞれ前年よりも増加し、翌1974年は馬券売上額が前年よりも17.52%増加した。レース単位でみると、1973年には前述のようにNHK杯で中央史上最多となる16万9174人の観客が入場し、東京優駿における馬券の売り上げは従来の記録を7億円も上回る96億8349万3900円を記録した。菊花賞の馬券売上額は98億4813万5400円と同レース史上最高となり、有馬記念での馬券売上額は中央史上最高の124億4197万にのぼった。有馬記念が施行された12月16日の開催1日の馬券売上額も154億6847万3600円と史上最高であった。翌1974年の有馬記念では前年の記録をさらに更新し、同レースの売上額が136億4668万円、レース当日の売上額が172億7956万8600円を数えた。日本経済が1973年から1974年にかけて起こった第一次オイルショックの影響から国内消費の低迷に見舞われる中、中央の馬券売上額はハイセイコーの引退後も上昇を続け、「不況に強いギャンブル」という神話が誕生した。野元賢一は、1970年代前半における中央の馬券売上増加を支えたのはハイセイコーであると評している。 ハイセイコーの競走生活においては、タケホープとのライバル関係が注目を集めた。ハイセイコーの出走した東京優駿、菊花賞、天皇賞(春)を勝ったタケホープは、ハイセイコーの終生のライバルと呼ばれ、ハイセイコーのファンからは敵役として憎まれた。2頭の関係は「人気のハイセイコー、実力のタケホープ」(日本中央競馬会)、「ライバルというよりヒーローとヒール」(広見直樹)と評され、典厩五郎はプロ野球に例え、「ハイセイコーがひまわりこと長嶋茂雄なら、タケホープは月見草こと野村克也のような存在だった」と言い表している。 タケホープが東京優駿を勝った時、多くの者は「無欲のチャレンジが生んだフロック勝ち」と受けとめた。同馬の管理調教師であった稲葉幸夫もハイセイコーに勝てるという気持ちをさほど強くは抱いておらず、レース後には「あれだけの人気馬を負かしてしまって、すまないなあ」という思いすらしたという。しかし東京優駿をフロックで勝ったという見方に対して稲葉は反発し、菊花賞出走時には「ハイセイコーを負かして、なんとか、フロックのダービー馬という声を消したい」と願うようになっていた。東京優駿でタケホープに騎乗していた主戦騎手の嶋田功の息子はハイセイコーのファンであり、母親(=嶋田の妻)に泣き付いたという話も伝えられている。ただし、後に騎手となる田原成貴はタケホープが東京優駿においてハイセイコーを破ったことに強い感銘を受け、騎手を志した。田原は東京優駿でタケホープの鞍上を務めた嶋田功のガッツポーズを見て「日本一強い馬を、あの人がやっつけた」と感じたといい、もしタケホープに乗っていたのが勝ってもガッツポーズをしないような地味な騎手であったら、騎手を志していないか、自身も地味な騎手になっただろうと述べている。 嶋田功は、東京優駿の3日前に東京競馬場で受けた取材で「ダービーは勝てる。(ハイセイコーは)負かせられない相手ではない」、「ハイセイコーも4本脚なら、タケホープもおなじ4本脚だ」、「ハイセイコー、ハイセイコーってみんなむこうへ行っちゃってるけどさ。オレのタケホープだって、馬なんだよ」というコメントをした。当初嶋田は東京優駿ではまだ勝てないだろうと考えていたが、ハイセイコーのNHK杯出走を知ると、「これで東京優駿まで余力が残らない」と推測し、しめたという気持ちになったという。加えて当時のタケホープの体調は非常に良く、嶋田は厩舎関係者に対しても「勝てる」と宣言していた。さらに渡辺敬一郎によると、嶋田は早い時期から「あれだけの人気馬だから、ひとつのレースも手抜きはできない。だから、ずっとやっていけば疲労が重なり、大事なところで反動がくる」とハイセイコーの辛さについて予言していたという。タケホープの厩務員の萩原武夫によると、タケホープはダービーに向かって「信じられないような上昇ぶり」を見せ、この時点ではまだハイセイコーにはちょっとかなわないかもと思っていたが、ハイセイコーのNHK杯出走を知って「しめた」と思ったといい、「それまでも目いっぱいに来てるんだから、NHK杯で、もうおつりがなくなっちゃうぞ、と思ったんだ」と述べている。なお、萩原は大井競馬場時代にハイセイコーの母のハイユウを厩務員として担当しており、「不思議な因縁だなあって、変なところで懐かしい気持ちになったよ」と回顧している。 タケホープは京都新聞杯で8着に敗れたことで菊花賞でもフロック視されて当日は6番人気で出走したが、この菊花賞を勝ったことでようやくハイセイコーのライバルとして認知されるようになり、同時に「アイドルホースの仇役」という役回りも担うこととなった。また、菊花賞以降タケホープは出走したすべてのレースでハイセイコーと対戦した。これについて山野浩一と江面弘也は、ハイセイコー陣営が意図的にタケホープに合わせたローテーションを組んだのだと述べている。1973年(菊花賞の後)と、1974年(有馬記念の後)には、2頭によるマッチレースが企画されたが、実現には至らなかった。石川喬司は1974年の有馬記念前には報知新聞に「もし有馬記念が、ハイセイコーとタケホープたった2頭のマッチレースで行われるとしても、中山競馬場は満員になるに違いない」という文を寄稿している。 対戦を重ねるうちに、タケホープは長距離で、ハイセイコーは中距離で強さを発揮することが明らかとなっていった。稲葉はタケホープが天皇賞(春)を勝った後、同馬について、父インディアナの個性を受け継いだステイヤーで「2400m以上ならどの馬にも負けない自信を持ってます」とコメントしている。東京優駿と菊花賞、3200mの天皇賞をすべて勝ったのはシンザン以来史上2頭目であった。一方、ハイセイコーについては2000m以下のレースで14戦12勝2着2回と連対を外したことがないにもかかわらず2400m以上のレースでは一度も勝ったことがなく「極端に弱かった」ことが指摘されている。鈴木勝太郎は前述のように弥生賞について「レース中にカッとなるところがあって、これは2000mまでの馬かなと思った」と振り返り、東京優駿の敗因として距離が長すぎた可能性を挙げ、「体型的にハイセイコーは2000メートルまでで絶対的な強さを見せる馬なのかもしれない」と語り、天皇賞(春)で敗れた後には「やっぱり距離のカベとしかいいようがない」とコメントしている。嶋田功はハイセイコーに対し、「中距離戦では絶対にかなわない」という思いを抱いていたと述べている。阿部珠樹は、距離別のレース体系が整備された時代であったなら、ハイセイコーはマイルから中距離のレースに出走し続けただろうと推測している。 1974年1月に行われたアメリカジョッキークラブカップがタケホープ1着、ハイセイコー9着という結果に終わり、3月になって中山記念に2頭が出走したとき、嶋田功は「今度はタケホープが1番人気になるだろう」と予想していた。しかし1番人気になったのはハイセイコーであり、タケホープは3番人気だったため、嶋田は「どうしてあの馬ばかりが人気を集めるのか」と憤りを覚えたという。 2頭の引退レースとなった1974年の有馬記念では、ハイセイコーのファンはタニノチカラに敗れたにもかかわらずタケホープに先着したことを喜び、両陣営もレース後には優勝したタニノチカラのことではなく互いの着順の先後についてコメントした。マスコミも、タニノチカラの優勝よりも2頭の最後の対決に焦点を当てた報道を行った。 タケホープが東京優駿に出走できたのは、その前に出走した条件戦の4歳中距離特別を勝って獲得賞金額を上積みしたからであった。この時、2着のサクラチェスとの着差はハナ差であったため、競馬史研究家の山本一生は「サクラチェスの鼻がもう少し長かったなら、わが国の競馬の歴史が変わっていただろう」と述べており、ライターの藤野広一郎は「まるでクレオパトラのように美しくて貴重な鼻だった。もしタケホープの鼻がもう少し短かったら、確実にダービーの歴史は変わっていたのである」と述べている。後にハイセイコーの初年度産駒カツラノハイセイコが父の勝てなかった東京優駿を勝った時、2着となったリンドプルバンには嶋田が騎乗しており、東京優駿の前に出走した4歳中距離特別で勝利を収めていた。江面弘也はこれを「競馬の神の粋な演出」と表現している。 種牡馬としては、ハイセイコーが重賞優勝馬を複数輩出したのに対し、タケホープは重賞優勝馬を送り出すことができなかった。山本一生は、タケホープの血統が長距離系の血統の馬が近親交配されていたことで短い距離を苦手としていたことを挙げ、江面弘也は、ハイセイコーが産駒にスピードを伝えた一方で、タケホープは「スピード化という時代の波に飲み込まれ」る形になったと分析している。この事実に萩原は「(タケホープは)種牡馬として成功するためではなく、ダービーを勝つために生まれてきた馬だから、それに不満はない」と述べている。 父のチャイナロックはハイセイコーの誕生までにタケシバオー(1969年天皇賞(春)優勝)、メジロタイヨウ(1969年天皇賞(秋)優勝)、アカネテンリュウ(1969年菊花賞優勝)と3頭の八大競走優勝馬を輩出し、1973年には中央競馬のリーディングサイアーを獲得した種牡馬である。 母のハイユウは競走馬時代に地方競馬(南関東)で16勝を挙げ、レコードタイムを3度記録した馬であった。競走馬時代の担当厩務員は、先述の通り当時大井競馬に在籍し、のち中央でタケホープの厩務員を担当した萩原武夫である。祖母ダルモーガンは1952年(昭和27年)に輸入された「豪サラ」で、産駒にはハイユウのほか、ショウゲツ(CBC賞優勝)やオオクラ(天皇賞(春)2着)がいる。 阿部珠樹は、ブルードメアサイアーのカリムは短距離で本領を発揮した馬で、ハイセイコーの2000mの京都新聞杯を除いて敗れたレースの距離がすべて2100m以上という競走成績からはカリムの影響が明確に読み取れると分析している。寺山修司も、東京優駿での敗戦の要因として母の父がカリムだったことを挙げている。一方で武田牧場場長の武田隆雄は、ダービーでの敗因について菊花賞で2着になったことを引いて、カリムの血から来る距離の壁が敗因だったとされていることに対して「京都の3000mであれだけのレースができる馬が、東京の2400mで距離の壁に泣いたとは思えない」と否定的な意見を述べている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ハイセイコー(1970年 - 2000年)は、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "※馬齢は旧表記に統一する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞の青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった。5月27日に東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく、むしろ高まり、第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった。このブームは、後年1990年前後に起こった武豊とオグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている。1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、顕彰馬に選出された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "競走馬引退後に種牡馬となった後も人気は衰えず、種牡馬として繋養された明和牧場には観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになり、それまで馬産地を訪れることが少なかった競馬ファンと馬産地を結び付けた。産駒には自身の勝てなかった東京優駿を勝ったカツラノハイセイコをはじめ3頭の八大競走およびGI優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。1997年(平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、2000年(平成12年)5月4日に心臓麻痺のため同牧場で死亡した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場に生まれる。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きく一際目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った。武田は当歳時から中央競馬にいっても十分通用するレベルの馬だと感じ、夏になると、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった。また1957年の天皇賞(春)を優勝したキタノオー以来の「武田牧場の傑作」として期待を集めて新冠町の評判を呼び、2歳時には「新冠の一番馬」という評判を得るようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ハイセイコーは中央競馬の調教師からも中央でのデビューの誘いを受けたが、母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され、ハイユウを管理していた大井競馬場の調教師の伊藤正美によって管理されることになった。1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている。1972年(昭和47年)5月、担当厩務員の山本武夫はハイセイコーについて、金沢競馬場の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの能力試験を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1972年6月にデビューする予定であったが、出走を予定していたレースが不成立となった。高橋によるとこれは調教師の伊藤が他の出走馬を見下す発言をしたのに反発した調教師たちが「いくら強くてもレースに出られなければそれまでだ」とお灸をすえる意味で故意に管理馬の出走を回避したためであったが、後になって「ハイセイコーとの対戦に恐れをなして出走を回避した」と解釈されるようになったという。翌7月12日、大井競馬場で行われた未出走戦で辻野豊を鞍上にデビュー。このレースを同競馬場のダート1000mのコースレコードとなる59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけて優勝した。従来のレコードはヒカルタカイが記録した1分0秒3で、ハイセイコーは大井競馬史上初めて1000mを1分を切って走った馬となった。この記録を鞍上の辻野に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4コーナーでは馬体を傾けながら走ったためバランスを取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後、ハイセイコーは大井での最終戦となった11月末の青雲賞にかけて常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成、大井での全6戦で2着馬につけた着差の合計は56馬身、平均着差は9.3馬身に達した。2戦目の条件戦では2着のセッテベロナにおよそ16馬身の大差をつけて逃げ切り勝ちを収め、4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の青雲賞で重賞初優勝を達成した。作家の石川喬司は、連勝中のハイセイコーの評判を聞きつけて競馬評論家の大川慶次郎とともにゴールドジュニアを見に大井競馬場へ出かけ、「こいつは、中央に来ても絶対活躍できる」と話し合っていたことを明かしている。晩秋を迎える頃にはスポーツ紙が「大井に怪物現れる」などと報道し始め、調教師の伊藤は5戦目の白菊特別を勝った頃から「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1973年1月12日、ハイセイコーはホースマンクラブに5000万円で売却された。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった。大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1月16日、ハイセイコーは東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に入厩した。この時ハイセイコーは初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せ、この用心深い性格が後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "陣営は移籍初戦として東京4歳ステークス(2月11日に東京競馬場で施行)に出走させようとしたが叶わず、3月4日、増沢末夫を鞍上に据えての弥生賞が移籍初戦となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「地方競馬の怪物」ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集め、ジャーナリズムは「野武士登場」「怪物出現」と書き立てた。弥生賞当日の中山競馬場には朝早くから観衆が集まり、およそ12万3000人の観客が入った。ハイセイコーがパドックに姿を現すと500kgを超す雄大な馬体を見た観客からはどよめきが起こり、発走前にハイセイコーがパドックから競走の行われるコースへ移動した際には、あまりの人の多さに金網近くにいた観客が苦しくなって観客席とコースとを仕切る金網を乗り越え、コース内に入りこむ騒ぎも発生した。しかし、ファンがハイセイコーが目の前を通るたびに歓声を上げたことによってハイセイコーは激しく入れ込んだ上に多量の汗をかき、レース直前に集合合図の旗が振られる前からスタンドはざわめいたことで、これによって興奮したハイセイコーはゲートに近づこうとしなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "陣営はレース前の調教の内容がよかったことから、「勝てる」というかなり強い見込みを持っていたが、芝の馬場を走るのも中山競馬場で走るのも初めてであったため若干の不安も抱いていた。スタートが切られるとハイセイコーが無事にゲートを出ただけで大歓声が上がり、好位置につけるとさらに歓声は大きくなった。しかし、この時のハイセイコーは調教の時とは異なって走りそうな手応えがなく、序盤4番手を追走し3番手で第4コーナーを回ったハイセイコーは単勝1.1倍の1番人気の支持に応える形で勝利を収めたものの、終始増沢に前進を促され、その増沢に手応えを感じさせないままに終わったレースぶりは陣営に不安を与え、「ハイセイコー勝ちましたが、苦しかった!」と実況された。鈴木勝太郎は弥生賞について「レース中にカッとなるところがあって、これは2000mまでの馬かなと思った。それに初めての芝を気にしたのか、直線で追ってもあんまり延びない。まわりで騒ぐほど強いとは思えなかった」と振り返っている。このレースには後にハイセイコーのライバルと目されるようになるタケホープも出走し、ハイセイコーから約7馬身離された7着に敗れていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、中2週で3月25日のスプリングステークスに出走させた。しかし、ここでも好位を進み直線で抜け出すというレース運びで勝ちはしたものの、陣営が期待していたほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。レース後、2着に敗れたクリオンワードの騎手安田伊佐夫が増沢に「おめでとう」と声をかけたところ、増沢は「ありがとう。でも、頼りないな」と返答した。レース後のインタビューでも増沢の表情は冴えず、その模様を中継していたテレビ番組の出演者からは「まるで負けた騎手のインタビューみたいでした」と評された。陣営が弥生賞とスプリングステークスにおいて感じた共通の課題は、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)ことであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した。赤木駿介は、弥生賞とスプリングステークスのレースぶりはともにぎこちなく、「怪物という異名にふさわしいものを感じさせなかった」と評している。一方、当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、弥生賞とスプリングステークスでのレースぶりを、中央競馬移籍に際し喧伝されていた「鋭い差し脚」や「並ぶ間もないスピード」は感じられず、その意味で「どうやらハイセイコーという馬は、われがわれが抱いていたイメージとは、やや違う馬のようであった」と前置きしたうえで、「タイムも速くなく、それほど凄い脚もみせないが、いつも必ず勝つ」、「五冠王シンザンのイメージがオーバーラップしつつある」と評した。ただし、この大橋の分析に対してシンザンの管理調教師であった武田文吾は、「どだいシンザンと比較するのが間違い。ハイセイコーはまだ1冠もとっていない。とれるかどうかもわからない状態だ。シンザンはすでに\"5冠\"を制しているのだ」と反論した。しかし、阿部珠樹によると弥生賞のレース後には一部から「ダービーはおろか、三冠、いや全てのレースを勝ち、シンザンを超えるのではないか」という声が上がるようになっていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前述のように、陣営は弥生賞とスプリングステークスにおける共通の課題として、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)点を認識していたが、調教師の鈴木勝太郎はスプリングステークスの後、調教中にハイセイコーがハミを噛んではいるものの時折舌を遊ばせることに気づき、そのことがハミ受けの悪さに繋がっているのだろうと考えた。対策として陣営は、ハミ吊りを装着することにした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "4月15日、中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞に出走。当日は雨で馬場状態は重となった。ハイセイコーが初めて経験する芝コースの重馬場をこなせるかについて専門家の見解は分かれたが、好スタートを切ったハイセイコーは7番手から徐々に前方へ進出し、第3コーナーで先頭に立つ積極的な戦法をとり、第4コーナーで進路が外側に逸れて2番手に後退するアクシデントに見舞われたもののすぐに再び先頭に立つとそのままゴールし、優勝した。地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは中央競馬史上初のことであった。陣営の努力が実り、皐月賞でのハイセイコーのハミ受けは良好であった。また増沢は、向こう正面でハイセイコーが重馬場を苦にしないことを察知した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "皐月賞を優勝したことによってハイセイコーの人気は競馬の枠を超え、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった。各方面から、「三冠確実」、「日本競馬史上最強馬」という評価すら与えられるようになり、シンザンと肩を並べるのが既定の事実のように語られるようになった。ただし、広見直樹によるとこの日の中山競馬場は「デビュー戦(弥生賞)の混雑ぶりに嫌気が差し、テレビ観戦を決め込んだファンも多く、場内も落ち着きを取り戻し」ていたといい、また競馬評論家の山野浩一は、ハイセイコーの人気と実力とが調和を保っていたのは皐月賞の頃までであったと分析している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "皐月賞優勝後は、クラシック第2戦の東京優駿(日本ダービー)が目標となった。しかしハイセイコーには同レースが施行される東京競馬場のレースに出走した経験がなく、そのせいで陣営はローテーションを巡って、具体的には東京優駿の前にトライアルのNHK杯に出走させるかどうかを巡って、難しい判断を迫られることになった。ハイセイコーは前述のように用心深い性格をしており、初めて走るコースでは様子を探りながら走る傾向があった。例年多くの競走馬が出走する東京優駿で様子を探りながら走れば、馬群から抜け出せず十分に能力を発揮することのないまま敗れてしまう可能性があった。陣営は協議を重ね、最終的には鈴木が「ハイセイコーにとってローテーションはきついが、ダービーを考えると、ハイセイコーをNHK杯に出走させなければならない。」とNHK杯出走を決断した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "NHK杯当日の5月6日、東京競馬場には朝から観客が押し寄せ、午前11時前には国鉄と私鉄の駅に東京競馬場へは入場できない旨の掲示がされた。最終的な観客数は16万9174人で、中央競馬史上最多であった。このレースでハイセイコーは終始インコースに閉じ込められ、なかなか抜け出すことができなかった。増沢は「3着ぐらいか」と敗戦を覚悟し、先頭に立てないままゴールまで残り200メートルとなると、レースを実況していたフジテレビのアナウンサー盛山毅は「ハイセイコー負けるか、あと200だ、あと200しかないよ!」と口走った。しかしここからハイセイコーは鋭い伸びを見せ、ゴール手前でカネイコマをアタマ差交わして勝利を収めた。このレースでのハイセイコーの単勝支持率は83.5%を記録し、配当金は単勝・複勝ともに100円の元返しとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "鈴木勝太郎の子で調教助手を務めていた鈴木康弘は苦戦の原因について、陣営が懸念した通りハイセイコーがそれまで走ったことのない東京競馬場のコースの様子を探りながら走り、なかなか馬群から抜け出すことができなかったためだと述べている。レース後に増沢は「直線でもう負けた。ダメだと思っていたらいつの間にか勝っていました」というコメントを残している。武田牧場場長の武田隆雄は苦戦の原因について、重馬場で行われた皐月賞での力走の反動が出たと述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "NHK杯を勝ったことで、ハイセイコーが東京優駿を勝つということはファンやマスコミの間で既成事実化した。大川慶次郎は「あの展開だったら、負けてもおかしくはなかったと。それを勝つのだからハイセイコーは強い、ダービーもこれでしょうがないなと感じました」と当時を振り返り。阿部珠樹は、ファンの間に「『ハイセイコーはなにがあっても負けない』という宗教的信念といったものが生まれた」と当時を振り返っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "NHK杯のレース後、増沢はハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」という印象を抱き、さらに2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出したものの、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し、獣医師は疲労の蓄積を指摘した。しかし、鈴木勝太郎は獣医師から「本調子ではないが、かといって欠場するほどの状態でもない」と伝えられ、「あれだけファンに支持されている馬だし、NHK杯でとても届かないような位置から追い込んだレースぶりから、あの馬の勝負根性に賭けてみたい気もあった」として、東京優駿出走を決意した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "東京優駿当日の5月27日、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時)の66.6%に達し、単勝馬券の売り上げの約4億7000万円のうち約3億2000万円がハイセイコーに投じられ、単勝オッズは1.2倍を記録した。このレースで増沢は、展開次第で逃げることも視野に入れつつ先行策をとって3、4番手を進もうとしていた。しかし、スタート後の第1コーナー手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ、さらにインコースに入りすぎてしまった。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、向こう正面でハイセイコーを馬群の外へ誘導した。第3コーナーに差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと第4コーナーの中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、タケホープとイチフジイサミに交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた。タケホープが記録した勝ちタイムの2分27秒8は、前年の勝ち馬ロングエースが記録したレコードタイムを0秒8更新し、タケホープの管理調教師の稲葉幸夫、鞍上の嶋田は前週ナスノチグサで優勝したオークスに続いて、2週連続でのクラシック勝利となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにした東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれたという。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの視聴率はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった。レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し、「体型的にいってハイセイコーは2000メートルまでで絶対的な強さを見せる馬なのかもしれない」と語った。増沢も距離と左回りに対する不安を語り、またレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げ、1982年のダービー前に受けたインタビューにおいてこの時のダービーを念頭に「ダービーだけは、どんなに強い馬でも勝てないことがあるんですよ。力があって、そこに運がなければ、ダービーはとれませんね」と発言している。レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られたものの、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった。勝ち馬のタケホープに対しては、作家の典厩五郎によると「パラパラと小さな拍手があったのみ」であり、「ダービー馬があれほどもの静かに、あれほど冷淡に迎えられたことがあっただろうか」と回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけた時に「もう、だめだ、5着もあぶないだろう......」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている。石川喬司は、「直線でタケホープとイチフジイサミにかわされたとき、ハイセイコーがチラッとスタンドに視線を向けたような気がした」と回顧し、「まるでボクはもうダメです、と訴えているように見えた。あの視線は忘れられない」と振り返っている。詩人の寺山修司は、日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」誌上で自身が執筆したダービーの観戦記の中で「ダービーに出走してきたのは、ハイセイコーではなかった。あれは、ハイセイコーに瓜二つの公営の馬だった」、「並外れた能力の持ち主だが母の父馬がカリムなので距離が少し苦しい。関係者は、ハイセイコーをベルモントステークスに出走させてセクレタリアトの三冠を阻むためにニューヨークへ空輸してしまい、レースに出走したことがない替え馬専門の馬が留守を務めることになった」という持論を展開し、「ハイセイコーがタケホープに負ける訳がない」と述べた。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた栗田勝はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中で最も実力があるのはハイセイコーだと述べた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "東京優駿の敗戦は「不敗神話の崩壊」、「『怪物性』が馬脚を現した」、「偶像が虚像と化した」と評され、マスコミは「ついに\"敗\"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べ、阿部珠樹は「ダービーの敗戦は、ハイセイコーをオーソドックスな日本の英雄に変えたといってもよいだろう」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "夏場は気候の涼しい北海道へ移動させず、東京競馬場で調整されることになった。ハイセイコーは暑さに強く、一度涼しい北海道で過ごした後で残暑の残る本州へ戻すリスクを冒すことはないと陣営が判断したためである。鈴木康弘によると、この年の暑さは厳しく体調を崩す馬が多く出たが、ハイセイコーは3日間調教を休むだけで乗り切ることができたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "秋になると陣営はクラシック最後の一冠である菊花賞を目標に据え、前哨戦である京都新聞杯に出走させることを決定し、9月18日にハイセイコーを東京競馬場から栗東トレーニングセンターへ輸送した。10月21日に行われた京都新聞杯では1番人気に支持され、皐月賞と同じような先行策をとり、向こう正面で3、4番手から2番手に進出したが、第4コーナーで増沢が馬場状態の悪いインコースを嫌って大きく外を回ったところ、トーヨーチカラ、シャダイオー、ホウシュウエイトがインコースを通ってハイセイコーに並びかけ、激しい競り合いとなった。結果、トーヨーチカラには半馬身遅れをとり、シャダイオーにアタマ差競り勝ち2着でゴールした。鈴木勝太郎はレース後、第4コーナーで外を通り過ぎたことや初めて走る京都競馬場のコースにハイセイコーが戸惑いを見せたことを敗因に挙げ、「これで菊花賞への目安が立ちました」とコメントした。このレースは関西テレビでの競馬中継において杉本清が実況を担当したが、杉本は「京都競馬場の白鳥もうっとり、これが噂のハイセイコーです」「どうだハイセイコー、この淀の走り心地はどうだ」というフレーズを発した。このフレーズに大きな反響があり、この京都新聞杯が自身の実況が「杉本節」と呼ばれるきっかけになったと述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "11月11日、菊花賞に出走。1番人気に支持されたハイセイコーであったが、東京優駿で66.6%あった単勝支持率は23.8%に落ち込んでいた。先行策をとったハイセイコーは第3コーナーの手前で先頭に立ち、第4コーナーでは後続を5馬身から6馬身引き離したが、直線でタケホープが追い上げを見せ、2頭はほとんど同時にゴールインした。写真判定の結果、ハナ差でタケホープが先着しており、ハイセイコーは2着に敗れた。タケホープはハイセイコーも出走した京都新聞杯で13頭中8着に敗れており、レース後嶋田功は「ダービー前の状態に近くなってきた」とコメントしていたが、調教師の稲葉幸夫によるとレース前の3日間で体調が大きく上向き、「こわいみたいないい状態」になっていた。タケホープに騎乗した武邦彦は、ハイセイコーが「馬体を合わせるともうひと伸びする、競って強い馬である」という特徴を掴み、直線で最後まで馬体を併せず、ゴールでわずかに前に出るという乗り方を行っていた。寺山修司はこのレースでの武の騎乗を指して、「(ハイセイコーは)タケホープに負けたんじゃない。武邦に負けたんだよ」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "関西テレビの競馬中継では前走の京都新聞杯に続いてこの菊花賞も杉本清が実況を担当したが、杉本によるとこのレースはハイセイコーが生まれた武田牧場と二元中継を行っており、「スタッフ一同としてはどうしても勝ってほしい気持ちでいっぱいだった」と述べている。杉本は3コーナー付近でシンザンの主戦騎手を務めた栗田勝から教えられた「(京都の3コーナーは)抑えて上り、抑えて下らなければいけません」という言葉を思い出し、「ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと下らなければいけません」というフレーズを発した。ゴールの直後も杉本はタケホープがちょっと出たな、と思ったが、ゴールした瞬間に武田牧場の従業員の顔がテレビに映されたため、「『タケホープ勝った』とは言いにくかったから、『ほとんど同時』というようなことを言った」と当日の実況について回顧している。11月14日、ハイセイコーは東京競馬場の厩舎に戻った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "12月16日、ハイセイコーは有馬記念に出走した(タケホープは出走を回避)。有馬記念ではファン投票により出走馬を選出するが、この年のファン投票でハイセイコーは有馬記念史上最高となる投票者の90.8%に支持され、1位で選出されていた。1番人気に支持されたハイセイコーは4、5番手を進んだが、ハイセイコーよりも後方を走るタニノチカラやベルワイドをマークした結果、逃げたニットウチドリや同馬を第3コーナーでいち早く追いかけたストロングエイトを交わすことができず、3着に敗れた。レース後増沢は、向こう正面で先頭に立つことも考えたが、タニノチカラに勝つためにはそうするべきではないと思いとどまったとコメントした。タニノチカラに騎乗した田島日出雄は、ハイセイコーとマークしあった結果、先行馬有利のレースになったと分析した上で、「最初からハイセイコーを負かせば勝てるつもりで乗っていた。それがクビ差とはいえ抜けなかったんだから、やっぱりハイセイコーが一番強いです」と述べた。なお、田島はレース前に記者たちに対して、「ハイセイコーには絶対に勝つ。新聞にもそう書いてくれ」と豪語していた。大橋巨泉は増沢と田島の騎乗を「『相手に勝つこと』ばかりにかまけて、『レースに勝つこと』を忘れたといわれても仕方があるまい」と批判し、スポーツニッポン記者の山中将行も「あまりにも消極作戦でずるずると敗れた両雄の不甲斐なさ」への不満を表明した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1974年の優駿賞年度代表馬選考ではタケホープが年度代表馬に選出されたが、ハイセイコーの人気が絶大でありそのことは入場者数などに現れていることを根拠に、「1年を象徴するのが年度代表馬であるなら、ハイセイコーであっても不思議はない」という異論が出た。この意見は「ダービー、菊花賞の重さにおよぶはずはない」と退けられたものの、ファンを湧かせた功労を無視することはできないとして「大衆賞」が与えられ表彰された。中央競馬の年度代表馬選考において、特別賞が授与されたのは史上初のことであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "陣営は1974年(昭和49年)の初戦として1月20日のアメリカジョッキークラブカップを選んだ。ハイセイコーは1番人気に支持されたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足していたとコメントし、その理由について激戦が続いたことによる疲れが出たのではないかと述べた。鈴木康弘によるとハイセイコーはレース後に微量ではあったものの鼻血が出始めていて、後にこれが肺から出ていたことが判明したため、当初は敗因を冬の稽古で絞れなかったことと考えていたが、「とにかく出るレース全部全力投球なんで、目に見えない疲労が少しづつ、体の内部に広がっていったんでしょう」と分析している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "3月10日、中山記念に出走。ハイセイコーは1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちし、前年のNHK杯以来10か月ぶりとなる勝利を挙げた。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "中山記念の後、ハイセイコーは天皇賞(春)に備えて4月初頭に栗東トレーニングセンターへ輸送された。5月5日に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた。前年の11月20日に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、ワシントンDCインターナショナルなどに出走するという計画は、この敗戦により中止された。また、この頃からハイセイコーは従来の呼称であった「怪物」ではなく、「怪物くん」という愛嬌のある呼称で呼ばれるようにもなっていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "6月2日、宝塚記念(第15回)に出走。このレースで単勝1番人気に支持されたのはストロングエイトであり、ハイセイコーはデビュー以来初めて単勝1番人気に支持されなかった。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした。タケホープは天皇賞(春)出走後に屈腱炎を発症し、休養に入っていた。増沢は後に、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "さらに同月23日、高松宮杯に出走。レース当日、中京競馬場には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入場した。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、メジロアサマの記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "6月27日にハイセイコーは東京競馬場へ戻り、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け、秋になって10月13日の京都大賞典に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという負担重量が響く形でタニノチカラの4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営は、天皇賞(秋)へのステップレースとして11月9日のオープン戦を選び、タケホープも出走したこのレースでハイセイコーはヤマブキオーの2着となった。しかしレース後に鼻出血が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "12月15日、引退レースの有馬記念に出走。レース前に行われたファン投票では、前年に続き1位に選ばれた。レースではタニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2頭の競り合いに観客は優勝馬がすでに決まっていたにもかかわらず湧き上がり、ハイセイコーが2着でゴールした瞬間にスタンドからは一斉に拍手が沸き起こり、テレビ中継のカメラは勝ったタニノチカラではなくハイセイコーを大映しにした。増沢はこのレースを、体調がいま一つであったため2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ハイセイコーがゴールした後、テレビの中継番組は増沢が11月に吹き込みを済ませていた楽曲『さらばハイセイコー』を流し、勝ったタニノチカラへの言及もそこそこに、ハイセイコーが引退レースでタケホープに先着したことを繰り返し伝えた。タニノチカラに騎乗していた田島日出雄によると、『さらばハイセイコー』は現地の観客スタンドにも流されていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の小坂巖が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章をポリドール・レコード関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、猪俣公章が作曲を担当した。1975年(昭和50年)1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオのヒットチャートで1位を、オリコンのヒットチャートで最高4位を獲得し、50万枚を売り上げた。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1975年1月6日、『さらばハイセイコー』が流れる中、東京競馬場で引退式が行われた。スタンド前から走り始めたハイセイコーはゴール板を過ぎたところで動かなくなり、再び走り出すとそのまま芝コースを1周した。引退式でコースを1周したのは中央競馬史上初のことで、これは第4コーナーから500mほど走らせるという一般的な方法ではなかなか走るのをやめようとしないだろうと陣営が判断したためであった。引退式に先立ち、1974年12月26日には東京競馬場で「ハイセイコーとファンの集い」が催され、4000人あまりのファンが集まった。この場で増沢は、『さらばハイセイコー』を披露している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1月7日、ハイセイコーは北海道新冠町の明和牧場で種牡馬生活を開始するために馬運車に乗せられて厩舎を離れ、翌8日の夕刻、明和牧場に到着した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ハイセイコーの人気は種牡馬となってからも衰えなかった。後藤正俊は種牡馬としてのハイセイコーの最大の功績として競馬ファンと馬産地とを結びつけたことを挙げ、それまで馬産地を訪れる競馬ファンは少なかったが、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると、観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになった。その後も「ハイセイコー見学」はバスツアーの欠かせないコースとなり、明和牧場は年間数万人が訪れる名所となった。明和牧場ではハイセイコー専用の放牧場を用意してファンの訪問に備え、これに合わせてファンがハイセイコーを見るための展望台も作られ、グッズも飛ぶように売れた。1976年(昭和51年)公開の映画『トラック野郎・望郷一番星』にハイセイコーが出演すると新冠町の知名度が高まり、町がハイセイコーの名を冠したブランドを作って特産品の野菜を販売したところ、爆発的な売れ行きを見せた。日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」の元責任編集者の和田久によると、1975年2月に札幌市で行われたさっぽろ雪まつりではハイセイコーの雪像が作られ、ひっきりなしに「さらばハイセイコー」が流れていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1977年(昭和52年)10月にはデビューした大井競馬場において、「ハイセイコー 大井に帰る」と題されたイベントが3日にわたって催された。高橋三郎によると、この時京浜急行電鉄立会川駅から大井競馬場にかけて、「東京ダービーや東京大賞典の当日ですら見られないほどの人だかりができた」という。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ハイセイコーは種牡馬となった初年度に72頭の繁殖牝馬と交配した。しかし、小柄な馬が多く生まれたこと、産駒の出来不出来の差が激しいといった理由から2年目以降交配頭数は44頭、38頭、29頭と減少していき、種付け料も初年度は80万円に設定されていたが、1979年には40万円にまで下落した。種牡馬としてもクラシックレースに強い血を受け継ぐタケホープを高く評価する人物も多かったが、初年度の産駒からカツラノハイセイコ(東京優駿、天皇賞(春)優勝)など複数の活躍馬が現れたことで種牡馬としての人気を盛り返し、5年目以降は10年連続で50頭以上と交配した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "カツラノハイセイコはハイセイコーと同じく1番人気で東京優駿に出走し、ジャーナリズムは「父の無念を晴らせ」「内国産の夜明け」と期待を書き立てた。その東京優駿を優勝したことで「親の無念を晴らした孝行息子」として大きな話題を集め、東京優駿優勝時には一般紙でも大きく取り上げられ、その活躍はファンの間でも熱狂的に迎えられた。父内国産馬の東京優駿制覇は1959年のコマツヒカリ(父トサミドリ)以来20年ぶりの事であり、カツラノハイセイコに次ぐ2着に入ったリンドプルバンの鞍上は、タケホープで東京優駿を制した嶋田功だった。同馬を管理した庄野穂積のもとには、初勝利を挙げた頃から激励の手紙やお守りを同封した子供からの手紙が殺到し、1979年には増沢の吹き込みによるレコードシングル『いななけカツラノハイセイコ』が発売され、7万枚を売り上げた。血統研究家の吉沢譲治は、1990年の東京優駿前にハイセイコーの種牡馬生活を振り返った際に、「もしもカツラノハイセイコが出ていなかったら、その後のハイセイコーがどうなっていたか分からない」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1980年代に入り世界的な広がりを見せていたノーザンダンサーの血統がブームとなると、ハイセイコーの血統は時代遅れであるとみなされ始める。内国産種牡馬もトウショウボーイやマルゼンスキーが次々とクラシックレースの優勝馬を輩出していき、そのような中でハイセイコーも散発的ではあったが活躍馬を輩出し続け、中央・地方を問わず産駒が走ったことで依然生産者の間での人気は高かったものの、80年代後半になるとそれも落ち始め、「種牡馬ハイセイコーは終わった」という見方が広まっていった。しかし1989年にサンドピアリスがエリザベス女王杯に優勝すると、1990年にはハクタイセイが芦毛馬として初となる皐月賞優勝を果たして親子制覇を達成、牝駒のケリーバッグも桜花賞で2着と健闘した。地方競馬でもアウトランセイコーが大井の黒潮盃を制するなど活躍馬が集中し、一時90万円まで下がっていた種付け料は再び100万円台半ばに回復した。1990年、ハイセイコーは地方競馬のリーディングサイアーを獲得した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1984年には競馬の殿堂の顕彰馬に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した大川慶次郎は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が選定の決め手になったと述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ハイセイコーは1997年の交配を最後に種牡馬を引退し、明和牧場で余生を過ごした。2000年5月4日午後、同牧場の放牧地で倒れているのが発見され、獣医によって死亡が確認された。死因は心臓麻痺。競走馬時代の主戦騎手で、調教師となり北海道の牧場を巡っていた増沢末夫が死亡の報せを聞いて明和牧場を訪れたところ、ハイセイコーはまだ放牧地に横たわったままで、増沢はその場にしばらく無言で佇み、そしてハイセイコー死亡の連絡を自身に報せた人物に対して涙を堪えるように「ありがとうございます」と伝えたという。5月18日、新冠町のレ・コード館で「お別れの会」が催され、およそ500人が参列した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ハイセイコーの墓は最期を迎えたビッグレッドファーム明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」と記されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "死後、道の駅サラブレッドロード新冠(新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には銅像が建立され、ハイセイコーが大井競馬場時代に優勝した青雲賞は、2001年より「ハイセイコー記念」と改称された。また、2000年8月には「さらばハイセイコー」が追悼版CDとして再発売された。2004年2月にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中山競馬場で施行された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "関係者の証言によるとハイセイコーの馬体は生まれた時から大きく、デビュー前の時点ですでに他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備え、4歳の時点で古馬のように完成されていた。加えてハイセイコーはバランスの取れた体型をしていたことで故障に強く、関係者からも馬体について高く評価されている。一方でその馬体は膝下が短く、洗練された気品にはやや欠けていたとも評されている。体格の大きなハイセイコーの走りは重戦車にたとえられた。1974年12月21日に測定されたハイセイコーの馬体のサイズは、体長163センチメートル、体高(キ甲=首と背の境から足元まで)171センチメートル、尻高169センチメートル、胸囲188センチメートル、管囲21.5センチメートルであり、種牡馬としてのハイセイコーの馬体重は1990年の時点で650kgを超えていた。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "鈴木康弘によると、ハイセイコーは心臓をはじめとする内臓が強く、調教を終えると厩舎に戻る前に息が整ったといい、食欲も旺盛であった。サラブレッドの安静時の心拍数は毎分30ないし35拍で一流の競走馬は毎分25ないし30拍といわれるところ、ハイセイコーの心拍数は毎分28拍であった。大井競馬場時代のハイセイコーに騎乗したことのある高橋三郎によると、1971年11月のある日、ハイセイコーが調教後に疲れた様子を見せたのでリンゲル液を注射したところ、リンゲル液が寒さで冷えており、ハイセイコーが体を震わせてショック状態に陥ったことがあった。そのまま倒れると死亡する可能性があったため関係者が10人がかりで支えたところ、崩れ落ちそうになりながらも持ちこたえたという。高橋は「普通の馬だったら保たなかったと思う。よっぽど心臓が強かったんだろうね」と語っている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "厩務員の大場によると、ハイセイコーは皮下脂肪がつきやすい体質で、冬場を苦手としていた。大型馬であるため減量が必要だったハイセイコーの調教は通常でも厳しいものであったが、冬場はいっそう厳しさを増し、「見ているほうが辛くなるときもあるほどだった」と述懐している。逆に暑さには強く、夏が近づくと水を大量に飲み、大量に汗をかいた。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの精神面の長所として気の荒さを挙げており、大井競馬場時代の厩務員山本武夫は、ハイセイコーの性格について「気の荒すぎるところがあり、いったん、いうことをきかなくなったら、テコでも動かなくなる」と評している。ただし荒い反面、気の弱いところもあった。調教師の鈴木勝太郎は、気性の激しいハイセイコーに対応した調教方法を考案した。まず15-15と呼ばれる軽めの調教を1週間ないし10日に一度行い、ハイセイコーには、他の馬と並んで走ると負けまいとして走り過ぎる傾向があったため、他の馬がいないタイミングを見計らって調教を行うなどの工夫をした。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "ハイセイコーは初めて訪れる場所を警戒するところがあり、増沢によれば元々警戒心や注意力の強いサラブレッドの中でも、ハイセイコーは一際そうした傾向が強かったという。鈴木勝太郎はマスコミの取材やファンの来訪を拒まなかったが、神経質なハイセイコーへの配慮から、カメラ撮影に関してのみ厩舎内では行わず決められた場所で行うように要望を出した。厩務員の大場によると、ハイセイコーは「イライラを抑え、ファンサービスに努め」ていたが、5歳になってからはほとんど動じなくなったという。しかし大場は、ハイセイコーの気性を鑑みたうえでハイセイコーブームを「嬉しいような、ちょっとかわいそうなような騒がれ方だった」と振り返っている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "明和牧場元取締役の浅川明彦は競走馬引退後のハイセイコーについて、怖いくらいの威厳を放ち、担当厩務員以外の者の言うことは聞かず、他の馬と喧嘩をすることもしばしばであったと振り返っている。浅川によると明和牧場でのハイセイコーは体調がいいと人に触られるのを嫌がる反面、体調が悪いと注射にも素直に応じるところを見せたという。浅川はハイセイコーについて、神経質さが良い方向に出て、警戒心と注意力に優れた頭のいい馬であったと評している。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "ハイセイコーは引退式でコースを1周した後、速度を落としつつ第1コーナーを過ぎたところで突如立ち止まって首を振り、騎乗していた増沢を振り落した。増沢によると、それまで第1コーナーと第2コーナーの中間地点をゆるやかに通った後はそのまま地下道を通ってコースから出る習慣があったため、引退式でもハイセイコーはコースから出ようとして方向転換を計り、そのことが落馬につながった。増沢はこの逸話を自著で紹介し、ハイセイコーを「じつに利口な馬」と評している。競走馬時代、普段の調教では調教助手の吉田が騎乗したが、増沢が騎乗するとハイセイコーは興奮する仕草を見せた。これについて鈴木勝太郎は、増沢がレースで騎乗することをハイセイコーが理解しているためだと説明した。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "弥生賞当日、発走前に蹄鉄をレース用のものに打ち替えようとしたところ、ハイセイコーは落ち着きをなくし、興奮する様子を見せた。そのため、以降のレースでは当日の早朝に打ち替えが行われるようになった。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "ハイセイコーは前述のように荒い気性と気の弱さを併せ持っていたが、競馬では他の馬と並んで走ると抜かせまいとする勝負根性を発揮した。増沢は、そうした根性、闘争心こそがハイセイコーの真骨頂だと述べている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ハイセイコーは後脚の力が強く、「滑らかさよりも力で走る」タイプの競走馬であり、後脚の蹄鉄は装着してから1週間ほどで擦り減ってしまったといわれている。橋本邦治は、このような特徴を持つ競走馬は長い距離を走るとスタミナを消耗する傾向にあり、ハイセイコーの場合も「2000m以上は駄目」と評価されるような競走成績に繋がったと分析している。鈴木勝太郎はハイセイコーの引退後、当初抱いていた印象について、胴の詰まった体型からこなせる距離は1800mまでで、2000m以上で行われる中央競馬のクラシックでは苦しいと感じたと証言し、予想を覆す活躍を見せたハイセイコーを「大した馬だよ」と評している。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ハイセイコーはストライドの大きな馬で、マスコミは「ひと跳び8メートル」と報じた。高橋三郎は、馬体もストライドも大きいハイセイコーにはダッシュ力はなかったと評したが、その一方で一度加速がつくと他の馬を引き離すほどの速さで走ることができたとも振り返っている。増沢によると跳びの大きい馬は雨が降って状態の悪い馬場を苦手とする傾向があるが、ハイセイコーは得意としたという。杉本清はハイセイコーは跳びが大きいためスピード感がないとしながらも、「見た目にはゆっくり見えるんだけど、実際にはかなりスピードのある馬だったのです」と評し、そのため自然とハイセイコーのペースに巻き込まれてしまって気が付いたら喉が痛くなってしまい、菊花賞を実況した際には一瞬声が出なくなってしまったため、ハイセイコーは実況においてしゃべりにくい馬だったと評している。東京優駿を日本短波放送の中継で実況を行ったアナウンサーの長岡一也も、杉本との対談の中でこの話題となった時に当日の実況で「喉が締め付けられて、声が裏返りながら」実況を行っていたといい、杉本と同様の見解を示している。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "増沢はハイセイコーがスピードに乗った時の感触について、「ぐーんと躰が沈みこんでいく」と表現している。ただし、ハイセイコーは一瞬の切れ味を発揮するタイプではなく、相撲のがぶり寄りのようにジリジリと伸びるタイプだと評している。また首を下げたまま走るハイセイコーとは騎乗時に人馬一体の感覚を味わえなかったとし、「決して乗りやすい馬ではなかった」と評している。一方で鈴木康弘は、クビを少し下げてひたすら前に進もうとする走行フォームが懸命に走っているという印象を人々に与え、共感を呼んだのではないかと述べている。ハイセイコーが連勝していた時期に増沢は、「物凄い末脚を使う馬が出てくるとこわい」とコメントし、鈴木勝太郎も「一瞬の切れ味の鋭い馬」を警戒していた。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "高橋三郎によると、ハイセイコーはダートコース向きの走り方をしていたといい、増沢もダート向きの馬だったと述懐している。鈴木康弘も中央へ移籍してきたハイセイコーを調教で走らせてみてダートでの競走能力を実感したといい、また「大きくて、力強い」走りをするハイセイコーの姿が、自身がイギリスで厩舎経営と馬づくりの修行を行っていた際に実際に目にしていた三冠馬のニジンスキーと面影が重なったと述べている。後藤正俊は、ハイセイコーの現役時代にダートグレード競走が設けられていたら、「セクレタリアト級のぶっちぎり勝ちを続け、ダート史上最強馬として違った形の歴史を作っていたことだろう」と推測している。競馬記者の大島輝久はハイセイコーのダートにおける競走能力を高く評価し、「アメリカのダート競馬で走らせてみたかった」と述べている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "増沢は騎乗した16戦全てで先行策をとった。増沢はハイセイコーの引退後、「1回くらいは追い込んでみてもよかったのではと思う」と述べつつ、それを実行しなかった理由について、「あれで負けたのなら、仕方がない」とファンが納得するレースをするために手堅い戦法をとらざるを得ず、「実験」ができなかったと弁明している。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "大川慶次郎は、ハイセイコーは左回りのコースを苦手としていたと述べており、「右と左でかなり極端なレースをする馬だった」と評している。増沢もかつてNHK杯で抱いた「左回りは右回りほど走らないのではないか」という疑念はハイセイコーの引退後も変わらないと述べている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1991年発行の『優駿増刊号 TURF』が競馬関係者を対象に行ったアンケートでは、「思い出の馬」部門で第5位に選ばれた。1999年に『Sports Graphic Number』が10月に出版した「競馬 黄金の蹄跡」の誌内においては、シンザン、シンボリルドルフ、オグリキャップと共に「その時代に輝いた四大スーパーホース」の一頭に選ばれている。2001年に日本馬主協会連合会が馬主に向けて行ったアンケートでは、「一番好きな競走馬」で第1位、「一番印象に残る競走馬」で第4位、「一番の名馬と思う競走馬」で第6位、さらに「一番印象に残っているレース」で「ハイセイコーが出走した全レース」が第4位に選ばれた。2004年に日本中央競馬会が発行する競馬雑誌『優駿』が行った特集「THE GREATEST 記憶に残る名馬たち」の第1弾「年代別代表馬BEST10」において、ハイセイコーは1970年代部門の第10位に選ばれた。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "『優駿』が1985年に読者を対象に行った歴代最強馬を問うアンケートでは、第18位に選出されている。2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」では15302票を獲得し、8位となった。2010年に『優駿』が読者を対象に行った「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」では第17位、2015年に同じく『優駿』が読者を対象に行った「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」においては第20位に選出されている。また、「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」にランクインした各馬のベストレースの投票において、ハイセイコーは皐月賞が投票率55.5%で第一位、以下1974年の宝塚記念が18.1%、1973年の弥生賞が10.3%という結果となっている。", "title": "特徴・評価" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ハイセイコーの人気、ブームは社会現象ともいえるほどの規模に達し、競馬に興味のない人にまで名が知れ渡り、ブームに巻き込んでいった。国民的アイドルホースとなったハイセイコーは「週刊少年サンデー」や「週刊少年マガジン」の表紙や女性週刊誌の表紙にまで登場し、オグリキャップが登場するまで日本競馬史において比較対象すらない存在であった。ハイセイコーが立役者となって作り出した競馬ブームは「第一次競馬ブーム」と呼ばれ、後年オグリキャップと武豊の活躍が中心となった第二次競馬ブームと並び、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "朝日新聞のコラム『天声人語』は、「馬の名で浮かぶ時代がある」とした上で、「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として、テンポイントとともにハイセイコーを挙げている。赤木駿介は、ハイセイコーブームとは「表面的な物質享楽と、加速度的なインフレーションの谷間に落ちて」何かに飢えていた大衆が、マスコミの露骨な商業主義を感じ取りつつも、「一個の動物でしかすぎないサラブレッドに、純粋なるものを求めた」ものであり、「世相の反映であり、70年代の1つの象徴といえよう」と評している。競馬評論家の井崎脩五郎は、「1970年の3月6日に生まれ、1970年代を突っ走り、1979年の日本ダービーを自らの産駒が勝ったハイセイコーこそ、この10年の代表馬であったと、当然のことのように思い返すのではないだろうか。」と述べている。競馬評論家の石川ワタルはハイセイコー、テンポイント、オグリキャップの三頭を「ファンの心を捉えて離さなかった三頭」と評し、その中でもハイセイコーは「\"大衆賞\"にふさわしい元祖アイドルホースだった」と述べている。日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」の元編集責任者の和田久は、ハイセイコーとオグリキャップを「公営競馬から来たその生い立ちからして同一視されるところがある『ヒーロー』だが、全く別なヒーローであった。しかし、たしかに時代が必要としたヒーローでもあった」と述べている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "前述のように、ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集めた。このことについて日刊競馬解説者の吉川彰彦は2005年に、「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか、今思ってもやはり不思議だ。」と振り返っている。ライターのかなざわいっせいは、オグリキャップの中央競馬移籍が決まった際のメディアの報道の仕方について、ハイセイコーのそれと比較すると「東京湾でハゼが3匹釣れた程度のニュースでしかなかった」と述べている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や橋本邦治(元日刊スポーツ記者)は、血統的には決して無名の出ではないハイセイコーをマスコミが擬人化し、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」、「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というストーリーを作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託したのだと分析している。読売新聞記者の片山一弘は、そのようなストーリーが、高度経済成長期の学歴社会において、判官びいきを伴った共感を集めたのだと述べている。渡辺敬一郎は「思えばハイセイコーが走った時代は、日本の高度経済成長期であり、地方から都会に出てきた人々が、人気に火をつけ、それがあっという間に老若男女、年齢を問わない超人気アイドルになっていったのだ」と述べている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "前述のように誕生した年の夏には生産した武田牧場場長の武田隆雄から「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と喧伝され、地方でデビューしたのは、単に当初ハイセイコーを所有した(株)王優が地方の馬主資格しか持っていなかったために過ぎなかった。江面弘也によると、前述のように(株)王優への売却に際して武田牧場は大井でデビューさせた後中央へ移籍させるという条件を付けていたといい、さらに2代目の馬主であるホースマンクラブは有力な生産牧場を出資者とする組織で、ハイセイコーは中央へ移籍した時点で既に将来種牡馬となることが想定されていたという。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ハイセイコーが大井競馬場でデビューしたのと同じ1972年7月、日本では田中角栄が第64代内閣総理大臣に就任した。朝日新聞be編集グループは、田中角栄が世間の注目を集めていたことがハイセイコーにまつわる「地方出身者の出世物語」が世間の共感を呼ぶ要因になったと示唆し、藤島大は、人々が「鼻持ちならぬエリートをへこませる野武士」田中角栄の姿をハイセイコーに重ねたとしても不思議はないと述べており、和田久も「田中角栄の生い立ちにハイセイコーを擬した論法もあった」と述べている。日本経済新聞記者の野元賢一は、「地方競馬出身馬が中央競馬に乗り込み、エリートを打ち負かす」というハイセイコーの物語が人気となったのは、当時の日本社会が「出自がどうあれ、ある程度の努力をすれば成功できる」という認識を共有していたからだと指摘している。田中角栄は、ハイセイコー引退の1か月前の1974年12月に内閣総理大臣を辞任した。遠山彰は、田中の辞任とハイセイコーの引退により「地方の時代、野武士の時代」が幕を閉じ、「ブランド志向の時代」が再来したと評している。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "一方で、山野浩一はハイセイコーは望まれて中央へ移籍した生まれながらのエリートであるとして、その活躍が地方出身で「雑草育ち」の馬が中央のエリート相手に勝ちまくる出世物語とみることを「あまりにも安易な虚構」と批判している。父のチャイナロックはハイセイコーの登場以前にメジロタイヨウ、タケシバオー、アカネテンリュウと三頭の八大競走勝ち馬を輩出し、ハイセイコーが中央へ移籍した1973年にはリーディングサイアーとなる好成績を収めた種牡馬で、母のハイユウも南関東の地方競馬で16勝を挙げていた。阿部珠樹は「野武士どころか上級の血統馬であり、最初から中央にいれば、クラシック候補と騒がれたかもしれない血統背景を持っていた」と述べ、関口隆哉は、「ハイセイコーが生まれた70年当時の感覚としては、モダンな血筋を受け継いだ、血統的な期待も大きい馬だったことは間違いない」と述べている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "赤木駿介は、マスコミがプロ野球の読売ジャイアンツとON砲(王貞治・長嶋茂雄)に代わる「売り」となる素材を探す中でハイセイコーに注目が集まり、「マスコミの巨大な力が、じわじわと世評を育んで」いったのだと述べている。一方藤島大は、ハイセイコーの物語が支持されたのは、単にマスコミが仕立てたからだけではなく、人々もそれを願ったからだと述べている。島田明宏は、ハイセイコーは長嶋茂雄と1973年5月に週刊少年マガジンにおける連載が完結した「あしたのジョー」の主人公・矢吹丈に代わる「時代が求めた正統派のヒーローだった」と評している。ハイセイコーは野球選手の江川卓、プロゴルファーのジャンボ尾崎の両名と共に「怪物」として並び称され、「江川尾崎にハイセイコー」というキャッチコピーも流れた。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "横尾一彦は、ハイセイコーブームが起こった1973年はオイルショックが起こりインフレーションに見舞われた、それまでの好景気が一転して不況に陥った年であり、庶民が「せめてもの慰み」としてハイセイコーに関心を寄せた可能性を示唆している。歴史学者の本村凌二(雅人)は、日本の経済成長に陰りが見える中、カネのためではなく純粋に競走馬として走るひたむきな姿が、「何でもカネ、カネ」という生き方に疑問を持ち始めていた人々の胸を打ったのだと分析している。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "東京優駿で敗れると、マスコミの中には「ただの馬」、「落ちた偶像」、「\"敗\"セイコー」などと叩くものも現れた。しかし前述のようにその人気が敗戦によって衰えることはなく、むしろ高まっていった。鈴木康弘も、東京優駿に敗れたことでかえって多くの手紙や電話が寄せられるようになり、「応援が足りなかったんでしょうか」と書かれた手紙も届いたと回顧している。広見直樹は東京優駿以降のハイセイコーについて、「挑戦者としてライバル(タケホープ)に一矢報いる戦いが始まった」、「畏怖の念すら感じさせたヒーローが、身近で守ってあげたくなる存在として帰ってきた」と表現し、同時にファンも「アイドルを迎えるように温かい眼差しで応援することにした」のだと述べている。高見沢秀はこうした現象を、ファンが東京優駿での敗北という信じがたい悪夢を現実として見つめ直した後、「また新しい夢を見せてくれる存在としてハイセイコーを支持し続けた」のだと分析している。石川喬司は、挫折を経てなお走り続けるハイセイコーの姿から、ファンは「高度成長の挫折に見舞われた人間界からは失われつつあるものを見出し、その無垢な生物の素顔にしびれた」のだと述べている。阿部珠樹は、ハイセイコーが宝塚記念と高松宮杯を連勝した頃には「もうハイセイコーの勝敗は、ファンにとって、あまり問題ではなくなってきていた」と述べている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "遠山彰は、ハイセイコー人気が高まる中、女性や子供のファンからファンレターやプレゼントが届いたことをきっかけに「男ばかりのギャンブルの世界」が変質し始めたと分析している。競馬評論家の原良馬によると変化は「汚い」「暗い」「怖い」という目で見られていた競馬場にも及び、ハイセイコーが活躍した頃から女性ファンの姿が見られるようになった。片山一弘も、「中年男のものだった競馬場に...若い女性が集まり、黄色い声援が飛び交うようになった」ことを指摘し、ハイセイコーの出現によって日本の競馬が、ギャンブルからレジャーに転換したと評価している。高見沢秀は、それまでギャンブルに過ぎなかった日本の競馬が、ハイセイコーの出現によってカルチャーとエンターテインメント、ギャンブルを横断する独特のジャンルへと変貌したと分析している。広見直樹はハイセイコーを「競馬を単なるギャンブルから大衆の娯楽にまで広めるきっかけを作った立役者として語り継がれるべき名馬である」と評している。結城恵助は、1988年にオグリキャップが出走した高松宮杯が1974年にハイセイコーが記録した入場記録に及ばない3万812人だったことについて、オグリキャップ人気は「純粋に競馬を愛好する人たちに支持された地に足が着いたもの」であると述べ、一方でハイセイコー人気は「一目パンダを見ておこうというのに通じるブームだった」と評している。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "『日本中央競馬会50年史』は、ハイセイコーブームが従来の「公営競技=ギャンブル=悪」というイメージを脱し、競馬が健全な娯楽として認知される基盤を築く一因となったと評している。管理調教師であった鈴木勝太郎は、ハイセイコーの登場により競馬新聞を人前で読むのが憚られるような雰囲気が解消され、「あの馬のおかげで、競馬そのものが真っすぐな方向に変わったように思います」と述べ、横尾一彦も同様に、「ようやく『私は競馬ファンです』と胸を張れる時代がやってきた」と述べ、作家の典厩五郎は「(ハイセイコーが生まれた昭和45年ごろの競馬場は)修羅場であり博奕場で、義理と人情の男の世界。女なんて穴場(投票場)のオバチャン以外に見たこともなかった」という『競馬=根暗』のイメージが、ハイセイコーの出現によってぶち破られたと述べている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ハイセイコーのファン層は子供や女性、老人など馬券を購入せず、ハイセイコー以外の競走馬に関心を抱かない人々にまで広がった。中には、子供に喝を入れるときに「ハイセイコーみたいにがんばりなさい」と言った親もいた。片山一弘は、こうした点でハイセイコーは「競馬という枠組みを超えたスーパースター」であったと評している。鈴木康弘はハイセイコーのファンがギャンブルを抜きに、愛情をもってハイセイコーに接したことに感動を覚えたと回顧している。ファンの中にはハイセイコーを見ようと厩舎を訪れるファンも多く、夏休みの時期には親に連れられて子供のファンが多く厩舎を訪れたという。鈴木康弘によるとある時3人の女子中学生が厩舎を訪ね、「ブラシについたたてがみでいいからほしい」と言われて「『そういうものでも欲しいのか』と驚かされましたね」といい、1975年1月に明和牧場へ向かう前日には宇都宮市に住む小学生の男児から「ハイセイコーの馬運車は、何時ごろ、宇都宮を通るのですか」という長距離電話がかかってきたという。阿部珠樹は「こうした愛され方をした馬は、後にも先にもいないだろう」と述べている。増沢はハイセイコーが女性ファンに人気を集めた要因として、「綺麗な顔をしていて、真っ黒な馬体もバランスが取れて見栄えがする」ということを挙げている。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "ハイセイコーのもとには日本全国から多くのファンレターが届き、「東京都 ハイセイコー様」という宛名だけ書かれたはがきが東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に届いたこともあった。ファンレターの中には「死んでしまおうかと思っていました。でも、あなたの懸命に走る姿に心打たれ、自殺を思いとどまりました。」という内容のものまであり、引退後も年賀状やクリスマスカード、誕生祝いなどが届いた。明和牧場責任者の堤益登は、当初はファンレターに返事を書いていたが、あまりに数が多いため葉書にスタンプを押して送り返すようにしたという。浅草のブロマイド屋のもとにはハイセイコーのブロマイドを求める声が多く寄せられ、写真を撮らせてほしいとブロマイド屋が厩舎を訪れたこともあった。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "ブームが高まるとハイセイコーは少年雑誌や女性週刊誌など、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった。阿部珠樹はハイセイコーが少年雑誌の表紙に登場したことについて、「それまで健全な市民社会の対極にあるものとみなされていた競馬の世界では、考えられないことだった」と述べている。ハイセイコーが東京優駿に出走した1973年5月27日には、ギャンブル嫌いの漫画家である長谷川町子が、朝日新聞朝刊に連載中の『サザエさん』でハイセイコーを取り上げた。5歳時の1974年に旧日本海軍少尉の小野田寛郎がフィリピン・ルバング島から29年ぶりに帰国した際、小野田は「ハイセイコーは知っています」というコメントを残した。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "ハイセイコーが中央競馬で現役生活を送った1973年・1974年の2年間において、1973年は馬券売上額が33.55%、入場者数が15.64%、それぞれ前年よりも増加し、翌1974年は馬券売上額が前年よりも17.52%増加した。レース単位でみると、1973年には前述のようにNHK杯で中央史上最多となる16万9174人の観客が入場し、東京優駿における馬券の売り上げは従来の記録を7億円も上回る96億8349万3900円を記録した。菊花賞の馬券売上額は98億4813万5400円と同レース史上最高となり、有馬記念での馬券売上額は中央史上最高の124億4197万にのぼった。有馬記念が施行された12月16日の開催1日の馬券売上額も154億6847万3600円と史上最高であった。翌1974年の有馬記念では前年の記録をさらに更新し、同レースの売上額が136億4668万円、レース当日の売上額が172億7956万8600円を数えた。日本経済が1973年から1974年にかけて起こった第一次オイルショックの影響から国内消費の低迷に見舞われる中、中央の馬券売上額はハイセイコーの引退後も上昇を続け、「不況に強いギャンブル」という神話が誕生した。野元賢一は、1970年代前半における中央の馬券売上増加を支えたのはハイセイコーであると評している。", "title": "人気(ハイセイコーブーム)" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ハイセイコーの競走生活においては、タケホープとのライバル関係が注目を集めた。ハイセイコーの出走した東京優駿、菊花賞、天皇賞(春)を勝ったタケホープは、ハイセイコーの終生のライバルと呼ばれ、ハイセイコーのファンからは敵役として憎まれた。2頭の関係は「人気のハイセイコー、実力のタケホープ」(日本中央競馬会)、「ライバルというよりヒーローとヒール」(広見直樹)と評され、典厩五郎はプロ野球に例え、「ハイセイコーがひまわりこと長嶋茂雄なら、タケホープは月見草こと野村克也のような存在だった」と言い表している。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "タケホープが東京優駿を勝った時、多くの者は「無欲のチャレンジが生んだフロック勝ち」と受けとめた。同馬の管理調教師であった稲葉幸夫もハイセイコーに勝てるという気持ちをさほど強くは抱いておらず、レース後には「あれだけの人気馬を負かしてしまって、すまないなあ」という思いすらしたという。しかし東京優駿をフロックで勝ったという見方に対して稲葉は反発し、菊花賞出走時には「ハイセイコーを負かして、なんとか、フロックのダービー馬という声を消したい」と願うようになっていた。東京優駿でタケホープに騎乗していた主戦騎手の嶋田功の息子はハイセイコーのファンであり、母親(=嶋田の妻)に泣き付いたという話も伝えられている。ただし、後に騎手となる田原成貴はタケホープが東京優駿においてハイセイコーを破ったことに強い感銘を受け、騎手を志した。田原は東京優駿でタケホープの鞍上を務めた嶋田功のガッツポーズを見て「日本一強い馬を、あの人がやっつけた」と感じたといい、もしタケホープに乗っていたのが勝ってもガッツポーズをしないような地味な騎手であったら、騎手を志していないか、自身も地味な騎手になっただろうと述べている。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "嶋田功は、東京優駿の3日前に東京競馬場で受けた取材で「ダービーは勝てる。(ハイセイコーは)負かせられない相手ではない」、「ハイセイコーも4本脚なら、タケホープもおなじ4本脚だ」、「ハイセイコー、ハイセイコーってみんなむこうへ行っちゃってるけどさ。オレのタケホープだって、馬なんだよ」というコメントをした。当初嶋田は東京優駿ではまだ勝てないだろうと考えていたが、ハイセイコーのNHK杯出走を知ると、「これで東京優駿まで余力が残らない」と推測し、しめたという気持ちになったという。加えて当時のタケホープの体調は非常に良く、嶋田は厩舎関係者に対しても「勝てる」と宣言していた。さらに渡辺敬一郎によると、嶋田は早い時期から「あれだけの人気馬だから、ひとつのレースも手抜きはできない。だから、ずっとやっていけば疲労が重なり、大事なところで反動がくる」とハイセイコーの辛さについて予言していたという。タケホープの厩務員の萩原武夫によると、タケホープはダービーに向かって「信じられないような上昇ぶり」を見せ、この時点ではまだハイセイコーにはちょっとかなわないかもと思っていたが、ハイセイコーのNHK杯出走を知って「しめた」と思ったといい、「それまでも目いっぱいに来てるんだから、NHK杯で、もうおつりがなくなっちゃうぞ、と思ったんだ」と述べている。なお、萩原は大井競馬場時代にハイセイコーの母のハイユウを厩務員として担当しており、「不思議な因縁だなあって、変なところで懐かしい気持ちになったよ」と回顧している。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "タケホープは京都新聞杯で8着に敗れたことで菊花賞でもフロック視されて当日は6番人気で出走したが、この菊花賞を勝ったことでようやくハイセイコーのライバルとして認知されるようになり、同時に「アイドルホースの仇役」という役回りも担うこととなった。また、菊花賞以降タケホープは出走したすべてのレースでハイセイコーと対戦した。これについて山野浩一と江面弘也は、ハイセイコー陣営が意図的にタケホープに合わせたローテーションを組んだのだと述べている。1973年(菊花賞の後)と、1974年(有馬記念の後)には、2頭によるマッチレースが企画されたが、実現には至らなかった。石川喬司は1974年の有馬記念前には報知新聞に「もし有馬記念が、ハイセイコーとタケホープたった2頭のマッチレースで行われるとしても、中山競馬場は満員になるに違いない」という文を寄稿している。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "対戦を重ねるうちに、タケホープは長距離で、ハイセイコーは中距離で強さを発揮することが明らかとなっていった。稲葉はタケホープが天皇賞(春)を勝った後、同馬について、父インディアナの個性を受け継いだステイヤーで「2400m以上ならどの馬にも負けない自信を持ってます」とコメントしている。東京優駿と菊花賞、3200mの天皇賞をすべて勝ったのはシンザン以来史上2頭目であった。一方、ハイセイコーについては2000m以下のレースで14戦12勝2着2回と連対を外したことがないにもかかわらず2400m以上のレースでは一度も勝ったことがなく「極端に弱かった」ことが指摘されている。鈴木勝太郎は前述のように弥生賞について「レース中にカッとなるところがあって、これは2000mまでの馬かなと思った」と振り返り、東京優駿の敗因として距離が長すぎた可能性を挙げ、「体型的にハイセイコーは2000メートルまでで絶対的な強さを見せる馬なのかもしれない」と語り、天皇賞(春)で敗れた後には「やっぱり距離のカベとしかいいようがない」とコメントしている。嶋田功はハイセイコーに対し、「中距離戦では絶対にかなわない」という思いを抱いていたと述べている。阿部珠樹は、距離別のレース体系が整備された時代であったなら、ハイセイコーはマイルから中距離のレースに出走し続けただろうと推測している。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1974年1月に行われたアメリカジョッキークラブカップがタケホープ1着、ハイセイコー9着という結果に終わり、3月になって中山記念に2頭が出走したとき、嶋田功は「今度はタケホープが1番人気になるだろう」と予想していた。しかし1番人気になったのはハイセイコーであり、タケホープは3番人気だったため、嶋田は「どうしてあの馬ばかりが人気を集めるのか」と憤りを覚えたという。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2頭の引退レースとなった1974年の有馬記念では、ハイセイコーのファンはタニノチカラに敗れたにもかかわらずタケホープに先着したことを喜び、両陣営もレース後には優勝したタニノチカラのことではなく互いの着順の先後についてコメントした。マスコミも、タニノチカラの優勝よりも2頭の最後の対決に焦点を当てた報道を行った。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "タケホープが東京優駿に出走できたのは、その前に出走した条件戦の4歳中距離特別を勝って獲得賞金額を上積みしたからであった。この時、2着のサクラチェスとの着差はハナ差であったため、競馬史研究家の山本一生は「サクラチェスの鼻がもう少し長かったなら、わが国の競馬の歴史が変わっていただろう」と述べており、ライターの藤野広一郎は「まるでクレオパトラのように美しくて貴重な鼻だった。もしタケホープの鼻がもう少し短かったら、確実にダービーの歴史は変わっていたのである」と述べている。後にハイセイコーの初年度産駒カツラノハイセイコが父の勝てなかった東京優駿を勝った時、2着となったリンドプルバンには嶋田が騎乗しており、東京優駿の前に出走した4歳中距離特別で勝利を収めていた。江面弘也はこれを「競馬の神の粋な演出」と表現している。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "種牡馬としては、ハイセイコーが重賞優勝馬を複数輩出したのに対し、タケホープは重賞優勝馬を送り出すことができなかった。山本一生は、タケホープの血統が長距離系の血統の馬が近親交配されていたことで短い距離を苦手としていたことを挙げ、江面弘也は、ハイセイコーが産駒にスピードを伝えた一方で、タケホープは「スピード化という時代の波に飲み込まれ」る形になったと分析している。この事実に萩原は「(タケホープは)種牡馬として成功するためではなく、ダービーを勝つために生まれてきた馬だから、それに不満はない」と述べている。", "title": "タケホープとのライバル関係" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "父のチャイナロックはハイセイコーの誕生までにタケシバオー(1969年天皇賞(春)優勝)、メジロタイヨウ(1969年天皇賞(秋)優勝)、アカネテンリュウ(1969年菊花賞優勝)と3頭の八大競走優勝馬を輩出し、1973年には中央競馬のリーディングサイアーを獲得した種牡馬である。", "title": "血統" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "母のハイユウは競走馬時代に地方競馬(南関東)で16勝を挙げ、レコードタイムを3度記録した馬であった。競走馬時代の担当厩務員は、先述の通り当時大井競馬に在籍し、のち中央でタケホープの厩務員を担当した萩原武夫である。祖母ダルモーガンは1952年(昭和27年)に輸入された「豪サラ」で、産駒にはハイユウのほか、ショウゲツ(CBC賞優勝)やオオクラ(天皇賞(春)2着)がいる。", "title": "血統" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "阿部珠樹は、ブルードメアサイアーのカリムは短距離で本領を発揮した馬で、ハイセイコーの2000mの京都新聞杯を除いて敗れたレースの距離がすべて2100m以上という競走成績からはカリムの影響が明確に読み取れると分析している。寺山修司も、東京優駿での敗戦の要因として母の父がカリムだったことを挙げている。一方で武田牧場場長の武田隆雄は、ダービーでの敗因について菊花賞で2着になったことを引いて、カリムの血から来る距離の壁が敗因だったとされていることに対して「京都の3000mであれだけのレースができる馬が、東京の2400mで距離の壁に泣いたとは思えない」と否定的な意見を述べている。", "title": "血統" } ]
ハイセイコーは、日本の競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年、顕彰馬に選出。 ※馬齢は旧表記に統一する。
{{競走馬 |名 = ハイセイコー |画 = [[ファイル:Statue of Haiseiko 001ja.jpg|250px]] |説 = [[道の駅サラブレッドロード新冠]]前のハイセイコー像 |性 = [[牡馬|牡]] |色 = [[鹿毛]] |斑 = 流星、右後一白 |種 = [[サラブレッド]] |生 = [[1970年]][[3月6日]] |死 = [[2000年]][[5月4日]](30歳没・旧31歳) |父 = [[チャイナロック]] |母 = ハイユウ |母父 = カリム |産 = 武田牧場 |国 = {{JPN}}([[北海道]][[新冠町]]) |主 = (株)王優<br />→ホースマンクラブ |調 = 伊藤正美([[大井競馬場|大井]])<br />→[[鈴木勝太郎]]([[東京競馬場|東京]]) |厩 = 山本武夫(大井)<br />→大場博(東京) |助 = [[鈴木康弘 (競馬)|鈴木康弘]](東京) |冠 = [[JRA賞特別賞|優駿賞大衆賞]](1973年)<br />[[JRA顕彰馬]](1984年選出)<br />[[NARグランプリ特別表彰馬]](2000年) |績 = 22戦13勝<br />([[地方競馬]])6戦6勝<br />([[中央競馬]])16戦7勝 |金 = 2億1956万6600円 |medaltemplates = {{Medal八大競走|[[皐月賞]]|1973年}} }} '''ハイセイコー'''([[1970年]] - [[2000年]])は、[[日本]]の[[競走馬]]。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、[[競馬ファン#第一次競馬ブーム|第一次競馬ブーム]]の立役者となった。[[1984年]]、[[顕彰馬]]に選出。 ※馬齢は旧表記<ref group="注">現表記プラス1歳。[[馬齢]]表記は2001年に改められた。(詳細は[[馬齢]]を参照のこと)</ref>に統一する。 == 概要 == [[1972年]](昭和47年)7月、[[大井競馬場]]でデビュー。同年11月にかけて[[重賞]]の[[ハイセイコー記念|青雲賞]]優勝を含む6連勝を達成。翌[[1973年]](昭和48年)1月に[[中央競馬]]へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた<ref name="結城2008"/>。移籍後も連勝を続け、4月に[[中央競馬クラシック三冠]]第1戦の[[皐月賞]]を勝つとその人気は競馬の枠を超え<ref name="山本2005-161"/><ref name="江面2011-123"/>、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり<ref name="山野1978-12"/>、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった<ref name="優駿増刊号 TURF-59"/>。[[5月27日]]に[[東京優駿]](日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく<ref name="競馬 黄金の蹄跡-37"/><ref name="優駿2000-10-18"/><ref name="阿部2003-65"/>、むしろ高まり<ref name="藤野1992-153"/><ref name="週刊日録20世紀 1973年-4"/><ref name="阿部2001-61"/><ref name="英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20-37"/>、[[競馬ファン#第一次競馬ブーム|第一次競馬ブーム]]と呼ばれる競馬ブームの立役者となった<ref name="ありがとうオグリキャップ-46"/>。このブームは、後年[[1990年]]前後に起こった[[武豊]]と[[オグリキャップ]]の活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている<ref name="東邦出版(編)2005-131-132"/>。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ<ref name="片山2004-172-173"/><ref name="優駿2015-03-47"/>、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている<ref name="日本中央競馬会50年史-262"/>。[[1984年]]、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、[[顕彰馬]]に選出された<ref name="大川1997-93">[[#大川1997|大川1997]]、93頁。</ref><ref name="大川1998-241"/>。 競走馬引退後に[[種牡馬]]となった後も人気は衰えず<ref name="英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20-37"/><ref name="山野1978-14"/><ref name="朝日新聞be編集グループ(編)2006-186-188"/>、種牡馬として繋養された明和牧場には観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになり<ref name="後藤2000-39"/>、それまで馬産地を訪れることが少なかった競馬ファンと馬産地を結び付けた<ref name="後藤2000-39"/>。産駒には自身の勝てなかった東京優駿を勝った[[カツラノハイセイコ]]をはじめ3頭の[[八大競走]]および[[競馬の競走格付け|GI]]優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。[[1997年]](平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、[[2000年]](平成12年)[[5月4日]]に[[心臓麻痺]]のため同牧場で死亡した<ref name="さらばハイセイコー-6"/><ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247"/>。 == 生涯 == === 誕生・デビュー前 === [[1970年]](昭和45年)、[[北海道]][[日高支庁]][[新冠町]]の武田牧場に生まれる。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は[[赤飯]]を炊いて誕生を祝った<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、55頁。</ref>。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きく一際目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った<ref name="岩川1991-34">[[#岩川1991|岩川1991]]、34頁。</ref>{{#tag:ref|当歳時のハイセイコーの写真は、雑誌「[[家の光協会#雑誌『家の光』|家の光]]」(1970年11月号)に掲載されている<ref name="江面2017-131">[[#江面2017|江面2017]]、131頁。</ref>。|group="注"}}。武田は当歳時から中央競馬にいっても十分通用するレベルの馬だと感じ<ref name="高見沢1992-25">[[#高見沢1992|高見沢1992]]、25頁。</ref>、夏になると、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった<ref name="横尾1986-22">[[#横尾1986|横尾1986]]、22頁。</ref><ref name="横尾2000-35">[[#横尾2000|横尾2000]]、35頁。</ref>。また1957年の[[天皇賞(春)]]を優勝した[[キタノオー]]以来の「武田牧場の傑作」として期待を集めて新冠町の評判を呼び<ref name="笠野・原1993-118">[[#笠野・原1993|笠野・原1993]]、118頁。</ref>、2歳時には「新冠の一番馬」という評判を得るようになった<ref name="高見沢1992-25"/>。 ハイセイコーは中央競馬の調教師からも中央でのデビューの誘いを受けたが<ref name="笠野・原1993-118"/>、母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され<ref name="江面2011-123">[[#江面2011|江面2011]]、123頁。</ref><ref name="笠野・原1993-118"/>、ハイユウを管理していた[[大井競馬場]]の[[調教師]]の伊藤正美によって管理されることになった<ref name="横尾2000-35"/>。[[1971年]](昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、[[競走馬#馴致|馴致]]が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた<ref name="大井が生んだ怪物">{{Cite web|和書|author = 中川明美|date = |url = https://www.tokyocitykeiba.com/data/story/story_vol16/|title = 大井が生んだ怪物 ハイセイコー -ハイセイコー記念-|work = 重賞名馬ストーリー|publisher = [[大井競馬場|東京シティ競馬]] |accessdate = 2011年10月26日}}</ref>。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている<ref name="大井が生んだ怪物"/>。[[1972年]](昭和47年)5月、担当[[厩務員]]の山本武夫はハイセイコーについて、[[金沢競馬場]]の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの[[能力試験]]を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、54頁。</ref>。 === 競走馬時代 === ==== 3歳時(1972年) ==== 1972年6月にデビューする予定であったが、出走を予定していたレースが不成立となった。高橋によるとこれは調教師の伊藤が他の出走馬を見下す発言をしたのに反発した調教師たちが「いくら強くてもレースに出られなければそれまでだ」とお灸をすえる意味で故意に管理馬の出走を回避したためであったが、後になって「ハイセイコーとの対戦に恐れをなして出走を回避した」と解釈されるようになったという<ref name="高見沢1995-50">[[#高見沢1995|高見沢1995]]、50頁。</ref>。翌[[7月12日]]、[[大井競馬場]]で行われた未出走戦で[[辻野豊]]を鞍上にデビュー<ref name="笠野・原1993-118"/>。このレースを同競馬場のダート1000[[メートル|m]]のコース[[レコード (曖昧さ回避)|レコード]]となる59秒4で走破し、2着馬に8馬身の[[着差 (競馬)|着差]]をつけて優勝した<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、54頁。</ref>。従来のレコードは[[ヒカルタカイ]]{{#tag:ref|[[南関東公営競馬]]の初代[[三冠 (競馬)#南関東三冠|三冠馬]]で、その後[[中央競馬]]に移籍し[[天皇賞(春)]]・[[宝塚記念]]を優勝した。|group="注"}}が記録した1分0秒3で、ハイセイコーは大井競馬史上初めて1000mを1分を切って走った馬となった<ref name="高見沢1992-25"/>。この記録を鞍上の辻野に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、10頁。</ref>。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4[[競馬場#日本|コーナー]]では馬体を傾けながら走ったためバランスを取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している<ref name="大井が生んだ怪物"/>。 その後、ハイセイコーは大井での最終戦となった11月末の青雲賞にかけて常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、55頁。</ref>、大井での全6戦で2着馬につけた着差の合計は56馬身<ref name="阿部1990-54"/>、平均着差は9.3馬身に達した<ref>[[#藤野1992|藤野1992]]、151頁。</ref>。2戦目の条件戦では2着のセッテベロナにおよそ16馬身の大差をつけて逃げ切り勝ちを収め<ref name="笠野・原1993-118"/>、4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の[[ハイセイコー記念|青雲賞]]で重賞初優勝を達成した{{#tag:ref|このレースには、後に中央競馬へ移籍して[[大阪杯]]と[[マイラーズカップ]]を優勝する[[ゴールドイーグル]]も出走していた<ref name="江面2017-133">[[#江面2017|江面2017]]、133頁。</ref>。青雲賞及び改称後の[[ハイセイコー記念]]のレースレコードは2021年現在もハイセイコーの1分39秒2である。|group="注"}}。作家の[[石川喬司]]は、連勝中のハイセイコーの評判を聞きつけて[[競馬評論家]]の[[大川慶次郎]]とともにゴールドジュニアを見に大井競馬場へ出かけ、「こいつは、中央に来ても絶対活躍できる」と話し合っていたことを明かしている<ref name="阿部1990-54">[[#阿部1990|阿部1990]]、54頁。</ref>。晩秋を迎える頃にはスポーツ紙が「大井に怪物現れる」などと報道し始め<ref name="広見2016-79">[[#広見2016|広見2016]]、79頁。</ref>、調教師の伊藤は5戦目の白菊特別を勝った頃から「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった<ref name="横尾2000-35"/>。 ==== 4歳時(1973年) ==== ===== 中央競馬へ移籍 ===== [[1973年]][[1月12日]]、ハイセイコーはホースマンクラブに5000万円{{#tag:ref|この金額は、当時の東京優駿の優勝賞金(3600万円)を上回っていた<ref name="江面2011-123"/>。|group="注"}}で売却された<ref name="日本ダービー80年史-130"/>。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており<ref name="岩川1991-34"/>、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた<ref name="江面2011-123">[[#江面2011|江面2011]]、123頁。</ref><ref name="江面2017-133"/>。作家の[[赤木駿介]]によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、80頁。</ref>。大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった<ref>[[#大川1998|大川1998]]、239-240頁。</ref>。 [[1月16日]]、ハイセイコーは[[東京競馬場]]の[[鈴木勝太郎]]厩舎に入厩した<ref name="横尾2000-35"/><ref name="笠野・原1993-118"/><ref name="赤木1975-17・56-57・192">[[#赤木1975|赤木1975]]、17・56-57・192頁。</ref>。この時ハイセイコーは初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せ、この用心深い性格が後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる<ref name="赤木1975-17・56-57・192"/>。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、73頁。</ref>。 ===== 弥生賞・スプリングステークス ===== 陣営は移籍初戦として[[共同通信杯|東京4歳ステークス]](2月11日に[[東京競馬場]]で施行)に出走させようとしたが叶わず<ref name="大川1997-90">[[#大川1997|大川1997]]、90頁。</ref>{{#tag:ref|大川慶次郎はその原因として、移籍馬は移籍から1か月間はレースに出走できないという当時の中央競馬のルールを挙げている<ref name="大川1997-90"/>。|group="注"}}、[[3月4日]]、[[増沢末夫]]を鞍上に据えての[[弥生賞]]が移籍初戦となった<ref name="光栄出版部(編)1995a-56">[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、56頁。</ref>。 「地方競馬の怪物」ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集め<ref name="結城2008">{{Cite web|和書|author = 結城恵助|date = 2008-05-10|url = http://www.jra.go.jp/topics/column/chronicle/03.html|title = ハイセイコーに日本中が熱狂|work = 競馬クロニクル - 思い出の昭和競馬|publisher = [[日本中央競馬会]] |accessdate = 2011年10月31日}}</ref>、[[報道|ジャーナリズム]]は「野武士登場」「怪物出現」と書き立てた<ref name="藤野1992-152">[[#藤野1992|藤野1992]]、152頁。</ref>。弥生賞当日の[[中山競馬場]]には朝早くから観衆が集まり<ref name="優駿2015-03-47"/>、およそ12万3000人の観客が入った<ref name="広見2016-79"/>。ハイセイコーが[[パドック]]に姿を現すと500kgを超す雄大な馬体を見た観客からはどよめきが起こり<ref name="最強サラブレッド列伝"/>、発走前にハイセイコーがパドックから競走の行われるコースへ移動した際には、あまりの人の多さに金網近くにいた観客が苦しくなって観客席とコースとを仕切る金網を乗り越え、コース内に入りこむ騒ぎも発生した<ref name="広見2016-79"/><ref name="藤野1992-152"/><ref name="横尾1986-21"/>{{#tag:ref|渡辺敬一郎によると、この事態を受けて日本中央競馬会は中山競馬場内に、人波をせき止めるための柵を新たに設置した<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、75-76頁。</ref>。|group="注"}}{{#tag:ref|弥生賞でハイセイコーの人気を目の当たりにした増沢は、「この人気にこたえなくては、いけないんだ」と騎手になって初めてプレッシャーを感じたといい<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、107頁。</ref>、1991年にはこの現象について、「長いことこの商売やってるけど、あんなこと後にも先にも二度とないんじゃないかな」と語っている<ref name="優駿増刊号 TURF-59">[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、59頁。</ref>。|group="注"}}。しかし、ファンがハイセイコーが目の前を通るたびに歓声を上げたことによってハイセイコーは激しく入れ込んだ上に多量の汗をかき<ref name="大川1997-90"/>、レース直前に集合合図の旗が振られる前からスタンドはざわめいたことで、これによって興奮したハイセイコーはゲートに近づこうとしなかった<ref name="中川2020-93">[[#中川2020|中川2020]]、93頁。</ref>。 陣営はレース前の調教の内容がよかったことから、「勝てる」というかなり強い見込みを持っていたが、芝の馬場を走るのも中山競馬場で走るのも初めて{{#tag:ref|陣営は弥生賞前の2月22日にハイセイコーを中山競馬場に移送して芝コースを走らせる予定であったが、雨天のため実現せず、ぶっつけ本番で走らせざるを得なくなった<ref name="赤木1975-193-197・199"/>。|group="注"}}であったため若干の不安も抱いていた<ref name="赤木1975-193-197・199"/>。スタートが切られるとハイセイコーが無事にゲートを出ただけで大歓声が上がり、好位置につけるとさらに歓声は大きくなった<ref name="広見2016-79"/>。しかし、この時のハイセイコーは調教の時とは異なって走りそうな手応えがなく{{#tag:ref|増沢は後に「勝てないのではないか」という思いに襲われたと回顧している<ref name="赤木1975-186-187">[[#赤木1975|赤木1975]]、186-187頁。</ref>。|group="注"}}、序盤4番手を追走し3番手で第4コーナーを回ったハイセイコーは[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1.1倍の1番人気の支持<ref name="阿部2001-59"/>に応える形で勝利を収めたものの<ref name="広見2016-79"/><ref name="最強サラブレッド列伝"/>、終始増沢に前進を促され、その増沢に手応えを感じさせないままに終わったレースぶりは陣営に不安を与え<ref name="赤木1975-193-197・199">[[#赤木1975|赤木1975]]、193-197・199頁。</ref><ref name="赤木1975-186-187"/>、「ハイセイコー勝ちましたが、苦しかった!」と実況された<ref name="赤木1975-17・56-57・192"/>。鈴木勝太郎は弥生賞について「レース中にカッとなるところがあって、これは2000mまでの馬かなと思った。それに初めての芝を気にしたのか、直線で追ってもあんまり延びない。まわりで騒ぐほど強いとは思えなかった」と振り返っている<ref name="阿部1990-55">[[#阿部1990|阿部1990]]、55頁。</ref>。このレースには後にハイセイコーのライバルと目されるようになる[[タケホープ]]も出走し、ハイセイコーから約7馬身離された7着に敗れていた<ref name="最強サラブレッド列伝"/><ref name="山本2005-163">[[#山本2005|山本2005]]、163頁。</ref>。 弥生賞の内容に不満を覚えた陣営は、[[ローテーション (競馬)|中2週]]で[[3月25日]]の[[スプリングステークス]]に出走させた。しかし、ここでも好位を進み直線で抜け出すというレース運びで勝ちはしたものの、陣営が期待していたほどのパフォーマンスを見せることはできなかった。レース後、2着に敗れたクリオンワードの騎手[[安田伊佐夫]]が増沢に「おめでとう」と声をかけたところ、増沢は「ありがとう。でも、頼りないな」と返答した<ref name="赤木1975-27-30">[[#赤木1975|赤木1975]]、27-30頁。</ref>。レース後のインタビューでも増沢の表情は冴えず、その模様を中継していたテレビ番組の出演者からは「まるで負けた騎手のインタビューみたいでした」と評された<ref name="赤木1975-27-30"/>{{#tag:ref|増沢はこの頃には「みんなが大騒ぎするほど強い馬なんだろうか」と思うようになっていたが、同時にハイセイコーの、実力に見合わないほどの人気の高まりも感じており、「勝たなければ、何といわれるかわからない」とますます重圧を感じるようになっていったという<ref name="増沢1992-108-110">[[#増沢1992|増沢1992]]、108-110頁。</ref>。|group="注"}}。陣営が弥生賞とスプリングステークスにおいて感じた共通の課題は、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自ら[[ハミ (馬具)|ハミ]]を噛んで騎手の指示に従おうとしない([[ハミ (馬具)#競馬界の用語|ハミ受け]]が悪い)ことであった<ref name="赤木1975-193-197・199"/>。 スプリングステークスの後、専門家の間でもハイセイコーに対する評価は二分した<ref name="赤木1975-62">[[#赤木1975|赤木1975]]、62頁。</ref>。赤木駿介は、弥生賞とスプリングステークスのレースぶりはともにぎこちなく、「怪物という異名にふさわしいものを感じさせなかった」と評している<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、26頁。</ref>。一方、当時競馬評論家として活動していた[[大橋巨泉]]は、弥生賞とスプリングステークスでのレースぶりを、中央競馬移籍に際し喧伝されていた「鋭い差し脚」や「並ぶ間もないスピード」は感じられず、その意味で「どうやらハイセイコーという馬は、われがわれが抱いていたイメージとは、やや違う馬のようであった」と前置きしたうえで、「タイムも速くなく、それほど凄い脚もみせないが、いつも必ず勝つ」、「五冠王[[シンザン]]のイメージがオーバーラップしつつある」と評した<ref name="赤木1975-27-30"/>。ただし、この大橋の分析に対してシンザンの管理調教師であった[[武田文吾]]は、「どだいシンザンと比較するのが間違い。ハイセイコーはまだ1冠もとっていない。とれるかどうかもわからない状態だ。シンザンはすでに"5冠"を制しているのだ」と反論した<ref name="赤木1975-31-32">[[#赤木1975|赤木1975]]、31-32頁。</ref>。しかし、阿部珠樹によると弥生賞のレース後には一部から「ダービーはおろか、三冠、いや全てのレースを勝ち、シンザンを超えるのではないか」という声が上がるようになっていたという<ref name="阿部2001-59"/>。 前述のように、陣営は弥生賞とスプリングステークスにおける共通の課題として、ハイセイコーが調教の時とは異なりレースでは自らハミを噛んで騎手の指示に従おうとしない(ハミ受けが悪い)点を認識していた<ref name="赤木1975-193-197・199"/>が、調教師の鈴木勝太郎はスプリングステークスの後、調教中にハイセイコーがハミを噛んではいるものの時折舌を遊ばせることに気づき、そのことがハミ受けの悪さに繋がっているのだろうと考えた<ref name="赤木1975-200">[[#赤木1975|赤木1975]]、200頁。</ref>。対策として陣営は、ハミ吊り{{#tag:ref|ハミの上に舌が乗らないよう、ハミを上顎に引き上げる馬具<ref>{{Cite web|和書|author = |url = https://jra.jp/kouza/yougo/w380.html|title = 銜吊り|work = 競馬用語辞典|publisher = 日本中央競馬会|accessdate = 2021年5月4日}}</ref>。|group="注"}}を装着することにした<ref name="赤木1975-200"/>。 ===== 皐月賞 ===== [[4月15日]]、[[中央競馬クラシック三冠]]第1戦の[[皐月賞]]に出走。当日は雨で[[馬場状態]]は重となった。ハイセイコーが初めて経験する<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、39頁。</ref>芝コースの重馬場をこなせるかについて専門家の見解は分かれた<ref name="赤木1975-62"/>{{#tag:ref|陣営の中でも、騎手の増沢<ref name="増沢1992-108-110"/>や調教助手の鈴木康弘<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>は、走行時のストライドの大きいハイセイコーは状態の悪い馬場を苦手とするのではないかという懸念を抱いていた。鈴木康弘が不安を鈴木勝太郎に打ち明けたところ、勝太郎は体格の大きさからストライドが大きくなるのは当然のことで、かき込むような走法から苦手とすることはないという見解を示した<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>。|group="注"}}が、好スタートを切ったハイセイコーは7番手から徐々に前方へ進出し、第3コーナーで先頭に立つ積極的な戦法をとり{{#tag:ref|調教師の鈴木勝太郎は増沢に、「馬が行く気になったら、かまわないから行かせろ」と指示しており、増沢はやや[[折り合い]]を欠きながら進もうとするハイセイコーを無理に抑えようとはしなかった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、19頁。</ref>。|group="注"}}、第4コーナーで進路が外側に逸れて2番手に後退するアクシデントに見舞われたもののすぐに再び先頭に立つとそのままゴールし、優勝した<ref name="赤木1975-43-46・201-203">[[#赤木1975|赤木1975]]、43-46・201-203頁。</ref>。地方競馬からの移籍馬が皐月賞を勝つのは中央競馬史上初のことであった<ref name="横尾1986-22"/><ref name="横尾2000-36">[[#横尾2000|横尾2000]]、36頁。</ref>。陣営の努力が実り、皐月賞でのハイセイコーのハミ受けは良好であった<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>。また増沢は、向こう正面でハイセイコーが重馬場を苦にしないことを察知した<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>。 皐月賞を優勝したことによってハイセイコーの人気は競馬の枠を超え<ref name="山本2005-161">[[#山本2005|山本2005]]、161頁。</ref><ref name="江面2011-123"/>、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった<ref name="山野1978-12">[[#山野1978|山野1978]]、12頁。</ref>。各方面から<ref name="江面2011-123"/>、「三冠確実」、「日本競馬史上最強馬」という評価すら与えられるようになり<ref name="阿部2003-65">[[#阿部2003|阿部2003]]、65頁。</ref>、シンザンと肩を並べるのが既定の事実のように語られるようになった<ref name="阿部1990-55"/>。ただし、広見直樹によるとこの日の中山競馬場は「デビュー戦(弥生賞)の混雑ぶりに嫌気が差し、テレビ観戦を決め込んだファンも多く、場内も落ち着きを取り戻し」ていたといい<ref name="広見2016-80">[[#広見2016|広見2016]]、80頁。</ref>、また競馬評論家の山野浩一は、ハイセイコーの人気と実力とが調和を保っていたのは皐月賞の頃までであったと分析している<ref name="山野1978-12"/>。 ===== NHK杯 ===== 皐月賞優勝後は、クラシック第2戦の[[東京優駿]](日本ダービー)が目標となった。しかしハイセイコーには同レースが施行される東京競馬場のレースに出走した経験がなく、そのせいで陣営は[[ローテーション (競馬)|ローテーション]]を巡って、具体的には東京優駿の前に[[トライアル競走|トライアル]]の[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]に出走させるかどうかを巡って、難しい判断を迫られることになった。ハイセイコーは前述のように用心深い性格をしており、初めて走るコースでは様子を探りながら走る傾向があった。例年多くの競走馬が出走する東京優駿で様子を探りながら走れば、馬群から抜け出せず十分に能力を発揮することのないまま敗れてしまう可能性があった。陣営は協議を重ね、最終的には鈴木が「ハイセイコーにとってローテーションはきついが、ダービーを考えると、ハイセイコーをNHK杯に出走させなければならない。」とNHK杯出走を決断した<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>{{#tag:ref|このことについて大川慶次郎は、2月に東京4歳ステークスに出走できなかったことの影響の大きさを指摘している<ref name="大川1997-91">[[#大川1997|大川1997]]、91頁。</ref>。|group="注"}}。 NHK杯当日の[[5月6日]]、東京競馬場には朝から観客が押し寄せ、午前11時前には[[日本国有鉄道|国鉄]]と[[私鉄]]の駅に東京競馬場へは入場できない旨の掲示がされた<ref name="光栄出版部(編)1995a-56"/><ref name="横尾1986-21">[[#横尾1986|横尾1986]]、21頁。</ref><ref name="横尾2000-36">[[#横尾2000|横尾2000]]、36頁。</ref>。最終的な観客数は16万9174人で、中央競馬史上最多であった<ref name="さらばハイセイコー-26-27">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、26-27頁。</ref>{{#tag:ref|この記録は、[[1990年]](平成2年)の東京優駿で更新(19万6517人)された<ref>[[#岩川1991|岩川1991]]、32頁。</ref>。|group="注"|name="NHK杯"}}。このレースでハイセイコーは終始インコースに閉じ込められ、なかなか抜け出すことができなかった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、64頁。</ref>。増沢は「3着ぐらいか」と敗戦を覚悟し<ref name="横尾2000-36"/><ref name="横尾1986-20">[[#横尾1986|横尾1986]]、20頁。</ref>、先頭に立てないままゴールまで残り200[[メートル]]となると、レースを実況していた[[フジテレビジョン|フジテレビ]]のアナウンサー[[盛山毅]]は「ハイセイコー負けるか、あと200だ、あと200しかないよ!」と口走った<ref name="江面2011-123"/><ref name="広見2016-80"/><ref name="江面2017-136">[[#江面2017|江面2017]]、136頁。</ref>。しかしここからハイセイコーは鋭い伸びを見せ、ゴール手前でカネイコマをアタマ差交わして勝利を収めた<ref name="赤木1975-65">[[#赤木1975|赤木1975]]、65頁。</ref>。このレースでのハイセイコーの単勝支持率<ref group="注">全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合。</ref>は83.5%を記録し<ref name="横尾1986-21"/><ref name="横尾2000-36"/>、配当金は単勝・複勝ともに100円の元返しとなった<ref name="横尾2000-36"/><ref name="横尾1986-20"/>。 鈴木勝太郎の子で[[調教助手]]を務めていた[[鈴木康弘 (競馬)|鈴木康弘]]は苦戦の原因について、陣営が懸念した通りハイセイコーがそれまで走ったことのない東京競馬場のコースの様子を探りながら走り、なかなか馬群から抜け出すことができなかったためだと述べている<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>。レース後に増沢は「直線でもう負けた。ダメだと思っていたらいつの間にか勝っていました」というコメントを残している<ref name="高見沢1992-26">[[#高見沢1992|高見沢1992]]、26頁。</ref>。武田牧場場長の武田隆雄は苦戦の原因について、重馬場で行われた皐月賞での力走の反動が出たと述べている<ref name="高見沢1992-26"/>。 NHK杯を勝ったことで、ハイセイコーが東京優駿を勝つということはファンやマスコミの間で既成事実化した<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、67頁。</ref>。大川慶次郎は「あの展開だったら、負けてもおかしくはなかったと。それを勝つのだからハイセイコーは強い、ダービーもこれでしょうがないなと感じました」と当時を振り返り<ref name="大川1997-91"/>。阿部珠樹は、ファンの間に「『ハイセイコーはなにがあっても負けない』という宗教的信念といったものが生まれた」と当時を振り返っている<ref name="阿部2001-61">[[#阿部2001|阿部2001]]、61頁。</ref>。 ===== 東京優駿 ===== NHK杯のレース後、増沢はハイセイコーに対し「左回りは右回りほど走らないのではないか」{{#tag:ref|大井競馬場、中山競馬場は右回りで、東京競馬場は左回りである。|group="注"}}という印象を抱き、さらに2400mという距離への不安も感じていた増沢は、「ダービーで負けるのではないか」という思いに取りつかれていった<ref name="栗林1982-51">[[#栗林1982|栗林1982]]、51頁。</ref>。鈴木勝太郎は表向き「ダービーも9分どおり優勝できると思います」と強気のコメントを出したものの<ref name="横尾1986-21"/>、鈴木康弘によると実際には「本当にローテーションは苦しくなった」と不安を募らせていた<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、80頁。</ref>。東京優駿を前に尿検査をしたところ、検査結果はハイセイコーの体調の低下を示し<ref name="高見沢1995-53">[[#高見沢1995|高見沢1995]]、53頁。</ref>、獣医師は疲労の蓄積を指摘した<ref name="調教師の本II-181">[[#調教師の本II|調教師の本II]]、181頁。</ref>。しかし、鈴木勝太郎は獣医師から「本調子ではないが、かといって欠場するほどの状態でもない」と伝えられ、「あれだけファンに支持されている馬だし、NHK杯でとても届かないような位置から追い込んだレースぶりから、あの馬の勝負根性に賭けてみたい気もあった」として、東京優駿出走を決意した<ref name="阿部1990-55"/>。 東京優駿当日の[[5月27日]]、東京競馬場には13万人の観客が詰めかけた<ref name="横尾2000-37"/>。ハイセイコーの単勝支持率は東京優駿史上最高(当時{{#tag:ref|この記録は、[[2005年]](平成17年)に[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](73.4%)によって更新された<ref>[[#21世紀の名馬Vol.5 ディープインパクト|21世紀の名馬Vol.5 ディープインパクト]]、21頁。</ref><ref>[[#追悼ディープインパクト|追悼ディープインパクト]]、37頁。</ref>。|group="注"}})の66.6%に達し<ref name="横尾2000-37">[[#横尾2000|横尾2000]]、37頁。</ref><ref name="横尾1986-23">[[#横尾1986|横尾1986]]、23頁。</ref>、単勝馬券の売り上げの約4億7000万円のうち約3億2000万円がハイセイコーに投じられ<ref name="高見沢1992-25"/>、単勝オッズは1.2倍を記録した<ref name="阿部2001-61"/>。このレースで増沢は、展開次第で[[脚質#逃げ|逃げ]]ることも視野に入れつつ[[脚質#先行|先行]]策をとって3、4番手を進もうとしていた。しかし、スタート後の[[競馬場#日本|第1コーナー]]手前で他の出走馬がハイセイコーの前を横切る形で走行した影響から10番手へ後退を余儀なくされ<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、68頁。</ref>、さらにインコースに入りすぎてしまった<ref name="栗林1982-51"/>。増沢は、NHK杯でハイセイコーをインコースに入れて苦戦した経験を踏まえ、[[競馬場#日本|向こう正面]]でハイセイコーを[[馬群]]の外へ誘導した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、70頁。</ref>。[[競馬場#日本|第3コーナー]]に差し掛かった時、ハイセイコーは前方への進出を開始し、第3コーナーと[[競馬場#日本|第4コーナー]]の中間地点で2番手に進出した。最後の直線、ゴールまで残り400mの地点でハイセイコーは先頭に立ったが、その直後に失速し、[[タケホープ]]と[[イチフジイサミ]]に交わされ、勝ったタケホープから0.9秒差の3着に敗れた<ref name="赤木1975-71-77">[[#赤木1975|赤木1975]]、71-77頁。</ref>{{#tag:ref|タケホープはイチフジイサミがハイセイコーをかわして先頭に立った際、内に切れ込みながら先頭に立ったため、「タケホープ失格」という声が多くのマスコミや厩舎人から寄せられていたが結果は変わらず、イチフジイサミ鞍上の[[津田昭 (競馬)|津田昭]]は抗議の申し立てを行わなかった<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、93頁。</ref>。|group="注"}}。タケホープが記録した勝ちタイムの2分27秒8は、前年の勝ち馬[[ロングエース]]が記録したレコードタイムを0秒8更新し、タケホープの管理調教師の[[稲葉幸夫]]、鞍上の嶋田は前週[[ナスノチグサ]]で優勝した[[優駿牝馬|オークス]]に続いて、2週連続でのクラシック勝利となった<ref name="日本ダービー80年史-129">[[#日本ダービー80年史|日本ダービー80年史]]、129頁。</ref>。 赤木駿介によると、ハイセイコーの敗戦を目の当たりにした東京競馬場内は「かつて聞いたこともないような、異様な感じのざわめき」に包まれたという<ref name="赤木1975-71-77"/>。レースの模様はフジテレビとNHKによってテレビ中継され、関東エリアでの[[視聴率]]はフジテレビが20.8%、NHKが9.6であった<ref name="江面2011-123"/><ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、86頁。</ref>。レース後、敗因について鈴木勝太郎は、2400mという距離がハイセイコーにとって長すぎた可能性を指摘し<ref name="横尾2000-37"/><ref name="横尾1986-23-24">[[#横尾1986|横尾1986]]、23-24頁。</ref>、「体型的にいってハイセイコーは2000メートルまでで絶対的な強さを見せる馬なのかもしれない」と語った<ref name="藤野1992-153">[[#藤野1992|藤野1992]]、153頁。</ref>。増沢も距離と左回りに対する不安を語り<ref name="笠野・原1993-123">[[#笠野・原1993|笠野・原1993]]、123頁。</ref>、またレースに出走し続けたことで目に見えない疲労があったかもしれないとコメントした<ref name="横尾2000-37"/><ref name="横尾1986-23"/>{{#tag:ref|この時増沢は「自分の乗り方にミスはなかったと思う」とも述べていた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、28頁。</ref>が、後に自らの騎乗について「1コーナーではさまれて、向正面では内に入り過ぎてしまった。あれだけの人気馬だから、もっといいポジションをとらなければいけないと思って、向正面で苦労しながら外に持ち出して行った。考えてみれば行くのが早すぎた。」と分析している<ref name="栗林1982-51"/>。|group="注"}}。増沢は東京優駿での敗戦を、ハイセイコーの主戦騎手を務めてもっとも辛かったこととして挙げ<ref name="赤木1975-186-187"/>、1982年のダービー前に受けたインタビューにおいてこの時のダービーを念頭に「ダービーだけは、どんなに強い馬でも勝てないことがあるんですよ。力があって、そこに運がなければ、ダービーはとれませんね」と発言している<ref>[[#広見2015|広見2015]]、45頁。</ref>。レース直前の調教では多くのカメラマンが一斉にシャッターを切ってハイセイコーを驚かせる場面も見られたものの<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、204頁。</ref>、レース後の検量を終えたハイセイコーが競馬場内の馬房に移動したとき、周囲にマスコミ関係者は一人もいなかった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、81-82頁。</ref>。勝ち馬のタケホープに対しては、作家の[[典厩五郎]]によると「パラパラと小さな拍手があったのみ」であり、「ダービー馬があれほどもの静かに、あれほど冷淡に迎えられたことがあっただろうか」と回想している<ref name="光栄出版部(編)1995b-55"/>。 鈴木勝太郎はタケホープとイチフジイサミがハイセイコーに並びかけた時に「もう、だめだ、5着もあぶないだろう……」と覚悟し、増沢も直線の途中で「これはよくて5着かな。もしかしたら大敗じゃないか」と感じたと振り返っている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、75-76頁。</ref>。石川喬司は、「直線でタケホープとイチフジイサミにかわされたとき、ハイセイコーがチラッとスタンドに視線を向けたような気がした」と回顧し、「まるでボクはもうダメです、と訴えているように見えた。あの視線は忘れられない」と振り返っている<ref name="阿部1990-55"/>。詩人の[[寺山修司]]は、日本中央競馬会の機関広報誌『[[優駿]]』誌上で自身が執筆したダービーの観戦記の中で「ダービーに出走してきたのは、ハイセイコーではなかった。あれは、ハイセイコーに瓜二つの公営の馬だった」、「並外れた能力の持ち主だが母の父馬がカリムなので距離が少し苦しい。関係者は、ハイセイコーを[[ベルモントステークス]]に出走させて[[セクレタリアト]]の三冠を阻むために[[ニューヨーク]]へ空輸してしまい、レースに出走したことがない替え馬専門の馬が留守を務めることになった」という持論を展開し、「ハイセイコーがタケホープに負ける訳がない」と述べた<ref name="寺山・古井ほか1998-134-135">[[#寺山・古井ほか1998|寺山・古井ほか1998]]、134-135頁。</ref>。管理馬のクリオンワード(18着)を出走させていた[[栗田勝]]はレース後、先行した馬が総崩れとなる中でハイセイコーだけが上位に踏みとどまった事実を指摘し、出走馬の中で最も実力があるのはハイセイコーだと述べた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、29頁。</ref>。 東京優駿の敗戦は「不敗神話の崩壊」<ref name="週刊日録20世紀 1973年-4">[[#週刊日録20世紀 1973年|週刊日録20世紀 1973年]]、4頁。</ref>、「『怪物性』が馬脚を現した」<ref name="阿部2001-61"/>、「偶像が虚像と化した」<ref name="広見2016-80"/><ref name="横尾1986-23"/>と評され、マスコミは「ついに"敗"セイコー」、「怪物がただの馬になった日」といった見出しで敗戦を報じた<ref name="河村2011-80">[[#河村2011|河村2011]]、80頁。</ref>。しかし、その人気が敗戦によって衰えることはなく<ref name="競馬 黄金の蹄跡-37">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、37頁。</ref><ref name="優駿2000-10-18"/><ref name="阿部2003-65"/>、むしろ高まっていった<ref name="藤野1992-153"/><ref name="週刊日録20世紀 1973年-4"/><ref name="阿部2001-61"/>。大川慶次郎は、「『ハイセイコー神話』は、逆説的にいえばこの敗戦から生まれたものかもしれません」と述べ<ref name="大川1998-241"/>、阿部珠樹は「ダービーの敗戦は、ハイセイコーをオーソドックスな日本の英雄に変えたといってもよいだろう」と述べている<ref name="阿部2001-61"/>。 ===== 京都新聞杯・菊花賞 ===== 夏場は気候の涼しい北海道へ移動させず、東京競馬場で調整されることになった。ハイセイコーは暑さに強く、一度涼しい北海道で過ごした後で残暑の残る本州へ戻すリスクを冒すことはないと陣営が判断したためである{{#tag:ref|また、北海道の調教コースは半径が小さく、大型馬のハイセイコーが走ると脚を痛める危険もあった<ref name="赤木1975-207-208">[[#赤木1975|赤木1975]]、207-208頁。</ref>。|group="注"}}。鈴木康弘によると、この年の暑さは厳しく体調を崩す馬が多く出たが、ハイセイコーは3日間調教を休むだけで乗り切ることができたという<ref name="赤木1975-207-208"/>。 秋になると陣営はクラシック最後の一冠である[[菊花賞]]を目標に据え、前哨戦である[[京都新聞杯]]に出走させることを決定し、[[9月18日]]にハイセイコーを東京競馬場から[[栗東トレーニングセンター]]へ輸送した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、102頁。</ref>。[[10月21日]]に行われた[[京都新聞杯]]では1番人気に支持され、皐月賞と同じような先行策をとり、向こう正面で3、4番手から2番手に進出したが、第4コーナーで増沢が馬場状態の悪いインコースを嫌って大きく外を回ったところ、トーヨーチカラ、シャダイオー、[[ホウシュウエイト]]がインコースを通ってハイセイコーに並びかけ、激しい競り合いとなった。結果、トーヨーチカラには半馬身遅れをとり、シャダイオーにアタマ差競り勝ち2着でゴールした<ref name="赤木1975-95-96">[[#赤木1975|赤木1975]]、95-96頁。</ref>。鈴木勝太郎はレース後、第4コーナーで外を通り過ぎたことや初めて走る[[京都競馬場]]のコースにハイセイコーが戸惑いを見せたことを敗因に挙げ、「これで菊花賞への目安が立ちました」とコメントした<ref name="赤木1975-95-96"/>。このレースは[[関西テレビ]]での競馬中継において[[杉本清]]が実況を担当したが、杉本は「京都競馬場の[[白鳥]]もうっとり、これが噂のハイセイコーです」「どうだハイセイコー、この淀の走り心地はどうだ」というフレーズを発した<ref name="光栄出版部(編)1994a-74">[[#光栄出版部(編)1994a|光栄出版部(編)1994a]]、74頁。</ref><ref>[[#杉本1995|杉本1995]]、40頁。</ref>。このフレーズに大きな反響があり、この京都新聞杯が自身の実況が「杉本節」と呼ばれるきっかけになったと述べている<ref name="光栄出版部(編)1994a-74"/>。 [[11月11日]]、菊花賞に出走。1番人気に支持されたハイセイコーであったが、東京優駿で66.6%あった単勝支持率は23.8%に落ち込んでいた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、41頁。</ref>。先行策をとったハイセイコーは第3コーナーの手前で先頭に立ち、第4コーナーでは後続を5[[着差 (競馬)#日本の着差の表示|馬身]]から6馬身引き離したが、直線でタケホープが追い上げを見せ、2頭はほとんど同時にゴールインした。写真判定の結果、[[着差 (競馬)#日本の着差の表示|ハナ]]差でタケホープが先着しており、ハイセイコーは2着に敗れた<ref name="赤木1975-105-108・110-114">[[#赤木1975|赤木1975]]、105-108・110-114頁。</ref>。タケホープはハイセイコーも出走した京都新聞杯で13頭中8着に敗れており、レース後嶋田功は「ダービー前の状態に近くなってきた」とコメントしていた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、97頁。</ref>が、調教師の[[稲葉幸夫]]によるとレース前の3日間で体調が大きく上向き、「こわいみたいないい状態」になっていた<ref name="赤木1975-105-108・110-114"/>。タケホープに騎乗した[[武邦彦]]は、ハイセイコーが「馬体を合わせるともうひと伸びする、競って強い馬である」という特徴を掴み、直線で最後まで馬体を併せず、ゴールでわずかに前に出るという乗り方を行っていた<ref name="阿部2001-61"/>。寺山修司はこのレースでの武の騎乗を指して、「(ハイセイコーは)タケホープに負けたんじゃない。武邦に負けたんだよ」と述べている<ref>[[#江面2016|江面2016]]、70-71頁。</ref>。 関西テレビの競馬中継では前走の京都新聞杯に続いてこの菊花賞も杉本清が実況を担当したが、杉本によるとこのレースはハイセイコーが生まれた武田牧場と二元中継を行っており、「スタッフ一同としてはどうしても勝ってほしい気持ちでいっぱいだった」と述べている<ref name="光栄出版部(編)1994a-74"/>。杉本は3コーナー付近でシンザンの主戦騎手を務めた栗田勝から教えられた「(京都の3コーナーは)抑えて上り、抑えて下らなければいけません」という言葉を思い出し、「ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと下らなければいけません」というフレーズを発した<ref name="光栄出版部(編)1994a-75-76">[[#光栄出版部(編)1994a|光栄出版部(編)1994a]]、75-76頁。</ref><ref>[[#杉本1995|杉本1995]]、12-14頁。</ref>{{#tag:ref|このフレーズは「TVを見てたハイセイコーファンの人は、もう何としてもゆっくり行って、ゴールまでそのまま行ってくれっていうような感じで見てたと思うんですよ」と振り返りつつ、その気持ちがそのままこのフレーズに出てしまったと述べている<ref name="光栄出版部(編)1994a-75-76"/>。|group="注"}}。ゴールの直後も杉本はタケホープがちょっと出たな、と思ったが、ゴールした瞬間に武田牧場の従業員の顔がテレビに映されたため、「『タケホープ勝った』とは言いにくかったから、『ほとんど同時』というようなことを言った」と当日の実況について回顧している<ref name="光栄出版部(編)1994a-75-76"/>。[[11月14日]]、ハイセイコーは東京競馬場の厩舎に戻った<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、116頁。</ref>。 ===== 有馬記念 ===== [[12月16日]]、ハイセイコーは[[有馬記念]]に出走した(タケホープは出走を回避)。有馬記念ではファン投票により出走馬を選出するが、この年のファン投票でハイセイコーは有馬記念史上最高となる投票者の90.8%に支持され、1位で選出されていた<ref name="阿部2003-67">[[#阿部2003|阿部2003]]、67頁。</ref>。1番人気に支持されたハイセイコーは4、5番手を進んだが、ハイセイコーよりも後方を走る[[タニノチカラ]]や[[ベルワイド]]をマークした結果<ref name="赤木1975-186-187"/>、逃げた[[ニットウチドリ]]や同馬を第3コーナーでいち早く追いかけた[[ストロングエイト]]を交わすことができず、3着に敗れた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、149-151頁。</ref><ref group="注">優勝馬はストロングエイト、2着はニットウチドリ。</ref>。レース後増沢は、向こう正面で先頭に立つことも考えたが、タニノチカラに勝つためにはそうするべきではないと思いとどまったとコメントした<ref name="赤木1975-210-211">[[#赤木1975|赤木1975]]、210-211頁。</ref>。タニノチカラに騎乗した[[田島日出雄]]は、ハイセイコーとマークしあった結果、先行馬有利のレースになったと分析した上で<ref name="赤木1975-210-211"/>、「最初からハイセイコーを負かせば勝てるつもりで乗っていた。それがクビ差とはいえ抜けなかったんだから、やっぱりハイセイコーが一番強いです」と述べた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、44頁。</ref>。なお、田島はレース前に記者たちに対して、「ハイセイコーには絶対に勝つ。新聞にもそう書いてくれ」と豪語していた<ref name="阿部2003-67"/>。大橋巨泉は増沢と田島の騎乗を「『相手に勝つこと』ばかりにかまけて、『レースに勝つこと』を忘れたといわれても仕方があるまい」と批判し<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、47頁。</ref>、[[スポーツニッポン]]記者の山中将行も「あまりにも消極作戦でずるずると敗れた両雄の不甲斐なさ」への不満を表明した<ref>[[#『優駿』1974年2月号|『優駿』1974年2月号]]、67頁。</ref>。 1974年の[[JRA賞|優駿賞]]年度代表馬選考ではタケホープが年度代表馬に選出されたが、ハイセイコーの人気が絶大でありそのことは入場者数などに現れていることを根拠に、「1年を象徴するのが年度代表馬であるなら、ハイセイコーであっても不思議はない」という異論が出た。この意見は「ダービー、菊花賞の重さにおよぶはずはない」と退けられたものの、ファンを湧かせた功労を無視することはできないとして「[[JRA賞特別賞|大衆賞]]」が与えられ表彰された<ref>[[#『優駿』1974年2月号|『優駿』1974年2月号]]、8-9頁。</ref><ref name="広見2016-82">[[#広見2016|広見2016]]、82頁。</ref>。中央競馬の年度代表馬選考において、特別賞が授与されたのは史上初のことであった<ref name="江面2011-124">[[#江面2011|江面2011]]、124頁。</ref>。 ==== 5歳時(1974年)==== 陣営は[[1974年]](昭和49年)の初戦として[[1月20日]]の[[アメリカジョッキークラブカップ]]を選んだ。ハイセイコーは1番人気に支持されたが、レースではタケホープに2秒1引き離され、9着に敗れた。レース後、増沢は気合が不足していたとコメントし、その理由について激戦が続いたことによる疲れが出たのではないかと述べた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、49頁。</ref>{{#tag:ref|スポーツニッポンの記者蔵田峻によるとパドックを周回するハイセイコーを見て、蔵田自身を含め複数のマスコミ関係者がハイセイコーの体調は良くないと判断したという<ref>[[#『優駿』1974年3月号|『優駿』1974年3月号]]、75-76頁。</ref>。|group="注"}}。鈴木康弘によるとハイセイコーはレース後に微量ではあったものの鼻血が出始めていて、後にこれが肺から出ていたことが判明したため、当初は敗因を冬の稽古で絞れなかったことと考えていたが、「とにかく出るレース全部全力投球なんで、目に見えない疲労が少しづつ、体の内部に広がっていったんでしょう」と分析している<ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247"/>。 [[3月10日]]、[[中山記念]]に出走。ハイセイコーは1番人気に支持され、不良馬場のなか、2番手から第4コーナーで先頭に並びかけるレース運びを見せ大差勝ちし、前年のNHK杯以来10か月ぶりとなる勝利を挙げた<ref name="笠野・原1993-123"/>。タケホープもこのレースに出走しており、増沢は直線で後続馬との差を広げ独走態勢に入ってからも「またタケホープに迫られるんじゃないか」と思い、ハイセイコーに全力で走るよう促し続けた<ref name="さらばハイセイコー-50">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、50頁。</ref>。鈴木康弘によると、3月を過ぎ気温が上昇するとともに、ハイセイコーの体調は上向いていったという<ref name="赤木1975-212-214">[[#赤木1975|赤木1975]]、212-214頁。</ref>。 中山記念の後、ハイセイコーは[[天皇賞(春)]]に備えて4月初頭に[[栗東トレーニングセンター]]へ輸送された{{#tag:ref|鈴木康弘によるとハイセイコーの体調は非常に良好であったが、レースが行われる予定の週に厩務員が[[ストライキ]]を起こし、レースの施行日が一週間延期された間に調子を落としてしまったという<ref name="赤木1975-212-214"/>。一方、鈴木勝太郎は後に、この時のハイセイコーはレース出走が続いたことで疲労が蓄積して「最悪のデキ」にあり、「正直出走させたくなかった」と振り返っている<ref>[[#『優駿』1974年12月号|『優駿』1974年12月号]]、81頁。</ref>。|group="注"}}。[[5月5日]]に行われたレースで、ハイセイコーは前方へ進出しようとする素振りを見せて増沢の制御になかなか従わおうとせず{{#tag:ref|増沢によると、気性の荒いハイセイコーにはスローペースになると自ら前方へ進出しようとして制御に従おうとしない傾向があり、長距離のレースでは不安がつきまとった<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、116頁。</ref>。|group="注"}}、2番手でレースを進めた。ハイセイコーは「仕掛けるには、まだ早すぎる」という増沢の思いとは裏腹に第3コーナーで先頭に立ったものの粘りきれず、タケホープから1秒0差の6着に敗れた<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、119頁。</ref>。前年の[[11月20日]]に報道された、ハイセイコーが5月から翌1975年までアメリカへ遠征し、[[ワシントンDCインターナショナル]]などに出走するという計画<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、120-122頁。</ref>は、この敗戦により中止された<ref>[[#横尾1986|横尾1986]]、25頁。</ref>。また、この頃からハイセイコーは従来の呼称であった「怪物」ではなく、「怪物くん」という愛嬌のある呼称で呼ばれるようにもなっていた<ref>[[#江面2017|江面2017]]、138頁。</ref>。 [[6月2日]]、[[宝塚記念]]([[第15回宝塚記念|第15回]])に出走。このレースで単勝1番人気に支持されたのは[[ストロングエイト]]であり、ハイセイコーはデビュー以来初めて単勝1番人気に支持されなかった<ref>[[#笠野・原1993|笠野・原1993]]、124頁。</ref>{{#tag:ref|ハイセイコーは前走の天皇賞(春)でJRAデビュー戦の弥生賞から11戦連続で1番人気に支持され、JRA競走(サラ平地)連続1番人気の記録を樹立していた。2006年の宝塚記念においてディープインパクトもこの記録に並んでいるが、ハイセイコーは地方時代の6戦も含めると17戦連続で1番人気に支持されていた<ref>[[#21世紀の名馬Vol.5 ディープインパクト|21世紀の名馬Vol.5 ディープインパクト]]、38頁。</ref><ref>[[#追悼ディープインパクト|追悼ディープインパクト]]、56頁。</ref>。|group="注"}}。増沢によると天皇賞(春)に敗れた後、自身のもとに「あれで怪物か。普通の馬じゃないか」という声が届くなど、ハイセイコーに対するファンの見方には変化が生じていたという<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、120頁。</ref>。しかしこのレースでハイセイコーはレコードタイム(2分12秒9)で走破し、2着のクリオンワードに5馬身の着差をつけて勝利を収めた。レース後、鈴木勝太郎は勝利を喜びながらも「タケホープに出てきてほしかった。きょうは絶対に負けなかっただろう。タケホープはあれだけの速いタイムでは走れないよ」とタケホープへの対抗心を露わにした<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、56頁。</ref>。タケホープは天皇賞(春)出走後に[[屈腱炎]]を発症し、休養に入っていた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、57頁。</ref>。増沢は後に、この勝利で失いかけていた人気が急に復活したと振り返っている<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、121頁。</ref>。 さらに同月23日、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]に出走{{#tag:ref|鈴木康弘によると、当初は宝塚記念出走後すぐに東京競馬場へ戻る予定であったが、体調が良かったため[[名古屋市|名古屋]]のファンへ顔見せを行うべく出走に踏み切ったという<ref name="赤木1975-215">[[#赤木1975|赤木1975]]、215頁。</ref>。|group="注"}}。レース当日、[[中京競馬場]]には同競馬場史上最多の6万8469人の観客が入場した<ref name="赤木1975-170-172"/>{{#tag:ref|厩務員の大場はこの時の歓迎について、「弥生賞とも比べものにならないほどだった」と語り<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、169頁。</ref>、増沢は後に、「今までもずいぶん騒がれました。でもこんな大歓声を聞いたのは初めてです」<ref name="さらばハイセイコー-58">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、58頁。</ref>、「感激した。あのときのことを、いまでも思い出すと、興奮するくらいだ」と振り返っている<ref name="赤木1975-186-187"/>。|group="注"}}。増沢によるとこの時ハイセイコーは夏負けの症状を見せ始めており、体調は宝塚記念の時ほどよくはなかった。増沢は逃げることも視野に入れていたが思っていたほどスピードに乗れず、3番手からの競馬となった<ref name="さらばハイセイコー-58"/>。スタート後ずっと前進を促されていたハイセイコーは第3コーナーに差し掛かったところでスピードに乗り始め<ref name="さらばハイセイコー-58"/>、第4コーナーで先頭に並びかけ、直線半ばで先頭に立ちそのまま優勝した<ref name="赤木1975-170-172">[[#赤木1975|赤木1975]]、170-172頁。</ref>{{#tag:ref|増沢はゴール前で2着馬アイテイエタンが追い上げる蹄音が聞こえ、肝を冷やしたという<ref name="さらばハイセイコー-59">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、59頁。</ref>。|group="注"}}。高松宮杯を勝ったことでハイセイコーの獲得賞金は1億9364万5400円になり、[[メジロアサマ]]の記録(1億8625万8600円)を抜いて当時の中央競馬史上最高額となった<ref name="さらばハイセイコー-59"/>。レース後、増沢はハイセイコーの年内一杯での競走馬引退を示唆した<ref name="さらばハイセイコー-59"/>。 [[6月27日]]にハイセイコーは東京競馬場へ戻り<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、190頁。</ref>、夏場は前年と同様に東京競馬場で調整を続け<ref name="赤木1975-215"/>、秋になって[[10月13日]]の[[京都大賞典]]に出走。2番人気に支持されたが、休養明けで体調が万全でなかったことと、62kgという[[負担重量]]が響く形でタニノチカラの4着に終わった。4着の賞金270万円を加算したハイセイコーの獲得賞金額は2億116万5400円となり、中央競馬史上初めて2億円を超えた<ref name="さらばハイセイコー-61">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、61頁。</ref>。 京都大賞典の後、「目標はあくまでも天皇賞、有馬記念」と語った陣営<ref name="さらばハイセイコー-61"/>は、[[天皇賞(秋)]]へのステップレースとして[[11月9日]]のオープン戦を選び、タケホープも出走したこのレースでハイセイコーは[[ヤマブキオー]]の2着となった<ref>[[#笠野・原1993|笠野・原1993]]、126頁。</ref>。しかしレース後に[[鼻血#馬の鼻出血|鼻出血]]が確認され、「競走中に外傷性のものではない鼻出血を起こした競走馬は、当該競走から起算して発症1回目は1ヵ月間競走に出走できない」というルールの適用を受けることとなり、天皇賞(秋)への出走は断念せざるを得なくなった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、63頁。</ref>。鈴木康弘は「ハイセイコーにとって天皇賞はよほど運のないレースとなってしまった」と嘆いた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、216頁。</ref>。増沢も天皇賞(秋)が行われた後、「使いたかった。あのレースの結果{{#tag:ref|天皇賞(秋)の優勝馬は、ハイセイコーに先着したことのない[[カミノテシオ]]であった。|group="注"}}からみて、今でも残念だ」と出走できなかったことを悔いた<ref name="赤木1975-186-187"/>。 [[12月15日]]、引退レースの有馬記念に出走。レース前に行われたファン投票では、前年に続き1位に選ばれた<ref name="阿部2001-62">[[#阿部2001|阿部2001]]、62頁。</ref>。レースではタニノチカラが逃げ、ハイセイコーは3番手につけた。向こう正面で馬群の中ほどに位置していたタケホープが前方へ進出を開始し、第4コーナーではタニノチカラをハイセイコーとタケホープが追う形となった。直線に入ってもタニノチカラとハイセイコー、タケホープとの差は縮まらず、タニノチカラが優勝した。ハイセイコーはタケホープとの競り合いを制し5馬身差の2着に入った<ref name="赤木1975-158-161">[[#赤木1975|赤木1975]]、158-161頁。</ref>。 2頭の競り合いに観客は優勝馬がすでに決まっていたにもかかわらず湧き上がり<ref name="阿部2001-63">[[#阿部2001|阿部2001]]、63頁。</ref><ref name="河村2011-79">[[#河村2011|河村2011]]、79頁。</ref>、ハイセイコーが2着でゴールした瞬間にスタンドからは一斉に拍手が沸き起こり<ref name="広見2016-83">[[#広見2016|広見2016]]、83頁。</ref>、テレビ中継のカメラは勝ったタニノチカラではなくハイセイコーを大映しにした<ref name="河村2011-79"/>{{#tag:ref|阿部珠樹はこの時の観客の盛り上がりを、優勝馬が決まった後のものとしては空前絶後と評し、このレースが2つのレース、すなわちタニノチカラが勝った第1のレースと、ハイセイコーとタケホープが競り合った第2のレースから成り立っていたと述べている<ref name="阿部2001-63"/>。|group= "注"}}。増沢はこのレースを、体調がいま一つであったため2着に敗れたものの悔いはないと振り返っている<ref name="赤木1975-186-187"/>。厩務員の大場はレース前、天皇賞(秋)に出走できずレース間隔が予定より開いた影響から馬体重が絞り切れていないと感じていた<ref name="赤木1975-158-161"/>。 ハイセイコーがゴールした後、テレビの中継番組は増沢が11月に吹き込みを済ませていた楽曲『[[さらばハイセイコー]]』を流し<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、126-127頁。</ref>、勝ったタニノチカラへの言及もそこそこに、ハイセイコーが引退レースでタケホープに先着したことを繰り返し伝えた<ref name="阿部2001-63"/>。タニノチカラに騎乗していた[[田島日出雄]]によると、『さらばハイセイコー』は現地の観客スタンドにも流されていたという<ref>[[#競馬〈感涙〉読本|競馬〈感涙〉読本]]、104頁。</ref>{{#tag:ref|阿部珠樹はこの事について、「タニノチカラは不運だったが、当時は、そうした扱いを誰も不当だとは考えなかった。タニノチカラは強い馬かもしれない。だがハイセイコーは特別な馬なのだ。それがほとんどのファンの認識だった」と述べている<ref name="阿部2001-63"/>。|group="注"}}。 『さらばハイセイコー』は1974年のある時、競馬評論家の[[小坂巖]]が書いた「増沢がハイセイコーの歌を歌ったらヒット間違いなし」という文章を[[ポリドール・レコード]]関係者が目にしたのをきっかけに制作された楽曲で、小坂が作詞を、[[猪俣公章]]が作曲を担当した<ref name="優駿増刊号 TURF-59"/>。[[1975年]](昭和50年)1月に発売されるや『さらばハイセイコー』はラジオの[[ヒットチャート]]で1位を<ref name="週刊日録20世紀 1973年-5"/>、[[オリコン]]のヒットチャートで最高4位を獲得し<ref>[[#河村2011|河村2011]]、78頁。</ref>、50万枚を売り上げた<ref name="さらばハイセイコー-7">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、7頁。</ref>。同年4月には同じく増沢の吹き込みで『ハイセイコーよ元気かい』が発売され、14万枚を売り上げた<ref name="さらばハイセイコー-7"/>。 ==== 引退式 ==== 1975年[[1月6日]]、『さらばハイセイコー』が流れる中<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、68頁。</ref>、東京競馬場で引退式が行われた<ref>[[#笠野・原1993|笠野・原1993]]、127頁。</ref>。スタンド前から走り始めたハイセイコーはゴール板を過ぎたところで動かなくなり、再び走り出すとそのまま芝コースを1周した<ref name="赤木1975-166">[[#赤木1975|赤木1975]]、166頁。</ref>。引退式でコースを1周したのは中央競馬史上初のこと<ref name="赤木1975-166"/>で、これは第4コーナーから500mほど走らせるという一般的な方法ではなかなか走るのをやめようとしないだろうと陣営が判断したためであった<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、167頁。</ref>。引退式に先立ち、1974年12月26日には東京競馬場で「ハイセイコーとファンの集い」が催され、4000人あまりのファンが集まった<ref name="河村2011-79"/>。この場で増沢は、『さらばハイセイコー』を披露している<ref name="河村2011-79"/>。 1月7日、ハイセイコーは北海道[[新冠町]]の明和牧場で[[種牡馬]]生活を開始するために馬運車に乗せられて厩舎を離れ<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、154-157頁。</ref>、翌8日の夕刻、明和牧場に到着した<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、177頁。</ref>。 === 種牡馬時代 === ハイセイコーの人気は種牡馬となってからも衰えなかった<ref name="英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20-37">[[#英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20|英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20]]、37頁。</ref><ref name="山野1978-14">[[#山野1978|山野1978]]、14頁。</ref><ref name="朝日新聞be編集グループ(編)2006-186-188">[[#朝日新聞be編集グループ(編)2006|朝日新聞be編集グループ(編)2006]]、186-188頁。</ref>。後藤正俊は種牡馬としてのハイセイコーの最大の功績として[[競馬ファン]]と馬産地とを結びつけたことを挙げ、それまで馬産地を訪れる競馬ファンは少なかったが、ハイセイコーが種牡馬となり明和牧場で繋養されるようになると、観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになった<ref name="後藤2000-39">[[#後藤2000|後藤2000]]、39頁。</ref>。その後も「ハイセイコー見学」はバスツアーの欠かせないコースとなり、明和牧場は年間数万人が訪れる名所となった<ref>[[#『優駿』2015年8月号|『優駿』2015年8月号]]、53頁。</ref>。明和牧場ではハイセイコー専用の放牧場を用意してファンの訪問に備え<ref name="英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20-37"/><ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、69頁。</ref>、これに合わせてファンがハイセイコーを見るための展望台も作られ、グッズも飛ぶように売れた<ref>[[##夢はターフを駆けめぐる8|夢はターフを駆けめぐる8]]、57頁。</ref>。[[1976年]](昭和51年)公開の映画『[[トラック野郎・望郷一番星]]』にハイセイコーが出演すると新冠町の知名度が高まり、町がハイセイコーの名を冠したブランドを作って特産品の野菜を販売したところ、爆発的な売れ行きを見せた<ref name="朝日新聞be編集グループ(編)2006-186-188"/>。日本中央競馬会の機関広報誌『優駿』の元責任編集者の和田久によると、1975年2月に[[札幌市]]で行われた[[さっぽろ雪まつり]]ではハイセイコーの雪像が作られ、ひっきりなしに「さらばハイセイコー」が流れていたという<ref name="英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20-37"/>。 [[1977年]](昭和52年)10月にはデビューした大井競馬場において、「ハイセイコー 大井に帰る」と題されたイベントが3日にわたって催された。高橋三郎によると、この時[[京浜急行電鉄]][[立会川駅]]から大井競馬場にかけて、「[[東京ダービー (競馬)|東京ダービー]]や[[東京大賞典]]の当日ですら見られないほどの人だかりができた」という<ref name="関口2000-134">[[#関口2000|関口2000]]、134頁。</ref>。 ハイセイコーは種牡馬となった初年度に72頭の[[繁殖牝馬]]と交配した<ref name="JBIS"/>。しかし、小柄な馬が多く生まれたこと<ref name="後藤2000-38">[[#後藤2000|後藤2000]]、38頁。</ref>、産駒の出来不出来の差が激しい<ref name="吉沢1991-31">[[#吉沢1991|吉沢1991]]、31頁。</ref><ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、77頁。</ref>といった理由から2年目以降交配頭数は44頭、38頭、29頭と減少していき<ref>[[#寺山・古井ほか1998|寺山・古井ほか1998]]、261頁。</ref>、種付け料も初年度は80万円に設定されていたが<ref name="阿部1990-56"/>、1979年には40万円にまで下落した<ref name="阿部1990-57"/>。種牡馬としてもクラシックレースに強い血を受け継ぐタケホープを高く評価する人物も多かったが<ref name="阿部1990-57"/>、初年度の産駒から[[カツラノハイセイコ]](東京優駿、天皇賞(春)優勝)など複数の活躍馬が現れたことで種牡馬としての人気を盛り返し<ref name="吉沢1991-31"/>、5年目以降は10年連続で50頭以上と交配した<ref name="後藤2000-38">[[#後藤2000|後藤2000]]、38頁。</ref>。 カツラノハイセイコはハイセイコーと同じく1番人気で東京優駿に出走し、[[報道|ジャーナリズム]]は「父の無念を晴らせ」「内国産の夜明け」と期待を書き立てた<ref name="阿部1990-57"/>。その東京優駿を優勝したことで「親の無念を晴らした孝行息子」として大きな話題を集め<ref>[[#寺山・古井ほか1998|寺山・古井ほか1998]]、263頁。</ref>、東京優駿優勝時には一般紙でも大きく取り上げられ、その活躍はファンの間でも熱狂的に迎えられた<ref name="調教師の本4">[[#調教師の本IV|調教師の本IV]]、110-111頁。</ref>。父内国産馬の東京優駿制覇は1959年の[[コマツヒカリ]](父[[トサミドリ]])以来20年ぶりの事であり<ref name="阿部2001-63"/>、カツラノハイセイコに次ぐ2着に入ったリンドプルバンの鞍上は、タケホープで東京優駿を制した嶋田功だった<ref name="寺山・古井ほか1998-256・264">[[#寺山・古井ほか1998|寺山・古井ほか1998]]、256・264頁。</ref>。同馬を管理した[[庄野穂積]]のもとには、初勝利を挙げた頃から激励の手紙やお守りを同封した子供からの手紙が殺到し<ref name="調教師の本4" />、1979年には増沢の吹き込みによるレコードシングル『いななけカツラノハイセイコ』が発売され、7万枚を売り上げた<ref name="さらばハイセイコー-7"/>。血統研究家の[[吉沢譲治]]は、1990年の東京優駿前にハイセイコーの種牡馬生活を振り返った際に、「もしもカツラノハイセイコが出ていなかったら、その後のハイセイコーがどうなっていたか分からない」と述べている<ref name="吉沢1990">[[#吉沢1990|吉沢1990]]、9頁。</ref><ref name="吉沢1991-31"/>。 1980年代に入り世界的な広がりを見せていた[[ノーザンダンサー]]の血統がブームとなると、ハイセイコーの血統は時代遅れであるとみなされ始める<ref name="吉沢1990" />。内国産種牡馬も[[トウショウボーイ]]や[[マルゼンスキー]]が次々とクラシックレースの優勝馬を輩出していき<ref name="阿部1990-57"/>、そのような中でハイセイコーも散発的ではあったが活躍馬を輩出し続け、中央・地方を問わず産駒が走ったことで依然生産者の間での人気は高かったものの、80年代後半になるとそれも落ち始め、「種牡馬ハイセイコーは終わった」という見方が広まっていった<ref name="吉沢1990" />。しかし1989年に[[サンドピアリス]]が[[エリザベス女王杯]]に優勝すると<ref>[[#江面2015|江面2015]]、58頁。</ref>、1990年には[[ハクタイセイ]]が[[芦毛]]馬として初となる[[皐月賞]]優勝を果たして親子制覇を達成<ref>[[#光栄出版部(編)1995a|光栄出版部(編)1995a]]、145頁。</ref>、牝駒の[[ケリーバッグ (競走馬)|ケリーバッグ]]も[[桜花賞]]で2着と健闘した<ref name="阿部1990-57"/>。地方競馬でもアウトランセイコーが大井の[[黒潮盃]]を制するなど活躍馬が集中し、一時90万円まで下がっていた種付け料は再び100万円台半ばに回復した{{#tag:ref|この現象について、明和牧場代表の国宇守は「牧草が変わったわけでもなければ、世話する人が変わったわけでもない。環境は昔からみんな同じです。どうしてなのか、私たちにもわかりません。しかし、そこがまた怪物の怪物たるゆえんなのでしょう」と述べている<ref name="吉沢1990" />。|group="注"}}{{#tag:ref|阿部珠樹は、当時のハイセイコーの「かなり低下していた配合相手の水準を考えると、奇跡的なことといっていいだろう」と評している<ref name="阿部2001-63"/>。|group="注"}}。1990年、ハイセイコーは地方競馬の[[リーディングサイアー]]を獲得した。 ;年度別の種付け頭数および誕生産駒数<ref name="JBIS">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000036106/sire/generation/thorough_s/|title= 種牡馬情報:世代・年度別|ハイセイコー |work=JBIS-search|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2020-01-24}}</ref> {| class="wikitable" style="text-align:right" !style="text-align:center"|年度!!1975!!'76!!'77!!'78!!'79!!'80!!'81!!'82!!'83!!'84!!'85!!'86!!'87!!'88!!'89!!'90!!'91!!'92!!'93!!'94!!'95!!'96 |- |style="text-align:center"|種付け頭数||72||44||38||29||65||64||71||70||50||75||63||61||57||57 ||37||45||40||43||17||3||1|| - |- |style="text-align:center"|誕生産駒数|| - ||57||32||26||19||40||48||58||45||34||54||51||41||46||36||24||34||29||19||9||1||0 |} ==== 顕彰馬に選出 ==== [[1984年]]には[[JRA競馬博物館|競馬の殿堂]]の[[顕彰馬]]に選定された。顕彰馬選考委員会の一員として顕彰馬選出に関与した[[大川慶次郎]]は、競走成績だけをみると顕彰馬のなかでは一枚落ちるものの、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が選定の決め手になったと述べている<ref name="大川1997-93"/><ref name="大川1998-241"/>。 === 晩年 === ハイセイコーは[[1997年]]の交配を最後に種牡馬を引退し<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、78頁。</ref>、明和牧場で余生を過ごした。[[2000年]][[5月4日]]午後、同牧場の放牧地で倒れているのが発見され、獣医によって死亡が確認された<ref name="さらばハイセイコー-6">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、6頁。</ref>。死因は心臓麻痺<ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247"/>。競走馬時代の主戦騎手で、調教師となり北海道の牧場を巡っていた増沢末夫が死亡の報せを聞いて明和牧場を訪れたところ、ハイセイコーはまだ放牧地に横たわったままで、増沢はその場にしばらく無言で佇み<ref name="さらばハイセイコー-6"/>、そしてハイセイコー死亡の連絡を自身に報せた人物に対して涙を堪えるように「ありがとうございます」と伝えたという<ref name="最強サラブレッド列伝">[[#最強サラブレッド列伝|最強サラブレッド列伝]]、30-31頁。</ref>。5月18日、新冠町のレ・コード館で「お別れの会」が催され、およそ500人が参列した<ref name="さらばハイセイコー-8">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、8頁。</ref>。 [[ファイル:Tomb of Haiseiko.jpg|thumb|ハイセイコーの墓(ビッグレッドファーム明和)]] ハイセイコーの墓は最期を迎えた[[ビッグレッドファーム]]明和(1998年に明和牧場を買収して開業)にあり、その墓碑には'''「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」'''と記されている。 死後、[[道の駅サラブレッドロード新冠]](新冠町)・中山競馬場・大井競馬場には[[銅像]]が建立され、ハイセイコーが大井競馬場時代に優勝した青雲賞は、[[2001年]]より「[[ハイセイコー記念]]」と改称された<ref name="大井が生んだ怪物"/>。また、2000年8月には「[[さらばハイセイコー]]」が追悼版[[コンパクトディスク|CD]]として再発売された。<!--3年で終わったイベントで、あえて記述すべきかどうか疑問を感じるのでコメントアウトします/新冠町では2001年から2003年にかけ、命日の5月4日にハイセイコーの偉業を後世に伝えるイベント「ハイセイコーフェスティバル」が開催された<ref>{{Cite web|date = 2004-03-01|url = http://www.tomamin.co.jp/2004/tp040311.htm|title = 【新冠】ファンらに人気のハイセイコーフェスは3年で幕|work = [[苫小牧民報]]|publisher =苫小牧民報社|language = 日本語|accessdate = 2011年11月1日}}</ref>。-->2004年2月には[[JRAゴールデンジュビリーキャンペーン]]の「名馬メモリアル競走」として「ハイセイコーメモリアル」が中山競馬場で施行された。 == 成績 == === 競走成績 === {| style="font-size: 95%; text-align: center; border-collapse: collapse;white-space:nowrap" |- !colspan="3"|年月日!![[競馬場]]!!競走名!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!人気!!着順!!距離!!タイム!![[騎手]]!!着差!!勝ち馬/(2着馬) |- |style="text-align: right;"|[[1972年|1972]] |style="text-align: right;"|7. |style="text-align: right;"|12 |[[大井競馬場|大井]] |未出走 |6 |3 |3 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1000m(重) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|{{color|darkred|R 59.4}} |[[辻野豊]] |8馬身 |(ジプシーダンサー) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|26 |大井 |53万上 |8 |5 |5 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1000m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.00.5 |[[福永二三雄]] |大差 |(セッテベロナ) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|9. |style="text-align: right;"|20 |大井 |秋風特別 |7 |4 |4 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1200m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.12.4 |福永二三雄 |7馬身 |(トサエンド) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|10. |style="text-align: right;"|9 |大井 |ゴールドジュニア |5 |1 |1 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1400m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|{{color|darkred|R 1.24.9}} |福永二三雄 |大差 |([[ゴールドイーグル]]) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|11. |style="text-align: right;"|11 |大井 |白菊特別 |8 |5 |5 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1400m(重) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.25.8 |[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]] |7馬身 |(カヤエイコウ) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|27 |大井 |[[ハイセイコー記念|青雲賞]] |10 |8 |10 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|ダ1600m(不) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.39.2 |高橋三郎 |7馬身 |(ゴールデンタテヤマ) |- |style="text-align: right;"|[[1973年|1973]] |style="text-align: right;"|3. |style="text-align: right;"|4 |[[中山競馬場|中山]] |[[弥生賞]] |10 |6 |6 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.50.9 |[[増沢末夫]] |1 3/4馬身 |(ニューサント) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|25 |中山 |[[スプリングステークス|スプリングS]] |10 |3 |3 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.51.0 |増沢末夫 |2 1/2馬身 |(クリオンワード) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|4. |style="text-align: right;"|15 |中山 |'''[[皐月賞]]''' |16 |4 |7 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(重) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.06.7 |増沢末夫 |2 1/2馬身 |(カネイコマ) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|5. |style="text-align: right;"|6 |[[東京競馬場|東京]] |[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]] |14 |5 |7 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.02.3 |増沢末夫 |アタマ |(カネイコマ) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|27 |東京 |'''[[東京優駿]]''' |27 |2 |5 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkgreen|3着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2400m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.28.7 |増沢末夫 | -0.9秒 |[[タケホープ]] |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|10. |style="text-align: right;"|21 |[[京都競馬場|京都]] |[[京都新聞杯]] |13 |3 |3 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkblue|2着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(不) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.08.3 |増沢末夫 | -0.1秒 |トーヨーチカラ |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|11. |style="text-align: right;"|11 |京都 |'''[[菊花賞]]''' |15 |3 |4 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkblue|2着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝3000m(稍) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|3.14.2 |増沢末夫 | -0.0秒 |タケホープ |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|12. |style="text-align: right;"|16 |中山 |'''[[有馬記念]]''' |11 |6 |6 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkgreen|3着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2500m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.36.6 |増沢末夫 | -0.2秒 |[[ストロングエイト]] |- |style="text-align: right;"|[[1974年|1974]] |style="text-align: right;"|1. |style="text-align: right;"|20 |中山 |[[アメリカジョッキークラブカップ|AJCC]] |10 |3 |3 |style="text-align: right;"|1人 |9着 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2400m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.29.6 |増沢末夫 | -2.1秒 |タケホープ |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|3. |style="text-align: right;"|10 |中山 |[[中山記念]] |9 |7 |7 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(不) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.52.1 |増沢末夫 |大差 |(トーヨーアサヒ) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|5. |style="text-align: right;"|5 |京都 |'''[[天皇賞(春)]]''' |15 |3 |6 |style="text-align: right;"|1人 |6着 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝3200m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|3.23.6 |増沢末夫 | -1.4秒 |タケホープ |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|6. |style="text-align: right;"|2 |京都 |[[宝塚記念]] |11 |8 |10 |style="text-align: right;"|2人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2200m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|{{color|darkred|R 2.12.9}} |増沢末夫 |5馬身 |(クリオンワード) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|23 |[[中京競馬場|中京]] |[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]] |10 |5 |5 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkred|1着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2000m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.00.4 |増沢末夫 |1 3/4馬身 |(アイテイエタン) |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|10. |style="text-align: right;"|13 |京都 |[[京都大賞典]] |11 |6 |6 |style="text-align: right;"|2人 |4着 |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2400m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.30.3 |増沢末夫 | -0.7秒 |[[タニノチカラ]] |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|11. |style="text-align: right;"|9 |東京 |オープン |8 |5 |5 |style="text-align: right;"|1人 |{{Color|darkblue|2着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝1800m(良) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|1.50.0 |増沢末夫 | -0.3秒 |[[ヤマブキオー]] |- |style="text-align: right;"| |style="text-align: right;"|12. |style="text-align: right;"|15 |中山 |'''有馬記念''' |9 |1 |1 |style="text-align: right;"|3人 |{{Color|darkblue|2着}} |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|芝2500m(稍) |style="text-align: right; white-space: nowrap;"|2.36.7 |増沢末夫 | -0.8秒 |タニノチカラ |} * 1 タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。 * 2 太字の競走は[[八大競走]]。 === 種牡馬成績 === ==== 年度別成績 ==== ;年度別種牡馬成績(日本総合、サラ系)<ref name="JBIS"/><ref group="注" name="JBIS注">サイアーランキング、AEIは平地・障害の集計、それ以外は平地のみの集計。</ref> {|class="wikitable" style="text-align:right" !rowspan="2"|年!!colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金 |- !頭数!!回数!!頭数!!回数 |- ||1978年||35||201||23||37||169||0.76||8956万4600円 |- ||1979年||59||518||40||79||43||1.64||3億1431万8300円 |- ||1980年||71||775||46||96||28||1.74||4億531万9000円 |- ||1981年||72||788||45||78||14||2.03||4億8473万6600円 |- ||1982年||85||851||46||96||26||1.44||4億6183万8300円 |- ||1983年||98||927||47||100||34||1.12||3億9986万5300円 |- ||1984年||114||1046||64||137||6||1.65||6億7504万8000円 |- ||1985年||117||976||54||115||27||1.21||4億8872万200円 |- ||1986年||113||1105||67||149||13||1.60||6億3777万4700円 |- ||1987年||114||1025||70||142||14||1.44||6億2516万3200円 |- ||1988年||106||866||52||109||35||1.06||4億7441万7400円 |- ||1989年||106||957||53||106||28||1.16||5億3881万3600円 |- ||1990年||110||988||59||125||13||1.69||8億5993万7900円 |- ||1991年||98||877||50||100||60||0.87||4億1327万1600円 |- ||1992年||84||804||46||111||76||0.87||3億5150万2,00円 |- ||1993年||79||730||45||76||96||0.78||2億7872万2000円 |- ||1994年||69||618||35||62||131||0.63||1億8535万9000円 |- ||1995年||61||565||31||57||131||0.78||1億9907万1000円 |- ||1996年||48||532||27||52||164||0.84||1億7107万8000円 |- ||1997年||36||476||19||49||248||0.59||9193万5000円 |- ||1998年||23||324||14||29||284||0.62||4628万円 |- ||1999年||14||215||7||17||481||0.28||1703万2000円 |- ||2000年||7||106||5||13||559||0.29||902万6000円 |- ||2001年||5||47||2||2||769||0.06||120万8000円 |- ||2002年||2||5||0||0||821||0.02||16万円 |} ;年度別種牡馬成績(地方競馬および中央競馬<ref group="注" name="JBIS注"/>、サラ系)<ref name="JBIS"/> {|class="wikitable" style="text-align:right" !rowspan="3"|年!!colspan="7"|地方競馬!!colspan="7"|中央競馬 |- !colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金!!colspan="2"|出走!!colspan="2"|勝利!!rowspan="2"|順位!!rowspan="2"|[[アーニングインデックス|AEI]]!!rowspan="2"|収得賞金 |- !頭数!!回数!!頭数!!回数!!頭数!!回数!!頭数!!回数 |- ||1978年||26||166||18||30||163||0.98||4956万5000円||9||35||5||7||170||0.68||3999万9600円 |- ||1979年||36||358||26||60||73||1.46||1億295万6500円||23||160||14||19||39||1.53||2億1136万1800円 |- ||1980年||46||543||30||74||40||1.56||1億4683万3000円||28||232||16||22||30||1.51||2億5848万6000円 |- ||1981年||49||576||32||57||39||1.44||1億4573万9000円||27||212||13||21||18||1.97||3億3899万7600円 |- ||1982年||63||629||31||71||15||1.48||1億9572万6500円||26||222||16||25||40||1.38||2億6611万1800円 |- ||1983年||69||721||37||85||11||1.48||2億917万7500円||32||206||10||15||55||0.87||1億9068万7800円 |- ||1984年||78||763||46||103||3||2.01||2億9628万7000円||41||283||18||34||25||1.35||3億7876万1000円 |- ||1985年||79||698||38||90||22||1.08||1億4977万6000円||42||278||16||25||29||1.19||3億3894万4200円 |- ||1986年||75||802||48||117||4||1.68||2億1735万100円||42||303||19||32||24||1.43||4億2042万4600円 |- ||1987年||74||769||51||113||6||1.63||2億1790万7000円||45||256||21||29||23||1.24||4億725万6200円 |- ||1988年||64||588||36||84||12||1.48||1億7935万円||46||278||18||25||47||0.81||2億9506万7400円 |- ||1989年||62||602||38||83||12||1.52||1億9474万円||50||355||15||23||40||0.87||3億4407万3600円 |- ||1990年||76||765||47||106||'''1'''||2.13||3億6501万3000円||40||223||12||19||24||1.49||4億9492万4900円 |- ||1991年||72||708||44||90||16||1.37||2億3083万7000円||29||169||6||10||85||0.69||1億8243万4600円 |- ||1992年||65||666||37||100||30||1.25||1億9483万7000円||23||138||9||11||102||0.74||1億5666万5000円 |- ||1993年||62||619||37||67||52||1.08||1億4509万8000円||20||111||8||9||116||0.74||1億3362万4000円 |- ||1994年||55||526||31||58||65||1.13||1億1931万9000円||16||92||4||4||203||0.47||6604万円 |- ||1995年||53||486||26||49||86||1.00||9816万1000円||8||79||5||8||157||1.44||1億0091万円 |- ||1996年||42||479||25||46||104||1.16||8912万3000円||9||53||3||6||189||1.03||8195万5000円 |- ||1997年||34||472||19||49||105||1.43||8923万5000円||2||4||0||0||544||0.15||270万円 |- ||1998年||23||324||14||29||198||1.08||4628万円|| - || - || - || - ||350||2.24|| - |- ||1999年||13||213||7||17||311||0.69||1703万2000円||1||2||0||0||558||0.00||0円 |- ||2000年||7||106||5||13||394||0.69||902万6000円|| - || - || - || - || - || - || - |- ||2001年||5||47||2||2||624||0.14||120万8000円|| - || - || - || - || - || - || - |- ||2002年||2||5||0||0||701||0.05||16万円|| - || - || - || - || - || - || - |} ==== 主な産駒 ==== ;八大競走およびGI優勝馬 * [[カツラノハイセイコ]](1976年生、東京優駿、天皇賞(春)) * [[サンドピアリス]](1986年生、[[エリザベス女王杯]]) * [[ハクタイセイ]](1987年生、皐月賞) ;重賞優勝馬 {{Col-begin}} {{Col-break}} * ハイセイキング(1976年生、[[九州ダービー栄城賞|栄城賞]]) * タツユウチカラ(1977年生、[[中日新聞杯]]) * イソノスピード(1979年生、[[ゴールドカップ (浦和競馬)|ゴールドカップ]]、三条記念) * セイコーリマン(1979年生、[[金盃]]) * [[キングハイセイコー]](1981年生、羽田盃、東京ダービー) * [[ライフタテヤマ]](1982年生、[[札幌記念]]、[[ウインターステークス]]、[[シンザン記念]]) * ワイドセイコー(1982年生、[[東海桜花賞]]) * ヤマニンアーデン(1983年生、シンザン記念) {{Col-break}} * マルカセイコウ(1983年生、[[京阪杯]]) * ジヨージアセイコウ(1983年生、[[南部駒賞]]) * アジサイクイーン(1986年生、スプリンターズ賞) * [[アウトランセイコー]](1987年生、羽田盃、東京ダービー) * [[ケリーバッグ (競走馬)|ケリーバッグ]](1987年生、桜花賞2着、優駿牝馬3着) * カンキヨウトントン(1987年生、[[花吹雪賞]]) * コツマナンキン(1988年生、[[北関東クイーンカップ|クイーンカップ]]) * ノズカソウハ(1992年生、百万石賞、スプリンターズカップ2回、JTB賞) {{Col-end}} ==== 母の父としての主な産駒 ==== ;GI優勝馬 * [[マイネルマックス]](1994年生、[[朝日杯3歳ステークス]]) ;重賞優勝馬 * ハナセール(1988年生、[[浦和記念]]、[[東京盃]]、[[日本テレビ盃]]、[[関東盃]]、[[テレビ埼玉杯]]、[[報知オールスターカップ]]) * [[シルクムーンライト]](1990年生、[[北九州記念]]) * ヤマノセイコー(1990年生、[[かしわ記念]]、[[埼玉新聞杯]]、[[道営記念]]、[[ステイヤーズカップ]]、[[旭岳賞]]) * ストロングライフ(1995年生、[[梅見月杯]]) * [[タマモストロング]](1995年生、[[マーチステークス]]、かしわ記念、[[白山大賞典]]、[[さくらんぼ記念]]) * マイネルコンドル(1997年生、[[札幌3歳ステークス]]) * シャコーオープン(2000年生、[[東京記念]]、[[船橋記念]]) <gallery> ファイル:Tamamo Strong 20001125P1.jpg|タマモストロング </gallery> == 特徴・評価 == === 身体面に関する特徴・評価 === 関係者の証言によるとハイセイコーの馬体は生まれた時から大きく<ref name="岩川1991-34"/>、デビュー前の時点ですでに他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備え<ref name="大井が生んだ怪物"/>、4歳の時点で古馬のように完成されていた<ref name="高見沢1995-51">[[#高見沢1995|高見沢1995]]、51頁。</ref>{{#tag:ref|詩人の[[寺山修司]]は、ハイセイコーは大井競馬場に在籍していた頃によく似た[[馬齢#日本における馬齢表記|古馬]]とすり替えられたのだと主張した<ref name="競馬 黄金の蹄跡-35"/>。朝日新聞元記者の遠山彰によると、ハイセイコーが中央競馬へ移籍した当時、ハイセイコーは実は5歳馬だという噂が流れていた<ref name="遠山1993-190-191">[[#遠山1993|遠山1993]]、190-191頁。</ref>。|group="注"}}。加えてハイセイコーはバランスの取れた体型をしていたことで故障に強く、関係者からも馬体について高く評価されている{{#tag:ref|中央競馬移籍後のハイセイコーを診察した獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの身体面の長所として体型とバランスの良さを挙げ、体の使い方に無駄がないため疲労が溜まりにくいと分析している<ref name="赤木1975-85">[[#赤木1975|赤木1975]]、85頁。</ref>。|group="注"}}{{#tag:ref|増沢はハイセイコーの第一印象として馬体のバランスの良さを挙げ<ref name="赤木1975-186-187"/>、「あんなに丈夫でタフは馬を、いままで知らない」とも述べている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、188頁。</ref>。|group="注"}}{{#tag:ref|担当厩務員の大場博は、ハイセイコーのような大型馬が脚部に何の異常も来さず引退まで至ったことについて、「非常に珍しいケースといえるだろう」と述べている<ref name="oba">[[#忘れられない名馬100|忘れられない名馬100]]、161頁。</ref>。|group="注"}}。一方でその馬体は膝下が短く、洗練された気品にはやや欠けていたとも評されている<ref name="競馬 黄金の蹄跡-34"/>。体格の大きなハイセイコーの走りは[[重戦車]]にたとえられた<ref>[[#山本2005|山本2005]]、160頁。</ref>。1974年[[12月21日]]に測定されたハイセイコーの馬体のサイズは、体長163[[センチメートル]]、体高(キ甲=首と背の境から足元まで)171センチメートル、尻高169センチメートル、胸囲188センチメートル、管囲21.5センチメートルであり<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、180頁。</ref>、種牡馬としてのハイセイコーの馬体重は1990年の時点で650kgを超えていた<ref name="阿部1990-57">[[#阿部1990|阿部1990]]、57頁。</ref>。 鈴木康弘によると、ハイセイコーは心臓をはじめとする内臓が強く、調教を終えると厩舎に戻る前に息が整ったといい、食欲も旺盛であった<ref name="赤木1975-193-197・199"/>。サラブレッドの安静時の心拍数は毎分30ないし35拍で一流の競走馬は毎分25ないし30拍といわれる<ref>{{Cite web|和書|author =|date =|url = http://www.equinst.go.jp/JSES/qanda/qanda-naiyo1.html|title = ◆馬と人の心臓の比較した資料が欲しい|work = Q&A|publisher = 日本ウマ科学会|accessdate = 2011年11月3日}}</ref>ところ、ハイセイコーの心拍数は毎分28拍であった<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>。大井競馬場時代のハイセイコーに騎乗したことのある[[高橋三郎 (競馬)|高橋三郎]]によると、1971年11月のある日、ハイセイコーが調教後に疲れた様子を見せたので[[輸液#輸液製剤|リンゲル液]]を注射したところ、リンゲル液が寒さで冷えており、ハイセイコーが体を震わせてショック状態に陥ったことがあった。そのまま倒れると死亡する可能性があったため関係者が10人がかりで支えたところ、崩れ落ちそうになりながらも持ちこたえたという。高橋は「普通の馬だったら保たなかったと思う。よっぽど心臓が強かったんだろうね」と語っている<ref name="高見沢1995-50"/>。 厩務員の大場によると、ハイセイコーは皮下脂肪がつきやすい体質で、冬場を苦手としていた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、164頁。</ref>。大型馬であるため減量が必要だったハイセイコーの調教は通常でも厳しいものであったが、冬場はいっそう厳しさを増し、「見ているほうが辛くなるときもあるほどだった」と述懐している<ref name="oba" />。逆に暑さには強く、夏が近づくと水を大量に飲み、大量に汗をかいた<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、175頁。</ref>。 === 知能・精神面に関する特徴・評価 === 獣医師の伊藤信雄は、ハイセイコーの精神面の長所として気の荒さを挙げており<ref name="赤木1975-85"/>、大井競馬場時代の厩務員山本武夫は、ハイセイコーの性格について「気の荒すぎるところがあり、いったん、いうことをきかなくなったら、テコでも動かなくなる」と評している<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、53頁。</ref>。ただし荒い反面、気の弱いところもあった<ref name="赤木1975-170-172"/>。調教師の鈴木勝太郎は、気性の激しいハイセイコーに対応した調教方法を考案した。まず15-15と呼ばれる軽めの調教を1週間ないし10日に一度行い、ハイセイコーには、他の馬と並んで走ると負けまいとして走り過ぎる傾向があったため<ref name="週刊日録20世紀 1973年-5"/>、他の馬がいないタイミングを見計らって調教を行うなどの工夫をした<ref name="赤木1975-128-129">[[#赤木1975|赤木1975]]、128-129頁。</ref>。 ハイセイコーは初めて訪れる場所を警戒するところがあり<ref name="赤木1975-17・56-57・192"/>、増沢によれば元々警戒心や注意力の強いサラブレッドの中でも、ハイセイコーは一際そうした傾向が強かったという<ref name="岩川1991-36">[[#岩川1991|岩川1991]]、36頁。</ref>。鈴木勝太郎はマスコミの取材やファンの来訪を拒まなかったが、神経質なハイセイコーへの配慮から、カメラ撮影に関してのみ厩舎内では行わず決められた場所で行うように要望を出した<ref name="阿部2001-60">[[#阿部2001|阿部2001]]、60頁。</ref>{{#tag:ref|阿部珠樹によると、このやり方は人気を取るためのものではなかったものの、ジャーナリズムからは好位的に迎えられたことに加えて悪く言うような者も現れず、このことが「ハイセイコーびいきを増やし、さらに人気を増幅させた面もあっただろう」と述べている<ref name="阿部2001-60"/>。|group="注"}}。厩務員の大場によると、ハイセイコーは「イライラを抑え、ファンサービスに努め」ていたが、5歳になってからはほとんど動じなくなったという<ref name="oba" />。しかし大場は、ハイセイコーの気性を鑑みたうえでハイセイコーブームを「嬉しいような、ちょっとかわいそうなような騒がれ方だった」と振り返っている<ref name="oba" />。 明和牧場元取締役の浅川明彦は競走馬引退後のハイセイコーについて、怖いくらいの威厳を放ち、担当厩務員以外の者の言うことは聞かず、他の馬と喧嘩をすることもしばしばであったと振り返っている<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、174-175頁。</ref>。浅川によると明和牧場でのハイセイコーは体調がいいと人に触られるのを嫌がる反面、体調が悪いと注射にも素直に応じるところを見せたという。浅川はハイセイコーについて、神経質さが良い方向に出て、警戒心と注意力に優れた頭のいい馬であったと評している<ref name="競馬 黄金の蹄跡-37">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、37頁。</ref>。 ハイセイコーは引退式でコースを1周した後、速度を落としつつ第1コーナーを過ぎたところで突如立ち止まって首を振り、騎乗していた増沢を振り落した<ref name="河村2011-80"/>。増沢によると、それまで第1コーナーと第2コーナーの中間地点をゆるやかに通った後はそのまま地下道を通ってコースから出る習慣があったため、引退式でもハイセイコーはコースから出ようとして方向転換を計り、そのことが落馬につながった。増沢はこの逸話を自著で紹介し、ハイセイコーを「じつに利口な馬」と評している<ref name="増沢1992-123-124"/>。競走馬時代、普段の調教では調教助手の吉田が騎乗したが、増沢が騎乗するとハイセイコーは興奮する仕草を見せた。これについて鈴木勝太郎は、増沢がレースで騎乗することをハイセイコーが理解しているためだと説明した<ref name="赤木1975-128-129"/>。 弥生賞当日、発走前に[[蹄鉄]]をレース用のものに打ち替えようとしたところ、ハイセイコーは落ち着きをなくし、興奮する様子を見せた<ref name="赤木1975-193-197・199"/>。そのため、以降のレースでは当日の早朝に打ち替えが行われるようになった<ref name="赤木1975-193-197・199"/>。 === 走行・レースぶりに関する特徴・評価 === ハイセイコーは前述のように荒い気性と気の弱さを併せ持っていたが、競馬では他の馬と並んで走ると抜かせまいとする勝負根性を発揮した<ref name="赤木1975-170-172"/>。増沢は、そうした根性、闘争心こそがハイセイコーの真骨頂だと述べている<ref name="優駿2000-10-18"/>。 ハイセイコーは後脚の力が強く、「滑らかさよりも力で走る」タイプの競走馬であり<ref name="競馬 黄金の蹄跡-36">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、36頁。</ref>、後脚の[[蹄鉄]]は装着してから1週間ほどで擦り減ってしまったといわれている<ref name="競馬 黄金の蹄跡-35"/>。橋本邦治は、このような特徴を持つ競走馬は長い距離を走るとスタミナを消耗する傾向にあり、ハイセイコーの場合も「2000m以上は駄目」と評価されるような競走成績に繋がったと分析している<ref name="競馬 黄金の蹄跡-36"/>。鈴木勝太郎はハイセイコーの引退後、当初抱いていた印象について、胴の詰まった体型からこなせる距離は1800mまでで、2000m以上で行われる[[中央競馬クラシック三冠|中央競馬のクラシック]]では苦しいと感じたと証言し、予想を覆す活躍を見せたハイセイコーを「大した馬だよ」と評している<ref name="高見沢1995-51"/>。 ハイセイコーはストライドの大きな馬で、マスコミは「ひと跳び8メートル」と報じた<ref name="調教師の本II-181"/>。高橋三郎は、馬体もストライドも大きいハイセイコーにはダッシュ力はなかったと評したが<ref name="大井が生んだ怪物"/>、その一方で一度加速がつくと他の馬を引き離すほどの速さで走ることができたとも振り返っている<ref name="大井が生んだ怪物"/>。増沢によると跳びの大きい馬は雨が降って状態の悪い馬場を苦手とする傾向があるが、ハイセイコーは得意としたという<ref name="増沢1992-108-110"/>{{#tag:ref|これについて鈴木勝太郎は前述のように、体格の大きさからストライドが大きくなるのは当然のことで、かき込むような走り方をすることから状態の悪い馬場を苦手とすることはないという見解を示している<ref name="赤木1975-43-46・201-203"/>。|group="注"}}。[[杉本清]]はハイセイコーは跳びが大きいためスピード感がないとしながらも、「見た目にはゆっくり見えるんだけど、実際にはかなりスピードのある馬だったのです」と評し<ref>[[#光栄出版部(編)1994a|光栄出版部(編)1994a]]、76頁。</ref>、そのため自然とハイセイコーのペースに巻き込まれてしまって気が付いたら喉が痛くなってしまい、菊花賞を実況した際には一瞬声が出なくなってしまったため、ハイセイコーは実況においてしゃべりにくい馬だったと評している<ref>[[#杉本1995|杉本1995]]、14頁。</ref>。東京優駿を[[日経ラジオ社|日本短波放送]]の中継で実況を行ったアナウンサーの[[長岡一也]]も、杉本との対談の中でこの話題となった時に当日の実況で「喉が締め付けられて、声が裏返りながら」実況を行っていたといい、杉本と同様の見解を示している<ref>[[#『優駿』2005年6月号|『優駿』2005年6月号]]、34頁。</ref>。 増沢はハイセイコーがスピードに乗った時の感触について、「ぐーんと躰が沈みこんでいく」と表現している<ref name="赤木1975-27-30"/>。ただし、ハイセイコーは一瞬の切れ味を発揮するタイプではなく、相撲の[[寄り (相撲)#がぶり寄り|がぶり寄り]]のようにジリジリと伸びるタイプだと評している<ref>[[#増沢1992|増沢1992]]、112頁。</ref>。また首を下げたまま走るハイセイコーとは騎乗時に人馬一体の感覚を味わえなかったとし、「決して乗りやすい馬ではなかった」と評している<ref name="増沢1992-123-124">[[#増沢1992|増沢1992]]、123-124頁。</ref>。一方で鈴木康弘は、クビを少し下げてひたすら前に進もうとする走行フォームが懸命に走っているという印象を人々に与え、共感を呼んだのではないかと述べている<ref name="阿部2001-62"/>。ハイセイコーが連勝していた時期に増沢は、「物凄い末脚を使う馬が出てくるとこわい」とコメントし<ref name="赤木1975-27-30"/>、鈴木勝太郎も「一瞬の切れ味の鋭い馬」を警戒していた<ref name="赤木1975-31-32"/>。 高橋三郎によると、ハイセイコーはダートコース向きの走り方をしていたといい<ref>{{Cite web|和書|author = 有吉正徳|date = 2009-08-08|url = http://doraku.asahi.com/earth/showashi/100729_02.html|title = 「怪物」ハイセイコー人気|work = 昭和史再訪セレクション|publisher = 朝日新聞社|accessdate = 2011年11月4日}}</ref>、増沢もダート向きの馬だったと述懐している<ref name="島田2020-109"/>。鈴木康弘も中央へ移籍してきたハイセイコーを調教で走らせてみてダートでの競走能力を実感したといい、また「大きくて、力強い」走りをするハイセイコーの姿が、自身が[[イギリス]]で厩舎経営と馬づくりの修行を行っていた際に実際に目にしていた[[イギリスクラシック三冠|三冠馬]]の[[ニジンスキー (競走馬)|ニジンスキー]]と面影が重なったと述べている<ref name="阿部2001-59">[[#阿部2001|阿部2001]]、59頁。</ref>。後藤正俊は、ハイセイコーの現役時代に[[ダートグレード競走]]が設けられていたら、「[[セクレタリアト]]級のぶっちぎり勝ちを続け、ダート史上最強馬として違った形の歴史を作っていたことだろう」と推測している<ref name="後藤2000-39"/>。競馬記者の大島輝久はハイセイコーのダートにおける競走能力を高く評価し、「アメリカのダート競馬で走らせてみたかった」と述べている<ref>[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、18頁。</ref>。 増沢は騎乗した16戦全てで先行策をとった。増沢はハイセイコーの引退後、「1回くらいは追い込んでみてもよかったのではと思う」と述べつつ、それを実行しなかった理由について、「あれで負けたのなら、仕方がない」とファンが納得するレースをするために手堅い戦法をとらざるを得ず、「実験」ができなかったと弁明している<ref name="増沢1992-123-124"/>。 大川慶次郎は、ハイセイコーは左回りのコースを苦手としていたと述べており<ref name="大川1998-241">[[#大川1998|大川1998]]、241頁。</ref><ref name="大川1997-92">[[#大川1997|大川1997]]、92頁。</ref>、「右と左でかなり極端なレースをする馬だった」と評している<ref name="大川1997-92"/>。増沢もかつてNHK杯で抱いた「左回りは右回りほど走らないのではないか」という疑念はハイセイコーの引退後も変わらないと述べている<ref name="栗林1982-51"/>。 === 投票における評価 === 1991年発行の『[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]』が競馬関係者を対象に行ったアンケートでは、「思い出の馬」部門で第5位に選ばれた<ref>[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、46頁。</ref>{{#tag:ref|このアンケートには「最強馬部門」もあったが、ハイセイコーは票を獲得していない<ref>[[#優駿増刊号 TURF|優駿増刊号 TURF]]、17頁。</ref>。|group="注"}}。1999年に『[[Sports Graphic Number]]』が10月に出版した「[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]」の誌内においては、[[シンザン]]<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、24-31頁。</ref>、[[シンボリルドルフ]]<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、38-43頁。</ref>、[[オグリキャップ]]<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、44-49頁。</ref>と共に「その時代に輝いた四大スーパーホース」の一頭に選ばれている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、32頁。</ref>{{#tag:ref|同誌では競馬関係者を対象に「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」、自身が手がけた内の最強馬を挙げる「最強馬アンケート 私が手がけた馬篇」というアンケートが実施されたが、ハイセイコーは前者のアンケートでは選考外<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、12-21頁。</ref>、後者のアンケートではハイセイコーに携わった鈴木康弘は[[ダイナマイトダディ]]<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、23頁。</ref>、増沢末夫は[[イシノヒカル]]を挙げたため<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、22頁。</ref>、票を獲得していない。|group="注"}}。2001年に[[日本馬主協会連合会]]が馬主に向けて行ったアンケートでは、「一番好きな競走馬」で第1位<ref name="joa">[[#日本馬主協会連合会40年史|日本馬主協会連合会40年史]]、198頁。</ref>、「一番印象に残る競走馬」で第4位<ref>[[#日本馬主協会連合会40年史|日本馬主協会連合会40年史]]、199頁。</ref>、「一番の名馬と思う競走馬」で第6位<ref name="joa" />、さらに「一番印象に残っているレース」で「ハイセイコーが出走した全レース」が第4位に選ばれた<ref>[[#日本馬主協会連合会40年史|日本馬主協会連合会40年史]]、195頁。</ref>{{#tag:ref|ほか11位タイに「ハイセイコーvsタケホープの第40回日本ダービー」。上位3つは、[[トウカイテイオー]]の[[第38回有馬記念]]、[[オグリキャップ]]の[[第35回有馬記念]]、[[シンザン]]の[[第10回有馬記念]]と、いずれも単独の競走であった。14位タイに「オグリキャップが出走した全レース」が入っている。|group="注"}}。2004年に[[日本中央競馬会]]が発行する競馬雑誌『[[優駿]]』が行った特集「THE GREATEST 記憶に残る名馬たち」の第1弾「年代別代表馬BEST10」において、ハイセイコーは1970年代部門の第10位に選ばれた<ref>[[#『優駿』2004年3月号|『優駿』2004年3月号]]、18頁。</ref>。 『優駿』が1985年に読者を対象に行った歴代最強馬を問うアンケートでは、第18位に選出されている<ref>[[#『優駿』1985年9月号|『優駿』1985年9月号]]、130-131頁。</ref>。2000年にJRAが行った「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では15302票を獲得し、8位となった。2010年に『優駿』が読者を対象に行った「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち」では第17位<ref>[[#『優駿』2010年8月号|『優駿』2010年8月号]]、38頁。</ref>、2015年に同じく『優駿』が読者を対象に行った「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」においては第20位に選出されている<ref name="優駿2015-03-47">[[#『優駿』2015年3月号|『優駿』2015年3月号]]、47頁。</ref>。また、「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」にランクインした各馬のベストレースの投票において、ハイセイコーは皐月賞が投票率55.5%で第一位、以下1974年の宝塚記念が18.1%、1973年の弥生賞が10.3%という結果となっている<ref>[[#『優駿』2015年12月号|『優駿』2015年12月号]]、26頁。</ref>。 == 人気(ハイセイコーブーム) == ハイセイコーの人気、ブームは社会現象ともいえるほどの規模に達し<ref name="優駿2000-10-18">[[#『優駿』2000年10月号|『優駿』2000年10月号]]、18頁。</ref><ref name="関口2000-134"/><ref>[[#岩川1991|岩川1991]]、33-34頁。</ref><ref name="ニッポンの名馬-93">[[#ニッポンの名馬|ニッポンの名馬]]、93頁。</ref><ref>[[#藤野1992|藤野1992]]、150頁。</ref>、競馬に興味のない人にまで名が知れ渡り<ref name="ニッポンの名馬-93"/>、ブームに巻き込んでいった<ref name="優駿増刊号 TURF-59"/>。国民的アイドルホースとなったハイセイコーは「[[週刊少年サンデー]]」や「[[週刊少年マガジン]]<ref>[https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1175122987 週刊少年マガジン1973年(昭和48年)26号 7326/※南沙織&桜田淳子両面ポスター]、[[まんだらけ]] - 2023年5月16日閲覧。</ref>」の表紙<ref name="江面2017-131"/>や[[女性週刊誌]]の表紙にまで登場し<ref name="藤野1992-152"/>、[[オグリキャップ]]が登場するまで日本競馬史において比較対象すらない存在であった<ref name="優駿増刊号 TURF-59"/>{{#tag:ref|オグリキャップの人気の高さについては、ライターの関口隆哉は「[[シンボリルドルフ]]を軽く凌駕し」、「ハイセイコーとも肩を並べるほど」と評し<ref>[[#関口2002|関口2002]]、15頁。</ref>、[[岡部幸雄]]は「ハイセイコーを超えるほど」であったと評している<ref>[[#岡部2006|岡部2006]]、10頁。</ref>([[オグリキャップ#人気]]も参照)。|group="注"}}。ハイセイコーが立役者となって作り出した競馬ブームは「[[競馬ファン#第一次競馬ブーム|第一次競馬ブーム]]」と呼ばれ<ref name="ありがとうオグリキャップ-46">[[#ありがとうオグリキャップ|ありがとうオグリキャップ]]、46頁。</ref>、後年オグリキャップと[[武豊]]の活躍が中心となった第二次競馬ブームと並び、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている<ref name="東邦出版(編)2005-131-132">[[#東邦出版(編)2005|東邦出版(編)2005]]、131-132頁。</ref>。 [[朝日新聞]]のコラム『[[天声人語]]』は、「馬の名で浮かぶ時代がある」とした上で、「高度成長が終わる70年代」を象徴する競走馬として、[[テンポイント]]とともにハイセイコーを挙げている<ref>[[#朝日新聞論説委員室2011|朝日新聞論説委員室2011]]、18頁。</ref>。赤木駿介は、ハイセイコーブームとは「表面的な物質享楽と、加速度的なインフレーションの谷間に落ちて」何かに飢えていた大衆が、マスコミの露骨な商業主義を感じ取りつつも、「一個の動物でしかすぎないサラブレッドに、純粋なるものを求めた」ものであり、「世相の反映であり、70年代の1つの象徴といえよう」と評している<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、88頁。</ref>。競馬評論家の[[井崎脩五郎]]は、「1970年の3月6日に生まれ、1970年代を突っ走り、1979年の日本ダービーを自らの産駒が勝ったハイセイコーこそ、この10年の代表馬であったと、当然のことのように思い返すのではないだろうか。」と述べている<ref>[[#井崎1993|井崎1993]]、158頁。</ref>。競馬評論家の石川ワタルはハイセイコー、テンポイント、オグリキャップの三頭を「ファンの心を捉えて離さなかった三頭」と評し、その中でもハイセイコーは「"大衆賞"にふさわしい元祖アイドルホースだった」と述べている<ref>[[#光栄出版部(編)1995c|光栄出版部(編)1995c]]、136頁。</ref>。日本中央競馬会の機関広報誌「優駿」の元編集責任者の和田久は、ハイセイコーとオグリキャップを「公営競馬から来たその生い立ちからして同一視されるところがある『ヒーロー』だが、全く別なヒーローであった。しかし、たしかに時代が必要としたヒーローでもあった」と述べている<ref>[[#英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20|英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20]]、39頁。</ref>。 === ブーム形成の要因・背景 === 前述のように、ハイセイコーの中央競馬移籍は当初から大きな話題を集めた<ref name="結城2008"/>。このことについて[[日刊競馬]]解説者の吉川彰彦は2005年に、「1頭の競走馬がなぜそこまで熱視を浴びたか、今思ってもやはり不思議だ。」と振り返っている<ref>{{Cite web|和書|author = 吉川彰彦|date = 2005-10-18|url = http://www.nikkankeiba.co.jp/koei/yoshikawa/backnumber/yoshikawa-column051018.html|title = 「英雄のいた日」|work = あさっての馬|publisher = [[日刊競馬]] |accessdate = 2011年11月1日}}</ref>。ライターのかなざわいっせいは、オグリキャップの中央競馬移籍が決まった際のメディアの報道の仕方について、ハイセイコーのそれと比較すると「[[東京湾]]で[[ハゼ]]が3匹釣れた程度のニュースでしかなかった」と述べている<ref>[[#光栄出版部(編)1995c|光栄出版部(編)1995c]]、122頁。</ref>。 当時マスコミの現場にいた遠山彰(元朝日新聞記者)や[[橋本邦治]](元[[日刊スポーツ]]記者)は、血統的には決して無名の出ではないハイセイコーをマスコミが擬人化し、「名もない地方出身者が、中央のエリートに挑戦する」、「地方から這い上がった野武士が貴公子に挑む」というストーリーを作り上げ、当時上京していた地方出身者がハイセイコーに夢を託したのだと分析している<ref name="遠山1993-190-191"/><ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、34-35頁。</ref>。[[読売新聞]]記者の片山一弘は、そのようなストーリーが、[[高度経済成長]]期の学歴社会において、[[判官贔屓|判官びいき]]を伴った共感を集めたのだと述べている<ref name="片山2004-172-173"/>。渡辺敬一郎は「思えばハイセイコーが走った時代は、日本の高度経済成長期であり、地方から都会に出てきた人々が、人気に火をつけ、それがあっという間に老若男女、年齢を問わない超人気アイドルになっていったのだ」と述べている<ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247"/>。 前述のように誕生した年の夏には生産した武田牧場場長の武田隆雄から「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と喧伝され<ref name="横尾1986-22"/><ref name="横尾2000-35"/>、地方でデビューしたのは、単に当初ハイセイコーを所有した(株)王優が地方の馬主資格しか持っていなかったために過ぎなかった<ref name="競馬 黄金の蹄跡-34">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、34頁。</ref>。江面弘也によると、前述のように(株)王優への売却に際して武田牧場は大井でデビューさせた後中央へ移籍させるという条件を付けていたといい<ref name="江面2011-123"/>、さらに2代目の馬主であるホースマンクラブは有力な生産牧場を出資者とする組織で、ハイセイコーは中央へ移籍した時点で既に将来[[種牡馬]]となることが想定されていたという<ref>[[#江面2005|江面2005]]、112頁。</ref>。 ハイセイコーが大井競馬場でデビューしたのと同じ1972年7月、日本では[[田中角栄]]が第64代[[内閣総理大臣]]に就任した。朝日新聞be編集グループは、田中角栄が世間の注目を集めていたことがハイセイコーにまつわる「地方出身者の出世物語」が世間の共感を呼ぶ要因になったと示唆し<ref name="朝日新聞be編集グループ(編)2006-186-188"/>、藤島大は、人々が「鼻持ちならぬエリートをへこませる野武士」田中角栄の姿をハイセイコーに重ねたとしても不思議はないと述べており<ref name="競馬 黄金の蹄跡-34"/>、元『優駿』責任編集者の和田久も「田中角栄の生い立ちにハイセイコーを擬した論法もあった」と述べている<ref name="英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20-37"/>。[[日本経済新聞]]記者の[[野元賢一]]は、「地方競馬出身馬が中央競馬に乗り込み、エリートを打ち負かす」というハイセイコーの物語が人気となったのは、当時の日本社会が「出自がどうあれ、ある程度の努力をすれば成功できる」という認識を共有していたからだと指摘している<ref>[[#野元2005|野元2005]]、17頁。</ref>。田中角栄は、ハイセイコー引退の1か月前の1974年12月に内閣総理大臣を辞任した。遠山彰は、田中の辞任とハイセイコーの引退により「地方の時代、野武士の時代」が幕を閉じ、「ブランド志向の時代」が再来したと評している<ref>[[#遠山1993|遠山1993]]、193頁。</ref>。 一方で、山野浩一はハイセイコーは望まれて中央へ移籍した生まれながらのエリートであるとして、その活躍が地方出身で「雑草育ち」の馬が中央のエリート相手に勝ちまくる出世物語とみることを「あまりにも安易な虚構」と批判している<ref>[[#山野1978|山野1978]]、 13頁。</ref>。父の[[チャイナロック]]はハイセイコーの登場以前にメジロタイヨウ、[[タケシバオー]]、[[アカネテンリュウ]]と三頭の八大競走勝ち馬を輩出し、ハイセイコーが中央へ移籍した1973年には[[リーディングサイアー]]となる好成績を収めた種牡馬で、母のハイユウも南関東の地方競馬で16勝を挙げていた<ref name="阿部2001-60"/><ref>[[#光栄出版部(編)1994b|光栄出版部(編)1994b]]、87頁。</ref>。阿部珠樹は「野武士どころか上級の血統馬であり、最初から中央にいれば、クラシック候補と騒がれたかもしれない血統背景を持っていた」と述べ<ref name="阿部2001-60"/>、関口隆哉は、「ハイセイコーが生まれた70年当時の感覚としては、モダンな血筋を受け継いだ、血統的な期待も大きい馬だったことは間違いない」と述べている<ref name="関口2000-135">[[#関口2000|関口2000]]、135頁。</ref>。 赤木駿介は、マスコミが[[日本野球機構|プロ野球]]の[[読売ジャイアンツ]]と[[ON砲]]([[王貞治]]・[[長嶋茂雄]])に代わる「売り」となる素材を探す中でハイセイコーに注目が集まり<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、57-58頁。</ref>、「マスコミの巨大な力が、じわじわと世評を育んで」いったのだと述べている<ref>[[#赤木1975|赤木1975]]、15頁。</ref>。一方藤島大は、ハイセイコーの物語が支持されたのは、単にマスコミが仕立てたからだけではなく、人々もそれを願ったからだと述べている<ref name="競馬 黄金の蹄跡-35">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、35頁。</ref>。[[島田明宏]]は、ハイセイコーは長嶋茂雄と1973年5月に週刊少年マガジンにおける連載が完結した「[[あしたのジョー]]」の主人公・[[あしたのジョーの登場人物#主要登場人物|矢吹丈]]に代わる「時代が求めた正統派のヒーローだった」と評している<ref>[[#島田2010|島田2010]]、24頁。</ref>。ハイセイコーは野球選手の[[江川卓 (野球)|江川卓]]、[[プロゴルファー]]の[[尾崎将司|ジャンボ尾崎]]の両名と共に「怪物」として並び称され、「江川尾崎にハイセイコー」というキャッチコピーも流れた<ref name="日本ダービー80年史-130"/>。 横尾一彦は、ハイセイコーブームが起こった1973年は[[オイルショック]]が起こり[[インフレーション]]に見舞われた、それまでの好景気が一転して不況に陥った年であり、庶民が「せめてもの慰み」としてハイセイコーに関心を寄せた可能性を示唆している<ref name="横尾2000-36"/>。歴史学者の[[本村凌二]](雅人)は、日本の経済成長に陰りが見える中、カネのためではなく純粋に競走馬として走るひたむきな姿が、「何でもカネ、カネ」という生き方に疑問を持ち始めていた人々の胸を打ったのだと分析している<ref name="週刊日録20世紀 1973年-5">[[#週刊日録20世紀 1973年|週刊日録20世紀 1973年]]、5頁。</ref>。 東京優駿で敗れると、マスコミの中には「ただの馬」<ref name="河村2011-80"/><ref name="赤木1975-164">[[#赤木1975|赤木1975]]、164頁。</ref>、「落ちた偶像」<ref name="赤木1975-164"/>、「"敗"セイコー」<ref name="河村2011-80"/>などと叩くものも現れた。しかし前述のようにその人気が敗戦によって衰えることはなく<ref name="競馬 黄金の蹄跡-37"/><ref name="優駿2000-10-18"/><ref name="阿部2003-65"/>、むしろ高まっていった<ref name="藤野1992-153"/><ref name="週刊日録20世紀 1973年-4"/><ref name="阿部2001-61"/>。鈴木康弘も、東京優駿に敗れたことでかえって多くの手紙や電話が寄せられるようになり<ref name="赤木1975-205-207"/>、「応援が足りなかったんでしょうか」と書かれた手紙も届いたと回顧している<ref name="片山2004-172-173">[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、172-173頁。</ref>。広見直樹は東京優駿以降のハイセイコーについて、「挑戦者としてライバル(タケホープ)に一矢報いる戦いが始まった」、「畏怖の念すら感じさせたヒーローが、身近で守ってあげたくなる存在として帰ってきた」と表現し、同時にファンも「アイドルを迎えるように温かい眼差しで応援することにした」のだと述べている<ref name="広見2016-83"/>。高見沢秀はこうした現象を、ファンが東京優駿での敗北という信じがたい悪夢を現実として見つめ直した後、「また新しい夢を見せてくれる存在としてハイセイコーを支持し続けた」のだと分析している<ref name="高見沢1995-53"/>。[[石川喬司]]は、挫折を経てなお走り続けるハイセイコーの姿から、ファンは「高度成長の挫折に見舞われた人間界からは失われつつあるものを見出し、その無垢な生物の素顔にしびれた」のだと述べている<ref>[[#競馬歴史新聞編纂委員会(編)1998|競馬歴史新聞編纂委員会(編)1998]]、128頁。</ref>。阿部珠樹は、ハイセイコーが宝塚記念と高松宮杯を連勝した頃には「もうハイセイコーの勝敗は、ファンにとって、あまり問題ではなくなってきていた」と述べている<ref name="阿部2001-62"/>。 === 現象 === 遠山彰は、ハイセイコー人気が高まる中、女性や子供のファンからファンレターやプレゼントが届いたことをきっかけに「男ばかりのギャンブルの世界」が変質し始めたと分析している<ref name="遠山1993-190-191"/>。競馬評論家の[[原良馬]]によると変化は「汚い」「暗い」「怖い」という目で見られていた競馬場にも及び、ハイセイコーが活躍した頃から女性ファンの姿が見られるようになった<ref>[[#共同通信社2007|共同通信社2007]]、153頁。</ref>。片山一弘も、「中年男のものだった競馬場に…若い女性が集まり、黄色い声援が飛び交うようになった」ことを指摘し、ハイセイコーの出現によって日本の競馬が、ギャンブルからレジャーに転換したと評価している<ref name="片山2004-172-173"/>。高見沢秀は、それまでギャンブルに過ぎなかった日本の競馬が、ハイセイコーの出現によってカルチャーとエンターテインメント、ギャンブルを横断する独特のジャンルへと変貌したと分析している<ref>[[#高見沢1995|高見沢1995]]、48頁。</ref>。広見直樹はハイセイコーを「競馬を単なるギャンブルから大衆の娯楽にまで広めるきっかけを作った立役者として語り継がれるべき名馬である」と評している<ref name="優駿2015-03-47"/>。結城恵助は、1988年にオグリキャップが出走した高松宮杯が1974年にハイセイコーが記録した入場記録に及ばない3万812人だったことについて、オグリキャップ人気は「純粋に競馬を愛好する人たちに支持された地に足が着いたもの」であると述べ、一方でハイセイコー人気は「一目[[ジャイアントパンダ|パンダ]]を見ておこうというのに通じるブームだった」と評している<ref>[[#結城1989|結城1989]]、20頁。</ref>。 『[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]』は、ハイセイコーブームが従来の「[[公営競技]]=[[賭博|ギャンブル]]=悪」というイメージを脱し、競馬が健全な娯楽として認知される基盤を築く一因となったと評している<ref name="日本中央競馬会50年史-262">[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]、262頁。</ref>。管理調教師であった鈴木勝太郎は、ハイセイコーの登場により競馬新聞を人前で読むのが憚られるような雰囲気が解消され、「あの馬のおかげで、競馬そのものが真っすぐな方向に変わったように思います」と述べ<ref name="片山2004-172-173"/>、横尾一彦も同様に、「ようやく『私は競馬ファンです』と胸を張れる時代がやってきた」と述べ<ref>{{Cite web|和書|author = 横尾一彦|date = |url = http://www.tokyocitykeiba.com/03/colmun_vol02.php|title = 大井が生んだ大スター、怪物ハイセイコー|work = TCKコラム|publisher = 東京シティ競馬|accessdate = 2011年11月14日}}</ref>、作家の[[典厩五郎]]は「(ハイセイコーが生まれた昭和45年ごろの競馬場は)修羅場であり博奕場で、義理と人情の男の世界。女なんて穴場(投票場)のオバチャン以外に見たこともなかった」という『競馬=根暗』のイメージが、ハイセイコーの出現によってぶち破られたと述べている<ref>[[#光栄出版部(編)1994b|光栄出版部(編)1994b]]、86頁。</ref>。 ハイセイコーのファン層は子供や女性、老人など[[勝馬投票券|馬券]]を購入せず、ハイセイコー以外の競走馬に関心を抱かない人々にまで広がった<ref name="広見2016-79"/><ref name="阿部2001-62"/><ref name="光栄出版部(編)1993-25-26">[[#光栄出版部(編)1993|光栄出版部(編)1993]]、25-26頁。</ref>。中には、子供に喝を入れるときに「ハイセイコーみたいにがんばりなさい」と言った親もいた<ref name="光栄出版部(編)1993-25-26"/>。片山一弘は、こうした点でハイセイコーは「競馬という枠組みを超えたスーパースター」であったと評している<ref name="片山2004-172-173"/>。鈴木康弘はハイセイコーのファンがギャンブルを抜きに、愛情をもってハイセイコーに接したことに感動を覚えたと回顧している<ref name="赤木1975-205-207">[[#赤木1975|赤木1975]]、205-207頁。</ref>。ファンの中にはハイセイコーを見ようと厩舎を訪れるファンも多く<ref name="片山2004-172-173"/>、夏休みの時期には親に連れられて子供のファンが多く厩舎を訪れたという<ref name="赤木1975-205-207"/>。鈴木康弘によるとある時3人の女子中学生が厩舎を訪ね、「ブラシについたたてがみでいいからほしい」と言われて「『そういうものでも欲しいのか』と驚かされましたね」といい<ref name="阿部2001-63"/>、1975年1月に明和牧場へ向かう前日には[[宇都宮市]]に住む小学生の男児から「ハイセイコーの[[馬運車]]は、何時ごろ、宇都宮を通るのですか」という長距離電話がかかってきたという<ref name="阿部2001-63"/>。阿部珠樹は「こうした愛され方をした馬は、後にも先にもいないだろう」と述べている<ref name="阿部2001-63"/>。増沢はハイセイコーが女性ファンに人気を集めた要因として、「綺麗な顔をしていて、真っ黒な馬体もバランスが取れて見栄えがする」ということを挙げている<ref name="島田2020-109">[[#島田2020|島田2020]]、109頁。</ref>。 ハイセイコーのもとには日本全国から多くのファンレターが届き<ref name="笠野・原1993-121"/>、「東京都 ハイセイコー様」という宛名だけ書かれた[[葉書|はがき]]が東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎に届いたこともあった<ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247"/><ref name="江面2017-131"/><ref name="中川2020-93"/><ref name="阿部2001-60"/><ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、171頁。</ref>。ファンレターの中には「死んでしまおうかと思っていました。でも、あなたの懸命に走る姿に心打たれ、自殺を思いとどまりました。」という内容のものまであり<ref>[[#冒険企画局(編)1994|冒険企画局(編)1994]]、121頁。</ref>、引退後も[[年賀状]]や[[クリスマスカード]]、誕生祝いなどが届いた<ref>[[#片山(編・著)2004|片山(編・著)2004]]、175頁。</ref>。明和牧場責任者の堤益登は、当初はファンレターに返事を書いていたが、あまりに数が多いため葉書にスタンプを押して送り返すようにしたという<ref name="阿部1990-56">[[#阿部1990|阿部1990]]、56頁。</ref>。[[浅草]]の[[ブロマイド]]屋のもとにはハイセイコーのブロマイドを求める声が多く寄せられ、写真を撮らせてほしいとブロマイド屋が厩舎を訪れたこともあった<ref name="競馬 黄金の蹄跡-35"/>。 ブームが高まるとハイセイコーは少年雑誌や女性週刊誌など、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになった<ref name="山野1978-12"/>。阿部珠樹はハイセイコーが少年雑誌の表紙に登場したことについて、「それまで健全な市民社会の対極にあるものとみなされていた競馬の世界では、考えられないことだった」と述べている<ref name="阿部2003-65"/>。ハイセイコーが東京優駿に出走した1973年5月27日には、ギャンブル嫌いの漫画家である[[長谷川町子]]が、[[朝日新聞]]朝刊に連載中の『[[サザエさん]]』でハイセイコーを取り上げた<ref name="朝日新聞be編集グループ(編)2006-186-188"/>。5歳時の1974年に旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]少尉の[[小野田寛郎]]が[[フィリピン]]・[[ルバング島]]から[[小野田寛郎#29年ぶりの帰国|29年ぶりに帰国]]した際、小野田は「ハイセイコーは知っています」というコメントを残した<ref>[[#中川2020|中川2020]]、102頁。</ref>。 ハイセイコーが中央競馬で現役生活を送った1973年・1974年の2年間において、1973年は馬券売上額が33.55%、入場者数が15.64%、それぞれ前年よりも増加し<ref>[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]、84頁。</ref>、翌1974年は馬券売上額が前年よりも17.52%増加した<ref>[[#日本中央競馬会50年史|日本中央競馬会50年史]]、86頁。</ref>。レース単位でみると、1973年には前述のようにNHK杯で中央史上最多となる16万9174人の観客が入場し<ref name="さらばハイセイコー-26-27"/><ref group="注" name="NHK杯" />、東京優駿における馬券の売り上げは従来の記録を7億円も上回る96億8349万3900円を記録した<ref name="江面2017-136"/>。菊花賞の馬券売上額は98億4813万5400円と同レース史上最高となり<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、40頁。</ref>、有馬記念での馬券売上額は中央史上最高の124億4197万にのぼった<ref group="注">そのうち、ハイセイコーがらみの馬券はおよそ45%にあたる56億5231万9900円を占めた。</ref>。有馬記念が施行された12月16日の開催1日の馬券売上額も154億6847万3600円と史上最高であった<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、44-45頁。</ref>。翌1974年の有馬記念では前年の記録をさらに更新し、同レースの売上額が136億4668万円、レース当日の売上額が172億7956万8600円を数えた<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、65頁。</ref>。日本経済が1973年から1974年にかけて起こった[[オイルショック#第一次|第一次オイルショック]]の影響から国内消費の低迷に見舞われる中、中央の馬券売上額はハイセイコーの引退後も上昇を続け、「不況に強いギャンブル」という神話が誕生した<ref>[[#青木1995|青木1995]]、28頁。</ref>。野元賢一は、1970年代前半における中央の馬券売上増加を支えたのはハイセイコーであると評している<ref>[[#野元2005|野元2005]]、11頁。</ref>。 == タケホープとのライバル関係 == ハイセイコーの競走生活においては、タケホープとのライバル関係が注目を集めた<ref name="競馬 黄金の蹄跡-37"/>。ハイセイコーの出走した東京優駿、菊花賞、天皇賞(春)を勝ったタケホープは、ハイセイコーの終生のライバルと呼ばれ、ハイセイコーのファンからは敵役として憎まれた<ref>{{Cite web|和書|author = 原良馬|date = 2008-09-15|url = http://jra-van.jp/fun/relay/20080915.html|title = 第17回 心に残る名馬たちNo.5 タケホープ|work = 競馬かわらVAN|publisher = JRAシステムサービス |accessdate = 2011年11月5日}}</ref>。2頭の関係は「人気のハイセイコー、実力のタケホープ」(日本中央競馬会<ref>{{Cite web|和書|author = |date = |url = http://www.jra.go.jp/50th/html/gjpro/06.html|title = 昭和48年日本ダービー タケホープ|work = 思い出の名レース|publisher = 日本中央競馬会 |accessdate = 2011年11月13日}}</ref>)、「ライバルというよりヒーローと[[ヒール (プロレス)|ヒール]]」(広見直樹<ref>[[#広見2009|広見2009]]、14頁。</ref>)と評され、典厩五郎は[[プロ野球]]に例え、「ハイセイコーが[[ヒマワリ|ひまわり]]こと長嶋茂雄なら、タケホープは[[ツキミソウ|月見草]]こと[[野村克也]]のような存在だった」と言い表している<ref name="光栄出版部(編)1995b-55">[[#光栄出版部(編)1995b|光栄出版部(編)1995b]]、55頁。</ref>。 タケホープが東京優駿を勝った時、多くの者は「無欲のチャレンジが生んだフロック勝ち」と受けとめた<ref name="江面2005-115-116">[[#江面2005|江面2005]]、115-116頁。</ref>。同馬の管理調教師であった稲葉幸夫もハイセイコーに勝てるという気持ちをさほど強くは抱いておらず、レース後には「あれだけの人気馬を負かしてしまって、すまないなあ」という思いすらしたという<ref name="赤木1975-108">[[#赤木1975|赤木1975]]、108頁。</ref>。しかし東京優駿をフロックで勝ったという見方に対して稲葉は反発し、菊花賞出走時には「ハイセイコーを負かして、なんとか、フロックのダービー馬という声を消したい」と願うようになっていた<ref name="赤木1975-108"/>。東京優駿でタケホープに騎乗していた主戦騎手の嶋田功の息子はハイセイコーのファンであり、母親(=嶋田の妻)に泣き付いたという話も伝えられている<ref>[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、98頁。</ref>。ただし、後に騎手となる[[田原成貴]]はタケホープが東京優駿においてハイセイコーを破ったことに強い感銘を受け、騎手を志した<ref>[[#田原1998|田原1998]]、35-36頁。</ref><ref name="競馬 黄金の蹄跡-64">[[#競馬 黄金の蹄跡|競馬 黄金の蹄跡]]、64頁。</ref>。田原は東京優駿でタケホープの鞍上を務めた[[嶋田功]]の[[ガッツポーズ]]を見て「日本一強い馬を、あの人がやっつけた」と感じたといい、もしタケホープに乗っていたのが勝ってもガッツポーズをしないような地味な騎手であったら、騎手を志していないか、自身も地味な騎手になっただろうと述べている<ref name="競馬 黄金の蹄跡-64"/><ref>[[#田原1998|田原1998]]、36-37頁。</ref>。 嶋田功は、東京優駿の3日前に東京競馬場で受けた取材で「ダービーは勝てる。(ハイセイコーは)負かせられない相手ではない」<ref name="寺山・古井ほか1998-168">[[#寺山・古井ほか1998|寺山・古井ほか1998]]、168頁。</ref>、「ハイセイコーも4本脚なら、タケホープもおなじ4本脚だ」<ref name="日本ダービー80年史-130">[[#日本ダービー80年史|日本ダービー80年史]]、130頁。</ref><ref name="寺山・古井ほか1998-168"/><ref>[[#杉本1995|杉本1995]]、15頁。</ref><ref name="渡辺1999-68">[[#渡辺1999|渡辺1999]]、68頁。</ref><ref name="中川2020-95">[[#中川2020|中川2020]]、95頁。</ref>、「ハイセイコー、ハイセイコーってみんなむこうへ行っちゃってるけどさ。オレのタケホープだって、馬なんだよ」<ref name="渡辺1999-68"/>というコメントをした{{#tag:ref|渡辺敬一郎によるとこれはふざけた口調だったものの嶋田の眼は笑っていなかったという<ref name="渡辺1999-68"/>。しかし、中川秀一によるとこの嶋田のコメントを伝えた記事は一つもなかったという<ref name="中川2020-95"/>。|group="注"}}。当初嶋田は東京優駿ではまだ勝てないだろうと考えていたが、ハイセイコーのNHK杯出走を知ると、「これで東京優駿まで余力が残らない」と推測し、しめたという気持ちになったという<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、70頁。</ref>。加えて当時のタケホープの体調は非常に良く、嶋田は厩舎関係者に対しても「勝てる」と宣言していた<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、69頁。</ref>。さらに渡辺敬一郎によると、嶋田は早い時期から「あれだけの人気馬だから、ひとつのレースも手抜きはできない。だから、ずっとやっていけば疲労が重なり、大事なところで反動がくる」とハイセイコーの辛さについて予言していたという<ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247"/>。タケホープの厩務員の萩原武夫によると、タケホープはダービーに向かって「信じられないような上昇ぶり」を見せ、この時点ではまだハイセイコーにはちょっとかなわないかもと思っていたが、ハイセイコーのNHK杯出走を知って「しめた」と思ったといい、「それまでも目いっぱいに来てるんだから、NHK杯で、もうおつりがなくなっちゃうぞ、と思ったんだ」と述べている<ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247">[[#渡辺(責任監修)2000|渡辺(責任監修)2000]]、244-247頁。</ref>。なお、萩原は大井競馬場時代にハイセイコーの母のハイユウを厩務員として担当しており、「不思議な因縁だなあって、変なところで懐かしい気持ちになったよ」と回顧している<ref name="渡辺1999-86">[[#渡辺1999|渡辺1999]]、86頁。</ref>。 タケホープは京都新聞杯で8着に敗れたことで菊花賞でもフロック視されて当日は6番人気で出走したが<ref>[[#江面2015|江面2015]]、55頁。</ref>、この菊花賞を勝ったことでようやくハイセイコーのライバルとして認知されるようになり<ref name="最強サラブレッド列伝-53"/>、同時に「アイドルホースの仇役」という役回りも担うこととなった<ref name="江面2005-115-116"/>。また、菊花賞以降タケホープは出走したすべてのレースでハイセイコーと対戦した<ref>[[#山本2005|山本2005]]、164頁。</ref>。これについて山野浩一と江面弘也は、ハイセイコー陣営が意図的にタケホープに合わせたローテーションを組んだのだと述べている<ref name="山野1978-14"/><ref name="江面2005-115-116"/>。1973年(菊花賞の後)<ref name="さらばハイセイコー-8"/>と、1974年(有馬記念の後)<ref name="河村2011-79"/>には、2頭による[[マッチレース]]が企画されたが、実現には至らなかった。石川喬司は1974年の有馬記念前には[[スポーツ報知|報知新聞]]に「もし有馬記念が、ハイセイコーとタケホープたった2頭のマッチレースで行われるとしても、中山競馬場は満員になるに違いない」という文を寄稿している<ref name="広見2009-15"/>。 対戦を重ねるうちに、タケホープは長距離で、ハイセイコーは中距離で強さを発揮することが明らかとなっていった<ref name="渡辺(責任監修)2000-244-247"/><ref name="最強サラブレッド列伝-53">[[#最強サラブレッド列伝|最強サラブレッド列伝]]、53頁。</ref>。稲葉はタケホープが天皇賞(春)を勝った後、同馬について、父インディアナの個性を受け継いだステイヤーで「2400m以上ならどの馬にも負けない自信を持ってます」とコメントしている<ref name="さらばハイセイコー-55">[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、55頁。</ref>。東京優駿と菊花賞、3200mの天皇賞をすべて勝ったのは[[シンザン]]以来史上2頭目であった<ref name="山野1978-14"/>。一方、ハイセイコーについては2000m以下のレースで14戦12勝2着2回と連対を外したことがないにもかかわらず2400m以上のレースでは一度も勝ったことがなく「極端に弱かった」ことが指摘されている<ref>[[#競馬モンスター列伝|競馬モンスター列伝]]、192頁。</ref>。鈴木勝太郎は前述のように弥生賞について「レース中にカッとなるところがあって、これは2000mまでの馬かなと思った」と振り返り<ref name="阿部1990-55"/>、東京優駿の敗因として距離が長すぎた可能性を挙げ<ref name="横尾2000-37"/><ref name="横尾1986-23-24"/>、「体型的にハイセイコーは2000メートルまでで絶対的な強さを見せる馬なのかもしれない」と語り<ref name="藤野1992-153"/>、天皇賞(春)で敗れた後には「やっぱり距離のカベとしかいいようがない」とコメントしている<ref name="さらばハイセイコー-55"/>。嶋田功はハイセイコーに対し、「中距離戦では絶対にかなわない」という思いを抱いていたと述べている<ref name="さらばハイセイコー-8"/>。阿部珠樹は、距離別のレース体系が整備された時代であったなら、ハイセイコーはマイルから中距離のレースに出走し続けただろうと推測している<ref name="阿部2001-61"/>。 1974年1月に行われたアメリカジョッキークラブカップがタケホープ1着、ハイセイコー9着という結果に終わり、3月になって中山記念に2頭が出走したとき、嶋田功は「今度はタケホープが1番人気になるだろう」と予想していた。しかし1番人気になったのはハイセイコーであり、タケホープは3番人気だったため<ref>[[#渡辺1999|渡辺1999]]、65頁。</ref>、嶋田は「どうしてあの馬ばかりが人気を集めるのか」と憤りを覚えたという<ref name="さらばハイセイコー-50"/>。 2頭の引退レースとなった1974年の有馬記念では、ハイセイコーのファンはタニノチカラに敗れたにもかかわらずタケホープに先着したことを喜び<ref name="江面2005-115-116"/>、両陣営もレース後には優勝したタニノチカラのことではなく互いの着順の先後についてコメントした<ref>[[#さらばハイセイコー|さらばハイセイコー]]、66頁。</ref>。マスコミも、タニノチカラの優勝よりも2頭の最後の対決に焦点を当てた報道を行った<ref name="広見2009-15">[[#広見2009|広見2009]]、15頁。</ref>。 タケホープが東京優駿に出走できたのは、その前に出走した[[日本の競馬の競走体系#中央競馬|条件戦]]の4歳中距離特別を勝って獲得賞金額を上積みしたからであった<ref name="笠野・原1993-121">[[#笠野・原1993|笠野・原1993]]、121頁。</ref>。この時、2着のサクラチェスとの着差はハナ差であったため、競馬史研究家の[[山本一生]]は「サクラチェスの鼻がもう少し長かったなら、わが国の競馬の歴史が変わっていただろう」と述べており<ref name="山本2005-163"/>、ライターの藤野広一郎は「まるで[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]]のように美しくて貴重な鼻だった。もしタケホープの鼻がもう少し短かったら、確実にダービーの歴史は変わっていたのである」と述べている<ref>[[#藤野1992|藤野1992]]、156頁。</ref>。後にハイセイコーの初年度産駒[[カツラノハイセイコ]]が父の勝てなかった東京優駿を勝った時、2着となったリンドプルバンには嶋田が騎乗しており<ref name="寺山・古井ほか1998-256・264"/>、東京優駿の前に出走した4歳中距離特別で勝利を収めていた。江面弘也はこれを「競馬の神の粋な演出」と表現している<ref name="江面2005-115-116"/>。 種牡馬としては、ハイセイコーが重賞優勝馬を複数輩出したのに対し、タケホープは重賞優勝馬を送り出すことができなかった。山本一生は、タケホープの血統が長距離系の血統の馬が近親交配されていたことで短い距離を苦手としていたことを挙げ<ref>[[#山本2005|山本2005]]、162・179頁。</ref>、江面弘也は、ハイセイコーが産駒にスピードを伝えた一方で、タケホープは「スピード化という時代の波に飲み込まれ」る形になったと分析している<ref name="江面2005-115-116"/>。この事実に萩原は「(タケホープは)種牡馬として成功するためではなく、ダービーを勝つために生まれてきた馬だから、それに不満はない」と述べている<ref>[[#忘れられない名馬100|忘れられない名馬100]]、117頁。</ref>。 == 血統 == === 血統背景 === 父の[[チャイナロック]]はハイセイコーの誕生までに[[タケシバオー]]([[1969年]][[天皇賞(春)]]優勝)、[[メジロタイヨウ]](1969年天皇賞(秋)優勝)、[[アカネテンリュウ]](1969年[[菊花賞]]優勝)と3頭の[[八大競走]]優勝馬を輩出し、[[1973年]]には[[中央競馬]]の[[リーディングサイアー]]を獲得した[[種牡馬]]である。 母のハイユウは競走馬時代に[[地方競馬]]([[南関東公営競馬|南関東]])で16勝を挙げ<ref name="競馬 黄金の蹄跡-34"/>、レコードタイムを3度記録した<ref>{{Cite web|和書|author = 柏木集保|date = |url = http://www.nikkankeiba.com/jra50/09/09.html|title = 日刊競馬で振り返る名馬 - ハイセイコー|work = |publisher = [[日刊競馬]] |accessdate = 2011年11月7日}}</ref>馬であった。競走馬時代の担当厩務員は、先述の通り当時大井競馬に在籍し、のち中央でタケホープの厩務員を担当した萩原武夫である<ref name="渡辺1999-86"/>。祖母ダルモーガンは[[1952年]](昭和27年)に輸入された「[[豪サラ#1950年代の豪サラ|豪サラ]]」<ref>[[#調教師の本II|調教師の本II]]、181頁。</ref>で、産駒にはハイユウのほか、ショウゲツ([[CBC賞]]優勝)やオオクラ(天皇賞(春)2着)がいる<ref name="阿部2001-60"/>。 阿部珠樹は、[[ブルードメアサイアー]]のカリムは短距離で本領を発揮した馬で、ハイセイコーの2000mの京都新聞杯を除いて敗れたレースの距離がすべて2100m以上という競走成績からはカリムの影響が明確に読み取れると分析している<ref name="阿部2001-61"/>。寺山修司も、東京優駿での敗戦の要因として母の父がカリムだったことを挙げている<ref name="寺山・古井ほか1998-134-135"/>。一方で武田牧場場長の武田隆雄は、ダービーでの敗因について菊花賞で2着になったことを引いて、カリムの血から来る距離の壁が敗因だったとされていることに対して「京都の3000mであれだけのレースができる馬が、東京の2400mで距離の壁に泣いたとは思えない」と否定的な意見を述べている<ref name="高見沢1992-26"/>。 === 血統表 === {{競走馬血統表 |name = ハイセイコー |f = *[[チャイナロック]]<br />China Rock<br />1953 栃栗毛{{refnest|group="注"|name="栃栗"|同馬は日本国内では「栃栗毛」とされている<ref name="5代血統表"/>が、アメリカ・イギリスでは「栗毛(chestnut)」と登録<ref name=EQUINELINE>[http://www.equineline.com/Free-5X-Pedigree.cfm?page_state=ORDER_AND_CONFIRM&reference_number=2231438&registry=T&horse_name==Haiseiko%20(JPN)&dam_name==Haiyu%20(JPN)&foaling_year=1970&nicking_stats_indicator=Y EQUINELINE Haiseiko(JPN)]2020年1月3日閲覧。</ref>されている。欧米では栗毛と栃栗毛を区別しない。}} |m = ハイユウ<br />1961 黒鹿毛 |ff = [[ロックフェラ|Rockfella]]<br />1941 黒鹿毛{{refnest|group="注"|name="青鹿毛黒鹿毛"|同馬は日本国内では「黒鹿毛」とされている<ref name="5代血統表"/>が、アメリカ・イギリスでは「青鹿毛(Brown)」と登録<ref name=EQUINELINE/>されている。黒鹿毛と青鹿毛の区別は難しく、区別しない文化圏もある。}} |fm = May Wong<br />1934 栗毛 |mf = *カリム<br />Karim<br />1953 鹿毛 |mm = *ダルモーガン<br />Dalmogan<br />1950 黒鹿毛<ref group="注" name="青鹿毛黒鹿毛"/> |fff = [[ハイペリオン (競走馬)|Hyperion]] |ffm = [[ロックフェル|Rockfel]] |fmf = Rustom Pasha |fmm = Wezzan |mff = [[ネアルコ|Nearco]] |mfm = Skylarking |mmf = Beau Son |mmm = Reticent |ffff = [[ゲインズバラ (競走馬)|Gainsborough]] |fffm = [[セレーネ (競走馬)|Selene]] |ffmf = Felstead |ffmm = Rockliffe |fmff = [[サンインロー|Son-in-Law]] |fmfm = Cos |fmmf = Friar Marcus |fmmm = Woodsprite |mfff = [[ファロス (競走馬)|Pharos]] |mffm = Nogara |mfmf = Mirza |mfmm = Jennie |mmff = [[ボーペール|Beau Pere]] |mmfm = Banita |mmmf = Hua |mmmm = Timid |ref1 = <ref name="5代血統表">{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000036106/pedigree/ |title=血統情報:5代血統表|ハイセイコー|website=JBISサーチ|accessdate=2021-8-25}}</ref> |mlin = [[ロックフェラ系]] |ref2 = <ref>[[#小林(編)1993|小林(編)1993]]、22-23頁。</ref> |flin = ダルモーガン系 |FN =[[12号族|12-g]] |ref3 =<ref name="5代血統表"/> |inbr =Son-in-Law 4×5 |ref4 =<ref name="5代血統表"/> }} === 兄弟 === * マイデン(1967年生、牡、父[[リンボー (競走馬)|リンボー]]) - 35戦3勝。 * ハクセイコー(1968年生、牡、父ダイハード) - 14戦6勝。東京ダービー3着。種牡馬。 * ハイエース(1973年生、牡、父ラークスパー) - 52戦8勝。 * サイセイコー(1974年生、牡、父チャイナロック) - 不出走 * アアセイコー(1977年生、牡、父ファラモンド) - 28戦7勝。種牡馬。[[エスプリシーズ]]の母母父。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == '''書籍''' * {{Cite book|和書 |author = 青木玲 |year = 1995 |title = 競走馬の文化史―優駿になれなかった馬たちへ |publisher = [[筑摩書房]] |isbn = 4480872736 |ref = 青木1995 }} * {{Cite book|和書 |author = [[赤木駿介]] |year = 1975 |title = 実録ハイセイコー物語 愛されつづけた郷愁の馬 |publisher = [[勁文社]] |ref = 赤木1975 }} * {{Cite book|和書 |author = 朝日新聞論説委員室 |year = 2011 |title = 天声人語 2010年7月-12月 |publisher = [[朝日新聞出版]] |isbn = 4022508469 |ref = 朝日新聞論説委員室2011 }} * {{Cite book|和書 |author = 阿部珠樹 |year = 2003 |title = 有馬記念物語 世界最大のレースの魅力を追う |series = プレイブックス・インテリジェンス |publisher = [[青春出版社]] |isbn = 4413040805 |ref = 阿部2003 }} * {{Cite book|和書 |author = [[井崎脩五郎]] |year = 1993 |title = 幸運は駿馬のたてがみ |publisher = [[双葉社]] |isbn = 4575231584 |ref = 井崎1993 }} * {{Cite book|和書 |author = 江面弘也 |year = 2017 |title = 名馬を読む |publisher = 三賢社 |isbn = 4908655073 |ref = 江面2017 }} * {{Cite book|和書 |author = [[大川慶次郎]] |year = 1997 |title = 大川慶次郎 殿堂馬を語る |publisher = ゼスト |isbn = 4916090527 |ref = 大川1997 }} * {{Cite book|和書 |author = 大川慶次郎 |year = 1998 |title = 大川慶次郎回想録 まっすぐ競馬道 杉綾の人生 |publisher = [[日経ラジオ社|日本短波放送]] |isbn = 4931367291 |ref = 大川1998 }} **この記事では「12章 昭和40年代後半の優駿群像」(229-250頁)を参照。 **文庫版あり([[角川書店]]、2000年)ISBN 4043542011 * {{Cite book|和書 |author = 岡部幸雄 |year = 2006 |title = 勝負勘 |publisher = 角川書店 |series = [[角川oneテーマ21]] |isbn = 4047100609 |ref = 岡部2006 }} * {{Cite book|和書 |author = 片山一弘 |year = 2004 |title = 手紙の力 あの日あの時の日本人 |publisher = [[新潮社]] |isbn = 4104707015 |ref = 片山(編・著)2004 }} * {{Cite book|和書 |author = [[島田明宏]] |year = 2020 |title = ジョッキーズ 歴史をつくった名騎手たち |publisher = [[イースト・プレス]] |isbn = 4781618685 |ref = 島田2020 }} * {{Cite book|和書 |author = [[杉本清]] |year = 1995 |title = 三冠へ向かって視界よし―杉本清・競馬名実況100選 |publisher = [[日本文芸社]] |isbn = 4537024836 |ref = 杉本1995 }} **文庫版あり(にちぶん文庫、2001年)ISBN 4537065427 * {{Cite book|和書 |author = 関口隆哉 |year = 2002 |title = THE LAST RUN―名馬たちが繰り広げた最後の戦い |publisher = [[オークラ出版]] |isbn = 4775500953 |ref = 関口2002 }} * {{Cite book|和書 |author = [[田原成貴]] |year = 1998 |title = いつも土壇場だった 覚悟 |publisher = [[講談社]] |isbn = 4063300587 |ref = 田原1998 }} * {{Cite book|和書 |author = [[寺山修司]]・[[古井由吉]]ほか |year = 1998 |title = 「優駿」観戦記で甦る 日本ダービー十番勝負 |publisher = [[小学館]] |series = [[小学館文庫]] |isbn = 4094024816 |ref = 寺山・古井ほか1998 }} * {{Cite book|和書 |author = 遠山彰 |year = 1993 |title = 日本ダービー物語 |series = 丸善ライブラリー097 |publisher = [[丸善雄松堂|丸善]] |isbn = 4621050974 |ref = 遠山1993 }} * {{Cite book|和書 |author = 中川秀一 |year = 2020 |title = 激動の昭和名馬列伝 |publisher = [[角川グループホールディングス|KADOKAWA]] |series = サラブレBOOK |isbn = 4047361437 |ref = 中川2020 }} * {{Cite book|和書 |author = [[野元賢一]] |year = 2005 |title = 競馬よ! 夢とロマンを取り戻せ |publisher = [[日本経済新聞出版社]] |isbn = 4532165229 |ref = 野元2005 }} * {{Cite book|和書 |author = 藤野広一郎 |year = 1992 |title = 懐かしき名馬たち ちょっと昔の名馬物語 |publisher = コスモヒルズ |isbn = 4877038094 |ref = 藤野1992 }} * {{Cite book|和書 |author = [[増沢末夫]] |year = 1992 |title = 鉄人ジョッキーと呼ばれて わが愛しの馬上人生 |publisher = [[学研ホールディングス|学研]] |isbn = 4051064212 |ref = 増沢1992 }} * {{Cite book|和書 |author = [[山本一生]] |year = 2005 |title = 競馬学への招待 増補 |series = [[平凡社ライブラリー]]537 |publisher = [[平凡社]] |isbn = 4582765378 |ref = 山本2005 }} * {{Cite book|和書 |author = 渡辺敬一郎 |year = 1999 |title = 最強の名馬たち 「競馬名勝負」真実の証言 |publisher = 講談社 |isbn = 4062097125 |ref = 渡辺1999 }} * {{Cite book|和書 |editor = 朝日新聞be編集グループ |year = 2006 |title = サザエさんをさがして その2 |publisher = [[朝日新聞出版]] |isbn = 4022502479 |ref = 朝日新聞be編集グループ(編)2006 }} * {{Cite book|和書 |editor = [[共同通信社]] |year = 2007 |title = 日本人はどう走ってきたのか 団塊世代の「夢」の検証 |publisher = 講談社 |isbn = 4062141574 |ref = 共同通信社2007 }} * {{Cite book|和書 |editor = 競馬歴史新聞編纂委員会 |year = 1998 |title = 競馬歴史新聞―競馬の出来事丸ごと縮刷! |publisher = 日本文芸社 |isbn = 4537026685 |ref = 競馬歴史新聞編纂委員会(編)1998 }} * {{Cite book|和書 |editor = 光栄出版部 |year = 1993 |title = 夢はターフを駆けめぐる―涙と笑いの競馬バラエティー |publisher = [[コーエー|光栄]] |isbn = 4877190414 |ref = 光栄出版部(編)1993 }} * {{Cite book|和書 |editor = 光栄出版部 |year = 1994 |title = 夢はターフを駆けめぐる〈3〉逃げ馬オールスターズ |publisher = 光栄 |isbn = 4877191097 |ref = 光栄出版部(編)1994a }} * {{Cite book|和書 |editor = 光栄出版部 |year = 1994 |title = 夢はターフを駆けめぐる〈5〉地方出身馬の根性! |publisher = 光栄 |isbn = 4877191550 |ref = 光栄出版部(編)1994b }} * {{Cite book|和書 |editor = 光栄出版部 |year = 1995 |title = 夢はターフを駆けめぐる〈8〉皐月賞グラフィティー |publisher = 光栄 |isbn = 4877192174 |ref = 光栄出版部(編)1995a }} * {{Cite book|和書 |editor = 光栄出版部 |year = 1995 |title = 夢はターフを駆けめぐる〈9〉栄光のダービー |publisher = 光栄 |isbn = 4877192263 |ref = 光栄出版部(編)1995b }} * {{Cite book|和書 |editor = 光栄出版部 |year = 1995 |title = 名馬列伝 オグリキャップ |publisher = 光栄 |isbn = 4877192042 |ref = 光栄出版部(編)1995c }} * {{Cite book|和書 |editor = [[小林皓正]] |year = 1993| title = サラブレッド血統マップ'93 |publisher = コスモヒルズ |isbn = 4877038124 |ref = 小林(編)1993 }} * {{Cite book|和書 |editor = [[東邦出版]] |year = 2005 |title = いま、再びオグリキャップ―ついに明かされる怪物の真実 |publisher = 東邦出版 |isbn = 4809404617 |ref = 東邦出版(編)2005 }} * {{Cite book|和書 |editor = [[冒険企画局]] |year = 1994 |title = 競馬SLG種牡馬名鑑(ファイル) |publisher = 光栄 |isbn = 4877190708 |ref = 冒険企画局(編)1994 }} * {{Cite book|和書 |editor = 渡辺敬一郎 |year = 2000 |title = 星になった名馬たち |publisher = オークラ出版 |series = OAK MOOK 37 ウルトラブック 12 |isbn = 4872785185 |ref = 渡辺(責任監修)2000 }} * {{Cite book|和書 |year = 2010 |title = ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち |publisher = 朝日新聞出版 |series = アエラムック |isbn = 4022744278 |ref = ニッポンの名馬 }} * {{Cite book|和書 |year = 2009 |title = 最強サラブレッド列伝 歴史に名を残す"レジェンドサラブレッド"たち |publisher = オークラ出版 |series = OAK MOOK 304 |isbn = 4775514210 |ref = 最強サラブレッド列伝 }} * {{Cite book|和書 |year = 1996 |title = 忘れられない名馬100 関係者の証言で綴る、強烈な印象を残してターフを去った100頭の名馬 |publisher = 学研 |series = Gakken Mook |isbn = 4056013926 |ref = 忘れられない名馬100 }} * {{Cite book|和書 |author = |year = 1998 |title = 競馬〈感涙〉読本―思い出すたび胸が痛む……泣300選 |publisher = [[宝島社]] |series = [[別冊宝島]]―競馬読本シリーズ402 |isbn = 4796694021 |ref = 競馬〈感涙〉読本 }} * {{Cite book|和書 |author = |year = 1991 |title = 調教師の本II |publisher = [[中央競馬ピーアール・センター]] |ref = 調教師の本II }} * {{Cite book|和書 |author = |year = 1994 |title = 調教師の本IV |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 調教師の本IV }} * {{Cite book|和書 |year = 2002 |title = 英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20 忘れえぬ名馬たち 夢とロマンを乗せ風になった駿馬の記憶 |publisher = [[徳間書店]] |series = Town Mook |isbn = 4197101678 |ref = 英雄神話 Dramatic SPORTS Vol.20 }} * {{Cite book|和書 |author = |year = 2001 |title = 日本馬主協会連合会40年史 |publisher = 日本馬主協会連合会 |ref = 日本馬主協会連合会40年史 }} * {{Cite book|和書 |author = |year = 2005 |title = 日本中央競馬会50年史 |publisher = 日本中央競馬会 |ref = 日本中央競馬会50年史 }} * {{Cite book|和書 |year = 1999 |title = 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡 |publisher = [[文藝春秋]] |series = [[Sports Graphic Number]] PLUS |isbn = 4160081088 |ref = 競馬 黄金の蹄跡 }} * {{Cite book|和書 |year = 2005 |title = 競馬モンスター列伝 ターフに降臨した"絶対王者"たちの系譜! |publisher = [[洋泉社]] |series = 洋泉社MOOK ムックy047 |isbn = 4896919564 |ref = 競馬モンスター列伝 }} '''雑誌記事''' * {{Cite journal|和書 |author = 阿部珠樹 |year = 1990 |title = ナンバーノンフィクション ハイセイコーは三たび微笑む |journal = Sports Graphic Number |issue = 244号 |pages = 53-57頁 |publisher = 文藝春秋 |ref = 阿部1990 }} * {{Cite journal|和書 |author = 阿部珠樹 |year = 2001 |title = サラブレッドヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(1) 時代を画したアイドルホース ハイセイコー |journal = [[優駿]] |issue = 2001年4月号 |pages = 58-63頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 阿部2001 }} * {{Cite journal|和書 |author = [[岩川隆]] |year = 1991 |title = 時代が語るヒーロー像 オグリキャップとハイセイコー |journal = 優駿 |issue = 1991年3月号 |pages = 32-41頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 岩川1991 }} * {{Cite journal|和書 |author = 江面弘也 |year = 2005 |title = 珠玉の好敵手 第1回 ハイセイコーVSタケホープ |journal = [[サラブレ]] |issue = 2005年2月号 |pages = 111-117頁 |publisher = [[エンターブレイン]] |ref = 江面2005 }} * {{Cite journal|和書 |author = 江面弘也 |year = 2011 |title = 偉大なる顕彰馬の蹄跡-日本競馬に歴史を刻んだ名馬たち- vol.14 ハイセイコー |journal = 優駿 |issue = 2011年12月号 |pages = 122-125頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 江面2011 }} * {{Cite journal|和書 |author = 江面弘也 |year = 2015 |title = 伝統と歴史に触れる 京都競馬場 開設90周年記念特集―淀を彩った名馬、名勝負、あのシーンを振り返る |journal = 優駿 |issue = 2015年10月号 |pages = 52-59頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 江面2015 }} * {{Cite journal|和書 |author = 江面弘也 |year = 2016 |title = "ターフの魔術師" ジョッキー・武邦彦の足跡 |journal = 優駿 |issue = 2016年10月号 |pages = 68-73頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 江面2016 }} * {{Cite journal|和書 |author = 笠野晶哉(構成)・[[原良馬]](監修) |year = 1993 |title = 日本の名馬 ハイセイコー物語 |journal = 馬劇場 |issue = 1993年4月号 |pages = 117-127頁 |publisher = 日本短波放送 |ref = 笠野・原1993 }} * {{Cite journal|和書 |author = [[河村清明]] |year = 2011 |title = ハイセイコーブームの全貌 |journal = [[競馬最強の法則]] |issue = 2011年2月号 |pages = 77-81頁 |publisher = [[ベストセラーズ|KKベストセラーズ]] |ref = 河村2011 }} * {{Cite journal|和書 |author = 栗林清史 |year = 1982 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{{Cite journal|和書 |author = 横尾一彦 |year = 1986 |title = サラブレッド・ヒーロー列伝2 不滅のアイドル ハイセイコー |journal = 優駿 |issue = 1986年4月号 |pages = 20-25頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 横尾1986 }} * {{Cite journal|和書 |author = 横尾一彦 |year = 2000 |title = [追悼] ハイセイコー さらば"昭和の怪物"よ [現役時代] 時代が生んだヒーロー |journal = 優駿 |issue = 2000年7月号 |pages = 34-37頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 横尾2000 }} * {{Cite journal|和書 |author = [[吉沢譲治]] |year = 1990 |title = 第57回日本ダービー直前特集 ダービー有力馬とその父たちの評価 |journal = 優駿 |issue = 1990年6月号 |pages = 6-23頁 |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 吉沢1990 }} * {{Cite journal|和書 |author = 吉沢譲治 |year = 1991 |title = 時代を超えた血のロマン 優駿親仔伝説 |journal = Sports Graphic Number |issue = 268号 |pages = 28-41頁 |publisher = 文藝春秋 |ref = 吉沢1991 }} * {{Cite book|和書 |year = 1997 |title = 週刊日録20世紀 1973年 |publisher = 講談社 |ref = 週刊日録20世紀 1973年 }} * {{Cite book|和書 |year = 2000 |title = さらばハイセイコー |publisher = [[産業経済新聞社]] |series = [[週刊Gallop|Gallop]]臨時増刊 週刊100名馬EX |ref = さらばハイセイコー }} * {{Cite book|和書 |year = 2010 |title = ありがとうオグリキャップ |publisher = 産業経済新聞社 |series = Gallop臨時増刊 |ref = ありがとうオグリキャップ }} * {{Cite book|和書 |year = 2013 |title = 日本ダービー80年史 |publisher = 産業経済新聞社 |series = Gallop臨時増刊 |ref = 日本ダービー80年史 }} * {{Cite book|和書 |year = 2018 |title = 21世紀の名馬Vol.5 ディープインパクト |publisher = 産業経済新聞社 |series = Gallop21世紀の名馬シリーズ |ref = 21世紀の名馬Vol.5 ディープインパクト }} * {{Cite book|和書 |year = 2019 |title = 追悼ディープインパクト |publisher = 産業経済新聞社 |series = Gallop21世紀の名馬シリーズ |ref = 追悼ディープインパクト }} * {{Cite journal|和書 |author = |year = 1974 |month = |title = |journal = 優駿 |issue = 1974年2月号 |pages = |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 『優駿』1974年2月号 }} * {{Cite journal|和書 |author = |year = 1974 |month = |title = |journal = 優駿 |issue = 1974年3月号 |pages = |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 『優駿』1974年3月号 }} * {{Cite journal|和書 |author = |year = 1974 |month = |title = |journal = 優駿 |issue = 1974年12月号 |pages = |publisher = 中央競馬ピーアール・センター |ref = 『優駿』1974年12月号 }} * {{Cite journal|和書 |author = |year = 1985 |month = |title = |journal = 優駿 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http://www.tokyocitykeiba.com/03/colmun_vol02.php |title = 大井が生んだ大スター、怪物ハイセイコー |work = TCKコラム|publisher = 東京シティ競馬 |accessdate = 2011年11月14日 }} * {{Cite web|和書 |author = 吉川彰彦 |date = 2005-10-18 |url = http://www.nikkankeiba.co.jp/koei/yoshikawa/backnumber/yoshikawa-column051018.html |title = 「英雄のいた日」 |work = あさっての馬|publisher = [[日刊競馬]] |accessdate = 2011年11月1日 }} * {{Cite web|和書 |author = |date = |url = http://www.jra.go.jp/50th/html/gjpro/06.html |title = 昭和48年日本ダービー タケホープ |work = 思い出の名レース |publisher = 日本中央競馬会 |accessdate = 2011年11月13日 }} * {{Cite web|和書 |author = |date = |url = http://www.equinst.go.jp/JSES/qanda/qanda-naiyo1.html |title = ◆馬と人の心臓の比較した資料が欲しい |work = Q&A |publisher = 日本ウマ科学会 |accessdate = 2011年11月3日 }} == 外部リンク == * {{競走馬成績|netkeiba=000a000b7f|jbis=0000036106}} * {{競走馬のふるさと案内所|0000036106|ハイセイコー}} * [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse11.html ハイセイコー:競馬の殿堂 JRA] * {{NHK放送史|D0009030576_00000|ハイセイコーブームの到来}} {{Navboxes|title=表彰・重賞勝ち鞍 |list1= {{日本中央競馬会・顕彰馬}} {{皐月賞勝ち馬}} 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高松宮記念
高松宮記念(たかまつのみやきねん)とは、日本の競輪・競馬・競艇の各公営競技や高校総体の一部競技・全国高等学校バスケットボール選手権大会・全日本軟式野球大会(1部・2部)・全日本実業団バスケットボール選手権大会・全日本学生ハンドボール選手権大会・全日本銃剣道選手権大会・明治神宮崇敬会全国弓道大会・都民体育大会において宮家の一つである高松宮から優勝杯等を下賜されたことを記念して設けられた名称。 競輪、競馬については、かつては高松宮杯(たかまつのみやはい)という名称が使われており、宮家から優勝杯を下賜されていたが、競輪において宮家への謝礼金が問題となり優勝杯の下賜がなくなったことから名称を変更した経緯を持つ。 詳細は各競技ページを参照。
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高松宮記念(たかまつのみやきねん)とは、日本の競輪・競馬・競艇の各公営競技や高校総体の一部競技・全国高等学校バスケットボール選手権大会・全日本軟式野球大会(1部・2部)・全日本実業団バスケットボール選手権大会・全日本学生ハンドボール選手権大会・全日本銃剣道選手権大会・明治神宮崇敬会全国弓道大会・都民体育大会において宮家の一つである高松宮から優勝杯等を下賜されたことを記念して設けられた名称。 競輪、競馬については、かつては高松宮杯(たかまつのみやはい)という名称が使われており、宮家から優勝杯を下賜されていたが、競輪において宮家への謝礼金が問題となり優勝杯の下賜がなくなったことから名称を変更した経緯を持つ。 詳細は各競技ページを参照。 競輪 → 高松宮記念杯競輪の略称の一つとして高松宮記念と呼ばれる。 競馬 → 高松宮記念 (競馬)を参照。 競艇 → 高松宮記念特別競走の略称の一つとして高松宮記念と呼ばれる。
'''高松宮記念'''(たかまつのみやきねん)とは、[[日本]]の[[競輪]]・[[競馬]]・[[競艇]]の各[[公営競技]]や[[全国高等学校総合体育大会|高校総体]]の一部競技・[[全国高等学校バスケットボール選手権大会]]・[[高松宮賜杯全日本軟式野球大会|全日本軟式野球大会]](1部・2部)・[[全日本実業団バスケットボール選手権大会]]・[[全日本学生ハンドボール選手権大会]]・[[全日本銃剣道選手権大会]]・[[明治神宮崇敬会全国弓道大会]]・[[東京都体育協会|都民体育大会]]において[[宮家]]の一つである[[高松宮]]から優勝杯等を下賜されたことを記念して設けられた名称。 競輪、競馬については、かつては'''高松宮杯'''(たかまつのみやはい)という名称が使われており、宮家から優勝杯を下賜されていたが、競輪において宮家への謝礼金が問題となり優勝杯の下賜がなくなったことから名称を変更した経緯を持つ。 詳細は各競技ページを参照。 * 競輪 → [[高松宮記念杯競輪]]の略称の一つとして高松宮記念と呼ばれる。 * 競馬 → [[高松宮記念 (競馬)]]を参照。 * 競艇 → [[高松宮記念特別競走]]の略称の一つとして高松宮記念と呼ばれる。 {{DEFAULTSORT:たかまつのみやきねん}} [[Category:公営競技]] [[Category:トロフィー]] [[Category:日本のスポーツ競技大会|*]]
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メキシコサンショウウオ
メキシコサンショウウオ (Ambystoma mexicanum) は、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類。ウーパールーパーや、メキシコサラマンダーという名称も用いられる。 アホロートル ([ˈæksəlɒtəl]; 古ナワトル語:āxōlōtl [aːˈʃoːloːtɬ] ( 音声ファイル)) とも呼ばれるが、アホロートルは本種をはじめとした幼形成熟のトラフサンショウウオ科の総称であるため、ほかの種の幼形成熟個体を指す場合もある。 種小名mexicanumは「メキシコの」の意。アホロートルはトラフサンショウウオ科の幼形成熟個体を指す名称でもあり、アステカ文明で用いられたナワトル語で「水」と「イヌ」を組み合わせた語に由来する。スペイン語では、アホロートルの意味を翻訳した monstruo de agua(「水の怪物」の意)と呼ばれた。 アホロートルはアステカの火と稲妻の神ショロトル(Xolotl)にちなむものである。スペイン語とナワトル語で書かれた絵文書『ヌエバ・エスパーニャ概史(スペイン語版)』によると、アステカ神話で第4の太陽がなくなり、第5の太陽を作る際に神々が身を捧げたが、ショロトルだけが逃亡した。他の神に追いかけられて生き延びるために様々な姿に変化して、最後にはトウモロコシ畑の中のアホロートル(Así Xólotl アショロトル)に変化したが結局捕まった。それによって幼体の姿のまま再生能力を持つ死を恐れる怪物アホロートルとなったとされる。 和名としてメキシコサンショウウオやメキシコサラマンダーが用いられている。 俗称のウーパールーパーは、日本のテレビCMに登場した際に商標登録を行うために創作された。 メキシコ(ソチミルコ湖とその周辺)。 日本には分布していないが、飼育を経て放流されたと見られる個体が確認されたことがある。 全長10 - 25センチメートル。メスよりもオスの方が大型になり、メスは最大でも全長21センチメートル。通常は幼生の形態を残したまま性成熟する(幼形成熟)。胴体は分厚い。小さい孔状の感覚器官は発達しないが、頭部に感覚器官がある個体もいる。左右に3本ずつ外鰓がある。 上顎中央部に並ぶ歯の列(鋤口蓋骨歯列)はアルファベットの逆「U」字状。四肢は短く、指趾は扁平で先端が尖る。水かきはあまり発達せず、中手骨や中足骨の基部にしかない。 背面の体色は灰色で、黒褐色の斑点が入る。視覚情報から色素胞のサイズと厚みを変え、周囲に溶け込もうとするカモフラージュ能力を持つ。飼育下では白化個体などの様々な色彩変異が品種として作出されている。色彩変異となったもののバリエーションとして、体全体が黒いブラック、斑点のあるマーブル、全体が白色のアルビノ、全身が黄色いゴールデン、青いブルーなどがある。 自然下では水温が低くヨウ素が少ない環境に生息し、チロキシンを生成することができないため、変態しない。きわめてまれに変態して成体となり、陸上生活に移行する。 15年ほど生きる個体もいる。 食性は肉食で、匂いで探し当て、軟体動物、ミミズ、昆虫、甲殻類、魚などを咥えてから吸い込み、捕食する。 繁殖様式は卵生。11月から翌1月(4 - 5月に繁殖する個体もいる)に、水草などに1回に200 - 1,000個の卵を産む。 皮膚からも酸素を取り込める。 都市開発や観光開発による生息地の破壊・乾燥化・水質汚染などにより、生息数は激減している。以前はメキシコ盆地内のスムパンゴ湖やチャルコ湖・テスココ湖にも生息していたが、埋め立てによって生息地が消滅した。1975年のワシントン条約発効時から、ワシントン条約附属書IIに掲載されている。 日本では、1980年代に珍獣ブームとともに「ウーパールーパー」の商標で日清食品のカップ焼きそば「日清焼そばU.F.O.」のCMキャラとなった。 アステカ族は食用、薬効のある食物と考えられていた。宮廷料理としても食べられた。 幼形成熟個体は水中のみで生活すること・飼育の歴史が古いこと・飼育法や繁殖方法が確立していることなどから、ペットとして飼育されるほか、発生学や内分泌学における実験動物として用いられることもある。国際的な商取引が規制されているため、日本ではほぼ日本国内での飼育下繁殖個体のみが流通する。 飼育下ではチロキシンの投与や水位を下げて飼育することにより、変態した例もある。以下では主に流通する幼形成熟個体に対しての飼育の説明を行う。 アクアリウムで飼育され、水棲の有尾類としては、水質の悪化や高水温への耐性も持つ一方、水質が悪化すると最悪の場合には外鰓が壊死して死亡することもあるため、濾過などによる清涼な水質の維持、夏季の高水温への対策が望ましい。隠れ家として流木や岩・市販の隠れ家(シェルター)を設置し、水草を植え込む。底砂を敷く場合は誤飲しないように生体が飲み込めない大きいものにするか、飲み込んでも簡単に排泄されるような細かい粒のものにする。餌として魚類やエビ、ユスリカの幼虫などを与える。専用の配合飼料も市販されており、飼育下では専用の配合飼料だけでなく動物食の魚類用配合飼料(水中に沈むもの)にも餌付く。協調性が悪いため、複数飼育を行う場合は飼育頭数よりも多い数のシェルターを用意する。餌用も含めて魚類などをケージ内に混泳させると、外鰓を傷つける恐れがある。 2021年にメキシコ・ペソの50ペソ紙幣の絵柄となった。この紙幣は、国際銀行券協会が表彰する the Banknote of the Year 2021 を受賞した。
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メキシコサンショウウオ は、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類。ウーパールーパーや、メキシコサラマンダーという名称も用いられる。 アホロートル とも呼ばれるが、アホロートルは本種をはじめとした幼形成熟のトラフサンショウウオ科の総称であるため、ほかの種の幼形成熟個体を指す場合もある。
{{生物分類表 |省略 = 両生綱 |名称 = メキシコサンショウウオ |画像=[[ファイル:Axolotl ganz.jpg|250px|メキシコサンショウウオ]] |画像キャプション = '''メキシコサンショウウオ'''<br />''Ambystoma mexicanum'' |status = CR |status_ref = <ref name="iucn">IUCN SSC Amphibian Specialist Group. 2020. ''Ambystoma mexicanum''. The IUCN Red List of Threatened Species 2020: e.T1095A53947343. https://doi.org/10.2305/IUCN.UK.2020-3.RLTS.T1095A53947343.en. Downloaded on 27 April 2021.</ref><ref name="species+">UNEP (2021). [https://www.speciesplus.net/#/taxon_concepts/6110/legal ''Ambystoma mexicanum'']. The Species+ Website. Nairobi, Kenya. Compiled by UNEP-WCMC, Cambridge, UK. Available at: [https://www.speciesplus.net www.speciesplus.net]. [Accessed 27/04/2021<!-- dd/mm/yyyy -->]</ref> |status_text = [[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]附属書II |目 = [[有尾目]] [[w:Salamander|Caudata/Urodela]]<!-- 現生の有尾類のみでUrodelaとし化石群Karauridaeなども含む有尾類をCaudataとするか、化石群も含んでもUrodelaとするなど諸説あり --> |科 = [[トラフサンショウウオ科]]<br />[[w:Mole salamander|Ambystomatidae]] |属 = [[トラフサンショウウオ属]]<br />[[w:Mole salamander|''Ambystoma'']] |種 = '''メキシコサンショウウオ'''<br />''A. mexicanum'' |学名 = ''Ambystoma mexicanum''<br />([[w:George Shaw|Shaw]] & Nodder, [[1798年|1798]])<ref name="asw">“[https://amphibiansoftheworld.amnh.org./Amphibia/Caudata/Ambystomatidae/Ambystoma/Ambystoma-mexicanum ''Ambystoma mexicanum'' (Shaw and Nodder, 1798) ],” In: Frost, Darrel R. 2023. Amphibian Species of the World: an Online Reference. Version 6.2 (Accessed on 18 July 2023). Electronic Database accessible at https://amphibiansoftheworld.amnh.org/index.php. American Museum of Natural History, New York, USA. https://doi.org/10.5531/db.vz.0001.</ref> |シノニム = ''Gyrinus mexicanus''<br />Shaw & Nodder, 1798 |シノニム_ref = <ref name="asw" /> |和名 = メキシコサンショウウオ<ref name="matsui">松井正文 「メキシコサンショウウオ(アホロートル)」『動物世界遺産 レッド・データ・アニマルズ3 中央・南アメリカ』小原秀雄・浦本昌紀・太田英利・松井正文編著、[[講談社]]、2001年、291頁。</ref><ref name="matsuzuki">松月茂明 「ウーパールーパーの正体は? メキシコサンショウウオ」『動物たちの地球 両生類・爬虫類 1 アシナシイモリ・サンショウウオほか』第5巻 97号、朝日新聞社、1993年、24頁</ref> |英名 = [[:en:Axolotl|Axolotl]]<ref name="iucn" /><ref name="matsui" /> }} '''メキシコサンショウウオ''' (''Ambystoma mexicanum'') は、両生綱有尾目トラフサンショウウオ科トラフサンショウウオ属に分類される有尾類。'''ウーパールーパー'''や<ref name=kobe>{{Cite news |和書 |url=https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202106/0014451008.shtml |author=小嶋あきら|title=「ウーパールーパー」を覚えていますか “昭和”に一世風靡した不思議な生き物、今もペットとして根強い人気 |access-date=2023-07-18 |date=2021-06-28 |newspaper=[[神戸新聞]]NEXT www.kobe-np.co.jp |language=ja}}</ref>、'''メキシコサラマンダー'''<ref name="ebinuma" /><ref name="ikeda" /><ref name="yamazaki" />という名称も用いられる<ref name="matsuzuki" />。 '''アホロートル''' ({{IPAc-en|ˈ|æ|k|s|ə|l|ɒ|t|əl}}; 古ナワトル語:āxōlōtl {{IPA-nah|aːˈʃoːloːtɬ||Axolotl.ogg}}) とも呼ばれるが、[[アホロートル]]は本種をはじめとした[[ネオテニー|幼形成熟]]のトラフサンショウウオ科の総称であるため、ほかの種の幼形成熟個体を指す場合もある<ref name="sasaki">佐々木浩之「ウーパールーパーの基本」『ウーパールーパー・イモリ・サンショウウオの仲間:飼育の仕方、種類、食べ物、飼育環境がすぐわかる!』、誠文堂新光社、2018年5月2日、{{ISBN2|4416618069}}、14-15頁。</ref>。 == 名前 == 種小名''mexicanum''は「メキシコの」の意。アホロートルはトラフサンショウウオ科の幼形成熟個体を指す名称でもあり<ref name="sasaki" />、[[アステカ文明]]で用いられた[[ナワトル語]]で「水」と「イヌ」を組み合わせた語に由来する<ref name="matsuzuki" />。スペイン語では、アホロートルの意味を翻訳した monstruo de agua(「水の怪物」の意)と呼ばれた<ref name=nikkei22212>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC252LM0V20C22A1000000/ |title=住み家なきメキシコの象徴 ウーパールーパーの危機 |access-date=2023-07-18 |date=2022-02-12 |website=日本経済新聞 |language=ja}}</ref>。 アホロートルはアステカの火と稲妻の神[[ショロトル]](Xolotl)にちなむものである<ref name=nikkei22212/>。スペイン語とナワトル語で書かれた絵文書『{{ill2|ヌエバ・エスパーニャ概史|es|Historia general de las cosas de Nueva España}}』によると、[[アステカ神話]]で第4の太陽がなくなり、第5の太陽を作る際に神々が身を捧げたが、ショロトルだけが逃亡した。他の神に追いかけられて生き延びるために様々な姿に変化して、最後にはトウモロコシ畑の中のアホロートル(Así Xólotl アショロトル)に変化したが結局捕まった。それによって幼体の姿のまま再生能力を持つ死を恐れる怪物アホロートルとなったとされる<ref>{{Cite web |url=https://www.mexicolore.co.uk/aztecs/stories/story-of-the-fifth-sun |title=The Creation of the 5th Aztec Sun |access-date=2023-07-18 |website=www.mexicolore.co.uk}}</ref>。 和名としてメキシコサンショウウオ<ref name="matsui" /><ref name="matsuzuki" />やメキシコサラマンダー<ref name="ebinuma" /><ref name="ikeda" /><ref name="yamazaki" />が用いられている<ref name="sasaki" />。 俗称のウーパールーパーは、日本のテレビCMに登場した際に商標登録を行うために創作された<ref name=kobe />。 == 分布 == [[メキシコ]]([[ソチミルコ]]湖とその周辺)<ref name="matsui" /><ref name="ebinuma">海老沼剛 「メキシコサラマンダーを飼う」『ビバリウムガイド』No.33 マリン企画 2006年 134 - 135頁。</ref><ref name="yamazaki">山崎利貞 「メキシコサラマンダー」『爬虫・両生類ビジュアルガイド イモリ・サンショウウオの仲間』、[[誠文堂新光社]]、2005年、{{ISBN2|4416705492}}、pp.40-41。</ref>。 日本には分布していないが、飼育を経て放流されたと見られる個体が確認されたことがある<ref>{{Cite news|和書|url=https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/111576|title=近所の川に「ウーパールーパー」大津の小学生が発見|newspaper=京都新聞|publisher=京都新聞社|date=2016-08-12|accessdate=2021-05-18}}</ref>。 == 形態 == [[File:Three Colors of Axolotl.jpg|thumb|三色のメキシコサンショウウオ。中央がアルビノ、右が[[白変種]]のリューシスティック。左がそれらの混合]] [[File:Axolotl in a Pet store in Melbourne.jpg|thumb|飼育個体のカラーバリエーション]] [[File:Ambystoma mexicanum at Vancouver Aquarium.jpg|thumb|バンクーバー水族館の展示]] 全長10 - 25センチメートル<ref name="matsui" /><ref name="ikeda">池田純 「メキシコサラマンダー」『爬虫類・両生類800種図鑑 第3版』[[千石正一]]監修 長坂拓也編著 ピーシーズ 2002年 234頁</ref>。メスよりもオスの方が大型になり、メスは最大でも全長21センチメートル<ref name="matsui" />。通常は幼生の形態を残したまま性成熟する(幼形成熟)<ref name="matsui" /><ref name="matsuzuki" />。胴体は分厚い<ref name="matsui"/>。小さい孔状の感覚器官は発達しないが、頭部に感覚器官がある個体もいる<ref name="matsui"/>。左右に3本ずつ[[外鰓]]がある<ref name="matsui" />。 上顎中央部に並ぶ歯の列(鋤口蓋骨歯列)はアルファベットの逆「U」字状<ref name="matsui"/>。四肢は短く、指趾は扁平で先端が尖る<ref name="matsui" />。水かきはあまり発達せず、[[中手骨]]や[[中足骨]]の基部にしかない<ref name="matsui" />。 背面の体色は灰色で、黒褐色の斑点が入る<ref name="matsui" />。視覚情報から[[色素胞]]のサイズと厚みを変え、周囲に溶け込もうとするカモフラージュ能力を持つ<ref>{{Cite journal |last1=Pietsch |first1=Paul |last2=Schneider |first2=Carl W. |date=1985 |title=Vision and the skin camouflage reactions of ''Ambystoma'' larvae: the effects of eye transplants and brain lesions |journal=Brain Research |volume=340 |issue=1 |pages=37–60 |doi=10.1016/0006-8993(85)90772-3|pmid=4027646 |s2cid=22723238 }}</ref>。飼育下では白化個体などの様々な色彩変異が品種として作出されている<ref name="matsui" /><ref name="yamazaki" />。色彩変異となったもののバリエーションとして、体全体が黒いブラック、斑点のあるマーブル、全体が白色の[[アルビノ]]、全身が黄色いゴールデン、青いブルーなどがある<ref name=kobe/>。 == 生態 == 自然下では水温が低く[[ヨウ素]]が少ない環境に生息し、[[チロキシン]]を生成することができないため、変態しない<ref name="ikeda" />。きわめてまれに変態して成体となり、陸上生活に移行する<ref name=na>[https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20141218/429033/ メキシコサラマンダー(アホロートル)]ナショナルジオグラフィック、動物大図鑑</ref>。 15年ほど生きる個体もいる<ref name=na/>。 食性は肉食で、匂いで探し当て、軟体動物、ミミズ、昆虫、甲殻類、魚などを咥えてから吸い込み、捕食する<ref name=na/><ref>{{Cite journal |last1=Wainwright |first1=P. C. |last2=Sanford |first2=C. P. |last3=Reilly |first3=S. M. |last4=Lauder |first4=G. V. |date=1989 |title=Evolution of motor patterns: aquatic feeding in salamanders and ray-finned fishes |journal=Brain, Behavior and Evolution |volume=34 |issue=6 |pages=329–341 |doi=10.1159/000116519 |pmid=2611639}}</ref>。 繁殖様式は卵生。11月から翌1月(4 - 5月に繁殖する個体もいる)に、水草などに1回に200 - 1,000個の卵を産む<ref name="matsui" /><ref name="yamazaki" />。 皮膚からも酸素を取り込める<ref>{{Cite web |url=https://www.reuters.com/article/us-mexico-axolotl-idUSKCN1NP0F6 |title=Mexico's axolotl, a cartoon hero and genetic marvel, fights for survival |access-date=2023-07-17 |date=2018-11-20 |website=Reuters |language=en}}</ref>。 == 人間との関係 == 都市開発や観光開発による生息地の破壊・乾燥化・水質汚染などにより、生息数は激減している<ref name="iucn" />。以前は[[メキシコ盆地]]内のスムパンゴ湖やチャルコ湖・[[テスココ湖]]にも生息していたが、埋め立てによって生息地が消滅した<ref name="matsui" /><ref name="ikeda" />。1975年のワシントン条約発効時から、ワシントン条約附属書IIに掲載されている<ref name="species+" />。 日本では、[[1980年代]]に珍獣ブームとともに「ウーパールーパー」の商標で[[日清食品]]の[[カップ焼きそば]]「[[日清焼そばU.F.O.]]」のCMキャラとなった<ref name=kobe/>。 === 食用 === アステカ族は食用、薬効のある食物と考えられていた<ref>{{Cite web |url=https://www.nytimes.com/2012/10/31/world/americas/struggle-of-axolotls-mexicos-mythical-salamander.html |title=Mythic Salamander Faces Crucial Test: Survival in the Wild |access-date=2023-07-17 |last=Tickell |first=Sofia Castello Y. |date=2012-10-30 |website=The New York Times |language=en-US}}</ref><ref name=mexicolor23>{{Cite web |url=https://www.mexicolore.co.uk/aztecs/flora-and-fauna/axolotl |title=Axolotl |access-date=2023-07-18 |website=www.mexicolore.co.uk}}</ref>。宮廷料理としても食べられた<ref>{{Cite web |url=https://japannews.yomiuri.co.jp/science-nature/science/20230216-91355/ |title=New Museum in Mexico City Spotlights Axolotl |access-date=2023-07-18 |last=Reuters |date=2023-02-16 |website=japannews.yomiuri.co.jp |language=en}}</ref><ref name=mexicolor23/>。 === 飼育 === 幼形成熟個体は水中のみで生活すること・飼育の歴史が古いこと・飼育法や繁殖方法が確立していることなどから、ペットとして飼育されるほか、発生学や内分泌学における実験動物として用いられることもある<ref name="matsuzuki" />。国際的な商取引が規制されているため、日本ではほぼ日本国内での飼育下繁殖個体のみが流通する<ref name="yamazaki" />。 飼育下ではチロキシンの投与や水位を下げて飼育することにより、変態した例もある<ref name="ikeda" /><ref name="yamazaki" />。以下では主に流通する幼形成熟個体に対しての飼育の説明を行う。 [[アクアリウム]]で飼育され、水棲の有尾類としては、水質の悪化や高水温への耐性も持つ<ref name="yamazaki" />一方、水質が悪化すると最悪の場合には外鰓が壊死して死亡することもあるため、濾過などによる清涼な水質の維持、夏季の高水温への対策が望ましい<ref name="yamazaki" />。隠れ家として流木や岩・市販の隠れ家(シェルター)を設置し、水草を植え込む<ref name="ebinuma" />。底砂を敷く場合は誤飲しないように生体が飲み込めない大きいものにするか、飲み込んでも簡単に排泄されるような細かい粒のものにする<ref name="ebinuma" />。餌として魚類やエビ、ユスリカの幼虫などを与える<ref name="ebinuma"/>。専用の配合飼料も市販されており、飼育下では専用の配合飼料だけでなく動物食の魚類用配合飼料(水中に沈むもの)にも餌付く<ref name="ebinuma" /><ref name="yamazaki" />。協調性が悪いため、複数飼育を行う場合は飼育頭数よりも多い数のシェルターを用意する<ref name="yamazaki" />。餌用も含めて魚類などをケージ内に混泳させると、外鰓を傷つける恐れがある<ref name="ebinuma" /><ref name="yamazaki" />。 === 文化 === 2021年に[[メキシコ・ペソ]]の50ペソ紙幣の絵柄となった<ref>{{Cite web |url=https://www.theyucatantimes.com/2020/02/mexican-axolotl-will-be-the-new-image-of-the-50-peso-bill/ |title=Mexican axolotl will be the new image of the 50 peso bill - The Yucatan Times |access-date=2023-07-17 |date=2020-02-21 |language=en-US}}</ref>。この紙幣は、[[国際銀行券協会]]が表彰する the Banknote of the Year 2021 を受賞した<ref>{{Cite web |url=https://www.entrepreneur.com/business-news/the-mexican-50-peso-bill-is-the-most-beautiful-in-the-world/424253 |title=The Mexican 50 peso bill is the most beautiful in the world! |access-date=2023-07-17 |last=Staff |first=Entrepreneur |date=2022-04-08 |website=Entrepreneur |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.theibns.org/joomla/index.php?option=com_content&view=article&id=138&Itemid=51 |title=IBNS Banknote of the Year |access-date=2023-07-17 |website=www.theibns.org}}</ref>。 == 研究 == ;再生能力 :四肢だけでなく脊椎や心臓なども再生可能であることから、[[再生医療]]の研究で注目されている<ref name=sankei>[https://www.sankei.com/article/20180707-BRNHYIQSTRJFLCSYNQ4NNXOSMQ/ 【びっくりサイエンス】目や心臓も再生できるウーパールーパー 驚異的な能力の謎をゲノムから解く]産経ニュース</ref>。部分的に再生できる生物なら他にもいるが、年齢を問わず元の器官と同等の器官を再生する点で本種は異なる特徴を示す<ref>[https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/10/post-13297.php 器官再生の仕組みの鍵は、ウーパールーパーが持っている] ニューズウィーク日本版 著:松岡由希子 更新日:2019年10月30日</ref>。 ;ゲノム :2018年1月にゲノム解析が終了し、約320億塩基対を持つうえに[[ヒトゲノム]]の10倍以上の長さであることが判明した<ref name=sankei/>。 == 画像 == <gallery> ファイル:Ambystoma.mexicanum.eggs.jpg|卵 ファイル:Ambystoma mexicanum.001 - Faunia.JPG|ウーパールーパー </gallery> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons|Ambystoma mexicanum}} {{Species|Ambystoma mexicanum}} * [[トラフサンショウウオ科]] * {{ill2|マッドパピー|en|Necturus}} - 同じサンショウウオのネオテニーであることから混同されやすい(南米でなく、北米に生息)。 * {{ill2|鰓篩|en|Gill raker}} ;色素変化について * {{ill2|Axanthism|en|Axanthism}} ‐ 黄色色素が抑制。 * {{仮リンク|メラニズム|en|melanism}} ‐ 黒色となる。 {{Animal-stub}} {{デフォルトソート:めきしこさんしよううお}} [[Category:有尾目]] [[Category:ワシントン条約附属書II]] [[Category:18世紀に記載された両生類]] [[Category:フレデリック・ポリドール・ノダーによって名付けられた分類群]] [[Category:ジョージ・ショーによって名付けられた分類群]]
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高松宮記念 (競馬)
高松宮記念(たかまつのみやきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が中京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 正賞は名古屋市長賞、名古屋競馬株式会社賞、日本馬主協会連合会会長賞。 春の古馬スプリントチャンピオン決定戦であるとともに、春のGI競走シリーズの始まりを告げるレースともなっている。またスプリンターズステークス同様に「電撃の6ハロン」と呼称される。 4歳(現3歳)以上の馬による重賞として1967年(昭和42年)に創設された「中京大賞典(ちゅうきょうだいしょうてん)」が、本競走の前身。1970年に高松宮宣仁親王から優勝杯が下賜されたのを機に、1971年より「高松宮杯(たかまつのみやはい)」に改称のうえ新設。同年より中京競馬場に新設された芝コースの2000mで、夏の中京開催を飾る中距離の名物競走として施行していた。この間、1984年にグレード制が導入された際、GIIに格付けされている。 1996年に中央競馬の短距離競走体系が改善・整備され、本競走は距離を芝1200mに短縮のうえ施行時期も5月に変更し、GIに格上げ。これにより、中央競馬のいわゆる「中央場所(中山・東京・京都・阪神)」以外の競馬場で初めて行われる常設のGI競走として、春の短距離王決定戦に位置づけられた。 その後、1998年には現名称に改称され、2000年には施行時期を3月に変更。競走条件も「5歳(現4歳)以上」に改められた。 2005年に創設された国際スプリントシリーズ戦「グローバル・スプリント・チャレンジ」に2011年から構成レースのひとつとして加わり、2013年まで第2戦(2014年から2017年までは第3戦)として行われていた(2017年を最後に休止)。 外国産馬は1989年から、地方競馬所属馬は1996年から出走可能になり、2001年からは国際競走となって外国馬も出走可能になった。2007年より国際GIに格付けされている。 以下の内容は、2023年現在のもの。 出走資格:サラ系4歳以上(出走可能頭数:最大18頭) 負担重量:定量(57kg、牝馬2kg減) JRA所属馬は同年に行われる下表の競走で1着となった馬に、優先出走権が付与される。 上記のほか、レーティング順位の上位5頭にも優先出走権が付与される。 その他のJRA所属馬は、以下の条件で出走馬を決定する。 地方競馬所属馬は同年に行われる下表の競走で2着以内となった馬に、優先出走権が付与される。 上記のほか、外国で行われるグローバル・スプリント・チャレンジ対象競走のいずれかで2着以内となった地方競馬所属馬も本競走に優先出走できる(2017年まで)。 2023年の1着賞金は1億7000万円で、以下2着6800万円、3着4300万円、4着2600万円、5着1700万円。 中京競馬場の芝コース、1200mを使用。 向正面のやや第2コーナーよりの地点からスタートし、スタート直後は緩やかな上り勾配。その後第4コーナーを過ぎるまで、高低差3.5mを一気に下る。ゴールまでの直線は412mあり、残り約350m地点から高低差約2mの上り勾配が待ち構える。 距離はすべて芝コース。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 競走名は第27回まで「高松宮杯」、第28回以降は「高松宮記念」。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "高松宮記念(たかまつのみやきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が中京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "正賞は名古屋市長賞、名古屋競馬株式会社賞、日本馬主協会連合会会長賞。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "春の古馬スプリントチャンピオン決定戦であるとともに、春のGI競走シリーズの始まりを告げるレースともなっている。またスプリンターズステークス同様に「電撃の6ハロン」と呼称される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "4歳(現3歳)以上の馬による重賞として1967年(昭和42年)に創設された「中京大賞典(ちゅうきょうだいしょうてん)」が、本競走の前身。1970年に高松宮宣仁親王から優勝杯が下賜されたのを機に、1971年より「高松宮杯(たかまつのみやはい)」に改称のうえ新設。同年より中京競馬場に新設された芝コースの2000mで、夏の中京開催を飾る中距離の名物競走として施行していた。この間、1984年にグレード制が導入された際、GIIに格付けされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1996年に中央競馬の短距離競走体系が改善・整備され、本競走は距離を芝1200mに短縮のうえ施行時期も5月に変更し、GIに格上げ。これにより、中央競馬のいわゆる「中央場所(中山・東京・京都・阪神)」以外の競馬場で初めて行われる常設のGI競走として、春の短距離王決定戦に位置づけられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "その後、1998年には現名称に改称され、2000年には施行時期を3月に変更。競走条件も「5歳(現4歳)以上」に改められた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2005年に創設された国際スプリントシリーズ戦「グローバル・スプリント・チャレンジ」に2011年から構成レースのひとつとして加わり、2013年まで第2戦(2014年から2017年までは第3戦)として行われていた(2017年を最後に休止)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "外国産馬は1989年から、地方競馬所属馬は1996年から出走可能になり、2001年からは国際競走となって外国馬も出走可能になった。2007年より国際GIに格付けされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "以下の内容は、2023年現在のもの。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "出走資格:サラ系4歳以上(出走可能頭数:最大18頭)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "負担重量:定量(57kg、牝馬2kg減)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "JRA所属馬は同年に行われる下表の競走で1着となった馬に、優先出走権が付与される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "上記のほか、レーティング順位の上位5頭にも優先出走権が付与される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その他のJRA所属馬は、以下の条件で出走馬を決定する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "地方競馬所属馬は同年に行われる下表の競走で2着以内となった馬に、優先出走権が付与される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "上記のほか、外国で行われるグローバル・スプリント・チャレンジ対象競走のいずれかで2着以内となった地方競馬所属馬も本競走に優先出走できる(2017年まで)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2023年の1着賞金は1億7000万円で、以下2着6800万円、3着4300万円、4着2600万円、5着1700万円。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "中京競馬場の芝コース、1200mを使用。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "向正面のやや第2コーナーよりの地点からスタートし、スタート直後は緩やかな上り勾配。その後第4コーナーを過ぎるまで、高低差3.5mを一気に下る。ゴールまでの直線は412mあり、残り約350m地点から高低差約2mの上り勾配が待ち構える。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "距離はすべて芝コース。", "title": "歴代優勝馬" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。", "title": "歴代優勝馬" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "競走名は第27回まで「高松宮杯」、第28回以降は「高松宮記念」。", "title": "歴代優勝馬" } ]
高松宮記念(たかまつのみやきねん)は、日本中央競馬会(JRA)が中京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。 正賞は名古屋市長賞、名古屋競馬株式会社賞、日本馬主協会連合会会長賞。
{{競馬の競走 |馬場 = 芝 |競走名 = 高松宮記念<br>{{Lang|en|Takamatsunomiya Kinen}} |画像 = [[File:Naran Huleg Takamatsunomiya Kinen 2022(IMG1).jpg|280px]] |画像説明 = 第52回高松宮記念<br>優勝馬:[[ナランフレグ]]<br>(鞍上:[[丸田恭介]]) |開催国 = {{JPN}} |主催者 = [[日本中央競馬会]] |競馬場 = [[中京競馬場]] |第1回施行日 = |創設 = 1971年6月27日 |年次 = 2023 |距離 = 1200m |格付け = GI |1着賞金 = 1億7000万円 |賞金総額 = |条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド|サラ]]系4歳以上(国際)(指定)}} |負担重量 = 定量(57kg、牝馬2kg減) |出典 = <ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_chukyo" /> }} '''高松宮記念'''(たかまつのみやきねん)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が[[中京競馬場]]で施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。 正賞は[[名古屋市長]]賞、[[中京競馬場#名古屋競馬株式会社|名古屋競馬株式会社]]賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_chukyo" />。 == 概要 == 春の古馬スプリントチャンピオン決定戦であるとともに、春のGI競走シリーズの始まりを告げるレースともなっている<ref name="特別レース名解説" />。また[[スプリンターズステークス]]同様に「電撃の6ハロン」と呼称される。 4歳(現3歳)以上の馬による重賞として[[1967年]]([[昭和]]42年)に創設された「'''[[中京大賞典]]'''(ちゅうきょうだいしょうてん)」が、本競走の前身<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。1970年に[[高松宮宣仁親王]]から優勝杯が下賜された<ref name="netkeiba_raceguide" />のを機に、1971年より「'''高松宮杯'''(たかまつのみやはい)」に改称<ref name="JRA注目" />のうえ新設<ref name="netkeiba_raceguide" />。同年より中京競馬場に新設された芝コース<ref name="netkeiba_raceguide" />の2000mで、夏の中京開催を飾る中距離の名物競走として施行していた<ref name="JRA注目" />。この間、1984年に[[グレード制]]が導入された際、GII<ref group="注" name="grade">当時の格付表記は、JRAの独自グレード。</ref>に格付けされている<ref name="netkeiba_raceguide" />。 1996年に中央競馬の短距離競走体系が改善・整備され、本競走は距離を芝1200mに短縮のうえ施行時期も5月に変更し、GI<ref group="注" name="grade" />に格上げ<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。これにより、中央競馬のいわゆる「中央場所([[中山競馬場|中山]]・[[東京競馬場|東京]]・[[京都競馬場|京都]]・[[阪神競馬場|阪神]])」以外の競馬場で初めて行われる常設のGI競走<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />として、春の短距離王決定戦に位置づけられた<ref name="JRA注目" />。 その後、1998年には現名称に改称<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />され、2000年には施行時期を3月に変更<ref name="JRA注目" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。競走条件も「5歳(現4歳)以上」に改められた<ref name="JRA注目" />。 2005年に創設された国際スプリントシリーズ戦「[[グローバル・スプリント・チャレンジ]]」に2011年から構成レースのひとつとして加わり、2013年まで第2戦(2014年から2017年までは第3戦)として行われていた(2017年を最後に休止)<ref name="JRA注目" />。 [[外国産馬]]は1989年から、[[地方競馬]]所属馬は1996年から出走可能になり<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />、2001年からは[[国際競走]]となって[[外国馬]]も出走可能になった<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" /><ref name="netkeiba_raceguide" />。2007年より国際GIに格付けされている<ref name="netkeiba_raceguide" />。 === 競走条件 === 以下の内容は、2023年現在<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_chukyo" />のもの。 出走資格:[[サラブレッド|サラ系]]4歳以上(出走可能頭数:最大18頭) * JRA所属馬 * 地方競馬所属馬(出走資格のある馬のみ) * 外国調教馬(優先出走) 負担重量:定量(58kg、牝馬2kg減) === JRA所属馬の出走権 === JRA所属馬は同年に行われる下表の競走で1着となった馬に、優先出走権が付与される<ref name="一般事項" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離 |- |[[阪急杯]]||GIII||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝1400m |- |[[オーシャンステークス]]||GIII||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝1200m |} 上記のほか、[[ワールド・ベスト・レースホース・ランキング|レーティング]]順位の上位5頭にも優先出走権が付与される<ref name="JRA注目" />。 その他のJRA所属馬は、以下の条件で出走馬を決定する。 * 「通算収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順 ==== 地方競馬所属馬の出走資格 ==== 地方競馬所属馬は同年に行われる下表の競走で2着以内となった馬に、優先出走権が付与される<ref name="ステップ競走" /><ref name="一般事項" />。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !競走名!!格!!競馬場!!距離 |- |阪急杯||GIII||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝1400m |- |オーシャンステークス||GIII||{{Flagicon|JPN}}中山競馬場||芝1200m |} 上記のほか、外国で行われる[[グローバル・スプリント・チャレンジ]]対象競走のいずれかで2着以内となった地方競馬所属馬も本競走に優先出走できる(2017年まで)<ref name="JRA注目" />。 === 賞金 === 2023年の1着賞金は1億7000万円で、以下2着6800万円、3着4300万円、4着2600万円、5着1700万円<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_chukyo" />。 === コース === 中京競馬場の芝コース、1200mを使用。 向正面のやや第2コーナーよりの地点からスタート<ref name="course_chukyo" />し、スタート直後は緩やかな上り勾配。その後第4コーナーを過ぎるまで、高低差3.5mを一気に下る<ref name="course_chukyo" />。ゴールまでの直線は412m<ref name="course_chukyo" />あり、残り約350m地点から高低差約2mの上り勾配が待ち構える<ref name="course_chukyo" />。 == 歴史 == === 年表 === * 1971年 - 4歳(現3歳)以上の馬による重賞競走「'''高松宮杯'''」の名称で創設、中京競馬場の芝2000mで施行<ref name="JRA注目" />。 * 1984年 - グレード制施行によりGII<ref group="注" name="grade" />に格付け<ref name="JRA注目" />。 * 1989年 - 混合競走に指定され、外国産馬が出走可能になる<ref name="JRA注目" />。 * 1996年 ** GI<ref group="注" name="grade" />に格上げ<ref name="JRA注目" />。 ** 施行距離を芝1200mに変更<ref name="JRA注目" />。 ** 指定交流競走に指定され、地方競馬所属馬が出走可能になる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 * 1998年 - 名称を「'''高松宮記念'''」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 2000年 - 出走資格を「5歳(現4歳)以上」に変更<ref name="JRA注目" />。 * 2001年 ** [[馬齢]]表記を国際基準へ変更したのに伴い、出走資格を「4歳以上」に変更<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 ** [[国際競走]]に指定され、外国調教馬が5頭まで出走可能となる<ref name="中央競馬全重賞競走成績集" />。 * 2007年 ** 国際GIに格付け<ref name="JRA注目" />。 ** 日本のパートI国昇格に伴い、外国調教馬の出走枠が9頭に拡大<ref name="result2007" />。 * 2011年 ** [[グローバル・スプリント・チャレンジ]]に参加、第2戦に組み込まれる<ref name="JRA注目" />。 ** 「東北関東大震災被災地支援競馬」となり、この年のみ中京競馬場の改修工事のため阪神競馬場で施行。このため、フルゲートは16頭に縮小。 * 2012年 - レーティング上位の5頭に優先出走を認める。 * 2014年 - トライアル制を確立し、指定された競走の1着馬に優先出走を認める。 * 2015年 - [[エアロヴェロシティ]]が香港馬として初の優勝。 * 2018年 - グローバル・スプリント・チャレンジが休止される。 * 2020年 - [[COVID-19]]の流行により客を入れずに「[[無観客試合#競馬|無観客競馬]]」として開催。 == 歴代優勝馬 == 距離はすべて芝コース。 優勝馬の馬齢は、2000年以前も現行表記に揃えている。 競走名は第27回まで「高松宮杯」、第28回以降は「高松宮記念」<ref name="JRA注目" />。 {| class="wikitable" !回数!!施行日!!競馬場!!距離!!優勝馬!!性齢!!所属!!タイム!!優勝騎手!!管理調教師!!馬主 |- |style="text-align:center"|第1回||1971年6月27日||中京||2000m||シュンサクオー||牡5||JRA||2:00.1||[[飯田明弘]]||[[小林稔 (競馬)|小林稔]]||岩佐俊策 |- |style="text-align:center"|第2回||1972年6月25日||中京||2000m||ジョセツ||牝5||JRA||2:01.8||[[岡部幸雄]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]||中村勝五郎 |- |style="text-align:center"|[[第3回高松宮杯|第3回]]||1973年6月24日||中京||2000m||[[タケデンバード]]||牡4||JRA||2:01.0||[[蓑田早人]]||稲葉秀男||武市伝一 |- |style="text-align:center"|第4回||1974年6月23日||中京||2000m||[[ハイセイコー]]||牡4||JRA||2:00.4||[[増沢末夫]]||[[鈴木勝太郎]]||(株)ホースマンクラブ |- |style="text-align:center"|第5回||1975年6月22日||中京||2000m||[[イットー]]||牝4||JRA||2:00.2||[[簗田善則]]||田中好雄||(有)荻伏牧場 |- |style="text-align:center"|第6回||1976年6月27日||中京||2000m||[[フジノパーシア]]||牡5||JRA||2:01.3||[[大崎昭一]]||[[柴田寛]]||真田繁次 |- |style="text-align:center"|第7回||1977年6月26日||中京||2000m||[[トウショウボーイ]]||牡4||JRA||2:03.8||[[武邦彦]]||[[保田隆芳]]||[[トウショウ産業]](株) |- |style="text-align:center"|第8回||1978年6月25日||中京||2000m||ヤマニンゴロー||牡4||JRA||2:03.2||古川隆文||[[諏訪佐市]]||[[土井宏二]] |- |style="text-align:center"|第9回||1979年6月24日||阪神||2000m||ネーハイジェット||牡3||JRA||1:59.8||[[松本善登]]||[[布施正]]||内海都一 |- |style="text-align:center"|第10回||1980年6月22日||中京||2000m||[[リンドプルバン]]||牡4||JRA||2:01.1||[[田原成貴]]||見上恒芳||(株)デルマークラブ |- |style="text-align:center"|第11回||1981年6月28日||中京||2000m||[[ハギノトップレディ]]||牝4||JRA||2:01.8||[[上野清章|伊藤清章]]||[[伊藤修司]]||[[日隈広吉]] |- |style="text-align:center"|第12回||1982年6月27日||中京||2000m||カズシゲ||牡5||JRA||2:00.5||田原成貴||[[須貝彦三]]||萩英男 |- |style="text-align:center"|第13回||1983年6月26日||中京||2000m||[[ハギノカムイオー]]||牡4||JRA||2:01.1||伊藤清章||伊藤修司||日隈広吉<br />[[中村和夫 (実業家)|中村和夫]] |- |style="text-align:center"|第14回||1984年6月24日||中京||2000m||[[キョウエイレア]]||牡5||JRA||2:03.9||[[田島信行]]||[[久保田金造]]||[[松岡正雄]] |- |style="text-align:center"|第15回||1985年6月23日||中京||2000m||[[メジロモンスニー]]||牡5||JRA||2:03.5||[[清水英次]]||[[大久保正陽]]||[[メジロ商事]](株) |- |style="text-align:center"|第16回||1986年6月22日||中京||2000m||[[ラグビーボール (競走馬)|ラグビーボール]]||牡3||JRA||2:01.3||[[河内洋]]||[[田中良平 (競馬)|田中良平]]||[[小田切有一]] |- |style="text-align:center"|第17回||1987年7月12日||中京||2000m||[[ランドヒリュウ]]||牡5||JRA||1:59.8||[[村本善之]]||小林稔||木村善一 |- |style="text-align:center"|第18回||1988年7月10日||中京||2000m||[[オグリキャップ]]||牡3||JRA||1:59.0||河内洋||[[瀬戸口勉]]||佐橋五十雄 |- |style="text-align:center"|第19回||1989年7月9日||中京||2000m||[[メジロアルダン]]||牡4||JRA||1:58.9||河内洋||[[奥平真治]]||(有)[[メジロ牧場]] |- |style="text-align:center"|第20回||1990年7月8日||中京||2000m||[[バンブーメモリー]]||牡5||JRA||1:59.4||[[武豊]]||武邦彦||[[バンブー牧場|竹田辰一]] |- |style="text-align:center"|第21回||1991年7月7日||中京||2000m||[[ダイタクヘリオス]]||牡4||JRA||1:59.4||[[加用正]]||梅田康雄||[[中村雅一]] |- |style="text-align:center"|第22回||1992年7月12日||中京||2000m||ミスタースペイン||牡4||JRA||2:00.6||[[石橋守]]||[[橋口弘次郎]]||架谷外茂次 |- |style="text-align:center"|第23回||1993年7月11日||京都||2000m||ロンシャンボーイ||牡4||JRA||1:59.0||[[清山宏明]]||[[小原伊佐美]]||清岡政徳 |- |style="text-align:center"|第24回||1994年7月10日||中京||2000m||[[ナイスネイチャ]]||牡6||JRA||2:00.7||[[松永昌博]]||松永善晴||豊嶌泰三 |- |style="text-align:center"|第25回||1995年7月9日||中京||2000m||[[マチカネタンホイザ]]||牡6||JRA||2:02.6||[[柴田善臣]]||[[伊藤雄二]]||[[細川益男]] |- |style="text-align:center"|[[第26回高松宮杯|'''第26回''']]||1996年5月19日||中京||1200m||[[フラワーパーク]]||牝4||JRA||1:07.4||田原成貴||[[松元省一]]||[[吉田勝己]] |- |style="text-align:center"|第27回||1997年5月18日||中京||1200m||[[シンコウキング]]||牡6||JRA||1:08.0||岡部幸雄||[[藤沢和雄]]||[[安田修 (実業家)|安田修]] |- |style="text-align:center"|第28回||1998年5月24日||中京||1200m||[[シンコウフォレスト]]||牡5||JRA||1:09.1||[[四位洋文]]||[[栗田博憲]]||安田修 |- |style="text-align:center"|第29回||1999年5月23日||中京||1200m||[[マサラッキ]]||牡6||JRA||1:08.0||[[藤田伸二]]||[[増本豊]]||丸井正貴 |- |style="text-align:center"|第30回||2000年3月26日||中京||1200m||[[キングヘイロー]]||牡5||JRA||1:08.6||柴田善臣||[[坂口正大]]||浅川吉男 |- |style="text-align:center"|第31回||2001年3月25日||中京||1200m||[[トロットスター]]||牡5||JRA||1:08.4||[[蛯名正義]]||[[中野栄治]]||高野稔 |- |style="text-align:center"|第32回||2002年3月24日||中京||1200m||[[ショウナンカンプ]]||牡4||JRA||1:08.4||藤田伸二||[[大久保洋吉]]||[[国本哲秀]] |- |style="text-align:center"|第33回||2003年3月30日||中京||1200m||[[ビリーヴ (競走馬)|ビリーヴ]]||牝5||JRA||1:08.1||[[安藤勝己]]||[[松元茂樹]]||[[前田幸治]] |- |style="text-align:center"|第34回||2004年3月28日||中京||1200m||[[サニングデール]]||牡5||JRA||1:07.9||[[福永祐一]]||瀬戸口勉||[[後藤繁樹]] |- |style="text-align:center"|第35回||2005年3月27日||中京||1200m||[[アドマイヤマックス]]||牡6||JRA||1:08.4||武豊||[[橋田満]]||[[近藤利一]] |- |style="text-align:center"|[[第36回高松宮記念|'''第36回''']]||2006年3月26日||中京||1200m||[[オレハマッテルゼ]]||牡6||JRA||1:08.0||柴田善臣||[[音無秀孝]]||小田切有一 |- |style="text-align:center"|第37回||2007年3月25日||中京||1200m||[[スズカフェニックス]]||牡5||JRA||1:08.9||武豊||橋田満||[[永井啓弍]] |- |style="text-align:center"|第38回||2008年3月30日||中京||1200m||[[ファイングレイン]]||牡5||JRA||1:07.1||[[幸英明]]||[[長浜博之]]||(有)[[社台レースホース]] |- |style="text-align:center"|第39回||2009年3月29日||中京||1200m||[[ローレルゲレイロ]]||牡5||JRA||1:08.0||藤田伸二||[[昆貢]]||(株)[[ローレルレーシング]] |- |style="text-align:center"|第40回||2010年3月28日||中京||1200m||[[キンシャサノキセキ]]||牡7||JRA||1:08.6||四位洋文||[[堀宣行]]||[[吉田和美]] |- |style="text-align:center"|第41回||2011年3月27日||阪神||1200m||キンシャサノキセキ||牡8||JRA||1:07.9||[[ウンベルト・リスポリ|U.リスポリ]]||堀宣行||吉田和美 |- |style="text-align:center"|第42回||2012年3月25日||中京||1200m||[[カレンチャン]]||牝5||JRA||1:10.3||[[池添謙一]]||[[安田隆行]]||[[鈴木隆司]] |- |style="text-align:center"|第43回||2013年3月24日||中京||1200m||[[ロードカナロア]]||牡5||JRA||1:08.1||[[岩田康誠]]||安田隆行||(株)[[ロードホースクラブ]] |- |style="text-align:center"|第44回||2014年3月30日||中京||1200m||[[コパノリチャード]]||牡4||JRA||1:12.2||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[宮徹]]||[[小林祥晃]] |- |style="text-align:center"|第45回||2015年3月29日||中京||1200m||[[エアロヴェロシティ]]||騸7||香港||1:08.5||[[ザカリー・パートン|Z.パートン]]||P.オサリバン||N.D.ヨン<ref>[http://race.sanspo.com/keiba/news/20150330/ope15033005080009-n1.html 【高松宮記念】オーナー感無量「言葉にできない」] - サンスポ予想王TV、2015年3月30日掲載、2016年3月28日閲覧</ref> |- |style="text-align:center"|第46回||2016年3月27日||中京||1200m||[[ビッグアーサー]]||牡5||JRA||1:06.7||福永祐一||[[藤岡健一]]||中辻明 |- |style="text-align:center"|第47回||2017年3月26日||中京||1200m||[[セイウンコウセイ]]||牡4||JRA||1:08.7||[[幸英明]]||[[上原博之]]||[[西山茂行]] |- |style="text-align:center"|第48回||2018年3月25日||中京||1200m||[[ファインニードル]]||牡5||JRA||1:08.5||[[川田将雅]]||[[高橋義忠]]||[[ゴドルフィン]] |- |style="text-align:center"|第49回||2019年3月24日||中京||1200m||[[ミスターメロディ]]||牡4||JRA||1:07.3||福永祐一||[[藤原英昭]]||グリーンフィールズ(株) |- |style="text-align:center"|[[第50回高松宮記念|'''第50回''']]||2020年3月29日||中京||1200m||[[モズスーパーフレア]]<ref group="注">第50回は[[クリノガウディー]]が1位で入線したが最後の直線で4位入線の[[ダイアトニック (競走馬)|ダイアトニック]]の進路を妨害したとして、審議の結果4着に降着処分を受け、モズスーパーフレアが繰り上がりで優勝となった。</ref>||牝5||JRA||1:08.7||[[松若風馬]]||音無秀孝||(株)[[キャピタル・システム]] |- |style="text-align:center"|第51回||2021年3月28日||中京||1200m||[[ダノンスマッシュ]]||牡6||JRA||1:09.2||[[川田将雅]]||安田隆行||(株)[[ダノックス]] |- |style="text-align:center"|第52回||2022年3月27日||中京||1200m||[[ナランフレグ]]||牡6||JRA||1:08.3||[[丸田恭介]]||[[宗像義忠]]||村木克成 |- |style="text-align:center"|第53回||2023年3月26日||中京||1200m||[[ファストフォース]]||牡7||JRA||1:11.5||[[団野大成]]||[[西村真幸]]||[[安原浩司]] |} == 高松宮記念の記録 == * レースレコード - 1:06.7(第46回優勝馬ビッグアーサー<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2016/03/28/kiji/K20160328012296310.html 中京芝1200メートル戦でレコード続出!名古屋城Sでも更新] - スポニチアネックス、2016年3月28日閲覧</ref>) ** 優勝タイム最遅記録 - 1:12.2(第44回優勝馬コパノリチャード) * 最年長優勝馬 - 8歳(第41回優勝馬キンシャサノキセキ) * 最多優勝馬 - 2勝(第40回・第41回優勝馬キンシャサノキセキ) * 最多優勝騎手 - 3勝 ** 河内洋(第16回・第18回・第19回)、田原成貴(第10回・第12回・[[第26回高松宮杯|第26回]])、柴田善臣(第25回・第30回・[[第36回高松宮記念|第36回]])、武豊(第20回・第35回・第37回)、藤田伸二(第29回・第32回・第39回)、福永祐一(第34回・第46回・第49回) * 最多優勝調教師 - 3勝 ** 安田隆行(第42回・第43回・第51回)<ref>連覇は他に堀宣行(第40回・第41回)が記録</ref> * 最多優勝種牡馬 - 4勝 ** サンデーサイレンス(第33回・第35回・第36回・第37回) == 外国調教馬の成績 == {{Main|海外調教馬による日本への遠征#高松宮記念}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=中央競馬全重賞競走成績集 【GI編】|chapter=高松宮記念|publisher=日本中央競馬会|year=2006|pages=1271-1331|ref=中央競馬全重賞競走成績集}} == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_kansai.pdf |title=重賞競走詳細(関西)|page=10|year=2018|publisher=[[日本中央競馬会]]|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="bangumi_chukyo">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi/chukyo2.pdf |title=令和5年第2回中京競馬番組|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2023/0326_2/race.html |title=歴史・コース:高松宮記念 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="特別レース名解説">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/datafile/tokubetsu/2023/0207.pdf#page=5 |title=2023年度第2回中京競馬特別レース名解説|page=5|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="ステップ競走">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.jra.go.jp/keiba/program/2023/pdf/kakuchi.pdf |title=「地」が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和5年度】|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="一般事項">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/bangumi_ippan.pdf |title=競馬番組一般事項|publisher=日本中央競馬会|year=2023|accessdate=2023年9月11日}}</ref> <ref name="netkeiba_raceguide">{{Cite web|和書|url=http://race.netkeiba.com/?pid=special&id=0037 |title=高松宮記念特集(レースガイド)|work=netkeiba.com|accessdate=2014年12月9日}}</ref> <ref name="中央競馬全重賞競走成績集">『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』</ref> <ref name="result2007">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/1chu.pdf#page=107 |title=第1回 中京競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|year=2007|pages=855-856|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:07095)</ref> <ref name="course_chukyo">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/facilities/race/chukyo/course.html |title=中京競馬場(コース紹介)|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021年3月22日}}</ref> }} ==== 各回競走結果の出典 ==== * 『[[#中央競馬全重賞競走成績集|中央競馬全重賞競走成績集【GI編】]]』 第1回 - 第35回 * JRA年度別全成績 ** (2023年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2023/2023-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2023年9月11日}}(索引番号:07071) ** (2022年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2022/2022-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2022年3月28日}}(索引番号:07071) ** (2021年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2021/2021-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2021年3月29日}}(索引番号:07071) ** (2020年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2020/2020-1chukyo8.pdf#page=6 |title=第1回 中京競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2021年3月29日}}(索引番号:07095) ** (2019年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2019/2019-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2021年3月29日}}(索引番号:08071) ** (2018年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2018/2018-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2021年3月29日}}(索引番号:08071) ** (2017年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2017/2017-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2017年3月27日}}(索引番号:08071) ** (2016年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2016/2016-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:08071) ** (2015年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2015/2015-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:08071) ** (2014年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2014/2014-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:08071) ** (2013年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2013/2013-2chukyo6.pdf#page=6 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:08071) ** (2012年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2012/2012-1chukyo8.pdf#page=6 |title=第1回 中京競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2016年3月22日|ref=JRA年度別全成績2012}}(索引番号:07095) ** (2011年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2011/2011-2hanshin2.pdf#page=6 |title=第2回 阪神競馬 第2日 |publisher=日本中央競馬会 |page=6|accessdate=2016年3月22日|ref=JRA年度別全成績2011}}(索引番号:09023) ** (2010年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2010/2010-2chukyo8.pdf#page=11 |title=第2回 中京競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:07095) ** (2009年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2009/2009-2chukyo6.pdf#page=11 |title=第2回 中京競馬 第6日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:08071) ** (2008年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2008/2008-1chukyo10.pdf#page=11 |title=第1回 中京競馬 第10日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:07119) ** (2007年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2007/2007-1chukyo8.pdf#page=11 |title=第1回 中京競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:07095) ** (2006年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2006/2006-1chukyo8.pdf#page=11 |title=第1回 中京競馬 第8日 |publisher=日本中央競馬会 |page=11|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:07095) ** (2005年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2005/1chu.pdf#page=109 |title=第1回 中京競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|pages=881-882|accessdate=2016年3月22日|ref=JRA年度別全成績2005}}(索引番号:07095) ** (2004年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2004/1-chu.pdf#page=110 |title=第1回 中京競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|pages=884-885|accessdate=2016年3月22日}}(索引番号:07095) ** (2003年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2003/1-chu.pdf#page=109 |title=第1回 中京競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|pages=877-879|accessdate=2016年3月22日|ref=JRA年度別全成績2003}}(索引番号:07095) ** (2002年){{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/datafile/seiseki/report/2002/1-chu.pdf#page=104 |title=第1回 中京競馬成績集計表 |publisher=日本中央競馬会|pages=844-845|accessdate=2016年3月22日|ref=JRA年度別全成績2002}}(索引番号:07095) ** 1971年-1995年 ** 1996年-2005年 * netkeiba.comより(最終閲覧日:2023年10月11日) ** 高松宮杯 *** {{Netkeiba-raceresult|1990|07020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1991|07020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1992|07020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1993|08040811}}、{{Netkeiba-raceresult|1994|07020811}}、{{Netkeiba-raceresult|1995|07030811}}、{{Netkeiba-raceresult|1996|07020211}}、{{Netkeiba-raceresult|1997|07020211}} ** 高松宮記念 *** {{Netkeiba-raceresult|1998|07030211}}、{{Netkeiba-raceresult|1999|07030211}}、{{Netkeiba-raceresult|2000|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2001|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2002|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2003|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2004|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2005|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2006|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2007|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2008|07011011}}、{{Netkeiba-raceresult|2009|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2010|07020811}}、{{Netkeiba-raceresult|2011|09020211}}、{{Netkeiba-raceresult|2012|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2013|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2014|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2015|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2016|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2017|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2018|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2019|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2020|07010811}}、{{Netkeiba-raceresult|2021|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2022|07020611}}、{{Netkeiba-raceresult|2023|07020611}} * JBISサーチより(最終閲覧日:2018年3月26日) ** {{JBIS-raceresult|2015|0329|107|11}}、{{JBIS-raceresult|2016|0327|107|11}}、{{JBIS-raceresult|2017|0326|107|11}}、{{JBIS-raceresult|2018|0325|107|11}} == 外部リンク == {{Commonscat|Takamatsunomiya Kinen|高松宮記念}} * [https://jra.jp/keiba/thisweek/2023/0326_2/ データ分析:高松宮記念 今週の注目レース] - 日本中央競馬会 {{中央競馬の重賞競走}} {{高松宮}} {{グローバル・スプリント・チャレンジ}} {{Keiba-stub}} {{デフォルトソート:たかまつのみやきねん}} [[Category:中央競馬の競走]] [[Category:中京競馬場の競走]] [[Category:高松宮]] [[Category:高松宮宣仁親王]] [[Category:1971年開始のスポーツイベント]]
2003-03-18T14:17:26Z
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[ "Template:脚注ヘルプ", "Template:Flagicon", "Template:Cite book", "Template:Netkeiba-raceresult", "Template:高松宮", "Template:Main", "Template:Cite web", "Template:Commonscat", "Template:中央競馬の重賞競走", "Template:グローバル・スプリント・チャレンジ", "Template:競馬の競走", "Template:Reflist", "Template:JBIS-raceresult", "Template:Keiba-stub" ]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E8%A8%98%E5%BF%B5_(%E7%AB%B6%E9%A6%AC)
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両生類
両生類(りょうせいるい)とは、脊椎動物亜門両生綱 (Amphibia) に属する動物の総称である。 両生類は、古生代の石炭紀頃以降、多くの化石種が知られている。しかしながら、現生の(現在でも生息している)ものは、長い尾を持ち、短い四肢のある有尾目(サンショウウオなど)、尾がなく体幹が短くまとまって四肢の発達した無尾目(カエル類)、それに四肢を失い、細長い体の無足目(アシナシイモリ類)の3群のみである。両生類は、約3億6000万年前に陸上においての生活も始めたと考えられており、これが脊椎動物の中では初めて陸上生活が可能となった事例だと考えられている。ただ陸上生活が可能とは言っても、その身体の構造、生活史、生理、生殖などにおいて、陸上生活への適応を示しながらも不十分であり、水辺への依存度が強いという特徴を持っている。特に幼生は、一般に水中生活をしているなど、基本的に水中環境が欠かせない。 現生の種は、ほぼ全てが淡水域を生活の場としている。原始的な形では卵を水中で産卵し、幼生は四肢を持たない形で生まれ、鰓呼吸で水中生活を行う。その後変態を経て肺呼吸で出来る成体になる。ただし、多くの例外があり、その生活は多様である。基本的に皮膚呼吸に頼る面が多いことから乾燥に弱いため、水辺などの湿った環境が生息域の中心であり、陸上で活動可能な体を持ちながら、生活や繁殖を水に依存した生涯を送ることからこの名がある。「両生」類の名は、水中生活と陸上生活の両方が可能という意味ではなく、両方の環境が必要な動物であるという意味である(これが近年の両生類の減少に繋がっているとの指摘もある)。 本来、欧名を漢訳した両棲類、両棲綱であったが、「棲」の字が常用漢字に含まれないため、現在は多くの場合「両生類」「両生綱」と書かれる。ただし、明治の書物でも、教科書として扱われた「新撰理科書」や「新撰普通動物学」などで「両生類」の表記が見られる。 20世紀後半から、世界的に両生類の減少が著しく、多くの両生類が絶滅しつつある。カエルツボカビ症をはじめとする感染症や吸虫の被害のほか、粘膜に覆われた脆弱な皮膚が、環境変化への対応を困難にし、個体数の減少をもたらす原因になっていると考えられている。一説に因ればこのままのペースで減少が続くと、50年以内に全ての両生類が絶滅するとも言われている。 成体は原則的には指のある四肢を持つ。ただし様々な程度にそれを退化させたものもある。無足目は完全に四肢を失っているが、化石種では四肢を持つものが知られている。有尾目のサイレン科は前肢しか持たない。 現存種は前脚には親指がないため前肢の指は基本的に4本で、後肢の趾は5本である。有尾目では後肢の指が4本であったり、前後肢とも3本以下であったり、アンフューマ科のように指趾が1本から3本という種類もある。 両生類の皮膚は分泌腺や毒腺が多くなめらかである。爬虫類のように、体表の多くの場所を覆うような鱗は持っておらず、また、体表のほとんど(場合によっては体表の全て)は角質化していない。これは皮膚が呼吸器としての役割(皮膚呼吸)が多くの割合を占めているからであるが、それゆえ乾燥に弱いという弱点にもなっている。なお、アシナシイモリの体のしわの間に小さな鱗がある。また、化石種には鱗をもったものもある。 現存する無尾目、有尾目、無足目の3目はいずれもかなり生態に差異があり、同じ目内でも例外が多い。 カエルツボカビ症による両生類の絶滅が危惧されている。致死率は90%にも上る。 飼育上の注意点として、麻布大学の宇根有美准教授(獣医病理学)は、「飼っている両生類に異変があれば、すぐに獣医師などに相談してほしい。水の管理が最も重要で、水槽の水を排水溝や野外に流さないでほしい」としている。 下位分類体系の一例を以下に示す。 四肢動物はデボン紀後期の約3億6000万年前に肉鰭綱から進化した。ハイギョ類とシーラカンス類のどちらに近いかは未だ決着がついていない。デボン紀後期になり、両生類が初めて陸上に適応した脊椎動物として現れた。 肺呼吸獲得については「板皮類の肺が食道の変化で先に完成し、それが現生魚類の浮袋に変化した。」という肺先行説と、「硬骨魚類の浮袋が先に完成し、それが肺に変化した。」という浮袋先行説があり、無尾目の胚の発生で最初から肺への動脈に鰓弓動脈の一部が伸びて呼吸器として使う前提の形になっている事は肺先行説に有利な証拠とされている。 最初期の四肢動物であるアカントステガやイクチオステガは曲がりくねった大河川に住んでいたと思われるが、やや時代が下ったチュレルペトンのように海生と思われる種もいた。この時期の四肢動物は、まだ少なくとも一部は鱗に覆われた魚類のような皮膚と、6本以上の指を持つ水を掻くのに適した四肢を持つ、ほとんどを水中ですごす動物であったらしい。 石炭紀になるとペデルペスのように陸上生活に適応した四肢を獲得し、二次的に水中に戻った種も含め多様な種が生まれた。石炭紀後期にはすでに有羊膜類が枝分かれして行き、これら迷歯亜綱に分類される動物たちは徐々に水中生活にウエイトを戻していく。これら古いタイプの両生類は、中生代になっても三畳紀には世界中の淡水系に数mにも及ぶ巨大な種が繁栄していたが、三畳紀末の大絶滅以降急激に衰えて、一部地域に遺存種を残すのみとなり、白亜紀前期に絶滅した。 現生両生類である平滑両生亜綱に属する無尾目・有尾目・無足目の起源と関係は未だはっきりとわからないが、すでに約2億9000万年前のペルム紀前期に無尾目・有尾目・迷歯亜綱分椎目の特徴をモザイク状に有するゲロバトラクスが存在した。 三畳紀のマダガスカルには現生のカエルにある程度近い姿のトリアドバトラクスが生息し、ジュラ紀になると今と外見上は変わらないカエルが世界中に分布を広げていた。 現在発見されている有尾目とされる最古の種は三畳紀後期のキルギスタンに生息していたトリアスルスTriassurus sixtelaeである。ジュラ紀中期にはキルギスタンから Kokartus、イギリスからネオテニー的な水生種 Marmorerpeton の化石が発見されている。これらはもっと後の種の解剖学的特徴のいくつかを持たなかったが、ジュラ紀後期には現在のトラフサンショウウオに似たカラウルスやオオサンショウウオ科のチュネルペトンが生息していた。 無足目はジュラ紀初期のまだ四肢が残っているエオカエキリアの化石が見つかっている。また三畳紀の分椎目キンレステゴピスはエオカエキリアといくつかの特徴を共有しており、類縁関係があるのではないかという説がある。現在の両生類は基本的に淡水域を生活の場としているのにもかかわらず地球上の陸地に広く分布していることなどから、遅くともパンゲア大陸が完全に分裂したとされている白亜紀までに、現生の目は全て誕生していたはずだが、詳しいことはわかっていない。
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両生類(りょうせいるい)とは、脊椎動物亜門両生綱 (Amphibia) に属する動物の総称である。
{{生物分類表 |名称 = 両生綱 Amphibia |fossil_range= {{fossil range|Late Devonian|present}} |色 = 動物界 |画像 = [[ファイル:Amphibians.png|300px]] |画像キャプション = |界 = [[動物界]] [[w:Animal|Animalia]] |門 = [[脊索動物|脊索動物門]] [[w:Chordate|Chordata]] |亜門 = [[脊椎動物|脊椎動物亜門]] [[w:Vertebrate|Vertebrata]] |上綱 = [[四肢動物|四肢動物上綱]] [[w:Tetrapod|Tetrapoda]] |綱 = '''両生綱''' Amphibia <br />[[ジョン・エドワード・グレイ|Gray]], [[1825年|1825]] |下位分類名 |下位分類 = 本文参照 }} '''両生類'''(りょうせいるい)とは、[[脊椎動物]]亜門'''両生綱''' ({{lang|la|Amphibia}}) に属する[[動物]]の総称である。 == 概論 == 両生類は、[[古生代]]の[[石炭紀]]頃以降、多くの[[化石]]種が知られている。しかしながら、現生のものは、長い尾を持ち、短い四肢のある[[有尾目]](サンショウウオなど)、尾がなく体幹が短くまとまって四肢の発達した[[カエル|無尾目]](カエル類)、それに四肢を失い、細長い体の[[アシナシイモリ|無足目]](アシナシイモリ類)の3群のみである。両生類は、約3億6000万年前<ref name="ha">長谷川政美、『系統樹をさかのぼって見えてくる進化の歴史』p126、2014年10月25日、ベレ出版、ISBN 978-4-86064-410-9</ref>に[[陸|陸上]]においての生活も始めたと考えられており、これが[[脊椎動物]]の中では初めて陸上生活が可能となった事例だと考えられている。ただ陸上生活が可能とは言っても、その身体の構造、生活史、生理、生殖などにおいて、陸上生活への適応を示しながらも不十分であり、[[水辺]]への依存度が強いという特徴を持っている。特に幼生は、一般に水中生活をしているなど、基本的に水中環境が欠かせない。 現生の[[種 (分類学)|種]]は、ほぼ全てが淡水域を生活の場としている。原始的な形では卵を水中で産卵し、幼生は四肢を持たない形で生まれ、鰓呼吸で水中生活を行う。その後変態を経て肺呼吸で出来る成体になる。ただし、多くの例外があり、その生活は多様である。基本的に[[皮膚呼吸]]に頼る面が多いことから乾燥に弱いため、水辺などの湿った環境が生息域の中心であり、陸上で活動可能な体を持ちながら、生活や繁殖を水に依存した生涯を送ることからこの名がある<ref group="注釈">[[メキシコジムグリガエル]]など乾燥地帯に生息する種類もいるが、これも湿った地中に住むもので繁殖も雨季の水たまりを利用するなど、結局は水に依存している。</ref>。「両生」類の名は、水中生活と陸上生活の両方が可能という意味ではなく、両方の環境が必要な動物であるという意味である(これが近年の両生類の減少に繋がっているとの指摘もある)。 本来、欧名を漢訳した'''両棲類'''、'''両棲綱'''であったが、「[[wikt:棲|棲]]」の字が[[常用漢字]]に含まれないため、現在は多くの場合「両生類」「両生綱」と書かれる。ただし、[[明治]]の書物でも、教科書として扱われた「新撰理科書」や「新撰普通動物学」などで「両'''生'''類」の表記が見られる<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|825936/3|新撰理科書 2上 訂2版|format=EXTERNAL}}</ref><ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|1086702/13|新撰普通動物学 訂正増補3版|format=EXTERNAL}}</ref>。 20世紀後半から、世界的に[[両生類の減少]]が著しく、多くの両生類が絶滅しつつある。[[カエルツボカビ症]]をはじめとする感染症や吸虫の被害のほか、[[粘膜]]に覆われた脆弱な皮膚が、環境変化への対応を困難にし、個体数の減少をもたらす原因になっていると考えられている。一説に因ればこのままのペースで減少が続くと、50年以内に全ての両生類が絶滅するとも言われている。 == 外部形態 == 成体は原則的には指のある[[四肢]]を持つ。ただし様々な程度にそれを退化させたものもある。無足目は完全に四肢を失っているが、化石種では四肢を持つものが知られている。有尾目の[[サイレン科]]は前肢しか持たない。 現存種は前脚には親指がないため前肢の指は基本的に4本で、後肢の趾は5本である。有尾目では後肢の指が4本であったり、前後肢とも3本以下であったり、[[アンフューマ科]]のように指趾が1本から3本という種類もある。 両生類の[[皮膚]]は分泌腺や毒腺が多くなめらかである。爬虫類のように、体表の多くの場所を覆うような[[鱗]]は持っておらず、また、体表のほとんど(場合によっては体表の全て)は[[角質|角質化]]していない。これは皮膚が呼吸器としての役割([[皮膚呼吸]])が多くの割合を占めているからであるが、それゆえ乾燥に弱いという弱点にもなっている。なお、アシナシイモリの体のしわの間に小さな鱗がある。また、[[化石]]種には鱗をもったものもある。 == 生理 == * [[変温動物]]であり、体温は周囲の気温とともに変化する。温帯から寒冷地に住む種は[[冬眠]]を行う。 * [[心臓]]は、2[[心房]]1[[心室]]より構成されるが無尾類と有尾類では若干構造が違い、心房中隔が無尾類では完全だが有尾類では隙間があるという違いがある<ref group="注釈">なお鰓呼吸をする幼体でも心臓の構造はそのままであり、1心房1心室の普通の魚類(魚類でも肺魚類は2心房1心室で心房中隔の構造は有尾類に近い構造をしている)とは異なる。</ref><ref>代表・内田亨「脊椎動物とはどんなものか」、『原色現代科学大事典 5-動物II』、株式会社学習研究社、昭和43年、P7図4。</ref>。<br>[[肺循環]]と[[体循環]]の区別があるが、心室中隔がないので[[動脈血]]と[[静脈血]]が心室で混じり合って体全体および呼吸器の双方に送られる。ただし大動脈と肺皮動脈(哺乳類で言う肺動脈)の付け根に「らせん弁」というものがあり、心室の収縮時に入ったときの位置関係から動脈血はらせん弁で隠された肺皮動脈にはほぼ入らず、逆に静脈血は大半が肺皮動脈に流れる(一部は左大動脈にも流れる)<ref>荒木忠雄「4-生命の保持」『原色現代科学大事典 7-生命』吉川秀男・西沢一俊代表、株式会社学習研究社、昭和44年、P385図3「両生類のらせん弁」</ref>。また、皮膚呼吸への依存が大きいため体循環側でもガス交換が行われているほか、無尾類では肺循環側(肺皮動脈)からも体表側に通じる血管が存在しており、成体になると鰓に行く血管(腹大動脈から分岐)が退化する代わりに肺皮動脈から皮下動脈が分岐し、心臓から直接こちらに血液が送られるように成って皮膚呼吸の効率を高めている<ref >[http://www.zoology.or.jp/news/index.asp?patten_cd=12&page_no=721 【質問】両生類の幼生の血液循環のしくみについて]日本動物学会一般向けページ、「動物学会 Q&A ~高等学校の先生方へ~」2014.2.23掲載。</ref>。 * 生息域は一般に、川、沼、湖などの淡水およびその周辺であることから、[[海水魚]]からではなく、[[淡水魚]]から派生して誕生した動物群であると考えられている。実際に、両生類の体は塩分に対する耐性が低く、海産の種も確認されていない。([[汽水域]]に生息する種はいる:カニクイガエル)ただし化石種には海に住むものも存在した。<!--また、[[ナマカフクラガエル]]のように乾燥地域に住む例外的な種も存在する。←ナマカフクラガエルは地中に住んでいるので、結局湿った所に住んでいることには変わりありません。--> * 現生種・化石種を含め、完全な植物食の種は知られていない<ref name=ma>松井正文、『両生類の進化』p3、東京大学出版会、1996年</ref>。 * アミノ酸の代謝などによって生ずる[[アンモニア]]は、両生類にとっても有害な物質である。このアンモニアの排泄を行う方法も生育環境で大きく異なり、無尾目同士でも普通のカエルの場合は幼生(オタマジャクシ)の時は鰓からアンモニアのまま大半を排出する<ref name=nl2008jsce.35.175>内山実, 今野紀文, 兵藤晋、「[https://doi.org/10.5983/nl2008jsce.35.175 尿素を利用する体液調節:その比較生物学, 比較内分泌学]」 2009年 35巻 134号 p.175-189, {{doi|10.5983/nl2008jsce.35.175}}, 日本比較内分泌学会</ref>が、[[変態]]後はアンモニアを[[尿素]]に変えて腎臓から排出する<ref name=nl2008jsce.35.175 />方が主流となるのだが、生涯を水中ですごす種類の場合は幼生・成体共にアンモニア排出のままになる。これも、水を潤沢に利用できる<ref group="注釈">アンモニアは尿素より有毒なので溜めておけず、薄い状態で排出する必要がある(=同じ量の窒素分を捨てるのに大量の水がいる)。</ref>のか、そうではないのかが関係しているものと見られている。 {| class="wikitable" |+ style="white-space:nowrap" | 普通のカエルと生涯水棲のゼノパス(ツメガエル)の窒素排出物の構成比の違い<ref group="注釈">単位及び普通のカエルの属名が不詳なのは原文ママ。</ref><ref>荒木忠雄「4-生命の保持」『原色現代科学大事典 7-生命』吉川秀男・西沢一俊代表、株式会社学習研究社、昭和44年、P397表1「後生動物の窒素排出物の組成」</ref> |- ! 種類 !! アンモニア !! 尿素 |- | カエル(幼生) || 75 || 10 |- | カエル(成体) || 3.2 || 91.4 |- | ゼノパス(幼生) || 78 || 22 |- | ゼノパス(成体) || 75 || 25 |} == 生活史 == 現存する無尾目、有尾目、無足目の3目はいずれもかなり生態に差異があり、同じ目内でも例外が多い。 * 卵生のものが多く、基本的には水中に産卵する。有尾目と無足目では[[卵胎生]]の種も多い。受精方法も[[体外受精 (生物)|体外受精]]と[[体内受精]]の双方があり、体外受精は無尾目の大半や[[サンショウウオ上科]]など一部の有尾目に見られる。一方、[[体内受精]]は精包を受け渡す形(有尾目の多く)で行うものから、外部生殖器を持ち[[交尾]]するもの(無足目の大半と、無尾目の例外的な[[オガエル]] <ref>『原色現代科学大事典 5動物II』、宮地伝三郎(責任編集者)、株式会社学習研究社、昭和43年(1968年)、p.163・181。</ref>など)が存在する。 * 卵は殻を持たず、[[ゼラチン]]質で包まれ、水中に生み付けられる。しかし、[[ヤドクガエル科]]や[[プレソドン科]]など陸上で産卵する種類も珍しくはない。幼生や変態の終わった幼体を直接産む種類もいる。<!--←無尾目にも卵胎生の種類がいる(例:コモチヒキガエル)--> * 成長過程で、[[変態]]を行い大きく形が変わるものが多く、特に無尾類の幼体は親とは別に[[オタマジャクシ]]と言う。幼体は四肢が無く尾鰭があるなど魚類に似ているが、無尾類の幼体はかなりずんぐりしており、有尾類の場合は発達した[[外鰓]]を持つ(無尾類は孵化直後にはあるがすぐに隠れる)など、一般の魚類<ref group="注釈">魚類でも[[肺魚]]類や[[ポリプテルス]]類の幼魚は例外的に外鰓を持つ</ref>とは異なる所も多い。 * 成体は基本的に四肢が生え(無足類やサイレン科は例外)、陸上生活を営めるものも多いが四肢があっても生涯を水中で生息する種類もいる。 * 呼吸に関しては全種、幼体・成体を問わず皮膚呼吸が発達しており、特に有尾目では皮膚呼吸のみで肺呼吸をしない種類([[ハコネサンショウウオ属]]と[[プレソドン科|アメリカサンショウウオ科]])が過半数(全425種類中の275種類)を占める<ref group="注釈">このグループも幼生期には肺の原器があるので二次的に肺が退化したと推測されている。</ref>が、幼体時から肺呼吸をする[[メキシコサンショウウオ]]もいるなど呼吸方法の多様性が強い、無足目も詳細不明なものが多いが同じように多様性が強いと考えられている<ref>[[#田中2002|(田中2002)p.4]]</ref>。逆に無尾目では孵化時点から機能はせずとも肺があり、幼生期(時期は足が生え始める前から変態直前まで色々)からこれが発達して肺呼吸をする方が多くの科に見られ<ref group="注釈">アカガエル科の[[ウシガエル]]''Rana catesbeiana''、[[ヒョウガエル|リオグランデヒョウガエル]]''Rana barlandieri''、[[ヒョウガエル|ミナミヒョウガエル]]''Rana sphenocephala''、スキッパーガエル''Euphlyctis cyanophlyctis''。アマガエル科のコーラスガエル''Pseudacris triseriata''、ピパ科の[[アフリカツメガエル]]''Xenopus laevis''、[[コンゴツメガエル属|コンゴツメガエル]]''Hymenochirus boettgeri''。スキアシガエル科のプレーンスキアシガエル''Scaphiopus bombifrons''。の8種類は2002年時点で田中邦明が文献で幼体時の肺呼吸の報告を確認済み。</ref>、例外的に[[ヒキガエル]]の仲間やナガレガエルの仲間は変態完了まで肺が機能せず肺呼吸をしない<ref>[[#田中2002|(田中2002)p.3-4]]</ref>。また更なる例外として前述のオガエルは成体でも肺が退化している<ref> 『原色現代科学大事典 5動物II』、宮地伝三郎(責任編集者)、株式会社学習研究社、昭和43年(1968年)、p.181。</ref> 。 * 有尾目の一部の種では、変態をしないで幼生の形態のままの成体になる[[幼形成熟]]([[ネオテニー]])が知られる。また変態が途中で終了する種も存在する。例えば[[アメリカ合衆国]]に分布する[[ヘルベンダー]](アメリカオオサンショウウオ)は鰓孔が最後まで消えないためそういった考え方も出来る。逆に変態を終えた姿で生まれる種も多い。 == 絶滅の危惧 == [[カエルツボカビ症]]による両生類の絶滅が危惧されている。致死率は90%にも上る。 飼育上の注意点として、[[麻布大学]]の宇根有美准教授(獣医病理学)は、「飼っている両生類に異変があれば、すぐに獣医師などに相談してほしい。水の管理が最も重要で、水槽の水を排水溝や野外に流さないでほしい」としている。 == 分類 == 下位分類体系の一例を以下に示す。 * [[迷歯亜綱]] †{{sname||Labyrinthodontia}} - 絶滅した分類群 ** [[イクチオステガ]]目 †Ichthyostegalia ** [[分椎目]] †{{sname||Temnospondyli}} ** [[炭竜目]] †{{sname||Anthracosauria}} * [[空椎亜綱]] †{{sname||Lepospondyli}} - 絶滅した分類群 ** [[欠脚類|欠脚目]] †{{sname||Aïstopoda}} ** [[ネクトリド目]] †{{sname||Nectridea}} ** [[細竜目]] †{{sname||Microsauria}} ** [[リソロフィス目]] †{{sname||Lysorophia}} * [[平滑両生亜綱]] {{sname||Lissamphibia}} - 現生の両生類 ** [[カエル|無尾目]] [[w:Frog|Anura]] - [[カエル]]のなかま ** [[有尾目]] [[w:Salamander|Caudata]] / [[w:Salamander|Urodela]] - [[サンショウウオ]]や[[イモリ]]などのなかま ** 無足目([[アシナシイモリ目]]) [[w:Caecilian|Gymnophiona]] == 系統関係 == [[file:Prionosuchus_DB.jpg|150px|thumb|現在確認された中で史上最大の両生類とされている古生代ペルム紀後期の[[プリオノスクス]]。]] [[四肢動物]]は[[デボン紀]]後期の約3億6000万年前に[[肉鰭綱]]から進化した。[[ハイギョ]]類と[[シーラカンス]]類のどちらに近いかは未だ決着がついていない。デボン紀後期になり、両生類が初めて陸上に適応した脊椎動物として現れた<ref>ロナルド・ルイス・ボネウィッツ著、青木正博訳『ROCK and GEM 岩石と宝石の大図鑑』誠文堂新光社 2007年 349ページ</ref>。 肺呼吸獲得については「板皮類の肺が食道の変化で先に完成し、それが現生魚類の浮袋に変化した。」という肺先行説と、「硬骨魚類の浮袋が先に完成し、それが肺に変化した。」という浮袋先行説があり、無尾目の胚の発生で最初から肺への動脈に鰓弓動脈の一部が伸びて呼吸器として使う前提の形になっている事は肺先行説に有利な証拠とされている<ref>[[#田中2002|(田中2002)p.5]]</ref>。 最初期の四肢動物である[[アカントステガ]]や[[イクチオステガ]]は曲がりくねった大河川に住んでいたと思われるが、やや時代が下った[[チュレルペトン]]のように海生と思われる種もいた。この時期の四肢動物は、まだ少なくとも一部は[[鱗]]に覆われた魚類のような[[皮膚]]と、6本以上の指を持つ水を掻くのに適した[[四肢]]を持つ、ほとんどを水中ですごす動物であったらしい。 [[石炭紀]]になると[[ペデルペス]]のように陸上生活に適応した四肢を獲得し、二次的に水中に戻った種も含め多様な種が生まれた。石炭紀後期にはすでに[[有羊膜類]]が枝分かれして行き、これら[[迷歯亜綱]]に分類される動物たちは徐々に水中生活にウエイトを戻していく。これら古いタイプの両生類は、[[中生代]]になっても[[三畳紀]]には世界中の淡水系に数mにも及ぶ巨大な種が繁栄していたが、三畳紀末の大絶滅以降急激に衰えて、一部地域に遺存種を残すのみとなり、[[白亜紀]]前期に絶滅した。 現生両生類である[[平滑両生亜綱]]に属する無尾目・有尾目・無足目の起源と関係は未だはっきりとわからないが、すでに約2億9000万年前のペルム紀前期に無尾目・有尾目・迷歯亜綱分椎目の特徴をモザイク状に有する[[ゲロバトラクス]]が存在した。 三畳紀のマダガスカルには現生のカエルにある程度近い姿の[[トリアドバトラクス]]が生息し、ジュラ紀になると今と外見上は変わらないカエルが世界中に分布を広げていた。 現在発見されている有尾目とされる最古の種は三畳紀後期のキルギスタンに生息していたトリアスルス[[w:Triassurus|''Triassurus sixtelae'']]である<ref name=Schoch2020>{{cite journal |last1=Schoch |first1=Rainer R. |last2=Werneburg |first2=Ralf |last3=Voigt |first3=Sebastian |title=A Triassic stem-salamander from Kyrgyzstan and the origin of salamanders |journal=Proceedings of the National Academy of Sciences |date=2020 |volume=117 |issue=21 |pages=11584–11588 |doi=10.1073/pnas.2001424117|pmid=32393623 |pmc=7261083 }}</ref>。ジュラ紀中期にはキルギスタンから [[w:Kokartus|''Kokartus'']]、イギリスからネオテニー的な水生種 [[w:Marmorerpeton|''Marmorerpeton'']] の化石が発見されている。これらはもっと後の種の解剖学的特徴のいくつかを持たなかったが、ジュラ紀後期には現在のトラフサンショウウオに似た[[カラウルス]]や[[オオサンショウウオ科]]の[[チュネルペトン]]が生息していた。 無足目はジュラ紀初期のまだ四肢が残っている[[エオカエキリア]]の化石が見つかっている。また三畳紀の分椎目[[キンレステゴピス]]はエオカエキリアといくつかの特徴を共有しており、類縁関係があるのではないかという説がある<ref name = Pardo>{{Cite journal|last=Pardo|first=Jason D.|last2=Small|first2=Bryan J.|last3=Huttenlocker|first3=Adam K.|date=2017-07-03|title=Stem caecilian from the Triassic of Colorado sheds light on the origins of Lissamphibia|url=http://www.pnas.org/content/114/27/E5389|journal=Proceedings of the National Academy of Sciences|language=en|volume=114|issue=27|pages=E5389–E5395|doi=10.1073/pnas.1706752114|issn=0027-8424|pmid=28630337}}</ref>。現在の両生類は基本的に淡水域を生活の場としているのにもかかわらず地球上の陸地に広く分布していることなどから、遅くとも[[パンゲア大陸]]が完全に分裂したとされている[[白亜紀]]までに、現生の[[目 (分類学)|目]]は全て誕生していたはずだが、詳しいことはわかっていない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献== * 松井正文 『両生類の進化』 東京大学出版会、1996年 *{{Cite journal|和書|author=田中邦明 |title=両生類幼生の呼吸に関するミスコンセプション : オタマジャクシの肺呼吸と皮膚呼吸について|journal=理科教育学研究|issn=1345-2614|publisher= 一般社団法人 日本理科教育学会|year=2002 |volume=42 |issue=3|pages=1-9|doi=10.11639/sjst.KJ00005017942 |url=https://doi.org/10.11639/sjst.KJ00005017942 | ref =田中2002}} == 関連項目 == {{Wikispecies|Amphibia}} {{Commonscat|Amphibia}} * [[爬虫両棲類学]] * [[両生類の減少]] == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3108/herpetarium.html |title=Dr. GRUMMAN's HERPETARIUM(有尾類) |date=20011123120849}} * [https://home.hiroshima-u.ac.jp/~amphibia/strain/index.html 広島大学両生類研究施設] * [https://www.digital-museum.hiroshima-u.ac.jp/~museum/ 広島大学デジタル自然史博物館] * [http://zoo.zool.kyoto-u.ac.jp/herp/indexj.html 日本爬虫両棲類学会] * {{Kotobank}} {{Normdaten}} [[Category:両生類|*]]
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ハードロック
ハードロック(英: hard rock)は、ロックの一ジャンルである。 ハードロックはメンフィス・ブルースのギタリスト、ジョー・ヒル・ルイスやウィリー・ジョンソン、パット・ヘアらのグリッター、獰猛なギターの影響を受けていた。 初期の標準的なスタイルはブルースやブギーを基調としたラウドなサウンドのロック形態を取った。ハードロックの定義は、大音量でアグレッシブなロックの一種であり、歪んだ音のエレクトリック・ギターをリード楽器としてソロを演奏し、反復リフなども使用したものである(英語版もAllmusicを引用)。1960年代後半に誕生した。 初期はサイケデリック・ロックやブルース・ロックの混合物としてスタートし、1970年代前半にはハードロックの呼称が定着し、全盛期を迎えた。ハードロックとヘヴィ・メタルの微妙な相違点を定義づけるのは難しい。ただ例をあげると、グランド・ファンク・レイルロードは黒人音楽の強い影響を受けており、ハードロックではあるが、ヘヴィ・メタルとは呼ばれない。またディープ・パープルも、70年代にはハードロックと呼ばれ、ヘヴィ・メタルという言い方はあまりされなかった。また、ヘヴィ・メタルという名称も比較的早くから存在しており、レッド・ツェッペリン、ブラック・サバスなどが代表的なバンドである。 ハードロックの特徴としては以下が挙げられる。 大音量によってアンプをオーバードライヴ状態にして、歪みを生じさせた手法も見られる。ベース&ドラムはサポートにまわるのが一般的である。 ハードロックなどロック分野だけに留まらず、ポピュラー音楽の発展はブルースとの関連抜きに語ることは難しい。ブルースは、もともとは奴隷状態下に置かれたアメリカの黒人の労働歌を唄ったものに起源があり、これ故「簡素で分かりやすい形式」(I→IV →Vを基本形とする単純なドミナント進行)であり、またその境遇故に、唄われる内容は少なからずプロテストな色彩であった。ジャズもブルース起源であるが、ほとんどがインストルメンタルの場合が多く、ビリー・ホリディやマックス・ローチらを除けば、辛辣、痛烈な批判をするなどの直接的な表明をすることが難しかった。また、アメリカに於いては黒人人口が多く、ロックンロール、ロカビリーなどの、カントリーに黒人音楽のブルースやR&Bを混合した音楽が発達した。1950年代は、アメリカのロックンロール、ロカビリーが、世界のかなりの数の若者の心をとらえていた時代である。 イギリスではスキッフル・ブームの後、より直接的な感情の発露の手段として、ブルースが若者の心をとらえたことから、ブルースを基調とする音楽を演奏する者が次々現れた。60年代には、イギリスではちょっとした「ブルース、ブルース・ロック・ブーム」になった。これが、イギリスにおけるハードロックの原点である。アメリカでも、原点であるブルースに回帰する流れの中に、60年代後半のキャンド・ヒートやポール・バターフィールド・ブルース・バンドなど多くのバンドがいた。 ロックはブルースから簡素でわかりやすい形式や、少数の曲はプロテスト的な歌詞を受け継いでいるが、白人の演奏家は黒人文化とは縁遠いため、「跳ねるリズム感覚」を所有していなかった。これは白人のハードロック、プログレッシヴ・ロックが、クラシック音楽をルーツとしていることが主因と見られている。 ハードロックの起源とされるのは、ビートルズの「ヘルター・スケルター」「レボリューション」や、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、ブルー・チアー、ヴァニラ・ファッジなどである。彼らは、ロック、ブルーズとサイケデリック・ロックを融合し、新しいスタイルを呈示してみせた。特に、ジミ・ヘンドリックスは、大音量でディストーションの掛かった音の先駆けとなった。またブルー・チアーやマウンテン、フリー、グランド・ファンク・レイルロード、ユーライア・ヒープなども、ハードロックの草分け的なバンドであった。ハードロック誕生の背景としては、アメリカで起こっていた公民権運動、これと同時進行する形で世界各国で学生運動が発生、ベトナム反戦運動がこの流れに合流した。このように60年代は「反権力」を旗印とした市民運動が、全世界的に盛り上がった時代である。ブルースの流れを踏襲しているロック音楽は、プロテスト音楽的色彩を帯びた。無論プロテスト的ではないロックも存在していたが、この時代のムードにマッチしたものはプロテスト的なロックであった。その親和性故に市民運動の集会とロック(またはフォークソング)コンサートが合同で行われるコラボレーション)が自然発生的に出来上がった。若者を中心に人が集まる「市民運動団体」と「レコード会社、コンサート興行主等の音楽産業界」双方の思惑が一致したことから、このコラボレーションは次第に大規模化、組織化されていく。この最大規模のものが「ウッドストック・フェスティバル」(1969年)である。 サウンド的には、歪んだギター・サウンド(ディストーション・サウンド)と直情径行のラウドな音量だった。具体的に表現するなら、チョーキングとアーミングの使用である。ただ、チョーキングとアーミングを使い出したのは、何もハードロックが最初ではない。例えばチャック・ベリーやアルバート・キングらはチョーキングを使い、ベンチャーズはアーミングを多用した。 1968年には、ジェフ・ベック・グループ、レッド・ツェッペリンがデビューした。1970年には、後にヘヴィメタルの代表的存在となるブラック・サバスがデビューした。3枚目ぐらいから、ディープ・パープルがハードロックに転向。ディープ・パープルのアルバム『マシーンヘッド』(1972)には、「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の有名曲が収録されていた。クイーンも、73年から75年ごろまでは、ハードロック・サウンドが主体だった。1973年には、グラム・ロックの影響の見られる女性ロッカースージー・クアトロがデビューした。他にも、ホークウィンド、スレイド、スウィートらが活躍した。このころには、ハードロックが欧米中心にブームとなった。 アメリカでは、1970年代にはブルー・オイスター・カルトや、アリス・クーパー、カクタス、ジェイムス・ギャング、リック・デリンジャー、モントローズらが活躍した。カナダのゲス・フーの『アメリカン・ウーマン』(1970)も、ハードなヒット曲だった。 エアロスミス、キッス、クイーンは、70年代前半にはすでにデビューしていたが、人気が出てきたのは、70年代後半だった。シン・リジィやナザレスはUSチャートでヒットを出し、アメリカ進出に成功した。ZZトップやレーナード・スキナードなどサザン・ロック・バンドも、ハード・ロック的な音を出していた。一方でジャーニー、ボストン、フォリナー、TOTO、スティクスなどは、”産業ロック”というカテゴリーに含まれた。スティックスはハードロックというよりも、ポップなプログレッシヴにジャンル分けするのが妥当である。70年代後半にはパンク・ニューウェイブが一大ブームとなり、ハードロックの人気は下降した。当時の人気バンドとしては、ジューダス・プリースト、レインボー(ブラックモアズ・レインボー)がいた。英米以外の国では、カナダのマホガニー・ラッシュ、オーストラリアのAC/DC、ドイツのスコーピオンズ、オランダのゴールデン・イアリングらが活躍した。ソロ・ギタリストではロイ・ブキャナン、パット・トラヴァース”という、ロビン・トロワー”というらがいた。日本のハード・ロックでは、カルメン・マキ&OZ、紫、コンディション・グリーン、クリエイション(元のブルース・クリエイション)、VOWWOWらがシーンを盛り上げた。 1980年代前半になると、ツインギターを売り物にしたナイト・レンジャーがデビュー。ポップ性とハード性を兼ね備えたボン・ジョヴィがヒットを出し、アメリカン・ハードロックが注目された。ヴァン・ヘイレンがアルバム『1984』でシンセサイザーを使用し、シングル曲「ジャンプ」が大ヒット。続いてラットやモトリー・クルー、ドッケン、ポイズンなど、ロサンゼルス出身のハードロックバンドが続々とデビューし、ロサンゼルス以外のアメリカ出身であるシンデレラなども併せてLAメタルと呼んだ。一方で、デフ・レパードやホワイトスネイクなど、イギリス系のアーティストも上記のバンド同様にアメリカでヒットを出し、ハードロック・ヘヴィメタルが復権した。 1980年代中頃になると、さらにアメリカから、アンスラックスやメタリカのような、これまでとは違うスピード感と重圧感を売りにしたスラッシュメタルがブレイクした。1980年代後半からは、ハードロックバンド、ガンズ・アンド・ローゼズがヒットを連発した。この頃、テスラやドッケン等、次々にアコースティックの楽曲を取り入れたバンドが続出した。 イギリス勢からは79年ごろから、アイアン・メイデンらのNWOBHM(ニュー・ウェイブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)が登場した。後年、ドイツではハロウィンらのスピードメタルが、北ヨーロッパからは北欧メタルが出現した。 ジミー・ペイジはレス・ポールのギターを主に使用したが、ファースト・アルバムではテレキャスターを使用していた。リッチー・ブラックモアは、ハードロック期からはずっとフェンダー・ストラトキャスターを使用した。1960年代当時トランジスタはやっと実用化レベルに達したばかりで、今日のような歪み率の低い電気特性の優秀なアンプ(アンプリファイア)は存在しなかった。トランジスタ以前の電気増幅素子は真空管であった。トランジスタに比較して、真空管は与えられた入力の音響特性を変えずに増幅出来る帯域が非常に狹い。しかも、真空管アンプは価格が高額である。だが、暖かみのある独特の音質から需要が存在し続けている。 多くの聴衆に音を聴かせる必要性が増してきたことから、PAシステムと共に楽器用アンプも大出力のものが求められるようになっていった。この要求に応えるべくヴォックス、フェンダー、マーシャル、オレンジなど各社が大出力のアンプをこぞって 造し出したが、先述の通りそもそも大音量再生には無理がある真空管で半ば強引に高出力のものを作っていたので、少し音量を上げると非常によく歪んだ。
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ハードロックは、ロックの一ジャンルである。
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Walser, Running With the Devil: Power, Gender, and Madness in Heavy Metal Music (Middletown, CT: Wesleyan University Press, 1993), ISBN 0-8195-6260-2, p. 64. </ref>。クイーンも、73年から75年ごろまでは、ハードロック・サウンドが主体だった。1973年には、グラム・ロックの影響の見られる女性ロッカー[[スージー・クアトロ]]がデビューした。他にも、ホークウィンド、スレイド、スウィートらが活躍した。このころには、ハードロックが欧米中心にブームとなった。 アメリカでは、1970年代には[[ブルー・オイスター・カルト]]や、[[アリス・クーパー]]、カクタス<ref>{{cite web |url=http://www.classicdrummerhalloffame.com/carmine-appice |title=Cactus Member Carmine Appice Hall of Fame Induction |accessdate=09-March 2020}}</ref>、[[ジェイムス・ギャング]]、リック・デリンジャー、モントローズらが活躍した。カナダのゲス・フーの『アメリカン・ウーマン』(1970)も、ハードなヒット曲だった。 [[エアロスミス]]<ref group="注">「ウォーク・ディス・ウェイ」などが代表曲。</ref>、[[キッス]]<ref group="注">「ロックンロール・オールナイト」「デトロイト・ロック・シティ」「ハードラック・ウーマン」などのヒット曲がある。</ref>、[[クイーン (バンド)|クイーン]]<ref group="注">「ウィー・ウィル・ロック・ユー」、「ボヘミアン・ラプソディ」など。</ref>は、70年代前半にはすでにデビューしていたが、人気が出てきたのは、70年代後半だった。シン・リジィやナザレスはUSチャートでヒットを出し、アメリカ進出に成功した。ZZトップやレーナード・スキナードなどサザン・ロック・バンドも、ハード・ロック的な音を出していた。一方でジャーニー、ボストン、フォリナー、TOTO、スティクスなどは、”[[産業ロック]]”<ref group="注">欧米では、コーポレート・ロックと呼ばれる。</ref>というカテゴリーに含まれた。スティックスはハードロックというよりも、ポップなプログレッシヴにジャンル分けするのが妥当である。70年代後半にはパンク・ニューウェイブが一大ブームとなり、ハードロックの人気は下降した。当時の人気バンドとしては、ジューダス・プリースト、[[レインボー (バンド)|レインボー]](ブラックモアズ・レインボー)がいた。英米以外の国では、カナダのマホガニー・ラッシュ、オーストラリアのAC/DC、ドイツのスコーピオンズ、オランダのゴールデン・イアリングらが活躍した。ソロ・ギタリストではロイ・ブキャナン、パット・トラヴァース”<ref group="注">カナダ出身のギタリスト。</ref>という、ロビン・トロワー”<ref group="注">プロコル・ハルム出身のギタリスト。</ref>というらがいた。日本のハード・ロックでは、カルメン・マキ&OZ、紫、コンディション・グリーン、クリエイション(元のブルース・クリエイション)、VOWWOWらがシーンを盛り上げた。 1980年代前半になると、ツインギターを売り物にした[[ナイト・レンジャー]]がデビュー。ポップ性とハード性を兼ね備えた[[ボン・ジョヴィ]]がヒットを出し、アメリカン・ハードロックが注目された。[[ヴァン・ヘイレン]]がアルバム『1984』でシンセサイザーを使用し、シングル曲「ジャンプ」が大ヒット。続いてラットやモトリー・クルー、ドッケン、ポイズンなど、[[ロサンゼルス]]出身のハードロックバンドが続々とデビューし、ロサンゼルス以外のアメリカ出身であるシンデレラなども併せて[[LAメタル]]と呼んだ。一方で、デフ・レパードやホワイトスネイクなど、イギリス系のアーティストも上記のバンド同様にアメリカでヒットを出し、ハードロック・ヘヴィメタルが復権した。 1980年代中頃になると、さらにアメリカから、[[アンスラックス]]や[[メタリカ]]のような、これまでとは違うスピード感と重圧感を売りにした[[スラッシュメタル]]がブレイクした。1980年代後半からは、ハードロックバンド、[[ガンズ・アンド・ローゼズ]]がヒットを連発した。この頃、テスラやドッケン等、次々にアコースティックの楽曲を取り入れたバンドが続出した。 イギリス勢からは79年ごろから、アイアン・メイデンらの[[NWOBHM]](ニュー・ウェイブ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)が登場した。後年、ドイツでは[[ハロウィン (ドイツのバンド)|ハロウィン]]らの[[スピードメタル]]が、北ヨーロッパからは北欧メタルが出現した。 ジミー・ペイジ<ref group="注">ミッシェル・ポルナレフのヒット「愛の休日」でエレキ・ギターを演奏している。</ref>はレス・ポールのギターを主に使用したが、ファースト・アルバムではテレキャスターを使用していた。リッチー・ブラックモアは、ハードロック期からはずっとフェンダー・ストラトキャスターを使用した。1960年代当時[[トランジスタ]]はやっと実用化レベルに達したばかりで、今日のような歪み率の低い電気特性の優秀な[[アンプ (楽器用)|アンプ]](アンプリファイア)は存在しなかった。トランジスタ以前の電気[[増幅回路|増幅素子]]は[[真空管]]であった。トランジスタに比較して、真空管は与えられた入力の音響特性を変えずに増幅出来る帯域が非常に狹い。しかも、真空管アンプは価格が高額である。だが、暖かみのある独特の音質から需要が存在し続けている。 多くの聴衆に音を聴かせる必要性が増してきたことから、[[PAシステム]]と共に楽器用アンプも大出力のものが求められるようになっていった。この要求に応えるべく[[ヴォックス (楽器メーカー)|ヴォックス]]、[[フェンダー (楽器メーカー)|フェンダー]]、[[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]、[[オレンジ (アンプ)|オレンジ]]など各社が大出力のアンプをこぞって 造し出したが、先述の通りそもそも大音量再生には無理がある真空管で半ば強引に高出力のものを作っていたので、少し音量を上げると非常によく歪んだ<ref group="注">とはいえ、今日における「最初から歪ませる事を狙って設計されている[[ハイゲイン・アンプ]]でのディストーション・サウンド」と比較すれば「軽く歪んだ」程度で、今日において「ナチュラル・ディストーション」と呼ばれることから想像が付くように、現代の感覚では寧ろナチュラルに近い音である。</ref>。 == 派生ジャンル == {{colbegin|3}} * [[アメリカン・プログレ・ハード]]<ref group="注">ジャーニー、スティックス、ボストン、カンサスらが代表。</ref> * [[エクストリーム・メタル]] * [[NWOBHM]]<ref group="注">アイアン・メイデン、デフ・レパードらが代表。</ref> * [[LAメタル]]<ref group="注">メタリカ、ドッケンなど。</ref> * [[グラム・メタル]] * [[ゴシック・メタル]] * コーポレート・ロック<ref group="注">日本では産業ロック。ジャーニー、TOTO、スティックスなど。</ref> * [[ジャパニーズ・メタル]] * [[ジャーマン・メタル]] * ショック・ロック<ref>"Arthur Brown on Shock Rock, Hendrix, Close Calls With Fire". Rolling Stone. Retrieved</ref>(アリス・クーパーなど) * [[シンフォニック・メタル]] * [[ストーナーロック]] * [[メロディックスピードメタル]](メロディックパワーメタル) * [[スラッシュ・メタル]] * [[デス・メタル]] * [[ドゥーム・メタル]] * [[ネオクラシカルメタル]] * [[ヘヴィメタル]] * [[パワー・メタル]] * [[フォーク・メタル]](民俗音楽メタル)/[[ヴァイキング・メタル]] * [[ブラック・メタル]] * [[プログレッシブ・メタル]] * [[ニュー・メタル]] * [[メタルコア]] * [[メロディアス・ハードロック]](Don Dokken、Fair Warningなど) * [[メロディック・デス・メタル]] * [[ミクスチャー・ロック]] * [[ラップメタル]] * [[北欧メタル]] {{colend}} == 主なミュージシャン == {{see also|Category:ハードロック・バンド}} {{colbegin|3}} * [[AC/DC]]<ref group="注">バック・イン・ブラックは記録的なベストセラーとなった。</ref> {{flagicon|AUS}} * [[L.A.ガンズ]] {{flagicon|USA}} * [[REOスピードワゴン]]<ref group="注">約10年ほど売れなかったが、「キープ・オン・ラヴィン・ユー」が大ヒット。</ref> {{flagicon|USA}} * [[TOTO (バンド)|TOTO]] {{flagicon|USA}}<ref group="注">イアン・ギランらの金切り声でのシャウトが典型例。</ref>。 * [[UFO (バンド)|UFO]] {{flagicon|UK}} * [[W.A.S.P.]] {{flagicon|USA}} * [[Y&T]] {{flagicon|USA}} * [[ZZトップ]] {{flagicon|USA}} * [[アイアン・メイデン]] {{flagicon|UK}} * [[アクセプト (バンド)|アクセプト]] {{flagicon|GER}} * [[EARTHSHAKER|アースシェイカー]] {{flagicon|Japan}} * 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NTTドコモ
株式会社NTTドコモ(英: NTT DOCOMO, INC.)は、携帯電話などの無線通信サービス(移動体通信事業者〈MNO〉)および長距離、国際通信を提供する、日本最大手の電気通信事業者。日本電信電話 (NTT) の完全子会社。 1968年7月1日に、日本電信電話公社(電電公社)が移動体通信サービスポケットベルを開始した事がNTTドコモの起源となる。電電公社民営化後の1990年2月に、日本国政府の措置として日本電信電話株式会社(NTT)から「移動体通信業務の分離」が決定し、1991年8月14日に「エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社(NTT移動通信企画)」が設立、1992年7月の分社化とともに「NTTドコモ」のブランドでサービスを行なっている。1999年には、世界初の携帯電話でのインターネット接続サービス(携帯電話IP接続サービス)であるiモードを発表した。2008年7月に各地域会社を合併し、全国1社体制となった。それまではNTTドコモグループを統括する中核会社であり、同時に関東地方および甲信越地方を管轄する事業会社でもあった。NTTドコモグループ全般と区別するために、この会社を指す際には便宜的に「(NTT) ドコモ中央」とも呼ばれていた。合わせてコーポレートロゴマークも旧来の「NTT DoCoMo」から現在の「NTT docomo」に改められた。2010年に正式の英文名を「NTT DoCoMo, Inc.」から「NTT DOCOMO, INC.」に変更した。また2013年10月1日に、商号を「エヌ・ティ・ティ・ドコモ」から、これまで通称社名として使用してきた「NTTドコモ」に統一した。 2020年現在では、W-CDMA・HSPAを用いた「FOMA」(第3・第3.5世代移動通信システム、2001年サービス開始)、LTEを用いた「Xi」(第3.9世代移動通信システム、2010年サービス開始)、LTE-Advancedを用いた「PREMIUM 4G」(第4世代移動通信システム、2015年サービス開始)、5G NRを用いた「docomo 5G」(第5世代移動通信システム、2020年サービス開始)による携帯電話事業を中心として各種事業を展開している。 NTTが発行済株式の100%を所有しており、同社の連結子会社(金融商品取引法上の特定子会社)である。NTTグループの営業利益の7割を稼ぎ出す稼ぎ頭でもある。ただし、「日本電信電話株式会社等に関する法律」(通称: NTT法)は当社には適用されず、特殊会社でもない。 かつて手がけていた「PHSサービス」は2008年1月7日、またPDCを用いた「シティフォン」(東名阪限定、1.5GHz帯第2世代移動通信システム)は2008年6月30日、「mova」「DoPa」(第2世代移動通信システム)は2012年3月31日にサービスを終了した。 2020年9月、NTTドコモの競争力強化と成長、並びにNTTグループ全体の成長を目指す観点から、統括持ち株会社のNTTがドコモの完全子会社化を発表し、その際に次の4つの目指す方向性を示した。 これらの目指す方向性を実現させるにはグループ横断での経営資源の戦略的な活用と、意志決定の迅速化が必要ということで、NTTがドコモを完全子会社化するとともに、NTTコミュニケーションズ(以下NTTコムと表記)、NTTコムウェアなどのグループ各社の能力も活用しながら、6G時代を見据えた通信基盤整備の拡充や、新たなソリューションサービスの提供を推進し、ドコモの成長をNTTグループ全体の成長を図ることを目指している 2022年、それまでグローバル持株会社のNTT,Inc.傘下にあった長距離通信事業会社・NTTコムをドコモが完全子会社化し、NTTグループ内のモバイル・長距離通信事業はドコモグループが事実上一元管理する形となった。またこの事業の再編により、大きく の4つの事業を柱とする事業内容の再編と明確化も併せて進めていくことになった。 具体的には、 2021年7月からのブランドスローガンは「あなたと世界を変えていく。」。 日本国内携帯電話契約数は約8,749万契約で、国内携帯電話市場における市場占有率は約41%で、ともに1位(2023年3月末現在)。 現在はW-CDMA方式・HSPA方式の第3世代・第3.5世代携帯電話「FOMA」と、2010年12月24日に国内移動通信事業者各社に先駆けて開始したLTE方式の第3.9世代携帯電話「Xi」、2015年3月27日に開始したLTE-Advanced方式の第4世代携帯電話「PREMIUM 4G」、2020年3月25日に開始した第5世代携帯電話「docomo 5G」をサービスしている。 1千万契約ごとの到達年月 1997年12月開始の10円メールサービス(2008年2月終了)や1999年2月開始の「iモード」サービスが爆発的ヒットとなり、市場占有率を高めた。 iモード普及期の1999年から2001年にかけて、当初のiモードメールアドレスは「携帯電話番号@docomo.ne.jp」であった。悪意を持ったコンテンツ事業者は「携帯電話番号@docomo.ne.jp」というメールアドレスをコンピュータで自動生成し、自社の勝手サイトを宣伝する「迷惑メール」をiモード宛に大量送信した。受信者にメール受信料金の金銭負担がかかる迷惑メールは社会的に大きな問題になった。このため、2001年7月よりiモードに向けて大量に一斉送信されたメールをiモードセンターが探知し、削除して受信させないことである程度の抑制が出来るようになったほか、契約直後のアドレスはランダムな英数字から始まる仕様に変更され、iモード上の「メール設定」でアドレス(メールアカウント)の他、迷惑メール対策の設定変更ができるようになっている。 同じ頃、J-フォン(現・ソフトバンク)はメール受信無料を強くPRしており、また「受信メールにもパケット料金を課金する」というNTTドコモと同様の仕組みを導入していたau(KDDI・沖縄セルラー電話連合)が2001年1月に「コミコミパック」という無料通信分を含んだ割引プランを導入した。一方、NTTドコモは2001年8月からiモード利用者に対して、迷惑メール対策の一環として毎月400パケットまでは無料とした。また、電波帯域に余裕のあるW-CDMA (FOMA) においては、1パケットの単価を若干下げると共にコミコミパックと同様の「パケットパック」を導入した。2005年11月、新統一料金プラン導入時に同プラン利用者のiモード基本料金を値下げし、毎月の「400パケット無料」を廃止した。また、2008年6月にはiモード基本料金を他社と横並びの月額315円に改定した。 2001年10月に世界初のW-CDMA方式の第3世代携帯電話サービスとして開始された「FOMA」は、2004年に最新機能を盛り込んだ900iシリーズの発売を機にドコモの主力サービスとして位置づけられた。その後、「mova」から「FOMA」への加入者移行を図ったことで、2004年4月から2008年6月末まで第3世代携帯電話での純増数は50か月連続1位となり、2006年7月にはFOMAの契約数はmova契約数を上回った。2008年11月にmovaサービス・2009年3月にデュアルネットワークサービスの新規契約を終了し、2012年3月31日を以てPDC方式によるmova携帯電話サービスを終了した。 FOMAのデータ通信速度は2001年10月の導入当初、送受信とも64 Kbpsの回線交換と、受信最大384 Kbps送信最大64 Kbpsの無線パケット通信でサービスが開始された。2003年9月に、カード型端末 F2402 が発売され、送受信とも最大384 Kbpsでの通信が利用可能となった。音声端末においては、その後も、送信は最大64 Kbpsであった。2006年8月に、FOMAハイスピードの名称で W-CDMA の上位規格であるHSDPAが導入され、受信最大3.6 Mbps上り送信384 Kbpsの通信速度が利用可能となった。2008年4月に、FOMAハイスピードの受信速度が最大7.2 Mbpsに向上され、2009年6月には、HSPA規格の導入により送信も最大5.7 Mbpsに向上された。2011年6月からは、FOMAハイスピード受信速度が14 Mbps (理論値: 14.4 Mbps) に引き上げられた。 積極的なFOMAエリアおよびFOMAハイスピードエリアの拡大によって通信エリアによる顧客満足度が向上し、2009年3月にはデータ通信における顧客満足度で1位になり、2009年7月の携帯電話純増数でも第1位になり2009年度全体でも純増数が4年ぶりに1位となっている。また2010年にはJDパワー顧客満足度調査で初めて業界1位を獲得した。 現在、世界中の通信事業者が導入し始めている第3.9世代移動通信システムの規格である Long Term Evolution (LTE)についても、ドコモは「Xi(クロッシィ)」という新たなサービスブランドで、2010年12月24日よりサービスを開始し、東京・大阪・名古屋から政令都市・全国へと基地局を増やしている。「Xi」の導入によって導入当時一部の屋内エリアで最大75 Mbps、その他のエリアで最大37.5 Mbpsの通信速度が利用可能となった。一部地域において2012年冬より受信最大速度最大112.5 Mbpsにまで、2013年夏より受信最大速度最大150 Mbpsにまで向上した。 2006年10月に開始した「番号ポータビリティ (MNP)」では当初苦戦し、2006年11月度の契約数が自社初の純減となった。その後も、auに比べ純増数が少ない状態が続いた。さらにはソフトバンクにも純増数で劣り、MNP開始後2社に大きく遅れをとった。また、2008年1月度はイー・モバイルにも純増数で劣った。ドコモは2007年5月より「DoCoMo2.0」という旗印で顧客獲得を狙ったが、2007年8月度に、創業以来2度目の純減 (-22,900)となった。 この純減状況に、更なる追い打ちをかけたのが、フィーチャーフォンに変わる「スマートフォンの台頭」と、2007年にWWDCで発表されたAppleのスマートフォン「iPhone」の登場である。とりわけiPhoneは、画面上を指の操作によるマルチタッチ機能が、斬新で直感的な操作体系に加えて、パーソナルコンピュータとほぼ同等の機能を持つ「フルブラウザ機能」と「電子メール機能」を搭載したことで、iPhoneの市場規模が拡大した。翌年の2008年に発表されたiPhone 3Gにて、ソフトバンクが参入したことで、日本国内においてもスマートフォンが普及するきっかけとなった。 スマートフォンの台頭で、ドコモも対応に追われ、2008年7月から新しいドコモブランドに変更することとなった。2008年11月には「90X・70X」といった数字による携帯電話の付番方式を改め、型番を整理し、docomo PRIME series, docomo STYLE series, docomo SMART series, docomo PRO seriesといった4つのシリーズに分類するようになり、2008年度からは1100シリーズ、docomo PRO seriesでWindows Mobile, BlackBerry, Android(Googleケータイ)といったスマートフォンを立て続けに発売した。 2010年夏からはスマートフォンを PRO series カテゴリから独立させ「ドコモ スマートフォン」とし、2010年9月にはスマートフォンでもiモードのメールアドレスなどが利用できる「spモード」がサービス開始になった。 2011年冬季モデルの端末からは、従来型携帯電話の上位シリーズを「docomo STYLE series」に統合してスマートフォンを主力に位置付けた上で、ワンセグやおサイフケータイといった従来型携帯電話に搭載されていた機能を付け加えた「docomo with series」と、旧来の「ドコモ スマートフォン」の流れを引き継ぐ先進的なユーザー向けのスマートフォンという位置づけとなる「docomo NEXT series」の2つのシリーズに分類した。2011年冬モデル以降は「Xi」対応の音声通信端末が発売された。 しかし、これまで通信規格「CDMA」の問題で、iPhoneに参入出来なかったauが、iPhone 4sの発売と同時に参入したことで、iPhone 3GS以降の機種で、FOMAの通信規格に対応していたにもかかわらず、ドコモだけがiPhoneを取り扱わない状態に陥っていた。これは、ソフトバンクのiPhone参入時からドコモのiPhone参入時までの間に、ドコモでは2度の社長交代が行われており、経営方針の変更を余儀なくされていたのに加えて、2010年のパケットビデオ社の買収や2012年のNOTTVの放送開始、当時のドコモの傲慢な態度も、ユーザーの不評を買う要因となっていた。 その影響を受けて、2008年夏以降は番号ポータビリティ転出数や解約率の低下が顕著になり、同年12月にはMNP制度開始以来初の転入超過となっている。2012年1月には初めて「FOMA」契約が純減となり、iPhone参入までの間は、苦戦が続いた。 このような過去の失敗と反省を踏まえて、ドコモは経営戦略の見直しを図り、新たに「2トップ戦略」を打ち出し、ソニーエリクソンとサムスン電子のスマートフォンに、販売奨励金をより多く投入すると共に(結果的には失敗に終わるが)、2013夏季モデルの端末からは、「docomo with series」と「docomo NEXT series」の2つのシリーズによる分類も無くなった。 2013年秋には、ソフトバンク、auに続いて、日本国内でのiPhone参入 (iPhone 5s / 5c) をようやく果たした。 他社に比べ料金プランや端末価格が高額というイメージがあることなどが挙げられる。FOMAでのパケ・ホーダイ(iモード通信を対象としたパケット定額制料金プラン)・パケ・ホーダイフル(iモード通信・フルブラウザを対象としたパケット定額制料金プラン)(パケ・ホーダイダブルのサービス開始に伴い、2008年12月31日をもって新規申込受付を終了)の導入や利用可能エリアの拡大、サービスや端末のバリエーションの強化、家族間通話24時間無料などファミリー割引の強化、料金プランのFOMAとmovaの統一、ファミ割MAX50とひとりでも割引50の導入による料金が高額というイメージの払拭、新料金体系(バリューコース・ベーシックコース)導入に伴う端末の割賦販売の開始、さらなる高速パケット通信規格であるHSDPAの導入、MOAPといったソフトウェアにおける共通プラットフォーム開発などの対抗策を打っている。 2004年には「iモードFeliCa」を開始した。愛称は「おサイフケータイ」で、これを基にした「モバイルSuica」のサービスも行われている。「おサイフケータイ」は他社にもライセンスが供与されている。 2006年8月31日、HSDPAと呼ばれる高速パケット通信規格を使用したサービス「FOMAハイスピード」を開始した。HSDPAは第3.5世代移動通信システムの高速データ通信の受信規格(ダウンロード)に相当する。これを利用した、「着うたフル」の配信や深夜に音楽番組を自動でダウンロードする「Music&Videoチャネル」も行っている。また、同じ第3.5世代移動通信システムの高速データ通信の送信規格(アップロード)であるHSUPA方式の「FOMAハイスピード」も採用され、FOMAのデータ通信サービス「FOMAハイスピード」は送受信とも高速化を実現した。更に、第4世代移動通信システムに相当するXi(クロッシー)、第5世代移動通信システムへの新方式の研究・開発を積極的に行っている。 2008年度からは、今までドコモが作ったビジネスモデルであるiモードシステムでは開拓しきれなかった分野にも取り組んでいる。 2010年9月より、スマートフォン用ISPサービス「spモード」をサービス開始、ワンセグ、おサイフケータイ搭載のスマートフォンの発売を開始し、更に大日本印刷と提携し、同社のスマートフォン向け電子書籍配信サイト「2Dfacto」を立ち上げるなどして販売拡大に取り組んでいる。 2011年9月からは、タブレット端末を新たなカテゴリ「ドコモ タブレット」で展開している。また、2011年4月1日以降に販売する端末は、総務大臣が示すガイドラインに基づき、iPhoneを除いた全ての携帯端末で、SIMロック解除可能(SIMフリー)とした。 更に2014年夏には、「Xi」による高音質通話サービス「VoLTE」(Voice over LTE) が開始された。 2015年2月から、「口座振替のご案内の封書」は有料化され、郵送料は50円(消費税抜き)、請求書払いは100円(消費税抜き)の取扱手数料が掛かるようになった(eビリングは継続)。同年、タカラトミーと共同で、コミュニケーショントイ・オムニボット「OHaNAs」を開発した。しゃべってコンシェルの技術を応用し、円滑な会話が可能となっている。 2019年秋、ラグビーワールドカップ2019に合わせ、5Gのプレサービスを開始し、2020年3月25日に5Gサービスを正式に開始した。 2020年9月には、今後の6G携帯電話への研究開発に向けてのNTTグループとしての国際競争力を高めるなどの狙いから、持株会社である日本電信電話(NTT)がドコモを完全子会社化することが発表された。 また、KDDIやソフトバンクのようにサブブランドを持っていなかった同社は、大手携帯電話会社への月額料金の値下げを迫った菅義偉内閣の要望を受け、2020年12月に、デジタルネイティブ世代をターゲットにした、ドコモの既存プランとは完全分離された新プラン「ahamo」を2021年3月に導入することを発表している。 2022年にはNTTコミュニケーションズを傘下に収めた関係で、NTTコムが提供する格安スマホ「OCNモバイルONE」をNTTドコモショップで販売している。このNTTコムの個人向け事業は2022年7月1日付をもって、同じくNTTドコモが子会社化したNTTレゾナントに事業を委譲する予定である 2023年7月1日より、ギガホとギガライトが合併した「eximo」とライトユーザー向けの「irumo」のプランを開始した。それにともない、「ギガホ」「ギガライト」「OCNモバイルONE」の新規受付は終了している。 NTTドコモのXi/FOMA回線網をMVNO事業者へ貸し出すMNO事業を行っている。 ワイドスターは赤道上空36,000 kmにある2機の静止軌道衛星 (N-STAR) を使った公衆通話サービスである。2010年5月末時点で、38,100契約である。利用可能エリアは日本の領土・領海・経済水域のうち、正午ごろに太陽を見渡せる場所を全てカバーする。主に山小屋、船舶といった携帯電話や固定電話の届きにくい場所で利用されている。2004年3月まで、航空機内においてもサービスが提供されていた。 衛星軌道が遠いため、0.2秒程度音声に遅延が発生する。また通信に高出力が必要であるため、電話機は最小の可搬型で1.7 kgである。主に可搬型・車両型・船舶型の3形態である。車両型・船舶型は常に静止衛星にアンテナが向くよう、自動追尾アンテナを備える。可搬型にはそれ自体に指向性の強いアンテナが内蔵されており、アンテナを南方向に向けることにより、通信が可能となる。 屋内で利用するため外部アンテナと接続することもできる。割り当て番号は日本の携帯電話番号と同じで、衛星電話に着信する際の料金体系も、地上系携帯電話の料金と同じであるため、世界的な比較でも格安な衛星通信である。地上インフラへの依存度は低く、災害時も輻輳が起こりにくく、下記の2箇所に分散された「衛星アップリンク局」が同時に被災しない限り、通信に支障が生じることは無く、移動予備局への移行も容易である。 その実力は、未曾有の被害となった東日本大震災で、地上の携帯電話基地局が地震や津波や長時間停電などで、次々と麻痺・機能不全になった時でも、安定した通話・通信が実証されたため、災害対策機関だけでなく、官公庁や企業でも災害対策用として導入している。 2010年4月からはワイドスターIIという、データ通信速度の高速化及びパケット料金の低廉化を図った新サービスを開始している。 NTTドコモの国際ローミングサービスとしてWORLD WINGというサービスを提供している。これは電話番号やメールアドレスはそのままにNTTドコモと提携している海外の通信事業者のサービスエリアで利用できるサービスである。通話のほかiモード(iモードメール含む)・SMS・データ通信など海外で利用することができる。 利用できるエリアは210カ国と、日本人が渡航するほとんどの国で利用が可能である。またコネクサスモバイルアライアンス等、海外との通信キャリアとの提携を積極的に行っており、2010年9月には海外パケ・ホーダイの提供により、海外での定額のパケット利用料などのサービスを提供している。2007年頃から、WORLD WING搭載の機種が増えているが、日本の国際空港では、ドコモワールドカウンターを設け、国際ローミング端末のレンタルも行っている。 国際電話(日本発海外)では、WORLD CALLというサービスを行っており、NTTドコモの全端末から利用することが可能である。ガイドブックには記載はないが、イリジウム衛星携帯電話に電話することができる。 NTTドコモでは、インターネットサービスプロバイダ(ISP)事業を展開している。 ドコモ光は、NTT東日本・西日本及び提携ケーブルテレビ局の光回線の卸売を利用してFMCを行うものである。各ISPと提携しているが、ドコモnetの選択も可能である。 mopera(モペラ)はNTTドコモの携帯電話(mova、初期のFOMA)やDoPa、衛星電話といった全ての通信でインターネット接続ができるもので、利用料は基本的に無料である。FOMAに特化しデータ圧縮やセキュリティー対策のとれるmopera U(モペラユー)ではiモードが使えないドコモのスマートフォンでのプッシュ型電子メールや定額データプランでの接続などができるほか、オプションで公衆無線LANやフレッツ光やフレッツADSLを安価に利用することができる。 かつてはドコモ・エーオーエルやドリームネットといったISPも運営していたが、他社への売却やOCNへの統合などでmoperaとドコモnetだけである。 その他にd Wi-Fiという公衆無線LANサービスを提供している。これはドコモ契約者向けにdocomo Wi-Fi(ドコモ ワイファイ)として有料で提供していたサービスをdポイントクラブ会員向けに無料で提供するよう拡張したものである。法人名義のドコモ回線を所有しているドコモビジネスメンバーズ会員向けに、同じく無料でドコモビジネスWi-Fiが提供されている。 docomo Wi-Fiは、かつてはMzone(エムゾーン)の名前でサービスを展開していたが、2012年3月1日より名称変更された。回線契約者向けに前述のmopera Uの公衆無線LANのオプションサービスやスマートフォン向けのspモードの公衆無線LANオプションサービスとしてdocomo Wi-Fiの公衆無線LANサービスを提供していたが、NTTドコモの回線契約がなくても、docomo Wi-Fiのサービスを単体で契約して利用することができた(利用料はmopera Uやspモードの公衆無線LANのオプションよりは割高)。 d Wi-Fi(かつてのdocomo Wi-Fiも含む)およびドコモビジネスWi-Fiの提供エリアは日本の有料で提供される公衆無線LANのなかでは最大で、コンビニエンスストア、飲食店、駅、空港、複合ビル、ホテル、パーキングエリアなどで利用することができる。 1998年にNTTパーソナルよりPHS事業の譲渡を受け、事業展開を行っていた。NTTドコモの携帯電話事業との競合を極力避けるため、音声通話よりもデータ通信や位置情報端末、パッセージといわれるPHSを使った構内内線や家庭内内線などといった分野に力を入れていった。2000年ごろはパーム (Palm/SONY) やザウルス (Zaurus/SHARP)、Windows CE端末といった携帯情報端末 (PDA) が全盛期ということもあり、それにあわせたコンパクトフラッシュタイプのデータ通信端末を中心に契約数を伸ばし、ピーク時には200万以上の契約数で市場占有率2位であった。2001年前半にFOMA等に先駆けてマルチメディアサービスM-Stage(音楽配信・動画配信)も行われていた。しかし事業自体は赤字が続き、生き残りの施策として2003年に@FreeDという定額データ通信サービス(回線交換によるドーマント方式)を開始。一時期収益を持ち直したが、競合するDDIポケットがAir H"サービス(パケット交換方式)の先行に追いつけず、端末と料金設定が充実した2005年頃にはFOMAサービスの低廉化とデータ通信や構内内線 (PASSAGE DUPLE) 事業が社内競合し始めた事や、設備の老朽化によりエリア拡充や新規サービス追加が困難なことから、事業継続のメリットが少なくなってきた。PHS事業を手がける3大グループの中のアステルグループが2002年より一部地域会社で撤退が始まり(2006年12月にアステルとしてのサービスは全て終了)、ドコモPHSの動向が注目されていた。2005年4月30日を以て新規加入を停止、2008年1月7日24時をもって全てのサービスを終了した。ドコモPHSの利用者はFOMAへの移行優遇措置やウィルコムへの斡旋等を行い、NTTグループ全体としてみても、通信分野部門単位で初めて他事業者に市場を明け渡したことになる。2008年1月7日以降は、ウィルコムグループ→ワイモバイルのみがPHSの全国サービスを展開し存続する事業者になったが、これも2023年3月末日をもって全サービスが終了した。 日本で唯一ポケットベルサービスを全国の都道府県で提供する事業者であった。NTTドコモの営業開始当初は、携帯電話よりポケットベル加入者の方が多かった時期もあった。1968年7月1日に、東京23区で旧電電公社が始め、1978年に280MHz帯のFSK変調200b/sのNTT方式のサービスが開始された。当初は呼び出し音のみのものであったが、バイブレーションタイプ、カードタイプと進化していった。1985年の通信自由化によりテレメッセージグループが参入し、ポケットベル価格が安価になり、1990年代は端末が「ネクスト」シリーズとしてラインナップされ、数字・カタカナ・漢字の表記もできるように高機能になっていった。 1996年以降は、携帯電話・PHSの低価格化とポケベル同様の「ショートメール」機能を備えた機種の登場により、プライベート用途で利用していたユーザの流出が起き始める。 1997年からパソコンから電子メール網(SMTP)を経由してメッセージを送信するアプリケーション、占い・天気予報・ニュースなどのプッシュ型情報配信サービス(タクシーや自動販売機の電光掲示板配信にも応用)や、“帰宅や連絡を促す”定型文(シンプルネクスト)のみに対応した子供向け端末「キッズベル」の発売、1999年には発信者課金で基本料不要の「ゼロニード」(02DO/020発信電話)のサービスも開始され、テレビCMもiモード登場後の02DOサービスインまで行われていた(「キッズベル」を除き、東京テレメッセージでも同等のサービスが近年まで提供されていた。)。 2001年4月にポケットベルからクイックキャストへサービス名称を変更した。“確実に届く”ページャーの特性を前面に出し、新端末「スクーパー」シリーズも発売されたが、携帯電話の加入者増加が続き、利用者が大幅に減少したため、2004年6月30日に新規申込受付を終了、2007年3月31日限りで事業を終了した。 NTTドコモが2007年に撤退した後は、テレメッセージグループだった沖縄テレメッセージと東京テレメッセージ(2代目:2008年10月1日にYOZANから会社分割)がポケットベル事業を継続していたが、沖縄テレメッセージは2017年4月に、東京テレメッセージは2019年9月に事業終了した。 NTTドコモは、元々は『ドコモカード』というクレジットカードを、クレジットカード会社と提携して提供していた。おサイフケータイでのクレジットカードサービスの促進、さらに新たな収益確保の一環として、2005年12月1日より三井住友カードに出資し、非接触型クレジットブランドである「iD」サービスを始めた。 2006年5月26日サービス開始の「DCMX」・2015年11月20日発行開始のdポイントカード一体型の「dカード」をドコモ独自のiD対応クレジットカードとして発行している。VISA / Master ブランドのクレジットカードでも、ショッピングやキャッシングの利用が可能。ETCカードも発行されている。 DCMXには、カードを発行せず、おサイフケータイのiDによるショッピングのみ対応の簡易サービス「DCMX mini」もある。利用限度額1万円・ショッピングポイント非加算という制約があるものの、FOMAのおサイフケータイを保有している数百万 - 1千万程度の契約者が申込むことができ、ケータイクレジットのすそ野を広げる狙いがある。 ドコモのケータイ払いは、dアカウントでの買い物の代金を携帯電話料金などとまとめて決済するサービスである。dポイントが付与され使用できる。dアカウントは、ドコモ回線契約がなくても取得できる。 iDはNTTドコモ、三井住友カードの他にも、イオンクレジットサービスやクレディセゾン(セゾン・UC両ブランド)など、合計68社が提供を行っており、2009年1月には、おサイフケータイによるiD・iD一体型クレジットカードとiD単体カード(VJAグループ)を併せた発行枚数が1,000万枚を突破している。「DCMX」の会員数も2009年8月24日に1,000万人を突破している。 iD利用可能な店舗はセブン-イレブン、ローソン、ファミリーマート、デイリーヤマザキといったコンビニエンスストアや、日本マクドナルド、牛角、イオン、ビックカメラ、ヨドバシカメラ、コジマ他多数の店舗で利用が可能である。また日本コカ・コーラの自動販売機であるシーモ2やタクシーでも利用できるものがある。 対応決済端末台数は42万台と、SuicaやEdyを超えている。世界でも、2008年7月よりグアム、8月に中華人民共和国上海市でも利用可能になった。 太字は地域支社所在都府県。地域支社は合併前の各地域会社の本社であった。なお傘下支店はその後、ドコモCSの各地域会社に移管され、ドコモ本体には地域支社組織しかない。契約者数は2019年12月末現在 以下の写真に挙げられた各建物は、子会社等を含めた事務部門が入っているもの、電話交換設備のみが置かれているものとに分けられる。 NTTドコモの製品やサービスを販売している店舗は、ドコモショップを中心として、全国で約2,393店(2011年3月末)ある。その他に家電量販店や取次店などで販売されている。 主な業務の内容は以下の通りである。 ドコモショップにはDOCOPY(ドコピー)と呼ばれる、携帯電話メモリーコピーツールが店頭に置いてあり、新機種へアドレス帳、写真、メールなどのデータの移行や、MNPなどで、メールアドレスが変更になった際などメールアドレス変更の一斉通知などができる。データのコピーは他社からドコモへの変更も可能である(一部対応しない機種もある)。 大半の店舗が、NTTドコモと代理店契約した会社が運営している。主な代理店には、コネクシオ(伊藤忠商事グループ)、ティーガイア(三井物産・住友商事・三菱商事が出資)、MXモバイリング(丸紅グループ)、兼松コミュニケーションズ株式会社やTDモバイル(旧・豊通シスコム。豊田通商・デンソー子会社)といった商社系、携帯電話メーカー系、その他に、自動車修理工場や本田技研工業、日産自動車といった自動車メーカー系の代理店がある(自動車電話を据え付ける作業を修理工場や自動車ディーラーで行っていた名残)。メーカー系の代理店は、NTTドコモへ携帯電話を納入するメーカーの相次ぐ事業撤退により、富士通以外ほとんどが買収合併により現存しない。 地方には、地元の電器屋、自動車修理工場といった、地域に根づいた代理店もある。代理店には、1次代理店、2次代理店、3次代理店、取次店などとあるが、ドコモショップは、基本的に1次代理店か2次代理店が行っている。ヨドバシカメラ、ビックカメラといった家電量販店は、2次代理店であることが多い。エディオン(旧・エイデン)やノジマのように、1次代理店業務を行っている子会社を持ち、ドコモと直接契約している量販店も存在する。 かつては直営店舗や支店窓口も存在したが、現在は機能分担子会社であるドコモCS及び各地域ごとのドコモCS地域会社に移管・集約されている。 以前は、ドコモショップより小型の販売店が存在した。業務自体は基本的にドコモショップと変わらないが、店舗によって受けられるサービスに一部制限(故障端末を受け付けない、携帯電話利用料金の収納業務を行わない等)があった。小規模の駅周辺、ドコモショップと競合しない区域、人口がさほど多くない地域、商業施設にテナントとして入居等、基準は各地区毎に異なる。ドコモショップと同様に、NTTドコモと契約した運営会社が運営しており、地域毎に呼び名が異なる。2008年7月のNTTドコモグループ8社統合とブランド変更を機に、2008年度末までに小規模販売店を全てドコモショップへ移行している。統合時には北海道地区、東北地区、北陸地区の全店でドコモショップへの移行が行われた。また、ロゴデザインの変更による店舗デザインのリニューアルが2008年夏より順次各店舗で行われた。また、電話機販売業務のみを行う取扱店が全国各地にある。NTTドコモの看板を掲げるなど、一見ドコモショップと変わらない外観の店舗も存在するが、一部を除き電話料金の収納や故障修理受付、解約業務等は行わない。 主な基幹システムとして、経営管理システム「DREAMS」、顧客管理システム「ALADIN」、料金システム「MoBills」の3つがある。これらは全てオラクルのデータベースを採用している。使用されているサーバーはUNIX系Solaris、そしてWindowsサーバであるが、使用割合(台数)は後者の方が多い。 以下のオプション製品は、ドコモショップへ持参する事でリサイクル処分することが出来る。 UHFアニメ×KADOKAWA作品の製作に関与している。携帯電話会社でアニメ製作に参加することは異例である。 2010年10月から2011年10月までテレビ東京×KADOKAWA作品の製作に参加した。 なお、角川書店とは2012年7月開始のスマートフォン向けアニメコンテンツ配信事業、アニメに関するコンテンツ管理業務や新作アニメ作品への出資等を行う合弁会社、株式会社ドコモ・アニメストアを同年5月下旬に設立した。 製作委員会として参加 原則として2022年4月現在 ドコモのサービスの基盤となる業務を効率的かつ機動的に運営するため地域別に設立した子会社 北海道 東北 関東・甲信越 東海 北陸 関西 中国 四国 九州・沖縄 他 他 当該基地局はいずれも問題発覚後に、撤去あるいは移設された。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株式会社NTTドコモ(英: NTT DOCOMO, INC.)は、携帯電話などの無線通信サービス(移動体通信事業者〈MNO〉)および長距離、国際通信を提供する、日本最大手の電気通信事業者。日本電信電話 (NTT) の完全子会社。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1968年7月1日に、日本電信電話公社(電電公社)が移動体通信サービスポケットベルを開始した事がNTTドコモの起源となる。電電公社民営化後の1990年2月に、日本国政府の措置として日本電信電話株式会社(NTT)から「移動体通信業務の分離」が決定し、1991年8月14日に「エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社(NTT移動通信企画)」が設立、1992年7月の分社化とともに「NTTドコモ」のブランドでサービスを行なっている。1999年には、世界初の携帯電話でのインターネット接続サービス(携帯電話IP接続サービス)であるiモードを発表した。2008年7月に各地域会社を合併し、全国1社体制となった。それまではNTTドコモグループを統括する中核会社であり、同時に関東地方および甲信越地方を管轄する事業会社でもあった。NTTドコモグループ全般と区別するために、この会社を指す際には便宜的に「(NTT) ドコモ中央」とも呼ばれていた。合わせてコーポレートロゴマークも旧来の「NTT DoCoMo」から現在の「NTT docomo」に改められた。2010年に正式の英文名を「NTT DoCoMo, Inc.」から「NTT DOCOMO, INC.」に変更した。また2013年10月1日に、商号を「エヌ・ティ・ティ・ドコモ」から、これまで通称社名として使用してきた「NTTドコモ」に統一した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2020年現在では、W-CDMA・HSPAを用いた「FOMA」(第3・第3.5世代移動通信システム、2001年サービス開始)、LTEを用いた「Xi」(第3.9世代移動通信システム、2010年サービス開始)、LTE-Advancedを用いた「PREMIUM 4G」(第4世代移動通信システム、2015年サービス開始)、5G NRを用いた「docomo 5G」(第5世代移動通信システム、2020年サービス開始)による携帯電話事業を中心として各種事業を展開している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "NTTが発行済株式の100%を所有しており、同社の連結子会社(金融商品取引法上の特定子会社)である。NTTグループの営業利益の7割を稼ぎ出す稼ぎ頭でもある。ただし、「日本電信電話株式会社等に関する法律」(通称: NTT法)は当社には適用されず、特殊会社でもない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "かつて手がけていた「PHSサービス」は2008年1月7日、またPDCを用いた「シティフォン」(東名阪限定、1.5GHz帯第2世代移動通信システム)は2008年6月30日、「mova」「DoPa」(第2世代移動通信システム)は2012年3月31日にサービスを終了した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2020年9月、NTTドコモの競争力強化と成長、並びにNTTグループ全体の成長を目指す観点から、統括持ち株会社のNTTがドコモの完全子会社化を発表し、その際に次の4つの目指す方向性を示した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これらの目指す方向性を実現させるにはグループ横断での経営資源の戦略的な活用と、意志決定の迅速化が必要ということで、NTTがドコモを完全子会社化するとともに、NTTコミュニケーションズ(以下NTTコムと表記)、NTTコムウェアなどのグループ各社の能力も活用しながら、6G時代を見据えた通信基盤整備の拡充や、新たなソリューションサービスの提供を推進し、ドコモの成長をNTTグループ全体の成長を図ることを目指している", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2022年、それまでグローバル持株会社のNTT,Inc.傘下にあった長距離通信事業会社・NTTコムをドコモが完全子会社化し、NTTグループ内のモバイル・長距離通信事業はドコモグループが事実上一元管理する形となった。またこの事業の再編により、大きく", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "の4つの事業を柱とする事業内容の再編と明確化も併せて進めていくことになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "具体的には、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2021年7月からのブランドスローガンは「あなたと世界を変えていく。」。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本国内携帯電話契約数は約8,749万契約で、国内携帯電話市場における市場占有率は約41%で、ともに1位(2023年3月末現在)。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "現在はW-CDMA方式・HSPA方式の第3世代・第3.5世代携帯電話「FOMA」と、2010年12月24日に国内移動通信事業者各社に先駆けて開始したLTE方式の第3.9世代携帯電話「Xi」、2015年3月27日に開始したLTE-Advanced方式の第4世代携帯電話「PREMIUM 4G」、2020年3月25日に開始した第5世代携帯電話「docomo 5G」をサービスしている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1千万契約ごとの到達年月", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1997年12月開始の10円メールサービス(2008年2月終了)や1999年2月開始の「iモード」サービスが爆発的ヒットとなり、市場占有率を高めた。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "iモード普及期の1999年から2001年にかけて、当初のiモードメールアドレスは「携帯電話番号@docomo.ne.jp」であった。悪意を持ったコンテンツ事業者は「携帯電話番号@docomo.ne.jp」というメールアドレスをコンピュータで自動生成し、自社の勝手サイトを宣伝する「迷惑メール」をiモード宛に大量送信した。受信者にメール受信料金の金銭負担がかかる迷惑メールは社会的に大きな問題になった。このため、2001年7月よりiモードに向けて大量に一斉送信されたメールをiモードセンターが探知し、削除して受信させないことである程度の抑制が出来るようになったほか、契約直後のアドレスはランダムな英数字から始まる仕様に変更され、iモード上の「メール設定」でアドレス(メールアカウント)の他、迷惑メール対策の設定変更ができるようになっている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "同じ頃、J-フォン(現・ソフトバンク)はメール受信無料を強くPRしており、また「受信メールにもパケット料金を課金する」というNTTドコモと同様の仕組みを導入していたau(KDDI・沖縄セルラー電話連合)が2001年1月に「コミコミパック」という無料通信分を含んだ割引プランを導入した。一方、NTTドコモは2001年8月からiモード利用者に対して、迷惑メール対策の一環として毎月400パケットまでは無料とした。また、電波帯域に余裕のあるW-CDMA (FOMA) においては、1パケットの単価を若干下げると共にコミコミパックと同様の「パケットパック」を導入した。2005年11月、新統一料金プラン導入時に同プラン利用者のiモード基本料金を値下げし、毎月の「400パケット無料」を廃止した。また、2008年6月にはiモード基本料金を他社と横並びの月額315円に改定した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2001年10月に世界初のW-CDMA方式の第3世代携帯電話サービスとして開始された「FOMA」は、2004年に最新機能を盛り込んだ900iシリーズの発売を機にドコモの主力サービスとして位置づけられた。その後、「mova」から「FOMA」への加入者移行を図ったことで、2004年4月から2008年6月末まで第3世代携帯電話での純増数は50か月連続1位となり、2006年7月にはFOMAの契約数はmova契約数を上回った。2008年11月にmovaサービス・2009年3月にデュアルネットワークサービスの新規契約を終了し、2012年3月31日を以てPDC方式によるmova携帯電話サービスを終了した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "FOMAのデータ通信速度は2001年10月の導入当初、送受信とも64 Kbpsの回線交換と、受信最大384 Kbps送信最大64 Kbpsの無線パケット通信でサービスが開始された。2003年9月に、カード型端末 F2402 が発売され、送受信とも最大384 Kbpsでの通信が利用可能となった。音声端末においては、その後も、送信は最大64 Kbpsであった。2006年8月に、FOMAハイスピードの名称で W-CDMA の上位規格であるHSDPAが導入され、受信最大3.6 Mbps上り送信384 Kbpsの通信速度が利用可能となった。2008年4月に、FOMAハイスピードの受信速度が最大7.2 Mbpsに向上され、2009年6月には、HSPA規格の導入により送信も最大5.7 Mbpsに向上された。2011年6月からは、FOMAハイスピード受信速度が14 Mbps (理論値: 14.4 Mbps) に引き上げられた。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "積極的なFOMAエリアおよびFOMAハイスピードエリアの拡大によって通信エリアによる顧客満足度が向上し、2009年3月にはデータ通信における顧客満足度で1位になり、2009年7月の携帯電話純増数でも第1位になり2009年度全体でも純増数が4年ぶりに1位となっている。また2010年にはJDパワー顧客満足度調査で初めて業界1位を獲得した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現在、世界中の通信事業者が導入し始めている第3.9世代移動通信システムの規格である Long Term Evolution (LTE)についても、ドコモは「Xi(クロッシィ)」という新たなサービスブランドで、2010年12月24日よりサービスを開始し、東京・大阪・名古屋から政令都市・全国へと基地局を増やしている。「Xi」の導入によって導入当時一部の屋内エリアで最大75 Mbps、その他のエリアで最大37.5 Mbpsの通信速度が利用可能となった。一部地域において2012年冬より受信最大速度最大112.5 Mbpsにまで、2013年夏より受信最大速度最大150 Mbpsにまで向上した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2006年10月に開始した「番号ポータビリティ (MNP)」では当初苦戦し、2006年11月度の契約数が自社初の純減となった。その後も、auに比べ純増数が少ない状態が続いた。さらにはソフトバンクにも純増数で劣り、MNP開始後2社に大きく遅れをとった。また、2008年1月度はイー・モバイルにも純増数で劣った。ドコモは2007年5月より「DoCoMo2.0」という旗印で顧客獲得を狙ったが、2007年8月度に、創業以来2度目の純減 (-22,900)となった。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この純減状況に、更なる追い打ちをかけたのが、フィーチャーフォンに変わる「スマートフォンの台頭」と、2007年にWWDCで発表されたAppleのスマートフォン「iPhone」の登場である。とりわけiPhoneは、画面上を指の操作によるマルチタッチ機能が、斬新で直感的な操作体系に加えて、パーソナルコンピュータとほぼ同等の機能を持つ「フルブラウザ機能」と「電子メール機能」を搭載したことで、iPhoneの市場規模が拡大した。翌年の2008年に発表されたiPhone 3Gにて、ソフトバンクが参入したことで、日本国内においてもスマートフォンが普及するきっかけとなった。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "スマートフォンの台頭で、ドコモも対応に追われ、2008年7月から新しいドコモブランドに変更することとなった。2008年11月には「90X・70X」といった数字による携帯電話の付番方式を改め、型番を整理し、docomo PRIME series, docomo STYLE series, docomo SMART series, docomo PRO seriesといった4つのシリーズに分類するようになり、2008年度からは1100シリーズ、docomo PRO seriesでWindows Mobile, BlackBerry, Android(Googleケータイ)といったスマートフォンを立て続けに発売した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2010年夏からはスマートフォンを PRO series カテゴリから独立させ「ドコモ スマートフォン」とし、2010年9月にはスマートフォンでもiモードのメールアドレスなどが利用できる「spモード」がサービス開始になった。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2011年冬季モデルの端末からは、従来型携帯電話の上位シリーズを「docomo STYLE series」に統合してスマートフォンを主力に位置付けた上で、ワンセグやおサイフケータイといった従来型携帯電話に搭載されていた機能を付け加えた「docomo with series」と、旧来の「ドコモ スマートフォン」の流れを引き継ぐ先進的なユーザー向けのスマートフォンという位置づけとなる「docomo NEXT series」の2つのシリーズに分類した。2011年冬モデル以降は「Xi」対応の音声通信端末が発売された。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "しかし、これまで通信規格「CDMA」の問題で、iPhoneに参入出来なかったauが、iPhone 4sの発売と同時に参入したことで、iPhone 3GS以降の機種で、FOMAの通信規格に対応していたにもかかわらず、ドコモだけがiPhoneを取り扱わない状態に陥っていた。これは、ソフトバンクのiPhone参入時からドコモのiPhone参入時までの間に、ドコモでは2度の社長交代が行われており、経営方針の変更を余儀なくされていたのに加えて、2010年のパケットビデオ社の買収や2012年のNOTTVの放送開始、当時のドコモの傲慢な態度も、ユーザーの不評を買う要因となっていた。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "その影響を受けて、2008年夏以降は番号ポータビリティ転出数や解約率の低下が顕著になり、同年12月にはMNP制度開始以来初の転入超過となっている。2012年1月には初めて「FOMA」契約が純減となり、iPhone参入までの間は、苦戦が続いた。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "このような過去の失敗と反省を踏まえて、ドコモは経営戦略の見直しを図り、新たに「2トップ戦略」を打ち出し、ソニーエリクソンとサムスン電子のスマートフォンに、販売奨励金をより多く投入すると共に(結果的には失敗に終わるが)、2013夏季モデルの端末からは、「docomo with series」と「docomo NEXT series」の2つのシリーズによる分類も無くなった。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2013年秋には、ソフトバンク、auに続いて、日本国内でのiPhone参入 (iPhone 5s / 5c) をようやく果たした。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "他社に比べ料金プランや端末価格が高額というイメージがあることなどが挙げられる。FOMAでのパケ・ホーダイ(iモード通信を対象としたパケット定額制料金プラン)・パケ・ホーダイフル(iモード通信・フルブラウザを対象としたパケット定額制料金プラン)(パケ・ホーダイダブルのサービス開始に伴い、2008年12月31日をもって新規申込受付を終了)の導入や利用可能エリアの拡大、サービスや端末のバリエーションの強化、家族間通話24時間無料などファミリー割引の強化、料金プランのFOMAとmovaの統一、ファミ割MAX50とひとりでも割引50の導入による料金が高額というイメージの払拭、新料金体系(バリューコース・ベーシックコース)導入に伴う端末の割賦販売の開始、さらなる高速パケット通信規格であるHSDPAの導入、MOAPといったソフトウェアにおける共通プラットフォーム開発などの対抗策を打っている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2004年には「iモードFeliCa」を開始した。愛称は「おサイフケータイ」で、これを基にした「モバイルSuica」のサービスも行われている。「おサイフケータイ」は他社にもライセンスが供与されている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2006年8月31日、HSDPAと呼ばれる高速パケット通信規格を使用したサービス「FOMAハイスピード」を開始した。HSDPAは第3.5世代移動通信システムの高速データ通信の受信規格(ダウンロード)に相当する。これを利用した、「着うたフル」の配信や深夜に音楽番組を自動でダウンロードする「Music&Videoチャネル」も行っている。また、同じ第3.5世代移動通信システムの高速データ通信の送信規格(アップロード)であるHSUPA方式の「FOMAハイスピード」も採用され、FOMAのデータ通信サービス「FOMAハイスピード」は送受信とも高速化を実現した。更に、第4世代移動通信システムに相当するXi(クロッシー)、第5世代移動通信システムへの新方式の研究・開発を積極的に行っている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2008年度からは、今までドコモが作ったビジネスモデルであるiモードシステムでは開拓しきれなかった分野にも取り組んでいる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2010年9月より、スマートフォン用ISPサービス「spモード」をサービス開始、ワンセグ、おサイフケータイ搭載のスマートフォンの発売を開始し、更に大日本印刷と提携し、同社のスマートフォン向け電子書籍配信サイト「2Dfacto」を立ち上げるなどして販売拡大に取り組んでいる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2011年9月からは、タブレット端末を新たなカテゴリ「ドコモ タブレット」で展開している。また、2011年4月1日以降に販売する端末は、総務大臣が示すガイドラインに基づき、iPhoneを除いた全ての携帯端末で、SIMロック解除可能(SIMフリー)とした。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "更に2014年夏には、「Xi」による高音質通話サービス「VoLTE」(Voice over LTE) が開始された。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2015年2月から、「口座振替のご案内の封書」は有料化され、郵送料は50円(消費税抜き)、請求書払いは100円(消費税抜き)の取扱手数料が掛かるようになった(eビリングは継続)。同年、タカラトミーと共同で、コミュニケーショントイ・オムニボット「OHaNAs」を開発した。しゃべってコンシェルの技術を応用し、円滑な会話が可能となっている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2019年秋、ラグビーワールドカップ2019に合わせ、5Gのプレサービスを開始し、2020年3月25日に5Gサービスを正式に開始した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2020年9月には、今後の6G携帯電話への研究開発に向けてのNTTグループとしての国際競争力を高めるなどの狙いから、持株会社である日本電信電話(NTT)がドコモを完全子会社化することが発表された。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、KDDIやソフトバンクのようにサブブランドを持っていなかった同社は、大手携帯電話会社への月額料金の値下げを迫った菅義偉内閣の要望を受け、2020年12月に、デジタルネイティブ世代をターゲットにした、ドコモの既存プランとは完全分離された新プラン「ahamo」を2021年3月に導入することを発表している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2022年にはNTTコミュニケーションズを傘下に収めた関係で、NTTコムが提供する格安スマホ「OCNモバイルONE」をNTTドコモショップで販売している。このNTTコムの個人向け事業は2022年7月1日付をもって、同じくNTTドコモが子会社化したNTTレゾナントに事業を委譲する予定である", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2023年7月1日より、ギガホとギガライトが合併した「eximo」とライトユーザー向けの「irumo」のプランを開始した。それにともない、「ギガホ」「ギガライト」「OCNモバイルONE」の新規受付は終了している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "NTTドコモのXi/FOMA回線網をMVNO事業者へ貸し出すMNO事業を行っている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ワイドスターは赤道上空36,000 kmにある2機の静止軌道衛星 (N-STAR) を使った公衆通話サービスである。2010年5月末時点で、38,100契約である。利用可能エリアは日本の領土・領海・経済水域のうち、正午ごろに太陽を見渡せる場所を全てカバーする。主に山小屋、船舶といった携帯電話や固定電話の届きにくい場所で利用されている。2004年3月まで、航空機内においてもサービスが提供されていた。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "衛星軌道が遠いため、0.2秒程度音声に遅延が発生する。また通信に高出力が必要であるため、電話機は最小の可搬型で1.7 kgである。主に可搬型・車両型・船舶型の3形態である。車両型・船舶型は常に静止衛星にアンテナが向くよう、自動追尾アンテナを備える。可搬型にはそれ自体に指向性の強いアンテナが内蔵されており、アンテナを南方向に向けることにより、通信が可能となる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "屋内で利用するため外部アンテナと接続することもできる。割り当て番号は日本の携帯電話番号と同じで、衛星電話に着信する際の料金体系も、地上系携帯電話の料金と同じであるため、世界的な比較でも格安な衛星通信である。地上インフラへの依存度は低く、災害時も輻輳が起こりにくく、下記の2箇所に分散された「衛星アップリンク局」が同時に被災しない限り、通信に支障が生じることは無く、移動予備局への移行も容易である。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "その実力は、未曾有の被害となった東日本大震災で、地上の携帯電話基地局が地震や津波や長時間停電などで、次々と麻痺・機能不全になった時でも、安定した通話・通信が実証されたため、災害対策機関だけでなく、官公庁や企業でも災害対策用として導入している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2010年4月からはワイドスターIIという、データ通信速度の高速化及びパケット料金の低廉化を図った新サービスを開始している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "NTTドコモの国際ローミングサービスとしてWORLD WINGというサービスを提供している。これは電話番号やメールアドレスはそのままにNTTドコモと提携している海外の通信事業者のサービスエリアで利用できるサービスである。通話のほかiモード(iモードメール含む)・SMS・データ通信など海外で利用することができる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "利用できるエリアは210カ国と、日本人が渡航するほとんどの国で利用が可能である。またコネクサスモバイルアライアンス等、海外との通信キャリアとの提携を積極的に行っており、2010年9月には海外パケ・ホーダイの提供により、海外での定額のパケット利用料などのサービスを提供している。2007年頃から、WORLD WING搭載の機種が増えているが、日本の国際空港では、ドコモワールドカウンターを設け、国際ローミング端末のレンタルも行っている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "国際電話(日本発海外)では、WORLD CALLというサービスを行っており、NTTドコモの全端末から利用することが可能である。ガイドブックには記載はないが、イリジウム衛星携帯電話に電話することができる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "NTTドコモでは、インターネットサービスプロバイダ(ISP)事業を展開している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ドコモ光は、NTT東日本・西日本及び提携ケーブルテレビ局の光回線の卸売を利用してFMCを行うものである。各ISPと提携しているが、ドコモnetの選択も可能である。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "mopera(モペラ)はNTTドコモの携帯電話(mova、初期のFOMA)やDoPa、衛星電話といった全ての通信でインターネット接続ができるもので、利用料は基本的に無料である。FOMAに特化しデータ圧縮やセキュリティー対策のとれるmopera U(モペラユー)ではiモードが使えないドコモのスマートフォンでのプッシュ型電子メールや定額データプランでの接続などができるほか、オプションで公衆無線LANやフレッツ光やフレッツADSLを安価に利用することができる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "かつてはドコモ・エーオーエルやドリームネットといったISPも運営していたが、他社への売却やOCNへの統合などでmoperaとドコモnetだけである。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "その他にd Wi-Fiという公衆無線LANサービスを提供している。これはドコモ契約者向けにdocomo Wi-Fi(ドコモ ワイファイ)として有料で提供していたサービスをdポイントクラブ会員向けに無料で提供するよう拡張したものである。法人名義のドコモ回線を所有しているドコモビジネスメンバーズ会員向けに、同じく無料でドコモビジネスWi-Fiが提供されている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "docomo Wi-Fiは、かつてはMzone(エムゾーン)の名前でサービスを展開していたが、2012年3月1日より名称変更された。回線契約者向けに前述のmopera Uの公衆無線LANのオプションサービスやスマートフォン向けのspモードの公衆無線LANオプションサービスとしてdocomo Wi-Fiの公衆無線LANサービスを提供していたが、NTTドコモの回線契約がなくても、docomo Wi-Fiのサービスを単体で契約して利用することができた(利用料はmopera Uやspモードの公衆無線LANのオプションよりは割高)。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "d Wi-Fi(かつてのdocomo Wi-Fiも含む)およびドコモビジネスWi-Fiの提供エリアは日本の有料で提供される公衆無線LANのなかでは最大で、コンビニエンスストア、飲食店、駅、空港、複合ビル、ホテル、パーキングエリアなどで利用することができる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1998年にNTTパーソナルよりPHS事業の譲渡を受け、事業展開を行っていた。NTTドコモの携帯電話事業との競合を極力避けるため、音声通話よりもデータ通信や位置情報端末、パッセージといわれるPHSを使った構内内線や家庭内内線などといった分野に力を入れていった。2000年ごろはパーム (Palm/SONY) やザウルス (Zaurus/SHARP)、Windows CE端末といった携帯情報端末 (PDA) が全盛期ということもあり、それにあわせたコンパクトフラッシュタイプのデータ通信端末を中心に契約数を伸ばし、ピーク時には200万以上の契約数で市場占有率2位であった。2001年前半にFOMA等に先駆けてマルチメディアサービスM-Stage(音楽配信・動画配信)も行われていた。しかし事業自体は赤字が続き、生き残りの施策として2003年に@FreeDという定額データ通信サービス(回線交換によるドーマント方式)を開始。一時期収益を持ち直したが、競合するDDIポケットがAir H\"サービス(パケット交換方式)の先行に追いつけず、端末と料金設定が充実した2005年頃にはFOMAサービスの低廉化とデータ通信や構内内線 (PASSAGE DUPLE) 事業が社内競合し始めた事や、設備の老朽化によりエリア拡充や新規サービス追加が困難なことから、事業継続のメリットが少なくなってきた。PHS事業を手がける3大グループの中のアステルグループが2002年より一部地域会社で撤退が始まり(2006年12月にアステルとしてのサービスは全て終了)、ドコモPHSの動向が注目されていた。2005年4月30日を以て新規加入を停止、2008年1月7日24時をもって全てのサービスを終了した。ドコモPHSの利用者はFOMAへの移行優遇措置やウィルコムへの斡旋等を行い、NTTグループ全体としてみても、通信分野部門単位で初めて他事業者に市場を明け渡したことになる。2008年1月7日以降は、ウィルコムグループ→ワイモバイルのみがPHSの全国サービスを展開し存続する事業者になったが、これも2023年3月末日をもって全サービスが終了した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本で唯一ポケットベルサービスを全国の都道府県で提供する事業者であった。NTTドコモの営業開始当初は、携帯電話よりポケットベル加入者の方が多かった時期もあった。1968年7月1日に、東京23区で旧電電公社が始め、1978年に280MHz帯のFSK変調200b/sのNTT方式のサービスが開始された。当初は呼び出し音のみのものであったが、バイブレーションタイプ、カードタイプと進化していった。1985年の通信自由化によりテレメッセージグループが参入し、ポケットベル価格が安価になり、1990年代は端末が「ネクスト」シリーズとしてラインナップされ、数字・カタカナ・漢字の表記もできるように高機能になっていった。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1996年以降は、携帯電話・PHSの低価格化とポケベル同様の「ショートメール」機能を備えた機種の登場により、プライベート用途で利用していたユーザの流出が起き始める。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1997年からパソコンから電子メール網(SMTP)を経由してメッセージを送信するアプリケーション、占い・天気予報・ニュースなどのプッシュ型情報配信サービス(タクシーや自動販売機の電光掲示板配信にも応用)や、“帰宅や連絡を促す”定型文(シンプルネクスト)のみに対応した子供向け端末「キッズベル」の発売、1999年には発信者課金で基本料不要の「ゼロニード」(02DO/020発信電話)のサービスも開始され、テレビCMもiモード登場後の02DOサービスインまで行われていた(「キッズベル」を除き、東京テレメッセージでも同等のサービスが近年まで提供されていた。)。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2001年4月にポケットベルからクイックキャストへサービス名称を変更した。“確実に届く”ページャーの特性を前面に出し、新端末「スクーパー」シリーズも発売されたが、携帯電話の加入者増加が続き、利用者が大幅に減少したため、2004年6月30日に新規申込受付を終了、2007年3月31日限りで事業を終了した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "NTTドコモが2007年に撤退した後は、テレメッセージグループだった沖縄テレメッセージと東京テレメッセージ(2代目:2008年10月1日にYOZANから会社分割)がポケットベル事業を継続していたが、沖縄テレメッセージは2017年4月に、東京テレメッセージは2019年9月に事業終了した。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "NTTドコモは、元々は『ドコモカード』というクレジットカードを、クレジットカード会社と提携して提供していた。おサイフケータイでのクレジットカードサービスの促進、さらに新たな収益確保の一環として、2005年12月1日より三井住友カードに出資し、非接触型クレジットブランドである「iD」サービスを始めた。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2006年5月26日サービス開始の「DCMX」・2015年11月20日発行開始のdポイントカード一体型の「dカード」をドコモ独自のiD対応クレジットカードとして発行している。VISA / Master ブランドのクレジットカードでも、ショッピングやキャッシングの利用が可能。ETCカードも発行されている。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "DCMXには、カードを発行せず、おサイフケータイのiDによるショッピングのみ対応の簡易サービス「DCMX mini」もある。利用限度額1万円・ショッピングポイント非加算という制約があるものの、FOMAのおサイフケータイを保有している数百万 - 1千万程度の契約者が申込むことができ、ケータイクレジットのすそ野を広げる狙いがある。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ドコモのケータイ払いは、dアカウントでの買い物の代金を携帯電話料金などとまとめて決済するサービスである。dポイントが付与され使用できる。dアカウントは、ドコモ回線契約がなくても取得できる。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "iDはNTTドコモ、三井住友カードの他にも、イオンクレジットサービスやクレディセゾン(セゾン・UC両ブランド)など、合計68社が提供を行っており、2009年1月には、おサイフケータイによるiD・iD一体型クレジットカードとiD単体カード(VJAグループ)を併せた発行枚数が1,000万枚を突破している。「DCMX」の会員数も2009年8月24日に1,000万人を突破している。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "iD利用可能な店舗はセブン-イレブン、ローソン、ファミリーマート、デイリーヤマザキといったコンビニエンスストアや、日本マクドナルド、牛角、イオン、ビックカメラ、ヨドバシカメラ、コジマ他多数の店舗で利用が可能である。また日本コカ・コーラの自動販売機であるシーモ2やタクシーでも利用できるものがある。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "対応決済端末台数は42万台と、SuicaやEdyを超えている。世界でも、2008年7月よりグアム、8月に中華人民共和国上海市でも利用可能になった。", "title": "主な事業" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "太字は地域支社所在都府県。地域支社は合併前の各地域会社の本社であった。なお傘下支店はその後、ドコモCSの各地域会社に移管され、ドコモ本体には地域支社組織しかない。契約者数は2019年12月末現在", "title": "業務区域" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "以下の写真に挙げられた各建物は、子会社等を含めた事務部門が入っているもの、電話交換設備のみが置かれているものとに分けられる。", "title": "業務区域" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "NTTドコモの製品やサービスを販売している店舗は、ドコモショップを中心として、全国で約2,393店(2011年3月末)ある。その他に家電量販店や取次店などで販売されている。", "title": "販売店等" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "主な業務の内容は以下の通りである。", "title": "販売店等" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "ドコモショップにはDOCOPY(ドコピー)と呼ばれる、携帯電話メモリーコピーツールが店頭に置いてあり、新機種へアドレス帳、写真、メールなどのデータの移行や、MNPなどで、メールアドレスが変更になった際などメールアドレス変更の一斉通知などができる。データのコピーは他社からドコモへの変更も可能である(一部対応しない機種もある)。", "title": "販売店等" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "大半の店舗が、NTTドコモと代理店契約した会社が運営している。主な代理店には、コネクシオ(伊藤忠商事グループ)、ティーガイア(三井物産・住友商事・三菱商事が出資)、MXモバイリング(丸紅グループ)、兼松コミュニケーションズ株式会社やTDモバイル(旧・豊通シスコム。豊田通商・デンソー子会社)といった商社系、携帯電話メーカー系、その他に、自動車修理工場や本田技研工業、日産自動車といった自動車メーカー系の代理店がある(自動車電話を据え付ける作業を修理工場や自動車ディーラーで行っていた名残)。メーカー系の代理店は、NTTドコモへ携帯電話を納入するメーカーの相次ぐ事業撤退により、富士通以外ほとんどが買収合併により現存しない。", "title": "販売店等" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "地方には、地元の電器屋、自動車修理工場といった、地域に根づいた代理店もある。代理店には、1次代理店、2次代理店、3次代理店、取次店などとあるが、ドコモショップは、基本的に1次代理店か2次代理店が行っている。ヨドバシカメラ、ビックカメラといった家電量販店は、2次代理店であることが多い。エディオン(旧・エイデン)やノジマのように、1次代理店業務を行っている子会社を持ち、ドコモと直接契約している量販店も存在する。", "title": "販売店等" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "かつては直営店舗や支店窓口も存在したが、現在は機能分担子会社であるドコモCS及び各地域ごとのドコモCS地域会社に移管・集約されている。", "title": "販売店等" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "以前は、ドコモショップより小型の販売店が存在した。業務自体は基本的にドコモショップと変わらないが、店舗によって受けられるサービスに一部制限(故障端末を受け付けない、携帯電話利用料金の収納業務を行わない等)があった。小規模の駅周辺、ドコモショップと競合しない区域、人口がさほど多くない地域、商業施設にテナントとして入居等、基準は各地区毎に異なる。ドコモショップと同様に、NTTドコモと契約した運営会社が運営しており、地域毎に呼び名が異なる。2008年7月のNTTドコモグループ8社統合とブランド変更を機に、2008年度末までに小規模販売店を全てドコモショップへ移行している。統合時には北海道地区、東北地区、北陸地区の全店でドコモショップへの移行が行われた。また、ロゴデザインの変更による店舗デザインのリニューアルが2008年夏より順次各店舗で行われた。また、電話機販売業務のみを行う取扱店が全国各地にある。NTTドコモの看板を掲げるなど、一見ドコモショップと変わらない外観の店舗も存在するが、一部を除き電話料金の収納や故障修理受付、解約業務等は行わない。", "title": "販売店等" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "主な基幹システムとして、経営管理システム「DREAMS」、顧客管理システム「ALADIN」、料金システム「MoBills」の3つがある。これらは全てオラクルのデータベースを採用している。使用されているサーバーはUNIX系Solaris、そしてWindowsサーバであるが、使用割合(台数)は後者の方が多い。", "title": "基幹システム" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "以下のオプション製品は、ドコモショップへ持参する事でリサイクル処分することが出来る。", "title": "オプション製品" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "UHFアニメ×KADOKAWA作品の製作に関与している。携帯電話会社でアニメ製作に参加することは異例である。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2010年10月から2011年10月までテレビ東京×KADOKAWA作品の製作に参加した。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "なお、角川書店とは2012年7月開始のスマートフォン向けアニメコンテンツ配信事業、アニメに関するコンテンツ管理業務や新作アニメ作品への出資等を行う合弁会社、株式会社ドコモ・アニメストアを同年5月下旬に設立した。", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "製作委員会として参加", "title": "スポンサー" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "原則として2022年4月現在", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ドコモのサービスの基盤となる業務を効率的かつ機動的に運営するため地域別に設立した子会社", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "北海道", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "東北", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "関東・甲信越", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "東海", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "北陸", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "関西", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "中国", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "四国", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "九州・沖縄", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "他", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "他", "title": "主要子会社・関連会社" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "当該基地局はいずれも問題発覚後に、撤去あるいは移設された。", "title": "諸問題・不祥事等" } ]
株式会社NTTドコモは、携帯電話などの無線通信サービス(移動体通信事業者〈MNO〉)および長距離、国際通信を提供する、日本最大手の電気通信事業者。日本電信電話 (NTT) の完全子会社。
{{Pathnav|NTTグループ|frame=1|日本電信電話}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社NTTドコモ | 英文社名 = NTT DOCOMO, INC. | ロゴ = [[File:NTT docomo company logos.svg|250px]] | 画像 = [[File:Sanno-Park-Tower-01.jpg|300px]] | 画像説明 = 本社([[山王パークタワー]]) | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/corporate/about/outline/index.html 会社概要] - 株式会社NTTドコモ</ref> | 市場情報 = {{上場情報|東証1部|9437|1998年10月22日|2020年12月25日}} | 略称 = ドコモ (docomo) | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 100-6150 | 本社所在地 = [[東京都]][[千代田区]][[永田町]]二丁目11番1号<br />[[山王パークタワー]]<ref group="注釈">ビルの半分弱のフロアをNTTドコモが使用。</ref> | 本社緯度度 = 35|本社緯度分 = 40|本社緯度秒 = 23.3|本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139|本社経度分 = 44|本社経度秒 = 26.4|本社E(東経)及びW(西経) = E | 座標右上表示 = Yes | 本社地図国コード = JP | 設立 = [[1991年]]([[平成]]3年)[[8月14日]]<br />(エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社) | 業種 = 5250 | 事業内容 = 携帯電話の移動通信事業 | 代表者 = [[井伊基之]]([[代表取締役]][[社長]])<br />田村穂積(代表取締役[[副社長]])<br />栗山浩樹(代表取締役副社長)<br />前田義晃(代表取締役副社長) | 資本金 = 9496億7900万円 | 売上高 = 単独: 3兆2214億0700万円<br />(電気通信事業営業収益)<br />単独: 1兆2453億3800万円<br />(附帯事業営業収益)<br />(2022年3月期)<ref name="fy">{{Cite web|和書|url=https://www.docomo.ne.jp/corporate/ir/library/financial_results/?icid=CRP_CORP_disclosure_announcement_to_CRP_CORP_ir_library_financial_results |title=第31期 貸借対照表及び損益計算書 |publisher=株式会社NTTドコモ |accessdate=2022-07-27}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 単独: 7723億1600万円<br />(全事業営業利益)<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = 単独: 8673億4400万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 単独: 6336億2400万円<br />(2022年3月期)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = 単独: 6兆5094億1700万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = 単独: 9兆3181億9300万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="fy" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 連結: 46,506人<br />単独: 8,847人<br />(2022年3月31日現在) | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = [[有限責任あずさ監査法人]] | 主要株主 = [[日本電信電話]]株式会社 100.0%<br/>(2020年12月29日現在) | 主要子会社 = [[ドコモCS]] 100.0% <br/>[[NTTコミュニケーションズ]] 100.0%<br/>[[NTTコムウェア]] 66.6% | 関係する人物 = [[立川敬二]](元社長)<br />[[中村維夫]](元社長)<br />[[加藤薫 (実業家)|加藤薰]](元社長)<br />[[足立盛二郎]](元副社長)<br />[[寺崎明]](元副社長)<br />[[坂井義清]](元副社長) | 外部リンク = https://www.docomo.ne.jp/ | 特記事項 = }} '''株式会社NTTドコモ'''({{lang-en-short|''NTT DOCOMO, INC.''}})は、[[携帯電話]]などの[[無線通信]][[サービス]]([[移動体通信事業者]]〈MNO〉)および[[中継電話|長距離]]、[[国際電話|国際通信]]を提供する、日本最大手の[[電気通信事業者]]。[[日本電信電話]](NTT)の[[完全子会社]]。 == 概要 == [[1968年]]7月1日、[[日本電信電話公社]](電電公社)の移動体通信サービス「[[無線呼出|ポケットベル]]」を開始した事が直接の起源となる。 電電公社民営化後の[[1990年]]2月、[[日本国政府]]の措置としてNTTの「移動体通信業務の分離」が決定される。これに伴い、[[1991年]]8月14日、'''エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社'''(NTT移動通信企画)が設立。[[1992年]]7月(分社化)より、「'''NTTドコモ'''」{{refnest|group="注釈"|「ドコモ (DoCoMo)」の名称は{{en|「''"'''Do Co'''mmunications over the '''Mo'''bile network"''}}」(移動通信網で実現する、積極的で豊かなコミュニケーション)の頭文字を綴ったものである<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nttdocomo.co.jp/corporate/ir/binary/pdf/library/annual/fy2008/p11.pdf|title=アニュアルレポート2009|page=118|publisher=エヌ・ティ・ティ・ドコモ|accessdate=2012-02-15}}</ref>。}}のブランドを用いている。 [[1999年]]には、世界初の携帯電話でのインターネット接続サービス([[携帯電話IP接続サービス]])である「[[iモード]]」を発表<ref>{{Cite web|和書|title=iモード {{!}} サービス・機能 {{!}} NTTドコモ |url=https://www.docomo.ne.jp/service/imode/ |website=www.docomo.ne.jp |access-date=2023-04-23}}</ref>。 [[2008年]]7月、各地域子会社を吸収合併の上で全国1社体制へと移行した。それまではドコモグループを統括する中核会社であると同時に、[[関東地方|関東]]・[[甲信越地方|甲信越]]を管轄する事業会社でもあった。NTTドコモグループ全般と区別するため、便宜上、「(NTT)ドコモ中央」とも呼ばれていた。 前述の合併に合わせて[[コーポレートアイデンティティ|ロゴマーク]]もまた、従来の「NTT DoCoMo」から現在の「'''NTT docomo'''」に改められ、[[2010年]]には英文社名を「NTT DoCoMo, Inc.」から「'''NTT DOCOMO, INC.'''」へ変更した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/corporate/ir/binary/pdf/stock/regulations/articles_100618.pdf 株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモ 定款]</ref>。 [[2013年]]10月1日、商号を「エヌ・ティ・ティ・ドコモ」から<ref group="注釈">この理由として、[[2002年]]の[[商業登記規則]]改正まで、商号中の[[アルファベット]]の使用が認められていなかったためである。</ref>、これまで通称社名として使用してきた「'''NTTドコモ'''」に統一した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2013/05/10_00.html 商号の変更に関するお知らせ]</ref>。 [[2020年]]現在では、[[W-CDMA]]・[[HSPA]]を用いた「'''[[FOMA]]'''」([[第3世代移動通信システム|第3]]・[[第3.5世代移動通信システム]]、[[2001年]]サービス開始)、[[Long Term Evolution|LTE]]を用いた「'''[[Xi (携帯電話)|Xi]]'''」([[第3.9世代移動通信システム]]、2010年サービス開始)、[[LTE-Advanced]]を用いた「'''[[PREMIUM 4G]]'''」([[第4世代移動通信システム]]、2015年サービス開始)、[[5G NR]]を用いた「'''docomo 5G'''」([[第5世代移動通信システム]]、2020年サービス開始)による携帯電話事業を中心として各種事業を展開している。 NTTが発行済株式の100%を所有しており、同社の連結子会社([[金融商品取引法]]上の特定子会社)である。[[NTTグループ]]の[[営業利益]]のうち7割を占めている。ただし、「[[日本電信電話株式会社等に関する法律]]」(通称:NTT法)は適用されず、[[特殊会社]]でもない。 かつて手がけていた「[[PHS]]サービス」は2008年1月7日<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/070427_01.html PHSサービス終了のお知らせ]</ref>、また[[PDC]]を用いた「[[シティフォン]]」(東名阪限定、1.5GHz帯[[第2世代移動通信システム]])は[[2008年]]6月30日、「[[mova]]」「[[DoPa]]」(第2世代移動通信システム)は[[2012年]]3月31日<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/page/090130_00.html 「movaサービス」および「DoPaサービス」などの終了のお知らせ]</ref>にサービスを終了した。 [[2020年]][[9月]]、NTTドコモの競争力強化と成長、並びにNTTグループ全体の成長を目指す観点から、統括持株会社のNTTがドコモの完全子会社化を発表し、その際に次の4つの目指す方向性を示した。 #リモートワールドを考慮した新サービスの展開・提供 #リソースの集中化とDXの推進 #世界規模での研究開発の推進 #スマートライフ事業など新規事業の強化 これらの目指す方向性を実現させるには、グループ横断での経営資源の戦略的な活用と意志決定の迅速化が必要とされていた。そのため、NTTによるドコモの完全子会社化と共に、[[NTTコミュニケーションズ]](以下、「NTTコム」)、[[NTTコムウェア]]などのグループ各社の能力も活用しつつ、6G時代を見据えた通信基盤整備の拡充や、新たなソリューションサービスの提供を推進し、ドコモの成長をNTTグループ全体の成長として図ることを目指している<ref>[https://group.ntt/jp/ir/library/nttis/202012/feature1.html 特集1 NTTドコモの完全子会社化]</ref> [[2022年]]、それまでNTT,Inc.(現:[[NTT DATA, Inc.]])の子会社であったNTTコムを完全子会社化することで、事実上、NTTグループ内のモバイル・長距離通信事業を一元管理する形となった<ref name=docomo20211025リリース>[https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/2021/10/25_00.html NTTコミュニケーションズとNTTコムウェアを子会社化<2021年10月25日>](NTTドコモ)</ref>。また、この再編により、大きく *法人事業 *スマートライフ事業 *通信事業 *[[ソフトウェア開発]] の4つの事業を柱とする事業内容の再編と明確化も併せて進めていくことになった。 具体的には、 '''法人向け事業''' :法人向け事業ブランド「'''ドコモビジネス'''」の立上げ、NTTコムへの法人向け事業の一元化([[大企業]]から[[中小企業]]へと、すべての法人をワンストップでサポートする営業体制を整え、5Gや[[モノのインターネット|IoT]]などの先端ソリューションズを提供する) #NTTコムの地域支社を[[北海道]]・[[東北地方|東北]]・[[北陸地方|北陸]]・[[東海地方|東海]]・[[関西]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]・[[九州]]の8地域に設置する。 #NTTコムの本社内に、「ソリューション&マーケッティング本部」を設置 #NTTコムの子会社として、ドコモビジネスソリューションズを設立 #3の新会社に、[[ドコモCS]]の本社および8地域会社、[[ドコモ・サポート]]の法人事業、NTTコムの一部支店、並びにNTTコムマーケティングの事業を統合 #NTTコムの本社内に、先端ソリューション提供の強化を目的として「5G&IoTサービス部」を設置 '''スマートライフ事業''' :NTTドコモと[[NTTぷらら]]双方の映像コンテンツ事業を強化(映像・エンタメ領域での新たなサービスの拡大に努める) #NTTドコモ(存続会社)と、NTTぷらら(消滅会社)の合併 #両社の持つ映像技術・コンテンツ・会員基盤の融合 '''通信事業''' :移動体と固定のネットワークの統合・教養・企画から運営までのマネジメントを一元化。より高品質で経済的なネットワークや移動・固定融合サービスの提供のほか、6G・IOWNの実現・進化の加速化を図る。 # NTTコム及び[[NTTコム エンジニアリング]]のネットワークインフラ事業を、NTTドコモおよびドコモCSに一元化 # NTTコムの伝送・電力設備、ネットワークインフラの各種メンテナンス業務を、NTTドコモに移管 # NTTコム エンジニアリングのネットワークインフラ関連業務を、ドコモCSに移管 '''営業事業''' :NTTドコモのコンシューマー営業戦略のもと、経営方針の統一化(意思・疎通決定の迅速化、多様化する料金・サービスの提供や販売チャネルの変革など、顧客基盤の拡大を促す) #NTTコムの[[消費者|コンシューマー]]営業事業を、[[NTTレゾナント|エヌ・ティ・ティレゾナント]]に承継(ただし、本分割は[[2022年]]7月1日に行われる)<ref>[https://www.ntt.com/about-us/press-releases/news/article/2022/0427_2.html NTT Comコンシューマ向け事業のNTTレゾナントへの移管について]</ref>。 #NTTコムの[[OCN]]サービス([[パソコン]]用[[インターネット]]通信、[[OCNモバイルONE]]なども含む)を、エヌ・ティ・ティレゾナントに承継。 '''ソフトウェア開発部門''' :ドコモグループのソフトウェア開発から運用までに至る一元的な実行体制の整備(スマートライフや法人事業による革新的なサービスをいち早く創出させ、NTTグループ・ドコモグループ全体のDX加速も進めさせて、顧客に提供する)<ref>[https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/2021/12/14_01.html 新ドコモグループの組織の再編成を実施<2021年12月14日>](NTTドコモ)</ref> #[[NTTコムウェア]](存続会社)と、[[ドコモ・システムズ]](消滅会社)の合併 [[2021年]]7月からのブランド[[スローガン]]は「'''あなたと世界を変えていく。'''」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.docomo.ne.jp/special_contents/brand/society/ |title=あなたと世界を変えていく。 |access-date=2022-07-16 |publisher=ドコモブランド総合サイト docomo Brand Site}}</ref>。 == 沿革 == 参照:NTTドコモ公式ホームページ「[https://www.docomo.ne.jp/corporate/about/outline/history/ 会社の沿革]」、2023年11月2日閲覧。 '''[[1968年]]([[昭和]]43年)''' * 7月1日 - 日本電信電話公社において、[[無線呼出|ポケットベルサービス]]を開始。 '''[[1979年]](昭和54年)''' * 12月3日 - [[自動車電話|自動車電話サービス]]の開始。 '''[[1985年]](昭和60年)''' * 4月1日 - 日本電信電話公社の民営化に伴い、[[日本電信電話株式会社]](NTT)設立。 * 11月 - 日本電信電話株式会社 高度通信サービス事業本部に移動体通信事業部を設置。 '''[[1987年]](昭和62年)''' * 4月 - NTTが、[[第1世代移動通信システム]]「携帯電話サービス([[周波数変調]]方式)」を開始。 '''[[1988年]](昭和63年)''' * 10月 - エヌ・ティ・ティ中央移動通信株式会社、および各地域移動通信株式会社を設立。 '''[[1990年]]([[平成]]2年)''' * 3月 - NTTの移動体通信業務の分離が、[[日本国政府]]措置として決定。 '''[[1991年]](平成3年)''' * 4月1日 - 超小型携帯電話「ムーバ (mova)」の提供開始。 * 8月14日 - '''エヌ・ティ・ティ・移動通信企画株式会社'''が設立。 * 11月14日 - 各地域移動通信企画([[北海道]]・[[東北地方|東北]]・[[東海地方|東海]]・[[北陸地方|北陸]]・[[関西]]・[[中国地方|中国]]・[[四国]]・[[九州]])を設立。 '''[[1992年]](平成4年)''' * 4月28日 - '''エヌ・ティ・ティ移動通信網株式会社'''に商号変更。 * 5月19日 - コミュニケーションブランドが「'''NTT DoCoMo'''」に決定。 * 7月1日 - NTTより移動通信事業(携帯・自動車電話、無線呼出、[[船舶電話]]、航空機公衆電話)の譲渡を受けて営業を開始。 * 10月18日 - ドコモショップ第1号店([[八王子市|八王子]]店)がオープン。 '''[[1993年]](平成5年)''' * 2月 - 携帯電話・自動車電話サービス契約数が'''100万を突破'''。 * 3月25日 - [[第2世代移動通信システム]]「movaデジタル方式([[PDC]]方式・[[800MHz帯]])」サービスを開始。 * 7月1日 - 各地域ドコモ8社(北海道・東北・東海・北陸・関西・中国・四国・九州)を設立し全国9社体制となる(各地域会社の商号は「エヌ・ティ・ティ○○移動通信網株式会社」○○に(カッコ内を中黒で区切った)地域名が入る)。 * 10月1日 - エヌ・ティ・ティ移動通信網と各地域会社が、各地域の務受託会社をそれぞれ吸収合併。全国9社がそれぞれの地域の営業・ネットワークを分担運営する体制が確立。エヌ・ティ・ティ移動通信網は[[関東地方|関東]]・[[甲信越地方|甲信越]]地域を管轄しつつ、中央会社として研究開発の機能を有する。 '''[[1994年]](平成6年)''' * 4月1日 - 携帯電話・自動車電話における「端末お買い上げ制度」の導入。第2世代移動通信システム「デジタル方式 (1.5 [[ギガヘルツ|GHz]]帯)」サービスを開始(関東・東海・関西の一部地域のみ。関東・東海では「[[シティフォン]]」。関西では「シティオ」)。 '''[[1995年]](平成7年)''' * 3月1日 - ポケベルにおける「端末お買い上げ制度」の導入。 '''[[1996年]](平成8年)''' * 3月19日 - 「ポケットベル・ネクストサービス(FLEX-TD方式)」の開始。[[衛星電話|衛星携帯]]・自動車電話サービス、衛星船舶電話サービスの開始。 * 8月26日 - 「[[ALADIN]]」(業務処理支援ツール)が信越地区で先行導入開始。 '''[[1997年]](平成9年)''' * 2月24日 - 携帯電話・自動車電話サービス契約数が'''1000万を突破'''。 * 3月28日 - [[パケット通信]]サービス「DoPa」を開始。 * 6月1日 - [[ショートメッセージサービス|SMS]]の「ショートメール」サービスを開始。 * 12月26日 - [[アナログ]]サービスの新規申込受付を終了。 '''[[1998年]](平成10年)''' * 3月26日 - [[神奈川県]][[横須賀市]] [[横須賀リサーチパーク]]内に「NTT DoCoMo R&amp;Dセンタ」を設立。 * 7月1日 - 初の海外現地法人となる、DoCoMo [[欧州|Europe]] S.A.を設立。 * 8月13日 - 携帯電話・自動車電話サービス契約数が'''2000万を突破'''。 * 10月1日 - [[インターネットサービスプロバイダ|ISP]]サービス「mopera」を開始。 * 10月22日 - [[東京証券取引所]]第1部に上場。 * 11月 - ポイントプログラムサービス「ClubDoCoMo」を開始。 * 12月1日 - エヌ・ティ・ティ中央パーソナル通信網より、[[PHS]]事業の営業を譲受(各地域も同様)。 '''[[1999年]](平成11年)''' * 2月22日 - 「'''[[iモード]]'''」サービスを開始。 * 3月31日 - 第1世代移動通信システム「携帯電話サービス(アナログ方式)」サービス、「船舶電話(アナログ方式)」サービスを終了。 * 4月19日 - 携帯電話とPHSの複合端末「[[ドッチーモ]]」を販売。 * 5月 - 「[[ぷりコール]]」サービス(後に「[[モバイラーズチェック]]」へ変更)を開始。 * 11月1日 - NTT DoCoMo USA,Inc.を設立。 '''[[2000年]](平成12年)''' * 3月6日 - 携帯電話業界初の故障携帯電話専門サイト「DoCoMo113.com」を開設。 * 3月1日 - [[東京都]][[千代田区]][[永田町]]二丁目 [[山王パークタワー]]へ本社移転。 * 4月1日 - '''株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモ'''へ商号変更(各地域も同様。各地域会社の商号は「株式会社エヌ・ティ・ティドコモ○○」○○に地域名が入る)。 * 5月 - 携帯電話・自動車電話サービス契約数が'''3000万を突破'''。 * 8月6日 - 「iモード」サービス契約数が'''1000万を突破'''。 * 10月31日 - DoCoMo Europe(UK) Limitedを設立。 '''[[2001年]](平成13年)''' * 1月1日 - 「ポケットベルサービス」を「クイックキャスト」サービスへと名称変更。 * 1月26日 - [[Javaアプリケーション]]「[[iアプリ]]」サービスを開始。 * 3月4日 - 「iモード」サービス契約数が'''2000万を突破'''。 * 7月31日 - 衛星航空機電話サービスを開始。 * 10月1日 - [[第3世代移動通信システム]]「FOMA([[W-CDMA]]方式・[[2GHz帯]])」サービスを開始。 * 11月19日- 動画配信サービス「[[iモーション]]」を開始。 * 12月25日 - 「iモード」サービス契約数が'''3000万を突破'''。 '''[[2002年]](平成14年)''' * 2月15日 - 携帯電話・自動車電話サービス契約数が'''4000万突破'''。 * 3月1日 - [[ロンドン証券取引所]]および[[ニューヨーク証券取引所]]に上場。 * 4月1日 - 「[[DDREAMS|DREAMS]]」(企業情報システム)が稼働開始。 * 6月1日 - 画像送受信サービス「[[iショット]]」を開始。 *11月1日 - [[株式交換]]により、各地域ドコモ8社を[[子会社|完全子会社]]化。 '''[[2003年]](平成15年)''' * 6月1日 - [[国際ローミング|国際ローミングサービス]]「[[WORLD WING]]」を開始。 * 8月 - 「mova」サービスが約4440万契約のピークに達し、9月以降減少が始まる。 * 9月1日 - 「[[メロディコール]]」サービスを開始。 * 9月30日 - 「FOMA」サービス契約数が'''100万を突破'''。 * 10月30日 - 「iモード」サービス契約数が'''4000万を突破'''。 * 11月1日 - 「[[2か月くりこし]]」サービス(使い切れなかった無料通話料金の2か月間繰り越しが可能)を開始。 '''[[2004年]](平成16年)''' * 1月17日 - 「[[災害用伝言板|iモード災害用伝言板サービス]]」を開始。 * 3月31日 - 「アナログ航空機電話」・「衛星航空機電話」サービスを終了。 * 4月1日 - 「ClubDoCoMo」を発展的に解消。新たに「[[ドコモプレミアクラブ]]」の提供開始。 * 5月1日 - FOMA国際ローミングインサービスの提供開始。 * 6月1日 - iモードパケット定額制サービス「[[パケ・ホーダイ]]」を開始。 * 7月1日 - iモード[[FeliCa]]サービス「[[おサイフケータイ]]」を開始。 * 7月19日 - 「FOMA」サービス契約数が'''500万を突破'''。 * 9月14日 - 携帯電話初心者向けの携帯電話端末ブランド「[[らくらくホン]]」シリーズ初の端末「[[FOMAらくらくホン]] (FOMA F880iES)」を発売開始。 * 10月1日 - ファミリー割引契約間での「iモードメール送受信料無料化」を開始。 '''[[2005年]](平成17年)''' * 1月 - オリジナル[[キャラクター]]として「[[ドコモダケ]]」が登場。 * 2月1日 - ファミリー割引契約間での「無料通信料共有」サービスを開始。 * 2月21日 - 「FOMA」サービス契約数が'''1000万を突破'''。 * 4月30日 - 「PHS」サービスの新規受付申込を終了。 * 7月1日 - DoCoMo Capital,Inc.を設立。 * 9月9日 - 「[[iチャネル]]」サービスを開始。 * 11月1日 - 「FOMA」および「mova」サービス共通で全国一律の「新基本料金プラン」を導入。 * 11月9日 - 携帯電話・自動車電話サービス契約数が'''5000万を突破'''。 * 11月11日 - 「[[プッシュトーク]]」サービスを開始。 * 12月1日 - 「ファミ割ワイド」サービスを開始。クレジットブランド「'''[[iD (クレジット決済サービス)|iD]]'''」サービスを開始。 * 12月29日 - 「FOMA」サービス契約数が'''2000万を突破'''。 '''[[2006年]](平成18年)''' * 1月1日 - プッシュトーク定額サービス「カケ・ホーダイ」を開始。 * 3月1日 - 「ファミ割ワイドリミット」サービス、「[[イマドコサーチ]]」サービスを開始。 * 3月3日 - [[日本の地上デジタル放送|地上デジタル放送]]([[ワンセグ]])対応端末を販売。 * 4月28日 - [[信用販売|クレジット]]サービス「'''DCMX'''」を開始。 * 6月7日 - 「[[着うたフル]]」サービスを開始。 * 6月18日 -「FOMA」サービス契約数が「mova」サービス契約数を超える。 * 7月12日 - ドコモ用の[[絵文字]]を、他社ブランドに変換するサービスを開始。 * 8月31日 - [[HSDPA]]([[第3.5世代移動通信システム|第三・五世代携帯電話]])端末対応サービス「[[ミュージックチャネル]]」を開始。 * 9月20日 - FOMA「[[留守番電話]]サービス」テレビ電話の対応開始。 * 9月26日 - 「[[BlackBerry]]」サービスを開始。 * 11月4日 - 「FOMA」サービス契約数が'''3000万を突破'''。 * 12月6日 - [[フジテレビジョン]]、[[伊藤忠商事]]ほか計5社で、マルチメディア放送企画LLC(後にマルチメディア放送を経て、[[mmbi]]に変更)を設立。 '''[[2007年]](平成19年)''' * 2月 - 2月請求分の料金から[[基礎的電気通信役務#基礎的電気通信役務基金制度|ユニバーサルサービス料]]が設定される。 * 3月1日 - iモードフルブラウザ向けパケット定額制サービス「パケ・ホーダイフル」を開始。 * 3月29日 - 「FOMA」サービスエリアの全国[[人口カバー率]]100%達成。 * 3月31日 - 「クイックキャスト」事業を終了。 * 4月1日 - [[スマートフォン]]向けパケット定額制サービス「[[Biz・ホーダイ]]」を開始。 * 5月25日 - 「[[2in1 (NTTドコモ)|2in1]]」サービスを開始。 * 6月1日 - 「[[オフィス割引]]」・[[ビジネス通話ホーダイ]]」サービスを開始。 * 8月22日 - 「ファミ割MAX50」・「[[ひとりでも割50]]」サービスを開始。 * 9月23日 - 「[[オフィス割MAX50]]」サービスを開始。 * 9月29日 - 「FOMA」サービス契約数が'''4000万を突破'''。 * 10月22日 - FOMAによる「[[定額データプラン]]」サービスを開始。 * 11月26日 - FOMA 905iシリーズから新しい端末販売・基本使用料金プラン制度「[[バリューコース (NTTドコモ)|バリューコース]]」と「[[ベーシックコース (NTTドコモ)|ベーシックコース]]」を開始。 * 12月10日 - 「[[エリアメール]](緊急速報)」サービスを開始。 '''[[2008年]](平成20年)''' * 1月7日 - 「PHS」事業を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.cnet.com/article/20364368/|title=NTTドコモ、PHSサービスを終了|publisher=CNET Japan|date=2008-01-08|accessdate=2020-10-24}}</ref>。 * 1月24日 - [[Google|Google, Inc.]](現:Google LLC)とのモバイルインターネットサービスに関する業務提携<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0801/24/news066.html ドコモとGoogleが提携──各種サービスのiモード対応などを推進] ITmedia +D モバイル 2008年1月24日</ref>により、FOMA 904iシリーズ以降の端末で「[[YouTube]]」の視聴が公式に可能<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0801/24/news104.html YouTube、ドコモの904i/905iシリーズに対応] ITmedia +D モバイル 2008年1月24日</ref>。 * 3月28日 - イー・モバイル音声通話サービス開始に伴い、25道県の一部でFOMAネットワークを国内[[ローミング]]接続で提供開始。 * 4月1日 - 「ファミ割MAX50」(または「ファミリー割引」と「[[ハーティ割引]]」)に加入、または10年超継続使用し「ファミリー割引」と「[[年間割引サービス|(新)いちねん割引]]」に加入しているFOMA契約者を対象に、家族への国内通話を無料に変更。 * 4月18日 - コーポレートブランドロゴの変更、「新ドコモ宣言」を発表。 * 6月1日 - 「iモード」付加機能使用料をこれまでの税込210円から税込315円に変更。 * 6月30日 - 「デジタル方式 (1.5GHz帯)」サービス(関東・東海は「シティフォン」、関西は「シティオ」)を終了。 * 7月1日 - 各地域ドコモ8社を吸収合併し、全国1社の運営体制へ移行。同時に、コーポレートブランドロゴを「NTT DoCoMo」から「'''NTT docomo'''」に変更。 * 8月1日 - BlackBerry個人向けサービス「[[BlackBerry Internet Service]]」を開始。 * 9月1日 - 「[[定額データプランHIGH-SPEED]]サービス」に対し「[[定額データ割]]」サービスが適用。 * 10月1日 - パケットの料金体系を見直し、定額制と従量制を組み合わせた2段階式の「パケ・ホーダイ ダブル」「Biz・ホーダイ ダブル」サービスを開始。 * 11月19日 - ユーザーエージェント型サービス「[[iコンシェル]]」が開始。 * 11月30日 - 「mova」サービスの新規受付申込を終了。 * 12月26日 - 「FOMAハイスピード」サービスエリアの全国人口カバー率100%達成。 * 12月31日 -「パケットパック10」と「同30」、「パケ・ホーダイ」と「Biz・ホーダイ」の新規受付申込を終了。 '''[[2009年]](平成21年)''' * 1月 - 「iD」の発行枚数が'''1000万枚を突破'''。 * 3月2日 - 「[[海外プラスナンバー]]」、「[[ドコモコミュニティ]]」を提供開始。 * 3月31日 - 「パケットパック60」と「同90」新規受付申込を終了。 * 4月1日 - 「パケ・ホーダイダブル」利用によるPC接続等のパケット料金が定額へ変更。 * 4月6日 - [[オークローンマーケティング]]へ資本出資発表。 * 5月1日 ** 「パケ・ホーダイ ダブル」「Biz・ホーダイ ダブル」の下限を490円に値下げ。 ** 「ファミリー割引」「[[オフィス割引/オフィス割MAX50|オフィス割引]]」のグループ内メールの無料範囲100KB以上の添付ファイルも対象に変更。 ** 携帯電話放送局「[[BeeTV]]」を[[エイベックス]]と共同で開局([[エイベックス通信放送]])。 * 6月11日 - 「FOMA」サービス契約数が'''5000万を突破'''。 * 7月1日 - 「[[お便りフォトサービス]]」及び「[[定額ユビキタスプラン]]」サービスを開始。 * 7月10日 - 日本初の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]搭載スマートフォン、Googleケータイ「[[HT-03A]]」発売。 * 7月24日 - [[イオン (企業)|イオン株式会社]]との共同出資で「[[イオンマーケティング]](株)」を設立。 * 8月24日 - クレジットサービス「DCMX」の会員数が'''1000万を突破'''。 * 10月1日 - 「Biz・ホーダイダブル」利用によるPC接続等のパケット料金が定額へ変更。 * 11月18日 - 日本初の商用[[フェムトセル]]サービスである「[[マイエリア]]」を開始。 * 12月1日 ** 新料金プラン「タイプシンプル」、新定額サービス「[[パケ・ホーダイ|パケ・ホーダイシンプル]]」「[[Biz・ホーダイ#Biz・ホーダイシンプル|Biz・ホーダイシンプル]]」を提供開始。 ** 「パケ・ホーダイダブル」契約者、特定APNへの接続でiモード以外の通信料金も定額になるサービスを提供開始。 '''[[2010年]](平成22年)''' * 3月31日 - 「[[モバチェメール]]」のサービスを終了。 * 4月1日 ** 「Biz・ホーダイダブル」を「パケ・ホーダイダブル」と統合(iモードとスマートフォンを1枚のSIMカードで定額で利用可能となる)。 ** 「iモード」や「mopera」といったNTTドコモISPサービスを複数申し込むことにより、定額料が割引となる「[[ISPセット割]]」を提供開始。 ** iモードメールが無料で利用可能な新料金サービス「[[メール使いホーダイ]]」を開始。 ** [[DeNA]]との共同出資により、[[エブリスタ]]を設立(6月7日に小説やコミックを中心とした無料投稿サイトの「E★エブリスタ」を開始)。 * 4月12日 - 次期衛星携帯電話サービス「[[ワイドスター#ワイドスターII|ワイドスターII]]」を提供開始。 * 4月14日 - パソコンでもiモードでも利用可能な「[[ドコモWebメール]]」の提供開始。 * 6月18日 - 英文表記を「NTT DoCoMo, Inc.」から「'''NTT DOCOMO, INC.'''」に変更。 * 7月1日 - 法人向け割引サービス「ビジネスシンプル」を提供開始。 * 9月1日 ** 国際ローミング定額サービスである「海外パケ・ホーダイ」を提供開始。 ** スマートフォンでiモードメールやWebコンテンツ、アプリの決済が可能となる「'''spモード'''」を提供開始。 * 9月9日 - マルチメディア放送が、[[マルチメディア放送]]認定を受ける。 * 9月30日 - 「プッシュトーク」サービス終了。 * 10月29日 - ナビゲーション用iアプリ「[[地図アプリ|ドコモ地図ナビ]]」のサービス開始。 * 11月19日 - [[カーナビゲーション|ポータブルナビゲーション]]向け情報提供サービス「ドコモ ドライブネット」のサービス開始。 * 12月6日 - iモード向け[[ポータルサイト]]「[[ドコモマーケット]]」を開始。 * 12月24日 - LTE方式の[[第3.9世代移動通信システム|第3.9世代携帯電話]]「'''Xi'''」をサービス開始。 '''[[2011年]](平成23年)''' * 1月12日 - [[大日本印刷]]との業務提携。NTTドコモのスマートフォンや電子ブックリーダーへの電子書籍配信サイト「[[2Dfacto]]」の運営開始。 * 4月1日 - [[SIMカード|SIMロック]]解除を開始。 * 4月22日 ** 「声の宅急便」のサービス開始。 ** スマートフォン向けウイルス対策の「ドコモ あんしんスキャン」を開始。 * 7月21日 - 「ドコモ医療保険」を開始。 * 11月24日 - Xi対応スマートフォン発売開始。あわせてXi新料金プラン「タイプXi」、ドコモ同士の通話料定額プラン「Xiカケ・ホーダイ」(Xiトーク24)、「Xiデータプラン」などの提供開始。 * 12月 - 「FOMA」サービスが約5796万契約のピークに達し、2012年1月以降減少が始まる。 * 12月17日 - [[PlayStation Vita]] (PS Vita) 向けプリペイドデータプラン提供開始。 * 12月25日 - 「Xi」サービス契約数が'''100万を突破'''。 '''[[2012年]](平成24年)''' * 2月22日 - 「[[ディズニー・モバイル#ディズニー・モバイル・オン・ドコモ|Disney Mobile on docomo]]」の提供開始。 * 3月11日 - 携帯電話・自動車電話サービス契約数が'''6000万を突破'''。 * 3月13日 - [[株式公開買付け|公開買付け]]により、[[らでぃっしゅぼーや]]を子会社化。 * 3月31日 ** 第2世代携帯電話「mova」「DoPa」サービスを終了。 ** 「モバイラーズチェック」サービスを終了。 * 4月1日 - mmbiが、スマートフォン向けマルチメディア放送サービス「[[NOTTV]]」を放送開始。 * 7月 - [[NTTファイナンス]]が料金収納業務を開始。これに伴い、[[NTTグループ]]([[東日本電信電話|NTT東日本]]や[[西日本電信電話|NTT西日本]]および[[NTTコミュニケーションズ]])料金との支払を一本化可能となった。 '''[[2013年]](平成25年)''' * 5月15日 - スマートフォンの販売について、[[ソニー]]「[[Xperia]]」と[[サムスン電子|サムスン]]「[[Samsung Galaxy|Galaxy]]」に集中させるツートップ戦略を発表。 * 9月 - [[Apple|Apple Inc.]]の新製品発表会において、「[[iPhone]]」の供給([[iPhone 5s|5s]]/[[iPhone 5c|5c]]以降より)を開始する事を発表。同月20日より発売開始。 * 10月 - 「モバイル空間統計」 を事業化。 * 10月1日 - '''株式会社NTTドコモ'''に商号変更。 * 10月25日 - 料理教室最大手、[[ABCクッキングスタジオ]]との資本提携に合意。 * 12月17日 - [[JTB]]との提携により、[[旅行]]サービス 「dトラベル」 を提供開始。 '''[[2014年]](平成26年)''' * 3月10日 - ロンドン証券取引所 上場廃止<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/corporate/ir/binary/pdf/irnews/140310/notice_140310.pdf ロンドン証券取引所における当社株式の上場廃止完了に関するお知らせ]</ref>。 * 4月10日 - 日本の携帯電話事業者として初の、国内[[音声通話定額制]]([[テレドーム]]や[[ナビダイヤル]]、[[電話番号案内]]料や[[衛星携帯電話]]や[[ショートメッセージサービス]]への発信等の例外あり)と、データ通信従量制の新料金サービス「カケホーダイ&パケあえる」サービスを発表。5月15日より予約受付開始、6月1日にサービス提供開始。 * 6月24日 - Xiによる音声通話サービス「[[VoLTE]]」(Voice over LTE) をサービス開始。 * 8月31日 - 新料金サービスの提供に伴い、旧料金サービス「タイプXi」の新規受付終了。 * 10月1日 - Android遠隔操作サービス「スマートデータリンク Mobizen」をサービス開始。 '''[[2015年]](平成27年)''' * 2月 - [[タワーレコード]]および[[レコチョク]]との提携プロジェクト「Eggs プロジェクト」を展開<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.musicman.co.jp/business/14722 |title=タワレコら3社、新人アーティストの活動を支援する「Eggsプロジェクト」開始 |publisher=Musicman |accessdate=2020-10-01 }}</ref>。 * 2月 - 請求書を有料化 * 3月1日 - NTT東西の[[フレッツ光]]サービス卸を利用した、固定回線サービス「'''ドコモ光'''」をサービス開始。 * 10月1日 - [[タカラトミー]]と共同開発したコミュニケーショントイ・オムニボット「[[OHaNAs]]」を発売開始。 * 11月20日 - dポイントカード一体型クレジットカードの「'''[[dカード]]'''」を発行開始。 '''[[2016年]](平成28年)''' * 3月17日 - [[LGエレクトロニクス|LG Electronics Inc.]](韓国)との間で、[[LTE-Advanced]]方式、LTE方式、[[W-CDMA]]方式の各規格に関する端末装置にかかる[[必須特許]]のライセンス契約を締結。 * 6月10日 - [[華為技術|Huawei Technologies Co., Ltd.]](中国)との間で、移動通信技術に関する規格必須特許のライセンス契約を締結。 * 6月30日 - 「[[NOTTV]]」サービスを終了。 * 11月28日 - [[HTC (企業)|HTC Corporation]](台湾)との間で、LTE-Advanced方式、LTE方式、W-CDMA方式の各規格の必須特許のライセンス契約を締結。 '''[[2017年]](平成29年)''' * 7月1日 - 営業開始25周年。 '''[[2018年]](平成30年)''' * 4月13日 - ニューヨーク証券取引所 上場廃止<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2018/04/13_00.html 米国預託証券のニューヨーク証券取引所における上場廃止完了について]</ref>。 * 12月12日 - [[みのる産業]]および野菜くらぶ([[群馬県]][[昭和村 (群馬県)|昭和村]])との共同で、野菜農家向けの除草ロボットを開発<ref>[https://newswitch.jp/p/15612 野菜農家を助ける“除草ロボット”]</ref>。 '''[[2019年]]([[令和]]元年)''' * 9月20日 - [[ラグビーワールドカップ]][[ラグビーワールドカップ2019|2019 日本大会]]で[[第5世代移動通信システム|5G]]プレサービスを提供。 * 9月30日 - [[第3世代携帯電話]]「FOMA」「iモード」新規受付終了。 '''[[2020年]](令和2年)''' * 1月28日 - ドコモ・ヘルスケアを完全子会社化<ref>{{Cite web|和書|title=NTTドコモ、ドコモ・ヘルスケアを吸収合併へ|url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1225830.html|website=ケータイ Watch|date=2019-12-20|accessdate=2019-12-20|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。 * 3月25日 - 第5世代携帯電話「docomo 5G」のサービス開始。 * 3月31日 - 「FOMAデータプラン」「ユビキタスプラン」新規受付終了。 * 4月1日 - ドコモ・ヘルスケアを吸収合併。 * 11月17日 - 日本電信電話によるTOB(株式公開買付け)が成立<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=株式会社NTTドコモ株式等(証券コード9437)に対する公開買付けの結果について|url=https://www.ntt.co.jp/news2020/2011/201117a.html|website=NTT公式ホームページ|accessdate=2020-11-17|language=ja|last=日本電信電話株式会社}}</ref>。 * 12月3日 - データ容量20 [[ギガバイト|GB]]を2,980 円/月 (税抜) で提供する「[[ahamo]]」ブランドを発表<ref>{{Cite web|和書|title=ドコモ新プラン「ahamo」発表 狙いは20代|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66940010T01C20A2I00000/|website=[[日経電子版]]|date=2020-12-03|accessdate=2020-12-03|language=ja|last=NIKKEI.COM}}</ref>。 * 12月25日 - 東京証券取引所第1部 [[上場廃止]]<ref>{{Cite web|和書|title=日本電信電話株式会社による当社株式に係る株式売渡請求を行うことの決定、当該株式売渡請求に係る承認及び当社株式の上場廃止に関するお知らせ|url=https://www.nttdocomo.co.jp/corporate/ir/binary/pdf/stock/procedure/release_201127_03.pdf|website=NTTドコモ|date=2020-11-27|accessdate=2020-11-27|language=ja|last=株式会社NTTドコモ}}</ref>。 * 12月29日 - 株式売渡請求により、日本電信電話の[[完全子会社]]となる。 '''[[2021年]](令和3年)''' * 4月1日 - ドコモショップの制服を[[佐藤オオキ]]デザインにリニューアル。同時に男性用も導入<ref>https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2021/03/22_00.html</ref>。 '''[[2022年]](令和4年)''' * 1月1日 - [[NTTコミュニケーションズ]]を完全子会社化。NTTコムウェアを子会社化<ref name="docomo20211025リリース" />。 * 3月11日 - 4G周波数帯の一部5G転用による5Gカバーエリアを拡大する計画を発表<ref>{{Cite web|和書|title=報道発表資料 : 5Gサービスのエリア展開を加速 -2024年3月までに全国すべての市区町村への展開、人口カバー率90%以上の実現をめざす- {{!}} NTTドコモ|url=https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2022/03/11_02.html|website=www.nttdocomo.co.jp|accessdate=2022-03-14|language=ja}}</ref>。 * 7月1日 - [[ぷらら|NTTぷらら]]を吸収合併<ref>{{Cite web|和書|title=NTTドコモによるNTTぷららの吸収合併と、サービスの継続について |url=https://www.nttplala.com/corporate_info/2022/5/202205.html |website=株式会社NTTぷらら |access-date=2022-05-29 |date=2022-05-26}}</ref>。 * 8月23日 - 同年8月24日より、スマートフォン対応の個人向け[[第5世代移動通信システム|5G]]サービスのSA(Stand Alone)方式での提供開始を発表<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=報道発表資料 : スマートフォン対応「5G SA」を提供開始 {{!}} お知らせ {{!}} NTTドコモ |url=https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/2022/08/23_00.html |website=www.docomo.ne.jp |access-date=2022-08-23 |language=ja}}</ref>。 * 8月24日 - スマートフォン対応の個人向け5GサービスのSA(Stand Alone)方式での提供開始<ref name=":2" />。 '''[[2023年]](令和5年)''' * 1月- エイベックス通信放送を完全子会社化<ref>{{Cite web|和書|title=ドコモ、エイベックス通信放送を子会社化 |url=https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1459310.html |website=ケータイ Watch |date=2022-11-28 |access-date=2022-11-28 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref>。 * 2月10日 - [[カーボンニュートラル]]を全面的に打ち出したスマートフォン「arrows N」を発売。 * 4月12日 - dTVのサービス名を「[[Lemino]]」(レミノ)に改称・リブランド<ref>{{Cite web|和書|title=感情やレビューをシェアすることでフォロワー同士がつながり、観たいコンテンツがすぐに見つかる映像配信メディア「Lemino」の提供を開始 |url=https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/2023/03/06_01.html |website=株式会社NTTドコモ |access-date=2023-03-08 |date=2023-03-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ドコモ、新動画配信「レミノ」4月12日から dTVを改称 |url=https://www.sankei.com/article/20230306-U2IZ54V2QRIYBIK6ELYG6XNVBU/ |website=産経新聞 |date=2023-03-06 |access-date=2023-03-08}}</ref>。 * 5月11日 - 「[[Pixel 7a|Google Pixel 7a]]」 を発売 (グーグルのスマートフォンとしては2019年以来の取り扱い)。 * 6月1日 - 通信障害発生時に[[KDDI]]([[Au (携帯電話)|au]])のネットワークが利用できる副回線([[デュアルSIM]])サービスを開始<ref>{{Cite web|和書|title=ドコモも「副回線サービス」 障害に備え、KDDI網利用 |url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2023050900977&g=eco |website=時事通信 |access-date=2023-05-11 |date=2023-05-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ドコモとKDDIが「デュアルSIM」提供、通信障害・災害時に副回線の使用が可能に |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230509-OYT1T50196/ |website=読売新聞 |date=2023-05-09 |access-date=2023-05-11}}</ref>。 * 7月1日 - [[NTTレゾナント]]を吸収合併<ref>{{Cite press release |language=ja |title=完全子会社(エヌ・ティ・ティレゾナント株式会社)の吸収合併に関するお知らせ |publisher=NTTドコモ |date=2023-05-25 |url=https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/2023/05/25_00.html |accessdate=2023-06-01}}</ref>。 * 10月4日 - [[マネックスグループ]]並びに[[マネックス証券]]との間で資本業務提携を締結<ref>{{Cite web |title=NTTドコモ、マネックス証券を子会社化へ…485億円出資 |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20231004-OYT1T50223/ |website=読売新聞 |date=2023-10-04 |access-date=2023-10-04}}</ref>。 * 10月23日 - [[インテージホールディングス]]を[[株式公開買付け]](TOB)により連結子会社化<ref>{{Cite news |title=NTTドコモ、インテージHDをTOB 1株2400円 |url=https://jp.reuters.com/business/technology/CH3ZLBLPTRI7VPJLGGK4GCP3GU-2023-09-06/ |work=ロイター通信 |date=2023-09-06 |access-date=2023-09-10 |author=石田仁志}}</ref><ref>{{Cite press release |language=ja |title=株式会社インテージホールディングスの普通株式に対する公開買付けの結果について |publisher=NTTドコモ |date=2023-10-17 |url=https://www.docomo.ne.jp/info/news_release/2023/10/17_00.html |accessdate=2023-10-28}}</ref>。 * 11月14日 - [[スマートニュース]]と業務提携<ref>{{Cite web |title=ドコモ、スマートニュースと提携 dポイント利用促進 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC143SM0U3A111C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2023-11-14 |access-date=2023-11-16}}</ref>。 '''[[2026年]](令和8年)''' * 3月31日 - 第3世代携帯電話「[[FOMA]]」「iモード」サービス終了予定<ref>{{Cite web|和書|title=報道発表資料 : 「FOMA」および「iモード」のサービス終了について {{!}} お知らせ {{!}} NTTドコモ|url=https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2019/10/29_00.html|website=www.nttdocomo.co.jp|accessdate=2021-06-06|language=ja}}</ref>。 == 主な事業 == {|class=wikitable style="font-size:smaller;" |- !セグメント区分!!colspan=2|事業内容 |- !rowspan="7"|通信事業 |rowspan="5"|モバイル通信サービス||・5Gサービス |- |・LTE (Xi) サービス |- |・FOMAサービス |- |・国際サービス |- |・端末機器販売 など |- |rowspan="2"|光通信サービス及びその他の通信サービス||・光通信サービス |- |・衛星電話サービス など |- !rowspan="9"|スマートライフ事業 |rowspan="3"|コンテンツ・コマースサービス||・dTV、dヒッツ、dマガジン、dショッピング、dトラベル |- |・DAZN for docomo |- |・[[タワーレコード]](株) など |- |rowspan="3"|金融・決済サービス||・dカード、iD |- |・料金収納代行 |- |・d払い など |- |rowspan="3"|ライフスタイルサービス||・dヘルスケア、dグルメ、dフォト |- |・(株)オークローンマーケティング |- |・(株)ABC Cooking Studio など |- !rowspan="4"|その他の事業 |rowspan="2"|法人ソリューション||・法人IoT |- |・システム開発・販売・保守受託 など |- |rowspan="2"|あんしん系サポート||・ケータイ補償サービス |- |・あんしん遠隔サポート など |} === 携帯電話事業 === [[ファイル:FOMA N2001.jpg|thumb|ドコモの[[FOMA]]端末第一号・N2001 [[日本放送協会|NEC]]製 2001年]] 日本国内携帯電話契約数は'''約8,749万契約'''で、国内携帯電話市場における[[市場占有率]]は約41%で、ともに1位(2023年3月末現在)<ref>[https://www.tca.or.jp/database/ 一般社団法人電気通信事業者協会 事業者別契約数]</ref><ref>{{Cite web |title=携帯キャリアのシェア 2023年3月末:docomo 41.5%、KDDI au 30.5%、Softbank 25.8%、楽天 2.2% |url=https://www.infraexpert.com/blog/2023/06/30/phone003/ |website=ネットワークエンジニアの仕事 |date=2023-06-30 |access-date=2023-11-16 |language=ja |last=infraexpert}}</ref>。 現在はW-CDMA方式・HSPA方式の第3世代・第3.5世代携帯電話「'''FOMA'''」と、2010年12月24日に国内移動通信事業者各社に先駆けて開始したLTE方式の第3.9世代携帯電話「'''Xi'''」、2015年3月27日に開始したLTE-Advanced方式の第4世代携帯電話「'''PREMIUM 4G'''」、2020年3月25日に開始した第5世代携帯電話「'''docomo 5G'''」をサービスしている。 1千万契約ごとの到達年月<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/notice/2016/02/12_00.html (お知らせ)ドコモの携帯電話契約数が7,000万を突破]</ref><ref>{{Cite web |title=事業者別契約数(2019年)|一般社団法人 電気通信事業者協会(TCA) |url=https://www.tca.or.jp/database/2019/ |website=www.tca.or.jp |access-date=2023-11-16}}</ref> * 1997年2月:1000万契約 * 1998年8月:2000万契約 * 2000年4月:3000万契約 * 2002年1月:4000万契約 * 2005年11月:5000万契約 * 2012年3月:6000万契約 * 2016年2月:7000万契約 * 2020年3月:8000万契約 ==== メール・iモードサービス ==== [[1997年]]12月開始の[[10円メール]]サービス(2008年[[2月]]終了)や[[1999年]]2月開始の「'''[[iモード]]'''」<ref group="注釈">現・[[バンダイ]]取締役の[[松永真理]]、現[[ドワンゴ]]取締役の[[夏野剛]]らが開発メンバーとして手がけた。</ref>[[サービス]]が爆発的ヒットとなり、市場占有率を高めた。 iモード普及期の1999年から[[2001年]]にかけて、当初のiモード[[メールアドレス]]は「携帯電話番号@docomo.ne.jp」であった。悪意を持ったコンテンツ事業者は「携帯電話番号@docomo.ne.jp」というメールアドレスを[[コンピュータ]]で自動生成し、自社の[[勝手サイト]]を宣伝する「'''[[スパム (メール)|迷惑メール]]'''」をiモード宛に大量送信した。受信者にメール受信料金の金銭負担がかかる迷惑メールは社会的に大きな問題になった。このため、2001年7月よりiモードに向けて大量に一斉送信されたメールをiモードセンターが探知し、削除して受信させないことである程度の抑制が出来るようになったほか、契約直後のアドレスは[[ランダム]]な英数字から始まる仕様に変更され、iモード上の「メール設定」でアドレス(メールアカウント)の他、迷惑メール対策の設定変更ができるようになっている。 同じ頃、J-フォン(現・[[ソフトバンク]])は[[電子メール|メール]]受信無料を強く[[パブリック・リレーションズ|PR]]しており、また「受信メールにも[[パケット]]料金を課金する」というNTTドコモと同様の仕組みを導入していた[[au (携帯電話)|au]]([[KDDI]]・[[沖縄セルラー電話]]連合)が2001年[[1月]]に「コミコミパック」という無料通信分を含んだ割引プランを導入した。一方、NTTドコモは2001年8月からiモード利用者に対して、迷惑メール対策の一環として毎月400パケットまでは無料とした。また、電波帯域に余裕のあるW-CDMA (FOMA) においては、1パケットの単価を若干下げると共にコミコミパックと同様の「[[パケットパック]]」を導入した。[[2005年]]11月、新統一料金プラン導入時に同プラン利用者の[[iモード付加機能使用料|iモード基本料金]]を値下げし、毎月の「400パケット無料」を廃止した。また、2008年6月にはiモード基本料金を他社と横並びの月額315円に改定した。 ==== movaからFOMAへの移行 ==== 2001年10月に世界初のW-CDMA方式の第3世代携帯電話サービスとして開始された「FOMA」は、2004年に最新機能を盛り込んだ900iシリーズの発売を機にドコモの主力サービスとして位置づけられた。その後、「mova」から「FOMA」への加入者移行を図ったことで、[[2004年]]4月から2008年[[6月]]末まで第3世代携帯電話での純増数は50か月連続1位となり、2006年7月にはFOMAの契約数はmova契約数を上回った。2008年11月にmovaサービス・2009年3月に[[デュアルネットワークサービス]]の新規契約を終了し、2012年3月31日を以てPDC方式によるmova携帯電話サービスを終了した。 ==== FOMAの高速化とLTEの導入 ==== FOMAのデータ通信速度は2001年10月の導入当初、送受信とも64 [[ビット毎秒|K'''b'''ps]]<ref group="注釈">"bps" (bが小文字) は[[ビット毎秒]]であり、[[バイト毎秒]] (Bps) でないことに留意。</ref>の回線交換と、受信最大384 Kbps送信最大64 Kbpsの[[無線パケット通信]]でサービスが開始された。2003年9月に、カード型端末 F2402 が発売され、送受信とも最大384 Kbpsでの通信が利用可能となった。音声端末においては、その後も、送信は最大64 Kbpsであった。2006年8月に、[[FOMAハイスピード]]の名称で W-CDMA の上位規格である[[HSDPA]]が導入され、受信最大3.6 Mbps上り送信384 Kbpsの通信速度が利用可能となった。2008年4月に、FOMAハイスピードの受信速度が最大7.2 Mbpsに向上され、2009年6月には、HSPA規格の導入により送信も最大5.7 Mbpsに向上された。2011年6月からは、FOMAハイスピード受信速度が14 Mbps (理論値: 14.4 Mbps) に引き上げられた。 積極的なFOMAエリアおよびFOMAハイスピードエリアの拡大によって通信エリアによる[[顧客満足|顧客満足度]]が向上し、2009年3月にはデータ通信における顧客満足度で1位になり<ref>[https://consult.nikkeibp.co.jp/consult/market-news/contents/column/column40-2.html 日経BPデータ通信カード顧客満足度NTTドコモが15部門中8部門で1位]</ref>、2009年7月の携帯電話純増数でも第1位になり2009年度全体でも純増数が4年ぶりに1位となっている<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/359606.html 2009年度の年間純増数]</ref>。また2010年にはJDパワー[[顧客満足|顧客満足度調査]]で初めて業界1位を獲得した<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/408109.html J.D.パワー顧客満足度調査、総合1位はドコモ]</ref>。 現在、世界中の通信事業者が導入し始めている[[第3.9世代移動通信システム]]の規格である [[Long Term Evolution]] (LTE)についても、ドコモは「Xi(クロッシィ)」という新たなサービスブランドで、2010年12月24日よりサービスを開始し、東京・大阪・名古屋から政令都市・全国へと基地局を増やしている。「Xi」の導入によって導入当時一部の屋内エリアで最大75 Mbps、その他のエリアで最大37.5 Mbpsの通信速度が利用可能となった。一部地域において2012年冬より受信最大速度最大112.5 Mbpsにまで、2013年夏より受信最大速度最大150 Mbpsにまで向上した。 ==== スマートフォンとiPhoneへの参入遅れ ==== [[File:NTT docomo HT-03A front.jpg|thumb|160px|「[[HT-03A]]」日本初のAndroid搭載携帯電話([[:en:HTC Magic|HTC Magic]]ベース)]] 2006年10月に開始した「[[番号ポータビリティ]] (MNP)」では当初苦戦し、2006年11月度の契約数が自社初の純減となった。その後も、auに比べ純増数が少ない状態が続いた。さらにはソフトバンクにも純増数で劣り、MNP開始後2社に大きく遅れをとった。また、2008年1月度は[[イー・モバイル]]にも純増数で劣った。ドコモは2007年5月より「'''[[DoCoMo2.0]]'''」という旗印で顧客獲得を狙ったが、2007年8月度に、創業以来2度目の純減 (-22,900)となった。 この純減状況に、更なる追い打ちをかけたのが、[[フィーチャーフォン]]に変わる「[[スマートフォン]]の台頭」と、[[2007年]]に[[Worldwide Developers Conference|WWDC]]で発表された[[Apple]]のスマートフォン「[[iPhone]]」の登場である。とりわけiPhoneは、画面上を指の操作によるマルチタッチ機能が、斬新で直感的な操作体系に加えて、[[パーソナルコンピュータ]]とほぼ同等の機能を持つ「フルブラウザ機能」と「[[電子メール]]機能」を搭載したことで、iPhoneの市場規模が拡大した。翌年の2008年に発表された[[iPhone 3G]]にて、ソフトバンクが参入したことで、日本国内においてもスマートフォンが普及するきっかけとなった。 スマートフォンの台頭で、ドコモも対応に追われ、2008年7月から新しいドコモブランドに変更することとなった。2008年11月には「90X・70X」といった数字による携帯電話の付番方式を改め、型番を整理し、'''[[docomo PRIME series]]''', '''[[docomo STYLE series]]''', '''[[docomo SMART series]]''', '''[[docomo PRO series]]'''といった4つのシリーズに分類するようになり、2008年度からは1100シリーズ、docomo PRO seriesで[[Windows Mobile]], [[BlackBerry]], [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]([[Google]]ケータイ)といったスマートフォンを立て続けに発売した。 2010年夏からはスマートフォンを PRO series カテゴリから独立させ「'''[[ドコモ スマートフォン]]'''」とし、2010年9月には[[スマートフォン]]でもiモードのメールアドレスなどが利用できる「'''[[spモード]]'''」がサービス開始になった。 2011年冬季モデルの端末からは、従来型携帯電話の上位シリーズを「docomo STYLE series」に統合してスマートフォンを主力に位置付けた上で、ワンセグやおサイフケータイといった従来型携帯電話に搭載されていた機能を付け加えた「'''[[docomo with series]]'''」と、旧来の「ドコモ スマートフォン」の流れを引き継ぐ先進的なユーザー向けのスマートフォンという位置づけとなる「'''[[docomo NEXT series]]'''」の2つのシリーズに分類した。2011年冬モデル以降は「Xi」対応の音声通信端末が発売された。 しかし、これまで通信規格「[[CDMA]]」の問題で、iPhoneに参入出来なかったauが、[[iPhone 4s]]の発売と同時に参入したことで、[[iPhone 3GS]]以降の機種で、FOMAの通信規格に対応していたにもかかわらず、ドコモだけがiPhoneを取り扱わない状態に陥っていた。これは、ソフトバンクのiPhone参入時からドコモのiPhone参入時までの間に、ドコモでは2度の社長交代が行われており、経営方針の変更を余儀なくされていたのに加えて、2010年のパケットビデオ社の買収や2012年の[[NOTTV]]の放送開始、当時のドコモの傲慢な態度も、ユーザーの不評を買う要因となっていた。 その影響を受けて、2008年夏以降は[[番号ポータビリティ]]転出数や[[解約]]率の低下が顕著になり、同年12月にはMNP制度開始以来初の転入超過となっている<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/43504.html 2008年12月・携帯、PHS契約数ドコモ初の転入超過]</ref>。2012年1月には初めて「FOMA」契約が純減となり、iPhone参入までの間は、苦戦が続いた。 このような過去の失敗と反省を踏まえて、ドコモは経営戦略の見直しを図り、新たに「'''2トップ戦略'''」を打ち出し、[[ソニーエリクソン]]と[[サムスン電子]]のスマートフォンに、販売奨励金をより多く投入すると共に(結果的には失敗に終わるが)、2013夏季モデルの端末からは、「'''[[docomo with series]]'''」と「'''[[docomo NEXT series]]'''」の2つのシリーズによる分類も無くなった。 2013年秋には、ソフトバンク、auに続いて、日本国内でのiPhone参入 ([[iPhone 5s]] / [[iPhone 5c|5c]]) をようやく果たした。 ==== 近年の課題・新サービス ==== 他社に比べ料金プランや[[端末]]価格が高額というイメージがあることなどが挙げられる。FOMAでの[[パケ・ホーダイ]](iモード通信を対象とした[[パケット定額制]]料金プラン)・[[パケ・ホーダイ#パケ・ホーダイフル|パケ・ホーダイフル]](iモード通信・[[フルブラウザ]]を対象としたパケット定額制料金プラン)([[パケ・ホーダイ#パケ・ホーダイ ダブル|パケ・ホーダイダブル]]のサービス開始に伴い、2008年[[12月31日]]をもって新規申込受付を終了)の導入や利用可能エリアの拡大、サービスや端末のバリエーションの強化、家族間通話24時間無料<ref group="注釈">「ファミ割MAX50」または「10年以上利用で(新)いちねん割引+ファミリー割引」の契約が必要。</ref>など[[家族割引サービス|ファミリー割引]]の強化、料金プランのFOMAとmovaの統一、[[ファミ割MAX50]]と[[ひとりでも割引50]]の導入による料金が高額というイメージの払拭、新料金体系([[バリューコース (NTTドコモ)|バリューコース]]・[[ベーシックコース (NTTドコモ)|ベーシックコース]])導入に伴う端末の[[割賦販売]]の開始<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/2007/070920_5.html 総務省 モバイルビジネス研究会の端末代金と通信料金の区分の明確化に関する報告書] を受けたもの</ref>、さらなる高速パケット通信規格であるHSDPAの導入、[[MOAP]]といったソフトウェアにおける共通プラットフォーム開発などの対抗策を打っている。 2004年には「[[iモードFeliCa]]」を開始した。愛称は「'''[[おサイフケータイ]]'''」で、これを基にした「[[モバイルSuica]]」のサービスも行われている。「おサイフケータイ」は他社にも[[ライセンス]]が供与されている。 [[2006年]][[8月31日]]、[[HSDPA]]と呼ばれる高速パケット通信規格を使用したサービス「'''FOMAハイスピード'''」を開始した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/page/20060201.html 報道発表資料 HSDPA対応試作機を開発]</ref>。HSDPAは[[第3.5世代移動通信システム]]の高速データ通信の受信規格(ダウンロード)に相当する。これを利用した、「[[着うたフル]]」の配信や深夜に音楽番組を自動でダウンロードする「[[Music&Videoチャネル]]」も行っている。また、同じ第3.5世代移動通信システムの高速データ通信の送信規格(アップロード)である[[HSUPA]]方式の「FOMAハイスピード」も採用され、FOMAのデータ通信サービス「FOMAハイスピード」は送受信とも高速化を実現した。更に、[[第4世代移動通信システム]]に相当する[[Xi (携帯電話)|Xi(クロッシー)]]、[[第5世代移動通信システム]]への新方式の研究・開発を積極的に行っている。 2008年度からは、今までドコモが作ったビジネスモデルであるiモードシステムでは開拓しきれなかった分野にも取り組んでいる。 2010年9月より、スマートフォン用ISPサービス「'''[[spモード]]'''」をサービス開始、[[ワンセグ]]、おサイフケータイ搭載のスマートフォンの発売を開始し、更に[[大日本印刷]]と提携し、同社のスマートフォン向け電子書籍配信サイト「'''[[2Dfacto]]'''」を立ち上げるなどして販売拡大に取り組んでいる。 2011年9月からは、タブレット端末を新たなカテゴリ「'''[[ドコモ タブレット]]'''」で展開している。また、[[2011年]][[4月1日]]以降に販売する端末は、[[総務大臣]]が示すガイドラインに基づき、iPhoneを除いた全ての携帯端末で、[[SIMロック]]解除可能([[SIMフリー]])とした<ref>[https://web.archive.org/web/20100709021859/mainichi.jp/select/biz/news/20100707k0000m020058000c.html NTTドコモ:「SIMロック」解除へ 来年4月以降]</ref>。 更に2014年夏には、「Xi」による高音質通話サービス「[[VoLTE]]」(Voice over LTE) が開始された。 2015年2月から、「口座振替のご案内の封書」は有料化され、郵送料は50円([[消費税]]抜き)、[[請求書]]払いは100円(消費税抜き)の取扱手数料が掛かるようになった(eビリングは継続)。同年、[[タカラトミー]]と共同で、コミュニケーショントイ・オムニボット「OHaNAs」を開発した。[[しゃべってコンシェル]]の技術を応用し、円滑な会話が可能となっている<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2015/06/04_00.html タカラトミーの新商品「OHaNAS」を共同で開発]</ref><ref>[https://www.takaratomy.co.jp/products/omnibot/ohanas/ 話の分かる、ロボットです]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150607050730/http://japanese.engadget.com:80/2015/06/04/ohanas/? タカラトミー、会話ロボOHaNAS(オハナス)発表。ドコモのクラウドで自然な会話を実現]</ref>。 [[2019年]]秋、[[ラグビーワールドカップ2019]]に合わせ、[[第5世代移動通信システム|5G]]のプレサービスを開始し<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2019/07/26_00.html 「ラグビーワールドカップ2019TM 日本大会」で5Gプレサービスを提供-5Gプレサービスの一環として、マルチアングル視聴や高臨場ライブビューイングなどの新しい観戦スタイルを実現] NTTドコモ 報道発表資料 2019年7月26日</ref>、2020年3月25日に5Gサービスを正式に開始した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2020/03/18_00.html 「5G」サービスを提供開始 NTTドコモ 報道発表資料 2020年3月18日]</ref>。 [[2020年]][[9月]]には、今後の[[第6世代移動通信システム|6G]]携帯電話への研究開発に向けての[[NTTグループ]]としての国際競争力を高めるなどの狙いから、[[持株会社]]である[[日本電信電話]](NTT)がドコモを[[子会社|完全子会社]]化することが発表された<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/binary/pdf/info/news_release/topics_200929_00.pdf 当社親会社である日本電信電話株式会社による当社株式等に対する公開買付けに係る賛同の意見表明及び応募推奨に関するお知らせ] NTTドコモ 報道発表資料 2020年9月29日</ref>。 また、KDDIやソフトバンクのように[[サブブランド]]を持っていなかった同社は、大手携帯電話会社への月額料金の値下げを迫った[[菅義偉内閣]]の要望を受け、2020年12月に、[[デジタルネイティブ]]世代をターゲットにした、ドコモの既存プランとは完全分離された新プラン「[[ahamo]]」を[[2021年]][[3月]]に導入することを発表している<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2020/12/03_00.html 新料金プラン「ahamo(アハモ)」を発表] NTTドコモ 報道発表資料 2020年12月3日</ref>。 [[2022年]]には[[NTTコミュニケーションズ]]を傘下に収めた関係で、NTTコムが提供する格安スマホ「[[OCNモバイルONE]]<ref>[https://www.ntt.com/personal/services/mobile/one.html OCNモバイルONE]</ref>」をNTTドコモショップで販売している。このNTTコムの個人向け事業は2022年7月1日付をもって、同じくNTTドコモが子会社化した[[NTTレゾナント]]に事業を委譲する予定である<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/2209/20/news104.html ドコモ傘下となった「OCN モバイル ONE」の戦略 「Y!mobileやUQ mobileに対抗できるブランドになりたい」] - ITmedia Mobile</ref> 2023年7月1日より、[[ギガホ]]と[[ギガライト]]が合併した「[[eximo]]」とライトユーザー向けの「[[irumo]]」のプランを開始した。それにともない、「ギガホ」「ギガライト」「OCNモバイルONE」の新規受付は終了している。 ==== 他事業者への回線貸出(MVNO事業) ==== NTTドコモのXi/FOMA回線網を[[MVNO]]事業者へ貸し出すMNO事業を行っている。 {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" align= |+現在提供および提供予定の企業(新規停止のものも含む) !サービス名!!提供企業!!提供回線 |- |IIJモバイル||rowspan=2|[[インターネットイニシアティブ]] (IIJ)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |IIJmio高速モバイル/D||Xi/FOMAハイスピード(データ・音声) |- |モバイル/リモートアクセス ドコモモデル||rowspan=4|[[NTTコミュニケーションズ]]<br />(NTTグループ)||rowspan=2|FOMAハイスピード(データのみ) |- |OCNモバイル<br />[[OCN]]ビジネスモバイル (d) |- |OCNモバイル d||Xi |- |OCNモバイルONE||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |b-mobile 3G||rowspan=4|[[日本通信]]||FOMAハイスピード(データのみ) |- |コネクトメール||メールサービス |- |talkingSIM||音声、データ、WORLD WING |- |b-mobile 4G||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |STAR Remote3G||[[スターネット]] [[住友電気工業|住友電工]]系<br />(一時期[[ネットマークス]]傘下の時期あり)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |[[Vertu|VERTU]]||[[ノキア|NOKIA Japan]]||音声、データ、WORLD WING |- |Tikiモバイル 3G||[[TikiTikiインターネット]]||FOMAハイスピード(データのみ) |- |WaveNETMate/タイプD||[[エヌ・ティ・ティ・データ・ウェーブ]]<br />([[NTTデータ]]系)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |Master'sONE モバイルSaaS OnePacサービス||[[NTTPCコミュニケーションズ]]<br />(NTTグループ・NTTコム系)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |GENES||[[コシダテック]]<br />([[コシダ|コシダグループ]]系)||データ通信 |- |みまもりほっとライン||[[象印マホービン]]||データ通信 |- |TANGOメール||[[丹後通信]]||FOMAハイスピード(データのみ) |- |AIA-110PoF||[[日本電子工学]]||データ通信 |- |さつまいもネットワーク21C||[[白露カンパニー]]([[岩崎産業]]名)<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000008300.pdf MVNOの参入動向 (2009/8/1現在)(総務省,2009)]</ref>||音声、データ |- |モバイルPCアクセス タイプD||[[富士通]]||FOMAハイスピード(データのみ) |- |モバイルアクセス type AJ||[[USEN]]||FOMAハイスピード(データのみ) |- |WICOM Mobile-D|||[[ワイコム]]||FOMAハイスピード(データのみ) |- |MIND FOMAパケットアクセス (TypeB)||[[三菱電機情報ネットワーク]]<br />([[三菱電機]]系)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |運行管理システム||[[モバイルクリエイト]]<br>(元[[日本無線]]系→[[大分銀行]]グループ実質傘下)||データ通信 |- |VECTANTセキュアモバイルアクセス||[[ヴェクタント]]<br />(丸紅系、現・[[アルテリア・ネットワークス]]<br />(旧・グローバルアクセス))||FOMAハイスピード(データのみ) |- |ベリーデータ定額 日本||[[a2network]]||FOMAハイスピード(データのみ) |- |MiFi||[[インターコミュニケーションズ (携帯電話会社)|インターコミュニケーションズ]]<br />([[ジー・フォーン]]系)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |クリーニングPOS「DUKE」ワイヤレスプラン他||[[寺岡精工|デジジャパン<br />(テラオカグループ)]]||データ通信 |- |HP Mobile Broadband||[[日本ヒューレットパッカード]]<br />([[ヒューレット・パッカード|HPグループ]]日本法人)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |DTIハイブリッドモバイル||rowspan=2|[[ドリーム・トレイン・インターネット]]<br />([[フリービット]]系)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |ServersMan SIM LTE 100||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |R-Sky||[[アールストリーム]]||FOMAハイスピード+IP電話 |- |エスモビ||[[ソフィアモバイル]]<br />([[ソフィアホールディングス]]系)||FOMAハイスピード+IP電話 |- |[[So-net モバイル 3G]]||rowspan=2|[[So-net|ソネットエンタテインメント]]<br />(ソニーグループ)||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |NURO LTE→So-net モバイル LTE(2013年9月1日〜)||Xi/FOMAハイスピード(データ、音声) |- |ぷららモバイル||[[ぷらら|NTTぷらら]]<br />(NTTグループ)||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |BIGLOBEモバイル||[[BIGLOBE]]<br />(元[[日本電気|NEC]]グループ→[[KDDI]]グループ)||Xi/FOMAハイスピード(データ、音声) |- |@nifty do LTE||[[ニフティ]]||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |hi-ho LTE typeD||[[Hi-ho (インターネットサービスプロバイダ)|hi-ho]]<br />(元[[パナソニック]]系→現・IIJグループ傘下)||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |Wonderlink LTE||[[パナソニック コンシューマーマーケティング]]||Xi(データのみ) |- |楽天ブロードバンド LTE||[[楽天コミュニケーションズ]](楽天グループ)<br />[[丸紅無線通信]]||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |BB excite LTE||[[エキサイト]]||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |ビックSIM||[[ビックカメラ]]||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |U-Mobile LTE||rowspan=2|[[U-NEXT]]||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |Umobile d||FOMAハイスピード(データのみ) |- |ASAHIネット LTE||[[ASAHIネット]]||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |[https://s-nal.jp/service/network/wa/mvno/ モバイルデータ通信]||シグナル||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |[https://www.tp1.jp/ser/valuesim.html Value SIM (Toppa!)]||Hi-bit||FOMAハイスピード(データのみ) |- |[https://www.mobile-kun.jp/ @モバイルくん]||ジェネス||Xi/FOMAハイスピード(データのみ) |- |Kモバ||[[近鉄ケーブルネットワーク]]||Xi/FOMAハイスピード(データ、音声) |- |ads.mobile||[[アドバンスコープ]]||Xi/FOMAハイスピード(データ、音声) |} {| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" align= |+かつて提供していた企業 !サービス名!!提供企業!!提供回線 |- |ACCA mobile (D)||[[アッカ・ネットワークス]]<br />(元NTTグループ・[[NTTコミュニケーションズ|NTTコム]]傘下→[[イー・アクセス]]系→吸収合併)||FOMAハイスピード(データのみ) |- |[[WILLCOM CORE 3G]]||[[ウィルコム]]<br />(旧・[[KDDI|DDI]]ポケット、[[ソフトバンク]]グループ)||FOMAハイスピード(データのみ) |} === 衛星電話(ワイドスター) === [[ファイル:Widestar.jpg|150px|right|thumb|ワイドスターデュオ]] [[ファイル:NTT DOCOMO Sayado.jpg|150px|thumb|right|小夜戸衛星通信所]] [[ファイル:NTT DOCOMO Yojikata.jpg|150px|thumb|right|揚枝方衛星通信所]] {{Main|ワイドスター}} '''[[ワイドスター]]'''は[[赤道]]上空36,000 kmにある2機の[[静止衛星|静止軌道衛星]] (N-STAR) を使った公衆通話サービスである。2010年5月末時点で、38,100契約である。利用可能エリアは日本の[[領土]]・[[領海]]・[[排他的経済水域|経済水域]]のうち、[[正午]]ごろに[[太陽]]を見渡せる場所を全てカバーする。主に[[山小屋]]、[[船舶]]といった携帯電話や[[固定電話]]の届きにくい場所で利用されている。2004年[[3月]]まで、[[航空機]]内においてもサービスが提供されていた。 衛星軌道が遠いため、0.2秒程度音声に遅延が発生する。また通信に高出力が必要であるため、電話機は最小の可搬型で1.7 kgである。主に可搬型・車両型・船舶型の3形態である。車両型・船舶型は常に静止衛星にアンテナが向くよう、自動追尾アンテナを備える。可搬型にはそれ自体に[[指向性]]の強いアンテナが内蔵されており、アンテナを南方向に向けることにより、通信が可能となる。 屋内で利用するため外部アンテナと接続することもできる。割り当て番号は日本の携帯電話番号と同じで、[[衛星電話]]に着信する際の料金体系も、地上系携帯電話の料金と同じであるため、世界的な比較でも格安な衛星通信である。地上[[インフラストラクチャー|インフラ]]への依存度は低く、災害時も[[輻輳]]が起こりにくく、下記の2箇所に分散された「衛星アップリンク局」が同時に被災しない限り、通信に支障が生じることは無く、移動予備局への移行も容易である。 その実力は、未曾有の被害となった[[東日本大震災]]で、地上の携帯電話基地局が地震や津波や長時間停電などで、次々と麻痺・機能不全になった時でも、安定した通話・通信が実証されたため、災害対策機関だけでなく、[[官公庁]]や企業でも災害対策用として導入している。 2010年4月からはワイドスターIIという、データ通信速度の高速化及びパケット料金の低廉化を図った新サービスを開始している。 * 小夜戸(さやど)衛星通信所([[群馬県]][[みどり市]]) * 揚枝方(ようじかた)衛星通信所([[茨城県]][[北茨城市]]) === 国際ローミング、国際電話 === {{Main|WORLD WING|WORLD CALL}} NTTドコモの国際[[ローミング]]サービスとして[[WORLD WING]]というサービスを提供している。これは電話番号やメールアドレスはそのままにNTTドコモと提携している海外の通信事業者のサービスエリアで利用できるサービスである。通話のほかiモード(iモードメール含む)・SMS・データ通信など海外で利用することができる。 利用できるエリアは210カ国と、日本人が渡航するほとんどの国で利用が可能である。また[[コネクサスモバイルアライアンス]]等、海外との通信キャリアとの提携を積極的に行っており、2010年9月には[[海外パケ・ホーダイ]]の提供により、海外での定額のパケット利用料などのサービスを提供している。2007年頃から、WORLD WING搭載の機種が増えているが、日本の国際空港では、ドコモワールドカウンターを設け、国際ローミング端末のレンタルも行っている。 国際電話(日本発海外)では、[[WORLD CALL]]というサービスを行っており、NTTドコモの全端末から利用することが可能である。ガイドブックには記載はないが、[[イリジウム衛星]]携帯電話に電話することができる。 === インターネットサービスプロバイダ及び公衆無線LAN事業 === {{Main|mopera|ドコモ光|d Wi-Fi|ドコモビジネスWi-Fi}} NTTドコモでは、[[インターネットサービスプロバイダ]](ISP)事業を展開している。 [[ドコモ光]]は、NTT[[東日本電信電話|東日本]]・[[西日本電信電話|西日本]]及び提携[[ケーブルテレビ]]局の[[FTTH#光回線サービスの卸売|光回線の卸売]]を利用して[[Fixed Mobile Convergence|FMC]]を行うものである。各ISPと提携しているが、ドコモnetの選択も可能である。 [[mopera]](モペラ)はNTTドコモの携帯電話(mova、初期のFOMA)やDoPa、衛星電話といった全ての通信でインターネット接続ができるもので、利用料は基本的に無料である。FOMAに特化しデータ圧縮や[[セキュリティー]]対策のとれる[[mopera U]](モペラユー)ではiモードが使えないドコモのスマートフォンでの[[プッシュ型電子メール]]や[[定額データプラン]]での接続などができるほか、オプションで[[公衆無線LAN]]や[[フレッツ]]光やフレッツADSLを安価に利用することができる。 かつては[[ドコモ・エーオーエル]]や[[ドリームネット]]といったISPも運営していたが、他社への売却やOCNへの統合などでmoperaとドコモnetだけである。 [[ファイル:DocomoWi-Fi-FLET’S-SPOT-HOTSPOT-Area.JPG|thumb|250px|公衆無線LAN docomo Wi-Fi・[[フレッツ#フレッツ・スポット|FLET'S SPOT]]・[[ホットスポット (NTT)|ホットスポット]]の共用エリア表示]] その他に[[d Wi-Fi]]という公衆無線LANサービスを提供している。これはドコモ契約者向けに[[docomo Wi-Fi]](ドコモ ワイファイ)として有料で提供していたサービスを[[dポイントクラブ]]会員向けに無料で提供するよう拡張したものである。法人名義のドコモ回線を所有しているドコモビジネスメンバーズ会員向けに、同じく無料で[[ドコモビジネスWi-Fi]]が提供されている。 docomo Wi-Fiは、かつてはMzone(エムゾーン)の名前でサービスを展開していたが、2012年3月1日より名称変更された。回線契約者向けに前述のmopera Uの公衆無線LANのオプションサービスやスマートフォン向けのspモードの公衆無線LANオプションサービスとしてdocomo Wi-Fiの公衆無線LANサービスを提供していたが、NTTドコモの回線契約がなくても、docomo Wi-Fiのサービスを単体で契約して利用することができた(利用料はmopera Uやspモードの公衆無線LANのオプションよりは割高)。 d Wi-Fi(かつてのdocomo Wi-Fiも含む)およびドコモビジネスWi-Fiの提供エリアは日本の有料で提供される公衆無線LANのなかでは最大で、コンビニエンスストア、[[飲食店]]、[[鉄道駅|駅]]、[[空港]]、複合ビル、[[ホテル]]、[[パーキングエリア]]などで利用することができる。 === PHS事業 === [[ファイル:NTTDoCoMo 633S 642S compared.jpg|200px|thumb|NTTドコモPHS、633S 642S]] {{Main|ドコモPHS}} 1998年に[[NTTパーソナル]]よりPHS事業の譲渡を受け、事業展開を行っていた。NTTドコモの携帯電話事業との競合を極力避けるため、音声通話よりも[[データ通信]]や位置情報端末、[[パッセージ]]といわれるPHSを使った構内内線や家庭内内線などといった分野に力を入れていった。2000年ごろは[[パーム]] (Palm/[[SONY]]) や[[ザウルス]] (Zaurus/[[シャープ (企業)|SHARP]])、[[Windows CE]]端末といった[[携帯情報端末]] (PDA) が全盛期ということもあり、それにあわせた[[コンパクトフラッシュ]]タイプのデータ通信端末を中心に契約数を伸ばし、ピーク時には200万以上の契約数で市場占有率2位であった。2001年前半にFOMA等に先駆けてマルチメディアサービス'''[[M-Stage]]'''([[音楽配信]]・動画配信)も行われていた。しかし事業自体は赤字が続き、生き残りの施策として2003年に[[アットフリード|@FreeD]]という[[モバイルデータ通信定額制|定額データ通信]]サービス(回線交換によるドーマント方式)を開始。一時期収益を持ち直したが、競合するDDIポケットが[[AIR-EDGE|Air H"]]サービス(パケット交換方式)の先行に追いつけず、端末と料金設定が充実した2005年頃にはFOMAサービスの低廉化とデータ通信や構内内線 ([[PASSAGE DUPLE]]) 事業が社内競合し始めた事や、設備の老朽化によりエリア拡充や新規サービス追加が困難なことから、事業継続のメリットが少なくなってきた。PHS事業を手がける3大グループの中の[[アステル]]グループが2002年より一部地域会社で撤退が始まり(2006年12月にアステルとしてのサービスは全て終了)、ドコモPHSの動向が注目されていた。2005年4月30日を以て新規加入を停止、2008年1月7日24時をもって全てのサービスを終了した。ドコモPHSの利用者はFOMAへの移行優遇措置やウィルコムへの斡旋等を行い、NTTグループ全体としてみても、通信分野部門単位で初めて他事業者に市場を明け渡したことになる。<br />2008年1月7日以降は、ウィルコムグループ→[[ワイモバイル]]のみがPHSの全国サービスを展開し存続する事業者になったが、これも2023年3月末日をもって全サービスが終了した。 === ポケットベル(クイックキャスト) === [[File:NTT DoCoMo B55 20061102.jpg|200px|thumb|ドコモセンティーネクスト]] {{Main|無線呼び出し}} 日本で唯一ポケットベルサービスを全国の都道府県で提供する事業者であった。NTTドコモの営業開始当初は、携帯電話よりポケットベル加入者の方が多かった時期もあった。1968年7月1日に、[[東京都区部|東京23区]]で旧電電公社が始め、[[1978年]]に280MHz帯の[[デジタル変調#周波数偏移変調|FSK変調]]200b/sのNTT方式のサービスが開始された。当初は呼び出し音のみのものであったが、バイブレーションタイプ、カードタイプと進化していった。1985年の[[通信自由化]]により[[テレメッセージ]]グループが参入し、ポケットベル価格が安価になり、1990年代は端末が「'''ネクスト'''」シリーズとしてラインナップされ、[[数字]]・[[カタカナ]]<ref group="注釈">いわゆる[[半角カタカナ]]。</ref>・[[漢字]]の表記もできるように高機能になっていった。 1996年以降は、携帯電話・PHSの低価格化とポケベル同様の「[[ショートメール]]」機能を備えた機種の登場により、プライベート用途で利用していたユーザの流出が起き始める。 1997年から[[パソコン]]から[[電子メール]]網([[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]])を経由してメッセージを送信する[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]、[[占い]]・[[天気予報]]・[[ニュース]]などのプッシュ型情報配信サービス([[タクシー]]や[[自動販売機]]の[[電光掲示板]]配信にも応用)や、“帰宅や連絡を促す”定型文(シンプルネクスト)のみに対応した子供向け端末「[[キッズベル]]」の発売、1999年には発信者課金で基本料不要の「[[ゼロニード]]」(02DO/[[020]]発信電話)のサービスも開始され、テレビCMもiモード登場後の02DOサービスインまで行われていた(「キッズベル」を除き、[[東京テレメッセージ]]でも同等のサービスが近年まで提供されていた。)。 2001年4月にポケットベルから'''クイックキャスト'''へサービス名称を変更した。“確実に届く”ページャーの特性を前面に出し、新端末「'''スクーパー'''」シリーズも発売されたが、携帯電話の加入者増加が続き、利用者が大幅に減少したため、2004年[[6月30日]]に新規申込受付を終了、2007年3月31日限りで事業を終了した。 NTTドコモが2007年に撤退した後は、テレメッセージグループだった[[沖縄テレメッセージ]]と[[東京テレメッセージ]](2代目:2008年10月1日に[[YOZAN]]から会社分割)がポケットベル事業を継続していたが、沖縄テレメッセージは2017年4月に、東京テレメッセージは2019年9月に事業終了した。 === クレジットカード事業 === {{Main|dカード|iD (クレジット決済サービス)}} NTTドコモは、元々は『[[ドコモカード]]』というクレジットカードを、クレジットカード会社と提携して提供していた。[[おサイフケータイ]]でのクレジットカードサービスの促進、さらに新たな収益確保の一環として、2005年12月1日より[[三井住友カード]]に出資し、非接触型クレジットブランドである「'''[[ID (クレジット決済サービス)|iD]]'''」サービスを始めた。 2006年[[5月26日]]サービス開始の「'''DCMX'''」・2015年11月20日発行開始のdポイントカード一体型の「'''[[dカード]]'''」をドコモ独自のiD対応クレジットカードとして発行している。VISA / Master ブランドのクレジットカードでも、ショッピングやキャッシングの利用が可能。[[ETC]]カードも発行されている。 DCMXには、カードを発行せず、おサイフケータイのiDによるショッピングのみ対応の簡易サービス「DCMX mini」もある。利用限度額1万円・ショッピングポイント非加算という制約があるものの、FOMAのおサイフケータイを保有している数百万 - 1千万程度の契約者が申込むことができ、ケータイクレジットのすそ野を広げる狙いがある。 ドコモのケータイ払いは、dアカウントでの買い物の代金を携帯電話料金などとまとめて決済するサービスである。dポイントが付与され使用できる。dアカウントは、ドコモ回線契約がなくても取得できる。 iDはNTTドコモ、三井住友カードの他にも、[[イオンクレジットサービス]]や[[クレディセゾン]](セゾン・UC両ブランド)など、合計68社が提供を行っており、2009年1月には、おサイフケータイによるiD・iD一体型クレジットカードとiD単体カード(VJAグループ)を併せた発行枚数が'''1,000万枚'''を突破している。「DCMX」の会員数も2009年[[8月24日]]に1,000万人を突破している。 iD利用可能な店舗は[[セブン-イレブン]]、[[ローソン]]、[[ファミリーマート]]、[[デイリーヤマザキ]]といった[[コンビニエンスストア]]や、[[日本マクドナルド]]、[[牛角]]、[[イオン (企業)|イオン]]、[[ビックカメラ]]、[[ヨドバシカメラ]]、[[コジマ]]他多数の店舗で利用が可能である。また[[日本コカ・コーラ]]の自動販売機である[[Cmode|シーモ2]]や[[日本のタクシー|タクシー]]でも利用できるものがある。 対応決済端末台数は'''42万台'''と、[[Suica]]や[[Edy]]を超えている。[[世界]]でも、2008年7月より[[グアム]]、8月に[[中華人民共和国]][[上海市]]でも利用可能になった。 == 業務区域 == '''太字'''は地域支社所在都府県。地域支社は合併前の各地域会社の本社であった。なお傘下支店はその後、[[ドコモCS]]の各地域会社に移管され、ドコモ本体には地域支社組織しかない。契約者数は2019年12月末現在 {|class=wikitable style="font-size:smaller;" |- !地域支社名!!旧地域会社名!!管轄都道府県!!旧傘下支店!!契約者数 |- !北海道支社 |style="white-space:nowrap;"|[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ北海道]]||'''[[北海道]]'''||函館、苫小牧、旭川、帯広、釧路、北見||234.0万 |- !東北支社 |[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ東北]]||[[青森県]]、[[岩手県]]、'''[[宮城県]]'''、[[秋田県]]、[[山形県]]、[[福島県]]||青森、岩手、秋田、山形、福島||399.7万 |- !本社直轄 |エヌ・ティ・ティ・ドコモ<br>通称ドコモ中央||茨城県、[[栃木県]]、群馬県、[[埼玉県]]、[[千葉県]]、<br>'''東京都'''、[[神奈川県]]、[[新潟県]]、[[山梨県]]、[[長野県]]||茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、丸の内、<br>新宿、渋谷、多摩、神奈川、新潟、長野、山梨||4500.4万 |- !東海支社 |[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ東海]]||[[岐阜県]]、[[静岡県]]、'''[[愛知県]]'''、[[三重県]]||岐阜、静岡、三重||604.6万 |- !北陸支社 |[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ北陸]]||[[富山県]]、'''[[石川県]]'''、[[福井県]]||富山、福井||135.1万 |- !関西支社 |[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ関西]]||[[滋賀県]]、[[京都府]]、'''[[大阪府]]'''、[[兵庫県]]、[[奈良県]]、[[和歌山県]]||滋賀、京都、神戸、姫路、奈良、和歌山||896.2万 |- !中国支社 |[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ中国]]||[[鳥取県]]、[[島根県]]、[[岡山県]]、'''[[広島県]]'''、[[山口県]]||鳥取、島根、岡山、福山、山口||341.3万 |- !四国支社 |[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ四国]]||[[徳島県]]、'''[[香川県]]'''、[[愛媛県]]、[[高知県]]||徳島、愛媛、高知||197.6万 |- !九州支社 |[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ九州]]||'''[[福岡県]]'''、[[佐賀県]]、[[長崎県]]、[[熊本県]]、[[大分県]]、<br>[[宮崎県]]、[[鹿児島県]]、[[沖縄県]]||北九州、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄||658.0万 |} 以下の写真に挙げられた各建物は、子会社等を含めた事務部門が入っているもの、電話交換設備のみが置かれているものとに分けられる。 <gallery> ファイル:NTT DoCoMo Yoyogi Building 2009 cropped.jpg|[[NTTドコモ代々木ビル]] ファイル:NTT DoCoMo Tohoku Building from south-southwest 2010-06-01.jpg|[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ東北|NTTドコモ東北支社]]<br>([[NTTドコモ東北ビル]]) ファイル:Doccomokanazawaseito.JPG|[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ北陸|NTTドコモ北陸支社]]<br>(NTTドコモ金沢西都ビル) ファイル:Umeda DT Tower.jpg|[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ関西|NTTドコモ関西支社]]<br>([[梅田DTタワー]]) ファイル:Urbannet Nagoya Building.jpg|[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ東海|NTTドコモ東海支社]]<br>([[アーバンネット名古屋ビル]]) ファイル:ドコモ中国大手町ビル01.JPG|[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ中国|NTTドコモ中国支社]]<br>(NTTドコモ広島大手町ビル) ファイル:NTT DoCoMo Kyushu Kashii Building.jpg|[[エヌ・ティ・ティ・ドコモ九州|NTTドコモ九州支社]]<br>(NTTドコモ香椎ビル) ファイル:Docomo sumida 2012.JPG|[[NTTドコモ墨田ビル]] ファイル:NTT Docomo shinagawa.JPG|[[NTTドコモ品川ビル]] ファイル:Ntt DoCoMo-Saitama Shintoshin-2013-8-21.jpg|ドコモCS埼玉支店<br>(NTTドコモさいたまビル) ファイル:Yokohamamedhiatower.JPG|ドコモCS神奈川支店<br>([[横浜メディアタワー]]) ファイル:Docomokawasaki.jpg|NTTドコモ川崎ビル ファイル:Docomotama.JPG|NTTドコモ立川ビル ファイル:Docomo-oosaka-nankou.jpg|NTTドコモ大阪南港ビル ファイル:NTT docomo Nakano Bldg 2009.jpg|NTTドコモ中野ビル ファイル:Nagoya 20210724-25.jpg|[[NTTドコモ名古屋ビル]] ファイル:機動戦士ガンダム (静岡県静岡市葵区) - panoramio (24).jpg|NTTドコモ静岡ビル ファイル:Docomogifu.JPG|NTTドコモ岐阜ビル ファイル:NTT DoCoMo 長野ビル - panoramio.jpg|NTTドコモ長野ビル ファイル:Docomo&Com Gunma.JPG|NTTドコモ群馬ビル ファイル:NTT Docomo Chiba building.jpg|NTTドコモ千葉ビル </gallery> == 携帯電話端末と型番ルール == {{see|NTTドコモの携帯電話端末一覧}} * ''ドコモ スマートフォン'' === 主な携帯電話端末納入メーカー === {{see|NTTドコモの主な携帯電話端末納入メーカー}} == 納入メーカー == [[ファイル:Docomokitikyoku01.jpg|thumb|180px|基地局「FOMA、mova共用」]] ===自動車電話=== * '''デンソー''' - デジタル・カーホン・'''E'''シリーズのE408。ムーバでハンズフリーが主流になるまで生産されていたが、在庫のみの販売。ムーバのみでFOMA対応機等は生産されなかった過去にはE403が発売されていた。 === 主な通信設備 === ; 基地局用無線装置 : NEC、富士通、[[ノキア]]、[[エリクソン]]、三菱電機、[[東芝]] ; 交換機 : NEC、富士通 ; 伝送装置 : NEC、富士通、三菱電機、[[沖電気工業]]、[[日立製作所]] ; アンテナ、アンテナ周辺装置 : 日本電業工作、[[電気興業]]、日本無線、[[島田理化工業]] == 研究施設 == [[ファイル:DocomoR&D.JPG|thumb|230px|ドコモR&Dセンター(神奈川県横須賀市)]] ;ドコモR&Dセンター :[[神奈川県]][[横須賀市]]の[[横須賀リサーチパーク]] (YRP) 内に『ドコモR&amp;Dセンター』と呼ばれる研究施設がある。周りには[[日本電気|NEC]]、[[富士通]]、[[エリクソン]]、[[ネットワンシステムズ]]、[[アルファシステムズ]]といった企業も進出しており、共同研究も進めている。2015年以降、普及が進んでいる通信方式[[LTE-Advanced]]([[第4世代移動通信システム]])(NTTドコモでは[[PREMIUM 4G]]とのブランド名称を付している)、更に次世代の[[第5世代移動通信システム]] (5G) の研究、携帯電話の新端末の開発、通信プラットフォームの開発といった、NTTドコモの[[日本における携帯電話]]等、移動通信システム開発の中心的な拠点となっている。 :また同センターには展示ホール「WHARF」があり、NTTドコモの研究成果や今後開発予定のビジョンなどが展示されていて、見学が可能である<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/corporate/technology/rd/rdcenter/ ドコモR&Dセンター]</ref>。[[CEATEC JAPAN]]2009では「[http://japan.internet.com/allnet/20091001/4.html 眼で操作するイヤホン]」や国産[[間伐材]]を原料とした「[http://japan.internet.com/allnet/20090924/2.html TOUCH WOOD]」などこの研究施設で開発された技術が発表された。 :[[京急久里浜線]]「[[YRP野比駅]]」よりバスで10分。 == 販売店等 == [[ファイル:DoCoMo Shop Ibaraki-Shinjo2.JPG|thumb|right|200px|ドコモショップ([[大阪府]][[茨木市]]、茨木新庄店)]] [[ファイル:DoCoMo Shop Ibaraki-Shinjo.JPG|thumb|right|200px|旧ブランド時代のドコモショップ(茨木新庄店)]] NTTドコモの製品やサービスを販売している店舗は、ドコモショップを中心として、全国で約2,393店(2011年3月末)ある。その他に[[家電量販店]]や取次店などで販売されている。 === ドコモショップ === ; ドコモショップ概要 : 株式会社NTTドコモの携帯電話を専門に取扱う販売代理店。1992年10月18日に開店したドコモショップ八王子店が第一号店で、基本的に都市部では鉄道の駅周辺、地方では幹線道路沿いに[[ロードサイド店舗|ロードサイド型店舗]]というポリシーで出店している。[[百貨店]]や[[総合スーパー]] (GMS)、[[ショッピングモール]]などのテナントとして出店している形態もある。 :格安プラン「[[ahamo]]」が2021年3月から導入され、それの手続きがすべてオンラインで行えること、また[[covid-19|新型コロナウィルス]]の影響もあり、コロナ前よりも来店数が3割程度減っていることなどを理由に、今後その3割相当に当たる700店舗程度を2025年度までに削減させ、閉店対象となる店舗のスタッフは、オンライン契約者の対応に当たるとされる<ref>[https://news.cube-soft.jp/article/3801248?ver=3.0.2&utm_source=cube&utm_medium=notice NTTドコモ 2025年度までに「ドコモショップ3割削減」方針固める TBS NEWS DIG Powered by JNN 2022年5月19日 (木) 22:24]</ref>。 主な業務の内容は以下の通りである。 * 携帯電話端末の新規契約や契約変更、解約、利用中断等の事務手続き * 付属品、オプション品の販売 * 料金プランの変更、割引サービスの付廃、留守番電話サービス、iモード・spモード等のネットワークサービスの付廃 * 携帯電話の料金プラン診断等のコンサルティングサービス * 携帯電話の故障修理(一部取り扱わない店舗もある) * NTTファイナンス請求料金(NTTドコモ、NTT[[NTT東日本|東]][[NTT西日本|西]]・[[NTTコミュニケーションズ|コム]])等、NTT系列の利用料金の支払い ドコモショップには'''DOCOPY(ドコピー)'''と呼ばれる、携帯電話メモリーコピーツールが店頭に置いてあり、新機種へアドレス帳、写真、メールなどのデータの移行や、MNPなどで、メールアドレスが変更になった際などメールアドレス変更の一斉通知などができる。データのコピーは他社からドコモへの変更も可能である(一部対応しない機種もある)。 ; 法人営業担当 : 近年は販路拡大のため、ドコモショップでも法人営業担当ができており、企業を訪問してコンサルティング等も行っている。そのようなドコモショップでは、法人に特化した「衛星携帯電話(ワイドスター)」や、「[[BlackBerry 8707h]]」、「[[ビジネスmopera]]」、[[PASSAGE DUPLE]]、サーバ系商品といった商品の取り扱いや故障修理などを行っている。 ; ドコモスマホ教室/ケータイ電話教室 : ドコモショップでは随時無料のケータイ電話教室を実施している。内容としては、携帯電話初心者に対する[[らくらくホン]]を使った、携帯電話の操作、通常の携帯電話の基本的な操作、iモードの便利な利用方法といったものである。近年では、スマートフォンの普及に伴い、名称を「ドコモスマホ教室」に変更の上、スマートフォンに特化した内容で実施している。 === 代理店制度 === 大半の店舗が、NTTドコモと代理店契約した会社が運営している。主な代理店には、[[コネクシオ]]([[伊藤忠商事]]グループ)、[[ティーガイア]]([[三井物産]]・[[住友商事]]・[[三菱商事]]が出資)、[[MXモバイリング]]([[丸紅]]グループ)、[[兼松|兼松コミュニケーションズ株式会社]]や[[TDモバイル]](旧・[[豊通シスコム]]。[[豊田通商]]・[[デンソー]]子会社)といった商社系、携帯電話メーカー系、その他に、自動車修理工場や[[本田技研工業]]、[[日産自動車]]といった自動車メーカー系の代理店がある(自動車電話を据え付ける作業を修理工場や自動車ディーラーで行っていた名残)。メーカー系の代理店は、NTTドコモへ携帯電話を納入するメーカーの相次ぐ事業撤退により、[[富士通]]以外ほとんどが買収合併により現存しない。 地方には、地元の電器屋、自動車修理工場といった、地域に根づいた代理店もある。代理店には、1次代理店、2次代理店、3次代理店、取次店などとあるが、ドコモショップは、基本的に1次代理店か2次代理店が行っている。[[ヨドバシカメラ]]、[[ビックカメラ]]といった[[家電量販店]]は、2次代理店であることが多い。[[エディオン]](旧・[[エイデン]])や[[ノジマ]]のように、1次代理店業務を行っている子会社を持ち、ドコモと直接契約している量販店も存在する。 かつては直営店舗や支店窓口も存在したが、現在は機能分担子会社である[[ドコモCS]]及び各地域ごとのドコモCS地域会社に移管・集約されている。 === 小規模販売店 === 以前は、ドコモショップより小型の販売店が存在した。業務自体は基本的にドコモショップと変わらないが、店舗によって受けられるサービスに一部制限(故障端末を受け付けない、携帯電話利用料金の収納業務を行わない等)があった。小規模の駅周辺、ドコモショップと競合しない区域、人口がさほど多くない地域、商業施設にテナントとして入居等、基準は各地区毎に異なる。ドコモショップと同様に、NTTドコモと契約した運営会社が運営しており、地域毎に呼び名が異なる。2008年7月のNTTドコモグループ8社統合とブランド変更を機に、2008年度末までに小規模販売店を全てドコモショップへ移行している。統合時には北海道地区、東北地区、北陸地区の全店でドコモショップへの移行が行われた。また、ロゴデザインの変更による店舗デザインのリニューアルが2008年夏より順次各店舗で行われた。また、電話機販売業務のみを行う取扱店が全国各地にある。NTTドコモの看板を掲げるなど、一見ドコモショップと変わらない外観の店舗も存在するが、一部を除き電話料金の収納や故障修理受付、解約業務等は行わない。 * 各店舗の名称(全国1社化直前での時点) ** 北海道地区 - ドコモショップサテライト ** 東北地区 - ドコモランド ** 関東・甲信越地区 - ドコモスポット ** 東海地区 - ドコモサイト<ref group="注釈">下線部が青い看板の店。新規契約と機種変更のみを行った。</ref>・ドコモモール<ref group="注釈">下線部が緑色の看板の店。故障修理受付・解約以外の業務を行った。</ref> ** 北陸地区 - ドコモショップサテライト ** 関西地区 - ドコモショップサテライト ** 中国地区 - ドコモピット ** 四国地区 - ドコモショップミニ ** 九州地区 - ドコモスポット == 基幹システム == 主な基幹システムとして、経営管理システム「[[DDREAMS|DREAMS]]」、顧客管理システム「[[ALADIN]]」、料金システム「[[MoBills]]」の3つがある。<!-- 顧客も従業員も多いドコモのこれらシステムは世界最大規模であるとも言え、世界的にも注目されている。 -->これらは全て[[オラクル (企業)|オラクル]]のデータベースを採用している。使用されているサーバーはUNIX系[[Solaris]]、そしてWindowsサーバであるが、{{要出典範囲|date=2017年1月|使用割合(台数)は後者の方が多い}}。 == オプション製品 == 以下のオプション製品は、ドコモショップへ持参する事で[[リサイクル]]処分することが出来る。 {{Main2|下記に携帯専用関連オプション製品を記述、携帯・PHS両対応オプション製品は[[ドコモPHS#オプション製品|ドコモPHS]]を}} * 携帯電話端末付属製品 ** 電池パック(各携帯電話端末によって異なる) ** リアカバー(各携帯電話端末によって異なる) ** FOMA ACアダプタ 01/02(富士通・パナソニック モバイルコミュニケーションズ製)…02のみ海外利用対応 ** ACアダプタ 03(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** ACアダプタ 04(富士通・パナソニック モバイルコミュニケーションズ製)…1.8A入力に対応したスマートフォンに対応した高出力型。03とは異なり、トランス部分とUSBケーブルの分離はできない。 ** ACアダプタ 05(富士通→[[富士通コネクテッドテクノロジーズ]]製)…高電圧充電([[Quick Charge]] 2.0)に対応 ** ポータブルACアダプタ 01 kuruko([[ホシデン]]製)…充電方式は05相当だが、ケーブル部分を巻き取れるようにしたもの。グレー、ブルー、レッドの3色が用意されている。 ** ACアダプタ 06(ホシデン製)…ACアダプタ 05のコネクタ部分を、micro USBから[[USB Type-C]]コネクタに変更したもの。 ** FOMA 充電microUSB変換アダプタN01/T01/SC01/L01/SH01(それぞれ、NECカシオ→NECモバイル、東芝→富士通東芝→富士通M、サムスン、LG、シャープ製)…「FOMA ACアダプタ 01/02」を用いて本体を充電する際に使用するアダプタ。基本は製造元各メーカー専用だが、T01については、富士通東芝より[[T-01C]]が発売されて以降は、富士通製端末(FシリーズおよびT-01D、T-02D)に附属されているケースもある。 ** micro USB変換アダプタ B to C 01(ホシデン製)…micro USBコネクタをUSB Type-Cコネクタに変換するアダプタ。 ** FOMA 乾電池アダプタ 01(単3電池4本充電。[[アルカリ乾電池]]、[[ニッケル水素電池]]、[[ニカド電池]]対応 [[三洋電機]]製) ** FOMA 補助充電アダプタ 01/03([[リチウムイオン電池]]を内蔵した繰り返し型充電アダプタ 三洋電機製) ** FOMA 補助充電アダプタ 02(USBケーブルの接続により、[[microUSB]]コネクタ接続のスマートフォンの充電にも対応した[[リチウムイオン電池]]を内蔵した繰り返し型充電アダプタ 三洋電機製) ** ポケットチャージャー 01/02/03(スマートフォン向けに出力と容量をアップした、リチウムイオン電池を内蔵した繰り返し型充電アダプタ 三洋電機製)…02/03はQiでの充電に対応。 ** ワイヤレスチャージャー 01/02/03(三洋電機製)・・・おくだけ充電([[Qi (ワイヤレス給電)|Qi]])対応端末共通のコイル入り充電台。端末附属のワイヤレスチャージャーは端末と同じ製造元(NECカシオ製端末用であれば、「ワイヤレスチャージャー N01」のようになる)となるが、試供品扱いとなり、非売品となるため、オプションとして別途設定されている。 ** 卓上ホルダ(各携帯電話端末によって異なる HTシリーズは無し) ** キャリングケース L01・S01([[ソニーモバイルコミュニケーションズ|ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ]]製 各携帯電話端末によって異なる) ** キャリングケース 02(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製 各携帯電話端末によって異なる) ** 平型ステレオイヤホンセット P01(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** 平型スイッチ付イヤホンセット P02(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** ステレオイヤホンマイク 01(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** ステレオイヤホンマイク 02(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** イヤホンマイク 01(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** イヤホン変換アダプタ 01(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** 外部接続用イヤホン変換アダプタ 01(富士通製) ** [https://web.archive.org/web/20061207120934/https://www.nttdocomo.co.jp/product/relate/usb_cable01/ FOMA 充電機能付USB接続ケーブル 01]([[ミツミ電機]]製) ** [https://web.archive.org/web/20080131032027/https://www.nttdocomo.co.jp/product/relate/usb_cable02/ FOMA 充電機能付USB接続ケーブル 02](ミツミ電機製) ** BluetoothワイヤレスステレオイヤホンセットP01/P02(パナソニック製) ** BluetoothワイヤレスイヤホンセットP03(パナソニック製) ** [https://web.archive.org/web/20070227154704/https://www.nttdocomo.co.jp/product/option/about/soundleaf/ 骨伝導レシーバマイク 01 サウンドリーフ]([[NECトーキン]]製) ** [https://web.archive.org/web/20080109083709/https://www.nttdocomo.co.jp/product/option/about/soundleafplus/ 骨伝導レシーバマイク 02 サウンドリーフプラス](NECトーキン製) ** BluetoothヘッドセットF01(富士通製 通話専用) *** BluetoothヘッドセットACアダプターF01(富士通製) * 車載オプション ** [https://web.archive.org/web/20070320131935/https://www.nttdocomo.co.jp/product/option/about/car_option/aap59690/ 車載ハンズフリーキット01] ** FOMA車載ハンズフリー接続ケーブル 01 ** mova車載ハンズフリー接続ケーブル 01 ** 車内ホルダ 01 ** [https://web.archive.org/web/20070317043338/https://www.nttdocomo.co.jp/product/option/about/car_option/atx59000/ 車載用FOMA接続アダプタ01] ** 車載用FOMA接続アダプタ電源ケーブル([[シガーライター]]用)01 ** FOMA DCアダプター 01([[日本電気]]製) ** FOMA DCアダプター 02(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製) ** DCアダプタ 03([[PHIHONG TECHNOLOGY]]([[飛宏科技]]日本)製 輸入元・[[エクセル (商社)|エクセル]])…850mAh出力 ** DCアダプタ 04(PHIHONG TECHNOLOGY(飛宏科技日本)製 輸入元・エクセル)…1.2Ah出力 * 室内用補助アンテナ ** FOMA室内用補助アンテナ(スタンドタイプ)([[日本電気興業]]製) ** FOMA室内用補助アンテナ(日本電気興業製) ** mova(800&nbsp;MHz)室内用補助アンテナ(日本電気興業製) * その他オプション ** おサイフケータイ ジャケット 01(パナソニック モバイルコミュニケーションズ製)…[[iPhone]]とセットで使用する == イメージキャラクター == {{see|NTTドコモのイメージキャラクター}} == スポンサー== === アニメ作品 === [[UHFアニメ]]×[[角川書店|KADOKAWA]]作品の製作に関与している。携帯電話会社でアニメ製作に参加することは異例である。 * [[レンタルマギカ]](2007年) * [[我が家のお稲荷さま。]](2008年) * [[シャングリ・ラ (池上永一の小説)|シャングリ・ラ]](2009年) * [[鋼殻のレギオス]](2009年) * [[ストライクウィッチーズ|ストライクウィッチーズ2]](2010年) * [[そらのおとしもの]]シリーズ(2009、2010年:制作協力) * [[Another]](2012年) * [[これはゾンビですか?|これはゾンビですか? オブ・ザ・デッド]](2012年) * [[アニメ魂|アニメスピリッツ]]枠 ** [[H2O -FOOTPRINTS IN THE SAND-]] ** [[純情ロマンチカ]] ** [[ストライクウィッチーズ]] 2010年10月から2011年10月までテレビ東京×KADOKAWA作品の製作に参加した。 * [[FORTUNE ARTERIAL|FORTUNE ARTERIAL 赤い約束]](2010年) * [[GOSICK -ゴシック-]](2011年) * [[ダンタリアンの書架]](2011年) なお、角川書店とは2012年7月開始のスマートフォン向けアニメコンテンツ配信事業、アニメに関するコンテンツ管理業務や新作アニメ作品への出資等を行う合弁会社、株式会社[[ドコモ・アニメストア]]を同年5月下旬に設立した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2012/05/16_03.html NTTドコモと角川書店がスマートフォン向けアニメ配信事業を行う合弁会社「ドコモ・アニメストア」の設立に合意]</ref>。 === 映画 === [[製作委員会]]として参加 * [[ケロロ軍曹 (アニメ)#劇場版|ケロロ軍曹]](2009年 - 2010年)※4作目より参加した。 * [[そらのおとしもの#劇場版|劇場版 そらのおとしもの時計じかけの哀女神]](2011年) * [[ストライクウィッチーズ|ストライクウィッチーズ 劇場版]](2012年) === その他 === [[ファイル:Renault F1 2006 EMS.jpg|thumb|220px|ルノーF1チームのiモードロゴ]] * [[ヴェンチュリー・ラルース]](NTT DoCoMo、movaブランド)(1992年途中) * [[ダンディライアン (企業)|ダンディライアン・レーシング]](1993年 - 、現在「DOCOMO TEAM DANDELION RACING」として[[フォーミュラ・ニッポン]]→[[スーパーフォーミュラ]]に参戦)<ref name="support">{{Cite web|和書|url=https://www.docomo.ne.jp/corporate/sponsorship/ |title= 主催・協賛 |publisher=NTTドコモ|accessdate=2022-05-05}}</ref> * [[ルマン (企業)|チームルマン]](1996年 - 1997年) * [[ルノーF1|ルノーF1チーム]](iモードブランド)(2004年 - 2006年) * [[日本オリンピック委員会|日本オリンピック委員会(JOC)]]([[選手強化キャンペーン|ゴールドパートナー]])<!--(ヤフー!やJALのような、)日本パラリンピック委員会(JPC)のオフィシャルパートナーではない。--> * [[東京ディズニーリゾート]]([[スポンサー|オフィシャルスポンサー]]) <ref name="support"/> ** [[東京ディズニーランド]]([[ハピネス・イズ・ヒア]])デイパレード「ドリーミング・アップ!」を提供。 ** [[東京ディズニーシー]]([[ファンタズミック!]])「ビリーヴ!~シー・オブ・ドリームス」を提供。 {{div col|colwidth=25em}} * [[NTTドコモレッドハリケーンズ大阪]] (主催) <ref name="support"/> * ドコモ未来ミュージアム * [[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]] <ref name="support"/> * [[大宮アルディージャ]]:1999年から * [[大宮アルディージャVENTUS]]:2021年から * [[鹿島アントラーズ]] * [[川崎ブレイブサンダース]]:2020年6月から <ref name="support"/> * [[Tリーグ (卓球)]] <ref name="support"/> * [[阪神タイガース]] <ref name="support"/> * [[読売巨人軍]] <ref name="support"/> * [[東京ドーム|東京ドームシティ]]([[ラクーア]]) * [[キッザニア東京]]・[[キッザニア甲子園]] - 携帯電話ショップパビリオンを出典 * [[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]] * [[東京国際女子マラソン]] * [[石川遼]]:2008年より3年契約。 * [[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]] - [[スペース・ファンタジー・ザ・ライド]] * [[女流棋聖戦|ドコモ杯女流棋聖戦]](囲碁) <ref name="support"/> {{div col end}} == 関連サービス == === 機器・通信サービス === {{div col|colwidth=20em}} * ワイドスター(衛星電話) * 10円メール - 終了 * シティフォン - [[シティオ]] - 終了 * mova - 終了 * ショートメール - 終了 * FOMA ** FOMAハイスピード ** [[FOMAプラスエリア]] ** 定額データプラン * [[ドコモPHS]](NTTパーソナル) - 終了 * [[クイックキャスト]](ポケットベル) - 終了 * [[ドコモ光]] * [[mopera]] (ISP) * [[mopera#mopera U|moperaU]] * docomo Wi-Fi(公衆無線LANサービス) * ビジネスmopera ** [[ビジネスmopera安心マネージャー]] ** [[ビジネスmoperaIPセントレックス]] * [[オフィスリンク]](全国型内線サービス) * WORLD CALL * WORLD WING ** 海外プラスナンバー * DoPa - 終了 {{div col end}} === コンテンツサービス === {{div col|colwidth=20em}} * iモード ** [[iモードメール]] ** [[音声入力メール]] ** [[災害用伝言板]] ** [[iウィジェット]] ** [[iエリア]] ** iコンシェル ** iショット ** iチャネル ** iモーション ** iモードFeliCa *** [[iC通信]] *** [[トルカ]] ** [[iモード絵文字]] ** [[iモード.net]] ** GRIMM ** [[CiRCUS]] ** エリアメール ** [[うた・ホーダイ]] ** [[Napster|ナップスター]] - 終了 ** メロディコール * iアプリ ** [[iアプリDX]] ** [[iアプリオンライン]] ** [[DoJa]] ** [[直感ゲーム]] ** [[メガiアプリ]] ** [[地図アプリ]] ** [[iアプリタッチ]] * [[iD (クレジット決済サービス)]] * [[dカード]] * モバイラーズチェック - 終了 ** モバチェメール - 終了 * [[ドコモ ケータイ送金]] * [[ドコモケータイdatalink]] * Music&Videoチャネル * [[ドコモ動画]] * イマドコサーチ * [[ケータイお探しサービス]] * [[おまかせロック]] * [[ケータイデータお預かりサービス]] * プッシュトーク - 終了 * [[i Bodymo]] * [[dマーケット]] ** [[dショッピング]] ** [[dゲーム]] ** [[dブック]] ** [[dミュージック]] ** [[dヒッツ]] ** [[dビデオ]] ** [[dアニメストア]] ** [[dアプリ&レビュー]] ** [[dクリエイターズ]] ** [[d fashion]] ** [[dトラベル]] ** [[dキッズ]] ** [[dグルメ]] * 2Dfacto * [[ドコモ ドライブネット]] * [[spモード]] * [[ドコモメール]] * BlackBerry * [[NOTTV]] - 終了 * [[Bee TV]] - [[dTV (NTTドコモ)|dTV]] * お便りフォトサービス * ドコモWebメール * [[ドコモ電話帳]] * E★エブリスタ * [[ドコモプレミアクラブ]] ** [[ケータイ補償お届けサービス]] ** [[ドコモビジネスプレミアクラブ]] * 2in1 * [[マルチナンバー]] * [[My docomo]](ドコモeサイト) * M-Stage * PASSAGE DUPLE * [[OFFICEED]] * [[ホームU]] * [[ポケットU]] * ドコモダケ(ドコモonly+茸) * ドコモコミュニティ * [[フォトコレクション]] * [[スマートデータリンク Mobizen]] * [[ドコモ・クラウド基盤]] * [[+メッセージ]]([[KDDI]]、[[ソフトバンク]]と共同で運営) {{div col end}} === 料金・割引サービス === {{div col|colwidth=20em}} * [[ファミリー割引]] * ファミ割MAX50 * ひとりでも割50 * [[ビジネスシンプル]] * [[オフィス割引/オフィス割MAX50|オフィス割引]] * [[オフィス割引/オフィス割MAX50|オフィス割MAX50]] * [[ビジネス割引]] * [[通話料いっかつ割引]] * ビジネス通話ホーダイ * [[ワールドコールいっかつ割引]] * 2か月くりこし * [[メール使いホーダイ#タイプシンプル学割|タイプシンプル学割]] - 終了 * [[メール使いホーダイ#タイプシンプル学割|応援学割]] - 終了 * [[メール使いホーダイ#タイプシンプル学割|応援学割2012]] * キッズ割 * パケ・ホーダイ - 終了 * [[パケ・ホーダイ#パケ・ホーダイ フラット|パケ・ホーダイフラット]] * パケ・ホーダイダブル * [[パケ・ホーダイ#パケ・ホーダイ ダブル2|パケ・ホーダイダブル2]] * [[パケ・ホーダイ#パケ・ホーダイ シンプル(メール使いホーダイ)|パケ・ホーダイシンプル]] * パケ・ホーダイフル - 終了 * パケットパック - 終了 * Biz・ホーダイ - 終了 * [[Biz・ホーダイ|Biz・ホーダイダブル]] - パケ・ホーダイダブルへ統合 * Biz・ホーダイシンプル - パケ・ホーダイシンプルへ統合 * メール使いホーダイ * 海外パケ・ホーダイ * ハーティ割引(ふれあい割引) * [[オプションパック割引]] * 定額データプランHIGH-SPEED * [[定額データプラン64K]] * 定額データ割(定額データスタンダード割) * 定額ユビキタスプラン * [[eビリング割引]] * [[ゆうゆうコール]] * [[どんどんコール]] * [[包括回線割引]] * [[ボリュームディスカウント]] * ISPセット割 * [[カケ・ホーダイ]] - 終了 * Xiカケ・ホーダイ - 2014年8月新規受付終了([https://www.nttdocomo.co.jp/charge/discount/xi_kake_hodai/index.html]) * [[カケホーダイ&パケあえる]] * [https://www.nttdocomo.co.jp/biz/charge/billing_service/separate_billing/ 用途別集計サービス] * [https://www.nttdocomo.co.jp/support/online_limit/ 一定額到達通知サービス] ドコモ光割{{div col end}} == 主要子会社・関連会社 == [[NTTグループ]]を参照。 === 解散、譲渡、合併した子会社・関連会社 === {{div col|colwidth=25em}} * (株)[[エブリスタ]] * [[三井住友カード]](株) * [[イオンマーケティング]](株) * (株)[[ABCクッキングスタジオ|ABC Cooking Studio]] * [[THE JV]](株) * (株)アルシェール * (株)[[mmbi]](旧(株)マルチメディア放送) * (株)[[ダブルスクエア]] * (株)[[ドコモ・ドットコム]] * (株)[[ドコモ・マシンコム]] * (株)[[ドコモ・マシンコミュニケーションズ]] * (株)[[ロケーション・エージェント]] * (株)ドコモ・エーオーエル * (株)[[ドコモ・ネット・キャピタル]] * [[モビマジック]](株) * [[トライノーツ]](株) * ドリームネット(株) * (株)[[DPC]] * [[日本メディアーク]](株) * [[モバイルインフォメーションダイナミックス]](株) * [[ドコモ・センツウ]](株) * [[らでぃっしゅぼーや]](株) * ビジネスエキスパート東海(株) * ビジネスエキスパート関西(株) * ビジネスエキスパート九州(株) * イー・エンジニアリング東海(株) * イー・エンジニアリング関西(株) * イー・エンジニアリング九州(株) * ドコモサービス北海道(株) * [[ドコモサービス東北]](株) * [[ドコモ・サービス]](株) * [[ドコモ・モバイル]](株) * [[ドコモ・ビジネスネット]](株) * [[ドコモサービス北陸]](株) * ドコモサービス東海(株) * ドコモ・サービス関西(株) * ドコモ・モバイルメディア関西(株) * ドコモサービス中国(株) * ドコモサービス四国(株) * ドコモサービス九州(株) * ドコモアイ九州(株) * DCM Capital USA (UK) Limited * DCM Capital TWN (UK) Limited * Taiwan DoCoMo Limited(中国名:台湾都科摩(股)) * NTT DoCoMo Telecomunicacoes do Brasil Limitada(略称:ドコモブラジル) * DCM Capital LDN (UK) Limited * DCM Capital HKG (UK) Limited * DCM Capital 3G HKG (UK) Limited * DCM Capital NL (UK) Limited(DCMキャピタルNL (UK) リミテッド) * Hutchison 3G UK Holdings Limited {{div col end}} == 諸問題・不祥事等 == {{see also|日本における携帯電話#ビジネスモデルにおける問題点}} === 基地局設置・工事での問題 === *[[2005年]]6月、[[大阪府]][[池田市]]にて必要な届出を怠ったまま[[基地局]]工事にかかり、古江古墳を破壊した<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/24366.html ドコモ関西、鉄塔建設で大阪・池田市の古墳を破壊]</ref>。 *[[2006年]]6月、[[1999年]]に[[京都市]][[嵐山]]に設置した基地局について、[[文化財保護法]]に基づく事前の届出を行っていなかったことが発覚した<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/29562.html ドコモ関西、京都嵐山に無許可の基地局]</ref>。 *[[2008]]年6月、2006年に[[鹿児島県]][[出水郡]][[長島町]]平尾地区の基地局を、[[雲仙天草国立公園]]内に無許可で設置していたことが発覚した<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/news_toppage/40623.html 国立公園内に無許可のドコモ基地局、撤去へ]</ref><ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/kyushu/page/080627_00.html 雲仙天草国立公園における基地局設置に関するお詫び]</ref>。 当該基地局はいずれも問題発覚後に、撤去あるいは移設された。 === 広告に関する問題 === *[[2006年]][[11月2日]]、[[ソフトバンクモバイル]]のいわゆる「0円[[広告]]」について「[[景品表示法]]違反の疑いがある」として、[[公正取引委員会]]に申告書を提出したが、同年[[12月12日]]「景品表示法第4条第1項第2号の規定に違反するおそれがある表示を行っていた」として、公正取引委員会から注意を受けた([[KDDI]]は同じく注意を、またソフトバンクモバイルは注意より重い「警告」を受けた)。また、公正取引委員会は、これら3社が加盟する社団法人[[電気通信事業者協会]]に対し、複雑な料金体系に対する国民からの苦情の多さを指摘した。 *[[2007年]][[11月16日]]、再び広告[[チラシ]]について、公正取引委員会からの警告を、KDDIと伴に受けた。処分理由は、前年11月に公正取引委員会から受けた注意理由と同種のもの(広告の表記に関する問題)であり、1年間で2回も行政処分を受けるのは異例であることから「警告」となった。 === 販売代理店の本人確認違反問題 === *[[2009年]][[2月6日]]、[[総務省]]は[[携帯電話不正利用防止法]]に違反した携帯電話販売代理店アスカプランニング(株)に是正を命じるとともに、監督義務を負うKDDI、NTTドコモに対して監督を徹底するよう指導した<ref>[https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/090206_2.html アスカプランニングによる携帯電話不正利用防止法違反に係る是正命令等について]</ref>。 *[[2010年]]10月、NTTドコモの複数の代理店が、[[暴力団員]]を名乗る男に対して身分確認などをしないまま、[[2007年]]8月から計400台以上の携帯電話を提供していたことが発覚した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101028/crm1010280725002-n1.htm ドコモ代理店が自称組員に身分確認せず…携帯400台“横流し” 警察当局実態解明へ]</ref>。 === 通信障害 === *[[2010年]][[1月15日]]15時36分、[[東京都]][[千代田区]]及び[[台東区]]の一部で、FOMAの音声通話とパケット通信が行えなくなる障害が発生した。対象エリアの想定ユーザ数は約6万3千人。約2時間後の17時58分に復旧した<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/342603.html ドコモ、都内一部エリアでFOMA通信に障害]</ref>。なお、その3日後の1月18日には、東京都西部およびその周辺でパケット通信が利用できない障害が発生、その影響で通話が急増したため自動的に通話規制が行われ、通話もしにくい状態となった<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/343134.html ドコモ、18日午後に首都圏で通信障害]</ref>。 *2010年[[2月5日]]、午前6時頃から[[関東・甲信越]]の一部地域で、音声通話中に2 - 3秒途切れる異常が発生。対象エリアの想定ユーザ数は約800万人。午後8時48分頃に回復した<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/347276.html ドコモ、関東・甲信越の一部地域でFOMA音声通話の障害]</ref><ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/network/kanto/pages/100205_3_d.html 東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県、山梨県、長野県、新潟県の一部地域においてFOMAの音声が途切れてしまう場合があるなどの状況について]</ref>。 *2010年[[9月10日]]、通信設備の故障のため、午前6時頃から[[愛知県]]の一部地域でFOMAでの通信通話が利用しづらくなった。約7時間後の同日13時3分に音声通話が回復、ついで同13時50分にパケット通信が回復した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/network/tokai/pages/100910_1_d.html 愛知県の一部地域において、FOMA(音声・パケット)がご利用しづらい状況について]</ref>。当初発表された影響地域のユーザ数は93,000人<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/392914.html 愛知県でFOMA通信障害、一部地域で接続しにくい状況]</ref>。 *[[2011年]][[6月6日]]午前8時27分、関東・甲信越地域で契約した利用者が通信設備の故障により、発着信やパケット通信が出来ない障害が起きた。また[[番号ポータビリティ]]制度でNTTドコモから他社に移った利用者にも発着信ができない事象が発生し最大で172万人が影響を受けた。約13時間後の午後9時36分に復旧したと発表した<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/450981.html ドコモの関東・甲信越契約者に通信障害、172万人に影響]</ref>。 *[[2012年]][[1月25日]]午前8時26分、[[東京都]]の一部地域でFOMA(音声・パケット通信)が利用出来ない障害が発生し、最大約252万人に影響が出た。当日の午後1時8分に復旧。原因はパケット交換機の処理能力を超える通話・通信があったためとされる<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/120126.html 2012年1月25日のFOMAの音声・パケット通信サービスがご利用しづらい状況について] ドコモ公式 2012年1月26日</ref><ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/binary/pdf/info/news_release/2012/01/26_00.pdf 2012年1月25日のFOMA音声・パケット通信サービスがご利用しづらい状況について](PDF)</ref>。1月26日、2011年度内の度重なる通信障害について、[[総務省]]による[[行政指導]]が行われた<ref>{{cite press release | 和書 | url = https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban05_02000017.html | title = 株式会社エヌ・ティ・ティ・ドコモに対する事故防止、通信の秘密の保護及び 個人情報の適正な管理に係る指導 | publisher = 総務省 | date = 2012-01-26 | accessdate = 2015-06-07 }}</ref><ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/507556.html 総務省、障害重なるドコモに指導] ケータイwatch 2012年1月26日</ref><ref>[https://japan.cnet.com/article/35013480/ 総務省が相次ぐ通信事故でNTTドコモを指導--電通法の違反も] CNET JAPAN 2012年1月26日</ref>。 *[[2021年]]10月14日17時ごろ、大規模な通信障害が発生した。電子決済が不使用、宅配大手[[ウーバーイーツ]]の注文依頼が受け取ることができない、タクシーの電子決済が使えないなど、[[IoT]]端末の普及による影響が大きかった。タクシーの電子決済や自動販売機の通信設備など法人顧客のIoT端末を制御するサーバーの切り替え工事中、不具合が発生。不具合を直すため旧設備に戻したところ、顧客のIoT端末から大量の情報が流れ込むなどしてネットワークに負荷がかかったとしている<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=ドコモ200万人使えず 通信障害、異例の長期化|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC158OW0V11C21A0000000/|website=日本経済新聞|date=2021-10-15|accessdate=2021-11-10}}</ref>。影響の範囲について、当初は全国約200万人のユーザーに及んだとしていたが<ref name=":1" />、後に830万人以上(音声通話460万人、データ通信830万人以上)のユーザーに影響したと訂正した<ref>{{Cite web|和書|title=ドコモ障害、830万人以上に影響|url=https://web.archive.org/web/20211110014646/https://nordot.app/830969728636469248?c=39546741839462401|website=共同通信|date=2021-11-10|accessdate=2021-11-10}}</ref>。 === spモードの不具合 === *[[2011年]][[12月20日]]12時22分、[[スマートフォン]]サービスの[[spモード]]において、[[電子メールアドレス]]が他人のアドレスと置き換わったり、意図しない相手に[[電子メール]]が送信されるなどの障害が発生<ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111220/biz11122023530037-n1.htm スマホ向けネット接続が不具合ドコモ別人のアドレス表示](産経新聞、2011年12月20日)</ref>。[[12月21日]]、ドコモは全国の10万回線以上に影響があると発表し、spモードの各種設定や、電話帳バックアップなどのサービスを一時停止させ、[[12月26日]]にサービスを再開した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111221/biz11122111320009-n1.htm ドコモが接続サービス障害で会見10万人被害の可能性、スマホ特有の輻輳一因](産経新聞、2011年12月21日)</ref><ref>[https://www.rbbtoday.com/article/2011/12/21/84418.html ドコモ「spモード」の不具合、10万回線に影響](RBBTODAY、2011年12月21日)</ref>。 *[[2012年]][[1月1日]]夜、spモードメールの送受信の不具合やメールが届かなかったという不達メッセージ自体が届かないなどの障害が発生し、約20万回線に影響があった<ref>[https://web.archive.org/web/20220220034130/https://japanese.engadget.com/jp-2012-01-01-sp.html ドコモspモードでまた通信障害、全国でメールが利用しづらい状態](engadget、2012年1月2日)</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1201/05/news035.html spモードメール、約20万人に不達メッセージが届かない通信障害](IT media、2012年1月5日)</ref>。新年の挨拶メールでの回線輻輳が原因ではなく、翌[[1月2日]]未明に復旧した。 *2012年[[7月25日]]午前1時41分から午前9時14分の間、「spモード各種設定情報」において、他人の電子メールアドレス等を含む設定情報閲覧、変更が出来るトラブルが発生した<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1207/25/news137.html 「spモード」のユーザー設定サイトでトラブル メアドを他人に変更されるケースも](plus D Mobile、2012年7月25日)</ref><ref> [https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20120725/411701/ NTTドコモのspモードにまたトラブル、他人のメアドなど設定を閲覧、変更可能に](日経コンピュータ、2012年7月25日)</ref>。[[サーバ]]上の設定ミスがあり、設定変更に必要な4桁のネットワーク[[暗証番号]]が、他人と一致していた場合、他人の「spモード設定情報」が確認、変更できるようになった。このため、他人の電子メールアドレスやパスワードを含むsp設定情報が変更できる状況が発生し、トラブル発生中、約400人のユーザーがアドレス変更し、約600人がパスワード変更した。原因となった設定サイトを9時14分にアクセスを停止し、サーバの[[アプリケーションソフトウェア]]更新に伴うデータ設定の誤りを修正後、13時37分より設定サイトを復旧させた。 *2012年[[11月14日]]、午後6時頃からFOMAとxiのspモードメールや、spモードサービスが使えないという事象が発生した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/network/kanto/pages/121114_5_d.html 全国地域においてspモードメール等のspモードサービスが利用しづらい状況について]:NTT docomo お知らせ 2012年11月14日</ref>。当日の午後8時までには復旧した。 === 取扱説明書の誤記 === *[[2010年]][[3月4日]]、82機種の[[取扱説明書]]に[[誤記]]があり、FOMAカードを装着していない、あるいはPIN1ロック解除されていない携帯電話端末からの緊急通報([[110番]]・[[119番]]への発信)が可能とする記述が「[[らくらくホンIV]]」や「[[P702iD]]」「[[T-01A]]」など、一部機種の取扱説明書にされていたが、実際には発信できないことが明らかになった。NTTドコモは82機種について該当箇所の記述を訂正するとともに、ウェブサイトで公開している取扱説明書を差し替えた<ref>[https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1003/04/news073.html ドコモ、82機種の取扱説明書を訂正――緊急通報の記載に誤り]</ref>。 === 対応不十分 === *[[2013年]]5月、犯罪に悪用されたレンタル携帯電話の約98%が、NTTドコモであることが判明した。他社が契約先の事業規模に応じて回線数を制限しているのに対し、NTTドコモは上限を設けていないことも判明した<ref>{{cite news |language = | author =| url =https://jp.wsj.com/articles/JJ10034012788549964606316658502051333307254| title = 98%がドコモ回線=犯罪悪用レンタル携帯—契約数に制限なし要因 .| publisher =| date= 2013-5-6| accessdate =2013-5-9}}</ref>。 === 情報漏洩 === *[[2014年]][[9月9日]]、法人顧客1社1,053人分の個人宅住所を含む管理情報(法人名、業務用携帯電話番号、業務用携帯電話の利用者名、住所等)が、[[情報漏洩]]した疑いがあることが判明したと発表した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/2014/09/09_01.html 法人のお客様の保守運用に係る管理情報の流出に関するお詫び]</ref><ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/140909_00_m.html ドコモからのお知らせ]</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140909/crm14090918510018-n1.htm ドコモから個人情報1千人分が流出 社内関係者が関与か]</ref>。高度なアクセス制限はなく、299人の社員が触れることが可能で、契約情報や利用履歴を管理する[[コンピュータシステム]]とは別系統だった。 *2023年3月31日、インターネットサービスプロバイダ「[[ぷらら]]」および「[[ひかりTV]]」の顧客情報約529万件が流出した可能性があると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=「ぷらら」、「ひかりTV」の顧客情報約529万件が流出の可能性。現在調査中 |url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/news/1490414.html |website=PC Watch |date=2023-04-03 |access-date=2023-05-09 |language=ja |last=株式会社インプレス}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ドコモからのお知らせ : 【お詫び】「ぷらら」及び「ひかりTV」などをご利用のお客さまの個人情報流出の可能性のお知らせとお詫び {{!}} お知らせ {{!}} NTTドコモ |url=https://www.docomo.ne.jp/info/notice/page/230331_00_m.html |website=www.docomo.ne.jp |access-date=2023-05-09}}</ref>。同年7月21日付で[[警視庁]]が業務委託先の[[NTTネクシア]]の元派遣社員を[[不正競争防止法]]違反(営業秘密領得)の疑いで書類送検した<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20230722-GV4VUZLCCVODPH5J7TYJEI233Q/|title=ドコモ顧客情報持ち出しか 元派遣社員の男性を書類送検、警視庁|newspaper=産経新聞|date=2023-07-22|accessdate=2023-07-22}}</ref>。 === 販売代理店の客に対する不適切な対応 === *[[2020年]][[1月6日]]、[[兼松|兼松コミュニケーションズ株式会社]]が運営する、ドコモショップ市川インター店への来店客に対して「クソ野郎」などと書かれた不適切なメモを渡していたことがわかった。この件に対して、NTTドコモと兼松コミュニケーションズは[[1月10日]]、各社公式ホームページに謝罪文を掲載し、当該店舗は数か月の間閉店を余儀なくされた<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/17647250/ ドコモがユーザーに対する不適切応対を謝罪「徹底した原因究明」]:livedoor NEWS 2020年1月10日 19時34分</ref><ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/200110_00_m.html 一部報道における不適切なお客様応対に関するお詫び]:ドコモからのお知らせ 2020年1月10日</ref><ref>[https://www.kcs.ne.jp/news/archive/20200110/ 弊社店舗での不適切なお客様対応に関するお詫びとご報告]:兼松コミュニケーションズ株式会社 お知らせ 2020年01月10日</ref>。 === ドコモ口座不正引き出し事件 === {{main|2020年ドコモ口座不正引き出し事件}} *[[2020年]]9月上旬、[[ドコモ口座]]などの電子決済サービスに、第三者によって不正に[[銀行口座]]が登録され、口座残高の引出しが行われていたことが発覚した。同22日時点で計175件、約3152万円の被害が確認されている<ref>[https://www.tokyo-np.co.jp/article/56014 ドコモ不正、被害2678万円に 145件] - [[東京新聞]]</ref>。同社は公式ホームページに謝罪文を掲載するとともに、注意喚起を促し、本件に関する問い合わせ窓口を設置した<ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/200911_00.html ドコモからのお知らせ : ドコモ口座を利用した不正利用についてのお問い合わせ窓口設置について | お知らせ | NTTドコモ]</ref><ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/notice/page/200918_00_m.html ドコモからのお知らせ : 【注意喚起】ドコモ口座不正利用の補償を装った詐欺電話にご注意ください | お知らせ | NTTドコモ]</ref><ref>[https://www.nttdocomo.co.jp/info/news_release/detail/20200909_00_m.html 報道発表資料 : ドコモ口座への銀行口座の新規登録における対策強化について | お知らせ | NTTドコモ]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === <references group="注釈"/> === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本電信電話]] * [[NTTグループ]] * [[無線呼び出し|ポケットベル]] == 外部リンク == * [https://www.docomo.ne.jp/ NTTドコモ] * [https://www.docomo.ne.jp/corporate/ 企業・IR情報 - NTTドコモ] {{NTT}} {{Docomoのサービス}} {{日本の携帯電話事業者}} {{携帯電話の世代}} {{TOPIX 100}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:えぬていていとこも}} [[Category:NTTドコモ|*]] [[Category:日本の携帯電話事業者]] [[Category:携帯電話 (PHS)]] [[Category:携帯電話 (NTTドコモ)|*]] [[Category:PHS (NTTドコモ)|*]] [[Category:千代田区の企業]] [[Category:NYSE上場企業]] [[Category:1998年上場の企業]] [[Category:災害対策基本法指定公共機関]] [[Category:日本のクレジットカード事業者]] [[Category:1991年設立の企業]] [[Category:アニメに関係する企業]] [[Category:Jリーグ協賛団体]] [[Category:永田町]]
2003-03-18T17:09:24Z
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秒(びょう、英: second, 仏: seconde 、記号 s)は、国際単位系 (SI) における時間の単位である。他の量とは関係せず完全に独立して与えられる7つのSI基本単位の一つである。秒の単位記号は、「s」であり、「sec」などとしてはならない(秒#表記)。 「秒」は、歴史的には地球の自転の周期の長さ、すなわち「一日の長さ」(LOD)を基に定義されていた。すなわち、LODを24分割した太陽時を60分割して「分」、さらにこれを60分割して「秒」が決められ、結果としてLODの86400分の1が「秒」と定義されてきた。しかしながら、19世紀から20世紀にかけての天文学的観測から、LODには10程度の変動があることが判明し、時間の定義にはそぐわないと判断された。そのため、地球の公転周期に基づく定義を経て、1967年に、原子核が持つ普遍的な現象を利用したセシウム原子時計が秒の定義として採用された。 なお、1秒は偶然にも人間の標準的な心臓拍動の間隔に近い。 「秒」は、2019年5月以降、以下のように定義されている。 この定義を受けて、日本の計量法においては「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍に等しい時間」(計量単位令別表第一第3項)と定義されている。 秒の単位記号は、小文字・立体の「s」である。しばしば「sec」や「sec.」と書かれることがあるが、これらの表記は国際単位系および日本の計量法では認められておらず、誤りである。 漢字「秒」の本来の意味は、小麦や稲などの穂先の堅い毛すなわち芒()のことである。そこから、わずかなもの、微細なものの意味となった。『孫子算経』では、小数の位取りに「秒」を用い、「毛(毫)」の10分の1(すなわち0.0001、1万分の1)を「秒」としている。宋時代にこの秒は「糸」に置き替えられた。明時代に西洋の時法が伝わったとき、わずかな時間である「second」に「秒」の字が宛てられた。 古代のバビロニアそして中国では、1日を12等分する時間を設け、これを日時計による観測で確認をしていた。また、少なくとも紀元前2000年頃にはエジプトでは1日を昼と夜に分け、それぞれを12の時間単位で区切っていた。これは不定時法と呼ばれ、季節による昼や夜の長さ変動から、それら時間単位の実際の長さは一定していなかった。古代ギリシアのヒッパルコス(紀元前150年前後)と古代ローマのクラウディオス・プトレマイオス(150年前後)は、それぞれ1日を六十進法で細分し、平均化された1時間(1日の24分割)や、1時間の単純な分数(1/4や2/3など)そして時間の度合い(現代の「分」にも通じる1日の360分割)などを用いたが、これらは現代の分や秒とは異なっていた。 六十進法の定義によって分けられる1日は 1/60のn乗の時間区分を設けていくことになるが、300年頃のバビロニアでは少なくとも(1/60)までの分割(2マイクロ秒よりも短い)を行っていた。ただし、そのようなごく短い時間単位を基準に用いていた訳ではなく、例えば1年という時間を細分単位で表すような場合には1日の60分割単位を基礎としていた。バビロニアでは1日を360分割した she という単位(現代の4分に相当する時間)、これをさらに72分割した helek という単位(現代の10/3秒に相当する時間、ユダヤ暦の「ヘレク」と同じ)を使っていた。彼らはこれらの単位時間を正確に測定を行う手段は持っていなかったが、計算で、例えば1朔望月の平均時間を六十進法で29;31,50,8,20日(≒29.5305941358 日)という値を得ていた。この計算方法はヒッパルコスとプトレマイオスが使っていた方法である。この「ヘレク」は1080分の1時間であり。ユダヤ暦では、平均月を29日と12時間793ヘレク(英語版)(=29日と12.734時間)とする。 西暦1000年、ペルシア人の学者アブー・ライハーン・アル・ビールーニーは、新月となる週に、日曜日の正午を基準点とした「日、時、分、秒」さらに秒より細かな2段階の区分を施した。1267年にはロジャー・ベーコンが、満月日の正午を基準に「時(horae)、分(minuta)、秒(secunda)」さらに細かな tertia と quarta へ分けた。これら「秒」を60分の1に細分する用語「third」は、現代のポーランド語「tercja」やトルコ語「salise」に残っているが、通常は小数点以下2桁で示される。またこの「third」に相当する漢字の単位名称は現代ではまず用いられないが、中国・日本の西洋時法伝来以降の古文献では「微」が用いられた。 現代英語の「second」は、元々「第二の分」「次の分」を意味する「second minute」と呼んでいたことを由来とする。それに対して分のことは「第一の分」を意味する「prime minute」と呼んでいた。すなわち、1時間に対する第1の分割、第2の分割という意味である。 時計が秒単位を表示するようになった初期の例は、16世紀後半に現れる。1560–1570年のフレマースドルフ・コレクションには、秒針を持つねじ式時計がある。同じ頃、タキ・アルジン(英語版)は5秒刻みの表示をする時計を製作した。1579年にはヨスト・ビュルギがヴィルヘルム5世の依頼を受け、秒を示す時計を作った。1581年にはティコ・ブラーエが天文台の時計を改修した際に分と秒の表示を加え、1587年に彼は、この時計は4秒の狂いしか生じなかったと述べた。 秒表示の正確性は、振り子時計が発明され、日時計による見かけ時間の表示から平均時を表すことができるようになって向上した。特に1670年にビル・クレメント(William Clement)がクリスティアーン・ホイヘンスの時計に秒振り子(英語版)を加えた事が顕著に貢献した。ロングケース・クロック(英語版)の秒振り子は一往復で2秒を示し、片方からもう一方へ振れる際に鳴る機械音が1秒毎の時間を刻んだ。そして、精密時計の文字盤には1分間で一周する秒針が加えられるようになった。 日本の法令では、1951年(昭和26年)に制定された計量法で、時間の計量単位として秒が定められ、「秒は、平均太陽日の1/86400とし、東京天文台が秒として決定する時間で現示する」とされた。当時の東京天文台(現国立天文台)では、子午儀による恒星の観測で時を測定し、測定結果を外挿して標準時計であるリーフラー振り子時計の歩度を調整して保時していたといわれる。 歴史的には地球の自転周期すなわち一日の長さ(LOD)は一定だと考えられていた。ところが、クォーツ時計の精度が向上すると、LODには潮汐力や季節変動による1ミリ秒から2ミリ秒程度の変動、すなわち10日程度の変動があることが分かってきた。このため、LODを元にした定義では、精度上の問題があることが判明した。 LODの変化には、海流や大気の循環、さらに地球の核の流動なども影響を及ぼしている。また、地震の発生も潮汐力による変動の1000分の1程度のわずかの自転周期の変動を起こす。 なお、LODが数年間の期間内に徐々に長くなっている(又は、地球の自転が遅くなっている)ことが閏秒が設けられている理由であるということが広範に信じられているきらいがあるが、これは、誤解である。詳細は閏秒挿入の理由についての間違った理解、地球の自転を参照のこと。 このLODの不安定性を受けて、1954年の第10回国際度量衡総会(CGPM)での決議に基づき、1956年の国際度量衡委員会(CIPM)において、秒の定義を地球自転よりも変動が少ない公転に求め、「1900年の年初に近い時で、太陽の幾何学(章動と光行差の影響を除いた)平均黄経が 279度41分48.04秒 となる時刻を基点として測り、この時刻を暦表時1900年1月0日の12時(日本標準時で1899年12月31日21時)と定義する。暦表秒はこの時刻から1太陽年の 1/31556925.9747」と改められた。日本の法令では、1958年(昭和33年)に改正された計量法で、「秒は、明治32年12月31日午後9時における地球の公転の平均角速度に基いて算定した1太陽年の1/31556925.9747として東京天文台が現示する」とされた。当時の東京天文台では、写真天頂筒(PZT)で時の計測を行い水晶時計で保時していたといわれる。暦表時とは、ニュートン力学に基づき地球の公転周期を元にして定めた時刻である。このときに使用されたのは、18世紀から19世紀までの天文観測に基づいて1900年以降の太陽の運動を示す方程式を記述した「ニューカムによる太陽の見かけの(光行差を考慮した)平均黄経」であった。この定義は1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で批准された。1900年というのは、この年における平均太陽日が86400秒になるという意味ではなく、単に時間を決めるための基準点としてきりの良い日付が選ばれたに過ぎない。そのため、基準値をもう一度測定しようとしても1900年に遡って行うことは不可能であり、再現性に課題を抱えていた。 新たな定義は、アルカリ金属であるセシウムを用いた原子時計によるものである。セシウムは天然では原子量133の元素のみが存在し、かつその沸点は671°Cと低く、他の元素に比べて使いやすいために、原子時計に採用されていた。そのため、観測によってのみしか決定できない地球の公転よりも、実験室で求めることが可能な原子時計を直接用いて秒の定義を決めることが効率的と考えられた。これには、量子力学の原理から、すべてのCs原子には個別の差が存在しないため、原理的に同一の定義が可能という特色もある。 1955年6月にイギリスの国立物理学研究所 (NPL) がセシウム原子時計を実用化すると、いくつかの国家は原子時計を導入し、時系の運用に使用し始めた。まず、原子時計には誤差の徹底的な洗い出しと対策が施され、そしてアメリカ海軍天文台 (USNO) のウィリアム・マーコウィッツ(英語版)とイギリス国立物理学研究所(NPL)のルイ・エッセン(英語版)によってセシウム原子の超微細遷移周波数と暦表秒との関係が求められた。マーコウィッツとエッセンは、3年間の共同研究を経て1秒が9192631770周期だという数値を得た。これは、1951年にマーコウィッツが発明した星と月の動きを同時に追える月観測用カメラをUSNOが2台、大西洋を挟んで並列で設置し、月による星食から、高精度の暦表時を確認することで得られた。また、この観測でNPLは、アメリカ内陸部コロラド州の標準電波局(英語版)短波放送による識別信号を使い、2台の原子時計の比較調整を行った。 1956年に国際度量衡委員会 (CIPM) の下部機関として設置された、「秒の定義に関する諮問委員会 (CCDS、現CCTF)」第1回会議で、エッセンはセシウム原子時計と天文時系の比較結果を報告し、セシウム原子周波数標準を秒の原器にするよう強く主張した。しかしその会議では、メートルの定義をメートル原器からクリプトン原子波長に置き換えた前例と同じように、10年間ぐらいは各種周波数標準と比較研究する必要があると結論された。 その後、1964年には、第12回国際度量衡総会 (CGPM) で高度の時間計測のために原子的標準に到達する緊急性を認め、CGPM決議5による委任に基づいてCIPMで時間の物理学的測定のために暫定的に用いるべき原子又は分子に基づく周波数標準の指定を行った。そして、40カ国の代表が参加した1967年の第13回CGPMにおいて、セシウム原子時計によるSIの秒の定義が決定された。日本の法令では、1972年(昭和47年)に改正された計量法で、「秒は、セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍に等しい時間として現示する」とされ、秒を東京天文台が現示する定めがなくなり、どの機関が現示するのかは明示されなくなった。さらに、1992年(平成4年)に旧計量法が全部改訂され、新たな計量法の規定に基づく計量単位令により、秒は定義だけが示され、国の機関が秒を現示する定めはなくなった。1997年の国際度量衡局 (BIPM) の会議では「秒の定義は0 Kの下で静止した状態にあるセシウム原子に基準を置いている」という声明が出された。しかし現実には、絶対零度、止まった原子、そして外部からの電磁波等を全く排除した状態を作り出すことは事実上不可能であり、この理想状況との差異を評価して補正を加えなければならない。これを自動で行う機器の例には、一次周波数標準器がある。日本では、法令で秒を現示する指定がない状態が継続していたが、2003年(平成15年)に、秒の現示に代わって時間(秒)の逆数で表される周波数について、周波数標準器が経済産業大臣から特定標準器として指定された。なお、国家標準(特定標準器)には、独立行政法人情報通信研究機構(NICT)と独立行政法人産業技術総合研究所計量標準総合センター(NMIJ)の周波数標準器(原子時計)が指定されている。 この補則は SI 秒の定義が、黒体輻射により摂動を受けないセシウム原子に基づいていることを明確にしている。すなわち、周囲環境が熱力学的温度で0 K である。 もっと精度の高い定義として、現行のマイクロ波による定義から光に基づく定義に変更する研究が進んでいる。その候補としては光格子時計などが研究されており、国際度量衡局は、「秒の二次表現」(秒の新しい定義の候補)として、9種類を採択している。光格子時計としては、ストロンチウム格子時計とイッテルビウム格子時計の2つがある。 これの研究の進展により、10程度の精度を持つ時計が実現されようとしており、これをもとに、2026年(第28回国際度量衡総会が開催)か2030年(第29回国際度量衡総会が開催)を目途に、新しい秒の定義が採択される見込みである。 定義採択の条件としては、次の5つが挙げられている。 他の多くのSI単位と同様、倍量単位・分量単位としてSI接頭語を秒に付けることができる。秒の倍量単位は、規定上はキロ秒、メガ秒などもありうるが、通常は、非SI単位である分・時・日・週・月・年・世紀などの慣用の単位が使われるため、SI接頭語つきの単位はほとんど用いられない。 上記の3つの単位は、国際単位系(SI)の公式文書に記載がある「SI単位と併用できる非SI単位」である(SI併用単位#SI併用単位)。 なお、平均太陽日(LOD)は観測によって決まるものであり、単位としての日(d)(= 正確に 86400 s)とは、ずれがあることに注意(詳細は、地球の自転、閏秒を参照)。 以下の単位は、国際単位系(SI)では定義されていない。年と世紀は、天文学では通常、ユリウス年とユリウス世紀を用いる。定義は国際天文学連合による。 逆に1秒は慣用の単位では以下のように表される(全て、6桁目を四捨五入している)。 分量単位には以下のものがある。 原子時計で定義された秒を基礎に置いた時刻、正確には世界中にある300台以上の原子時計が算出する平均によって決められる時系があり、これを国際原子時 (TAI) と呼び、1958年1月1日0時に世界時 (UT) に合わせて開始している。ところで、地球の自転に基づく世界時 (UT) は、地球の自転の角速度の変動により、国際原子時 (TAI) との間にズレが生じる。日常生活に使用される時刻の基礎である協定世界時 (UTC) は1972年以後、原子時計に基づく国際原子時 (TAI) と全く同じ歩度(秒間隔)を維持しながら、正午近くに太陽が正中に来るように時刻を設定するため、協定世界時 (UTC) と世界時の UT1 との差が0.9秒を超えないようにする、閏秒調整を行っている。 1961年から1971年までは標準周波数のオフセットと時刻のステップ調整で世界時の UT2 に近似していた(旧協定世界時)。1972年からはこのステップ調整は廃止されることになり、代わりに協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI) との差を整数秒となるように調整することとなった。この制度変更を受けて1972年1月1日0時の協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI) との差が正確に10秒(協定世界時 (UTC) が国際原子時 (TAI) から10秒遅れ)となるように調整(特別調整という)された。同時に、それ以降の協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI)との歩度を調整する方法は、閏秒を適宜加えるか除くやり方に改められた(詳細は、閏秒の項を参照)。 1972年以降の閏秒の調整は、すべて閏秒1秒を加える操作であって、2017年までにこれが27回実施された。結果、特別調整(10秒)を加えると協定世界時と国際原子時との差異は2017年段階で37秒となっている。 一般相対性理論によれば、狂いのない理想的な時計であっても、それが刻む時刻は、その時計が過去に、どのような重力場のなかをどのような運動をしたか、によって変わってくる。このような時刻を「固有時」と呼ぶ。これに対して、共通の基準となる目盛りのついた時間と空間を「基準座標系」と呼び、このうちの時間座標を「座標時」と呼ぶことがある。地球上の時計の固有時は、主に太陽、地球自体、月、諸惑星の重力ポテンシャルの影響下にあるものと考えてよい。時計のある場所が、これらの天体に対して位置を変えるので、このポテンシャルの影響は一定量と変化量の合成となる。この変化量の最大のものは太陽のポテンシャルの変化によるもので、地球軌道が楕円であるため太陽からの距離が年周変化することで生じ、地球上の時計が一斉に全振幅 6.6×10 の年周変化をすることになる。これを時計面でみると秒の長さの変化が積算されるので、全振幅 3.3 ms の年周変化を示すことになる。なお、変化とは、一切の重力ポテンシャルの影響から全く離れた場所の座標時に比較して測られる量を言う。また、地球ポテンシャルの影響として、時計の置かれている場所の標高(ジオイドからの高さ)の違いに対応して、1 km当たり1.1×10の歩度差が生じる。 1967年に国際度量衡委員会 (CIPM) の下部機関である秒の定義に関する諮問委員会 (CCDS、現CCTF)で、原子標準による秒の再定義が具体的に提案され始めると、時間、周波数分野での相対性論効果の取扱いについて、国際的かつ公式に討議されるようになる。この時の議論では、例えば日本の代表からは「セシウム遷移観測にあたり、特定の場所の指定を行えば、秒の定義はその場所の固有時になる」、「観測対象が適当な大きさの実験室内に限られた物理測定では固有時の採用で必要かつ十分であるが、対象が実験室外にある場合は一般相対論の補正を必要とする」、「地球上又はその近傍にある原子時計は、天体に由来する引力ポテンシャルの影響を受ける」、また、「遠隔の原子時計の相互比較のために必要欠くべからざる補正は現在直ちに用いられる形では準備されていないと思われる」などの意見があった。 このような国際的討議の結果、秒の定義には特定の場所は指定しないことになった。これは、物理法則を求めるための実験室内の一般計測では、その場所の固有時を用いれば必要かつ十分であるということを基礎としたもので、必要があれば相対性理論による補正を行えばよいという考え方である。 しかし、セシウム原子の遷移周波数で定めた秒間隔を積算する原子時や周波数標準について、各国の標準研究所間で相互比較をしたり、世界的な統一基準を確立しようとすると固有時のみの考え方では不十分となり、座標時的な概念の導入が必要となる。 このため、国際原子時 (TAI) について、1980年に秒の定義に関する諮問委員会(CCDS、現CCTF)第9回会合では国際原子時 (TAI) は座標時なのか、基準系、座標変換に必要なモデルなどについて議論された。その結果「TAI は、回転するジオイド上で実現される SI の秒を目盛りの単位とした, 地心座標系で定義される座標時の目盛りである」と声明を発表している。また、「現状では、一般相対性理論の一次補正(地球の重力ポテンシャルの差、速度の差および地球の自転に対する補正)を行うことによってジオイド近傍のいかなる固定点あるいは移動点にも十分な精度で TAI を拡大することができる」とされる。 Unicodeには、秒の分量単位を表す上記の文字が収録されている。これらはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "秒(びょう、英: second, 仏: seconde 、記号 s)は、国際単位系 (SI) における時間の単位である。他の量とは関係せず完全に独立して与えられる7つのSI基本単位の一つである。秒の単位記号は、「s」であり、「sec」などとしてはならない(秒#表記)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "「秒」は、歴史的には地球の自転の周期の長さ、すなわち「一日の長さ」(LOD)を基に定義されていた。すなわち、LODを24分割した太陽時を60分割して「分」、さらにこれを60分割して「秒」が決められ、結果としてLODの86400分の1が「秒」と定義されてきた。しかしながら、19世紀から20世紀にかけての天文学的観測から、LODには10程度の変動があることが判明し、時間の定義にはそぐわないと判断された。そのため、地球の公転周期に基づく定義を経て、1967年に、原子核が持つ普遍的な現象を利用したセシウム原子時計が秒の定義として採用された。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "なお、1秒は偶然にも人間の標準的な心臓拍動の間隔に近い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「秒」は、2019年5月以降、以下のように定義されている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "この定義を受けて、日本の計量法においては「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍に等しい時間」(計量単位令別表第一第3項)と定義されている。", "title": "定義" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "秒の単位記号は、小文字・立体の「s」である。しばしば「sec」や「sec.」と書かれることがあるが、これらの表記は国際単位系および日本の計量法では認められておらず、誤りである。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "漢字「秒」の本来の意味は、小麦や稲などの穂先の堅い毛すなわち芒()のことである。そこから、わずかなもの、微細なものの意味となった。『孫子算経』では、小数の位取りに「秒」を用い、「毛(毫)」の10分の1(すなわち0.0001、1万分の1)を「秒」としている。宋時代にこの秒は「糸」に置き替えられた。明時代に西洋の時法が伝わったとき、わずかな時間である「second」に「秒」の字が宛てられた。", "title": "表記" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "古代のバビロニアそして中国では、1日を12等分する時間を設け、これを日時計による観測で確認をしていた。また、少なくとも紀元前2000年頃にはエジプトでは1日を昼と夜に分け、それぞれを12の時間単位で区切っていた。これは不定時法と呼ばれ、季節による昼や夜の長さ変動から、それら時間単位の実際の長さは一定していなかった。古代ギリシアのヒッパルコス(紀元前150年前後)と古代ローマのクラウディオス・プトレマイオス(150年前後)は、それぞれ1日を六十進法で細分し、平均化された1時間(1日の24分割)や、1時間の単純な分数(1/4や2/3など)そして時間の度合い(現代の「分」にも通じる1日の360分割)などを用いたが、これらは現代の分や秒とは異なっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "六十進法の定義によって分けられる1日は 1/60のn乗の時間区分を設けていくことになるが、300年頃のバビロニアでは少なくとも(1/60)までの分割(2マイクロ秒よりも短い)を行っていた。ただし、そのようなごく短い時間単位を基準に用いていた訳ではなく、例えば1年という時間を細分単位で表すような場合には1日の60分割単位を基礎としていた。バビロニアでは1日を360分割した she という単位(現代の4分に相当する時間)、これをさらに72分割した helek という単位(現代の10/3秒に相当する時間、ユダヤ暦の「ヘレク」と同じ)を使っていた。彼らはこれらの単位時間を正確に測定を行う手段は持っていなかったが、計算で、例えば1朔望月の平均時間を六十進法で29;31,50,8,20日(≒29.5305941358 日)という値を得ていた。この計算方法はヒッパルコスとプトレマイオスが使っていた方法である。この「ヘレク」は1080分の1時間であり。ユダヤ暦では、平均月を29日と12時間793ヘレク(英語版)(=29日と12.734時間)とする。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "西暦1000年、ペルシア人の学者アブー・ライハーン・アル・ビールーニーは、新月となる週に、日曜日の正午を基準点とした「日、時、分、秒」さらに秒より細かな2段階の区分を施した。1267年にはロジャー・ベーコンが、満月日の正午を基準に「時(horae)、分(minuta)、秒(secunda)」さらに細かな tertia と quarta へ分けた。これら「秒」を60分の1に細分する用語「third」は、現代のポーランド語「tercja」やトルコ語「salise」に残っているが、通常は小数点以下2桁で示される。またこの「third」に相当する漢字の単位名称は現代ではまず用いられないが、中国・日本の西洋時法伝来以降の古文献では「微」が用いられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "現代英語の「second」は、元々「第二の分」「次の分」を意味する「second minute」と呼んでいたことを由来とする。それに対して分のことは「第一の分」を意味する「prime minute」と呼んでいた。すなわち、1時間に対する第1の分割、第2の分割という意味である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": 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で批准された。1900年というのは、この年における平均太陽日が86400秒になるという意味ではなく、単に時間を決めるための基準点としてきりの良い日付が選ばれたに過ぎない。そのため、基準値をもう一度測定しようとしても1900年に遡って行うことは不可能であり、再現性に課題を抱えていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "新たな定義は、アルカリ金属であるセシウムを用いた原子時計によるものである。セシウムは天然では原子量133の元素のみが存在し、かつその沸点は671°Cと低く、他の元素に比べて使いやすいために、原子時計に採用されていた。そのため、観測によってのみしか決定できない地球の公転よりも、実験室で求めることが可能な原子時計を直接用いて秒の定義を決めることが効率的と考えられた。これには、量子力学の原理から、すべてのCs原子には個別の差が存在しないため、原理的に同一の定義が可能という特色もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1955年6月にイギリスの国立物理学研究所 (NPL) がセシウム原子時計を実用化すると、いくつかの国家は原子時計を導入し、時系の運用に使用し始めた。まず、原子時計には誤差の徹底的な洗い出しと対策が施され、そしてアメリカ海軍天文台 (USNO) のウィリアム・マーコウィッツ(英語版)とイギリス国立物理学研究所(NPL)のルイ・エッセン(英語版)によってセシウム原子の超微細遷移周波数と暦表秒との関係が求められた。マーコウィッツとエッセンは、3年間の共同研究を経て1秒が9192631770周期だという数値を得た。これは、1951年にマーコウィッツが発明した星と月の動きを同時に追える月観測用カメラをUSNOが2台、大西洋を挟んで並列で設置し、月による星食から、高精度の暦表時を確認することで得られた。また、この観測でNPLは、アメリカ内陸部コロラド州の標準電波局(英語版)短波放送による識別信号を使い、2台の原子時計の比較調整を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1956年に国際度量衡委員会 (CIPM) の下部機関として設置された、「秒の定義に関する諮問委員会 (CCDS、現CCTF)」第1回会議で、エッセンはセシウム原子時計と天文時系の比較結果を報告し、セシウム原子周波数標準を秒の原器にするよう強く主張した。しかしその会議では、メートルの定義をメートル原器からクリプトン原子波長に置き換えた前例と同じように、10年間ぐらいは各種周波数標準と比較研究する必要があると結論された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "その後、1964年には、第12回国際度量衡総会 (CGPM) で高度の時間計測のために原子的標準に到達する緊急性を認め、CGPM決議5による委任に基づいてCIPMで時間の物理学的測定のために暫定的に用いるべき原子又は分子に基づく周波数標準の指定を行った。そして、40カ国の代表が参加した1967年の第13回CGPMにおいて、セシウム原子時計によるSIの秒の定義が決定された。日本の法令では、1972年(昭和47年)に改正された計量法で、「秒は、セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍に等しい時間として現示する」とされ、秒を東京天文台が現示する定めがなくなり、どの機関が現示するのかは明示されなくなった。さらに、1992年(平成4年)に旧計量法が全部改訂され、新たな計量法の規定に基づく計量単位令により、秒は定義だけが示され、国の機関が秒を現示する定めはなくなった。1997年の国際度量衡局 (BIPM) の会議では「秒の定義は0 Kの下で静止した状態にあるセシウム原子に基準を置いている」という声明が出された。しかし現実には、絶対零度、止まった原子、そして外部からの電磁波等を全く排除した状態を作り出すことは事実上不可能であり、この理想状況との差異を評価して補正を加えなければならない。これを自動で行う機器の例には、一次周波数標準器がある。日本では、法令で秒を現示する指定がない状態が継続していたが、2003年(平成15年)に、秒の現示に代わって時間(秒)の逆数で表される周波数について、周波数標準器が経済産業大臣から特定標準器として指定された。なお、国家標準(特定標準器)には、独立行政法人情報通信研究機構(NICT)と独立行政法人産業技術総合研究所計量標準総合センター(NMIJ)の周波数標準器(原子時計)が指定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この補則は SI 秒の定義が、黒体輻射により摂動を受けないセシウム原子に基づいていることを明確にしている。すなわち、周囲環境が熱力学的温度で0 K である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "もっと精度の高い定義として、現行のマイクロ波による定義から光に基づく定義に変更する研究が進んでいる。その候補としては光格子時計などが研究されており、国際度量衡局は、「秒の二次表現」(秒の新しい定義の候補)として、9種類を採択している。光格子時計としては、ストロンチウム格子時計とイッテルビウム格子時計の2つがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "これの研究の進展により、10程度の精度を持つ時計が実現されようとしており、これをもとに、2026年(第28回国際度量衡総会が開催)か2030年(第29回国際度量衡総会が開催)を目途に、新しい秒の定義が採択される見込みである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "定義採択の条件としては、次の5つが挙げられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "他の多くのSI単位と同様、倍量単位・分量単位としてSI接頭語を秒に付けることができる。秒の倍量単位は、規定上はキロ秒、メガ秒などもありうるが、通常は、非SI単位である分・時・日・週・月・年・世紀などの慣用の単位が使われるため、SI接頭語つきの単位はほとんど用いられない。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "上記の3つの単位は、国際単位系(SI)の公式文書に記載がある「SI単位と併用できる非SI単位」である(SI併用単位#SI併用単位)。 なお、平均太陽日(LOD)は観測によって決まるものであり、単位としての日(d)(= 正確に 86400 s)とは、ずれがあることに注意(詳細は、地球の自転、閏秒を参照)。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "以下の単位は、国際単位系(SI)では定義されていない。年と世紀は、天文学では通常、ユリウス年とユリウス世紀を用いる。定義は国際天文学連合による。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "逆に1秒は慣用の単位では以下のように表される(全て、6桁目を四捨五入している)。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "分量単位には以下のものがある。", "title": "倍量・分量単位" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "原子時計で定義された秒を基礎に置いた時刻、正確には世界中にある300台以上の原子時計が算出する平均によって決められる時系があり、これを国際原子時 (TAI) と呼び、1958年1月1日0時に世界時 (UT) に合わせて開始している。ところで、地球の自転に基づく世界時 (UT) は、地球の自転の角速度の変動により、国際原子時 (TAI) との間にズレが生じる。日常生活に使用される時刻の基礎である協定世界時 (UTC) は1972年以後、原子時計に基づく国際原子時 (TAI) と全く同じ歩度(秒間隔)を維持しながら、正午近くに太陽が正中に来るように時刻を設定するため、協定世界時 (UTC) と世界時の UT1 との差が0.9秒を超えないようにする、閏秒調整を行っている。", "title": "国際原子時と閏秒" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1961年から1971年までは標準周波数のオフセットと時刻のステップ調整で世界時の UT2 に近似していた(旧協定世界時)。1972年からはこのステップ調整は廃止されることになり、代わりに協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI) との差を整数秒となるように調整することとなった。この制度変更を受けて1972年1月1日0時の協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI) との差が正確に10秒(協定世界時 (UTC) が国際原子時 (TAI) から10秒遅れ)となるように調整(特別調整という)された。同時に、それ以降の協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI)との歩度を調整する方法は、閏秒を適宜加えるか除くやり方に改められた(詳細は、閏秒の項を参照)。", "title": "国際原子時と閏秒" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1972年以降の閏秒の調整は、すべて閏秒1秒を加える操作であって、2017年までにこれが27回実施された。結果、特別調整(10秒)を加えると協定世界時と国際原子時との差異は2017年段階で37秒となっている。", "title": "国際原子時と閏秒" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一般相対性理論によれば、狂いのない理想的な時計であっても、それが刻む時刻は、その時計が過去に、どのような重力場のなかをどのような運動をしたか、によって変わってくる。このような時刻を「固有時」と呼ぶ。これに対して、共通の基準となる目盛りのついた時間と空間を「基準座標系」と呼び、このうちの時間座標を「座標時」と呼ぶことがある。地球上の時計の固有時は、主に太陽、地球自体、月、諸惑星の重力ポテンシャルの影響下にあるものと考えてよい。時計のある場所が、これらの天体に対して位置を変えるので、このポテンシャルの影響は一定量と変化量の合成となる。この変化量の最大のものは太陽のポテンシャルの変化によるもので、地球軌道が楕円であるため太陽からの距離が年周変化することで生じ、地球上の時計が一斉に全振幅 6.6×10 の年周変化をすることになる。これを時計面でみると秒の長さの変化が積算されるので、全振幅 3.3 ms の年周変化を示すことになる。なお、変化とは、一切の重力ポテンシャルの影響から全く離れた場所の座標時に比較して測られる量を言う。また、地球ポテンシャルの影響として、時計の置かれている場所の標高(ジオイドからの高さ)の違いに対応して、1 km当たり1.1×10の歩度差が生じる。", "title": "固有時と座標時" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1967年に国際度量衡委員会 (CIPM) の下部機関である秒の定義に関する諮問委員会 (CCDS、現CCTF)で、原子標準による秒の再定義が具体的に提案され始めると、時間、周波数分野での相対性論効果の取扱いについて、国際的かつ公式に討議されるようになる。この時の議論では、例えば日本の代表からは「セシウム遷移観測にあたり、特定の場所の指定を行えば、秒の定義はその場所の固有時になる」、「観測対象が適当な大きさの実験室内に限られた物理測定では固有時の採用で必要かつ十分であるが、対象が実験室外にある場合は一般相対論の補正を必要とする」、「地球上又はその近傍にある原子時計は、天体に由来する引力ポテンシャルの影響を受ける」、また、「遠隔の原子時計の相互比較のために必要欠くべからざる補正は現在直ちに用いられる形では準備されていないと思われる」などの意見があった。", "title": "固有時と座標時" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "このような国際的討議の結果、秒の定義には特定の場所は指定しないことになった。これは、物理法則を求めるための実験室内の一般計測では、その場所の固有時を用いれば必要かつ十分であるということを基礎としたもので、必要があれば相対性理論による補正を行えばよいという考え方である。 しかし、セシウム原子の遷移周波数で定めた秒間隔を積算する原子時や周波数標準について、各国の標準研究所間で相互比較をしたり、世界的な統一基準を確立しようとすると固有時のみの考え方では不十分となり、座標時的な概念の導入が必要となる。", "title": "固有時と座標時" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "このため、国際原子時 (TAI) について、1980年に秒の定義に関する諮問委員会(CCDS、現CCTF)第9回会合では国際原子時 (TAI) は座標時なのか、基準系、座標変換に必要なモデルなどについて議論された。その結果「TAI は、回転するジオイド上で実現される SI の秒を目盛りの単位とした, 地心座標系で定義される座標時の目盛りである」と声明を発表している。また、「現状では、一般相対性理論の一次補正(地球の重力ポテンシャルの差、速度の差および地球の自転に対する補正)を行うことによってジオイド近傍のいかなる固定点あるいは移動点にも十分な精度で TAI を拡大することができる」とされる。", "title": "固有時と座標時" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "Unicodeには、秒の分量単位を表す上記の文字が収録されている。これらはCJK互換用文字であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない。", "title": "符号位置" } ]
秒は、国際単位系 (SI) における時間の単位である。他の量とは関係せず完全に独立して与えられる7つのSI基本単位の一つである。秒の単位記号は、「s」であり、「sec」などとしてはならない(秒#表記)。 「秒」は、歴史的には地球の自転の周期の長さ、すなわち「一日の長さ」(LOD)を基に定義されていた。すなわち、LODを24分割した太陽時を60分割して「分」、さらにこれを60分割して「秒」が決められ、結果としてLODの86400分の1が「秒」と定義されてきた。しかしながら、19世紀から20世紀にかけての天文学的観測から、LODには10−8程度の変動があることが判明し、時間の定義にはそぐわないと判断された。そのため、地球の公転周期に基づく定義を経て、1967年に、原子核が持つ普遍的な現象を利用したセシウム原子時計が秒の定義として採用された。 なお、1秒は偶然にも人間の標準的な心臓拍動の間隔に近い。
{{Otheruses|[[時間]]の単位|角度の単位|秒 (角度)}} {{単位 |名称=秒 |読み=びょう |画像=[[ファイル:Atomicclock.jpg|250px|原子時計]]<br>原子時計 |フランス語=seconde |英語=second |スペイン語=segundo |記号=s (sec, sec. などではない) |単位系=SI |種類=[[SI基本単位|基本単位]] |物理量=[[時間]] |定義=秒(記号は s)は、時間のSI単位であり、セシウム周波数 ∆''ν''{{sub|Cs}}、すなわち、セシウム133原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s{{sup|-1}} に等しい)で表したときに、その数値を{{val|9192631770}} と定めることによって定義される |由来=[[平均太陽日]]([[LOD]])の1/{{val|86400}} }} '''秒'''(びょう、{{lang-en-short|second}}, {{lang-fr-short|seconde}} 、記号 '''s''')は、[[国際単位系]] (SI) における[[時間]]の[[単位]]である。他の[[量]]とは関係せず完全に独立して与えられる7つの[[SI基本単位]]の一つである{{Sfn|BIPM|2006a}}<ref name=Ube-k>{{Cite web|和書|url=http://www.ube-k.ac.jp/~oki/class/IE/pre/sec1_note.pdf|format=PDF|title=計測工学 ‐第1回(測定と単位系)‐pp. 1–2‐平成20年4月10日|author=沖俊任|publisher=[[宇部工業高等専門学校]]|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>。秒の単位記号は、「s」であり、「sec」などとしてはならない([[秒#表記]])。 「秒」は、歴史的には[[地球の自転]]の周期の長さ、すなわち「一日の長さ」([[LOD]]<ref>{{lang-en-short|length of day}}</ref>)を基に[[定義]]されていた<ref>{{cite book|title=Splitting the second: the story of atomic time|first1=Tony|last1=Jones|publisher=Institute of Physics Pub|date=2000年|isbn=0750306408|url=https://books.google.be/books?id=krZBQbnHTY0C}}</ref>。すなわち、LODを24分割した[[太陽時]]を60分割して「[[分]]」、さらにこれを60分割して「秒」が決められ、結果として[[LOD]]の{{val|86400}}分の1が「秒」と定義されてきた。しかしながら、19世紀から20世紀にかけての[[天文学]]的観測から、LODには10{{sup-|8}}程度の変動があることが判明し<ref name=Wada34>[[#和田2002|和田 (2002)、第2章 長さ、時間、質量の単位の歴史、pp. 34–35、3.時間の単位:地球から原子へ]]</ref>、時間の定義にはそぐわないと判断された。そのため、地球の[[公転周期]]に基づく定義を経て、1967年に、原子核が持つ普遍的な現象を利用した[[原子時計#セシウム原子時計|セシウム原子時計]]が秒の定義として採用された。 なお、1秒は偶然にも[[人間]]の標準的な[[心臓]][[拍動]]の間隔に近い<ref name=Wada34 />。 == 定義 == 「秒」は、[[2019年]]5月以降、以下のように定義されている。 {{Quotation|秒(記号は s)は、時間の SI 単位であり、[[セシウム]]周波数 ''∆&nu;''{{sub|Cs}}、すなわち、セシウム 133 原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位 Hz(s{{sup-|1}} に等しい)で表したときに、その数値を {{val|9192631770}} と定めることによって定義される<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf#page=16 国際単位系(SI)第 9 版(2019)] p.99、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、2020年3月</ref><ref group="注">国際単位系における正式の言語はフランス語である。ここでの定義は英語及びこれを日本語に翻訳したものである。正式な本文の確認が必要な場合又は文章の解釈に疑義がある場合はフランス語版を確認する必要がある。</ref>。 }} この定義を受けて、日本の[[計量法]]においては「セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の{{val|9192631770}}倍に等しい時間」(計量単位令別表第一第3項)と定義されている{{sfn|平成4年政令第367号|1992|loc=第2条、別表第1の時間 秒の項}}。 == 表記 == === 単位記号 === 秒の単位記号は、[[小文字]]・[[立体活字|立体]]の「s」である<ref>{{Cite web|和書|url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404M50000400080#91 |title=計量単位規則(平成四年通商産業省令第八十号)別表第二(第2条関係)時間、「秒」の欄 ||accessdate=2019-12-23}}</ref>。しばしば「sec」や「sec.」と書かれることがあるが、これらの表記は[[国際単位系]]および日本の[[計量法]]では認められておらず、誤りである<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/pamphlet/si/SIdata202004.pdf 国際単位系(SI)は世界共通のルールです(PDF)] 2ページの右下の「誤りやすい単位記号の例」として「50 sec (正しくは→50 s)」と例示されている。</ref><ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.116、産業技術総合研究所、計量標準総合センター、「単位の記号や名称の省略語を使ってはならない。例えば、sec は使わず、s または秒のいずれかとする。(中略)SI 単位および単位全般について、本文書で前述した正式な記号を使わなければならない。これによって、量の値に関する曖昧さや誤解が回避される。」</ref>。 === 漢字表記 === 漢字「秒」の本来の意味は、小麦や稲などの穂先の堅い毛すなわち{{読み仮名|芒|のぎ}}のことである。そこから、わずかなもの、微細なものの意味となった<ref name=Saijo3-4 />。『{{lang|zh|孫子算経}}』では、小数の位取りに「{{lang|zh|秒}}」を用い、「[[毛 (数)|{{lang|zh|毛}}]]({{lang|zh|毫}})」の10分の1(すなわち0.0001、1万分の1)を「{{lang|zh|秒}}」としている<ref>[http://zh.wikisource.org/zh/%E5%AD%AB%E5%AD%90%E7%AE%97%E7%B6%93 {{lang|zh|維基文庫}}「{{lang|zh|孫子算經}}」]</ref>。[[宋 (王朝)|宋]]時代にこの秒は「[[糸 (数)|{{lang|zh|糸}}]]」に置き替えられた。[[明]]時代に西洋の[[時法]]が伝わったとき、わずかな時間である「{{lang|en|second}}」に「{{lang|zh|秒}}」の字が宛てられた。 == 歴史 == {{see also|時計の歴史}} === 機械時計成立以前の秒 === 古代の[[古代バビロニア|バビロニア]]そして[[古代中国|中国]]では、1日を12等分する時間を設け、これを[[日時計]]による観測で確認をしていた<ref name=Saijo3-3>[[#西條2009|西條 (2009)、3講.秒 pp. 23–24、3.時間測定の始まり]]</ref>。また、少なくとも紀元前2000年頃には[[エジプト]]では1日を[[昼]]と[[夜]]に分け、それぞれを12の時間単位で区切っていた<ref name=Saijo3-3 />。これは[[不定時法]]と呼ばれ、[[季節]]による昼や夜の長さ変動から、それら時間単位の実際の長さは一定していなかった。[[古代ギリシア]]の[[ヒッパルコス]](紀元前150年前後)と[[古代ローマ]]の[[クラウディオス・プトレマイオス]](150年前後)は、それぞれ1日を[[六十進法]]で細分し、平均化された1時間(1日の24分割)や、1時間の単純な[[分数]](1/4や2/3など)そして時間の度合い(現代の「分」にも通じる1日の360分割)などを用いたが、これらは現代の分や秒とは異なっていた<ref>{{cite book|title=Ptolemey's Almagest|first1=G. J.|last1=Toomer|publisher=[[プリンストン大学]]出版局|location=Princeton、[[ニュージャージー州]][[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]]|date=1998年|pages=6–7, 23, 211–216}}</ref>。 六十進法の定義によって分けられる1日は 1/60のn乗の時間区分を設けていくことになるが、300年頃のバビロニアでは少なくとも(1/60){{sup|6}}までの分割(2マイクロ秒よりも短い)を行っていた。ただし、そのようなごく短い時間単位を基準に用いていた訳ではなく、例えば1年という[[時間]]を細分単位で表すような場合には1日の60分割単位を基礎としていた。バビロニアでは1日を360分割した she という単位(現代の4分に相当する時間)、これをさらに72分割した helek という単位(現代の10/3秒に相当する時間、ユダヤ暦の「ヘレク」と同じ)を使っていた<ref>{{cite journal|author=O Neugebauer|date=1949年|title=The astronomy of Maimonides and its sources|journal=[[ヘブライ・ユニオン・カレッジ]]・アニューアル|volume=22|pages=321–360|doi=|id=}}</ref>。彼らはこれらの単位時間を正確に測定を行う手段は持っていなかったが、計算で、例えば1[[朔望月]]の平均時間を六十進法で29;31,50,8,20日(≒{{val|29.5305941358|u=日}})という値を得ていた。この計算方法はヒッパルコスとプトレマイオスが使っていた方法である。この「ヘレク」は1080分の1時間であり<ref>{{cite book|author=O Neugebauer|date=1975年|title=A history of ancient mathematical astronomy|publisher=[[シュプリンガー・サイエンス・アンド・ビジネス・メディア|シュプリンガー・フェアラーク]]|isbn=038706995X}}</ref>。[[ユダヤ暦]]では、平均月を29日と12時間793{{仮リンク|ヘレク|en|helek}}(=29日と12.734時間)とする。 西暦1000年、[[ペルシア人]]の学者[[アブー・ライハーン・アル・ビールーニー]]は、[[新月]]となる週に、[[日曜日]]の[[正午]]を基準点とした「日、時、分、秒」さらに秒より細かな2段階の区分を施した<ref>{{cite book|author=アブー・ライハーン・アル・ビールーニー|date=1879年|title=The chronology of ancient nations: an English version of the Arabic text of the Athâr-ul-Bâkiya of Albîrûnî, or "Vestiges of the Past"|url=https://books.google.co.jp/books?id=pFIEAAAAIAAJ&pg=PA148&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=|pages=147-149|others=Sachau C Edward}}</ref>。1267年には[[ロジャー・ベーコン]]が、[[満月]]日の正午を基準に「時({{lang|ang|horae}})、分({{lang|ang|minuta}})、秒({{lang|ang|secunda}})」さらに細かな {{lang|ang|tertia}} と {{lang|ang|quarta}} へ分けた<ref>{{cite book|author=ロジャー・ベーコン|date=2000年|origyear=1928年|title=The Opus Majus of Roger Bacon|publisher=[[ペンシルベニア大学]]出版局|page=table facing page 231|isbn=9781855068568|nopp=true|others=BR Belle}}</ref>。これら「秒」を60分の1に細分する用語「{{lang|en|third}}」は、現代の[[ポーランド語]]「{{lang|pl|tercja}}」や[[トルコ語]]「{{lang|tr|salise}}」に残っているが、通常は小数点以下2桁で示される。またこの「third」に相当する漢字の単位名称は現代ではまず用いられないが、中国・日本の西洋時法伝来以降の古文献では「微」が用いられた。 現代英語の「{{lang|en|second}}」は、元々「第二の分」「次の分」を意味する「{{lang|en|second minute}}」と呼んでいたことを由来とする<ref name=Saijo3-4>[[#西條2009|西條 (2009)、3講.秒 pp. 24–26、4.「秒」の起源と制定‐天文時から原子時へ‐]]</ref>。それに対して分のことは「第一の分」を意味する「{{lang|en|prime minute}}」と呼んでいた。すなわち、1[[時間 (単位)|時間]]に対する第1の分割、第2の分割という意味である。 === 秒表示を持つ機械時計 === [[時計]]が秒単位を表示するようになった初期の例は、16世紀後半に現れる。1560–1570年の[[フレマースドルフ・コレクション]]<ref>{{lang-en-short|Fremersdorf collection}}</ref>には、秒針を持つ[[ねじ]]式時計がある<ref>[[#Landes1983|Landes (1983), pp. 417–418.]]</ref><ref>{{cite book|title=Clocks & watches|first1=Johann|last1=Willsberger|publisher=Dial Press|location=New York|date=1975年|chapter=full page color photo: 4th caption page, 3rd photo thereafter (neither pages nor photos are numbered)|pages=}}</ref>。同じ頃、{{仮リンク|タキ・アルジン|en|Taqi al-Din Muhammad ibn Ma'ruf}}は5秒刻みの表示をする時計を製作した<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=raKRY3KQspsC&pg=PA934&redir_esc=y&hl=ja Taqi al-Din]</ref><ref>[http://muslimheritage.com/topics/default.cfm?ArticleID=947 The astronomical clock of Taqi al-Din: Virtual reconstruction].</ref>。1579年には[[ヨスト・ビュルギ]]が[[ヴィルヘルム5世 (ヘッセン=カッセル方伯)|ヴィルヘルム5世]]の依頼を受け、秒を示す時計を作った<ref>[[#Landes1983|Landes (1983), p105]]</ref>。1581年には[[ティコ・ブラーエ]]が[[天文台]]の時計を改修した際に[[分]]と秒の表示を加え、1587年に彼は、この時計は4秒の狂いしか生じなかったと述べた<ref name=Landes>[[#Landes1983|Landes (1983), p104]] </ref>。 秒表示の正確性は、[[振り子時計]]が発明され、日時計による見かけ時間の表示から平均時を表すことができるようになって向上した。特に1670年にビル・クレメント(William Clement)が[[クリスティアーン・ホイヘンス]]の時計に{{仮リンク|秒振り子|en|seconds pendulum}}を加えた事が顕著に貢献した<ref>{{cite journal|author=J Chappell|date=2002|title=The Long Case Clock: The Science and Engineering that Goes Into a Grandfather Clock|url=http://illumin.usc.edu/article.php?articleID=64&page=1|journal=Illumin|volume=1|issue=0|pages=2|doi=}}</ref>。{{仮リンク|ロングケース・クロック|en|longcase clock}}の秒振り子は一往復で2秒を示し、片方からもう一方へ振れる際に鳴る機械音が1秒毎の時間を刻んだ。そして、精密時計の[[文字盤]]には1分間で一周する秒針が加えられるようになった。 日本の法令では、[[1951年]](昭和26年)に制定された[[s:計量法 (昭和二十六年)|計量法]]で、時間の[[計量単位]]として秒が定められ、「秒は、[[太陽時|平均太陽日]]の{{gaps|1/86|400}}とし、東京天文台が秒として決定する時間で[[現示]]する」とされた<ref>{{Citation|和書|year=1951|date=1951-06-07|title=[[s:計量法 (昭和二十六年)|計量法]](公布時)(昭和26年法律第207号)|at=第3条第3号|id={{NDLJP|2963871}}、[https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/01019510607207.htm 衆議院-制定法律] }}</ref>。当時の東京天文台(現[[国立天文台]])では、[[天文台#子午儀・子午環|子午儀]]による[[恒星]]の観測で時を測定し、測定結果を[[外挿]]して標準時計であるリーフラー[[振り子時計]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/vm/past_parmanent/rikou/Field_5/Detail_505.html|title=はかる道具 リーフラー天文時計 詳細|accessdate=2013-12-31|author=国立科学博物館|authorlink=国立科学博物館|date=2006-12-20|year=2006|format=html|work=国立科学博物館 電子資料館|publisher=国立科学博物館|language=日本語}}</ref>の歩度を調整して保時していたといわれる<ref>{{Cite journal|和書|author=中桐正夫|date=2009-01-28|year=2009|title=昭和26年の東京天文台見学の栞|journal=アーカイブ室新聞|issue=123|page=3|publisher=[[国立天文台]]|location=東京都[[三鷹市]]|url=https://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/arc_news123.pdf|format=PDF|accessdate=2013-12-29}}</ref>。 === 地球の公転周期に基づく秒 === 歴史的には地球の[[自転周期]]すなわち一日の長さ([[LOD]])は一定だと考えられていた。ところが、[[クォーツ時計]]の精度が向上すると、LODには[[潮汐力]]<ref name=NICT>{{Cite web|和書|url=http://www2.nict.go.jp/w/w114/afs/One-Second.html|title=1秒の定義|author=|publisher=独立行政法人情報通信研究機構|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://rikanet2.jst.go.jp/contents/cp0320a/contents/chishiki/answer06/index.html|title=宇宙・天文まめ知識 地球の自転速度は一定か?|author=|publisher=財団法人科学技術振興機構|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>や季節変動<ref name=K.Kodama>{{Cite web|和書|url=http://www.math.kobe-u.ac.jp/~kodama/tips-measure.html|title=単位、秒|author=K.KODAMA|publisher=[[神戸大学]]理学部数学科|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>による1ミリ秒から2ミリ秒程度の変動、すなわち10{{sup-|8}}日程度の変動があることが分かってきた<ref>[http://hpiers.obspm.fr/eop-pc/] Excess of the LOD 過去の約1年間のLODの揺れ</ref>。このため、LODを元にした定義では、精度上の問題があることが判明した。 LODの変化には、[[海流]]や[[大気]]の循環、さらに地球の[[核 (天体)|核]]の流動なども影響を及ぼしている。また、[[地震]]の発生も潮汐力による変動の1000分の1程度のわずかの自転周期の変動を起こす<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sci.hokudai.ac.jp/science/science/H17_02/tibutu/sumatra.htm|title=スマトラ沖地震と地球|author=日置幸介|publisher=[[北海道大学]]理学研究科・地球惑星科学専攻・宇宙測地学研究室|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>。 なお、LODが数年間の期間内に徐々に長くなっている(又は、地球の自転が遅くなっている)ことが閏秒が設けられている理由であるということが広範に信じられているきらいがあるが、これは、誤解である。詳細は[[閏秒#閏秒挿入の理由についての間違った理解|閏秒挿入の理由についての間違った理解]]、[[地球の自転]]を参照のこと。 このLODの不安定性を受けて、1954年の第10回[[国際度量衡総会]](CGPM)での決議に基づき、1956年の[[国際度量衡委員会]](CIPM)において、秒の定義を地球自転よりも変動が少ない公転に求め<ref name=NICT />、「1900年の年初に近い時で、太陽の[[幾何学]]([[章動]]と[[光行差]]の影響を除いた)平均[[黄経]]が 279[[度 (角度)|度]]41[[分 (角度)|分]]48.04[[秒 (角度)|秒]] となる[[時刻]]を基点として測り、この時刻を[[暦表時]]1900年[[1月0日]]の12時([[日本標準時]]で1899年12月31日21時)と定義する。暦表秒はこの時刻から1[[太陽年]]の {{gaps|1/31|556|925.9747}}」と改められた<ref name=Saijo3-4 />。日本の法令では、1958年(昭和33年)に改正された[[s:計量法 (昭和三十三年)|計量法]]で、「秒は、[[1899年|明治32年]][[12月31日]]午後9時における地球の公転の平均角速度に基いて算定した1太陽年の{{gaps|1/31|556|925.9747}}として[[国立天文台|東京天文台]]が現示する」とされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02819580415061.htm|title=計量法の一部を改正する法律(昭和33年法律第61号)|accessdate=2013-12-29|date=1958-04-15|year=1958|format=html|work=衆議院-制定法律|publisher=[[衆議院]]|language=日本語}}第3条第3号</ref>。当時の東京天文台では、[[写真天頂筒]](PZT)で時の計測を行い水晶時計で保時していたといわれる<ref>{{Cite journal|和書|author=飯島重孝|date=1955-05|year=1955|title=保時と報時|journal=天文月報|volume=48|issue=05|pages=67-70|publisher=[[日本天文学会]]|location=東京都[[三鷹市]]|issn=0374-2466|naid=40018111534|id={{NCID|AN00154555}}|url=https://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1955/pdf/195505.pdf|format=PDF|accessdate=2014-01-24}}</ref>。[[暦表時]]とは、[[ニュートン力学]]に基づき地球の[[公転周期]]を元にして定めた時刻である。このときに使用されたのは、18世紀から19世紀までの天文観測に基づいて1900年以降の太陽の運動を示す[[方程式]]を記述した「[[サイモン・ニューカム|ニューカム]]による太陽の見かけの([[光行差]]を考慮した)平均[[黄経]]」であった<ref name="USNO">{{cite web|title=Leap Seconds|publisher=Time Service Department, [[アメリカ海軍天文台]]|url=http://tycho.usno.navy.mil/leapsec.html|accessdate=2006-12-31}}</ref>。この定義は1960年の第11回国際度量衡総会 (CGPM) で批准された{{Sfn|BIPM|2006b|pp=23,50,60|loc=§2.1.1.3、付録1}}。1900年というのは、この年における平均太陽日が{{val|86400}}秒になるという意味ではなく、単に時間を決めるための基準点としてきりの良い日付が選ばれたに過ぎない。そのため、基準値をもう一度[[測定]]しようとしても1900年に遡って行うことは不可能であり、再現性に課題を抱えていた<ref name=K.Kodama />。 === 原子時計による秒 === 新たな定義は、[[アルカリ金属]]である[[セシウム]]を用いた[[原子時計]]によるものである<ref name=Saijo3-4 />。セシウムは天然では[[原子量]]133の[[元素]]のみが存在し、かつその[[沸点]]は671℃と低く、他の元素に比べて使いやすいために、原子時計に採用されていた<ref name=Saijo3-4 />。そのため、観測によってのみしか決定できない地球の公転よりも、実験室で求めることが可能な原子時計を直接用いて秒の定義を決めることが効率的と考えられた<ref name=Saijo3-4 />。これには、[[量子力学]]の原理から、すべての{{sup|133}}Cs原子には個別の差が存在しないため、原理的に同一の定義が可能という特色もある<ref>{{Cite web|和書|title=基礎物理学 2007年度|author=木口勝義|publisher=[[近畿大学]]理工学総合研究所|url=http://www.rist.kindai.ac.jp/~kiguchi/h19/buturi-1/chap1.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>。 [[1955年]]6月に[[イギリス]]の[[イギリス国立物理学研究所|国立物理学研究所]] (NPL) がセシウム原子時計を実用化すると、いくつかの[[国家]]は原子時計を導入し、時系の運用に使用し始めた<ref>{{Cite web|和書|title=タイムスタンプ局に対するUTCトレーサビリティ保証のTA技術要件に関する検討 中間報告|publisher=TA認定基準の国際整合化に向けた検討WG 財団法人日本データ通信境界|url=http://www.dekyo.or.jp/tb/linkdocument/data/ta.pdf|format=PDF|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>。まず、原子時計には[[誤差]]の徹底的な洗い出しと対策が施され<ref name=Major>{{Cite book|和書|author=F.G.マジョール|translator=盛永篤郎|title=量子の鼓動:原子時計の原理と応用|publisher=シュプリンガー・ジャパン|date=2006|edition=|pages=207|isbn=9784431712060|url=https://books.google.co.jp/books?id=C6jG-aq_RtIC&pg=PR3&lpg=PR3&dq=%22%E5%8E%9F%E5%AD%90%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%22&source=bl&ots=RB9sRBCa8k&sig=chN5yA10US3hrP9Zbmd90FhTtpk&hl=ja#v=onepage&q=%22%E5%8E%9F%E5%AD%90%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%22&f=false }}</ref>、そして[[アメリカ海軍天文台]] (USNO) の{{仮リンク|ウィリアム・マーコウィッツ|en|William Markowitz}}と[[イギリス国立物理学研究所]](NPL)の{{仮リンク|ルイ・エッセン|en|Louis Essen}}によってセシウム原子の超微細遷移周波数と暦表秒との関係が求められた<ref name="USNO"/><ref name=mark58>{{cite journal|author=W Markowitz, RG Hall, L Essen, JVL Parry|date=1958|url=http://www.leapsecond.com/history/1958-PhysRev-v1-n3-Markowitz-Hall-Essen-Parry.pdf|title=Frequency of cesium in terms of ephemeris time|journal=[[Physical Review Letters]]|volume=1|issue=|pages=105–107|doi=10.1103/PhysRevLett.1.105}}</ref>。マーコウィッツとエッセンは、3年間の共同研究を経て1秒が{{val|9192631770}}周期だという数値を得た。これは、1951年にマーコウィッツが発明した[[天体|星]]と月の動きを同時に追える月観測用[[カメラ]]をUSNOが2台、[[大西洋]]を挟んで<ref name=Sciam>{{cite web|title=How does one arrive at the exact number of cycles of radiation a cesium-133 atom makes in order to define one second? (The Story of Atomic Time)|author=Tony Jones|publisher=Scientific American|url=http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=how-does-one-arrive-at-th|language=英語|date=2002-12-16|accessdate=2010-11-13}}</ref>並列で設置し、月による[[星食]]から、高精度の[[暦表時]]を確認することで得られた<ref name=Final>{{cite web|title=Final Answers Measurements & Units|author=Gérard P. Michon|publisher=numericana.com|url=http://www.numericana.com/answer/units.htm|language=英語|accessdate=2010-11-13}}</ref>。また、この観測でNPLは、アメリカ内陸部[[コロラド州]]の{{仮リンク|米国標準電波局|en|WWV (radio station)|label=標準電波局}}[[短波放送]]による[[識別信号]]を使い、2台の原子時計の比較調整を行った<ref name=Sciam /><ref name=Final />。 1956年に[[国際度量衡委員会]] (CIPM) の下部機関として設置された、「秒の定義に関する諮問委員会 (CCDS、現CCTF)」第1回会議で、エッセンはセシウム原子時計と天文時系の比較結果を報告し、セシウム原子周波数標準を秒の原器にするよう強く主張した。しかしその会議では、メートルの定義をメートル原器からクリプトン原子波長に置き換えた前例と同じように、10年間ぐらいは各種周波数標準と比較研究する必要があると結論された<ref>{{Cite journal|和書|author=宮地政司|authorlink=宮地政司|date=1958|year=1958|title=秒の定義に関する諮問委員会|url=https://doi.org/10.11499/sicejl1951.8.189|journal=計測|volume=8|issue=4|pages=189-190|publisher=[[計測自動制御学会]]|location=東京都|issn=1883-8154|doi=10.11499/sicejl1951.8.189 }}{{オープンアクセス}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=宮地政司|authorlink=宮地政司|date=1974|year=1974|title=日本測地学会20周年紀念特別講演 時と測地―測地衛星と月レーザ観測のすすめ―|journal=測地学会誌|volume=20|issue=1-2|page=102|publisher=日本測地学会|location=東京都|issn=2185-517X|doi=10.11366/sokuchi1954.20.100|id={{JOI|JST.Journalarchive/sokuchi1954/20.100}} }}{{オープンアクセス}}</ref>。 その後、1964年には、第12回[[国際度量衡総会]] (CGPM) で高度の時間計測のために原子的標準に到達する緊急性を認め、CGPM決議5による委任に基づいてCIPMで時間の物理学的測定のために暫定的に用いるべき原子又は分子に基づく周波数標準の指定を行った{{Sfn|BIPMb|2006|pp=50, 63–64|loc=付録1}}。そして、40カ国の代表が参加した1967年の第13回CGPMにおいて、セシウム原子時計によるSIの秒の定義が決定された<ref>[http://www2.nict.go.jp/aeri/sts/afs/One-Second.html 1秒の定義] NICT 情報通信研究機構</ref><ref name=Major />。日本の法令では、1972年(昭和47年)に改正された[[s:計量法 (昭和四十七年)|計量法]]で、「秒は、セシウム133の原子の基底状態の二つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の{{val|9192631770}}倍に等しい時間として現示する」とされ、秒を東京天文台が現示する定めがなくなり、どの機関が現示するのかは明示されなくなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/houritsu/02819580415061.htm|title=計量法の一部を改正する法律(昭和47年法律第27号)|accessdate=2013-12-29|date=1972-05-09|year=1972|format=html|work=衆議院-制定法律|publisher=[[衆議院]]|language=日本語}}第3条第3号</ref>。さらに、1992年(平成4年)に[[s:計量法 (昭和六十一年)|旧計量法]]が全部改訂され、新たな[[計量法]]の規定に基づく[[s:計量単位令|計量単位令]]により、秒は定義だけが示され、国の機関が秒を現示する定めはなくなった{{sfn|平成4年法律第51号|1992|loc=第3条}}{{sfn|平成4年政令第367号|1992|loc=第2条、別表第1の時間 秒の項}}。1997年の[[国際度量衡局]] (BIPM) の会議では「秒の定義は0 [[ケルビン|K]]の下で静止した状態にあるセシウム原子に基準を置いている」という声明が出された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nmij.jp/library/units/time/|title=時間|author=|publisher=独立行政法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>。しかし現実には、[[絶対零度]]、止まった原子、そして外部からの[[電磁波]]等を全く排除した状態を作り出すことは事実上不可能であり、この理想状況との差異を評価して補正を加えなければならない。これを自動で行う機器の例には、一次周波数標準器がある<ref name=NICT />。日本では、法令で秒を現示する指定がない状態が継続していたが、2003年(平成15年)に、秒の現示に代わって時間(秒)の逆数で表される周波数について、周波数標準器が[[経済産業大臣]]から特定標準器{{sfn|平成4年法律第51号|1992|loc=第134条}}として指定された<ref>{{Cite journal|和書|author=森川容雄|date=2003-03|year=2003|title=日本の時間・周波数標準制度の変遷 (時間・周波数標準特集) -- (時間・周波数標準の基礎)|journal=通信総合研究所季報|volume=Vol.49|issue=Nos.1/2 2003年3・6月号|pages=30-31|at=§4.4.2|publisher=[[通信総合研究所]]|location=東京都[[小金井市]]|issn=0914-9279|naid=40006212876|id={{NCID|AN10098304}}|url=https://www.nict.go.jp/publication/shuppan/kihou-journal/kihou-vol49no1.2/02-04.pdf|format=PDF|accessdate=2013-12-29}}</ref>。なお、国家標準(特定標準器)には、[[独立行政法人]][[情報通信研究機構]](NICT)と独立行政法人[[産業技術総合研究所]]計量標準総合センター(NMIJ)の周波数標準器(原子時計)が指定されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jjy.nict.go.jp/QandA/FAQ/time_qa.html#q11|title=標準時・周波数標準のQ&amp;A 周波数と時刻に関するQ&amp;A - Q 時間の国家標準|accessdate=2014-01-05|author=情報通信研究機構|authorlink=情報通信研究機構|date=2005|year=2005|format=html|work=標準時・周波数標準のQ&A|publisher=情報通信研究機構|language=日本語}}</ref>。 この補則は SI 秒の定義が、[[黒体輻射]]により[[摂動]]を受けないセシウム原子に基づいていることを明確にしている。すなわち、周囲環境が[[熱力学的温度]]で0 K である。 === 新しい定義への模索 === もっと精度の高い定義として、現行のマイクロ波による定義から光に基づく定義に変更する研究が進んでいる。その候補としては光格子時計などが研究されており、[[国際度量衡局]]は、「秒の二次表現」(秒の新しい定義の候補)として、9種類<ref>[https://www.nmij.jp/public/report/bulletin/BOM/Vol9/4/V9N4P471.pdf 光格子時計の研究開発状況と応用に関する調査研究] 小林拓実、『産総研計量標準報告』 Vol.9, No.4、表1 p.474、2018年6月(この表では、8種類のみを掲載している)</ref>を採択している<ref>安田正美、”単位は進化する 究極の精度をめざして”、p.144、「「新たな秒の定義の候補に挙がっている時計は世界で9種類あり、」、DOJIN選書078、株式会社化学同人、2018年8月20日第1版第1刷、ISBN 978-4-7598-1678-5 </ref>。光格子時計としては、[[原子時計#ストロンチウム光格子時計|ストロンチウム格子時計]]と[[原子時計#イッテルビウム光格子時計|イッテルビウム格子時計]]<ref>[https://www.aist.go.jp/aist_j/new_research/2012/nr20121101/nr20121101.html イッテルビウム光格子時計が新しい秒の定義の候補に] -秒の高精度化に貢献する次世代原子時計-、産総研、2012年11月01日</ref>の2つがある。 これの研究の進展により、10{{sup-|18}}程度の精度を持つ時計が実現されようとしており<ref> [https://www.nmij.jp/public/report/bulletin/BOM/Vol9/4/V9N4P471.pdf 光格子時計の研究開発状況と応用に関する調査研究] 小林拓実、産総研計量標準報告 Vol.9, No.4、p.477、2018年6月</ref>、これをもとに、2026年(第28回[[国際度量衡総会]]が開催)か2030年(第29回[[国際度量衡総会]]が開催)を目途に、新しい秒の定義が採択される見込みである<ref name="名前なし-1">[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/3_SI_%E7%A7%92.pdf 時間の単位「秒」についての基礎解説と最新動向] 洪鋒雷・安田正美、7.3 秒の再定義ロードマップ、p.33、2019年2月</ref><ref>安田正美、”単位は進化する 究極の精度をめざして”、p.143、「2026年頃に再定義があると見込まれています。」、DOJIN選書078、株式会社化学同人、2018年8月20日第1版第1刷、ISBN 978-4-7598-1678-5</ref><ref>[https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2018/pr20180921/pr20180921.html 長期間運転可能なイッテルビウム光格子時計の開発] -新しい「秒」の定義の有力候補の一つとして、国際的な標準時の精度向上に期待-、産総研、2018年09月21日 </ref><ref name=sicejl.55.1103>臼田孝, 藤井賢一, 保坂一元、[https://doi.org/10.11499/sicejl.55.1103 単位諮問委員会(CCU)報告]」 『計測と制御』 2016年 55巻 12号 p.1103-1108, {{doi|10.11499/sicejl.55.1103}}</ref><ref>[https://iopscience.iop.org/article/10.1088/1681-7575/ab0013/pdf The revision of the SI—the result of three decades of progress in metrology] Michael Stock,et al、"8. The second"、 p.10、Metrologia 56 (2019) 022001 (14pp)、Published 22 February 2019</ref>。 定義採択の条件としては、次の5つが挙げられている<ref name=sicejl.55.1103 /><ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/3_SI_%E7%A7%92.pdf 時間の単位「秒」についての基礎解説と最新動向] 洪鋒雷・安田正美、7.2 秒の再定義に向けたマイルストーン、pp.32-33、2019年2月</ref>。 # ~10{{sup-|18}} の相対不確かさの光時計が3つ以上出現すること。 # 3つ以上の異なる研究所において~10{{sup-|18}} の相対不確かさで,光時計の同等性を確認できること。 # 原子泉方式セシウム1次周波数標準器との比較において,{{val|3|e=-16}} 以下の相対不確かさで,周波数が決定できること。 # 異なる光時計の周波数比が2つ以上の研究機関で {{val|5|e=-18}} 以下の相対不確かさで測定されること。そして,このような周波数比の測定の実績が5つ以上になること。 # 国際原子時 (TAI) への定期的な貢献が可能になること。 === 定義の変遷 === {|class="wikitable" |+ 秒の定義と不確かさの変遷 ! 年 ! 定義内容 ! 相対的な不確かさ |- |‐ |平均太陽日(LOD)の1/{{val|86400}} (=1/(24*60*60) )<ref name=K.Kodama /> |{{10^|-8}}<ref name=Hosokawa>{{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.11316/peu.14.3_125|title=秒の定義のこれまでとこれから‐単位の定義変遷から見えるもの‐|author=細川瑞彦|publisher=日本物理学会構|journal =大学の物理教育|doi=10.11316/peu.14.3_125|date=2008|volume=14|issue=3|page=125-129|accessdate=2019-5-28}}</ref> |- |1960年 |1900年1月0日12時から1太陽年の1/{{val|31556925.9747}}<ref name=K.Kodama /><br>(1956年CGPM) |{{10^|-10}}<ref name=Hosokawa /> |- |1967年 |2つの基底状態セシウム133超微細準位間の遷移に対応する<br>放射周期の{{val|9192631770}}倍に等しい時間(第13回CGPM) |{{10^|-10}}<ref name=Kuga>{{Cite web|和書|url=http://photon.c.u-tokyo.ac.jp/~kuga/ss/100806OpenCampus/100805OpenCampus_web.pdf|format=PDF|title=細かい話で恐縮ですが|author=久我隆弘|pages=4-5|publisher=[[東京大学]]大学院総合文化研究科|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref> |- |1997年 |0 Kにおける静止したセシウム原子の時計<br>(1997年CIPM) |{{10^|-12}}<ref name=Kuga /> |- |(参考) |可視光領域の遷移を利用する原子時計など |{{10^|-14}}<ref name=Kuga /> – {{10^|-16}}<ref name=Hosokawa /> |- |2026年に提案し2030年に採択の見込み<ref>[https://www.bipm.org/documents/20126/66742098/Draft-Resolutions-2022.pdf/2e8e53df-7a14-3fc8-8a04-42dd47df1a04 Draft Resolutions – 27th meeting of the CGPM] Draft Resolution E, p.25, 2021年12月</ref><ref name="名前なし-1"/> |光格子時計 |{{10^|-18}}<ref name=sicejl.55.1103 /> |} == 倍量・分量単位 == {|class=infobox |- |{{SI multiples |symbol=s |unit=秒 |note=よく使われる単位を太字で示す |m=|mc=|n= }} |} 他の多くの[[SI単位]]と同様、[[物理単位#倍量単位・分量単位|倍量単位・分量単位]]として[[SI接頭語]]を秒に付けることができる<ref>[https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] p.112、産業技術総合研究所、計量標準総合センター </ref>。秒の倍量単位は、規定上は[[キロ]]秒、[[メガ]]秒などもありうるが、通常は、[[非SI単位]]である[[分]]・[[時間_(単位)|時]]・[[日]]・[[週]]・[[月_(暦)|月]]・[[年]]・[[世紀]]などの慣用の単位が使われるため、[[SI接頭語]]つきの単位はほとんど用いられない。 * 1 min(分)= 60 s * 1 h(時)= 60 min = {{val|3600|u=s}} = {{val|3.6|u=ks}} * 1 d(日)= 24 h = {{val|86400|u=s}} = {{val|86.4|u=ks}} 上記の3つの単位は、国際単位系(SI)の公式文書<ref> [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88_r.pdf 国際単位系(SI)第9版(2019)日本語版] [[産業技術総合研究所]]、計量標準総合センター、p.114、表8、2020年4月</ref>に記載がある「[[SI単位]]と併用できる[[非SI単位]]」である([[SI併用単位#SI併用単位]])。 なお、平均太陽日([[LOD]])は観測によって決まるものであり、単位としての日(d)(= 正確に {{val|86400|u=s}})とは、ずれがあることに注意(詳細は、[[地球の自転]]、[[閏秒]]を参照)。 以下の単位は、[[国際単位系]](SI)では定義されていない。年と世紀は、天文学では通常、[[ユリウス年]]と[[ユリウス年#ユリウス世紀|ユリウス世紀]]を用いる。定義は[[国際天文学連合]]による<ref>[http://www.iau.org/science/publications/proceedings_rules/units/ {{lang|en|Table 5. Non-SI units that are recognised for use in astronomny.}}](国際天文学連合)</ref>。 * 週 = 7日 = {{val|604800|u=s}} = {{val|604.8|u=ks}} * 月 = 28日、29日、30日、又は31日 * ユリウス年 (単位:a)= 365.25日 = {{val|31557600|u=s}} = {{val|31.5576|u=Ms}} * ユリウス世紀(単位:T)= 100 ユリウス年 = 36 525日 = {{val|3155760000|u=s}} = {{val|3.15576|u=Gs}} 逆に1秒は慣用の単位では以下のように表される(全て、6桁目を四捨五入している)。 *1秒 = {{val|1.6667|e=-2|u=min}} *1秒 = {{val|2.7778|e=-4|u=h}} *1秒 = {{val|1.1574|e=-5|u=d}} *1秒 = {{val|1.6534|e=-6}} 週 *1秒 = {{val|3.1688|e=-8}} ユリウス年 *1秒 = {{val|3.1688|e=-10}} ユリウス世紀 分量単位には以下のものがある。 {|class=wikitable !nowrap|分量単位 !nowrap|記号 !nowrap|時間 !備考 |- |nowrap|'''ミリ秒''' |nowrap|ms |nowrap|10{{sup-|3}}秒<br>1000分の1秒 | * [[音声学]]で[[音素]]の期間を測るためによく使われる。また、一般的な[[ストップウオッチ]]における最小の単位でもある |- |nowrap|'''マイクロ秒''' |nowrap|&mu;s |nowrap|10{{sup-|6}}秒<br>100万分の1秒 | * 原子の反応や[[化学反応]]のような、通常わずかな時間で起こるような現象の時間の計測によく用いられる。 |- |nowrap|'''[[ナノ秒]]''' |nowrap|ns |nowrap|10{{sup-|9}}秒<br>10億分の1秒 | * 日常生活に登場することはまずない。技術的な場面では、[[コンピュータ]]、[[電気通信]]、パルス[[レーザー]]といくつかの電子機器でよく使われる単位である。 * 光は1ナノ秒間に真空中を正確に {{val|299.792458|u=mm}} 進む。しかし、真空以外の空間中ではそれよりも遅くなり、それは[[屈折率]] ''n''(1以上)によって示される。[[空気]] (''n'' = {{val|1.000292}}) 中では光は1ナノ秒間に約 298.9 mm 進むが、[[水]] (''n'' = 1.33) の中では約 225.4 mm になる。 |- |nowrap|'''ピコ秒''' |nowrap|ps |nowrap|10{{sup-|12}}秒<br>1兆分の1秒 | |- |nowrap|'''フェムト秒''' |nowrap|fs |nowrap|10{{sup-|15}}秒<br>1000兆分の1秒 | * [[可視光]]領域の[[波長]]をもつ[[電磁波]]は、[[電場]]と[[磁場]]がおよそ1フェムト秒の周期で振動しながら空間を伝播していく。 |- |nowrap|'''アト秒''' |nowrap|as |nowrap|10{{sup-|18}}秒<br>100京分の1秒 | *現在、計測することのできる最も短い時間(2004年2月現在)は100アト秒である<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/3486160.stm {{lang|en|Shortest time interval measured}}](英国放送協会、ニュース)</ref>。 |- |nowrap|'''ゼプト秒''' |nowrap|zs |nowrap|10{{sup-|21}}秒<br>10垓分の1秒 | |- |nowrap|'''ヨクト秒''' |nowrap|ys |nowrap|10{{sup-|24}}秒<br>1𥝱分の1秒 | |- |nowrap|'''ロント秒''' |nowrap|rs |nowrap|10{{sup-|27}}秒<br>1000𥝱分の1秒 |- |nowrap|'''クエクト秒''' |nowrap|qs |nowrap|10{{sup-|30}}秒<br>100穣分の1秒 |} == 国際原子時と閏秒 == {{main|国際原子時|協定世界時|閏秒}} 原子時計で定義された秒を基礎に置いた[[時刻]]、正確には世界中にある300台以上の原子時計が算出する平均によって決められる時系があり、これを[[国際原子時]] (TAI) と呼び、[[1958年]][[1月1日]]0時に[[世界時]] (UT) に合わせて開始している<ref name=Jstpro>{{Cite web|和書|url=https://jjy.nict.go.jp/mission/page1.html|title=研究業務内容・標準時 国際原子時・協定世界時とうるう秒|author=|publisher=独立行政法人情報通信研究機構 日本標準時プロジェクト|language=日本語|accessdate=2010-11-13}}</ref>。ところで、[[地球の自転]]に基づく世界時 (UT) は、地球の自転の[[角速度]]の変動により、国際原子時 (TAI) との間にズレが生じる<ref group="注">「地球の自転が遅くなっている」といった表現がこの説明において文献でもしばしば見られる。しかし、地球と月との相互作用によって、月が「[[潮汐加速]]」され地球の自転が「潮汐減速」されている、という現象は事実ではあるが相当に長期的な現象で、短期的と言えるこれまでの人類による観測において見られる変動はそれよりもずっと大きく、潮汐減速はその主な要因ではない。たとえばNICTによる解説([https://jjy.nict.go.jp/mission/page1.html 国際原子時・協定世界時とうるう秒])から以下に引用するが、「地球の自転が遅くなっているため」といったようには説明していない。 ■協定世界時(UTC )とうるう秒調整、「'''地球の自転速度は、[[潮汐摩擦]]などの影響によって変化する'''ため、世界時(UT)と協定世界時(UTC)との間には差が生じます。そこで、協定世界時 (UTC) に1秒を挿入・削除して世界時UT1との差が0.9秒以上にならないように調整しています。」</ref>。日常生活に使用される時刻の基礎である[[協定世界時]] (UTC) は1972年以後、原子時計に基づく国際原子時 (TAI) と全く同じ歩度(秒間隔)を維持しながら、[[正午]]近くに[[太陽]]が[[正中]]に来るように時刻を設定するため、協定世界時 (UTC) と世界時の UT1 との差が0.9秒を超えないようにする、[[閏秒]]調整を行っている<ref name=Jstpro />。 1961年から1971年までは標準周波数の[[オフセット]]と時刻のステップ調整で世界時の UT2 に近似していた(旧協定世界時)。1972年からはこのステップ調整は廃止されることになり、代わりに協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI) との差を整数秒となるように調整することとなった。この制度変更を受けて1972年1月1日0時の協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI) との差が正確に10秒(協定世界時 (UTC) が国際原子時 (TAI) から10秒遅れ)となるように調整(特別調整という)された。同時に、それ以降の協定世界時 (UTC) と国際原子時 (TAI)との歩度を調整する方法は、[[閏秒]]を適宜加えるか除くやり方に改められた(詳細は、[[閏秒]]の項を参照)。 1972年以降の閏秒の調整は、すべて閏秒1秒を加える操作であって、2017年までにこれが27回実施された。結果、特別調整(10秒)を加えると協定世界時と国際原子時との差異は2017年段階で37秒となっている。<ref name=Jstpro/> ==固有時と座標時== [[一般相対性理論]]によれば、狂いのない理想的な時計であっても、それが刻む[[時刻]]は、その時計が過去に、どのような[[重力場]]のなかをどのような運動をしたか、によって変わってくる。このような時刻を「[[固有時]]」と呼ぶ。これに対して、共通の基準となる目盛りのついた[[時間]]と[[空間]]を「[[基準系|基準座標系]]」と呼び、このうちの時間座標を「[[座標時]]」と呼ぶことがある<ref>{{Cite journal|和書|author=藤本眞克 |authorlink=藤本眞克 |date=1992-06-10 |year=1992 |title=時刻の基準と比較 |url=https://doi.org/10.11470/oubutsu1932.61.592|journal=応用物理 |volume=61 |issue=6 |page=593 |pages=592-595 |at=§2.3 |publisher=[[応用物理学会]] |location=[[東京都]] |issn=2188-2290 |doi=10.11470/oubutsu1932.61.592 |naid=10006628860 |id={{NCID|AN00026679}} |accessdate=2014-03-29 |ref=harv}}{{オープンアクセス}}</ref>。[[地球]]上の時計の固有時は、主に[[太陽]]、地球自体、[[月]]、諸[[惑星]]の重力ポテンシャルの影響下にあるものと考えてよい。時計のある場所が、これらの[[天体]]に対して位置を変えるので、このポテンシャルの影響は一定量と変化量の合成となる。この変化量の最大のものは太陽のポテンシャルの変化によるもので、地球軌道が[[楕円]]であるため太陽からの距離が年周変化することで生じ、地球上の時計が一斉に全振幅 {{val|6.6|e=-10}} の年周変化をすることになる。これを時計面でみると秒の長さの変化が積算されるので、全振幅 {{val|3.3|ul=ms}} の年周変化を示すことになる。なお、変化とは、一切の重力ポテンシャルの影響から全く離れた場所の座標時に比較して測られる量を言う。また、地球ポテンシャルの影響として、時計の置かれている場所の[[標高]]([[ジオイド]]からの高さ)の違いに対応して、{{val|1|ul=km}}当たり{{val|1.1|e=-13}}の歩度差が生じる<ref>{{Cite journal|和書|author=虎尾正久 |date=1967-12-10 |year=1967 |title=秒の定義の問題 (I) |url=https://doi.org/10.20805/tokeieafj.44.0_40|journal=日本時計学会誌 |issue=44 |pages=40-45 |at=§2|publisher=日本時計学会 |location=東京都 |issn=0029-0416 |doi=10.20805/tokeieafj.44.0_40|id={{NCID|AN00195723}} |accessdate=2014-02-11 |ref=harv}}{{オープンアクセス}}</ref>。 [[1967年]]に[[国際度量衡委員会]] (CIPM) の下部機関である秒の定義に関する諮問委員会 (CCDS、現CCTF)で、原子標準による秒の再定義が具体的に提案され始めると、[[時間]]、[[周波数]]分野での相対性論効果の取扱いについて、国際的かつ公式に討議されるようになる。この時の議論では、例えば日本の代表からは「セシウム遷移観測にあたり、特定の場所の指定を行えば、秒の定義はその場所の固有時になる」、「観測対象が適当な大きさの実験室内に限られた物理測定では固有時の採用で必要かつ十分であるが、対象が実験室外にある場合は一般相対論の補正を必要とする」、「地球上又はその近傍にある[[原子時計]]は、天体に由来する引力ポテンシャルの影響を受ける」、また、「遠隔の原子時計の相互比較のために必要欠くべからざる補正は現在直ちに用いられる形では準備されていないと思われる」などの意見があった{{Sfn|佐分利義和|1983|p=62|loc=§5}}。 このような国際的討議の結果、秒の定義には特定の場所は指定しないことになった。これは、物理法則を求めるための実験室内の一般計測では、その場所の固有時を用いれば必要かつ十分であるということを基礎としたもので、必要があれば相対性理論による補正を行えばよいという考え方である。 しかし、セシウム原子の遷移周波数で定めた秒間隔を積算する原子時や周波数標準について、各国の標準研究所間で相互比較をしたり、世界的な統一基準を確立しようとすると固有時のみの考え方では不十分となり、座標時的な概念の導入が必要となる{{Sfn|佐分利義和|1983|p=62|loc=§5}}。 このため、[[国際原子時]] (TAI) について、[[1980年]]に秒の定義に関する諮問委員会(CCDS、現CCTF)第9回会合では国際原子時 (TAI) は座標時なのか、[[基準系]]、座標変換に必要なモデルなどについて議論された。その結果「TAI は、回転するジオイド上で実現される SI の秒を目盛りの単位とした, 地心座標系で定義される座標時の目盛りである」と声明を発表している{{Sfn|BIPM|2006b|p=68|loc=付録1}}。また、「現状では、一般相対性理論の一次補正(地球の重力ポテンシャルの差、速度の差および[[地球の自転]]に対する補正)を行うことによってジオイド近傍のいかなる固定点あるいは移動点にも十分な精度で TAI を拡大することができる」とされる{{Sfn|佐分利義和|1983|p=62|loc=§5}}。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|13232|33B0|-|ピコ秒}} {{CharCode|13233|33B1|-|ナノ秒}} {{CharCode|13234|33B2|-|マイクロ秒}} {{CharCode|13235|33B3|-|ミリ秒}} |} [[Unicode]]には、秒の分量単位を表す上記の文字が収録されている。これらは[[CJK互換用文字]]であり、既存の文字コードに対する後方互換性のために収録されているものであるので、使用は推奨されない<ref>{{cite web|url=http://www.unicode.org/charts/PDF/U3300.pdf|title=CJK Compatibility|accessdate=2016-02-21|date=2015}}</ref><ref>{{cite web|publisher=The Unicode Consortium|title=The Unicode Standard, Version 8.0.0|location=Mountain View, CA|date=2015|isbn=978-1-936213-10-8|url=http://www.unicode.org/versions/Unicode8.0.0|accessdate=2016-02-21}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注 === <references group="注"/> === 出典 === {{reflist|25em}} ==参考文献== * 安田正美、”単位は進化する 究極の精度をめざして”、DOJIN選書078、株式会社化学同人、2018年8月20日第1版第1刷、ISBN 978-4-7598-1678-5 * 安田正美、"1秒って誰が決めるの? 日時計から光格子時計まで"、筑摩書房、2014年6月10日 初版第一刷、ISBN 978-4-480-68918-4 * {{Cite journal|和書|author=佐分利義和 |date=1983-02 |year=1983 |title=周波数・時間計測における相対論効果 (周波数・時間標準特集号) -- (周波数と時間の計測) |journal=電波研究所季報 |volume=29 |issue=149 |pages=55-63 |publisher=電気通信振興会 |location=[[東京都]] |issn=0033-801X |naid=40002561713 |id={{NCID|AN00154260}} |url= https://www.nict.go.jp/publication/kiho/29/149/Kiho_Vol29_SI_No149_index.pdf |format=pdf |accessdate=2014-02-11|ref=harv}} *{{Cite book|和書|author=西條敏美|date=2009|title=単位の成り立ち|publisher=[[恒星社厚生閣]]|edition=第1刷|isbn=978-4-7699-1099-2|ref=西條2009}} *{{cite book|title=Revolution in time|first1=David S.|last1=Landes|publisher=[[ハーバード大学]]出版局|location=Cambridge, Massachusetts|date=1983年|ref=Landes1983}} *{{Cite book|和書|author=和田純夫|coauthors=大上雅史、根本和昭|date=2002|title=単位がわかると物理がわかる|publisher=ベレ出版|edition=初刷|isbn=4-86064-013-6|url=https://books.google.co.jp/books?id=T0vVzb2FmlYC&printsec=frontcover&dq=%E5%8D%98%E4%BD%8D%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%A8%E7%89%A9%E7%90%86%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B&source=bl&ots=A8IzbvnlLj&sig=hFRut3bONHtfEj0-1ZQZJ2yFQfo&hl=ja#v=onepage&q&f=false|ref=和田2002}} *{{Cite web|url=http://www.bipm.org/fr/si/si_brochure/chapter2/2-1/second.html|title=BIPM - seconde|accessdate=2014-02-02|author=BIPM|authorlink=国際度量衡局|date=2006-03|year=2006a|format=html|work=BIPM - Brochure sur le SI (8{{sup|e}} éd.)|publisher=国際度量衡局|language=[[フランス語]]|ref=harv}} *{{Citation|和書|author=BIPM|author-link=国際度量衡局|year=2006b|date=2006-06|others=訳・監修 (独)[[産業技術総合研究所]] 計量標準総合センター|title=国際文書第8版 (2006) 国際単位系(SI) 日本語版|edition=8|place=[[茨城県]][[つくば市]]|publisher=(独)産業技術総合研究所 計量標準総合センター|id=原書コード:ISBN 92-822-2213-6|url=https://web.archive.org/web/20191008102417/https://unit.aist.go.jp/nmij/library/units/si/R8/SI8J.pdf|format=pdf|accessdate=2014-01-30|ref=harv}} *{{Citation|和書|year=1992|date=1992-05-20|title=[[計量法]](平成4年法律第51号)|ref={{sfnRef|平成4年法律第51号|1992}} }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404AC0000000051 e-Gov法令検索] *{{Citation|和書|year=1992|date=1992-11-18|title=[[s:計量単位令|計量単位令]](平成4年政令第367号)|ref={{sfnRef|平成4年政令第367号|1992}} }} [https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=404CO0000000357 e-Gov法令検索] ==関連項目== * [[時間の比較]] * [[毎秒]] ==外部リンク== {{sisterlinks|commons=second}} * [https://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2003/pr20030609/pr20030609.html 2000万年に1秒と狂わない高精度原子時計を開発](独立行政法人産業技術総合研究所 プレスリリース2003年6月9日) * {{Kotobank}} {{Time topics}} {{Time measurement and standards}} {{Unit of time.(s)}} {{SI units navbox}} {{Good article}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひよう}} [[Category:時間の単位]] [[Category:SI基本単位]] [[Category:CGS単位系]]
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1221年
1221年(1221 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1221年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1221}} {{year-definition|1221}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[承久]]3年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1881年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[嘉定 (南宋)|嘉定]]14年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[興定]]5年 *** [[大真国]] : [[天泰]]7年 * 中国周辺 ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[光定 (西夏)|光定]]11年 ** [[モンゴル帝国]]{{Sup|*}} : 太祖([[チンギス・カン|チンギス・ハーン]])16年 ** [[大理国]] : [[天開 (大理)|天開]]17年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[高宗 (高麗王)|高宗]]8年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3554年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[建嘉]]11年 * [[仏滅紀元]] : 1763年 - 1764年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 617年 - 618年 * [[ユダヤ暦]] : 4981年 - 4982年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1221|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[6月10日]]([[承久]]3年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]) - [[承久の乱]]: [[北条義時]]追討を命ずる[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の[[院宣]]を受けて[[北条政子]]が鎌倉武士団に団結を訴える演説を行う。 * [[承久の乱]] [[鎌倉幕府]]が勝利。 後鳥羽上皇が[[隠岐国|隠岐]]、[[土御門天皇|土御門上皇]]が[[土佐国|土佐]]、[[順徳天皇|順徳上皇]]が[[佐渡国|佐渡]]に流罪。 * [[北条泰時]]・時房の鎌倉幕府軍が後鳥羽上皇方を破って京都を占領して常駐し、後の六波羅探題となる。 * 鎌倉幕府、[[六波羅探題]]設置。 == 誕生 == {{see also|Category:1221年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[11月23日]] - [[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ王]](+ [[1284年]]) * [[岩倉宮忠成王]]、[[鎌倉時代]]の[[皇族]](+ [[1279年]]) * [[円照 (鎌倉時代)|円照]]、鎌倉時代の[[律宗]]の[[僧]](+ [[1277年]]) * [[カラーウーン]]、[[マムルーク朝]]の第8代[[スルターン]](+ [[1290年]]) * [[元宗 (高麗王)|元宗]]、第24代[[高麗王]](+ [[1274年]]) * [[テオドロス2世ラスカリス]]、[[ニカイア帝国]]の第3代[[皇帝]](+ [[1258年]]) * [[二階堂行忠]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[政所]]執事(+ [[1290年]]) * [[ボナヴェントゥラ]]、[[トスカーナ州|トスカーナ]]出身の[[神学者]]、[[枢機卿]]、[[フランシスコ会]]総長(+ [[1274年]]) == 死去 == {{see also|Category:1221年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月27日]](承久3年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]) - [[九条兼良]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]](* [[1167年]]) * [[2月18日]] - [[ディートリヒ (マイセン辺境伯)|ディートリヒ]]、[[マイセン辺境伯]](* [[1162年]]) * [[4月5日]](承久3年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]) - [[飛鳥井雅経]]、鎌倉時代の公卿、[[歌人]](* [[1170年]]) * [[5月25日]](承久3年[[5月3日 (旧暦)|5月3日]]) - [[惟明親王]]、鎌倉時代の[[皇族]]、歌人(* [[1179年]]) * [[6月6日]](承久3年[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]) - [[伊賀光季]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[御家人]](* 生年未詳) * [[7月4日]](承久3年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]) - [[熊谷直国]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * [[7月5日]](承久3年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]) - [[津々見忠季]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * [[7月6日]](承久3年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]]) - [[三浦胤義]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * 7月6日(承久3年6月15日) - [[山田重忠]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * 7月6日(承久3年6月15日) - [[山田重継]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * [[7月7日]](承久3年[[6月16日 (旧暦)|6月16日]]) - [[佐々木経高]]、平安時代、鎌倉時代の武将、[[守護]](* 生年未詳) * [[7月22日]](承久3年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - [[後藤基清]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * 7月22日(承久3年7月2日) - [[佐々木広綱]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[7月25日]](承久3年[[7月5日 (旧暦)|7月5日]]) - [[一条信能]]、鎌倉時代の公卿(* [[1190年]]) * [[8月3日]](承久3年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]) - [[葉室宗行]]、鎌倉時代の公卿(* [[1174年]]) * [[8月6日]] - [[ドミニコ]]、[[カトリック教会]]の[[修道士]]、[[聖人]]、[[ドミニコ会]]の創設者(* [[1170年]]) * [[8月21日]](承久3年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]) - [[加藤景廉]]、平安時代、鎌倉時代の武将、御家人(* [[1166年]]?) * [[8月27日]](承久3年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]) - [[三善康信]]、平安時代、鎌倉時代の[[公家]](* [[1140年]]) * [[11月19日]](承久3年閏[[10月4日 (旧暦)|10月4日]]) - [[藤原季経]]、平安時代、鎌倉時代の公卿、歌人(* [[1131年]]) * [[浅利義遠]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* [[1149年]]) * [[安保実光]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* [[1142年]]?) * [[伊佐為宗]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * [[佐々木高重]]、鎌倉時代の武将、[[阿波国]][[守護代]](* 生年未詳) * [[庄忠家]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[多田基綱]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[仁科盛遠]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[藤原秀澄]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[藤原秀康]]、鎌倉時代の武将(* 生年未詳) * [[ベレンガリア・デ・ポルトゥガル]]、[[デンマーク]]王[[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]の2度目の妃(* [[1194年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1221}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1221ねん}} [[Category:1221年|*]]
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1331年
1331年(1331 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1331年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1331}} {{year-definition|1331}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛未]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[後醍醐天皇]] : [[元徳]]3年、[[元弘]]元年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]] - ** [[光厳天皇]] : [[元徳]]3年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]] : 1991年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]] : [[至順]]2年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[忠恵王]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3664年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[開祐]]3年 * [[仏滅紀元]] : 1873年 - 1874年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 731年 - 732年 * [[ユダヤ暦]] : 5091年 - 5092年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1331|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[元弘の乱]] == 誕生 == {{see also|Category:1331年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[九条経教]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]、[[室町時代]]の[[公卿]](+ [[1400年]]) * [[新田義興]]、南北朝時代の[[武将]](+ [[1358年]]) * [[新田義宗]]、南北朝時代の武将(+ [[1368年]]) * [[畠山義深]]、南北朝時代の武将、[[畠山氏]]の第6代当主(+ [[1379年]]) * [[ブランシュ・デヴルー]]、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の2番目の王妃(+ [[1398年]]) == 死去 == {{see also|Category:1331年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月12日]](元徳2年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]]) - [[国分重胤]]、[[鎌倉時代]]の[[武士]]、[[国分氏 (陸奥国)|国分氏]]の第5代当主(* [[1262年]]?) * [[4月9日]] - [[クネグンダ・ウォキェトクヴナ]]、シフィドニツァ公[[ベルナルト (シフィドニツァ公)|ベルナルト]]の妃、のちにザクセン=ヴィッテンベルク公[[ルドルフ1世 (ザクセン選帝侯)|ルドルフ1世]]の妃(* [[1298年]]?) * [[4月19日]](元弘元年/元徳3年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]]) - [[日禅]]、鎌倉時代の[[法華宗]]の[[僧]](* 生年未詳) * [[10月7日]](元弘元年/元徳3年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]) - [[足利貞氏]]、鎌倉時代の[[武将]]、[[御家人]](* [[1273年]]) * [[10月23日]] - [[アブ・アル=フィダ]]、武将・政治家(* [[1273年]]) * [[12月30日]] - [[ベルナール・ギー]]、[[フランス]]出身の[[修道士]]、[[異端審問]]官(* 1261年/1262年) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1331}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1331ねん}} [[Category:1331年|*]]
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1297年
1297年(1297 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1297年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1297}} {{year-definition|1297}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁酉]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[永仁]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1957年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]] : [[元貞]]3年、[[大徳 (元)|大徳]]元年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]] - *** [[陳空崖]] : [[正治 (陳空崖)|正治]]元年旧10月 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[忠烈王]]23年 ** [[檀君紀元|檀紀]]3630年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[興隆]]5年 * [[仏滅紀元]] : 1839年 - 1840年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 696年 - 697年 * [[ユダヤ暦]] : 5057年 - 5058年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1297|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[9月11日]] - [[スコットランド]]の[[ウィリアム・ウォレス]]が[[スターリング・ブリッジの戦い]]で[[イングランド]]軍に勝利。 * [[永仁の徳政令]]が出される。鎌倉幕府第9代執権[[北条貞時]]が発令した、日本で初めての[[徳政令]]とされる。 == 誕生 == {{see also|Category:1297年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月25日]] - [[アンドロニコス3世パレオロゴス]]、[[東ローマ帝国]][[パレオロゴス王朝]]の第4代皇帝(+ [[1341年]]) * [[賈魯]]、[[元 (王朝)|元]]の[[漢人]][[官僚]](+ [[1353年]]) * [[ケーストゥティス]]、[[リトアニア大公国]]の君主(+ [[1382年]]) * [[大覚]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[日蓮宗]]の[[僧]](+ [[1364年]]) * [[堀口貞満]]、[[鎌倉時代]]、南北朝時代の[[武将]](+ [[1338年]]) * [[柳原資明]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[公卿]](+ [[1353年]]) == 死去 == {{see also|Category:1297年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[2月12日]](永仁5年[[1月19日 (旧暦)|1月19日]]) - [[中御門経任]]、[[鎌倉幕府]]の[[公卿]](* [[1233年]]) * [[6月18日]] - [[グタ・ハブスブルスカー]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[ヴァーツラフ2世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ2世]]の最初の王妃(* [[1271年]]) * [[7月29日]](永仁5年[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]) - [[北条盛房]]、鎌倉時代の[[北条氏]]一門(* [[1242年]]) * [[8月14日]] - [[フリードリヒ3世 (ニュルンベルク城伯)|フリードリヒ3世]]、[[ホーエンツォレルン家]]の[[ニュルンベルク城伯]](* [[1220年]]?) * [[8月30日]](永仁5年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[然空]]、鎌倉時代の[[浄土宗]]の[[僧]](* 生年未詳) * [[9月27日]](永仁5年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]) - [[佐々木宗綱]]、鎌倉時代の[[武将]](* [[1248年]]?) * [[10月19日]](永仁5年[[9月25日 (旧暦)|9月25日]]) - [[南部実長]]、鎌倉幕府の[[御家人]](* [[1222年]]) * [[足利頼氏]]、鎌倉幕府の御家人(* [[1240年]]?) * [[三浦胤村]]、鎌倉幕府の御家人(* [[1225年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1297}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1297ねん}} [[Category:1297年|*]]
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1205年
1205年(1205 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1205年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1205}} {{year-definition|1205}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[乙丑]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元久]]2年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]1865年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[南宋]] : [[開禧]]元年 ** [[金 (王朝)|金]] : [[泰和 (金)|泰和]]5年 * 中国周辺 ** [[西遼]] : [[天禧 (西遼)|天禧]]28年? ** [[西夏]]{{Sup|*}} : [[天慶 (西夏)|天慶]]12年 ** [[大理国]] : [[天開 (大理)|天開]]元年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[熙宗 (高麗王)|熙宗]]元年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3538年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] : [[天嘉宝祐]]4年、[[治平龍応]]元年旧3月 - * [[仏滅紀元]] : 1747年 - 1748年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 601年 - 602年 * [[ユダヤ暦]] : 4965年 - 4966年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1205|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[イングランド]]国王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]と[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)]]とが[[叙任権闘争]]( - [[1213年]]) * 閏7月 - [[牧氏事件]] * [[畠山重忠の乱]] * 初代[[執権]][[北条時政]]が追放され、子の[[北条義時]]が執権になる。 *(元久2年閏7月20日) - 鎌倉幕府初代執権・北条時政が、実子の北条政子・義時によって執権を廃され出家させられる。義時が第2代執権に就任。 == 誕生 == {{see also|Category:1205年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[7月10日]](元久2年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[北条政村]]、[[鎌倉幕府]]第7代[[執権]](+ [[1273年]]) * [[ヴァーツラフ1世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ1世]]、[[プシェミスル朝]]の[[ボヘミア王]](+ [[1253年]]) * [[島津忠綱]]、[[鎌倉時代]]の[[武将]](+ [[1268年]]?) * [[デメトリオ・ディ・モンフェラート]]、[[テッサロニキ王国|テッサロニキ王]](+ [[1230年]]) * [[二階堂行久]]、鎌倉時代の[[評定衆]](+ [[1267年]]) * [[凞子内親王]]、鎌倉時代の[[皇族]]、[[斎宮|伊勢斎宮]](+ 没年未詳) * [[三浦光村]]、鎌倉時代の[[御家人]](+ [[1247年]]) * [[ラズィーヤ]]、[[奴隷王朝]]の第4代[[君主]](+ [[1240年]]) * [[理宗]]、[[南宋]]の第5代[[皇帝]](+ [[1264年]]) == 死去 == {{see also|Category:1205年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月19日]](元久2年[[2月27日 (旧暦)|2月27日]]) - [[藤原隆信]]、[[平安時代]]、[[鎌倉時代]]の[[公卿]]、[[画家]](* [[1142年]]) * [[4月29日]](元久2年[[4月9日 (旧暦)|4月9日]]) - [[佐々木定綱]]、平安時代、鎌倉時代の[[武将]](* [[1142年]]) * [[5月7日]] - [[ラースロー3世 (ハンガリー王)|ラースロー3世]]、[[ハンガリー王国]][[アールパード王朝]]の国王(* [[1199年]]) * [[5月30日]](元久2年[[5月10日 (旧暦)|5月10日]]) - [[藤原範季]]、平安時代、鎌倉時代の公卿(* [[1130年]]) * [[6月19日]] - [[ロマン・ムスティスラーヴィチ]]、[[キエフ大公]](* [[1150年]]?) * [[7月10日]](元久2年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]) - [[畠山重忠]]、平安時代、[[鎌倉幕府]]の武将、[[御家人]](* [[1164年]]) * 7月10日(元久2年6月22日) - [[畠山重秀]]、平安時代、鎌倉幕府の武将、御家人(* [[1183年]]) * 7月10日(元久2年6月22日) - [[畠山重保]]、鎌倉幕府の武将(* 生年未詳) * [[7月11日]](元久2年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) - [[稲毛重成]]、平安時代、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * 7月11日(元久2年6月23日) - [[小沢重政]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * 7月11日(元久2年6月23日) - [[榛谷重朝]]、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * [[7月13日]] - [[ヒューバート・ウォルター]]、[[イングランド]]の[[政治家]]、[[聖職者]]、[[カンタベリー大司教]]兼[[大法官]](* 生年未詳) * [[9月16日]](元久2年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]) - [[平賀朝雅]]、平安時代、鎌倉時代の武将、御家人(* 生年未詳) * [[12月26日]](元久2年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]) - [[相馬師常]]、平安時代、鎌倉時代の武将(* [[1139年]]) * [[袁枢]]、[[南宋]]の[[歴史家|歴史学者]]、[[政治家]](* [[1131年]]) * [[ジャムカ]]、[[モンゴル]]の[[豪族]](* 生年未詳) * [[ジャンヌ1世 (ブルゴーニュ女伯)|ジャンヌ1世]]、[[ブルゴーニュ伯|ブルゴーニュ女伯]](* [[1191年]]) * [[エンリコ・ダンドロ]]、[[ヴェネツィア共和国]]の第41代[[元首]](* [[1107年]]?) * [[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]、[[ラテン帝国]]の皇帝(* [[1172年]]) <!-- == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1205}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=13|年代=1200}} {{デフォルトソート:1205ねん}} [[Category:1205年|*]]
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1338年
1338年(1338 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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1338年は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
{{年代ナビ|1338}} {{year-definition|1338}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[戊寅]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[南朝 (日本)|南朝]] : [[延元]]3年 ** [[北朝 (日本)|北朝]] : [[建武 (日本)|建武]]5年、[[暦応]]元年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]] - ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]] : 1998年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[元 (王朝)|元]] : [[至元 (元順帝)|至元]]4年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[高麗]] : [[忠粛王]]([[重祚]])7年 ** [[檀君紀元|檀紀]] : 3671年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[陳朝]] : [[開祐]]10年 * [[仏滅紀元]] : 1880年 - 1881年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 738年 - 739年 * [[ユダヤ暦]] : 5098年 - 5099年 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1338|Type=J|表題=可視}} == できごと == * [[1月16日]](建武4年/延元2年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]) - [[北畠顕家]]が[[斯波家長]]を破り、鎌倉を占拠する([[杉本城の戦い]])。 * [[2月17日]](暦応元年/延元3年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]) - 北畠顕家が[[土岐頼遠]]を破る([[青野原の戦い]])。 * [[6月10日]](暦応元年/延元3年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[高師直]]が北畠顕家を敗死させる([[石津の戦い]])。 * [[8月17日]](暦応元年/延元3年[[閏]][[7月2日 (旧暦)|7月2日]]) - [[斯波高経]]が[[新田義貞]]を敗死させる([[藤島の戦い]])。 * [[9月24日]](暦応元年/延元3年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - [[足利尊氏]]が[[北朝 (日本)|北朝]]から[[征夷大将軍]]に任ぜられる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_2033-32 |title=1338年(延元 3) ~ (38K) |access-date=24 September 2023 |publisher=香川県立図書館}}</ref>。 == 誕生 == {{see also|Category:1338年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月21日]] - [[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]、[[フランス王国]][[ヴァロワ朝]]第3代国王(+ [[1380年]]) * [[2月3日]] - [[ジャンヌ・ド・ブルボン]]、フランス王シャルル5世の王妃(+ [[1378年]]) * [[3月23日]](延元3年/暦応元年[[3月2日 (旧暦)|3月2日]]) - [[後光厳天皇]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[北朝 (日本)|北朝]]第4代[[天皇]](+ [[1374年]]) * [[11月29日]] - [[ライオネル・オブ・アントワープ]]、[[クラレンス公]](+ [[1368年]]) * [[アユルシリダラ]]、[[モンゴル帝国]]の第15代[[ハーン]](+ [[1378年]]) * [[アルブレクト (スウェーデン王)|アルブレクト]]、[[スウェーデン]]王、[[メクレンブルク=シュヴェリーン|メクレンブルク=シュヴェリーン公]](+ [[1412年]]) * [[忠定王]]、第30代[[高麗王]](+ [[1351年]]) * [[徳大寺実時]]、南北朝時代、[[室町時代]]の[[公卿]](+ [[1404年]]) == 死去 == {{see also|Category:1338年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月13日]](建武4年/延元2年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]) - [[宗峰妙超]]、[[鎌倉時代]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[臨済宗]]の[[僧]](* [[1282年]]) * [[1月16日]](建武4年/延元2年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]) - [[斯波家長]]、南北朝時代の[[武将]](* [[1321年]]) * 2月(建武5年/延元3年[[1月 (旧暦)|1月]]) - [[堀口貞満]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(* [[1297年]]) * [[2月13日]](建武5年/延元3年[[1月23日 (旧暦)|1月23日]]) - [[吉田定房]]、鎌倉時代、南北朝時代の[[公卿]](* [[1274年]]) * [[2月21日]](建武5年/延元3年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]]) - [[小早川祐景]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将、[[小早川氏|竹原小早川氏]]の第3代当主(* 生年未詳) * [[4月5日]](建武5年/延元3年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]) - [[上杉憲藤]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(* [[1318年]]) * [[4月11日]](建武5年/延元3年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]) - [[坊門清忠]]、鎌倉時代、南北朝時代の公卿(* 生年未詳) * [[6月10日]](建武5年/延元3年[[5月22日 (旧暦)|5月22日]]) - [[北畠顕家]]、鎌倉時代、南北朝時代の公卿、武将( [[1318年]]) * 6月10日(建武5年/延元3年5月22日) - [[南部師行]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将(* 生年未詳) * [[8月17日]](建武5年/延元3年[[7月2日 (旧暦)|閏7月2日]]) - [[新田義貞]]、鎌倉時代、南北朝時代の武将、[[御家人]]、[[新田氏]]本宗家の第8代棟梁(* [[1301年]]) * [[9月18日]](建武5年/延元3年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]) - [[二条為世]]、鎌倉時代、南北朝時代の公卿、[[歌人]](* [[1250年]]) * [[ムハンマド (イルハン朝)|ムハンマド]]、[[イルハン朝]]の君主(* 生年未詳) == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=年1338|date=2011年7月}} * [[野比のび太|のび太]]が[[桃太郎]]になる。(『[[ドラえもん]]』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--'''注釈''' {{Reflist|group="注"}}--> '''出典''' {{Reflist}} <!--== 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1338}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=14|年代=1300}} {{デフォルトソート:1338ねん}} [[Category:1338年|*]]
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プログラマ
プログラマ(英: programmer)とは、コンピュータのプログラムを作成する人全般を指す。プログラマーとも表記される(#プログラマに対する呼称参照)。 以下に、プログラマの仕事としてみなされることの多い仕事を挙げる。 史上初のプログラマは、「コンピュータの父」チャールズ・バベッジが作成した解析機関のオペレータであったエイダ・ラブレス(ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング・1815-1852)であるとされる。プログラミング言語のAdaは、彼女の名前に因んで命名された。 1940年代に入り、初期コンピュータが登場しはじめると、人手では時間がかかり過ぎる科学的計算に使用された。その際、計算内容の変更に伴い回路変更が必要であったが、その作業は急速に増大していく。この頃は、プログラマとハードウェア設計者との区別は難しく、どこからがプログラマでどこからが回路設計者かは議論あるいは解釈の余地があるが、回路変更作業の増大と高度複雑化に伴い、徐々にプログラマと呼べる存在が確立していった。仮に、回路設計の変更をもってプログラミングとするならば、設計図を変更し、半田ごてを持ったり、ケーブルの差し替えを行う事が初期プログラマの仕事となる。あるいは、回路設計業務から離れ、スイッチのオンオフをもってプログラムと考えることも可能ではあるが、それらをハード設計の仕事とみなせば、プログラマの登場とは回路変更を行わずにコンピュータの処理内容変更が可能となり、入出力装置が発展してからである。 1944年にハワード・エイケンによってコンピュータ用穿孔機(せんこうき)と読み取り機が発明されると、紙によるプログラムの提供が可能となる。1945年にフォン・ノイマンによりプログラム内蔵したコンピュータが発明されると、目的別に回路変更を行う煩雑さから解放されていくようになり、これら以降、ハードウェアとソフトウェアがそれぞれ分立していくようになる。ただし、この頃のプログラマは、ハード設計者と同一である事も多く、また職業としては数学者と記載される事が多い。この頃のプログラマとして前記エイケンの元(ハーバード大学エイケン計算研究所)にいた、グレース・マレー・ホッパーがいる。ハード設計者ではない者として、ENIACのプログラミング担当者は弾道研究所で雇用されていた計算手から選ばれたが、ほとんどが大学で数学を専攻した数学者で回路設計者とは無縁であり、肩書きも「計算手(computer)」であった。 1950年代に入ると、プログラミング言語が登場してくる。アセンブリ言語がこの頃登場し長らく使われた他、より人間が使用する言語に比較的近い高級言語も生み出された。前述のホッパーが1952年(あるいは言語として完成した1957年頃)にコンパイラを発明した。より完成度が高いコンパイラとしてはジョン・バッカスが1954年(あるいは1958年頃)に開発したFortranが登場し、また、ホッパーは自らのコンパイラを発展させたCOBOLを1959年に開発した。これらをもって、より人間の言語に近いプログラミング言語の登場となり、プログラムの記述も属機械的な数字の羅列あるいは単調な穿孔機による紙へのパンチ、穴の有無から、より人間の言語に近いコードとなっていき、ほぼ同時期に登場したトランジスターによるコンピュータの集積回路化にあわせ、ソフトウェアーとハードウェアの分立がより明確化していく。それに従い、専業としてのプログラマが登場してくる。なお、余談だが、ホッパーはプログラミング言語部門責任者として海軍に復帰所属し、特例措置的に少将まで昇進しており、海軍は彼女の死後、その功績を称えて米海軍イージス艦(アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦)にホッパーと名付けた。彼女は、数学者・コンピュータ科学者・軍人と記載される事が多いが、プログラマとして見れば、おそらく初めて軍艦に名付けられたプログラマであろう。 1960年代には、行政手続の際職業欄にプログラマと記述し窓口に拒絶された話が残っている。この頃は、1952年に商用コンピュータをIBMが発売して幾分経過したとは言え、多くのプログラマは国防関係の機関所属であったり、学術研究機関所属である場合が多く、社会的にプログラマとして認知されていたわけではなかった。プログラミング言語の登場とコンピュータの高度化により、プログラミング処理の幅が広がってくるに従い商業利用へ拡大していくと、さまざまな企業ニーズに合わせプログラマとしての企業雇用が増えてくる。また、IBMの701シリーズからオペレーティングシステム(OS)が本格的に普及し始めた事により、「ハードウェア」・「ハードウェアを操作するOS」・「OS上で稼動するソフトウェア」の分立が始まる。これらにより、プログラマは機械従属的な操作や基盤部分開発から徐々に解放され、より創造的なソフトウェア構築にシフトして行くことになる。 1970年代に入ると、パーソナルコンピュータが登場するようになり、それに伴い、パッケージソフトウェアの開発が盛んになってくる。また、コンピュータ処理能力も増大し、商用利用以外にも、ゲームなどの娯楽部門にも転用されるようになってくる。コンピュータの多分野進出すると、それに伴い徐々に社会的に職業としても認知されるようになってくる。これらの結果、1970年代後半に入ると様々な需要に即したプログラミング言語・OS・コンピュータメーカの乱立が始まり、一種の戦国時代とも言える状況が出現すると、増大する需要にともないプログラマの深刻な不足が問題化した。この頃の主要プログラミング言語はアセンブラ・COBOL・Fortran・BASICそして1973年に登場したC言語であり、また、その他膨大な数のプログラミング言語が登場しては、消えていった。また、スーパーコンピュータ・メインフレーム・オンラインシステム・ワークステーション・パーソナルコンピュータ・マイコン・工業用ロボットなどの組み込みシステム・ゲームなどの様々なカテゴリ分けも発生していき、プログラマ達はそれぞれに特化していくようになる。 1980年代に入るとパーソナルコンピュータの爆発的普及が始まり、プログラマの中には自らのアイデアを商品化し巨万の富を得るものが出てくる。それに伴い、ソフトウェア産業という区分が発生し、企業単位でプログラム開発に業務特化したものが続々と登場してくるようになる。この頃をさして(プログラマの)黎明期と呼ばれ、無数のパソコンメーカ、ソフトウェアハウス、膨大な数のソフトウェアが開発されるようになり、さらに熾烈な競争時代へと突入していく。 1990年代に突入すると、あらゆる分野にコンピュータが進出するようになる。また、プログラマであるビル・ゲイツが1993年にフォーブス誌の世界長者番付一位となるとプログラマという職業が完全に社会的認知を受けるようになってくる。それまで、商用ソフトウェアを一人のプログラマが設計していた事例も見受けられていたが、ソフトウェア開発の巨大化に伴い、一人もしくは少数のプログラマによる開発が難しくなり、より大人数、組織化した開発プロジェクトが標準化してくるようになる。それに伴い、それまでプログラマの役割も分科されるようになり、ソースコードを記述するプログラマと、その設計および指示を行うシステムエンジニアに分かれてくるようになる。 また、それまで属人的に行われていた(いわゆる脳内での思考)設計も、書類化するようになり、仕様書による分担作業とプログラマの仕事は変質していく。これらは、より大規模な軍需産業などであれば1970年代から見られた状況だが、ほぼ職業プログラマ全域に広まるのはこの頃である。その為、プログラマの上位概念あるいは、分立職業者としてシステムエンジニアを重視する風潮が生まれた。なお、この頃ビルゲイツが「自分はシステムエンジニアではなく、プログラマである」と発言している。 ほぼ同時期に、ネットワーク技術向上に伴い、パソコン通信あるいはインターネットが登場してくるようになると、これまでと違った個人活動的プログラマが登場してくるようになる。個人でプログラムを行い、それらをネットワークを使って有償もしくは無料にて配布するシェアウェアプログラマあるいはフリープログラマである。 1990年代末以降、パソコン分野での競争が一段落し、パソコン業界でのOSはWindowsが主流に、プログラミング言語はC言語の派生言語(主なものはC、Java、C++、C#、Objective-C)が主流となった。反面、サーバ、リッチクライアント、組み込みシステムなどデスクトップコンピュータ以外の市場が著しく拡大し、開発環境は多様化している面もある。ネットワーキング・コンピューティング、クラウドコンピューティング分野の新たな需要にこたえる形で、オープンソース系UNIXやサーバサイドプログラミングが広がり、JavaScript、Rubyなどの簡易なスクリプト言語が普及した。高機能な組み込みオペレーティングシステムを搭載した携帯電話などの組み込みシステムの出現により、組み込み分野でもオブジェクト指向など大規模な汎用システムで培われた開発手法が広く使われるようになった。 また、プログラムはさらに巨大複雑化し、必要な知識も個人ですべて把握するのは不可能な量となった。そのため、プログラマはより狭く深い部分に特化する事例が多い。これら複合要因により、同じプログラマと言ってもある部分だけは詳しいが他の分野は把握していない事も多く、システムの全体を把握しようにも、もはや人間の記憶限界を超えた分量であるため事実上不可能である。 コンピュータはあらゆる生活の基盤に無くてはならないものとなったために、プログラマに課せられた社会的責任は増大しつつある。プログラムの流通を安全なものとするために、電子署名、サンドボックス、ソフトウェア配信サービスなどのシステムが整備されている。 「プログラマ」という単語が表す職務をさらに細分化したものとして、以下のようなものが挙げられる。 など。 これらの職業においては通常、単なるプログラミング(コーディング)を越えた知識が要求される。そのため、「プログラムコードを書くだけ」のように捉えられうる「プログラマ」や「コーダー」という呼称は、時に、職業上の肩書きとしては軽蔑的な過度の単純化であると捉えられることがある。このことは、開発者・アナリスト・計算機科学者などの当事者、もしくはこれらの職業名の微妙な違いに首をかしげる外部の業界の人間のあいだにおいて論争の火種となってきた。 計算機科学分野では最高峰の賞であるチューリング賞受賞者のケン・トンプソンは、受賞記念講演の際「私はプログラマです」と述べている。 長音符(ー)をつけないことはJISで原則を決めていた。語幹が3文字以上のer, orで終わる語は原則長音をつけない。例えば、カタカナにして語幹が2文字の「エラー」は長音をつける。電子情報通信学会などの学会論文の命名規約では「プログラマ」と書くのはJISなどの規定を参考にしている。技術用語以外の規定では、長音をつけることを原則としている規則もある。自然言語は、規則で統制できるものではなく、規則は現実の後追いであると理解するとよい。 プログラミング技術は進歩が激しく、技術の陳腐化も著しいため、プログラマは常に新しい技術に目を向け習得していくバイタリティや、場合によっては永年の努力によって培ってきた技術を捨て去る柔軟性が必要である。また、年功序列的賃金体系のもとでは、高年齢のプログラマはコストが高すぎると考える企業がある(特にプログラミングを単純作業と考える企業に多い)。俗にIT土方とも呼ばれデスマーチとなった場合は徹夜が続いたり体力が必要となってくる。そのため、プログラマとしての限界は30 - 35歳前後であるという説が存在した。これは「プログラマ35(30)歳定年説」と呼ばれる。現在では経験豊かなプログラマにも一定の需要があり、プログラマ定年説はもはや過去のものとなっているが、コストの観点からは、一定年齢に至ったプログラマに、より単価の高いシステムエンジニアや営業へ転向がすすめられることがある(参考:SEと記者,どちらが短命?、36歳になって思う「プログラマ35歳定年説」)。 パソコンが登場した頃10代だった若者が、現在60代になっており、アメリカ合衆国をはじめ60歳以上のプログラマも珍しくはなくなっている。典型的な事例ではWindows NT開発者で知られるマイクロソフトのデヴィッド・カトラーは70歳を超えてもソースコードを自ら記述しており、実例からも35歳定年説は意味がない。ただし、パソコン黎明期といわれた1980年代においては、30歳代までに巨万の富を稼ぎ、そのまま引退する事例もあった(HyperCard の開発者ビル・アトキンソンなど)。日本では、長時間労働、下流工程での賃金の頭打ちなどにより35歳定年説をささやく人がいる。 ラリー・ウォールによれば、プログラマの三大美徳とは次の通りである。 プログラマに必要とされる効率や再利用性の重視、処理速度の追求、品質にかける自尊心をなぞらえたものである。
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"1960年代には、行政手続の際職業欄にプログラマと記述し窓口に拒絶された話が残っている。この頃は、1952年に商用コンピュータをIBMが発売して幾分経過したとは言え、多くのプログラマは国防関係の機関所属であったり、学術研究機関所属である場合が多く、社会的にプログラマとして認知されていたわけではなかった。プログラミング言語の登場とコンピュータの高度化により、プログラミング処理の幅が広がってくるに従い商業利用へ拡大していくと、さまざまな企業ニーズに合わせプログラマとしての企業雇用が増えてくる。また、IBMの701シリーズからオペレーティングシステム(OS)が本格的に普及し始めた事により、「ハードウェア」・「ハードウェアを操作するOS」・「OS上で稼動するソフトウェア」の分立が始まる。これらにより、プログラマは機械従属的な操作や基盤部分開発から徐々に解放され、より創造的なソフトウェア構築にシフトして行くことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1970年代に入ると、パーソナルコンピュータが登場するようになり、それに伴い、パッケージソフトウェアの開発が盛んになってくる。また、コンピュータ処理能力も増大し、商用利用以外にも、ゲームなどの娯楽部門にも転用されるようになってくる。コンピュータの多分野進出すると、それに伴い徐々に社会的に職業としても認知されるようになってくる。これらの結果、1970年代後半に入ると様々な需要に即したプログラミング言語・OS・コンピュータメーカの乱立が始まり、一種の戦国時代とも言える状況が出現すると、増大する需要にともないプログラマの深刻な不足が問題化した。この頃の主要プログラミング言語はアセンブラ・COBOL・Fortran・BASICそして1973年に登場したC言語であり、また、その他膨大な数のプログラミング言語が登場しては、消えていった。また、スーパーコンピュータ・メインフレーム・オンラインシステム・ワークステーション・パーソナルコンピュータ・マイコン・工業用ロボットなどの組み込みシステム・ゲームなどの様々なカテゴリ分けも発生していき、プログラマ達はそれぞれに特化していくようになる。", "title": "歴史" }, { 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プログラマとは、コンピュータのプログラムを作成する人全般を指す。プログラマーとも表記される(#プログラマに対する呼称参照)。
{{Redirect|プログラマー|電子音楽におけるプログラマー(いわゆるシンセサイザープログラマー)|マニピュレーター}} '''プログラマ'''({{Lang-en-short|programmer}})とは、[[コンピュータ]]の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を作成する人全般を指す。'''プログラマー'''とも表記される([[#プログラマに対する呼称]]参照)。 == プログラマの仕事 == 以下に、プログラマの仕事としてみなされることの多い仕事を挙げる。 * [[システム]]の[[設計]] * [[プログラミング]] ** 全体設計 ** 詳細設計 ** コーディング ** [[デバッグ]] ** [[ソフトウェアテスト]] ** パッケージング * プログラムの導入 ** 配置(デプロイ、{{Lang|en|deploy}}) ** 設定([[コンフィグ]]、{{Lang|en|configuration}}) * プログラムの利用 * プログラムの分析 * プログラムに関する文書の作成 ** 仕様書の執筆やメンテナンス ** リファレンスマニュアルの執筆やメンテナンス ** オペレーターズマニュアルの執筆やメンテナンス ** ユーザーズマニュアルの執筆やメンテナンス ** チュートリアルの執筆や監修やメンテナンス ** クックブックの執筆や監修やメンテナンス == 歴史 == === 始まり === 史上初のプログラマは、「コンピュータの父」[[チャールズ・バベッジ]]が作成した[[解析機関]]のオペレータであった[[エイダ・ラブレス]](ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キング・1815-1852)であるとされる<ref>Fuegi, J.; Francis, J. (October–December 2003). "Lovelace & Babbage and the creation of the 1843 'notes'". IEEE Annals of the History of Computing. 25 (4): 16–26. doi:10.1109/MAHC.2003.1253887.</ref>。[[プログラミング言語]]の[[Ada]]は、彼女の名前に因んで命名された。 === 1940年代 === 1940年代に入り、初期コンピュータが登場しはじめると、人手では時間がかかり過ぎる科学的計算に使用された。その際、計算内容の変更に伴い回路変更が必要であったが、その作業は急速に増大していく。この頃は、プログラマと[[ハードウェア]]設計者との区別は難しく、どこからがプログラマでどこからが回路設計者かは議論あるいは解釈の余地があるが、回路変更作業の増大と高度複雑化に伴い、徐々にプログラマと呼べる存在が確立していった。仮に、回路設計の変更をもってプログラミングとするならば、設計図を変更し、半田ごてを持ったり、ケーブルの差し替えを行う事が初期プログラマの仕事となる。あるいは、回路設計業務から離れ、スイッチのオンオフをもってプログラムと考えることも可能ではあるが、それらをハード設計の仕事とみなせば、プログラマの登場とは回路変更を行わずにコンピュータの処理内容変更が可能となり、入出力装置が発展してからである。 1944年に[[ハワード・エイケン]]によってコンピュータ用穿孔機(せんこうき)と読み取り機が発明されると、紙によるプログラムの提供が可能となる。1945年に[[ジョン・フォン・ノイマン|フォン・ノイマン]]によりプログラム内蔵したコンピュータが発明されると、目的別に回路変更を行う煩雑さから解放されていくようになり、これら以降、ハードウェアとソフトウェアがそれぞれ分立していくようになる。ただし、この頃のプログラマは、ハード設計者と同一である事も多く、また職業としては数学者と記載される事が多い。この頃のプログラマとして前記エイケンの元(ハーバード大学エイケン計算研究所)にいた、[[グレース・ホッパー|グレース・マレー・ホッパー]]がいる。ハード設計者ではない者として、[[ENIAC]]のプログラミング担当者は[[弾道研究所]]で雇用されていた[[計算手]]から選ばれたが、ほとんどが大学で数学を専攻した数学者で回路設計者とは無縁であり、肩書きも「計算手(computer)」であった。 === 1950年代 === 1950年代に入ると、[[プログラミング言語]]が登場してくる。[[アセンブリ言語]]がこの頃登場し長らく使われた他、より人間が使用する言語に比較的近い[[高級言語]]も生み出された。前述のホッパーが1952年(あるいは言語として完成した1957年頃)に[[コンパイラ]]を発明した。より完成度が高いコンパイラとしては[[ジョン・バッカス]]が1954年(あるいは1958年頃)に開発した[[Fortran]]が登場し、また、ホッパーは自らのコンパイラを発展させた[[COBOL]]を1959年に開発した。これらをもって、より人間の言語に近いプログラミング言語の登場となり、プログラムの記述も属機械的な数字の羅列あるいは単調な穿孔機による紙へのパンチ、穴の有無から、より人間の言語に近いコードとなっていき、ほぼ同時期に登場したトランジスターによるコンピュータの集積回路化にあわせ、ソフトウェアーとハードウェアの分立がより明確化していく。それに従い、専業としてのプログラマが登場してくる。なお、余談だが、ホッパーはプログラミング言語部門責任者として海軍に復帰所属し、特例措置的に少将まで昇進しており、海軍は彼女の死後、その功績を称えて米海軍イージス艦(アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦)に[[ホッパー (ミサイル駆逐艦)|ホッパー]]と名付けた。彼女は、数学者・コンピュータ科学者・軍人と記載される事が多いが、プログラマとして見れば、おそらく初めて軍艦に名付けられたプログラマであろう。 === 1960年、70年代 === 1960年代には、行政手続の際職業欄にプログラマと記述し窓口に拒絶された話が残っている。この頃は、1952年に商用コンピュータをIBMが発売して幾分経過したとは言え、多くのプログラマは国防関係の機関所属であったり、学術研究機関所属である場合が多く、社会的にプログラマとして認知されていたわけではなかった。プログラミング言語の登場とコンピュータの高度化により、プログラミング処理の幅が広がってくるに従い商業利用へ拡大していくと、さまざまな企業ニーズに合わせプログラマとしての企業雇用が増えてくる。また、IBMの701シリーズから[[オペレーティングシステム]](OS)が本格的に普及し始めた事により、「ハードウェア」・「ハードウェアを操作するOS」・「OS上で稼動するソフトウェア」の分立が始まる。これらにより、プログラマは機械従属的な操作や基盤部分開発から徐々に解放され、より創造的なソフトウェア構築にシフトして行くことになる。 1970年代に入ると、[[パーソナルコンピュータ]]が登場するようになり、それに伴い、[[パッケージソフトウェア]]の開発が盛んになってくる。また、コンピュータ処理能力も増大し、商用利用以外にも、ゲームなどの娯楽部門にも転用されるようになってくる。コンピュータの多分野進出すると、それに伴い徐々に社会的に職業としても認知されるようになってくる。これらの結果、1970年代後半に入ると様々な需要に即したプログラミング言語・OS・コンピュータメーカの乱立が始まり、一種の戦国時代とも言える状況が出現すると、増大する需要にともないプログラマの深刻な不足が問題化した。この頃の主要プログラミング言語は[[アセンブラ]]・COBOL・Fortran・BASICそして1973年に登場した[[C言語]]であり、また、その他膨大な数のプログラミング言語が登場しては、消えていった。また、[[スーパーコンピュータ]]・[[メインフレーム]]・[[オンラインシステム]]・[[ワークステーション]]・[[パーソナルコンピュータ]]・[[マイクロコンピュータ|マイコン]]・工業用ロボットなどの[[組み込みシステム]]・[[ゲーム]]などの様々なカテゴリ分けも発生していき、プログラマ達はそれぞれに特化していくようになる。 === 1980年、1990年代 === 1980年代に入るとパーソナルコンピュータの爆発的普及が始まり、プログラマの中には自らのアイデアを商品化し巨万の富を得るものが出てくる。それに伴い、ソフトウェア産業という区分が発生し、企業単位でプログラム開発に業務特化したものが続々と登場してくるようになる。この頃をさして(プログラマの)黎明期と呼ばれ、無数のパソコンメーカ、ソフトウェアハウス、膨大な数のソフトウェアが開発されるようになり、さらに熾烈な競争時代へと突入していく。 1990年代に突入すると、あらゆる分野にコンピュータが進出するようになる。また、プログラマである[[ビル・ゲイツ]]が1993年にフォーブス誌の世界長者番付一位となるとプログラマという職業が完全に社会的認知を受けるようになってくる。それまで、商用ソフトウェアを一人のプログラマが設計していた事例も見受けられていたが、ソフトウェア開発の巨大化に伴い、一人もしくは少数のプログラマによる開発が難しくなり、より大人数、組織化した開発プロジェクトが標準化してくるようになる。それに伴い、それまでプログラマの役割も分科されるようになり、ソースコードを記述するプログラマと、その設計および指示を行う[[システムエンジニア]]に分かれてくるようになる。 また、それまで属人的に行われていた(いわゆる脳内での思考)設計も、書類化するようになり、仕様書による分担作業とプログラマの仕事は変質していく。これらは、より大規模な軍需産業などであれば1970年代から見られた状況だが、ほぼ職業プログラマ全域に広まるのはこの頃である。その為、プログラマの上位概念あるいは、分立職業者としてシステムエンジニアを重視する風潮が生まれた。なお、この頃ビルゲイツが「自分はシステムエンジニアではなく、プログラマである」と発言している。 ほぼ同時期に、ネットワーク技術向上に伴い、[[パソコン通信]]あるいは[[インターネット]]が登場してくるようになると、これまでと違った個人活動的プログラマが登場してくるようになる。個人でプログラムを行い、それらをネットワークを使って有償もしくは無料にて配布するシェアウェアプログラマあるいはフリープログラマである。 === 2000年代 === 1990年代末以降、パソコン分野での競争が一段落し、パソコン業界でのOSはWindowsが主流に、プログラミング言語はC言語の派生言語(主なものはC、[[Java]]、[[C++]]、[[C#]]、[[Objective-C]])が主流となった。反面、[[サーバ]]、[[リッチインターネットアプリケーション|リッチクライアント]]、[[組み込みシステム]]などデスクトップコンピュータ以外の市場が著しく拡大し、開発環境は多様化している面もある。[[ネットワーク・コンピューティング|ネットワーキング・コンピューティング]]、[[クラウドコンピューティング]]分野の新たな需要にこたえる形で、[[オープンソース]]系UNIXやサーバサイドプログラミングが広がり、[[JavaScript]]、[[Ruby_(代表的なトピック)|Ruby]]などの簡易な[[スクリプト言語]]が普及した。高機能な[[組み込みオペレーティングシステム]]を搭載した[[携帯電話]]などの[[組み込みシステム]]の出現により、組み込み分野でも[[オブジェクト指向]]など大規模な汎用システムで培われた開発手法が広く使われるようになった。 また、プログラムはさらに巨大複雑化し、必要な知識も個人ですべて把握するのは不可能な量となった。そのため、プログラマはより狭く深い部分に特化する事例が多い。これら複合要因により、同じプログラマと言ってもある部分だけは詳しいが他の分野は把握していない事も多く、システムの全体を把握しようにも、もはや人間の記憶限界を超えた分量であるため事実上不可能である。 コンピュータはあらゆる生活の基盤に無くてはならないものとなったために、プログラマに課せられた社会的責任は増大しつつある。プログラムの流通を安全なものとするために、[[電子署名]]、[[サンドボックス (セキュリティ)|サンドボックス]]、ソフトウェア配信サービスなどのシステムが整備されている。 == プログラマに対する呼称 == 「プログラマ」という単語が表す職務をさらに細分化したものとして、以下のようなものが挙げられる。 * アプリケーション開発者(デスクトップ・ウェブ・モバイルなど) * システムソフトウェア開発者 * 組み込みファームウェア開発者 * ソフトウェア技術者(ソフトウェアエンジニア) * 計算機科学者 * ソフトウェアアナリスト * [[システムエンジニア|システムエンジニア(SE)]] *パーソナルコンピュータ など。 これらの職業においては通常、単なるプログラミング(コーディング)を越えた知識が要求される。そのため、「プログラムコードを書くだけ」のように捉えられうる「プログラマ」や「コーダー」という呼称は、時に、職業上の肩書きとしては軽蔑的な過度の単純化であると捉えられることがある<ref>{{cite web |url=http://www.ata.io/calling-programmer-to-a-software-engineer-is-an-insult/ |title=Yes, calling "programmer" to a "software engineer" is an insult. |accessdate=2013年12月10日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131016070942/http://www.ata.io/calling-programmer-to-a-software-engineer-is-an-insult/ |archivedate=2013年10月16日 }}</ref>。このことは、開発者・アナリスト・計算機科学者などの当事者、もしくはこれらの職業名の微妙な違いに首をかしげる外部の業界の人間のあいだにおいて論争の火種となってきた<ref>{{cite news|title=No Programmers |url=http://www.ericsink.com/No_Programmers.html}}</ref><ref>{{cite news|title=Developer versus programmer |url=http://codebetter.com/blogs/raymond.lewallen/archive/2005/02/22/55812.aspx}}</ref><ref>{{cite news|title=Developers AND Programmers |url=http://weblogs.asp.net/miked/archive/2006/10/13/_2200_Developers_2200_-and-_2200_Programmers_2200_.aspx}}</ref><ref>{{cite news|title=Programmer vs. Developer vs. Software Engineer |url=http://discuss.joelonsoftware.com/default.asp?joel.3.112837.37}}</ref><ref>{{cite news|title=Programmer vs. Developer vs. Software Engineer |url=http://www.xtremevbtalk.com/archive/index.php/t-233780.html}}</ref>。 計算機科学分野では最高峰の賞である[[チューリング賞]]受賞者の[[ケン・トンプソン]]は、受賞記念講演の際「私はプログラマです」と述べている。 === 「プログラマ」あるいは「プログラマー」 === [[長音符]](ー)をつけないことはJISで原則を決めていた。<ref>表 G.3−外来語の表記に語尾の長音符号を省く場合の原則 https://kikakurui.com/z8/Z8301-2011-01.html </ref>語幹が3文字以上のer, orで終わる語は原則長音をつけない。例えば、カタカナにして語幹が2文字の「エラー」は長音をつける。[[電子情報通信学会]]などの[[論文|学会論文]]の命名規約では「プログラマ」と書くのはJISなどの規定を参考にしている。技術用語以外の規定では、長音をつけることを原則としている規則もある。自然言語は、規則で統制できるものではなく、規則は現実の後追いであると理解するとよい<ref> 外来語の表記(文化庁) https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/gairai/index.html</ref>。 == その他 == === プログラマ定年説 === プログラミング技術は進歩が激しく、技術の陳腐化も著しいため、プログラマは常に新しい技術に目を向け習得していくバイタリティや、場合によっては永年の努力によって培ってきた技術を捨て去る柔軟性が必要である。また、[[年功序列]]的賃金体系のもとでは、高年齢のプログラマは[[賃金|コスト]]が高すぎると考える企業がある(特にプログラミングを単純作業と考える企業に多い)。俗に[[IT土方]]とも呼ばれ[[デスマーチ]]となった場合は徹夜が続いたり体力が必要となってくる。そのため、プログラマとしての限界は30 - 35歳前後であるという説が存在した。これは「プログラマ35(30)歳定年説」と呼ばれる。現在では経験豊かなプログラマにも一定の需要があり、プログラマ定年説はもはや過去のものとなっているが、コストの観点からは、一定年齢に至ったプログラマに、より単価の高いシステムエンジニアや営業へ転向がすすめられることがある(参考:[https://xtech.nikkei.com/it/free/ITPro/OPINION/20050608/162312/ SEと記者,どちらが短命?]、[http://japan.cnet.com/blog/itheart/2007/11/20/entry_25001908/ 36歳になって思う「プログラマ35歳定年説」])。 パソコンが登場した頃10代だった若者が、現在60代になっており、アメリカ合衆国をはじめ60歳以上のプログラマも珍しくはなくなっている。典型的な事例では[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]開発者で知られるマイクロソフトの[[デヴィッド・カトラー]]は70歳を超えてもソースコードを自ら記述しており、実例からも35歳定年説は意味がない。ただし、パソコン黎明期といわれた1980年代においては、30歳代までに巨万の富を稼ぎ、そのまま引退する事例もあった(HyperCard の開発者[[ビル・アトキンソン]]など)。日本では、長時間労働、下流工程での賃金の頭打ちなどにより35歳定年説をささやく人がいる。<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/ait/articles/0802/18/news115.html 40歳代を境にIT以外の業務に転職増加「プログラマ35歳定年説」を思い起こさせるIPAの調査結果]</ref> === プログラマの三大美徳 === [[ラリー・ウォール]]によれば、プログラマの三大美徳とは次の通りである。 * [[怠惰]](Laziness) * [[短気]](Impatience) * [[傲慢]](Hubris) プログラマに必要とされる'''効率や再利用性の重視'''、'''処理速度の追求'''、'''品質にかける自尊心'''をなぞらえたものである。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[プログラマーの一覧]] *[[デスマーチ]] *[[IT土方]] *[[ITゼネコン]] *[[ハッカー]](クラッカー) *[[基本情報技術者試験]] *[[開発合宿]] *[[ブルックスの法則]] *[[イシドールス]] - プログラマの[[守護聖人]] *[[エイダ・ラブレス]] *[[ITエンジニア]] *[[システムエンジニア]] *[[カスタマーエンジニア]] *[[ネットワークエンジニア]] *[[ハッカー文化]] *[[プログラマーの日]] *[[システム管理者の日]] *[[Java|Java言語に関すること]] * {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふろくらま}} [[Category:プログラマ|*]] [[Category:コンピュータ関連の職業]] [[arz:مبرمج]] [[de:Programmierer]] [[hi:प्रोग्रामर]] [[ka:პროგრამისტი]]
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河井継之助
河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。 戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。 河井家の先祖は、近江膳所藩本多氏の家臣だったという説と、蒲原郡河井村出身の地侍という2つの説がある。本多氏家臣説では膳所藩主の娘が初代越後長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・清左衛門の家系は、その惣領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。 弟の忠右衛門は初め祐筆役となり、その後に郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。河井継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟町奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行を務めた4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。継之助の祖父までの新潟町奉行の就任期間については「新潟町奉行#天保7年までの歴代新潟町奉行」を参照。 なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。まず第1に、長岡藩の家格に「奉行格」という家格は存在しなかった。そして第2に、歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある町奉行や郡奉行などとは別に長岡藩では、家老を補佐する役職として「奉行職(御奉行)」が存在し、藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義の老職)にもなった。 継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格加判」に就任している。この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。したがって、河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。加えて奉行と奉行格を混同する場合もあるが、厳密にいえば奉行格は「奉行同格」(奉行と同等の格式)を指し、奉行本職に就任したわけでない。 ちなみに『長岡市史』では町奉行は番頭兼務が原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭に就任した可能性が高い。 文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。しかし、読書好きで、好きな本があると一文一文を掘るように書き写したと言われている。その後、藩校の崇徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で陽明学に傾倒していった。 天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、河井継之助秋義は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳の時、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。 嘉永3年(1850年)に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。なお、梛野氏は安政の藩政改革を主導した村松忠次右衛門の母方であり、『武鑑』でも藩主嗣子・牧野忠訓の附役に梛野弥五左衛門が見えるので、姉婿・佐野与惣左衛門(武鑑で附役になっているのが確認できる)同様にこの藩主側近一族との縁組が継之助の出世にプラスに作用した可能性は高い。 継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏議書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。 さらにこの時期には小山良運(130石)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯。継之助の妻の縁者)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、継之助を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。 嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学する。江戸には既に三島や小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の紹介で斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、大坂の適塾にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。 翌嘉永6年(1853年)、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は、門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。同年、ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が日本に現れると(黒船来航)、当時の江戸幕府老中であった藩主・牧野忠雅は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。 藩政の刷新を企図して帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、特に何もないままの日々を過ごす。安政2年(1855年)、忠雅の世子・牧野忠恭のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに奥羽へ遊歴した。安政5年(1858年)、家督を継いで外様吟味役になると早速、宮路村での争いを解決へと導いた。 安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙に認めるなどの尊大な態度に出ていた継之助も、山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀藩、長崎、熊本藩も訪れ、知見を広める。藩政に忙しい山田に代わり後に墓碑を書くことになる三島中州が相手をする。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。山田方谷に譲ってもらった『王文成公全集』に書いてもらった忠告を、佐久間象山と同じく結局守れなかった。 文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に欧米に対する攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。 だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとる形で公用人を辞し、帰藩した。 しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。 藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知することで門閥を平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。 慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、幕府などを廃止する。一方、長岡藩では藩主・忠恭は隠居して牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。 そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津藩・桑名藩を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。 藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却。その金で、相場が暴落した米を買って蝦夷地で開港されていた箱館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、スネル兄弟などからアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。特にガトリング砲は当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持していた。 新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。会談において継之助は新政府軍を批判し、長岡領内への進入と戦闘の拒否を通告した。 長岡藩は表高7万4,000石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、官軍に恭順を主張していた世襲家老首座の稲垣茂光は交戦状態となる直前に出奔。世襲家老次座の山本義路や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍への開戦前には恭順を主張するも開戦決定後は藩命に従った。上級家臣のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督であった。 北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日(8月14日)までに全て鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。また、多くの領民が処刑され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。 その後、6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。 外山修造の証言によると、奇襲作戦の最中、新町口にて河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。『長岡郷土史』によると、新町口ではないところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩には最早この新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。 これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津戦争へと移っていく。 後年、石原莞爾は陸軍大学校で継之助の戦術を研究した卒業論文を執筆している。 重傷の継之助は1人で歩けず、会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。 峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時既に継之助の傷は破傷風により手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく出羽庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制度がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。 継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な容態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥り、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。享年41。なお、継之助終焉の場所である矢澤家は昭和36年(1961年)、只見川電源開発に伴いダム湖に水没する地にあったため、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。 継之助の葬儀は会津城下、建福寺にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。現在は臨済宗妙心寺派大寶山建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑(「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑)が残されている。また、只見町塩沢の医王寺にも村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある。 戊辰戦争後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は彼の藩政改革に反発する者や長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたと伝わる。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は、継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助が既に戦没していたため、政府より死一等を減ずる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(継之助の養女の夫)に新知100石を与えて継之助の家族を扶養させた。 明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森源三の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。 河井継之助記念館が只見では前述のダム水没に伴う移転に合わせて1973年に開館したのに対して、長岡ではその33年後の2006年であった。長岡で開館時から館長を務める郷土史家の稲川明雄は、継之助嫌いだった自分を館長にしたのは、継之助に批判的な市民からの批判を抑えることを当時の市長が意図した可能性があると推測している。 さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質を素早く見抜く才にすぐれ、徳川幕府の崩壊を早くから予見していた。藩命に度々背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったが既に若い頃から藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。 遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。 長岡城落城(慶応4年5月19日)後、最初の奥羽越列藩同盟軍の軍議(5月22日と23日:会津藩、米沢藩、長岡藩、桑名藩、上山藩、村上藩、村松藩の各藩重役が出席)が行われた際、河井は長岡城落城の際に村松藩は尽力せず、その行動は奇怪であると2日に渡って村松藩の代表(田中勘解由 等)を執拗に責めたことから、責められた田中勘解由が軍議の席上で自刃(自らの喉を刺す)に及ぶ事件が発生した。幸い急所を外れて命は落とさなかったが、この席上にいた米沢藩の甘糟継成は日記に、河井の態度・発言について「傍らに人がなきが如し・・言甚切也」と記載している。 明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。小林の人物像が語られる時においては継之助は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」と開戦を渋々支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。 なお河井継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。「弾除けにするため町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないしは批判的な逸話もある。しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないため信憑性が低く、後世の作り話と思われる(外部リンク参照)。 継之助の行動や人となりを知りうる史料に関しては、下記以外にも刊本・未刊本を問わずあるが、それらは基本的に戊辰戦争前後の長岡藩の動向について記されたものであるので、ここではあえて外した。 今泉鐸次郎著。初版は明治43年(1910年)、博文館。昭和6年(1931年)に目黒書店から増補改版。昭和55年(1980年)および平成8年(1996年)には象山社から増補版の再版が刊行。 河井継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。昭和13年(1938年)には新潟県立長岡中学校和同会によって、また昭和49年(1974年)には安藤英男 校注『塵壷:河井継之助日記』<東洋文庫257>(平凡社)として活字化もされている。昭和52年(1977年)には、新潟日報事業社より渡辺秀英校注付き桐箱入りの複製本が、500部限定で製作されている。 ※この他で河井継之助に直接関わる史料としては、史談会 編『史談会速記録』全44巻(原書房)に収められている三間正弘や大野右仲らの証言記録がある(記載巻数等は同書総索引を参照)。 河井継之助を扱った主な著書を挙げた。幕末期の長岡藩関係の著書やビジネス系雑誌の記事などは含まない。また同一の著者に河井継之助について書かれた複数の著書がある場合には、代表的な一冊のみを挙げた。 河井継之助について考察した主な論文を挙げた。幕末期の長岡藩関係の論文などは含まない。 過去に河井継之助を描いたテレビドラマがいくつか制作されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "河井家の先祖は、近江膳所藩本多氏の家臣だったという説と、蒲原郡河井村出身の地侍という2つの説がある。本多氏家臣説では膳所藩主の娘が初代越後長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・清左衛門の家系は、その惣領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。", "title": "河井家の概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "弟の忠右衛門は初め祐筆役となり、その後に郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。河井継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟町奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行を務めた4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。", "title": "河井家の概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。継之助の祖父までの新潟町奉行の就任期間については「新潟町奉行#天保7年までの歴代新潟町奉行」を参照。", "title": "河井家の概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。まず第1に、長岡藩の家格に「奉行格」という家格は存在しなかった。そして第2に、歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある町奉行や郡奉行などとは別に長岡藩では、家老を補佐する役職として「奉行職(御奉行)」が存在し、藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義の老職)にもなった。", "title": "河井家の概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格加判」に就任している。この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。したがって、河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。加えて奉行と奉行格を混同する場合もあるが、厳密にいえば奉行格は「奉行同格」(奉行と同等の格式)を指し、奉行本職に就任したわけでない。", "title": "河井家の概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ちなみに『長岡市史』では町奉行は番頭兼務が原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭に就任した可能性が高い。", "title": "河井家の概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。しかし、読書好きで、好きな本があると一文一文を掘るように書き写したと言われている。その後、藩校の崇徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で陽明学に傾倒していった。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、河井継之助秋義は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳の時、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "嘉永3年(1850年)に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。なお、梛野氏は安政の藩政改革を主導した村松忠次右衛門の母方であり、『武鑑』でも藩主嗣子・牧野忠訓の附役に梛野弥五左衛門が見えるので、姉婿・佐野与惣左衛門(武鑑で附役になっているのが確認できる)同様にこの藩主側近一族との縁組が継之助の出世にプラスに作用した可能性は高い。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏議書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "さらにこの時期には小山良運(130石)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯。継之助の妻の縁者)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、継之助を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学する。江戸には既に三島や小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の紹介で斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、大坂の適塾にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "翌嘉永6年(1853年)、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は、門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。同年、ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が日本に現れると(黒船来航)、当時の江戸幕府老中であった藩主・牧野忠雅は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "藩政の刷新を企図して帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、特に何もないままの日々を過ごす。安政2年(1855年)、忠雅の世子・牧野忠恭のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに奥羽へ遊歴した。安政5年(1858年)、家督を継いで外様吟味役になると早速、宮路村での争いを解決へと導いた。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙に認めるなどの尊大な態度に出ていた継之助も、山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀藩、長崎、熊本藩も訪れ、知見を広める。藩政に忙しい山田に代わり後に墓碑を書くことになる三島中州が相手をする。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。山田方谷に譲ってもらった『王文成公全集』に書いてもらった忠告を、佐久間象山と同じく結局守れなかった。", "title": "修養・遊学の時期" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に欧米に対する攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。", "title": "藩政の主導者へ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとる形で公用人を辞し、帰藩した。", "title": "藩政の主導者へ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。", "title": "藩政の主導者へ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知することで門閥を平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。", "title": "藩政の主導者へ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、幕府などを廃止する。一方、長岡藩では藩主・忠恭は隠居して牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津藩・桑名藩を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却。その金で、相場が暴落した米を買って蝦夷地で開港されていた箱館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、スネル兄弟などからアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。特にガトリング砲は当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持していた。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した。会談において継之助は新政府軍を批判し、長岡領内への進入と戦闘の拒否を通告した。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "長岡藩は表高7万4,000石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、官軍に恭順を主張していた世襲家老首座の稲垣茂光は交戦状態となる直前に出奔。世襲家老次座の山本義路や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍への開戦前には恭順を主張するも開戦決定後は藩命に従った。上級家臣のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督であった。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日(8月14日)までに全て鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。また、多くの領民が処刑され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "その後、6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "外山修造の証言によると、奇襲作戦の最中、新町口にて河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。『長岡郷土史』によると、新町口ではないところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩には最早この新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津戦争へと移っていく。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "後年、石原莞爾は陸軍大学校で継之助の戦術を研究した卒業論文を執筆している。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "重傷の継之助は1人で歩けず、会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時既に継之助の傷は破傷風により手遅れな状態にあった。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく出羽庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制度がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な容態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥り、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。享年41。なお、継之助終焉の場所である矢澤家は昭和36年(1961年)、只見川電源開発に伴いダム湖に水没する地にあったため、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "継之助の葬儀は会津城下、建福寺にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。現在は臨済宗妙心寺派大寶山建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑(「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑)が残されている。また、只見町塩沢の医王寺にも村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "戊辰戦争後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は彼の藩政改革に反発する者や長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたと伝わる。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は、継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助が既に戦没していたため、政府より死一等を減ずる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(継之助の養女の夫)に新知100石を与えて継之助の家族を扶養させた。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森源三の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "河井継之助記念館が只見では前述のダム水没に伴う移転に合わせて1973年に開館したのに対して、長岡ではその33年後の2006年であった。長岡で開館時から館長を務める郷土史家の稲川明雄は、継之助嫌いだった自分を館長にしたのは、継之助に批判的な市民からの批判を抑えることを当時の市長が意図した可能性があると推測している。", "title": "明治維新への対応" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質を素早く見抜く才にすぐれ、徳川幕府の崩壊を早くから予見していた。藩命に度々背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったが既に若い頃から藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "長岡城落城(慶応4年5月19日)後、最初の奥羽越列藩同盟軍の軍議(5月22日と23日:会津藩、米沢藩、長岡藩、桑名藩、上山藩、村上藩、村松藩の各藩重役が出席)が行われた際、河井は長岡城落城の際に村松藩は尽力せず、その行動は奇怪であると2日に渡って村松藩の代表(田中勘解由 等)を執拗に責めたことから、責められた田中勘解由が軍議の席上で自刃(自らの喉を刺す)に及ぶ事件が発生した。幸い急所を外れて命は落とさなかったが、この席上にいた米沢藩の甘糟継成は日記に、河井の態度・発言について「傍らに人がなきが如し・・言甚切也」と記載している。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。小林の人物像が語られる時においては継之助は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」と開戦を渋々支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なお河井継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。「弾除けにするため町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないしは批判的な逸話もある。しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないため信憑性が低く、後世の作り話と思われる(外部リンク参照)。", "title": "人物像" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "継之助の行動や人となりを知りうる史料に関しては、下記以外にも刊本・未刊本を問わずあるが、それらは基本的に戊辰戦争前後の長岡藩の動向について記されたものであるので、ここではあえて外した。", "title": "河井継之助に関する主な史料" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "今泉鐸次郎著。初版は明治43年(1910年)、博文館。昭和6年(1931年)に目黒書店から増補改版。昭和55年(1980年)および平成8年(1996年)には象山社から増補版の再版が刊行。", "title": "河井継之助に関する主な史料" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "河井継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。昭和13年(1938年)には新潟県立長岡中学校和同会によって、また昭和49年(1974年)には安藤英男 校注『塵壷:河井継之助日記』<東洋文庫257>(平凡社)として活字化もされている。昭和52年(1977年)には、新潟日報事業社より渡辺秀英校注付き桐箱入りの複製本が、500部限定で製作されている。", "title": "河井継之助に関する主な史料" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "※この他で河井継之助に直接関わる史料としては、史談会 編『史談会速記録』全44巻(原書房)に収められている三間正弘や大野右仲らの証言記録がある(記載巻数等は同書総索引を参照)。", "title": "河井継之助に関する主な史料" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "河井継之助を扱った主な著書を挙げた。幕末期の長岡藩関係の著書やビジネス系雑誌の記事などは含まない。また同一の著者に河井継之助について書かれた複数の著書がある場合には、代表的な一冊のみを挙げた。", "title": "河井継之助を扱った作品" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "河井継之助について考察した主な論文を挙げた。幕末期の長岡藩関係の論文などは含まない。", "title": "河井継之助を扱った作品" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "過去に河井継之助を描いたテレビドラマがいくつか制作されている。", "title": "河井継之助を扱った作品" } ]
河井 継之助は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。 戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。
{{複数の問題 |出典の明記=2016年11月 |参照方法=2016年11月 }} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 河井 継之助 | 画像 = Kawai Tugunosuke.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = | 時代 = [[江戸時代]]末期([[幕末]]) | 生誕 = [[文政]]10年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1827年]][[1月27日]]) | 死没 = [[慶応]]4年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]([[1868年]][[10月1日]]) | 改名 = | 別名 = 秋義([[諱]])、蒼龍窟([[号 (称号)|雅号]]) | 諡号 = | 神号 = | 戒名 = 忠良院殿賢道義了居士 | 霊名 = | 墓所 = [[栄涼寺]]([[新潟県]][[長岡市]]) | 官位 = | 幕府 = | 主君 = [[牧野忠雅]]→[[牧野忠恭]]→[[牧野忠訓]] | 藩 = | 氏族 = | 父母 = 父:[[河井秋紀]]、母:貞 | 兄弟 = | 妻 = 梛野嘉兵衛の妹・すが | 子 = | 特記事項 = [[家紋]]は「丸に[[カタバミ|片喰]]」 }} '''河井 継之助'''(かわい つぎのすけ、[[正字体]]:繼之助、[[文政]]10年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1827年]][[1月27日]]) - [[慶応]]4年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]([[1868年]][[10月1日]]))は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[武士]]。[[越後国|越後]][[越後長岡藩|長岡藩]][[三河牧野氏#譜代大名となった牧野氏|牧野家]]の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の[[新潟県]][[長岡市]]にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」<ref>[http://tsuginosuke.net/?p=1991 つぎのすけかつぐのすけか]河井継之助記念館(2018年11月10日閲覧)</ref>とするが、死没地である[[福島県]][[只見町]]の同名施設は「つぐのすけ」としている<ref name="朝日20191109">[https://www.asahi.com/articles/DA3S14247744.html 【みちものがたり】八十里越(新潟、福島県)30年かけて未完成の国道/開戦責任者か、最後の侍か][[be (朝日新聞)|『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」]]2019年11月9日(6-7面)2020年7月19日閲覧</ref>。[[諱]]は'''秋義'''(あきよし)。[[号 (称号)|号]]は蒼龍窟。禄高は120[[石 (単位)|石]]。妻は「すが」。 [[戊辰戦争]]の一部をなす[[北越戦争]]で長岡藩側を主導したことで知られる。 == 河井家の概要 == 河井家の先祖は、[[近江国|近江]][[膳所藩]][[本多氏#彦八郎家 (康俊の家系)|本多氏]]の家臣だったという説と、[[蒲原郡]]河井村出身の[[地侍]]という2つの説がある。本多氏家臣説では[[膳所藩]]主の娘が初代[[越後国|越後]][[越後長岡藩|長岡藩]]主・[[牧野忠成 (越後長岡藩初代)|牧野忠成]]の嫡子・[[牧野光成|光成]](藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・清左衛門の家系は、その[[惣領]]の義左衛門が近習・[[目付]]と班を進め大組入りした。[[戊辰戦争]]で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。 弟の忠右衛門は初め[[祐筆]]役となり、その後に[[郡代|郡奉行]]となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、[[宝永]]4年([[1707年]])に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。河井継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、[[新潟市|新潟]]町奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行を務めた4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、[[良寛]]とも親交があった。 以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年([[1865年]])に[[郡奉行]]に抜擢されて[[藩政改革]]を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。継之助の祖父までの新潟町奉行の就任期間については「[[新潟町奉行#天保7年までの歴代新潟町奉行]]」を参照。 なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。まず第1に、長岡藩の[[家格]]に「奉行格」という家格は存在しなかった。そして第2に、歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある町奉行や郡奉行などとは別に長岡藩では、[[家老]]を補佐する役職として「奉行職(御奉行)」が存在し、藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義の老職)にもなった。 継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格[[加判]]」に就任している。この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。したがって、河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。加えて奉行と奉行格を混同する場合もあるが、厳密にいえば奉行格は「奉行同格」(奉行と同等の格式)を指し、奉行本職に就任したわけでない。 ちなみに『長岡市史』では町奉行は[[番頭]]兼務が原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭に就任した可能性が高い{{要出典|date=2018-10}}。 == 修養・遊学の時期 == === 誕生〜青年期 === [[File:Kawai Tsuginosuke Memorial Museum.JPG|thumb|260px|right|河井継之助生家跡は河井継之助記念館となっている([[新潟県]][[長岡市]]長町)]] [[File:Kawai Sada and Kawai Suga.jpg|thumb|180px|right|河井継之助の母・貞(左)と妻・すが(右)]] [[File:Pine trees Kawai House.jpg|thumb|260px|right|河井継之助邸跡にあった2本の松の木(明治時代の撮影)。号の「蒼龍窟」の由来とされる。]] 文政10年(1827年)、[[長岡城]]下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて[[剣術]]や[[馬術]]などの[[武芸]]を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。しかし、読書好きで、好きな本があると一文一文を掘るように書き写したと言われている。その後、[[藩校]]の崇徳館で[[儒学]]を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で[[陽明学]]に傾倒していった。 [[天保]]13年([[1842年]])に[[元服]]、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は元服すると代々通称として「代右衛門」を[[世襲]]したが、河井継之助秋義は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳の時、継之助は鶏を裂いて[[王陽明]]を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。 [[嘉永]]3年([[1850年]])に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。なお、梛野氏は安政の藩政改革を主導した村松忠次右衛門の母方であり、『[[武鑑]]』でも藩主嗣子・牧野忠訓の附役に梛野弥五左衛門が見えるので、姉婿・佐野与惣左衛門(武鑑で附役になっているのが確認できる)同様にこの藩主側近一族との縁組が継之助の出世にプラスに作用した可能性は高い。 継之助は青年時代から主に日本・中国([[宋 (王朝)|宋]]・[[明]]時代)の儒学者・哲学者の語録や[[明]]・[[清]]時代の奏議書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に[[鵜殿団次郎]]とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。 さらにこの時期には[[小山良運]](130石)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、[[三間市之進]](350石、のち奉行役加判)、[[三島億二郎]](37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯。継之助の妻の縁者)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、継之助を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。 === 初めての江戸遊学と藩政への登場 === 嘉永5年([[1852年]])の秋頃、継之助は[[江戸]]に遊学する。江戸には既に三島や[[小林虎三郎]]らが[[佐久間象山]]の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に[[古賀謹一郎]](茶渓)の紹介で[[斎藤拙堂]]の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、[[大坂]]の[[適塾]]にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。 翌嘉永6年([[1853年]])、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、[[砲術]]の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は、門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。同年、[[マシュー・ペリー|ペリー]]率いる[[アメリカ海軍]]艦隊が日本に現れると([[黒船来航]])、当時の[[江戸幕府]][[老中]]であった藩主・[[牧野忠雅]]は三島を黒船の[[偵察]]に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。 藩政の刷新を企図して帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、特に何もないままの日々を過ごす。[[安政]]2年([[1855年]])、忠雅の世子・[[牧野忠恭]]のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに[[奥羽]]へ遊歴した。安政5年([[1858年]])、[[家督]]を継いで外様吟味役になると早速、宮路村での争いを解決へと導いた。 === 備中松山・長崎への遊歴 === 安政6年([[1859年]])正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる[[経世論|経世済民の学]]を修めるため、[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]の[[山田方谷]]の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙に認めるなどの尊大な態度に出ていた継之助も、山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、[[佐賀藩]]、[[長崎市|長崎]]、[[熊本藩]]も訪れ、知見を広める。藩政に忙しい山田に代わり後に墓碑を書くことになる[[三島中州]]が相手をする。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく[[横浜市|横浜]]に滞在した後、長岡へ帰郷した。山田方谷に譲ってもらった『[[王文成公全集]]』に書いてもらった忠告を、佐久間象山と同じく結局守れなかった。 == 藩政の主導者へ == === 京都詰・江戸詰に任命 === [[文久]]2年([[1862年]])、藩主・[[牧野忠恭]]が[[京都所司代]]になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年([[1863年]])の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に欧米に対する[[攘夷]]実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。 だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は[[公用人]]に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸[[笠間藩]]主・[[牧野貞直|牧野貞明]]を罵倒してしまい、結局この責任をとる形で公用人を辞し、帰藩した。 === 郡奉行就任と藩政改革の開始 === {{main|[[長岡藩の慶応改革]]}} しかしその後、慶応元年([[1865年]])に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、[[灌漑]]工事、兵制改革などを実施した。 藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知することで門閥を平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。 == 明治維新への対応 == === 戊辰戦争の開始 === [[File:Edward Schnell.jpg|thumb|right|140px|エドワルド・スネル([[スネル兄弟]])]] [[File:Receipt of books price - Kawai Tsuginosuke.jpg|thumb|right|140px|河井継之助がファブル・ブラントから購入した書籍代金の受領書(今泉鐸次郎 著『河井継之助伝』1931年刊より)。[[歩兵]][[戦術]]書や地理に関する書籍などを購入している。]] 慶応3年([[1867年]])10月、[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は[[12月9日 (旧暦)|12月9日]](1868年[[1月3日]])に[[王政復古 (日本)#王政復古の大号令|王政復古の大号令]]を発し、幕府などを廃止する。一方、長岡藩では藩主・忠恭は[[隠居]]して[[牧野忠訓]]が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。 そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1月27日]])、[[鳥羽 (洛外)|鳥羽]]・[[伏見区|伏見]]において[[会津藩]]・[[桑名藩]]を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、[[戊辰戦争]]が始まる([[鳥羽・伏見の戦い]])。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。 藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は[[江戸屋敷|江戸藩邸]]を処分して[[家宝]]などを全て売却。その金で、相場が暴落した[[米]]を買って[[蝦夷地]]で[[開港]]されていた[[函館市|箱館]]へ運んで売り、また[[新潟市|新潟]]との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、[[スネル兄弟]]などから[[アームストロング砲]]、[[ガトリング砲]]、[[エンフィールド銃]]、[[スナイドル銃]]、[[シャープス銃]](軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。特にガトリング砲は当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持していた<ref>『河井継之助の生涯』、pp.175-176</ref><ref>[http://tsuginosuke.net/?page_id=17 展示品紹介]河井継之助記念館(2018.9.3アクセス)</ref><ref>[http://www.yae-mottoshiritai.jp/ashiato/kawaituginosuke.html 河井継之助]福島県観光交流局観光交流課(2018.9.3アクセス)</ref><ref>「[https://www.sankei.com/article/20180430-NFHI4GV47ZJWNFP7TXIN2LJQGI/4/ 河井継之助 北越戦争で長岡城奪還 信念貫く武士道]」[[産経新聞|産経ニュース]](2018年4月30日)-2018年9月26日閲覧</ref><ref>『長岡歴史事典』、p.65</ref><ref>「鈴木総之丞日記」慶応4年5朔日の條(『河井継之助伝』p.278)</ref><ref>『歴史への招待14』pp.8-9、p.17、p.29</ref>。 === 小千谷談判 === 新政府軍が[[陸奥国|陸奥]][[会津藩]]征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県[[小千谷市]])に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、[[越後長岡藩#先法家|先法家]]・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて[[モンロー主義]]の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした<ref group="注">安田鉚蔵を安井鉚蔵、槙内蔵介を植内蔵介と誤記または誤植をして出版された書籍があり、これより孫引きをしたと推察される書籍・文献がかなり存在し、この誤りを踏襲している。長岡藩士に植姓・安井姓の士分は存在しない。</ref>。 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった[[土佐藩]]の[[岩村精一郎]]は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の[[慈眼寺 (小千谷市)|慈眼寺]]において会談した<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/193026 反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか] 東洋経済(2017年10月17日)2017年10月19日閲覧</ref>。会談において継之助は新政府軍を批判し、長岡領内への進入と戦闘の拒否を通告した。 === 北越戦争の開戦 === [[File:Echigo no kuni Uesugi Kagekatsu katoku arasoi kassen.jpg|thumb|300px|right|北越戦争を描いた[[浮世絵]]。画題は『越後国上杉景勝家督争合戦』であるが、時の政府に配慮して[[上杉景勝]]・[[上杉景虎|景虎]]の家督争い([[御館の乱]])に仮託して描いている。一曜斎国輝([[歌川国輝 (2代目)|二代目 歌川国輝]])作。[[新潟県立図書館]]蔵<ref>[http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/DigitalShosai?DIGITAL_IMAGE_ID=536 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』]</ref>。]] 長岡藩は表高7万4,000石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、官軍に恭順を主張していた世襲家老首座の[[稲垣茂光]]は交戦状態となる直前に出奔。世襲家老次座の[[山本義路]]や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍への開戦前には恭順を主張するも開戦決定後は藩命に従った<ref group="注">但し客分の筋目であった先法三家は藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる(もっとも藩士・村松忠治右衛門編集とされる「長岡藩戊辰戦争の記」(『長岡藩戊辰戦争関係資料集』『長岡市史双書』No.31、1995年)には銃卒小隊長として先法家の一人と思われる槇小太郎が実戦に参加している記録がある)。</ref>。上級家臣のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督であった。 北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]([[7月8日]])に[[長岡城]]を奪われた。この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な[[世直し一揆]]が発生する。[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[7月9日]])に発生した吉田村・太田村(現在の[[燕市]])を始め、[[巻町|巻村]]など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して[[6月26日 (旧暦)|6月26日]]([[8月14日]])までに全て鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。また、多くの領民が処刑され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。 その後、[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[7月21日]])、今町の戦いを制して逆襲に転じる。[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[9月10日]])夕刻、敵の意表をつく[[八丁沖]]渡沼作戦を実施し、[[7月25日 (旧暦)|翌日]]([[9月11日]])に長岡城を辛くも奪還する。 [[外山脩造|外山修造]]の証言によると、[[奇襲]]作戦の最中、新町口にて河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。『長岡郷土史』によると、新町口ではないところで[[床机]]に腰掛けていたところを西軍兵に[[狙撃]]された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた[[米沢藩]]兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩には最早この新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]([[9月15日]])に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。 これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は[[会津戦争]]へと移っていく。 後年、[[石原莞爾]]は[[陸軍大学校]]で継之助の戦術を研究した卒業論文を執筆している。 === 河井継之助の最期 === [[File:Grave of Tuginosuke Kawai at Eiryo-ji temple in Nagaoka.jpg|thumb|[[栄涼寺]]墓地にある河井継之助の墓]] 重傷の継之助は1人で歩けず、会津へ向けて[[八十里峠]]を越える際、「'''八十里 腰抜け武士の 越す峠'''」という自嘲の句を詠む。 峠を越えて会津藩領に入り、[[只見町|只見村]]にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で[[若松城|会津若松]]より治療に来た[[松本良順]]の診察を受け、松本が持参してきた[[牛肉]]を平らげてみせる。しかし、この時既に継之助の傷は[[破傷風]]により手遅れな状態にあった<ref group="注">その他にも[[鉛#鉛害問題の対策|鉛毒]]、[[壊疽|ガス壊疽]]などを死因とする説もある。</ref>。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく[[出羽国|出羽]][[庄内藩]]と行動を共にすべきことや藩主世子・[[牧野忠毅|鋭橘]]の[[フランス]]への[[亡命]](結局果たされず)など後図を託した。また[[外山脩造|外山修造]]には武士に取り上げようと考えていたが、近く[[身分制度]]がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。 継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[9月27日]])に塩沢村(現・福島県[[只見町]])に到着する。塩沢村では不安定な容態が続いた。[[8月15日 (旧暦)|15日]]([[9月30日|30日]])の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに[[火葬]]の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥り、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。[[享年]]41。なお、継之助終焉の場所である矢澤家は昭和36年(1961年)、[[只見川]]電源開発に伴い[[ダム湖]]に水没する地にあったため、現在は福島県只見町の[http://tadamikousya.sakura.ne.jp/kawai/info_access/ 河井継之助記念館]内に移築されている。 継之助の葬儀は会津城下、建福寺にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。現在は[[臨済宗]][[妙心寺]]派大寶山建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑(「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑)が残されている。また、只見町塩沢の医王寺にも村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある。 戊辰戦争後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は彼の藩政改革に反発する者や長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたと伝わる。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は、継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助が既に戦没していたため、政府より死一等を減ずる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(継之助の養女の夫)に新知100石を与えて継之助の家族を扶養させた。 [[明治]]16年([[1883年]])に河井家は再興を許され、森源三の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。 河井継之助記念館が只見では前述のダム水没に伴う移転に合わせて1973年に開館したのに対して、長岡ではその33年後の2006年であった。長岡で開館時から館長を務める郷土史家の稲川明雄は、継之助嫌いだった自分を館長にしたのは、継之助に批判的な市民からの批判を抑えることを当時の市長が意図した可能性があると推測している<ref name="朝日20191109"/>。 == 略年譜 == * [[文政]]10年([[1827年]]):誕生。 * [[天保]]13年([[1842年]]):元服。 * 天保14年([[1843年]]):[[生贄]]の[[鶏]]を裂いて[[王陽明]]を祀り、輔国を誓う。 * [[嘉永]]5年([[1852年]]):最初の江戸遊学。[[斎藤拙堂]]、[[古賀謹一郎]](茶渓)、[[佐久間象山]]らの門をくぐる。 * 嘉永6年([[1853年]]):[[黒船来航]]に際して藩主[[牧野忠雅]]に建言書提出。御目付格評定方随役に任命され帰藩。2ヶ月で辞職。 * [[安政]]4年([[1857年]]):家督を相続。外様吟味役に任命。 * 安政5年([[1858年]]):江戸へ再度遊学のため長岡を発つ。 * 安政6年([[1859年]]):古賀の久敬舎に再入学。西国へ遊学、[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]の[[山田方谷]]に入門。その間、長崎にも遊歴。 * [[万延]]元年(1860年):江戸へ戻る。横浜でファブルブランドや[[スネル兄弟|エドワード・スネル]]らと懇意になる。 * [[文久]]3年([[1863年]]) ** 1月、京都詰となる。藩主[[牧野忠恭]]の京都所司代辞任を要請。 ** 9月、公用人として江戸詰。忠恭の老中辞任を要請。叶わず辞職、帰藩。 * [[慶応]]元年([[1865年]]):外様吟味役再任。3ヶ月後、[[郡奉行]]に就任。藩政改革を開始。 * 慶応2年([[1866年]]):[[町奉行]]を兼帯。 * 慶応3年([[1867年]]) ** 3月、評定役・寄会組になる。 ** 4月、奉行格加判。[[小諸騒動]]を解決(但し翌年11月に再燃)。 ** 10月、年寄役(中老)。 ** [[大政奉還]]を受け、12月に藩主[[牧野忠訓]]と共に上洛、朝廷に建言書提出。 * 慶応4年([[1868年]]) ** 4月に家老。閏4月に家老上席、軍事総督に任命。 ** 5月、小千谷談判決裂。新政府軍と開戦。 ** 8月、戦闘中の傷がもとで死去。享年41。 == 人物像 == [[File:Calligraphy by Kawai Tsuginosuke.jpg|thumb|100px|河井継之助の書(長岡市立中央図書館蔵)<ref>[http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/museum/jikumono/category02/073.html ながおかネット・ミュージアム 河井継之助書]</ref>]] さほど背は高くなかったが[[鳶色]]の鋭い目を持ち、声がよかったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質を素早く見抜く才にすぐれ、徳川幕府の崩壊を早くから予見していた。藩命に度々背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったが既に若い頃から藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。 *[[刈谷無隠]] 「私は十六歳の時、ある人の紹介で古賀の塾へ入りましたが所が、私の席の隣りに、眼のギョロッとした三十内外に見える人がおりました。名を聞きました所が、越後の河井継之助であった。ある日の事、河井の股へ大きな腫れ物が出来まして、寝起きも不自由な様であったけれども、少しも苦しいの、疲れたのと言う色がなく、勉強しておられた。それで少しお休みになって治療をなされたらよろしかろうと言いますと、河井の申しますには、「人の世に処するというものは、苦しいことも嬉しいことも色々あるものだ。その苦しいことというものに堪えなければ、忠孝だの、節義だの、国家の経綸だのと言うた所で、到底成し遂げられるものでない。この苦しいことに堪えるということは、平生から練磨しておかなければ、その場合に限ってできるものでない。こういう腫れ物のできて苦しむのは、誠にこの自分の志の強弱を試すのによい時機であるから、こういうとき、学問の上に力を得たか得ないかという事を試しているのである』そう言われた」<ref name="名前なし-1">神村実『河井継之助』(金雞学院、1933年)</ref> 遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し'''「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」'''と詠われている。また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。 [[長岡城]]落城(慶応4年5月19日)後、最初の[[奥羽越列藩同盟]]軍の軍議(5月22日と23日:[[会津藩]]、[[米沢藩]]、[[越後長岡藩|長岡藩]]、[[桑名藩]]、[[上山藩]]、[[村上藩]]、[[村松藩]]の各藩重役が出席)が行われた際、河井は長岡城落城の際に村松藩は尽力せず、その行動は奇怪であると2日に渡って村松藩の代表([[田中勘解由]] 等)を執拗に責めたことから、責められた田中勘解由が軍議の席上で自刃(自らの喉を刺す)に及ぶ事件が発生した<ref>[[渡辺好明]]『越後村松藩の戊辰戦争』2019年1月 P.154</ref>。幸い急所を外れて命は落とさなかったが、この席上にいた[[米沢藩]]の[[甘糟継成]]は日記に、河井の態度・発言について「傍らに人がなきが如し・・言甚切也」と記載している<ref>甘糟勇雄編『甘糟備後継成遺文』1960年6月、「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記」5月22日「敵を拒(ふせ)ぐの策を議すれども、各相顧みて主として議を建つる者なし、ただ河井継之助、勇断進撃して見附を取り、長岡を復するの説を唱へ、傍らに人なきが如し、また村松の田中等を責むるに、長岡落城の節尽力せず、その仕儀甚だ怪しきを以ってす、言甚切也・・」</ref>。 [[明治維新]]後、長岡の復興に尽力した[[米百俵]]で知られる[[小林虎三郎]]は親類である。小林の人物像が語られる時においては継之助は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、[[薩長]]の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」と開戦を渋々支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことが伺える。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。 なお河井継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。「弾除けにするため町人に[[畳]]を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないしは批判的な逸話もある。しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないため信憑性が低く、後世の作り話と思われる(外部リンク参照)。 == 河井継之助に関する主な史料 == 継之助の行動や人となりを知りうる史料に関しては、下記以外にも刊本・未刊本を問わずあるが、それらは基本的に戊辰戦争前後の長岡藩の動向について記されたものであるので、ここではあえて外した。 === 河井継之助伝 === [[今泉鐸次郎]]著。初版は[[明治]]43年([[1910年]])、[[博文館]]。[[昭和]]6年([[1931年]])に目黒書店から増補改版。昭和55年([[1980年]])および[[平成]]8年([[1996年]])には象山社から増補版の再版が刊行。 * 継之助に関して編まれた唯一の刊本史料(伝記)であり、現在ある関連書籍は全てこれを底本にして書かれている。 * 先祖は牧野家の家臣で自身は新聞記者・郷土史家であった今泉が、各地より蒐集した史料、関係者からインタビューした情報を基礎に構成。具体的には河井継之助の史料(書簡など)やそれ以外の者の関係史料からの引用と河井継之助の家族や関係者、またその関係者の子女などからの証言の2つから成り立っている。すなわち、史料学的に見れば『河井継之助伝』は2次史料・2級史料に分類される。 * 引用史料の中には『追考昔誌』『思出草』など、その原本や写本が現存しているものもある。しかしその一方で、所在やいかなる史料なのかが今のところ不明なものも存在する(たとえば「○○の手記」「三間正弘自叙伝」といったもの。これらについては、著者が便宜的につけた表題であり、史料名そのものではない)。また、戊辰戦争前後の事について書かれた現存の引用史料は残されたメモや当時の史料、記憶をたよりに後年編まれたものや回想録である。ゆえに、これら『河井継之助伝』中の引用史料の扱いについても内容をそのまま鵜呑みにはせず、他史料で裏付けをとる必要もある。 * 小諸騒動にあっては、維新後の混乱期にごく短期間だけ小諸藩上席家老となった牧野隼之進成聖の嫡子・成功からの聞き取りに依拠したと部分が多いものと推察され、これと不仲(或いは反対派)であった牧野隼之進成聖の本家となる牧野八郎左衛門成道、及び真木要人則道、太田宇忠太一道、前藩主夫人の楠子などの評価を低く(或いは悪役に近く)書いている恨みがあると指摘する文献(加藤誠一著『牧野家臣団』など)もある(参考となるページ・[[牧野康那]])。また小諸藩重臣の知行、家禄の引用が極めてアバウトであるとも指摘されている。 * 小諸騒動はアカデミックな場で僅かに扱われているが、小諸騒動の継之助の調停については小諸藩文書等の小諸側の文書・史料からは継之助の具体的な事績・活躍がほとんど伝わらない。 * 関係者の証言に関しても、当時の様相を垣間見る上で貴重な手がかりである。しかし、かなり年月を経た後のものでもあり、そこには証言者本人の主観的判断や感情、記憶の入れ違いも存在しうる。ゆえに、史料学的見地からもこれらの証言を扱う際にも慎重さを要する。 * 本文中で引用されている継之助の書簡についても、原本はごく一部を除けば現存していない。 * しかしながら現在、継之助や幕末期長岡藩に関する1次史料(とくに藩政史料)がほぼ皆無の状況である以上、『河井継之助伝』は継之助の人物像や幕末期の長岡藩の様相を知る上で数少ない好史料であることは否定し得ない。 === 塵壺 === [[File:Chiritsubo.jpg|thumb|100px|right|『塵壺』。縦約8cm、横約17cm<ref>[http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/museum/tiritubo/hanashi/index.html ながおかネット・ミュージアム 塵壺のはなし]</ref>。]] 河井継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年[[6月7日 (旧暦)|6月7日]](1859年[[7月6日]])から同年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1860年]][[1月14日]])までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、[[長岡市立中央図書館]]から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。昭和13年(1938年)には[[新潟県立長岡高等学校|新潟県立長岡中学校]]和同会によって<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1231010 『塵壷』河井継之助手記、和同会雑誌部校訂、昭和13年発行] - [[国立国会図書館]]デジタルコレクション</ref>、また昭和49年([[1974年]])には安藤英男 校注『塵壷:河井継之助日記』<[[東洋文庫]]257>([[平凡社]])として活字化もされている。昭和52年(1977年)には、新潟日報事業社より渡辺秀英校注付き桐箱入りの複製本が、500部限定で製作されている。 * 江戸〜備中松山〜長崎〜備中松山における道中の出来事を記録したもので、両親への道中報告のためのメモ的なものである。そのため、特筆すべきことのないようなときは日付と天気しか記していない日もある。 * 数日分を後でまとめて記すこともあったため、記憶により記述の細かさにばらつきがあったり別記を意図して内容を省略したりもしている。ゆえにいわゆる日記としての全般的な詳述さには欠けている面もある。 * 西国遊歴は、これ以降の継之助の政治的行動を深く規定したという点で継之助の生涯において大きな位置を占める出来事であり、本史料は遊歴の内容や継之助の個性を知る上で貴重な史料といえる。 * 備中松山から江戸までの帰路については『塵壺』には記されていなかったため、その日程や内容についてはしばらくの間不明であった。しかしその後、その帰路の事を記した両親宛の書簡が発見されたため(『長岡市史』資料編3に所収)、江戸までの道中の日程や大まかな様子が判明した。なお、京都〜備中松山間において行きは[[山陽]]を通り、帰りは[[山陰]]を通って帰った事がこの書簡で初めて分かった。 ※この他で河井継之助に直接関わる史料としては、史談会 編『史談会速記録』全44巻([[原書房]])に収められている[[三間正弘]]や[[大野右仲]]らの証言記録がある(記載巻数等は同書総索引を参照)。 == 評価 == {{ページ番号|節|date=2018年10月}} *[[山田方谷]]「長岡藩では河井を抑える人がなかろう。どうも彼の男は豪ら過ぎる。彼の男を北国の辺りの役人にするには惜しい」<ref name="名前なし-1"/> *[[勝海舟]]「あれはナカナカの人物であったが惜しいことをした。河井のような者は少ない」<ref name="Imaizumi">今泉鐸次郎『河井継之助傳』(目黒書店、1931年)</ref> *[[西郷隆盛]]「河井継之助は得易からざる人物である。不幸順逆途を異にしたので、賊名を負うて斃れたが、もしも今日世にあるならば、台閣にたつべき一人である。確かに一代の傑物である」<ref name="Imaizumi"/> *[[河井安子]] **「兄は俗謡を歌うことが好きで、就中あの長岡甚句の盆踊りと来ては大好きでありました」<ref name="Imaizumi"/> **「兄は火には可笑しいほど臆病でありました。実に火事ほど恐ろしいものはない、他人から来る火は仕方がないが、自分から出した火は取り返しがつかぬと、平常自分も家族の者も戒めておりました」<ref name="Imaizumi"/> *[[土田衡平]]「河井というやつはおかしな事を言うやつだ。河井とはこの塾に長くいたけれども、一度も話した事がない。しかしながら長い間に色々な人と会ったが、先づ人物としては河井程の者を見た事がない。おれは河井の碁を打ち、将棋を差す所を見て河井の人物を知った。今までにあんな愉快な将棋碁というものを見た事がない。まるで眼中勝敗という事がなく、しかも勝ちを制して行く」<ref name="名前なし-1"/> *[[刈谷無隠]]「字を書くことが誠に下手であったが、しかし気骨があった。塾の悪口に『河井は字を書くのではない、字を彫るのだ』と。その字を書く有様が丁度、版木屋が版を彫る位に骨が折れる様に見える。それに書物の数は一向多く見ない人で、読む物は必ず写している。多く宋明の語録と明清の奏議類を読んで書物には誠に狭いけれども、歴史の事柄や、当世の事務を談ずる事においては、塾に一人でも河井に当るものがない」<ref name="名前なし-1"/> *[[大野右仲]]「その顔つきは厳酷の気味ありしだけに、その性質もまた厳格なりしが、弁舌爽快にして、気魄大に、その遣り口の万事豪傑肌なりしが如くに真実豪傑なりき」<ref name="名前なし-1"/> *[[木川松蔵]]「旦那様は平素厳しい方でいらっしゃいます」<ref name="Imaizumi"/> *[[外山脩造|外山修造]] **「余は今日の明治[[元勲]]と称する、いわゆる[[元老]]諸公には、多少の面識あるも、未だ河井氏の如く『鋭い人』、『威厳ある人』を見ず。親しむべく狎れるべからずとは、眞乎河井氏においてこれを見る」<ref name="Imaizumi"/> **「河井氏は自身の頗る厚かりしだけに、道理に叶わぬことあれば、寸少の仮借なく是非を弁折して推理されしより、いずれもその厳しきに苦しみしかど、また美事善行に対しては、『豪い豪いそれはよかった』と激賞措かず、あたかも己の事の如くに満腹の情を禁じ能はざる風情なるより、先に氏の厳責に、余りの事とと腹立てる者も、この刹那に『コロリ』としてしまい、感激のあまり、死もなお辞せざる底に心服するに至れり。百二十石の小禄に身を起こし、終に一藩の執政となり、彼の如くに藩政を改革し、また七万四千石の一小藩を掲げて数万の西軍に当り、半歳の久、その意を逞しうするを得ざらしめしに徴するも、氏が凡庸の器に非ざりしを知るべし」<ref name="Imaizumi"/> *[[佐川官兵衛]]「河井君と話をする時には、息の油断も出来ない。あんなに早く理屈が見えて、話に切込みの烈しい人は少ない。確かに近代の豪傑である」<ref name="Imaizumi"/> *[[本間むつ子]]「眼の玉が丸く鋭く、お体の丈もあまり大柄ではなく、中肉中背と申すほどでございましたが、眼の玉だけは、一遍見ると忘れることができぬほど偉そうでございました」<ref name="Imaizumi"/> *[[安田正秀]]「性剛邁、頗る才略あり。極めて自身力強く、また豪気にして言語明晰。談論風発、ほとんど当るべからざるの概あり。その人に接するや、城府を設けず、好んで古今の人物を品隲す。一朝志を得て要路に立つに及び、裁決流るるが如く、果断決行、いわゆる人の言い能わざる所をいい、人の為し能わざる所を為す者。ゆえに往々同僚及び部下を罵倒して寒心せしめ、また俗吏をして驚心瞠目せしむることあり。且つ事に臨み、その志望を達せんとするに際しては、世論の趣向、物議の如何に頓着なく、また利害得失を顧念計量するの遑なく、邁往猛進、彼岸に達するを以て、快と為すの風あり。真に北越無二の奇傑というべし。惜しいかな己を信ずるの厚き、頑強に失して、人を容るるに吝に、かつ名利の念、心頭を去らずして、すこぶる事を好むの傾きありしが為に、終に名利の犠牲となりて悲惨なる最期を遂ぐるに至れり」<ref name="Imaizumi"/> *[[大橋一蔵]]「戊辰の役に、命を一弾の下に殞したは、実に国家の為千古の恨事である。今日もし廟堂の上にあらしめたならば、今の内閣諸公、誰かその右に出づる者ぞ」<ref name="Imaizumi"/> *[[福島住弌]]「河井氏はフランスの事情を研究されたが、特に兵器のことについて非常に熱心に調べておられた」<ref name="Imaizumi"/> *[[大橋佐平]]「性豪活、つとに俊邁の気あり。身体甚だ低からず。肥瘠の中を得、色黒く、眉秀で、眼光烱々として人を射る。一喝睥視すれば、即ち人仰ぎ見る能わず。言語清朗にして、最も弁舌に長ず。叱咤席を打て弁ずるときは、議論風生、凛として犯すべからざるの威あり。我が越においては、不識公([[上杉謙信]])以後の一人者なり」<ref name="Imaizumi"/> *[[千坂高雅]]「それから、その足で長岡(城)に這入って見た所が、河井継之助の右の足に大砲の弾丸が中つて膝の下は筋を残した許りで皆持って行かれた。 然るに、非常な元気な男であるから、串戯に、今休んで居るというて居る。 お前はあやまち手負いしたのではないかと言ったら、私は実に愉快でございます。 イヤ、愉快でも宜しいが、余程の傷ではないか、そんなことを言いました。 その頃は医術が開けなかったから仕方がないが、その時切断でもしたら、あるいは助かったのであろうが、実に膝から下は筋を残して、骨でも何でも無茶に持って行かれて仕舞って、二目と当てられたものではない。 思はず涙が溢れたけれども、弱きを見せては可けませぬから声を励まして慰めてやりました。」<ref>『史談会速記録 合本19』P272-273 (原書房、1971-1976年)</ref> == 河井継之助を扱った作品 == === 書籍 === 河井継之助を扱った主な著書を挙げた。幕末期の長岡藩関係の著書やビジネス系雑誌の記事などは含まない。また同一の著者に河井継之助について書かれた複数の著書がある場合には、代表的な一冊のみを挙げた。 * 『少年読本第三編 河井継之助』(戸川残花([[戸川安宅]])著、博文館、1899年) * 『北越戊辰戦争と河井継之助』([[井上一次]] 著、イデア書院、1928年) * 『河井継之助』(「人物研究叢刊第17」、神村実 著、金鶏学院、1933年) * 『河井継之助』([[星山貢]] 著、三教書院〈偉人叢書〉、1942年) * 『英雄と学問 河井継之助とその学風』(「師友選書第12」、[[安岡正篤]] 述、明徳出版社、1957年) * 『[[峠 (小説)|峠]]』([[司馬遼太郎]] 著、[[新潮社]]、1968年) * 『河井継之助のすべて』(安藤英男 編、[[新人物往来社]]、1981年) * 『河井継之助余聞』(緑川玄三 著、野島出版、1984年) * 『河井継之助写真集』(安藤英男 著、横村克宏 写真、新人物往来社、1986年) * 『愛憎 河井継之助』(中島欣也著、恒文社、1986年) * 『河井継之助の生涯』(安藤英男 著、新人物往来社、1987年) * 『武士(おとこ)の紋章』([[池波正太郎]] 著、新人物往来社、1990年) * 『良知の人河井継之助 義に生き義に死なん』(石原和昌 著、[[日本経済評論社]]、1993年) * 『日本を創った先覚者たち ― 井伊直弼・小栗忠順・河井継之助』(新井喜美夫 著、[[総合法令]]、1994年) * 『小説河井継之助 [[武装中立]]の夢は永遠に』([[童門冬二]] 著、[[東洋経済新報社]]、1994年) * 『北越の竜 河井継之助』(岳真也 著、[[角川書店]]、1995年) * 『河井継之助 薩長に挑んだ男』(『[[歴史読本]]』第40巻第7号「シリーズ人物検証 7」、新人物往来社、1995年) * 『北越蒼龍伝 ― 河井継之助の生涯』(菅蒼一郎 著、日本図書刊行会、1997年) * 『小説 幕末輸送隊始末 ― 悲憤の英将 河井継之助』(竹田十岐生 著、新風舎、1997年) * 『河井継之助』([[星亮一]] 著、成美文庫、1997年) <!-- ** 『河井継之助』増訂版([[星亮一]] 著、成美堂出版、2001年)--> * 『歴史現場からわかる河井継之助の真実』(外川淳 著、東洋経済新報社、1998年) * 『河井継之助 立身は孝の終りと申し候』(稲川明雄 著、恒文社、1999年) * 『河井継之助 信念を貫いた幕末の俊英』([[芝豪]] 著、PHP文庫・[[PHP研究所]]、1999年) * 『河井継之助 吏に生きた男』(安藤哲也 著、新潟日報事業社、2000年) * 『河井継之助と明治維新』(太田修 著、新潟日報事業社、2003年) * 『怨念の系譜 河井継之助、[[山本五十六]]、そして[[田中角栄]]』([[早坂茂三]] 著、集英社、2003年) * 『龍虎会談 戊辰、長岡戦争の反省を語る』(山崎宗彌 著、2004年) * 『[[その時歴史が動いた (漫画)|その時歴史が動いた コミック版]] 志士たちの幕末編』「北越の蒼龍“明治”に屈せず-河井継之助地方自立への闘い」([[井上大助]] 作画、ホーム社、2009年) === 論文 === 河井継之助について考察した主な論文を挙げた。幕末期の長岡藩関係の論文などは含まない。<!--河井継之助については現存史料・関係史料が僅少なこともあり(これは長岡藩の藩政史料についても言える)、郷土史研究の場ではともかくアカデミックな研究の場では扱われていない。--> *安藤哲也「幕末期における政治主体と政治意識 ― 河井継之助の政治思想について」(1976年) *小川和也「河井継之助生誕の地を求めて ― 越後長岡藩における河井家の位置」(『歴史読本』48巻1号、2003年) *吉田公平 「鈴木無隠の「河井継之助言行録」について」(『[[東洋大学]]中国哲学文学科紀要』14号、2006年) * 『長岡郷土史』所収の該当論文(長岡郷土史研究会編、第1〜44号、1960〜2007年) <!-- === ボードゲーム === * コマンド・マガジン第61号 『ウーグモン/河井継之助』、国際通信社--> === ドラマ === 過去に河井継之助を描いたテレビドラマがいくつか制作されている。 * [[花神 (NHK大河ドラマ)|花神]] *: 昭和52年([[1977年]])[[1月2日]]〜[[12月25日]]放送の[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]。司馬遼太郎の小説『[[花神 (小説)|花神]]』『[[世に棲む日日]]』『[[十一番目の志士]]』『[[峠 (小説)|峠]]』『[[酔って候|伊達の黒船]]』の5作を原作とし、ドラマの主役は[[大村益次郎]]だが、継之助は準主役級で、後半の多くの話に登場する。演じる[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]の人気と相まって「河井継之助」の名が全国へ浸透することにつながった。 * 最後のサムライ河井継之助 *: 平成11年([[1999年]])[[12月30日]]放送の[[テレビ朝日]]制作による2時間の年末スペシャル。「[[島田紳助]]の2000年に喝っ! スペシャル 幕末を駆け抜けた驚異のオレ流サラリーマン」という副題がついており、歴史の偉人を題材にした教養バラエティー番組の延長上に位置する作品。[[阿部寛]]が演じた。 * [[河井継之助 駆け抜けた蒼龍|河井継之助 〜駆け抜けた蒼龍〜]] *: 平成17年([[2005年]])[[12月27日]]放送の[[松竹]]・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]制作による2時間半の年末大型時代劇。原作に関する情報は不明だが、大筋で小説『峠』の内容を踏襲している。[[中村勘三郎 (18代目)|18代目中村勘三郎]]が演じ、18代目勘三郎襲名記念作品でもある。 * 鉄と麦と赤レンガ 〜河井継之助と外山脩造 志のリレー〜 *: 平成22年([[2010年]])[[9月13日]]放送のUX([[新潟テレビ21]])制作によるスペシャル番組。河井継之助の志を継いだ弟子の[[外山脩造]]が[[関西]][[財界]]の基礎を築くまでを描いた歴史ドキュメンタリー作品。再現ドラマの収録は継之助終焉の地である福島県只見町で行われ、河井継之助記念館に保存されている「河井継之助 終焉の間」が使われた。継之助役には一般公募で選出された宮村達哉(新潟市在住)が演じた。 * 長岡城を奪還せよ *: 平成27年(2015年)2月28日放送のUX([[新潟テレビ21]])制作によるスペシャル番組。[[北越戦争]]が開戦してまもなく、新政府軍の奇襲攻撃により、[[長岡城]]はあえなく落城する。本来なら城が陥落した時点で終戦となるはずが、長岡藩は加茂に集結した会津、米沢など[[奥羽越列藩同盟]]諸藩の力を結集して、長岡城を奪還する。加茂に集結した[[奥羽越列藩同盟]]の諸藩が開いた作戦会議、「加茂軍議」で会津、米沢といった大藩を御し、小藩の長岡藩が主導権を握るといった離れ業を演じたのが継之助である。北越戦争の端緒となった「小千谷談判」、「加茂軍議」、敗走する長岡藩士とその家族等が抜けた「[[八十里越]]」の3局面を軸にドラマで「再現」。[[林修]]と河井継之助記念館(新潟県長岡市)館長 稲川明雄のトークと共にそれぞれの場面、局面の厳しさ、北越戦争の真髄を切り取っていく。 === 映画 === * [[峠 最後のサムライ]] *: [[令和]]4年([[2022年]])[[6月17日]]公開。主演:[[役所広司]]、監督:[[小泉堯史]]<ref>{{Cite news2|title=役所広司主演映画『峠 最後のサムライ』公開日が6月17日に決定 新ポスタービジュアルも|url=https://realsound.jp/movie/2022/03/post-998909.html|newspaper=Real Sound映画部|publisher=blueprint|date=2022-03-31|accessdate=2022-03-31}}</ref> === ゲーム === *[[維新の嵐]] - 佐幕派のプレイヤーとして操作できる。学力172、武力169、魅力175、体力165。 === アニメ === * [[幕末機関説 いろはにほへと]] *:2006年10月6日から2007年4月6日(配信開始日基準)までインターネットによる動画配信サイト・[[GyaO]]にて公開された、日本の連続オリジナルアニメ(Webアニメ)作品である。全26話。河井継之助(つぎのすけ)役の[[声優]]は[[大西健晴]]で、長岡藩の家老として藩を守るため「闇のオークション」にてガトリング砲を落札。オークションの際は針尾玄藩に護衛を任せていた。北越戦争で足に傷を負い死亡。 === 舞台 === * 最後のサムライ([[2015年]]3月4日 - 15日、[[天王洲 銀河劇場]]、主演: [[市原隼人]]、脚本: [[岡本貴也]]、演出: イヴァン・キャブネット) === 参考文献 === * 今泉鐸次郎『河井継之助伝』(目黒書店、1931年) * NHK「火を噴くガトリング砲」『[[歴史への招待]]14』(1981年) * 長岡市[[教育委員会]]、長岡市立中央図書館『長岡歴史事典』(長岡市、2004年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[山本帯刀]] - 河井継之助を最も信頼した重臣。 * [[越後長岡藩の家臣団]] * [[越後長岡藩の慶応改革]] * [[小諸藩]] * [[小諸藩の家臣団]] * [[北越戦争]] * [[稲垣茂光|稲垣平助]] * [[小林虎三郎]] <!--* [[三島億二郎]]--> * [[山田方谷]] * [[古賀謹一郎]] * [[佐久間象山]] * [[石原莞爾]] * [[潟南村]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [http://tsuginosuke.net/index.php 河井継之助記念館](新潟県長岡市、2006年12月27日開館) * [http://tadamikousya.sakura.ne.jp/kawai/info_access/ 河井継之助記念館](福島県只見町、2010年4月17日改装) * [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356892696946.html 北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します] - 新潟県長岡地域振興局 企画振興部 ** [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356914901228.html パンフレット「河井継之助の足跡をたずねて~北越戊辰戦争史跡めぐり~」] * [https://nagaoka-navi.or.jp/feature/samurai/kawai 長岡観光ナビ 旅の特集:最後のサムライ河井継之助の叶わぬ夢] - 長岡観光コンベンション協会 * [https://www.youtube.com/watch?v=EgOABepXyz4&t=43s 長岡市広報テレビ「稲川明雄が語る 今に活かせる長岡の歴史」第5回] - YouTube * [https://www.youtube.com/watch?v=LMSmvAZg26E 長岡市広報テレビ「今に活かせる長岡の歴史」‐第8回] - YouTube <!-- * {{Wayback|date=20150708133220|url=http://uxtv.jp/info/echigo/special.html|title=『鉄と麦と赤レンガ ~河井継之助と外山修造 志のリレー~』(UX新潟テレビ21)}} * {{Wayback|date=20150423025635|url=http://uxtv.jp/info/nagaokazyo/|title=『長岡城を奪還せよ』(UX新潟テレビ21)}} * [http://www.fben.jp/bookcolumn/2011/11/post_3077.html 明治維新と横浜居留地] --> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわい つくのすけ}} [[Category:河井継之助|*]] [[Category:戊辰戦争で戦死した人物]] [[Category:幕末越後長岡藩の人物]] [[Category:江戸時代の儒学者]] [[Category:陽明学者]] [[Category:日本の財政家]] [[Category:日本の日記作家]] [[Category:1827年生]] [[Category:1868年没]]
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スリランカ
スリランカ民主社会主義共和国(スリランカみんしゅしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称スリランカは、南アジアのインド亜大陸の南東にポーク海峡を隔てて位置する共和制国家。旧国称はセイロンで、現在もこの国が占める主たる島をセイロン島と呼ぶ。最大都市はコロンボで、首都はコロンボ郊外に位置するスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。人口は約2,167万人(2018年)である。 1948年2月4日にイギリスから自治領(英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となった。 国語はシンハラ語とタミル語で、国民の3/4がシンハラ人で構成される。また、国民の7割が仏教徒(上座部仏教)である。国の花はスイレンの花、国の宝石はブルーサファイア、国技はバレーボール。 正式名称はシンハラ語で ශ්රී ලංකා ප්රජාතාන්ත්රික සමාජවාදී ජනරජය (Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya)、タミル語で இலங்கை சனநாயக சோஷலிசக் குடியரசு (Ilangai Jananayaka Socialisa Kudiarasu)。 公式の英語表記は Democratic Socialist Republic of Sri Lanka。通称 Sri Lanka。 日本語の表記はスリランカ民主社会主義共和国。通称はスリランカ。漢語表記では、かつての国名「セイロン」を錫蘭とも書き、略語は「錫」である。仏典では、人口の多数を占めるシンハラ人にちなんで、島名を『シンハ・ドヴィーパ(ライオン=獅子の島)』といったことから、「獅子国」とも記されている。『ラーマーヤナ』に登場するラークシャサ(羅刹)の王のラーヴァナが住まいするランカー島は、現在のスリランカを意味するという説が有力とされてきたが、定説ではない。 シンハラ語で、スリ (ශ්රී, Sri) は「聖なる」という意味の接頭辞であり「光り輝く」「高貴な」といった意味合いを含む。ランカ (ලංකා) は古くからこの島を示す固有名詞であり、正確な語源は判明していない。一説には「美しいこと」を意味する単語アランカーワと同根とも言われる。 マヒンダ・ラージャパクサ大統領がLTTEの制圧と内戦の終結を宣言し、四半世紀に及ぶ内戦は2009年5月に終了した。以後、ラージャパクサは内戦終結の功績を背景に政権の強化を図り、2010年1月には任期を前倒ししての大統領選挙により、内戦の司令官だったフォンセカ前陸軍参謀長を破り再選を達成。同年9月には大統領の三選禁止条項を撤廃する憲法修正案も可決させるなど、大統領への集権化を進めた。一方、内戦終結後は国防省を国防・都市開発省と改称し、統一の実現と平和の到来とともに余剰となった戦力をインフラ整備にも動員した。復興需要ならびに観光業の復活から、2010年、2011年とGDPが8%台の成長を続けるなど、急速な経済発展が続いた。 2014年11月、2年の任期を残したラージャパクサは、三選を企図して早期選挙を実施。しかし、与党SLFPの幹事長で保健相のマイトリーパーラ・シリセーナが政権を離脱、野党統一候補として立候補する事態となり、2015年1月の投票においてシリセーナに敗れた。だが、大統領と首相の対立など政治的混乱に、経済成長の鈍化、さらに2019年にはイスラム過激派によるスリランカ連続爆破テロ事件が起きるなど不安定な情勢が続き、マヒンダ・ラージャパクサの弟のゴーターバヤ・ラージャパクサが第8代大統領に就任。マヒンダ自身も首相への復権を果たした。 しかし、2020年に新型コロナウイルスの世界的流行が発生すると情勢が一変。主要産業である観光業が壊滅、ラージャパクサ政権時代に拡大した債務の返済に困窮するようになり、物価高と外貨不足から独立以来と言われる経済危機に陥る。大規模な抗議デモが相次ぎ、2022年7月にはゴーターバヤ政権が崩壊。この間に首相から次いで第9代大統領へと就任したラニル・ウィクラマシンハは、7月5日に国家としての破産を宣言、国際通貨基金 (IMF) に支援を要請した。これを受け、9月1日、IMFはスリランカに対し29億ドルの金融支援を行うことで暫定合意に達したと発表。ただし、この支援については国内の経済改革のほか、対外債務(中国、インド、日本など)の整理再編を行うことを前提条件とした。 2023年10月11日、スリランカと中国は42億ドル分の債務再編で合意した。 国体は共和制。半大統領制と議院内閣制が混合した体制となっている。また、間接民主主義の色合いが強めとなっている。 国会は総議席数225の一院制で、知識人や上流階級を基盤とする統一国民党 (UNP) と農村部や労働者階級を基盤とするスリランカ自由党 (SLFP) の二大政党を中心としつつ、タミル人の民族主義政党タミル国民連合や、共産主義政党でかつては武装闘争も展開した人民解放戦線 (JVP) といった小政党も一定の立場を築いている。 1948年の独立以降、一貫して民主主義が維持されているが、他方で2005年のマヒンダ・ラージャパクサ政権以後、大統領の権力が強まり、2009年の内戦最終局面での避難民や捕虜の取り扱い、2010年の大統領選挙に敗退したフォンセカ元陸軍参謀総長の逮捕、同年の憲法の大統領の三選禁止条項の撤廃といった点から、西欧諸国からは人権上の問題を指摘されている。2015年のマイトリーパーラ・シリセーナ政権下においては、こうしたラージャパクサ時代の政策の見直しが図られたが、大きな成果は上がらず、2019年にはゴーターバヤ・ラージャパクサ政権が誕生した。しかしそのゴーターバヤ政権も2020年からの経済危機で崩壊し、2022年にはラニル・ウィクラマシンハ政権が誕生している。 歴代の指導者が放漫的な財政運営を行ってきたうえ、2010年代前半に行われた空港や港湾、高速道路の建設が国家の債務を急激に増加させた。スリランカの国の総債務は2017年現在で6兆4,000億円にのぼり、全政府収入の95%が借金の返済にあてられている。完済に400年かかるとされており、非現実的な状況に陥っている。 外交面では、非同盟の立場を維持しつつ、歴史的・文化的にも関係が深い隣国インドと、政治や経済、安全保障上、極めて重要な国として良好な関係維持に努めている。また経済社会開発の観点から日本を含む先進諸国との関係強化を重視しているほか、近年は中国やパキスタン、イランとの関係も強化しており、2009年には1986年以降長らく最大の援助国であった日本に代わって、中国が最大の援助国となっている。南部ハンバントタでは中国の援助の下、大規模な港湾・空港整備が行われており、中国の進出を象徴するプロジェクトとなっている。同港は2017年7月より99年間にわたり中国国有企業・招商局港口にリースされている。 また、南アジア地域協力連合 (SAARC) の原加盟国であり、2006年、東南アジア諸国連合地域フォーラム (ARF) にも加盟するなど、最近は南アジアや東南アジア諸国との協力関係強化にも力を入れている。 スリランカ軍はスリランカ陸軍、スリランカ海軍、スリランカ空軍の3つの組織で構成されている。兵士は志願制度を採用しており、兵役適齢は18歳から49歳まで、総兵力は予備役も含めて25万5000人(2020年時点)。LTTE設立以後同組織との戦闘を繰り返してきた。 保有兵器は旧ソ連製、中国製のものが大半を占めており、69式戦車やJ-7など旧式のものが多く、軍艦も哨戒艦などの小型艦船が主流で潜水艦や対潜哨戒機は保有していない。また、防空システムの構築も遅れており、2007年3月にLTTEが改造民間機を用いた攻撃を行った際には、コロンボの北35kmの地点にあるカトゥナーヤカ空軍基地への侵入を許し、爆撃を受け兵士3人が死亡し16人が負傷、軍用ヘリ数機が損傷し、整備棟の一部が損壊する被害を受けている。 セイロン島はインド洋にあり、ベンガル湾の南西、アラビア海の南東に位置する。インド亜大陸とはマンナール湾とポーク海峡が隔てる。 ヒンドゥー教の神話では、インドとはラマと呼ばれる橋で結ばれていた。アダム橋と呼ばれる、ところどころ海面に顔を出す石灰岩礁が連なり、その昔完全な天然の陸橋であったが、1480年の嵐で壊れたとされている。ポーク海峡は狭く、インドからスリランカ海岸を望める。大型船舶には浅すぎるため島を迂回せざるを得ず、最初1860年に英政府が検討して以来、何度も運河の建設が検討されてきた。 島の北部は平坦地が続き、南部に向かうにつれて山地が多くなる。大きく分けると三分される。 第一は中央部から南部にかけての山岳・高原地帯で、最高峰はピドゥルタラーガラ山 (2,524m) で、アダムスピークも含めて、2,000m級の山々が連なり、山麓に1,000m前後の高原が広がる。第二は標高300 - 900mの高原ベルト地帯で、山岳地帯の周辺部である。第三は海岸沿いの平地で、南西部では狭く、北部から東部にかけては平坦な土地が広がる。雨量の多い南部の中央高地から河川が放射状に流れ出し、最長の川はマハウェリ川(全長335km)で、北東に流れてベンガル湾に注ぎ、海岸部に広い沖積平野を形成する。北部のジャフナ半島は平坦地が続き、井戸水を利用して、地下水灌漑による農耕を行っている。 気候は熱帯性であり高温多湿で、海岸部・低地では年平均気温27 - 28°Cであるが、高地の気候は冷涼である。ヌワラ・エリヤ(標高約1,890m)では年平均気温22°Cと、一年中常春のような気候である。気候の特色はモンスーンの影響が強いことで、年2回の季節風である南西モンスーンと北東モンスーンに伴い、季節に応じて降雨量が変化する。5月から9月にかけての南西モンスーンの時期はヤラ期 (yala) と呼ばれ、風が山岳地帯に遮られて島の南西部に多量の雨をもたらす。特に5 - 6月は大雨で、7 - 9月はやや減少する。ヤラ期には、北部から北東部は風下になり乾燥する。10月から12月は無風状態となって気団の影響で天候は不安定になり、全島で雨の多い日々が続く。11月から3月にかけての北東モンスーンの時期は、北東部を中心に1月までは雨が多い。このころ、南西部は1年で最も雨の少ない時期になる。3 - 4月は無風状態に入り、やや雨が増加する。 国土の全体は、年間降雨量75インチ(1,875ミリ)を基準として、乾燥地帯 (dry zone) と湿潤地帯 (wet zone) に大別され、乾燥地帯は北部から中部にかけてで国土の7割を占める。南部の湿潤地帯には総人口の3 - 4割が居住し、人口密度も高い。湿潤地帯では2回の雨季を利用して二期作が可能であるのに対して、乾燥地帯は1年に1回の雨季であるマハ期を主体に農業が営まれる。北部では大規模な溜池灌漑が展開し、用水と排水を分離せずに、灌漑水の反復利用率を高めることを目標とした「貯水システム」が確立していた。アヌラーダプラやポロンナルワを中心に展開した古代の王国の基盤には権力による水系の管理体制があり、王都は水系の結節点にあり、仏教を精神の支柱とし、寺院が水利施設を統御することで高度の安定を保ちえた。しかし、13世紀末以降、王国は北部を放棄して南部に王都を移す。その原因は、侵入者による灌漑設備の破壊、気候の変化、土壌の劣化、病虫害、マラリアの蔓延、過剰開発などさまざまな理由が挙げられている。 地方行政区分として、スリランカの国土は9つの州、25の県に分けられている。 州はスリランカにおいて19世紀から存在していた。しかしそれらは、1987年に行われた地方分権を意図した1978年憲法第13次改正による州議会設立まで、何の法的裏づけも持たない存在だった。州議会は一定の自治権を持っており、いかなる省庁の下にも置かれていない。州の設立後は、それまで中央の省庁が担っていた活動の一部を州が担うようになった。ただし、土地と警察行政に関する部分については引き続き中央政府の管理下に置かれている。憲法改正直後の1988年から2006年にかけては、北部州と東部州は内戦の和平協定の一環として合併しており、北東部州とされていた。1987年以前は、植民地時代と同様、すべての行政は県を基準として行われていた。2012年現在、それぞれの州は選挙により選ばれた州議会により統治されている。 スリランカはまた25の県にも分割される。それぞれの県は県事務所により運営されている。県はさらに256のDivisional Secretary地区(DS地区、郡と訳される)に分割され、同様にDS地区は1万4,000ほどのGrama Niladhari地区(GN地区)に分割される。これらの県はシンハラ語ではDisa、タミル語ではMāwaddamとして知られている。Disa(通常英語ではDissavonyと表記される)は昔の公爵領に由来しており、特にマータレーとウバではそれが顕著である。県次官が県を統括する。 地方自治体は3種類に分かれており、2004年時点で都市部に置かれるMunicipal Councilが18、半都市部のUrban councilが13、それに農村部のPradeshiya Sabha (aka Pradesha Sabhai) 256自治体存在する。これらの自治体はもともとkoraleとrataという封建時代のカウンティに由来しており、以前はDivisional Revenue OfficerからD.R.O.地区として知られていた。D.R.O.はのちにAssistant Government Agentsとなり、A.G.A.地区として知られるようになった。現在ではDivisional Secretaryとなっている。 IMFの統計によると、2019年の1人あたりの名目GDPは3,852ドルほどで、南アジアではモルディブに次いで第2位と、域内では経済が発達している国である。 イギリス植民地時代の19世紀から20世紀にかけて、スリランカはシナモン、天然ゴム、紅茶といった作物のプランテーション経済下にあった。これらの作物は現在でも同国の主要な輸出品目として残っている。 同時代に行われた近代的な港湾開発により、スリランカは貿易の中継点として戦略的に重要な価値を持つことになった。1948年から1977年にかけては、政府により社会主義に強く影響された経済政策がとられた。植民地的なプランテーションの多くが解体され、産業の国有化や福祉国家論に基づく政策が進められた。1977年に資本主義の導入、経済の自由化がなされ、国営企業の民営化や規制緩和、それに民間企業の育成が進められた。 茶や天然ゴム、コーヒー、砂糖といった作物の生産・輸出はいまだこの国において重要なポジションを占めるが、産業化により食品加工や繊維産業、電気通信それに金融といった分野の重要性も増加している。スリランカの主な経済部門は観光産業、茶の栽培、繊維産業、それに稲作やその他農産業である。これらの部門に加えて、中東地域を中心とする海外への出稼ぎもこの国の経済に大きく寄与している。2010年の調査では、こうしたサービス部門がGDPの6割を占めており、鉱工業部門は28%、農業部門は12%であった。また経済の85%を民間部門の活動が占めている。隣国インドはスリランカの最大の貿易相手国である。国内では地域によって経済格差があり、首都の位置する西部州がGDPの45.1%を生み出しており、南部州や中部州といった他の州は10.7%と10%といった数値に留まっている。2009年に終結した内戦からの復興が進んでおり、終結の翌2010年には、戦場となった北部州で22.9%という高いGDP成長率が記録された。 1人あたりのGDPは、2005年からの5年間で約2倍へと成長しており、この期間に貧困率は15.2%から7.6%に、失業率は7.2%から4.9%に、コロンボ証券取引所の時価総額は4倍へと成長した。90%の家庭が電化されており、人口の87.3%が安全な飲料水を利用可能で、39%には水道により水が供給されている。格差も同様に縮小しており、2010年のジニ係数は0.36となっている。携帯電話の利用者数も、2005年から2010年で550%もの急成長をみせている。スリランカは、南アジアで最初に3G、3.5G HSDPA、3.75G HSUPA、それに4G LTEによるモバイルブロードバンドが導入された国である。 世界経済フォーラムが発行する国際競争力レポート2011年版では、スリランカ経済を労働力と天然資源に依存した段階 (factor-driven stage) から工業化が進展した段階 (efficiency-driven stage) への過渡期と分析しており、その国際競争力は調査対象の世界142か国中52位であると報告している。また保健医療と初等教育の分野では45位、ビジネスの洗練性では32位、イノベーションでは42位、そして市場効率性では41位との報告も行われている。ニューヨーク・タイムズは2010年、世界31か所の観光地の中でスリランカをその第1位に選出した。ダウ・ジョーンズは2010年、スリランカをエマージング・マーケット(新興国市場)へと分類し、同様にシティグループは2011年2月、成長が見込まれる3G国(英語版)へと分類した。スリランカは人間開発指数 (HDI) においても他の南アジア諸国より良い数値を付けており、その指数は0.696である。 しかし、5年間の間に貧困率が半分に削減されたとはいえ、1日2ドル未満で暮らす広義の貧困層となると2011年時点でいまだ566万人が該当すると推定されており、これは国民のおよそ25%に相当する。幼児の栄養失調はいまだ問題とされており、5歳以下の子供の29%が体重が不足しているとの報告がなされている。また58%の幼児が6か月から11か月の間、38%の子供が12か月から23か月の間貧血に見舞われる。蚊が媒介するデング熱が現在でも主要な感染症として残りつつも、非感染性疾患(英語版)(NCD、生活習慣病)も体調不良や障害、早逝の85%を占めるほど拡大している。スリランカの平均寿命は77.9歳で、この数値は世界の平均より10%ほど高い。しかし、乳児死亡率は1,000人あたり8.5人、妊産婦死亡率は同0.39人であり、この統計はまだ開発途上国の数値である。 また2014年現在、スリランカ北東地域では衛星携帯電話は持ち込み禁止であり利用できない。 2017年に、99年間にわたる南部ハンバントタ港運営権を中華人民共和国に譲渡、軍事利用しないという契約だが、中国の一帯一路政策の重要港湾拠点となる。 同年、スリランカ政府は「Vision 2025」と題した8カ年計画を発表。年1人あたり所得をUS$5,000に改善し、百万人の雇用の創出、海外直接投資額US$50億/年までの増加、そして輸出額US$200億/年までの倍増を目標としている。 2020年から始まった世界的な新型コロナウイルスの感染拡大は、スリランカの観光業を直撃するとともに外貨の流入を減少させることとなった。スリランカ政府は年間45億ドルの対外債務を返済しなければならず、外貨の流失を防ぐ目的で多数の品目について輸入規制を実施したが、品目にはスリランカ料理に不可欠なターメリックが含まれており価格高騰が生じて市民生活を直撃した。政府は2021年も輸入規制を行うこととしており、ターメリックの流通量不足については国内栽培を強化する方針を示した。 2021年、スリランカは対外債務の支払いとコロナ禍による経済の低迷により外貨準備高が対前年度比で7割も激減した。同年10月にはイラン石油公社に支払う代金5億ドルを支払うことができず、特産品の紅茶によりバーター取引を行った。またスリランカ外務省は外貨の節約を理由に在ナイジェリア大使館、ドイツのフランクフルト、キプロスのニコシアにある領事館を同年12月31日から一時閉鎖した。 ついには、2022年7月5日には国家としての破産を宣言した。 産業全体において農業が占める比率やGDP比で9.9%。水田稲作中心で、南部では天水農業、北部では溜池灌漑、ジャフナ半島では井戸水灌漑で栽培する。農耕の生産暦では南部では雨に合わせてヤラ期は4月に播種、7 - 9月に刈り取る。マハ期は8 - 10月にかけて播種し、2 - 3月に刈り取る。植民地時代のプランテーションの影響が残り、低地の標高200メートル程度まではココナッツ、標高500メートルまではゴム、それ以上の標高では紅茶の生産が盛んである。 茶の生産量では世界第4位(2014年)であり、スリランカ産紅茶はセイロンティーと呼ばれ、世界に輸出される名産品である。しかし、この茶栽培は、病気(コーヒーさび病(英語版))によって壊滅的打撃を受けたコーヒー栽培の代替であったことはあまり知られていない。現在では、ごく少量ではあるがコーヒーの栽培が復活している。 スリランカ人の主食であるコメは自給率120%を達成したと言われており、2012年より中東、アフリカなどへの輸出を開始している。 スパイス類の生産も盛んであり、特にシナモンはスリランカの特産品として知られている。シナモンの生産量は世界4位、全世界の生産量の8%を占めている。 2021年5月、ゴータバヤ・ラージャパクサ大統領は化学肥料の輸入を禁止し、有機農業を推進した。生産量低下による経済状況の悪化や大量の失業者が出ると懸念され、また9月には為替レートの低下、食料価格の高騰によるインフレ率の上昇、新型コロナウイルスの世界的流行による観光業の制限などによる国の収入の減少に伴い政府が「経済緊急事態」を発表。10月には輸入の全面禁止も取り止めとなった。 スリランカの交通網は、主にスリランカ最大の都市コロンボを中心とした道路網により構成される。多くの道路は細く状態も悪いが、コロンボやその近郊の主要な道路は比較的良い状態に保たれている。2011年にはスリランカ初となる高速道路がコロンボと南部のゴールの間に開通しており、さらなる路線拡大が進められている。スリランカで最も一般的な公共交通機関は、こうした道路網を利用するバスである。公営・民営それぞれのバスが存在しており、都市と農村の両地域において運行されている。 スリランカの鉄道網はイギリス植民地時代の遺産に大きく依存しており、今日では国内の物流に占める割合は限られている。スリランカにおいて鉄道はすべて政府により運行されている。鉄道の総延長は約1,420kmで、道路網と同様にコロンボを起点とした鉄道網が整備されている。山がちなセイロン島では小回りの利かない広いゲージを採用するのは不利であるようにも思われるが、軌間にはインドと同じ1676 mmの広軌が用いられている。 スリランカの空の玄関は、コロンボから北に約35kmのカトゥナーヤカに位置するバンダラナイケ国際空港である。スリランカのナショナル・フラッグ・キャリアであるスリランカ航空が、同空港をハブ空港としたアジア路線とヨーロッパ路線を就航している。2013年には南部ハンバントタに第2国際空港となるマッタラ・ラージャパクサ国際空港が開港した。また2012年現在、コロンボ南部のラトゥマラナ空港も国際化が図られている。 国内便はあまり発展していないが、国内に多数存在する空軍基地や湖沼を活用した水上空港を結ぶチャーター便が運行されている。 2012年現在、スリランカは世界で57番目に人口が多い国であり、その人口増加率は0.73%、出生率は1,000人あたり17.6人で死亡率は同6.2人である。国内では西海岸の人口密度が高く、特に首都周辺に人口が集中している。 2012年の統計では、総人口約2,027万人のうちシンハラ人は1,517万人 (74.9%)、タミル人は311万人 (15.4%)、ムーア人が187万人 (9.2%)、混血のバーガー人とユーラシアンが3万7千人、その他に含められる先住民のヴェッダ人などとなっている。タミル人の内部も、古代以来の移住で形成されたスリランカ・タミル(227万人)と、19世紀半ばにイギリスが南インドからプランテーション経営のために労働者として連れてこられたインド・タミル(84万人)に分かれる。ムーア人も9-10世紀ごろに島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれる。統計上では、マレーシアから傭兵として連れてこられたマレー人(4万人)が計上されている。ヴェッダ人は統計上ではその他(2万2千人)に含められている。 シンハラ語とタミル語は国語にして公用語であり、連結語として英語も憲法上認められている。日常的にはほとんどの国民がそれぞれの民族語(シンハラ人はシンハラ語、タミル人はタミル語)を使っている。この他にバーガー人やユーラシアンと呼ばれる英語を母語にする人が国民の1割いる。彼らはコロンボに集住しており、スリランカ社会における指導的役割を担っている。バーガー人はポルトガル人やオランダ人の男性と現地女性との混血、ユーラシアンはイギリス人の男性と現地女性との混血である。ムーア人は主にタミル語を使用する。ヴェッダ人は独自の言語(ヴェッダ語、ただしこのヴェッダ語ですらすでにシンハラ語基盤のクレオール言語である)を持っていたとされるが、シンハラ人との同化が進み、話者は現在、いるとしてもごく少数と見られる。 国民の7割を仏教が占める。2番目に多いのはヒンドゥー教だが、その他にイスラム教、キリスト教も1割弱存在する。 シンハラ人とタミル人の中には、キリスト教徒もいる。特にシンハラ人の漁師は、仏教の五戒のひとつ「不殺生戒」を守ることができないため、キリスト教に帰依しているものが多い。 ムーア人やマレー人はイスラム教である。バーガー人やユーラシアンはキリスト教徒である。独立後の民族紛争、1983年の大規模な民族対立以来、ヒンドゥー教徒のタミル人と仏教徒のシンハラ人の対立が深まっているとされるが、民族と宗教を結びつけて考える動きは近代になって生み出された言説である。 スリランカの識字率は92.5%であり、これは開発途上国としては極めて高い水準である。青年の識字率では98%、コンピュータ・リテラシーは27.5%、小学校(プライマリースクール)への進学率は99%である。教育制度として、全国すべての子供に9年間の義務教育を適用している。無償教育の制度が成立したのは1945年のことで、これはC. W. W. Kannangara(英語版)とA.ラタナーヤカの活動によるものである。スリランカは、世界でも数少ない初等教育から高等教育まで、すべての教育が無償な国のひとつである。 Kannangaraは農村の子供たちに教育を施すために、Madhya Maha Vidyalaya(英語版)(セントラルスクール)の設立を主導した。1942年、特別教育委員会は国民のための効率的で質の高い教育システムを構築するため広範な改革を提案した。しかし、1980年代に入りこのシステムは中央政府が管理するものと州政府が管理するものの2つへと分割された。その結果、エリートの国立学校(英語版)は中央の教育省の管轄に置かれ、州の学校は州政府の管轄に置かれることとなった。2010年現在、スリランカにはおおよそ9,675の公立学校と、817の私立学校そして仏教学校(ピリウェナ(英語版))が存在する。国立大学は全土に15校存在する。しかしながら、教育システムは労働市場が必要とする人材とのミスマッチ、教育格差、中等教育から高等教育への進学が困難といった問題を抱えている。近年では、いくつかの私立校がこのギャップを埋めるための役割を果たしているが、高等教育におけるその割合はまだわずか5.1%ほどである。 スリランカには無料の国民皆保険制度が存在する。 同国の治安は一概に安定しているとは言い切れない。同国警察の発表によれば、2017年(暦年)の犯罪認知件数は約3万6千件であり、対前年度では約10%減となっているが、殺人事件がスリランカ全土で約450件(未遂を除く)発生しており、人口当たりの発生率は日本の3倍以上となっている。 また、最大都市のコロンボや主要観光都市を中心にスリ、置き引きなどの一般犯罪が発生している他に外国人が強盗や性犯罪などの凶悪事件に巻き込まれる事例も報告されている。 さらには違法薬物犯罪も増加傾向にあり、渡航や滞在に当たっては他国と治安情況が異なってくることを認識しつつトラブルに巻き込まれないよう充分な注意が必要とされてくる。 スリランカには2500年の歴史に裏づけされた文化が存在する。それは主に仏教とヒンドゥー教の影響を受けたものである。しかし他にも、たとえばイスラムの伝承ではエデンの園を追放されたアダムとイヴがこの島を訪れたとしている。この島の主な文化としては、古都キャンディやアヌラーダプラを中心とするシンハラ人の文化と、ジャフナを中心とするタミル人の文化、2つの伝統文化が根付いている。さらに現代では、イギリスの植民地文化にも大きな影響を受けている。また、スリランカには民主主義の伝統も宿っているとされる。 最初のタミル人の移住は紀元前3世紀ごろだとみられている。それ以後、シンハラ人とタミル人は共存を続けており、2つの民族集団は物理的にはその境界はほとんど曖昧になっている。古代スリランカには優れた灌漑技術と建築技術が存在していたことが記録されている。豊かな伝統文化はこの国の長い平均余命と発達した医療、それに高い識字率に支えられている。 スリランカの料理としては、ライス・アンド・カレー、ピットゥ(英語版)、キリバット、ロティ、インディ・アーッパ、ワッタラッパン(マレーを起源とするココナッツミルク、ジャガリー、カシューナッツ、卵、それにシナモンやナツメグといったスパイスから作るプディング状のデザート)、コットゥ(英語版)、それにアーッパといったものが存在する。パラミツ(ジャックフルーツ)は時々ライス・アンド・カレーの代わりに食される。伝統的な食事では、プランテンバナナの葉に乗せて提供される。食べ方は、箸やナイフやフォークを使わず、さまざまな味のカレーを混ぜて右手の指で摘んで食べるスタイルである。 スリランカ料理には、中東からの影響として伝統的なムーア人の料理が含まれている。またオランダとポルトガルの影響もあり、バーガー人の伝統的な料理としてランプレイス(米などをバナナの葉に包んで蒸し焼きにしたもの)、Breudher(オランダのクリスマスケーキ)、Bolo Fiado(ポルトガル風のケーキ)、Gum Billas(オランダ風のハチミツでコーティングしたお菓子)といった料理も食されている。 酒に関しては、仏教の五戒のひとつ「不飲酒戒」と法律の規制があるため、販売場所・販売時間が厳格に決まっており、ポヤ(満月の日)は酒の販売が一切禁止されるため、飲酒に関しては厳しい一面もある。飲食店では、酒の販売をしていない店で、外から酒の持ち込みを許容している店もある。 紅茶の産地ということもあり、スリランカでは紅茶が親しまれている。家庭では朝晩に紅茶を飲み、ティータイムの文化も定着している。 スリランカの建築は、現在に至るまで多種多様な建築形態と形式を示している。 スリランカ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件ある。 4月には仏教(英語版)とヒンドゥー教(英語版)でそれぞれ新年が祝われる。7~8月には、古都キャンディでエサラ・ペラヘラ祭というスリランカ仏教における象徴的なお祭りがあり、これはおおよそ1か月間にわたって行われる。祭りでは飾り付けられた象とともに、ファイアーダンス、ウィップダンス、キャンディアンダンスそれに様々な他の文化のダンスが繰り広げられる。その他、タミル人にはタイ・ポンガル(英語版)、マハー・シヴァラトリーが、ムスリムはハッジ、ラマダーンといった行事があり、毎年祭事が催される。表の日付は2019年のもの。 クリケットが最も人気のスポーツとなっている。1832年には同国に既に伝わっており、イギリスの植民地時代だった1882年には最初の非公式国際試合が行われた。1937年からはクラブ対抗の国内選手権も行われており、1982年からは公式のテスト・マッチに参加するようになった。 1990年代から大きな成功を収めるようになり、1996年にはクリケット・ワールドカップで初優勝し、2014年のICC T20ワールドカップでも初優勝した。他にも2007年と2011年のクリケット・ワールドカップで準優勝、2009年と2012年のT20ワールドカップで準優勝を経験している。2020年にはトゥエンティ20方式のプロリーグであるランカ・プレミアリーグ(英語版)が開幕した。強豪国の一角となっており、国際クリケット評議会のフルメンバーにもなっている。ムティア・ムラリタランは、クリケットの歴史の中でも最も偉大なボウラーであり、クマール・サンガッカラは世界有数のバッツマンである。 スリランカでは近年クリケットを凌ぐ勢いでサッカーの人気が上昇しており、2018年に国際サッカー連盟(FIFA)の助言と支援を受けて、2021年に念願のプロサッカーリーグである「スリランカ・スーパーリーグ」が創設された。当初は2020年に開催される予定であったが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により延期されていた。 スリランカサッカー連盟(FFSL)によって構成されるサッカースリランカ代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップへの出場歴はないものの、南アジアサッカー選手権では1995年大会で優勝している。また、AFCチャレンジカップでは2006年大会で準優勝に輝いている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スリランカ民主社会主義共和国(スリランカみんしゅしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称スリランカは、南アジアのインド亜大陸の南東にポーク海峡を隔てて位置する共和制国家。旧国称はセイロンで、現在もこの国が占める主たる島をセイロン島と呼ぶ。最大都市はコロンボで、首都はコロンボ郊外に位置するスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。人口は約2,167万人(2018年)である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1948年2月4日にイギリスから自治領(英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "国語はシンハラ語とタミル語で、国民の3/4がシンハラ人で構成される。また、国民の7割が仏教徒(上座部仏教)である。国の花はスイレンの花、国の宝石はブルーサファイア、国技はバレーボール。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "正式名称はシンハラ語で ශ්රී ලංකා ප්රජාතාන්ත්රික සමාජවාදී ජනරජය (Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya)、タミル語で இலங்கை சனநாயக சோஷலிசக் குடியரசு (Ilangai Jananayaka Socialisa Kudiarasu)。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "公式の英語表記は Democratic Socialist Republic of Sri Lanka。通称 Sri Lanka。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本語の表記はスリランカ民主社会主義共和国。通称はスリランカ。漢語表記では、かつての国名「セイロン」を錫蘭とも書き、略語は「錫」である。仏典では、人口の多数を占めるシンハラ人にちなんで、島名を『シンハ・ドヴィーパ(ライオン=獅子の島)』といったことから、「獅子国」とも記されている。『ラーマーヤナ』に登場するラークシャサ(羅刹)の王のラーヴァナが住まいするランカー島は、現在のスリランカを意味するという説が有力とされてきたが、定説ではない。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "シンハラ語で、スリ (ශ්රී, Sri) は「聖なる」という意味の接頭辞であり「光り輝く」「高貴な」といった意味合いを含む。ランカ (ලංකා) は古くからこの島を示す固有名詞であり、正確な語源は判明していない。一説には「美しいこと」を意味する単語アランカーワと同根とも言われる。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "マヒンダ・ラージャパクサ大統領がLTTEの制圧と内戦の終結を宣言し、四半世紀に及ぶ内戦は2009年5月に終了した。以後、ラージャパクサは内戦終結の功績を背景に政権の強化を図り、2010年1月には任期を前倒ししての大統領選挙により、内戦の司令官だったフォンセカ前陸軍参謀長を破り再選を達成。同年9月には大統領の三選禁止条項を撤廃する憲法修正案も可決させるなど、大統領への集権化を進めた。一方、内戦終結後は国防省を国防・都市開発省と改称し、統一の実現と平和の到来とともに余剰となった戦力をインフラ整備にも動員した。復興需要ならびに観光業の復活から、2010年、2011年とGDPが8%台の成長を続けるなど、急速な経済発展が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2014年11月、2年の任期を残したラージャパクサは、三選を企図して早期選挙を実施。しかし、与党SLFPの幹事長で保健相のマイトリーパーラ・シリセーナが政権を離脱、野党統一候補として立候補する事態となり、2015年1月の投票においてシリセーナに敗れた。だが、大統領と首相の対立など政治的混乱に、経済成長の鈍化、さらに2019年にはイスラム過激派によるスリランカ連続爆破テロ事件が起きるなど不安定な情勢が続き、マヒンダ・ラージャパクサの弟のゴーターバヤ・ラージャパクサが第8代大統領に就任。マヒンダ自身も首相への復権を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかし、2020年に新型コロナウイルスの世界的流行が発生すると情勢が一変。主要産業である観光業が壊滅、ラージャパクサ政権時代に拡大した債務の返済に困窮するようになり、物価高と外貨不足から独立以来と言われる経済危機に陥る。大規模な抗議デモが相次ぎ、2022年7月にはゴーターバヤ政権が崩壊。この間に首相から次いで第9代大統領へと就任したラニル・ウィクラマシンハは、7月5日に国家としての破産を宣言、国際通貨基金 (IMF) に支援を要請した。これを受け、9月1日、IMFはスリランカに対し29億ドルの金融支援を行うことで暫定合意に達したと発表。ただし、この支援については国内の経済改革のほか、対外債務(中国、インド、日本など)の整理再編を行うことを前提条件とした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2023年10月11日、スリランカと中国は42億ドル分の債務再編で合意した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "国体は共和制。半大統領制と議院内閣制が混合した体制となっている。また、間接民主主義の色合いが強めとなっている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "国会は総議席数225の一院制で、知識人や上流階級を基盤とする統一国民党 (UNP) と農村部や労働者階級を基盤とするスリランカ自由党 (SLFP) の二大政党を中心としつつ、タミル人の民族主義政党タミル国民連合や、共産主義政党でかつては武装闘争も展開した人民解放戦線 (JVP) といった小政党も一定の立場を築いている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1948年の独立以降、一貫して民主主義が維持されているが、他方で2005年のマヒンダ・ラージャパクサ政権以後、大統領の権力が強まり、2009年の内戦最終局面での避難民や捕虜の取り扱い、2010年の大統領選挙に敗退したフォンセカ元陸軍参謀総長の逮捕、同年の憲法の大統領の三選禁止条項の撤廃といった点から、西欧諸国からは人権上の問題を指摘されている。2015年のマイトリーパーラ・シリセーナ政権下においては、こうしたラージャパクサ時代の政策の見直しが図られたが、大きな成果は上がらず、2019年にはゴーターバヤ・ラージャパクサ政権が誕生した。しかしそのゴーターバヤ政権も2020年からの経済危機で崩壊し、2022年にはラニル・ウィクラマシンハ政権が誕生している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "歴代の指導者が放漫的な財政運営を行ってきたうえ、2010年代前半に行われた空港や港湾、高速道路の建設が国家の債務を急激に増加させた。スリランカの国の総債務は2017年現在で6兆4,000億円にのぼり、全政府収入の95%が借金の返済にあてられている。完済に400年かかるとされており、非現実的な状況に陥っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "外交面では、非同盟の立場を維持しつつ、歴史的・文化的にも関係が深い隣国インドと、政治や経済、安全保障上、極めて重要な国として良好な関係維持に努めている。また経済社会開発の観点から日本を含む先進諸国との関係強化を重視しているほか、近年は中国やパキスタン、イランとの関係も強化しており、2009年には1986年以降長らく最大の援助国であった日本に代わって、中国が最大の援助国となっている。南部ハンバントタでは中国の援助の下、大規模な港湾・空港整備が行われており、中国の進出を象徴するプロジェクトとなっている。同港は2017年7月より99年間にわたり中国国有企業・招商局港口にリースされている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "また、南アジア地域協力連合 (SAARC) の原加盟国であり、2006年、東南アジア諸国連合地域フォーラム (ARF) にも加盟するなど、最近は南アジアや東南アジア諸国との協力関係強化にも力を入れている。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "スリランカ軍はスリランカ陸軍、スリランカ海軍、スリランカ空軍の3つの組織で構成されている。兵士は志願制度を採用しており、兵役適齢は18歳から49歳まで、総兵力は予備役も含めて25万5000人(2020年時点)。LTTE設立以後同組織との戦闘を繰り返してきた。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "保有兵器は旧ソ連製、中国製のものが大半を占めており、69式戦車やJ-7など旧式のものが多く、軍艦も哨戒艦などの小型艦船が主流で潜水艦や対潜哨戒機は保有していない。また、防空システムの構築も遅れており、2007年3月にLTTEが改造民間機を用いた攻撃を行った際には、コロンボの北35kmの地点にあるカトゥナーヤカ空軍基地への侵入を許し、爆撃を受け兵士3人が死亡し16人が負傷、軍用ヘリ数機が損傷し、整備棟の一部が損壊する被害を受けている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "セイロン島はインド洋にあり、ベンガル湾の南西、アラビア海の南東に位置する。インド亜大陸とはマンナール湾とポーク海峡が隔てる。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ヒンドゥー教の神話では、インドとはラマと呼ばれる橋で結ばれていた。アダム橋と呼ばれる、ところどころ海面に顔を出す石灰岩礁が連なり、その昔完全な天然の陸橋であったが、1480年の嵐で壊れたとされている。ポーク海峡は狭く、インドからスリランカ海岸を望める。大型船舶には浅すぎるため島を迂回せざるを得ず、最初1860年に英政府が検討して以来、何度も運河の建設が検討されてきた。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "島の北部は平坦地が続き、南部に向かうにつれて山地が多くなる。大きく分けると三分される。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第一は中央部から南部にかけての山岳・高原地帯で、最高峰はピドゥルタラーガラ山 (2,524m) で、アダムスピークも含めて、2,000m級の山々が連なり、山麓に1,000m前後の高原が広がる。第二は標高300 - 900mの高原ベルト地帯で、山岳地帯の周辺部である。第三は海岸沿いの平地で、南西部では狭く、北部から東部にかけては平坦な土地が広がる。雨量の多い南部の中央高地から河川が放射状に流れ出し、最長の川はマハウェリ川(全長335km)で、北東に流れてベンガル湾に注ぎ、海岸部に広い沖積平野を形成する。北部のジャフナ半島は平坦地が続き、井戸水を利用して、地下水灌漑による農耕を行っている。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "気候は熱帯性であり高温多湿で、海岸部・低地では年平均気温27 - 28°Cであるが、高地の気候は冷涼である。ヌワラ・エリヤ(標高約1,890m)では年平均気温22°Cと、一年中常春のような気候である。気候の特色はモンスーンの影響が強いことで、年2回の季節風である南西モンスーンと北東モンスーンに伴い、季節に応じて降雨量が変化する。5月から9月にかけての南西モンスーンの時期はヤラ期 (yala) と呼ばれ、風が山岳地帯に遮られて島の南西部に多量の雨をもたらす。特に5 - 6月は大雨で、7 - 9月はやや減少する。ヤラ期には、北部から北東部は風下になり乾燥する。10月から12月は無風状態となって気団の影響で天候は不安定になり、全島で雨の多い日々が続く。11月から3月にかけての北東モンスーンの時期は、北東部を中心に1月までは雨が多い。このころ、南西部は1年で最も雨の少ない時期になる。3 - 4月は無風状態に入り、やや雨が増加する。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "国土の全体は、年間降雨量75インチ(1,875ミリ)を基準として、乾燥地帯 (dry zone) と湿潤地帯 (wet zone) に大別され、乾燥地帯は北部から中部にかけてで国土の7割を占める。南部の湿潤地帯には総人口の3 - 4割が居住し、人口密度も高い。湿潤地帯では2回の雨季を利用して二期作が可能であるのに対して、乾燥地帯は1年に1回の雨季であるマハ期を主体に農業が営まれる。北部では大規模な溜池灌漑が展開し、用水と排水を分離せずに、灌漑水の反復利用率を高めることを目標とした「貯水システム」が確立していた。アヌラーダプラやポロンナルワを中心に展開した古代の王国の基盤には権力による水系の管理体制があり、王都は水系の結節点にあり、仏教を精神の支柱とし、寺院が水利施設を統御することで高度の安定を保ちえた。しかし、13世紀末以降、王国は北部を放棄して南部に王都を移す。その原因は、侵入者による灌漑設備の破壊、気候の変化、土壌の劣化、病虫害、マラリアの蔓延、過剰開発などさまざまな理由が挙げられている。", "title": "地理・気候" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "地方行政区分として、スリランカの国土は9つの州、25の県に分けられている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "州はスリランカにおいて19世紀から存在していた。しかしそれらは、1987年に行われた地方分権を意図した1978年憲法第13次改正による州議会設立まで、何の法的裏づけも持たない存在だった。州議会は一定の自治権を持っており、いかなる省庁の下にも置かれていない。州の設立後は、それまで中央の省庁が担っていた活動の一部を州が担うようになった。ただし、土地と警察行政に関する部分については引き続き中央政府の管理下に置かれている。憲法改正直後の1988年から2006年にかけては、北部州と東部州は内戦の和平協定の一環として合併しており、北東部州とされていた。1987年以前は、植民地時代と同様、すべての行政は県を基準として行われていた。2012年現在、それぞれの州は選挙により選ばれた州議会により統治されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "スリランカはまた25の県にも分割される。それぞれの県は県事務所により運営されている。県はさらに256のDivisional Secretary地区(DS地区、郡と訳される)に分割され、同様にDS地区は1万4,000ほどのGrama Niladhari地区(GN地区)に分割される。これらの県はシンハラ語ではDisa、タミル語ではMāwaddamとして知られている。Disa(通常英語ではDissavonyと表記される)は昔の公爵領に由来しており、特にマータレーとウバではそれが顕著である。県次官が県を統括する。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "地方自治体は3種類に分かれており、2004年時点で都市部に置かれるMunicipal Councilが18、半都市部のUrban councilが13、それに農村部のPradeshiya Sabha (aka Pradesha Sabhai) 256自治体存在する。これらの自治体はもともとkoraleとrataという封建時代のカウンティに由来しており、以前はDivisional Revenue OfficerからD.R.O.地区として知られていた。D.R.O.はのちにAssistant Government Agentsとなり、A.G.A.地区として知られるようになった。現在ではDivisional Secretaryとなっている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "IMFの統計によると、2019年の1人あたりの名目GDPは3,852ドルほどで、南アジアではモルディブに次いで第2位と、域内では経済が発達している国である。 イギリス植民地時代の19世紀から20世紀にかけて、スリランカはシナモン、天然ゴム、紅茶といった作物のプランテーション経済下にあった。これらの作物は現在でも同国の主要な輸出品目として残っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "同時代に行われた近代的な港湾開発により、スリランカは貿易の中継点として戦略的に重要な価値を持つことになった。1948年から1977年にかけては、政府により社会主義に強く影響された経済政策がとられた。植民地的なプランテーションの多くが解体され、産業の国有化や福祉国家論に基づく政策が進められた。1977年に資本主義の導入、経済の自由化がなされ、国営企業の民営化や規制緩和、それに民間企業の育成が進められた。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "茶や天然ゴム、コーヒー、砂糖といった作物の生産・輸出はいまだこの国において重要なポジションを占めるが、産業化により食品加工や繊維産業、電気通信それに金融といった分野の重要性も増加している。スリランカの主な経済部門は観光産業、茶の栽培、繊維産業、それに稲作やその他農産業である。これらの部門に加えて、中東地域を中心とする海外への出稼ぎもこの国の経済に大きく寄与している。2010年の調査では、こうしたサービス部門がGDPの6割を占めており、鉱工業部門は28%、農業部門は12%であった。また経済の85%を民間部門の活動が占めている。隣国インドはスリランカの最大の貿易相手国である。国内では地域によって経済格差があり、首都の位置する西部州がGDPの45.1%を生み出しており、南部州や中部州といった他の州は10.7%と10%といった数値に留まっている。2009年に終結した内戦からの復興が進んでおり、終結の翌2010年には、戦場となった北部州で22.9%という高いGDP成長率が記録された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1人あたりのGDPは、2005年からの5年間で約2倍へと成長しており、この期間に貧困率は15.2%から7.6%に、失業率は7.2%から4.9%に、コロンボ証券取引所の時価総額は4倍へと成長した。90%の家庭が電化されており、人口の87.3%が安全な飲料水を利用可能で、39%には水道により水が供給されている。格差も同様に縮小しており、2010年のジニ係数は0.36となっている。携帯電話の利用者数も、2005年から2010年で550%もの急成長をみせている。スリランカは、南アジアで最初に3G、3.5G HSDPA、3.75G HSUPA、それに4G LTEによるモバイルブロードバンドが導入された国である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "世界経済フォーラムが発行する国際競争力レポート2011年版では、スリランカ経済を労働力と天然資源に依存した段階 (factor-driven stage) から工業化が進展した段階 (efficiency-driven stage) への過渡期と分析しており、その国際競争力は調査対象の世界142か国中52位であると報告している。また保健医療と初等教育の分野では45位、ビジネスの洗練性では32位、イノベーションでは42位、そして市場効率性では41位との報告も行われている。ニューヨーク・タイムズは2010年、世界31か所の観光地の中でスリランカをその第1位に選出した。ダウ・ジョーンズは2010年、スリランカをエマージング・マーケット(新興国市場)へと分類し、同様にシティグループは2011年2月、成長が見込まれる3G国(英語版)へと分類した。スリランカは人間開発指数 (HDI) においても他の南アジア諸国より良い数値を付けており、その指数は0.696である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "しかし、5年間の間に貧困率が半分に削減されたとはいえ、1日2ドル未満で暮らす広義の貧困層となると2011年時点でいまだ566万人が該当すると推定されており、これは国民のおよそ25%に相当する。幼児の栄養失調はいまだ問題とされており、5歳以下の子供の29%が体重が不足しているとの報告がなされている。また58%の幼児が6か月から11か月の間、38%の子供が12か月から23か月の間貧血に見舞われる。蚊が媒介するデング熱が現在でも主要な感染症として残りつつも、非感染性疾患(英語版)(NCD、生活習慣病)も体調不良や障害、早逝の85%を占めるほど拡大している。スリランカの平均寿命は77.9歳で、この数値は世界の平均より10%ほど高い。しかし、乳児死亡率は1,000人あたり8.5人、妊産婦死亡率は同0.39人であり、この統計はまだ開発途上国の数値である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また2014年現在、スリランカ北東地域では衛星携帯電話は持ち込み禁止であり利用できない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2017年に、99年間にわたる南部ハンバントタ港運営権を中華人民共和国に譲渡、軍事利用しないという契約だが、中国の一帯一路政策の重要港湾拠点となる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "同年、スリランカ政府は「Vision 2025」と題した8カ年計画を発表。年1人あたり所得をUS$5,000に改善し、百万人の雇用の創出、海外直接投資額US$50億/年までの増加、そして輸出額US$200億/年までの倍増を目標としている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2020年から始まった世界的な新型コロナウイルスの感染拡大は、スリランカの観光業を直撃するとともに外貨の流入を減少させることとなった。スリランカ政府は年間45億ドルの対外債務を返済しなければならず、外貨の流失を防ぐ目的で多数の品目について輸入規制を実施したが、品目にはスリランカ料理に不可欠なターメリックが含まれており価格高騰が生じて市民生活を直撃した。政府は2021年も輸入規制を行うこととしており、ターメリックの流通量不足については国内栽培を強化する方針を示した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2021年、スリランカは対外債務の支払いとコロナ禍による経済の低迷により外貨準備高が対前年度比で7割も激減した。同年10月にはイラン石油公社に支払う代金5億ドルを支払うことができず、特産品の紅茶によりバーター取引を行った。またスリランカ外務省は外貨の節約を理由に在ナイジェリア大使館、ドイツのフランクフルト、キプロスのニコシアにある領事館を同年12月31日から一時閉鎖した。 ついには、2022年7月5日には国家としての破産を宣言した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "産業全体において農業が占める比率やGDP比で9.9%。水田稲作中心で、南部では天水農業、北部では溜池灌漑、ジャフナ半島では井戸水灌漑で栽培する。農耕の生産暦では南部では雨に合わせてヤラ期は4月に播種、7 - 9月に刈り取る。マハ期は8 - 10月にかけて播種し、2 - 3月に刈り取る。植民地時代のプランテーションの影響が残り、低地の標高200メートル程度まではココナッツ、標高500メートルまではゴム、それ以上の標高では紅茶の生産が盛んである。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "茶の生産量では世界第4位(2014年)であり、スリランカ産紅茶はセイロンティーと呼ばれ、世界に輸出される名産品である。しかし、この茶栽培は、病気(コーヒーさび病(英語版))によって壊滅的打撃を受けたコーヒー栽培の代替であったことはあまり知られていない。現在では、ごく少量ではあるがコーヒーの栽培が復活している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "スリランカ人の主食であるコメは自給率120%を達成したと言われており、2012年より中東、アフリカなどへの輸出を開始している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "スパイス類の生産も盛んであり、特にシナモンはスリランカの特産品として知られている。シナモンの生産量は世界4位、全世界の生産量の8%を占めている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2021年5月、ゴータバヤ・ラージャパクサ大統領は化学肥料の輸入を禁止し、有機農業を推進した。生産量低下による経済状況の悪化や大量の失業者が出ると懸念され、また9月には為替レートの低下、食料価格の高騰によるインフレ率の上昇、新型コロナウイルスの世界的流行による観光業の制限などによる国の収入の減少に伴い政府が「経済緊急事態」を発表。10月には輸入の全面禁止も取り止めとなった。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "スリランカの交通網は、主にスリランカ最大の都市コロンボを中心とした道路網により構成される。多くの道路は細く状態も悪いが、コロンボやその近郊の主要な道路は比較的良い状態に保たれている。2011年にはスリランカ初となる高速道路がコロンボと南部のゴールの間に開通しており、さらなる路線拡大が進められている。スリランカで最も一般的な公共交通機関は、こうした道路網を利用するバスである。公営・民営それぞれのバスが存在しており、都市と農村の両地域において運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "スリランカの鉄道網はイギリス植民地時代の遺産に大きく依存しており、今日では国内の物流に占める割合は限られている。スリランカにおいて鉄道はすべて政府により運行されている。鉄道の総延長は約1,420kmで、道路網と同様にコロンボを起点とした鉄道網が整備されている。山がちなセイロン島では小回りの利かない広いゲージを採用するのは不利であるようにも思われるが、軌間にはインドと同じ1676 mmの広軌が用いられている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "スリランカの空の玄関は、コロンボから北に約35kmのカトゥナーヤカに位置するバンダラナイケ国際空港である。スリランカのナショナル・フラッグ・キャリアであるスリランカ航空が、同空港をハブ空港としたアジア路線とヨーロッパ路線を就航している。2013年には南部ハンバントタに第2国際空港となるマッタラ・ラージャパクサ国際空港が開港した。また2012年現在、コロンボ南部のラトゥマラナ空港も国際化が図られている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "国内便はあまり発展していないが、国内に多数存在する空軍基地や湖沼を活用した水上空港を結ぶチャーター便が運行されている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "2012年現在、スリランカは世界で57番目に人口が多い国であり、その人口増加率は0.73%、出生率は1,000人あたり17.6人で死亡率は同6.2人である。国内では西海岸の人口密度が高く、特に首都周辺に人口が集中している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2012年の統計では、総人口約2,027万人のうちシンハラ人は1,517万人 (74.9%)、タミル人は311万人 (15.4%)、ムーア人が187万人 (9.2%)、混血のバーガー人とユーラシアンが3万7千人、その他に含められる先住民のヴェッダ人などとなっている。タミル人の内部も、古代以来の移住で形成されたスリランカ・タミル(227万人)と、19世紀半ばにイギリスが南インドからプランテーション経営のために労働者として連れてこられたインド・タミル(84万人)に分かれる。ムーア人も9-10世紀ごろに島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれる。統計上では、マレーシアから傭兵として連れてこられたマレー人(4万人)が計上されている。ヴェッダ人は統計上ではその他(2万2千人)に含められている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "シンハラ語とタミル語は国語にして公用語であり、連結語として英語も憲法上認められている。日常的にはほとんどの国民がそれぞれの民族語(シンハラ人はシンハラ語、タミル人はタミル語)を使っている。この他にバーガー人やユーラシアンと呼ばれる英語を母語にする人が国民の1割いる。彼らはコロンボに集住しており、スリランカ社会における指導的役割を担っている。バーガー人はポルトガル人やオランダ人の男性と現地女性との混血、ユーラシアンはイギリス人の男性と現地女性との混血である。ムーア人は主にタミル語を使用する。ヴェッダ人は独自の言語(ヴェッダ語、ただしこのヴェッダ語ですらすでにシンハラ語基盤のクレオール言語である)を持っていたとされるが、シンハラ人との同化が進み、話者は現在、いるとしてもごく少数と見られる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "国民の7割を仏教が占める。2番目に多いのはヒンドゥー教だが、その他にイスラム教、キリスト教も1割弱存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "シンハラ人とタミル人の中には、キリスト教徒もいる。特にシンハラ人の漁師は、仏教の五戒のひとつ「不殺生戒」を守ることができないため、キリスト教に帰依しているものが多い。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ムーア人やマレー人はイスラム教である。バーガー人やユーラシアンはキリスト教徒である。独立後の民族紛争、1983年の大規模な民族対立以来、ヒンドゥー教徒のタミル人と仏教徒のシンハラ人の対立が深まっているとされるが、民族と宗教を結びつけて考える動きは近代になって生み出された言説である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "スリランカの識字率は92.5%であり、これは開発途上国としては極めて高い水準である。青年の識字率では98%、コンピュータ・リテラシーは27.5%、小学校(プライマリースクール)への進学率は99%である。教育制度として、全国すべての子供に9年間の義務教育を適用している。無償教育の制度が成立したのは1945年のことで、これはC. W. W. Kannangara(英語版)とA.ラタナーヤカの活動によるものである。スリランカは、世界でも数少ない初等教育から高等教育まで、すべての教育が無償な国のひとつである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "Kannangaraは農村の子供たちに教育を施すために、Madhya Maha Vidyalaya(英語版)(セントラルスクール)の設立を主導した。1942年、特別教育委員会は国民のための効率的で質の高い教育システムを構築するため広範な改革を提案した。しかし、1980年代に入りこのシステムは中央政府が管理するものと州政府が管理するものの2つへと分割された。その結果、エリートの国立学校(英語版)は中央の教育省の管轄に置かれ、州の学校は州政府の管轄に置かれることとなった。2010年現在、スリランカにはおおよそ9,675の公立学校と、817の私立学校そして仏教学校(ピリウェナ(英語版))が存在する。国立大学は全土に15校存在する。しかしながら、教育システムは労働市場が必要とする人材とのミスマッチ、教育格差、中等教育から高等教育への進学が困難といった問題を抱えている。近年では、いくつかの私立校がこのギャップを埋めるための役割を果たしているが、高等教育におけるその割合はまだわずか5.1%ほどである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "スリランカには無料の国民皆保険制度が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "同国の治安は一概に安定しているとは言い切れない。同国警察の発表によれば、2017年(暦年)の犯罪認知件数は約3万6千件であり、対前年度では約10%減となっているが、殺人事件がスリランカ全土で約450件(未遂を除く)発生しており、人口当たりの発生率は日本の3倍以上となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、最大都市のコロンボや主要観光都市を中心にスリ、置き引きなどの一般犯罪が発生している他に外国人が強盗や性犯罪などの凶悪事件に巻き込まれる事例も報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "さらには違法薬物犯罪も増加傾向にあり、渡航や滞在に当たっては他国と治安情況が異なってくることを認識しつつトラブルに巻き込まれないよう充分な注意が必要とされてくる。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "スリランカには2500年の歴史に裏づけされた文化が存在する。それは主に仏教とヒンドゥー教の影響を受けたものである。しかし他にも、たとえばイスラムの伝承ではエデンの園を追放されたアダムとイヴがこの島を訪れたとしている。この島の主な文化としては、古都キャンディやアヌラーダプラを中心とするシンハラ人の文化と、ジャフナを中心とするタミル人の文化、2つの伝統文化が根付いている。さらに現代では、イギリスの植民地文化にも大きな影響を受けている。また、スリランカには民主主義の伝統も宿っているとされる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "最初のタミル人の移住は紀元前3世紀ごろだとみられている。それ以後、シンハラ人とタミル人は共存を続けており、2つの民族集団は物理的にはその境界はほとんど曖昧になっている。古代スリランカには優れた灌漑技術と建築技術が存在していたことが記録されている。豊かな伝統文化はこの国の長い平均余命と発達した医療、それに高い識字率に支えられている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "スリランカの料理としては、ライス・アンド・カレー、ピットゥ(英語版)、キリバット、ロティ、インディ・アーッパ、ワッタラッパン(マレーを起源とするココナッツミルク、ジャガリー、カシューナッツ、卵、それにシナモンやナツメグといったスパイスから作るプディング状のデザート)、コットゥ(英語版)、それにアーッパといったものが存在する。パラミツ(ジャックフルーツ)は時々ライス・アンド・カレーの代わりに食される。伝統的な食事では、プランテンバナナの葉に乗せて提供される。食べ方は、箸やナイフやフォークを使わず、さまざまな味のカレーを混ぜて右手の指で摘んで食べるスタイルである。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "スリランカ料理には、中東からの影響として伝統的なムーア人の料理が含まれている。またオランダとポルトガルの影響もあり、バーガー人の伝統的な料理としてランプレイス(米などをバナナの葉に包んで蒸し焼きにしたもの)、Breudher(オランダのクリスマスケーキ)、Bolo Fiado(ポルトガル風のケーキ)、Gum Billas(オランダ風のハチミツでコーティングしたお菓子)といった料理も食されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "酒に関しては、仏教の五戒のひとつ「不飲酒戒」と法律の規制があるため、販売場所・販売時間が厳格に決まっており、ポヤ(満月の日)は酒の販売が一切禁止されるため、飲酒に関しては厳しい一面もある。飲食店では、酒の販売をしていない店で、外から酒の持ち込みを許容している店もある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "紅茶の産地ということもあり、スリランカでは紅茶が親しまれている。家庭では朝晩に紅茶を飲み、ティータイムの文化も定着している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "スリランカの建築は、現在に至るまで多種多様な建築形態と形式を示している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "スリランカ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件ある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "4月には仏教(英語版)とヒンドゥー教(英語版)でそれぞれ新年が祝われる。7~8月には、古都キャンディでエサラ・ペラヘラ祭というスリランカ仏教における象徴的なお祭りがあり、これはおおよそ1か月間にわたって行われる。祭りでは飾り付けられた象とともに、ファイアーダンス、ウィップダンス、キャンディアンダンスそれに様々な他の文化のダンスが繰り広げられる。その他、タミル人にはタイ・ポンガル(英語版)、マハー・シヴァラトリーが、ムスリムはハッジ、ラマダーンといった行事があり、毎年祭事が催される。表の日付は2019年のもの。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "クリケットが最も人気のスポーツとなっている。1832年には同国に既に伝わっており、イギリスの植民地時代だった1882年には最初の非公式国際試合が行われた。1937年からはクラブ対抗の国内選手権も行われており、1982年からは公式のテスト・マッチに参加するようになった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1990年代から大きな成功を収めるようになり、1996年にはクリケット・ワールドカップで初優勝し、2014年のICC T20ワールドカップでも初優勝した。他にも2007年と2011年のクリケット・ワールドカップで準優勝、2009年と2012年のT20ワールドカップで準優勝を経験している。2020年にはトゥエンティ20方式のプロリーグであるランカ・プレミアリーグ(英語版)が開幕した。強豪国の一角となっており、国際クリケット評議会のフルメンバーにもなっている。ムティア・ムラリタランは、クリケットの歴史の中でも最も偉大なボウラーであり、クマール・サンガッカラは世界有数のバッツマンである。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "スリランカでは近年クリケットを凌ぐ勢いでサッカーの人気が上昇しており、2018年に国際サッカー連盟(FIFA)の助言と支援を受けて、2021年に念願のプロサッカーリーグである「スリランカ・スーパーリーグ」が創設された。当初は2020年に開催される予定であったが、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により延期されていた。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "スリランカサッカー連盟(FFSL)によって構成されるサッカースリランカ代表は、FIFAワールドカップおよびAFCアジアカップへの出場歴はないものの、南アジアサッカー選手権では1995年大会で優勝している。また、AFCチャレンジカップでは2006年大会で準優勝に輝いている。", "title": "スポーツ" } ]
スリランカ民主社会主義共和国(スリランカみんしゅしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称スリランカは、南アジアのインド亜大陸の南東にポーク海峡を隔てて位置する共和制国家。旧国称はセイロンで、現在もこの国が占める主たる島をセイロン島と呼ぶ。最大都市はコロンボで、首都はコロンボ郊外に位置するスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ。人口は約2,167万人(2018年)である。 1948年2月4日にイギリスから自治領(英連邦王国)のセイロンとして独立。1972年にはスリランカ共和国に改称し、英連邦内の共和国となり、1978年から現在の国名となった。 国語はシンハラ語とタミル語で、国民の3/4がシンハラ人で構成される。また、国民の7割が仏教徒(上座部仏教)である。国の花はスイレンの花、国の宝石はブルーサファイア、国技はバレーボール。
{{インド系文字}} {{基礎情報 国 | 略名 = スリランカ | 日本語国名 = スリランカ民主社会主義共和国 | 公式国名 = '''{{Lang|si|ශ්‍රී ලංකා ප්‍රජාතාන්ත්‍රික සමාජවාදී ජනරජය}}''' <small>(シンハラ語)</small><br />'''{{Lang|ta|இலங்கை சனநாயக சோசலிசக் குடியரசு}}''' <small>(タミル語)</small> | 国旗画像 = Flag of Sri Lanka.svg | 国章画像 = [[ファイル:Coat of arms of Sri Lanka.svg|100px|スリランカの国章]] | 国章リンク = ([[スリランカの国章|国章]]) | 標語 = なし | 位置画像 = Sri Lanka (orthographic projection).svg | 公用語 = [[シンハラ語]]、[[タミル語]] <ref group="注記">憲法上、「連結語」(link language) として[[英語]]が指定されている。</ref> | 首都 = [[スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ]]<ref group="注記">旧首都はコロンボ</ref> | 最大都市 = [[コロンボ]] | 元首等肩書 = [[スリランカの大統領|大統領]] | 元首等氏名 = [[ラニル・ウィクラマシンハ]] | 首相等肩書 = [[スリランカの首相|首相]] | 首相等氏名 = [[ディネーシュ・グナワルダナ]] | 面積順位 = 119 | 面積大きさ = 1 E10 | 面積値 = 65,610 | 水面積率 = 1.3% | 人口統計年 = 2020 | 人口順位 = 57 | 人口大きさ = 1 E7 | 人口値 = 2141万3000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/lk.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-10-31}}</ref> | 人口密度値 = 341.5<ref name=population/> | GDP統計年元 = 2019 | GDP値元 = 15兆129億5300万<ref name="imf2019">{{Cite web|url = https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=524,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LUR,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1|title=World Economic Outlook Database|publisher = [[国際通貨基金|IMF]]|accessdate = 2021-10-13}}</ref> | GDP統計年MER = 2019 | GDP順位MER = 63 | GDP値MER = 839億7800万<ref name="imf2019" /> | GDP MER/人 = 3851.666<ref name="imf2019" /> | GDP統計年 = 2019 | GDP順位 = 61 | GDP値 = 2969億9500万円<ref name="imf2019" /> | GDP/人 = 1万3621.75<ref name="imf2019" /> | 建国形態 = [[独立]]<br />&nbsp;-&nbsp;日付 | 建国年月日 =[[イギリス]]より<br />[[1948年]][[2月4日]] | 通貨 = [[スリランカ・ルピー]] | 通貨コード = LKR | 時間帯 = (+5:30) | 夏時間 = なし | 国歌 = [[母なるスリランカ|{{lang|si|ශ්‍රී ලංකා මාතා}}{{si icon}}<br/>{{lang|ta|ஸ்ரீ லங்கா தாயே}}{{ta icon}}]]<br />''母なるスリランカ''<br />{{center|[[ファイル:Sri Lankan national anthem, performed by the United States Navy Band.oga]]}} | ISO 3166-1 = LK / LKA | ccTLD = [[.lk]] | 国際電話番号 = 94 | 注記 = <references group="注記" /> }} '''スリランカ民主社会主義共和国'''(スリランカみんしゅしゃかいしゅぎきょうわこく)、通称'''スリランカ'''は、[[南アジア]]の[[インド亜大陸]]の南東に[[ポーク海峡]]を隔てて位置する[[共和制]][[国家]]。旧国称は'''[[セイロン]]'''で、現在もこの国が占める主たる島を[[セイロン島]]と呼ぶ。最大都市は[[コロンボ]]で、[[首都]]はコロンボ郊外に位置する[[スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ]]。人口は約2,167万人(2018年)である<ref>{{Cite web|和書|title=概況 {{!}} スリランカ - アジア - 国・地域別に見る - ジェトロ|url=https://www.jetro.go.jp/world/asia/lk/basic_01.html|website=www.jetro.go.jp|accessdate=2019-07-27}}</ref>。 [[1948年]]2月4日に[[イギリス]]から[[自治領]]([[英連邦王国]])の[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]として独立。[[1972年]]にはスリランカ共和国に改称し、[[イギリス連邦|英連邦]]内の[[共和国]]となり、[[1978年]]から現在の国名となった。 国語は[[シンハラ語]]と[[タミル語]]で、国民の3/4が[[シンハラ人]]で構成される。また、国民の7割が[[仏教|仏教徒]]([[上座部仏教]])である。国の花は[[スイレン科|スイレンの花]]、国の宝石は[[サファイア|ブルーサファイア]]、国技は[[バレーボール]]<ref>{{Cite web|和書|title=コロンボスタイル(2017年12月) {{!}} 調査レポート - 国・地域別に見る - ジェトロ|url=https://www.jetro.go.jp/world/reports/2017/02/59a6e9d848aad90a.html|website=www.jetro.go.jp|accessdate=2019-07-27}}</ref>。 == 国名 == 正式名称は[[シンハラ語]]で ශ්‍රී ලංකා ප්‍රජාතාන්ත්‍රික සමාජවාදී ජනරජය ({{Lang|en|Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya}})、[[タミル語]]で இலங்கை சனநாயக சோஷலிசக் குடியரசு ({{Lang|en|Ilangai Jananayaka Socialisa Kudiarasu}})。 公式の英語表記は {{Lang|en|Democratic Socialist Republic of Sri Lanka}}。通称 {{en|Sri Lanka}}。 日本語の表記は'''スリランカ民主社会主義共和国'''。通称は'''スリランカ'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢語表記]]では、かつての国名「セイロン」を'''錫蘭'''とも書き、略語は「'''錫'''」である。仏典では、人口の多数を占めるシンハラ人にちなんで、島名を『シンハ・ドヴィーパ([[ライオン]]=獅子の島)』といったことから、「'''獅子国'''」とも記されている。『[[ラーマーヤナ]]』に登場するラークシャサ([[羅刹天|羅刹]])の王の[[ラーヴァナ]]が住まいする[[ランカー島]]は、現在のスリランカを意味するという説が有力とされてきたが、定説ではない。 シンハラ語で、スリ (ශ්‍රී, [[:en:Sri|Sri]]) は「聖なる」という意味の接頭辞であり「光り輝く」「高貴な」といった意味合いを含む。ランカ (ලංකා) は古くからこの島を示す固有名詞であり、正確な語源は判明していない。一説には「美しいこと」を意味する単語アランカーワと同根とも言われる。 == 歴史 == {{Main|[[スリランカの歴史]]}} *[[紀元前5世紀]]: [[紀元前483年]]に[[シンハラ人]]の祖とされる[[ウィジャヤ|ヴィジャヤ]]王子がスリランカに上陸し、[[アヌラーダプラ王国]]を作ったとされる。王都は[[アヌラーダプラ]]に置かれた。 *[[紀元前3世紀]]: [[アショーカ王]]の王子[[マヒンダ]]が[[仏教]]を伝えたとされ、これ以後、[[上座部仏教]](テーラワーダ仏教)を主体として仏教が興隆し、その中心地となって、シンハラ人の多くは現在までその信仰を守ってきた。 *[[紀元前2世紀]]以降: 南インドから[[タミル|タミル人]]を主体とする断続的な移住者があり、現在のスリランカ・タミル人の原型を形成したと考えられる。 *[[5世紀]]: [[409年]]、中国、東晋の僧である[[法顕]]が来島、2年ほど過ごし『[[仏国記]]』に記録を残す。[[477年]]、[[アヌラーダプラ]]で父を殺した王子が[[シーギリヤ|シーギリアロック]]の岩山の頂に宮殿を築いて遷都して[[カッサパ1世]]となるも、数十年で王都を元に戻す。 *[[11世紀]]: 1017年、南インドの[[チョーラ朝]]の侵入により王都を放棄した。 *[[11世紀]]: 王国は[[アヌラーダプラ]]の南東90キロの[[ポロンナルワ]]に移動し、1070年にチョーラ朝の勢力は撃退され、繁栄の時代を迎えた。ポロンナルワが王都となる(1070年 - 1255年、1287年 - 1293年)。 *[[13世紀]]: 南インドでの動乱に伴い、[[チョーラ朝]]のタミル人の侵入が激しくなった。王都は北部から中部・南部に移動し、ダンバデニヤやヤーパフワを経て、[[スリジャヤワルダナプラコッテ|コーッテ]]でやや安定する。[[マルコ・ポーロ]]が来島し、『[[東方見聞録]]』に記録を残す。 *[[14世紀]]: [[イブン・バットゥータ]]が来島し、『[[三大陸周遊記]]』に記録を残す。 *[[15世紀]]: [[鄭和]]が1410年に来島し、形式上では[[明]]の[[朝貢国]]となった。中央部に[[キャンディ王国]](1469年 - 1815年)が成立し、[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]を王都とした。低地には[[コーッテ王国]](1371年 - 1597年)、北部には[[ジャフナ王国]](14世紀 - 1620年)があった。 *[[16世紀]]: [[1505年]]に[[ポルトガル人]]が[[コロンボ]]に商館を建設し植民地化([[ポルトガル領セイロン]]、1505年 - 1658年)<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=スリランカ民主社会主義共和国(Democratic Socialist Republic of Sri Lanka)|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/data.html|website=外務省|accessdate=2019-07-27|language=ja}}</ref>。植民都市[[ゴール (スリランカ)|ゴール]]も建設される。 *[[17世紀]]: [[1658年]]にオランダ人が来航。[[ポルトガル]]に代わり[[オランダ]]が植民地化([[オランダ領セイロン]]、1658年 - 1796年)。 *[[18世紀]]: [[イギリス]]の東インド会社がコロンボを占拠し植民地化を始める([[イギリス領セイロン]]、1796年 - 1948年)。 *[[1802年]]: イギリス本国の直轄植民地 (crown land) になり、[[アミアンの和約|アミアン講和条約]]でイギリスの領有が確定する<ref name=":0" />。 *[[1815年]]: イギリス軍は[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]に入り、王権は消滅した。[[ウィーン会議]]でオランダからイギリスへの譲渡が正式決定。 *[[1832年]]: コールブルックの改革( - 1833年)で、全土が均一に支配されるようになった。 *[[1891年]]: [[アナガーリカ・ダルマパーラ|ダルマパーラ]]が仏教の復興を目指す[[大菩提会]]を創立。 *[[1931年]]: {{仮リンク|ドナモア憲法|en|Donoughmore Constitution}}が制定され、アジア初の普通選挙法が施行された。 *[[1942年]]: [[セイロン沖海戦]]が勃発。イギリス海軍[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]の拠点であったコロンボ、トリンコマリーが、[[大日本帝国海軍]]により空爆される。 === 独立後 === [[ファイル:SL Independence.jpg|thumb|独立式典]] *[[1948年]]: 2月4日に[[イギリス連邦]]内の[[自治領]]([[英連邦王国]])として独立した。国名は[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]。[[統一国民党 (スリランカ)|統一国民党]] (UNP) の[[D. S. セーナーナーヤカ]]が首相に就任した。 *[[1949年]]: タミル人の[[選挙権]]を剥奪。 *[[1951年]]: [[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和会議]]において、セイロン代表として会議に出席していた[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ]]大蔵大臣(のちにスリランカ第2代大統領)は「憎悪は憎悪によって止むことはなく、[[愛]]によって止む」という[[仏陀]]の言葉を引用して、[[日本]]への戦時賠償請求を放棄する演説を行った<ref> 木立順一著 救国論.p.75.メディアポート.{{ISBN2| 978-4865581089}}(2015)</ref>。 *[[1956年]]: 総選挙で人民統一戦線が勝利し、[[スリランカ自由党]] (SLFP) の[[ソロモン・バンダラナイケ]]が首相に就任し、シンハラ語公用語法案を制定した。さらに、タミル人は[[公務員]]から排除された。このシンハラ・オンリーの政策によってタミル人との対立が高まり、のちの大規模な民族対立の原因となる。仏陀入滅2500年祭 (Bhuddha Jayanti) が開催され、シンハラ仏教ナショナリズムが高揚する。東部とコロンボでタミル人の民族暴動が起こる。 *[[1959年]]: ソロモン・バンダラナイケが仏教僧によって暗殺される。 *[[1972年]]: SLFPが選挙に勝利して、[[シリマヴォ・バンダラナイケ]]が首相に就任(世界初の[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]])。仏教を準国教扱いにする新憲法を発布した。[[共和制]]に移行し、国名を'''スリランカ共和国'''に改称。[[タミル・イーラム解放のトラ#LTTEの設立|タミルの新しいトラ]](TNT。LTTEの前身)が成立し、タミル人国家[[タミル・イーラム|イーラム]]樹立の要求を掲げて、分離独立運動を開始した。 *[[1977年]]: UNPが選挙に勝利し、[[ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ|ジャヤワルダナ]]が首相に就任。資本主義の導入、経済の自由化が始まる。 *[[1978年]]: [[議院内閣制]]から大統領が執行権を行使する[[大統領制]]に移行し、現国名に改称。 === 26年にわたる内戦 === {{Main|スリランカ内戦}} *[[1983年]]: シンハラ人とタミル人との大規模な民族対立が起こり、全土にわたって暴動が繰り返された。これ以後、2009年に至るまで長期間の内戦が継続した。シンハラ人と[[スリランカ・ムーア|ムーア人]]の対立、シンハラ人内部の対立も激化する。 *[[1984年]]: 首都を[[コロンボ]]からその南東15kmに位置する[[スリジャヤワルダナプラコッテ]]へ遷都。ただし行政庁舎は旧首都に留め置かれる。 *[[1987年]]: 反政府組織[[タミル・イーラム解放のトラ]] (LTTE) が独立宣言し、内戦が続いた。 7月にはスリランカ・インド平和協定が成立、インド平和維持軍(IKPF)がスリランカへ進駐したが状況は収束せず、散発的なテロが続き再び戦いが起こった。 11月には憲法が改正、公用語にタミル語が追加された。 *[[1988年]]: [[ラナシンハ・プレマダーサ]]が大統領に就任し、内戦の終結を画策したが失敗する(1993年に暗殺)。 *[[1989年]]: シンハラ人の急進派であった[[スリランカ人民解放戦線|人民解放戦線]](JVP。1967年成立)の指導者、{{仮リンク|ローハナ・ウィジェウィーラ|en|Rohana Wijeweera}}が殺害され、南部の治安が改善された。 *[[1990年]]: インド平和維持軍(IKPF)が完全に撤退する。 *[[1991年]]: インドの[[ラジーヴ・ガンディー]]元首相が暗殺。LTTEの犯行声明が出される。 *[[1994年]]: SLFPを主体とする[[人民連合 (スリランカ)|人民連合]] (PA) が選挙に勝利し、[[チャンドリカ・クマーラトゥンガ]]が首相となり、のちに大統領に選出される。 *[[2001年]]7月: LTTEにより[[バンダラナイケ国際空港襲撃事件]]が引き起こされる。 *[[2002年]]: [[ノルウェー]]の仲介によって、政府はLTTEとの停戦に合意した。その後、日本も仲介に乗り出す。 *[[2004年]]3月: LTTEの東部方面司令官であった{{仮リンク|ビニャガマムーシ・ムラリタラン|en|Vinayagamoorthy Muralitharan}}が同勢力を離脱、[[タミル人民解放の虎|カルナ派]]を立ち上げ。LTTEとの闘争状態に入る。 *2004年12月: [[スマトラ島沖地震 (2004年)|スマトラ島沖地震]]の津波により沿岸部に死者3万人以上という大きな被害を受ける。 {{Wikinews|スリランカ大統領選、ラージャパクサ首相が辛勝}} *[[2005年]]11月: [[マヒンダ・ラージャパクサ]]が大統領に就任。LTTEに対しては強硬姿勢を示す。 [[ファイル:Tractors. Jan 2009 displacement in the Vanni.jpg|thumb|260px|戦闘の激化により避難する人々]] *[[2006年]]7月: LTTEが東部[[バッティカロア県]]にて政府支配地域への農業用水を遮断したことを理由に政府軍が空爆を実施。戦闘が再燃<ref name="W_trend200908">{{Cite web|和書 |url = https://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/W_trend/200908.html |title = 現地リポート スリランカ—内戦終結 |work = アジ研ワールド・トレンド 2009年8月号 (No.167) |author = 荒井悦代|publisher=[[日本貿易振興機構|ジェトロ]]|date=2009年8月 |accessdate = 2013-05-28 }}</ref>。 *[[2007年]]7月:政府軍が[[東部州 (スリランカ)|東部州]]におけるLTTE最後の拠点であった{{仮リンク|トッピガラ|en|Kudumbimalai}}を攻略、同州からLTTE勢力を一掃する<ref>{{Cite web |url = http://www.reuters.com/article/2007/07/11/us-srilanka-capture-idUSCOL15933520070711 |title = Sri Lanka declares fall of rebel east, Tigers defiant |publisher = [[ロイター]] |language = 英語 |date = 2007-07-11 |accessdate = 2013-03-27 }}</ref>。 *2007年11月: LTTE本拠地である北部[[キリノッチ]]への空爆で、LTTEのナンバー2で政治部門トップであり、和平交渉の窓口であった{{仮リンク|スッパヤ・パラム・タミルセルバン|en|S. P. Thamilselvan}}が死亡<ref name="W_trend200908" />。 *[[2008年]]1月16日: 政府はLTTEとの停戦合意を正式に破棄すると発表。 *[[2009年]]1月: 政府軍はLTTEの本拠地[[キリノッチ]]を2日に、最後の都市拠点[[ムッライッティーヴー]]を25日に制圧。 *2009年5月17日: ムッライッティーヴーの海岸部を残して、LTTEの実効支配地域のほぼ全てが政府軍に制圧される。LTTEは事実上壊滅状態に陥り、LTTE側も{{仮リンク|セルバラサ・パスマナサン|en|Selvarasa Pathmanathan|label=セルバラサ}}広報委員長が事実上の敗北宣言である戦闘放棄声明を発表した。5月18日には、LTTEの最高指導者[[ヴェルピライ・プラブハカラン]]議長の遺体が発見され、政府はLTTEの完全制圧と内戦終結を宣言した<ref name="W_trend200908" />。 === 内戦終結後 === [[ファイル:Mahinda Rajapaksa 1.jpg|thumb|140px|第6代大統領[[マヒンダ・ラージャパクサ]]]] [[マヒンダ・ラージャパクサ]]大統領が[[タミル・イーラム解放のトラ|LTTE]]の制圧と内戦の終結を宣言し、四半世紀に及ぶ内戦は[[2009年]]5月に終了した。以後、ラージャパクサは内戦終結の功績を背景に政権の強化を図り、[[2010年]]1月には任期を前倒ししての大統領選挙により、内戦の司令官だった[[サラット・フォンセカ|フォンセカ]]前陸軍参謀長を破り再選を達成。同年9月には大統領の三選禁止条項を撤廃する憲法修正案も可決させるなど、大統領への集権化を進めた<ref name="mofa_geppo11_3_2">{{Cite web|和書 |url = https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/11_3_2.pdf |title = スリランカ武力紛争の軍事的解決がもたらしたもの-大統領への集権化と民族問題の政治的解決の停滞という逆説- |work = 外務省調査月報 2011/No.3||publisher=[[外務省]] |author = 村田真一 |date = 2011年 |accessdate = 2013-05-27 }}</ref>。一方、内戦終結後は[[国防省 (スリランカ)|国防省]]を国防・都市開発省と改称し、統一の実現と平和の到来とともに余剰となった戦力をインフラ整備にも動員した。復興需要ならびに観光業の復活から、2010年、2011年と[[国内総生産|GDP]]が8%台の成長を続けるなど、急速な経済発展が続いた<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.jetro.go.jp/jfile/report/07001315/lk_retail.pdf |title = 内戦終結後の小売市場 |publisher = [[日本貿易振興機構|ジェトロ]] |author = 崎重雅英 |date = 2012年12月 |work = ジェトロセンサー 2012年12月号 |accessdate = 2013-05-27 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/research/pdf/6159.pdf |title = 高成長続くスリランカ~投資主導型成長がベンガル湾全域に拡大へ~ |publisher = [[日本総合研究所 (株式会社)|日本総研]] |date = 2012-06-22 |accessdate = 2013-05-27 }}</ref>。 [[2014年]]11月、2年の任期を残したラージャパクサは、三選を企図して早期選挙を実施。しかし、与党[[スリランカ自由党|SLFP]]の[[幹事長]]で保健相の[[マイトリーパーラ・シリセーナ]]が政権を離脱、野党統一候補として立候補する事態となり、[[2015年]]1月の投票においてシリセーナに敗れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20150110-XUTISRMFXVJERHLCCHSU7PRNK4/|title=前保健相が現職破り勝利 中国依存を「浅はかな外交」と脱却目指す|publisher=[[産経新聞]]|date=2015-01-10|accessdate=2015-01-10}}</ref>。だが、大統領と首相の対立など政治的混乱に、経済成長の鈍化、さらに[[2019年]]には[[イスラーム過激派|イスラム過激派]]による[[スリランカ連続爆破テロ事件]]が起きる<ref>{{Cite web|和書|title=外務省 海外安全ホームページ|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcspotinfo_2019C052.html|website=外務省 海外安全ホームページ|accessdate=2019-04-22|publisher=外務省|archiveurl=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcspotinfo_2019C052.html|archivedate=2019-04-22}}</ref>など不安定な情勢が続き、[[マヒンダ・ラージャパクサ]]の弟の[[ゴーターバヤ・ラージャパクサ]]が第8代大統領に就任。マヒンダ自身も首相への復権を果たした。 === 経済危機と反政府運動 === [[ファイル:Anti-government protest in Sri Lanka 2022.jpg|thumb|大統領府前に集まる市民(2022年)]] {{Main|2022年スリランカ反政府運動}} しかし、[[2020年]]に[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの世界的流行]]が発生すると情勢が一変。主要産業である観光業が壊滅、ラージャパクサ政権時代に拡大した債務の返済に困窮するようになり、物価高と外貨不足から独立以来と言われる経済危機に陥る<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2022/ISQ202220_009.html|title=なぜ、スリランカで抗議行動は起きたのか? 経済危機から政治危機へ|publisher=JETRO|author=荒井悦代|date=2022年4月|accessdate=2022-06-30}}</ref>。大規模な抗議デモが相次ぎ、[[2022年]]7月にはゴーターバヤ政権が崩壊<ref name="jetro202207">{{Cite web|和書|url=https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2022/ISQ202220_028.html|title=スリランカの政治・経済危機――ラージャパクサ一族支配の崩壊か?|publisher=JETRO|author=荒井悦代|date=2022年7月|accessdate=2022-08-02}}</ref>。この間に首相から次いで第9代大統領へと就任した[[ラニル・ウィクラマシンハ]]は、7月5日に国家としての破産を宣言、[[国際通貨基金]] (IMF) に支援を要請した<ref name="jetro202207" />。これを受け、9月1日、IMFはスリランカに対し29億ドルの金融支援を行うことで暫定合意に達したと発表。ただし、この支援については国内の経済改革のほか、対外債務(中国、インド、日本など)の整理再編を行うことを前提条件とした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM010AX0R00C22A9000000/?ap=1&nf=1 |title=IMF、スリランカ支援で実務者合意 日中と債務削減交渉へ |publisher=日本経済新聞 |date=2022-09-01 |accessdate=2022-09-01}}</ref>。 2023年10月11日、スリランカと中国は42億ドル分の債務再編で合意した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-10-12/S2EFYFDWLU6801 |title=スリランカ、中国と6300億円分の債務再編で合意-IMF資金確保に道 |publisher=bloomberg |date=2023-10-12 |accessdate=2023-10-15}}</ref>。 == 政治 == [[ファイル:R Wickremasinghe.jpg|thumb|140px|[[ラニル・ウィクラマシンハ|ウィクラマシンハ]]大統領]] [[ファイル:Dinesh Gunawardena.jpg|thumb|140px|[[ディネーシュ・グナワルダナ|グナワルダナ]]首相]] {{Main|[[スリランカの政治]]}} {{See also|スリランカの大統領|スリランカ政府|スリランカの首相|スリランカ憲法}} [[国体]]は共和制。[[半大統領制]]と[[議院内閣制]]が混合した体制となっている。また、[[間接民主主義]]の色合いが強めとなっている。 [[国会 (スリランカ)|国会]]は総議席数225の一院制で、知識人や上流階級を基盤とする[[統一国民党 (スリランカ)|統一国民党]] (UNP) と農村部や労働者階級を基盤とする[[スリランカ自由党]] (SLFP) の[[二大政党制|二大政党]]を中心としつつ、タミル人の[[民族主義]]政党[[タミル国民連合]]や、[[共産主義]]政党でかつては武装闘争も展開した[[スリランカ人民解放戦線|人民解放戦線]] (JVP) といった[[ミニ政党|小政党]]も一定の立場を築いている。 {{see also|スリランカの政党}} [[1948年]]の独立以降、一貫して[[民主主義]]が維持されているが、他方で[[2005年]]の[[マヒンダ・ラージャパクサ]]政権以後、大統領の権力が強まり、[[2009年]]の[[スリランカ内戦|内戦]]最終局面での避難民や捕虜の取り扱い、[[2010年]]の大統領選挙に敗退した[[サラット・フォンセカ|フォンセカ]]元陸軍参謀総長の逮捕、同年の憲法の大統領の三選禁止条項の撤廃といった点から、西欧諸国からは[[人権]]上の問題を指摘されている<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Region/Asia/Radar/20100614.html |title = スリランカ—内戦終結から1年 |publisher = [[日本貿易振興機構|ジェトロ]] |author = 荒井悦代 |date = 2010年6月 |accessdate = 2013-05-27 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url = https://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-13797920100209 |title = スリランカ軍が前参謀長を逮捕、1月大統領選の野党統一候補 |date = 2010-02-09 |publisher = [[トムソン・ロイター|ロイター]] |accessdate = 2013-05-27 }}</ref><ref name="mofa_geppo11_3_2" />。[[2015年]]の[[マイトリーパーラ・シリセーナ]]政権下においては、こうしたラージャパクサ時代の政策の見直しが図られたが、大きな成果は上がらず<ref name="jstage2018">{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.24765/asiadoukou.2019.0_541|title=2018年のスリランカ 大統領による前代未聞の政変|publisher=日本貿易振興機構 アジア経済研究所|author=荒井悦代|doi=10.24765/asiadoukou.2019.0_541|date=2019 |volume=2019 |pages=541-564|accessdate=2019-11-18}}</ref>、[[2019年]]には[[ゴーターバヤ・ラージャパクサ]]政権が誕生した。しかしそのゴーターバヤ政権も[[2020年]]からの経済危機で崩壊し、[[2022年]]には[[ラニル・ウィクラマシンハ]]政権が誕生している<ref name="jetro202207" />。 歴代の指導者が放漫的な財政運営を行ってきたうえ、2010年代前半に行われた空港や港湾、高速道路の建設が国家の債務を急激に増加させた。スリランカの国の総債務は2017年現在で6兆4,000億円にのぼり、全政府収入の95%が借金の返済にあてられている。完済に400年かかるとされており、非現実的な状況に陥っている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-08-01|url= https://jp.reuters.com/article/idJP00093300_20170801_00920170801|title= スリランカ、中国「負債トラップ」が露呈 財政難に|publisher=ロイター |accessdate=2018-12-07}}</ref>。 == 国際関係 == {{Main|{{仮リンク|スリランカの国際関係|en|Foreign relations of Sri Lanka}}}} 外交面では、[[非同盟]]の立場を維持しつつ、歴史的・文化的にも関係が深い隣国[[インド]]と、政治や経済、安全保障上、極めて重要な国として良好な関係維持に努めている。また経済社会開発の観点から[[日本]]を含む先進諸国との関係強化を重視しているほか、近年は[[中華人民共和国|中国]]や[[パキスタン]]、[[イラン]]との関係も強化しており、[[2009年]]には[[1986年]]以降長らく最大の援助国であった日本に代わって、中国が最大の援助国となっている<ref>{{Cite web|和書 |url = https://www.sangiin.go.jp/japanese/kokusai_kankei/oda_chousa/h25/pdf/3-4.pdf |title = 第3章 IV.スリランカ民主社会主義共和国における調査 |work = 第10回参議院政府開発援助 (ODA) 調査派遣報告書 |publisher = [[参議院]] |format = PDF |date = 2013年12月 |accessdate = 2014-02-14 }}</ref>。南部[[ハンバントタ]]では中国の援助の下、大規模な[[ハンバントタ港|港湾]]・[[マッタラ・ラージャパクサ国際空港|空港]]整備が行われており、中国の進出を象徴するプロジェクトとなっている<ref name="jetro201203">{{Cite web|和書 |url = http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Seisaku/120323_01.html |title = スリランカの内戦をめぐる中国とインド |publisher = [[日本貿易振興機構|ジェトロ]] |author = 荒井悦代 |date = 2012年3月 |accessdate = 2013-03-18 }}</ref>。同港は2017年7月より99年間にわたり中国国有企業・招商局港口にリースされている<ref>{{Cite web|和書|title=(アジアに浸透する中国)99年租借地となっても中国を頼るスリランカ(荒井 悦代) |url=https://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2018/ISQ201820_021.html |website=アジア経済研究所 |access-date=2023-02-07 |language=ja |quote=スリランカのハンバントタ港が2017年7月より99年間にわたり中国国有企業・招商局港口にリースされることが決まった。このハンバントタ港をめぐる決定は中国による「債務の罠」の典型例と見なされている。すなわちインフラ建設などを行うために中国からふんだんに融資を受けたものの、施設が十分な利益を生むことはなく、借金が膨らみ、返済不能になり施設や土地を中国に明け渡さざるを得なくなった事例である。}}</ref>。 また、[[南アジア地域協力連合]] (SAARC) の原加盟国であり、2006年、[[東南アジア諸国連合地域フォーラム]] (ARF) にも加盟するなど、最近は南アジアや東南アジア諸国との協力関係強化にも力を入れている<ref name=":0" />。 === 日本との関係 === {{main|日本とスリランカの関係}} == 軍事 == {{Main|スリランカ軍}} スリランカ軍は[[スリランカ陸軍]]、[[スリランカ海軍]]、[[スリランカ空軍]]の3つの組織で構成されている。兵士は[[志願制度]]を採用しており、兵役適齢は18歳から49歳まで、総兵力は予備役も含めて25万5000人<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/data.html#section3|title=スリランカ基礎データ|accessdate=2021-03-07|publisher=[[外務省]]}}</ref>(2020年時点)。LTTE設立以後同組織との戦闘を繰り返してきた。 保有兵器は旧ソ連製、中国製のものが大半を占めており、[[69/79式戦車|69式戦車]]や[[J-7 (航空機)|J-7]]など旧式のものが多く、軍艦も哨戒艦などの小型艦船が主流で潜水艦や[[対潜哨戒機]]は保有していない。また、防空システムの構築も遅れており、2007年3月にLTTEが改造民間機を用いた攻撃を行った際には、コロンボの北35kmの地点にある[[バンダラナイケ国際空港|カトゥナーヤカ空軍基地]]への侵入を許し、爆撃を受け兵士3人が死亡し16人が負傷、軍用ヘリ数機が損傷し、整備棟の一部が損壊する被害を受けている。 == 地理・気候 == {{Main|セイロン島}} === 地理 === {{main|{{仮リンク|スリランカの地理|en|Geography of Sri Lanka|preserve=1}}}} [[ファイル:Ce-map-ja.gif|thumb|left|230px|スリランカの地図]] [[ファイル:Adams bridge map.png|thumb|230px|アダム橋]] [[セイロン島]]は[[インド洋]]にあり、[[ベンガル湾]]の南西、[[アラビア海]]の南東に位置する。[[インド亜大陸]]とは[[マンナール湾]]と[[ポーク海峡]]が隔てる。 ヒンドゥー教の神話では、インドとはラマと呼ばれる橋で結ばれていた。[[アダムスブリッジ|アダム橋]]と呼ばれる、ところどころ海面に顔を出す石灰岩礁が連なり、その昔完全な天然の陸橋であったが、1480年の嵐で壊れたとされている。ポーク海峡は狭く、インドからスリランカ海岸を望める。大型船舶には浅すぎるため島を迂回せざるを得ず、最初1860年に英政府が検討して以来、何度も運河の建設が検討されてきた。 島の北部は平坦地が続き、南部に向かうにつれて山地が多くなる。大きく分けると三分される。 第一は中央部から南部にかけての山岳・高原地帯で、最高峰は[[ピドゥルタラーガラ山]] (2,524m) で、[[アダムスピーク]]も含めて、2,000m級の山々が連なり、山麓に1,000m前後の高原が広がる。第二は標高300 - 900mの高原ベルト地帯で、山岳地帯の周辺部である。第三は海岸沿いの平地で、南西部では狭く、北部から東部にかけては平坦な土地が広がる。雨量の多い南部の中央高地から河川が放射状に流れ出し、最長の川は[[マハウェリ川]](全長335km)で、北東に流れてベンガル湾に注ぎ、海岸部に広い沖積平野を形成する。北部の[[ジャフナ半島]]は平坦地が続き、井戸水を利用して、地下水灌漑による農耕を行っている。 {{Clearleft}} === 気候 === [[ファイル:Sri Lanka Precipitation and Irrigation map.png|thumb|乾燥地帯 (dry zone) と湿潤地帯 (wet zone)]] 気候は熱帯性であり高温多湿で、海岸部・低地では年平均気温27 - 28°Cであるが、高地の気候は冷涼である。[[ヌワラ・エリヤ]](標高約1,890m)では年平均気温22°Cと、一年中常春のような気候である。気候の特色は[[モンスーン]]の影響が強いことで、年2回の季節風である南西モンスーンと北東モンスーンに伴い、季節に応じて降雨量が変化する。5月から9月にかけての南西モンスーンの時期はヤラ期 (yala) と呼ばれ、風が山岳地帯に遮られて島の南西部に多量の雨をもたらす。特に5 - 6月は大雨で、7 - 9月はやや減少する。ヤラ期には、北部から北東部は風下になり乾燥する。10月から12月は無風状態となって気団の影響で天候は不安定になり、全島で雨の多い日々が続く。11月から3月にかけての北東モンスーンの時期は、北東部を中心に1月までは雨が多い。このころ、南西部は1年で最も雨の少ない時期になる。3 - 4月は無風状態に入り、やや雨が増加する。 国土の全体は、年間降雨量75インチ(1,875ミリ)を基準として、乾燥地帯 (dry zone) と湿潤地帯 (wet zone) に大別され、乾燥地帯は北部から中部にかけてで国土の7割を占める。南部の湿潤地帯には総人口の3 - 4割が居住し、人口密度も高い。湿潤地帯では2回の雨季を利用して二期作が可能であるのに対して、乾燥地帯は1年に1回の雨季であるマハ期を主体に農業が営まれる。北部では大規模な溜池灌漑が展開し、用水と排水を分離せずに、灌漑水の反復利用率を高めることを目標とした「貯水システム」が確立していた。[[アヌラーダプラ]]や[[ポロンナルワ]]を中心に展開した古代の王国の基盤には権力による水系の管理体制があり、王都は水系の結節点にあり、仏教を精神の支柱とし、寺院が水利施設を統御することで高度の安定を保ちえた。しかし、13世紀末以降、王国は北部を放棄して南部に王都を移す。その原因は、侵入者による灌漑設備の破壊、気候の変化、土壌の劣化、病虫害、[[マラリア]]の蔓延、過剰開発などさまざまな理由が挙げられている。 == 地方行政区分 == [[ファイル:Sri Lanka provinces ja.png|thumb|250px|スリランカの州]] {{Main|スリランカの州|スリランカの県}} {{See also|スリランカの都市の一覧}} [[行政区画|地方行政区分]]として、スリランカの国土は9つの[[スリランカの州|州]]<ref>{{Cite web |url = http://www.priu.gov.lk/Cons/1978Constitution/Schedle_8_Amd.html |title = The Constitution of Sri Lanka – Eighth Schedule |publisher = Priu.gov.lk |accessdate = 17 July 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20141016025856/http://www.priu.gov.lk/Cons/1978Constitution/Schedle_8_Amd.html |archivedate = 2014年10月16日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>、25の[[スリランカの県|県]]に分けられている<ref>{{Cite web |url = http://www.priu.gov.lk/Cons/1978Constitution/Schedle_1_Amd.html |title = The Constitution of Sri Lanka – First Schedule |publisher = Priu.gov.lk |accessdate = 17 July 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20141016025819/http://www.priu.gov.lk/Cons/1978Constitution/Schedle_1_Amd.html |archivedate = 2014年10月16日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 === 州 === 州はスリランカにおいて[[19世紀]]から存在していた。しかしそれらは、[[1987年]]に行われた[[地方分権]]を意図した1978年憲法第13次改正による州議会設立まで、何の法的裏づけも持たない存在だった<ref name="official">{{Cite web |url = http://www.priu.gov.lk/ProvCouncils/ProvicialCouncils.html |title = Provincial Councils |work = The Official Website of the Government of Sri Lanka |date = 3 September 2010 |accessdate = 17 July 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090707214924/http://www.priu.gov.lk/ProvCouncils/ProvicialCouncils.html |archivedate = 2009年7月7日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。州議会は一定の[[自治権]]を持っており、いかなる省庁の下にも置かれていない。州の設立後は、それまで中央の省庁が担っていた活動の一部を州が担うようになった<ref name="official"/>。ただし、土地と警察行政に関する部分については引き続き中央政府の管理下に置かれている<ref name="landpolc">{{Cite web |url = http://www.indianexpress.com/news/lanka-heads-for-collision-course-with-india/802524/ |title = Lanka heads for collision course with India: Report |publisher = Indian Express |date = 12 June 2011 |accessdate = 26 August 2011 }}</ref><ref name="landpolc2">{{Cite web |url = http://www.peace-srilanka.org/index.php?option=com_content&view=article&id=296:accepting-reality-and-building-trust&catid=1:latest&Itemid=121 |title = Accepting reality and building trust |work = Jehan Perera |publisher = peace-srilanka.org |date = 14 September 2010 |accessdate = 26 August 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20101006012934/http://www.peace-srilanka.org/index.php?option=com_content&view=article&id=296%3Aaccepting-reality-and-building-trust&catid=1%3Alatest&Itemid=121 |archivedate = 2010年10月6日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。憲法改正直後の[[1988年]]から[[2006年]]にかけては、北部州と東部州は[[スリランカ内戦|内戦]]の和平協定の一環として合併しており、[[北東部州 (スリランカ)|北東部州]]とされていた<ref name="lnpx">{{Cite web |url = http://www.lankanewspapers.com/news/2006/10/8947.html |title = North-East merger illegal:SC |publisher = LankaNewspapers.com |date = 17 October 2006 |accessdate = 22 August 2009 }}</ref><ref name="norteastn">{{Cite web |url = http://southasiaanalysis.org/%5Cnotes4%5Cnote344.html |title = North East De-merger-At What Cost? Update No.107 |work = Hariharan, R. |publisher = southasiaanalysis.org |date = 19 October 2010 |accessdate = 26 August 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20100613022544/http://southasiaanalysis.org/notes4/note344.html |archivedate = 2010年6月13日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。1987年以前は、植民地時代と同様、すべての行政は[[スリランカの県|県]]を基準として行われていた。2012年現在、それぞれの州は選挙により選ばれた州議会により統治されている。 :{| class="sortable wikitable" |+スリランカの州 |-style="white-space:nowrap;" ![[スリランカの州]] ![[州都]] ![[面積]] (km{{sup|2}}) ![[人口]] |- |{{Display none|01/}}{{Flagicon|Central (SRI)}} [[中部州 (スリランカ)|中部州]] |[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]] |style="text-align:right"|5,674 |style="text-align:right"|2,556,774 |- |{{Display none|02/}}{{Flagicon|Eastern (SRI)}} [[東部州 (スリランカ)|東部州]] |[[トリンコマリー]] |style="text-align:right"|9,996 |style="text-align:right"|1,547,377 |- |{{Display none|03/}}{{Flagicon|North Central (SRI)}} [[北中部州]] |{{nowrap|[[アヌラーダプラ]]}} |style="text-align:right"|10,714 |style="text-align:right"|1,259,421 |- |{{Display none|04/}}{{Flagicon|Northern (SRI)}} [[北部州 (スリランカ)|北部州]] |[[ジャフナ]] |style="text-align:right"|8,884 |style="text-align:right"|1,060,023 |- |{{Display none|05/}}{{Flagicon|North Western (SRI)}} [[北西部州 (スリランカ)|北西部州]] |[[クルネーガラ]] |style="text-align:right"|7,812 |style="text-align:right"|2,372,185 |- |{{Display none|06/}}{{nowrap|{{Flagicon|Sabaragamuwa}} [[サバラガムワ州]]}} |[[ラトゥナプラ]] |style="text-align:right"|4,902 |style="text-align:right"|1,919,478 |- |{{Display none|07/}}{{Flagicon|Southern (SRI)}} [[南部州 (スリランカ)|南部州]] |[[ゴール (スリランカ)|ゴール]] |style="text-align:right"|5,559 |style="text-align:right"|2,465,626 |- |{{Display none|08/}}{{Flagicon|Uva}} [[ウバ州]] |[[バドゥッラ]] |style="text-align:right"|8,488 |style="text-align:right"|1,259,419 |- |{{Display none|09/}}{{Flagicon|Western (SRI)}} [[西部州 (スリランカ)|西部州]] |[[コロンボ]] |style="text-align:right"|3,709 |style="text-align:right"|5,837,294 |} :* 最左列のソートボタンで元の順序に戻る。 === 県とその他の自治体 === スリランカはまた25の[[スリランカの県|県]]にも分割される<ref name="distrsl">{{Cite web |url = http://www.ds.gov.lk/dis_sec/dis_eng/District_Secretariats.php |title = District Secretariats Portal |publisher = District an Divisional Secretariats |accessdate = 26 August 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20090513071439/http://www.ds.gov.lk/dis_sec/dis_eng/District_Secretariats.php |archivedate = 2009年5月13日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。それぞれの県は県事務所により運営されている。県はさらに256のDivisional Secretary地区(DS地区、[[郡]]と訳される<ref>{{Cite web|和書 |url = http://www2.jica.go.jp/ja/evaluation/pdf/2010_0602652_3_s.pdf |title = 評価調査結果要約表 |publisher = [[国際協力機構|JICA]] |accessdate = 2013-06-15 }}</ref>)に分割され、同様にDS地区は1万4,000ほどのGrama Niladhari地区(GN地区)に分割される<ref name="tstasgov">{{Cite web |url = http://www.statistics.gov.lk/GNcode/introduction.pdf |format = PDF |page = 3 |title = List of Codes for the Administrative Divisions of Sri Lanka 2001 |publisher = Department of Census and Statistics |accessdate = 26 August 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20110519151751/http://www.statistics.gov.lk/GNcode/introduction.pdf |archivedate = 2011年5月19日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。これらの県はシンハラ語ではDisa、タミル語ではMāwaddamとして知られている。Disa(通常英語ではDissavonyと表記される)は昔の[[公爵領]]に由来しており、特に[[マータレー]]とウバではそれが顕著である。県次官が県を統括する。 [[地方公共団体|地方自治体]]は3種類に分かれており、2004年時点で都市部に置かれるMunicipal Councilが18、半都市部のUrban councilが13、それに農村部のPradeshiya Sabha (''aka'' Pradesha Sabhai) 256自治体存在する<ref>{{Cite book|author = {{仮リンク|Commonwealth Secretariat|en|Commonwealth Secretariat|label = Commonwealth Secretariat}}|year = 2004|title = Commonwealth Local Government Handbook|place = London|isbn = 978-0-9542917-9-2|page = 146}}</ref>。これらの自治体はもともとkoraleとrataという封建時代の[[カウンティ]]に由来しており、以前はDivisional Revenue OfficerからD.R.O.地区として知られていた<ref>{{Cite book |author = Dilesh Jayanntha |year = 2006 |title = Electoral Allegiance in Sri Lanka |place = London |publisher = [[ケンブリッジ大学出版局]] |isbn = 978-0-521-02975-9 |pages = 82–85 }}</ref>。D.R.O.はのちにAssistant Government Agentsとなり、A.G.A.地区として知られるようになった。現在ではDivisional Secretaryとなっている。 {|class="wikitable" |+ スリランカの主要都市{{Nobold|<small>(2010年の国勢調査と推計値より)<ref>{{Cite web |url = http://world-gazetteer.com/wg.php?x=&men=gcis&lng=en&des=wg&geo=-3&srt=pnan&col=abcdefghinoq&msz=1500&geo=-127 |title = World Gazetteer online |publisher = World-gazetteer.com |accessdate = 21 September 2011 }}</ref></small>}} |- ![[スリランカの都市の一覧|順位]]!!都市名!![[スリランカの州|州]]!!人口 !![[スリランカの都市の一覧|順位]]!!都市名!![[スリランカの州|州]]!!人口 |- |align=center|1||align=left|'''[[コロンボ]]'''||[[西部州 (スリランカ)|西部州]]||752,933||align=center|11||align=left|'''[[バッティカロア]]'''||[[東部州 (スリランカ)|東部州]]||92,332 |- |align=center|2||align=left|'''[[デヒワラ・マウントラビニア]]'''||[[西部州 (スリランカ)|西部州]]||245,974||align=center|12||align=left|'''[[ジャフナ]]'''||[[北部州 (スリランカ)|北部州]]||88,138 |- |align=center|3||align=left|'''[[モラトゥワ]]'''||[[西部州 (スリランカ)|西部州]]||207,755||align=center|13||align=left|'''[[カトゥナーヤカ]]'''||[[西部州 (スリランカ)|西部州]]||76,816 |- |align=center |4||align=left |'''[[スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ]]'''||[[西部州 (スリランカ)|西部州]]||135,806||align=center|14||align=left|'''[[ダンブッラ]]'''||[[中部州 (スリランカ)|中部州]]||68,821 |- |align=center|5||align=left|'''[[ニゴンボ]]'''||[[西部州 (スリランカ)|西部州]]||127,754|| align=center|15||align=left |'''[[コロンナーワ]]''' ||[[西部州 (スリランカ)|西部州]]||64,887 |- |align=center|6||align=left|'''[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]''' || [[中部州 (スリランカ)|中部州]] || 125,351||align=center|16||align=left | '''[[アヌラーダプラ]]''' || [[北中部州]] || 63,208 |- |align=center|7||align=left|'''[[カルムナイ]]'''|| [[東部州 (スリランカ)|東部州]]||106,783||align=center|17||align=left|'''[[ラトゥナプラ]]'''||[[サバラガムワ州]]||52,170 |- |align=center|8||align=left|'''[[バブニヤ]]'''||[[北部州 (スリランカ)|北部州]]||99,653||align=center|18||align=left|'''[[バドゥッラ]]''' || [[ウバ州]]||47,587 |- |align=center|9||align=left|'''[[ゴール (スリランカ)|ゴール]]''' || [[南部州 (スリランカ)|南部州]]||99,478||align=center|19||align=left|'''[[マータラ]]'''||[[南部州 (スリランカ)|南部州]]||47,420 |- |align=center|10||align=left|'''[[トリンコマリー]]'''||[[東部州 (スリランカ)|東部州]]||99,135||align=center|20||align=left|'''[[プッタラム]]'''||[[北西部州 (スリランカ)|北西部州]]||45,401 |} <gallery> ファイル:Colombo - Lake.jpg|[[コロンボ]] ファイル:Sri Lanka - 029 - Kandy Temple of the Tooth.jpg|[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]] ファイル:Galle Fort.JPG|[[ゴール (スリランカ)|ゴール]] ファイル:Jaffna library.jpg|[[ジャフナ]] </gallery> == 経済 == [[ファイル:Sri Lanka Export Treemap.png|thumb|色と面積で示したスリランカの輸出品目 (ツリーグラフ)]] {{Main|{{仮リンク|スリランカの経済|en|Economy of Sri Lanka}}}} [[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2019年]]の1人あたりの名目GDPは3,852ドルほどで、南アジアでは[[モルディブ]]に次いで第2位と、域内では経済が発達している国である。 イギリス植民地時代の[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけて、スリランカは[[シナモン]]、[[天然ゴム]]、[[紅茶]]といった作物の[[プランテーション]]経済下にあった。これらの作物は現在でも同国の主要な輸出品目として残っている<ref name="plnyn">{{Cite web |url = http://www.historyofceylontea.com/articles/tea_feat_echoes_plantation_economy.html |title = Echoes of a Plantation Economy |publisher = historyofceylontea.com |accessdate = 2012-12-08 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20110204030851/http://historyofceylontea.com/articles/tea_feat_echoes_plantation_economy.html |archivedate = 2011年2月4日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 同時代に行われた近代的な港湾開発により、スリランカは貿易の中継点として戦略的に重要な価値を持つことになった<ref name="startim">{{Cite web |url = http://www.asiapacificdefencereporter.com/articles/53/The-Strategic-Importance-of-Sri-Lanka-to-Australia |title = The Strategic Importance of Sri Lanka to Australia |publisher = asiapacificdefencereporter.com |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。[[1948年]]から[[1977年]]にかけては、政府により[[社会主義]]に強く影響された経済政策がとられた。植民地的なプランテーションの多くが解体され、産業の[[国有化]]や[[福祉国家論]]に基づく政策が進められた。1977年に[[資本主義]]の導入、[[自由市場|経済の自由化]]がなされ、国営企業の[[民営化]]や[[規制緩和]]、それに民間企業の育成が進められた<ref name="filbrn">{{Cite web |url = http://www.fulbrightsrilanka.com/?page_id=561 |title = Sri Lanka – an Overview |publisher = [[フルブライト・プログラム|Fulbright commission]] |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。 茶や天然ゴム、[[コーヒー]]、[[砂糖]]といった作物の生産・輸出はいまだこの国において重要なポジションを占めるが、産業化により食品加工や[[繊維]]産業、[[電気通信]]それに[[金融]]といった分野の重要性も増加している。スリランカの主な経済部門は[[観光業|観光産業]]、茶の栽培、繊維産業、それに[[稲作]]やその他農産業である。これらの部門に加えて、[[中東]]地域を中心とする海外への[[出稼ぎ]]もこの国の経済に大きく寄与している<ref name="treasry">{{Cite web |url = http://www.treasury.gov.lk/reports/annualreport/AnnualReport2010-eng.pdf |title = Annual Report 2010 |publisher = Ministry of Finance – Sri Lanka |year = 2011 |accessdate = 2012-12-08 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20111201012336/http://www.treasury.gov.lk/reports/annualreport/AnnualReport2010-eng.pdf |archivedate = 2011年12月1日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。[[2010年]]の調査では、こうしたサービス部門がGDPの6割を占めており、鉱工業部門は28%、農業部門は12%であった<ref name="treasry"/>。また経済の85%を民間部門の活動が占めている<ref name="adbrep">{{Cite web |url = http://www.adb.org/Documents/CPSs/SRI/2008/CPS-SRI-2009-2011.pdf |format = PDF |page = 1 |title = Country Partnership Strategy |publisher = [[アジア開発銀行]] |year = October 2008 |accessdate = 2012-12-08 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20131115144722/http://www2.adb.org/Documents/CPSs/SRI/2008/CPS-SRI-2009-2011.pdf |archivedate = 2013年11月15日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。隣国インドはスリランカの最大の貿易相手国である<ref name="ionflof">{{Cite web |url = http://www.infolanka.com/news/IL/1521.htm |title = 65th Independence Day of India celebrates in Sri Lanka |publisher = InfoLanaka |year = August 2011 |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。国内では地域によって経済格差があり、首都の位置する[[西部州 (スリランカ)|西部州]]がGDPの45.1%を生み出しており、[[南部州 (スリランカ)|南部州]]や[[中部州 (スリランカ)|中部州]]といった他の州は10.7%と10%といった数値に留まっている<ref name="ecdisp">{{Cite web |url = http://sundaytimes.lk/110717/BusinessTimes/bt24.html |title = Western Province share of national GDP falling: CB |publisher = Sunday Times |date = 17 July 2011 |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。[[2009年]]に終結した[[スリランカ内戦|内戦]]からの復興が進んでおり、終結の翌2010年には、戦場となった[[北部州 (スリランカ)|北部州]]で22.9%という高いGDP成長率が記録された<ref name="northpr">{{Cite web |url = http://www.asiantribune.com/news/2011/07/18/sri-lanka%E2%80%99s-northern-province-has-recorded-highest-gdp-growth-rate-229-cent-last-yea |title = Sri Lanka's Northern province has recorded the highest GDP growth rate of 22.9 per cent last year |publisher = {{仮リンク|Asian Tribune|en|Asian Tribune}} |date = 18 July 2011 |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。 1人あたりのGDPは、[[2005年]]からの5年間で約2倍へと成長しており<ref name="toplsl">{{Cite web |url = http://www.tops.lk/article35231-parliament-per-capita-income-has-doubled.html |title = Per capita income has doubled |publisher = tops.lk |year = May 2011 |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>、この期間に[[貧困線|貧困率]]は15.2%から7.6%に、失業率は7.2%から4.9%に、[[コロンボ証券取引所]]の[[時価総額]]は4倍へと成長した<ref name="treasry"/>。90%の家庭が電化されており、人口の87.3%が安全な飲料水を利用可能で、39%には[[水道]]により水が供給されている<ref name="treasry"/>。格差も同様に縮小しており、2010年の[[ジニ係数]]は0.36となっている<ref name="statgovineq">{{Cite web |url = http://www.statistics.gov.lk/poverty/PovertyIndicators2009_10.pdf |page = 3 |title = Inequality drops with poverty |publisher = Department of Census and Statistics |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。[[携帯電話]]の利用者数も、2005年から2010年で550%もの急成長をみせている<ref name="treasry"/>。スリランカは、南アジアで最初に[[第3世代移動通信システム|3G]]、3.5G [[High-Speed Downlink Packet Access|HSDPA]]、3.75G [[High-Speed Uplink Packet Access|HSUPA]]、それに[[第4世代移動通信システム|4G]] [[Long Term Evolution|LTE]]による[[モバイルブロードバンド]]が導入された国である<ref name="voindnt">{{Cite web |url = http://voicendata.ciol.com/content/top_stories/111083007.asp |title = Saarc: Sri Lanka Takes a Lead |publisher = voicendata.ciol.com |date = 31 August 2011 |accessdate = 2012-12-08 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20120608192339/http://voicendata.ciol.com/content/top_stories/111083007.asp |archivedate = 2012年6月8日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。 [[世界経済フォーラム]]が発行する[[国際競争力レポート]]2011年版では、スリランカ経済を労働力と天然資源に依存した段階 (factor-driven stage) から工業化が進展した段階 (efficiency-driven stage) への過渡期と分析しており、その国際競争力は調査対象の世界142か国中52位であると報告している<ref>{{Cite journal |url = http://www3.weforum.org/docs/WEF_GCR_Report_2011-12.pdf |pages = 326–327 |author = Schwab, Klaus |year = 2011 |title = The Global Competitiveness Report 2011–2012 |publisher = World Economic Forum |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。また保健医療と初等教育の分野では45位、ビジネスの洗練性では32位、イノベーションでは42位、そして市場効率性では41位との報告も行われている。[[ニューヨーク・タイムズ]]は2010年、世界31か所の観光地の中でスリランカをその第1位に選出した<ref>{{Cite news |url = http://www.nytimes.com/2010/01/10/travel/10places.html |title = The 31 Places to Go in 2010 |work = The New York Times |date = 24 January 2010 }}</ref>。[[ダウ・ジョーンズ]]は2010年、スリランカを[[エマージング・マーケット]](新興国市場)へと分類し、同様に[[シティグループ]]は2011年2月、成長が見込まれる{{仮リンク|3G (国)|en|3G (countries)|label=3G国}}へと分類した<ref>{{Cite web |author = Joe Weisenthal |url = http://www.businessinsider.com/willem-buiter-3g-countries-2011-2?slop=1 |title = 3G Countries |publisher = Businessinsider.com |date = 22 February 2011 |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。スリランカは[[人間開発指数]] (HDI) においても他の南アジア諸国より良い数値を付けており、その指数は0.696である<ref>{{Cite web |url = http://hdrstats.undp.org/images/explanations/LKA.pdf| page = 2 |title = Explaining HDI value and rank changes in Human Development Report 2010 |publisher = [[国際連合開発計画|UNDP]] |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。 しかし、5年間の間に貧困率が半分に削減されたとはいえ、1日2ドル未満で暮らす広義の[[貧困|貧困層]]となると2011年時点でいまだ566万人が該当すると推定されており、これは国民のおよそ25%に相当する<ref>{{Cite web |url = http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf |title = Poverty in Asia and the Pacific: An Update |publisher = [[アジア開発銀行]] |date = 2011-11 |format = PDF |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。幼児の[[栄養失調]]はいまだ問題とされており、5歳以下の子供の29%が体重が不足しているとの報告がなされている<ref>{{Cite web |url = http://www.unicef.org/srilanka/activities_1667.htm |title = Malnutrition: The situation |publisher = [[国際連合児童基金|UNICEF]] |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。また58%の幼児が6か月から11か月の間、38%の子供が12か月から23か月の間[[貧血]]に見舞われる。蚊が媒介する[[デング熱]]が現在でも主要な感染症として残りつつも<ref>{{Cite news |url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/8138917.stm |title = Sri Lanka dengue eradication push |publisher = BBC |date = 9 July 2009 }}</ref>、{{仮リンク|非感染性疾患|en|non-communicable disease}}(NCD、[[生活習慣病]])も体調不良や障害、早逝の85%を占めるほど拡大している<ref>{{Cite web |url = http://www.worldbank.org/en/news/2012/05/16/non-communicable-diseases-sri-lanka |title = Tackling Non-Communicable Diseases in Sri Lanka |publisher = [[世界銀行]] |accessdate = 2012-12-08 }}</ref>。スリランカの[[平均寿命]]は77.9歳で、この数値は世界の平均より10%ほど高い<ref name="treasry"/>。しかし、[[乳児死亡率]]は1,000人あたり8.5人、[[妊産婦死亡率]]は同0.39人であり、この統計はまだ開発途上国の数値である。 また2014年現在、スリランカ北東地域では[[衛星携帯電話]]は持ち込み禁止であり利用できない<ref>{{Cite web|和書|title=イリジウム衛星携帯電話 {{!}} 衛星通信・衛星電話 {{!}} 法人・ビジネス向け {{!}} KDDI株式会社|url=https://www.kddi.com/business/satellite/iridium/mobile/|website=www.kddi.com|accessdate=2019-07-27}}</ref>。 2017年に、99年間にわたる南部[[ハンバントタ港]]運営権を中華人民共和国に譲渡、軍事利用しないという契約だが、中国の[[一帯一路]]政策の重要港湾拠点となる。 同年、スリランカ政府は「Vision 2025」と題した8カ年計画を発表。年1人あたり所得をUS$5,000に改善し、百万人の雇用の創出、海外直接投資額US$50億/年までの増加、そして輸出額US$200億/年までの倍増を目標としている<ref>「[https://www.meti.go.jp/meti_lib/report/H29FY/000031.pdf スリランカ: スリランカにおける 日本工業団地の開発可能性調査 調査報告書]」2018年、新日本有限責任監査法人</ref>。 2020年から始まった[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界的な新型コロナウイルスの感染拡大]]は、スリランカの[[観光業]]を直撃するとともに外貨の流入を減少させることとなった。スリランカ政府は年間45億ドルの[[対外債務]]を返済しなければならず、外貨の流失を防ぐ目的で多数の品目について輸入規制を実施したが、品目にはスリランカ料理に不可欠な[[ターメリック]]が含まれており価格高騰が生じて市民生活を直撃した。政府は2021年も輸入規制を行うこととしており、ターメリックの流通量不足については国内栽培を強化する方針を示した<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-16 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3331974 |title=スリランカ、ターメリック輸入規制 債務不履行回避のため |publisher=AFP |accessdate=2021-02-16}}</ref>。 2021年、スリランカは対外債務の支払いとコロナ禍による経済の低迷により[[外貨準備高]]が対前年度比で7割も激減した。同年10月には[[イラン]]石油公社に支払う代金5億ドルを支払うことができず、特産品の紅茶により[[バーター取引]]を行った。またスリランカ外務省は外貨の節約を理由に在[[ナイジェリア]]大使館、[[ドイツ]]の[[フランクフルト]]、[[キプロス]]の[[ニコシア]]にある領事館を同年12月31日から一時閉鎖した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASPDX4W3ZPDWUHBI02B.html?iref=pc_photo_gallery_bottom |title=領事館を閉鎖、支払いは茶葉で…スリランカ、外貨準備の不足が深刻に |publisher=朝日新聞DIGITAL |date=2021-12-28|accessdate=2021-12-28}}</ref>。 ついには、2022年7月5日には国家としての破産を宣言した<ref>{{Cite web|和書|title=スリランカ中銀が利上げ 首相は「破産国家」宣言(写真=ロイター) |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM0733D0X00C22A7000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-07-07 |access-date=2023-02-07 |language=ja |quote=ウィクラマシンハ首相が5日には同国を「破産国家」と述べるほど経済危機は深刻で、国際通貨基金(IMF)に要請している金融支援も先行きが見通せない状況だ。}}</ref>。 === 農業 === {{Main|{{仮リンク|スリランカの農業|en|Agriculture in Sri Lanka}}}} [[ファイル:Sri Lanka-Tea plantation-02.jpg|thumb|紅茶の[[プランテーション]]]] [[ファイル:Paddysrilanka.jpg|thumb|left|スリランカ山間部の棚田]] 産業全体において農業が占める比率やGDP比で9.9%<ref name=":1">[http://www.maff.go.jp/j/kokusai/kokusei/kaigai_nogyo/k_gaikyo/attach/pdf/lka-3.pdf 「平成29年11月3日更新 スリランカの農林水産業概況」]''農林水産省''</ref>。[[水田]]稲作中心で、南部では天水農業、北部では溜池灌漑、ジャフナ半島では井戸水灌漑で栽培する。農耕の生産暦では南部では雨に合わせてヤラ期は4月に播種、7 - 9月に刈り取る。マハ期は8 - 10月にかけて播種し、2 - 3月に刈り取る。植民地時代のプランテーションの影響が残り、低地の標高200メートル程度まではココナッツ、標高500メートルまではゴム、それ以上の標高では[[紅茶]]の生産が盛んである。 茶の生産量では世界第4位(2014年)<ref name=":1" />であり、スリランカ産[[紅茶]]は[[セイロンティー]]と呼ばれ、世界に輸出される名産品である。しかし、この茶栽培は、病気({{仮リンク|コーヒーさび病|en|Hemileia vastatrix}})によって壊滅的打撃を受けた[[コーヒー]]栽培の代替であったことはあまり知られていない。現在では、ごく少量ではあるがコーヒーの栽培が復活している。 スリランカ人の主食であるコメは自給率120%を達成したと言われており、2012年より中東、アフリカなどへの輸出を開始している<ref name=":1" />。 スパイス類の生産も盛んであり、特に[[シナモン]]はスリランカの特産品として知られている。シナモンの生産量は世界4位、全世界の生産量の8%を占めている。 ==== 有機革命 ==== 2021年5月、[[ゴーターバヤ・ラージャパクサ|ゴータバヤ・ラージャパクサ]][[スリランカの大統領|大統領]]は[[化学肥料]]の輸入を禁止し、[[有機農業]]を推進した<ref>{{Cite web|和書|title=セイロン紅茶の危機? スリランカ有機革命の波紋|url=https://news.livedoor.com/article/detail/20853846/|website=ライブドアニュース|accessdate=2021-12-14|language=ja}}</ref>。生産量低下による経済状況の悪化や大量の失業者が出ると懸念され、また9月には為替レートの低下、食料価格の高騰によるインフレ率の上昇、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの世界的流行]]による観光業の制限などによる国の収入の減少に伴い政府が「経済緊急事態」を発表<ref>{{Cite news|title=Covid: Sri Lanka in economic emergency as food prices soar|url=https://www.bbc.com/news/business-58390292|work=BBC News|date=2021-09-01|accessdate=2021-12-14|language=en-GB}}</ref>。10月には輸入の全面禁止も取り止めとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/biznews/2021/10/49d22f9572f7183a.html|title=スリランカ、化学肥料の輸入禁止を一部解禁へ|publisher=[[日本貿易振興機構|JETRO]]|date=2021-10-26|accessdate=2021-12-15}}</ref>。 == 交通 == [[ファイル:Train Coming into the Station at Sri Lanka.jpg|thumb|スリランカの鉄道]] [[ファイル:Srilankan a340-300 4r-adf arp.jpg|thumb|right|スリランカ航空 A340型機]] {{Main|スリランカの交通}} スリランカの[[交通]]網は、主にスリランカ最大の都市[[コロンボ]]を中心とした[[道路]]網により構成される。多くの道路は細く状態も悪いが、コロンボやその近郊の主要な道路は比較的良い状態に保たれている。[[2011年]]にはスリランカ初となる[[高速道路]]がコロンボと南部の[[ゴール (スリランカ)|ゴール]]の間に開通しており、さらなる路線拡大が進められている。スリランカで最も一般的な[[公共交通機関]]は、こうした道路網を利用する[[バス (交通機関)|バス]]である。公営・民営それぞれのバスが存在しており、都市と農村の両地域において運行されている。 === 鉄道 === {{Main|スリランカの鉄道}} スリランカの[[鉄道]]網は[[イギリス領セイロン|イギリス植民地時代]]の遺産に大きく依存しており、今日では国内の物流に占める割合は限られている。スリランカにおいて鉄道はすべて政府により運行されている。鉄道の総延長は約1,420kmで、道路網と同様にコロンボを起点とした鉄道網が整備されている<ref>{{Cite web |url = http://www.railway.gov.lk/web/index.php?option=com_content&view=article&id=138&Itemid=176&lang=en |title = About us - Overview |publisher = [[スリランカ鉄道局]] |date = 2011-09-27 |accessdate = 2012-12-07 }}</ref>。山がちな[[セイロン島]]では小回りの利かない広いゲージを採用するのは不利であるようにも思われるが、[[軌間]]にはインドと同じ1676&nbsp;mmの[[広軌]]が用いられている。 === 航空 === {{main|Category:スリランカの航空|スリランカの空港の一覧}} スリランカの空の玄関は、コロンボから北に約35kmの[[カトゥナーヤカ]]に位置する[[バンダラナイケ国際空港]]である。スリランカのナショナル・[[フラッグ・キャリア]]である[[スリランカ航空]]が、同空港を[[ハブ空港]]とした[[アジア]]路線と[[ヨーロッパ]]路線を就航している。[[2013年]]には南部[[ハンバントタ]]に第2[[国際空港]]となる[[マッタラ・ラージャパクサ国際空港]]が開港した。また2012年現在、コロンボ南部の[[ラトゥマラナ空港]]も国際化が図られている。 国内便はあまり発展していないが、国内に多数存在する空軍基地や湖沼を活用した[[水上飛行場|水上空港]]を結ぶチャーター便が運行されている。 == 国民 == [[ファイル:Distribution of Languages and Religious groups of Sri Lanka 1981.jpg|thumb|220px|言語・宗教別の民族分布(1981年)<br />{{Color|Purple|紫}}:[[シンハラ人]]([[仏教]])<br />{{Color|#ffcc00|黄}}:[[タミル]]人([[ヒンドゥー教]])<br />{{Color|Green|緑}}:[[スリランカ・ムーア|ムーア人]]([[イスラム教]])<br />{{Color|Red|赤}}:シンハラ人/タミル人([[キリスト教]])]] {{Main|{{仮リンク|スリランカの人口統計|en|Demographics of Sri Lanka}}}} 2012年現在、スリランカは世界で57番目に人口が多い国であり、その人口増加率は0.73%<ref>{{cite web |url = http://data.worldbank.org/indicator/SP.POP.GROW |title = Population growth (annual %) |work = [[世界銀行]] |accessdate = 12 August 2006 }}</ref>、[[出生率]]は1,000人あたり17.6人で[[死亡率]]は同6.2人である<ref name="treasry2">{{cite web |url = http://www.treasury.gov.lk/reports/annualreport/AnnualReport2010-eng.pdf |format = PDF |title = Annual Report 2010 |publisher = Ministry of Finance – Sri Lanka |year = 2011 |accessdate = 1 September 2011 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20111201012336/http://www.treasury.gov.lk/reports/annualreport/AnnualReport2010-eng.pdf |archivedate = 2011年12月1日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>。国内では西海岸の[[人口密度]]が高く、特に首都周辺に人口が集中している。 === 民族構成 === 2012年の統計では、総人口約2,027万人のうち[[シンハラ人]]は1,517万人 (74.9%)、[[タミル|タミル人]]は311万人 (15.4%)、[[スリランカ・ムーア|ムーア人]]が187万人 (9.2%)、混血の[[バーガー人]]とユーラシアンが3万7千人、その他に含められる[[先住民]]の[[ヴェッダ人]]などとなっている。タミル人の内部も、古代以来の移住で形成されたスリランカ・タミル(227万人)と、19世紀半ばにイギリスが南インドからプランテーション経営のために労働者として連れてこられたインド・タミル(84万人)に分かれる。ムーア人も9-10世紀ごろに島に住み着いたアラブ系の人々を主体とするスリランカ・ムーアと、インドから移住してきたインド・ムーアに分かれる。統計上では、マレーシアから傭兵として連れてこられた[[マレー人]](4万人)が計上されている。[[ヴェッダ人]]は統計上ではその他(2万2千人)に含められている<ref>{{Cite web |url = http://www.statistics.gov.lk/PopHouSat/CPH2011/index.php?fileName=pop42&gp=Activities&tpl=3|title = A2 : Population by ethnic group according to districts, 2012 |work = Census of Population and Housing 2011|publisher=スリランカ統計局 |language = 英語,シンハラ語,タミル語 |accessdate = 2013-01-19 }}</ref>。 === 言語 === {{main|{{仮リンク|スリランカの言語|en|Languages of Sri Lanka}}}} [[シンハラ語]]と[[タミル語]]は国語にして[[公用語]]であり、連結語として[[英語]]も憲法上認められている。日常的にはほとんどの国民がそれぞれの民族語(シンハラ人は[[シンハラ語]]、タミル人は[[タミル語]])を使っている。この他に[[バーガー人]]やユーラシアンと呼ばれる英語を母語にする人が国民の1割いる。彼らは[[コロンボ]]に集住しており、スリランカ社会における指導的役割を担っている。バーガー人はポルトガル人やオランダ人の男性と現地女性との混血、ユーラシアンはイギリス人の男性と現地女性との混血である。ムーア人は主にタミル語を使用する。[[ヴェッダ人]]は独自の言語([[ヴェッダ語]]、ただしこのヴェッダ語ですらすでにシンハラ語基盤の[[クレオール言語]]である)を持っていたとされるが、シンハラ人との同化が進み、話者は現在、いるとしてもごく少数と見られる。 === 宗教 === [[ファイル:SL Kandy asv2020-01 img34 Sacred Tooth Temple.jpg|thumb|[[スリランカの仏教]]を象徴する[[ダラダー・マーリガーワ寺院]](佛歯寺)]] {{Main|{{仮リンク|スリランカの宗教|en|Religion in Sri Lanka}}}} {{bar box |title = スリランカの宗教 |titlebar = #ddd |left1 = 宗教 |right1 = パーセント |float = left |bars = {{bar percent|仏教|#FFDF00|70.19}} {{bar percent|ヒンドゥー教|#FF4500|12.61}} {{bar percent|イスラム教|#009000|9.71}} {{bar percent|キリスト教|#9955BB|7.45}} |caption=出典: 2011年人口・住宅センサス<ref name="CPH2011_2">{{cite web |url = http://www.statistics.gov.lk/PopHouSat/CPH2011/Pages/Activities/Reports/cph2011Pub/pop43.pdf |title = Sri Lanka Census of Population and Housing, 2011 - Population by Religion |publisher = Department of Census and Statistics, Sri Lanka |date = 20 April 2012 |accessdate = 2012-11-03 }}</ref> }} 国民の7割を[[仏教]]が占める。2番目に多いのは[[ヒンドゥー教]]だが、その他に[[スリランカのイスラム教|イスラム教]]、[[キリスト教]]も1割弱存在する。 シンハラ人とタミル人の中には、[[キリスト教徒]]もいる。特にシンハラ人の[[漁師]]は、仏教の[[五戒]]のひとつ「不殺生戒」を守ることができないため、キリスト教に帰依しているものが多い。 ムーア人やマレー人はイスラム教である。[[バーガー人]]やユーラシアンはキリスト教徒である。独立後の民族紛争、1983年の大規模な民族対立以来、ヒンドゥー教徒のタミル人と仏教徒のシンハラ人の対立が深まっているとされるが、民族と宗教を結びつけて考える動きは近代になって生み出された言説である。 {{Clearleft}} === 教育 === [[ファイル:Sarachchandra Theatre.jpg|thumb|[[ペラデニヤ大学]]の{{仮リンク|サラッチャンドラ野外劇場|en|Sarachchandra open air theatre}}。[[劇作家]]{{仮リンク|エディリヴィーラ・サラッチャンドラ|en|Ediriweera Sarachchandra}}を記念して名づけられた]] {{Main|スリランカの教育}} スリランカの[[識字|識字率]]は92.5%であり<ref name="treasry3">{{Cite web |url = http://www.treasury.gov.lk/reports/annualreport/AnnualReport2010-eng.pdf |title = Annual Report 2010 |publisher = Ministry of Finance – Sri Lanka |year = 2011 |accessdate = 2012-11-21 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20111201012336/http://www.treasury.gov.lk/reports/annualreport/AnnualReport2010-eng.pdf |archivedate = 2011年12月1日 |deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref>、これは[[開発途上国]]としては極めて高い水準である<ref>{{Cite journal |title = Problems of Illiteracy in a Literate Developing Society: Sri Lanka |author = Gunawardena, Chandra |year = 1997 |volume = 43 |issue= 5/6 |pages = 595–609 |journal = International Review of Education |jstor = 3445068 |doi = 10.1023/A:1003010726149 }}</ref>。青年の識字率では98%<ref>{{Cite web |url = http://www.indexmundi.com/facts/sri-lanka/literacy-rate |title = Sri Lanka – literacy rate |publisher = indexmundi.com |accessdate = 2012-11-21 }}</ref>、[[コンピュータ・リテラシー]]は27.5%<ref>{{Cite web|url=http://www.lankabusinessonline.com/sri-lanka-computer-literacy-at-27-5-pct-digital-literacy-growing/|title=Sri Lanka computer literacy at 27.5-pct: Digital literacy growing|accessdate=2019-04-21|publisher=Lanka Business Online}}</ref>、[[小学校]](プライマリースクール)への進学率は99%である<ref>{{Cite web |url = http://www.unicef.org/infobycountry/sri_lanka_statistics.html |title = Sri Lanka – Statistics |publisher = [[国際連合児童基金|UNICEF]] |accessdate = 2012-11-21 }}</ref>。教育制度として、全国すべての子供に9年間の[[義務教育]]を適用している。[[無償教育]]の制度が成立したのは[[1945年]]のことで<ref>{{Cite book |author = De Silva, K.M. |title = A Short History of Sri Lanka |publisher ={{仮リンク|カリフォルニア大学出版|en|University of California Press}} |year = 1981 |place = Los Angeles |page = 472 |isbn = 0-520-04320-0 }}</ref>、これは{{仮リンク|C. W. W. Kannangara|en|C. W. W. Kannangara}}とA.ラタナーヤカの活動によるものである<ref name="daynwsl2">{{Cite web |url = http://www.dailynews.lk/2009/06/08/fea26.asp |title = Honouring the Father of Free Education |work = The Daily News |accessdate=2011-09-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130518031057/http://www.dailynews.lk/2009/06/08/fea26.asp |archivedate=2013-05-18 |deadlinkdate=2015-11 }}</ref><ref>{{Cite web |url = http://transcurrents.com/tc/2009/10/who_was_father_of_free_educati.html |title = Who was "Father" of free education in Sri Lanka?: C.W.W. Kannangara or A. Ratnayake? |publisher = Trans Currents |accessdate = 2012-11-21 }}</ref>。スリランカは、世界でも数少ない[[初等教育]]から[[高等教育]]まで、すべての教育が無償な国のひとつである<ref>{{Cite web |url = http://countrystudies.us/sri-lanka/46.htm |title = Education: Traditional and Colonial Systems |publisher = {{仮リンク|Library of Congress Country Studies|en|Library of Congress Country Studies}}|accessdate = 2012-11-21 }}</ref>。 Kannangaraは農村の子供たちに教育を施すために、{{仮リンク|Madhya Maha Vidyalaya|en|Madhya Maha Vidyalaya}}(セントラルスクール)の設立を主導した<ref name="daynwsl2"/>。[[1942年]]、特別教育委員会は国民のための効率的で質の高い教育システムを構築するため広範な改革を提案した。しかし、[[1980年代]]に入りこのシステムは中央政府が管理するものと州政府が管理するものの2つへと分割された。その結果、エリートの{{仮リンク|国立学校 (スリランカ)|en|National school (Sri Lanka)|label=国立学校}}は中央の[[教育省 (スリランカ)|教育省]]の管轄に置かれ、州の学校は州政府の管轄に置かれることとなった。2010年現在、スリランカにはおおよそ9,675の公立学校と、817の私立学校そして仏教学校({{仮リンク|ピリウェナ|en|Pirivena}})が存在する<ref name="treasry3"/>。[[国立大学]]は全土に15校存在する<ref>{{Cite web|url = http://www.ugc.ac.lk/downloads/statistics/stat_2010/Chapter1.pdf|page = 3|title = Sri Lanka University Statistics 2010|publisher = {{仮リンク|大学認可委員会 (スリランカ)|en|University Grants Commission (Sri Lanka)|label=University Grants Commission}}|accessdate = 2012-11-21}}</ref>。しかしながら、教育システムは労働市場が必要とする人材とのミスマッチ、教育格差、中等教育から高等教育への進学が困難といった問題を抱えている<ref>{{Cite web |url = http://portal.unesco.org/geography/fr/files/10905/12353682765Sri_Lanka.pdf/Sri%2BLanka.pdf |pages = 3–4 |title = Facing Global and Local Challenges: The New Dynamics for Higher Education – Sri Lanka Country Report |publisher = [[国際連合教育科学文化機関|UNESCO]] |accessdate = 2012-11-21 }}</ref>。近年では、いくつかの私立校がこのギャップを埋めるための役割を果たしているが、高等教育におけるその割合はまだわずか5.1%ほどである<ref>{{Cite web|url = http://www.ugc.ac.lk/en/statistics/educational-indicators.html|title = Educational Indicators 1980–2009|publisher = {{仮リンク|大学認可委員会 (スリランカ)|en|University Grants Commission (Sri Lanka)|label = University Grants Commission}}|accessdate = 2012-11-22|archiveurl = https://web.archive.org/web/20110716152237/http://www.ugc.ac.lk/en/statistics/educational-indicators.html|archivedate = 2011年7月16日|deadlinkdate = 2017年9月}}</ref>。 === 保健 === {{Main|{{仮リンク|スリランカの保健|en|Health in Sri Lanka}}}} {{See also|{{仮リンク|スリランカの医療|en|Healthcare in Sri Lanka}}}} スリランカには無料の[[ユニバーサルヘルスケア|国民皆保険制度]]が存在する<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK316262/ Chapter 10Primary Health Care Reforms in Sri Lanka: Aiming at Preserving Universal Access to Health] NCBI - National Center for Biotechnology InformationSupport Center</ref>。 {{節スタブ}} == 治安 == {{main|{{仮リンク|スリランカにおける犯罪|en|Crime in Sri Lanka}}}} {{See also|{{仮リンク|スリランカにおける人権|en|Human rights in Sri Lanka}}}} 同国の治安は一概に安定しているとは言い切れない。同国警察の発表によれば、2017年(暦年)の[[犯罪]]認知件数は約3万6千件であり、対前年度では約10%減となっているが、[[殺人]]事件がスリランカ全土で約450件(未遂を除く)発生しており、人口当たりの発生率は日本の3倍以上となっている。 また、最大都市のコロンボや主要観光都市を中心に[[スリ]]、[[置き引き]]などの一般犯罪が発生している他に[[外国人]]が[[強盗]]や[[性犯罪]]などの凶悪事件に巻き込まれる事例も報告されている。 さらには[[違法薬物取引|違法薬物犯罪]]も増加傾向にあり、渡航や滞在に当たっては他国と治安情況が異なってくることを認識しつつトラブルに巻き込まれないよう充分な注意が必要とされてくる<ref>[https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcsafetymeasure_006.html#ad-image-0 スリランカ安全対策基礎データ] [[日本外務省]]海外安全ホームページ</ref>。 == 文化 == [[ファイル:Vavuniya Kavadi.JPG|thumb|ヒンドゥーの{{仮リンク|カヴァディ|en|Kavadi}}祭([[バブニヤ]])]] {{Main|{{仮リンク|スリランカの文化|en|Culture of Sri Lanka}}}} {{See also|{{仮リンク|スリランカの国の象徴|en|National symbols of Sri Lanka}}}} スリランカには2500年の歴史に裏づけされた文化が存在する<ref>{{Cite web |url = http://www.reddottours.com/53/culture-and-history-activity-profile.htm |title = Sri Lankan culture and history |publisher = reddottours.com |accessdate = 2012-11-22 }}</ref>。それは主に[[仏教]]と[[ヒンドゥー教]]の影響を受けたものである<ref name="precol">{{Cite web |url = http://www.panix.com/~kendra/tea/precolonial_history.html |title = Pre-Colonial Sri Lankan History |publisher = panix.com |accessdate = 2012-11-22 }}</ref>。しかし他にも、たとえばイスラムの伝承では[[エデンの園]]を追放された[[アダムとイヴ]]がこの島を訪れたとしている<ref name="nub94">{{Harvnb|Nubin|2002|p=94}}</ref>。この島の主な文化としては、古都[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]や[[アヌラーダプラ]]を中心とする[[シンハラ人]]の文化と、[[ジャフナ]]を中心とする[[タミル|タミル人]]の文化、2つの伝統文化が根付いている。さらに現代では、[[イギリス]]の植民地文化にも大きな影響を受けている。また、スリランカには[[民主主義]]の伝統も宿っているとされる<ref name="nub94"/>。 最初のタミル人の移住は紀元前3世紀ごろだとみられている<ref name="precol"/>。それ以後、シンハラ人とタミル人は共存を続けており、2つの民族集団は物理的にはその境界はほとんど曖昧になっている<ref>{{Harvnb|Nubin|2002|p=97}}</ref>。古代スリランカには優れた灌漑技術と建築技術が存在していたことが記録されている。豊かな伝統文化はこの国の長い[[平均余命]]と発達した医療、それに高い識字率に支えられている<ref name="nub94"/>。 === 食文化 === {{Main|スリランカ料理}} [[ファイル:000213 Sinhalesische Küche in Galle (2012).JPG|left|thumb|スリランカの代表料理ライス・アンド・カレー]] スリランカの料理としては、ライス・アンド・カレー、{{仮リンク|ピットゥ|en|puttu}}、[[キリバット]]、[[ロティ]]、[[ストリング・ホッパー|インディ・アーッパ]]、ワッタラッパン(マレーを起源とする[[ココナッツミルク]]、ジャガリー、[[カシューナッツ]]、卵、それにシナモンや[[ナツメグ]]といったスパイスから作るプディング状のデザート)、{{仮リンク|コットゥ|en|kottu}}、それに[[ホッパー (料理)|アーッパ]]といったものが存在する<ref name="simplysl">{{Cite book |author = Jayakody, Padmini |title = Simply Sri Lankan |publisher = Lulu.com |page = 3 |place = [[オーストラリア]] |isbn = 978-1-4092-1942-2 }}</ref>。[[パラミツ]](ジャックフルーツ)は時々ライス・アンド・カレーの代わりに食される。伝統的な食事では、[[プランテン|プランテンバナナ]]の葉に乗せて提供される。食べ方は、[[箸]]や[[ナイフ]]や[[フォーク (食器)|フォーク]]を使わず、さまざまな味のカレーを混ぜて右手の指で摘んで食べるスタイルである。 スリランカ料理には、中東からの影響として伝統的な[[スリランカ・ムーア|ムーア人]]の料理が含まれている。またオランダとポルトガルの影響もあり、[[バーガー人]]の伝統的な料理としてランプレイス(米などをバナナの葉に包んで蒸し焼きにしたもの)、Breudher(オランダの[[クリスマスケーキ]])、Bolo Fiado(ポルトガル風のケーキ)、Gum Billas(オランダ風のハチミツでコーティングしたお菓子)といった料理も食されている。 [[酒]]に関しては、仏教の[[五戒]]のひとつ「不飲酒戒」と法律の規制があるため、販売場所・販売時間が厳格に決まっており、ポヤ([[満月]]の日)は酒の販売が一切禁止されるため、飲酒に関しては厳しい一面もある。飲食店では、酒の販売をしていない店で、外から酒の持ち込みを許容している店もある。 紅茶の産地ということもあり、スリランカでは[[紅茶]]が親しまれている。家庭では朝晩に紅茶を飲み、ティータイムの文化も定着している。 === 文学 === {{Main|{{仮リンク|スリランカ文学|en|Sri Lankan literature}}}} {{節スタブ}} === 芸術 === {{main|{{仮リンク|スリランカの視覚芸術|en|Visual arts of Sri Lanka}}}} {{節スタブ}} === 音楽 === {{Main|{{仮リンク|スリランカの音楽|en|Music of Sri Lanka}}}} {{節スタブ}} === 建築 === {{Main|{{仮リンク|スリランカの建築|en|Architecture of Sri Lanka}}|{{仮リンク|古代スリランカの建築|en|Architecture of ancient Sri Lanka}}}} スリランカの建築は、現在に至るまで多種多様な建築形態と形式を示している。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === [[ファイル:SL Anuradhapura asv2020-01 img11 Ruwanwelisaya Stupa.jpg|thumb|ルワンワリサーヤ仏塔([[アヌラーダプラ]])]] [[ファイル:SL Sinharaja Forest asv2020-01 img08.jpg|thumb|[[シンハラジャ森林保護区]]]] {{Main|スリランカの世界遺産}} スリランカ国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が2件ある。 ;文化遺産 :聖地[[アヌラーダプラ]](1982年)、古代都市[[ポロンナルワ]](1982年)、古代都市[[シーギリヤ]](1982年)、聖地[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]](1988年)、[[ゴールの旧市街と要塞]](1988年)、[[ダンブッラの黄金寺院]](1991年) ;自然遺産 :[[シンハラジャ森林保護区]](1988年)、[[スリランカの中央高地]](2010年) === 祝祭日 === 4月には{{仮リンク|シンハラ人の新年|en|Sinhalese New Year|label=仏教}}と{{仮リンク|タミル人の新年|en|Puthandu|label=ヒンドゥー教}}でそれぞれ新年が祝われる<ref name="dersl">{{Cite book|author=Wickremeratne, Swarna|year=2006|title=Buddha in Sri Lanka: remembered yesterdays|publisher=Suny Press|page=31|isbn=978-0-7914-6881-4}}</ref>。7~8月には、古都[[キャンディ (スリランカ)|キャンディ]]で[[エサラ・ペラヘラ祭]]というスリランカ仏教における象徴的なお祭りがあり、これはおおよそ1か月間にわたって行われる<ref name="esalasl">{{Cite book|author=Dassanayake, M. B.|year=1970|title=The Kandy Esala perahera: Asia's most spectacular pageant|publisher=Lake House Bookshop|page=7|place=[[コロンボ]]}}</ref>。祭りでは飾り付けられた象とともに、ファイアーダンス、ウィップダンス、[[キャンディアンダンス]]それに様々な他の文化のダンスが繰り広げられる。その他、タミル人には{{仮リンク|タイ・ポンガル|en|Thai Pongal}}、[[マハー・シヴァラトリー]]が、[[ムスリム]]は[[ハッジ]]、[[ラマダーン]]といった行事があり、毎年祭事が催される。表の日付は2019年のもの<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jetro.go.jp/world/asia/lk/holiday.html|title=祝祭日 - スリランカ|publisher=[[日本貿易振興機構|ジェトロ]]|date=2019-05-15|accessdate=2019-07-27}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.pubad.gov.lk/web/eservices/images/stories/holiday_calendar/bank_holidays-2013.pdf|title=Bank Holidays, Public Holidays & Full Moon Poya Days - 2013|publisher=スリランカ行政・総務省|date=2013|format=PDF|language=英語|accessdate=2013-02-04}}</ref>。 {| class="wikitable" |+祝祭日 !日付!!日本語表記!!英語表記 |- |1月15日 |{{仮リンク|タイ・ポンガル|en|Thai Pongal|label=タミル豊穣祭}} |Tamil Thai Pongal Day |- |2月4日 |独立記念日<ref>{{Cite web|和書|url=https://spiceup.lk/independenceday/|title=スリランカ・独立記念日の過ごし方|accessdate=2021-03-01|publisher=スリランカ観光情報サイト Spice Up|date=2021-02-03}}</ref> |National Day |- |3月4日 |ヒンズー教神聖日 |Mahasivarathri Day |- |4月13日・14日 |シンハラ・タミル元日 |Sinhala & Tamil New Year Day |- |4月19日 |[[聖金曜日]] |Good Friday |- |5月1日 |[[メーデー]] |Mayday |- |5月満月とその翌日 |[[ウェーサーカ祭|ウェサック]]・ポヤ・デー (仏陀の生誕・成道・涅槃の日) |Vesak Full Moon Poya Day |- |6月満月 |ポソン・ポヤ・デー(仏教伝来の日) |Poson Full Moon Poya Day |- |6月5日 |[[ラマダーン]]明け大祭 |Id-Ul-Fitr (Ramazan Festival Day) |- |7月満月 |エサラ・ポヤ・デー |Esala Full Moon Poya Day |- |8月12日 |[[犠牲祭]](ハジ祭) |Id-Ul-Alha (HadjiFestival Day) |- |10月27日 |[[ディワリ]](ヒンズー教新年祭) |Dewali(Deepavali) |- |11月10日 |[[預言者生誕祭]](モハメッド生誕日) |Milad-un-Nabi(Muhammad's Birthday) |- |12月25日 |[[クリスマス]] |Christmas Day |} == スポーツ == {{main|スリランカのスポーツ}} {{See also|オリンピックのスリランカ選手団}} === クリケット=== [[ファイル:Kumar Sangakkara bat in hand.JPG|thumb|200px|歴代屈指のクリケット選手である[[クマール・サンガッカラ]]]] {{main|{{仮リンク|スリランカのクリケット|en|Cricket in Sri Lanka}}}} [[クリケット]]が最も人気の[[スポーツ]]となっている<ref>[http://archives.dailynews.lk/2008/10/02/spo12.asp Can Sri Lanka form an invincible cricket team?] Daily news 2023年9月18日閲覧。</ref>。[[1832年]]には同国に既に伝わっており、[[イギリス]]の[[植民地]]時代だった[[1882年]]には最初の非公式国際試合が行われた。[[1937年]]からはクラブ対抗の国内選手権も行われており、[[1982年]]からは公式のテスト・マッチに参加するようになった。 1990年代から大きな成功を収めるようになり、[[1996年]]には[[1996 クリケット・ワールドカップ|クリケット・ワールドカップ]]で初優勝し、2014年の[[ICC T20ワールドカップ]]でも初優勝した。他にも2007年と2011年のクリケット・ワールドカップで準優勝、2009年と2012年のT20ワールドカップで準優勝を経験している。2020年には[[トゥエンティ20]]方式のプロリーグである{{仮リンク|ランカ・プレミアリーグ|en|Lanka Premier League}}が開幕した。強豪国の一角となっており、[[国際クリケット評議会]]のフルメンバーにもなっている。[[ムティア・ムラリタラン]]は、クリケットの歴史の中でも最も偉大な[[ボウリング (クリケット)|ボウラー]]であり<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/cricket/2572069.stm Murali 'best bowler ever'] BBC. 2020年6月19日閲覧。</ref>、[[クマール・サンガッカラ]]は世界有数の[[バッツマン]]である<ref>[https://www.bbc.co.uk/programmes/articles/2V6BjFgdJ5KcfVHhR3bwBLz/the-greatest-cricketer-of-all-time-your-votes-revealed The Greatest Cricketer of All Time – your votes revealed!] BBC. 2020年6月15日閲覧。</ref>。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|スリランカのサッカー|en|Football in Sri Lanka}}}} スリランカでは近年クリケットを凌ぐ勢いで[[サッカー]]の人気が上昇しており、[[2018年]]に[[国際サッカー連盟]](FIFA)の助言と支援を受けて、[[2021年]]に念願のプロサッカーリーグである「[[スリランカ・スーパーリーグ]]」が創設された。当初は[[2020年]]に開催される予定であったが、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]により延期されていた。 [[スリランカサッカー連盟]](FFSL)によって構成される[[サッカースリランカ代表]]は、[[FIFAワールドカップ]]および[[AFCアジアカップ]]への出場歴はないものの、[[南アジアサッカー選手権]]では[[1995年]]大会で優勝している。また、[[AFCチャレンジカップ]]では[[AFCチャレンジカップ2006|2006年大会]]で準優勝に輝いている。 == 著名な出身者 == {{Main|{{仮リンク|スリランカ人の一覧|en|List of Sri Lankan people}}}} * [[アントン・ウィッキー]] - [[教授|国際比較学者]] * [[パヌサンタ・クレンティラン]] - [[サッカー選手]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!-- === 注釈 === {{Reflist|group=注釈}} === 出典 === --> {{Reflist|30em}} == 参考文献 == *[[杉本良男]](編)『もっと知りたいスリランカ』[[弘文堂]]、1987。 *[[杉本良男]](編)『アジア読本ースリランカー』[[河出書房新社]]、1998。 *杉本良男・高桑史子・鈴木晋介(編著)『スリランカを知るための58章』[[明石書店]]、2013。 *澁谷利雄・高桑史子(編)『スリランカー人々の暮らしを訪ねてー』段々社、2003。 *[[岩田慶治]]・井狩彌介・[[鈴木正崇]]・[[関根康正]]『スリランカの祭』[[工作舎]]、1982。 *[[鈴木正崇]]『スリランカの宗教と社会ー文化人類学的考察ー』[[春秋社]]、1996。 *川島耕司『スリランカと民族ーシンハラ・ナショナリズムの形成とマイノリティ集団ー』[[明石書店]]、2006。 *木立順一「日本の国家分断を防いだ魂の演説」『救国論』、メディアポート、2015。ISBN 978-4865581089 == 関連項目 == * [[スリランカ関係記事の一覧]] * [[スリランカの世界遺産]] * [[スリランカの仏教]] * [[タミル・イーラム]] * [[タミル人]] - [[シンハラ人]] * [[セイロン島]] * [[スリランカのスポーツ]] * [[サッカースリランカ代表]] * [[借金漬け外交|借金漬け外交(債務の罠)]] == 外部リンク == {{Commons&cat|Sri_Lanka|Sri_Lanka}} {{Wikivoyage|Sri_Lanka|スリランカ{{en icon}}}} * スリランカ政府 ** [https://www.gov.lk/ スリランカ民主社会主義共和国政府] {{en icon}}{{si icon}}{{ta icon}} ** [https://www.slembassyjapan.com/ 在日スリランカ大使館] {{ja icon}}{{en icon}} ** [https://www.immigration.gov.lk/ スリランカ民主社会主義共和国 出入国管理局]{{si icon}}{{en icon}}{{ta icon}} * [[日本国政府]] ** [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/srilanka/ 外務省 - スリランカ]{{ja icon}} ** [https://www.lk.emb-japan.go.jp/itprtop_ja/index.html 在スリランカ日本国大使館]{{ja icon}} ** [https://www.forth.go.jp/destinations/country/srilanka.html 厚生労働省検疫所 - スリランカ]{{ja icon}} ** [https://www.jetro.go.jp/world/asia/lk/ JETRO - スリランカ] {{ja icon}} * 観光 ** [[ウィキトラベル]]旅行ガイド - [https://wikitravel.org/ja/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AB スリランカ] ** [https://www.eta.gov.lk/slvisa/visainfo/center.jsp?locale=ja_JP 出入国管理局 電子旅行認可 (ETA)]{{ja icon}} *その他 ** {{Osmrelation|536807}} ** {{Wikiatlas|Sri_Lanka}} {{en icon}} ** {{Googlemap|スリランカ}} ** [https://wwwnc.cdc.gov/travel/destinations/traveler/none/sri-lanka アメリカ疾病予防管理センター - スリランカ]{{en icon}} ** {{Kotobank}} {{アジア}} {{イギリス連邦}} {{南アジア地域協力連合}} {{Normdaten}} {{coord|7|N|81|E|region:LK_type:country|display=title}} {{デフォルトソート:すりらんか}} [[Category:スリランカ|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:島国]] [[Category:共和国]] [[Category:イギリス連邦加盟国]] [[Category:国際連合加盟国]]
2003-03-19T01:26:06Z
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1月20日
1月20日(いちがつはつか、いちがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から20日目に当たり、年末まであと345日(閏年では346日)ある。 西暦年が4で割り切れる年の翌年のこの日、アメリカ合衆国で大統領の就任式が行われる。
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{{カレンダー 1月}} '''1月20日'''(いちがつはつか、いちがつにじゅうにち)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から20日目に当たり、年末まであと345日([[閏年]]では346日)ある。 西暦年が4で割り切れる年の翌年のこの日、[[アメリカ合衆国]]で[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[アメリカ合衆国大統領就任式|就任式]]が行われる。 == できごと == * [[1226年]]([[嘉禄]]元年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[鎌倉幕府]]が[[評定衆]]を設置する{{要出典|date=2021-03}}。 * [[1265年]] - [[シモン・ド・モンフォール]]の主導で、[[ウェストミンスター宮殿]]にて全国から選出された貴族の代表者が会合。最初の[[イギリス]]国会と看做すこともある。 * [[1320年]] - [[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]が[[ポーランド国王|ポーランド王]]に即位。 * [[1777年]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[ミルストーンの戦い]]行われる。 * [[1841年]] - [[イギリス]]が[[香港]]を占領。 * [[1891年]] - [[国会議事堂|帝国議会議事堂]](第一次仮議事堂)が漏電により全焼 * [[1892年]] - [[マサチューセッツ州]][[スプリングフィールド (マサチューセッツ州)|スプリングフィールド]]の[[キリスト教青年会|YMCA]]訓練校で、同校講師[[ジェームズ・ネイスミス]]が考案した[[バスケットボール]]の初の公式試合が行われる。 * [[1917年]] - [[インドネシア]]の[[バリ島]]で[[マグニチュード|M]]6.8の地震、約1300人死亡。 * [[1918年]] - [[大正7年豪雪]]により、[[山形県]][[朝日村 (山形県)|朝日村]](現・[[鶴岡市]])の大鳥鉱山で雪崩が発生。死者154人<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pref.yamagata.jp/documents/18856/2021bousaicalendar2.pdf |title=山形県防災カレンダー |publisher=山形県 |date=2020 |accessdate=2021-08-27}}</ref>。 * [[1924年]] - [[阪神電気鉄道|阪神]]伝法線(現・[[阪神なんば線]])の[[伝法駅]]〜[[大物駅]]間が開業。 * [[1924年]] - [[国共合作#第一次国共合作|第一次国共合作]]が成立。 * [[1925年]] - [[日ソ基本条約]]が締結される。 * [[1927年]] - [[春秋社]]「[[世界大思想全集 (春秋社)|世界大思想全集]]」創刊。 * [[1932年]] - 福岡県[[飯塚市]]が市制施行。 * [[1936年]] - [[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]が[[イギリス]][[国王]]に即位。 * [[1937年]] - [[フランクリン・ルーズベルト]]米大統領の2期目の任期が始まる。[[アメリカ合衆国憲法修正第20条|憲法修正第20条]]が初めて適用され、任期開始が[[3月4日]]から1月20日に変更。 * [[1941年]] - フランクリン・ルーズベルト米大統領が、史上初めて3期目に突入。1945年の同日に4期目に入る。 * [[1942年]] - [[ヴァンゼー会議]]で[[ホロコースト]]が最終決定。 * [[1944年]] - [[第二次世界大戦]]: [[イギリス空軍]]が[[ベルリン]]空襲。2,300トンの爆弾を投下。 * [[1945年]] - 第二次世界大戦: [[ハンガリー]]が[[枢軸国]]から離脱。 * [[1953年]] - [[ドワイト・D・アイゼンハワー]]が第34代[[アメリカ合衆国大統領]]に就任。 * [[1954年]] - 戦後日本初の[[日本の地下鉄|地下鉄]]路線として、[[帝都高速度交通営団|営団地下鉄]](現:[[東京地下鉄|東京メトロ]])[[東京メトロ丸ノ内線|丸ノ内線]]の[[池袋駅]] - [[御茶ノ水駅]]間が開業(同時に[[渋谷駅]] - [[浅草駅]]間の旧地下鉄線を「[[東京メトロ銀座線|銀座線]]」に改名)。 * [[1955年]] - [[飯田線]][[田本駅]] - [[門島駅]]間で電車が落石に乗り上げて脱線転覆。[[天竜川]]へ転落して死者2人、重軽傷27人<ref>「電車が天竜川に転落 飯田線の鉄橋で」『日本経済新聞』昭和30年1月20日</ref>。 * [[1956年]] - 将棋の[[王将戦]]で[[升田幸三]]が[[大山康晴]]名人を相手に香を引いて勝利。 * [[1961年]] - [[ジョン・F・ケネディ]]が第35代アメリカ合衆国大統領に就任。 * [[1969年]] - [[リチャード・ニクソン]]が第37代アメリカ合衆国大統領に就任。 * 1969年 - [[東大紛争]]: [[東京大学]]が入学試験の中止を決定。 * [[1976年]] - 大和運輸(後の[[ヤマト運輸]]。法人としては現在の[[ヤマトホールディングス]])が「[[宅急便]]」のサービスを開始。 * [[1977年]] - [[ジミー・カーター]]が第39代アメリカ合衆国大統領に就任。 * [[1979年]] - [[奈良市]]で『[[古事記]]』の編者[[太安万侶]]の墓誌が出土。 * [[1980年]] - ジミー・カーター米大統領が[[モスクワオリンピック]][[ボイコット]]の方針を[[アメリカオリンピック委員会]]に伝達。 * [[1981年]] - [[ロナルド・レーガン]]が第40代アメリカ合衆国大統領に就任。 * 1981年 - [[イランアメリカ大使館人質事件]]: 人質52人が444日ぶりに解放。 * 1981年 - 郵便料金が値上げ。[[はがき]]が20円から30円([[3月31日]]まで。[[4月1日]]からは40円)に、[[封書]]が50円から60円になる。 * [[1986年]] - [[天王星]]の[[衛星]]「[[コーディリア (衛星)|コーディリア]]」と「[[オフィーリア (衛星)|オフィーリア]]」を[[ボイジャー2号]]が撮影した写真の中から発見。 * [[1987年]] - [[ズ・ダン号事件]]が発生。 * [[1989年]] - [[ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・ブッシュ]]が第41代アメリカ合衆国大統領に就任。 * [[1992年]] - [[エールアンテール148便墜落事故]]。 * [[1993年]] - [[ビル・クリントン]]が第42代アメリカ合衆国大統領に就任。 * [[1996年]] - [[ヤーセル・アラファート]]が[[パレスチナ自治政府]]議長に選出。 * [[2001年]] - [[ジョージ・W・ブッシュ]]が第43代アメリカ合衆国大統領に就任。 * [[2003年]] - 第65代横綱[[貴乃花光司]]が引退。 * [[2009年]] - [[バラク・オバマ]]が第44代アメリカ合衆国大統領に就任。アメリカ史上初の[[黒人]]の大統領。<!-- 出典はリンク先(この場合は[[バラク・オバマ]])にあるので、こちらはいいです --> * [[2015年]] - [[ISILによる日本人拘束事件]]:[[ISIL]](IS)が日本国民と日本政府に向けたビデオを発信し、メンバーと思われる男性が72時間以内に2億ドルの身代金の支払いがないと人質を殺害すると述べた事件が起こった<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150120/k10014825031000.html |title=「イスラム国」邦人殺害警告か 身代金要求 |accessdate=2015-01-23 |publisher=NHK |date=2015-01-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150120071020/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150120/k10014825031000.html |archivedate=2015-01-20}}</ref>。 * [[2017年]] - [[ドナルド・トランプ]]が第45代アメリカ合衆国大統領に就任し、同国の[[環太平洋戦略的経済連携協定]](TPP)脱退を表明<ref>{{cite news|url=http://jp.reuters.com/article/trump-becomes-president-idJPKBN1542GA|title=トランプ新大統領がTPP脱退表明、「米国第一主義」推進へ|publisher=ロイター通信|date=2017-01-21|accessdate=2017-01-21}}</ref>。 * [[2021年]] - [[ジョー・バイデン]]が第46代アメリカ合衆国大統領に就任<ref>{{Cite news|url=https://www.bbc.com/japanese/55741921|title=ジョー・バイデン氏が第46代アメリカ大統領に就任|newspaper=[[BBC]]|date=2021-1-21|accessdate=2021-01-21}}</ref>。 == 誕生日 == * [[1436年]]([[永享]]8年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]])- [[足利義政]]、[[室町幕府]]8代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1490年]]) * [[1647年]]([[正保]]3年[[12月15日 (旧暦)|12月15日]]) - [[細川利重]]、初代[[肥後国]][[肥後新田藩|新田藩主]](+ [[1687年]]) * [[1730年]]([[享保]]14年[[12月2日 (旧暦)|12月2日]]) - [[立花鑑通]]、第7代[[筑後国]][[柳河藩|柳河藩主]](+ [[1798年]]) * [[1732年]]([[享保]]16年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[久世広明]]、第4代[[下総国]][[関宿藩|関宿藩主]](+ [[1785年]]) * [[1738年]]([[元文]]2年[[12月1日 (旧暦)|12月1日]]) - [[松平義当]]、第7代[[美濃国]][[高須藩|高須藩主]](+ [[1801年]]) * [[1775年]] - [[A・M・アンペール]]、[[物理学者]](+ [[1836年]]) * [[1810年]] - [[フェルディナンド・ダヴィッド]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[作曲家]](+ [[1873年]]) * [[1832年]] - [[ヘンリー・ヒュースケン]]、[[通訳]](+ [[1861年]]) * [[1852年]]([[嘉永]]4年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[阿部正桓]]、第10代[[備後国]][[福山藩|福山藩主]]・[[伯爵]](+ [[1914年]]) * [[1859年]] - [[トニー・マレーン]]、元プロ野球選手(+ [[1944年]]) * [[1871年]] - [[ニコラス・タルコフ]]、[[画家]](+ [[1930年]]) * [[1873年]] - [[岩野泡鳴]]、[[小説家]]、[[詩人]](+ [[1920年]]) * [[1876年]] - [[ヨゼフ・ホフマン]]、[[ピアニスト]](+ [[1957年]]) * [[1877年]] - [[レーモン・ルーセル]]、小説家、詩人(+ [[1933年]]) * [[1885年]] - [[尾崎放哉]]、[[俳人]](+ [[1926年]]) * [[1889年]] - [[トリグヴェ・グラン]]、[[パイロット (航空)|パイロット]]、[[探検家]]、[[作家]](+ [[1980年]]) * [[1891年]] - [[ミッシャ・エルマン]]、ヴァイオリニスト(+ [[1967年]]) * [[1894年]] - [[西脇順三郎]]、詩人、[[イギリス文学者|英文学者]](+ [[1982年]]) * 1894年 - [[ウォルター・ピストン]]、作曲家(+ [[1976年]]) * [[1898年]] - [[津島文治]]、[[政治家]](+ [[1973年]]) * [[1899年]] - [[高柳健次郎]]、[[技術者]](+ [[1990年]]) * 1898年 - [[高垣眸]]、[[作家]](+ [[1983年]]) * [[1901年]] - [[セシル・グリフィス]]、[[陸上競技選手]](+ [[1973年]]) * [[1903年]] - [[中川俊思]]、政治家(+ [[1973年]]) * [[1904年]] - [[楠木繁夫]]、[[歌手]](+ [[1956年]]) * [[1909年]] - [[山野愛子]]、[[美容家]](+ [[1995年]]) * 1909年 - [[ウィリアム・エッカート]]、MLB[[コミッショナー]](+ [[1971年]]) * [[1910年]] - [[中村輝夫 (野球)|中村輝夫]]、[[プロ野球選手]](+ 没年不詳) * [[1912年]] - [[関英雄]]、[[児童文学作家一覧|児童文学者]](+ [[1996年]]) * [[1914年]] - [[丹羽淑雄]]、元プロ野球選手(+ 没年不詳) * [[1916年]] - [[小坂徳三郎]]、[[実業家]]、政治家(+ [[1996年]]) * [[1917年]] - [[中村歌右衛門 (6代目)]]、[[歌舞伎俳優]](+ [[2001年]]) * [[1920年]] - [[フェデリコ・フェリーニ]]、[[映画監督]](+ [[1993年]]) * 1920年 - [[デフォレスト・ケリー]]、[[俳優]](+ [[1999年]]) * [[1921年]] - [[吉田正]]、作曲家(+ [[1998年]]) * [[1923年]] - [[三國連太郎]]、俳優(+ [[2013年]]) * [[1925年]] - [[高城淳一]]、俳優(+ [[2011年]]) * 1925年 - [[富田浩太郎]]、俳優(+ [[2004年]]) * [[1926年]] - [[ヴィタリー・ウォロトニコフ]]、政治家(+ [[2012年]]) * 1926年 - [[デイヴィッド・チューダー]]、[[ピアニスト]]、作曲家(+ [[1996年]]) * [[1929年]] - [[西倉実]]、元プロ野球選手(+ [[1955年]]) * [[1930年]] - [[いずみたく]]、作曲家、元[[参議院議員]](+ [[1992年]]) * [[1931年]] - [[有吉佐和子]]、[[小説家]](+ [[1984年]]) * 1931年 - [[中村八大]]、作曲家(+ [[1992年]]) * 1931年 - [[内藤博文]]、元プロ野球選手(+ [[2013年]]) * 1931年 - [[近石真介]]、[[声優]]、[[ナレーター]](+ [[2022年]]) * [[1932年]] - [[鈴木その子]]、美容・料理研究家(+ [[2000年]]) * [[1933年]] - [[ジーン・スチブンス]]、元プロ野球選手(+ [[2019年]]) * [[1934年]] - [[間部耕苹]]、[[日本テレビ放送網]]代表取締役相談役(+ [[2013年]]) * 1934年 - [[ミシェル・デボスト]]、[[フルート奏者]] * 1934年 - [[カミロ・パスカル]]、元プロ野球選手 * [[1935年]] - [[公文俊平]]、[[社会学者の一覧|社会学者]]、[[経済学者]] * 1935年 - [[堀本律雄]]、元プロ野球選手(+ [[2012年]]) * [[1936年]] - [[エドワード・ファイゲンバウム]]、[[計算機科学|計算機科学者]] * [[1937年]] - [[生原昭宏]]、アマチュア野球指導者(+ [[1992年]]) * [[1938年]] - [[北原亞以子]]、作家(+ [[2013年]]) * [[1940年]] - [[キャロル・ヘイス・ジェンキンス]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1941年]] - [[あすなひろし]]、[[漫画家]](+ [[2001年]]) * 1941年 - [[川村龍夫]]、[[実業家]] * [[1942年]] - [[大野由利子]]、政治家 * [[1945年]] - [[青木宏之 (政治家)|青木宏之]]、政治家(+ [[2009年]]) * [[1946年]] - [[デイヴィッド・リンチ]]、映画監督 * [[1948年]] - [[加藤俊夫]]、元プロ野球選手 * 1948年 - [[鷲津名都江]](小鳩くるみ)、[[目白大学]]教授、元[[童謡歌手]]、[[タレント]] * 1948年 - [[市川好郎]]、俳優(+ [[1993年]]) * [[1949年]] - [[北公次]]、歌手([[フォーリーブス]])(+ [[2012年]]) * 1949年 - [[坂本由紀子]]、政治家 * 1949年 - [[渡辺達生]]、[[写真家]] * 1949年 - [[藤井信行]]、元プロ野球選手 * [[1952年]] - [[ポール・スタンレー]]、[[音楽家|ミュージシャン]]([[キッス]]) * [[1954年]] - [[古田将士]]、俳優 * 1954年 - [[松尾雄治]]、元[[ラグビーユニオン]]選手 * [[1955年]] - [[太田裕美]]、歌手 * 1955年 - [[桜井賢]]、ミュージシャン([[THE ALFEE]]) * [[1956年]] - [[座光寺公明]]、作曲家、ピアニスト(+ [[1987年]]) * 1956年 - [[石田満 (実業家)|石田満]]、実業家 * [[1958年]] - [[天田益男]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.dropbox.com/s/00cpl85jr6xm9mg/amada_masuo.pdf|title=天田益男|format=PDF|publisher=劇団青年座 |accessdate=2020-11-25}}</ref>、[[俳優]]、声優 * [[1959年]] - [[武藤一邦]]、元プロ野球選手 * [[1960年]] - [[ウィル・ライト]]、[[ゲームクリエイター]] * [[1961年]] - [[上島竜兵]]、[[お笑いタレント]]([[ダチョウ倶楽部]])(+ [[2022年]]) * 1961年 - [[浜尾朱美]]、[[エッセイスト]]、[[ニュースキャスター]](+ [[2018年]]) * [[1962年]] - [[玉川砂記子]]、声優 * 1962年 - [[IKKO]]、メイクアップアーティスト、タレント * [[1963年]] - [[インゲボルガ・ダクネイト]]、女優 * [[1964年]] - [[南果歩]]、女優 * 1964年 - [[藤木義勝]]、俳優 * 1964年 - [[金巻兼一]]、[[脚本家]]、[[劇作家]] * 1964年 - [[オジー・ギーエン]]、元プロ野球選手 * [[1965年]] - [[ケビン・マース]]、元プロ野球選手 * 1965年 - [[:en:John_Michael_Montgomery|ジョン・マイケル・モントゴメリー]]、[[カントリー・ミュージック|カントリー]]歌手 * [[1966年]] - [[長谷川太]](長谷川のび太)、[[アナウンサー]]、声優 * 1966年 - [[大串正樹]]、政治家 * 1966年 - [[下総源太朗]]、俳優、演出家 * [[1967年]] - [[長坂哲夫]]、[[アナウンサー]] * 1967年 - 吉村秀樹、ミュージシャン([[bloodthirsty butchers]])(+ [[2013年]]) * [[1968年]] - [[木下博勝]]、[[医師]] * 1968年 - [[ジェリー・アランギラン]]、漫画家(+ [[2019年]]) * [[1969年]] - [[犬塚賀子]]、女優 * 1969年 - [[吉成鋼]]、[[アニメーター]] * 1969年 - [[ニッキー・ワイアー]]、ミュージシャン([[マニック・ストリート・プリーチャーズ]]) * [[1971年]] - [[ゲイリー・バーロウ]]、歌手、[[ピアニスト]]、[[作詞家]]、[[プロデューサー]] * 1971年 - [[花田虎上]]、タレント、大相撲第66代[[横綱]]、[[実業家]] * 1971年 - [[小久保浩樹]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[ルスラン・ゴンチャロフ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1974年]] - [[フリオ・サンタナ]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[久我陽子]]、女優、歌手 * 1974年 - [[松井冬子]]、[[日本画家]] * [[1975年]] - [[デビッド・エクスタイン]]、元プロ野球選手 * 1975年 - [[横尾泰輔]]、アナウンサー * [[1977年]] - [[イリアン・ストヤノフ]]、元[[サッカー選手]] * 1977年 - [[窪寺昭]]、俳優(+ [[2020年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2176761/full/|title=俳優・窪寺昭さん死去 43歳 事務所「現実を受け止めることすらできない」|publisher=ORICON NEWS|date=2020-11-14|accessdate=2020-12-23}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |date=2020-11-14 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201114/k10012711541000.html |title=俳優の窪寺昭さん死去 43歳 |publisher=NHK NEWS WEB |accessdate=2020-12-09}}</ref>) * [[1979年]] - [[ロブ・ボードン]]、[[ドラマー]](リンキンパーク) * 1979年 - [[江崎史恵]]、アナウンサー * 1979年 - [[井上虫歯二本]]、[[お笑い芸人]] * 1979年 - [[久保亜沙香]]、[[グラビアアイドル]] <!-- 出典が不明 * 1979年 - [[須田麻衣]]、ライター --> * 1979年 - [[オクサナ・ポトディコワ]]、フィギュアスケート選手 <!-- 年の出典が不明 * 1980年 - [[葵 (ミュージシャン)|葵]]、ミュージシャン([[the GazettE]]) --> * [[1980年]] - [[深水元基]]、俳優 * 1980年 - [[中村祥子]]、バレエダンサー * 1980年 - [[ルイス・マルティネス (投手)|ルイス・マルティネス]]、元プロ野球選手 * [[1981年]] - [[オーウェン・ハーグリーヴス]]、サッカー選手 * 1981年 - [[村上和弘]]、サッカー選手 * 1981年 - 高田紗千子、お笑い芸人([[梅小鉢]]) * [[1982年]] - [[エリン・ワッソン]]、[[スーパーモデル]] * 1982年 - [[川島章良]]、お笑い芸人([[はんにゃ.]]) * [[1983年]] - [[金子さやか]]、女優 * 1983年 - [[矢口真里]]、歌手、タレント(元[[モーニング娘。]]) * [[1984年]] - [[モリタク!]]、お笑い芸人 * [[1985年]] - [[井上麻里奈]]、声優 * 1985年 - [[ハリー杉山]]、[[ファッションモデル]]、タレント * 1985年 - [[ルイス・ペレス (野球)|ルイス・ペレス]]、プロ野球選手 * 1985年 - [[アレクサンデル・パヴレンコ]]、サッカー選手 * [[1986年]] - [[竹内由恵]]、[[アナウンサー]] * 1986年 - [[山中章子]]、アナウンサー * [[1988年]] - [[古河結子]]、舞台女優 * [[1989年]] - [[守屋美穂]]、[[競艇選手|ボートレーサー]] * 1989年 - [[ニック・フォールズ]]、アメリカンフットボール選手 * 1989年 - [[石井亜早実]]、ミュージカル俳優 * 1989年 - [[レメキロマノラヴァ]]、ラグビーユニオン選手 * [[1990年]] - [[田谷隼]]、俳優、声優 * 1990年 - [[水中雅章]]、声優 * 1990年 - [[山口美咲]]、元競泳選手 * 1990年 - [[杉野真実]]、アナウンサー * 1990年 - [[スパナペンチ|永田敬介]]、お笑い芸人 * [[1991年]] - [[一色美名]]、グラビアアイドル * 1991年 - [[大知正紘]]、歌手、[[シンガーソングライター]] * 1991年 - [[ぎぃ子]]、女優 * 1991年 - [[ジュンポン・アドゥンキッティポーン]]、俳優 * 1991年 - [[白石大志]]、お笑い芸人 * [[1992年]] - [[高嶋香帆]]、タレント * 1992年 - [[松崎啄也]]、元プロ野球選手 * [[1993年]] - [[須田景凪]]、シンガーソングライター、[[ボカロP|ボーカロイド作曲家]] * 1993年 - [[タカハシシンノスケ]]、俳優、[[モデル (職業)|モデル]] * [[1994年]] - [[鷲尾伶菜]]、歌手、ダンサー、ファッションモデル (元[[Flower (グループ)|Flower]]、元[[E-girls]]) * 1994年 - [[王哲林]]、バスケットボール選手 * 1994年 - [[藤沢玲花]]、女優、[[アイドル]] * [[1995年]] - [[笠原大芽]]、元プロ野球選手 * 1995年 - [[古橋亨梧]]、サッカー選手 * [[1997年]] - [[Anly]]、シンガーソングライター * 1997年 - [[須藤叶希]]、女優、声優 * [[1998年]] - [[河野純喜]]、アイドル([[JO1]]) * [[2003年]] - [[井手上漠]]、タレント、モデル * [[2004年]] - [[山口綺羅]]、女優、歌手、パフォーマー([[Girls²]]) * 2004年 - 黒田光輝、アイドル([[ジャニーズJr.]]、少年忍者) * [[2010年]] - [[白鳥玉季]]、[[子役]] * 生年不明 - [[本多諒太]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mausu.net/talent/honda-ryouta.html|title=本多 諒太|所属タレント|マウスプロモーション|accessdate=2021-01-22}}</ref>、声優 * 生年不明 - [[木村裕二]]、声優 * 生年不明 - [[今瀬未知]]、声優 * 生年不明 - [[岡田恵]]、声優 * 生年不明 - [[福島亜美]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://mobile.twitter.com/seisyun_amigo|title=福島亜美さん (@seisyun_amigo)|publisher=Twitter|accessdate=2020-01-05}}</ref>、声優 == 忌日 == * [[1343年]] - [[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト]]、[[ナポリ王国|ナポリ]]王(* [[1277年]]) * [[1413年]]([[応永]]19年[[12月18日 (旧暦)|12月18日]])- [[上杉憲定]]、[[関東管領]](* [[1375年]]) * [[1495年]](成宗25年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]) - [[成宗 (朝鮮王)|成宗]]、第9代[[李氏朝鮮]]国王(* [[1457年]]) * [[1587年]]([[天正]]14年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]])- [[長宗我部信親]]、[[武将|戦国武将]](* [[1565年]]) * 1587年(天正14年12月12日)- [[本山親茂]]、戦国武将(* [[1545年]]) * [[1612年]] - [[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]、[[神聖ローマ皇帝]](* [[1552年]]) * [[1666年]] - [[アンヌ・ドートリッシュ]]、[[ルイ13世 (フランス王)|フランス王ルイ13世]]の王妃(* [[1601年]]) * [[1722年]]([[享保]]6年[[12月4日 (旧暦)|12月4日]])- [[松平吉邦]]、第6代[[福井藩|福井藩主]](* [[1681年]]) * [[1745年]] - [[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]、神聖ローマ皇帝(* [[1697年]]) * [[1819年]] - [[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]、[[スペイン]]王(* [[1748年]]) * [[1828年]] - [[シャルロッテ・ブッフ]]、小説『[[若きウェルテルの悩み]]』のヒロインのモデルにあたる人物(* [[1753年]]) * [[1837年]] - [[ジョン・ソーン]]、[[建築家]](* [[1753年]]) * [[1848年]] - [[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン8世]]、[[デンマーク|デンマーク王]](* [[1786年]]) * [[1852年]]([[嘉永]]4年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]) - [[阿武松緑之助]]、[[大相撲]]第6代[[横綱]](* [[1794年]]?) * [[1859年]] - [[ベッティーナ・フォン・アルニム]]、[[小説家]](* [[1785年]]) * [[1875年]] - [[ジャン=フランソワ・ミレー]]、[[画家]](* [[1814年]]) * [[1891年]] - [[カラカウア]]、[[ハワイ王国]]国王(* [[1836年]]) * [[1900年]] - [[ジョン・ラスキン]]、[[思想家]](* [[1819年]]) * [[1901年]] - [[伊藤圭介 (理学博士)|伊藤圭介]]、[[理学博士]]、男爵(* [[1803年]]) * [[1905年]] - [[内海忠勝]]、[[内務大臣 (日本)|内務大臣]](* [[1843年]]) <!-- グレゴリオ暦2月2日* [[1907年]] - [[ドミトリ・メンデレーエフ]]、[[化学者]](* [[1834年]])--> * [[1911年]] - [[雨宮敬次郎]]、[[実業家]](* [[1846年]]) * [[1913年]] - [[ヨハニス・デ・レーケ]]、土木技師(* [[1842年]]) * 1913年 - [[カール・ウィトゲンシュタイン]]、[[実業家]](* [[1847年]]) * [[1935年]] - [[戸水寛人]]、[[法学者]]、[[立憲政友会]][[衆議院議員]](* [[1861年]]) * [[1936年]] - [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]、[[イギリス]]王(* [[1865年]]) * [[1947年]] - [[ジョシュ・ギブソン]]、[[プロ野球選手]](* [[1911年]]) * [[1949年]] - [[中山岩太]]、[[写真家]](* [[1895年]]) * [[1952年]] - [[アーサー・ファーウェル]]、[[作曲家]](* [[1872年]]) * [[1965年]] - [[ニック・アルトロック]]、プロ野球選手(* [[1876年]]) * [[1970年]] - [[石川一郎]]、実業家、[[経済団体連合会]]初代会長(* [[1885年]]) * 1970年 - [[ジョージ・ハンフリー]]、第55代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1890年]]) * 1970年 - [[ポール・フラマリエ]]、[[地質学者]](* [[1877年]]) * [[1971年]] - [[男女ノ川登三]]、大相撲第34代横綱(* [[1903年]]) * [[1972年]] - [[ジャン・カサドシュ]]、[[ピアニスト]](* [[1927年]]) * [[1974年]] - [[エドマンド・ブランデン]]、[[詩人]](* [[1896年]]) * [[1983年]] - [[ガリンシャ]]、元[[サッカー選手]](* [[1933年]]) * [[1984年]] - [[パウル・ベン=ハイム]]、作曲家(* [[1897年]]) * 1984年 - [[ジョニー・ワイズミュラー]]、[[水泳]]選手、[[俳優]](* [[1904年]]) * [[1990年]] - [[東久邇稔彦]]、元[[皇族]](東久邇宮稔彦王)、第43代[[内閣総理大臣]](* [[1887年]]) * 1990年 - [[バーバラ・スタンウィック]]、[[俳優|女優]](* [[1907年]]) * [[1993年]] - [[園山俊二]]、漫画家(* [[1935年]]) * 1993年 - [[オードリー・ヘプバーン]]、女優(* [[1929年]]) * [[1994年]] - [[牧野宏]]、[[プロ野球選手]](* [[1937年]]) * [[1995年]] - [[金子信雄]]、俳優、[[料理研究家]](* [[1923年]]) * [[1996年]] - [[ジェリー・マリガン]]、[[ジャズ]][[ミュージシャン]](* [[1927年]]) * [[1997年]] - [[杉森久英]]、[[小説家]](* [[1912年]]) * 1997年 - [[カート・フラッド]]、プロ野球選手(* [[1938年]]) * 1997年 - [[ハイラム・ケラー]]、[[俳優]]、[[モデル (職業)|モデル]](* [[1944年]]) * [[1998年]] - [[曾我廼家五郎八]]、[[お笑いタレント|お笑い芸人]](* [[1902年]]) * 1998年 - [[ボボ・ブラジル]]、[[プロレスラー]](* [[1924年]]) * [[2000年]] - [[清沢哲夫]]、[[僧]]、[[思想家]](* [[1921年]]) * 2000年 - [[岩本信一]]、プロ野球選手、プロ野球審判員(* [[1921年]]) * [[2001年]] - [[小池聰行]]、実業家、[[オリコン・エンタテインメント]]創業者(* [[1932年]]) * [[2002年]] - [[エジバウド・イジディオ・ネト|ババ]]、サッカー選手(* [[1934年]]) * [[2007年]] - [[谷口香]]、女優(* [[1934年]]) * 2007年 - [[河村順子]]、[[童謡]][[歌手]](* [[1925年]]) * [[2008年]] - [[スザンヌ・プレシェット]]、女優(* [[1937年]]) * [[2012年]] - [[蟹江嘉信]]、[[カゴメ]]代表取締役社長(* [[1929年]]) * [[2013年]] - [[柴田トヨ]]、[[詩人]](* [[1911年]]) * 2013年 - [[鈴木文彌]]、[[アナウンサー]](* [[1925年]]) * [[2014年]] - [[クラウディオ・アバド]]、[[指揮者]](* [[1933年]]) * [[2015年]] - [[斉藤仁]]、[[柔道選手]]、指導者(* [[1961年]]) * [[2016年]] - [[張栄発]]<ref name=cna>[https://web.archive.org/web/20160120150537/http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201601200006.aspx 東日本大震災時に10億円寄付 エバーグリーン・グループ総裁が死去/台湾]中央社フォーカス台湾、2016/01/20</ref>、実業家、[[長栄海運]]創業者 (* [[1927年]]) * [[2018年]] - [[ポール・ボキューズ]]<ref>{{Cite news|url=http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-42758189|title=Paul Bocuse: Top French chef dies at 91|work=BBC News|agency=[[英国放送協会|BBC]]|date=2018-01-20|accessdate=2020-11-05}}</ref>、[[フランス料理]]の[[シェフ]](* [[1926年]]) * [[2019年]] - [[野中正造]]<ref>{{Cite news|url=https://kachimai.jp/article/index.php?no=454720|title=野中さん死去 世界最高齢|newspaper=十勝毎日新聞|date=2019-1-20|accessdate=2020-11-04}}</ref>、世界男性最高齢者(* [[1905年]]) * [[2021年]] - [[ミラ・ファーラン]]、女優(* [[1955年]])<ref>{{Cite news|url= https://www.cinematoday.jp/news/N0121246 |title=「LOST」女優が死去 65歳|newspaper=シネマトゥデイ|date=2021-01-23|accessdate=2021-01-23}}</ref> * [[2022年]] - [[恩地日出夫]]、[[映画監督]] (* [[1933年]]) == 記念日・年中行事 == * [[大寒]]({{JPN}} 2009年・2010年・2011年) *: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が300度の時で、寒さが最も厳しくなるころ。 * [[二十日正月]]({{JPN}}) * 殉教者の日({{AZE}}) *: [[1990年]]のこの日、独立運動中のアゼルバイジャンの首都[[バクー]]にソ連軍が侵攻し、約130人の市民が殺害された。 * [[アメリカ合衆国大統領就任式]]({{USA}})※西暦年が4で割り切れる年の翌年 *: [[アメリカ合衆国憲法修正第20条]]で、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の任期は1月20日の正午に終了することとされており、その瞬間から次の大統領の任期が始まる。 * 玉の輿の日({{JPN}})<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.stat.go.jp/naruhodo/c3d0120.htm|title=1月20日 玉の輿の日|work=なるほど統計学園|publisher=総務省統計局|accessdate=2015-4-1}}</ref> *: [[1905年]]のこの日、アメリカの実業家[[J・P・モルガン]]の甥のジョージ・モルガンが祇園の芸妓・[[モルガンお雪|お雪]]と結婚した。お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれた。 * [[デヴィッド・ボウイ]]の日({{USA}})、[[ニューヨーク]] *: [[2016年]]、ニューヨーク市長の[[ビル・デブラシオ]]が、ニューヨーク・シアター・ワークショップにて上演されたデヴィッド・ボウイによって共同制作された舞台作品『ラザルス』最終公演日の1月20日に、この日を「デヴィッド・ボウイの日(David Bowie Day)」にする声明文を読み上げた。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0120|date=2011年6月}} === 誕生日(フィクション) === * 1987年 - 柴垣健介、アニメ『[[オッドタクシー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 野乃はな、アニメ『[[HUGっと!プリキュア]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.co.jp/precure/hugtto/character/cureyell.html |title=キャラクター キュアエール|work=HUGっと!プリキュア|朝日放送テレビ|accessdate=2020-06-26}}</ref> * 生年不明 - ディアン、キャラクター・アニメ『[[ジュエルペット]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.jewelpet.jp/character/ |title=キャラクター紹介|オブシディアン |work=ジュエルペット |accessdate=2022-09-05 |publisher=SANRIO/SEGA TOYS [[サンリオ]]・[[セガトイズ]]/[[テレビ東京]]・ジュエルペット製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 干支名真恵、ゲーム『[[アッチむいて恋]]』の主人公<ref>{{Cite book |和書 |date = 2011-08-29 |title = 女装少年ゲーム大全 2009-2011 |page = 30 |publisher = [[ミリオン出版]] |isbn = 978-4813065012}}</ref><ref>[https://twitter.com/saultor227/status/1086993772234268672 saultorno@saultor227のツイート]</ref> * 生年不明 - キンデレラ、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Kinderella.html |title=キンデレラ |work=ONE PIECE.com |accessdate=2022-09-05 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 根津三屋、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - ゲーマー星人(先輩)、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 白蓮、漫画・アニメ『[[NARUTO -ナルト-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|narucole_jp|1483816522502275082}}</ref> * 生年不明 - シェリル・キャメロット、漫画・アニメ『[[D.Gray-man]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - アルバ、漫画・アニメ『[[エルドライブ【ēlDLIVE】]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 白野威、漫画・アニメ『[[ハヤテのごとく!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 中塚公太、漫画・アニメ『[[エリアの騎士]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 天寿星ヴァンパイアのエアハート、漫画・アニメ『[[聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|teshi_kuro413|1483998353297842177}}</ref> * 生年不明 - 雑斗田孝、漫画『[[ZERO (やまざき貴子の漫画)|ZERO]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 伽耶、漫画『[[夢幻伝説 タカマガハラ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 佐藤綾乃、漫画・アニメ『[[女子高生 GIRLS-HIGH]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 愛宕絹恵、漫画・アニメ『[[咲-Saki-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://sciasta.com/characters.html |title=愛宕 絹恵(あたご きぬえ) |work=『咲-Saki-』 |accessdate=2023-01-18 |publisher=小林立公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 河野桜、漫画・アニメ『[[堀さんと宮村くん]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://horimiya-anime.com/news/?id=56257 |title=HAPPY BIRTHDAY 桜!スマホ壁紙&アイコンプレゼント |access-date=2022-09-03 |publisher=HERO・萩原ダイスケ/SQUARE ENIX・「ホリミヤ」製作委員会}}</ref> * 生年不明 - 緑川一彦、漫画・アニメ『[[CRASH! (藤原ゆかの漫画)|CRASH!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 名栗理沙、漫画『[[かへたんていぶ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 花咲一葉、漫画・アニメ『[[ゆかひめ!]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 杉浦綾乃、漫画・アニメ『[[ゆるゆり]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://yuruyuri.com/10th/|title=ゆるゆり|work=[[なもり]]/[[一迅社]]・七森中ごらく部|accessdate=2020-06-26}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |date= 2011-11-28|editor=ポストメディア編集部 |title = TVアニメゆるゆり公式ファンブック |page = 32 |publisher = [[一迅社]] |isbn =978-4758012485}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=なもり|authorlink=なもり|title=なもり画集 ゆるなもり|publisher=[[一迅社]]|isbn=978-4758072601|date=2013-08-02|page=5}}</ref> * 生年不明 - 明日海サキ、特撮『[[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!]]』の登場人物 * 生年不明 - 遠野日和、小説・アニメ『[[Free! (アニメ)|Free!DiveToTheFuture]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|iwatobi_sc|1351726140352851971}}</ref> * 生年不明 - 花沢ゆうな、小説・アニメ『[[ツルネ -風舞高校弓道部-]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tsurune_anime|1351728895871991809}}</ref> * 生年不明 - マーラー、ゲーム『[[ファイティングバイパーズ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 伊吹みなも、ゲーム・アニメ『[[Memories Off]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://memoriesoff.jp/historia/titles/1/ |title=Character 伊吹みなも |access-date=2022-09-05 |publisher=Memories Off}}</ref> * 生年不明 - オイフェ、ゲーム『[[ジルオール]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 九段下舞佳、ゲーム・アニメ『[[ときめきメモリアル2]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 森精華、ゲーム・アニメ『[[ガンパレード・マーチ 〜新たなる行軍歌〜]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - オパール、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 オパール |access-date=2023-01-18 |publisher=[[任天堂]] |work=『どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - モーリッツ・ザベル・フランツ、ゲーム・アニメ『[[夜明け前より瑠璃色な ~Crescent Love~]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://aria-soft.com/d_blue/character09.html |title=登場人物 モーリッツ・ザベル・フランツ |access-date=2022-09-05 |publisher=ARIA |work=夜明け前より瑠璃色な Brighter than dawning blue}}</ref> * 生年不明 - 鹿倉憂姫、ゲーム・小説・漫画『[[NOeSIS|NOeSIS 嘘を吐いた記憶の物語]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |title=キャラクター 鹿倉 憂姫 |url=http://noe-sis.jp/character.php |website=noe-sis.jp |accessdate=2022-09-05 |publisher=スマートフォン用ゲームアプリ「NOeSIS」フルリメイク版~嘘吐いた記憶の物語・羽化・ 歌う影の戯曲 ~}}</ref> * 生年不明 - クロエ・アカネ、ゲーム・アニメ『[[ガンスリンガー ストラトス|GUNSLINGER STRATOS]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 天念ガス、ゲーム・アニメ『[[ガイストクラッシャー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 岩野泡鳴、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BunAl_PR|1218911048570261505}}</ref> * 生年不明 - 徳永直、ゲーム『[[文豪とアルケミスト]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|BunAl_PR|1351545086002286595}}</ref> * 生年不明 - シオン、ゲーム『[[あつまれ どうぶつの森]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/switch/acbaa/namelist/m01.html |title=島民名簿 1月 シオン |access-date=2023-01-18 |publisher=[[任天堂]] |work=『あつまれ どうぶつの森』}}</ref> * 生年不明 - レン、ゲーム『夢職人と忘れじの黒い妖精』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.yumekuro.com/character/meister/primusclub/len/ |title=レン |access-date=2023-01-18 |publisher=[[ジークレスト|G CREST]] |work=『夢職人と忘れじの黒い妖精』}}</ref> * 生年不明 - ウィーン・マルガレーテ、メディアミックス『[[ラブライブ!スーパースター!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/member/ |title=メンバー紹介|ウィーン・マルガレーテ |access-date=29 Oct 2023 |publisher=プロジェクトラブライブ!スーパースター!! |work=『ラブライブ!スーパースター!!』}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 関連項目 == {{commonscat|20 January}} {{新暦365日|1|19|1|21|[[12月20日]]|[[2月20日]]|[[1月20日 (旧暦)|1月20日]]|0120|1|20}} {{1年の月と日}}
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アフガニスタン
アフガニスタン・イスラム首長国(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、パシュトー語: د افغانستان إسلامي امارت、英語: Islamic Emirate of Afghanistan)、通称アフガニスタン(ダリー語: افغانستان、パシュトー語: افغانستان、英語: Afghanistan)は、中央アジアと南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国である。現在はターリバーンによる暫定政権が築かれている。東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東ではワハン回廊で中国と国境を接している。多民族国家で、周辺国と民族やイスラム教宗派でつながりが深いパシュトゥン人、ウズベク人、タジク人、ハザラ人などが暮らす。中東の東端と位置付けられることもある。首都は人口最大の都市のカーブル。面積は65万2000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国となっている。 アフガニスタンは多様かつ波乱な歴史を紡いで来た地域に建つ国家である。少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。9000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった。インド・アーリア人がバクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書『アヴェスター』に描かれている文化と密接な関係がある鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500 - 1100年ごろ)が興った。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カブール渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国はヘレニズム世界の東端となった。マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教とヒンドゥー教が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝のカニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。 サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにムスリムがイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ。その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー朝などに支配された地域もある。現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカーブルに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャーワルはシーク教徒に奪われた。19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンの下で君主制となる。しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)が樹立された。1978年、2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が勃発した。1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義者のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。政府とターリバーンとの間で続いている戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させた。一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われている。2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われた。2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン大統領府を占領、アシュラフ・ガニー大統領は国外へ亡命し、アフガニスタン・イスラム共和国政府は事実上崩壊した。 アフガニスタンの経済規模は世界第96位で、購買力平価による国内総生産(GDP)は729億ドルである。一人当たりのGDP(PPP)ではもっと低い。現今においてはテロリズム、貧困、子供の栄養失調、汚職が蔓延しているだけではなく、頻繁な政権の奪取が行われる。 2021年までの正式国名はアフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、ダリー語: جمهوری اسلامی افغانستان、パシュトー語: د افغانستان اسلامي جمهوريت、英語: Islamic Republic of Afghanistan)であったが、この国号を使用した政府は同年8月15日にターリバーンの攻勢によって事実上崩壊した。同年8月19日、ターリバーンのスポークスマン、ザビフラ・ムジャヒドはTwitterでアフガニスタン・イスラム首長国(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、パシュトー語: د افغانستان إسلامي امارت、英語: Islamic Emirate of Afghanistan)が成立することを宣言した。 自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語・ダリー語で「アフガーン人の国(土地)」を意味する。アフガーン人とはパシュトゥーン人の別名であるが、実際にはパシュトゥーン人の割合は50%に満たず、数多くの民族が居住している。正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。 通称アフガニスタン。漢字表記は阿富汗斯坦または亜富汗斯坦。 2023年8月15日現在のアフガニスタンの国旗は、1997年10月27日にターリバーン政府によって制定されたものである。2001年の米軍侵攻後に成立したカルザイ政権の時代に排除され、以後20年間にわたりアフガニスタン王国時代の3色旗が国旗として使用されたが、ターリバーンの政権復帰に伴いモノトーンの旗が国旗として使われるようになった。白地に黒文字で、大きくシャハーダが書かれている。 紀元前10万年、旧石器の文化があった。 紀元前7000年、新石器の文化があった。少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。9,000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった。紀元前3000年から紀元前2000年にかけて四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。 紀元前2000年から紀元前1800年は青銅器時代で、ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。 紀元前12世紀、『リグ・ヴェーダ』によれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。インド・アーリア人がバクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書『アヴェスター』に描かれている文化と密接な関係がある鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500〜1100年ごろ)が興った。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カーブル渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国はヘレニズム世界の東端となった。マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教とヒンドゥー教が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝のカニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。 サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにムスリムがイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ。その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー朝などに支配された地域もある。 紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(英語版)(カンダハール、ラシュカルガー、クエッタ)、バクトリア(バルフ)、サッタギディア(英語版)(ガズニー)、ガンダーラ(カーブル、ジャラーラーバード、ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハールの旧市シャル・イ・コナ(英語版)の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が既にアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。 紀元前5世紀ごろ、アラコシア(英語版)には古代民族Pactyans(英語版)が住んでいたことがサンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られている。 紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した。 紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配した。 紀元前130年ごろ、インド・グリーク朝のメナンドロス1世が死んで国が分裂すると、サカ族がガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。 紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。 1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。このころにはギリシア文化は影響力を失い、代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまでバクト商人がシルクロード交易を掌握する。 3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。 5世紀前半、エフタルが興り、現在のアフガニスタンとパキスタンの地を支配する。 6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。 8世紀初頭、イスラム帝国アッバース朝のイスラム教徒軍がハザールとソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争、トランスオクシアナ征服(英語版))、その支配下へ入る。751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀ごろまで残存した。 9世紀中ごろ、再び土着イラン人によるターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝が興り統治する。 995年、マームーン朝(英語版)のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャト(カタルーニャ語版、ドイツ語版、ペルシア語版)に栄えていた土着のゾロアスター教国家であるアフリーグ朝(英語版)は滅亡した。 1017年、ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。10世紀以降、このころからパシュトゥーン人の存在が確認され始める。 1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。 モンゴルのホラズム・シャー朝征服のあと、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国、タジク人のクルト朝の支配を受ける。 1370年ごろ、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1470年、ティムール朝が分裂しヘラート政権に移行。1507年、ウズベク族のシャイバーン朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡する。 1510年、サファヴィー朝イランによって征服される。1526年、第一次パーニーパットの戦い。カーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルがインドにムガル朝を建設。 1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年、第二次パーニーパットの戦いでスール朝のヘームーを破る。 1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。 1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族のミール・ワイス・ホータキー(英語版)が反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立した。 1719年、ホータキー族のミール・マフムード(英語版)がサファヴィー朝のケルマーンに侵攻した。 1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い(英語版))。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。 1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。 1729年、アシュラフがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダームガーンの戦い(英語版))。 1736年、アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅した。 現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミールワイス・ホータクを始祖とするホータキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥッラーニー帝国の首都はカーブルに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャーワルはシーク教徒に奪われた。 1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合のザドーザイ族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立した。 1757年、マラーターのインド北西部侵攻(英語版)でパンジャーブが占領された。 1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国とする。 1838年 - 1842年、第一次アフガン戦争でイギリスに勝利した。 19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。 シール・アリー・ハーン在位時に起きた第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦い(英語版)でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約(英語版)でその保護国となった。英露はアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。 1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争(英語版)が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の巨文島で巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。 1893年、パキスタンとの国境線デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年、チトラール遠征(英語版)。 1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンの下で君主制となる。しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)が樹立された。1919年に第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインがインダス川上流およびスワート川(英語版)流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルクの世俗主義、民族主義、共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。 王妃ソラヤ・タルズィー(英語版)は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。 タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニー(英語版)は、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦(ペルシア語版、ノルウェー語版、英語版))。 1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。 1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザーラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。 1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソビエト連邦両国はナチス・ドイツとイタリアなど枢軸国の外交官や民間人の国外退去を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中の全ての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。 このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。 1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加しなかった。イギリスやパキスタンもカラート藩王国(英語版)の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合(英語版)として独立させた。 しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争(英語版))に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。 パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動(英語版)」を起こし牽制した。 ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。 1973年のクーデターでアフガニスタンは共和制となり、1978年、2度目のクーデターにより初めて社会主義国家となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が勃発した。 1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(英語版)(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(ペルシア語版、ロシア語版、英語版)(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。 1978年4月、アフガニスタン人民民主党(PDPA)主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立され、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任し世俗化を推し進めた。これに対し、全土でイスラム主義のムジャーヒディーンが蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まる。アメリカ合衆国は反共を名目としたサイクロン作戦によりムジャーヒディーンを資金援助して後押しした。政情が不安定化する中、1979年2月に隣国でイラン革命が勃発した。 1979年2月14日、カーブルで、ダブス米大使が誘拐・殺害される事件が発生した。3月には西部のヘラートで、イスラム主義ゲリラ・地域住民・政府軍からの脱走兵と、政府軍・ソ連軍顧問、との間で激しい戦闘が起きた。カーブルのアフガニスタン政府に対する、イスラム勢力や地方住民の反発は激化していった。 広範な勢力を取り込んだ「連合政府」を樹立させアフガニスタン政府の基盤を強化することが急務であると考えたソ連指導部は、9月9日、タラキーに対して、軍事援助の増額と引き換えに、個人的野心で行動するハフィーズッラー・アミーンの排除を要求したが、アミーンが対抗手段を準備している事を知るタラキーは逡巡した。9月13日夜、プザノフ大使などカーブルのソ連側現地責任者たちは、タラキーとアミーンとの会談を要求した。この会談でソ連側はアミーンの政治姿勢を強く非難したが、タラキーはアミーンを解任しなかった。そこで、翌日タラキーの公邸で、ソ連側立ち合いの下、両者は再度会談を行うことになった。アミーンが解任されなかったことを知ったタラキー派のPDPA上級幹部数名はソ連大使館に逃亡した。タラキー自身もソ連側に助けを求めた。9月14日午後、会談のためタラキーの公邸に入ろうとしたアミーンに、大統領の護衛が発砲した。アミーンの補佐官は射殺されたが、アミーンは無傷で難を逃れ暗殺は失敗した。アミーンは、自分に忠実な軍の部隊を動員し、PDPAのリーダーに就任しタラキーを追放した。10月9日、タラキーは獄中で処刑された。 1979年10月上旬のアミーンによるタラキー前大統領処刑が、ソ連指導部を軍事介入に向かわせた。介入に積極的であったのは、ブレジネフの後継を意識していたアンドロポフKGB議長とウスチノフ国防相であった。10月27日にアミーンがアメリカ大使館職員と会談したことも、ソ連側のアミーンへの疑念を増大させた。12月12日モスクワでの政治局会議で、軍事介入が正式に承認された。 ソ連=アフガニスタン国境およびアフガニスタン領内でのソ連軍の増強に対し、12月15日アメリカ国務長官ヴァンスは、駐モスクワ大使に、グロムイコ外相と即時面会しソ連軍増強への説明を求めるように指示した。また、ヴァンスは、一方的な軍増強は、1972年5月の米ソサミットで合意された、米ソ両国は友好関係を尊重するという原則に反する、と抗議した。ソ連側はアメリカの抗議をはねつけた。 1979年12月25日午後3時、ソ連はアフガニスタンへの軍事侵攻作戦を開始した。12月27日夕刻、KGB特殊部隊がアミーンの官邸を攻撃し、アミーンを処刑、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立した。 以後、ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘がさらに激化する。 1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。 1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。 1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。 1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義勢力のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。1989年、ソ連軍撤退後の国内支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。 1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(ペルシア語版、ロシア語版、英語版)(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。 1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。 1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州(英語版)がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。 1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟(マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。 1997年、第一次マザーリシャリーフの戦い(英語版)でターリバーンが敗北。 1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利。ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。また、ケニアとタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件に伴うアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。 1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267(英語版)が採択される。 2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333(英語版)が採択される。 2001年3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビアがターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。 2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。政府とターリバーンとの間で続いた戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させ、一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われた。 2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けて北大西洋条約機構(NATO)がアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府がターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した。11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。 2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。 2002年1月21日、日本の東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60か国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日 - 6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され、1500人以上の代表が参加した。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した。6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガは閉会した。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。 2004年1月、新憲法が発布された。10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。 2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した。12月、国会が開会した。 2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した。 2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した。 2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。 2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した。同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人、4000人、1万3000人)。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された。 2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった。9月18日、第二回の下院議会選挙が実施された。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた。2010年の経済成長率は22.5%に達した。 2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した。 2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった。 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した。 2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日にアシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった。ただし、この選挙には不正疑惑があり、最終的に解明されることはなく、米国の仲介により、候補両者が「挙国一致政府」に合意してガニー政権が発足した。大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足した。12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了した。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった。 アメリカ支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「夜襲作戦」と呼ばれる"ターリバーン狩り"が行われた。深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという。当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。作戦はターリバーン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した。あまりの不評にカルザイ大統領は「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領が復活を決めた。 2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた。7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルの死亡が公表され中断した。国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた。2015年9月28日、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した(クンドゥーズの戦い)。衝撃を受けたアメリカ合衆国大統領バラク・オバマはアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した。また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した。 2016年1月11日、アフガニスタンとパキスタン、中国、アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが、ターリバーンは和平交渉を拒否した。国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。9月、ヘクマティアル派との和解合意が成立した。 2017年5月、カーブルのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した。8月、アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプは『対アフガニスタン・南アジア戦略』を発表し、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。ウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した。 2018年6月、ターリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した。8月、ターリバーンの猛攻によりガズニー州の州都が陥落寸前になった。10月、第三回の下院議員選挙が実施された。 2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている。ターリバーンの勢力が拡大しつつあるという見解も示された。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた(アフガニスタン和平プロセス)。9月、第四回の大統領選挙が実施された。12月4日にはナンガルハル州ジャララバードで同地を拠点に灌漑事業を展開していたペシャワール会代表の中村哲が殺害された。 2020年2月28日、トランプ米大統領は、駐留米軍を撤退させることでターリバーンと合意した(ドーハ合意)。合意の内容は、米国は14カ月以内にアフガニスタンからすべての連合軍を撤退させ、アフガニスタン治安部隊に対するすべての軍事・請負支援を終了し、アフガニスタンの内政干渉をやめること。また、アフガニスタン政府は5000人のターリバーン戦闘員の解放と経済制裁を緩和すること。一方、その条件としてターリバーンは、米軍や連合軍への攻撃をやめ、アルカーイダやその他のテロ組織がアフガニスタンの領土を使って米国の安全を脅かすことを許さず、アフガニスタン政府との交渉を行うというものであった。 2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だったアブドラ・アブドラとアシュラフ・ガニー大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名。 2021年4月、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。 2021年7月にはターリバーンの代表団が訪中し、中華人民共和国外交部長(外相)の王毅と会談し、アブドゥル・ガニ・バラダルは「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた。 2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われていた。 アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは5月から本格的に主要都市を次々と制圧していった。もっとも、以前から公的機関の周辺以外は既にターリバーンが支配しており、戦いの趨勢は決まっていたという見方もある。虐殺を指摘される夜襲作戦で連合軍は市民から反感を買っており、アフガニスタン政府は腐敗で機能せず、迅速に統治するターリバーンは受け入れられていたという。 2021年8月15日には首都カーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した。約20年間続いた民主政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が権力の移行を進めると表明した。同日、アシュラフ・ガニー大統領がタジキスタンに向けて出国したと報じられたが、タジキスタンは「ガニ氏を乗せた飛行機はタジキスタン領空に入っておらず、領土内に着陸もしていない」とし、ガニーの入国を否定した。 8月17日にターリバーンはアフガニスタン政府に「平和的降伏」を求め、政権移譲に向けた交渉を始めており、ビデオ声明を通じて勝利宣言した。また同日、対ターリバーン戦を呼び掛けていたヘラートの軍閥の指導者イスマーイール・ハーンが一時的に拘束された。一方で、第一副大統領(英語版)のアムルッラー・サーレハ(英語版)が憲法上の規定により、暫定大統領に就任すると発表した。サーレハはターリバーンの勢力が及ばないパンジシール州に滞在しているとされ、同州のパンジシール渓谷を拠点としていたマスード将軍の息子アフマド・マスードと共に抵抗運動を呼び掛けていると報道があったが、9月7日、ターリバーンは反勢力の最後の拠点を制圧したと宣言した。なお反ターリバーン組織は「まだ戦いは続いている」との声明を発表している(民族抵抗戦線を参照)。 アフガニスタン中央銀行の保有資産の多くは欧米の銀行で資産凍結されており、8月時点の現金残高は「ほぼゼロ」の状態で、国家予算の8割が米国など海外からの支援であった。こうしたターリバーンへの経済制裁は、極端なイスラム治政を敷くターリバーンに対し、国際社会との親和を促すという名目がある。トランプ政権で高官だった研究員は、米国は友好国と協調しながら資産凍結しなければならないとし、加えて、打撃を受けている同国の一般市民に対しては継続した人道支援が必要とした。8月31日、アメリカ軍はアフガニスタンから完全に撤退した。 2021年9月7日、ターリバーンは暫定政権の主要閣僚を発表。政権トップにはハッサン・アフンド、副首相にはアブドゥル・ガニ・バラダル、内相にはスィーラジュッディーン・ハッカーニ、国防相にはヤクーブが就任。あわせて勧善懲悪省の復活というターリバーン色の強い政治姿勢も明らかにした。閣僚の多くはパシュトゥーン人であり、女性の起用は無かった。翌9月8日には大臣らが各省庁で就任演説を行う予定であったが、情報・文化省の例では職員約850人のうち20人ほどしか出勤せず、ターリバーンが政府として機能するには、なお時間を要することが示唆された。また、2021年9月21日に始まった国際連合の総会には、ガニ政権が任命したグラム・イサクザイ国連大使が代表として職務を続けた。 前述の米国やIMF、国連による経済制裁により、国民の生活は困窮し、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした。薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国が人道支援を例外とし、国連も同様の決議を採択した。2022年6月には、1000人以上の死者を出したアフガニスタン東部地震が発生した。 アフガニスタンは政教一致体制をとるイスラム国家であり、ハナフィー法学とデーオバンド派の思想に基づいて解釈されるイスラム教を国の根幹としている。ムスリムの最高司令官であるアミール・アル=ムウミニーンのもと、マドラサ出身のムッラーによって国家が運営されている。政府の要職はターリバーンが独占している。 アミール・アル=ムウミニーンはシューラの合意で選出され、終身制である。アミール・アル=ムウミニーンはハナフィー法学に従って、イスラム教の解釈やアフガニスタンの統治に関して最終的な決定を下す。アミール・アル=ムウミニーンが下した「イスラム的に正当な決定」は絶対であり、閣僚や政府職員、ターリバーンのメンバーが抗命する事は認められていない。 ターリバーンの復権にともない、米軍侵攻後の2004年に制定された共和国憲法は廃止された。ターリバーンによると、2004年の憲法では、誰もクルアーン、スンナ、ハナフィ法学に従って導き出された文言を引用できない欠陥があった。一時はザーヒル・シャー王在位中1964年に制定された憲法を暫定的に施行すると言われていたが、取り消された。一連の憲法問題に関して、ハイバトゥラー・アクンザダは「全ての決定はイスラム教のシャリーアに基づいて行われるべきだ」と述べたとされる。2023年現在、ターリバーンは憲法制定に向けた取り組みを行っている。 内閣及び、各省庁の副大臣はアミール・アル=ムウミニーンから任命されている。 州知事と州副知事は共にアミール・アル=ムウミニーンから任命されている。市長や郡知事、警察署長はアミール・アル・ムウミニーンの命令によって選出されている。 2021年末時点で、アミール・アル=ムウミニーンは22万8750アフガニ、首相は19万8250アフガニ、その他大臣は13万7250アフガニ、州知事は9万1500アフガニ、一級役人は2万5200から3万500アフガニ、二級役人2600から1万6600アフガニ。 主要とされている5種類の裁判所で構成されている。 裁判は通常、一次段階と控訴段階で3人の主要な裁判官によって処理されている。 アフガニスタンではシャリーアが施行されている。シャリーア施行の厳格さは地域によって差があり、例えばバーミヤンのようなシーア派住民が多数を占める地域については取り締まりが緩い。 2021年には腐敗認識指数いわゆる世界汚職国家ランキングで、180か国中174位だった。米国国際開発庁は2009年にアフガニスタンの汚職について「蔓延し、定着し、組織的になり、規模と影響力において前例のないものになっている」と評価した。2012 年の国連調査によると、アフガニスタン人の約半数が、税関職員、裁判官、検察官に賄賂を支払ったと報告し、調査回答者の半数弱が、土地登記官および州の役人に賄賂を支払ったと報告した。近年では反汚職を掲げるターリバーンの厳格な統治により、縁故主義や賄賂の要求、公金横領、司法腐敗の減少が見込まれており、2022年には180ヶ国中150位と順位を上げた。 1919年にアマーヌッラー・ハーン国王が第3次アングロ・アフガン戦争後に王位に就き、イギリスの影響力は終わった。ザーヒル・シャー国王が海外渡航中にムハンマド・ダーウド・ハーンが奪取したがハーンは後に暗殺され共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)が政権を取った。ムハンマド・ナジーブッラー政権時に安定を見せた。 2005年に国民議会が選出され、その後も2010年に選出された。選挙で選ばれた中には、元ムジャーヒディーン、イスラム原理主義者や改革派、共産主義者など、そして数人のターリバーンが含まれたが、選出された議員の内、憲法で保障された数を3%上回った約28%が女性で、これはアフガニスタンが立法府における女性参政権の面で主要な国であることを意味していた。2004年にはハーミド・カルザイが、2014年にはアシュラフ・ガニがアフガニスタン大統領に選出された。アブドラ・アブドラがアフガニスタンの最高経営責任者(CEO)に就任。2021年のターリバーンの攻勢時ガニ大統領は逃亡。ハッサン・アフンドはアフガニスタンの復活したイスラム首長国の臨時首相となり、9月7日には閣僚31人の名簿を発表した。 2022年9月時点で、アフガニスタン・イスラム首長国を政府承認している国は存在しておらず、国際連合の代表権はアフガニスタン・イスラム共和国が継続して保持している。アフガニスタン・イスラム共和国はイスラム協力機構、南アジア地域協力連合、77ヶ国グループ、経済協力機構、非同盟運動に加盟していた。 ただし、2023年3月3日時点で、パキスタンや中国、ロシア、イランなど11か国においてアフガニスタン・イスラム首長国側が指名した外交官が受け入れられ、アフガニスタン大使館・総領事館の運営を担当するなど実質的にアフガニスタンを代表する政治勢力として扱われている。また、2023年9月13日には中国が、タリバーンの復権後に世界で初めて新たな駐アフガニスタン大使を任命し、信任状をタリバーン指導部に奉呈した。他国はタリバーン復権後には、政府承認を前提とせず、信任状の奉呈を必要としない臨時代理大使を駐カブール大使館に派遣しており、中国政府がアフガニスタン・イスラム首長国を正式に政府承認しない中で、外交関係を有することを前提とした特命全権大使を同政府に派遣することは事実上の承認ともいえる異例の対応といえる。 起源は18世紀初頭のホータキー朝やドゥッラーニー帝国の軍隊であるとされる。1880年代のアブドゥッラフマーン・ハーン統治時代に近代的な軍隊が創設された。第一次・第二次世界大戦では中立を保ったが1978年に始まったアフガニスタン紛争で弱体化し、ソ連軍の撤退後はムジャーヒディーンによって分割され、その後のターリバーン政権下では徴兵制度が採用された。2001年にアメリカなど多国籍軍のアフガニスタン侵攻が始まると、ターリバーン政権の国軍は消滅したかに思われた。アメリカは20年間で830億ドル以上を投じて、民主政府の国軍再建を支援したが、ターリバーンの攻勢に伴い崩壊した。 アフガニスタン・イスラム首長国の兵力はターリバーン時代からの兵士が主力となっている。 現在のアフガニスタンにおける情報機関は情報総局(英語版)(GDI)である。 かつては国家安全保障局(NDS)と呼ばれる機関が安全保障などを総轄していたが、2021年にターリバーンが政権を奪取して現地政界に返り咲いたことにより、NDSは解散させられGDIが設立。後にGDIが正式な後継機関となり、現在へと至っている。 もともとの国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部にはわずかに平野部がある。最も標高の高い地点は、海抜7485メートルのノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られているが、水系は、アム・ダリア水系、ハリ・ルー水系、ヘルマンド・アルガンダ水系の四つに大別できる。ヒンドゥー・クシュの中心山系から国土を潤す三つの川が流れていて、一つは東流してインダス川に合流するカーブル川、もう一つは南流してハムーン沼沢地に消えるヘルマンド・アルカンダブ川、さらにもう一つは西流してカラクム砂漠に消えるハリ・ルード川(Hari Rud River)である。 気候は大陸性で、乾燥気候かつ夏乾冬雨となっている。内陸国である事と標高が高いために緯度の割に一部低地地域を除く全土に渡って寒さが非常に厳しく南西部と北部のトルクメニスタン国境部が砂漠気候、中部はステップ気候と亜寒帯気候、一部が地中海性気候となっており、北東部には高山ツンドラ気候も広がり、ワハーン回廊では1月の平均気温は氷点下15度以下に達する。 年間降水量は少なく冬季に集中するために雪が多くなる地域も多い。東部のヌーリスターン州のみモンスーンの影響を受けて夏季にも降水量が多くなる。山岳部では降雪も多くなり積雪は数メートルに達することも珍しくなく、しばしば雪崩が発生する。夏は暑く過去最高気温は2009年8月にファラーで観測された49.9度。一方、冬は寒くシャラックで1964年1月に氷点下52.2度の記録があるなど、氷点下40度以下の冷え込みとなることもある。また地震が頻繁に発生している。 年平均降水量は、国の南西部で75ミリ、マザーリシャリーフで213ミリ、東部のカズニーで213ミリ、サラング峠の上方で1150ミリである。主要都市は首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフ、クンドゥーズ、南部のカンダハールなどである。 アフガニスタンの環境問題は過去数十年の政治的混乱より以前からある。 森林は何世紀にもわたって放牧と農業によって枯渇されてきたが、現在は人口の44%以上が牧畜、農業に依拠し、環境保護は人々の経済的福祉においても重要である。 2007年に、世界保健機関は同国を環境ハザードによる死亡者数で、アフリカ諸国を除いた中で最も低いとの報告書を発表している。 多種多様な生物の生息が確認されているが、国際自然保護連合(IUCN)の報告によれば、同国内に存在する大型哺乳類の多くは絶滅危機に瀕しているとされている。アフガニスタン全土に数種類の哺乳類が生息する。高山ツンドラ地域にはユキヒョウ、シベリアトラ、ヒグマが生息する。北東部のワハン回廊地域にはマルコポーロヒツジ(アルガリの亜種)が見られる。キツネ、オオカミ、カワウソ、シカ、ヒツジ、オオヤマネコ、その他の大型猫が東部の山林地域に生息している。半砂漠の北部の平野では、様々な鳥や、ハリネズミ、ホリネズミ、ジャッカルやシマハイエナなどの大型肉食動物も生息する。 ガゼル、イノシシ、ジャッカルは南部と西部の草原に生息し、マングースとチーターは半砂漠の南部に生息する。 マーモットとエイベックスも高山地帯におり、キジはアフガニスタンの一部に生息している。 足が速く長毛のアフガン・ハウンドも知られている。 固有動物種には、アフガンモモンガ(Afghan flying squirrel)、アフガンスノーフィンチ、en:Paradactylodon(または「パグマン山のサラマンダー」Paradactylodon)、アフガンヒョウヤモリ(Afghan leopard gecko)、スティグメラ・カシイ(蛾の一種Stigmella kasyi)、ヴルカニエラ・カブレンシス(蛾の一種Vulcaniella kabulensis)、ウィーレリア・パルビフロレルス(蛾の一種Wheeleria parviflorellus)などがある。固有植物種にはアイリス・アフガニカ(Iris afghanica)が含まれる。アフガニスタンは比較的乾燥した気候ではあるが多種多様な鳥が生息し、推定460種のうち235種が繁殖している。 森林地域にはマツ、トウヒ、モミ、カラマツなど、草原地帯には広葉樹、低草、多年生植物、低木が植生する。いくつかの地域は保護地域に指定され、バンデアミール国立公園(英語版)、ワハン国立公園(英語版)、ヌリスタン国立公園(英語版)の3つの国立公園がある。アフガニスタンの2018年度の森林景観保全指数(英語版)は8.85/10で、172か国中15位である。 アフガニスタンは34の州(velāyat)で構成されている。 後発開発途上国の一つで、農業と牧畜への依存度が高い。農業と牧畜は同国において伝統的産業であり、2004年の推計では就業人口の65.6%が農業に従事している。その上で天然資源に乏しい点から、世界で最も貧しい国の一つに数え上げられている。 王政崩壊以降の断続的な紛争による社会・政治的な混乱、インフラの破壊、慢性的な旱魃により経済は壊滅状態となっている。また同じ理由から、大半の国民に充分な食料、衣料、住居、医療が提供できない状態が続いている。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児の死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢であるとされ、死亡率は25.7%と高く、国内の医療・衛生状態はきわめて悪い。さらに、ターリバーンに対する経済制裁でまともな経済活動が難しい中での外貨取得手段として麻薬栽培がなされ、薬物汚染も問題となっている。 国民の3分の2は1日2ドル以下で生活しており、国際通貨基金(IMF)の統計によると、2013年時点のアフガニスタンの国内総生産(GDP)は207億ドルである。1人あたりのGDPでは679ドルとなるが、この数値は世界平均の10%未満であり、アジアの中でもっとも低い。世界銀行の発表する一人当たりGNIに至っては2021年で390ドルで、2021年のデータの得られた国ではアジア最下位にして唯一の低所得国(1085ドル以下)のみならず世界的にも最下位から2番目である。失業率も高く、ネパール、レソトなどと同じように40%を超える。 2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。 2015年12月17日、ケニアの首都ナイロビで開催された第10回世界貿易機関(WTO)閣僚会議で、アフガニスタン第一副首相モハマド・カーン(当時)が議定書に署名し、アフガニスタンの加盟が正式に承認された。 2019年時点ではアフガニスタンのGDPは192.9億ドルで世界第96位である。 上述の通り、2021年から実権を握るターリバーン政権に対して、国連や米国などから資金凍結されたことで、深刻な食糧不足が発生している。国際連合世界食糧計画によれば、経済的影響、世界的なパンデミック、気候変動など様々な要因が合わさって、人口の半分以上が貧困以下の状態で生活を送っており、食料不安が増加している。これは、紛争と不安によってコミュニティ全体が生計の機会から断たれているためである。2280万人が深刻な食糧不安に陥っており、その中には紛争によって避難を余儀なくされた数十万人も含まれる。現今においてはテロリズム、貧困、子供の栄養失調、薬物中毒、汚職が蔓延している。 一方、国内には額にして1兆ドルから3兆ドルにのぼる地下資源が埋蔵されていると言われ、アフガンの現況も合わせ、「金鉱の上に横たわる貧者」とも表現される。埋蔵物は、石油や天然ガス、石炭のエネルギー資源から、鉄鉱石や銅、あるいはリチウムなどのレアメタルまで幅広い。外国の注目度も高く、米国によるアフガニスタン紛争の真の目的は鉱脈ではないかという説も囁かれる。中国には既に国内最大のメス・アイナク銅山の採掘権を与えている。紛争の影響でこれまでは未開であったが、今後の開発が期待される。 2021年8月15日以前、アフガニスタンのGDPのうち40%は国際援助によるものだった。ターリバーンの政権復帰により、欧米諸国はアフガニスタンへの対外援助を止め、国際通貨基金や世界銀行も送金を止めたため、2022年現在、アフガニスタン経済は困窮状態にある。ただし、2021年12月の国連において、人道支援を目的とする現地への資金提供は制裁決議の違反にはあたらないとする決議が採択された。また、ターリバーンは、これまで外国からの援助に依存していたアフガニスタン経済を自立させるチャンスとも捉えている。アブドゥル・サラム・ハナフィ副首相代理は経済における自給自足の達成を長期的な目標として語った。アフガニスタンは20年ぶりに外国からの支援金に頼らない国家予算を作成した。 2012年10月22日、中国石油天然気集団がアムダリヤ川流域の鉱区で、本格的な原油生産を初めて開始した。 同国での天然ガス生産はないが、トルクメニスタン南部の巨大ガス田から同国とパキスタンを経由してインド西部へ通じるTAPIガスパイプラインが2015年に建設着手された。同国に通過料が落ちるほか、一定量のガス輸入が見込まれる。 古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られている。インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。 最も歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190キロ、ヒンドゥークシュ山脈山中のサリ・サング鉱山(英語版)(Sar-i Sang)が主力。産出量は数トン程度。そのほか、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタンの国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。 有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力で、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。このほか岩塩(1万3000トン)も採取されている。 アイナック銅鉱山(英語版)(Aynak Copper)は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1.56%、銅含有金属量1100万トンの超大型の銅鉱床である。そのほかには、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハールの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。 金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる。 上述の通り、農業は伝統的に主要産業として扱われている。乾燥地帯に属している為に、人工灌漑を必要とし、農地面積は灌漑用水量によって規制されている。灌漑方法としては大部分が河川の水を引くものとなっているが、西アジアに広く見られる「カナート」または「カーレーズ」とよばれる人工地下水路によって地下水を地表に導く方法も存在する。土地保有の特色としては自作農が多く、大土地所有は発達していない。 主な生産物は小麦と穀類とザクロだが、北部と西部の州はピスタチオ栽培、東部の州は松の実、中部の州はアーモンドとクルミが主体となっている。他にはジャガイモ、レモン、オレンジ、オリーブ、ピーナッツ、バナナが栽培されている。輸出品は果物とナッツ類が多い。 農業は伝統的にアフガニスタン経済の主柱であり 、2018年現在では労働力の約40%が従事している 。ザクロ、ブドウ、アプリコット、メロンなど、他にも新鮮かつ乾燥した果物を生産することでも知られている。世界最大のアヘン生産国としても知られ、経済の16%以上がアヘンの栽培と販売に由来する。また大麻の最大生産国の一国でもある。 最も高価な香辛料のサフランはヘラート州で栽培されている。近年はサフランの生産が増加傾向にあり、当局と農家はケシ栽培からの入れ替えを試みている。2012年から2019年の間、アフガニスタン産のサフランは国際味覚審査機構によって連続して世界最高位とされた。2019年に生産量は過去最高(1万9469kgのサフラン)を記録、国内では1kgあたり、634ドルから1147ドルで販売されている。 アフガニスタンは「黄金の三日月地帯」に属し、古代メソポタミア文明以来、旱魃地域では医薬品の抗がん剤やモルヒネ(鎮痛剤)「植物性アルカロイド」、麻薬のアヘンやヘロインなどの原料となるケシの栽培が伝統的に盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達したとされる。政府は麻薬対策省を設け撲滅にあたっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成などの問題もあり、未だに解決を見ない。 国際連合薬物犯罪事務所の年次報告書によれば、2018年時点でアフガニスタン南部のターリバーン支配地を中心に推定26万3000ヘクタールの面積でケシの栽培が行われている。 2013年ごろからはケシの栽培に使用する地下水の汲み上げにソーラーパネルによる太陽光電力と電動式ポンプが使われ始め、2020年の時点でも普及が進んでいる。これらは中長期的に見た場合、軽油で可動させるポンプより安価で利益を増やしやすいため、ケシ農業の新規参入者と生産量の増加要因になると同時に、この分野の低炭素化が進んでいる。 2022年4月3日、ターリバーンのアーホンドザーダ最高指導者が全土でのケシ栽培を禁ずる方針を打ち出した。 世界銀行によれば電力供給率は2008年の28%から2018年では98%に上昇している。2016年現在、1400メガワットの電力を生産しているが、依然としてイランと中央アジア諸国から送電線を介して電力の大部分を輸入している。水力発電が大部分を占め、川の水量に依る。しかし必ずしも信頼性のあるインフラではなくカーブルを含む都市でも停電が起こる。2018年より、太陽光、バイオマス、風力などの発電所が建設されている。現在開発中の計画としてはキルギスタンとタジキスタンから送電するCASA-1000プロジェクト(英語版)があり、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド(TAPI)のガスパイプラインがある。電力はダ・アフガニスタン・ブレシュナ・シェルカット(Da Afghanistan Breshna Sherkat,アフガニスタン電力会社、略称DABS)によって管理されている。 主要なダムは、カジャキダム、ダーラダム、サルデバンドダムなど。 1960年代はヒッピーの聖地として多くの外国人観光客で賑わい、ネパール、インド、パキスタンからアフガニスタンを通りイラン、そしてトルコから欧州へと抜けるヒッピー・トレイルとなっていた。1977年が観光のピークと言われ、その後の政情不安や長期的な紛争の結果として観光客はまばらとなっている。それでも、2016年には年間2万人の外国人観光客が渡航したと言われている。国内には雄大な視線を誇り風光明媚な場所も多く、特にバンデ・アミール国立公園(英語版)と世界遺産のバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群のあるバーミヤン周辺や標高3000m - 7000mにある高原のワハーン回廊を訪れる外国人観光客がいる。 交通やインフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行われていなかったために現在も復興が行われている。なお、多くの先進諸国でみられるような高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行われている。 かつては国際列車カイバル鉄道(カーブル〜パキスタン国ペシャーワル間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。アフガン公共事業庁の監督のもと、ウズベキスタン国境の貨物駅Hayratanからマザーリシャリーフまでの鉄道建設が進み、2011年8月20 - 21日に開業した。また、首都カーブルには1992年当時トロリーバスが存在したが、現在は存在しない。 なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行われているほか、カーブル国際空港をハブとした国営航空会社のアリアナ・アフガン航空や、そのほかに乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。 アフガニスタンは多民族国家であり、最大の民族はイラン系のパシュトゥーン人で中部や南部に住み同国では支配的な地位にあり、元大統領のハーミド・カルザイやアシュラフ・ガニーもパシュトゥーン人である。ついで多いのが同じくイラン系のタジク人で両者で人口の8割弱を占めておりヘラートやマザーリシャリーフでは大半がタジク人である他、カーブルやガズニーの人口の半数近くを占めており、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領がタジク人である。3番目に多いのがイラン系とテュルク系とモンゴル系の血を引くハザーラ人で、イスラム教シーア派信者が多く、中部のハザーラジャート(英語版)に多く住む。同国では差別的な扱いを受けてきたため難民としてイランや欧州をはじめとした海外に流出している人も多い。そして、テュルク系のウズベク人、トルクメン人やイラン系のアイマーク人が主な民族となっている。そのほかにヌーリスターン人、バローチ人、キルギス人、パシャイー人(英語版)、パミール人、ワハン人などがいる。 パシュトゥーン人はパキスタン、ウズベク人はウズベキスタン、タジク人はタジキスタンへの親近感が強く、ハザーラ人はシーア派を国教とするイランの庇護を求める傾向が強い。民族を超えて共有するアフガニスタン国民としての意識は弱く、アフガニスタン・イスラム共和国は欧米などの民間軍事会社から集めた約2万人の治安要員と米軍に依存しており、ターリバーンの攻勢で政府軍は簡単に崩壊した。 主要民族(2013年推計) 公用語はパシュトー語(48%)とダリー語(77%)が制定されている。パシュトー語はパシュトゥーン人の母語で歴史的に政治の場において国家語的地位にある中心言語であるが方言間の差異が大きい。政府の実用言語、国民の間の共通語としてはペルシャ語のアフガン方言でありファールシー語とも言われるダリー語の方が主に使われておりアフガニスタンにおける中心言語の地位を担っている。これはアフガン王朝時代から宮廷の言語として使われてきたためでダリーは宮廷の言語という意味である。ダリー語はタジク語、ペルシャ語とは語彙にいくらかの違いがあるものの意思疎通に何ら問題が無く、かつては単にペルシャ語と呼ばれていた。パシュトゥーン人やタジク人、ハザーラ人の多くが両言語話者、ウズベク人やトルクメン人などのテュルク系民族も母語に加えていずれかの言語を話すことができる。首都カーブルはダリー語が共通語であり、パシュトゥーン人もペルシャ語化している人も少なくない。その他、ウズベク語、トルクメン語、バローチー語、アイマク語、ヌーリスターン語、パシャイ語、キルギス語などが話されている。 地方言語 その他 アフガニスタンでは一夫多妻婚が法的に容認されている。ただし、現代においては一夫多妻婚が国内すべての男性に広く認められているわけではなく、多くのアフガン人男性は妻となる女性を迎え入れるだけの余裕を持ち合わせていないのが現状である。 アフガニスタンの民法では、女性に対して16歳での結婚が認められており、児童婚が横行している。この児童婚は同国において現在も大きな問題となっている。 アフガニスタンの国教であるイスラム教では児童婚が禁止されているにも関わらず、アフガニスタン本土では早期結婚や児童婚が強制されており、「幼な妻」の慣習が未だ根強い状況になっている。同国では、これらの結婚はカーブルなどの大都市よりも概して田舎の地域で行われており、その主な原因は貧困状態が続いていることが背景にある。また、国民の大半がイスラム教の道義や人権について知識がないことも原因の一部となっており、これが児童婚に益々拍車をかけている。 2016年のアフガニスタンにおける児童婚の比率は33%であった。 一方で、カブールに拠点を置く女性会議が2000年6月に「強制結婚は犯罪と見なされるべきであり、強制結婚させられた女性は被害者の地位を与えられるべきである」との訴えを起こしている。 その他には、シーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒が存在する。 イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツでキリスト教に改宗した人の死刑判決に対して国際的非難を浴びたことでこの法律は撤廃され、その後は布教活動も許されるようになった。2006年8月、ターリバーンは韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。 2021年ターリバーン攻勢による混乱で多くの学校が閉鎖された後、男子の通学は同年9月ごろに再び始まり、女子教育は初等教育と大学で再開されたが、ターリバーン政権は女子の中等教育を、イスラム法に則した学習環境が整っていないという理由で再開を延期している。このためターリバーンの弾圧を避けて女子教育を行なう秘密の学校が開設されている。 ターリバーン政権以前は、アフガニスタン教育省・高等教育省の下、K-12と高等教育が実施されていた。 生徒は約1000万人、教師は22万人いる。より多くの学校と教師が必要とされていた。義務教育は9年生までで、学校年度は3月から11月までである。 大学においては、カーブル大学、アフガニスタン・アメリカン大学、カールダーン大学、バルフ大学、ヘラート大学、ナンガルハール大学、シャイフ・ザーイド大学、カンダハール大学、カーテブ大学がある。 イスラム圏で、モスクに併設されるなどして広く開設されている学校「マドラサ」は、アフガニスタンの農村部においては、日本の江戸時代における寺子屋のような初等教育の役割を担っている。 アフガニスタンの保健は着実に改善してはいるが国際基準に準ずれば劣悪状態にある。同国の環境問題と1978年より続く戦争、特に2001年からの紛争以降のターリバーンの活動によって悪影響を受けている。公衆衛生省が市民とその健康に関するすべてを所管する。 人間開発指数によると、アフガニスタンは世界で21番目に遅れた開発途上国である。ポリオ撲滅に至っていない3か国の内に入っている。2019年においては平均寿命は約64歳であり、妊婦死亡率は638人/10万人と推定されており、乳児死亡率は1000人あたり106人に上るとされる。 毎年約1万5000人が様々な癌が原因で死亡している。 アフガニスタンの医療は全土にある3000以上の保健施設によって提供される。すでに脆弱な医療制度ではあったが何十年も続く戦争と国際社会による怠慢が制度を崩壊させた。大半の医療専門家は1992年までに他の国に移住しすべての医療訓練プログラムは中止された。1999年から2002年にかけての干ばつがこれらの状況をますます悪化させたが、例を挙げると、最初の脳神経外科病院を含む1万7000以上の保健所が全土に設置され、医療制度が幾分改善された。 アフガニスタンでは厳しい治安情勢が続いている。ターリバーンが政権を奪取・掌握してからも、ISKPなどの反政府武装勢力が依然として根強い勢力を保っており、国軍・外国軍や警察、政府関係機関を始め、国連機関や外交団、外国NGOなどへの攻撃・誘拐などを繰り返していて、現地は非常に危険な状況に陥っている。 また、武装した犯罪グループによる強盗や身代金目的の誘拐事件も多発しており、外国人は一般犯罪はもとよりテロ・誘拐の標的にされている為、滞在中の外出は予断を許さない状態となっている。 2021年2月の国連の年次報告書によると、2020年に発生した反政府武装勢力による民間人の誘拐件数は、前年比80名増となる1086名に達し、誘拐関連の死傷者数は前年から倍増し113名となっている。傍ら、一部の地域では、高い失業率と貧困から、犯罪者集団による身代金目的の誘拐がビジネス化している現状が挙げられ、主要なターゲットとして、外国人や政府関係者、治安部隊関係者、裕福なビジネスマン、ジャーナリスト、援助関係者、建設作業員などが狙われている。僅かな金額の身代金目的で、一般の子どもが誘拐されるケースも報告されている。 日本人の被害事例としては、2005年8月に南部カンダハール県のパキスタン国境付近で日本人旅行者男女2人が殺害された事件をはじめ、2008年8月に東部ナンガハール県ジャララバードにおいて日本人NGO職員が誘拐・殺害された事件、2010年4月に北部クンドゥーズ県において日本人ジャーナリストが誘拐・監禁され約5か月後に解放された事件が挙げられている。 現在、外務省からアフガニスタン全土に対して「レベル4(退避勧告)」が発出されており、渡航をしないよう注意が呼びかけられている。 国家警察(英語版)(ANP)が一般的な公安機関となっている。 この機関は内務省(英語版)の管轄下にある。 アフガニスタン王国時代の1964年に制定された憲法では男女平等が謳われ、その後1970年代の社会主義政権時代はよりいっそうの世俗化を推し進め、女性は洋服を着て教育を受けており、都市部ではヒジャブやスカーフを被る人も少なかった。 1978年には医者の4割が女性、カーブル大学の講師の60%が女性であった。しかし、農村部の世俗化は進まなかったことと、その後の社会主義政権の崩壊と共にムジャヒディーンの勝利を経て1990年代にイスラム主義に回帰。純然たるイスラム国家であったターリバーン政権時代には女性の人権が著しく制限された。ターリバーン政権が崩壊したあと、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされるが、2018年時点でもいまだに女性の識字率は3割未満である。しかし、現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。 そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。 欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた。また、女性の権利について「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された。これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。 クルアーンを冒涜したものについては信仰を問わず、発覚した場合は即日のシャリーアにより裁かれる可能性がある。 アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、たとえば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる「名誉殺人」も行われているという。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など、女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしていると報じられた。 ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された勧善懲悪省(宗教警察)が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの巡礼・宗教問題省の名で復活。2021年のターリバーンの政権奪還に伴い勧善懲悪省が復活した。一方でアフガニスタン・イスラム共和国の前身である暫定政府(英語版)によって2001年後半に設立された女性問題省(英語版)(MOWA)も勧善懲悪省の復活に伴い廃止されている。 第二次ターリバーン政権では女性がテレビに出演でき、街中でもブルカでなくともヒジャブを被れば許されるように変化した。 アフガニスタンには約350のラジオ局と200以上のテレビ局がある。ラジオ・テレビジョン・アフガニスタンは1925年に始まった国営公共放送局である。テレビ番組は1970年代に放送され始め、TOLO、シャムシャッドTVなどの多くの民間放送局も存在する。最初の新聞は1873年に発行され、今日では何百もの印刷所がある。1920年代までに、ラジオ・カーブルは地元のラジオ放送を放送していた。 ボイス・オブ・アメリカ、BBC、ラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティー(RFE/RL)はアフガニスタンの公用語の両方でラジオで放送された。2002年以降、報道規制は徐々に緩和され、民間メディアは厳しい統制が20年以上続いたが多様化している。 アフガニスタン人は長い間、インド映画の観賞や、映画の歌を聴いたりすることに親しんできた。アフガニスタンはヒンディー語映画産業にとって最大の市場の一つであるとされる。アフガニスタン系インド人のステレオタイプ(カブリワラまたはパターニ)は、俳優によっていくつかのボリウッド映画でも表現されている。多くのボリウッド映画スターはアフガニスタンにルーツを持つといわれる。 アフガニスタンの文化は3000年以上にわたって生き続け、少なくとも紀元前500年のアケメネス朝まで遡ることができ、文化の多様性を包括してきた。中央アジア、南アジア、西アジアの交差点に位置し、歴史的に多様性の中心地である。ある歴史家によれば「古代世界の環状交差点」と呼称している。 アフガニスタンは主に部族社会であり、さまざまな地域に独自のサブカルチャーが存在する。それにもかかわらず、ほとんどすべてのアフガニスタン人はイスラム教の伝統に習って、同じ休日を祝い、同じ服を着用し、同じ料理を食し、同じ音楽を聴き、ある程度多言語である。その文化は、言語、料理、クラシック音楽などに見られるトルコ・ペルシア文化(英語版)、インド・ペルシャ文化の要素と強い結び付きがある。 アフガニスタンの文化は学術的観点において、学術研究の分野は次第に活発化しつつある。1978年より断続的に続く紛争によってアフガニスタンの文化は、脅かされ破壊されている。 小麦で練ったナーンやビリヤニなどが有名。飲料としては隣国同様にチャイがよく飲まれる。 アフガニスタンは文学の歴史が長い国の一つとして知られる。また、世界的な詩や諺の宝庫としても認知されている。 アフガニスタンにおける映画技術は20世紀初頭に導入されたものが基盤となっている。 アフガニスタンにおける建築文化は過去2000年間に亘って広大な範囲の帝国に属していた点から、様々な民族文化の影響を広く受け続けている面を持つ。 また数世紀の間、時間の経過とともにギリシャからペルシャ、インド、中国、ヨーロッパに至るまで幾多もの国や地域からの建築文化の影響を強く受けており、自国の建築物や建築遺跡には多様性が存在する。それに伴い、様々な宗教的影響も反映されている点が最大の特徴ともなっている。 アフガニスタンの民族衣装は、同国地域における様々な民族グループの服飾文化が融合したものとして知られている。 アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の2つがユネスコの世界遺産に登録されている。 バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。 ※2020年時点の基本的な祝祭日を以下に述べる。 この他には、イスラム暦に基づいた移動祝祭日が存在する。 アフガニスタン国内ではクリケットが最も人気のスポーツである。1839年のイギリスとのアフガン戦争中にカーブルでプレーされたという報告がある。1990年代にアフガニスタン人の間でクリケット人気が高まり、1995年にアフガニスタン・クリケット連盟が設立された。国際競技連盟の国際クリケット評議会には2001年に加盟し、2017年に正会員に昇格した。アフガニスタン代表チームの国際舞台での急速な進歩があり、国際クリケット界での「ライジングスター」と呼ばれた。2018年にトゥエンティ20方式のクリケットリーグである「アフガニスタン・プレミアリーグ」が創設された。 サッカーアフガニスタン代表は1922年に、アフガニスタンサッカー連盟(AFF)は1933年に設立され、1948年に国際サッカー連盟(FIFA)に、1954年にはアジアサッカー連盟(AFC)に加盟した。なお、1984年から2003年まではアフガニスタン紛争のため国際大会には出場していなかった。また、サッカーアフガニスタン女子代表は2010年に設立され、FIFA女子ワールドカップおよびAFC女子アジアカップには未出場である。2012年に「アフガン・プレミアリーグ」が創設された。同年の優勝決定戦では、スタジアムが満員となる4000人を超える観客が集まった。 セパタクローの人気も高いとされている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アフガニスタン・イスラム首長国(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、パシュトー語: د افغانستان إسلامي امارت、英語: Islamic Emirate of Afghanistan)、通称アフガニスタン(ダリー語: افغانستان、パシュトー語: افغانستان、英語: Afghanistan)は、中央アジアと南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国である。現在はターリバーンによる暫定政権が築かれている。東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東ではワハン回廊で中国と国境を接している。多民族国家で、周辺国と民族やイスラム教宗派でつながりが深いパシュトゥン人、ウズベク人、タジク人、ハザラ人などが暮らす。中東の東端と位置付けられることもある。首都は人口最大の都市のカーブル。面積は65万2000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国となっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アフガニスタンは多様かつ波乱な歴史を紡いで来た地域に建つ国家である。少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。9000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった。インド・アーリア人がバクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書『アヴェスター』に描かれている文化と密接な関係がある鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500 - 1100年ごろ)が興った。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カブール渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国はヘレニズム世界の東端となった。マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教とヒンドゥー教が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝のカニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにムスリムがイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ。その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー朝などに支配された地域もある。現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とするホータキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカーブルに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャーワルはシーク教徒に奪われた。19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンの下で君主制となる。しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)が樹立された。1978年、2度目のクーデターにより、アフガニスタンは初めて社会主義国家となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が勃発した。1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義者のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。政府とターリバーンとの間で続いている戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させた。一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われている。2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われた。2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン大統領府を占領、アシュラフ・ガニー大統領は国外へ亡命し、アフガニスタン・イスラム共和国政府は事実上崩壊した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの経済規模は世界第96位で、購買力平価による国内総生産(GDP)は729億ドルである。一人当たりのGDP(PPP)ではもっと低い。現今においてはテロリズム、貧困、子供の栄養失調、汚職が蔓延しているだけではなく、頻繁な政権の奪取が行われる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2021年までの正式国名はアフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、ダリー語: جمهوری اسلامی افغانستان、パシュトー語: د افغانستان اسلامي جمهوريت、英語: Islamic Republic of Afghanistan)であったが、この国号を使用した政府は同年8月15日にターリバーンの攻勢によって事実上崩壊した。同年8月19日、ターリバーンのスポークスマン、ザビフラ・ムジャヒドはTwitterでアフガニスタン・イスラム首長国(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、パシュトー語: د افغانستان إسلامي امارت、英語: Islamic Emirate of Afghanistan)が成立することを宣言した。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "自称国名はافغانستان (Afghānistān ; アフガーニスターン)。ペルシア語・ダリー語で「アフガーン人の国(土地)」を意味する。アフガーン人とはパシュトゥーン人の別名であるが、実際にはパシュトゥーン人の割合は50%に満たず、数多くの民族が居住している。正式名称は1973年の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後のロヤ・ジルガ(国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、جمهوری اسلامی افغانستان (ラテン文字転写 : Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "通称アフガニスタン。漢字表記は阿富汗斯坦または亜富汗斯坦。", "title": "国名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2023年8月15日現在のアフガニスタンの国旗は、1997年10月27日にターリバーン政府によって制定されたものである。2001年の米軍侵攻後に成立したカルザイ政権の時代に排除され、以後20年間にわたりアフガニスタン王国時代の3色旗が国旗として使用されたが、ターリバーンの政権復帰に伴いモノトーンの旗が国旗として使われるようになった。白地に黒文字で、大きくシャハーダが書かれている。", "title": "国旗" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "紀元前10万年、旧石器の文化があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "紀元前7000年、新石器の文化があった。少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。9,000年前に定住生活が始まり、紀元前3千年紀のインダス文明(ショルトゥガイ遺跡)、オクサス文明(ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった。紀元前3000年から紀元前2000年にかけて四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "紀元前2000年から紀元前1800年は青銅器時代で、ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "紀元前12世紀、『リグ・ヴェーダ』によれば、十王戦争が勃発し、バルフからパンジャブへ侵攻した。インド・アーリア人がバクトリア・マルギアナ地方を経てガンダーラに移住し、ゾロアスター教の古代宗教書『アヴェスター』に描かれている文化と密接な関係がある鉄器時代のヤズ1世文化(紀元前1500〜1100年ごろ)が興った。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ人の手に落ち、その東側のインダス川までの地域を征服した。アレキサンダー大王は前4世紀にこの地域に侵入し、カーブル渓谷での戦いの前にバクトリアでロクサネと結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。グレコ・バクトリア王国はヘレニズム世界の東端となった。マウリヤ朝インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって仏教とヒンドゥー教が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配したクシャーナ朝のカニシカ1世は、大乗仏教が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、エフタル、アルコン、ネザーク、ズンビール、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "サーサーン朝の支配下にあったヘラートとザランジには、7世紀半ばにムスリムがイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、サッファール朝、サマニー朝、ガズナ朝、ゴール朝の時代に本格的なイスラム化が進んだ。その後、クワーラズミアン朝、ハルジー朝、ティムール朝、ローディー朝、スール朝、ムガル帝国、サファヴィー朝などに支配された地域もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャ帝国に編入され、アレイヴァ(ヘラート)、アラコシア(英語版)(カンダハール、ラシュカルガー、クエッタ)、バクトリア(バルフ)、サッタギディア(英語版)(ガズニー)、ガンダーラ(カーブル、ジャラーラーバード、ペシャーワル)の地方名で呼ばれた。カンダハールの旧市シャル・イ・コナ(英語版)の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が既にアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "紀元前5世紀ごろ、アラコシア(英語版)には古代民族Pactyans(英語版)が住んでいたことがサンスクリットや古代ギリシャ語文献から知られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "紀元前4世紀、アレクサンドロス3世(大王)はこの地を征服し、アレクサンドリアオクシアナ(Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "紀元前3世紀中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけてはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国が支配した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "紀元前130年ごろ、インド・グリーク朝のメナンドロス1世が死んで国が分裂すると、サカ族がガンダーラ地方でインド・スキタイ王国を興した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "紀元前2世紀後半、匈奴に追われた遊牧民の月氏が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1世紀以降、先の大月氏の立てたクシャーナ朝がこの地に栄える。このころにはギリシア文化は影響力を失い、代わって南方のマウリヤ朝から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまでバクト商人がシルクロード交易を掌握する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "3世紀末、クシャーナ朝に代わりサーサーン朝の支配がこの地に及ぶ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "5世紀前半、エフタルが興り、現在のアフガニスタンとパキスタンの地を支配する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "6世紀後半、アルタイ方面から南下してきた突厥による支配を受ける。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "8世紀初頭、イスラム帝国アッバース朝のイスラム教徒軍がハザールとソグディアナに侵攻し(アラブ・ハザール戦争、トランスオクシアナ征服(英語版))、その支配下へ入る。751年のタラス河畔の戦いによりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀ごろまで残存した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "9世紀中ごろ、再び土着イラン人によるターヒル朝、サッファール朝、サーマーン朝が興り統治する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "995年、マームーン朝(英語版)のイスラム教徒軍が侵攻、アムダリヤ川右岸の古都キャト(カタルーニャ語版、ドイツ語版、ペルシア語版)に栄えていた土着のゾロアスター教国家であるアフリーグ朝(英語版)は滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1017年、ガズナ朝がマームーン朝を滅ぼした。10世紀以降、このころからパシュトゥーン人の存在が確認され始める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1117年、シャンサブ家がゴール朝を興し、シハーブッディーン・ムハンマドに仕えるクトゥブッディーン・アイバクは北インド征服事業を成功させ奴隷王朝を開いた。1215年にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによってゴール朝は滅亡した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "モンゴルのホラズム・シャー朝征服のあと、アフガニスタンはモンゴル帝国およびチャガタイ・ハン国、タジク人のクルト朝の支配を受ける。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1370年ごろ、テュルク系のティムール朝による支配を受ける。1470年、ティムール朝が分裂しヘラート政権に移行。1507年、ウズベク族のシャイバーン朝のムハンマド・シャイバーニー・ハーンの攻撃によってティムール朝は滅亡する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1510年、サファヴィー朝イランによって征服される。1526年、第一次パーニーパットの戦い。カーブルを拠点とするティムール朝の王子バーブルがインドにムガル朝を建設。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1540年、北インドのスール朝がカンダハール、カーブルを占拠。1545年、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。1556年、第二次パーニーパットの戦いでスール朝のヘームーを破る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1623年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。1638年、ムガル帝国がカンダハールを占拠。1649年、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1709年、パシュトゥーン人ギルザーイー部族のミール・ワイス・ホータキー(英語版)が反乱を起こし、カンダハールにホータキー朝を樹立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1719年、ホータキー族のミール・マフムード(英語版)がサファヴィー朝のケルマーンに侵攻した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1722年、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都イスファハーンを占拠(グルナーバードの戦い(英語版))。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1729年、アシュラフがアフシャール朝のナーディル・シャーに敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した(ダームガーンの戦い(英語版))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1736年、アフシャール朝が成立。サファヴィー朝が消滅した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミールワイス・ホータクを始祖とするホータキー朝に始まる。1747年、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハールに首都を置くドゥッラーニー帝国を建国した。1776年、ドゥッラーニー帝国の首都はカーブルに移され、ペシャーワルが冬の首都となったが、1823年、ペシャーワルはシーク教徒に奪われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1747年10月、パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合のザドーザイ族長アフマド・シャー・ドゥッラーニーによるドゥッラーニー朝が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1757年、マラーターのインド北西部侵攻(英語版)でパンジャーブが占領された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1826年、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、バーラクザイ朝が成立。1834年に国名をアフガニスタン首長国とする。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1838年 - 1842年、第一次アフガン戦争でイギリスに勝利した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった。1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "シール・アリー・ハーン在位時に起きた第二次アフガン戦争(1878年 - 1880年)のカンダハールの戦い(英語版)でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約(英語版)でその保護国となった。英露はアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争(英語版)が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の巨文島で巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1893年、パキスタンとの国境線デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年、チトラール遠征(英語版)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンの下で君主制となる。しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)が樹立された。1919年に第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインがインダス川上流およびスワート川(英語版)流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルクの世俗主義、民族主義、共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "王妃ソラヤ・タルズィー(英語版)は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニー(英語版)は、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦(ペルシア語版、ノルウェー語版、英語版))。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派を国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザーラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソビエト連邦両国はナチス・ドイツとイタリアなど枢軸国の外交官や民間人の国外退去を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中の全ての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加しなかった。イギリスやパキスタンもカラート藩王国(英語版)の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合(英語版)として独立させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争(英語版))に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域、ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動(英語版)」を起こし牽制した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1973年のクーデターでアフガニスタンは共和制となり、1978年、2度目のクーデターにより初めて社会主義国家となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(英語版)(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(ペルシア語版、ロシア語版、英語版)(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1978年4月、アフガニスタン人民民主党(PDPA)主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立され、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任し世俗化を推し進めた。これに対し、全土でイスラム主義のムジャーヒディーンが蜂起、アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が始まる。アメリカ合衆国は反共を名目としたサイクロン作戦によりムジャーヒディーンを資金援助して後押しした。政情が不安定化する中、1979年2月に隣国でイラン革命が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1979年2月14日、カーブルで、ダブス米大使が誘拐・殺害される事件が発生した。3月には西部のヘラートで、イスラム主義ゲリラ・地域住民・政府軍からの脱走兵と、政府軍・ソ連軍顧問、との間で激しい戦闘が起きた。カーブルのアフガニスタン政府に対する、イスラム勢力や地方住民の反発は激化していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "広範な勢力を取り込んだ「連合政府」を樹立させアフガニスタン政府の基盤を強化することが急務であると考えたソ連指導部は、9月9日、タラキーに対して、軍事援助の増額と引き換えに、個人的野心で行動するハフィーズッラー・アミーンの排除を要求したが、アミーンが対抗手段を準備している事を知るタラキーは逡巡した。9月13日夜、プザノフ大使などカーブルのソ連側現地責任者たちは、タラキーとアミーンとの会談を要求した。この会談でソ連側はアミーンの政治姿勢を強く非難したが、タラキーはアミーンを解任しなかった。そこで、翌日タラキーの公邸で、ソ連側立ち合いの下、両者は再度会談を行うことになった。アミーンが解任されなかったことを知ったタラキー派のPDPA上級幹部数名はソ連大使館に逃亡した。タラキー自身もソ連側に助けを求めた。9月14日午後、会談のためタラキーの公邸に入ろうとしたアミーンに、大統領の護衛が発砲した。アミーンの補佐官は射殺されたが、アミーンは無傷で難を逃れ暗殺は失敗した。アミーンは、自分に忠実な軍の部隊を動員し、PDPAのリーダーに就任しタラキーを追放した。10月9日、タラキーは獄中で処刑された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1979年10月上旬のアミーンによるタラキー前大統領処刑が、ソ連指導部を軍事介入に向かわせた。介入に積極的であったのは、ブレジネフの後継を意識していたアンドロポフKGB議長とウスチノフ国防相であった。10月27日にアミーンがアメリカ大使館職員と会談したことも、ソ連側のアミーンへの疑念を増大させた。12月12日モスクワでの政治局会議で、軍事介入が正式に承認された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ソ連=アフガニスタン国境およびアフガニスタン領内でのソ連軍の増強に対し、12月15日アメリカ国務長官ヴァンスは、駐モスクワ大使に、グロムイコ外相と即時面会しソ連軍増強への説明を求めるように指示した。また、ヴァンスは、一方的な軍増強は、1972年5月の米ソサミットで合意された、米ソ両国は友好関係を尊重するという原則に反する、と抗議した。ソ連側はアメリカの抗議をはねつけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1979年12月25日午後3時、ソ連はアフガニスタンへの軍事侵攻作戦を開始した。12月27日夕刻、KGB特殊部隊がアミーンの官邸を攻撃し、アミーンを処刑、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立した。 以後、ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘がさらに激化する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義勢力のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。1989年、ソ連軍撤退後の国内支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(ペルシア語版、ロシア語版、英語版)(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州(英語版)がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟(マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1997年、第一次マザーリシャリーフの戦い(英語版)でターリバーンが敗北。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利。ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された。また、ケニアとタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件に伴うアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267(英語版)が採択される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333(英語版)が採択される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "2001年3月2日、ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破する。9月10日、北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による自爆テロで死亡した。9月16日、マスードの遺体が故郷パンジシールで埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。9月25日、サウジアラビアがターリバーンとの断交を決定。9月26日、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2001年のアメリカ軍侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。政府とターリバーンとの間で続いた戦争は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させ、一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2001年10月2日、アメリカ同時多発テロ事件を受けて北大西洋条約機構(NATO)がアルカーイダを匿うターリバーン政権に対して自衛権の発動を宣言。10月7日、アメリカ軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これよりアフガニスタン紛争 (2001年-2021年)が開始される。11月13日、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。11月22日、パキスタン政府がターリバーンとの断交を決定し、駐イスラマバードアフガニスタン大使館を閉鎖した。11月27日、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そしてペシャーワルからのグループが参加した。11月29日、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。12月5日、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人のハーミド・カルザイを据え、暫定政権協定の調印が実現した(ボン合意)。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。国際連合安全保障理事会決議1386にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また国際連合安全保障理事会決議1401により、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "2001年12月22日、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名で構成され、うち北部同盟が19ポスト、元国王支持派が8ポスト、ペシャワル派が2ポスト占めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "2002年1月21日、日本の東京でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60か国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。2月14日、アブドゥール・ラフマン航空観光大臣がカーブル国際空港で自国民に撲殺される。6月10日 - 6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され、1500人以上の代表が参加した。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した。6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガは閉会した。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "2004年1月、新憲法が発布された。10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した。12月、国会が開会した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した。同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人、4000人、1万3000人)。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった。9月18日、第二回の下院議会選挙が実施された。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた。2010年の経済成長率は22.5%に達した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "2014年4月、第三回の大統領選挙が実施され、9月29日にアシュラフ・ガニーがアフガニスタン第二代大統領に就任した。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった。ただし、この選挙には不正疑惑があり、最終的に解明されることはなく、米国の仲介により、候補両者が「挙国一致政府」に合意してガニー政権が発足した。大統領選挙の決選投票で敗れたアブドラ・アブドラ元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う国家統一政府(NUG)が発足した。12月、国際治安支援部隊(ISAF)が終了した。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが確固たる支援任務に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "アメリカ支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「夜襲作戦」と呼ばれる\"ターリバーン狩り\"が行われた。深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという。当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。作戦はターリバーン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した。あまりの不評にカルザイ大統領は「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領が復活を決めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2015年1月、イスラム国が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた。7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者ムハンマド・オマルの死亡が公表され中断した。国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた。2015年9月28日、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した(クンドゥーズの戦い)。衝撃を受けたアメリカ合衆国大統領バラク・オバマはアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した。また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2016年1月11日、アフガニスタンとパキスタン、中国、アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが、ターリバーンは和平交渉を拒否した。国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。9月、ヘクマティアル派との和解合意が成立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "2017年5月、カーブルのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した。8月、アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプは『対アフガニスタン・南アジア戦略』を発表し、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。ウルズガーン州(7郡中5郡)やクンドゥーズ州(7郡中5郡)、ヘルマンド州(14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2018年6月、ターリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した。8月、ターリバーンの猛攻によりガズニー州の州都が陥落寸前になった。10月、第三回の下院議員選挙が実施された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている。ターリバーンの勢力が拡大しつつあるという見解も示された。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた(アフガニスタン和平プロセス)。9月、第四回の大統領選挙が実施された。12月4日にはナンガルハル州ジャララバードで同地を拠点に灌漑事業を展開していたペシャワール会代表の中村哲が殺害された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2020年2月28日、トランプ米大統領は、駐留米軍を撤退させることでターリバーンと合意した(ドーハ合意)。合意の内容は、米国は14カ月以内にアフガニスタンからすべての連合軍を撤退させ、アフガニスタン治安部隊に対するすべての軍事・請負支援を終了し、アフガニスタンの内政干渉をやめること。また、アフガニスタン政府は5000人のターリバーン戦闘員の解放と経済制裁を緩和すること。一方、その条件としてターリバーンは、米軍や連合軍への攻撃をやめ、アルカーイダやその他のテロ組織がアフガニスタンの領土を使って米国の安全を脅かすことを許さず、アフガニスタン政府との交渉を行うというものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だったアブドラ・アブドラとアシュラフ・ガニー大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "2021年4月、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンは、2021年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "2021年7月にはターリバーンの代表団が訪中し、中華人民共和国外交部長(外相)の王毅と会談し、アブドゥル・ガニ・バラダルは「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "2021年ターリバーン攻勢前の政府はアメリカ合衆国の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その従属国とも言われていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは5月から本格的に主要都市を次々と制圧していった。もっとも、以前から公的機関の周辺以外は既にターリバーンが支配しており、戦いの趨勢は決まっていたという見方もある。虐殺を指摘される夜襲作戦で連合軍は市民から反感を買っており、アフガニスタン政府は腐敗で機能せず、迅速に統治するターリバーンは受け入れられていたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "2021年8月15日には首都カーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した。約20年間続いた民主政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が権力の移行を進めると表明した。同日、アシュラフ・ガニー大統領がタジキスタンに向けて出国したと報じられたが、タジキスタンは「ガニ氏を乗せた飛行機はタジキスタン領空に入っておらず、領土内に着陸もしていない」とし、ガニーの入国を否定した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "8月17日にターリバーンはアフガニスタン政府に「平和的降伏」を求め、政権移譲に向けた交渉を始めており、ビデオ声明を通じて勝利宣言した。また同日、対ターリバーン戦を呼び掛けていたヘラートの軍閥の指導者イスマーイール・ハーンが一時的に拘束された。一方で、第一副大統領(英語版)のアムルッラー・サーレハ(英語版)が憲法上の規定により、暫定大統領に就任すると発表した。サーレハはターリバーンの勢力が及ばないパンジシール州に滞在しているとされ、同州のパンジシール渓谷を拠点としていたマスード将軍の息子アフマド・マスードと共に抵抗運動を呼び掛けていると報道があったが、9月7日、ターリバーンは反勢力の最後の拠点を制圧したと宣言した。なお反ターリバーン組織は「まだ戦いは続いている」との声明を発表している(民族抵抗戦線を参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "アフガニスタン中央銀行の保有資産の多くは欧米の銀行で資産凍結されており、8月時点の現金残高は「ほぼゼロ」の状態で、国家予算の8割が米国など海外からの支援であった。こうしたターリバーンへの経済制裁は、極端なイスラム治政を敷くターリバーンに対し、国際社会との親和を促すという名目がある。トランプ政権で高官だった研究員は、米国は友好国と協調しながら資産凍結しなければならないとし、加えて、打撃を受けている同国の一般市民に対しては継続した人道支援が必要とした。8月31日、アメリカ軍はアフガニスタンから完全に撤退した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2021年9月7日、ターリバーンは暫定政権の主要閣僚を発表。政権トップにはハッサン・アフンド、副首相にはアブドゥル・ガニ・バラダル、内相にはスィーラジュッディーン・ハッカーニ、国防相にはヤクーブが就任。あわせて勧善懲悪省の復活というターリバーン色の強い政治姿勢も明らかにした。閣僚の多くはパシュトゥーン人であり、女性の起用は無かった。翌9月8日には大臣らが各省庁で就任演説を行う予定であったが、情報・文化省の例では職員約850人のうち20人ほどしか出勤せず、ターリバーンが政府として機能するには、なお時間を要することが示唆された。また、2021年9月21日に始まった国際連合の総会には、ガニ政権が任命したグラム・イサクザイ国連大使が代表として職務を続けた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "前述の米国やIMF、国連による経済制裁により、国民の生活は困窮し、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした。薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国が人道支援を例外とし、国連も同様の決議を採択した。2022年6月には、1000人以上の死者を出したアフガニスタン東部地震が発生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "アフガニスタンは政教一致体制をとるイスラム国家であり、ハナフィー法学とデーオバンド派の思想に基づいて解釈されるイスラム教を国の根幹としている。ムスリムの最高司令官であるアミール・アル=ムウミニーンのもと、マドラサ出身のムッラーによって国家が運営されている。政府の要職はターリバーンが独占している。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "アミール・アル=ムウミニーンはシューラの合意で選出され、終身制である。アミール・アル=ムウミニーンはハナフィー法学に従って、イスラム教の解釈やアフガニスタンの統治に関して最終的な決定を下す。アミール・アル=ムウミニーンが下した「イスラム的に正当な決定」は絶対であり、閣僚や政府職員、ターリバーンのメンバーが抗命する事は認められていない。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "ターリバーンの復権にともない、米軍侵攻後の2004年に制定された共和国憲法は廃止された。ターリバーンによると、2004年の憲法では、誰もクルアーン、スンナ、ハナフィ法学に従って導き出された文言を引用できない欠陥があった。一時はザーヒル・シャー王在位中1964年に制定された憲法を暫定的に施行すると言われていたが、取り消された。一連の憲法問題に関して、ハイバトゥラー・アクンザダは「全ての決定はイスラム教のシャリーアに基づいて行われるべきだ」と述べたとされる。2023年現在、ターリバーンは憲法制定に向けた取り組みを行っている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "内閣及び、各省庁の副大臣はアミール・アル=ムウミニーンから任命されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "州知事と州副知事は共にアミール・アル=ムウミニーンから任命されている。市長や郡知事、警察署長はアミール・アル・ムウミニーンの命令によって選出されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2021年末時点で、アミール・アル=ムウミニーンは22万8750アフガニ、首相は19万8250アフガニ、その他大臣は13万7250アフガニ、州知事は9万1500アフガニ、一級役人は2万5200から3万500アフガニ、二級役人2600から1万6600アフガニ。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "主要とされている5種類の裁判所で構成されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "裁判は通常、一次段階と控訴段階で3人の主要な裁判官によって処理されている。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "アフガニスタンではシャリーアが施行されている。シャリーア施行の厳格さは地域によって差があり、例えばバーミヤンのようなシーア派住民が多数を占める地域については取り締まりが緩い。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "2021年には腐敗認識指数いわゆる世界汚職国家ランキングで、180か国中174位だった。米国国際開発庁は2009年にアフガニスタンの汚職について「蔓延し、定着し、組織的になり、規模と影響力において前例のないものになっている」と評価した。2012 年の国連調査によると、アフガニスタン人の約半数が、税関職員、裁判官、検察官に賄賂を支払ったと報告し、調査回答者の半数弱が、土地登記官および州の役人に賄賂を支払ったと報告した。近年では反汚職を掲げるターリバーンの厳格な統治により、縁故主義や賄賂の要求、公金横領、司法腐敗の減少が見込まれており、2022年には180ヶ国中150位と順位を上げた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1919年にアマーヌッラー・ハーン国王が第3次アングロ・アフガン戦争後に王位に就き、イギリスの影響力は終わった。ザーヒル・シャー国王が海外渡航中にムハンマド・ダーウド・ハーンが奪取したがハーンは後に暗殺され共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)が政権を取った。ムハンマド・ナジーブッラー政権時に安定を見せた。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "2005年に国民議会が選出され、その後も2010年に選出された。選挙で選ばれた中には、元ムジャーヒディーン、イスラム原理主義者や改革派、共産主義者など、そして数人のターリバーンが含まれたが、選出された議員の内、憲法で保障された数を3%上回った約28%が女性で、これはアフガニスタンが立法府における女性参政権の面で主要な国であることを意味していた。2004年にはハーミド・カルザイが、2014年にはアシュラフ・ガニがアフガニスタン大統領に選出された。アブドラ・アブドラがアフガニスタンの最高経営責任者(CEO)に就任。2021年のターリバーンの攻勢時ガニ大統領は逃亡。ハッサン・アフンドはアフガニスタンの復活したイスラム首長国の臨時首相となり、9月7日には閣僚31人の名簿を発表した。", "title": "政治" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "2022年9月時点で、アフガニスタン・イスラム首長国を政府承認している国は存在しておらず、国際連合の代表権はアフガニスタン・イスラム共和国が継続して保持している。アフガニスタン・イスラム共和国はイスラム協力機構、南アジア地域協力連合、77ヶ国グループ、経済協力機構、非同盟運動に加盟していた。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "ただし、2023年3月3日時点で、パキスタンや中国、ロシア、イランなど11か国においてアフガニスタン・イスラム首長国側が指名した外交官が受け入れられ、アフガニスタン大使館・総領事館の運営を担当するなど実質的にアフガニスタンを代表する政治勢力として扱われている。また、2023年9月13日には中国が、タリバーンの復権後に世界で初めて新たな駐アフガニスタン大使を任命し、信任状をタリバーン指導部に奉呈した。他国はタリバーン復権後には、政府承認を前提とせず、信任状の奉呈を必要としない臨時代理大使を駐カブール大使館に派遣しており、中国政府がアフガニスタン・イスラム首長国を正式に政府承認しない中で、外交関係を有することを前提とした特命全権大使を同政府に派遣することは事実上の承認ともいえる異例の対応といえる。", "title": "国際関係" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "起源は18世紀初頭のホータキー朝やドゥッラーニー帝国の軍隊であるとされる。1880年代のアブドゥッラフマーン・ハーン統治時代に近代的な軍隊が創設された。第一次・第二次世界大戦では中立を保ったが1978年に始まったアフガニスタン紛争で弱体化し、ソ連軍の撤退後はムジャーヒディーンによって分割され、その後のターリバーン政権下では徴兵制度が採用された。2001年にアメリカなど多国籍軍のアフガニスタン侵攻が始まると、ターリバーン政権の国軍は消滅したかに思われた。アメリカは20年間で830億ドル以上を投じて、民主政府の国軍再建を支援したが、ターリバーンの攻勢に伴い崩壊した。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "アフガニスタン・イスラム首長国の兵力はターリバーン時代からの兵士が主力となっている。", "title": "軍事" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "現在のアフガニスタンにおける情報機関は情報総局(英語版)(GDI)である。", "title": "情報機関" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "かつては国家安全保障局(NDS)と呼ばれる機関が安全保障などを総轄していたが、2021年にターリバーンが政権を奪取して現地政界に返り咲いたことにより、NDSは解散させられGDIが設立。後にGDIが正式な後継機関となり、現在へと至っている。", "title": "情報機関" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "もともとの国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部にはわずかに平野部がある。最も標高の高い地点は、海抜7485メートルのノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られているが、水系は、アム・ダリア水系、ハリ・ルー水系、ヘルマンド・アルガンダ水系の四つに大別できる。ヒンドゥー・クシュの中心山系から国土を潤す三つの川が流れていて、一つは東流してインダス川に合流するカーブル川、もう一つは南流してハムーン沼沢地に消えるヘルマンド・アルカンダブ川、さらにもう一つは西流してカラクム砂漠に消えるハリ・ルード川(Hari Rud River)である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "気候は大陸性で、乾燥気候かつ夏乾冬雨となっている。内陸国である事と標高が高いために緯度の割に一部低地地域を除く全土に渡って寒さが非常に厳しく南西部と北部のトルクメニスタン国境部が砂漠気候、中部はステップ気候と亜寒帯気候、一部が地中海性気候となっており、北東部には高山ツンドラ気候も広がり、ワハーン回廊では1月の平均気温は氷点下15度以下に達する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "年間降水量は少なく冬季に集中するために雪が多くなる地域も多い。東部のヌーリスターン州のみモンスーンの影響を受けて夏季にも降水量が多くなる。山岳部では降雪も多くなり積雪は数メートルに達することも珍しくなく、しばしば雪崩が発生する。夏は暑く過去最高気温は2009年8月にファラーで観測された49.9度。一方、冬は寒くシャラックで1964年1月に氷点下52.2度の記録があるなど、氷点下40度以下の冷え込みとなることもある。また地震が頻繁に発生している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "年平均降水量は、国の南西部で75ミリ、マザーリシャリーフで213ミリ、東部のカズニーで213ミリ、サラング峠の上方で1150ミリである。主要都市は首都カーブルのほか、西部のヘラート、東部のジャラーラーバード、北部のマザーリシャリーフ、クンドゥーズ、南部のカンダハールなどである。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの環境問題は過去数十年の政治的混乱より以前からある。 森林は何世紀にもわたって放牧と農業によって枯渇されてきたが、現在は人口の44%以上が牧畜、農業に依拠し、環境保護は人々の経済的福祉においても重要である。 2007年に、世界保健機関は同国を環境ハザードによる死亡者数で、アフリカ諸国を除いた中で最も低いとの報告書を発表している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "多種多様な生物の生息が確認されているが、国際自然保護連合(IUCN)の報告によれば、同国内に存在する大型哺乳類の多くは絶滅危機に瀕しているとされている。アフガニスタン全土に数種類の哺乳類が生息する。高山ツンドラ地域にはユキヒョウ、シベリアトラ、ヒグマが生息する。北東部のワハン回廊地域にはマルコポーロヒツジ(アルガリの亜種)が見られる。キツネ、オオカミ、カワウソ、シカ、ヒツジ、オオヤマネコ、その他の大型猫が東部の山林地域に生息している。半砂漠の北部の平野では、様々な鳥や、ハリネズミ、ホリネズミ、ジャッカルやシマハイエナなどの大型肉食動物も生息する。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "ガゼル、イノシシ、ジャッカルは南部と西部の草原に生息し、マングースとチーターは半砂漠の南部に生息する。 マーモットとエイベックスも高山地帯におり、キジはアフガニスタンの一部に生息している。 足が速く長毛のアフガン・ハウンドも知られている。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "固有動物種には、アフガンモモンガ(Afghan flying squirrel)、アフガンスノーフィンチ、en:Paradactylodon(または「パグマン山のサラマンダー」Paradactylodon)、アフガンヒョウヤモリ(Afghan leopard gecko)、スティグメラ・カシイ(蛾の一種Stigmella kasyi)、ヴルカニエラ・カブレンシス(蛾の一種Vulcaniella kabulensis)、ウィーレリア・パルビフロレルス(蛾の一種Wheeleria parviflorellus)などがある。固有植物種にはアイリス・アフガニカ(Iris afghanica)が含まれる。アフガニスタンは比較的乾燥した気候ではあるが多種多様な鳥が生息し、推定460種のうち235種が繁殖している。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "森林地域にはマツ、トウヒ、モミ、カラマツなど、草原地帯には広葉樹、低草、多年生植物、低木が植生する。いくつかの地域は保護地域に指定され、バンデアミール国立公園(英語版)、ワハン国立公園(英語版)、ヌリスタン国立公園(英語版)の3つの国立公園がある。アフガニスタンの2018年度の森林景観保全指数(英語版)は8.85/10で、172か国中15位である。", "title": "地理" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "アフガニスタンは34の州(velāyat)で構成されている。", "title": "地方行政区分" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "後発開発途上国の一つで、農業と牧畜への依存度が高い。農業と牧畜は同国において伝統的産業であり、2004年の推計では就業人口の65.6%が農業に従事している。その上で天然資源に乏しい点から、世界で最も貧しい国の一つに数え上げられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "王政崩壊以降の断続的な紛争による社会・政治的な混乱、インフラの破壊、慢性的な旱魃により経済は壊滅状態となっている。また同じ理由から、大半の国民に充分な食料、衣料、住居、医療が提供できない状態が続いている。2004年10月のユニセフの報告によると、幼児の死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢であるとされ、死亡率は25.7%と高く、国内の医療・衛生状態はきわめて悪い。さらに、ターリバーンに対する経済制裁でまともな経済活動が難しい中での外貨取得手段として麻薬栽培がなされ、薬物汚染も問題となっている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "国民の3分の2は1日2ドル以下で生活しており、国際通貨基金(IMF)の統計によると、2013年時点のアフガニスタンの国内総生産(GDP)は207億ドルである。1人あたりのGDPでは679ドルとなるが、この数値は世界平均の10%未満であり、アジアの中でもっとも低い。世界銀行の発表する一人当たりGNIに至っては2021年で390ドルで、2021年のデータの得られた国ではアジア最下位にして唯一の低所得国(1085ドル以下)のみならず世界的にも最下位から2番目である。失業率も高く、ネパール、レソトなどと同じように40%を超える。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、世界銀行の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "2015年12月17日、ケニアの首都ナイロビで開催された第10回世界貿易機関(WTO)閣僚会議で、アフガニスタン第一副首相モハマド・カーン(当時)が議定書に署名し、アフガニスタンの加盟が正式に承認された。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "2019年時点ではアフガニスタンのGDPは192.9億ドルで世界第96位である。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "上述の通り、2021年から実権を握るターリバーン政権に対して、国連や米国などから資金凍結されたことで、深刻な食糧不足が発生している。国際連合世界食糧計画によれば、経済的影響、世界的なパンデミック、気候変動など様々な要因が合わさって、人口の半分以上が貧困以下の状態で生活を送っており、食料不安が増加している。これは、紛争と不安によってコミュニティ全体が生計の機会から断たれているためである。2280万人が深刻な食糧不安に陥っており、その中には紛争によって避難を余儀なくされた数十万人も含まれる。現今においてはテロリズム、貧困、子供の栄養失調、薬物中毒、汚職が蔓延している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "一方、国内には額にして1兆ドルから3兆ドルにのぼる地下資源が埋蔵されていると言われ、アフガンの現況も合わせ、「金鉱の上に横たわる貧者」とも表現される。埋蔵物は、石油や天然ガス、石炭のエネルギー資源から、鉄鉱石や銅、あるいはリチウムなどのレアメタルまで幅広い。外国の注目度も高く、米国によるアフガニスタン紛争の真の目的は鉱脈ではないかという説も囁かれる。中国には既に国内最大のメス・アイナク銅山の採掘権を与えている。紛争の影響でこれまでは未開であったが、今後の開発が期待される。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "2021年8月15日以前、アフガニスタンのGDPのうち40%は国際援助によるものだった。ターリバーンの政権復帰により、欧米諸国はアフガニスタンへの対外援助を止め、国際通貨基金や世界銀行も送金を止めたため、2022年現在、アフガニスタン経済は困窮状態にある。ただし、2021年12月の国連において、人道支援を目的とする現地への資金提供は制裁決議の違反にはあたらないとする決議が採択された。また、ターリバーンは、これまで外国からの援助に依存していたアフガニスタン経済を自立させるチャンスとも捉えている。アブドゥル・サラム・ハナフィ副首相代理は経済における自給自足の達成を長期的な目標として語った。アフガニスタンは20年ぶりに外国からの支援金に頼らない国家予算を作成した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "2012年10月22日、中国石油天然気集団がアムダリヤ川流域の鉱区で、本格的な原油生産を初めて開始した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "同国での天然ガス生産はないが、トルクメニスタン南部の巨大ガス田から同国とパキスタンを経由してインド西部へ通じるTAPIガスパイプラインが2015年に建設着手された。同国に通過料が落ちるほか、一定量のガス輸入が見込まれる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られている。インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "最も歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。首都カーブルの東南東190キロ、ヒンドゥークシュ山脈山中のサリ・サング鉱山(英語版)(Sar-i Sang)が主力。産出量は数トン程度。そのほか、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタンの国境沿い、クエッタの西のチャガイ山からも産出する。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力で、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。このほか岩塩(1万3000トン)も採取されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "アイナック銅鉱山(英語版)(Aynak Copper)は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1.56%、銅含有金属量1100万トンの超大型の銅鉱床である。そのほかには、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハールの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "上述の通り、農業は伝統的に主要産業として扱われている。乾燥地帯に属している為に、人工灌漑を必要とし、農地面積は灌漑用水量によって規制されている。灌漑方法としては大部分が河川の水を引くものとなっているが、西アジアに広く見られる「カナート」または「カーレーズ」とよばれる人工地下水路によって地下水を地表に導く方法も存在する。土地保有の特色としては自作農が多く、大土地所有は発達していない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "主な生産物は小麦と穀類とザクロだが、北部と西部の州はピスタチオ栽培、東部の州は松の実、中部の州はアーモンドとクルミが主体となっている。他にはジャガイモ、レモン、オレンジ、オリーブ、ピーナッツ、バナナが栽培されている。輸出品は果物とナッツ類が多い。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "農業は伝統的にアフガニスタン経済の主柱であり 、2018年現在では労働力の約40%が従事している 。ザクロ、ブドウ、アプリコット、メロンなど、他にも新鮮かつ乾燥した果物を生産することでも知られている。世界最大のアヘン生産国としても知られ、経済の16%以上がアヘンの栽培と販売に由来する。また大麻の最大生産国の一国でもある。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "最も高価な香辛料のサフランはヘラート州で栽培されている。近年はサフランの生産が増加傾向にあり、当局と農家はケシ栽培からの入れ替えを試みている。2012年から2019年の間、アフガニスタン産のサフランは国際味覚審査機構によって連続して世界最高位とされた。2019年に生産量は過去最高(1万9469kgのサフラン)を記録、国内では1kgあたり、634ドルから1147ドルで販売されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "アフガニスタンは「黄金の三日月地帯」に属し、古代メソポタミア文明以来、旱魃地域では医薬品の抗がん剤やモルヒネ(鎮痛剤)「植物性アルカロイド」、麻薬のアヘンやヘロインなどの原料となるケシの栽培が伝統的に盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達したとされる。政府は麻薬対策省を設け撲滅にあたっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成などの問題もあり、未だに解決を見ない。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "国際連合薬物犯罪事務所の年次報告書によれば、2018年時点でアフガニスタン南部のターリバーン支配地を中心に推定26万3000ヘクタールの面積でケシの栽培が行われている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "2013年ごろからはケシの栽培に使用する地下水の汲み上げにソーラーパネルによる太陽光電力と電動式ポンプが使われ始め、2020年の時点でも普及が進んでいる。これらは中長期的に見た場合、軽油で可動させるポンプより安価で利益を増やしやすいため、ケシ農業の新規参入者と生産量の増加要因になると同時に、この分野の低炭素化が進んでいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "2022年4月3日、ターリバーンのアーホンドザーダ最高指導者が全土でのケシ栽培を禁ずる方針を打ち出した。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "世界銀行によれば電力供給率は2008年の28%から2018年では98%に上昇している。2016年現在、1400メガワットの電力を生産しているが、依然としてイランと中央アジア諸国から送電線を介して電力の大部分を輸入している。水力発電が大部分を占め、川の水量に依る。しかし必ずしも信頼性のあるインフラではなくカーブルを含む都市でも停電が起こる。2018年より、太陽光、バイオマス、風力などの発電所が建設されている。現在開発中の計画としてはキルギスタンとタジキスタンから送電するCASA-1000プロジェクト(英語版)があり、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド(TAPI)のガスパイプラインがある。電力はダ・アフガニスタン・ブレシュナ・シェルカット(Da Afghanistan Breshna Sherkat,アフガニスタン電力会社、略称DABS)によって管理されている。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "主要なダムは、カジャキダム、ダーラダム、サルデバンドダムなど。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "1960年代はヒッピーの聖地として多くの外国人観光客で賑わい、ネパール、インド、パキスタンからアフガニスタンを通りイラン、そしてトルコから欧州へと抜けるヒッピー・トレイルとなっていた。1977年が観光のピークと言われ、その後の政情不安や長期的な紛争の結果として観光客はまばらとなっている。それでも、2016年には年間2万人の外国人観光客が渡航したと言われている。国内には雄大な視線を誇り風光明媚な場所も多く、特にバンデ・アミール国立公園(英語版)と世界遺産のバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群のあるバーミヤン周辺や標高3000m - 7000mにある高原のワハーン回廊を訪れる外国人観光客がいる。", "title": "経済" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "交通やインフラストラクチャーも度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行われていなかったために現在も復興が行われている。なお、多くの先進諸国でみられるような高速道路網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、長距離バスによる移動が行われている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "かつては国際列車カイバル鉄道(カーブル〜パキスタン国ペシャーワル間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。アフガン公共事業庁の監督のもと、ウズベキスタン国境の貨物駅Hayratanからマザーリシャリーフまでの鉄道建設が進み、2011年8月20 - 21日に開業した。また、首都カーブルには1992年当時トロリーバスが存在したが、現在は存在しない。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行われているほか、カーブル国際空港をハブとした国営航空会社のアリアナ・アフガン航空や、そのほかに乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。", "title": "交通" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "アフガニスタンは多民族国家であり、最大の民族はイラン系のパシュトゥーン人で中部や南部に住み同国では支配的な地位にあり、元大統領のハーミド・カルザイやアシュラフ・ガニーもパシュトゥーン人である。ついで多いのが同じくイラン系のタジク人で両者で人口の8割弱を占めておりヘラートやマザーリシャリーフでは大半がタジク人である他、カーブルやガズニーの人口の半数近くを占めており、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領がタジク人である。3番目に多いのがイラン系とテュルク系とモンゴル系の血を引くハザーラ人で、イスラム教シーア派信者が多く、中部のハザーラジャート(英語版)に多く住む。同国では差別的な扱いを受けてきたため難民としてイランや欧州をはじめとした海外に流出している人も多い。そして、テュルク系のウズベク人、トルクメン人やイラン系のアイマーク人が主な民族となっている。そのほかにヌーリスターン人、バローチ人、キルギス人、パシャイー人(英語版)、パミール人、ワハン人などがいる。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "パシュトゥーン人はパキスタン、ウズベク人はウズベキスタン、タジク人はタジキスタンへの親近感が強く、ハザーラ人はシーア派を国教とするイランの庇護を求める傾向が強い。民族を超えて共有するアフガニスタン国民としての意識は弱く、アフガニスタン・イスラム共和国は欧米などの民間軍事会社から集めた約2万人の治安要員と米軍に依存しており、ターリバーンの攻勢で政府軍は簡単に崩壊した。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "主要民族(2013年推計)", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "公用語はパシュトー語(48%)とダリー語(77%)が制定されている。パシュトー語はパシュトゥーン人の母語で歴史的に政治の場において国家語的地位にある中心言語であるが方言間の差異が大きい。政府の実用言語、国民の間の共通語としてはペルシャ語のアフガン方言でありファールシー語とも言われるダリー語の方が主に使われておりアフガニスタンにおける中心言語の地位を担っている。これはアフガン王朝時代から宮廷の言語として使われてきたためでダリーは宮廷の言語という意味である。ダリー語はタジク語、ペルシャ語とは語彙にいくらかの違いがあるものの意思疎通に何ら問題が無く、かつては単にペルシャ語と呼ばれていた。パシュトゥーン人やタジク人、ハザーラ人の多くが両言語話者、ウズベク人やトルクメン人などのテュルク系民族も母語に加えていずれかの言語を話すことができる。首都カーブルはダリー語が共通語であり、パシュトゥーン人もペルシャ語化している人も少なくない。その他、ウズベク語、トルクメン語、バローチー語、アイマク語、ヌーリスターン語、パシャイ語、キルギス語などが話されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "地方言語", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "その他", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "アフガニスタンでは一夫多妻婚が法的に容認されている。ただし、現代においては一夫多妻婚が国内すべての男性に広く認められているわけではなく、多くのアフガン人男性は妻となる女性を迎え入れるだけの余裕を持ち合わせていないのが現状である。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの民法では、女性に対して16歳での結婚が認められており、児童婚が横行している。この児童婚は同国において現在も大きな問題となっている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの国教であるイスラム教では児童婚が禁止されているにも関わらず、アフガニスタン本土では早期結婚や児童婚が強制されており、「幼な妻」の慣習が未だ根強い状況になっている。同国では、これらの結婚はカーブルなどの大都市よりも概して田舎の地域で行われており、その主な原因は貧困状態が続いていることが背景にある。また、国民の大半がイスラム教の道義や人権について知識がないことも原因の一部となっており、これが児童婚に益々拍車をかけている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "2016年のアフガニスタンにおける児童婚の比率は33%であった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "一方で、カブールに拠点を置く女性会議が2000年6月に「強制結婚は犯罪と見なされるべきであり、強制結婚させられた女性は被害者の地位を与えられるべきである」との訴えを起こしている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "その他には、シーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒が存在する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "イスラム教から他宗教への改宗には死刑が適用されたが、2006年、ドイツでキリスト教に改宗した人の死刑判決に対して国際的非難を浴びたことでこの法律は撤廃され、その後は布教活動も許されるようになった。2006年8月、ターリバーンは韓国人のキリスト教宣教師を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "2021年ターリバーン攻勢による混乱で多くの学校が閉鎖された後、男子の通学は同年9月ごろに再び始まり、女子教育は初等教育と大学で再開されたが、ターリバーン政権は女子の中等教育を、イスラム法に則した学習環境が整っていないという理由で再開を延期している。このためターリバーンの弾圧を避けて女子教育を行なう秘密の学校が開設されている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "ターリバーン政権以前は、アフガニスタン教育省・高等教育省の下、K-12と高等教育が実施されていた。 生徒は約1000万人、教師は22万人いる。より多くの学校と教師が必要とされていた。義務教育は9年生までで、学校年度は3月から11月までである。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "大学においては、カーブル大学、アフガニスタン・アメリカン大学、カールダーン大学、バルフ大学、ヘラート大学、ナンガルハール大学、シャイフ・ザーイド大学、カンダハール大学、カーテブ大学がある。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "イスラム圏で、モスクに併設されるなどして広く開設されている学校「マドラサ」は、アフガニスタンの農村部においては、日本の江戸時代における寺子屋のような初等教育の役割を担っている。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの保健は着実に改善してはいるが国際基準に準ずれば劣悪状態にある。同国の環境問題と1978年より続く戦争、特に2001年からの紛争以降のターリバーンの活動によって悪影響を受けている。公衆衛生省が市民とその健康に関するすべてを所管する。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "人間開発指数によると、アフガニスタンは世界で21番目に遅れた開発途上国である。ポリオ撲滅に至っていない3か国の内に入っている。2019年においては平均寿命は約64歳であり、妊婦死亡率は638人/10万人と推定されており、乳児死亡率は1000人あたり106人に上るとされる。 毎年約1万5000人が様々な癌が原因で死亡している。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの医療は全土にある3000以上の保健施設によって提供される。すでに脆弱な医療制度ではあったが何十年も続く戦争と国際社会による怠慢が制度を崩壊させた。大半の医療専門家は1992年までに他の国に移住しすべての医療訓練プログラムは中止された。1999年から2002年にかけての干ばつがこれらの状況をますます悪化させたが、例を挙げると、最初の脳神経外科病院を含む1万7000以上の保健所が全土に設置され、医療制度が幾分改善された。", "title": "国民" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "アフガニスタンでは厳しい治安情勢が続いている。ターリバーンが政権を奪取・掌握してからも、ISKPなどの反政府武装勢力が依然として根強い勢力を保っており、国軍・外国軍や警察、政府関係機関を始め、国連機関や外交団、外国NGOなどへの攻撃・誘拐などを繰り返していて、現地は非常に危険な状況に陥っている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "また、武装した犯罪グループによる強盗や身代金目的の誘拐事件も多発しており、外国人は一般犯罪はもとよりテロ・誘拐の標的にされている為、滞在中の外出は予断を許さない状態となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "2021年2月の国連の年次報告書によると、2020年に発生した反政府武装勢力による民間人の誘拐件数は、前年比80名増となる1086名に達し、誘拐関連の死傷者数は前年から倍増し113名となっている。傍ら、一部の地域では、高い失業率と貧困から、犯罪者集団による身代金目的の誘拐がビジネス化している現状が挙げられ、主要なターゲットとして、外国人や政府関係者、治安部隊関係者、裕福なビジネスマン、ジャーナリスト、援助関係者、建設作業員などが狙われている。僅かな金額の身代金目的で、一般の子どもが誘拐されるケースも報告されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "日本人の被害事例としては、2005年8月に南部カンダハール県のパキスタン国境付近で日本人旅行者男女2人が殺害された事件をはじめ、2008年8月に東部ナンガハール県ジャララバードにおいて日本人NGO職員が誘拐・殺害された事件、2010年4月に北部クンドゥーズ県において日本人ジャーナリストが誘拐・監禁され約5か月後に解放された事件が挙げられている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "現在、外務省からアフガニスタン全土に対して「レベル4(退避勧告)」が発出されており、渡航をしないよう注意が呼びかけられている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "国家警察(英語版)(ANP)が一般的な公安機関となっている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "この機関は内務省(英語版)の管轄下にある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "アフガニスタン王国時代の1964年に制定された憲法では男女平等が謳われ、その後1970年代の社会主義政権時代はよりいっそうの世俗化を推し進め、女性は洋服を着て教育を受けており、都市部ではヒジャブやスカーフを被る人も少なかった。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "1978年には医者の4割が女性、カーブル大学の講師の60%が女性であった。しかし、農村部の世俗化は進まなかったことと、その後の社会主義政権の崩壊と共にムジャヒディーンの勝利を経て1990年代にイスラム主義に回帰。純然たるイスラム国家であったターリバーン政権時代には女性の人権が著しく制限された。ターリバーン政権が崩壊したあと、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされるが、2018年時点でもいまだに女性の識字率は3割未満である。しかし、現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた。また、女性の権利について「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された。これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "クルアーンを冒涜したものについては信仰を問わず、発覚した場合は即日のシャリーアにより裁かれる可能性がある。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、たとえば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる「名誉殺人」も行われているという。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など、女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしていると報じられた。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された勧善懲悪省(宗教警察)が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの巡礼・宗教問題省の名で復活。2021年のターリバーンの政権奪還に伴い勧善懲悪省が復活した。一方でアフガニスタン・イスラム共和国の前身である暫定政府(英語版)によって2001年後半に設立された女性問題省(英語版)(MOWA)も勧善懲悪省の復活に伴い廃止されている。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "第二次ターリバーン政権では女性がテレビに出演でき、街中でもブルカでなくともヒジャブを被れば許されるように変化した。", "title": "治安" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "アフガニスタンには約350のラジオ局と200以上のテレビ局がある。ラジオ・テレビジョン・アフガニスタンは1925年に始まった国営公共放送局である。テレビ番組は1970年代に放送され始め、TOLO、シャムシャッドTVなどの多くの民間放送局も存在する。最初の新聞は1873年に発行され、今日では何百もの印刷所がある。1920年代までに、ラジオ・カーブルは地元のラジオ放送を放送していた。 ボイス・オブ・アメリカ、BBC、ラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティー(RFE/RL)はアフガニスタンの公用語の両方でラジオで放送された。2002年以降、報道規制は徐々に緩和され、民間メディアは厳しい統制が20年以上続いたが多様化している。", "title": "メディアと娯楽" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "アフガニスタン人は長い間、インド映画の観賞や、映画の歌を聴いたりすることに親しんできた。アフガニスタンはヒンディー語映画産業にとって最大の市場の一つであるとされる。アフガニスタン系インド人のステレオタイプ(カブリワラまたはパターニ)は、俳優によっていくつかのボリウッド映画でも表現されている。多くのボリウッド映画スターはアフガニスタンにルーツを持つといわれる。", "title": "メディアと娯楽" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの文化は3000年以上にわたって生き続け、少なくとも紀元前500年のアケメネス朝まで遡ることができ、文化の多様性を包括してきた。中央アジア、南アジア、西アジアの交差点に位置し、歴史的に多様性の中心地である。ある歴史家によれば「古代世界の環状交差点」と呼称している。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "アフガニスタンは主に部族社会であり、さまざまな地域に独自のサブカルチャーが存在する。それにもかかわらず、ほとんどすべてのアフガニスタン人はイスラム教の伝統に習って、同じ休日を祝い、同じ服を着用し、同じ料理を食し、同じ音楽を聴き、ある程度多言語である。その文化は、言語、料理、クラシック音楽などに見られるトルコ・ペルシア文化(英語版)、インド・ペルシャ文化の要素と強い結び付きがある。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの文化は学術的観点において、学術研究の分野は次第に活発化しつつある。1978年より断続的に続く紛争によってアフガニスタンの文化は、脅かされ破壊されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "小麦で練ったナーンやビリヤニなどが有名。飲料としては隣国同様にチャイがよく飲まれる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "アフガニスタンは文学の歴史が長い国の一つとして知られる。また、世界的な詩や諺の宝庫としても認知されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "アフガニスタンにおける映画技術は20世紀初頭に導入されたものが基盤となっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "アフガニスタンにおける建築文化は過去2000年間に亘って広大な範囲の帝国に属していた点から、様々な民族文化の影響を広く受け続けている面を持つ。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "また数世紀の間、時間の経過とともにギリシャからペルシャ、インド、中国、ヨーロッパに至るまで幾多もの国や地域からの建築文化の影響を強く受けており、自国の建築物や建築遺跡には多様性が存在する。それに伴い、様々な宗教的影響も反映されている点が最大の特徴ともなっている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "アフガニスタンの民族衣装は、同国地域における様々な民族グループの服飾文化が融合したものとして知られている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の2つがユネスコの世界遺産に登録されている。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "※2020年時点の基本的な祝祭日を以下に述べる。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "この他には、イスラム暦に基づいた移動祝祭日が存在する。", "title": "文化" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "アフガニスタン国内ではクリケットが最も人気のスポーツである。1839年のイギリスとのアフガン戦争中にカーブルでプレーされたという報告がある。1990年代にアフガニスタン人の間でクリケット人気が高まり、1995年にアフガニスタン・クリケット連盟が設立された。国際競技連盟の国際クリケット評議会には2001年に加盟し、2017年に正会員に昇格した。アフガニスタン代表チームの国際舞台での急速な進歩があり、国際クリケット界での「ライジングスター」と呼ばれた。2018年にトゥエンティ20方式のクリケットリーグである「アフガニスタン・プレミアリーグ」が創設された。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "サッカーアフガニスタン代表は1922年に、アフガニスタンサッカー連盟(AFF)は1933年に設立され、1948年に国際サッカー連盟(FIFA)に、1954年にはアジアサッカー連盟(AFC)に加盟した。なお、1984年から2003年まではアフガニスタン紛争のため国際大会には出場していなかった。また、サッカーアフガニスタン女子代表は2010年に設立され、FIFA女子ワールドカップおよびAFC女子アジアカップには未出場である。2012年に「アフガン・プレミアリーグ」が創設された。同年の優勝決定戦では、スタジアムが満員となる4000人を超える観客が集まった。", "title": "スポーツ" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "セパタクローの人気も高いとされている。", "title": "スポーツ" } ]
アフガニスタン・イスラム首長国、通称アフガニスタンは、中央アジアと南アジアの交差点に位置する山岳地帯の内陸国である。現在はターリバーンによる暫定政権が築かれている。東と南にパキスタン、西にイラン、北にトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、北東ではワハン回廊で中国と国境を接している。多民族国家で、周辺国と民族やイスラム教宗派でつながりが深いパシュトゥン人、ウズベク人、タジク人、ハザラ人などが暮らす。中東の東端と位置付けられることもある。首都は人口最大の都市のカーブル。面積は65万2000平方キロメートルで、北部と南西部に平野部がある山岳国となっている。
{{redirect|アフガン}} {{基礎情報 国 |略名 = アフガニスタン |日本語国名 = アフガニスタン・イスラム首長国 |公式国名 = {{Lang|ps|{{nastaliq|د افغانستان إسلامي امارت}}}} |国旗画像 = Flag of the Islamic Emirate of Afghanistan.svg |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = [[File:Arms of the Islamic Emirate of Afghanistan.svg|85px]] |国章リンク = ([[アフガニスタンの国章|国章]]) |標語 = {{lang|ar|لا إله إلا الله، محمد رسول الله}} <br>([[アラビア語]]:[[シャハーダ|アッラーフの他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である。]]) |標語追記 = |国歌 = {{lang|ps|دا د باتورانو کور}}<br>{{transl|ps|Dā də bātorāno kor}}<br /><!--{{transl|}}<br />-->{{center|"[[英雄の家]]"<ref name="ReferenceA">{{Cite web|title=BBCNazer.com {{!}} زندگى و آموزش {{!}} حرف های مردم: سرود ملی|url=http://www.bbc.co.uk/nazer/lifeandlearning_dari/story/2007/08/070830_ws-aep-pt-national-anthem.shtml|access-date=18 August 2021|website=www.bbc.co.uk}}</ref><ref name="Amirzai">{{Cite web|last= Amirzai |first= Shafiq l|title=د ملي سرود تاریخ {{!}} روهي|url=https://rohi.af/news/35829|access-date=18 August 2021|website=Rohi.Af|language=ps}}</ref><ref name="nunn.asia">{{Cite web|date=16 January 2018|title=ملا فقیر محمد درویش د جهادي ترنم منل شوی سرخیل|url=https://www.nunn.asia/113730/%d9%85%d9%84%d8%a7-%d9%81%d9%82%db%8c%d8%b1-%d9%85%d8%ad%d9%85%d8%af-%d8%af%d8%b1%d9%88%db%8c%d8%b4-%d8%af-%d8%ac%d9%87%d8%a7%d8%af%d9%8a-%d8%aa%d8%b1%d9%86%d9%85-%d9%85%d9%86%d9%84-%d8%b4%d9%88%db%8c/|access-date=18 August 2021|website=نن ټکی اسیا|language=ps}}</ref><ref name="Tharoor">{{Cite news|last=Tharoor|first=Ishaan|date=19 June 2013|title=The Taliban's Qatar Office: Are Prospects for Peace Already Doomed?|language=en-US|work=Time|url=https://world.time.com/2013/06/19/the-talibans-qatar-office-are-prospects-for-peace-already-doomed/|access-date=19 August 2021|issn=0040-781X}}</ref>}}{{center| }} |国歌追記 = |位置画像 = Afghanistan (orthographic projection).svg |公用語 = [[パシュトー語]] |首都 = [[カーブル]] |最大都市 = カーブル |元首等肩書 = [[アフガニスタンの国家元首の一覧|最高指導者]] |元首等氏名 = [[ハイバトゥラー・アクンザダ]] |首相等肩書 = [[アフガニスタンの首相の一覧|首相]] |首相等氏名 = [[ハッサン・アフンド]](暫定) |他元首等肩書1 = 経済担当第一副首相 |他元首等氏名1 = [[アブドゥル・ガニ・バラダル]](暫定) |他元首等肩書2 = 行政担当第二副首相 |他元首等氏名2 = [[アブドゥル・サラム・ハナフィー]](暫定) | 面積順位 =40 | 面積大きさ =1 E11 | 面積値 =652,225 | 面積追記 = <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html#section1 |title=アフガニスタン・イスラム共和国基礎データ |publisher=外務省 |accessdate=2018-11-05 }}</ref> | 水面積率 =極僅か | 人口統計年 =2020 | 人口順位 =37 | 人口大きさ =1 E7 | 人口値 =3892万8000<ref name=population>{{Cite web |url=http://data.un.org/en/iso/af.html |title=UNdata |publisher=国連 |accessdate=2021-11-11}}</ref> | 人口密度値 =59.6<ref name=population/> |GDP統計年元 = 2019 |GDP値元 = 1兆4695億9600万 |GDP元追記 = <ref name="IMF">{{Cite web |url=https://www.imf.org/en/Publications/WEO/weo-database/2021/October/weo-report?c=512,&s=NGDP_R,NGDP_RPCH,NGDP,NGDPD,PPPGDP,NGDP_D,NGDPRPC,NGDPRPPPPC,NGDPPC,NGDPDPC,PPPPC,PPPSH,PPPEX,NID_NGDP,NGSD_NGDP,PCPI,PCPIPCH,PCPIE,PCPIEPCH,TM_RPCH,TMG_RPCH,TX_RPCH,TXG_RPCH,LP,GGR,GGR_NGDP,GGX,GGX_NGDP,GGXCNL,GGXCNL_NGDP,GGXONLB,GGXONLB_NGDP,GGXWDG,GGXWDG_NGDP,NGDP_FY,BCA,BCA_NGDPD,&sy=2019&ey=2026&ssm=0&scsm=1&scc=0&ssd=1&ssc=0&sic=0&sort=country&ds=.&br=1 |title=Report for Selected Countries and Subjects: October 2021 |publisher=[[国際通貨基金]] |date=2021-10 |accessdate=2021-11-11}}</ref> |GDP統計年MER = 2019 |GDP順位MER = 109 |GDP値MER = 188億7600万 <ref name="IMF" /> |GDP MER/人 = 586.204 <ref name="IMF" /> |GDP統計年 = 2019 |GDP順位 = 100 |GDP値 = 818億7300万 <ref name="IMF" /> |GDP/人 = 2,542.644 <ref name="IMF" /> | 建国形態 = 変遷 | 確立形態1 = [[ドゥッラーニー帝国]]建国 | 確立年月日1 = 1747年6月/7月<ref>{{Cite web |url=https://www.worldstatesmen.org/Afghanistan.htm |title=Afghanistan |publisher=Worldstatemen.org |accessdate=2021-08-22}}</ref> | 確立形態2 = [[バーラクザイ朝|アフガニスタン首長国]]建国 | 確立年月日2 = [[1823年]][[3月14日]] | 確立形態3 = [[イギリス|英国]]による[[保護国]]化 | 確立年月日3 =[[1879年]][[5月26日]] | 確立形態4 = 英保護国より[[国家の独立|独立]] | 確立年月日4 = [[1919年]][[8月19日]] | 通貨 =[[アフガニ]] | 通貨コード =AFN | 時間帯 =[[UTC+4:30|+4:30]] | 夏時間 =なし | ISO 3166-1 = AF / AFG | ccTLD =[[.af]] | 国際電話番号 =93 | 注記 = |確立形態8=[[アフガニスタン・イスラム国]]成立|確立年月日11=[[2021年]][[8月15日]]|確立形態10=[[アフガニスタン・イスラム共和国]]成立|確立年月日10=[[2004年]]|確立形態9=[[アフガニスタン・イスラム首長国]]成立|確立年月日9=[[1996年]][[9月7日]]|確立形態7=[[アフガニスタン民主共和国]]成立|確立年月日8=[[1992年]][[4月28日]]|確立年月日7=[[1978年]][[4月28日]]|確立形態6=[[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)|アフガニスタン共和国]]成立|確立年月日6=[[1973年]][[7月17日]]|確立形態5=[[アフガニスタン王国]]成立|確立年月日5=[[1926年]][[6月9日]]|確立形態11=アフガニスタン・イスラム首長国成立|他元首等肩書3=政治担当第三副首相|他元首等氏名3={{仮リンク|アブドゥル・カビール|en|Abdul Kabir}}(暫定)}} '''アフガニスタン・イスラム首長国'''(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、{{Lang-ps|{{nowrap|{{nastaliq|د افغانستان إسلامي امارت}}}}}}、{{Lang-en|Islamic Emirate of Afghanistan}})、通称'''アフガニスタン'''({{lang-prs|{{nastaliq|افغانستان}}}}、{{Lang-ps|{{nastaliq|افغانستان}}}}、{{lang-en|Afghanistan}})は、[[中央アジア]]と[[南アジア]]の交差点に位置する山岳地帯の[[内陸国]]である。現在は[[ターリバーン]]による暫定政権が築かれている。東と南に[[パキスタン]]、西に[[イラン]]、北に[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]]、[[タジキスタン]]、北東では[[ワハーン回廊|ワハン回廊]]で[[中華人民共和国|中国]]と[[国境]]を接している<ref name="山内2">山内昌之【地球を読む】アフガニスタン 秩序失った地政学的要衝『[[読売新聞]]』朝刊2021年11月7日1面</ref>。[[多民族国家]]で、周辺国と民族や[[イスラム教]]宗派でつながりが深い[[パシュトゥン人]]、[[ウズベク人]]、[[タジク人]]、[[ハザーラ人|ハザラ人]]などが暮らす<ref name="山内2" />。[[中東]]の東端と位置付けられることもある<ref>[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/middleeast.html 地域別インデックス(中東)][[日本国外務省]](2022年1月9日閲覧)</ref>。[[首都]]は人口最大の都市の[[カーブル]]。面積は65万2000[[平方キロメートル]]で、北部と南西部に平野部がある山岳国となっている。 == 概要 == アフガニスタンは多様かつ波乱な歴史を紡いで来た地域に建つ国家である。少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。9000年前に[[新石器時代|定住生活]]が始まり、紀元前3千年紀の[[インダス文明]](ショルトゥガイ遺跡)、[[バクトリア・マルギアナ複合|オクサス文明]](ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった<ref name="Combined-22">{{Citation|title=A Population History of India: From the First Modern People to the Present Day|last=Dyson|first1=Tim|year=2018|url=https://books.google.com/books?id=3TRtDwAAQBAJ&pg=PA4|publisher=[[Oxford University Press]]|pages=4–5|isbn=978-0-19-882905-8}}; {{Citation|title=An Environmental History of India: From Earliest Times to the Twenty-First Century|last=Fisher|first1=Michael H.|year=2018|url=https://books.google.com/books?id=kZVuDwAAQBAJ&pg=PA23|publisher=[[Cambridge University Press]]|page=33|isbn=978-1-107-11162-2}}</ref>。[[インド・アーリア人]]が[[バクトリア]]・マルギアナ地方を経て[[ガンダーラ]]に移住し、[[ゾロアスター教]]の古代宗教書『[[アヴェスター]]』に描かれている文化と密接な関係がある<ref name=":102">{{Cite book|last=Mallory|first=J.P.|last2=Adams|first2=Douglas Q.|title=Encyclopedia of Indo-European Culture|url=https://books.google.com/books?id=tzU3RIV2BWIC|year=1997|isbn=1884964982|publisher=Taylor & Francis|edition=illustrated|page=310}}</ref>[[鉄器時代]]のヤズ1世文化(紀元前1500 - 1100年ごろ)が興った<ref name="名前なし-20231105130957">{{Cite book|last=Anthony|first=David W.|title=The Horse, the Wheel, and Language: How Bronze-Age Riders from the Eurasian Steppes Shaped the Modern World|publisher=Princeton University Press|year=2007|isbn=978-0691058870|author-link=David W. Anthony|page=454}}</ref>。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀に[[アケメネス朝]][[ペルシア人|ペルシャ人]]の手に落ち、その東側の[[インダス川]]までの地域を征服した。[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]は前4世紀にこの地域に侵入し、カブール渓谷での戦いの前にバクトリアで[[ロクサネ]]と結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。[[グレコ・バクトリア王国]]は[[ヘレニズム]]世界の東端となった。[[マウリヤ朝]]インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって[[仏教]]と[[ヒンドゥー教]]が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配した[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世]]は、[[大乗仏教]]が中国や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、[[エフタル]]、アルコン、ネザーク、[[ズンビール]]、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。 [[サーサーン朝]]の支配下にあった[[ヘラート]]とザランジには、7世紀半ばに[[ムスリム]]がイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、[[サッファール朝]]、サマニー朝、[[ガズナ朝]]、[[ゴール朝]]の時代に本格的なイスラム化が進んだ<ref name="名前なし_2-20231105130957">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=LclscNCTz9oC&pg=PA52|title=The Far East and Australasia 2003|date=14 June 2002|publisher=Psychology Press|isbn=9781857431339}}</ref>。その後、クワーラズミアン朝、[[ハルジー朝]]、[[ティムール朝]]、[[ローディー朝]]、[[スール朝]]、[[ムガル帝国]]、[[サファヴィー朝]]などに支配された地域もある。現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミルワイス・ホタックを始祖とする[[ホータキー朝]]に始まる。1747年、[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が[[カンダハール]]に首都を置く[[ドゥッラーニー帝国]]を建国した。1776年、ドゥラーニー帝国の首都はカーブルに移され、[[ペシャーワル]]が冬の首都となった<ref name="cap12">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=oAzACwAAQBAJ&pg=PT41|title=Afghanistan's Political Stability: A Dream Unrealised|first=Ahmad Shayeq|last=Qassem|date=16 March 2016|publisher=Routledge|isbn=9781317184591}}</ref>が、1823年、ペシャーワルは[[シク教|シーク教]]徒に奪われた。19世紀後半、アフガニスタンは英露の「[[グレート・ゲーム]]」の緩衝国となった<ref>{{Citation|title=The Wars of Afghanistan|last=Tomsen|first1=Peter|date=2014|pages=41–2|isbn=978-1610392624}}</ref><ref>{{Citation|title=Taliban|last=Rashid|first1=Ahmed|date=2000|page=187|isbn=1-86064-417-1}}</ref>。1839年から1842年にかけての[[第一次アフガン戦争|第一次アングロ・アフガン戦争]]では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった[[第二次アフガン戦争|第二次アングロ・アフガン戦争]]でも[[イギリス領インド帝国]]駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。1919年の[[第三次アフガン戦争|第三次アングロ・アフガン戦争]]の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、[[アマーヌッラー・ハーン]]の下で君主制となる。しかし、1973年に[[ザーヒル・シャー]]が倒され、[[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)]]が樹立された。1978年、2度目の[[クーデター]]により、アフガニスタンは初めて[[社会主義国家]]となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援する[[ソビエト連邦軍]]と、[[ムジャーヒディーン]]の反乱軍との[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)]]が勃発した。1996年までに、国の大部分が[[イスラム原理主義者]]の[[ターリバーン]]に取り込まれ、[[全体主義]]的な政権によって支配された。2001年の[[アメリカ軍]]侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|政府とターリバーンとの間で続いている戦争]]は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させた。一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われている。[[2021年ターリバーン攻勢]]前の政府は[[アメリカ合衆国]]の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その[[従属国]]とも言われた<ref>{{Cite book|last=Ladwig|first=Walter C.|url=https://books.google.com/books?id=GdAoDwAAQBAJ|title=The Forgotten Front: Patron-Client Relationships in Counter Insurgency|date=2017|publisher=Cambridge University Press|isbn=9781107170773|page=302|quote=As with their Cold War counterparts, it was erroneous for American policymakers to believe that the governments of contemporary client states, such as Iraq, Afghanistan, and Pakistan, necessarily shared their desire to defeat radical Islamic insurgents by adhering to the prescriptions of U.S. counterinsurgency doctrine.|accessdate=2018-05-15}}</ref>。2021年8月15日、ターリバーンは[[アフガニスタンの大統領|アフガニスタン大統領府]]を占領、[[アシュラフ・ガニー]]大統領は国外へ亡命し、アフガニスタン・イスラム共和国政府は事実上崩壊した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン大統領が国外脱出 事実上の政権崩壊―タリバン、首都突入を指示 |url=https://web.archive.org/web/20210815084521/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081500333&g=int |publisher=時事通信社 |date=2021-08-16 |accessdate=2021-08-17}}</ref><ref>{{Cite news|title=アフガン大統領国外脱出 「タリバンが勝利」|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3361807|work=[[フランス通信社|AFPBB]]|date=2021-08-16|accessdate=2021-08-17}}</ref>。 アフガニスタンの経済規模は世界第96位で、[[購買力平価説|購買力平価]]による[[国内総生産]](GDP)は729億[[ドル]]である。一人当たりのGDP(PPP)ではもっと低い。現今においては[[テロリズム]]、[[貧困]]、子供の栄養失調、汚職が蔓延しているだけではなく、頻繁な政権の奪取が行われる。 == 国名 == 2021年までの正式国名は'''[[アフガニスタン・イスラム共和国]]'''(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、{{lang-prs|{{nowrap|{{nastaliq|جمهوری اسلامی افغانستان}}}}}}、{{Lang-ps|{{nowrap|{{nastaliq|د افغانستان اسلامي جمهوريت}}}}}}、{{lang-en|Islamic Republic of Afghanistan}})であったが、この[[国号]]を使用した政府は同年[[8月15日]]に[[2021年ターリバーン攻勢|ターリバーンの攻勢]]によって事実上崩壊した。同年[[8月19日]]、[[ターリバーン]]の[[スポークスマン]]、[[ザビフラ・ムジャヒド]]は[[Twitter]]で'''アフガニスタン・イスラム首長国'''(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、{{Lang-ps|{{nowrap|{{nastaliq|د افغانستان إسلامي امارت}}}}}}、英語: Islamic Emirate of Afghanistan)が成立することを宣言した<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/zabehulah_m33/status/1428236041039880193 |url=https://twitter.com/zabehulah_m33/status/1428236041039880193 |website=Twitter |accessdate=2021-08-19 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web |title=طالبان نے امارات اسلامیہ افغانستان کا اعلان کردیا |url=https://www.samaa.tv/urdu/international/2021/08/2359454/ |website=Samaa TV |accessdate=2021-08-19 |language=ur}}</ref>。 自称国名は<span dir="rtl">{{nastaliq|افغانستان}}</span> (Afghānistān ; アフガーニスターン)。[[ペルシア語]]・[[ダリー語]]で「アフガーン人の国(土地)」を意味する。アフガーン人とは[[パシュトゥーン人]]の別名であるが、実際にはパシュトゥーン人の割合は50%に満たず、数多くの民族が居住している。正式名称は[[1973年]]の王制打倒以来政体が変化するごとに新政権によって改められてきたが、ターリバーン政権崩壊後の[[ロヤ・ジルガ]](国民大会議)で定められた2004年憲法による正式名称はダリー語で、<span dir="rtl" style="white-space:nowrap">{{big|{{nastaliq|جمهوری اسلامی افغانستان}}}}</span> ([[ラテン文字]]転写 : ''Jomhūrī-ye Eslāmī-ye Afghānestān'' , 読み : ジョムフーリーイェ・エスラーミーイェ・アフガーネスターン)という。 通称'''アフガニスタン'''。[[外国地名および国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は'''阿富汗斯坦'''または'''亜富汗斯坦'''。 == 国旗 == {{Main|アフガニスタンの国旗}} 2023年8月15日現在のアフガニスタンの国旗は、1997年10月27日にターリバーン政府によって制定されたものである。2001年の米軍侵攻後に成立したカルザイ政権の時代に排除され、以後20年間にわたり[[アフガニスタン王国]]時代の3色旗が国旗として使用されたが、ターリバーンの政権復帰に伴いモノトーンの旗が国旗として使われるようになった。白地に黒文字で、大きく[[シャハーダ]]が書かれている<ref>{{Cite web|url=https://www.aljazeera.com/news/2021/8/19/infographic-what-afghanistans-new-flag-looks-like-interactive|title=Infographic: Afghanistan's flags over the years|publisher=[[アルジャジーラ]]|date=2021-08-19|accessdate=2022-03-11}}</ref>。 {{節スタブ}} == 歴史 == {{Main|アフガニスタンの歴史}} === 先史時代 === [[紀元前10万年]]、[[旧石器時代|旧石器の文化]]があった。 [[紀元前7000年]]、[[新石器時代|新石器の文化]]があった。少なくとも5万年前には現在のアフガニスタンには人間が住んでいた。9,000年前に[[新石器時代|定住生活]]が始まり、紀元前3千年紀の[[インダス文明]](ショルトゥガイ遺跡)、[[バクトリア・マルギアナ複合|オクサス文明]](ダシュリジ遺跡)、ヘルマンド文明(ムンディガク遺跡)へと徐々に進化していった<ref name="Combined-2">{{Citation|last=Dyson|first1=Tim|title=A Population History of India: From the First Modern People to the Present Day|url=https://books.google.com/books?id=3TRtDwAAQBAJ&pg=PA4|year=2018|publisher=[[Oxford University Press]]|isbn=978-0-19-882905-8|pages=4–5}}; {{Citation|last=Fisher|first1=Michael H.|title=An Environmental History of India: From Earliest Times to the Twenty-First Century|url=https://books.google.com/books?id=kZVuDwAAQBAJ&pg=PA23|year=2018|publisher=[[Cambridge University Press]]|isbn=978-1-107-11162-2|page=33}}</ref>。[[紀元前3000年]]から[[紀元前2000年]]にかけて[[四大文明]]が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。アフガニスタンは、先史時代から[[イラン高原]]や[[メソポタミア]]の諸文化と早くからつながりがあり、また、[[インダス文明]]とも交流があった<ref>ここまで前田(2002) 19ページ</ref>。 [[紀元前2000年]]から[[紀元前1800年]]は[[青銅器時代]]で、ムンディガク遺跡{{efn|アフガニスタンの南部における金石併用時代と青銅器時代の遺跡の内で最も知られており、重要な遺跡である。遺跡はカンダハールの北西約35キロメートル、アルガンダーブ川の支流であるクシュキ・ナフド・ルード川沿いにある。1951年、フランス人考古学者によって発見された。この遺跡は北方の山岳地帯と南方のカンダハール平原を結ぶルートの重要な位置にある。カンダハール・[[オアシス]]は北方の山岳地帯と南方の砂漠地帯の境界に位置している。このオアシスでは、北東と東から、様々な川が流れ込んでいるため、豊富な水が供給される。そのためこのカンダハール・オアシスは最も重要地域の一つになっており、遺跡はこのオアシスの周辺集落の内でも最も古いものである<ref>フォーヘルサング(2005) 73-74ページ</ref>。}}、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、[[バクトリア]]地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。 [[紀元前12世紀]]、『[[リグ・ヴェーダ]]』によれば、[[十王戦争]]が勃発し、[[バルフ]]から[[パンジャブ州|パンジャブ]]へ侵攻した。[[インド・アーリア人]]が[[バクトリア]]・マルギアナ地方を経て[[ガンダーラ]]に移住し、[[ゾロアスター教]]の古代宗教書『[[アヴェスター]]』に描かれている文化と密接な関係がある<ref name=":10">{{Cite book|last=Mallory|first=J.P.|last2=Adams|first2=Douglas Q.|title=Encyclopedia of Indo-European Culture|url=https://books.google.com/books?id=tzU3RIV2BWIC|year=1997|isbn=1884964982|publisher=Taylor & Francis|edition=illustrated|page=310}}</ref>[[鉄器時代]]のヤズ1世文化(紀元前1500〜1100年ごろ)が興った<ref name="名前なし-20231105130957"/>。「アリアナ」と呼ばれていたこの地域は、紀元前6世紀に[[アケメネス朝]][[ペルシア人|ペルシャ人]]の手に落ち、その東側の[[インダス川]]までの地域を征服した。[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]は前4世紀にこの地域に侵入し、カーブル渓谷での戦いの前にバクトリアで[[ロクサネ]]と結婚したが、アスパシオイ族やアサカン族の抵抗に遭ったという。[[グレコ・バクトリア王国]]は[[ヘレニズム]]世界の東端となった。[[マウリヤ朝]]インド人による征服の後、この地域では何世紀にもわたって[[仏教]]と[[ヒンドゥー教]]が栄えた。カピシとプルシャプラの双子の都を支配した[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世]]は、[[大乗仏教]]が[[中国]]や中央アジアに広まる上で重要な役割を果たした。また、この地域からは、キダール、[[エフタル]]、アルコン、ネザーク、[[ズンビール]]、トルキ・シャヒスなど、様々な仏教王朝が生まれた。 === ペルシア・ギリシア・インド文化の時代 === [[サーサーン朝]]の支配下にあった[[ヘラート]]とザランジには、7世紀半ばに[[ムスリム]]がイスラム教をもたらし、9世紀から12世紀にかけて、[[サッファール朝]]、サマニー朝、[[ガズナ朝]]、[[ゴール朝]]の時代に本格的なイスラム化が進んだ<ref name="名前なし_2-20231105130957"/>。その後、クワーラズミアン朝、[[ハルジー朝]]、[[ティムール朝]]、[[ローディー朝]]、[[スール朝]]、[[ムガル帝国]]、[[サファヴィー朝]]などに支配された地域もある。 [[ファイル:Signature of Joseph Stalin.png|サムネイル|[[創世記|建国譚]]タイトル]] ==== ペルシアとアレクサンドロス大王の支配 ==== [[ファイル:Afghanistan region during 500 BC.jpg|thumb|200px|right|[[紀元前5世紀]]ごろ、{{仮リンク|アラコシア|en|Arachosia}}には古代民族{{仮リンク|Pactyans|en|List of ancient Indo-Aryan peoples and tribes#Vedic Tribes}}が住んでいた]] [[紀元前6世紀]]、[[アケメネス朝]][[ペルシャ帝国]]に編入され、[[アレイヴァ]]([[ヘラート]])、{{仮リンク|アラコシア|en|Arachosia}}(カンダハール、[[ラシュカルガー]]、[[クエッタ]])、バクトリア([[バルフ]])、{{仮リンク|サッタギディア|en|Sattagydia}}([[ガズニー]])、[[ガンダーラ]]([[カーブル]]、[[ジャラーラーバード]]、[[ペシャーワル]])の地方名で呼ばれた。カンダハールの旧市{{仮リンク|アレクサンドリア・アラコシア|en|Alexandria Arachosia|label=シャル・イ・コナ}}の発掘によって、紀元前6世紀にはこの町が既にアフガニスタン南方の首邑になっていたことが明らかになった。 [[紀元前5世紀]]ごろ、{{仮リンク|アラコシア|en|Arachosia}}には古代民族{{仮リンク|Pactyans|en|List of ancient Indo-Aryan peoples and tribes#Vedic Tribes}}が住んでいたことが[[サンスクリット]]や[[古代ギリシャ語]]文献から知られている。 [[紀元前4世紀]]、[[アレクサンドロス3世]](大王)はこの地を征服し、[[アイ・ハヌム|アレクサンドリアオクシアナ]](Alexandria on the Oxus)と呼ばれる都市を建設した<ref group="注釈">アレクサンドリア・アレイア(ヘラート)、アレクサンドリア・アラコシア(カンダハール)、アレクサンドリア・カズニー(カズニー)、アレクサンドリア・カビサ(カビサ・ベクラム)、アレクサンドリア・オクシアナ(アイ・ハヌム)、アレクサンドリア・バクトラ(バルフ)など、アレクサンドロスが自分の名を付けた町は多い。</ref><ref>ここまで前田(2002) 19-20ページ</ref>。 ==== 南方のマウリア朝と北方のグレコ・バクトリア王国 ==== [[File:AsokaKandahar.jpg|thumb|180px|[[カンダハール]]で発見された[[ギリシャ語]]と[[アラム語]]で書かれた[[アショーカ王碑文]]([[紀元前3世紀]])]] [[紀元前3世紀]]中ごろ、アフガニスタン北部からタジキスタン南部にかけては[[ギリシャ人]]の建てた[[グレコ・バクトリア王国]]が支配した。 [[紀元前130年]]ごろ、インド・グリーク朝の[[メナンドロス1世]]が死んで国が分裂すると、[[サカ族]]が[[ガンダーラ]]地方で[[インド・スキタイ王国]]を興した。 [[紀元前2世紀]]後半、[[匈奴]]に追われた遊牧民の[[月氏]]が侵入し、グレコ・バクトリア王国は滅びた。 [[1世紀]]以降、先の大月氏の立てた[[クシャーナ朝]]がこの地に栄える。このころにはギリシア文化は影響力を失い、代わって南方の[[マウリヤ朝]]から流入したインド文化や仏教の影響が強く見られるようになる。4世紀ごろまで[[ソグド人|バクト商人]]が[[シルクロード|シルクロード交易]]を掌握する。 [[3世紀]]末、クシャーナ朝に代わり[[サーサーン朝]]の支配がこの地に及ぶ。 [[5世紀]]前半、[[エフタル]]が興り、現在のアフガニスタンとパキスタンの地を支配する。 [[6世紀]]後半、[[アルタイ]]方面から南下してきた[[突厥]]による支配を受ける。 === イスラーム化の進展 === [[File:Herat Masjidi Jami courtyard.jpg|thumb|[[ゴール朝]]の時代に建てられた{{仮リンク|ヘラートの大モスク|en|Friday Mosque of Herat}}]] [[8世紀]]初頭、[[イスラム帝国]][[アッバース朝]]のイスラム教徒軍が[[ハザール]]と[[ソグディアナ]]に侵攻し([[アラブ・ハザール戦争]]、{{仮リンク|ムスリムのトランスオクシアナ征服|en|Muslim conquest of Transoxiana|label=トランスオクシアナ征服}})、その支配下へ入る。[[751年]]の[[タラス河畔の戦い]]によりイスラム商人がシルクロード交易を掌握する。ゾロアスター教や仏教、ヒンズー教の影響は、イスラム教が伝わった後も10世紀ごろまで残存した。 [[9世紀]]中ごろ、再び土着イラン人による[[ターヒル朝]]、[[サッファール朝]]、[[サーマーン朝]]が興り統治する。 [[995年]]、{{仮リンク|マームーン朝|en|Ma'munids}}のイスラム教徒軍が侵攻、[[アムダリヤ川]]右岸の古都{{仮リンク|キャト (ホラズム)|ca|Kath|de|Kath (Stadt)|fa|کاث|label=キャト}}<!--{{仮リンク|キャト|de|Kath (Stadt)|fa|کاث}}と[[コリンティア県]]の{{仮リンク|キャト|en|Kiato}}が同名の地名なので注意 -->に栄えていた土着のゾロアスター教国家である{{仮リンク|アフリーグ朝|en|Afrighids}}は滅亡した。 [[1017年]]、[[ガズナ朝]]がマームーン朝を滅ぼした。[[10世紀]]以降、このころから[[パシュトゥーン人]]の存在が確認され始める。 [[1117年]]、シャンサブ家が[[ゴール朝]]を興し、[[シハーブッディーン・ムハンマド]]に仕える[[クトゥブッディーン・アイバク]]は北インド征服事業を成功させ[[奴隷王朝]]を開いた。[[1215年]]に[[ホラズム・シャー朝]]の[[アラーウッディーン・ムハンマド]]によってゴール朝は滅亡した。 === モンゴル帝国 === [[モンゴルのホラズム・シャー朝征服]]のあと、アフガニスタンは[[モンゴル帝国]]および[[チャガタイ・ハン国]]、[[クルト朝|タジク人のクルト朝]]の支配を受ける。 === ティムール朝 === [[1370年]]ごろ、[[テュルク]]系の[[ティムール朝]]による支配を受ける。[[1470年]]、ティムール朝が分裂し[[ヘラート]]政権に移行。[[1507年]]、[[ウズベク人|ウズベク族]]の[[シャイバーニー朝|シャイバーン朝]]の[[ムハンマド・シャイバーニー・ハーン]]の攻撃によってティムール朝は滅亡する。 === サファヴィー朝、ムガル朝、オスマン帝国の抗争 === [[File:The Surrender of Kandahar.jpg|thumb|180px|[[カンダハール]]を奪還する[[ムガル帝国]]([[1638年]])]] [[1510年]]、[[サファヴィー朝]]イランによって征服される。[[1526年]]、[[第一次パーニーパットの戦い]]。[[カーブル]]を拠点とするティムール朝の王子[[バーブル]]がインドに[[ムガル帝国|ムガル朝]]を建設。 [[1540年]]、北インドの[[スール朝]]がカンダハール、カーブルを占拠。[[1545年]]、ムガル帝国がカンダハール、カーブルを占拠。[[1556年]]、[[第二次パーニーパットの戦い]]で[[スール朝]]の[[ヘームー]]を破る。 [[1623年]]、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。[[1638年]]、ムガル帝国がカンダハールを占拠。[[1649年]]、サファヴィー朝がカンダハールを奪還。 === アフガンの王家による統治の始まり === ==== ホータキー朝 ==== [[1709年]]、パシュトゥーン人[[ギルザーイー部族]]の{{仮リンク|ミールワイス・ホータク|en|Mirwais Hotak|label=ミール・ワイス・ホータキー}}が反乱を起こし、カンダハールに[[ホータキー朝]]を樹立した。 [[1719年]]、ホータキー族の{{仮リンク|ミール・マフムード|en|Mahmud Hotaki|label=ミール・マフムード}}がサファヴィー朝の[[ケルマーン]]に侵攻した。 [[1722年]]、ミール・マフムードがサファヴィー朝の首都[[イスファハーン]]を占拠({{仮リンク|グルナーバードの戦い|en|Battle of Gulnabad}})。マフムードがサファヴィー朝を支配下に治める。 1725年、シャー位が、マフムードから、アシュラフに代わる。 [[1729年]]、[[アシュラフ・ギルザイ|アシュラフ]]がアフシャール朝の[[ナーディル・シャー]]に敗れ、ペルシアがアフガン支配下から脱した({{仮リンク|ダームガーンの戦い (1729年)|en|Battle of Damghan (1729)|label=ダームガーンの戦い}})。 [[1736年]]、[[アフシャール朝]]が成立。サファヴィー朝が消滅した。 現代のアフガニスタンの政治史は、1709年にアフガニスタン南部の独立を宣言したミールワイス・ホータクを始祖とする[[ホータキー朝]]に始まる。1747年、[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]が[[カンダハール]]に首都を置く[[ドゥッラーニー帝国]]を建国した。1776年、ドゥッラーニー帝国の首都はカーブルに移され、[[ペシャーワル]]が冬の首都となった<ref name="cap1">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=oAzACwAAQBAJ&pg=PT41|title=Afghanistan's Political Stability: A Dream Unrealised|first=Ahmad Shayeq|last=Qassem|date=16 March 2016|publisher=Routledge|isbn=9781317184591}}</ref>が、1823年、ペシャーワルは[[シク教|シーク教]]徒に奪われた。 ==== ドゥッラーニー朝 ==== ===== サドーザイ朝 ===== [[ファイル:Afghanistan unter Ahmad Schah Durrani.PNG|thumb|アフマド・シャー時代の[[ドゥッラーニー朝]]の版図]] [[1747年]]10月、パシュトゥーン人[[ドゥッラーニー部族]]連合のザドーザイ族長[[アフマド・シャー・ドゥッラーニー]]による[[ドゥッラーニー朝]]が成立した。 [[1757年]]、{{仮リンク|マラーターのインド北西部侵攻|en|Maratha conquest of North-west India}}で[[パンジャーブ]]が占領された。 ===== バーラクザイ朝 ===== [[1826年]]、ドゥッラーニー系部族の間で王家が交代し、[[バーラクザイ朝]]が成立。[[1834年]]に国名を'''[[アフガニスタン首長国]]'''とする。 [[1838年]] - [[1842年]]、[[第一次アフガン戦争]]でイギリスに勝利した。 ==== イギリス保護国期 ==== [[ファイル:Mohammad Yaqub Khan with British officers in May of 1879.jpg|thumb|280px|right|左からJenkyns、[[:en:Pierre Louis Napoleon Cavagnari|Cavagnari]]、{{仮リンク|ヤアクーブ・ハーン|en|Mohammad Yaqub Khan}}、Daoud Shah、Habibullah Moustafi({{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}、[[1879年]])]] 19世紀後半、アフガニスタンは英露の「[[グレート・ゲーム]]」の緩衝国となった<ref>{{Citation|pages=41–2|title=The Wars of Afghanistan|last=Tomsen|first1=Peter|date=2014|isbn=978-1610392624}}</ref><ref>{{Citation|page=187|title=Taliban|first1=Ahmed|last=Rashid|date=2000|isbn=1-86064-417-1}}</ref>。1839年から1842年にかけての[[第一次アフガン戦争|第一次アングロ・アフガン戦争]]では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった[[第二次アフガン戦争|第二次アングロ・アフガン戦争]]でも[[イギリス領インド帝国]]駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。 [[シール・アリー・ハーン]]在位時に起きた[[第二次アフガン戦争]]([[1878年]] - [[1880年]])の{{仮リンク|カンダハールの戦い (1880年)|en|Battle of Kandahar (1880)|label=カンダハールの戦い}}でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、{{仮リンク|ガンダマク条約|en|Treaty of Gandamak}}でその[[保護国]]となった。英露はアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。 [[1885年]]、イギリスとロシア帝国との間で{{仮リンク|パンジェ紛争|en|Panjdeh Incident}}が起きる。イギリスは[[朝鮮半島]]沖の[[巨文島]]で[[ポート・ハミルトン事件|巨文島事件]]を起こし、ロシアを牽制した。 [[1893年]]、パキスタンとの国境線[[デュアランド・ライン]]にアフガニスタン首長国とイギリスが合意。[[1895年]]、{{仮リンク|チトラール遠征|en|Chitral Expedition}}。 ==== アフガンの王家による再独立 ==== 1919年の[[第三次アフガン戦争|第三次アングロ・アフガン戦争]]の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、[[アマーヌッラー・ハーン]]の下で君主制となる。しかし、1973年に[[ザーヒル・シャー]]が倒され、[[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)]]が樹立された。<!--[[ファイル:King Amanullah Khan.jpg|thumb|150px|left|[[アマーヌッラー・ハーン]]]]-->[[1919年]]に[[第三次アフガン戦争]]に勝利した[[アマーヌッラー・ハーン]]はイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。[[1926年]]、国名を'''[[アフガニスタン王国]]'''とする。同年、[[オーレル・スタイン]]が[[インダス川]]上流および{{仮リンク|スワート川|en|Swat River}}流域([[デュアランド・ライン]])を調査旅行した。アマーヌッラーは、[[トルコ共和国]]の新指導者[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ケマル・アタテュルク]]の[[世俗主義]]、[[民族主義]]、[[共和主義]]を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。 王妃{{仮リンク|ソラヤ・タルズィー|en|Soraya Tarzi}}は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。 [[タジク人]]の指導者{{仮リンク|ハビーブッラー・カラカーニー|en|Habibullāh Kalakāni}}は、[[イギリス]]から資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した({{仮リンク|アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦|fa|خلاصه تاریخ افغانستان|no|Amanullah Khans reformer og borgerkrig|en|Reforms of Amānullāh Khān and civil war}})。 [[1929年]]、バーラクザイ王家の分家筋にあたる[[ムハンマド・ナーディル・シャー]]が混乱を収めて、国王(アミール)に就任。 [[1931年]]に制定した新憲法の第一条で[[スンナ派]][[ハナフィー学派]]を[[国教]]に定めた。この条文が国内少数派の[[シーア派]]に対する反[[ハザラ人|ハザーラ人]]政策の法的根拠となったことで恨みを買い、[[1933年]][[11月8日]]に暗殺された。同日、息子の[[ザーヒル・シャー]]が即位した。 ==== 第二次世界大戦 ==== [[1939年]]9月に開戦した[[第二次世界大戦]]では、[[1941年]]10月にイギリスと[[ソビエト連邦]]両国は[[ナチス・ドイツ]]と[[イタリア王国|イタリア]]など[[枢軸国]]の[[外交官]]や[[民間人]]の[[国外退去]]を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中の全ての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。 このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、[[中華民国]]に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、[[日本]]やドイツ、イタリアや[[満洲国]]などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の、どちらにもつかない[[第二次世界大戦の参戦国#主な中立国|中立国]]として[[1945年]]9月の終戦まで機能していた。 === 冷戦 === ==== パシュトゥーニスタン独立運動 ==== [[ファイル:King Zahir Shah of Afghanistan in 1963.jpg|thumb|150px|left|[[ザーヒル・シャー]]([[1963年]])]] 1947年に[[インド・パキスタン分離独立|イギリスのインド統治が終了]]すると、[[バルチスタン|バルチスタン地方]]は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加しなかった。イギリスやパキスタンも{{仮リンク|カラート藩王国|en|Kalat (princely state)}}の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年に{{仮リンク|バルチスタン藩王国連合|en|Baluchistan States Union}}として独立させた。 しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫({{仮リンク|バルチスタン紛争|en|Balochistan conflict}})に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、[[バローチスターン州]]とされた。 パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領([[連邦直轄部族地域]]、[[ワズィーリスターン]])内の[[パシュトゥーン人]]を支援して「{{仮リンク|パシュトゥーニスタン独立運動|en|Pashtunistan}}」を起こし牽制した。 ザーヒル・シャーは、1960年代には[[立憲君主制]]を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。 ==== 王政廃止と社会主義政権の樹立 ==== [[File:BMD-1 in Afghanistan.jpg|thumb|right|首都[[カーブル]]に展開するソ連の[[空挺兵]]]] [[File:Charlie Wilson with Afghan man.jpg|thumb|right|[[チャールズ・ネスビット・ウィルソン|チャールズ・ウィルソン]]と[[ムジャーヒディーン]]]] [[1973年アフガニスタンのクーデター|1973年のクーデター]]でアフガニスタンは[[共和制]]となり、1978年、2度目の[[クーデター]]により初めて[[社会主義国家]]となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援する[[ソビエト連邦軍]]と、[[ムジャーヒディーン]]の反乱軍との[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)]]が勃発した。 [[1973年]]、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族の[[ムハンマド・ダーウード]]がクーデターを起こし王政を廃止、[[共和制]]を宣言して[[大統領]]に就任、'''[[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)|アフガニスタン共和国]]'''を建国した。ダーウードはアフガン社会の[[近代化]]と軍事近代化を目指し、[[ソビエト連邦|ソ連]]に接近して[[イスラム主義]]者たちを弾圧する。このときパキスタンに脱出した[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティヤール]]は{{仮リンク|ヘズブ・エ・イスラミ・グルブッディーン|en|Hezb-e Islami Gulbuddin|label=ヒズベ・イスラーミー}}(ヘクマティヤール派)を結成し、[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー|イスラム主義のラッバーニー]]らは{{仮リンク|ジャマーアテ・イスラーミー (アフガニスタン)|fa|جمعیت اسلامی افغانستان|ru|Исламское общество Афганистана|en|Jamiat-e Islami|label=ジャマーアテ・イスラーミー}}(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。 [[1978年]]4月、[[アフガニスタン人民民主党]](PDPA)主導による軍事クーデター「[[四月革命 (アフガニスタン)|四月革命]]」が発生し、ダーウードおよび一族が[[死刑|処刑]]される。人民民主党による[[社会主義]]政権が樹立され、国名を'''[[アフガニスタン民主共和国]]'''に変更、[[ヌール・ムハンマド・タラキー]]が初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任し世俗化を推し進めた。これに対し、全土で[[イスラム主義]]の[[ムジャーヒディーン]]が蜂起、'''[[アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)]]'''が始まる。アメリカ合衆国は[[反共]]を名目とした[[サイクロン作戦]]によりムジャーヒディーンを資金援助して後押しした。政情が不安定化する中、[[1979年]]2月に隣国で[[イラン革命]]が勃発した。 1979年2月14日、カーブルで、ダブス米大使が誘拐・殺害される事件が発生した<ref>{{Cite book|title=Document 36, Telegram From the Embassy in Afghanistan to the Department of State, Kabul, February 14, 1979, FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1977–1980, VOLUME XII, AFGHANISTAN.|publisher=Office of the Historian, Foreign Service Institute, United States Department of State.|pages=93-102}}</ref>。3月には西部のヘラートで、イスラム主義ゲリラ・地域住民・政府軍からの脱走兵と、政府軍・ソ連軍顧問、との間で激しい戦闘が起きた。カーブルのアフガニスタン政府に対する、イスラム勢力や地方住民の反発は激化していった<ref>{{Cite book|title=The Global Cold War|year=2005|publisher=Cambridge University Press|page=307|author=Odd Arne Westad}}</ref>。 広範な勢力を取り込んだ「連合政府」を樹立させアフガニスタン政府の基盤を強化することが急務であると考えたソ連指導部は、9月9日、タラキーに対して、軍事援助の増額と引き換えに、個人的野心で行動する[[ハフィーズッラー・アミーン]]の排除を要求したが、アミーンが対抗手段を準備している事を知るタラキーは逡巡した。9月13日夜、プザノフ大使などカーブルのソ連側現地責任者たちは、タラキーとアミーンとの会談を要求した。この会談でソ連側はアミーンの政治姿勢を強く非難したが、タラキーはアミーンを解任しなかった。そこで、翌日タラキーの公邸で、ソ連側立ち合いの下、両者は再度会談を行うことになった。アミーンが解任されなかったことを知ったタラキー派のPDPA上級幹部数名はソ連大使館に逃亡した。タラキー自身もソ連側に助けを求めた。9月14日午後、会談のためタラキーの公邸に入ろうとしたアミーンに、大統領の護衛が発砲した。アミーンの補佐官は射殺されたが、アミーンは無傷で難を逃れ暗殺は失敗した。アミーンは、自分に忠実な軍の部隊を動員し、PDPAのリーダーに就任しタラキーを追放した。10月9日、タラキーは獄中で処刑された<ref>{{Cite book|title=The Global Cold War|year=2005|publisher=Cambridge University Press|pages=312-313|author=Odd Arne Westad}}</ref>。 ==== ソ連軍によるアフガニスタン侵攻 ==== 1979年10月上旬のアミーンによるタラキー前大統領処刑が、ソ連指導部を軍事介入に向かわせた。介入に積極的であったのは、ブレジネフの後継を意識していたアンドロポフKGB議長とウスチノフ国防相であった。10月27日にアミーンがアメリカ大使館職員と会談したことも、ソ連側のアミーンへの疑念を増大させた<ref>{{Cite book|title=Telegram From the Embassy in Afghanistan to the Department of State, Kabul, October 28, 1979, FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1977–1980, VOLUME XII, AFGHANISTAN.|publisher=Office of the Historian, Foreign Service Institute, United States Department of State.|pages=218-222}}</ref>。12月12日モスクワでの政治局会議で、軍事介入が正式に承認された<ref>{{Cite book|title=The Global Cold War|year=2005|publisher=Cambridge University Press|pages=316-321|author=Odd Arne Westad}}</ref>。 ソ連=アフガニスタン国境およびアフガニスタン領内でのソ連軍の増強に対し、12月15日アメリカ国務長官ヴァンスは、駐モスクワ大使に、グロムイコ外相と即時面会しソ連軍増強への説明を求めるように指示した。また、ヴァンスは、一方的な軍増強は、1972年5月の米ソサミットで合意された、米ソ両国は友好関係を尊重するという原則に反する、と抗議した。ソ連側はアメリカの抗議をはねつけた<ref>{{Cite book|title=Document 87, Editorial Note, FOREIGN RELATIONS OF THE UNITED STATES, 1977–1980, VOLUME XII, AFGHANISTAN.|publisher=Office of the Historian, Foreign Service Institute, United States Department of State.|pages=241-243}}</ref>。 [[1979年]]12月25日午後3時、ソ連はアフガニスタンへの軍事侵攻作戦を開始した。[[12月27日]]夕刻、[[ソ連国家保安委員会|KGB]]特殊部隊がアミーンの官邸を攻撃し、アミーンを処刑、[[バブラク・カールマル]]副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立した<ref>{{Cite book|title=The Global Cold War|year=2005|publisher=Cambridge University Press|author=Odd Arne Westad|page=321}}</ref>。 以後、ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘がさらに激化する。 [[1982年]]、[[国連総会]]において、外国軍の撤退を要求する[[国連決議]](37/37)が採択される。 [[1987年]]、[[ムハンマド・ナジーブッラー]]が大統領に就任。国名を'''[[アフガニスタン共和国 (1987年-1992年)|アフガニスタン共和国]]'''に戻す。 [[1988年]]、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と[[国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション]]設置が決定される。 [[1989年]]、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタン戦争における女性たち|en|Women in the Soviet–Afghan War}}}} === ソ連軍の撤退後、ターリバーン政権の統治 === [[ファイル:Hamid Mir interviewing Osama bin Laden.jpg|thumb|200px|left|[[カーブル]]でインタビューを受ける[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ビン・ラーディン]]([[1997年]])]] [[ファイル:1996afghan.png|thumb|200px|right|[[1996年]]時点のアフガニスタン、赤と緑の[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]、黄色が[[ターリバーン]]の支配地域]] 1996年までに、国の大部分が[[イスラム原理主義]]勢力の[[ターリバーン]]に取り込まれ、[[全体主義]]的な政権によって支配された。[[1989年]]、ソ連軍撤退後の国内支配をめぐって'''[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)]]'''が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派は[[シブガトゥッラー・ムジャッディディー]]を暫定国家元首に指名、[[アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)#ジャラーラーバードの戦い|ジャラーラーバードの戦い]]でナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。 [[1992年]]、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンの{{仮リンク|ジャマーアテ・イスラーミー (アフガニスタン)|fa|جمعیت اسلامی افغانستان|ru|Исламское общество Афганистана|en|Jamiat-e Islami|label=ジャマーアテ・イスラーミー}}(イスラム協会、ラッバーニー派)主導による'''[[アフガニスタン・イスラム国]]'''が成立。 [[1993年]]、イスラム協会の[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]指導評議会議長が大統領に就任。 [[1994年]]、内戦が全土に広がる。[[ターリバーン]]、パキスタンの[[カイバル・パクトゥンクワ州|北西辺境州]](旧{{仮リンク|北西辺境州 (1901年 - 1955年)|en|North-West Frontier Province (1901–55)|label=北西辺境州}}がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。 [[1996年]]、ターリバーンがカーブルを占領し、'''[[アフガニスタン・イスラム首長国]]'''の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]{{efn|「北部同盟」という名称は俗称であり、正式には、「アフガニスタン救国統一戦線」である<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』(朱鳥社、2004年)80-81頁、ISBN 4-434-05210-1</ref>。}}([[アフマド・シャー・マスード|マスード]]派と[[ラシッド・ドスタム|ドスタム]]派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府は[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ウサーマ・ビン=ラーディン]]の国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いる[[アル・カーイダ]]がアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。 [[1997年]]、第一次{{仮リンク|マザーリシャリーフの戦い (1997年-1998年)|en|Battles of Mazar-i-Sharif 1997-1998|label=マザーリシャリーフの戦い}}でターリバーンが敗北。 [[1998年]]、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利。[[ラシッド・ドスタム|ドスタム]]派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)46-47頁、ISBN 9784763405302</ref>。また、[[ケニア]]と[[タンザニア]]で起きた[[アメリカ大使館爆破事件 (1998年)|アメリカ大使館爆破事件]]に伴うアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。 [[1999年]]、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1267|en|United Nations Security Council Resolution 1267}}が採択される。 [[2000年]]、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議1333|en|United Nations Security Council Resolution 1333}}が採択される。 [[2001年]][[3月6日|3月2日]]、ターリバーンが[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群#ターリバーンによる破壊|バーミヤンの石仏を爆破]]する。[[9月10日]]、北部同盟の[[アフマド・シャー・マスード]]司令官が、自称アルジェリア人ジャーナリスト2名による[[自爆テロ]]で死亡した。[[9月16日]]、マスードの遺体が故郷[[パンジシール]]で埋葬された。ターリバーン情報省が全土要塞化を宣言し、徹底抗戦姿勢を示す。[[9月25日]]、[[サウジアラビア]]がターリバーンとの断交を決定。[[9月26日]]、閉鎖されたままのアメリカ大使館が、カーブル市民によって襲撃される。 === アフガニスタン紛争 === {{main|テロとの戦い}} ==== 多国籍軍による攻撃と暫定政権の樹立 ==== [[ファイル:WTC smoking on 9-11.jpeg|thumb|200px|left|[[アメリカ同時多発テロ事件]]([[2001年]][[9月11日]])]] [[File:011007-N-1523C-001 First Strike into Afghanistan.jpg|thumb|170px|アフガニスタンに向けて発射されるミサイル]] 2001年の[[アメリカ軍]]侵攻後にターリバーンは権力から排除されたが各地で勢力を温存。[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|政府とターリバーンとの間で続いた戦争]]は、アフガニスタンの人権や女性の権利に関する問題をさらに悪化させ、一般市民の殺害、誘拐、拷問など、双方による多くの虐待が行われた。 [[2001年]][[10月2日]]、[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受けて[[北大西洋条約機構]](NATO)が[[アルカーイダ]]を匿うターリバーン政権に対して[[自衛権]]の発動を宣言。[[10月7日]]、[[アメリカ軍]]が[[不朽の自由作戦]]の名の下で空爆を開始、イギリスも参加。北部同盟も地上における攻撃を開始。これより'''[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)]]'''が開始される。[[11月13日]]、北部同盟は、無血入城でカーブルを奪還した。年末にターリバーン政権崩壊。[[11月22日]]、パキスタン政府がターリバーンとの断交を決定し、[[在パキスタンアフガニスタン大使館|駐イスラマバードアフガニスタン大使館]]を閉鎖した。[[11月27日]]、空爆が続くなか、国連は新政権樹立に向けた会議をドイツのボン郊外で開催した。会議には北部同盟、国王支持派のローマ・グループ、キプロス・グループ、そして[[ペシャーワル]]からのグループが参加した{{efn|キプロス・グループはイラン、ペシャーワル・グループはパキスタンの影響下にあり、この二つのグループの参加により、アフガニスタンにとって重要な隣国であるイランとパキスタンが事実上、ボン会合に参加することになったという<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』(朱鳥社、2004年)87頁、ISBN 4-434-05210-1</ref>。}}。[[11月29日]]、行政府に相当する暫定行政機構の設立案について合意した。[[12月5日]]、暫定行政機構人事で各派間の確執があったが、国連の調整で、議長にパシュトゥーン人の[[ハーミド・カルザイ]]を据え、暫定政権協定の調印が実現した([[ボン合意]])。アフガニスタン主要4勢力、暫定政権発足とその後の和平プロセスで合意。[[国際連合安全保障理事会決議1386]]にもとづき国際治安支援部隊(ISAF)創設、カーブルの治安維持にあたる。また[[国際連合安全保障理事会決議1401]]により、[[国連アフガニスタン支援ミッション]](UNAMA)がスタート。アフガニスタン暫定行政機構が成立し、ハーミド・カルザイが議長となる。 ==== 新共和国成立 ==== [[File:Romanian TAB-77 (8x8) Armored Personnel Carrier.jpg|thumb|移動する有志連合の部隊([[ルーマニア]]軍、2003年)]] [[2001年]][[12月22日]]、カーブルで暫定政権発足の記念式典が挙行された。約3000人が出席し、ラバニ大統領からカルザイ暫定行政機構議長に政権が委譲される形で執り行われ、カルザイが暫定政権の首相となった。カルザイは国民に平和と法をもたらすことを誓い、言論と信教の自由、女性の権利の尊重、教育の復興、テロとの戦いなど13項目の施政方針を発表した。暫定政権の閣僚は29名<ref group="注釈">タジク人12名・パシュトゥン人9名・ハザーラ人5名、ウズベク人4名。</ref>で構成され、うち北部同盟が19ポスト<ref group="注釈">外相・内相・国防相・法相・通信相・運輸相・都市開発相・高等教育相などの主要ポスト、外相のアブドゥッラーや内相のカヌニはラバニ派からの横滑り、国防相もマスードの後継者ファヒーム、都市開発相はジャララバードの市長カディルが就任。</ref>、元国王支持派が8ポスト<ref group="注釈">観光相・情報文科相・復興相・財務相・教育相・女性問題担当相など。</ref>、ペシャワル派が2ポスト<ref group="注釈">保健相・灌漑相。</ref>占めた。 [[2002年]][[1月21日]]、日本の[[東京]]でアフガニスタン復興支援会議が開催された。約60か国と22の国際機関の代表が出席した。これに先立ちNGO59団体による会議も開かれた。日本は2年で5億ドル、アメリカは1年で2億9600万ドル、サウジアラビアは3年で2億2000万ドル、欧州連合は1年で5億ドル、ドイツは5年で3億5000万ドル、イギリスは5年で3億7200万ドルの拠出を決定し、世界銀行とアジア開発銀行はそれぞれ2年半で5億ドルの拠出を決定した。また周辺各国は、イランが1年で1億2000ドル、パキスタンは5年で1億ドル、インドも1年で1億ドルの支援を発表した。各国の支援総額は30億ドルを超えた。さらに支援は、行政能力の向上や教育、保健衛生、インフラ、経済システム、農業および地方開発、地雷撤去などの作業を実施し、定期的に復興運営会議をカーブルで開催することなどを決定した。[[2月14日]]、[[アブドゥール・ラフマン (アフガニスタンの政治家)|アブドゥール・ラフマン]]航空観光大臣が[[カーブル国際空港]]で自国民に撲殺される。[[6月10日]] - [[6月19日]]、緊急[[ロヤ・ジルガ]](国民大会議)が開催され{{efn|ロヤ・ジルガはもともとパシュトゥ語で、「ロヤ」は「大きい」、「ジルガ」は「会合」を意味する。部族にかかわる問題が生じると、その解決のために集まるのが「ジルガ」であり、ジルガの中で最大のものが「ロヤ・ジルガ」であるという<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』(朱鳥社、2004年)29-32頁、ISBN 4-434-05210-1</ref>。}}、1500人以上の代表が参加した。[[6月13日]]、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した<ref>進藤雄介『アフガニスタン祖国平和の夢』(朱鳥社、2004年)126頁、ISBN 4-434-05210-1</ref>。[[6月15日]]、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。<!--6月、'''アフガニスタン・イスラム移行国'''発足。--> [[6月19日]]、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガは閉会した。[[7月1日]]、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。[[File:Inauguration of President Hamid Karzai in December 2004.jpg|thumb|[[ハーミド・カルザイ|カルザイ]]大統領の就任式(2004年)右奥に着席しているのは[[ザーヒル・シャー]]元国王]] [[2004年]]1月、新憲法が発布された<ref name=":8">{{Cite web|和書|title=平成18年版 外交青書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2006/html/framefiles/honbun.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。[[10月9日]]、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した<ref>{{Cite web|和書|title=【アフガニスタン】|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2005/html/honmon2604.html#1|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。同年3月、パキスタンで[[ワジリスタン紛争]]が勃発した。 [[2005年]]9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した<ref name=":8" />。12月、国会が開会した<ref name=":8" />。 [[2006年]]、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2007/html/h2/h2_81.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24|title=平成19年版 外交青書 - 第2章 地域別に見た外交|publisher=}}</ref>。7月、[[国際治安支援部隊]](ISAF)が国内全土に展開した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2007/html/h2/h2_82.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24|title=平成19年版 外交青書 - 第2章 地域別に見た外交|publisher=}}</ref>。 2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した<ref>{{Cite web|和書|title=3.アフガニスタン {{!}} 【各論】 {{!}} 第6節 中東と北アフリカ {{!}} 第2章 {{!}} 外交青書08本編|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2008/html/h2/h2_24.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた<ref>{{Cite web|和書|title=第6節 中東と北アフリカ(4/8) {{!}} 第2章 {{!}} 外交青書09本編|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2009/html/h2/h2_24.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月には[[アフガニスタン日本人拉致事件]]が起きた。 [[2009年]]8月、[[:en:2009 Afghan presidential election|第二回の大統領選挙]]が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位の[[アブドラ・アブドラ|アブドラ]]前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した<ref>[http://www.asahi.com/international/update/1102/TKY200911020291.html アフガン大統領選、カルザイ氏再選と選管宣言 決選中止] [[asahi.com]]2009年11月2日22時45分配信記事</ref>。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、[[即席爆発装置]](IED)による攻撃が急増した<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 2.アフガニスタン/外交青書2010(HTML)目次|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2010/html/chapter2/chapter2_06_02.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。同年、アメリカ合衆国の[[バラク・オバマ]]大統領は3回の増派を行った(1万7000人<ref>{{Cite web|和書|title=オバマ米大統領、アフガニスタン増派を承認 1万7000人規模|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2572699|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja|publisher=|date=2009-02-18}}</ref>、4000人<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン戦争とアメリカ ―― アメリカ国内政治の展開を中心に {{!}} SYNODOS -シノドス-|url=https://synodos.jp/international/5478|website=synodos.jp|accessdate=2019-11-24|language=ja|date=2013-09-05}}</ref>、1万3000人<ref name=":9">{{Cite web|和書|title=オバマ米大統領、アフガニスタンへ支援部隊1万3000人追加増派|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2652300|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja|date=2009-10-13}}</ref>)。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し<ref name=":9" />、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された<ref name=":4" />。 ==== 第二回大統領選挙後 ==== [[2010年]]1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した<ref>[http://nsearch.yahoo.co.jp/bin/search?p=%A5%A2%A5%D5%A5%AC%A5%CB%A5%B9%A5%BF%A5%F3+%C2%E82%BC%A1%C0%AF%B8%A2&st= 新閣僚、再び過半が不信任=外相ら14ポストは確定-アフガン] 2010年1月16日 海外総合(時事通信)</ref>。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 2.アフガニスタン/外交青書2011|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2011/html/chapter2/chapter2_06_02.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=アフガニスタン駐留兵の今年の死者600人に、過去最悪のペース|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2769812|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=2010年の民間人死者、タリバン政権崩壊後最悪に アフガニスタン|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2789605|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官の[[スタンリー・マクリスタル]]が政権批判により解任された<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン駐留米軍司令官、更迭か 雑誌で政権批判|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2737317|website=www.afpbb.com|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 2.中東・北アフリカ情勢/外交青書2012|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2012/html/chapter2/chapter2_06_02.html#h10|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。[[9月18日]]、[[:en:2010 Afghan parliamentary election|第二回の下院議会選挙]]が実施された<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010091900263 投票所97カ所に攻撃=民間人21人犠牲か-アフガン総選挙] [[時事ドットコム]]、2010/09/19-22:58</ref>。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す'''高等和平評議会'''を発足させた<ref name=":2" />。2010年の経済成長率は22.5%に達した<ref name=":1" />。 [[2011年]][[5月2日]]、アメリカ軍がパキスタンで[[ウサーマ・ビン・ラーディン|ビン=ラーディン]]を殺害した([[ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害]])<ref>[http://www.cnn.com./2011/WORLD/asiapcf/05/01/bin.laden.obit/index.html?hpt=T1&iref=BN1 Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan www.cnn.com.「Osama bin Laden, the face of terror, killed in Pakistan」May 1, 2011 11:31 p.m. EDT]</ref>。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが<ref name=":7" />、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した<ref name=":3" />。 2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた<ref>{{Cite web|和書|title=第2章 地域別に見た外交 第6節 中東と北アフリカ 3 中東・北アフリカ情勢/外交青書2013|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2013/html/chapter2/chapter2_06_03.html#h02060307|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。一方、同年のアフガニスタンの[[腐敗認識指数]]は167か国中の最下位だった<ref>{{Cite web|title=2012 Corruption Perceptions Index -- Results|url=https://www.transparency.org/cpi2012/results|website=www.transparency.org|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 2013年6月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲の対象が全国に拡大した<ref>{{Cite web|和書|title=外交青書 2014 | 3 中東・北アフリカ各国情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2014/html/chapter2_06_03.html#s26306|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 2014年4月、[[2014年アフガニスタン大統領選挙|第三回の大統領選挙]]が実施され、[[9月29日]]に[[アシュラフ・ガニー]]がアフガニスタン第二代大統領に就任した。これはアフガニスタン史上初の民主的な政権交代だった<ref name=":5" />。ただし、この選挙には不正疑惑があり<ref>{{Cite web|和書|title=不正疑惑のアフガン大統領選、暫定勝利はガニ氏 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/3019918 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-08-06}}</ref>、最終的に解明されることはなく、米国の仲介により、候補両者が「挙国一致政府」に合意してガニー政権が発足した<ref>{{Cite news|title=アフガン新大統領にガニ元財務相、選挙結果めぐる混乱に終止符|url=https://www.reuters.com/article/idJPL3N0RM0PM20140921|work=Reuters|date=2014-09-21|access-date=2022-08-06}}</ref>。大統領選挙の決選投票で敗れた[[アブドラ・アブドラ]]元外相も首相格の行政長官に就任し、ガニー大統領と政治権力を分け合う'''国家統一政府'''(NUG)が発足した。12月、[[国際治安支援部隊]](ISAF)が終了した<ref name=":5" />。多国籍軍はアフガニスタン安全保障協定(BSA)やNATO・アフガニスタン地位協定(SOFA)によりアフガニスタンに残留するが[[確固たる支援任務]]に移行し、治安はアフガニスタン治安部隊(ANSF)が独力で維持することになった<ref name=":5">{{Cite web|和書|title=外交青書 2015 | 4 アフガニスタン | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2015/html/chapter2_06_04.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 アメリカ支配下のアフガニスタンでは、農村部に逃げ込んだターリバーン戦闘員を見つけ出すため、「[[夜襲作戦]]」と呼ばれる"ターリバーン狩り"が行われた。深夜、突然襲来して家をしらみつぶしに回り、返事のない家のドアは爆弾を使って押し破った。氷点下の寒さの中、大人の男性たちは全員、着の身着のまま一軒の民家の中庭に集められ、尋問されたという<ref name=":11">{{Cite web|和書|title=タリバンのアフガニスタン速攻制圧なぜ? 7年前から「寸止め」、農村支配で都市包囲 |url=https://globe.asahi.com/article/14426582 |website=朝日新聞GLOBE+ |access-date=2022-08-06}}</ref>。当初米軍が単独で行っていたが、2006年ごろからアフガン政府軍との共同作戦となり、数千回実施された。作戦はターリバーン封じ込めに効果を上げる一方、民間人の犠牲者を多く出し、物議を醸した<ref>{{Cite web |title=What is the Secretive U.S. "Kill/Capture" Campaign? |url=https://www.pbs.org/wgbh/frontline/article/what-is-the-secretive-us-killca/ |website=FRONTLINE |access-date=2022-08-06}}</ref><ref name=":12">{{Cite news|title=英特殊部隊、アフガニスタンで拘束者らを違法殺害の疑い|url=https://www.bbc.com/japanese/62145298|work=BBCニュース|date=2022-08-07}}</ref>。あまりの不評にカルザイ大統領は「夜襲作戦をやめない限り、外国部隊の駐留延長を認めない」と主張して禁止したが、ガニー次期大統領が復活を決めた<ref>{{Cite news|title=Afghanistan Quietly Lifts Ban on Nighttime Raids|url=https://www.nytimes.com/2014/11/24/world/asia/afghanistan-quietly-lifts-ban-on-night-raids.html|work=The New York Times|date=2014-11-23|issn=0362-4331}}</ref>。 ==== 第三回大統領選挙後 ==== 2015年1月、[[ISIL|イスラム国]]が「ホラサン州」(ISIL-K)の設置を宣言し、アフガニスタンで活動を始めた<ref>{{Cite web|和書|title=イラク・レバントのイスラム国(ISIL)の「ホラサン州」 {{!}} 国際テロリズム要覧(Web版) {{!}} 公安調査庁|url=https://www.moj.go.jp/psia/ITH/organizations/SW_S-asia/ISIL-Khorasan.html|website=www.moj.go.jp|accessdate=2019-11-24|publisher=|year=2019}}</ref>。7月、ターリバーンとアフガニスタン政府の和解協議が開催されたが、ターリバーンの指導者[[ムハンマド・オマル]]の死亡が公表され中断した<ref name=":6" />。国家統一政府は大統領選挙から1年が経過しても全閣僚を任命できず、国防相の就任を議会に否決され、国内の治安に責任を持てないでいた<ref name=":6" />。[[2015年]][[9月28日]]、ターリバーンはアフガニスタン第5の都市クンドゥーズを一時的に占領した([[クンドゥーズの戦い]])。衝撃を受けた[[アメリカ合衆国大統領]][[バラク・オバマ]]はアメリカ軍(9800人)の完全撤退を断念した<ref name=":7">{{Cite news|title=米軍、アフガン駐留を延長へ オバマ政権方針転換|url=https://www.bbc.com/japanese/34546742|date=2015-10-16|accessdate=2019-11-24|language=en-GB}}</ref>。また選挙制度改革の遅れにより予定されていた下院議員選挙は実施できず、GDP成長率も1.3%に鈍化した<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=外交青書 2016 | 4 アフガニスタン | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2016/html/chapter2_06_04.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 [[2016年]][[1月11日]]、アフガニスタンとパキスタン、中国、アメリカがターリバーンとの和平を目指す4か国調整グループ(QCG)を設立したが<ref>{{Cite news|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html|publisher=外務省|author=|title=アフガニスタン基礎データ|date=2017-07-25|accessdate=2018-01-01}}</ref>、ターリバーンは和平交渉を拒否した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM05H8L_V00C16A3FF8000/|publisher=[[日本経済新聞]]|author=|title=アフガン、タリバンが和平交渉拒否|date=2016-03-06|accessdate=2018-01-01}}</ref>。国家統一政府ではガニー大統領とアブドラ行政長官との関係が悪化し、閣僚7人が弾劾された。9月、[[グルブッディーン・ヘクマティヤール|ヘクマティアル]]派との和解合意が成立した<ref>{{Cite web|和書|title=外交青書 2017 | 4 アフガニスタン | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2017/html/chapter2_06_04.html|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 2017年5月、カーブルのドイツ大使館の近くで大規模テロが発生し、300人以上が死傷した<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=外交青書 2018 | 1 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/html/chapter2_06_01.html#s26108|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、アメリカ合衆国大統領[[ドナルド・トランプ]]は『対アフガニスタン・南アジア戦略』を発表し<ref name=":0" />、状況の悪化を防ぐために増派(約4000人)を決定した<ref>{{Cite news|title=トランプ米大統領、アフガン新戦略発表 増派に道開く|url=https://jp.reuters.com/article/usa-trump-afghanistan-idJPKCN1B206V|work=Reuters|date=2017-08-22|accessdate=2019-11-24|language=ja}}</ref>。10月、アフガニスタン政府の支配地域は407郡中231郡(57%)にすぎないことが判明した。政府とターリバーンは122郡(30%)の支配を争っており、ターリバーンが54郡(13%)を支配していることが分かった。ターリバーンの支配地域は2015年11月から2017年8月の間に倍増しており、紛争地域も1.4倍増加した。[[ウルーズガーン州|ウルズガーン州]](7郡中5郡)や[[クンドゥーズ州]](7郡中5郡)、[[ヘルマンド州]](14郡中9郡)の大半はターリバーンに支配されていた<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2017-10-30qr.pdf|title=October 30, 2017 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-10-09|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)|date=2017-10-30|pages=106-107}}</ref>。11月、北大西洋条約機構(NATO)は確固たる支援任務(約1万3000人)に対して3000人の増派を決定した<ref>{{Cite web|和書|title=防衛省・自衛隊|平成30年版防衛白書|2 多国間の安全保障の枠組みの強化|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2018/html/n12802000.html|website=www.clearing.mod.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。 2018年6月、ターリバーンとの間で史上初めての3日間の一時停戦が実現した<ref>{{Cite web|和書|title=外交青書 2019 | 2 中東地域情勢 | 外務省|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2019/html/chapter2_06_02.html#s26210|website=www.mofa.go.jp|accessdate=2019-11-24}}</ref>。8月、ターリバーンの猛攻により[[ガズニー州]]の州都が[[:en:Ghazni offensive|陥落寸前]]になった。10月、[[2018年アフガニスタン下院議員選挙|第三回の下院議員選挙]]が実施された。 2019年1月の時点で、ターリバーンがアフガニスタンの郡の12%を掌握・勢力圏内に入れている<ref>{{Cite web|url=https://www.sigar.mil/pdf/quarterlyreports/2019-01-30qr.pdf|title=January 30, 2019 Quarterly Report to Congress|accessdate=2019-12-14|publisher=SIGAR(アフガニスタン復興特別査察官)}}</ref>。ターリバーンの勢力が拡大しつつあるという見解も示された<ref>{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:タリバンの復活と現状 {{!}}|url=http://globalnewsview.org/archives/10141|website=GNV|accessdate=2019-12-04|language=ja}}</ref>。8月、アメリカ合衆国とターリバーンとの間で8回目の和平協議が行われた([[アフガニスタン和平プロセス]])。9月、[[2019年アフガニスタン大統領選挙|第四回の大統領選挙]]が実施された。12月4日には[[ナンガルハル州]][[ジャララバード]]で同地を拠点に灌漑事業を展開していた[[ペシャワール会]]代表の[[中村哲 (医師)|中村哲]]が殺害された<ref>{{Cite web|和書|title=中村哲医師、アフガンで銃撃され死亡 現地で人道支援|url= https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52949440U9A201C1MM8000/ |website=日本経済|accessdate=2022-4-30|date=2019-12-4}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガンで銃撃、中村哲医師が死亡 現地で人道支援|url= https://www.asahi.com/articles/ASMD45HLBMD4UHBI02P.html |website=朝日デジタル|accessdate=2022-4-30|date=2019-12-4}}</ref>。 2020年2月28日、トランプ米大統領は、駐留米軍を撤退させることでターリバーンと合意した([[ドーハ合意]])<ref>{{Cite web|title=US signs historic deal with Taliban, Trump announces, beginning end of US war in Afghanistan and withdrawal of American troops|url= https://abcnews.go.com/Politics/us-sign-historic-deal-taliban-beginning-end-us/story?id=69287465 |website=abc NEWS|accessdate=2021-8-25|date=2020-3-1}}</ref>。合意の内容は、米国は14カ月以内にアフガニスタンからすべての連合軍を撤退させ、アフガニスタン治安部隊に対するすべての軍事・請負支援を終了し、アフガニスタンの内政干渉をやめること。また、アフガニスタン政府は5000人のターリバーン戦闘員の解放と経済制裁を緩和すること。一方、その条件としてターリバーンは、米軍や連合軍への攻撃をやめ、アルカーイダやその他のテロ組織がアフガニスタンの領土を使って米国の安全を脅かすことを許さず、アフガニスタン政府との交渉を行うというものであった<ref>{{Cite web|和書|title=タリバンに“勝利”与えたトランプ、選挙目当ての和平合意に不安 |url=https://wedge.ismedia.jp/articles/-/18849 |website=Wedge ONLINE |date=2020-03-01 |access-date=2022-08-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「不名誉なアフガニスタン撤退」が映し出す、アメリカ外交の失敗 |url=https://globe.asahi.com/article/14448737 |website=朝日新聞GLOBE+ |access-date=2022-08-06}}</ref>。 [[File:Secretary Pompeo Meets With the Taliban Delegation (50333305012).jpg|thumb|right|270px|[[マイク・ポンペオ|ポンペオ米国務長官]]とアブドゥル・ガニ・バラダルの会談 2020年9月12日]] 2020年5月17日、昨年の大統領選挙で次点だった[[アブドラ・アブドラ]]と[[アシュラフ・ガニー]]大統領で政治権力を分け合うことで合意文書に署名<ref>『[[京都新聞]]』朝刊2020年5月18日5面</ref>。 2021年4月、アメリカ合衆国大統領[[ジョー・バイデン]]は、[[2021年]][[9月11日]]までに駐留米軍を完全撤退させると発表した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン駐留米軍、9月11日までに完全撤退へ|url= https://www.bbc.com/japanese/56741631 |website=BBC NEWS Japan|accessdate=2021-8-15|date=2021-4-14}}</ref>。 [[ファイル:Wang_Yi_Japan_2019.jpg|thumb|170px|ターリバーンと会談した中国外相の[[王毅]]]] 2021年7月にはターリバーンの代表団が訪中し、[[中華人民共和国外交部長]](外相)の[[王毅]]と会談し、[[アブドゥル・ガニ・バラダル]]は「中国はアフガン人民が信頼できる友人だ」と述べた<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP7X76B4P7XUHBI021.html|title= 「信頼できる友人」タリバーン幹部が訪中、王氏と会談|newspaper=朝日新聞]|date=2021-07-29|accessdate=2021-08-09}}</ref>。 [[2021年ターリバーン攻勢]]前の政府は[[アメリカ合衆国]]の軍事・経済援助に大きく依存していることから、その[[従属国]]とも言われていた<ref>{{Cite book|last=Ladwig|first=Walter C.|url=https://books.google.com/books?id=GdAoDwAAQBAJ|title=The Forgotten Front: Patron-Client Relationships in Counter Insurgency|date=2017|publisher=Cambridge University Press|isbn=9781107170773|page=302|quote=As with their Cold War counterparts, it was erroneous for American policymakers to believe that the governments of contemporary client states, such as Iraq, Afghanistan, and Pakistan, necessarily shared their desire to defeat radical Islamic insurgents by adhering to the prescriptions of U.S. counterinsurgency doctrine.|accessdate=2018-05-15}}</ref>。 === ターリバーンの再掌握 === [[File:2021 Taliban Offensive.png|250px|thumb|黒色がターリバーンの勢力図]] {{Main|2021年ターリバーン攻勢}} アメリカ合衆国がアフガニスタンからの撤退を進める中、ターリバーンは5月から本格的に主要都市を次々と制圧していった。もっとも、以前から公的機関の周辺以外は既にターリバーンが支配しており、戦いの趨勢は決まっていたという見方もある。虐殺を指摘される夜襲作戦で連合軍は市民から反感を買っており<ref name=":12" />、アフガニスタン政府は腐敗で機能せず、迅速に統治するターリバーンは受け入れられていたという。 2021年8月15日には首都カーブルに迫り、全土を支配下に置いたと宣言した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210815091720/https://nordot.app/799566209875214336?c=39546741839462401|title=「全土を支配下に置いた」とタリバン|work=47NEWS|agency=[[共同通信社]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref>{{Efn|[[パンジシール州]]を除く}}。約20年間続いた民主政権側も[[アブドゥル・サタール・ミルザクワル]]内務相代行が権力の移行を進めると表明した<ref>{{Cite news|url=https://www.asahi.com/articles/ASP8H65CCP8HUHBI01H.html|title=タリバーンへの「権力移行」 アフガン政府が認める声明|work=朝日新聞デジタル|newspaper=[[朝日新聞]]|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガン政権が事実上崩壊 タリバンが勝利宣言(写真=AP)|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB152850V10C21A8000000/|website=日本経済新聞|date=2021-08-15|accessdate=2021-08-16|language=ja}}</ref>。同日、[[アシュラフ・ガニー]]大統領が[[タジキスタン]]に向けて出国したと報じられた<ref>{{Cite news|url= https://web.archive.org/web/20210815140322/https://nordot.app/799638907697790976?c=39546741839462401 |title= アフガン大統領が出国と報道 |newspaper= 共同通信 |date= 2021-08-15 |accessdate= 2021-08-15 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|title = アフガン大統領が国外脱出 事実上の政権崩壊―タリバン、首都突入を指示 |url = https://web.archive.org/web/20210815084521/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021081500333&g=int |publisher = 時事通信社 |date = 2021-08-16|accessdate = 2021-08-17}}</ref><ref>{{Cite news|title= アフガン大統領国外脱出 「タリバンが勝利」 |url= https://www.afpbb.com/articles/-/3361807 |work= [[フランス通信社|AFPBB]]|date=2021-08-16|accessdate=2021-08-17}}</ref>が、タジキスタンは「ガニ氏を乗せた飛行機はタジキスタン領空に入っておらず、領土内に着陸もしていない」とし、ガニーの入国を否定した<ref>{{Cite news|url=https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASP8J53DHP8JUHBI01W.html%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D|title=国外脱出したアフガン大統領、タジキスタンが入国を否定|newspaper=朝日新聞|date= 2021-08-16 |accessdate= 2021-08-16 }}</ref>。 [[File:Taliban Fighters and Truck in Kabul, August 17 2021.png|thumb|left|250px|カーブルでのターリバーン戦闘員 2021年8月17日]] 8月17日にターリバーンはアフガニスタン政府に「平和的降伏」を求め、政権移譲に向けた交渉を始めており、ビデオ声明を通じて勝利宣言した<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン、政府に「平和的降伏」要求(共同通信)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/6507a327ae0f23ebac60cf2a5abc0515d2d98b56|website=Yahoo!ニュース|accessdate=2021-08-17|language=ja}}</ref>。また同日、対ターリバーン戦を呼び掛けていたヘラートの軍閥の指導者[[イスマーイール・ハーン]]が一時的に拘束された<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3361703?cx_part=related_yahoo|title=タリバンが「ヘラートのライオン」拘束、アフガンの軍閥指導者|newspaper=AFP|date= 2021-08-14 |accessdate= 2022-04-30 }}</ref>。一方で、{{仮リンク|アフガニスタンの副大統領|label=第一副大統領|en|Vice President of Afghanistan}}の{{仮リンク|アムルッラー・サーレハ|en|Amrullah Saleh}}が憲法上の規定により、暫定大統領に就任すると発表した<ref name="20210818Sankei">{{cite news|url=https://www.sankei.com/article/20210818-LBCKSBTG2RMRHLYNLT2FFKV4YY/|title=アフガン暫定大統領を宣言 ガニ氏逃亡でサレー第1副大統領|publisher=[[産経新聞]]|date=2021-8-18|accessdate=2021-8-18}}</ref>。サーレハはターリバーンの勢力が及ばない[[パンジシール州]]に滞在しているとされ、同州の[[パンジシール渓谷]]を拠点としていた[[アフマド・シャー・マスード|マスード]]将軍の息子[[アフマド・マスード]]と共に[[パンジシール紛争|抵抗運動]]を呼び掛けていると報道があった<ref name=20210818Sankei/>が、9月7日、ターリバーンは反勢力の最後の拠点を制圧したと宣言した。なお反ターリバーン組織は「まだ戦いは続いている」との声明を発表している([[民族抵抗戦線]]を参照)。 アフガニスタン中央銀行の保有資産の多くは欧米の銀行で[[資産凍結]]されており、8月時点の現金残高は「ほぼゼロ」の状態で、国家予算の8割が米国など海外からの支援であった。こうしたターリバーンへの経済制裁は、極端なイスラム治政を敷くターリバーンに対し、国際社会との親和を促すという名目がある。トランプ政権で高官だった研究員は、米国は友好国と協調しながら資産凍結しなければならないとし、加えて、打撃を受けている同国の一般市民に対しては継続した人道支援が必要とした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210820-L3BLZHAWBZON3BXEKVORVINRBU/ |title=米、アフガン政府の資産凍結 タリバンへの資金遮断 |publisher=産経新聞 |date=2020-08-20 |accessdate=2021-09-10}}</ref>。8月31日、アメリカ軍はアフガニスタンから完全に撤退した<ref>{{Cite web|和書|title=【随時更新】アフガニスタン 米軍撤退完了 現地は? 各国は?|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210825/k10013222081000.html?utm_int=news_contents_news-main_003|website=NHK WEB NEWS|accessdate=2021-8-31|language=en}}</ref>。 ==== ターリバーン復権下の統治 ==== 2021年9月7日、ターリバーンは暫定政権の主要閣僚を発表。政権トップには[[ハッサン・アフンド]]、副首相には[[アブドゥル・ガニ・バラダル]]、内相にはスィーラジュッディーン・ハッカーニ、国防相にはヤクーブが就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/afghanistan-conflict-government-idJPKBN2G31EZ |title=タリバン、新政権トップは故創設者側近アフンド師 主要閣僚発表 |publisher=ロイター |date=2021-09-07 |accessdate=2021-09-10}}</ref>。あわせて[[勧善懲悪省]]の復活というターリバーン色の強い政治姿勢も明らかにした<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/afghan_jp_613b1dbae4b0628d0959e105 |title=勧善懲悪省が復活、どんな組織? |publisher=Huffnpost |date=2021-09-10 |accessdate=2021-09-10}}</ref>。閣僚の多くはパシュトゥーン人であり、女性の起用は無かった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meij.or.jp/kawara/2021_058.html |title=№58 アフガニスタン:ターリバーンが暫定内閣を発表 |publisher=公益財団法人 [[中東調査会]] |date=2021-09-08 |accessdate=2021-09-13}}</ref>。翌9月8日には大臣らが各省庁で就任演説を行う予定であったが、情報・文化省の例では職員約850人のうち20人ほどしか出勤せず、ターリバーンが政府として機能するには、なお時間を要することが示唆された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chunichi.co.jp/article/327119 |title=アフガン、公務員出勤せず タリバン政権運営早くも難航 |publisher=中日新聞 |date=2021-09-09 |accessdate=2021-09-10}}</ref>。また、2021年9月21日に始まった国際連合の総会には、ガニ政権が任命したグラム・イサクザイ国連大使が代表として職務を続けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bbc.com/japanese/58647343 |title=タリバン、国連総会で演説の機会求める「前政権の大使はアフガンを代表していない」と |publisher=BBC |date=2021-09-22 |accessdate=2021-09-22}}</ref>。 前述の米国や[[IMF]]、国連による経済制裁により<ref>{{Cite news|title=IMF、アフガニスタンによる資産使用を停止|url=https://www.bbc.com/japanese/58264863|work=BBCニュース|access-date=2022-09-22|language=ja}}</ref>、国民の生活は困窮し、国連は人口の半数以上である約2500万人が貧困の状況にあるとした<ref>{{Cite web|和書|title=アフガンの再建 人道危機を悪化させるな |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/n/973391/ |website=西日本新聞me |access-date=2022-09-22 |language=}}</ref>。薬物汚染も問題となった。人権問題を建前にした経済制裁が、人道危機の原因となる矛盾に批判が高まったことで、米国が人道支援を例外とし<ref>{{Cite web|和書|title=タリバン制裁、人道支援は例外 国連やNGOの活動を米財務省が認可 |url=https://www.asahi.com/articles/ASP9T3VKHP9TUHBI008.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2021-09-25 |access-date=2022-09-22 |language=}}</ref>、国連も同様の決議を採択した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン緊急人道支援へ期待 国連安保理“制裁の対象外”決議 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211223/k10013400471000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-09-22 |last=}}</ref>。2022年6月には、1000人以上の死者を出した[[アフガニスタン東部地震]]が発生した<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン・タリバン復権から1年 治安改善も経済は疲弊 その現状は… |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/195286 |website=東京新聞 TOKYO Web |access-date=2022-09-22 |language=}}</ref>。 == 政治 == {{main|[[アフガニスタンの政治]]|アフガニスタン・イスラム首長国#ターリバーン政権(第2次、2021年 - )}} {{Vertical_images_list|Presidential Palace - panoramio (8).jpg|内閣の会議場として使用されるアルグ(カーブル)|Taqi Usmani in Afghanistan 2022, with Prime minister Mohammad Hassan Akhund 02.jpg|アルグ内部で元パキスタン最高裁判事と会談するハッサン・アフンド首相代行|||||幅=250px|枠幅=250px}}アフガニスタンは[[政教一致]]体制をとる[[イスラム国家]]であり、[[ハナフィー学派|ハナフィー法学]]と[[デーオバンド派]]の思想に基づいて解釈されるイスラム教を国の根幹としている。ムスリムの最高司令官であるアミール・アル=ムウミニーンのもと、[[マドラサ]]出身の[[ムッラー]]によって国家が運営されている。政府の要職はターリバーンが独占している。 === アミール・アル=ムウミニーン === アミール・アル=ムウミニーンはシューラの合意で選出され、終身制である。アミール・アル=ムウミニーンはハナフィー法学に従って、イスラム教の解釈やアフガニスタンの統治に関して最終的な決定を下す。アミール・アル=ムウミニーンが下した「イスラム的に正当な決定」は絶対であり、閣僚や政府職員、ターリバーンのメンバーが抗命する事は認められていない。 === 憲法 === ターリバーンの復権にともない、米軍侵攻後の2004年に制定された共和国憲法は廃止された。ターリバーンによると、2004年の憲法では、誰もクルアーン、スンナ、ハナフィ法学に従って導き出された文言を引用できない欠陥があった<ref>{{Cite web |title=Ministry: Constitution of Previous Govt Not Based on Islamic Sharia |url=https://tolonews.com/afghanistan-184670 |website=TOLOnews |access-date=2023-08-19 |language=en}}</ref>。一時はザーヒル・シャー王在位中1964年に制定された憲法を暫定的に施行すると言われていたが、取り消された<ref>{{Cite web |title=MoJ to Enforce Zahir Shah-Era Constitution |url=https://tolonews.com/afghanistan-174827 |website=TOLOnews |access-date=2023-08-19 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=Use of Shah-Era Constitution Not Final: Source |url=https://tolonews.com/afghanistan-174841 |website=TOLOnews |access-date=2023-08-19 |language=en}}</ref>。一連の憲法問題に関して、ハイバトゥラー・アクンザダは「全ての決定はイスラム教のシャリーアに基づいて行われるべきだ」と述べたとされる<ref>{{Cite web |title=Efforts Underway to Form New Constitution: Mujahid |url=https://tolonews.com/afghanistan-180415 |website=TOLOnews |access-date=2023-08-19 |language=en}}</ref>。2023年現在、ターリバーンは憲法制定に向けた取り組みを行っている<ref>{{Cite web |title=Mujahid: Writing of Constitution Ongoing |url=https://tolonews.com/afghanistan-183102 |website=TOLOnews |access-date=2023-08-19 |language=en}}</ref>。 === 行政 === ==== 中央政府 ==== 内閣及び、各省庁の副大臣はアミール・アル=ムウミニーンから任命されている。 ==== 地方政治 ==== 州知事と州副知事は共にアミール・アル=ムウミニーンから任命されている。市長や郡知事、警察署長はアミール・アル・ムウミニーンの命令によって選出されている。 ==== 公務員と政府職員の給与 ==== 2021年末時点で、アミール・アル=ムウミニーンは22万8750[[アフガニ]]、首相は19万8250アフガニ、その他大臣は13万7250アフガニ、州知事は9万1500アフガニ、一級役人は2万5200から3万500アフガニ、二級役人2600から1万6600アフガニ<ref>{{Cite web |title=Senior Officials’ Salaries Reduced: MoF |url=https://tolonews.com/business-175746 |website=TOLOnews |access-date=2023-08-20 |language=en}}</ref>。 === 司法 === {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンの法律|en|Law of Afghanistan}}|{{仮リンク|アフガニスタン法務省|en|Ministry of Justice (Afghanistan)}}}} ==== 司法制度 ==== 主要とされている5種類の裁判所で構成されている。 * {{仮リンク|アフガニスタン最高裁判所|en|Supreme Court of Afghanistan|label=最高裁判所}} * 上訴裁判所 * 一次裁判所 * 少年裁判所 * 商事裁判所 裁判は通常、一次段階と控訴段階で3人の主要な裁判官によって処理されている。 ==== 法律 ==== アフガニスタンではシャリーアが施行されている。シャリーア施行の厳格さは地域によって差があり、例えばバーミヤンのようなシーア派住民が多数を占める地域については取り締まりが緩い<ref>{{Cite web |title=In Bamiyan, the Taliban Walk a Perilous Tightrope |url=https://newlinesmag.com/reportage/in-bamiyan-the-taliban-walk-a-perilous-tightrope/ |website=New Lines Magazine |date=2022-12-12 |access-date=2023-08-19 |language=en |first=Fazelminallah |last=Qazizai}}</ref>。 === 腐敗問題 === 2021年には腐敗認識指数いわゆる世界汚職国家ランキングで、180か国中174位だった<ref name=":15">{{Cite web |title=Afghanistan Ranks 150th on Corruption Perception Index |url=https://tolonews.com/afghanistan-181854 |website=TOLOnews |access-date=2023-04-12 |language=en}}</ref>。米国国際開発庁は2009年にアフガニスタンの汚職について「蔓延し、定着し、組織的になり、規模と影響力において前例のないものになっている」と評価した<ref name=":16">{{Cite web |title=Tackling Corruption in Afghanistan: It’s Now or Never |url=https://www.americanprogress.org/article/tackling-corruption-in-afghanistan-its-now-or-never/ |website=Center for American Progress |access-date=2023-04-12 |language=en}}</ref>。2012 年の国連調査によると、アフガニスタン人の約半数が、税関職員、裁判官、検察官に賄賂を支払ったと報告し、調査回答者の半数弱が、土地登記官および州の役人に賄賂を支払ったと報告した<ref name=":16" />。近年では反汚職を掲げるターリバーンの厳格な統治により、[[縁故主義]]や[[賄賂]]の要求、公金横領、司法腐敗の減少が見込まれており、2022年には180ヶ国中150位と順位を上げた<ref name=":15" />。 === 政治史 === 1919年にアマーヌッラー・ハーン国王が第3次アングロ・アフガン戦争後に王位に就き、イギリスの影響力は終わった。ザーヒル・シャー国王が海外渡航中にムハンマド・ダーウド・ハーンが奪取したがハーンは後に暗殺され共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)が政権を取った。[[ムハンマド・ナジーブッラー]]政権時に安定を見せた。 2005年に国民議会が選出され、その後も2010年に選出された。選挙で選ばれた中には、元ムジャーヒディーン、イスラム原理主義者や改革派、共産主義者など、そして数人のターリバーンが含まれたが、選出された議員の内、憲法で保障された数を3%上回った約28%が女性で、これはアフガニスタンが立法府における女性参政権の面で主要な国であることを意味していた。2004年にはハーミド・カルザイが、2014年にはアシュラフ・ガニがアフガニスタン大統領に選出された。アブドラ・アブドラがアフガニスタンの最高経営責任者(CEO)に就任。2021年のターリバーンの攻勢時ガニ大統領は逃亡。[[ハッサン・アフンド]]はアフガニスタンの復活したイスラム首長国の臨時首相となり、9月7日には閣僚31人の名簿を発表した<ref>* 「[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210908/k10013249191000.html タリバンが暫定政権の閣僚を発表 アフガニスタン」]」NHK NEWS WEB(2021年9月8日12時49分配信)2021年9月12日閲覧</ref>。 == 国際関係 == {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの国際関係|en|Foreign relations of Afghanistan}}|{{仮リンク|アフガニスタン・イスラム首長国の国際的承認|en|Recognition of the Islamic Emirate of Afghanistan}}}} 2022年9月時点で、アフガニスタン・イスラム首長国を[[国家の承認|政府承認]]している国は存在しておらず、国際連合の代表権はアフガニスタン・イスラム共和国が継続して保持している。アフガニスタン・イスラム共和国は[[イスラム協力機構]]、[[南アジア地域協力連合]]、[[77ヶ国グループ]]、[[経済協力機構]]、[[非同盟運動]]に加盟していた。 ただし、2023年3月3日時点で、[[パキスタン]]や[[中華人民共和国|中国]]、[[ロシア]]、[[イラン]]など11か国においてアフガニスタン・イスラム首長国側が指名した外交官が受け入れられ、アフガニスタン大使館・総領事館の運営を担当するなど実質的にアフガニスタンを代表する政治勢力として扱われている。<ref>https://parstoday.ir/ja/news/asia-i111990 11カ国のアフガン大使館に、前政権関係者に代わりタリバン外交官が赴任,『Pars Today』,2023年03月04日(土)16時26分</ref>また、2023年9月13日には中国が、タリバーンの復権後に世界で初めて新たな駐アフガニスタン大使を任命し、信任状をタリバーン指導部に奉呈した。他国はタリバーン復権後には、政府承認を前提とせず、信任状の奉呈を必要としない臨時代理大使を駐カブール大使館に派遣しており、中国政府がアフガニスタン・イスラム首長国を正式に政府承認しない中で、外交関係を有することを前提とした特命全権大使を同政府に派遣することは事実上の承認ともいえる異例の対応といえる<ref>https://www.meij.or.jp/kawara/2023_082.html №82 アフガニスタン:中国新任大使の信任状奉呈,『中東かわら版』,公益財団法人 中東調査会,2023年09月15日(金)</ref>。 {{節スタブ}} == 軍事 == [[File:Afghan soldiers.jpg|left|thumb|アフガニスタン国軍]] {{main|アフガニスタン軍}} 起源は18世紀初頭のホータキー朝やドゥッラーニー帝国の軍隊であるとされる。1880年代のアブドゥッラフマーン・ハーン統治時代に近代的な軍隊が創設された。第一次・第二次世界大戦では中立を保ったが1978年に始まったアフガニスタン紛争で弱体化し、ソ連軍の撤退後はムジャーヒディーンによって分割され、その後のターリバーン政権下では徴兵制度が採用された。2001年にアメリカなど多国籍軍のアフガニスタン侵攻が始まると、ターリバーン政権の国軍は消滅したかに思われた。アメリカは20年間で830億ドル以上<ref>{{Cite web|和書|title=終わりなきアフガン戦争へのわずかな解決策|url=https://www.swissinfo.ch/jpn/politics/%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%B3%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%82%8F%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%81%AA%E8%A7%A3%E6%B1%BA%E7%AD%96/46874294|website=SWI swissinfo.ch|accessdate=2021-10-21|language=ja}}</ref>を投じて、民主政府の国軍再建を支援したが、ターリバーンの攻勢に伴い崩壊した。 アフガニスタン・イスラム首長国の兵力はターリバーン時代からの兵士が主力となっている。 == 情報機関 == 現在のアフガニスタンにおける[[情報機関]]は{{仮リンク|アフガニスタン情報総局|label=情報総局|en|General Directorate of Intelligence}}(GDI)である。 かつては[[国家保安局 (アフガニスタン)|国家安全保障局]](NDS)と呼ばれる機関が安全保障などを総轄していたが、2021年にターリバーンが政権を奪取して現地政界に返り咲いたことにより、NDSは解散させられGDIが設立。後にGDIが正式な後継機関となり、現在へと至っている。 == 地理 == [[ファイル:Naw shakh.jpg|thumb|right|300px|[[ヒンドゥークシュ山脈]]にある最高峰、[[ノシャック]]]] [[ファイル:Afghanistan-map-ja.jpeg|thumb|280px|right|アフガニスタンの地図]] [[ファイル:Koppen-Geiger Map AFG present.svg|thumb|300px|left|アフガニスタンにおけるケッペンの気候分布図]] [[ファイル:Afghan topo en.jpg|280px|left|thumb|'''アフガニスタン国土の高度分布図'''<br/>灰色に写っている部分は高度3,000メートルを越えており、白が強くなるほど高度が上がる。この部分がほぼヒンドゥークシュ山脈に相当する]] {{Main|{{仮リンク|アフガニスタンの地理|en|Geography of Afghanistan}}}} もともとの国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部にはわずかに平野部がある{{efn|国土の四分の三がヒンドゥー・クシュ(インド人殺し)と呼ばれる高山とその支脈に覆われている。国を南西に1920キロメートルも縦貫している。この山脈は北東部が最も高く、南西に行くほど低くなっている<ref>前田(2002) 10ページ</ref>。}}。最も[[標高]]の高い地点は、[[海抜]]7485[[メートル]]の[[ノシャック]]山である。国土の大半は乾燥しており、[[真水]]の入手できる場所は限られているが、水系は、アム・ダリア水系、ハリ・ルー水系、ヘルマンド・アルガンダ水系の四つに大別できる。[[ヒンドゥークシュ山脈|ヒンドゥー・クシュ]]の中心山系から国土を潤す三つの川が流れていて、一つは東流して[[インダス川]]に合流する[[カーブル川]]、もう一つは南流して[[ハームーン湖|ハムーン沼沢地]]に消える[[ヘルマンド川|ヘルマンド・アルカンダブ川]]、さらにもう一つは西流して[[カラクム砂漠]]に消えるハリ・ルード川([[:en:Hari (Afghanistan)|Hari Rud River]])である。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンの河川の一覧|en|List of rivers of Afghanistan}}|{{仮リンク|アフガニスタンのダムと貯水池の一覧|en|List of dams and reservoirs in Afghanistan}}}} === 気候 === 気候は大陸性で、乾燥気候かつ夏乾冬雨となっている。内陸国である事と標高が高いために緯度の割に一部低地地域を除く全土に渡って寒さが非常に厳しく南西部と北部のトルクメニスタン国境部が[[砂漠気候]]、中部は[[ステップ気候]]と[[亜寒帯気候]]、一部が[[地中海性気候]]となっており、北東部には高山[[ツンドラ気候]]も広がり、[[ワハーン回廊]]では1月の平均気温は氷点下15度以下に達する。 年間降水量は少なく冬季に集中するために雪が多くなる地域も多い。東部の[[ヌーリスターン州]]のみ[[モンスーン]]の影響を受けて夏季にも降水量が多くなる。山岳部では降雪も多くなり積雪は数メートルに達することも珍しくなく、しばしば[[雪崩]]が発生する。夏は暑く過去最高気温は2009年8月に[[:en:Farah, Afghanistan|ファラー]]で観測された49.9[[セルシウス度|度]]。一方、冬は寒く[[:en:Shahrak District|シャラック]]で1964年1月に[[氷点下]]52.2度の記録があるなど、氷点下40度以下の冷え込みとなることもある。また[[地震]]が頻繁に発生している。 年平均[[降水量]]は、国の南西部で75[[ミリ]]、[[マザーリシャリーフ]]で213ミリ、東部の[[カズニー]]で213ミリ、[[サラン峠|サラング峠]]の上方で1150ミリである<ref>フォーヘルサング(2005) 30ページ</ref>。主要都市は首都[[カーブル]]のほか、西部の[[ヘラート]]、東部の[[ジャラーラーバード]]、北部の[[マザーリシャリーフ]]、[[クンドゥーズ]]、南部の[[カンダハール]]などである。 {{Clearleft}} <div class="left"> {|class="wikitable" style="font-size:smaller;text-align:right;white-space:nowrap" |+ アフガニスタン各地の平年値&ensp;(統計期間:1981–2010年)&ensp;(出典:<ref>{{Cite web|title=Afghanistan climate: Average Temperature, weather by month, Afghanistan weather averages - Climate-Data.org|url=https://en.climate-data.org/asia/afghanistan-3/|website=CLIMATE-DATA.ORG|accessdate=2021-08-19}}</ref>) !rowspan="2" colspan="2" |平年値<br>(月単位) !colspan="2"|西部 !colspan="2"|南部 !colspan="2"|北部 !colspan="3"|中央高地 !colspan="2"|中部 |- !style="width:4em;"|[[ヘラート]] !style="width:4em;"|[[:en:Farah, Afghanistan|ファラー]] !style="width:4em;"|[[カンダハール]] !style="width:4em;"|[[ラシュカルガー]] !style="width:4em;"|[[マザーリシャリーフ|マザリシャリフ]] !style="width:4em;"|[[シェベルガーン]] !style="width:4em;"|[[チャグチャラーン|チャグチャラン]] !style="width:4em;"|[[バーミヤーン|バーミアン]] !style="width:4em;"|[[:en:Panjab, Afghanistan|パンジャブ]] !style="width:4em;"|[[カーブル]] !style="width:4em;"|[[:en:Charikar|チャリカル]] |- !colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]] |BSk ||BWh |[[砂漠気候|BWh]] ||BWh |BSk ||BSk |Dsb ||BSk |[[湿潤大陸性気候|Dsb]] ||BSk |BSk |- !rowspan="2"|平均<br>気温<br>(&#8451;) !最暖月 |28.1<br>(8月) ||style="background:#FF0000"|35.1<br>(7月) |style="background:#FF0000"|33<br>(7月)||style="background:#FF0000"|35.1<br>(7月) |style="background:#FF0000"|31.4<br>(7月) ||style="background:#FF0000"|32.7<br>(7月) |19.3<br>(7月)||16.4<br>(7月) |15.2<br>(7月)||25.6<br>(7月) |25.7<br>(7月) |- !最寒月 |3.7<br>(1月)||style="background:#fc0"|7.8<br>(1月) |style="background:#fc0"|6.4<br>(1月)||style="background:#fc0"|8<br>(1月) |4.4<br>(1月) ||4.3<br>(1月) |style="background:#0cf"&|−9.4 <br>(1月) ||style="background:#09f"&|−10.2 <br>(1月) |style="background:#09f"&|−14.8 <br>(1月) ||−2.9<br>(1月) |style="background:#0cf"|−3<br>(1月) |- !rowspan="2"|[[降水量]]<br>(mm) !最多月 |68<br>(3月) ||3<br>(1-3月) |60<br>(2月) ||35<br>(2月) |49<br>(3月) ||7<br>(3月) |40<br>(3月 ||62<br>(5月) |8<br>(2-3月) ||82<br>(4月) |73<br>(3月) |- !最少月 |0<br>(6-9月) ||0<br>(5-9月) |0<br>(8-9月) ||0<br>(7-9月) |0<br>(6-9月) ||0<br>(6-9月 |0<br>(9月) ||4<br>(8月) |0<br>(8-9月) ||4<br>(8月) |1<br>(8月) |- !rowspan="2" colspan="2" |平年値<br>(月単位) !colspan="3"|東部 !colspan="2"|南東部 !colspan="2"|北東部 !colspan="4"|[[バダフシャーン州]] |- !style="width:4em;"|[[ジャラーラーバード|ジャララバード]] !style="width:4em;"|[[:en:Asadabad, Afghanistan|アサダバード]] !style="width:4em;"|[[:en:Du Ab District|デュアブ]] !style="width:4em;"|[[ガズニー]] !style="width:4em;"|[[:en:Gardez|ガルデーズ]] !style="width:4em;"|[[クンドゥーズ]] !style="width:4em;"|[[:en:Warsaj District|ワルサージュ]] !style="width:4em;"|[[ファイザーバード (バダフシャーン州)|ファイザバド]] !style="width:4em;"|[[:en:Khwahan, Afghanistan|フワハーン]] !style="width:4em;"|[[:en:Ishkashim, Afghanistan|イシュカシム]] !style="width:4em;"|[[:en:Wakhan District|ワハーン]] |- !colspan="2"|[[ケッペンの気候区分|気候区分]] |BWh ||[[地中海性気候|Csa]] |Dsb ||Dsa |Dsa ||BSk |Dsa ||Dsa |Dsa ||[[湿潤大陸性気候|Dsb]] |[[ステップ気候|BSk]] |- !rowspan="2"|平均<br>気温<br>(&#8451;) !最暖月 |style="background:#FF0000"|31.6<br>(6月) ||23.1<br>(7月) |20.3<br>(7月) ||22.8<br>(7月) |22.3<br>(7月) ||style="background:#FF0000"|33.3<br>(7月) |15.6<br>(7月) ||21.3<br>(7月) |22.5<br>(7月) ||style="background:#CAE8E2"|9.8<br>(8月) |style="background:#CAE8E2"|9.4<br>(8月) |- !最寒月 |style="background:#fc0"|9.6<br>(1月) ||0.8<br>(1月) |style="background:#0cf"|−6.9<br>(1月) ||style="background:#0cf"|−6.4<br>(1月) |style="background:#0cf"|−4<br>(1月) ||3.8<br>(1月) |style="background:#09f"|−10.6<br>(1月) ||style="background:#0cf"|−6.7<br>(1月) |style="background:#0cf"|−3<br>(1月) ||style="background:#09f"|−16.1<br>(1月) |style="background:#3170B9"|−22.5<br>(1月) |- !rowspan="2"|[[降水量]]<br>(mm) !最多月 |47<br>(2月) ||style="background:#5AFF19"|156<br>(7月) |style="background:#5AFF19"|145<br>(3月) ||54<br>(2月) |73<br>(3月) ||80<br>(3月) |style="background:#5AFF19"|124<br>(5月) ||style="background:#5AFF19"|111<br>(4月) |style="background:#5AFF19"|172<br>(5月) ||75<br>(3月) |79<br>(3月) |- !最少月 |0<br>(6月) ||27<br>(10月) |34<br>(9月) ||3<br>(9月) |12<br>(9月) ||0<br>(8月) |15<br>(9月) ||4<br>(8月) |19<br>(9月) ||20<br>(8月) |22<br>(8月) |- |} </div> === 環境 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの環境問題|en|Environmental issues in Afghanistan}}}} アフガニスタンの環境問題は過去数十年の政治的混乱より以前からある。 森林は何世紀にもわたって放牧と農業によって枯渇されてきたが、現在は人口の44%以上が牧畜、農業に依拠し<ref>{{cite web |url=https://www.cia.gov/the-world-factbook/field/labor-force-by-occupation |title=Afghanistan: Labor force - by occupation |work=World Factbook |publisher=CIA |year=2017 |accessdate=2022-05-02}}</ref>、環境保護は人々の経済的福祉においても重要である。 2007年に、世界保健機関は同国を環境ハザードによる死亡者数で、アフリカ諸国を除いた中で最も低いとの報告書を発表している<ref name='who'> {{cite web |url=https://www.who.int/mediacentre/news/releases/2007/pr30/en/index.html |archive-url=https://web.archive.org/web/20070616014535/http://www.who.int/mediacentre/news/releases/2007/pr30/en/index.html |url-status=dead |archive-date=June 16, 2007 |title= New country-by-country data show in detail the impact of environmental factors on health |publisher=World Health Organization |date=2007-06-13 |access-date=2007-06-15}} </ref>。 ==== 生態系 ==== [[File:Schneeleopard- P1020498.jpg|thumb|[[ユキヒョウ]]はアフガニスタン・イスラム国の[[国獣]]であった]] {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの野生動物|en|Wildlife of Afghanistan}}}} 多種多様な生物の生息が確認されているが、[[国際自然保護連合]](IUCN)の報告によれば、同国内に存在する大型哺乳類の多くは絶滅危機に瀕しているとされている。アフガニスタン全土に数種類の哺乳類が生息する。高山ツンドラ地域にはユキヒョウ、[[シベリアトラ]]、[[ヒグマ]]が生息する。北東部の[[ワハン回廊]]地域には[[:en:Marco Polo sheep|マルコポーロヒツジ]]([[アルガリ]]の亜種)が見られる。[[キツネ]]、[[オオカミ]]、[[カワウソ]]、[[シカ]]、[[ヒツジ属|ヒツジ]]、[[オオヤマネコ]]、その他の大型猫が東部の山林地域に生息している。半砂漠の北部の平野では、様々な鳥や、[[ハリネズミ]]、[[ホリネズミ]]、[[ジャッカル]]や[[シマハイエナ]]などの大型肉食動物も生息する<ref name="auto8">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=q5QY3vCg338C&pg=PA22|title=Afghanistan, Second Edition|first1=Jeffrey A.|last1=Gritzner|first2=John F.|last2=Shroder|date=14 June 2009|publisher=Infobase Publishing|isbn=9781438104805}}</ref>。 [[ガゼル]]、[[イノシシ]]、[[ジャッカル]]は南部と西部の草原に生息し、[[マングース]]と[[チーター]]は半砂漠の南部に生息する<ref name="auto8"/>。 [[マーモット]]と[[エイベックス]]も高山地帯におり、[[:en:Pheasant|キジ]]はアフガニスタンの一部に生息している<ref>{{Cite web|url=https://www.afghanistans.com/Information/PlantAnimal.htm|title=Afghanistan Plant and Animal Life – Afghanistan's Web Site|website=www.afghanistans.com|accessdate=14 June 2020|archive-date=11 July 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210711065504/http://www.afghanistans.com/information/PlantAnimal.htm|url-status=dead}}</ref>。 足が速く長毛の[[アフガン・ハウンド]]も知られている<ref name="auto9">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=y20MTE0C9kwC&pg=PA10|title=A Brief History of Afghanistan|first1=Shaista|last1=Wahab|first2=Barry|last2=Youngerman|date=14 June 2007|publisher=Infobase Publishing|isbn=9781438108193}}</ref>。 固有動物種には、[[:en:Afghan flying squirrel|アフガンモモンガ]](''Afghan flying squirrel'')、[[アフガンスノーフィンチ]]、[[:en:Paradactylodon]](または「パグマン山のサラマンダー」''Paradactylodon'')、[[:en:Afghan leopard gecko|アフガンヒョウヤモリ]](''Afghan leopard gecko'')、[[:en:Stigmella kasyi|スティグメラ・カシイ]](蛾の一種''Stigmella kasyi'')、[[:en:Vulcaniella kabulensis|ヴルカニエラ・カブレンシス]](蛾の一種''Vulcaniella kabulensis'')、[[:en:Wheeleria parviflorellus|ウィーレリア・パルビフロレルス]](蛾の一種''Wheeleria parviflorellus'')などがある。固有植物種には[[:en:Iris afghanica|アイリス・アフガニカ]](''Iris afghanica'')が含まれる。アフガニスタンは比較的乾燥した気候ではあるが多種多様な鳥が生息し、推定460種のうち235種が繁殖している<ref name="auto9"/>。 森林地域には[[マツ]]、[[トウヒ属|トウヒ]]、[[モミ属|モミ]]、[[カラマツ属|カラマツ]]など、草原地帯には[[広葉樹]]、低草、[[多年生植物]]、[[低木]]が植生する。いくつかの地域は保護地域に指定され、{{仮リンク|バンデアミール国立公園|en|Band-e Amir National Park}}、{{仮リンク|ワハン国立公園|en|Wakhan National Park}}、{{仮リンク|ヌリスタン国立公園|en|Nuristan National Park}}の3つの国立公園がある。アフガニスタンの2018年度の{{仮リンク|森林景観保全指数|en|Forest Landscape Integrity Index}}は8.85/10で、172か国中15位である<ref name="FLII-Supplementary">{{cite journal|last1=Grantham|first1=H. S.|last2=Duncan|first2=A.|last3=Evans|first3=T. D.|last4=Jones|first4=K. R.|last5=Beyer|first5=H. L.|last6=Schuster|first6=R.|last7=Walston|first7=J.|last8=Ray|first8=J. C.|last9=Robinson|first9=J. G.|last10=Callow|first10=M.|last11=Clements|first11=T.|last12=Costa|first12=H. M.|last13=DeGemmis|first13=A.|last14=Elsen|first14=P. R.|last15=Ervin|first15=J.|last16=Franco|first16=P.|last17=Goldman|first17=E.|last18=Goetz|first18=S.|last19=Hansen|first19=A.|last20=Hofsvang|first20=E.|last21=Jantz|first21=P.|last22=Jupiter|first22=S.|last23=Kang|first23=A.|last24=Langhammer|first24=P.|last25=Laurance|first25=W. F.|last26=Lieberman|first26=S.|last27=Linkie|first27=M.|last28=Malhi|first28=Y.|last29=Maxwell|first29=S.|last30=Mendez|first30=M.|last31=Mittermeier|first31=R.|last32=Murray|first32=N. J.|last33=Possingham|first33=H.|last34=Radachowsky|first34=J.|last35=Saatchi|first35=S.|last36=Samper|first36=C.|last37=Silverman|first37=J.|last38=Shapiro|first38=A.|last39=Strassburg|first39=B.|last40=Stevens|first40=T.|last41=Stokes|first41=E.|last42=Taylor|first42=R.|last43=Tear|first43=T.|last44=Tizard|first44=R.|last45=Venter|first45=O.|last46=Visconti|first46=P.|last47=Wang|first47=S.|last48=Watson|first48=J. E. M.|title=Anthropogenic modification of forests means only 40% of remaining forests have high ecosystem integrity – Supplementary Material|journal=Nature Communications|volume=11|issue=1|year=2020|page=5978|issn=2041-1723|doi=10.1038/s41467-020-19493-3|pmid=33293507|pmc=7723057|doi-access=free}}</ref>。 == 地方行政区分 == {{Main|アフガニスタンの州|アフガニスタンの郡}} アフガニスタンは34の州(velāyat)で構成されている。 [[File:Afghanistan provinces japanese.png|thumb|420px]] {{Colbegin}} # [[バダフシャーン州]](Badakhshān) # [[バードギース州]](Badghīs) # [[バグラーン州]](Baghlān) # [[バルフ州]](Balkh) # [[バーミヤーン州]](Bāmiyān) # [[ダーイクンディー州]](Dāykondī) # [[ファラー州]](Farāh) # [[ファーリヤーブ州]](Fāryāb) # [[ガズニー州]](Ghaznī) # [[ゴール州]](Ghowr) # [[ヘルマンド州]](Helmand) # [[ヘラート州]](Herāt) # [[ジョウズジャーン州]](Jowzjān) # [[カーブル州]](Kābul) # [[カンダハール州]](Kandahār) # [[カーピーサー州]](Kāpīsā) # [[ホースト州]](Khowst) # [[クナル州]](Konar) # [[クンドゥーズ州]](Kondoz) # [[ラグマーン州]](Laghmān) # [[ローガル州]](Lowgar) # [[ナンガルハール州]](Nangarhār) # [[ニームルーズ州]](Nīmrūz) # [[ヌーリスターン州]](Nūrestān) # [[ウルーズガーン州]](Orūzgān) # [[パクティヤー州]](Paktiyā) # [[パクティーカー州]](Paktīkā) # [[パンジシール州]](Panjshīr) # [[パルヴァーン州]](Parvān) # [[サマンガーン州]](Samangān) # [[サーレポル州]](Sār-e Pol) # [[タハール州]](Takhār) # [[ヴァルダク州]](Vardak) # [[ザーブル州]](Zābol) {{Colend}} === 主要都市 === {{main|アフガニスタンの都市の一覧}} == 経済 == [[File:Afghan pomegranate processing.jpg|thumb|left|200px|名産である[[ザクロ]]を加工する労働者]] [[File:Afghanistan_Product_Exports_(2019).svg|300px|thumb|色と面積で示したアフガニスタンの輸出品目(2019年時点)]] {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの経済|en|Economy of Afghanistan}}}} [[後発開発途上国]]の一つで、[[農業]]と[[牧畜]]への依存度が高い。農業と牧畜は同国において伝統的産業であり、2004年の推計では就業人口の65.6%が農業に従事している。その上で天然資源に乏しい点から、世界で最も貧しい国の一つに数え上げられている。 王政崩壊以降の断続的な紛争による社会・政治的な混乱、インフラの破壊、慢性的な旱魃により経済は壊滅状態となっている。また同じ理由から、大半の国民に充分な食料、衣料、住居、医療が提供できない状態が続いている。2004年10月の[[国際連合児童基金|ユニセフ]]の報告によると、幼児の死亡原因の多くは非衛生的な水の飲料使用による慢性的な下痢であるとされ、死亡率は25.7%と高く、国内の医療・衛生状態はきわめて悪い。さらに、ターリバーンに対する経済制裁でまともな経済活動が難しい中での外貨取得手段として[[麻薬]]栽培がなされ、薬物汚染も問題となっている<ref>{{Cite web|和書|title=100万人が麻薬中毒、世界平均の2倍 アフガン |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2737037 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-08-20}}</ref><ref name=":13">{{Cite web|和書|title=アフガニスタン:ターリバーンがケシ栽培禁止令を発出するも実効性に疑問符 |url=https://www.meij.or.jp/kawara/2022_005.html |website=公益財団法人 中東調査会 |access-date=2022-08-20}}</ref>。 国民の3分の2は1日2ドル以下で生活しており、[[国際通貨基金]](IMF)の統計によると、[[2013年]]時点のアフガニスタンの[[国内総生産]](GDP)は207億[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]である。1人あたりのGDPでは679ドルとなるが、この数値は世界平均の10%未満であり、アジアの中でもっとも低い<ref name="imf201410" />。[[世界銀行]]の発表する一人当たりGNIに至っては2021年で390ドルで、2021年のデータの得られた国ではアジア最下位にして唯一の低所得国(1085ドル以下)のみならず世界的にも最下位から2番目である<ref>{{Cite web |title=Gross national income per capita 2021, Atlas method and PPP |url=https://databankfiles.worldbank.org/public/ddpext_download/GNIPC.pdf |access-date=2023-02-06}}</ref>。[[失業率]]も高く、[[ネパール]]、[[レソト]]などと同じように40%を超える。 2002年1月に東京で開催された「復興支援国会議」で支援計画が提出され、[[世界銀行]]の監督下に45億ドルの資金が集められた。復興の主要対象は、教育、医療、下水施設、行政機関、農業、道路、エネルギー、通信と多岐に渡っている。 2015年12月17日、ケニアの首都[[ナイロビ]]で開催された第10回[[世界貿易機関]](WTO)閣僚会議で、アフガニスタン第一副首相モハマド・カーン(当時)が議定書に署名し、アフガニスタンの加盟が正式に承認された。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンの世界貿易機関への加盟|en|Afghanistan Accession to World Trade Organization}}}} 2019年時点ではアフガニスタンのGDPは192.9億ドルで世界第96位である<ref>アフガニスタン・イスラム共和国(Islamic Republic of Afghanistan) 基礎データ 外務省 https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/data.html</ref>。 上述の通り、2021年から実権を握るターリバーン政権に対して、[[国連]]や米国などから資金凍結されたことで、深刻な食糧不足が発生している<ref>{{Cite web|和書|title=経済破綻で餓死の危機 アフガン、抑圧鮮明に―タリバン政権奪取4カ月 |url=https://web.archive.org/web/20211231044413/https://www.jiji.com/jc/article?k=2021123000448&g=int |website=時事ドットコム |access-date=2022-08-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガン政権崩壊後の人道危機と日本の役割 |url=https://www.jiia.or.jp/research-report/global-issues-fy2021-05.html |website=www.jiia.or.jp |access-date=2022-08-20}}</ref>。[[国際連合世界食糧計画]]によれば、経済的影響、[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|世界的なパンデミック]]、気候変動など様々な要因が合わさって、人口の半分以上が貧困以下の状態で生活を送っており、食料不安が増加している。これは、紛争と不安によってコミュニティ全体が生計の機会から断たれているためである。2280万人が深刻な食糧不安に陥っており、その中には紛争によって避難を余儀なくされた数十万人も含まれる<ref>Afghanistan World Food Programme https://www.wfp.org/countries/afghanistan</ref>。現今においては[[テロリズム]]<ref>{{Cite news|title=モスクで爆発、50人超死亡 断食月、攻撃相次ぐ―アフガン|url=https://web.archive.org/web/20220429160647/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022043000021&g=int|work=時事通信|date=2022-04-30|accessdate=2022-05-01}}</ref>、[[貧困]]、子供の栄養失調、薬物中毒、汚職が蔓延している<ref>{{Cite web|和書|title=「臭いがヤバい」汚水の川に集まる薬物中毒者…カブールの“地獄”を取材 アフガニスタン |url=https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/126701 |website=TBS NEWS DIG |access-date=2022-08-20}}</ref>。 一方、国内には額にして1兆ドルから3兆ドルにのぼる地下資源が埋蔵されていると言われ、アフガンの現況も合わせ、「金鉱の上に横たわる貧者」とも表現される<ref name=":14">{{Cite web|和書|title=「金鉱の上に横たわる貧者」―アフガンの地下資源と中国(遠藤誉) - 個人 |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ece3b79fb8939a4d21a9998320da98289fd91745 |website=Yahoo!ニュース |access-date=2022-08-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アフガンに1兆ドル規模の鉱物資源、管理体制に懸念も |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2736110 |website=www.afpbb.com |access-date=2022-08-20}}</ref>。埋蔵物は、[[石油]]や[[天然ガス]]、[[石炭]]のエネルギー資源から、[[鉄鉱石]]や[[銅]]、あるいは[[リチウム]]などの[[レアメタル]]まで幅広い。外国の注目度も高く<ref>{{Cite web|和書|title=中国が堂々と狙う1兆ドルのアフガン鉱物資源 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/450665 |website=東洋経済オンライン |date=2021-08-26 |access-date=2022-08-20}}</ref>、米国によるアフガニスタン紛争の真の目的は鉱脈ではないかという説も囁かれる<ref>{{Cite web|和書|title=アフガンの1兆ドル鉱脈:「戦争の真の理由」という声も |url=https://wired.jp/2010/06/15/アフガンの1兆ドル鉱脈:「戦争の真の理由」とい/ |website=WIRED.jp |access-date=2022-08-20}}</ref>。中国には既に国内最大の[[メス・アイナク銅山]]の採掘権を与えている<ref>{{Cite web |title=Project to exploit Afghanistan’s giant copper deposit languishes |url=https://chinadialogue.net/en/business/10577-project-to-exploit-afghanistan-s-giant-copper-deposit-languishes/ |website=China Dialogue |date=2018-04-25 |access-date=2022-08-20}}</ref>。紛争の影響でこれまでは未開であったが、今後の開発が期待される<ref name=":14" />。 === 国際支援 === 2021年8月15日以前、アフガニスタンのGDPのうち40%は[[外国援助|国際援助]]によるものだった。ターリバーンの政権復帰により、欧米諸国はアフガニスタンへの対外援助を止め、[[国際通貨基金]]や[[世界銀行]]も送金を止めたため、2022年現在、アフガニスタン経済は困窮状態にある<ref>{{Cite news|title=Afghanistan's economy in crisis after Taliban take-over|url=https://www.bbc.com/news/world-asia-58328246|work=BBC News|date=2021-08-25|accessdate=2022-02-21|language=en-GB}}</ref>。ただし、2021年12月の国連において、人道支援を目的とする現地への資金提供は制裁決議の違反にはあたらないとする決議が採択された<ref>{{Cite web|和書|title=アフガン緊急人道支援へ期待 国連安保理“制裁の対象外”決議 |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211223/k10013400471000.html |website=NHKニュース |access-date=2022-08-20}}</ref>。また、ターリバーンは、これまで外国からの援助に依存していたアフガニスタン経済を自立させるチャンスとも捉えている。アブドゥル・サラム・ハナフィ副首相代理は経済における自給自足の達成を長期的な目標として語った。アフガニスタンは20年ぶりに外国からの支援金に頼らない国家予算を作成した<ref>{{Cite news|title=Taliban Looks to Private Sector to Save Afghanistan’s Economy From Collapse|url=https://www.wsj.com/articles/taliban-looks-to-private-sector-to-save-afghanistans-economy-from-collapse-11645353000|work=Wall Street Journal|date=2022-02-20|accessdate=2022-02-21|issn=0099-9660|language=en-US|first=Saeed|last=Shah}}</ref>。 === 原油 === 2012年10月22日、[[中国石油天然気集団]]が[[アムダリヤ川]]流域の鉱区で、本格的な[[原油]]生産を初めて開始した<ref>{{cite news |language = | author =| url =http://sankei.jp.msn.com/world/news/121022/asi12102220570000-n1.htm| title =中国、アフガンで初の原油生産 影響力強化へ| publisher =産経新聞| date= 2012-10-22| accessdate =2012-10-30}}</ref>。 === 天然ガス === 同国での[[天然ガス]]生産はないが、[[トルクメニスタン]]南部の巨大ガス田から同国とパキスタンを経由してインド西部へ通じる[[w:Turkmenistan–Afghanistan–Pakistan–India Pipeline|TAPIガスパイプライン]]が2015年に建設着手された。同国に通過料が落ちるほか、一定量のガス輸入が見込まれる。 === 鉱業 === [[ファイル:Lazurite.jpg|thumb|right|{{仮リンク|サリ・サング|en|Sar-i Sang|label=サリ・サング鉱山}}([[バダフシャーン州]]{{仮リンク|クラン・ワ・ムンジャン県|en|Kuran wa Munjan District}})から採れる[[ラピスラズリ]]は世界で最も良質なことで知られる。]] {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの鉱業|en|Mining in Afghanistan}}}} 古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、[[希少金属]]、[[貴金属]]、[[宝石]]を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られている。インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。 最も歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石[[ラピスラズリ]]である。首都カーブルの東南東190[[キロメートル|キロ]]、[[ヒンドゥークシュ山脈]]山中の{{仮リンク|サリ・サング|en|Sar-i Sang|label=サリ・サング鉱山}}(Sar-i Sang)<ref>{{coord|33|55|39|N|67|13|34|E|region:AF|name=サリ・サング鉱山}}</ref>が主力。産出量は数[[トン]]程度。そのほか、北東部のコクチャ川の渓谷に位置するサリ・サング近郊の鉱床、アフガニスタンとパキスタンの国境沿い、[[クエッタ]]の西のチャガイ山からも産出する。 有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆[[ジュール]]、2003年)が主力で、[[石炭]](3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源では[[クロム]](6364トン)がある。このほか[[岩塩]](1万3000トン)も採取されている。 {{仮リンク|アイナック銅鉱山|en|Mes Aynak mine}}(Aynak Copper)は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は[[鉱石]]量7億500万トン、平均銅品位1.56%、[[銅含有金属]]量1100万トンの超大型の銅鉱床である。そのほかには、カーブルの南のローガル渓谷、ヘラートのやや南西のいくつかの地点、カンダハールの北のアルガンダー川沿い、パンジシール渓谷のアンダラーブ近郊に銅鉱床が存在している。 金はカンダハールの北東のムクル近郊、バタフシャーンのいくつかの川で発見されている。鉄鉱石の大規模な鉱床はカーブルの西のハージガク峠の近くで見られる<ref>フォーヘルサング(2005) 31-32ページ</ref>。 === 農業 === {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンの輸出品の一覧|en|List of exports of Afghanistan}}}} [[ファイル:FrontLines_Environment_Photo_Contest_Winner_-5_(5808476109).jpg|サムネイル|アフガニスタン北部のワハーン回廊における耕作地]] 上述の通り、農業は伝統的に主要産業として扱われている。乾燥地帯に属している為に、人工[[灌漑]]を必要とし、農地面積は灌漑用水量によって規制されている。灌漑方法としては大部分が[[河川]]の水を引くものとなっているが、西アジアに広く見られる「[[カナート]]」または「カーレーズ」とよばれる人工地下水路によって[[地下水]]を地表に導く方法も存在する。土地保有の特色としては自作農が多く、大土地所有は発達していない。 主な生産物は[[小麦]]と[[穀類]]と[[ザクロ]]だが、北部と西部の州は[[ピスタチオ]]栽培、東部の州は[[松の実]]、中部の州は[[アーモンド]]と[[クルミ]]が主体となっている。他には[[ジャガイモ]]、[[レモン]]、[[オレンジ]]、[[オリーブ]]、[[ピーナッツ]]、[[バナナ]]が栽培されている。輸出品は果物と[[種実|ナッツ]]類が多い。{{要出典|date=2022年5月}} 農業は伝統的にアフガニスタン経済の主柱であり<ref>{{cite web |url=http://afghanistan.usaid.gov/en/programs/agriculture |title=Agriculture |publisher=USAID |access-date=23 May 2017 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20130929082220/http://afghanistan.usaid.gov/en/programs/agriculture |archive-date=29 September 2013 }}</ref> 、2018年現在では労働力の約40%が従事している<ref>{{Cite web|url=https://www.worldbank.org/en/country/afghanistan/publication/unlocking-potential-of-agriculture-for-afghanistan-growth|title=Unlocking the Potential of Agriculture for Afghanistan's Growth|website=World Bank|accessdate=05-08-2019}}</ref> 。ザクロ、ブドウ、アプリコット、メロンなど、他にも新鮮かつ乾燥した果物を生産することでも知られている。世界最大のアヘン生産国としても知られ、経済の16%以上がアヘンの栽培と販売に由来する<ref>{{cite web|url=https://www.afghanistan-analysts.org/aan-qa-an-established-industry-basic-facts-about-afghanistans-opium-driven-economy/|title=AAN Q&A: An established industry – Basic facts about Afghanistan's opium-driven economy|publisher=Afghanistan Analysts Network|date=11 July 2017|access-date=10 August 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190807204235/https://www.afghanistan-analysts.org/aan-qa-an-established-industry-basic-facts-about-afghanistans-opium-driven-economy/|archive-date=7 August 2019|url-status=live}}</ref>。また[[アサ|大麻]]の最大生産国の一国でもある<ref>{{Cite news|url=https://www.reuters.com/article/us-afghanistan-cannabis-idUSTRE62U0IC20100331|title=Afghanistan now world's top cannabis source: U.N.|newspaper=Reuters|date=31 March 2010|via=www.reuters.com|last1=Burch|first1=Jonathon}}</ref>。 最も高価な香辛料の[[サフラン]]はヘラート州で栽培されている。近年はサフランの生産が増加傾向にあり、当局と農家はケシ栽培からの入れ替えを試みている。2012年から2019年の間、アフガニスタン産のサフランは国際味覚審査機構によって連続して世界最高位とされた<ref>{{Cite web|url=https://www.arabnews.com/node/1602281/world|title=Afghanistan's red gold 'saffron' termed world's best|date=22 December 2019|website=Arab News|accessdate=05-08-2022}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://tolonews.com/afghanistan/28053-afghan-saffron-worlds-best|title=Afghan Saffron, World's Best|website=TOLOnews|accessdate=05-08-2022}}</ref>。2019年に生産量は過去最高(1万9469kgのサフラン)を記録、国内では1kgあたり、634ドルから1147ドルで販売されている<ref>{{Cite web|url=http://www.xinhuanet.com/english/2019-12/25/c_138657013.htm|title=Saffron production hits record high in Afghanistan|website=Xinhua|accessdate=05-08-2022}}</ref>。 ==== 麻薬 ==== [[ファイル:Afghanistan - Helmand Province, Poppy Fields 6.jpg|サムネイル|アフガニスタン南部ヘルマンド州のケシ畑]] アフガニスタンは「[[黄金の三日月地帯]]」に属し、古代[[メソポタミア]]文明以来<ref name="Aniszewski 182">Aniszewski, p. 182</ref>、旱魃地域では[[医薬品]]の[[抗がん剤]]や[[モルヒネ]]([[鎮痛剤]])「植物性[[アルカロイド]]」、[[麻薬]]の[[アヘン]]や[[ヘロイン]]などの原料となる[[ケシ]]の栽培が伝統的に盛んで、ヘロインの全世界流通量の90%以上をアフガン産が占めるなど世界一の麻薬密造国である。また、国内の麻薬依存者の数も深刻であり、2005年から2010年にかけての依存者数は最大150万人にも達したとされる。政府は麻薬対策省を設け撲滅にあたっているものの、予算や人員の不足、麻薬に代わる産業の育成などの問題もあり、未だに解決を見ない。 [[国際連合薬物犯罪事務所]]の年次報告書によれば、2018年時点でアフガニスタン南部のターリバーン支配地を中心に推定26万3000ヘクタールの面積でケシの栽培が行われている<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-11-20|url= https://www.afpbb.com/articles/-/3198355|title=アフガニスタンのアヘン生産、干ばつや価格下落で減少 国連報告書 |publisher= AFP|accessdate=2018-11-20}}</ref>。 2013年ごろからはケシの栽培に使用する[[地下水]]の汲み上げに[[ソーラーパネル]]による[[太陽光発電|太陽光電力]]と電動式ポンプが使われ始め、2020年の時点でも普及が進んでいる。これらは中長期的に見た場合、[[軽油]]で可動させるポンプより安価で利益を増やしやすいため、ケシ農業の新規参入者と生産量の増加要因になると同時に、この分野の[[低炭素社会|低炭素化]]が進んでいる<ref>{{Cite web |date= 2020-7-26|url= https://www.bbc.com/news/amp/science-environment-53450688|title=What the heroin industry can teach us about solar power|publisher= BBC|accessdate=2020-7-28}}</ref>。 2022年4月3日、ターリバーンのアーホンドザーダ最高指導者が全土でのケシ栽培を禁ずる方針を打ち出した<ref name=":13" />。 === エネルギー === [[ファイル:Jalalabad dam.jpg|サムネイル|ソ連の支援を受けて建設されたカーブル州のナグル・ダム]] {{main|{{仮リンク|アフガニスタンのエネルギー|en|Energy in Afghanistan}}}} [[世界銀行]]によれば電力供給率は2008年の28%<ref>{{Cite web|url=https://data.worldbank.org/indicator/EG.ELC.ACCS.ZS?end=2018&locations=AF&start=2005&view=chart|title=Access to electricity (% of population) – Afghanistan|website=[[World Bank]]|accessdate=2022-05-02}}</ref>から2018年では98%に上昇している<ref>{{Cite web|title=Access to electricity, rural (% of rural population) – Afghanistan {{!}} Data|url=https://data.worldbank.org/indicator/EG.ELC.ACCS.RU.ZS?end=2018&locations=AF&start=2005&view=chart|accessdate=2022-05-02|website=data.worldbank.org}}</ref>。2016年現在、1400[[メガワット]]の電力を生産しているが、依然としてイランと中央アジア諸国から送電線を介して電力の大部分を輸入している。水力発電が大部分を占め、川の水量に依る<ref>{{Cite web|url=https://tolonews.com/business/afghanistan-has-capacity-produce-310000mw-power|title=Afghanistan Has Capacity To Produce 310,000MW Power|website=TOLOnews|accessdate=2022-05-02}}</ref>。しかし必ずしも信頼性のあるインフラではなくカーブルを含む都市でも停電が起こる<ref name="auto1">{{Cite web|url=https://www.afghanistan-analysts.org/en/reports/economy-development-environment/power-to-the-people-how-to-extend-afghans-access-to-electricity/|title=Power to the People: How to extend Afghans' access to electricity|date=3 February 2015|website=Afghanistan Analysts Network – English|accessdate=2022-05-02}}</ref>。2018年より、太陽光、バイオマス、風力などの発電所が建設されている<ref>{{Cite web|url=https://www.worldbank.org/en/news/feature/2018/05/14/largest-plant-restarts-operations-in-first-step-developing-afghanistan-hydropower|title=Afghanistan Resurrects its Largest Hydropower Plant Toward a Brighter Future|website=World Bank|accessdate=2022-05-02}}</ref>。現在開発中の計画としてはキルギスタンとタジキスタンから送電する{{仮リンク|中央アジア - 南アジア電力供給計画|label=CASA-1000プロジェクト|en|CASA-1000}}があり、トルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド(TAPI)のガスパイプラインがある<ref>{{Cite web|url=https://www.afghanistan-analysts.org/en/reports/economy-development-environment/power-to-the-people-how-to-extend-afghans-access-to-electricity/|title=Power to the People: How to extend Afghans' access to electricity|date=3 February 2015|website=Afghanistan Analysts Network – English|accessdate=2022-05-02}}</ref>。電力はダ・アフガニスタン・ブレシュナ・シェルカット(Da Afghanistan Breshna Sherkat,アフガニスタン電力会社、略称'''DABS''')によって管理されている<ref>{{Cite web|url=https://www.af.undp.org/content/afghanistan/en/home/presscenter/IntheNews/renewable-energy-in-afghanistan-atn.html|title=The Power of Nature: How Renewable Energy is Changing Lives in Afghanistan|website=UNDP in Afghanistan|accessdate=2022-05-02|archive-date=14 April 2021|archive-url=https://web.archive.org/web/20210414230313/https://www.af.undp.org/content/afghanistan/en/home/presscenter/IntheNews/renewable-energy-in-afghanistan-atn.html|url-status=dead}}</ref>。 主要なダムは、カジャキダム、ダーラダム、サルデバンドダムなど<ref>{{Cite web|url=https://web.archive.org/web/20210815172309/https://www.afghanistans.com/Information/RiversLakes.htm|title=Rivers and Lakes|accessdate=2022-05-02|website=The Wayback Machine}}</ref>。 === 観光 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの観光|en|Tourism in Afghanistan}}}} 1960年代は[[ヒッピー]]の聖地として多くの外国人観光客で賑わい、ネパール、インド、パキスタンからアフガニスタンを通りイラン、そしてトルコから欧州へと抜ける[[ヒッピー・トレイル]]となっていた。1977年が観光のピークと言われ、その後の政情不安や長期的な紛争の結果として観光客はまばらとなっている。それでも、2016年には年間2万人の外国人観光客が渡航したと言われている。国内には雄大な視線を誇り風光明媚な場所も多く、特に{{仮リンク|バンデ・アミール国立公園|en|Band-e Amir National Park|label=バンデ・アミール国立公園}}と世界遺産の[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群]]のある[[バーミヤーン|バーミヤン]]周辺や標高3000m - 7000mにある高原の[[ワハーン回廊]]を訪れる外国人観光客がいる。 == 交通 == [[File:Convoy of trucks in Afghanistan.jpg|left|thumb|首都[[カーブル]]と南部の[[カンダハール]]を結ぶ幹線道路|250x250ピクセル]] [[File:Trucks on the road in northern Afghanistan-2012.jpg|230x230px|thumb|アフガニスタン国内の道路を通行するトラック(2012年撮影)]] {{main|[[アフガニスタンの交通]]}} [[交通]]や[[インフラストラクチャー]]も度重なる戦乱により破壊され、またはメインテナンスが行われていなかったために現在も復興が行われている。なお、多くの先進諸国でみられるような[[高速道路]]網はないものの、主要都市間は舗装された幹線道路によって結ばれており、[[バス (交通機関)|長距離バス]]による移動が行われている。 かつては国際列車[[カイバル鉄道]](カーブル〜パキスタン国ペシャーワル間)があったが、戦乱で荒廃し不通となっている。アフガン公共事業庁の監督のもと、[[ウズベキスタン]]国境の貨物駅Hayratanから[[マザーリシャリーフ]]までの鉄道建設が進み、2011年8月20 - 21日に開業した<ref>[http://oversearail.syoyu.net/Entry/177/ 海外鉄道ニュース 線路は続くよ海越えて アフガニスタンに鉄道が開業【アフガニスタン】]</ref>。また、首都カーブルには1992年当時[[トロリーバス]]が存在したが<ref>吉川文夫『日本のトロリーバス』p.18</ref>、現在は存在しない。 なお、諸外国との交通は上記の長距離バスによって行われているほか、[[カーブル国際空港]]を[[ハブ空港|ハブ]]とした国営[[航空会社]]の[[アリアナ・アフガン航空]]や、そのほかに乗り入れる外国航空会社の定期便で結ばれている。 == 国民 == {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの人口統計|en|Demographics of Afghanistan|redirect=1}}}} === 民族 === {{Main|{{仮リンク|アフガニスタンの民族|en|Ethnic groups in Afghanistan}}}} {{bar box |title=民族構成(アフガニスタン) |titlebar=#ddd |float=right |bars= {{bar percent|[[パシュトゥーン人]]|#ABC900|42}} {{bar percent|[[タジク人]]|#616B07|27}} {{bar percent|[[ハザーラ人]]|green|9}} {{bar percent|[[ウズベク人]]|#FFF9E2|9}} {{bar percent|[[アイマーク人]]|#267CA7|4}} {{bar percent|[[トルクメン人]]|#F1BB93|3}} {{bar percent|[[バローチ人]]|#474B42|2}} {{bar percent|その他|silver|4}} }} [[画像:US Army ethnolinguistic map of Afghanistan -- circa 2001-09.jpg|thumb|250px|right|2001年のアフガニスタンの民族]] アフガニスタンは多民族国家であり、最大の民族は[[イラン系民族|イラン系]]の[[パシュトゥーン人]]で中部や南部に住み同国では支配的な地位にあり、元大統領の[[ハーミド・カルザイ]]や[[アシュラフ・ガニー]]もパシュトゥーン人である。ついで多いのが同じくイラン系の[[タジク人]]で両者で人口の8割弱を占めており[[ヘラート]]や[[マザーリシャリーフ]]では大半がタジク人である他、カーブルや[[ガズニー]]の人口の半数近くを占めており、[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]元大統領がタジク人である。3番目に多いのがイラン系と[[テュルク系]]とモンゴル系の血を引く[[ハザーラ人]]で、イスラム教[[シーア派]]信者が多く、中部の{{仮リンク|ハザーラジャート|en|Hazarajat}}に多く住む。同国では差別的な扱いを受けてきたため難民としてイランや欧州をはじめとした海外に流出している人も多い。そして、テュルク系の[[ウズベク人]]、[[トルクメン人]]やイラン系の[[アイマーク人]]が主な民族となっている。そのほかに[[ヌーリスターン人]]、[[バローチ人]]、[[キルギス人]]、{{仮リンク|パシャイー人|en|Pashayi people}}、[[パミール人]]、[[ワハン人]]などがいる。 パシュトゥーン人はパキスタン、ウズベク人はウズベキスタン、タジク人はタジキスタンへの親近感が強く、ハザーラ人はシーア派を国教とするイランの庇護を求める傾向が強い<ref name="山内">山内昌之【地球を読む】アフガニスタン 秩序失った地政学的要衝『[[読売新聞]]』朝刊2021年11月7日1面</ref>。民族を超えて共有するアフガニスタン国民としての意識は弱く、アフガニスタン・イスラム共和国は欧米などの[[民間軍事会社]]から集めた約2万人の治安要員と米軍に依存しており、ターリバーンの攻勢で政府軍は簡単に崩壊した<ref name="山内"/>。 主要民族(2013年推計) * [[パシュトゥーン人]] 42%、言語:パシュトー語(イラン語群)、宗教:ハナフィー派スンニー * [[タジク人]] 27%、言語:ダリー語(イラン語群)、宗教:ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干) * [[ハザーラ人]] 9%、言語:{{仮リンク|ハザラギ語|en|Hazaragi dialect}}・ダリー語(イラン語群)、宗教:イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数) * [[ウズベク人]] 9%、言語:ウズベク語(テュルク諸語)、宗教:ハナフィー派スンニー * [[アイマーク人]] 4%、言語:ダリー語(イラン語群)、宗教:ハナフィー派スンニー * [[トルクメン人]] 3%、言語:トルクメン語(テュルク諸語)、宗教:ハナフィー派スンニー === 言語 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの言語|en|Languages of Afghanistan}}}} 公用語は[[パシュトー語|パシュトー語(]]48%)と[[ダリー語]](77%)が制定されている。パシュトー語はパシュトゥーン人の母語で歴史的に政治の場において国家語的地位にある中心言語であるが方言間の差異が大きい。政府の実用言語、国民の間の共通語としてはペルシャ語のアフガン方言でありファールシー語とも言われるダリー語の方が主に使われておりアフガニスタンにおける中心言語の地位を担っている。これは[[バーラクザイ朝|アフガン王朝]]時代から宮廷の言語として使われてきたためでダリーは宮廷の言語という意味である。ダリー語は[[タジク語]]、[[ペルシャ語]]とは語彙にいくらかの違いがあるものの意思疎通に何ら問題が無く、かつては単にペルシャ語と呼ばれていた。パシュトゥーン人やタジク人、ハザーラ人の多くが両言語話者、ウズベク人やトルクメン人などのテュルク系民族も母語に加えていずれかの言語を話すことができる。首都カーブルはダリー語が共通語であり、パシュトゥーン人もペルシャ語化している人も少なくない。その他、[[ウズベク語]]、[[トルクメン語]]、[[バローチー語]]、アイマク語、[[ヌーリスターン語派|ヌーリスターン語]]、パシャイ語、[[キルギス語]]などが話されている。 地方言語 *[[ウズベク語]] *[[トルクメン語]] *[[バローチー語]] *{{仮リンク|パシャイ語|en|Pashayi languages}} *[[ヌーリスターン語派|ヌーリスターン語]] その他 *{{仮リンク|ハザラギ語|en|Hazaragi dialect}} *{{仮リンク|アイマク語|en|Aimaq dialect}} *[[キルギス語]] *[[ブラーフーイー語]] *[[パミール語]] *[[ヒンドコ語]] *[[アラビア語]] *[[グジャール語]] === 婚姻 === アフガニスタンでは[[一夫多妻制|一夫多妻婚]]が法的に容認されている。ただし、現代においては一夫多妻婚が国内すべての男性に広く認められているわけではなく、多くのアフガン人男性は妻となる女性を迎え入れるだけの余裕を持ち合わせていないのが現状である<ref group="注釈">その問題の大半は結納金や結婚式の為の費用を捻出・提供することによって起こっている。</ref>。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンにおける一夫多妻制|en|Polygamy in Afghanistan}}}} アフガニスタンの民法では、女性に対して16歳での結婚が認められており、[[児童婚]]が横行している。この児童婚は同国において現在も大きな問題となっている。 アフガニスタンの国教であるイスラム教では児童婚が禁止されているにも関わらず、アフガニスタン本土では早期結婚や児童婚が強制されており、「幼な妻」の慣習が未だ根強い状況になっている。同国では、これらの結婚はカーブルなどの大都市よりも概して田舎の地域で行われており、その主な原因は貧困状態が続いていることが背景にある。また、国民の大半がイスラム教の道義や人権について知識がないことも原因の一部となっており、これが児童婚に益々拍車をかけている。 2016年のアフガニスタンにおける児童婚の比率は33%であった<ref>[https://newsphere.jp/sustainability/20181026-1/ アフガニスタン:今もなお強制結婚の犠牲になる少女たち] 2018年10月26日 NewSphere</ref>。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンにおける児童婚|en|Child marriage in Afghanistan}}}} 一方で、カブールに拠点を置く女性会議が2000年6月に「強制結婚は犯罪と見なされるべきであり、強制結婚させられた女性は被害者の地位を与えられるべきである」との訴えを起こしている<ref>Riphenburg, Carol J. “Post-Taliban Afghanistan: Changed Outlook for Women?” ''Asian Survey'', vol. 44, no. 3, 2004, pp. 401–421., doi:10.1525/as.2004.44.3.401.</ref>。 {{節スタブ}} === 宗教 === [[File:Abdul_Rahman_mosque,_Kabul.jpg|thumb|[[カーブル]]の{{仮リンク|アブドゥッラフマーン・モスク|en|Abdul Rahman Mosque}}]] {{main|[[アフガニスタンの宗教]]}} * [[スンナ派]] 85%(特に[[ハナフィー学派]]) * [[シーア派]] 14% * その他 1% その他には、[[シーク教|シーク教徒]]、[[ヒンドゥー教徒]]、[[キリスト教徒]]が存在する<ref>[https://docs.google.com/viewer?a=v&q=cache:0KCnYIqQ6K0J:www.afghanembassyjp.org/powerpoint/2011527kidspresentation.ppt+%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%80%80%E5%AE%97%E6%95%99&hl=ja&gl=jp&pid=bl&srcid=ADGEESgsLSt6ePxgs9dPFS5iWT0SOYc6VeLF_cCLaP2bXUF3v6nTdCCHJxnC5WSBJ05sRptp_VTGvuNEK226EZeswQkuodfkVhLy3qAL9W0IL68ydBaMtR-dwyfhQzPfpHM1U3OMXhS7&sig=AHIEtbScm8TKEyz_LtEqZsnm21xKPv8gjQ AJ-SEPレセプション資料 駐日アフガニスタン大使館] [http://homepage3.nifty.com/AJSEP/ AJ-SEP公式HP] 2011年11月閲覧</ref>。 イスラム教から他宗教への改宗には[[死刑]]が適用されたが、2006年、[[ドイツ]]で[[キリスト教]]に改宗した人の死刑判決に対して国際的非難を浴びたことでこの法律は撤廃され、その後は布教活動も許されるようになった。2006年8月、[[ターリバーン]]は[[大韓民国#国民|韓国人]]のキリスト教[[宣教師]]を拉致監禁し、キリスト教の宣教活動をやめるよう要求した事件があった。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンにおける宗教の自由|en|Freedom of religion in Afghanistan}}}} === 教育 === {{main|アフガニスタンの教育}} [[2021年ターリバーン攻勢]]による混乱で多くの学校が閉鎖された後、男子の通学は同年9月ごろに再び始まり、[[女子教育]]は[[初等教育]]と大学で再開されたが、ターリバーン政権は女子の[[中等教育]]を、イスラム法に則した学習環境が整っていないという理由で再開を延期している<ref name="毎日20220812">[https://mainichi.jp/articles/20220811/k00/00m/030/249000c 【復権したタリバン アフガン政権崩壊1年】民家でひそかに女子教育「次世代の未来奪わないために」中等学校再開 強硬派、賛同せず]『[[毎日新聞]]』朝刊2022年8月12日1面(2022年8月21日閲覧)</ref>。このためターリバーンの弾圧を避けて女子教育を行なう秘密の学校が開設されている<ref name="毎日20220812"/>。 ターリバーン政権以前は、アフガニスタン教育省・高等教育省の下、[[K-12]]と高等教育が実施されていた<ref>{{cite web |url=https://www.mohe.gov.af/en |title=Afghanistan's Ministry of Higher Education |access-date=2021-05-05}}</ref>。 生徒は約1000万人、教師は22万人いる<ref>{{cite news |url=https://pajhwok.com/2021/05/05/ghani-sees-threat-to-afghanistans-education-system/ |title=Ghani sees threat to Afghanistan's education system |publisher=Pajhwok Afghan News |date=May 5, 2021 |access-date=2021-05-05}}</ref>。より多くの学校と教師が必要とされていた<ref>{{cite news |url=https://pajhwok.com/2021/04/25/not-a-single-school-in-6-districts-of-kandahar/ |title=Not a single school in 6 districts of Kandahar |publisher=Pajhwok Afghan News |date=April 25, 2021 |access-date=2021-05-05}}</ref>。[[義務教育]]は9年生までで、学校年度は3月から11月までである<ref name=":02">{{Cite web|date=January 2015|title=Education System Afghanistan|url=https://www.nuffic.nl/sites/default/files/2020-08/education-system-afghanistan.pdf|url-status=live|website=Nuffic|archive-url=https://web.archive.org/web/20210828090707/https://www.nuffic.nl/sites/default/files/2020-08/education-system-afghanistan.pdf |archive-date=2021-08-28 |accessdate=2021-10-17}}</ref>。 大学においては、[[カーブル大学]]、アフガニスタン・アメリカン大学、カールダーン大学<ref>{{cite web |url=https://www.mohe.gov.af/en |title=Afghanistan's Ministry of Higher Education |access-date=2021-05-05}}</ref>、バルフ大学、ヘラート大学、ナンガルハール大学、シャイフ・ザーイド大学、カンダハール大学、カーテブ大学<ref>{{cite news |url=https://pajhwok.com/2021/05/05/ghani-sees-threat-to-afghanistans-education-system/ |title=Ghani sees threat to Afghanistan's education system |publisher=Pajhwok Afghan News |date=May 5, 2021 |access-date=2021-05-05}}</ref>がある。 {{要出典|範囲=イスラム圏で、モスクに併設されるなどして広く開設されている学校「[[マドラサ]]」は、アフガニスタンの農村部においては、日本の[[江戸時代]]における[[寺子屋]]のような初等教育の役割を担っている<ref>[http://www.peshawar-pms.com/acts/index_act2.html 緑の大地計画] ペシャワール会(2022年8月21日閲覧)</ref>。|date=2023年1月}} === 保健 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの保健|en|Health in Afghanistan}}}} アフガニスタンの保健は着実に改善してはいるが国際基準に準ずれば劣悪状態にある。{{要出典範囲|同国の環境問題と1978年より続く戦争、特に[[アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)|2001年からの紛争]]以降のターリバーンの活動によって悪影響を受けている|date=2022年5月}}。公衆衛生省が市民とその健康に関するすべてを所管する。 [[人間開発指数]]によると、アフガニスタンは世界で21番目に遅れた開発途上国である。[[ポリオ]]撲滅に至っていない3か国の内に入っている<ref>{{cite journal |last1=Greene |first1=Sharon A. |last2=Ahmed |first2=Jamal |last3=Datta |first3=S. Deblina |last4=Burns |first4=Cara C. |last5=Quddus |first5=Arshad |last6=Vertefeuille |first6=John F. |last7=Wassilak |first7=Steven G.F. |title=Progress Toward Polio Eradication — Worldwide, January 2017–March 2019 |journal=MMWR. Morbidity and Mortality Weekly Report |date=24 May 2019 |volume=68 |issue=20 |pages=458–462 |doi=10.15585/mmwr.mm6820a3 |pmid=31120868 |pmc=6532951 |doi-access=free }}</ref>。2019年においては[[国の平均寿命順リスト|平均寿命]]は約64歳であり<ref name="hdr.undp"/><ref>{{Cite web | url=https://www.who.int/countries/afg/en/ |title = WHO &#124; Afghanistan|accessdate=2021-10-17}}</ref><ref name="WHO">{{cite web|url=http://apps.who.int/iris/bitstream/10665/136852/1/ccsbrief_afg_en.pdf |title=Afghanistan |publisher=[[World Health Organization]] (WHO) |access-date=2017-05-20}}</ref><ref name="UNESCO">{{cite web|url=https://uis.unesco.org/country/af |title=Afghanistan |publisher=[[UNESCO]] |access-date=2017-05-20}}</ref>、妊婦死亡率は638人/10万人と推定されており、乳児死亡率は1000人あたり106人に上るとされる<ref name="hdr.undp">{{Cite web | url=http://hdr.undp.org/en/countries/profiles/AFG | title=Afghanistan: Human Development Indicators |work=United Nations Development Programme (UNDP) |access-date=2021-03-10}}</ref>。 毎年約1万5000人が様々な癌が原因で死亡している<ref name="15,000 cancer patients annually die in Afghanistan">{{cite news |url=https://pajhwok.com/2021/05/20/15000-cancer-patients-annually-die-in-afghanistan/ |title=15,000 cancer patients annually die in Afghanistan |publisher=Pajhwok Afghan News |date=May 20, 2021 |access-date=2022-05-04}}</ref>。 ==== 医療 ==== {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの医療|en|Healthcare in Afghanistan}}}} アフガニスタンの医療は全土にある3000以上の保健施設によって提供される<ref>{{Cite web |title=Afghanistan |url=http://www.emro.who.int/afg/programmes/health-system-strengthening.html |publisher=World Health Organization (WHO) |access-date=2021-02-25}}</ref>。すでに脆弱な医療制度ではあったが何十年も続く戦争と国際社会による怠慢が制度を崩壊させた。大半の医療専門家は1992年までに他の国に移住しすべての医療訓練プログラムは中止された。1999年から2002年にかけての干ばつがこれらの状況をますます悪化させたが、例を挙げると、最初の脳神経外科病院を含む1万7000以上の保健所が全土に設置され、医療制度が幾分改善された<ref>{{Cite web |title=Afghanistan |url=http://www.emro.who.int/afg/programmes/health-system-strengthening.html |publisher=World Health Organization (WHO) |access-date=2021-02-25}}</ref>。 == 治安 == {{main|{{仮リンク|アフガニスタンにおける犯罪|en|Crime in Afghanistan}}}} アフガニスタンでは厳しい治安情勢が続いている。ターリバーンが政権を奪取・掌握してからも、[[ISKP]]などの反政府武装勢力が依然として根強い勢力を保っており、国軍・外国軍や警察、政府関係機関を始め、国連機関や外交団、外国[[NGO]]などへの攻撃・[[誘拐]]などを繰り返していて、現地は非常に危険な状況に陥っている。 また、武装した[[犯罪]]グループによる[[強盗]]や[[身代金]]目的の誘拐事件も多発しており、[[外国人]]は一般犯罪はもとより[[テロ]]・誘拐の標的にされている為、滞在中の外出は予断を許さない状態となっている。 2021年2月の国連の年次報告書によると、2020年に発生した反政府武装勢力による民間人の誘拐件数<ref group="注釈">その大半はターリバーンによるものである。</ref>は、前年比80名増となる1086名に達し、誘拐関連の死傷者数は前年から倍増し113名となっている。傍ら、一部の地域では、高い失業率と貧困から、犯罪者集団による身代金目的の誘拐がビジネス化している現状が挙げられ、主要なターゲットとして、外国人や政府関係者、治安部隊関係者、裕福なビジネスマン、ジャーナリスト、援助関係者、建設作業員などが狙われている。僅かな金額の身代金目的で、一般の子どもが誘拐されるケースも報告されている。 日本人の被害事例としては、2005年8月に南部カンダハール県のパキスタン国境付近で日本人旅行者男女2人が殺害された事件をはじめ、2008年8月に東部ナンガハール県ジャララバードにおいて日本人NGO職員が誘拐・殺害された事件、2010年4月に北部クンドゥーズ県において日本人ジャーナリストが誘拐・監禁され約5か月後に解放された事件が挙げられている。 現在、外務省からアフガニスタン全土に対して「レベル4(退避勧告)」が発出されており、渡航をしないよう注意が呼びかけられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_041.html#ad-image-0|title=アフガニスタン 危険・スポット・広域情報|accessdate=2021-10-17|publisher=外務省}}</ref>。 {{節スタブ}} === 法執行機関 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの法執行機関|en|Law enforcement in Afghanistan}}}} ==== 警察 ==== [[File:Afghan police commander marching.jpg|thumb|アフガニスタン国家警察学校(ANPA)で著名な訪問者を迎える為に行進する国家警察 (ANP) の司令官。 <br> 2010年撮影]] [[File:ANP moving in vehicles in 2010.jpg|thumb|国家警察 (ANP)の[[パトカー]]。 <br> ベースとなっている車両は[[フォード・レンジャー]]である]] {{main|アフガニスタンの警察}} {{仮リンク|アフガニスタン国家警察|label=国家警察|en|Afghan National Police}}(ANP)が一般的な公安機関となっている。 この機関は{{仮リンク|アフガニスタン内務省|label=内務省|en|Ministry of Interior Affairs (Afghanistan)}}の管轄下にある。 {{節スタブ}} === 人権 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンにおける人権|en|Human rights in Afghanistan}}}} [[アフガニスタン王国]]時代の1964年に制定された憲法では男女平等が謳われ、その後1970年代の社会主義政権時代はよりいっそうの世俗化を推し進め、女性は洋服を着て教育を受けており、都市部では[[ヒジャブ]]や[[スカーフ]]を被る人も少なかった。 1978年には医者の4割が女性、[[カーブル大学]]の講師の60%が女性であった。しかし、農村部の世俗化は進まなかったことと、その後の社会主義政権の崩壊と共に[[ムジャヒディーン]]の勝利を経て1990年代にイスラム主義に回帰。純然たるイスラム国家であったターリバーン政権時代には女性の人権が著しく制限された。ターリバーン政権が崩壊したあと、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされるが、2018年時点でもいまだに女性の識字率は3割未満である。しかし、現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、[[イスラム国家]]としての色彩が強い。 そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。 欧州での生活中にキリスト教に改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は[[亡命]]を余儀なくされた<ref>{{cite news | url = http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/south_asia/4823874.stm | title = Afghan on trial for Christianity | publisher = BBC | date = 2006-03-20 | accessdate = 2007-12-08 }}</ref>。また、女性の権利について「[[クルアーン]]を根拠に女性差別を擁護する人々は[[ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ|預言者ムハンマド]]の見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された<ref>[http://www.independent.co.uk/news/world/asia/sentenced-to-death-afghan-who-dared-to-read-about-womens-rights-775972.html Sentenced to death: Afghan who dared to read about women's rights]</ref>。これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。 クルアーンを冒涜したものについては信仰を問わず、発覚した場合は即日の[[シャリーア]]により裁かれる可能性がある。 {{See also|[[アフガニスタンにおける死刑]]}} [[File:Taliban execute Zarmeena in Kabul in1999 RAWA.jpg|thumb|ターリバーンにより日常的に行われている公開処刑]] アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、たとえば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる「[[名誉殺人]]」も行われているという<ref>進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』(花伝社、2008年)114-115頁、ISBN 9784763405302</ref>。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など、女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしていると報じられた<ref>[http://japanese.ruvr.ru/2014_02_05/128333437/ 「アフガニスタン 女性の殴打許可へ」] [[ロシアの声]] 2014年2月5日17:10</ref><ref>[http://alternas.jp/study/global/49567 アフガニスタン、「女性殴打を許可」の新法案に世界中から非難の声] オルタナS 2014年2月14日</ref>。 {{See also|{{仮リンク|ターリーバーンによる女性の待遇|en|Treatment of women by the Taliban}}|{{仮リンク|アフガニスタンにおける性役割|en|Gender roles in Afghanistan}}}} ターリバーン政権崩壊後に一度は廃止された[[勧善懲悪省]]([[ムタワ|宗教警察]])が、同政権時代と比較して幾分穏健化しているものの'''巡礼・宗教問題省'''の名で復活。2021年のターリバーンの政権奪還に伴い勧善懲悪省が復活した。一方でアフガニスタン・イスラム共和国の前身である{{仮リンク|アフガニスタン暫定政権 (2001年~2002年)|label=暫定政府|en|Afghan Interim Administration}}によって2001年後半に設立された{{仮リンク|アフガニスタン女性問題省|label=女性問題省|en|Ministry of Women's Affairs (Afghanistan)}}(MOWA)も勧善懲悪省の復活に伴い廃止されている。 第二次ターリバーン政権では女性がテレビに出演でき、街中でも[[ブルカ]]でなくとも[[ヒジャブ]]を被れば許されるように変化した<ref>{{Cite web |title=Taliban enforces order for Afghan women TV anchors to cover faces |url=https://www.aljazeera.com/news/2022/5/22/afghan-women-tv-anchors-forced-to-cover-faces-under-taliban-order |website=www.aljazeera.com |access-date=2023-02-02 |language=en}}</ref><ref>{{Cite web |title=https://twitter.com/MOPVPE1/status/1522882293718818816?t=svbYykE2zM1lg7qI7TH9_g&s=19 |url=https://twitter.com/MOPVPE1/status/1522882293718818816?t=svbYykE2zM1lg7qI7TH9_g&s=19 |website=Twitter |access-date=2023-02-02 |language=ps |author=勧善懲悪省}}</ref><ref>{{Cite web |title=اسلامي امارت د حجاب په تړاو تازه حکم صادر کړ - باختر خبری آژانس |url=https://bakhtarnews.af/%d8%a7%d8%b3%d9%84%d8%a7%d9%85%d9%8a-%d8%a7%d9%85%d8%a7%d8%b1%d8%aa-%d8%af-%d8%ad%d8%ac%d8%a7%d8%a8-%d9%be%d9%87-%d8%aa%da%93%d8%a7%d9%88-%d8%aa%d8%a7%d8%b2%d9%87-%d8%ad%da%a9%d9%85-%d8%b5%d8%a7%d8%af/ |website=bakhtarnews.af |date=2022-05-07 |access-date=2023-02-02 |language=fa-IR |publisher=国営バフタル通信}}</ref>。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンにおける女性の権利|en|Women in Afghanistan}}|アフガニスタン女性革命協会|{{仮リンク|アフガニスタン女性のための女性団体|en|Women for Afghan Women}}}} == メディアと娯楽 == {{main|{{仮リンク|アフガニスタンのメディア|en|Mass media in Afghanistan}}}} アフガニスタンには約350のラジオ局と200以上のテレビ局がある<ref name=TOLO-2019>{{cite news|title=Suspects Sentenced To Death For Killing Journalist in Kandahar|url=https://www.tolonews.com/afghanistan/suspects-sentenced-death-killing-journalist-kandahar|publisher=[[TOLOnews]]|date=16 April 2019|access-date=28 July 2019|archive-url=https://web.archive.org/web/20190417161248/https://www.tolonews.com/afghanistan/suspects-sentenced-death-killing-journalist-kandahar|archive-date=17 April 2019|url-status=live}}</ref>。ラジオ・テレビジョン・アフガニスタンは1925年に始まった国営公共放送局である。テレビ番組は1970年代に放送され始め、[[:en:TOLO (TV channel)|TOLO]]、[[:en:Shamshad TV|シャムシャッドTV]]などの多くの民間放送局も存在する。最初の新聞は1873年に発行され{{sfn|Dupree|1997|page=405}}、今日では何百もの印刷所がある。1920年代までに、ラジオ・カーブルは地元のラジオ放送を放送していた。 [[ボイス・オブ・アメリカ]]、[[英国放送協会|BBC]]、[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ|ラジオ・フリー・ヨーロッパ/ラジオ・リバティー(RFE/RL)]]はアフガニスタンの公用語の両方でラジオで放送された。2002年以降、報道規制は徐々に緩和され、民間メディアは厳しい統制が20年以上続いたが多様化している<ref>{{cite web|url=https://freedomhouse.org/report/freedom-press/2016/afghanistan|title=Freedom of the Press 2016: Afghanistan|publisher=Freedom House|year=2016|accessdate=2022-05-02|archive-url=https://web.archive.org/web/20170205122939/https://freedomhouse.org/report/freedom-press/2016/afghanistan|archive-date=5 February 2017|url-status=live}}</ref>。 アフガニスタン人は長い間、インド映画の観賞や、映画の歌を聴いたりすることに親しんできた。アフガニスタンはヒンディー語映画産業にとって最大の市場の一つであるとされる<ref>{{Cite web|url=https://www.telegraphindia.com/entertainment/period-films-like-padmaavat-kesari-and-now-panipat-have-crassly-stereotyped-and-vilified-afghans/cid/1717346|title=Vilifying Afghans in Bollywood|website=www.telegraphindia.com|accessdate=2022-05-02}}</ref>。アフガニスタン系インド人のステレオタイプ(カブリワラまたはパターニ)は、俳優によっていくつかの[[ボリウッド]]映画でも表現されている。多くのボリウッド映画スターはアフガニスタンにルーツを持つといわれる。 == 文化 == {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの文化|en|Culture of Afghanistan}}}} アフガニスタンの文化<ref name="Banting">{{Cite book|title=Afghanistan: The land |last1=Banting|first1=Erinn |year=2003|publisher=Crabtree Publishing Company |isbn=0-7787-9335-4|page=[https://archive.org/details/afghanistan00bant/page/n9 4]|url=https://archive.org/details/afghanistan00bant|url-access=registration |access-date=2010-08-22}}</ref><ref name=AO>{{cite web|title=Article Sixteen of the Constitution of Afghanistan|url=http://www.afghan-web.com/politics/current_constitution.html#preamble |quote=From among the languages of Pashto, Dari, Uzbeki, Turkmani, Baluchi, Pashai, Nuristani, Pamiri (alsana), Arab and other languages spoken in the country, Pashto and Dari are the official languages of the state.|year=2004 |access-date=June 13, 2012}}</ref>は3000年以上にわたって生き続け、少なくとも紀元前500年の[[アケメネス朝]]まで遡ることができ<ref name="LoC">{{cite web|date=August 2008|title=Country Profile: Afghanistan|url=http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/profiles/Afghanistan.pdf|url-status=dead|archive-url=https://web.archive.org/web/20101203053513/http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/profiles/Afghanistan.pdf|archive-date=2010-12-03|access-date=2010-08-16|publisher=[[Library of Congress]]}}</ref>、文化の多様性を包括してきた。[[中央アジア]]、[[南アジア]]、[[西アジア]]の交差点に位置し、歴史的に多様性の中心地である。ある歴史家によれば「古代世界の環状交差点」と呼称している<ref>https://newint.org/features/2008/11/01/afghanistan-history</ref>。 アフガニスタンは主に[[部族社会]]であり、さまざまな地域に独自の[[サブカルチャー]]が存在する。それにもかかわらず、ほとんどすべてのアフガニスタン人はイスラム教の伝統に習って、同じ休日を祝い、同じ服を着用し、同じ料理を食し、同じ音楽を聴き、ある程度多言語である。その文化は、言語、料理、クラシック音楽などに見られる{{仮リンク|トルコ・ペルシア文化|en|Turco-Persian tradition}}、インド・ペルシャ文化<ref>{{cite book|title=Encyclopedia of Hinduism|author=Denise Cush, Catherine Robinson, Michael York|year=2012|page=200|isbn=9781135189792|url=https://books.google.com/books?id=kzPgCgAAQBAJ&pg=PA200}}</ref><ref>{{cite web|title=The remarkable rugs of war, Drill Hall Gallery|date=30 July 2021|publisher=The Australian|url=https://amp.theaustralian.com.au/arts/review/the-remarkable-rugs-of-war-drill-hall-gallery/news-story/49fb932f8be798b1641425be98e4e0db|archive-url=https://archive.today/F4y3j|archive-date=16 August 2021|accessdate=05-15-2022}}</ref>の要素と強い結び付きがある。 アフガニスタンの文化は学術的観点において、学術研究の分野は次第に活発化しつつある<ref>{{Cite web|last=American Institute of Afghanistan Studies|title=Afghanistan (an academic journal) published by Edinburgh University Press|url=https://www.euppublishing.com/loi/afg|url-status=live|archive-url=https://web.archive.org/web/20200525102013/https://www.euppublishing.com/loi/afg |archive-date=May 25, 2020 |accessdate=05-15-2022}}</ref>。[[アフガニスタン紛争|1978年より断続的に続く紛争]]によってアフガニスタンの文化は、脅かされ破壊されている<ref>{{Cite journal|url=https://www.jstor.org/stable/521889|jstor = 521889|title = The Fragmentation of Culture in Afghanistan / ﺍﻟﺘﺸﻈﻲ ﺍﻟﺜﻘﺎﻓﻲ ﻓﻲ ﺃﻓﻐﺎﻧﺴﺘﺎﻥ|last1 = Goodson|first1 = Larry|last2 = ﺟﻮﺩﺳﻮﻥ|first2 = ﻻﺭﻱ|journal = Alif: Journal of Comparative Poetics|year = 1998|issue = 18|pages = 269–289|doi = 10.2307/521889}}</ref><ref>{{cite web| url = https://www.macleans.ca/news/world/redeeming-the-pashtun-the-ultimate-warriors/| title = Redeeming the Pashtun, the ultimate warriors - Macleans.ca|accessdate=05-15-2022}}</ref>。 === 食文化 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタン料理|en|Afghan cuisine}}|{{仮リンク|ハザーラ料理|en|Hazaragi cuisine}}}} [[小麦]]で練った[[ナン|ナーン]]や[[ビリヤニ]]などが有名。飲料としては隣国同様に[[チャイ]]がよく飲まれる。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンにおけるアルコール|en|Alcohol in Afghanistan}}}} === 文学 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタン文学|label=アフガン文学|en|Afghan literature}}}} アフガニスタンは文学の歴史が長い国の一つとして知られる。また、世界的な[[詩]]や[[諺]]の宝庫としても認知されている。 {{See also|{{仮リンク|アフガニスタンの詩|en|Poetry of Afghanistan}}|{{仮リンク|アフガニスタンの諺|en|Afghan proverbs}}|{{仮リンク|パシュトー語の文学と詩|en|Pashto literature and poetry}}}} === 音楽 === {{main|アフガニスタンの音楽}} {{節スタブ}} === 映画 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの映画|en|Cinema of Afghanistan}}}} アフガニスタンにおける映画技術は20世紀初頭に導入されたものが基盤となっている。 {{節スタブ}} {{See also|{{仮リンク|アフガン・フィルム|en|Afghan Film}}}} === 建築 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの建築|en|Architecture of Afghanistan}}}} アフガニスタンにおける建築文化は過去2000年間に亘って広大な範囲の帝国に属していた点から、様々な民族文化の影響を広く受け続けている面を持つ。 また数世紀の間、時間の経過とともにギリシャからペルシャ、インド、中国、ヨーロッパに至るまで幾多もの国や地域からの建築文化の影響を強く受けており、自国の建築物や建築遺跡には多様性が存在する。それに伴い、様々な宗教的影響も反映されている点が最大の特徴ともなっている。 {{節スタブ}} === 被服・装飾 === [[File:Afghan Schoolchildren in Kabul.jpg|thumb|アフガニスタンの伝統的な衣装を着た現地の学校の子供たち。カブールにて撮影]] {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの民族衣装|en|Afghan clothing}}}} アフガニスタンの民族衣装は、同国地域における様々な民族グループの服飾文化が融合したものとして知られている。 {{節スタブ}} === 世界遺産 === {{main|アフガニスタンの世界遺産}} アフガニスタンには多くの貴重な遺跡が残っており、以下の2つが[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]に登録されている。 <gallery> ファイル:Minaret_of_jam_2009_ghor.jpg|[[ジャームのミナレット|ジャームのミナレットと考古遺跡群]](2002年) ファイル:Afghanistan Statua di Budda 2.jpg|[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤーン渓谷の文化的景観と古代遺跡群]](2003年) </gallery> バーミヤーン渓谷には大仏と多くの壁画が残されていたが、紛争により破壊され続け、殊に2体の大仏は破壊されつつ持ちこたえ立ち続けていたが、2001年にターリバーンによって完全に破壊された。 === 祝祭日 === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンの祝日|en|Public holidays in Afghanistan}}}} ※2020年時点の基本的な祝祭日を以下に述べる。 {|align="center" class="wikitable" |- | align="center" colspan=5 style="background:#DADADA" | <span style="color: #000000">'''祝祭日'''</span> |- align="center" bgcolor="#F0F0F0" |<span style="color: #000000">'''日付'''</span> |<span style="color: #000000">'''日本語表記'''</span> |<span style="color: #000000">'''現地語表記'''</span> |<span style="color: #000000">'''備考'''</span> |- ||[[2月15日]]||解放の日|| ||1989年にソビエト連邦がアフガニスタンから撤退したことを記念したもの |- ||[[3月21日]]||[[ノウルーズ]]||نوروز ||[[イラン暦]]の[[元日]] |- ||[[4月28日]]||{{仮リンク|ムジャヒディン戦勝記念日|en|Mujahideen Victory Day}}|| ||1992年にムジャヒディン反乱軍が共産主義政権を打倒した日であり、政治的な祝日として制定されている |- ||[[5月1日]]||[[メーデー]]|| || |- ||[[8月19日]]||[[独立記念日]]||آزادی|| |- ||[[9月9日]]||国民的英雄:アフマド・シャー・マスードの日|| ||[[アフマド・シャー・マスード]]が暗殺された日であるが、これまで同国の為に殉職した全ての人々を讃える目的を兼ねて制定された |} この他には、[[イスラム暦]]に基づいた移動祝祭日が存在する。 {{節スタブ}} == スポーツ == {{main|アフガニスタンのスポーツ}} === クリケット === [[File:Afghanistan national cricket team.jpg|thumb|200px|[[クリケットアフガニスタン代表]]]] アフガニスタン国内では[[クリケット]]が最も人気の[[スポーツ]]である<ref>[https://www.thehindu.com/sport/cricket/%E2%80%98Cricket-is-now-the-biggest-sport-in-Afghanistan%E2%80%99/article13994180.ece ‘Cricket is now the biggest sport in Afghanistan’] The Hindu 2019年7月4日閲覧。</ref><ref>[https://www.aaastateofplay.com/the-most-popular-sport-in-every-country/ THE MOST POPULAR SPORT IN EVERY COUNTRY] AAA STATE OF PLAY 2023年9月28日閲覧。</ref>。1839年のイギリスとの[[アフガン戦争]]中にカーブルでプレーされたという報告がある<ref name="ICC">[https://www.icc-cricket.com/about/members/asia/full/17 Afghanistan Cricket Board] 国際クリケット評議会 2023年9月29日閲覧。</ref>。1990年代にアフガニスタン人の間でクリケット人気が高まり、1995年にアフガニスタン・クリケット連盟が設立された<ref name="ICC"/>。[[国際競技連盟]]の[[国際クリケット評議会]]には2001年に加盟し、2017年に正会員に昇格した<ref name="ICC"/>。アフガニスタン代表チームの国際舞台での急速な進歩があり、国際クリケット界での「ライジングスター」と呼ばれた<ref name="ICC"/>。[[2018年]]に[[トゥエンティ20]]方式のクリケットリーグである「[[アフガニスタン・プレミアリーグ]]」が創設された。 === サッカー === {{main|{{仮リンク|アフガニスタンのサッカー|en|Football in Afghanistan}}}} [[サッカーアフガニスタン代表]]は[[1922年]]に、[[アフガニスタンサッカー連盟]](AFF)は[[1933年]]に設立され、[[1948年]]に[[国際サッカー連盟]](FIFA)に、[[1954年]]には[[アジアサッカー連盟]](AFC)に加盟した。なお、[[1984年]]から[[2003年]]までは[[アフガニスタン紛争]]のため国際大会には出場していなかった。また、[[サッカーアフガニスタン女子代表]]は[[2010年]]に設立され、[[FIFA女子ワールドカップ]]および[[AFC女子アジアカップ]]には未出場である。[[2012年]]に「[[アフガン・プレミアリーグ]]」が創設された。同年の優勝決定戦では、スタジアムが満員となる4000人を超える観客が集まった<ref>[http://www.fifa.com/worldfootball/clubfootball/news/newsid=1788419.html Toofan Harirod claim first Afghan title] FIFA.com 2012年10月20日閲覧。</ref>。 === その他 === [[セパタクロー]]の人気も高いとされている。 == 関連作品 == ; 映画 * [[モフセン・マフマルバフ]] 『サイクリスト』『[[カンダハール (映画)|カンダハール]]』『アフガン・アルファベット』 * [[サミラ・マフマルバフ]]『午後の五時』 * [[ハナ・マフマルバフ]]『ハナのアフガンノート』『[[子供の情景 (映画)|子供の情景]]』 * [[セディク・バルマク]]『[[アフガン零年]]』 * [[マーク・フォースター]]『[[君のためなら千回でも]]』 * [[ティモー・ベクマムベトフ]]『[[エスケープ・フロム・アフガン]]』 * [[マイク・ニコルズ]]『[[チャーリー・ウィルソンズ・ウォー]]』 * [[ピーター・マクドナルド]]『[[ランボー3/怒りのアフガン]]』 * [[ジョン・フランケンハイマー]]『{{仮リンク|ホースメン (1971年の映画)|label=ホースメン|en|The Horsemen (1971 film)}}』 ; 評論 * 『[[アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ]]』[[モフセン・マフマルバフ]] ; 小説 * 『きみのためなら千回でも』[[カーレド・ホッセイニ]] * 『カブールの燕たち』[[ヤスミナ・カドラ]] ; ボードゲーム * Joseph Miranda【Holy war, Afghanistan】, Strategy & Tactics No.147,Decision Games *: ※1978年に始まったソビエトの軍事介入に対する聖戦。 * Joseph Miranda【Asia Crossroads】, Strategy & Tactics No.216,Decision Games *: ※19世紀のロシア、ペルシャ、中国、アフガニスタン周辺でのイギリスとロシアの覇権争い。 * Joseph Miranda【Operation Aaconda】, Strategy & Tactics No.276,Decision Games *: ※2002年に実施された多国籍軍のアナコンダ作戦。 * Brian Train, Volko Ruhnke【A distant plain】, GMT games *: ※同社の非正規戦マルチプレイヤーズゲームCOINシリーズ第3作、1990年代以降の現代紛争。 * Joseph Miranda【The sun never sets II】, Strategy & Tactics No.274,Decision Games *: ※イギリスの植民地戦争のクワドリゲームで、その一つが1878年からの第二次アフガン戦争。 * Joseph Miranda【Khyber rifles】, Decision Games *: ※1842年にアフガンが大英帝国に勝利した戦い(第一次アフガン戦争の末期)。 * Joseph Miranda【First Afghan war】, Strategy & Tactics No.179,Decision Games *: ※タイトルの通り第一次アフガン戦争(1838年 - 1842年)の全体を描いた戦役級ゲーム。 * Joseph Miranda【Invasion Afghanistan】, Modern War No.26,Decision Games *: ※タイトルの通りソビエトのアフガン侵攻(18793894全体を描いたソロプレイゲーム。 ; ビデオゲーム *[[メダル・オブ・オナー (2010年のゲーム)]] - [[2010年]][[10月12日]]発売のFPS。舞台が911後のアフガニスタン。 *[[メタルギアソリッドV]] - [[2015年]][[9月2日]]発売のゲーム。舞台が[[1984年]]のアフガニスタン。 ; 漫画 * 『[[あふがにすタン]]』[[ちまきing]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="imf201410">{{Cite web|url=http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2014/02/weodata/weorept.aspx?sy=2012&ey=2014&scsm=1&ssd=1&sort=country&ds=.&br=1&c=512&s=NGDP%2CNGDPD%2CNGDPDPC%2CPPPGDP%2CPPPPC&grp=0&a=&pr.x=81&pr.y=6|title=World Economic Outlook Database, October 2014|publisher=[[国際通貨基金|IMF]]|language=英語|date=2014-10|accessdate=2014-11-24}}</ref> }} * {{cite book|last=Dupree|first=Louis|author-link=Louis Dupree (professor)|title=Afghanistan|publisher=Oxford Pakistan Paperbacks|edition=2nd|year=1997|isbn=978-0-19-577634-8}} == 参考文献 == * 渡辺光一『アフガニスタン/戦乱の現代史』[[岩波新書]](新赤版828)2003年(ISBN 4-00-430828-3) * 前田耕作・山根聡『アフガニスタン史』[[河出書房新社]]、2002年(ISBN 4-309-22392-3) * マーティン・ユアンズ『アフガニスタンの歴史』(柳沢圭子ほか訳)[[明石書店]]、2002年(ISBN 4-750-31610-5) * ヴィレム・フォーヘルサング著、前田耕作・山内和也監訳、愛甲恵子・前田龍彦・村山和之訳『アフガニスタンの歴史と文化』明石書店、2005年(ISBN 978-4-7503-2070-0) == 関連項目 == {{colbegin|2}} * [[アフガニスタン関係記事の一覧]] * [[アフガニスタンの歴史]] * [[アフガニスタンの政治]] ** [[ロヤ・ジルガ]] ** [[ザーヒル・シャー]] * [[アフガン戦争]] - [[アフガニスタン紛争]] * [[ボン合意]] ** [[国際治安支援部隊]] ** [[国連アフガニスタン支援ミッション]] * [[アフガニスタン国際戦犯民衆法廷]] {{colend}} == 外部リンク == {{Wiktionary}} {{Commons&cat|Afghanistan|Afghanistan}} {{wikiversity|アフガニスタンの調べ方}} ; 政府 * [https://president.gov.af/en/ アフガニスタン大統領府]{{リンク切れ|date=2021年12月}} {{en icon}} * [http://www.afghanembassyjp.com/ 在日アフガニスタン大使館] {{en icon}}{{ja icon}} ; 日本政府 * [https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/afghanistan/ 日本外務省 - アフガニスタン] {{ja icon}} ; その他 * [https://www.jccme.or.jp/08/08-07-01.html JCCME - アフガニスタン] * {{Kotobank}} * {{Wikivoyage-inline|fa:افغانستان|アフガニスタン{{fa icon}}}} * {{Wikivoyage-inline|Afghanistan|アフガニスタン{{en icon}}}} * {{CIA World Factbook link|af|Afghanistan}}{{en icon}} * {{Curlie|Regional/Asia/Afghanistan}}{{en icon}} * {{Wikiatlas|Afghanistan}}{{en icon}} <!-- ここに個人サイトなどのリンクを貼らないでください。--><!-- また、「Wikipedia:外部リンクの選び方」をよく読まれるようにお願いいたします。 --> {{アジア}} {{OIC}} {{上海協力機構}} {{南アジア地域協力連合}} {{NATOに加盟していない米国の同盟国}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あふかにすたん}} [[Category:アフガニスタン|*]] [[Category:アジアの国]] [[Category:内陸国]] [[Category:首長国]] [[Category:宗教国家]] [[Category:イスラム国家]] [[Category:現存する君主国]] [[Category:国際連合加盟国]] [[Category:イスラム協力機構加盟国]] [[Category:後発開発途上国]]
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明治維新
明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。 維新は詩経大雅・文王の「周雖旧邦、其命維新(周は旧邦といえども、その命は維(これ)新(あらた)なり)」の成句から採られたが、発音の類似から御一新・御維ヰッ新(ごいっしん)ともいわれた。 周󠄀雖舊邦󠄁、其命維新 「維新」の用例は古代以来多数あるが、幕末変革期においては、水戸学の思想家藤田東湖の日記『庚寅日録』天保元年(1830年)4月21日条に「中興維新」、4月25日条に「去年以来国事維新百度将復」とある。また、嘉永3年(1850年)6月19日の藤田東湖宛横井小楠書簡に「近年来尊藩御維新之御政事赫赫と天下に響聞仕」とあり、幕府側の公文書でも、嘉永6年(1853年)10月15日ロシア宰相宛老中奉書「君主新嗣位、百度維新、如斯等重大事項」とある。 長州藩の吉田稔麿は穢多・非人・屠勇などの被差別部落民の兵士取り立てを献策し、元治元年(1864年)に「一新組」が、慶応2年(1866年)に「維新団」が結成された。 慶応2年(1866年)(または慶応3年)、国学者の玉松操による岩倉具視への返答に「維新」が出てくる。『岩倉公実記』によれば、岩倉具視に意見を求められた玉松操は次のように回答した。 玉松においては、徳川政権からの権力の移譲は、「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたもので、これは易姓革命でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現が選ばれた。明治政府もこれを踏襲した。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令において「民ハ王者之大寶百事御一新」と表記された。 尾佐竹猛によれば、新政府は王政復古の大号令においては「王政復古、国威挽回」を述べ、根本的大改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「王政維新」と言っていた。「明治維新」の語が現れたのは1890年に憲法が公布される数年前のことと見られ、「王政維新」の語は戦後も使用されている。 革命初期の公文書には政体復古・天下一新・朝政一新という表記がなされた。『太政官日誌』は慶応4年2月14日(1868年3月7日)から記録されているが、同日東久世通禧は各国公使に「政体復古」を報告している。 醍醐大納󠄁言殿 東久世前少將殿 宇和嶋少將殿 各國公󠄁使󠄁と應接の始末 左の如し 東久世殿發話 我日本 政體復古 慶應4年2月28日の「幕府御親征の詔」では「天下一新」とある。慶應4年3月14日(1868年4月6日)の億兆安撫国威宣揚の御宸翰では「朝政一新」とある。旧暦9月8日(10月23日)に改元が行われ、明治元年12月23日(1869年2月4日)の東久世中将からイギリス公使ハリー・パークスに宛てた公文書綴では「朝政一新」とある。 明治2年(1869年)正月には、木戸孝允が大村益次郎宛書簡で「大政一新」と書き、岩倉具視は「大政維新」と書いた 公文書における「維新」の用例としては、明治3年1月3日の宣布大教の詔に「今や天運循環し、百度維新(これあらた)なり、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かむながら)の道を宣揚すべきなり」とある。 明治5年(1872年)9月刊行の沖志楼主人『維新御布告往来 : 童蒙必読』には「皇政復古、綱紀御維新(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。 英語表記は Meiji restoration が多く、「明治の(王政)復古」の意味になる。他に Meiji Ishin、Meiji restoration and revolution、Meiji Revolution(明治革命)、Meiji Renovation などが見られる。 維新は英語で王政復古を意味する Restoration と表記されることが多いが、これは慶應3年12月9日(1868年1月3日)に岩倉具視らが上程した大令(いわゆる王政復古の大号令)の中の王政復古の英語訳であるとされる。 英国外交官フランシス・O・アダムスの『日本史』(1874-75)ではこの大令を「a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity」と説明された。この場合、restoration は「王政復古」ではなく、「国威挽回」の訳語として用いられたが、日本政治思想史研究者の苅部直は、日本の開国後出版された西欧人による初めての日本紹介であるアダムスの『日本史』から、慶応三年の改革を restoration と呼ぶ用法が定着していったのだろうと指摘する。 他方、ウィリアム・グリフィスの The Mikado's Empire (『ミカドの帝国』、1876年)では、将軍政権の崩壊とミカド(天皇)の最高権力への復帰(restoration)が目撃されたとし、最近の日本では、対外政策の転換、社会改革、西洋文明の受容の三重の政治革命 (a three-fold political revolution) が進行していたと認識していた。苅部によれば、幕末から明治にかけての体制転換は、徳川公方から京都の天皇への単なる政権交代というだけでなく、公儀または幕府が大名と朝廷を統制するそれまでの国家全体の体制を改めることであり、様々な制度改革を通じて、身分に基づく支配などが廃止され、西洋文明への受容へと大きく舵が切られたような、社会の急激な変化であり、また、当時の日本国内ではこのような世の中を根本から立て直そうとする動きは「御一新」として歓迎されたことなどからも、このような体制転換にふさわしい英語は revolution であり、これは同時代の日本人が抱いた実感でもあったという。また、明治政府が「維新」でなく「革命」と表現していたら、「明治革命」と言った名称も定着していた可能性もあったという。 なお、徳富蘇峰や竹越與三郎や、北一輝らは、「維新革命」という呼称を用いた。 中村政則は、明治維新は復古(Restoration)、改革(Reform)、革命の三つの側面を持ち、どの側面を強調するかで評価が異なってくると1986年に指摘した。 21世紀に入ると「明治革命」を使用する研究者が多くなり、日本政治史研究の坂野潤治や日本近代史研究の三谷博、日本政治思想史研究の渡辺浩、歴史学者マリウス・バーサス・ジャンセンやアンドルー・ゴードンらは「明治革命・Meiji Revolution」という呼称を用いる。 なお、三谷博は、Restorationを訳語に使うと、天皇の国家の頂点への復帰だけに注意を集め、維新が世襲身分制のほとんどを廃棄した大規模な革命であった事実をおおいかくしてしまうので、Revolutionでは誤解もあるのなら、regeneration(再生、改革、刷新などの意味)という訳語を提案した。 維新の時期については諸説ある。明治維新の始期として、天保年間(1831 - 1845年)に置く考えがある。天保年間には、天保の大飢饉(天保4 - 10年、1833 - 1839年)によって100万人以上が犠牲となり、天保騒動などの百姓一揆や、大塩平八郎の乱(1837年)が発生した。 また鎖国を批判した渡辺崋山や高野長英を弾圧する蛮社の獄があり、天保の改革でも飢饉対策の成果はなかった。天保13年(1842年)にはアヘン戦争で清が敗れ、イギリス(大英帝国)の強さを知った幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めた。 始期として、黒船来航(嘉永6年、1853年)または不平等条約であった安政通商条約の締結(1858年)に置く見方もある。 1889年(明治22年)に完成した官選史料集『復古記』では、慶応3年(1867年)の大政奉還から明治元年10月28日(1868年12月11日)の東征大総督解任までが扱われた。当初の復古記編纂案では、嘉永7年(1853年)のペリー来航から大政奉還までを前記、大政奉還から東征大総督解任までを正記、戊辰戦争記を外記と区分していた。 文部省・東京大学史料編纂所編纂『大日本維新史料』では、弘化3年(1846年)2月の孝明天皇の践祚から明治4年(1871年)の廃藩置県に至る25年間が維新資料としてまとめられた。 狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年に当たる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い。 終了時期についても、廃藩置県(明治4年、1871年)、封建復帰を目ざす士族の反政府運動が終わった西南戦争(明治10年、1877年)や、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立・大日本帝国憲法発布(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。 この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権(維新政権)を明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)ともいう。 一般的に、明治維新の始まりは黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的拡大政策に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つとされる。 19世紀、江戸幕府の支配体制は綻びが見え始めていた。ロシア、アメリカをはじめとする外国船の来航と通商要求や、フェートン号事件やモリソン号事件などの外圧の高まりに加えて、宝暦事件、明和事件、大塩平八郎の乱といった内紛・内乱や民衆運動である打ちこわしが盛んになった。老中松平定信や国学者の本居宣長などは大政委任論を唱え、幕府の政治は天皇から委任されたものと考える見方が主流化し、国学者や水戸学を中心に尊皇思想・尊王論が広まっていった。 19世紀半ばのアヘン戦争以後、欧米による帝国主義政策の影響が東アジアに浸透するにつれ、水戸学等の国学を基盤として、外国勢力を排斥して江戸幕府開闢以来の基本政策である鎖国政策と幕藩体制を維持しようとする攘夷思想が現れた。しかし江戸幕府は開国・通商路線を選択したため、攘夷思想は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として、武士階層を中心に広く普及していった。 一方、幕府側の開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。そのような風潮の中、薩英戦争や下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内の政治権力の統一や体制改革(近代化)を進め、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。イギリス外交官アーネスト・サトウの論文『英国策論』の和訳が横浜のジャパン・タイムズに掲載され、天子主権論と討幕を理論づけた。ただこの書の内容は、英国留学中の薩摩藩士松木弘安が英国の外務大臣に提出したものとの類似性が指摘されている。 幕府は公武合体政策を掲げ、尊王攘夷派の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を模索したため、外国勢力の脅威に直面していた急進的な雄藩の支持を失っていった。またこの時期、黒船来航以来の幕府の威信の低下と世情不安の高まりを背景として農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩・越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、国政改革のために幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立しようとする構想が幕政において急速に支持を集めていった。結果としてこれらの改革勢力の協力の下に王政復古が宣言され、古代の律令制や中世の建武の新政に中央集権的王権統治の先例を求めつつも、天皇が欧米列強諸国の君主同様に近代国家の主権者として統治する体制を採る明治政府が誕生した。戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立したこの新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。 幕末に諸外国からの開国圧力が強まる中、大地震が続発した。弘化4年(1847年)には長野で善光寺地震が起き、山崩れでせき止め湖決壊などのため、1万人を超す犠牲者が出た。ペリー来航直前の嘉永6年(1853年)3月に小田原地震(M6.7、震度7、江戸の震度4-5)が起きた。翌年日米和親条約が締結されると、伊賀上野地震(M7.3)が発生し、以降、13回の地震が連発する安政の大地震が発生した。嘉永7年には、南海トラフ巨大地震である安政東海地震と安政南海地震(M8.4、震度7)、豊予海峡地震(M7.4、震度6)が発生し、幕府は災異改元で安政に改元するが、安政2年に飛騨地震(M6.8)、陸前地震、安政江戸地震(M6.9-7.4、推定死者1万人)が発生した。安政3年にも安政3年の大風災で台風と高潮が江戸を襲い(推定死者10万人)、安政八戸沖地震(M6.9-8.0)が発生した。安政4年に芸予地震(M7.3)が発生、安政5年(1858年)の飛越地震(M7.1、震度7)では鳶山崩れも併発し、常願寺川のせき止め湖が二度決壊して下流に大被害を出した。 安政5年にはコレラも流行し、江戸だけで死者が3万人から30万人に及んだ。さらに文久2年(1862年)のコレラ流行では安政5年の数倍の死者が出た。文久2年にははしかも大流行し、江戸だけで239,862人の死者が出た。こうした度重なる疫病による社会不安が徳川幕府崩壊の要因の一つともなった。 ※明治5年(1872)のグレゴリオ暦への改暦までの日本は太陰太陽暦(天保暦)を採用していたため、西暦とはずれがあることに留意。また、慶応4年の一世一元の制による明治への改元までは災異改元や立年改元(改元年の元旦に遡及して新元号を使用)などもある。 江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。 その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から脱却するように説かれている。 これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。 また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。 五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の高札が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「五榜の掲示」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策の中で撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。 首都については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。 しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→東京奠都の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。 形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた。 王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行された。総裁には有栖川宮親王、議定には皇族・公卿と薩摩・長州・土佐・越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、明治天皇はまだ年少であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。 そこで、慶応4年閏4月21日、政体書の公布により、太政官を中心に三権分立制をとる太政官制が採られ、さらに翌年7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足した。明治2年の主な組織と役職者は次の通りである。 そして、明治4年7月の廃藩置県の後には正院・左院・右院による三院制が採られた。 具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省に改組したりする幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。 また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。1875年(明治8年)には大阪会議での合意と立憲政体の詔書により、立法機関として元老院が設置された。 のち、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟、不平等条約撤廃条件などもあり、明治14年(1881年)に明治天皇は「国会開設の詔」を出し、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制国家が完成した。 明治新政府は、幕府から受け継いだ天領と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し、京都・長崎・函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。 まず、明治元年に姫路藩主酒井忠邦が版籍奉還の建白書を提出。続いて明治2年1月20日に薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(薩長土肥)の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落迎えると、全藩に版籍奉還を命じた。この版籍奉還により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。 しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年旧7月14日(1871年8月29日)に、倒幕の中心であった薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と木戸孝允らにより廃藩置県が実施され、府県制度となり(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。 薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇蹟ともいえる。 なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年(1879年)に沖縄県として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に琉球処分と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→ 沖縄県の歴史) 1871年12月23日から1873年9月13日にかけて、維新政府は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度の研究をするため岩倉具視を正使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団を欧米へ派遣した。使節団は条約改正には失敗するものの、西洋の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の維新の動きに大きな影響を与えた。一方、日本国内においては「留守政府」と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの手によって、次々と改革は進んでいった。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。 留守政府が行った主な改革としては、学制改革、地租改正、徴兵令、太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論につながったともいわれる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が明治六年政変によって征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。 徴兵令を導入し、近代的な常備軍を最初に作ろうとしたのは大村益次郎であったが、彼が暗殺されてしまったため、山縣有朋に引き継がれた。明治3年、徴兵規則が作られ、翌年の明治4年に廃藩により兵部省が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、陸軍省と海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。 江戸幕府下の武士・百姓・町人(いわゆる士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳ったが形式的なものに留まった。しかし、明治4年に制定された戸籍法に基づき翌年に編纂された壬申戸籍では、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、旧公家・大名や一部僧侶などを新たに華族として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。 華族と士族には政府から家禄が与えられ、明治9年の秩禄処分まで支給された。同年、廃刀令が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱)につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の士族反乱であった西南戦争が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。 維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの年貢は収量を基本とする物納であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には田畑永代売買禁止令が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に地租改正条例が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に地券が発行されることとなって、所有する土地に対し地租が課せられることとなった。これにより、土地の所有権が初めて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有財産権が完全に確立することで資本主義の発展の基礎条件が成立した。また経済を支えるインフラ整備も行われた。 貿易分野では、1859年(安政6年)には横浜にすでに、イギリス帝国のジャーディン・マセソン商会支店の通称「英一番館」(ウィリアム・ケズウィック)が設置されており、1861年(万延2年)には長崎に、ジャーディン・マセソン商会代理店の「グラバー商会」が設立された。外国人居留地としては、1863年(文久3年)に横浜の山下居留地、1868年(明治元年)には神戸居留地と大阪の川口居留地、1869年(明治2年)には東京に築地居留地、1870年(明治3年)に長崎居留地が完成した。 富国強兵・殖産興業のスローガンの下、工部省(のちに内務省)やお雇い外国人が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。1872年(明治5年)の富岡製糸場(ポール・ブリューナ協力)をはじめとする官営模範工場が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、1880年には「官営工場払下概則」が制定され、造幣局や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから産業革命が進行し、工業化が進展していくこととなった。 金融分野では、旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」導入を決定した。戊辰戦争が終わった1869年(明治2年)にオリエンタル・バンクと貨幣鋳造条約を締結したが、ほどなくプロイセン帝国と連合した北ドイツ連邦のドンドルフ・ナウマン社に乗り換えた。1871年(明治4年)の新貨条例に基づき、 1872年(明治5年)にはドイツで印刷された明治通宝の流通が開始。また1874年(明治7年)の国立銀行条例により、国立銀行(ナショナルバンク)が設立。1874年(明治7年)にはドンドルフ・ナウマン社から紙幣原版を買い取り、紙幣を国産化。1878年(明治11年)5月には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が、6月に大阪取引所の前身である大阪株式取引所が設立され、1880年(明治13年)には海外送金を受け持つ横浜正金銀行も設立。その後、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。 国土分野では、旧幕府時代にすでに横浜製鉄所、横須賀製鉄所、長崎鎔鉄所が造営されており、これを引き継いだ新政府の工部省は1871年(明治4年)、これらを横浜造船所、横須賀造船所、長崎造船局と改称して造船を開始し、また、前島密により郵便制度が創設された。1872年(明治5年)には新橋駅から横浜駅間において蒸気機関車による日本初の鉄道が開通し、また、皇居の前には東京で初めての西洋料理店でありホテルの築地精養軒が開業した。電信網の整備や船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。1886年(明治19年)には払い下げの官営製鉄所を経営していた岩手県の釜石鉱山田中製鉄所が、日本で最初に高炉による製鉄を軌道に乗せた。水道は依然として上水井戸の水が飲料水・生活用水として使用されていたが、明治21(1888)年、政府は水道局の創設に向け具体的な調査設計を開始し、東京は1898(明治31年)年に神田・日本橋方面の通水が開始し、1911年(明治44年)には全面的に完成。 エネルギー分野では、ガス事業の初めとしては1869年(明治2年)に、お雇い外国人の技術者であるアンリ・プレグランが横浜瓦斯構想を作った。横浜のガス灯についてはドイツやイギリスの事業者からも出願があったが、高島嘉右衛門が建設を許可された。また1871年(明治4年)には大阪府大阪市で機械燃料のガスを使用して工場や街路のガス灯が点灯された。1872年(明治5年)横浜で横浜瓦斯(プレグラン協力)が設立され、東京電燈の前身会社が、馬車道のガス灯を十数基点灯させるデモンストレーションを行った。横浜には1884年(明治17年)、米国スタンダード・オイルの支社も設立。1885年(明治18年)は東京瓦斯も設立。1887年(明治20年)、東京電燈第二電灯局が完成し、日本初の商用火力発電所(出力25kW)となり、家庭配電(210V直流)が開始。同年、日本初の石炭火力発電所も、東京茅場町に建設。1888年(明治21年)には宮城県に水力発電所として初めて三居沢発電所が設立。 木戸孝允とアメリカ人金融顧問パウル・マイエットは、年間400万石(約720万ヘクタール分)の米にあたる資金を40万人の官吏や華族の恩給とする計画を推進し、最終的に7500万円分(現1.5兆円分)の償還可能な国債が発行され分配された。 1875年に海軍退隠令、1876年に陸軍恩給令が発布され、その後も官吏の種別ごとに恩給の規定が出来たが、官吏の処遇を巡っては暴動も発生したこともあった。 幕末から活発になっていた佐久間象山などの「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が行われ、横井小楠の実学から物理を中核とする福澤諭吉の文明論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、文明開化の動きが加速する。 明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・森有礼・西周・西村茂樹・加藤弘之らによる明六社の結成と『明六雑誌』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や中村正直の『西国立志編』『自由之理』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また土佐藩の自由民権運動の動きと連動して中江兆民や植木枝盛、馬場辰猪といった革新的な勢力と、佐々木高行、元田永孚、井上毅、品川弥二郎といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。 教育機関の整備では、初めは大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道・渡辺重石丸らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の蘭学塾や漢学塾、それに幕府自身が造った洋学教育機関である開成所や蕃書調所が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。 維新まで松前藩による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの蝦夷地から北海道と改名し、同年開拓使が置かれて、積極的な開発が進められた。札幌農学校(現:北海道大学)などの教育機関も相次いで設置された。 それまで江戸幕府や寺社が徹底していた女人禁制を、「近代国家にとって論外の差別(陋習)の一つである」として太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によりで禁止した。関所の廃止と合わせ、外国人女性でも自由に旅行できるようになったことから、各地に伝わる日本古来の神事が多数記録されることとなった。 宗教的には祭政一致の古代に復す改革であったが、宗教界の思惑や民衆の反発、キリスト教圏である欧米からの外圧、新政府内部での保守派と改革派の対立により、紆余曲折があった。 慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月(旧暦)には神仏習合を廃する神仏分離令が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向かった。数百年間続いていた永平寺と總持寺の曹洞宗内紛に関しては明治元年(1868年)6月に新政府が沙汰書を発給して調停を成立させるなど、仏教界の問題についても干渉を行った。 慶応4年4月21日、勅命により湊川神社に楠木正成を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房、北畠顕家ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。また、明治元年閏4月には 明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に豊臣秀吉を祀る「豊國神社」建立の御沙汰があり、1880年(明治13年)11月 には再建された京都・豊国神社の大阪別社が創建されるなど、江戸時代中に徳川政権によって公には逆賊とされていた豊臣家の再評価もなされるようになった。 陰陽道は迷信とみなされ、天社禁止令により陰陽師の免許が禁止された。また陰陽師を統制するために存在した陰陽寮も廃止され、天体観測や暦の編纂など一部の業務は新設された省庁に移管された。 キリスト教は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。明治2年(1869年)12月7日には、キリスト教信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させたが、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に浦上四番崩れをはじめとする弾圧が、当時のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教をはじめとした宗教界や一般民衆からも「邪宗門」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。 法の支配実現のため、初代司法卿江藤新平が推進した司法制度整備により、いち早く、1872年に証書人、代書人、代言人が創設された。明治初期の日本は、不平等条約撤廃という外交上の目的もあり、民法、刑法、商法などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であったことから、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆるお雇い外国人としてフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを起用するなどし、フランス法およびドイツ法を基礎に、日本特有の慣習や国情にも配慮しつつ、法典の整備を進めた。刑法は1880年(明治13年)に制定、2年後に施行され、民法は1896年(明治29年)に制定、1898年(明治31年)に施行された。日本は、アジアで初めて近代法の整備に成功した国となり、不平等条約の撤廃も実現したが、近年グローバル化の進展の中で、アジア各国が日本に法整備支援を求めていることには、このような歴史的背景があるともいわれている。 新時代「明治」の雰囲気が醸成されたことで、人力車や馬車、鉄道の開通、シルクハット・燕尾服・革靴・こうもり傘などの洋装やザンギリ頭、パン・牛乳・牛鍋・ビールなど洋食の流行、ガス灯の設置や煉瓦造りの西洋建築などが普及していった。 開国後に大量に入ってきた舶来品や概念を取り入れるため、多くの和製漢語が作られた。 自由民権運動が次第に活発となり、徳富蘇峰が平民主義と欧化主義を唱え、民友社を設立し、『国民之友』を創刊し、それに対して三宅雪嶺は国粋保存主義を唱えて政教社を設立し『日本人』を発刊、志賀重昂らが参加した。陸羯南は日刊新聞『日本』で国民主義を唱え、近代俳句の祖である正岡子規らが記者を務めた。 この『日本』のような新聞が、徐々に様々な人々によって発刊されていくことになる。民間新聞の始めは幕末に創刊された浜田彦蔵の『海外新聞』であり、沼間守一の『横浜毎日新聞』、福地源一郎の『東京日日新聞』、栗本鋤雲の『郵便報知新聞』、末広重恭の『朝野新聞』などが続く。 江戸時代後期の日本の識字率も西欧より高かったが、明治政府はさらに教育政策の充実を図った。それまでは各藩ごとに独自の教育制度(藩校など)があったが地域差が大きかった。また寺子屋の数も不十分であり、庶民層が受けられる教育も異なっていたなど身分でも教育の偏りが一部存在していた。 明治政府では欧米諸国にならい印章を廃して署名の制度を導入しようと試みたが、事務の繁雑さの他にも当時の識字率の低さを理由に反対意見が相次ぎ断念している。なお1899年時点でも20歳男子の識字率は76.6%という調査結果であった。 明治政府は日本を強国にするためには、西洋と同じく一般国民に対し全国一律の基礎教育を施す制度が必要との認識に立ち、義務教育が開始された。また欧米列強に比類する産業育成のためには高等教育や研究開発が必要となるため、帝国大学や試験施設(三田育種場など)が整備された。 1872年(明治5年)に学制が公布され、1886年(明治19年)には小学校令や帝国大学令が発布された結果、全国に尋常小学校や高等小学校、大学が設立され、徐々に一般民衆も高度な教育を受けられる環境が整った。 明治になると女子教育の必要性も叫ばれるようになった。特に海外渡航の経験があって、欧米の女子教育を目の当たりにした渋沢栄一や伊藤博文たちは、その必要性を痛感しており、彼らによって女子教育奨励会が設立された。同じく女子教育に理解のあった黒田清隆は、欧米に10年単位の長期間、留学生を海外に派遣する岩倉使節団に、女子留学生も加えさせた。この時の留学生、永井しげ、津田うめ(後に津田塾大学の関係者となる)、大山捨松は、日本の女子教育に大きな功績を残すこととなる。 1874年(明治7年)に女子師範学校が設立された。女子への教育は、老若男女を問わず、学問に対する批評が根強かったため、男子への教育に比べるとその歩みは遅々としていた。しかし、徐々に女性への教育の必要性は広く浸透していき、女子も義務教育、高等教育を受けられるようになっていった。 1906年から1911年までに市町村の予算の43パーセントが教育に費やされた。このような教育行政の強化により、1925年には20歳の非識字率は0.9%まで減少し、帝国大学からは一般庶民出身の官僚や学者が輩出された。 新政府にとっての最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、時期尚早であった。そのため、欧化政策など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀に及ぶ不断の努力を必要とした(→条約改正)。 一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。清との間には明治4年(1871年)対等条約である日清修好条規が締結される。明治7年(1874年)には台湾における宮古島民殺害事件をきっかけに台湾出兵が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。 李氏朝鮮との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年(1873年)には政府を二分する論争(いわゆる征韓論)となったが、明治8年(1875年)に起きた江華島事件を契機として日朝修好条規(江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。 琉球に対しては、明治5年(1872年)に琉球藩を設置し、明治12年(1879年)には琉球処分が行われる。 また、ロシア帝国との間では明治8年(1875年)に、千島樺太交換条約が締結され、それまで日露雑居地とされた樺太および千島列島における日露国境が確定した。 維新史で最初期のものは、越前松平家によるものとされる。福井藩の中根雪江は、1859年、幕府によって処罰された主君の冤を雪ぐため、黒船以降の越前家の幕末史を書き始め、さらに越前家は1890-1892年に続編を編集した(『昨夢紀事』『再夢紀事 丁卯日記』)。越前松平家は公議派であり、明治政府が正統視した王政復古史観とは異なる史料として重視される。 徳川幕府外国方も1859年(安政6年)と1860年(万延元年)の外交記録『通信全覧』(320巻)があり、明治政府の外務省が引き継ぎ『続通信全覧』(1784巻)を編纂した。 明治政府は戊辰戦争史『復古記』(1872-1889年)を編纂したが、功名争いを避けたためか、強い積極的な解釈は持ち込まれなかった。 1888年、薩摩・長州・土佐・水戸の4大名家が「国事詇掌録」編纂開始、翌年、公家の三条・岩倉・中山3家と「史談会」が結成され、旧将軍家・会津家・桑名家、尾張徳川家・浅野家、琉球尚家を含む255家に史料の提出を命じた。近世の政体が二百数十の大名家の連合体であり、明治の改革も大名家の協力なしには不可能であったことなどから、大名家と公家による維新史は薩長中心でなく、史料の収集と羅列に落ち着いた。史談会の事業は文部省に引き継がれ、1911年維新史料編纂会が設置され、1931年に『大日本維新史料稿本』が一応完成し、維新政治史の到達点として維新史料編纂事務局『維新史』全6巻(本編5、付録1、1939―1941年)が編纂された。 ほか、宮内庁図書寮編『三条実美公年譜』(1901)、多田好問編『岩倉公実記』(1903)、勝田孫也『大久保利通伝』(1910)、妻木忠太『松菊木戸公伝』(1922)、会津松平家に関わる北原雅長『七年史』(1904)、山川浩『京都守護職始末』(1911)、中村勝麻呂『井伊大老と開港』(1909)、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』(全8巻、大正7年(1918年))、末松謙澄『防長回天史』全12巻(修訂版、1921年)が編纂刊行された。 維新政府はみずからの正当性として「王政復古」論を主張し、『大政紀要』(宮内省系)や『復古記』(太政官系)という形で公表した。 これに対して、戊辰戦争のさなかの1868年8月に出された小洲処士の《復古論》は、維新の変革は草莽(民間)から起ったとする「草莽復古」を論じた。 明六社の明治啓蒙思想家は維新の開明性・進歩性を強調した。 福沢諭吉は『文明論之概略』(明治8年、1875年)において、幕末から明治の改革を「王政一新」と呼び、尊王や攘夷が幕藩体制を倒したという俗論を批判し、江戸幕府下における「門閥」を基盤とした「専制の暴政」に対する人々の不満が内実にあったからこそ、単に政権が交替するだけではなく、武士身分の解体としての廃藩置県まで到達したとして、人々の智徳(知識と道徳)の進歩によって歴史が動いたと評した。 旧幕臣出身の在野史家田口卯吉は22歳で『日本開化小史』(明治10-15)を自費出版し、勤王史観から離れて維新を評価した。 イタリアでジュゼッペ・ガリバルディ軍のスラヴ義勇軍副官として転戦したり、バクーニンの支援者でもあったロシア人革命家レフ・メーチニコフは、パリ・コミューン敗北後のパリで日本に革命が起こったという報に接し、在仏していた大山巌の紹介で1874年に日本に赴任したあと1881年(明治14)に執筆した著書で明治維新を「歴史上我々が知りうる最も完全かつラジカルな革命」と評価した。しかし、列強の偽善的政策と国内の支配者集団の権勢欲のために道は険しいと警鐘を鳴らした。 藤田茂吉『文明東漸史』(1884年)は、蛮社の獄を詳述し、1887年には島田三郎の井伊直弼伝『開国始末』が刊行された。 小中村義象は『大政三遷史』明治21年(1888年)で、大化改新、建武の新政、明治維新を大政三遷とする。 勝海舟の『海軍歴史』『陸軍歴史』(1889)を、野口勝一が『維新史料』(1887―1896)を刊行。明治20年代初頭に維新史ブームが生まれた。 徳富蘇峰の民友社では、竹越与三郎が『新日本史』(明治24年-明治25年)を刊行し、明治維新の原因を勤王論による政治運動と説く歴史観や、外国の圧力を維新の原因とみる歴史観を批判し、徳川時代に芽生えていた社会全体の潮流、社会的革命があったからこそ、「代朝革命」が起こったと論じた。竹越は、明治維新を、イギリスのような「復古的革命」、フランスやアメリカのような「理想的革命」とも異なる「乱世的革命(アナルキカル・レボリューション)」と位置づけながら、新政府について「維新の大目的を失忘して、邪径に走らんとす」と批判した。 徳富蘇峰も自ら『吉田松陰』(1893年)を、さらに『近世日本国民史』で明治維新を論じた。蘇峰は、旧幕の外国方で働いた福地源一郎に『幕府衰亡論』(1892) 『幕末政治家』(1898)を依頼した。 日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた若い頃の北一輝は、明治39年(1906年)の『国体論及び純正社会主義』で、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命の民主主義」は「無計画の暴発」であり、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみ」と批判し、つまり、自由民権運動の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったのは自由民権運動であると論じた。また、北は竹越與三郎から影響を受けており、特に竹越の『二千五百年史』(1896)における大化の改新を範型とした維新観に深い影響を受けた。竹越は、大化の改新を「空前絶後の国体変革」として、それ以前の社会は天皇の一族が、中臣氏、忌部氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏などの諸族を統治する族長であり、直接民を統治していたわけではなく、「国家」や「国民」はなく、「天皇は国家の君主にあらずして、諸族の長たるに過ぎず」という状態であった。大化の改新によって、貴族豪族の私民私領が廃され、奴隷、公民、土地すべてが国家に属すると定められ、族長の集議所は政府となり、族長政体を官制組織となり、天皇は人民を統治する君主となったとし、「神武以来一千三百年、日本の国民初めて成り、王制初めて生じ、国家初めて現出したるなり」と論じた。北は、「維新革命は大化の王制に復古したるものにあらず。大化の革命に於て理想たりし儒教の公民国家が一千三百年の長き進化の後に於て漸くに実現せられたるものなり」と評した。しかし、天智天皇の死とともに公民国家の理想は去り、家長国となったと批判した。北は君主主権でなく、国家主権の国家を理想とした。北はその後、中国の辛亥革命に身を投じ、『日本改造法案大綱』(大正12年(1923))を書いて昭和維新に大きな影響を与えた。 ジャーナリストの石橋湛山は、明治時代を帝国主義的発展の時代と見られがちだが、日清日露等の戦争はやむを得ず行ったもので、明治の最大の事業は戦争でも植民地の発展でもなく、政治、法律、社会の制度と思想においてデモクラチック(民主主義的)の改革を行なったことにあると論じた。 自由民権運動は、五箇条の誓文の一ヵ条を論拠にして国会開設を主張し、維新は「自由」への一歩であり、その精神を引き継いだ民権陣営こそが「維新革命」の正統な後継者であり、民権運動は「第二の維新」だと主唱し、これは民友社の平民主義にも受け継がれた。 民友社の人見一太郎が『第二之維新』(明治26年、1893年)で明治藩閥政府を批判した。人見は「公議輿論」を「維新の大精神」とみなし、明治2年の版籍奉還の頃、公議所から集議院へ切り代わる頃には、「維新の大精神」が尊重されなくなり、立憲君主制が誕生していったものの、維新の理念が失われていったと明治政府を批判した。 大正デモクラシーでも護憲運動を背景に、「第二の維新」としての「大正維新」が唱導された。医者の加治時次郎は『第二維新』(大正15年、生活社)という書籍を刊行した。 軍部・右翼らが唱えた昭和維新では、君臣の本義、忠孝の道によって、絶対化された天皇への回帰に維新の原理はあるとする皇国史観による維新論が起こった。やがてこれは「東亜の維新」でもあるとされた。他方、政治思想史研究者橋川文三や、思想史家の渡辺京二は、西郷隆盛らの反乱を「第二維新革命」の遂行と挫折であったと位置づけ、昭和維新の首唱者である北一輝を挫折した維新革命の継承者であるとみなした。 昭和初期には、大衆小説や古老の体験談・回顧談などの「明治維新物」ブームもおこった。 1920-30年代には、政党や財閥を批判して天皇親政を主張する国家革新運動「昭和維新(皇道維新)」が起こった。昭和維新の主張者は、明治維新の継承を唱えた。例えば1928年(昭和3)の海軍青年将校藤井斉らの王師会綱領に「明治維新ヲ完成シ」とみえ、五・一五事件(1932)の檄文にも「維新日本ヲ建設セヨ」と書かれた。1936年には二・二六事件が起こった。 維新の政治史は、藤井甚太郎、井野辺茂雄らによって実証研究が進展し、維新史料編纂会の『維新史』 (5巻)などで集大成が図られたほか、維新の社会経済史は1920年代より、幸田成友、本庄栄治郎、土屋喬雄らが実証研究をなした。 昭和初期の代表的な維新論として、マルクス主義者によるものがある。野呂榮太郎は「日本資本主義発達史」(1927年)で明治維新を「ブルジョワ革命としての明治革命」とし、「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位に即かしむるための強力的社会変革」と規定したが、コミンテルンの「日本問題に関する決議」により野呂はこの説を放棄した。しかし、その後山田盛太郎、野呂栄太郎、服部之総、羽仁五郎らは『日本資本主義発達史講座』(1932-1933年、岩波書店)をまとめた。これに対して、労農派が批判し、同講座の執筆陣が講座派とされて、日本資本主義論争(1933年-1937年)が起こった。日本共産党の活動方針を巡って講座派と労農派はそれぞれ二段階革命論、一段階革命論を唱えた。労農派は明治維新により日本は資本主義段階に突入したと考え、マルクス主義の唯物史観の公式通りただちに社会主義革命を目指すべきだと主張したのに対して、講座派は明治維新は不完全な民主主義革命であり、日本は未だ半封建的な段階にあるとし、まずブルジョワ民主主義革命を目指し、その先に社会主義革命はあるという二段階革命論を主張した。1934年に特別高等警察による野呂栄太郎が拷問死し、さらに1936年にコム・アカデミー事件での講座派一斉検挙により壊滅した。1937年人民戦線事件で労農派も一斉検挙された。 終戦後講座派は復活し、羽仁五郎は『明治維新』(岩波新書)、『明治維新之研究』(岩波書店)を刊行した。 羽仁と親しくしていたカナダ外交官・日本史学者(戦時中は太平洋問題調査会研究員)のハーバート・ノーマンは、講座派の影響を受けており、『日本における近代国家の成立』(1940、邦訳1947年)で、明治維新の主体は下級武士とブルジョワ的豪農の同盟であったが、維新後、武士は豪農を裏切り、工業化のために課税を強化したとした。ノーマンによれば、明治維新は農民を犠牲にして資本の蓄積と集中が遂行された「上からの変革」であり、これは「絶対主義国家の力」によるもので、新政府の「武断官僚」は専制権力を手際良く利用したと説明した。ノーマンは、徳川幕府が封建制の廃止や政治改革を実現できなかったのに対して、明治政府は、工業、法典、教育などの分野で近代化を成し遂げたが、そうした近代化と、その政府が権威主義体制であったことととは矛盾するわけではないという。ノーマンは1953年の序文で、「明治政府をむき出しの絶対主義と規定することはたしかに過度の単純化であり、あるいは歪曲である」が、明治政府は廷臣、官僚、軍人、特権的企業家からなる寡頭権力者からなる、「立憲制度の大礼服に飾られた絶対主義であった」と主張した。同書は日本で大きな反響を呼んだ。 マルクス主義歴史学の立場から、長州藩を維新の主体の典型とみなした上で明治維新を天皇制絶対主義の成立とみなす遠山茂樹『明治維新』(1951年、岩波書店)が主流の地位を占めた。 遠山茂樹は以下のように明治維新を説明する。 三谷博によれば、遠山説では、天皇と幕府の対立が大変動の発端であったことが黙過され、国際環境よりも国内条件が重視され、また、昭和史のイメージを維新史に投影して、ファシズムが維新当初から存在していたように語り、政治運動においては長州を維新の主体として着目する一方で、薩摩、越前藩などの公議政体論を軽視または無視し、外国勢力ではイギリスを排他的に重視するなど、階級闘争史観の影響で一元論や二元対立に傾いた過度に単純化された政治史となった。遠山説は、仮説を述べ、実証研究を促す宣言の書であり、以後継承された研究の潮流では、徳川将軍、旧幕臣の開明派、譜代大名の研究が軽視されたり、政治史と経済史が乖離するといった研究の偏りを生んだ。遠山は、体制権力と下層階級の全面対立を好み、それが見られないことを不満げに説明するが、明治維新の持つ複雑性の説明としては不適当で、支配身分(武士)の消滅は世界史上でも際立つ特徴であるがまだ解明は十分でなく、また世界革命史において維新は著しく犠牲者が少ないこと、また「復古」象徴の利用はフランス革命にも認められることで日本特殊ではないこと、また「復古」の参照先が律令時代でなく神話であったことは復古の名の改革に自由度を与えたこと、などを三谷は指摘した上で、遠山の大振りな思考の展開には感銘を受けたと評した。 遠山以降、田中彰『明治維新政治史研究』(1963年)も標準的な研究となった。 長州藩を維新の主体の典型とみなす見方に対して、公武合体派の薩摩藩を重視する毛利敏彦『明治維新政治史序説』(1967年)も登場したが、この時期までの研究は、倒幕派に敗れた東北諸藩、倒幕派でも佐幕派でもない中間的な立場の諸藩の役割が軽視していると後に批判された。 吉野作造の継承者でもある政治学者岡義武は、『近代日本の形成』(1947年)およびその改訂『近代日本政治史I』(1962年)において、明治維新は、西洋の脅威に直面した国が近代化しなければ独立が保てないという、マルクス主義のカテゴリーには入らない民族革命であると論じた。岡によれば、幕藩体制が内部矛盾で不安定になっていたところへ外圧があり、国内に激しい民族的反発感と民族的危機感が生まれ、さらに朝廷と幕府の対立は国家権力の二元化を生んだが、これを精算して国家的統一を強固にし、民族独立の確保が目指された。幕藩体制に回帰するか、朝廷を中心とした新体制かで紛糾したが、後者が選ばれた。岩倉具視は慶応3年4月に「天に二日なく、地に二王なし。政令一途に出でずして何れの国か立ち可申や。」といい、徳川慶喜も大政奉還上表に「朝權一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公儀ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可竝立候 (朝廷に権力を一つとしなければ統治が難しく、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、心を一つに協力し、共に皇国を保護していけば、必ず海外万国と並び立ちうる)」と述べ、国家権力の一元化を図った。こうして、幕末明治の変革とは、「民族の独立確保あるいは民族の対外的勢力拡大を目的としてなされる国内政治体制の変革」、すなわち民族革命であったとした。 比較文化研究の桑原武夫は1956年の「明治の再評価」で、マルクス主義者は明治維新を「天皇制絶対主義」の成立とみなすが、維新によって身分制がなくなり、国民の自由は大幅に増大するなど画期的変革であったことは否定できず、欠点と矛盾はあったが、「明治の革命は巨視的にみて、一つの偉大な民族的達成であった」と論じ、1961年にはマルクス主義者らが、明治のナショナリズムを「できそこない」と低評価する一方で同時代のアジア・アフリカのナショナリズムを高く評価するのは政治的配慮ないしセンチメンタリズムだと批判した。(以降の桑原の発言については後述) 井上清は1966年に、明治維新は血を流さずに成就したとの評価に対して、戊辰戦争での戦死者数は新政府軍が3556人(負傷3804人)、旧幕府軍が4707人(負傷1518人)であったと反論したうえで、こうした犠牲があってはじめて、幕藩体制が早期に打倒され、人民の封建制からの解放と日本民族の国家的統一、そして欧米から植民地化される危険から脱出する一歩がふみだされたとした。 アメリカ合衆国での歴史学では日本近代化論の研究が進められた。1960年代のアメリカの東洋史研究者エドウィン・O・ライシャワーや日本研究者マリウス・バーサス・ジャンセンは、明治維新による近代化を評価した。 ジャンセンが、ジョン・ホイットニー・ホール、ドナルド・H・シャイブリー、トマス・C・スミスらとともに設立した近代日本研究会議(Conference on Modern Japan)は1960年に日米の学者を集めて箱根会議を開いた。ホールらが「近代化」を、近代を特徴づける諸変化を包括し、他の地域との比較を可能とする概念とみなしたのに対して、日本の学者らは「近代化」を「歴史の中で実現すべき価値理念」とみなし、遠山茂樹は「近代」をマルクス主義と違う意味で用いることの意図を疑い、川島武宜も「民主化」を主軸に据えていないと批判した。ホールは、イデオロギーの構築でなく、あらかじめ決まった結論を前提としないオープン・エンド・アプローチを用いた。 雑誌『中央公論』では、1961年5月号から8月号にかけてクラーク・ケェア、労働経済学者のフレデリック ・H・ハービソン、ジョン・トーマス・ダンロップ、チャールズ・アンドリュー・マイヤーズ、中山伊知郎、尾高邦雄、蝋山政道らが日本の経済的近代化、産業化と民主化について議論をしており、その中でライシャワーは日本の近代化の成功は、低開発諸国の手本になると発言した。 近代日本研究会議が「日本における近代化の問題」(1965、邦訳1968)を刊行すると、多くの反響を呼んだ。米国ではベトナム戦争に反対するニューレフトの歴史学者ジョン・ダワー、ハーバート・ビックスらの“Committee of Concerned Asian Scholars”(憂慮するアジア研究者委員会)は、駐日アメリカ合衆国大使を務めたライシャワーや、ジャンセン、ホールらの近代化研究を、中立を装って日本の近代化の成功を強調するイデオロギーであると批判した。ダワーらは、赤狩りで共産主義者と断定されて自殺したハーバート・ノーマン(前述)を称えた。日本でも明治百年記念式典(1968)に関連して「近代化論」を批判するなどの論争も発生した(後述)。歴史学者安丸良夫は日本近代化論を「新たな支配イデオロギー」と批判し、社会学者の金原左門は近代日本研究会議がフォード財団から多額の補助金を受けたことを問題視した。近年でもヴィクター・コシュマンは2003年の論文で、日本近代化論は冷戦下の日本が共産主義化しないための施策であったと主張した。 こうした批判に対して、箱根会議に参加した丸山眞男は、近代化論は西欧の近代化を絶対として非西欧を図るとして批判されたが、これは誤解であり、ジャンセン、ホールらの近代化論は、近代化の道が多様で複数であることを当初から言っていたと語っている。 マリウス・バーサス・ジャンセンは『坂本龍馬と明治維新』(1961年)で坂本龍馬と土佐藩が維新で果たした役割を取り上げた。ジャンセンは、19世紀にはアメリカで奴隷解放、ロシアで農奴解放が起きる一方で、アジアは欧米の干渉によって変革あるいは反発が起きた。インドではセポイの反乱の結果、大英帝国の支配下に置かれ、中国ではアヘン戦争と太平天国の乱が起きたた。日本でも外圧のなか政治的・知的な激動が変革を醸成した結果、民族的に統一された国家が誕生した。この「日本革命」の成功は、フランス革命が当時の周辺国に影響を与えたように、中国の革命家孫文、康有為、朝鮮の金玉均、フィリピンの革命家エミリオ・アギナルド、インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースらを刺激し、特に孫文は自身を維新の英雄になぞらえていたという。同書は、小説家の司馬遼太郎に大きな影響を与えた。その後、ジャンセンは1986年に、明治維新は「単なる復古でなくて、革命」とし、2000年の大著The Making of Modern Japanでも、幕末から明治にかけての大変革は、「日本の制度へ恒久的な変化をもたらしたので、革命と呼ぶに直する」と述べる。 経済学者・哲学者のアマルティア・センは2006年の著書で、米国の蒸気船などの技術力に驚いた日本は、それまでの外交政策を見直すとともに、教育政策を見直し、御誓文では知識を世界に求めることが宣言され、1872年の学制では、「不学の戸・不学の人」をなくすことが目指され、1910年には小学校教育が普及し、1913年にはイギリスやアメリカ合衆国よりも多くの書籍が刊行された。木戸孝允は「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ学不学にあるのみ」と述べ、欧米人もアジア人も同じ人間であり、教育水準をあげればアジア人も欧米に追いつくことができると考えた。センは、日本における近代化の成功は、ケイパビリティ (潜在能力)の形成によって成し遂げられたとし、日本は、国民の教育水準・識字率を高めれば、社会や経済を改善させ、短期間でも近代化と経済発展を実現できるということを証明し、アジア諸国の模範となり、東アジアの奇跡は日本の経験によって鼓舞されたものであったとする。 このほか、ソ連の日本学者は、明治維新は、1867-8年の政治クーデター、1868年から1873年の200回にもわたる百姓一揆、ええじゃないかなどの民衆運動などが相互に関連する不可分の複合体を成している革命であったと規定した。ソ連の日本研究家イゴール・ラティシェフは明治維新は「未完のブルジョワ革命」であるとする。P.フェドセイエフは「ブルジョワ民族主義革命」であるとする。 中国文学者の竹内好は1960年2月「民族的なものと思想」において、民族的(ナショナル)なものを大事にしないと,逆に過激なナショナリズムを成立させる危険があるとした上で、革命の未来を描く手がかりとして「明治維新百年祭」とその是非を議論することを提案した(のち政府主催となって以降は撤回)。また竹内は「明治維新と中国革命」(1968年)において、「明治維新は未曾有の変革を意図し、また実現したものであるが、明治国家は一つの選択にしか過ぎず、もっと多様な可能性をはらんでいた」と述べた上で、孫文の中国革命と比較する。孫文は「日本維新は中国革命の第一歩、中国革命は日本維新の第二歩」と述べたが、これは日本維新を純化させ、「維新」を帝国主義の対極とみなし、中国革命を世界から不平等が除かれることを目標とした永遠の過程であると考えた、と竹内はいう。竹内は、近代日本は「維新」の意義を矮小化させてしまったとし、未完の明治維新を重視した。 1968年(昭和43年)10月23日、佐藤栄作政権で明治百年記念式典が開かれた。木村毅・林房雄・安岡正篤・池島信平らの広報部会では、戦後日本の復興をなした基盤としての明治が讃えられ、また、ライシャワーの近代化論や、徳川時代の再評価も行われた。同年、司馬遼太郎の『坂の上の雲』が連載を開始した。 他方、歴史学研究会・歴史科学協議会・歴史教育者協議会は、明治百年祭は1940年の紀元二千六百年記念行事と似た危険があると反対した。1968年7月には、家永三郎・板垣雄三•井上清• 江口朴郎・遠山茂樹・永原慶二•野原四郎・旗田巍•松島栄一らが「明治百年に反対する声明」を起草し、3675人の署名を得た。反対声明では、明治は「天皇制絶対主義」を生み出した日本帝国主義の形成期であり、女性、被差別民、沖縄人、朝鮮人にとって差別と抑圧の歴史であり、「近代化論」は近代日本がアジアの犠牲の上に成り立ったことを覆い隠すものだと批判した。学界では、大江志乃夫が歴史研究において明治維新の可能性と現実の近代日本との落差の評価を行うべきではないかと提言すると、井上清がこれを「何をいっているのか分からない」と批判し、佐藤誠三郎が戦前の講座派よりも戦後歴史学は硬直していると表明すると、遠山茂樹がこれを「主観的だ」と批判した。 元総理大臣の石橋湛山は、明治時代の遺産とは、日本が帝国になったことではなく、五箇条の御誓文によって日本が民主主義と言論の自由を重視するようになったことだ、と論じ、1968年の反戦デモに明治の遺産が生きている、とみなした。 維新政権の研究は原口清「戊辰戦争」(1963)や下山三郎「近代天皇制研究序説」(1976)によって本格的に着手された。宮地正人は、幕府、朝廷、諸藩の動向を総体的に捉えようとして幕末過渡期国家論を提唱し、それまで見落とされていた天皇、朝廷の動向を視野に入れ、斬新的な研究となった。これに続いて、原口清は国是(最高国家意志)樹立をめぐる諸勢力の運動・対立という視座を設定し、慶応3年の五箇条誓文を国是樹立運動の帰結とした。宮地や原口のダイナミックな関係史の研究によって、長州藩と会津藩のように政治状況によって「勝者」「敗者」が刻々と変わるなか、当時の政治家の個性が描き出されるようになり、その後の研究潮流の源流となった。 明治維新では幕府が廃止されると同時に摂関制度も廃止されるなど、天皇や朝廷の研究も重要であるが、戦前には皇国史観でタブー視され、戦後も戦前への忌避感から研究が遅れていた。井上勝生や藤田覚の研究によって、文久3年の八月十八日の政変の主役を孝明天皇とする見解などが提出され、武家に操られる天皇というイメージが一新され、以後の幕末維新期の天皇研究に大きな影響を与えた。 また、一橋徳川家の徳川慶喜、京都守護職・会津藩主の松平容保、京都所司代・桑名藩主松平定敬の三者により構成された一会桑勢力が重視され、従来の「幕府対薩長」という単純な図式に大きな変化がもたらされた。家近良樹の「幕末政治と倒幕運動」(1995)では、それまで「敗者」として悲劇的に捉えられがちだった会津藩の存在を高く評価した。宮地正人は、歴史ファンやマニアの研究対象出会った新選組が一会桑との役割から研究した。この他、久住真也「長州戦争と徳川将軍」(2005)では幕府の新仏派の研究も行われた。 開国研究としては、三谷博「ペリー来航」(2003)や荒野泰典「日本の対外関係7 近代化する日本」(2012)などで従来の「不平等条約」「鎖国」「開国」の見直しを再評価がなされている。 高橋秀直や、家近良樹の研究では、王政復古クーデタは倒幕を目指していなかったことが明らかにされ、また王政復古で成立した新政府は、天皇より公議原理が優位にたつ(天皇親政ではない)政府であったことが明らかにされた。三谷博も「維新史再考」(2017)で公議研究を進めた。 日本思想史研究の子安宣邦は、明治維新は民衆にとっては明治5年の徴兵告諭における兵役の義務であり、国民にさせられていく過程であり、畏怖すべき国家の現前だったと言う。 2018年(平成30年)10月23日、明治維新150周年を記念して政府は式典を憲政記念館で開いた。10月23日は明治へ改元された日であり、1968年の明治百年祭も同日に開催された。安倍晋三首相(当時)は式辞で「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べた。明仁天皇(現上皇)と美智子皇后(現上皇后)は、政府が招待せず、参列しなかった。 2017年から2018年にかけて多くの研究書や一般書が上梓された。歴史学者の著作としては、三谷博『維新史再考』、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』などがある。 経営学者米倉誠一郎は『イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応』(東洋経済新報社、2017年)で激動の維新において創造的対応をなした人物に注目し、高島秋帆がアヘン戦争で危機感を高めて、西洋砲術の研究をし、モルチール砲を輸入し分解模造(リバースエンジニアリング)を行ったことや、大隈重信が秩禄処分において、士族の俸禄を数年分の合算総額に7%の利子を付けた公債を発行(バウチャー制度)を生み出して生活を保障、同時に旧士族が起業や農工商への転職できるように士族授産政策も実施したこと、笠井順八が日本に存在しなかったセメント製造をベンチャー事業として行ったこと、三野村利左衛門が三井家に外部から入り、祖業の呉服商を三越家に分割し、三井銀行を設立し、三井財閥を中興させたこと、また同じく外部から登用された益田孝が三井物産を設立したこと、岩崎彌太郎が三菱商船学校や三菱商業学校を設立し、人的資源を確保するなど多角的事業体の三菱財閥を発展させたことなどを讃えた。 明治維新150周年については批判的な意見を言う者もおり、歴史学者奈良勝司は、明治日本では、武力(国力)の底上げへの奉仕を国民が強いられたと総括し、『明治の精神』への回帰とは、日本賛美による癒やしであり、「アトラクション化させた過去の消費」やご都合主義的に加工した歴史への逃避では、未来の展望につながらないと警告した。平和学者木村朗は「明治翼賛の最大の問題は、自国に不都合な歴史的事実の忘却」にあるとし、近代日本は「アジアで唯一の帝国主義国家」となり、アジア諸国への侵略、会津藩の悲劇や、アイヌ・琉球への差別は明治維新の歪みだとする。女性史研究家加納実紀代は、明治日本は女性の抑圧を国家の制度として確立したとし、民法で女性を準禁治産者扱いし、高等教育や政治参加を禁じたと指摘し、明治150年記念行事は、明治以後の歴史を肯定一辺倒に染める恐れがあり、一方的な歴史認識が定着しないよう注視する必要があると警告した。元学生運動家で科学史家の山本義隆は『近代日本150年』(2018年)で「科学技術総力戦」という角度から日本の近代を論じた。ジャーナリストの斎藤貴男は、政府主導の明治維新記念行事は、時の政府(長州藩につながる第4次安倍内閣)礼賛に繋げようとしていると疑念を表明している。 記者リチャード・カッツは、「明治維新は米国の独立記念日やフランスの革命記念日のようなものなのに、現代の日本人はなぜ、維新150周年を祝賀しないのか」と疑問に思い、調査すると、明治維新を戦争時代の暗い歴史と結び付けて考えている日本人が少なくなかったという。日本近代史研究のピーター・ドウスは、明治維新が「民主主義や経済的繁栄ではなく、日本を超国家主義や植民地支配の拡大、すなわち破滅へと導いていったと考えている日本人は多い」と指摘する。 日本思想史研究の苅部直は『「維新革命」への道』(2017)において、マルクス主義歴史学の遠山茂樹などのような、明治維新による文明開化を政府が上から強引に西洋化を進め、庶民にとっては迷惑であったとするような評価は、事態の一部しか捉えていないと批判し、公儀の瓦解と新政府の発足は、人々にとって生活全体に及ぶ束縛からの解放と感じられ、また西洋化もその動きの一環として歓迎されたと述べている。苅部によれば、人民の側に立つ歴史学を標榜する遠山茂樹は、庶民が文明開化を求め、楽しんだ実態には触れようとしないが、それは、遠山が戦時中の1944年の論文「水戸学の性格」で、孝明天皇による「仁慈限りなき御叡慮」による幕藩封建体制の改革で、「一君万民の我が国体の精華」が「革新力」となると論じたことへの苦い反省があったのではないかと指摘している。また、文明開花以前の古い日本に憧れるロマンティシズムや、薩長の暴虐を強調する幕臣びいき・江戸っ子びいきの歴史観も、遠山と同様に、民衆に共感することを標榜しながらも、当時の民衆が文明開花を楽しみ、欲望の発散の機会が多くなることを願ったという実態について書かないような「民衆不在」の罠にはまっていると苅部は批判する。 政治史研究の北岡伸一は『明治維新の意味』(2020年)で、明治維新は既得権益を持つ特権層を打破し、様々な制約を取り除いた民主化革命、自由化革命、人材登用革命であったとする。北岡によれば、江戸時代に国政に参加できたのは、将軍と譜代大名で構成された幕閣であり、親藩と外様大名は排除されていたが、黒船来航以降、雄藩や朝廷も国政に参加するようになり、特に下級武士を登用した薩長が台頭した。その後の維新でこれらの下士出身の官僚らは、自藩を含む藩を全廃し、武士を含む身分制度さえも廃止した。初代内閣総理大臣になった伊藤博文は農民(足軽)の出自であったが、江戸時代には政治への発言も許されない身分であった。さらに西南戦争以後の自由民権運動を経て、内閣制度が確立すると、豪農や内戦中は朝敵とされた東北出身者の政治参加も盛んになり、1890年には信越東北の国会議員が誕生し、1918年には盛岡藩出身の原敬が総理大臣になった。地租改正によって中世以来の石高制も廃止、田畑の売買も自由になった。職業選択も自由とされ、身分を超えた教育精度も導入された。 日本思想史研究の子安宣邦は『「維新」的近代の幻想』(2020年)で明治維新に端を発する日本近代のあり方を批判した。 薩長土肥中心に語られてきた明治維新を批判する立場として、明治維新の「敗者」、特に戊辰戦争における会津藩や奥羽越列藩同盟などの「敗者」視点から書かれたものも多数ある。戊辰戦争、新選組、小栗忠順、上野戦争、会津戦争、箱館戦争の各項目を参照。 会津藩については、司馬遼太郎が小説「王城の守護者」(1965年、別冊文藝春秋)で会津藩主松平容保の孝明天皇への忠誠を中心に会津藩の悲劇が強調されたあと、多数の《会津もの》小説が続いた。司馬をはじめ、長州への敵意が繰り返し説かれた早乙女貢の『會津士魂』(1970-1988)、綱淵謙錠『戊辰落日』(1978)、中村彰彦らの《会津もの》小説は、「怨念史観」の源泉を提供していった。石光真人編 『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(1974年, 改版2017年)も出た。会津の郷土史家宮崎十三八は、「長州への怨恨」を基盤として、「会津は明治政府から徹底的にいじめられてきた」とする「観光史学」を提唱した。宮崎が新潮451992年10月号に発表した「会津人の書く戊辰戦争 ヒロシマのピカドンと同じ惨劇」では、会津への長州の砲撃とアメリカによる原爆投下とは、「一般住民を全く無差別に暴力でぶっ殺したのは、全く同じだった」とし、「会津戦争の悲劇を日本人が知っていたならば、太平洋戦争の悲劇は防げたかもしれない」と主張した。こうした宮崎の「怨念史観」に対しては、宮崎の同級生だった畑敬之助や牧野登らによる批判がある。 なお、こうした「怨念史観」の一つとして、新政府軍が遺体の埋葬を禁じ、会津藩士の遺体が半年間野ざらしにされたという「埋葬禁止説」が1960年代以降現在まで流布されてきた。しかし、2016年12月に、戦死した藩士らの埋葬が記録されていた史料『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳』が会津若松市で発見され、新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令し、翌10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、567体の遺体を埋葬したことがわかった。「埋葬禁止説」について、会津若松市史研究会の野口信一は、会津戦争から半年後の1869年2月に阿弥陀寺に遺体を改葬したことが『半年間も放置した』と誤認された要因とみて、「歴史の話を聞くと、悲劇的な部分が頭に残りやすい。歴史は、耳学問ではなく自ら学ぶ姿勢が必要」と話す。 司馬遼太郎は『「明治」という国家』(1989)で、明治維新最大の功績者は、権力を放棄した徳川慶喜と勝海舟であり、それに比べて薩長は力にすぎないが、新政府側の士族にしても戊辰戦争の恩賞もないどころか、廃藩置県や秩禄処分による士族解体に大名側で反乱がなかったのは不思議だという。司馬は、江戸時代の日本は「自立、自助、勤勉」でプロテスタンティズムに似ており、明治政府もこれを踏襲したが、ヨーロッパの合理主義を買い続けて、江戸の合理思想を捨てた結果が昭和の没落ではないかと論じた。 文化人類学者山口昌男の『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)では、維新以後の薩長中心の階層秩序から離れた文化活動を行ったとして、淡島椿岳・淡島寒月、大槻如電、山本覚馬、大橋佐平、土田杏村、吉野作造や、旧幕臣らの事績が扱われた。 西洋史学の河野健二は「明治維新と「西洋」」(1964)において、明治維新は経済的にはブルジョワ革命であり、政治的には不徹底な革命であったとする。ただし、徹底不徹底は程度問題でもあり、イギリス革命はフランス革命よりも不徹底であったし、ジョルジュ・ルフェーブルがいうようにフランス革命も「農民革命」という点においては不徹底であったという。河野によれば、明治政府は、自由民権派による国会開設請願運動に対して憲法制定・国会開設を約束するという先手を打つことによって革命の矛先を巧みにそらしたことができた革命政権であった。河野健二編『近代革命とアジア』名古屋大学出版会 1987では、西欧の革命と明治維新が対比されながら、明治維新の変革性がクローズアップされ、明治維新を絶対主義の成立とする見方はもはや見られなくなった。 フランス文化研究の桑原武夫は1956年には明治維新を「後進国型のブルジョワ革命」と評価していたが、1974年には明治維新は「文化革命」として徹底性があったとし、1986年には「ナショナリズムに立つ文化革命」と評価した。桑原は「社会における巨大な変化を革命と呼ぶこととすれば、維新こそ革命と呼ぶべき」で、「明治維新を革命と呼ばずして、七月革命とか二月革命などという名称を平気で使っているのは滑稽であります。最後の将軍は殺されなかったのですが、これはいわば日本人の英知であって、流血が少ないからダメとは言えません」と述べ、かつて自分もブルジョワ革命とも言ったことがあるが、もうその用語は使わない、マルクス主義風の発展段階説では解けないところが維新にはある、たとえば自由民権運動の指導者だった中江兆民が帝国憲法を設計した井上毅を敬愛した矛盾が説明できないし、天皇も絶対専制君主ではなかったといい、また、新国家の軍国主義の侵略行為も「罵倒から始めるのではなく、西欧先進国の場合をも併せ考え、冷静に研究すべき」と述べた。 西洋史学の遅塚忠躬によれば、イギリス革命では革命の担い手がジェントリに限定されていたため、共通の利害を見出すことができたが、フランス革命では、ブルジョワジーと大衆との間に共通の利害を見出すことが困難であり、革命の路線に対して党派対立が激化したがゆえに粛清にいたったとし、こうして独裁とテロル、流血のコストを払ったのはフランス革命が社会革命であったからとする。遅塚は、明治維新はフランス革命よりも流血が少ないと強調されるが、フランスが市民社会を創出し、社会的デモクラシーを提示し、近代化を進めたのであり、「明治維新が世界にどういう貢献をしたかを考えるとともに、世界が血まみれのフランス革命に負っているものが何であるかをも考慮すべきであろう」と指摘する。 トマス・C ・スミスは1967年に、明治維新は「1789年の大革命がフランスにもたらした以上の大きな変革を日本にもたらした」と評した。 経済学者ケネス・E・ボールディングは1970年に、コストが小さく持続的な成長をもたらした成功した革命はアメリカ独立と明治維新であるとした。 他方、イェール大学歴史学教授で日本近代化論者のジョン・ホイットニー・ホールは1971年に、日本にはフランス革命やロシア革命のような政治的イデオロギーがなく、明治維新はブルジョワ革命でも農民革命でもなかったと評した。 作家フランク・ギブニーは、明治維新を、アメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命と同列の、五大革命の一つとし、明治維新は近代世界における最初の大文化革命であったとする。ギブニーは、明治文化革命は、中国共産党の指導者が自己の権力の座を守るために扇動した文化大革命とは違うという。明治革命は、中下級武士が指導したが、知識人、豪商、町人階級、農民も参加し、主として国民の合意によるもので、または、国民の期待感の高揚があり、下層の身分であっても能力があれば権威になれたことを民衆が目の当たりにするにつれ、「多くの人々にとってー幕藩体制の支持者にとってさえー、革命の具体的成果の正当性は明らかであった。それ以上に、新しい慣習、新しい思想、新しい技術、新しい知識には国民の心を魅了する力があった」と指摘する。さらに、アメリカとフランスの革命が政治的革命であり、ロシアと中国の革命がイデオロギーの革命であったのに対して、明治革命は近代史のなかで試みられた最初のトータル・レボリューション(Total Revolution)全面革命であったという。また、ギブニーは、2000年の書評でも、明治維新はフランス革命やロシア革命の多大な流血とは対照的であったと評する。 歴史学者Thomas M.Huberは、1981年の著書Revolutionary Origins of Modern Japan (Stanford University Press)で、明治維新を担ったのは、層・下層武士を中心とした、神官・僧侶、医師、教員、名主などのサービス・インテリゲンチャであり 、明治維新とは、封建制度において抑圧されていたこれらの社会階層によって起こされた革命であったとした。 ハーバード大学教授アンドルー・ゴードンは2003年の著書『日本近代史(邦題:日本の200年)』で、1868年前後に日本で起きた明治革命では、政治統一と中央官僚制、身分制の廃止、軍制・教育・税制改革など広範な改革が実現したのであり、これは「政治、経済、社会、文化のどの側面からとらえても、息を呑むほど壮絶であり、まさに革命にふさわしいものだった」とし、19世紀から20世紀にかけて世界各国で起きた近代革命の日本的な展開であったとする。ゴードンによれば、この日本の近代革命は先行する西欧の革命とは対照的であったが、それ以後に起きた諸革命と類似していた。西欧の革命では新興階級である都市ブルジョワジーが貴族階級の特権に異議を唱えたが、日本では武士階級が革命を担ったため、「貴族的革命」ともいわれる。日本の武士は、主君に雇われた「給与生活者・従業員」であったため、西欧の封土や、中国の貴族階級の領土制や朝鮮の両班よりも土地との結びつきが弱く、身分が不安定であった。ゴードンは、明治革命をフランス革命と比べて不完全な革命とするようなこれまでの評価は、ヨーロッパ中心主義的な評価にすぎず、非西欧地域の歴史をその固有な条件に即して理解しようとするものではないため有用でないとし、西欧を基準とせず、同時に、明治革命が世界の近代革命と同様に持続的な激動のプロセスであったことを認識することが肝要であるという。 日本政治思想史研究の渡辺浩は、「明治革命・性・文明」(2021年)で、明治革命とフランス革命は、身分制を壊して中央集権体制をつくった点で共通すると評価する。渡辺は「あれほどの大変革が革命でないとしたら、何が「革命」なのでしょう? かつて、「皇国史観」派は、日本に「革命」があったとは認めたくなかった(この語の元来の意味は、「王朝交代」ですから)。マルクス主義者の多くは、真の「ブルジョア革命」ではなかったと考えた。こうして左右の意見が一致して、革命ではなく、単に「維新」だ、ということになり、今に至っているのです。でも、「維新」は単に新しくなることです。そこで、徳川の世には、今いう「寛政の改革」を「寛政維新」とも言います。「ブルジョア革命」であろうとなかろうと、あの不可逆的な大変革を、たかが「維新」などと呼ぶ方がおかしくないでしょうか。」と説明する。 ウェイクフォレスト大学のR.ヘルヤーとハイデルベルク大学のH.フュースも、明治維新はアメリカ革命やフランス革命と同等の革命的分水嶺として位置付けられるという。 日本近代史研究者で東京大学名誉教授の三谷博は、明治革命は「君主制をピヴォットとする世襲身分制の解体という近代世界史上でも有数の革命」とする。比較革命史で見ると明治維新による犠牲者は極めて少なく、その要因に、「公論」による政治の決定や、長期的危機を予測し、その対応に成功したことなどが挙げられるという。三谷は以下のように考察する。 「最後の講座派」と呼ばれた中村政則は、1848年革命においてブルジョワジーは民衆運動に対して保守化し、イギリスやフランスのブルジョワ革命は終焉するとともに、後進国においては英仏型ブルジョワ革命の実現する条件は失われたため、明治維新を英仏型革命と比較するよりも、近代世界システム論でいう半周辺的資本主義国家群に属する日本は、同じ半周辺国家群に属するイタリア、ロシアと比較した方がよいと中村はいう。19世紀イタリアではリソルジメント(統一)運動が、ロシアでは1861年の農奴解放以降、近代化改革が実施された。ロシア帝国の歴史#大改革と革命の胎動(1855年 - 1881年)を参照。 ウォーラーステインの近代世界システム論では、次の三つに分類される。 イタリアでの改革の主導権は大土地貴族と大ブルジョワジーであったため、農業革命、土地改革が欠如していた。また農工保護関税によって、北部のブルジョワジーと南部の大土地所有が温存され、南北の格差構造も発生した。 ロシア、イタリア、日本の共通点として、集権的かつ権威主義的な国家体制のもとで資本主義的工業化が急速に推進され、先進地域と遅れた地域という構造を残したこと、民衆の政治的権利が抑圧されたことなどがある。 中村はイタリアのアルベルト憲法、ロシア帝国憲法との比較を踏まえ、明治日本の憲法は、絶対主義的性格と立憲主義的性格を併せ持つ「絶対主義的立憲制」と規定した。 明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争・日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている。 ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における壬午事変・甲申政変や清における戊戌の変法やオスマン帝国におけるタンジマートの失敗、長続きしなかったイランのイラン立憲革命やロシア帝国のヴィッテ改革・ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については金玉均など、清の改革については光緒帝、黄遵憲なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。 一定の成功を収めた例としては、パラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイのチャクリー改革、トルコのアタテュルク主義、エジプトのエジプト革命、メキシコのベニート・フアレス改革が挙げられる。 日本は明治維新によって列強と化したことにより、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、オランダなどのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。 一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文やスカルノ、マハティール・ビン・モハマドや毛沢東をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。 中東社会学者の山口直彦は、エジプト史での比較を論じている。 エジプトの初代大統領ナセルは、『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している。 エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「有司専制」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破綻と植民地化を招いたことが指摘されている。 一方エジプト革命から半世紀以上前にオラービー革命を起こしたアフマド・オラービーは、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は生糸しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場である清の付属品、あるいは太平洋進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、スエズ運河を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという。 明治維新の通説として、天皇を戴いた排他的な藩閥政権が、立憲政治の進展を遅らせながら、経済と軍事の近代化に邁進したとするような解釈があるが、日本政治史研究の坂野潤治と産業政策研究の大野健一は、このような解釈は、事実に相反していると批判する。このような通説では、明治政府は、台湾の蔣介石政権(1949-75)、タイのサリット・タノム政権(1958-73)、韓国の朴正煕政権(1961-79)、シンガポールのリー・クアンユー政権(1965-90)、中華人民共和国の鄧小平政権(1976-97)、マレーシアのマハティール政権(1981-)などの開発独裁のイメージと重ねられた。開発独裁の特徴は、1)内外危機への対応、2)強力な指導者、3)指導者を支えるエリート、4)政治改革を後回しにした開発イデオロギーの最優先、5)民主的手続きではなく経済成果に基づく正統化、6)20-30年の同一体制の継続などがあるが、これらのうち明治維新との共通項は1)の内外危機への対応くらいであると坂野-大野は指摘する。 坂野-大野によれば、明治政権は、単純な独裁体制が何十年も存続したわけではなく、カリスマ的指導者が上意下達の命令を下したわけでもなく、経済の近代化を最優先したわけでもなく、政権の正統性を天皇の権威のみに依存したわけでもなかった。明治維新は、「富国強兵」と「公議輿論」の複数の目標、細かく分ければ、「富国」と「強兵」と「議会」と「憲法」の四目標の並列的競合を通じて、それに指導者間の合従連衡、また指導者らによる目標の優先順位の自由な変更を通じて達成された。明治の変革期においては、指導者も固定的ではなく、優先される路線は数年ごとに入れ替わり、勝利した集団も敗退した集団も永続的にその地位にいたわけではなく、これは開発独裁のような単一目標の追及や単純な政治構造や単線的進行とは異なる、極めて複雑な局面展開をともなう柔構造モデルであったという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "明治維新(めいじいしん、英語: Meiji Restoration、Meiji Revolution、Meiji Reform)とは、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "維新は詩経大雅・文王の「周雖旧邦、其命維新(周は旧邦といえども、その命は維(これ)新(あらた)なり)」の成句から採られたが、発音の類似から御一新・御維ヰッ新(ごいっしん)ともいわれた。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "周󠄀雖舊邦󠄁、其命維新", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "「維新」の用例は古代以来多数あるが、幕末変革期においては、水戸学の思想家藤田東湖の日記『庚寅日録』天保元年(1830年)4月21日条に「中興維新」、4月25日条に「去年以来国事維新百度将復」とある。また、嘉永3年(1850年)6月19日の藤田東湖宛横井小楠書簡に「近年来尊藩御維新之御政事赫赫と天下に響聞仕」とあり、幕府側の公文書でも、嘉永6年(1853年)10月15日ロシア宰相宛老中奉書「君主新嗣位、百度維新、如斯等重大事項」とある。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "長州藩の吉田稔麿は穢多・非人・屠勇などの被差別部落民の兵士取り立てを献策し、元治元年(1864年)に「一新組」が、慶応2年(1866年)に「維新団」が結成された。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "慶応2年(1866年)(または慶応3年)、国学者の玉松操による岩倉具視への返答に「維新」が出てくる。『岩倉公実記』によれば、岩倉具視に意見を求められた玉松操は次のように回答した。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "玉松においては、徳川政権からの権力の移譲は、「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたもので、これは易姓革命でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現が選ばれた。明治政府もこれを踏襲した。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令において「民ハ王者之大寶百事御一新」と表記された。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "尾佐竹猛によれば、新政府は王政復古の大号令においては「王政復古、国威挽回」を述べ、根本的大改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「王政維新」と言っていた。「明治維新」の語が現れたのは1890年に憲法が公布される数年前のことと見られ、「王政維新」の語は戦後も使用されている。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "革命初期の公文書には政体復古・天下一新・朝政一新という表記がなされた。『太政官日誌』は慶応4年2月14日(1868年3月7日)から記録されているが、同日東久世通禧は各国公使に「政体復古」を報告している。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "醍醐大納󠄁言殿 東久世前少將殿 宇和嶋少將殿 各國公󠄁使󠄁と應接の始末 左の如し", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "東久世殿發話 我日本 政體復古", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "慶應4年2月28日の「幕府御親征の詔」では「天下一新」とある。慶應4年3月14日(1868年4月6日)の億兆安撫国威宣揚の御宸翰では「朝政一新」とある。旧暦9月8日(10月23日)に改元が行われ、明治元年12月23日(1869年2月4日)の東久世中将からイギリス公使ハリー・パークスに宛てた公文書綴では「朝政一新」とある。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "明治2年(1869年)正月には、木戸孝允が大村益次郎宛書簡で「大政一新」と書き、岩倉具視は「大政維新」と書いた", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "公文書における「維新」の用例としては、明治3年1月3日の宣布大教の詔に「今や天運循環し、百度維新(これあらた)なり、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かむながら)の道を宣揚すべきなり」とある。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "明治5年(1872年)9月刊行の沖志楼主人『維新御布告往来 : 童蒙必読』には「皇政復古、綱紀御維新(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "英語表記は Meiji restoration が多く、「明治の(王政)復古」の意味になる。他に Meiji Ishin、Meiji restoration and revolution、Meiji Revolution(明治革命)、Meiji Renovation などが見られる。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "維新は英語で王政復古を意味する Restoration と表記されることが多いが、これは慶應3年12月9日(1868年1月3日)に岩倉具視らが上程した大令(いわゆる王政復古の大号令)の中の王政復古の英語訳であるとされる。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "英国外交官フランシス・O・アダムスの『日本史』(1874-75)ではこの大令を「a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity」と説明された。この場合、restoration は「王政復古」ではなく、「国威挽回」の訳語として用いられたが、日本政治思想史研究者の苅部直は、日本の開国後出版された西欧人による初めての日本紹介であるアダムスの『日本史』から、慶応三年の改革を restoration と呼ぶ用法が定着していったのだろうと指摘する。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "他方、ウィリアム・グリフィスの The Mikado's Empire (『ミカドの帝国』、1876年)では、将軍政権の崩壊とミカド(天皇)の最高権力への復帰(restoration)が目撃されたとし、最近の日本では、対外政策の転換、社会改革、西洋文明の受容の三重の政治革命 (a three-fold political revolution) が進行していたと認識していた。苅部によれば、幕末から明治にかけての体制転換は、徳川公方から京都の天皇への単なる政権交代というだけでなく、公儀または幕府が大名と朝廷を統制するそれまでの国家全体の体制を改めることであり、様々な制度改革を通じて、身分に基づく支配などが廃止され、西洋文明への受容へと大きく舵が切られたような、社会の急激な変化であり、また、当時の日本国内ではこのような世の中を根本から立て直そうとする動きは「御一新」として歓迎されたことなどからも、このような体制転換にふさわしい英語は revolution であり、これは同時代の日本人が抱いた実感でもあったという。また、明治政府が「維新」でなく「革命」と表現していたら、「明治革命」と言った名称も定着していた可能性もあったという。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、徳富蘇峰や竹越與三郎や、北一輝らは、「維新革命」という呼称を用いた。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "中村政則は、明治維新は復古(Restoration)、改革(Reform)、革命の三つの側面を持ち、どの側面を強調するかで評価が異なってくると1986年に指摘した。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "21世紀に入ると「明治革命」を使用する研究者が多くなり、日本政治史研究の坂野潤治や日本近代史研究の三谷博、日本政治思想史研究の渡辺浩、歴史学者マリウス・バーサス・ジャンセンやアンドルー・ゴードンらは「明治革命・Meiji Revolution」という呼称を用いる。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、三谷博は、Restorationを訳語に使うと、天皇の国家の頂点への復帰だけに注意を集め、維新が世襲身分制のほとんどを廃棄した大規模な革命であった事実をおおいかくしてしまうので、Revolutionでは誤解もあるのなら、regeneration(再生、改革、刷新などの意味)という訳語を提案した。", "title": "名称:復古・維新・一新・革命" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "維新の時期については諸説ある。明治維新の始期として、天保年間(1831 - 1845年)に置く考えがある。天保年間には、天保の大飢饉(天保4 - 10年、1833 - 1839年)によって100万人以上が犠牲となり、天保騒動などの百姓一揆や、大塩平八郎の乱(1837年)が発生した。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また鎖国を批判した渡辺崋山や高野長英を弾圧する蛮社の獄があり、天保の改革でも飢饉対策の成果はなかった。天保13年(1842年)にはアヘン戦争で清が敗れ、イギリス(大英帝国)の強さを知った幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めた。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "始期として、黒船来航(嘉永6年、1853年)または不平等条約であった安政通商条約の締結(1858年)に置く見方もある。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1889年(明治22年)に完成した官選史料集『復古記』では、慶応3年(1867年)の大政奉還から明治元年10月28日(1868年12月11日)の東征大総督解任までが扱われた。当初の復古記編纂案では、嘉永7年(1853年)のペリー来航から大政奉還までを前記、大政奉還から東征大総督解任までを正記、戊辰戦争記を外記と区分していた。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "文部省・東京大学史料編纂所編纂『大日本維新史料』では、弘化3年(1846年)2月の孝明天皇の践祚から明治4年(1871年)の廃藩置県に至る25年間が維新資料としてまとめられた。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。しかし、一般的にはその前年に当たる慶応3年(1867年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "終了時期についても、廃藩置県(明治4年、1871年)、封建復帰を目ざす士族の反政府運動が終わった西南戦争(明治10年、1877年)や、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立・大日本帝国憲法発布(明治22年、1889年)までとするなど諸説ある。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "この期間の政府(一般的には慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古以後に成立した政権(維新政権)を明治政府(めいじせいふ)、新政府(しんせいふ)、維新政府(いしんせいふ)ともいう。", "title": "改革の時期" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "一般的に、明治維新の始まりは黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的拡大政策に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つとされる。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "19世紀、江戸幕府の支配体制は綻びが見え始めていた。ロシア、アメリカをはじめとする外国船の来航と通商要求や、フェートン号事件やモリソン号事件などの外圧の高まりに加えて、宝暦事件、明和事件、大塩平八郎の乱といった内紛・内乱や民衆運動である打ちこわしが盛んになった。老中松平定信や国学者の本居宣長などは大政委任論を唱え、幕府の政治は天皇から委任されたものと考える見方が主流化し、国学者や水戸学を中心に尊皇思想・尊王論が広まっていった。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "19世紀半ばのアヘン戦争以後、欧米による帝国主義政策の影響が東アジアに浸透するにつれ、水戸学等の国学を基盤として、外国勢力を排斥して江戸幕府開闢以来の基本政策である鎖国政策と幕藩体制を維持しようとする攘夷思想が現れた。しかし江戸幕府は開国・通商路線を選択したため、攘夷思想は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として、武士階層を中心に広く普及していった。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一方、幕府側の開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる雄藩を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。そのような風潮の中、薩英戦争や下関戦争などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内の政治権力の統一や体制改革(近代化)を進め、外国との交易によって富国強兵を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった長州藩も開国論へと転向していくことになった。イギリス外交官アーネスト・サトウの論文『英国策論』の和訳が横浜のジャパン・タイムズに掲載され、天子主権論と討幕を理論づけた。ただこの書の内容は、英国留学中の薩摩藩士松木弘安が英国の外務大臣に提出したものとの類似性が指摘されている。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "幕府は公武合体政策を掲げ、尊王攘夷派の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を模索したため、外国勢力の脅威に直面していた急進的な雄藩の支持を失っていった。またこの時期、黒船来航以来の幕府の威信の低下と世情不安の高まりを背景として農民一揆が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する土佐藩・越前藩らの主張(公議政体論)や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、国政改革のために幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立しようとする構想が幕政において急速に支持を集めていった。結果としてこれらの改革勢力の協力の下に王政復古が宣言され、古代の律令制や中世の建武の新政に中央集権的王権統治の先例を求めつつも、天皇が欧米列強諸国の君主同様に近代国家の主権者として統治する体制を採る明治政府が誕生した。戊辰戦争による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立したこの新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "幕末に諸外国からの開国圧力が強まる中、大地震が続発した。弘化4年(1847年)には長野で善光寺地震が起き、山崩れでせき止め湖決壊などのため、1万人を超す犠牲者が出た。ペリー来航直前の嘉永6年(1853年)3月に小田原地震(M6.7、震度7、江戸の震度4-5)が起きた。翌年日米和親条約が締結されると、伊賀上野地震(M7.3)が発生し、以降、13回の地震が連発する安政の大地震が発生した。嘉永7年には、南海トラフ巨大地震である安政東海地震と安政南海地震(M8.4、震度7)、豊予海峡地震(M7.4、震度6)が発生し、幕府は災異改元で安政に改元するが、安政2年に飛騨地震(M6.8)、陸前地震、安政江戸地震(M6.9-7.4、推定死者1万人)が発生した。安政3年にも安政3年の大風災で台風と高潮が江戸を襲い(推定死者10万人)、安政八戸沖地震(M6.9-8.0)が発生した。安政4年に芸予地震(M7.3)が発生、安政5年(1858年)の飛越地震(M7.1、震度7)では鳶山崩れも併発し、常願寺川のせき止め湖が二度決壊して下流に大被害を出した。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "安政5年にはコレラも流行し、江戸だけで死者が3万人から30万人に及んだ。さらに文久2年(1862年)のコレラ流行では安政5年の数倍の死者が出た。文久2年にははしかも大流行し、江戸だけで239,862人の死者が出た。こうした度重なる疫病による社会不安が徳川幕府崩壊の要因の一つともなった。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "※明治5年(1872)のグレゴリオ暦への改暦までの日本は太陰太陽暦(天保暦)を採用していたため、西暦とはずれがあることに留意。また、慶応4年の一世一元の制による明治への改元までは災異改元や立年改元(改元年の元旦に遡及して新元号を使用)などもある。", "title": "幕末の情勢と江戸幕府の崩壊" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "江戸幕府による大政奉還を受け、王政復古によって発足した明治新政府の方針は、天皇親政(旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年(1868年)3月14日に公布された五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『五箇条の御誓文』の起草者・監修者は「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を全く新たに入れた総裁局顧問・木戸孝允(長州藩)であるが、その前段階の『会盟』五箇条の起草者は参与・福岡孝弟(土佐藩)であり、更にその前段階の『議事之体大意』五箇条の起草者は参与・由利公正(越前藩)である。", "title": "「御一新」の理念" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その当時はまだ戊辰戦争のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して明治天皇が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から脱却するように説かれている。", "title": "「御一新」の理念" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には自由民権運動の理想とされていく。", "title": "「御一新」の理念" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「富国強兵」「殖産興業」が頻用された。", "title": "「御一新」の理念" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の高札が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「五榜の掲示」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策の中で撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。", "title": "「御一新」の理念" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "首都については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、大阪遷都論が大久保利通を中心として唱えられた。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→東京奠都の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、明治天皇の2度の東京行幸により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "形式的には、明治維新は律令制の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、中央集権国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "王政復古の大号令において、幕府や摂政・関白の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に総裁・議定・参与の三職からなる官制が施行された。総裁には有栖川宮親王、議定には皇族・公卿と薩摩・長州・土佐・越前などの藩主が、参与には公家と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、明治天皇はまだ年少であるため、それを補佐する体制がすぐに必要となった。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "そこで、慶応4年閏4月21日、政体書の公布により、太政官を中心に三権分立制をとる太政官制が採られ、さらに翌年7月には、版籍奉還により律令制の二官八省を模した二官六省制が発足した。明治2年の主な組織と役職者は次の通りである。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "そして、明治4年7月の廃藩置県の後には正院・左院・右院による三院制が採られた。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "具体的な行政機構としては、太政官と神祇官を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も民部省から工部省が分離したり、刑部省から司法省に改組したりする幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定する。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また、立法府に関しては木戸孝允らが明治初年から議会開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、大久保利通を中心に「有司専制」と呼ばれる薩長藩閥による官僚を中心とした改革体制が維持された。1875年(明治8年)には大阪会議での合意と立憲政体の詔書により、立法機関として元老院が設置された。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "のち、自由民権運動の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟、不平等条約撤廃条件などもあり、明治14年(1881年)に明治天皇は「国会開設の詔」を出し、同時に議会制度の前提として伊藤博文らによる憲法制定の動きが本格化し、憲法審議のため枢密院が設置された。明治22年(1889年)に大日本帝国憲法が公布、翌年帝国議会が発足し、アジアでは初の本格的な立憲君主制・議会制国家が完成した。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "明治新政府は、幕府から受け継いだ天領と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を駿府藩に移封し、京都・長崎・函館を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "まず、明治元年に姫路藩主酒井忠邦が版籍奉還の建白書を提出。続いて明治2年1月20日に薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(薩長土肥)の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落迎えると、全藩に版籍奉還を命じた。この版籍奉還により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて知藩事に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年旧7月14日(1871年8月29日)に、倒幕の中心であった薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と木戸孝允らにより廃藩置県が実施され、府県制度となり(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から知事を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "薩摩藩の島津久光が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が華族として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇蹟ともいえる。", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった琉球王国に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年(1879年)に沖縄県として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に琉球処分と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→ 沖縄県の歴史)", "title": "新政府の編成" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1871年12月23日から1873年9月13日にかけて、維新政府は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度の研究をするため岩倉具視を正使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団を欧米へ派遣した。使節団は条約改正には失敗するものの、西洋の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の維新の動きに大きな影響を与えた。一方、日本国内においては「留守政府」と呼ばれた日本残留組の西郷隆盛・井上馨・大隈重信・板垣退助・江藤新平・大木喬任らの手によって、次々と改革は進んでいった。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「お雇い外国人」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、近代国家建設を助けた。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "留守政府が行った主な改革としては、学制改革、地租改正、徴兵令、太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の征韓論につながったともいわれる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が明治六年政変によって征韓論を退け、さらに大久保の下に内務省が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "徴兵令を導入し、近代的な常備軍を最初に作ろうとしたのは大村益次郎であったが、彼が暗殺されてしまったため、山縣有朋に引き継がれた。明治3年、徴兵規則が作られ、翌年の明治4年に廃藩により兵部省が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、陸軍省と海軍省が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "江戸幕府下の武士・百姓・町人(いわゆる士農工商)の別を廃止し、「四民平等」を謳ったが形式的なものに留まった。しかし、明治4年に制定された戸籍法に基づき翌年に編纂された壬申戸籍では、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、旧公家・大名や一部僧侶などを新たに華族として特権的階級とすると同時に、宮内省の支配の下に置くことになった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "華族と士族には政府から家禄が与えられ、明治9年の秩禄処分まで支給された。同年、廃刀令が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱(佐賀の乱、萩の乱、秋月の乱、神風連の乱)につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の士族反乱であった西南戦争が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの年貢は収量を基本とする物納であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には田畑永代売買禁止令が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に地租改正条例が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に地券が発行されることとなって、所有する土地に対し地租が課せられることとなった。これにより、土地の所有権が初めて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有財産権が完全に確立することで資本主義の発展の基礎条件が成立した。また経済を支えるインフラ整備も行われた。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "貿易分野では、1859年(安政6年)には横浜にすでに、イギリス帝国のジャーディン・マセソン商会支店の通称「英一番館」(ウィリアム・ケズウィック)が設置されており、1861年(万延2年)には長崎に、ジャーディン・マセソン商会代理店の「グラバー商会」が設立された。外国人居留地としては、1863年(文久3年)に横浜の山下居留地、1868年(明治元年)には神戸居留地と大阪の川口居留地、1869年(明治2年)には東京に築地居留地、1870年(明治3年)に長崎居留地が完成した。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "富国強兵・殖産興業のスローガンの下、工部省(のちに内務省)やお雇い外国人が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。1872年(明治5年)の富岡製糸場(ポール・ブリューナ協力)をはじめとする官営模範工場が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、1880年には「官営工場払下概則」が制定され、造幣局や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから産業革命が進行し、工業化が進展していくこととなった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "金融分野では、旧幕府時代の貨幣制度を改めて、通貨単位として「円」導入を決定した。戊辰戦争が終わった1869年(明治2年)にオリエンタル・バンクと貨幣鋳造条約を締結したが、ほどなくプロイセン帝国と連合した北ドイツ連邦のドンドルフ・ナウマン社に乗り換えた。1871年(明治4年)の新貨条例に基づき、 1872年(明治5年)にはドイツで印刷された明治通宝の流通が開始。また1874年(明治7年)の国立銀行条例により、国立銀行(ナショナルバンク)が設立。1874年(明治7年)にはドンドルフ・ナウマン社から紙幣原版を買い取り、紙幣を国産化。1878年(明治11年)5月には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が、6月に大阪取引所の前身である大阪株式取引所が設立され、1880年(明治13年)には海外送金を受け持つ横浜正金銀行も設立。その後、通貨発行権を独占する中央銀行としての日本銀行設立(明治15年、1882年)など、資本主義的金融制度の整備も行われた。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "国土分野では、旧幕府時代にすでに横浜製鉄所、横須賀製鉄所、長崎鎔鉄所が造営されており、これを引き継いだ新政府の工部省は1871年(明治4年)、これらを横浜造船所、横須賀造船所、長崎造船局と改称して造船を開始し、また、前島密により郵便制度が創設された。1872年(明治5年)には新橋駅から横浜駅間において蒸気機関車による日本初の鉄道が開通し、また、皇居の前には東京で初めての西洋料理店でありホテルの築地精養軒が開業した。電信網の整備や船舶運輸(民間の郵便汽船三菱会社と国策会社の共同運輸会社の競合を経て日本郵船会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た華族の資産による投資活動も背景にあった。1886年(明治19年)には払い下げの官営製鉄所を経営していた岩手県の釜石鉱山田中製鉄所が、日本で最初に高炉による製鉄を軌道に乗せた。水道は依然として上水井戸の水が飲料水・生活用水として使用されていたが、明治21(1888)年、政府は水道局の創設に向け具体的な調査設計を開始し、東京は1898(明治31年)年に神田・日本橋方面の通水が開始し、1911年(明治44年)には全面的に完成。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "エネルギー分野では、ガス事業の初めとしては1869年(明治2年)に、お雇い外国人の技術者であるアンリ・プレグランが横浜瓦斯構想を作った。横浜のガス灯についてはドイツやイギリスの事業者からも出願があったが、高島嘉右衛門が建設を許可された。また1871年(明治4年)には大阪府大阪市で機械燃料のガスを使用して工場や街路のガス灯が点灯された。1872年(明治5年)横浜で横浜瓦斯(プレグラン協力)が設立され、東京電燈の前身会社が、馬車道のガス灯を十数基点灯させるデモンストレーションを行った。横浜には1884年(明治17年)、米国スタンダード・オイルの支社も設立。1885年(明治18年)は東京瓦斯も設立。1887年(明治20年)、東京電燈第二電灯局が完成し、日本初の商用火力発電所(出力25kW)となり、家庭配電(210V直流)が開始。同年、日本初の石炭火力発電所も、東京茅場町に建設。1888年(明治21年)には宮城県に水力発電所として初めて三居沢発電所が設立。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "木戸孝允とアメリカ人金融顧問パウル・マイエットは、年間400万石(約720万ヘクタール分)の米にあたる資金を40万人の官吏や華族の恩給とする計画を推進し、最終的に7500万円分(現1.5兆円分)の償還可能な国債が発行され分配された。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1875年に海軍退隠令、1876年に陸軍恩給令が発布され、その後も官吏の種別ごとに恩給の規定が出来たが、官吏の処遇を巡っては暴動も発生したこともあった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "幕末から活発になっていた佐久間象山などの「倫理を中核とする実学」から「物理を中核とする実学」への転回が行われ、横井小楠の実学から物理を中核とする福澤諭吉の文明論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、文明開化の動きが加速する。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・森有礼・西周・西村茂樹・加藤弘之らによる明六社の結成と『明六雑誌』、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や中村正直の『西国立志編』『自由之理』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また土佐藩の自由民権運動の動きと連動して中江兆民や植木枝盛、馬場辰猪といった革新的な勢力と、佐々木高行、元田永孚、井上毅、品川弥二郎といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "教育機関の整備では、初めは大学寮をモデルにした「学舎制」案を玉松操・平田鐵胤・矢野玄道・渡辺重石丸らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の蘭学塾や漢学塾、それに幕府自身が造った洋学教育機関である開成所や蕃書調所が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "維新まで松前藩による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの蝦夷地から北海道と改名し、同年開拓使が置かれて、積極的な開発が進められた。札幌農学校(現:北海道大学)などの教育機関も相次いで設置された。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "それまで江戸幕府や寺社が徹底していた女人禁制を、「近代国家にとって論外の差別(陋習)の一つである」として太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によりで禁止した。関所の廃止と合わせ、外国人女性でも自由に旅行できるようになったことから、各地に伝わる日本古来の神事が多数記録されることとなった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "宗教的には祭政一致の古代に復す改革であったが、宗教界の思惑や民衆の反発、キリスト教圏である欧米からの外圧、新政府内部での保守派と改革派の対立により、紆余曲折があった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "慶応3年(1867年)旧暦正月17日に制定された職制には神祇を七科の筆頭に置き、3月(旧暦)には神仏習合を廃する神仏分離令が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、仏教も外来の宗教として激しく排斥する廃仏毀釈へと向かった。数百年間続いていた永平寺と總持寺の曹洞宗内紛に関しては明治元年(1868年)6月に新政府が沙汰書を発給して調停を成立させるなど、仏教界の問題についても干渉を行った。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "慶応4年4月21日、勅命により湊川神社に楠木正成を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった新田義貞、菊池武時、名和長年、北畠親房、北畠顕家ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。また、明治元年閏4月には 明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に豊臣秀吉を祀る「豊國神社」建立の御沙汰があり、1880年(明治13年)11月 には再建された京都・豊国神社の大阪別社が創建されるなど、江戸時代中に徳川政権によって公には逆賊とされていた豊臣家の再評価もなされるようになった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "陰陽道は迷信とみなされ、天社禁止令により陰陽師の免許が禁止された。また陰陽師を統制するために存在した陰陽寮も廃止され、天体観測や暦の編纂など一部の業務は新設された省庁に移管された。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "キリスト教は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、萩(66人)、津和野(28人)、福山(20人)に分けて強制的に移住させた。明治2年(1869年)12月7日には、キリスト教信者約3,000人を、金沢以下10藩に分散移住させたが、明治4年(1871年)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に浦上四番崩れをはじめとする弾圧が、当時のアメリカ大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教をはじめとした宗教界や一般民衆からも「邪宗門」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "法の支配実現のため、初代司法卿江藤新平が推進した司法制度整備により、いち早く、1872年に証書人、代書人、代言人が創設された。明治初期の日本は、不平等条約撤廃という外交上の目的もあり、民法、刑法、商法などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であったことから、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆるお雇い外国人としてフランスの法学者ギュスターヴ・エミール・ボアソナードを起用するなどし、フランス法およびドイツ法を基礎に、日本特有の慣習や国情にも配慮しつつ、法典の整備を進めた。刑法は1880年(明治13年)に制定、2年後に施行され、民法は1896年(明治29年)に制定、1898年(明治31年)に施行された。日本は、アジアで初めて近代法の整備に成功した国となり、不平等条約の撤廃も実現したが、近年グローバル化の進展の中で、アジア各国が日本に法整備支援を求めていることには、このような歴史的背景があるともいわれている。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "新時代「明治」の雰囲気が醸成されたことで、人力車や馬車、鉄道の開通、シルクハット・燕尾服・革靴・こうもり傘などの洋装やザンギリ頭、パン・牛乳・牛鍋・ビールなど洋食の流行、ガス灯の設置や煉瓦造りの西洋建築などが普及していった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "開国後に大量に入ってきた舶来品や概念を取り入れるため、多くの和製漢語が作られた。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "自由民権運動が次第に活発となり、徳富蘇峰が平民主義と欧化主義を唱え、民友社を設立し、『国民之友』を創刊し、それに対して三宅雪嶺は国粋保存主義を唱えて政教社を設立し『日本人』を発刊、志賀重昂らが参加した。陸羯南は日刊新聞『日本』で国民主義を唱え、近代俳句の祖である正岡子規らが記者を務めた。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "この『日本』のような新聞が、徐々に様々な人々によって発刊されていくことになる。民間新聞の始めは幕末に創刊された浜田彦蔵の『海外新聞』であり、沼間守一の『横浜毎日新聞』、福地源一郎の『東京日日新聞』、栗本鋤雲の『郵便報知新聞』、末広重恭の『朝野新聞』などが続く。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "江戸時代後期の日本の識字率も西欧より高かったが、明治政府はさらに教育政策の充実を図った。それまでは各藩ごとに独自の教育制度(藩校など)があったが地域差が大きかった。また寺子屋の数も不十分であり、庶民層が受けられる教育も異なっていたなど身分でも教育の偏りが一部存在していた。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "明治政府では欧米諸国にならい印章を廃して署名の制度を導入しようと試みたが、事務の繁雑さの他にも当時の識字率の低さを理由に反対意見が相次ぎ断念している。なお1899年時点でも20歳男子の識字率は76.6%という調査結果であった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "明治政府は日本を強国にするためには、西洋と同じく一般国民に対し全国一律の基礎教育を施す制度が必要との認識に立ち、義務教育が開始された。また欧米列強に比類する産業育成のためには高等教育や研究開発が必要となるため、帝国大学や試験施設(三田育種場など)が整備された。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "1872年(明治5年)に学制が公布され、1886年(明治19年)には小学校令や帝国大学令が発布された結果、全国に尋常小学校や高等小学校、大学が設立され、徐々に一般民衆も高度な教育を受けられる環境が整った。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "明治になると女子教育の必要性も叫ばれるようになった。特に海外渡航の経験があって、欧米の女子教育を目の当たりにした渋沢栄一や伊藤博文たちは、その必要性を痛感しており、彼らによって女子教育奨励会が設立された。同じく女子教育に理解のあった黒田清隆は、欧米に10年単位の長期間、留学生を海外に派遣する岩倉使節団に、女子留学生も加えさせた。この時の留学生、永井しげ、津田うめ(後に津田塾大学の関係者となる)、大山捨松は、日本の女子教育に大きな功績を残すこととなる。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1874年(明治7年)に女子師範学校が設立された。女子への教育は、老若男女を問わず、学問に対する批評が根強かったため、男子への教育に比べるとその歩みは遅々としていた。しかし、徐々に女性への教育の必要性は広く浸透していき、女子も義務教育、高等教育を受けられるようになっていった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "1906年から1911年までに市町村の予算の43パーセントが教育に費やされた。このような教育行政の強化により、1925年には20歳の非識字率は0.9%まで減少し、帝国大学からは一般庶民出身の官僚や学者が輩出された。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "新政府にとっての最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、時期尚早であった。そのため、欧化政策など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀に及ぶ不断の努力を必要とした(→条約改正)。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。清との間には明治4年(1871年)対等条約である日清修好条規が締結される。明治7年(1874年)には台湾における宮古島民殺害事件をきっかけに台湾出兵が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "李氏朝鮮との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年(1873年)には政府を二分する論争(いわゆる征韓論)となったが、明治8年(1875年)に起きた江華島事件を契機として日朝修好条規(江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "琉球に対しては、明治5年(1872年)に琉球藩を設置し、明治12年(1879年)には琉球処分が行われる。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "また、ロシア帝国との間では明治8年(1875年)に、千島樺太交換条約が締結され、それまで日露雑居地とされた樺太および千島列島における日露国境が確定した。", "title": "新国家の建設" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "維新史で最初期のものは、越前松平家によるものとされる。福井藩の中根雪江は、1859年、幕府によって処罰された主君の冤を雪ぐため、黒船以降の越前家の幕末史を書き始め、さらに越前家は1890-1892年に続編を編集した(『昨夢紀事』『再夢紀事 丁卯日記』)。越前松平家は公議派であり、明治政府が正統視した王政復古史観とは異なる史料として重視される。", "title": "維新修史事業" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "徳川幕府外国方も1859年(安政6年)と1860年(万延元年)の外交記録『通信全覧』(320巻)があり、明治政府の外務省が引き継ぎ『続通信全覧』(1784巻)を編纂した。", "title": "維新修史事業" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "明治政府は戊辰戦争史『復古記』(1872-1889年)を編纂したが、功名争いを避けたためか、強い積極的な解釈は持ち込まれなかった。", "title": "維新修史事業" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "1888年、薩摩・長州・土佐・水戸の4大名家が「国事詇掌録」編纂開始、翌年、公家の三条・岩倉・中山3家と「史談会」が結成され、旧将軍家・会津家・桑名家、尾張徳川家・浅野家、琉球尚家を含む255家に史料の提出を命じた。近世の政体が二百数十の大名家の連合体であり、明治の改革も大名家の協力なしには不可能であったことなどから、大名家と公家による維新史は薩長中心でなく、史料の収集と羅列に落ち着いた。史談会の事業は文部省に引き継がれ、1911年維新史料編纂会が設置され、1931年に『大日本維新史料稿本』が一応完成し、維新政治史の到達点として維新史料編纂事務局『維新史』全6巻(本編5、付録1、1939―1941年)が編纂された。", "title": "維新修史事業" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "ほか、宮内庁図書寮編『三条実美公年譜』(1901)、多田好問編『岩倉公実記』(1903)、勝田孫也『大久保利通伝』(1910)、妻木忠太『松菊木戸公伝』(1922)、会津松平家に関わる北原雅長『七年史』(1904)、山川浩『京都守護職始末』(1911)、中村勝麻呂『井伊大老と開港』(1909)、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』(全8巻、大正7年(1918年))、末松謙澄『防長回天史』全12巻(修訂版、1921年)が編纂刊行された。", "title": "維新修史事業" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "維新政府はみずからの正当性として「王政復古」論を主張し、『大政紀要』(宮内省系)や『復古記』(太政官系)という形で公表した。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "これに対して、戊辰戦争のさなかの1868年8月に出された小洲処士の《復古論》は、維新の変革は草莽(民間)から起ったとする「草莽復古」を論じた。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "明六社の明治啓蒙思想家は維新の開明性・進歩性を強調した。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "福沢諭吉は『文明論之概略』(明治8年、1875年)において、幕末から明治の改革を「王政一新」と呼び、尊王や攘夷が幕藩体制を倒したという俗論を批判し、江戸幕府下における「門閥」を基盤とした「専制の暴政」に対する人々の不満が内実にあったからこそ、単に政権が交替するだけではなく、武士身分の解体としての廃藩置県まで到達したとして、人々の智徳(知識と道徳)の進歩によって歴史が動いたと評した。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "旧幕臣出身の在野史家田口卯吉は22歳で『日本開化小史』(明治10-15)を自費出版し、勤王史観から離れて維新を評価した。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "イタリアでジュゼッペ・ガリバルディ軍のスラヴ義勇軍副官として転戦したり、バクーニンの支援者でもあったロシア人革命家レフ・メーチニコフは、パリ・コミューン敗北後のパリで日本に革命が起こったという報に接し、在仏していた大山巌の紹介で1874年に日本に赴任したあと1881年(明治14)に執筆した著書で明治維新を「歴史上我々が知りうる最も完全かつラジカルな革命」と評価した。しかし、列強の偽善的政策と国内の支配者集団の権勢欲のために道は険しいと警鐘を鳴らした。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "藤田茂吉『文明東漸史』(1884年)は、蛮社の獄を詳述し、1887年には島田三郎の井伊直弼伝『開国始末』が刊行された。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "小中村義象は『大政三遷史』明治21年(1888年)で、大化改新、建武の新政、明治維新を大政三遷とする。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "勝海舟の『海軍歴史』『陸軍歴史』(1889)を、野口勝一が『維新史料』(1887―1896)を刊行。明治20年代初頭に維新史ブームが生まれた。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "徳富蘇峰の民友社では、竹越与三郎が『新日本史』(明治24年-明治25年)を刊行し、明治維新の原因を勤王論による政治運動と説く歴史観や、外国の圧力を維新の原因とみる歴史観を批判し、徳川時代に芽生えていた社会全体の潮流、社会的革命があったからこそ、「代朝革命」が起こったと論じた。竹越は、明治維新を、イギリスのような「復古的革命」、フランスやアメリカのような「理想的革命」とも異なる「乱世的革命(アナルキカル・レボリューション)」と位置づけながら、新政府について「維新の大目的を失忘して、邪径に走らんとす」と批判した。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "徳富蘇峰も自ら『吉田松陰』(1893年)を、さらに『近世日本国民史』で明治維新を論じた。蘇峰は、旧幕の外国方で働いた福地源一郎に『幕府衰亡論』(1892) 『幕末政治家』(1898)を依頼した。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "日本を社会民主主義の国とすることを夢見ていた若い頃の北一輝は、明治39年(1906年)の『国体論及び純正社会主義』で、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命の民主主義」は「無計画の暴発」であり、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみ」と批判し、つまり、自由民権運動の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったのは自由民権運動であると論じた。また、北は竹越與三郎から影響を受けており、特に竹越の『二千五百年史』(1896)における大化の改新を範型とした維新観に深い影響を受けた。竹越は、大化の改新を「空前絶後の国体変革」として、それ以前の社会は天皇の一族が、中臣氏、忌部氏、物部氏、大伴氏、蘇我氏などの諸族を統治する族長であり、直接民を統治していたわけではなく、「国家」や「国民」はなく、「天皇は国家の君主にあらずして、諸族の長たるに過ぎず」という状態であった。大化の改新によって、貴族豪族の私民私領が廃され、奴隷、公民、土地すべてが国家に属すると定められ、族長の集議所は政府となり、族長政体を官制組織となり、天皇は人民を統治する君主となったとし、「神武以来一千三百年、日本の国民初めて成り、王制初めて生じ、国家初めて現出したるなり」と論じた。北は、「維新革命は大化の王制に復古したるものにあらず。大化の革命に於て理想たりし儒教の公民国家が一千三百年の長き進化の後に於て漸くに実現せられたるものなり」と評した。しかし、天智天皇の死とともに公民国家の理想は去り、家長国となったと批判した。北は君主主権でなく、国家主権の国家を理想とした。北はその後、中国の辛亥革命に身を投じ、『日本改造法案大綱』(大正12年(1923))を書いて昭和維新に大きな影響を与えた。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "ジャーナリストの石橋湛山は、明治時代を帝国主義的発展の時代と見られがちだが、日清日露等の戦争はやむを得ず行ったもので、明治の最大の事業は戦争でも植民地の発展でもなく、政治、法律、社会の制度と思想においてデモクラチック(民主主義的)の改革を行なったことにあると論じた。", "title": "明治の維新論" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "自由民権運動は、五箇条の誓文の一ヵ条を論拠にして国会開設を主張し、維新は「自由」への一歩であり、その精神を引き継いだ民権陣営こそが「維新革命」の正統な後継者であり、民権運動は「第二の維新」だと主唱し、これは民友社の平民主義にも受け継がれた。", "title": "第二維新" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "民友社の人見一太郎が『第二之維新』(明治26年、1893年)で明治藩閥政府を批判した。人見は「公議輿論」を「維新の大精神」とみなし、明治2年の版籍奉還の頃、公議所から集議院へ切り代わる頃には、「維新の大精神」が尊重されなくなり、立憲君主制が誕生していったものの、維新の理念が失われていったと明治政府を批判した。", "title": "第二維新" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "大正デモクラシーでも護憲運動を背景に、「第二の維新」としての「大正維新」が唱導された。医者の加治時次郎は『第二維新』(大正15年、生活社)という書籍を刊行した。", "title": "第二維新" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "軍部・右翼らが唱えた昭和維新では、君臣の本義、忠孝の道によって、絶対化された天皇への回帰に維新の原理はあるとする皇国史観による維新論が起こった。やがてこれは「東亜の維新」でもあるとされた。他方、政治思想史研究者橋川文三や、思想史家の渡辺京二は、西郷隆盛らの反乱を「第二維新革命」の遂行と挫折であったと位置づけ、昭和維新の首唱者である北一輝を挫折した維新革命の継承者であるとみなした。", "title": "第二維新" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "昭和初期には、大衆小説や古老の体験談・回顧談などの「明治維新物」ブームもおこった。", "title": "第二維新" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1920-30年代には、政党や財閥を批判して天皇親政を主張する国家革新運動「昭和維新(皇道維新)」が起こった。昭和維新の主張者は、明治維新の継承を唱えた。例えば1928年(昭和3)の海軍青年将校藤井斉らの王師会綱領に「明治維新ヲ完成シ」とみえ、五・一五事件(1932)の檄文にも「維新日本ヲ建設セヨ」と書かれた。1936年には二・二六事件が起こった。", "title": "昭和維新" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "維新の政治史は、藤井甚太郎、井野辺茂雄らによって実証研究が進展し、維新史料編纂会の『維新史』 (5巻)などで集大成が図られたほか、維新の社会経済史は1920年代より、幸田成友、本庄栄治郎、土屋喬雄らが実証研究をなした。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "昭和初期の代表的な維新論として、マルクス主義者によるものがある。野呂榮太郎は「日本資本主義発達史」(1927年)で明治維新を「ブルジョワ革命としての明治革命」とし、「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位に即かしむるための強力的社会変革」と規定したが、コミンテルンの「日本問題に関する決議」により野呂はこの説を放棄した。しかし、その後山田盛太郎、野呂栄太郎、服部之総、羽仁五郎らは『日本資本主義発達史講座』(1932-1933年、岩波書店)をまとめた。これに対して、労農派が批判し、同講座の執筆陣が講座派とされて、日本資本主義論争(1933年-1937年)が起こった。日本共産党の活動方針を巡って講座派と労農派はそれぞれ二段階革命論、一段階革命論を唱えた。労農派は明治維新により日本は資本主義段階に突入したと考え、マルクス主義の唯物史観の公式通りただちに社会主義革命を目指すべきだと主張したのに対して、講座派は明治維新は不完全な民主主義革命であり、日本は未だ半封建的な段階にあるとし、まずブルジョワ民主主義革命を目指し、その先に社会主義革命はあるという二段階革命論を主張した。1934年に特別高等警察による野呂栄太郎が拷問死し、さらに1936年にコム・アカデミー事件での講座派一斉検挙により壊滅した。1937年人民戦線事件で労農派も一斉検挙された。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "終戦後講座派は復活し、羽仁五郎は『明治維新』(岩波新書)、『明治維新之研究』(岩波書店)を刊行した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "羽仁と親しくしていたカナダ外交官・日本史学者(戦時中は太平洋問題調査会研究員)のハーバート・ノーマンは、講座派の影響を受けており、『日本における近代国家の成立』(1940、邦訳1947年)で、明治維新の主体は下級武士とブルジョワ的豪農の同盟であったが、維新後、武士は豪農を裏切り、工業化のために課税を強化したとした。ノーマンによれば、明治維新は農民を犠牲にして資本の蓄積と集中が遂行された「上からの変革」であり、これは「絶対主義国家の力」によるもので、新政府の「武断官僚」は専制権力を手際良く利用したと説明した。ノーマンは、徳川幕府が封建制の廃止や政治改革を実現できなかったのに対して、明治政府は、工業、法典、教育などの分野で近代化を成し遂げたが、そうした近代化と、その政府が権威主義体制であったことととは矛盾するわけではないという。ノーマンは1953年の序文で、「明治政府をむき出しの絶対主義と規定することはたしかに過度の単純化であり、あるいは歪曲である」が、明治政府は廷臣、官僚、軍人、特権的企業家からなる寡頭権力者からなる、「立憲制度の大礼服に飾られた絶対主義であった」と主張した。同書は日本で大きな反響を呼んだ。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "マルクス主義歴史学の立場から、長州藩を維新の主体の典型とみなした上で明治維新を天皇制絶対主義の成立とみなす遠山茂樹『明治維新』(1951年、岩波書店)が主流の地位を占めた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "遠山茂樹は以下のように明治維新を説明する。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "三谷博によれば、遠山説では、天皇と幕府の対立が大変動の発端であったことが黙過され、国際環境よりも国内条件が重視され、また、昭和史のイメージを維新史に投影して、ファシズムが維新当初から存在していたように語り、政治運動においては長州を維新の主体として着目する一方で、薩摩、越前藩などの公議政体論を軽視または無視し、外国勢力ではイギリスを排他的に重視するなど、階級闘争史観の影響で一元論や二元対立に傾いた過度に単純化された政治史となった。遠山説は、仮説を述べ、実証研究を促す宣言の書であり、以後継承された研究の潮流では、徳川将軍、旧幕臣の開明派、譜代大名の研究が軽視されたり、政治史と経済史が乖離するといった研究の偏りを生んだ。遠山は、体制権力と下層階級の全面対立を好み、それが見られないことを不満げに説明するが、明治維新の持つ複雑性の説明としては不適当で、支配身分(武士)の消滅は世界史上でも際立つ特徴であるがまだ解明は十分でなく、また世界革命史において維新は著しく犠牲者が少ないこと、また「復古」象徴の利用はフランス革命にも認められることで日本特殊ではないこと、また「復古」の参照先が律令時代でなく神話であったことは復古の名の改革に自由度を与えたこと、などを三谷は指摘した上で、遠山の大振りな思考の展開には感銘を受けたと評した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "遠山以降、田中彰『明治維新政治史研究』(1963年)も標準的な研究となった。 長州藩を維新の主体の典型とみなす見方に対して、公武合体派の薩摩藩を重視する毛利敏彦『明治維新政治史序説』(1967年)も登場したが、この時期までの研究は、倒幕派に敗れた東北諸藩、倒幕派でも佐幕派でもない中間的な立場の諸藩の役割が軽視していると後に批判された。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "吉野作造の継承者でもある政治学者岡義武は、『近代日本の形成』(1947年)およびその改訂『近代日本政治史I』(1962年)において、明治維新は、西洋の脅威に直面した国が近代化しなければ独立が保てないという、マルクス主義のカテゴリーには入らない民族革命であると論じた。岡によれば、幕藩体制が内部矛盾で不安定になっていたところへ外圧があり、国内に激しい民族的反発感と民族的危機感が生まれ、さらに朝廷と幕府の対立は国家権力の二元化を生んだが、これを精算して国家的統一を強固にし、民族独立の確保が目指された。幕藩体制に回帰するか、朝廷を中心とした新体制かで紛糾したが、後者が選ばれた。岩倉具視は慶応3年4月に「天に二日なく、地に二王なし。政令一途に出でずして何れの国か立ち可申や。」といい、徳川慶喜も大政奉還上表に「朝權一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公儀ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可竝立候 (朝廷に権力を一つとしなければ統治が難しく、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、心を一つに協力し、共に皇国を保護していけば、必ず海外万国と並び立ちうる)」と述べ、国家権力の一元化を図った。こうして、幕末明治の変革とは、「民族の独立確保あるいは民族の対外的勢力拡大を目的としてなされる国内政治体制の変革」、すなわち民族革命であったとした。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "比較文化研究の桑原武夫は1956年の「明治の再評価」で、マルクス主義者は明治維新を「天皇制絶対主義」の成立とみなすが、維新によって身分制がなくなり、国民の自由は大幅に増大するなど画期的変革であったことは否定できず、欠点と矛盾はあったが、「明治の革命は巨視的にみて、一つの偉大な民族的達成であった」と論じ、1961年にはマルクス主義者らが、明治のナショナリズムを「できそこない」と低評価する一方で同時代のアジア・アフリカのナショナリズムを高く評価するのは政治的配慮ないしセンチメンタリズムだと批判した。(以降の桑原の発言については後述)", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "井上清は1966年に、明治維新は血を流さずに成就したとの評価に対して、戊辰戦争での戦死者数は新政府軍が3556人(負傷3804人)、旧幕府軍が4707人(負傷1518人)であったと反論したうえで、こうした犠牲があってはじめて、幕藩体制が早期に打倒され、人民の封建制からの解放と日本民族の国家的統一、そして欧米から植民地化される危険から脱出する一歩がふみだされたとした。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国での歴史学では日本近代化論の研究が進められた。1960年代のアメリカの東洋史研究者エドウィン・O・ライシャワーや日本研究者マリウス・バーサス・ジャンセンは、明治維新による近代化を評価した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "ジャンセンが、ジョン・ホイットニー・ホール、ドナルド・H・シャイブリー、トマス・C・スミスらとともに設立した近代日本研究会議(Conference on Modern Japan)は1960年に日米の学者を集めて箱根会議を開いた。ホールらが「近代化」を、近代を特徴づける諸変化を包括し、他の地域との比較を可能とする概念とみなしたのに対して、日本の学者らは「近代化」を「歴史の中で実現すべき価値理念」とみなし、遠山茂樹は「近代」をマルクス主義と違う意味で用いることの意図を疑い、川島武宜も「民主化」を主軸に据えていないと批判した。ホールは、イデオロギーの構築でなく、あらかじめ決まった結論を前提としないオープン・エンド・アプローチを用いた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "雑誌『中央公論』では、1961年5月号から8月号にかけてクラーク・ケェア、労働経済学者のフレデリック ・H・ハービソン、ジョン・トーマス・ダンロップ、チャールズ・アンドリュー・マイヤーズ、中山伊知郎、尾高邦雄、蝋山政道らが日本の経済的近代化、産業化と民主化について議論をしており、その中でライシャワーは日本の近代化の成功は、低開発諸国の手本になると発言した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "近代日本研究会議が「日本における近代化の問題」(1965、邦訳1968)を刊行すると、多くの反響を呼んだ。米国ではベトナム戦争に反対するニューレフトの歴史学者ジョン・ダワー、ハーバート・ビックスらの“Committee of Concerned Asian Scholars”(憂慮するアジア研究者委員会)は、駐日アメリカ合衆国大使を務めたライシャワーや、ジャンセン、ホールらの近代化研究を、中立を装って日本の近代化の成功を強調するイデオロギーであると批判した。ダワーらは、赤狩りで共産主義者と断定されて自殺したハーバート・ノーマン(前述)を称えた。日本でも明治百年記念式典(1968)に関連して「近代化論」を批判するなどの論争も発生した(後述)。歴史学者安丸良夫は日本近代化論を「新たな支配イデオロギー」と批判し、社会学者の金原左門は近代日本研究会議がフォード財団から多額の補助金を受けたことを問題視した。近年でもヴィクター・コシュマンは2003年の論文で、日本近代化論は冷戦下の日本が共産主義化しないための施策であったと主張した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "こうした批判に対して、箱根会議に参加した丸山眞男は、近代化論は西欧の近代化を絶対として非西欧を図るとして批判されたが、これは誤解であり、ジャンセン、ホールらの近代化論は、近代化の道が多様で複数であることを当初から言っていたと語っている。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "マリウス・バーサス・ジャンセンは『坂本龍馬と明治維新』(1961年)で坂本龍馬と土佐藩が維新で果たした役割を取り上げた。ジャンセンは、19世紀にはアメリカで奴隷解放、ロシアで農奴解放が起きる一方で、アジアは欧米の干渉によって変革あるいは反発が起きた。インドではセポイの反乱の結果、大英帝国の支配下に置かれ、中国ではアヘン戦争と太平天国の乱が起きたた。日本でも外圧のなか政治的・知的な激動が変革を醸成した結果、民族的に統一された国家が誕生した。この「日本革命」の成功は、フランス革命が当時の周辺国に影響を与えたように、中国の革命家孫文、康有為、朝鮮の金玉均、フィリピンの革命家エミリオ・アギナルド、インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースらを刺激し、特に孫文は自身を維新の英雄になぞらえていたという。同書は、小説家の司馬遼太郎に大きな影響を与えた。その後、ジャンセンは1986年に、明治維新は「単なる復古でなくて、革命」とし、2000年の大著The Making of Modern Japanでも、幕末から明治にかけての大変革は、「日本の制度へ恒久的な変化をもたらしたので、革命と呼ぶに直する」と述べる。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "経済学者・哲学者のアマルティア・センは2006年の著書で、米国の蒸気船などの技術力に驚いた日本は、それまでの外交政策を見直すとともに、教育政策を見直し、御誓文では知識を世界に求めることが宣言され、1872年の学制では、「不学の戸・不学の人」をなくすことが目指され、1910年には小学校教育が普及し、1913年にはイギリスやアメリカ合衆国よりも多くの書籍が刊行された。木戸孝允は「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ学不学にあるのみ」と述べ、欧米人もアジア人も同じ人間であり、教育水準をあげればアジア人も欧米に追いつくことができると考えた。センは、日本における近代化の成功は、ケイパビリティ (潜在能力)の形成によって成し遂げられたとし、日本は、国民の教育水準・識字率を高めれば、社会や経済を改善させ、短期間でも近代化と経済発展を実現できるということを証明し、アジア諸国の模範となり、東アジアの奇跡は日本の経験によって鼓舞されたものであったとする。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "このほか、ソ連の日本学者は、明治維新は、1867-8年の政治クーデター、1868年から1873年の200回にもわたる百姓一揆、ええじゃないかなどの民衆運動などが相互に関連する不可分の複合体を成している革命であったと規定した。ソ連の日本研究家イゴール・ラティシェフは明治維新は「未完のブルジョワ革命」であるとする。P.フェドセイエフは「ブルジョワ民族主義革命」であるとする。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "中国文学者の竹内好は1960年2月「民族的なものと思想」において、民族的(ナショナル)なものを大事にしないと,逆に過激なナショナリズムを成立させる危険があるとした上で、革命の未来を描く手がかりとして「明治維新百年祭」とその是非を議論することを提案した(のち政府主催となって以降は撤回)。また竹内は「明治維新と中国革命」(1968年)において、「明治維新は未曾有の変革を意図し、また実現したものであるが、明治国家は一つの選択にしか過ぎず、もっと多様な可能性をはらんでいた」と述べた上で、孫文の中国革命と比較する。孫文は「日本維新は中国革命の第一歩、中国革命は日本維新の第二歩」と述べたが、これは日本維新を純化させ、「維新」を帝国主義の対極とみなし、中国革命を世界から不平等が除かれることを目標とした永遠の過程であると考えた、と竹内はいう。竹内は、近代日本は「維新」の意義を矮小化させてしまったとし、未完の明治維新を重視した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)10月23日、佐藤栄作政権で明治百年記念式典が開かれた。木村毅・林房雄・安岡正篤・池島信平らの広報部会では、戦後日本の復興をなした基盤としての明治が讃えられ、また、ライシャワーの近代化論や、徳川時代の再評価も行われた。同年、司馬遼太郎の『坂の上の雲』が連載を開始した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "他方、歴史学研究会・歴史科学協議会・歴史教育者協議会は、明治百年祭は1940年の紀元二千六百年記念行事と似た危険があると反対した。1968年7月には、家永三郎・板垣雄三•井上清• 江口朴郎・遠山茂樹・永原慶二•野原四郎・旗田巍•松島栄一らが「明治百年に反対する声明」を起草し、3675人の署名を得た。反対声明では、明治は「天皇制絶対主義」を生み出した日本帝国主義の形成期であり、女性、被差別民、沖縄人、朝鮮人にとって差別と抑圧の歴史であり、「近代化論」は近代日本がアジアの犠牲の上に成り立ったことを覆い隠すものだと批判した。学界では、大江志乃夫が歴史研究において明治維新の可能性と現実の近代日本との落差の評価を行うべきではないかと提言すると、井上清がこれを「何をいっているのか分からない」と批判し、佐藤誠三郎が戦前の講座派よりも戦後歴史学は硬直していると表明すると、遠山茂樹がこれを「主観的だ」と批判した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "元総理大臣の石橋湛山は、明治時代の遺産とは、日本が帝国になったことではなく、五箇条の御誓文によって日本が民主主義と言論の自由を重視するようになったことだ、と論じ、1968年の反戦デモに明治の遺産が生きている、とみなした。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "維新政権の研究は原口清「戊辰戦争」(1963)や下山三郎「近代天皇制研究序説」(1976)によって本格的に着手された。宮地正人は、幕府、朝廷、諸藩の動向を総体的に捉えようとして幕末過渡期国家論を提唱し、それまで見落とされていた天皇、朝廷の動向を視野に入れ、斬新的な研究となった。これに続いて、原口清は国是(最高国家意志)樹立をめぐる諸勢力の運動・対立という視座を設定し、慶応3年の五箇条誓文を国是樹立運動の帰結とした。宮地や原口のダイナミックな関係史の研究によって、長州藩と会津藩のように政治状況によって「勝者」「敗者」が刻々と変わるなか、当時の政治家の個性が描き出されるようになり、その後の研究潮流の源流となった。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "明治維新では幕府が廃止されると同時に摂関制度も廃止されるなど、天皇や朝廷の研究も重要であるが、戦前には皇国史観でタブー視され、戦後も戦前への忌避感から研究が遅れていた。井上勝生や藤田覚の研究によって、文久3年の八月十八日の政変の主役を孝明天皇とする見解などが提出され、武家に操られる天皇というイメージが一新され、以後の幕末維新期の天皇研究に大きな影響を与えた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "また、一橋徳川家の徳川慶喜、京都守護職・会津藩主の松平容保、京都所司代・桑名藩主松平定敬の三者により構成された一会桑勢力が重視され、従来の「幕府対薩長」という単純な図式に大きな変化がもたらされた。家近良樹の「幕末政治と倒幕運動」(1995)では、それまで「敗者」として悲劇的に捉えられがちだった会津藩の存在を高く評価した。宮地正人は、歴史ファンやマニアの研究対象出会った新選組が一会桑との役割から研究した。この他、久住真也「長州戦争と徳川将軍」(2005)では幕府の新仏派の研究も行われた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "開国研究としては、三谷博「ペリー来航」(2003)や荒野泰典「日本の対外関係7 近代化する日本」(2012)などで従来の「不平等条約」「鎖国」「開国」の見直しを再評価がなされている。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "高橋秀直や、家近良樹の研究では、王政復古クーデタは倒幕を目指していなかったことが明らかにされ、また王政復古で成立した新政府は、天皇より公議原理が優位にたつ(天皇親政ではない)政府であったことが明らかにされた。三谷博も「維新史再考」(2017)で公議研究を進めた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "日本思想史研究の子安宣邦は、明治維新は民衆にとっては明治5年の徴兵告諭における兵役の義務であり、国民にさせられていく過程であり、畏怖すべき国家の現前だったと言う。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "2018年(平成30年)10月23日、明治維新150周年を記念して政府は式典を憲政記念館で開いた。10月23日は明治へ改元された日であり、1968年の明治百年祭も同日に開催された。安倍晋三首相(当時)は式辞で「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べた。明仁天皇(現上皇)と美智子皇后(現上皇后)は、政府が招待せず、参列しなかった。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "2017年から2018年にかけて多くの研究書や一般書が上梓された。歴史学者の著作としては、三谷博『維新史再考』、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』などがある。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "経営学者米倉誠一郎は『イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応』(東洋経済新報社、2017年)で激動の維新において創造的対応をなした人物に注目し、高島秋帆がアヘン戦争で危機感を高めて、西洋砲術の研究をし、モルチール砲を輸入し分解模造(リバースエンジニアリング)を行ったことや、大隈重信が秩禄処分において、士族の俸禄を数年分の合算総額に7%の利子を付けた公債を発行(バウチャー制度)を生み出して生活を保障、同時に旧士族が起業や農工商への転職できるように士族授産政策も実施したこと、笠井順八が日本に存在しなかったセメント製造をベンチャー事業として行ったこと、三野村利左衛門が三井家に外部から入り、祖業の呉服商を三越家に分割し、三井銀行を設立し、三井財閥を中興させたこと、また同じく外部から登用された益田孝が三井物産を設立したこと、岩崎彌太郎が三菱商船学校や三菱商業学校を設立し、人的資源を確保するなど多角的事業体の三菱財閥を発展させたことなどを讃えた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "明治維新150周年については批判的な意見を言う者もおり、歴史学者奈良勝司は、明治日本では、武力(国力)の底上げへの奉仕を国民が強いられたと総括し、『明治の精神』への回帰とは、日本賛美による癒やしであり、「アトラクション化させた過去の消費」やご都合主義的に加工した歴史への逃避では、未来の展望につながらないと警告した。平和学者木村朗は「明治翼賛の最大の問題は、自国に不都合な歴史的事実の忘却」にあるとし、近代日本は「アジアで唯一の帝国主義国家」となり、アジア諸国への侵略、会津藩の悲劇や、アイヌ・琉球への差別は明治維新の歪みだとする。女性史研究家加納実紀代は、明治日本は女性の抑圧を国家の制度として確立したとし、民法で女性を準禁治産者扱いし、高等教育や政治参加を禁じたと指摘し、明治150年記念行事は、明治以後の歴史を肯定一辺倒に染める恐れがあり、一方的な歴史認識が定着しないよう注視する必要があると警告した。元学生運動家で科学史家の山本義隆は『近代日本150年』(2018年)で「科学技術総力戦」という角度から日本の近代を論じた。ジャーナリストの斎藤貴男は、政府主導の明治維新記念行事は、時の政府(長州藩につながる第4次安倍内閣)礼賛に繋げようとしていると疑念を表明している。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "記者リチャード・カッツは、「明治維新は米国の独立記念日やフランスの革命記念日のようなものなのに、現代の日本人はなぜ、維新150周年を祝賀しないのか」と疑問に思い、調査すると、明治維新を戦争時代の暗い歴史と結び付けて考えている日本人が少なくなかったという。日本近代史研究のピーター・ドウスは、明治維新が「民主主義や経済的繁栄ではなく、日本を超国家主義や植民地支配の拡大、すなわち破滅へと導いていったと考えている日本人は多い」と指摘する。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "日本思想史研究の苅部直は『「維新革命」への道』(2017)において、マルクス主義歴史学の遠山茂樹などのような、明治維新による文明開化を政府が上から強引に西洋化を進め、庶民にとっては迷惑であったとするような評価は、事態の一部しか捉えていないと批判し、公儀の瓦解と新政府の発足は、人々にとって生活全体に及ぶ束縛からの解放と感じられ、また西洋化もその動きの一環として歓迎されたと述べている。苅部によれば、人民の側に立つ歴史学を標榜する遠山茂樹は、庶民が文明開化を求め、楽しんだ実態には触れようとしないが、それは、遠山が戦時中の1944年の論文「水戸学の性格」で、孝明天皇による「仁慈限りなき御叡慮」による幕藩封建体制の改革で、「一君万民の我が国体の精華」が「革新力」となると論じたことへの苦い反省があったのではないかと指摘している。また、文明開花以前の古い日本に憧れるロマンティシズムや、薩長の暴虐を強調する幕臣びいき・江戸っ子びいきの歴史観も、遠山と同様に、民衆に共感することを標榜しながらも、当時の民衆が文明開花を楽しみ、欲望の発散の機会が多くなることを願ったという実態について書かないような「民衆不在」の罠にはまっていると苅部は批判する。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "政治史研究の北岡伸一は『明治維新の意味』(2020年)で、明治維新は既得権益を持つ特権層を打破し、様々な制約を取り除いた民主化革命、自由化革命、人材登用革命であったとする。北岡によれば、江戸時代に国政に参加できたのは、将軍と譜代大名で構成された幕閣であり、親藩と外様大名は排除されていたが、黒船来航以降、雄藩や朝廷も国政に参加するようになり、特に下級武士を登用した薩長が台頭した。その後の維新でこれらの下士出身の官僚らは、自藩を含む藩を全廃し、武士を含む身分制度さえも廃止した。初代内閣総理大臣になった伊藤博文は農民(足軽)の出自であったが、江戸時代には政治への発言も許されない身分であった。さらに西南戦争以後の自由民権運動を経て、内閣制度が確立すると、豪農や内戦中は朝敵とされた東北出身者の政治参加も盛んになり、1890年には信越東北の国会議員が誕生し、1918年には盛岡藩出身の原敬が総理大臣になった。地租改正によって中世以来の石高制も廃止、田畑の売買も自由になった。職業選択も自由とされ、身分を超えた教育精度も導入された。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "日本思想史研究の子安宣邦は『「維新」的近代の幻想』(2020年)で明治維新に端を発する日本近代のあり方を批判した。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "薩長土肥中心に語られてきた明治維新を批判する立場として、明治維新の「敗者」、特に戊辰戦争における会津藩や奥羽越列藩同盟などの「敗者」視点から書かれたものも多数ある。戊辰戦争、新選組、小栗忠順、上野戦争、会津戦争、箱館戦争の各項目を参照。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "会津藩については、司馬遼太郎が小説「王城の守護者」(1965年、別冊文藝春秋)で会津藩主松平容保の孝明天皇への忠誠を中心に会津藩の悲劇が強調されたあと、多数の《会津もの》小説が続いた。司馬をはじめ、長州への敵意が繰り返し説かれた早乙女貢の『會津士魂』(1970-1988)、綱淵謙錠『戊辰落日』(1978)、中村彰彦らの《会津もの》小説は、「怨念史観」の源泉を提供していった。石光真人編 『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』(1974年, 改版2017年)も出た。会津の郷土史家宮崎十三八は、「長州への怨恨」を基盤として、「会津は明治政府から徹底的にいじめられてきた」とする「観光史学」を提唱した。宮崎が新潮451992年10月号に発表した「会津人の書く戊辰戦争 ヒロシマのピカドンと同じ惨劇」では、会津への長州の砲撃とアメリカによる原爆投下とは、「一般住民を全く無差別に暴力でぶっ殺したのは、全く同じだった」とし、「会津戦争の悲劇を日本人が知っていたならば、太平洋戦争の悲劇は防げたかもしれない」と主張した。こうした宮崎の「怨念史観」に対しては、宮崎の同級生だった畑敬之助や牧野登らによる批判がある。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "なお、こうした「怨念史観」の一つとして、新政府軍が遺体の埋葬を禁じ、会津藩士の遺体が半年間野ざらしにされたという「埋葬禁止説」が1960年代以降現在まで流布されてきた。しかし、2016年12月に、戦死した藩士らの埋葬が記録されていた史料『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳』が会津若松市で発見され、新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令し、翌10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が指揮し、567体の遺体を埋葬したことがわかった。「埋葬禁止説」について、会津若松市史研究会の野口信一は、会津戦争から半年後の1869年2月に阿弥陀寺に遺体を改葬したことが『半年間も放置した』と誤認された要因とみて、「歴史の話を聞くと、悲劇的な部分が頭に残りやすい。歴史は、耳学問ではなく自ら学ぶ姿勢が必要」と話す。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "司馬遼太郎は『「明治」という国家』(1989)で、明治維新最大の功績者は、権力を放棄した徳川慶喜と勝海舟であり、それに比べて薩長は力にすぎないが、新政府側の士族にしても戊辰戦争の恩賞もないどころか、廃藩置県や秩禄処分による士族解体に大名側で反乱がなかったのは不思議だという。司馬は、江戸時代の日本は「自立、自助、勤勉」でプロテスタンティズムに似ており、明治政府もこれを踏襲したが、ヨーロッパの合理主義を買い続けて、江戸の合理思想を捨てた結果が昭和の没落ではないかと論じた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "文化人類学者山口昌男の『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)では、維新以後の薩長中心の階層秩序から離れた文化活動を行ったとして、淡島椿岳・淡島寒月、大槻如電、山本覚馬、大橋佐平、土田杏村、吉野作造や、旧幕臣らの事績が扱われた。", "title": "評価と研究" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "西洋史学の河野健二は「明治維新と「西洋」」(1964)において、明治維新は経済的にはブルジョワ革命であり、政治的には不徹底な革命であったとする。ただし、徹底不徹底は程度問題でもあり、イギリス革命はフランス革命よりも不徹底であったし、ジョルジュ・ルフェーブルがいうようにフランス革命も「農民革命」という点においては不徹底であったという。河野によれば、明治政府は、自由民権派による国会開設請願運動に対して憲法制定・国会開設を約束するという先手を打つことによって革命の矛先を巧みにそらしたことができた革命政権であった。河野健二編『近代革命とアジア』名古屋大学出版会 1987では、西欧の革命と明治維新が対比されながら、明治維新の変革性がクローズアップされ、明治維新を絶対主義の成立とする見方はもはや見られなくなった。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "フランス文化研究の桑原武夫は1956年には明治維新を「後進国型のブルジョワ革命」と評価していたが、1974年には明治維新は「文化革命」として徹底性があったとし、1986年には「ナショナリズムに立つ文化革命」と評価した。桑原は「社会における巨大な変化を革命と呼ぶこととすれば、維新こそ革命と呼ぶべき」で、「明治維新を革命と呼ばずして、七月革命とか二月革命などという名称を平気で使っているのは滑稽であります。最後の将軍は殺されなかったのですが、これはいわば日本人の英知であって、流血が少ないからダメとは言えません」と述べ、かつて自分もブルジョワ革命とも言ったことがあるが、もうその用語は使わない、マルクス主義風の発展段階説では解けないところが維新にはある、たとえば自由民権運動の指導者だった中江兆民が帝国憲法を設計した井上毅を敬愛した矛盾が説明できないし、天皇も絶対専制君主ではなかったといい、また、新国家の軍国主義の侵略行為も「罵倒から始めるのではなく、西欧先進国の場合をも併せ考え、冷静に研究すべき」と述べた。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "西洋史学の遅塚忠躬によれば、イギリス革命では革命の担い手がジェントリに限定されていたため、共通の利害を見出すことができたが、フランス革命では、ブルジョワジーと大衆との間に共通の利害を見出すことが困難であり、革命の路線に対して党派対立が激化したがゆえに粛清にいたったとし、こうして独裁とテロル、流血のコストを払ったのはフランス革命が社会革命であったからとする。遅塚は、明治維新はフランス革命よりも流血が少ないと強調されるが、フランスが市民社会を創出し、社会的デモクラシーを提示し、近代化を進めたのであり、「明治維新が世界にどういう貢献をしたかを考えるとともに、世界が血まみれのフランス革命に負っているものが何であるかをも考慮すべきであろう」と指摘する。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "トマス・C ・スミスは1967年に、明治維新は「1789年の大革命がフランスにもたらした以上の大きな変革を日本にもたらした」と評した。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "経済学者ケネス・E・ボールディングは1970年に、コストが小さく持続的な成長をもたらした成功した革命はアメリカ独立と明治維新であるとした。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "他方、イェール大学歴史学教授で日本近代化論者のジョン・ホイットニー・ホールは1971年に、日本にはフランス革命やロシア革命のような政治的イデオロギーがなく、明治維新はブルジョワ革命でも農民革命でもなかったと評した。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "作家フランク・ギブニーは、明治維新を、アメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命と同列の、五大革命の一つとし、明治維新は近代世界における最初の大文化革命であったとする。ギブニーは、明治文化革命は、中国共産党の指導者が自己の権力の座を守るために扇動した文化大革命とは違うという。明治革命は、中下級武士が指導したが、知識人、豪商、町人階級、農民も参加し、主として国民の合意によるもので、または、国民の期待感の高揚があり、下層の身分であっても能力があれば権威になれたことを民衆が目の当たりにするにつれ、「多くの人々にとってー幕藩体制の支持者にとってさえー、革命の具体的成果の正当性は明らかであった。それ以上に、新しい慣習、新しい思想、新しい技術、新しい知識には国民の心を魅了する力があった」と指摘する。さらに、アメリカとフランスの革命が政治的革命であり、ロシアと中国の革命がイデオロギーの革命であったのに対して、明治革命は近代史のなかで試みられた最初のトータル・レボリューション(Total Revolution)全面革命であったという。また、ギブニーは、2000年の書評でも、明治維新はフランス革命やロシア革命の多大な流血とは対照的であったと評する。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "歴史学者Thomas M.Huberは、1981年の著書Revolutionary Origins of Modern Japan (Stanford University Press)で、明治維新を担ったのは、層・下層武士を中心とした、神官・僧侶、医師、教員、名主などのサービス・インテリゲンチャであり 、明治維新とは、封建制度において抑圧されていたこれらの社会階層によって起こされた革命であったとした。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "ハーバード大学教授アンドルー・ゴードンは2003年の著書『日本近代史(邦題:日本の200年)』で、1868年前後に日本で起きた明治革命では、政治統一と中央官僚制、身分制の廃止、軍制・教育・税制改革など広範な改革が実現したのであり、これは「政治、経済、社会、文化のどの側面からとらえても、息を呑むほど壮絶であり、まさに革命にふさわしいものだった」とし、19世紀から20世紀にかけて世界各国で起きた近代革命の日本的な展開であったとする。ゴードンによれば、この日本の近代革命は先行する西欧の革命とは対照的であったが、それ以後に起きた諸革命と類似していた。西欧の革命では新興階級である都市ブルジョワジーが貴族階級の特権に異議を唱えたが、日本では武士階級が革命を担ったため、「貴族的革命」ともいわれる。日本の武士は、主君に雇われた「給与生活者・従業員」であったため、西欧の封土や、中国の貴族階級の領土制や朝鮮の両班よりも土地との結びつきが弱く、身分が不安定であった。ゴードンは、明治革命をフランス革命と比べて不完全な革命とするようなこれまでの評価は、ヨーロッパ中心主義的な評価にすぎず、非西欧地域の歴史をその固有な条件に即して理解しようとするものではないため有用でないとし、西欧を基準とせず、同時に、明治革命が世界の近代革命と同様に持続的な激動のプロセスであったことを認識することが肝要であるという。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "日本政治思想史研究の渡辺浩は、「明治革命・性・文明」(2021年)で、明治革命とフランス革命は、身分制を壊して中央集権体制をつくった点で共通すると評価する。渡辺は「あれほどの大変革が革命でないとしたら、何が「革命」なのでしょう? かつて、「皇国史観」派は、日本に「革命」があったとは認めたくなかった(この語の元来の意味は、「王朝交代」ですから)。マルクス主義者の多くは、真の「ブルジョア革命」ではなかったと考えた。こうして左右の意見が一致して、革命ではなく、単に「維新」だ、ということになり、今に至っているのです。でも、「維新」は単に新しくなることです。そこで、徳川の世には、今いう「寛政の改革」を「寛政維新」とも言います。「ブルジョア革命」であろうとなかろうと、あの不可逆的な大変革を、たかが「維新」などと呼ぶ方がおかしくないでしょうか。」と説明する。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "ウェイクフォレスト大学のR.ヘルヤーとハイデルベルク大学のH.フュースも、明治維新はアメリカ革命やフランス革命と同等の革命的分水嶺として位置付けられるという。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "日本近代史研究者で東京大学名誉教授の三谷博は、明治革命は「君主制をピヴォットとする世襲身分制の解体という近代世界史上でも有数の革命」とする。比較革命史で見ると明治維新による犠牲者は極めて少なく、その要因に、「公論」による政治の決定や、長期的危機を予測し、その対応に成功したことなどが挙げられるという。三谷は以下のように考察する。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "「最後の講座派」と呼ばれた中村政則は、1848年革命においてブルジョワジーは民衆運動に対して保守化し、イギリスやフランスのブルジョワ革命は終焉するとともに、後進国においては英仏型ブルジョワ革命の実現する条件は失われたため、明治維新を英仏型革命と比較するよりも、近代世界システム論でいう半周辺的資本主義国家群に属する日本は、同じ半周辺国家群に属するイタリア、ロシアと比較した方がよいと中村はいう。19世紀イタリアではリソルジメント(統一)運動が、ロシアでは1861年の農奴解放以降、近代化改革が実施された。ロシア帝国の歴史#大改革と革命の胎動(1855年 - 1881年)を参照。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "ウォーラーステインの近代世界システム論では、次の三つに分類される。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "イタリアでの改革の主導権は大土地貴族と大ブルジョワジーであったため、農業革命、土地改革が欠如していた。また農工保護関税によって、北部のブルジョワジーと南部の大土地所有が温存され、南北の格差構造も発生した。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "ロシア、イタリア、日本の共通点として、集権的かつ権威主義的な国家体制のもとで資本主義的工業化が急速に推進され、先進地域と遅れた地域という構造を残したこと、民衆の政治的権利が抑圧されたことなどがある。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "中村はイタリアのアルベルト憲法、ロシア帝国憲法との比較を踏まえ、明治日本の憲法は、絶対主義的性格と立憲主義的性格を併せ持つ「絶対主義的立憲制」と規定した。", "title": "比較革命史で見る明治維新" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は日清戦争・日露戦争における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っている。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における壬午事変・甲申政変や清における戊戌の変法やオスマン帝国におけるタンジマートの失敗、長続きしなかったイランのイラン立憲革命やロシア帝国のヴィッテ改革・ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については金玉均など、清の改革については光緒帝、黄遵憲なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "一定の成功を収めた例としては、パラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイのチャクリー改革、トルコのアタテュルク主義、エジプトのエジプト革命、メキシコのベニート・フアレス改革が挙げられる。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "日本は明治維新によって列強と化したことにより、アジア諸国では数少ない植民地にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、オランダなどのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文やスカルノ、マハティール・ビン・モハマドや毛沢東をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "中東社会学者の山口直彦は、エジプト史での比較を論じている。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "エジプトの初代大統領ナセルは、『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「有司専制」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破綻と植民地化を招いたことが指摘されている。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "一方エジプト革命から半世紀以上前にオラービー革命を起こしたアフマド・オラービーは、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は生糸しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場である清の付属品、あるいは太平洋進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、スエズ運河を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "明治維新の通説として、天皇を戴いた排他的な藩閥政権が、立憲政治の進展を遅らせながら、経済と軍事の近代化に邁進したとするような解釈があるが、日本政治史研究の坂野潤治と産業政策研究の大野健一は、このような解釈は、事実に相反していると批判する。このような通説では、明治政府は、台湾の蔣介石政権(1949-75)、タイのサリット・タノム政権(1958-73)、韓国の朴正煕政権(1961-79)、シンガポールのリー・クアンユー政権(1965-90)、中華人民共和国の鄧小平政権(1976-97)、マレーシアのマハティール政権(1981-)などの開発独裁のイメージと重ねられた。開発独裁の特徴は、1)内外危機への対応、2)強力な指導者、3)指導者を支えるエリート、4)政治改革を後回しにした開発イデオロギーの最優先、5)民主的手続きではなく経済成果に基づく正統化、6)20-30年の同一体制の継続などがあるが、これらのうち明治維新との共通項は1)の内外危機への対応くらいであると坂野-大野は指摘する。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "坂野-大野によれば、明治政権は、単純な独裁体制が何十年も存続したわけではなく、カリスマ的指導者が上意下達の命令を下したわけでもなく、経済の近代化を最優先したわけでもなく、政権の正統性を天皇の権威のみに依存したわけでもなかった。明治維新は、「富国強兵」と「公議輿論」の複数の目標、細かく分ければ、「富国」と「強兵」と「議会」と「憲法」の四目標の並列的競合を通じて、それに指導者間の合従連衡、また指導者らによる目標の優先順位の自由な変更を通じて達成された。明治の変革期においては、指導者も固定的ではなく、優先される路線は数年ごとに入れ替わり、勝利した集団も敗退した集団も永続的にその地位にいたわけではなく、これは開発独裁のような単一目標の追及や単純な政治構造や単線的進行とは異なる、極めて複雑な局面展開をともなう柔構造モデルであったという。", "title": "非ヨーロッパ地域における近代化との比較" } ]
明治維新とは、江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の日本国内で行われた幕藩体制を打倒して天皇を頂点とした中央集権統一国家を形成し、幕府の封建社会から資本主義社会へ移行した近代化改革を指す。政治や中央官制・法制・宮廷・軍事・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化が進行した。 同時代には御一新(ごいっしん)と呼ばれた。維新革命(いしんかくめい)、明治革命(めいじかくめい)とも表現する。
[[ファイル:Emperor Arriving in Tokyo by Kobori Tomoto (Meiji Memorial Picture Gallery).jpg|250px|thumb|[[明治天皇]]の[[東京]]行幸<br />([[聖徳記念絵画館]]壁画「東京御着輦」)]] '''明治維新'''(めいじいしん、{{lang-en|Meiji Restoration}}、{{lang|en|Meiji Revolution}}<ref name="Mitani"/><ref name="karube1"/>、{{lang|en|Meiji Reform}}<ref name=":0"/>)とは、[[江戸時代]]末期([[幕末]])から[[明治]]時代初期の[[日本]]国内で行われた[[幕藩体制]]を打倒して[[天皇]]を頂点とした[[中央集権]][[国家|統一国家]]を形成し、[[幕府]]の[[封建制|封建]]社会から[[資本主義]]社会へ移行した[[近代化]][[改革]]を指す<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0-141073#E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.E3.83.9E.E3.82.A4.E3.83.9A.E3.83.87.E3.82.A3.E3.82.A2 百科事典マイペディア]</ref><ref name="nippo"/>。[[政治]]や中央[[官制]]・[[法 (法学)|法制]]・[[宮廷]]・[[軍事]]・[[身分制]]・[[地方行政]]・[[金融]]・[[流通]]・[[産業]]・[[経済]]・[[文化]]・[[教育]]・[[外交]]・[[宗教]]・[[思想]]政策の[[改革]]・[[近代化]]が進行した。 同時代には'''御一新'''(ごいっしん)と呼ばれた<ref name="nippo"/>。'''維新革命'''(いしんかくめい)<ref name="karube1"/><ref name="ban-kita"/>、'''明治革命'''(めいじかくめい)とも表現する<ref name="Mitani"/><ref name="b-o1-2"/><ref name="wat-mei"/>。 == 名称:復古・維新・一新・革命 == === 典拠 === {{See also|維新}} [[維新]]は[[詩経]]大雅・文王の「周雖旧邦、其命維新([[周]]は旧邦といえども、その命は維(これ)新(あらた)なり)」の成句から採られたが、発音の類似から'''御一新・御維ヰッ新'''(ごいっしん)ともいわれた<ref name="karube1"/><ref>精選版 日本国語大辞典「御一新」</ref>。 {{quotation| {{kyujitai|周&#xe0100;雖舊邦&#xe0101;、其命維新}} :({{kyujitai|[[周|周&#xe0100;]]は舊邦&#xe0101;と{{ruby-ja|雖|いえど}}も、{{ruby-ja|其|そ}}の{{ruby-ja|命|めい}}は{{ruby-ja|維|これ}}{{ruby-ja|新|あらた}}なり}}) :([[周]]は旧い国であるが、その[[天命]]は新しいものである) |[[詩経]]大雅・文王<ref name="karube1"/>}} === 幕末変革期から明治初期における「復古」「維新」「一新」の用例 === 「維新」の用例は古代以来多数あるが、幕末変革期においては、[[水戸学]]の思想家[[藤田東湖]]の日記『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1077846/47?tocOpened=1 庚寅日録]』[[天保]]元年(1830年)4月21日条に「中興維新」、4月25日条に「去年以来'''国事維新百度将復'''」とある。また、[[嘉永]]3年(1850年)6月19日の藤田東湖宛[[横井小楠]]書簡に「近年来尊藩'''御維新之御政事'''赫赫と天下に響聞仕」とあり<ref>続日本史籍協会叢書『横井小楠関係史料 一』1938年、142頁</ref>、幕府側の[[公文書]]でも、嘉永6年(1853年)10月15日ロシア宰相宛[[老中奉書]]「君主新嗣位、'''百度維新'''、如斯等重大事項」とある<ref>東京帝国大学『大日本古文書 幕末外国関係文書之三』1911年、61頁</ref><ref name="m06-1">三谷博『明治維新を考える』有志舎、2006年,p.1-19.</ref>。 [[長州藩]]の[[吉田稔麿]]は[[穢多]]・[[非人]]・屠勇などの[[部落問題|被差別部落民]]の兵士取り立てを献策し、[[元治]]元年(1864年)に「一新組」が、[[慶応]]2年(1866年)に「維新団」が結成された<ref name="tanaka-Kokushi">田中彰「明治維新」[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]第13巻、[[吉川弘文館]]、平成4年(1992)、722-729頁。</ref><ref>前田朋章「幕末における長州藩部落民諸隊の活動」部落解放研究所紀要40,昭和59,p24-29.</ref>。 [[慶応]]2年([[1866年]])(または慶応3年)、国学者の[[玉松操]]による[[岩倉具視]]への返答に「維新」が出てくる。『[[s:岩倉公実記|岩倉公実記]]』によれば、岩倉具視に意見を求められた玉松操は次のように回答した。 {{quotation|{{kyujitai|王政復古は務めて度量を宏くし規模を大にせんことを要&#xe0101;す。故に官職制度を建&#xe0101;定せんには、當に神&#xe0100;武帝󠄁の肇&#xe0101;基に原づき、寰宇の統一を圖り、'''萬機の維新'''に從ふを以て規準と爲すべし}}|[[慶応]]2年([[1866年]])(または慶応3年)、[[玉松操]]発言<ref name="karube1"/>}} 玉松においては、徳川政権からの権力の移譲は、「[[征夷大将軍]]」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたもので、これは[[易姓革命]]でいう王朝交代ではなかったため、「革命」でなく「維新」の表現が選ばれた<ref name="karube1"/>。明治政府もこれを踏襲した<ref name="karube1"/>。 慶応3年12月9日(1868年1月3日)の[[王政復古の大号令]]において「民ハ王者之大寶'''百事御一新'''」と表記された<ref>[{{NDLDC|787948/9}} 徳川内府大政返上将軍辞職ノ請ヲ允シ摂関幕府ヲ廃シ仮ニ総裁議定参与ノ三職ヲ置ク(宮堂上ニ諭告)]、『法令全書』慶応3年、慶応3年12月9日、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。</ref>。 [[尾佐竹猛]]によれば、新政府は[[王政復古の大号令]]においては「'''王政復古'''、国威挽回」を述べ、根本的大改造という意味で「百事御一新」と宣伝したが、この「御一新」が「維新」という語になり、初めは「'''王政維新'''」と言っていた<ref>[[尾佐竹猛]]「[{{NDLDC|1917723}} 明治維新 上巻]」,p.8-9.</ref>。「明治維新」の語が現れたのは1890年に憲法が公布される数年前のことと見られ<ref>[[小中村義象]][『大政三遷史』]。吉川半七出版、1888年。「明治維新」</ref>、「王政維新」の語は戦後も使用されている。 革命初期の[[公文書]]には'''政体復古・天下一新・朝政一新'''という表記がなされた。『太政官日誌』は慶応4年2月14日(1868年3月7日)から記録されているが、同日[[東久世通禧]]は各国公使に「'''政体復古'''」を報告している<ref>『[{{NDLDC|787614/3}} 太政官日誌 第一(慶應四戊辰二月)]』。[[国立国会図書館]]デジタルコレクション。</ref>。 {{quotation|{{kyujitai|二月十四日 午の半&#xe0101;刻より申の刻までに [[大坂]][[西本願寺]]に於&#xe0101;て [[醍醐忠順|醍醐大納&#xe0101;言]]殿 [[東久世通禧|東久世]]前少將殿 [[伊達宗城|宇和嶋]]少將殿 各國公&#xe0101;使&#xe0101;と應接の始末 左の如し :但 外國事務係 及&#xe0101;び 諸&#xe0100;藩[[家老]]列座 東久世殿發話 我日本 政體復古 帝󠄁自ら政權を握し 外國の交&#xe0101;際も 一切朝廷&#xe0101;にて曳請&#xe0101; 裁判&#xe0101;致可 … }}|『太政官日誌』第一}} 慶應4年2月28日の「幕府御親征の詔」では「天下一新」とある<ref>三浦藤作 謹解[他]「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041465 歴代詔勅全集」 第5巻]、昭和15-18年、14頁。</ref>。慶應4年3月14日(1868年4月6日)の[[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]]では「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/759508/49?tocOpened=1 朝政一新]」とある。旧暦9月8日(10月23日)に改元が行われ、明治元年12月23日(1869年2月4日)の東久世中将からイギリス公使[[ハリー・パークス]]に宛てた公文書綴では「'''朝政一新'''」とある<ref>「[https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/law/document/9843863d-76d2-46b6-a91b-7d9db13f1683#?c=0&m=0&s=0&cv=0&xywh=-320%2C-550%2C6399%2C4938 朝政一新に付大変革の通知]」幕府及明治政府側よりイギリス公使館宛公文書綴、東京大学法学部法制史資料室所蔵コレクション</ref>。 明治2年(1869年)正月には、[[木戸孝允]]が[[大村益次郎]]宛書簡で「'''大政一新'''」と書き、[[岩倉具視]]は「'''大政維新'''」と書いた<ref name="m06-1"/><ref>[[坂田吉雄]]『天皇親政』思文閣 1984年、27,29頁</ref> 公文書における「維新」の用例としては、明治3年1月3日の[[大教宣布|宣布大教の詔]]に「今や天運循環し、百度維新(これあらた)なり、宜しく治教を明らかにし、以て惟神(かむながら)の道を宣揚すべきなり」とある<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1110074/38 歴代の詔勅]』 p.66 ,河野省三 内閣印刷局、1940年(国立国会図書館)</ref>。 明治5年(1872年)9月刊行の沖志楼主人『[{{NDLDC|785738}} 維新御布告往来 : 童蒙必読]』には「皇政復古、綱紀'''御維新'''(ゴセイジムカシカヘリ ゴキソクアラタニナリ)」とある。 === 英語での翻訳:{{lang|en|restoration}} と {{lang|en|revolution}} === 英語表記は {{lang|en|Meiji restoration}} <ref>{{Cite web |title=明治維新は英語で何と言う?日本の「高校・世界史」を丸ごと英訳(週刊現代) @gendai_biz |url=https://gendai.media/articles/-/51670 |website=現代ビジネス |accessdate=2019-06-08}}</ref>が多く、「明治の(王政)復古」の意味になる。他に {{lang|en|Meiji Ishin}}<ref>Edited Miguel Urrutia and Nagai Michio,Meiji Ishin: Restoration and Revolution,ISBN 9280805339,United Nations University Press,June 1985,{{Cite web |title=Meiji Ishin: Restoration and Revolution - United Nations University |url=https://unu.edu/publications/books/meiji-ishin-restoration-and-revolution.html |website=unu.edu |accessdate=2019-06-08 |language=en-US}}([[永井道雄]]、M.ウルティア共編、明治維新、[[国際連合大学]] 1986)</ref>、{{lang|en|Meiji restoration and revolution}}<ref name=":0">{{Cite web |title=Restoration, Revolution or Reform?― The Unexpected Fortune of Winners and Tenacious Efforts of Losers |url=https://sp.japanpolicyforum.jp/archives/politics/pt20180225164234.html |website=Discuss Japan-Japan Foreign Policy Forum|date=2018-02-25|accessdate=2019-06-08 |language=en-US |first=SHIMIZU |last=Yuichiro|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180601223810/http://www.japanpolicyforum.jp/archives/politics/pt20180225164234.html|archivedate=2018-06-01}}</ref>、{{lang|en|Meiji Revolution}}(明治革命)<ref>* Toward the Meiji Revolution:The Search for “Civilization” in Nineteenth-Century Japan,Karube Tadashi,Translated by David Noble,Published by JPIC ISBN 978-4-86658-059-3 ,March 2019.<br />*Tadashi KARUBE,“Long Revolution” in Modern Japan: Rethinking the Search for Civilization in Nineteenth-Century Japan,Oxford University,サントリー文化財団</ref><ref name="Mitani">* Hiroshi Mitani,[[doi:10.1093/acrefore/9780190277727.013.84|Meiji Revolution]],26 April 2017,Oxford University Press,<br />*Hiroshi Mitani,Japan’s Meiji Revolution in Global History: Searching for Some Generalizations out of History,06 Feb 2020,Asian Review of World Histories.<br />*Hiroshi Mitani,Chapter:Japan’s Meiji Revolution: an alternative model of revolution?, The Routledge Companion to the French Revolution in World History,2015.ISBN 9781315686011</ref>、{{lang|en|Meiji Renovation}}<ref>清水唯一朗、奈良岡聰智「[https://koken-publication.com/archives/438 明治維新はどのように日本社会を変えたのか?]」『公研』2018年1月号、公益産業研究調査会</ref> などが見られる。 維新は英語で[[王政復古]]を意味する {{lang|en|Restoration}} と表記されることが多いが、これは[[慶應]]3年12月9日([[1868年]]1月3日)に[[岩倉具視]]らが上程した'''大令'''(いわゆる[[王政復古の大号令]])の中の王政復古の英語訳であるとされる<ref name="karube1">[[苅部直]]『「維新革命」への道』[[新潮選書]] 2017年,第一章、p41-56.</ref>。 {{quotation|先帝([[孝明天皇]])頻年被惱宸襟(しんきん)候御次第、衆庶之知る所に候。依之叡慮を決せられ、王政復古、国威挽回ノ御基(もとい)立てさせられ候間、自今、[[摂関]][[幕府]]等廢絕し…|大令(王政復古の大号令)<ref name="karube1"/><ref>[{{NDLDC|787948/9}} 徳川内府大政返上将軍辞職ノ請ヲ允シ摂関幕府ヲ廃シ仮ニ総裁議定参与ノ三職ヲ置ク(宮堂上ニ諭告)]、『法令全書』慶応3年12月9日、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。</ref>|慶應3年12月9日(1868年1月3日)}} 英国外交官フランシス・O・アダムスの『日本史』(1874-75)ではこの大令を「{{lang|en|a basis should be formed for a return to the ancient form of government by the Sovereign,and for the restoration of the national dignity}}」と説明された<ref>Francis Ottiwell Adams,the history of Japan,第四編第一章,1874-75,Henry S. King and Co.</ref>。この場合、{{lang|en|restoration}} は「王政復古」ではなく、「国威挽回」の訳語として用いられたが、日本政治思想史研究者の[[苅部直]]は、日本の開国後出版された西欧人による初めての日本紹介であるアダムスの『日本史』から、慶応三年の改革を {{lang|en|restoration}} と呼ぶ用法が定着していったのだろうと指摘する<ref name="karube1"/>。 他方、[[ウィリアム・グリフィス]]の {{lang|en|''The Mikado's Empire''}} (『ミカドの帝国』、1876年)では、将軍政権の崩壊とミカド(天皇)の最高権力への復帰({{lang|en|restoration}})が目撃されたとし、最近の日本では、対外政策の転換、社会改革、西洋文明の受容の三重の政治革命 ({{lang|en|a three-fold political revolution}}) が進行していたと認識していた<ref name="karube1"/><ref>William Elliot Griffis, The Mikado's Empire,Book1,The Recent Revolutions in Japan,[https://books.google.co.jp/books?id=VepxAAAAMAAJ&pg=PA291&hl=ja&source=gbs_toc_r&cad=4#v=onepage&q&f=false p.291],W.E.Griffis.A.M.,New York,1877.</ref>。苅部によれば、幕末から明治にかけての体制転換は、徳川[[公方]]から京都の天皇への単なる[[政権交代]]というだけでなく、[[公儀]]または[[幕府]]が大名と朝廷を統制するそれまでの国家全体の体制を改めることであり、様々な制度改革を通じて、[[身分]]に基づく[[支配]]などが廃止され、西洋文明への受容へと大きく舵が切られたような、社会の急激な変化であり、また、当時の日本国内ではこのような世の中を根本から立て直そうとする動きは「御一新」として歓迎されたことなどからも、このような体制転換にふさわしい英語は {{lang|en|revolution}} であり、これは同時代の日本人が抱いた実感でもあったという<ref name="karube1"/>。また、明治政府が「維新」でなく「革命」と表現していたら、「明治革命」と言った名称も定着していた可能性もあったという<ref name="karube1"/>。 なお、[[徳富蘇峰]]や[[竹越與三郎]]<ref name="karube1"/>や、[[北一輝]]らは<ref name="ban-kita"/>、「'''維新革命'''」という呼称を用いた。 [[中村政則]]は、明治維新は復古(Restoration)、改革(Reform)、革命の三つの側面を持ち、どの側面を強調するかで評価が異なってくると1986年に指摘した<ref name="nakamura"/>。 21世紀に入ると「明治革命」を使用する研究者が多くなり、日本政治史研究の[[坂野潤治]]や<ref name="b-o1-2"/>日本近代史研究の[[三谷博]]<ref name="Mitani"/>、日本政治思想史研究の[[渡辺浩 (政治学者)|渡辺浩]]<ref name="wat-mei">[[渡辺浩 (政治学者)|渡辺浩]]『明治革命・性・文明――政治思想史の冒険』(東京大学出版会、2021年)</ref>、歴史学者[[マリウス・バーサス・ジャンセン]]<ref>Marius Berthus Jansen,The Making of Modern Japan,Belknap Press: An Imprint of Harvard University Press; Revised, 2002,p333-</ref>や[[アンドルー・ゴードン]]<ref name="Gordon"/><ref>Andrew Gordon,A Modern History of Japan: from Tokugawa Times to the Present, Meiji Revolution,Oxford Univ Pr; (2019),p.60-73.</ref>らは「'''明治革命・Meiji Revolution'''」という呼称を用いる。 なお、[[三谷博]]は、Restorationを訳語に使うと、天皇の国家の頂点への復帰だけに注意を集め、維新が世襲身分制のほとんどを廃棄した大規模な革命であった事実をおおいかくしてしまうので、Revolutionでは誤解もあるのなら、regeneration(再生、改革、刷新などの意味)という訳語を提案した<ref name="regene">三谷博『明治維新を考える』(2012年[[岩波現代文庫]])、『日本史のなかの「普遍」 比較から考える「明治維新」』東京大学出版会、2020年1月,p.381.</ref>{{Refnest|group="*"|フランス革命でも「再生」というシンボルが多用された<ref name="regene"/><ref>「フランス革命事典5」,[[阪上孝]]「近代的統治の誕生」岩波書店 1999.p.67.</ref>}}。 == 改革の時期 == 維新の時期については諸説ある。明治維新の始期として、[[天保]]年間(1831 - 1845年)に置く考えがある<ref name="nippo">{{Kotobank|1=明治維新|2=日本大百科全書(ニッポニカ)|3=遠山茂樹「明治維新」}}</ref>。[[天保]]年間には、[[天保の大飢饉]](天保4 - 10年、1833 - 1839年)によって100万人以上が犠牲となり、[[天保騒動]]などの[[百姓一揆]]や、[[大塩平八郎の乱]](1837年)が発生した<ref name="nippo"/><ref name="saigai"/>。 また鎖国を批判した[[渡辺崋山]]や[[高野長英]]を弾圧する[[蛮社の獄]]があり、[[天保の改革]]でも飢饉対策の成果はなかった<ref name="nippo" /><ref name="saigai">{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508|title=19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫) |newspaper=Yahoo!ニュース|date=2020-08-24|accessdate=2022-01-03}}</ref>。天保13年(1842年)には[[アヘン戦争]]で[[清]]が敗れ、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|イギリス]]([[大英帝国]])の強さを知った幕府は[[異国船打払令]]を廃止し、遭難船を救済する[[薪水給与令]]を定めた<ref name="saigai" />。 始期として、[[黒船来航]]([[嘉永]]6年、1853年)または[[不平等条約]]であった[[安政五カ国条約|安政通商条約]]の締結(1858年)に置く見方もある<ref name="nippo"/>。 1889年(明治22年)に完成した[[明治政府の修史事業|官選史料集]]『[[復古記]]』では、[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]から明治元年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]([[1868年]][[12月11日]])の[[東征大総督]]解任までが扱われた。当初の復古記編纂案では、嘉永7年(1853年)のペリー来航から大政奉還までを前記、大政奉還から東征大総督解任までを正記、戊辰戦争記を外記と区分していた<ref>桑原伸介 「近代政治史料収集の歩み 一 復古記を中心に明治初年の官撰修史事業」 『参考書誌研究』 17号 国立国会図書館、1-11頁、1979年2月1日</ref>。 [[文部省]]・[[東京大学史料編纂所]]編纂『大日本維新史料』では、[[弘化]]3年(1846年)2月の[[孝明天皇]]の[[践祚]]から明治4年(1871年)の[[廃藩置県]]に至る25年間が維新資料としてまとめられた<ref>[https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/ishin/ 「大日本維新史料」][[東京大学史料編纂所]]</ref>。 {{要出典範囲|狭義では[[明治]][[改元]]に当たる明治元年[[9月8日 (旧暦)|旧9月8日]]([[1868年]][[10月23日]])となる。しかし、一般的にはその前年に当たる[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]、[[王政復古]]以降の改革を指すことが多い|date=2022年1月}}。 終了時期についても、[[廃藩置県]](明治4年、[[1871年]])、封建復帰を目ざす士族の反政府運動が終わった[[西南戦争]](明治10年、[[1877年]])や<ref name="nippo"/>、[[内閣 (日本)|内閣制度]]の発足(明治18年、[[1885年]])、立憲体制の確立・[[大日本帝国憲法]]発布(明治22年、[[1889年]])<ref name="nippo"/>までとするなど諸説ある。 この期間の政府(一般的には慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]](1868年[[1月3日]])の王政復古以後に成立した政権('''維新政権'''<ref>『歴史学事典 12{{small|王と国家}}』(弘文堂、2005年 ISBN 4335210434)「維新政権」([[松尾正人]])より。</ref>)を'''明治政府'''(めいじせいふ)、'''新政府'''(しんせいふ)、'''維新政府'''(いしんせいふ)ともいう。 == 幕末の情勢と江戸幕府の崩壊 == === 政治状況 === [[ファイル:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period.jpg|200px|thumb|戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。[[フェリーチェ・ベアト]]撮影]] [[ファイル:BattleOfShimonoseki.jpg|200px|thumb|四国連合艦隊による下関砲撃([[下関戦争|馬関戦争]])]] {{Main2|幕末の外圧|幕末の砲艦外交|幕末当時の国際関係や政治状況|幕末}} 一般的に、明治維新の始まりは[[黒船来航]]に象徴される欧米[[列強]]の経済的・軍事的拡大政策に対する抵抗運動([[攘夷運動]])に起源を持つとされる。 19世紀、[[江戸幕府]]の支配体制は綻びが見え始めていた。ロシア、アメリカをはじめとする外国船の来航と通商要求や、[[フェートン号事件]]や[[モリソン号事件]]などの外圧の高まりに加えて、[[宝暦事件]]、[[明和事件]]、[[大塩平八郎の乱]]といった内紛・内乱や民衆運動である[[打ちこわし]]が盛んになった。[[老中]][[松平定信]]や[[国学]]者の[[本居宣長]]などは[[大政委任論]]を唱え、幕府の政治は[[天皇]]から委任されたものと考える見方が主流化し、国学者や[[水戸学]]を中心に[[尊皇思想]]・[[尊王論]]が広まっていった。 [[19世紀]]半ばの'''[[アヘン戦争]]'''以後、欧米による[[帝国主義]]政策の影響が[[東アジア]]に浸透するにつれ、[[水戸学]]等の[[国学]]を基盤として、外国勢力を排斥して[[江戸幕府]]開闢以来の基本政策である[[鎖国政策]]と[[幕藩体制]]を維持しようとする[[攘夷思想]]が現れた。しかし[[江戸幕府]]は[[開国]]・通商路線を選択したため、攘夷思想は[[尊王論]]と結びつき、[[朝廷 (日本)|朝廷]]の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める[[尊王攘夷]]運動として、[[武士]]階層を中心に広く普及していった。 一方、幕府側の'''[[開国]]'''・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる[[雄藩]]を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の[[幕藩体制]]の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、[[京都]]を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。そのような風潮の中、[[薩英戦争]]や[[下関戦争]]などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内の政治権力の統一や体制改革([[近代化]])を進め、外国との交易によって[[富国強兵]]を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった[[長州藩]]も開国論へと転向していくことになった。[[イギリス]]外交官[[アーネスト・サトウ]]の論文『[[英国策論]]』の和訳が横浜のジャパン・タイムズに掲載され、天子主権論と[[討幕]]を理論づけた。ただこの書の内容は、英国留学中の薩摩藩士[[寺島宗則|松木弘安]]が英国の[[外務英連邦大臣|外務大臣]]に提出したものとの類似性が指摘されている<ref>[[石井孝]]著「明治維新の国際的環境」吉川弘文館; 増訂版 (1966)。ASIN: B000JAAC2M</ref>。 [[ファイル:Emperor Meiji in 1873.jpg|200px|thumb|明治天皇(明治6年〈1873年〉10月、[[内田九一]]撮影)]] 幕府は[[公武合体]]政策を掲げ、尊王攘夷派の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を模索したため、外国勢力の脅威に直面していた急進的な雄藩の支持を失っていった。またこの時期、黒船来航以来の幕府の威信の低下と世情不安の高まりを背景として[[農民一揆]]が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する[[土佐藩]]・[[越前藩]]らの主張([[公議政体論]])や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、国政改革のために幕府を廃して朝廷の下に中央集権的な政治体制を樹立しようとする構想が幕政において急速に支持を集めていった。結果としてこれらの改革勢力の協力の下に'''[[王政復古 (日本)|王政復古]]'''が宣言され、[[古代]]の[[律令制]]や[[中世]]の[[建武の新政]]に中央集権的王権統治の先例を求めつつも、[[天皇]]が[[欧米列強]]諸国の君主同様に[[近代国家]]の[[主権者]]として統治する体制を採る明治政府が誕生した。'''[[戊辰戦争]]'''による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立したこの新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。 {{Main2|明治初期の政治状況|明治時代}} === 自然災害と疫病 === [[Image:Namazu-e.jpg|right|thumb|300px|安政2年(1855年)[[安政江戸地震]]直後の[[鯰絵]]。地震を起こすとされた大鯰を懲らしめる。]] 幕末に諸外国からの開国圧力が強まる中、大地震が続発した。[[弘化]]4年([[1847年]])には長野で[[善光寺地震]]が起き、[[山崩れ]]でせき止め湖決壊などのため、1万人を超す犠牲者が出た<ref name="saigai"/>。[[ペリー来航]]直前の[[嘉永]]6年(1853年)3月に[[小田原地震]]([[マグニチュード|M]]6.7、[[震度]]7、江戸の震度4-5)が起きた。翌年[[日米和親条約]]が締結されると、[[伊賀上野地震]]([[マグニチュード|M]]7.3)が発生し、以降、13回の地震が連発する'''[[安政の大地震]]'''が発生した<ref name="saigai"/>。嘉永7年には、[[南海トラフ巨大地震]]である[[安政東海地震]]と[[安政南海地震]]([[マグニチュード|M]]8.4、[[震度]]7)、[[豊予海峡地震]]([[マグニチュード|M]]7.4、[[震度]]6)が発生し、幕府は[[改元#改元の理由|災異改元]]で[[安政]]に改元するが、安政2年に[[飛騨地震]]([[マグニチュード|M]]6.8)、陸前地震、[[安政江戸地震]](M6.9-7.4、推定死者1万人)が発生した<ref name="saigai"/>。安政3年にも[[安政3年の大風災]]で台風と高潮が江戸を襲い(推定死者10万人)<ref name="saigai"/>、[[安政八戸沖地震]](M6.9-8.0)が発生した。安政4年に[[芸予地震]](M7.3)が発生、安政5年(1858年)の[[飛越地震]](M7.1、震度7)では[[鳶山崩れ]]も併発し、[[常願寺川]]のせき止め湖が二度決壊して下流に大被害を出した<ref name="saigai"/>。 安政5年には[[コレラ]]も流行し、江戸だけで死者が3万人<ref name="saigai"/>から30万人に及んだ<ref>菊池万雄「江戸時代におけるコレラ病流行 寺院過去帳による実証」1978 年、人分地理 30 巻 5 号 、p.66.</ref>。さらに[[文久]]2年(1862年)のコレラ流行では安政5年の数倍の死者が出た<ref>[https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/tenkataihen/epidemic/contents/50/index.html 安政箇労痢(ころり)流行記] 国立公文書館</ref>。文久2年には[[はしか]]も大流行し、江戸だけで239,862人の死者が出た<ref name="kato">加藤茂孝「人類と感染症の闘い 第7回 麻疹」モダンメディア56巻7号、2010年、p.17.(加藤茂孝『人類と感染症の歴史』丸善出版2013年3月)</ref>。こうした度重なる疫病による社会不安が[[徳川幕府]]崩壊の要因の一つともなった<ref name="kato"/>。 === 略年表 === {{See also|幕末の年表|明治#年表}} ※明治5年(1872)の[[グレゴリオ暦#明治改暦|グレゴリオ暦への改暦]]までの日本は[[太陰太陽暦]]([[天保暦]])を採用していたため、[[西暦]]とはずれがあることに留意。また、[[慶応]]4年の[[一世一元の制]]による[[明治]]への[[改元]]までは災異改元や立年改元(改元年の元旦に遡及して新元号を使用)などもある<ref>{{Cite journal|和書|author=七戸克彦 |url=https://hdl.handle.net/2324/1790495 |title=皇位継承と改元に関する若干の覚書 |journal=ふくおか : 会報 |publisher=福岡県土地家屋調査士会 |year=2017 |month=jan |volume=122 |pages=3-6 |naid=120005971224 |ref = harv}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|date=1970 |url=https://doi.org/10.4294/zisin1948.23.4_335 |title=本邦における被害地震の日本暦の改元について |format= |author=神田茂 |accessdate= |journal=地震 第2輯 |volume=23 |issue=4 |pages=335-336|doi=10.4294/zisin1948.23.4_335}}</ref>。 *[[天保]]年間(1831-45) **天保4年(1833) - [[天保の大飢饉]](〜天保10) **天保7年(1836) - [[天保騒動]] **天保8年(1837)[[大塩平八郎の乱]] **天保10年(1839) - [[蛮社の獄]] **天保12年(1841) - [[天保の改革]] **天保13年(1842) - [[アヘン戦争]]の情報を得た幕府は[[異国船打払令]]を廃止して[[薪水給与令]]発布<ref>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「薪水給与令」、コトバンク</ref> *[[弘化]]年間(1845-48) *[[嘉永]]年間(1848-1855) **[[嘉永]]6年(1853) - '''[[黒船来航]]''' **嘉永7年(1854) - 3月[[日米和親条約]]、6月[[伊賀上野地震]]、8月[[日英和親条約]]、11月、[[安政東海地震|安政東海]]・[[安政南海地震|南海地震]]を受けて災異改元。[[安政]]元年11月、[[豊予海峡地震]]。12月[[日露和親条約]] *[[安政]]年間(1855-1860) **安政2年(1855年) - 10月[[安政江戸地震]]、12月[[日蘭和親条約]] **安政3年(1856年) - 7月[[安政八戸沖地震]]、8月[[安政3年の大風災|江戸大風災]] **安政5年(1858年) - [[日米修好通商条約]]、続けてオランダ、ロシア、英国、フランスも締結([[安政五カ国条約]])。[[安政の大獄]]、[[コレラ]]流行 **安政7年(1860年) - [[桜田門外の変]] *[[万延]]年間(1860-1861) *[[文久]]年間(1861-1864) **文久2年 - [[文久の改革]]、[[生麦事件]]、[[はしか]]流行 **文久3年 - [[薩英戦争]]、[[八月十八日の政変]]、[[下関戦争]](文久3-4) *[[元治]]年間(1864-1865) **元治元年 - [[禁門の変]]、[[下関戦争|四国艦隊下関砲撃(下関戦争)]]、第一次[[長州征討]] *[[慶応]]年間(1865-1868) **慶応元年(1865) - [[兵庫開港要求事件]] **慶応2年(1866) - [[薩長同盟]]、第二次[[長州征討]] **慶応3年(1867) - [[四侯会議]]、'''[[大政奉還]]'''[[上奏]] - '''[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]''' **慶応4年(1868) - 1月、[[鳥羽・伏見の戦い]]で'''[[戊辰戦争]]'''開始。4月、[[江戸開城]]、[[会津戦争]]開始。7月、[[上野戦争]]、[[秋田戦争]]。'''[[五箇条の御誓文]]、[[政体書]]'''発布、[[東京奠都]]、[[9月8日 (旧暦)|旧9月8日]]([[1868年]][[10月23日]])、[[一世一元の制]]による[[明治]]への[[改元]]。[[明治元年]]<ref>[[旧暦]]1月1日〜11月18日までは西暦[[1868年]]。旧暦11月19日から12月30日までは西暦[[1869年]]</ref>9月22日、[[会津戦争]]終結。 *[[明治]]年間(1868-1912) **明治2年(1869) - 5月、[[箱館戦争]]により[[戊辰戦争]]終結。6月、'''[[版籍奉還]]''' - [[宮内省]]・[[民部省]]・[[大蔵省]]・[[刑部省]]・[[兵部省]]・[[外務省]]を設置。族称・[[平民]]の設置。 **明治4年(1871) - '''[[廃藩置県]]''' **明治5年(1872) - [[芸娼妓解放令|人身売買禁止令]]、[[国立銀行条例]]。12月、[[グレゴリオ暦#明治改暦|太陰太陽暦からグレゴリオ暦へ改暦]]。 **明治6年(1873) - [[明治六年政変]]、[[敵討禁止令]] **明治7年(1874) - [[民撰議院設立建白書]]、[[佐賀の乱]]、[[台湾出兵]] **明治9年(1876) - '''[[秩禄処分]]''' **明治10年(1877)- '''[[西南戦争]]''' **明治12年(1879)- [[琉球処分]] **明治14年(1881)- [[国会開設の詔]] **明治18年(1885) - [[太政官制]]廃止、'''[[内閣 (日本)|内閣制度]]'''発足。 **明治22年(1889)- '''[[大日本帝国憲法]]'''発布。 **明治23年(1890)-第1回[[帝国議会]] == 「御一新」の理念 == === 五箇条の御誓文 === {{main|五箇条の御誓文}} [[ファイル:Goseimon by takahito.jpg|left|thumb|[[有栖川宮幟仁親王|幟仁親王]]が揮毫した御誓文の原本]] [[ファイル:Taisehokan.jpg|thumb|「大政奉還図」 [[邨田丹陵]] 筆]] [[江戸幕府]]による大政奉還を受け、[[王政復古 (日本)|王政復古]]によって発足した明治新政府の方針は、[[天皇]][[親政]](旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年([[1868年]])3月14日に公布された[[五箇条の御誓文]]で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『'''五箇条の御誓文'''』の起草者・監修者は「'''旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ'''」を全く新たに入れた[[総裁]]局顧問・[[木戸孝允]]([[長州藩]])であるが、その前段階の『'''会盟'''』五箇条の起草者は参与・[[福岡孝弟]]([[土佐藩]])であり、更にその前段階の『'''議事之体大意'''』五箇条の起草者は参与・[[由利公正]]([[越前藩]])である。 その当時はまだ[[戊辰戦争]]のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して[[明治天皇]]が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「[[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]]」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から脱却するように説かれている。 これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には[[自由民権運動]]の理想とされていく。 また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「[[富国強兵]]」「[[殖産興業]]」が頻用された。 === 五榜の掲示 === 五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の[[高札]]が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「[[五榜の掲示]]」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、[[キリスト教]]の禁止、国外[[逃亡]]の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策の中で撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。 == 新政府の編成 == {{Main|日本国政府}} === 明治政府 === ==== 首都の位置 ==== [[首都]]については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、[[大阪市|大阪]]遷都論が[[大久保利通]]を中心として唱えられた。 しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→[[東京奠都]]の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、[[明治天皇]]の2度の[[東京行幸]]により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。 ==== 行政 ==== {{See|近代日本の官制}} 形式的には、明治維新は[[律令制]]の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、[[中央集権]]国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた<ref group="*">例:[[太政官]]、[[大蔵省]]など。ただし、当然のことながら実態は律令制のそれとはかなり異なる。</ref>。 [[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]において、[[幕府]]や[[摂政]]・[[関白]]の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に'''総裁'''・'''議定'''・'''参与'''の三職からなる官制が施行された。[[総裁]]には有栖川宮親王、[[議定]]には[[皇族]]・[[公卿]]と薩摩・長州・土佐・越前などの[[藩主]]が、[[参与]]には[[公家]]と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、[[明治天皇]]はまだ年少であるため<ref group="*">当年16歳。天皇親政は建前であった。</ref>、それを補佐する体制がすぐに必要となった。 そこで、慶応4年[[4月21日 (旧暦)|閏4月21日]]、[[日本の官制|政体書]]の[[公布]]により、太政官を中心に[[三権分立制]]をとる[[太政官制]]が採られ<ref group="*">政体書で三権分立など民主的な政治制度が採られたのは、[[ホイットニー]]の『[[万国公法]]』や[[ブリジメン]]の『連邦史略』などアメリカ人の著書が参考にされ、[[アメリカ合衆国憲法]]の影響を強く受けているため。</ref>、さらに翌年7月には、[[版籍奉還]]により律令制の二官八省を模した[[二官六省制]]が発足した。明治2年の主な組織と役職者は次の通りである<ref>板垣退助 監修『自由党史(上)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、48頁</ref>。 # [[輔相]] [[三条実美]] # [[議定]] [[岩倉具視]]、[[徳大寺実則]]、鍋島直正 # [[参与]] [[東久世通禧]]、[[木戸孝允]]、[[大久保利通]]、[[後藤象二郎]]、[[副島種臣]]、[[板垣退助]] そして、明治4年7月の[[廃藩置県]]の後には[[正院]]・[[左院]]・[[右院]]による[[三院制]]が採られた。 具体的な行政機構としては、[[太政官]]と[[神祇官]]を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も[[民部省]]から[[工部省]]が分離したり、[[刑部省]]から[[司法省 (日本)|司法省]]に改組したりする幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年([[1885年]])の[[内閣制度]]発足をもってようやく安定する。 ==== 立法 ==== [[ファイル:Ceremony for the Promulgation of the Constitution by Wada Eisaku.jpg|250px|thumb|「憲法発布式」[[和田英作]] 筆]] また、立法府に関しては[[木戸孝允]]らが明治初年から[[議会]]開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、[[大久保利通]]を中心に「'''[[有司専制]]'''」と呼ばれる薩長[[藩閥]]による官僚を中心とした改革体制が維持された。1875年(明治8年)には[[大阪会議]]での合意と[[立憲政体の詔書]]により、立法機関として'''[[元老院 (日本)|元老院]]'''が設置された。 のち、[[自由民権運動]]の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟、[[不平等条約]]撤廃条件などもあり、明治14年([[1881年]])に[[明治天皇]]は「国会開設の詔」を出し、同時に議会制度の前提として[[伊藤博文]]らによる[[憲法]]制定の動きが本格化し、憲法審議のため[[枢密院 (日本)|枢密院]]が設置された。明治22年([[1889年]])に[[大日本帝国憲法]]が[[公布]]、翌年[[帝国議会]]が発足し、アジアでは初の本格的な[[立憲君主制]]・議会制国家が完成した<ref group="*">正確には[[オスマン帝国]]の[[タンジマート]]改革における[[1876年]][[ミドハト憲法]]公布がアジア初の立憲制ではあるが、同国は直後に君主専制に回帰している。</ref>。 ==== 司法 ==== * [[1868年]] - [[政体書]]に基づき、[[太政官]]の下に[[刑法官]]が置かれた。 * [[1869年]] - [[太政官制]]が発足し、同年、[[刑部省]]が設置された。 * [[1871年]] - 刑部省と[[弾正台]]が合併し、[[司法省 (日本)|司法省]]となり、[[法治国家]]の基礎が整備された。 * [[1875年]] - 司法省裁判所に代わる[[大審院]]が新たに設置され、司法行政を行う司法省と司法権を行使する大審院が区分された。 === 地方行政 === [[ファイル:Sho_Tai.jpg|200px|thumb|[[琉球王国]]最後の国王・[[尚泰王]]]] 明治新政府は、幕府から受け継いだ[[天領]]と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を[[駿府藩]]に移封し、[[京都府|京都]]・[[長崎県|長崎]]・[[函館市|函館]]を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。 まず、[[明治元年]]に[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が[[版籍奉還]]の[[建白書]]を提出。続いて明治2年1月20日に[[薩摩藩]]・[[長州藩]]・[[土佐藩]]・[[肥前藩]]([[薩長土肥]])の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落迎えると、全藩に版籍奉還を命じた。この'''版籍奉還'''により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて[[知藩事]]に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。 しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年[[7月14日 (旧暦)|旧7月14日]](1871年[[8月29日]])に、倒幕の中心であった薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と[[木戸孝允]]らにより'''[[廃藩置県]]'''が実施され、[[都道府県|府県]]制度となり(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から[[都道府県知事|知事]]を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。 [[薩摩藩]]の[[島津久光]]が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が[[華族]]として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇蹟ともいえる。 なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった[[琉球王国]]に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年([[1879年]])に[[沖縄県]]として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に'''[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]'''と称される。旧琉球国王の[[尚氏]]も旧藩主と同様、[[華族]]となった)。(→ [[沖縄県の歴史]]) == 新国家の建設 == === 岩倉使節団の影響 === [[ファイル:Iwakura mission.jpg|200px|thumb|左から[[木戸孝允]]、[[山口尚芳]]、[[岩倉具視]]、[[伊藤博文]]、[[大久保利通]]]] [[1871年]][[12月23日]]から[[1873年]][[9月13日]]にかけて<ref>「岩倉使節団という冒険」p.220 泉三郎 文藝春秋 平成16年7月20日第1刷</ref>、維新[[政府]]は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度の研究をするため[[岩倉具視]]を正使、[[大久保利通]]・[[木戸孝允]]・[[伊藤博文]]らを副使とする[[岩倉使節団]]を欧米へ派遣した。使節団は[[条約]]改正には失敗するものの、[[西洋]]の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の[[維新]]の動きに大きな影響を与えた。 一方、日本国内においては「[[留守政府]]」と呼ばれた日本残留組の[[西郷隆盛]]・[[井上馨]]・[[大隈重信]]・[[板垣退助]]・[[江藤新平]]・[[大木喬任]]らの手によって、次々と改革は進んでいった。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「[[お雇い外国人]]」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、[[近代国家]]建設を助けた。 === 改革された諸制度 === 留守政府が行った主な改革としては、[[学制|学制改革]]、[[地租改正]]、[[徴兵令]]、[[太陽暦]]<!--日本におけるグレゴリオ暦の採用は1898年5月であり、留守政府の時期(1871年12月から1873年9月まで)ではないため、「太陽暦」とする。-->の採用、司法制度の整備、[[散髪脱刀令|断髪令]]などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の[[征韓論]]につながったともいわれる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が[[明治六年政変]]によって征韓論を退け、さらに大久保の下に[[内務省 (日本)|内務省]]が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。 ==== 軍隊 ==== [[ファイル:Japanese Navy Ministry Building.JPG|thumb|1930年代の海軍省]] 徴兵令を導入し、近代的な[[常備軍]]を最初に作ろうとしたのは[[大村益次郎]]であったが、彼が[[暗殺]]されてしまったため、[[山縣有朋]]に引き継がれた。明治3年、徴兵規則が作られ、翌年の明治4年に廃藩により[[兵部省]]が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、[[陸軍省]]と[[海軍省]]が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。 ==== 身分制度 ==== [[ファイル:Seinansenso snou.jpg|200px|thumb|最大の[[士族反乱]]・[[西南戦争]]を描いた『鹿児島暴徒出陣図』 [[月岡芳年]]画]] 江戸幕府下の[[武士]]・[[百姓]]・[[町人]](いわゆる[[士農工商]])の別を廃止し、「四民平等」を謳ったが形式的なものに留まった。しかし、明治4年に制定された[[戸籍法]]に基づき翌年に編纂された[[壬申戸籍]]では、旧武士階級を[[士族]]、それ以外を[[平民]]とし、旧[[公家]]・[[大名]]や一部僧侶などを新たに[[華族]]として特権的階級とすると同時に、[[宮内省]]の支配の下に置くことになった。 華族と士族には政府から[[家禄]]が与えられ、明治9年の[[秩禄処分]]まで支給された。同年、[[廃刀令]]が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱([[佐賀の乱]]、[[萩の乱]]、[[秋月の乱]]、[[神風連の乱]])につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の[[士族反乱]]であった[[西南戦争]]が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。 ==== 経済産業 ==== [[ファイル:Steam-Locomotive-on-the-coast-in-Yokohama-1874-Utagawa-Hiroshige-III.png|thumb|浮世絵に描かれた横浜の鉄道と船]] 維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの[[年貢]]は収量を基本とする[[物納]]であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には[[田畑永代売買禁止令]]が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に[[地租改正条例]]が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に[[地券]]が発行されることとなって、所有する土地に対し[[地租]]が課せられることとなった。これにより、土地の[[所有権]]が初めて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有[[財産権]]が完全に確立することで[[資本主義]]の発展の基礎条件が成立した。また経済を支えるインフラ整備も行われた。 '''貿易分野'''では、1859年(安政6年)には[[横浜市|横浜]]にすでに、[[イギリス帝国]]の[[旧ジャーディン・マセソン商会ビル|ジャーディン・マセソン商会]]支店の通称「[[英一番館]]」([[ケズウィック家#第1世代|ウィリアム・ケズウィック]])が設置されており、1861年(万延2年)には[[長崎市|長崎]]に、ジャーディン・マセソン商会代理店の「[[グラバー商会]]」が設立された。[[外国人居留地]]としては、1863年(文久3年)に横浜の山下居留地、1868年(明治元年)には[[神戸外国人居留地|神戸居留地]]と大阪の川口居留地、1869年(明治2年)には東京に築地居留地、1870年(明治3年)に[[グラバー園|長崎居留地]]が完成した。 [[富国強兵]]・[[殖産興業]]のスローガンの下、[[工部省]](のちに内務省)や[[お雇い外国人]]が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。1872年(明治5年)の[[富岡製糸場]]([[ポール・ブリューナ]]協力)をはじめとする[[官営模範工場]]が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし[[西南戦争]]後の財政難のため、[[1880年]]には「官営工場払下概則」が制定され、[[造幣局]]や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから[[産業革命]]が進行し、[[工業化]]が進展していくこととなった。 '''金融分野'''では、旧幕府時代の[[貨幣制度]]を改めて、[[通貨単位]]として「[[円 (通貨)|円]]」導入を決定した。[[戊辰戦争]]が終わった1869年(明治2年)に[[オリエンタル・バンク]]と貨幣鋳造条約を締結したが、ほどなく[[プロイセン帝国]]と連合した[[北ドイツ連邦]]の[[ベルンハルト・ドンドルフ|ドンドルフ・ナウマン社]]に乗り換えた<ref group="*">当時、欧州は[[フランス第二帝政]]と[[プロイセン帝国]]とのあいだで、[[普仏戦争]](1870年 - 1871年)が勃発する前年であった。</ref>。1871年(明治4年)の[[新貨条例]]に基づき、 1872年(明治5年)にはドイツで印刷された[[明治通宝]]の流通が開始。また1874年(明治7年)の[[国立銀行条例]]により、[[国立銀行 (日本)|国立銀行]](ナショナルバンク)が設立。1874年(明治7年)にはドンドルフ・ナウマン社から紙幣原版を買い取り、紙幣を国産化。1878年(明治11年)5月には[[東京証券取引所]]の前身である東京株式取引所が、6月に[[大阪取引所]]の前身である大阪株式取引所が設立され、1880年(明治13年)には海外送金を受け持つ[[横浜正金銀行]]も設立。その後、通貨発行権を独占する[[中央銀行]]としての[[日本銀行]]設立(明治15年、[[1882年]])など、資本主義的金融制度の整備も行われた。 '''国土分野'''では、旧幕府時代にすでに[[横浜造船所|横浜製鉄所]]、[[横須賀製鉄所]]、[[長崎鎔鉄所]]が造営されており<ref>[[勝海舟]][{{NDLDC|}} 『海軍歴史』](第20巻)。1889年。[[海軍省]]。「横浜及横須賀製鉄所創設之上」。</ref><ref>ウィキペディア「[[小栗忠順]]」「[[レオン・ロッシュ]]「[[レオンス・ヴェルニー]]」「[[横須賀空襲]]」。</ref>、これを引き継いだ新政府の[[工部省]]は[[1871年]](明治4年)、これらを横浜造船所、横須賀造船所、[[三菱重工業長崎造船所#沿革|長崎造船局]]と改称して造船を開始し、また、[[前島密]]により[[郵便]]制度が創設された。1872年(明治5年)には[[新橋駅]]から[[横浜駅]]間において[[蒸気機関車]]による[[日本の鉄道開業|日本初の鉄道が開通]]し、また、[[皇居]]の前には東京で初めての西洋料理店でありホテルの[[築地精養軒]]が開業した。電信網の整備や船舶運輸(民間の[[三菱財閥|郵便汽船三菱会社]]と国策会社の[[共同運輸会社]]の競合を経て[[日本郵船]]会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た[[華族]]の資産による投資活動も背景にあった。1886年(明治19年)には払い下げの官営製鉄所を経営していた岩手県の[[釜石鉱山田中製鉄所]]が、日本で最初に[[高炉]]による製鉄を軌道に乗せた。[[水道]]は依然として[[井戸#江戸下町の井戸|上水井戸]]の水が飲料水・生活用水として使用されていたが、明治21(1888)年、政府は水道局の創設に向け具体的な調査設計を開始し、東京は1898(明治31年)年に神田・日本橋方面の通水が開始し、1911年(明治44年)には全面的に完成<ref>東京水道局 [https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suidojigyo/gaiyou/rekishi.html 『東京の水道・その歴史と将来』]。</ref>。 '''エネルギー分野'''では、[[都市ガス|ガス]]事業の初めとしては1869年(明治2年)に、[[お雇い外国人]]の技術者である[[アンリ・プレグラン]]が横浜瓦斯構想を作った。横浜のガス灯についてはドイツやイギリスの事業者からも出願があったが、[[高島嘉右衛門]]が建設を許可された<ref>東京瓦斯 [https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=14180 『東京瓦斯九十年史』]。1976年。</ref>。また1871年(明治4年)には大阪府大阪市で機械燃料のガスを使用して工場や街路のガス灯が点灯された。1872年(明治5年)横浜で[[横浜瓦斯]](プレグラン協力)が設立され<ref>横浜市瓦斯局 [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065084 『横浜瓦斯史』]。1943年。</ref>、[[東京電燈]]の前身会社が、馬車道の[[ガス灯]]を十数基点灯させるデモンストレーションを行った。横浜には1884年(明治17年)、米国[[スタンダード・オイル]]の支社も設立。1885年(明治18年)は[[東京瓦斯]]も設立。1887年(明治20年)、[[東京電燈]]第二電灯局が完成し、日本初の商用[[火力発電所]](出力25kW)となり、家庭配電(210V直流)が開始。同年、日本初の[[石炭火力発電所]]も、東京[[茅場町]]に建設。1888年(明治21年)には[[宮城県]]に[[水力発電所]]として初めて[[三居沢発電所]]が設立。 ==== 年金制度 ==== [[木戸孝允]]とアメリカ人[[金融]]顧問[[パウル・マイエット]]は、年間400万石(約720万ヘクタール分)の米にあたる資金を40万人の[[官吏]]や[[華族]]の'''[[恩給]]'''とする計画を推進し、最終的に7500万円分(現1.5兆円分)の償還可能な[[国債]]が発行され分配された<ref>{{仮リンク|パウル・マイエット|de|Paul_Mayet|preserve=1}}。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20230103094325/https://magazine.tr.mufg.jp/90326 昔の「1円」は今のいくら?1円から見る貨幣価値・今昔物語] [[三菱UFJ信託銀行]]。</ref>{{efn|1874年には、[[明治通宝]]など紙幣・証券の印刷設備が[[北ドイツ連邦]]から日本に移転していた。}}。 1875年に海軍退隠令、1876年に[[陸軍恩給令]]が発布され、その後も[[官吏]]の種別ごとに恩給の規定が出来たが、[[官吏]]の処遇を巡っては暴動も発生したこともあった。 ==== 思想 ==== [[幕末]]から活発になっていた[[佐久間象山]]などの「[[道徳|倫理]]を中核とする[[実学]]」から「[[物理]]を中核とする実学」への転回が行われ<ref>[[源了円]] 『近世初期実学思想の研究』 [[創文社]] [[1980年]] [page,634]</ref>、[[横井小楠]]の実学から[[物理]]を中核とする[[福沢諭吉|福澤諭吉]]の[[文明]]論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、[[文明開化]]の動きが加速する。 明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・[[森有礼]]・[[西周 (啓蒙家)|西周]]・[[西村茂樹]]・[[加藤弘之]]らによる[[明六社]]の結成と『[[明六雑誌]]』、福沢諭吉の『[[学問のすゝめ]]』や[[中村正直]]の『[[西国立志編]]』『[[自由之理]]』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また[[土佐藩]]の自由民権運動の動きと連動して[[中江兆民]]や[[植木枝盛]]、[[馬場辰猪]]といった革新的な勢力と、[[佐々木高行]]、[[元田永孚]]、[[井上毅]]、[[品川弥二郎]]といった官吏の[[保守]]的な勢力との対立が鮮明になってきた。 教育機関の整備では、初めは[[大学寮]]をモデルにした「学舎制」案を[[玉松操]]・[[平田鐵胤]]・[[矢野玄道]]・[[渡辺重石丸]]らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の[[蘭学塾]]や[[漢学塾]]、それに幕府自身が造った洋学教育機関である[[開成所]]や[[蕃書調所]]が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。 維新まで[[松前藩]]による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの[[蝦夷地]]から[[北海道]]と改名し、同年[[開拓使]]が置かれて、積極的な開発が進められた。[[札幌農学校]](現:[[北海道大学]])などの教育機関も相次いで設置された。 それまで江戸幕府や寺社が徹底していた[[女人禁制]]を、「近代国家にとって論外の差別(陋習)の一つである」として太政官布告第98号「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」によりで禁止した。関所の廃止と合わせ、外国人女性でも自由に旅行できるようになったことから、各地に伝わる日本古来の神事が多数記録されることとなった。 ==== 宗教 ==== [[ファイル:Lelelenokeee.JPG|200px|thumb|[[廃仏毀釈]]により破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。]] 宗教的には[[祭政一致]]の古代に復す改革であったが、宗教界の思惑や民衆の反発、キリスト教圏である欧米からの外圧、新政府内部での保守派と改革派の対立により、紆余曲折があった。 [[慶応]]3年([[1867年]])旧暦[[1月17日 (旧暦)|正月17日]]に制定された職制には[[神祇]]を七科の筆頭に置き、[[3月 (旧暦)|3月(旧暦)]]には[[神仏習合]]を廃する[[神仏分離|神仏分離令]]が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、[[日本の仏教|仏教]]も外来の宗教として激しく排斥する[[廃仏毀釈]]へと向かった。数百年間続いていた[[永平寺]]と[[總持寺]]の[[曹洞宗内紛]]に関しては明治元年([[1868年]])6月に新政府が沙汰書を発給して調停を成立させるなど、仏教界の問題についても干渉を行った。 慶応4年4月21日、勅命により[[湊川神社]]に[[楠木正成]]を祭ったのをはじめとして、それまでは[[賊軍]]とされ、顧みられることが少なかった[[新田義貞]]、[[菊池武時]]、[[名和長年]]、[[北畠親房]]、[[北畠顕家]]ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。また、明治元年閏4月には 明治天皇により、大阪裁判所(大阪府の前身)に[[豊臣秀吉]]を祀る「[[豊國神社]]」建立の御沙汰があり、1880年(明治13年)11月 には再建された京都・豊国神社の大阪別社が創建されるなど、江戸時代中に徳川政権によって公には逆賊とされていた[[豊臣家]]の再評価もなされるようになった。 [[陰陽道]]は[[迷信]]とみなされ、[[天社禁止令]]により陰陽師の免許が禁止された。また陰陽師を統制するために存在した[[陰陽寮]]も廃止され、天体観測や暦の編纂など一部の業務は新設された省庁に移管された。 [[キリスト教]]は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、[[萩市|萩]](66人)、[[津和野町|津和野]](28人)、[[福山市|福山]](20人)に分けて強制的に移住させた。明治2年([[1869年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]には、キリスト教信者約3,000人を、[[加賀藩|金沢]]以下10藩に分散移住させたが、明治4年([[1871年]])旧11月、[[岩倉具視]]特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に[[浦上四番崩れ]]をはじめとする弾圧が、当時の[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ユリシーズ・S・グラント]]、[[イギリスの君主|イギリス女王]][[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]、[[デンマーク]]王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年([[1872年]])に大蔵大輔の職にあった[[井上馨]]は、[[長崎府|長崎府庁]]在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教をはじめとした宗教界や一般民衆からも「[[邪宗門]]」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年([[1873年]])[[2月24日]]禁制の[[高札]]を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。 ==== 法律 ==== [[法の支配]]実現のため、初代[[司法卿]][[江藤新平]]が推進した司法制度整備により、いち早く、1872年に[[証書人]]、[[代書人]]、[[代言人]]が創設された。明治初期の日本は、[[不平等条約]]撤廃という外交上の目的もあり、[[民法]]、[[刑法]]、[[商法]]などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であったことから、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆる[[お雇い外国人]]として[[フランス]]の[[法学者]][[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]を起用するなどし、[[フランス法]]および[[ドイツ法]]を基礎に、日本特有の慣習や国情にも配慮しつつ、法典の整備を進めた。[[刑法 (日本)|刑法]]は1880年(明治13年)に制定、2年後に施行され、[[民法 (日本)|民法]]は1896年(明治29年)に制定、1898年(明治31年)に施行された。日本は、[[アジア]]で初めて近代法の整備に成功した国となり、[[不平等条約]]の撤廃も実現したが、近年グローバル化の進展の中で、[[アジア]]各国が日本に[[法整備支援]]を求めていることには、このような歴史的背景があるともいわれている<ref>三ヵ月章『司法評論III』有斐閣 (2005)、11-22頁</ref>。 ==== 文化 ==== [[ファイル:Chōya Journal 1879.jpg|150px|thumb|[[1879年]][[6月7日]]の紙面([[朝野新聞]])]] 新時代「'''明治'''」の雰囲気が醸成されたことで、[[人力車]]や馬車、[[鉄道]]の開通、[[シルクハット]]・[[燕尾服]]・[[革靴]]・[[こうもり傘]]などの[[洋装]]や[[散切物|ザンギリ頭]]、[[パン]]・[[牛乳]]・[[牛鍋]]・[[ビール]]など[[洋食]]の流行、[[ガス灯]]の設置や煉瓦造りの西洋建築などが普及していった。 開国後に大量に入ってきた舶来品や概念を取り入れるため、多くの[[和製漢語]]が作られた。 [[自由民権運動]]が次第に活発となり、[[徳富蘇峰]]が[[平民主義]]と欧化主義を唱え、[[民友社]]を設立し、『[[国民之友]]』を創刊し、それに対して[[三宅雪嶺]]は国粋保存主義を唱えて[[政教社]]を設立し『[[日本人 (雑誌)|日本人]]』を発刊、[[志賀重昂]]らが参加した。[[陸羯南]]は[[日刊新聞]]『[[日本 (新聞)|日本]]』で[[国民主義]]を唱え、近代俳句の祖である[[正岡子規]]らが記者を務めた。 この『日本』のような新聞が、徐々に様々な人々によって発刊されていくことになる。民間新聞の始めは幕末に創刊された[[浜田彦蔵]]の『[[海外新聞]]』であり、[[沼間守一]]の『[[横浜毎日新聞]]』、[[福地源一郎]]の『[[東京日日新聞]]』、[[栗本鋤雲]]の『[[郵便報知新聞]]』、[[末広重恭]]の『[[朝野新聞]]』などが続く。 ==== 教育 ==== [[ファイル:First female study-abroad students.jpg|200px|thumb|岩倉使節団の米国留学女学生。左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田梅子 (9)、山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳]] 江戸時代後期の日本の識字率も西欧より高かったが、明治政府はさらに教育政策の充実を図った<ref name="am"/>。それまでは各藩ごとに独自の教育制度([[藩校]]など)があったが地域差が大きかった。また[[寺子屋]]の数も不十分であり、庶民層が受けられる教育も異なっていたなど身分でも教育の偏りが一部存在していた。 明治政府では欧米諸国にならい[[印章]]を廃して[[署名]]の制度を導入しようと試みたが<ref>{{Cite wikisource|和書|title=諸証書ノ姓名ハ自書シ実印ヲ押サシム|wslanguage=ja}} 明治10年[[太政官布告]]第50号</ref>{{sfn|新関|1991|pp=176-178}}、事務の繁雑さの他にも当時の[[識字率]]の低さを理由に反対意見が相次ぎ断念している。なお1899年時点でも20歳男子の識字率は76.6%という調査結果であった。 明治政府は日本を強国にするためには、西洋と同じく一般国民に対し全国一律の基礎教育を施す制度が必要との認識に立ち、[[義務教育]]が開始された。また欧米列強に比類する産業育成のためには高等教育や研究開発が必要となるため、[[帝国大学]]や試験施設([[三田育種場]]など)が整備された。 [[1872年]]([[明治]]5年)に学制が公布され、[[1886年]](明治19年)には[[小学校令]]や[[帝国大学令]]が発布された結果、全国に[[尋常小学校]]や[[高等小学校]]、大学が設立され、徐々に一般民衆も高度な教育を受けられる環境が整った。 明治になると[[女子教育]]の必要性も叫ばれるようになった。特に海外渡航の経験があって、欧米の女子教育を目の当たりにした[[渋沢栄一]]や[[伊藤博文]]たちは、その必要性を痛感しており、彼らによって[[女子教育奨励会]]が設立された。同じく女子教育に理解のあった[[黒田清隆]]は、欧米に10年単位の長期間、留学生を海外に派遣する[[岩倉使節団]]に、女子留学生も加えさせた。この時の留学生、[[瓜生繁子|永井しげ]]、[[津田梅子|津田うめ]](後に[[津田塾大学]]の関係者となる)、[[大山捨松]]は、日本の女子教育に大きな功績を残すこととなる。 [[1874年]](明治7年)に[[女子師範学校]]が設立された。女子への教育は、老若男女を問わず、学問に対する批評が根強かったため、男子への教育に比べるとその歩みは遅々としていた。しかし、徐々に[[女性]]への教育の必要性は広く浸透していき、女子も義務教育、高等教育を受けられるようになっていった。 1906年から1911年までに市町村の予算の43パーセントが教育に費やされた<ref name="am"/>。このような教育行政の強化により、1925年には20歳の非識字率は0.9%まで減少し、帝国大学からは一般庶民出身の官僚や学者が輩出された。 ==== 外交政策 ==== [[ファイル:Mutsu_Munemitsu.jpg|200px|thumb|第 8代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[陸奥宗光]]]] [[ファイル:GanghwaTreaty.jpg|200px|thumb|日朝修好条規締結の情景・写真]] 新政府にとっての最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された'''不平等条約'''の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、時期尚早であった。そのため、[[欧化政策]]など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀に及ぶ不断の努力を必要とした(→[[条約改正]])。 一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。[[清]]との間には明治4年(1871年)対等条約である[[日清修好条規]]が締結される。明治7年([[1874年]])には台湾における[[宮古島島民遭難事件|宮古島民殺害事件]]をきっかけに[[台湾出兵]]が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。 [[李氏朝鮮]]との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年([[1873年]])には政府を二分する論争(いわゆる[[征韓論]])となったが、明治8年([[1875年]])に起きた[[江華島事件]]を契機として[[日朝修好条規]](江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。 [[琉球]]に対しては、明治5年([[1872年]])に[[琉球藩]]を設置し、明治12年([[1879年]])には[[琉球処分]]が行われる。 また、[[ロシア帝国]]との間では明治8年([[1875年]])に、[[樺太・千島交換条約|千島樺太交換条約]]が締結され、それまで日露雑居地とされた[[樺太]]および[[千島列島]]における日露国境が確定した。 == 維新修史事業 == 維新史で最初期のものは、[[越前松平家]]によるものとされる<ref name="mi-sigs">三谷博「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10319594 明治維新の史学史―「社会科学」以前]」ヨーロッパ研究9,p179~187,2010年</ref>。[[福井藩]]の[[中根雪江]]は、1859年、幕府によって処罰された主君の冤を雪ぐため、黒船以降の越前家の幕末史を書き始め、さらに越前家は1890-1892年に続編を編集した(『昨夢紀事』『再夢紀事 丁卯日記』)。[[越前松平家]]は公議派であり、明治政府が正統視した王政復古史観とは異なる史料として重視される<ref name="mi-sigs"/>。 [[外国奉行|徳川幕府外国方]]も1859年(安政6年)と1860年(万延元年)の外交記録『[[通信全覧]]』(320巻)があり、明治政府の外務省が引き継ぎ『[[続通信全覧]]』(1784巻)を編纂した<ref name="mi-sigs"/>。 明治政府は戊辰戦争史『[[復古記]]』(1872-1889年)を編纂したが、功名争いを避けたためか、強い積極的な解釈は持ち込まれなかった<ref name="mi-sigs"/>。 1888年、薩摩・長州・[[土佐]]{{要曖昧さ回避|date=2023年1月}}・[[水戸]]の4大名家が「国事詇掌録」編纂開始、翌年、公家の三条・岩倉・中山3家と「史談会」が結成され、旧将軍家・[[会津家]]・[[桑名家]]、[[尾張徳川家]]・[[浅野家]]、[[琉球]][[尚家]]を含む255家に史料の提出を命じた<ref name="mi-sigs"/>。近世の政体が二百数十の大名家の連合体であり、明治の改革も大名家の協力なしには不可能であったことなどから、大名家と公家による維新史は薩長中心でなく、史料の収集と羅列に落ち着いた<ref name="mi-sigs"/>。史談会の事業は[[文部省]]に引き継がれ、1911年維新史料編纂会が設置され、1931年に『大日本維新史料稿本』が一応完成し、維新政治史の到達点として維新史料編纂事務局『維新史』全6巻(本編5、付録1、1939―1941年)が編纂された<ref name="mi-sigs"/>。 ほか、[[宮内庁]]図書寮編『三条実美公年譜』(1901)、多田好問編『[[岩倉公実記]]』(1903)、勝田孫也『大久保利通伝』(1910)、妻木忠太『松菊木戸公伝』(1922)、会津松平家に関わる[[北原雅長]]『七年史』(1904)、[[山川浩]]『京都守護職始末』(1911)、中村勝麻呂『井伊大老と開港』(1909)、[[渋沢栄一]]『徳川慶喜公伝』(全8巻、大正7年(1918年))、[[末松謙澄]]『防長回天史』全12巻(修訂版、1921年)が編纂刊行された<ref name="mi-sigs"/>。 == 明治の維新論 == 維新政府はみずからの正当性として「王政復古」論を主張し、『大政紀要』(宮内省系)や『復古記』(太政官系)という形で公表した<ref name="tanaka-Kokushi"/>。 これに対して、戊辰戦争のさなかの1868年8月に出された小洲処士の《復古論》は、維新の変革は草莽(民間)から起ったとする「草莽復古」を論じた<ref>田中彰、世界大百科事典「明治維新」[明治維新観の変遷]</ref>。 [[明六社]]の明治啓蒙思想家は維新の開明性・進歩性を強調した<ref name="tanaka-Kokushi"/>。 [[福沢諭吉]]は『[[文明論之概略]]』(明治8年、1875年)において、幕末から明治の改革を「王政一新」と呼び、尊王や攘夷が幕藩体制を倒したという俗論を批判し、江戸幕府下における「門閥」を基盤とした「専制の暴政」に対する人々の不満が内実にあったからこそ、単に政権が交替するだけではなく、武士身分の解体としての[[廃藩置県]]まで到達したとして、人々の智徳(知識と道徳)の進歩によって歴史が動いたと評した<ref>苅部直『「維新革命」への道』[[新潮選書]] 2017年,p220-222</ref>。 旧[[幕臣]]出身の在野史家[[田口卯吉]]は22歳で『[[日本開化小史]]』(明治10-15)を自費出版し、勤王史観から離れて維新を評価した<ref name="kitaoka"/>。 イタリアで[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]軍のスラヴ義勇軍副官として転戦したり、[[バクーニン]]の支援者でもあったロシア人[[革命家]][[レフ・メーチニコフ]]は、[[パリ・コミューン]]敗北後のパリで日本に革命が起こったという報に接し、在仏していた[[大山巌]]の紹介で1874年に日本に赴任したあと1881年(明治14)に執筆した著書で明治維新を「歴史上我々が知りうる最も完全かつラジカルな革命」と評価した<ref>『亡命ロシア人の見た明治維新』 渡辺雅司訳、講談社学術文庫、1982年、p15.</ref><ref name="wat">渡辺雅司「[https://hdl.handle.net/10108/52776 土着的革命としての明治維新 : メーチニコフの日本観の先駆性]」『総合文化研究』 2009年 12号 p.6-29, 東京外国語大学総合文化研究所</ref>。しかし、列強の偽善的政策と国内の支配者集団の権勢欲のために道は険しいと警鐘を鳴らした<ref name="wat"/>。 [[藤田茂吉]]『文明東漸史』(1884年)は、[[蛮社の獄]]を詳述し、1887年には[[島田三郎]]の井伊直弼伝『開国始末』が刊行された<ref name="mi-sigs"/>。 [[池辺義象|小中村義象]]は『[{{NDLDC|769905}} 大政三遷史]』明治21年(1888年)で、[[大化改新]]、[[建武の新政]]、明治維新を大政三遷とする<ref>{{国立国会図書館デジタルコレクション|769905|大政三遷史(明治21(1888))|format=EXTERNAL}}</ref>。 [[勝海舟]]の『海軍歴史』『陸軍歴史』(1889)を、[[野口勝一]]が『維新史料』(1887―1896)を刊行。明治20年代初頭に維新史ブームが生まれた<ref name="mi-sigs"/>。 [[徳富蘇峰]]の[[民友社]]では、[[竹越与三郎]]が『新日本史』(明治24年-明治25年<ref>西田毅校注、[[岩波文庫]]</ref>)を刊行し、明治維新の原因を[[勤王]]論による政治運動と説く歴史観や、外国の圧力を維新の原因とみる歴史観を批判し、徳川時代に芽生えていた社会全体の潮流、社会的革命があったからこそ、「代朝革命」が起こったと論じた<ref name="takekoshi">苅部直『「維新革命」への道』[[新潮選書]] 2017年.p59-70.</ref>。竹越は、明治維新を、イギリスのような「復古的革命」、フランスやアメリカのような「理想的革命」とも異なる「乱世的革命(アナルキカル・レボリューション)」と位置づけながら、新政府について「維新の大目的を失忘して、邪径に走らんとす」と批判した<ref name="takekoshi"/><ref>『新日本史』[[岩波文庫]]下巻、p11-12.</ref>。 [[徳富蘇峰]]も自ら『吉田松陰』(1893年)を、さらに『[[近世日本国民史]]』で明治維新を論じた<ref name="mi-sigs"/>。蘇峰は、旧幕の外国方で働いた[[福地源一郎]]に『幕府衰亡論』(1892) 『幕末政治家』(1898)を依頼した<ref name="mi-sigs"/>。 日本を[[社会民主主義]]の国とすることを夢見ていた若い頃の[[北一輝]]は、明治39年(1906年)の『[[国体論及び純正社会主義]]』で、ヨーロッパの革命が新社会の理想を描いた計画的革命であったのに対して、「維新革命の民主主義」は「無計画の暴発」であり、「維新革命は戊辰戦役において貴族主義に対する破壊を為したるのみ」と批判し<ref>北一輝著作集1巻、p354-5.</ref>、つまり、[[自由民権運動]]の23年間の運動が維新後に民主主義の建設を行ったのは[[自由民権運動]]であると論じた<ref name="ban-kita">[[坂野潤治]]『明治デモクラシー』岩波書店〈岩波新書 新赤版 939〉、2005年3月、p.2-4,199-212</ref>。また、北は竹越與三郎から影響を受けており、特に竹越の『二千五百年史』(1896)における[[大化の改新]]を範型とした維新観に深い影響を受けた<ref name="koyas">[[子安宣邦]]『日本近代思想批判』岩波現代文庫、2003年p313-324</ref>。竹越は、大化の改新を「空前絶後の国体変革」として、それ以前の社会は天皇の一族が、[[中臣氏]]、[[忌部氏]]、[[物部氏]]、[[大伴氏]]、[[蘇我氏]]などの諸族を統治する族長であり、直接民を統治していたわけではなく、「国家」や「国民」はなく、「天皇は国家の君主にあらずして、諸族の長たるに過ぎず」という状態であった<ref name="take2500">『[https://id.ndl.go.jp/bib/000000970426 二千五百年史]』1896、警醒社書店、国立国会図書館デジタルコレクション、p111-119</ref>。大化の改新によって、貴族豪族の私民私領が廃され、奴隷、公民、土地すべてが国家に属すると定められ、族長の集議所は政府となり、族長政体を官制組織となり、天皇は人民を統治する君主となったとし、「神武以来一千三百年、日本の国民初めて成り、王制初めて生じ、国家初めて現出したるなり」と論じた<ref name="koyas"/><ref name="take2500"/>。北は、「維新革命は大化の王制に復古したるものにあらず。大化の革命に於て理想たりし儒教の公民国家が一千三百年の長き進化の後に於て漸くに実現せられたるものなり」と評した<ref name="koyas"/>。しかし、[[天智天皇]]の死とともに公民国家の理想は去り、家長国となったと批判した<ref name="koyas"/>。北は君主主権でなく、国家主権の国家を理想とした<ref name="koyas"/>。北はその後、中国の[[辛亥革命]]に身を投じ、『[[日本改造法案大綱]]』(大正12年(1923))を書いて[[昭和維新]]に大きな影響を与えた。 [[ジャーナリスト]]の[[石橋湛山]]は、明治時代を[[帝国主義]]的発展の時代と見られがちだが、日清日露等の戦争はやむを得ず行ったもので、明治の最大の事業は[[戦争]]でも[[植民地]]の発展でもなく、政治、法律、社会の制度と思想において[[民主主義|デモクラチック(民主主義的)]]の改革を行なったことにあると論じた<ref name="kitaoka">[[北岡伸一]]『明治維新の意味』2020年、[[新潮選書]]、p.11-25.</ref><ref>東洋時論1912年9月号、「石橋湛山評論集」[[松尾尊兊]]編、[[岩波文庫]]、1984年</ref>。 == 第二維新 == [[自由民権運動]]は、五箇条の誓文の一ヵ条を論拠にして国会開設を主張し、維新は「自由」への一歩であり、その精神を引き継いだ民権陣営こそが「維新革命」の正統な後継者であり、民権運動は「第二の維新」だと主唱し、これは[[民友社]]の[[平民主義]]にも受け継がれた<ref name="tanaka-Kokushi"/>。 [[民友社]]の[[人見一太郎]]が『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992574 第二之維新]』(明治26年、1893年)で明治藩閥政府を批判した<ref>朝日日本歴史人物事典「人見一太郎」、「明治維新」世界大百科事典 第2版、コトバンク</ref>。人見は「[[公議輿論]]」を「維新の大精神」とみなし、明治2年の[[版籍奉還]]の頃、[[公議所]]から[[集議院]]へ切り代わる頃には、「維新の大精神」が尊重されなくなり、立憲君主制が誕生していったものの、維新の理念が失われていったと明治政府を批判した<ref>三上一夫『公武合体論の研究―越前藩幕末維新史分析 改訂版』御茶の水書房,1990、206-207頁。三上一夫「幕末維新期での果敢な対応 「公議論」路線をめざして」松平春嶽公百年祭記念講演録、福井市立郷土歴史博物館、平成3年、17頁</ref>。 [[大正デモクラシー]]でも[[護憲運動]]を背景に、「第二の維新」としての「[[大正維新]]」が唱導された<ref name="tanaka-Kokushi"/>。医者の加治時次郎は『第二維新』(大正15年、生活社)という書籍を刊行した。 軍部・右翼らが唱えた[[昭和維新]]では、君臣の本義、忠孝の道によって、絶対化された天皇への回帰に維新の原理はあるとする皇国史観による維新論が起こった<ref name="tanaka-Kokushi"/>。やがてこれは「東亜の維新」でもあるとされた<ref name="tanaka-Kokushi"/>。他方、政治思想史研究者[[橋川文三]]や<ref>[[橋川文三]]『昭和維新試論』(1984年朝日新聞社)『西郷隆盛紀行』(朝日新聞社、1981年)</ref>、思想史家の[[渡辺京二]]<ref>渡辺京二『北一輝』 朝日新聞社、1978年</ref>は、西郷隆盛らの反乱を「第二維新革命」の遂行と挫折であったと位置づけ、[[昭和維新]]の首唱者である[[北一輝]]を挫折した維新革命の継承者であるとみなした<ref name="koyas"/>。 昭和初期には、大衆小説や古老の体験談・回顧談などの「明治維新物」ブームもおこった<ref name="tanaka-Kokushi"/>。 == 昭和維新 == {{Main|昭和維新}} 1920-30年代には、[[政党]]や[[財閥]]を批判して天皇親政を主張する国家革新運動「[[昭和維新]](皇道維新)」が起こった<ref name="hujiwa">[[藤原彰]]「昭和維新」小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)</ref>。昭和維新の主張者は、明治維新の継承を唱えた<ref name="hujiwa"/>。例えば[[1928年]](昭和3)の海軍青年将校[[藤井斉]]らの[[王師会]]綱領に「明治維新ヲ完成シ」とみえ、[[五・一五事件]](1932)の檄文にも「維新日本ヲ建設セヨ」と書かれた<ref name="hujiwa"/>。[[1936年]]には[[二・二六事件]]が起こった。 == 評価と研究 == === 大正・昭和 === 維新の政治史は、[[藤井甚太郎]]、[[井野辺茂雄]]らによって実証研究が進展し、[[維新史料編纂会]]の『維新史』 (5巻)などで集大成が図られたほか、維新の社会経済史は1920年代より、[[幸田成友]]、[[本庄栄治郎]]、[[土屋喬雄]]らが実証研究をなした<ref name="mi-to"/>。 ==== マルクス主義歴史学 ==== ===== 日本資本主義論争 ===== 昭和初期の代表的な維新論として、[[マルクス主義]]者によるものがある。[[野呂榮太郎]]は「日本資本主義発達史」([[1927年]])で明治維新を「ブルジョワ革命としての明治革命」とし、「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位に即かしむるための強力的社会変革」と規定したが、[[コミンテルン]]の「[[27年テーゼ|日本問題に関する決議]]」により野呂はこの説を放棄した<ref name="takekoshi"/>。しかし、その後[[山田盛太郎]]、[[野呂栄太郎]]、[[服部之総]]、[[羽仁五郎]]らは『[[日本資本主義発達史講座]]』(1932-1933年、[[岩波書店]])をまとめた。これに対して、[[労農派]]が批判し、同講座の執筆陣が[[講座派]]とされて、[[日本資本主義論争]](1933年-1937年)が起こった<ref>[[長岡新吉]] 『日本資本主義論争の群像』 [[ミネルヴァ書房]]、[[1984年]]</ref>。[[日本共産党]]の活動方針を巡って[[講座派]]と[[労農派]]はそれぞれ[[二段階革命論]]、[[一段階革命論]]を唱えた。労農派は明治維新により日本は[[資本主義]]段階に突入したと考え、[[マルクス主義]]の[[唯物史観]]の公式通りただちに[[社会主義革命]]を目指すべきだと主張したのに対して、講座派は明治維新は不完全な[[民主主義]]革命であり、日本は未だ半[[封建]]的な段階にあるとし、まず[[ブルジョワ]][[民主主義]]革命を目指し、その先に社会主義革命はあるという二段階革命論を主張した。1934年に[[特別高等警察]]による野呂栄太郎が拷問死し、さらに1936年に[[コム・アカデミー事件]]での講座派一斉検挙により壊滅した。1937年[[人民戦線事件]]で[[労農派]]も一斉検挙された。 終戦後講座派は復活し、[[羽仁五郎]]は『明治維新』(岩波新書)、『明治維新之研究』(岩波書店)を刊行した。 ===== ハーバート・ノーマン ===== 羽仁と親しくしていた[[カナダ]]外交官・日本史学者(戦時中は[[太平洋問題調査会]]研究員<ref>ハーバート・ノーマン全集1巻、岩波書店、1977,p369-370.</ref>)の[[エドガートン・ハーバート・ノーマン|ハーバート・ノーマン]]は、講座派の影響を受けており、『日本における近代国家の成立』(1940、邦訳1947年)で、明治維新の主体は下級武士とブルジョワ的豪農の同盟であったが、維新後、武士は豪農を裏切り、工業化のために課税を強化したとした<ref name="m06-J"/>。ノーマンによれば、明治維新は農民を犠牲にして資本の蓄積と集中が遂行された「上からの変革」であり、これは「絶対主義国家の力」によるもので、新政府の「武断官僚」は専制権力を手際良く利用したと説明した<ref>ノーマン、大窪愿二編訳『日本における近代国家の成立』第三章「明治維新」結論、ハーバート・ノーマン全集1巻、岩波書店、1977,p164-6.</ref>。ノーマンは、徳川幕府が封建制の廃止や政治改革を実現できなかったのに対して、明治政府は、工業、法典、教育などの分野で近代化を成し遂げたが、そうした近代化と、その政府が[[権威主義]]体制であったことととは矛盾するわけではないという<ref name="HN4"/>。ノーマンは1953年の序文で、「明治政府をむき出しの絶対主義と規定することはたしかに過度の単純化であり、あるいは歪曲である」が、明治政府は廷臣、官僚、軍人、特権的企業家からなる[[寡頭制|寡頭権力者]]からなる、「立憲制度の大礼服に飾られた絶対主義であった」と主張した<ref name="HN4">ノーマン、大窪愿二編訳『日本における近代国家の成立』日本語版新版への序(1953)、ハーバート・ノーマン全集1巻、岩波書店、1977,p4-9.</ref>。同書は日本で大きな反響を呼んだ<ref>大窪愿二「解題」ハーバート・ノーマン全集1巻、岩波書店、1977,p385.</ref>。 ===== 遠山茂樹 ===== [[マルクス主義歴史学]]の立場から、[[長州藩]]を維新の主体の典型とみなした上で明治維新を[[天皇制]][[絶対主義]]の成立とみなす[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]『明治維新』(1951年、岩波書店)が主流の地位を占めた<ref name="isin">久住真也「第一章 維新史研究」、小林和幸編「明治史研究の最前線」2020-01-15,筑摩選書、pp15-36.</ref>。 遠山茂樹は以下のように明治維新を説明する<ref name="mi-to">三谷博「遠山茂樹」『明治維新を考える』有志舎、2006年,pp.184-207.</ref>。 *江戸幕藩体制は、武士階級という「封建権力」が、上層農商層を抱きこんで、耕作農民を抑圧して、[[天保の改革]]に失敗したのに対して、[[雄藩]]は藩政改革を成功させた<ref name="mi-to"/>。 *外圧については、中国が西欧の半植民地となったのに対して日本が一応の政治的独立を維持できたのは、幕末の民衆運動が直接排外運動に赴かず、反封建闘争に集中するなど、日本の階級闘争が発展しており、「日本の民衆の近代化の力」が中国より勝っていたからであった<ref name="mi-to"/>。 *[[尊王論]]は「反幕府」でも「反封建」でもなく、また[[国体]]を強調するものでもなく、世界に普遍的にみられる権力の正統化方式の一種とし、[[攘夷論]]は近代的ナショナリズムとは無縁なものとした<ref name="mi-to"/>。 *幕府の外交政策は消極的で退嬰的であり、混迷を深めたことから、尊王攘夷派は「攘夷のための尊王」から「尊王反幕のための攘夷」へと変化し、合理的判断を失い、絶対主義成立への見透しを掴めなかった<ref name="mi-to"/>。これに対して[[長州]]は[[下関戦争|英米仏蘭の四国連合艦隊との攘夷戦争]]で惨敗したことで、下級武士が[[名分論]]を超える実践力を獲得し、さらに藩権力を奪取したことで「開明的軍事官僚」「絶対主義的官僚」へと変貌した<ref name="mi-to"/>。英仏は攘夷運動に止めを刺し、日本を半植民地的市場として確定させたが、攘夷派も佐幕派も英仏外交官の指導で絶対主義的改革を意識するようになった<ref name="mi-to"/>。 *1866年、幕府が[[長州征討|長州征伐]]に失敗した頃、全国で[[打ちこわし]]や[[一揆]]が頻発したことで、[[公議政体論]]が浮上し、これにより封建権力が崩壊せずに権力を集中強化させる絶対主義運動が生じた<ref name="mi-to"/>。民衆運動は[[ええじゃないか]]という非政治的なものに逸脱し、「下からの革命」は瓦解した<ref name="mi-to"/>。こうして明治維新は王政復古という矮小な政権移動にとどまり、「天皇奪い合いの宮廷陰謀」となった<ref name="mi-to"/>。 *新政府は[[五箇条の御誓文|御誓文]]で公議世論や仁政を宣伝したが、版籍奉還後の[[廃藩置県]]という「第二の王政復古クーデター」を起こし、「啓蒙専制政治」を基調とした<ref name="mi-to"/>。[[地租改正]]では税負担が軽減されず、租税の近代化でなく、封建的貢租の継承にとどまったが、[[徴兵令]]は封建武士団を粉砕した<ref name="mi-to"/>。[[学制]]は、徳川家が「由らしむべし知らしむべからず」と[[愚民政策]]をとっていたのに対して、「人民」に変える開明政策であった<ref name="mi-to"/>。[[福沢諭吉]]の思想の本質は近代市民革命でなく、啓蒙専制主義にあった。[[明治六年政変|征韓論政変]]以後は、下野グループの[[民権論]]は[[国権論]]に従属するものであったが、「下からの自主」の動きが見られた<ref name="mi-to"/>。 [[三谷博]]によれば、遠山説では、天皇と幕府の対立が大変動の発端であったことが黙過され、国際環境よりも国内条件が重視され、また、昭和史のイメージを維新史に投影して、[[ファシズム]]が維新当初から存在していたように語り、政治運動においては長州を維新の主体として着目する一方で、薩摩、越前藩などの[[公議政体論]]を軽視または無視し、外国勢力ではイギリスを排他的に重視するなど、[[階級闘争]]史観の影響で[[一元論]]や二元対立に傾いた過度に単純化された政治史となった<ref name="mi-to"/>。遠山説は、仮説を述べ、実証研究を促す宣言の書であり、以後継承された研究の潮流では、徳川将軍、旧幕臣の開明派、譜代大名の研究が軽視されたり、政治史と経済史が乖離するといった研究の偏りを生んだ<ref name="mi-to"/>。遠山は、体制権力と下層階級の全面対立を好み、それが見られないことを不満げに説明するが、明治維新の持つ[[複雑性]]の説明としては不適当で、支配身分(武士)の消滅は世界史上でも際立つ特徴であるがまだ解明は十分でなく、また世界革命史において維新は著しく犠牲者が少ないこと、また「復古」象徴の利用はフランス革命にも認められることで日本特殊ではないこと、また「復古」の参照先が律令時代でなく[[日本神話|神話]]であったことは復古の名の改革に自由度を与えたこと、などを三谷は指摘した上で、遠山の大振りな思考の展開には感銘を受けたと評した<ref name="mi-to"/>。 遠山以降、[[田中彰]]『明治維新政治史研究』(1963年)も標準的な研究となった<ref name="isin"/>。 長州藩を維新の主体の典型とみなす見方に対して、公武合体派の薩摩藩を重視する[[毛利敏彦]]『明治維新政治史序説』(1967年)も登場したが、この時期までの研究は、倒幕派に敗れた東北諸藩、倒幕派でも佐幕派でもない中間的な立場の諸藩の役割が軽視していると後に批判された<ref name="isin"/>。 ==== 民族革命 ==== [[吉野作造]]の継承者でもある政治学者[[岡義武]]は、『近代日本の形成』(1947年)およびその改訂『近代日本政治史I』(1962年)において、明治維新は、西洋の脅威に直面した国が近代化しなければ独立が保てないという、マルクス主義のカテゴリーには入らない民族革命であると論じた<ref name="kitaoka"/><ref>岡義武『近代日本の形成』(弘文堂, 1947年)、改訂:『近代日本政治史(I)』(創文社, 1962年)。『明治政治史上』(岩波文庫2019.</ref>。岡によれば、幕藩体制が内部矛盾で不安定になっていたところへ外圧があり、国内に激しい民族的反発感と民族的危機感が生まれ、さらに朝廷と幕府の対立は国家権力の二元化を生んだが、これを精算して国家的統一を強固にし、民族独立の確保が目指された<ref name="oka"/>。幕藩体制に回帰するか、朝廷を中心とした新体制かで紛糾したが、後者が選ばれた。岩倉具視は慶応3年4月に「天に二日なく、地に二王なし。政令一途に出でずして何れの国か立ち可申や。」といい、徳川慶喜も[[大政奉還|大政奉還上表]]に「朝權一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公儀ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可竝立候 (朝廷に権力を一つとしなければ統治が難しく、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、心を一つに協力し、共に皇国を保護していけば、必ず海外万国と並び立ちうる)」と述べ、国家権力の一元化を図った<ref name="oka"/>。こうして、幕末明治の変革とは、「民族の独立確保あるいは民族の対外的勢力拡大を目的としてなされる国内政治体制の変革」、すなわち民族革命であったとした<ref name="oka">岡義武『明治政治史(上)』岩波文庫、2019,p129-131</ref>。 比較文化研究の[[桑原武夫]]は1956年の「明治の再評価」<ref>1956年1月1日朝日新聞、全集5</ref>で、マルクス主義者は明治維新を「天皇制絶対主義」の成立とみなすが、維新によって身分制がなくなり、国民の自由は大幅に増大するなど画期的変革であったことは否定できず、欠点と矛盾はあったが、「明治の革命は巨視的にみて、一つの偉大な民族的達成であった」と論じ、1961年にはマルクス主義者らが、明治のナショナリズムを「できそこない」と低評価する一方で同時代のアジア・アフリカのナショナリズムを高く評価するのは政治的配慮ないし[[センチメンタリズム]]だと批判した<ref>「ナショナリズム論について」思想」1961年 9月号、全集5</ref><ref name="Miym"/>。(以降の桑原の発言については後述) [[井上清 (歴史学者)|井上清]]は1966年に、明治維新は血を流さずに成就したとの評価に対して、戊辰戦争での戦死者数は新政府軍が3556人(負傷3804人)、旧幕府軍が4707人(負傷1518人)であったと反論したうえで、こうした犠牲があってはじめて、幕藩体制が早期に打倒され、人民の封建制からの解放と日本民族の国家的統一、そして欧米から植民地化される危険から脱出する一歩がふみだされたとした<ref name="inoue">井上清『日本の歴史20 明治維新』中央公論社、昭和41(1966)、p.131-132.</ref>。 === 米国における日本近代化論 === アメリカ合衆国での歴史学では日本近代化論の研究が進められた。1960年代のアメリカの東洋史研究者[[エドウィン・O・ライシャワー]]や日本研究者[[マリウス・バーサス・ジャンセン]]は、明治維新による[[近代化]]を評価した<ref name="kitaoka"/>。 ジャンセンが、[[ジョン・ホイットニー・ホール]]、[[ドナルド・ハワード・シャイブリー|ドナルド・H・シャイブリー]]、トマス・C・スミスらとともに設立した近代日本研究会議(Conference on Modern Japan)は1960年に日米の学者を集めて箱根会議を開いた<ref name="m06-J">三谷博「マリウス・B・ジャンセン」『明治維新を考える』有志舎、2006年,p.168-183.</ref><ref name="kakiuc"/>。ホールらが「近代化」を、近代を特徴づける諸変化を包括し、他の地域との比較を可能とする概念とみなしたのに対して、日本の学者らは「近代化」を「歴史の中で実現すべき価値理念」とみなし、[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]は「近代」をマルクス主義と違う意味で用いることの意図を疑い、[[川島武宜]]も「民主化」を主軸に据えていないと批判した<ref name="m06-J"/>。ホールは、イデオロギーの構築でなく、あらかじめ決まった結論を前提としないオープン・エンド・アプローチを用いた<ref name="m06-J"/>。 雑誌『[[中央公論]]』では、1961年5月号から8月号にかけてクラーク・ケェア、労働経済学者のフレデリック ・H・ハービソン、ジョン・トーマス・ダンロップ、チャールズ・アンドリュー・マイヤーズ、中山伊知郎、[[尾高邦雄]]、[[蝋山政道]]らが日本の経済的近代化、産業化と民主化について議論をしており、その中でライシャワーは日本の近代化の成功は、低開発諸国の手本になると発言した<ref name="kakiuc"/><ref>[[中山伊知郎]]との対談、[[中央公論]]1961年9月号</ref>。 近代日本研究会議が「日本における近代化の問題」(1965、邦訳1968)を刊行すると、多くの反響を呼んだ<ref name="m06-J"/><ref>「日本における近代化の問題」細谷千博編訳、岩波書店, 1968、原著1965</ref>。米国では[[ベトナム戦争]]に反対する[[新左翼|ニューレフト]]の歴史学者[[ジョン・ダワー]]、[[ハーバート・ビックス]]らの“Committee of Concerned Asian Scholars”(憂慮するアジア研究者委員会)は、[[駐日アメリカ合衆国大使]]を務めたライシャワーや、ジャンセン、ホールらの近代化研究を、中立を装って日本の近代化の成功を強調するイデオロギーであると批判した<ref name="m06-J"/><ref name="kakiuc"/>。ダワーらは、[[赤狩り]]で[[共産主義者]]と断定されて自殺した[[ハーバート・ノーマン]](前述)を称えた<ref name="m06-J"/>。日本でも[[明治百年記念式典]](1968)に関連して「近代化論」を批判するなどの論争も発生した(後述)。歴史学者[[安丸良夫]]は日本近代化論を「新たな支配イデオロギー」と批判し<ref>[[安丸良夫]]「反動イデオロギーの現段階」歴史評論213号,1968年5月</ref>、社会学者の[[金原左門]]は近代日本研究会議が[[フォード財団]]から多額の補助金を受けたことを問題視した<ref name="kakiuc">垣内健「日本研究と近代化論 : 「近代日本研究会議」を中心に」『比較社会文化研究』27,p1-13.九州大学大学院比較社会文化学府 2010</ref><ref>[[金原左門]]『「日本近代化」論の歴史像』(中央大学出版部 1968年)</ref>。近年でも[[ヴィクター・コシュマン]]は2003年の論文で、日本近代化論は[[冷戦]]下の日本が共産主義化しないための施策であったと主張した<ref name="kakiuc"/><ref>Julian Victor Koschmann,Modernization and Democratic Values: The ‘Japanese Model’ in the 1960s,” in Staging Growth: Modernization, Development, and the Global Cold War, edited by David C. Engerman, Nils Gilman, Mark Haefele, and Michael E. Latham (Amherst, MA: University of Massachusetts Press, 2003), 225-249.</ref>。 こうした批判に対して、箱根会議に参加した[[丸山眞男]]は、近代化論は西欧の近代化を絶対として非西欧を図るとして批判されたが、これは誤解であり、ジャンセン、ホールらの近代化論は、近代化の道が多様で複数であることを当初から言っていたと語っている<ref name="kakiuc"/>。 [[マリウス・バーサス・ジャンセン]]は『坂本龍馬と明治維新』(1961年)で[[坂本龍馬]]と[[土佐藩]]が維新で果たした役割を取り上げた<ref>マリアス・ジャンセン「坂本龍馬と明治維新」[[平尾道雄]]・[[浜田亀吉]]訳 時事通信社,2009</ref>。ジャンセンは、19世紀にはアメリカで奴隷解放、ロシアで農奴解放が起きる一方で、アジアは欧米の干渉によって変革あるいは反発が起きた<ref name="mJ">マリアス・ジャンセン「坂本龍馬と明治維新」[[平尾道雄]]・[[浜田亀吉]]訳 時事通信社,2009,i-v.緒言</ref>。インドでは[[セポイの反乱]]の結果、大英帝国の支配下に置かれ、中国では[[アヘン戦争]]と[[太平天国の乱]]が起きたた<ref name="mJ"/>。日本でも外圧のなか政治的・知的な激動が変革を醸成した結果、民族的に統一された国家が誕生した<ref name="mJ"/>。この「日本革命」の成功は、フランス革命が当時の周辺国に影響を与えたように、中国の革命家[[孫文]]、[[康有為]]、[[朝鮮]]の[[金玉均]]、[[フィリピン]]の革命家[[エミリオ・アギナルド]]、[[インド]]の[[独立運動家]][[スバス・チャンドラ・ボース]]らを刺激し、特に[[孫文]]は自身を維新の英雄になぞらえていたという<ref name="mJ"/>。同書は、小説家の[[司馬遼太郎]]に大きな影響を与えた。その後、ジャンセンは1986年に、明治維新は「単なる復古でなくて、革命」とし<ref>永井道雄、M.ウルティア共編、明治維新、国際連合大学、[[東京大学出版会]]、1986、p23</ref><ref name="sasaki">[[佐々木寛司]]「明治維新論争の今日的地平」(1989)、『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001、p86-94</ref>、2000年の大著The Making of Modern Japanでも、幕末から明治にかけての大変革は、「日本の制度へ恒久的な変化をもたらしたので、革命と呼ぶに直する」と述べる<ref>The Making of Modern Japan (2000),Harvard University Press.</ref><ref name="gib">Frank Gibney,The Meiji Miracle,December 10, 2000,[[ワシントン・ポスト]]</ref>。 経済学者・哲学者の[[アマルティア・セン]]は2006年の著書で、米国の蒸気船などの技術力に驚いた日本は、それまでの外交政策を見直すとともに、教育政策を見直し、御誓文では知識を世界に求めることが宣言され、1872年の[[学制]]では、「不学の戸・不学の人」をなくすことが目指され、1910年には小学校教育が普及し、1913年にはイギリスやアメリカ合衆国よりも多くの書籍が刊行された<ref name="am">[[アマルティア・セン]]『アイデンティティと暴力』勁草書房,p.155-7.</ref>。木戸孝允は「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ学不学にあるのみ」と述べ、欧米人もアジア人も同じ人間であり、教育水準をあげればアジア人も欧米に追いつくことができると考えた<ref name="sato">[[佐藤智恵 (作家)|佐藤智恵]]『ハーバード日本史教室』中公新書ラクレ 2017,p221-243.</ref>。センは、日本における近代化の成功は、[[潜在能力アプローチ|ケイパビリティ (潜在能力)]]の形成によって成し遂げられたとし<ref name="am"/>、日本は、国民の教育水準・[[識字率]]を高めれば、社会や経済を改善させ、短期間でも[[近代化]]と経済発展を実現できるということを証明し、アジア諸国の模範となり<ref name="sato"/>、[[東アジアの奇跡]]は日本の経験によって鼓舞されたものであったとする<ref name="am"/>。 このほか、ソ連の日本学者は、明治維新は、1867-8年の政治クーデター、1868年から1873年の200回にもわたる[[百姓一揆]]、ええじゃないかなどの民衆運動などが相互に関連する不可分の複合体を成している革命であったと規定した<ref name="igor"/>。ソ連の日本研究家[[イーゴリ・ラティシェフ|イゴール・ラティシェフ]]は明治維新は「未完のブルジョワ革命」であるとする<ref name="igor">イゴール・ラティシェフ「明治維新 - 未完のブルジョワ革命」永井道雄、M.ウルティア共編、明治維新、国際連合大学、[[東京大学出版会]]、1986、『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001、p.299-308.</ref>。P.フェドセイエフは「ブルジョワ民族主義革命」であるとする<ref name="sasaki"/>。 ==== 明治百年祭 ==== {{See also|明治百年記念式典}} 中国文学者の[[竹内好]]は1960年2月「民族的なものと思想」において、民族的(ナショナル)なものを大事にしないと,逆に過激なナショナリズムを成立させる危険があるとした上で、革命の未来を描く手がかりとして「明治維新百年祭」とその是非を議論することを提案した(のち政府主催となって以降は撤回)<ref name="Miym">{{Cite journal|和書|author=宮本司|year=2018|title=明治百年祭の道程 -1960年代における日本戦後思想史考察の一ケース・スタディとして-|url=https://hdl.handle.net/10291/19487|journal=明治大学人文科学研究所紀要|issue=83|page=223‐267}}</ref><ref>『予見と錯誤』筑摩書房1970所収</ref>。また竹内は「明治維新と中国革命」(1968年)において<ref>思想の科学研究会「共同研究明治維新」徳問書店,1968年</ref>、「明治維新は未曾有の変革を意図し、また実現したものであるが、明治国家は一つの選択にしか過ぎず、もっと多様な可能性をはらんでいた」と述べた上で、[[孫文]]の中国革命と比較する<ref name="Miym"/>。孫文は「日本維新は中国革命の第一歩、中国革命は日本維新の第二歩」と述べたが、これは日本維新を純化させ、「維新」を帝国主義の対極とみなし、中国革命を世界から不平等が除かれることを目標とした永遠の過程であると考えた、と竹内はいう<ref name="Miym"/>。竹内は、近代日本は「維新」の意義を矮小化させてしまったとし、未完の明治維新を重視した<ref name="Miym"/>。 1968年(昭和43年)[[10月23日]]、[[佐藤栄作]]政権で[[明治百年記念式典]]が開かれた。[[木村毅]]・[[林房雄]]・[[安岡正篤]]・[[池島信平]]らの広報部会では、戦後日本の復興をなした基盤としての明治が讃えられ、また、ライシャワーの近代化論や、徳川時代の再評価も行われた<ref name="Miym"/>。同年、[[司馬遼太郎]]の『[[坂の上の雲]]』が連載を開始した<ref name="Miym"/>。 他方、[[歴史学研究会]]・[[歴史科学協議会]]・[[歴史教育者協議会]]は、明治百年祭は1940年の[[紀元二千六百年記念行事]]と似た危険があると反対した<ref name="Miym"/>。1968年7月には、[[家永三郎]]・[[板垣雄三]]•[[井上清]]• [[江口朴郎]]・[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]・[[永原慶二]]•[[野原四郎]]・[[旗田巍]]•[[松島栄一]]らが「明治百年に反対する声明」を起草し、3675人の署名を得た<ref name="Miym"/><ref>『歴史学研究』340号(1968年9月)、342号(1968年11月)</ref>。反対声明では、明治は「天皇制絶対主義」を生み出した日本帝国主義の形成期であり、女性、被差別民、沖縄人、朝鮮人にとって差別と抑圧の歴史であり、「近代化論」は近代日本がアジアの犠牲の上に成り立ったことを覆い隠すものだと批判した<ref name="Miym"/>。学界では、[[大江志乃夫]]が歴史研究において明治維新の可能性と現実の近代日本との落差の評価を行うべきではないかと提言すると、井上清がこれを「何をいっているのか分からない」と批判し<ref>井上清「「明治百年」記念とどうたたかうか」[[歴史評論]]201号、1967年5月、[[歴史科学協議会]]</ref>、[[佐藤誠三郎]]が戦前の講座派よりも戦後歴史学は硬直していると表明すると、遠山茂樹がこれを「主観的だ」と批判した<ref name="Miym"/>。 元総理大臣の[[石橋湛山]]は、明治時代の遺産とは、日本が[[帝国]]になったことではなく、[[五箇条の御誓文]]によって日本が[[民主主義]]と[[言論の自由]]を重視するようになったことだ、と論じ、1968年の反戦デモに明治の遺産が生きている、とみなした<ref name="richard"/>。 === 幕末過渡期国家論から公議研究まで === 維新政権の研究は[[原口清]]「戊辰戦争」(1963)や[[下山三郎]]「近代天皇制研究序説」(1976)によって本格的に着手された<ref name="isin"/>。[[宮地正人]]は、幕府、朝廷、諸藩の動向を総体的に捉えようとして幕末過渡期国家論を提唱し、それまで見落とされていた天皇、朝廷の動向を視野に入れ、斬新的な研究となった<ref name="isin"/><ref>[[宮地正人]]「幕末過渡期国家論」(講座日本近世史8、1981)</ref>。これに続いて、原口清は[[国是]](最高国家意志)樹立をめぐる諸勢力の運動・対立という視座を設定し、慶応3年の[[五箇条の御誓文|五箇条誓文]]を国是樹立運動の帰結とした<ref name="isin"/><ref>原口清「近代天皇制成立の政治的背景」(遠山茂樹編「近代天皇制の成立」1987、岩波書店)</ref>。宮地や原口のダイナミックな関係史の研究によって、長州藩と会津藩のように政治状況によって「勝者」「敗者」が刻々と変わるなか、当時の政治家の個性が描き出されるようになり、その後の研究潮流の源流となった<ref name="isin"/>。 明治維新では幕府が廃止されると同時に[[摂関]]制度も廃止されるなど、天皇や朝廷の研究も重要であるが、戦前には[[皇国史観]]でタブー視され、戦後も戦前への忌避感から研究が遅れていた<ref name="isin"/>。[[井上勝生]]<ref>[[井上勝生]]「幕末政治史のなかの天皇」講座前近代の天皇2、1993.青木書店</ref>や[[藤田覚]]<ref>藤田覚「幕末の天皇」1994</ref>の研究によって、[[文久]]3年の[[八月十八日の政変]]の主役を[[孝明天皇]]とする見解などが提出され、武家に操られる天皇というイメージが一新され、以後の幕末維新期の天皇研究に大きな影響を与えた<ref name="isin"/>。 また、[[一橋徳川家]]の[[徳川慶喜]]、[[京都守護職]]・[[会津藩|会津藩主]]の[[松平容保]]、[[京都所司代]]・[[桑名藩|桑名藩主]][[松平定敬]]の三者により構成された[[一会桑]]勢力が重視され、従来の「幕府対薩長」という単純な図式に大きな変化がもたらされた<ref name="isin"/>。[[家近良樹]]の「幕末政治と倒幕運動」(1995)では、それまで「敗者」として悲劇的に捉えられがちだった会津藩の存在を高く評価した<ref name="isin"/>。[[宮地正人]]は、歴史ファンやマニアの研究対象出会った[[新選組]]が一会桑との役割から研究した<ref name="isin"/><ref>[[宮地正人]]「歴史のなかの新選組」(2004)</ref>。この他、[[久住真也]]「長州戦争と徳川将軍」(2005)では幕府の新仏派の研究も行われた<ref name="isin"/>。 開国研究としては、[[三谷博]]「ペリー来航」(2003)や[[荒野泰典]]「日本の対外関係7 近代化する日本」(2012)などで従来の「不平等条約」「鎖国」「開国」の見直しを再評価がなされている<ref name="isin"/>。 [[高橋秀直]]<ref>[[高橋秀直]]「幕末維新の政治と天皇」(2007)</ref>や、[[家近良樹]]の研究<ref>[[家近良樹]]「徳川慶喜」2004など</ref>では、[[王政復古 (日本)|王政復古クーデタ]]は倒幕を目指していなかったことが明らかにされ、また王政復古で成立した新政府は、天皇より公議原理が優位にたつ(天皇親政ではない)政府であったことが明らかにされた<ref name="isin"/>。三谷博も「維新史再考」(2017)で公議研究を進めた<ref name="isin"/>。 日本思想史研究の[[子安宣邦]]は、明治維新は民衆にとっては[[徴兵令|明治5年の徴兵告諭]]における兵役の義務であり、[[国民]]にさせられていく過程であり、畏怖すべき国家の現前だったと言う<ref>子安宣邦『日本近代思想批判』岩波現代文庫、2003年p303</ref>。 === 明治維新150周年 (2018)以降 === [[2018年]]([[平成]]30年)10月23日、明治維新150周年を記念して政府は式典を憲政記念館で開いた<ref name="asaM">「政府が明治維新150年を祝う式典 天皇陛下は出席せず」朝日新聞[[2018年]]([[平成]]30年)10月23日</ref>。[[10月23日]]は明治へ改元された日であり、1968年の明治百年祭も同日に開催された。[[安倍晋三]]首相(当時)は式辞で「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べた<ref name="asaM"/>。[[明仁]][[天皇]](現[[上皇 (天皇退位特例法)|上皇]])と[[上皇后美智子|美智子]][[皇后]](現[[上皇后]])は、政府が招待せず、参列しなかった<ref name="asaM"/>。 [[2017年]]から[[2018年]]にかけて多くの研究書や一般書が上梓された。歴史学者の著作としては、[[三谷博]]『維新史再考』、[[三谷太一郎]]『日本の近代とは何であったか』などがある。 経営学者[[米倉誠一郎]]は『イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応』(東洋経済新報社、2017年)で激動の維新において創造的対応をなした人物に注目し、[[高島秋帆]]がアヘン戦争で危機感を高めて、西洋砲術の研究をし、[[臼砲|モルチール砲]]を輸入し[[リバースエンジニアリング|分解模造(リバースエンジニアリング)]]を行ったことや、[[大隈重信]]が[[秩禄処分]]において、[[士族]]の俸禄を数年分の合算総額に7%の利子を付けた公債を発行([[バウチャー]]制度)を生み出して生活を保障、同時に旧士族が起業や農工商への転職できるように士族授産政策も実施したこと<ref>「[https://forbesjapan.com/articles/detail/24016 明治維新の英傑に学ぶイノベーターの条件 米倉誠一郎が語る「創造的対応」]」ForbesJapan2018/11/30</ref>、[[笠井順八]]が日本に存在しなかった[[セメント]]製造をベンチャー事業として行ったこと、[[三野村利左衛門]]が[[三井家]]に外部から入り、祖業の呉服商を[[三越家]]に分割し、[[三井銀行]]を設立し、[[三井財閥]]を中興させたこと、また同じく外部から登用された[[益田孝]]が[[三井物産]]を設立したこと、[[岩崎彌太郎]]が[[三菱商船学校]]や[[三菱商業学校]]を設立し、人的資源を確保するなど多角的事業体の[[三菱財閥]]を発展させたことなどを讃えた<ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/24017 米倉誠一郎が選ぶ、明治維新前後のイノベーター4傑] ForbesJapan2018/11/30(ForbesJapan2019年1月号)</ref>。 明治維新150周年については批判的な意見を言う者もおり、歴史学者奈良勝司は、明治日本では、武力(国力)の底上げへの奉仕を国民が強いられたと総括し、『明治の精神』への回帰とは、日本賛美による[[癒やし]]であり、「アトラクション化させた過去の消費」や[[ご都合主義]]的に加工した歴史への逃避では、未来の展望につながらないと警告した<ref name="wataAera">渡辺豪「「明治時代の精神に学べ」ブームの危険な罠「明治翼賛」一色のありように感じる違和感」[[AERA]]2017年8月14-21日号、[[朝日新聞社]]、東洋経済オンライン2017/08/10</ref>。平和学者[[木村朗]]は「明治翼賛の最大の問題は、自国に不都合な歴史的事実の忘却」にあるとし、近代日本は「アジアで唯一の帝国主義国家」となり、アジア諸国への侵略、会津藩の悲劇や、アイヌ・琉球への差別は明治維新の歪みだとする<ref name="wataAera"/>。女性史研究家[[加納実紀代]]は、明治日本は女性の抑圧を国家の制度として確立したとし、民法で女性を[[禁治産|準禁治産者]]扱いし<ref>[[民法 (日本)|明治民法]][[総則]][[行為能力]]第14条、奥山恭子「明治民法の「妻の無能力」条項と商業登記たる「妻登記」 : 明治立法期民・商法の相関性と相乗性の一端」横浜法学27巻1号2018,p35-59</ref>、高等教育<ref>[https://www.u-tokyo.ac.jp/kyodo-sankaku/ja/activities/model-program/library/UTW_History/Page05.html 日本の女子高等教育の歴史] 東京大学男女共同参画室</ref>や政治参加を禁じたと指摘し、明治150年記念行事は、明治以後の歴史を肯定一辺倒に染める恐れがあり、一方的な歴史認識が定着しないよう注視する必要があると警告した<ref name="wataAera"/>。元学生運動家で科学史家の[[山本義隆]]は『近代日本150年』(2018年)で「[[科学技術]][[総力戦]]」という角度から日本の近代を論じた。ジャーナリストの[[斎藤貴男]]は、政府主導の明治維新記念行事は、時の政府([[長州藩]]につながる[[第4次安倍内閣]])礼賛に繋げようとしていると疑念を表明している<ref>『明治礼賛の正体』2018年、岩波ブックレット</ref>。 記者リチャード・カッツは、「明治維新は米国の独立記念日やフランスの革命記念日のようなものなのに、現代の日本人はなぜ、維新150周年を祝賀しないのか」と疑問に思い、調査すると、明治維新を戦争時代の暗い歴史と結び付けて考えている日本人が少なくなかったという<ref name="richard"/>。日本近代史研究の[[ピーター・ドウス]]は、明治維新が「民主主義や経済的繁栄ではなく、日本を超国家主義や植民地支配の拡大、すなわち破滅へと導いていったと考えている日本人は多い」と指摘する<ref name="richard">リチャード・カッツ「「明治維新150年」を祝わない日本人の不思議 石橋湛山が考える維新の「真の遺産」とは?」東洋経済オンライン2018/08/04</ref>。 日本思想史研究の[[苅部直]]は『「維新革命」への道』(2017)において、[[マルクス主義歴史学]]の[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]などのような、明治維新による[[文明開化]]を政府が上から強引に西洋化を進め、庶民にとっては迷惑であったとするような評価は、事態の一部しか捉えていないと批判し、公儀の瓦解と新政府の発足は、人々にとって生活全体に及ぶ束縛からの解放と感じられ、また西洋化もその動きの一環として歓迎されたと述べている<ref>苅部直『「維新革命」への道』[[新潮選書]] 2017年,p28-30.p256</ref>。苅部によれば、人民の側に立つ歴史学を標榜する遠山茂樹は、庶民が文明開化を求め、楽しんだ実態には触れようとしないが、それは、遠山が戦時中の1944年の論文「水戸学の性格」で、孝明天皇による「仁慈限りなき御叡慮」による幕藩封建体制の改革で、「一君万民の我が国体の精華」が「革新力」となると論じたことへの苦い反省があったのではないかと指摘している<ref name="minsyu-huzai">苅部直『「維新革命」への道』[[新潮選書]] 2017年,p30-33.</ref>。また、文明開花以前の古い日本に憧れるロマンティシズムや、薩長の暴虐を強調する[[幕臣]]びいき・[[江戸っ子]]びいきの歴史観も、遠山と同様に、民衆に共感することを標榜しながらも、当時の民衆が文明開花を楽しみ、欲望の発散の機会が多くなることを願ったという実態について書かないような「民衆不在」の罠にはまっていると苅部は批判する<ref name="minsyu-huzai"/>。 政治史研究の[[北岡伸一]]は『明治維新の意味』(2020年)で、明治維新は[[既得権益]]を持つ特権層を打破し、様々な制約を取り除いた[[民主化]]革命、[[自由化]]革命、人材登用革命であったとする<ref name="kitaoka"/>。北岡によれば、江戸時代に国政に参加できたのは、[[将軍]]と[[譜代大名]]で構成された[[幕閣]]であり、[[親藩]]と[[外様大名]]は排除されていたが、黒船来航以降、[[雄藩]]や[[朝廷 (日本)|朝廷]]も国政に参加するようになり、特に下級武士を登用した薩長が台頭した<ref name="kitaoka"/>。その後の維新でこれらの下士出身の官僚らは、自藩を含む[[藩]]を全廃し、武士を含む身分制度さえも廃止した。初代内閣総理大臣になった[[伊藤博文]]は農民(足軽)の出自であったが、江戸時代には政治への発言も許されない身分であった<ref name="kitaoka"/>。さらに西南戦争以後の[[自由民権運動]]を経て、[[内閣制度]]が確立すると、豪農や内戦中は[[朝敵]]とされた東北出身者の政治参加も盛んになり、1890年には[[信越]][[東北]]の国会議員が誕生し、1918年には[[盛岡藩]]出身の[[原敬]]が総理大臣になった<ref name="kitaoka"/>。[[地租改正]]によって中世以来の[[石高制]]も廃止、[[田畑]]の売買も自由になった。職業選択も自由とされ、身分を超えた教育精度も導入された<ref name="kitaoka"/>。 日本思想史研究の[[子安宣邦]]は『「維新」的近代の幻想』(2020年)で明治維新に端を発する日本近代のあり方を批判した。 === 「敗者」の視点から === [[薩長土肥]]中心に語られてきた明治維新を批判する立場として、明治維新の「敗者」、特に[[戊辰戦争]]における[[会津藩]]や[[奥羽越列藩同盟]]などの「敗者」視点から書かれたものも多数ある。[[戊辰戦争]]、[[新選組]]、[[小栗忠順]]、[[上野戦争]]、[[会津戦争]]、[[箱館戦争]]の各項目を参照。 会津藩については、[[司馬遼太郎]]が小説「王城の守護者」(1965年、別冊文藝春秋)で会津藩主[[松平容保]]の孝明天皇への忠誠を中心に会津藩の悲劇が強調されたあと、多数の《会津もの》小説が続いた<ref name="tanak-AIZ">田中悟, 「[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/D1004158 死者の政治学―近代会津の戦死者とアイデンティティ]」 神戸大学 学位論文、2008年, 甲第4158号, {{naid|500000444387}},p154-160,p210-226.</ref>。司馬をはじめ、長州への敵意が繰り返し説かれた[[早乙女貢]]の『會津士魂』(1970-1988)、[[綱淵謙錠]]『戊辰落日』(1978)、[[中村彰彦]]らの《会津もの》小説は、「'''怨念史観'''」の源泉を提供していった<ref name="tanak-AIZ"/>。[[石光真清#家族 親族|石光真人]]編 『ある明治人の記録-会津人[[柴五郎]]の遺書』(1974年, 改版2017年)も出た。会津の郷土史家[[宮崎十三八]]は、「長州への怨恨」を基盤として、「会津は明治政府から徹底的にいじめられてきた」とする「'''[[観光史学]]'''」を提唱した<ref name="tanak-AIZ"/>。宮崎が[[新潮45]]1992年10月号に発表した「会津人の書く戊辰戦争 ヒロシマのピカドンと同じ惨劇」では、会津への長州の砲撃と[[日本への原子爆弾投下|アメリカによる原爆投下]]とは、「一般住民を全く無差別に暴力でぶっ殺したのは、全く同じだった」<ref>[[宮崎十三八]]『会津人の書く戊辰戦争』恒文社 1993,p.61.</ref>とし、「会津戦争の悲劇を日本人が知っていたならば、太平洋戦争の悲劇は防げたかもしれない」と主張した<ref name="tanak-AIZ"/>。こうした宮崎の「怨念史観」に対しては、宮崎の同級生だった畑敬之助や牧野登らによる批判がある<ref name="tanak-AIZ"/><ref>畑敬之助『戊辰怨念の深層 - 萩と会津、誇り高く握手を』歴史春秋社〈歴史ふくしま文庫63〉、2002年、牧野登『会津人が書けなかった会津戦争―会津への手紙』 歴史春秋出版(1997/12)</ref>。 なお、こうした「怨念史観」の一つとして、新政府軍が遺体の埋葬を禁じ、会津藩士の遺体が半年間野ざらしにされたという「埋葬禁止説」が1960年代以降現在まで流布されてきた<ref name="aera">野村昌二,渡辺豪「[https://dot.asahi.com/articles/-/125362?page=3 “半年間、遺体を野ざらし”はなかった? 薩長の「埋葬禁止令」を覆す新史料]」AERA dot,2018/03/08 07:00、AERA2018年3月12日号</ref>。しかし、2016年12月に、戦死した藩士らの埋葬が記録されていた[[史料]]『戦死屍取仕末(せんしかばねとりしまつ)金銭入用帳』が会津若松市で発見され、新政府は会津藩降伏の10日後の旧暦10月2日に埋葬を命令し、翌[[10月3日 (旧暦)|10月3日]]から同[[10月17日 (旧暦)|17日]]にかけ、会津藩士4人が指揮し、567体の遺体を埋葬したことがわかった<ref name="aera"/><ref>野口信一『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』(歴史春秋社,2017)</ref>。「埋葬禁止説」について、会津若松市史研究会の野口信一は、会津戦争から半年後の1869年2月に[[阿弥陀寺 (会津若松市)|阿弥陀寺]]に遺体を改葬したことが『半年間も放置した』と誤認された要因とみて<ref name="aera"/>、「歴史の話を聞くと、悲劇的な部分が頭に残りやすい。歴史は、耳学問ではなく自ら学ぶ姿勢が必要」と話す<ref>「[https://www.minyu-net.com/honsha-annai/ishinsaikou/serial/FM20181126-326616.php 【維新再考・明日への伝言】現代編1「薩長への遺恨」今も?]」2018年11月26日[[福島民友新聞]]</ref>。 [[司馬遼太郎]]は『「明治」という国家』(1989)で、明治維新最大の功績者は、権力を放棄した[[徳川慶喜]]と[[勝海舟]]であり、それに比べて薩長は力にすぎないが、新政府側の士族にしても戊辰戦争の[[恩賞]]もないどころか、廃藩置県や[[秩禄処分]]による士族解体に大名側で反乱がなかったのは不思議だという<ref>『「明治」という国家』(1989、[[NHKブックス]])、p115,244-5.</ref><ref name="mi-sb">三谷博『明治維新を考える』有志舎、2006年,pp.214-220.</ref>。司馬は、江戸時代の日本は「自立、自助、勤勉」で[[プロテスタンティズム]]に似ており、明治政府もこれを踏襲したが、ヨーロッパの合理主義を買い続けて、江戸の合理思想を捨てた結果が昭和の没落ではないかと論じた<ref name="mi-sb"/>。 [[文化人類学者]][[山口昌男]]の『「敗者」の精神史』(岩波書店、1995年)では、維新以後の薩長中心の階層秩序から離れた文化活動を行ったとして、[[淡島椿岳]]・[[淡島寒月]]、[[大槻如電]]、[[山本覚馬]]、[[大橋佐平]]、[[土田杏村]]、[[吉野作造]]や、旧幕臣らの事績が扱われた。 == 比較革命史で見る明治維新 == === フランス革命、イギリス革命、アメリカ独立革命等との比較 === 西洋史学の[[河野健二]]は「明治維新と「西洋」」(1964)<ref name="kono1">桑原武夫『ブルジョワ革命の比較研究』筑摩書房、1964年:『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001,p60-67</ref>において、明治維新は経済的にはブルジョワ革命であり、政治的には不徹底な革命であったとする。ただし、徹底不徹底は程度問題でもあり、イギリス革命はフランス革命よりも不徹底であったし、[[ジョルジュ・ルフェーブル]]がいうようにフランス革命も「農民革命」という点においては不徹底であった<ref>[[ジョルジュ・ルフェーブル]]『フランス革命と農民』</ref>という。河野によれば、明治政府は、自由民権派による国会開設請願運動に対して憲法制定・国会開設を約束するという先手を打つことによって革命の矛先を巧みにそらしたことができた革命政権であった<ref name="kono1"/>。河野健二編『近代革命とアジア』名古屋大学出版会 1987では、西欧の革命と明治維新が対比されながら、明治維新の変革性がクローズアップされ、明治維新を絶対主義の成立とする見方はもはや見られなくなった<ref name="sasaki"/>。 フランス文化研究の[[桑原武夫]]は1956年には明治維新を「後進国型のブルジョワ革命」と評価していたが<ref>朝日新聞1956年1月1日</ref>、1974年には明治維新は「文化革命」として徹底性があったとし、1986年には「[[ナショナリズム]]に立つ文化革命」と評価した<ref name="sasaki"/><ref name="kuwa">桑原武夫「明治維新と日本の近代化」永井道雄、M.ウルティア共編、明治維新、国際連合大学、[[東京大学出版会]]、1986、『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001,p266-276.</ref>。桑原は「社会における巨大な変化を革命と呼ぶこととすれば、維新こそ革命と呼ぶべき」で、「明治維新を革命と呼ばずして、[[七月革命]]とか[[二月革命]]などという名称を平気で使っているのは滑稽であります。最後の将軍は殺されなかったのですが、これはいわば日本人の英知であって、流血が少ないからダメとは言えません」と述べ、かつて自分もブルジョワ革命とも言ったことがあるが、もうその用語は使わない、マルクス主義風の発展段階説では解けないところが維新にはある、たとえば自由民権運動の指導者だった[[中江兆民]]が帝国憲法を設計した[[井上毅]]を敬愛した矛盾が説明できないし、天皇も[[絶対君主制|絶対専制君主]]ではなかったといい、また、新国家の軍国主義の侵略行為も「罵倒から始めるのではなく、西欧先進国の場合をも併せ考え、冷静に研究すべき」と述べた<ref name="kuwa"/>。 西洋史学の[[遅塚忠躬]]によれば、イギリス革命では革命の担い手が[[ジェントリ]]に限定されていたため、共通の利害を見出すことができたが、フランス革命では、ブルジョワジーと大衆との間に共通の利害を見出すことが困難であり、革命の路線に対して党派対立が激化したがゆえに粛清にいたったとし、こうして独裁とテロル、流血のコストを払ったのはフランス革命が社会革命であったからとする<ref name="chiz">遅塚忠躬「フランス革命と明治維新」[[田中彰]]編『近代日本の軌跡(1)明治維新』(吉川弘文館, 1994年)、田中彰編『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001,p172-4.</ref>。遅塚は、明治維新はフランス革命よりも流血が少ないと強調されるが、フランスが[[市民社会]]を創出し、社会的デモクラシーを提示し、近代化を進めたのであり、「明治維新が世界にどういう貢献をしたかを考えるとともに、世界が血まみれのフランス革命に負っているものが何であるかをも考慮すべきであろう」と指摘する<ref name="chiz"/>。 トマス・C ・スミスは1967年に、明治維新は「1789年の大革命がフランスにもたらした以上の大きな変革を日本にもたらした」と評した<ref>Thomas C. Smith,Japan's Aristocratic Revolutuin,Yale Review,Spring,1967.=Smith, Thomas C. ,NATIVE SOURCES OF JAPANESE INDUSTRIALIZATION, 1750-1920,5.University of California Press, c1988.大島真理夫訳「日本社会史における伝統と創造[増補版]」ミネルヴァ書房、2002年、5.日本の士族的革命。『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001,p268での桑原言及.</ref>。 経済学者[[ケネス・E・ボールディング]]は1970年に、コストが小さく持続的な成長をもたらした成功した革命は[[アメリカ独立]]と明治維新であるとした<ref name="kitaoka"/><ref>A Primer on Social Dynamics: History as Dialectics and Development, (Free Press, 1970).『歴史はいかに書かれるべきか』講談社学術文庫, 1979年</ref>。 他方、[[イェール大学]]歴史学教授で日本近代化論者の[[ジョン・ホイットニー・ホール]]は1971年に、日本にはフランス革命やロシア革命のような政治的イデオロギーがなく、明治維新はブルジョワ革命でも農民革命でもなかったと評した<ref name="igor"/><ref>J.W.Hall,Japan from prehistory to modern times,Delta books,1971,p.266.</ref>。 作家フランク・ギブニーは、明治維新を、アメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命と同列の、五大革命の一つとし、明治維新は近代世界における最初の大文化革命であったとする<ref name="Gibney">フランク・ギブニー(Frank Gibney)「文化革命としての明治維新」(永井道雄、M.ウルティア共編、明治維新、国際連合大学 1986).『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001、p277-298.</ref>。ギブニーは、明治文化革命は、[[中国共産党]]の指導者が自己の権力の座を守るために扇動した[[文化大革命]]とは違うという<ref name="Gibney"/>。明治革命は、中下級武士が指導したが、知識人、豪商、町人階級、農民も参加し、主として国民の合意によるもので、または、国民の期待感の高揚があり、下層の身分であっても能力があれば権威になれたことを民衆が目の当たりにするにつれ、「多くの人々にとってー幕藩体制の支持者にとってさえー、革命の具体的成果の正当性は明らかであった。それ以上に、新しい慣習、新しい思想、新しい技術、新しい知識には国民の心を魅了する力があった」と指摘する<ref name="Gibney"/>。さらに、アメリカとフランスの革命が政治的革命であり、ロシアと中国の革命がイデオロギーの革命であったのに対して、明治革命は近代史のなかで試みられた最初のトータル・レボリューション(Total Revolution)全面革命であったという<ref name="Gibney"/>。また、ギブニーは、2000年の書評でも、明治維新はフランス革命やロシア革命の多大な流血とは対照的であったと評する<ref name="gib"/>。 歴史学者Thomas M.Huberは、1981年の著書Revolutionary Origins of Modern Japan (Stanford University Press)で、明治維新を担ったのは、層・下層武士を中心とした、[[神官]]・[[僧侶]]、医師、教員、[[名主]]などのサービス・インテリゲンチャであり<ref>Book Reviews—Japan: Revolutionary Origins of Modern Japan By Thomas M.Huber,The Journal of Asian Studies , Volume 42 , Issue 4 , August 1983 , pp. 959 - 961 DOI: https://doi.org/10.2307/2054815</ref> <ref>[[アンドルー・ゴードン]]、森谷文昭訳『日本の200年(上)』みすず書房, 2006年、p156.原注viでも紹介</ref>、明治維新とは、封建制度において抑圧されていたこれらの社会階層によって起こされた革命であったとした<ref>Sidney Devere Brown,Thomas M.Huber:Revolutionary Origins of Modern Japan (1981,Stanford University Press), The American Historical Review, Volume 88, Issue 1, February 1983, Page 157, https://doi.org/10.1086/ahr/88.1.157</ref>。 [[ハーバード大学]]教授[[アンドルー・ゴードン]]は2003年の著書『日本近代史(邦題:日本の200年)』で、1868年前後に日本で起きた明治革命では、政治統一と中央官僚制、[[身分制]]の廃止、軍制・[[教育]]・[[税制]]改革など広範な改革が実現したのであり、これは「政治、経済、社会、文化のどの側面からとらえても、息を呑むほど壮絶であり、まさに革命にふさわしいものだった」とし、19世紀から20世紀にかけて世界各国で起きた近代革命の日本的な展開であったとする<ref name="Gordon">原著Andrew Gordon, A Modern History of Japan,Oxford University Press, 2003.森谷文昭訳『日本の200年(上)』みすず書房, 2006年、p123-157.</ref>。ゴードンによれば、この日本の近代革命は先行する西欧の革命とは対照的であったが、それ以後に起きた諸革命と類似していた<ref name="Gordon"/>。西欧の革命では新興階級である都市ブルジョワジーが貴族階級の特権に異議を唱えたが、日本では武士階級が革命を担ったため、「貴族的革命」ともいわれる<ref name="Gordon"/>。日本の武士は、[[主君]]に雇われた「給与生活者・従業員」であったため、西欧の封土や、中国の貴族階級の領土制や[[朝鮮]]の[[両班]]よりも土地との結びつきが弱く、身分が不安定であった<ref name="Gordon"/>。ゴードンは、明治革命をフランス革命と比べて不完全な革命とするようなこれまでの評価は、[[ヨーロッパ中心主義]]的な評価にすぎず、非西欧地域の歴史をその固有な条件に即して理解しようとするものではないため有用でないとし、西欧を基準とせず、同時に、明治革命が世界の近代革命と同様に持続的な激動のプロセスであったことを認識することが肝要であるという<ref name="Gordon"/>。 日本政治思想史研究の[[渡辺浩 (政治学者)|渡辺浩]]は、「明治革命・性・文明」(2021年)で、明治革命と[[フランス革命]]は、[[身分制]]を壊して[[中央集権]]体制をつくった点で共通すると評価する<ref>[[犬塚元]]「[https://book.asahi.com/article/14412552 「明治革命・性・文明」書評 科挙なき身分制が招いた大変動]」、[[朝日新聞]]2021年08月07日</ref>。渡辺は「あれほどの大変革が革命でないとしたら、何が「革命」なのでしょう? かつて、「皇国史観」派は、日本に「革命」があったとは認めたくなかった(この語の元来の意味は、「王朝交代」ですから)。マルクス主義者の多くは、真の「ブルジョア革命」ではなかったと考えた。こうして左右の意見が一致して、革命ではなく、単に「維新」だ、ということになり、今に至っているのです。でも、「維新」は単に新しくなることです。そこで、徳川の世には、今いう「寛政の改革」を「寛政維新」とも言います。「ブルジョア革命」であろうとなかろうと、あの不可逆的な大変革を、たかが「維新」などと呼ぶ方がおかしくないでしょうか。」と説明する<ref>[http://www.utp.or.jp/special/MeijiRevolution/ 「明治革命・性・文明」特設サイト][[東京大学出版会]]</ref>。 [[ウェイクフォレスト大学]]のR.ヘルヤーと[[ハイデルベルク大学]]のH.フュースも、明治維新は[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ革命]]やフランス革命と同等の革命的[[分水嶺]]として位置付けられるという<ref>Robert Hellyer and Harald Fuess編,The Meiji Restoration:Japan as a Global Nation,Published online by Cambridge University Press:  14 April 2020.DOI: https://doi.org/10.1017/9781108775762</ref>。 日本近代史研究者で[[東京大学]][[名誉教授]]の[[三谷博]]は、明治革命は「[[君主制]]を[[ピボット|ピヴォット]]とする[[世襲]][[身分制]]の解体という近代世界史上でも有数の革命」とする<ref name="mitanRevo"/>。比較革命史で見ると明治維新による犠牲者は極めて少なく、その要因に、「公論」による政治の決定や、長期的危機を予測し、その対応に成功したことなどが挙げられるという<ref>三谷博「明治維新、「平和な革命」はなぜ実現したのか」週刊東洋経済2021年11月20日号、p58-59</ref>。三谷は以下のように考察する。 *'''[[ナショナリズム]]の役割'''。戊辰戦争の死者数が約13600人、西南戦争の死者数が約11500人、倒幕運動側の死者数が約2500人で、復古の反対勢力の死者数は不明だが、明治維新における政治的死者数は、27600人〜3万人と推計できる<ref name="mitanRevo">三谷博「序論日本史から普遍を求めて」『日本史のなかの「普遍」 比較から考える「明治維新」』東京大学出版会、2020年1月,pp.1-27.(初出:三谷博「国境を越える歴史認識」[[岩波講座日本歴史]]22巻歴史学の現在、2016年)</ref>。これに対して、フランス革命での政治的死者数は国内の死者は約40万人、[[フランス革命戦争]]での死者数は約115万人、合計約155万人とされる<ref name="mitanRevo"/><ref>パリ第1大学フランス革命史研究所所長ピエール・セルナ(Pierre Serna)「フランス独立革命――長期持続の視点からコスモポリタン的政治形態を再考する」、三浦信孝, 福井 憲彦編著『フランス革命と明治維新』2018,白水社、p40.</ref>。また、20世紀の中国の[[国共内戦]]が175万<ref>Lynch, Michael (2010). The Chinese Civil War 1945-49. Osprey Publishing,p.91.</ref>や[[文化大革命]]での犠牲者は1000万人以上である<ref name="mitanRevo"/>。明治維新における政治的死者数が少なかった理由には、徳川家と新政府が戦争を極小に抑えたこと、特に[[江戸開城]]による戦争回避が主因とされ、戊辰戦争も抵抗者が限定され、短期間で終わった<ref name="mitanRevo"/>。このほか、大名や上級武士らが、「[[御家人|御家(おいえ)]]」に代えて「[[日本]]」レベルの[[ナショナリズム]]を持ったために世襲的特権の剥奪に抵抗しなかったこともあげられる(幕末の尊王攘夷論の目的は鎖国を守るためでなく、日本の根本的改革にあった<ref name="mitanRevo"/><ref>[[藤田東湖]]『常陸帯』</ref>)。フランス革命では、革命派は、「国民化」を阻む抵抗勢力であった貴族、王党派、[[ヴァンデの反乱|ヴァンデーの農民]]などを殺戮し、さらに革命派は、周辺の[[君主国]]との戦争を回避せずに選択したために<ref>[[松浦義弘]]「フランス革命期のフランス」『世界歴史体系 フランス史2』、山川出版社1996,p.365.</ref>、大量の犠牲が出た<ref name="mitanRevo"/>。フランスではすでに三部会において「国民」が権力の源泉とされ、新秩序を対等に構成する集合的主体として重視されていたが、日本では「国民」による秩序構想が支持されたのは明治10年代であった<ref name="mitanRevo2"/>。 *'''[[地方分権|分権制]]・[[中央集権]]'''。江戸時代の幕藩体制は[[連邦国家]]であり、君主が二人いる(徳川将軍と天皇)[[二頭政治|双頭国家]]であった<ref name="mitanRevo"/>。[[清朝]]のような一極集中型の組織は解体が難しいのに対して、分権制は解体も再編も容易であるが、ただし、[[インド]]や[[ジャワ]]のように、分権制であったがゆえにその隙をついて外部勢力が国家統合をなした場合もある<ref name="mitanRevo"/>。近世日本は双頭・連邦国家であったが、維新によって単一国家としての「日本」が創出された<ref name="mitanRevo2"/>。フランスでは革命前より単一国家で、封建領主の連合体からは脱却していたが、一部で貴族による支配と王権による支配とが混在していた<ref name="mitanRevo2"/>。しかし、[[中央集権]]体制が完成したのは革命とナポレオン体制であったことから、国家の統合という点では明治維新とフランス革命は同様の結果を産んだ<ref name="mitanRevo2"/>。 *'''[[間接アプローチ戦略]]'''。[[廃藩置県|廃藩]]を実現しようとした新政府は、廃藩を急激に進めると諸大名からの抵抗を受けると予想し、[[間接アプローチ戦略]]をとって、[[廃藩置県]]より前に地均らしとして[[版籍奉還]]を建議した<ref name="mitanRevo"/>。版籍奉還は、江戸期の将軍代替わりに伴う統治許可証返還の慣習を拡張したものであったために、諸大名からの抵抗はほとんどなかった<ref name="mitanRevo"/>。戊辰戦争では、新政府は各大名に銃隊のみの編成を命じた。これにより、上級家臣は従者も伝統的武芸も使うことができなくなった<ref name="mitanRevo"/>。動員で財政が逼迫した藩は統治権の返上を申し出たところもあった<ref name="mitanRevo"/>。 *'''君主制による改革'''。維新で君主権強化を主導したのは大名の家臣であり、いわば領主と庶民の間の中間層であった。維新は君権を押し立てた意味では「上からの改革」であったが、内実は中間層による「下からの改革」であった<ref name="mitanRevo"/>。新政府は[[五箇条の御誓文|御誓文]]で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と宣言し、これが[[民撰議院設立建白書]]などでも繰り返し引用され、[[国是]]となり、立憲政治が定着していった<ref name="mitanRevo"/>{{Refnest|group="*"|[[鳥海靖]]『日本近代史講義 明治立憲制の形成とその理念』(東京大学出版会、1988年を参照。}}。誓文以前にも安政期から「公議」「公論」は重視されており、これが誓文で確認されており、ここに[[経路依存性]]がある。さらに、室町期以降には天皇は政治的決定権を喪失していたという経路依存性もあり、こうして天皇と朝廷は明治維新において「公論」を受け入れ、憲法による君権の制限も受け入れることができた<ref name="mitanRevo"/>。これは19世紀の朝鮮や清朝が君権制限に強く抵抗したことからみても、例外的であった<ref name="mitanRevo"/>。 *'''復古'''。明治維新は西洋文明を取り入れながら、神武創業という神話的な始源への復古が唱えられた。一方、フランス革命でも進歩が提唱されながら、[[ローマ式敬礼|古代ローマ式の誓いのポーズ]]や、[[凱旋門]]建設や[[月桂冠]]の戴冠など古代ローマ復古の象徴が用いられた<ref name="mitanRevo"/>{{Refnest|group="*"|[[サイモン・シャーマ]]「フランス革命の主役たち」中、中央公論社1994,9章を参照。}}。また、江戸時代の役人も政策を提言する際には、先例(古例)を引用するのが慣例であり、明治維新が「復古」を用いたのは特殊でも奇異でもなかった<ref name="mitanRevo"/>。また、西洋での[[王政復古]]は、革命以前の世襲貴族の支配を復元し、「国民」や「民主」という秩序規範を否定しようとする「[[反動]]」の運動であったのに対し、明治維新での「王政復古」は、人々の「国民」化や「公論」を促進した<ref>三谷博『維新史再考 公議・王政から集権・脱身分化へ』2017,NHK出版,p402.</ref> *'''変革の速度'''。1863年までは尊攘派と公議政体追求のふたつの運動が拡大し、尊攘派は最後の局面で徳川公儀打倒を計画したが、公然と「倒幕」を主張するものは少数にとどまり、散発的なテロルを除けば暴力は行使されず、「倒幕」が急進化しても、中間派はクーデターでこれを抑え、1868年の[[王政復古クーデター]]で軍事力は行使されなかった<ref name="mitanRevo2"/>。長州は[[公武合体]]体制に挑戦し、薩摩の支援を得て、徳川軍の撃退に成功した。王政復古クーデターで徳川家による政権独占は否定された<ref name="mitanRevo2"/>。さらに徳川方は武力を発動したうえで敗北したため、新政府は徳川を排除し、さらに戊辰戦争によって中央政権としての地位が固まった。その後、新政府は版籍奉還、中央集権化、身分の平準化、武士や被差別身分の廃止、公職就任権利の開放、土地所有権の承認、課税の統一、移動の自由、職業選択の自由、婚姻の自由、刑罰の均一化などを実行していった<ref name="mitanRevo2"/>。フランス革命と比べると、明治維新の経過は緩慢で、理念上の議論も乏しく、制度設計は新政府成立後に始まった。三谷はいかにも行き当たりばったりに見えるが、これが維新の犠牲者を少なくさせた基礎条件とみられる。理念上の闘争が欠如し、幕末約10年間の政争において国家の進路への合意が形成されたために、武力発動が最小限で済まされた<ref name="mitanRevo2">三谷博「第13章比較の試みー明治維新からみたフランス革命」、『日本史のなかの「普遍」 比較から考える「明治維新」』東京大学出版会、2020年1月,pp.361-386.(初出:「日本史からみたフランス革命」、[[山崎耕一 (歴史学者)|山﨑耕一]]・[[松浦義弘]]編『フランス革命史の現在』 山川出版社 2013</ref>。フランス革命では、いきなり旧体制の全面否定を打ち出し、新秩序の設計図を提示した。1789年5月の[[三部会]]直後の6月に[[憲法制定国民議会|国民議会]]が結成、7月[[バスティーユ襲撃]]、8月に封建制の廃止や[[人間と市民の権利の宣言|人権宣言]]を発布、貴族からの裁判権の剥奪、11月に教会財産の国有化、1790年には世襲貴族制の廃止、聖職者の市民化、1791年には同業組合禁止,[[1791年憲法|憲法制定]]、1792年には[[オーストリア]]に宣戦布告([[フランス革命戦争]])、1793年に国王処刑と、日本の王政復古から廃藩までの3年間に比べてもはるかに急激で、社会の深部に及んだ。フランス革命は中途から漂流を始めたのに対し、日本では新秩序がゆっくりと熟成していった<ref name="mitanRevo2"/>。 *'''[[民衆運動]]・[[暴動]]'''。日本では1866年の[[世直し一揆|武州一揆]]や、[[ええじゃないか]]、1873年の[[血税一揆|徴兵令・小学校反対一揆]]、[[地租改正反対一揆]]などの民衆騒擾があるが、これらは個別の争点をめぐるもので、同時期に進行していた武士の政治運動と連動していなかった<ref name="mitanRevo2"/>。フランスでは[[バスティーユ襲撃]]など民衆蜂起は政治変動に決定的であった。この背景として、フランスの田舎貴族が公共事務から退きながら、徴税権と裁判権を維持していたため、これが庶民による貴族特権への怨恨の基盤となり、民衆は食料不安の原因を貴族の陰謀に帰した<ref name="mitanRevo2"/>。これに対して日本の武家は日常行政に携わり、無役の侍が農村部に居住し、課役徴収も少なかった<ref name="mitanRevo2"/>。[[暴動]]を比較しても、日本では破壊対象が建物や証文であったが、フランスでは[[大恐怖]]、[[恐怖政治]]など「恐怖の支配」が起こり、民衆は得体の知れぬ「[[陰謀]]」に怯え、犯人探しをした<ref name="mitanRevo2"/>。日本では[[安政の大獄|1858年の政変]]において、[[井伊直弼]]の側近が、[[水戸藩]][[徳川斉昭]]が息子を将軍に建てる計画があるという水戸陰謀論を、[[一橋派]]への弾圧の根拠としたが、以後、陰謀論はあまり登場しなかった<ref name="mitanRevo2"/>。 *'''国家と君主'''。日本では政策の決定権は君主個人でなく、重臣の合議体であった。中下級武士による政策提案、上級武士による合議、君主による裁可という段階を経て行われ、君主の発議は稀で、重臣会議の決定をそのまま受け入れるのが通常であった<ref name="mitanRevo2"/>。フランスでは、君主は「国家第一の下僕」といわれたものの、国家の政策の最終決定者であり、自らの意思による決定が誇示されていた。([[加藤弘之]]の立憲制論ではフランス革命は反面教師とされた。)そのため、[[ヴァレンヌ事件|フランス国王の国外逃亡とその失敗]]は、王制の致命傷となり、革命の定着と急進化の分水嶺となり、「国王はフランスの主権者でも国民でもない」という烙印を押されることとなった<ref name="mitanRevo2"/>。 *'''公論・知的環境'''。日本では1858年以降、「天下の公論」が政府批判の論拠とされたが、自由民権運動以前には閉じられた空間で行われており、街頭での演説やデモンストレーション、パンフレット配布などは行われなかった<ref name="mitanRevo2"/>。フランスでは、公開の場で議論され、三部会召集も憲法制定も議論によって決められた<ref name="mitanRevo2"/>。明治維新では天皇が持ち出されることで徳川の権威が引き下げられ、大名の統治権も解体された。これは、三部会や国民議会が国王の権威に訴えて貴族の特権を否定したことに似ている<ref name="mitanRevo2"/>。また、18世紀フランスでは[[啓蒙思想]]などの知的環境が発展した。これが革命において慣習を覆し、抽象的な原則体系で置換しようとしたことにつながった。しかしこのような原則論は互いに矛盾し、論争は激烈となり、予想外の副作用もあり、混乱と不安定が長期化した。日本では、「国防」「公議」「尊王」といったスローガンが主で、制度論は稀だった。幕末では約十年かけて、新秩序への合意が熟していったため、対立は最小化された<ref name="mitanRevo2"/>。 === イタリア、ロシアとの比較 === 「最後の講座派」と呼ばれた[[中村政則]]は、[[1848年革命]]において[[ブルジョワジー]]は民衆運動に対して保守化し、イギリスやフランスのブルジョワ革命は終焉するとともに、[[後進国]]においては英仏型ブルジョワ革命の実現する条件は失われたため、明治維新を英仏型革命と比較するよりも、[[世界システム論|近代世界システム論]]でいう半周辺的資本主義国家群に属する日本は、同じ半周辺国家群に属する[[イタリア]]、[[ロシア]]と比較した方がよいと中村はいう<ref name="nakamura">[[中村政則]]「明治維新と日本近代」(駒沢大学史学論集16号、1986年)『幕末維新論集1世界の中の明治維新』[[吉川弘文館]]2001,p309-336.</ref>。[[19世紀]][[イタリア]]では[[イタリア統一運動|リソルジメント(統一)運動]]が、ロシアでは[[1861年]]の[[農奴解放令|農奴解放]]以降、近代化改革が実施された。''[[ロシア帝国の歴史#大改革と革命の胎動(1855年 - 1881年)]]を参照。'' [[イマニュエル・ウォーラーステイン|ウォーラーステイン]]の[[世界システム論|近代世界システム論]]では、次の三つに分類される<ref name="nakamura"/>。 *[[中核]]的資本主義国家群:[[イギリス]]・[[フランス]]・[[アメリカ]]の[[先進国]] *半周辺的資本主義国家群:イタリア、ロシア、日本、[[ハンガリー]]、[[ポーランド]] *[[周辺]]的国家群:[[インド]]、[[中国]]、[[南アメリカ]]諸国 {| class="wikitable" style="width:98%" |+ 以下、主に中村(1986)に基づく<ref name="nakamura"/> ! !! ロシア !! 日本 |- ! style="white-space:nowrap" | 権力 |[[1861年]]のロシアの改革では権力の移動はなかった。|| 明治維新では権力の移動があった。新政府は古代以来の伝統的権威を持つ[[天皇]]を頂点にした([[王政復古]])ので、中村は「未完の政治革命」であったとする<ref name="nakamura"/>。 |- ! style="white-space:nowrap" | [[近代化]]と[[工業化]] |1860年代から70年代にかけて工業化、金融、財政改革をすすめ、[[ゼムストヴォ]](地方自治機関)の設立、司法・学制・軍事改革などの近代化を行ない、[[資本主義]]が確立した<ref name="nakamura"/>。||徳川時代の[[身分制]]を廃止([[四民平等]])、司法・学制・軍事改革など諸制度の近代化と工業化による資本主義が発展した<ref name="nakamura"/>。 |- ! style="white-space:nowrap" | 土地 | 1861年から1883年まで続いたロシアの土地改革([[農奴解放令|農奴解放]])では、解放後も貨幣負担が大きく、耕地割替規制も残っていた。[[地主|巨大地主]]と大地主とで国土の53%を所有しており<ref>1000[[デシャチーナ]]以上の領地を持つ巨大地主が総土地面積の31%を持っていた。100〜1000[[デシャチーナ]]の領地を持つ大地主を合わせた割合。</ref>、土地所有の構成表はピラミッド型であった<ref name="nakamura"/>。 || [[廃藩置県]]と[[秩禄処分]]、さらに[[地租改正]]によって封建的土地所有を廃止した。土地所有の構成表は逆ピラミッド型で、小地主がもっとも多く土地を所有していた<ref name="nakamura"/>。地租改正でも[[寄生地主制]]は維持され、[[小作人]]の所得は低かったが、戦後[[1946年]]から[[農地改革]]が実施された<ref>[[暉峻衆三]]「農地改革」、[[大門正克]]「地主制」、[[日本大百科全書]](ニッポニカ)、[[小学館]]、[[コトバンク]]</ref>。 |- ! style="white-space:nowrap" | [[財政]] |[[人頭税]]や[[地租]]などの[[直接税]]の比重が10-20%、[[関税]]収入が9-16%。[[保護関税]]政策を実施した<ref name="nakamura"/>。<br>''(付記:イギリスの税収は消費税と関税で60%、地租は5%)''|| 税収の60-92%が地租に依存。関税収入は4-6%。<br>日本は1911年の条約改正まで[[関税自主権]]がなかった。 |- ! style="white-space:nowrap" | 外国資本率 |フランス、ベルギー、ドイツ、イギリスなどの[[外国資本]]率が1900年で83.7%を占めた。||外国資本率は1900年でわずか9.5%。<br>日本では[[商人資本]]が重要な地位を占め、[[日本の鉄道史|東京-横浜鉄道]]経営権を[[アントン・ポートマン|ポートマン]]から取り戻したり、日本坑法で外国人の鉱山所有権を禁止した<ref name="nakamura"/>。 |} イタリアでの改革の主導権は大土地貴族と大ブルジョワジーであったため、農業革命、土地改革が欠如していた。また農工保護関税によって、北部のブルジョワジーと南部の大土地所有が温存され、南北の格差構造も発生した<ref name="nakamura"/>。 ロシア、イタリア、日本の共通点として、集権的かつ権威主義的な国家体制のもとで資本主義的工業化が急速に推進され、先進地域と遅れた地域という構造を残したこと、民衆の政治的権利が抑圧されたことなどがある<ref name="nakamura"/>。 中村はイタリアのアルベルト憲法、ロシア帝国憲法との比較を踏まえ、明治日本の憲法は、[[絶対主義]]的性格と[[立憲主義]]的性格を併せ持つ「絶対主義的立憲制」と規定した<ref>[[中村政則]]「明治維新の世界史的位置 」、中村政則編『日本の近代と資本主義――国際化と地域』(東京大学出版会 1992年)</ref>。 == 非ヨーロッパ地域における近代化との比較 == 明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は[[日清戦争]]・[[日露戦争]]における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。[[孫文]]も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を[[犬養毅]]へ送っている<ref>『孫文選集(第三巻)』社会思想社、1989、ISBN 4390602802</ref>。 ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における[[壬午事変]]・[[甲申政変]]や清における[[戊戌の変法]]や[[オスマン帝国]]における[[タンジマート]]の失敗、長続きしなかった[[イラン]]の[[イラン立憲革命]]や[[ロシア帝国]]の[[セルゲイ・ウィッテ|ヴィッテ改革]]・[[ピョートル・ストルイピン#ストルイピン改革|ストルイピン改革]]などが典型である(朝鮮の改革運動については[[金玉均]]など、清の改革については[[光緒帝]]、[[黄遵憲]]なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。 一定の成功を収めた例としては、[[パラグアイ]]の[[カルロス・アントニオ・ロペス]]大統領による改革、[[タイ王国|タイ]]の[[チャクリー改革]]、[[トルコ]]の[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク#ケマル主義|アタテュルク主義]]、[[エジプト]]の[[エジプト革命 (1919年)|エジプト革命]]、[[メキシコ]]の[[ベニート・フアレス|ベニート・フアレス改革]]が挙げられる。 日本は明治維新によって[[列強]]と化したことにより、アジア諸国では数少ない[[植民地]]にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、[[帝国主義]]的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、[[オランダ]]などのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。 一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文や[[スカルノ]]、[[マハティール・ビン・モハマド]]や[[毛沢東]]をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。 === エジプトとの比較論 === 中東社会学者の[[山口直彦 (社会学者)|山口直彦]]は、[[エジプト]]史での比較を論じている。 エジプトの初代大統領[[ナセル]]は、『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している<ref name="山口(2011)169">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.169</ref>。 エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「[[有司専制]]」などという批判もありつつも、議会や[[民党|民権政党]]、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破綻と植民地化を招いたことが指摘されている<ref name="山口(2011)169"/>。 一方[[エジプト革命 (1919年)|エジプト革命]]から半世紀以上前に[[ウラービー革命|オラービー革命]]を起こした[[アフマド・オラービー]]は、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は[[生糸]]しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場である[[清]]の付属品、あるいは[[太平洋]]進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、[[スエズ運河]]を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという<ref name="山口(2011)170">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.170</ref>。 === 東アジア・東南アジアの開発独裁と明治維新の違い === 明治維新の通説として、天皇を戴いた排他的な藩閥政権が、立憲政治の進展を遅らせながら、経済と軍事の近代化に邁進したとするような解釈があるが、日本政治史研究の[[坂野潤治]]と産業政策研究の[[大野健一]]は、このような解釈は、事実に相反していると批判する<ref name="b-o1-2">[[坂野潤治]]、[[大野健一]]共著『明治維新 1858-1881』講談社現代新書、2010年、p18-31</ref>。このような通説では、明治政府は、[[台湾]]の[[蔣介石]]政権(1949-75)、[[タイ王国|タイ]]の[[サリット・タナラット|サリット]]・[[タノーム・キッティカチョーン|タノム]]政権(1958-73)、[[韓国]]の[[朴正煕]]政権(1961-79)、[[シンガポール]]の[[リー・クアンユー]]政権(1965-90)、[[中華人民共和国]]の[[鄧小平]]政権(1976-97)、[[マレーシア]]の[[マハティール・ビン・モハマド|マハティール]]政権(1981-)などの[[開発独裁]]のイメージと重ねられた<ref name="b-o1-2"/>。開発独裁の特徴は、1)内外危機への対応、2)強力な指導者、3)指導者を支えるエリート、4)政治改革を後回しにした開発イデオロギーの最優先、5)民主的手続きではなく経済成果に基づく正統化、6)20-30年の同一体制の継続などがあるが、これらのうち明治維新との共通項は1)の内外危機への対応くらいであると坂野-大野は指摘する<ref name="b-o1-2"/>。 坂野-大野によれば、明治政権は、単純な独裁体制が何十年も存続したわけではなく、[[カリスマ]]的指導者が上意下達の命令を下したわけでもなく、経済の近代化を最優先したわけでもなく、政権の[[正統性]]を天皇の権威のみに依存したわけでもなかった<ref name="b-o1-2"/>。明治維新は、「[[富国強兵]]」と「[[公議輿論]]」の複数の目標、細かく分ければ、「富国」と「強兵」と「議会」と「憲法」の四目標の並列的競合を通じて、それに指導者間の合従連衡、また指導者らによる目標の優先順位の自由な変更を通じて達成された<ref name="b-o1-2"/>。明治の変革期においては、指導者も固定的ではなく、優先される路線は数年ごとに入れ替わり、勝利した集団も敗退した集団も永続的にその地位にいたわけではなく、これは開発独裁のような単一目標の追及や単純な政治構造や単線的進行とは異なる、極めて複雑な局面展開をともなう[[柔構造]]モデルであったという<ref name="b-o1-2"/>。 == 関連作品 == === 歴史小説 === *[[島崎藤村]]『[[夜明け前]]』(1935年) **[http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/card1504.html 『第一部上』]、[http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/card1505.html 『第一部下』]、[http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/card1506.html 『第二部上』]、[http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/card1507.html 『第二部下』]([[青空文庫]]、新字新仮名) *[[司馬遼太郎]] **『竜馬がゆく』(1963-1966年)、『[[燃えよ剣]]』(1964年)、『[[峠 (小説)|峠]]』(1968年)、『[[歳月 (小説)|歳月]]』(1969年)、『[[世に棲む日日]]』(1971年)、『[[坂の上の雲]]』(1972年)、『[[花神 (小説)|花神]]』(1972年)、『[[翔ぶが如く]]』(1976年)、『[[胡蝶の夢 (小説)|胡蝶の夢]]』(1979年) *[[大佛次郎]]『[[天皇の世紀]]』(1974年) *[[吉村昭]]『桜田門外ノ変』(新潮社 1990年)、『幕府軍艦「回天」始末』(文藝春秋 1990年)、『生麦事件』(新潮社、1998年)、『彰義隊』(朝日新聞社 2005年) === ドラマ === *[[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]『[[八重の桜]]』(2013年)では、会津藩が舞台となり、[[会津戦争]]の様子も描かれている。 === ドキュメンタリー === *[[公共放送サービス]]の歴史ドキュメンタリーThe Pacific Century、1992年。 - [[エミー賞]]受賞。[[#比較革命史で見る明治維新|フランク・ギブニー]]の息子[[アレックス・ギブニー|アレックス]]が脚本を書き、The Meiji Revolution(明治革命)として扱われた。 == 関連項目 == * [[近代における世界の一体化]] * [[明治六年政変]] * [[近代化]] * [[明治改暦]] * [[脱亜入欧]]([[脱亜論]]) * [[文明開化]] * [[:en:Westernization|西洋化]] * [[維新]] * [[昭和維新]] * [[維新の三傑]] * [[維新の十傑]] * [[維新ふるさと館]] * [[日本維新の会 (2012-2014)]] == 参考文献 == === 史料・資料 === *[[太政官]][[正院]]歴史課・[[修史局]]・[[東京帝国大学]][[臨時編年史編纂掛]]編纂『[[復古記]]』1889年(明治22年)完成。全298巻357冊。 **[{{NDLDC|1148133}} 復古記第1冊](''第2冊-第15冊のリンクは[[復古記]]参照'') *多田好問『[[s:岩倉公実記|岩倉公実記]]』、1906年 - [[ウィキソース]] *『[{{NDLDC|991231}} 欧米人の日本観. 上編]』、大日本文明協会編、明治41(1908) *[[末松謙澄]]「[[防長回天史]]」(1911-1921)(以下、国立国会図書館デジタルコレクション) **[{{NDLDC|2169778}} 回天前記]、[{{NDLDC|2169787}} 嘉永安政万延記]、[{{NDLDC|2169792}} 万延文久記(一)]、[{{NDLDC|2169798}} 万延文久記(二)]、[{{NDLDC|2169803}} 文久元治記(一)]、[{{NDLDC|2169809}} 文久元治記(二)]、[{{NDLDC|2169811}} 慶応記(一)]、[{{NDLDC|2169812}} 慶応記(二)]、[{{NDLDC|2169813}} 慶応記(三)]、[{{NDLDC|2169814}} 明治〜戊辰戦役(一)]、[{{NDLDC|2169815}} 明治〜戊辰戦役(二)]、[{{NDLDC|2169816}} 明治二〜四年] *[[渋沢栄一]]{{国立国会図書館デジタルコレクション|953146|徳川慶喜公伝|format=EXTERNAL}} 全8巻、大正7年(1918年) *[[アーネスト・サトウ]]『[[一外交官の見た明治維新]] A Diplomat in Japan 』(1921)。新訳版・鈴木悠訳、講談社学術文庫、2021年ほか **維新史料編纂事務局訳編『[{{NDLDC|1921021}} 維新日本外交秘録]』(1938) *[[明治文化研究会]]『[[明治文化全集]]』(1927年-1932年、[[日本評論社]])、のち新版 **{{国立国会図書館デジタルコレクション|1215200|明治文化全集第2巻正史篇上巻:指原安三「明治政史」上篇(明治26年刊)|format=EXTERNAL}}、昭和3)- 慶応3〜明治21年の政治史 **{{国立国会図書館デジタルコレクション|1215228|明治文化全集第4巻憲政篇|format=EXTERNAL}}「公議所法則案」「公議所日誌」「集議院日誌」ほか *維新史料編纂会『大日本維新史料』(昭和13-15, 1938-1940) - 第1編7冊、第2編5冊、第3編7冊、井伊家史料30冊。[[金子堅太郎]]を編纂会総裁、[[大塚武松]]を中心とした編纂で、昭和6年、基礎稿本4180冊が完成し、最終的に4217冊の維新史料稿本が作成された<ref name="asi-daiishin">淺井良亮「明治を編む: 維新史料編纂事務局による維新史料の蒐集と編纂」北の丸 : 国立公文書館報. (50) 2018-03</ref>。[[東京大学史料編纂所]]編・[[東京大学出版会]]で現行刊 **[{{NDLDC|3432423}} 第1編1] 〜リンク省略(国立国会図書館デジタルコレクション閲覧可)〜[{{NDLDC|1114663}} 第3編6]、[{{NDLDC|1114695}} 第3編7] *維新史料編纂会『概観維新史』(昭和15年) *[[原書房]]「明治百年叢書」復刻<ref>[http://www.harashobo.co.jp/news/n24790.html 明治百年史叢書のご案内]</ref> *[[岩波書店]]「[[日本近代思想大系]]」(全24巻、1988-92年) === 参考文献 === *[[荒野泰典]]『日本の対外関係7 近代化する日本』(吉川弘文館、2012) *[[家近良樹]]『幕末政治と倒幕運動』(吉川弘文館、1995) *家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』文春新書、2002 **『江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」』講談社学術文庫、2014 *家近良樹『徳川慶喜 幕末維新の個性1』吉川弘文館、2004 *[[井上勝生]]「幕末政治史のなかの天皇」(青木書店・講座前近代の天皇2、1993) *[[久住真也]]「第一章 維新史研究」、小林和幸編「明治史研究の最前線」, pp15–36. 筑摩選書(2020) *[[桑原武夫]]ほか編『明治維新と近代化』[[小学館]]創造選書(1984) *[[高橋秀直]]『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館(2007) *[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]『明治維新』岩波書店、1951年、岩波文庫、2018年 *[[田中彰 (歴史学者)|田中彰]]『明治維新政治史研究』青木書店、1963年 *[[原口清]]『戊辰戦争』塙書房(1963) *原口清「近代天皇制成立の政治的背景」(遠山茂樹編「近代天皇制の成立」1987、岩波書店) *[[原田伴彦]]『改革と維新』[[講談社現代新書]](1976) *[[藤田覚]]『幕末の天皇』講談社選書メチエ(1994)、講談社学術文庫(2013) *[[三谷博]]『ペリー来航』吉川弘文館、2003年 *三谷博『維新史再考 公議・王政から集権・脱身分化へ』NHKブックス(2017) *[[宮地正人]]「幕末過渡期国家論」(有斐閣・講座日本近世史8、1981) *[[毛利敏彦]]『明治維新政治史序説』未来社(1967年) *[[坂野潤治]]、[[大野健一]]『明治維新 1858-1881』講談社現代新書、2010年 *『幕末維新史辞典』[[神谷次郎]]・[[安岡昭男]]編、新人物往来社、1983年 ;比較革命 *[[河野健二]]「明治維新と「西洋」」(1964)=桑原武夫『ブルジョワ革命の比較研究』筑摩書房、1964年:『幕末維新論集1世界の中の明治維新』吉川弘文館2001,p60-67 *Thomas C. 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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0
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北越戦争
北越戦争(ほくえつせんそう、慶応4年5月2日〈1868年6月21日〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、長岡藩(現新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。 なお、同時期に進行していた会津藩をめぐる戦闘については会津戦争を参照。 慶応4年(1868年)、薩摩藩・長州藩を中核とする明治新政府軍は京都近郊での鳥羽・伏見の戦いに勝利し、東征軍を組織して東海道・東山道・北陸道に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)へ進駐した。 長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と家老上席、軍事総督・河井継之助のもと、ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、スネル兄弟などからアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。 新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥家老・稲垣茂光(平助)、先法家・槙(真木)内蔵介以下、上士の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出ることとした。 会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽越藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の河井継之助と小千谷の慈眼寺において会談。長岡の獨立特行を岩村精一郎が認めなかった。 地政的には開港場である新潟町が重要な拠点であった。奥羽越列藩同盟側は新潟町に武器弾薬の調達を頼っており、また新潟を制圧することにより、庄内方面及び阿賀野川を通じ会津方面へのルートを扼することができた。そのため新政府軍にとって新潟の制圧は最重要課題であった。幕府直轄領であった新潟町には米沢藩兵・会津藩兵らの同盟軍が警備と防御のため進駐していた。 小千谷談判の決裂後、長岡藩は摂田屋(長岡市)の光福寺に本陣を置き、先に新政府軍が進駐していた榎峠(長岡市-小千谷市)を攻撃し確保した。新政府軍は奪取された榎峠を攻撃するため、朝日山(小千谷市)の確保を目指し準備を進めた。新政府軍は山県が前線を離れた留守の間に時山直八の指揮で攻撃を開始したが、朝日山山頂に陣取る立見鑑三郎率いる桑名藩兵と長岡藩兵に敗れ、時山は戦死した。その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。 膠着した戦局を打破すべく新政府軍は5月19日に与板藩の御用商人による船の援助を受けて信濃川を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。当時、長岡藩をはじめとした同盟軍主力部隊は榎峠等の守備に回っており、城下はがら空きの状態だった。城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却した。しかし新政府軍に追撃する余力がなかったため、長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。その後今町(見附市)を奪回し、新政府軍と睨みあった。新政府軍は越後方面へ海軍も派遣し、5月24日の寺泊沖海戦で制海権を掌握した。 八丁沖の戦いの末に7月24日(9月10日)、同盟軍は長岡城を奪還し、新政府軍は敗走した。一度落城した城が奪還されるのは異例の事態であった。この事態に新政府軍は混乱状態に陥り指揮は迷走した。しかしこの戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、河井も脚に弾丸を受け負傷した。 新政府軍は、軍艦「第一丁卯」(長州藩)・「摂津丸」(広島藩運用)および輸送船「千別丸」(柳河藩)・「大鵬丸」(筑前藩)・「銀懐丸」(加賀藩)・「万年丸」(広島藩運用)から成り山田顕義を指揮官とする艦隊を投じて、7月25日(9月11日)に新発田藩領の太夫浜(現新潟市北区)へ上陸戦を開始。新発田藩は新政府軍への寝返りを決め、抵抗せず開城した。黒田清隆を指揮官とする新政府軍上陸部隊は、色部久長の指揮する米沢藩兵・会津藩兵・仙台藩兵を撃破して、7月29日(9月15日)に新潟町を制圧した。新政府軍は長岡城への再攻勢も行って同じ7月29日に再占領する。 7月28日(9月14日)三日市藩主・柳沢徳忠は新政府に恭順して三日市藩兵を新発田藩兵に合流させ、8月2日(9月17日)三根山藩主・牧野忠泰は嘆願書を提出して新政府に恭順した。8月3日(9月18日)黒川藩前藩主・柳沢光昭は新政府に嘆願書を提出したが、藩主・柳沢光邦らは8月12日(9月27日)に下関で降伏したと思われる。 同盟軍の米沢藩・庄内藩等は寝返った新発田藩を攻撃するため新たな部隊を派遣し、8月7日(9月22日)暁、野中村に放火しつつ三方向から中条の広島藩兵(半小隊)・新発田藩兵(1小隊半)を夜襲した。同盟軍はさらに敵の背後に回って中条の人家に放火したため、新発田藩兵が後退を始め、中条で孤軍奮闘した広島藩兵も半小隊長の川村常之進が戦死して三日市まで後退した。中条で新政府軍を破った同盟軍だったが、新潟町・長岡城陥落を知って、中条の町に火を放って撤収した。 同盟軍の残存部隊主力は、栃尾・八十里越を経由して会津藩領へ撤退した。河井は、会津へ落ち延びる途中で膝の傷から破傷風を併発し、8月16日(10月1日)に会津塩沢(只見町)で死去した。新政府軍は下関村を経て出羽国(米沢藩領)まで追撃し、旧暦8月中旬には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これ以降も新政府軍と同盟軍の戦いは東北地方で続いた(会津戦争・秋田戦争)。北越での戦闘は、戊辰戦争を通じて最大の激戦の一つであった。 人道的立場から戊辰戦争の各戦場で両軍の負傷者を救護していた英国人医師ウィリアム・ウィリスの公使館あて報告書には、長岡で新政府軍が設置した病院が襲撃されたと以下の記述が残っている。 「私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長岡で、彼らはミカド〔天皇〕側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退却していく途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。一方、会津の国では、ミカド〔天皇〕の軍隊は各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。これらの話の事実がどうあれ、戦闘にともなう無残な人命の犠牲が、戦場が若松に近づくにつれてはげしさの度合いを増していったことは疑いもない。」
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北越戦争(ほくえつせんそう、慶応4年5月2日〈1868年6月21日〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、長岡藩(現新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。 なお、同時期に進行していた会津藩をめぐる戦闘については会津戦争を参照。
{{複数の問題|出典の明記=2012年11月|参照方法=2014年2月}} {{Battlebox| battle_name = 北越戦争 |campaign = 戊辰戦争 |image = [[File:Echigo no kuni Uesugi Kagekatsu katoku arasoi kassen.jpg|300px]] |caption = 北越戦争を描いた[[浮世絵]]。画題は『越後国上杉景勝家督争合戦』であるが、時の政府に配慮して上杉景勝・景虎の家督争い([[御館の乱]])に見立てて描いたもの。一曜斎国輝([[歌川国輝 (2代目)|二代目 歌川国輝]])作。[[新潟県立図書館]]蔵<ref>[http://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/Archives/DigitalShosai?DIGITAL_IMAGE_ID=536 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』]</ref>。 |conflict = [[戊辰戦争]] |date = <br />([[天保暦|旧暦]])[[慶応]]4年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]<br />([[グレゴリオ暦]])[[1868年]][[6月21日]] |place = [[越後国]] |result = 新政府軍の勝利 |combatant1 = [[ファイル:Flag of the Japanese Emperor.svg|25x20px]] [[明治維新#明治政府|新政府軍]]<br />([[官軍|北陸道先鋒総督府]]) * [[File:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[長州藩]] * [[File:Maru ni Jū-monji (Kutsuwa) inverted.svg|25x20px]] [[薩摩藩]] |combatant2 = [[ファイル:Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northern Alliance in Japan.svg|25x20px]] [[奥羽越列藩同盟]]<br />([[江戸幕府|旧幕府軍]]) * [[File:Marunimitsukashiwa.png|25x20px]] [[越後長岡藩|長岡藩]] * [[File:AizuAoi.png|25x20px]] [[会津藩]] * [[File:Japanese_Crest_Uesugi_Sasa.svg|25x20px]] [[米沢藩]] * [[File:Hoshi Umebachi inverted.svg|25x20px]] [[桑名藩]] |commander1 = [[File:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[山縣有朋]]<br />[[File:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[前原一誠]]<br /> [[File:Maru ni Jū-monji (Kutsuwa) inverted.svg|25x20px]] [[黒田清隆]] |commander2 = [[File:Marunimitsukashiwa.png|25x20px]] [[牧野忠訓]]<br />[[File:Marunimitsukashiwa.png|25x20px]] [[河井継之助]] |strength1 = |strength2 = |casualties1= 死者:1040人{{Sfn|上越市公文書センター|2018|p2}} |casualties2= 死者:1180人{{Sfn|上越市公文書センター|2018|p2}} |}} '''北越戦争'''(ほくえつせんそう、[[慶応]]4年[[5月2日 (旧暦)|5月2日]]〈[[1868年]][[6月21日]]〉)は、[[戊辰戦争]]の戦闘の一つで、[[越後長岡藩|長岡藩]](現[[新潟県]][[長岡市]])周辺地域で行われた一連の[[戦闘]]の総称である。 なお、同時期に進行していた[[会津藩]]をめぐる戦闘については[[会津戦争]]を参照。 == 背景 == [[慶応]]4年([[1868年]])、[[薩摩藩]]・[[長州藩]]を中核とする[[明治]]新政府軍は京都近郊での[[鳥羽・伏見の戦い]]に勝利し、東征軍を組織して[[東海道]]・[[東山道]]・[[北陸道]]に分かれ進軍した。北陸道の新政府軍は北陸道鎮撫総督府の[[山縣有朋]]と[[黒田清隆]]を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧[[江戸幕府|幕府]]軍の平定と[[会津藩]]征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県[[小千谷市]])へ進駐した。 長岡藩は、[[大政奉還]]以後も[[徳川将軍家|徳川家]]を支持し、長岡藩主・[[牧野忠訓]]と家老上席、軍事総督・[[河井継之助]]のもと、ファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、[[スネル兄弟]]などから[[アームストロング砲]]、[[ガトリング砲]]、[[エンフィールド銃]]、[[スナイドル銃]]、[[シャープス銃]](軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。<ref>長岡藩が輸入された火器を購入したのは、ファーブル・ブラント商会とも[[スネル兄弟]]とも言われている。 <br />実際にどのような兵器を購入していたのかについて、現在残っている公文書中の記録には下記のように記されている。 <br />陸軍省大日記 「大日記 壬申 3月 諸省府県之部己」 <br />陸軍省 明治5年3月 <br />「三月廿七日 土曜 第三百八十二号 '''元長岡藩兵器処分伺''' 長岡藩被廃候仰兵器ハ兵部省ヘ可差出旨従太政官御達相成之[[柏崎県]]新庄権知事上京之砌右差出方同省ヘ相伺候処当分其侭可差置旨御差図ニ付今日迄差置候然ル処当節諸廃県兵器夫々新発田ヨリ営ヘ輸送可致ニ付右之長岡藩兵器モ同様同営ヘ輸送仕度仍テ目録相添此段相伺候以上 壬申三月廿七日 柏崎県参時馬伏断三 陸軍省御中 伺之通 三月廿八日 別紙 記 一'''ミニール銃 百五拾挺'''〜」 <br />この記録はここで途切れているが、[[ミニエー銃]]を装備していたことまでは確実なようである。 </ref> 新政府軍が会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、門閥家老・[[稲垣茂光]](平助)、先法家・槙(真木)内蔵介以下、上士の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。 こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を申し出ることとした。 [[会津藩]]は[[佐川官兵衛]]を使者として長岡藩に[[奥羽列藩同盟|奥羽越藩同盟]]への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。 == 小千谷談判 == 5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の[[岩村高俊|岩村精一郎]]は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の河井継之助と小千谷の慈眼寺において会談。長岡の獨立特行を岩村精一郎が認めなかった。 == 戦闘 == [[File:Echigo no kuni Shinanogawa Takeda Uesugi daikassen no zu.jpg|thumb|300px|北越戦争を描いた浮世絵。画題は『越後国信濃川武田上杉大合戦之図』であるが、時の政府に配慮して北越戦争を武田と上杉の戦いに見立てて描いたもの<ref>[http://www.city.ojiya.niigata.jp/uploaded/attachment/1726.pdf 新潟県小千谷市役所 報道資料3 平成24年2月16日]</ref>。[[歌川芳盛]]作。]] 地政的には[[開港場]]である[[新潟港|新潟町]]が重要な拠点であった。奥羽越列藩同盟側は新潟町に武器弾薬の調達を頼っており、また新潟を制圧することにより、[[庄内]]方面及び阿賀野川を通じ[[会津]]方面へのルートを扼することができた。そのため新政府軍にとって新潟の制圧は最重要課題であった。幕府直轄領であった新潟町には[[米沢藩]]兵・会津藩兵らの同盟軍が警備と防御のため進駐していた。 小千谷談判の決裂後、長岡藩は摂田屋(長岡市)の光福寺に本陣を置き、先に新政府軍が進駐していた榎峠(長岡市-小千谷市)を攻撃し確保した。新政府軍は奪取された榎峠を攻撃するため、[[朝日山古戦場|朝日山]](小千谷市)の確保を目指し準備を進めた。新政府軍は山県が前線を離れた留守の間に[[時山直八]]の指揮で攻撃を開始したが、朝日山山頂に陣取る[[立見鑑三郎]]率いる桑名藩兵と長岡藩兵に敗れ、時山は戦死した。その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。 膠着した戦局を打破すべく新政府軍は[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]に[[与板藩]]の御用商人による船の援助を受けて[[信濃川]]を渡河し、長岡城下への奇襲攻撃をかけた。当時、長岡藩をはじめとした同盟軍主力部隊は榎峠等の守備に回っており、城下はがら空きの状態だった。城はわずか半日で落城し、長岡藩兵は栃尾に退却した。しかし新政府軍に追撃する余力がなかったため、長岡藩兵は態勢を整え加茂に集結。その後今町([[見附市]])を奪回し、新政府軍と睨みあった。新政府軍は越後方面へ海軍も派遣し、5月24日の[[寺泊沖海戦]]で制海権を掌握した。 [[八丁沖の戦い]]の末に[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[9月10日]])、同盟軍は長岡城を奪還し、新政府軍は敗走した。一度落城した城が奪還されるのは異例の事態であった。この事態に新政府軍は混乱状態に陥り指揮は迷走した。しかしこの戦いで長岡藩側も大きな被害を受け、河井も脚に弾丸を受け負傷した。 [[File:Cemetery of Feudal retainer of Satsuma Domain, Battle of Hokuetsu.jpg|thumb|250px|right|北越戦争における薩摩藩戦死者の墓(新潟県上越市金谷山)]] 新政府軍は、軍艦「[[第一丁卯]]」(長州藩)・「[[摂津艦|摂津丸]]」([[広島藩]]運用)および輸送船「千別丸」([[柳河藩]])・「大鵬丸」([[筑前藩]])・「銀懐丸」([[加賀藩]])・「[[万年丸]]」(広島藩運用)から成り[[山田顕義]]を指揮官とする艦隊を投じて、7月25日(9月11日)に新発田藩領の太夫浜(現新潟市[[北区 (新潟市)|北区]])へ[[上陸戦]]を開始。新発田藩は新政府軍への寝返りを決め、抵抗せず開城した。[[黒田清隆]]を指揮官とする新政府軍上陸部隊は、[[色部久長]]の指揮する米沢藩兵・会津藩兵・仙台藩兵を撃破して、[[7月29日 (旧暦)|7月29日]]([[9月15日]])に新潟町を制圧した<ref>{{Cite book|和書|author=大山柏|authorlink=大山柏|title=戊辰役戦史|issue=上|edition=補訂版|publisher=時事通信社|date=1988|pages=850-862}}</ref>。新政府軍は長岡城への再攻勢も行って同じ7月29日に再占領する。 [[7月28日 (旧暦)|7月28日]]([[9月14日]])[[三日市藩]]主・[[柳沢徳忠]]は新政府に恭順して三日市藩兵を新発田藩兵に合流させ<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555/366 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』695頁] 復古外記 越後口戦記 第四 明治元年七月二十八日 (編著者:[[太政官]]、[[豊原資清]] 発行所:内外書籍 発行:[[昭和]]5年([[1930年]])[[6月27日]]) (2018年10月21日閲覧。)</ref>、[[8月2日 (旧暦)|8月2日]]([[9月17日]])[[三根山藩]]主・[[牧野忠泰]]は嘆願書を提出して新政府に恭順した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555/392 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』746~747頁] 復古外記 越後口戦記 第六 明治元年八月二日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月21日閲覧。)</ref>。[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]([[9月18日]])[[黒川藩]]前藩主・[[柳沢光昭]]は新政府に嘆願書を提出したが、藩主・[[柳沢光邦]]らは[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]([[9月27日]])に[[下関村 (新潟県)|下関]]で[[降伏]]したと思われる<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148590/20 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第14冊』4頁] 復古外記 越後口戦記 第七 明治元年八月四日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)[[8月10日]]) (2018年10月21日閲覧。)</ref>。 同盟軍の米沢藩・庄内藩等は寝返った新発田藩を攻撃するため新たな部隊を派遣し、[[8月7日 (旧暦)|8月7日]]([[9月22日]])[[明け方|暁]]、[[本条村|野中村]]に放火しつつ三方向から[[中条町|中条]]の広島藩兵(半小隊)・新発田藩兵(1小隊半)を[[夜戦|夜襲]]した。同盟軍はさらに敵の背後に回って中条の[[住宅|人家]]に放火したため、新発田藩兵が[[後退]]を始め、中条で孤軍奮闘した広島藩兵も半小隊長の川村常之進が戦死して[[三日市藩|三日市]]まで後退した。中条で新政府軍を破った同盟軍だったが、新潟町・長岡城陥落を知って、中条の町に火を放って[[撤収]]した<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148590/29 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第14冊』23頁]~[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148590/30 24頁] 復古外記 越後口戦記 第七 明治元年八月七日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)8月10日) (2018年10月21日閲覧。)</ref>。 同盟軍の残存部隊主力は、[[栃尾市|栃尾]]・[[八十里越]]を経由して会津藩領へ撤退した。河井は、会津へ落ち延びる途中で膝の傷から[[破傷風]]を併発し、[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]([[10月1日]])に会津塩沢(只見町)で死去した。新政府軍は[[下関村 (新潟県)|下関村]]を経て[[出羽国]](米沢藩領)まで追撃し、旧暦8月中旬には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これ以降も新政府軍と同盟軍の戦いは[[東北地方]]で続いた([[会津戦争]]・[[秋田戦争]])。北越での戦闘は、戊辰戦争を通じて最大の激戦の一つであった。 人道的立場から戊辰戦争の各戦場で両軍の負傷者を救護していた英国人医師[[ウィリアム・ウィリス]]の公使館あて報告書には、長岡で新政府軍が設置した病院が襲撃されたと以下の記述が残っている。 「私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。長岡で、彼らはミカド〔天皇〕側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津兵が越後に退却していく途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。一方、会津の国では、ミカド〔天皇〕の軍隊は各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。これらの話の事実がどうあれ、戦闘にともなう無残な人命の犠牲が、戦場が若松に近づくにつれてはげしさの度合いを増していったことは疑いもない<ref>英国公使館員の維新戦争見聞記』p112-113ローレンス・オリファント/ウィリアム・ウィリス 中須賀哲朗訳 1974/08/31 校倉書房</ref>。」 == 脚注 == {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2020-05|section=1}} * 長岡市『長岡市史 通史編上巻』長岡市、1996年。 * 安藤英男『河井継之助の生涯』新人物往来社、1987年、ISBN 4-404-01368-X。 == 関連項目 == * [[北越]] - [[越後国]]を指す言葉。 * [[戊辰戦争]] * [[米百俵]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356892696946.html 北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します] - 新潟県長岡地域振興局 企画振興部 ** [https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/nagaoka_kikaku/1356914901228.html パンフレット「河井継之助の足跡をたずねて~北越戊辰戦争史跡めぐり~」] * [https://nagaoka-navi.or.jp/feature/samurai/kawai 長岡観光ナビ 旅の特集:最後のサムライ河井継之助の叶わぬ夢] - 長岡観光コンベンション協会 * [https://www.city.nagaoka.niigata.jp/dpage/nagaoka400/roots.html 長岡開府400年PR冊子「越後長岡ROOTS400」 Vol.8 北越戊辰戦争の見直し] - 長岡市 * [https://n-story.jp/topic/121/page1.php 新潟文化物語:121 越後諸藩それぞれの北越戊辰戦争(前編)] - 新潟県県民生活・環境部 文化振興課 * [https://www.youtube.com/watch?v=EgOABepXyz4&t=43s 長岡市広報テレビ「稲川明雄が語る 今に活かせる長岡の歴史」第5回] - YouTube * [https://www.youtube.com/watch?v=LMSmvAZg26E 長岡市広報テレビ「今に活かせる長岡の歴史」‐第8回] - YouTube * [https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/148761.pdf 第19回上越市公文書センター出前展示会 「戊辰戦争と高田藩」上越市公文書センター 2018年7月3日] {{奥羽越列藩同盟}} {{DEFAULTSORT:ほくえつせんそう}} [[Category:戊辰戦争の戦闘]] [[Category:幕末の越後長岡藩]] [[Category:越後国|戦ほくえつ]] [[Category:新潟県の歴史]] [[Category:山縣有朋]] [[Category:黒田清隆]] [[Category:河井継之助]] [[Category:1868年の日本]] [[Category:1868年の戦闘]]
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中居正広
中居 正広(なかい まさひろ、1972年〈昭和47年〉8月18日 - )は、日本の男性タレント、司会者、俳優、歌手。男性アイドルグループ・SMAPの元メンバー。愛称は中居くん。ジャニーズ事務所に所属していたが、2020年3月に退所し、翌4月から個人事務所「のんびりなかい」所属。神奈川県藤沢市出身。 1987年、ジャニーズ事務所に入所。その後、ジャニーズJr.内グループ『スケートボーイズ』のメンバーを経て、1988年4月に結成された男性アイドルグループ『SMAP』のメンバーとなる。グループの中では最年長で、リーダーを務める。1991年9月9日にCDデビュー(以降のグループでの活動はSMAPを参照)。 1994年4月、フジテレビの昼番組『笑っていいとも!』のレギュラーとなり、2014年3月31日の番組終了まで20年間出演。 1995年1月、『味いちもんめ』において、連続ドラマ初主演。10月よりテレビ朝日の報道番組『サンデージャングル』において、初のキャスターを務める。 1997年の『第48回NHK紅白歌合戦』において、初の司会に抜擢される。25歳での白組司会は番組最年少記録となった。その後も、通算6回に渡って同番組の司会を担当。 1998年からフジテレビ『FNS27時間テレビ』の総合司会を3年連続で担当。その後もSMAPとして担当した2014年を含め、通算8回に渡って総合司会を担当。 2000年3月31日、東京ドームで行われた巨人の開幕戦にて、試合開始前の開幕セレモニーで国歌「君が代」を独唱。 2004年、TBSのオリンピックメインキャスターを初担当。以後、2018年までのオリンピック時に、8大会連続で同局のメインキャスターを務める。2021年の東京オリンピックではスペシャルゲストとして野球中継に出演。 2007年の『第58回NHK紅白歌合戦』において、紅組司会を担当。男性による紅組司会は2人目であり、NHKアナウンサーを除いた、男性による紅組司会および紅白両方の司会を務めた初の人物となる。 2009年10月27日、ドキュメンタリー映画『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』(10月28日公開)のワールドプレミア(アメリカのロサンゼルスで開催)に、日本で唯一のゲストとして招待を受け参加。 12月、自身の私服を集めた写真集『私服だらけの中居正広増刊号〜輝いて〜』(同年8月発売)が、37.0万部を売り上げ「オリコン2009年年間“本”ランキング」のタレント本部門で1位を記録。 2013年2月、第3回ワールド・ベースボール・クラシックにおいて、日本野球機構により日本プロ野球史上初の公認サポーターである「侍ジャパン公認サポーター」に就任。 2015年6月上旬に喉の腫瘍手術を行った。 2016年12月31日をもってSMAPが解散となったことに伴い、ソロタレントとなる。 2017年2月、第4回ワールド・ベースボール・クラシックにおいて、2大会連続で「侍ジャパン公認サポートキャプテン」に就任。 2020年2月21日に記者会見を開き、3月31日をもってジャニーズ事務所を退所し、4月から個人事務所「株式会社のんびりなかい」に所属し、同事務所の代表取締役社長に就任することを発表。同事務所は父の命日となる2月19日に設立している。 2022年4月1日、公式サイトにてオフィシャル有料サイト「中居ヅラ あの子たちに・・・、」をオープンしたことを発表。 7月14日、急性虫垂炎のため入院、手術を受けた。7月16日に12年連続で総合司会を務める予定だった『音楽の日2022』(TBS)への出演は取りやめとなった。7月18日、退院を報告。 10月、体調不良のため1・8日放送の『中居正広のキャスターな会』、14日放送の『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』を欠席。10月15日放送の『キャスターな会』で3週間ぶりに復帰したが、11月4日、体調不良のため1か月ほど活動を休止し休養することを発表。12月2日、年内の静養専念を発表した。2023年1月14日放送の『キャスターな会』および『中居正広 ON&ON AIR』で本格的に仕事復帰。 2023年1月、第5回ワールド・ベースボール・クラシックにおいて、3大会連続で「侍ジャパン公認サポートキャプテン」に就任。 お笑い・タレント 俳優として その他(慈善活動) 定期・不定期 単発 レギュラー番組 スペシャル番組 レギュラー番組 スペシャル番組 レギュラー番組 スペシャル番組 レギュラー番組 スペシャル番組 ソロ SMAP 舞祭組 佐藤健 石原慎太郎
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中居 正広は、日本の男性タレント、司会者、俳優、歌手。男性アイドルグループ・SMAPの元メンバー。愛称は中居くん。ジャニーズ事務所に所属していたが、2020年3月に退所し、翌4月から個人事務所「のんびりなかい」所属。神奈川県藤沢市出身。
{{複数の問題 |存命人物の出典明記=2012年6月 |雑多な内容の箇条書き=2012年8月 }} {{画像提供依頼|2010年以降の顔写真|small=no|date=2023年9月|cat=芸能人}} {{ActorActress | 芸名 = 中居 正広 | ふりがな = なかい まさひろ | 画像ファイル = Nakai Masahiro.jpg | 画像サイズ = | 画像コメント = 2008年 | 本名 = 中居 正広 | 別名義 = N.マッピー{{refnest|group="注"|作詞作曲時の名義<ref>{{Cite web|和書|date=2017-1-4|url=https://mdpr.jp/news/detail/1652059|title=中居正広、新番組ロゴが話題 SMAPファン感動「愛を感じる」「きっとメッセージ」|work=[[モデルプレス]]|accessdate=2017-4-22}}</ref>}}<br>なかいさん{{refnest|group="注"|[[舞祭組]]のプロデューサーとしての名義<ref>{{Cite web|和書|date=2015-2-6|url=https://www.oricon.co.jp/news/2048222/full/|title=舞祭組、3・8第3弾シングル「やっちゃった!!」|work=[[ORICON NEWS]]|accessdate=2017-4-22}}</ref>}}<!-- 別芸名の欄。愛称の欄ではありません。 --> | 出身地 = {{JPN}}・[[神奈川県]][[藤沢市]] | 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> | 民族 = | 身長 = 170 [[センチメートル|cm]](公表は165 cm<ref>{{Cite web|和書|date=2015-05-23 |url=http://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/1496477_m.html |title=中居正広が身長5センチ低くサバ読みしていたと告白 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2017-01-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110104-00000033-sanspo-ent|title=中居正広、身長“逆サバ読み”していた!|publisher=Yahoo!ニュース (配信元:サンケイスポーツ)|accessdate=2017-01-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20110108015617/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110104-00000033-sanspo-ent|archivedate=2011-01-08}}</ref>) | 生年 = 1972 | 生月 = 8 | 生日 = 18 | 血液型 = [[ABO式血液型|A型]] | 職業 = [[タレント]]・[[司会|司会者]]・[[実業家]]・[[フィランソロピー|慈善活動家]]<ref name="巨額寄付" /> | ジャンル = [[バラエティ番組]]・[[音楽番組]]・[[スポーツ番組]]・[[情報番組]]・[[コマーシャルメッセージ|CM]] | 活動期間 = [[1987年]][[4月]] - | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = <!-- 公開されている著名人の名前を記入。家族構成欄ではありません。 --> | 事務所 = [[ジャニーズ事務所]]<br/>(1987年 - 2020年)<br/>のんびりなかい<br/>(2020年 - ) | 公式サイト = [https://www.nonbirinakai.co.jp のんびりなかい 公式サイト] {{ja icon}} | 現在の代表番組 = | 過去の代表番組 = | 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->'''テレビドラマ'''<br/>『[[味いちもんめ#テレビドラマ|味いちもんめ]]』シリーズ<br/>『[[輝く季節の中で]]』<br/>『[[ナニワ金融道#テレビドラマ|ナニワ金融道]]』シリーズ<br>『[[勝利の女神]]』<br>『[[最後の恋]]』<br/>『[[ブラザーズ]]』<br>『[[伝説の教師]]』<br>『[[白い影#2001年版|白い影]]』<br/>『[[砂の器#2004年版|砂の器]]』<br>『[[ATARU]]』<hr/>'''映画'''<br/>『[[模倣犯 (小説)#映画|模倣犯]]』<br>『[[私は貝になりたい#2008年版|私は貝になりたい]]』<br/>『[[劇場版 ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL|劇場版 ATARU]]』<hr/>'''バラエティ番組'''<br/>『[[ザ!世界仰天ニュース]]』<br/>『[[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]]』<br/>『[[中井正広のブラックバラエティ]]』<br/>『[[ナカイの窓]]』<br/>『[[まつもtoなかい]]』<hr/>'''音楽番組'''<br/>『[[うたばん]]』<br/>『[[音楽の日]]』<br/>『[[UTAGE!]]』<hr/>'''スポーツ番組'''<br/>『[[World Baseballエンタテイメント たまッチ!|たまッチ!]]』<br/>『[[中居正広の7番勝負!超一流アスリートVS芸能人どっちが勝つの?SP|中居正広の○番勝負!]]』<br/>『[[中居正広のプロ野球魂]]』<br/>『[[プロ野球珍プレー・好プレー大賞|中居正広のプロ野球珍プレー好プレー大賞]]』<br/>『[[ドラフト緊急生特番!お母さんありがとう|速報ドラフト会議 THE運命の1日]]』<hr/>'''情報番組'''<br/>『[[中居正広のキャスターな会]]』 | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | エミー賞 = | グラミー賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | ジェミニ賞 = | セザール賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | その他の賞 = '''[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]]''' <br/>'''主演男優賞'''<br/>2008年度『[[私は貝になりたい#2008年版|私は貝になりたい]]』<hr/>[[#受賞・表彰歴]]参照 | 備考 = [[SMAP]]の全活動期のメンバー<ref name="Smap > Profile">{{Cite web|url =http://www.johnnys-net.jp/page?id=profile&artist=6|title =Smap > Profile|publisher =Johnny's net|accessdate =2016-12-12|deadlink=2017-4-21 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170116133255/http://www.johnnys-net.jp/page?id=profile&artist=6 |archivedate=2017-01-16}}</ref>。 }} '''中居 正広'''(なかい まさひろ、[[1972年]]〈[[昭和]]47年〉[[8月18日]]<ref name=prof>{{Cite web|url=https://www.nonbirinakai.co.jp/profile|title=Plofile|work=のんびりなかい|accessdate=2021-08-07}}</ref> - )は、[[日本]]の男性[[タレント]]、[[司会|司会者]]、[[俳優]]、[[歌手]]。[[アイドル#男性アイドル史|男性アイドルグループ]]<!--呼称、表記については現在ノート:SMAPで議論中です。現時点で他のジャニーズタレントの記事との整合性や統一性を図るためにこの表記とします。結論が出るまで変更は避けてください。-->・[[SMAP]]の元メンバー<ref name="Smap > Profile" /><!--全活動期においてリーダーではないため、続けての表記は紛らわしい-->{{refnest|group="注"|グループ結成後、後にリーダーを名乗った<ref name=news1>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASJDV64NQJDVUCVL02S.html|title=スマスマ、最後の「世界に一つだけの花」 中居さんは涙|newspaper=朝日新聞digital|publisher=朝日新聞社|date=2016-12-27|accessdate=2016-12-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170101075357/http://www.asahi.com/articles/ASJDV64NQJDVUCVL02S.html|archivedate=2017-01-01}}</ref><ref name=ne2>{{Cite web|和書|url=http://style.nikkei.com/article/DGXMZO1082635019122016000000|title=中居正広 SMAPリーダーの性、松本人志との共通点|work=日経エンタテイメント!|publisher=日本経済新聞|accessdate=2016-12-10|date=2016-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170110134958/http://style.nikkei.com/article/DGXMZO1082635019122016000000|archivedate=2017-01-09}}</ref>。}}。[[愛称]]は'''中居くん'''<ref name=prof/>。[[ジャニーズ事務所]]に所属していたが、2020年3月に退所し<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広が退所発表 ジャニーズ事務所がコメント「感謝の言葉と共に送り出したい」<全文>|url=https://mdpr.jp/news/detail/1975449|website=モデルプレス|date=2020-2-21|accessdate=2023-9-24}}</ref>、翌4月から個人事務所「のんびりなかい」所属。[[神奈川県]][[藤沢市]]出身<ref name=略歴2>{{Cite news|url= http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=83998 |title= 中居正広 - 略歴・フィルモグラフィー |newspaper= KINENOTE | accessdate= 2020-09-25 }}</ref>。 == 略歴 == 1987年、[[ジャニーズ事務所]]に入所<ref name=略歴2/>。その後、ジャニーズJr.内グループ『[[SMAP#スケートボーイズ|スケートボーイズ]]』のメンバーを経て、[[1988年]]4月に結成された男性アイドルグループ『[[SMAP]]』のメンバーとなる<ref name=略歴>[https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202002210000727_m.html?mode=all 最年少25歳など紅白司会6回/中居正広という男] 日刊スポーツ 2020年2月21日</ref>。グループの中では最年長で、リーダーを務める<ref name=略歴/>。[[1991年]][[9月9日]]にCDデビュー<ref name=略歴/>(以降のグループでの活動は[[SMAP]]を参照)。 [[1994年]]4月、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の昼番組『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』のレギュラーとなり、[[2014年]][[3月31日]]の番組終了まで20年間出演<ref>{{Cite web|和書|title=中居号泣 いいとも終了は「残酷」 バラエティーはゴールない|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/03/31/kiji/K20140331007888100.html|website=スポニチ|date=2014-3-31|accessdate=2023-9-19}}</ref>。 [[1995年]]1月、『[[味いちもんめ#テレビドラマ|味いちもんめ]]』において、連続ドラマ初主演<ref name=略歴/>。10月より[[テレビ朝日]]の報道番組『[[サタデージャングル・サンデージャングル|サンデージャングル]]』において、初のキャスターを務める<ref group="注">番組内での位置づけは、スポーツキャスターおよびサブキャスター。</ref>。 [[1997年]]の『[[第48回NHK紅白歌合戦]]』において、初の司会に抜擢される。25歳での白組司会は番組最年少記録となった<ref name=略歴/>。その後も、通算6回に渡って[[NHK紅白歌合戦|同番組]]の司会を担当。 [[1998年]]からフジテレビ『[[FNSの日|FNS27時間テレビ]]』の総合司会を3年連続で担当。その後もSMAPとして担当した[[FNS27時間テレビ (2014年)|2014年]]を含め、通算8回に渡って総合司会を担当。 [[2000年]]3月31日、[[東京ドーム]]で行われた[[読売ジャイアンツ|巨人]]の開幕戦にて、試合開始前の開幕セレモニーで国歌「[[君が代]]」を独唱<ref name=略歴/>。 [[2004年]]、[[TBSテレビ|TBS]]のオリンピックメインキャスターを初担当。以後、[[2018年]]までのオリンピック時に、8大会連続で同局のメインキャスターを務める<ref name=五輪>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2103778/full/|title=中居正広、8大会連続五輪メインキャスターに決定「ワクワクが止まりません」|newspaper=ORICON NEWS|date=2018-1-9|accessdate=2023-6-30}}</ref>。[[2021年]]の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]ではスペシャルゲストとして野球中継に出演<ref>[https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202108020000814_m.html 中居正広が五輪野球中継にスペシャル生出演 マー君は「抑えてくれる」] 日刊スポーツ 2021年8月2日配信 2022年9月24日閲覧</ref>。 [[2007年]]の『[[第58回NHK紅白歌合戦]]』において、紅組司会を担当。男性による紅組司会は2人目であり、NHKアナウンサーを除いた、男性による紅組司会および紅白両方の司会を務めた初の人物となる<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/matome/2017/11/13/m_0000331.shtml 紅白司会決定!歴代司会者のアレコレ集めてみた] デイリースポーツ 2017年11月13日</ref>。 [[2009年]]10月27日、ドキュメンタリー映画『[[マイケル・ジャクソン THIS IS IT]]』(10月28日公開)のワールドプレミア(アメリカの[[ロサンゼルス]]で開催)に、日本で唯一のゲストとして招待を受け参加<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/69660/full/ 故・マイケルさん遺作映画のワールドプレミアに中居正広が日本代表出演] ORICON NEWS 2022年10月29日閲覧</ref>。 12月、自身の私服を集めた写真集『私服だらけの中居正広増刊号〜輝いて〜』(同年8月発売)が、37.0万部を売り上げ「[[オリコン]]2009年年間“本”ランキング」のタレント本部門で1位を記録<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/71273/full/ 【オリコン】今年最も売れた“本”は村上春樹『1Q84』、2冠達成] ORICON NEWS 2009年12月4日配信 2023年4月21日閲覧</ref>。 [[2013年]]2月、[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|第3回ワールド・ベースボール・クラシック]]において、[[日本野球機構]]により日本プロ野球史上初の公認サポーターである「侍ジャパン公認サポーター」に就任<ref>{{Cite web|和書|date=2013-02-11|url=https://thetv.jp/news/detail/36567/|title=3連覇へ向けての追い風に!? 中居正広がWBC“侍ジャパン公認”サポーターに就任!|publisher=webザテレビジョン|accessdate=2013-06-24}}</ref>。 [[2015年]]6月上旬に喉の腫瘍手術を行った<ref name="hng">{{Cite news|title =SMAP中居、のどの腫瘍手術していた ラジオで告白|newspaper =スポーツ報知|date =2015-06-27|url =http://www.hochi.co.jp/entertainment/20150627-OHT1T50243.html|accessdate =2015-09-14|archiveurl =https://web.archive.org/web/20150914160108/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20150627-OHT1T50243.html|archivedate =2015年9月14日}}</ref>。 [[2016年]][[12月31日]]をもってSMAPが解散となったことに伴い、ソロタレントとなる<ref>{{Cite news | title = 中居正広も解散謝罪「リオ五輪に水差した」3日連続3人目、最長90秒 | newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2016-08-20| url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/08/20/kiji/K20160820013205230.html| accessdate = 2016-08-20}}</ref>。{{main|SMAP解散騒動}} [[2017年]]2月、[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック|第4回ワールド・ベースボール・クラシック]]において、2大会連続で「侍ジャパン公認サポートキャプテン」に就任<ref>[https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/1782734_m.html 中居正広「侍ジャパン公認サポートキャプテン」就任] 日刊スポーツ 2017年2月23日配信 2022年1月10日閲覧</ref>。 [[2020年]]2月21日に記者会見を開き、3月31日をもってジャニーズ事務所を退所し、4月から個人事務所「株式会社のんびりなかい」に所属し、同事務所の[[代表取締役]][[社長]]に就任することを発表。同事務所は父の命日となる2月19日に設立している<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/02/21/kiji/20200221s00041000371000c.html |title= 中居正広が設立新会社「のんびりな会」に…“転職希望”のファン続出「入所方法教えて」 |newspaper= スポーツニッポン新聞社 |date= 2020-02-21 |accessdate= 2021-03-06 }}</ref>。 [[2022年]]4月1日、公式サイトにてオフィシャル有料サイト「[https://anokotachi.com/ 中居ヅラ あの子たちに・・・、]」をオープンしたことを発表<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2230107/full/ 中居正広、有料サイト「中居ヅラ」オープン 月額100円で特典は写真・動画・ブログなど] ORICON NEWS 2022年4月1日配信 2022年4月2日閲覧</ref>。 7月14日、急性[[虫垂炎]]のため入院、手術を受けた<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20220723-FSJQD4K3CZE2FALHZL254PG6ZM/ |title= 中居正広、急性虫垂炎で手術受けていた 患部が「破けちゃうかもしれない、みたいな」 |newspaper= サンスポ |publisher= 産経デジタル |date= 2022-07-23 |accessdate= 2022-07-25 }}</ref>。7月16日に12年連続で総合司会を務める予定だった『[[音楽の日]]2022』(TBS)への出演は取りやめとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202207160000093.html|title=中居正広が急性虫垂炎で入院 MC予定の「音楽の日2022」出演見合わせ 江藤愛アナが代役|publisher=日刊スポーツ|date=2022-07-16|accessdate=2022-07-16}}</ref>。7月18日、退院を報告<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/07/18/kiji/20220718s00041000680000c.html |title= 急性虫垂炎で入院の中居正広が退院報告「回復、ラストスパート~。お仕事はぼっちぼち~で~す」 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2022-07-18 |accessdate= 2022-07-25 }}</ref>。 10月、体調不良のため1・8日放送の『[[中居正広のキャスターな会]]』、14日放送の『[[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]]』を欠席<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/10/14/kiji/20221014s00041000620000c.html |title= 中居正広「金スマ」も欠席 代打MC安住紳一郎アナ「急に呼ばれて」 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2022-10-14 |accessdate= 2022-10-14 }}</ref>。10月15日放送の『キャスターな会』で3週間ぶりに復帰したが<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/10/15/kiji/20221015s00041000230000c.html |title= 中居正広 「キャスターな会」3週間ぶり復帰 「ビンビンのボーボーです」 体調不良で1日から欠席 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2022-10-15 |accessdate= 2022-10-15 }}</ref>、11月4日、体調不良のため1か月ほど活動を休止し休養することを発表<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202211040000820.html |title= 中居正広が体調不良で1か月休養へ「病院の先生方や、携わるスタッフと本人が話し合った結果」 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツNEWS |date= 2022-11-04 |accessdate= 2022-11-04 }}</ref>。12月2日、年内の静養専念を発表した<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2259136/full/ |title= 休養中の中居正広、年内は静養に専念 所属事務所が発表「気力は以前より数倍上がっています!」 |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2022-12-02 |accessdate= 2022-12-02 }}</ref>。[[2023年]]1月14日放送の『キャスターな会』および『[[中居正広 ON&ON AIR]]』で本格的に仕事復帰<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20230114-RUOXVBM6UVBBNP4ARQQUYKRBKU/ |title= 中居正広が「ニュースな会」に復帰 笑い交えて第一声「元気になりましたと言うと元気をアピール、元気を強調ってなる」 |newspaper= サンスポ |publisher= 産経デジタル |date= 2023-01-14 |accessdate= 2023-01-14 }}</ref>。 2023年1月、[[2023 ワールド・ベースボール・クラシック|第5回ワールド・ベースボール・クラシック]]において、3大会連続で「侍ジャパン公認サポートキャプテン」に就任<ref name=wbc>{{cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2023/01/27/0015997767.shtml|title=中居正広 3大会連続で大役就任「12球団のファンが一致団結するのはWBCしかない」|newspaper=デイリースポーツ|date=2023-1-27|accessdate=2023-11-30}}</ref>。 == 人物 == * [[藤沢市立鵠沼小学校]](1〜4年生)→[[藤沢市立明治小学校]]卒(5・6年生)→[[藤沢市立明治中学校]]卒→[[平塚学園高等学校]](1年生)→[[東京都立代々木高等学校]](現・[[東京都立世田谷泉高等学校]])卒(2・3・4年生) * 幼少期は貧しく、貧困を経験している<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=金銭感覚は庶民と同じ!中居正広の倹約生活がすごすぎる |url=https://asajo.jp/excerpt/117540 |website=アサジョ |accessdate=2023-01-15 |language=ja}}</ref>。極貧のあまり、白米に水をかけただけの「水かけご飯」を食べていたことを明かしている<ref>{{Cite web|和書|title=「風呂は週2回」「水かけご飯」で過ごした幼少期。中居正広が今でも贅沢をしないワケ。 (2013年2月23日) |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Techinsight_20130223_71748/ |website=エキサイトニュース |access-date=2022-08-16 |language=ja}}</ref>。 * 得意なダンスは[[ロック (ダンス)|ロックダンス]]であり、[[三浦大知]]は中居について、ロックダンスを日本で一般的な存在にした功労者であると語っている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/30/kiji/20220130s00041000387000c.html 三浦大知「日本だと本当に…」 ロックダンス広めた“功労者”に中居正広を指名! カタログにも掲載?] スポニチ 2022年10月19日閲覧</ref>。 * レギュラー番組の年内最後の収録ではスタッフや共演者に[[叙々苑]]などの比較的高価な弁当を差し入れする事が恒例となっている<ref name="叙々苑弁当"> [https://web.archive.org/web/20210602220306/https://nordot.app/715182135784636416?c=516798125649773665 中居正広 イブにひっそりと…医療従事者へ叙々苑弁当贈っていた]女性自身 2020年12月25日配信 2021年6月1日閲覧</ref><ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2151825/amp/ カズレーザー、中居正広からの差し入れ弁当公開「#キングオブパイセン」]女性自身 2019年12月24日配信 2021年6月1日閲覧</ref>。 * 自身の歌唱力の不足に関しては度々[[自虐ネタ]]にして笑いを誘っているが、[[斉藤和義]]や[[出川哲朗]]は中居の歌唱力を肯定的に評価している<ref name=":4"> [https://japan.techinsight.jp/2012/01/nakaimasahiro-sho-ken120110131.html 【エンタがビタミン♪】「自信持った方がいいと思います」。中居正広、斉藤和義に歌唱力を認められた?] Techinsight 2012年1月11日配信 2021年5月24日閲覧</ref><ref name=":5">[https://news.mynavi.jp/article/20190720-862444/ 出川哲朗、中居正広の歌「本当は超うまい」 テレビで見せない姿暴露] マイナビニュース 2019年7月20配信 2021年5月24日閲覧</ref>。 * 司会業で多くの人と接する上での処世術として「好きな人を作ってしまうと、苦手な人ができてしまう。そうなると苦手な人が来るとやり難くなる」という理由で「好きな人も作らないようにしている」と語っており「何か相性が合うなって言う人を作らないように気を付けていたら、いつの間にか嫌いな人がいなくなりました」とも述べている<ref> [https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/1459939_m.html?mode=all 中居正広、「好きな人つくらない」処世術を明かす] 日刊スポーツ 2015年4月11日配信 2021年5月24日閲覧</ref>。 * 自身が選択した大手芸能事務所からの独立に関しては安易に他人には推奨しないと語っている。特に独立直後には[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルス感染症の世界的流行]]が発生したため、それに関連する苦労もあったことを言及している<ref>[https://s.rbbtoday.com/article/2021/04/04/187616.amp.html 中居正広、タレントの独立は「そんなに勧めない」自身の1年を後悔] 日刊スポーツ 2021年4月4日配信 2021年5月23日閲覧</ref>。 * 前述の通り、中居は2015年6月に喉の腫瘍を摘出する手術をしている。腫瘍が発見された際、主治医から「悪性だった場合は喉頭癌(の可能性もある)」と言われたため、上記の理由で父は死去したことから「すごいDNAだなと思った」と振り返っている<ref name="nng" />。しかし、のちに他の番組にて医師の見解によると、良性のポリープでDNAは関係なく、喉頭癌の原因はDNAよりも加齢や飲酒、喫煙だという<ref>{{Cite web|和書|date =2015-06-29|url =https://www.j-cast.com/tv/2015/06/29238883.html?p=all|title =中居正広「のど腫瘍」摘出手術!父親は喉頭がん「すげえDNAだと思った」|publisher =j-cast.com|accessdate =2015-06-29}}</ref>。 * [[麻薬|違法薬物]]の存在や[[薬物乱用]]について「やってはいけないことはやってはいけない。その1つに限るんじゃないでしょうか」「もし捕まったら(違約金を)払わないといけないと分かっていても、やめられないのがドラッグなのかなと思います」「10億も、20億も、違約金を想定しても、使いたいと思うのは、悪魔の薬なんでしょう」と批判的に語っている<ref name="違約金">[https://www.daily.co.jp/gossip/2019/03/24/0012176767.shtml?pg=amp 中居正広 瀧容疑者事件「違約金分かってても止められない悪魔の薬」] デイリースポーツ 2019年3月24日配信 2021年5月23日閲覧</ref><ref name="やってはいけない">[https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/amp/202002210001001.html 中居が槇原言及「やってはいけないことはいけない」] 日刊スポーツ 2021年2月18日配信 2021年5月23日閲覧</ref>。薬物乱用による逮捕者にミュージシャンが多いことに対する憤りも吐露しており、[[松本人志]]の「結局、何がアカンってすごくベタで申し訳ないけど、[[覚醒剤]]って人に迷惑かけるから、自分で勝手に楽しんで勝手に野垂れ死ぬ分には知らんけど、酒乱もそうなんですけど、人に迷惑かけるのは本当にやめてほしい」という発言にも「分かる」と同意した<ref>[https://npn.co.jp/article/detail/87398401 松本人志 覚せい剤使用者に不快感「勝手に野垂れ死ぬ分には知らん」] リアルライブ 2015年7月13日配信 2021年5月25日閲覧</ref>。 * [[2020年]]7月22日に放送された『[[水曜日のダウンタウン]]』の「古今東西 日本人知名度ランキング」の第2弾<ref group="注">調査対象は日本の人口バランスに合わせた比率の10代〜70代(2000人)で、全国の[[あなたの街に住みますプロジェクト|あなたの街に住みます芸人]]による街頭調査およびリサーチ会社による調査を行った。ノミネートされた人物の中には芸能人とは関係のない、政治家や戦国武将などの歴史上の人物も含む。</ref> では、7位(93.2%)にランクインした。存命の60歳以下の人物としては、唯一のTOP10のランクインだった<ref>{{Cite news | title = 『水ダウ』の「古今東西知名度ランキング」アンダー60で唯一トップ10に入る中居正広の凄まじさ| agency = クイックジャパンウェブ| date = 2020-07-23| url = https://qjweb.jp/regular/31147/}}</ref>。 * [[2002年]]6月14日、バラエティ番組『[[ぐるぐるナインティナイン]]』(日本テレビ系)の企画「[[グルメチキンレース・ゴチになります!]]」にゲスト出演し、VIPチャレンジャーで初のピタリ賞100万円を獲得した。 === 趣味・嗜好 === * [[バスケットボール]]経験者であるが野球ファンである(後述)。大のゲーム好きであり、野球ゲーム[[ファミスタシリーズ|『ファミスタ』シリーズ]]が特に好きなゲームである<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広、“ミニファミコン”の存在に衝撃 「手のひらサイズで、本当に!?」と購入に走る勢い |url=https://realsound.jp/tech/2018/05/post-193470.html |website=Real Sound|リアルサウンド テック |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>。また多読家でもあり<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広に蒼井優、成功の秘訣はハンパない読書量だった!? |url=https://taishu.jp/articles/-/51603 |website=日刊大衆 |accessdate=2022-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居、20歳頃からMC目指し読書「たけしさんもタモさんも…」博多大吉が暴露 |url=https://news.mynavi.jp/article/20170627-a084/ |website=マイナビニュース |date=2017-06-27 |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>、自宅にはノンフィクションから文芸作品まで書籍が山積みであるとされている<ref name=":9">{{Cite web|和書|title=中居正広 膨大な資料読み込んで石原慎太郎と対峙した |url=https://www.news-postseven.com/archives/20160421_405608.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>。 * 幼少期に極貧を経験している事もあり、基本的には1つの物を非常に長く使う性分であり、物欲がほぼなく庶民的・倹約家として知られる。ガムテープで補強された椅子、セロハンテープで蓋を閉めた炊飯器、ボロボロになったバスタオルなど、古くなった物や壊れた物でも補強し、完全に故障して使用不可能になるまで使用し続けているとされている<ref name=":2" />。ベッドは19歳時に購入した物を使い続け、40代で[[iPhone]]を使用し始めたが、それ以前は[[ガラケー]]を使用し続けていた<ref name=":2" />。 * かつての愛車は白い[[日産・シーマ]](FY33型)であり、13〜14年間乗り続けていた<ref>[https://realsound.jp/2018/08/post-243332_2.html 中居正広、もう一度乗りたい車を明かす テリー伊藤「あれ乗ってる人はね、みんな悪い人」] Real Sound 2022年10月19日閲覧</ref>。このシーマは、『[[中居正広の金曜日のスマたちへ]]』や『[[めちゃ×2イケてるッ!]]』など自身が出演するテレビ番組にも度々登場していた。 * 清潔で整理整頓を好むとされており<ref name=":3" />、1993年に自宅部屋が公開された時には部屋は綺麗に整頓されていた<ref name=":3" />。膨大な数の洋服があり、服を集めることが趣味とされており、服屋が開店できるほどの多数の服を所持しているとされた<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=[[Myojo]]|date=1993年11月号|publisher=集英社|pages=11,12}}</ref>。 * 食事に関するエピソードでも極めて庶民派とされており、好きな食べ物は大半が和食、庶民的料理、[[B級グルメ]]である。好きな食べ物は卵かけご飯・生姜焼き定食・焼き魚定食・唐揚げ・餃子・ラーメン・スパゲティ・つけ麺・固焼きそば・蕎麦・炒飯・カツ丼・カツカレー・エビパン・鍋・豚軟骨のツミレ・クラムチャウダー・ハンバーグ・ベーコンエッグ・豚団子・刺身(特にマグロの赤身)・かしらの塩焼き・焼肉・イカ納豆・えのき・ピーマンの天ぷら・キュウリ・焼きそば・お好み焼き・シーザーサラダなどが挙げられている<ref name=":0" /><ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広|url=http://www.pasonica.com/%E4%B8%AD%E5%B1%85%E6%AD%A3%E5%BA%83/|website=有名人データベース PASONICA JPN|date=2020-11-24|accessdate=2021-01-25|language=ja-JP}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広、庶民的すぎる外出自粛生活の裏でささやかれる自宅マンションの秘密 (2020年5月15日) |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_241034/ |website=エキサイトニュース |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広が外出自粛で庶民的な生活「昼はラーメンかスパゲッティ」 |url=https://news.livedoor.com/article/detail/18250460/ |website=ライブドアニュース |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広が“最近の食生活”を初告白!「毎日決まったメニューの食事を取るようにしています」<夜な夜なラブ子さんSP> |url=https://thetv.jp/news/detail/1061425/ |website=WEBザテレビジョン |accessdate=2022-02-09 |language=ja |last=WEBザテレビジョン}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広 最近の美肌について原因を自己分析「天ぷらそばを週5で食べている」 - スポニチ Sponichi Annex 芸能 |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/11/15/kiji/20201115s00041000402000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |accessdate=2022-02-11 |language=ja}}</ref>。また大食いであり、とある番組のロケ収録後にその日に何も食べていなかったとはいえ、炒飯8人前と固焼きそば8人前を平らげたことがあったり<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=AOLニュース - 国内外の最新ニュースや写真・動画を配信 - AOLニュース|url=http://news.aol.jp/2016/03/31/nakaimasahiro/|website=AOL News JP|accessdate=2021-01-25|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160331162057/http://news.aol.jp/2016/03/31/nakaimasahiro/|archivedate=2016-03-31}}</ref>朝から炒飯や餃子を食べている<ref name=":1">{{Cite news|title=SMAP中居正広の食生活が朝から超ハードでスゴすぎると話題に|newspaper=AOLニュース|date=2015-8-17|url=http://news.aol.jp/2015/08/16/smap/|accessdate=2021-7-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210126210530if_/http://news.aol.jp/2015/08/16/smap/|archivedate=2021-1-26}}</ref>。楽屋では高価な弁当ではなく[[オリジン弁当]]などの大衆チェーン店の弁当を好んで食べている<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広、高価な楽屋弁当よりも熱愛する”あの弁当”明かし、ネットは「熱が凄い」「買いに行こうかな」と反響 (2017年11月7日) |url=https://www.excite.co.jp/news/article/E_talentbank_46403/ |website=エキサイトニュース |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>。コロナ禍以降は外食はあまりせず自宅で食事している<ref name=":2" />。 === チャリティー活動 === * 1995年3月、[[第67回選抜高等学校野球大会]]の開会式{{Refnest|group="注"|この年の選抜甲子園の入場行進曲はSMAPの「[[がんばりましょう]]」だった<ref name="巨額寄付" />。}}を中継したラジオ番組に電話出演。『被災地の人を勇気づけられるよう、一生懸命頑張ってください』という高校球児に向けたメッセージを送り、この日の出演料を全額ラジオ局の義援金係に寄付した<ref name="巨額寄付" />。 * 2011年の[[東日本大震災]]発災後は友人たちと[[福島県]]を訪れてがれきの撤去や炊き出しに協力した。当時中居はこれについて「偽善と言われることに不安もあったけれど、今はそんなことを言っている場合じゃない」といった考えを語っていた<ref name="巨額寄付" />。 * [[東日本大震災]]発生後の3か月で、SMAPのメンバー5人が日本赤十字社に寄付した義援金は少なくとも総額4億円以上であり、その内の2億円が中居によるものと報じたメディアもあった。現在も毎年3月11日の前後には義援金を寄付しているという。また、継続的に義援金を呼びかけていた『SMAP×SMAP』(フジテレビ)の終了後は、自身のラジオ番組『[[中居正広 ON&ON AIR]]』([[ニッポン放送]])で呼びかけを続けている<ref name="巨額寄付" />。 * 2016年の[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]では1回目は単身(4月25日)、2回目以降は[[笑福亭鶴瓶]]・[[岡村隆史]](5月7日)や香取慎吾(5月15日)と共に避難所や学校を訪れてラーメンやチャーハンの炊き出しや、アイスクリームや携帯用ゲーム機などを配ったり、マッサージチェア1台と電動足もみ器3台や子供向けのおもちゃなどを贈呈するといった活動を行った<ref> [https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/1637111_m.html?mode=all 中居正広が熊本でお忍び炊き出しチャーハン作り] 日刊スポーツ 2016年4月25日配信 2021年5月23日閲覧</ref><ref>[https://m.huffingtonpost.jp/2016/05/07/nakai-masahiro_n_9863314.html SMAP中居正広、再び熊本地震避難所へ、鶴瓶・岡村とともに] HUFFPOST 2016年5月7日配信 2021年5月23日閲覧</ref><ref> [https://m.huffingtonpost.jp/2016/05/15/smap-nakai-katori-kumamoto_n_9986196.html 中居正広と香取慎吾、熊本の御船町で炊き出しに参加 「すごい行動力」と感激の声] HUFFPOST 2016年5月15日配信 2021年5月23日閲覧</ref>。 * 2020年の新型コロナウイルス蔓延の現状を鑑み「東京コロナ医療支援基金」と「LOVE POCKET FUND(愛のポケット基金)」にそれぞれ1,000万円を寄付した<ref name="巨額寄付" />。 * 新型コロナウイルスの治療に携わる医療従事者に叙々苑の弁当の差し入れを度々行った事が報じられている<ref name="叙々苑弁当" />。 * 後述([[#受賞・表彰歴]])する2021年の[[紺綬褒章]]の受章は国や地方公共団体などに私財を500万円以上寄付したこと、賞杯と漆塗りの木製の杯の授与は1,500万円以上寄付したことが称えられたことによるものである<ref name="巨額寄付">[https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1952158/ 中居正広が巨額寄付を続ける理由 26年間で総額2億円以上に] 女性自身 2021年2月18日配信 2021年5月23日閲覧</ref>。 === 野球関連 === * 小学生の頃に少年野球チームに所属していたが、本人によると[[野球肘]]により野球の道を断念したとのこと<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/nakaimasahiro5.html|title=第5回 中居正広と野球|publisher=青弓社|accessdate=2015-05-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141117054706/http://www.seikyusha.co.jp/wp/rennsai/nakaimasahiro5.html|archivedate=2014-11-17}}</ref>。野球フリークであり、[[日本プロ野球|プロ野球]]では[[読売ジャイアンツ]]と[[原辰徳]]のファンであるが、1992年の『[[プロ野球ai]]』においては、「巨人・原辰徳や、[[阪神タイガース|阪神]]・[[掛布雅之]]に憧れた世代」と発表。[[阪神ファン]]の機関紙『[[月刊タイガース]]』200号において「湘南出身なのにタイガースファンの中居です」とコメントを寄せていたことが『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』の投稿コーナー「[[VOW]]」にも取り上げられた。また、[[山本圭壱]]が監督を務める草野球チームに所属していたことがある<ref>{{Cite web|和書|date =2005-01-23|url =https://www.narinari.com/Nd/2005013962.html|title =欽ちゃん球団に極楽とんぼの山本圭壱が合格。|publisher =ナリナリドットコム|accessdate =2016-12-13}}</ref>。 * 中居の野球・巨人好きは球界関係者にも広く知られており、特に原辰徳からは「([[爆笑問題]]の)[[田中裕二 (お笑い芸人)|田中]]さんと中居くんだけはジャイアンツの選手だと思ってる」と言われている<ref>[https://datazoo.jp/tv/%E6%9C%89%E5%90%89%C3%97%E5%B7%A8%E4%BA%BA/1296511 有吉×巨人☆ついに最終回!アンチG有吉MCの巨人応援番組☆] TVでた蔵 2019年9月13日配信 2021年5月24日閲覧</ref>。 * 番組で共演した経験のある[[清原和博]]とはプライベートでの交流はないが「キヨさんから学んだこといっぱいある」としている。2016年の逮捕後も気にかけており、2018年には著書『清原和博 告白』を自ら購入し読んだ感想を語ったり、2020年には清原のサイン入りの著書『薬物依存症』を関係者を通じて貰ったりしている<ref name="キヨさん">[https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzowoman_201809_post_200199/ 中居正広、清原和博について「ちょっと責めすぎ」「いたたまれない」と持論を激白]エキサイトニュース 2018年9月4日配信 2021年5月23日閲覧</ref><ref name="依存症">[https://web.archive.org/web/20200630174209/https://www.sanspo.com/geino/amp/20200620/geo20062016430018-a.html 中居正広、清原和博氏からのメッセージは「僕の中でしまっておきたい」] 日刊スポーツ 2018年9月4日配信 2021年5月23日閲覧</ref>。 === SMAP・ジャニーズ関連 === * SMAPではリーダーを担当し、歌唱力に難はあるものの<ref name=":4" /><ref name=":5" />リズム感が良くダンスやラップが得意であり、作曲などの制作者としても活動している<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広「リズム感いいんです」/デイリースポーツ online |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2016/09/02/0009447991.shtml |website=デイリースポーツ online |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広、キレのあるかわいらしいダンスを披露 |url=https://thetv.jp/news/detail/119841/ |website=WEBザテレビジョン |accessdate=2022-02-09 |language=ja |last=WEBザテレビジョン}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=アイドル中居正広、「リズム感オブザイヤー」獲得で歓喜ダンス!「デレステ」新CM |url=https://predge.jp/83875/ |website=PR EDGE |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>。SMAPのメンバー紹介を行う曲(「FIVE RESPECT」など)は全て中居による制作曲である<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2082372/full/ SMAPメンバー紹介曲に秘められた、5人が乗り越えた試練の歴史] ORICON NEWS 2016年12月2日</ref>。 * 好きなSMAPのシングル曲として「[[Mistake!/Battery|Mistake!]]」を挙げている。理由として好きになる基準は「まずメロディーが一番大事でしょ。次ね、振り付けが好きか嫌いか。で、次、衣装が自分の好きなものかどうか。あと平均的に5人がかっこいいかってのがある」と語っており、それに該当するのがこの曲であるとしている<ref>[https://music-book.jp/amp/news/69535 中居正広、「SMAPで一番好きなシングル曲」で意外な回答…「平均的に5人がかっこいい曲」とは]music.jpニュース 2015年2月23日配信 2021年6月1日閲覧</ref>。 * 2013年4月放送の『[[SMAP×SMAP#特別企画|SMAP×SMAP SMAPはじめての5人旅スペシャル]]』にて[[兵衛向陽閣]]のカラオケスナックを貸し切り各メンバーがSMAPの曲を合計24曲歌い、最後の曲となった「[[ベスト・フレンド (SMAPの曲)|BEST FRIEND]]」を聞いた際には感極まって号泣し「おれ100人だったら相手できる」「10人が突っかかってきても、おれ絶対SMAPを守れるよ」と発言した<ref> [https://www.excite.co.jp/news/article/Bizjournal_202012_post_200245/ 中居正広が「おれ絶対SMAPを守れるよ」と泣いた夜…解散が5人にもたらした変化とは]Business Journal 2020年12月31日配信 2021年6月1日閲覧</ref>。 * 2013年、後輩グループ・[[Kis-My-Ft2]]の[[横尾渉]]・[[宮田俊哉]]・[[二階堂高嗣]]・[[千賀健永]]による派生ユニット・[[舞祭組]]をプロデュースし<ref>{{Cite news | title = 「舞祭組」二階堂、フィギュア宇野スタイルの髪形に…「金メダルを取ったら、もっと乗っかる」| newspaper = [[スポーツ報知]]| date = 2018-02-13| url = https://hochi.news/articles/20180212-OHT1T50302.html| accessdate = 2018-10-28}}</ref>、『なかいさん』名義において作詞・作曲・振付を担当。 == 家族 == * 父:'''正志''' * 母:'''絹代''' * 長兄・次兄:ともに一般人 * 3人兄弟の末子である<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広、男ばかり三男末っ子で父は生まれた瞬間「マジかよ…」 |url=https://www.musicvoice.jp/news/48175/ |website=MusicVoice |accessdate=2021-11-04 |language=ja |last=編集部}}</ref>。[[神奈川県]]出身ではあるが、自身の[[ルーツ]]は[[北海道]]であり、父・正志は[[岩内町]]出身<ref>[https://blog.goo.ne.jp/keiko4326/e/8c303b0dac363d86611140fa131d4ec3 東京ふるさと岩内会]</ref>。 * 父親は婚期を逃し続ける中居を嘆いていたこともあった<ref>{{Cite news|title=【紅白リハ】中居の父親 婚期逃す息子を嘆く|newspaper=東京スポーツ|date=2013-12-31|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/enka/219784/|accessdate=2021-7-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210716031358/https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/enka/219784/|archivedate=2021-07-16}}</ref>。中居と同様に物欲がなく、父の日のお祝いを「俺を父親にしてくれた子供たちに感謝する日なんだから、お祝いはいらない」と言って断ったとされる<ref name="巨額寄付" />。2015年2月に[[肺癌]]のため死去している<ref name="hng" /><ref name="nng">{{Cite news|title =中居正広のど腫瘍を摘出 6月上旬手術、良性と判明|newspaper =日刊スポーツ|date =2015-06-28|url =https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1498826.html|accessdate =2015-06-28}}</ref>。 == 交友関係 == お笑い・タレント * [[タモリ]] * [[笑福亭鶴瓶]] * [[松本人志]] * [[出川哲朗]] * [[ヒロミ]] * [[岡村隆史]] * [[田中裕二 (お笑い芸人)|田中裕二]] * [[劇団ひとり]] * [[陣内智則]] * [[児嶋一哉]] * [[石原良純]] * [[勝俣州和]] * [[ベッキー]] * [[ウエンツ瑛士]]など == 受賞・表彰歴 == '''俳優として''' * 1995年 第4回[[ザテレビジョンドラマアカデミー賞]] 主演男優賞・新人俳優賞 -『[[味いちもんめ#テレビドラマ|味いちもんめ]]』 * 1997年 [[橋田賞]] 新人賞 * 1997年 第14回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主演男優賞 -『[[最後の恋]]』 * 2000年 第25回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 ザテレビジョン特別賞 -『[[伝説の教師]]』([[松本人志]]とのフリートーク) * 2004年 第7回[[日刊スポーツ]]ドラマグランプリ 主演男優賞 -『[[砂の器#2004年版|砂の器]]』<ref>{{Cite web|和書|title=日刊スポーツ・ドラマグランプリ 歴代の受賞者・受賞作品|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/dramagp/dgp-result.html|website=nikkansports.com|accessdate=2023-03-28}}</ref> * 2004年 第40回ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主演男優賞 -『砂の器』 * 2005年 第14回[[TV LIFE]]年間ドラマ大賞2004 主演男優賞 -『砂の器』<ref>{{Cite web|和書|title=TV LIFE年間ドラマ大賞 受賞リスト|url=https://www.tvlife.jp/dramaaward|website=TV LIFE web|accessdate=2023-03-28}}</ref> * 2005年 第1回[[TVnavi#ドラマ・オブ・ザ・イヤー|TVnavi ドラマ・オブ・ザ・イヤー]]2004 主演男優賞 -『砂の器』 * 2008年 第21回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]] 主演男優賞 -『[[私は貝になりたい#2008年版|私は貝になりたい]]』 '''その他(慈善活動)''' * 2021年 [[褒章#紺綬褒章|紺綬褒章]]並びに[[賞杯]]<ref>『官報』第429号9頁 令和3年2月9日 {{Cite web2 |df=ja |url=https://kanpou.npb.go.jp/20210209/20210209h00429/20210209h004290009f.html |format=PDF |title=『官報』第429号 |page=9 |website=インターネット版官報 |publisher=国立印刷局 |date=2021-02-09 |accessdate=2021-02-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20210209043957/https://kanpou.npb.go.jp/20210209/20210209h00429/20210209h004290009f.html |archivedate=2021-02-09 |quote=○紺綬褒章並びに賞杯 中居 正広}}</ref> * 2022年 紺綬褒章飾版<ref>『官報』第891号10頁 令和5年1月6日 {{Cite web2 |df=ja |url=https://kanpou.npb.go.jp/20230106/20230106h00891/20230106h008910010f.html |format=PDF |title=『官報』第891号 |page=10 |website=インターネット版官報 |publisher=国立印刷局 |date=2023-01-06 |accessdate=2023-01-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230106071158/https://kanpou.npb.go.jp/20230106/20230106h00891/20230106h008910010f.html |archivedate=2023-01-06 |quote=紺綬褒章飾版 中居 正広}}</ref> * 2023年 紺綬褒章飾版<ref>『官報』第930号8頁 令和5年3月6日 {{Cite web2 |df=ja |url=https://kanpou.npb.go.jp/20230306/20230306h00930/20230306h009300008f.html |format=PDF |title=『官報』第930号 |page=8 |website=インターネット版官報 |publisher=国立印刷局 |date=2023-03-06 |accessdate=2023-03-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20230305233640/https://kanpou.npb.go.jp/20230306/20230306h00930/20230306h009300008f.html |archivedate=2023-03-05 |url-status=live |quote=紺綬褒章飾版 中居 正広}}</ref> ==現在の出演番組== ===レギュラー番組=== * [[ザ!世界仰天ニュース]](2001年4月 - 、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])'''MC'''<ref group="注">[[笑福亭鶴瓶]]と共同で担当。</ref> * [[中居正広の金曜日のスマイルたちへ|中居正広の金曜日のスマたちへ → 中居正広の金曜日のスマイルたちへ]](2001年10月 - 、[[TBSテレビ|TBS]])'''MC''' * 中居正広のニュースな会 → [[中居正広のキャスターな会]](2019年4月27日 - 、[[テレビ朝日]])'''MC''' * [[まつもtoなかい]](2023年4月30日 - 、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])'''MC'''<ref group="注">[[松本人志]]と共同で担当。</ref> ===スペシャル番組=== '''定期・不定期''' * [[World Baseballエンタテイメント たまッチ!|たまッチ!]](2007年 - 不定期、フジテレビ)'''リーダー(MC)''' * [[中居正広の7番勝負!超一流アスリートVS芸能人どっちが勝つの?SP|中居正広の○番勝負!]](2008年 - 年1回、日本テレビ) * [[中居正広のプロ野球魂]](2009年 - 毎年3月・7月<ref group="注">2020年から。以前は年末に放送。</ref>、テレビ朝日)'''MC''' * [[音楽の日]](2011年 - 毎年夏、TBS)'''総合司会''' * TBS[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]特番(2012年 - 毎年10月) ** [[ドラフト緊急生特番!お母さんありがとう|速報ドラフト会議 THE運命の1日]](2021年 - )'''MC''' * [[プロ野球珍プレー・好プレー大賞|中居正広のプロ野球珍プレー好プレー大賞]](2015年<!--2010年から2014年までは『たまッチ!』として放送。--> - 毎年年末、フジテレビ)'''MC''' * [[UTAGE!]](2016年 - 不定期、TBS)'''MC''' * [[笑いの正体]](2022年3月21日・7月5日・12月28日<ref group="注">出演予定だったが、休養のため欠席。</ref>・2023年9月25日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])'''MC'''<ref>[https://www.nhk.jp/p/ts/8P54LPG4KZ/ 笑いの正体] NHK</ref> * [[THEプラチナリスト〜スターが生まれた伝説の名簿〜]](2022年9月18日・2023年5月28日、TBS)'''MC'''<ref>[https://www.tbs.co.jp/program/platinumlist_20220918/ THEプラチナリスト〜スターが生まれた伝説の名簿〜] TBSテレビ</ref> '''単発''' <!-- ※約1年以内に放送、または放送予定の番組。 --> * [[加藤浩次&中居正広の歴代日本代表256人が選ぶ『この日本代表がスゴい!』ベスト20]](2023年9月11日、日本テレビ)'''MC''' * 中居大悟と言いたい女(2023年9月16日、TBS「[[土曜☆ブレイク]]」)'''MC''' * 中居正広の芸能人!お友達呼んで来ましたグランプリ(2023年10月28日、フジテレビ「[[土曜プレミアム]]」)'''MC''' * WBC2023 ザ・ファイナル(2023年12月31日【予定】、TBS)'''MC'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/program/wbc2023sp_20231231/|title=『WBC2023 ザ・ファイナル』|publisher=TBSテレビ|accessdate=2023-12-2}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.nikkansports.com/m/entertainment/news/202311180001154_m.html|title=TBS大みそかは中居正広MCで6時間「WBC2023生放送スペシャル」超貴重な初出し映像も公開|newspaper=日刊スポーツ|date=2023-11-19|accessdate=2023-12-31}}</ref> ===ラジオ=== * 中居正広のSome girl' SMAP → [[中居正広 ON&ON AIR]]<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/18/kiji/20161217s00041000389000c.html 中居ラジオ番組「ON&ON AIR」に名称変更 SMAP外れる] スポーツニッポン、2016年12月17日閲覧。</ref>(1995年7月 - 、[[ニッポン放送]]、土曜23:00 - 23:30) ==過去の出演番組== <!-- ※個人としての出演のみ。ゲスト出演、事前番組などは不要。 --> {{Main2|SMAPのグループ出演|SMAP#出演}} ===バラエティ番組=== '''レギュラー番組''' * [[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]](1994年4月 - 2014年3月、フジテレビ)曜日レギュラー ** [[笑っていいとも!増刊号]] ** [[笑っていいとも!特大号]](毎年年末) ** [[笑っていいとも!特大号#森田一義アワー笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号|笑っていいとも!グランドフィナーレ感謝の超特大号]](2014年3月31日) * [[OH!エルくらぶ]](1994年10月 - 1996年3月、テレビ朝日)'''司会''' * [[ダウトをさがせ!#ダウトをさがせII|ダウトをさがせII]](1994年10月 - 1995年3月、[[毎日放送]]/TBS)レギュラー解答者 * [[生さんま みんなでイイ気持ち!]](1995年10月 - 12月、フジテレビ)'''サブMC''' * [[中居くん温泉]]シリーズ([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]/日本テレビ<ref group="注">『中居くん温泉'S』までは遅れネット。</ref>)'''MC''' ** 中居くん温泉(1996年7月 - 1997年3月) ** 中居くん温泉'S(1997年4月 - 9月) ** 中居くん温泉H(1997年10月 - 1998年3月) * [[中居正広のボクらはみんな生きている|中居正広のボク生き]]シリーズ(フジテレビ)'''MC''' ** 中居正広のボクらはみんな生きている(1997年10月 - 1998年9月) ** [[サタ☆スマ#サタスマ|サタスマ]]「中居正広のボク生きII」(1998年10月 - 1999年3月) * [[サタ☆スマ]](1999年4月 - 2002年3月、フジテレビ) * [[デリバリー・スマップ デリ!スマ]](2002年4月 - 12月、フジテレビ) * [[ワカチュキ|別れてもチュキな人 → ワカチュキ]](2002年10月 - 2004年7月、日本テレビ)'''MC'''<ref group="注">[[草野仁]]と共同で担当。</ref> * [[スマ夫]](2003年1月 - 3月、フジテレビ) * [[中井正広のブラックバラエティ]](2004年7月18日 - 2013年3月31日、日本テレビ)'''MC''' * [[中居正広の身になる図書館|中居正広の怪しい噂の集まる図書館 → 中居正広のミになる図書館 → 中居正広の身になる図書館]](2011年10月4日 - 2019年3月11日、テレビ朝日)'''MC''' * [[うもれびと]](2012年4月11日 - 9月19日、フジテレビ)'''MC''' * [[ナカイの窓]](2012年10月10日<ref>[https://thetv.jp/program/0000808424/ ナカイの窓(バラエティー)] - WEBザテレビジョン 2023年4月12日閲覧</ref> - 2019年3月27日、日本テレビ)'''MC''' * [[なかい君の学スイッチ]](2017年10月16日 - 2018年9月25日、TBS)'''MC''' * [[中居くん決めて!]](2018年10月22日 - 2020年3月23日、TBS)'''MC''' * [[新・日本男児と中居]](2019年5月3日<ref>[https://thetv.jp/program/0000956848/ 新・日本男児と中居(バラエティー)] - WEBザテレビジョン 2023年4月12日閲覧</ref> - 2021年3月26日、日本テレビ)'''MC''' * [[中居大輔と本田翼と夜な夜なラブ子さん]](2020年7月2日 - 2022年3月24日、TBS)'''MC'''<ref group="注">[[宮川大輔 (タレント)|宮川大輔]]、[[本田翼]]と共同で担当。</ref> '''スペシャル番組''' * [[めちゃ×2イケてるッ!|めちゃ²イケてるッ!]]「[[めちゃ×2イケてるッ!の企画#中居&ナイナイの日本一周 ○○の旅|中居&ナイナイ日本一周]]シリーズ」(1996年 - 2018年 / 全11回、フジテレビ) * フジテレビ[[改編]]期番組対抗特番 ** [[FNS超テレビの祭典]](1996年秋)'''司会''' ** [[FNS番組対抗!春秋の祭典スペシャル]](1997年 - 1998年(毎年春・秋))'''MC''' ** [[FNS番組対抗!春秋の祭典スペシャル|FNS秋の祭典 歓迎!新番組御一行様〜お台場・中居旅館オータムフェア〜 → FNS春の祭典 ようこそ中居旅館へ!話題のドラマ&新番組大宴会]](1998年秋・1999年春)'''MC''' ** [[笑っていいとも!スペシャル]](2001年 - 2011年)'''MC''' *** [[笑っていいとも!春・秋の祭典スペシャル]](2001年 - 2009年(毎年春・秋)) *** [[笑っていいとも!新春祭]](2004年・2005年(毎年冬)) *** [[夜の笑っていいとも!春・秋のドラマ特大号]](2010年春・秋) *** [[夜の笑っていいとも!春・秋のドラマ特大号|笑っていいとも!豪華俳優★人気芸人が大集合SP!]](2011年春) ** [[中居正広の(生)スーパードラマフェスティバル]](2006年 - 2009年(毎年冬・夏))'''MC''' ** [[タモリ・中居のドラマチック・リビングルーム]](2011年 - 2012年(毎年春・秋))'''MC''' ** [[タイムリミットバトル ボカーン!]](2022年春・夏・冬<ref group="注">2022年冬は、休養のため欠席。</ref>)'''チェアマン(MC)''' * [[新春かくし芸大会]](1997年 - 1999年、フジテレビ)'''総合司会''' ** '97新春かくし芸大会(1997年1月1日) ** '98新春かくし芸大会(1998年1月1日) ** '99新春かくし芸大会(1999年1月1日) * [[ビートたけしのD-1グランプリ]](1997年 - 1998年 / 全3回、テレビ朝日)'''サブMC''' * [[笑福亭鶴瓶|つるべ]]・中居くんのナニワ漫遊道(1998年1月11日、関西テレビ) * かくし芸35周年記念! あのシーンをもう一度秘蔵VTR100連発スペシャル(1998年1月15日、フジテレビ「[[強力!木スペ120分]]」)'''MC''' * [[FNSの日|FNS27時間テレビ]](1998年 - 2000年・2004年・2006年・2011年・2014年<ref group="注">SMAPとして担当および出演。</ref>・2015年、フジテレビ)'''総合司会''' ** [[FNS27時間テレビ (1997年 - 2003年)#第12回(1998年)『FNS1億2700万人の27時間テレビ 夢列島 〜てれずにいいこと・てれずに楽しく〜』|'98FNS1億2700万人の27時間テレビ夢列島〜てれずにいいこと、てれずに楽しく〜]](1998年7月18日 - 19日) ** [[FNS27時間テレビ (1997年 - 2003年)#第13回(1999年)『FNS1億2700万人の27時間テレビ 夢列島 〜てれずに楽しく・てれずに愛して〜』|'99FNS1億2700万人の27時間テレビ夢列島〜てれずに楽しく てれずに愛して〜]](1999年7月17日 - 18日) ** [[FNS27時間テレビ (1997年 - 2003年)#第14回(2000年)『FNS1億2700万人の27時間テレビ 夢列島 〜家族 愛 Love You〜』|2000FNS1億2700万人の27時間テレビ夢列島〜家族 愛 Love You〜]](2000年7月8日 - 9日) ** [[FNS27時間テレビ (2004年)|FNS27時間テレビ めちゃ²オキてるッ! 楽しくなければテレビじゃないじゃ〜ん!!]](2004年7月24日 - 25日) ** [[FNS26時間テレビ (2006年)|FNS26時間テレビ 国民的なおもしろさ! 史上最大!!真夏のクイズ祭り 26時間ぶっ通しスペシャル]](2006年7月15日 - 16日) ** [[FNS27時間テレビ (2011年)|FNS27時間テレビ めちゃ²デジッてるッ! 笑顔になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!]](2011年7月23日 - 24日) ** [[FNS27時間テレビ (2015年)|FNS27時間テレビ めちゃ²ピンチってるッ! 1億2500万人の本気になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!]](2015年7月25日 - 26日) ** [[FNS27時間テレビ (2016年)|FNS27時間テレビフェスティバル!]](2016年7月24日)'''MCリレー''' ** コーナー「[[さんま・中居の今夜も眠れない]]」(2000年 - 2016年) * [[中居正広の家族会議を開こう!]](1999年 - 2003年・2008年 / 全9回、TBS)'''MC''' * [[松本人志・中居正広VS日本テレビ]](2002年9月26日・2003年4月12日、日本テレビ) * 中居正広の2002総決算まるごと㊙︎ランキングSP(2002年12月21日、フジテレビ)'''MC''' * [[キスした?SMAP#中居正広が今さら…キスした?SMAP|中居正広が今さら…キスした?SMAP]](2004年6月8日、テレビ朝日)'''MC''' * [[中居正広のテレビ50年名番組だョ!全員集合笑った泣いた感動したあのシーンをもう一度夢の総決算スペシャル]](2005年10月2日、TBS開局50周年記念特別番組)'''総合司会''' * 中居正広のクイズ!ONE/エイト(2009年7月21日、TBS「[[バラエティーニュース キミハ・ブレイク|キミハ・ブレイク]]」)'''MC''' * [[記録よりも記憶に残るフジテレビの笑う50年 〜めちゃ×2オボえてるッ!〜|記録よりも記憶に残るフジテレビの笑う50年〜めちゃ²オボえてるッ!〜]](2009年10月10日、フジテレビ開局50周年記念特別番組)'''MC''' * 中居正広の10文字で解説できたら格好いい!ニュースの素朴なギモン(2009年12月28日、テレビ朝日)'''MC''' * [[中居正広の世界はスゲェ!ココまで調べましたSP]](2010年 - 2013年 / 全6回、フジテレビ)'''MC''' * [[ザ・大年表|中居正広のザ・大年表]](2010年 - 2012年 / 全7回、日本テレビ)'''MC''' * [[中居正広の怪しい本の集まる図書館]](2010年12月27日・2011年3月21日・7月18日、テレビ朝日)'''MC'''<ref group="注">2011年10月4日から『[[中居正広の怪しい噂の集まる図書館]]』としてレギュラー化。</ref> * [[中居のかけ算]](2011年 - 2016年(毎年年始)、フジテレビ)'''MC''' * 中居正広の人気番組ぜんぶ見せます!速報!年末年始 ザ・視聴率ベスト30(2011年1月7日、日本テレビ「[[金曜スーパープライム]]」)'''MC''' * [[60番勝負]](2013年2月1日・2日、NHK×日本テレビ開局60周年記念共同制作特別番組)'''MC''' * テレ朝SMAPバラエティ部[[ジャニーズ関連企画ユニット#スマシプ|スマシプ]](2014年3月9日・2015年9月22日、テレビ朝日) * [https://www.fujitv.co.jp/b_hp/140811famisma/index.html ファミスマ](2014年8月11日、フジテレビ) * [[中居正広の終活って何なの!?〜僕はこうして死にたい〜]](2015年2月21日・2016年4月30日、フジテレビ)'''MC''' * 中居正広のISORO(2015年3月23日、フジテレビ)'''MC''' * [[中居正広のこうして私はやっちゃいました! 神センス☆塩センス!|中居正広の神センス☆塩センス!!]](2015年 - 2017年 / 全6回、フジテレビ)'''MC''' * Xmasスペシャル中居正広が結婚を考える夜。(2015年12月21日、フジテレビ)'''MC''' * [[行列のできる法律相談所]](2018年3月25日・2021年3月21日、日本テレビ)'''スペシャルMC'''<ref>{{cite news|url=https://www.daily.co.jp/gossip/2018/03/26/0011103538.shtml|title=中居正広司会の「行列」視聴率大幅アップ18・3%|newspaper=デイリースポーツ|date=2018-3-26|accessdate=2023-6-27}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2187234/full/|title=中居正広、『行列』インタビューで“素顔&本音”告白 テレビ初?手料理写真の公開も|newspaper=ORICON NEWS|date=2021-3-14|accessdate=2023-6-27}}</ref> * [[中居正広の【悲報】館]](2019年9月22日・2020年3月29日、日本テレビ)'''MC''' * どうぶつな会(2020年9月17日、テレビ朝日)'''MC'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-asahi.co.jp/doubutunakai/#/|title=どうぶつな会|publisher=テレビ朝日|accessdate=2023-6-27}}</ref> * 閃いたら勝ち(2020年9月24日、TBS)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/program/hirameitarakachi_20200924/|title=閃いたら勝ち|publisher=TBSテレビ|accessdate=2023-6-27}}</ref> * [[まつもtoなかい〜マッチングな夜〜]](2020年11月21日・2022年2月19日、フジテレビ)'''MC'''<ref group="注">2023年4月30日から『[[まつもtoなかい]]』としてレギュラー化。</ref> * [[FNSラフ&ミュージック〜歌と笑いの祭典〜]](2021年8月28日・29日、フジテレビ)'''サポーター(MC)''' ** [[FNSラフ&ミュージック2022〜歌と笑いの祭典〜]](2022年9月10日・11日、フジテレビ)'''サポーター(MC)''' * [[日テレ系人気番組 春秋のコラボSP!|日テレ系人気番組 秋のコラボSP!]](2021年10月3日、日本テレビ)'''MC'''<ref>{{Cite tweet|author=行列のできる相談所【公式】|user=gyoretsu_ntv|number=1444225651142127618|title=明日夜7⃣時は🍁日テレ系番組 秋のコラボSP🍁 夜9時すぎ~行列×仰天【東野VS鶴瓶 どっちが変人!?GP】2人をよく知る人物がVTRで変人っぷりを続々証言👽 なぜかMC #中居正広 も優勝候補に…😂|date=2021-10-02|accessdate=2023-7-13}}</ref> * [[中居ウエンツとアウトエイジ]](2021年10月3日、日本テレビ)'''MC''' * [[中居正広のただただ話すダーケ]](2021年10月31日・2022年1月1日・5月22日、テレビ東京)'''MC''' * 俺のワタシの極み飯!(2022年5月26日・6月2日、TBS「[[モクバラナイト]]」)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/program/mokubaranight_kiwamimeshi/|title=モクバラナイト『俺のワタシの極み飯!』|publisher=TBSテレビ|accessdate=2023-7-2}}</ref> * 中居と[[大悟 (お笑い芸人)|大悟]]を口説く夜(2022年8月22日・29日、TBS「[[月バラナイト]]」)'''MC'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tbs.co.jp/program/getubaranight/archive/20220822_nakaitodaigo/|title=月バラナイト『中居と大悟を口説く夜』|publisher=TBSテレビ|accessdate=2023-11-3}}</ref> * 悪魔のサイフ(2022年8月24日・31日、フジテレビ「[[水曜NEXT!]]」)'''MC''' ===音楽番組=== '''レギュラー番組''' * [[アイドルオンステージ]](1993年10月 - 1995年9月、[[NHK衛星第2テレビジョン|NHK-BS2]])'''ナビゲーター''' * [[TK MUSIC CLAMP]](1996年5月 - 1997年6月、フジテレビ)'''2代目MC''' * [[うたばん]](1996年10月15日 - 2010年3月23日、TBS)'''MC'''<ref group="注"|ref name=MC>[[石橋貴明]]と共同で担当。</ref> * [[ザ・ミュージックアワー]](2010年4月20日 - 9月14日、TBS)'''MC'''<ref group="注"|ref name=MC/> * [[カミスン!]](2011年4月25日 - 2012年3月26日、TBS)'''MC''' * [[火曜曲!]](2012年4月24日 - 2013年9月3日、TBS)'''MC'''<ref group="注">[[江角マキコ]]、[[AKB48]]と共同で担当。</ref> * [[Sound Room]](2013年11月11日 - 2014年3月24日、TBS)'''MC'''<ref group="注">[[リリー・フランキー]]と共同で担当。</ref> * [[UTAGE!]](2014年4月21日 - 2015年9月28日、TBS)'''MC''' * [[Momm!!]](2015年10月19日 - 2017年9月25日、TBS)'''MC''' '''スペシャル番組''' * [[日本テレビ音楽祭#日本テレビ音楽の祭典|日本テレビ音楽の祭典]](1995年 - 1998年(毎年10月)、日本テレビ)'''司会''' * [[NHK紅白歌合戦]](1997年・1998年・2006年 - 2009年、NHK)'''司会'''<ref group="注">2007年を除き'''白組司会'''。2007年は'''紅組司会'''。</ref> ** [[第48回NHK紅白歌合戦]](1997年12月31日) ** [[第49回NHK紅白歌合戦]](1998年12月31日) ** [[第57回NHK紅白歌合戦]](2006年12月31日) ** [[第58回NHK紅白歌合戦]](2007年12月31日) ** [[第59回NHK紅白歌合戦]](2008年12月31日) ** [[第60回NHK紅白歌合戦]](2009年12月31日) * [[COUNT DOWN TV|CDTVスペシャル!年越しプレミアライブ]](2010年 - 2012年・2018年、TBS)'''MC''' ** CDTVスペシャル!年越しプレミアライブ2010→2011(2010年12月31日) ** CDTVスペシャル!年越しプレミアライブ2011→2012(2011年12月31日) ** CDTVスペシャル!年越しプレミアライブ2012→2013(2012年12月31日)<ref name=cd/> ** CDTVスペシャル!年越しプレミアライブ2018→2019(2018年12月31日)<ref name=cd>{{cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20181224-745945/|title=中居正広、『CDTV』年越しライブで6年ぶりMC! 第1弾アーティストも発表|newspaper=マイナビニュース|date=2018-12-24|accessdate=2023-6-27}}</ref> * [[のどじまんTHEワールド!]](2012年 - 2019年 / 全18回、日本テレビ)'''MC''' * [[歌でつなごう 〜被災者のみなさんへ〜#震災から○年 "明日へ"コンサート|震災から○年 "明日へ"コンサート]](2012年 - 2016年(毎年3月)、NHK総合・[[NHK BSプレミアム]]<ref group="注">2014年まで。</ref>)'''司会''' * [[COUNT DOWN TV|CDTV祝25周年SP]](2018年4月7日、TBS)'''MC'''<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2107935/full/|title=中居正広『CDTV祝25周年SP』MCに決定 出演アーティスト第1弾も発表|newspaper=ORICON NEWS|date=2018-3-21|accessdate=2023-6-27}}</ref> * 中居正広のダンスな会(2021年3月6日・2022年1月29日、テレビ朝日)'''MC'''<ref>{{Cite 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news|url=https://plus.tver.jp/news/69111/detail/|title=中居正広、通算4度目となる侍ジャパン公認サポートキャプテンに就任!『世界野球プレミア12』を盛り上げる|newspaper=テレビドガッチ|date=2019-11-04|accessdate=2021-10-15}}</ref> ** [[2023 ワールド・ベースボール・クラシック|第5回ワールド・ベースボール・クラシック]](2023年3月9日 - 22日、テレビ朝日・TBS)<ref name=wbc/> * [[勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー|プロ野球好珍プレーBEST101]](1995年 - 1997年<!--1995年11月18日・1996年11月16日・1997年11月15日-->(毎年11月)、日本テレビ)'''MC''' ** プロ野球好珍プレー夏の陣 → 中居&[[江川卓 (野球)|江川]]のプロ野球好珍プレー真夏の陣!(1996年・1997年(毎年7月)、日本テレビ「[[火曜デラックス]]」)'''MC''' * 体育会系大新年会スペシャル → [[徳光和夫|徳光]]&中居の体育会系スポーツ大忘年会スペシャル!!(2000年・2001年(毎年年始)→ 2001年 - 2005年(毎年年末)、日本テレビ)'''MC''' * 中居正広の巨人vs阪神直前SP(2003年5月31日・7月21日・8月16日・9月20日・11月22日、日本テレビ)'''MC''' * [[中居正広プロ野球革命|中居正広スポーツ革命 → 中居正広プロ野球革命]](2005年 - 2008年 / 全6回、テレビ朝日)'''MC''' * 中居正広のイケてるアスリート決定戦(2006年12月24日、日本テレビ)'''MC''' * [[2007年アジア野球選手権大会|アジア野球選手権2007 兼 野球 北京五輪アジア地区最終予選]](2007年12月1日 - 3日、テレビ朝日)'''[[星野仙一|星野]]監督公認サポートキャプテン'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tv-asahi.co.jp/baseball2007/pc2/assistance.html|title=野球 北京五輪アジア地区最終予選|publisher=テレビ朝日|accessdate=2023-6-27}}</ref> * 徳光&中居の豪快年忘れ!超一流アスリート大感謝祭!(2007年12月27日、日本テレビ)'''MC''' * [[2009 ワールド・ベースボール・クラシック A組|第2回ワールド・ベースボール・クラシック 東京ラウンド]](2009年3月5日 - 9日、テレビ朝日)'''テレビ朝日WBC日本代表サポートキャプテン'''<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2009/02/02/kiji/K20090202Z00002160.html|title=中居クンWBC日本代表サポートキャプテン|newspaper=スポニチ|date=2009-2-2|accessdate=2023-6-27}}</ref> * [[ドラフト緊急生特番!お母さんありがとう]](2012年 - 2020年(毎年10月)、TBS)'''MC'''<ref group="注">2012年は「スペシャルナビゲーター」として出演。</ref> * [[中居正広の身になる図書館|中居正広のスポーツ!号外スクープ狙います!]](2014年4月6日・2015年2月3日・5月31日・11月3日・2016年5月23日・9月4日・12月5日・2017年2月27日・8月14日・2018年3月5日、テレビ朝日)'''MC'''<ref group="注">2018年4月23日から『[[中居正広の身になる図書館|身になる図書館]]プレゼンツ! 中居正広のスポーツ!号外スクープ狙います!』としてレギュラー化(2019年3月11日まで)。</ref> ** 中居正広のスポーツ!号外スクープ狙います! 東京オリンピックSP(2021年8月15日、テレビ朝日)'''MC''' * スポーツハイライト2015 新時代の扉が開いた(2015年12月27日、NHK総合)'''MC'''<ref>{{Cite 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平成元年]](1989年10月10日 - 12月26日、TBS)- 宝田ヒロシ 役 ** 時間ですよ新春スペシャル 梅の湯の結婚式はギャグでいっぱい(1990年1月2日) * [[若さま侍捕物手帖|若さま侍捕物帖]](1991年1月2日、テレビ朝日)- 加納辰之進 役 * [[学校へ行こう! (テレビドラマ)|学校へ行こう!]](1991年4月8日 - 6月24日、フジテレビ)- 松田克巳 役 * 学校へ行こう!SPECIAL 旅立ちの朝に…(1992年4月6日、フジテレビ)- 弘志 役 * [[腕におぼえあり#第3シリーズ|腕におぼえあり3]](1993年1月8日 - 3月12日、NHK総合)- 渋谷雄之助 役 * 愛よ眠らないで(1993年1月28日、[[福岡放送]]/日本テレビ、[[ドラマシティ (2時間ドラマ番組)|ドラマシティー'93]])- 古賀守 役 * [[銀色の恋文]](1994年<ref group="注">未放送作品であったが、2009年11月14日に[[森繁久彌]]追悼番組として放送。</ref>、フジテレビ)- 井崎浩 役 * [[君に伝えたい]] 恋するシティボーイ(1994年4月24日、毎日放送/TBS)- 杉山俊介 役 * [[味いちもんめ#テレビドラマ|味いちもんめ]]シリーズ(テレビ朝日)- '''主演・伊橋悟''' 役 ** 第1シリーズ(1995年1月12日 - 3月16日、[[木曜ドラマ (テレビ朝日)|木曜ドラマ]]) ** 第2シリーズ(1996年1月11日 - 3月21日、木曜ドラマ) ** 1997年スペシャル(1997年1月2日、新春ドラマスペシャル) ** 1998年スペシャル(1998年1月2日、新春ドラマスペシャル) ** 2011年スペシャル(2011年1月8日、新春ドラマスペシャル) ** 2013年スペシャル(2013年5月11日) * [[輝く季節の中で]](1995年4月20日 - 6月29日、フジテレビ、[[木曜劇場]])- 樋口慎一 役 * [[世にも奇妙な物語]](フジテレビ) ** [[世にも奇妙な物語 秋の特別編 (1995年)|'95秋の特別編]]「23歳の老人」(1995年10月4日)- '''主演・老田和之''' 役 ** [[世にも奇妙な物語 秋の特別編 (1996年)|'96秋の特別編]]「不定期バスの客」(1996年10月2日)- '''主演・岡田''' 役 ** [[世にも奇妙な物語 SMAPの特別編|SMAPの特別編]]「オトナ受験」(2001年1月1日)- '''主演・相良洋二''' 役 * [[輝け隣太郎]] 第6話・第9話(1995年11月12日・12月3日、TBS)- 中居正広(本人)役 ※ゲスト出演 * [[ナニワ金融道#テレビドラマ|ナニワ金融道]]シリーズ(フジテレビ)- '''主演・灰原達之''' 役 ** ナニワ金融道(1996年2月16日) ** ナニワ金融道2(1996年10月8日) ** ナニワ金融道3(1998年1月5日、[[新春ドラマスペシャル]]) ** ナニワ金融道4(1999年4月30日) ** ナニワ金融道5(2000年9月25日) ** ナニワ金融道6(2005年1月3日、新春ドラマスペシャル) ** 新ナニワ金融道(2015年1月24日) *** [[銭の戦争 (日本のテレビドラマ)|銭の戦争]] 第1話(2015年1月6日、関西テレビ/フジテレビ)- 灰原達之 役 ※ゲスト出演 * [[誰かが誰かに恋してる]](1996年3月29日、TBS)- 石田健太郎 役 * [[勝利の女神]](1996年4月16日 - 6月25日、関西テレビ/フジテレビ)- '''主演・吉本康平''' 役 * [[僕が僕であるために (テレビドラマ)|僕が僕であるために]](1997年1月3日、フジテレビ、新春ドラマスペシャル)- 成瀬隼人 役 * [[いいひと。]]第1話(1997年4月15日、関西テレビ/フジテレビ)※友情出演 * [[最後の恋]](1997年7月11日 - 9月19日、TBS、[[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]])- '''主演・夏目透''' 役([[常盤貴子]]とダブル主演) * [[ブラザーズ]](1998年4月13日 - 6月29日、フジテレビ)- '''主演・藤原真心''' 役 * [[グッドニュース (テレビドラマ)|グッドニュース]](1999年4月11日 - 6月27日、TBS、[[日曜劇場]])- '''主演・黒沢丈一''' 役 * [[伝説の教師]](2000年4月15日 - 6月24日、日本テレビ)- '''主演・風間大輔''' 役([[松本人志]]とダブル主演) * [[白い影#2001年版|白い影]](2001年1月14日 - 3月18日、TBS、日曜劇場)- '''主演・直江庸介''' 役 ** 白い影 その物語のはじまりと命の記憶(2003年1月2日、[[新春ドラマスペシャル (TBS)|新春ドラマスペシャル]]) * [[砂の器#2004年版|砂の器]](2004年1月18日 - 3月28日、TBS、日曜劇場)- '''主演・和賀英良''' 役 * [[婚カツ!]](2009年4月20日 - 6月29日、フジテレビ)- '''主演・雨宮邦之''' 役 * [[ATARU]](2012年4月15日 - 6月24日、TBS、日曜劇場)- '''主演・チョコザイ(アタル)''' 役 ** ATARU スペシャル〜ニューヨークからの挑戦状!!〜(2013年1月6日) === 映画 === * [[プライベート・レッスン]](1993年)- 金子浩二 役 * [[シュート!]](1994年)- 田仲俊彦 役 * 第2回[[欽ちゃんのシネマジャック]]「なんかヘン? Part2」(1994年)- 息子 役 * [[模倣犯 (小説)#映画|模倣犯]](2002年、[[東宝]])- '''主演・網川浩一(ピース)''' 役 * [[私は貝になりたい#2008年版|私は貝になりたい]](2008年、東宝)- '''主演・清水豊松''' 役 * [[おとうと (2010年の映画)|おとうと]](2010年)※友情出演 * [[劇場版 ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL]](2013年、東宝)- '''主演・チョコザイ(アタル)''' 役 * [[手をつないでかえろうよ〜シャングリラの向こうで〜#映画|手をつないでかえろうよ〜シャングリラの向こうで〜]](2016年)- 蘇我皇慈 役 ※友情出演 === テレビアニメ === * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](フジテレビ)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sazaesan.jp/history.html|title=サザエさん 50年の歴史|サザエさん - 公式ホームページ|accessdate=2022-1-12}}</ref> ** [[FNS27時間テレビ (1997年 - 2003年)#第12回(1998年)『FNS1億2700万人の27時間テレビ 夢列島 〜てれずにいいこと・てれずに楽しく〜』|27時間テレビ夢列島]]「歓迎!飛び入り家族」(1998年7月19日)- 大河原タツヒコ 役 ** [[FNS27時間テレビ (1997年 - 2003年)#第13回(1999年)『FNS1億2700万人の27時間テレビ 夢列島 〜てれずに楽しく・てれずに愛して〜』|27時間テレビ夢列島]]「SOS!ウェディングベル」(1999年7月18日)- 十文字 役 ** [[FNS27時間テレビ (1997年 - 2003年)#第14回(2000年)『FNS1億2700万人の27時間テレビ 夢列島 〜家族 愛 Love You〜』|27時間テレビ夢列島]]「星空の下のナカイくん」(2000年7月9日)- ナカイ 役 ** [[FNS27時間テレビ (2004年)|FNS27時間テレビ]]「わが家のアイドル」(2004年7月25日)- 中居 役 ** [[FNS27時間テレビ (2011年)|FNS27時間テレビ]]「カツオ明日のスター」(2011年7月24日)- 中居正広(本人)役 ** [[FNS27時間テレビ (2014年)|FNS27時間テレビ]]「笑顔のレシピ」(2014年7月27日)- マサヒロ 役 ** [[FNS27時間テレビ (2015年)|FNS27時間テレビ]]「本気で挑戦!」(2015年7月26日)- 中居正広(本人)役 * [[ちびまる子ちゃん]](フジテレビ) ** 27時間テレビ夢列島 おまけアニメ(1999年7月18日)- うさぎのウサオ君 役 ** [[FNS26時間テレビ (2006年)|FNS26時間テレビ]]「クイズに答えて、ヨーロッパへ行こう!」の巻(2006年7月16日)- クイズ司会者ミスターX 役 === CM === * [[ロッテ]] **「クリスプスティック」(1994年) **「[[クランキーチョコレート]]」(1996年 - 1999年) **「カカオの恵み」(1999年 - 2000年) **「[[ブラックブラック]]」(2000年 - 2001年) **「アーモンドチョコレート」(2000年 - 2004年) * [[郵政省]]「[[ゆうパック]]」(1994年) * [[日本生命保険|日本生命]](1995年 - 1997年) * [[リコー]]「プリテール」(1995年 - 1997年) * [[ダイキン工業|ダイキン]]「ワイドリビングエアコン」(1995年 - 1998年) * [[三菱自動車工業|三菱自動車]] **「[[三菱・ミラージュ|ミラージュ]]」(1995年 - 1997年) **「[[三菱・RVR|RVR]]」(1997年 - 1998年) * [[味の素]] **「[[クノール食品|クノール]]具だくさんたまごスープ」(1996年) **「クノール北海道ポタージュ」(1997年 - 1998年) * [[日本電信電話|NTT]]・[[東日本電信電話|NTT東日本]]「ISDN」(1996年 - 2000年) * [[サントリー]] **「[[スーパーホップス]]」(1997年 - 2000年) **「風呂あがり<生>」(2001年) **「[[ボス (コーヒー)|BOSS]]」(2004年 - 2005年) * [[資生堂]]「[[uno (化粧品)|uno]]」(1998年 - 2003年) * [[スカパーJSAT]]「[[スカパー!|スカイパーフェクTV!]]」(1999年 - 2003年) * [[ロート製薬]]「[[ロートジー]]」(1999年 - 2001年) * [[宝くじ]]「[[ロト6]]」(2000年 - 2003年) * [[吉野家]](2001年 - 2003年) * [[大王製紙]]「[[エリエール]]・GOO.N」(2001年 - 2005年) * [[日清食品]]「[[どん兵衛]]」(2004年 - 2015年) * [[日本中央競馬会]] JRA(2005年 - 2006年) * [[ライオン (企業)|ライオン]]「[[グロンサン]]」(2005年) * [[明治製菓]] **「明治アーモンドチョコレート」(2005年 - 2010年) **「カカオスタイル」(2006年 - 2007年) * [[住友ゴム工業]]「[[ダンロップ]]・デジタイヤ LE MANS」(2006年 - 2008年) * [[大塚製薬]]「[[ポカリスエット]]」(2008年) * [[ハウス食品]] **「[[ウコンの力]]」(2009年 - 2011年) **「ウコンの力・モーニングレスキュー」(2010年9月 - 2011年) * [[アンファー]]「薬用スカルプD」(2011年5月 - 2012年) * [[エイチ・アイ・エス]](2011年12月 - 2012年) * [[CHINTAI]](2012年1月 - 2014年) * [[エイブル]](2012年1月 - 2015年) * [[ヒューマントラスト]](2012年8月 - 2015年・2019年) * [[日本コカ・コーラ]]「[[コカ・コーラ ゼロ]]」(2015年6月 - 2016年) * [[バンダイナムコエンターテインメント]]「[[アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ]]」(2015年12月 - 2017年12月)<ref>{{Oricon CM|235100}}</ref> * [[麒麟麦酒|キリン]]「[[氷結 (チューハイ)|氷結]]」(2017年1月 - 2017年)<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広が「氷結」新CMで「あたらしくいこう」、SMAP解散後初のCM出演|url=https://www.cinra.net/news/20170130-hyoketsu|website=cinra.net|date=2017-1-30|accessdate=2023-9-10}}</ref> * [[ソフトバンク]](2023年9月 - )<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20230906-2765350/|title=中居正広、4年ぶりCMで“脇役” 劇団ひとり「まずちっちゃな役から(笑)」|newspaper=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2023-09-06|accessdate=2023-09-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広が6年ぶりに本気のキレキレダンス!ソフトバンクCM第2弾で主役の座を乗っ取る|url=https://natalie.mu/music/news/540637|website=音楽ナタリー|date=2023-9-12|accessdate=2023-9-12}}</ref> === 舞台 === * レインボー通りの人々(1992年5月4日 - 31日、[[東京宝塚劇場]])- 光之 役 * ジャニーズファンタジー「KYO TO KYO」(1997年8月25日、[[京都シアター1200]])<ref name="JM26">{{Cite journal|和書|title = JOHNNY'S MEMBERS SCHEDULE |pages = 35|journal = Johnny's Magazine vol.26|date=1997|publisher = ジェイステーション }}</ref> === ゲーム === * [[アイドルマスター シンデレラガールズ スターライトステージ]](2016年、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]・[[iOS]])- 中居君 役{{Refnest|group="注"|2016年9月に期間限定で本人をモデルにしたぷちデレラ([[ちびキャラ|SDキャラ]])が登場<ref>{{Cite web|和書|date=2016-09-02 |url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1472734707&pagemode=amp |title=『デレステ』中居正広さん出演CM第3弾、1周年の記念日にオンエア決定! しかもゲーム内には“ぷちデレラ”として登場!? |publisher=animate Times |accessdate=2016-12-27}}</ref>。同年12月から1月に再登場し、本人によるボイスも収録された<ref>{{Cite news|date=2016-12-21 |url=https://otapol.com/2016/12/post-9121.html|title=SMAP・中居正広が今度は“ボイス付き”で『デレステ』に実装! アイドル姿を見られるのはこれで最後……!?|newspaper=おたぽる|accessdate=2021-7-16}}</ref>。}} == 書籍 == *『SMAP MIND―中居正広音楽対談〈Vol.1〉』(1997年2月、[[幻冬舎]]、{{ISBN2|978-4-87728-151-9}})- 編 : [[TK MUSIC CLAMP|MUSIC CLAMP]] *『SMAP MIND―中居正広音楽対談〈Vol.2〉』(1997年5月、幻冬舎、{{ISBN2|978-4-87728-160-1}})- 編 : MUSIC CLAMP *『SMAP MIND―中居正広音楽対談〈Vol.3〉』(1997年8月、幻冬舎、{{ISBN2|978-4-87728-176-2}})- 編 : MUSIC CLAMP *『SMAP MIND―中居正広音楽対談〈Vol.4〉』(1997年8月、幻冬舎、{{ISBN2|978-4-87728-177-9}})- 編 : MUSIC CLAMP === 写真集 === *『私服だらけの中居正広増刊号〜輝いて〜』(2009年8月18日、[[扶桑社]]、{{ISBN2|978-4594060183}}) *『私服だらけの中居正広増刊号〜輝いて〜Part2』(2012年12月11日、扶桑社、{{ISBN2|978-4594067335}}) *『私服だらけの中居正広増刊号〜輝いて〜Part3』(2013年1月15日、扶桑社、{{ISBN2|978-4594067403}}) *『私服だらけの中居正広増刊号〜輝いて〜Part4』(2014年4月18日、扶桑社、{{ISBN2|978-4594070342}}) === 絵本 === *『♪ピンポンパンポンプー』(2020年11月26日、[[マガジンハウス]]、{{ISBN2|978-4838731176}})- 監修 *『パリン グリン ドーン』(2022年6月30日、マガジンハウス、{{ISBN2|978-4838732036}})- 監修&キャラクター原案 === 雑誌連載 === * 月イチ連載コラム 中居正広の「とことん野球好き!!」 (『[[週刊ベースボール]]』2016年4月11日号 - 、[[ベースボール・マガジン社]]) == 音楽 == === 楽曲制作 === :※特記の無い限り「'''N. マッピー'''」名義 '''ソロ''' *[[SMAP 011 ス|みんな1人じゃないのだ!?]](作詞:N.マッピー、作曲:N.マッピー・[[馬飼野康二|Mark Davis]]) *[[La Festa|オイラの人生のっぺらぼ〜〜!]](作詞:N.マッピー、作曲:N.マッピー・[[岸利至]]) *[[SMAP 016/MIJ|トイレットペッパーマン]](作詞:[[井手コウジ]]・N.マッピー、作曲:井手コウジ・N.マッピー・[[米光亮]]) *[[SAMPLE BANG!|ブリブリマン]](作詞:N.マッピー・井手コウジ、作曲:N.マッピー・NAT All Stars) *[[super.modern.artistic.performance|宮下がつくったうた]](作詞:N.マッピー・[[JINDOU|宮下昌也]]、作曲:N.マッピー・[[宮下浩司]]・宮下昌也、編曲:N.マッピー・宮下浩司) *[[We are SMAP!|Memory 〜June〜]](作詞:N.マッピー・宮下昌也・宮下浩司、作曲:N.マッピー・宮下浩司・宮下昌也、編曲:N.マッピー・宮下浩司) *[[GIFT of SMAP|ねぇ…]](作詞・作曲・編曲:N.マッピー・[[谷口尚久]]) '''SMAP''' *[[SMAP 008 TACOMAX|Slicker's Blues]](作詞:相田毅・中居正広・香取慎吾) ※「中居正広」名義 *[[BIRDMAN〜SMAP 013|Five True Love]](作詞:N.マッピー・しんご・土生京子、作曲:N.マッピー・日高智) *[[SMAP 015/Drink! Smap!|FIVE RESPECT]](作詞:N.マッピー・[[鈴木おさむ]]、作曲:N.マッピー) *[[GIFT of SMAP|CRAZY FIVE]](作詞・作曲・編曲:N.マッピー・宮下浩司・宮下昌也) === 楽曲提供 === :※「'''なかいさん'''」名義 '''[[舞祭組]]''' * [[棚からぼたもち]](作詞・作曲・編曲:なかいさん・[[JINDOU|宮下兄弟]]) * [[てぃーてぃーてぃーてれって てれてぃてぃてぃ 〜だれのケツ〜]](作詞・作曲・編曲:なかいさん・[[JINDOU|宮下工務店]]) * [[やっちゃった!!]](作詞・作曲・編曲:なかいさん・宮下工務店) === 参加作品 === * 背番号・3 長嶋さん ありがとう!!(2002年3月21日、[[テイチクエンタテインメント]]) *: [[長嶋茂雄]]の歴史を辿るドキュメントCDに、コメント出演<ref>[https://www.teichiku.co.jp/catalog/others/2002/ce35293.html 背番号3 長嶋さんありがとう!!] - テイチクエンタテインメントサイト 2016年3月26日閲覧</ref>。 * [[舞祭組の、わっ!]](2017年12月13日、[[avex trax]]) *: ボーナストラック「Fire&Lightning」にコーラスとして参加。 * [[舞祭組村のわっと! 驚く! 第1笑]](2018年8月22日、avex trax) *: 〈初回盤〉特典映像「ホールツアー密着ドキュメント」、〈通常盤〉特典映像「Fire&Lightning〈スペシャルバージョン〉」に出演<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/news/2115686/full/ | title = 舞祭組、初ツアーを8・22映像化 通常盤に中居正広との共演シーンも | date = 2018-07-17| website = ORICON NEWS| publisher = [[オリコン]]| accessdate = 2018-11-15}}</ref>。 ==備考== ===交友関係や評価=== '''佐藤健''' * 俳優の[[佐藤健 (俳優)|佐藤健]]に慕われており、「物事にハマったらとことんハマる」という性格、野球経験者である事、ダンスが得意である事、麻雀に興味がある事など、共通点が多くあるとされている<ref>{{Cite web|和書|title=中居正広と交流を深めたかった佐藤健「僕なんかに付け入る隙はない」とがっくり |url=https://thetv.jp/news/detail/1058796/ |website=WEBザテレビジョン |accessdate=2022-02-09 |language=ja |last=WEBザテレビジョン}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=佐藤健、中居正広に猛烈アタック「仲良くなりたくてここに来た」 - モデルプレス |url=https://mdpr.jp/news/detail/2864816 |website=モデルプレス - ライフスタイル・ファッションエンタメニュース |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=中居正広×佐藤健『金スマ』で1時間ガチトーク 中居も思わず「好きになっちゃうでしょ」 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2206454/full/ |website=ORICON NEWS |accessdate=2022-02-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=佐藤健vs中居正広、今夜『金スマ』でサシトーク 滅多に語ることのない心の内を赤裸々告白(クランクイン!) |url=https://www.crank-in.net/gallery/news/93900/1 |website=クランクイン |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=佐藤健、中居正広に胸中を赤裸々告白 30代で迎えた焦り、神対応の理由も… |url=https://news.mynavi.jp/article/20210910-1969037/ |website=マイナビニュース |date=2021-09-10 |accessdate=2022-02-09 |language=ja}}</ref>。 '''石原慎太郎''' * 複数の報道機関<ref name=":6">{{Cite web|和書|title=石原慎太郎さん、中居正広への激怒事件には後日談があった? (2022年2月5日) |url=https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_200186712/ |website=エキサイトニュース |accessdate=2022-02-10 |language=ja}}</ref><ref name=":7">{{Cite web|和書|title=SMAP中居VS「イライラ」石原慎太郎 「トンチンカン」なのはどちらだ?と話題 |url=https://www.j-cast.com/2016/04/14264119.html |website=J-CAST ニュース |date=2016-04-14 |accessdate=2022-02-10 |language=ja}}</ref><ref name=":8">{{Cite web|和書|title=石原慎太郎が中居正広に理不尽ブチ切れた「超緊迫現場」の裏事情とは!? |url=https://www.asagei.com/56598 |website=アサ芸プラス |accessdate=2022-02-10 |language=ja}}</ref><ref name=":9" />によると、2016/4/1放送の『[[中居正広の金曜日のスマイルたちへ]]』に政治家である[[石原慎太郎]]が出演した際、中居は石原へ質問をぶつけていき「あなたの言うこと、よく分からねえな。何?」と石原は露骨に不機嫌になり激怒したとされており、更に放送後にも石原は別の場で中居の質問について「トンチンカンだった。2回怒りそうになった」と苦言を呈したとされている<ref name=":6" /><ref name=":7" /><ref name=":8" /><ref name=":9" />。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|30em|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|20em}} == 外部リンク == *[https://www.nonbirinakai.co.jp のんびりなかい 公式サイト] *{{Twitter|nonbiri_info|のんびりなかい ついったー}} *{{TVer talent|t000415}} {{Navboxes| |list= {{中居正広}} {{SMAP}} {{中居正広の金曜日のスマイルたちへ}} {{NHK紅白歌合戦 白組司会}} {{NHK紅白歌合戦 紅組司会}} {{FNS27時間テレビ}} {{笑っていいとも!}} {{めちゃ×2イケてるッ!}} {{SMAP×SMAP}} {{日刊スポーツ映画大賞主演男優賞}} {{ザテレビジョンドラマアカデミー賞 主演男優賞}} {{ザテレビジョンドラマアカデミー賞 新人俳優賞}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なかい まさひろ}} [[Category:中居正広|*]] [[Category:SMAPのメンバー]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:日本の男優]] [[Category:アイドル出身の俳優]] [[Category:日本の男性歌手]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:日本のニュースキャスター]] [[Category:NHK紅白歌合戦司会者]] [[Category:過去のジャニーズ所属者]] [[Category:20世紀日本の俳優]] [[Category:21世紀日本の俳優]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:紺綬褒章受章者]] [[Category:ビクターエンタテインメントのアーティスト]] [[Category:日本の野球に関する人物]] [[Category:平塚学園高等学校出身の人物]] [[Category:東京都立代々木高等学校出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1972年生]] [[Category:存命人物]]
2003-03-19T05:50:43Z
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稲垣吾郎
稲垣 吾郎(いながき ごろう、1973年〈昭和48年〉12月8日 - )は、日本の俳優・歌手・タレント。男性アイドルグループ・SMAPの元メンバー。愛称は吾郎ちゃん、吾郎さん。CULEN所属。東京都板橋区出身。 1973年(昭和48年)、東京都板橋区に生まれ、高島平で育つ。子供のころは大のヤクルトスワローズファンで、13歳で芸能界入りするまではファンクラブに入り頻繁に神宮球場に足を運んでいた。 1987年(昭和62年)11月、姉が応募したジャニーズ事務所のオーディションを受け芸能界入り。すぐにSMAPの前身グループであるスケートボーイズのメンバーとなる。 1988年(昭和63年)4月、同グループから中居正広、木村拓哉、森且行、草彅剛、香取慎吾とともに選ばれ、男性アイドルグループ『SMAP』を結成(以降のグループでの活動はSMAPを参照)。 1989年(平成元年)、NHKの連続テレビ小説『青春家族』で、主人公の弟・阿川大地役に選ばれドラマデビュー。翌1990年、『さらば愛しのやくざ』で映画デビューも果たす。1991年、堀越高等学校卒業。 1992年(平成4年)10月に月9ドラマ『二十歳の約束』にてドラマ初主演。 1993年(平成5年)、『プライベート・レッスン』で映画初主演。映画主題歌も担当し、初のソロシングルCD「If You Give Your Heart」リリース。1996年、舞台『夜曲』で舞台初主演。翌1997年も舞台『広島に原爆を落とす日』出演し、主役のディープ山崎を演じる。翌年の再演では広島公演も行われた。 1998年(平成10年)、ドラマ『ソムリエ』で主演を務める。天才ソムリエの役を演じるにあたり、フランスまで足を運びソムリエの修行を積み、その後もワインに関する知識を高めボルドーワインの産地からワイン騎士号を授与される。 2004年(平成16年)、ドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』の主題歌「Wonderful Life」を&G(アンジー)名義でソロシングルCDリリースし、オリコン初登場1位。同年、「稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ」がスペシャルドラマとしてスタートし、2009年まで5作品にわたり金田一耕助を演じシリーズ化された。同年から現在(2020年)に至るまでの毎年、『ほんとにあった怖い話』のストーリーテラー役を務めている。 2006年(平成18年)、アニメ映画『ONE PIECE THE MOVIE カラクリ城のメカ巨兵』に声優で出演。同年、日本で開催されたFINAシンクロワールドカップの公式サポーターとしてマーメイドプリンスを務める。これは自身初の単独公式サポーターである。2007年(平成19年)も世界競泳2007の公式サポーターとしてマーメイドプリンスを務める。 2010年(平成22年)、『十三人の刺客』では、史上最凶の暴君として松平斉韶役を演じ毎日映画コンクール男優助演賞を受賞するなど高い評価を得る。初めての極悪非道な役は役者としても新境地となった。 2016年(平成28年)12月31日、SMAP解散。ソロタレントとなる。 2017年(平成29年)9月8日、ジャニーズ事務所公式サイトである「Johnny's net」と「Johnny's web」の稲垣のページが閉鎖され、9月9日に草彅剛、香取慎吾とともにジャニーズ事務所を退所。 10月16日、草彅、香取と共同で新事務所「CULEN(カレン)」(代表はSMAP元マネージャーの飯島三智)を立ち上げ独立する。11月には公式ブログを開設。わずか2か月半で50万人以上の読者を獲得し、『BLOG of the year 2017』最優秀賞を受賞。また、翌年の『BLOG of the year 2018』でも優秀賞(オフィシャル部門)に選出されている。 2018年(平成30年)、主演映画『半世界』(2019年公開)が第31回東京国際映画祭のコンペティション部門に選出され、作品は観客賞を受賞。稲垣も第34回高崎映画祭で最優秀主演男優賞を受賞した。 2019年(令和元年)、主演映画『ばるぼら』(2020年公開)が第32回東京国際映画祭のコンペティション部門に選出。同じ俳優による主演作が2年連続コンペティション部門に選出されるのは、13年ぶりである。 2020年(令和2年)3月、連続テレビ小説『スカーレット』にヒロインの息子の主治医・大崎茂義役として出演。稲垣の連続テレビ小説への出演は前述の『青春家族』以来約30年ぶりで、脚本担当の水橋文美江は稲垣をイメージした当て書きで大崎の役を作り上げた。また稲垣にとっての地上波連続ドラマ出演は同作品がSMAP解散・独立後初となる。 2020年(令和2年)10月、ベートーヴェン生誕250周年にちなんだNHKプロジェクト「ベートーベン250」のアンバサダーに就任。 板橋区立高島第二小学校→板橋区立高島第三中学校→堀越高等学校卒業。 明智小五郎と金田一耕助、二大名探偵をドラマで演じている(稲垣以外には岡譲司と小野寺昭のみ)。明智役は1998年からテレビ朝日の『土曜ワイド劇場』で演じ、当時24歳で土曜ワイド劇場史上最年少で主演も務めた。 主役も脇役もこなすタイプの俳優だが、映画『半世界』の監督である阪本順治は、主演俳優としての稲垣について「主演俳優はいろんな個性を持つ俳優さんを相手に、来たボールを受けては返すキャッチャーなんです。そして、稲垣君はそれが出来る人」とし、「自分を前面に出す人ではなく、むしろ人の個性を受け止められる懐の深さがある人」と語っている。 脇役では一癖も二癖もある存在感の強い役を演じることが多く、映画『十三人の刺客』の監督である三池崇史は稲垣を最凶の暴君とされる殿様役に起用したことについて、SMAPの中でも特殊な存在で屈折した魅力がぴったりだと思ったと語っている。 一方で、映画『少女』では、登場人物の中で1人だけ地道に普通に生きていて人を憎まずしかも唯一人を許せる人間、そんな崇高さを感じさせる役として、崇高な雰囲気を持つ稲垣が演じたらおもしろいと語っている。 稲垣自身、芝居については大好きだが自分は天才ではないので頑張るしかないと語り、役者という職業については生涯やっていきたいと話している。 TBSの番組『ゴロウ・デラックス』で稲垣とともに出演していた外山惠理アナウンサーは、稲垣について「質問の仕方がものすごく上手」、「私の方しか見ることができないぐらい緊張されていたゲストの方も、最後には絶対に“吾郎さん、吾郎さん”ってなる」、「どなたに対しても態度が変わらないうそのない方で、何でも答えてしまう正直な方」と語る。 連載小説『ロストマンロンリーハート』で稲垣をモデルに主人公にあてがきした飯田譲治は、『ゴロウ・デラックス』での稲垣の司会ぶりを見て「相手が作った流れを変えないように、身をまかせて話を盛り上げられる人だな」と分析し、イメージを膨らませて作品を書き上げたと明かしている。 稲垣本人はもともと話すことも好きで、20代のころに作家の村上龍と対談した際、「稲垣君は聞き上手だ」と言われたことも自信につながったと明かしている。ソロタレントになってからは、TOKYO FMの生放送音楽番組『THE TRAD』のパーソナリティを務めており、また雑誌や番組において作家や文化人との対談も多く、NHKの『不可避研究中』や『クラシック音楽館 ベートーベン250特集』シリーズなどのMCも務めており、仕事の幅を広げた。 子供の頃は『怪盗ルパン』シリーズや『名探偵ホームズ』シリーズや赤川次郎、江戸川乱歩の推理小説をよく読んでいた。10代後半からはテレビや雑誌で話題の本や自分が影響を受けた人の愛読書なども読むようになり読書の幅が広がった。そんなもともと本好きではあるが自ら読書家と名乗るほどではなかった稲垣が『ゴロウ・デラックス』を始めて以降、本や作家との新しい出会いが増えていきさらに興味を深めていった。また番組がきっかけで作家とも親睦を深めるようになり、西加奈子、羽田圭介、朝井リョウなどの作家たちがプライベートで集うお花見にも参加し文学の話などを楽しんでいる。 芸術や文学に対しても関心が深く、俳優やタレントとしてだけではなくエッセイを通してもその魅力を紹介している。20代前半から雑誌『週刊プレイボーイ』や『COSMOPOLITAN』でエッセイを連載し、アイドルながらアンダーグラウンドな世界のことも綴っていた。また昔から映画が好きな稲垣は、雑誌『an・an』で10年以上にわたり邦画洋画問わず様々なジャンルの新作映画に関する連載コラムを続けている。 2001年8月24日、東京都渋谷区内で駐車禁止の路上に止めていた乗用車に戻ってきた際に、取り締まり中の女性警察官に見つかり免許提示を求められたところ、車を発進させようとした疑いにより道路交通法違反(駐車禁止)と公務執行妨害で警視庁渋谷警察署に現行犯逮捕された。東京地検は26日午前に(車を制止しようとした女性警官の膝に車が接触したとして)傷害罪も追加すべく勾留請求を試みたが、裁判所が却下したため、同日午後には釈放された。さらに公務執行妨害についても、同年9月21日に不起訴(起訴猶予)処分とした(事件の経緯に悪質さは見られず、逃亡の意思もなかったとの判断)。 結果的には道路交通法違反(駐車禁止)のみだったが、翌年1月14日までの約5か月間、芸能活動を自粛した。 なお、この事案に関する報道において大手マスコミは、ジャニーズ事務所への忖度から「稲垣容疑者」の呼称を避け、「SMAPの稲垣メンバー」とした。 漫画家のみずしな孝之とは中学校の同級生で、2019年8月22日放送の『編集長 稲垣吾郎』で共演を果たしている。 安田顕とは生年月日が同じである。 “ヒロくん”という男性と半同居状態にある。 ※黒字は主要キャスト。
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稲垣 吾郎は、日本の俳優・歌手・タレント。男性アイドルグループ・SMAPの元メンバー。愛称は吾郎ちゃん、吾郎さん。CULEN所属。東京都板橋区出身。
{{ActorActress | 芸名 = 稲垣 吾郎 | ふりがな = いながき ごろう | 画像ファイル = Inagaki Goro from "Another World" at Opening Ceremony of the Tokyo International Film Festival 2018 (44894889684).jpg | 画像サイズ = 220px | 画像コメント = [[第31回東京国際映画祭]]にて(2018年10月) | 本名 = | 別名義 = &G | 出身地 = {{JPN}}・[[東京都]][[板橋区]] | 死没地 = | 国籍 = | 民族 = | 身長 = 176 [[センチメートル|cm]]<ref>{{Cite web |url=http://m.imdb.com/name/nm0408346/ |title=Goro Inagaki |publisher=Internet Movie Database |accessdate=2016-05-10}}</ref> | 血液型 = [[ABO式血液型|O型]]<ref>{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎| work = 新しい地図| publisher = [[CULEN]]| url = https://contents.atarashiichizu.com/?page_id=25| accessdate = 2018-03-17}}</ref> | 生年 = 1973 | 生月 = 12 | 生日 = 8 | 没年 = | 没月 = | 没日 = | 職業 = [[俳優]]・[[歌手]]・[[司会|司会者]] | ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[コマーシャルメッセージ|CM]]・[[演劇|舞台]]・[[バラエティ番組]] | 活動期間 = [[1987年]] - | 活動内容 = | 配偶者 = | 著名な家族 = | 事務所 = [[ジャニーズ事務所]](1987年 - [[2017年]])<br/>[[CULEN]](2017年 - ) | 公式サイト = [https://atarashiichizu.com/ 新しい地図] | 主な作品 = '''映画'''<br />『[[プライベート・レッスン]]』<br />『[[催眠 (映画)|催眠]]』<br />『[[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]]』<br />『[[桜、ふたたびの加奈子]]』<br />『[[半世界]]』<br />『[[ばるぼら]]』<br />『[[窓辺にて]]』<hr />'''テレビドラマ'''<br />『[[青春家族]]』<br />『[[二十歳の約束]]』<br />『[[東京大学物語]]』<br />『[[最高の恋人 (テレビドラマ)|最高の恋人]]』<br />『[[ソムリエ (漫画)|ソムリエ]]』<br />『[[陰陽師 (2001年のテレビドラマ)|陰陽師]]』<br />『[[ヨイショの男]]』<br />「[[稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ]]」<br />『[[Mの悲劇 (2005年のテレビドラマ)|Mの悲劇]]』<br />『[[ブスの瞳に恋してる]]』<br />『[[佐々木夫妻の仁義なき戦い]]』<hr/>'''劇場アニメ'''<br/>『[[ONE PIECE THE MOVIE カラクリ城のメカ巨兵]]』<!--皆が認める代表作品を入力--> | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = |グラミー賞 | ブルーリボン賞 = | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = | その他の賞 = '''[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|'''日刊スポーツ映画大賞]]'''<br />'''助演男優賞'''<br />第23回『十三人の刺客』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''男優助演賞'''<br />第65回『十三人の刺客』<hr>'''[[高崎映画祭]]'''<br>'''最優秀主演男優賞'''<br>[[2019年]]『[[半世界]]』<hr>'''[[TAMA映画祭]]<br>最優秀作品賞'''<br>[[2020年]]『[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]]』 | 備考 = [[SMAP]]の全活動期のメンバー<br />左利き<ref name="hochi20070317">{{cite news |title= 稲垣、ダメダメ男 「初心に帰れる」1年ぶり舞台 |newspaper = [[スポーツ報知]] |date= 2007-03-17 |url= https://web.archive.org/web/20070915075957/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/johnnys/news/20070317-OHT1T00069.htm|accessdate=2016-07-13 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20070915075957/http:/hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/johnnys/news/20070317-OHT1T00069.htm|archivedate= 2007-09-15}}</ref> }} '''稲垣 吾郎'''(いながき ごろう、[[1973年]]〈[[昭和]]48年〉[[12月8日]] - )は、[[日本]]の[[俳優]]・[[歌手]]・[[タレント]]。[[アイドル#男性アイドル史|男性アイドルグループ]]<!--呼称、表記については現在[[ノート:SMAP]]で議論中です。現時点で他のジャニーズタレントの記事との整合性や統一性を図るためにこの表記とします。結論が出るまで変更は避けてください。-->・[[SMAP]]の元メンバー。[[愛称]]は'''吾郎ちゃん'''、'''吾郎さん'''<ref name="gorochan" />。[[CULEN]]所属。[[東京都]][[板橋区]]出身<ref name="tower.jp 20141228">[https://tower.jp/artist/290914/%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E5%90%BE%E9%83&8E 稲垣吾郎] TOWER RECORDS ONLINE 2014年12月28日閲覧</ref>。 == 略歴 == 1973年(昭和48年)、[[東京都]][[板橋区]]に生まれ、[[高島平]]で育つ<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎が見せた地元愛に板橋区民が歓喜「板橋愛が炸裂」| url=https://e-talentbank.co.jp/news/enta/71022/|website=E-TALENTBANK|date = 2018-11-10|accessdate=2020-09-22}}</ref>。子供のころは大の[[ヤクルトスワローズ]]ファンで、13歳で芸能界入りするまではファンクラブに入り頻繁に[[神宮球場]]に足を運んでいた<ref>{{Cite web|和書| title = 出川哲朗「充電させて」3時間SP今夜、香取慎吾がスナックで新曲熱唱| publisher =お笑いナタリー| url =https://natalie.mu/owarai/news/361848| date = 2020-01-02| accessdate = 2022-12-16}}</ref>。 [[1987年]](昭和62年)11月、姉が応募した[[ジャニーズ事務所]]のオーディションを受け芸能界入り<ref name="gorochan">{{Cite news|title=稲垣、草なぎ、香取がジャニーズ事務所退社 近日中に3人で決起集会|newspaper=サンケイスポーツ|date=2017-9-9|url=https://www.sanspo.com/article/20170909-WBJEWOS7MZMVBCJTHLO6WT6J24/|access-date=2022-6-21}}</ref>。すぐに[[SMAP]]の前身グループである[[スケートボーイズ]]のメンバーとなる。 [[1988年]](昭和63年)4月、同グループから[[中居正広]]、[[木村拓哉]]、[[森且行]]、[[草彅剛]]、[[香取慎吾]]とともに選ばれ、[[男性アイドルグループ]]『[[SMAP]]』を結成(以降のグループでの活動は[[SMAP]]を参照)。 [[1989年]](平成元年)、[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]『[[青春家族]]』で、主人公の弟・阿川大地役に選ばれドラマデビュー。翌[[1990年]]、『[[さらば愛しのやくざ]]』で映画デビューも果たす。[[1991年]]、[[堀越高等学校]]卒業<ref>{{Cite web|和書|title=元SMAP3人「眠れなかった」 72時間テレビ、移動中はVTR放送|url=https://www.sanspo.com/article/20171103-RAVHAB77RNM2XEV72UBLYT7UZM/|website=SANSPO.COM|date=2017-11-03|accessdate=2020-03-17|language=ja-JP}}</ref>。 [[1992年]](平成4年)10月に[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]『[[二十歳の約束]]』にてドラマ初主演<ref>{{cite news |title= SMAP・稲垣吾郎が牧瀬里穂と付き合っていた!?動揺した中居正広が「ヒューヒューだよ!」と絶叫 |newspaper = e-talentbank |date= 2016-03-22 |url= https://e-talentbank.co.jp/news/enta/13974/|accessdate=2016-05-08 }}</ref>。 [[1993年]](平成5年)、『[[プライベート・レッスン]]』で映画初主演。映画主題歌も担当し、初のソロシングルCD「[[If You Give Your Heart]]」リリース。[[1996年]]、舞台『夜曲』で舞台初主演。翌[[1997年]]も舞台『広島に原爆を落とす日』出演し、主役のディープ山崎を演じる。翌年の再演では[[広島県|広島]]公演も行われた。 [[1998年]](平成10年)、ドラマ『[[ソムリエ (漫画)|ソムリエ]]』で主演を務める。天才[[ソムリエ]]の役を演じるにあたり、[[フランス]]まで足を運びソムリエの修行を積み、その後もワインに関する知識を高め[[ボルドーワイン]]の産地からワイン騎士号を授与される<ref name="wine">{{cite news |title= 向井理が、SMAP稲垣吾郎を「先生」と呼ぶ理由とは |date= 2016-11-13 |url= https://taishu.jp/articles/-/51748|accessdate=2018-03-12 }}</ref>。 [[2004年]](平成16年)、ドラマ『[[僕と彼女と彼女の生きる道]]』の主題歌「[[Wonderful Life (&Gの曲)|Wonderful Life]]」を'''&G'''(アンジー)名義でソロシングルCDリリースし、オリコン初登場1位。同年、「[[稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ]]」がスペシャルドラマとしてスタートし、[[2009年]]まで5作品にわたり[[金田一耕助]]を演じシリーズ化された。同年から現在(2020年)に至るまでの毎年、『[[ほんとにあった怖い話]]』のストーリーテラー役を務めている。 [[2006年]](平成18年)、アニメ映画『[[ONE PIECE THE MOVIE カラクリ城のメカ巨兵]]』に声優で出演。同年、日本で開催された[[FINAシンクロワールドカップ]]の公式サポーターとしてマーメイドプリンスを務める。これは自身初の単独公式サポーターである。[[2007年]](平成19年)も[[インターナショナル・スイム・ミート2007|世界競泳2007]]の公式サポーターとしてマーメイドプリンスを務める。 [[2010年]](平成22年)、『[[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]]』では、史上最凶の暴君として[[松平斉韶]]役を演じ[[毎日映画コンクール]]男優助演賞を受賞するなど高い評価を得る<ref>{{cite news |title= 稲垣吾郎が「芸能生活をやってて一番褒められた」と語る仕事とは|newspaper = Book Bang |url= https://www.bookbang.jp/article/525824|accessdate=2018-03-12 }}</ref>。初めての極悪非道な役は役者としても新境地となった<ref>{{Cite news | title = 稲垣吾郎:男優助演賞に「神様からの贈り物のよう」 「毎日映コン」表彰式に登場| date = 2018-02-09| newspaper = MANTANWEB |url = https://mantan-web.jp/article/20110208dog00m200052000c.html| accessdate = 2018-03-12}}</ref>。 [[2016年]](平成28年)[[12月31日]]、SMAP解散。ソロタレントとなる<ref>{{Cite news | title = 稲垣吾郎 解散に肉声で初言及「驚かせてしまって申し訳ございません」冒頭30秒間、ファンに謝罪 | newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2016-08-18| url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/08/18/kiji/K20160818013186170.html| accessdate = 2016-08-18}}</ref>。<small></small>{{main|SMAP解散騒動}}[[2017年]](平成29年)[[9月8日]]、ジャニーズ事務所公式サイトである「Johnny's net」と「Johnny's web」の稲垣のページが閉鎖され<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/news/2096769/full/| title = 稲垣吾郎・草なぎ剛・香取慎吾のサイトが8日で閉鎖 ジャニーズ公式サイトで発表| date = 2017-09-04| website = ORICON NEWS| publisher = [[オリコン]]| accessdate = 2018-06-01}}</ref>、[[9月9日]]に[[草彅剛]]、[[香取慎吾]]とともにジャニーズ事務所を退所<ref>{{Cite news | title = ジャニーズ事務所 香取ら退所3人を代弁「感謝」…サイトを8日で閉鎖と発表 | newspaper = [[デイリースポーツ|Daily Sports Online]]| date = 2017-09-04| url = https://www.daily.co.jp/gossip/2017/09/04/0010524240.shtml| accessdate = 2017-09-05}}</ref>。 [[10月16日]]、草彅、香取と共同で新事務所「[[CULEN]](カレン)」(代表はSMAP元マネージャーの[[飯島三智]])を立ち上げ独立する<ref>{{Cite news | title = 元SMAPの3人、新事務所で芸能活動へ | newspaper = [[朝日新聞デジタル|朝日新聞]]| date = 2017-09-22| url = http://www.asahi.com/articles/ASK9Q56M4K9QUCLV00K.html| accessdate = 2017-09-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170922194834/http://www.asahi.com/articles/ASK9Q56M4K9QUCLV00K.html|archivedate=2017-09-22}}</ref>。11月には公式ブログを開設。わずか2か月半で50万人以上の読者を獲得し、『[[BLOG of the year]] 2017』最優秀賞を受賞<ref>{{Cite news | title = 稲垣吾郎がブログで最優秀賞! 今年も“72時間ホンネテレビ”やるなら「前向きに検討」? | newspaper = ORICON NEWS| date = 2018-09-13| url = https://www.oricon.co.jp/special/50752/| accessdate = 2018-02-20}}</ref>。また、翌年の『BLOG of the year 2018』でも優秀賞(オフィシャル部門)に選出されている<ref>{{Cite news|title=<写真特集>市川海老蔵「BLOG of the year 2018」最優秀賞受賞 稲垣吾郎・岡田結実・鈴木伸之ら集結|newspaper=モデルプレス|date=2019-02-08|url=https://mdpr.jp/news/detail/1820883|accessdate=2019-04-18}}</ref>。 [[2018年]](平成30年)、主演映画『[[半世界]]』(2019年公開)が[[第31回東京国際映画祭]]のコンペティション部門に選出され、作品は観客賞を受賞<ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201811020000555.html |title= 稲垣吾郎主演「半世界」が東京国際映画祭で観客賞 |newspaper= 日刊スポーツ |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2018-11-02 |accessdate= 2018-11-02 }}</ref>。稲垣も第34回[[高崎映画祭]]で最優秀主演男優賞を受賞した<ref name="takasaki2020">{{Cite web|和書| url = https://mainichi.jp/articles/20200115/k00/00m/040/306000c | title = 高崎映画祭、最優秀作品賞に「嵐電」 最優秀主演男優賞は稲垣吾郎さん 授賞式は3月22日| date = 2020-01-15| website = 毎日新聞| accessdate = 2020-01-18}}</ref>。 [[2019年]](令和元年)、主演映画『[[ばるぼら]]』(2020年公開)が[[第32回東京国際映画祭]]のコンペティション部門に選出。同じ俳優による主演作が2年連続コンペティション部門に選出されるのは、13年ぶりである<ref>{{Cite web|和書|title=手塚眞監督「稲垣吾郎さんは日本で一番好きな俳優さんです」東京国際映画祭ラインナップ記者会見|url=https://nbpress.online/archives/21463|website=NB Press Online|accessdate=2020-03-10|language=ja}}</ref>。 [[2020年]](令和2年)3月、連続テレビ小説『[[スカーレット (テレビドラマ)|スカーレット]]』にヒロインの息子の主治医・大崎茂義役として出演。稲垣の連続テレビ小説への出演は前述の『青春家族』以来約30年ぶりで、脚本担当の[[水橋文美江]]は稲垣をイメージした当て書きで大崎の役を作り上げた<ref>[https://web.archive.org/web/20200307072400/https://www.nhk.or.jp/osaka-blog/scarlet/tokushu/422865.html スカーレットブログ、大崎茂義役・稲垣吾郎さんインタビュー] 2020年3月7日閲覧</ref>。また稲垣にとっての地上波連続ドラマ出演は同作品がSMAP解散・独立後初となる。 2020年(令和2年)10月、ベートーヴェン生誕250周年にちなんだNHKプロジェクト「ベートーベン250」のアンバサダーに就任。 == 人物 == 板橋区立高島第二小学校→板橋区立高島第三中学校→[[堀越高等学校]]卒業。 === 俳優として === [[明智小五郎]]と[[金田一耕助]]、二大[[名探偵]]をドラマで演じている<ref name="KINENOTE">{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎|publisher=[[KINENOTE]]|url=http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=83996|accessdate=2018-03-11}}</ref>(稲垣以外には[[岡譲司]]と[[小野寺昭]]のみ)。明智役は1998年からテレビ朝日の『[[土曜ワイド劇場]]』で演じ、当時24歳で土曜ワイド劇場史上最年少で主演も務めた<ref>{{Cite web| title = SmaTIMES || SmaSTATION!!| date = 2012-05-05| url = https://www.tv-asahi.co.jp/ss/contents/smatimes/167/| accessdate = 2016-05-08}}</ref>。 主役も脇役もこなすタイプの俳優だが、映画『[[半世界]]』の監督である[[阪本順治]]は、主演俳優としての稲垣について「主演俳優はいろんな個性を持つ俳優さんを相手に、来たボールを受けては返すキャッチャーなんです。そして、稲垣君はそれが出来る人」とし、「自分を前面に出す人ではなく、むしろ人の個性を受け止められる懐の深さがある人」と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=阪本順治監督が語る俳優・稲垣吾郎の魅力 『半世界』インタビュー|url=https://times.abema.tv/articles/-/5472553|website=AbemaTIMES|accessdate=2020-03-09|language=ja}}</ref>。 脇役では一癖も二癖もある存在感の強い役を演じることが多く、映画『[[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]]』の監督である[[三池崇史]]は稲垣を最凶の暴君とされる殿様役に起用したことについて、SMAPの中でも特殊な存在で屈折した魅力がぴったりだと思ったと語っている<ref>{{Cite news|title=『十三人の刺客』三池監督、稲垣吾郎はSMAPで特殊な立ち位置…でも重要な一員|newspaper=シネマトゥデイ|date=2010-9-10|author=中山治美|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0026806|access-date=2022-6-21}}</ref>。 一方で、映画『[[少女 (湊かなえ)|少女]]』では、登場人物の中で1人だけ地道に普通に生きていて人を憎まずしかも唯一人を許せる人間、そんな崇高さを感じさせる役として、崇高な雰囲気を持つ稲垣が演じたらおもしろいと語っている<ref>{{cite news |title= イケメンに興味がない監督が稲垣吾郎、真剣佑を起用した理由|newspaper = Filmers |date= 2016-10-06 |url= http://filmers.jp/articles/2016/10/06/post_98/|accessdate=2018-03-12 }}</ref>。 稲垣自身、芝居については大好きだが自分は天才ではないので頑張るしかないと語り<ref>{{cite news |title= 稲垣吾郎「草なぎ剛は天才」 役者としての資質に感服も「そういう風にはなれない」|newspaper = Techinsight |date= 2017-12-19 |url= https://japan.techinsight.jp/2017/12/maki12221208.html/2|accessdate=2018-03-12 }}</ref>、役者という職業については生涯やっていきたいと話している<ref>{{cite news |title= 稲垣吾郎の目に映るこれから──自分の道は自分で切り拓いていく|newspaper = GQ JAPAN |date= 2017-12-19 |url= https://gqjapan.jp/culture/celebrity/20171219/moty2017-goro-inagaki/page/2|accessdate=2018-03-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190223131825/https://gqjapan.jp/culture/celebrity/20171219/moty2017-goro-inagaki/page/2|archivedate=2019-02-23}}</ref>。 === MC・パーソナリティとして === [[TBSテレビ|TBS]]の番組『[[ゴロウ・デラックス]]』で稲垣とともに出演していた[[外山惠理]]アナウンサーは、稲垣について「質問の仕方がものすごく上手」、「私の方しか見ることができないぐらい緊張されていたゲストの方も、最後には絶対に“吾郎さん、吾郎さん”ってなる」、「どなたに対しても態度が変わらないうそのない方で、何でも答えてしまう正直な方」と語る<ref>{{Cite news|title=「ゴロウ・デラックス」外山惠理アナウンサーが語る稲垣吾郎とは?|newspaper=ザテレビジョン|date=2018-12-29|access-date=2020-3-11|url=https://thetv.jp/news/detail/173296/}}</ref>。 連載小説『ロストマンロンリーハート』で稲垣をモデルに主人公にあてがきした[[飯田譲治]]は、『ゴロウ・デラックス』での稲垣の司会ぶりを見て「相手が作った流れを変えないように、身をまかせて話を盛り上げられる人だな」と分析し、イメージを膨らませて作品を書き上げたと明かしている<ref name="jprime.jp">{{Cite web|和書|title=飯田譲治が稲垣吾郎を分析「誠実で争うのが苦手だからこそ、波にのまれてほしい(笑)」|url=https://www.jprime.jp/articles/-/14839|website=週刊女性PRIME|accessdate=2020-03-11|language=ja}}</ref>。 稲垣本人はもともと話すことも好きで、20代のころに作家の[[村上龍]]と対談した際、「稲垣君は聞き上手だ」と言われたことも自信につながったと明かしている<ref name="book2020">{{cite news|title=稲垣吾郎さん「Blume」インタビュー 「今、20代の頃の自分とすごく仲良くなれそうです」|newspaper=好書好日|date=2020-09-20|url=https://book.asahi.com/article/13736149|accessdate=2020-09-22}}</ref>。ソロタレントになってからは、[[エフエム東京|TOKYO FM]]の生放送音楽番組『[[THE TRAD]]』のパーソナリティを務めており、また雑誌や番組において作家や文化人との対談も多く、[[日本放送協会|NHK]]の『[[不可避研究中]]』や『クラシック音楽館 ベートーベン250特集』シリーズなどのMCも務めており、仕事の幅を広げた<ref name="book2020" />。 === 読書・執筆 === 子供の頃は『[[怪盗ルパン]]』シリーズや『[[名探偵ホームズ]]』シリーズや[[赤川次郎]]、[[江戸川乱歩]]の推理小説をよく読んでいた<ref name="president">{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎「私が一生読み続けたい名著」 |date=2017-12-7 |url=http://president.jp/articles/-/23856 |accessdate=2018-3-12 |publisher=プレジデント ウーマン}}</ref>。10代後半からはテレビや雑誌で話題の本や自分が影響を受けた人の愛読書なども読むようになり読書の幅が広がった。そんなもともと本好きではあるが自ら読書家と名乗るほどではなかった稲垣が『ゴロウ・デラックス』を始めて以降、本や作家との新しい出会いが増えていきさらに興味を深めていった<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎「実はトーク番組に出るのは苦手だった」|date=2017-2-23|url=https://thetv.jp/news/detail/101665/|accessdate=2018-3-12|newspaper=ザテレビジョン}}</ref>。また番組がきっかけで作家とも親睦を深めるようになり、[[西加奈子]]、[[羽田圭介]]、[[朝井リョウ]]などの作家たちがプライベートで集うお花見にも参加し文学の話などを楽しんでいる<ref>{{Cite news|title=SMAP稲垣吾郎「人気作家たちと超仲良し!?」意外すぎる交遊録|date=2016-9-29|url=https://taishu.jp/articles/-/51190?page=1|accessdate=2020-9-22|newspaper=日刊大衆}}</ref>。 芸術や文学に対しても関心が深く、俳優やタレントとしてだけではなくエッセイを通してもその魅力を紹介している<ref>{{Cite news|title=2017年のMEN OF THE YEARが今夜決定! 稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾をはじめ全9人が登場!!|newspaper=GQ JAPAN|date=2017-11-22|url=https://www.gqjapan.jp/culture/celebrity/20171122/gq-men-of-the-year-2017|access-date=2022-6-21}}</ref>。20代前半から雑誌『[[週刊プレイボーイ]]』や『[[COSMOPOLITAN]]』でエッセイを連載し、アイドルながらアンダーグラウンドな世界のことも綴っていた<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎が考える「これからのエンタメ」。ネットのゆるさは“甘さ”にもなりえる|date=2018-2-13|url=https://www.huffingtonpost.jp/entry/goro-inagaki-interview_jp_5c5aaaebe4b0cd19aa943ce0|accessdate=2018-3-12|newspaper=ハフポスト日本版}}</ref>。また昔から映画が好きな稲垣は、雑誌『[[an・an]]』で10年以上にわたり邦画洋画問わず様々なジャンルの新作映画に関する連載コラムを続けている。 === 趣味・嗜好 === ; ミリタリー :子どものころから[[クリント・イーストウッド]]に憧れ、父の背広を着てモデルガンを内ポケットに入れ街を闊歩する[[ダーティハリー]]ごっこをよくしていた<ref>{{Cite web|和書|title=堂本兄弟 |url=http://www.fujitv.co.jp/DOMOTO/guest/141.html |accessdate=2018-3-12 |publisher=フジテレビ}}</ref>。それ以来、[[銃]]にも詳しく『[[ゴロウ・デラックス]]』で[[さいとう・たかを]]氏の資料室を訪れた際には、300挺を超えるモデルガンに興奮を抑えられない様子で1挺1挺手に取ってはその型式について話をしていた<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎の「銃」好きな一面が明らかに 『ゴルゴ13』さいとう・たかをの都市伝説に迫る|url=https://www.bookbang.jp/article/515606|accessdate=2018-3-12|newspaper=Book Bang|date=2016-7-23}}</ref>。またTBSラジオ『[[ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル]]』にゲスト出演した際には、同じく銃好きな[[宇多丸]]と1時間に渡り映画の話も交えつつ熱くガントークを繰り広げた<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎さんと宇多丸さんが1時間、もの凄い勢いで銃の話をしているラジオ(最高か)|url=https://web.archive.org/web/20180526054122/https://www.tbsradio.jp/235551|website=TBSラジオ FM90.5 + AM954〜何かが始まる音がする〜|accessdate=2020-03-08}}</ref>。 ; 漫画・アニメ :幼少期に80年代の[[ガンダム]]ブームの洗礼を受けており、テレビやラジオでガンダムについて熱く語ることがよくある。『[[機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ]]』については、劇場版『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』の続編ということから、劇場に足を運んで観たいと語る。また、ガンダムシリーズの中でも特に好きな作品は『[[機動戦士Ζガンダム]]』であるが、そのΖガンダムの世界に憧れてモデルとなった香港を訪れたこともある<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎、「ガンダム愛」が溢れすぎて取り乱す? 「僕としたことが……」|newspaper=エンタMEGA|date=2020-7-7|author=相川ナロウ|url=https://entamega.com/44266|access-date=2022-6-21}}</ref>。 :同じく80年代の作品である『[[装甲騎兵ボトムズ]]』や『[[エリア88]]』も好きで、前者は自身の主演による実写化を熱望したこともある。後者は前述のミリタリー趣味と繋がっており、戦闘機、戦車、戦艦にも詳しい。 ; 音楽 :洋楽が好きになったきっかけである[[デヴィッド・ボウイ]]が未だに好きで、自身の音楽番組のラジオでも度々デヴィッド・ボウイについて語り曲を流している。 :毎朝聴くのが日課となっているほどクラシックが好きだが、特にピアノの音が好きで[[アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ]](Arturo Benedetti Michelangeli)やマヌエル・ブランカフォルト(Manuel Blancafort)などが好きである<ref>{{cite news|title=稲垣吾郎、香取&草なぎとの映画で「笑われた過去」にリベンジ|newspaper=[[テレビドガッチ]]|date=2018-03-01|url=https://plus.tver.jp/news/52595/detail/|accessdate=2018-03-12}}</ref>。 :また[[坂本龍一]]のファンで、20歳ぐらいのころに対談したのがきっかけで音楽に対する関心も広がり、レコーディングスタジオにも招待してもらっていた<ref name="president" /><ref>{{cite news|title=稲垣吾郎お気に入り「砂の果実」作詞は太宰治のあのフレーズから|newspaper=MusicVoice|date=2017-01-14|url=https://www.musicvoice.jp/news/56741/|accessdate=2018-03-12}}</ref>。 :若いころから[[サブカルチャー]]に関心を持ち、[[フリッパーズ・ギター]]や[[小沢健二]]、[[フィッシュマンズ]]などの音楽を好んで聴いていた<ref>{{cite news|title=元SMAP稲垣吾郎「19歳でマセラティ」クラブ通いの過去も語る|newspaper=smart FLASH|date=2017-10-17|url=https://smart-flash.jp/showbiz/27052/|accessdate=2018-03-12}}</ref>。稲垣が[[フィッシュマンズ]]を好きだったこともあり、[[佐藤伸治]]から稲垣のソロ曲「それはただの気分さ」(SMAPのアルバム『[[SMAP 011 ス]]』に収録。)を提供してもらった<ref>{{Cite web|和書|title=【LOVE LOVE あいしてる:トーク】|newspaper=フジテレビ|url=https://www.fujitv.co.jp/LOVELOVE/talk/133.html|accessdate=2018-03-12}}</ref>。この曲は『[[LOVELOVEあいしてる]]』に出演した際にギター演奏とともに披露している<ref>{{Cite web|和書|title=TV LIFE 連載:KIKCHY FACTORY|newspaper=フジテレビ|url=http://www.fujitv.co.jp/otogumi/kikchyfactory/tvlife169.html|accessdate=2018-03-12}}</ref>。ギターは10代のころから弾いていて、SMAPのコンサートでも演奏していた<ref>{{Cite web|和書|title=よんぱち48 hours - TOKYO FM 80.0MHz|url=http://www.tfm.co.jp/48/myster/back_guest.php|date=2012-08-10|accessdate=2018-05-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121028211635/http://www.tfm.co.jp/48/myster/back_guest.php|archivedate=2012-10-02}}</ref>。 ; ワイン :芸能界では[[ワイン]]通として知られ、自宅には200本のワインが常備されている<ref>{{cite news|title=稲垣吾郎、飲酒運転防止でワイン試飲できず「誰か運転してよ」|newspaper=スポーツ報知|date=2017-12-20|url=https://hochi.news/articles/20171220-OHT1T50120.html|accessdate=2018-03-12}}</ref>。2009年に『[[SMAPがんばりますっ!!]]』内で放送された『[[仮面ライダーG]]』ではワイン好きの稲垣にちなんで、ワインボトルをバックルに装着することで稲垣が仮面ライダーGに変身するという設定で主演していた。2015年には、稲垣がソムリエの[[田崎真也]]とともに作った[[ボジョレーヌーボー]]が[[セブン-イレブン]]から発売された<ref name="wine" />。 :2019年10月には、自らがワイナリーを探し数えきれないほどの試飲をしてセレクトしたワインのほか、メニューや内装まで稲垣がディレクションした<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎プロデュースのビストロで光る草なぎ・香取のセンス “スマスマ”時代の想い出メニューも|newspaper=[[AERA dot.]]|date=2020-1-14|author=福光恵|url=https://dot.asahi.com/articles/-/129754?page=1|access-date=2022-6-21}}</ref>レストラン「BISTRO J_O」(ビストロジョー)とカフェ「J_O CAFE」が東京・銀座にオープンした<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎が手掛け、香取慎吾がアートをセレクト!|銀座【BISTRO J_O】、【J_O CAFE】 |url=https://magazine.hitosara.com/article/1793/ |website=ヒトサラマガジン |accessdate=2020-3-8 |date=2019-10-4}}</ref>。 ; ゴルフ :ゴルフが好きで一人で回ることもある。その腕前は、プライベートで一緒に行ったことのある[[中居正広]]や[[木村拓哉]]らにすごい上手いと評価されるほどである<ref>{{Cite news|title=中居正広が稲垣吾郎との初ゴルフ語る「スタンスが違いすぎ」|date=2016-11-21|url=https://www.oricon.co.jp/news/2081765/full/|accessdate=2018-3-12|newspaper=ORICON NEWS}}</ref>。 ; 花 :普段から花が欠かせない生活をしているほど無類の花好きで<ref name="book2020" />、自身のブログやInstagramでしばしば花の美しい写真を上げている。2020年2月には「花贈りが一番似合う男性著名人」1位に選ばれた<ref>{{Cite press release|和書|title=花贈りが一番似合う男性著名人、初のランキング 1位は「稲垣吾郎」さん。地域別ランキングも実施!|publisher=一般社団法人 花の国日本協議会|date=2020-2-12|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000030732.html|access-date=2022-6-21}}</ref>。 === 不祥事 === [[2001年]][[8月24日]]、[[東京都]][[渋谷区]]内で駐車禁止の路上に止めていた乗用車に戻ってきた際に、取り締まり中の女性警察官に見つかり免許提示を求められたところ、車を発進させようとした疑いにより[[道路交通法]]違反(駐車禁止)と[[公務執行妨害]]で[[警視庁]][[渋谷警察署]]に[[現行犯]][[逮捕]]された<ref>『毎日新聞』朝刊 2001年8月25日付</ref>。[[東京地検]]は26日午前に<small>(車を制止しようとした女性警官の膝に車が接触したとして)</small>傷害罪も追加すべく勾留請求を試みたが、裁判所が却下したため、同日午後には釈放された<ref>『朝日新聞』朝刊 2001年8月27日付</ref>。さらに公務執行妨害についても、同年9月21日に不起訴([[起訴猶予処分|起訴猶予]])処分とした<ref>『毎日新聞』朝刊 2001年9月22日付</ref><small>(事件の経緯に悪質さは見られず、逃亡の意思もなかったとの判断)</small>。 結果的には道路交通法違反(駐車禁止)のみだったが、翌年1月14日までの約5か月間、芸能活動を自粛した<ref>{{Cite news|title=「生まれ変わりました」稲垣吾郎、生謝罪で涙の復帰|newspaper=[[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]|date=2002-01-15|url=http://www.sanspo.com/geino/top/gt200201/g_top2002011501.html|accessdate=2017-06-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20031003184022/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200201/g_top2002011501.html|archivedate=2003-10-03}}</ref>。 なお、この事案に関する報道において大手マスコミは、ジャニーズ事務所への忖度から「稲垣容疑者」の呼称を避け、「SMAPの稲垣メンバー」とした{{Refnest|当時[[フジテレビ]]アナウンサーだった[[長谷川豊]]は、当時マネージャーであった[[飯島三智]]から、「容疑者」ではなく「メンバー」と呼ばなければもうSMAPを『SMAP×SMAP』に出させない、との圧力があったことを、2018年に自身のブログで公表している<ref>{{Cite web|和書|title=もういっそのこと「メンバー」を流行語にした方が面白そうだ |url=http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/archives/51918977.html?ref=popular_article&id=5734562-9561657 |website=長谷川豊公式ブログ「本気論 本音欄」 |work=livedoor blog |date=2018-05-01 |accessdate=2023-09-28}}</ref>}}。 === その他 === 漫画家の[[みずしな孝之]]とは中学校の同級生で、2019年8月22日放送の『[[編集長 稲垣吾郎]]』で共演を果たしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.joqr.co.jp/article/detail/post_66.php|title=稲垣吾郎が中学同級生と二人同窓会! 「なんか恥ずかしい。照れくさいな」|date=2019-08-28|website=文化放送|accessdate=2020-09-22}}</ref>。 [[安田顕]]とは生年月日が同じである。 “ヒロくん”という男性と半同居状態にある<ref>{{Cite web|和書|title=SMAP稲垣吾郎、謎の同居人ヒロくんは「家族、大切な存在」 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2050457/full/ |website=ORICON NEWS |access-date=2022-08-16}}</ref>。 == 受賞歴 == * 第23回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]] 助演男優賞『[[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]]』 * 第65回[[毎日映画コンクール]] 男優助演賞『十三人の刺客』 * 第15回[[日本インターネット映画大賞]] 助演男優賞『十三人の刺客』 * [[GQ JAPAN#GQ Men of the Year|GQ MEN OF THE YEAR]] 2017・インスピレーション賞<ref>{{Cite web|和書|title=2017年のGQ MEN OF THE YEARが決定! 稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾、佐藤琢磨、長谷川博己、秋山竜次、野田洋次郎、佐藤天彦、斎藤工の全9人が受賞|url=https://gqjapan.jp/culture/celebrity/20171122/gq-men-of-the-year-2017|publisher=GQ JAPAN|date=2017-11-22|accessdate=2017-11-25}}</ref> * Pen クリエイター・アワード 2018<ref>{{Cite web|和書| url = https://news.mynavi.jp/article/20181127-731139/| title = 稲垣吾郎・松岡茉優・吉田鋼太郎ら、「Pen クリエイター・アワード」受賞| date = 2018-11-27| website = マイナビニュース| publisher = マイナビ| accessdate = 2019-02-12}}</ref> * 第34回[[高崎映画祭]] 最優秀主演男優賞『[[半世界]]』<ref name="takasaki2020" /> * 2022年 岐阜新聞映画部ベスト・テン 主演男優賞『[[窓辺にて]]』<ref>{{Cite web|和書|title=2022年 岐阜新聞映画部ベスト・テン|url=https://gifumovieclub.com/news/6526|accessdate=2023-01-18|publisher=岐阜新聞映画部}}</ref> == 出演 == {{Main2|SMAPのグループ出演|SMAP#出演}} ※'''黒字'''は主要キャスト。 === テレビドラマ === * [[連続テレビ小説]]([[日本放送協会|NHK]]) ** [[青春家族]](1989年) - 阿川大地 役 ** [[スカーレット (テレビドラマ)|スカーレット]](2020年3月) - 大崎茂義 役<ref>{{Cite web|和書|title=『スカーレット』ヒロインを支える医師役の稲垣吾郎 〝朝ドラ〟との縁、役者としての思いを語る|ウォーカープラス|url=https://www.walkerplus.com/article/225775/|website=ウォーカープラス(Walkerplus)|accessdate=2020-11-13|language=ja}}</ref> * [[時間ですよ#新春!時間ですよスペシャル「梅の湯の結婚式はギャグでいっぱい」|新春!時間ですよスペシャル「梅の湯の結婚式はギャグでいっぱい」]](1990年1月2日、[[TBSテレビ|TBS]]) * [[学校へ行こう! (テレビドラマ)|学校へ行こう!]](1991年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 藤井徹 役 ** 学校へ行こう!SPECIAL 旅立ちの朝に…(1992年、フジテレビ) - 進 役 * [[大人は判ってくれない (テレビドラマ)|大人は判ってくれない]]「1992年のバタフライ」(1992年、フジテレビ) - 矢吹英二 役 * [[二十歳の約束]](1992年、フジテレビ)- '''主演・赤木純平''' 役([[牧瀬里穂]]とW主演) * [[大河ドラマ]] [[炎立つ (NHK大河ドラマ)|炎立つ]](1993年、NHK) - 小田忠平 役 * [[嘘でもいいから]](1993年、[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]] ・[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - '''主演・野上文也''' 役([[樋口可南子]]とW主演) * [[月曜ドラマイン]]([[テレビ朝日]]) ** [[東京大学物語]](1994年) - '''主演・村上直樹''' 役([[瀬戸朝香]]とW主演) ** [[最高の恋人 (テレビドラマ)|最高の恋人]](1995年) - '''主演・吉永ミチオ''' 役([[高橋由美子]]とW主演) * 愛の感動のドキュメント さっちゃんウソついてごめんネ(1995年、TBS) - '''高木まさや''' 役 * [[BLACK OUT]] Futurity 1「DNA」(1995年、テレビ朝日) - 武藤譲一郎 役 * [[木曜の怪談]]「午前0時の血」(1995年、フジテレビ) - '''主演''' * '96[[新春ドラマスペシャル]] [[素晴らしき家族旅行]](1996年、フジテレビ) - 菊地忠紘 役 * [[東京SEX]] バレンタインスペシャル(1996年、フジテレビ) - '''主演・菅原達郎''' 役 * 恋愛前夜 いちどだけ 第2話「ファーストキス」(1996年、日本テレビ) - '''主演・新井裕一''' 役 * 愛が叫んでる 幸福を探す女(1996年、よみうりテレビ・日本テレビ) - 夏目正次 役 * 最後の家族旅行(1996年、TBS) - 菊地忠紘 役 * 新春ドラマスペシャル [[僕が僕であるために (テレビドラマ)|僕が僕であるために]](1997年、フジテレビ) - 木下正己 役(SMAP'''主演''') * [[彼 (テレビドラマ)|彼]](1997年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・フジテレビ) - '''岡本俊矢''' 役 * [[恋の片道切符 (テレビドラマ)|恋の片道切符]](1997年、日本テレビ) - '''森慎一''' 役 * [[踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル]](1997年、フジテレビ)<ref name="modelpress20161123">{{Cite web|和書| title = SMAP稲垣吾郎、織田裕二と19年ぶり共演〈コメント到着〉| publisher = [[モデルプレス]]| date = 2016-11-21| url = https://mdpr.jp/news/detail/1637855| accessdate = 2016-11-23}}</ref> - '''鏡恭一''' 役 * [[土曜ワイド劇場]] 名探偵明智小五郎(テレビ朝日) - '''主演・[[明智小五郎]]''' 役 ** 名探偵明智小五郎 「[[陰獣]]」(1998年) ** 名探偵明智小五郎 「エレベーター密室殺人」(2000年) * [[世にも奇妙な物語]](フジテレビ) ** [[世にも奇妙な物語 秋の特別編 (1998年)|秋の特別編 (1998年)]]「中学教師」(1998年9月25日) - '''主演・別所右'''(あきら) 役 ** [[世にも奇妙な物語 SMAPの特別編|SMAPの特別編]]「[[僕は旅をする]]」(2001年1月1日) - '''主演・田代克也''' 役 ** [[世にも奇妙な物語 春の特別編 (2003年)|春の特別編 (2003年)]]「顔を盗まれた」(2003年3月24日) - '''主演・松倉準''' 役 ** [[世にも奇妙な物語 25周年スペシャル・春 〜人気マンガ家競演編〜|25周年スペシャル・春 〜人気マンガ家競演編〜]]「自分を信じた男」(2015年4月11日) - '''主演・薄井次郎''' 役<ref>{{Cite news | title = “影の薄い男”稲垣吾郎、12年ぶり「世にも奇妙な物語」主演!| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2015-03-28| url = https://www.sanspo.com/article/20150328-KKY5URZKVNI75JOY5GOD7QJEVQ/| accessdate = 2016-01-24}}</ref> * [[ソムリエ (漫画)|ソムリエ]](1998年、関西テレビ・フジテレビ) - '''主演・佐竹城''' 役 * [[NHKドラマ館]] さよなら五つのカプチーノ(1998年、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - '''谷山泰道''' 役 * [[サントリーミステリー大賞]]スペシャル [[心室細動 (小説)|心室細動]](1998年、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]・テレビ朝日) - 大江哲生 役 * [[古畑任三郎|古畑任三郎 vs SMAP]](1999年1月3日、フジテレビ) - '''稲垣吾郎'''(本人) 役 * [[金曜エンタテイメント]] [[ほんとにあった怖い話]]「白昼のベル」(1999年、フジテレビ) - 館山道隆 役 * [[危険な関係 (1999年のテレビドラマ)|危険な関係]](1999年、フジテレビ) - '''河瀬鷹男''' 役 * [[日曜劇場|東芝日曜劇場 → 日曜劇場]](TBS) ** [[催眠 (テレビドラマ)|催眠]](2000年) - '''主演・嵯峨敏也''' 役 ** [[ヨイショの男]](2002年) - '''主演・桜井孝太郎''' 役 ** [[Mの悲劇 (2005年のテレビドラマ)|Mの悲劇]](2005年) - '''主演・安藤衛''' 役 ** [[佐々木夫妻の仁義なき戦い]](2008年) - '''主演・佐々木法倫''' 役 * [[慎吾ママドラマスペシャル おっはーは世界を救う]](2001年、フジテレビ) - 友情出演 * [[陰陽師 (2001年のテレビドラマ)|陰陽師]](2001年、NHK総合) - '''主演・[[安倍晴明]]''' 役 * 特別企画 [[結婚の条件 (2002年のテレビドラマ)|結婚の条件]](2002年、テレビ朝日) - '''主演・倉嶋薫''' 役 * [[恋愛偏差値]] 第2章「Party」(2002年、フジテレビ) - '''夏目勇作''' 役 * ミュージックinドラマ ホシに願いを(2004年、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BShi]]) - '''主演・岡本秀太''' 役<ref>{{Cite news | title = SMAP稲垣主演の踊るドラマ| newspaper = [[日刊スポーツ|nikkansports.com]]| date = 2003-12-02| url = http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-031202-0009.html| accessdate = 2017-06-17|archiveurl= https://web.archive.org/web/20031209170932/http:/www.nikkansports.com/ns/entertainment/f-et-tp0-031202-0009.html|archivedate= 2003-12-09}}</ref> * [[稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ]](フジテレビ) - '''主演・[[金田一耕助]]''' 役 ** [[土曜プレミアム|プレミアムステージ]] [[犬神家の一族]](2004年) ** 金曜エンタテイメント [[八つ墓村]](2004年) ** 金曜エンタテイメント新春特別企画 [[女王蜂 (横溝正史)|女王蜂]](2006年) ** [[金曜プレステージ]] [[悪魔が来りて笛を吹く]](2007年) ** [[悪魔の手毬唄]](2009年) * プレミアムステージ特別企画 9.11(2004年[[9月11日]]、フジテレビ) - '''杉山陽一''' 役(特別出演) * [[X'smap〜虎とライオンと五人の男〜]](2004年12月25日、フジテレビ) - ジュニア 役(SMAP'''主演''') * [[飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ#テレビドラマ版|飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ]](2005年、フジテレビ) - '''主演・沢村清治''' 役 * [[ブスの瞳に恋してる]](2006年、関西テレビ・フジテレビ) - '''主演・山口おさむ''' 役 ** ブスの瞳に恋してる 恋の軌跡、愛の未来スペシャル〜初めてのクリスマス・エビちゃんの逆襲〜(2006年12月26日、関西テレビ・フジテレビ) - 同上 * [[花ざかりの君たちへ (テレビドラマ)#花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜|花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜]] 第9話(2007年8月29日、フジテレビ) - 北浜昇 役(特別出演) * [[トライアングル (小説)|トライアングル]](2009年、関西テレビ・フジテレビ) - '''黒木舜''' 役 * [[仮面ライダーG]](2009年1月31日、テレビ朝日) - '''主演・吾郎/仮面ライダーG''' 役 * [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (テレビドラマ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]] 第5話(2009年9月5日、TBS) - [[こちら葛飾区亀有公園前派出所の登場人物#友人・知人関係|白鳥麗次]] 役 * [[流れ星 (2010年のテレビドラマ)|流れ星]](2010年、フジテレビ) - 槇原修一 役 * [[水曜ドラマ (日本テレビ)|水曜ドラマ]] [[ブルドクター]](2011年、日本テレビ) - '''名倉潤之助''' 役 * [[ハングリー!]](2012年、関西テレビ・フジテレビ) - 麻生時男 役 * 金曜プレステージ [[Dr.検事モロハシ]](2012年3月23日、フジテレビ) - '''主演・諸橋正志''' 役 ** Dr.検事モロハシ〜新たなる生命〜(2014年7月1日、フジテレビ) - 同上 * [[金曜ナイトドラマ]] [[信長のシェフ#テレビドラマ|信長のシェフ]](2013年、テレビ朝日) - [[明智光秀]] 役(特別出演) ** 信長のシェフ PART2(2014年、テレビ朝日) - 同上 * [[心療中-in the Room-]](2013年、日本テレビ) - '''主演・天間了''' 役 * [[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]] [[TAKE FIVE〜俺たちは愛を盗めるか〜]](2013年、TBS) - '''岩月櫂''' 役 * [[福家警部補の挨拶#フジテレビ版(2014年)|福家警部補の挨拶]](2014年、フジテレビ) - '''石松和夫''' 役 * [[HEAT (テレビドラマ)|HEAT]](2015年、関西テレビ・フジテレビ) - 日比野仁 役<ref>{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎が冷徹な社長役でAKIRAとドラマ初共演| publisher = [[ザテレビジョン]]| date = 2015-05-27| url = https://thetv.jp/news/detail/59190/| accessdate = 2016-01-24}}</ref> * 金曜ナイトドラマ [[不機嫌な果実#テレビドラマ(2016年版)|不機嫌な果実]](2016年、テレビ朝日) - '''水越航一''' 役<ref>{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎、潔癖でマザコン“ダメ夫”役に発奮 『不機嫌な果実』出演| publisher = [[ORICON STYLE|オリコン]]| date = 2016-03-14| url = https://www.oricon.co.jp/news/2068430/full/| accessdate = 2016-03-14}}</ref> ** 不機嫌な果実スペシャル〜3年目の浮気〜(2017年1月6日・13日、テレビ朝日) - 同上<ref>{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎の“マザコン”彼氏ぶりが相変わらず凄かった「本当にはまり役」「最高すぎ」の声相次ぐ| publisher = [[モデルプレス]]| date = 2017-01-07| url = https://mdpr.jp/news/detail/1652878| accessdate = 2017-06-17}}</ref> * [[警視庁捜査二課・郷間彩香 特命指揮官|特命指揮官 郷間彩香]](2016年10月22日、フジテレビ) - 國井哲也 役<ref>{{Cite news|url=https://mdpr.jp/news/detail/1622666|title= 松下奈緒、女子力高い刑事に 鈴木亮平・稲垣吾郎ら豪華キャスト出演 | publisher = [[modelpress]]|date= 2016-10-10|accessdate= 2016-10-11}}</ref> * [[IQ246〜華麗なる事件簿〜]] 第8話(2016年12月4日、TBS) - 牛田寛人 役<ref name="modelpress20161123" /> * [[コズミックフロント☆NEXT|コズミック フロント☆NEXT]]「いにしえの天文学者 安倍晴明」(2020年11月26日、[[NHK BSプレミアム]]) - '''主演・安倍晴明''' 役<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎が約20年ぶりに安倍晴明に!「うれしいです。すごく縁を感じています」|newspaper=ザテレビジョン|date=2020-11-11|url=https://thetv.jp/news/detail/1010426/|access-date=2022-6-21}}</ref><ref group="注">2001年の「[[陰陽師 (2001年のテレビドラマ)|陰陽師]]」(NHK総合[[ドラマDモード]])の主演・安倍晴明役以来、19年ぶりに演じている。</ref> * [[よるドラ]] [[きれいのくに]](2021年4月12日、NHK総合) - '''男''' 役 * [[風よ あらしよ]](2022年、[[NHK BS4K]]・NHK BSプレミアム)- [[辻潤]] 役<ref>{{Cite web2|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/14/kiji/20220114s00041000354000c.html|title=吉高由里子 女性解放運動家・伊藤野枝役「風よ あらしよ」主演に覚悟「花アン」以来8年ぶりNHKドラマ|website=スポニチAnnex|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2022-01-14|accessdate=2022-01-14}}</ref> === WEBドラマ === * [[東京BTH〜TOKYO BLOOD TYPE HOUSE〜]](2018年12月7日、[[Amazon Prime Video]]) - '''主演・ゴロー''' 役([[要潤]]、[[勝地涼]]とのトリプル主演) * [[誰かが、見ている]] 第5話(2020年9月18日、Amazon Prime Video) - レッツ大納言 役<ref>{{Cite news|title=三谷幸喜×香取慎吾「誰かが、見ている」の“日本を代表する演歌歌手”役に稲垣吾郎|newspaper=ステージナタリー|date=2020-08-05|url=https://natalie.mu/stage/news/390543|accessdate=2020-08-05}}</ref> * [[幽☆遊☆白書#実写ドラマ|幽☆遊☆白書]](2023年12月14日、[[Netflix]]) - 左京 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/548712|title=綾野剛・滝藤賢一が戸愚呂兄弟、稲垣吾郎は左京に「幽☆遊☆白書」新キャスト9名解禁|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-11|accessdate=2023-11-11}}</ref> === 映画 === * [[さらば愛しのやくざ]](1990年) - 高梨隆 役 * [[プライベート・レッスン]](1993年) - '''主演・佐藤健''' 役 * [[シュート!]](1994年) - 馬堀圭吾 役(SMAP'''主演''') * [[スーパースキャンダル]](1996年) - '''主演・太田俊哉''' 役 * [[パラサイト・イヴ]](1997年) - 大野達郎 役 * [[催眠 (映画)|催眠]](1999年) - '''主演・嵯峨敏也''' 役 * [[笑の大学]](2004年) - '''主演・椿一''' 役([[役所広司]]とW主演) * [[踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!]](2010年) - 鏡恭一 役 * [[十三人の刺客 (2010年の映画)|十三人の刺客]](2010年) - '''[[松平斉韶]]''' 役 * [[ふたたびの加奈子#映画|桜、ふたたびの加奈子]] (2013年) - '''主演・桐原信樹''' 役([[広末涼子]]とW主演)<ref>{{Cite interview|和書|subject=[[広末涼子]]、稲垣吾郎|interviewer=南樹里|url=https://www.cinematoday.jp/interview/A0003651|title=広末涼子&稲垣吾郎 単独インタビュー 一貫して命が感じられる作品|date=2013|work=シネマトゥデイ|accessdate=2014-04-29}}</ref> * [[おしん#実写映画版|おしん]](2013年) - 谷村作造 役 * [[少女 (湊かなえ)#映画|少女]](2016年) - 高雄孝夫 役<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/04/28/kiji/K20160428012485630.html|title=稲垣吾郎、大好き湊ワールド堪能 映画「少女」に出演|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-04-27|accessdate=2016-04-27}}</ref> * [[クソ野郎と美しき世界]]「[[クソ野郎と美しき世界#EPISODE.01「ピアニストを撃つな!」|ピアニストを撃つな!]]」(2018年) - '''ゴロー''' 役<ref>{{cite news|url=https://www.cinemacafe.net/article/2018/02/20/55478.html|title=稲垣吾郎、きわどいシャワーシーンに挑戦? “園組”強烈なビジュアルで集結|newspaper=cinemacafe.net|publisher=[[カフェグルーヴ]]|date=2018-02-20|accessdate=2018-05-30}}</ref> * [[半世界]](2019年) - '''主演・高村紘''' 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/269241|title=稲垣吾郎が阪本順治の新作「半世界」で主演、共演に長谷川博己、池脇千鶴、渋川清彦(コメントあり)|publisher=映画ナタリー|date=2018-02-13|accessdate=2018-02-13}}</ref> *[[海辺の映画館―キネマの玉手箱]](2020年7月31日) ー [[大久保利通]] 役<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎、武田鉄矢ら豪華キャストが集結 大林宣彦監督の最新作予告映像解禁|url=https://www.oricon.co.jp/news/2155244/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2020-03-05}}</ref> * [[ばるぼら#映画|ばるぼら]] (2020年11月20日) - '''主演・美倉洋介''' 役([[二階堂ふみ]] とW主演)<ref>{{Cite news|title=手塚治虫の問題作「ばるぼら」実写映画化 主演に稲垣吾郎、ヒロイン役に二階堂ふみ|date=2018-11-21|newspaper=映画.com|url=https://eiga.com/news/20181121/22/|accessdate=2018-11-21}}</ref>  * [[窓辺にて]](2022年11月4日) - '''主演・市川茂巳''' 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/480383|title=稲垣吾郎が今泉力哉とタッグ、大人のラブストーリー「窓辺にて」11月公開|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-06-06|accessdate=2022-06-06}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/494457|title=妻の浮気を知ったのに怒りが湧かない…稲垣吾郎の主演作「窓辺にて」予告公開|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-21|accessdate=2022-09-21}}</ref> * [[正欲]](2023年11月10日) - '''主演・寺井啓喜''' 役<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎&新垣結衣出演映画『正欲』、来年2023年公開決定 - TOWER RECORDS ONLINE |url=https://tower.jp/article/news/2022/09/13/tg004 |website=tower.jp |access-date=2022-10-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎×新垣結衣 朝井リョウ原作「正欲」岸善幸監督のメガホンで映画化 23年公開 : 映画ニュース |url=https://eiga.com/news/20220912/5/ |website=映画.com |access-date=2022-10-29 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/eiga/news/533262|title=稲垣吾郎×新垣結衣「正欲」公開日は11月10日、特報や新キャストも解禁|newspaper=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-07-18|accessdate=2023-07-18}}</ref> * [[風よ あらしよ#映画|風よ あらしよ 劇場版]](2024年2月9日公開予定) - [[辻潤]] 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/movie/2023/10/post-1472950.html|title=吉高由里子主演『風よ あらしよ 劇場版』 2024年2月9日公開へ 共演に永山瑛太、稲垣吾郎ら|website=リアルサウンド映画部|publisher=blueprint|date=2023-10-27|accessdate=2023-10-27}}</ref> * あんのこと(2024年6月7日公開予定) - 桐野達樹 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/553899|title=入江悠×河合優実「あんのこと」佐藤二朗が刑事役、稲垣吾郎がジャーナリスト役で出演|website=映画ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-12-20|accessdate=2023-12-20}}</ref> === テレビ番組 === ==== レギュラー ==== * [[WIN (テレビ番組)|WIN]](1996年10月 - 1997年9月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - '''司会''' * [[特命リサーチ200X]](1997年1月 - 2001年8月、日本テレビ) - '''伊達徹''' 役 ** 特命リサーチ200XII(2002年2月 - 2004年3月、日本テレビ) - 同上 * 稲垣芸術館(2000年4月 - 9月、フジテレビ) - '''冠番組''' * [[未来の瞳]](2000年4月 - 2001年3月、TBS系) - ナレーション * [[SmaSTATION!!]](2004年4月10日 - 2017年9月、[[テレビ朝日]]) - 映画評コーナー<ref group="注">「ツキイチゴロー」→「ゴローのムービージャッジ」</ref>出演(不定期) * 楽語びより(2003年1月2日、4月 - 9月、フジテレビ) - '''朗読''' ** [[忘文]] → 忘文〜Beautiful Season~(2003年10月 - 2010年3月、フジテレビ) - 同上 * [[ほんとにあった怖い話]](2004年1月 - 3月・10月 - 2005年3月、フジテレビ) - '''ストーリーテラー''' * [[吾郎の細道]](2004年4月 - 6月、TBS) - '''冠番組''' ** [[吾郎のソナタ]](2004年7月 - 9月、TBS) - 同上 * [[Goro's Bar]](2004年10月 - 2009年3月、TBS) - '''冠番組''' ** [[Goro's Bar Presents マイ・フェア・レディ]](2009年4月 - 2010年3月、TBS) - 同上 ** [[G.I.ゴロー]](2010年4月 - 9月、TBS) - 同上 * [[哀愁探偵1756]](2010年10月14日 - 2011年3月24日、TBS) - '''司会''' * [[ゴロウ・デラックス]](2011年4月 - 2019年3月、TBS) - '''冠番組''' * [[不可避研究中]](2019年11月29日<!--プロローグ。本放送第1回は12月27日。--> - 2023年3月22日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]) - '''MC'''<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎 NHK総合の新ジャーナル番組「不可避研究中」でMC|newspaper=Sponichi Annex|date=2019-11-28|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/11/28/kiji/20191128s00041000174000c.html|accessdate=2019-11-28}}</ref> * [[ワルイコあつまれ]](2021年9月13日・20日・2022年1月1日、2022年4月9日 - 、 [[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]) - '''メイン出演者'''<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾のEテレ新番組「ワルイコあつまれ」が“告知なし”スタート!今晩再放送も(コメントあり)|newspaper=音楽ナタリー|date=2021-09-13|url=https://natalie.mu/music/news/444890|accessdate=2021-09-13}}</ref> * [[趣味の園芸]]「稲垣吾郎 グリーンサムへの12か月」(2023年4月2日 - 、Eテレ) - 毎月1回<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎が“グリーンサム”目指す12カ月「趣味の園芸」レギュラー出演に「楽しんでいきたい」|newspaper=音楽ナタリー|date=2023-03-19|url=https://natalie.mu/music/news/517184|accessdate=2023-06-26}}</ref> ==== 単発 ==== <!-- 単発のゲスト出演は記述不要。冠番組・司会を務めた番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 --> * [[感動エクスプレス]]「[[篠原勝之]]ゲタ紀行」(1999年1月15日、フジテレビ系) - ナレーション * サイエンススペシャル 知的探検シリーズ(フジテレビ) ** 記憶の海へ(2000年3月27日 - 30日) - '''進行''' ** 時間の迷宮(2001年2月12日 - 15日) - '''進行'''<ref>{{cite news |title= 稲垣は「時間」を考える知的探求番組|newspaper = [[日刊スポーツ|nikkansports.com]] |date= 2001-01-24 |url= http://www.nikkansports.com/news/entert/p-et-tp0-010124-03.html|accessdate=2016-11-23 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20010126021800/http:/www.nikkansports.com/news/entert/p-et-tp0-010124-03.html|archivedate= 2001-01-26}}</ref> ** 稲垣吾郎の音楽狂時代(2002年3月4日 - 7日) - '''冠番組''' * ほんとにあった怖い話(1999年 - 、フジテレビ[[金曜エンタテイメント]]・[[カスペ!]]・[[土曜プレミアム]]) - '''ストーリーテラー''' * 卒業のうた-[[兵庫県立神戸工業高等学校|県立神戸工業高校]] 青春の短歌-(2000年5月4日、NHK総合) - ナレーション * [[フレデリック・ショパン|ショパン]]2つの愛の物語(2001年2月10日、日本テレビ) - '''ナビゲーター''' * [[スーパーフライデー]]「[[乙武洋匡]]スペシャル!」(2002年9月13日、TBS系) - ナレーション * FNSサイエンススペシャル [[タモリの未来予測TV]](2003年2月24日 - 27日・2004年2月21日、フジテレビ) - 未来予測士 * 超歴史ミステリー 人類史上最高の天才[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の秘密(2004年3月20日、日本テレビ) * 稲垣吾郎のザ・ディスクロージャー(2004年8月4日、テレビ朝日[[スイスペ!]]・2005年2月19日、[[ドスペ!]]) - '''冠番組''' * [[FINAシンクロワールドカップ]]2006 マーメイドプリンス - 公式サポーター ** [[2007年世界水泳選手権]] マーメイドプリンス - 公式サポーター<ref>{{Cite news | title = 金ピカ稲垣吾郎が「世界水泳」案内役| newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2007-03-04| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2007jya/KFullNormal20070304059.html| accessdate = 2017-05-14|archiveurl= https://web.archive.org/web/20160807091435/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2007jya/KFullNormal20070304059.html|archivedate= 2016-08-07}}</ref> * [[カスペ!]] 消えた犯人逮捕の決定的瞬間(2008年 - 2013年、フジテレビ) - '''ナビゲーター''' *歴史がくつがえる!?ナスカの地上絵に世界最古の巨大ピラミッドが出現!!(2010年4月4日、TBS) - '''ナビゲーター''' * [[どれだけ食えスト|どれだけ食えスト3 夢のSMAP対決スペシャル!]](2012年3月16日、日本テレビ) - [[香取慎吾]]と対決 * 東京・大江戸発見伝ゴロケン(2013年1月6日、フジテレビ) - '''MC・冠番組''' ** おもしろ雑学検定クイズ!ゴロケン(2013年8月10日、フジテレビ) - '''MC・冠番組''' * [[1位じゃなくっていいじゃない]](2015年1月25日、7月19日<ref>{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎&草なぎ剛のユル司会再び、テレ東特番第2弾| publisher = [[ザテレビジョン]]| date = 2015-07-19| url = https://thetv.jp/news/detail/61402/| accessdate = 2016-07-13}}</ref>、テレビ東京) - [[草彅剛]]と'''MC''' * 梅ゴローのぶらり旅(2018年1月4日、フジテレビ)- [[梅沢富美男]]との'''冠番組'''<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎が出演『梅ゴローのぶらり旅』で起きた突然の「設定変更」に驚愕|url=https://www.jprime.jp/articles/-/11786|website=週刊女性PRIME|accessdate=2020-03-05|language=ja}}</ref> * 稲垣吾郎“運命”に出会う。〜[[ウィーン]] [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の旅〜(2018年7月22日、[[BS-TBS]]) - '''冠番組'''<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎が天才・ベートーヴェンの足跡を辿る特別番組が、BS-TBSにて7月22日(日)朝10時から放送|newspaper=SPICE|date=2018-7-10|url=https://spice.eplus.jp/articles/197543|access-date=2022-6-21}}</ref> * 爽快吾郎(2018年10月3日 - 24日、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - '''冠番組'''<ref>{{Cite news|title=元SMAP退所組で唯一地上波の仕事が絶えない稲垣吾郎が“5人”復活のキーマンに!?|newspaper=日刊サイゾー|date=2018-10-3|url=https://www.cyzo.com/2018/10/post_177508_entry.html|access-date=2022-6-21}}</ref> * [[NST新潟総合テレビ]]開局50周年特別記念番組『スポーツで開く新しい地図』(2018年9月28日) * 略してブラリク(2018年12月1日・15日、[[RKB毎日放送]]) - '''メイン出演者'''<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾が福岡で街ブラ「略してブラリク」|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2018-11-19|url=https://hochi.news/articles/20181119-OHT1T50087.html|accessdate=2018-11-26}}</ref> * [[100分de名著|100分deナショナリズム]](2020年1月1日、NHK Eテレ) - '''司会'''<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎、NHK・Eテレ正月特番で司会を担当|newspaper=日刊スポーツ|date=2019-11-20|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201911200000344.html|accessdate=2019-11-28}}</ref> * [[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!]]「クイズ稲垣吾郎の100のコト」(2020年6月14・21日)<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎、『ガキ使』名物企画に登場 SMAPで一番好きな曲を告白|url=https://sirabee.com/2020/06/15/20162348913/|website=ニュースサイトしらべぇ|date=2020-06-14|accessdate=2020-06-22|language=ja}}</ref> * 「ベートーベン250」プロジェクト(NHK Eテレ) - '''アンバサダー''' ** ベートーベン250開幕特番「今こそベートーベン!」<ref>{{Cite web|和書|title=アンバサダーを務めるのは稲垣吾郎! 「ベートーベン250」プロジェクト|url=https://web.archive.org/web/20200904122514/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=24978|website=NHK_PR|accessdate=2020-09-03|language=ja|last=日本放送協会}}</ref>(2020年9月18日)<ref>{{Cite web|和書|title=NHK「ベートーベン250」アンバサダーの稲垣吾郎「これこそ運命だなと」(コメントあり)|url=https://natalie.mu/stage/news/394799|website=ステージナタリー|accessdate=2020-09-03|language=ja|publisher=株式会社ナターシャ}}</ref> ** [[クラシック音楽館]]「ベートーベン特集」(2020年9月20日・10月18日・12月6日)<ref name="日本放送協会">{{Cite web|和書|title=アンバサダーを務めるのは稲垣吾郎! 「ベートーベン250」プロジェクト|url=https://web.archive.org/web/20200904122514/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=24978|website=NHK_PR|accessdate=2020-09-03|language=ja|last=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎がアンバサダー NHKベートーヴェン生誕250年プロジェクトスタート|url=https://www.cinra.net/news/20200902-beethoven|website=CINRA.NET|accessdate=2020-09-03|language=ja}}</ref> * ハリウッド 華麗なる物件案内(2020年12月28日 、[[NHK BSプレミアム|BSプレミアム]]) - '''MC''' === WEB番組 === * SNSバラエティ([[ABEMA|AbemaTV → ABEMA]]) ** [[72時間ホンネテレビ]](2017年11月2日 - 5日) - 香取・草彅と共に'''司会'''。 ** 27Hunホンノちょっとテレビ(2018年1月1日) - 香取・草彅と共に'''司会'''。 ** 72Hunもうちょっとテレビ 〜香取慎吾バースデー特番〜(2018年1月30日 - 31日) - 香取と共に'''司会'''。 ** [[7.2 新しい別の窓]](2018年4月1日 -) - 香取・草彅と共に'''司会'''のレギュラー番組。 *GLOW Premium Salon 2020〜Aging Gracefully〜(2020年11月28日、[[YouTube]]) <!-- 「No.9 -不滅の旋律-」(2020年12月13日)は有料配信をABEMAでやっただけです。 --> === ラジオ === * [[編集長 稲垣吾郎#STOP THE SMAP|稲垣吾郎のSTOP THE SMAP]](2012年4月 - 2016年12月29日、[[文化放送]]) - '''パーソナリティ・冠番組'''<ref>{{Cite news | title = 稲垣吾郎ラジオ、継続!文化放送「9月いっぱいまで続くことに」| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2016-01-20| url = https://www.sanspo.com/article/20160120-NLZBHETBRBNSRGL2RIDFSMNKVQ/| accessdate = 2016-01-24}}</ref><ref name="sponichi_20161215" /> ** [[編集長 稲垣吾郎]](2017年1月5日 - 、[[文化放送]]) - '''パーソナリティ・冠番組'''<ref name="sponichi_20161215">{{Cite news|title=稲垣吾郎ラジオ、新番組名は「編集長 稲垣吾郎」SMAPの名が外れる|newspaper=[[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]]|date=2016-12-15|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/12/15/kiji/20161215s00041000299000c.html|accessdate=2016-12-16}}</ref> * [[THE TRAD]](2019年9月30日 - 、[[エフエム東京|TOKYO FM]]) - 店長('''パーソナリティ''')<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎、初のラジオ生放送レギュラーMCに決定|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2019-09-25|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201909240000565.html|accessdate=2019-09-25}}</ref> === 舞台 === * [[聖闘士星矢]](1991年8月15日 - 9月1日、[[青山劇場]]) - [[鳳凰星座の一輝|フェニックス一輝]] 役(SMAP'''主演''') * [[ドラゴンクエストシリーズ|ドラゴンクエスト]](1992年8月1日 - 25日、[[南座]]) - ベリアル 役(SMAP'''主演''') * ANOTHER〜沈黙の島〜(1993年8月6日 -15日、[[アートスフィア]] / 8月17日 - 24日、南座) - 巧 役(SMAP'''主演''') * 夜曲-tsutomu-(1996年4月14日 - 20日、神戸 / 4月24日 - 5月17日、東京、作:[[横内謙介]]、演出:[[河毛俊作]]) - '''主演・ツトム''' * 広島に原爆を落とす日(1997年6月14日 - 29日、作:[[つかこうへい]]、演出:[[いのうえひでのり]]) - '''主演''' ** 広島に原爆を落とす日〈再演〉(1998年4月24日 - 5月2日、大阪 / 5月9日 - 26日、東京 / 5月30日・31日、広島) - 同上 * 月晶島綺譚(1999年6月11日 - 27日、[[銀座セゾン劇場]]、作:[[中島かずき]]、演出:[[小池竹見]]) - '''主演・人形師''' 役 * [[七色いんこ#舞台|七色インコ]] (2000年5月14日 - 30日、[[TBS赤坂ACTシアター|赤坂ACTシアター]]) - '''主演・七色インコ''' 役 * 謎の下宿人〜サンセット・アパート〜(2003年5月4日 - 27日、[[PARCO劇場]] / 5月30日 - 6月3日、[[シアター・ドラマシティ]]、作:[[鈴木聡 (演出家)|鈴木聡]]、演出:山田和也) - '''主演・町田''' 役<ref>{{Cite news | title = 稲垣吾郎が素っ裸に!? 舞台最終けい古で宣言| newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]]| date = 2003-05-04| url = http://www.sanspo.com/geino/top/gt200305/gt2003050402.html| accessdate = 2017-06-17|archiveurl= https://web.archive.org/web/20031009131006/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200305/gt2003050402.html|archivedate= 2003-10-09}}</ref> * [[ヴァージニア・ウルフなんかこわくない|ヴァージニア・ウルフなんかこわくない?]] (2006年6月5日 - 30日) - ニック 役('''4人芝居'''、共演者:[[大竹しのぶ]]、[[ともさかりえ]]、[[段田安則]]) * 魔法の万年筆(2007年5月12日 - 6月12日、PARCO劇場 / 6月15日 - 18日、シアター・ドラマシティ、作・演出:鈴木聡、音楽:[[本多俊之]]) - '''主演'''<ref name="hochi20070317" /> * 象(2010年3月5日 - 30日、[[新国立劇場]]、作:[[別役実]]、演出:[[深津篤史]]) - '''主演''' * ぼっちゃま(2011年5月7日 - 6月5日、東京 / 6月9日 - 13日、大阪) - '''主演''' * 泣き虫なまいき石川啄木(2011年10月7日 - 30日、作:[[井上ひさし]]、演出:段田安則) - '''主演・[[石川啄木]]''' 役 * 恋と音楽(2012年12月1日 - 28日、PARCO劇場 / 2013年1月11日 - 14日、[[森ノ宮ピロティホール]] / 1月26日 - 27日、[[イズミティ21]]、脚本:鈴木聡、演出:河原雅彦、音楽:[[佐山雅弘]]) - '''主演・田代幸雄''' 役<ref>{{Cite news | title = 稲垣吾郎、初ミュージカルで真飛聖と共演| newspaper = [[デイリースポーツ|DAILY SPORTS ONLINE]]| date = 2012-10-22| url = http://daily.co.jp/gossip/johnnys_topics/2012/10/22/0005468005.shtml| accessdate = 2017-06-17|archiveurl= https://web.archive.org/web/20121031134644/http:/daily.co.jp/gossip/johnnys_topics/2012/10/22/0005468005.shtml|archivedate= 2012-10-31}}</ref> ** 恋と音楽II 〜僕と彼女はマネージャー〜(2014年6月13日 - 7月3日、PARCO劇場 / 10月31日 - 11月2日、シアター・ドラマシティ、作・演出:鈴木聡、音楽:佐山雅弘) - '''主演・真壁晃司''' 役<ref>{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎、癖毛ゆえの悩みを明かす 「渋谷の人々の笑顔を増やしたい」| publisher = TVfanWeb| date = 2014-06-13| url = http://tvfan.kyodo.co.jp/news/topics/810770| accessdate = 2016-01-24}}</ref> ** 恋と音楽FINAL 〜時間劇場の奇跡〜(2016年2月6日・7日、シアター・ドラマシティ / 2月13日 - 3月8日、PARCO劇場、作・演出:鈴木聡、音楽:佐山雅弘) - '''主演・北沢修司''' 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/176510|title=「オーマイガッ!」稲垣吾郎が未来の自分に悶絶!?「恋と音楽 FINAL」|publisher=ステージナタリー|2016-02-18|accessdate=2016-02-18}}</ref> * [[毛皮のヴィーナス|ヴィーナス・イン・ファー/VENUS IN FUR]](2013年6月8日 - 23日、[[Bunkamura]] [[シアターコクーン]] / 6月27日・30日、森ノ宮ピロティホール、脚本:[[デヴィッド・アイヴス]]、演出:[[ウォルター・ボビー]]、演出(日本版):[[ロス・エヴァンス]]) - '''主演・トーマス''' 役([[中越典子]]との'''2人芝居''')<ref>{{Cite web|和書| title = 稲垣吾郎×中越典子の甘く危険なふたり芝居、『ヴィーナス・イン・ファー』開幕!主演の稲垣吾郎・中越典子からのコメントも!〔観劇レポート〕| work = e+ Theatrix!| publisher = [[イープラス]]| date = 2013-06-13| url = http://etheatrix01.eplus2.jp/article/366180059.html| accessdate = 2017-06-29}}</ref> * FREE TIME, SHOW TIME『君の輝く夜に』(2018年8月3日 - 26日、[[京都劇場]]、作・演出:鈴木聡、音楽:佐山雅弘) - '''主演'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/stage/news/281072|title=稲垣吾郎主演「君の輝く夜に」共演に安寿ミラ、北村岳子、中島亜梨沙|publisher=ステージナタリー|date=2018-05-07|accessdate=2018-05-09}}</ref> ** 君の輝く夜に〜FREE TIME,SHOW TIME〜(2019年8月30日 - 9月23日、[[日本青年館]]ホール) - '''主演'''<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎主演「君の輝く夜に」東京公演が決定|url=https://natalie.mu/stage/news/333623|website=ステージナタリー|accessdate=2020-03-05|language=ja|publisher=ナターシャ}}</ref> * No.9 -不滅の旋律-(2015年10月10日 - 25日、赤坂ACTシアター / 10月31日 - 11月4日、[[オリックス劇場]] / 11月13日 - 11月15日、[[北九州芸術劇場]] 大ホール、演出:[[白井晃]]、脚本:中島かずき、音楽監督:[[三宅純]]) - '''主演・[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]''' 役<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20150708213946/http://www.theaterguide.co.jp/theater_news/2015/07/07_03.php|title=稲垣吾郎&大島優子出演 白井晃演出×中島かずき脚本×三宅純音楽『No.9-不滅の旋律-』が今秋上演|publisher=シアターガイド|date=2015-07-07|accessdate=2015-07-08}}</ref> ** No.9 -不滅の旋律-〈再演〉(2018年11月11日 - 12月2日、TBS赤坂ACTシアター / 12月7日 - 10日、オリックス劇場 / 12月22日 - 25日<ref>{{Cite web|和書|title=「No.9-不滅の旋律―」追加公演が決定!|KAAT 神奈川芸術劇場 |url=https://www.kaat.jp/news_detail/1210 |website=KAAT 神奈川芸術劇場 |access-date=2023-03-03}}</ref>、[[KAAT神奈川芸術劇場]] / 2019年1月11日 - 14日、[[久留米シティプラザ]]) - 同上<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/285549|title=稲垣吾郎のベートーヴェン再び!「No.9」再演に剛力彩芽、村川絵梨、鈴木拡樹ら|newspaper=[[ステージナタリー]]|date=2018-06-07|accessdate=2018-06-07}}</ref> ** No.9 -不滅の旋律-〈再々演〉(2020年12月13日 - 2021年1月7日、TBS赤坂ACTシアター(<small>※12月31日、[[ABEMA]]・[[イープラス]]から有料ライブ配信</small><ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎の主演舞台『No.9-不滅の旋律-』大みそかにABEMAで生配信決定|url=https://www.oricon.co.jp/news/2179967/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2020-12-22}}</ref><ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎主演の『No.9−不滅の旋律−』 イープラス「Streaming+」にて、大晦日公演のライブ配信が決定|newspaper=SICE|date=2020-12-22|url=https://spice.eplus.jp/articles/280517|access-date=2022-6-21}}</ref>。) / <small><del>11月、オーストリア・ウィーン(フォルクス劇場)</del></small><ref group="注">※ベートーヴェン生誕250周年の記念公演として開幕が予定されていたが、新型コロナウイルスの感染状況を考慮し公演中止となった。</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ベートーヴェン生誕250周年、稲垣吾郎出演「No.9」再々演決定(コメントあり)|url=https://natalie.mu/stage/news/393568|website=ステージナタリー|accessdate=2020-08-29|language=ja|publisher=ナターシャ}}</ref></small>) - 同上<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎、ベートーヴェン生誕250周年の2020年、舞台『No.9-不滅の旋律-』再々演決定 - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)|url=https://screenonline.jp/_ct/17387287|website=screenonline.jp|accessdate=2020-08-29|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200927005553/https://screenonline.jp/_ct/17387287|archivedate=2020-09-27}}</ref> * LIFE LIFE LIFE 〜人生の3つのヴァージョン〜(2019年4月6日 - 30日、Bunkamura シアターコクーン、作:[[ヤスミナ・レザ]]、脚本・演出:[[ケラリーノ・サンドロヴィッチ]]) - アンリ 役('''4人芝居'''、共演者:大竹しのぶ、ともさかりえ、段田安則) * [[朗読劇|プレミアムリーディング]]「[[もうラブソングは歌えない]]」(2020年8月8日 - 10日、[[東京国際フォーラム]] ホールC 及び動画配信子) - 「カラマツのように君を愛す〜小説『[[しあわせのパン]]』より」水縞尚 役<ref>('''2人芝居'''){{Cite news|title=稲垣吾郎×門脇麦、佐々木蔵之介×小池栄子らが出演 朗読劇『もうラブソングは歌えない』開催へ|newspaper=リアルサウンド映画部|date=2020-7-21|url=https://realsound.jp/movie/2020/07/post-589367.html |access-date=2022-6-21}}</ref> * サンソン -ルイ16世の首を刎ねた男-(2021年4月23日 - 5月9日、([[東京建物 Brillia HALL]])<small>※一部中止</small> / <small><del>5月21日 - 24日、オリックス劇場</del>※中止</small> / 6月11日 - 13日、久留米シティプラザ / 6月24日 - 27日、KAAT神奈川芸術劇場) - '''主演・[[シャルル=アンリ・サンソン]]''' 役 ** サンソン -ルイ16世の首を刎ねた男-〈再演〉(2023年4月14日 - 30日、東京建物Brillia HALL / 5月12日 - 14日、オリックス劇場 / 5月20日・21日、[[まつもと市民芸術館]]) - 同上 * 恋のすべて(2022年2月11日 - 27日、東京建物 Brillia HALL / 6月9日 - 19日、[[京都劇場]]、作・演出:鈴木聡、音楽:[[青柳誠]]) - '''主演・ ニック・テイラー''' 役<ref>{{Cite web|和書|title=ミュージカル・コメディ『恋のすべて』公式サイト |url=https://koinosubete.com/ |website=ミュージカル・コメディ『恋のすべて』公式サイト |access-date=2022-06-07 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎「共通点多い」中年探偵役で舞台主演 笑いとロマンティックの大人のエンタメ|url=https://www.oricon.co.jp/news/2216649/full/ |website=ORICON NEWS|accessdate=2021-12-07}}</ref> * 多重露光(2023年10月6日 - 22日、日本青年館ホール、作:[[横山拓也]]、演出:[[眞鍋卓嗣]]) - '''主演・山田純九郎''' 役<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/stage/news/535893|title=舞台「多重露光」稲垣吾郎が写真館の2代目店主役に「縁を感じました」|newspaper=ステージナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-08-07|accessdate=2023-08-07}}</ref> === テレビアニメ === * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](2014年7月27日、フジテレビ「[[FNS27時間テレビ (2014年)|FNS27時間テレビ]]」) - ゴロウ(本人) 役 === 劇場アニメ === * [[ONE PIECE THE MOVIE カラクリ城のメカ巨兵]](2006年)<ref>{{Cite news | title = 稲垣吾郎が初声優「ワンピース」封切り| newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2016-03-05| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2005jya/KFullNormal20060305055.html| accessdate = 2017-05-14|archiveurl= https://web.archive.org/web/20080312220509/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2005jya/KFullNormal20060305055.html|archivedate= 2008-05-12}}</ref> - ドクター・ラチェット 役 * [[海獣の子供#劇場アニメ|海獣の子供]](2019年) - 安海正明 役<ref>{{cite news |title=映画『海獣の子供』芦田愛菜、窪塚洋介の息子・愛流らが声優 |work=シネマトゥデイ |date=2019-03-13 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0107439 |accessdate=2019-03-13}}</ref> === 吹き替え === * [[北極のナヌー]](2007年)<ref>{{Cite news | title = “エコ王子”稲垣吾郎でも譲れない!| newspaper = [[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]| date = 2007-09-27| url = http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2007jya/KFullNormal20070927030.html| accessdate = 2017-05-14|archiveurl= https://web.archive.org/web/20090517090824/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/special/2007jya/KFullNormal20070927030.html|archivedate= 2009-05-17}}</ref> - ナレーション === その他 === * [[日本財団パラリンピックサポートセンター]] スペシャルサポーター (2017年11月15日 - )<ref>{{Cite web|和書|title=日本財団パラリンピックサポートセンターのスペシャルサポーターに稲垣吾郎さん、草彅剛さん、香取慎吾さんが就任!|url=https://www.parasapo.tokyo/topics/1115|website=パラサポWEB|accessdate=2020-03-05|language=ja}}</ref> - 草彅・香取とともに就任。 * [[国際パラリンピック委員会]](IPC) 特別親善大使 (2018年7月8日 - )<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣・草なぎ・香取、国際パラ委員会特別親善大使に「3人の心を1つに頑張りたい」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2115158/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2020-03-05}}</ref> - 草彅・香取とともに就任。 * クリムト展 ウィーンと日本1900(2019年4月23日 - 7月10日、東京都美術館 / 2019年7月23日 - 10月14日、豊田市美術館) - スペシャルサポーター / 音声ガイド<ref>{{Cite web|和書|title=スペシャルサポーター/音声ガイド |url=http://klimt2019.jp/supporter.html |website=【公式】クリムト展 ウィーンと日本1900 |accessdate=2020-3-5 |archive-url=https://web.archive.org/web/20200512190939/http://klimt2019.jp/supporter.html |archive-date=2020-5-12}}</ref> * ウォルト・ディズニー・アーカイブス設立50周年記念 ウォルト・ディズニー・アーカイブス コンサート(2020年1月16日 - 17日、舞浜アンフィシアター / 2020年1月21日 - 22日、兵庫県立芸術文化センター / 2020年1月28日、愛知県芸術劇場大ホール) - 案内人(ナビゲーター)<ref>{{Cite news|title=【“案内人”の稲垣吾郎から独占コメント入手!】世界初の『ウォルト・ディズニー・アーカイブス コンサート』開幕|newspaper=SPICE|date=2020-1-16|url=https://spice.eplus.jp/articles/263890|access-date=2022-6-21}}</ref> * I’mPOSSIBLEアワード 国内選考委員 (2020年1月20日 - )<ref>{{Cite web|和書|title=選考委員 -|url=https://www.parasapo.tokyo/iampossible/selection-committee/|website=www.parasapo.tokyo|accessdate=2020-03-05|language=ja}}</ref> *「Aging Gracefully」プロジェクト2020年アンバサダー<ref>{{Cite web|和書|title=三代目アンバサダー・稲垣吾郎さん登場! プロジェクト撮影リポート |url=https://aginggracefully.asahi.com/column/13266407 |website=Aging Gracefully - わたしらしく輝く - |accessdate=2020-5-22 |archive-url=https://web.archive.org/web/20201101070628/https://aginggracefully.asahi.com/column/13266407 |archive-date=2020-11-1 |deadlinkdate=2022-6-21}}</ref>(2020年4月23日 - 、[[朝日新聞社]]、[[宝島社]])<ref>{{Cite web|和書|title=人生100年時代に、新しい年齢の重ね方を考える「Aging Gracefully」プロジェクト 2020年度のアンバサダーに稲垣吾郎さんが就任|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000837.000009214.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2020-04-22|publisher=|date=2020年4月23日}}</ref> *「ベートーベン250」プロジェクトアンバサダー<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎がNHK「ベートーベン250」プロジェクトのアンバサダーに就任!【コメントあり】|url=https://www.tvlife.jp/entame/316970|website=TV LIFE web|accessdate=2020-09-03|language=ja}}</ref>(2020年9月 - 、[[日本放送協会|NHK]])<ref>{{Cite web|和書|title=アンバサダーを務めるのは稲垣吾郎! 「ベートーベン250」プロジェクト|url=https://web.archive.org/web/20200904122514/https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=24978|website=NHK_PR|accessdate=2020-09-03|language=ja|last=日本放送協会}}</ref> === CM === * [[マンダム]]「ルシード」 * [[アサヒ飲料]]「バヤリースオレンジ」 * [[山之内製薬]](現・[[第一三共ヘルスケア]])「ヘルシ-バランス」 * [[富士フイルム]] ** 「[[写ルンです]]」 ** 「[[アスタリフト]]」『テニスコート・美白 夏篇』『テニスコート・ジェリー 夏篇』(2011年 - 2012年) * [[ニッカウヰスキー|ニッカ]]「シードル」 * キャリアスタッフ * [[サントリー]] **「スーパー・チューハイ」 ** 「[[サントリーオールフリー]]」(2018年2月<ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎&香取慎吾の新CMが決定 新『オールフリー』を「全力で応援します!」|newspaper=ORICON NEWS|date=2017-11-28|url=https://www.oricon.co.jp/news/2101366/full/|access-date=2022-6-21}}</ref> - 2020年2月)香取と出演。 ** 「サントリーワインインターナショナル・ノンアル」(2022年 - )<ref>{{Cite news|url=https://news.mynavi.jp/article/20220225-2279215/|title=稲垣吾郎、“ノンアル”新CMに出演「ワイン好きとして本当に嬉しい」|publisher=マイナビ|date=2022-02-25|accessdate=2022-02-25}}</ref> ** 企業広告「#素晴らしい過去になろう」(2023年) * [[朝日新聞]] * [[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカコーポレーション]]「ファーストドリップ」 * [[江崎グリコ]]「[[プリッツ]]」 * [[任天堂]] - イナガキマリオ名義 ** [[ニンテンドーゲームキューブ]]専用ソフト『[[マリオカート ダブルダッシュ!!]]』&『[[マリオパーティ5]]』 ** [[ゲームボーイアドバンス]]専用ソフト『[[マリオ&ルイージRPG]]』 * 江崎グリコ「ビスキーファイブ」 * [[GMOインターネット]]「9199.jp」(2004年)<ref>{{cite news |title= 吾郎、新CM…実写とマペットと2本で魅せます |newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date= 2004-11-01 |url= http://www.sanspo.com/geino/top/gt200410/gt2004110108.html|accessdate=2016-07-13 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20050406011456/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200410/gt2004110108.html|archivedate= 2005-04-06}}</ref> * [[明治製菓]]「ガルボチップス」「明治アーモンドチョコレート」「北海道チョコポテト」 * [[日清食品]]「麺職人」(2004年<ref>{{cite news |title= 見どころは麺とのラブシーン…稲垣吾郎が“メン様”に |newspaper = [[サンケイスポーツ|SANSPO.COM]] |date= 2004-10-18 |url= http://www.sanspo.com/geino/top/gt200410/gt2004101804.html|accessdate=2016-07-13 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20050207005617/http:/www.sanspo.com/geino/top/gt200410/gt2004101804.html|archivedate= 2005-02-07}}</ref> - 、2010年 - ) * [[大関 (酒造メーカー)|大関]]「清酒 大関」(2009年 - ) * [[メットライフアリコ生命保険]] (2010年) * [[H.I.S]] 旅スマ(2012年 - ) * 株式会社パネス「ErucA(エルーカ) オイルシャンプー」『シャワールームでの出来事「モイスト&リペア」篇』『シャワールームでの出来事「スカルプ&ボリューム」篇』(2013年 - 2014年) * [[カブドットコム証券]](2014年4月)<ref>{{Cite press release| 和書| title = 当社イメージキャラクターに稲垣吾郎さんを起用| publisher = [[カブドットコム証券]]| date = 2014-04-08| url =http://kabu.com/company/pressrelease/2014/20140408.asp| accessdate = 2014-04-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140429201526/http://kabu.com/company/pressrelease/2014/20140408.asp|archivedate=2014-04-29}}</ref> - 2017年3月<ref>{{Cite news|title=香取慎吾「フェイタス」CM、V6・岡田の新起用でSMAPファン「何もかも奪っていく」と嘆き|newspaper=サイゾーウーマン|date=2017-4-13|url=https://www.cyzowoman.com/2017/04/post_135542_1.html|access-date=2022-6-21}}</ref> *[[数字選択式全国自治宝くじ|数字選択式宝くじ]] [[数字選択式宝くじ#種類|ロト]]&[[ナンバーズ (宝くじ)|ナンバーズ]](2018年5月<ref>{{Cite news|title=元SMAP3人そろって「ロト」新CM 3人では退所後初|newspaper=スポーツニッポン|date=2018-5-6|access-date=2022-6-21|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/06/kiji/20180506s00041000326000c.html}}</ref> - )草彅・香取と出演。 *[[スクウェア・エニックス]]『[[星のドラゴンクエスト]]』『稲垣吾郎の告白』篇(2019年1月<ref>{{Cite news|title=スクエニ、『星のドラゴンクエスト』新プロデューサーに稲垣吾郎さん、草彅剛さん、香取慎吾さんが就任! 堀井雄二氏&市村龍太郎氏との記念対談動画も公開|newspaper=gamebiz|date=2019-1-1|url=https://gamebiz.jp/news/228391|access-date=2022-6-21}}</ref> - 2019年6月)草彅・香取と出演。 *[[スパリゾートハワイアンズ]]「ロマンチック・ハワイアンズ2018 WINTER」(2018年12月) - キャンペーンキャラクター<ref>{{Cite web|和書| url = https://news.mynavi.jp/article/20181208-737816/| title = ゴロ〜ハ! 稲垣吾郎がスパリゾートハワイアンズのキャンペーンキャラに | date = 2018-12-08| website = [[マイナビニュース]]| publisher = [[マイナビ]]| accessdate = 2019-02-12}}</ref> * [[アンファー]] 「スカルプD」「スカルプD ボーテ」『スカルプD ティザー篇』『風呂篇』『店頭篇』(2019年4月16日 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.angfa.jp/news/?p=3085|title=男性用のスカルプD、女性用のスカルプD ボーテの新キャラクターを発表 稲垣吾郎さんが妖怪に!謎の「ケケケのケ太郎」とは? 本日12時より新ビジュアル公開!TVCMや屋外広告が開始!|publisher=アンファー株式会社|date=2019-04-16|accessdate=2019-04-26}}</ref> * Yappli「Yappli for Company」 ** 「デラックス稲垣篇」(2020年9月19日 - ) <ref>{{Cite news|title=稲垣吾郎が新CMでちょっと残念な“2.5枚目”部長を熱演!?|newspaper=TVガイド|date=2020-9-18|url=https://nordot.app/679403304351433825|access-date=2022-6-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=稲垣部長がDX(デラックス?)を活用した社内改革を熱弁 ヤプリ新CM「デラックス稲垣」篇|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000103.000007187.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2021-12-29}}</ref> **「アプリ導入篇」(2021年6月7日 - )<ref>{{Cite web|和書|title=クールお茶目稲垣部長の第二弾 ヤプリ新CM「アプリ導入 」篇|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000131.000007187.html|website=プレスリリース・ニュースリリース配信シェアNo.1|PR TIMES|accessdate=2021-12-29}}</ref> * [[ファミリーマート]] 「FAMIMA CAFE ブレンドコーヒー」(2020年)<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎“コーヒーカラー”でちゃめっ気あいさつ「焙煎されたての僕です(笑)」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2174375/|website=ORICON NEWS|date=2020-10-15|accessdate=2020-10-15}}</ref> *[[HRBrain]](2023年1月 - )<ref>{{Cite web|和書|title=HRBrain新CMで、稲垣吾郎さん演じる「ブレインさん」が人事のお悩みを解決!『悩める人事に頼れるブレイン』|url=https://www.hrbrain.jp/news/press/20230107|website=HRBrain|date=2023-01-07|accessdate=2023-01-07}}</ref> * [[GMコーポレーション]] 「エレクトロン頭皮ケアライン」(2023年1月 - )<ref>{{Cite web|和書|title=稲垣吾郎さん出演、新製品「エレクトロン頭皮ケアライン」のTVCMを本日2023年1月10日(火)より公開!|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000111.000066044.html|website=PR TIMES|date=2023-01-10|accessdate=2023-01-10}}</ref> == 音楽 == === シングル === * [[If You Give Your Heart]](1993年2月3日)- ソロデビュー、映画『プライベートレッスン』主題歌 * [[Wonderful Life (&Gの曲)|Wonderful Life]](2004年3月10日)- 「&G」名義、ドラマ『僕と彼女と彼女の生きる道』主題歌 * [[SUZUNARI]](2018年12月21日) - 配信限定、ドラマ『東京BTH〜TOKYO BLOOD TYPE HOUSE〜』主題歌<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/news/2125992/full/ | title = 稲垣吾郎、14年ぶりソロシングル「SUZUNARI」MV公開 主演ドラマ主題歌| date = 2018-12-21| website = ORICON NEWS| publisher = [[オリコン]]| accessdate = 2019-02-12}}</ref> == 書籍 == === 写真集 === * 馬耳東風(2001年5月25日、[[集英社]])ISBN 978-4083330223  * Blume(2020年9月18日、宝島社)<ref>{{Cite web|和書| url = https://realsound.jp/book/2020/07/post-588617.html | title = 稲垣吾郎、19年ぶりフォトエッセイ『Blume』 少年時代から現在までを語るロングインタビューも | date = 2020-07-20| website = ORICON NEWS| publisher = | accessdate = 2021-02-21}}</ref> ISBN 978-4083330223 === 雑誌連載 === *[[週刊プレイボーイ]](1995年、集英社) * COSMOPOLITAN 日本版 「馬耳東風」(1996年4月 - 2000年11月号) *[[an・an]]「稲垣吾郎 シネマナビ!」(2009年11月11日号<ref group="注">週1回連載。持ち回り連載だった【movies】(2001年1月 - )に代わってスタートした</ref> - 、[[マガジンハウス]]) * GLOW 「稲垣吾郎の『大人男子ライフ』」(2018年4月号<ref>{{Cite web|和書|title=“毎週欠かさず花を飾る”稲垣吾郎が大人男子のこだわり満載な衣食住を明かす!|url=https://treasurenews.jp/archives/48911/|website=宝島オンライン|accessdate=2020-03-11|language=ja|last=株式会社宝島社}}</ref>、2018年7月号<ref>{{Cite web|和書| url = https://www.oricon.co.jp/news/2112484/full/ | title = 稲垣吾郎、女性誌で連載スタート 大人男子のライフスタイルを紹介 | date = 2018-05-29| website = ORICON NEWS| publisher = [[オリコン]]| accessdate = 2018-06-01}}</ref> - 2020年6月号、[[宝島社]]) *週刊文春WOMAN 「談話室稲垣 Goro’s Salonー小説の書き方教えてください」(2019年8月夏号 - 、[[文藝春秋]])<ref>{{Cite news|title=「まだまだ会って話してみたい作家さんが」 稲垣吾郎が誌上ゴロデラ連載をスタート!|newspaper=週刊文春WOMAN|date=2019-8-16|url=https://bunshun.jp/articles/-/13386|archive-url=https://web.archive.org/web/20191130114019/https://bunshun.jp/articles/-/13386|archive-date=2019-11-30|access-date=2020-3-5}}</ref> *GLOW 「稲垣吾郎の『Salon de 大人男子』」(2020年8月号 - 、[[宝島社]]) === 関連・その他 === * [[週刊女性]]「ロストマンロンリーハート」(2019年3月19日号 - 2020年4月14日号、[[主婦と生活社]])- 稲垣吾郎を主人公とする[[飯田譲治]]、梓河人による連載小説<ref>{{Cite web|和書|title=飯田譲治が稲垣吾郎を分析「誠実で争うのが苦手だからこそ、波にのまれてほしい(笑)」|url=https://www.jprime.jp/articles/-/14839|website=週刊女性PRIME|accessdate=2020-03-11|language=ja}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://atarashiichizu.com/ 新しい地図] - 草彅剛、香取慎吾との共同公式ファンサイト * {{Ameba ブログ|id=inagakigoro-official|name=稲垣吾郎オフィシャルブログ}} * {{Twitter|ingkgrofficial}} * {{Instagram|goro_inagaki_official|稲垣吾郎}} *{{NHK人物録|D0009071621_00000}} * {{allcinema name|64332}} * {{jmdb name|0037430}} * {{imdb name|id=0408346|name=Gorô Inagaki}} * [https://friendshop.tokyo/ BISTRO J_O] - 稲垣ディレクションのレストラン {{Navboxes| |title=関連項目 |list= {{稲垣吾郎}} {{SMAP}} {{SMAP×SMAP}} {{平成仮面ライダーシリーズ歴代ライダー戦士役俳優}} {{毎日映画コンクール男優助演賞}} {{日刊スポーツ映画大賞助演男優賞}} {{SmaSTATION!!}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いなかき ころう}} [[Category:日本の男優]] [[Category:日本の舞台俳優]] [[Category:日本のミュージカル俳優]] [[Category:アイドル出身の俳優]] [[Category:日本の男性声優]] [[Category:日本の男性歌手]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:剣劇俳優]] [[Category:アクション俳優]] [[Category:SMAPのメンバー]] [[Category:過去のジャニーズ所属者]] [[Category:日本の男性アイドル]] [[Category:ビクターエンタテインメントのアーティスト]] [[Category:CULEN]] [[Category:稲垣吾郎|*]] [[Category:20世紀日本の俳優]] [[Category:21世紀日本の俳優]] [[Category:ワインに関連する人物]] [[Category:日本のゴルフに関する人物]] [[Category:堀越高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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1月28日
1月28日(いちがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で 年始から28日目に当たり、年末まであと337日(閏年では338日)ある。
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{{カレンダー 1月}} '''1月28日'''(いちがつにじゅうはちにち)は、[[グレゴリオ暦]]で 年始から28日目に当たり、年末まであと337日([[閏年]]では338日)ある。 == できごと == [[ファイル:Challenger explosion.jpg|thumb|right|220px|[[チャレンジャー号爆発事故]](1986)]] <!--*712年の古事記完成、1582年の天正遣欧使節云々は「旧暦」なので注意。この項目には太陽暦のみ記入願います。--> * [[98年]] - [[ネルウァ]]の死去により、[[ローマ帝国]]皇帝[[トラヤヌス]]即位(-[[117年]]){{要出典|date=2021-04}} * [[934年]]([[承平 (日本)|承平]]4年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[紀貫之]]が『[[土佐日記]]』の旅に出立。 * [[1077年]] - [[カノッサの屈辱]]: [[教皇|ローマ教皇]][[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の破門を解除。 * [[1393年]] - [[燃える人の舞踏会]]: フランス王妃[[イザボー・ド・バヴィエール]]主催の舞踏会で火災が発生し4人の貴族が焼死。 * [[1502年]] - [[越後南西部地震]]が発生。現在の[[新潟県]][[上越市]]で死者多数。 * [[1521年]] - [[ヴォルムス帝国議会 (1521年)|ヴォルムス帝国議会]]開始。 * [[1549年]]([[天文 (元号)|天文]]17年[[12月30日 (旧暦)|12月30日]]) - 長尾景虎([[上杉謙信]])が[[家督]]を継ぎ[[春日山城]]へ入城する。 * [[1547年]] - [[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]が死去。[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]が即位。戴冠は[[2月20日]]。 * [[1671年]] - [[パナマ]]の[[パナマ・ビエホ]]が、[[イギリス]]の[[海賊]][[ヘンリー・モーガン]]によって襲撃、焼き討ちされる。 * [[1754年]] - [[ホレス・ウォルポール]]が友人あての書簡の中で初めて[[セレンディピティ]]という言葉を使う。 * [[1813年]] - [[ジェーン・オースティン]]の長編小説『[[高慢と偏見]]』がイギリスで発刊。 <!-- 3月28日 * [[1853年]] - [[クリミア戦争]]が勃発。 --> * [[1871年]] - [[普仏戦争]]: {{仮リンク|パリ包囲戦 (1870年)|en|Siege of Paris|label=パリ包囲戦}}が終結。プロイセンがパリを占領。 * 1871年([[明治]]3年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[横浜毎日新聞]]が創刊(日本初の日刊[[新聞]]) * [[1902年]] - [[アンドリュー・カーネギー]]が1億ドルを投じて[[カーネギー研究所]]を設立。 * [[1905年]] - 日本政府が[[竹島 (島根県)|竹島]]を「[[島根県]]隠岐島司の所管の竹島」と閣議決定。 * [[1909年]] - 米西戦争以来キューバに駐留していた米軍が撤退。 * [[1912年]] - [[白瀬矗]]南極探検隊が南緯80度05分に到達。その一帯を「[[大和雪原]]」と命名。 * [[1915年]] - アメリカで税関監視艇局と救命局を統合して[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]を設置。 * [[1918年]] - [[ロシア]]の[[人民委員会議]]が[[赤軍|労農赤軍]]の創設を布告。 * [[1921年]] - [[エトワール凱旋門]]の下に[[無名戦士の墓]]が作られる。 * [[1924年]] - [[上野恩賜公園|上野公園]]・[[上野動物園]]が宮内省から東京市に下賜される。 * [[1927年]] - [[宮崎県]][[小林市|小林町]]で大火<ref>小林町で大火、目抜き通り焼失『九州日報』昭和2年1月29日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p687 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>1200棟焼失。 * [[1932年]] - 日本[[海軍陸戦隊]]と中国19路軍が上海で衝突。([[第一次上海事変]]) * [[1938年]] - [[ルドルフ・カラツィオラ]]が[[アウトバーン]]で公道上の最高速度記録432.7km/hを記録。 * [[1945年]] - [[第二次世界大戦]]: [[ビルマ公路]]を通った最初のトラックが中国国境に到着。 * [[1946年]] - [[日本の鉄道事故 (1949年以前)#東急小田原線列車脱線転覆事故|東急小田原線列車脱線転覆事故]]。死者30名、重軽傷者165名。 * [[1948年]] - [[関西汽船]]・女王丸が[[瀬戸内海]]で[[機雷]]に触れ沈没。死者行方不明183人。([[女王丸遭難事件]]) * [[1953年]] - [[銀座チョコレートショップ爆発火災]]。 * [[1955年]] - 民間6単産が春季賃上げ共闘会議総決起大会を開催。[[春闘]]の始まり。 * [[1956年]] - 「[[万国著作権条約]]」が日本で公布。 * [[1958年]] - [[レゴ]]社のゴッドフレッド・キアク・クリスチャンセンが[[レゴブロック]]の基本構造に関する[[特許]]を出願。 * [[1970年]] - 当時共に[[大関]]の玉乃島改め[[玉の海正洋|玉の海]](第51代)、[[北の富士勝昭|北の富士]](第52代)が同時に[[横綱]]昇進。 * [[1973年]] - [[ベトナム戦争]]終結のための「[[パリ協定 (ベトナム和平)|パリ協定]]」が発効。 * [[1979年]] - [[三菱銀行人質事件]]: 警官2人と行員2人を殺害し、人質を取って立てこもっていた犯人[[梅川昭美]]を[[大阪府警]][[機動隊|第二機動隊]][[特殊急襲部隊|零中隊]]が射殺し、人質25人全員を救出。事件発生から42時間ぶりに終結。 * [[1985年]] - [[USAフォー・アフリカ]]による『[[ウィ・アー・ザ・ワールド]]』のレコーディングが行われる。 * 1985年 - [[犀川スキーバス転落事故]]。 * [[1986年]] - [[スペースシャトル]][[チャレンジャー号爆発事故]]。 <!-- * 1986年 - [[松島トモ子]]がライオンに噛まれる。後にヒョウにも噛まれる。 --> * [[1998年]] - [[フォード・モーター|フォード]]が[[ボルボ・グループ|ボルボ]]の乗用車部門買収を発表。後に[[ボルボ・カーズ]]となる。 <!-- * 1998年 - [[モーニング娘。]]がシングル『モーニングコーヒー』でメジャーデビュー。 --> * [[2000年]] - [[新潟少女監禁事件]]:[[新潟県]][[三条市]]で[[1990年]][[11月13日]]から行方不明になっていた少女(失踪当時9歳 / 同日時点で19歳)がこの日、[[柏崎市]]の民家で9年2か月ぶりに発見・保護される。それ以降の捜査で、少女は住民の男によって民家に[[拉致]]・[[監禁]]されていたことが判明。 * [[2006年]] - [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]が[[モバイルSuica]]のサービスを開始。 * [[2010年]] - [[台湾]]の囲碁女流棋士[[謝依旻]]が史上初の女流三冠独占<ref>{{Cite web|和書 |date=2010年1月28日 |url=http://www.asahi.com/igo/news/TKY201001280217.html |title=20歳の謝依旻、史上初の女流三冠独占 囲碁 |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2018-11-17}}</ref>。 <!-- 「1月28日」に特記する情報ですか? * [[2018年]] - [[WWE]]、[[ロイヤルランブル#第31回大会(2018年) WWE Royal Rumble 2018|ロイヤルランブル2018]]の30人[[バトルロイヤル]]で[[中邑真輔]](男子)と[[華名|アスカ]](女子)が優勝。 --> == 誕生日 == === 人物 === * [[660年]] - [[アリー・イブン=アビー=ターリブ]]、[[イスラム教]]の第4代[[正統カリフ]]同教[[シーア派]]の初代イマーム。(+ [[661年]]) *[[1457年]] - [[ヘンリー7世 (イングランド王)|ヘンリー7世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(+ [[1509年]]) * [[1540年]] - [[ルドルフ・ファン・コーレン]]、[[数学者]](+ [[1610年]]) * [[1608年]] - [[ジョヴァンニ・ボレリ]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Giovanni-Alfonso-Borelli Giovanni Alfonso Borelli Italian physiologist and physicist] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、[[物理学者]](+ [[1679年]]) * [[1611年]] - [[ヨハネス・ヘヴェリウス]]、[[天文学者]](+ [[1687年]]) * [[1627年]]([[寛永]]3年[[12月11日 (旧暦)|12月11日]]) - [[徳川光貞]]、第2代[[和歌山藩|和歌山藩主]]、[[徳川吉宗]]の父(+ [[1705年]]) * [[1638年]]([[寛永]]14年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[前田利明]]、第2代[[大聖寺藩|大聖寺藩主]]、(+ [[1692年]]) * [[1695年]]([[元禄]]7年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]) - [[黒田長貞]]、第4代[[秋月藩|秋月藩主]]、(+ [[1754年]]) * [[1701年]] - [[シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ]]、[[地理学者]](+ [[1674年]]) * [[1712年]]([[正徳 (日本)|正徳]]1年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]) - [[徳川家重]]、[[江戸幕府]]第9代[[征夷大将軍|将軍]](+ [[1761年]]) * [[1739年]]([[元文]]3年[[12月19日 (旧暦)|12月19日]]) - [[脇坂安親]]、第7代[[龍野藩|龍野藩主]]、(+ [[1810年]]) * [[1784年]] - [[ジョージ・ハミルトン=ゴードン (第4代アバディーン伯)|ジョージ・ハミルトン=ゴードン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](+ [[1860年]]) * [[1791年]] - [[フェルディナン・エロルド]]、[[作曲家]](+ [[1833年]]) * 1791年 - [[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|ジェームズ・スターリング]]、初代[[西オーストラリア州]]総督、[[イギリス海軍]][[将官|提督]](+ [[1865年]]) * [[1833年]] - [[チャールズ・ゴードン]]、軍人(+ [[1885年]]) * 1833年([[天保]]3年[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]) - [[細川興貫]]、第9代[[谷田部藩|谷田部藩主]]、(+ [[1907年]]) * [[1838年]] - [[ジェームズ・クレイグ・ワトソン]]、天文学者(+ [[1880年]]) * [[1847年]] - [[ジョージ・ライト (内野手)|ジョージ・ライト]]、[[プロ野球選手]](+ [[1937年]]) * [[1848年]]([[弘化]]4年[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]) - [[森忠典]]、第11代[[赤穂藩|赤穂藩主]]、(+ [[1883年]]) * [[1858年]] - [[ユージン・デュポア]]、[[人類学|人類学者]](+ [[1940年]]) * [[1873年]] - [[シドニー=ガブリエル・コレット]]、[[作家]](+ [[1954年]]) * [[1881年]] - [[岩崎俊弥]]、[[旭硝子]]創業者(+ [[1930年]]) * [[1882年]] - [[百武源吾]]、[[軍人]](+ [[1976年]]) * 1882年 - [[柴田雄次]]、[[化学者]](+ [[1980年]]) * [[1884年]] - [[オーギュスト・ピカール]]、[[物理学者]](+ [[1962年]]) * [[1885年]] - [[ルイス・ネルソン・ドリール]]、[[クラリネット]]奏者(+ [[1949年]]) * [[1886年]] - [[八木秀次]]、[[工学者]](+ [[1976年]]) * [[1887年]] - [[アルトゥール・ルービンシュタイン]]、[[ピアニスト]](+ [[1982年]]) * 1887年 - [[ロバート・フランクリン・ストラウド]]、犯罪者、[[鳥類]]研究家(+ [[1963年]]) * [[1892年]] - [[エルンスト・ルビッチ]]、[[映画監督]](+ [[1947年]]) * [[1898年]] - [[池田正之輔]]、[[政治家]](+ [[1986年]]) * 1898年 - [[安田徳太郎]]、[[医師]]、[[歴史家]](+ [[1983年]]) * [[1901年]] - [[高橋新吉]]、[[ダダイスム|ダダイスト]][[詩人]](+ [[1987年]]<ref>大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)p.127</ref>) * [[1903年]] - [[西堀栄三郎]]、[[無機化学|無機化学者]]、[[登山家]](+ [[1989年]]) * [[1907年]] - [[メリタ・ブルナー]]、[[フィギュアスケート]]選手(+ [[2003年]]) * [[1910年]] - [[井口愛子]]、[[ピアニスト]](+ [[1984年]]) * [[1912年]] - [[ジャクソン・ポロック]]、[[画家]](+ [[1956年]]) * 1912年 - [[高橋信次 (放射線医学者)|高橋信次]]、[[医学者]]、[[放射線医学|放射線科医]](+ [[1985年]]) * [[1913年]] - [[神東山忠也]]、元[[大相撲]][[力士]](+ [[1983年]]) * [[1914年]] - [[三木鶏郎]]、[[作詞家]]、[[作曲家]](+ [[1994年]]) * [[1917年]] - [[望月優子]]、[[俳優|女優]]、政治家(+ [[1977年]]) * [[1919年]] - [[北川石松]]、政治家(+ [[2013年]]) * [[1922年]] - [[松田耕平]]、[[実業家]]、[[マツダ|東洋工業]]第3代社長、[[広島東洋カープ]]オーナー(+ [[2002年]]) * 1922年 - [[ウンク・A・アジズ]]<ref>{{Cite news|url=https://www.thestar.com.my/news/nation/2020/12/15/royal-prof-ungku-aziz-dies-aged-98|title=Royal Prof Ungku Aziz dies, aged 98|newspaper=The Star|date=2020-12-15|accessdate=2021-01-30|language=英語}}</ref>、[[経済学者]](+ [[2020年]]) * [[1925年]] - [[森康二]]、[[アニメーター]]、[[絵本作家]](+ [[1992年]]) * 1925年 - [[佐竹一雄]]、プロ野球選手(+ [[2017年]]) * [[1927年]] - [[勅使河原宏]]、[[映画監督]]、[[華道家]](+ [[2001年]]) * [[1928年]] - [[馬場あき子]]、[[歌人]]、[[文芸評論家]] * 1928年 - [[ジャン=ミシェル・ダマーズ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](+ [[2013年]]) * [[1929年]] - [[クレス・オルデンバーグ]]、[[彫刻家]](+ [[2022年]]) * 1929年 - [[前川忠男]]、元プロ野球選手 * [[1931年]] - [[小松左京]]、[[SF作家]](+ [[2011年]]) * 1931年 - [[須田寬]]、実業家、元[[東海旅客鉄道|JR東海]]社長 * [[1932年]] - [[宮地惟友]]、元プロ野球選手 * [[1935年]] - [[白川義員]]、[[写真家]](+ 2022年) * 1935年 - [[須藤美也子]]、政治家(+ [[2018年]]) * 1935年 - [[吉川一義 (テレビドラマ監督)|吉川一義]]、映画監督 * 1935年 - [[デイヴィッド・ロッジ]]、小説家 * [[1936年]] - [[イスマイル・カダレ]]、[[小説家]] * [[1937年]] - [[笑福亭仁鶴 (3代目)]]、[[落語家]](+ [[2021年]]) * [[1938年]] - [[山浦弘靖]]、小説家、[[脚本家]] * [[1940年]] - [[カルロス・スリム]]、[[実業家]] * [[1941年]] - [[川崎のぼる]]、[[漫画家]] * 1941年 - [[ポール・キパルスキー]]、[[言語学者]] * [[1942年]] - [[福留功男]]、[[フリーアナウンサー]] * 1942年 - [[ショーケ・ディクストラ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1942年 - [[安宅敬祐]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ohk.co.jp/data/4454/pages/|title=【訃報】元岡山市長 安宅敬祐氏(78)死去【岡山・岡山市】|publisher=OHK 岡山放送|date=2020-08-30|accessdate=2020-12-26}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=676494&comment_sub_id=0&category_id=256|title=元岡山市長の安宅敬祐氏死去|publisher=中国新聞デジタル|date=2020-08-30|accessdate=2020-12-16}}</ref><ref>[https://www.sanyonews.jp/article/1046593 元岡山市長 安宅敬祐氏が死去 78歳、1991年から2期務める] - 山陽新聞 2020年8月30日</ref>、政治家(+ [[2020年]]) * 1942年 - [[ハンス=ユルゲン・ボイムラー]]、フィギュアスケート選手 * [[1944年]] - [[五十嵐敬喜]]、[[弁護士]] * 1944年 - [[和田浩治]]、[[俳優]](+ [[1986年]]) * 1944年 - [[ジョン・タヴナー]]、[[作曲家]](+ [[2013年]]) * [[1945年]] - [[ロバート・ワイアット]]、[[ミュージシャン]]([[ソフト・マシーン]]) * [[1946年]] - [[渡辺由自]]、脚本家 * [[1947年]] - [[西城正三]]、[[プロボクサー]] * 1947年 - [[蒲島郁夫]]、政治家、政治学者 * 1948年 - [[ハインツ・フローエ]]、サッカー選手(+ [[2013年]]) * [[1949年]] - [[市村正親]]、俳優 * 1949年 - [[グレッグ・ポポヴィッチ]]、バスケットボール指導者 * [[1950年]] - [[島田信廣]]、[[オートレース選手]](+ [[2007年]]) * [[1951年]] - [[小林源文]]、[[漫画家]] * 1951年 - [[石村玉苑]]、[[書家]] * 1951年 - [[レオニド・カデニューク]]、宇宙飛行士 * [[1952年]] - [[三浦友和]]、俳優 * [[1953年]] - [[鈴木孝成]]、[[医師]]、[[医学博士]] * [[1954年]] - [[塩沢兼人]]、[[声優]](+ [[2000年]]) * 1954年 - [[ブルーノ・メツ]]、元サッカー選手、サッカー指導者(+ [[2013年]]) * [[1955年]] - [[佐々木伸彦]]、官僚 * 1955年 - [[広瀬光治]]、[[ニット]]デザイナー * 1955年 - [[ニコラ・サルコジ]]、政治家、第23代[[フランスの大統領|フランス大統領]] * [[1956年]] - [[丸尾末広]]、漫画家 * 1956年 - [[新津潔]]、雀士 * [[1957年]] - [[畑野君枝]]、政治家 * 1957年 - [[ニック・プライス]]、ゴルファー * 1957年 - [[中村信喬]]、人形作家 * [[1958年]] - [[大嶋一也]]、元[[競艇選手]] * [[1959年]] - [[フランク・ダラボン]]、映画監督 * 1959年 - [[今岡均]]、元プロ野球選手 * [[1960年]] - [[倉阪鬼一郎]]、小説家 * 1960年 - 林"VOH"紀勝、ミュージシャン([[スターダストレビュー]]) * [[1961年]] - [[須藤昌朋]]、[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイナー]] * 1961年 - [[アーナルデュル・インドリダソン]]、推理作家 * [[1962年]] - [[エボニー・アイズ]]、ポルノ女優 * [[1963年]] - [[岩坪理江]]、声優 * 1963年 - [[清水信明]]、元プロ野球選手 * [[1966年]] - [[水島精二]]、[[アニメーション監督]] * [[1967年]] - [[イシイジロウ]]、[[ゲームクリエイター]] * [[1968年]] - [[サラ・マクラクラン]]、[[シンガーソングライター]] * 1968年 - [[ラキム]]、ラッパー * [[1969年]] - [[渚あき]]、女優 * 1969年 - [[万乗大智]]、漫画家 * 1969年 - [[キャスリン・モリス]]、女優 * [[1971年]] - [[袁文傑]]、[[俳優]] * 1971年<ref>{{Twitter|koji_haramaki|title=服巻浩司(@koji_haramaki)|accessdate=2020年1月31日}}</ref> - [[服巻浩司]]、声優 * [[1972年]] - [[新庄剛志]]、元プロ野球選手、監督、[[タレント]] * 1972年 - [[小西洋之]]、政治家 * [[1973年]] - [[タチアナ・マリニナ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1974年]] - [[マグリオ・オルドニェス]]、元プロ野球選手 * 1974年 - [[後藤心平]]、アナウンサー * 1974年 - [[小野眞一]]、[[ミュージシャン]] * 1974年 - [[板垣伸]]、アニメーション監督 * 1974年 - [[國光宏尚]]、実業家 * [[1975年]] - [[神谷浩史]]、[[声優]] * 1975年 - [[蔡健雅]]、シンガーソングライター * 1975年 - [[ティム・モンゴメリ]]、陸上選手 * [[1976年]] - [[あざの耕平]]、[[ライトノベル]]作家 * 1976年 - [[リック・ロス]]、ラッパー * 1976年 - [[高橋茂雄]]、[[お笑い芸人]]([[サバンナ (お笑いコンビ)|サバンナ]]) * 1976年 - [[フアン・カルロス・ムニス]]、プロ野球選手 * [[1977年]] - [[佐藤琢磨]]、レーシングドライバー * 1977年 - 松尾陽介、起業家、元お笑い芸人(元[[ザブングル (お笑いコンビ)|ザブングル]]) * 1977年 - [[ライル・オーバーベイ]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[ジャンルイジ・ブッフォン]]、サッカー選手 * 1978年 - [[トマス・デラロサ]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[鄭昌明]]、元プロ野球選手 * 1978年 - [[シェイマス]]、プロレスラー * 1978年 - [[春風亭一之輔]]、落語家 * [[1979年]] - [[川畑要]]、[[歌手]]([[CHEMISTRY]]) * 1979年 - [[小泉深雪]]、[[ファッションモデル]] * [[1980年]] - [[木村まどか]]、声優([[Aice5]]) * 1980年 - [[ニック・カーター (ミュージシャン)|ニック・カーター]]、ミュージシャン([[バックストリート・ボーイズ]]) * 1980年 - [[遠藤保仁]]、[[プロサッカー選手]] * 1980年 - [[長田庄平]]、お笑い芸人([[チョコレートプラネット]]) * [[1981年]] - 石田順三、ミュージシャン([[Swish! 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[[三田村春奈]]、タレント * 1991年 - [[満島みなみ]]、ファッションモデル * [[1992年]] - [[神谷英慶]]、プロレスラー * 1992年 - [[寺本愛美]]、ファッションモデル、女優 * [[1993年]] - [[ベラ・バザロワ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1993年 - [[野間峻祥]]、プロ野球選手 * [[1995年]] - [[中村秀香]]、[[アナウンサー]] * 1995年 - [[脇田もなり]]、歌手(元[[Especia]]) * 1995年 - [[知本真以子]]、[[レースクイーン]] * [[1996年]] - [[樋口黎]]、レスリング選手 * [[1997年]] - [[清水理子 (アイドル)|清水理子]]、アイドル([[虹のコンキスタドール]]) * [[1998年]] - [[アリエル・ウィンター]]、女優 * [[1999年]] - [[安部裕葵]]、サッカー選手 * 1999年 - [[近藤玲奈]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=ヒラタオフィス|url=https://www.hirata-office.jp/talent_profile/woman/reina_kondo.html|title=近藤玲奈 プロフィール|accessdate=2021-1-22}}</ref>、声優 * [[2000年]] - [[田中芽衣]]、ファッションモデル、女優 * 2000年 - [[夢乃 (ファッションモデル)|夢乃]]、[[ファッションモデル]] * 2000年 - [[ドゥシャン・ヴラホヴィッチ]]、サッカー選手 * [[2001年]] - 荒巻美咲、アイドル([[HKT48]]) * 2001年 - [[鎌田乃愛]]、野球選手 * [[2002年]] - [[板垣李光人]]、俳優 * 2002年 - [[ユ・ソンホ (俳優)|ユ・ソンホ]]、俳優、歌手 * 2002年 - [[森敬斗]]、プロ野球選手 * [[2007年]] - [[山﨑玲奈]]、女優 * [[2008年]] - [[藤岡舞衣]]、ファッションモデル * 生年不詳 - [[池崎リョウ]]、声優 * 生年不詳 - [[鍵山由佳]]、歌手 * 生年不明 - [[猪瀬明子]]、声優 * 生年不明 - [[千葉俊哉]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/2000011910/|title=千葉俊哉(ちばとしや)のプロフィール・画像・出演スケジュール|【スタスケ】(2000011910)|publisher=ザテレビジョン|accessdate=2021-01-05}}</ref>、声優 === 人物以外(動物など) === * [[1970年]] - [[ミスタープロスペクター]]、競走馬、種牡馬(+ [[1999年]]) * [[2002年]] - [[ディアデラノビア]]、競走馬 * [[2013年]] - [[マカヒキ (競走馬)|マカヒキ]]、競走馬 * [[2017年]] - [[レイパパレ]]、競走馬、繁殖牝馬 == 忌日 == * [[814年]] - [[カール大帝]]、[[カロリング朝]][[フランク王国]]王(* [[742年]]) * [[1350年]]([[観応]]元年/[[貞和]]5年[[12月20日 (旧暦)|12月20日]]) - [[上杉重能]]、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]] * [[1445年]] - [[アンリ・ベルショーズ]]、[[画家]] * [[1547年]] - [[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1491年]]) * [[1596年]] - [[フランシス・ドレーク]]、イギリス海軍軍人(* [[1540年]]頃) * [[1621年]] - [[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]、第233代[[教皇|ローマ教皇]](* [[1552年]]) * [[1650年]]([[慶安]]2年[[12月26日 (旧暦)|12月26日]]) - [[細川光尚]]、第2代[[熊本藩|熊本藩主]](* [[1619年]]) * [[1687年]] - [[ヨハネス・ヘヴェリウス]]、[[天文学者]](* [[1611年]]) * [[1688年]] - [[フェルディナント・フェルビースト]]、[[康熙帝]]に仕えた[[イエズス会]][[宣教師]](* [[1623年]]) * [[1794年]] - [[アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン]]、[[ヴァンデの反乱]]指導者(* [[1772年]]) * [[1798年]] - [[クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェ]]、[[作曲家]](* [[1748年]]) * [[1829年]] - [[アルプレヒト・ベルブリンガー]]、[[発明家]]、航空研究家(* [[1770年]]) * [[1830年]]([[文政]]13年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]) - [[児玉南柯]]、[[儒学者]](* [[1746年]]) * [[1859年]] - [[ゴドリッチ子爵]][[フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)|フレデリック・ジョン・ロビンソン]]、[[イギリスの首相|イギリス首相]](* [[1782年]]) * [[1861年]] - [[アンリ・ミュルジェール]]、[[小説家]](* [[1822年]]) * [[1864年]] - [[エミール・クラペイロン]]、[[物理学者]](* [[1799年]]) * [[1865年]] - [[フェリーチェ・ロマーニ]]、[[オペラ]]台本作家(* [[1788年]]) * [[1868年]] - [[アーダルベルト・シュティフター]]、[[画家]]、小説家(* [[1805年]]) * [[1881年]] - [[フョードル・ドストエフスキー]]、小説家(* [[1821年]]) * [[1889年]] - [[同慶帝]]、[[ベトナム|ベトナム皇帝]](* [[1864年]]) * [[1900年]] - [[ハンス・ブルノ・ガイニッツ]]、[[地質学者]]、[[古生物学者]](* [[1814年]]) * [[1903年]] - [[花柳壽輔 (初代)]]、[[日本舞踊|日本舞踊家]]、[[花柳流]]創始者(* 1821年) * 1903年 - [[オーギュスタ・オルメス]]、作曲家(* [[1847年]]) * [[1926年]] - [[三浦梧楼]]、駐朝鮮[[公使]]、枢密顧問官(* [[1847年]]) * 1926年 - [[加藤高明]]、政治家、第24代[[内閣総理大臣]](* [[1860年]]) * [[1935年]] - [[ミハイル・イッポリトフ=イワノフ]]、作曲家(* [[1859年]]) * [[1939年]] - [[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]、詩人、[[劇作家]](* [[1865年]]) * [[1942年]] - [[荒木寅三郎]]、[[医学者]](* [[1866年]]) * 1942年 - [[徳山璉]]、[[バリトン]]歌手(* [[1903年]]) * [[1946年]] - [[ヤン・ヴォルチェ]]、天文学者(* [[1891年]]) * [[1947年]] - [[レイナルド・アーン]]、作曲家(* [[1875年]]) * [[1949年]] - [[松本幸四郎 (7代目)]]、[[歌舞伎]]役者(* [[1870年]]) * [[1951年]] - [[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム]]、[[フィンランドの大統領|フィンランド大統領]](* [[1867年]]) * [[1956年]] - [[緒方竹虎]]、[[内閣官房長官]]、[[副総理]](* [[1888年]]) * [[1961年]] - [[伊藤晴雨]]、[[画家]](* [[1882年]]) * [[1962年]] - [[中村時蔵 (4代目)]]、歌舞伎役者(* [[1927年]]) * [[1965年]] - [[高橋元吉]]、詩人(* [[1893年]]) * 1965年 - [[藤田隆治]]、[[日本画家]](* [[1907年]]) * [[1971年]] - [[ドナルド・ウィニコット]]、[[心理学者]](* [[1896年]]) * [[1975年]] - [[アントニーン・ノヴォトニー]]、指導者(* [[1904年]]) * 1975年 - [[山崎定次郎]]、[[タンチョウ]]の保護に努めた人物(* [[1889年]]) * [[1976年]] - [[オイヴァ・トゥオミネン]]、フィンランド空軍の[[エース・パイロット]](* [[1908年]]) * [[1978年]] - [[ラリー・レインズ]]、[[プロ野球選手]](* [[1930年]]) * [[1980年]] - [[柴田雄次]]、[[化学者]](* [[1882年]]) * [[1984年]] - [[田崎広助]]、画家(* [[1898年]]) * [[1986年]] - [[ディック・スコビー]]、[[宇宙飛行士]](* [[1939年]]) * 1986年 - [[グレゴリー・ジャービス]]、[[エンジニア]]、宇宙飛行士、[[アメリカ空軍]]軍人(* [[1944年]]) * 1986年 - [[マイケル・J・スミス]]、宇宙飛行士(* [[1945年]]) * 1986年 - [[エリソン・オニヅカ]]、アメリカ空軍[[大佐]]、宇宙飛行士(* [[1946年]]) * 1986年 - [[クリスタ・マコーリフ]]、教育者、宇宙飛行士(* [[1948年]]) * 1986年 - [[ジュディス・レズニック]]、技術者、宇宙飛行士(* [[1949年]]) * 1986年 - [[ロナルド・マクネイア]]、物理学者、宇宙飛行士(* [[1950年]]) * [[1989年]] - [[山階芳麿]]、[[皇族]]、[[鳥類学|鳥類学者]]、[[山階鳥類研究所]]創設者(* [[1900年]]) * 1989年 - [[パンチェン・ラマ10世]]、第10代[[パンチェン・ラマ]](* [[1938年]]) * [[1993年]] - [[ハンナ・ウィルケ]]、フェミニズム美術のパフォーミング・アーティスト、[[画家]]、[[彫刻家]]、[[写真家]](* [[1940年]]) * [[1996年]] - [[ヨシフ・ブロツキー]]、詩人(* [[1940年]]) * [[1997年]] - [[荒川昇治]]、プロ野球選手(* [[1924年]]) * 1997年 - [[エドモン・ド・シュトウツ]]、[[指揮者]](* [[1920年]]) * 1997年 - [[綱島新八]]、プロ野球選手(* [[1919年]]) * [[1998年]] - [[石ノ森章太郎]]、[[漫画家]](* [[1938年]]) * [[2000年]] - どんと、[[ミュージシャン]]([[ボ・ガンボス]])(* [[1962年]]) * [[2002年]] - [[アストリッド・リンドグレーン]]、[[児童文学作家一覧|児童文学作家]](* [[1907年]]) * [[2004年]] - [[池田行彦]]、[[政治家]](* [[1937年]]) * [[2007年]] - [[エマ・ティルマン]]、世界最高齢のアメリカ人女性(* [[1892年]]) * 2007年 - [[猪熊重二]]、[[公明党]][[参議院|参議院議員]](* [[1931年]]) * 2007年 - [[カレル・スヴォボダ]]、作曲家(* [[1938年]]) * 2007年 - [[許瑋倫]]、女優(* [[1978年]]) * [[2008年]] - [[田村勝夫]]、[[編集者]]、[[サイマル出版会]]創業者(* [[1929年]]) * 2008年 - [[西川正雄]]、[[歴史家|歴史学者]](* [[1933年]]) * [[2009年]] - [[青山孝|青山孝史]]、[[歌手]](元[[フォーリーブス]])(* [[1951年]]) * 2009年 - [[SABE]]、[[漫画家]](* [[1968年]]) * [[2012年]] - [[友部達夫]]、政治家(* [[1928年]]) * [[2013年]] - [[井上昭文]]<ref>[http://www.kinenote.com/main/feature/vol29/detail01.aspx 追悼特集 2013年上半期に亡くなられた映画人たち] - [[KINENOTE]] 2020年12月11日閲覧</ref>、[[俳優]](* [[1927年]]) * [[2014年]] - [[坂崎一彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20140130-233EIJE4YZI4NHE32CJ6VPC23Q/|title=元巨人・坂崎一彦さん死去 天覧試合で長嶋とアベック弾|publisher=SANSPO.COM(サンスポ)|date=2014-01-30|accessdate=2021-02-02}}</ref>、元プロ野球選手(* [[1938年]]) == 記念日・年中行事 == * {{仮リンク|データ・プライバシーの日|en|Data Privacy Day}} *: アメリカ・カナダと欧州27か国の公的機関や企業が[[2008年]]から実施。 * 初[[不動明王|不動]]({{JPN}}) *: 毎月28日は[[不動明王]]の縁日で、一年で最初の縁日が「初不動」。 * 初[[荒神]]({{JPN}}) * [[衣類乾燥機]]の日({{JPN}}) *: 日本電機工業会が[[1994年]]に制定。「いるい(1)ふん(2)わり(8)」の語呂合せ。 * [[コピーライター]]の日({{JPN}}) *: [[1956年]]のこの日に日本で公布された[[万国著作権条約]]で(C)マークが制定されたことにちなみ、コピーライト(copyright)をコピーライター(copywriter)にかけたもの。 * 宇宙からの警告の日({{JPN}}) *: [[1986年]]のスペースシャトル・[[チャレンジャー号爆発事故]]にちなむ。作家・[[大江健三郎]]は『治療塔』の中でこの事故を「宇宙意志からの警告」と表現した。 * [[セレンディピティ]]の日({{JPN}}) *: [[1754年]]のこの日、ホリス・ウォールポールが初めてこの単語を使った事から、[http://serendipity.or.jp/ 一般社団法人日本セレンディピティ協会]が制定した。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0128|date=2011年6月}} * [[宇宙世紀|U.C.]]0079年 - ジオン公国政府、サイド6を通し地球連邦政府に休戦条約の締結を打診。(アニメ『[[機動戦士ガンダム]]』) === 誕生日(フィクション) === * 生年不明 - リチャード・坂田、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1486716896397303823}}</ref> * 生年不明 - グラントリノ、漫画・アニメ『[[僕のヒーローアカデミア]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heroaca.com/character/chara_group05/05-06/ |title=グラントリノ |publisher=[[堀越耕平]]/[[集英社]]・僕のヒーローアカデミア製作委員会 |accessdate=2022-09-29}}</ref> * 生年不明 - ナキ、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|author=石田スイ|authorlink=石田スイ|year=2014|title=東京喰種トーキョーグール|publisher=集英社|location=|isbn=978-4-08-879807-3|date=|volume=10巻|quote=カバー裏}}</ref> * 生年不明 - 松永智也、漫画・アニメ『[[虹色デイズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|rainbow_days_tv|692541560127356928}}</ref> * 生年不明 - 西崎芽依、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=TVアニメ「ハイスクール・フリート」公式サイト |url=https://www.hai-furi.com/character/01_04/ |title=西崎 芽依 |accessdate=2022-08-07}}</ref> * 生年不明 - 八木鶫、アニメ『ハイスクール・フリート』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=TVアニメ「ハイスクール・フリート」公式サイト |url=https://www.hai-furi.com/character/03_04/ |title=八木 鶫 |accessdate=2022-08-07}}</ref> * 生年不明 - ザトー=ONE、ゲーム『[[GUILTY GEAR]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.ggxrd.com/rev/cs/character/zat.php |title=ザトー=ONE |access-date=2022-08-11 |publisher=GUILTY GEAR Xrd -REVELATOR- CS版公式サイト}}</ref> * 生年不明 - サリー、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 サリー |access-date=2022-09-29 |publisher=[[任天堂]] |work=どうぶつの森}}</ref> * 生年不明 - 太田優、ゲーム『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |work=THE IDOLM@STER アイドル名鑑 |url=https://idollist.idolmaster-official.jp/detail/20031 |title=太田 優 |accessdate=2022-08-07 |publisher=窪岡俊之 [[バンダイナムコエンターテインメント|Bandai Namco Entertainment Inc.]]}}</ref> * 生年不明 - 小鳩あずさ、ゲーム『[[あんさんぶるガールズ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|ensemble_girls|825176708886196228}}</ref> * 生年不明 - 近藤咲、ゲーム・アニメ『[[八月のシンデレラナイン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://hachinai.com/character/kondo |publisher=Akatsuki Inc. |title=近藤 咲 |accessdate=2022-09-29 |website=八月のシンデレラナイン公式サイト}}</ref> <!-- * 生年不明 - [[最遊記の登場人物一覧#牛魔王側|八百鼡]]、漫画『[[最遊記シリーズ|最遊記]]』に登場するキャラクター 2022年8月時点で3年半以上要出典のためコメントアウト --> === 忌日 (フィクション) === * [[2010年]](アニメでは[[2013年]]<ref>{{Cite book |和書 |author=大場つぐみ|authorlink=大場つぐみ|coauthors = [[小畑健]] |year = 2007 |title = DEATH NOTE/A アニメーション公式解析ガイド |page = 4 |publisher = [[集英社]] |isbn = 978-4-08-874197-0 }}</ref>) - [[夜神月]]、漫画・アニメ『[[DEATH NOTE]]』の主人公(* [[1986年]])<ref name="read">{{Cite book |和書 |author = 大場つぐみ |coauthors = 小畑健 |year = 2007 |title = DEATH NOTE HOW TO READ 13 |pages=8,18,110-112|publisher = 集英社 |isbn = 4-08-874095-5 }}</ref> * [[2013年]]<ref>{{Cite book |和書 |author = 大場つぐみ |coauthors = 小畑健 |year = 2007 |title = DEATH NOTE/A アニメーション公式解析ガイド |page = 72 |publisher = 集英社 |isbn = 978-4-08-874197-0 }}</ref> - 魅上照、アニメ『DEATH NOTE』に登場するキャラクター(原作では2010年[[2月7日]]<ref name="read" />) == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{commonscat|28 January}} {{新暦365日|1|27|1|29|[[12月28日]]|[[2月28日]]|[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]|0128|1|28}} {{1年の月と日}}
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上野駅
上野駅(うえのえき)は、東京都台東区上野七丁目および東上野三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅。 1883年に日本鉄道の駅として開業。山手線北東部のターミナル駅であり、多数の在来線や新幹線、地下鉄路線が乗り入れる。1927年に開業した東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)浅草駅 - 当駅間は東洋初の本格的な地下鉄路線として知られる。 かつては鉄道が電化されるまでは皇居付近への乗り入れが認められておらず、また東京市が戦前に私鉄の都心乗り入れを認めなかったことから、北は上野駅、南は新橋駅(後の汐留駅)、東は両国橋駅(現・両国駅)、西は万世橋駅(後の交通博物館前)が端点となっており、3大副都心の駅(新宿駅・渋谷駅・池袋駅)及び上野駅・浅草駅は郊外へと伸びる路線のターミナル駅として発達した。1925年の東北本線電車線(現・京浜東北線)東京駅延伸までは東京市内から北へ向かう路線の正式な起点であった他、1928年の東北本線列車線東京駅延伸まで、および1973年から2015年までの東京駅 - 上野駅間列車線分断期間は東北本線(東北線、1990年以降は宇都宮線)・高崎線や常磐線の実質的な起点となる駅であり、上野駅から北へ向かう多数の寝台列車や急行列車が発着していた。また、当初の東北新幹線・上越新幹線は当駅を起点としており、北関東や東北地方・北陸地方へ伸びる路線が数多く集結することから、古くから東京の北の玄関口として機能してきた。 1991年に東北新幹線が東京駅まで延伸、さらに2015年に上野東京ラインとして東京駅 - 上野駅間の列車線が復活したことでそれまで当駅止まりだった宇都宮線・高崎線・常磐線が東京駅を経由して東海道本線(東海道線)に直通運転を行うようになったことで、当駅は通過駅としての側面が強まった。在来線は全定期列車が停車するが、新幹線については東京駅に至近であることから、各路線の最速達列車を中心に当駅を通過する列車も存在する。寝台列車も次々と廃止となり、現在は当駅を発着する寝台列車はTRAIN SUITE 四季島のみとなった。 南側の御徒町駅方面にJRの高架に沿ってアメヤ横丁(通称:アメ横)と呼ばれる商店街が位置しており、駅周辺は繁華街が広がる。山手線の繁華街の中でも今なお下町情緒を残す。駅西側には広大な面積をもつ上野恩賜公園(上野公園)が所在しており、公園内には東京国立博物館などの複数の著名な博物館・美術館や恩賜上野動物園、不忍池が位置し、これらを目当てに国内外から多くの観光客が訪れる。 西側の不忍口側で京成電鉄の京成上野駅と隣接している。 当駅は、JR東日本の新幹線と在来線各線、および東京メトロの路線が乗り入れている。 新幹線は、線路名称上は東北新幹線のみであるが(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照) 、東北新幹線経由で上越新幹線、北陸新幹線、北海道新幹線、山形新幹線、秋田新幹線が乗り入れている。 JR東日本の在来線に関しても、線路名称上は東北本線のみであるが、以下のように多岐にわたる各線が乗り入れている。 JR東日本公式サイトにて記載されている当駅の「所属路線」は、京浜東北線、常磐・成田線、常磐線、高崎線、東北本線、山手線、秋田新幹線、上越新幹線、東北新幹線、北陸新幹線、山形新幹線の11路線となっている。なお、スリーレターコードとして「UEN」が付与されている。 原則として各系統毎に専用の線路が割り当てられているが、宇都宮線・高崎線と常磐線の一部列車は線路を共有している。これは上野東京ラインの開業に伴い、常磐線が乗り入れるために平面交差を行うようになったためである。 上野駅の事務管コードは、▲441003となっている。 東京メトロは銀座線と日比谷線の2路線が乗り入れている。 日本鉄道は上野 - 熊谷間の開業に先立ち、1882年(明治16年)11月に寛永寺の子院跡約29,800坪(約98,512平方メートル (m))を東京府より借り受けて上野駅の用地とした。1883年(明治16年)7月28日に同線の仮開業に伴い上野駅を開設し、8月から貨物、10月より郵便物の取り扱いを始めた。1884年(明治17年)6月28日に仮駅舎で開業式が行われ、1885年(明治18年)に煉瓦造りの237坪(約783m)の本駅舎が竣工した。この初代駅舎は三村周が設計、毛利重輔が監督を行い、中央の平屋部分に出札広場とコンコース、両翼に待合室を設置したH型平面の構造で、当時の汐留駅や横浜駅を踏襲した形となっている。 1885年(明治18年)に大宮駅から宇都宮駅に至る区間が開通すると、上野駅は東京側のターミナルとして繁盛した。当初は1つの駅構内に旅客・貨物・車両基地の機能を併設していたが、次第に鉄道輸送の需要が伸びると構内が手狭になった。駅周辺の道路が狭隘で、旅客を輸送する馬車鉄道や貨物を輸送する大八車が輻輳したために、旅客と貨物の機能を分離することが計画された。1890年(明治23年)11月1日に南方に地上の貨物線を開通させ、新たに設置された秋葉原貨物取扱所へ貨物取扱を移転した。1896年(明治29年)12月25日に開業した隅田川駅にも荒荷の扱いなどを分散移転して、上野駅は12月1日に旅客専用駅となった。1900年(明治33年)に日本鉄道が駅前広場に110坪(約364m)で2階建ての上野待合店を建設し、飲食店、喫茶店、雑貨販売店、理髪店などが入居したが、1922年(大正11年)に撤去された。 1905年(明治38年)4月1日に常磐線の三河島 - 日暮里間が開通し、それまで田端駅で折り返して運転していた常磐線の列車が直接上野駅へ乗り入れた。この年に新橋 - 上野間の高架旅客線の建設とそれに伴う上野駅の改築が決議されている。1906年(明治39年)に、日本鉄道の国有化に伴い上野駅も国有化され、1909年(明治42年)10月に秋葉原 - 上野 - 青森間が東北本線と定められた。12月16日に山手線の烏森 - 品川 - 新宿 - 池袋 - 田端 - 上野間で電車の運転が開始され、上野駅はその一方の端となった。 上野駅の利用者は増加を続け、1917年(大正6年)の駅構内は事務所9棟、倉庫10棟、その他売店などが44棟が立ち並んでいた 。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で初代駅舎が焼失し、23日に仮駅舎で営業を再開した。1923年から鉄道省東京改良事務所が上野駅周辺の改良工事を開始し、1925年(大正14年)3月1日に東京駅 - 上野駅間の東北本線電車線が開通。現在の京浜東北線に当たる路線が接続された。併せて上野駅と新橋駅とを結ぶ高架旅客線が開通して山手線の環状運転が始まり、東京の都市内交通である山手線と、東北・常磐・高崎など長距離幹線を接続する駅として機能した。また、1928年(昭和3年)には現在のJR宇都宮線にあたる東北本線列車線の上野駅 - 東京駅間が開通し、東京の都市内交通の電車だけでなく、列車も含めて東北本線の途中駅となった。 1930年(昭和5年)3月1日に地鎮祭が行われて改築工事が始まり、1932年(昭和7年)4月2日に2代目の駅舎が落成、5日から営業を開始した。この駅舎は利用者の安全を配慮して、乗車客は1階の車寄せから列車ホームへ、降車客は地下1階の車寄せへ、それぞれの動線が設計された。外壁は多胡石と小松石の砕石が入ったモルタル塗りで、臍壁は花崗岩が用いられた。本屋の中央に設置した30×20.3×13.25メートル (m) の広間空間が構造上の特徴で、正面玄関の機能を有し、2階部に業務エリアの移動のための回廊が設けられていた。秋葉原の貨物取扱設備が高架上に移転したことを受け、東西交通を遮断するなど難点が多かった地上の貨物線は、駅舎完成後の7月1日に廃止されている。 過去においては代表的な帰省客の玄関口であり、1965年の例では8月10日から8月14日までの5日間に約90万人が利用した。お盆や年末年始の多客時には押しかける乗客を駅構内だけではさばききれず、駅舎に隣接して大型テントを連接したテント村を設営。待機列を整理、誘導する時代が続いた。 中央改札上に1951年展示の猪熊弦一郎作の壁画『自由』があり、当駅を代表する光景ともなっている(1951年12月製作、1984年6月修復、2002年12月修復)。下部にLED式発車標が設置され、新幹線開業前は、東北・奥羽・磐越西線は緑(杜の都・仙台をイメージ)、高崎・上越線は黄(越後平野の稲穂をイメージ)、高崎・信越線はピンク(信州のりんごをイメージ)、常磐線は青(太平洋の海をイメージ)、東北新幹線大宮開業時に設定された「新幹線リレー号」はクリーム色と、方面別に色分けされた木製の発車案内板が使用され、ホームにも後から幕式の発車標が設置されていた。 グランドコンコースの中央改札内に朝倉文夫作のブロンズ像『つばさの像』、改札外広小路口に朝倉作の『三相』がある。『つばさの像』は1958年10月10日に初の東北特急「はつかり」運転開始と駅開業75周年を記念して台東区が寄贈したもので、当初は広小路口に設置された。『三相』は、1958年(昭和33年)10月10日に駅開業75周年記念式に列席した朝倉が、駅が朝倉自身と誕生を同じくしていることを知り、深く喜懌になり、記念に台東区を通じ贈られたもので、三相は知、情および意である。券売機上壁面に、東北上越新幹線上野駅開業を記念して制作された平山郁夫原画・制作のステンドグラス『ふる里日本の華』(1985年)がある。豊かな水と緑を背景に四季折々の美しさを屏風絵ふうに配し、沿線各地の代表的な花・まつり・風物をあしらいふる里への思いを表現した、きわめて日本的なモチーフと構成に特徴がある。 バブル期に磯崎新設計による地上300.3メートルの超高層駅ビルに建て替える構想があったが、1992年(平成4年)にJR東日本は「この高さでは効率的な利用ができない」として計画の見直しを発表した。 南満洲鉄道の大連駅と函館本線の小樽駅、および樺太庁鉄道(後の樺太西線→ロシア鉄道シャフタ=サハリンスカヤ─アルセンチェフカ線)の真岡駅(ホルムスク南駅、1992年に解体)は当駅を模したとされる。 コンコースは、地上と、(旧)公園口通路(3階南側。かつて公園口改札が西端にあったためそう呼ばれていたが、後述の通り公園口が移転され、その頃から公園口通路とはあまり呼称されなくなった)、大連絡橋通路(3階北側)、大連絡橋連絡通路(公園口通路と大連絡橋通路を連絡する)、新幹線地下コンコース(地下)がある。新幹線コンコースは、地上の中央改札から入場して右側の新幹線改札を経て向かう。 改札は、中央改札(1階)、不忍改札(中2階)、公園改札(3階・大連絡橋通路西端)、入谷改札(3階・旧公園口通路東端)の計4か所である。このうち、不忍改札と公園改札にはお客さまサポートコールシステムが設置されており、一部の時間帯はインターホンによる案内となる。かつては、期間・時間が限定された臨時改札として、Suica専用(簡易Suica改札機設置)の公園臨時改札があったが、2020年3月20日に新しい公園口駅舎が供用開始され、公園改札が(旧)公園口通路西端から大連絡橋通路西端の公園臨時改札跡地へ移設された。改札内改札として先述の新幹線改札があり、以前はそれに加え、在来線特急乗換(16・17番線入出場)改札が地上および3階にそれぞれあったが、元々寝台特急は13番線などを利用していたほか、2014年3月15日のダイヤ改正から高崎線特急が14・15番線に、2015年3月14日の改正(上野東京ライン開業)から常磐線特急のうち東京方面に乗り入れる列車が8・9番線を発着するようになり、特急列車の発着ホームが分散されたため、2015年3月13日を以て廃止され、自由に出入りできるようになった(8・9・14・15番線ホーム上に高崎・常磐線の当日分専用指定席券売機が設置された)。 出口は、地上の中央改札正面の「広小路口」「正面玄関口」や同左手の「浅草口」、中2階の不忍改札からは地上の「不忍口」「山下口」、3階の入谷改札からは2階の「東上野口」、3階の「パンダ橋口」、地上の「入谷口」などが利用できる。同じく3階の公園改札からは3階の「公園口」に直結していて、上野恩賜公園へ歩行者空間が直結されている(公園改札移転と同時に外の広場も再整備され、駅舎と公園の間に通っていた車道を南北でそれぞれロータリー化して分断し、歩行者空間が作られた)。正面玄関口および広小路口の出口からは、国道4号(日光街道)などを跨ぐ歩道橋が利用できる。2000年10月、駅を東西に跨ぐように「上野駅東西自由通路」(長さ 220m 、幅 20m )が架けられ、自由に歩くことができようになり、2001年、愛称が「パンダ橋」に決まり、2002年に橋の西端下に、「パンダ橋」と彫られた、高さ 1.3m 、幅 2.5m の稲田石(白御影石)の石碑が建てられた。駅構内にはジャイアントパンダの像は2つあり、実物の倍の大きさはある巨大なジャイアントパンダ像はパンダ橋口を出て右の所に、もう一つの小パンダ像は、大連絡橋コンコースにあったが、2017年12月に小パンダ像も大パンダ像のある場所に移設された。 京成電鉄の京成上野駅へは不忍口を経るように案内サインが設置されている。JRと京成線の連絡は、山手線・京浜東北線で北側に2駅進んだ日暮里駅が通常利用されている。上野駅と京成上野駅の両駅を連絡駅とした定期券は発売している。 地下鉄各線の連絡は、中央改札近くにある階段・エスカレータを利用するルートが主だが、入谷改札からの動線も案内されている。 在来線のトイレは中央改札口入って正面にある駅弁店・土産物店(洋菓子)の裏側(地上。頭端式ホーム14・15番線ホームおよび16・17番線ホームの延長線上)、3・4番線ホームへの階段と5・6番線ホームへの階段との間(中2階コンコース)、9・10番線ホームと11・12番線ホームとを連絡する箇所(2階)、現行の公園口改札前(3階)、エキュート上野内1階に直結するエスカレーターの向かい側(3階)の計5か所である。なお、2020年3月の公園口駅舎の移設の後となる同年6月17日に、公園口改札外(2階)が供用開始される予定である。 2009年3月16日に、上野中央通り地下駐車場および周辺のJR上野駅・御徒町駅、東京メトロ上野駅・上野広小路駅・仲御徒町駅、京成上野駅、都営上野御徒町駅、を結ぶ地下通路が、東京都の整備で供用開始された。この8駅と上野駅は同一駅として扱わないが、東京メトロ上野駅、京成上野駅は定期券の連絡駅 として扱う。 新幹線開業以降JR駅内部の改装工事が始まり、1990年代後半に改札内部に「Dila上野」が完成した。その後、JR東日本ステーションルネッサンス「みんなのえきプロジェクト」と称して中央改札・不忍改札側の駅舎内部も改装され、東西自由通路(愛称:パンダ橋)や正面玄関「レトロ館」の「Breakステーションギャラリー」、中央改札の「グランドコンコース」、ショッピングセンター「七番街(アトレ上野)」などが整備され、2002年3月にグランドオープンした。アトレ上野は2月22日に開店し、「FUSION SQUARE 人が集まるeki融合空間」をコンセプトに駅周辺にない飲食・食物販・ファッション・雑貨など54店舗を「レトロ館・ガレリア」「グランドコンコース」および「七番街」の3ゾーンに配置し、20 - 39歳の女性をターゲットに新たなエキナカショッピングシーンを演出している。2007年4月から9月にかけてリニューアル工事を行い、「ゴディバ」「日本橋屋長兵衛」「アール・エフ・ワン」「ベーグル&ベーグル」「ジンズ グローバル スタンダード」「サマンサタバサ プチチョイス」のオープンと既存9ショップの改装を行った。東京圏駅ビル開発(現・アトレ)は、同年8月に浅草口地下でカフェ・雑貨ショップなどを配置した新フロア「レトロゲート」を開設した。9月にフロアリニューアルを行い、グランドオープンした。2005年春に全体のリニューアル工事が完成し、全面が白で統一された外観となり、エレベーターの整備も行われた。完工時は「上野駅リニューアルキャンペーン」が開催され、JR東日本のイメージキャラクターでCFに採用された国分佐智子らが開場記念式典を催した。本改装は「駅ナカ」の先例となった。その後、2013年12月にはファッションゾーン、2014年7月にはスウィーツゾーンとレストランゾーン、同年10月にはグランドコンコースエリア、2019年11月 - 12月には上野公園側レストランゾーンがリニューアルされた。なお、2020年3月の公園口駅舎の移設の後となる同年6月17日に、エキュート上野の新店舗(4店)および展望テラスがオープンする予定である。 東北新幹線の開業に伴い並行在来線の特急列車が大方廃止されて地上ホームの19・20番線が廃止となり、1999年9月に18番線も廃止され、跡地の東京方と東上野口・入谷口に、2006年7月19日からフィットネスクラブのジェイアール東日本スポーツが入居している。中央付近も途中まで取り壊されて従業員専用通路となっている。日暮里方は、ホームがほぼ原型を留めたままで従業員専用通路として使用されている(19番線側に建てられた事務所を行き来するのに使用)のが、他のホームから確認できる。 東北新幹線開業以前は、北関東、東北・信越・北陸方面へ向かう東北本線、日光線、磐越西線、奥羽本線、高崎線、両毛線、上越線、信越本線、吾妻線、羽越本線、常磐線の各特急・急行など長距離優等列車が数多く発着していたが、新幹線開業のため並行在来線の優等列車は次第に廃止となり、地上ホームは削減されて跡地が新幹線ホームへ向かうコンコースとなり、現在は中距離電車が増発されて、発着列車の大半が宇都宮線、高崎線、常磐線の北関東方面へ向かう近郊・中距離電車となっている。 当初、高架ホームは常磐線各列車主体に使用され、高架ホームを発着する東北・上信越方面各列車はごく一部であった。地平ホームは、常磐線列車の発車が無く東北・上信越方面各列車の専用であった。特急・急行列車が増発されて中距離通勤客が増加すると、地平ホームは特急中心に、高架ホームは各線普通列車中心にそれぞれ運用され、上野東京ライン開業直前の時期は宇都宮線と高崎線の普通列車は5 - 8番線の高架ホームと13 - 15番線の地平ホームのいずれかに、常磐線の普通列車は9・10番線、快速電車は11・12番線に発着したが、9番線に到着する宇都宮線・高崎線列車、8番線や地平ホームに到着する常磐線普通列車もわずかに存在した。以前は8番線発の常磐線列車や9番線発の高崎線列車もあった。 直営駅で、鶯谷駅と御徒町駅を管理下に置く。 戦後は周辺地域で地下水利用が多く、地盤沈下が発生して周辺の地下水利用が制限されている。地下30mに位置する新幹線ホーム周辺の地下水は、建設前の1970年代初期は地下38mで新幹線ホームより8m下であったが地下水の採取規制により余剰となり、1995年に地下14mまで水位が上昇した。浮き上がりによる駅構造の変形を防ぐため、新幹線ホームの床下に合計3万7000トンの錘を設置した。2004年に地下12mまで水位が上昇し、全長17mのアンカーボルトを、東京駅の横須賀線・総武快速線ホームの約5倍となる約650本陥入した。地下水を不忍池へ流す導水管も敷設され、不忍池の水質と水量保持、JRの下水道料金負担軽減など波及効果も得た。隙間からの漏水は対策が難しいため、ビニールチューブで誘導するなど安価な手法で対処している。 同一駅に3種類のホームがある。 (出典:JR東日本:駅構内図) 1960年代までは、5番線から20番線までのホームは通勤列車(出典ママ)と長距離列車が入り乱れて発着する状態にあった。1969年(昭和44年)12月27日から1970年(昭和45年)1月1日の間、帰省客の便宜を図るために上野駅着の通勤列車を大宮駅または日暮里駅で折り返し運転として、長距離列車の発着ホームを行き先別に整理する取り組みが行われた。このことが契機となって1970年代以降、発着ホームが行き先別に固定化された。 在来線の駅から北方向に、西から順に、京浜東北線と山手線の方向別複々線(山手線が内側)、東北本線列車線(宇都宮線・高崎線)の複々線(尾久駅手前の尾久車両センター入出庫部の先まで高架ホーム発が外側、地上ホーム発が内側の方向別)、常磐線の複線の計10本の線路が並行する。このうち、東北本線列車線と常磐線からは高架ホーム、地平ホームのほぼすべてへの発着が可能である。このため、シングルスリップスイッチやダブルスリップスイッチを用いた複雑な配線となっている。常磐線の高架線と地平線の分岐・合流点は隣の鶯谷駅付近となるが、これは1968年に立体交差化されたものである。 南方向に、京浜東北線、山手線の複々線に加えてその東側に留置線群とそれらをつなぐ通路線が秋葉原駅まで続いている。これはかつて東京駅までつながっていた回送線の跡であり、2015年に上野東京ラインとして再び東京駅と結ばれた。これらの線路につながっているのは5 - 9番線であり、10 - 12番線と地平ホームの各線は行き止まりである。下の図は反映されていないが、行き止まりとなっている10番線と11番線の先端(最後尾)部は両ホームを結ぶ通路となっており、9番線から12番線まで平面移動ができる。 東北新幹線上野駅開業時(1985年)の在来線の配線図を以下に示す。基本的に本配線が踏襲されている。主な変更点は1999年に18番線が廃止されている。2015年度の上野東京ライン開業準備工事で、東京方の下り線路から6番線と、7 - 9番線から上り線路へ両方向同時に転線可能な配線とし、日暮里方で6番線から常磐線下り線路へ進入を円滑にするべく一部付け替えたりなどしている。5番線からも常磐線へ進入可能である。 5 - 10・13・16・17番線で発車メロディを使用する他は発車ベルを使用している。 寝台特急列車が発着する13番線ホームは普通列車4・5号車停車位置付近に、寝台特急の乗客以外も利用可能な、寝台特急の到着待ち休憩所「五ツ星広場」があった。2015年に「北斗星」の定期運行が廃止されて寝台特急列車の定期発着が無くなり、解放機会がなくなり、案内板から消去され、設備等が撤去され、ホームの一部として復元された。代わりに13番線ホームの各所に常時使用可能のベンチが設置された。 開設当初はテーブルが設置されるなどオープンカフェ風であったが、2011年時点で大幅に縮小し、椅子のみを配置して南北2か所に分割されている。北側エリアの壁は13番線から発着する「カシオペア」で使用されるE26系の車体を意識して作られており、同系列車体と同一の5色ラインが配されている。 五ツ星広場で迷惑行為があったため、2012年8月25日から、利用可能時間が制限された。寝台列車発車の約1時間前から列車の発車まで利用可能であり、利用時間は、15時00分 - 16時20分(カシオペア・運転日に限る)、17時50分 - 19時03分(北斗星)、20時00分 - 21時15分(あけぼの)である。これら以外の時間は、伸縮門扉によって閉鎖されていた。これに伴って15番線と16番線との間、石川啄木の歌碑の横にベンチが2脚、設置された。 銀座線は相対式ホーム2面2線を有する地下駅。エスカレーターは設置されていないが、ホームから改札口までのエレベーターはホーム浅草方の端に設置されており、浅草側に改札口からJR連絡階へ通じるエレベーターがある。銀座線は上野検車区が駅の至近に位置し、ラッシュ時に当駅を始発・終着とする電車がある。これは大晦日から元旦にかけての終夜運転も同様で、当駅 - 浅草駅間は7.5分間隔、当駅 - 渋谷駅間は15分間隔で段差がつけられている。1987年にホームの拡幅工事が行われ、渋谷方面のホームに、日本最初の地下鉄開業を告知するポスターのレプリカが煉瓦壁と共に設置されている。 日比谷線は相対式ホーム2面2線を有する地下駅。出口階段はホームの前後にあるが、ホームから改札口へ通じるエレベーターは中目黒方面が中央に、北千住方面が仲御徒町寄りにある。中目黒方面は別に改札口が設置され、前述のホームへのエレベーターに通じている(平日朝の通勤時間帯のみは階段も使用できる)。同じくホームから改札口へ通じるエスカレーターは、中目黒方面は北千住寄り、北千住方面は中目黒寄りに設置されている。中目黒方面ホーム中央に、発車標とは別に電車位置の現示装置が設置されている。2013年の一時期、行先のほかに直通電車を直通先会社のロゴも併せて表示する液晶ディスプレイを用いた案内装置が試験されたことがある。 銀座線の渋谷側改札口から地下の連絡通路を経由して、京成電鉄の京成上野駅、上野中央通り地下駐車場と中央通りの地下連絡通路に接続している。 両線の改札口は各々独立しており、改札内で連絡していないため、普通乗車券や回数券で銀座線と日比谷線を乗り換える際は、改札を出る際に乗車券が回収されずに出口に戻る乗り換え専用のオレンジ色の自動改札機を通る必要がある。PASMO・SuicaなどのICカードでの乗り換えはどの自動改札機からもタッチできる。いずれも、60分の時間制限がある。 従来あった駅ナカ商業施設「メトロピア」は改装され、「エチカフィット上野」として2009年2月20日に開業した。リニューアル工事の為2015年3月に営業を一時終了したが、2017年12月に再オープンした。 日比谷線駅構内に、東京メトロのお忘れ物総合取扱所が設置されていたが、2015年3月29日に南北線飯田橋駅へ移転した。 駅務管区所在駅であり、上野駅務管区として上野地域、秋葉原地域、茅場町地域を管理する。 東京メトロの路線同士はホーム番号(番線表示)を連続することが多いが、当駅での銀座線と日比谷線のホーム番号は連番ではなく、両線ともに1・2番線である。都営地下鉄浅草線および大江戸線の蔵前駅も当駅と同様になっており、それぞれ1番線・2番線である。 (出典:東京メトロ:構内立体図) 全ホームでスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 銀座線ホームでは、2012年10月30日から森山直太朗の「さくら(独唱)」をアレンジしたメロディを使用している。 主な駅弁は下記の通り。 埼玉県・千葉県北西部・北関東方面に直通する主要鉄道路線のターミナル駅であるが、東京駅と同様にJR路線間の乗り換え客が主体であることからその規模の大きさに対して統計上の乗車人員は少ない。特に新幹線の乗車人員は全列車停車の仙台駅、さらには最速達種別が一切停車しない宇都宮駅や高崎駅よりも少ない。改札を通らない乗客は乗降人員に計上されないが、実際は朝夕を中心に乗換客で慢性的に混雑が見られる。 平日朝は当駅止まりの宇都宮線・高崎線・常磐線の列車から降車後に3・4番線ホームに流れる人の波が絶えず続き、同ホームを発着する山手線・京浜東北線電車に一斉に乗り込む。山手線と京浜東北線の上野 - 御徒町間は、ラッシュ時に平均乗車率が常時200%余で国内最高の混雑区間であったが、2015年3月14日に上野東京ラインが開業すると当駅の乗換客は大幅に減少し、上野 - 御徒町間の混雑も170%程度に緩和した。 2017年度の各社合計の1日平均乗降人員は約61万人、年間に約2億2300万人である。京成上野駅を含めた場合1日平均乗降人員は約66万人、年間で約2億4100万人である。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(東京メトロのみ)。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。 「上野駅」停留所にて発着する。 「JR上野駅公園口」にて発着する。 文学や歌謡曲の分野で、当駅を扱った作品が存在する。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "上野駅(うえのえき)は、東京都台東区上野七丁目および東上野三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1883年に日本鉄道の駅として開業。山手線北東部のターミナル駅であり、多数の在来線や新幹線、地下鉄路線が乗り入れる。1927年に開業した東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)浅草駅 - 当駅間は東洋初の本格的な地下鉄路線として知られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "かつては鉄道が電化されるまでは皇居付近への乗り入れが認められておらず、また東京市が戦前に私鉄の都心乗り入れを認めなかったことから、北は上野駅、南は新橋駅(後の汐留駅)、東は両国橋駅(現・両国駅)、西は万世橋駅(後の交通博物館前)が端点となっており、3大副都心の駅(新宿駅・渋谷駅・池袋駅)及び上野駅・浅草駅は郊外へと伸びる路線のターミナル駅として発達した。1925年の東北本線電車線(現・京浜東北線)東京駅延伸までは東京市内から北へ向かう路線の正式な起点であった他、1928年の東北本線列車線東京駅延伸まで、および1973年から2015年までの東京駅 - 上野駅間列車線分断期間は東北本線(東北線、1990年以降は宇都宮線)・高崎線や常磐線の実質的な起点となる駅であり、上野駅から北へ向かう多数の寝台列車や急行列車が発着していた。また、当初の東北新幹線・上越新幹線は当駅を起点としており、北関東や東北地方・北陸地方へ伸びる路線が数多く集結することから、古くから東京の北の玄関口として機能してきた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1991年に東北新幹線が東京駅まで延伸、さらに2015年に上野東京ラインとして東京駅 - 上野駅間の列車線が復活したことでそれまで当駅止まりだった宇都宮線・高崎線・常磐線が東京駅を経由して東海道本線(東海道線)に直通運転を行うようになったことで、当駅は通過駅としての側面が強まった。在来線は全定期列車が停車するが、新幹線については東京駅に至近であることから、各路線の最速達列車を中心に当駅を通過する列車も存在する。寝台列車も次々と廃止となり、現在は当駅を発着する寝台列車はTRAIN SUITE 四季島のみとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "南側の御徒町駅方面にJRの高架に沿ってアメヤ横丁(通称:アメ横)と呼ばれる商店街が位置しており、駅周辺は繁華街が広がる。山手線の繁華街の中でも今なお下町情緒を残す。駅西側には広大な面積をもつ上野恩賜公園(上野公園)が所在しており、公園内には東京国立博物館などの複数の著名な博物館・美術館や恩賜上野動物園、不忍池が位置し、これらを目当てに国内外から多くの観光客が訪れる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "西側の不忍口側で京成電鉄の京成上野駅と隣接している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "当駅は、JR東日本の新幹線と在来線各線、および東京メトロの路線が乗り入れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "新幹線は、線路名称上は東北新幹線のみであるが(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」参照) 、東北新幹線経由で上越新幹線、北陸新幹線、北海道新幹線、山形新幹線、秋田新幹線が乗り入れている。 JR東日本の在来線に関しても、線路名称上は東北本線のみであるが、以下のように多岐にわたる各線が乗り入れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "JR東日本公式サイトにて記載されている当駅の「所属路線」は、京浜東北線、常磐・成田線、常磐線、高崎線、東北本線、山手線、秋田新幹線、上越新幹線、東北新幹線、北陸新幹線、山形新幹線の11路線となっている。なお、スリーレターコードとして「UEN」が付与されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "原則として各系統毎に専用の線路が割り当てられているが、宇都宮線・高崎線と常磐線の一部列車は線路を共有している。これは上野東京ラインの開業に伴い、常磐線が乗り入れるために平面交差を行うようになったためである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "上野駅の事務管コードは、▲441003となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "東京メトロは銀座線と日比谷線の2路線が乗り入れている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "日本鉄道は上野 - 熊谷間の開業に先立ち、1882年(明治16年)11月に寛永寺の子院跡約29,800坪(約98,512平方メートル (m))を東京府より借り受けて上野駅の用地とした。1883年(明治16年)7月28日に同線の仮開業に伴い上野駅を開設し、8月から貨物、10月より郵便物の取り扱いを始めた。1884年(明治17年)6月28日に仮駅舎で開業式が行われ、1885年(明治18年)に煉瓦造りの237坪(約783m)の本駅舎が竣工した。この初代駅舎は三村周が設計、毛利重輔が監督を行い、中央の平屋部分に出札広場とコンコース、両翼に待合室を設置したH型平面の構造で、当時の汐留駅や横浜駅を踏襲した形となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1885年(明治18年)に大宮駅から宇都宮駅に至る区間が開通すると、上野駅は東京側のターミナルとして繁盛した。当初は1つの駅構内に旅客・貨物・車両基地の機能を併設していたが、次第に鉄道輸送の需要が伸びると構内が手狭になった。駅周辺の道路が狭隘で、旅客を輸送する馬車鉄道や貨物を輸送する大八車が輻輳したために、旅客と貨物の機能を分離することが計画された。1890年(明治23年)11月1日に南方に地上の貨物線を開通させ、新たに設置された秋葉原貨物取扱所へ貨物取扱を移転した。1896年(明治29年)12月25日に開業した隅田川駅にも荒荷の扱いなどを分散移転して、上野駅は12月1日に旅客専用駅となった。1900年(明治33年)に日本鉄道が駅前広場に110坪(約364m)で2階建ての上野待合店を建設し、飲食店、喫茶店、雑貨販売店、理髪店などが入居したが、1922年(大正11年)に撤去された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1905年(明治38年)4月1日に常磐線の三河島 - 日暮里間が開通し、それまで田端駅で折り返して運転していた常磐線の列車が直接上野駅へ乗り入れた。この年に新橋 - 上野間の高架旅客線の建設とそれに伴う上野駅の改築が決議されている。1906年(明治39年)に、日本鉄道の国有化に伴い上野駅も国有化され、1909年(明治42年)10月に秋葉原 - 上野 - 青森間が東北本線と定められた。12月16日に山手線の烏森 - 品川 - 新宿 - 池袋 - 田端 - 上野間で電車の運転が開始され、上野駅はその一方の端となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "上野駅の利用者は増加を続け、1917年(大正6年)の駅構内は事務所9棟、倉庫10棟、その他売店などが44棟が立ち並んでいた 。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で初代駅舎が焼失し、23日に仮駅舎で営業を再開した。1923年から鉄道省東京改良事務所が上野駅周辺の改良工事を開始し、1925年(大正14年)3月1日に東京駅 - 上野駅間の東北本線電車線が開通。現在の京浜東北線に当たる路線が接続された。併せて上野駅と新橋駅とを結ぶ高架旅客線が開通して山手線の環状運転が始まり、東京の都市内交通である山手線と、東北・常磐・高崎など長距離幹線を接続する駅として機能した。また、1928年(昭和3年)には現在のJR宇都宮線にあたる東北本線列車線の上野駅 - 東京駅間が開通し、東京の都市内交通の電車だけでなく、列車も含めて東北本線の途中駅となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1930年(昭和5年)3月1日に地鎮祭が行われて改築工事が始まり、1932年(昭和7年)4月2日に2代目の駅舎が落成、5日から営業を開始した。この駅舎は利用者の安全を配慮して、乗車客は1階の車寄せから列車ホームへ、降車客は地下1階の車寄せへ、それぞれの動線が設計された。外壁は多胡石と小松石の砕石が入ったモルタル塗りで、臍壁は花崗岩が用いられた。本屋の中央に設置した30×20.3×13.25メートル (m) の広間空間が構造上の特徴で、正面玄関の機能を有し、2階部に業務エリアの移動のための回廊が設けられていた。秋葉原の貨物取扱設備が高架上に移転したことを受け、東西交通を遮断するなど難点が多かった地上の貨物線は、駅舎完成後の7月1日に廃止されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "過去においては代表的な帰省客の玄関口であり、1965年の例では8月10日から8月14日までの5日間に約90万人が利用した。お盆や年末年始の多客時には押しかける乗客を駅構内だけではさばききれず、駅舎に隣接して大型テントを連接したテント村を設営。待機列を整理、誘導する時代が続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "中央改札上に1951年展示の猪熊弦一郎作の壁画『自由』があり、当駅を代表する光景ともなっている(1951年12月製作、1984年6月修復、2002年12月修復)。下部にLED式発車標が設置され、新幹線開業前は、東北・奥羽・磐越西線は緑(杜の都・仙台をイメージ)、高崎・上越線は黄(越後平野の稲穂をイメージ)、高崎・信越線はピンク(信州のりんごをイメージ)、常磐線は青(太平洋の海をイメージ)、東北新幹線大宮開業時に設定された「新幹線リレー号」はクリーム色と、方面別に色分けされた木製の発車案内板が使用され、ホームにも後から幕式の発車標が設置されていた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "グランドコンコースの中央改札内に朝倉文夫作のブロンズ像『つばさの像』、改札外広小路口に朝倉作の『三相』がある。『つばさの像』は1958年10月10日に初の東北特急「はつかり」運転開始と駅開業75周年を記念して台東区が寄贈したもので、当初は広小路口に設置された。『三相』は、1958年(昭和33年)10月10日に駅開業75周年記念式に列席した朝倉が、駅が朝倉自身と誕生を同じくしていることを知り、深く喜懌になり、記念に台東区を通じ贈られたもので、三相は知、情および意である。券売機上壁面に、東北上越新幹線上野駅開業を記念して制作された平山郁夫原画・制作のステンドグラス『ふる里日本の華』(1985年)がある。豊かな水と緑を背景に四季折々の美しさを屏風絵ふうに配し、沿線各地の代表的な花・まつり・風物をあしらいふる里への思いを表現した、きわめて日本的なモチーフと構成に特徴がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "バブル期に磯崎新設計による地上300.3メートルの超高層駅ビルに建て替える構想があったが、1992年(平成4年)にJR東日本は「この高さでは効率的な利用ができない」として計画の見直しを発表した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "南満洲鉄道の大連駅と函館本線の小樽駅、および樺太庁鉄道(後の樺太西線→ロシア鉄道シャフタ=サハリンスカヤ─アルセンチェフカ線)の真岡駅(ホルムスク南駅、1992年に解体)は当駅を模したとされる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "コンコースは、地上と、(旧)公園口通路(3階南側。かつて公園口改札が西端にあったためそう呼ばれていたが、後述の通り公園口が移転され、その頃から公園口通路とはあまり呼称されなくなった)、大連絡橋通路(3階北側)、大連絡橋連絡通路(公園口通路と大連絡橋通路を連絡する)、新幹線地下コンコース(地下)がある。新幹線コンコースは、地上の中央改札から入場して右側の新幹線改札を経て向かう。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "改札は、中央改札(1階)、不忍改札(中2階)、公園改札(3階・大連絡橋通路西端)、入谷改札(3階・旧公園口通路東端)の計4か所である。このうち、不忍改札と公園改札にはお客さまサポートコールシステムが設置されており、一部の時間帯はインターホンによる案内となる。かつては、期間・時間が限定された臨時改札として、Suica専用(簡易Suica改札機設置)の公園臨時改札があったが、2020年3月20日に新しい公園口駅舎が供用開始され、公園改札が(旧)公園口通路西端から大連絡橋通路西端の公園臨時改札跡地へ移設された。改札内改札として先述の新幹線改札があり、以前はそれに加え、在来線特急乗換(16・17番線入出場)改札が地上および3階にそれぞれあったが、元々寝台特急は13番線などを利用していたほか、2014年3月15日のダイヤ改正から高崎線特急が14・15番線に、2015年3月14日の改正(上野東京ライン開業)から常磐線特急のうち東京方面に乗り入れる列車が8・9番線を発着するようになり、特急列車の発着ホームが分散されたため、2015年3月13日を以て廃止され、自由に出入りできるようになった(8・9・14・15番線ホーム上に高崎・常磐線の当日分専用指定席券売機が設置された)。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "出口は、地上の中央改札正面の「広小路口」「正面玄関口」や同左手の「浅草口」、中2階の不忍改札からは地上の「不忍口」「山下口」、3階の入谷改札からは2階の「東上野口」、3階の「パンダ橋口」、地上の「入谷口」などが利用できる。同じく3階の公園改札からは3階の「公園口」に直結していて、上野恩賜公園へ歩行者空間が直結されている(公園改札移転と同時に外の広場も再整備され、駅舎と公園の間に通っていた車道を南北でそれぞれロータリー化して分断し、歩行者空間が作られた)。正面玄関口および広小路口の出口からは、国道4号(日光街道)などを跨ぐ歩道橋が利用できる。2000年10月、駅を東西に跨ぐように「上野駅東西自由通路」(長さ 220m 、幅 20m )が架けられ、自由に歩くことができようになり、2001年、愛称が「パンダ橋」に決まり、2002年に橋の西端下に、「パンダ橋」と彫られた、高さ 1.3m 、幅 2.5m の稲田石(白御影石)の石碑が建てられた。駅構内にはジャイアントパンダの像は2つあり、実物の倍の大きさはある巨大なジャイアントパンダ像はパンダ橋口を出て右の所に、もう一つの小パンダ像は、大連絡橋コンコースにあったが、2017年12月に小パンダ像も大パンダ像のある場所に移設された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "京成電鉄の京成上野駅へは不忍口を経るように案内サインが設置されている。JRと京成線の連絡は、山手線・京浜東北線で北側に2駅進んだ日暮里駅が通常利用されている。上野駅と京成上野駅の両駅を連絡駅とした定期券は発売している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "地下鉄各線の連絡は、中央改札近くにある階段・エスカレータを利用するルートが主だが、入谷改札からの動線も案内されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "在来線のトイレは中央改札口入って正面にある駅弁店・土産物店(洋菓子)の裏側(地上。頭端式ホーム14・15番線ホームおよび16・17番線ホームの延長線上)、3・4番線ホームへの階段と5・6番線ホームへの階段との間(中2階コンコース)、9・10番線ホームと11・12番線ホームとを連絡する箇所(2階)、現行の公園口改札前(3階)、エキュート上野内1階に直結するエスカレーターの向かい側(3階)の計5か所である。なお、2020年3月の公園口駅舎の移設の後となる同年6月17日に、公園口改札外(2階)が供用開始される予定である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2009年3月16日に、上野中央通り地下駐車場および周辺のJR上野駅・御徒町駅、東京メトロ上野駅・上野広小路駅・仲御徒町駅、京成上野駅、都営上野御徒町駅、を結ぶ地下通路が、東京都の整備で供用開始された。この8駅と上野駅は同一駅として扱わないが、東京メトロ上野駅、京成上野駅は定期券の連絡駅 として扱う。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "新幹線開業以降JR駅内部の改装工事が始まり、1990年代後半に改札内部に「Dila上野」が完成した。その後、JR東日本ステーションルネッサンス「みんなのえきプロジェクト」と称して中央改札・不忍改札側の駅舎内部も改装され、東西自由通路(愛称:パンダ橋)や正面玄関「レトロ館」の「Breakステーションギャラリー」、中央改札の「グランドコンコース」、ショッピングセンター「七番街(アトレ上野)」などが整備され、2002年3月にグランドオープンした。アトレ上野は2月22日に開店し、「FUSION SQUARE 人が集まるeki融合空間」をコンセプトに駅周辺にない飲食・食物販・ファッション・雑貨など54店舗を「レトロ館・ガレリア」「グランドコンコース」および「七番街」の3ゾーンに配置し、20 - 39歳の女性をターゲットに新たなエキナカショッピングシーンを演出している。2007年4月から9月にかけてリニューアル工事を行い、「ゴディバ」「日本橋屋長兵衛」「アール・エフ・ワン」「ベーグル&ベーグル」「ジンズ グローバル スタンダード」「サマンサタバサ プチチョイス」のオープンと既存9ショップの改装を行った。東京圏駅ビル開発(現・アトレ)は、同年8月に浅草口地下でカフェ・雑貨ショップなどを配置した新フロア「レトロゲート」を開設した。9月にフロアリニューアルを行い、グランドオープンした。2005年春に全体のリニューアル工事が完成し、全面が白で統一された外観となり、エレベーターの整備も行われた。完工時は「上野駅リニューアルキャンペーン」が開催され、JR東日本のイメージキャラクターでCFに採用された国分佐智子らが開場記念式典を催した。本改装は「駅ナカ」の先例となった。その後、2013年12月にはファッションゾーン、2014年7月にはスウィーツゾーンとレストランゾーン、同年10月にはグランドコンコースエリア、2019年11月 - 12月には上野公園側レストランゾーンがリニューアルされた。なお、2020年3月の公園口駅舎の移設の後となる同年6月17日に、エキュート上野の新店舗(4店)および展望テラスがオープンする予定である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "東北新幹線の開業に伴い並行在来線の特急列車が大方廃止されて地上ホームの19・20番線が廃止となり、1999年9月に18番線も廃止され、跡地の東京方と東上野口・入谷口に、2006年7月19日からフィットネスクラブのジェイアール東日本スポーツが入居している。中央付近も途中まで取り壊されて従業員専用通路となっている。日暮里方は、ホームがほぼ原型を留めたままで従業員専用通路として使用されている(19番線側に建てられた事務所を行き来するのに使用)のが、他のホームから確認できる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "東北新幹線開業以前は、北関東、東北・信越・北陸方面へ向かう東北本線、日光線、磐越西線、奥羽本線、高崎線、両毛線、上越線、信越本線、吾妻線、羽越本線、常磐線の各特急・急行など長距離優等列車が数多く発着していたが、新幹線開業のため並行在来線の優等列車は次第に廃止となり、地上ホームは削減されて跡地が新幹線ホームへ向かうコンコースとなり、現在は中距離電車が増発されて、発着列車の大半が宇都宮線、高崎線、常磐線の北関東方面へ向かう近郊・中距離電車となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "当初、高架ホームは常磐線各列車主体に使用され、高架ホームを発着する東北・上信越方面各列車はごく一部であった。地平ホームは、常磐線列車の発車が無く東北・上信越方面各列車の専用であった。特急・急行列車が増発されて中距離通勤客が増加すると、地平ホームは特急中心に、高架ホームは各線普通列車中心にそれぞれ運用され、上野東京ライン開業直前の時期は宇都宮線と高崎線の普通列車は5 - 8番線の高架ホームと13 - 15番線の地平ホームのいずれかに、常磐線の普通列車は9・10番線、快速電車は11・12番線に発着したが、9番線に到着する宇都宮線・高崎線列車、8番線や地平ホームに到着する常磐線普通列車もわずかに存在した。以前は8番線発の常磐線列車や9番線発の高崎線列車もあった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "直営駅で、鶯谷駅と御徒町駅を管理下に置く。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "戦後は周辺地域で地下水利用が多く、地盤沈下が発生して周辺の地下水利用が制限されている。地下30mに位置する新幹線ホーム周辺の地下水は、建設前の1970年代初期は地下38mで新幹線ホームより8m下であったが地下水の採取規制により余剰となり、1995年に地下14mまで水位が上昇した。浮き上がりによる駅構造の変形を防ぐため、新幹線ホームの床下に合計3万7000トンの錘を設置した。2004年に地下12mまで水位が上昇し、全長17mのアンカーボルトを、東京駅の横須賀線・総武快速線ホームの約5倍となる約650本陥入した。地下水を不忍池へ流す導水管も敷設され、不忍池の水質と水量保持、JRの下水道料金負担軽減など波及効果も得た。隙間からの漏水は対策が難しいため、ビニールチューブで誘導するなど安価な手法で対処している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "同一駅に3種類のホームがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1960年代までは、5番線から20番線までのホームは通勤列車(出典ママ)と長距離列車が入り乱れて発着する状態にあった。1969年(昭和44年)12月27日から1970年(昭和45年)1月1日の間、帰省客の便宜を図るために上野駅着の通勤列車を大宮駅または日暮里駅で折り返し運転として、長距離列車の発着ホームを行き先別に整理する取り組みが行われた。このことが契機となって1970年代以降、発着ホームが行き先別に固定化された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "在来線の駅から北方向に、西から順に、京浜東北線と山手線の方向別複々線(山手線が内側)、東北本線列車線(宇都宮線・高崎線)の複々線(尾久駅手前の尾久車両センター入出庫部の先まで高架ホーム発が外側、地上ホーム発が内側の方向別)、常磐線の複線の計10本の線路が並行する。このうち、東北本線列車線と常磐線からは高架ホーム、地平ホームのほぼすべてへの発着が可能である。このため、シングルスリップスイッチやダブルスリップスイッチを用いた複雑な配線となっている。常磐線の高架線と地平線の分岐・合流点は隣の鶯谷駅付近となるが、これは1968年に立体交差化されたものである。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "南方向に、京浜東北線、山手線の複々線に加えてその東側に留置線群とそれらをつなぐ通路線が秋葉原駅まで続いている。これはかつて東京駅までつながっていた回送線の跡であり、2015年に上野東京ラインとして再び東京駅と結ばれた。これらの線路につながっているのは5 - 9番線であり、10 - 12番線と地平ホームの各線は行き止まりである。下の図は反映されていないが、行き止まりとなっている10番線と11番線の先端(最後尾)部は両ホームを結ぶ通路となっており、9番線から12番線まで平面移動ができる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "東北新幹線上野駅開業時(1985年)の在来線の配線図を以下に示す。基本的に本配線が踏襲されている。主な変更点は1999年に18番線が廃止されている。2015年度の上野東京ライン開業準備工事で、東京方の下り線路から6番線と、7 - 9番線から上り線路へ両方向同時に転線可能な配線とし、日暮里方で6番線から常磐線下り線路へ進入を円滑にするべく一部付け替えたりなどしている。5番線からも常磐線へ進入可能である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "5 - 10・13・16・17番線で発車メロディを使用する他は発車ベルを使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "寝台特急列車が発着する13番線ホームは普通列車4・5号車停車位置付近に、寝台特急の乗客以外も利用可能な、寝台特急の到着待ち休憩所「五ツ星広場」があった。2015年に「北斗星」の定期運行が廃止されて寝台特急列車の定期発着が無くなり、解放機会がなくなり、案内板から消去され、設備等が撤去され、ホームの一部として復元された。代わりに13番線ホームの各所に常時使用可能のベンチが設置された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "開設当初はテーブルが設置されるなどオープンカフェ風であったが、2011年時点で大幅に縮小し、椅子のみを配置して南北2か所に分割されている。北側エリアの壁は13番線から発着する「カシオペア」で使用されるE26系の車体を意識して作られており、同系列車体と同一の5色ラインが配されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "五ツ星広場で迷惑行為があったため、2012年8月25日から、利用可能時間が制限された。寝台列車発車の約1時間前から列車の発車まで利用可能であり、利用時間は、15時00分 - 16時20分(カシオペア・運転日に限る)、17時50分 - 19時03分(北斗星)、20時00分 - 21時15分(あけぼの)である。これら以外の時間は、伸縮門扉によって閉鎖されていた。これに伴って15番線と16番線との間、石川啄木の歌碑の横にベンチが2脚、設置された。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "銀座線は相対式ホーム2面2線を有する地下駅。エスカレーターは設置されていないが、ホームから改札口までのエレベーターはホーム浅草方の端に設置されており、浅草側に改札口からJR連絡階へ通じるエレベーターがある。銀座線は上野検車区が駅の至近に位置し、ラッシュ時に当駅を始発・終着とする電車がある。これは大晦日から元旦にかけての終夜運転も同様で、当駅 - 浅草駅間は7.5分間隔、当駅 - 渋谷駅間は15分間隔で段差がつけられている。1987年にホームの拡幅工事が行われ、渋谷方面のホームに、日本最初の地下鉄開業を告知するポスターのレプリカが煉瓦壁と共に設置されている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日比谷線は相対式ホーム2面2線を有する地下駅。出口階段はホームの前後にあるが、ホームから改札口へ通じるエレベーターは中目黒方面が中央に、北千住方面が仲御徒町寄りにある。中目黒方面は別に改札口が設置され、前述のホームへのエレベーターに通じている(平日朝の通勤時間帯のみは階段も使用できる)。同じくホームから改札口へ通じるエスカレーターは、中目黒方面は北千住寄り、北千住方面は中目黒寄りに設置されている。中目黒方面ホーム中央に、発車標とは別に電車位置の現示装置が設置されている。2013年の一時期、行先のほかに直通電車を直通先会社のロゴも併せて表示する液晶ディスプレイを用いた案内装置が試験されたことがある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "銀座線の渋谷側改札口から地下の連絡通路を経由して、京成電鉄の京成上野駅、上野中央通り地下駐車場と中央通りの地下連絡通路に接続している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "両線の改札口は各々独立しており、改札内で連絡していないため、普通乗車券や回数券で銀座線と日比谷線を乗り換える際は、改札を出る際に乗車券が回収されずに出口に戻る乗り換え専用のオレンジ色の自動改札機を通る必要がある。PASMO・SuicaなどのICカードでの乗り換えはどの自動改札機からもタッチできる。いずれも、60分の時間制限がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "従来あった駅ナカ商業施設「メトロピア」は改装され、「エチカフィット上野」として2009年2月20日に開業した。リニューアル工事の為2015年3月に営業を一時終了したが、2017年12月に再オープンした。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "日比谷線駅構内に、東京メトロのお忘れ物総合取扱所が設置されていたが、2015年3月29日に南北線飯田橋駅へ移転した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "駅務管区所在駅であり、上野駅務管区として上野地域、秋葉原地域、茅場町地域を管理する。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "東京メトロの路線同士はホーム番号(番線表示)を連続することが多いが、当駅での銀座線と日比谷線のホーム番号は連番ではなく、両線ともに1・2番線である。都営地下鉄浅草線および大江戸線の蔵前駅も当駅と同様になっており、それぞれ1番線・2番線である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:構内立体図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "全ホームでスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "銀座線ホームでは、2012年10月30日から森山直太朗の「さくら(独唱)」をアレンジしたメロディを使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "主な駅弁は下記の通り。", "title": "駅弁" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "埼玉県・千葉県北西部・北関東方面に直通する主要鉄道路線のターミナル駅であるが、東京駅と同様にJR路線間の乗り換え客が主体であることからその規模の大きさに対して統計上の乗車人員は少ない。特に新幹線の乗車人員は全列車停車の仙台駅、さらには最速達種別が一切停車しない宇都宮駅や高崎駅よりも少ない。改札を通らない乗客は乗降人員に計上されないが、実際は朝夕を中心に乗換客で慢性的に混雑が見られる。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "平日朝は当駅止まりの宇都宮線・高崎線・常磐線の列車から降車後に3・4番線ホームに流れる人の波が絶えず続き、同ホームを発着する山手線・京浜東北線電車に一斉に乗り込む。山手線と京浜東北線の上野 - 御徒町間は、ラッシュ時に平均乗車率が常時200%余で国内最高の混雑区間であったが、2015年3月14日に上野東京ラインが開業すると当駅の乗換客は大幅に減少し、上野 - 御徒町間の混雑も170%程度に緩和した。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "2017年度の各社合計の1日平均乗降人員は約61万人、年間に約2億2300万人である。京成上野駅を含めた場合1日平均乗降人員は約66万人、年間で約2億4100万人である。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである(東京メトロのみ)。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "「上野駅」停留所にて発着する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "「JR上野駅公園口」にて発着する。", "title": "バス路線" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "文学や歌謡曲の分野で、当駅を扱った作品が存在する。", "title": "上野駅をモチーフにした作品" } ]
上野駅(うえのえき)は、東京都台東区上野七丁目および東上野三丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruseslist|[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の上野駅|隣接する[[京成電鉄]]の駅|京成上野駅|その他の上野駅|上野 (曖昧さ回避)#駅}} {{駅情報 |駅名 = 上野駅 |よみがな = うえの |ローマ字 = Ueno |所在地 = [[東京都]][[台東区]] |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本_2|駅詳細]]) * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ_2|駅詳細]])}} |画像 = JRE-Ueno-STA.jpg |pxl = 300 |画像説明 = JR正面玄関口(2021年8月) |地図 = {{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point|type4=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail-metro|marker4=rail |coord={{coord|35|42|50|N|139|46|38|E}}|marker-color=008000|title=JR 上野駅 |coord2={{coord|35|42|42.3|N|139|46|33.5|E}}|marker-color2=ff9500|title2=東京メトロ銀座線 上野駅 |coord3={{coord|35|42|41|N|139|46|37.8|E}}|marker-color3=b5b5ac|title3=東京メトロ日比谷線 上野駅 |coord4={{coord|35|42|40.4|N|139|46|24.8|E}}|marker-color4=005aaa|title4=京成上野駅 |frame-latitude=35.712536|frame-longitude=139.776025 }}左は京成上野駅 |乗換 = [[京成上野駅]]([[京成電鉄|京成]][[京成本線|本線]]) }}{{座標一覧}} {{osm box|n|236578444|}} '''上野駅'''(うえのえき)は、[[東京都]][[台東区]][[上野]]七丁目および[[東上野]]三丁目にある、[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[鉄道駅|駅]]。 == 概要 == [[1883年]]に[[日本鉄道]]の駅として開業。[[山手線]]北東部の[[ターミナル駅]]であり、多数の[[在来線]]や[[新幹線]]、[[地下鉄]]路線が乗り入れる。[[1927年]]に開業した[[東京地下鉄道]](現・[[東京メトロ銀座線]])[[浅草駅]] - 当駅間は東洋初の本格的な地下鉄路線として知られる。 かつては鉄道が電化されるまでは[[皇居]]付近への乗り入れが認められておらず、また[[東京市]]が[[戦前]]に[[私鉄]]の都心乗り入れを認めなかったことから、北は上野駅、南は[[新橋駅]](後の[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]])、東は両国橋駅(現・[[両国駅]])、西は[[万世橋駅]](後の[[交通博物館]]前)が端点となっており、3大[[副都心]]の駅([[新宿駅]]・[[渋谷駅]]・[[池袋駅]])及び上野駅・[[浅草駅]]は[[郊外]]へと伸びる路線の[[ターミナル駅]]として発達した。[[1925年]]の[[東北本線]][[電車線・列車線|電車線]](現・[[京浜東北線]])東京駅延伸までは東京市内から北へ向かう路線の正式な起点であった他、[[1928年]]の東北本線列車線東京駅延伸まで、および[[1973年]]から[[2015年]]までの東京駅 - 上野駅間列車線分断期間は[[東北本線]](東北線、[[1990年]]以降は[[宇都宮線]])・[[高崎線]]や[[常磐線]]の実質的な起点となる駅であり、上野駅から北へ向かう多数の[[寝台列車]]や[[急行列車]]が発着していた。また、当初の[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]は当駅を起点としており、[[北関東]]や[[東北地方]]・[[北陸地方]]へ伸びる路線が数多く集結することから、古くから'''東京の北の玄関口'''として機能してきた<ref>{{Cite web |title=JR上野駅、途中駅になった「北の玄関口」の存在感 |url=https://toyokeizai.net/articles/-/680565 |website=東洋経済オンライン |date=2023-06-21 |access-date=2023-12-12 |language=ja}}</ref>。 [[1991年]]に東北新幹線が[[東京駅]]まで延伸、さらに2015年に[[上野東京ライン]]として東京駅 - 上野駅間の列車線が復活したことでそれまで当駅止まりだった宇都宮線・高崎線・常磐線が東京駅を経由して[[東海道本線]]([[東海道線 (JR東日本)|東海道線]])に[[直通運転]]を行うようになったことで、当駅は通過駅としての側面が強まった。在来線は全定期列車が停車するが、新幹線については東京駅に至近であることから、各路線の最速達列車を中心に当駅を通過する列車も存在する<ref group="注釈">当駅を通過する新幹線は上り9本、下り7本で「はやぶさ」・「こまち」(東京行きのみ)・「やまびこ」・「つばさ」・「かがやき」・「とき」の各種別に通過便が存在する。「なすの」・「はくたか」・「あさま」・「たにがわ」は全列車が停車する。なお、北隣の[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]や、当駅と同じく東京駅の至近にある東海道新幹線の[[品川駅]]は新幹線の全列車が停車する。</ref>。寝台列車も次々と廃止となり、現在は当駅を発着する寝台列車は[[TRAIN SUITE 四季島]]のみとなった。 南側の[[御徒町駅]]方面にJRの高架に沿って[[アメヤ横丁]](通称:アメ横)と呼ばれる[[商店街]]が位置しており、駅周辺は[[繁華街]]が広がる。山手線の繁華街の中でも今なお[[下町]]情緒を残す。駅西側には広大な面積をもつ[[上野恩賜公園]](上野公園)が所在しており、公園内には[[東京国立博物館]]などの複数の著名な[[博物館]]・[[美術館]]や[[恩賜上野動物園]]、[[不忍池]]が位置し、これらを目当てに国内外から多くの観光客が訪れる。 西側の不忍口側で[[京成電鉄]]の[[京成上野駅]]と隣接している。 === 乗り入れ路線 === 当駅は、JR東日本の[[新幹線]]と[[在来線]]各線、および東京メトロの路線が乗り入れている。 === JR東日本 === 新幹線は、線路名称上は[[東北新幹線]]のみであるが(詳細は路線記事および「[[鉄道路線の名称]]」参照)<ref name="teishajo">{{cite book|和書|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編|publisher=[[JTB]]|date=1998-10}}</ref> 、東北新幹線経由で[[上越新幹線]]、[[北陸新幹線]]、[[北海道新幹線]]、[[山形新幹線]]、[[秋田新幹線]]が乗り入れている。 JR東日本の在来線に関しても、線路名称上は[[東北本線]]のみであるが<ref name="teishajo"/>、以下のように多岐にわたる各線が乗り入れている。 * [[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[宇都宮線]]・[[高崎線]]:列車線を走行する東北本線の中距離電車系統。全区間に渡り東北本線を走行する列車が「宇都宮線」と案内される{{Refnest|group="注釈"|東北本線中距離電車としての愛称で、「宇都宮線(東北線)」と案内されることもある。}}、途中[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から[[高崎駅]]方面へ分岐する列車が「高崎線」{{Refnest|group="注釈"|線路名称上は大宮駅 - 高崎駅間が高崎線と規定されているが、大宮駅を発着する全ての定期列車([[湘南新宿ライン]]除く)が東北本線列車線を通じて当駅に乗り入れており、運転系統・旅客案内上は、大宮駅から当駅方面においても一部を除き「高崎線」と単独で案内される。}}。一部は「宇都宮・高崎線」と一体化して案内される。高崎線の一部列車は[[上越線]]・[[両毛線]]へ[[直通運転]]する。[[駅ナンバリング#JR東日本・東京モノレール・東京臨海高速鉄道|駅番号]]は'''JU 02'''。 * [[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]]:[[電車線・列車線|電車線]]を走行する東北本線の近距離電車系統。駅番号は'''JK 30'''。 * [[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]]:電車線を走行する[[環状線|環状路線]]。駅番号は'''JY 05'''。 * [[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] [[常磐線]]([[常磐快速線|快速]])- {{color|blue|■}}[[中距離電車|中距離列車]]も含む:線路名称上の起点は[[日暮里駅]]だが、東北本線上の専用線路を介して当駅まで乗り入れている。駅番号は'''JJ 01'''。 * [[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[上野東京ライン]]:当駅・[[東京駅]]間の列車線(東北縦貫線)を経由して、宇都宮・高崎・常磐線が[[東海道本線]]列車線(系統路線名[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]、一部は更に[[伊東線]])へ直通運転する列車の運転系統愛称{{Refnest|group="注釈"|宇都宮・高崎線は東海道線との普通・快速列車の相互直通運転、常磐線は東海道線[[品川駅]]を発着駅とする普通・快速・特急列車の片乗り入れ。宇都宮・高崎線の品川駅終着・東京駅発着、当駅発着の東海道線直通運転もあり。2021年3月のダイヤ改正より日中の宇都宮線・高崎線は、特急を除くほぼ全てが上野東京ラインとして運行している。朝・夕夜間は既存の当駅発着の宇都宮線・高崎線列車もある。}}。 JR東日本公式サイトにて記載されている当駅の「所属路線」は、京浜東北線、常磐・成田線、常磐線、高崎線、東北本線、山手線、秋田新幹線、上越新幹線、東北新幹線、北陸新幹線、山形新幹線の11路線となっている<ref>{{Cite web|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=204|title=駅の情報(上野駅)|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-12-24}}</ref>。なお、[[駅ナンバリング#スリーレターコード|スリーレターコード]]として「'''UEN'''」が付与されている。 原則として各系統毎に専用の線路が割り当てられているが、宇都宮線・高崎線と常磐線の一部列車は線路を共有している。これは上野東京ラインの開業に伴い、常磐線が乗り入れるために平面交差を行うようになったためである。 上野駅の[[事務管理コード|事務管コード]]は、▲441003となっている<ref>{{Cite book|和書|title=鉄道・航路旅客運賃・料金算出表|publisher=日本国有鉄道旅客局|year=1984}}</ref><ref group="注釈">一部では▲451003の事務管コードを使った補充券等も見られる。</ref>。 === 東京メトロ === 東京メトロは[[東京メトロ銀座線|銀座線]]と[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]]の2路線が乗り入れている。 * [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線:駅番号は'''G 16'''。 * [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線:駅番号は'''H 18'''<ref group="注釈">[[2020年]]([[令和]]2年)[[6月6日]]の[[虎ノ門ヒルズ駅]]開業前は「H 17」であった。</ref>。 == 歴史 == {{Vertical_images_list |幅 = 250px |枠幅 = 250px |1 = View of Ueno-Nakasendo railway from Ueno station.jpg |2 = [[中山道]]に沿って上野駅(上野山下[[ステーション|ステンション]])と[[王子駅]]との間を行き来する蒸気鉄道を描いた[[開化絵]](1885年2月発行) |3 = Ueno Station in the Taisho era.JPG |4 = 大正時代撮影の(初代)上野駅舎 |5 = Ueno Station Dedication Ceremony.jpg |6 = 落成式当日の(2代)上野駅舎(1932年4月3日) |7 = Ueno Station, 1933.jpg |8 = 上野駅構内(1933年頃、撮影:[[石川光陽]]) }} [[File:Ueno Station.1963.jpg|thumb|right|250px|上野駅周辺の白黒空中写真(1963年6月撮影)<br />{{国土航空写真}}]] [[日本鉄道]]は上野 - [[熊谷駅|熊谷]]間の開業に先立ち、[[1882年]]([[明治]]16年)11月に[[寛永寺]]の[[子院]]跡約29,800[[坪]](約98,512[[平方メートル]] (m<sup>2</sup>))を[[東京府]]より借り受けて上野駅の用地とした。[[1883年]](明治16年)[[7月28日]]に同線の仮開業に伴い上野駅を開設し、8月から貨物、10月より[[郵便物]]の取り扱いを始めた。[[1884年]](明治17年)[[6月28日]]に仮駅舎で開業式が行われ、[[1885年]](明治18年)に[[煉瓦]]造りの237坪(約783m<sup>2</sup>)の本駅舎が竣工した。この初代駅舎は[[三村周]]が設計、[[毛利重輔]]が監督を行い、中央の[[平屋]]部分に[[出札]]広場と[[コンコース]]、両翼に[[待合室]]を設置したH型平面の構造で、当時の[[汐留駅 (国鉄)|汐留駅]]や[[横浜駅]]を踏襲した形となっている<ref>{{Cite journal|和書|author1=保坂秀人|author2=渡部能理雄|author3=町野東彦|title=停車場の変遷についての研究 : その1.上野駅の成立|journal=学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠|page=220|publisher=[[日本建築学会]]|year=2001|issn=13414542}}</ref>。 [[1885年]](明治18年)に[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]から[[宇都宮駅]]に至る区間が開通すると、上野駅は東京側の[[ターミナル]]として繁盛した。当初は1つの駅構内に旅客・貨物・車両基地の機能を併設していたが、次第に鉄道輸送の需要が伸びると構内が手狭になった。駅周辺の道路が狭隘で、旅客を輸送する[[馬車鉄道]]や貨物を輸送する[[大八車]]が輻輳したために、[[客貨分離|旅客と貨物の機能を分離する]]ことが計画された。[[1890年]](明治23年)[[11月1日]]に南方に地上の[[貨物線]]を開通させ、新たに設置された[[秋葉原駅|秋葉原貨物取扱所]]へ貨物取扱を移転した。[[1896年]](明治29年)12月25日に開業した[[隅田川駅]]にも荒荷の扱いなどを分散移転して、上野駅は12月1日に旅客専用駅となった<ref name="teishajo"/>。[[1900年]](明治33年)に日本鉄道が駅前広場に110坪(約364m<sup>2</sup>)で2階建ての上野待合店を建設し、飲食店、喫茶店、雑貨販売店、理髪店などが入居したが、[[1922年]]([[大正]]11年)に撤去された<ref>{{Cite journal|和書|author1=高橋晃久|author2=保坂秀人|author3=渡部能理雄|title=停車場の変遷についての研究(その4) : 上野駅の成立(3)構内店舗の変遷に関する一考察|journal=学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠|publisher=日本建築学会|page=631|year=2003|issn=13414542}}</ref>。 [[1905年]](明治38年)4月1日に[[常磐線]]の[[三河島駅|三河島]] - [[日暮里駅|日暮里]]間が開通し、それまで[[田端駅]]で折り返して運転していた常磐線の列車が直接上野駅へ乗り入れた。この年に新橋 - 上野間の高架旅客線の建設とそれに伴う上野駅の改築が決議されている。[[1906年]](明治39年)に、日本鉄道の国有化に伴い上野駅も国有化され、[[1909年]](明治42年)10月に秋葉原 - 上野 - 青森間が[[東北本線]]と定められた。12月16日に[[山手線]]の[[新橋駅|烏森]] - [[品川駅|品川]] - [[新宿駅|新宿]] - [[池袋駅|池袋]] - 田端 - 上野間で電車の運転が開始され、上野駅はその一方の端となった。 上野駅の利用者は増加を続け、[[1917年]](大正6年)の駅構内は[[事務所]]9棟、[[倉庫]]10棟、その他[[売店]]などが44棟が立ち並んでいた<ref>{{Cite journal|和書|author1=保坂秀人|author2=小林健二|author3=町野東彦|author4=金森勇樹|author5=渡部能理雄|author6=高橋政彦|title=停車場の変遷についての研究 (その2) : 上野駅の成立 (2)|journal=学術講演梗概集. F-2, 建築歴史・意匠|publisher=日本建築学会|page=305|year=2002|issn=13414542}}</ref> 。[[1923年]](大正12年)[[9月1日]]の[[関東大震災]]で初代駅舎が焼失し、23日に仮駅舎で営業を再開した<ref name="駅の話">{{Cite book|和書|author=交建設計・駅研グループ|title=駅のはなし 明治から平成まで|edition=改訂初版|publisher=[[成山堂書店]]|isbn=4-425-76032-8|pages=142-143|year=1996}}</ref>。1923年から[[鉄道省]]東京改良事務所が上野駅周辺の改良工事を開始し、[[1925年]](大正14年)[[3月1日]]に東京駅 - 上野駅間の東北本線電車線が開通。現在の京浜東北線に当たる路線が接続された。併せて上野駅と新橋駅とを結ぶ高架旅客線が開通して山手線の環状運転が始まり、東京の都市内交通である山手線と、東北・常磐・高崎など長距離幹線を接続する駅として機能した。また、[[1928年]]([[昭和]]3年)には現在のJR宇都宮線にあたる東北本線列車線の上野駅 - 東京駅間が開通し、東京の都市内交通の電車だけでなく、列車も含めて東北本線の途中駅となった。 [[1930年]](昭和5年)[[3月1日]]に[[地鎮祭]]が行われて改築工事が始まり<ref name="駅の話"/>、[[1932年]](昭和7年)[[4月2日]]に2代目の駅舎が落成、5日から営業を開始した<ref name="駅の話"/>。この駅舎は利用者の安全を配慮して、乗車客は1階の車寄せから列車ホームへ、降車客は地下1階の車寄せへ、それぞれの動線が設計された。外壁は[[多胡石]]と[[本小松石|小松石]]の砕石が入った[[モルタル]]塗りで、臍壁は[[花崗岩]]が用いられた。本屋の中央に設置した30×20.3×13.25[[メートル]] (m) の広間空間が構造上の特徴で、正面玄関の機能を有し、2階部に業務エリアの移動のための回廊が設けられていた<ref>{{Cite journal|和書|author1=町野東彦|author2=金森勇樹|author3=保坂秀人|author4=高橋政彦|author5=渡部能理雄|author6=河合秀智|title=停車場の変遷についての研究 (その3) : 上野駅本屋1号の広間空間について|journal=学術講演梗概集. 計画系|publisher=日本建築学会|page=307|year=2002|issn=13414542}}</ref>。秋葉原の貨物取扱設備が高架上に移転したことを受け、東西交通を遮断するなど難点が多かった地上の貨物線は、駅舎完成後の[[7月1日]]に廃止されている。 過去においては代表的な帰省客の玄関口であり、1965年の例では8月10日から8月14日までの5日間に約90万人が利用した。お盆や年末年始の多客時には押しかける乗客を駅構内だけではさばききれず、駅舎に隣接して大型テントを連接したテント村を設営。待機列を整理、誘導する時代が続いた<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=お盆だ里帰り 恒例のテント村開く|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=1965-08-11|page=15}}</ref>。 === 年表 === * [[1883年]]([[明治]]16年)[[7月28日]]:[[日本鉄道]]上野 - [[熊谷駅|熊谷]]間の駅として開業<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書|title=週刊 JR全駅・全車両基地|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=週刊朝日百科|volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅|date =2012-09-09|page=10}}</ref>。 * [[1885年]](明治18年)[[7月16日]]:初代本駅舎が竣工{{R|zeneki05}}。 * [[1890年]](明治23年)[[11月1日]]:上野 - 秋葉原間が貨物線として開通{{R|zeneki05}}。上野から貨物の取り扱いを秋葉原に移転して貨客分離。 * [[1906年]](明治39年)11月1日:[[鉄道国有法]]により国有化{{R|zeneki05}}。 * [[1909年]](明治42年) ** [[10月12日]]:[[国鉄・JR線路名称一覧|線路名称]]制定により東北本線の所属となる{{R|zeneki05}}。 ** [[12月16日]]:山手線の電車運転開始。 * [[1912年]](明治45年)[[1月8日]]:日本初の[[発車ベル]]を導入。 * [[1925年]]([[大正]]14年)11月1日:上野 - 東京間の東北本線電車線(現・京浜東北線)、高架旅客線が開業{{R|zeneki05}}。 * [[1926年]](大正15年)[[4月25日]]:上野駅、東京駅で[[入場券]]の[[自動販売機|自動券売機]](10銭)が稼働し始めた<ref>「東京・上野両駅に入場券の自動券売機登場」『東京朝日新聞』1925年4月25日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.479 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[12月30日]]:[[東京地下鉄道]](現・東京メトロ銀座線)[[浅草駅]] - 上野駅間開通{{R|zeneki05}}。 * [[1928年]](昭和3年) ** [[4月1日]]:上野 - 東京間の東北本線列車線(現・宇都宮線)が開通。 ** [[6月8日]]:[[貴賓室#日本|貴賓室]]前で[[田中義一]]首相が暴漢から襲撃を受ける。田中は護衛の警察官に護られ無傷であったが、一緒に居た[[松村光三]]議員が軽傷を負った<ref>「上野駅で暴漢に襲われる」『東京朝日新聞』1928年(昭和3年)6月9日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p.381 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1932年]](昭和7年)[[4月3日]]:新駅舎が落成<ref name="駅の話"/>。 * [[1941年]](昭和16年)[[9月1日]]:[[陸上交通事業調整法]]により、東京地下鉄道が路線を[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)に譲渡。 * [[1949年]](昭和24年)[[6月1日]]:[[日本国有鉄道]]が発足。 * [[1956年]](昭和31年)[[11月18日]]:常磐線列車ホームと京浜東北線・山手線ホームとをむすぶ跨線橋を増設<ref group="新聞">{{Cite news |和書|title=両駅(上野 池袋)の跨線橋完成 秋葉原駅の乗換階段も |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1956-11-18 |page=1 }}</ref>。 * [[1961年]](昭和36年)[[3月28日]]:営団地下鉄日比谷線の駅が開業<ref>{{Cite web|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200709092642/https://www.tokyometro.jp/corporate/newsletter/metroNews20200601_l78.pdf|title=東京メトロニュースレター第78号 >「日比谷線の歩み」編|archivedate=2020-07-09|date=2020-06-02|page=2|accessdate=2020-07-09|publisher=東京地下鉄|format=PDF}}</ref>。 * [[1964年]](昭和39年)[[10月1日]]:一部の急送品(郵便・新聞等)を除いて荷物の取り扱いを[[隅田川駅]]に移管。 * [[1970年]](昭和45年) ** [[4月5日]]:旅行センター開業<ref>{{Cite book|和書|title=交通年鑑 昭和46年版|chapter=交通日誌|publisher=交通協力会|year=1974}}</ref>。 ** [[9月30日]]:高架第6ホーム(11・12番線)が使用を開始<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=上野駅高架6番ホーム完成 あすから使用開始|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1970-09-29|page=2}}</ref>。地上・高架のホーム改良工事が完成する。 ** [[12月20日]]:大連絡橋の使用開始<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=上野駅に日本一 大連絡橋 20日から使用開始|newspaper=交通新聞|publisher=交通協力会|date=1970-12-15|page=2}}</ref>。 * [[1973年]](昭和48年):東京 - 上野間の東北本線列車線が廃止され、東北本線から東海道線への直通列車も廃止となる。 * [[1976年]](昭和51年)[[10月12日]]:タバコの投げ捨てが原因で、駅構内の[[電報電話局]]から出火。乗客らが避難する騒ぎとなった<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=上野駅で火事 構内電話局から出火 乗客ら避難|newspaper=[[朝日新聞]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=1976-10-12|edition=夕刊|pages=9}}</ref> * [[1984年]](昭和59年)[[6月29日]]:国鉄中央広場に巨大パンダ像が設置される<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=上野駅にパンダ登場|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=交通協力会|date=1984-06-30|page=2}}</ref>。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月14日]]:東北新幹線の上野駅が開業{{R|zeneki05}}。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)の駅となる。 * [[1990年]]([[平成]]2年) ** [[3月10日]]:指定券自動券売機「トラベル・エディ」2台を試験導入<ref group="新聞">『指定券の自動発売機 JR東日本 上野駅に導入』平成2年3月6日日経産業新聞16面</ref>。 ** [[5月19日]]:浅草口に自動改札機を設置し、供用開始<ref name="JRR1991">{{Cite book|和書|date=1991-08-01|title=JR気動車客車編成表 '91年版|chapter=JR年表|pages=191-192|publisher=ジェー・アール・アール|isbn=4-88283-112-0}}</ref>。 ** [[10月20日]]:不忍口に自動改札機を設置し、供用開始{{R|JRR1991}}<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=年度内に田端駅など31駅|newspaper=[[交通新聞]]|publisher=[[交通新聞社]]|date=1990-10-02 |page=1 }}</ref><ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=さらに自動改札化 今年度中に28駅 JR東日本|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=[[毎日新聞社]]|date=1990-09-27|edition=東京朝刊|page=30}}</ref>。 ** [[12月15日]]:公園口に自動改札機を設置し、供用開始{{R|JRR1991}}。 * [[1991年]](平成3年) ** [[2月2日]]:中央口に自動改札機を設置し、供用開始{{R|JRR1991}}。 ** [[6月20日]]:東北新幹線が東京駅まで延伸{{R|zeneki05}}。 * [[1993年]](平成5年)[[11月4日]]:営団地下鉄で継続定期券発売機を導入<ref>{{Cite book|和書|title='94営団地下鉄ハンドブック|publisher=帝都高速度交通営団|year=1994}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[銀座駅]]、[[霞ケ関駅 (東京都)|霞ケ関駅]]、[[新橋駅]]、[[秋葉原駅]]、[[御茶ノ水駅]]、[[葛西駅]]と同時に導入。翌1994年に導入された[[後楽園駅]]も合わせて、営団では数少ない継続定期券発売機設置駅であった。}}。 * [[1995年]](平成7年):新幹線ホーム周辺の[[地下水]]上昇対策として、同ホームに37,000トンの鉄塊を設置。 * [[1997年]](平成9年) ** JR東日本の駅が「[[関東の駅百選]]」に認定される。選定理由は「いつの時代にもふるさとへの郷愁をそそる、首都圏の北の玄関口」。営団は認定対象外。 ** [[10月16日]]:新幹線乗換改札口に[[自動改札機]]を導入(JR東日本管内の新幹線各駅で初導入)<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.jreast.co.jp/press/1997_2/19971001/|title=上野駅1階新幹線乗換改札口が自動改札機に変わります!|publisher=[[東日本旅客鉄道]]|date=1997-10-06|accessdate=2017-06-12}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |date=1998-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '98年版 |chapter=JR年表 |page=183 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-119-8}}</ref>。 * [[1999年]](平成11年) ** [[3月31日]]:駅レンタカー営業所営業終了<ref>{{Cite book|和書|title=JR時刻表|issue=1999年4月|publisher=JR弘済出版社|year=1999}}</ref>。 ** [[9月11日]]:地平ホーム18番線が廃止<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=さらば 心の『上野18番線』|newspaper=[[日本経済新聞]] |date=1999-09-12 |location=[[東京都]] |publisher=[[日本経済新聞社]] |page=39 }}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)11月18日:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2002年]](平成14年)[[2月22日]]:JR東日本の駅がリニューアル。商業施設「アトレ上野」が開業<ref group="報道" name="press/20020201">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_2/20020201/index.html|title=2002年2月22日(金) 上野駅があたらしく生まれ変わります|publisher=東日本旅客鉄道|date=2002-02-05|accessdate=2020-05-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200522154300/https://www.jreast.co.jp/press/2001_2/20020201/index.html|archivedate=2020-05-23}}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[10月12日]]:新幹線でSuica FREX定期券およびSuica FREXパル定期券の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|title=10月12日(日)、「SuicaFREX 定期券」デビュー!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2003-09-10|accessdate=2020-05-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304120356/https://www.jreast.co.jp/press/2003_1/20030905.pdf|archivedate=2016-03-04}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:営団地下鉄の民営化に伴い、銀座線・日比谷線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-05|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2009年]](平成21年)[[2月20日]]:銀座線上野駅に駅チカ商業施設「エチカフィット上野」が開業<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=http://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-05.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120512213055/http://www.tokyometro.jp/news/2009/2009-05.html|language=日本語|title=上野に新たな「駅チカ」商業施設、誕生! Echikafit(エチカフィット)上野」オープン! 平成21年2月20日(金)|publisher=東京地下鉄|date=2009-01-28|accessdate=2020-05-29|archivedate=2012-05-12}}</ref>。 * [[2012年]](平成24年)[[10月30日]]:銀座線上野駅に[[発車メロディ]]を導入<ref group="報道" name=":0">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121024_ginzamelody.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190511235621/https://www.tokyometro.jp/news/2012/pdf/metroNews20121024_ginzamelody.pdf|format=PDF|language=日本語|title=〜街にゆかりのあるメロディがホームを彩ります〜 銀座線の4駅に街のイメージに合った発車合図メロディを導入します!|publisher=東京地下鉄|date=2012-10-24|accessdate=2020-03-07|archivedate=2019-05-11}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[7月28日]]:13番線に発車メロディを導入<ref group="新聞" name="news20130619">{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/news/20130620k0000m040018000c.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921105943/http://mainichi.jp/select/news/20130620k0000m040018000c.html|title=JR上野駅:13番ホームの発車ベル「あゝ上野駅」に変更|newspaper=毎日新聞|date=2013-06-19|accessdate=2020-06-16|archivedate=2013-09-21}}</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[3月14日]] *** [[北陸新幹線]]が開業し、「[[かがやき (列車)|かがやき]]」・「[[はくたか]]」の一部が当駅に停車する。 *** [[上野東京ライン]](東北縦貫線)が完成し、従来当駅終着(始発)であった宇都宮線・高崎線・常磐線(快速)の一部列車が東京駅、およびその先の[[東海道線 (JR東日本)|東海道本線]]へ乗り入れを開始。 *** 16・17番線の特急乗換改札口が廃止される。 *** [[寝台特急]]「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」が定期運行を終了し、上野駅を始発・終着とする定期運行の寝台特急列車が消滅する。 ** [[3月29日]]:東京メトロのお忘れ物総合取扱所が[[飯田橋駅]]へ移転する。 ** [[7月21日]]:5番線から10番線に発車メロディを導入。 ** [[8月21日]]:寝台特急「北斗星」の下り最終列車が発車。 ** [[8月23日]]:寝台特急「北斗星」が上り最終列車到着で運行を終了し、日本の「[[ブルートレイン (日本)|ブルートレイン]]」と呼ばれる寝台特急列車は全て消滅する。 ** [[12月12日]]:山手線のホーム(2・3番線)で[[ホームドア]]の使用を開始。 * [[2016年]](平成28年) ** [[3月12日]]:銀座線1番線ホームでホームドアの使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20151207_99.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200529155506/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20151207_99.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線上野駅1番ホーム(渋谷方面)にホームドア・可動ステップを設置します|publisher=東京地下鉄|date=2015-12-07|accessdate=2020-05-29|archivedate=2020-05-29}}</ref>。 ** [[3月19日]]:寝台特急「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」の下り最終列車が発車。 ** [[3月21日]]:寝台特急「カシオペア」が上り最終列車到着で運行を終了し、当駅発着の寝台特急列車及び夜行列車は全て終了した{{Refnest|group="注釈"|一般利用できる寝台特急列車は[[東京駅]]を起点・終点とする[[サンライズ出雲]]、[[サンライズ瀬戸]]のみとなった。}}。 ** 11月1日:13番線と16・17番線の発車メロディが入れ替えられる。 * [[2017年]](平成29年) ** [[5月1日]]:クルーズトレイン「[[TRAIN SUITE 四季島]]」を運行開始し<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160502.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200425070741/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160502.pdf|format=PDF|language=日本語|title=「日本を楽しむあなただけの上質な体験」を感じる旅が始まります。「TRAIN SUITE 四季島」〜運行開始日、運行日程、運行ルートの詳細、旅行商品の受付開始について〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-05-10|accessdate=2020-05-29|archivedate=2020-04-25}}</ref>、専用ラウンジ「プロローグ四季島」と専用ホーム「新たな旅立ちの13.5番線ホーム」を供用開始する<ref group="報道" name="platform-13.5"/>。 ** [[12月14日]]:駅チカ商業施設「エチカフィット上野」がリニューアルオープン<ref group="報道" name="press20171207">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20171206_139.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201213081422/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20171206_139.pdf|format=PDF|language=日本語|title=銀座線上野駅リニューアルにあわせて 駅チカ商業施設「Echika fit 上野」が生まれ変わります|publisher=東京地下鉄|date=2017-12-07|accessdate=2021-01-29|archivedate=2020-12-13}}</ref>。 ** [[12月20日]]:京浜東北線ホーム(1・4番線)でホームドアの使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160407_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510023513/https://www.jreast.co.jp/press/2016/tokyo/20160407_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=赤羽駅・上野駅・大井町駅3駅の京浜東北線ホームドア工事着手について|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2016-04-07|accessdate=2020-05-29|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 * [[2018年]](平成30年)4月1日:[[タッチでGo!新幹線]]のサービスを開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の開始について ~新幹線もタッチ&ゴー、新幹線の新しい乗車スタイル~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2017-12-05|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200922054704/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20171202.pdf|archivedate=2020-09-22}}</ref><ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|title=「タッチでGo!新幹線」の詳細について|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道|date=2018-01-25|accessdate=2020-11-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190510103143/https://www.jreast.co.jp/press/2017/20180115.pdf|archivedate=2019-05-10}}</ref>。 * [[2019年]](平成31・[[令和]]元年) ** [[4月20日]]:山手線ホームの発車メロディを「[[トゥーランドット]]」に変更する([[7月20日]]まで使用)<ref group="報道" name="press/20190412_t03" />。 ** [[11月9日]]:山手線ホームの発車メロディを「[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]」に変更する<ref name=":0" />(翌年[[9月12日]]まで使用)。 * [[2020年]]([[令和]]2年) ** [[2月7日]]:日比谷線上野駅に発車メロディを導入<ref name="Train-melody-H"/>。 ** 3月14日:[[えきねっと#新幹線eチケットサービス|新幹線eチケットサービス]]開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|title=「新幹線eチケットサービス」が始まります!|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道/北海道旅客鉄道/西日本旅客鉄道|date=2020-02-04|accessdate=2020-05-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200226110513/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20200204_ho01.pdf|archivedate=2020-02-26}}</ref>。 ** [[3月20日]]:JR東日本で公園口駅舎および公園改札を移設<ref group="報道" name="press/20200220_to01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20200220_to01.pdf|title=2020年春、上野駅公園口が新しく生まれ変わります|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/JR東日本リテールネット|date=2020-02-20|accessdate=2020-02-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200220053701/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20200220_to01.pdf|archivedate=2020-02-20}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) ** [[7月1日]]:JR東日本の中央改札外に駅ナカシェアオフィスのブース型オフィス「STATION BOOTH」が開業<ref>{{Cite web|url=https://www.stationwork.jp/booth-desk-franchise/information/|title=7/1(木) 上野駅中央改札外にSTATION BOOTHが2台開業します!|publisher=STATION WORK|date=2021-06-30|accessdate=2021-10-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211020085341/https://www.stationwork.jp/booth-desk-franchise/information/|archivedate=2021-10-20}}</ref>。 ** [[12月12日]]:[[びゅうプラザ]]の営業を終了<ref name="view_close">{{Cite web|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=204|title=駅の情報(上野駅):JR東日本|language=日本語|accessdate=2021-08-26|publisher=東日本旅客鉄道|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210818130151/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=204|archivedate=2021-08-26}}</ref>。 == 駅構造 == === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = #008000 |文字色 = |駅名 = JR 上野駅 |画像 = Ueno Station 200610c.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 公園口(2020年6月) |よみがな = うえの |ローマ字 = Ueno<br />{{駅番号s|black|#ffffff|UEN}} |電報略号 = ウエ←ウヱ |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |所在地 = [[東京都]][[台東区]][[上野]]七丁目1-1 |座標 = {{coord|35|42|50|N|139|46|38|E|region:JP_type:railwaystation|display=inline,title|name=JR 上野駅}} |開業年月日 = {{Nowrap|[[1883年]]([[明治]]16年)[[7月28日]]}} |廃止年月日 = |駅構造 = {{Plainlist| * [[地下駅]](新幹線) * [[高架駅]]・[[地上駅]](在来線)}} |ホーム = {{Plainlist| * 2面4線(新幹線) * 6面12線(在来線・高架) * 3面5線(在来線・地上)}} |乗車人員 = {{Smaller|(新幹線)-2022年-}}<br />9,560人/日(降車客含まず)<hr />{{Smaller|(合計)-2022年-}}<br />147,777 |統計年度 = |乗入路線数 = |所属路線1 = {{Color|green|■}}[[東北新幹線]]<br />({{Color|#ee7b28|■}}[[山形新幹線]]・{{Color|#ed4399|■}}[[秋田新幹線]]・[[北海道新幹線]]・[[上越新幹線]]・[[北陸新幹線]]直通を含む) |前の駅1 = [[東京駅|東京]] |駅間A1 = 3.6 |駅間B1 = 26.7 |次の駅1 = [[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] |キロ程1 = 3.6 |起点駅1 = 東京 |所属路線2 = {{color|#f68b1e|■}}[[宇都宮線]]・[[高崎線]]{{Refnest|group="*"|name="tohoku"|在来線の線路名称はいずれも[[東北本線]]。}}<br />([[東北本線]]列車線) |前の駅2 = JU 01 東京{{Refnest|group="*"|name="ueno-tokyo"|一部列車が上野東京ラインとして運行の上、東京方面に乗り入れ。}} |駅間A2 = 3.6 |駅間B2 = 4.8 |次の駅2 = [[尾久駅|尾久]]{{Refnest|group="*"|この間に日暮里駅(東京起点5.8&nbsp;km)があるが、ホームがないため全列車が停車しない。}} JU 03 |駅番号2 = {{駅番号r|JU|02|#f68b1e|1}} |キロ程2 = 3.6 |起点駅2 = 東京 |所属路線3 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]<ref group="*" name="tohoku" /><br />(東北本線電車線) |前の駅3 = JK 29 [[御徒町駅|御徒町]] |駅間A3 = 0.6 |駅間B3 = 1.1 |次の駅3 = [[鶯谷駅|鶯谷]] JK 31 |駅番号3 = {{駅番号r|JK|30|#00b2e5|1}} |キロ程3 = 3.6 |起点駅3 = 東京 |所属路線4 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]]<ref group="*" name="tohoku" /><br />(東北本線電車線) |前の駅4 = JY 04 御徒町 |駅間A4 = 0.6 |駅間B4 = 1.1 |次の駅4 = 鶯谷 JY 06 |駅番号4 = {{駅番号r|JY|05|#9acd32|1}} |キロ程4 = 3.6 |起点駅4 = 東京 |所属路線5 = {{color|#00b261|■}}{{color|#3333ff|■}}[[常磐快速線|常磐線(快速)]] |前の駅5 = (東京)<ref group="*" name="ueno-tokyo" /> |駅間A5 = - |駅間B5 = 2.2 |次の駅5 = [[日暮里駅|日暮里]] JJ 02 |駅番号5 = {{駅番号r|JJ|01|#00b261|1}} |キロ程5 = 日暮里から2.2 |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#直営駅|直営駅]]([[日本の鉄道駅#管理駅|管理駅]]) * [[みどりの窓口]] 有 * [[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]導入駅{{Refnest|group="*"|不忍改札と公園改札に導入<ref name="StationCd=204_230911" />。}}<ref name="StationCd=204_230911" /> * [[画像:JR area YAMA.svg|15px|山]][[画像:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} {{Vertical_images_list |幅 = 250px |枠幅 = 250px |1 = Dila Ueno.jpg |2 = Dila上野(2010年2月) |3 = Electronic signage of JR Ueno Station.JPG |4 = [[サインシステム]]と宇都宮線・常磐線快速電車の[[発車標]] }} 中央改札上に1951年展示の[[猪熊弦一郎]]作の[[壁画]]『自由』があり、当駅を代表する光景ともなっている(1951年12月製作<ref name="駅の話"/>、1984年6月修復、2002年12月修復)。下部に[[発光ダイオード|LED]]式[[発車標]]が設置され、新幹線開業前は、東北・奥羽・磐越西線は緑(杜の都・仙台をイメージ)、高崎・上越線は黄(越後平野の稲穂をイメージ)、高崎・信越線はピンク(信州のりんごをイメージ)、常磐線は青(太平洋の海をイメージ)、東北新幹線[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]開業時に設定された「[[新幹線リレー号]]」はクリーム色と、方面別に色分けされた木製の発車案内板が使用され、ホームにも後から幕式の発車標が設置されていた。 グランドコンコースの中央改札内に[[朝倉文夫]]作の[[彫像|ブロンズ像]]『つばさの像』、改札外広小路口に朝倉作の『三相』がある。『つばさの像』は1958年10月10日に初の東北特急「はつかり」運転開始と駅開業75周年を記念して台東区が寄贈したもので、当初は広小路口に設置された。『三相』は、[[1958年]](昭和33年)[[10月10日]]に駅開業75周年記念式に列席した朝倉が、駅が朝倉自身と誕生を同じくしていることを知り、深く喜懌になり、記念に台東区を通じ贈られたもので、三相は知、情および意である。券売機上壁面に、東北上越新幹線上野駅開業を記念して制作された[[平山郁夫]]原画・制作のステンドグラス『ふる里日本の華』(1985年)がある。豊かな水と緑を背景に四季折々の美しさを屏風絵ふうに配し、沿線各地の代表的な花・まつり・風物をあしらいふる里への思いを表現した、きわめて日本的なモチーフと構成に特徴がある。 [[バブル景気|バブル]]期に[[磯崎新]]設計による地上300.3メートルの超高層駅ビルに建て替える構想があったが、[[1992年]](平成4年)にJR東日本は「この高さでは効率的な利用ができない」として計画の見直しを発表した<ref group="新聞">{{Cite news|和書|非効率的 横揺れ対策に時間 かさむ事業費 日本一の“背伸び”やめました|newspaper=[[産経新聞]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=1992-10-26|edition=東京本社夕刊|pages=15}}</ref>。 [[南満洲鉄道]]の[[大連駅]]と[[函館本線]]の[[小樽駅]]、および樺太庁鉄道(後の[[樺太西線]]→[[ロシア鉄道]]シャフタ=サハリンスカヤ─アルセンチェフカ線)の[[真岡駅 (樺太)|真岡駅]](ホルムスク南駅、1992年に解体)は当駅を模したとされる{{要出典|date=2019年4月}}。 [[コンコース]]は、地上と、(旧)公園口通路(3階南側。かつて公園口改札が西端にあったためそう呼ばれていたが、後述の通り公園口が移転され、その頃から公園口通路とはあまり呼称されなくなった)、大連絡橋通路(3階北側)、大連絡橋連絡通路(公園口通路と大連絡橋通路を連絡する)、新幹線地下コンコース(地下)がある。新幹線コンコースは、地上の中央改札から入場して右側の新幹線改札を経て向かう。 [[改札]]は、中央改札(1階)、不忍改札(中2階)、公園改札(3階・大連絡橋通路西端)、入谷改札(3階・旧公園口通路東端)の計4か所である。このうち、不忍改札と公園改札には[[駅集中管理システム|お客さまサポートコールシステム]]が設置されており、一部の時間帯はインターホンによる案内となる<ref name="StationCd=204_230911">{{Cite web|url=https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=204|title=駅の情報(上野駅):JR東日本|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2023-09-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230911115905/https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=204|archivedate=2023-09-11}}</ref>。かつては、期間・時間が限定された臨時改札として、Suica専用(簡易Suica改札機設置)の公園臨時改札があった<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2017/tokyo/20170710_t01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170920142232/http://www.jreast.co.jp/press/2017/tokyo/20170710_t01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=上野駅公園口を移設します|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2017-07-10|accessdate=2020-05-29|archivedate=2017-09-20}}</ref>が、2020年3月20日に新しい公園口駅舎が供用開始され、公園改札が(旧)公園口通路西端から大連絡橋通路西端の公園臨時改札跡地へ移設された<ref group="報道" name="press/20200220_to01" />。改札内改札として先述の新幹線改札があり、以前はそれに加え、在来線特急乗換(16・17番線入出場)改札が地上および3階にそれぞれあったが、元々寝台特急は13番線などを利用していたほか、2014年3月15日のダイヤ改正から高崎線特急が14・15番線に、2015年3月14日の改正(上野東京ライン開業)から常磐線特急のうち東京方面に乗り入れる列車が8・9番線を発着するようになり、特急列車の発着ホームが分散されたため、2015年3月13日を以て廃止され、自由に出入りできるようになった(8・9・14・15番線ホーム上に高崎・常磐線の当日分専用[[指定席券売機]]が設置された)。 出口は、地上の中央改札正面の「広小路口」「正面玄関口」や同左手の「浅草口」、中2階の不忍改札からは地上の「不忍口」「山下口」、3階の入谷改札からは2階の「東上野口」、3階の「パンダ橋口」、地上の「入谷口」などが利用できる。同じく3階の公園改札からは3階の「公園口」に直結していて、[[上野恩賜公園]]へ歩行者空間が直結されている(公園改札移転と同時に外の広場も再整備され、駅舎と公園の間に通っていた車道を南北でそれぞれロータリー化して分断し、歩行者空間が作られた)。正面玄関口および広小路口の出口からは、[[国道4号]](日光街道)などを跨ぐ歩道橋が利用できる。2000年10月、駅を東西に跨ぐように「上野駅東西自由通路」(長さ 220m 、幅 20m )が架けられ、自由に歩くことができようになり、2001年、愛称が「パンダ橋」に決まり、2002年に橋の西端下に、「パンダ橋」と彫られた、高さ 1.3m 、幅 2.5m の稲田石(白御影石)の石碑が建てられた。駅構内にはジャイアントパンダの像は2つあり、実物の倍の大きさはある巨大な[[ジャイアントパンダ]]像はパンダ橋口を出て右の所に、もう一つの小パンダ像は、大連絡橋コンコースにあったが、2017年12月に小パンダ像も大パンダ像のある場所に移設された。 [[京成電鉄]]の[[京成上野駅]]へは不忍口を経るように案内サインが設置されている。JRと京成線の連絡は、[[山手線]]・[[京浜東北線]]で北側に2駅進んだ[[日暮里駅]]が通常利用されている。上野駅と[[京成上野駅]]の両駅を連絡駅とした定期券は発売している<ref name="renrakuteiki">{{Cite web|url=http://www.jreast.co.jp/renrakuteiki/pdf/00.pdf|format=PDF|title=連絡定期券の発売範囲|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2022-12-24}}</ref>。 地下鉄各線の連絡は、中央改札近くにある階段・エスカレータを利用するルートが主だが、入谷改札からの動線も案内されている。 在来線のトイレは中央改札口入って正面にある駅弁店・土産物店(洋菓子)の裏側(地上。頭端式ホーム14・15番線ホームおよび16・17番線ホームの延長線上)、3・4番線ホームへの階段と5・6番線ホームへの階段との間(中2階コンコース)、9・10番線ホームと11・12番線ホームとを連絡する箇所(2階)、現行の公園口改札前(3階)、エキュート上野内1階に直結するエスカレーターの向かい側(3階)の計5か所である。なお、2020年3月の公園口駅舎の移設の後となる同年6月17日に、公園口改札外(2階)が供用開始される予定である<ref group="報道" name="press/20200612_to01">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200612_to01.pdf|title=上野駅公園口駅舎の展望テラス、改札外トイレおよび新店舗開業のお知らせ|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/JR東日本リテールネット|date=2020-06-12|accessdate=2020-06-12|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200612055329/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200612_to01.pdf|archivedate=2020-06-12}}</ref>{{Refnest|group="注釈"|name="park-exit/covid-19"|当初は2020年4月21日の供用開始が予定されていた<ref group="報道" name="press/20200220_to01" />が、[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス感染症(COVID-19)]]拡大防止を理由に、延期された<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200417_to01.pdf|title=上野駅公園口駅舎の展望テラス、改札外トイレおよび新店舗の開業延期のお知らせ|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社/JR東日本リテールネット|date=2020-04-17|accessdate=2020-04-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200419155318/https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200417_to01.pdf|archivedate=2020-04-20}}</ref>。}}。 [[2009年]]3月16日に、上野中央通り地下[[駐車場]]および周辺のJR上野駅・御徒町駅、東京メトロ上野駅・[[上野広小路駅]]・[[仲御徒町駅]]、[[京成上野駅]]、都営[[上野御徒町駅]]、を結ぶ地下通路が、[[東京都]]の整備で供用開始された。この8駅と上野駅は同一駅として扱わないが、東京メトロ上野駅、[[京成上野駅]]は定期券の連絡駅<ref name="renrakuteiki"/> として扱う。 新幹線開業以降JR駅内部の改装工事が始まり、[[1990年代]]後半に改札内部に「[[Dila]]上野」が完成した。その後、JR東日本ステーションルネッサンス「みんなのえきプロジェクト」と称して中央改札・不忍改札側の駅舎内部も改装され、東西自由通路(愛称:'''パンダ橋''')や正面玄関「[[レトロ]]館」の「Breakステーションギャラリー」、中央改札の「グランドコンコース」、ショッピングセンター「七番街([[アトレ]]上野)」などが整備され、2002年3月にグランドオープンした。アトレ上野は2月22日に開店<ref group="報道" name="press/20020201" />し、「FUSION SQUARE 人が集まるeki融合空間」をコンセプトに駅周辺にない飲食・食物販・ファッション・雑貨など54店舗を「レトロ館・ガレリア」「グランドコンコース」および「七番街」の3ゾーンに配置し、20 - 39歳の女性をターゲットに新たなエキナカショッピングシーンを演出している。[[2007年]]4月から9月にかけてリニューアル工事を行い、「ゴディバ」「日本橋屋長兵衛」「アール・エフ・ワン」「[[BAGEL&BAGEL|ベーグル&ベーグル]]」「ジンズ グローバル スタンダード」「サマンサタバサ プチチョイス」のオープンと既存9ショップの改装を行った<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/44_20070606ueno.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200521134300/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/44_20070606ueno.pdf|format=PDF|language=日本語|title=アトレ上野 GRAND RENEWAL 1st Stage 6.15.fri. 新ショップ続々オープン!|publisher=東京圏駅ビル開発|date=2007-06-06|accessdate=2020-05-29|archivedate=2020-05-21}}</ref><ref group="報道" name="49_20070815ueno">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/49_20070815ueno.pdf|title=アトレ上野 GRAND RENEWAL 2nd Stage 8.10.fri. 浅草口地下に、新フロア『レトロゲート』誕生!|format=PDF|publisher=東京圏駅ビル開発|date=2007-08-07|accessdate=2020-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519161317/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/49_20070815ueno.pdf|archivedate=2020-05-20}}</ref><ref group="報道" name="47_20070912ueno">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/47_20070912ueno.pdf|title=アトレ上野 GRAND RENEWAL Perfect Stage 9.4.Tue. 新しいアトレ上野 ついに完成!|format=PDF|publisher=東京圏駅ビル開発|date=2007-09-11|accessdate=2020-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519161354/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/47_20070912ueno.pdf|archivedate=2020-05-20}}</ref>。[[東京圏駅ビル開発]](現・アトレ)は、同年8月に浅草口地下でカフェ・雑貨ショップなどを配置した新フロア「レトロゲート」を開設した<ref group="報道" name="49_20070815ueno" />。9月にフロアリニューアルを行い、グランドオープンした<ref group="報道" name="47_20070912ueno" />。2005年春に全体のリニューアル工事が完成し、全面が白で統一された外観となり、[[エレベーター]]の整備も行われた。完工時は「上野駅リニューアルキャンペーン」が開催され、JR東日本のイメージキャラクターで[[コマーシャルメッセージ|CF]]に採用された[[国分佐智子]]らが開場記念式典を催した。本改装は「駅ナカ」の先例となった。その後、2013年12月にはファッションゾーン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/281_ueno1106.pdf|title=アトレ上野 2013年12月1日(日)RENEWAL OPEN|format=PDF|publisher=アトレ|date=2013-11-06|accessdate=2020-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519162327/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/281_ueno1106.pdf|archivedate=2020-05-20}}</ref>、2014年7月にはスウィーツゾーン<!--出典の表記に従う-->とレストランゾーン<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/291_ueno0618.pdf|title=アトレ上野 2014年7月 スウィーツ・レストランゾーン RENEWAL OPEN|format=PDF|publisher=アトレ|date=2014-06-18|accessdate=2020-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519162637/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/291_ueno0618.pdf|archivedate=2020-05-20}}</ref>、同年10月にはグランドコンコースエリア<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/303_1022ueno.pdf|title=この冬、アトレ上野にNEW&RENEWAL SHOPが続々登場!|format=PDF|publisher=アトレ|date=2014-10-22|accessdate=2020-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519162658/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/303_1022ueno.pdf|archivedate=2020-05-20}}</ref>、2019年11月 - 12月には上野公園側レストランゾーンがリニューアルされた<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://company.atre.co.jp/company/news/pict/561_1121ueno.pdf|title=アトレ上野 上野公園側レストランゾーン リニューアルオープン! 上野エリア初出店や新業態を含む4ショップをご紹介!|format=PDF|publisher=アトレ|date=2019-11-21|accessdate=2020-05-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200519163235/https://company.atre.co.jp/company/news/pict/561_1121ueno.pdf|archivedate=2020-05-20}}</ref>。なお、2020年3月の公園口駅舎の移設の後となる同年6月17日に、エキュート上野の新店舗(4店)および展望テラスがオープンする予定である<ref group="報道" name="press/20200612_to01" /><ref group="注釈" name="park-exit/covid-19" />。 東北新幹線の開業に伴い並行在来線の特急列車が大方廃止されて地上ホームの19・20番線が廃止となり、[[1999年]]9月に18番線も廃止され、跡地の東京方と東上野口・入谷口に、[[2006年]]7月19日から[[スポーツクラブ|フィットネスクラブ]]の[[ジェイアール東日本スポーツ]]が入居している。中央付近も途中まで取り壊されて従業員専用通路となっている。日暮里方は、ホームがほぼ原型を留めたままで従業員専用通路として使用されている(19番線側に建てられた事務所を行き来するのに使用)のが、他のホームから確認できる。 東北新幹線開業以前は、[[北関東]]、[[東北地方|東北]]・[[信越地方|信越]]・[[北陸地方|北陸]]方面へ向かう[[東北本線]]、[[日光線]]、[[磐越西線]]、[[奥羽本線]]、[[高崎線]]、[[両毛線]]、[[上越線]]、[[信越本線]]、[[吾妻線]]、[[羽越本線]]、[[常磐線]]の各[[特別急行列車|特急]]・[[急行列車|急行]]など長距離[[優等列車]]が数多く発着していたが、新幹線開業のため並行在来線の優等列車は次第に廃止となり、地上ホームは削減されて跡地が新幹線ホームへ向かうコンコースとなり、現在は[[中距離電車]]が増発されて、発着列車の大半が[[宇都宮線]]、[[高崎線]]、[[常磐線]]の北関東方面へ向かう近郊・中距離電車となっている。 当初、高架ホームは[[常磐線]]各列車主体に使用され、高架ホームを発着する東北・上信越方面各列車はごく一部であった。地平ホームは、[[常磐線]]列車の発車が無く東北・上信越方面各列車の専用であった。特急・急行列車が増発されて中距離通勤客が増加すると、地平ホームは特急中心に、高架ホームは各線普通列車中心にそれぞれ運用され、上野東京ライン開業直前の時期は[[宇都宮線]]と[[高崎線]]の普通列車は5 - 8番線の高架ホームと13 - 15番線の地平ホームのいずれかに、[[常磐線]]の普通列車は9・10番線、[[常磐快速線|快速電車]]は11・12番線に発着したが、9番線に到着する[[宇都宮線]]・[[高崎線]]列車、8番線や地平ホームに到着する常磐線普通列車もわずかに存在した。以前は8番線発の常磐線列車や9番線発の高崎線列車もあった。 [[直営駅]]で、[[鶯谷駅]]と[[御徒町駅]]を管理下に置く。 ==== 新幹線ホームの地下水上昇と対策 ==== [[戦後]]は周辺地域で[[地下水]]利用が多く、[[地盤沈下]]が発生して周辺の地下水利用が制限されている。地下30メートルに位置する新幹線ホーム周辺の地下水は、建設前の1970年代初期はホームより低い地下38メートルの水位にあったが、地下水の採取規制により余剰となり<ref name=":1">{{Cite web|title=「有楽町駅はチューブをたらしっぱなしにしない」「ステンレスの樋でアイアン化する」 駅の水もれ対策から感じる駅員の“美学”|url=https://bunshun.jp/articles/-/49978|website=文春オンライン|accessdate=2021-11-20|first=杉山|last=淳一}}</ref>、1995年には地下14メートルまで水位が上昇した。浮き上がりによる駅構造の変形を防ぐため、新幹線ホームの床下に合計3万7000トンの[[錘]]を設置した<ref name=":1" />。2004年には水位が地下12メートルまで上昇したのを受け、全長17メートルの[[アンカーボルト]]を、東京駅の横須賀線・総武快速線ホームの約5倍<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=2004-05-19}}</ref>となる約650本陥入した。地下水を[[不忍池]]へ流す導水管も敷設され、不忍池の水質と水量保持、JRの下水道料金負担軽減<ref group="新聞">{{Cite news|和書|url=https://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140822/dms1408220830008-n1.htm|title=スペインで実例、地下水が誘発する地震 東京で近年水位上昇|date=2014-08-22|page=1|newspaper=[[夕刊フジ#ネット事業|ZAKZAK]]|publisher=産業経済新聞社|accessdate=2016-05-22}}</ref>など波及効果も得た。隙間からの漏水は対策が難しいため、ビニールチューブで誘導するなど安価な手法で対処している<ref name=":1" />。 ==== のりば ==== 同一駅に3種類のホームがある。 ; 高架ホーム : '''1 - 12番線'''([[山手線]]・[[京浜東北線]]・[[宇都宮線]]・[[高崎線]]・[[常磐線]]・[[上野東京ライン]]) :: 緩斜面に建設された一部[[高架駅|高架]]の[[島式ホーム]]4面8線(1 - 8番線)、[[切欠きホーム]]と[[頭端式ホーム|櫛形ホーム]]が一体化した2面4線(9 - 12番線、平面で行き来可能)、合わせて6面12線で構成されている。 :: 1 - 9番線は御徒町・東京方面と鶯谷・尾久・日暮里方面が直結しており、一部列車を除いて直通する各線の列車が発着する。櫛形の10 - 12番線は日暮里方面(常磐線)のみ発着できる。10 - 12番線は他のホームよりも日暮里方に位置して中央改札正面の階段の先が終端部に当たり、常磐線ホームの中で9番線のみ車両の停車位置が大きく異なっている。 :: [[宇都宮線]]と[[高崎線]]、[[常磐線]]の列車が当駅に到着する際、「'''高いホーム'''」または「'''高架ホーム'''」と呼称される。 :: [[常磐線]]の案内は、中距離列車が青{{Color|#3333ff|■}}、[[常磐快速線|快速電車]]が緑{{Color|#00b261|■}}で表記されている。 <gallery> ファイル:JRE-Ueno-STA Central-Gate.jpg|中央改札 ファイル:JRE Ueno Station Sinobazu gate.JPG|不忍改札 ファイル:Ueno Station 200610b.jpg|公園改札 ファイル:JRE-Ueno-STA Iriya-Gate.jpg|入谷改札 ファイル:JRE-Ueno-STA Home1-2.jpg|1・2番線ホーム ファイル:JRE-Ueno-STA Home3-4.jpg|3・4番線ホーム ファイル:JRE-Ueno-STA Home5-6.jpg|5・6番線ホーム ファイル:JRE-Ueno-STA Home7-8.jpg|7・8番線ホーム ファイル:JR Ueno Station Platform 9・10.jpg|9・10番線ホーム ファイル:JR Ueno Station Platform 11・12.jpg|11・12番線ホーム </gallery> ; 地平ホーム : '''13 - 17番線'''([[宇都宮線]]・[[高崎線]]・[[常磐線]]) ::[[地上駅|地平]]にある4面5線<ref group="注釈">うち1面は[[TRAIN SUITE 四季島]]の専用ホームであり、列車発車時以外は常時閉鎖されている</ref>の[[頭端式ホーム]]で、ヨーロッパのターミナル駅の風情を漂わせている。尾久・日暮里方面へ発着する。到着の際は「'''低いホーム'''」または「'''地平ホーム'''」と呼称される{{Efn|ホームが全て壁や天井で覆われているため地下ホームと誤解される場合がある}}。 :: 13 - 15番線は主に宇都宮線・高崎線普通列車が発着する。一番端の単独ホームである13番線は、かつて「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」などの寝台特急の発着ホームとなっていたが、同列車が全廃された2016年3月26日改正以降は定期の特急発着がなく、2021年3月13日改正以降は定期普通列車の発車も無くなった(到着は朝ラッシュ時に数本ある)。この他、常磐線の普通列車も到着扱いの列車が数本あるが、到着後は[[回送]]となるため、発車はない。 :: 16・17番線はかつて常磐線特急は全てこのホームを使用していたが、上野東京ライン開業により、多くの列車が品川駅乗り入れを開始するために高架ホーム8・9番線発着に変更されたため、当ホーム発着が激減した。その後もダイヤ改正ごとに数本ずつ常磐線特急の上野東京ライン化による当ホームから発着取りやめが続いており、2023年3月ダイヤ改正時点では常磐線特急は「ときわ」の1往復のみである。空いた枠を使って、高崎線方面の「草津」の到着1本・「スワローあかぎ」の発車1本が使用していたほか、2018年3月17日改正からは宇都宮線・高崎線の普通・快速列車の一部も16番線を使用している他、17番線も含めて宇都宮線・高崎線・常磐線の普通・快速列車の到着扱いの列車が数本が設定されている。かつては特急専用ホームであり、ホーム入口に有人の中間改札口が設けられ、乗車券・特急券・入場券の検札を行っていたが、2015年3月13日に撤去された。 ::: このような経緯から、当ホーム上には屋内型の喫煙コーナーが現在も設置されている。新幹線を除く首都圏の鉄道駅コンコース内に喫煙可能な設備を有しているのは当ホームと[[新宿駅]]9・10番線の2箇所のみである<ref group="注釈">ただし、改札外も含めると[[東京駅]]丸の内地下北口のグランスタ丸の内付近も該当する。</ref>。 :: 13番線は、寝台列車待ちの際に休憩所として利用できる「五つ星広場」があった(後述)。 :: 13番線と14番線の間(13番線ホームの向かい側)に、荷物を積み降ろしする専用ホームが存在していたが、これを2017年5月1日から運行を開始したクルーズトレイン「[[TRAIN SUITE 四季島]]」の乗降専用ホームに改築し、通称「'''新たな旅立ちの13.5番線ホーム'''」として整備した。このホームは中央改札側から、同列車(E001形)のエントランスドアがある5号車付近までの長さが取られている。また、同列車専用ラウンジ「'''プロローグ四季島'''」が13番線に整備され、列車帰着後に「この旅がまだ続く旅」である事を実感させるフェアウェルパーティを行う。 :: かつて、地平ホームはこれに加えて18 - 20番線が存在し、[[優等列車]]が多数発着していたが、新幹線上野駅開業に伴い20番線が1980年5月31日に、続いて19番線が1983年7月1日に廃止され、跡地は新幹線コンコースに転用された。さらに1999年9月11日には18番線が廃止となり、今に至るまで[[欠番]]となった。2020年現在、[[日暮里駅|日暮里]]寄りに旧18番線ホームの一部が残存しており、業務用通路として使用されている。 :: かつての「北斗星」など、客車列車の場合、駅構内で機関車の付け替えができないため、車両基地である[[尾久車両センター]]との間は機関車を後部にした状態で回送運転する。「[[尾久車両センター#推進回送]]」を参照。 :: 13番線の真上に10番線、14・15番線の真上に11・12番線がある2階建てのホームとなっており、13番線および14・15番線ホームと3階コンコースを結ぶ[[エスカレーター]]および[[階段]]は、9・10および11・12番線ホームを貫通し直結している(貫通地点に転落防止の壁があり、行き来不能だが、全面を覆っておらず、空間は開けている)。高架ホームと地上ホームを直接つなぐ階段・エスカレーターは無いが、地平ホームは14・15番線ホーム上のみにあるエレベーターは3層を行き来できる。 :: 地平ホームでは、基本的に編成長を問わず終端部に詰めて停車しているが、2023年3月18日改正以降の高崎線方面特急は、5両編成と極めて短いため、高崎寄りに2両分ずらして停車している(それでも3階コンコースからの階段前には車両が停まらない。車端部に詰めていた同改正直前までの7両編成でも同様だった)。 :: 新幹線ホーム改札の隣の旧18番線に、寝台特急「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」に使用されている[[JR東日本E26系客車|E26系]]の模型モックアップが置かれていたが、2012年12月24日に撤去された。旧18番線ホームの壁面に、ヒノキアスナロ(アオモリヒバ)による青森ねぶたのレリーフ(デザイン:高桑エリカ、彫刻監修:高橋清)がある。 :: 現在の番線になったのは[[1968年]]8月29日のことで、前日まで現在の13番線が0番線、同14番線が11番線、同15番線が12番線という順で、かつての20番線が17番線だった。 <gallery> JRE Ueno-STA Home13.jpg|13番線ホーム JRE Ueno-STA Home14-15.jpg|14・15番線ホーム JRE Ueno-STA Home16-17.jpg|16・17番線ホーム Ueno station 13.5 platform.jpg|「TRAIN SUITE 四季島」専用ホーム(通称「新たな旅立ちの13.5番線」)のエントランス(2017年8月) Ueno station 13.5 all platform.jpg|「TRAIN SUITE 四季島」専用ホーム全体の様子。エントランスドアの位置に合わせて乗降口がある(2017年8月) Ueno station 13 platform prologue shikishima.jpg|13番線ホームにある、「TRAIN SUITE 四季島」の専用ラウンジ「プロローグ四季島」のエントランス(2017年8月) JR東日本・上野駅・18番線・1.jpg|18番線ホーム。列車は17番線で発車待ちの「[[ひたち (列車)|ひたち]]」(1988年4月) </gallery> ; 新幹線地下ホーム : '''19 - 22番線'''(東北・山形・秋田・北海道・上越・北陸新幹線) :: [[地下駅|地下]] 5階にある2面4線のホーム。通過線はなく、可動式ホーム柵も設置されていないため、通過列車は減速する。 :: 上下線で番線をある程度明確に割り振ってはいるが、上野始発の下り新幹線は下りの当駅始発1本と[[臨時列車]]のみだが全ホームを使用する。この他に、[[東京駅]]発の臨時列車が19・22番線で定期列車を待避する場合がある。1997年9月30日まで一部の定期列車と大部分の臨時列車が当駅始発・終着だったが、定期列車については23年ぶりに上越新幹線「たにがわ」号が上下1往復復活した。北側に行くと新幹線の[[東京新幹線車両センター]]がある(在来線でいうと京浜東北線の上中里 - 田端間に隣接)。 :: 新幹線ホームの一層上階コンコース南方に、喫煙コーナーがある。 <gallery> JR Ueno Station Shinkansen Transfar Gates.jpg|新幹線改札口 201801 Shinkansen Concourse of Ueno Station.jpg|新幹線コンコースのエスカレーター Ueno-Sta-B3-Concourse.JPG|新幹線コンコース(地下3階) JR Ueno Station Platform 19・20.jpg|19・20番線ホーム JR Ueno Station Platform 21・22.jpg|21・22番線ホーム </gallery> <!--方面表記および在来線の路線名表記は、JR東日本の駅の情報の「駅構内図」の記載に準拠。ただし、新幹線下りは方面表記の記載が無いため、「時刻表」の記載に準拠し、新幹線下りの路線名表記についても「時刻表」の記載に準拠--> {| class="wikitable" style="font-size:90%;" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先!!備考 |-style="border-top:solid 3px #999" |colspan="5" style="background-color:#eee;"|'''在来線 高架ホーム''' |- !1 |[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 |style="text-align:center;"|北行 |[[赤羽駅|赤羽]]・[[浦和駅|浦和]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 | |- !2 |rowspan="2"|[[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center;"|内回り |[[田端駅|田端]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]方面 | |- !3 |style="text-align:center;"|外回り |[[秋葉原駅|秋葉原]]・[[東京駅|東京]]・[[浜松町駅|浜松町]]・[[品川駅|品川]]方面 | |- !4 |[[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 |style="text-align:center;"|南行 |[[蒲田駅|蒲田]]・[[川崎駅|川崎]]・[[横浜駅|横浜]]・[[関内駅|関内]]方面 | |- !rowspan="2"|5・6 |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線 |rowspan="4" style="text-align:center;"|下り |rowspan="2"|赤羽・大宮・[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[高崎駅|高崎]]方面 |rowspan="2"|品川・東京方面からの列車。主に5番線を使用する。<br />早朝・深夜の始発列車(一部7番線)。 |- |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 高崎線 |- !rowspan="2"|6 |[[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} 常磐線(快速) |rowspan="2"|[[松戸駅|松戸]]・[[取手駅|取手]]・[[水戸駅|水戸]]・[[成田駅|成田]]方面<!-- 10-12番線の欄に記載あり --> |rowspan="2"|品川駅始発の快速電車・中距離列車。 |- |{{Color|#00b261|■}} [[成田線]] |- !7・8 |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 上野東京ライン |style="text-align:center;"|上り<br />(南行) |東京・品川・横浜・[[小田原駅|小田原]]・[[熱海駅|熱海]]方面 |大宮方面から(一部当駅始発)の列車。主に7番線を使用する。 |- !8 |{{Color|#3333ff|■}} 常磐線(特急)<br />[[ひたち (列車)|「ひたち」「ときわ」]] |style="text-align:center;"|下り |[[柏駅|柏]]・[[土浦駅|土浦]]・水戸・[[いわき駅|いわき]]方面 |品川駅始発の特急列車。 |- !8・9 |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 上野東京ライン |style="text-align:center;"|上り<br />(南行) |東京・品川方面 |常磐線からの品川行き(特急含む)。主に9番線を使用する。 |- !rowspan="2"|9 - 12 | [[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} 常磐線(快速) |rowspan="2" style="text-align:center;"|下り |rowspan="2"|松戸・取手・水戸・成田方面 |rowspan="2"|上野駅始発の快速電車・中距離列車。 |- |{{Color|#00b261|■}} 成田線 |- |-style="border-top:solid 3px #999" |colspan="5" style="background-color:#eee;"|'''在来線 地平ホーム''' |- !rowspan="2"|13 |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線 |rowspan="6" style="text-align:center;"|下り |rowspan="4"|赤羽・大宮・宇都宮・高崎方面 |rowspan="2"|平日朝の'''到着'''列車、夜の宇都宮線始発1本のみ |- |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 高崎線 |- !rowspan="2"|14 - 16 |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線 |rowspan="2"|早朝深夜の一部を除く、上野駅始発列車<br />一部の常磐線終着列車も使用 |- |[[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 高崎線 |- !(専用ホーム)<br /><ref group="注釈">駅の案内表示上はホーム番号の表記はない。</ref> |「[[TRAIN SUITE 四季島]]」 |(東北本線・高崎線・常磐線方面) |「新たな旅立ちの13.5番線ホーム」<br />(発着時以外は常時閉鎖)<br />13番線と線路を共用 |- !16・17 |{{Color|#3333ff|■}} 常磐線(特急)<br />「ひたち」「ときわ」 |柏・取手・土浦・水戸方面<!--「駅構内図」の「1F-M2」の記載に準拠--> |16番線は9:00発「ひたち5号」、17番線は8:30発「ときわ53号」のみ |-style="border-top:solid 3px #999" |colspan="5" style="background-color:#eee;"|'''新幹線 地下ホーム''' |- !rowspan="5"|19・20 |[[ファイル:Shinkansen jre.svg|16px|■]] 東北・北海道新幹線 |rowspan="5" style="text-align:center;"|下り |[[宇都宮駅|宇都宮]]・[[郡山駅 (福島県)|郡山]]・[[福島駅 (福島県)|福島]]・[[仙台駅|仙台]]・[[盛岡駅|盛岡]]・[[新青森駅|新青森]]・[[新函館北斗駅|新函館北斗]]方面<ref name="timetable/list0204">{{Cite web|url=https://www.jreast-timetable.jp/timetable/list0204.html|title=時刻表 上野駅|publisher=東日本旅客鉄道|accessdate=2020-11-29}}</ref> |rowspan="3"|全定期列車20番線 |- |[[ファイル:Shinkansen jre.svg|16px|■]] 秋田新幹線 |[[角館駅|角館]]・[[大曲駅 (秋田県)|大曲]]・[[秋田駅|秋田]]方面<ref name="timetable/list0204" /> |- |[[ファイル:Shinkansen jre.svg|16px|■]] 山形新幹線 |[[福島駅 (福島県)|福島]]・[[山形駅|山形]]・[[新庄駅|新庄]]方面<ref name="timetable/list0204" /> |- |[[ファイル:Shinkansen jre.svg|16px|■]] 上越新幹線 |高崎・[[越後湯沢駅|越後湯沢]]・[[新潟駅|新潟]]方面<ref name="timetable/list0204" /> |rowspan="2"|主に19番線 |- |[[ファイル:Shinkansen jre.svg|16px|■]] 北陸新幹線 |[[軽井沢駅|軽井沢]]・[[長野駅|長野]]・[[金沢駅|金沢]]方面<ref name="timetable/list0204" /> |- !21・22 |[[ファイル:Shinkansen jre.svg|16px|■]] 新幹線<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |style="text-align:center;"|上り |東京方面<!--出典の「駅構内図」の記載に準拠--> |22番線は一部上越・北陸新幹線の列車が発車 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/204.html JR東日本:駅構内図]) * 16番線には、日中は常磐線特急、夕夜間は宇都宮線・高崎線が発着している(終着折り返し回送列車に一部混在)。 * 電光掲示板の発車標は案内されるが案内がない高崎線特急「[[草津・四万]]」・「[[あかぎ (列車)|あかぎ]]」・臨時特急「[[水上 (列車)|水上]]」は14・15番線<!--「草津・四万」は14番線からの発車で統一-->(到着は一部16・17番線も使用)。「草津・四万」の上野東京ライン直通臨時列車は、北行([[長野原草津口駅|長野原草津口]]行き)が5番線、南行(東京行)が8番線発となる。 ** かつて、宇都宮線・高崎線13‐16番線は、カシオペアなど寝台列車が定期運行されていた時は、昼間特急も含め、シンボルマーク・列車名が記載されていた。上野東京ライン開業時に案内を総入替した際に代わりに路線名・方面表記以外の空きスペースに“特急”と記載されるようになった。2018年3月17日改正以降に除去された。 * 品川行きの「ひたち」「ときわ」は8番線と9番線から発着。 * 臨時特急「[[踊り子 (列車)|踊り子]]」の発着ホームは、[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]]発着の南行([[伊豆急下田駅|伊豆急下田]]行き)が9番線、北行き(我孫子行き)が我孫子行きが8番線。大宮発着の南行が8番線、北行は大宮行きが5番線となっていた。 * 宇都宮線・高崎線の普通・快速列車の始発専用13 - 16番線で、特急同様に14・15番線を中心に運用。2023年3月改正ダイヤで、13番線は平日朝の宇都宮線・高崎線終着普通列車2本のみと宇都宮線始発夜の1本のみで使用。16番線は平日10時台の高崎線終着普通列車1本、平日夕方以降の宇都宮線・高崎線始発普通・通勤快速列車数本、休日は高崎線快速アーバンの折り返し1本と、午前・夕方以降の一部宇都宮線・高崎線普通列車で使用。また、2022年3月改正にて、日中は当駅始発普通列車がほぼ全廃されたため、14・15番線は現在の特急草津・四万のみが発着し、その本数も多くないため、13-17の地上ホーム全体での日中の使用頻度が大幅に低下した。 * 記載は平常運転時の発車列車のもので、到着列車はこの限りではない<ref group="注釈">地上ホームにも常磐線(中距離電車)からの定期到着列車が存在する。</ref>。また、発車列車も上野東京ライン直通運転中止時や一部路線のみの直通運転実施時は変更される場合がある<ref group="注釈">例えば、宇都宮線・高崎線と東海道線の直通運転を中止した場合、5‐7番線を宇都宮線・高崎線の折り返しに使用し、品川始発の常磐線を8番線着発とするなどの変更が行われる。これは一例であり、直通運転中止時のホーム使用方法は固定化されておらず、使用ホームは臨機応変に変更されており、16番線が常磐線特急専用ホームだった時代にも宇都宮・高崎線(主に特急・通勤快速)が16番線を発着する場合もあった</ref>。 * 13番線線路を発着する[[クルーズトレイン]]「[[TRAIN SUITE 四季島]]」専用のホームとして、13番線と14番線の間に存在した14番線発着列車用荷物ホームを延長・改築して「新たな旅立ちの13.5番線ホーム」が新設された<ref group="報道" name="platform-13.5">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20161208.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200425070836/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20161208.pdf|format=PDF|language=日本語|title=TRAIN SUITE 四季島 〜上野駅整備計画について〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-12-06|accessdate=2020-05-29|archivedate=2020-04-25}}</ref>。荷物ホームは、末期に[[荷物列車#新聞輸送列車|新聞輸送列車]](旅客列車の最後尾を使用)へ新聞を積載するために使用されていたが、閉鎖後は旅客用の14・15番線ホームで、2021年3月のダイヤ改正で日中の始発列車が消滅した後は5番線にて東海道線からの直通列車(上野東京ライン)に積載している。 * 宇都宮線・高崎線下り(大宮方面)が遅延している場合、高架ホームの列車と地平ホームの列車の同時発車や、後続列車が先行発車される場合があるが、尾久駅手前の[[井堀信号所]]で後続列車が一時停車または徐行して調整する(大幅に乱れ、先行後続関係無くなっている場合は、特急>快速>高架ホーム上野東京ラインからの直通>地上ホーム普通始発の順で優先する傾向)。常磐線を含む上り(東京方面/上野東京ライン)は、合流ポイントまでの距離が短く同時発車が不可能で、後続列車は上野駅ホームで発車待ちとなる。上り列車は、上野駅の到着予定ホームに先行列車が停車中の場合や、平面交差で進路を支障している場合などは鶯谷駅横付近で一時停車し、その間に後続列車に追い越されて高架ホーム着と地平ホーム着の列車到着順序が入れ替わることがある。上野東京ライン開通で上野折り返しが大幅に減少したことで頻度は低下したが、新たに、品川行き常磐線が遅延するなどして宇都宮線・高崎線からの先行列車が東京方面へ発車できない場合、品川発の常磐線上りが6番線から発車して宇都宮線・高崎線の上り線路を平面交差で塞ぐ場合に後続の宇都宮線・高崎線からの東京方面後続列車が鶯谷駅付近で停車し、その間に更に後続の地平ホーム終着列車が追い抜くことがある。 * 2021年現在、新幹線の駅が地下にあるのは当駅が唯一である。 * 当駅折り返しの宇都宮線・高崎線・常磐線中距離電車は、かつて当駅に到着・降車後、駅員による全員降車確認作業を経て、一旦ドアを閉めて車内清掃を行い、完了次第の乗車扱いとなっており、更に[[2013年]](平成25年)[[12月1日]]より始発から15時までに発車する列車は、清掃完了後に自動でドアは開けずに[[半自動ドア#ボタン式半自動|ボタン式半自動ドア扱い]](発車直前に全てのドアを開放)となっていたが、新型コロナウイルス感染拡大防止による換気の為、半自動ドア扱いは取り止められた。しかし、2021年12月1日以降は、普通車において清掃が省略され、到着直後から発車直前まで全てのドアが開放されたままとなり、到着客が降り次第、そのまま入れ替わりで乗車可能となった(折り返し回送を除いて駅員による降車確認も行われず、乗車客自身でマナーも踏まえて降車完了を判断して乗車する。ただし、グリーン車については、普通車と共にドアは開放されたままとなったが、座席の転換作業が必要な為、作業が完了し、案内放送があるまでホーム上で待機する必要がある。なお、東京駅において[[総武快速線]]で実施している方式と同一である)。なお、特急列車は引き続き、一旦ドア閉めの上で清掃が行われている。 ==== のりばの変遷 ==== [[1960年代]]までは、5番線から20番線までのホームは通勤列車(出典ママ)と長距離列車が入り乱れて発着する状態にあった。[[1969年]]([[昭和]]44年)[[12月27日]]から[[1970年]](昭和45年)[[1月1日]]の間、帰省客の便宜を図るために上野駅着の通勤列車を大宮駅または日暮里駅で折り返し運転として、長距離列車の発着ホームを行き先別に整理する取り組みが行われた<ref group="新聞">{{Cite news|和書|title=チョッピリ帰省が楽に 長距離列車、方向別に統一|newspaper=朝日新聞|publisher=朝日新聞社|date=1969-12-23|edition=朝刊 12版|page=15}}</ref>。このことが契機となって[[1970年代]]以降、発着ホームが行き先別に固定化された。 <div style="overflow-x:scroll"> {|class="wikitable" style="overflow-x:scroll;white-space:nowrap;font-size:75%;" !時期 !高架1番線 !高架2番線 !高架3番線 !高架4番線 !高架5番線 !高架6番線 !高架7番線 !高架8番線 !高架9番線 !高架10番線 !高架11番線 !高架12番線 !地上13番線 !地上14番線 !地上15番線 !地上16番線 !地上17番線 !地上18番線 !地上19番線 !地上20番線 !地下19番線 !地下20番線 !地下21番線 !地下22番線 |- |不明 - |rowspan="7"|{{Color|#00b2e5|■}}京浜東北線(北行)<br />王子方面 |rowspan="7"|{{Color|#80c241|■}}山手線(内回り)<br />池袋方面 |rowspan="7"|{{Color|#80c241|■}}山手線(外回り)<br />東京方面 |rowspan="7"|{{Color|#00b2e5|■}}京浜東北線(南行)<br />蒲田方面 |colspan="3"|{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面 |{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面<br />{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線「ホームライナー古河」<br />{{Color|#f68b1e|■}}高崎線「ホームライナー鴻巣」<br />{{Color|#3333ff|■}}常磐線<br />土浦方面(一部) |{{Color|#3333ff|■}}常磐線<br />土浦方面<br />{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面(一部) |{{Color|#3333ff|■}}常磐線<br />土浦方面 |rowspan="2" colspan="2"|{{Color|#339999|■}}常磐線(快速)<br />松戸方面 |rowspan="2"|{{Color|navy|■}}寝台特急「カシオペア」<br />「北斗星」「あけぼの」<br />{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面 |colspan="2"|{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面 |{{Color|#f68b1e|■}}高崎線特急「あかぎ」「ウィークエンドあかぎ」<br />「草津」「水上」<br />{{Color|#3333ff|■}}常磐線特急「スーパーひたち」「フレッシュひたち」 |{{Color|#3333ff|■}}常磐線特急「スーパーひたち」<br />「フレッシュひたち」 |colspan="3" rowspan="6" style="background-color:lightgray;"|新幹線の改札 |rowspan="2" colspan="2"|[[ファイル:Shinkansen jre.svg|17px|■]] 東北・山形・秋田・<br />上越・[[長野新幹線|長野]]新幹線<br />新青森・新潟・長野方面 |colspan="2" rowspan="6"|[[ファイル:Shinkansen jre.svg|17px|■]] 新幹線<br />東京行 |- |2014年<br />3月15日 - |colspan="4"|{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面 |colspan="2"|{{Color|#3333ff|■}}常磐線<br />土浦方面 |colspan="2" rowspan="4"|{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面<br />{{Color|#f68b1e|■}}高崎線特急「あかぎ」<br>「スワローあかぎ」「草津」 |colspan="2"|{{Color|#3333ff|■}}常磐線特急「スーパーひたち」「フレッシュひたち」 |- |2015年<br />3月14日 - |rowspan="5"|{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面 |rowspan="5"|{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面<br />{{Color|#339999|■}}{{Color|#3333ff|■}}常磐線・常磐線(快速)<br />松戸方面 |rowspan="5"|{{Color|purple|■}}上野東京ライン<br />横浜方面 |rowspan="5"|{{Color|#3333ff|■}}常磐線特急「ひたち」「ときわ」<br />水戸方面<br />{{Color|purple|■}}上野東京ライン<br />横浜方面 |rowspan="5"|{{Color|purple|■}}上野東京ライン<br />品川方面<br />{{Color|#339999|■}}{{Color|#3333ff|■}}常磐線・常磐線(快速)<br />松戸方面 |colspan="3" rowspan="5"|{{Color|#339999|■}}{{Color|#3333ff|■}}常磐線・常磐線(快速)<br />松戸方面 |{{Color|navy|■}}臨時寝台特急「カシオペア」<br />{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線<br />大宮方面 |colspan="2" rowspan="2"|{{Color|#3333ff|■}}常磐線特急「ひたち」「ときわ」 |colspan="2"|[[ファイル:Shinkansen jre.svg|17px|■]] 東北・山形・秋田・<br />上越・北陸(長野経由)新幹線<br />新青森・新潟・金沢方面 |- |2016年<br />3月26日 - |rowspan="2"|{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線 大宮方面 |rowspan="2" colspan="2"|[[ファイル:Shinkansen jre.svg|17px|■]] 東北・山形・秋田・北海道・<br />上越・北陸(長野経由)新幹線 新青森・新函館北斗・新潟・金沢方面 |- |2018年<br />3月16日 - |{{Color|#3333ff|■}}常磐線特急「ひたち」「ときわ」<br />{{Color|#f68b1e|■}}宇都宮線・高崎線 大宮方面<br />{{Color|#f68b1e|■}}高崎線特急「あかぎ」<br />「スワローあかぎ」「草津」 |{{Color|#3333ff|■}}常磐線特急「ひたち」「ときわ」 |} </div> ==== 配線 ==== 在来線の駅から北方向に、西から順に、京浜東北線と山手線の方向別[[複々線]](山手線が内側)、東北本線列車線(宇都宮線・高崎線)の複々線([[尾久駅]]手前の[[尾久車両センター]]入出庫部の先まで高架ホーム発が外側、地上ホーム発が内側の方向別)、常磐線の複線の計10本の線路が並行する。このうち、東北本線列車線と常磐線からは高架ホーム、地平ホームのほぼすべてへの発着が可能である{{Refnest|group="注釈"|ただし、東北本線列車線からは10 - 12番線、常磐線からは5番線への入線が不可能である。}}。このため、シングルスリップスイッチやダブルスリップスイッチを用いた複雑な配線となっている<ref>祖田(2006)、52頁</ref>。常磐線の高架線と地平線の分岐・合流点は隣の鶯谷駅付近となるが、これは1968年に立体交差化されたものである。 南方向に、京浜東北線、山手線の複々線に加えてその東側に留置線群とそれらをつなぐ通路線が[[秋葉原駅]]まで続いている。これはかつて東京駅までつながっていた回送線の跡であり、2015年に[[上野東京ライン]]として再び東京駅と結ばれた<ref>祖田(2006)、57 - 58頁</ref>。これらの線路につながっているのは5 - 9番線であり、10 - 12番線と地平ホームの各線は行き止まりである。下の図は反映されていないが、行き止まりとなっている10番線と11番線の先端(最後尾)部は両ホームを結ぶ通路となっており、9番線から12番線まで平面移動ができる。 東北新幹線上野駅開業時(1985年)の在来線の配線図を以下に示す。基本的に本配線が踏襲されている。主な変更点は1999年に18番線が廃止されている。2015年度の上野東京ライン開業準備工事で、東京方の下り線路から6番線と、7 - 9番線から上り線路へ両方向同時に転線可能な配線とし、日暮里方で6番線から常磐線下り線路へ進入を円滑にするべく一部付け替えたりなどしている。5番線からも常磐線へ進入可能である。 {{駅配線図 |title = 東北新幹線開業時の上野駅在来線配線略図 |image = JNR Ueno station track map 1985.svg |width = 600px |left = 東京方面 |right = 大宮・取手方面 |source = 祖田(2006) 52頁 |note = 水色:京浜東北線<br />黄緑:山手線<br />橙:東北本線列車線(高崎線、上信越方面を含む)<br />青:常磐線}} ==== 発車ベル・発車メロディ ==== 5 - 10・13・16・17番線で[[発車メロディ]]を使用する他は[[発車ベル]]を使用している<ref group="注釈">現在でも多くのホームで発車ベルが使用されている理由について、「[[集団就職]]で上京した人々の思い入れが強いから」という説も存在するが、乗りものニュースの記事『[https://trafficnews.jp/post/55519 【豆知識】上野駅と新大久保駅が「ベル」であり続けるワケ]』では、JR東日本の担当者が「積極的な理由はない」と回答している。</ref>。 * 1983年3月6日にベルが電子音のものに変更された<ref>{{Cite book|和書|author=日本国有鉄道 上野駅|date =1983-07-28|title=上野駅100年史|publisher=[[弘済出版社]]|page=189}}</ref>。 * 1995年頃の改装工事に伴い、16・17番線に初めて発車メロディが導入された(曲は[[東洋メディアリンクス]]制作の「Cielo Estrellado」)。 * 2013年7月28日には開業130周年を記念して13番線に[[井沢八郎]]の「[[あゝ上野駅]]」をアレンジしたメロディが導入された他<ref group="新聞" name="news20130619"/>、2015年7月21日には5 - 10番線に[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]制作のメロディが導入された。 * 2016年11月1日に13番線の「あゝ上野駅」と16・17番線の「Cielo Estrellado」が入れ替えられている。 * 2019年から2020年にかけては、[[東京文化会館]]での「オペラ夏の祭典2019-20 Japan Tokyo World」の開催に伴い、山手線ホーム(2・3番線)のベルを期間限定で同プログラムの上演作品の楽曲をアレンジしたメロディに変更していた。曲は、2019年4月20日から同年7月20日までは[[ジャコモ・プッチーニ]]作曲の「[[トゥーランドット]]」<ref group="報道" name="press/20190412_t03">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190412_t03.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200529155747/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190412_t03.pdf|format=PDF|language=日本語|title=上野駅山手線ホームの発車ベルを期間限定で発車メロディに変更します|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-04-12|accessdate=2020-05-29|archivedate=2020-05-29}}</ref> 、2019年11月9日から2020年9月12日までは[[リヒャルト・ワーグナー]]作曲の「[[ニュルンベルクのマイスタージンガー]]」であった<ref name=":0">{{Cite web|title=上野地域と連携した『ニュルンベルクのマイスタージンガー』東京文化会館公演の広報展開について|url=https://opera-festival.com/archives/2001|website=オペラ夏の祭典2019-20 Japan↔Tokyo↔World|accessdate=2019-11-23|publisher=}}</ref>。いずれもメロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[福嶋尚哉]]が手掛けた<ref>{{Cite web|title=上野駅発車メロディを制作|url=http://www.switching.co.jp/news/477|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-07-16|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref><ref>{{Cite web|title=上野駅「マイスタージンガー」制作|url=http://www.switching.co.jp/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/500|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2019-11-09|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。 ; 現在の発車ベル・メロディ {|border="1" cellspacing="0" cellpadding="3" frame="hsides" rules="rows" !1・4 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] |ベル(高音) |- !2・3 |[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] |ベル(低音) |- !5 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] |線路の彼方 |- !6 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} |シンコペーション |- !7 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] |くるみあそび |- !8 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} |瞬く街並み |- !9 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} |see you again |- !10 |[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} |遠い青空 V1 |- !11・12 |[[File:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} |ベル(高音) |- !13 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] |Cielo Estrellado |- !14・15 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] |ベル(高音) |- !16・17 |[[File:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] [[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] {{Color|#3333ff|■}} |あゝ上野駅 |} ==== 五ツ星広場 ==== 寝台特急列車が発着する13番線ホームは普通列車4・5号車停車位置付近に、寝台特急の乗客以外も利用可能な、寝台特急の到着待ち休憩所「五ツ星広場」があった。2015年に「[[北斗星 (列車)|北斗星]]」の定期運行が廃止されて寝台特急列車の定期発着が無くなり、解放機会がなくなり、案内板から消去され、設備等が撤去され、ホームの一部として復元された。代わりに13番線ホームの各所に常時使用可能のベンチが設置された。 開設当初はテーブルが設置されるなどオープンカフェ風であったが、2011年時点で大幅に縮小し、[[椅子]]のみを配置して南北2か所に分割されている。北側エリアの壁は13番線から発着する「[[カシオペア (列車)|カシオペア]]」で使用される[[JR東日本E26系客車|E26系]]の車体を意識して作られており、同系列車体と同一の5色ラインが配されている。 五ツ星広場で迷惑行為があったため、2012年8月25日から、利用可能時間が制限された。寝台列車発車の約1時間前から列車の発車まで利用可能であり、利用時間は、15時00分 - 16時20分(カシオペア・運転日に限る)、17時50分 - 19時03分([[北斗星 (列車)|北斗星]])、20時00分 - 21時15分([[あけぼの (列車)|あけぼの]])である。これら以外の時間は、伸縮門扉によって閉鎖されていた。これに伴って15番線と16番線との間、[[石川啄木]]の歌碑の横にベンチが2脚、設置された。 <gallery> Itsutsuboshi-Hiroba.jpg|2007年の五ツ星広場 JRE_Ueno_Station_Itsutsuboshi_Hiroba_201207092.JPG|2012年の五ツ星広場 JRE_Ueno_Station_Itsutsuboshi_Hiroba_201209161.JPG|閉鎖時間帯の五ツ星広場 </gallery> === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 上野駅 |画像 = TokyoMetro-Ueno-Sta-4exit.jpg |pxl = 300 |画像説明 = 4番出入口(2018年1月) |よみがな = うえの |ローマ字 = Ueno |電報略号 = ウエ |所属事業者= [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所在地幅 = long |所在地 = {{Plainlist| <!--* [[東京都]][[台東区]][[上野]]七丁目1-1(銀座線)<br />{{Coord|35|42|42.3|N|139|46|33.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ銀座線 上野駅}}--> * 東京都台東区[[東上野]]三丁目19-6<!--(日比谷線)--><br />{{Coord|35|42|41|N|139|46|37.8|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ日比谷線 上野駅}} }} |開業年月日 = {{Nowrap|[[1927年]]([[昭和]]2年)[[12月30日]]}} |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 各2面2線(計4面4線) |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />162,861 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{Color|#ff9500|●}}[[東京メトロ銀座線|銀座線]] |前の駅1 = G 15 [[上野広小路駅|上野広小路]] |駅間A1 = 0.5 |駅間B1 = 0.7 |次の駅1 = [[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町]] G 17 |キロ程1 = 2.2 |起点駅1 = [[浅草駅|浅草]] |駅番号1 = {{駅番号r|G|16|#ff9500|4}} |所属路線2 = {{Color|#b5b5ac|●}}[[東京メトロ日比谷線|日比谷線]] |前の駅2 = H 17 [[仲御徒町駅|仲御徒町]] |駅間A2 = 0.5 |駅間B2 = 1.2 |次の駅2 = [[入谷駅 (東京都)|入谷]] H 19 |キロ程2 = 5.3 |起点駅2 = [[北千住駅|北千住]] |駅番号2 = {{駅番号r|H|18|#b5b5ac|4}} |備考 = {{Plainlist| * [[直営駅]]・[[日本の鉄道駅#管理駅|駅務管区所在駅]] * [[定期券]]売り場 有 * 両路線同士は改札外連絡}} }} 銀座線は[[相対式ホーム]]2面2線を有する[[地下駅]]。エスカレーターは設置されていないが、ホームから改札口までのエレベーターはホーム浅草方の端に設置されており、浅草側に改札口からJR連絡階へ通じるエレベーターがある。銀座線は[[上野検車区]]が駅の至近に位置し、[[ラッシュ時]]に当駅を始発・終着とする電車がある。これは大晦日から元旦にかけての終夜運転も同様で、当駅 - 浅草駅間は7.5分間隔、当駅 - 渋谷駅間{{Refnest|group="注釈"|2020年は渋谷駅改良工事の期間にあたるため、当路線を利用して渋谷駅へ行くことはできず、溜池山王駅で浅草方面に折り返し運転を行う。そのため終夜運転区間は溜池山王 - 浅草駅間となり、渋谷 - 溜池山王駅間は実施しない<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20191127_114.pdf|title=東京メトロ全線で終夜運転を実施します! 2020年1月1日(水・祝)には「メトロニューイヤー号」を運転します|format=PDF|publisher=東京メトロ|date=2019-11-27|accessdate=2020-04-20|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200419162447/https://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20191127_114.pdf|archivedate=2020-04-20}}</ref>。}}は15分間隔で段差がつけられている。1987年にホームの拡幅工事が行われ、渋谷方面のホームに、日本最初の地下鉄開業を告知するポスターの[[レプリカ]]が煉瓦壁と共に設置されている。 日比谷線は相対式ホーム2面2線を有する地下駅。出口階段はホームの前後にあるが、ホームから改札口へ通じるエレベーターは中目黒方面が中央に、北千住方面が仲御徒町寄りにある。中目黒方面は別に改札口が設置され、前述のホームへのエレベーターに通じている(平日朝の通勤時間帯のみは階段も使用できる)。同じくホームから改札口へ通じるエスカレーターは、中目黒方面は北千住寄り、北千住方面は中目黒寄りに設置されている。<!-- 中目黒方面ホームと改札を結ぶエレベーターには朝ラッシュ時のみ使用する階段が併設されている。-->中目黒方面ホーム中央に、発車標とは別に電車位置の現示装置が設置されている。2013年の一時期、行先のほかに直通電車を直通先会社のロゴも併せて表示する[[液晶ディスプレイ]]を用いた案内装置が試験されたことがある。 銀座線の渋谷側改札口から地下の連絡通路を経由して、京成電鉄の京成上野駅、上野中央通り地下駐車場と中央通りの地下連絡通路に接続している。 両線の改札口は各々独立しており、改札内で連絡していないため、普通乗車券や[[回数乗車券|回数券]]で銀座線と日比谷線を乗り換える際は、改札を出る際に乗車券が回収されずに出口に戻る乗り換え専用のオレンジ色の[[自動改札機]]を通る必要がある。[[PASMO]]・[[Suica]]などのICカードでの乗り換えはどの自動改札機からもタッチできる。いずれも、60分の時間制限がある。 従来あった駅ナカ商業施設「メトロピア」は改装され、「[[エチカ (商業施設)|エチカ]]フィット上野」として2009年2月20日に開業した。リニューアル工事の為2015年3月に営業を一時終了したが、2017年12月に再オープンした。 日比谷線駅構内に、東京メトロのお忘れ物総合取扱所が設置されていたが、2015年3月29日に[[東京メトロ南北線|南北線]][[飯田橋駅]]へ移転した。 駅務管区所在駅であり、上野駅務管区として上野地域、[[秋葉原駅|秋葉原]]地域、[[茅場町駅|茅場町]]地域を管理する<ref>{{Cite book|和書|title=鉄道ピクトリアル|issue=2016年12月臨時増刊|chapter=【特集】東京地下鉄|page=17}}</ref>。 ==== のりば ==== 東京メトロの路線同士はホーム番号(番線表示)を連続することが多いが、当駅での銀座線と日比谷線のホーム番号は連番ではなく、両線ともに1・2番線である。[[都営地下鉄]][[都営地下鉄浅草線|浅草線]]および[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]]の[[蔵前駅]]も当駅と同様になっており、それぞれ1番線・2番線である。 {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |-style="border-top:solid 3px #999" |colspan="3" style="background-color:#eee"|'''銀座線ホーム''' |- !1 |rowspan="2"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線 |[[渋谷駅|渋谷]]方面<ref>{{Cite web |url=https://www.tokyometro.jp/station/ueno/timetable/ginza/a/index.html |title=上野駅時刻表 渋谷方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !2 |[[浅草駅|浅草]]方面<ref>{{Cite web |url=https://www.tokyometro.jp/station/ueno/timetable/ginza/b/index.html |title=上野駅時刻表 浅草方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |-style="border-top:solid 3px #999" |colspan="3" style="background-color:#eee"|'''日比谷線ホーム''' |- !1 |rowspan="2"|[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 |[[中目黒駅|中目黒]]方面<ref>{{Cite web |url=https://www.tokyometro.jp/station/ueno/timetable/hibiya/a/index.html |title=上野駅時刻表 中目黒方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |- !2 |[[北千住駅|北千住]]・[[南栗橋駅|南栗橋]]方面<ref>{{Cite web |url=https://www.tokyometro.jp/station/ueno/timetable/hibiya/b/index.html |title=上野駅時刻表 北千住・南栗橋方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-02}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/ueno/index.html 東京メトロ:構内立体図]) * 両路線ともカーブ上にホームがある。[[2018年]]のホームリニューアルの際に「銀座線アーカイブ」が設置され、実際に使用された第三軌条や列車の接近表示器などが展示されている。接近表示器は設置当時のものとやや異なっているが現在も列車接近時には点滅させている。 * [[2020年]][[6月6日]]から日比谷線で運行している座席指定列車「[[THライナー]]」については、久喜始発恵比寿行きは降車のみ、霞ケ関発久喜行きは乗車のみ取り扱うため、当駅から東京メトロ線内のみの利用はできない<ref group="報道" name="press20191219">{{Cite press release|和書|url=https://www.tobu.co.jp/file/pdf/4353a1a050835f139e2e94adf9cd5dc0/191219_2.pdf?date=20191219123402|format=PDF|language=日本語|title=2020年6月6日(土)東武鉄道・東京メトロダイヤ改正 東武線・日比谷線相互直通列車に初の座席指定制列車「THライナー」が誕生!|publisher=東武鉄道/東京地下鉄|date=2019-12-19|accessdate=2019-12-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191219084312/https://www.tobu.co.jp/file/pdf/4353a1a050835f139e2e94adf9cd5dc0/191219_2.pdf?date=20191219123402|archivedate=2019-12-19}}</ref>。 <gallery> TokyoMetro-Ueno-Station-gate2018JR.jpg|JR上野駅方面改札にある回転改札のモニュメント(2018年1月) UenoStation-GinzaLine-newjrUenogate.jpg|JR上野駅方面改札口(2018年1月) Tokyo-metro-Ueno-Park-District-Gate1.jpg|1番線側上野公園方面改札口(2018年10月) Tokyo-metro-Ueno-Park-District-Gate2.jpg|2番線側上野公園方面改札口(2018年10月) UenoStation-HibiyaLine-showa-dori-northgate.jpg|昭和通り北方面改札口(2018年1月) UenoStation-HibiyaLine-showa-dori-southgate.jpg|昭和通り南方面改札口(2018年1月) Tokyo-metro-Ueno-STA Home1.jpg|銀座線1番ホーム(2022年4月) Tokyo-metro-Ueno-STA Home2.jpg|銀座線2番ホーム(2022年4月) Tokyo-metro Hibiya-line Ueno-STA Platform1.jpg|日比谷線1番ホーム(2023年11月) Tokyo-metro Hibiya-line Ueno-STA Platform2.jpg|日比谷線2番ホーム(2023年11月) </gallery> ==== 発車メロディ ==== 全ホームでスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している<ref group="報道" name=":0" /><ref name="Train-melody-H">{{Cite web|title=東京メトロ日比谷線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/505|date=2020-02-07|website=株式会社スイッチオフィシャルサイト|accessdate=2020-02-07|language=ja|publisher=株式会社スイッチ}}</ref>。 銀座線ホームでは、2012年10月30日から[[森山直太朗]]の「[[さくら (森山直太朗の曲)|さくら(独唱)]]」をアレンジしたメロディを使用している<ref name="Train-melody-G" group="注釈">上野恩賜公園の桜にちなんだ選曲である。</ref>。 {| class="wikitable" !番線 !路線 !曲名 !作曲者(編曲者) |- style="border-top:solid 3px #999" ! colspan="4" |'''銀座線ホーム''' |- !1 | rowspan="2" |[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|フレームなし|15x15ピクセル]] 銀座線 |さくら(独唱)(サビ) | rowspan="2" |森山直太朗([[塩塚博]]) |- !2 |さくら(独唱)(Aメロ) |- |- style="border-top:solid 3px #999" ! colspan="4" |'''日比谷線ホーム''' |- !1 | rowspan="2" |[[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|フレームなし|15x15ピクセル]] 日比谷線 |Toy garden |大和優子 |- !2 |さあ、行くよ! |福嶋尚哉 |} == 駅弁 == 主な[[駅弁]]は下記の通り<ref>{{Cite journal|和書|year=2023|publisher=[[JTBパブリッシング]]|journal=JTB時刻表|issue=2023年3月号|page=72-73,556-560}}</ref>。 {{Div col||20em}} * 平泉うにごはん * まぐろいくら弁当 * 牛肉弁当 * 幕之内弁当 * やまゆり牛しぐれ煮弁当 * 幕の内弁当 * 横濱中華弁当 * 三元豚とんかつ弁当 * しらす弁当 * かながわ味わい弁当(季節によって内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬) * お赤飯弁当 * 唐揚げ弁当 * 30品目バランス弁当 * とりめし * 深川めし * シウマイ弁当 * チキン弁当 * 炒飯弁当 * しょうが焼弁当 * おべんとう(季節によって内容が変わる:春・初夏・夏・秋・冬) * 横濱チャーハン * 横濱ピラフ * 昔ながらのシウマイ15個入 * こだわりのとんかつ弁当 {{Div col end}} == 利用状況 == [[埼玉県]]・[[千葉県]]北西部・北関東方面に直通する主要鉄道路線のターミナル駅であるが、東京駅と同様にJR路線間の乗り換え客が主体であることからその規模の大きさに対して統計上の乗車人員は少ない。特に新幹線の乗車人員は全列車停車の[[仙台駅]]、さらには最速達種別が一切停車しない[[宇都宮駅]]や[[高崎駅]]よりも少ない。改札を通らない乗客は乗降人員に計上されないが、実際は朝夕を中心に乗換客で慢性的に混雑が見られる。 平日朝は当駅止まりの宇都宮線・高崎線・常磐線の列車から降車後に3・4番線ホームに流れる人の波が絶えず続き、同ホームを発着する山手線・京浜東北線電車に一斉に乗り込む{{Refnest|group="注釈"|逆に1・2番線へ流れる客は少ない。これは、両線の沿線のほとんどの駅へ宇都宮線・高崎線の場合は[[赤羽駅]]などで、常磐線の場合は[[日暮里駅]]で、というように上野駅よりも手前の駅で乗り換えられることによる。}}。山手線と京浜東北線の上野 - 御徒町間は、ラッシュ時に平均乗車率が常時200%余で国内最高の混雑区間であったが、2015年3月14日に上野東京ラインが開業すると当駅の乗換客は大幅に減少し、上野 - 御徒町間の混雑も170%程度に緩和した。 2017年度の各社合計の1日平均乗降人員は約61万人、年間に約2億2300万人である。京成上野駅を含めた場合1日平均乗降人員は約66万人、年間で約2億4100万人である。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''147,777人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員] - JR東日本</ref>。 *: 同社の駅で[[高田馬場駅]]に次ぐ第12位である。1988年度にピークを迎えた後は20万人台を維持したが、1993年度から2001年度にかけて減少して2000年度に19万人を割った。以後ほぼ横ばい傾向だが1991年度に[[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]に抜かれ、宇都宮線・高崎線で最多駅ではなくなった。2006年度に[[北千住駅]]に抜かれ、常磐線の乗車人員最多駅ではなくなった。 *: 全乗車人員に対する定期外利用客の割合が高く、全体の6割弱を占める。1日平均定期外利用客は10万人を上回り、大宮駅や[[新橋駅]]に匹敵する。1日平均定期利用客は9万人を下回り、[[蒲田駅]]や[[船橋駅]]より少ない。 ** 2022年度の新幹線の1日平均'''乗車'''人員は'''9,560人'''である<ref group="利用客数">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員] - JR東日本</ref>。 **: 同社の駅で[[宇都宮駅]]に次ぐ第6位である。 * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''162,861人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 同社の全130駅中で[[新橋駅]]に次ぐ第8位。この値は銀座線⇔日比谷線間の乗換人員を含まない<!--他鉄道との直結連絡駅及び共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。2001年度以降は21万人前後で横ばいである。 ** 銀座線⇔日比谷線間の乗換人員を含んだ、2020年度の路線別1日平均乗降人員は以下の通りである<ref group="乗降データ" name="train-media" />。 ** 銀座線:'''98,454人''' - 同線内で日本橋駅、新橋駅、表参道駅、渋谷駅、赤坂見附駅に次ぐ第6位。 ** 日比谷線:'''90,897人''' - 同線内で北千住駅、中目黒駅、茅場町駅、銀座駅、霞ヶ関駅に次ぐ第6位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである(東京メトロのみ)。 * 東京メトロの値は、東京メトロ線内の乗換人員を含まない。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|営団 / 東京メトロ |- !1日平均<br/>乗降人員!!増加率 |- |1999年(平成11年) |226,342 | |- |2000年(平成12年) |219,557 |&minus;3.0% |- |2001年(平成13年) |209,567 |&minus;4.5% |- |2002年(平成14年) |205,404 |&minus;2.0% |- |2003年(平成15年) |202,981 |&minus;1.2% |- |2004年(平成16年) |210,121 |3.5% |- |2005年(平成17年) |207,129 |&minus;1.4% |- |2006年(平成18年) |206,859 |&minus;0.1% |- |2007年(平成19年) |211,749 |2.4% |- |2008年(平成20年) |213,522 |0.8% |- |2009年(平成21年) |207,635 |&minus;2.3% |- |2010年(平成22年) |204,449 |&minus;1.5% |- |2011年(平成23年) |201,602 |&minus;1.4% |- |2012年(平成24年) |212,509 |5.4% |- |2013年(平成25年) |211,539 |&minus;0.5% |- |2014年(平成26年) |210,379 |&minus;0.5% |- |2015年(平成27年) |207,240 |&minus;1.5% |- |2016年(平成28年) |209,130 |0.9% |- |2017年(平成29年) |213,020 |1.9% |- |2018年(平成30年) |215,821 |1.3% |- |2019年(令和元年) |210,272 |&minus;2.6% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>130,271 |&minus;38.0% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>135,927 |4.3% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>162,861 |19.8% |} === 年度別1日平均乗車人員(1880年代 - 1930年代) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !日本鉄道 /<br/>国鉄 !東京地下鉄道 !出典 |- |1883年(明治16年) |<ref group="備考">開業日(1883年7月28日)から1884年3月31日までの計248日間を集計したデータ。</ref> 528 |rowspan="35" style="text-align:center;"|未開業 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806564/124?viewMode= 明治16-17年]</ref> |- |1884年(明治17年) |635 |<ref group="東京府統計" name="toukei1884">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806565/124?viewMode= 明治18年]</ref> |- |1885年(明治18年) |566 |<ref group="東京府統計" name="toukei1884" /> |- |1886年(明治19年) |579 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806566/118?viewMode= 明治19年]</ref> |- |1888年(明治21年) |1,655 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806568/128?viewMode= 明治21年]</ref> |- |1890年(明治23年) |1,990 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806570/139?viewMode= 明治23年]</ref> |- |1891年(明治24年) |1,985 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806572/139?viewMode= 明治25年]</ref> |- |1893年(明治26年) |2,002 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806573/209?viewMode= 明治26年]</ref> |- |1895年(明治28年) |2,481 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806575/135?viewMode= 明治28年]</ref> |- |1896年(明治29年) |2,863 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806576/153?viewMode= 明治29年]</ref> |- |1897年(明治30年) |3,502 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806577/135?viewMode= 明治30年]</ref> |- |1898年(明治31年) |3,958 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806578/147?viewMode= 明治31年]</ref> |- |1899年(明治32年) |3,989 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806579/168?viewMode= 明治32年]</ref> |- |1900年(明治33年) |4,347 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806580/165?viewMode= 明治33年]</ref> |- |1901年(明治34年) |4,373 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806581/188?viewMode= 明治34年]</ref> |- |1902年(明治35年) |4,229 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806582/186?viewMode= 明治35年]</ref> |- |1903年(明治36年) |4,052 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806583/183?viewMode= 明治36年]</ref> |- |1904年(明治37年) |4,179 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806584/213?viewMode= 明治37年]</ref> |- |1905年(明治38年) |5,076 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806585/196?viewMode= 明治38年]</ref> |- |1907年(明治40年) |7,337 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806587/190?viewMode= 明治40年]</ref> |- |1908年(明治41年) |7,310 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806589/103?viewMode= 明治41年]</ref> |- |1909年(明治42年) |7,325 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/806591/106?viewMode= 明治42年]</ref> |- |1911年(明治44年) |9,987 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972667/131?viewMode= 明治44年]</ref> |- |1912年(大正元年) |10,250 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972670/134?viewMode= 大正元年]</ref> |- |1913年(大正{{0}}2年) |10,078 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972675/127?viewMode= 大正2年]</ref> |- |1914年(大正{{0}}3年) |10,748 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972677/386?viewMode= 大正3年]</ref> |- |1915年(大正{{0}}4年) |9,650 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972678/348?viewMode= 大正4年]</ref> |- |1916年(大正{{0}}5年) |11,357 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972679/383?viewMode= 大正5年]</ref> |- |1919年(大正{{0}}8年) |18,608 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972680/266?viewMode= 大正8年]</ref> |- |1920年(大正{{0}}9年) |21,790 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972681/302?viewMode= 大正10年]</ref> |- |1922年(大正11年) |29,213 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972682/303?viewMode= 大正11年]</ref> |- |1923年(大正12年) |33,212 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972683/294?viewMode= 大正12年]</ref> |- |1924年(大正13年) |35,035 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972684/292?viewMode= 大正13年]</ref> |- |1925年(大正14年) |34,299 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448121/326?viewMode= 大正14年]</ref> |- |1926年(昭和元年) |35,155 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448138/316?viewMode= 昭和元年]</ref> |- |1927年(昭和{{0}}2年) |37,920 |<ref group="備考">1927年12月30日開業。</ref> |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448164/314?viewMode= 昭和2年]</ref> |- |1928年(昭和{{0}}3年) |43,519 |13,584 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448188/346?viewMode= 昭和3年]</ref> |- |1929年(昭和{{0}}4年) |39,398 |11,956 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448218/334?viewMode= 昭和4年]</ref> |- |1930年(昭和{{0}}5年) |33,580 |8,561 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448245/339?viewMode= 昭和5年]</ref> |- |1931年(昭和{{0}}6年) |30,976 |8,347 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448278/342?viewMode= 昭和6年]</ref> |- |1932年(昭和{{0}}7年) |30,326 |8,327 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1448259/315?viewMode= 昭和7年]</ref> |- |1933年(昭和{{0}}8年) |31,884 |7,644 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446322/333?viewMode= 昭和8年]</ref> |- |1934年(昭和{{0}}9年) |32,662 |11,166 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446161/341?viewMode= 昭和9年]</ref> |- |1935年(昭和10年) |33,039 |12,620 |<ref group="東京府統計">[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1446276/339?viewMode= 昭和10年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(1953年 - 2000年) === <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります。1953年から1955年までの銀座線のデータはありませんでした。また、1974年度と1975年度の日比谷線の乗車人員データはありませんでした。銀座線の乗車人員データと一緒に入れたものと思われます。 --> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="備考" name="jr-higashi">東京都統計年鑑に掲載されている乗車人員は、在来線のみ。</ref> !rowspan="2"|年度 !rowspan="2"|国鉄(在来線) /<br/>JR東日本 !colspan="2"|営団 !rowspan="2"|出典 |- !銀座線 !日比谷線 |- |1953年(昭和28年) |88,169 | |rowspan="7" style="text-align:center;"|未開業 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1953/tn53qa0009.pdf 昭和28年]}} - 13ページ</ref> |- |1954年(昭和29年) |93,880 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1954/tn54qa0009.pdf 昭和29年]}} - 10ページ</ref> |- |1955年(昭和30年) |99,196 | |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1955/tn55qa0009.pdf 昭和30年]}} - 10ページ</ref> |- |1956年(昭和31年) |104,409 |23,509 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1956/tn56qa0009.pdf 昭和31年]}}</ref> |- |1957年(昭和32年) |105,830 |24,527 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1957/tn57qa0009.pdf 昭和32年]}}</ref> |- |1958年(昭和33年) |108,753 |25,174 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1958/tn58qa0009.pdf 昭和33年]}}</ref> |- |1959年(昭和34年) |115,233 |29,505 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1959/tn59qyti0510u.htm 昭和34年]</ref> |- |1960年(昭和35年) |126,742 |30,617 |<ref group="備考">1961年3月28日開業。開業日から同年3月31日までの計4日間を集計したデータ。</ref> 6,656 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1960/tn60qyti0510u.htm 昭和35年]</ref> |- |1961年(昭和36年) |127,495 |36,099 |4,333 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1961/tn61qyti0510u.htm 昭和36年]</ref> |- |1962年(昭和37年) |137,716 |45,952 |18,692 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1962/tn62qyti0510u.htm 昭和37年]</ref> |- |1963年(昭和38年) |149,958 |37,557 |16,826 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1963/tn63qyti0510u.htm 昭和38年]</ref> |- |1964年(昭和39年) |160,820 |44,833 |23,784 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1964/tn64qyti0510u.htm 昭和39年]</ref> |- |1965年(昭和40年) |160,204 |43,637 |27,556 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1965/tn65qyti0510u.htm 昭和40年]</ref> |- |1966年(昭和41年) |163,538 |40,536 |26,251 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1966/tn66qyti0510u.htm 昭和41年]</ref> |- |1967年(昭和42年) |167,358 |42,894 |29,549 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1967/tn67qyti0510u.htm 昭和42年]</ref> |- |1968年(昭和43年) |175,062 |65,373 |47,633 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1968/tn68qyti0510u.htm 昭和43年]</ref> |- |1969年(昭和44年) |173,364 |74,023 |51,163 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |169,951 |77,964 |53,493 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |181,489 |76,732 |54,555 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |176,186 |75,066 |57,419 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |185,496 |74,255 |54,838 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |186,732 |93,329 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |174,495 |93,697 | |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |172,244 |53,553 |38,942 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |165,279 |54,197 |39,063 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |163,608 |53,737 |38,477 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |162,409 |55,607 |38,822 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |161,178 |57,945 |39,137 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |158,986 |59,595 |39,885 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |154,460 |59,868 |39,753 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |154,743 |59,781 |41,213 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |157,912 |62,860 |42,792 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |171,044 |64,540 |42,438 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |169,534 |66,693 |44,540 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |170,792 |70,120 |45,940 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |224,962 |73,532 |49,666 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |205,066 |75,677 |52,559 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |216,899 |79,200 |54,940 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |216,593 |77,566 |55,626 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |216,244 |78,200 |54,332 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |217,734 |77,619 |53,252 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |210,636 |75,452 |52,405 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |207,735 |75,019 |52,019 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |207,636 |74,063 |51,058 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |201,602 |73,589 |48,159 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |195,482 |71,699 |45,918 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>195,654 |68,926 |44,413 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>189,388 |67,085 |43,827 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ">[http://www.city.taito.lg.jp/index/kusei/kisoshiryou/gyoseishiryo/siryoshu/index.html 行政資料集] - 台東区</ref><ref group="備考" name="jr-higashi" /> !rowspan="2"|年度 !colspan="2"|JR東日本 !colspan="2"|営団 / 東京メトロ !rowspan="2"|出典 |- !合計!!新幹線 !銀座線!!日比谷線 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>185,661 | |64,595 |43,419 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>186,147 | |62,647 |43,340 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>186,401 | |62,462 |42,484 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>182,196 | |61,438 |42,074 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>179,978 | |60,510 |41,449 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>178,007 | |59,997 |41,575 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>181,099 | |61,464 |42,519 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>181,244 | |61,907 |42,153 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>178,413 | |60,452 |41,008 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>172,306 | |59,655 |40,586 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>174,832 | |58,620 |40,008 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>183,611 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>10,696 |63,079 |41,148 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>181,880 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>10,917 |62,419 |41,421 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>182,469 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>10,943 |61,808 |41,273 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>181,588 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>11,633 |59,689 |41,667 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>182,693 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>11,779 |59,879 |42,545 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>187,536 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>11,941 |60,351 |43,825 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>188,170 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>12,337 |60,693 |45,121 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>182,704 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>11,902 |58,937 |44,702 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>114,064 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>5,157 | | | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>122,085 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>6,651 | | | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>147,777 |<ref group="新幹線">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2022_shinkansen.html 新幹線駅別乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>9,560 | | | |} ; 備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|上野}} === 広小路口 (JR)・4 - 6番出口(東京メトロ) === * [[丸井|マルイシティ上野]] ** 上野駅前[[郵便局]] * [[アメヤ横丁]] === 浅草口・東上野口 (JR)、1 - 3番出口(東京メトロ) === {{columns-list|2| * [[台東区役所]] * 台東区役所東上野地区センター * [[東京地下鉄]]本社 - 1・2番出口と地下で直結している。 * [[昭和通り (東京都)|昭和通り]] * [[東京都道463号上野月島線]]([[浅草通り]]) * [[ホテルリブマックス]]上野駅前 |}} === 入谷口 (JR) === {{columns-list|2| * [[岩倉高等学校]] * [[東京デジタルテクニカル専門学校]] * [[上野郵便局 (東京都)|上野郵便局]] * 上野七郵便局 * [[日本交通技術]]本社 * 東京地下鉄上野検車区 |}} === 公園口 (JR) === {{columns-list|2| * [[上野恩賜公園]] * [[恩賜上野動物園]] * [[東京都立上野高等学校]] * [[国立科学博物館]] * [[国立西洋美術館]] * [[東京都美術館]] * [[東京国立博物館]] * [[東京文化会館]] * [[東京芸術大学]] * [[上野の森美術館]] * 上野グリーンサロン |}} === 不忍口(JR) ・京成線連絡通路(東京メトロ) === * [[西郷隆盛像]] * [[ヨドバシカメラ]]マルチメディア上野 * [[京成上野駅]] <gallery> 上野公園航空写真1984.jpg|駅周辺、[[上野恩賜公園]]航空写真 The japan art academy01 1024.jpg|[[日本藝術院]] Ueno-zoo.jpg|上野動物園 Kahaku_main.jpg|科学博物館本館正門 National museum of western art01 1920.jpg|西洋美術館 Toukyoutoartmuseum.jpg|都美術館 Tnuofaam02 1024.jpg|東京芸術大学赤レンガ1号館 Main building of the Tokyo National Museum 200610a.jpg|東京国立博物館 Ueno Green Salon 200610a.jpg|上野グリーンサロン SaigoTakamori1332.jpg|西郷隆盛像 </gallery> == バス路線 == === 入谷口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !停留所名!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- |style="text-align:center;"|'''上野駅''' |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[ジェイアールバス関東|JRバス関東]]|[[ジェイアールバステック|JRバステック]]}} |[[御殿場プレミアム・アウトレット]] |&nbsp; |- |rowspan="2" style="text-align:center;"|'''上野駅入谷口''' |style="text-align:center;"|[[めぐりん (台東区)|台東区循環バス「めぐりん」]]<br />([[京成バス]]) |[[めぐりん (台東区)#ぐるーりめぐりん|'''ぐるーりめぐりん''']]:[[三ノ輪駅]]・[[浅草駅]]・[[新御徒町駅]]方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|台東区循環バス「めぐりん」<br />([[日立自動車交通]]) |[[めぐりん (台東区)#東西めぐりん|'''東西めぐりん''']]:[[千駄木駅]]・浅草駅・新御徒町駅方面 |&nbsp; |} === 浅草口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!停留所名!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !rowspan="2"|1 |rowspan="4" style="text-align:center;"|'''上野駅前''' |style="text-align:center;"|[[都営バス]] |[[都営バス青戸支所#草39系統|'''草39''']]:[[金町駅|金町駅前]] |平日昼間のみ運行 |- |style="text-align:center;"|[[日の丸自動車興業]] |スカイホップバス「浅草・東京スカイツリーコース」 |&nbsp; |- !2 |rowspan="2" style="text-align:center;"|都営バス |[[都営バス青戸支所#上23系統|'''上23''']]:[[平井駅 (東京都)|平井駅前]] / 東墨田二丁目 |&nbsp; |- !rowspan="3"|3 |[[都営バス南千住営業所#上46系統|'''上46''']]:[[南千住駅|南千住駅東口]] / 南千住車庫前 |&nbsp; |- |rowspan="2" style="text-align:center;"|'''上野駅''' |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[国際興業バス]]|[[庄内交通]]}} |[[夕陽号|'''夜行高速「夕陽号」''']]:[[酒田市|酒田]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|国際興業バス|[[岩手県交通]]}} |[[岩手県交通#遠野・釜石号|'''夜行高速「遠野・釜石号」''']]:[[山田町|山田]] |&nbsp; |- !4 |colspan="4"|(発着路線なし) |- !rowspan="2"|5 |style="text-align:center;"|'''上野駅前''' |style="text-align:center;"|都営バス |'''上23'''・'''上46'''・'''草39''':[[上野広小路駅|上野松坂屋前]] |「草39」は平日昼間のみ運行 |- |style="text-align:center;"|'''上野駅''' |style="text-align:center;"|- |'''夜行高速''':降車専用(酒田発 / 山田発) |&nbsp; |- !- |style="text-align:center;"|'''上野駅浅草口''' |style="text-align:center;"|[[はとバス]] |[[定期観光バス]] |&nbsp; |} === 浅草口浅草通り沿い === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 「上野駅」停留所にて発着する。 * 台東区循環バス「めぐりん」(日立自動車交通) ** [[めぐりん (台東区)#南めぐりん|'''南めぐりん''']]:新御徒町駅・[[浅草橋駅]]北・[[都営地下鉄大江戸線|大江戸線]][[蔵前駅]]方面 === 東上野口昭和通り沿い === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !停留所名!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- |rowspan="6" style="text-align:center;"|'''上野駅前''' |style="text-align:center;"|[[弘南バス]] |{{Unbulleted list|[[スカイ号#パンダ号|'''夜行高速「パンダ号」''']]:[[五所川原駅|五所川原]]|[[スカイ号#パンダ号(八戸線)|'''夜行高速「パンダ号(八戸線)」''']]・[[スカイ号|'''昼行便「パンダ号(スカイ線)」''']]:[[青森駅|青森]]}} |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[東北急行バス]]|[[山交バス (山形県)|山交バス]]}} |[[TOKYOサンライズ号|'''夜行高速「TOKYOサンライズ号」''']]:[[新庄駅|新庄]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|東北急行バス |[[レインボー号 (東北急行バス)|'''夜行高速「レインボー号」''']]:[[山交ビル#山交ビルバスターミナル|山形]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東北急行バス|[[近鉄バス]]}} |[[フライングライナー号#フライングスニーカー大阪号|'''夜行高速「フライングスニーカー号」''']]:[[天王寺駅・大阪阿部野橋駅バスのりば|大阪]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東北急行バス|[[両備ホールディングス|両備バス]]}} |[[東京 - 岡山・倉敷線|'''夜行高速「ままかりライナー」''']]:[[倉敷駅|倉敷]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|東北急行バス|[[北日本観光自動車]]}} |[[北日本観光自動車#路線バス|'''夜行高速「きまっし号」''']]:[[金沢市|金沢]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|'''上野駅(降車専用)''' |style="text-align:center;"|[[茨城交通]] |'''[[常磐高速バス]]''':[[東京駅のバス乗り場|東京駅日本橋口]] / [[バスタ新宿|バスタ新宿(新宿駅南口)]]([[常陸太田市|常陸太田]]発 / [[常陸大宮市|常陸大宮]]発 / [[大子町|大子]]発) |&nbsp; |} <gallery> Tohoku Express and Konan Bus Ueno Station Bus Stop.jpg|東北急行バス・弘南バスの上野駅前停留所 JR Bus Kanto Ueno Station Bus Stop - Tokyo Metro Head office side.jpg|JRバスの上野駅前降車停留所 </gallery> === 不忍口・京成上野駅前 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> {| class="wikitable" style="font-size:80%;" !のりば!!停留所名!!運行事業者!!系統・行先!!備考 |- !rowspan="6"|- |rowspan="6" style="text-align:center;"|'''京成上野駅''' |style="text-align:center;"|台東区循環バス「めぐりん」<br />(日立自動車交通) |'''東西めぐりん''':千駄木駅・浅草駅・新御徒町駅方面 |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[成田空港交通]] |[[成田空港交通#深夜急行バス|'''深夜急行''']]:[[成田国際空港|成田空港]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|成田空港交通|[[アルピコ交通]]}} |[[成田空港交通#長野線|'''夜行高速''']]:[[長野駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|成田空港交通|[[和歌山バス]]}} |[[サウスウェーブ号|夜行高速「サウスウェーブ号」]]:堺・和歌山方面 | |- |style="text-align:center;"|{{Unbulleted list|[[京成バス]]|[[奈良交通]]}} |[[やまと号|'''夜行高速「やまと号」''']]:[[五位堂駅]] |&nbsp; |- |style="text-align:center;"|[[千葉中央バス]] |[[千葉中央バス#京都線|'''夜行高速''']]:[[京都駅]] |&nbsp; |- !rowspan="2"|6 |style="text-align:center;"|'''上野公園山下''' |style="text-align:center;"|都営バス |{{Unbulleted list|'''草39''':金町駅前|'''上23''':平井駅前 / 東墨田二丁目|[[都営バス巣鴨営業所#上01・茶07系統|'''上01''']]:[[東京大学本郷地区キャンパス|東大構内]]}} |「草39」は平日昼間のみ運行 |- |style="text-align:center;"|'''上野駅''' |style="text-align:center;"|[[東武バス#東武バスセントラル|東武バスセントラル]] |[[東武バス#深夜急行バス(東武バスセントラル)|'''深夜急行''']]:[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子駅]] / [[春日部駅]]西口 |土曜・休日は運休 |- !7 |rowspan="3" style="text-align:center;"|'''上野公園山下''' |rowspan="4" style="text-align:center;"|都営バス |'''上46''':南千住駅東口 / 南千住車庫前 |&nbsp; |- !8 |'''上23'''・'''草39''':上野松坂屋前 |「草39」は平日昼間のみ運行 |- !9 |'''上46''':上野松坂屋前 |&nbsp; |- !- |style="text-align:center;"|'''上野公園(都営)''' |{{Unbulleted list|[[都営バス青戸支所#上26系統|'''上26''']]:[[亀戸駅|亀戸駅前]] / [[隅田公園]]|[[都営バス巣鴨営業所#上60系統|'''上60''']]:[[大塚駅 (東京都)|大塚駅前]] / [[池袋駅|池袋駅東口]]|[[都営バス早稲田営業所#上58系統|'''上58''']]:[[都営バス早稲田営業所|早稲田]]|[[都営バス小滝橋営業所#上69系統|'''上69''']]:[[都営バス小滝橋営業所|小滝橋車庫前]]}} |&nbsp; |} === 公園口 === <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 「JR上野駅公園口」にて発着する。 * 台東区循環バス「めぐりん」(日立自動車交通) ** [[めぐりん (台東区)#東西めぐりん|'''東西めぐりん(上野公園経由・三崎坂往復ルート)''']]:千駄木駅・浅草駅・新御徒町駅方面 :: ※鶯谷駅経由・日医大回りルートは経由しない。 * スカイツリーシャトル(東武バスセントラル) ** '''[[東武バスセントラル西新井営業所#スカイツリーシャトル 上野 - 浅草線(ST01・ST02)|空02(ST02)]]''':[[東京スカイツリータウン]]行き == 上野駅をモチーフにした作品 == 文学や歌謡曲の分野で、当駅を扱った作品が存在する。 ; 小説 * 『JR上野駅公園口』[[柳美里]]([[河出書房新社]] 2014年) ISBN 978430902265-9 * [[上野駅殺人事件|『上野駅殺人事件]][[終着駅殺人事件|』]][[西村京太郎]]([[光文社]] 1985年) ISBN 9784334748173 * 『[[終着駅殺人事件]]』西村京太郎(光文社 1980年) ISBN 9784334746759 ; 写真集 * 『上野駅の幕間』[[本橋成一]](平凡社 2013年) ISBN 4582277950 ; 俳句・短歌 * [[石川啄木]]の[[短歌]] - 「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」。15番線の中央改札寄りに歌碑がある。 ; 音楽作品 * 『[[あゝ上野駅]]』 - [[井沢八郎]]のヒット曲。歌碑が広小路口の外にあるほか、16・17番線の発車メロディに採用されている。 * [[大和田建樹]]作詞の[[鉄道唱歌]]第三集は、当駅を始発として、青森まで東北本線で行き、[[岩沼駅]]から現在の[[常磐線]]で当駅に戻ってくる。第四集は、当駅を出発した後、[[高崎線]]と[[信越本線]]を経由して[[新潟県]]の[[沼垂駅]]を目指す。 ; 映画 * 『七人の刑事 終着駅の女』1965年製作、若杉光夫監督。 ; その他 * 建築においても上野駅をモチーフにして建てられた、旧[[南樺太]](サハリン)の[[真岡駅 (樺太)|真岡駅]](現・ホルムスク・ユージヌイ駅)があり、1992年まで駅舎が使用されていた。 <gallery> Ueno-sta-Ishikawa-takuboku.JPG|石川啄木の歌碑 あゝ上野駅 (21692386469).jpg|「あゝ上野駅」の歌碑 真岡駅.jpg|真岡駅 </gallery> == 隣の駅 == ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[ファイル:Shinkansen jre.svg|16px|■]] 東北・山形・秋田・北海道・上越・北陸新幹線 ::: [[東京駅]] - '''上野駅''' - [[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]] : [[ファイル:JR JU line symbol.svg|15px|JU]] 宇都宮線・高崎線 :* 特急「[[草津 (列車)|草津]]」「[[あかぎ (列車)|あかぎ」「スワローあかぎ]]」発着駅 :: {{Color|#f68b1e|■}}快速「ラビット」「アーバン」 ::: 東京駅 (JU 01・JT 01) - '''上野駅 (JU 02)''' - [[赤羽駅]] (JU 04) :: {{Color|#18a629|■}}普通 ::: 東京駅 (JU 01・JT 01) - '''上野駅 (JU 02)''' - [[尾久駅]] (JU 03) : [[ファイル:JR JJ line symbol.svg|15px|JJ]] 常磐線(快速) :* 特急[[ひたち (列車)|「ひたち」「ときわ」]]停車駅(一部当駅発着) :: {{Color|#ff0066|■}}特別快速・{{Color|#3333ff|■}}{{Color|#33dd22|■}}快速 ::: 東京駅 (JU 01・JT 01) - '''上野駅 (JU 02・JJ 01)''' - [[日暮里駅]] (JJ 02) : [[ファイル:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速(平日) ::: [[秋葉原駅]] (JK 28) - '''上野駅 (JK 30)''' - [[田端駅]] (JK 34) :: {{Color|#ff0066|■}}快速(土休日) ::: [[御徒町駅]] (JK 29) - '''上野駅 (JK 30)''' - 田端駅 (JK 34) :: {{Color|#00b2e5|■}}各駅停車 ::: 御徒町駅 (JK 29) - '''上野駅 (JK 30)''' - [[鶯谷駅]] (JK 31) : [[ファイル:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::: 御徒町駅 (JY 04) - '''上野駅 (JY 05)''' - 鶯谷駅 (JY 06) ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Ginza Line.svg|15px|G]] 銀座線 ::: [[上野広小路駅]] (G 15) - '''上野駅 (G 16)''' - [[稲荷町駅 (東京都)|稲荷町駅]] (G 17) : [[ファイル:Logo of Tokyo Metro Hibiya Line.svg|15px|H]] 日比谷線 :* {{color|red|□}}[[THライナー]]停車駅(久喜行きは乗車のみ・恵比寿行きは降車のみの取扱い) :: {{Color|#b5b5ac|■}}THライナー以外の列車<!--日比谷線ではTHライナー以外種別案内をしていないため--> ::: [[仲御徒町駅]] (H 17) - '''上野駅 (H 18)''' - [[入谷駅 (東京都)|入谷駅]] (H 19) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 記事本文 === ==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"|2}} ==== 出典 ==== {{Reflist|3}} ===== 報道発表資料 ===== {{Reflist|group="報道"|3}} ===== 新聞記事 ===== {{Reflist|group="新聞"}} === 利用状況 === ; JR・地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="利用客数"}} ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 新幹線の2012年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="新幹線"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|22em}} ; 東京府統計書 {{Reflist|group="東京府統計"|17em}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} ; JR・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=中川浩一|chapter=秋葉原貨物駅の記録|title=[[鉄道ピクトリアル]]|publisher=[[電気車研究会]]|volume=808|issue=2008年9月|pages=18–23}} * {{Cite book|和書|author=祖田圭介|chapter=上野駅をめぐる線路配線 今昔|title=鉄道ピクトリアル|publisher=電気車研究会|issue=2006年11月号|pages=50–58}} == 関連項目 == {{Commonscat}} * [[日本の鉄道駅一覧]] * [[上野・浅草副都心]] * [[上野東京ライン]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=204|name=上野}} * [https://www.tokyometro.jp/station/ueno/index.html 上野駅/G16/H18 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] {{鉄道路線ヘッダー}} {{東北新幹線}} {{山形新幹線}} {{秋田新幹線}} {{上越新幹線}} {{北陸新幹線}} {{宇都宮線|ju=1}} {{高崎線|ju=1}} {{京浜東北・根岸線}} {{山手線}} {{常磐線|mode=1}} {{東京メトロ銀座線}} {{東京メトロ日比谷線}} {{鉄道路線フッター}} {{関東の駅百選}} {{DEFAULTSORT:うえの}} [[Category:上野駅|*]] [[Category:台東区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 う|えの]] [[Category:日本鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:東北本線]] [[Category:宇都宮線]] [[Category:東北新幹線]] [[Category:京浜東北・根岸線]] [[Category:山手線]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:上野|うえのえき]] [[Category:1883年開業の鉄道駅]] [[Category:1932年竣工の日本の建築物|うえのえき]] [[Category:西洋館|うえのえき]] [[Category:明治時代の東京]]
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森且行
森 且行(もり かつゆき、1974年2月19日 - )は、日本のオートレース選手。 東京都足立区出身。所属はJKAの川口オートレース場。公式ファンクラブはAngelを経てビアンコ。オートレース選手になる前は、男性アイドルグループ・SMAPのメンバーとしてジャニーズ事務所に所属し、歌手、俳優、タレントとして活動していた。 『3年B組金八先生』を除き、ソフト化されていない。
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森 且行は、日本のオートレース選手。 東京都足立区出身。所属はJKAの川口オートレース場。公式ファンクラブはAngelを経てビアンコ。オートレース選手になる前は、男性アイドルグループ・SMAPのメンバーとしてジャニーズ事務所に所属し、歌手、俳優、タレントとして活動していた。
{{存命人物の出典明記|date=2013年12月10日 (火) 16:52 (UTC)}} {{画像提供依頼|date=2023年7月|森氏本人の顔写真|cat=スポーツ選手}} {{Infobox 人物 |氏名 = 森 且行 |ふりがな = もり かつゆき |画像=<!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ= |画像説明= |所属事務所= |出生名= |生年月日={{生年月日と年齢|1974|2|19}} |生誕地 = {{JPN}} [[東京都]][[足立区]] |洗礼= |失踪年月日= |失踪地= |現況= |没年月日=<!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |死没地= |死因= |遺体発見= |墓地= |記念碑= |住居= |国籍= {{JPN}} |別名= |民族= [[日本人]] |教育= |出身校= |職業= [[オートレース選手]] |活動期間= [[1988年]] - [[1996年]]<br/>([[SMAP]]時代)<br/>[[1997年]] -<br/>(オートレース転身後) |時代= |代理人= |著名な実績= |代表作= |影響を受けたもの= |影響を与えたもの= |活動拠点= [[川口オートレース場]] |給料= |純資産= |身長= 177.2cm<ref name="file">[http://autorace.jp/netstadium/Profile/2529 所属事務所紹介ページ]</ref> |体重= 56.4kg<ref name="file"/> |配偶者= あり |受賞= 1997年:日刊三賞・特別賞 |栄誉= |公式サイト= [https://autorace.jp/autoinfo/mori.html オートレースWEB公式プロフィール] |署名=<!-- 画像ファイル名 --> |署名サイズ= |補足= }} '''森 且行'''(もり かつゆき、[[1974年]][[2月19日]] - )は、[[日本]]の[[オートレース選手]]。 [[東京都]][[足立区]]出身。所属は[[JKA]]の[[川口オートレース場]]。公式ファンクラブはAngelを経てビアンコ。オートレース選手になる前は、男性アイドルグループ・[[SMAP]]のメンバーとして[[ジャニーズ事務所]]に所属し、[[歌手]]、[[俳優]]、[[タレント]]として活動していた。 == 略歴 == * 1974年2月19日東京都足立区に生まれる。 * 中学時代、兄とともに[[ジャニーズ事務所]]のファンクラブ「ジャニーズ・ファミリー・クラブ」へ、直接[[履歴書]]を持参して、頼み込んだ結果、2人揃ってジャニーズ事務所入りを果たし、[[ジャニーズJr.]]となる。 * [[1987年]][[11月]]、[[男性アイドルグループ]][[SMAP]]の前身の男性グループである[[SMAP#スケートボーイズ|スケートボーイズ]]の一員になり、1988年4月にSMAP結成。 * [[1989年]]『[[ツヨシしっかりしなさい]]』で[[連続ドラマ]]初主演を務める<ref group="注" name=tuyoshi>なお、元々同役で内定していた[[高橋良明]]が収録開始前に死去したことに伴い、急遽森が起用される事となった。</ref>。SMAPのメンバーでは、初の連続ドラマ主演となった。 * [[1991年]]、SMAPとして9月9日に[[コンパクトディスク|CD]]デビューを果たす。 * [[1996年]]5月をもってオートレース選手へ転身することに伴い、SMAPを脱退。同時にジャニーズ事務所を退社し、芸能界を引退。その後もオートレース選手としてメディア出演することはあったが、かつてのSMAPメンバーとの共演は2017年11月までなかった。 * [[2000年]]後期にオートレース最上位のS級にランクされ、以降2005年から2006年前期、2017年前期、2019年前期に一時A級に陥落したほかはS級を維持している。 * [[2008年]]は6月に腰の手術をしながらも好調を維持し、賞金ランキング10位(45,640,500円)。優出15回・優勝5回を筆頭に初の川口オート1位、[[スーパースター王座決定戦]]出場を決めた。 * [[2013年]]、スポーツウエアブランド[[Kappa]]のブランドアンバサダーに就任した<ref>[https://web.archive.org/web/20130802073823/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130730-00000016-tospoweb-ent オート森且行 17年前SMAPと「日本一」誓い合う]([[東京スポーツ]]Web 2013年7月30日)</ref>。 * [[2015年]]、公営競技場やインターネットサイトGambooの運営をする[[日本トーター]]とのスポンサー契約をした<ref>[https://www.nikkansports.com/public_race/news/1516147.html 森且行が日本トーターとスポンサー契約]([[日刊スポーツ]]Web 2015年8月1日)</ref>。 * [[2015年]][[9月]]、SMAP脱退後に初めて、自ら情報発信を行うコラム連載を開始する<ref>[http://gamboo.jp/column/view/list/exec/?mid=123875 森且行コラム 森Diary](Gamboo 2015年9月3日)</ref>。 * [[2016年]][[12月]]をもって解散したSMAPの慰労会に[[木村拓哉]]を除くメンバー4人と共に、出席している<ref>[http://www.dailyshincho.jp/article/2017/01130800/?all=1 SMAP解散の忘年会、事務所からの“中止勧告”で直前に店変更 堺正章プロデュースの焼肉店に](デイリー新潮 2017年1月13日)</ref>。'''{{main|SMAP解散騒動}}''' * [[2017年]][[11月4日]]、『[[72時間ホンネテレビ]]』(AbemaTV)の企画で[[浜松オートレース場]]において[[香取慎吾]]・[[草彅剛]]・[[稲垣吾郎]]と21年ぶりのメディア共演を果たす<ref>[https://web.archive.org/web/20171106113420/http://www.hochi.co.jp/entertainment/20171104-OHT1T50191.html 【72時間TV】21年ぶり森且行との4ショットに計58万件超「いいね!」]</ref>。 * [[2020年]][[11月3日]]、「オッズパーク杯 SG第52回[[日本選手権オートレース]]」([[川口オートレース場]])で、SG初優勝<ref name="sgmori">{{Cite web|和書|url=https://hochi.news/articles/20201103-OHT1T50278.html|title=元SMAP・森且行「いやあ、神様はいましたね~!」46歳史上最年長SG初V|publisher=スポーツ報知|date=2020-11-04|accessdate=2021-09-28}}</ref>。'''約束'''であった悲願の'''日本一'''の快挙に<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20201108-1469396/|title=森且行、元SMAP5人の祝福「涙が出る」 脱退時に約束「お互い日本一に」|website=マイナビニュース|publisher=株式会社マイナビ|date=2020-11-08|accessdate=2021-11-18}}</ref>、稲垣吾郎・草彅剛・香取慎吾の3名は連名で、木村拓哉と[[中居正広]]は個人で、それぞれ祝福のコメントを寄せた<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202011030001171.html|title=中居正広「諦めなくてよかったなぁ」森且行Vを祝福|website=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2020-11-03|accessdate=2021-09-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://nordot.app/696339995385119841|title=元SMAPメンバーらが祝福 森さんの日本選手権初優勝で|website=共同通信|publisher=一般社団法人共同通信社|date=2020-11-03|accessdate=2023-10-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210928095617/https://nordot.app/696339995385119841|archivedate=2021-09-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202011030001008.html|title=稲垣吾郎ら元SMAP森且行V祝福「本当に嬉しい」|website=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2020-11-03|accessdate=2021-09-28}}</ref>。 * [[2021年]][[1月1日]]、『[[7.2 新しい別の窓]] 初夢サプライズ祭り!』(AbemaTV)に出演。香取慎吾・草彅剛・稲垣吾郎との共演は、2017年11月の『72時間ホンネテレビ』以来、3年ぶり<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/01/01/kiji/20210101s00041000346000c.html|title=オートレーサー森且行が「ななにー」登場 草なぎの結婚祝福「つよポンおめでとう!」|newspaper=スポニチ Sponichi Annex|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2021-01-01|accessdate=2021-01-01}}</ref>。 * 2021年1月24日、[[飯塚オートレース場]]で開催された「GI開設64周年記念レース」にて、1周目に外から進出を図ったが、バランスを崩した前を走る内側の選手に接触する形でコースの外側のフェンスまで吹き飛ばされ激突し転倒、レース後福岡県内の病院に搬送され骨盤骨折と診断された<ref name="sanspo-mori"/><ref name="nikkan-mori"/>。 * 2021年9月28日 - 29日、『[[あさチャン!]]』([[TBSテレビ|TBS]])に同年1月の落車事故後、初めてインタビュー出演。事故・手術の影響で両足に麻痺が残っていることを告白。現在は、復帰に向けて懸命なリハビリを行っていることを話した<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/sports/news/202109280000061.html|title=森且行が事故後、初めてTVインタビュー出演…両足に麻痺を告白|newspaper=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2021-09-28|accessdate=2021-09-28}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/horse/2021/09/28/0014715170.shtml|title=【オート】森且行「車いすは覚悟した」手術は4回、両脚しびれも「復帰目指す」|newspaper=デイリースポーツ|publisher=株式会社デイリースポーツ|date=2021-09-28|accessdate=2021-09-28}}</ref>。 * [[2022年]]3月4日、[[常滑競艇場|ボートレースとこなめ]]公式YouTubeチャンネルにて行われたスペシャルトークライブにゲスト出演。同年1月に5回目の手術を行い、背骨を固定していたボルトを全て除去したことを報告。また事故の衝撃から臓器の損傷もあり、4度目の手術では[[胆嚢|胆のう]]の[[胆嚢摘出術|全摘術]]を行ったことも語った<ref>{{Cite news|url=https://hochi.news/articles/20220311-OHT1T51029.html?page=1|title=森且行、5度の手術、臓器損傷で全摘 右足のまひ残り復帰は未定…大けがの壮絶な治療と回復状況を報告|newspaper=スポーツ報知|publisher=報知新聞|date=2022-03-11|accessdate=2022-03-12}}</ref>。 * 2022年3月19日、『[[新・情報7daysニュースキャスター]]』([[TBSテレビ|TBS]])にインタビュー出演し、同年12月から2023年1月辺りの復帰を目指しているプランを明かした<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202203190001594.html|title=森且行が12月末~来年1月の復帰を目指す「第2のオートレース人生が始まります」|newspaper=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2022-03-19|accessdate=2022-03-22}}</ref>。 * 2022年4月15日、川口オートレース場で行われたJKA補助事業交付式とトークイベントに出席。トークイベントで、現在の状況と復帰に向けての見込みについて語った<ref>{{Cite news|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/173084|title=【オートレース】長期欠場中の森且行 JKAの補助事業交付式に出席「今はあせらず」|newspaper=東京スポーツ|publisher=株式会社東京スポーツ新聞社|date=2022-04-15|accessdate=2022-04-15}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/horse/2022/04/15/0015221623.shtml|title=【オート】森且行が川口オートレース場のトークイベントに登場|newspaper=デイリースポーツ|publisher=株式会社デイリースポーツ|date=2022-04-15|accessdate=2022-04-18}}</ref>。 * 2023年3月18日、ヒューマントラストシネマ渋谷にて開催された「TBSドキュメンタリー映画祭 2023」内で上映されたドキュメンタリー映画『オートレーサー森且行 約束のオーバルへ』の舞台あいさつに登壇。前日の17日に発表された復帰についてSMAPのメンバーには「JKAさんから発表される2日前に復帰のことは言いました」と事前に報告したことを明かした<ref>{{Cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0135743|title=元SMAPのオートレーサー森且行、復帰をSMAPメンバーに報告していた!|newspaper=シネマトゥデイ|publisher=株式会社シネマトゥデイ|date=2023-03-18|accessdate=2023-03-18}}</ref>。 *2023年4月6日、川口オートレース場にて、2021年1月の落車事故以来2年3か月ぶりの復帰を果たし勝利を収めた<ref name="mori23">{{Cite news|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/259391?page=1|title=森且行が2年3か月ぶりの復帰戦で圧勝 最重ハンデからわずか1周で先頭に立つ|newspaper=東京スポーツ|publisher=東京スポーツ新聞社|date=2023-04-06|accessdate=2023-04-06}}</ref><ref name="mori23-1">{{Cite web|和書|url=https://autorace.jp/news/2023/04/06/033754/|title=森且行選手が約2年3ヶ月ぶりとなるレースで復活勝利!!|website=Auto Race.JP|publisher=公益財団法人JKA|date=2023-04-06|accessdate=2023-04-06}}</ref> == 人物 == === 私生活 === * 趣味は旅行<ref>“[http://autorace.jp/netstadium/Profile/2529 森且行選手プロフィール|ネットスタジアム|オートレースオフィシャル]”. オートレース AutoRace Official Website. 2014年7月27日閲覧。</ref>。 * 既婚者で、1998年に誕生した長男がいる。 * 「且行」の名前の由来は、[[川口オートレース場|川口]][[スーパースター王座決定戦|第2回SS王座]]・[[伊勢崎オートレース場|伊勢崎]][[日本選手権オートレース|第13回日本選手権]]の[[スーパーグレード|SG]]2冠を獲得した、[[且元滋紀]]にちなんで名付けられているという説があるが、父親が否定している。 * 大の[[パチンコ]]好き。「何度も週刊誌にパチンコの様子を激写されている」と自ら語っており、収支は「トントンくらい」<ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/13198 森且行 SMAPネタ完全解禁!元メンバーが解いたジャニーズの“呪縛”] - 東京スポーツ・2017年12月13日</ref>。2014年からはオートレースの合間を縫って[[パチンコ店]]でトークショーなども行っている<ref>[https://www.cyzowoman.com/2017/06/post_143006_1.html 元SMAP・森且行、パチンコ台リリース! 元ジャニーズ初の展開に業界内外から驚き] - cyzo woman・2017年6月21日</ref>。後述するように、2017年12月には自らが主人公を務めるパチンコ台も発表された。 * パチンコの他にオート以外の[[公営競技]]([[競馬]]、[[競輪]]、[[競艇]])も嗜む。「1年に幾ら」と予算を決めているが、2021年1月の落車事故の入院期間中「4か月で2年分使った」と告白<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=_bt0yvWRrbM|title=森且行選手がTwitterの質問に答えます!|website=gambootv|publisher=YouTube|date=2021-11-12|accessdate=2022-05-19}}</ref>。基本穴党で、競馬では「(オッズが)100倍以下の馬券は買わない」と、的中時の利益が減るの嫌い「(1レースあたり)6点までしか買わない」と述べている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=RBRb97cd87Q |title=サンテレビ「ボートの時間!」#320「オートレーサー森且行 SPインタビュー 【後編】」2022年5月15日放送|website=【公式】ボートの時間!|publisher=YouTube|date=2022-05-18|accessdate=2022-05-19}}</ref>。また、パチンコ同様にオートレースの合間を縫って各公営競技場でトークショーなども行っている<ref>[https://www.nikkansports.com/public_race/news/201801190000403.html 森且行 休日はボートレースのトークショー/大村] - 日刊スポーツ・2018年1月19日</ref><ref>[https://www.daily.co.jp/horse/2018/01/24/0010925772.shtml 森且行がからつでもトークショー「コンプリートしたい」と全場制覇を宣言] - デイリースポーツ・2018年1月24日</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/horse/local/2018/10/11/0011723051.shtml|title=【地方競馬】森且行が元SMAPに言及「最近はチェックしてくれていないと思う」|newspaper=デイリースポーツ|publisher=株式会社デイリースポーツ|date=2018-10-11|accessdate=2022-05-19}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2017/01/28/kiji/20170128s00054000238000c.html|title=森且行 トークショーで車券戦術明かす「直感で買う」本業は日本一目指す|newspaper=スポーツニッポン|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2017-01-28|accessdate=2022-05-19}}</ref>。 === SMAP時代から芸能界引退までのエピソード === * [[ジャニーズJr]]の頃、[[光GENJI]]の[[諸星和己]]のためにバイクを走らせたこともあった。 * 『[[夢がMORI MORI]]』の「[[音松くん]]」、1996年5月27日まで出演した『[[SMAP×SMAP]]』ともに[[メンバーカラー]]は白だった。 * 『SMAP×SMAP』のコーナー「[[BISTRO SMAP]]」は、メンバーの中で料理が得意だった森の料理を見せるために始まったコーナーで、当初は森と木村が対戦する形だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/2015/10/post-4923.html|title=SMAP中居正広『ビストロSMAP』スタートの裏側語る「森くんが料理上手かったから始めた」|website=リアルサウンド|publisher=株式会社blueprint|date=2015-10-19|accessdate=2021-11-18}}</ref>。 * 最後のソロ曲となったのは『お茶でもどうかな?』(アルバム「[[SMAP 008 TACOMAX]]」収録)。他に、『Angelの秘密』(「[[SMAP 001]]」収録)、『永遠に抱きしめたい』(「[[SMAP 004]]」収録)がある。 * 芸能界引退直前に[[中居正広]]が司会を務めた[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[TK MUSIC CLAMP]]』(5月29日放送)に出演し、「(オートレースの)スターになるよ、絶対」と中居に約束していた<ref>[http://www.fujitv.co.jp/TKMC/VOL30/moritalk.html CLAMP TALK (NON EDITED VERSION) Vol.30] フジテレビ 1996年5月29日 OA</ref>。 * 森の脱退時、中居はSMAPの解散を考えたと語っている<ref>“[https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/07/27/0007184207.shtml SMAP最初の解散危機は森脱退だった]”. [[デイリースポーツ|デイリースポーツ online]]. (2014年7月27日) 2014年7月27日閲覧。</ref>。 * 中学の時点ではオートレーサーに身長制限があったため一度断念したが、自身が年齢制限最後の年に身長制限が175cmに緩和(現在は撤廃)されたことによって、転身を決意した<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2100127/full/ 森且行、21年越しに語るSMAP脱退の葛藤「本当に迷惑かけました」] - ORICON NEWS、2017年11月5日</ref>。それでもギリギリだったことから<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2017/11/04/kiji/20171104s00041000180000c.html 香取慎吾 森且行SMAP脱退告白の時の心境は「ふざけんな」] - スポニチ、2017年11月4日</ref>、二次試験の健康診断直前には2日前から一切横にならず<ref>1996年 「ウィンク・アップ」 6月号</ref>、水入りバケツを頻繁に持ち、身長を縮めようとしたとのこと<ref>[https://www.toonippo.co.jp/articles/-/16729 六戸産ナガイモにレーサー森且行選手も笑顔] - [[東奥日報|東奥日報社]] Web東奥、2016年10月29日</ref>。 * 引退後に入所するオートレース選手養成所では坊主頭にしなければいけなかったため、養成所入所の前日に私用で欠席した稲垣を除くSMAPメンバーが森の自宅に集まり、断髪式を行った<ref name="sn27">[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/07/27/kiji/K20140727008641320.html 【森且行 SMAPへの手紙全文】最後の6人のSMAPは四谷の焼き肉店]</ref>。 * SMAPが総合司会を務めた2014年の『[[FNS27時間テレビ (2014年)|FNS27時間テレビ]]』の終盤において、森がメンバーに宛てた手紙が読まれる一幕があった<ref name="sn27" /><ref>“[https://www.oricon.co.jp/news/2040290/full/ SMAP感涙…森且行、直筆手紙で感謝]”. [[オリコン|ORICON STYLE]]. (2014年7月27日) 2014年7月27日閲覧。</ref>。 * この約1ヶ月後、[[BSフジ]]『[[たけしの等々力ベース]]』に出演した森は、『FNS27時間テレビ』内で自身の手紙が読まれたことについて、「僕の手紙で感動してくれたので嬉しかった」と、自身のメンバーへの思いが伝わったことに素直に喜んだ。一方で、SMAPのメンバーとの共演には「それは(オートレースで)日本一になると約束したので、日本一になれるまでは考えていません」と否定し、自身の目標・メンバーとの約束を果たした上での「再会」を希望しているとした<ref>[https://thepage.jp/detail/20140826-00000017-wordleaf 森且行 SMAPメンバーの涙に「嬉しかった」], THE PAGE, 2014年8月26日</ref>。 * 2016年12月28日発売のSMAPのビデオ・クリップ集『[[Clip! Smap! コンプリートシングルス]]』には森の映像も収録された<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2016/11/04/0009636787.shtml SMAP最後の映像作品 ブルーレイ・DVDは森且行カットせず],デイリースポーツ,2016年11月4日</ref>。 == オートレース選手として == === 選手データ === * プロフィール<ref name="file"/> ** 選手登録 - 1997年6月27日 ** 身長 - 177.7cm ** 体重 - 59.3kg ** 血液型 - B型 ** 趣味 - 旅行 * 戦歴 ** 通算優勝回数:32回 ** グレードレース (SG,GI,GII)優勝回数:6回 ** 全国区レース優勝回数、SG優勝回数:1回 ** GI優勝回数:2回 ** GII優勝回数:3回 * 受賞歴 ** オートレース選手表彰 *** 優秀選手賞:1回(2020年) *** 特別賞:1回(2014年) ** 日刊スポーツ新聞社制定「オートレース年間三賞」 *** 技能賞:1回(2020年) *** 特別賞:1回(1997年) === 略歴 === * 1996年8月25日、走行訓練中に金網に激突し、左股関節脱臼骨折の重傷<ref name="nhk" />。[[東京医科大学病院]]にて手術を受け、入院・リハビリを行う<ref name="nhk">「アイドルがレーサーになる日 〜森且行23歳 400日の挑戦」NHK総合、1997年8月16日放送{{信頼性要検証|date=2013年12月}}</ref>。 * 1997年春、負傷により、同期生に数ヶ月遅れて養成所を卒業。指導員に[[広瀬登喜夫]]が就いた<ref group="注">選手間で「森争奪戦」が発生することを危惧した選手会側から広瀬に指導員の依頼が行われた</ref>。 * 1997年7月6日、デビュー戦を1着で飾る。森の存在により、この日の川口オートには3万5千人ものファンが押し寄せたと言われている。同年、日刊三賞・特別賞受賞。 * 1998年4月14日、25期生の新人王決定戦で優勝。 * 1998年、オートレース選手の森且行として[[ポカリスエット]]のCMに出演。 * 2001年、オートレース選手の森且行として[[ユニクロ]]のCMに出演。 * 2003年10月4日、「GII若獅子杯争奪戦」(山陽)でグレードレース初優勝。 * 2004年3月21日、[[スーパーグレード|SG]](グレードレース最高峰)第17回[[全日本選抜オートレース]]で初優出(5着)。 * 2005年7月28日 - 31日、[[鈴鹿8時間耐久ロードレース]]でオートレース・ハルクプロ監督を務め、[[青木治親]]・安田毅史ペアが総合3位。クラス優勝した。 * 2007年4月、平成19年度のオートレースイメージキャラクターに選ばれ同CMに出演。 * 2008年度後期適用ランク(平成20年1 - 6月の結果を基に算出)で全国14位となり、初めて[[川口オートレース場]]で1位となった。 * 2008年12月9日、「西日本鉄道 GII第4回オーバルチャンピオンカップ」(飯塚)で、5年ぶりとなるGII優勝 * 2009年1月28日、「第57回GI[[開設記念グランプリレース]]」(川口)で、GI初優勝 * 2009年度前期適用ランク(平成20年7月 - 12月の結果を基に算出)で全国5位となり、2期連続で[[川口オートレース場]]1位となった。 * 2011年10月11日、通算400勝達成(船橋・第61回GIオート発祥記念船橋オート祭・10R) * 2013年7月17日、「第37回GI[[キューポラ杯争奪戦|キューポラ杯]]」(川口)で、4年ぶりGI優勝 * 2014年月日、「第4回GII[[川口記念]]」(川口)で、6年ぶりGII優勝 * 2014年8月9日、通算500勝達成(川口・チャリ・ロト杯・準決勝・12R) * 2017年11月17日、通算600勝達成(川口・セントラル自動車技研杯・準決勝・10R) * 2017年12月31日、「ラ・ピスタ新橋カップ スーパースターフェスタ2017」内「[[スーパースターシリーズ戦 平尾昌晃杯|スーパースターシリーズ戦]](GII格)」で、優勝 * 2020年11月3日、「オッズパーク杯 SG第52回[[日本選手権オートレース]]」で、SG初優勝<ref name="sgmori" />。 * 2021年1月24日、「GI開設64周年記念レース」(飯塚)第11R「特別選抜戦」の1周目に外から進出を図ったが、バランスを崩した内の選手に接触する形でコースの外側のフェンスまで吹き飛ばされ激突し転倒、レース後福岡県内の病院に搬送された。診断結果は骨盤骨折、全治未定<ref name="sanspo-mori">{{Cite web|和書|url=https://www.sanspo.com/article/20210125-WTUR5HQO6JIK3PJDJFN6IYKINE/|title=24日落車の森且行は骨盤骨折、入院治療中|website=サンスポZBAT!オート|publisher=産業経済新聞社|date=2021-01-25|accessdate=2021-01-26}}</ref><ref name="nikkan-mori">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202101260000002.html|title=骨盤骨折の森且行、全治未定も全日本選抜は絶望的||website=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2021-01-26|accessdate=2021-01-26}}</ref>{{refnest|group="注"|事故後、ファンから連日、JKAや飯塚や川口に問い合わせが相次ぎ、広報によると「これまでは一選手の完治までの期間を個別には発表していない」とのことだが「(森の場合)事故による反響、影響が大きいので、何らかの形で発表することも検討している」と述べた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/220740|title=【オートレース】骨盤骨折の森且行は福岡から転院へ JKAに問い合わせ殺到|website=東スポweb|publisher=東京スポーツ新聞社|date=2021-01-27|accessdate=2021-02-09}}</ref>}}。 * 2021年2月9日、公益財団法人[[JKA]]が、森の現状について発表。「1月24日の負傷後、福岡県内の病院に搬送された後、都内病院に転院。骨盤骨折、腰椎骨折の診断で、これまで3度の手術を受けて、無事に終了した。レースの復帰は1年程度の期間が見込まれる。」と説明<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/sports/news/202102090000422.html|title=森且行は復帰までは約1年…3度の手術は無事に完了|website=日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2021-02-09|accessdate=2021-02-09}}</ref>{{refnest|group="注"|森との面会は[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]拡大防止の面から制限されているため、森に代わって実兄がコメントを発表<ref name="mori-2021">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2184068/full/|title=元SMAP森且行選手、レース復帰まで1年程度 骨盤・腰椎骨折で計3回手術も無事終了|website=ORICON NEWS|publisher=ORICON|date=2021-02-09|accessdate=2021-02-09}}</ref>。{{Quotation|「この度、いつも応援して頂いてる皆様には状況をすぐにお知らせできずに大変ご心配をおかけ致しました。医療スタッフの方々の手厚いサポートのもと無事に手術を終えることが出来ました。本人、家族共々治療に専念して参りますので、温かく見守っていただければ幸いです。今後も森且行への応援をよろしくお願い致します。」|実兄コメント<ref name="mori-2021"/>}}}}。 * 2022年6月12日 - 16日、川口オートレース場にて、落車事故後1年5か月ぶりに[[競走車]]で練習走行を行った<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/horse/2022/06/12/0015381289.shtml|title=【オート】森且行が事故後、競走車で初練習 第一声は「あ~、きつい」|newspaper=デイリースポーツ|publisher=株式会社デイリースポーツ|date=2022-06-12|accessdate=2022-06-12}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/horse/2022/06/12/0015382135.shtml|title=【オート】森且行がスタート練習 「初めてとしては60点」|newspaper=デイリースポーツ|publisher=株式会社デイリースポーツ|date=2022-06-12|accessdate=2022-06-12}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/horse/2022/06/16/0015391841.shtml|title=【オート】来年復帰目指す森且行が5日間の練習を無事終了「課題も見つかった」|newspaper=デイリースポーツ|publisher=株式会社デイリースポーツ|date=2022-06-16|accessdate=2022-06-16}}</ref>。 * 2022年11月20日、[[飯塚オートレース場]]にてトークショーを行い、同年12月の川口2節目から最低6節練習参加し、2023年2月15日からの川口普通開催で復帰予定であることを明かした<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/public_race/news/202211200000552.html|title=森且行は来年2・15復帰へ 休養中の中居正広については「大丈夫だと聞いています」/飯塚|newspaper|日刊スポーツ|publisher=日刊スポーツ新聞社|date=2022-11-20|accessdate=2022-11-20}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2022/11/20/kiji/20221120s00054000340000c.html|title=オートレーサー森且行 来年2月復帰へ「応援よろしくお願いします」トークショーで決意|newspaper=スポーツニッポン|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2022-11-20|accessdate=2022-11-20}}</ref>。 * 2023年1月19日、当初予定していた同年2月15日〜19日の川口普通開催での復帰を断念。今後について「同年2月27日からの(川口)開催を目指しますが、もう少し延びることもあります」と語った<ref>{{Cite news|url=https://www.daily.co.jp/horse/2023/01/19/0015977195.shtml|title=【オート】森且行が2・15復帰を断念「しびれとマヒが取れない。申し訳ない気持ちでいっぱい」|newspaper=デイリースポーツ|publisher=株式会社デイリースポーツ|date=2023-01-19|accessdate=2023-01-19}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/race/article/general/20230119-X6UPLDQUBFOUJIT4DPLMAKG5RE/|title=森且行が2・15復帰を断念「遅れることになって申し訳ない気持ちでいっぱいです」|newspaper=サンケイスポーツ|publisher=産経新聞社|date=2023-01-19|accessdate=2023-01-19}}</ref>。 * 2023年3月17日、公益財団法人[[JKA]]より同年4月6日〜10日の川口オートレース場での開催に復帰することが発表された<ref>{{Cite web|和書|url=https://autorace.jp/news/2023/03/17/033673/|title=森且行選手が4/6~10開催の川口オートレース場でレース復帰します|website=Auto Race.JP|publisher=公益財団法人JKA|date=2023-03-17|accessdate=2023-03-17}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/race/article/general/20230317-MKUOOHPAHVMSJARFXSJGCINLCE/|title=森且行が4月6日に川口で復帰!一昨年1月の事故以来、約2年3カ月ぶり|newspaper=サンケイスポーツ|publisher=産経新聞社|date=2023-03-17|accessdate=2023-03-17}}</ref>。 * 2023年4月6日、川口オートレース場の普通開催初日第9レースにて、2021年1月の落車事故以来2年3か月ぶりの復帰戦を1着で飾る<ref name="mori23"/><ref name="mori23-1"/>。 === グレードレース戦歴 === * SG戦歴 ** SG優勝回数: 1回 *** 日本選手権オートレース '20年 * GI戦歴 ** GI優勝回数: 2回 *** キューポラ杯争奪戦(川口)'13年 *** 開設記念グランプリレース(川口)'09年 * GII戦歴 ** GII優勝回数: 3回 *** 川口記念(川口)'14年 *** オーバルチャンピオンカップ(飯塚)'08年 *** 若獅子杯争奪戦(山陽)'03年 === 出演 === ==== テレビ ==== ===== ドキュメンタリー ===== * [[情熱大陸]](2023年2月19日、[[TBSテレビ|TBS]]) ===== スポーツ番組 ===== * [[FIM世界耐久選手権|2023 FIM世界耐久選手権]] "[[コカ・コーラ]]" [[鈴鹿8時間耐久ロードレース]] 第44回大会(2023年8月6日、[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|BS12 トゥエルビ]]) ※副音声ゲスト<ref>{{Cite web|url=https://www.twellv.co.jp/news/whatsnew/2023/86286/|title=オートレーサー森且行ら副音声ゲスト出演決定!「2023 FIM世界耐久選手権 “コカ·コーラ” 鈴鹿8時間耐久ロードレース 第44回大会」8月6日(日)BS12で10時間ブチ抜き生中継! |website=BS12|BS無料放送ならBS12 トゥエルビ|publisher=ワールド・ハイビジョン・チャンネル株式会社|date=2023-07-19|accessdate=2023-08-07}}</ref> ==== 映画 ==== ===== ドキュメンタリー ===== * TBSドキュメンタリー映画祭 2023『オートレーサー森且行 約束のオーバルへ』(2023年3月18日、[[TBSテレビ]]) ==== CM・広告 ==== * [[ポカリスエット]](1998年) * [[ユニクロ]](2001年) * [[サントリーフーズ|サントリー]]「南アルプススパークリング」『#スイッチしよう』(2018年4月24日 - ) ※広告。特設サイトにてインタビュー記事及び動画を配信<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.suntory.co.jp/softdrink/news/pr/article/SBF0679.html|title=「サントリー 南アルプススパークリング」スペシャル動画「#スイッチしよう」を公開!|publisher=サントリー食品インターナショナル・ニュースリリース一覧|date=2018-04-24|accessdate=2018-04-24}}</ref> ==== パチンコ ==== * パチンコCRオートレース 〜スピードスター☆森且行!〜(2018年2月 - 、[[高尾 (パチンコメーカー)|高尾]]) == 出演 == <!-- ※個人としての出演のみ。--> {{Main2|SMAPとしての出演|SMAP#出演}} === テレビドラマ === 『[[3年B組金八先生]]』を除き、ソフト化されていない。 * 3年B組金八先生 第3シリーズ(1988年、[[TBSテレビ|TBS]]) - 谷口健治 役 ** このシリーズのみソフト化が見送られていたが、放送から19年経った2007年10月26日・11月23日にDVDがリリースされた。2つのDVD-BOXに分けての販売のみ。 * [[東芝日曜劇場]] 第1698回「かあちゃんと息子」(1989年8月23日、TBS) - 佐川佳夫 役 * [[ツヨシしっかりしなさい]](1989年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 主演・井川強 役<ref group="注" name=tuyoshi/> * [[世にも奇妙な物語]]「三日間だけのエース」(1991年11月21日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 主演・隆司 役 * [[ドラマシティ|ドラマシティ'92]]「汚点〜替え玉入試事件」(1992年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 広瀬晃二 役 * 娘屋の話3 雨あがり(1992年12月27日、TBS)- 田島正夫 役 * NHKスペシャル「列島ドラマシリーズ 魚のように」(1993年3月28日、[[日本放送協会|NHK]]) * [[真夜中を駆けぬける#テレビドラマ|真夜中を駆けぬける]](1993年、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]) - トキオ 役 * [[君が見えない]](1994年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - 松村次郎 役 * [[ママのベッドへいらっしゃい]](1994年、[[テレビ朝日]]) - 佐伯龍一 役 * [[SALE!]](1995年、朝日放送) - 近藤環 役 === 映画 === * [[シュート!]](1994年) - 白石健二 役 ** 1994年6月29日にVHSで発売。その後2002年6月25日にDVD化されている。この映画は他のメンバー5人とともにSMAPが主演であり、テレビ番組でSMAPの過去を振り返るときに流れることがあるが、森の出演部分はカットされることが多い。しかし、2010年1月4日にはフジテレビと一部系列局でノーカット放送された。 * [[大失恋。]](1995年) - 純 役 ** 1995年12月16日にVHSで発売。その後2003年12月5日にDVD化されている。 === 舞台 === * 花影の花 〜大石内蔵助の妻〜(1992年) - 大石主税 役 * [[魔女の宅急便#舞台|魔女の宅急便]](1993年) - トンボ 役 * 花影の花 〜大石内蔵助の妻〜(1995年) - 大石主税 役/大石大三郎 役(二役) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[オートレース選手一覧]] == 外部リンク == * [https://autorace.jp/player/mori/ 森且行公式Specialサイト] - AutoRace.JP * [https://autorace.jp/race_info/Profile/2529 森且行プロフィール・戦歴] - AutoRace.JP レース情報 * [https://gamboo.jp/column/view/list/exec/?mid=123875 Gamboo(ギャンブー)サイト 森且行コラム 森Diary](更新終了) * {{URL|www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E6%A3%AE%E3%80%80%E3%80%80%E4%B8%94%E8%A1%8C |森且行}} - [[テレビドラマデータベース]] * {{jmdb name|0197570}} * {{allcinema name|253091}} * {{kinejun name|128122}} * {{imdb name|id=0605253|name=Katsuyuki Mori}} * {{Movie Walker name|id=121006|name=森且行}} * {{Instagram|KATSUYUKI_MORI|森且行 (KATSUYUKI_MORI)}} {{リンク切れ|date=2016年12月}}(2016年8月22日まで) {{SMAP}} {{Normdaten}} {{Sportspeople-stub}} {{DEFAULTSORT:もり かつゆき}} [[Category:オートレース選手]] [[Category:日本のライダー]] [[Category:SMAPのメンバー]] [[Category:過去のジャニーズ所属者]] [[Category:日本の男性歌手]] [[Category:日本の男優]] [[Category:アイドル出身の俳優]] [[Category:日本の男性アイドル]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:東京都立日本橋高等学校出身の人物]] [[Category:1974年生]] [[Category:存命人物]]
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1807年
1807年(1807 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
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1807年は、西暦(グレゴリオ暦)による、木曜日から始まる平年。
{{年代ナビ|1807}} {{year-definition|1807}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丁卯]] * [[元号一覧 (日本)|日本]]([[寛政暦]]) ** [[文化 (元号)|文化]]4年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2467年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[嘉慶 (清)|嘉慶]]12年  * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[純祖]]7年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4140年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[阮朝]] : [[嘉隆]]6年  * [[仏滅紀元]] : 2349年 - 2350年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1221年10月21日 - 1222年11月1日 * [[ユダヤ暦]] : 5567年4月21日 - 5568年3月30日 * [[ユリウス暦]] : 1806年12月20日 - 1807年12月19日 * [[修正ユリウス日]](MJD) : -18948 - -18584 * [[リリウス日]](LD) : 81893 - 82257 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1807}} == できごと == * [[2月7日]] - [[ナポレオン戦争]]: [[アイラウの戦い]]はじまる * [[3月25日]] - [[奴隷制度廃止運動]]: イギリス議会で奴隷貿易廃止法が可決 * 3月25日 - 世界初の旅客用[[馬車鉄道]]である[[オイスターマス鉄道]]が開業 * [[3月29日]] - [[ヴィルヘルム・オルバース]]によって[[小惑星]]「[[ベスタ (小惑星)|ベスタ]]」が発見 * [[3月31日]] - イギリスで[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンク (第3代ポートランド公)|ポートランド公]]内閣が成立(-[[1809年]]) * 3月 - [[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|交響曲第4番]]がロブコヴィツ邸にて初演 * [[4月28日]](文化4年[[3月21日 (旧暦)|3月21日]]) - [[蝦夷地]][[松前藩]]主[[松前章広]]、[[陸奥国]][[梁川藩]]に転封 * [[5月4日]]-[[6月9日]] - イギリスで{{仮リンク|1807年イギリス総選挙|label=総選挙|en|United Kingdom general election, 1807}}。 * [[5月27日]] - ナポレオン戦争: [[自由都市ダンツィヒ|ダンツィヒ]]のプロイセン守備隊が降伏 * [[6月14日]] - ナポレオン戦争: [[フリートラントの戦い]]でフランスが勝利 * [[7月7日]] - 仏露両国が[[ティルジットの和約]]を締結 * [[7月9日]] - 仏普両国がティルジットの和約を締結 * [[8月16日]] - ナポレオン戦争: {{仮リンク|コペンハーゲンの戦い (1807年)|label=コペンハーゲンの戦い|en|Battle of Copenhagen (1807)}}勃発 * [[8月17日]] - [[ロバート・フルトン]]が、[[蒸気船|外輪式蒸気船]]「クラーモント号」の試運転に成功 * [[9月2日]] - [[コペンハーゲン砲撃]]:[[イギリス軍]]が[[デンマーク=ノルウェー|デンマーク]]の[[コペンハーゲン]]市街地を無差別砲撃し、民間人を虐殺する * [[9月20日]](文化4年[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]) - [[富岡八幡宮]]の祭礼に詰め掛けた人出によって[[永代橋]]が崩落([[永代橋崩落事故]]) * 11月 - [[ポルトガル]]の[[ブラガンサ王朝]]、[[ブラジル]]へと逃亡 * 12月 - [[エトルリア王国]]廃止、フランス帝国に併合される * [[イェーナの戦い]] * [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ゲオルク・ヘーゲル]]、『精神現象学』出版 * [[ワルシャワ公国]]の設置(- [[1815年]]) * 西蝦夷地を幕府直轄化、全蝦夷地が直轄化される。箱館奉行を廃止し松前奉行を置く == 誕生 == {{see also|Category:1807年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月19日]] - [[ロバート・E・リー|リー]]、アメリカの[[軍人]]・[[南北戦争]]時の南軍の総司令官(+ [[1870年]]) * [[1月27日]] - [[ダーフィト・シュトラウス]]、[[神学者]]、[[哲学者]](+ [[1874年]]) * [[2月27日]] - [[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー|ロングフェロー]]<ref>[https://www.britannica.com/biography/Henry-Wadsworth-Longfellow Henry Wadsworth Longfellow American poet] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>、アメリカの[[詩人]](+ [[1882年]]) * [[4月2日]] - [[アレクサンダー・ヒュー・ホームズ・スチュアート]]、第3代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1891年]]) * [[7月4日]] - [[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]、イタリアの愛国者・[[軍人]]・[[革命家]](+ [[1882年]]) * [[8月1日]] - [[ロバート・マクレランド (内務長官)|ロバート・マクレランド]]、第4代[[アメリカ合衆国内務長官]](+ [[1880年]]) * [[8月6日]]([[文化 (元号)|文化]]4年[[7月3日 (旧暦)|7月3日]]) - [[岡部長和]]、[[和泉国|和泉]][[岸和田藩]]の第10代藩主(+[[1850年]]) * [[8月15日]] - [[ジュール・グレヴィ|グレヴィ]]、フランスの[[政治家]](+ [[1891年]]) == 死去 == {{see also|Category:1807年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[3月13日]] - [[ニコライ・レザノフ]]、[[ロシア帝国]]([[ロマノフ王朝]])時代の[[ロシア人]][[外交官]](* [[1764年]]) * [[6月21日]]([[文化 (元号)|文化]]4年[[5月16日 (旧暦)|5月16日]]) - [[皆川淇園]]、[[京都]]の[[儒者]](* [[1735年]]) * [[11月5日]] - [[アンゲリカ・カウフマン (画家)|アンゲリカ・カウフマン]]、[[画家]](* [[1741年]]) == 脚注 == '''注釈''' {{Reflist|group="注"}} '''出典''' {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1807}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=19|年代=1800}} {{デフォルトソート:1807ねん}} [[Category:1807年|*]]
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ジョージ・H・W・ブッシュ
ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(英語: George Herbert Walker Bush、1924年6月12日 - 2018年11月30日)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第41代大統領(在任:1989年1月20日 - 1993年1月20日)。テキサス州選出連邦下院議員、国際連合大使、米中連絡事務所所長、中央情報長官(CIA長官)、副大統領を歴任した。死去時最高齢(94歳)の大統領経験者であったが、2019年3月22日に、たまたま同年生まれのジミー・カーターが最高齢記録を更新している。第43代アメリカ合衆国大統領を務めたジョージ・W・ブッシュは彼の長男である。 1924年6月12日、マサチューセッツ州ミルトンにてプレスコット・ブッシュとドロシー・ウォーカー夫妻の次男として誕生した。兄にプレスコット・ブッシュ・ジュニア(米中商工会議所議長)がいる。父親はコネチカット州のリベラルな共和党の連邦上院議員で、著名な投資銀行「ブラウン・ブラザース・ハリマン(英語版)」に在籍していた。なおブッシュ家は雑系の先祖がイギリス王室に連なる家柄である。 ブッシュはグリニッジのグリニッジ・カントリー・デイスクールからその経歴を開始した。高校卒業後に国への義務を果たすべく海軍に志願した。その年のうちにテキサス州コーパスクリスティで飛行訓練を完了し、アベンジャー雷撃機のパイロットに任命される。 1942年より空母サン・ジャシントに乗り組み、第51雷撃飛行隊に所属して太平洋戦線に従軍した。彼は第二次世界大戦における最も若い艦上攻撃機パイロットだった。退役するまでパイロットとして1228時間の飛行時間を記録し、126回の空母着艦を成功させたが、2度の被撃墜も経験した。 少尉時代の1944年に参加したマリアナ沖海戦では日本機の銃撃によって乗機のTBF-1Cを、中尉時代の1944年9月2日には小笠原諸島沖で父島地上砲台の対空砲火を浴びて乗機のTBMを撃墜されているが、いずれも味方に救助され生還している。 2度目の際には敵地近くであり、同乗していた砲塔機銃手ウィリアム・ホワイト中尉と通信士ジョン・デラニー二等兵曹は戦死し自身も4時間に渡って漂流して捕虜になる危機を迎えた。当時9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級潜水艦「フィンバック」に救助された。この父島では後に小笠原事件が起きたとされる。この経験から「神はなぜ自分を生かしたのか?自分に示された神の意図は何か?」と自問するようになる。 翌月までフィンバックで勤務し撃墜されたパイロットの救助にあたった。11月にサン・ジャシントに戻りフィリピン作戦に参加した。ブッシュは彼の飛行隊がアメリカに帰国するまで1944年を通じて58回の戦闘に参加し、殊勲飛行十字章(2度目の被撃墜の際の爆撃の成功によるもの)、さらにエア・メダルを3回、サン・ジャシントに対する殊勲部隊章(Presidential Unit Citation)1回と全部で5個の勲章を受章した。その後、海軍中尉にまで昇進し退役した。 太平洋から帰還して数週間後の1945年1月6日、バーバラ・ピアスとライ(ニューヨーク州)で結婚し、6人の子供をもうけた。カップルの最初の住居はミシガン州トレントン(英語版)の小さな賃貸アパートだった。 帰国後はイェール大学に進学し、2年半で卒業した。在学中は大学の野球チームに所属して腕利きの一塁手として鳴らし、キャプテンとしてチームをカレッジワールドシリーズに導いた。卒業の年のシリーズでは、試合前にベーブ・ルースとも対面している。 入学した年には父のプレスコット・ブッシュも属した秘密結社であるスカル・アンド・ボーンズに加入した。 1948年には経済学の学士号を取得し卒業している。その後は地元テキサス州でオイルビジネスに従事した。 ジョージ・ブッシュはイェール大学卒業後に土木・建築事業のコングロマリットで、CIAと緊密に協力していたドレッサー・インダストリーズ(英語版)(現在のハリバートン)の子会社アイデコ(インターナショナル・デリック・アンド・エクイップメント・カンパニーの略)のセールスマンになり、アイデコ社のサービスを共産圏も含めた世界各国で営業して回るという仕事を与えられた。ブッシュはアレン・ダレスのスパイだったジョージ・ド・モーレンシルツというロシアの伯爵と頻繁に接触し、CIAが欲しがるような共産圏の石油関連情報を収集し、CIAに提供していたという。 彼にこの重要な仕事を与えたのはドレッサー・インダストリーズのヘンリー・ニール・マロン(英語版)社長であった。マロン社長は父のプレスコットのイェール大学の同級生で、ブッシュ家と親しい間柄であった。またマロン社長はアレン・ダレスとも親密な関係を持ち、将来有望なスパイ候補者を頻繁にダレスのもとに送ったり、CIAの工作のためにスパイに偽装の職場を提供したりと、CIAと緊密に協力していた。ジョージ・ブッシュは1953年にはザパタ石油会社を立ち上げ、CIAがメキシコでの工作活動に乗り出した1959年には、CIAの活動に積極的に協力した。 1963年、FBIはブッシュをCIAの職員と証拠づけるもブッシュは否定しなかった。その後もブッシュはCIA長官に就任し、CIA本部にその名前を冠するまで強い繋がりをCIAと持ち続けた。 1964年、ブッシュはテキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党のラルフ・ヤーボロー上院議員に対抗して上院議員選挙に出馬し、政治家に乗り出した。 ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。 ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から連邦下院議員に選任された。彼はその後1970年に民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに2度目の連邦上院議員選挙で敗れた。 ブッシュは1970年代を通して、リチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォードの2人の共和党の大統領の下で共和党全国委員会委員長・国際連合大使・中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)・危機委員会評議員などの要職を歴任した。当初、大統領であるフォードはブッシュを副大統領候補に検討していたが、ブッシュの選挙キャンペーンにニクソンの秘密資金が流入していた疑惑を特別検察官が捜査していた為にネルソン・ロックフェラーを選択したとされる。 リチャード・ニクソン政権で国際連合大使として中華人民共和国の国際連合加盟を認めたアルバニア決議やそれに伴う次期国際連合事務総長の選出をめぐるアメリカ合衆国とソビエト連邦と中華人民共和国の三つ巴の駆け引きへの対応に追われ。、米中連絡事務所所長となった際は訪中した当時の大統領フォードに同行、中華人民共和国主席だった毛沢東とも2度会見した。事実上の特命全権公使として中国で過ごした経験は世界の問題に対するアメリカの強い関与の必要性をブッシュに確信させたとされる。 1年間と短い期間ではあったが、中央情報長官(CIA長官)(1976年1月30日 – 1977年1月20日)も務め、中国への赴任直後であった為驚きを持って受け取られた。CIA長官就任後最初に直面した問題は、アンゴラの共産化を防ぐことであった。しかし、1975年11月当時はソビエト連邦とキューバの大規模な支援を受けてアンゴラ人民共和国を建国したアンゴラ解放人民運動(MPLA)が軍事的に優勢だった。ベトナム戦争で他国への介入に否定的となっていたアメリカ議会は中国とザイールに支援されたアンゴラ民族解放戦線 (FNLA)に対する欧米の援助を問題視し、1976年にクラーク修正法(英語版)でアンゴラの反政府組織への援助を禁止した。しかし、ブッシュCIA長官はこれを拒否し、イギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)の元隊員で構成される傭兵部隊を使ってアンゴラの対ソ秘密作戦を展開した。この秘密作戦は一定の成功を収め、アンゴラ内戦は泥沼化した。同年にはエジプトやサウジアラビアなどによるアフリカの反共反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)の結成を国際商業信用銀行(BCCI)を通じて支援した。また、ラテンアメリカの親米軍事独裁政権によるコンドル作戦も支援したとされる 1980年、ブッシュは共和党の大統領候補への正式指名を争う予備選挙に出馬する。そこでブッシュは、学界では批判の多いサプライサイド経済学に基づくレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗してしまう。 共和党大会直前にロナルド・レーガンに副大統領候補として指名され、1981年1月20日に副大統領に就任する。ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。レーガンも同年3月30日の銃撃事件で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断った事をきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。 ブッシュは元CIA長官や元危機委員会評議員を務めていたように、外交・安全保障に並々ならぬ関心を持った副大統領であり、結果として2期8年の任期をレーガン政権の副大統領として勤めた。 ブッシュはホワイトハウス内の危機管理センターという独自情報機関の責任者に就任し、様々な危機への対応策を計画・実施した。その一つがイラン・コントラ秘密工作であった。この悪名高い工作はブッシュ副大統領率いる危機管理センターのSSGで計画が練られ、ウィリアム・ケーシーCIA長官が中心となって実施した。ブッシュやケーシーらは反共勢力を支援するためにラテンアメリカの麻薬王とも手を組んだ為、アメリカ国内への麻薬の流入も急増した。後に敵対することになるイラクのサッダーム・フセイン政権との国交正常化とイラン・イラク戦争での対イラク援助の決定にも関わり、「イラクゲート」と呼ばれるフセイン政権に武器援助を行った疑惑(英語版)で追及されることになる。 アフガニスタンのムジャヒディンと呼ばれるイスラム教徒のゲリラに対する支援はカーター政権で開始されたが、レーガン政権になると、ブッシュ副大統領とケーシーCIA長官が中心となってさらに大がかりな支援活動を行った。アメリカ製のスティンガー対空ミサイルを供与し、軍事訓練を施すためにアメリカ軍特殊部隊を派遣した。そして世界中から約3万5千人の急進派のイスラム教徒を呼び集めてパキスタンと中国で軍事訓練を施し、アフガニスタンでソビエト連邦軍と戦わせた。その中にはオサマ・ビン・ラディンがいた。また、サウジアラビアからイスラム急進派をアメリカに入国させ、軍事訓練を施してアフガニスタンに送り込むという工作も行ったとされる。 ブッシュらの秘密工作はソビエト連邦の弱体化に成功して冷戦終結に貢献したが、中南米での麻薬の氾濫・中東でのイスラム過激派のテロリストの増長という負の遺産を残した。 バーバラも副大統領夫人として様々な公務にあたった。力を入れた事業として識字率の向上を推進する活動があった。動機として三男のニールが識字障害に苦しんだことがあった。バーバラは識字率を高めることは貧困を減らすことだと信じていた。 2期8年に渡ってロナルド・レーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年アメリカ合衆国大統領選挙では、ボブ・ドールやドナルド・ラムズフェルドなどを破って選出された。本選挙ではロイド・ベンツェンを副大統領候補に選択したマサチューセッツ州のマイケル・デュカキス州知事に地滑り的な大勝をおさめた。現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来152年ぶりに4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶりに2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選挙が不利になる」というジンクスを覆した。 → 詳細は「1988年アメリカ合衆国大統領選挙」の項を参照。 1989年1月20日、第41代アメリカ合衆国大統領に就任した。副大統領には保守派からの支持をと中西部諸州での得票が見込まれる事からクエールに白羽の矢が立った。 ブッシュが最初に取り組んだのは麻薬戦争だった。ブッシュはその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのノリエガ政権との対立を深めた。 ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派のカルロス・ドゥケ(英語版)を出馬させたが、当選したのは反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラ(英語版)であった。しかしノリエガはアメリカの干渉があったとして軍をあげて選挙の無効を宣言し、フランシスコ・ロドリゲス(英語版)会計院長を大統領とし、権力の保持を図った。この動きを受けて5月には暴動が発生しただけでなく、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。12月15日にノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した。 12月20日、ブッシュはパナマ在住アメリカ人の保護・パナマ運河条約の保全・ノリエガの拘束を主目的とするジャスト・コーズ作戦(Operation Just Cause)の発動を命令した。15分前にはエンダラを大統領として宣誓させている。ブッシュはこの侵攻をノリエガの煽動に対するアメリカの自衛権発動であると主張している。2万4000人のアメリカ軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、1990年1月に逮捕されてアメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。 1989年11月のベルリンの壁崩壊を受けて、ブッシュは第二次世界大戦の真の終結をもたらすと考えてドイツ再統一を支援した。さらに同年12月3日に地中海におけるマルタ会談で、ソ連のゴルバチョフ書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。これを標語的に「ヤルタからマルタへ("From Yalta to Malta")」という。 この会談にはソビエト連邦側からはエドゥアルド・シェワルナゼ外相、アメリカ合衆国側からはジェイムズ・ベイカー国務長官およびブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官などが同席している。ブレント・スコウクロフトをはじめとするアメリカ政権内では、当初からマルタ会談は「時期尚早」としてソ連のスタンドプレーを許す結果になるとして反対していたが、フランスのミッテラン大統領・イギリスのサッチャー首相をはじめとするヨーロッパ首脳およびアメリカ連邦議会はゴルバチョフとの対談を説得して実現した。 マルタ会談から8ヶ月後の1990年8月2日にイラク軍は隣国であるクウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対して諸外国は第2次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。さらにイラクは8月18日にクウェートから脱出出来なかった外国人を自国内に強制連行し、「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本・ドイツ・アメリカ・イギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。 国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めると共に、11月29日に武力行使容認決議である国際連合安全保障理事会決議678をアメリカ合衆国およびソビエト連邦は一致して可決してマルタ会談と共に当時の冷戦の終結を象徴し、ブッシュは新世界秩序を掲げた。 1991年1月17日、ブッシュは軍部隊をサウジアラビアへ展開し、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」)を開始した。同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけ、第2次世界大戦以来の連合となった。このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。 アメリカ軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した。ただしイラクのサッダーム・フセイン政権の打倒までは行わず、あくまで制裁戦争であった。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、ブッシュの支持率は当時歴代最高の89パーセントに急上昇した。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後に多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。この戦争でアメリカ合衆国は世界最強の軍事力を誇示し、さらに同年12月のソビエト連邦の崩壊によって世界唯一の超大国としての地位を確立した。 ジョージ・H・W・ブッシュが1988年アメリカ合衆国大統領選挙に当選し、ファーストレディとなったバーバラは贅沢品に囲まれて高慢なイメージのナンシー・レーガンとは全く異なり、就任式後の晩餐会に29ドルの靴を履いて出たと報じられるなど、親しみやすいキャラクターとして人気を得た。 その「親しみやすさ」は決して作られたイメージでは無く、率直な物言いと鷹揚な性格でホワイトハウスの中でも職員たちを家族のように分け隔てなく接した。また、初めてアフリカ系アメリカ人の秘書官を任命したファーストレディとなった。 ファーストレディとしてセカンドレディ時代の事業を更に格上げして「バーバラ・ブッシュ・ファミリー・リテラシー財団」を設立し、多くのホームレス・移民を援助した。識字、教育こそが貧困を無くすと、人気番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』に出演して教育の重要性を訴え、ABCラジオにて自身の冠番組ミセス・ブッシュズ・ストーリー・タイムを持ち、子供たちに語りかけた。 1990年に出版したミリーズ・ブック:アズ・ディクテーテッド・トゥ・バーバラ・ブッシュ(邦題:『ミリー・ブッシュはファースト・ドッグ』)はベストセラーとなり、この本から得た印税は財団に寄付された。 1990年にウェルズリー大学で行った演説は大きな反響を呼んだ。多くの学生は彼女を「つまらない主婦」と見做し、決して歓迎されなかったのだが、演説が終わると本人も驚くような喝采を浴びた。この演説は「20世紀のアメリカの演説ベスト100」において45位に選ばれている。長女のロビンを白血病で亡くしたことから、白血病患者への支援も熱心に行った。 対日関係ではアメリカ国内の双子の赤字解消問題と日本のバブル経済を背景に、日米構造協議において多くの自民党議員の票田である農作物で米・牛肉などの輸入自由化を求める一方で、日本経済の柱となる自動車産業のアメリカへの輸出を大幅に規制させるなど、日本に対して大統領としては異例と言える保護貿易主義を取った。 ジャパンバッシングなる言葉が流行するほどに問題化し、日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員などからも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり、後に年次改革要望書が作成される事になる。なお1989年2月24日に昭和天皇の葬儀「大喪の礼」に出席した。 国防関係では湾岸戦争における自衛隊派遣問題・資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し、多額の資金援助を行ったにもかかわらず日本への謝意が演説で述べられなかったことなどから、「金だけ出して人出さない」「大枚をはたかされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。 対中関係では六四天安門事件で経済制裁を行うも、議会と対立してまで最恵国待遇を更新するなど制裁全面化に消極的であり、当時の中国の最高指導者である鄧小平には書簡で「先日のサミットの共同宣言の草案には中国を過度に非難する文言があったが、アメリカと日本が取り除いた。アメリカ議会は中国との経済関係を断ち切ることを求めているが、私は波風を立てないよう全力を尽くす」と述べていた。秘密裏にヘンリー・キッシンジャーやブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の方励之の出国をめぐる交渉を行ったとされる。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ、ブッシュは第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した日本の海部俊樹首相に同調した。 また、国際連合での対イラク武力行使容認決議の際には中国が拒否権を行使しなければ天安門事件以来の制裁の緩和と銭其琛外交部長のアメリカ訪問を受け入れると取引を持ちかけたことから中国は棄権して可決できた。 かつて米中連絡事務所所長を務めた中国滞在経験や兄のプレスコットと息子のニール・ブッシュが共産党政府とビジネスもしていたため、後の北京オリンピック開会式の親子揃っての出席に象徴されるように親中派だったとも評されている。 再選をかけた1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、1991年2月28日に湾岸戦争に勝利して中東和平会議を開き、1992年からソマリア内戦にも介入し、北米自由貿易協定調印したことなど対外的成果を強調して1992年アメリカ合衆国大統領選挙に挑んだ。 しかし、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙の「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術であるネガティブ・キャンペーンが今度は裏目に出たことなどの条件が重なり、アーカンソー州知事で民主党のビル・クリントンに敗北した。本人は敗因として景気が悪化しているのにFRB(連邦準備制度理事会)が利下げを行わなかった為だと不満を示した。なお現職の大統領としては1976年のジェラルド・フォード、1980年のジミー・カーターに続いて戦後3人目の不名誉な敗北となった。 → 詳細は「1992年アメリカ合衆国大統領選挙」の項を参照。 大統領選挙での敗北後、ブッシュは慣例にしたがって退任した。特に息子がテキサス州の知事となり、共和党の有力な大統領候補として頭角を現すようになってからはその妨げとならないよう、他の退任した大統領よりも増して公の場には極力姿を表さないよう心がけていた。 そのブッシュを再び表舞台に登場させたのが、意外にも後任の大統領であるビル・クリントンだった。クリントンは自らの退任後、2005年に行われたスマトラ島沖地震の津波災害救援特使としてブッシュと特別機で同行した際に、選挙戦でのわだかまりが解け、「元大統領」としてブッシュを様々な非政治的な式典や被災地の慰問などに誘うこととなった。 そうしたことから両者の仲は極めて親密なものとなり、その関係は相互の家庭を時折訪問するほどまでになった。息子の嫁のローラ夫人はその親密ぶりを「うちの家族にはミスター・プレジデントが3人もいるんですよ」と評したこともある。 息子のジョージ・W・ブッシュもアル・ゴア前副大統領との大接戦の末に2代後の大統領となった。そして2001年9月に発生した同時多発テロ事件の後の同年10月に、世界的な「テロとの戦い」を発表してアメリカ愛国者法を成立させた。湾岸戦争時の父親同様に、ジョージ・W・ブッシュも「戦時大統領」と呼ばれた。 そして2001年アフガニスタン紛争に臨み、ターリバーン政権を倒しアルカーイダを壊滅させて、ウサーマ・ビン・ラーディンをデッド・オア・アライブとして逮捕あるいは殺害することを命じた。 2003年3月17日、ジョージ・W・ブッシュはフセインと側近に対して48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対して軍事侵攻(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、その後も戦闘は続いた。 2004年、ジョージ・W・ブッシュは再び2004年アメリカ合衆国大統領選挙に立候補し、父が果たせなかった2回目の当選を果たした。しかし2回目は1回目ほどの支持を得られなかったが、2009年1月20日に任期満了で大統領を退任した。 ジョージ・H・W・ブッシュは1期4年限りの大統領だったが、任期中に大統領の名を汚すようなスキャンダルには一切見舞われなかったことから、退任後はその名がさまざまな施設・艦船につけられることになった(逆にウォーターゲート事件の揉み消しスキャンダルで辞任したニクソンや、セックス・スキャンダルが弾劾審理にまで発展したクリントンの名は忌避される傾向にある)。 1999年4月26日、CIA出身の初の大統領だったジョージ・H・W・ブッシュの功績を称えて、CIA本部はジョージ・ブッシュ情報センター(英語版)と命名された。 1997年には地元であるテキサス州ヒューストンの空港が「ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」と改名され、2002年にはニミッツ級航空母艦の第10番艦が「ジョージ・H・W・ブッシュ」と命名されることになった。 なお、存命中の元大統領の名前が海軍の艦船に冠せられるのは、カーターとレーガンに続き史上3人目となる。 2012年11月23日に気管支炎のためテキサス州ヒューストンの病院に入院。12月中旬ごろに容態が悪化し、集中治療室へ移されたが、その後持ち直し一般病棟に戻された。 2013年4月25日には息子の関連資料を集めた記念図書館の開館式に他の歴代大統領経験者と共に車椅子で出席し、久しぶりに公の場に姿を現した。 2017年1月、肺炎により入院している事が報じられたが順調に快方に向かい、同月30日に無事退院した。なお、出席する予定だった20日のドナルド・トランプ大統領の就任式には、息子のウォーカー・ブッシュが代理として出席した。 退院の数日後には第51回スーパーボウルの試合前のコイントスを務め、妻のバーバラと共に元気な姿を見せたが、バーバラは2018年4月17日に死去している。 2018年11月30日にテキサス州ヒューストンで死去。94歳没。息子のジョージ・W・ブッシュは「わが父、ジョージ・H・W・ブッシュは高潔な人格で、最高の父親だった。友人や仲間たちの哀悼の意に対し、ブッシュ家の全員が深く感謝している」という声明を出した。トランプは「ブッシュ氏は正確な判断と良識、そして、確固たるリーダーシップで平和裏にアメリカと世界を冷戦の勝利に導いた。ブッシュ氏の家族に国民と共に祈りを捧げ、その生涯と功績に敬意を表したい」と述べた。 海部元首相は「私が総理大臣に就任して間も無く訪米した際、ブッシュ氏は自宅で家族揃って出迎えてくれ、大変有意義な時間を過ごす事ができた。今は亡きバーバラ夫人が隣に寄り添い、時にブレーキ役になっていたことも印象深い。ブッシュ氏が日本を訪れた際には必ず連絡をくれた、語りきれないほどのたくさんの思い出があり、心より御冥福をお祈りします」と述べた。 元ソ連大統領のゴルバチョフは「我々は大きな責任が求められる劇的な変化の時代に共に仕事をやり遂げ、冷戦と核軍拡競争に終止符を打った。歴史的な偉業に対するブッシュ氏の貢献を称えたい。ブッシュ氏は政治家としても、1人の人間としても、人々の心に長く残るだろう」と語った。 2018年12月5日にワシントン大聖堂で国葬が執り行われ、ジミー・カーター、ビル・クリントン、バラク・オバマ、ドナルド・トランプの歴代大統領が参列した。日本からは特使として元首相の福田康夫が参列した。遺体は即日エアフォースワンでテキサス州ヒューストンへ運ばれ、翌12月6日には聖マーティン教会でテキサス州葬の後、列車「BUSH 4141」で70マイル先のカレッジステーションへ運ばれて、幼くして亡くなった娘・妻のバーバラも眠るテキサスA&M大学のブッシュ大統領図書館脇の墓地に埋葬された。 最愛の妻であるバーバラとの逸話は有名である。また、敬虔なクリスチャン(聖公会)で、友人を教会へ連れて行くことを好んだ。マーガレット・サッチャーを連れていったこともある。 ブッシュ一家は結婚後29回、ワシントンD.C.や北京まで29回転居した。ブッシュが様々な政府の仕事に従事して家族から離れている間、バーバラは単独で家族の面倒を見た。政治家の妻として様々なチャリティーにも関わった。 ブッシュが国際連合大使だった際は公邸でニューヨークの最高級ホテルでもあるウォルドルフ=アストリア42階のスイートルームが夫婦の自宅だった。 一方でブッシュがCIA長官になった後、家庭内でも仕事の話を一切共有出来無くなったために、会話が減ったことからうつ病を患った。夫の薦めでホスピスでボランティア活動に勤しみ、中華人民共和国での生活を講演したりしたことで病から回復した。 父親の連邦上院議員職、長男ジョージ・W・ブッシュのテキサス州知事及び大統領、次男ジェブ・ブッシュのフロリダ州知事などの政治的な成功で、ブッシュ家は王朝としてなぞらえられ、ジョン・アダムズ及びケネディ家と比較された。 バーバラ夫人との間には、幼児(3歳)で亡くなった2番目の子供ロビン(Robin, 女子)を除くと、子供が5人いる。 1992年1月7日の来日では天皇・宮澤喜一首相とそれぞれ会談した。この来日では最初に京都御所を見学し、その場で行われていた蹴鞠に飛び入りで参加。翌日に天皇と2回テニスのダブルスで対戦しているが、2回とも父ブッシュが負けている。 その日の宮澤首相主催の晩餐会の最中、突然隣に座っていた宮澤の膝に嘔吐し、椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した。妻バーバラがとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側はただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応した。 大のブロッコリー嫌いで知られており、大統領専用機の機内食のメニューからブロッコリーを削除した。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したところ、怒ったブロッコリー農家からトラックで大量のブロッコリーを送りつけられた。これに対してバーバラ夫人は「夫のブロッコリー嫌いを直せなかったのは私や義母の責任」とユーモアを交えて謝罪し、大量のブロッコリーはホームレスらへの炊き出しに用いられた。葬儀の際に息子のジョージ・W・ブッシュも弔辞で父親のブロッコリー嫌いに触れ「私達にも受け継がれている」と述べている。 太平洋戦争で撃墜されたアベンジャー雷撃機の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。1944年9月2日9時前、父ブッシュは軽空母サン・ジャシント から友人であるスタンレー・ブッチャーらが搭乗した僚機3機と護衛のヘルキャット数機共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。この無電塔はアメリカ軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、アメリカ軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。 父ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の3人であった。本来父ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日に父ブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。父ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、父ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。父ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機のコクピットが炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点でパラシュート脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、爆風による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。父ブッシュは無事着水し生存した。 すぐさま彼を捕獲するため日本軍舟艇が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。通信から数時間後、島から15~20マイルの海域を哨戒していた潜水艦フィンバック(艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、父ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって8ミリフィルムに撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因では無かったかと語っている。 救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後1ヶ月、潜水艦の目として撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも母島上空で撃墜された空母エンタープライズの搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。一月後父ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。 なお、この時他にも4機のアメリカ軍機が撃墜されたが、搭乗員の8人のアメリカ軍兵士捕虜の内5人が小笠原事件において処刑された後に食人されたとされ、ブッシュの対日観に長く影を落としたといわれている。ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。ブッシュ機を撃墜した砲台は、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった。 ただし当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、食人などの事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している。 感謝祭前日にホワイトハウスで七面鳥を「恩赦」で放鳥する行事は、1963年に「Good Eatin', Mr. President(美味しく食べてね、大統領)」というメッセージを首からぶら下げた七面鳥を当時の大統領ケネディが食べなかったエピソードが由来とされており、このエピソードを1989年から定例の行事としたのが父ブッシュである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(英語: George Herbert Walker Bush、1924年6月12日 - 2018年11月30日)は、アメリカ合衆国の政治家。同国第41代大統領(在任:1989年1月20日 - 1993年1月20日)。テキサス州選出連邦下院議員、国際連合大使、米中連絡事務所所長、中央情報長官(CIA長官)、副大統領を歴任した。死去時最高齢(94歳)の大統領経験者であったが、2019年3月22日に、たまたま同年生まれのジミー・カーターが最高齢記録を更新している。第43代アメリカ合衆国大統領を務めたジョージ・W・ブッシュは彼の長男である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1924年6月12日、マサチューセッツ州ミルトンにてプレスコット・ブッシュとドロシー・ウォーカー夫妻の次男として誕生した。兄にプレスコット・ブッシュ・ジュニア(米中商工会議所議長)がいる。父親はコネチカット州のリベラルな共和党の連邦上院議員で、著名な投資銀行「ブラウン・ブラザース・ハリマン(英語版)」に在籍していた。なおブッシュ家は雑系の先祖がイギリス王室に連なる家柄である。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ブッシュはグリニッジのグリニッジ・カントリー・デイスクールからその経歴を開始した。高校卒業後に国への義務を果たすべく海軍に志願した。その年のうちにテキサス州コーパスクリスティで飛行訓練を完了し、アベンジャー雷撃機のパイロットに任命される。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1942年より空母サン・ジャシントに乗り組み、第51雷撃飛行隊に所属して太平洋戦線に従軍した。彼は第二次世界大戦における最も若い艦上攻撃機パイロットだった。退役するまでパイロットとして1228時間の飛行時間を記録し、126回の空母着艦を成功させたが、2度の被撃墜も経験した。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "少尉時代の1944年に参加したマリアナ沖海戦では日本機の銃撃によって乗機のTBF-1Cを、中尉時代の1944年9月2日には小笠原諸島沖で父島地上砲台の対空砲火を浴びて乗機のTBMを撃墜されているが、いずれも味方に救助され生還している。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2度目の際には敵地近くであり、同乗していた砲塔機銃手ウィリアム・ホワイト中尉と通信士ジョン・デラニー二等兵曹は戦死し自身も4時間に渡って漂流して捕虜になる危機を迎えた。当時9度目の哨戒任務で同海域にいたガトー級潜水艦「フィンバック」に救助された。この父島では後に小笠原事件が起きたとされる。この経験から「神はなぜ自分を生かしたのか?自分に示された神の意図は何か?」と自問するようになる。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "翌月までフィンバックで勤務し撃墜されたパイロットの救助にあたった。11月にサン・ジャシントに戻りフィリピン作戦に参加した。ブッシュは彼の飛行隊がアメリカに帰国するまで1944年を通じて58回の戦闘に参加し、殊勲飛行十字章(2度目の被撃墜の際の爆撃の成功によるもの)、さらにエア・メダルを3回、サン・ジャシントに対する殊勲部隊章(Presidential Unit Citation)1回と全部で5個の勲章を受章した。その後、海軍中尉にまで昇進し退役した。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "太平洋から帰還して数週間後の1945年1月6日、バーバラ・ピアスとライ(ニューヨーク州)で結婚し、6人の子供をもうけた。カップルの最初の住居はミシガン州トレントン(英語版)の小さな賃貸アパートだった。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "帰国後はイェール大学に進学し、2年半で卒業した。在学中は大学の野球チームに所属して腕利きの一塁手として鳴らし、キャプテンとしてチームをカレッジワールドシリーズに導いた。卒業の年のシリーズでは、試合前にベーブ・ルースとも対面している。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "入学した年には父のプレスコット・ブッシュも属した秘密結社であるスカル・アンド・ボーンズに加入した。 1948年には経済学の学士号を取得し卒業している。その後は地元テキサス州でオイルビジネスに従事した。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ジョージ・ブッシュはイェール大学卒業後に土木・建築事業のコングロマリットで、CIAと緊密に協力していたドレッサー・インダストリーズ(英語版)(現在のハリバートン)の子会社アイデコ(インターナショナル・デリック・アンド・エクイップメント・カンパニーの略)のセールスマンになり、アイデコ社のサービスを共産圏も含めた世界各国で営業して回るという仕事を与えられた。ブッシュはアレン・ダレスのスパイだったジョージ・ド・モーレンシルツというロシアの伯爵と頻繁に接触し、CIAが欲しがるような共産圏の石油関連情報を収集し、CIAに提供していたという。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "彼にこの重要な仕事を与えたのはドレッサー・インダストリーズのヘンリー・ニール・マロン(英語版)社長であった。マロン社長は父のプレスコットのイェール大学の同級生で、ブッシュ家と親しい間柄であった。またマロン社長はアレン・ダレスとも親密な関係を持ち、将来有望なスパイ候補者を頻繁にダレスのもとに送ったり、CIAの工作のためにスパイに偽装の職場を提供したりと、CIAと緊密に協力していた。ジョージ・ブッシュは1953年にはザパタ石油会社を立ち上げ、CIAがメキシコでの工作活動に乗り出した1959年には、CIAの活動に積極的に協力した。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1963年、FBIはブッシュをCIAの職員と証拠づけるもブッシュは否定しなかった。その後もブッシュはCIA長官に就任し、CIA本部にその名前を冠するまで強い繋がりをCIAと持ち続けた。", "title": "人物・来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1964年、ブッシュはテキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党のラルフ・ヤーボロー上院議員に対抗して上院議員選挙に出馬し、政治家に乗り出した。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から連邦下院議員に選任された。彼はその後1970年に民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに2度目の連邦上院議員選挙で敗れた。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ブッシュは1970年代を通して、リチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォードの2人の共和党の大統領の下で共和党全国委員会委員長・国際連合大使・中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)・危機委員会評議員などの要職を歴任した。当初、大統領であるフォードはブッシュを副大統領候補に検討していたが、ブッシュの選挙キャンペーンにニクソンの秘密資金が流入していた疑惑を特別検察官が捜査していた為にネルソン・ロックフェラーを選択したとされる。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "リチャード・ニクソン政権で国際連合大使として中華人民共和国の国際連合加盟を認めたアルバニア決議やそれに伴う次期国際連合事務総長の選出をめぐるアメリカ合衆国とソビエト連邦と中華人民共和国の三つ巴の駆け引きへの対応に追われ。、米中連絡事務所所長となった際は訪中した当時の大統領フォードに同行、中華人民共和国主席だった毛沢東とも2度会見した。事実上の特命全権公使として中国で過ごした経験は世界の問題に対するアメリカの強い関与の必要性をブッシュに確信させたとされる。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1年間と短い期間ではあったが、中央情報長官(CIA長官)(1976年1月30日 – 1977年1月20日)も務め、中国への赴任直後であった為驚きを持って受け取られた。CIA長官就任後最初に直面した問題は、アンゴラの共産化を防ぐことであった。しかし、1975年11月当時はソビエト連邦とキューバの大規模な支援を受けてアンゴラ人民共和国を建国したアンゴラ解放人民運動(MPLA)が軍事的に優勢だった。ベトナム戦争で他国への介入に否定的となっていたアメリカ議会は中国とザイールに支援されたアンゴラ民族解放戦線 (FNLA)に対する欧米の援助を問題視し、1976年にクラーク修正法(英語版)でアンゴラの反政府組織への援助を禁止した。しかし、ブッシュCIA長官はこれを拒否し、イギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)の元隊員で構成される傭兵部隊を使ってアンゴラの対ソ秘密作戦を展開した。この秘密作戦は一定の成功を収め、アンゴラ内戦は泥沼化した。同年にはエジプトやサウジアラビアなどによるアフリカの反共反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)の結成を国際商業信用銀行(BCCI)を通じて支援した。また、ラテンアメリカの親米軍事独裁政権によるコンドル作戦も支援したとされる", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1980年、ブッシュは共和党の大統領候補への正式指名を争う予備選挙に出馬する。そこでブッシュは、学界では批判の多いサプライサイド経済学に基づくレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗してしまう。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "共和党大会直前にロナルド・レーガンに副大統領候補として指名され、1981年1月20日に副大統領に就任する。ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。レーガンも同年3月30日の銃撃事件で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断った事をきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ブッシュは元CIA長官や元危機委員会評議員を務めていたように、外交・安全保障に並々ならぬ関心を持った副大統領であり、結果として2期8年の任期をレーガン政権の副大統領として勤めた。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ブッシュはホワイトハウス内の危機管理センターという独自情報機関の責任者に就任し、様々な危機への対応策を計画・実施した。その一つがイラン・コントラ秘密工作であった。この悪名高い工作はブッシュ副大統領率いる危機管理センターのSSGで計画が練られ、ウィリアム・ケーシーCIA長官が中心となって実施した。ブッシュやケーシーらは反共勢力を支援するためにラテンアメリカの麻薬王とも手を組んだ為、アメリカ国内への麻薬の流入も急増した。後に敵対することになるイラクのサッダーム・フセイン政権との国交正常化とイラン・イラク戦争での対イラク援助の決定にも関わり、「イラクゲート」と呼ばれるフセイン政権に武器援助を行った疑惑(英語版)で追及されることになる。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "アフガニスタンのムジャヒディンと呼ばれるイスラム教徒のゲリラに対する支援はカーター政権で開始されたが、レーガン政権になると、ブッシュ副大統領とケーシーCIA長官が中心となってさらに大がかりな支援活動を行った。アメリカ製のスティンガー対空ミサイルを供与し、軍事訓練を施すためにアメリカ軍特殊部隊を派遣した。そして世界中から約3万5千人の急進派のイスラム教徒を呼び集めてパキスタンと中国で軍事訓練を施し、アフガニスタンでソビエト連邦軍と戦わせた。その中にはオサマ・ビン・ラディンがいた。また、サウジアラビアからイスラム急進派をアメリカに入国させ、軍事訓練を施してアフガニスタンに送り込むという工作も行ったとされる。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ブッシュらの秘密工作はソビエト連邦の弱体化に成功して冷戦終結に貢献したが、中南米での麻薬の氾濫・中東でのイスラム過激派のテロリストの増長という負の遺産を残した。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "バーバラも副大統領夫人として様々な公務にあたった。力を入れた事業として識字率の向上を推進する活動があった。動機として三男のニールが識字障害に苦しんだことがあった。バーバラは識字率を高めることは貧困を減らすことだと信じていた。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2期8年に渡ってロナルド・レーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年アメリカ合衆国大統領選挙では、ボブ・ドールやドナルド・ラムズフェルドなどを破って選出された。本選挙ではロイド・ベンツェンを副大統領候補に選択したマサチューセッツ州のマイケル・デュカキス州知事に地滑り的な大勝をおさめた。現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来152年ぶりに4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶりに2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選挙が不利になる」というジンクスを覆した。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "→ 詳細は「1988年アメリカ合衆国大統領選挙」の項を参照。", "title": "政治経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1989年1月20日、第41代アメリカ合衆国大統領に就任した。副大統領には保守派からの支持をと中西部諸州での得票が見込まれる事からクエールに白羽の矢が立った。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ブッシュが最初に取り組んだのは麻薬戦争だった。ブッシュはその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのノリエガ政権との対立を深めた。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派のカルロス・ドゥケ(英語版)を出馬させたが、当選したのは反ノリエガ派のギジェルモ・エンダラ(英語版)であった。しかしノリエガはアメリカの干渉があったとして軍をあげて選挙の無効を宣言し、フランシスコ・ロドリゲス(英語版)会計院長を大統領とし、権力の保持を図った。この動きを受けて5月には暴動が発生しただけでなく、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。12月15日にノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "12月20日、ブッシュはパナマ在住アメリカ人の保護・パナマ運河条約の保全・ノリエガの拘束を主目的とするジャスト・コーズ作戦(Operation Just Cause)の発動を命令した。15分前にはエンダラを大統領として宣誓させている。ブッシュはこの侵攻をノリエガの煽動に対するアメリカの自衛権発動であると主張している。2万4000人のアメリカ軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、1990年1月に逮捕されてアメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1989年11月のベルリンの壁崩壊を受けて、ブッシュは第二次世界大戦の真の終結をもたらすと考えてドイツ再統一を支援した。さらに同年12月3日に地中海におけるマルタ会談で、ソ連のゴルバチョフ書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。これを標語的に「ヤルタからマルタへ(\"From Yalta to Malta\")」という。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この会談にはソビエト連邦側からはエドゥアルド・シェワルナゼ外相、アメリカ合衆国側からはジェイムズ・ベイカー国務長官およびブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官などが同席している。ブレント・スコウクロフトをはじめとするアメリカ政権内では、当初からマルタ会談は「時期尚早」としてソ連のスタンドプレーを許す結果になるとして反対していたが、フランスのミッテラン大統領・イギリスのサッチャー首相をはじめとするヨーロッパ首脳およびアメリカ連邦議会はゴルバチョフとの対談を説得して実現した。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "マルタ会談から8ヶ月後の1990年8月2日にイラク軍は隣国であるクウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対して諸外国は第2次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。さらにイラクは8月18日にクウェートから脱出出来なかった外国人を自国内に強制連行し、「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本・ドイツ・アメリカ・イギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めると共に、11月29日に武力行使容認決議である国際連合安全保障理事会決議678をアメリカ合衆国およびソビエト連邦は一致して可決してマルタ会談と共に当時の冷戦の終結を象徴し、ブッシュは新世界秩序を掲げた。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1991年1月17日、ブッシュは軍部隊をサウジアラビアへ展開し、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」)を開始した。同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけ、第2次世界大戦以来の連合となった。このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アメリカ軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した。ただしイラクのサッダーム・フセイン政権の打倒までは行わず、あくまで制裁戦争であった。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、ブッシュの支持率は当時歴代最高の89パーセントに急上昇した。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後に多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。この戦争でアメリカ合衆国は世界最強の軍事力を誇示し、さらに同年12月のソビエト連邦の崩壊によって世界唯一の超大国としての地位を確立した。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ジョージ・H・W・ブッシュが1988年アメリカ合衆国大統領選挙に当選し、ファーストレディとなったバーバラは贅沢品に囲まれて高慢なイメージのナンシー・レーガンとは全く異なり、就任式後の晩餐会に29ドルの靴を履いて出たと報じられるなど、親しみやすいキャラクターとして人気を得た。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "その「親しみやすさ」は決して作られたイメージでは無く、率直な物言いと鷹揚な性格でホワイトハウスの中でも職員たちを家族のように分け隔てなく接した。また、初めてアフリカ系アメリカ人の秘書官を任命したファーストレディとなった。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ファーストレディとしてセカンドレディ時代の事業を更に格上げして「バーバラ・ブッシュ・ファミリー・リテラシー財団」を設立し、多くのホームレス・移民を援助した。識字、教育こそが貧困を無くすと、人気番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』に出演して教育の重要性を訴え、ABCラジオにて自身の冠番組ミセス・ブッシュズ・ストーリー・タイムを持ち、子供たちに語りかけた。 1990年に出版したミリーズ・ブック:アズ・ディクテーテッド・トゥ・バーバラ・ブッシュ(邦題:『ミリー・ブッシュはファースト・ドッグ』)はベストセラーとなり、この本から得た印税は財団に寄付された。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1990年にウェルズリー大学で行った演説は大きな反響を呼んだ。多くの学生は彼女を「つまらない主婦」と見做し、決して歓迎されなかったのだが、演説が終わると本人も驚くような喝采を浴びた。この演説は「20世紀のアメリカの演説ベスト100」において45位に選ばれている。長女のロビンを白血病で亡くしたことから、白血病患者への支援も熱心に行った。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "対日関係ではアメリカ国内の双子の赤字解消問題と日本のバブル経済を背景に、日米構造協議において多くの自民党議員の票田である農作物で米・牛肉などの輸入自由化を求める一方で、日本経済の柱となる自動車産業のアメリカへの輸出を大幅に規制させるなど、日本に対して大統領としては異例と言える保護貿易主義を取った。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ジャパンバッシングなる言葉が流行するほどに問題化し、日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員などからも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり、後に年次改革要望書が作成される事になる。なお1989年2月24日に昭和天皇の葬儀「大喪の礼」に出席した。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "国防関係では湾岸戦争における自衛隊派遣問題・資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し、多額の資金援助を行ったにもかかわらず日本への謝意が演説で述べられなかったことなどから、「金だけ出して人出さない」「大枚をはたかされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "対中関係では六四天安門事件で経済制裁を行うも、議会と対立してまで最恵国待遇を更新するなど制裁全面化に消極的であり、当時の中国の最高指導者である鄧小平には書簡で「先日のサミットの共同宣言の草案には中国を過度に非難する文言があったが、アメリカと日本が取り除いた。アメリカ議会は中国との経済関係を断ち切ることを求めているが、私は波風を立てないよう全力を尽くす」と述べていた。秘密裏にヘンリー・キッシンジャーやブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の方励之の出国をめぐる交渉を行ったとされる。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ、ブッシュは第16回先進国首脳会議で対中円借款再開を表明した日本の海部俊樹首相に同調した。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また、国際連合での対イラク武力行使容認決議の際には中国が拒否権を行使しなければ天安門事件以来の制裁の緩和と銭其琛外交部長のアメリカ訪問を受け入れると取引を持ちかけたことから中国は棄権して可決できた。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "かつて米中連絡事務所所長を務めた中国滞在経験や兄のプレスコットと息子のニール・ブッシュが共産党政府とビジネスもしていたため、後の北京オリンピック開会式の親子揃っての出席に象徴されるように親中派だったとも評されている。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "再選をかけた1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、1991年2月28日に湾岸戦争に勝利して中東和平会議を開き、1992年からソマリア内戦にも介入し、北米自由貿易協定調印したことなど対外的成果を強調して1992年アメリカ合衆国大統領選挙に挑んだ。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "しかし、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙の「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術であるネガティブ・キャンペーンが今度は裏目に出たことなどの条件が重なり、アーカンソー州知事で民主党のビル・クリントンに敗北した。本人は敗因として景気が悪化しているのにFRB(連邦準備制度理事会)が利下げを行わなかった為だと不満を示した。なお現職の大統領としては1976年のジェラルド・フォード、1980年のジミー・カーターに続いて戦後3人目の不名誉な敗北となった。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "→ 詳細は「1992年アメリカ合衆国大統領選挙」の項を参照。", "title": "大統領職" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大統領選挙での敗北後、ブッシュは慣例にしたがって退任した。特に息子がテキサス州の知事となり、共和党の有力な大統領候補として頭角を現すようになってからはその妨げとならないよう、他の退任した大統領よりも増して公の場には極力姿を表さないよう心がけていた。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "そのブッシュを再び表舞台に登場させたのが、意外にも後任の大統領であるビル・クリントンだった。クリントンは自らの退任後、2005年に行われたスマトラ島沖地震の津波災害救援特使としてブッシュと特別機で同行した際に、選挙戦でのわだかまりが解け、「元大統領」としてブッシュを様々な非政治的な式典や被災地の慰問などに誘うこととなった。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "そうしたことから両者の仲は極めて親密なものとなり、その関係は相互の家庭を時折訪問するほどまでになった。息子の嫁のローラ夫人はその親密ぶりを「うちの家族にはミスター・プレジデントが3人もいるんですよ」と評したこともある。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "息子のジョージ・W・ブッシュもアル・ゴア前副大統領との大接戦の末に2代後の大統領となった。そして2001年9月に発生した同時多発テロ事件の後の同年10月に、世界的な「テロとの戦い」を発表してアメリカ愛国者法を成立させた。湾岸戦争時の父親同様に、ジョージ・W・ブッシュも「戦時大統領」と呼ばれた。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "そして2001年アフガニスタン紛争に臨み、ターリバーン政権を倒しアルカーイダを壊滅させて、ウサーマ・ビン・ラーディンをデッド・オア・アライブとして逮捕あるいは殺害することを命じた。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2003年3月17日、ジョージ・W・ブッシュはフセインと側近に対して48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対して軍事侵攻(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、その後も戦闘は続いた。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2004年、ジョージ・W・ブッシュは再び2004年アメリカ合衆国大統領選挙に立候補し、父が果たせなかった2回目の当選を果たした。しかし2回目は1回目ほどの支持を得られなかったが、2009年1月20日に任期満了で大統領を退任した。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ジョージ・H・W・ブッシュは1期4年限りの大統領だったが、任期中に大統領の名を汚すようなスキャンダルには一切見舞われなかったことから、退任後はその名がさまざまな施設・艦船につけられることになった(逆にウォーターゲート事件の揉み消しスキャンダルで辞任したニクソンや、セックス・スキャンダルが弾劾審理にまで発展したクリントンの名は忌避される傾向にある)。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1999年4月26日、CIA出身の初の大統領だったジョージ・H・W・ブッシュの功績を称えて、CIA本部はジョージ・ブッシュ情報センター(英語版)と命名された。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1997年には地元であるテキサス州ヒューストンの空港が「ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港」と改名され、2002年にはニミッツ級航空母艦の第10番艦が「ジョージ・H・W・ブッシュ」と命名されることになった。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "なお、存命中の元大統領の名前が海軍の艦船に冠せられるのは、カーターとレーガンに続き史上3人目となる。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "2012年11月23日に気管支炎のためテキサス州ヒューストンの病院に入院。12月中旬ごろに容態が悪化し、集中治療室へ移されたが、その後持ち直し一般病棟に戻された。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2013年4月25日には息子の関連資料を集めた記念図書館の開館式に他の歴代大統領経験者と共に車椅子で出席し、久しぶりに公の場に姿を現した。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2017年1月、肺炎により入院している事が報じられたが順調に快方に向かい、同月30日に無事退院した。なお、出席する予定だった20日のドナルド・トランプ大統領の就任式には、息子のウォーカー・ブッシュが代理として出席した。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "退院の数日後には第51回スーパーボウルの試合前のコイントスを務め、妻のバーバラと共に元気な姿を見せたが、バーバラは2018年4月17日に死去している。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2018年11月30日にテキサス州ヒューストンで死去。94歳没。息子のジョージ・W・ブッシュは「わが父、ジョージ・H・W・ブッシュは高潔な人格で、最高の父親だった。友人や仲間たちの哀悼の意に対し、ブッシュ家の全員が深く感謝している」という声明を出した。トランプは「ブッシュ氏は正確な判断と良識、そして、確固たるリーダーシップで平和裏にアメリカと世界を冷戦の勝利に導いた。ブッシュ氏の家族に国民と共に祈りを捧げ、その生涯と功績に敬意を表したい」と述べた。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "海部元首相は「私が総理大臣に就任して間も無く訪米した際、ブッシュ氏は自宅で家族揃って出迎えてくれ、大変有意義な時間を過ごす事ができた。今は亡きバーバラ夫人が隣に寄り添い、時にブレーキ役になっていたことも印象深い。ブッシュ氏が日本を訪れた際には必ず連絡をくれた、語りきれないほどのたくさんの思い出があり、心より御冥福をお祈りします」と述べた。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "元ソ連大統領のゴルバチョフは「我々は大きな責任が求められる劇的な変化の時代に共に仕事をやり遂げ、冷戦と核軍拡競争に終止符を打った。歴史的な偉業に対するブッシュ氏の貢献を称えたい。ブッシュ氏は政治家としても、1人の人間としても、人々の心に長く残るだろう」と語った。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "2018年12月5日にワシントン大聖堂で国葬が執り行われ、ジミー・カーター、ビル・クリントン、バラク・オバマ、ドナルド・トランプの歴代大統領が参列した。日本からは特使として元首相の福田康夫が参列した。遺体は即日エアフォースワンでテキサス州ヒューストンへ運ばれ、翌12月6日には聖マーティン教会でテキサス州葬の後、列車「BUSH 4141」で70マイル先のカレッジステーションへ運ばれて、幼くして亡くなった娘・妻のバーバラも眠るテキサスA&M大学のブッシュ大統領図書館脇の墓地に埋葬された。", "title": "大統領退任後" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "最愛の妻であるバーバラとの逸話は有名である。また、敬虔なクリスチャン(聖公会)で、友人を教会へ連れて行くことを好んだ。マーガレット・サッチャーを連れていったこともある。", "title": "個人生活" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ブッシュ一家は結婚後29回、ワシントンD.C.や北京まで29回転居した。ブッシュが様々な政府の仕事に従事して家族から離れている間、バーバラは単独で家族の面倒を見た。政治家の妻として様々なチャリティーにも関わった。", "title": "個人生活" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ブッシュが国際連合大使だった際は公邸でニューヨークの最高級ホテルでもあるウォルドルフ=アストリア42階のスイートルームが夫婦の自宅だった。", "title": "個人生活" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "一方でブッシュがCIA長官になった後、家庭内でも仕事の話を一切共有出来無くなったために、会話が減ったことからうつ病を患った。夫の薦めでホスピスでボランティア活動に勤しみ、中華人民共和国での生活を講演したりしたことで病から回復した。", "title": "個人生活" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "父親の連邦上院議員職、長男ジョージ・W・ブッシュのテキサス州知事及び大統領、次男ジェブ・ブッシュのフロリダ州知事などの政治的な成功で、ブッシュ家は王朝としてなぞらえられ、ジョン・アダムズ及びケネディ家と比較された。", "title": "個人生活" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "バーバラ夫人との間には、幼児(3歳)で亡くなった2番目の子供ロビン(Robin, 女子)を除くと、子供が5人いる。", "title": "個人生活" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1992年1月7日の来日では天皇・宮澤喜一首相とそれぞれ会談した。この来日では最初に京都御所を見学し、その場で行われていた蹴鞠に飛び入りで参加。翌日に天皇と2回テニスのダブルスで対戦しているが、2回とも父ブッシュが負けている。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "その日の宮澤首相主催の晩餐会の最中、突然隣に座っていた宮澤の膝に嘔吐し、椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した。妻バーバラがとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側はただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応した。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "大のブロッコリー嫌いで知られており、大統領専用機の機内食のメニューからブロッコリーを削除した。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。ポーランド市民がソ連と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したところ、怒ったブロッコリー農家からトラックで大量のブロッコリーを送りつけられた。これに対してバーバラ夫人は「夫のブロッコリー嫌いを直せなかったのは私や義母の責任」とユーモアを交えて謝罪し、大量のブロッコリーはホームレスらへの炊き出しに用いられた。葬儀の際に息子のジョージ・W・ブッシュも弔辞で父親のブロッコリー嫌いに触れ「私達にも受け継がれている」と述べている。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "太平洋戦争で撃墜されたアベンジャー雷撃機の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。1944年9月2日9時前、父ブッシュは軽空母サン・ジャシント から友人であるスタンレー・ブッチャーらが搭乗した僚機3機と護衛のヘルキャット数機共に発進し、父島の無電塔爆撃任務についた。この無電塔はアメリカ軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、アメリカ軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "父ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の3人であった。本来父ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日に父ブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。父ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、父ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。父ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機のコクピットが炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点でパラシュート脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、爆風による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。父ブッシュは無事着水し生存した。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "すぐさま彼を捕獲するため日本軍舟艇が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。通信から数時間後、島から15~20マイルの海域を哨戒していた潜水艦フィンバック(艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、父ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって8ミリフィルムに撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因では無かったかと語っている。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後1ヶ月、潜水艦の目として撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも母島上空で撃墜された空母エンタープライズの搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。一月後父ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "なお、この時他にも4機のアメリカ軍機が撃墜されたが、搭乗員の8人のアメリカ軍兵士捕虜の内5人が小笠原事件において処刑された後に食人されたとされ、ブッシュの対日観に長く影を落としたといわれている。ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。ブッシュ機を撃墜した砲台は、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ただし当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、食人などの事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している。", "title": "逸話" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "感謝祭前日にホワイトハウスで七面鳥を「恩赦」で放鳥する行事は、1963年に「Good Eatin', Mr. President(美味しく食べてね、大統領)」というメッセージを首からぶら下げた七面鳥を当時の大統領ケネディが食べなかったエピソードが由来とされており、このエピソードを1989年から定例の行事としたのが父ブッシュである。", "title": "逸話" } ]
ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは、アメリカ合衆国の政治家。同国第41代大統領。テキサス州選出連邦下院議員、国際連合大使、米中連絡事務所所長、中央情報長官(CIA長官)、副大統領を歴任した。死去時最高齢(94歳)の大統領経験者であったが、2019年3月22日に、たまたま同年生まれのジミー・カーターが最高齢記録を更新している。第43代アメリカ合衆国大統領を務めたジョージ・W・ブッシュは彼の長男である。
{{大統領 | 人名 = ジョージ・H・W・ブッシュ | 各国語表記 = {{lang|en|George H. W. Bush}} | 画像 = George H. W. Bush presidential portrait (cropped).jpg | 画像サイズ =250px | キャプション = 大統領公式肖像(1989年11月) | 国名 = {{USA}} | 職名 = [[ファイル:Seal Of The President Of The United States Of America.svg|20px]] 第41代[[歴代アメリカ合衆国大統領の一覧|大統領]] | 就任日 = [[1989年]][[1月20日]] | 退任日 = [[1993年]][[1月20日]] | 副大統領 = [[ダン・クエール]] | 国名2 = {{USA}} | 職名2 = [[ファイル:Seal_of_the_Vice_President_of_the_United_States.svg|20px]] 第43代[[歴代アメリカ合衆国副大統領の一覧|副大統領]] | 就任日2 = [[1981年]][[1月20日]] | 退任日2 = [[1989年]][[1月20日]] | 元首職2= 大統領 | 元首2 = [[ロナルド・レーガン]] | 国名3 = {{USA}} | 代数3 = [[ファイル:Seal_of_the_Central_Intelligence_Agency.svg|20px]] 第11 | 職名3 = [[中央情報局|中央情報局(CIA)長官]] | 就任日3 = [[1976年]][[1月30日]] | 退任日3 = [[1977年]][[1月20日]] | 副大統領職3 = 副長官 | 副大統領3 = バーノン・A・ウォルターズ<br/>エノ・ヘンリー・クノッシュ | 国名4 = {{USA}} | 職名4 = 第10代[[アメリカ合衆国国際連合大使|国際連合大使]] | 就任日4 = [[1971年]][[3月1日]] | 退任日4 = [[1973年]][[7月18日]] | 元首4 = [[リチャード・ニクソン]] | 元首職4 = 大統領 | 国名5 = {{USA}} | 職名5 = [[ファイル:Seal of the United States House of Representatives.svg|20px]] [[アメリカ合衆国下院|下院議員]] | 就任日5 = [[1967年]][[1月3日]] | 退任日5 = [[1971年]][[1月3日]] | 出生日 = {{生年月日と年齢|1924|6|12|no}} | 生地 = {{USA1912}} [[マサチューセッツ州]]ミルトン | 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1924|6|12|2018|11|30}} | 没地 = {{USA}} [[テキサス州]][[ヒューストン]] | 配偶者 = [[バーバラ・ブッシュ]](2018年に死別) | 子女 = [[ジョージ・W・ブッシュ]]<br>ポーリン・ロビンソン・ブッシュ<br>[[ジェブ・ブッシュ]]<br>[[ニール・ブッシュ]]<br>[[マーヴィン・P・ブッシュ]]<br>[[ドロシー・ブッシュ・コック]] | 出身校 = グリニッジ・カントリー・デイスクール<br>[[イェール大学]] | 政党 = [[共和党 (アメリカ)|共和党]] | サイン = George HW Bush Signature.svg }} {{ゴルフ殿堂 | 世界選出年 = 2011年 | 世界選出部門 = 特別功労 }} '''ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ'''{{#tag:ref|アメリカでは第43代大統領であり、ファーストネームとミドルネームの一部が同じである長男の[[ジョージ・W・ブッシュ]]と区別する為に「'''父ブッシュ'''('''パパブッシュ''')」<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20181202/ddm/001/060/137000c|title=訃報:ジョージ・ハーバート(H)・ウォーカー(W)・ブッシュ氏 94歳=元米大統領|publisher=毎日新聞|date=2018-12-02|accessdate=2020-10-10}}</ref>「'''大ブッシュ'''」「'''ブッシュ・シニア'''」と呼ばれることもある。対する息子のジョージ・ウォーカーは「ブッシュ・ジュニア」である。|group="注釈"}}({{lang-en|George Herbert Walker Bush}}、[[1924年]][[6月12日]] - [[2018年]][[11月30日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[政治家]]。同国第41代[[歴代アメリカ合衆国大統領の一覧|大統領]](在任:[[1989年]][[1月20日]] - [[1993年]][[1月20日]])。[[テキサス州]]選出[[アメリカ合衆国下院議員|連邦下院議員]]、[[アメリカ合衆国国際連合大使|国際連合大使]]、米中連絡事務所所長、[[アメリカ合衆国中央情報長官|中央情報長官]](CIA長官)、[[歴代アメリカ合衆国副大統領の一覧|副大統領]]を歴任した。死去時最高齢(94歳)の大統領経験者であったが、[[2019年]][[3月22日]]に、たまたま同年生まれの[[ジミー・カーター]]が最高齢記録を更新している。第43代アメリカ合衆国大統領を務めた[[ジョージ・W・ブッシュ]]は彼の長男である。 == 人物・来歴 == === 生い立ち === [[File:George H W Bush at Age One and One-Half, ca 1925.gif|thumb|180px|1925年に撮影された幼少時代のジョージ・H・W・ブッシュ]] 1924年6月12日、[[マサチューセッツ州]]ミルトンにて[[プレスコット・ブッシュ]]とドロシー・ウォーカー夫妻の次男として誕生した。兄にプレスコット・ブッシュ・ジュニア(米中商工会議所議長)がいる。父親は[[コネチカット州]]のリベラルな[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[アメリカ合衆国上院|連邦上院議員]]で、著名な投資銀行「{{仮リンク|ブラウン・ブラザース・ハリマン|en|Brown Brothers Harriman & Co.}}」に在籍していた。なお[[ブッシュ家]]は雑系の先祖が[[イギリス王室]]に連なる家柄である。 ===学校=== ブッシュは[[グリニッジ (コネチカット州)|グリニッジ]]のグリニッジ・カントリー・デイスクールからその経歴を開始した。高校卒業後に国への義務を果たすべく[[アメリカ海軍|海軍]]に志願した。その年のうちにテキサス州コーパスクリスティで飛行訓練を完了し、[[TBF (航空機)|アベンジャー]]雷撃機の[[パイロット (航空)|パイロット]]に任命される。 ===軍歴=== [[ファイル:George H. W. Bush, United States Navy Portrait.jpg|thumb|220px|アメリカ海軍時代のポートレイト]] [[File:The Bush family in Midland, Texas.jpg|thumb|220px|家族との写真(1949年)]] [[1942年]]より空母[[サン・ジャシント (空母)|サン・ジャシント]]に乗り組み、第51雷撃飛行隊に所属して太平洋戦線に従軍した。彼は[[第二次世界大戦]]における最も若い[[艦上攻撃機]]パイロットだった。退役するまでパイロットとして1228時間の飛行時間を記録し、126回の空母着艦を成功させたが、2度の被撃墜も経験した。 [[少尉]]時代の[[1944年]]に参加した[[マリアナ沖海戦]]では日本機の銃撃によって乗機の[[TBF (航空機)|TBF-1C]]を、中尉時代の[[1944年]][[9月2日]]には[[小笠原諸島]]沖で[[父島]]地上砲台の対空砲火を浴びて乗機の[[TBF (航空機)|TBM]]を撃墜されているが{{efn|撃墜の様子を[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]に所属していた[[岩竹信明]]が目撃しており、彼によればブッシュは墜落の寸前まで機内に留まっていたという<ref>{{Cite web|和書|title=奇縁でつながったブッシュ大統領と義父 |url=https://www.kasumigasekikai.or.jp/2019-02-22-1/ |accessdate=2022-01-23 |publisher=一般社団法人[[霞関会]] |date=2019-02-22 |author=松永大介 |authorlink=松永大介 (外交官)}}</ref>。}}、いずれも味方に救助され生還している。 2度目の際には敵地近くであり、同乗していた砲塔機銃手ウィリアム・ホワイト中尉と通信士ジョン・デラニー二等兵曹は戦死し自身も4時間に渡って漂流して捕虜になる危機を迎えた。当時9度目の哨戒任務で同海域にいた[[ガトー級潜水艦]]「[[フィンバック (潜水艦)|フィンバック]]」に救助された。この父島では後に[[小笠原事件]]が起きたとされる。この経験から「[[ヤハウェ|神]]はなぜ自分を生かしたのか?自分に示された神の意図は何か?」と自問するようになる<ref>Gary S. Smith: [https://www.christianpost.com/news/the-faith-of-george-h-w-bush-189108/ The Faith of George HW Bush] The Christian Post(2017年6月26日)</ref>。 翌月までフィンバックで勤務し撃墜されたパイロットの救助にあたった。11月にサン・ジャシントに戻りフィリピン作戦に参加した。ブッシュは彼の飛行隊がアメリカに帰国するまで1944年を通じて58回の戦闘に参加し、[[殊勲飛行十字章]](2度目の被撃墜の際の爆撃の成功によるもの)、さらに[[エア・メダル]]を3回、サン・ジャシントに対する殊勲部隊章({{en|Presidential Unit Citation}})1回と全部で5個の[[勲章]]を受章した。その後、海軍中尉にまで昇進し退役した。 ===帰還後=== 太平洋から帰還して数週間後の1945年1月6日、[[バーバラ・ブッシュ|バーバラ・ピアス]]とライ(ニューヨーク州)で結婚し、[[#家族|6人の子供]]をもうけた。カップルの最初の住居は[[ミシガン州]]{{仮リンク|トレントン (ミシガン州)|label=トレントン|en|Trenton, Michigan}}の小さな賃貸アパートだった。 帰国後は[[イェール大学]]に進学し、2年半で卒業した。在学中は大学の野球チームに所属して腕利きの一塁手として鳴らし、キャプテンとしてチームをカレッジワールドシリーズに導いた。卒業の年のシリーズでは、試合前に[[ベーブ・ルース]]とも対面している。 入学した年には父のプレスコット・ブッシュも属した[[秘密結社]]である[[スカル・アンド・ボーンズ]]に加入した。 1948年には経済学の学士号を取得し卒業している。その後は地元テキサス州でオイルビジネスに従事した。 ===CIAとの関わり=== ジョージ・ブッシュはイェール大学卒業後に土木・建築事業の[[コングロマリット]]で、[[CIA]]と緊密に協力していた{{仮リンク|ドレッサー・インダストリーズ|en|Dresser Industries}}(現在の[[ハリバートン]]<ref name="dr2">{{cite web|url=http://www.dresser-rand.com/aboutus/history6.asp|title=Dresser-Rand history 1995-1999|publisher=Dresser-Rand|accessdate=2009-04-24|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090303102640/http://www.dresser-rand.com/Aboutus/history6.asp|archivedate=2009-03-03}}</ref>)の子会社アイデコ(インターナショナル・デリック・アンド・エクイップメント・カンパニーの略)のセールスマンになり、アイデコ社のサービスを共産圏も含めた世界各国で営業して回るという仕事を与えられた。ブッシュは[[アレン・ウェルシュ・ダレス|アレン・ダレス]]のスパイだったジョージ・ド・モーレンシルツという[[ロシア]]の[[伯爵]]と頻繁に接触し、CIAが欲しがるような共産圏の石油関連情報を収集し、CIAに提供していたという。 彼にこの重要な仕事を与えたのはドレッサー・インダストリーズの{{仮リンク|ヘンリー・ニール・マロン|en|Henry Neil Mallon}}社長であった。マロン社長は父の[[プレスコット・ブッシュ|プレスコット]]のイェール大学の同級生で、ブッシュ家と親しい間柄であった。またマロン社長はアレン・ダレスとも親密な関係を持ち、将来有望なスパイ候補者を頻繁にダレスのもとに送ったり、CIAの工作のためにスパイに偽装の職場を提供したりと、CIAと緊密に協力していた。ジョージ・ブッシュは[[1953年]]にはザパタ石油会社を立ち上げ、CIAが[[メキシコ]]での工作活動に乗り出した[[1959年]]には、CIAの活動に積極的に協力した<ref>菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.231-239</ref>。 [[1963年]]、[[連邦捜査局|FBI]]はブッシュをCIAの職員と証拠づけるもブッシュは否定しなかった<ref>"The Man Who Wasn't There: 'GEORGE BUSH,' C.I.A. OPERATIVE". The Nation. July 1988</ref>。その後もブッシュはCIA長官に就任し、CIA本部にその名前を冠するまで強い繋がりをCIAと持ち続けた<ref name=cnn1999/>。 == 政治経歴 == === 連邦下院議員 === [[File:George Herbert Walker Bush and Eisenhower 1.jpg|thumb|220px|[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]と共に]] [[ファイル:George Bush as United States Liaison to China, 1974-1975 - NARA - 186378.tif|thumb|220px|米中連絡事務所所長時代に[[天安門]]にて([[1975年]])]] [[1964年]]、ブッシュはテキサスの共和党員[[ジョン・タワー]]上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の[[ラルフ・ヤーボロー]]上院議員に対抗して上院議員選挙に出馬し、政治家に乗り出した。 ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らが[[ニューヨーク証券取引所]]の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。 ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から[[アメリカ合衆国下院|連邦下院議員]]に選任された。彼はその後[[1970年]]に民主党の[[予備選挙]]でヤーボローを破った[[ロイド・ベンツェン]]に2度目の[[アメリカ合衆国上院|連邦上院議員]]選挙で敗れた。 === 国際連合大使と中央情報長官 === ブッシュは1970年代を通して、[[リチャード・ニクソン]]および[[ジェラルド・R・フォード|ジェラルド・フォード]]の2人の共和党の大統領の下で共和党全国委員会委員長・[[アメリカ合衆国国際連合大使|国際連合大使]]・[[中華人民共和国]]への特命全権公使(米中連絡事務所所長)・危機委員会評議員などの要職を歴任した。当初、大統領であるフォードはブッシュを副大統領候補に検討していたが、ブッシュの選挙キャンペーンにニクソンの秘密資金が流入していた疑惑を特別検察官が捜査していた為に[[ネルソン・ロックフェラー]]を選択したとされる<ref>Meacham, Jon (2015). Destiny and Power: The American Odyssey of George Herbert Walker Bush. Random House. ISBN 978-1-4000-6765-7. pp. 176–177</ref>。 リチャード・ニクソン政権で国際連合大使として中華人民共和国の[[国際連合]]加盟を認めた[[アルバニア決議]]やそれに伴う次期[[国際連合事務総長]]の選出をめぐるアメリカ合衆国と[[ソビエト連邦]]と[[中華人民共和国]]の三つ巴の駆け引きへの対応に追われ<ref>{{cite news |last1=Szulc |first1=Tad |title=Correct but Relaxed Dealings With Chinese Urged by Bush |url=https://www.nytimes.com/1971/11/09/archives/correct-but-relaxed-dealings-with-chinese-urged-by-bush.html |work=The New York Times |date=November 9, 1971 }}</ref>。<ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=United Nations, 1969–1972 |series=Foreign Relations of the United States, 1969–1976 |volume=V |editor-last=Duncan |editor-first=Evan M. |year=2004 |location=Washington |publisher=United States Government Printing Office |title=Telegram From the Mission to the United Nations to the Department of State, December 22, 1971, 0356Z |url=https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1969-76v05/d247%20Document%20247}}</ref>、米中連絡事務所所長となった際は訪中した当時の大統領フォードに同行、[[中華人民共和国主席]]だった[[毛沢東]]とも2度会見した<ref>{{Cite web|title=The Bush family and China|publisher=[[中国日報]]|accessdate=2019-02-27|url=https://www.chinadaily.com.cn/china/09usofficials/2009-05/31/content_7956346.htm}}</ref>。事実上の特命全権公使として中国で過ごした経験は世界の問題に対するアメリカの強い関与の必要性をブッシュに確信させたとされる<ref>Meacham (2015), p. 181</ref>。 1年間と短い期間ではあったが、[[アメリカ合衆国中央情報長官|中央情報長官]]([[中央情報局|CIA]]長官)([[1976年]][[1月30日]] – [[1977年]][[1月20日]])も務め、中国への赴任直後であった為驚きを持って受け取られた。CIA長官就任後最初に直面した問題は、[[アンゴラ]]の[[共産化]]を防ぐことであった。しかし、[[1975年]]11月当時は[[ソビエト連邦]]と[[キューバ]]の大規模な支援を受けて[[アンゴラ人民共和国]]を建国した[[アンゴラ解放人民運動]](MPLA)が軍事的に優勢だった。[[ベトナム戦争]]で他国への介入に否定的となっていたアメリカ議会は中国と[[ザイール]]に支援された[[アンゴラ民族解放戦線]] (FNLA)に対する欧米の援助を問題視し、[[1976年]]に{{仮リンク|クラーク修正法|en|Clark Amendment}}でアンゴラの反政府組織への援助を禁止した。しかし、ブッシュCIA長官はこれを拒否し<ref>Koh, Harold Hongju (1990). The National Security Constitution: Sharing Power After the Iran-Contra Affair. Yale University Press. ISBN.p. 52</ref><ref>Fausold, Martin L.; Alan Shank (1991). The Constitution and the American Presidency. SUNY Press. ISBN. Pages 186-187.</ref>、イギリス[[陸軍特殊空挺部隊]](SAS)の元隊員で構成される[[傭兵部隊]]を使ってアンゴラの対ソ秘密作戦を展開した。この秘密作戦は一定の成功を収め、[[アンゴラ内戦]]は泥沼化した<ref>菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.239-242</ref>。同年には[[エジプト]]や[[サウジアラビア]]などによる[[アフリカ]]の反共反ソ同盟{{仮リンク|サファリ・クラブ|en|Safari Club}}の結成を[[国際商業信用銀行]](BCCI)を通じて支援した<ref>Trento, Joseph J. Prelude to Terror: Edwin P. Wilson and the Legacy of America's Private Intelligence Network. New York: Carroll & Graf (Avalon), 2005. ISBN 9780786717668 p. 104.</ref>。また、[[ラテンアメリカ]]の[[親米]][[軍事政権|軍事独裁政権]]による[[コンドル作戦]]も支援したとされる<ref>{{cite news |title=Where Gerald Ford Went Wrong |url=http://baltimorechronicle.com/2007/010207Parry.shtml |work=The Baltimore Chronicle |date=2007}}</ref><ref>{{cite news |title=FIFA's Dirty Wars |url=https://newrepublic.com/article/146303/fifas-dirty-wars |work=The New Republic |date=December 15, 2017}}</ref><ref>{{cite news |title=Quand Pinochet tuait hors du Chili |url=https://www.lexpress.fr/actualite/monde/amerique-sud/quand-pinochet-tuait-hors-du-chili_491779.html |work=L'Express |date=October 30, 1999}}</ref> === 副大統領 === ====ロナルド・レーガンからの信頼==== [[ファイル:1981 US Cabinet.jpg|220px|thumb|[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]を務めた[[ロナルド・レーガン]]政権の閣僚と共に(1981年2月4日)]] [[File:George HW Bush, Nancy Reagan, Raisa Gorbachova 1987-12-08 C44086-07.jpg|220px|thumb|[[ナンシー・レーガン]]と[[ライサ・ゴルバチョワ]]と共に(1987年)]] 1980年、ブッシュは共和党の大統領候補への正式指名を争う予備選挙に出馬する。そこでブッシュは、学界では批判の多い[[サプライサイド経済学]]に基づく[[レーガノミクス|レーガンの経済政策]]を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗してしまう。 共和党大会直前に[[ロナルド・レーガン]]に副大統領候補として指名され、1981年1月20日に副大統領に就任する。ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。レーガンも同年3月30日の[[レーガン大統領暗殺未遂事件|銃撃事件]]で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断った事をきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。 ====外交==== ブッシュは元CIA長官や元危機委員会評議員を務めていたように、[[外交]]・[[安全保障]]に並々ならぬ関心を持った副大統領であり、結果として2期8年の任期をレーガン政権の副大統領として勤めた。 ブッシュは[[ホワイトハウス]]内の危機管理センターという独自情報機関の責任者に就任し、様々な危機への対応策を計画・実施した。その一つが[[イラン・コントラ事件|イラン・コントラ秘密工作]]であった。この悪名高い工作はブッシュ副大統領率いる危機管理センターのSSGで計画が練られ、ウィリアム・ケーシー[[CIA長官]]が中心となって実施した。ブッシュやケーシーらは反共勢力を支援するために[[ラテンアメリカ]]の麻薬王とも手を組んだ為、アメリカ国内への[[麻薬]]の流入も急増した<ref>菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.242-259</ref>。後に敵対することになる[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]政権との国交正常化と[[イラン・イラク戦争]]での対イラク援助の決定にも関わり<ref>アラン・フリードマン「だれがサダムを育てたか アメリカ兵器密売の10年」第2部</ref>、「'''イラクゲート'''」と呼ばれる{{仮リンク|フセイン政権に武器援助を行った疑惑|en|United States support for Iraq during the Iran–Iraq War}}で追及されることになる。 [[アフガニスタン]]の[[ムジャヒディン]]と呼ばれる[[イスラム教徒]]の[[ゲリラ]]に対する支援は[[ジミー・カーター|カーター]]政権で開始されたが、[[ロナルド・レーガン|レーガン]]政権になると、ブッシュ副大統領とケーシーCIA長官が中心となってさらに大がかりな支援活動を行った。アメリカ製の[[スティンガーミサイル|スティンガー対空ミサイル]]を供与し、軍事訓練を施すためにアメリカ軍特殊部隊を派遣した。そして世界中から約3万5千人の急進派のイスラム教徒を呼び集めて[[パキスタン]]と中国<ref>S. Frederick Starr (2004). Xinjiang: China's Muslim Borderland (illustrated ed.). M.E. Sharpe. p. 158. ISBN 0-7656-1318-2. Retrieved May 22, 2012.</ref>で軍事訓練を施し、アフガニスタンで[[ソビエト連邦軍]]と戦わせた。その中には[[ウサーマ・ビン・ラーディン|オサマ・ビン・ラディン]]がいた。また、[[サウジアラビア]]からイスラム急進派をアメリカに入国させ、軍事訓練を施してアフガニスタンに送り込むという工作も行ったとされる<ref>菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.260-264</ref>。 ブッシュらの秘密工作はソビエト連邦の弱体化に成功して冷戦終結に貢献したが、[[中南米]]での麻薬の氾濫・[[中東]]での[[イスラム過激派]]の[[テロリスト]]の増長という負の遺産を残した<ref>菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、pp.265-268</ref>。 ====バーバラの貢献==== バーバラも副大統領夫人として様々な公務にあたった。力を入れた事業として[[識字率]]の向上を推進する活動があった。動機として三男のニールが[[ディスレクシア|識字障害]]に苦しんだことがあった。バーバラは識字率を高めることは貧困を減らすことだと信じていた<ref name=flotus>[http://www.firstladies.org/biographies/firstladies.aspx?biography=42 First Lady Biography: Barbara Bush]</ref>。 === 1988年アメリカ合衆国大統領選挙 === [[File:George H. W. Bush and Dan Quayle at the 1988 Republican National Convention.jpg|220px|thumb|[[ダン・クエール]]と共に(1988年)]] 2期8年に渡ってロナルド・レーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]では、[[ボブ・ドール]]や[[ドナルド・ラムズフェルド]]などを破って選出された。本選挙では[[ロイド・ベンツェン]]を副大統領候補に選択した[[マサチューセッツ州]]の[[マイケル・デュカキス]]州知事に地滑り的な大勝をおさめた。現職の副大統領としては[[マーティン・ヴァン・ビューレン|マーティン・ヴァンビューレン]]以来152年ぶりに4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実に[[ジョン・アダムズ]]以来192年ぶりに2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選挙が不利になる」というジンクスを覆した。 '''→ 詳細は「[[1988年アメリカ合衆国大統領選挙]]」の項を参照。''' == 大統領職 == === 大統領 === [[File:1989 Presidential Inauguration, George H. W. Bush, Opening Ceremonies, at Lincoln Memorial (3198999311).jpg|thumb|220px|大統領就任式(1989年1月20日)]] [[File:PanamaM-113JustCauseUS-Invasion.jpg|right|220px|thumb|パナマに展開するアメリカ陸軍の[[M113装甲兵員輸送車|M113]](1989年12月21日)]] [[File:Bush_senior_und_Hans-Dietrich_Genscher.jpg|thumb|220px|ベルリンの壁の一部を贈るドイツの[[ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー|ゲンシャー]]外相と共に(1989年11月21日)。]] [[File:Bush and Gorbachev at the Malta summit in 1989.gif|thumb|220px|ゴルバチョフと共に(1989年12月2日)。]] [[File:Bush saudi arabia.jpg|thumb|220px|[[アメリカ中央軍|中央軍]]司令官の[[ノーマン・シュワルツコフ]]と[[サウジアラビア]]で(1990年)]] [[ファイル:President Bush greets General H. Norman Schwarzkopf who leads the Desert Storm Homecoming Parade in Washington, D.C - NARA - 186434.jpg|thumb|220px|湾岸戦争勝利パレードにて、シュワルツコフらの敬礼を受ける(1991年6月8日)。]] [[File:Barbara and George Bush 30884600.jpg|thumb|220px|ファーストレディのバーバラと共に]] [[ファイル:President Bush, Canadian Prime Minister Brian Mulroney and Mexican President Carlos Salinas participate in the... - NARA - 186460.jpg|thumb|220px|[[北米自由貿易協定]]調印(1992年)]] [[File:16th G7 summit member 19900709.jpg|thumb|220px|ヒューストンサミット (1990年)]] [[File:17th G7 summit member 19910715.jpg|thumb|220px|ロンドンサミット (1991年)]] 1989年1月20日、[[1989年ジョージ・H・W・ブッシュ大統領就任式|第41代アメリカ合衆国大統領に就任]]した。副大統領には保守派からの支持をと[[アメリカ合衆国中西部|中西部諸州]]での得票が見込まれる事からクエールに白羽の矢が立った。 ===パナマ侵攻=== ブッシュが最初に取り組んだのは[[麻薬戦争]]だった。ブッシュはその一環として中南米で麻薬交易の中継となっている[[パナマ]]の[[マヌエル・ノリエガ|ノリエガ]]政権との対立を深めた。 ノリエガは1989年5月に行われた大統領選挙に自派の{{ill2|カルロス・ドゥケ|en|Carlos Duque}}を出馬させたが、当選したのは反ノリエガ派の{{ill2|ギジェルモ・エンダラ|en|Guillermo Endara}}であった。しかしノリエガはアメリカの干渉があったとして軍をあげて選挙の無効を宣言し、{{ill2|フランシスコ・ロドリゲス (パナマの大統領)|en|Francisco Rodríguez (President of Panama)|label=フランシスコ・ロドリゲス}}会計院長を大統領とし、権力の保持を図った。この動きを受けて5月には[[暴動]]が発生しただけでなく、9月30日には再びクーデター未遂事件が発生した。12月15日にノリエガは議会によって「最高の政治指導者」としての地位を承認させ、独裁体制の継続を誇示した{{sfn|富田与|2003|pp=159}}。 12月20日、ブッシュは'''パナマ在住アメリカ人の保護・パナマ運河条約の保全・ノリエガの拘束'''を主目的とする'''ジャスト・コーズ作戦'''({{en|Operation Just Cause}})の発動を命令した。15分前にはエンダラを大統領として宣誓させている。ブッシュはこの侵攻をノリエガの煽動に対するアメリカの自衛権発動であると主張している。2万4000人のアメリカ軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、1990年1月に逮捕されてアメリカ国内で40年の[[禁錮|禁固]]刑を受けた。 ===冷戦終結=== 1989年11月の[[ベルリンの壁崩壊]]を受けて、ブッシュは第二次世界大戦の真の終結をもたらすと考えて[[ドイツ再統一]]を支援した<ref>Meacham, Jon (2015). Destiny and Power: The American Odyssey of George Herbert Walker Bush. Random House. ISBN 978-1-4000-6765-7. pp. 400–402</ref>。さらに同年12月3日に地中海における[[マルタ会談]]で、[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[ミハイル・ゴルバチョフ|ゴルバチョフ]]書記長と会談し、'''[[冷戦]]の終結'''を宣言した。これを標語的に「'''ヤルタからマルタへ'''({{en|"From Yalta to Malta"}})」という。 この会談にはソビエト連邦側からは[[エドゥアルド・シェワルナゼ]]外相、アメリカ合衆国側からは[[ジェイムズ・ベイカー (国務長官)|ジェイムズ・ベイカー]][[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]および[[ブレント・スコウクロフト]][[国家安全保障問題担当大統領補佐官]]などが同席している。ブレント・スコウクロフトをはじめとするアメリカ政権内では、当初からマルタ会談は「時期尚早」としてソ連のスタンドプレーを許す結果になるとして反対していたが、[[フランス]]の[[フランソワ・ミッテラン|ミッテラン]][[フランスの大統領|大統領]]・[[イギリス]]の[[マーガレット・サッチャー|サッチャー]][[イギリスの首相|首相]]をはじめとする[[ヨーロッパ]]首脳および[[アメリカ合衆国議会|アメリカ連邦議会]]はゴルバチョフとの対談を説得して実現した。 ===湾岸戦争=== マルタ会談から8ヶ月後の1990年8月2日に[[イラク軍]]は隣国であるクウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対して諸外国は第2次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた<ref name="hakusho1991">{{Cite web|和書|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1991/w1991_01.html|title=平成3年度 防衛白書|publisher=防衛省|accessdate=2010-11-15}}</ref>。さらにイラクは8月18日にクウェートから脱出出来なかった外国人を自国内に強制連行し、「[[人間の盾]]」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本・ドイツ・アメリカ・イギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。 [[国際連合安全保障理事会]]はイラクへの即時撤退を求めると共に、11月29日に武力行使容認決議である[[国際連合安全保障理事会決議678]]をアメリカ合衆国およびソビエト連邦は一致して可決してマルタ会談と共に当時の[[冷戦]]の終結を象徴し、ブッシュは[[新世界秩序]]を掲げた<ref>{{Cite web|url=https://www.washingtonpost.com/archive/politics/1990/09/12/bush-out-of-these-troubled-times-a-new-world-order/b93b5cf1-e389-4e6a-84b0-85f71bf4c946/|title=BUSH 'OUT OF THESE TROUBLED TIMES . . . A NEW WORLD ORDER'|publisher=[[ワシントン・ポスト]]|date=1990-09-12|accessdate=2019-12-28}}</ref>。 1991年1月17日、ブッシュは軍部隊をサウジアラビアへ展開し、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」<ref>{{lang-en-short|Operation Desert Storm}}</ref>)を開始した。同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけ、第2次世界大戦以来の連合となった<ref>"The Unfinished War: A Decade Since Desert Storm". CNN In-Depth Specials. 2001.</ref>。このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。 アメリカ軍を主とする[[多国籍軍]]はクウェートからイラク軍を撃退し、[[サウジアラビア]]の防衛を保証した。ただしイラクのサッダーム・フセイン政権の打倒までは行わず、あくまで[[制裁戦争]]であった。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、ブッシュの[[支持率]]は当時歴代最高の89パーセントに急上昇した<ref>Waterman, Richard W. (1996). "Storm Clouds on the Political Horizon: George Bush at the Dawn of the 1992 Presidential Election". Presidential Studies Quarterly. 26 (2): 337–349. JSTOR 27551581. p. 337</ref>。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後に多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。この戦争でアメリカ合衆国は世界最強の軍事力を誇示し、さらに同年12月の[[ソビエト連邦の崩壊]]によって世界唯一の超大国としての地位を確立した。 ===ファーストレディ=== ジョージ・H・W・ブッシュが1988年アメリカ合衆国大統領選挙に当選し、ファーストレディとなったバーバラは贅沢品に囲まれて高慢なイメージの[[ナンシー・レーガン]]とは全く異なり、就任式後の晩餐会に29ドルの靴を履いて出たと報じられるなど、親しみやすいキャラクターとして人気を得た<ref name=flotus/>。 その「親しみやすさ」は決して作られたイメージでは無く、率直な物言いと鷹揚な性格で[[ホワイトハウス]]の中でも職員たちを家族のように分け隔てなく接した<ref>『使用人が見たホワイトハウス』ケイト・アンダーセン・ブラウワー著 [[光文社]] 2016年 p82、185-192</ref>。また、初めてアフリカ系アメリカ人の秘書官を任命したファーストレディとなった<ref name=flotus/>。 ファーストレディとしてセカンドレディ時代の事業を更に格上げして「バーバラ・ブッシュ・ファミリー・リテラシー財団」を設立し、多くのホームレス・移民を援助した<ref name=flotus/>。識字、教育こそが貧困を無くすと、人気番組『[[オプラ・ウィンフリー・ショー]]』に出演して教育の重要性を訴え、ABCラジオにて自身の冠番組'''ミセス・ブッシュズ・ストーリー・タイム'''を持ち、子供たちに語りかけた<ref name=flotus/>。 1990年に出版した'''ミリーズ・ブック:アズ・ディクテーテッド・トゥ・バーバラ・ブッシュ'''(邦題:『ミリー・ブッシュはファースト・ドッグ』)はベストセラーとなり、この本から得た印税は財団に寄付された<ref>[http://www.apnewsarchive.com/1992/-Millie-s-Book-Makes-First-Lady-the-Big-Breadwinner/id-40dedba6c83622b623dc03dd37450906 'Millie's Book' Makes First Lady the Big Breadwinner] [[AP通信]]、1992年4月16日</ref>。 1990年に[[ウェルズリー大学]]で行った演説は大きな反響を呼んだ。多くの学生は彼女を「つまらない主婦」と見做し、決して歓迎されなかったのだが、演説が終わると本人も驚くような喝采を浴びた。この演説は「20世紀のアメリカの演説ベスト100」において45位に選ばれている<ref>[http://www.americanrhetoric.com/top100speechesall.html American Rhetoric's Top 100 Speeches of the 20th Century]</ref>。長女のロビンを白血病で亡くしたことから、白血病患者への支援も熱心に行った<ref name=flotus/>。 ===外交=== ====対日==== 対日関係ではアメリカ国内の[[双子の赤字]]解消問題と日本の[[バブル経済]]を背景に、日米構造協議において多くの[[自由民主党 (日本)|自民党]]議員の票田である農作物で米・牛肉などの輸入自由化を求める一方で、日本経済の柱となる自動車産業のアメリカへの輸出を大幅に規制させるなど、日本に対して大統領としては異例と言える[[保護貿易]]主義を取った。 [[ジャパンバッシング]]なる言葉が流行するほどに問題化し、日本国内の左派だけでなく各種族議員を中心とする保守派議員などからも激しい反発が起きた。この件がきっかけとなり、後に[[年次改革要望書]]が作成される事になる。なお1989年2月24日に[[昭和天皇]]の葬儀「[[大喪の礼]]」に出席した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202205230000424.html|title=バイデン大統領、ディナーは「八芳園」/歴代大統領初来日時のおもてなし一覧|publisher=日刊スポーツ|date=2022-05-23|accessdate=2022-05-23}}</ref>。 国防関係では[[湾岸戦争]]における[[自衛隊]]派遣問題・資金援助をめぐり日本政府与党や左派勢力と激しく対立し、多額の資金援助を行ったにもかかわらず日本への謝意が演説で述べられなかったことなどから、「金だけ出して人出さない」「大枚をはたかされた上に礼の一言も言われない」など左右両派で議論を呼んだ。 ====対中==== 対中関係では[[六四天安門事件]]で[[経済制裁]]を行うも、議会と対立してまで最恵国待遇を更新するなど制裁全面化に消極的であり<ref>{{cite web |last= |first= |title=U.S. GRANTS BOEING A WAIVER TO SELL JETLINERS TO CHINA |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |url=http://www.nytimes.com/1989/07/08/business/us-grants-boeing-a-waiver-to-sell-jetliners-to-china.html|date=July 8, 1989|accessdate=2017-12-26}}</ref><ref>{{cite web |last= |first= |title=PRESIDENT WAIVES SOME CHINA CURBS |publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]] |url=http://www.nytimes.com/1989/12/20/world/president-waives-some-china-curbs.html|date=December 20, 1989|accessdate=2017-12-26}}</ref>、当時の中国の最高指導者である[[鄧小平]]には書簡で「先日のサミットの共同宣言の草案には中国を過度に非難する文言があったが、アメリカと日本が取り除いた。アメリカ議会は中国との経済関係を断ち切ることを求めているが、私は波風を立てないよう全力を尽くす」と述べていた<ref>George Bush『All the Best, George Bush: My Life in Letters and Other Writings』435頁 1999年 ISBN 978-1501106675</ref>。秘密裏に[[ヘンリー・キッシンジャー]]やブレント・スコウクロフトを中国に派遣して民主化運動家の[[方励之]]の出国をめぐる交渉を行ったとされる<ref name="Kissinger">{{cite book|title=Henry Kissinger: On China|publisher=Allen Lane|author=Kissinger, Henry|year=2011|location=United States|isbn=978-1-84614-346-5}} p.429</ref><ref>Spence, Jonathan D. ''Kissinger and China'', The New York Review of Books, June 2011.</ref><ref name=nyrb2011>"My "Confession", Fang Lizhi, translated by Perry Link. The New York Review of Books, 2011.</ref>。方励之の出国を条件に融資再開を日本は中国に持ちかけたともされ<ref name=nyrb2011/>、ブッシュは[[第16回先進国首脳会議]]で対中円借款再開を表明した日本の[[海部俊樹]]首相に同調した<ref>{{cite web |last= |first= |title=COLUMN ONE : China Taps Into World Coffers : The story of Beijing's successful run on the World Bank is a tale of persistence (by China), of avarice (in Western Europe and Japan) and of intrigue (by the Bush Administration) |publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]] |url=http://articles.latimes.com/1992-10-30/news/mn-985_1_world-bank-loans/|date=1992-10-30|accessdate=2017-12-26}}</ref>。 また、国際連合での対イラク武力行使容認決議の際には中国が[[国際連合安全保障理事会における拒否権|拒否権]]を行使しなければ天安門事件以来の制裁の緩和と[[銭其琛]][[中華人民共和国外交部長|外交部長]]のアメリカ訪問を受け入れると取引を持ちかけたことから中国は棄権して可決できた<ref>{{cite book|last=Benewick|first=Robert|author2=Wingrove, Paul |title=China in the 1990s|publisher=UBC Press|year=1999|edition=2|pages=240|isbn=978-0-7748-0671-8}}</ref><ref>New York Times, 2 Dec. 1990 "Mideast Tensions: How U.S. Won Support to Use Mideast Forces The Iraq Resolution: A U.S.-Soviet Collaboration"</ref>。 かつて米中連絡事務所所長を務めた中国滞在経験や兄のプレスコットと息子の[[ニール・ブッシュ]]が[[中国共産党|共産党政府]]とビジネスもしていたため、後の[[2008年北京オリンピックの開会式|北京オリンピック開会式]]の親子揃っての出席に象徴されるように[[親中]]派だったとも評されている<ref>{{cite news|last= |first= |title=George H.W. Bush's China connection |publisher=[[日本経済新聞]] |url=https://asia.nikkei.com/Life-Arts/Obituaries/George-H.W.-Bush-s-China-connection|date=2018-12-01|accessdate=2020-01-04}}</ref>。 === ブッシュ政権の閣僚 === {|class=wikitable align=left !職名!!氏名!!任期 |- |[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]||'''ジョージ・H・W・ブッシュ'''||1989 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]||'''[[ダン・クエール]]'''||1989 - 1993 |- |rowspan=2|[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]||'''[[ジェイムズ・ベイカー (国務長官)|ジェイムズ・ベイカー]]'''||1989 - 1992 |- |'''[[ローレンス・イーグルバーガー]]'''||1992 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]||'''[[ニコラス・ブレイディ]]'''||1989 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]]||'''[[リチャード・チェイニー]]'''||1989 - 1993 |- |rowspan=2|[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]||'''{{仮リンク|リチャード・ソーンバーグ|en|Dick_Thornburgh}}'''||1989 - 1991 |- |'''[[ウィリアム・P・バー]]'''||1991 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]]||'''{{仮リンク|マヌエル・ルージャン|en|Manuel_Lujan_Jr.}}'''||1989 - 1993 |- |rowspan=2|[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]]||'''{{仮リンク|ロバート・モスバカー|en|Robert_Mosbacher}}'''||1989 - 1992 |- |'''{{仮リンク|バーバラ・フランクリン|en|Barbara_Franklin}}'''||1992 - 1993 |- |rowspan=2|[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]]||'''[[エリザベス・ドール]]'''||1989 - 1991 |- |'''{{仮リンク|リン・マーティン|en|Lynn_Morley_Martin}}'''||1991 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]||'''[[クレイトン・キース・ヤイター]]'''||1989 - 1991 |- |align=";left"|&nbsp;||'''[[エドワード・レル・マディガン]]'''||1991 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国保健福祉長官|保健福祉長官]]||'''[[ルイス・ウェイド・サリヴァン]]'''||1989 - 1993 |- |rowspan=2|[[アメリカ合衆国教育長官|教育長官]]||'''[[ラウロ・フレッド・カヴァゾス]]'''||1989 - 1990 |- |'''[[アンドリュー・ラマー・アレクサンダー|アンドルー・ラマー・アレグザンダー]]'''||1991 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国住宅都市開発長官|住宅都市開発長官]]||'''[[ジャック・ケンプ]]'''||1989 - 1993 |- |rowspan=3|[[アメリカ合衆国運輸長官|運輸長官]]||'''{{仮リンク|サミュエル・スキナー|en|Samuel_K._Skinner}}'''||1989 - 1991 |- |'''[[ジェームズ・B・ブゼイ|ジェームズ・ブゼイ]]'''||aling="left"|1991 - 1992 (代理) |- |'''[[アンドルー・カード]]'''||1992 - 1993 |- |[[アメリカ合衆国エネルギー長官|エネルギー長官]]||'''[[ジェームズ・ワトキンス]]'''||1989 - 1993 |- |rowspan=2|[[アメリカ合衆国退役軍人長官|退役軍人長官]]||'''[[エド・ダーウィンスキ|エドワード・ダーウィンスキー]]'''||1989 - 1992 |- |'''[[アンソニー・プリンシピ]]'''||aling="left"|1992 - 1993 (代理) |} {{clear}} === 1992年アメリカ合衆国大統領選挙 === [[File:President and Mrs. Bush tour the Illinois Farm Exposition at the Illinois State Fairgrounds and addresses the Springfield Community in Springfield, IL b.jpg|thumb|220px|1992年アメリカ合衆国大統領選挙にて]] 再選をかけた1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、1991年2月28日に湾岸戦争に勝利して[[中東和平会議]]を開き、1992年から'''[[ソマリア内戦]]'''にも介入し、[[北米自由貿易協定]]調印したことなど対外的成果を強調して[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙]]に挑んだ。 しかし、湾岸戦争後の緩やかな景気後退や4年前の選挙の「増税はしない」という公約を反故にしていたこと、更に4年前と同様の戦術である[[ネガティブ・キャンペーン]]が今度は裏目に出たことなどの条件が重なり、[[アーカンソー州知事]]で民主党の[[ビル・クリントン]]に敗北した。本人は敗因として景気が悪化しているのにFRB([[連邦準備制度理事会]])が利下げを行わなかった為だと不満を示した。なお現職の大統領としては1976年の[[ジェラルド・フォード]]、1980年の[[ジミー・カーター]]に続いて戦後3人目の不名誉な敗北となった。 '''→ 詳細は「[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙]]」の項を参照。''' == 大統領退任後 == ===後任との仲=== [[Image:FordNixonBushReaganCarter.jpg|220px|thumb|左から[[ジェラルド・R・フォード]]、[[リチャード・ニクソン]]、ブッシュ、[[ロナルド・レーガン]]、[[ジミー・カーター]]]] [[ファイル:George H. W. Bush, Laura Bush, George W. Bush 1997.jpg|thumb|220px|息子のジョージ・ブッシュ、妻のローラと(1997年11月6日)]] [[Image:20061007-1 ghwbush5-746v.jpg|thumb|220px|空母「ジョージ・H・W・ブッシュ」の進水式<br /> ---- <small>左から息子の[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領(当時)、本人、施工主である[[ノースロップ・グラマン]]のマイク・ペタース社長、娘の[[:en:Dorothy Bush Koch|ドロシー・ブッシュ・コッチ]]。(2006年10月7日)</small>]] 大統領選挙での敗北後、ブッシュは慣例にしたがって退任した。<!--後任のビル・クリントンにホワイトハウスを引き渡す時、ジョークとしてホワイトハウスのスタッフが複数のドアノブを取り外したり、キーボードのキートップを外す、鉛筆を小さく削るなどのいやがらせを行ったという。--><!-- 本人の事績ではない --><!--現在ブッシュはテキサス州ヒューストンで、時折パラシュートダイビングをして暮らしている。--><!-- ?? -->特に息子がテキサス州の知事となり、共和党の有力な大統領候補として頭角を現すようになってからはその妨げとならないよう、他の退任した大統領よりも増して公の場には極力姿を表さないよう心がけていた。 そのブッシュを再び表舞台に登場させたのが、意外にも後任の大統領であるビル・クリントンだった。クリントンは自らの退任後、2005年に行われた[[スマトラ島沖地震]]の[[津波]]災害救援特使としてブッシュと特別機で同行した際に、選挙戦でのわだかまりが解け、「元大統領」としてブッシュを様々な非政治的な式典や被災地の慰問などに誘うこととなった<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-12-07|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/24288?internal=top_firstview_05 |title=故ブッシュ元大統領とクリントンとの友情「敵はいつまでも敵ではない」 |publisher= Forbes|accessdate=2018-12-07}}</ref>。 そうしたことから両者の仲は極めて親密なものとなり、その関係は相互の家庭を時折訪問するほどまでになった。息子の嫁の[[ローラ・ブッシュ|ローラ]]夫人はその親密ぶりを「うちの家族にはミスター・プレジデントが3人もいるんですよ」と評したこともある。 ===親子大統領=== 息子のジョージ・W・ブッシュも[[アル・ゴア]]前副大統領との大接戦の末に2代後の大統領となった。そして2001年9月に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ事件]]の後の同年10月に、世界的な「[[対テロ戦争|テロとの戦い]]」を発表して[[米国愛国者法|アメリカ愛国者法]]を成立させた。湾岸戦争時の父親同様に、ジョージ・W・ブッシュも「戦時大統領」と呼ばれた。 そして[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|2001年アフガニスタン紛争]]に臨み、[[ターリバーン]]政権を倒し[[アルカーイダ]]を壊滅させて、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]を[[デッド・オア・アライブ]]<ref>[http://abcnews.go.com/US/story?id=92483 Bush: Bin Laden Wanted Dead or Alive - ABC News]</ref>として[[逮捕]]あるいは殺害することを命じた。 [[2003年]][[3月17日]]、ジョージ・W・ブッシュはフセインと側近に対して48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。[[3月19日]]、最後通牒を無視したイラクに対して軍事侵攻('''[[イラク戦争]]''')した。作戦は順調に進み、[[5月1日]]には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、その後も戦闘は続いた。 [[2004年]]、ジョージ・W・ブッシュは再び[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]に立候補し、父が果たせなかった2回目の当選を果たした。しかし2回目は1回目ほどの支持を得られなかったが、2009年1月20日に任期満了で大統領を退任した。 ===施設名・艦名など=== ジョージ・H・W・ブッシュは1期4年限りの大統領だったが、任期中に大統領の名を汚すようなスキャンダルには一切見舞われなかったことから、退任後はその名がさまざまな施設・艦船につけられることになった(逆に[[ウォーターゲート事件]]の揉み消しスキャンダルで辞任した[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]や、セックス・スキャンダルが弾劾審理にまで発展した[[ビル・クリントン|クリントン]]の名は忌避される傾向にある)。 1999年4月26日、CIA出身の初の大統領だったジョージ・H・W・ブッシュの功績を称えて、CIA本部は{{仮リンク|ジョージ・ブッシュ情報センター|en|George Bush Center for Intelligence}}と命名された<ref name=cnn1999>{{cite web|url=https://edition.cnn.com/ALLPOLITICS/stories/1999/04/26/bush.cia/|title=Former President Bush honored at emotional ceremony renaming CIA headquarters|first=Paul|last=Courson|date=1999-04-26|accessdate=2019-01-20|publisher=CNN}}</ref>。 1997年には地元である[[テキサス州]][[ヒューストン]]の空港が「[[ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港]]」と改名され、2002年には[[ニミッツ級航空母艦]]の第10番艦が「[[ジョージ・H・W・ブッシュ (空母)|ジョージ・H・W・ブッシュ]]」と命名されることになった。 なお、存命中の元大統領の名前が海軍の艦船に冠せられるのは、カーターとレーガンに続き史上3人目となる。 ===晩年=== 2012年11月23日に[[気管支炎]]のためテキサス州ヒューストンの病院に入院<ref>{{Cite news |url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-MFKDHP6K50Y701.html |title=元米大統領「父ブッシュ」、クリスマスも入院継続-退院は未定 |newspaper=bloomberg.co.jp |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] |date=2012-12-25 |accessdate=2013-01-13 }}</ref>。12月中旬ごろに容態が悪化し、[[集中治療室]]へ移されたが<ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/usa/35026295.html |title=ブッシュ元米大統領、発熱し容体悪化  集中治療室に |newspaper=CNN.co.jp |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2012-12-27 |accessdate=2013-01-13 }}</ref>、その後持ち直し一般病棟に戻された<ref>{{Cite news |url = http://sankei.jp.msn.com/world/news/121230/amr12123011420000-n1.htm |title = ブッシュ元大統領、快方に 一般病室へ |newspaper = MSN産経ニュース |publisher = 産経デジタル |date = 2012-12-30 |accessdate = 2013-01-13 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20121230191434/http://sankei.jp.msn.com/world/news/121230/amr12123011420000-n1.htm |archivedate = 2012年12月30日 |deadurldate = 2017年9月 }}</ref>。 2013年4月25日には息子の関連資料を集めた記念図書館の開館式に他の歴代大統領経験者と共に車椅子で出席し、久しぶりに公の場に姿を現した<ref>{{Cite news |url=https://web.archive.org/web/20130610123654/http://www.47news.jp/CN/201304/CN2013042601001236.html |title=ブッシュ記念館が完成 歴代大統領、勢ぞろい |newspaper=47NEWS |agency=共同通信 |publisher=全国新聞ネット |date=2013-04-26 |accessdate=2013-04-27 }}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/usa/35031400.html |title=ブッシュ氏の記念図書館開館、歴代大統領が一堂に会す |work=CNN.co.jp |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |date=2013-04-26 |accessdate=2013-04-27 }}</ref>。 2017年1月、肺炎により入院している事が報じられたが<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/people-bush-idJPKBN1521EA|title=ブッシュ元米大統領、肺炎で集中治療室に 夫人も入院|work=ロイター|agency=[[ロイター]]|date=2017-01-18|accessdate=2018-04-18}}</ref>順調に快方に向かい、同月30日に無事退院した。なお、出席する予定だった20日の[[ドナルド・トランプ]]大統領の就任式には、息子のウォーカー・ブッシュが代理として出席した<ref>[http://www.cnn.co.jp/m/usa/35095798.html ブッシュ元大統領が退院 肺炎で治療受け回復] CNN 2017年1月31日付</ref>。 退院の数日後には[[第51回スーパーボウル]]の試合前の[[コイントス]]を務め、妻のバーバラと共に元気な姿を見せた<ref>[http://www.sankei.com/smp/sports/news/170206/spo1702060012-s1.html ブッシュ元大統領(父)が大歓声の中でコイントス スーパーボウル] 産経ニュース 2017年2月6日付</ref>が、バーバラは2018年4月17日に死去している<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3171540|title=バーバラ・ブッシュ夫人が死去 92歳|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2018-04-18|accessdate=2018-04-18}}</ref>。 ===死去=== {{Main|{{仮リンク|ジョージ・H・W・ブッシュの死と国葬|en|w:Death and state funeral of George H. W. Bush}}}} [[File:Bush Rotunda.jpg|thumb|[[アメリカ合衆国議会議事堂|連邦議会議事堂]]の[[ロタンダ]]に一時安置された棺]] 2018年11月30日にテキサス州ヒューストンで死去<ref>{{Cite news|title=ジョージ・H・W・ブッシュ元米大統領が死去 94歳|newspaper=朝日新聞|date=2018年12月1日14時9分|url=https://www.asahi.com/articles/ASLD14KGGLD1UHBI00P.html|accessdate=2018-12-01}}</ref>。{{没年齢|1924|6|12|2018|11|30}}。息子のジョージ・W・ブッシュは「わが父、ジョージ・H・W・ブッシュは高潔な人格で、最高の父親だった。友人や仲間たちの哀悼の意に対し、ブッシュ家の全員が深く感謝している」という声明を出した。トランプは「ブッシュ氏は正確な判断と良識、そして、確固たるリーダーシップで平和裏にアメリカと世界を冷戦の勝利に導いた。ブッシュ氏の家族に国民と共に祈りを捧げ、その生涯と功績に敬意を表したい」と述べた。 海部元首相は「私が総理大臣に就任して間も無く訪米した際、ブッシュ氏は自宅で家族揃って出迎えてくれ、大変有意義な時間を過ごす事ができた。今は亡きバーバラ夫人が隣に寄り添い、時にブレーキ役になっていたことも印象深い。ブッシュ氏が日本を訪れた際には必ず連絡をくれた、語りきれないほどのたくさんの思い出があり、心より御冥福をお祈りします」と述べた。 元ソ連大統領のゴルバチョフは「我々は大きな責任が求められる劇的な変化の時代に共に仕事をやり遂げ、冷戦と核軍拡競争に終止符を打った。歴史的な偉業に対するブッシュ氏の貢献を称えたい。ブッシュ氏は政治家としても、1人の人間としても、人々の心に長く残るだろう」と語った<ref>[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181201/k10011731041000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_005 米ブッシュ元大統領死去 東西冷戦の終結を宣言]([[NHK NEWS WEB]] 2018年12月1日 2018年12月5日閲覧)</ref>。 2018年12月5日に[[ワシントン大聖堂]]で国葬が執り行われ、[[ジミー・カーター]]、[[ビル・クリントン]]、[[バラク・オバマ]]、[[ドナルド・トランプ]]の歴代大統領が参列した<ref name="nikkei20181206">{{Cite news|title=ブッシュ元大統領に別れ 国葬に3000人参列|newspaper=日本経済新聞|date=2018年12月6日|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38602450W8A201C1EAF000/?nf=1|accessdate=2018-12-06}}</ref>。日本からは特使として元首相の[[福田康夫]]が参列した<ref name="nikkei20181206" />。遺体は即日[[エアフォースワン]]でテキサス州ヒューストンへ運ばれ、翌12月6日には[[聖マーティン教会 (ヒューストン)|聖マーティン教会]]でテキサス州葬の後、列車「BUSH 4141」で70マイル先の[[カレッジステーション (テキサス州)|カレッジステーション]]へ運ばれて、幼くして亡くなった娘・妻のバーバラも眠る[[テキサスA&M大学]]のブッシュ大統領図書館脇の[[墓地]]に埋葬された。 == 個人生活 == === 妻のバーバラ・ブッシュ === [[File:President and Mrs. Bush with Queen Elizabeth and Prince Philip.jpg|thumb|220px|[[エリザベス2世]]、[[エディンバラ公|フィリップ王配]]、バーバラと共に(1989年6月1日)。]] 最愛の妻であるバーバラとの逸話は有名である。また、敬虔な[[クリスチャン]]([[米国聖公会|聖公会]])で、友人を[[教会]]へ連れて行くことを好んだ。[[マーガレット・サッチャー]]を連れていったこともある。<ref>[https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-1990-07-09-9002250903-story.html TEXAN TAKES WORLD LEADERS BY THE HORNS (The Chicago Tribune, 1990)]</ref> ブッシュ一家は結婚後29回、[[ワシントンD.C.]]や[[北京]]まで29回転居した。ブッシュが様々な政府の仕事に従事して家族から離れている間、バーバラは単独で家族の面倒を見た。政治家の妻として様々なチャリティーにも関わった<ref name=flotus/>。 ブッシュが国際連合大使だった際は公邸で[[ニューヨーク]]の最高級ホテルでもある[[ウォルドルフ=アストリア]]42階のスイートルームが夫婦の自宅だった<ref>{{Cite web|url=http://nymag.com/nymetro/news/rnc/9695/|title=The Bush Family's New York City Hangouts|publisher=New York Magazine|date=2004-08-24|accessdate=2019-10-16}}</ref>。 一方でブッシュが[[中央情報局|CIA]]長官になった後、家庭内でも仕事の話を一切共有出来無くなったために、会話が減ったことから[[うつ病]]を患った<ref name=flotus/>。夫の薦めでホスピスでボランティア活動に勤しみ、中華人民共和国での生活を講演したりしたことで病から回復した<ref>[https://web.archive.org/web/20130726123655/http://articles.philly.com/1990-05-22/news/25886573_1_barbara-bush-doggie-bag-volunteer-work Barbara Bush: I Overcame Depression] Philly.com、1990年5月22日</ref>。 === 家族 === [[File:Bush family2919.jpg|thumb|220px|家族集合写真]] 父親の連邦上院議員職、長男ジョージ・W・ブッシュの[[テキサス州知事]]及び大統領、次男ジェブ・ブッシュの[[フロリダ州知事]]などの政治的な成功で、ブッシュ家は王朝としてなぞらえられ、[[ジョン・アダムズ]]及び[[ケネディ家]]と比較された。 バーバラ夫人との間には、幼児(3歳)で亡くなった2番目の子供ロビン(Robin, 女子)を除くと<ref>[https://www.caller.com/story/news/politics/2018/12/01/george-h-w-bush-robin-bush-cartoon-things-know/2173985002/ 3 things to know about Robin Bush, George H. W. Bush's daughter who died young]</ref>、子供が5人いる。 *[[ジョージ・W・ブッシュ|ジョージ・ウォーカー・ブッシュ]](George Walker Bush, 1946年7月6日 - 長男。第43代大統領) *“ロビン”ポーリン・ロビンソン・ブッシュ('Pauline Robinson "Robin" Bush, 1949年12月20日 - 1953年10月11日。長女。白血病で死去。) *[[ジェブ・ブッシュ|“ジェブ”ジョン・エリス・ブッシュ]](John Ellis "Jeb" Bush, 1953年2月11日 - 次男。第43代フロリダ州知事) *[[ニール・ブッシュ|ニール・マローン・ブッシュ]] (Neil Mallon Pierce Bush, 1955年1月22日 - 三男) *[[マーヴィン・ブッシュ]] (Marvin Bush, 1956年10月22日 - 四男) *[[ドロシー・ブッシュ・コック|ドロシー・ウォーカー・ブッシュ・コック]](Dorothy Walker Bush Koch, 1959年8月18日 - 次女) == 逸話 == === 訪日時の事件 === [[1992年]][[1月7日]]の来日では[[明仁|天皇]]・[[宮澤喜一]]首相とそれぞれ会談した。この来日では最初に[[京都御所]]を見学し、その場で行われていた[[蹴鞠]]に飛び入りで参加。翌日に天皇と2回[[テニス]]のダブルスで対戦しているが、2回とも父ブッシュが負けている。 その日の宮澤首相主催の晩餐会の最中、突然隣に座っていた宮澤の膝に嘔吐し、椅子から崩れるように倒れ、その様子は世界中のマスメディアがトップニュースとして報道した<ref>[http://www.youtube.com/watch?v=XnOnDatqENo]</ref>。妻[[バーバラ・ブッシュ|バーバラ]]がとっさの機転で「ブッシュ家は負けることに慣れていないのです」とジョークを飛ばし、その場を救った。日本政府は[[慶應義塾大学病院]]を手配したが、アメリカ側はただの[[インフルエンザ]]に過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ[[大使館]]の[[医務官]]が対応した。 {{Main|ブッシュ米大統領の1992年の崩壊と嘔吐}} === ブロッコリー嫌い === 大の[[ブロッコリー]]嫌いで知られており、大統領専用機の[[機内食]]のメニューからブロッコリーを削除した<ref name="nytimes19900323Broccoli">{{Cite web|和書|url=https://www.nytimes.com/1990/03/23/us/i-m-president-so-no-more-broccoli.html|title=「大統領です。もう、ブロッコリーにはウンザリだよ!」('I'm President,' So No More Broccoli!)|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ]]|accessdate=2022-09-24|date=1990-03-23|author=MAUREEN DOWD }}</ref>。また、「ブロッコリーは嫌い。二度と食べない。[[ポーランド]]市民が[[ソビエト連邦|ソ連]]と闘ったように私もブロッコリーと闘う」と発言したところ<ref name="nytimes19900323Broccoli"/>、怒ったブロッコリー[[農家]]から[[貨物自動車|トラック]]で大量のブロッコリーを送りつけられた。これに対してバーバラ夫人は「夫のブロッコリー嫌いを直せなかったのは私や義母の責任」とユーモアを交えて謝罪し、大量のブロッコリーはホームレスらへの炊き出しに用いられた<ref>{{cite web|url=https://www.independent.co.uk/news/world/americas/how-broccoli-became-a-political-hot-potato-provocative-remarks-by-president-obama-about-his-8701210.html|title=How broccoli became a political hot potato: Provocative remarks by President Obama about his favourite vegetable have reignited a bitter ideological debate|publsiehr=インデペンデント|accessdate=2018-12-02|date=2013-07-10|author=Tim Walker}}</ref>。葬儀の際に息子のジョージ・W・ブッシュも弔辞で父親のブロッコリー嫌いに触れ「私達にも受け継がれている」と述べている。 === 撃墜体験 === [[太平洋戦争]]で撃墜された[[TBF (航空機)|アベンジャー雷撃機]]の名前は、後の妻の名前である“バーバラ”だった。[[1944年]][[9月2日]]9時前、父ブッシュは[[航空母艦|軽空母]][[サン・ジャシント (空母)|サン・ジャシント]] から友人であるスタンレー・ブッチャーらが搭乗した僚機3機と護衛の[[F6F (航空機)|ヘルキャット]]数機共に発進し、[[父島]]の無電塔爆撃任務についた。この無電塔はアメリカ軍の通信を傍受し、本土に空襲の警報を発していたため、アメリカ軍にしてみれば何としても破壊しておく必要があったのである。 父ブッシュのチームは機長のブッシュ、二等通信士ジョン・デラニーと代理銃手(情報将校)ウィリアム・ホワイト中尉の3人であった。本来父ブッシュの機“バーバラ”の銃手はレオ・W・ナドーであったが、この日は出撃の直前に島の視察を望んだホワイトに交代するよう命じられたため出撃しなかった。彼は前日に父ブッシュたちと父島の砲台を攻撃し、これを破壊する戦果を上げていた。父ブッシュたちの向かった攻撃目標は山岳地帯に隠された砲座によって守られた危険地帯に存在し、父ブッシュたちの機は激しい攻撃にさらされた。父ブッシュはそれでも爆弾槽を開け目標に四個の爆弾を投下したが、乗機バーバラは被弾し、炎上した。父ブッシュは屈せず、サン・ジャシントへの帰還を試みたが機の[[コクピット]]が炎と煙で満たされたため、高度1500フィートの地点で[[パラシュート]]脱出した。同乗者のうちホワイトは既に死亡していたか、[[爆風]]による負傷のため脱出できず機体と運命を共にした。デラニーは脱出には成功したもののパラシュートが開かず戦死した。父ブッシュは無事着水し生存した。 すぐさま彼を捕獲するため日本軍[[舟艇]]が出動したが、僚機(機体名不明)のダグ・ウェスト中尉(職種不明)が舟艇を機銃掃射し、上空にいた戦闘機が撃墜を通信したため難を逃れることができた。通信から数時間後、島から15~20マイルの海域を哨戒していた潜水艦[[フィンバック (潜水艦)|フィンバック]](艦長ロバート・R・ウィリアムズ)が到着、父ブッシュは他の4人のパイロットとともに救助された。このときの救助の光景はフィンバックの写真撮影助手であったビル・エドワーズ少尉によって[[8ミリフィルム]]に撮影され、後に父ブッシュに贈られた。ホワイトとデラニーの戦死についてナドーは自責の念に駆られたという。ブッシュ、デラニーとチームとして脱出の訓練を積んでいたナドーはホワイトの戦死について、アベンジャーの砲座には砲手用のパラシュートを保管・着用するためのスペースがなく、彼が脱出する場合には砲座から出た上で、デラニーからパラシュートを受け取る手順になっていたこと、不慣れなホワイトが砲座から脱出するのに時間がかかったであろうことが彼の戦死の原因では無かったかと語っている。 救助された父ブッシュ他4人のパイロットはその後1ヶ月、潜水艦の目として撃墜されたパイロットを発見する任務に就いた。翌日には早くも[[母島]]上空で撃墜された[[エンタープライズ (CV-6)|空母エンタープライズ]]の搭乗員・ジェームズ・ベックマン中尉を救助する戦果を上げた。彼らは交代で4時間ずつ飛行し、8時間休息するというローテーションで働いた。一月後父ブッシュほかのパイロットたちはニューヨークでフィンバックを下艦し生還した。その後父ブッシュらのパイロットはハワイに移された。彼らはそこで二週間の休暇を与えられることになったが、父ブッシュは早くサンジャシントに戻って出撃することを希望し艦に戻った。 なお、この時他にも4機のアメリカ軍機が撃墜されたが、搭乗員の8人のアメリカ軍兵士捕虜の内5人が[[小笠原事件]]において処刑された後に食人されたとされ、ブッシュの対日観に長く影を落としたといわれている。ある席で「初めて日本人を許す気になった」と語ったという話がある。ブッシュ機を撃墜した砲台は、乱戦の最中ということもあり、特定できなかった<ref>多田実『何も語らなかった青春「学徒出陣五十年、歴史を創ったわだつみの若者たち」』123-126頁(三笠書房、1993)</ref>。 ただし当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の[[土屋公献]]は事件について証言し、食人などの事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している<ref>澤田猛 [http://www.powresearch.jp/jp/activities/workshop/chichijima.html 父島事件 真相の一端 ~米捕虜の処刑に立ち会ったある少尉の証言~] POW研究会</ref>。 ===七面鳥の「恩赦」=== [[感謝祭]]前日にホワイトハウスで[[七面鳥]]を「恩赦」で放鳥する行事は、[[1963年]]に「{{en|Good Eatin', Mr. President}}(美味しく食べてね、大統領)」というメッセージを首からぶら下げた七面鳥を当時の大統領[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ]]が食べなかったエピソードが由来とされており、このエピソードを[[1989年]]から定例の行事としたのが父ブッシュである<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.afpbb.com/articles/-/2667899?pid=4961719 |title= 感謝祭の七面鳥にオバマ大統領が「恩赦」、余生はディズニーランドで|work= AFP BB NEWS|publisher= フランス通信社|date= 2009-11-26|accessdate=2019-11-28}}</ref><ref>{{Cite web|url= https://abcnews.go.com/blogs/politics/2013/11/obama-pardons-turkeys-then-they-die/ |title= Obama Pardons Turkeys…Then They Die|work= ABC NEWS|publisher= ABC News Internet Ventures|date= 2013-11-22|accessdate=2019-11-28}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[チャック・ノリス]](友人、俳優、全米ライフル協会スポークスマン) * [[マルタ会談]] * [[湾岸戦争]] * [[全米ライフル協会]] * [[ボブ・ドール]] * [[新秩序]] == 外部リンク == {{Commons|George Herbert Walker Bush}} * [http://www.yale.edu/lawweb/avalon/presiden/inaug/bush.htm Inaugural Address] * [http://george-bush-gulf-war.blogspot.com Photos of George Bush during the Gulf War.] * [http://www.presidency.ucsb.edu The American Presidency Project at UCSB: The Most Comprehensive Resource on the Web] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php Public Papers of the Presidents: George Bush] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/sou.php State of the Union Addresses] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=18095 1990],[http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=19253 1991],[http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=20544 1992] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/sou.php Inaugural Addresses] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=16610 1989] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/elections.php Presidential Elections] *** [http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1988 1988],[http://www.presidency.ucsb.edu/showelection.php?year=1992 1992] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/medialist.php?presid=41 61 Audio/Video Clips of George Bush] ** [http://www.presidency.ucsb.edu/data.php Academic Data Related to the Bush Administration] * [http://vvl.lib.msu.edu/showfindingaid.cfm?findaidid=BushGHW Audio recordings of Bush's speeches] * [http://www.snopes.com/history/american/bushscan.htm Page discussing the scanner story] * [http://www.tarpley.net/bushb.htm George Bush: The Unauthorized Biography] by Webster G. Tarpley & Anton Chaitkin * [http://www.newsmeat.com/washington_political_donations/George_HW_Bush.php George Bush's political donations] * [http://www.whitehouse.gov/history/presidents/gb41.html White House biography] * [http://www.doctorzebra.com/prez/g41.htm Medical and Health History of George H. W. Bush] * {{gutenberg author| id=George+Bush | name=George Bush}} * [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person897.html ブッシュ ジョージ:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) {{S-start}} {{s-off}} {{Succession box | title = {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国大統領]] | years = 第41代:1989年1月20日 - 1993年1月20日 | before = [[ロナルド・レーガン]] | after = [[ビル・クリントン]] }} {{Succession box | title = {{Flagicon|USA}} [[アメリカ合衆国副大統領]] | titlenote = 1985年7月13日に大統領代行 | years = 第43代:1981年1月20日 - 1989年1月20日 | before = [[ウォルター・モンデール]] | after = [[ダン・クエール]] }} {{Succession box | title = [[ファイル:Flag_of_the_Central_Intelligence_Agency.svg|border|25px]] [[アメリカ合衆国中央情報長官]] | years = 第11代:1976年1月30日 – 1977年1月20日 | before = [[:en:William Colby|ウィリアム・コルビー]] | after = [[:en:Stansfield Turner|スタンズフィールド・ターナー]] }} {{s-dip}} {{Succession box | title = [[主要国首脳会議|先進国首脳会議]]議長 | years = 1990年7月9日 - 1990年7月11日 | before = [[フランソワ・ミッテラン]] | beforenote = フランス | after = [[ジョン・メージャー]] | afternote = イギリス }} {{Succession box | title = {{Flagicon|USA}} [[在中華人民共和国アメリカ合衆国大使]] | years = 1974年9月26日 - 1975年12月7日 | before = [[:en:David K. 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アメリカ合衆国大統領
アメリカ合衆国大統領(アメリカがっしゅうこくだいとうりょう、英: President of the United States of America、略称:POTUS)は、アメリカ合衆国の元首であり行政府の長たる大統領。4年ごとに実施されるアメリカ合衆国大統領選挙によって選出される。 現職は、第46代ジョー・バイデン(在任:2021年1月20日 - )。 歴代のアメリカ合衆国大統領については「歴代アメリカ合衆国大統領の一覧」を参照。 アメリカ合衆国大統領選挙の被選挙権は、「アメリカ合衆国憲法第2条第1節」の規定により「35歳以上かつアメリカ合衆国国内における在留期間が14年以上で、出生によるアメリカ合衆国市民権保持者」である。この「出生による市民権保持者」とは、「国内で出生したため、(アメリカ合衆国の採用する)出生地主義に基づき国籍を取得した者」または「アメリカ合衆国市民を両親として海外で出生した者」である。 すなわち、出生した時点においてアメリカ合衆国国籍でなければ大統領候補の資格が無い。経過規定として、憲法制定当時にアメリカ合衆国市民であった者(13植民地当時からの在住者)は資格を得るとされていて、初代から第9代まで及び第12代の大統領はこの規定に基づく有資格者である。 この他に大統領選挙人が投票する際に、2票のうち少なくとも1票を他の州の者に投じなければならないという規定がある為、正副大統領候補が同一の州に籍を置くと選挙時に問題が生じる。もっとも便宜的に住所を移動することが可能である為実際的な問題にはならない。 大統領は憲法第2条第1節の規定により4年に1度国民の投票によって新しく選出または再任されるため、任期は1期につき4年である。修正第22条の規定により、2度を超えて選出されることは認められていない(3選禁止)。すなわち、原則として同一人物が最長で務められるのは連続・返り咲きを問わず2期8年である。前大統領の辞任・死去などに伴い昇格した場合には例外がありうるが、修正22条の下で通算3期以上を務めた大統領経験者はいない。 大統領選挙は形式的には間接選挙であり、選挙人団によって大統領及び副大統領がペアで選出される選挙制度となっている。ただし一般有権者は正副大統領候補者に投票する為、事実上直接選挙に近い性格も併せ持つ。なお、どの候補者も過半数の選挙人を獲得できない場合には、連邦議会の下院及び上院がそれぞれ大統領及び副大統領を選出する。 米国では大統領に行政権が帰属する独任制をとっているが、徹底した権力分立を採用し、解散のない連邦議会が大統領の政策を監視・抑制するほか、連邦最高裁判所判事の任命に上院の承認が必要とされ、連邦最高裁判所が大統領の政策に対して違憲判断を下すなど、権力相互間の抑制・均衡が働いている。他方、日本の内閣総理大臣は国務大臣の任免権を有し、内閣総理大臣によって組織された内閣が閣議決定を通じて行政権を一手に掌握することになる。最高裁判所長官の指名権や裁判官の任命権を有し、裁判所の予算は内閣が掌握していることから、内閣総理大臣は司法権に関しても一定の影響力を及ぼすことが可能である。また、内閣総理大臣は与党党首として小選挙区制における公認権を通じて圧倒的な力を党内で持ち、政権与党を掌握している。こうしたことから、日本の内閣総理大臣は閣僚や官僚に対する人事権を通じて行政権を事実上一人で掌握し、司法権に関しても人事権と予算編成権によって間接的に掌握している。議院内閣制の下ではこうした内閣総理大臣への権力の集中が制度上認められている。 大統領は軍(陸軍・海軍・空軍・海兵隊・沿岸警備隊・宇宙軍)の最高司令官(Commander-in-Chief)としての指揮権(国家指揮権限)を保持する。宣戦布告は議会の権限であり(連邦憲法第8条第11項)、軍隊を募集・編制することも議会の権限である。しかし今日では、議会による宣戦布告を待っていては先制攻撃が不可能になってしまったり、逆に敵対国から先制攻撃を受けてしまったりする危険性がある為、大統領はこの指揮権を根拠に宣戦布告無しで戦争を開始できることが慣例的に定着している。 実際にアメリカ合衆国が正式に宣戦布告を行ったのは憲法制定以後1812年戦争・米墨戦争・米西戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦の5回しか無く、1941年12月7日(ハワイ時間)の真珠湾攻撃を契機に大日本帝国・ドイツ・イタリア王国及び他の枢軸国側に対して行ったものが現在に至るまで最後の正式な宣戦布告であり、朝鮮戦争・ベトナム戦争など1945年以降は議会による宣戦布告は行われていない。 これに対して議会はベトナム戦争における成り行きによった拡大と泥沼化に対する反省から、「戦争権限法」を定めて大統領の指揮権に一定の制約を設けている。なお指揮権とは少々外れるが、アメリカ軍の保有する核兵器の使用権限も大統領が保持しており、大統領が使用命令を出すことで初めて核兵器の使用が許可されるようになっている。 アメリカ合衆国の政治は三権分立が徹底しており、行政府の長である大統領は立法府における議会解散権を持たず、連邦議会も大統領不信任決議の権限を持たない。また、連邦議会議員は在職したままでは大統領顧問団の閣僚を兼任することはできない。 毎年1月下旬に連邦議会で行われる大統領の「一般教書演説」は、アメリカの三権(大統領、上下両院議長、最高裁判所長官)を構成する者のほぼ全てが下院本会議場に集う一大イベントである。 しかし冷戦下の1970年代末に大統領府は、この一般教書演説時を狙った東側諸国による首都核攻撃を想定し、大統領権限継承者全員と上下両院議員全員が一堂に会することの危険性を憂慮した。ここを攻撃されると、憲法が定める法的な大統領権限の継承者が皆無となるばかりか、そうした憲法的危機を乗り越える為に必要な立法措置を行う議会や、対策手段を公的に承認する連邦最高裁判所までが一瞬にして消滅してしまう可能性があるためである。 その結果1981年の一般教書演説(ジミー・カーター)からは、閣僚の大統領権限継承者の1人を内密に「指定生存者」に指名し、その者を首都のワシントンD.C.から相当の距離を置いた非公開の場所に当日は待機させる(つまり隠す)ことにした。 さらに、あくまでも想像上の事態であった攻撃だが、9.11で米国本土への攻撃が現実のものになると、2005年の一般教書演説(ジョージ・W・ブッシュ)からは議会も各院で民主党と共和党からそれぞれ1人ずつ、計4人の議員を「指定生存者」として一般教書演説の日は首都を離れさせ、最悪の事態が起きた場合でも両院で議長と議員がいる連邦議会が生き残れるようにした。ただし、2005年から2007年において上院では大統領権限継承順位が3位の上院仮議長が上院の指定生存者の1人となっており、これがこのまま慣例として定着すると、あえて閣僚の指定生存者を指名する必要性が失われてしまう点が指摘されている。 1947年大統領継承法(英語版)は、第(a)条(1)項で「もし死亡、辞任、解任、執務不能などの理由により、大統領と副大統領の双方が大統領の責務を果たし権限を執行できない場合には、下院議長が、下院議長と下院議員を辞職したのちに、大統領としてこれを行う」としたうえで、その次を上院仮議長、その次からは内閣の閣僚を所轄省庁の設立年の古い順に並べ、継承順位を第18位まで定めている。 ただし、外国で誕生してアメリカ合衆国に帰化(国籍取得)した者など、憲法で定める大統領の資格を満たさない(移民から大統領たるには3代連続でアメリカ在住でなければならない)者がこの順位内にいる場合は、その者を飛ばして下位の者の順位が繰り上がる。また、副大統領以外の者の地位はあくまで職権代行者たる大統領代行に留まり、副大統領のように大統領に「昇格」することは出来ない。 大統領には、古くから英語を母語とし白人(アングロ・サクソン系)でプロテスタント(WASP)の男性が多く選出されてきた。 しかし、1960年の大統領選挙でアイルランド系にしてカトリック信徒であるジョン・F・ケネディが当選したことで、そのルーツに注目が集まった。さらに60年後の、2020年の大統領選挙ではカトリックでアイルランド系としては2人目のジョー・バイデンが当選した。 また2008年の大統領選挙では、バラク・オバマが黒人として初めて2大政党の大統領候補指名を受けて尚且つ当選を果たし、初の非白人の米国大統領が就任した。 アングロ・サクソン系(WASP)という括りで規定されることもあるが、イングランド系アメリカ人(アングロ・サクソン人)以外にも、スコットランド人やアイルランド系アメリカ人、オランダ系アメリカ人、ドイツ系アメリカ人も早い年代から当選している。父系でWASPに該当しない大統領は1837年に就任した、オランダ系のマーティン・ヴァン・ビューレンが皮切りである。 先祖の出身国において大統領当選が歓迎されることもある。例えばロナルド・レーガンは外遊先のアイルランドで大歓迎を受け、バラク・オバマは奴隷の子孫ではないものの就任時にはアフリカ系アメリカ人やその父の故郷ケニアで歓喜に満ちあふれた。ちなみに多民族国家であるために姓のルーツも様々で、ワシントンやリンカーン、ジョンソン、クリントン、ブッシュはイングランド系、モンローやマッキンリーはスコットランド系、ヴァン・ビューレンやルーズベルトはオランダ系、アイゼンハワーやトランプはドイツ系、ケネディやレーガンはアイルランド系の姓である。また初のアフリカ系であるオバマはスワヒリ語圏のルオ族の姓である。 特に規定は無い。初代のジョージ・ワシントンから現職のジョー・バイデンに至るまで歴代大統領は全員が男性であり、女性大統領は未だに誕生していない。 2016年大統領選挙にヒラリー・クリントン(ビル・クリントン元大統領夫人、元ファーストレディ)が民主党予備選挙に勝利し女性として初めて二大政党の候補者指名を受け、一般投票では共和党のドナルド・トランプより多く得票したが、獲得選挙人数が少なかった為に敗北した。 歴代大統領には連邦議会議員もしくは州知事、副大統領を務めた人物が多く選出されている。 政治家になる以前の前職として最も多いのは弁護士である。歴代大統領46人中28人(歴代大統領の61%)が弁護士出身者であり、特に建国から南北戦争までは16人中13人(81%)が弁護士出身者である。弁護士出身の大統領にはエイブラハム・リンカーンやフランクリン・ルーズベルトなど顕著な歴史的実績を残した人物も多い。 また、共和党を中心に軍歴を有する大統領も多い(ユリシーズ・グラント、セオドア・ルーズベルト、ドワイト・D・アイゼンハワーなど)。ロナルド・レーガンは、前職は俳優という芸能関係であるものの州知事を務めた経歴がある。 この慣習が破られた第45代大統領のドナルド・トランプは、長年実業家として不動産ビジネスを展開してきた人物で、政治経験・軍歴ともに無い初めての米国大統領であり尚且つ70歳での大統領就任は1期目としては当時史上最高齢でもあった(就任時年齢の最高齢記録は、後任の第46代ジョー・バイデンが78歳で更新した)。 また、ハリー・S・トルーマンまでは、最終学歴が高卒の者も少なからず存在していた。 大統領(男性の場合)の呼びかけの呼称は「ミスター・プレジデント」(Mr. President)、略呼称は「サー」(Sir)。 大統領が女性の場合はこれが「マダム・プレジデント」(Madam President)、略称が「マァム」(Ma’am)となる(但し、女性大統領が誕生した例はまだ無い)。 アメリカでは退任した大統領も儀礼上は生涯に渡って大統領として接遇される為、存命の前・元大統領全員が同様に「ミスター・プレジデント(Mr. President)」と呼ばれる。 また、11月初頭に大統領選で当選した大統領候補は翌年1月20日までの約2ヶ月半の間「大統領当選者(ミスター・プレジデント・イレクト)」(Mr. President-Elect、「大統領選挙当選者」、「次期大統領」)と呼ばれる。ミスター・プレジデント・イレクトは、儀礼上はまだ大統領としては接遇されないものの、この約2ヶ月半は職務引き継ぎ期間として大統領に対するそれとほぼ同じ内容の「日例報告」を受けたり、シークレット・サービスによる完全体制の身辺警護を受ける為、事実上大統領と同格の扱いとなる。 現職を除く存命のアメリカ合衆国大統領経験者は以下の5名である。 大統領職退任後には、公務員として連邦政府から年間約20万ドルの年金と医療保険・公務出張費・個人事務所が提供される。また、要請をすれば、慣例により現職の大統領と同等レベルの機密情報の報告を受けることができる。 なお、機密情報保持などのためシークレット・サービスによる警護は退任後も一生涯続く。 また、アメリカ合衆国大統領が任期中に関与した公務に関する資料や往復書簡・写真などを保管し、かつ一般に公開している比較的大規模な施設として「大統領図書館」が存在する。ハーバート・フーヴァー以降の大統領は退任後に創設される慣例となっている。 以下、就任時の所属政党別のアメリカ合衆国大統領(姓のアルファベット順)。 以下の年表は、歴代アメリカ合衆国大統領の任期と就任時の所属政党を示す。
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"この他に大統領選挙人が投票する際に、2票のうち少なくとも1票を他の州の者に投じなければならないという規定がある為、正副大統領候補が同一の州に籍を置くと選挙時に問題が生じる。もっとも便宜的に住所を移動することが可能である為実際的な問題にはならない。", "title": "資格" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "大統領は憲法第2条第1節の規定により4年に1度国民の投票によって新しく選出または再任されるため、任期は1期につき4年である。修正第22条の規定により、2度を超えて選出されることは認められていない(3選禁止)。すなわち、原則として同一人物が最長で務められるのは連続・返り咲きを問わず2期8年である。前大統領の辞任・死去などに伴い昇格した場合には例外がありうるが、修正22条の下で通算3期以上を務めた大統領経験者はいない。", "title": "選出" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "大統領選挙は形式的には間接選挙であり、選挙人団によって大統領及び副大統領がペアで選出される選挙制度となっている。ただし一般有権者は正副大統領候補者に投票する為、事実上直接選挙に近い性格も併せ持つ。なお、どの候補者も過半数の選挙人を獲得できない場合には、連邦議会の下院及び上院がそれぞれ大統領及び副大統領を選出する。", "title": "選出" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "米国では大統領に行政権が帰属する独任制をとっているが、徹底した権力分立を採用し、解散のない連邦議会が大統領の政策を監視・抑制するほか、連邦最高裁判所判事の任命に上院の承認が必要とされ、連邦最高裁判所が大統領の政策に対して違憲判断を下すなど、権力相互間の抑制・均衡が働いている。他方、日本の内閣総理大臣は国務大臣の任免権を有し、内閣総理大臣によって組織された内閣が閣議決定を通じて行政権を一手に掌握することになる。最高裁判所長官の指名権や裁判官の任命権を有し、裁判所の予算は内閣が掌握していることから、内閣総理大臣は司法権に関しても一定の影響力を及ぼすことが可能である。また、内閣総理大臣は与党党首として小選挙区制における公認権を通じて圧倒的な力を党内で持ち、政権与党を掌握している。こうしたことから、日本の内閣総理大臣は閣僚や官僚に対する人事権を通じて行政権を事実上一人で掌握し、司法権に関しても人事権と予算編成権によって間接的に掌握している。議院内閣制の下ではこうした内閣総理大臣への権力の集中が制度上認められている。", "title": "権限" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大統領は軍(陸軍・海軍・空軍・海兵隊・沿岸警備隊・宇宙軍)の最高司令官(Commander-in-Chief)としての指揮権(国家指揮権限)を保持する。宣戦布告は議会の権限であり(連邦憲法第8条第11項)、軍隊を募集・編制することも議会の権限である。しかし今日では、議会による宣戦布告を待っていては先制攻撃が不可能になってしまったり、逆に敵対国から先制攻撃を受けてしまったりする危険性がある為、大統領はこの指揮権を根拠に宣戦布告無しで戦争を開始できることが慣例的に定着している。", "title": "権限" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "実際にアメリカ合衆国が正式に宣戦布告を行ったのは憲法制定以後1812年戦争・米墨戦争・米西戦争・第一次世界大戦・第二次世界大戦の5回しか無く、1941年12月7日(ハワイ時間)の真珠湾攻撃を契機に大日本帝国・ドイツ・イタリア王国及び他の枢軸国側に対して行ったものが現在に至るまで最後の正式な宣戦布告であり、朝鮮戦争・ベトナム戦争など1945年以降は議会による宣戦布告は行われていない。", "title": "権限" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "これに対して議会はベトナム戦争における成り行きによった拡大と泥沼化に対する反省から、「戦争権限法」を定めて大統領の指揮権に一定の制約を設けている。なお指揮権とは少々外れるが、アメリカ軍の保有する核兵器の使用権限も大統領が保持しており、大統領が使用命令を出すことで初めて核兵器の使用が許可されるようになっている。", "title": "権限" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国の政治は三権分立が徹底しており、行政府の長である大統領は立法府における議会解散権を持たず、連邦議会も大統領不信任決議の権限を持たない。また、連邦議会議員は在職したままでは大統領顧問団の閣僚を兼任することはできない。", "title": "議会との関係" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "毎年1月下旬に連邦議会で行われる大統領の「一般教書演説」は、アメリカの三権(大統領、上下両院議長、最高裁判所長官)を構成する者のほぼ全てが下院本会議場に集う一大イベントである。", "title": "議会との関係" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "しかし冷戦下の1970年代末に大統領府は、この一般教書演説時を狙った東側諸国による首都核攻撃を想定し、大統領権限継承者全員と上下両院議員全員が一堂に会することの危険性を憂慮した。ここを攻撃されると、憲法が定める法的な大統領権限の継承者が皆無となるばかりか、そうした憲法的危機を乗り越える為に必要な立法措置を行う議会や、対策手段を公的に承認する連邦最高裁判所までが一瞬にして消滅してしまう可能性があるためである。", "title": "議会との関係" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "その結果1981年の一般教書演説(ジミー・カーター)からは、閣僚の大統領権限継承者の1人を内密に「指定生存者」に指名し、その者を首都のワシントンD.C.から相当の距離を置いた非公開の場所に当日は待機させる(つまり隠す)ことにした。", "title": "議会との関係" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "さらに、あくまでも想像上の事態であった攻撃だが、9.11で米国本土への攻撃が現実のものになると、2005年の一般教書演説(ジョージ・W・ブッシュ)からは議会も各院で民主党と共和党からそれぞれ1人ずつ、計4人の議員を「指定生存者」として一般教書演説の日は首都を離れさせ、最悪の事態が起きた場合でも両院で議長と議員がいる連邦議会が生き残れるようにした。ただし、2005年から2007年において上院では大統領権限継承順位が3位の上院仮議長が上院の指定生存者の1人となっており、これがこのまま慣例として定着すると、あえて閣僚の指定生存者を指名する必要性が失われてしまう点が指摘されている。", "title": "議会との関係" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1947年大統領継承法(英語版)は、第(a)条(1)項で「もし死亡、辞任、解任、執務不能などの理由により、大統領と副大統領の双方が大統領の責務を果たし権限を執行できない場合には、下院議長が、下院議長と下院議員を辞職したのちに、大統領としてこれを行う」としたうえで、その次を上院仮議長、その次からは内閣の閣僚を所轄省庁の設立年の古い順に並べ、継承順位を第18位まで定めている。", "title": "大統領権限継承順位" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ただし、外国で誕生してアメリカ合衆国に帰化(国籍取得)した者など、憲法で定める大統領の資格を満たさない(移民から大統領たるには3代連続でアメリカ在住でなければならない)者がこの順位内にいる場合は、その者を飛ばして下位の者の順位が繰り上がる。また、副大統領以外の者の地位はあくまで職権代行者たる大統領代行に留まり、副大統領のように大統領に「昇格」することは出来ない。", "title": "大統領権限継承順位" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "大統領には、古くから英語を母語とし白人(アングロ・サクソン系)でプロテスタント(WASP)の男性が多く選出されてきた。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、1960年の大統領選挙でアイルランド系にしてカトリック信徒であるジョン・F・ケネディが当選したことで、そのルーツに注目が集まった。さらに60年後の、2020年の大統領選挙ではカトリックでアイルランド系としては2人目のジョー・バイデンが当選した。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また2008年の大統領選挙では、バラク・オバマが黒人として初めて2大政党の大統領候補指名を受けて尚且つ当選を果たし、初の非白人の米国大統領が就任した。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "アングロ・サクソン系(WASP)という括りで規定されることもあるが、イングランド系アメリカ人(アングロ・サクソン人)以外にも、スコットランド人やアイルランド系アメリカ人、オランダ系アメリカ人、ドイツ系アメリカ人も早い年代から当選している。父系でWASPに該当しない大統領は1837年に就任した、オランダ系のマーティン・ヴァン・ビューレンが皮切りである。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "先祖の出身国において大統領当選が歓迎されることもある。例えばロナルド・レーガンは外遊先のアイルランドで大歓迎を受け、バラク・オバマは奴隷の子孫ではないものの就任時にはアフリカ系アメリカ人やその父の故郷ケニアで歓喜に満ちあふれた。ちなみに多民族国家であるために姓のルーツも様々で、ワシントンやリンカーン、ジョンソン、クリントン、ブッシュはイングランド系、モンローやマッキンリーはスコットランド系、ヴァン・ビューレンやルーズベルトはオランダ系、アイゼンハワーやトランプはドイツ系、ケネディやレーガンはアイルランド系の姓である。また初のアフリカ系であるオバマはスワヒリ語圏のルオ族の姓である。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "特に規定は無い。初代のジョージ・ワシントンから現職のジョー・バイデンに至るまで歴代大統領は全員が男性であり、女性大統領は未だに誕生していない。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2016年大統領選挙にヒラリー・クリントン(ビル・クリントン元大統領夫人、元ファーストレディ)が民主党予備選挙に勝利し女性として初めて二大政党の候補者指名を受け、一般投票では共和党のドナルド・トランプより多く得票したが、獲得選挙人数が少なかった為に敗北した。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "歴代大統領には連邦議会議員もしくは州知事、副大統領を務めた人物が多く選出されている。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "政治家になる以前の前職として最も多いのは弁護士である。歴代大統領46人中28人(歴代大統領の61%)が弁護士出身者であり、特に建国から南北戦争までは16人中13人(81%)が弁護士出身者である。弁護士出身の大統領にはエイブラハム・リンカーンやフランクリン・ルーズベルトなど顕著な歴史的実績を残した人物も多い。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また、共和党を中心に軍歴を有する大統領も多い(ユリシーズ・グラント、セオドア・ルーズベルト、ドワイト・D・アイゼンハワーなど)。ロナルド・レーガンは、前職は俳優という芸能関係であるものの州知事を務めた経歴がある。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "この慣習が破られた第45代大統領のドナルド・トランプは、長年実業家として不動産ビジネスを展開してきた人物で、政治経験・軍歴ともに無い初めての米国大統領であり尚且つ70歳での大統領就任は1期目としては当時史上最高齢でもあった(就任時年齢の最高齢記録は、後任の第46代ジョー・バイデンが78歳で更新した)。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、ハリー・S・トルーマンまでは、最終学歴が高卒の者も少なからず存在していた。", "title": "歴代大統領の出身" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大統領(男性の場合)の呼びかけの呼称は「ミスター・プレジデント」(Mr. President)、略呼称は「サー」(Sir)。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "大統領が女性の場合はこれが「マダム・プレジデント」(Madam President)、略称が「マァム」(Ma’am)となる(但し、女性大統領が誕生した例はまだ無い)。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アメリカでは退任した大統領も儀礼上は生涯に渡って大統領として接遇される為、存命の前・元大統領全員が同様に「ミスター・プレジデント(Mr. President)」と呼ばれる。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、11月初頭に大統領選で当選した大統領候補は翌年1月20日までの約2ヶ月半の間「大統領当選者(ミスター・プレジデント・イレクト)」(Mr. President-Elect、「大統領選挙当選者」、「次期大統領」)と呼ばれる。ミスター・プレジデント・イレクトは、儀礼上はまだ大統領としては接遇されないものの、この約2ヶ月半は職務引き継ぎ期間として大統領に対するそれとほぼ同じ内容の「日例報告」を受けたり、シークレット・サービスによる完全体制の身辺警護を受ける為、事実上大統領と同格の扱いとなる。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現職を除く存命のアメリカ合衆国大統領経験者は以下の5名である。", "title": "呼称" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "大統領職退任後には、公務員として連邦政府から年間約20万ドルの年金と医療保険・公務出張費・個人事務所が提供される。また、要請をすれば、慣例により現職の大統領と同等レベルの機密情報の報告を受けることができる。", "title": "引退後" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお、機密情報保持などのためシークレット・サービスによる警護は退任後も一生涯続く。", "title": "引退後" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "また、アメリカ合衆国大統領が任期中に関与した公務に関する資料や往復書簡・写真などを保管し、かつ一般に公開している比較的大規模な施設として「大統領図書館」が存在する。ハーバート・フーヴァー以降の大統領は退任後に創設される慣例となっている。", "title": "引退後" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "以下、就任時の所属政党別のアメリカ合衆国大統領(姓のアルファベット順)。", "title": "所属政党" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "以下の年表は、歴代アメリカ合衆国大統領の任期と就任時の所属政党を示す。", "title": "歴代大統領の時系列" } ]
アメリカ合衆国大統領は、アメリカ合衆国の元首であり行政府の長たる大統領。4年ごとに実施されるアメリカ合衆国大統領選挙によって選出される。 現職は、第46代ジョー・バイデン。 歴代のアメリカ合衆国大統領については「歴代アメリカ合衆国大統領の一覧」を参照。
{{出典の明記| date = 2020年10月}} {{Infobox Political post | post = 大統領<br />{{small|{{en|President of the<br />United States of America}}}} | body = {{USA}} | insignia = Seal Of The President Of The United States Of America.svg | insigniasize = 90 | insigniacaption = [[:en:Seal of the President of the United States|合衆国大統領章]] | flag = Flag of the President of the United States of America.svg | flagsize = 150 | flagborder = yes | flagcaption = [[:en:Flag of the President of the United States|合衆国大統領旗]] | image = Joe Biden presidential portrait (cropped).jpg | imagesize = 200 px | incumbent = [[ジョー・バイデン]](第46代)<br />{{en|Joe Biden}} | incumbentsince = [[2021年]][[1月20日]] | 担当機関 = {{plainlist| * [[アメリカ合衆国連邦行政部|連邦行政府]] * [[アメリカ合衆国内閣|内閣]] * [[アメリカ合衆国大統領行政府|大統領府]] }} | style = {{plainlist| * Mr. President/大統領<ref>{{Cite news |url=https://www.nytimes.com/1891/08/02/archives/how-to-address-the-president-he-is-not-your-excellency-or-your.html |work=The Washington Star |title=How To Address The President; He Is Not Your Excellency Or Your Honor, But Mr. President |date=August 2, 1891 |via=The New York Times}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.usgs.gov/usgs-manual/handbook/hb/431-2-h/chap4.html |title=USGS Correspondence Handbook—Chapter 4 |date=July 18, 2007 |publisher=Usgs.gov |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20120926000950/http://www.usgs.gov/usgs-manual/handbook/hb/431-2-h/chap4.html |archive-date=September 26, 2012 |access-date=November 15, 2012}}</ref>(通常時) * [[オナラブル|The Honorable/閣下]]<ref>{{Cite web |url=http://www.ita.doc.gov/ita_sec/Address%20and%20Salutation.htm |title=Models of Address and Salutation |publisher=Ita.doc.gov |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20100720073107/http://www.ita.doc.gov/ita_sec/Address%20and%20Salutation.htm |archive-date=July 20, 2010 |access-date=September 4, 2010}}</ref>(儀礼時) * [[閣下|His Excellency/閣下]]<ref>[https://web.archive.org/web/20120927014351/http://www.un.int/protocol/documents/Hspmfm.pdf Heads of State, Heads of Government, Ministers for Foreign Affairs], Protocol and Liaison Service, [[国際連合]]. Retrieved November 1, 2012.</ref><ref>{{Cite web |url=https://obamawhitehouse.archives.gov/the-press-office/2010/09/01/remarks-president-obama-president-mubarak-his-majesty-king-abdullah-prim |title=Remarks by President Obama, President Mubarak, His Majesty King Abdullah, Prime Minister Netanyahu and President Abbas Before Working Dinner |last=The White House Office of the Press Secretary |date=September 1, 2010 |via=[[アメリカ国立公文書記録管理局]] |work=[[:en:whitehouse.gov]] |access-date=July 19, 2011}}</ref><br />(外交時) }} | abbreviation = POTUS | member_of = {{plainlist| * [[:en:United States Domestic Policy Council|国内政策会議]] * [[アメリカ合衆国国家経済会議|国家経済会議]] * [[アメリカ国家安全保障会議|国家安全保障会議]] }} | residence = [[ホワイトハウス]]<br/>([[ウェストウィング]]) | residence2 = ホワイト・ハウス<br/>(エグゼクティヴ・レジデンス) | appointer = [[アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]([[間接選挙]])<ref> {https://kotobank.jp/word/%E9%96%93%E6%8E%A5%E9%81%B8%E6%8C%99-49090}</ref> | termlength = [[アメリカ合衆国憲法修正第22条|4年間、最長2期]]<ref name="n" group="注釈" /> | constituting_instrument = [[アメリカ合衆国憲法]] | formation = [[1788年]][[6月21日]]<ref>{{Cite book |last=Maier |first=Pauline |title=Ratification: The People Debate the Constitution, 1787–1788 |date=2010 |publisher=Simon & Schuster |isbn=978-0-684-86854-7 |location=New York, New York |page=433 |author-link=Pauline Maier}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://constitutioncenter.org/blog/march-4-a-forgotten-huge-day-in-american-politics/ |title=March 4: A forgotten huge day in American history |date=March 4, 2013 |publisher=[[:en:National Constitution Center]] |location=Philadelphia |access-date=July 29, 2018}}</ref> | first = [[ジョージ・ワシントン]]<ref>{{Cite web |url=https://www.mountvernon.org/library/digitalhistory/digital-encyclopedia/article/presidential-election-of-1789/ |title=Presidential Election of 1789 |website=Digital Encyclopedia |publisher=Mount Vernon Ladies' Association, George Washington's Mount Vernon |location=Mount Vernon, Virginia |access-date=July 29, 2018}}</ref> | deputy = [[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]<br/>([[カマラ・ハリス]]) | salary = 年額40万[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]] | website = {{URL|https://www.whitehouse.gov/}} }}{{アメリカ合衆国の政治}} '''アメリカ合衆国大統領'''(アメリカがっしゅうこくだいとうりょう、{{Lang-en-short|President of the United States of America}}、略称:{{Lang|en-US|'''POTUS'''}})は、[[アメリカ合衆国]]の[[元首]]であり、[[政府の長|行政府の長]]たる[[大統領]]。4年ごとに実施される[[アメリカ合衆国大統領選挙]]によって選出される。 == 資格 == [[アメリカ合衆国大統領選挙]]の[[被選挙権]]は、「[[アメリカ合衆国憲法]]第2条第1節」の規定により「'''35歳以上'''かつアメリカ合衆国国内における在留期間が'''14年以上'''で、'''出生によるアメリカ合衆国市民権保持者'''」である。この「出生による市民権保持者」とは、「'''国内で出生したため'''、(アメリカ合衆国の採用する)'''[[出生地主義]]に基づき国籍を取得した者'''」または「'''アメリカ合衆国市民を両親として海外で出生した者'''」である。 すなわち、出生した時点においてアメリカ合衆国国籍でなければ大統領候補の資格が無い。経過規定として、[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]制定当時にアメリカ合衆国市民であった者([[13植民地]]当時からの在住者)は資格を得るとされていて、初代から第9代まで及び第12代の大統領はこの規定に基づく有資格者である。 この他に大統領選挙人が投票する際に、2票のうち少なくとも1票を他の州の者に投じなければならないという規定がある為、正副大統領候補が同一の[[アメリカ合衆国の州|州]]に籍を置くと選挙時に問題が生じる。もっとも便宜的に住所を移動することが可能である為実際的な問題にはならない{{efn|[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙]]に際して、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の大統領候補[[ジョージ・W・ブッシュ]]と副大統領候補の[[ディック・チェイニー]]の州籍が同じ[[テキサス州]]であったため、チェイニーが同州の自宅を売却し、有権者登録と運転免許登録を[[ワイオミング州]]に移転したことによって規制を回避している。}}。 == 選出 == {{See also|アメリカ合衆国大統領選挙}} 大統領は[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]第2条第1節の規定により'''4年に1度[[国民]]の[[投票]]によって新しく選出'''または'''再任'''されるため、任期は1期につき4年である。[[アメリカ合衆国憲法修正第22条|修正第22条]]の規定により、'''2度を超えて選出されることは認められていない'''(3選禁止)。すなわち、原則として同一人物が最長で務められるのは連続・返り咲きを問わず2期8年である。前大統領の辞任・死去などに伴い昇格した場合には例外がありうるが<ref name="n" group="注釈">任期途中で大統領に昇格した場合は、その任期が残り2年以内であれば、その後の大統領選挙に2度挑戦できる(修正第22条)。この場合、最高で10年間在任出来ることになる。第36代大統領の[[リンドン・ジョンソン]]にはこの資格があったがベトナム戦争の責任を取り3期目をかけた選挙に出馬しなかったので2期で退任した。</ref>、修正22条の下で<ref group="注釈">修正22条の制定前に、[[フランクリン・ルーズベルト]]が4回大統領に選出されている。</ref>通算3期以上を務めた大統領経験者はいない。 [[アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]は形式的には[[間接選挙]]であり、[[アメリカ選挙人団|選挙人団]]によって大統領及び副大統領がペアで選出される選挙制度となっている。ただし一般[[有権者]]は正副大統領候補者に投票する為、事実上[[直接選挙]]に近い性格も併せ持つ。なお、どの候補者も過半数の選挙人を獲得できない場合には、[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]の[[アメリカ合衆国下院|下院]]及び[[アメリカ合衆国上院|上院]]がそれぞれ大統領及び副大統領を選出する。 == 権限 == 米国では大統領に[[行政権]]が帰属する[[独任制]]をとっているが、徹底した[[権力分立]]を採用し、[[解散 (議会)|解散]]のない[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]が大統領の政策を監視・抑制するほか、[[合衆国最高裁判所#裁判官|連邦最高裁判所判事]]の任命に上院の承認が必要とされ、連邦最高裁判所が大統領の政策に対して違憲判断を下すなど、権力相互間の抑制・均衡が働いている。他方、日本の[[内閣総理大臣]]は[[国務大臣]]の任免権を有し、内閣総理大臣によって組織された[[内閣 (日本)|内閣]]が[[閣議 (日本)|閣議決定]]を通じて行政権を一手に掌握することになる。[[最高裁判所長官]]の指名権や裁判官の任命権を有し、裁判所の予算は内閣が掌握していることから、内閣総理大臣は[[司法権]]に関しても一定の影響力を及ぼすことが可能である。また、内閣総理大臣は[[与党]][[党首]]として[[小選挙区制]]における公認権を通じて圧倒的な力を党内で持ち、政権与党を掌握している。こうしたことから、日本の内閣総理大臣は閣僚や官僚に対する人事権を通じて行政権を事実上一人で掌握し、司法権に関しても人事権と予算編成権によって間接的に掌握している。[[議院内閣制]]の下ではこうした内閣総理大臣への権力の集中が制度上認められている<ref>{{Cite web|和書|author=[[伊藤真 (弁護士)|伊藤真]] |date= |url=https://www.itojuku.co.jp/jukucho_zakkan/articles/2022-1101.html |title=第328回 言葉と民主主義 |publisher=[[伊藤塾]] |accessdate=2023-08-12}}</ref>。 === 行政権 === * [[アメリカ合衆国内閣|顧問団]]の各省長官から意見を求める権利。 * [[刑]]の執行延期及び[[恩赦]]を行う権限(弾劾の場合を除く)。 * [[条約]]の締結権。ただし[[アメリカ合衆国上院|上院]]の3分の2以上の賛成による承認{{efn|name="ac"}}が必要。 * 判事([[裁判官]])・外国駐在[[大使]]・各省長官を始めとする全ての連邦公務員([[アメリカ合衆国憲法|憲法]]または連邦法が特に定めたものを除く)の指名権及び罷免権。ただし[[アメリカ合衆国上院|上院]]の承認{{efn|name="ac"|憲法上は上院の「[[助言と同意]]」が必要であるが、「助言」は提案の後でも良いと解釈されるため、実質的には「同意」すなわち「承認」のみが必要となる。}}が必要である。 * 上院休会中に生じた欠員に対して次回の上院の会期満了日を任期として[[休会任命]]をする権利。 * [[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]の停会権および非常時における臨時招集権。 * アメリカ合衆国駐在の各国大使その他の[[外交]]使節の接受権。 * 独立命令である[[大統領令 (アメリカ合衆国)|大統領令]]の発令。大統領令は連邦議会の立法権に干渉してはならないとされるが、行政権の下にある[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]・[[アメリカ軍|軍]]に対する直接命令の他、「[[奴隷解放宣言]]」(1862年)や「[[日系人の強制収容]]」(1942年)のような、アメリカ国民の重大な[[人権]]に直接関わるものも存在する。 {{multiple image |align = none |width1 = 160 |image1 = Abraham Lincoln head on shoulders photo portrait.jpg |caption1 = [[エイブラハム・リンカーン]]<br> ---- <small>第16代大統領。[[共和党 (アメリカ)|共和党]]出身。「[[奴隷解放宣言]]」([[1862年]])で執行権などを最大限に活用した大統領。</small> |width2 = 178 |image2 = FDR in 1933.jpg |caption2 = [[フランクリン・ルーズベルト]]<br> ---- <small>第32代大統領。[[民主党 (アメリカ)|民主党]]出身。[[1933年]]、市民の金所持を禁止し[[紙幣]]との引換を命令。[[第二次世界大戦]]下の「[[大統領令9066号]]」([[1942年]])による[[日系人の強制収容]]命令。</small> }} {{-}} === 立法に関する権限 === [[File:BarackObamaSigningLegislation.jpg|280px|thumb|法案へ署名し有効にする[[バラク・オバマ|オバマ]]大統領(当時)。右側から差し出されている文書と山が未決の、前にあるのが既決の山(2010年12月22日)。]] * 法律制定その他の適切と考える施策の連邦議会への勧告権(「教書」{{Lang|en|Message}} と言う)。最も知られているのが年頭の「[[一般教書演説]]({{Lang|en|State of the Union Address}})」である。他に[[予算教書]]・[[経済教書]]・特別教書などがある。近年、一般教書は[[アメリカ合衆国議会合同会議|両院合同会議]]で演説されるようになった。大統領には法案提出の権限が無く、代わりに教書によって議会に法律の制定を要請することになる。また、大統領には議会への出席権が無いので、本来は教書は文書として送達される。教書演説の際には、その都度議会によって特に招待されなければならない。 * 連邦議会両院を通過した法案への[[拒否権]]。ただし、連邦議会に差し戻された法案は両院ともに3分の2以上の多数で再可決されれば大統領の署名なしに法律が制定される{{sfn|西山隆行|2018|p=38}}。 === 軍の最高指揮権 === 大統領は[[アメリカ軍|軍]]([[アメリカ陸軍|陸軍]]・[[アメリカ海軍|海軍]]・[[アメリカ空軍|空軍]]・[[アメリカ海兵隊|海兵隊]]・[[アメリカ沿岸警備隊|沿岸警備隊]]・[[アメリカ宇宙軍|宇宙軍]])の[[最高指揮官|最高司令官]]({{Lang|en|Commander-in-Chief}})としての[[指揮 (軍事)|指揮権]]([[国家指揮権限]])を保持する。[[アメリカ合衆国による宣戦布告|宣戦布告]]は[[アメリカ合衆国議会|議会]]の権限であり(連邦憲法第8条第11項)、軍隊を募集・編制することも議会の権限である。しかし今日では、議会による宣戦布告を待っていては先制攻撃が不可能になってしまったり、逆に敵対国から先制攻撃を受けてしまったりする危険性がある為、大統領はこの指揮権を根拠に宣戦布告無しで戦争を開始できることが慣例的に定着している。 実際にアメリカ合衆国が正式に宣戦布告を行ったのは憲法制定以後[[米英戦争|1812年戦争]]・[[米墨戦争]]・[[米西戦争]]・[[第一次世界大戦]]・[[第二次世界大戦]]の5回しか無く、[[1941年]][[12月7日]]([[ハワイ・アリューシャン標準時|ハワイ時間]])の[[真珠湾攻撃]]を契機に[[アメリカ合衆国の対日宣戦布告|大日本帝国]]・[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]・[[イタリア王国]]及び他の[[枢軸国]]側に対して行ったものが現在に至るまで最後の正式な宣戦布告であり、[[朝鮮戦争]]・[[ベトナム戦争]]など[[1945年]]以降は議会による宣戦布告は行われていない<ref>{{Cite web|和書|author=[[阿川尚之]] |date= |url=http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/america/013.html |title=第13回 湾岸戦争と大統領の戦争権限 - デラムス対ブッシュ事件と大統領の戦争権限 |work=憲法で読むアメリカ現代史 |publisher=NTTウェブマガジン Webnttpub. |accessdate=2014-08-12}}</ref>。 これに対して議会は[[ベトナム戦争]]における成り行きによった拡大と泥沼化に対する反省から、「[[戦争権限法]]」を定めて大統領の指揮権に一定の制約を設けている。なお指揮権とは少々外れるが、アメリカ軍の保有する[[核兵器]]の使用権限も大統領が保持しており、大統領が使用命令を出すことで初めて核兵器の使用が許可されるようになっている。 == 日常 == * '''勤務時間は特に規定で決まっている訳では無く'''、「'''自分で必要と考えるだけ勤務すればよい'''」とされている。 * 大統領の朝最初の仕事は「日例報告」を聞くことから始まる。この報告では[[アメリカ合衆国大統領首席補佐官|首席補佐官]]・[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]・[[アメリカ合衆国国家情報長官|国家情報長官]]らによって、世界中から収集した情報の報告が行われる。 * 日常的な執務は「[[オーバルオフィス]]」と呼ばれる(室内が[[楕円]]である事にちなむ)大統領執務室で行われる。位置はホワイトハウスの[[ウエストウイング]]内。 * 万が一に備えて[[核兵器]]使用に必要な装置(「[[核のフットボール]]」、「核のボタン」というニックネームがある、統合参謀本部への発信機能付きアタッシェケース。中身は大統領命令であることを証明する暗号書、報復として指示されるべき軍事行動のリスト、核攻撃実行の際の避難場所リスト)を携帯した[[将校]]がいかなる場所へも随行する。 * 定例の[[記者会見]]は定められていないが、通常は月に1度以上実施される。また必要に応じて大統領がテレビで直接国民に語りかけることもある。 * 毎週土曜日の朝には定例[[ラジオ]]演説を行う。5分程度のメッセージが読まれ、近況や現在取組中の課題などについてが説明される。 * 休日は大統領専用の別荘である「[[キャンプ・デービッド]]」で過ごす。 * [[2007年]]現在、大統領の給与は「年額40万[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]](約4,300万[[円 (通貨)|円]])」{{efn|比較例として、同年度の日本の[[内閣総理大臣]]の基本年給は約2,485万円となっている。ただし、日本では[[日本の国会議員|国会議員]]歳費との差額分だけが内閣総理大臣の給与として扱われる。}}、これに必要経費5万ドル(約550万円)、旅行経費10万ドル(約1,100万円)、交際費1万9,000ドル(約210万円)が必要に応じて支給される。 {{main|アメリカ合衆国大統領の輸送}} * 外遊などで航空機に搭乗した際に使用されるコールサインは、その航空機の所属によってコールサインが付与される。 **[[エアフォースワン]]:空軍機(通常は専用機[[VC-25]]を指す) **[[エグゼクティブワン]]:民間機 **[[コーストガードワン]]:沿岸警備隊機 **[[ネイビーワン]]:海軍機 **[[マリーンワン]]:海兵隊機 **[[アーミーワン]]:陸軍機。 * 空路で移動する際には基本的に大統領専用機もしくはアメリカ軍機に搭乗する。[[ビジネスジェット]]を個人所有していたとしても大統領職在任中は利用できないという制限がある<ref name=Trump>[http://www.cnn.co.jp/fringe/35092085.html CNN.co.jp : トランプ氏、自家用機の使用は却下 就任後は大統領専用機で] - [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]</ref>。この制限は実業家出身の[[ドナルド・トランプ]]が2017年1月20日に大統領に就任した際に注目を集めた。 <gallery heights="180px" widths="280px"> File:WhiteHouseSouthFacade.JPG|大統領が居住し、執務を行う[[ホワイトハウス]]([[公邸]]部分)。 File:Johnroberts3.jpeg|オーバルオフィスで記者会見を行う[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領(2005年9月5日) </gallery> == 議会との関係 == {{multiple image |align = right |direction = vertical |header = 一般教書演説 |width = 280 |image1 = G.W. Bush delivers State of the Union Address.jpg |caption1 = 両院合同会議(2003年) |image2 = SOU2007.jpg |caption2 = 議場で演説する大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]](2007年) }} {{see also|大統領制#アメリカ型大統領制}} [[アメリカ合衆国の政治]]は[[三権分立]]が徹底しており、行政府の長である大統領は立法府における[[解散 (議会)|議会解散権]]を持たず、連邦議会も[[内閣不信任決議|大統領不信任決議]]の権限を持たない。また、連邦議会議員は在職したままでは大統領顧問団の[[大臣|閣僚]]を兼任することはできない{{sfn|西山隆行|2018|p=29}}。 毎年1月下旬に[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]で行われる大統領の「[[一般教書演説]]」は、アメリカの[[三権分立|三権]](大統領、上下両院議長、[[合衆国最高裁判所|最高裁判所]]長官)を構成する者のほぼ全てが[[アメリカ合衆国下院|下院]]本会議場に集う一大イベントである。 しかし[[冷戦]]下の[[1970年代]]末に大統領府は、この一般教書演説時を狙った[[東側諸国]]による首都核攻撃を想定し、大統領権限継承者全員と上下両院議員全員が一堂に会することの危険性を憂慮した。ここを攻撃されると、憲法が定める法的な大統領権限の継承者が皆無となるばかりか、そうした憲法的危機を乗り越える為に必要な立法措置を行う議会や、対策手段を公的に承認する[[合衆国最高裁判所|連邦最高裁判所]]までが一瞬にして消滅してしまう可能性があるためである。 その結果[[1981年]]の一般教書演説([[ジミー・カーター]])からは、閣僚の大統領権限継承者の1人を内密に「[[指定生存者]]」に指名し、その者を首都の[[ワシントンD.C.]]から相当の距離を置いた非公開の場所に当日は待機させる(つまり隠す)ことにした。 さらに、あくまでも想像上の事態であった攻撃だが、[[アメリカ同時多発テロ事件|9.11]]で米国本土への攻撃が現実のものになると、[[2005年]]の一般教書演説([[ジョージ・W・ブッシュ]])からは議会も各院で民主党と共和党からそれぞれ1人ずつ、計4人の議員を「指定生存者」として一般教書演説の日は首都を離れさせ、最悪の事態が起きた場合でも両院で議長と議員がいる連邦議会が生き残れるようにした。ただし、2005年から2007年において[[アメリカ合衆国上院|上院]]では[[アメリカ合衆国大統領の継承順位|大統領権限継承順位]]が3位の[[アメリカ合衆国上院仮議長|上院仮議長]]が上院の指定生存者の1人となっており、これがこのまま慣例として定着すると、あえて閣僚の指定生存者を指名する必要性が失われてしまう点が指摘されている。 == 大統領権限継承順位 == {{出典の明記|date=2017年2月|section=1}} {{main|アメリカ合衆国大統領の継承順位}} 1947年{{仮リンク|大統領継承法|en|Presidential Succession Act}}は、第(a)条(1)項で「もし死亡、辞任、解任、執務不能などの理由により、大統領と副大統領の双方が大統領の責務を果たし権限を執行できない場合には、下院議長が、下院議長と下院議員を辞職したのちに、大統領としてこれを行う」としたうえで、その次を上院仮議長、その次からは内閣の閣僚を所轄省庁の設立年の古い順に並べ、継承順位を第18位まで定めている。 [[ファイル:US_Cabinet_meeting_2001.jpg|thumb|280px|閣議(2004年)]] {|class=wikitable !継承順位!!職名 |- |style="text-align:right"|1||[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]<br>(上院議長兼任) |- |style="text-align:right"|2||[[アメリカ合衆国下院議長|下院議長]] |- |style="text-align:right"|3||[[アメリカ合衆国上院仮議長|上院仮議長]] |- |style="text-align:right"|4||[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]] |- |style="text-align:right"|5||[[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]] |- |style="text-align:right"|6||[[アメリカ合衆国国防長官|国防長官]] |- |style="text-align:right"|7||[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]] |- |style="text-align:right"|8||[[アメリカ合衆国内務長官|内務長官]] |- |style="text-align:right"|9||[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]] |- |style="text-align:right"|10||[[アメリカ合衆国商務長官|商務長官]] |- |style="text-align:right"|11||[[アメリカ合衆国労働長官|労働長官]] |- |style="text-align:right"|12||[[アメリカ合衆国保健福祉長官|保健福祉長官]] |- |style="text-align:right"|13||[[アメリカ合衆国住宅都市開発長官|住宅都市開発長官]] |- |style="text-align:right"|14||[[アメリカ合衆国運輸長官|運輸長官]] |- |style="text-align:right"|15||[[アメリカ合衆国エネルギー長官|エネルギー長官]] |- |style="text-align:right"|16||[[アメリカ合衆国教育長官|教育長官]] |- |style="text-align:right"|17||[[アメリカ合衆国退役軍人長官|退役軍人長官]] |- |style="text-align:right"|18||[[アメリカ合衆国国土安全保障長官|国土安全保障長官]] |} ただし、外国で誕生してアメリカ合衆国に帰化(国籍取得)した者など、憲法で定める大統領の資格を満たさない(移民から大統領たるには3代連続でアメリカ在住でなければならない)者がこの順位内にいる場合は、その者を飛ばして下位の者の順位が繰り上がる。また、副大統領以外の者の地位はあくまで職権代行者たる[[アメリカ合衆国大統領代行|大統領代行]]に留まり、副大統領のように大統領に「昇格」することは出来ない。 == 歴代大統領の出身 == {{出典の明記|date=2017年2月|section=1}} [[Image:Mountrushmore.jpg|thumb|280px|[[ラシュモア山]]に彫られた「偉大な大統領」 ---- <small>左から[[ジョージ・ワシントン]]、[[トーマス・ジェファーソン]]、[[セオドア・ルーズベルト]]{{efn|[[アメリカ独立戦争|独立戦争]]の植民軍総大将ワシントン、[[アメリカ合衆国憲法|連邦憲法]]起草に関わったジェファーソン、[[奴隷解放宣言]]を声明したリンカーンの3人は伝統的に「偉大な大統領」として多くの施設名などにその名を残しているほか、[[アメリカ合衆国ドル|紙幣や硬貨]]の肖像にも使用され続けている。T・ルーズベルトはかつて在任中に[[ノーベル平和賞]]を受賞した唯一の大統領として、{{いつ範囲|この肖像が制作されていた当時|date=2017年1月}}は“偉大な大統領”の一人に名を連ねていた。}}、[[エイブラハム・リンカーン]]。</small>]] ===人種=== 大統領には、古くから[[英語]]を[[母語]]とし[[白人]]([[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]]系)で[[プロテスタント]]([[WASP]])の[[男性]]が多く選出されてきた。 しかし、[[1960年アメリカ合衆国大統領選挙|1960年の大統領選挙]]で[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]にして[[カトリック教会|カトリック信徒]]である[[ジョン・F・ケネディ]]が当選したことで、そのルーツに注目が集まった。さらに60年後の、[[2020年アメリカ合衆国大統領選挙|2020年の大統領選挙]]ではカトリックでアイルランド系としては2人目の[[ジョー・バイデン]]が当選した。 また[[2008年アメリカ合衆国大統領選挙|2008年の大統領選挙]]では、[[バラク・オバマ]]が[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]{{efn|[[ケニア]]人の黒人の父親とアメリカ人の白人の母親の子であるため、現在の[[南アメリカ]]や過去のアメリカの人種分類では[[ムラート]]とされる。しかし、現在のアメリカでは歴史的経緯から黒人の血統を有していることが外見的に明らかであれば(エスニックグループとしての)「黒人」に分類される。}}として初めて2大政党の大統領候補指名を受けて尚且つ当選を果たし、初の非白人の米国大統領が就任した。 [[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン系]]([[WASP]])という括りで規定されることもあるが、[[イングランド系アメリカ人]](アングロ・サクソン人)以外にも、[[スコットランド人]]や[[アイルランド系アメリカ人]]、[[オランダ系アメリカ人]]、[[ドイツ系アメリカ人]]も早い年代から当選している。父系でWASPに該当しない大統領は[[1837年]]に就任した、オランダ系の[[マーティン・ヴァン・ビューレン]]が皮切りである。 先祖の出身国において大統領当選が歓迎されることもある。例えば[[ロナルド・レーガン]]は外遊先の[[アイルランド]]で大歓迎を受け、バラク・オバマは[[奴隷]]の子孫ではないものの就任時には[[アフリカ系アメリカ人]]やその父の故郷[[ケニア]]で歓喜に満ちあふれた。ちなみに多民族国家であるために姓のルーツも様々で、ワシントンやリンカーン、ジョンソン、クリントン、ブッシュは[[イングランド系アメリカ人|イングランド系]]、モンローやマッキンリーは[[スコットランド系アメリカ人|スコットランド系]]、ヴァン・ビューレンやルーズベルトは[[オランダ系アメリカ人|オランダ系]]、アイゼンハワーやトランプは[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系]]、ケネディやレーガンは[[アイルランド系アメリカ人|アイルランド系]]の姓である。また初の[[アフリカ系アメリカ人|アフリカ系]]であるオバマは[[スワヒリ語]]圏の[[ルオ族]]の姓である。 === 性別 === 特に規定は無い。初代の[[ジョージ・ワシントン]]から現職の[[ジョー・バイデン]]に至るまで歴代大統領は全員が[[男性]]であり、女性大統領は未だに誕生していない。 [[2016年アメリカ合衆国大統領選挙|2016年大統領選挙]]に[[ヒラリー・クリントン]]([[ビル・クリントン]]元大統領夫人、元[[アメリカ合衆国のファーストレディ|ファーストレディ]])が[[2016年アメリカ合衆国大統領民主党予備選挙|民主党予備選挙]]に勝利し女性として初めて二大政党の候補者指名を受け、一般投票では共和党の[[ドナルド・トランプ]]より多く得票したが、獲得[[アメリカ選挙人団|選挙人]]数が少なかった為に敗北した。 === 経歴 === 歴代大統領には連邦議会議員もしくは州知事、副大統領を務めた人物が多く選出されている。 政治家になる以前の前職として最も多いのは[[弁護士]]である。歴代大統領46人中28人(歴代大統領の61%)が弁護士出身者であり、特に建国から[[南北戦争]]までは16人中13人(81%)が弁護士出身者である。弁護士出身の大統領には[[エイブラハム・リンカーン]]や[[フランクリン・ルーズベルト]]など顕著な歴史的実績を残した人物も多い。 また、共和党を中心に軍歴を有する大統領も多い([[ユリシーズ・グラント]]、[[セオドア・ルーズベルト]]、[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]など)。[[ロナルド・レーガン]]は、前職は[[俳優]]という[[芸能]]関係であるものの[[アメリカ合衆国州知事一覧|州知事]]を務めた経歴がある。 この慣習が破られた第45代大統領の[[ドナルド・トランプ]]は、長年実業家として[[不動産]]ビジネスを展開してきた人物で、政治経験・軍歴ともに無い初めての米国大統領であり尚且つ70歳での大統領就任は1期目としては当時史上最高齢でもあった(就任時年齢の最高齢記録は、後任の第46代[[ジョー・バイデン]]が78歳で更新した)。 また、[[ハリー・S・トルーマン]]までは、最終学歴が高卒の者も少なからず存在していた。 ==呼称== {{出典の明記|date=2017年2月|section=1}} 大統領(男性の場合)の呼びかけの呼称は「ミスター・プレジデント」({{Lang|en|Mr. President}}){{efn|合衆国発足当時は「陛下」({{Lang|en|Your Majesty}})や「閣下」({{Lang|en|Your Excellency}})などが模索されたが、初代大統領の[[ジョージ・ワシントン]]はこうした[[尊称]]で呼びかけられることを嫌ったため、より親しみやすい「ミスター・プレジデント({{Lang|en|Mr. President}})」が定着した。[[ウォーレン委員会]]報告書にもあるように公文書にも使われる表記。なお、日本では映画、テレビドラマなどの吹き替え、字幕等で「閣下」と翻訳する例も見受けられ、正式な外交公文の宛名は「アメリカ合衆国大統領***閣下」となる}}、略呼称は「サー」({{Lang|en|Sir}})。 大統領が女性の場合はこれが「マダム・プレジデント」({{Lang|en|Madam President}})、略称が「マァム」({{Lang|en|Ma’am}})となる(但し、女性大統領が誕生した例はまだ無い)。 アメリカでは'''退任した大統領も儀礼上は生涯に渡って大統領として接遇される'''為、'''存命の前・元大統領全員が同様に「ミスター・プレジデント({{Lang|en|Mr. President}})」と呼ばれる'''{{efn|この慣例は、[[ウォーターゲート事件]]の揉み消しスキャンダルで辞任した[[リチャード・ニクソン]]にも例外なく適用された。}}。 また、11月初頭に大統領選で当選した大統領候補は翌年1月20日までの約2ヶ月半の間「[[アメリカ合衆国次期大統領|大統領当選者(ミスター・プレジデント・イレクト)]]」({{Lang|en|Mr. President-Elect}}、「大統領選挙当選者」、「次期大統領」)と呼ばれる。ミスター・プレジデント・イレクトは、儀礼上はまだ大統領としては接遇されないものの、この約2ヶ月半は職務引き継ぎ期間として大統領に対するそれとほぼ同じ内容の「日例報告」を受けたり、[[アメリカ合衆国シークレットサービス|シークレット・サービス]]による完全体制の身辺警護を受ける為、事実上大統領と同格の扱いとなる。 現職を除く存命のアメリカ合衆国大統領経験者は以下の5名である。 {{multiple image |align = left |header = 米国の現職以外で存命の歴代「ミスター・プレジデント({{Lang|en|Mr. President}})」 |width1 = 142 |image1 = Carter cropped.jpg |caption1 = <div style="text-align:center;">第39代<br>'''[[ジミー・カーター]]'''<br>1期在任<br>([[1977年]] - [[1981年]])<br>[[1924年]][[10月1日]] - <br>({{年数|1924|10|01}}歳)</div> |width3 = 142 |image3 = Bill Clinton.jpg |caption3 = <div style="text-align:center;">第42代<br>'''[[ビル・クリントン]]'''<br>2期在任<br>([[1993年]] - [[2001年]])<br>[[1946年]][[8月19日]] - <br>({{年数|1946|08|19}}歳)</div> |width4 = 142 |image4 = P43 George W. Bush 3x4.jpg |caption4 = <div style="text-align:center;">第43代<br>'''[[ジョージ・W・ブッシュ]]'''<br>2期在任<br>([[2001年]] - [[2009年]])<br>[[1946年]][[7月6日]] - <br>({{年数|1946|07|06}}歳)</div> |width5 = 142 |image5 = President Barack Obama, 2012 portrait crop.jpg |caption5 = <div style="text-align:center;">第44代<br>'''[[バラク・オバマ]]'''<br>2期在任<br>([[2009年]] - [[2017年]])<br>[[1961年]][[8月4日]] - <br>({{年数|1961|08|04}}歳)</div> |width6 = 142 |image6 = Donald Trump official portrait (cropped).jpg |caption6 = <div style="text-align:center;">第45代<br>'''[[ドナルド・トランプ]]'''<br>1期在任<br>([[2017年]] - [[2021年]])<br>[[1946年]][[6月14日]] - <br>({{年数|1946|06|14}}歳)</div> }} {{multiple image |align = left |header = オーバルオフィスにて、5人の「ミスター・プレジデント({{Lang|en|Mr. President}})」。 |width1 = 267 |image1 = FordNixonBushReaganCarter.jpg |caption1 = 1991年<br> ---- <small>左から[[ジェラルド・R・フォード|フォード]]、[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]、[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ(父)]](当時現職)、[[ロナルド・レーガン|レーガン]]、[[ジミー・カーター|カーター]]。レーガン記念図書館所蔵資料</small> |width2 = 296 |image2 = Five Presidents Oval Office.jpg |caption2 = 2009年<br> ---- <small>左から[[ジョージ・H・W・ブッシュ|ブッシュ(父)]]、[[バラク・オバマ|オバマ]](当時プレジデント・イレクト)、[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ(子)]](当時現職)、[[ビル・クリントン|クリントン]]、[[ジミー・カーター|カーター]]。アメリカ国立公文書記録管理局資料</small> }}{{clear}} == 引退後 == [[File:George W. Bush Presidential Center dedication.tif|alt=|thumb|[[テキサス州]][[ダラス]]に設立されたジョージ・W・ブッシュ大統領図書館・美術館([[:en:George W. Bush Presidential Center|George W. Bush Presidential Center]])に集ったオバマ大統領(当時)とブッシュ(子)、クリントン、ブッシュ(父)、カーターの大統領経験者たち(2013年)]] 大統領職退任後には、公務員として[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]から年間約20万ドルの年金と医療保険・公務出張費・個人事務所が提供される。また、要請をすれば、慣例により現職の大統領と同等レベルの機密情報の報告を受けることができる<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-06|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35166169.html |title=トランプ氏はもう機密報告を「受けるべきではない」 バイデン大統領|publisher=[[CNN]]|accessdate=2021-02-07}}</ref>。 なお、機密情報保持などのため[[アメリカ合衆国シークレットサービス|シークレット・サービス]]による警護は退任後も一生涯続く<ref>{{cite news|url=https://www.cnn.co.jp/usa/30005433.html|title=米大統領は辞めてから稼ぐ、元大統領たちの知られざる懐事情|publisher=[[CNN]]|date=2012-01-29|accessdate=2023-05-14}}</ref>。 {{節スタブ}} また、アメリカ合衆国大統領が任期中に関与した公務に関する資料や往復書簡・写真などを保管し、かつ一般に公開している比較的大規模な施設として「[[大統領図書館]]」が存在する。[[ハーバート・フーヴァー]]以降の大統領は退任後に創設される慣例となっている。 {{main|大統領図書館}} == 所属政党 == 以下、就任時の所属政党別のアメリカ合衆国大統領(姓のアルファベット順)。 {| class=wikitable |- ! colspan=2| 政党 ! <abbr title="Number of presidents">人数</abbr> ! 大統領 |- | style="background-color:{{party color|Republican Party (United States)}}" | | [[共和党 (アメリカ)|共和党]] | style="text-align: center;" |19 | [[チェスター・A・アーサー]], [[ジョージ・H・W・ブッシュ]], [[ジョージ・W・ブッシュ]], [[カルビン・クーリッジ]], [[ドワイト・D・アイゼンハワー]], [[ジェラルド・R・フォード]], [[ジェームズ・ガーフィールド]], [[ユリシーズ・グラント]], [[ウォレン・ハーディング]], [[ベンジャミン・ハリソン]], [[ラザフォード・ヘイズ]], [[ハーバート・フーヴァー]], [[エイブラハム・リンカーン]],{{Efn-ua|共和党のエイブラハム・リンカーンは、1864年に民主党のアンドリュー・ジョンソンとともに国民統一党の一部の所属として2期目に選出された。}} [[ウィリアム・マッキンリー]], [[リチャード・ニクソン]], [[ロナルド・レーガン]], [[セオドア・ルーズベルト]], [[ウィリアム・タフト]], [[ドナルド・トランプ]] |- | style="background: {{party color|Democratic Party (United States)}};" | | [[民主党 (アメリカ)|民主党]] | style="text-align: center;" |15 | '''[[ジョー・バイデン]] (現職)''', [[ジェームズ・ブキャナン]], [[ジミー・カーター]], [[グロバー・クリーブランド]], [[ビル・クリントン]], [[アンドリュー・ジャクソン]], [[リンドン・ジョンソン]], [[ジョン・F・ケネディ]], [[バラク・オバマ]], [[フランクリン・ピアース]], [[ジェームズ・ポーク]], [[フランクリン・ルーズベルト]], [[ハリー・S・トルーマン]], [[マーティン・ヴァン・ビューレン]], [[ウッドロウ・ウィルソン]] |- | style="background-color:{{party color|Democratic-Republican Party}}" | | [[民主共和党 (アメリカ)|民主共和党]] | style="text-align: center;" |4 | [[ジョン・クィンシー・アダムズ]], [[トーマス・ジェファーソン]], [[ジェームズ・マディソン]], [[ジェームズ・モンロー]] |- | style="background-color:#F0DC82" | | [[ホイッグ党 (アメリカ)|ホイッグ党]] | style="text-align: center;" |4 | [[ミラード・フィルモア]], [[ウィリアム・ハリソン]], [[ザカリー・テイラー]], [[ジョン・タイラー]]{{Efn-ua|元民主党のジョン・タイラーは、1840年にハリソンとともにホイッグ党所属で副大統領に選出された。大統領としてのタイラーの政策優先事項はホイッグ党の議題の大半に反対していることが早期に判明し、1841年9月に党から追放された。}} |- | style="background-color:#E9967A" | | [[連邦党]] | style="text-align: center;" |1 | [[ジョン・アダムズ]] |- | style="background-color:#B22222" | | nowrap | [[:en:National Union Party (United States)|国民統一党]] | style="text-align: center;" |1 | [[アンドリュー・ジョンソン]]{{Efn-ua|民主党のアンドリュー・ジョンソンは、1864年に共和党のエイブラハム・リンカーンとともに国民統一党所属で副大統領に選出された。その後、ジョンソンは大統領時代に国民連合の旗の下に支持者の党を設立しようと試みたが失敗し、大統領任期の終盤近くに民主党に復帰した。}} |- | style="background:#f5f5f5" | | [[無所属]] | style="text-align: center;" |1 | [[ジョージ・ワシントン]] |} <references group="upper-alpha"/> == 歴代大統領の時系列 == {{See also|歴代アメリカ合衆国大統領の一覧}} 以下の年表は、歴代アメリカ合衆国大統領の任期と就任時の所属政党を示す。 ;1850年まで <timeline method="svg2png"> ImageSize = width:630 height:auto barincrement:15 PlotArea = top:10 bottom:50 right:100 left:20 AlignBars = late DateFormat = yyyy Period = from:1789 till:1850 TimeAxis = orientation:horizontal ScaleMajor = unit:year increment:5 start:1790 #<!--カラー定義--> Colors = id:ind value:rgb(0.8,0.8,0.8) id:fed value:rgb(0.92,0.6,0.47) id:drp value:rgb(0.0,0.5,0.0) id:dem value:rgb(0.2,0.2,1) id:whg value:rgb(0.94,0.86,0.51) id:rep value:rgb(0.90,0.11,0.14) BarData = barset:PM PlotData = width:5 align:left fontsize:S shift:(5,-4) anchor:till barset:PM #<!-- 民主党はcolor:dem、共和党はcolor:rep --> from:1789 till:1797 color:ind text:"ジョージ・ワシントン" fontsize:8 from:1797 till:1801 color:fed text:"ジョン・アダムズ" fontsize:8 from:1801 till:1809 color:drp text:"トーマス・ジェファーソン" fontsize:8 from:1809 till:1817 color:drp text:"ジェームズ・マディソン" fontsize:8 from:1817 till:1825 color:drp text:"ジェームズ・モンロー" fontsize:8 from:1825 till:1829 color:drp text:"ジョン・クィンシー・アダムズ" fontsize:8 from:1829 till:1837 color:dem text:"アンドリュー・ジャクソン" fontsize:8 from:1837 till:1841 color:dem text:"マーティン・ヴァン・ビューレン" fontsize:8 from:1841 till:1841 color:whg text:"ウィリアム・ハリソン" fontsize:8 from:1841 till:1845 color:whg text:"ジョン・タイラー" fontsize:8 from:1845 till:1849 color:dem text:"ジェームズ・ポーク" fontsize:8 from:1849 till:1850 color:whg text:"ザカリー・テイラー" fontsize:8 </timeline> ;1850年以降 <timeline method="svg2png"> ImageSize = width:1600 height:auto barincrement:15 PlotArea = top:10 bottom:50 right:100 left:20 AlignBars = late DateFormat = dd/mm/yyyy Period = from:04/03/1849 till:01/01/2030 TimeAxis = orientation:horizontal ScaleMajor = unit:year increment:5 start:01/01/1850 #<!--カラー定義--> Colors = id:ind value:rgb(0.8,0.8,0.8) # 無所属 id:fed value:rgb(0.92,0.6,0.47) # 連邦党 id:drp value:rgb(0.0,0.5,0.0) # 民主共和党 id:dem value:rgb(0.2,0.2,1) # 民主党 id:whg value:rgb(0.94,0.86,0.51) # ホイッグ党 id:rep value:rgb(0.90,0.11,0.14) # 共和党 BarData = barset:PM PlotData = width:5 align:left fontsize:S shift:(5,-4) anchor:till barset:PM #<!-- 民主党はcolor:dem、共和党はcolor:rep --> from:04/03/1849 till:09/07/1850 color:whg text:"ザカリー・テイラー" fontsize:8 from:09/07/1850 till:04/03/1853 color:whg text:"ミラード・フィルモア" fontsize:8 from:04/03/1853 till:04/03/1857 color:dem text:"フランクリン・ピアース" fontsize:8 from:04/03/1857 till:04/03/1861 color:dem text:"ジェームズ・ブキャナン" fontsize:8 from:04/03/1861 till:15/04/1865 color:rep text:"エイブラハム・リンカーン" fontsize:8 from:15/04/1865 till:04/03/1869 color:dem text:"アンドリュー・ジョンソン" fontsize:8 from:04/03/1869 till:04/03/1877 color:rep text:"ユリシーズ・グラント" fontsize:8 from:04/03/1877 till:04/03/1881 color:rep text:"ラザフォード・ヘイズ" fontsize:8 from:04/03/1881 till:19/09/1881 color:rep text:"ジェームズ・ガーフィールド" fontsize:8 from:19/09/1881 till:04/03/1885 color:rep text:"チェスター・A・アーサー" fontsize:8 from:04/03/1885 till:04/03/1889 color:dem text:"グロバー・クリーブランド" fontsize:8 from:04/03/1889 till:04/03/1893 color:rep text:"ベンジャミン・ハリソン" fontsize:8 from:04/03/1893 till:04/03/1897 color:dem text:"グロバー・クリーブランド" fontsize:8 from:04/03/1897 till:14/09/1901 color:rep text:"ウィリアム・マッキンリー" fontsize:8 from:14/09/1901 till:04/03/1909 color:rep text:"セオドア・ルーズベルト" fontsize:8 from:04/03/1909 till:04/03/1913 color:rep text:"ウィリアム・タフト" fontsize:8 from:04/03/1913 till:04/03/1921 color:dem text:"ウッドロウ・ウィルソン" fontsize:8 from:04/03/1921 till:02/08/1923 color:rep text:"ウォレン・ハーディング" fontsize:8 from:02/08/1923 till:04/03/1929 color:rep text:"カルビン・クーリッジ" fontsize:8 from:04/03/1929 till:04/03/1933 color:rep text:"ハーバート・フーヴァー" fontsize:8 from:04/03/1933 till:12/04/1945 color:dem text:"フランクリン・ルーズベルト" fontsize:8 from:12/04/1945 till:20/01/1953 color:dem text:"ハリー・S・トルーマン" fontsize:8 from:20/01/1953 till:20/01/1961 color:rep text:"ドワイト・D・アイゼンハワー" fontsize:8 from:20/01/1961 till:22/11/1963 color:dem text:"ジョン・F・ケネディ" fontsize:8 from:22/11/1963 till:20/01/1969 color:dem text:"リンドン・ジョンソン" fontsize:8 from:20/01/1969 till:09/08/1974 color:rep text:"リチャード・ニクソン" fontsize:8 from:09/08/1974 till:20/01/1977 color:rep text:"ジェラルド・R・フォード" fontsize:8 from:20/01/1977 till:20/01/1981 color:dem text:"ジミー・カーター" fontsize:8 from:20/01/1981 till:20/01/1989 color:rep text:"ロナルド・レーガン" fontsize:8 from:20/01/1989 till:20/01/1993 color:rep text:"ジョージ・H・W・ブッシュ" fontsize:8 from:20/01/1993 till:20/01/2001 color:dem text:"ビル・クリントン" fontsize:8 from:20/01/2001 till:20/01/2009 color:rep text:"ジョージ・W・ブッシュ" fontsize:8 from:20/01/2009 till:20/01/2017 color:dem text:"バラク・オバマ" fontsize:8 from:20/01/2017 till:20/01/2021 color:rep text:"ドナルド・トランプ" fontsize:8 from:20/01/2021 till:20/01/2025 color:dem text:"ジョー・バイデン" fontsize:8 </timeline> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 日本語文献 == *{{Cite book|和書|author=西山隆行|authorlink=西山隆行|year=2018|title=アメリカ政治入門 |publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130322270|ref=harv}} * 高崎通浩『歴代アメリカ大統領総覧』([[中公新書ラクレ]]、2002年) * [[宇佐美滋]]『アメリカ大統領を読む事典 世界最高権力者の素顔と野望』([[講談社]]+α文庫、2000年) * [[砂田一郎]]『アメリカ大統領の権力 変質するリーダーシップ』([[中公新書]]、2004年) * [[本間長世]]『アメリカ大統領の挑戦 「自由の帝国」の光と影』([[NTT出版]]、2008年)  ** 三部作で『共和国アメリカの誕生 ワシントンと建国の理念』と『正義のリーダーシップ リンカンと南北戦争の時代』がある。 * ヴァンサン・ミシュロ『アメリカ大統領―その権力と歴史』([[藤本一美]]監修、[[「知の再発見」双書]]:[[創元社]]、2009年) * ジョン・ロウパー『ビジュアル版 アメリカ大統領の歴史大百科』([[越智道雄]]訳、東洋書林、2012年) == 参考資料 == * 選出方法 ** [http://japan.usembassy.gov/j/amc/tamcj-066.html 米国大統領選挙の選挙人団に関するFAQ] <!--(参照当時の[[Uniform Resource Identifier|URI]]は <nowiki>http://usembassy.state.gov/tokyo/wwwhj066.html</nowiki>)--> ** [[:en:United States Electoral College|United States Electoral College]] ** [[:en:United States presidential election|United States presidential election]] ** [[:en:United States House of Representatives|United States House of Representatives]] ** [[:en:United States presidential election, 2000|United States presidential election, 2000]] * 継承順位 ** [https://www.law.cornell.edu/uscode/text/3/19 3 U.S. Code § 19. Vacancy in offices of both President and Vice President; officers eligible to act ] ** [[:en:United States presidential line of succession|United States presidential line of succession]] ** [[:en:Designated survivor|designated survivor]] == 関連項目 == {{Commons|President of the United States}} * [[アメリカ合衆国の政治]] * [[アメリカ合衆国次期大統領]] * [[アメリカ合衆国副大統領]] * [[アメリカ合衆国内閣]] ** [[アメリカ合衆国連邦行政部]] * [[アメリカ合衆国連邦政府]] * [[歴代アメリカ合衆国大統領のランキング]] * [[アメリカ合衆国大統領就任式]] * [[アメリカ合衆国大統領就任宣誓]] * {{仮リンク|アメリカ合衆国大統領の権限|en|Powers of the president of the United States}} * [[アメリカ合衆国のファーストレディ]] * [[帝王的大統領制]] == 外部リンク == * {{Official website|http://www.whitehouse.gov/president/|ホワイトハウス公式サイト}}{{en icon}} * {{Twitter|POTUS|POTUS}} {{en icon}} {{アメリカ合衆国}} {{アメリカ軍}} {{アメリカ合衆国大統領選挙}} {{アメリカ合衆国大統領}} {{アメリカ合衆国大統領および副大統領関連の一覧}} {{アメリカの元首}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あめりかかつしゆうこく たいとうりよう}} [[Category:アメリカ合衆国の大統領|!]]
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一般教書演説
一般教書演説(いっぱんきょうしょえんぜつ、State of the Union Address、SOTU)とは、アメリカ合衆国において、大統領が連邦議会両院の議員を対象に行う演説で、国の現状 (State of the Union) についての大統領の見解を述べ、主要な政治課題を説明するものである。年頭教書ともいう。 「予算教書」「経済教書」と合わせて三大教書と呼ばれることもある。 大統領は議会出席権を持たないが、憲法の規定では文書の形で「教書」 (message) を議会に送付することが認められている。 ただし、大統領の議会への出席権については、実務上、議会の許可が必要という点で権利が制限されているとの見方もある。 議会による特別な招待の下で、大統領が上下両院議員に対して教書を口頭で演説することが慣習化した行事が、一般教書演説である。 慣例として、1月最後の火曜日に演説が行われることが多い。なお国政報告という字義上、1月に就任したばかりの大統領による演説は、正式には State of the Union Address ではなく、(単なる)「両院合同会議での演説」となるが、実際上はあまり区別されていない。 出席者は大統領 (President of the United States) 、副大統領(上院議長を兼ねる)(Vice President of the United States as President of the United States Senate) 、両院議員 (members of Congress) と下院議長 (Speaker of the House of Representatives) にとどまらず、最高裁判所判事 (Justices of the Supreme Court) 、各省長官 (United States Cabinet) 、統合参謀本部 (Joint Chiefs of Staff) の将官といった、合衆国の三権と軍の首脳が一堂に会する。 したがって、連邦議会議事堂に対する核攻撃・事故・テロなどで出席者の多くが死亡あるいは職務執行不能になった場合、大統領職を継承できる人物がいなくなり、政府の活動が不可能になる可能性があるため、副大統領、下院議長に次ぐ第3順位の大統領継承権を有する上院仮議長 (President pro tempore of the United States Senate) と、同じく大統領継承権のある行政長官の1人と、最近では両院の議員各党1人ずつが「指定生存者」 (Designated survivor) として欠席し、連邦議会議事堂から離れた非公開の安全な場所に待機することになっている。アメリカのドラマや映画などで、閣僚がほとんど死亡したために農務長官など順位の低い閣僚が繰り上がって大統領になる物語があるのも、こうしたことに由来する。 議場では上院議長である副大統領と下院議長が相並んで議長席につき、 下院守衛長 (Sergeant at Arms of the United States House of Representatives) の"Mister/Madam Speaker, the President of the United States!"(議長閣下、合衆国大統領の入場です)の掛け声の後に入場する大統領を与野党議員ともに盛大な拍手で大統領の入場を迎える友好的な雰囲気の下に演説が開始される。演説は、言及される個別の政策項目に賛成する議員による拍手により、しばしば中断される。だが他方の当該項目に反対する議員は通常、その場での意思表明は拍手を控えることにとどまり、野次やブーイングなどを行うことはない。散会後には演説内容が遠慮のない批評の対象となり、議員などの政治家がマスメディアを通じて反論演説を行うこともある。 慣例的に、大統領は入場の際、下院守衛長の先導により、上下両院合同会議の長である下院議長の指示を仰ぎ、また、演説に際し、下院議長の許可がなくてはならない。この慣例は、行政府の長である大統領であっても、立法府である議会に足を踏み入れたら、議会の長である議長(ここでは下院議長)に従わなければならない、という意味合いを持っており、三権分離の大原則を示す好例と言える。 また、一般教書演説の原稿は、演説開始の直前まで繰り返し修正が行われることでも有名である。 最初の一般教書演説は、1790年1月8日にジョージ・ワシントンによって行われた。 1801年から1913年までの間は、憲法の規定どおり演説ではなく文書の配布という形をとった。国王演説(Speech from the Throne)に類似の慣行は共和制国家にふさわしくないという考えによる。 口頭での演説を再開したのはウッドロー・ウィルソンの1914年からで、カルヴァン・クーリッジの1923年の演説以来ラジオ放送が、ハリー・S・トルーマン以来テレビ中継が行われるようになった。1982年のレーガン大統領の演説からゲストが招かれるようになった。 1986年にはチャレンジャー号爆発事故の影響でロナルド・レーガンによる一般教書演説が延期された。 従来は与野党が対立するテーマに言及されると、起立拍手する与党席と黙りこむ野党席がくっきり分かれる光景が現れていたが、2011年には与野党議員が混ざり合って座り、党派対立が見えにくくなった。これは直前に起きたツーソン銃撃事件を受けての提案によるものである。 2019年の一般教書演説は1月29日に予定されていたが、前年末より与野党の対立が先鋭化し予算案が成立せず、一部政府機関が閉鎖になった影響で一時はドナルド・トランプが演説の強行や中止を宣言するなど混乱したが、結局は暫定予算が成立するなどしたため、一週間遅れの2月5日に行われた。 2022年ジョー・バイデンによる一般教書演説はスケジュールが遅延し、3月1日に実施された。
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一般教書演説とは、アメリカ合衆国において、大統領が連邦議会両院の議員を対象に行う演説で、国の現状 についての大統領の見解を述べ、主要な政治課題を説明するものである。年頭教書ともいう。 「予算教書」「経済教書」と合わせて三大教書と呼ばれることもある。
{{出典の明記|date=2023-01}} {{multiple image | align = right | direction = vertical | header = <div style="font-size:120%">一般教書演説</div>State of the Union Address | width = 320 | image1 = 2019 State of the Union (46282653814).jpg | caption1 = 下院本会議場にアメリカ三権の代表が一堂に会する両院合同会議(2019年) | image2 = P20220301AS-3170 (51989432295).jpg | caption2 = 議場で演説する[[ジョー・バイデン]]大統領(2022年) }} '''一般教書演説'''(いっぱんきょうしょえんぜつ、'''State of the Union Address'''、SOTU)とは、[[アメリカ合衆国]]において、[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]両院の議員を対象に行う演説で、国の現状 (State of the Union) についての大統領の見解を述べ、主要な政治課題を説明するものである。'''年頭教書'''ともいう。 「[[予算教書]]」「[[経済教書]]」と合わせて三大教書と呼ばれることもある。 == 概要 == [[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は議会出席権を持たないが、[[アメリカ合衆国憲法|憲法]]の規定では文書の形で「教書」 (message) を議会に送付することが認められている。 ただし、大統領の議会への出席権については、実務上、議会の許可が必要という点で権利が制限されているとの見方もある。 議会による特別な招待の下で、大統領が上下両院議員に対して教書を口頭で演説することが慣習化した行事が、一般教書演説である。 慣例として、1月最後の[[火曜日]]に演説が行われることが多い。なお国政報告という字義上、1月に就任したばかりの大統領による演説は、正式には State of the Union Address ではなく、(単なる)「[[アメリカ合衆国議会合同会議|両院合同会議]]での演説」となるが、実際上はあまり区別されていない。 出席者は大統領 (President of the United States) 、[[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]([[アメリカ合衆国上院議長の一覧|上院議長]]を兼ねる)(Vice President of the United States as President of the United States Senate) 、両院議員 (members of Congress) と[[アメリカ合衆国下院議長|下院議長]] (Speaker of the House of Representatives) にとどまらず、[[合衆国最高裁判所|最高裁判所]]判事 (Justices of the Supreme Court) 、[[アメリカ合衆国大統領顧問団|各省長官]] (United States Cabinet) 、[[アメリカ統合参謀本部|統合参謀本部]] (Joint Chiefs of Staff) の将官といった、合衆国の三権と軍の首脳が一堂に会する。 したがって、[[アメリカ合衆国連邦議会議事堂|連邦議会議事堂]]に対する核攻撃・事故・テロなどで出席者の多くが死亡あるいは職務執行不能になった場合、大統領職を継承できる人物がいなくなり、政府の活動が不可能になる可能性があるため、副大統領、下院議長に次ぐ第3順位の[[アメリカ合衆国大統領の継承順位|大統領継承権]]を有する[[アメリカ合衆国上院仮議長|上院仮議長]] (President ''pro tempore'' of the United States Senate) と、同じく大統領継承権のある行政長官の1人と、最近では両院の議員各党1人ずつが「[[指定生存者]]」 (Designated survivor) として欠席し、連邦議会議事堂から離れた非公開の安全な場所に待機することになっている。アメリカのドラマや映画などで、閣僚がほとんど死亡したために[[アメリカ合衆国農務長官|農務長官]]など順位の低い閣僚が繰り上がって大統領になる物語があるのも、こうしたことに由来する。 議場では上院議長である副大統領と下院議長が相並んで議長席につき、 下院守衛長 (Sergeant at Arms of the United States House of Representatives) の"Mister/Madam Speaker, the President of the United States!"(議長閣下、合衆国大統領の入場です)の掛け声の後に入場する大統領を与野党議員ともに盛大な拍手で大統領の入場を迎える友好的な雰囲気の下に演説が開始される。演説は、言及される個別の政策項目に賛成する議員による拍手により、しばしば中断される。だが他方の当該項目に反対する議員は通常、その場での意思表明は拍手を控えることにとどまり、野次や[[ブーイング]]などを行うことはない。散会後には演説内容が遠慮のない批評の対象となり、議員などの政治家がマスメディアを通じて反論演説を行うこともある。 慣例的に、大統領は入場の際、下院守衛長の先導により、上下両院合同会議の長である下院議長の指示を仰ぎ、また、演説に際し、下院議長の許可がなくてはならない。この慣例は、行政府の長である大統領であっても、立法府である議会に足を踏み入れたら、議会の長である議長(ここでは下院議長)に従わなければならない、という意味合いを持っており、三権分離の大原則を示す好例と言える。 また、一般教書演説の原稿は、演説開始の直前まで繰り返し修正が行われることでも有名である。 == 沿革 == [[Image:Washington - State of the Union.djvu|right|thumb|200px|初代大統領ジョージ・ワシントンによる最初の教書]] 最初の一般教書演説は、[[1790年]][[1月8日]]に[[ジョージ・ワシントン]]によって行われた。 [[1801年]]から[[1913年]]までの間は、憲法の規定どおり演説ではなく文書の配布という形をとった。[[国王演説]]([[:en:Speech from the Throne|Speech from the Throne]])に類似の慣行は共和制国家にふさわしくないという考えによる。 口頭での演説を再開したのは[[ウッドロウ・ウィルソン|ウッドロー・ウィルソン]]の[[1914年]]からで、[[カルビン・クーリッジ|カルヴァン・クーリッジ]]の[[1923年]]の演説以来[[ラジオ]]放送が、[[ハリー・S・トルーマン]]以来[[テレビ]]中継が行われるようになった。1982年のレーガン大統領の演説からゲストが招かれるようになった。 1986年には[[チャレンジャー号爆発事故]]の影響で[[ロナルド・レーガン]]による一般教書演説が延期された<ref name=nikkei351251>{{Cite news|url=https://id.nikkei.com/lounge/auth/password/proxy/post_response.seam?cid=351251|title=一般教書演説を延期 トランプ氏、議会となお溝|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-01-24|accessdate=2019-02-06}}</ref>。 従来は与野党が対立するテーマに言及されると、起立拍手する与党席と黙りこむ野党席がくっきり分かれる光景が現れていたが、2011年には与野党議員が混ざり合って座り、党派対立が見えにくくなった。これは直前に起きた[[2011年ツーソン銃撃事件|ツーソン銃撃事件]]を受けての提案によるものである。 2019年の一般教書演説は1月29日に予定されていたが、前年末より与野党の対立が先鋭化し予算案が成立せず、一部政府機関が閉鎖になった影響で一時は[[ドナルド・トランプ]]が演説の強行や中止を宣言するなど混乱したが<ref name=nikkei351251 /><ref>{{Cite news|url=https://www.cnn.co.jp/usa/35131724.html|title=トランプ氏、一般教書演説は「中止」 ペロシ氏との対立めぐり|work=CNN.co.jp|agency=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2019-01-24|accessdate=2019-02-06}}</ref>、結局は暫定予算が成立するなどしたため、一週間遅れの2月5日に行われた<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO40951120W9A200C1000000/|title=超党派協力呼びかけも、トランプ氏が一般教書演説へ|work=日経電子版|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2019-02-06|accessdate=2019-02-06}}</ref>。 2022年ジョー・バイデンによる一般教書演説はスケジュールが遅延し、3月1日に実施された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[施政方針演説]] *[[国王演説]] == 外部リンク == * The American Presidency Project ([[カリフォルニア大学サンタバーバラ校]]) **[https://www.presidency.ucsb.edu/documents/presidential-documents-archive-guidebook/annual-messages-congress-the-state-the-union Annual Messages to Congress on the State of the Union (Washington 1790 - the present)] *This Nation(米政治・経済ニュースサイト) **[https://www.thisnation.com/government/learn/state-of-the-union-address-history/ The State of the Union Address: History, Purpose, & Traditions] *[[ホワイトハウス]] **[https://www.whitehouse.gov/state-of-the-union-2023/ State of the Union 2023] {{DEFAULTSORT:いつはんきようしよえんせつ}} [[Category:一般教書演説|*]] [[Category:国家の儀式と儀礼]]
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'''TLD''' *[[トップレベルドメイン]](Top Level Domain) - [[インターネット]]上で使用される[[ドメイン名]]の最も右に表記される文字列。 *[[熱ルミネッセンス線量計]](ThermoLuminescence Dosimeter) - [[放射線]]測定器の1つ。 {{aimai}}
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無線通信
無線通信(むせんつうしん、英: wireless communication)は、主に電波を利用して行う電気通信のことである。しばしば短縮して「無線」と呼ばれる。電波を用いる無線通信に対して、伝送路としてケーブル等を用いる通信は有線通信と呼ぶ。 電波法施行規則において、無線通信は「電波を使用して行うすべての種類の記号、信号、文言、影像、音響又は情報の送信、発射又は受信をいう」とされている(電波法施行規則2条1項15号)。電波の伝わり方については電波伝播も参照。 無線通信には、以下のような特徴がある。 無線通信の用途としては、次のようなものがある。 無線通信という語は狭義には電波による通信方法を指す場合が多いが、原義としてはケーブルを用いない通信方法を指す。そのため、広義の意味においては、テレビのリモコンなどのような光による通信も無線通信の一種となる(ただし、特に光によるものについては「光無線通信」と呼び分けられることも多い)。また、音波によるものも「無線通信」の一種である。 移動体通信を行うならば無線通信に頼らざるをえないが、そうでない固定地点の間の通信を行おうとする場合には、有線通信と無線通信のいずれもが選択肢となる。それぞれの場合に要する費用について端的に述べれば、有線通信の場合には回線の長さに応じて費用が積みあげられるが、無線通信の場合には、送受信の設備の数に応じて費用が積み上げられることになるため、長距離の通信においては無線通信のほうが安価になるとの側面がある。 一方で、有線通信の場合には回線交換のための交換機を用いて(同一通信網内で)複数の通信を確立することが多いのに対して、無線通信の場合には、個々の送信機及び受信機において周波数や変調により区別することで複数の通信を確立する手法がとられ、その数は有線通信の場合の交換機の数を上回る。交換機と送信機及び受信機との価格(または、それぞれの場合において必要とする端末等までをも含めた価格)を一般論で比較することは非常に困難であるが、1990年代頃までの価格情勢において電気通信事業者がサービスを提供するという前提で述べれば、通信の起点や終点(回線へのアクセスポイントと表現されることもある)の密度が高い場合には有線通信が安価であったといわれている。 この例としては、かつてその回線網が階層構造であった電話が掲げられる。市内の各世帯(アクセスポイント)と交換局などを結ぶ通信は有線通信であったが、交換局を越えて他の都道府県などの交換局へ向かう長距離の通信は無線通信が多かった。これは交換局同士を接続する通信網は、比較的長距離であって、アクセスポイントの密度が低く、離散的であるという理由により、当初は無線通信のほうが価格的に優位であったためである。 しかし、1990年代頃から、周波数が逼迫し、光ファイバーによる大容量通信が非常に安価になったという要因により、電話の長距離通信は無線通信から光ファイバによる有線通信へと置き換えられてきた。電電公社(今のNTT)の多くの支店にある鉄塔からパラボラアンテナが消え出し、移動体通信用の別なアンテナが設置されるようになっているのはこのため。 軍事の世界では戦場に有線を敷設されるのを待つわけにも行かない為、無線が重視される。敵に傍受される危険や通信妨害(ジャミング)への強さから有線通信も残っているが限られている。有線通信が普仏戦争の勝敗に寄与したことはよく知られている。第一次世界大戦のころには通信で砲兵に射撃目標を指示する事が可能になり、実用的な長距離射撃が可能になった。第二次世界大戦のころには無線が普及し、部隊や車両が移動しながらにして有機的に結合することが可能になった。現代でも通信技術の発達が軍事に及ぼす影響は増大し続けており、RMAと呼ばれる革新の中核的なものになっている。 もう一つの重要な無線通信のメリットが非常時の情報伝達である。日本ではかつて関東大震災の時、有線の電話や海外との海底ケーブル等の施設が破壊され通信が阻害され孤立無援の事態が発生したが、東京湾にいた船舶から無線でまず海軍無線電信所船橋送信所へ、さらに磐城国際無線電信局(アンテナ塔のみが憶・原町無線塔として残っている)を通じてアメリカへ、と海外に伝達され世界の救援を得ることができた。初めて日本での大規模災害時に無線が活用された事例である。
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無線通信は、主に電波を利用して行う電気通信のことである。しばしば短縮して「無線」と呼ばれる。電波を用いる無線通信に対して、伝送路としてケーブル等を用いる通信は有線通信と呼ぶ。
'''無線通信'''(むせんつうしん、{{Lang-en-short|wireless communication}})は、主に[[電波]]を利用して行う[[電気通信]]のことである<ref>{{Cite web|和書|title=無線通信とは|url=https://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%B7%9A%E9%80%9A%E4%BF%A1-140570|website=コトバンク|accessdate=2021-02-05|language=ja|first=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版|last=日本国語大辞典}}</ref>。しばしば短縮して「[[無線]]」と呼ばれる。電波を用いる無線通信に対して、伝送路としてケーブル等を用いる通信は[[有線通信]]と呼ぶ。 == 概要 == [[電波法施行規則]]において、無線通信は「電波を使用して行うすべての種類の[[記号]]、[[信号 (電気工学)|信号]]、[[言葉|文言]]、[[動画|影像]]、[[音|音響]]又は[[情報]]の送信、発射又は[[受信]]をいう」とされている([[電波法]]施行規則2条1項15号)。電波の伝わり方については[[電波伝播]]も参照。 無線通信には、以下のような特徴がある。 * 伝送路としての線を敷設する必要がない。 * 使用する周波数や送信出力などにもよるが、非常に広い範囲にサービスを提供することができ、多数のノードとの通信が可能である。また、放送用としても好適である。 *伝送路の状況の変化(天候の変化など)による影響を受けることがある。 * 電波などを発生する他のもの('''妨害源'''という。[[太陽]]をはじめとする地球以外の[[天体]]、[[電子機器]]や[[原動機]]など。)から影響を受けることがある。 * 伝送される情報は、比較的容易に第三者が[[傍受]]できる。これを防ぐため、第三者による情報の復元が困難な[[変調]]方式を用いたり、内容を[[暗号化]]するなどの手段が用いられる。 == 用途 == 無線通信の用途としては、次のようなものがある。 *[[ラジオ放送]]、[[テレビ放送]] *[[携帯電話]]([[スマートフォン]])、[[PHS]] *[[無線LAN]]、[[Wi-Fi]]、[[Bluetooth]] *各種[[業務無線]]([[船舶無線]]、[[航空無線]]、[[警察無線]]、[[消防無線]]、[[防災無線]]等) *[[アマチュア無線]] 無線通信という語は狭義には電波による通信方法を指す場合が多いが、原義としてはケーブルを用いない通信方法を指す。そのため、広義の意味においては、テレビの[[リモコン]]などのような光による通信も無線通信の一種となる(ただし、特に光によるものについては「[[光無線通信]]」と呼び分けられることも多い)。また、[[音波]]によるものも「無線通信」の一種である。 == 歴史 == === 電信 === {{main|無線電信}} * 1872年:[[:en:Mahlon Loomis|ルーミス]]、無線通信に関する特許 * 1879年:[[デイビッド・エドワード・ヒューズ|ヒューズ]]が英国[[王立学会]]で無線マイクの実験をしたが、当時は単なる電磁誘導だと解釈されてしまった * 1885年:ドルバ、無線通信に関する特許 * 1886年:[[志田林三郎]]、[[隅田川]]の水面を導体として用いた導電式無線通信実験 * 1887年:'''[[トーマス・エジソン|エジソン]]'''、[[列車無線]]として[[誘導無線|静電誘導方式無線通信]]を実用化 * 1888年:[[ハインリヒ・ヘルツ|ヘルツ]]、[[火花送信機]]を用い電波の発生に成功 * 1890年:[[エドアール・ブランリー]]によって[[コヒーラ検波器]]が発明される * 1892年:プリース、[[ブリストル海峡]]間で磁気誘導方式無線通信実験に成功 * 1893年:[[ニコラ・テスラ|テスラ]]、無線機の図面を公開 * 1894年:'''[[グリエルモ・マルコーニ|マルコーニ]]'''、自宅で電波による無線通信実験に成功 * 1895年:[[アレクサンドル・ポポフ (物理学者)|ポポフ]]、無線通信実験に成功 * 1897年:[[松代松之助]]<ref group="注">逓信省通信技師。日本で蓄電器用パラフィン紙製造技術を実用化</ref>、[[月島]]―[[お台場]]間で無線通信の実験に成功 * 1898年:[[オリバー・ロッジ]]、同調回路を発明 * 1900年:マルコーニ国際海洋通信会社を設立。大西洋航路の大型客船[[カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ]]号に船舶局を常設し、初の海上公衆通信(電報)サービスを開始<ref>''Marine Engineering'' Apr.1900 Aldrich & Donaldson p173</ref> === 電話 === {{main|無線電話}} * 1900年:[[レジナルド・フェッセンデン|フェッセンデン]]、電波に音声を乗せる実験に成功 * 1906年:フェッセンデン、[[ラジオ放送]]の実験に成功 * 1912年:[[鳥潟右一]]・横山英太郎・北村政次郎、TYK式[[無線電話]]を発明。1914年12月16日より三重県鳥羽での実用化試験を経て、1916年4月11日に実用化した。 * 1919年:マルコーニ、短波20MHzで動作する200ワットの真空管の開発に成功。[[カーナーヴォン]]と[[ホーリーヘッド]]間32kmで無線電話実験に成功<ref>C. S. Franklin "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy" ''The Wireless World and radio review'' May 20,1922 The official organ of the wireless society of London p221</ref> * 1920年:[[フランク・コンラッド]]、世界初の商業ラジオ局KDKAを米国[[ピッツバーグ]]で開局<ref>『日本放送史』1951年版 日本放送協会 pp16-17</ref>。 * 1921年:マルコーニ、短波3MHz帯の二波を使った同時通話式無線電話で北海横断通話(英国-オランダ)に成功<ref>Guglielmo Marconi "Radio Communications" ''Journal of the Royal Society of Arts''Vol.73 - No.3762 Dec.26,1924 pp125-126</ref> * 1923年:AT&Tと英国郵政庁GPOが単側波帯SSB方式により大西洋横断無線電話の試験を開始<ref>丸毛登 "大西洋横断無線電話" 『無線』 1924.1 逓信省無線倶楽部 p11</ref>。1927年1月7日より本営業スタート<ref>G.C.B.Rowe 「"Hello London!" "Are you there, New York?"」 ''[[ラジオニュース (雑誌)|Radio News]]'' Mar.1927 [[エクスペリメンター出版|Experimenter Publishing Company]] p1048</ref>。 *(同年):フランク・コンラッド、ラジオ局KDKAの番組を、3MHzの短波実験局8XSで大西洋を越えて英国BBCへ同時中継放送に成功<ref>"Broadcasting Complete American Programs to All England" ''Radio Broadcast''Vol4 March1924 Doubleday Doran Inc. pp359-364</ref>。 * 1924年:マルコーニ、英国ポルドゥー2YT局の3MHz短波無線電話がオーストラリアで受信成功<ref>"WIRELESS TELEPHONY FROM ENGLAND TO AUSTRALIA" ''The Brisbane Courier'' June 4,1924 p7</ref> * 1931年:英国のITT(International Telephone and Telegraph Corporation)研究所と、仏国のMT(Le Matériel Téléphonique)研究所が超短波1.67GHzの無線電話でドーバー海峡横断デモンストレーションに成功<ref>"Telephony on 18 centimetres" ''Wireless World'' Apr.15,1931 p393</ref>。1934年に正式運用を開始<ref>"小型反射器を使った超短波ラヂオ =英国の新しい試み=" 『読売新聞』 1934年(昭和9年)5月8日 朝刊p4</ref>。 * 1933年:マルコーニ、バチカン宮殿とガンドルフォ教皇宮殿を結ぶ500MHz帯二波による同時無線電話を運用開始。これはUHF帯の実用回線としては世界初のものだった<ref>"MARCONI INITIATES NEW RADIOPHONE: The First Ultrashort Wave System Links Vatican and Papal Summer Home" ''The New York Times'' Feb.12,1933 p24</ref>。 == 有線通信との比較 == {{複数の問題 | section = 1 | 出典の明記 = 2013年3月 | 更新 = 2020年6月 }} [[移動体通信]]を行うならば'''無線通信'''に頼らざるをえないが、そうでない固定地点の間の通信を行おうとする場合には、有線通信と無線通信のいずれもが選択肢となる。それぞれの場合に要する費用について端的に述べれば、有線通信の場合には回線の長さに応じて費用が積みあげられるが、無線通信の場合には、送受信の設備の数に応じて費用が積み上げられることになるため、長距離の通信においては無線通信のほうが安価になるとの側面がある。 一方で、有線通信の場合には[[回線交換]]のための[[交換機]]を用いて(同一通信網内で)複数の通信を確立することが多いのに対して、無線通信の場合には、個々の[[送信機]]及び[[受信機]]において周波数や[[変調]]により区別することで複数の通信を確立する手法がとられ、その数は有線通信の場合の交換機の数を上回る。交換機と送信機及び受信機との価格(または、それぞれの場合において必要とする端末等までをも含めた価格)を一般論で比較することは非常に困難であるが、[[1990年代]]頃までの価格情勢において[[電気通信事業者]]がサービスを提供するという前提で述べれば、通信の起点や終点(回線へのアクセスポイントと表現されることもある)の密度が高い場合には有線通信が安価であったといわれている。 === 電話の例 === この例としては、かつてその回線網が階層構造であった[[電話]]が掲げられる。市内の各世帯(アクセスポイント)と交換局などを結ぶ通信は有線通信であったが、交換局を越えて他の都道府県などの交換局へ向かう長距離の通信は無線通信が多かった。これは交換局同士を接続する通信網は、比較的長距離であって、アクセスポイントの密度が低く、離散的であるという理由により、当初は無線通信のほうが価格的に優位であったためである。 しかし、1990年代頃から、周波数が逼迫し、[[光ファイバー]]による大容量通信が非常に安価になったという要因により、電話の長距離通信は無線通信から光ファイバによる有線通信へと置き換えられてきた。[[日本電信電話公社|電電公社]](今の[[日本電信電話|NTT]])の多くの支店にある鉄塔から[[パラボラアンテナ]]が消え出し、移動体通信用の別なアンテナが設置されるようになっているのはこのため。 === 軍事の世界 === 軍事の世界では戦場に有線を敷設されるのを待つわけにも行かない為、無線が重視される。敵に傍受される危険や通信妨害(ジャミング)への強さから有線通信も残っているが限られている。有線通信が[[普仏戦争]]の勝敗に寄与したことはよく知られている。第一次世界大戦のころには通信で砲兵に射撃目標を指示する事が可能になり、実用的な長距離射撃が可能になった。第二次世界大戦のころには無線が普及し、部隊や車両が移動しながらにして有機的に結合することが可能になった。現代でも通信技術の発達が軍事に及ぼす影響は増大し続けており、[[軍事における革命|RMA]]と呼ばれる革新の中核的なものになっている。 === 非常時の情報伝達 === もう一つの重要な無線通信のメリットが非常時の情報伝達である。日本ではかつて[[関東大震災]]の時、有線の電話や海外との[[海底ケーブル]]等の施設が破壊され通信が阻害され孤立無援の事態が発生したが、東京湾にいた船舶から無線でまず[[海軍無線電信所船橋送信所]]へ、さらに[[磐城国際無線電信局]](アンテナ塔のみが[[憶・原町無線塔]]として残っている)を通じてアメリカへ、と海外に伝達され世界の救援を得ることができた。初めて日本での大規模災害時に無線が活用された事例である<ref>二上英朗『ふくしま文庫39 原町無線塔物語』</ref><ref>山村武彦「関東大震災のちょっといい話/震災直後から全世界に発信し続けた富岡無線局」</ref><ref name="kata2">片寄洋一「関東大震災と無線電信(磐城無線電信局富岡局の活躍) (PDF) 」</ref><ref name="kyone11">[[米村嘉一郎]]「電波界50年」(連載「思い出の記」第11回)『電波時報』1959年9月号</ref><ref name="kyone12">米村嘉一郎「電波界50年」(連載「思い出の記」第12回)『電波時報』1959年10月号</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === <references /> == 関連項目 == * [[無線用語]] - [[通話表]] * [[無線工学]] - [[電波工学]] - [[伝送工学]] - [[通信工学]] * [[電波]] - [[変調方式]] - [[電波型式の表記法]] * [[電信]] - [[電話 (電波型式)]] - [[ラジオファクシミリ]] * [[無線電話]] * [[無線機]] - [[送信機]] - [[受信機]] - [[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]] * [[アンテナ]] - [[給電線]] - [[伝送路]] * [[業務無線]] - [[第三者無線]] - [[無線パケット通信]] - [[アマチュア無線]] * [[電気通信]] - [[有線通信]] - [[通信]] * [[ソフトウェア無線]] * [[ZigBee]] {{OSI}} {{Telecommunications}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:むせんつうしん}} [[Category:無線|*]] [[de:Funkverkehr]]
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ラピス文庫
ラピス文庫(ラピスぶんこ)とは、1997年5月よりフランス書院内のプランタン出版より創刊されたボーイズラブ系小説の文庫レーベル。2005年9月にf-LAPIS(エフ ラピス)にリニュアールした。2007年10月に休刊。 姉妹レーベルに2004年8月から9月にかけてLapis curio(ラピス キュリオ)が、f-LAPISと同時に2005年9月から2007年10月にかけてLAPIS more(ラピス モア)も刊行されていた。
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ラピス文庫(ラピスぶんこ)とは、1997年5月よりフランス書院内のプランタン出版より創刊されたボーイズラブ系小説の文庫レーベル。2005年9月にf-LAPISにリニュアールした。2007年10月に休刊。 姉妹レーベルに2004年8月から9月にかけてLapis curioが、f-LAPISと同時に2005年9月から2007年10月にかけてLAPIS moreも刊行されていた。
'''ラピス文庫'''(ラピスぶんこ)とは、[[1997年]]5月より[[フランス書院]]内の[[プランタン出版]]より創刊された[[ボーイズラブ]]系小説の[[文庫本|文庫]]レーベル。[[2005年]]9月に'''f-LAPIS'''(エフ ラピス)にリニュアールした。[[2007年]]10月に休刊。 姉妹レーベルに[[2004年]]8月から9月にかけて'''Lapis curio'''(ラピス キュリオ)が、f-LAPISと同時に2005年9月から2007年10月にかけて'''LAPIS more'''(ラピス モア)も刊行されていた。 ==主な作品一覧== ===あ行=== *[[愛ノシツケ]](松岡裕太/[[唯月一]]) *[[愛を語る距離]](牧山とも/[[影木栄貴]]) *[[アンバランス×サディスト]]([[末吉ユミ]]/[[中村春菊]]) *[[いとしのテディ・ボーイ]](鷹野京/[[明神翼]])(全5巻) *[[お泊まりはこちら!]](夜月桔梗/ひたきかなこ) *[[オレのゆずれない彼]](鷹野京/[[宗真仁子]]) *[[ONLY YOU (若月京子の小説)|ONLY YOU]](若月京子/楠本こすり) ===か行=== *[[過激にシリーズ]](若月京子/桃季さえ)(全8巻) *[[機械仕掛けの天使]]([[花本ロミオ]]/隆巳ジロ) *[[傷痕 (火崎勇の小説)|傷痕]](火崎勇/夏目イサク) ※Lapis curioより刊行 *[[キスから、はじまる]](竹内照菜/[[高橋ゆう]]) *[[君からの逃げ道]]([[鹿住槇]]/[[高城リョウ]]) *[[君の本気に敵わない]](松岡裕太/[[くおん摩緒]]) *[[恋のうちシリーズ]](水島忍/明神翼)(全9巻) *[[恋の儀式は真夜中に]])(バーバラ片桐/[[葛井美鳥]]) *[[恋の棘]](浅見茉莉/香坂あきほ) *[[極シリーズ]](日向唯稀/藤井咲耶)(全5巻) ===さ行=== *[[小児科シリーズ]](成田空子/こうじま奈月)(全3巻) *[[ショパンシリーズ|ショパンシリーズ(新装版)]](南原兼/[[みなみ遥]])(全3巻) *[[スキャンダルシリーズ]](月上ひなこ/こうじま奈月)(全6巻) *[[絶頂のあいまいな瞬間]]([[鈴木あみ (作家)|鈴木あみ]]/[[極楽院櫻子]]) *[[せつない恋だぜ]](高坂結城/[[如月弘鷹]]) ===た行=== *[[花屋敷学園シリーズ|戦え、生徒会!!シリーズ]](高円寺葵子/[[かんべあきら]])(全3巻) *[[ためらう唇]](姫野百合/天禅桃子) *[[懲罰委員会シリーズ]](バーバラ片桐/明神翼)(全4巻+1巻) *[[帝王の犬 -いたいけな隷属者-]](愁堂れな/御園えりい) *[[天使のいる塔]](香月宮子/やしきゆかり) ===な行=== *[[ナルシス同盟]](日向唯稀/ ほたか乱) *[[眠れる数学教室シリーズ]](竹内照菜/桃季さえ)(全2巻) ===は行=== *[[ハートのタマゴ]](藤村裕香/[[タカハシマコ]]) *[[パールシリーズ]]([[南原兼]]/明神翼)(全5巻) *[[薔薇の名前 (水戸泉の小説)|薔薇の名前]]([[水戸泉 (小説家)|水戸泉]]/青樹總)(全5巻) *[[HELLO!! DOCTOR]](朝月美姫/[[沖麻実也]])(全2巻) *[[人肌の秘めごと]](沙野風結子/[[霜月かいり]]) *[[FUZZY]](なかはら茉梨/桃季さえ) *[[不完全で、完璧なキス]]([[佐々木禎子 (小説家)|佐々木禎子]]/[[鹿乃しうこ]]) *[[ブルーシーズン]](水無月さらら/伊吹美里)(全2巻) ===ま行=== *[[満員電車でシリーズ]](日向唯稀/こうじま奈月)(全2巻) *[[右手で持たないで]](結城一美/[[大和名瀬]]) *[[みずき先生シリーズ]](井村仁美/明神翼)(全2巻) *[[胸の獣]](火崎勇/石原理) *[[紫に抱かれて]](由比まき/[[起家一子]]) *[[もう一度愛していいですか]](由比まき/緒田涼歌) ===や行=== *[[誘惑の緊急出動!]](ななおあきら/三島一彦) *[[欲望の犬]](中原一也/[[奈良千春]]) ===ら行=== *[[ロマンスの王様]](水戸泉/青樹總)(上下巻) ※LAPIS moreより刊行 ===わ行=== *[[ワガママなKISS]](稲田穂波/すがはら竜) == 関連項目 == * [[文庫レーベル一覧]] * [[プラチナ文庫]] - 同じプランタン出版の別のボーイズラブ系小説レーベル == 外部リンク == * {{ウェブアーカイブ |deadlink=no |title=ラピスくらぶ |url=https://web.archive.org/web/20070718072956/http://www.printemps.co.jp/lapis/ |archiveurl=http://www.printemps.co.jp/lapis/ |archiveservice=インターネットアーカイブ |archivedate=2007-07-18 }} {{デフォルトソート:らひすふんこ}} [[Category:文庫本|らひすふんこ]] [[Category:やおい小説|*らひすふんこ]] [[Category:廃刊した文庫]]
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1776年
1776年(1776 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
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1776年は、西暦(グレゴリオ暦)による、月曜日から始まる閏年。
{{年代ナビ|1776}} {{year-definition|1776}} == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[丙申]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[安永 (元号)|安永]]5年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2436年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[乾隆]]41年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]52年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4109年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[景興]]37年 * [[仏滅紀元]] : 2318年 - 2319年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1189年11月9日 - 1190年 * [[ユダヤ暦]] : 5536年4月9日 - 5537年 * [[ユリウス暦]] : 1775年12月21日 - 1776年12月20日 == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1776}} == できごと == * [[1月10日]] - [[トマス・ペイン]]が『コモンセンス』を刊行。 * [[3月9日]] - [[アダム・スミス]]が『国富論(諸国民の富の性質と原因の研究)』を刊行。 * [[3月25日]] - [[アメリカ独立戦争]]: [[サンピエールの戦い]] * 6月、7月 - フランス人貴族の{{仮リンク|クロード{{=}}フランソワ{{=}}ドロテ・ド・ジョフロワ・ダバン|en|Claude-François-Dorothée, marquis de Jouffroy d'Abbans}}侯爵が[[蒸気船]]の試作品を作成し、[[ドゥー川]]を航行させた。1783年には新型モデルで[[ソーヌ川]]を航行し、その後16か月間航行を行った。{{Sfn|チャロナー|2011|p=213|ps=「蒸気船 ダバンが、船に動力を供給する。」}} * [[7月4日]] - [[アメリカ独立宣言]]発布。 * [[ジャック・ネッケル|ネッケル]]、[[フランス]][[財務総監]]就任(-[[1781年]])。 * [[清]]にて[[ヘシェン]]、[[軍機大臣]]就任。 * [[李氏朝鮮]]にて[[奎章閣]]設置。 * [[ジェームズ・クック|クック]]の第3次[[太平洋]]探検(-[[1779年]])。 * [[平賀源内]]が[[エレキテル]]の復元に成功。 == 誕生 == {{see also|Category:1776年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月24日]] - [[E.T.A.ホフマン]]、[[作家]]・[[作曲家]]・[[音楽評論家]]・[[画家]]・[[法律家]](+ [[1822年]]) * [[2月11日]] - [[イオアニス・カポディストリアス]]、[[ギリシャ第一共和国]]初代[[大統領]](+ [[1831年]]) * [[3月24日]]([[安永]]5年[[2月5日 (旧暦)|2月5日]])- [[調所広郷]]、[[薩摩藩]]家老(+ [[1849年]])  * [[4月19日]] - [[ヴァシーリー・ゴロヴニーン]]、<ref>[https://www.britannica.com/biography//Vasily-Mikhaylovich-Golovnin Vasily Mikhaylovich Golovnin Russian naval officer] [[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]</ref>[[ロシア帝国]]([[ロマノフ朝]])の[[海軍]][[軍人]]、[[探検家]](+ [[1831年]]) * [[5月4日]] - [[ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト]]、[[哲学者]]・[[心理学者]]・[[教育学者]](+ [[1841年]]) * [[6月11日]] - [[ジョン・コンスタブル]]、画家(+ [[1837年]]) * [[8月9日]] - [[アメデオ・アヴォガドロ]]、物理学者・[[化学者]](+ [[1856年]]) * [[8月27日]] - [[バルトホルト・ゲオルク・ニーブール]]、[[歴史家]](+ [[1831年]])  * [[10月6日]](安永5年[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]) - [[平田篤胤]]、[[国学者 ]]・[[神道家]](+ [[1843年]]) == 死去 == {{see also|Category:1776年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[4月22日]] - [[英祖 (朝鮮王)|英祖]]、第21代[[李氏朝鮮]]国王(* [[1694年]]) * [[5月30日]]([[安永 (元号)|安永]]5年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]])- [[池大雅]]、南画家(* [[1723年]]) * [[8月25日]] - [[デイヴィッド・ヒューム]]、思想家(* [[1711年]]) * [[11月20日]](安永5年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[谷川士清]]、[[国学者]](* [[1709年]]) <!-- == 注釈 == {{Reflist|group="注"}} --> == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book ja-jp |author=ジャック・チャロナー(編集) |year=2011 |title=人類の歴史を変えた発明 1001 |publisher=ゆまに書房 |isbn=978-4-8433-3467-6 |ref={{Sfnref|チャロナー|2011}}}}<!-- 2011年1月31日初版1刷 --> == 関連項目 == {{Commonscat|1776}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1776ねん}} [[Category:1776年|*]]
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4,544
ログアウト文庫
ログアウト文庫(ログアウトぶんこ)はアスペクトが刊行していたライトノベル系文庫レーベル。 ログアウト冒険文庫をリニューアルしたもの。1997年5月創刊。 ライトノベル市場への後発参入で、1995年の『LOGOUT』休刊後は後継誌も刊行されなかったことから当時競合関係にあった角川系レーベルに見られる様な母体となる雑誌も無く、『コミックビーム』連載作品とのタイアップ作品を中心に刊行を行っていた。しかし、注目度の高い作品が無くヒット作に恵まれないまま約1年で刊行が停止された。 1998年7月に創刊され、アスキーグループ再編後はエンターブレインが刊行しているファミ通文庫が事実上の後継レーベルに該当するが、文庫オリジナル作品も含めて本レーベルから引き継がれた作品は無い。
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ログアウト文庫(ログアウトぶんこ)はアスペクトが刊行していたライトノベル系文庫レーベル。
{{出典の明記|date=2022年2月}} '''ログアウト文庫'''(ログアウトぶんこ)は[[アスペクト (企業)|アスペクト]]が刊行していた[[ライトノベル]]系[[文庫本|文庫]]レーベル。 == 概要 == [[ログアウト冒険文庫]]をリニューアルしたもの。[[1997年]]5月創刊。 ライトノベル市場への後発参入で、[[1995年]]の『[[LOGOUT]]』休刊後は後継誌も刊行されなかったことから当時競合関係にあった角川系レーベルに見られる様な母体となる雑誌も無く、『[[コミックビーム]]』連載作品とのタイアップ作品を中心に刊行を行っていた。しかし、注目度の高い作品が無くヒット作に恵まれないまま約1年で刊行が停止された。 [[1998年]]7月に創刊され、[[アスキー (企業)|アスキー]]グループ再編後は[[エンターブレイン]]が刊行している[[ファミ通文庫]]が事実上の後継レーベルに該当するが、文庫オリジナル作品も含めて本レーベルから引き継がれた作品は無い。 == 作品一覧 == * [[黒十字戦記|黒十字戦記II 学校壊滅計画]]([[宗田理]]) * [[天からトルテ!|天からトルテ! ガニメデ曜日は大パニック!]] * [[ハイパーあんな]](原作:[[近藤るるる]]) ** ハイパーあんな 宇宙で一番強いヤツ([[黒田洋介]]) ** ハイパーあんな2 杏菜の無人島物語C++(黒田洋介) * [[ハイパー戦士団シリーズ]](宗田理) ** I 復讐家族 ** II 探偵家族 ** III 冒険家族 ** IV 逆転家族 * [[BREAK-AGE|BREAK-AGE 戦士たちの夏]]([[篠崎砂美]] 原作:[[馬頭ちーめい]]) * [[みすて♡ないでデイジー|みすて・ないでデイジー 恋のブラックホール]]([[山口亮太]] 原作:[[永野のりこ]]) == 関連項目 == * [[ライトノベル]] * [[ログアウト冒険文庫]] * [[ファミ通文庫]] * [[文庫レーベル一覧]] {{デフォルトソート:ろくあうとふんこ}} [[Category:アスペクト]] [[Category:ログアウト文庫|*]] [[Category:廃刊したライトノベルレーベル]] [[Category:廃刊した文庫]] [[Category:1997年刊行開始の刊行物]]
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4,545
1701年
1701年(1701 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。18世紀最初の年である。
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1701年は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。18世紀最初の年である。
{{年代ナビ|1701}} {{year-definition|1701}}[[18世紀]]最初の年である。 == 他の紀年法 == {{他の紀年法}} * [[干支]] : [[辛巳]] * [[元号一覧 (日本)|日本]] ** [[元禄]]14年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2361年 * [[元号一覧 (中国)|中国]] ** [[清]] : [[康熙]]40年 * [[元号一覧 (朝鮮)|朝鮮]] ** [[李氏朝鮮]] : [[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]27年 ** [[檀君紀元|檀紀]]4034年 * [[元号一覧 (ベトナム)|ベトナム]] ** [[黎朝|後黎朝]] : [[正和 (黎朝)|正和]]22年 * [[仏滅紀元]] : 2243年 - 2244年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]] : 1112年 - 1113年 * [[ユダヤ暦]] : 5461年 - 5462年 * [[ユリウス暦]] : 1700年12月21日 - 1701年12月20日 {{Clear}} == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1701}} == できごと == * [[1月18日]] - [[プロイセン王国]]成立、[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]即位{{要出典|date=2021-03}}。 * 1月-2月、イングランドで{{仮リンク|1701年2月イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, January–February 1701}}。[[トーリー党 (イギリス)|トーリー党]]が議席を伸ばす{{要出典|date=2021-04}}。 * [[3月8日]] - [[メクレンブルク=シュトレーリッツ|メクレンブルク=シュトレーリッツ公国]]成立{{要出典|date=2021-05}}。 * 3月 - [[スペイン継承戦争]]勃発( - [[1714年]])。 * [[4月21日]]([[元禄]]14年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - 江戸城本丸御殿の[[松之大廊下]]で、[[赤穂藩]]主[[浅野長矩]]が[[高家 (江戸時代)|高家]][[吉良義央]]に刃傷におよび。即日切腹。 * [[5月23日]]([[ユリウス暦]]5月12日) - [[海賊]][[ウィリアム・キッド|キャプテン・キッド]]、[[ロンドン]]にて絞首刑に処せられる。 * [[6月24日]] - [[カトリック教会|カトリック教徒]]を[[イギリス君主一覧|イギリス王位]]継承者として認めないという[[1701年王位継承法|王位継承法]]が制定される。 * [[7月9日]] - [[大北方戦争]]:[[ドヴィナ川の戦い]]で[[カール12世]]が[[ダウガヴァ川|ドヴィナ川]]を強行渡河。 * [[10月9日]] - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]にて後の[[イェール大学]]創立。 * 11月-12月、イングランドで{{仮リンク|1701年12月イングランド総選挙|label=総選挙|en|English general election, December 1701}}。[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ党]]が議席を伸ばす。 == 誕生 == {{see also|Category:1701年生}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[11月27日]] - [[アンデルス・セルシウス]]、[[スウェーデン]]の[[天文学者]](+ [[1744年]]) == 死去 == {{see also|Category:1701年没}} <!--世界的に著名な人物のみ項内に記入--> * [[1月14日]]([[元禄]]13年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[徳川光圀]]<ref>{{Kotobank|徳川光圀}}</ref>、[[水戸藩]]主(* [[1628年]]) * [[3月4日]](元禄14年[[1月25日 (旧暦)|1月25日]]) - [[契沖]]、[[真言宗]]の[[僧]](* [[1640年]]) * [[4月21日]](元禄14年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]) - [[浅野長矩]]、[[赤穂藩]]主(* [[1667年]]) * [[5月23日]] - [[ウィリアム・キッド]]、[[私掠船]]・[[海賊|海賊船]]の船長(* [[1645年|1635年]]) * [[6月8日]] - [[フィリップ1世 (オルレアン公)|フィリップ1世]]、[[オルレアン公]](* [[1640年]]) * [[9月16日]] - [[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]、[[イングランド王国|イングランド]]王(* [[1633年]]) * [[11月9日]](康熙40年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]) - [[禧嬪張氏]]、[[李氏朝鮮]]の第19代国王[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の嬪、第20代国王[[景宗 (朝鮮王)|景宗]]の生母(* [[1659年]]) * [[10月13日]] - [[アンドレアス・アントン・シュメルツァー]]、[[作曲家]](* [[1653年]]) * [[12月5日]](元禄14年[[11月6日 (旧暦)|11月6日]]) - [[橋本平左衛門]]、赤穂藩士(* [[1684年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1701}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] <!-- == 外部リンク == --> {{十年紀と各年|世紀=18|年代=1700}} {{デフォルトソート:1701ねん}} [[Category:1701年|*]]
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4,546
ログアウト冒険文庫
ログアウト冒険文庫(ログアウトぼうけんぶんこ)はアスペクトが刊行していたライトノベル系の文庫レーベル。 1993年10月創刊。ほぼ同時期に当時、アスペクトの親会社であったアスキーが刊行していたテーブルトークRPG誌『LOGOUT』を基盤としていた。 ライトノベル市場へは後発参入であり、アスキーグループ自身の文芸部門についてのノウハウや人脈が極めて貧弱であったことから作家の確保にも苦しむことになり、人材育成もままならなかった。そのため、アスキーが雑誌出版を通じて一定の伝を持っていたアニメ業界やゲーム業界の人材に執筆を依頼した作品が多いが、それゆえにアニメ・ゲーム産業の人間が片手間に書いているライトノベルというレーベルのイメージが根強く、それ以外の独自色を打ち出すことができなかった。既存のライトノベルレーベルとの競合でも書店の文庫棚のスペース確保さえ苦戦する状態で、他社作品の影に隠れる形で注目が得られず、ヒット作にも恵まれなかった。 1995年12月に『LOGOUT』が販売不振のために休刊(事実上廃刊)。旗艦誌を失いながらも文庫レーベルは細々と存続したものの、その後、イメージチェンジを意図してログアウト文庫にリニューアルする。 なお、会社としての流れからは、エンターブレインのファミ通文庫がログアウト冒険文庫の系譜を汲んでいるものと見ることができる。
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ログアウト冒険文庫(ログアウトぼうけんぶんこ)はアスペクトが刊行していたライトノベル系の文庫レーベル。
{{出典の明記|date=2022年2月}} '''ログアウト冒険文庫'''(ログアウトぼうけんぶんこ)は[[アスペクト (企業)|アスペクト]]が刊行していた[[ライトノベル]]系の[[文庫本|文庫]]レーベル。 == 概要 == [[1993年]]10月創刊。ほぼ同時期に当時、アスペクトの親会社であった[[アスキー (企業)|アスキー]]が刊行していた[[テーブルトークRPG]]誌『[[LOGOUT]]』を基盤としていた。 ライトノベル市場へは後発参入であり、アスキーグループ自身の文芸部門についてのノウハウや人脈が極めて貧弱であったことから作家の確保にも苦しむことになり、人材育成もままならなかった。そのため、アスキーが雑誌出版を通じて一定の伝を持っていたアニメ業界やゲーム業界の人材に執筆を依頼した作品が多いが、それゆえにアニメ・ゲーム産業の人間が片手間に書いているライトノベルというレーベルのイメージが根強く、それ以外の独自色を打ち出すことができなかった。既存のライトノベルレーベルとの競合でも書店の文庫棚のスペース確保さえ苦戦する状態で、他社作品の影に隠れる形で注目が得られず、ヒット作にも恵まれなかった。 [[1995年]]12月に『LOGOUT』が販売不振のために休刊(事実上廃刊)。旗艦誌を失いながらも文庫レーベルは細々と存続したものの、その後、イメージチェンジを意図して[[ログアウト文庫]]にリニューアルする。 なお、会社としての流れからは、[[エンターブレイン]]の[[ファミ通文庫]]がログアウト冒険文庫の系譜を汲んでいるものと見ることができる。 == ログアウト冒険文庫作品 == === あ行 === * [[暁のビザンティラ]](上/下) * 悪魔城ドラキュラ 悪魔の血 血の悪夢1 * 遊んでて悪いか!! * [[ウィザードリィRPG|アドバンスト・ウィザードリィRPG]]/ルールブック * アドバンスト・ウィザードリィRPG/パワーアップキット * アドバンスト・ウィザードリィRPG/モンスターマニュアル * アドバンスト・ウィザードリィRPG/モンスターマニュアル2 * アドバンスト・ウィザードリィRPGリプレイ/冒険者・失格! * アプロス天空の章 巣と風の母 * [[イースI]] 天界へそびえし魔塔 * [[イースII]] 天空にひそみし魔帝 * [[イースIII]] 友にささげる鎮魂歌 * [[イースIV]] 樹海に沈みし魔宮(上/下) * [[イースV]] さまよえる砂の都(上/中)※下巻のみ[[ファミ通ゲーム文庫]]より発売 * [[イースシリーズ|イース]]RPGリプレイ 真・の〜てんき伝説 * イースRPGリプレイ 真・お気楽伝説 * [[ヴァンパイア (ゲーム)#メディアミックス作品|ヴァンパイア]] * [[奪戦元年#ウィークエンド・ひーろー|ウィークエンド・ひーろー 放課後の英雄]] * ウィザードリィ・ベイン・オブ・ザ・コズミック・フォージ 呪われし聖筆 * ウィザードリィ異聞 リルガミン冒険奇譚 * ウィザードリィ異聞 続リルガミン冒険奇譚 * ウィザードリィ異聞 続々リルガミン冒険奇譚 * ウィザードリィ正伝 トレボーと黄金の剣 * ウィザードリィ外伝 女王アイラスの受難 * ウィザードリィ外伝II 砂の王 * ウィザードリィ・サーガ上 狂王の血脈 * ウィザードリィ・サーガ中 大帝の魔都 * ウィザードリィ・サーガ下 隻眼の吸血鬼 * ウィザードリィ短編集 六人の冒険者 * ウルティマアンダーワールド * 運命の風アラベスク・ファンタジー * 8マンニュージェネレーション * 英雄志願・冒険少女編 天狗onジパング * 英雄志願・電脳バトル編 イメージング・カイン * 王の地図 === か行 === * 架空幻想都市上 * 架空幻想都市下 * 風の惑星のチキンダイブ * [[学校であった怖い話]]上 * 学校であった怖い話下 * 仮免巫女トモコ * 仮面巫女トモコ2裏切りの玄武院 * [[黒十字戦記|黒十字戦記Iニセ被害者同盟]] * ゴーストハンターRPG * ゴーストハンターRPGシナリオ 月光のクリスタル * ゴーストハンターRPGリプレイ 黒き死の仮面 * ゴーストハンターRPGリプレイ アポルオンを呼ぶ声 * ゴーストハンターシリーズ2 パラケルススの魔剣上 * ゴーストハンターシリーズ2 パラケルススの魔剣下 * 紺碧の少女―南洋の奪取作戦1943 === さ行 === * SAMURAIブレードしゃべくり妖刀道 * ザ・キング・オブ・ファイターズ'95 * サプリメント上エセルナート大脱出 * シャイニング・ウィズダム * シルヴァ・サーガ光と闇の伝説 * シンジケート * 真ウィザードリィRPGノベル 風雲のズダイ・ツァ1 ズダイ・ツァ奴隷行 * 真ウィザードリィRPGノベル 風雲のズダイ・ツァ2 ズダイ・ツァ逃避行 * 真ウィザードリィRPGノベル 風雲のズダイ・ツァ3 ズダイ・ツァ決死行 * 真ウィザードリィRPGリプレイ 異境への扉 * 真ウィザードリィRPGリプレイ 戦乱の序曲 * 真ウィザードリィRPGリプレイ 奇跡の4人組 * 真ウィザードリィRPG改訂版ルールブック * 真ウィザードリィRPGサプリメント上 エセルナート大脱出 * 真ウィザードリィRPGサプリメント下 新世界へ! * 真・魔韻の書上魔影の巻 * 真・魔韻の書下魔韻の巻 * 真・女神転生RPG世紀末サバイバル・ガイド * 真・女神転生RPGリプレイ魔性の傀儡 * [[真・女神転生if...]] * 魔界の扉 真・女神転生II TRPGリプレイ * 紅蓮の夜 真・女神転生II TRPG誕生篇ジャンプスタート・キット * [[真・女神転生エル・セイラム]]1 * 真・女神転生エル・セイラム2 * 真・女神転生エル・セイラム3 * 真・女神転生エル・セイラム4 === た行 === * ダービースタリオンIII殺人事件 * 大地母神テラ・マーテル1落人伝説 * 大地母神テラ・マーテル2ひいな * 大地母神テラ・マーテル3復活の時 * ダウン・ザ・ワールドシナリオノベル * ダウン・ザ・ワールドテーブルトーク * 鉄人伝説怒涛の巨乳編 * 鉄人伝説野望の巨乳編 * [[天地創造 (ゲーム)|天地創造]] * トーキョーNOVAリプレイ ふりむけば死 * 猟犬たちの午後トーキョーNOVA The 2nd edition * TRPG100のシナリオ === な行 === === は行 === * バイストン・ウェル物語ガーゼィの翼 * バイストン・ウェル物語ガーゼィの翼2 * バイストン・ウェル物語ガーゼィの翼3 * バイストン・ウェル物語ガーゼィの翼4 * バイストン・ウェル物語ガーゼィの翼5 * 覇王の拳[[ガデュリン]]辺境編 * 白狼伝 赤い夕陽の快男児 * ひと夏の経験値 * ビヨンド・ザ・ビヨンド * たたかえっ!ヒーローマン * かがやけっ!ヒーローマン * はしれっ!ヒーローマン * 風雲黙示録格闘創世 * プラネッツオブドラゴン * ブランディッシュ・アレス呼び覚ます運命 * フロントミッション最前線報告 * [[放課後奇譚RPG]] * 冒険はセーラー服をぬいでから * 炎と氷のバトルスペース === ま行 === * マジック・マスター赤い髪の魔女 * 深沢電機有限会社 * ミリティア消滅の大地 === や行 === * やさしい夜の瞳 * 闇の騎士団 * 夢巫女・美緒 === ら行 === * 真・聖刻 熱き疾風猛き思慕 * 真・聖刻 疾風かける戦野(上/下) * 神聖刻記 ブリーダーズ・ワース(上/下) * レディストーカー過去からの挑戦 * 六覇国伝エンジュのお嬢 * 六覇国伝カラクの女神 * 六覇国伝セイガの歌姫 * 六覇国伝ユナンの天女 === わ行 === == 関連項目 == * [[ライトノベル]] * [[ログアウト文庫]] * [[ファミ通文庫]] * [[文庫レーベル一覧]] == 外部リンク == * [http://www.aspect.co.jp/ アスペクト] {{デフォルトソート:ろくあうとほうけんふんこ}} [[Category:アスペクト]] [[Category:ログアウト文庫|*ほうけん]] [[Category:廃刊したライトノベルレーベル]] [[Category:廃刊した文庫]] [[Category:テーブルトークRPG関連の文庫・叢書]] [[Category:1993年刊行開始の刊行物]] [[Category:1995年刊行終了の刊行物]]
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4,548
ギリシア史
『ギリシア史』(ギリシアし)、あるいは『ヘレニカ』(へレーニカ、古希: Ἑλληνικά、Hellēniká)は、古代ギリシアの著述家クセノポンが著した歴史書である。原著は全7巻で、トゥキュディデスの『戦史』を引き継いで、紀元前411年から紀元前362年までの約50年にわたるギリシアの各ポリスの動向を扱っている。 トゥキュディデスの『戦史』は、27年間続いたペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)の全期間を記述するはずだった。しかし、理由は不明であるがトゥキディデスの筆は紀元前411年の記述で止まったため、未完となってしまった。 クセノポンはその後を受け継ぐ『ギリシア史』を著して、ペロポネソス戦争についての記述を完結するとともに、さらにその後の紀元前362年のマンティネイアの戦いまでの歴史を記述した。 『ギリシア史』はクセノポンがスパルタに身を寄せていたせいかその記述はスパルタに好意的であり、客観性に問題がないとは言えない。これはスパルタの敵対者への無視、軽視へも繋がっており、例えばレウクトラの戦いの記述では、勝利の立役者エパメイノンダスへの言及はなく、エパメイノンダスが『ギリシア史』に登場するのはそれよりもっと後である(詳しくは下記の訳書の「解説」を参照)。
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『ギリシア史』(ギリシアし)、あるいは『ヘレニカ』は、古代ギリシアの著述家クセノポンが著した歴史書である。原著は全7巻で、トゥキュディデスの『戦史』を引き継いで、紀元前411年から紀元前362年までの約50年にわたるギリシアの各ポリスの動向を扱っている。
{{Otheruses|クセノポンによる歴史書|ギリシアの歴史全般|ギリシャの歴史|古代ギリシアの歴史|古代ギリシア}} {{Works of Xenophon}} 『'''ギリシア史'''』(ギリシアし)、あるいは『'''ヘレニカ'''』(へレーニカ、{{lang-grc-short|Ἑλληνικά}}、Hellēniká)は、[[古代ギリシア]]の著述家[[クセノポン]]が著した[[歴史書]]である。原著は全7巻で、[[トゥキュディデス]]の『[[戦史 (トゥキュディデス)|戦史]]』を引き継いで、[[紀元前411年]]から[[紀元前362年]]までの約50年にわたるギリシアの各[[ポリス]]の動向を扱っている。 == 概要 == トゥキュディデスの『戦史』は、27年間続いた[[ペロポネソス戦争]]([[紀元前431年]] - [[紀元前404年]])の全期間を記述するはずだった。しかし、理由は不明<ref>断筆以降も彼は生き続けたので、理由を死と直結させるのは根拠が低い。</ref>であるがトゥキディデスの筆は紀元前411年の記述で止まったため、未完となってしまった。 クセノポンはその後を受け継ぐ『ギリシア史』を著して、ペロポネソス戦争についての記述を完結するとともに、さらにその後の紀元前362年の[[マンティネイアの戦い (紀元前362年)|マンティネイアの戦い]]までの歴史を記述した。 『ギリシア史』はクセノポンが[[スパルタ]]に身を寄せていたせいかその記述はスパルタに好意的であり、客観性に問題がないとは言えない。これはスパルタの敵対者への無視、軽視へも繋がっており、例えば[[レウクトラの戦い]]の記述では、勝利の立役者[[エパメイノンダス]]への言及はなく、エパメイノンダスが『ギリシア史』に登場するのはそれよりもっと後である(詳しくは下記の訳書の「解説」を参照)。 == 日本語訳 == *クセノポン『ギリシア史』全2巻、根本英世訳、[[京都大学学術出版会]]〈[[西洋古典叢書]]〉、1998-99年 ::ISBN 978-4876981106、ISBN 978-4876981144 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{wikisourcelang|en|Hellenica}} * [http://www.gutenberg.org/etext/1174 Hellenica by Xenophon](英語訳全文、[[プロジェクト・グーテンベルク]]) * [http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/hellenica/hell0.html Barbaroi!「Hellenica」](日本語の全訳あり) {{Book-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:きりしあし}} [[Category:紀元前1千年紀の書籍]] [[Category:紀元前4世紀の歴史書]] [[Category:紀元前4世紀のヨーロッパ]] [[Category:古代ギリシアの書籍]] [[Category:クセノポン]]
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モニター
モニタ、モニター (英: monitor) は、名詞の場合と動詞の場合があり、古くは監視や指導をする人という意味。また監査をおこなう人やもの。転じて、次のようなさまざまな意味で使われている。 The Monitor等。基本的には「監視する(役割の媒体)」「(世の中の)番人」などいった意味が込められている。
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モニタ、モニター は、名詞の場合と動詞の場合があり、古くは監視や指導をする人という意味。また監査をおこなう人やもの。転じて、次のようなさまざまな意味で使われている。 生徒の指導役、監視役。16世紀ころから英語圏でこの意味で使われている歴史の長い用法。現代でもホール・モニターは、学校のホールで他の生徒たちを監視・指導し、生徒集団の秩序を保つ任務の生徒。 (政府側、主催者、運営者などから任命されるなどして)何かの状況を確かめて、それに関して評価を下したり、報告したり、意見をつける役割を果たす人。 消費者モニター、国政モニターなど なんらかの製品・サービスなどの品質を確かめたり、その試験を行う人のこと。 ディスプレイ (コンピュータ)の呼び方のひとつ(コンピュータの黎明期、まだきわめて素朴だった時代に、コンピュータが少なくとも動作しているかどうかなどを監視するために、わずか数ビットや数バイト程度の回路の状態を確認し、その装置をmonitorと呼ぶことが一般的だったので、その習慣が強く残り、その後にその装置が長年かけて文字や画像を表示できる装置に変化してその主たる使用目的も変わったのだが、今でも「monitor モニタ」と呼ぶ習慣がかなり広く残っている)。 監視するためのファームウェアやアプリケーションソフトなど。また監視すること。 機械語モニタ、システムモニタ、ネットワークモニタ(リング)、トランザクションモニター、仮想マシンモニタなど モニタ (同期) - 並行計算における同期手法のひとつ モニター (医学) - バイタルサインモニタ(ベッドサイドモニタ、生体情報モニタ)。バイタルサインを監視するための、つまり心拍(脈拍)数やその波形、呼吸数、血圧、体温 等を監視するための装置。医療現場で単にモニタ、ないしはモニターと呼ぶときはこれを指す。病室でも手術室でも使われている。 ビデオモニター (放送局などで)放送されている内容を確認・監視する設備のこと。 モニタースピーカー - スタジオなどの機器で、放送・録音に乗っている音を確認・監視するためのスピーカー。Public Address(PA)システムの装置としてはステージ上での演奏に対し、聴衆に聴かせる音声とは別に、演奏者が参考にすべき音を演奏者に向けて返すためのスピーカーのこと。モニタースピーカーは入力された信号を可能な限り忠実に再生する特性があり、作業時の基準や粗探しで用いる用途には適しているが、一般の用途では質素でつまらない音質と捉えられることもある。 イヤーモニター - PA装置のモニタースピーカーの音を、ヘッドフォン/イヤフォンを介して演奏者の耳へ伝達するシステム。 モニター (装甲艦) - アメリカ海軍の、特定の軍艦の名。南北戦争でハンプトンローズ海戦に参加した。 モニター艦 - 上記の艦を原型とした軍艦のカテゴリー。 The Monitor等。基本的には「監視する(役割の媒体)」「(世の中の)番人」などいった意味が込められている。 モニター (ウガンダの新聞) 南テキサスの新聞 ポドゴリツァの雑誌 など多くの国にある。 オオトカゲのこと。「Monitor lizard」の略称。
{{Otheruses|2=関連語のモニタリング|3=モニタリング}} '''モニタ'''、'''モニター''' ({{Lang-en-short|monitor}}) は、[[名詞]]の場合と[[動詞]]の場合があり、古くは[[監視]]や[[指導]]をする人という意味。また[[監査]]をおこなう人やもの。転じて、次のようなさまざまな意味で使われている。 ;監視者など *生徒の指導役、監視役。16世紀ころから英語圏でこの意味で使われている歴史の長い用法。現代でもホール・モニター([[:en:Hall monitor]])は、学校のホールで他の生徒たちを監視・指導し、生徒集団の秩序を保つ任務の生徒。 *(政府側、主催者、運営者などから任命されるなどして)何かの状況を確かめて、それに関して評価を下したり、報告したり、意見をつける役割を果たす人。 **[[消費者モニター]]<ref>[https://www.jftc.go.jp/info/nenpou/h03/02160000.html 消費者モニター制度]</ref>、[[国政モニター]]など *なんらかの[[製品]]・[[サービス]]などの品質を確かめたり、その試験を行う人のこと。<!--その品質調査、検査、品質試験。--> ;コンピュータ用語 *[[ディスプレイ (コンピュータ)]]の呼び方のひとつ(コンピュータの黎明期、まだきわめて素朴だった時代に、コンピュータが少なくとも動作しているかどうかなどを監視するために、わずか数ビットや数バイト程度の回路の状態を(小さな豆球などを並べてその点滅で)確認し、その装置を(監視器という意味で)monitorと呼ぶことが一般的だったので、その習慣が強く残り、その後にその装置が長年かけて文字や画像を表示できる装置に変化してその主たる使用目的も変わったのだが、今でも「monitor モニタ」と呼ぶ習慣がかなり広く残っている)。 *監視するための[[ファームウェア]]や[[アプリケーションソフト]]など。また監視すること。 **[[機械語モニタ]]、[[システムモニタ]]([[:en:system monitor]]。Windowsでは「[[タスクマネージャー]]」とよぶ)、[[ネットワーク監視|ネットワークモニタ(リング)]]([[:en:network monitor|network monitor(ing)]])、[[トランザクションモニター]]、[[仮想マシンモニタ]]など *[[モニタ (同期)]] - [[並行計算]]における[[同期 (計算機科学)|同期]]手法のひとつ ;医療用語 *[[モニター (医学)]] - [[生体情報モニタ|バイタルサインモニタ(ベッドサイドモニタ、生体情報モニタ)]]。[[バイタルサイン]]を監視するための、つまり心拍(脈拍)数やその波形、呼吸数、血圧、体温 等を監視するための装置。医療現場で単にモニタ、ないしはモニターと呼ぶときはこれを指す。病室でも手術室でも使われている<ref group="注釈">内部を分解すれば、[[組込みシステム]]と[[液晶画面]]などでその機能を実現されているものだが、分類としては[[医療機器]]であり、「バイタルサインモニタ」はあくまで医療用語である。</ref>。 ;放送・ステージ用語 *[[ビデオモニター]] *([[放送局]]などで)[[放送]]されている内容を確認・監視する設備のこと。 *[[モニタースピーカー]] - [[スタジオ]]などの機器で、放送・録音に乗っている音を確認・監視するための[[スピーカー]]。[[Public Address]](PA)システムの装置としてはステージ上での演奏に対し、聴衆に聴かせる音声とは別に、演奏者が参考にすべき音を演奏者に向けて返すためのスピーカーのこと。[[モニタースピーカー]]は入力された信号を可能な限り忠実に再生する特性があり、作業時の基準や粗探しで用いる用途には適しているが、一般の用途では質素でつまらない音質と捉えられることもある。 **[[イヤーモニター]] - PA装置のモニタースピーカーの音を、[[ヘッドフォン|ヘッドフォン/イヤフォン]]を介して演奏者の耳へ伝達するシステム。 ;アメリカ軍での用語 *[[モニター (装甲艦)]] - アメリカ海軍の、特定の軍艦の名。南北戦争でハンプトンローズ海戦に参加した。 *[[モニター艦]] - 上記の艦を原型とした軍艦のカテゴリー。 ;新聞業界や雑誌業界で使われる新聞名や雑誌名など The '''Monitor'''等。基本的には「監視する(役割の媒体)」「(世の中の)番人」などいった意味が込められている。 *[[モニター (ウガンダの新聞)]] *南[[テキサス州|テキサス]]の新聞 *[[ポドゴリツァ]]の雑誌 など多くの国にある。 ;その他 *[[オオトカゲ]]のこと。「Monitor lizard」の略称。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:もにたあ}} [[Category:英語の語句]]
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イオン結合
イオン結合(イオンけつごう、英語:ionic bond)は正電荷を持つ陽イオン(カチオン)と負電荷を持つ陰イオン(アニオン)の間の静電引力(クーロン力)による化学結合である。この結合によってイオン結晶が形成される。共有結合と対比され、結合性軌道が電気陰性度の高い方の原子に局在化した極限であると解釈することもできる。 イオン結合は金属元素(主に陽イオン)と非金属元素(主に陰イオン)との間で形成されることが多いが、塩化アンモニウムなど、非金属の多原子イオン(ここではアンモニウムイオン)が陽イオンとなる場合もある。イオン結合によってできた物質は組成式で表される。 イオン結晶の結合エネルギーのうち、イオン間の静電相互作用によるエネルギーをマーデルング・エネルギー(Madelung energy)という。 はじめに2つのイオン間の相互作用について考える。陽イオンと陰イオンの電荷をそれぞれ ± q {\displaystyle \pm q} とすると、イオン i {\displaystyle i} と j {\displaystyle j} の間の相互作用エネルギー U i j {\displaystyle U_{ij}} は と書くことができる。イオン i {\displaystyle i} と j {\displaystyle j} の間の距離を r i j {\displaystyle r_{ij}} とした。第1項はパウリの排他律による斥力ポテンシャルで、 λ {\displaystyle \lambda } と ρ {\displaystyle \rho } はそれぞれ、斥力の大きさと斥力が働く距離を決定するパラメータである。第2項はクーロンポテンシャルを表す。 (1)式の + {\displaystyle +} 符号は同種の電荷に対して、 − {\displaystyle -} 符号は異種の電荷に対してとる。ただし、イオン結晶でのファンデルワールス力の部分は凝集エネルギーの 1 ∼ 2 % {\displaystyle 1\sim 2\%} 程度の比較的小さな寄与しか与えないので、ここでは無視した。 次に結晶について考える。結晶の最近接イオン間距離を R {\displaystyle R} とおき、 r i j = p i j R {\displaystyle r_{ij}=p_{ij}R} となる p i j {\displaystyle p_{ij}} を導入すると 2 N {\displaystyle 2N} 個のイオンからなる結晶の全格子エネルギー U t o t {\displaystyle U_{tot}} は、 と書くことができる。ただし斥力ポテンシャルは、最近接イオン間相互作用のみを考慮し、それ以外は無視した。 z {\displaystyle z} は最近接イオンの数である。 α {\displaystyle \alpha } はマーデルング定数とよばれ、 で定義する。ただし S i j {\displaystyle S_{ij}} はイオン i {\displaystyle i} と j {\displaystyle j} が異符号のときは + 1 {\displaystyle +1} 、同符号のときは − 1 {\displaystyle -1} をとる。 イオンが静止した温度ゼロの状態を考える。圧力がゼロという条件の下では、体積に対して U t o t {\displaystyle U_{tot}} が最小となる。これは平衡距離 R 0 {\displaystyle R_{0}} で U t o t {\displaystyle U_{tot}} が最小となることに等しいので d U t o t d R = 0 {\displaystyle {dU_{tot} \over dR}=0} が成り立つ。(2)式より 平衡距離 R 0 {\displaystyle R_{0}} での2個のイオンからなる結晶の全格子エネルギーは と書ける。第1項が斥力項、第2項がクーロン項すなわちマーデルング・エネルギーを表す。 例えば水素(H2)や酸素(O2)など等核2原子分子は、純粋な共有結合によって形成されている。しかし一酸化窒素(NO)や一酸化炭素(CO)のような異核2原子分子は、共有結合性とイオン結合性が混ざっている。これは分子を形成する際の電荷分布の変化によって生じる。 原子A,Bからなる2原子分子について考える。結合前の原子A,Bの電子の存在確率密度をそれぞれ ρ A {\displaystyle \rho _{A}} 、 ρ B {\displaystyle \rho _{B}} とすると、2原子分子の電子の存在確率密度 ρ A B {\displaystyle \rho _{AB}} は次の形で与えられる。 右辺第一項と第二項は、 α i {\displaystyle \alpha _{i}} 個だけの電子が原子Bから原子Aに移動し、2原子分子において電子が偏っていることを表す。 ρ b o n d {\displaystyle \rho _{bond}} は原子A,Bが結合したときに中間部分に電子密度が高くなってできた結合電荷であり、全空間での ρ b o n d {\displaystyle \rho _{bond}} に関する全電荷はゼロに等しい。 α i {\displaystyle \alpha _{i}} 、 α c {\displaystyle \alpha _{c}} は、結合のイオン性(ionicity)と共有性(covalency)の尺度を表し、 α i 2 + α c 2 = 1 {\displaystyle {\alpha _{i}}^{2}+{\alpha _{c}}^{2}=1} を満たす。等核2原子分子は電子の偏りはないので α i = 0 , α c = 1 {\displaystyle \alpha _{i}=0,{\displaystyle \alpha _{c}=1}} である。電子密度は と表せ、結合前後の電荷密度の変化は結合電荷の寄与 ( ρ b o n d ) {\displaystyle {\bigl (}\rho _{bond}{\bigr )}} のみによって与えられる。一方、異核2原子分子は α i ≠ 0 , α c ≠ 1 {\displaystyle \alpha _{i}\neq 0,\alpha _{c}\neq 1} であるので電子密度は と表せる。共有結合性の電荷の寄与 ( α c ρ b o n d ) {\displaystyle {\bigl (}\alpha _{c}\rho _{bond}{\bigr )}} に加えて、イオン結合性の電荷の寄与 ( α i ( ρ A − ρ B ) ) {\displaystyle {\bigl (}\alpha _{i}(\rho _{A}-\rho _{B}){\bigr )}} を含んでいる。 これより、等核2原子分子では、結合は純粋に共有性であり、異核2原子分子では共有性とイオン性が混ざった性格を示す。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "イオン結合(イオンけつごう、英語:ionic bond)は正電荷を持つ陽イオン(カチオン)と負電荷を持つ陰イオン(アニオン)の間の静電引力(クーロン力)による化学結合である。この結合によってイオン結晶が形成される。共有結合と対比され、結合性軌道が電気陰性度の高い方の原子に局在化した極限であると解釈することもできる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "イオン結合は金属元素(主に陽イオン)と非金属元素(主に陰イオン)との間で形成されることが多いが、塩化アンモニウムなど、非金属の多原子イオン(ここではアンモニウムイオン)が陽イオンとなる場合もある。イオン結合によってできた物質は組成式で表される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "イオン結晶の結合エネルギーのうち、イオン間の静電相互作用によるエネルギーをマーデルング・エネルギー(Madelung energy)という。", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "はじめに2つのイオン間の相互作用について考える。陽イオンと陰イオンの電荷をそれぞれ ± q {\\displaystyle \\pm q} とすると、イオン i {\\displaystyle i} と j {\\displaystyle j} の間の相互作用エネルギー U i j {\\displaystyle U_{ij}} は", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "と書くことができる。イオン i {\\displaystyle i} と j {\\displaystyle j} の間の距離を r i j {\\displaystyle r_{ij}} とした。第1項はパウリの排他律による斥力ポテンシャルで、 λ {\\displaystyle \\lambda } と ρ {\\displaystyle \\rho } はそれぞれ、斥力の大きさと斥力が働く距離を決定するパラメータである。第2項はクーロンポテンシャルを表す。 (1)式の + {\\displaystyle +} 符号は同種の電荷に対して、 − {\\displaystyle -} 符号は異種の電荷に対してとる。ただし、イオン結晶でのファンデルワールス力の部分は凝集エネルギーの 1 ∼ 2 % {\\displaystyle 1\\sim 2\\%} 程度の比較的小さな寄与しか与えないので、ここでは無視した。", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "次に結晶について考える。結晶の最近接イオン間距離を R {\\displaystyle R} とおき、 r i j = p i j R {\\displaystyle r_{ij}=p_{ij}R} となる p i j {\\displaystyle p_{ij}} を導入すると 2 N {\\displaystyle 2N} 個のイオンからなる結晶の全格子エネルギー U t o t {\\displaystyle U_{tot}} は、", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "と書くことができる。ただし斥力ポテンシャルは、最近接イオン間相互作用のみを考慮し、それ以外は無視した。 z {\\displaystyle z} は最近接イオンの数である。 α {\\displaystyle \\alpha } はマーデルング定数とよばれ、", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "で定義する。ただし S i j {\\displaystyle S_{ij}} はイオン i {\\displaystyle i} と j {\\displaystyle j} が異符号のときは + 1 {\\displaystyle +1} 、同符号のときは − 1 {\\displaystyle -1} をとる。", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "イオンが静止した温度ゼロの状態を考える。圧力がゼロという条件の下では、体積に対して U t o t {\\displaystyle U_{tot}} が最小となる。これは平衡距離 R 0 {\\displaystyle R_{0}} で U t o t {\\displaystyle U_{tot}} が最小となることに等しいので d U t o t d R = 0 {\\displaystyle {dU_{tot} \\over dR}=0} が成り立つ。(2)式より", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "平衡距離 R 0 {\\displaystyle R_{0}} での2個のイオンからなる結晶の全格子エネルギーは", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "と書ける。第1項が斥力項、第2項がクーロン項すなわちマーデルング・エネルギーを表す。", "title": "イオン間の静電引力" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "例えば水素(H2)や酸素(O2)など等核2原子分子は、純粋な共有結合によって形成されている。しかし一酸化窒素(NO)や一酸化炭素(CO)のような異核2原子分子は、共有結合性とイオン結合性が混ざっている。これは分子を形成する際の電荷分布の変化によって生じる。", "title": "イオン結合性と共有結合性" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "原子A,Bからなる2原子分子について考える。結合前の原子A,Bの電子の存在確率密度をそれぞれ ρ A {\\displaystyle \\rho _{A}} 、 ρ B {\\displaystyle \\rho _{B}} とすると、2原子分子の電子の存在確率密度 ρ A B {\\displaystyle \\rho _{AB}} は次の形で与えられる。", "title": "イオン結合性と共有結合性" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "右辺第一項と第二項は、 α i {\\displaystyle \\alpha _{i}} 個だけの電子が原子Bから原子Aに移動し、2原子分子において電子が偏っていることを表す。 ρ b o n d {\\displaystyle \\rho _{bond}} は原子A,Bが結合したときに中間部分に電子密度が高くなってできた結合電荷であり、全空間での ρ b o n d {\\displaystyle \\rho _{bond}} に関する全電荷はゼロに等しい。 α i {\\displaystyle \\alpha _{i}} 、 α c {\\displaystyle \\alpha _{c}} は、結合のイオン性(ionicity)と共有性(covalency)の尺度を表し、 α i 2 + α c 2 = 1 {\\displaystyle {\\alpha _{i}}^{2}+{\\alpha _{c}}^{2}=1} を満たす。等核2原子分子は電子の偏りはないので α i = 0 , α c = 1 {\\displaystyle \\alpha _{i}=0,{\\displaystyle \\alpha _{c}=1}} である。電子密度は", "title": "イオン結合性と共有結合性" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "と表せ、結合前後の電荷密度の変化は結合電荷の寄与 ( ρ b o n d ) {\\displaystyle {\\bigl (}\\rho _{bond}{\\bigr )}} のみによって与えられる。一方、異核2原子分子は α i ≠ 0 , α c ≠ 1 {\\displaystyle \\alpha _{i}\\neq 0,\\alpha _{c}\\neq 1} であるので電子密度は", "title": "イオン結合性と共有結合性" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "と表せる。共有結合性の電荷の寄与 ( α c ρ b o n d ) {\\displaystyle {\\bigl (}\\alpha _{c}\\rho _{bond}{\\bigr )}} に加えて、イオン結合性の電荷の寄与 ( α i ( ρ A − ρ B ) ) {\\displaystyle {\\bigl (}\\alpha _{i}(\\rho _{A}-\\rho _{B}){\\bigr )}} を含んでいる。", "title": "イオン結合性と共有結合性" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "これより、等核2原子分子では、結合は純粋に共有性であり、異核2原子分子では共有性とイオン性が混ざった性格を示す。", "title": "イオン結合性と共有結合性" } ]
イオン結合は正電荷を持つ陽イオン(カチオン)と負電荷を持つ陰イオン(アニオン)の間の静電引力(クーロン力)による化学結合である。この結合によってイオン結晶が形成される。共有結合と対比され、結合性軌道が電気陰性度の高い方の原子に局在化した極限であると解釈することもできる。 イオン結合は金属元素(主に陽イオン)と非金属元素(主に陰イオン)との間で形成されることが多いが、塩化アンモニウムなど、非金属の多原子イオン(ここではアンモニウムイオン)が陽イオンとなる場合もある。イオン結合によってできた物質は組成式で表される。
'''イオン結合'''(イオンけつごう、[[英語]]:ionic bond)は正電荷を持つ[[陽イオン]](カチオン)と負電荷を持つ[[陰イオン]](アニオン)の間の[[静電相互作用|静電引力]](クーロン力)による[[化学結合]]である。この結合によって[[イオン結晶]]が形成される。[[共有結合]]と対比され、[[結合性軌道]]が[[電気陰性度]]の高い方の原子に局在化した極限であると解釈することもできる。<!--イオン結合には方向性が少なく、静電引力が最適化されるように、[[最密充填]]のような密な構造をとりやすい?…各イオンの大きさも関係するはず…--> イオン結合は[[金属元素]](主に陽イオン)と[[非金属元素]](主に陰イオン)との間で形成されることが多いが、[[塩化アンモニウム]]など、非金属の多原子イオン(ここでは[[アンモニウムイオン]])が陽イオンとなる場合もある。イオン結合によってできた物質は[[組成式]]で表される。 == イオン間の静電引力 == イオン結晶の[[結合エネルギー]]のうち、イオン間の静電相互作用によるエネルギーを'''[[マーデルングエネルギー|マーデルング・エネルギー]]'''(Madelung energy)という。 === マーデルング・エネルギーの導出 === はじめに2つのイオン間の相互作用について考える。陽イオンと陰イオンの電荷をそれぞれ<math>\pm q</math>とすると、イオン<math>i</math>と<math>j</math>の間の相互作用エネルギー<math>U_{ij}</math>は  : <math>U_{ij}=\lambda e^{-{r_{ij} \over \rho}}\pm{q^2 \over r_{ij} }</math>{{nb5}}(1) と書くことができる。イオン<math>i</math>と<math>j</math>の間の距離を<math>r_{ij}</math>とした。第1項は[[パウリの排他原理|パウリの排他律]]による斥力ポテンシャルで、<math>\lambda</math>と<math>\rho</math>はそれぞれ、斥力の大きさと斥力が働く距離を決定する[[媒介変数|パラメータ]]である。第2項はクーロンポテンシャルを表す<ref group="注釈">国際単位系では、クーロン相互作用は<math>\pm{q^2 \over 4\pi\epsilon_0 r}</math>であるが、ここではクーロン相互作用を<math>\pm{q^2 \over r}</math>とするCGS単位系を採用した。</ref>。 (1)式の<math>+</math>符号は同種の電荷に対して、<math>-</math>符号は異種の電荷に対してとる。ただし、イオン結晶での[[ファンデルワールス力]]の部分は凝集エネルギーの<math>1\sim2\%</math>程度の比較的小さな寄与しか与えないので、ここでは無視した<ref>キッテル:固体物理学入門』pp.67</ref>。 次に結晶について考える。結晶の最近接イオン間距離を<math>R</math>とおき、<math>r_{ij}=p_{ij}R</math>となる<math>p_{ij}</math>を導入すると<math>2N</math>個のイオンからなる結晶の全[[格子エネルギー]]<math>U_{tot}</math><ref group="注釈">全格子エネルギーは、結晶を互いに無限に離れたイオンに引き離すのに要するエネルギーと定義される。</ref>は、 : <math>U_{tot}=N\biggl(z\lambda e^{-{R \over \rho}}-{\alpha q^2 \over R} \biggr)</math>{{nb5}}(2) と書くことができる。ただし斥力ポテンシャルは、最近接イオン間相互作用のみを考慮し、それ以外は無視した。<math>z</math>は最近接イオンの数である。<math>\alpha</math>はマーデルング定数とよばれ、 : <math>\alpha=\sum_{j}{S_{ij} \over p_{ij} }</math> で定義する。ただし<math>S_{ij}</math>はイオン<math>i</math>と<math>j</math>が異符号のときは<math>+1</math>、同符号のときは<math>-1</math>をとる。 イオンが静止した温度ゼロの状態を考える。圧力がゼロという条件の下では、体積に対して<math>U_{tot}</math>が最小となる。これは平衡距離<math>R_{0}</math>で<math>U_{tot}</math>が最小となることに等しいので<math>{dU_{tot} \over dR}=0</math>が成り立つ。(2)式より : <math>{R_{0} }^2 e^{-{R_0 \over \rho}}={\rho \alpha q^2 \over z\lambda}</math> 平衡距離<math>R_0</math>での2個のイオンからなる結晶の全格子エネルギーは : <math>U_{tot}={\rho \over R_0}\cdot{N \alpha q^2 \over R_0}-{N \alpha q^2 \over R_0}</math> と書ける。第1項が斥力項、第2項がクーロン項すなわち[[マーデルングエネルギー|マーデルング・エネルギー]]を表す。 == イオン結合性と共有結合性 == 例えば水素(H₂)や酸素(O₂)など等核[[二原子分子|2原子分子]]は、純粋な[[共有結合]]によって形成されている。しかし[[一酸化窒素]](NO)や[[一酸化炭素]](CO)のような異核2原子分子は、共有結合性とイオン結合性が混ざっている。これは分子を形成する際の[[電荷分布]]の変化によって生じる。 原子A,Bからなる2原子分子について考える。結合前の原子A,Bの電子の存在確率密度をそれぞれ<math>\rho_A</math><sub>、</sub><math>\rho_B</math>とすると、2原子分子の電子の存在確率密度<math>\rho_{AB}</math>は次の形で与えられる。 : <math>\rho_{AB}=(1+\alpha_i)\rho_A +(1-\alpha_i)\rho_B +\alpha_c\rho_{bond}</math> 右辺第一項と第二項は、<math>\alpha_i</math>個だけの電子が原子Bから原子Aに移動し、2原子分子において[[電子]]が偏っていることを表す。<math>\rho_{bond}</math>は原子A,Bが結合したときに中間部分に電子密度が高くなってできた結合電荷であり、全空間での<math>\rho_{bond}</math>に関する全電荷はゼロに等しい。<math>\alpha_i</math>、<math>\alpha_c</math>は、結合のイオン性(ionicity)と共有性(covalency)の尺度を表し、<math>{\alpha_i}^2 +{\alpha_c}^2 =1</math>を満たす。等核2原子分子は電子の偏りはないので<math>\alpha_i=0,{\displaystyle \alpha _{c}=1} </math>である。電子密度は : <math>\rho_{AB}=\rho_A +\rho_B +\rho_{bond}</math>    と表せ、結合前後の電荷密度の変化は結合電荷の寄与<math>\bigl(\rho_{bond}\bigr)</math>のみによって与えられる。一方、異核2原子分子は<math>\alpha_i\neq0,\alpha_c\neq1</math>であるので電子密度は : <math>\rho_{AB}=\rho_A +\rho_B +\alpha_i(\rho_A -\rho_B)+\alpha_c\rho_{bond}</math> と表せる。共有結合性の電荷の寄与<math>\bigl(\alpha_c\rho_{bond}\bigr)</math>に加えて、イオン結合性の電荷の寄与<math>\bigl(\alpha_i(\rho_A-\rho_B)\bigr)</math>を含んでいる。 これより、等核2原子分子では、結合は純粋に共有性であり、異核2原子分子では共有性とイオン性が混ざった性格を示す。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * Charles Kittel (2005) 『キッテル:固体物理学入門』( 宇野 良清・新関 駒二郎・山下 次郎・津屋 昇・森田 章 訳) 丸善株式会社 * David Pettifor(1997)『分子・固体の結合と構造』(青木正人・西谷滋人 訳) 技報堂出版 == 関連項目 == *[[共有結合]] *[[金属結合]] *[[水素結合]] *[[ファンデルワールス力]] *[[イオン化エネルギー]] *[[マーデルングエネルギー]] *[[電子親和力]] *[[物性物理学]] {{化学結合}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いおんけつこう}} [[Category:イオン]] [[Category:化学結合]]
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水素結合
水素結合(すいそけつごう、英: hydrogen bond)は、電気陰性度が大きな原子(陰性原子)に共有結合で結びついた水素原子が、近傍に位置した窒素、酸素、硫黄、フッ素、π電子系などの孤立電子対とつくる非共有結合性の引力的相互作用である。水素結合には、異なる分子の間に働くもの(分子間力)と単一の分子の異なる部位の間(分子内)に働くものがある。 水素結合はもっぱら、陰性原子上で電気的に弱い陽性 (δ+) を帯びた水素が(右上図:水分子の例)周囲の電気的に陰性な原子との間に引き起こす静電的な力として説明されることが多い。つまり、双極子相互作用のうち、特別強いもの、として考えることもできる。ただし水素結合はイオン結合のような無指向性の相互作用ではなく、水素・非共有電子対の相対配置にも依存する相互作用であるため、水素イオン(プロトン)の「キャッチボール」と表現されることもある。 典型的な水素結合(5〜30 kJ/mol)は、ファンデルワールス力より10倍程度強いが、共有結合やイオン結合よりはるかに弱い。水素結合は水などの無機物においても、DNAなどの有機物においても働く。水素結合は水の性質、たとえば相変化などの熱的性質、あるいは水と他の物質との親和性などにおいて重要な役割を担っている。 2011年に、国際純正・応用化学連合(IUPAC)によって作られたタスクグループは、以下のような水素結合の現代的な定義を提案している。 水が同族の他の第16族元素の水素化物(H2S〔沸点: −60.7 °C〕など)より比較的高い沸点(100 °C)を示すのは、水素結合によって分子間の引力が非常に強くなるためである。また、水が氷に変化する際に体積が増大するのは、水分子の三角構造が水素結合で蜂の巣状になり、そこに空洞が多く生まれるためである。 生体高分子において水素結合は、タンパク質が二次構造以上の高次構造を形成する際や、核酸の中で核酸塩基同士が相補的に結びつき二重らせん構造が形成する際に必要な、重要な駆動力となっている。 近年では炭素上の水素が陰性原子と作る相互作用(CH-O、CH-N相互作用)や、芳香環と水素との相互作用(CH-π相互作用)も弱い水素結合として認識されるようになってきた。 相対的に電気陰性度が高い原子と共有結合を形成している水素原子は、水素結合供与体 (donor、ドナー) である。この場合の陰性原子はフッ素、酸素、窒素などである。フッ素、酸素、窒素などの陰性原子は、水素原子と共有結合しているかいないかにかかわらず、水素結合受容体 (acceptor、アクセプター) となる。水素結合供与体の一つの例は、酸素原子と共有結合した水素原子を有するエタノールである。共有結合した水素原子を持たない水素結合受容体の一つの例は、ジエチルエーテルの酸素原子である。 炭素原子に結合した水素原子も、クロロホルム (CHCl3) のように、炭素原子が陰性原子と結合している場合は、水素結合に関与することができる。陰性原子によって、水素原子核の周りの電子雲が分散・引き付けられ、水素原子は部分正電荷を帯びる。水素原子は他の原子や分子と比較して小さいため、生じた電荷や、部分電荷だけでも大きな電荷密度を示す。この強い正電荷密度が、水素結合受容体となるヘテロ原子中の非共有電子対と引き付け、水素結合が形成される。 水素結合はしばしば、静電的な双極子-双極子相互作用として説明される。しかしながら、水素結合は指向性を持ち強力であり、ファン・デル・ワールス半径より短い原子間距離を示し、原子価の一種と解釈される限られた数の相互作用しか大抵形成しないなど、共有結合的な性質も持っている。これらの共有結合様の性質は受容体がより電気陰性なドナー中の水素原子と結合する時により顕著である。 水素結合の部分的な共有結合性は以下のような疑問を提起する: どちらの分子あるいは原子に水素原子核は属しているのだろうか? どちらが供与体でどちらが受容体なのだろうか? 通常は、これらは、単純に X—HY 系の原子間距離に基づいて決定される。X—Hの距離は、通常 〜110 pmであるが、HYの距離は 〜160から200 pmである。水素結合を示す液体は会合液体 (associated liquids) と呼ばれる。 水素結合の強さは、とても弱いもの (1-2 kJ mol) から、HFのように非常に強いもの (>155 kJ mol) まで、様々である。 気相における典型的なエンタルピーは、 である。 水素結合の長さは、結合の強さ、温度、圧力に依存している。結合の強さ自身は、温度、圧力、結合角度、局所的な誘電率などの環境に依存している。典型的な水における水素結合の長さは197 pmである。理想的な結合角度は水素結合供与体の性質に依存している。以下のフッ化水素酸供与体と様々な受容体との水素結合角度は実験的に決定されたものである。 ライナス・ポーリングは著作 The Nature of the Chemical Bond の中で、1912年に水素結合について初めて述べた人物としてT. S. MooreとT. F. Winmillを挙げている。MooreとWinmillは水素結合を、水酸化トリメチルアンモニウムが水酸化テトラメチルアンモニウムよりも弱い塩基であることを説明するために使用した。よりよく知られた状態である水における水素結合に関しては、少し遅れて1920年にウェンデル・ラティマーとウォース・ローデブッシュによって言及されている。この論文において、ラティマーとローデブッシュは、彼らの研究室の研究員であるモーリス・ハギンズの未発表の成果を引用して、「未発表のいくつかの研究において本研究室のハギンズ氏は、ある有機化合物に関する理論として、2つの原子間の水素カーネルのアイデアを用いている。 "Mr. Huggins of this laboratory in some work as yet unpublished, has used the idea of a hydrogen kernel held between two atoms as a theory in regard to certain organic compounds."」と述べている。 最も身近で、そしておそらく最も単純な水素結合の例は、水分子と水分子の間に見られる。個々の水分子には、2個の水素原子と1個の酸素原子が存在する。2つの分子しか存在しない最も単純な場合において、水2分子は1個の水素結合を形成できる。このような場合は、水二量体 (water dimer) と呼ばれ、しばしばモデルシステムとして用いられる。液体の水の場合のように、より多くの分子が存在する時は、水1分子の酸素原子は2つの非共有電子対を持ち、それぞれの非共有電子対が別の水分子の水素原子と1つの水素結合を形成できるため、より多くの水素結合を形成することが可能である。これが繰り返されることによって、図に示されているように、一つの水分子は4つまでの他分子と水素結合を形成できる。水素結合は氷の結晶構造に多大な影響を与えており、六方格子の構築に寄与している。氷の密度は同じ温度において水よりも小さく、故に、他のほとんどの物質とは異なり、水の固相状態は液体の水に浮く。 常温の空気中での燃焼において、水分子が発生した時は水素結合を生じ、直ちに液体になる。 液体の水の高い沸点は、低い分子量に比べて、それぞれの分子が多くの水素結合を形成できることが原因である。この水素結合ネットワークを壊すことが困難なため、水は他の水素結合を形成しない同様の液体と比較して、非常に高い沸点や融点、粘度を示す。水は、その酸素原子が2つの非共有電子対と2つの水素原子を持っているため、1つの水分子で4つまでの水素結合を形成できる点で特徴的である。例えば、フッ化水素は、フッ素原子が3つの非共有電子対と1つの水素原子を持っているが、水素結合を2つしか形成できない(アンモニアでは、3つの水素原子を持っているが1つの非共有電子対しかないという逆の問題がある)。 液体状態の水1分子が形成できる水素結合の厳密な数は、時間によって変動し、温度に依存する。TIP4Pモデルを用いた25 °Cにおけるシミュレーションでは、それぞれの水分子は平均して3.59個の水素結合に関与していると予測されている。100 °Cでは、この数は分子運動の増大と密度の低下によって3.24個に減少するが、0 °Cでは水素結合の平均数は3.69個に増加する。より最近の研究では、25 °Cにおける水素結合の数は2.357個とかなり少なく見積もられている。この違いは、水素結合の定義と計測に異なる手法を用いているためではないかと考えられる。 水素結合の強さがより同等の時は、2つの相互作用してる水分子の原子は、2つの異なる電荷を持つ多原子イオン(水酸化物イオン OH とヒドロニウムイオン H3O)に分かれる。 実際に、標準状態における純粋な水では、このようなイオンの形成はほとんど起こらず、この状態における水の解離定数に従うと、5.5 × 10分子中で1分子のみである。これが水の特異性の最も重要な部分である。 単一の水素原子は1つではなく2つの水素結合に関与することができる。このようなタイプの水素結合は、二股状 (bifurcated) あるいは三中心型と呼ばれる。例えば、これらは天然あるいは合成有機分子の複合体中に存在している。二股状水素結合は、水の再配向に必須の段階であることが示唆されている。受容体型の水素結合(酸素原子の非共有電子対で終了する)は、供与体型(同じ酸素原子と結合した水素原子で始まる)よりも二股状水素結合を形成しやすい(過剰配位酸素、overcoordinated oxygen, OCO)。 水素結合は、タンパク質や核酸がとる三次元構造の決定にも重要な役割を果たしている。高分子は、同一の高分子中の異なる部分間の水素結合によって、高分子の生理学的あるいは生化学的役割を決定しているある特異的な形状へと折り畳まれる。例えば、DNAの二重螺旋構造は、一方の相補鎖ともう一方の鎖との間の塩基対の水素結合に大部分よっており、DNAの複製を可能にしている。 タンパク質の二次構造では、主鎖の酸素原子とアミド結合の水素原子との間で水素結合が形成される。水素結合に関与しているアミノ酸残基の間隔がi と i + 4の時は、αヘリックスが形成される。間隔がi と i + 3のようにより短い時は、310ヘリックスが形成される。2つのペプチド鎖が水素結合によって会合する時は、βシートが形成される。水素結合は、Rグループの相互作用を通じて、タンパク質の四次構造の形成にも部分的に寄与している(フォールディングを参照)。 多くのポリマーは、主鎖における水素結合によって強化されている。合成ポリマーの中では、最もよく知られた例はナイロンである。ナイロンでは、反復単位 (repeat unit) の中で水素結合が存在し、物質の結晶化において主要な役割を果たしている。アミド反復単位中のカルボニル基とアミノ基の間で水素結合が形成される。これらは効果的に隣接した鎖を結び付け結晶を作り、物質の強化を助ける。この効果は、水素結合が直鎖を横方向に安定化しているアラミド繊維で最大である。鎖軸は、繊維軸に沿って整列し、繊維を極めて硬くかつ強くしている。水素結合はセルロースや、天然において様々な形で存在している木材や綿、亜麻などの天然繊維等のセルロース派生物の構造においても重要である。 水素結合ネットワークは、天然および合成ポリマーを共に大気中の湿度のレベルに敏感にしている。これは、水分子が表面から拡散し、水素結合ネットワークを壊すためである。ナイロンはアラミドよりも感受性が高く、ナイロン6 (nylon 6) はナイロン11よりも感受性が高い。 対称性を持つ水素結合は、プロトンが2つの同一の原子間のちょうど半分に位置している特別な水素結合のタイプである。それぞれの原子間の水素結合の強さは等しい。これは三中心四電子結合の一つの例である。このタイプの水素結合は「普通」の水素結合よりも強い。有効結合次数は0.5であり、共有結合に匹敵する強さがある。このタイプの水素結合は高圧下での氷 (Ice X) や、その他にも高圧下におけるフッ化水素酸や蟻酸などの無水の酸の固相状態において見られる。また、ビフルオリドイオン [F-H-F]でも見られる。対称性を持つ水素結合は、最近、高圧下 (> GPa) のギ酸において分光学的に観測されている。それぞれの水素原子は、1つではなく2つの原子と部分共有結合を形成している。 低障壁水素結合 (Low-barrier hydrogen bond, LBHB) は2つのヘテロ原子間の距離が非常に小さい時に形成される。 水素結合は、よく似た二水素結合と比較される。二水素結合もまた、水素原子が関与した分子間相互作用である。これらの構造は、X線結晶学によって明らかにされている。しかしながら、二水素結合と通常の水素結合、イオン結合、共有結合との関係の理解については不明なままである。一般的に、水素結合は、非金属元素(窒素原子やカルコゲン類元素など)中の非共有電子対によるプロトン受容体によって特徴付けられる。ある場合においては、π結合や金属錯体がこれらのプロトン受容体になりうる。二水素結合では、しかしながら、金属ヒドリドがプロトンアクセプターとして働くことによって、水素-水素相互作用が形成される。これらの複合体での分子構造は、結合長が金属錯体/水素供与体系に非常に適応性があるという点において、水素結合と似ていることが、中性子回折法によって明らかにされている。 1999年に、Issacらは、通常の氷のコンプトンプロファイルにおける異方性 (anisotropy) の解釈から、水素結合は部分的に共有結合性があると証明した。タンパク質における水素結合のいくつかのNMRデータも共有結合性を示している。 最も一般的には、水素結合は2つあるいはそれ以上の分子間結合の距離依存的静電スカラー場として記述される。これは、共有結合やイオン結合における分子間束縛状態とは若干異なっている。しかしながら、相互作用エネルギーが合計すると負の値を取るため、水素結合は通常束縛状態の現象である。ライナス・ポーリングによって提唱された初期の水素結合理論では、水素結合が部分的に共有結合性を持っていることが示唆されている。これは、1990年代後半にF. CordierによってNMR法が適用され、水素結合した原子核の間で情報が転送されることが示されるまで論争の的であった。この情報の移動は水素結合が共有結合性を含んでいる時にしか起きない。水における水素結合について多くの実験データが分子間距離のスケールや分子熱力学についてよい解答を与えたが、動的システムにおける水素結合の分子運動や動力学の性質については未解決のままである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水素結合(すいそけつごう、英: hydrogen bond)は、電気陰性度が大きな原子(陰性原子)に共有結合で結びついた水素原子が、近傍に位置した窒素、酸素、硫黄、フッ素、π電子系などの孤立電子対とつくる非共有結合性の引力的相互作用である。水素結合には、異なる分子の間に働くもの(分子間力)と単一の分子の異なる部位の間(分子内)に働くものがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "水素結合はもっぱら、陰性原子上で電気的に弱い陽性 (δ+) を帯びた水素が(右上図:水分子の例)周囲の電気的に陰性な原子との間に引き起こす静電的な力として説明されることが多い。つまり、双極子相互作用のうち、特別強いもの、として考えることもできる。ただし水素結合はイオン結合のような無指向性の相互作用ではなく、水素・非共有電子対の相対配置にも依存する相互作用であるため、水素イオン(プロトン)の「キャッチボール」と表現されることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "典型的な水素結合(5〜30 kJ/mol)は、ファンデルワールス力より10倍程度強いが、共有結合やイオン結合よりはるかに弱い。水素結合は水などの無機物においても、DNAなどの有機物においても働く。水素結合は水の性質、たとえば相変化などの熱的性質、あるいは水と他の物質との親和性などにおいて重要な役割を担っている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2011年に、国際純正・応用化学連合(IUPAC)によって作られたタスクグループは、以下のような水素結合の現代的な定義を提案している。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "水が同族の他の第16族元素の水素化物(H2S〔沸点: −60.7 °C〕など)より比較的高い沸点(100 °C)を示すのは、水素結合によって分子間の引力が非常に強くなるためである。また、水が氷に変化する際に体積が増大するのは、水分子の三角構造が水素結合で蜂の巣状になり、そこに空洞が多く生まれるためである。", "title": "効果と役割" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "生体高分子において水素結合は、タンパク質が二次構造以上の高次構造を形成する際や、核酸の中で核酸塩基同士が相補的に結びつき二重らせん構造が形成する際に必要な、重要な駆動力となっている。", "title": "効果と役割" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "近年では炭素上の水素が陰性原子と作る相互作用(CH-O、CH-N相互作用)や、芳香環と水素との相互作用(CH-π相互作用)も弱い水素結合として認識されるようになってきた。", "title": "効果と役割" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "相対的に電気陰性度が高い原子と共有結合を形成している水素原子は、水素結合供与体 (donor、ドナー) である。この場合の陰性原子はフッ素、酸素、窒素などである。フッ素、酸素、窒素などの陰性原子は、水素原子と共有結合しているかいないかにかかわらず、水素結合受容体 (acceptor、アクセプター) となる。水素結合供与体の一つの例は、酸素原子と共有結合した水素原子を有するエタノールである。共有結合した水素原子を持たない水素結合受容体の一つの例は、ジエチルエーテルの酸素原子である。", "title": "結合" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "炭素原子に結合した水素原子も、クロロホルム (CHCl3) のように、炭素原子が陰性原子と結合している場合は、水素結合に関与することができる。陰性原子によって、水素原子核の周りの電子雲が分散・引き付けられ、水素原子は部分正電荷を帯びる。水素原子は他の原子や分子と比較して小さいため、生じた電荷や、部分電荷だけでも大きな電荷密度を示す。この強い正電荷密度が、水素結合受容体となるヘテロ原子中の非共有電子対と引き付け、水素結合が形成される。", "title": "結合" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "水素結合はしばしば、静電的な双極子-双極子相互作用として説明される。しかしながら、水素結合は指向性を持ち強力であり、ファン・デル・ワールス半径より短い原子間距離を示し、原子価の一種と解釈される限られた数の相互作用しか大抵形成しないなど、共有結合的な性質も持っている。これらの共有結合様の性質は受容体がより電気陰性なドナー中の水素原子と結合する時により顕著である。", "title": "結合" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "水素結合の部分的な共有結合性は以下のような疑問を提起する: どちらの分子あるいは原子に水素原子核は属しているのだろうか? どちらが供与体でどちらが受容体なのだろうか? 通常は、これらは、単純に X—HY 系の原子間距離に基づいて決定される。X—Hの距離は、通常 〜110 pmであるが、HYの距離は 〜160から200 pmである。水素結合を示す液体は会合液体 (associated liquids) と呼ばれる。", "title": "結合" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "水素結合の強さは、とても弱いもの (1-2 kJ mol) から、HFのように非常に強いもの (>155 kJ mol) まで、様々である。 気相における典型的なエンタルピーは、", "title": "結合" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "である。", "title": "結合" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "水素結合の長さは、結合の強さ、温度、圧力に依存している。結合の強さ自身は、温度、圧力、結合角度、局所的な誘電率などの環境に依存している。典型的な水における水素結合の長さは197 pmである。理想的な結合角度は水素結合供与体の性質に依存している。以下のフッ化水素酸供与体と様々な受容体との水素結合角度は実験的に決定されたものである。", "title": "結合" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ライナス・ポーリングは著作 The Nature of the Chemical Bond の中で、1912年に水素結合について初めて述べた人物としてT. S. MooreとT. F. Winmillを挙げている。MooreとWinmillは水素結合を、水酸化トリメチルアンモニウムが水酸化テトラメチルアンモニウムよりも弱い塩基であることを説明するために使用した。よりよく知られた状態である水における水素結合に関しては、少し遅れて1920年にウェンデル・ラティマーとウォース・ローデブッシュによって言及されている。この論文において、ラティマーとローデブッシュは、彼らの研究室の研究員であるモーリス・ハギンズの未発表の成果を引用して、「未発表のいくつかの研究において本研究室のハギンズ氏は、ある有機化合物に関する理論として、2つの原子間の水素カーネルのアイデアを用いている。 \"Mr. Huggins of this laboratory in some work as yet unpublished, has used the idea of a hydrogen kernel held between two atoms as a theory in regard to certain organic compounds.\"」と述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "最も身近で、そしておそらく最も単純な水素結合の例は、水分子と水分子の間に見られる。個々の水分子には、2個の水素原子と1個の酸素原子が存在する。2つの分子しか存在しない最も単純な場合において、水2分子は1個の水素結合を形成できる。このような場合は、水二量体 (water dimer) と呼ばれ、しばしばモデルシステムとして用いられる。液体の水の場合のように、より多くの分子が存在する時は、水1分子の酸素原子は2つの非共有電子対を持ち、それぞれの非共有電子対が別の水分子の水素原子と1つの水素結合を形成できるため、より多くの水素結合を形成することが可能である。これが繰り返されることによって、図に示されているように、一つの水分子は4つまでの他分子と水素結合を形成できる。水素結合は氷の結晶構造に多大な影響を与えており、六方格子の構築に寄与している。氷の密度は同じ温度において水よりも小さく、故に、他のほとんどの物質とは異なり、水の固相状態は液体の水に浮く。", "title": "水における水素結合" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "常温の空気中での燃焼において、水分子が発生した時は水素結合を生じ、直ちに液体になる。", "title": "水における水素結合" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "液体の水の高い沸点は、低い分子量に比べて、それぞれの分子が多くの水素結合を形成できることが原因である。この水素結合ネットワークを壊すことが困難なため、水は他の水素結合を形成しない同様の液体と比較して、非常に高い沸点や融点、粘度を示す。水は、その酸素原子が2つの非共有電子対と2つの水素原子を持っているため、1つの水分子で4つまでの水素結合を形成できる点で特徴的である。例えば、フッ化水素は、フッ素原子が3つの非共有電子対と1つの水素原子を持っているが、水素結合を2つしか形成できない(アンモニアでは、3つの水素原子を持っているが1つの非共有電子対しかないという逆の問題がある)。", "title": "水における水素結合" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "液体状態の水1分子が形成できる水素結合の厳密な数は、時間によって変動し、温度に依存する。TIP4Pモデルを用いた25 °Cにおけるシミュレーションでは、それぞれの水分子は平均して3.59個の水素結合に関与していると予測されている。100 °Cでは、この数は分子運動の増大と密度の低下によって3.24個に減少するが、0 °Cでは水素結合の平均数は3.69個に増加する。より最近の研究では、25 °Cにおける水素結合の数は2.357個とかなり少なく見積もられている。この違いは、水素結合の定義と計測に異なる手法を用いているためではないかと考えられる。", "title": "水における水素結合" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "水素結合の強さがより同等の時は、2つの相互作用してる水分子の原子は、2つの異なる電荷を持つ多原子イオン(水酸化物イオン OH とヒドロニウムイオン H3O)に分かれる。", "title": "水における水素結合" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "実際に、標準状態における純粋な水では、このようなイオンの形成はほとんど起こらず、この状態における水の解離定数に従うと、5.5 × 10分子中で1分子のみである。これが水の特異性の最も重要な部分である。", "title": "水における水素結合" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "単一の水素原子は1つではなく2つの水素結合に関与することができる。このようなタイプの水素結合は、二股状 (bifurcated) あるいは三中心型と呼ばれる。例えば、これらは天然あるいは合成有機分子の複合体中に存在している。二股状水素結合は、水の再配向に必須の段階であることが示唆されている。受容体型の水素結合(酸素原子の非共有電子対で終了する)は、供与体型(同じ酸素原子と結合した水素原子で始まる)よりも二股状水素結合を形成しやすい(過剰配位酸素、overcoordinated oxygen, OCO)。", "title": "水における二股状および過剰配位水素結合" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "水素結合は、タンパク質や核酸がとる三次元構造の決定にも重要な役割を果たしている。高分子は、同一の高分子中の異なる部分間の水素結合によって、高分子の生理学的あるいは生化学的役割を決定しているある特異的な形状へと折り畳まれる。例えば、DNAの二重螺旋構造は、一方の相補鎖ともう一方の鎖との間の塩基対の水素結合に大部分よっており、DNAの複製を可能にしている。", "title": "DNAおよびタンパク質における水素結合" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "タンパク質の二次構造では、主鎖の酸素原子とアミド結合の水素原子との間で水素結合が形成される。水素結合に関与しているアミノ酸残基の間隔がi と i + 4の時は、αヘリックスが形成される。間隔がi と i + 3のようにより短い時は、310ヘリックスが形成される。2つのペプチド鎖が水素結合によって会合する時は、βシートが形成される。水素結合は、Rグループの相互作用を通じて、タンパク質の四次構造の形成にも部分的に寄与している(フォールディングを参照)。", "title": "DNAおよびタンパク質における水素結合" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "多くのポリマーは、主鎖における水素結合によって強化されている。合成ポリマーの中では、最もよく知られた例はナイロンである。ナイロンでは、反復単位 (repeat unit) の中で水素結合が存在し、物質の結晶化において主要な役割を果たしている。アミド反復単位中のカルボニル基とアミノ基の間で水素結合が形成される。これらは効果的に隣接した鎖を結び付け結晶を作り、物質の強化を助ける。この効果は、水素結合が直鎖を横方向に安定化しているアラミド繊維で最大である。鎖軸は、繊維軸に沿って整列し、繊維を極めて硬くかつ強くしている。水素結合はセルロースや、天然において様々な形で存在している木材や綿、亜麻などの天然繊維等のセルロース派生物の構造においても重要である。", "title": "ポリマーにおける水素結合" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "水素結合ネットワークは、天然および合成ポリマーを共に大気中の湿度のレベルに敏感にしている。これは、水分子が表面から拡散し、水素結合ネットワークを壊すためである。ナイロンはアラミドよりも感受性が高く、ナイロン6 (nylon 6) はナイロン11よりも感受性が高い。", "title": "ポリマーにおける水素結合" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "対称性を持つ水素結合は、プロトンが2つの同一の原子間のちょうど半分に位置している特別な水素結合のタイプである。それぞれの原子間の水素結合の強さは等しい。これは三中心四電子結合の一つの例である。このタイプの水素結合は「普通」の水素結合よりも強い。有効結合次数は0.5であり、共有結合に匹敵する強さがある。このタイプの水素結合は高圧下での氷 (Ice X) や、その他にも高圧下におけるフッ化水素酸や蟻酸などの無水の酸の固相状態において見られる。また、ビフルオリドイオン [F-H-F]でも見られる。対称性を持つ水素結合は、最近、高圧下 (> GPa) のギ酸において分光学的に観測されている。それぞれの水素原子は、1つではなく2つの原子と部分共有結合を形成している。", "title": "対称性を持つ水素結合" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "低障壁水素結合 (Low-barrier hydrogen bond, LBHB) は2つのヘテロ原子間の距離が非常に小さい時に形成される。", "title": "対称性を持つ水素結合" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "水素結合は、よく似た二水素結合と比較される。二水素結合もまた、水素原子が関与した分子間相互作用である。これらの構造は、X線結晶学によって明らかにされている。しかしながら、二水素結合と通常の水素結合、イオン結合、共有結合との関係の理解については不明なままである。一般的に、水素結合は、非金属元素(窒素原子やカルコゲン類元素など)中の非共有電子対によるプロトン受容体によって特徴付けられる。ある場合においては、π結合や金属錯体がこれらのプロトン受容体になりうる。二水素結合では、しかしながら、金属ヒドリドがプロトンアクセプターとして働くことによって、水素-水素相互作用が形成される。これらの複合体での分子構造は、結合長が金属錯体/水素供与体系に非常に適応性があるという点において、水素結合と似ていることが、中性子回折法によって明らかにされている。", "title": "二水素結合" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1999年に、Issacらは、通常の氷のコンプトンプロファイルにおける異方性 (anisotropy) の解釈から、水素結合は部分的に共有結合性があると証明した。タンパク質における水素結合のいくつかのNMRデータも共有結合性を示している。", "title": "水素結合に関する先進的な理論" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "最も一般的には、水素結合は2つあるいはそれ以上の分子間結合の距離依存的静電スカラー場として記述される。これは、共有結合やイオン結合における分子間束縛状態とは若干異なっている。しかしながら、相互作用エネルギーが合計すると負の値を取るため、水素結合は通常束縛状態の現象である。ライナス・ポーリングによって提唱された初期の水素結合理論では、水素結合が部分的に共有結合性を持っていることが示唆されている。これは、1990年代後半にF. CordierによってNMR法が適用され、水素結合した原子核の間で情報が転送されることが示されるまで論争の的であった。この情報の移動は水素結合が共有結合性を含んでいる時にしか起きない。水における水素結合について多くの実験データが分子間距離のスケールや分子熱力学についてよい解答を与えたが、動的システムにおける水素結合の分子運動や動力学の性質については未解決のままである。", "title": "水素結合に関する先進的な理論" } ]
水素結合は、電気陰性度が大きな原子(陰性原子)に共有結合で結びついた水素原子が、近傍に位置した窒素、酸素、硫黄、フッ素、π電子系などの孤立電子対とつくる非共有結合性の引力的相互作用である。水素結合には、異なる分子の間に働くもの(分子間力)と単一の分子の異なる部位の間(分子内)に働くものがある。 水素結合はもっぱら、陰性原子上で電気的に弱い陽性 (δ+) を帯びた水素が(右上図:水分子の例)周囲の電気的に陰性な原子との間に引き起こす静電的な力として説明されることが多い。つまり、双極子相互作用のうち、特別強いもの、として考えることもできる。ただし水素結合はイオン結合のような無指向性の相互作用ではなく、水素・非共有電子対の相対配置にも依存する相互作用であるため、水素イオン(プロトン)の「キャッチボール」と表現されることもある。 典型的な水素結合(5〜30 kJ/mol)は、ファンデルワールス力より10倍程度強いが、共有結合やイオン結合よりはるかに弱い。水素結合は水などの無機物においても、DNAなどの有機物においても働く。水素結合は水の性質、たとえば相変化などの熱的性質、あるいは水と他の物質との親和性などにおいて重要な役割を担っている。 2011年に、国際純正・応用化学連合(IUPAC)によって作られたタスクグループは、以下のような水素結合の現代的な定義を提案している。
[[ファイル:Hydrogen Bond Quadruple AngewChemIntEd 1998 v37 p75.jpg|thumb|300px|自己組織化二量体複合体における'''分子間'''水素結合の例<ref>{{cite journal|author=Felix H. Beijer, Huub Kooijman, Anthony L. Spek, Rint P. Sijbesma, E. W. Meijer| journal=[[Angew. Chem. Int. Ed.]] |title= Self-Complementarity Achieved through Quadruple Hydrogen Bonding| year= 1998 | volume=37 |pages= 75–78| doi=10.1002/(SICI)1521-3773(19980202)37:1/2<75::AID-ANIE75>3.0.CO;2-R}}</ref>。点線が水素結合を示す。]] [[ファイル:Acac.png|thumb|300px|[[アセチルアセトン]]において[[エノール]][[互変異性|互変異性体]]を安定化させる'''分子内'''水素結合の例]] '''水素結合'''(すいそけつごう、{{lang-en-short|hydrogen bond}})は、[[電気陰性度]]が大きな[[原子]](陰性原子)に[[共有結合]]で結びついた[[水素]]原子が、近傍に位置した[[窒素]]、[[酸素]]、[[硫黄]]、[[フッ素]]、π電子系などの[[孤立電子対]]とつくる非共有結合性の引力的相互作用である。水素結合には、異なる分子の間に働くもの([[分子間力]])と単一の分子の異なる部位の間(分子内)に働くものがある<ref>{{GoldBookRef | file = H02899 | title = hydrogen bond}}</ref>。 水素結合はもっぱら、陰性原子上で[[電気]]的に弱い陽性 (δ+) を帯びた水素が(右上図:水分子の例)周囲の電気的に陰性な原子との間に引き起こす静電的な力として説明されることが多い。つまり、[[分子間力#双極子相互作用|双極子相互作用]]のうち、特別強いもの、として考えることもできる。ただし水素結合はイオン結合のような無指向性の相互作用ではなく、水素・非共有電子対の相対配置にも依存する相互作用であるため、[[水素イオン]]([[プロトン]])の「キャッチボール」と表現されることもある。 典型的な水素結合(5〜30 kJ/mol)は、[[ファンデルワールス力]]より10倍程度強いが、[[共有結合]]や[[イオン結合]]よりはるかに弱い。水素結合は水などの[[無機物]]においても、[[デオキシリボ核酸|DNA]]などの[[有機物]]においても働く。水素結合は[[水]]の性質、たとえば[[相変化]]などの熱的性質、あるいは水と他の物質との親和性などにおいて重要な役割を担っている。 2011年に、[[国際純正・応用化学連合]](IUPAC)によって作られたタスクグループは、以下のような水素結合の現代的な定義を提案している。 {{Cquote|水素結合とは、分子中の水素原子、またはXがHよりも電気陰性度が高い分子断片X–H中の水素原子と、同じまたは異なる分子中の原子または原子のグループとの間の引力的相互作用で、結合が形成されている証拠があるもののことである。<br /> The hydrogen bond is an attractive interaction between a hydrogen atom from a molecule or a molecular fragment X–H in which X is more electronegative than H, and an atom or a group of atoms in the same or a different molecule, in which there is evidence of bond formation.|E. Arunan ''et al.''|4=IUPAC Technical Report<ref>{{cite web|author=E. Arunan, G. R. Desiraju, R. A. Klein, J. Sadlej, S. Scheiner, I. Alkorta, D. C. Clary, R. H. Crabtree, J. J. Dannenberg, P. Hobza, H. G. Kjaergaard, A. C. Legon, B. Mennucci and D. J. Nesbitt|url=http://media.iupac.org/reports/provisional/abstract11/arunan_tr.pdf|title=Definition of the Hydrogen Bond|journal=IUPAC Technical Report|accessdate=2011-03-13}}</ref><ref>{{cite web | title = Definition of the hydrogen bond | author = IUPAC Physical and Biophysical Chemistry Division|work=Provisional Recommendations | url = http://media.iupac.org/reports/provisional/abstract11/arunan_310311.html|date=2011-11-10|accessdate=2011-03-13}}</ref> }} == 効果と役割 == [[ファイル:Watermolecule.png|thumb|230px|水分子の極性]] [[ファイル:Wasserstoffbrückenbindungen-Wasser.svg|thumb|230px|水中における水素結合ネットワークの模式図。赤は[[酸素原子]]、青が[[水素原子]]、黄実線が[[共有結合]]、黒点線が水素結合を示す]] 水が同族の他の[[第16族元素]]の[[水素化物]]([[硫化水素|H<sub>2</sub>S]]〔沸点: −60.7 ℃〕など)より比較的高い[[沸点]](100 ℃)を示すのは、水素結合によって分子間の引力が非常に強くなるためである。また、[[水]]が[[氷]]に変化する際に体積が増大するのは、水分子の三角構造が水素結合で蜂の巣状になり、そこに空洞が多く生まれるためである。 生体高分子において水素結合は、[[タンパク質]]が[[二次構造]]以上の[[蛋白質#構造|高次構造]]を形成する際や、[[核酸]]の中で[[核酸塩基]]同士が相補的に結びつき[[二重らせん構造]]が形成する際に必要な、重要な駆動力となっている。 近年では炭素上の水素が陰性原子と作る相互作用([[CH-O相互作用|CH-O]]、CH-N相互作用)や、芳香環と水素との相互作用(CH-π相互作用)も弱い水素結合として認識されるようになってきた<ref>{{cite book|author=Desiraju, G. R.; Steiner, T. |year=1999|title=The Weak Hydrogen Bond: in Structural Chemistry and Biology|publisher= Oxford Univ. Press|location=Oxford|isbn=978-0198502524|series=ICUr monographs on crystallography 9}}</ref>。 == 結合 == 相対的に電気陰性度が高い原子と共有結合を形成している水素原子は、水素結合供与体 (donor、ドナー) である<ref>{{cite book | last = Campbell | first = Neil A. | authorlink = | coauthors = Brad Williamson; Robin J. Heyden | title = Biology: Exploring Life | publisher = Pearson Prentice Hall | year = 2006 | location = Boston, Massachusetts | pages = | url = http://www.phschool.com/el_marketing.html | doi = | id = | isbn = 0-13-250882-6 }}</ref>。この場合の陰性原子はフッ素、酸素、窒素などである。フッ素、酸素、窒素などの陰性原子は、水素原子と共有結合しているかいないかにかかわらず、水素結合受容体 (acceptor、アクセプター) となる。水素結合供与体の一つの例は、酸素原子と共有結合した水素原子を有する[[エタノール]]である。共有結合した水素原子を持たない水素結合受容体の一つの例は、[[ジエチルエーテル]]の酸素原子である。 [[ファイル:WikipediaHDonorAcceptor.png|thumb|300px|水素結合供与体 (hydrogen bond donor) と受容体 (acceptor) の例。下部の化合物は抗うつ薬の[[フルオキセチン]] (prozac)。]] [[ファイル:Carboxylic acid dimers.png|thumb|200px|[[カルボン酸]]は気相においてしばしば二量体を形成する。点線は水素結合を示す。]] 炭素原子に結合した水素原子も、[[クロロホルム]] (CHCl<sub>3</sub>) のように、炭素原子が陰性原子と結合している場合は、水素結合に関与することができる。陰性原子によって、水素原子核の周りの[[電子雲]]が分散・引き付けられ、水素原子は部分正電荷を帯びる。水素原子は他の原子や分子と比較して小さいため、生じた電荷や、部分電荷だけでも大きな電荷密度を示す。この強い正電荷密度が、水素結合受容体となるヘテロ原子中の非共有電子対と引き付け、水素結合が形成される。 水素結合はしばしば、静電的な双極子-双極子相互作用として説明される。しかしながら、水素結合は指向性を持ち強力であり、ファン・デル・ワールス半径より短い原子間距離を示し、原子価の一種と解釈される限られた数の相互作用しか大抵形成しないなど、共有結合的な性質も持っている。これらの共有結合様の性質は受容体がより電気陰性なドナー中の水素原子と結合する時により顕著である。 水素結合の部分的な共有結合性は以下のような疑問を提起する: どちらの分子あるいは原子に水素原子核は属しているのだろうか? どちらが供与体でどちらが受容体なのだろうか? 通常は、これらは、単純に X&mdash;H<sup>...</sup>Y 系の原子間距離に基づいて決定される。X&mdash;Hの距離は、通常 〜110&nbsp;pmであるが、H<sup>...</sup>Yの距離は 〜160から200&nbsp;pmである。水素結合を示す液体は会合液体 (associated liquids) と呼ばれる。 水素結合の強さは、とても弱いもの (1-2 kJ mol<sup>&minus;1</sup>) から、[[ビフルオリド|HF<sup>2−</sup>]]<ref>{{cite journal | author = Emsley, J. | title = Very Strong Hydrogen Bonds | journal =Chem. Soc. Rev. | year = 1980 | volume = 9 | pages = 91–124 | doi = 10.1039/cs9800900091}}</ref>のように非常に強いもの (>155 kJ mol<sup>&minus;1</sup>) まで、様々である。 気相における典型的な[[エンタルピー]]は、 * F&mdash;H<sup>...</sup>:F (155 kJ/mol あるいは 40 kcal/mol) * O&mdash;H<sup>...</sup>:N (29 kJ/mol あるいは 6.9 kcal/mol) * O&mdash;H<sup>...</sup>:O (21 kJ/mol あるいは 5.0 kcal/mol) * N&mdash;H<sup>...</sup>:N (13 kJ/mol あるいは 3.1 kcal/mol) * N&mdash;H<sup>...</sup>:O (8 kJ/mol あるいは 1.9 kcal/mol) * HO&mdash;H<sup>...</sup>:OH<sup>3+</sup> (18 kJ/mol<ref>{{cite journal | title = Structure and energetics of the hydronium hydration shells | author = Omer Markovitch and Noam Agmon | journal = J. Phys. Chem. A | year = 2007 | volume = 111 | issue = 12 | pages = 2253–2256 | doi = 10.1021/jp068960g | pmid = 17388314}}</ref> あるいは 4.3 kcal/mol) である。 水素結合の長さは、結合の強さ、温度、圧力に依存している。結合の強さ自身は、温度、圧力、結合角度、局所的な誘電率などの環境に依存している。典型的な水における水素結合の長さは197&nbsp;pmである。理想的な結合角度は水素結合供与体の性質に依存している。以下のフッ化水素酸供与体と様々な受容体との水素結合角度は実験的に決定されたものである<ref>{{cite journal|author=A. C. Legon;D. J. Millen.|journal=Chem. Soc. Rev.|year=1987|volume=16|pages=467-498|doi=10.1039/CS9871600467}}</ref>。 {|class="wikitable" style="text-align:left" |- |受容体···供与体||[[原子価殻電子対反発則]] (VSEPR)||角度 (°) |- |HCN···HF||[[直線形]]||style="text-align:right"|180 |- |H<sub>2</sub>CO ··· HF||[[平面三角形]]||style="text-align:right"|110 |- |H<sub>2</sub>O ··· HF||[[四角錐形]]||style="text-align:right"|46 |- |H<sub>2</sub>S ··· HF||四角錐形||style="text-align:right"|89 |- |SO<sub>2</sub> ··· HF||三角錐形 ||style="text-align:right"|145 |- |} == 歴史 == [[ライナス・ポーリング]]は著作 ''The Nature of the Chemical Bond'' の中で、1912年に水素結合について初めて述べた人物としてT. S. MooreとT. F. Winmillを挙げている<ref>{{cite journal|title=CLXXVII.—The state of amines in aqueous solution|author=Tom Sidney Moore and Thomas Field Winmill|journal=J. Chem. Soc., Trans.|year= 1912|volume= 101|pages= 1635|doi= 10.1039/CT9120101635}}</ref>。MooreとWinmillは水素結合を、[[水酸化トリメチルアンモニウム]]が[[水酸化テトラメチルアンモニウム]]よりも弱い[[塩基]]であることを説明するために使用した。よりよく知られた状態である水における水素結合に関しては、少し遅れて1920年にウェンデル・ラティマーとウォース・ローデブッシュによって言及されている<ref name="latimer">{{cite journal|title=Polarity and ionization from the standpoint of the lewis theory of valence|author=Wendell M. Latimer, Worth H. Rodebush|journal=[[J. Am. Chem. Soc.]]|year= 1920|volume= 42 |issue=7|pages= 1419–1433| doi= 10.1021/ja01452a015}}</ref>。この論文において、ラティマーとローデブッシュは、彼らの研究室の研究員である[[モーリス・ハギンズ]]の未発表の成果を引用して、「未発表のいくつかの研究において本研究室のハギンズ氏は、ある有機化合物に関する理論として、2つの原子間の水素[[カーネル]]のアイデアを用いている。 "Mr. Huggins of this laboratory in some work as yet unpublished, has used the idea of a hydrogen kernel held between two atoms as a theory in regard to certain organic compounds."」と述べている<ref name="latimer"/>。 == 水における水素結合 == [[ファイル:Hex ice.GIF|thumb|left|六方晶系氷の結晶構造。灰色の点線が水素結合を示す。]] [[ファイル:3D model hydrogen bonds in water.svg|right|thumb|250px| 水分子間の水素結合のモデル。]] 最も身近で、そしておそらく最も単純な水素結合の例は、水分子と水分子の間に見られる。個々の水分子には、2個の水素原子と1個の酸素原子が存在する。2つの分子しか存在しない最も単純な場合において、水2分子は1個の水素結合を形成できる。このような場合は、水二量体 ([[:en:water dimer|water dimer]]) と呼ばれ、しばしばモデルシステムとして用いられる。液体の水の場合のように、より多くの分子が存在する時は、水1分子の酸素原子は2つの非共有電子対を持ち、それぞれの非共有電子対が別の水分子の水素原子と1つの水素結合を形成できるため、より多くの水素結合を形成することが可能である。これが繰り返されることによって、図に示されているように、一つの水分子は4つまでの他分子と水素結合を形成できる。水素結合は氷の結晶構造に多大な影響を与えており、[[結晶構造|六方格子]]の構築に寄与している。氷の密度は同じ温度において水よりも小さく、故に、他のほとんどの物質とは異なり、水の固相状態は液体の水に浮く。 常温の[[空気]]中での[[燃焼]]において、水分子が発生した時は水素結合を生じ、直ちに[[液体]]になる。 液体の水の高い沸点は、低い分子量に比べて、それぞれの分子が多くの水素結合を形成できることが原因である。この水素結合ネットワークを壊すことが困難なため、水は他の水素結合を形成しない同様の液体と比較して、非常に高い沸点や[[融点]]、[[粘度]]を示す。水は、その酸素原子が2つの非共有電子対と2つの水素原子を持っているため、1つの水分子で4つまでの水素結合を形成できる点で特徴的である。例えば、フッ化水素は、フッ素原子が3つの非共有電子対と1つの水素原子を持っているが、水素結合を2つしか形成できない([[アンモニア]]では、3つの水素原子を持っているが1つの非共有電子対しかないという逆の問題がある)。 : <chem>H-F^{...}H-F^{...}H-F</chem> 液体状態の水1分子が形成できる水素結合の厳密な数は、時間によって変動し、温度に依存する。TIP4Pモデルを用いた25 °Cにおけるシミュレーションでは、それぞれの水分子は平均して3.59個の水素結合に関与していると予測されている<ref name="jorgensen">{{cite journal|author= W. L. Jorgensen and J. D. Madura| title=Temperature and size dependence for Monte Carlo simulations of TIP4P water| journal=[[Mol. Phys.]]|year=1985| volume=56 |issue=6 |pages=1381 |doi=10.1080/00268978500103111}}</ref>。100 °Cでは、この数は分子運動の増大と密度の低下によって3.24個に減少するが、0 °Cでは水素結合の平均数は3.69個に増加する<ref name="jorgensen"/>。より最近の研究では、25 °Cにおける水素結合の数は2.357個とかなり少なく見積もられている<ref>{{cite journal|author=Jan Zielkiewicz|title= Structural properties of water: Comparison of the SPC, SPCE, TIP4P, and TIP5P models of water| journal=J. Chem. Phys.|volume= 123|pages=104501|year=2005| doi=10.1063/1.2018637|pmid=16178604|issue=10}}</ref>。この違いは、水素結合の定義と計測に異なる手法を用いているためではないかと考えられる。 水素結合の強さがより同等の時は、2つの相互作用してる水分子の原子は、2つの異なる電荷を持つ[[多原子イオン]]([[水酸化物]]イオン {{chem|OH|-}} と[[ヒドロニウム]]イオン {{chem|H|3|O|+}})に分かれる。 : <chem>H-O^{-}H3O^{+}</chem> 実際に、[[標準状態]]における純粋な水では、このようなイオンの形成はほとんど起こらず、この状態における水の[[解離定数]]に従うと、5.5 × 10<sup>8</sup>分子中で1分子のみである。これが水の特異性の最も重要な部分である。 == 水における二股状および過剰配位水素結合 == 単一の水素原子は1つではなく2つの水素結合に関与することができる。このようなタイプの水素結合は、二股状 (bifurcated) あるいは三中心型と呼ばれる。例えば、これらは天然あるいは合成有機分子の複合体中に存在している<ref>{{cite journal|journal=Can. J. Chem.|volume= 62|issue=3|pages=526–530|year= 1984|doi=10.1139/v84-087|title=Hétérocycles à fonction quinone. V. Réaction anormale de la butanedione avec la diamino-1,2 anthraquinone; structure cristalline de la naphto [2,3-f] quinoxalinedione-7,12 obtenue|author=Michel Baron, Sylviane Giorgi-Renault, Jean Renault, Patrick Mailliet, Daniel Carré et Jean Etienne}}</ref>。二股状水素結合は、水の再配向に必須の段階であることが示唆されている<ref>{{cite journal | title = A Molecular Jump Mechanism for Water Reorientation | author = Damien Laage and James T. Hynes | journal = [[Science (journal)|Science]] | year = 2006 | volume = 311 | pages = 832 | doi = 10.1126/science.1122154 | pmid = 16439623 | issue = 5762}}</ref>。受容体型の水素結合(酸素原子の非共有電子対で終了する)は、供与体型(同じ酸素原子と結合した水素原子で始まる)よりも二股状水素結合を形成しやすい(過剰配位酸素、overcoordinated oxygen, OCO)<ref>{{cite journal | title = The Distribution of Acceptor and Donor Hydrogen-Bonds in Bulk Liquid Water | author = Omer Markovitch & Noam Agmon | journal = Molecular Physics | year = 2008 | volume = 106 | pages = 485 | doi = 10.1080/00268970701877921}}</ref>。 == DNAおよびタンパク質における水素結合 == [[ファイル:Base pair GC.svg|thumb|DNAにおける2つの[[塩基対]]の内の1つである[[グアニン]]と[[シトシン]]間の水素結合。]] 水素結合は、タンパク質や核酸がとる三次元構造の決定にも重要な役割を果たしている。[[高分子]]は、同一の高分子中の異なる部分間の水素結合によって、高分子の生理学的あるいは生化学的役割を決定しているある特異的な形状へと折り畳まれる。例えば、DNAの二重螺旋構造は、一方の相補鎖ともう一方の鎖との間の塩基対の水素結合に大部分よっており、[[DNA複製|DNAの複製]]を可能にしている。 タンパク質の[[二次構造]]では、[[主鎖]]の酸素原子と[[アミド結合]]の水素原子との間で水素結合が形成される。水素結合に関与しているアミノ酸残基の間隔が''i'' と ''i''&nbsp;+&nbsp;4の時は、[[αヘリックス]]が形成される。間隔が''i'' と ''i''&nbsp;+&nbsp;3のようにより短い時は、[[310ヘリックス|3<sub>10</sub>ヘリックス]]が形成される。2つのペプチド鎖が水素結合によって会合する時は、[[βシート]]が形成される。水素結合は、Rグループの相互作用を通じて、タンパク質の四次構造の形成にも部分的に寄与している([[フォールディング]]を参照)。 == ポリマーにおける水素結合 == [[ファイル:Kevlar chemical structure.png|thumb|400px|パラ-アラミド構造]] [[ファイル:Cellulose strand.svg|thumb|right|260px| セルロース鎖(I<sub>α</sub>コンホメーション)。セルロース分子間の点線は水素結合を示す。]] 多くの[[ポリマー]]は、主鎖における水素結合によって強化されている。合成ポリマーの中では、最もよく知られた例は[[ナイロン]]である。ナイロンでは、反復単位 ([[:en:repeat unit|repeat unit]]) の中で水素結合が存在し、物質の結晶化において主要な役割を果たしている。アミド反復単位中のカルボニル基とアミノ基の間で水素結合が形成される。これらは効果的に隣接した鎖を結び付け結晶を作り、物質の強化を助ける。この効果は、水素結合が直鎖を横方向に安定化している[[アラミド]][[繊維]]で最大である。鎖軸は、繊維軸に沿って整列し、繊維を極めて硬くかつ強くしている。水素結合はセルロースや、天然において様々な形で存在している木材や綿、[[アマ (植物)|亜麻]]などの天然繊維等のセルロース派生物の構造においても重要である。 水素結合ネットワークは、天然および合成ポリマーを共に大気中の[[湿度]]のレベルに敏感にしている。これは、水分子が表面から拡散し、水素結合ネットワークを壊すためである。ナイロンはアラミドよりも感受性が高く、ナイロン6 ([[:en:nylon 6|nylon 6]]) はナイロン11よりも感受性が高い。 == 対称性を持つ水素結合 == {{main|w:Symmetric hydrogen bond}} 対称性を持つ水素結合は、プロトンが2つの同一の原子間のちょうど半分に位置している特別な水素結合のタイプである。それぞれの原子間の水素結合の強さは等しい。これは[[三中心四電子結合]]の一つの例である。このタイプの水素結合は「普通」の水素結合よりも強い。有効[[結合次数]]は0.5であり、共有結合に匹敵する強さがある。このタイプの水素結合は高圧下での氷 (Ice X) や、その他にも高圧下におけるフッ化水素酸や[[蟻酸]]などの無水の酸の固相状態において見られる。また、ビフルオリドイオン [F-H-F]<sup>−</sup>でも見られる。対称性を持つ水素結合は、最近、高圧下 (> G[[パスカル (単位)|Pa]]) のギ酸において分光学的に観測されている。それぞれの水素原子は、1つではなく2つの原子と部分共有結合を形成している。 [[低障壁水素結合]] (Low-barrier hydrogen bond, LBHB) は2つのヘテロ原子間の距離が非常に小さい時に形成される。 == 二水素結合 == {{main|二水素結合}} 水素結合は、よく似た[[二水素結合]]と比較される。二水素結合もまた、水素原子が関与した分子間相互作用である。これらの構造は、X線結晶学によって明らかにされている<ref name="crabtree">{{cite journal|title=A New Intermolecular Interaction: UnconventionalHydrogen Bonds with Element−Hydride Bonds as ProtonAcceptor|author=R. H. Crabtree, Per E. M. Siegbahn, Odile Eisenstein, Arnold L. Rheingold, Thomas F. Koetzle|journal=Acc. Chem. Res.|year= 1996|volume= 29 |issue=7| pages=348–354|doi= 10.1021/ar950150s}}</ref>。しかしながら、二水素結合と通常の水素結合、イオン結合、共有結合との関係の理解については不明なままである。一般的に、水素結合は、非金属元素(窒素原子や[[カルコゲン]]類元素など)中の非共有電子対によるプロトン受容体によって特徴付けられる。ある場合においては、π結合や金属錯体がこれらのプロトン受容体になりうる。二水素結合では、しかしながら、金属ヒドリドがプロトンアクセプターとして働くことによって、水素-水素相互作用が形成される。これらの複合体での分子構造は、結合長が金属錯体/水素供与体系に非常に適応性があるという点において、水素結合と似ていることが、[[中性子回折法]]によって明らかにされている<ref name="crabtree"/>。 == 水素結合に関する先進的な理論 == 1999年に、Issacらは、通常の氷の[[コンプトン効果|コンプトンプロファイル]]における[[等方的と異方的|異方性]] ([[:en:anisotropy|anisotropy]]) の解釈から、水素結合は部分的に共有結合性があると証明した<ref>{{cite journal|title=Covalency of the Hydrogen Bond in Ice: A Direct X-Ray Measurement|author=E. D. Isaacs, A. Shukla, P. M. Platzman, D. R. Hamann, B. Barbiellini, and C. A. Tulk|journal=Phys. Rev. Lett.|volume=82|pages= 600-603|year=1999|doi=10.1103/PhysRevLett.82.600}}</ref>。タンパク質における水素結合のいくつかの[[核磁気共鳴|NMR]]データも共有結合性を示している。 最も一般的には、水素結合は2つあるいはそれ以上の分子間結合の[[距離函数|距離]]依存的静電[[スカラー場]]として記述される。これは、共有結合やイオン結合における分子間[[束縛状態]]とは若干異なっている。しかしながら、相互作用エネルギーが合計すると負の値を取るため、水素結合は通常束縛状態の現象である。ライナス・ポーリングによって提唱された初期の水素結合理論では、水素結合が部分的に共有結合性を持っていることが示唆されている。これは、1990年代後半にF. CordierによってNMR法が適用され、水素結合した原子核の間で情報が転送されることが示されるまで論争の的であった<ref>{{cite journal|title=Direct Observation of Hydrogen Bonds in Nucleic Acid Base Pairs by Internucleotide <sup>2</sup>''J''<sub>NN</sub> Couplings|author=Dingley, A. J.; Grzesiek, S.|journal=[[J. Am. Chem. Soc.]]|year= 1998|volume= 120 |issue=33|pages= 8293–8297|doi= 10.1021/ja981513x}}</ref><ref>{{cite journal | author = F. Cordier, M. Rogowski, S. Grzesiek and A. Bax | title = Observation of through-hydrogen-bond <sup>2h</sup>''J''<sub>HC‘</sub> in a perdeuterated protein | journal = J. Magn. Reson. | year = 1999 | volume = 140 | pages = 510–2 | doi = 10.1006/jmre.1999.1899 | pmid = 10497060 | issue = 2}}</ref><ref>{{cite journal|title=Direct Observation of Hydrogen Bonds in Proteins by Interresidue <sup>3h</sup>''J''<sub>NC‘</sub> Scalar Couplings|author= Cordier, F.; Grzesiek, S.|journal=J. Am. Chem. Soc.|year= 1999|volume= 121 |issue=7|pages= 1601–1602|doi= 10.1021/ja983945d}}</ref>。この情報の移動は水素結合が共有結合性を含んでいる時にしか起きない。水における水素結合について多くの実験データが分子間距離のスケールや分子[[熱力学]]についてよい解答を与えたが、動的システムにおける水素結合の[[気体分子運動論|分子運動]]や[[動力学]]の性質については未解決のままである。 == 水素結合による事象 == * [[アンモニア|NH<sub>3</sub>]]、[[水|H<sub>2</sub>O]]、[[弗化水素|HF]]の、それぞれ対応する重アナログ[[ホスフィン|PH<sub>3</sub>]]、[[硫化水素|H<sub>2</sub>S]]、[[塩化水素|HCl]]に比べて劇的に高い沸点。 * 無水[[リン酸]]および[[グリセロール]]の粘性の高さ * カルボン酸の二量体形成と、フッ化水素の六量体形成。気相においても起こり、[[理想気体の状態方程式]]からのズレが生じる。 * 非極性溶媒中における水やアルコールの五量体形成 * アンモニアなど多くの化合物の水への高い溶解性 * フッ化水素と水の混合物の負の[[共沸]] * [[水酸化ナトリウム|NaOH]]の[[吸湿性|潮解]]は、OH<sup>−</sup>と湿気との反応による水素結合性H<sub>3</sub>O<sub>2</sub><sup>−</sup>の形成に部分的に起因している。同様のプロセスは、NaNH<sub>2</sub>とNH<sub>3</sub>間、[[フッ化ナトリウム|NaF]]とHFでも起こる。 * 水素結合によって安定化された結晶構造による氷の水より小さい密度 * 水素結合の存在は、ある特定の化合物の混合物において、[[物質の状態]]の通常の遷移に異常性を引き起こす。これらの化合物は、ある温度までは液体で存在し、次に温度が上昇しても固体となり、最後に温度が異常な中間段階を越えると再び液体となる<ref>{{cite web|url=http://physicsworld.com/cws/article/news/20325 |title=Law-breaking liquid defies the rules|work= physicsworld.com|author=|date=2004-09-24|accessdate=2011-03-13}}</ref>。 * スマートラバー ([[:en:smart rubber|smart rubber]]) は、水素結合をまさに結合させるために利用している。スマートラバーは、同一のポリマーの2つの表面の間でその場で水素結合が形成され、破れても「回復」する。 * ナイロンとセルロース繊維の強度 * ウールでは、タンパク質繊維が水素結合によって集合しており、延ばした時に戻る原因となる。しかしながら、高温で洗浄すると、この水素結合が永久に失われ、衣服の形が元に戻らなくなる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * George A. Jeffrey. ''An Introduction to Hydrogen Bonding (Topics in Physical Chemistry)''. Oxford University Press, USA (March 13, 1997). ISBN 0-19-509549-9 * {{cite journal | title = A New Intermolecular Interaction: Unconventional Hydrogen Bonds with Element-Hydride Bonds as Proton Acceptor | author = [[Robert H. Crabtree]], Per E. M. Siegbahn, Odile Eisenstein, Arnold L. Rheingold, and Thomas F. Koetzle | journal = [[Acc. Chem. Res.]] | year = 1996 | volume = 29 | issue = 7 | pages = 348–354 | doi = 10.1021/ar950150s | pmid = 19904922}} * {{cite journal | title = Polymerization of Formic Acid under High Pressure | author = Alexander F. Goncharov, M. Riad Manaa, Joseph M. Zaug, Richard H. Gee, Laurence E. Fried, and Wren B. Montgomery | journal = [[Phys. Rev. Lett.]] | year = 2005 | volume = 94 | issue = 6 | pages = 065505 | doi = 10.1103/PhysRevLett.94.065505 | pmid=15783746}} * {{cite journal | author = R. Parthasarathi, V. Subramanian, N. Sathyamurthy | title = Hydrogen Bonding Without Borders: An Atoms-In-Molecules Perspective | journal = [[J. Phys. Chem. A]] | year = 2006 | volume = 110 | pages = 3349–3351 | doi = 10.1021/jp060571z | pmid = 16526611 | issue = 10}} * {{cite journal | author = Z. Liu, G. Wang, Z. Li, R. Wang | title = Geometrical Preferences of the Hydrogen Bonds on Protein−Ligand Binding Interface Derived from Statistical Surveys and Quantum Mechanics Calculations | journal = [[Journal of Chemical Theory and Computation|J. Chem. Theory Comput. (A)]] | year = 2008 | volume = 4 | issue = 11 | pages = 1959–1973 | doi = 10.1021/ct800267x}} * {{cite journal | author = M. Goswami, E. Arunan | title = The Hydrogen bond: A Molecular Beam Microwave Spectroscopist's View with a Universal Appeal | journal = [[Phys. Chem. Chem. Phys.]] | year = 2009 | volume = 11 | pages = 8974–8982 | doi = 10.1039/b907708a}} == 関連項目 == * [[共有結合]] * [[イオン結合]] * [[水素結合結晶]] * [[分子間力]] * [[電気陰性度]] {{化学結合}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すいそけつこう}} [[Category:化学結合]] [[Category:水素]]
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タール (曖昧さ回避)
タール
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タール 乾留液 (tar) - 植物や石炭などを乾留して得られる濃褐色の液体。ヤニ(樹脂)とは別物。 コールタール - 石炭のタール。 松根油 - 松のタール。 フィリピンの地名 (Taal) タール湖 - フィリピンのカルデラ湖。 タール火山 - タール湖内の島にある火口丘。 タール (フィリピン) - タール湖畔の都市。 タール砂漠 (Thar) - パキスタン、インドの砂漠。 楽器の名 (tār) タール (弦楽器) - イラン、インドなどの弦楽器。 タール (打楽器) - アラブ圏の片面の枠太鼓。 ターラ (tāla) - インド音楽の理論。 トゥヴァ人民共和国の略称。(Тар) ドイツ語で谷を意味する単語 (Tal) ネアンデル谷 - ネアンデルタール人の名前の由来。 タール (動物) (tahr) - ヤギ亜科のかつて近縁と考えられた数種の総称 アラビアタール ニルギリタール ヒマラヤタール
'''タール''' * [[乾留液]] (tar) - [[植物]]や[[石炭]]などを[[乾留]]して得られる濃褐色の[[液体]]。ヤニ([[天然樹脂|樹脂]])とは別物。 ** [[コールタール]] - [[石炭]]のタール。 ** [[松根油]] - [[マツ|松]]のタール。 * [[フィリピン]]の地名 (Taal) ** [[タール湖]] - フィリピンの[[カルデラ湖]]。 ** [[タール火山]] - タール湖内の島にある火口丘。 ** [[タール (フィリピン)]] - タール湖畔の[[都市]]。 * [[タール砂漠]] (Thar) - [[パキスタン]]、[[インド]]の[[砂漠]]。 * [[楽器]]の名 (t&#x101;r) ** [[タール (弦楽器)]] - [[イラン]]、[[インド]]などの弦楽器。 ** [[タール (打楽器)]] - [[アラブ]]圏の片面の枠太鼓。 * [[ターラ]] (t&#x101;la) - インド音楽の理論。 * [[トゥヴァ人民共和国]]の略称。({{lang|ru|Тар}}) * [[ドイツ語]]で[[谷]]を意味する単語 (Tal) ** [[ネアンデル谷]] - [[ネアンデルタール人]]の名前の由来。 * {{仮リンク|タール (動物)|en|tahr}} (tahr) - [[ヤギ亜科]]のかつて近縁と考えられた数種の総称 ** [[アラビアタール]] ** [[ニルギリタール]] ** [[ヒマラヤタール]] == 関連項目 == * [[タル]] {{Aimai}} {{デフォルトソート:たある}} [[Category:ドイツ語の語句]]
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オットリーノ・レスピーギ
オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi, 1879年7月9日 – 1936年4月18日)は、イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者。ボローニャ出身で、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(『ローマの噴水』『ローマの松』『ローマの祭り』)が広く知られる。16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、古楽に基づく作品も遺した。 ボローニャに生まれ、地元の音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受ける。1891年から1899年までボローニャ高等音楽学校においてヴァイオリンとヴィオラをフェデリコ・サルティに、作曲をジュゼッペ・マルトゥッチに、音楽史を、古楽の専門家ルイージ・トルキに師事。1899年にヴァイオリン演奏でディプロマを取得すると、1900年から1901年までと、1902年から1903年までの2度のシーズンにわたってロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者としてサンクトペテルブルクに赴任し、イタリア・オペラの上演に携わった。サンクトペテルブルクではニコライ・リムスキー=コルサコフと出逢って5か月におよぶ指導を受け、その精緻な管弦楽法に強い影響を受けた。多くの資料では、さらに1902年にベルリンで短期間マックス・ブルッフの薫陶を受けたとされているが、エルザ未亡人はこの説を事実ではないとして否定している。その後ボローニャに戻り、作曲で2つめの学位を取得した。1908年までムジェッリーニ五重奏団より第1ヴァイオリン奏者に迎えられている。1908年から1909年までベルリンに滞在し、演奏家や、声楽教室のピアノ伴奏者として稼ぎながら音楽的な知見を広げ、イタリア人以外の作曲家にも開眼した。 ようやく帰国すると作曲に没頭し、自作のカンタータ『アレトゥーザ』(1911年)のピアノ伴奏版の作成に熱心に打ち込む。 ボローニャ高等音楽学校に定職が得られることを要望するも果たせず、やっと1913年にサンタ・チェチーリア国立アカデミア作曲科教授に任命されてローマに移住し、以後最晩年まで同地にて暮らした。1917年に交響詩『ローマの噴水』をローマで初演するが成功せず、自信を喪失するが、1918年、アルトゥーロ・トスカニーニによるミラノでの再演が大成功をおさめ、作曲家としての突破口を切り開くことができた。1919年に、1915年からの門弟で、声楽家でもあったエルザ・オリヴィエリ=サンジャコモと結婚する。 1923年にはサンタ・チェチーリア国立アカデミアの院長に就任し、1926年にも再び院長に任命されたため、十分な時間を作曲に充てることができなくなった。それでも1935年まで教職に就き、1925年にセバスティアーノ・アルトゥーロ・ルチアーニと共著で初歩的な教則本『オルフェウス』(ラテン語: Orpheus)を上梓した。1932年にはイタリア王国学士院の会員に任命された。 晩年は国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ており、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりなどした。レスピーギの作品はファシスト党政権にも非常に好評であったが、レスピーギ自身はまだファシズムに深入りしてはいなかった。後半生はベニート・ムッソリーニのファシスト党とぎこちない関係を続けた。それでもトスカニーニのような明け透けな党の批判者の支持も得て、批判者が自作を上演することを認めた。『ローマの祭り』の初演は1929年にトスカニーニの指揮するニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって行われた。初録音は1942年にフィラデルフィア管弦楽団、再録音は1949年にNBC交響楽団によって行われ、いずれもトスカニーニの指揮であった。 レスピーギの作品はアメリカ合衆国でかなりの成功を収めた。ピアノと管弦楽のための『トッカータ』は、1928年11月にカーネギーホールにおいて、作曲者自身のピアノ独奏とウィレム・メンゲルベルクの指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されている。大規模な変奏曲『メタモルフォーゼ』はボストン交響楽団創立50周年記念の依嘱作品であった。 1936年1月までは作曲を続けていたが、その後は次第に病に蝕まれ、もはや新作を完成させることができなかった。同年4月18日に心臓病のため亡くなり、ローマに埋葬されたが、翌1937年には亡骸が郷里のボローニャに移葬された。 初期の擬古典主義的な習作の後、ロシア滞在を経てレスピーギの音楽語法は変化を遂げた。自由な形式、拡張された和声法、振幅の大きい表現が、それ以後の作品を左右する要素となっている。さらにレスピーギ作品を代表しているのが、イタリア国内のヴェリズモからの離反である。イルデブランド・ピッツェッティやジャン・フランチェスコ・マリピエロ、アルフレード・カゼッラとともに、ヨーロッパ全土からの影響を咀嚼して、現代的な音楽文化を成立させた。当のレスピーギは作品中において複調的な傾向を見せており、管弦楽曲はとりわけフランス印象主義音楽(特にクロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル)の影響を感じさせるものの、鋭角的なオーケストラの色彩感覚は両者のそれと全く異なるものである。 また、レスピーギはイタリアにおける古楽復興の旗手でもあり、17世紀とその前後のイタリア音楽に対する熱心な研究・調査から、クラウディオ・モンテヴェルディやアントニオ・ヴィヴァルディの作品のほか、ベネデット・マルチェッロの『ディドーネ』(イタリア語: Didone)を校訂して出版した。過去の作曲家や古い様式への傾倒から、レスピーギを新古典主義音楽の作曲家と位置付けすることもできる。レスピーギは、古典派音楽以前の旋律様式や(舞踊組曲などの)音楽形式を、近代的な和声法やテクスチュアと好んで融合させている。フランスで六人組が「新しい単純性」を、中でもウィーン古典派の軽やかさへの回帰を標榜したのに対し、レスピーギはイタリア古楽の復興、そして古楽の再創造・構成のために古い音楽を利用したのであった。 ロシア時代に作曲された『ピアノ協奏曲 イ短調』などの初期作品では、師事したリムスキー=コルサコフと共に、親交を結んでいたセルゲイ・ラフマニノフの影響を見ることができる。
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オットリーノ・レスピーギは、イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者。ボローニャ出身で、1913年からはローマに出て教育者としても活動した。1908年までは演奏家、とりわけヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩(『ローマの噴水』『ローマの松』『ローマの祭り』)が広く知られる。16世紀から18世紀の音楽に対する関心から、古楽に基づく作品も遺した。
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = オットリーノ・レスピーギ<br />Ottorino Respighi | Img = Respighi 1935.jpg | Img_capt = オットリーノ・レスピーギ(1935年頃) | Img_size = 250px | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = classic | Birth_name = | Alias = | Blood = <!-- 個人のみ --> | School_background = <!-- 個人のみ --> | Born = 1879年7月9日<br />{{ITA1861}}・[[ボローニャ]] | Died = {{死亡年月日と没年齢|1879|7|9|1936|4|18}}<br />{{ITA1861}}・[[ローマ]] | Origin = | Instrument = | Genre = [[新古典主義音楽|新古典主義]] | Occupation = [[作曲家]]、[[指揮者]] | Years_active = 1893 - 1935 | Label = | Production = | Associated_acts = | Influences = | URL = | Current_members = <!-- グループのみ --> | Past_members = <!-- グループのみ --> | Notable_instruments = }} {{Portal クラシック音楽}} '''オットリーノ・レスピーギ'''(Ottorino Respighi, [[1879年]][[7月9日]] &ndash; [[1936年]][[4月18日]])は、[[イタリア]]の[[作曲家]]・[[音楽学者]]・[[指揮者]]。[[ボローニャ]]出身で、[[1913年]]からは[[ローマ]]に出て[[教育者]]としても活動した。[[1908年]]までは演奏家、とりわけ[[ヴァイオリン]]奏者や[[ヴィオラ]]奏者として活動したが、その後は作曲に転向した。近代イタリア音楽における[[器楽曲]]の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の[[交響詩]](『[[ローマの噴水]]』『[[ローマの松]]』『[[ローマの祭り]]』)が広く知られる。[[16世紀]]から[[18世紀]]の音楽に対する関心から、[[古楽]]に基づく作品も遺した。 == 略歴 == [[ボローニャ]]に生まれ、地元の音楽教師だった父親から[[ピアノ]]と[[ヴァイオリン]]の指導を受ける。[[1891年]]から[[1899年]]までボローニャ高等音楽学校においてヴァイオリンと[[ヴィオラ]]をフェデリコ・サルティに、作曲を[[ジュゼッペ・マルトゥッチ]]に、[[音楽史]]を、古楽の専門家ルイージ・トルキに師事。[[1899年]]にヴァイオリン演奏で[[ディプロマ]]を取得すると、[[1900年]]から[[1901年]]までと、1902年から[[1903年]]までの2度のシーズンにわたってロシア帝国劇場管弦楽団の首席ヴィオラ奏者として[[サンクトペテルブルク]]に赴任し、イタリア・オペラの上演に携わった。サンクトペテルブルクでは[[ニコライ・リムスキー=コルサコフ]]と出逢って5か月におよぶ指導を受け、その精緻な[[管弦楽法]]に強い影響を受けた。多くの資料では、さらに[[1902年]]に[[ベルリン]]で短期間[[マックス・ブルッフ]]の薫陶を受けたとされているが、[[エルザ・レスピーギ|エルザ]]未亡人はこの説を事実ではないとして否定している<ref>Elsa Respighi, "Ottorino Respighi", London, Ricordi, p. 25</ref>。その後ボローニャに戻り、作曲で2つめの学位を取得した。[[1908年]]までムジェッリーニ五重奏団より第1ヴァイオリン奏者に迎えられている。1908年から[[1909年]]までベルリンに滞在し、演奏家や、声楽教室のピアノ伴奏者として稼ぎながら音楽的な知見を広げ、イタリア人以外の作曲家にも開眼した。 ようやく帰国すると作曲に没頭し、自作の[[カンタータ]]『アレトゥーザ』([[1911年]])のピアノ伴奏版の作成に熱心に打ち込む。 ボローニャ高等音楽学校に定職が得られることを要望するも果たせず、やっと1913年に[[サンタ・チェチーリア国立アカデミア]]作曲科教授に任命されてローマに移住し、以後最晩年まで同地にて暮らした。1917年に交響詩『[[ローマの噴水]]』をローマで初演するが成功せず、自信を喪失するが、1918年、[[アルトゥーロ・トスカニーニ]]によるミラノでの再演が大成功をおさめ、作曲家としての突破口を切り開くことができた。1919年に、1915年からの門弟で、声楽家でもあった[[エルザ・レスピーギ|エルザ・オリヴィエリ=サンジャコモ]]と結婚する。 [[1923年]]には[[サンタ・チェチーリア国立アカデミア]]の院長に就任し、[[1926年]]にも再び院長に任命されたため、十分な時間を作曲に充てることができなくなった。それでも[[1935年]]まで教職に就き、1925年にセバスティアーノ・アルトゥーロ・ルチアーニと共著で初歩的な教則本『オルフェウス』({{lang-la|''Orpheus''}})を上梓した。[[1932年]]には[[イタリア王国]]学士院の会員に任命された。 晩年は国内外で自作の上演のため何度も演奏旅行に出ており、指揮者を務めたり、ピアニストとして声楽家であるエルザ夫人の伴奏を務めたりなどした。レスピーギの作品は[[ファシスト党]]政権にも非常に好評であったが、レスピーギ自身はまだ[[ファシズム]]に深入りしてはいなかった。後半生は[[ベニート・ムッソリーニ]]のファシスト党とぎこちない関係を続けた。それでもトスカニーニのような明け透けな党の批判者の支持も得て、批判者が自作を上演することを認めた<ref>Liner notes from RCA Toscanini Edition CD Vol 32 (1990)</ref>。『[[ローマの祭り]]』の初演は[[1929年]]にトスカニーニの指揮する[[ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団]]によって行われた。初録音は[[1942年]]に[[フィラデルフィア管弦楽団]]、再録音は[[1949年]]に[[NBC交響楽団]]によって行われ、いずれもトスカニーニの指揮であった。 レスピーギの作品は[[アメリカ合衆国]]でかなりの成功を収めた。ピアノと管弦楽のための『トッカータ』は、1928年11月に[[カーネギーホール]]において、作曲者自身のピアノ独奏と[[ウィレム・メンゲルベルク]]の指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団によって初演されている。大規模な[[変奏曲]]『メタモルフォーゼ』は[[ボストン交響楽団]]創立50周年記念の依嘱作品であった。 [[1936年]]1月までは作曲を続けていたが、その後は次第に病に蝕まれ、もはや新作を完成させることができなかった。同年4月18日に[[心臓病]]のため亡くなり、ローマに埋葬されたが、翌[[1937年]]には亡骸が郷里のボローニャに移葬された。 == 作風 == 初期の擬古典主義的な習作の後、ロシア滞在を経てレスピーギの音楽語法は変化を遂げた。自由な形式、拡張された[[和声法]]、振幅の大きい表現が、それ以後の作品を左右する要素となっている。さらにレスピーギ作品を代表しているのが、イタリア国内の[[ヴェリズモ]]からの離反である。[[イルデブランド・ピッツェッティ]]や[[ジャン・フランチェスコ・マリピエロ]]、[[アルフレード・カゼッラ]]とともに、ヨーロッパ全土からの影響を咀嚼して、現代的な音楽文化を成立させた。当のレスピーギは作品中において[[多調|複調]]的な傾向を見せており、管弦楽曲はとりわけフランス[[印象主義音楽]](特に[[クロード・ドビュッシー]]、[[モーリス・ラヴェル]])の影響を感じさせるものの、鋭角的なオーケストラの色彩感覚は両者のそれと全く異なるものである。 また、レスピーギはイタリアにおける古楽復興の旗手でもあり、[[17世紀]]とその前後のイタリア音楽に対する熱心な研究・調査から、[[クラウディオ・モンテヴェルディ]]や[[アントニオ・ヴィヴァルディ]]の作品のほか、[[ベネデット・マルチェッロ]]の『ディドーネ』({{lang-it|''Didone''}})を校訂して出版した。過去の作曲家や古い様式への傾倒から、レスピーギを[[新古典主義音楽]]の作曲家と位置付けすることもできる。レスピーギは、[[古典派音楽]]以前の旋律様式や([[組曲|舞踊組曲]]などの)音楽形式を、近代的な和声法やテクスチュアと好んで融合させている。フランスで[[フランス六人組|六人組]]が「新しい単純性」を、中でも[[ウィーン古典派]]の軽やかさへの回帰を標榜したのに対し、レスピーギはイタリア古楽の復興、そして古楽の再創造・構成のために古い音楽を利用したのであった。 ロシア時代に作曲された『ピアノ協奏曲 イ短調』などの初期作品では、師事したリムスキー=コルサコフと共に、親交を結んでいた[[セルゲイ・ラフマニノフ]]の影響を見ることができる。 == 主要作品 == === 声楽曲・合唱曲 === *独唱と合唱、管弦楽のための聖書によるカンタータ『キリスト』({{lang-la|''Christus''}})<small>(1898年 &ndash; 99年、自作詩による)</small> *メゾソプラノと管弦楽のためのカンタータ『アレトゥーザ』(''Aretusa'')<small>(1910年 &ndash; 11年、原詩:[[パーシー・シェリー|シェリー]])</small> *メゾソプラノと管弦楽のためのカンタータ『オジギソウ』(''La Sensitiva'')<small>(1914年、原詩:シェリー)</small> *メゾソプラノと弦楽四重奏(または弦楽合奏)のための連作歌曲『黄昏』(''Il Tramonto'')<small>(1914年、原詩:シェリー)</small> *ソプラノと小オーケストラのための連作歌曲『森の神』(''Dietà silvane'')<small>(1917年、原詩:[[アントニオ・ルビノ]])</small> *独唱と合唱、管弦楽のための抒情詩『春』(''La Primavera'')<small>(1922年、原詩:Constant Zarian)</small> *独唱と混成合唱、室内アンサンブルのためのカンタータ『降誕祭のためのラウダ』(''Lauda per la Natività del Signore'')<small>(1930年作曲、原詩:[[ヤコポーネ・ダ・トーディ]]?)</small> === オペラ === * 3幕の喜歌劇『エンツォ王』(''Rè Enzo'')<small>(台本:アルベルト・ドニーニ、1905年作曲、初演:1905年3月、ボローニャ・デル・コルソー劇場)</small> * ''Al mulino''<small>(1908年、未完の断片)</small> * 3幕の悲歌劇『セミラーマ』(''Semirâma. Poema tragico'')<small>(台本:アレッサンドロ・チェレ、1910年作曲、初演:1910年、ボローニャ・コムナーレ劇場)</small> * 4幕5場のオペラ『マリー・ヴィクトワール』({{lang-fr|''Marie Victoire''}})<small>(原作:エドモン・ギローの同名の戯曲、1912年 &ndash; 14年作曲、世界初演:2004年1月27日、ローマ・オペラ座、ドイツ初演:2009年4月9日、[[ベルリン・ドイツ・オペラ]])</small> * メルヒェン・オペラ『眠れる森の美女』(''La bella addormentata nel bosco (La bella dormente nel bosco). Fiaba musicale'')<small>(原作:[[シャルル・ペロー|ペロー]]童話集、台本:ジャン・ビストルフィ、1916年 &ndash; 21年作曲、初演:1922年、ローマ・オデスカルキ劇場)</small> * 序幕と2幕、終幕からなる抒情喜劇『ベルファゴール』(''Belfagor. Commedia lirica'' Prolog, 2 Akte und Epilog.<small>(原作:エルコーレ・ルイージ・モルセッリ、台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1921年 &ndash; 22年作曲、初演:1923年、ミラノ・スカラ座)</small> * 4幕のオペラ『沈める鐘』(''La campana sommersa'')<small>(原作:[[ゲルハルト・ハウプトマン]]、独語版台本:ヴェルナー・ヴォルフ、伊語台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1925年 &ndash; 26年作曲。独語版初演:[[1927年]][[11月18日]]、[[ハンブルク国立歌劇場]]。伊語版初演:1929年4月、ローマ・オペラ座)</small> * 1幕と2つの終幕からなる神秘劇『エジプトのマリア』(''Maria egiziaca'')<small>(台本:クラウディオ・グヮスタッラ、初演:1932年、ヴェネツィアおよびニューヨーク)</small> * 3幕4景のメロドラマ『炎』(''La fiamma. Melodramma'')<small>(原作:ハンス・ヴィエルス=イェンゼン、台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1933年作曲、初演:1934年、ローマ・オペラ座)</small> * 1幕3景の史劇『ルクレツィア』(''Lucrezia. Istoria'')<small>(台本:クラウディオ・グヮスタッラ、1935年か1936年に着手された遺稿の断片を[[エルザ・レスピーギ|エルザ]]未亡人が補筆、初演:1937年、ミラノ・スカラ座)</small> === バレエ音楽 === * ロッシーニの主題によるバレエ『[[風変わりな店]]』({{lang-fr|''La boutique fantasque''}})<small>(1918年作曲、初演:1919年、ロンドン・アルハンブラ劇場)</small> * 舞踊付き喜劇『ヴェネツィアの遊戯』(''Scherzo veneziano. Commedia coreografica'')<small>(台本:イレアナ・レオニドフ、作曲:1920年、初演:1920年、ローマ・コスタンツィ劇場)</small> * 17世紀と18世紀のフランス音楽の主題によるバレエ『古いフランスのセーヴル焼』({{lang-fr|''Sèvres de la vieille France''}})<small>(1920年作曲、初演:1920年、ローマ・コスタンツィ劇場)</small> * ロシア民謡の主題による『魔法の鍋』(''La pentola magica. Azione coreografica'')<small>(1920年作曲、初演:1920年、ローマ・コスタンツィ劇場)</small> * 17世紀と18世紀のフランス音楽の主題によるバレエ『鳥』(''Gli uccelli'')<small>(1928年作曲、初演:1933年、サンレモ市民会舘)</small> * 5幕のバレエ『[[シバの女王ベルキス]]』(''Belkis, regina di Saba'')<small>(台本:クラウディオ・グヮスタッラ、初演:1931年、ミラノ・スカラ座)</small> *''Le astuzie de Columbina'' === 管弦楽曲 === *交響的変奏曲(1900年) *前奏曲、コラールとフーガ ''Preludio, corale e fuga'' (1901年) *組曲ホ長調(シンフォニア)(1901年、1903年改訂) *序曲『謝肉祭』 ''Ouverture carnevalesca'' (1913年) *劇的交響曲 ''Sinfonia Drammatica'' (1913 &ndash; 14年) *ローマ三部作 ''Trilogia Romana'' **[[ローマの噴水]] ''Fontane di Roma'' (1915 &ndash; 16年) **[[ローマの松]] ''Pini di Roma'' (1923 &ndash; 24年) **[[ローマの祭り]] ''Feste Romane'' (1928年) *[[リュートのための古風な舞曲とアリア]] **組曲 第1番(1917年) ***<small>[[シモーネ・モリナーロ]]と[[ヴィンチェンツォ・ガリレイ]]および作者不明の[[リュート]]作品に基づく</small> **組曲 第2番(1924年) ***<small>[[ファブリツィオ・カローゾ]]や[[ジャン=バティスト・ベサール]]および作者不明がリュートや[[テオルボ]]、[[ヴィオール]]のために作曲した小品に基づく。また、[[マラン・メルセンヌ]]作曲とされる歌曲も利用されている</small> **組曲 第3番(1932年) ***<small>先行する2曲と異なり、弦楽合奏曲として構想され、全般的に憂愁を湛えている。ベサール作曲の[[エール・ド・クール]]や、[[ルドヴィコ・ロンカッリ]]のギター曲、[[サンティーノ・ガルシ・ダ・パルマ]]のリュート曲のほか、作者不明の作品が利用されている</small> *地の精のバラード ''Ballata delle Gnomidi''(1920年) <small>クラウディオ・クラウゼッティの詩に基づく</small> *管弦楽組曲『ロッシニアーナ』 ''Rossiniana''(1925年) **<small>ロッシーニのバガテル『老いのあやまち』({{lang-fr|''Les petits riens''}})の自由な編曲</small> *[[教会のステンドグラス]] ''Vetrate di chiesa''(1925年) **<small>全4楽章のうち3楽章はピアノ曲集『グレゴリオ聖歌による3つの前奏曲』が原曲</small> *[[鳥 (レスピーギ)|鳥]] ''Gli Uccelli''(1927年) **<small>鳥を模倣したバロック音楽、なかでも[[クラヴサン]]曲を編曲したもの。同名のバレエ音楽の原曲</small> *ボッティチェッリの3枚の絵 ''Trittico Botticelliano''(1927年) **<small>イタリアルネサンスの画家[[サンドロ・ボッティチェッリ|ボッティチェッリ]]の絵画から着想したもの。</small> *ブラジルの印象 ''Brazilian Impressions''(1928年) *主題と変奏『第12旋法によるメタモルフォーゼ』 ''Metamorphoseon. Modi XII: Tema e Variazioni''(1930年) * [[パッサカリアとフーガ|パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582]]([[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]のオルガン曲の管弦楽編曲)<small>※他にもバッハ作品の編曲を数多く行っている。</small> * 5つの[[音の絵]]([[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]のピアノ曲の管弦楽編曲) === 協奏的作品 === *ピアノ協奏曲 イ短調 (1902年) *ピアノと管弦楽のための『スラヴ幻想曲』(''Fantasia Slava'')(1903年) *ヴァイオリン協奏曲 イ長調(1903年、未完)…{{仮リンク|サルヴァトーレ・ディ・ヴィットリオ|en|Salvatore Di Vittorio}}により補筆、[[2010年]]に世界初演。 *ピアノと管弦楽のための『ブルレスケ』(''Burlesca'')(1906年) *ピアノと管弦楽のための『[[ミクソリディア旋法の協奏曲]]』(''Concerto in modo misolidio'')(1925年) *ピアノと管弦楽のための『トッカータ』(1928年) *ヴァイオリンと弦楽合奏のための『パストラーレ』(''Pastorale'')(1908年) *ヴァイオリンと管弦楽のための『古風な協奏曲』(''Concerto all'antica'')イ短調(1908年) *ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲『[[グレゴリオ風協奏曲|グレゴリオ聖歌風]]』(''Concerto Gregoriano'')(1921年) *ヴァイオリンと管弦楽のための『秋の詩』(''Poema Autunnale'')(1920-25年) *チェロと管弦楽のための『アダージョと変奏』(''Adagio con variazioni'') (1920年) *オーボエとトランペット、ヴィオラ・ダモーレ、コントラバス、ピアノと弦楽合奏のための『5声の協奏曲』(''Concerto a cinque'')(1933年) === 室内楽曲 === *オルガンと弦楽合奏のための組曲 ト長調 (1905年) *複四重奏曲 ニ短調 (1901年?) *ピアノ五重奏曲 ヘ短調 (1902年?) *弦楽五重奏曲 (年代・日付の記入なし) *単一楽章の弦楽四重奏曲 ニ短調 (年代・日付の記入なし) *ヴィオラ四重奏曲 ニ長調 (1906年?) *弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 (1892年 &ndash; 98年?、未出版の習作) *弦楽四重奏曲 第2番 変ロ長調 (1898年?、未出版の習作) *弦楽四重奏曲 ニ長調 (1907年) *弦楽四重奏曲 ニ短調 (1909年、"{{lang-de|Ernst is das Leben, heiter ist die Kunst}}"との銘が掲げられている) *[[ドリア旋法]]による弦楽四重奏曲(''Quartetto Dorico'', 1924年) *ヴァイオリンとピアノのための6つの小品 (1901 &ndash; 06年) *[[ヴァイオリンソナタ (レスピーギ)|ヴァイオリン・ソナタ ロ短調]] ''Sonata per violino e piano''(1916-17年) === その他の器楽曲 === *ピアノ曲『グレゴリオ聖歌による3つの前奏曲』(''Tre Preludi sopra melodie gregoriane'')(1919年) *ギターのための変奏曲(''Variazioni'') == 評伝 == * Respighi, Elsa (1955) ''Fifty Years of a Life in Music'' * Respighi, Elsa (1962) ''Ottorino Respighi'', London: Ricordi * Nupen, Christopher (director) (1983) ''Ottorino Respighi: A Dream of Italy'', Allegro Films * Barrow, Lee G (2004) ''Ottorino Respighi (1879-1936): An Annotated Bibliography'', Scarecrow Press == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈・出典 === <references/> ==参考文献== *Respighi, Elsa (1955) ''Fifty Years of a Life in Music'' *Respighi, Elsa (1962) ''Ottorino Respighi'', London: Ricordi *Nupen, Christopher (director) (1983) ''Ottorino Respighi: A Dream of Italy'', Allegro Films *Cantù, Alberto (1985) ''Respighi Compositore'', Edizioni EDA, Torino *Barrow, Lee G (2004) ''Ottorino Respighi (1879–1936): An Annotated Bibliography'', Scarecrow Press *Viagrande, Riccardo, ''La generazione dell'Ottanta'', Casa Musicale Eco, Monza, 2007 * Daniele Gambaro, ''Ottorino Respighi. Un'idea di modernità nel Novecento'', pp.&nbsp;XII+246, illustrato con esempi musicali, novembre 2011, Zecchini Editore, {{ISBN2|978-88-6540-017-3}} == 外部リンク == * [http://www.cini.it/italiano/03collezioni/fondi/respighi.html レスピーギ財団] (イタリア語) * [http://www.musicweb.uk.net/respighi/ レスピーギ協会](英語) * {{IMSLP|id=Respighi%2C_Ottorino|cname=Respighi}} * {{findagrave|6901790}} * {{DNB-Portal|118744593}} * [http://www.editionsilvertrust.com/respighi-string-quartet-1.htm Ottorino Respighi String Quartet in D Major (1907) Sound-bites and discussion] * [http://ottorinorespighi.it/catalogo.php 作品一覧](イタリア語) * [http://www.bbwbi.de/repertoire/texte/respighi_ottorino/respighi.html www.bbwbi.de] * [http://www.klassika.info/Komponisten/Respighi/ www.klassika.info] * [http://www.operone.de/komponist/respighi.html www.operone.de] * [http://www.chamberorchestraofnewyork.org Chamber Orchestra of New York "Ottorino Respighi"] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:れすひいき おつとりいの}} [[Category:イタリアの作曲家]] [[Category:近現代の作曲家]] [[Category:新古典主義の作曲家]] [[Category:バレエ作曲家]] [[Category:オペラ作曲家]] [[Category:サンタ・チェチーリア国立アカデミアの教員]] [[Category:イタリアのヴィオラ奏者]] [[Category:イタリアのヴァイオリニスト]] [[Category:ボローニャ出身の人物]] [[Category:1879年生]] [[Category:1936年没]]
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西日暮里駅
西日暮里駅(にしにっぽりえき)は、東京都荒川区西日暮里五丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局の駅である。 以下の3路線が乗り入れており、相互間の接続駅となっている。 東京メトロ千代田線の列車は、常磐線(各駅停車)と小田急線との3社直通運転を行っている。 現・西日暮里五丁目における鉄道駅としては1934年4月18日に開業した京成電気軌道(現・京成電鉄)本線の道灌山通駅が最初である。1943年10月1日には不要不急駅とされ休止(のちに廃止)となり、1969年の地下鉄千代田線開業まで26年間空白期間となった。 地下鉄千代田線の建設に際し、帝都高速度交通営団は日暮里付近への駅設置について以下の3案をまとめ調査を行った。 案1は、駅付近の大部分が民地であるため工事費がかさむとし、案2は連絡通路が長いため利用客が不便となる。案3は当時の国鉄は赤字が膨れ工事費を可能な限り削減したい意向であり承諾は難しいと営団内部は見込んでいた。営団は内部検討の末、国鉄に案3の検討を依頼。国鉄が駅間距離・運転時分・利用予測を検討の結果新駅を設置することが可能との判断を行う。その判断を受け営団・国鉄双方でそれぞれに設置を行うこととなり現在の場所に当駅を設置するに至った。 改札はJR東日本と東京都交通局は1か所、東京メトロは2か所あり、さらに地下にはJR東日本 - 東京メトロ間の連絡改札口もある。この連絡改札口には自動乗り継ぎ精算機が設置されていないため、精算または区間変更、交通系ICカードにチャージが必要な場合は改札に併設された精算窓口に並ぶことになる。なお、連絡改札口の自動改札機はJR東日本仕様のもので有人改札での対応もJR東日本の社員だが、精算窓口での対応は東京メトロの社員が行っている。 JR線南隣の日暮里駅で接続する常磐快速線に運転見合わせやダイヤの乱れが発生した場合(当駅経由での東京メトロ千代田線(常磐緩行線直通)への振替輸送が行われる場合に限る)、ラッシュ時などには両社間の乗り換え改札を開放して対処する(「振替の方はそのままお通りください」と案内される)場合がある。 東北本線の尾久支線(宇都宮線・高崎線)ガード付近の入口からはJR東日本・東京メトロの双方の乗り場へも移動できるが、この入口には東京メトロのロゴマークが表示されていない。 地下2階に代々木上原方面、地下3階に綾瀬方面の線路・単式ホーム各1面1線を有する上下2層構造。これは、北千住駅 - 湯島駅間の一部地上に幅員が狭い道路があるため、上下に単線の線路を設ける構造としたためである。この区間の中間駅はA線(代々木上原方面)の線路・ホームが上層に、B線(綾瀬方面)の線路・ホームが下層にある。駅中心部における地表からレール面までの深さは、1番線が9.4 m、2番線が15.3 mある。 前述したとおり、開業時点では半分ほどの施設で営業していた。 当駅でJR線に乗り換える利用客は乗り継ぎ専用改札を通る必要があり、交通系ICカード乗車券や当駅接続の連絡乗車券を所持していない利用客は改札通過前に精算(区間変更)することになる。乗り継ぎ精算機は設置されておらず、精算はすべて有人窓口での対応となる。当駅は通過連絡運輸の適用を入場後にも受けられる稀な例でもある。 精算窓口の上部には、運賃計算の基準や発売範囲の掲示とともに「今度からは連絡きっぷをお求め下さい」との注意書きがある。当駅の連絡改札経由の場合と、北千住駅の連絡通路を通って常磐快速線日暮里駅経由の場合とでは、算出される運賃が異なる。また、2007年3月18日から首都圏ICカード相互利用サービスが開始され、IC乗車券1枚でも常磐線から当駅を経由してのJR線への乗り継ぎが可能となったが、IC乗車券の場合は通過連絡運輸の場合とは異なり、個別に算出した運賃の合計額から100円を値引きした運賃となる。当初はSuica・PASMOのみ利用可能で、Suicaと相互利用可能なICカードは利用できなかったが、2013年3月23日より相互利用サービスの拡大に伴ってSuica・PASMOと相互利用可能なICカードは全て利用できるようになった。 乗り換え用自動改札機はJR東日本のものを使っているが、2枚投入に対応している一方、東京メトロの磁気券との併用には対応していない。SuicaとPASMOおよび相互利用可能なICカードについては、東京メトロの磁気券を投入後タッチすることにより利用可能である。 (出典:東京メトロ:構内図) 2018年10月27日よりスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「ソーダ水」(福嶋尚哉作曲)、2番線が「帰り道」(大和優子作曲)である。 JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している日暮里駅管理の業務委託駅。島式ホーム2面4線を有する高架駅で、千代田線構内でJRへの乗り換えを可能にするための中間改札が地下にある。指定席券売機、VIEW ALTTEが設置されている。以前はみどりの窓口も設置されていたが、2013年12月14日をもって営業を終了した。 2007年春までにコンコースと各ホームを連絡するバリアフリー設備を整備した。これによりエスカレーターが田端駅・日暮里駅寄りと連絡するほか、エレベーターも日暮里寄りに設置され、併せて多機能トイレも設置された。なお、エスカレーターはこの他にもコンコースと千代田線乗り換え改札口を連絡している。 2019年には、コンコースに文化交流拠点「エキラボ niri」、地域や駅の情報を発信する「コミュニケーション・ウォール」、エキナカカフェ「BECK'S COFFEE SHOP 西日暮里店」の開業が行われた。 かつては、電車到着時に「西日暮里、西日暮里、地下鉄千代田線はお乗り換えです」という放送が流れていたが、ATOS導入後はこのような放送が行われなくなった。 (出典:JR東日本:駅構内図) 京浜東北線の快速運転時間帯は当駅を通過するため、1・4番線には列車が停車しない。この時間帯に大井町以遠に向かう利用客は2番線の山手線を利用して上野駅で、上中里以遠に向かう利用客は3番線の山手線を利用して、田端駅での乗り換えを要する。なお、通過放送の後にその旨の案内放送が流れる。 島式ホーム1面2線を有する高架駅。駅舎は尾久橋通り真上、京成電鉄本線とJR常磐線から分かれる田端貨物線が交差する付近の複雑な位置にある。 出入口は駅舎東西両側と歩行者デッキによって西日暮里5丁目交差点を渡った東西両側(東京メトロ千代田線出入口2・3番に隣接)の4か所。JRの駅舎とは直接つながっておらず、両駅間は徒歩で数分を要する(隣の日暮里駅での乗り換えがより至近である)。一方、東京メトロの駅とはエレベーターで結ばれている。 当初は無人駅で日暮里駅から遠隔管理されていたが、現在は東京都営交通協力会が受託する業務委託駅となっている。 各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである。 各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。 JR山手線・京浜東北線が南東から北西に走り、東京メトロ千代田線がそれとほぼ直交する。同線の地上部分は道灌山通りになっており、道灌山通り沿い、駅の西側には開成学園(中学校・高校)がある。同学園と道灌山通りを挟んだ向かい側は西日暮里公園になっている。 毎年8月の最終土・日曜日に開催される諏方神社の例大祭には、多くの露店が出る。 駅周辺は特に尾久橋通り沿いに中層ビルが多く、飲食店や風俗店などが多数立地するが、当駅が設置される前は住宅密集地だった。当駅開業後も駅東側の幹線道路以外では幅員の狭い道沿いに庶民的な住宅地が密集する。 なお、地下鉄2番出口前を通っている京成本線には現在駅はないが、かつては道灌山通駅(1943年休止、1947年廃止)が存在した。 最寄り停留所は「西日暮里駅前」となる。停留所は道灌山通りと尾久橋通り上にある。すべて東京都交通局により運行されている。
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東京メトロ間の連絡改札口もある。この連絡改札口には自動乗り継ぎ精算機が設置されていないため、精算または区間変更、交通系ICカードにチャージが必要な場合は改札に併設された精算窓口に並ぶことになる。なお、連絡改札口の自動改札機はJR東日本仕様のもので有人改札での対応もJR東日本の社員だが、精算窓口での対応は東京メトロの社員が行っている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "JR線南隣の日暮里駅で接続する常磐快速線に運転見合わせやダイヤの乱れが発生した場合(当駅経由での東京メトロ千代田線(常磐緩行線直通)への振替輸送が行われる場合に限る)、ラッシュ時などには両社間の乗り換え改札を開放して対処する(「振替の方はそのままお通りください」と案内される)場合がある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "東北本線の尾久支線(宇都宮線・高崎線)ガード付近の入口からはJR東日本・東京メトロの双方の乗り場へも移動できるが、この入口には東京メトロのロゴマークが表示されていない。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地下2階に代々木上原方面、地下3階に綾瀬方面の線路・単式ホーム各1面1線を有する上下2層構造。これは、北千住駅 - 湯島駅間の一部地上に幅員が狭い道路があるため、上下に単線の線路を設ける構造としたためである。この区間の中間駅はA線(代々木上原方面)の線路・ホームが上層に、B線(綾瀬方面)の線路・ホームが下層にある。駅中心部における地表からレール面までの深さは、1番線が9.4 m、2番線が15.3 mある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "前述したとおり、開業時点では半分ほどの施設で営業していた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当駅でJR線に乗り換える利用客は乗り継ぎ専用改札を通る必要があり、交通系ICカード乗車券や当駅接続の連絡乗車券を所持していない利用客は改札通過前に精算(区間変更)することになる。乗り継ぎ精算機は設置されておらず、精算はすべて有人窓口での対応となる。当駅は通過連絡運輸の適用を入場後にも受けられる稀な例でもある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "精算窓口の上部には、運賃計算の基準や発売範囲の掲示とともに「今度からは連絡きっぷをお求め下さい」との注意書きがある。当駅の連絡改札経由の場合と、北千住駅の連絡通路を通って常磐快速線日暮里駅経由の場合とでは、算出される運賃が異なる。また、2007年3月18日から首都圏ICカード相互利用サービスが開始され、IC乗車券1枚でも常磐線から当駅を経由してのJR線への乗り継ぎが可能となったが、IC乗車券の場合は通過連絡運輸の場合とは異なり、個別に算出した運賃の合計額から100円を値引きした運賃となる。当初はSuica・PASMOのみ利用可能で、Suicaと相互利用可能なICカードは利用できなかったが、2013年3月23日より相互利用サービスの拡大に伴ってSuica・PASMOと相互利用可能なICカードは全て利用できるようになった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "乗り換え用自動改札機はJR東日本のものを使っているが、2枚投入に対応している一方、東京メトロの磁気券との併用には対応していない。SuicaとPASMOおよび相互利用可能なICカードについては、東京メトロの磁気券を投入後タッチすることにより利用可能である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "(出典:東京メトロ:構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2018年10月27日よりスイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "曲は1番線が「ソーダ水」(福嶋尚哉作曲)、2番線が「帰り道」(大和優子作曲)である。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "JR東日本ステーションサービスが駅業務を受託している日暮里駅管理の業務委託駅。島式ホーム2面4線を有する高架駅で、千代田線構内でJRへの乗り換えを可能にするための中間改札が地下にある。指定席券売機、VIEW ALTTEが設置されている。以前はみどりの窓口も設置されていたが、2013年12月14日をもって営業を終了した。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2007年春までにコンコースと各ホームを連絡するバリアフリー設備を整備した。これによりエスカレーターが田端駅・日暮里駅寄りと連絡するほか、エレベーターも日暮里寄りに設置され、併せて多機能トイレも設置された。なお、エスカレーターはこの他にもコンコースと千代田線乗り換え改札口を連絡している。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2019年には、コンコースに文化交流拠点「エキラボ niri」、地域や駅の情報を発信する「コミュニケーション・ウォール」、エキナカカフェ「BECK'S COFFEE SHOP 西日暮里店」の開業が行われた。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "かつては、電車到着時に「西日暮里、西日暮里、地下鉄千代田線はお乗り換えです」という放送が流れていたが、ATOS導入後はこのような放送が行われなくなった。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "(出典:JR東日本:駅構内図)", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "京浜東北線の快速運転時間帯は当駅を通過するため、1・4番線には列車が停車しない。この時間帯に大井町以遠に向かう利用客は2番線の山手線を利用して上野駅で、上中里以遠に向かう利用客は3番線の山手線を利用して、田端駅での乗り換えを要する。なお、通過放送の後にその旨の案内放送が流れる。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "島式ホーム1面2線を有する高架駅。駅舎は尾久橋通り真上、京成電鉄本線とJR常磐線から分かれる田端貨物線が交差する付近の複雑な位置にある。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "出入口は駅舎東西両側と歩行者デッキによって西日暮里5丁目交差点を渡った東西両側(東京メトロ千代田線出入口2・3番に隣接)の4か所。JRの駅舎とは直接つながっておらず、両駅間は徒歩で数分を要する(隣の日暮里駅での乗り換えがより至近である)。一方、東京メトロの駅とはエレベーターで結ばれている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "当初は無人駅で日暮里駅から遠隔管理されていたが、現在は東京都営交通協力会が受託する業務委託駅となっている。", "title": "駅構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗降人員は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "各年度の1日平均乗車人員は下表の通りである。", "title": "利用状況" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "JR山手線・京浜東北線が南東から北西に走り、東京メトロ千代田線がそれとほぼ直交する。同線の地上部分は道灌山通りになっており、道灌山通り沿い、駅の西側には開成学園(中学校・高校)がある。同学園と道灌山通りを挟んだ向かい側は西日暮里公園になっている。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "毎年8月の最終土・日曜日に開催される諏方神社の例大祭には、多くの露店が出る。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "駅周辺は特に尾久橋通り沿いに中層ビルが多く、飲食店や風俗店などが多数立地するが、当駅が設置される前は住宅密集地だった。当駅開業後も駅東側の幹線道路以外では幅員の狭い道沿いに庶民的な住宅地が密集する。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、地下鉄2番出口前を通っている京成本線には現在駅はないが、かつては道灌山通駅(1943年休止、1947年廃止)が存在した。", "title": "駅周辺" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "最寄り停留所は「西日暮里駅前」となる。停留所は道灌山通りと尾久橋通り上にある。すべて東京都交通局により運行されている。", "title": "バス路線" } ]
西日暮里駅(にしにっぽりえき)は、東京都荒川区西日暮里五丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東日本旅客鉄道(JR東日本)・東京都交通局の駅である。
{{出典の明記|date=2014年1月|ソートキー=駅}} {{駅情報 |社色 = |駅名 = 西日暮里駅 |よみがな = にしにっぽり |ローマ字 = Nishi-Nippori |所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]五丁目 |所属事業者 = {{Plainlist| * [[東京地下鉄]](東京メトロ・[[#東京メトロ|駅詳細]]) * [[東日本旅客鉄道]](JR東日本・[[#JR東日本|駅詳細]]) * [[東京都交通局]]([[#東京都交通局|駅詳細]])}} |画像 = Nishi-Nippori Station.jpg |pxl = 300 |画像説明 = [[東京都道457号駒込宮地線|都道457号線]]を跨ぐJR西日暮里駅<br />(2009年3月) |地図={{maplink2|frame=yes|zoom=15|frame-width=300|plain=yes|frame-align=center |type=point|type2=point|type3=point |marker=rail|marker2=rail-metro|marker3=rail |coord={{coord|35|43|55.5|N|139|46|0|E}}|marker-color=008000|title=JR 西日暮里駅 |coord2={{coord|35|43|56.5|N|139|46|0.5|E}}|marker-color2=00bb85|title2=東京メトロ 西日暮里駅 |coord3={{coord|35|44|1|N|139|46|5.2|E}}|marker-color3=69b444|title3=東京都交通局 西日暮里駅 |frame-latitude=35.732223|frame-longitude=139.767329}} }} {{座標一覧}} '''西日暮里駅'''(にしにっぽりえき)は、[[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]五丁目にある、[[東京地下鉄]](東京メトロ)・[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)・[[東京都交通局]]の[[鉄道駅|駅]]である。 == 乗り入れ路線 == 以下の3路線が乗り入れており、相互間の接続駅となっている。 * 東京メトロ:[[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] [[東京メトロ千代田線|千代田線]] - [[駅ナンバリング|駅番号]]「'''C 16'''」 * JR東日本:線路名称上は[[東北本線]]1路線のみであるが、当駅には[[電車線・列車線|電車線]]で運行される[[京浜東北線]]電車および[[山手線]]電車のみが停車し、旅客案内では「東北(本)線」は使用されていない。また、[[特定都区市内]]制度における「[[特定都区市内#設定区域一覧|東京都区内]]」および「[[東京山手線内]]」に属する。 - 駅番号「'''JK 33'''」([[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] [[京浜東北線]])、「'''JY 08'''」([[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] [[山手線]])<ref group="報道" name="JRE-numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200211041325/https://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf|format=PDF|language=日本語|title=首都圏エリアへ「駅ナンバリング」を導入します 〜2020年東京オリンピック・パラリンピックを見据え、よりわかりやすくご利用いただける駅を目指します〜|publisher=東日本旅客鉄道|date=2016-04-06|accessdate=2021-03-05|archivedate=2020-02-11}}</ref> * 東京都交通局:[[File:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]] - 駅番号「'''NT 02'''」<ref group="報道" name="NT-numbering">{{Cite press release|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190119174432/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/pdf/2017/tdn_p_20171116_h_01.pdf|format=PDF|language=日本語|title=東京さくらトラム(都電荒川線)及び日暮里・舎人ライナーに「駅ナンバリング」を導入いたします|publisher=東京都交通局|date=2017-11-16|accessdate=2020-05-02|archivedate=2019-01-19}}</ref> 東京メトロ千代田線の列車は、[[常磐緩行線|常磐線(各駅停車)]]と[[小田急小田原線|小田急線]]との3社直通運転を行っている。 == 歴史 == === 前史 === 現・西日暮里五丁目における鉄道駅としては1934年4月18日に開業した[[京成本線|京成電気軌道(現・京成電鉄)本線]]の[[道灌山通駅]]が最初である。1943年10月1日には不要不急駅とされ休止(のちに廃止)となり、1969年の地下鉄千代田線開業まで26年間空白期間となった。 地下鉄千代田線の建設に際し、[[帝都高速度交通営団]]は日暮里付近への駅設置について以下の3案をまとめ調査を行った<ref name="Chiyoda-Con429-430">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.429 - 430。</ref>。 * 案1:国鉄日暮里駅直下に設置 * 案2:道灌山通りと国鉄線の交差する付近に駅を設置し、国鉄日暮里駅と地下通路で接続する * 案3:道灌山通りと国鉄線の交差する付近に国鉄が新駅を設置し、これに連絡する 案1は、駅付近の大部分が民地であるため工事費がかさむとし、案2は連絡通路が長いため利用客が不便となる<ref name="Chiyoda-Con429-430" />。案3は当時の国鉄は赤字が膨れ工事費を可能な限り削減したい意向であり承諾は難しいと営団内部は見込んでいた<ref name="Chiyoda-Con429-430" />。営団は内部検討の末、国鉄に案3の検討を依頼<ref name="Chiyoda-Con429-430" />。国鉄が駅間距離・運転時分・利用予測を検討の結果新駅を設置することが可能との判断を行う。その判断を受け営団・国鉄双方でそれぞれに設置を行うこととなり現在の場所に当駅を設置するに至った<ref name="Chiyoda-Con429-430" />。 === 開業後 === [[File:Nishi-Nippori Station.19750120.jpg|thumb|西日暮里駅周辺の空中写真(1975年1月20日撮影)<br />{{国土航空写真}}]] * [[1969年]]([[昭和]]44年)[[12月20日]]:[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)千代田線の駅が開業<ref name="Chiyoda-Con127-128">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.127 - 128。</ref>。ただし、国鉄の架道橋改良工事の関係で、ホームは北千住寄りの半分ほどだけ使用していた<ref name="Chiyoda-Con467-468">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、pp.467 - 468。</ref><ref name="名前なし-20231105131005">[[#eidan50|営団地下鉄五十年史]]、pp.260 - 262。</ref>。このため、車両も3両編成で使用された<ref name="名前なし-20231105131005"/>。 * [[1971年]](昭和46年) ** [[3月20日]]:営団千代田線大手町 - 霞ケ関間が開業、これに合わせて当駅もすべての駅施設を使用開始<ref name="名前なし-20231105131005"/>。 **[[4月20日]]:営団千代田線との乗り換え駅として国鉄の駅が開業<ref name="停車場">{{Cite book|和書|editor=石野哲|title=停車場変遷大事典 国鉄・JR編 Ⅱ|publisher=[[JTB]]|date=1998-10-01|edition=初版|isbn=978-4-533-02980-6|page=389}}</ref>。山手線の中では[[高輪ゲートウェイ駅]]に次ぐ2番目に新しい駅である。 * [[1987年]](昭和62年)[[4月1日]]:[[国鉄分割民営化]]に伴い、国鉄の駅は東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅となる{{R|停車場}}。 * [[1988年]](昭和63年)[[3月13日]]:京浜東北線の快速運転開始に伴い、日中は京浜東北線列車が通過するようになる<ref name="RP562_44-45">{{Cite journal|和書|author=坂本孝喜(東日本旅客鉄道東京地域本社運輸車両部)|title=近年の京浜東北線 運転・車両の動向|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|date=1992-07-01|volume=42|issue=第7号(通巻第562号)|pages=44 - 45|publisher=[[電気車研究会]]|issn=0040-4047}}</ref>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[1月26日]]:JR東日本の駅に[[自動改札機]]を設置<ref>{{Cite book|和書 |date=1991-08-01 |title=JR気動車客車編成表 '91年版 |chapter=JR年表 |page=193 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-112-0}}</ref>。 * [[1995年]](平成7年)11月11日:連絡改札口に自動改札機を設置し、供用開始<ref>{{Cite book|和書 |date=1996-07-01 |title=JR気動車客車編成表 '96年版 |chapter=JR年表 |page=182 |publisher=ジェー・アール・アール |ISBN=4-88283-117-1}}</ref>。 * [[2001年]](平成13年)[[11月18日]]:JR東日本で[[ICカード]]「[[Suica]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190727044949/https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/suica.pdf|title=Suicaご利用可能エリアマップ(2001年11月18日当初)|format=PDF|language=日本語|archivedate=2019-07-27|accessdate=2020-04-23|publisher=東日本旅客鉄道}}</ref>。 * [[2004年]](平成16年)4月1日:帝都高速度交通営団(営団地下鉄)民営化に伴い、千代田線の駅は東京地下鉄(東京メトロ)に継承される<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060708164650/https://www.tokyometro.jp/news/s2004/2004-06.html|language=日本語|title=「営団地下鉄」から「東京メトロ」へ|publisher=営団地下鉄|date=2004-01-27|accessdate=2020-03-25|archivedate=2006-07-08}}</ref>。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]]:東京メトロでICカード「[[PASMO]]」の利用が可能となる<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200501075147/https://www.tokyu.co.jp/file/061221_1.pdf|format=PDF|language=日本語|title=PASMOは3月18日(日)サービスを開始します ー鉄道23事業者、バス31事業者が導入し、順次拡大してまいりますー|publisher=PASMO協議会/パスモ|date=2006-12-21|accessdate=2020-05-02|archivedate=2020-05-01}}</ref>。 * [[2008年]](平成20年)[[3月30日]]:東京都交通局日暮里・舎人ライナーの駅が開業<ref name="100th_588">[[#100th|東京都交通局100年史]]、p.588。</ref><ref group="報道" name="pr20071001">{{Cite press release|和書|url=http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/others/2007/otr_p_200710011_h.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071009053820/http://www.kotsu.metro.tokyo.jp/newsevent/news/others/2007/otr_p_200710011_h.html|language=日本語|title=日暮里・舎人ライナー開業予定日決定! 〜平成20年3月30日(日)〜|publisher=東京都建設局/東京都都市整備局/東京都地下鉄建設/東京都交通局|date=2007-10-01|accessdate=2020-05-02|archivedate=2007-10-09}}</ref>。 * [[2013年]](平成25年)[[12月14日]]:[[みどりの窓口]]の営業を終了。 * [[2014年]](平成26年)[[6月28日]]:JR東日本の2・3番線(山手線ホーム)で[[ホームドア]]の使用を開始。 * [[2018年]](平成30年)[[10月27日]]:地下鉄ホームに[[発車メロディ]]を導入。 * [[2019年]](平成31年)[[4月12日]]:JR東日本の1・4番線(京浜東北線ホーム)でホームドアの使用を開始<ref group="報道">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190402.pdf|format=PDF|language=日本語|title=より安全な駅ホーム・踏切の実現に向けた取組みについて|publisher=東日本旅客鉄道|date=2019-04-03|accessdate=2019-08-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190406170648/https://www.jreast.co.jp/press/2019/20190402.pdf |archivedate=2019-04-06}}</ref>。 * [[2022年]](令和4年)4月1日:JR東日本の駅が業務委託化<ref name="jtsu20211218">{{Cite web|和書|url=https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ba1c2407dc964912abe905d93d57883a.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20211222090507/https://www.jtsu-e-tokyo.org/_files/ugd/57fa70_ba1c2407dc964912abe905d93d57883a.pdf|title=「2021年度営業関係施策(その3)」について提案を受ける!|date=2021-12-18|archivedate=2021-12-22|accessdate=2021-12-22|publisher=輸送サービス労組東京地本|format=PDF|language=日本語|deadlinkdate=}}</ref>。 == 駅構造 == [[改札]]はJR東日本と東京都交通局は1か所、東京メトロは2か所あり、さらに地下にはJR東日本 - 東京メトロ間の連絡改札口もある。この連絡改札口には[[自動精算機|自動乗り継ぎ精算機]]が設置されていないため、精算または区間変更、交通系ICカードにチャージが必要な場合は改札に併設された精算窓口に並ぶことになる。なお、連絡改札口の[[自動改札機]]はJR東日本仕様のもので有人改札での対応もJR東日本の社員だが、精算窓口での対応は東京メトロの社員が行っている。 JR線南隣の[[日暮里駅]]で接続する[[常磐快速線]]に運転見合わせやダイヤの乱れが発生した場合(当駅経由での東京メトロ千代田線([[常磐緩行線]]直通)への[[振替輸送]]が行われる場合に限る)、[[ラッシュ時]]などには両社間の乗り換え改札を開放して対処する(「振替の方はそのままお通りください」と案内される)場合がある。 東北本線の尾久支線([[宇都宮線]]・[[高崎線]])ガード付近の入口からはJR東日本・東京メトロの双方の乗り場へも移動できるが、この入口には東京メトロの[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]が表示されていない。 === 東京メトロ === {{駅情報 |社色 = #109ed4 |文字色 = |駅名 = 東京メトロ 西日暮里駅 |画像 = Nishi-Nippori Station JR · Tokyo Metro Contact Gates.jpg |pxl = |画像説明 = 連絡改札口(2019年6月) |よみがな = にしにっぽり |ローマ字 = Nishi-nippori |前の駅 = C 15 [[千駄木駅|千駄木]] |駅間A = 0.9 |駅間B = 1.7 |次の駅 = [[町屋駅|町屋]] C 17 |所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]五丁目14-1 |座標 = {{coord|35|43|56.5|N|139|46|0.5|E|region:JP_type:railwaystation|name=東京メトロ 西日暮里駅|display=inline,title}} |駅番号 = {{駅番号r|C|16|#00bb85|4}}<ref name="tokyosubway">[https://www.tokyometro.jp/ 東京地下鉄] 公式サイトから抽出(2019年5月26日閲覧)</ref> |所属事業者= [[東京地下鉄]](東京メトロ) |所属路線 = {{color|#00bb85|●}}<ref name="tokyosubway"/>[[東京メトロ千代田線|千代田線]] |キロ程 = 6.9 |電報略号 = ニシ |起点駅 = [[綾瀬駅|綾瀬]] |駅構造 = [[地下駅]] |ホーム = 2面2線(2層式) |開業年月日 = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[12月20日]]<ref name="Chiyoda-Con127-128" /> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="メトロ" name="me2022" />143,717 |統計年度 = 2022年 |備考 = }} 地下2階に代々木上原方面、地下3階に綾瀬方面の線路・[[単式ホーム]]各1面1線を有する上下2層構造<ref name="Chiyoda-Con440">[[#Chiyoda-Con|東京地下鉄道千代田線建設史]]、p.440。</ref>。これは、[[北千住駅]] - [[湯島駅]]間の一部地上に幅員が狭い道路があるため、上下に[[単線]]の線路を設ける構造としたためである<ref name="Chiyoda-Con440" />。この区間の中間駅はA線(代々木上原方面)の線路・ホームが上層に、B線(綾瀬方面)の線路・ホームが下層にある。駅中心部における地表からレール面までの深さは、1番線が9.4&nbsp;m、2番線が15.3&nbsp;mある<ref name="mook">{{Cite book|和書|title=トラベルMOOK 新しい東京メトロの世界|publisher=[[交通新聞社]]|pages=114 - 130|isbn=9784330021218|date=2021-05-17}}</ref>。 前述したとおり、開業時点では半分ほどの施設で営業していた<ref name="名前なし-20231105131005"/>。 当駅でJR線に乗り換える利用客は乗り継ぎ専用改札を通る必要があり、交通系ICカード乗車券や当駅接続の[[連絡運輸#連絡乗車券|連絡乗車券]]を所持していない利用客は改札通過前に精算(区間変更)することになる。乗り継ぎ精算機は設置されておらず、精算はすべて有人窓口での対応となる。当駅は[[連絡運輸#通過連絡運輸|通過連絡運輸]]の適用を入場後にも受けられる稀な例でもある。 精算窓口の上部には、運賃計算の基準や発売範囲の掲示とともに「今度からは連絡きっぷをお求め下さい」との注意書きがある。当駅の連絡改札経由の場合と、北千住駅の連絡通路を通って常磐快速線日暮里駅経由の場合とでは、算出される運賃が異なる。また、[[2007年]][[3月18日]]から[[首都圏ICカード相互利用サービス]]が開始され、IC乗車券1枚でも[[常磐線]]から当駅を経由してのJR線への乗り継ぎが可能となったが、IC乗車券の場合は通過連絡運輸の場合とは異なり、個別に算出した運賃の合計額から100円を値引きした運賃となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jreast.co.jp/suica/use/auto_pay/others/sf.html#anchor-5|title=Suica > PASMOエリアの鉄道会社線を利用する場合 > ルール5 東京メトロ千代田線「西日暮里~北千住」間を経由して前後でJR東日本線をご利用の場合|accessdate=2020-04-22|publisher=東日本旅客鉄道|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190405040819/https://www.jreast.co.jp/suica/use/auto_pay/others/sf.html|archivedate=2019-04-05}}</ref>。当初は[[Suica]]・[[PASMO]]のみ利用可能で、Suicaと相互利用可能なICカード<!--際限がないので記載しない-->は利用できなかったが、2013年3月23日より相互利用サービスの拡大に伴ってSuica・PASMOと相互利用可能なICカードは全て利用できるようになった。 乗り換え用自動改札機はJR東日本のものを使っているが、2枚投入に対応している一方、東京メトロの磁気券との併用には対応していない。[[Suica]]と[[PASMO]]および相互利用可能なICカードについては、東京メトロの磁気券を投入後タッチすることにより利用可能である。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先 |- ! 1 |rowspan=2| [[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 |[[代々木上原駅|代々木上原]]・[[本厚木駅|本厚木]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nishi-nippori/timetable/chiyoda/a/index.html |title=西日暮里駅時刻表 代々木上原・伊勢原・唐木田方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |- ! 2 |[[綾瀬駅|綾瀬]]・[[我孫子駅 (千葉県)|我孫子]]・[[取手駅|取手]]方面<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/station/nishi-nippori/timetable/chiyoda/b/index.html |title=西日暮里駅時刻表 綾瀬・我孫子・取手方面 平日 |publisher=東京メトロ |accessdate=2023-06-03}}</ref> |} (出典:[https://www.tokyometro.jp/station/nishi-nippori/index.html 東京メトロ:構内図]) ==== 発車メロディ ==== 2018年10月27日より[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]制作の発車メロディ(発車サイン音)を使用している。 曲は1番線が「ソーダ水」([[福嶋尚哉]]作曲)、2番線が「帰り道」(大和優子作曲)である<ref>{{Cite web|和書|title=東京メトロ千代田線発車サイン音を制作|url=http://www.switching.co.jp/news/370|date=2018-10-06|website=[http://www.switching.co.jp/ スイッチオフィシャルサイト]|accessdate=2021-03-27|language=ja|publisher=スイッチ}}</ref>。 === JR東日本 === {{駅情報 |社色 = green |文字色 = |駅名 = JR 西日暮里駅 |画像 = Nishinippori-Sta.JPG |pxl = |画像説明 = 駅入口(2008年7月) |よみがな = にしにっぽり |ローマ字 = Nishi-Nippori |電報略号 = ニリ |所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]五丁目22-1 |座標 = {{coord|35|43|55.5|N|139|46|0|E|region:JP_type:railwaystation|name=JR 西日暮里駅}} |所属事業者 = [[東日本旅客鉄道]](JR東日本) |駅構造 = [[高架駅]]<ref name="zeneki05">{{Cite book|和書 |title =週刊 JR全駅・全車両基地 |publisher = [[朝日新聞出版]] |series=週刊朝日百科 |volume =05号 上野駅・日光駅・下館駅ほか92駅 |date =2012-09-09 |page =21 }}</ref> |ホーム = 2面4線{{R|zeneki05}} |開業年月日 = [[1971年]]([[昭和]]46年)[[4月20日]]{{R|zeneki05}} |廃止年月日 = |乗車人員 = <ref group="JR" name="JR2022" />84,256 |統計年度 = 2022年 |乗入路線数 = 2 |所属路線1 = {{color|#00b2e5|■}}[[京浜東北線]]{{Refnest|group="*"|name="tohoku"|いずれも線路名称上は[[東北本線]]。}} |前の駅1 = JK 32 [[日暮里駅|日暮里]] |駅間A1 = 0.5 |駅間B1 = 0.8 |次の駅1 = [[田端駅|田端]] JK 34 |駅番号1 = {{駅番号r|JK|33|#00b2e5|1}}<ref group="報道" name="JRE-numbering" /> |キロ程1 = 6.3&nbsp;km([[東京駅|東京]]起点)<br />[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]から24.0 |起点駅1 = |所属路線2 = {{color|#9acd32|■}}[[山手線]]<ref group="*" name="tohoku" /> |前の駅2 = JY 07 日暮里 |駅間A2 = 0.5 |駅間B2 = 0.8 |次の駅2 = 田端 JY 09 |駅番号2 = {{駅番号r|JY|08|#9acd32|1}}<ref group="報道" name="JRE-numbering" /> |キロ程2 = 6.3 |起点駅2 = 東京 |乗換 = |備考 = {{Plainlist| * [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] * [[File:JR area YAMA.svg|15px|山]][[File:JR area KU.svg|15px|区]] [[東京山手線内]]・[[特定都区市内|東京都区内]]駅}} |備考全幅 = {{Reflist|group="*"}} }} [[JR東日本ステーションサービス]]が駅業務を受託している[[日暮里駅]]管理の[[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]]<ref name="jtsu20211218" />。[[島式ホーム]]2面4線を有する[[高架駅]]で、千代田線構内でJRへの乗り換えを可能にするための中間改札が地下にある。[[指定席券売機]]、[[ビューアルッテ|VIEW ALTTE]]が設置されている。以前は[[みどりの窓口]]も設置されていたが、[[2013年]][[12月14日]]をもって営業を終了した。 [[2007年]]春までに[[コンコース]]と各ホームを連絡する[[バリアフリー]]設備を整備した。これにより[[エスカレーター]]が[[田端駅]]・日暮里駅寄りと連絡するほか、[[エレベーター]]も日暮里寄りに設置され、併せて多機能[[便所|トイレ]]も設置された。なお、エスカレーターはこの他にもコンコースと千代田線乗り換え改札口を連絡している。 2019年には、コンコースに文化交流拠点「エキラボ niri」、地域や駅の情報を発信する「コミュニケーション・ウォール」、エキナカカフェ「BECK'S COFFEE SHOP 西日暮里店」の開業が行われた<ref group="報道" name="press/20190917_to03">{{Cite press release|和書|url=https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190917_to03.pdf|title=西日暮里駅に、まちの個性を発揮する学びの場 「エキラボ niri」「西日暮里スクランブル」が誕生します! ~山手線を起点に、個性的で心豊かな都市生活空間を創造します~|format=PDF|publisher=東日本旅客鉄道東京支社|date=2019-09-17|accessdate=2020-06-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200624053853/https://www.jreast.co.jp/press/2019/tokyo/20190917_to03.pdf|archivedate=2020-06-24}}</ref>。 かつては、電車到着時に「西日暮里、西日暮里、地下鉄千代田線はお乗り換えです」という放送が流れていたが、[[東京圏輸送管理システム|ATOS]]導入後はこのような放送が行われなくなった。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!方向!!行先 |- ! 1 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 |style="text-align:center"|南行 |[[東京駅|東京]]・[[品川駅|品川]]・[[横浜駅|横浜]]方面 |- ! 2 |rowspan="2"|[[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 |style="text-align:center"|外回り |東京・品川・[[五反田駅|五反田]]方面 |- ! 3 |style="text-align:center"|内回り |[[田端駅|田端]]・[[池袋駅|池袋]]・[[新宿駅|新宿]]方面 |- ! 4 |[[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 |style="text-align:center"|北行 |田端・[[赤羽駅|赤羽]]・[[大宮駅 (埼玉県)|大宮]]方面 |} (出典:[https://www.jreast.co.jp/estation/stations/1167.html JR東日本:駅構内図]) 京浜東北線の快速運転時間帯は当駅を通過するため、1・4番線には列車が停車しない。この時間帯に大井町以遠に向かう利用客は2番線の山手線を利用して上野駅で、上中里以遠に向かう利用客は3番線の山手線を利用して、田端駅での乗り換えを要する。なお、通過放送の後にその旨の案内放送が流れる。 <gallery widths="190" style="font-size:90%;"> ファイル:JRE Nishi-Nippori-STA Gate.jpg|改札口(2022年12月) ファイル:JRE Nishi-Nippori-STA Platform1-2.jpg|1・2番線ホーム(2022年12月) ファイル:JRE Nishi-Nippori-STA Platform3-4.jpg|3・4番線ホーム(2022年12月) </gallery> ==== バリアフリー設備 ==== * 上り・下りエスカレーター:連絡改札口 - JR改札口 - ホーム * エレベーター:JR改札口 - ホーム * エスカル(階段に設置されている車椅子用昇降機):JR改札口 - 連絡改札口 * 多機能トイレ:JRコンコース改札内 {{-}} === 東京都交通局 === {{駅情報 |社色 = #009f40 |文字色 = |駅名 = 東京都交通局 西日暮里駅 |画像 = Nishi-Nippori Station of Nippori-Toneri Liner.jpg |pxl = |画像説明 = 駅舎(2009年6月) |よみがな = にしにっぽり |ローマ字 = Nishi-nippori |副駅名 = |前の駅 = NT 01 [[日暮里駅|日暮里]] |駅間A = 0.7 |駅間B = 1.0 |次の駅 = [[赤土小学校前駅|赤土小学校前]] NT 03 |電報略号 = 西(駅名略称) |所在地 = [[東京都]][[荒川区]][[西日暮里]]五丁目31-7 |座標 = {{coord|35|44|1|N|139|46|5.2|E|region:JP_type:railwaystation|name=日暮里・舎人ライナー 西日暮里駅}} |駅番号 = {{駅番号r|NT|02|#69b444|7|#d53a77}}<ref group="報道" name="NT-numbering" /> |所属事業者 = [[東京都交通局]] |所属路線 = [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]] |キロ程 = 0.7 |起点駅 = [[日暮里駅|日暮里]] |駅構造 = [[高架駅]]<ref name="100th_586" /> |ホーム = 1面2線<ref name="100th_586" /> |開業年月日 = [[2008年]]([[平成]]20年)[[3月30日]]<ref name="100th_588" /><ref group="報道" name="pr20071001"/> |廃止年月日 = |乗降人員 = <ref group="都交" name="toei2022" />30,119 |統計年度 = 2022年 |乗換 = |備考 = [[日本の鉄道駅#業務委託駅|業務委託駅]] }} 島式ホーム1面2線を有する高架駅<ref name="100th_586">[[#100th|東京都交通局100年史]]、p.586。</ref>。駅舎は[[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|尾久橋通り]]真上、[[京成電鉄]][[京成本線|本線]]とJR常磐線から分かれる[[常磐線#貨物支線|田端貨物線]]が交差する付近の複雑な位置にある。 出入口は駅舎東西両側と[[ペデストリアンデッキ|歩行者デッキ]]によって西日暮里5丁目交差点を渡った東西両側(東京メトロ千代田線出入口2・3番に隣接)の4か所。JRの駅舎とは直接つながっておらず、両駅間は徒歩で数分を要する(隣の日暮里駅での乗り換えがより至近である)。一方、東京メトロの駅とはエレベーターで結ばれている。 当初は[[無人駅]]で[[日暮里駅]]から遠隔管理されていたが<ref name="100th_588" />、現在は[[東京都営交通協力会]]が受託する業務委託駅となっている。 ==== のりば ==== {|class="wikitable" !番線<!-- 事業者側による呼称 -->!!路線!!行先<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/nippori_toneri/timetable/N02DD.html |title=西日暮里 時刻表 |publisher=東京都交通局 |accessdate=2023-06-07}}</ref> |- ! 1 |rowspan="2"|[[File:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] 日暮里・舎人ライナー |[[見沼代親水公園駅|見沼代親水公園]]方面 |- ! 2 |[[日暮里駅|日暮里]]方面 |} ==== バリアフリー設備 ==== * エスカレーター * 多機能トイレ * エレベーター <gallery perrow="4" widths="190" style="font-size:90%;"> ファイル:Toei Nishi-Nippori-STA Gate.jpg|改札口(2023年7月23日) ファイル:Toei Nishi-Nippori-STA Platform1-2.jpg|ホーム(2023年7月23日) ファイル:Nishi-Nippori Station gate of Nippori-Toneri Liner.jpg|改札前通路(2009年6月14日) </gallery> == 利用状況 == * '''東京メトロ''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員|'''乗降'''人員]]は'''143,717人'''である<ref group="メトロ" name="me2022" />。 *: 東京メトロ全130駅の中では[[日本橋駅 (東京都)|日本橋駅]]に次いで第14位<!--他鉄道との直結連絡駅および共用している駅の乗降人員は順位から除いております-->。 * '''JR東日本''' - 2022年度の1日平均[[乗降人員#乗車人員|'''乗車'''人員]]は'''84,256人'''である<ref group="JR" name="JR2022" />。 *: 東日本管内の駅では[[松戸駅]]に次いで第38位。 * '''東京都交通局''' - 2022年度の1日平均'''乗降'''人員は'''30,119人'''(乗車人員:14,571人、降車人員:15,548人)である<ref group="都交" name="toei2022" />。 *: 日暮里・舎人ライナーの駅では[[日暮里駅]]に次ぐ第2位。 === 年度別1日平均乗降人員 === 各年度の1日平均'''乗降'''人員は下表の通りである。 {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗降人員<ref group="乗降データ" name="arakawa">[https://www.city.arakawa.tokyo.jp/kusei/gaiyo/suji.html 数字で表す荒川区(区勢概要)] - 荒川区</ref><ref group="乗降データ" name="train-media">[https://www.train-media.net/report.html レポート] - 関東交通広告協議会</ref> !rowspan=2|年度 !colspan=2|営団 / 東京メトロ !colspan=2|東京都交通局 |- !1日平均<br />乗降人員 !増加率 !1日平均<br />乗降人員 !増加率 |- |1999年(平成11年) |160,758|| |rowspan=8 colspan=2 style="text-align:center"|未開業 |- |2000年(平成12年) |157,034||&minus;2.3% |- |2001年(平成13年) |151,051||&minus;3.8% |- |2002年(平成14年) |144,835||&minus;4.1% |- |2003年(平成15年) |140,271||&minus;3.2% |- |2004年(平成16年) |139,991||&minus;0.2% |- |2005年(平成17年) |138,446||&minus;1.1% |- |2006年(平成18年) |137,246||&minus;0.9% |- |2007年(平成19年) |153,083||11.5% |<ref group="備考" name="toei">2008年3月30日開業。</ref>|| |- |2008年(平成20年) |158,443||3.5% |15,308|| |- |2009年(平成21年) |157,582||&minus;0.5% |17,950||17.3% |- |2010年(平成22年) |157,802||0.1% |19,247||7.2% |- |2011年(平成23年) |156,404||&minus;0.9% |19,887|| 3.3% |- |2012年(平成24年) |158,555||1.4% |20,360||2.4% |- |2013年(平成25年) |162,852||2.7% |21,825||7.2% |- |2014年(平成26年) |164,701||1.1% |23,452||7.5% |- |2015年(平成27年) |166,157||0.9% |25,474||8.6% |- |2016年(平成28年) |169,159||1.8% |26,951||5.8% |- |2017年(平成29年) |170,756||0.9% |29,150||8.2% |- |2018年(平成30年) |170,389||&minus;0.2% |30,249||3.8% |- |2019年(令和元年) |168,478||&minus;1.1% |30,858||2.0% |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="メトロ" name="me2020">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2020.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2020年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>121,799||&minus;27.7% |<ref group="都交" name="toei2020" />25,032||&minus;18.9% |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="メトロ" name="me2021">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/2021.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング(2021年度)|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>128,550||5.5% |<ref group="都交" name="toei2021" />27,618||10.3% |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="メトロ" name="me2022">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyometro.jp/corporate/enterprise/passenger_rail/transportation/passengers/index.html|archiveurl=|title=各駅の乗降人員ランキング|archivedate=|page=|accessdate=2023-06-27|publisher=東京地下鉄|format=|language=日本語}}</ref>143,717||11.8% |<ref group="都交" name="toei2022" />30,119||9.1% |} === 年度別1日平均乗車人員(1969年 - 2000年) === 各年度の1日平均'''乗車'''人員は下表の通りである。 <!--東京都統計年鑑を出典にしている数値については、元データが1,000人単位で掲載されているため、*1000/365 (or 366) で計算してあります--> {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員 !年度 !国鉄 /<br />JR東日本 !営団 !出典 |- |1969年(昭和44年) |rowspan=2 style="text-align:center"|未開業 |<ref group="備考">1969年12月20日開業。開業日から1970年3月31日までの計102日間を集計したデータ。</ref>1,971 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1969/tn69qyti0510u.htm 昭和44年]</ref> |- |1970年(昭和45年) |2,455 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1970/tn70qyti0510u.htm 昭和45年]</ref> |- |1971年(昭和46年) |<ref group="備考">1971年4月20日開業。開業日から1972年3月31日までの計347日間を集計したデータ。</ref>45,954 |62,888 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1971/tn71qyti0510u.htm 昭和46年]</ref> |- |1972年(昭和47年) |14,545 |79,230 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1972/tn72qyti0510u.htm 昭和47年]</ref> |- |1973年(昭和48年) |15,132 |77,523 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1973/tn73qyti0510u.htm 昭和48年]</ref> |- |1974年(昭和49年) |16,797 |80,233 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1974/tn74qyti0510u.htm 昭和49年]</ref> |- |1975年(昭和50年) |18,221 |77,295 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1975/tn75qyti0510u.htm 昭和50年]</ref> |- |1976年(昭和51年) |87,340 |81,307 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1976/tn76qyti0510u.htm 昭和51年]</ref> |- |1977年(昭和52年) |86,951 |83,745 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1977/tn77qyti0510u.htm 昭和52年]</ref> |- |1978年(昭和53年) |89,373 |83,334 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1978/tn78qyti0510u.htm 昭和53年]</ref> |- |1979年(昭和54年) |88,923 |84,779 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1979/tn79qyti0510u.htm 昭和54年]</ref> |- |1980年(昭和55年) |88,449 |86,751 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1980/tn80qyti0510u.htm 昭和55年]</ref> |- |1981年(昭和56年) |88,123 |88,019 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1981/tn81qyti0510u.htm 昭和56年]</ref> |- |1982年(昭和57年) |87,038 |87,441 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1982/tn82qyti0510u.htm 昭和57年]</ref> |- |1983年(昭和58年) |88,194 |87,429 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1983/tn83qyti0510u.htm 昭和58年]</ref> |- |1984年(昭和59年) |92,600 |87,989 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1984/tn84qyti0510u.htm 昭和59年]</ref> |- |1985年(昭和60年) |89,852 |86,808 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1985/tn85qyti0510u.htm 昭和60年]</ref> |- |1986年(昭和61年) |96,959 |87,071 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1986/tn86qyti0510u.htm 昭和61年]</ref> |- |1987年(昭和62年) |93,486 |88,221 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1987/tn87qyti0510u.htm 昭和62年]</ref> |- |1988年(昭和63年) |104,551 |90,011 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1988/tn88qyti0510u.htm 昭和63年]</ref> |- |1989年(平成元年) |106,252 |91,386 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1989/tn89qyti0510u.htm 平成元年]</ref> |- |1990年(平成{{0}}2年) |109,126 |92,578 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1990/tn90qyti0510u.htm 平成2年]</ref> |- |1991年(平成{{0}}3年) |111,500 |93,186 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1991/tn91qyti0510u.htm 平成3年]</ref> |- |1992年(平成{{0}}4年) |112,808 |93,668 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1992/TOBB510P.HTM 平成4年]</ref> |- |1993年(平成{{0}}5年) |111,693 |91,890 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1993/TOBB510Q.HTM 平成5年]</ref> |- |1994年(平成{{0}}6年) |109,756 |90,047 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1994/TOBB510R.HTM 平成6年]</ref> |- |1995年(平成{{0}}7年) |108,005 |87,893 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1995/TOBB510S.HTM 平成7年]</ref> |- |1996年(平成{{0}}8年) |107,496 |85,655 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1996/TOBB510T.HTM 平成8年]</ref> |- |1997年(平成{{0}}9年) |103,971 |83,121 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1997/TOBB510U.HTM 平成9年]</ref> |- |1998年(平成10年) |101,351 |80,395 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1998/TOBB510J.PDF 平成10年]}}</ref> |- |1999年(平成11年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/1999.html 各駅の乗車人員(1999年度)] - JR東日本</ref>99,116 |77,951 |<ref group="東京都統計">{{PDFlink|[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/1999/TOBB510K.PDF 平成11年]}}</ref> |- |2000年(平成12年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2000.html 各駅の乗車人員(2000年度)] - JR東日本</ref>96,355 |76,321 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2000/00qyti0510u.htm 平成12年]</ref> |} === 年度別1日平均乗車人員(2001年以降) === {|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:85%;" |+年度別1日平均乗車人員<ref group="乗降データ" name="arakawa" /> !年度 !JR東日本 !営団 /<br />東京メトロ !東京都交通局 !出典 |- |2001年(平成13年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2001.html 各駅の乗車人員(2001年度)] - JR東日本</ref>94,157 |73,877 |rowspan=6 style="text-align:center;"|未開業 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2001/01qyti0510u.htm 平成13年]</ref> |- |2002年(平成14年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2002.html 各駅の乗車人員(2002年度)] - JR東日本</ref>91,973 |71,159 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2002/tn02qyti0510u.htm 平成14年]</ref> |- |2003年(平成15年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2003.html 各駅の乗車人員(2003年度)] - JR東日本</ref>90,236 |68,956 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2003/tn03qyti0510u.htm 平成15年]</ref> |- |2004年(平成16年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2004.html 各駅の乗車人員(2004年度)] - JR東日本</ref>88,793 |68,164 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2004/tn04qyti0510u.htm 平成16年]</ref> |- |2005年(平成17年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2005.html 各駅の乗車人員(2005年度)] - JR東日本</ref>87,392 |67,567 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2005/tn05qyti0510u.htm 平成17年]</ref> |- |2006年(平成18年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2006.html 各駅の乗車人員(2006年度)] - JR東日本</ref>86,525 |67,244 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2006/tn06qyti0510u.htm 平成18年]</ref> |- |2007年(平成19年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2007.html 各駅の乗車人員(2007年度)] - JR東日本</ref>91,955 |75,183 |{{Refnest|group="備考"|2008年3月30日開業。開業日から同年3月31日までの計2日間を集計したデータ<ref name="100th_722">[[#100th|東京都交通局100年史]]、p.722。</ref>。}}7,180<!--東京都交通局100年史のp.722から記載の数値--> |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2007/tn07qyti0510u.htm 平成19年]</ref> |- |2008年(平成20年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2008.html 各駅の乗車人員(2008年度)] - JR東日本</ref>94,227 |77,132 |7,366 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2008/tn08qyti0510u.htm 平成20年]</ref> |- |2009年(平成21年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2009.html 各駅の乗車人員(2009年度)] - JR東日本</ref>93,939 |76,600 |8,608 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2009/tn09q3i004.htm 平成21年]</ref> |- |2010年(平成22年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2010.html 各駅の乗車人員(2010年度)] - JR東日本</ref>94,059 |76,537 |9,259 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2010/tn10q3i004.htm 平成22年]</ref> |- |2011年(平成23年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2011.html 各駅の乗車人員(2011年度)] - JR東日本</ref>93,891 |75,891 |9,574 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2011/tn11q3i004.htm 平成23年]</ref> |- |2012年(平成24年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2012.html 各駅の乗車人員(2012年度)] - JR東日本</ref>94,884 |77,030 |9,789 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2012/tn12q3i004.htm 平成24年]</ref> |- |2013年(平成25年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2013.html 各駅の乗車人員(2013年度)] - JR東日本</ref>97,268 |79,334 |10,499 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2013/tn13q3i004.htm 平成25年]</ref> |- |2014年(平成26年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2014.html 各駅の乗車人員(2014年度)] - JR東日本</ref>97,918 |80,397 |11,308 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2014/tn14q3i004.htm 平成26年]</ref> |- |2015年(平成27年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2015.html 各駅の乗車人員(2015年度)] - JR東日本</ref>98,681 |81,240 |12,288 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2015/tn15q3i004.htm 平成27年]</ref> |- |2016年(平成28年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2016.html 各駅の乗車人員(2016年度)] - JR東日本</ref>100,276 |82,685 |13,015 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2016/tn16q3i004.htm 平成28年]</ref> |- |2017年(平成29年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2017.html 各駅の乗車人員(2017年度)] - JR東日本</ref>100,917 |83,523 |14,105 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2017/tn17q3i004.htm 平成29年]</ref> |- |2018年(平成30年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2018.html 各駅の乗車人員(2018年度)] - JR東日本</ref>100,940 |83,395 |14,612 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2018/tn18q3i004.htm 平成30年]</ref> |- |2019年(令和元年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2019.html 各駅の乗車人員(2019年度)] - JR東日本</ref>99,696 |82,672 |14,931 |<ref group="東京都統計">[https://www.toukei.metro.tokyo.lg.jp/tnenkan/2019/tn19q3i004.htm 平成31年・令和元年]</ref> |- |2020年(令和{{0}}2年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2020.html 各駅の乗車人員(2020年度)] - JR東日本</ref>72,214 | |<ref group="都交" name="toei2020">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2020_06.pdf |title=令和2年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231104235430/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2020_06.pdf |archivedate=2023-11-04 }}</ref>12,186 | |- |2021年(令和{{0}}3年) |<ref group="JR">[https://www.jreast.co.jp/passenger/2021.html 各駅の乗車人員(2021年度)] - JR東日本</ref>76,556 | |<ref group="都交" name="toei2021">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2021_06.pdf |title=令和3年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231104235056/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2021_06.pdf |archivedate=2023-11-04 }}</ref>13,407 | |- |2022年(令和{{0}}4年) |<ref group="JR" name="JR2022">[https://www.jreast.co.jp/passenger/index.html 各駅の乗車人員(2022年度)] - JR東日本</ref>84,256 | |<ref group="都交" name="toei2022">{{Cite report |url=https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_06.pdf |title=令和4年度 運輸統計年報 |website= |publisher=東京都交通局 |format=pdf |accessdate=2023-11-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20231104233538/https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/about/information/statistics/pdf/statistics_2022_06.pdf |archivedate=2023-11-04 }}</ref>14,571 | |} ;備考 {{Reflist|group="備考"}} == 駅周辺 == {{See also|西日暮里|谷中 (台東区)}} JR山手線・京浜東北線が南東から北西に走り、東京メトロ千代田線がそれとほぼ直交する。同線の地上部分は[[東京都道457号駒込宮地線|道灌山通り]]になっており、道灌山通り沿い、駅の西側には[[開成中学校・高等学校|開成学園]](中学校・高校)がある。同学園と道灌山通りを挟んだ向かい側は西日暮里公園になっている。 毎年8月の最終土・日曜日に開催される[[諏方神社]]の[[例祭|例大祭]]には、多くの[[屋台|露店]]が出る。 駅周辺は特に尾久橋通り沿いに中層ビルが多く、[[飲食店]]や[[風俗店]]などが多数立地するが、当駅が設置される前は住宅密集地だった。当駅開業後も駅東側の幹線道路以外では幅員の狭い道沿いに庶民的な住宅地が密集する。 なお、地下鉄2番出口前を通っている[[京成本線]]には現在駅はないが、かつては[[道灌山通駅]]([[1943年]]休止、[[1947年]]廃止)が存在した。 * 西日暮里スクランブル - 地域事業創造拠点。2019年11月下旬に開業<ref group="報道" name="press/20190917_to03" />。 * 西日暮里駅前郵便局 * [[荒川警察署]]西日暮里駅前交番 *[[井島貴金属精錬]]東京本社 * [[中越運送]]東京支社 ** [[新潟県民エフエム放送]]東京支社 * やなか音楽ホール * [[開成中学校・高等学校]] == バス路線 == <!--バス路線の記述は[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]に基づき、必要最小限の情報に留めています。特に経由地については、[[プロジェクト:鉄道#バス路線の記述法]]の観点から、記載しないでください。--> 最寄り停留所は「'''西日暮里駅前'''」となる。停留所は道灌山通りと尾久橋通り上にある。すべて[[都営バス|東京都交通局]]により運行されている。 ; 尾久橋通り上 * [[都営バス巣鴨営業所#里48系統|里48]]:[[日暮里駅|日暮里駅前]]行 / [[見沼代親水公園駅|見沼代親水公園駅前]]行・[[西新井大師西駅|江北六丁目団地前]]行 * 里48-2:日暮里駅前行 / 加賀団地(循環)・加賀行 ; 道灌山通り上 * [[都営バス巣鴨営業所#草63・草64系統|草63]]:[[池袋駅|池袋駅東口]]行・[[巣鴨駅|巣鴨駅前]]行 / [[田原町駅 (東京都)|浅草寿町]]行 == その他 == * 山手線の隣接する日暮里駅との駅間は、山手線の中で最も短い(営業キロで0.5&nbsp;km)。適度に高低差があるため、双方の駅のホームが目視できる。[[田端駅]]との間の営業キロも0.8&nbsp;kmと、両区間とも1&nbsp;kmを下回る。 * 開業するまでは「新日暮里駅」と称していた<ref>[https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa41/ind040202/frame.html 昭和41年度 運輸白書]</ref>。 == 隣の駅 == ; 東京地下鉄(東京メトロ) : [[File:Logo of Tokyo Metro Chiyoda Line.svg|15px|C]] 千代田線 <!--有料特急の「通過」などは記載しない。千代田線内はロマンスカー除いて掲出種別に関係なく各駅に停車するため、種別表記も省略する --> ::: [[千駄木駅]] (C 15) - '''西日暮里駅 (C 16)''' - [[町屋駅]] (C 17) ; 東日本旅客鉄道(JR東日本) : [[File:JR JK line symbol.svg|15px|JK]] 京浜東北線 :: {{Color|#ff0066|■}}快速 :::; 通過 :: {{Color|#00b2e5|■}}各駅停車 ::: [[日暮里駅]] (JK 32) - '''西日暮里駅 (JK 33)''' - [[田端駅]] (JK 34) : [[File:JR JY line symbol.svg|15px|JY]] 山手線 ::: 日暮里駅 (JY 07) - '''西日暮里駅 (JY 08)''' - 田端駅 (JY 09) ; 東京都交通局 : [[File:Nippori-Toneri Liner symbol.svg|15px|NT]] 日暮里・舎人ライナー ::: 日暮里駅 (NT 01) - '''西日暮里駅 (NT 02)''' - [[赤土小学校前駅]] (NT 03) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--==== 注釈 ==== {{Reflist|group="注釈"}} --> === 出典 === {{Reflist|2}} ==== 報道発表資料 ==== {{Reflist|group="報道"|2}} ==== 利用状況に関する出典 ==== ; JR東日本の1999年度以降の乗車人員 {{Reflist|group="JR"|22em}} ; 東京地下鉄の1日平均利用客数 {{Reflist|group="メトロ"|3}} ; 東京都交通局の1日平均利用客数 {{Reflist|group="都交"|3}} ; JR・私鉄・地下鉄の統計データ {{Reflist|group="乗降データ"}} ; 東京都統計年鑑 {{Reflist|group="東京都統計"|17em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=東京都交通局100年史|publisher=[[東京都交通局]]|date=2012-10|ref=100th}} * {{Cite book|和書|url=https://metroarchive.jp/content/ebook_chiyoda.html/|date=1983-06-30|title=東京地下鉄道千代田線建設史|publisher=帝都高速度交通営団|ref=Chiyoda-Con}} * {{Cite book|和書|title=営団地下鉄五十年史|publisher=帝都高速度交通営団|date=1991-07-04|ref=eidan50}} == 関連項目 == {{Commonscat|Nishi-Nippori Station}} * [[日本の鉄道駅一覧]] == 外部リンク == * {{外部リンク/JR東日本駅|filename=1167|name=西日暮里}} * [https://www.tokyometro.jp/station/nishi-nippori/index.html 西日暮里駅/C16 | 路線・駅の情報 | 東京メトロ] * [https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/nippori_toneri/stations/nishi_nippori/index.html 西日暮里駅 | 日暮里・舎人ライナー | 東京都交通局] {{鉄道路線ヘッダー}} {{東京メトロ千代田線}} {{京浜東北・根岸線}} {{山手線}} {{東京都交通局日暮里・舎人ライナー}} {{鉄道路線フッター}} {{DEFAULTSORT:にしにつほり}} [[Category:荒川区の鉄道駅]] [[Category:日本の鉄道駅 に|しにつほり]] [[Category:東日本旅客鉄道の鉄道駅]] [[Category:日本国有鉄道の鉄道駅]] [[Category:山手線]] [[Category:京浜東北・根岸線]] [[Category:東京地下鉄の鉄道駅]] [[Category:日暮里・舎人ライナーの鉄道駅]] [[Category:日暮里|にしにつほりえき]] [[Category:1969年開業の鉄道駅]]
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電話機
電話機(でんわき、英: telephoneあるいはphone)とは、音声を電気信号に変換して、離れた場所に送り、また送られてきた電気信号も音声に戻して通話をするための機械。単に「電話」とも言う。 スマートフォン等の携帯型無線電話機も電話機の一種だが、本項では、持ち運びしないで運用する電話機(いわゆる「固定電話」)を中心に解説する。 電話機の基本の要素は、音声を電気信号に変換するマイクロフォン(マイク)および電気信号を音声に変換するスピーカーである。他に、着信を知らせる振鈴装置も備える。20世紀なかばに自動交換機が普及するとともに、電話番号を入力する装置も加えられた。 20世紀前半までは通話相手を指定するには、まず交換手を呼び出して相手の番号を言い、局内で手作業で回線を繋いだ。電話局の交換手を呼ぶために電話機の箱の側面などに回転式ハンドルがついていた。 自動交換機設置されてゆくとともに、回転ダイヤル式の黒電話が普及した。これは電話番号の数字に相当する穴に指を入れてストッパーまで回転させ指を抜くと、回転ダイヤルがバネじかけで元の位置に戻る時にパルス状の信号が発信され電話局内の自動交換機に数字1ケタ分が伝わり、この動作を電話番号の桁数だけ繰り返すことで交換機が指定された相手に繋ぐものである。回転ダイヤルを回して指を抜くたびに受話器からは断続音(=パルス)が聞こえる。 さらに後にプッシュボタンが配置されたトーンダイヤル式の電話機も普及した。これはパルス状の信号の代わりに、ある音程(トーン)の音を(2つ)組み合わせて電話番号の1桁相当の情報を伝える方式であり、回転ダイヤル式よりもすばやく電話番号の全桁を入力できるという特徴がある。 近年では、固定電話機についてはナンバーディスプレイ機能を備えたもの、コードレス式のもの、子機を増設できるもの、ファクシミリ機能を備えたもの、それらのいくつかを組み合わせた電話機も販売されている。 一方で、移動式電話(携帯電話)の開発および普及も進み、サイズや重さが次第に小さくなり、1980年代前半には弁当箱以上のサイズだったものが1990年代にはポケットに入るまでになった。携帯電話所有者が増えてゆくとともに価格も下がり普及に加速がかかり、ついには固定電話の台数を抜いた。 2009年末時点での電話機の台数は、全世界で60億台弱で、内訳としては固定電話が12億6000万台、携帯電話が46億台という割合になっていた。 英語 「telephone」の語源となった、ギリシャ語のτῆλε (tēle) は「遠い」を意味し、φωνή (phōnē) は「声」を意味する。 電話の歴史も参照。 利用者の声を電気信号に変換するマイクロフォンと、電気信号を物理的な音に変換するスピーカー、電話がかかってきたことを知らせる振鈴装置、電話番号を入力する装置(キーパッドや回転式ダイヤル)などで構成される。 (極端に古いタイプを除いて)マイクロフォンとスピーカーは受話器(英語:handset ハンドセット)として一体化していることが一般的。 19世紀末~20世紀初頭の電話機では送話器(そうわき)が電話機本体に直付けされたタイプが主流で、本体とコードで結ばれた受話器のみを手に持って耳に当て、本体の送話器に向かって声を出していた。1930年代から送話器と受話器が一体化した形になった送受話器(そうじゅわき)方式が主流になり、片手で通話できるようになった。電話機本体と受話器とは、らせん状のコード(カールコード)で物理的につながっているものが一般的であるが、一部に電波で接続しているものもある。またヘッドセットを接続できる電話機もあり、コールセンターなど、業務で電話通話を大量に行い、手はPCのキーボード入力などのために空けておかなければならない場所で使用されている。 20世紀半ばすぎまで電話機の回路は機械式リレーと受動素子のみで構成されていた。受話器を取る/置く操作によりフックスイッチが上げ下げされることで電話回線の極性を変化させ電話交換機が回線接続・回線切断を判別した。今でも回線が接続した状態を「オフフック」、回線断の状態を「オンフック」と言うのはこのためである。 20世紀後半に半導体素子が安価に大量供給されるようになるとそれがしだいに電話機にも使われるようになった。 固定電話は電話線(銅線)によって電話局およびその先の電話網とつながっており、移動式電話は無線つまり電波でキャリアの基地局やその先の電話網とつながっている。 なおコードレス電話は「親機」「子機」に分かれており、親機は電話網と有線で直接的に繋がっているが、子機のほうは親機と無線で繋がっている。 電話交換機からの給電のみで動作する基本的な機能として次があげられる。 初期の電話機は技術的には多様だった。液体抵抗型送話機を使うもの、永久磁石の周りの電磁石(コイル)を振動板で振動させて電磁誘導によって信号を発生するもの(ムービング・コイル型)などがあった。電磁誘導の起電力を利用する方式は電源がなくとも通話可能という利点があり、20世紀後半になっても少数ながら軍用などに利用され続けた。しかし、主流となったのはエジソンのカーボンマイクで他の方式よりも音声が大きく、誘導コイルを必要とするが、それがインピーダンス整合用変圧器として機能し、信号線とのインピーダンスを整合させることができる。このエジソンの特許によってベルは20世紀に入るまで市場を独占することができたが、そのころには電話機自体よりも電話網の方が重要になってきた。 初期の電話機も電源を必要とし、その場で発電するか電池を使用した。当時は加入者宅を巡回して電池交換が必要かどうかをチェックする職業もあった。20世紀には「共電式」がよく使われるようになった。これは、電話交換機側から信号線を通して給電する方式である。 初期の電話機の加入者線は1本の導線であり、電信と同様に個々に接地することで回路を形成する。また最初期の電話機は、送話器と受話器が共用になってい口と耳に交互にあてて使うようになっていた。 当初電話交換はあまり利用されなかった。初期の加入者は2台の電話機をリースし、例えば商店と自宅などに設置して使っていた。複数地点間の通信を必要とする場合は何台も電話機をリースし、各地点間にそれぞれ別個に回線をひく必要があった。 ユーザーは送話器に向かって口笛を吹くことで交換手(交換を経ない場合は相手)に電話をかけることを知らせた。電話交換が主流になると電話がかかってきたことを知らせるベルが電話機に装備されるようになり、当初は通常の電話線とは別の線をひいて、その信号でベルを鳴らした。その後電話線1本でベルも鳴らすようにするため、ベルとコンデンサを直列に繋いでベルを鳴らすための交流信号のみを通すようにし、直流信号がブロックされていることで「オンフック」状態だとわかるようにした。 共電式や定期的な電池交換が不可能な田舎では、マグネトーなどの発電機を手回しクランクで回して発電し、相手側(交換手)のベルを鳴らした。 1890年代には、3つの部分で構成されるもっと小型の電話機が登場した。送話器はスタンド上にあり、この形状をロウソク (candlestick) 型と呼んだ。使っていない状態では受話器をフックにかけておき、このフックがスイッチの役割を果たしている。それまでの電話機は音声とベルそれぞれにスイッチがあり、別々に操作する必要があった。新しい方式では利用者が電話のフックを外したままにする事態が発生しにくくなった。発電機、ベル、誘導コイル、電池などは電話機本体とは別の箱 (ringer box) に収められ、電話機と接続されるようになっていた。共電式の場合は電池交換が不要で手回しで発電する必要もないため、その箱は机の下などの見えない場所に設置された。 単線には漏話や交流電源のハム音が雑音として載ってしまうという欠点があり、ツイストペアケーブルが使われるようになっていった。また、長距離の回線には4線式が使われた。20世紀初めごろ、長距離電話は一般の電話からはかけられず、専用の高音質の電話ボックスを予約して利用するのが一般的だった。 ロウソク型よりも普及したのが、送話器と受話器がセットになったもの(handset いわゆる受話器)で、本体に手回しクランクがあるタイプのものである。 電話機に取り付けられたダニエル電池より直流電力を送り、電話交換手を呼び出すのもの。 ガワーが発明した炭素棒送話器とベルが発明した永久磁石受話器とを組み合わせていた。二人の名が合成されてこの名がある。 電話機に取り付けられた磁石式の発電機を、クランクハンドルを用いて手で回すことにより、交換機の表示機を動作させ、交換手を呼び出す電話機。交換機に繋がず、直接相手方電話機に繋ぐと、発電機は相手方電話機のベルを鳴らす。 送話用の電池を内蔵するタイプは定期的な電池交換が必要であるが、商用電源が得られる場所では直流化して使用することもできる。 乾電池もしくは外部直流を電源にして平行ケーブルのみで通話できるため、業務用の専用線・私設線でニーズがあり、現在でも製造が続けられている(ただし、内部回路は電子化されている)。軍隊の野戦電話に用いられることもある。 電話機の受話器を外す事で、交換機のランプを点灯させ電話交換手を呼び出す仕組みの電話機。通話終了も受話器を下ろす事で自動的に交換手に通知される。 電話機側に電池や発電機が不要で、保守が簡略化された。しかし、48Vの電圧を回線に常時加えるため、電線の絶縁材料が悪かった時代には、障害が多かった。 現在では着信専用電話機として、あるいは旅館などで構内電話交換機を持つ場合に用いられていることもある。 通話先を指定できるダイヤルを装備した電話機であり、電話番号をダイヤルを回して入力すると、自動交換機が反応して相手につなぐ。交換機とともに開発された。 影響が大きかったのは1928年に米国ウェスタン・エレクトリック社から発表されベル社の電話で使われたModel 102である。工業デザイナーのヘンリー・ドレイファスによるデザインであり、筐体は黒一色で、材質としてはベークライト製で、木材を用いていない。 このModel 102は画期的な電話機であり、評判もたいそう良かった。世界中でこのModel 102の模倣版や亜種の開発が行われるようになった。ウェスタン・エレクトリック社から後継機や改良版が出されると、それについても同様に模倣が行われていった。 日本のいわゆる黒電話もそうした模倣のひとつである。 米国で1963年~1964年ころにウェスタンエレクトリック社が最初のトーン式電話機である1500シリーズを世に出した。回転ダイヤル式のmodel 500の筐体を流用し、回転ダイヤルをプッシュボタンとトーン発信のユニットに置き換えたもので、ボタンが10個しかないものであった。そして1967年ころに登場させた2500シリーズでボタンも12個になり、ここから本格的に普及した。 イギリスGeneral Post Officeの電話機(英語版)を参照のこと。 日本電信電話公社が提供するものの他に選択肢がない時代が長かったが、1950年代~60年代あたりから規制が少しづつ緩和され、1985年には各家庭で様々な電話機を設置できるよう規則が変更され、多くのメーカーが製造に参入し、高機能な電話機の開発・販売が進んだ。 1号電話機は、1878年(明治11年)に日本初の国産電話機として製造された。アメリカ合衆国において実用化されたばかりのベル電話機をもとに、日本で設計された国産第1号の電話機である。しかし、このモデルは長距離伝送には不向きな上、当時の日本の工業水準が低かったこともあり、実用的な性能を持たせることができなかった。1号電話機は41台で製造が打ち切られた。 その後、電池と継電器(リレー)を用いて長距離通話を可能としたガワーベル電話機がイギリスから輸入され、日本の一般電話の開設はこちらによって果たされた。 この時期の電話機の筐体は木製箱型であり、黒くはない。 2号電話機は、1909年(明治42年)、逓信省によって制式化・提供開始された。 スタンド型の送話器に、独立したラッパ型受話器を受け止めるフックの付いた形態をしている。第二次世界大戦後のアメリカ映画などで有名になったスタイルだが、日本でも生産・使用されていたことは、一般にはあまり知られていない。塗装は黒だが、一般には「黒電話」の範疇には含まれない。 木製の箱型筐体を持ち、ベル装置は上部に備え、正面に送話器を固定している。受話器は卓上型と同じく、独立したラッパ型受話器で、筐体右側面にフックが付いている。第2次世界大戦前後で日本の電話機といえば、このスタイルであった。 ガワーベル電話機の後、局呼び出しのための手回し発電機を備えた、デルビル磁石式電話機が輸入・国産化され、日本の電話機はほぼこれに統一されていた。しかし、磁石式電話機は伝送用に直流1次電池を使用し、これを端末(電話機)側に搭載していたため、定期的に交換が必要であり、保守面で手間がかかった。 そこで、線路に局側から48Vの電源を常時給電し、これを伝送・呼び出し用の電源として使用する共電式が登場し、端末数の多い都市部から、順次転換されていった。交換方式は手動だが、局呼び出しにも共用電流が使用され、受話器をはずす(オフフック)と、局側の交換手呼び出し装置(通常はランプ)が作動する仕組みであった。共電式は端末側の保守はほぼ不要となったが、当時は絶縁技術が未熟で導入初期においては漏電などのトラブルが多発した。2号電話機は、この共電式の採用に伴って開発、提供された。一方、共電式とならなかった地方の加入電話回線では、引き続きデルビル磁石式電話機が使用された。 都市部、特に首都である東京での電話加入者数の増加は著しかったが、従来の交換手が手作業で回線を接続する形態では、一層の増強が困難となった。 1923年(大正12年)の関東大震災からの復旧を契機として、日本でもダイヤルパルス信号による自動交換方式を導入することとなり、1926年(大正15年)、東京に日本初の自動交換機が導入された。 この自動交換機用の電話機端末として、2号共電式電話機にダイヤル装置を備えた2号自動式電話機が開発された。 卓上型では、自動交換用の回路を全て内蔵することは現実的ではなかったため、ベル装置や一部の回路を木製の別筐体に収納した。ダイヤルは本体の正面に装備された。 壁掛け型はその点、筐体の容積に余裕があったため、全て一体の筐体内に収められた。しかし、正面面積がダイヤル取り付けに不足したため、サイズは天地方向に拡大された。 当初搭載された1号ダイヤル(5接点)では、ダイヤル中の伝送回路を完全に音声回路と切り離すことができず、大きなノイズが受話器に流れ込んだ。また、1号ダイヤルは、従前の共電式と同じ直流48Vを基礎に設計していたが、引き続いて横浜に投入されたH型自動交換機では、有効線路長の延長を目的として局電源を60Vに上げたため、絶縁不良を引き起こした。そのため、音声回路へのノイズを低減した、60・48V共用・6接点の2号ダイヤルが開発され、以降、小改良を加えつつ600形の登場まで標準形式として使用された。 沖電気で、施設の構内電話用として製造されていた電話機で、2号相当の性能を持っている。外観は制式の2号とは異なり、金属製筐体で、ベル装置も内蔵とするなど、後の3号に共通する特徴を持っていた(ただし、送受話器は2号と同じ形態である)。戦時中の物資不足に際して、沖電気の在庫から代用2号電話機として提供した。 まだ単独電話加入権を持っていたのは法人格か、商家に限られ、電話機を持つ家が、周囲の住人が電話を必要とした際に貸し出していた。また、「電話の相手は訪問者と同じ」という考え方も根強かった。また、2号電話機の性能では、周囲に雑音の多いところでは会話が困難で、「電話室」と呼ばれる、木製の小型の個室を備えている場合も多かった。そのため、日本においては、電話機は玄関先におくものというスタイルが定着した。このスタイルでは、卓上型の利点はほとんどなく、従って、実際に使用された2号電話機のほとんどは壁掛け型であった。2号卓上型のスタイルが世間に認知されなかったのは、このためである。 しかし、大量に提供された2号壁掛け自動電話機は、戦後の回線数増強工事の前提とした伝送特性に対応しきれず通話に支障をきたすことになった。新型電話機への更新も台数不足でままならず、そのため3号電話機(黒電話)の部品を用いての改造を余儀なくされた。 1933年(昭和8年)に逓信省によって日本国内で制式化された3号電話機から始まって、4号電話機、600形電話機、601形電話機は「黒電話」と呼ばれている。 生産統計において標準電話機とは、基本的な機能のみを装備したものである。メーカーによってはベーシックテレホンということもあるが、送受話器と数字ボタンのみが装備された物もある。これらにはシンプル電話等の呼び方もある。 標準電話機にはコンパクトなタイプのものもあり、送受話器と本体が一体となっていることもある。 生産統計において多機能電話機とは、標準電話機よりも多機能なものを指す。 以下の機能は、別の品目となっている。 装飾電話機・ファッション電話機とは、機能よりも装飾性を重視した電話機である。電話敷設の初期から付加使用料を支払うことで利用できた。 端末設備自由化以降は、ダイヤルボタンが受話器側にあるものなど、デザインも多彩となった。 福祉電話機(NTTでは「シルバーホン」と呼称)とは、耳が聞こえにくい・手が不自由などの場合でも支障なく使用できるように工夫された電話機である。 ※業務向けはビジネスフォン、コードレス電話は当該記事を参照。 生産中止 事務所では事務連絡に使用するため事務所に設置されていた。また、商店の店先に設置され、近所の電話のない家庭への呼出電話としても利用されていた。 家庭への普及の初期には、未契約世帯への呼出電話としての利用も引き続き多く、玄関先に設置されているのが一般的であった(1970年代頃までの住所録の電話番号欄に「~方呼出)」の記述があったりするのはこの名残)。多くの家庭に普及した後には、居間に設置されるようになった。また、親子電話(着信をスイッチで切り替えて秘話機能を持つ「切替式」と、1本の回線に2台が電気的にぶら下がっており秘話機能のない「ブランチ(分身)式」がある。更にはPBXを用いた内線電話システム「ホームテレホン」も1970年代半ばに登場した)などで個室にも設置されるようになった。 しばしば、電話機の記号は電話番号を表示するために使われる(電話マーク)。Unicodeには、TEL(U+2121)、☎(U+260E)、☏(U+260F)、✆(U+2706) がある。
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"さらに後にプッシュボタンが配置されたトーンダイヤル式の電話機も普及した。これはパルス状の信号の代わりに、ある音程(トーン)の音を(2つ)組み合わせて電話番号の1桁相当の情報を伝える方式であり、回転ダイヤル式よりもすばやく電話番号の全桁を入力できるという特徴がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "近年では、固定電話機についてはナンバーディスプレイ機能を備えたもの、コードレス式のもの、子機を増設できるもの、ファクシミリ機能を備えたもの、それらのいくつかを組み合わせた電話機も販売されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "一方で、移動式電話(携帯電話)の開発および普及も進み、サイズや重さが次第に小さくなり、1980年代前半には弁当箱以上のサイズだったものが1990年代にはポケットに入るまでになった。携帯電話所有者が増えてゆくとともに価格も下がり普及に加速がかかり、ついには固定電話の台数を抜いた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2009年末時点での電話機の台数は、全世界で60億台弱で、内訳としては固定電話が12億6000万台、携帯電話が46億台という割合になっていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "英語 「telephone」の語源となった、ギリシャ語のτῆλε (tēle) は「遠い」を意味し、φωνή (phōnē) は「声」を意味する。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "電話の歴史も参照。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "利用者の声を電気信号に変換するマイクロフォンと、電気信号を物理的な音に変換するスピーカー、電話がかかってきたことを知らせる振鈴装置、電話番号を入力する装置(キーパッドや回転式ダイヤル)などで構成される。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "(極端に古いタイプを除いて)マイクロフォンとスピーカーは受話器(英語:handset ハンドセット)として一体化していることが一般的。 19世紀末~20世紀初頭の電話機では送話器(そうわき)が電話機本体に直付けされたタイプが主流で、本体とコードで結ばれた受話器のみを手に持って耳に当て、本体の送話器に向かって声を出していた。1930年代から送話器と受話器が一体化した形になった送受話器(そうじゅわき)方式が主流になり、片手で通話できるようになった。電話機本体と受話器とは、らせん状のコード(カールコード)で物理的につながっているものが一般的であるが、一部に電波で接続しているものもある。またヘッドセットを接続できる電話機もあり、コールセンターなど、業務で電話通話を大量に行い、手はPCのキーボード入力などのために空けておかなければならない場所で使用されている。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "20世紀半ばすぎまで電話機の回路は機械式リレーと受動素子のみで構成されていた。受話器を取る/置く操作によりフックスイッチが上げ下げされることで電話回線の極性を変化させ電話交換機が回線接続・回線切断を判別した。今でも回線が接続した状態を「オフフック」、回線断の状態を「オンフック」と言うのはこのためである。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "20世紀後半に半導体素子が安価に大量供給されるようになるとそれがしだいに電話機にも使われるようになった。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "固定電話は電話線(銅線)によって電話局およびその先の電話網とつながっており、移動式電話は無線つまり電波でキャリアの基地局やその先の電話網とつながっている。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なおコードレス電話は「親機」「子機」に分かれており、親機は電話網と有線で直接的に繋がっているが、子機のほうは親機と無線で繋がっている。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "電話交換機からの給電のみで動作する基本的な機能として次があげられる。", "title": "電話機の構成・構造・基本機能" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "初期の電話機は技術的には多様だった。液体抵抗型送話機を使うもの、永久磁石の周りの電磁石(コイル)を振動板で振動させて電磁誘導によって信号を発生するもの(ムービング・コイル型)などがあった。電磁誘導の起電力を利用する方式は電源がなくとも通話可能という利点があり、20世紀後半になっても少数ながら軍用などに利用され続けた。しかし、主流となったのはエジソンのカーボンマイクで他の方式よりも音声が大きく、誘導コイルを必要とするが、それがインピーダンス整合用変圧器として機能し、信号線とのインピーダンスを整合させることができる。このエジソンの特許によってベルは20世紀に入るまで市場を独占することができたが、そのころには電話機自体よりも電話網の方が重要になってきた。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "初期の電話機も電源を必要とし、その場で発電するか電池を使用した。当時は加入者宅を巡回して電池交換が必要かどうかをチェックする職業もあった。20世紀には「共電式」がよく使われるようになった。これは、電話交換機側から信号線を通して給電する方式である。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "初期の電話機の加入者線は1本の導線であり、電信と同様に個々に接地することで回路を形成する。また最初期の電話機は、送話器と受話器が共用になってい口と耳に交互にあてて使うようになっていた。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当初電話交換はあまり利用されなかった。初期の加入者は2台の電話機をリースし、例えば商店と自宅などに設置して使っていた。複数地点間の通信を必要とする場合は何台も電話機をリースし、各地点間にそれぞれ別個に回線をひく必要があった。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ユーザーは送話器に向かって口笛を吹くことで交換手(交換を経ない場合は相手)に電話をかけることを知らせた。電話交換が主流になると電話がかかってきたことを知らせるベルが電話機に装備されるようになり、当初は通常の電話線とは別の線をひいて、その信号でベルを鳴らした。その後電話線1本でベルも鳴らすようにするため、ベルとコンデンサを直列に繋いでベルを鳴らすための交流信号のみを通すようにし、直流信号がブロックされていることで「オンフック」状態だとわかるようにした。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "共電式や定期的な電池交換が不可能な田舎では、マグネトーなどの発電機を手回しクランクで回して発電し、相手側(交換手)のベルを鳴らした。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1890年代には、3つの部分で構成されるもっと小型の電話機が登場した。送話器はスタンド上にあり、この形状をロウソク (candlestick) 型と呼んだ。使っていない状態では受話器をフックにかけておき、このフックがスイッチの役割を果たしている。それまでの電話機は音声とベルそれぞれにスイッチがあり、別々に操作する必要があった。新しい方式では利用者が電話のフックを外したままにする事態が発生しにくくなった。発電機、ベル、誘導コイル、電池などは電話機本体とは別の箱 (ringer box) に収められ、電話機と接続されるようになっていた。共電式の場合は電池交換が不要で手回しで発電する必要もないため、その箱は机の下などの見えない場所に設置された。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "単線には漏話や交流電源のハム音が雑音として載ってしまうという欠点があり、ツイストペアケーブルが使われるようになっていった。また、長距離の回線には4線式が使われた。20世紀初めごろ、長距離電話は一般の電話からはかけられず、専用の高音質の電話ボックスを予約して利用するのが一般的だった。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ロウソク型よりも普及したのが、送話器と受話器がセットになったもの(handset いわゆる受話器)で、本体に手回しクランクがあるタイプのものである。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "電話機に取り付けられたダニエル電池より直流電力を送り、電話交換手を呼び出すのもの。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ガワーが発明した炭素棒送話器とベルが発明した永久磁石受話器とを組み合わせていた。二人の名が合成されてこの名がある。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "電話機に取り付けられた磁石式の発電機を、クランクハンドルを用いて手で回すことにより、交換機の表示機を動作させ、交換手を呼び出す電話機。交換機に繋がず、直接相手方電話機に繋ぐと、発電機は相手方電話機のベルを鳴らす。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "送話用の電池を内蔵するタイプは定期的な電池交換が必要であるが、商用電源が得られる場所では直流化して使用することもできる。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "乾電池もしくは外部直流を電源にして平行ケーブルのみで通話できるため、業務用の専用線・私設線でニーズがあり、現在でも製造が続けられている(ただし、内部回路は電子化されている)。軍隊の野戦電話に用いられることもある。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "電話機の受話器を外す事で、交換機のランプを点灯させ電話交換手を呼び出す仕組みの電話機。通話終了も受話器を下ろす事で自動的に交換手に通知される。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "電話機側に電池や発電機が不要で、保守が簡略化された。しかし、48Vの電圧を回線に常時加えるため、電線の絶縁材料が悪かった時代には、障害が多かった。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現在では着信専用電話機として、あるいは旅館などで構内電話交換機を持つ場合に用いられていることもある。", "title": "初期の電話機、交換手時代の電話機" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "通話先を指定できるダイヤルを装備した電話機であり、電話番号をダイヤルを回して入力すると、自動交換機が反応して相手につなぐ。交換機とともに開発された。", "title": "ダイヤルパルス式電話機" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "影響が大きかったのは1928年に米国ウェスタン・エレクトリック社から発表されベル社の電話で使われたModel 102である。工業デザイナーのヘンリー・ドレイファスによるデザインであり、筐体は黒一色で、材質としてはベークライト製で、木材を用いていない。", "title": "ダイヤルパルス式電話機" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "このModel 102は画期的な電話機であり、評判もたいそう良かった。世界中でこのModel 102の模倣版や亜種の開発が行われるようになった。ウェスタン・エレクトリック社から後継機や改良版が出されると、それについても同様に模倣が行われていった。", "title": "ダイヤルパルス式電話機" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本のいわゆる黒電話もそうした模倣のひとつである。", "title": "ダイヤルパルス式電話機" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "", "title": "ダイヤルパルス式電話機" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "米国で1963年~1964年ころにウェスタンエレクトリック社が最初のトーン式電話機である1500シリーズを世に出した。回転ダイヤル式のmodel 500の筐体を流用し、回転ダイヤルをプッシュボタンとトーン発信のユニットに置き換えたもので、ボタンが10個しかないものであった。そして1967年ころに登場させた2500シリーズでボタンも12個になり、ここから本格的に普及した。", "title": "トーンダイヤル式電話機" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "イギリスGeneral Post Officeの電話機(英語版)を参照のこと。", "title": "イギリスにおける電話機" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "", "title": "イギリスにおける電話機" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本電信電話公社が提供するものの他に選択肢がない時代が長かったが、1950年代~60年代あたりから規制が少しづつ緩和され、1985年には各家庭で様々な電話機を設置できるよう規則が変更され、多くのメーカーが製造に参入し、高機能な電話機の開発・販売が進んだ。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1号電話機は、1878年(明治11年)に日本初の国産電話機として製造された。アメリカ合衆国において実用化されたばかりのベル電話機をもとに、日本で設計された国産第1号の電話機である。しかし、このモデルは長距離伝送には不向きな上、当時の日本の工業水準が低かったこともあり、実用的な性能を持たせることができなかった。1号電話機は41台で製造が打ち切られた。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その後、電池と継電器(リレー)を用いて長距離通話を可能としたガワーベル電話機がイギリスから輸入され、日本の一般電話の開設はこちらによって果たされた。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この時期の電話機の筐体は木製箱型であり、黒くはない。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2号電話機は、1909年(明治42年)、逓信省によって制式化・提供開始された。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "スタンド型の送話器に、独立したラッパ型受話器を受け止めるフックの付いた形態をしている。第二次世界大戦後のアメリカ映画などで有名になったスタイルだが、日本でも生産・使用されていたことは、一般にはあまり知られていない。塗装は黒だが、一般には「黒電話」の範疇には含まれない。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "木製の箱型筐体を持ち、ベル装置は上部に備え、正面に送話器を固定している。受話器は卓上型と同じく、独立したラッパ型受話器で、筐体右側面にフックが付いている。第2次世界大戦前後で日本の電話機といえば、このスタイルであった。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ガワーベル電話機の後、局呼び出しのための手回し発電機を備えた、デルビル磁石式電話機が輸入・国産化され、日本の電話機はほぼこれに統一されていた。しかし、磁石式電話機は伝送用に直流1次電池を使用し、これを端末(電話機)側に搭載していたため、定期的に交換が必要であり、保守面で手間がかかった。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "そこで、線路に局側から48Vの電源を常時給電し、これを伝送・呼び出し用の電源として使用する共電式が登場し、端末数の多い都市部から、順次転換されていった。交換方式は手動だが、局呼び出しにも共用電流が使用され、受話器をはずす(オフフック)と、局側の交換手呼び出し装置(通常はランプ)が作動する仕組みであった。共電式は端末側の保守はほぼ不要となったが、当時は絶縁技術が未熟で導入初期においては漏電などのトラブルが多発した。2号電話機は、この共電式の採用に伴って開発、提供された。一方、共電式とならなかった地方の加入電話回線では、引き続きデルビル磁石式電話機が使用された。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "都市部、特に首都である東京での電話加入者数の増加は著しかったが、従来の交換手が手作業で回線を接続する形態では、一層の増強が困難となった。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1923年(大正12年)の関東大震災からの復旧を契機として、日本でもダイヤルパルス信号による自動交換方式を導入することとなり、1926年(大正15年)、東京に日本初の自動交換機が導入された。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "この自動交換機用の電話機端末として、2号共電式電話機にダイヤル装置を備えた2号自動式電話機が開発された。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "卓上型では、自動交換用の回路を全て内蔵することは現実的ではなかったため、ベル装置や一部の回路を木製の別筐体に収納した。ダイヤルは本体の正面に装備された。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "壁掛け型はその点、筐体の容積に余裕があったため、全て一体の筐体内に収められた。しかし、正面面積がダイヤル取り付けに不足したため、サイズは天地方向に拡大された。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "当初搭載された1号ダイヤル(5接点)では、ダイヤル中の伝送回路を完全に音声回路と切り離すことができず、大きなノイズが受話器に流れ込んだ。また、1号ダイヤルは、従前の共電式と同じ直流48Vを基礎に設計していたが、引き続いて横浜に投入されたH型自動交換機では、有効線路長の延長を目的として局電源を60Vに上げたため、絶縁不良を引き起こした。そのため、音声回路へのノイズを低減した、60・48V共用・6接点の2号ダイヤルが開発され、以降、小改良を加えつつ600形の登場まで標準形式として使用された。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "沖電気で、施設の構内電話用として製造されていた電話機で、2号相当の性能を持っている。外観は制式の2号とは異なり、金属製筐体で、ベル装置も内蔵とするなど、後の3号に共通する特徴を持っていた(ただし、送受話器は2号と同じ形態である)。戦時中の物資不足に際して、沖電気の在庫から代用2号電話機として提供した。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "まだ単独電話加入権を持っていたのは法人格か、商家に限られ、電話機を持つ家が、周囲の住人が電話を必要とした際に貸し出していた。また、「電話の相手は訪問者と同じ」という考え方も根強かった。また、2号電話機の性能では、周囲に雑音の多いところでは会話が困難で、「電話室」と呼ばれる、木製の小型の個室を備えている場合も多かった。そのため、日本においては、電話機は玄関先におくものというスタイルが定着した。このスタイルでは、卓上型の利点はほとんどなく、従って、実際に使用された2号電話機のほとんどは壁掛け型であった。2号卓上型のスタイルが世間に認知されなかったのは、このためである。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "しかし、大量に提供された2号壁掛け自動電話機は、戦後の回線数増強工事の前提とした伝送特性に対応しきれず通話に支障をきたすことになった。新型電話機への更新も台数不足でままならず、そのため3号電話機(黒電話)の部品を用いての改造を余儀なくされた。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1933年(昭和8年)に逓信省によって日本国内で制式化された3号電話機から始まって、4号電話機、600形電話機、601形電話機は「黒電話」と呼ばれている。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "生産統計において標準電話機とは、基本的な機能のみを装備したものである。メーカーによってはベーシックテレホンということもあるが、送受話器と数字ボタンのみが装備された物もある。これらにはシンプル電話等の呼び方もある。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "標準電話機にはコンパクトなタイプのものもあり、送受話器と本体が一体となっていることもある。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "生産統計において多機能電話機とは、標準電話機よりも多機能なものを指す。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "以下の機能は、別の品目となっている。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "装飾電話機・ファッション電話機とは、機能よりも装飾性を重視した電話機である。電話敷設の初期から付加使用料を支払うことで利用できた。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "端末設備自由化以降は、ダイヤルボタンが受話器側にあるものなど、デザインも多彩となった。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "福祉電話機(NTTでは「シルバーホン」と呼称)とは、耳が聞こえにくい・手が不自由などの場合でも支障なく使用できるように工夫された電話機である。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "※業務向けはビジネスフォン、コードレス電話は当該記事を参照。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "生産中止", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "事務所では事務連絡に使用するため事務所に設置されていた。また、商店の店先に設置され、近所の電話のない家庭への呼出電話としても利用されていた。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "家庭への普及の初期には、未契約世帯への呼出電話としての利用も引き続き多く、玄関先に設置されているのが一般的であった(1970年代頃までの住所録の電話番号欄に「~方呼出)」の記述があったりするのはこの名残)。多くの家庭に普及した後には、居間に設置されるようになった。また、親子電話(着信をスイッチで切り替えて秘話機能を持つ「切替式」と、1本の回線に2台が電気的にぶら下がっており秘話機能のない「ブランチ(分身)式」がある。更にはPBXを用いた内線電話システム「ホームテレホン」も1970年代半ばに登場した)などで個室にも設置されるようになった。", "title": "日本における電話機" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "しばしば、電話機の記号は電話番号を表示するために使われる(電話マーク)。Unicodeには、TEL(U+2121)、☎(U+260E)、☏(U+260F)、✆(U+2706) がある。", "title": "電話機記号" } ]
電話機とは、音声を電気信号に変換して、離れた場所に送り、また送られてきた電気信号も音声に戻して通話をするための機械。単に「電話」とも言う。
{{出典の明記|date=2020年9月}} [[ファイル:1896 telephone.jpg|thumb|200px|1896年の電話機(スウェーデン製)。回転式ハンドル内部の発電機を動かし、電話局内の呼び鈴を鳴らして交換手を呼ぶ。]] [[ファイル:Alt Telefon.jpg|thumb|200px|回転ダイヤル式([[ダイヤルパルス]]式)[[黒電話]](1940年代、[[オリベッティ]]社製)]] [[ファイル:ATTtelephone-large.jpg|thumb|200px|[[トーンダイヤル]]式(プッシュボタン式)電話機(米国、[[ATT]]社製)]] [[File:Alcatel - Desk Phone 8039 v01.jpg|thumb|200px|近年の電話機で、多機能のもので比較的大きな液晶画面も備えたタイプの一例。(写真はオフィス用で、[[アルカテル]]社製)]] '''電話機'''(でんわき、{{Lang-en-short|telephoneあるいはphone}})とは、[[音声]]を[[信号 (電気工学)|電気信号]]に変換して、離れた場所に送り、また送られてきた電気信号も音声に戻して通話をするための機械<ref>{{Cite web|和書|title=電話機(デンワキ)とは|url=https://kotobank.jp/word/%E9%9B%BB%E8%A9%B1%E6%A9%9F-579139|website=コトバンク|accessdate=2020-07-19|language=ja|first=デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,大辞林|last=第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及}}</ref>。単に「[[電話]]」とも言う。 ==概要== [[スマートフォン]]等の[[携帯電話|携帯型無線電話機]]も電話機の一種だが、本項では、持ち運びしないで運用する電話機(いわゆる「[[固定電話]]」)を中心に解説する。 電話機の基本の要素は、音声を電気信号に変換する[[マイクロフォン]](マイク)および電気信号を音声に変換する[[スピーカー]]である。他に、着信を知らせる振鈴装置も備える。20世紀なかばに[[電話交換機|自動交換機]]が普及するとともに、[[電話番号]]を入力する装置も加えられた。 20世紀前半までは通話相手を指定するには、まず[[交換手]]を呼び出して相手の番号を言い、局内で手作業で回線を繋いだ。電話局の交換手を呼ぶために電話機の箱の側面などに回転式ハンドルがついていた。 自動交換機設置されてゆくとともに、回転ダイヤル式の[[黒電話]]が普及した。これは電話番号の数字に相当する穴に指を入れてストッパーまで回転させ指を抜くと、回転ダイヤルがバネじかけで元の位置に戻る時に[[パルス]]状の信号が発信され電話局内の自動交換機に数字1ケタ分が伝わり、この動作を電話番号の桁数だけ繰り返すことで交換機が指定された相手に繋ぐものである。回転ダイヤルを回して指を抜くたびに受話器からは断続音(=パルス)が聞こえる。 さらに後にプッシュボタンが配置されたトーンダイヤル式の電話機も普及した。これはパルス状の信号の代わりに、ある[[音程]](トーン)の音を(2つ)組み合わせて電話番号の1桁相当の情報を伝える方式であり、回転ダイヤル式よりもすばやく電話番号の全桁を入力できるという特徴がある。 近年では、固定電話機については[[ナンバーディスプレイ]]機能を備えたもの、[[コードレス電話|コードレス]]式のもの、子機を増設できるもの、[[ファクシミリ]]機能を備えたもの、それらのいくつかを組み合わせた電話機も販売されている。 一方で、移動式電話([[携帯電話]])の開発および普及も進み、サイズや重さが次第に小さくなり、1980年代前半には弁当箱以上のサイズだったものが1990年代にはポケットに入るまでになった。携帯電話所有者が増えてゆくとともに価格も下がり普及に加速がかかり、ついには固定電話の台数を抜いた。 2009年末時点での電話機の台数は、全世界で60億台弱で、内訳としては固定電話が12億6000万台、携帯電話が46億台という割合になっていた<ref>{{Cite web |title=Media Centre |url=https://www.itu.int/en/mediacentre/Pages/default.aspx |website=ITU |access-date=2023-12-15 |language=en-US}}</ref>。 ==語源== 英語 「[[w:en:telephone|'''telephone''']]」の語源となった、[[ギリシャ語]]の{{Lang|el|τῆλε}} (tēle) は「遠い」を意味し、{{lang|el|φωνή}} (phōnē) は「声」を意味する。 == 電話機の構成・構造・基本機能 == '''[[電話の歴史]]'''も参照。 ;基本構成 利用者の声を電気信号に変換する[[マイクロフォン]]と、電気信号を物理的な[[音]]に変換する[[スピーカー]]、電話がかかってきたことを知らせる振鈴装置、[[電話番号]]を入力する装置([[キーパッド]]や回転式ダイヤル)などで構成される。 [[ファイル:Enea Bossi Sr - USA, 1930s.JPG|200px|thumb|left|1930年代までのシンプルな電話機。マイクロフォンの部分とスピーカーの部分は別々になっていて、スピーカー部のみを手に持ち耳に当てて使う。]] ;マイクロフォン部とスピーカ部の構成・構造 (極端に古いタイプを除いて)マイクロフォンとスピーカーは[[受話器]](英語:[[:en:handset|handset]] ハンドセット)として一体化していることが一般的。 19世紀末~20世紀初頭の電話機では'''送話器'''(そうわき)が電話機本体に直付けされたタイプが主流で、本体とコードで結ばれた受話器のみを手に持って耳に当て、本体の送話器に向かって声を出していた。[[1930年代]]から送話器と受話器が一体化した形になった'''送受話器'''(そうじゅわき)方式が主流になり、片手で通話できるようになった。電話機本体と受話器とは、らせん状のコード(カールコード)で物理的につながっているものが一般的であるが、一部に電波で接続しているものもある。また[[ヘッドセット (音響機器)|ヘッドセット]]を接続できる電話機もあり、[[コールセンター]]など、業務で電話通話を大量に行い、手はPCのキーボード入力などのために空けておかなければならない場所で使用されている。 ;電気的な部品 20世紀半ばすぎまで電話機の回路は機械式[[継電器|リレー]]と[[受動素子]]のみで構成されていた。受話器を取る/置く操作により'''[[フックスイッチ]]'''が上げ下げされることで[[電話回線]]の極性を変化させ[[電話交換機]]が回線接続・回線切断を判別した。今でも回線が接続した状態を「オフフック」、回線断の状態を「オンフック」と言うのはこのためである。 20世紀後半に[[半導体素子]]が安価に大量供給されるようになるとそれがしだいに電話機にも使われるようになった。 ;電話網との接続 [[固定電話]]は電話線(銅線)によって[[電話局]]およびその先の[[電話網]]とつながっており、移動式電話は[[無線]]つまり[[電波]]で[[キャリア]]の基地局やその先の電話網とつながっている。 なお[[コードレス電話]]は「親機」「子機」に分かれており、親機は電話網と有線で直接的に繋がっているが、子機のほうは親機と無線で繋がっている。 ;電話交換機からの給電だけでも働く基本機能 電話交換機からの給電のみで動作する基本的な機能として次があげられる。 * 通信先の電話番号を入力し、電話交換機に伝える。 * 電話交換機からの呼び出しを検知し、[[着信音]]で伝える。 * 送話器で[[音|音声]]を[[電気]]信号化し増幅して電話交換機へ送り出し、電話交換機から伝えられた信号を受話器で音声に戻す。 * 終話を電話交換機に伝える。 == 初期の電話機、交換手時代の電話機 == 初期の電話機は技術的には多様だった。液体抵抗型送話機を使うもの、永久磁石の周りの電磁石(コイル)を振動板で振動させて電磁誘導によって信号を発生するもの([[マイクロフォン#ムービング・コイル型|ムービング・コイル型]])などがあった。電磁誘導の起電力を利用する方式は電源がなくとも通話可能という利点があり、20世紀後半になっても少数ながら軍用などに利用され続けた。しかし、主流となったのはエジソンの[[マイクロフォン#カーボンマイク|カーボンマイク]]で他の方式よりも音声が大きく、[[誘導コイル]]を必要とするが、それが[[インピーダンス整合]]用変圧器として機能し、信号線とのインピーダンスを整合させることができる。このエジソンの特許によってベルは20世紀に入るまで市場を独占することができたが、そのころには電話機自体よりも電話網の方が重要になってきた。 初期の電話機も電源を必要とし、その場で発電するか電池を使用した。当時は加入者宅を巡回して電池交換が必要かどうかをチェックする職業もあった。20世紀には「共電式」がよく使われるようになった。これは、[[電話交換機]]側から信号線を通して給電する方式である。 初期の電話機の加入者線は1本の導線であり、[[電信]]と同様に個々に[[接地]]することで回路を形成する。また最初期の電話機は、送話器と受話器が共用になってい口と耳に交互にあてて使うようになっていた。 当初電話交換はあまり利用されなかった。初期の加入者は2台の電話機をリースし、例えば商店と自宅などに設置して使っていた。複数地点間の通信を必要とする場合は何台も電話機をリースし、各地点間にそれぞれ別個に回線をひく必要があった。 ユーザーは送話器に向かって[[口笛]]を吹くことで交換手(交換を経ない場合は相手)に電話をかけることを知らせた。電話交換が主流になると電話がかかってきたことを知らせる[[鐘|ベル]]が電話機に装備されるようになり、当初は通常の電話線とは別の線をひいて、その信号でベルを鳴らした。その後電話線1本でベルも鳴らすようにするため、ベルと[[コンデンサ]]を直列に繋いでベルを鳴らすための[[交流]]信号のみを通すようにし、[[直流]]信号がブロックされていることで「オンフック」状態だとわかるようにした。 共電式や定期的な電池交換が不可能な田舎では、[[マグネトー]]などの発電機を手回しクランクで回して発電し、相手側(交換手)のベルを鳴らした。 === ロウソク型電話機 === [[ファイル:Genevieve Clark (Thomson) - Bain News Service.jpg|thumb|left|アメリカのロウソク型電話機(1915年ごろ)]] 1890年代には、3つの部分で構成されるもっと小型の電話機が登場した。送話器はスタンド上にあり、この形状をロウソク (candlestick) 型と呼んだ。使っていない状態では受話器をフックにかけておき、このフックがスイッチの役割を果たしている。それまでの電話機は音声とベルそれぞれにスイッチがあり、別々に操作する必要があった。新しい方式では利用者が電話のフックを外したままにする事態が発生しにくくなった。発電機、ベル、誘導コイル、電池などは電話機本体とは別の箱 ([[:en:ringer box|ringer box]]) に収められ、電話機と接続されるようになっていた<ref>{{cite web|url= http://www.telephonymuseum.com/ringer_boxes.htm |title=Ringer Boxes |publisher=Telephonymuseum.com |date= |accessdate=2010-05-23}}</ref>。共電式の場合は電池交換が不要で手回しで発電する必要もないため、その箱は机の下などの見えない場所に設置された。 単線には[[漏話]]や交流電源のハム音が雑音として載ってしまうという欠点があり、[[ツイストペアケーブル]]が使われるようになっていった。また、長距離の回線には4線式が使われた。20世紀初めごろ、長距離電話は一般の電話からはかけられず、専用の高音質の電話ボックスを予約して利用するのが一般的だった。 {{clear}} === ハンドセット型 === ロウソク型よりも普及したのが、送話器と受話器がセットになったもの([[:en:handset|handset]] いわゆる受話器)で、本体に手回しクランクがあるタイプのものである。 {{gallery |height=200px |File:TISCH APPARAT Ö 10 Normaltyp 1905-01.jpg|[[オーストリア]]の電話公社で「標準型」と定められた電話機([[1905年]]) }} === ガワーベル電話機 === 電話機に取り付けられた[[ダニエル電池]]より直流電力を送り、[[電話交換手]]を呼び出すのもの。 [[フレデリック・A・ガワー|ガワー]]が発明した炭素棒送話器と[[アレクサンダー・グラハム・ベル|ベル]]が発明した永久[[磁石]]受話器とを組み合わせていた。二人の名が合成されてこの名がある。 === 磁石式電話機 === 電話機に取り付けられた磁石式の[[発電機]]を、クランクハンドルを用いて手で回すことにより、交換機の表示機を動作させ、交換手を呼び出す電話機。交換機に繋がず、直接相手方電話機に繋ぐと、発電機は相手方電話機のベルを鳴らす。 送話用の[[一次電池|電池]]を内蔵するタイプは定期的な電池交換が必要であるが、[[商用電源]]が得られる場所では直流化して使用することもできる。 [[乾電池]]もしくは外部直流を電源にして平行ケーブルのみで通話できるため、業務用の[[専用線]]・私設線でニーズがあり、現在でも製造が続けられている(ただし、内部回路は電子化されている)。軍隊の野戦電話に用いられることもある。 === 共電式電話機 === 電話機の受話器を外す事で、交換機のランプを点灯させ電話交換手を呼び出す仕組みの電話機。通話終了も受話器を下ろす事で自動的に交換手に通知される。 電話機側に電池や発電機が不要で、保守が簡略化された。しかし、48Vの[[電圧]]を回線に常時加えるため、[[電線]]の[[絶縁体|絶縁材料]]が悪かった時代には、障害が多かった。 現在では着信専用電話機として、あるいは旅館などで構内電話交換機を持つ場合に用いられていることもある。 == ダイヤルパルス式電話機 == [[File:WWS Dial-operatedtelephone.ogg|thumb|right|100px|ダイヤルパルス式電話機のダイヤルを回す時の音]] 通話先を指定できるダイヤルを装備した電話機であり、電話番号をダイヤルを回して入力すると、自動交換機が反応して相手につなぐ。交換機とともに開発された。 影響が大きかったのは1928年に米国[[ウェスタン・エレクトリック]]社から発表され[[AT&T|ベル]]社の電話で使われた'''[[:en:Model 102 telephone|Model 102]]'''である。工業デザイナーの[[ヘンリー・ドレイファス]]によるデザインであり、筐体は黒一色で、材質としては[[ベークライト]]製で、木材を用いていない。 {{gallery |height=240px |File:Telephone, Model 102, designed by Henry Dreyfuss, Western Electric Company, New York City, 1928, Bakelite case, metal - Museum für Angewandte Kunst Köln - Cologne, Germany - DSC09623.jpg|[[ヘンリー・ドレイファス]]がデザインした[[ウェスタン・エレクトリック]]社が製造した[[:en:Model 102 telephone|Model 102]] }} このModel 102は画期的な電話機であり、評判もたいそう良かった。世界中でこのModel 102の模倣版や亜種の開発が行われるようになった。ウェスタン・エレクトリック社から後継機や改良版が出されると、それについても同様に模倣が行われていった。 日本のいわゆる[[黒電話]]もそうした模倣のひとつである。 {{gallery |height=200px |File:Telephone model PTT24-IMG 9919.jpg|フランスPTTのPTT24(1942年) |5=File:GPO 232 Telephone without bell set 26.JPG|6=イギリスのGPOの232L|9=File:W48 schwarz.jpg|10=ドイツのW48|13=File:Model500Telephone1951.jpg|14=Western electric社の[[:en:Model 500 telephone|Model 500]](1951年)|15=File:Telephone modele U43-MGR Lyon-IMG 9923.jpg|16=フランス電電公社[[PTT]]のU43(1961年)|17=File:Automatic telephone Siemens & Halske - ringing.webm|18=Siemens & Halske社のAutomatic telephoneの着信音を聞かせる動画}} {{gallery |height=200px |3=File:Kurodenwa.JPG|4=日本の電電公社の600型端末設備。[[日本電信電話公社]]時代から一般家庭にレンタルされたパルスダイヤル式電話機としては600形電話機や601形電話機の台数が圧倒的に多く、「黒電話」という通称で親しまれた。}} {{gallery |height=200px |File:746 telephone in ivory.JPG|イギリスGPOの746(アイボリー) }} === 内部構造 === {{gallery |height=180px |File:Telefon BW 2012-02-19 17-20-59.jpg|古い黒電話の底の金属板をはずし、下から見た状態。振鈴機構の全体が見えている。 |File:Ericsson Dialog Transparent 003.jpg|エリクソン社の1962年の回転ダイヤル式電話を、展示用に透明筐体に入れてみたもの。筐体内の部品位置がわかる。 |File:Dialog_in_1972.jpg|1972年の回転ダイヤル式電話機のユニット群。 }} ; == トーンダイヤル式電話機 == 米国で1963年~1964年ころにウェスタンエレクトリック社が最初のトーン式電話機である1500シリーズを世に出した。回転ダイヤル式のmodel 500の筐体を流用し、回転ダイヤルをプッシュボタンとトーン発信のユニットに置き換えたもので、ボタンが10個しかない<ref>[https://beatriceco.com/bti/porticus/bell/telephones-2500.html]</ref>ものであった。そして1967年ころに登場させた2500シリーズでボタンも12個になり、ここから本格的に普及した。 {{gallery |height=180px |File:Western Electric 10 Button WE 1500 - Telephone Museum - Waltham, Massachusetts - DSC08111.jpg|1960年代なかばのウェスタン・エレクトリック社のWE1500。まだボタンが10個しかない。 |File:AT&T push button telephone western electric model 2500 dmg black.jpg|ウェスタン・エレクトリック社のModel 2500(黒)|7=File:Model 2500 Telephone-Inside.jpg|8=Model 2500の内部|11=File:100 1817.JPG|12=ドイツの1990年代のH1LX|15=File:T3 Phone.jpg|16=[[ヤコブ・イェンセン]]がデザインした電話機(1994年)}} == 多機能電話機 == {{gallery |height=200px |File:Hospital_Telephone.jpg|米国のもの }} == イギリスにおける電話機 == {{仮リンク|イギリスGeneral Post Officeの電話機|en|GPO telephones}}を参照のこと。 == 日本における電話機 == [[日本電信電話公社]]が提供するものの他に選択肢がない時代が長かったが、1950年代~60年代あたりから規制が少しづつ緩和され、1985年には各家庭で様々な電話機を設置できるよう規則が変更され、多くのメーカーが製造に参入し、高機能な電話機の開発・販売が進んだ。 === 歴史 === {{gallery |height=180px |File:Telephone of Taisho Era - Niigata Prefectural Museum of History.jpg|交換手方式の電話機。[[大正時代]]のもの。([[新潟県立歴史博物館]]の展示品) |File:古い電話機.jpg|交換手方式の電話機。[[1926年|大正15年(1926年)]]の「卓上電話機」。[[日本電気]]株式会社製。([[大正ロマン館]]の展示品) |File:Old japanese Telephone.JPG|ダイヤルパルス(回転ダイヤル)方式の電話機 |File:坑内電話.jpg|福岡の赤池炭鉱で使われていた坑内電話 |File:Kuroden(black telephone).jpg|2005年時点でも使われている[[黒電話]] }} ==== 1号電話機 ==== '''1号電話機'''は、[[1878年]](明治11年)に日本初の国産電話機として製造された。[[アメリカ合衆国]]において実用化されたばかりの[[AT&T|ベル電話機]]をもとに、日本で設計された国産第1号の電話機である。しかし、このモデルは長距離伝送には不向きな上、当時の日本の工業水準が低かったこともあり、実用的な性能を持たせることができなかった。1号電話機は41台で製造が打ち切られた。 その後、[[電池]]と[[継電器]](リレー)を用いて長距離通話を可能とした[[ガワーベル電話機]]がイギリスから輸入され、日本の一般電話の開設はこちらによって果たされた。 この時期の電話機の筐体は木製箱型であり、黒くはない。 ==== 2号電話機 ==== '''2号電話機'''は、[[1909年]](明治42年)、[[逓信省]]によって制式化・提供開始された。 ;卓上型 スタンド型の送話器に、独立したラッパ型受話器を受け止めるフックの付いた形態をしている。[[第二次世界大戦後]]のアメリカ映画などで有名になったスタイルだが、日本でも生産・使用されていたことは、一般にはあまり知られていない。塗装は黒だが、一般には「黒電話」の範疇には含まれない。 ;壁掛け型 木製の箱型筐体を持ち、ベル装置は上部に備え、正面に送話器を固定している。受話器は卓上型と同じく、独立したラッパ型受話器で、筐体右側面にフックが付いている。第2次世界大戦前後で日本の電話機といえば、このスタイルであった。 ;共電式 ガワーベル電話機の後、局呼び出しのための手回し発電機を備えた、'''デルビル磁石式電話機'''が輸入・国産化され、日本の電話機はほぼこれに統一されていた。しかし、磁石式電話機は伝送用に直流1次[[電池]]を使用し、これを端末(電話機)側に搭載していたため、定期的に交換が必要であり、保守面で手間がかかった。 そこで、線路に局側から48Vの電源を常時給電し、これを伝送・呼び出し用の電源として使用する'''共電式'''が登場し、端末数の多い都市部から、順次転換されていった。交換方式は手動だが、局呼び出しにも共用電流が使用され、受話器をはずす(オフフック)と、局側の交換手呼び出し装置(通常はランプ)が作動する仕組みであった。共電式は端末側の保守はほぼ不要となったが、当時は[[絶縁 (電気)|絶縁]]技術が未熟で導入初期においては漏電などのトラブルが多発した。2号電話機は、この共電式の採用に伴って開発、提供された。一方、共電式とならなかった地方の加入電話回線では、引き続きデルビル磁石式電話機が使用された。 ;自動式 都市部、特に首都である[[東京]]での電話加入者数の増加は著しかったが、従来の交換手が手作業で回線を接続する形態では、一層の増強が困難となった。 [[1923年]]([[大正]]12年)の[[関東大震災]]からの復旧を契機として、日本でもダイヤルパルス信号による自動交換方式を導入することとなり、1926年(大正15年)、東京に日本初の自動交換機が導入された。 この自動交換機用の電話機端末として、2号共電式電話機にダイヤル装置を備えた2号自動式電話機が開発された。 卓上型では、自動交換用の回路を全て内蔵することは現実的ではなかったため、ベル装置や一部の回路を木製の別筐体に収納した。ダイヤルは本体の正面に装備された。 壁掛け型はその点、筐体の容積に余裕があったため、全て一体の筐体内に収められた。しかし、正面面積がダイヤル取り付けに不足したため、サイズは天地方向に拡大された。 当初搭載された1号ダイヤル(5接点)では、ダイヤル中の伝送回路を完全に音声回路と切り離すことができず、大きな[[ノイズ]]が受話器に流れ込んだ。また、1号ダイヤルは、従前の共電式と同じ直流48Vを基礎に設計していたが、引き続いて横浜に投入されたH型自動交換機では、有効線路長の延長を目的として局電源を60Vに上げたため、絶縁不良を引き起こした。そのため、音声回路へのノイズを低減した、60・48V共用・6接点の2号ダイヤルが開発され、以降、小改良を加えつつ600形の登場まで標準形式として使用された。 ==== イ-660形自動式壁掛け電話機 ==== [[沖電気工業|沖電気]]で、施設の構内電話用として製造されていた電話機で、2号相当の性能を持っている。外観は制式の2号とは異なり、金属製筐体で、ベル装置も内蔵とするなど、後の3号に共通する特徴を持っていた(ただし、送受話器は2号と同じ形態である)。戦時中の物資不足に際して、沖電気の在庫から代用2号電話機として提供した。 ;電話機の普及度や位置づけ まだ単独電話加入権を持っていたのは法人格か、商家に限られ、電話機を持つ家が、周囲の住人が電話を必要とした際に貸し出していた。また、「電話の相手は訪問者と同じ」という考え方も根強かった。また、2号電話機の性能では、周囲に雑音の多いところでは会話が困難で、「電話室」と呼ばれる、木製の小型の個室を備えている場合も多かった。そのため、日本においては、電話機は玄関先におくものというスタイルが定着した。このスタイルでは、卓上型の利点はほとんどなく、従って、実際に使用された2号電話機のほとんどは壁掛け型であった。2号卓上型のスタイルが世間に認知されなかったのは、このためである。 しかし、大量に提供された2号壁掛け自動電話機は、戦後の回線数増強工事の前提とした伝送特性に対応しきれず通話に支障をきたすことになった。新型電話機への更新も台数不足でままならず、そのため3号電話機([[黒電話]])の部品を用いての改造を余儀なくされた。 ==== 黒電話 (3号、4号、600形、601形) ==== {{Main|黒電話}} 1933年(昭和8年)に逓信省によって日本国内で制式化された3号電話機から始まって、4号電話機、600形電話機、601形電話機は「黒電話」と呼ばれている。 === 電話機の自由化 === ;日本における端末設備(電話機)自由化の歴史 *1953年(昭和28年) 8月 - [[専用線]]・[[構内交換機]]・[[船舶]]に設置するものなどの端末設備を利用者が設置することができるようになった。 *1957年(昭和32年) 5月 - 日本電信電話公社からレンタルされた1台目の端末設備(電話機)の他に、切替式の付属電話として加入者が別の電話機を[[公衆交換電話網]]に設置することができるようになった。 *1958年(昭和33年) 7月 - [[地域団体加入電話]]が法制度化され、自営端末設備の設置が規定された。 *1969年(昭和44年)10月 - 集団電話が法制度化。 *1972年(昭和47年)11月 - [[データ通信]]等の非通話端末設備は自営による設置が原則となった。 *1985年(昭和60年) 4月 - [[電気通信端末機器審査協会]]で[[技術基準適合認定]]を受けたものかこれと同等とみなされた電話端末機器であれば公衆交換電話網に[[Registered jack|モジュラージャック]]で接続できることとなった。それにより、留守番電話・コードレス電話・ファクシミリなどの普及が促進された<ref>[https://www.ntt-east.co.jp/tekigou/history.html 端末機器の歴史] 東日本電信電話</ref>。 === 端末自由化以降の日本の電話機 === ==== 標準電話機 ==== [[ファイル:YUPITERU YP-S2.jpg|thumb|240px|コンパクトタイプの標準電話機の一例。本体は送受話器と一体になっている。写真下部の置き台はコードと電気的につながっていない]] 生産統計において'''標準電話機'''とは、基本的な機能のみを装備したものである。メーカーによっては'''ベーシックテレホン'''ということもあるが、送受話器と数字ボタンのみが装備された物もある。これらには'''シンプル電話'''等の呼び方もある。 * 基本的な機能 ** オンフックダイヤル ** [[スピーカー]]受話 ** リダイヤル ** 短縮ダイヤル・ワンタッチダイヤル ** 呼び出し音の音量変更 ** 受話音量調整 ** 通話保留機能・保留メロディ ** 状態表示灯点滅による呼び出し・状態表示 ** [[ダイヤルパルス|パルス]](ダイヤル回線)/[[DTMF|トーン]](プッシュ回線)の切り替え(トーンへの一時的な切り替えも含む) ** 発着信電話番号表示([[ナンバーディスプレイ]]) 標準電話機にはコンパクトなタイプのものもあり、送受話器と本体が一体となっていることもある。 ==== 多機能電話機 ==== [[生産統計]]において'''多機能電話機'''とは、標準電話機よりも多機能なものを指す。 * 機能の例 ** ワンタッチ・自動ダイヤル ** [[電話帳]]機能 ** 通話電話番号・時間記録機能 ** 転送機能 ** [[ハンズフリー・マイクロフォン]]接続 ** [[留守番電話]] ** [[内線電話]]・[[インターホン]]接続 ** [[コードレス電話]] ** [[防犯]]・[[防災]]用[[センサ]]接続、非常・異常通報機能 ** 簡易課金機能 以下の機能は、別の品目となっている。 * [[ファクシミリ]]([[複合機]]) * [[テレビ電話]] ==== 装飾電話機 ==== '''装飾電話機'''・'''ファッション電話機'''とは、機能よりも装飾性を重視した電話機である。電話敷設の初期から付加使用料を支払うことで利用できた。 端末設備自由化以降は、ダイヤルボタンが受話器側にあるものなど、デザインも多彩となった。 === 福祉電話機 === '''福祉電話機'''(NTTでは「シルバーホン」と呼称)とは、耳が聞こえにくい・手が不自由などの場合でも支障なく使用できるように工夫された電話機である。 * 着信音の周波数・音量変更(より低い音など聞き取り易いものへ) * フラッシュベル(光の点滅による着信通知) * 受話音量調節(「シルバーホンめいりょう」に装備 [[公衆電話]]にも組み込み) * 骨伝導受話器(「シルバーホンひびき」に装備) * 呼気スイッチ(「シルバーホンふれあい」に装備) * 頻繁にかける相手へのワンタッチダイヤルボタン(3か所まで)、“[[ナースコール]]”形の握りボタンを用いたワンタッチ非常通報(「シルバーホンあんしん」に装備) === 電話機開発メーカ(日本) === ※業務向けは[[ビジネスフォン]]、[[コードレス電話]]は当該記事を参照。 * [[日本電信電話|NTT]] - 子会社・[[東日本電信電話|NTT東日本]]により開発・製造 * [[シャープ]] * [[パイオニア]] - 子会社・[[オンキヨー&パイオニア]]により開発・製造 * [[パナソニック]] - 子会社[[ パナソニック システムソリューションズ ジャパン]]により開発・製造 生産中止 * [[三洋テクノソリューションズ鳥取|三洋電機コンシューマエレクトロニクス]] * [[ユニデンホールディングス]] === 日本における電話機設置場所の歴史 === 事務所では事務連絡に使用するため事務所に設置されていた。また、商店の店先に設置され、近所の電話のない家庭への呼出電話としても利用されていた。 家庭への普及の初期には、未契約世帯への呼出電話としての利用も引き続き多く、玄関先に設置されているのが一般的であった(1970年代頃までの[[住所録]]の電話番号欄に「~方呼出)」の記述があったりするのはこの名残)。多くの家庭に普及した後には、居間に設置されるようになった。また、親子電話(着信をスイッチで切り替えて秘話機能を持つ「切替式」と、1本の回線に2台が電気的にぶら下がっており秘話機能のない「ブランチ(分身)式」がある。更には[[構内交換機|PBX]]を用いた内線電話システム「ホームテレホン」も[[1970年代]]半ばに登場した)などで個室にも設置されるようになった。 == 特許 == * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=0174465 US 174,465] -- ''Telegraphy'' (Bell's first telephone patent) -- Alexander Graham Bell * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=0186787 US 186,787] -- ''Electric Telegraphy'' (permanent magnet receiver) -- Alexander Graham Bell * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=0474230 US 474,230] -- ''Speaking Telegraph'' (graphite transmitter) -- Thomas Edison * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=0203016 US 203,016] -- ''Speaking Telephone'' (carbon button transmitter) -- Thomas Edison * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=0222390 US 222,390] -- ''Carbon Telephone'' (carbon granules transmitter) -- Thomas Edison * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=0485311 US 485,311] -- ''Telephone'' (solid back carbon transmitter) -- Anthony C. White (Bell engineer) This design was used until 1925 and installed phones were used until the 1940s. * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=3449750 US 3,449,750] -- ''Duplex Radio Communication and Signalling Appartus'' -- G. H. Sweigert * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=3663762 US 3,663,762] -- ''Cellular Mobile Communication System'' -- Amos Edward Joel (Bell Labs) * [http://patft1.uspto.gov/netacgi/nph-Parser?patentnumber=3906166 US 3,906,166] -- ''Radio Telephone System'' (DynaTAC [[携帯電話|cell phone]]) -- Martin Cooper et al. (Motorola) == 電話機記号 == {{特殊文字|対象=節|説明=電話マーク}} しばしば、電話機の記号は電話番号を表示するために使われる([[電話マーク]])。[[Unicode]]には、{{JIS2004フォント|℡}}([[Unicode|U+]]2121)、{{JIS2004フォント|☎}}(U+260E)、{{Unicode|☏}}(U+260F)、{{Unicode|✆}}(U+2706) がある。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [https://books.google.co.jp/books?id=b7M5AnlZJYcC&printsec=frontcover&dq=The+Telephone+and+Its+Several+Inventors:+A+History&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=&f=false Coe, Lewis (1995), ''The Telephone and Its Several Inventors: A History'']. Jefferson, North Carolina: McFarland & Co., Inc. ISBN 0-7864-0138-9 * [https://books.google.co.jp/books?id=KiJJ7Bp-xtcC&printsec=frontcover&dq=The+Telephone+Patent+Conspiracy+of+1876:+The+Elisha+Gray+-+Alexander+Bell+Controversy&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=&f=false Evenson, A. Edward (2000), ''The Telephone Patent Conspiracy of 1876: The Elisha Gray - Alexander Bell Controversy'']. Jefferson, North Carolina: McFarland & Co., Inc. ISBN 0-7864-0883-9 * Baker, Burton H. (2000), ''The Gray Matter: The Forgotten Story of the Telephone''. St. Joseph, Michigan: Telepress. ISBN 0-615-11329-X * [https://books.google.co.jp/books?id=SnjGRDVIUL4C&printsec=frontcover&dq=The+Worldwide+History+of+Telecommunications&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=&f=false Huurdeman, Anton A. (2003), ''The Worldwide History of Telecommunications'']. Hoboken: New Jersey: [http://www.wiley.com/WileyCDA/Section/id-301635.html Wiley-IEEE Press]. ISBN 978-0-471-20505-0 * Josephson, Matthew (1992), ''Edison: A Biography''. Hoboken, New Jersey: [http://www.wiley.com/WileyCDA/ John Wiley & Sons, Inc.] ISBN 0-471-54806-5 * [https://books.google.co.jp/books?id=ZmR0MOQAu0UC&printsec=frontcover&dq=bruce+-+Alexander+Graham+Bell+and+the+Conquest+of+Solitude&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=&f=false Bruce, Robert V. (1990), ''Bell: Alexander Graham Bell and the Conquest of Solitude'']. Ithaca, New York: Cornell University Press. ISBN 0-8014-9691-8. * Todd, Kenneth P. (1998), [http://www.porticus.org/bell/capsule_bell_system.html ''A Capsule History of the Bell System'']. American Telephone & Telegraph Company (AT&T). == 関連項目 == * [[工事担任者]] : [[端末]]設備接続のための[[資格]]。 * [[電話回線]] : 電話機接続インターフェースなど。 * [[公衆電話]] : 公衆電話に使用される電話機など。 * [[固定電話]] : 加入電話の契約種別など。 * [[携帯電話]] * [[コードレス電話]] * [[テレビ電話]] * [[衛星電話]] * [[電気通信]] * [[DTMF]] * [[盗聴]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | wikt = no | q = no }} * [http://galbithink.org/telcos/early-telephone-data.htm Early U.S. Telephone Industry Data] * [http://www.1911encyclopedia.org/Telephone 1911 Britannica "Telephone" article]{{リンク切れ|date=2019年12月}} ** {{Wayback |url=http://www.1911encyclopedia.org/Telephone |date=20130528103229 |title=上記リンク切れページのアーカイブ }} * [http://www.sparkmuseum.com/TELEPHONE.HTM Virtual museum of early telephones] * [http://www.dougrice.plus.com/dougnapTheory/index.htm Modelling Telephone hybrids as 2 x 2 matrices ] * {{Kotobank}} {{normdaten}} {{デフォルトソート:てんわき}} [[Category:電話]] [[Category:電話機|*]] [[Category:通信機器]] [[Category:家電機器]]
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4,560
1月5日
1月5日(いちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から5日目に当たり、年末まであと360日(閏年では361日)ある。
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1月5日(いちがついつか)は、グレゴリオ暦で年始から5日目に当たり、年末まであと360日(閏年では361日)ある。
{{カレンダー 1月}} '''1月5日'''(いちがついつか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から5日目に当たり、年末まであと360日([[閏年]]では361日)ある。 == できごと == * [[1477年]] - [[ブルゴーニュ戦争]]: [[ナンシーの戦い]]<ref>{{Cite web |url=https://www.thoughtco.com/burgundian-wars-battle-of-nancy-2360745 |title=Burgundian Wars: Battle of Nancy |access-date=20 Feb 2023 |publisher=ThoughtCo. |language=En}}</ref>。[[ブルゴーニュ公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]が戦死し、[[ブルゴーニュ戦争]]が終結、[[ブルゴーニュ公国]]が消滅。 * [[1649年]] - [[ルイ14世 (フランス王)|ルイ十四世]]が[[パリ]]から脱出。同日、[[三十年戦争]]の勇者[[コンデ公|コンデ親王]]に指令が出され、パリ市包囲開始。 * [[1757年]] - [[ロベール=フランソワ・ダミアン]]がフランス王[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の[[暗殺]]未遂事件を起こす。 * [[1895年]] - [[ドレフュス事件]]: ドイツのスパイとして有罪判決が下った[[フランス陸軍]]大尉[[アルフレッド・ドレフュス]]が、[[不名誉除隊]]の上で[[デビルズ島]]に終身[[禁錮]]となる。 * [[1904年]] - [[大阪朝日新聞]]に「[[天声人語]]」が登場<ref>{{Cite web|和書 |url=https://info.asahi.com/choiyomi/cv/01/ |title=はじめての天声人語 |access-date=20 Feb 2023 |publisher=[[朝日新聞]]}}</ref>。 * [[1905年]] - [[日露戦争]]: 日本軍の[[乃木希典]]大将と[[ロシア軍]]の[[アナトーリイ・ステッセリ|ステッセリ]]中将が[[水師営]]で会見。 * [[1914年]] - [[フォード・モーター]]が従業員の[[8時間労働]]と日給5ドルの[[最低賃金]]導入を発表。 * 1914年 - [[定員]]の5倍を乗せていた駿河湾汽船「愛鷹丸」が 西南の激しい風に倒され転覆沈没した<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6661.html |title=2014年1月の周年災害/日本の災害・防災年表(「周年災害」リンク集) |access-date=20 Feb 2023 |publisher=防災情報新聞無料版}}</ref>。 * [[1919年]] - [[スパルタクス団蜂起]]<ref>{{Cite web |url=https://www.historytoday.com/archive/spartacist-uprising-berlin |title=The Spartacist Uprising in Berlin |access-date=20 Feb 2023 |publisher=HISTORY TODAY |language=En |work=(Published in History Today Volume 59 Issue 1 January 2009)}}</ref>。 * 1919年 - [[ドイツ労働者党]]([[国家社会主義ドイツ労働者党]]〈ナチス〉の前身)結成。 * [[1925年]] - [[ネリー・ロス]]が[[ワイオミング州]]知事に就任。初の女性州知事。 * [[1927年]] - 東京の[[日本相撲協会|日本大相撲協会]]が[[大阪相撲|大阪大角力協会]]を合併。 * [[1933年]] - [[ゴールデン・ゲート・ブリッジ]]の建設を開始。 * [[1939年]] - [[平沼内閣|平沼騏一郎内閣]]が発足。 * 1939年 - [[福井県]][[北西郷村]](現、[[美浜町 (福井県)|美浜町]])村の沖合で[[ブリ]]漁を行っていた[[伝馬船]]2隻が転覆。漁師55人が行方不明<ref>「遭難者は五十五人に、漁船転覆」『北国新聞』1939年1月7日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p.682 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 * [[1940年]] - [[北海道大学]]山岳部部員が日高山系[[ペテガリ岳]]で[[雪崩]]に遭遇。8人が死亡。 * [[1948年]] - [[名鉄瀬戸線脱線転覆事故]]が発生。39人が死亡、200人が負傷<ref>{{Cite book |和書 |editor=日外アソシエーツ編集部 |title=日本災害史事典 1868-2009 |publisher=日外アソシエーツ |year=2010-09-27 |page=67 |isbn=9784816922749}}</ref>。 * [[1950年]] - 日本人の海外渡航手続きが[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]から日本政府に移管。 * [[1955年]] - スクリーンの横縦比2.88:1の[[画面アスペクト比#スコープサイズ|シネラマ]]が[[東京都|東京]]の[[帝国劇場]]で初公演。 * [[1956年]] - [[モナコ]]大公[[レーニエ3世]]と女優[[グレース・ケリー]]との婚約が発表される。 * [[1963年]] - [[三八豪雪]]:秋田沖で猛烈に発達した[[低気圧]]により各地で被害。この日以降、日本海側が大雪となり連日鉄道が運休。 * [[1964年]] - [[ローマ教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]と[[コンスタンディヌーポリ全地総主教]][[アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教)|アシナゴラス1世]]が会談。東西教会が[[東西教会の分裂|分裂]]以来1000年ぶりに和解へ。 * [[1968年]] - [[チェコスロバキア]]で[[チェコスロバキア共産党|共産党]]第一書記に[[アレクサンデル・ドゥプチェク]]が就任。「[[プラハの春]]」が始まる<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/biography/Alexander-Dubcek |title=Alexander Dubček|Czechoslovak statesman |access-date=20 Feb 2023 |publisher=Britannica}}</ref>。 * [[1969年]] - 大型ばら積み貨物船「[[ぼりばあ丸]]」が[[千葉県]][[野島崎]]沖で船体が二つに折れ、沈没。(ぼりばあ丸ショック) * [[1970年]] - [[公明党]]の[[竹入義勝]]委員長と[[矢野絢也]]書記長が、前年からの[[創価学会]]を含めた[[言論出版妨害事件]]をめぐって記者会見を行い、出版妨害の事実を全面否定。 * [[1972年]] - 米大統領[[リチャード・ニクソン]]が[[スペースシャトル]]計画を進行させることを正式に決定。 * [[1974年]] - 「[[日中貿易協定]]」調印。 * 1974年 - 職を失った東京[[山谷 (東京都)|山谷]]の労務者が台東区役所に押しかけて団交を行い、[[生活保護]]手当を獲得。 * [[1976年]] - [[民主カンボジア]]が国名を「民主カンプチア」に変更。 * [[1980年]] - [[ヒューレット・パッカード]]社が同社初の[[パーソナルコンピュータ]]を発表。 * [[1982年]] - [[大韓民国|韓国]]で独立以来34年ぶりに[[夜間外出禁止令]]が解除。 * [[1984年]] - [[中曽根康弘]]首相が[[靖国神社問題|靖国神社に参拝]]。現職首相の年頭参拝は戦後初。 * [[1988年]] - [[六本木]]の[[ディスコ]]「[[トゥーリア (ディスコ)|トゥーリア]]」で照明器具が落下し、3人が死亡、14人負傷。([[六本木ディスコ照明落下事故]]) * [[1996年]] - [[村山富市]]首相が臨時閣議で退陣を表明。 * [[2001年]] - [[Linux]] 2.4.0 リリース。 * [[2005年]] - [[準惑星]][[エリス (準惑星)|エリス]]が発見される。 * [[2007年]] - [[台湾高速鉄道]]([[板橋駅 (新北市)|板橋駅]] - [[新左営駅|左営駅]])が試験営業開始。 * 2007年 - [[貴志駅|和歌山電鐵貴志駅]]の駅長に[[三毛猫]]の「[[たま (猫の駅長)|たま]]」が就任<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.asahi.com/national/gallery/20150624_tamacat/20070105OWKA0016AGMC.html |title=さよなら三毛猫「たま駅長」 |access-date=20 Feb 2023 |publisher=[[朝日新聞]]}}</ref>。 * [[2008年]] - [[ジョージア (国)|グルジア]]大統領選挙で、現職のミハイル・サアカシビリが再選される。 == 誕生日 == [[Image:Portrait of the emperor Shajahan, enthroned..jpg|thumb|upright|ムガル帝国第5代皇帝、タージ・マハルの建造者、[[シャー・ジャハーン]](1592-1666)]] [[Image:Umberto Eco 01.jpg|thumb|upright|イタリアの記号論哲学者、小説家、[[ウンベルト・エーコ]](1932-2016)]] [[Image:Hayao Miyazaki.jpg|thumb|upright|日本のアニメ映画監督、[[宮崎駿]](1941-)]] [[Image:Diane Keaton by Firooz Zahedi.jpg|thumb|upright|アメリカのアカデミー賞受賞女優、[[ダイアン・キートン]](1947-)]] * [[1209年]] - [[リチャード (コーンウォール伯)|リチャード]]、[[コーンウォール]]伯(+ [[1272年]]) * [[1592年]] - [[シャー・ジャハーン]]、[[ムガル帝国]]皇帝(+ [[1666年]]) * [[1762年]] - [[コンスタンツェ・モーツァルト]]、作曲家[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]の妻(+ [[1842年]]) * [[1767年]] - [[ジャン=バティスト・セイ]]、[[経済学者]](+ [[1832年]]) * [[1772年]] - [[バルタザール・カンペンガウゼン]]、[[政治家]](+ [[1823年]]) * [[1779年]] - [[ゼブロン・パイク]]、[[探検家]](+ [[1813年]]) * [[1818年]]([[文化 (元号)|文化]]14年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[大久保一翁]]、[[幕臣]]、[[政治家]](+ [[1888年]]) * [[1838年]] - [[カミーユ・ジョルダン]]、[[数学者]](+ [[1922年]]) * [[1846年]] - [[ルドルフ・クリストフ・オイケン]]、[[哲学者]](+ [[1926年]]) * [[1849年]] - [[ジェスロ・ティール]]、[[地質学者]](+ [[1924年]]) * [[1855年]] - [[キング・キャンプ・ジレット]]、[[実業家]]、[[発明家]]、[[ジレット]]創業者(+ [[1932年]]) * [[1864年]] - [[バン・ジョンソン]]、[[アメリカン・リーグ]]初代会長(+ [[1931年]]) * 1864年 - [[ボブ・カラザーズ]]、[[プロ野球選手]](+ [[1911年]]) * [[1866年]] - [[ラモン・カザス]]、[[画家]](+ [[1932年]]) * [[1870年]] - [[ビル・ダーレン]]、プロ野球選手(+ [[1950年]]) * [[1874年]] - [[ジョセフ・アーランガー]]、[[生理学者]](+ [[1965年]]) * [[1876年]] - [[コンラート・アデナウアー]]、[[西ドイツ]]首相(+ [[1967年]]) * [[1880年]] - [[ニコライ・メトネル]]、[[作曲家]](+ [[1951年]]) * [[1885年]] - [[山本実彦]]、ジャーナリスト(+[[1952年]]) * [[1887年]] - [[バーナード・リーチ]]、[[陶芸|陶芸家]]、[[画家]](+ [[1979年]]) * [[1888年]] - [[ラウリ・ピカラ]]、[[ペサパッロ]]考案者(+ [[1981年]]) * [[1890年]] - [[ベニー・カウフ]]、プロ野球選手(+ [[1961年]]) * [[1891年]] - [[浅沼誉夫]]、プロ野球監督(+ [[1944年]]) * [[1897年]] - [[三木清]]、[[哲学者]](+ [[1945年]]) * 1897年 - [[小出正吾]]、児童文学作家(+[[1990年]]) * [[1900年]] - [[イヴ・タンギー]]、[[画家]](+ [[1955年]]) * [[1903年]] - [[田宮博]]、[[生理学者]](+ [[1984年]] * [[1905年]] - [[片岡球子]]、画家(+ [[2008年]]) * [[1907年]] - [[佐藤寛子 (首相夫人)|佐藤寛子]]、[[内閣総理大臣]][[佐藤栄作]]の妻(+ [[1987年]]) * 1907年 - [[ボルマリ・イソ=ホロ]]、[[陸上競技選手一覧|陸上選手]](+ [[1969年]]) * [[1908年]] - [[佐藤次郎]]、[[テニス]]選手(+ [[1934年]]) * 1908年 - [[長岡輝子]]、女優、演出家(+[[2010年]]) * [[1909年]] - [[スティーヴン・コール・クリーネ]]、数学者(+ [[1994年]]) * 1909年 - [[進藤武松]]、[[彫刻家]](+ [[2000年]]) * [[1911年]] - [[ジャン=ピエール・オーモン]]、[[俳優]](+ [[2001年]]) * [[1915年]] - [[石井輝司]]、実業家、[[大正製薬]]2代目社長(+[[1996年]]) * [[1916年]] - [[赤根谷飛雄太郎]]、プロ野球選手(+ [[1969年]]) * [[1917年]] - [[ヴィーラント・ワーグナー]]、[[演出家]](+ [[1966年]]) * 1917年 - [[ジェーン・ワイマン]]、女優(+ [[2007年]]) * 1917年 - [[片山栄次]]、プロ野球選手(+ 没年不詳) * 1917年 - [[家村相太郎]]、プロ野球選手(+ [[2005年]]) * [[1918年]] - [[古茂田守介]]、[[洋画家]](+ [[1960年]]) * [[1919年]] - [[セヴェリーノ・ガッゼローニ]]、[[フルート奏者]](+ [[1992年]]) * 1919年 - [[相原守]]、元プロ野球選手 * [[1920年]] - [[アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ]]、[[ピアニスト]](+ [[1995年]]) * [[1921年]] - [[土井勝]]、[[料理研究家]](+ [[1995年]]) * 1921年 - [[松本英一 (参議院議員)|松本英一]]、実業家、政治家(+[[1994年]]) * 1921年 - [[ジャン (ルクセンブルク大公)|ジャン]]、[[ルクセンブルク大公]](+ [[2019年]]) * [[1923年]] - [[文野朋子]]、[[俳優|女優]](+ [[1987年]]) * [[1925年]] - [[内田喜久]]、政治家 * 1925年 - [[和田貞夫]]、政治家(+ [[2016年]]) * [[1927年]] - [[村上昭夫]]、詩人(+ [[1968年]]) * 1927年 - [[萩原昭]]、プロ野球選手(+ [[1993年]]) * [[1928年]] - [[ズルフィカール・アリー・ブットー]]、[[パキスタン]]首相(+ [[1979年]]) * 1928年 - [[ウォルター・モンデール]]、第42代[[アメリカ合衆国副大統領]](+ [[2021年]]) * [[1929年]] - [[岸田衿子]]、詩人、[[童話]][[作家]](+ [[2011年]]) * [[1930年]] - [[石塚睦]]、天文学者(+[[2018年]]) * [[1931年]] - [[ロバート・デュヴァル]]、俳優 * 1931年 - [[アルフレート・ブレンデル]]、ピアニスト * [[1932年]] - [[ウンベルト・エーコ]]、[[哲学者]]、[[小説家]](+ [[2016年]]) * 1932年 - [[宜保愛子]]、自称霊能者(+ [[2003年]]) * 1932年 - [[戸山為夫]]、[[調教師]](+ [[1993年]]) * 1932年 - [[ライサ・ゴルバチョワ]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]の夫人(+ [[1999年]]) * [[1933年]] - [[堀尾輝久]]、教育学者、[[東京大学]][[名誉教授]] * 1933年 - [[米山光男]]、元プロ野球選手 * [[1934年]] - [[深澤武久]]、裁判官、弁護士 * 1934年 - [[玉置宏]]、[[司会|司会者]](+ [[2010年]]) * [[1935年]] - [[人見武雄]]、元プロ野球選手 * 1935年 - [[植村義信]]、元プロ野球選手(+ [[2023年]]) * 1935年 - [[光岡早苗]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://thetv.jp/person/0000018869/ |title=三岡早苗 |access-date=3 May 2023 |publisher=[[KADOKAWA|KADOKAWA CORPORATION]] |website=[[WEBザテレビジョン]]}}</ref>、女優 * 1935年 - [[加納時男]]、政治家(+ [[2017年]]) * [[1936年]] - [[浜慎二]]、[[ホラー漫画|ホラー漫画家]] * [[1937年]] - [[桑田武]]、プロ野球選手(+ [[1991年]]) * 1937年 - [[川原政数]]、元プロ野球選手 * [[1938年]] - [[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]、[[スペイン]]国王 * 1938年 - [[坂崎一彦]]、プロ野球選手(+ [[2014年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanspo.com/article/20140130-233EIJE4YZI4NHE32CJ6VPC23Q/ |title=元巨人・坂崎一彦さん死去 天覧試合で長嶋とアベック弾 |publisher=[[サンケイスポーツ]] |date=2014-01-30 |accessdate=20 Feb 2023 |website=SANSPO.COM}}</ref>) * 1938年 - [[グギ・ワ・ジオンゴ]]、作家 * [[1939年]] - [[福塚勝哉]]、元プロ野球選手 * 1939年 - [[井奥貞雄]]、国会議員 * [[1940年]] - [[重松省三]]、元プロ野球選手 * 1940年 - [[丸山完二]]、元プロ野球選手 * 1940年 - [[石田稔]]、実業家 * [[1941年]] - [[宮崎駿]]、映画監督 * 1941年 - [[竹田利秋]]、高校野球指導者 * [[1942年]] - [[マウリツィオ・ポリーニ]]、ピアニスト * [[1943年]] - [[沢村忠]]、[[キックボクサー]](+ [[2021年]]) * 1943年 - [[安房直子]]、[[児童文学作家]](+ [[1993年]]) * 1943年 - [[長嶋亜希子]]、[[長嶋茂雄]]夫人(+ [[2007年]]) * [[1944年]] - [[山元宗]]、政治家、[[教育者]] * [[1945年]] - [[佐藤一誠]]、元プロ野球選手 * 1945年 - [[安田侃]]、彫刻家 * 1945年 - [[三上元]]、政治家 * [[1946年]] - [[元田昌義]]、元プロ野球選手 * 1946年 - [[長谷川和彦]]、[[映画監督]]、[[脚本家]] * 1946年 - [[ダイアン・キートン]]、[[俳優|女優]] * 1946年 - [[寬仁親王]]、[[皇族]](+ [[2012年]]) * [[1947年]] - [[石川好]]、[[ノンフィクション作家]] * 1947年 - [[高田美和]]、女優、[[歌手]] * 1947年 - [[石橋博良]]、[[ウェザーニューズ|ウェザーニュース]][[創業者]]及び同社元取締役会長(+ [[2010年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2402V_U0A520C1CC1000/ |title=石橋博良・ウェザーニューズ創業者が死去 |access-date=20 Feb 2023 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=24 May 2010}}</ref>) * [[1948年]] - [[高橋三千綱]]、[[小説家]](+ [[2021年]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://tanemaki.iwanami.co.jp/posts/5418 |title=作家、高橋三千綱の生き様(高橋奈里) |access-date=20 Feb 2023 |publisher=[[岩波書店]] |date=24 Dec 2021}}</ref>) * 1948年 - [[西松遙]]、実業家 * 1948年 - [[チャーリー・ハフ]]、元プロ野球選手 * [[1949年]] - [[五百蔵洋一]]、[[弁護士]] * 1949年 - [[エーリヒ・ブック]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1949年 - [[平林二郎]]、元プロ野球選手 * [[1950年]] - [[クシストフ・ヴィエリツキ]]、登山家 * 1950年 - [[永松潔]]、[[漫画家]] * 1950年 - [[三浦善司]]、実業家 * 1950年 - [[辻正孝]]、元プロ野球選手 * [[1951年]] - [[桂小文枝 (4代目)|四代目 桂小文枝]]、[[落語家]] * [[1955年]] - [[渡辺えり]]、女優、[[劇作家]]、[[演出家]] * 1955年 - [[澤和樹]]、バイオリニスト * [[1956年]] - [[榎木孝明]]、俳優 * 1956年 - [[陳建一]]、[[中華料理]]([[四川料理]])の[[シェフ|料理人]]、[[調理師]]、[[料理研究家]](+ [[2023年]]<ref>{{Cite web|和書 |title=“中華の鉄人”陳建一さん、67歳で死去 昨年12月まで厨房に立つも年明けから療養生活 |url=https://encount.press/archives/430028/ |website=ENCOUNT |access-date=2023-03-14 |language=ja}}</ref>) * 1956年 - [[鬼嶋一司]]、元野球選手、実業家 * [[1958年]] - [[八神純子]]、[[シンガーソングライター]] * [[1959年]] - [[安藤光彰]]、[[騎手]] * 1959年 - [[片山恭一]]、[[小説家]] * 1959年 - [[高見恭子]]、[[タレント]] * 1959年 - [[森田信吾]]、漫画家 * 1959年 - [[クランシー・ブラウン]]、俳優、声優 * [[1960年]] - [[三橋栄三郎]]、元バレーボール選手 * 1960年 - [[藤巻幸大]]、実業家(+ [[2014年]]) * 1960年 - [[飯塚まもる]]、シンガーソングライター * 1960年 - [[大石岳志]]、アナウンサー * [[1961年]] - [[千葉暁]]、小説家、雑誌編集者 * 1961年 - [[吉竹春樹]]、元プロ野球選手 * 1961年 - [[ヘンリー・コトー]]、元プロ野球選手 * 1961年 - [[沖泰司]]、元プロ野球選手 * [[1962年]] - [[賀萬里]]、[[美術家]] * 1962年 - [[植竹英次]]、放送作家 * [[1963年]] - [[三遊亭萬窓]]、落語家 * 1963年 - [[手塚一志]]、パフォーマンスコーディネーター * 1963年 - [[姜文]]、[[俳優]]、[[映画監督]] * [[1964年]] - [[千疋美徳]]、元サッカー選手・指導者 * [[1965年]] - [[佐久間レイ]]<ref>{{Twitter status|kinro_ntv|949113331679293440}}</ref>、[[声優]] * 1965年 - [[岡元次郎]]、俳優 * [[1966年]] - [[天野由梨]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.artsvision.co.jp/talent/63/ |title=天野 由梨 |access-date=20 Feb 2023 |publisher=[[アーツビジョン]]}}</ref>、声優 * [[1967年]] - [[森淳一]]、映画監督 * 1967年 - [[松井雪子]]、漫画家 * 1967年 - [[フレドリック・ノルドストローム]]、[[音楽プロデューサー]]、[[レコーディング・エンジニア]]、[[ヘヴィメタル]][[ミュージシャン]]家 * [[1968年]] - [[水野俊平]]、言語学者 * 1968年 - [[瀧川一郎]]、[[ギタリスト]][[ミュージシャン]] * 1968年 - [[朝日昇]]、総合格闘 * 1968年 - [[谷下和人]]、プロ野球選手(+ [[2008年]]) * [[1969年]] - [[マリリン・マンソン]]、ハードロック歌手 * 1969年 - [[川尻哲郎]]、元プロ野球選手 * 1969年 - [[シェー・ウィガム]]、俳優 * [[1970年]] - [[田中敏弘]]、元野球選手 * [[1971年]] - [[黒田硫黄]]、漫画家 * 1971年 - [[高田万由子]]、タレント * 1971年 - [[服部幸男]]、[[競艇選手]] * [[1972年]] - [[楠本柊生]]、[[演出家]]、[[劇作家]]、[[脚本家]]、[[俳優]] * [[1973年]] - [[櫻井淳子]]、女優 * 1973年 - [[宮澤篤司]]、[[歌手]](+ [[2022年]]) * [[1974年]] - [[吉江豊]]、プロレスラー * [[1975年]] - [[ブラッドリー・クーパー]]、[[俳優]] * 1975年 - [[阪本晋治]]、[[空手家]] * 1975年 - [[沙羅 (ストリッパー)|沙羅]]、[[ストリッパー一覧|ストリッパー]] * [[1976年]] - [[ケビン・ウィット]]、元プロ野球選手 * 1976年 - [[ディエゴ・トリスタン]]、[[サッカー|サッカー選手]] * 1976年 - [[浅沼晋太郎]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://ddl-ltd.co.jp/asanumashintarou.html |title=浅沼 晋太郎 |accessdate=20 Feb 2023 |publisher=dandelion}}</ref>、声優、俳優、脚本家 * 1976年 - [[瀬戸カトリーヌ]]、女優 * 1976年 - [[藤本隆行]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://www.ff.e-mansion.com/~sekapuri/fujimopro.html |title=Profileプエル |publisher=ふじもプエル+ |accessdate=20 Feb 2023}}</ref>、ナレーター、声優 * [[1977年]] - [[矢沢ようこ]]、元[[AV女優]] * 1977年 - [[エリック・ヤング (投手)|エリック・ヤング]]、元プロ野球選手 * [[1978年]] - [[是近敦之]]、俳優 * 1978年 - [[園山真希絵]]、タレント、料理研究家 * [[1979年]] - [[安部智子]]、実業家 * 1979年 - [[田中雅美]]、元水泳選手 * 1979年 - [[中村明日美子]]、漫画家 * 1979年 - [[元ちとせ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.office-augusta.com/hajime/profile/index.html |title=Profile 元 ちとせ(はじめちとせ) |access-date=20 Feb 2023 |publisher=元ちとせ Official Website}}</ref>、[[歌手]] * 1979年 - [[藤崎ルキノ]]、女優、歌手 * [[1980年]] - [[生駒夕紀子]]、[[アナウンサー]] * 1980年 - [[天空宇宙流]]、漫画家 * 1980年 - [[セバスティアン・ダイスラー]]、元サッカー選手 * 1980年 - [[大石昌良]]、シンガーソングライター * [[1981年]] - [[大久保卓朗]]、俳優 * [[1982年]] - [[塚田真希]]、柔道家 * 1982年 - [[青木宣親]]、プロ野球選手 * 1982年 - [[ドゥシャン・ルジック]]、プロ野球選手 * [[1983年]] - [[鈴木義広]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[アーロム・バルディリス]]、元プロ野球選手 * 1983年 - [[橘田恵]]、[[野球選手]] * 1983年 - [[君塚大輔]]、プロバスケットボール選手 * 1983年 - [[梶田宙]]、元プロ野球選手 * [[1984年]] - [[長澤奈央]]、女優、タレント、歌手 * 1984年 - みく、ミュージシャン([[アンティック-珈琲店-]]) * 1984年 - [[ライアン・オメラ]]、フィギュアスケート選手 * [[1985年]] - [[小出由華]]、元子役、タレント、女優、モデル * [[1986年]] - [[小池徹平]]<ref>{{Cite web |url=https://teppei.fanmo.jp/profile.php |title=PROFILE |access-date=20 Feb 2023 |publisher=小池徹平 OFFICIAL WEB SITE}}</ref>、タレント、歌手 * 1986年 - [[鈴木貴子 (政治家)|鈴木貴子]]、政治家 * 1986年 - [[J.P.アレンシビア]]、元プロ野球選手 * 1986年 - [[津村明秀]]、騎手 * 1986年 - [[沖樹莉亜]]、[[ファッションモデル]] * 1986年 - [[ディーピカー・パードゥコーン]]、女優、ファッションモデル * [[1989年]] - [[府金重哉]]、俳優 * 1989年 - [[大畠美咲]]、元プロレスラー * 1989年 - [[エドゥアルド・エスコバー]]、プロ野球選手 * [[1990年]] - [[高原愛]]、ファッションモデル * 1990年 - [[ホセ・イグレシアス]]、プロ野球選手 * 1990年 - [[C.J.クロン]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[国山ハセン]]、元アナウンサー * 1991年 - [[森遥香]]、フリーアナウンサー * 1991年 - [[土屋ひかる]]、ファッションモデル * 1991年 - [[岡田良菜]]、元スノーボード選手 * 1991年 - [[馬越幸子]]、女優、モデル、俳優 * 1991年 - [[イヴァン・ヴォロブエフ]]、アイスダンス選手 * [[1992年]] - [[寺田光輝]]、元プロ野球選手 * [[1993年]] - [[中谷将大]]、プロ野球選手 * 1993年 - [[中村太一]]、サッカー選手 * 1993年 - [[岡本りん]]、タレント * [[1994年]] - [[岡田怜志]]、俳優、タレント * [[1995年]] - [[齋藤友貴哉]]、プロ野球選手 * [[1996年]] - [[エマ・ボルジャー]]、女優 * 1996年 - 長谷川あかり<ref>{{Twitter status|akari_hasegawa|1478625068330926081}}</ref>、元子役、元女優 * 1996年 - [[るいか]]、モデル、グラビアアイドル * 1996年 - [[谷真理佳]]、アイドル([[SKE48]]) * [[1997年]] - [[尾中琴美]]、女優 * [[1998年]] - [[飯豊まりえ]]、女優、モデル * 1998年 - [[カルレス・アレニャ]]、サッカー選手 * 1998年 - [[佐藤ちひろ]]、アナウンサー * 1998年 - [[中川大輔 (俳優)|中川大輔]]、俳優、モデル * 1998年 - [[チェン・タンジー]]、[[マレーシア]]の[[バドミントン]]選手 * [[1999年]] - [[龍田美咲]]、元プロ野球選手 * [[2000年]] - [[吉本ここね]]、ゴルファー * 2000年 - [[増子敦貴]]、俳優 * 2000年 - [[青木陽菜]]、声優 * [[2001年]] - [[春名真依]]、タレント、アイドル(元[[たこやきレインボー]]) * 2001年 - [[五十嵐夢羽]]、アイドル([[RYUTist]]) * 2001年 - [[小泉遥香]]、アイドル、女優 * [[2005年]]- [[本島純政]]、俳優 * [[2009年]] - [[込江大牙]]、子役 * [[2011年]] - [[稲垣来泉]]、子役、モデル、女優 * 生年不明 - [[藤沢カミヤ]]、漫画家 * 生年不明 - [[叶一華]]、声優 * 生年不明 - [[奥井ゆうこ]]<ref>{{Cite web|和書 |url=http://aslead-voice.jp/yuko_okui.html |title=奥井ゆうこ |access-date=20 Feb 2023 |publisher=Aslead company.}}</ref>、声優 == 忌日 == === 人物 === * [[1066年]] - [[エドワード懺悔王]]、[[イングランド王国|イングランド王]](* [[1004年]]頃) * [[1465年]] - [[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル・ド・ヴァロワ]]、[[フランス王国|フランス]]の貴族、王族(* [[1394年]]) * [[1477年]] - [[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]<ref>{{Cite web |title=Charles {{!}} duke of Burgundy |url=https://www.britannica.com/biography/Charles-duke-of-Burgundy |website=Britannica |access-date=2023-02-20 |language=en}}</ref>、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]](* [[1433年]]) * [[1517年]] - [[フランチェスコ・フランチャ]]、[[画家]](* [[1450年]]頃) * [[1589年]] - [[カトリーヌ・ド・メディシス]]、フランス国王[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]王妃(* [[1519年]]) * [[1634年]]([[寛永]]10年[[12月6日 (旧暦)|12月6日]]) - [[徳川忠長]]、[[駿府藩|駿府藩主]](* [[1606年]]) * [[1731年]]([[享保]]15年[[11月27日 (旧暦)|11月27日]]) - [[徳川継友]]、第6代[[尾張藩|尾張藩主]](* [[1692年]]) * [[1740年]] - [[アントニオ・ロッティ]]、[[作曲家]](* [[1667年]]) * [[1762年]] - [[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]]、[[ロシア帝国|ロシア]]の[[ツァーリ]](* [[1709年]]) * [[1855年]] - [[ポラック・ミハーリ]]、建築家(* [[1773年]]) * [[1858年]] - [[ヨーゼフ・ラデツキー]]、[[オーストリア]]軍人、[[ロンバルド=ヴェネト王国]]総督(* [[1766年]]) * [[1888年]] - [[アンリ・エルツ]]、[[ピアニスト]]、[[作曲家]](* [[1803年]]) * [[1910年]] - [[レオン・ワルラス]]、[[経済学者]](* [[1834年]]) * [[1915年]] - [[永倉新八]]、[[新撰組]]隊士(* [[1839年]]) * [[1919年]] - [[松井須磨子]]、[[俳優|女優]](* [[1886年]]) * [[1922年]] - [[アーネスト・シャクルトン]]、[[探検家]](* [[1874年]]) * [[1933年]] - [[カルビン・クーリッジ]]、第30代[[アメリカ合衆国大統領]](* [[1872年]]) * [[1941年]] - [[エミー・ジョンソン]]、女性[[パイロット (航空)|パイロット]](* [[1903年]]) * [[1943年]] - [[ジョージ・ワシントン・カーヴァー]]、[[植物学|植物学者]](* [[1864年]]) * [[1947年]] - [[永野修身]]、日本の[[海軍大臣]]、[[連合艦隊司令長官]]、[[軍令部|軍令部長]](* [[1880年]]) * [[1952年]] - [[西川正治]]、[[結晶学]]者(* [[1884年]]) * [[1954年]] - [[ラビット・モランビル]]、[[プロ野球選手]](* [[1891年]]) * [[1958年]] - [[湯浅禎夫]]、[[プロ野球監督]](* [[1902年]]) * [[1962年]] - [[ペル・トーレン]]、[[フィギュアスケート]]選手(* [[1885年]]) * [[1963年]] - [[ロジャース・ホーンスビー]]、プロ野球選手(* [[1896年]]) * [[1965年]] - [[芳沢謙吉]]、[[外交官]](* [[1874年]]) * [[1970年]] - [[マックス・ボルン]]、[[物理学者]](* [[1882年]]) * 1970年 - [[ロベルト・ジェラール]]、[[作曲家]](* [[1896年]]) * [[1978年]] - [[濱田庄司]]、[[陶芸家]](* [[1894年]]) * [[1979年]] - [[チャールズ・ミンガス]]、[[ベーシスト]](* [[1922年]]) * [[1981年]] - [[ハロルド・ユーリー]]、[[化学者]](* [[1893年]]) * 1981年 - [[ジェームズ・マーティン (エンジニア)|ジェームズ・マーティン]]、[[技術者]]、[[企業家]](* [[1893年]]) * [[1988年]] - [[ピート・マラビッチ]]、[[バスケットボール]]選手(* [[1947年]]) * [[1994年]] - [[大西民子]]、[[歌人]](* [[1924年]]) * [[1995年]] - [[福地泡介]]、[[漫画家]](* [[1937年]]) * 1995年 - [[和達清夫]]、[[地球物理学|地球物理学者]]、[[歌人]](* [[1902年]]) * [[1996年]] - [[川村晃]]、[[小説家]](* [[1927年]]) * [[1996年]] - [[ダニー・ホワイト (歌手)|ダニー・ホワイト]]、[[ニューオーリンズ]]の[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]歌手(* [[1931年]]) * [[1997年]] - [[ヴェロ・コプナー・ウィン=エドワーズ]]、[[動物行動学|動物行動学者]](* [[1906年]]) * [[1998年]] - [[ゲオルギー・スヴィリードフ]]、[[作曲家]](* [[1915年]]) * [[2000年]] - [[小島剛夕]]、漫画家(* [[1928年]]) * [[2002年]] - [[広岡知男]]、[[野球選手]]、[[日本学生野球協会]]会長、[[日本アマチュア野球連盟]]会長(* [[1907年]]) * [[2006年]] - [[三浦敬三]]、プロスキーヤー(* [[1904年]]) * [[2007年]] - [[安藤百福]]、[[日清食品]]創業者(* [[1910年]]) * 2007年 - [[松川博爾]]、プロ野球選手(* [[1926年]]) * [[2008年]] - [[宮崎奕保]]、[[曹洞宗]][[大本山]][[永平寺]]78世貫首(* [[1901年]]) * [[2011年]] - [[山下敬二郎]]、[[ロカビリー]]歌手(* [[1939年]]) * [[2012年]] - [[林光]]、[[作曲家]](* [[1931年]]) * [[2014年]] - [[森本哲郎]]、[[評論家]](* [[1925年]]) * 2014年 - [[エウゼビオ]]、サッカー選手(* [[1942年]]) * [[2015年]] - [[吉行あぐり]]、[[美容師]](* [[1907年]]) * 2015年 - [[ジャン=ピエール・ベルトワーズ]]、[[自動車競技|レーシングドライバー]](* [[1937年]]) * [[2016年]] - [[ピエール・ブーレーズ]]、作曲家・指揮者(* [[1925年]]) * [[2018年]] - [[津田延代]]、声優(* [[1921年]]) * [[2019年]] - [[杉原正顯]]、[[数値解析]]研究者、[[名古屋大学]]・[[東京大学]]名誉教授(* [[1954年]]) * [[2021年]] - [[コリン・ベル]]、サッカー選手(* [[1946年]]) * 2021年 - [[ジョージ・ブレー]]、[[心理学者]](* [[1952年]]) === 人物以外(動物など) === * 2006年 - [[アローキャリー]]、[[競走馬]](* [[1999年]]) * [[2022年]] - [[ワグネリアン (競走馬)|ワグネリアン]]、競走馬(* [[2015年]])<ref>{{Cite web|和書 |title=18年ダービー馬ワグネリアンが急死 多臓器不全のため |url=https://www.daily.co.jp/horse/2022/01/06/0014965487.shtml |website=[[デイリースポーツ]] |date=6 Jan 2023 |accessdate=20 Feb 2023}}</ref> == 記念日・年中行事 == * [[小寒]]({{JPN}}、2006年・2009年・2010年・2022年) *: [[二十四節気]]の1つ。太陽の黄経が285度の時で、寒さが最も厳しくなる前の時期。 * [[新年宴会]]({{JPN}}、[[1874年]] - [[1948年]]) *: 天皇が皇族・親任官・外国使臣など招待して新年を祝う宴会を行った。 * [[囲碁]]の日({{JPN}}) *: [[日本棋院]]が提唱。「い(1)ご(5)」の語呂合せ。 * [[紬]]の日({{JPN}}) *: [[名瀬市]](現 [[奄美市]])で[[1978年]]から実施。名瀬市ではこの日に[[成人式]]を行うことから、市民皆が特産の奄美大島紬の着物を着てその良さを再認識しようと制定された。 * [[市場|魚河岸]]初競り({{JPN}}) * ホームセキュリティの日({{JPN}}) *: 警備保障会社として[[1962年]](昭和37年)に日本で初めて創業したセコム株式会社が[[1981年]](昭和56年)1月5日に発売した「ホームセキュリティシステム」は、2014年(平成26年)6月に契約数が100万軒を突破。家庭の「安全・安心」を見直してもらうことを目的に制定<ref name=jan5>{{Cite book|和書|editor=加瀬清志|title=366日記念日事典 上|publisher=[[創元社]] |year=2020|page=7|isbn=978-4422021140 }}</ref>。 * 遺言の日({{JPN}}) *: 相続のトラブルを少なくできる遺言書の作成の普及を目的に、公益財団法人日本財団が制定。日付は1と5で「遺言(いごん)」と読む語呂合わせと、正月で家族が集まり遺言について話し合える機会があることから<ref name=jan5/>。 * シンデレラの日 *: [[1956年]](昭和31年)のこの日、アメリカ合衆国の女優グレース・ケリーとモナコ公国のレーニエ3世が婚約を発表した。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0105|date=2023年5月}} === 誕生日(フィクション) === * 2283年 - 水野葉子/オーディションのヨーコ/ミズノヨーコ、ゲーム『[[銀河お嬢様伝説ユナ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/yuna3/char/youko.html|title=銀河お嬢様伝説ユナ 水野葉子|date=20100923091928|accessdate=2020-08-01}}</ref> * 生年不明 - ボタンノーズ、アニメ『[[夢の星のボタンノーズ]]』の主人公<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.sanrio.co.jp/characters/buttonnose/ |title=ボタンノーズ |access-date=3 May 2023 |publisher=[[サンリオ|SANRIO CO., LTD.]]}}</ref> * 生年不明 - 近藤正己、漫画・アニメ『[[恋は雨上がりのように]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 七色ソラ、特撮『[[ポリス×戦士 ラブパトリーナ!]]』の登場人物 * 生年不明 - テレンス・T・ダービー、漫画・アニメ『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』[[スターダストクルセイダース]]に登場するキャラクター * 生年不明 - ストロベリー、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://one-piece.com/log/character/detail/Strawberry.html |title=ストロベリー |work=『ONE PIECE』 |accessdate=3 May 2023 |publisher=[[尾田栄一郎]]/[[集英社]]・[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]}}</ref> * 生年不明 - 鈴木惷、漫画・アニメ『[[テニスの王子様]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|tenipuri_staff|1213476445294600193}}</ref> * 生年不明 - 犬丸(ワンコ)、漫画・アニメ『[[うえきの法則]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 成宮鳴、漫画・アニメ『[[ダイヤのA]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|diaace_anime|684199267230040064}}</ref> * 生年不明 - 加納紅葉、漫画・アニメ『[[絶対可憐チルドレン]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|zetchil_kousiki|1346109164691496968}}</ref> * 生年不明 - 碓氷愁生、漫画・アニメ『[[裏切りは僕の名前を知っている]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 夜明了、漫画・アニメ・映画『[[ReLIFE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|relife_anime|816663658713333760}}</ref> * 生年不明 - 白雪ベリー、漫画『[[東京ミュウミュウ]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 苺花、漫画・アニメ『[[はなまる幼稚園]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - オズマ・リー、アニメ『[[マクロスF]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|uta_macross|948932041965531136}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.pachimaga.com/ads/b_calendar/detail.php?day=0105001 |title=オズマ・リー |access-date=3 May 2023 |publisher=パチンコ攻略マガジン・パチスロ攻略マガジン公式サイト}}</ref> * 生年不明 - 五月女燎、アニメ『[[ACTORS]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|actors_info|1213475171480162307}}</ref> * 生年不明 - 柊かえ、小説・ゲーム・アニメ『[[Re:ステージ!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|rst_project|816913515466358784}}</ref> * 生年不明 - ペンタ、ゲーム『[[どうぶつの森シリーズ|どうぶつの森]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/character/mori/namelist/index.html |title=住民名簿 1月 ペンタ |access-date=3 May 2023 |publisher=[[任天堂]] |work=どうぶつの森}}</ref> * 生年不明 - 小日向いちご、ゲーム・アニメ『[[ガールフレンド(仮)]]』に登場する キャラクター<ref>{{Twitter status|girlfriend_kari|1478380701284126720}}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://app.famitsu.com/20130321_141966/ |title=【ガールフレンド(仮)通信01】ふわふわ系美少女 小日向いちごちゃん(CV:竹達彩奈) |access-date=3 May 2023 |publisher=ファミ通App |date=2013-03-21}}</ref> * 生年不明 - 東堂シオン、ゲーム・アニメ『[[プリパラ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Twitter status|idolland_arts|1478501501039382529}}</ref><ref>{{Cite book |和書|author=柴崎恵美子|date=2017-08-23|title=アイドルタイムプリパラ アイドルずかん|page=12|publisher= [[小学館]]|series=テレビ超ひゃっか|isbn=978-4097504221}}</ref> * 生年不明 - 151、ゲーム・アニメ『[[SHOW BY ROCK!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.showbyrock.com/character/LB035.html |title=【Kuronoatmosphere】151(イコイ) |access-date=3 May 2023 |publisher=[[サンリオ|SANRIO CO.,LTD.]] SP-M}}</ref> * 生年不明 - 桐生美也、ゲーム『[[ヘブンバーンズレッド]]』に登場する キャラクター<ref>{{Cite web|和書 |url=https://heaven-burns-red.com/character/30g/kiryu-miya/ |title=桐生美也 |website=『ヘブンバーンズレッド』 |publisher=[[WFS (企業)|WFS Developed by WRIGHT FLYER STUDIOS]] [[ビジュアルアーツ|VISUAL ARTS]]/[[Key (ゲームブランド)|Key]] |accessdate=3 May 2023}}</ref> * 生年不明 - 눈보라(Bora Nun / ヌン・ボラ)、[[いちから|ANYCOLOR]]株式会社が運営する『[[にじさんじ#NIJISANJI KR|NIJISANJI KR]]』に所属する[[バーチャルYouTuber|バーチャルライバー]]<ref>{{Twitter status|BoraNun2434|1297850477510455296}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|5 January}} {{新暦365日|1|4|1|6|[[12月5日]]|[[2月5日]]|[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]|0105|1|05}} {{1年の月と日}}
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